2011年02月07日

原町へ用事の一日


原町へ用事の一日

今日は原町まで風が強くて大変だった。電動自転車はバイクとにているから風にも強い。ヤマハのパスブレイスはとにかく坂に強い。相当急な坂でも上るようにできている。急勾配でも上るようにできているのだ。別にまだ自転車にはのれる。でも松川浦まで行ったあとに筋肉痛で苦しかった。やはり時間的に長い運動すると筋肉が弱っていから筋肉痛になった。それでも運動はできるからいい、腎臓透析している人でも普通に運動もしているから不思議である。病気にもいろいろありかえって適度な運動をした方がいい病気もある。糖尿病とかそうである。腎臓や前立腺は適度な運動は影響しない、管を入れてもそんなに困ったということはないから助かった。
今日はまず私立病院で管交換してそれから高見ホテルのレストランでカキフライ定食を食べ次に3Dを見れるメガネを買った。最近ソニ-の新しい3D対応のテレビを買ったからだ。でも3D対応している番組やCDはまだ売っていない、ギャオというところでブレ-レイを借りた。ブレ-レイもまだ対応しているのが少ない、3Dもブル-レイもこれからのものなのだろう。立体になるとき地図が立体になるといい。地図は平面的ではものたりない、立体になるとわかりやすいからである。ただまだ開発途上のものである。人間の欲望は限りがない、こういう欲望は悪いものではないからいい。それからキクチス-パ-でパンを買った。パンが原町や相馬市意外ではいいのを売っていないので困る。今はパン食が多くなっている。朝はどうしても簡単だからパンにしてしまう。それよりもう自分の家ではご飯自体二分間でレンジでできるインスタントの米である。ほとんど寝たきりだからその介護になると簡単にすましたいのである。自分も今日は介護用品店で小便用の袋を買った。それから向かいのココスでコ-ヒ-を飲み休んだ。ここの石窯パンというのはうまい。これは焼きたてだからうまい。飯館のアグリでもこれと同じパンを出していた。そしてソフトバンクの携帯の解約を一つした。最後によったのがサイヤでおかず類を買った。あそこはいろいろあり食事の用意には便利である。ライスカレ-の弁当を買って家で食べた。


買物だけでもこれだけあった。まさにこれは現代の生活だった。今は一人暮らしでも困らないようにできている。ただ五、六万の市でないと現代の生活の標準的なものにならない、小高とか鹿島では相当にたりないものがある。郡山で駅前に病院とか図書館とかス-パ-が一緒になるビルを作ったとかあるが病院は今や一番街でにぎわう場所なのである。人の出入りが一番多い場所である。小高でも鹿島でも村でも病院は高齢化社会だから一番人の出入りが多くなるのだ。だから駅前にそういう施設をもってくれば人が集る。イオンの問題は六号線から離れているから問題である。車だったいいのだが自転車だと今日のような風になると行けなかった。自転車はここから5キロ先に温泉があるとわかってもその5キロが遠くなるのである。往復10キロになったりするからである。自転車は風雨にはやはり弱い。今日は風で大変だった。でも普通にまだ動けるからなんとか家で介護して自分のこともできている。それが救いだった。




今日の仕事


市立病院→高見ホテルレストラン(カキフライ)→電器店(3Dテレビメガネ)→ブル-レイレンタル(ギャオ)→キクチス-パ-(パン)→ソフトバンク(携帯解約)→介護用品店(小便袋)→ココス(石窯パン)

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2011年01月28日

カキフライがうまいレストラン


六号線の高見ビジネスホテルのカキフライ定食はいい、カキが大きいからいいのである。他では小さいから牡蠣を食べた感じがなかった。仙台でもそうだった。あの半分くらいの牡蠣しかなかった。大きな牡蠣でないと牡蠣は食べた気がしない、料理の半分は食材によって決められる。いくら料理人の腕が良くても食材が良くなければだめである。前は浜御膳とあるごとく魚料理がうまかった。料理人が友達から生きのいいの仕入れて出していた。その料理人は変わって島た。自分は牡蠣が好きだからあそこは750円だから他と同じ値段で食べられる。
料理は全部がうまい料理とはならないみたいだ。どこのレストランでも一つは目玉商品のようにうまいのがある。原町の道の駅ではテンプラ定食がうまいからいつも食べていた。

レストランは料理で個性が出せるから値段だけでは決められないし安いから必ずしも繁盛するわけではない、他の商品は同じ品物だったら安く売る方を買うが料理は安いからいいとか必ずしもならない、料理には必ず食堂やレストランによって差があるのだ。あそこのあれがうまいということで繁盛することがある。だから一面料理は小さくても商売できるということもあるかもしれない、同じものだったら安い方がいいからス-パ-になったけど料理だけは店ごとに違うから小さな店でもやっていけることがある。チェ-ン店が多いにしてもそのチェ-ン店でもやはり目玉になるような料理を出さないとはやらないだろう。そして一回食べてこれはうまいとなると必ずまた行くことになる。カキフライは好きだからまたあのレストランに行くことになる。原町は食べるところもいろいろあるからいい、料理できないから外食の方が楽である。結局用意したり洗ったりするのが手間になってしまうのである。そういう家事に追われてしまうのである。明日は介護関係で役所の人とまたあうことになる。介護度3になっているから結構サ-ビスは受けられるのだ。

一人暮らしするには原町くらいの都市でないと今は不便である。食事と病院で困るのだ。今日も病院に書類を用意するために行ったし車がないから不便になるのだ。

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2011年01月23日

新年おめでとう(年賀状)

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遅れましたが年賀状です、今年もよろしくお願いします

皆様も今年は良い年であるようお祈りします


社会状況は本当に悪いですが光明の世界を目指して進むほかありません


皆様もご努力ください、やがて新たな光明は見えてくるでしょう


過去から現在へ未来へと人間の歴史は繰り返しです


新しき年には決意を新たにして進む他ないでしょう

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2010年11月08日

病院は一方で病気を作り長引かす場合がある


病院は一方で病気を作り長引かす場合がある

病院では必死に医者でも看護師でも病気を直そうとしている。そこに別に悪意がない、でも一方で病院は病気を作り病気を直すのを遅らす場合がある。病院にはどうししてもバイ菌が多い、病人ばかりだから当然といえば当然である。病院では耐性菌とかどんなに抗生物質を開発してもきかない菌が培養されている。病院は無菌ポックスにしてようとししているがその無菌ボックスこそ菌が培養されやすいという皮肉がある。そもそも無菌にすることはできない、細菌を絶滅させることはできないということもなるほどなと思った。人間が細菌に対して耐性をもつ意外防ぐ方法がないというのも本当なのだろう。今度一カ月も入院したのは実は二週間で退院できたのに悪性の風邪にかかり四〇度もの熱を三日間だして寝込むようになったためである。これは隣にいた人も尿路感染から四〇度の熱にうなされていたから自分も尿路感染したのかもしれない、四〇度の熱はものごころついてから経験していない、病院は病気を必死に直そうとしても病気を一方で作り病気を長引かせることもある。病院に入れば体力も弱っている病人ばかりだから院内感染しやすい、それでいつも老人がまとまって死んでいるのはそのためである。介護に来ていた同じ病室の人も熱を何日が出して風邪が治らないというのも自分から写ったのかもしれない、熱が出る風邪だったのかもしれいし何らかのインフレインザとか悪性の細菌のせいだったのだろうか?ともかく病院は外から来るものにも危険な場所だったのである。ただ外から来る人はまだ耐性があるからいい、病院内にある人は体力が弱っていて重体になりやすいのだ。


病院では必死に病気を直そうとしても病気を作り病気を長引かせることもある。そういう恐怖を味わったのが今回の一カ月の入院だった。これは別に医者や看護師が悪いという問題ではない、悪意があるわけでもない、ただ入院費を稼ぐために入院を長引かせたり病院から出したりということはあるかもしれない、でも医者や看護師は病気を直そうとしているのでありわざわざ病気を作り出そうとしているのではない、でも病院はすべて患者の病気を直すように働かないのである。

病院にはバイ菌が多くマスクをしても無駄だというのも本当だろう。菌に強くなる耐性を持たない限り無駄なのだろう。本質的に菌は絶滅できない、菌と共生しなければならない、動物も害があると言って皆殺しに死していたら生態系は死に人間生活にも影響するのと同じである。菌も一つの全体の地球の命として存在してそれを絶滅できないのである。この世に悪人がいて悪人を絶滅できないのとにている。悪人もこの世に存在する意味があるから存在させられているのかもしれない、だから悪人をこの世から絶滅できないと同じように細菌も絶滅できないのである。いくら絶滅したようでも新たな細菌が生まれてくるのはそのためなのだろう。


やはり病院よりは家という日常生活がある場所の方が患者にとってはいいのだろう。病院内は外の風が入ってこない、一歩も病院からでれない、外の景色は見えて良かったが外の自然を風を感じることはできない、死ぬ場所としても良くない、何か次々に病人が運ばれモノのように処理される感覚になる。看護師の仕事もたいがい人間を機械的に扱い処理している。それでも下の世話など大変なのだから看護師をやる人はみんな大変だと言って評価している。みんなそんな汚い仕事をやりたくないからである。でも忙しいから一人一人に注意を払うことはできない、次々に仕事をこなすだけで手がまわらない、廊下を走っていることでもわかる。だから死ぬときもそうしたあわただしい雰囲気の中で体はよく診てくれるのだが死ぬ環境を整えることはできない、在宅で死ぬのとはかなり違うのである。でも最後になると重体になるから在宅でみるのはできなくなる。それで最後は病院で死ぬことになるのだ。


病原菌とのいたちごっこ
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/d/20101108


ここは病気にも詳しい、看護師も指導しているらしい、こういうことを書けることはめずらしい、内容も深いものがあるのだ。

タグ:院内感染
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2010年11月04日

冬に入る南相馬市原町区大原村


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大原に二三羽見つけし秋の蝶


大原や朝水清く秋の蝶


大原やみな旧知の人や柿なりぬ


大原や日さし静かに秋薊


大原や家のまばらに刈田かな


大原や刈田となりてあわれかな我が知れる人の農家ありにき


杉の木の二本残りてあわれかな刈田となりて廃屋淋し


大原や確かに遠しも海近く桜井古墳秋の日暮れぬ



やはり病院で知り合った大原の農家の人の家は奥だった。すぐ後ろはまでゆきづまりであり新田川の上流の水が流れるところで水がきれいだった。すぐ近くは県道で車が通るからそこはにぎやかであり淋しいとはいえない、でも川の方に入ると淋しいのである。だから猿とかイノシシがでてくるということに納得した。猿とかは県道の家の多い所まででてくるというからずいぶんずうずうしいと思った。それだけ人を恐れなくなったのだろう。イノシシは川沿いに孟宗竹がありその竹の子を食べるから竹のあるところにでてくる。また川岸に竹が多いのは竹は根を強く張るから堤防を強化するからだといいうのもなくほどなと思った。相馬の宇多川でも川沿いに竹が多いし「竹の内」という地名が各地に多いのはそのためなのである。


それにしても大原ではなくても三キロくらい離れた地点で農家の人に家を聞いたのだがすぐわかって教えてくれた。入院したこともわかっていた。なぜかいうとこの辺で広く農地を請け負って仕事をしていたからである。ずいぶん広い範囲でザイのほうになると知り合いになっていることに驚く。どこでその人が何をしているかすぐわかるのである。それも相当に広い範囲でわかってしまう。でもそこに住んでいる人は孤立しているとは思えない、すぐ近くに娘の嫁ぎ先があるからだ。そしたら頻繁に寄れるのだから孤立した老人とは違う。家で一人で住んでいても孤立しているとは思えない、ただ意外と原町市街までは遠いことや家の作りが昔風のただ広いというだけで現代風ではないから若い人は街の現代風の家に住むようになったのかもしれない、あの辺でもすでに廃屋になったのが三軒あるという、一軒本当に幽霊が住んでいるのではないかと思うような淋しい廃屋だった。


人間は意外と自分の住んでいる場所のことがわからない、歴史は地理だと言ってきたけどその地理が地元でもわかったようでわからないのだ。例えは新田川の病院の近くに東北でも三番目くらいの桜井古墳があるけどやはりはやく開けたのは海側であり大原のような奥ではない、でもすでに江戸時代から大原村はあった。その距離感がわかりにくいのだ。大原はやっぱりずいぶん古代からすでに奥地だった。この距離感はやはり身近でもわかりにくいのだ。いつもあの道は通っていても大原を意識して通ったことがなかった。なるほどここは地名的にも広い原だったことが実感されたのである。郷土史研究というけど本当に地元のことがわからない、そこに住んで生活した人は自分より体でその土地のことを知っているのだ。特に農業していた人は回りの自然と一体となり住んでいるから余計にそうなるのだ。地理というとき全体を立体的に体でしることであり例えば国道とか県道を通っていてもわからない、そこから脇道にそれて全体の村の地理をしることなのだ。・・・・村というときその村全体が一体となり生活していたのであり地理的にも村の全体を知る必要があるのだ。現代はどうしても部分的な把握にあ終わってしまうのである。全体を見る努力が必要なのである。


まあ、なんとか電動自転車で行けたけどなかなか遠くなると辛い、でもこんなに動けることが不思議である。腎臓はそんなに悪くならなかったのだろう。でも正常ではない、小便袋ではなかなか大変である。でも自転車にのれたことは本当にうれしい、自転車に乗れなくなるのじゃないかと心配したからである。農家の人は冬は仕事しないとうのも不思議だった。今は会社勤めだから仕事している。だから冬は昔はみんな出稼ぎに東京に出たのである。自分は回りが農家でも農家のことをしらない、街の人は農家のことを知らないことがあるのだ。都会の人はもちろん農家とはなになのか知らないのである。この世には知らないことが非常に多いのだ。この年になっても回りが農家でも農家のことを知らないということ自体おかしな話しだったのである。

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2010年10月18日

浪江の請戸の農家の人

大原に住む農家の人ともに病室に過ごす秋の夕暮
大原に住み仕事をやめると後を心配する農家の人

十五町の田畑を持ちて働きし男も悲し言うことなしも

請戸は浮渡神祠が由来ではないだろう。請け負うから請戸になった。
くさ野神社は、浪江町の海岸部請戸にある。請戸(奥相志には受戸と記す。)

浮渡神祠が由来なのだろか?請戸は請け負うからきている。では何を請け負うのか?相馬藩で請け負わせた、土地を貸して開拓させた。請戸は港を思うけど田を請け負ったところである。請戸は請戸という地名が先にあった。四国に請谷(うけたに)などがあるにもそうだろう。つまり請戸が先にあり浮渡神祠があった。ただ請戸というとき地形ではないからそれほど古いとも思いないのである。浪江についてはまだ詳しくないから詳しい人に聞く他ない。

なぜ今いま請戸に興味を持ったかというと病院の同室の人に請戸の人がいたからである。この人は十五町もの田畑耕し乳牛もやっていた。すごい働き者だった。妻が毎日きて一生懸命介護している。子供も娘が四人いてみんな大学にだしたというからすごい。だからいつもこのこといい介護している。でも本人はしゃべることができない、わずかに手を握ると握り返すくらいである。それでもわかっているんですよと何度言っては介護している。今日は娘が二人きて介護している。ほんとうにうらやましいと思う。今どきこんなに手厚く介護している家族はいない、となりの人も重傷なのだが娘が近くにいても一緒に住んでいないのだ。

十五町というと感覚的にわからないが隣の人も5町といっていた。それも古い農家と言っていたから15町の田畑は相当に広い、現実に2千万の機械を使っていたという、隣の人は7百万だった。いかに規模が大きいかわかる。農業は機械の費用も大変なのである。年取ると農器具に頼らざるわえないとか農業は高齢化しているからそうなる。最近農器具を操作して事故で死んでいる人が多くなっているのもそのためである。機械に金を使い農業をやめた人もいる。農業も今は農器具と密接に結びついているのだ。大原に住んでいる人は大きな家にすんでいるが後継ぐ人がいないといっている。農家の人でもいまや大家族でなくなっている。大家族というのは農業を根幹としていたときありえた。大家族でなければ労働力がたりなくなるからそうなる。現代のように極端に工業化したとき核家族がうまれたのであり家族も社会の変容で変化するのであり大家族がいいといっても昔に帰れないのはそのたあめなのである。みんな女性も会社勤めの時代だからである。だから請戸の人のような家族は今では少ないのである。親とも別々に暮らす人が多いのだ。家族が変化したのではない、社会が変化して家族が変化したのであり家族も社会の一単位であり大きく視野を広めれば国がなければ家族も維持できないともなる。
郷土史も過去だけからは興味をもてない、現実に住んでいる人がいて過去に興味を持つのである。
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原町大原の農家の人


原町の病室に見ゆともる灯は大原辺り秋の夕暮



霊(たま)あはば 相ねむものを小山田の 猪田禁(も)るごと母守らすも


説明はここに
http://www.hitohaku.jp/news/docs/hm17-3.html



同室の人は最近きたのだけど息するのに苦しいし呼吸困難の様になっていた。ぜーぜーとなりそのたびに看護師を呼んでいたし看護師が絶え間なく世話していた。しゃべることが全くできなかった。よほどの重態だとみていた。ただ体はそれなりにうごいてはいた。でも今日耳鼻科で診てもらったら普通に話す様になったのには驚いた。そして今までのように苦しい状態が6カ月もつづいていたという。そんなに長く入院していたのである。それが突然耳鼻科に診てもらったらしゃべれるようになったのだから奇跡的である。自分でも突然こんなに良くなるのが信じられない、そんなに突然なおることがあることの不思議である。草刈りしていて倒れた。腸捻転になりばい菌にやられ敗血症になった。敗血症は全身がやられる危険な病気である。実際は死線をさまよってたのである。突然よくなったのではない、6カ月間治療して良くなったのである。


その人は原町の大原の人で農家の人だった。家の人がきて話していた。これまで田畑をやていたがもうやれない、草刈りもやれないと・・・・
際はだめだ、猿から猪からハクビシンから狸から農作物が食い荒らされる、猿は柿を食う、頭がいいから種をだしてくようになったとか豆の束をもっていったとか、猪もでてくる。
猪を捕らえて殺して街に売ったら警察につかまったという、鳥獣は許可がないと殺すことはできないからやっかいである。この問題はすでに人間が稲作を田を作り始めたときから始まった。縄文時代は共生していたのである。田を稲を猪が荒らすようになったとき問題が生まれたのである。稲作は自然の破壊でもあった。今でも稲作は農薬やそのほか自然破壊になっているがすでに田を作り始めたときからそうなっていたのである。


大原というとき前にも書いた。病室の窓から大原の辺りが見えるのだ。その大原の人が同じ部屋にいた
のである。それも今日六カ月間しゃべれない人がしゃべりわかったのである。

原町の病室に見ゆともる灯は大原辺り秋の夕暮

まさにこの歌のとうりに大原の人が同室にいたという不思議があった。病室では病気で親しくなりやすいからこうした話しを聞きやすいのである。

故障になった・・・・・プログが操作できない・・・小文字だがこのままだすほかない・・


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2010年10月13日

南相馬市立病院に緊急入院!


南相馬市立病院に緊急入院!

病院から無線通信で書き込みしていますので

主プログhttp://www.musubu.sblo.jp

ここが主プログなのでこちらから見てください

ここには速度が遅いのでできません
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2010年09月19日

猛暑の後遺症(人間は生きることはなんらかの犠牲がある)


猛暑の後遺症(人間は生きることはなんらかの犠牲がある)


猛暑の後遺症は体に影響が大きかった。今年の五月ころから胃腸の調子を悪くした。オレンジとか最近は甘い糖分の多いミカン類が出ていたが果物好きだから食べすぎて胃腸を悪くしたのがはじまりだった。そのあと庭作りで無理したことと暑さが重なってずっ-と胃腸を悪くした。今も本調子ではない、胃腸は体はもともと弱いにしてもこんなに長くつづくことはなかった。そして猛暑がやってきた。最初は長くつづくと思わなかった。それがいつまでも34度とか35度とかここでもつづいたのである。それが体の変調にをきたした。どうしても果物類など甘いものばかり食べたから体が変わってしまった。あまりに甘いものは胃腸に良くなかった。それが長くつづいたことがまたひびいたのである。そしてお盆過ぎたら涼しくなると思ったがろらずさらに暑くなったことがひびいた。その時北海道に避暑に行くかと考えた。今までならこんなこと簡単にできた。
ところがここ五年間は介護とかになりどこにも出れない、そのことが一番辛かった。今も半場介護生活だからできない、梅雨の間はふらっといつでも北海道に一カ月くらい行っていたことがあった。そういうことが簡単にできたのである。今になると一日の旅行することが大変なのである。それより姉が生きているときは一日の中でもすら自由がなかった。誰もみてくれないから8時までには帰らねばならない、するとのんびり一日すら旅行できなかった。それでも自転車でなんとか近くを回っていた。今になると自由に旅行することがこんなにむずかしいものができないのかとつくづく思った。


自由に旅行することは相当恵まれていないとできないものだった。なぜなら普通の人は勤めているのだから一カ月の休暇などとることができないだろう。とするとまともに働いた人は自由な旅行ができないとなる。本当に旅するとなると時間も金もそれなりに必要だし大変な労力がかかる。今は車で簡単に行けるじゃないかとなるがでも電車とか自転車だとそうはいかない、まず時間がかかる。だから普通に勤めていたらそうした電車とか自転車とか徒歩とかの旅行はできない、それから体力もないとできない、60からでも自由な旅行をする人はいるが一般的に体力あるうちでないとできない、だから自由な旅行することは本当に相当恵まれていないとできないものだったのだ。そのことを今否が応でも認識させられた。ええ、今まで簡単にいつでもふらっと旅立つことができたのにできない、そのことが衝撃だった。そしてつくづく思った、今回の猛暑で自分は体を悪くして寿命を縮めてしまったと・・・これは誇張ではない、もちろん高齢者で死んだ人もいたのだからこの猛暑の後遺症は相当の人々が受けているのだろう。ただ北海道にお盆過ぎた辺りから行っていればこうならなかったろう。それかできなかったことが寿命を縮めた。それが悔しかった。

そんなことが悔しいのか贅沢だ、ク-ラ-がなくて死んだ人を考えろとなるが自分のことを正直に言っているだけである。なんて情けないやつだともなるがどうにもならない、あの時北海道に行けたらこんな体の調子になる必要はなかったと恨めしかった。なんか今になると介護のために犠牲になったと思った。そんなことで犠牲になったといえるのかとおしかりを受けるかもしれないないが贅沢な時代には贅沢な不満が出てくるのだ。そういう不満に満ちているのが現代なのである。山村で医者にかかれないで死んだとかなるもの凄く悔しい思いをするだすろう。昔だったら江戸時代だったらそもそも医者などいないから法印とかに祈ってもらって終わりである。あとは地蔵様にでも祈るほかなかった。それはそれでその時代のことであり不満があってもどうにもならなかった。でも今の時代は病院は街に出ればあるしできるからこそ大きな不満となる。だから昔がこうだったからそんな贅沢あきらめろとは言えないのである。現実に心臓移植で一億ではたりないとか募金している人がいるがそれも心臓移植で生きられるとなると募金で金が集まるとなるとそれを人は望むのである。昔だったら心臓移植などできるはずがないのだからあきらめるほかない、現代では望みがあるとなるとあきらめきれない、不満が残るのだ。そして現代はグロ-ルバル化社会だから国内だけではない外国までその希望を満たしてくれるところがある。心臓移植でもできる生きられるとなるとその可能性に賭ける人もでてくる。それができないと心臓移植さえできていたらもっと生きられたのにと不満になるのだ。

現実に沖縄には安い宿に3年いた老人がいた。金沢辺りの人であった。寒い冬を雪ばかりの世界をさけて沖縄でのんびり暮らすことが今ではできるのだ。だから北海道で避暑して暮らすこともできる。そういう安い宿も用意されていた。一カ月でなくても二週間くらい行けていたら相当楽だった。それができなかったが恨めしいのだ。その原因が介護にあった。もう先が短い老人のために若い人が犠牲になるのはおかしい。若い人は老人の介護に使われこと自体不自然を感じてしまう。老人のために若者に犠牲になる社会に未来はない、親がどうしたって子供のために犠牲にならざるを得ない運命にある。逆に子供が親のために犠牲にされるというのは不自然である。戦前はそういうことが多かったし今でも後進国では子供は労働力として考え生み育てている国も多い。人間は結局、何らか犠牲にならざるをえない、親は子の犠牲になるのはしかたがない、でも老親のために犠牲になるのは不自然である。自分の場合は犠牲の上に恵まれたから今になると文句は言えない、自由がありえたのはやはり親であれ誰であれ犠牲があったからである。この世の中、そもそもいかに犠牲が多いか、犠牲になるために生まれてきたのが人間なのだ。ある人は若くして肺病で死んだ、その話を聞きこの墓に埋まっているということを聞くとき胸がつまる思いがする。自分の父親は上の学校にあげてくれと言って中学のとき死んだ。ろくに学校もでていないからそう言ったのである。みんな何かしら犠牲があり不満があり恨めしく犠牲となり死んで行った。その犠牲の上に我々の生がある。

一番犠牲になったのは戦争で犠牲になった人たちである。戦争の是非はともかく20代で国のために死ぬということそれがどれほどの悔しさだったか今回の猛暑の後遺症で重ねて思った。この年になってそんなことですら悔しい思いをするのだから戦争で若くして死んだ人の悔しさは計りがたい、想像を絶する、でも歴史は今から考えるほかないのだ。自分の経験から重ね合わせて歴史はしるほかない、そんなもの犠牲でも何でもないとなるが自分にするとやはり辛いなと思いその辛さから昔の苦労を偲ぶ歴史を偲ぶのである。いづれにしろ今回の猛暑は辛かった。最近血の小便が出たのにびっくりした。内蔵機関も相当弱ったのである。本当におおげさではなく寿命が縮まった。ただ前のように北海道に避暑していればこうならなかったとつくづく思った。それができなかった。それで犠牲になったと悔しかった。今まで簡単にできたことそれができなかった。ええ、なぜこんなことが今できないのかとつくづく思った。それが寿命を縮め体を衰弱させて持病を悪化させたことが悔いるのである。でも介護は実際どうにもならないのだ。それで犠牲になる人があとをたたないのである。60代以上の人はそれなりに生きたのだからしかたないといえばそれまでである。でも人間は贅沢な時代は贅沢な時代なりにいろいろ不満があるものである。やはり命にかかわることになると人間は健康にもっと生きたいということは変わらないのである。こんなに長生きしても人間がこれだけ生きたからいいやとはならない、他からいくら言われてももっと健康に生き何かを成し遂げたいとなるのだ。それを感じたのが今回の猛暑による後遺症だったのである。
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2010年07月30日

本を半分捨てる


本の重さで家が傾いていると大工さんに指摘されて重い全集などの本を捨てた。本は本当に重過ぎるのだ。とくに厚い本があり重いから家が傾くほどになる。これは冗談ではない、本当に本を貯めるとそうなっていたのである。本は実際に集めても半分も読まない、全集なども読まない、調べるために買っておいても読まないのである。それで無駄が多いのだ。今はインタ-ネットで調べられるので本の役割も半減した。でも本にはインタ-ネットにはない豊富な情報が蓄積されていた。でもその本を利用することがめんどうなのである。本は調べることがめんどうなのである。どこに何が書いてあるか本が増えれば増えるほどわからなくなり同じ本を買っていたこともある。本を所有するには限度がある。あまりに多くの本を貯えても利用できない、ただツンドク、積まれているだけでありそれが家を傾けさせるのだ。

本に愛着があるのは確かだが知識愛と書物愛は違う、書物愛は書物そのものに愛着ができてしまう。本来は知識を得るのが本の役目だがモノとして本があるから本を手放せなくなるのだ。本は今まで必要不可欠なものだったが本は意外と調べるにも手間であり不便な面があることにインタ-ネットとか電子化されたとき感じるようになった。本自体を裁断して電子化する作業ができるようにもなった。本というのはインタ-ネットとと電子化で見直されるようになった。本は意外と調べるのには不便なのである。結局理想的には本もインタ-ネットのように自由に検索されるようになると新しい知的世界が開ける。それがインタ-ネットで一部実現しているのだ。第一どんな人でも本を貯えるには限度があるからだ。

ともかく本もそうだが晩年になると最後は人間はただ捨てることが多くなる。つくづく人間には無駄なものが多過ぎるのだ。着物を一山買っても着ることもなく終わり無駄になったり本当に死ぬときはもう何もいらないとなる。残るものとなると本当にわずかなものである。人間はあれも欲しいこれも欲しいとはじまるが最後はもう何もいらないとなってしまう。知識にしてもいくら本を買っても消化できるのはほんのわずかであり知的成果として残せるものもわずかである。結局知識も虚しいともなってしまう。人間は最後はいろいろなものをもっていてもわずらわしいだけになる。人間モノにとりかこまれているけど最後に必要なものはモノとしてはほんのわずかである。「もうなんにもいらない」となってしまう。来世に旅たつとき何が必要なのか?となる。それはモノでも金でもない、死ぬときはこの世のものは消失してしまう。この世の価値は消えてしまう。
この世にいくら拘泥しても死ぬときはもう執着しても無駄である。この世に価値あると思えたものは消失してしまうからである。ええ、人生はこれだけなのか、人生は終わって見れば一瞬でありいくらこの世で財を築こうがその財は来世にはもっていけない、この世に宝を積んでもむなしくされる。天に宝を積めというのはこの世が全く一時的なものだったからである。これは誰しも老人になると実感として悟る。若いときは無理でも老人になると現実問題としてみんなそうなっているのだ。

焼き捨てて日記の灰のこれだけか 山頭火
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2010年06月15日

食は文化だった(アメリカ人と日本人の体は違っている)


食は文化だった(アメリカ人と日本人の体は違っている)

最近胃腸が悪く今までになく長引いたので健康のことを前より考えるようになった。

口蹄疫問題の深層は何か?(牛肉を食べることが必要なのか)
http://musubu.jp/jijimondai40.html#kotei

ここで「魏志倭人伝に牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)が(すま)ないとある。日本には牛、馬、羊はいなかった。 」日本は古来、魚介類中心の食生活だった。家畜文化がない特殊な国だった。

その謎も「アメリカ人の腸と日本人の腸は何が違うか?」という章を読んで解けました。また、アメリカ人の異常な太り方をしている人を見て、なぜあそこまで太れるのか不思議に思っていた謎も解けました。
新谷先生いわく、日本人があそこまで太れないのは、そこまでいく前に胃を悪くして食べられなくなってしまうからなのだそうです。それだけアメリカ人の消化器官は日本人に比べ丈夫なのだそうです。また、アメリカ人の胃腸が丈夫なもう一つの理由は、アメリカ人の方が消化酵素の量が多いからだそうです

アメリカ人の太りようは日本人の太りようとは違う、本当にとうしてあれだけ太れるのかと思うほど太っている。アムトラックに乗ったが座席が日本の座席より広いから悠々として楽である。そこに巨体のアメリカ人がどっしりと座っている。鉄道の軌道も広いからそうできる。いかにも大陸的である。アメリカ人とかヨ-ロッパ人はもともと牧畜民であり乳製品を食していたから体の作りが根本的に違っていたのだ。病気でも日本人は胃癌が10倍もアメリカ人より多いのは日本人には胃腸が弱い人が多いことがわかる。人間の体自体がその土地の文化から作られてきた。そこにグロ-バル化した結果、人間の体まで変化してきたのが現代だったのである。理想的なのは地産地消だったがその枠をはるかに越えて様々なものを食べるようになった。そうすると体も変化して栄養取りすぎの糖尿病とか太りすぎで高血圧とか心臓病が増えたりする。その国や民族の体質は長い年月をかけてその土地に合うように作られてきた。だからアメリカ人の体質と日本人の体質は相当違っている。アメリカ人が消化酵素の量が多いということは肉食とかにも向いているのだろうし乳製品、チ-ズなどを食べるのに向いているが日本人は向いていないのだ。
だから牛肉とか豚肉とかがつがつ食べることに日本人は向いていない、胃腸がそうできていない、むしろ米などが主食だから腸が消化するために長くなっているのだ。食をグロ-バル化することは体まで破壊される。いろいろな栄養がとれていいのではないかとなるがそれ以上に余計な栄養をとりすぎて病気になりやすいということもある。現代にはその傾向が強い、自分の場合も果物類が好きだから暑いのでとりすぎたということがあった。やはり今は何か栄養をとりすぎて病気になりやすいのである。

1日3食説が広まったのは、近代以降、かのトーマス・エジソンが、新発明のトースターを売るために「健康のためには1日3食。アメリカ人は朝食をしっかり食べるべきだ」という話を広めて以降のようです。
(おかげで、新発明のトースターはたくさん売れたそうです。)

食習慣も新しい機械の発明で変わってしまった。本来はそんなに体が要求しなくてもモノでも必要でなくても買わされるのが現代である。売る方で売れないと困るから買ってくれとなる。
仕事でも仕事がないと困るから無駄な公共事業でもやめるわけにはいかない、そして一番怖いのはいらない高価な薬まで飲まされることなのだ。製薬会社では薬が売れないと困るから必要のない薬でも売るようにしかける。インフレインザのワクチンなども過剰に危険性を宣伝する。製薬会社はマスコミでも政府にでも金を供給して危険性を過剰にあおり売らせる。これも薬が売れないと困るから製薬会社がそうしくむから買わせられることになるというのも納得がいく。
極端でもない現実の問題としてアメリカは兵器産業がありそこで武器を作っていても売れないと困るから戦争をしかけて売り込むというからこれも怖い、現代の経済はそういうことが多いのである。

オリンピックでもグロ-バル化した世界でありこれも実際は平等なものではなく歪んだものにした。柔道でも日本の文化であり世界の競技となるとき力だけのプロレスとにたものとなり柔道という日本の伝統文化自体が失われたという皮肉があるのだ。マラソンは耐久力の勝負だから日本人に向いていたので女性で金メダルをとることができた。その他が全く勝てないのはそもそも牧畜民系統の食生活から作られた体力と米を主食とする農耕民では根本的に違っている。消化する酵素の量が違うとかなると肉食でも平気であり体力も相当違ったものになる。だから筋力の勝負ではアジアでは日本人は欧米人に勝てないのである。つまりグロ-バル化したオリンピックはそれぞれの国の文化の破壊でもあったという皮肉がある。一見グロ-バル化の平等の競争のように見えても根本的に体力と力では勝てない競技が多いからそうなっいるのだ。欧米人に有利な競技になっているからかえって不公平なのである。グロ-バル化そのものがもともとは欧米人に有利なように作られていた。欧米に世界が支配されたから当然そうなったのでありスポ-ツも一見平等の原理が働いているようでも根本的には欧米人が有利なようにできていたのである。

 

余談だが老人は金を使わないというが健康関係のために医療のためには使うのである。このところ胃腸が悪くていろいろな薬を買ったりした。それも高価なものもあったが高価なものでも買わざるをえなかった。医療には実際は金がかかるのだ。でも老人はこういうところには金を使う、他はあまり使わない、つくづく人間で一番大事なのは健康である。特に60以降は金があっても健康がないなら不幸になる。健康の価値は年とることに比例して重要になってくるのだ。若いときは健康問題はそれほどではない、現実にこんなに胃腸が弱くても長引いたことがなかったからである。


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2010年05月25日

今度はギックリ腰



前になったのは大腰筋痛だった。これは意外だったのは太股の筋肉が痛くなるのだ。立ち上がるたびにビリッと痛くなる。これを直すために風呂に入り立ったり座ったりしていたのが逆治療で良くなかった。これも湿布とか冷やすのが良かったのである。今回も風呂に入っていると気持ちよくなり同じことをしていた。これは温めると良くない、ただ本当にギックリ腰なのかどうか不明だが急激に立てなくなり脊椎が痛いからまちがいないだろう。ここでも自己判断しているが母が近くの整形で見てもらい注射したらかえって悪くなったとかインタ-ネットに


間違っても整形外科医の診察をうけ、腰に直接局所麻酔薬を注入する(神経ブロック治療)治療を受けぬように。ぎっくり腰の本質を知らない医者だ

もしかしたらこれなのかなと自己判断した。医者でも必ずしも判断がまちがわない、いい治療するとは限らな

いのだ。こう書いているのは整体師だからこれも信じていいかどうかわからない、
結局、胃酸過多でもなぜそうなるのかわからないとか試してガッテンでも骨のことを放送していたがカルシムの骨密度が高くても糖尿病になっている人は骨が折れやすいとかいろいろな病気の原因がわからないということに改めて現代の医学もそんなに進歩していないのかと思った。肺結核などは直したしこれは難病だったから直せたのに胃酸過多の原因がわからないとか
は他にも簡単な病気の原因がわからないのかと改めて人間の体はまだ医学でもわからないことが多いんだと思った。


結局自分が連続して病気になったのは未だに胃腸が直っていない、これは明らかに老化現象でありもともと弱かったものが悪くなった。そのつづきとしてギックリ腰になった。これは因果関係がある。老化現象として連続的に体に症状がでてきたのである。まあ、それほど重症というのでもない、なんとか歩けたし買い物もできた。そしてショックだったのは老々介護とかになる恐怖だった。病人が病人を介護するようになる恐怖である。お手伝いさんもしばらくこないから助けがない、老々介護はこれから増えてくる。なぜなら60代の団塊の世代の親が介護状態になる人が多いからである。60代になると個人差はあっても病気になりやすいからだ。認知症の人が認知症の人を介護することをNHKで放送していたがそんなことできない、認知症の人は食事の支度すらできない、金のこともあいまいになるとしたらどうして家のことを管理できるのかできない、正常な人が助力しないかぎり不可能である。

ともかくギックリ腰は安静にしていれば直るから安心だった。悪いことが未だにつづいている。
やはり60以降は健康が一番の問題になるのだ。健康でさえあれば問題ないのである。

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2010年05月21日

キャノンの一眼レフカメラはやはり直っていなかった



キャノンの一眼レフカメラは直っていなかった。error99と出ないだけで症状は同じである。
必ずバッテリ-を入れ直さないとセットから電源が入らない、いちいち写真とるとき必ずバッテリ-を入れ直さないととることができないからめんどうである。壊れたというのではないが何らかの不具合でありインタ-ネットにもerror99のことが出ていたからその情報の方が正しかった。
これは簡単に直らないのである。電器店の人も良く操作していなかった。これは電器店で直せるものではない、やはり根本的にメ-カ-で失敗した製品だったのだろう。
メ-カ-でもこういうものを製品として出していたことは問題だった。カ-ドは関係なかったのである。カ-ドが関係するとは思えなかったからである。
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2010年05月19日

キャノンの一眼レフカメラのerror99は解決


キャノンの一眼レフカメラのerror99は解決

 

キャノンの一眼レフカメラのeroor99の原因は記憶するカ-ドだった。カ-ドなら何でもいいと思い通信販売の安いのを買って入れていた。それが原因でeroor99が出たことは意外だった。
電器店ではカ-ドが高いと思い通信販売で買ったことが失敗だった。カ-ドはみな同じだと思っていた。通信販売の弱点がこんなところにあった。そのカ-ドはカメラ用ではなかったのだ。
カ-ドもセットとなっていて電器店で用意したのを入れていれば問題なかった。
カメラでもそうだが機械も単体で機能しているのはない、今や様々なものが複雑に構成されている。昔はパソコンの周辺機器が相性が悪いとか機能しないのが多かった。今はそういうことが解決されたからどれでもいいと思っていたのだ。どんなものでも単体で機能するものはない、必ず総合的に機能する働くようになっている。通信販売は単体で安いものを買うことがあるがそれで失敗したのである。やはり電器店でセットとして買うのがいいのである。通信販売にもこうした弱点があった。こうしたことはなかなかわかりにくいしそういうことがかなりある。そういう知識は相当専門的だからわかりにくい、カ-ドがどの機械にも有効とはなっていなかったのだ。

人間の体も一部分が悪いからその一部分を切り取ってしまいば直るというのが西欧の考え方である。ところが人間の体が悪くなるのはやはり全体的な影響から部分がおかしくなる。特に老人の病気は老化が影響しているから全体の体の機能の衰えから病気になるから直しにくいのである。人間の体でもそうだし地球の生命もそうである。単体で存在しうるものはない、大きな全体の中に機能している。地球自体でも宇宙があるから地球が惑星がありうる。地球単体で地球は存在しえない、生命は一部分を切り取って単体で存在することはできない、全体の中で生きることができる。口蹄疫の問題にしても水牛をとり入れたらそれに付随してウィルスも入ってきた。水牛は日本ではとり入れていなかった。そこに落とし穴があった。グロ-バル化はこうしたウィルスの侵入などが防ぎようがない、どこからでも入ってくる、つまり食品だって単体ではない、そこにバイ菌も付着していたり何か良からぬものが同時に入って来たりする。これだけ自由に行き来する社会はもはやそうしたものを防ぎようがないのだ。

日本では牛、馬、豚はいないという漁業で成り立っていた国である。牛、馬、豚や羊でもそれに適した地がありそれが文化だった、culture(耕す)だった。それがグロ-バル化で破壊されて本来の日本の独自の生態系が破壊される。それが二十世紀になりあまりにもグロ-バル化しすぎたのである。だからそれぞれの固有の文化は破壊されるし生態系も破壊される。セットで存在する生命体が破壊されてしまう。日本ではもともとも牛、馬、豚がいなかったのだからやはり畜産というのは向いていなかったのではないか?外国には必然性があっても日本にはなかった。それが極端なグロ-バル化で破壊された。口蹄疫の問題もやはりグロ-バル化の問題として露出したのである。



キャノンの一眼レフカメラは直っていませんでした。
error99と出なくても症状は同じでありバッテリ-を入れ直さないと
セットに電源が入らない、いちいちバッテリ-を入れ直さないと
写すことができない、ただ途中でerror99が出ないだけで
写すときは必ずバッテリ-を入れ直さないととることができないのである。
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2010年05月16日

夏の月と星

moonstar11.jpg


お月さん、こんばんわ


お星さん、こんばんわ

どっちもぴかぴかきらり

田舎の町の夜の空

ケロケロ蛙が鳴いて

なんていい夜なんだ

お月さん、こんばんわ

お星さん、こんばんわ



今日はあとから晴れた、夜の空を見たら細い三日月の真上にきらきら星が一つきらめいている。これはめずらしいなと思い写真とってみたが夜はうまくとれない、キャノンの一眼レフで
error99がでたけどあれは問題らしい、不良品として日本の製品もそれもメ-カ-で出しているのでとまどった。今までそういうことはなかったからだ。error99がでるとなかなか直すのがむずかしいらしい。そういう不具合があるのにメ-カ-の製品として売ることもあるのかと思った。
日本のメ-カ-品だと信頼しているからだ。

 

インタ-ネットでは確かに同時にあの細い月と星を全国でいや世界中で見てるはずなのである。やはり同じ様に見えているのだろうか?ツイッタ-などで世界中からつぶやきでも報告があればわかりやすい、星とか月はやはり地球からだと同じように見えるから共通のものとして認識しやすいのである。インタ-ネットでは同時にリアルに存在している、今の時間を共有できる。それはどんなに離れていてもできるのだ。その同時間を活かすことがインタ-ネットを活かすことになる。あの月と星をみんなが見ているはずだからだ。ただ都会だと見えにくいから違っている。田舎だったら同じように見えているはずである。

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2010年04月29日

枝垂桜の写真

shidarephoto1.jpg

クリック拡大

桜は写真ではうまくとれない、これはうまくとれていた。鹿島区の大内地域だった。枝垂桜に夕陽がさしていた。枝垂桜のスタンドみたいなの作ると面白いだろう。明かりにこのような枝垂桜が映えるのである。幽艷な趣になる。これは夕陽がさしたからきれいにとれたのかもしれない、
桜はうまくとれないが光の具合でうまくいったのである。

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南相馬市原町区道の駅で無線通信していた人

musenn12.jpg

南相馬市原町区の道の駅でバイクで来た人が無線通信していた。磐城から来た人だった。
今頃めずらしいなと見ていた。原町の記念の十分の一の無線塔をバックにして無線通信しているのも奇妙だった。アマチュア無線をしている人がまだいたのかと思った。あの記念の塔は十分の一だとするとあの十倍の高さになるから東洋一の高さだったから凄いものだった。


この塔は実際は五六年で役目が終えたのである。これができてすぐに関東大震災がありアメリカにこの塔を通じて伝えられた。それが最大の功績でありあとは無用の長物となっていたのだ。でも高いから前の原町市のシンボルになっていたのである。これもコンクリ-トで作ったということは日本も技術を誇っていたのである。これだけのものを作れるという誇りの塔だったのである。鉄塔ではないコンクリ-トとなるとその技術力も相当なものだった。そういう日本の技術力の象徴としてもあったのだ。

道の駅にいると外部からの人が来る、ここでお江戸日本橋から歩いて来た人もいた。道の駅の近くに整備された公園も花盛りでありでも桜ははや散っていた。市立病院の回りも桜並木があり桜が辺りに多い。これは相馬の道の駅とはかなり雰囲気が違っている。つまり前の原町市という市街にある感覚になっているのがここの道の駅なのである。相馬は市街から離れているからそういう感じは全くない、道の駅はあまり街の中にあるのは少ないだろう。ここの特徴は街の中にある感じなのである。前の市立病院では家族が入院して世話になり買い物もあの辺ですることが一番多いからなじみの場所である。
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2010年03月15日

新しい試しの掲示板を作る

 

新しく試しの掲示板をを作りました
こちらにも何かあればコメントを書いてください
郷土史関係などちょっとした情報でもいいです
そんなところがあったのか、これは何なのかなど
書いてくれればそこを見に行けますし調べることができます
ただ掲示板主の小林がすべてとりしきるので発言は自由ではないです
匿名でもいいですがアラシや不適切なものはすぐに削除します
一応試しということで作りました、これは無料ですからいろいろなことができません


本プログに長いコメントがあったので作りました

簡単に作れたので試しにはじめました

発言ないとまたやめることになります

ではよろしくお願いします

新しい試しの掲示板へ
http://www.21styles.com/mybbs/soma/index.html

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2010年02月22日

召使、お手伝いさんは極めて人間的な仕事(プログの紹介)


召使、お手伝いさんは極めて人間的な仕事
(プログの紹介)


イギリス最初の小説の主人公が、召使だなんて。
『パミラ』で初めて主人公の内面描写が描かれたという


召使いは、主人の私生活のなかでは永遠の「第三者」である。召使いは、優れて私生活の証人である。
(『ミハイル・バフチン全著作〈第5巻〉小説における時間と時空間の諸形式 他―』より)

故郷の家では、召使は地位は低くても、家族として扱われ、主人と共に喜び、共に悲しみ、また主人も、召使を親身になって世話したものでありました

しかし、その聖なる家庭の中を、じっさいに「手を使って」清めているのは、われらが召使いです。礼拝堂を掃き清める信者のように、召使いは室内の床をはき、磨く。
目立たず、ひっそりと。控え目に、勤勉に。わたしは、「召使いこそが、家庭の神聖性を体現している」と思うのだ。

(執事たちの足音)
http://blog.goo.ne.jp/countsheep99/e/60b08f650005074efba2f2c0d7438724


ヘルパ-とかお手伝いさんでも召使でもこの人たちの仕事は家庭に入ってくるから他の仕事とはかなり違っている。家族の一員となりやすいのだ。執事のことをプログで書いている人がいたのもインタ-ネットならではである。現在では古い型の本当の執事もいなくなった。それだけの貴族もいなくなったのだろう。召使は日本でも武家にはもともといた。召使はそもそも家内工業とか家族が経営体の場合、使用人がその家に勤めることになったから家族の一員ともなって同じ墓に納まっているのが日本でもある。今の仕事はそうした人間的な面が少ない、機械的でありロボット的である。人情が働く場面も少ないのである。秋葉原殺傷事件が起きたのも単に給料の不満だけではない、人情が通わされない機械化された工場の仕事環境にもあったのである。

イギリスで最初の小説が召使を主役にしたものだったというのわかる。 召使は極めて人間的なもの人間臭いものでありそこに人間のドラマが展開されるのだ。他人が入ってきてもその家の事情に詳しくなり一体化してしまうのである。礼拝堂を掃き清める信者のようにというとき霊前に花を捧げる時などそれと同じである。その家の祖先を供養して祖先にかかわっているのだ。実際は全く知らない人でもそうなっているのだ。戦前は女中とか金持ちの家には家事が大変だから必ずいた。今は介護のヘルパ-とかお手伝いさんとかなっている。実際お手伝いさんを住み込みで雇っている家は今は相当な金持ちだろう。お手伝いさんといってもそういうふうに家に一緒に住んでいたら本当に家族同様になってしまう。だから認知症になっても世話していたというのも長年一緒だったからできることだった。家族同様だからできることだったのだ。

自分の家などもともと貧乏だからお手伝いさんとか雇ったことないからどういうものか全く知らない、お手伝いさんといってもそこまでなっていない、一時間くらいだとすると家に住み込みで働く召使とはまるで違っているがやはりお手伝いさんという仕事がありこれは極めて他の仕事とは違う人間的なものだとつくづく思った。だから金さえあればお手伝いさんを雇いば毎日来てもらいば孤独死というのはありえない、一方でヘルパ-とかで今家庭に入ってきて金を盗まれたり女性に老人が騙されて殺されたとか物騒なことまで起きているのはそれだけ家の事情がわかるから反面そういうことが起こってくるのだ。ヘルパ-とかは昔の金持ちに住み込み勤める女中とか召使とかとは違っている。同じようでも時代が変わると違ったものとなる。でも世の中は家族だけではできなくなることがありそれで今でも他人を家庭に入れて助けてもらうことがどうしても必要でありそうした仕事は形を変えて需要があり現代のような孤独死するような環境だと余計にそういう人の需要は高まっているのである。この仕事はその家と深くかかわることが他の仕事と根本的に違っている。今だったらお手伝いさんを雇うことが経験できるのは後進国である。二人雇うことが義務づけられているとか給料も安いからできる。そこで地元の人と親しくなれるしお手伝いさんはどういうものか体験する。日本では二人もお手伝いさんを雇えるところは今はまれだろう。後進国に勤務した人はみなそうしているのが普通だから経験できるのだ。

引用したのはまずい面はあったがこういうことを研究している人もいるからインタ-ネットの面白さがある。自分でもお手伝いさんなど興味なかったがお手伝いさんは孤独な老人がふえるとき需要が高まる仕事なのである。

執事たちの足音
http://blog.goo.ne.jp/countsheep99/e/60b08f650005074efba2f2c0d7438724


このプログは特異だから推薦できる。こういうところにインタ-ネットの利用の知識の広さが役立つのである。
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2010年02月11日

消えるプログの記録の危険


消えるプログの記録の危険


郷土史関係で明らかに5つつくらいの記事が復元できなくなっていたのでがっかりした。前に一度さくらのプログは全部消えたときはショックだった。一応パソコンに記録していても最近のを記録していなかった。今回はurlの番号はわかっていてもその記事が全くでてこない、その文を書いたのはごみ箱に入れたから再現できなかった。これもまずかった。一応とっておく必要があった。プログを「今日の一句一首」から「相馬郷土史研究」に分けたとき一部混乱した。ただこれはこちらの不手際なのか不明である。どうしてそのurlをクリックしても記事がでてこないのかわからない、全部が出てこないわけではない、
ちゃんとhttp://musubu.sblo2.jp/article/.htmlとなっていてhtmlの前に番号がでている。さくらのプログの不具合なのだろうか?これはさくらの会社に聞いても無駄である。プログは保証していない、サポ-トがない、プログはどうなっているかわからない、インタ-ネットにはこういうふうに突然消えることがある。すると全くこれまでの努力が水の泡になるのだ。ここがインタ-ネットの一番の問題である。他でも全く書いても消える、やはり重要なものは印刷しておくべきである。ホ-ムペ-ジは安全である。プログとは違う、パソコン内に他の記録メデアに保存していれば消えない、危険なのはプログなのである。最初はホ-ムペ-ジで書いていた、2000年からはじまり十年にもなる。時事問題の深層で延々と書いてきた。書くことに魅せられたのである。反応がなくても書き続けたのである。出版はできないからここに全精力を傾けて書いてきた。今日一人からホ-ムペ-ジの時事問題について反応があった。書き込んでくれたのは10年書いて二三人とかであった。でもアクセスがあることはわかっていた。プログは一つの記事ごとにアクセスがあることがわかるのでそれが反応だった。

「古池や蛙とびこむ水の音--意味」これがなぜ毎日のようにアクセスがあるのか不思議である。これだけ継続して10以内にしろアクセスがあるのはめずらしい。これは読まれているなとはっきりわかる。それからキ-ワ-ドも毎日のように調べている。これも仕事に誇りもてない・・・とかいろいろあり確実に自分のプログの記事にふさわしいのがきているからそれ相応にヒットして読まれていることがわかる。プログは全く変わった関係ない人は来ていない、確かに辞書のようにも読まれているが記事の内容にふさわしい人が読んでいることは確かである。自分もキ-ワ-ドで調べ関係したものを集めては編集して書いている。それがインタ-ネットを読むことであり書くことでもあったのだ。ともかくプログは記録の確かな保存をしておかないと消える。だから印刷しておくべきである。やはり記録で安全なのは印刷なのであり冊子でも本でも残せば残る。インタ-ネットは記録に関しては不安である。一瞬にして全部消える・・・そしたら努力も水の泡になる。


かといって出版はみんなできない、インタ-ネットの強みはこうして毎日いくらでも書けることであり全国に自由に放送できることなのだ。普通だったら狭い地域、10万くらいの都市に住んでいれば郷土史などその人数内でしか読まれない、ところが郷土史でも全国を相手にするから読まれるのである。これが大きな今までのメデアとの相違である。全国の人を相手にしているんだということはやはりやる気を起こすのである。アクセス数は最近また増えてきた。相馬郷土史関係では70くらいになっている。これはでも他から相当数アクセスししているから地元の人は少ないだろう。野馬追い関係などもっと書けばアクセス数はあがる。本プログの今日の一句一首は200を越えている、プログで便利なのはコメントを即座につけられることである。メ-ルはスパムでとめることができない、かえってプログに書いてもらうと即座に反応できる。誰かが読んでいるというだけでもやる気にはなる。




旗巻峠-伊達と相馬の攻防の歴史
http://musubu2.sblo.jp/article/27366573.html

戊辰戦争東北の一つの哀話(白河の遊女の墓)
http://musubu2.sblo.jp/article/27039464.html


このほかにも消えて復元できないものがいくつかある。書き直すことができるものもある。
ミルトンの詩と酷似していた相馬野馬追いなどはもう一回書けば復元できる。書いたことを忘れてしまいばなかなかむずかしい。なんとか試みはしてみる。


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2010年02月01日

蕗の薹と退職者


蕗の薹近くで探す退職者

 

蕗の薹がもうでていた。各地でも出ている。自分の通る道ではみかけなかった。やはり同じ道を行っているからみかけなかったのか、ちょっと道をそれたような所にある。なんでも蕗が一杯しげるところには蕗の薹がでる。そこを知っていて蕗の薹一杯でていたと退職者が言う、退職者というより現役をしりぞいた60代の女性だけど町に住んでいても近くにそうした食べるものを探して料理して食べているのだ。それが楽しみなのである。ともかく田舎だと半分が退職者かもしれない、そしてますます退職者が高齢者だけが増えてゆくのが田舎なのである。なぜなら田舎に住みたいという都会の退職者も増えているからだ。田舎の空家を探している人も多いだろう。都会では蕗の薹を探すことは無理である。また蕗の薹を探すということはやはり退職者は何か生きがいを求める。仕事という会社という生きがいがなくなると新たに生きがいを求める。そのために田舎暮らしが生きがいを与えるだろうという幻想を持つことになる。それが戒められるのもわかる。

そもそもその女(ヒト)は実家は農家でありもともと田舎に住んでいた。それと女性だと地域に溶け込みやすいことがわかる。シルバ-センタ-とかで仲間作りもできるし趣味でも仲間を作ったり仕事でも家の老人と仲よくなり簡単な仕事をさせてもらったりと女性の場合家に入るのも適合力がある。男性はなかなかこうはいかない、退職しても地域にも何か生きがいある場を見出すのもむずかしいだろう。これは人にもよるが女性の場合は適合力あるなと思った。

老後をどうするかは高齢化社会の大きな課題である。高齢化社会の問題は各地でいろいろ起きてくる。NHKのクロ-ズアップ現代の「フ-ドデザ-ト-食の砂漠」というのもそうだった。近くのス-パ-がなくなることは影響が大きい。ここでも遠いがショピングセンタ-がイオンができたことで二軒のス-パ-が影響しているかもしれない、通りはほとんど店が消滅した。水戸とかあんな大きな市で買物もできないとなるのはひどい。車が利用できないとあのようになる。今の社会は車を利用できない人のことを全く考慮しないのである。だから車の運転できない老人は弱者になる。特に一人暮らしの人は買物すらできなくなるのだ。自分も今度は蕗の薹を探しにでかけよう。確かに蕗の薹はある所にはあるのだ。この辺でも近くにあるのだ。

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2010年01月01日

2010謹賀新年

newyear201011.jpg


新年や海穏やかに陸荒れぬ

元旦に朝鐘鳴りぬ奥の寺

年明けぬ松風鳴りて雪野かな

千里行く寅年西行思うかな

寅年や晩年なおも飛躍せむ

元旦に墓に詣でて寒椿

新年や梢に高く鳥鳴きぬ

我が庭に葉牡丹植えて新年を迎えて雪や石の鎮まる

穏やかに波にゆれつつ鴨の群れむつまじきかな新年の朝

新年や松風鳴りて朝清し昨夜の雪の残りし野を見ゆ

今年の元旦は荒れ模様だ。昨夜雪がふり今朝その雪が残り今は北風がうなり吹いている。元旦から荒れ模様ということは今年も不況がつづきいろいろ苦しみ続けるのか?不思議なのは海は穏やかである。波もいつもとは違い静かであり鴨の群れがその波にゆられている。海が穏やかで陸が荒れているのはめずらしい、。たいがい海は波がここは荒い、これも例年にないことだろう。寺の鐘を元旦の朝に聞いたのもめずらしい、普通は大晦日だからである。 まず霊前に祈り近くの墓にお参りした。姉が死んで一周忌が終わったばかりでありまだ死んだ人は遠くに行っていない、やはり死んで三年くらいはまだまだ死者はこの世を彷徨っている。だからこそその三四年は死者は生者に相当な影響力を及ぼす、これは迷信とかではなく本当だと思う。実際姉が死ぬ前に親戚の人も二人死んだのである。ここ三四年の間に二人親戚の人が死んだ。それでなぜか自分は関係ないと思っていたが一人の親戚を殺したいくらい憎んだ、その因縁は親戚だから複雑にからまりあっていた。年月が相当すぎていたから自分には関係ないと思っていた。でも突然狂気の沙汰として襲ってきた。それでその人をどうしても憎んだ。憎まざるを得ない、突然通り魔に襲われるようなことを経験したからである。そしてその人をこれほど憎む原因がわかった。二三年前に死んだ人の凄い憎しみと恨みが自分にのりうつったのである。そうとしかいいようがない、今は関係を断ったからそういうことはなくなった。まちがいなく死んだ人は三四年は生きている人に強力影響する、もちろん現実問題として財産問題などで墓でももめるのだ。

今年は寅年だけどまた遠くに旅ができるのか?やはり介護になっているからできないだろう。介護になるとなかなか介護している人から離れることができないのだ。虎というと千里を行くというから電動自転車で旅をしたい、坂をぐいぐい上って遠くまで行きたい、西行は凄い人だった。
「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」その年になって当時旅することは本当に死の危険があった。旅人はやはり旅に死すのがあっている。旅に死ねれば本望だとなる。人間自分のように三十年間旅をしてもあっというまにすぎた。これで旅も終わりなのかということなのだ。まだまだ見ていない所がいくらでもあるじゃないかとなるのが人生なのだ。特に富士山など本当に美しい富士山を見ていなかった。富士山は見る場所が大事だからである。すると日本に生まれて富士山も良くみていなかったなとなりこのまま富士山も良く見ないで死んでゆくのかと思ったときがっかりした。なぜなら富士山の写真をとるために何カ月も寝泊まりしていた人をテレビで写していたからうらやましいと思った。そんなに富士山を見れるのかと思った。車を持っているからこんなことが今はできると思った。人生はつくづく短いのだ。百才を生きてもその間に病気になる。介護になる。そして何もできなくなる。そういう方が多いのである。自分のように幸運だったとしてもそうなのだからこれだけ旅をして仕事もしないでもそうなのである。

葉牡丹を植えたけどこれはなかなかいい、本当に冬ににあうし元旦にもにあう、元旦となるとやはり日本人は初詣でとなるが日本人は農耕民だから一年のはじまりとか季節の変わり目には敏感である。神社に参るとは信仰より習俗である。ただ天皇を現人神としたとき信仰になった。
神社もそこに組み込まれたという歴史がありその問題は継続されているからこれもすんなり受け入れられないものとなった。でも祭りは維持されるべきでありしかたないから元旦には一カ所だけ金は払った。今年も一周忌を終えたばかりであり死者のことをひきづっている。介護もつづいている。体も晩年になり弱ってきた。でもやはり電動自転車で遠くへ行ってみたい、それが今年の願いだ。

今年もプログを書き続けますのでよろしくお願いします

habotannn123.jpg

2010 謹賀新年

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2009年12月20日

ヤマハ パスブレイス(電動自転車)にのる

yamahapass123.jpg


ヤマハのパスブレイスはやはり評判どおりの優れたものだった。まだ長距離は乗っていないがこれは長距離用に作れたのだ。リチウム電池が長時間もつようになったからだ。これは半分バイクになっているのだが違うのは平地ではそれほどスピ-ドがでない、自転車だからスピ-ドが制限されている。ロ-ドよりスピ-ドが平地ではでない、でも坂には強い、どんな坂でも普通より少し力を入れれば上れるのだ。坂では苦労したからこれは凄いと思った。バイクに乗っている人はたいしたものではない、そんなことはすでに簡単にできたことで何ら目新しいことがないとなるが自転車しか乗っていない人はそうではない、自転車からの格段に進化した自転車なのである。自転車からバイクへはバイクも自転車にエンジンをつけてバイクに進化したのだがバイクと自転車は全く別物なのである。バイクはむしろ車に近いのだ。スピ-ドだって車と同じであり早すぎるのだ。そしてすでにバイクになると自ら動かすという感覚はなくなる。自動車と同ように自動に走る。ガソリンで自動に走るから車に近いのである。バイクは早すぎるから途中の景色もゆっくり見ていられない、車と同じく環境にも優しくない、轟音とともに過ぎ去ってゆく、しかしこの電動自転車はやはり自転車でありペダルを自らの足で回さない限り動かない、坂でもやはりそれなりにこがないと坂を上ることはできない、スピ-ドもかえってロ-ドよりは出ないからスロ-な自転車でただ坂に強い自転車となる。自転車は平地だとロ-ドの方がかえって楽だし早い。しかし日本はどこでも坂が多すぎてまいってしまう。それで坂に強い自転車がリチウム電池とかの発達と同時に開発された。これは電機自動車が開発されるのともにている。電池の性能が良くなったから電気自動車も実用車になる。

日本は山が多いからトンネルの技術が世界的に一番となったように自然条件を克服する技術が発展する。この自転車は坂に強いから実用的であるし長距離向きになったのは電動自転車でははじめてである。百キロくらい電池がもつとしたらまた荷物にも強いのでスペア-の電池をのせて走れば一日坂をいくら上っても電池は切れることはない、途中で電池を切らすことがないから安心だとなる。ただ欠点は電池の充電器が大きいのでこれを持ち歩くことは難儀である。ただ荷物にも強いからかなりの距離のツ-リングできる。それを試してみたいが今や介護などでできなくなったのが残念である。この電動自転車が出てから十年くらいたっているしようやく本格的なものに乗れるようになった。パソコンでもデジカメでも一般化したのは最近である。人生の晩年でもこの新しい技術を経験できたことは幸福なことだった。いくら金があってもこの時代に生まれなければこうした技術は経験できないからだ。

これは坂には強いが平地だと早く走らない、速度が制限されている。平地だとロ-ドの方が乗って早く気持ちいい、坂でも急な坂がつづくと電池が切れるから予備の電池がもう一つ必ず必要だ
それでも切れた場合はなんとか自力で走るほかない、そんなに重いというものでもないから乗りきれるだろう。
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2009年12月10日

戻ってきた忘れ物

ス-パ-でバッグを忘れたけど今回ももどってきた。携帯がなかに入っていて通じた。とりにいったら今回はス-パ-の中ではなかった。ス-パ-の敷地内で落としていた。だから拾った人の名前が書いてあった。これがス-パ-の敷地の外だったら警察に届けられただろう。でなければもどってこないだろう。ス-パ-には何回か忘れている。でも寄った場所がわかっているのでどこに忘れたかはわかる。行動範囲が狭いからどこに行ったか寄ったかわかる。ス-パ-にしても二軒しかないのだからわかりやすいのだ。そのス-パ-も小さいから忘れてもわかりやすいのだ。都会だったらこういうことはありえない、ほとんど返ってこないだろう。田舎はそういう点ではいい、一方で田舎は狭い範囲で暮らしているからプライバシ-がないとかすべて筒抜けで家のことが知られてしまうというのも本当である。沖縄の島に行ったとき、同じ場所にいて動かないから怪しいと警察に連絡されたのには驚いた。旅をしていてもそんなことされたことなかったからだ。島だからよそ者が目立つのである。どこに暮らしても一長一短はある。田舎は安心社会であるが相互監視社会ともなる。日本は江戸時代から安心社会だったが今やそうではない、外部のものよそ者が外国人でも入り混在化した社会になった。田舎でも安心安全社会とはならない、ただ田舎だと今回のように落とし物、忘れ物などは回るところが限られているから返ってきやすいことはある。ただ今回はス-パ-内ではない、ス-パ-の敷地内でもそこに落としたものを拾った人がいてス-パ-の係に届けたのだからその人のおかげであり感謝している。


これは明らかにス-パ-内に忘れたのとは違う、やはりその拾った人がいい人だった。財布には携帯と金が6千円入っていた。その他カ-ド類もあったからもっていかれると結構めんどうになった。金もとられていないから感謝である。警察に届けたら落とし主にお礼をしなければならないことは確かである。この前はス-パ-のカ-ドを忘れてそれを届けた人がいて二回も警察から電話が来て嫌になった。そのス-パ-のカ-ドはほとんど使っていなかったからだ。警察に届けられるとめんどうになるのである。そんなものは届けなくてもすぐに作れる。そういうものを届けて連絡される方がめんどうだとなる。ありがた迷惑ということもあった。ともかく今回は届けてくれた人には感謝している。田舎で良かったなということであった。高齢化すると明らかに田舎の方がいいのだ。不便ではあるが都会のような混雑した所に住むことが億劫になる。行動範囲が狭い方がいいのである。認知症になっても行動範囲が狭いとある程度暮らしていけることもある。都会だったら認知症でなくても老人になったら機敏に対応できないから迷ってしまうだろう。田舎は活気がないにしろ高齢化社会には田舎の方がいいのである。

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2009年10月30日

鹿児島からの通信販売の勧誘



今の世の中って変だよな、鹿児島から「ニンニクダンゴ」の宣伝が電話できた。また宣伝かと思って電話を切ろうとしたが鹿児島ということでええ、こんなに遠いところからと思い、ずいぶん遠いところから大変ですね、鹿児島でニンニクとれるのですか?いいえ、青森から来るんですよ、ええ、青森から、九州から本州の果ての青森と結びつく、これはニンニクダンゴと聞こえたのだがニンニクの卵黄のことだった。ここからは前に扇風機型の暖房器具を買った。それは出始めでいいのが売っていなかった。ここで買ったものもいいものではないが他で売ってないので買ったのだ。それも実は韓国産のものだった。韓国で作ったものを九州で販売していたのである。今の世の中はこんなことめずらしくない、食い物だって世界中から集まってくるのだから普通のことである。でも鹿児島の人と通信販売でもこんなこと話するなんて奇妙である。ここで世間話でもしたら面白いとなる。まあ、買わないから今回は例外的なものだろう。世間話をするには買わなければだめだからな、人間ってモノを売り買いするだけの存在ではない、商売も人間と人間のつながりが大事になる。でも商売だと地元だとやりにくいというのがある。かえってわりきってやれない、すぐにまけろとかなりやりにくいのだ。今の時代、全国的グロ-バルに経済も展開しているのが普通だから何かいい方法がないのかと考える。光電話だと全国通話が一律だからそうした商売がしやすい、一方通信販売の問題は個人情報が知れ渡ることである。住所から電話番号を書かなきゃならないからだ。それでまた電話してきたのである。

確かに今の時代は距離が関係ない、でもこういうことってなんか変なんだよ、もう土地から遊離した人間の時代なんだ、でもそんな人間関係ってどういうことなのか、モノの売買でも通信販売は人間の関係がない、人間の経済ではない、現実はグロ-バルで世界的にそうなっている。モノが来るがそのモノについた人間のことはわからない、もはやモノと人間は結びつかない、貨幣そのものがグロ-バル化を促進する、金だけが絶対的価値基準になる。それが今回の世界的不況の原因でもあった。「ニンニクダンゴ」いやニンニク卵黄だけを売ろうとしている、それも九州の鹿児島からである。電話番号知っているからまた電話かけてきたりするから困るのだ。
インタ-ネットの文字だけのコミニケ-ションより電話のコミニケ-ションは声が聞こえるからいいかもしれない、相手はかなり年配な女性の声だとわかったしこっちでも年配だとわかる。声からわかることもある。
インタ-ネットの出会い系とかプログで自分のことを宣伝している女性が結婚詐欺で殺人を犯していたというのには驚いた。相手もプログを書いていてそれが証拠になっているのも現代的である。プログは今やそれだけ一般的になってしまった。その人のことがプログを通じて記録され残されている不思議である。どんなことしたって一般の人の日記など記録に残されることはなかった。一流の人の作家くらいしか本には残せない、一般人の言行など残し得ようがなかった。出版を通じてしかマスメデアを通じてしか自分のことを宣伝できない、表現できないとすると優れた人でも埋もれさせられたし何か大事なことでも伝わらないことはいくらでもあった。それがインタ-ネットでは自分がメデアになるのだからできるのだ。極めて結婚詐欺殺人事件も現代を象徴しているような奇々怪々な事件だった。自殺者が多いから警察も気づかなかったとかいうのもそうである。プログ、セレブ、自殺、練炭、ホ-ムヘルパ-・・・・とかがつながっている。ヘルパ-というのも家のことが筒抜けにわかってしまうから困ってしまことがある。それが外部にそのまま洩れてしまうのも困ってしまう。自分の家でもそうだがヘルパ-は増えている。この女性にだまされた人も現代を象徴していたのか、大金をもっていた孤独な老人、プラモデル制作のオタク、・・・・淋しい現代の男たちだったのか、事件は時代を写す鏡だというのはこれでわかる。
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2009年09月12日

こうもり(珍客の侵入)

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こうもりが家に入ってくるのは縁起がいいらしい、繁殖力が旺盛で子だくさんだからとかそもそも田舎に住んでいても家の中にこうもりが入ってきたということを経験していない、こうもりは田舎だからみかけていた。遊んでいると夕方になるとこうもりがとんでいて箒(ほうき)で追ったりした。しかし家の中に入ってきたことはない、この年まで家の中に入ってきたことがないのは不思議である。家の中にこうもりが入ってきたことは始めての経験なのだ。人間は60になっても不思議なことを経験する。特に自然に関しては未知なことが多く今まで見たことのないものを発見する。自然は未だに神秘なのである。自然の神秘を経験するにはやはり田舎でないとだめだろう。本当に山の中に住んでいれば自然の神秘はみじかになるだろう。
こうもりの歯はこんな小さいのでも大きい、白い歯をむきだしにしてかみついてくる。相当な力がある。こうもりは大食で一日に蚊を何百匹も食うとか肉食だから蜘蛛なんかも食っているのだろう。家の中には蜘蛛がいるから屋根裏などにも巣にしている。こうもりも神秘的である。なんでこんなものがいるのか不思議だとなる。いづれにしろ人間が生きるということはいろいろな不思議な体験をすることだと思った。認知症などという全く不可思議な病気に接したのもそうだし還暦すぎてからいろいろ不思議な体験が重なる。人間が生きるということは死ぬまで不思議な体験をするということである。まず生きてきたこと自体不思議としかいいようがないからだ。
今こうもりは自分の部屋の壁にはりついて眠っている。今日はこうもりと寝ることになる。
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2009年09月08日

南相馬市鹿島区であった日本語がうまい中国人の労働者

南相馬市鹿島区であった日本語がうまい中国人の労働者


今自転車で町を走っていたら「公園ありませんか」と自転車に乗りながら発音が変な人と出会った。中国人だった。話しかけてくる中国人がめずらしいので公園に案内した。その中国人は顔が喜劇俳優のようで親しみがもてた。そしてかなり日本語が通じたことである。前にスリランカの人と出会ったがその人は5年くらいいても日本語がうまくなかった。その人は相当日本語が通じる、日本人と同じ様に会話できるのに驚いた。すでに三年間南相馬市の鹿島区にいて10日中国の吉林省に仙台から飛行機で帰るという、飛行時間は二時間半である。そうか、飛行機だとそれも仙台からだとそれだけ近いのかと改めて今の時代が中国がいかに近いか再認識した。二時間半といえば大阪に行くより近いのである。中国人は女性でも前からみかけていた。
ただこれだけ日本語が話せる中国人がいたことに驚いたのである。

 

満州にはロシアから鉄道で入って行ったことがある。満州里はロシア人が多く買物に来る、ロシア語の看板と中国語の看板がでている。中国の電気製品などを買物にきている。汽車で出会った人は材木商で若いのに金持ちだった。トヨタをもっているから相当な金持ちである。中国でトヨタをもっていることは日本人より金持ちなのだ。中国人の金持ちは日本人の金持ちより金持ちである。物価が安いのにトヨタをもっていることは日本と中国では金持ちのレベルが違うからである。五六十万で家が建つと言っていたがそんなレベルである。満州の鉄道は何の面白みもない、変化が全くないのだ。どこまで行ってもとうもろこし畑でありあとはたまたま川があるだけである。その河も汚れている。あとは山らしい山もないどこまでも平坦でありとうもろこし畑である。とうもろこしは今では動物の家畜の飼料に使われているという、人間の食料ではない、それからエネルギ-源としてとうもろこしは脚光浴びているから高くもなっているという、あれだけのトウモロコシあれば燃料にするには向いている。あれだけの広さがあるからだ。日本にないのは広さなのである。

 

その中国人は中国の食料は強い農薬使っているからすすめられないと言っていた。日本の米はうまいだろうと言ったらコシヒカリとか何か有名な米を知っている。日本人は親切でいいとか中国人は悪い人が多いとか言っていた。そして公園でも藤の木などがあったのがめずらしいのかプラタナスの木が中国の街路樹にもあると言っていた。それは私もみかけた。中国の山は名前も砂岩とか岩だらけの緑がない山々である。満州はまた寒いだろうと言ったら寒い、ここは気候がいいと言っていた。海の方は温暖とも言っていた。満州では零下二〇度くらいになるから大変である。日本の方が住みやすいことはまちがいない、たまった金で車を買いタクシ-をやるとか言っていた、ただ車を買うほどの金はたまっていないとかも言っていた。

 

あれだけ日本語しゃべるのには驚いた、若い人のように見えたが白髪染めを買うとか子供がいるとかそれなりに年の人だった。今若い人ばかり出稼ぎに来ているだけではない、前にスリランカに会った人は寒くてまいったとか言って帰ったが満州なら寒さには強い、インドネシアの看護師が岩手県にきて寒さで耐えられないと国に帰ったとか意外と気候は外国では影響するのだ。日本でも蒸し暑さはひといから暑さが他の国より厳しいと感じる人もいるだろうし外国はやはり適応するのはむずかしいのは変わりがない、ただ鹿島区に三年もいて友達ができたとか今度は遊びに来るとか日本を気にいったみたいだ。満州よりは確かに日本があらゆることで住みやすい、物価高をのぞけばみんなそうである。やはり今は外国はこんなに近いのかと再認識した。田舎でもニ-トとか働かない人がふえた。でも中国辺りからなら飛行機で二時間半で出稼ぎにこれる。この距離は改めてグロ-バル化した労働環境の変化を肌で感じた。世界がこれほど近い、中国は本当に隣のように近いのだ。そこからいつでも遊びにも働きにも来れるのだ。働くとなるとめんどうなことになるがそれでも相当な数がこうして辺鄙な田舎まで入ってきている現実があるのだ。これは他の国とは違う、中国はそれだけ本当に近いのである。飛行機で二時間半、仙台からあっというまに満州についているのだ。

 

前にスリランカの人は指を工場で怪我して切断した。そこでもある人が工場で指を切断したらしいでも保険がおりずもらいなかったことを言っていた。その人は保険はひかれていると言っていた。スリランカの人は保険を相当もらって国に帰った、やはり何百万もらったのだからその金は怪我をしたとしても大きい金だったのである。保険をかけないと悲惨なことになった。現実この事故は隠されてしまったから外国人はこういうところで犠牲にされる損をすることがある。


外国人労働者を一千万単位で受け入れるというときそれは中国人が主である。特に満州地域は貧乏だから今日本来ている研修生とか出稼ぎ者は中国でも満州が一番多いのである。ここは戦争中も関係深かったから老人だと日本語がまだしゃべれる老人がいるだろう。世の中今やこんな東北の田舎でもすでにグロ-バル化して久しいのだ。グロ-バル化に否定的なことを書いてきたがグロ-バル化せざるをえないのも現実なのである。中国と日本と一体化して考えざるをえなくなっているのも現実なのである。アメリカになるとやはり経済的つながりは深くても飛行機で二時間半というわけにはいかない、つまりこの距離が時間が日本と中国を一体化するのである。やはり日本の少子化対策とかいくらやってもうまくいかない、過疎地域などは本当に外国人などを入れないと成り立たなくなる。条件の悪いところでもそうとも思わないのが中国人である。第一満州などは生活条件が厳しいから気候的に日本なら楽だとなるからだ。いづれにしろこうした外国人労働者が相当数すでにいることが今の日本もグロ-バル化にまきこまれていて複雑化している。でもいちがいに悪いとは否定できないのが現実になってしまっていたのである。

 

満州の寒さ厳しきここに住み人もあたたかくまた来なむかな

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2009年09月01日

自動販売機のトラブル(おつりがでない(2)

 

先日、駅に設置されている自動販売機で100円の水を買った。1000円札を入れてお釣りが400円しか出なかった。すぐに駅売店に行ったら「会社が違う」と断られ、販売機に記載されていたコールセンターに連絡、後日返事との事。
 そうしたら「販売機内の精算が一致しており、返金不可」との連絡。納得いかないので何度も連絡をしているが、返事は一向に変わらず。消費生活支援センターに相談、問い合わせをしてもらったがやはり回答は一緒。
 JR東日本ウォータービジネスでした。どうしたら返金してもらえるのか

http://okwave.jp/qa4315424.html

http://qanda.rakuten.ne.jp/qa3443773.html
自動販売機はおつりがでいなトラブルがかなりあるのだろう。買う方がつりが出ていなと詐欺まがいのことをして金をだましとる手口にもなるから結構この問題はめんどうである。まず千円札入れたということがなかなか証明しにくいのである。
私の職場では切符の自動販売機を設置しているのですが、おつりがいつも取り忘れられています。 ところが、そのおつりを回収し、生計を立てているホームレスの人がいるのです。毎日毎時間漁りに来るのですが、見張っているわけにもいかず、手のうちようがありません。

「管理しているのはここでしょう。知らないはないでしょう。品物が出ないんだから何とかしてよ、壊れているならなぜ直さない。ちゃんとコカコーラの会社に連絡したらどうだ」とどんどん高飛車に強引になってくる。
「この前、壊されたので、1000円使えないと思うけど・・ 」
「品物もお金も出てこないんだよ、なぜちゃんと管理できないのか」とああいえばこういうという屁理屈がまだ続き
「出てこないんだからちゃんと見に来い」と言われて自販機の前まで連れていかれた。
「これ壊れているけど1000円、入りました?入れられたんですか?」
「・・・。」何も返事をしない。
「1000円入れられたんですか?」
「・・・。」


こうしていろいろ難癖つけて金をとろうとする人もいるからめんどうである。六号線を自転車で来た人はやはりホ-ムレスだった。金がないのにどうして旅していると言ったら自動販売機のことを言っていた。ホ-ムレスはやはりちょっとヤバイをことをしている人がいるみたいだ。これは犯罪とまでいかなくてもやはり犯罪になるのだろう。

今回結局また問い合わせたら「確かめることはできませんでしたが私たちの商売はお客様との信頼関係が大事ですから郵便為替でおつりは送ります」と言ってきた。ここで住所とか明らかにするので金をとろうとする人は拒否する。現場に呼びつけて払わせようとしたり自動販売機荒らしもあったし自動販売機がこれだけあればいろいろ問題もでてくる。自動販売機は山の中にまであるし自動販売機の取り残したお釣りを探しているというのもいたのである。
自動販売機のトラブルの問題はインタ-ネットととにていた。機械を介すといろいろトラブルがでてくる。その機械を通じて悪さしようとする人は必ずいる。これは機械のせいではないのだ。人間のせいなのだ。だからインタ-ネットがすべて悪いとはならない、電話でも車でも犯罪に使われる、だから電話や車をなくすべきだという議論はおかしいのである。インタ-ネットでは常にそれが言われ規制が言われてきた。人間が悪いのであり機械が悪いとはならないのだ。
自動販売機でもやはりそれを使う人間が会社がまともであればまともな対応するのである。

自動販売機には必ず連絡先が書いてあった。ここに二つの会社の自動販売機があったが今回連絡したのはコカコ-ラの方だった。とにかく住所を明確にするとつりが出ない場合、郵便為替で送ってくれるから信用できるのだ。
jihannnn123.jpg
連絡先はどちらにもあった
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2009年08月31日

自動販売機のトラブル(おつりがでない)(1)



農協の脇の自動販売機が10円安いとわかったので千円札入れてコ-ヒ-を三つほど買った。でもお釣りがでなくなった。それで連絡先が書いてあったので連絡した。そしたらお釣りは郵便為替で送ると言ったので安心した。でもあとで係のものが調べたら故障していない、隣の自動販売機で買ったのでしょうと言われた。隣の自動販売機は違う会社のものだった。隣り合っていても自動販売機は違う会社のものが並んでいたのだ。ここもややこしくしたのである。今日買ったその場所で確かめたら隣の自動販売機から買ったものでないし連絡先が出ていないのだ。だから隣の自動販売機は連絡先がないのだからお釣りが出ないとかトラブルにあったら連絡しようがない、これも困った話である。つまり自動販売機には責任者がいないことがあるのだ。そこでトラブルがあっても千円入れてお釣りがでなくても支払われないことが起きる。そのくらいだからあきらめろともなる。そして考えたことは一体責任者は誰なのか?機械にあるわけがないから機械を設置した会社や人にある。ところがお釣りが出ないということを果たして明確に証明できるかとなるとむずかしくなる。なぜなら領収書が出るわけでもない、本当にあなたは千円札入れたのですかという証明ができないのである。だからそのくらいの金ということで泣き寝入りになるかもしれない、連絡先がないのはあとの責任を負わないということかもしれない、連絡しようがないからだ。責任の所在がはっきりしていないからだ。

世の中何でも責任がはっきりしないと困るのだ。小さな金だから責任を問うということもないとしてあいまいになっている。そこに人がいないなのだから余計にそうである。裁判でも何か自ら証明できないとアリバイでも疑いが晴れない、だから物証でも何でも証拠をそろいることが大事になる。それも客観的証拠が大事になる。それが果たして自動販売機では得られるのかというと得られない、機械が千円札を入れたことを記録してそれを見回った人がまちがいないと言えばそれまででありそれ以上追求することは無理だろう。これくらいの金で追求しつづけることはできないだろう。自動販売機は責任をとる人がいないのである。責任をとる人がいないことはお手上げでありどうにもならない、機械は責任をとるわけではない、責任をとるのは会社であり人である。今は機械の時代だからインタ-ネットなども誰が責任者なのかわかりにくい、実名で書いていても本人が存在するかどうかもわからない、連絡先があっても本当に本人なのかどうか、本当に責任をとってくれるのかどうかもはっいりしない、機械を媒介にしていても機械が責任をとるわけではない、機械が複雑になると余計に責任の所在もわかりにくくなるのだ。

この問題を法律的にどう解釈するかとなるのか?理屈好きだからこんなことをいつも書いているのだ。法律家になるのが向いていたかもしれない、法律はやはり誰に責任の所在があるかが重要なテ-マである。責任が問われるから素人にはわかりにくいように事前に契約しておく、その項目が長くなりほとんど読んでもわからないとかなる。それはただ・・・があっても当社では責任をとりませんよということを事前に明記しているのだ。まあ、自動販売機などは額が知れているからそういうことは明確ではない、でもこうしたトラブルがあるから連絡先が書いてあれば責任の所在を明確化しているから連絡先がないよりは信用できるとなる。

jidouuhabai2.jpg

 

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2009年08月10日

著作権違反の指摘

貴ブログの中に、幣サイト「千葉一族」内のコンテンツと掲示板の過去ログからの転載が数箇所見られました。
幣サイトは、無断転載をお断りしており、転載につきましてはご一報をいただくよう各ページにお断りを入れさせていただいております。
(ただ、ご一報ない場合につきましては引用先の明記があれば、とくにこうしたメールでのご報告はしておりません。)
とくに掲示板の記述については、私だけではなく、他の投稿者の著作権がありますので、お汲み取りいただければと存じます。


これは著作権違反じゃないかなと不安なことがかなりあった。引用が多いためである。リンクはしていたが掲示板の文はしていなかったりかなり不安な面があったので著作権違反しているようならコメント欄ですぐに書いてもらいば対処できた。著作権違反でないように書き直すこともプログではできる。だからコメント欄にいいからどこでも書いてもらいば良かった。

著作権違反がありましたらすぐにコメント欄(どこでもいい)で指摘してください、すぐにご要望のようにします、ただ本当にそこに著作権があるのかわからない場合がありますよね、古くから語られたことであり歴史的事実であればそれを引用しても著作権違反にはならない、歴史にはそういうものがかなりあるから問題です、そういう点は考慮してもらいます。

メ-ルはスパムが多いので見逃すことがあるので困る
コメント⇒メ-ルとくればかえってわかりやすいのでよろしく
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2009年07月29日

古くなり危険な家(本の重みで家が傾いて家)


家を診断してももらんたけど家が重みで傾いていたというのには驚いた。それも本の重みで傾いていたというのも驚きである。確かに大量の本が増築した自分の部屋に置いてあった。百科事典とか全集だと相当重くなる。書庫のようになっていたからそれが影響した。でも昔風の大きな家だから頑丈だと思っていたがこれも違っていた。家が老朽化するということは木が古くなり枯れてくる、粘りがなくなり支える力がなくなるという、だから地震に弱くなっている。屋根が瓦でこれも重いので家がその重みで痛んでいるという、あとは風通しが悪い家で湿気で痛んでいる。ともかく築40年となるとどんな家でも木の限界になってくる。木の寿命がきれつつあるから危険なのである。老人の骨が弱くなり骨折しやすいのとにている。40年前だと耐震構造の家になっていないのも危険である。建築の基準が変わり古い家は地震に弱くなっている。新しい家は木も新しいから地震に強いという、壁なども多く今は地震に強い構造になっている。まあ、土壁の家だったから古い家である。でも本の重みで家が傾いていたというのは意外であった。やはり年月が何でも影響する。それも自分の歴史だった。本をそれなりに集め読んでいたからである。家も30年以上になったら危険だから診断してもらう必要がある。傾いた家を直す方法も会社もあった。耐震構造にするためにまだ方法あるのだろう。でもまた金がかかる。こうなると新しい家を建てた方がいいともなる。かといってあと余命いくらなのか、自分自身の寿命も計算しないといけない、日本では新しい家を建てるのは金がかかりすぎる、家を壊すのに250万から300百万かかるというのもこのくらいの大きな家だとそうなる。壊すのも大変だとなる。


この家にはもはや未練はないが新しく作った庭の方が価値がある。この庭に未練ができた。いい庭ができたのでもっとこの庭をみて過ごしたいという欲がでたのである。作家の庭作りの本をだしている人もそういうことを書いてあった。庭作りは石一つおいてもそれを毎日自分の庭で鑑賞できる、その石と一体化することである。自然の中にある石は毎日は見ていられない、旅でみたりしても一回では記憶に残らないのだ。だから庭に大きな岩を置いてそれを毎日みていたらその石と一体化する。人間は老人になってもこうした健全な欲が起きてくるもだと思った。こういう欲は悪いとはいえない、人間は老醜を残さないで適当な時期に早い時期に死すべきだということを吉田兼好などが言った。認知症になったり病気になったりするとそういうことを感じる。でももし健康なら人間はやはり長く生きていたいのが人情である。土地があったら最後に庭作りをしたい、庭は自然と日々、身近に対話できることであり第二の自然の創造になるからだ。<

br />なんとか庭作りも終わり、リホ−ムも終わった。あとは墓を新しくすれば一段落である。姉の命日もあと一カ月くらいになる。なにやかにやとこの間もあった。家族が死ぬまで死んであとと大変なことだった。あと一人またひかえているし自分のこともある。この家の始末をどうしようかとするのも年だからである。
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2009年07月16日

田舎の住宅事情からみる不況

 

田舎だと普通のアパ-トに住む人は金を持っている人だ。田舎では3万でも家賃は高い。なぜか、収入が少ない、仕事がない、田舎で裕福なのは公務員とか先生とかくらいであり田舎の貴族とされている。郵便局関係も前は特権階級の公務員だった。東京で家賃が3万だったら最低だが田舎では違う、田舎では一万以下から5千円の市営住宅がある。それもかなり多いのだ。田舎ではそういう所に入らないとやっていけいない、仕事が限られているし収入がないのだ。古い住宅も残っていて汲み取り式もあるが若い人は嫌うので水洗にしているのが多くなった。やはり若い人が入り定着しないと市町村は活気が出てこない、そして田舎では空家が多い、しかし貸されていないし売れてもいない空家が多い、また一軒家でも安く借りられる。4万で広い庭付きで二階建ての家が4万とかで借りている。20年くらい借りている。他にも500万とかで売りに出した二階建ての家がある。ビラが張ってあったからわかった。

 

つまり今住宅事情がどうなっているかというと700百万軒もの中古の家があり売れていないのである。これが現代の経済の指標ともなる。まず新築するには日本では土地が高いしまともな家を建てるとなると最低で2千万以上かかる、3千万はみないと建てられない、これは田舎でもそうだろう。土地はやはり高いからだ。するとその前に中古の家を探し買うはずである。一千万くらいなら土地付きで買おうとなる。それが売れないということは余程買う人がいない、小子高齢化も影響している。団塊の世代だったら団地ができたり住宅需要はうなぎのぼりだった。だからこそマイホ-ムの夢をかなえるために働き現実に手に入れた人が多い。でも今や中古の家がこれほど全国にあり売れないということは日本の経済状況を如実に示す指標になっているのだ。これだけの中古の家が売れないということは土地も家も価値がなくなっているのだ。田舎で仕事がないというとき建築関係の仕事をする人が多い、一軒の家が建てば相当な経済の波及効果がある。それが新しい家は建たない、区画整理して住宅地をあちらこちら造成しても家が建たないのである。

そして田舎でも街中でもシャッタ-通りのように廃屋がみかけるようになった。それも何か不況のためであり日本の経済は衰退している象徴なのかもしれない、もちろん山村はさらに衰退が大きい。新しい家が一軒建つことはやはり何かそこにはそれだけ金をもうけた人がいたということなのだ。40年前に建てた我が家は土壁だがそれも老朽化した。その当時はでかい家でありかなり妬まれた。新しい家が建つことはやはりその家が興隆したことでありそれはその家だけではない回りも興隆する、景気が良くなることだったのだ。だからそのあと次々に新しい家が建ったことでもわかる。今はそれがないから田舎はさらに経済が縮小しているのだ。野菜泥棒がいるなどと聞くとやはり格差社会も田舎でもあり貧乏な人はかなり貧乏であり生活保護すれすれの人がかなりでている。

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2009年07月06日

熊鷹の話(ここにも熊鷹がいた?)

栃窪に住んでいた人で鉄砲打ちがいて熊鷹とか雉子を剥製にして売っていた人がいたという話を聞いた。雉子などは今でも剥製にしているから珍しくない、でもこの辺に熊鷹がいたのかとなるとめずらしいだろう。今はいなくなっているだろう。熊をとる鉄砲打ちはいたしマタギの話は今も残っている。

鷹匠奉行を任命し一般人の立ち入りを禁止し,保護するなどである.そして良い鷹が捕れると将軍家に献上した.将軍家では献上された鷹を,諏訪流はじめ各流派の鷹匠が調教し,その鷹を用いて殿様が狩りをし,とれた獲物はその鷹を献上した大名に下げ渡すという慣わしがあり,そのため全国的に鷹を保護し,江戸時代末期でも,御巣鷹山などと名前の付いた保護区は全国に400箇所を数えたと言われている.http://nichiju.lin.go.jp/mag/06101/06_10.htm

鷹居、鷹入、鷹岡、鷹峰、鷹狩山、鷹来(たかぎ)、鷹島、鷹栖、鷹巣、鷹泊、鷹戸屋山、鷹取、鷹鳥屋、鷹ノ湯、鷹羽ヶ森、鷹羽町、鷹架(たかほこ)、鷹丸尾(たかまるび)と、「鷹」の付く地名が並ぶ。
 とにかく、鷹の主食は鳩だと考えれば、鷹の存在から鳩の行動圏をあぶり出す方法論もあって良い
http://www.komatan.jp/AOBATO/kasetsu24.html

熊鷹はもはや絶滅危惧種だから簡単には見れない鳥である。90才の人が語ったのだから大正時代にもさかのぼる。その時確かに熊鷹はこの辺にもいたのである。剥製にしたのだから数もそれなりにいた。狼などもいつ消えたのか、江戸時代にはいた。相馬藩にも狼を退治した侍の話が伝説として残っている。山津見神社は狼を祭っている。熊鷹は鷹狩りとして用いられたから地名化した。このサイトで鳩と関係しているというのも意外だった。よく山にゆくと羽が散らばっているのをみかける。それが山鳩の羽だったのか、鷹に食われたのか鳶に食われたのかそういうことがあった。

近くの老人は話好きである。16才の頃、桐生に機織りの工場に三年間行っていたという、桐生は江戸時代から絹織物で有名だった。京都から西陣の織物師や新しい機織り道具を取り入れ盛んになった。

一方、新田義貞が上野の国(現群馬県)生品神社で兵を上げた時、出陣の旗として桐生絹を用いたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦にも桐生絹が大量に使用されたと古事記に残されている。さらに、元和元(1615)には幕府への年貢として桐生領54ヶ村から4千8百反の絹が納税されている。
http://mustang.c-mash.co.jp/kiryuori.htm

絹織物は当時の輸出品であり外貨を稼ぐものだから当時の女性の働き場は絹織物の工場だった。養蚕は昔からの産業だったから江戸時代からの継続があったのだ。絹織物の工場は各地にあり女工は各地から移動していた。その人は竿竹売りから誘われて行ったという、丸森にも女工が死んだ墓があったり絹織物の女工の話は無数にある。母も一〇年間原町の機織り工場で働いた。たくわんと味噌汁だけの粗末な食で働いた。よく病気にならなかったと言っているから病気になった人もいた。

この老人は話好きだから何でも馬車に柴を積んで町に売りにきたというから燃料として柴が売られていた。大原女は頭に柴をのせて売っていた。秀吉は羽柴秀吉であり柴売りだったというのが真説だという人もいる。九〇才くらいの老人の話には歴史の生き証人だからいろいろ興味深いものを探れる場合がある。ただ話するにも昔の話だけではないいろいろ飛び火してわけわからなくなるときがある。老人同士は話しやすくても若くなると話しにくいとか聞き取るのがむずかしい、昔を話ししてくださいとかあらたまっても話は聞けない、話はいろんなついでに話がでてくるからだ。郷土史の基本はとにかく老人の話を聞くことからはじまっているのだ。特に八〇才以上の老人は歴史の生き証人だから興味深いものとなるのだ。郷土史の観点から老人の話は貴重だとなる。それにしてもまた一人病院で老人が死んだ。小池の炭鉱で働いた人で同じ病室にいた人なので何度かその話を聞いたのでええ、あの人が死んだのかと思った。廊下を歩いたりしていたから死ぬとは思わなかった。老人は意外ともろく死ぬことがある。そしたら二度と話を聞くことができなくなる。すると過去のことがわからなくなってしまう。
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2009年06月28日

植木職人、庭師のプロとしての条件


植木職人、庭師のプロとしての条件
http://www.asahi-net.or.jp/~if7m-yjm/40prdvu.htm


植木職人とか庭師のプロになるのは条件が厳しい、これだけの条件を充たす人はそんなにいないだろう。私の庭をリホ-ムした人はこの条件を充たしている。体が大きいし体力が充実している。暇なし動いていて疲れる様子も見えない、この仕事はヤハな体ではできないハ-ドな仕事である。暑さ寒さの中で一日暇なしで動いている。石を扱ったりすると重労働でもある。基本的に普通の人よりかなり体力がある人でないとなれない、また高い所を怖がる人はできない、鳶職のような運動能力も必要になる。最初の基本的条件からして厳しい。これは体力だけではない、庭師は自然に実地に詳しくならないとできない、木の性質から石の性質から自然の素材を利用するのだから自然を単に知識としてではなく実際に利用するものとして知らねばならない、だから自然を応用する術を身につけねばならない、飯館で御影石がとれて御影石のテ-ブルある所知っていますと言ったら御影石は日に当たると暑くなるからテ-ブル石には向いていないという、それから庭に大きな石を置きたいと言ったら津島石はどうですかという、津島という浪江の津島か、そんな石あるのかとはじめて知った。確かに津島黒石を加工しているペ-ジがあった。津島にも名産になるものがあった。庭師は自然を利用するから地元の産物も利用することになるのだ。

庭師はまた注文する人に答えねばならないからコミニケ-ション力が必要になる。普通職人はあまり話をしない、ただ黙々と仕事にうちこむ人が多い、その仕事は注文者の要望に答えるものではなく棟梁が中心になって指揮されてやるから本人は注文者とはあまり関係しない、でも庭師は全部一人で見積もりから施行設計までこなさねばならない、注文者との密なコミニケ-ションが必要になっているのだ。また営業力が必要であるから相手とのコミニケ-ションがないと仕事を拡大できない、私の家に来た人は気さくに話ができる、いろいろと仕事しながらこれはこうだとかこうすればいいとかどういうことができるかいろいろ提案してくれるしそれができるからこんなにいろんなことができるのかと驚く、そもそも庭師はかなり創造的な仕事であることを知った。なぜなら庭は家によって全部違っている。場所も立地もいろんな面でそれぞれ違っている。建て売りのように建てることができないのだ。だからどこでもその家に合わせた庭作りが要求されること自体、創造的なものとなるのだ。だから臨機応変な対処が要求される。だから万能的な人間の力を発揮させるのが庭師である。

つまりこれだけのものを会得するのは容易ではない、技術的な側面、ハ-ドな側面とソフトな側面の能力も必要とされる。ソフトな側面とは美観のセンスも必要である。自分には美観のセンスはあってもハ-ドな技術的な面はほとんどわからない、しかし建築の基本はハ-ドな側面である。下地は注目されていないが建築で一番大事なのは下地作りだと書いてあった。ところが下地は見えないしそこが重要だと一般の人は認識できないのである。庭作りがこのように創造的な作業が多いというとき注文する人も大事になる。庭師は創造性発揮させる仕事をしてもらう、そのためには庭師に余裕をもって仕事をさせることも要求される。何回も互いに打ち合わせして納得いくものを作らせる人も作る人も共同することが必要なのだ。小さな庭作りでもそういう関係が要求される。注文する人との共同作業になるのが庭作りなのである。庭師は芸術家だということがわかった。そもそもartが技術を意味していたからまず建築でも技術の上にソフトとの芸術がありえる。
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2009年06月27日

土壁の話


壁塗りの専門の人が今日は来た。やはり何でも自分だけではできない、その壁塗りの人は相当年季が入っていた。土壁作りの時代からやっていた。素足で踏んで粘土にするとき刻んだ藁などを入れので痛かったとか言っていた。私の家も土壁だったから古い、でもその時土壁を作る職人はいなくなってしまうときだった。わずかに一人くらい残っていてやっとやってもらった。土壁は地震に強いとか暖房にいいとかいろいろ効能が見直されている。昔からのものが今は逆に見直されている。今の見栄えがいいくても耐久性がないのだ。これは現代の文化にも通じている。建築で大事なのが下地でありここがしっかりしていればそこにさらに上塗りしてもしっかりしたものができる。耐久性あるものとなる。人間もそうである、下地がしっかりしていれば耐久性があり芯がある人間となる。見栄えばかり良くても人間としてできあがらない、戦前の人間は下地がしっかりしているから耐久性があり芯がある。今の人間はあらゆる面で教育でもそうだし下地がしっかり作られていないからもろいのである。上っ面だけがいい人間になってしまう。

現代とは昔からあったものの破壊だった。昔からあったものを活かす再創造ならいいが破壊の面も大きかった。それは社会全般にそうだったのであり建築にも影響して社会全体、人間全般に影響するのだ。今それらが見直されるのも時代である。土壁や土蔵などは質実な耐久性のある建築である。長持ちして頑丈である。昔は金持ちは職人に作らせるとき金に余裕があったからゆっくりと仕事に取り組ませたからいいものができたと言っていたが確かにそうである。いいものを作るのには何でも即製にはできない、人間だってそうである。商業主義がおおっていしまった現代では即製的に売り出され簡単に捨てられる。そういうところからいいものはできないのだ。ヨ-ロッパの石作りの大聖堂が何百年も費やして建てていることでもわかる。どんな分野でも短い時間ではいいものはできない、次代に残るものはできないのだ。

土壁に秋の夕日や塩の道

貧しきも農家の土蔵に柿なりぬ

土壁というと土壁の土蔵がある。阿武隈高原の白髭村辺りに土壁の土蔵が残り塩の道は二本松までつづいていた。

dozoutowa11.jpg


この写真は白髭ではなき、東和町の馬洗川にそった村だった。そこに隠されたように村があった。いかにもこれは土壁の土蔵である


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2009年06月19日

方言-「オレの人生ばかくせえ」


「オレの人生ばかくせえ」


こんなこと90の老人が言ったけどこれが「私の人生馬鹿らしい」と言ったら感覚的にかなり違ってくる。「オレの人生ばかくせえ」と言った方が何か実感がこもっている。 これも90才だから余計にそうなる。でもこの一語に人生を語っているような実感がこもっていた。方言は老人が使うと向いているし方言がにあう、そして方言を使うのは老人なのだ。ただ団塊の世代などは標準語を基準にして育ったから親の世代のように方言をそんなに使わない、だから方言はすたれるてゆく。「オレの人生ばかくせえ」というとき大なり小なりみんなそんなふうになる、空の空なりになる。80以上の老人とつきあうとかなりどこでも方言が実感こもったものとしてまだ話されている。だから病院とか施設では方言がまだ生きている。老人とはいつの時代でも文化を保存する役目をになってきた。誰でも語り部になるのが老人である。老人は今いろいろと嫌われるが方言で語られるものを聞くとその地域のことや人生もより実感こもったものとして伝えられることは確かなのである。方言というのは実際の生活で生きているとき効果を発する。それはどんな世界でもそうである。言葉も生き物であり現実に生きていなければ死んでゆく、言葉も時代によって変わる、ただ方言は全部はなくならないだろう。人生を語るとき方言で語れば一様でなく地域的により実感のこもったものとなるからだ。ただバカクセエは他でも使っている感じがする。インタ-ネットで検索すると結構でてきているからだ。


んだ(そうだ)。んでも(そうでも)。んだげっと(そうだけれど)。んでねくて(そうではなくて)。んだごって(そうならば)。んだっちゃ(そうでしょ)。んだいが(そうだろうか)。

んだ・・・んだっちゃの仙台弁になった。んだというのは東北弁の共通語でありその変化が東北各地にある。

大間の親戚も「わい」って言ってる
下北弁は、津軽よりも南部弁に近く
北海道の函館とか、あの辺と近い気がします
ちょっとやわらかめ
関西弁でいうと、大阪が津軽で下北は京都っぽいかなと
南部はどうなのかな…

下北弁 津軽弁  南部弁 とおおざっぱに分かれる

山形弁-仙台弁-福島弁(相馬弁)は違いがそれなりにわかる、なまりでわかる。亘理は地域的には相馬に近いかもしれない、ここに妙見神社が集中的にあるから相馬の影響が強いかもしれない、阿武隈川を境にしているから岩沼や名取などとは違っているかもしれない、やはり昔ならどうしても川は障壁となるからだ。昔ならなまりの違った場所にゆくからよそものはしゃべればすぐわかった。外国に行くとにていたのである。だからなまりは国の手形だとなっていた。

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2009年06月18日

地方(田舎)の仕事(魚売り、建築業者、 農業)


地方(田舎)の仕事(魚売り、建築業者、 農業)

大工さんなどの事情も変わったらしい、今までだと地元の大工さんだと棟梁との話し合いで家を建てていたのだが今はそうした棟梁との話し合いの建て方を嫌い一括して大きな建築会社に頼む。今風に作られた方が快適という人が若い人には多い。共稼ぎであり大工さんとの話し合いやら接待がめんどうだとなる。それからロ-ンの仕組みがないので家を建てるとなると相当なまとまった金が必要だから今は不景気で建てる人が少ない、一時期は建築ブ-ムだったが地元では仕事が相当減っている。そして田舎で多いのが建築関係とか道路関係とかの仕事なのである。魚売りに来ている人を手伝って人もリホ-ム専門の建築関係だった。仕事がないので手伝っていたのだ。本来はリホ-ムの仕事が本業だった。一人で今やっているが大工関係だけではない、他にいろいろできるのでリホ-ムやっていた。この人も一時期は良かったと言っていた。田舎では建築関係が多いログハウス作っていた人も知っている。これも一時期ブ-ムであったが今はそのブ-ムも去ったらしい、その人もログハウスの仕事をやめた。掃除の手伝いに来てくれる女性ももともとは建築関係の仕事をしていた。足場にのぼり命綱して仕事していたから大変だ。ひょいひょい建築資材を上に投げてとってもらうとか言っていたからこの仕事は危険な面がかなりある。でも高いところが怖くないという、体も小さいががっしりしているからできたのだろう。息子も建築関係の仕事だった。

これでわかることは田舎の仕事は土建業、道路作りとか建築業者が多い、だから身近に接している人が建築業者だという人が多いのである。それから歯医者なども多い、田舎で公共事業が必要なのは土建業者や建築業者が多いためなことがこれでもわかる。今この人たちが仕事を失っていることは田舎では地方の経済はかなり苦しい立場にたたされているだろう。相馬市のアルプス電気が撤退したというのも苦しいだろう。これはこの辺ではかなり古いからやめるとは思わなかった。地方はどこも経済的にはかなり苦しい、田舎の仕事が就職先が介護関係になっているの時代なのだろう。何か立派な建物が建つと老人の施設だったとか山の中でも立派な建物が建つのは今は老人施設である。これも土木建築関係の仕事だから関係しているのだ。ここにもかなり無駄があるらしい、建物だけを建てても中味が充実していてい、人材が配置されないということがある。介護に関してはまだノウハウが十分に作れていない、手伝いの女性が野菜作りの場で働いているというのも田舎ではあとは農業など多い、車で魚売り、手伝っているのはリホ-ムやガ-デニングなどの庭作りもする男性、手伝いの女性は農業で働いているというのも田舎を象徴していたのである。
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2009年06月16日

イワヒバ(岩檜葉)



庭に松一本があり剪定してもらった。それから庭もみてもらって整地したり肥料をやったりした。肥料もあまり多くやるとだめだとかめんどうである。私の庭は土地が悪い、堅くて石ころが多いから木に栄養がまわらず虫がついて枯れた。やはり栄養がないと植物も枯れる。栄養をやりすぎてもまずい。

イワヒバ(岩檜葉)成長しませんから肥料もほとんど必要ありません・・・自生する場所は肥料など何も無いような岩肌なのです

イワヒバは岩に根をはる苔類だから岩がついていた。今日は専門家からいろいろ庭いじりして教えられた。やはり何でも専門の人は詳しいものだと思った。狭い庭だけど結構管理がむずかしい。でも肥料などやらないと花も咲かなくなる。魚売る女性についてきた人だったが親戚でガ-デニングとか塗装などしているのが本来の職業だった。それでついでに庭をみてもらったのだ。庭には豆も植えたがそれが実って結構食べられた。狭い土地でも野菜栽培できるものだと思った。プランタ-の方がいいというのはやはり土地の管理がむずかしいからだ。プランタ-に植えると管理しやすいからである。肥料もやりやすいとか便利なのである。でもプランタ-だと人工的なものに見える、庭に咲いている方がより自然だから花は庭の方がいい、花を見るのにも花だけをみることはできない、花を咲かせる土壌の手入れをする必要があった。自然に咲く花は土壌のことなど気にせずに花だけみていれば良かった。庭の花はそうはいかなかったのだ。
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南相馬市鹿島区の踏み切りで交通事故

 

南相馬市鹿島区の踏み切りで交通事故

 

南相馬市から相馬市へ向かう鹿島区の鹿島駅の手前で事故が起きて踏み切りが交通禁止になった。ここは踏み切りに入りづらいところである。直進してくる場合はいいにしろ90度曲がる道からくると入りにくい不便なところだった。だからここで事故か起きても不思議でなかった。
事故といっても大きな事故ではない踏み切りの脇のヘンスにあたった。そこがへこんでいた。
急に90度曲がる道だからそうなる。それで真野川の方へゆくところに鉄道の下を通る道を作る予定になっていて鉄道の手前まで道ができているが鉄道の下を通るトンネルはできていない、予算が出ないのだろう。ここにトンネルが必要なことは確かである。町の区画整理のついでにその道を作ったが鉄道の下を通るトンネルは作ることができなかった。小学校にゆく横断歩道よりこっちの道が必要だったように思える。立派な横断歩道を小学生は利用してもあとはほとんど利用していない、そしてこの横断歩道は六号線の下と鉄道の上の歩道橋を結ぶトンネルが二つあり結構の大工事だったのだ。こんな大工事必要なものかと毎日通るので見ていたのである。

caraccedentt12.JPG

 

 

近くの地下歩道は必要だったのか?
http://musubu.sblo.jp/article/17471729.html

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2009年06月13日

仙台弁-だっちゃ

んだ
んだべ
んだべっちゃ
んだべっちゃや



山形沿岸部でも使うよ。今日は暇だっちゃ

だっちゃって、そんなにつかわなべした。ばさまの家は亘理と相馬だども、俺のうちさそったらことはあんまイワネ

http://ninjax.dreamhosters.com/newsplus/
news19_newsplus/1095/1095721257.html

名取辺りだと仙台弁なんだろうな、だっちゃ、だっちゃをよく聞く、その人は相馬から名取の方に嫁に行った。また相馬に帰ってきた。でも言葉は仙台弁になっていた。相馬ではんだは使ってもそのあとにんだべっちゃにはならねえよ、んだべっちゃは相馬弁と仙台弁の合成なのかな

山形の沿岸部というと日本海の方となると遠いけど同じ方言使っている?亘理は阿武隈川を越えたところだから方言も変わるはず、川が障害になっているから、方言も郷土史研究にかかせないもんだろう、だからどこでも研究している、相馬でもそうしたプログあったな、でも最近方言を使わないから方言自体消えてしまうのか心配だよ、だっちゃ、だっちゃというのが何かやはり方言の面白さだな、なまりは国の手形というけど昔なら方言でどこから来たかわかったろう。隣の村でも微妙に違っていた。それだけ人間が閉鎖して暮らしているとそうなる、今でも日本の古語を保存しているのは沖縄と青森なんかなんだよ、最果ての地に古語が方言として残っているんだよ、これは面白い現象だな・・・・・
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2009年06月08日

福島一区は地理的一体感が持てない



●相馬は宮城県-仙台と一体感を持ちやすい

福島県 一体感 浜通り 会津- 今日こんなキ-ワ-ドできていた人がいた。今はすでに選挙戦たけなわになっているのか、六号線で車に向かって呼びかけている候補所がいた。通りすぎてゆくから演説など聞いていないだろう。あの人が石原・・・なのかと実際に実物を見た。福島一区は地域はえびつなのだ。地理的一体感がもてない、前のように双葉、相馬地域なら浜通りとして一体感をもちやすい、福島市となると阿武隈山脈が壁のようにはだかり一体感がもちにくい、交通にしても不便である。車がないと岩沼回りで遠くなる。会津になるとさらに一体感がもちにくい、会津は別な一国である。歴史的地理的にもそうである。だから会津は山国ではその地理も地勢も山がひしめいていてわかりにくいのだ。日本はそもそも山が多いから地理的一体感をもちにくい、山が多いから峠が多い、峠を越えた向こうは別世界になりやすいのだ。だから地理的一体感をもっているのは相馬では宮城県の方であった。現実仙台に通勤している人も多いし原町機関区が折返点で仙台への電車が一時間間隔で連絡している。仙台から仙石線で石巻までは日帰り圏内である。仙山線はちょっと不便になる。山形へはやはり途中山が障壁となる。春でも山を越えると雪の山が見える。そこで違った世界に行く感じになる。一方仙石線が松島や牡鹿半島と海へ向かうのだ。多島海、半島、入江の海岸沿いになる。宮城県だけ海に出る内海、島がある。

●石巻-平泉は北上川を通じて一体

人間のアイデイィンティティはまずその土地に根ざしている。だから文化はculture-耕すになった。人間は自分の住んでいる土地から世界観を作り出しているのだ。南相馬でも相馬市でも鹿島区でもどうしても自分の住んでいる場所から発想する、外の世界をみるようになる。そこから人の発想は違ってくる。住んでいる場所で感覚的に違ったものとなるのだ。磐城まで電車で行った時もそうだった。磐城から相馬の方を望むと仙台はかなり遠いなとなる。でも相馬からだとそうでもないのだ。この距離の感覚は昔だったらさらに大きかったのだ。今でも電車できて磐城からだと仙台は遠いとなる、仙台との地理的一体感はもちにくい、むしろ茨城県と地理的一体感をもちやすいのだ。地理的一体感は交通の便にも左右される。川が船で道のような役割を果たしていたら石巻から北上川をさかのぼって平泉はかなり近いとなる。だから石巻から平泉に東海地方の瀬戸物が運ばれて柳御所跡から発掘された。さらに江戸時代になると盛岡まで通じて米が運ばれた本当の実用の交通路となった。北上川を通じて地理的一体感を盛岡までもてたのである。石巻から平泉は相当近い、石巻と平泉は北上川を通じて一体なのである。

磐城へ-春の旅
http://musubu2.sblo.jp/article/29062016.html

●江戸時代の藩は地理的一体感が強い

一体感、アイデイィンティティを感じるのは

●地理的一体感
●歴史的一体感


がある。江戸時代まではこの二つの一体感、アイデイィンティティが形成された。これは自然的一体感でもあり何か不自然なことはない、相馬藩は地理的一体感を自然に形成された。飯館は確かに地理的には山で隔絶されているが歴史的一体感は形成されたから相馬藩内にあった。地理的に隔絶されたといっても福島市のような遠くではない地理的延長として歴史的に相馬藩内としてアイデイィンティティが形成されたのだ。江戸時代までは人間は自然村を形成するように国作りが行われた。だからどこに帰属するとかアイデイィンティティを求めるかなど議論にもならない、極自然に帰属する場所は決められていたのだ。今はそれがないからいろいろアイデイィンティティを求めるのである。人間は帰属する場所がないとき、不安になる。江戸時代まで人々の顔が和やかで幸せそうな顔をしていたというのは江戸時代というアイデイィンティティとかに悩まない世界に住んでいたからである。貧乏でも精神的には安定していたのである。

いづれにしろ福島一区は地理的一体感えびつであるから一体感がもてない、でも今アザミが咲いて選挙戦となり演説をしている。地域に根付いて活動するのが議員である。でも福島市から阿武隈高原を越えて相馬にくると地理的違和感を覚えるだろう。そして浜通り地域相馬からは議員が出ない、人口が少ないから相馬からは出ない、これも何か小選挙区になってえびつになったのである。

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2009年06月01日

郷土史研究に必要なもの(町誌)


松島の方に旅して鳴瀬町に興味をもって帰りに鳴瀬町誌を仙台の古本屋で買った。こういう本は高い。でも地域的な情報はなかなかえにくい、図書館にはあるが図書館は調べるのに時間がかかる、その時間がなくなった。何かを調べて書くには明らかに自分の家にそれなりの資料がないと書けない、図書館だとそこで何かを書くというわけにはいかない、何かを書いて提供するには自分の家が図書館になっていないと書けないのである。何度も読んだり合わせたり編集したりするから図書館ではできにくいのだ。知的作業にはどうしても自分の家でやるのが効率的なのだ。インタ-ネットはその点便利なのだが全国レベルだと郷土史関係は相当な情報を提供している。でも郷土史となると仙台辺りでも宮城県でも一地域となるとわかりにくい、今相馬藩内だけでの郷土史はタネが尽きてしまったような気がする。それで宮城県に広げれば書くこと増えてくるかもしれない、そこで発見したのが月鑑という始めて知った武将の物語だった。
この人は相馬長門守に娘を嫁がせているから関係があった。ただ伊達政宗にあえなく滅ぼされて忘れられてしまった人だった。こういう人は歴史の中でいくらでもいる。伊達政宗は華々しく歴史に残っているがこのように忘れられた人も多くいたのだ。

郷土史研究には必ず町誌を読む必要かある。これが手元にないとできない、しょっちゅう辞書のようにして利用するようになるからだ。鳴瀬町誌は3800円した。宮城県を詳しく知ろうとしたら他にも町誌を買ってそろえる必要がある。確かに図書館にあってもいちいちそこで調べて何かを書くとなると図書館に一日いる必要があるしあとでまた参考にしたりするから手間がかかりすぎるのだ。そうして前は暇だったからみちのくの真野の草原について調べることができた。今はできない、相馬関係では野馬追いの旗帳が網羅してある相馬市史を手元におく必要がある。ここには旗の絵がでているから便利で利用した。これも手元におかないとだめなのだ。しょっちゅう利用するようになるからだ。いちいち図書館に行っていたらめんどうになるのだ。インタ-ネットは便利でも町誌を全部のせていない、郷土史は狭い範囲だから細部だから詳しく全部は出ていないのだ。ともかく相馬関係ではずいぶん書いたけど宮城県も関係深いし交通の便がいいから宮城県には日帰り圏内だから興味がでてくる。人間はその場に行ければ興味がでる。離れると興味はうすれてゆくのだ。外国は異質だから何回も行けないから忘れてしまう。仙台の小鶴新田に興味をもったのも現場に立つことができたからである。会津も魅力あるのだがここも日帰り圏内だったらもっと詳しく知りたいとなるのだ。会津を知るには山を登る必要があるのだ。会津と地理的一体感をもちにくい、宮城県は地理的に一体である。
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2009年04月12日

春の日、発見された近道、穴場 -昔の道について(南相馬市原町区)

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春の日、発見された近道、穴場
昔の道について(南相馬市原町区)


自分の住んでいる近辺だとほとんどの所はこの年だと行っている。でも意外とそうでもない、やはり近くでも発見されていない場所はある、穴場みたいな所は以前としてある。その穴場は原町に市立病院の一番上の食堂から海が見えると書いたけど相馬では海が見えるほどの高い建物がないからである。海が近くても海が見えないとしたら海を実感しえないのだ。新しい発見はまた新しい道ができると発見しやすいし新しい名所もできやすい、新しい道を通じて行ける場所になるからだ。田舎は過剰なほど道路を作っていくから自然破壊にもなっているが新しい道から新たに見えてくるものもある。六号線は今は主要な道であり国道である。だから六号線を利用することが一番多い、でも六号線から脇に入る道は見逃される。今回たまたま図の赤い線を通った。ここも自転車で行けた。でも普通は歩いて行く道である。新しい住宅地があった。でもここはもともと田んぼや畑のあった場所である。大きな溜め池があり鶯なき桜が咲きなんとものどかな自然のあるなごむ場所なことを発見した。一つの隠されたなごみの場所である。それで俳句ができた。

知らざりき溜め池二つ春田かな

隠されし溜め池大きく春の鴨


日本では大小の溜め池が無数にある。ここの一つの溜め池は大きい、新住宅地につばめ来て飛び溜め池にはのどかに鶯が朝鳴いている。この道を行くと太田の方にでてきた。ここは磐城太田の駅に行く近道だった。私は磐城太田の方から津島の方に自転車でよく行くがここで地図の青線をいつも行くがこれだと遠いのである。自転車にとってこれだけの回り道は遠くなるのだ。これは実感である。それで昔の道を考えるとどうしても最短距離に道を作っていた。遠回りすると楽だと今だと思えるのだが昔は歩く道だからそうでもない、多少のアップダウンや険しい道でも歩くとなると最短距離の方がいいのだ。歩くと時間がかかるから極力最短距離で行くようになる。車の思考とは相当違っている。自転車だとここから5キロで温泉があるとあっても行きにくい、往復10キロになりかなりの負担になり目的地を目指すとき時間がかかりすぎるのだ。

例えばなぜ陸前浜街道で江垂(エタリ)からあの急な坂を上り塩崎に出るのか今ならちょっと回り道してこの急な坂をさけて六号線の方から塩の崎に出ればいいらうな気がする。一石坂(いちごくさか)というようにこの坂は昔、力持ちの女性が一石の米を背負って上った道だと言い伝えがあるように本当にここは急なのである。今なら避けたい道である。でもこの道が街道の道になっているのは最短距離を行くからこの道を行ったのである。

昔の道は最短距離で通じるように道ができています。ですから、どんな急傾斜の地形でも直線の道だったりします。それは徒歩ではそのほうがよいからで、道によっては、人はともかく馬は無理という道もあります。例えば、先の熊谷通りの道がそうで、ちょうど神社の参道に男坂と女坂があるように、徒歩は釜伏峠越え、荷駄馬は荒川沿いの道というように分かれます。
http://blogs.yahoo.co.jp/futamision0801/2210374.html

馬でも行きにくい道があった。登山道など馬で行くことはできない、尾根を行くのは歩く道だから行けた。尾根道はだから古いとなる。男坂とか女坂とあるのも男の行くような険しい坂と女の行くなだらかな坂となる。それぞれの道が別れることになる。女性は男坂を行くたくないとなる。これは獣道とも類似していた。人間も獣道を通じて鹿や熊狩りをしていたからだ。だから昔の歩く道は車社会になったらほとんど廃棄され無用のものとなった。栃窪の殿様道というのも急な道だけど歩くので最短距離を選んだ。鎌倉道は古い道だがこれも最短距離を選んだのは歩いて行く道だったからである。ロ-マの道も土木技術で最短距離を結んだが当時も歩く道として使われたから最短距離を選んだ。車だったら多少の遠回りはほとんど問題外である。つまり歩くことから起きてくる思考が車社会になり全くイメ-ジできなくなったのが現代なのである。それは歩く旅についてもそうであり昔が歩く旅がイメ-ジできない、人間が歩いて生活していたこともイメ-ジできないということがまだ良く認識されていないのである。それほど車社会の影響は大きかったのである。人間は日本足で歩くことから人間になったというときまさに歩くことが人間生活の基本にあった。それが自動車社会になり歩くことがイメ-ジできなくなったことは人類史上ない、それほどの変化があったことを認識されていないのである。

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2009年03月26日

兎(うさぎ)の話



都会の狭いアパ-トで母子家庭の小学三年生がうさぎを飼っている話を聞いた。兎小屋と言われる日本のアパ-トで兎を飼っているのも奇妙である。その兎の話から戦前、兎を百匹飼っていた話を母から聞いた。兎は皮は防寒具として肉は食料として食われたから売れた。フランスでは兎肉の料理があるからそれなりに兎は食料とされていたのだ。ノウサギは今でも結構見かける、町のすぐ近くの田んぼの道を横切ったノウサギには驚いた。兎とか犬とかで猫でもあまりペットととして飼うということはなかっただろう。犬だって猟犬に良く使われていたし番犬であり猫もネズミをとるとか実用的なものとして飼われていた。韓国では犬さえ食料として飼っているからそういうことさえあったのだ。ただ猫可愛がりにして介護して墓まで建てる、ペットの霊園まであるのは現代だからこそだろう。兎をテ-マにしても過去と現在がある。いづれにしろ百匹もの兎を飼うとなるとその食料を与えるだけでも大仕事になる。子供のころ兎の草を食わせることが仕事だったという人がプログに書いている。
http://www.jupiter.sannet.ne.jp/kenzryo2/kiroku22.html

大飢饉の時に、みずからの身を焚き火に躍らせて 焼き肉料理をつくり、尊敬する仙人を飢えから救おうとした ウサギの話を絵本で読まれたことがあるでしょう。この捨身したウサギの物語はもともと「兎本生シャシャ・ジャータカ」という仏教説話です。これは 色々なお経のなかに入っている人気の本生話(前世の物語)です
http://www.indranet.jp/seppou/seppou99_01_10.htm

ここでいろいろな布施あ説いているが面白い、インタ-ネットではキ-ワ-ドから今までにない知識を得ることができる。その知識を編集すると新たな創造になっているのだ。ここではインドで兎が実際は良く焼かれて食われていたのである。北朝鮮では飢饉のために兎を飼うことを奨励したりと確かに兎は草だけで生きるとすると飢饉のための備えとして良かったかもしれない、日本でなぜあんなに大規模な飢饉があり防げなかったのか過去の大きな問題だった。何か防ぐ方法はあった気がする、何度も大飢饉が起きていたから打つ手がなかったというのもわからない、これはただ今から過去をみているから言えるのであり当時は手段が見いだせない、お手上げだった。ある時代は誰も越えられない、江戸時代の限界はあった。明治になってはじめて江戸時代の制限が克服されたのである。
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2009年01月13日

南相馬市鹿島区のダイユ-付近の十字路で交通事故発生

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ここは細い道だしダイユ-に買い物に行くからいつも通っているところだった。ここはそれほどスピ-ド出す所ではない、ただおそらく横から来たのが見えなかったのか、それとも正面衝突したのか、やはり横から来たのと衝突した。あんなに飛ばされるのだから相当な衝撃である。あまりケガがなかったもようだ。話していたからわかった。それでも車の衝突は激しいことがわかる。あんなに飛ばされるのだから何カ月前にも南右田で事故があり一人死んでいる。すでに三人死んでいる。どういうわけか六号線の東側で三人死んでいる事故が起きているのだ。事故は交差路で十字路で起きやすい、一本道では起こりにくい、交差路で衝突する事故が多いようである。
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2008年12月06日

死んだ姉の一つの戦争悲話(郷土史の基本は家族の歴史)

死んだ姉の一つの戦争悲話(郷土史の基本は家族の歴史)

郷土史は別に学問などなくてもそれぞれ一人一人の人生が郷土史なのである。だいたい町で発行している市町村史はむずかしすぎる。資料としては必要でもまず江戸時代の文そのままだから読むこと自体読めない、わかりやく翻訳したものがないと読めないのだ。だから誰か詳しい人に講義してもらわないとできないだろう。こういうことは学生時代やっておけば良かった。あまりにも学生時代は無駄に費やして終わった。勉強もほとんどしていないのだ。学問は積み重ねだから少しつづでも理解しておかないとあとで理解するのにもできなくなる。江戸時代の資料を読めないことは郷土史の基本的なことをわからないともなるから困る。でも郷土史の範囲は広いのである。別に学問的対象としてだけ郷土史があるわけではないのだ。郷土史の一番身近なのは家族の歴史なのである。祖父母や父母から聞いた話などが一番身近なのである。
戦争のことでも教科書や歴史書として読むよりじかに戦争を体験した人から聞くの一番身近なのである。ただ戦争の真実はまだあからさまに語られていない、志願兵のことで本当に銃剣で突き刺し殺した人の話を聞いた時は驚いたようにそういうことはまだあからさまに語られていないのだ。

姉は最後まで戦争のことを語っていた。シンガポ-ルに従軍看護婦として4年間もいたからそれも青春の真っ只中であり忘れることができないのだ。だから戦友とは認知症になる前までやりとりがあった。戦争の悲しい話など山ほどあるがやはり何度もじかに聞いた話は心に残るしその話は家族として身近なので余計そうなるのだ。姉とは母は別だったが赤紙がきて出征して母と別れた。母は泣いて見送っていたという、姉は四年間シンガポ-ルにいて船で帰ってきた。その時母が死んだことは知らなかった。つまり母に会えると思い長い船旅をしてきたのだ。そして帰ってみたら母は死んでいた。年も50前だった。船の中では母の姿を夢にみていたというからやっと母に会えると思い日本へ帰ってきたのである。なんでも墓の中を見たら母はまだ形が残っていたというから死んでからそんなにたっていなかったのだろう。顔も見たのかもしれない、そのころまだ土葬だったのだ。戦前に死んだからである。戦争中はどれだけの別離があったかそれも若くして死別した人は無数にある。バタバタと戦場では人が死ぬのだから当然であり死に対して無感覚にさえなっていたかもしれない、これはそうした無数にあった別離の話だが家族から聞くのはまた違った思いが残るのだ。

姉は認知症になり同じことを百回、千回も話して嫌になったが今になると貴重なものとなっている。人間は誰でもその一生で伝えたいものが残るのだ。どんな平凡な人でも一生でもやはり一人の死にはそれなりの重みがあるのだ。つまり誰でも郷土史は身近なのである。郷土史は学問がなくても一人一人に身近なものである。家族から郷土史がはじまるからである。家族の歴史が郷土史の基本だからだ。家系に興味がある人は多いことでもわかる。誰でも自分のル-ツを知りたいのである。姉の一生も今や歴史であり「小説は事実より奇なり」の人生でありこんな人生もあるのかあまりにも不思議な人生だった。それが自分の運命とも深くかかわっていたのでより不思議に思ってしまうのだ。一冊の小説として書けるものだが今はその一片をここに書いただけである。こうした物語は狭い郷土でも無数に埋もれているが語られていないからわからないのだ。全国レベルでは今やインタ-ネットでも無数に語られている。だがまだ相馬内では語られていない、戦争は大きな事件だから語られる度合いが大きい、でもまだ戦争の真実は明らかではない、悲惨な真実も明らかにされているが私が志願兵のことで実際に人を殺したことなど簡単に語られないからである。余りにも酷いこと悲惨なことは目をそむけたくなり語られないのである。そういう真実がわかれば戦争など賛美する人はいないだろう。信じられないほど無益な血が流されたのが戦争だった。戦争も長生きの時代、まだ経験した人が生きているから語られる。これが死んだとき戦争の真実は忘れられてゆく、すると戦争の余りにも悲惨なことは忘れられ美化される危険がでてくるのだ。今でもその傾向はあるから問題なのである。

四年経て戦争より帰る姉悲し慕いし母は墓にうもると

その母の眠れる墓に今はしも我が奥津城や姉も入りぬ

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2008年11月19日

相馬焼のキ-ワ-ドから小話一つ

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相馬焼のキ-ワ-ドから小話一つ

津田君が三十匁の出殻(でがら)を浪々(なみなみ)この安茶碗についでくれた時余は何となく厭(いや)な心持がして飲む気がしなくなった。茶碗の底を見ると狩野法眼(かのうほうげん)元信流(もとのぶりゅう)の馬が勢よく跳(は)ねている。安いに似合わず活溌(かっぱつ)な馬だと感心はしたが、馬に感心したからと云って飲みたくない茶を飲む義理もあるまいと思って茶碗は手に取らなかった。
「さあ飲みたまえ」と津田君が促(うな)がす。
「この馬はなかなか勢がいい。あの尻尾(しっぽ)を振って鬣(たてがみ)を乱している所は野馬(のんま)だね」と茶を飲まない代りに馬を賞(ほ)めてやった。


琴のそら音(夏目漱石)
http://novel.atpedia.jp/page.php?no=4200&p=2

狩野法眼東海道の昔の話(5) 筆捨山故事http://shimin-do.sakura.ne.jp/bungei/aichikogan/tokaido5.htm

また大徳寺で、狩野法眼元信の障壁画を拝観した時の句として、

   ほととぎす、絵に啼け、東四郎次郎
 
_________________________________________________________  
 田を荒らした画牛 山辺郡山添村中峯山
(旧山辺郡波多野村中峯山)


 昔、ひとりの旅僧が、中峯山の寺に宿り、十日あまりも何もせず、ただ、天王社(神波多神社)の壁に牛一頭だけ描いて、飄然と立ち去った。その後、村内では、稲田が毎晩何ものかに食い荒らされた。いろいろ探求して、その怪物は寺の画牛が抜け出しているものとわかった。それから、前の旅僧を求め、伊賀の上野で追いついて、牛のかたわらに松を描き添え、縄でその幹につなぎとめた形に改めてもらうと、稲の被害も、それきり止んだ。
この絵師は、狩野法眼元信であったという。村では今でも稲の用心のために、不寝番が行なわれる。また、毎年牛飼いは牛をひきいて、この天王社に参ることになっている。
http://www.7kamado.net/den_yamato/kanhata_den.html

牛や馬が農作物を食い荒らすというのは全国であったのだろう。だから絵師とその事実が組み合わせられてこうした

作者の狩野法眼(ほうげん)探雲は甘楽郡野上村(現群馬県富岡市)の生まれで、江戸に出て狩野派に学び、江戸城西の丸普請の際には障壁画の製作に従事したという。晩年は七日市藩の御用絵師を勤め、世に「上野(こうずけ)探雲」と称された。文化9年(1812)、88才の長寿を全うした。

狩野法眼(ほうげん)は伝説までなったのだから当時は相当に有名な絵師だった。絵師も渡り歩き藩主などの要望に応じて絵を描いた。相馬駒焼きに馬を描くようになったのは相馬藩に旅してきた絵師がヒントを出して描いた。内部より外部の人がそうした知恵をつけることは良くあることである。

狩野法眼(ほうげん)群馬県だとしたら福島県の相馬藩とは京、大阪よりは遠いことはない、この絵師に注目したのは漱石の小説に相馬焼のキ-ワ-ドで見つけてこの絵師のことを知ってまたインタ-ネットで調べたのである。郷土史はインタ-ネットで全国と結びつく・・・こんなことは今までできなかった。ここに新しい学問の方法が生まれたのである。インタ-ネットは利用することがむずかしい、常に編集作業が必要だからむずかしいのだ。そしてインタ-ネットは結びつけることが必要なのである。一見関係ないようなものが結びついて新たな創作を生んでいる不思議があるのだ。

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相馬焼というキ-ワ-ドでは大堀とかは必ず出てくるにしても狩野法眼はでてこない、関連しないしはじめて知った名だった。漱石の小説に狩野法眼とでていてこの人はどういう人なのだろうと検索した結果でてきたものがあり知識が広まったのだ。相馬焼と狩野法眼は結びつくはずがない、でも漱石の小説を介して結びついたのである。インタ-ネットの検索がなければ結びつかない、つまりインタ-ネットの知の世界は意外なものと結びつき関連したものとなる。これは脳の細胞とにているのかもしれない、脳もニュ-ロンで無数の神経細胞が結びつくからである。相馬焼からスポットライトをあびたのは狩野法眼になったというのは調べる方でも意外なことだった。こういうことが常にインタ-ネットでは起きている。抽象画でも化学変化のようにして抽象画を作れる、それは意図しないものが現れる、パソコンの操作で現れるのともにているのである。


福島県双葉郡浪江町大堀後畑

この地名も普通前田とか前畑は農家にとっては大事な田畑であるが後畑も普通にある。だから地名としてあっても不思議ではない、大堀は回りが田んぼと畑だから景色にもあっている。今時代的には茶の湯のような時間感覚が合わない、そこには相当な悠長な時代の文化の産物だった。今はスピ-ド時代になるからそうした悠長な時間をもてないのだ。相撲は仕切りを何回もやるからもどかしいのだか相撲は昔から江戸時代から変わらないからそうなっている。伝統行事でもあるからそうなっている。格闘技としてはすでに人気はなく伝統行事であり昔の悠長な時間感覚をとりもどすにはいいとなる。今は茶の湯よりコ-ヒ-である。冬の寒い時期にコ-ヒ-は欠かせない、相馬の道の駅で売っていたこのコ-ヒ-カップはデザインもいい、黒の線がいいのだ。こうしたものは愛用すると何かますますなじみ愛着を覚えてくる。やはり芸術品でも使わないものはすたれる。茶の湯は実際の生活に生きていないからただ茶碗を鑑賞するだけではすたれてゆく、芸術は益子焼を創設した陶工のように日常に使っているものに美を発見したようにやはり日頃使われていないと廃れるのである。芸術も生活から離れてはありえないのである。縄文時代の土器も生活から生まれたものであり芸術品としてただ鑑賞するだけのものとして作られたものでない、今の芸術品ではなく生活必需品でありそこに装飾性が加味されてあのようなエネルギッシュな作品となったのである。

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2008年11月11日

骨の話

骨の話

47日が終わり納骨もようやく終わった。墓の中を見たのは50年ぶりだったのか、父の骨が残っていたことに驚いた。骨格がはっきりしたものが残っていた。一方姉の骨はぱさぱさでありその骨はすぐに土になってしまう。焼き場で高温で焼いたものは骨は残らない、ぱさぱさになりすぐ灰になってまう。ところがなぜ父の骨が残っていたかというと父の骨は焼き場ではない、野辺送りで薪と藁を積んで焼いたのである。これは今からすると凄まじいものだった。今もインドではガンジ−の岸辺でこうして焼いて川に流すのだからその光景はすさまじいものである。無常極まりないものとなる。でも昔は土葬が一般的であり土葬だと骨を焼かないのだから残りやすい、奄美大島では洗骨の儀式が残っていたのは骨が残っていたからだ。人骨が川に流れてきたとか人骨の話があるのも骨が残っていたからだ。火葬にしても薪や藁では骨は残るのだ。

死屍(シカバネ)は骨という意味もあり姓も屍、骨だから骨が墓に残るからそうなったのかもしれない、父の骨がかなり骨らしく残っていたのは薪とか藁では十分に焼けないから原型が残っていたのだ。姉の骨は焼き場で焼いた骨はぱさぱさになってをりすぐに土になって残らない、野辺送りで焼いた五〇年すぎても骨は残っている。そこから骨が残るから姓は屍−骨(かばね)となったのかもしれない、姓の基は日本語ではカバネであり骨のことである。

考古学では人骨が残らないとその学問さえ成り立たないかもしれない、人間の形見として人骨が最後に残るものだからだ。外国ではミイラになるがミイラにする気持ちがつくづくわかった。死んでもなんとかその人の面影を残そうとしたのである。火葬で人間の形が消失したら故人を偲ぶことはできないからなんとか形を残そうとして故人の面影を残そうとしてミイラにしたのである。それは死という無常に対する人間の抵抗であり執念だった。

陸奥の真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

人間は死んでも切に思う人は面影が絶えず浮かんでくる。

亡くなった人のことが頭から離れない。
亡くなった人の姿が見える。声が聞こえる。
ひたすら涙が出てくる


この経験からしてもこの歌の謎は草原(かやはら)というのではなく地名でもなく陸奥の真野の草原に赴任した大伴家持かもしれない、そんな遠くに行ってしまったその恋しい人の面影は遠くからも見える・・というならわかりやすいのである。一度も見たこともない草原という地を思い浮かべることはむずかしいからだ。
あの世に行っても愛しているあなたの面影は忘れません、私の心に浮かんでくる、どんなに地の果てまで行こうとあなたの面影は忘れない、その面影の主は大伴家持しかいないのである。陸奥の真野の草原という地名ではないそこに赴任した家持の面影だったら今でも理解できるのだ。そうすると大伴家持は東北に来たことになるし現実秋田まで行ったということを考証している人もいる。陸奥の真野の草原の歌自体・大伴家持が赴任したとしないと成り立たない歌なのである。

父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」
http://www1.odn.ne.jp/n-unasaka/moya1.htm

これは本になったものだから内容があり詳しい、昔の葬送のことが詳しく書いてある。
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2008年09月19日

鹿島駅のホ−ムの待合室に4人の中高年泊まる


鹿島駅のホ−ムの待合室に4人の中高年泊まる

駅のホ−ムの待合室に今日は4人も寝る人がいた。めずらしいなと話してみたら何か話したくない、話したくない人は何かいわくありなのか、何か聞かれるのが嫌がっていた。二人は夫婦でありあと二人も老人だった。中高年が4人がこの駅のホ−ムの待合室に泊まるのだ。私も駅の待合室に何回も泊まったが駅のホ−ムには泊まったことがない、あそこは個々の椅子ではない、横になれるから寝れる、あそこだと警察が見回りにきてもわからない、夜は駅員もいない、そういう駅が多い、駅員がいると見回りにくるからあそこには泊まれない、今は昼間はいても夜はいない駅が多いのだ。普通は若い人が寝ているのだが中高年だった。旅は日本ではホテル代が高すぎるからあういうところで寝るほかない、おそらくあんなふうにして旅している中高年もふえているのかもしれない、老人も自由な旅をしている。山も中高年であふれているからあんなふうに自由に金のかからない鉄道の旅をしている中高年もふえてくる。老人がふえてくるからその老人もまだ体力あれば駅に寝泊まりして旅できる。でも話しかけたのにとりあわないというのはおかしい。詮索されるのが嫌なことはわかるが警察でもないし何か通報することもないのだから、何か警戒しているのかもしれない、ともかく今や若者だけが自由な旅をしてしいるのではない、老人もあんなところに泊まり自由な旅をしている。そういう時代なのかもしれない、老人といっても60くらいだとあういう旅がまだできるからだ。

今年は9月でも暑いから残暑である。寒くないから泊まっても不思議ではない、駅の待合室だとパトロ−ルの警察が来るかもしれない、それでさんざんな目にあったから駅の待合室は問題だ。ところが車だと隠れた所、川の堤防に泊まっていてそこは警察のパトロ−ルには見つからない、車は死角で隠れられるから犯罪者が逃げるのにはいいのだ。自転車なども目立つから警察に呼び止められる。しかし四人も小さな駅にそれも中高年が泊まることはやはり老人がどこにでもあふれる時代なことを示唆しているのかもしれない、あういう旅は若者の特権のようになっていたが今や外国のパックパッカ−でも中高年がいるのが普通だからである。不良老人なんかも相当にふえて来る。今や老人でもおとなしくしているのは少ないのだ。60代では今は元気だからだ。退職したら暇と自由ができるから放浪の旅に出る人も多くなるからだ。

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