2017年05月23日

菖蒲(原町の庭二つを見る)


菖蒲(原町の庭二つを見る)

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老鶯や畑耕して夕暮れぬ

新築の家次々にツツジ咲く

石の庭垣根に覗き菖蒲かな

石の蔵木一本に菖蒲かな

夏菊や六号線を原町へ

浪江まで電車の行くや夏の山

喪にあれや濃紫の菖蒲咲く


静かにも藤の花散るそのあとやひそけく我が通りゆくかな

一本の樹の影なして菖蒲咲くこの家変わらずここにありしも

新緑の森にあわどもその中に枯れし樹ゝも交じり立つかな


老鶯が鳴く、その鳴き声に合わせて畑を耕す女性がいる、その時間は自然の中にある。
原町にひさしぶりに行った、駅の方に行っていたし暑くて行けなかった
今日くらいの暑さはそれほど答えないみたいだ

原町も新築の家が次々に建っている、スーパーキクチの隣は新しい住宅街になった
鹿島も新しい住宅街ができた、原町は復興団地も10くらいできたのか?
広いからわかりにくい、今日は川子の森の道を通りパークゴルフ場を回り六号線を下り道の駅に出た
別にな何か見るべきものもないがダイユーエイトの隣の家の庭は良くできている
何か落ち着く庭の作りである。庭というのは一見しただけでは鑑賞できない
時間が必要なのである。それはなぜか?石というのは時間の中で見ないと見れないからだ
樹でもそうである。時間の中で心の中に定着できるのである。
石灯籠も塔になっていてあれも合っている
そして水が流れていないが流れるようにしていたみたいだ、堀のようになっている
この庭を垣根から覗くと菖蒲が咲いているのもうまく作られている
隠されるように咲いているからだ。

庭は家々で違っているのがいい、家はそんなに違うように見えない、ただ家は庭と違って住んでみないとわからないから評価しようがないのである。
庭は見ればわかるということがある。
原町の今回写真に撮った庭は古い家のもともと農家の庭である。
だから石の蔵がある家は古い、そこの庭は広い、藤棚があったがすでにみんな散ったのが残念だった
今年は藤の花を見ないうちに散ってしまった。駅の方にかかわったのと暑い日がつづいたこともある

あの広い庭の蔵のある家でもなんかこの辺では変動が激しいからなくなってしまうのかとさえ思う、あれだけの家に人が住まなくなったりするとそう感じてしまうのである。
普通だったらこの辺でそんなことは考えない、農家は何代もつづきそこにあるからだ。
なくなることなど想像もできないのである。

川子の森は日影になり気持ちいい場所である。近くにあういう場所があるのはいい
遠くになるとそういう場所があっても楽しめないのである。
ただなんかこの辺はそうした自然の場所も変わりやすいのである。
ソーラーパネルとか何か切られて宅地になることが多いのである。
それだけ変化が激しい場所なのである。
だからどこでもダンプが来るから自転車でも怖いとなる、まだ落ち着かない場所なのである。ただそれで人が外から入ってきてきているから活気がでているともなる
それでも相当に減ってきているし仮設のプレバブの宿泊所も壊されているのである。

ともかく今日の夏の日は暑くないから出かけることができた
何か気候が変わっているから困る、5月というといつも自転車で遠くに出かける季節だった、それがなかなか行けなくなった、疲れやすくなっているからだ
今日みたいだったらまだ行けるが遠くに行くの億劫になるのだ
今日は夏らしい夏だった、五月の夏だった、山脈も夏の山であり一応浪江までは通じた
浪江まで電車で行けるということはできる。

近くの知っている人が死んだ、同じ病気だったけど何かで重症になった
でも実際は十年介護していたのである。そうなると自分もそうだが疲れたとなる
その妻も老けてしまったとなる、介護は長いから苦しいのである。
十年となったら一昔になるくらい長いのである。その負担にまいってしまうのである。

菖蒲といったら普通は紫である。黄色の菖蒲は黄菖蒲となるのだろう。
庭は別に自分の庭でなくても鑑賞できるのである。日本の庭は垣根になっているから外から見える、格子のようにさえぎられていてもそこから見えるというのも風情がある。
ただ塀で囲っている所もありそうなると全く見えないからつまらないとなる
吉田兼好風に言えばそうして塀で囲った庭に風流はなくすさまじきものとなる
垣根はやはり日本独特のものである、外から満ちれてもいいという安心感があってできたことだからである。ヨーロッパの庭は塀で囲まれているから全く外から見えないからである。






タグ:菖蒲 夏の庭

2017年05月20日

(都忘れ)街中の空家の不思議 (空家でもまだ人が住んでいることを偲べる)


(都忘れ)街中の空家の不思議


空家でもまだ人が住んでいることを偲べる

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木漏れ日に蟻の歩める暑さかな

一畝をうない終わるや暑さかな

車輪梅の垣根や路次の家暮れぬ



鉄線の空家に咲くや路次裏の今日もこの道行きにけるかな

玄関に一本の松残りつつ都忘れの名残に咲きぬ

玄関に一本の松ここにしも暮らしのありし路地裏の暮る

車輪梅の垣根を作りここに住む人のなしかも花は咲けども

雨戸しめそのままなれや空家かな昔住みにし人をしのびぬ

路地裏の道に明るし夏の花咲きしもここを行く人のまれ

夕暮れや空家の庭に紫と白の菖蒲の咲くやいつまた来なむ

いくつかの石の並びつ淋しかな空家の庭や今日も通りぬ

庭の石位置は変わらずここに住む主を待ちぬ久しかりけり



この空家の不思議は何か?古い小さい家だけど狭い庭だけど良く作られている、ジャングルのように木とか葉でおおわれている、そこに花が咲いている、鉄線の花だった
垣根は車輪梅で作っている、車輪梅はこの辺では南限の地に咲くとして海老浜で有名だった、この辺では車輪梅は良くみかけるのである。

玄関に一本の松がありそこを出入りしていたのである。客も迎えたのである。
この空家の不思議は庭が良く作られている、狭いけど庭が丹念に作られている
花もうまくあしらい咲いている,樹々の葉がまるでジャングルのようにおおっている
これは狭い庭だからかえってできたことである。

この家には誰が住んだのか?ここにも生活があったのである。
ただ近くの人はこの同じ町内に新しく家を建てて移ったのだという。
でもこの空家は本当に空家らしい空家なのである。

もう一つの空家は家は古くなっていない空家には全然見えない、実際にその家は時々持ち主が帰ってきてみているのである。
そこに紫と白の菖蒲が咲いている、それをみているのは自分である。

毎日こうして街内を行ったり来たりしている、すると空家でもここには誰が住んだのだろうかと思うようになる、やはり人間は住んでいればどんな場所でも一体化するのである。空家でもやはり人が住まなくても以前としてそこに人が住んだとしてその家と庭からまた人を思ったりするのである。

つまり空家になっても更地にならない限りなにかしら人の住んだとものとして跡をとどめている。だから取り壊されない限り幽霊屋敷のようになっても家があれば以前としてそこに住んだ人を思うのである。

そしてもう一軒の空家は一〇年とか二〇年とか空家になっていたかもしれない、でもやはり時々帰ってきている、それもなぜだろうとなる。
そこには淋しく石が昔のままに置かれて家族が帰るのを待っているのである。
石も人間化しているのである。だからその石は自然にある石とは違うのである。

空家というとき避難区域になったところは空家だらけである。
そして空家が全国で八〇〇万軒になっているとか異常な事態でもある
だからどこでも空家が目立つ、避難区域はそもそも空家の街となってしまったからである。
空家でもいろいろあるがこの空家は庭がいいしここに住んだ人が風流人とかでもなくても何か庭を自然を愛した人かもしれない、花を愛した人かもしれないとなる
この家も壊されればここに住んだという記憶が失われるのである。

避難区域で空家だらけだけどその空家は前に住んでいた人を待っているのである
家もそうだが庭もそうである。時々帰ってくる人があれば完全な空家ではないのである。ただ人が帰るのを待っている一時的に空にした家だとなる

ともかく狭いところでも日常的に行き来していると一体化してゆく
だから年取ってからはあちらこちら旅するというよりこうして一定の場所にいて観察した方がいい、遠くでも一週間とか住んでいるのがいい、するとその土地のこともわかってくるのである。

女性が畑を耕していた、夕方でも今日は暑い、そういう姿をみていると食べ物でも貴重だと思うのである。苦労して作っているんだなと見るからである。
でも機械で自動的に野菜でも何でもとれたらありがたみがなくなってくるのである。
誰も機械には感謝しないからである。
ともかく今日は暑くて外に出れなかった、何か暑さに弱くなっている
疲れやすくなっている、だから今日は一回しか外に出なかった



2017年05月19日

シャガの花(鹿島区でも通りは発展しない) (街作りのテーマ)


シャガの花(鹿島区でも通りは発展しない)

(街作りのテーマ)

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この通りを歩いている人はほとんどいない

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こっちの薬屋は今は行っていない,近くのツルハに行っているからだ


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ここは新しくできたアパートである。

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草原の夕べ明るし夏雲雀


新しき家やはやも草伸びてシャガの花咲くこの通りかな

木陰の道を我が行き来しシャガの花新しき家に咲きて暮れにき

夕日さしシャガの花咲き庭に石新住宅街や街の変わりぬ

色濃くも菖蒲の咲きし通りかな人行くまれに我が今日も行く


なんか前からそうだったけど街でもその回りでも自転車で回っている、まず駅に行きそこで案内したりする、鹿島にボート工場があったの?東京から本社から来る人を迎えに来ていた。他の会社でも駅に迎える来る
それからキクチスーパとシシドスーパーとツルハをドラッグストアを回る

外食は今度は小池のコモドインにしている、距離的に原町になると遠いがあそこは町内だからいい、そしてそこは町から離れているので気分転換になる
外食がうまいものを食べるということもあるが気分転換の効果もある
だから本当はながめのいい郊外とかがいいのである。
街内だとそれがない、それでも仙台辺りは並木があり緑がある
でも最近はまた仙台にも行かない
なんか遠くに行く気力がなくなった

深野のユッサもいいが距離的に遠い、自転車だと遠くなる、最近疲れやすくなるから行きたくなくなる、鹿島で暮らして問題なのは外食する場が限られていることである。
仮設ではもう一軒しかないがメニューが限られている
それでコモドインは日替わりがあるからいい、駅にいると食事したいという人がいて
駅前の鈴木食堂による人がいる、あれを考えると昔は駅前は人の出入りが多かったから駅前で商売になることが多かったろう。
ただ仙台を往来する人が三倍に増えたということはいいことである。

鹿島は前に街作りとして新しい通りを作った
川沿いだがあそこは通りとしては新しいし気持ちいい場である。
木蓮が咲いたり通りに花を咲かせている、川が近くだし自然景観もいい、駅前から昔の旧道は自然景観は良くないからだ

ただその新しい通りがほとんど活かさていない、店がほとんどない、それはどこでも同じである。だから歩いている人はめったにいない、ただ車が通りすぎるだけである。
だから何か淋しいという感じがする、でも通りを花で飾っているのである。
スーパーとかにないものは通りには自然が活きていたり通りを歩く楽しみとかある
それがあれば楽しいとなる、前は喫茶店があったみたいだがやめた

結局街というのはある程度の人口がないと何をしてもうまくいかないだろう。
人口一万では発展しない、少なくても二万あればそれなりの街になるかもしれない。
ただ鹿島区は新しい住宅街ができた、だから人口は減っていないが高齢化もあり活気があるとはいえない、これはどこでも同じだがやはり一万の人口の限界現象がある
だから新しい通りを作っても活かせないのである。

ただ鹿島区は何か都会化したと感じるのは新しい家が増えたためである。
その家の数が多いからである。小池辺りでも増えたしあの辺は田んぼだったが住宅地になった。そこにコモドインなどの復興関係のホテルなどができたから都会化した

基本的に街が死んでいる通りが死んでいるというときそれはシャッター通りになっているというとき車社会になったからでありそれをあからさまに批判している本がでていた
「成熟社会」とかの本である。
今思潮として高齢化した結果、昔のような近隣関係とかコミニュティとかの回復を言う人が増えてきた、それを破壊した一番の原因が車社会になったことだからである。
ただ車をもたないとか車社会を批判すること、それが社会の歪みをもたらしたことはあまり言わない、それは原発に反対できないのと同じだった
車社会に反対するというとき車をなくせということではない、何らか制限が必要だということである。

だから交通にしてもバスとか何かそれに変わるものが必要である。駅にいるとそこからの足がないからだ、だから車で迎えに来る人が多い。
都会でかえって車なしで生活できる、鉄道網がありかえって効率的になる
田舎は広いから車なしでは住めない、ただ街内に住んでいればなんとか住める

人間が住みやすい場所は必ずしも田舎ではない、田舎的ものと都会的なものが調和した場所なのである。田園といってもそこに都会的なものがある場所である。
だから鹿島に欠けているのは外食するレストランなどがないことで一人暮らしは困る

いづれにしろ奇妙なのはシャガの花となると何か山の中の人気のない所に咲くものだと見ていた、そういう感じの花である。それが新しい通りというか住宅街に咲いている
そしてすでに草が伸びてそこに咲いている
このことが何かこの辺の変化を現している、都会的なものと田舎的な幽邃なものがあるとなる、あまりにも都会化した場所にはシャガの花はにあわないからだ

雲雀というとき草雲雀とかあり草原ににあっていた、田んぼより草原ににあうのが雲雀だったのてある。この辺は海側がまだ草原なのである。
この風景も前から不思議だった、草原とういモンゴルになるからだ
モンゴルの風景が一部ここに再現されている不思議である。
ただあとはソーラーパネルになっている、でもあそこだとソーラーパネルはそれほど目立たない、飯館村は森の国でありその山に森を削ってソーラーパネルにすると目立つのである。景観が破壊されるのである。

ともかく津浪や原発事故以降景観までこんなに変わることの驚きである。
それで新しい経験をしているということもある
今日あたりも快晴だけど暑いし日ざしが強いと最近疲れる、紫外線は体に良くない
そういう点で老いを感じる、おそらくなぜ昔を回復しようとする思潮が出てきたかというと高齢化社会は歩く生活とか近接社会とかそうした昔のスロー社会とかに向いているからである。若いときは高度成長とか大都会が向いている、高齢化社会にはそうしたかえって活気あるものと見えたものがあわなくなっているからである
ただやはり人間的活気も必要でありそれが通りにないからもったないと感じるのである。

2017年05月12日

初夏(小池の横峯堤(つつみ)は広い)


初夏(小池の横峯堤(つつみ)は広い)

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寺内の横峯堤

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小池の墓地とコモドインホテル



葉桜の風にそよぎて小池かな

葉桜の影や小池の墓地の朝

八輪の牡丹の散りし虚ろかな


知る人の今日も畑にありにしを我は成すじも実りを思ふ

八輪の牡丹の散りてそのあとに緋色の牡丹我が家に見る

横峯の堤の広く藤の花隠し田なれや朝風涼し

白藤の咲きにし家や今日来ればはや散りにしを街にもどりぬ


小池の横峯堤は広いから気持ちいい、そこに隠された道があり堤の反対側に行くと
小道があり田んぼがあった、藤の花も咲いていた
別に堤がありこの田んぼのために作ったのか、そこには田が二三反なのかあった
ともかく日本は田を作る、狭い所でも田を作る、そうすれば米がとれるからである。
あそこは隠し田のような感じにもなる、日本ではあのように隠れるようにしてある田が多いのである。
こんなところにも田があるのかとなるのが多い。

小池も変わった、未だに仮設もありプレバブの宿泊所がまたできたりあのコモドインというのが一番この辺では意外なものだった
あれでも最新のホテルなのである。復興用にしてもホテルまでできるとは思わなかった。あそこのカレーはうまい、料理人が朝食と夕食を出しているからだ
食事が出るということそれが料理人がいて出しているからいい、普通はビジネスホテルとかなると食事は出さない、復興用だから食事が必要となるからかもしれない。

今や夏になった、暑いので熱中症気味になる、今年咲いた八輪の牡丹は散った。
そして鉢植えの緋色の牡丹が咲いた、今の時期いろいろな花が咲く
知っている人は毎日畑に行く、暑いときは朝に行く
でもそこで何がとれているのかほんのわずかなのである。
その人自体ほとんど野菜でも買わなければ生活できないのである。
その金を誰が供給するのか?

ただ豊かになるとベーシックインカムが現実味を帯びてくる
無理して嫌な労働はしない、それでも人は生きがいを求めるし労働をすることは確かである。それが暇になった退職したシニアがボランティアを求めていることでもわかる
毎日何もしないということに何か社会にとって無用にされることに耐えられないからだ
高齢化社会の問題はその数が多いということである。
その数の多さが圧力になる、高度成長の時は団塊の世代は数が多いから活力となったのである。高齢化社会でも同じなのである。

鹿島でも本当に変わった、寺内の孟宗竹の林も切られた、整地して売り出してまた家が建つのだろう。とにかく新しい家が次々に建つのである。
その新しい家が何百軒ともなっている、だから何か都会化したのである。
それでももともと一万くらいの町だから自然は豊かだとなる

今日鹿島駅で東京から来たのは鹿島カントリークラブに来た人である。
一年に一回くらい来るという、あそこはいいですかというと環境的にいいという、
東京から来るとなると金持ちなのだろう。
それでも金を落とすからいいともなる、仮設の人が金が入って消費しているから助けているのよというとき今の時代だったら原町まで4000円でタクシー利用してくれれば会社では助かるともなる
でもその金がいつまでつづくのか?年金とも違うしいつれは枯渇する、その時どうなるのかと思う。確かに小高の人が国民年金ではやっていけないから生涯補償する年金をもらいたいというのは誰でもそうなのである。
でもそれなら南相馬市全部で要求すれば文句は言わないが小高ばかり要求したら不公平だとなる、それは前からももめていたことだからである。


2017年05月11日

老鶯、夏の月(里に老いる)


老鶯夏の月(里に老いる)


老鶯や共に老いゆく里のあれ

老鶯や堤の広く里暮れぬ

田の増えて蛙も増え鳴く夏の月


今日の夜は夏の満月である。そして鹿島区では田んぼが増えた、だから蛙が増えて鳴く声も騒がしくひびく、田んぼが増えると蛙ももどってくるのである。
去年よりもまた増えているから農業も相当復興している、ただ山の方は田んぼにしているのはまだ少ない、田畑でももう跡継ぎがない所は荒地のままでありそれは別に利用するようになる、大きな畑にした所は会社経営にするとか言っていた。
小高ではそうするというとき個人の家ではやれなくなっているからだ

横峰の堤は広々としている、そこに夏になれば老鶯が鳴く、夏鶯と老鶯の受ける感じは相当に違う、老鶯というときどうしても老いたなるから老人をイメージするのである。
だからこの俳句もできた、高齢化社会というのはこれからさらに社会の問題になる
そもそも高齢者多いということはそれだけ社会全体に圧迫する、人口圧力が大きくなる
すると社会全体が高齢化社会になるのだ。若い人は何かかえって目立たないのである。

団塊の世代は若いときは今とは全然違う、暴力的になったとしてもその若いエネルギーが社会に噴出していたのである。それだけ若い人が多く日本は若い社会だったとなる
高齢化社会になるとこれは未だ経験しないものであり社会自体が高齢者に老人基準になるのである。それは停滞した活力のない社会ともなるがまた反面落ち着いた社会とか今までにない社会になる。

老いゆくというときどうしても共に老いるということで長く住んだ所に老人は住みたいのである。老人になるとなかなか新しい場所でも知己でも得にくいのである。
ただ別に老人になってもかえって今まで知らない人とも交わるのも増えている
老人ホームに入ったらそこでは今まで知らない人たちが一緒に暮らしたりしているからである。

この辺は小高とか浪江とかの老人と知り合うようになったのもそうである。
普通だったらあまり交わらないからである。元の相馬藩内で人が交わるようになったのである。近くの仮設に住んでいるから当然そうなる

老いるというときやはり里に老いるというのが自然である。
その里というとき街ではない、田んぼとか畑とか自然な生活のある所である。
そうなるとこの辺でも原町とかなると大きな街になるから里とはならない
鹿島、小高はまわりが田畑がら一万くらいの町だと回りが里になっているのである。
だから原町とか相馬市に暮らすのとはまた違った感覚になるのだ

前にも詩にしたが森の樹々がともに年輪重ねて老木となりやがて森に倒れ木となり還ってゆくという感じになる、ともにそこに年月を重ねた木なのである。
そこに木の連帯感が生れていたのである。


老木の語ること(詩)
http://musubu2.sblo.jp/article/169729214.html
タグ:夏の月 老鶯

2017年05月07日

庭の石の意味するもの(詩) (震災以後変化した街の様子)


庭の石の意味するもの(詩)

(震災以後変化した街の様子)
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これは原町だけどこの石は大きいし貫祿がありいい石である。
石にも個性がある、この石は見ていると心も落ち着く
これも新しく建った家のなである

庭の石の意味するもの

一つの石が据えられる
動かぬ石が据えられる
それはこの土地に生きる標
そして庭に花が咲く
赤いつつじが燃えるように咲く
その石の陰にひっそりと咲く
冬の貴婦人は目だたずに
また新しい家が建ち
ここに住む人がいてシャガの花が咲く
一つの石は定着する意志
ここに生きようとする意志
ここに根を張る意志
木を植えるのもまた同じ
土地に根を張り育ち花が咲く
人のいない空家に残る石
その石が淋しいのは
そこに生きる人がいなくなり
そこに人の生きる意志がなくなったから

庭というときその意味するものは何か?それはやはり思想がある。
庭作りするとき必ず石をすえるとき石は何を意味しているのか?
石は定着するその土地に生きようとする意志なのである。

この辺で不思議なのは次々に新しい家が建ち人が移ってくる
その人たちはここに前から住んでいる人ではないだろう
いくら津浪の被害があってもこんなに家が建てられないからである。
アパートに大東建託もまだ建てられている、15棟くらいある。
これにも驚きである。そんなに入る人がいるのかとなるからだ
いわきナンバーが多いときやはり浪江とか大熊とかでも移ってきている人がいるからだろう。復興住宅も浪江の人がほとんどだからである。

仮設になると庭もないしそこに仮りにいるというだけになる、でも一軒の家を建て庭に石をすえるとここに定着して住むとみる
だからこうして新しい家を見ているのが不思議だとなる
この辺はほとんど変わらない町だったからである。
いつまでも西町の70坪700万円の土地は売れていなかったのである。
それがたちまちに一つの新しい街に変貌したのである。

一方で小高区とか浪江町でもそこは家が空家になり人が住まなくなった
人が住まないと家も死んでゆくし街も死んでゆく
それは近くに人が住まなくなった家がある、その庭は結構いい庭なのである。
でもその石を見ているとなんとも淋しいのである。
石が淋しく感じるというのも不思議である。
つまり庭に据えられた石は人間になっていたのである。
それは自然の石とはまた違っていたのである。
だから人が住まなくなったとき余計に淋しものを感じたのである。
あそこの家は時々帰ってきてはいるから何なのかわからない
連休には車で帰ってきていたが日頃は誰も住んでいない空家である
だから完全に空家ともいえないのかもしれない。

ともかくこの辺の不思議は原町とか鹿島にはこうして新しい家が次々に建っている
原町は広いからもっと建っているだろう。復興住宅でも規模が桁違いだとなる
だから人口は南相馬市で6万くらいになっていても減っていても実際の人口は違う、
まだ除染でも工事関係者も来ているし外から浪江からなど入って来た人か多いから
一万くらいは南相馬市の人口になっていない、だから7万くらいあった元の人口とさほど変わらないかもしれないのである。
鹿島区になると人口も一万となるとさほど変わりないしスーパーも二つできて良くなっている
コモドインなどホテルも小池にできたことは何か都会化したなと思う
一万といっても外からきて住民登録していな人がかなりいるとなると1万より1000人なのかわからないが多くなっている
やはり人口でその市町村の規模を見るとわかりやすい。

とにかくこんなに大きな変化を経験することはなかなかないことだろう。
小高とか浪江とか避難区域になったところはこの逆であり極端な変化になった
家が空家だらけで街がゴーストタウンのようになっている
その差が大きすぎるのである。だから原町とか鹿島とか相馬市でも新地でも金のある人は家を建てているのである。
するとますます小高とか浪江とかに帰らない人が多くなる
何かそういう大きな変化にとまどってしまう。
ただ原町とか鹿島は避難区域となったところとは違い今は街自体は影響を受けていないのである。




2017年05月06日

つつじ(原町のユッサは本物の温泉だった) 増えた新築の家に花が咲く


つつじ(原町のユッサは本物の温泉だった)


増えた新築の家に花が咲く

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冬の貴婦人




石すえてつつじ燃ゆるやユッサかな


新しき住まいを得てそ住み着くやシャガの花咲き通う道かな

藤の花緋色の牡丹蔵ありし昔栄し街中の家

石により冬の貴婦人淋しきを星型の花回りに咲きぬ


原町のユッサは本物の温泉だった、この辺では温泉は湧かないからただ普通の水だと思っていた。となるとあの温泉はこの辺では貴重だとなる
この辺には温泉はないからだ。湯本から北はない。
それで今度できる新地の駅前の温泉も価値がある。
あれはまだ工事はじまらないからいつできるかわからない
ともかく本物の温泉にはこの辺では入れない、それで700円とか高くなっていたのである

庭にツツジが赤く新緑だった、あそこの庭ももっと見栄えのいいものにするといい
今回はつつじが咲いてそれが温泉とあっていたのである。
それが本物の温泉だということで価値が生れた
すいたときに入ってみてもいい、自分はあそこでは入ったことがない
700円は高いと思ったのである。でもこの辺では本物の温泉は近くで入れないから価値がある。

鹿島区の街中に白藤が咲いて緋色の牡丹が咲いた、その家に蔵があるということは古い家で昔栄えた家もしれない、一方でこの辺では新しい住宅地が広がった
ダイユーエートの近くにも新しい住宅地が生れた、それは比較的安い建て売りである。
2300万円とかで売り出している、それでも日本の家は高すぎるのである。

今家建ててるなんちゃらホームもほとんどアブナイんやで上物で3000万なら 
純利益は1000万こえるんやでボウズ丸儲けなんや

これは本当かどうかわからないけどこうした内部情報というか実際にたずさわった人が言うとき信憑性がでてくる、そんなにもうけるから日本の家は高いとなる
ただ建て売りは土地こみだから高くなる、あそこの土地は500万くらいしていたからだ
するとそれほど高いとは言えない、他は高級住宅街となった、三つくらいそういう街が生れた

そこにシャガの花が咲くというとき街として見るとまた不思議に感じる
シャガの花は山の村のようなところに咲くのがあっていると思ったからである。
でも街の中に咲いてもそれなりの情緒が生れていた
仮設にはやはり庭でも何でも仮の宿で落ち着かないしにあわない
でも一旦庭ある家に住むと落ち着いてここに住み暮らすんだなとみる

なんか毎日街を回りを見て歩く、遠くに旅しないと回りを良くみる
白藤に緋色の牡丹が咲いていた家は古い家なのだろう
蔵がある家は古い家である。街中にはあまりないからである。
なんらか昔なら街中でも栄えていた家があっても不思議ではない

いづれにしろこれだけ新しい家ができたことの変化もまた驚きである。
この辺はほとんど変化がない世界だったからである。
西町の70坪700万円の土地が売られていたがいつまでも売れることもなかった
それが次々に新しい家が建ち新しい街ができてゆくことには驚きである。
それは別に悪いことではない、特にいい庭に花が咲いていると鑑賞できるからいいのである。つまり家でも庭が整備されてきれいであり花が咲いていると街全体の美観が良くなるのである。
街中でも郊外でも今の時期は花めぐりするのがいい、今が一番花が映える季節だからである。

2017年05月05日

小池の墓地を見て帰る (コモドインの近く)


小池の墓地を見て帰る


(コモドインの近く)

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小池なる墓地の木陰に休みつつここに眠れる人し思いぬ

墓一つ倒れてありぬ参る人なきや我が見て街に帰りぬ

名前のみ墓標の八つここに生く人のありしも誰がかえりみるかも

白藤のさわに咲きにき小池にそ住む人あれやひそかすぎゆく


墓地と桜

一つの墓地に花は散りにきあわれかな
ここに眠れる人は誰なれや
生きてあるとき華やかなる時もあれ
たちまちに花は散りにき
そして墓に入りにつ語らざるかな
かく時の移りは早しかも
いづれはみな墓の中なり
墓に入れば騒がずや
花はみな散りにけるかな
月こそいでてここに眠れる


小池のコモドインの近くに墓地がある、結構広い墓地である。小池で何か見るのかというとき外から来た人は古墳を見てきたという、鹿島区だと古墳が目立つから見るようになるあとは撮り鉄であり鹿島駅とかは古いものだから撮ってゆく、他にも小高ともありその人たちは仙台から車できて写真を撮ってゆくのも変だった
鉄道マニアだったら電車に乗るべきだからである。
ただ写真をとるとなると場所が問題になるから車で来ていたとなる

古墳も墓だとすると自分が小池で見るものはなにかとなると墓だけだとなる
小池の墓地は桜の木があっていい場所だった、墓地も広い
嘉永とかあったから江戸時代からあった墓である。田舎の墓はたいがい江戸時代からつづいている墓である。鹿島区の街中にある墓地でもそうである。

倒れた墓がありあれは誰もお参りもしない墓になった、墓はそれでもかたづけるわけでもなく残っている、個人墓であり姓と名前が記されている、古い墓は個人墓であり夫婦墓が多い、他に八つくらい道標がありそこには名前だけが記されている
そういう墓は使用人なのか?それとも兄弟なのか姉妹なのかわからない
そういう墓はどこにでもある

墓になぜひかれるのか?それがやはり人間の無常を示しているからである。
でももしその人が生きていて出会っていたらいい感じがしないとういことはある
死んでみてなにかあわれだとなる、人間は死んでみると本当にはかない
最近近くで十年介護していた夫が死んだ、それも生きている時は長いが死んでみるとつくづくみんなあっけないなと思う
最後は墓になってわずかに名前が記されていても省みる人もなくなるのである。

小池の墓地がある所は工場もある、ただ何を見るかとなると墓なのである。
それは古墳でもそうである。この墓に興味をもったのはコモドインに食事に来るようになってからである。つまり何かに興味を持つのは意外とただ昔だけではない、今が関係している、コモドインという所でランチを食べに来ているとあの墓地を通るから関心をもつようになるからである。だから山奥になるとなかなか行けないから日常的には関心をもてないのである。


あっけない死

近くにまた人が死ぬ
あっけなくころんりん
ええ、あの人が死んだ
あっけなくころんりん
同じ年だった
もう還らぬ人
あっけなくころんりん
死んだらみんなあっけない
あんなに気丈夫な人も
あっけなくころんりん
病気と老いと死には誰も勝てない
こんなにあっけないのか
今や老いれば次々に死んでゆくだけ
あっけなくころんりん
死んで何を残すのか
何にも浮かばない
泡のように消えただけ

人間は死んでみるとみんなこんなものになることの不思議である。
死ぬまで大騒ぎしても死んだとたんにこんなにあっけないのかとなる



2017年05月01日

春の日の平和な風景 畑に孫と座る女


春の日の平和な風景


畑に孫と座る女

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建物は復興住宅

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川岸の家の近くに四十雀が来る

クリック拡大するとはっきり見える


春の日や畑に孫と座る女(ヒト)

鶯や手押し車に行く土手の道


なんでもない光景が平和である。孫と一緒にばあちゃんだろうか、座っている、その光景は何を意味しているのか?
次代を継ぐものとここで暮らしたものとの連続性を示している
一方で農業は金にならない、苦労ばかりだからやるなというときそこに世代のつながりが断たれる、そういうことは別にしてこの光景が何か平和を感じた
なんでもないことがこの辺では貴重なものとなった
ただあそこの畑の回りは荒地になっている、キジとかも前よりは多いし知っている人の畑も鳥に食われたとかなんとかある。
つまり農業とかは実際にしてみるのと何もしないで見ているのでは相当な差がある
労働でも外から見ているのと実際にしているのでは違う。

ただなぜその光景が平和を感じたかというこの辺ではそういう風景が一時失われたし避難区域になった所では今も失われたままである。
なぜなら若い人は流出して田畑は荒地になってしまったからである。
この辺も一時はそうなっていたのである。でも回復してこういう風景が見れるようになった、ただ前の半分くらいしか回復はしていない、やめた人も多いということである。

人間はやはり自然と溶け込むときそこに自然なもの平和を感じる、手押し車を押して川の土手の道をゆく老女を見るときもそうである。
それは自然の一風景となって自然にとけこむ、それが病院とかなると無機質な空間となり人間的でなくなる、だから都会などでも平和を感じない
自然がないから人工的空間だからなごむものがないのである。
ただ人は仕事に追われてせわしくしているだけだとなる
仕事しているにしてもそれが自然の中だったらこうした平和を感じる

ともかくこの辺ではなんでもないありふれた日常が奪われたのである。
それは別にありふれたことだから貴重なものとは思っていなかったのである。
老人と子供世代と孫は離ればなれになり分断された
だから避難区域ではこのうよな光景は見れないのである。

技術でも自然と調和したもの、水車とかなら良かったのかもしれない、ただそれはノスタルジックに回想するだけで電気なしの生活はありえないのが現代である。
ただ江戸時代の風景を見たら平和を感じるだろう
小川すら今は堀りになりなくっないるのも自然がそこで失われているからだ
不思議なのは車は自然の中にとけこまない、車を俳句にしたりすることはないのもそのためである。
車を風景の中に絵でも描かれているのはまれである。車は自然に適合したものではない
何か突然空間を引き裂くように車が突っ走るのである。それはバイクでも同じである。

何か自然に反するものがとどめなくあふれさせた、そこに制限があっても良かったともなる、車が必要でもそこに制限が必要だったともなる
車社会は社会そのものを変えてしまった、その影響があまりにも大きすぎたのである。
技術は明らかに何でも無制限に取り入れるものではなかったのである。
つまり技術は制限が必要なものでありそうしないと社会の調和も破壊されるのである。
それは原発でも同じだったのである。
技術だったら科学だったら何でもいいとなり取り入れることが危険だったのである。

そんな風に見ているものはまれだがそれが人間の感性の異常をもたらしているのかもしれない、キレル老人などというときそもそも車というものはとキレルものだからである。
車社会というときそのことが実は平和ではないということもある
電車は撮り鉄とかいるように自然の中で映えるのである。
車にはそういうことがないことでもそれがただメカになっているためだろう。

いづれにしろ何か人を見ても広い庭があるのにただ何も手入れもしなくて何もなくてもいいとか言う人がいる、小石でもまけば川の感じがでる、そういうこともしない、そこに風流心がない、女性でも花に興味がない人もいる、生け花もしていない
何か風流がないというときそれも人間として大きく欠けているのだ
それは別に田舎で暮らしていても風流と関係ない人は普通にいるし多い
だからとやかく言うことでもないが何か淋しいとなる



2017年04月29日

春の雷(コモドイン(小池)から牛越城へ)


春の雷(コモドイン(小池)から牛越城へ)

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鹿島区横手の老木


春の日や老木ここになお生きる

家の前タンポポにスミレなごむかな

道草や少女手にする八重桜

菜の花を手にし畑におばあさん

コンビニに新緑映える小池かな

牛越城空打ち曇り春の雷


小池なれ桜は散りぬその後の墓地の静けさ誰が眠るかな

山桜残れる花の我が帰る道に一ひら散るあわれかな

山桜風にゆれにき牛越城五年ほどして移る城かな


小池のコモドインでまたカレーを食べた、エビフライを頼むと三〇〇円になるが今は百円割引している、入っているのはやはり二人くらいだった
あそこで食事するとなんか不思議である。あんなところにレストランがあることはイメージもできなかったし現実にそこで食事する経験がまた変化だった
この辺はとにかく変化の連続だったのである。それは全部悪いとはならなかった
津浪の被害などはそこで家族を失った人からみると最悪だった
原発事故もいいものではなかった、これも実際は最悪だった
ただあそこにレストランができたのはこうした事情で復興のホテルになったからである。鹿島区は前より街が良くなったのである。
ただ駅前とは前の通りとかはそのままであり何も新しいものはできていない

小池にあるコンビニによるとそこに小池は自然は豊富だから新緑が見える桜も見える
すると何か新鮮な感覚になる、都会的なものと自然がマッチした風景になる
今までは田舎的風景しかなかったからである。
景観を重んじる自分は自然の風景の中にレストランなどがあれば憩いの場ともなる
ただコモドインの向かい側は何か倉庫なのか工場なのかいいものではない
コモドインの近くにあったのはあとは墓地だった、でも桜が咲いていた
その桜も散っていた、何かこの辺に名所というのがともしい
だから墓地が目立ち自分はその墓地を見て回っていたとなる
そこから郷土史に興味をもったとういことがある

牛越城は五年で移った城である。でも一応そこに城としてあったことが歴史となっているから違っている、低い山でもそれが要害の山であり城となっていた
人間はやはりそこに城があったとなると見方が違ってくるのである。
単なる山とは見ないからである。今日は春の雷がまた鳴った、春の雷は夏の雷とは違い一回か二回しか雷鳴がならないことで春の雷なのである。

あの老木は天然記念物のようなろ老木である。あれは本当に生きているのだろうか?
大原にも老木がある、どこにもこうした老木はある
それは何を意味しているのか?その土地に根付いた老人をイメージするのである。
古木より老木となると老人をイメージするのである。
つまりどこの村でも昔は老人がいてそれが何かしらその土地にあって生きていたのである老人は昔を語りその土地のことを語ることなど何か意味あるものとしてあった
ただその時老人は少ない、もう60くらいで相当な老人になっていたかもしれない
あとは死ぬ人が多かったからかえって貴重だったということもあったろう。
そういうのが自然村であり人間も自然的に生きるということがあった。
今はなんでも不自然なものとして生きるのが文明なのである。

俳句というときこれは写生であるがなんかただ記録しているということもある
写真がない時代だとそういうことがあった
ともかく人間は忘れやすいからた、だから書くということは記録することなのである。
プログは日々感じたことを記録するということが基本にある
今日何をしたか、何を感じたかなどである。
それをあとで深化して詩にしたりするのである。

駅の前は小学生がいつも通る、八重桜が咲いていて少女が手にしていた、そういうこは少女しかできない、極自然なものなのだがそこになごむものがある
ばあさんではないが50代くらいの女性かな、手にしていたのは菜の花だった
これもあっていたとはなる、いろいろな花が咲きだす季節である。

近くの神社で祭りがあった、踊り手の少女がいた、この辺にあんな子供がいたのか?
なんか今は隣近所でも関係が希薄である。すると神社なども関心がなくなっているのだ。自分は介護十年していてその間に社会から遠ざかった
介護していると何かその関心が狭い範囲に閉ざされのである
常に介護している人に注意を向けねばならないからだ
介護なくなったとき回りのことに注意を向けることができるようになった
介護というのはそれだけ負担が重く人間を異常化させていたのである。





2017年04月27日

桜は散り今年の春も逝く (枝垂桜の咲く家(詩)


桜は散り今年の春も逝く


(枝垂桜の咲く家(詩)


枝垂桜の咲く家(詩)

桜ははや散りにき
幾度かの風に散りにき
この道を今日も行けば
残れる花のあわれかな
とある家の枝垂桜や
夕日のさして
庭に石の落ち着く
ここをよしとて
居を定める人のあり
河原に鶯ないて
我が行き来するかな


今年の桜は終わった、外に桜を見にゆくこともなく終わったからめずらしいとなる、何か出かけるのが億劫になった
新しく建った家の枝垂桜はいい、あの家の庭はいい庭である。垣根だから丸見えである。庭は別にその家だけでなく外の人も見るからいい庭だと外の人にとってもいいとなる
塀に囲まれているとそうした庭も見えない、垣根だと外から見えるからいいのである。
それは日本的であり日本が安全な社会だからである。
外国では分厚い塀で囲まれているからだ。無防備では住めないからである。
そもそも街自体壁で囲まれているのが外国の街だからである。

日本はやはり季節の移り変わりに感じるものがある。
桜が咲いたと思ったらもう散ったな春も終わりだなと感じる
その季節感の故に季語が発達して俳句が生れた
残る花という季語も生れた、こういうふうに微に入り細に入り季節の言葉があるのは日本だけなのである。

仮設はもう終わりである。でもまだ住んでいる人はいる、家建てて庭を作りそこに石を置いて枝垂桜まで咲くと落ち着くなとなる、それは外から見てもそうなのである。
仮設は外から見てもいいものではなかった、二三軒の風流なものとしてあればいいがあれだけ仮設があるということは津浪の被害地でも異様なのである。
その仮設暮らしでも六年過ぎてさらに住んでいるのも限界だとなる
でも仮設から出れないという人もいる、高齢化でもう新しい家を建てる気力がないと言っている人もいる、それで最初から長く住める家を建てた方が良かったとなる
それも法律でできなかったとか今になるといろいろ反省がでてきた
まず日本では家を建てることが金がかかりすぎるからそうもなったのである。

ともかく今年の春も終わりである。

故郷の外にいでずに花も見ずはや散りにけらしも春は逝くかな

まあ、これも一つの情緒である。故郷に桜は咲き散って終わったということである。
常に旅していた自分にとってはめずらしいことだともなる
ただ介護していたときが長いから10年前から遠くには行けなかったからめずらしいともならない、ただ桜の季節はやはり桜一色にそまるのが日本だとつくづく思った。


2017年04月22日

南相馬市鹿島区の小池のホテルでランチ (コモドイン南相馬ー都会化した鹿島)


南相馬市鹿島区の小池のホテルでランチ

(コモドイン南相馬ー都会化した鹿島)

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百人は収容できる新しい簡易宿泊所(小池)

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ボランティアのバスが二台とまっていた

クリック拡大すると東日本震災ボランティアと書いてある

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もう一部屋がありそこも広いのである。

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これで800円は安い、牡蠣もついていたからである。(日替わり定食)


春日さし石あたたかく動かざり

春の日や死者安らかに故郷に


今日も小池のホテルにランチが食べられと知ったのでランチを食べに行った
途中に家の前古墳があるのは目だつ、寺内と小池は古墳が多いのである。
なぜあそこに古墳なのかとなると高台であったからだろう。
平地は湿地帯が多いからあのような高台が住みやすいとなる
そこに眠っている人は安らかだなと春の日だから思う

石でも春の日がさしてここがいいと動かないともなる、だから老人になって住居を移すことは酷にな、それで小池の人に聞いたのだが右田の人たちが小池に移り家を建てた、でもその一人の老人がその新居に入ってからまもなく死んだという、そうした関連死がこの辺には多いことは確かである。老人は変化に弱いからである。

そして小池にまた百人は入れる簡易宿泊所がまたできた、なぜまたこんなに外から人が入ってくるのかと思う、一部はすでに簡易宿泊所は壊されているからだ。
ここの簡易宿泊所は部屋数が多いからまだそんなに外部から人が入ってくるのかとなる
この辺ではすでに除染は終わっているからである。
ただもしかたら鹿島からでも原発事故のあった所に双葉や大熊の方にここから行くということはある。そのための宿泊所になるということはある。

ここから近いところにできたホテルは前からあるのは知っていたがランチをするようになったのは知らなかった、去年からすでにはじめていた。近くでもわからないことがある。この辺はまだ変化があり変わってゆく、原町まで行けばレストランなどが多くランチには困らない、でも遠いからなかなか行けない、自転車だと散歩がてらに来れるから便利である。何かホテルというとき都会的である。あんなところにできるとは思わなかった。

そしてボランティアをのせてきたのか?二台のバスが駐車していた。そんなにまだボランティアが団体できているのかとなる
その後ろは青森ナンバーのダンプが十台くらいあった。これも何なのかわからない。
青森の会社が来ているのだろう。

それにしてもそのホテルの食堂には50人くらい収容できる感じの広さがあった、本当に普通のホテル並みである。そんなに人が来るのかと思った。
11時30分で入ったのは自分一人だったからである。ボランティアなど団体がくれば確かにそれだけの人数分が必要である。もちろん泊まっている人も食事するから用意した。
他にも会社がそうしたホテルになった所がある
でもそんなに外部から人が入りつづけるのかとなる、すでに一段落しているからである。その辺がわからないが鹿島区は何か震災以後外部の人が大量に入ってきて変化した
あのようなホテルのランチが食べられるとは鹿島ではおもいもよらなかった。

鹿島区は都会化しているというのも家が次々に建ったからである。新しい街が三つ四つできたと思う、そして大東建託のアパート15棟は建っている、二つは建設中である。
いわきナンバーだから浪江とか双葉や大熊とかからも人が入ってきているのだろう
だから鹿島区のの人口は減らないのである。
だから都会化して便利になるということがあった
それに比べると小高とかの差はあまりに大きいから小高に住みたくなくなる気持はわかるそうなると余計に住みたくないとなり残っているのは老人がほとんどである。
それは老人は石のようにその土地に定着して動けなくなるからである。
人間も生物だから植物のようにもなるのである。

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コモドイン南相馬市




2017年04月21日

春ののどかな風景になごむ田舎 それが放射能災害で失われた悔しさ


春ののどかな風景になごむ田舎


それが放射能災害で失われた悔しさ

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鶏(カケ)鳴いて牛なき昼間のどかかな

菜の花に鶏庭歩む農家かな

犬連れて長き散歩や春の草


散り急ぐ桜にしあれ闇深し浮かばれぬものは御霊なるかも

吹きあれる嵐もやみて残る花夕日のさして我がおしむかな


この辺の変化は大きすぎた、のどかな田園風景でも失われたことがある。
津浪の被災地でもそうだし放射能汚染でもそうだし今でもその影響が大きい
放射性物質の廃棄物があり前の田園風景とは違う、ただ田畑はそれなりに回復している
畑になると半分くらいしか耕作されていないだろう。
そこは荒地になっている、農業はもともと高齢化して跡継ぎがいなくなっていた
そしてこの辺では若い人の人口が流出して老人が他より10パーセント増えた
だから繁盛しているのは最近川子にできたパークゴルフ場である
あそこは本当に広いから気持ちいい場所である。
そこに百人くらいいたのには驚いた、それだけ暇な元気な老人が集まっていたのである。

街からすぐ近くに庭にまさに庭鳥が鶏が歩いている、コケコッコーと辺りに鳴き声がひびく、その近くに牛が飼われてモウとなく、それが田園風景であった
それは昔ならどこにでもあった田園風景である。そこで心が和む
それが街のすぐ近くだからこの辺はそういう場所でもあった
一万の町だったらどこでもそういう風景があった
それが放射能騒ぎで乱された、そして平安がまだもどっていない

ただ鹿島区はまだいいほうだろう、小高とか浪江は悲惨である。
一旦街でも人が住まなくなるとあれほど荒廃するのかと思う
この辺の問題は若い人の流出であり特に若い女性が流出している
すると結婚して子供を産む人がへっているから将来の人口構造も老人だけが増えるとなる
自分の場合は別に都会に今は憧れたりしない、田舎の方が魅力があるし自分にあっている老人になると都会には住みたくない、特に東京などに住みたくないだろう
銀座とかなんとか行きたくもないのである。人が混みすぎるからだ
関西でも京都でも行きたくない、今や外人で観光客が増えすぎているからだ
それで情緒も壊されているのである。

芸術とかなると田舎かからしか生れないだろ、文化だってそうである。
ただこの芸術もそのベースになる田舎の生活がなくなったらありえないのである。
飯館村などは森のアルカディとか桃源郷の感じがあったが放射能汚染で土がけずられ放射性廃棄物場となる、ソーラーパネル場になるとかでそこも前の平和なのどかな風景は失われた、だから自分にとってはこんなふうにしたものに怒りを覚える
そもそも田舎を愛さないもの、自然を愛さないものが人間なのか?
東京のような所に平気で住んでいる人間が人間なのか?
そういう疑問が常にあった、そういう異常な人口環境で生活している人間はもはや人間なのかとまでなる
そこからもしかしたら原発事故も生れてきた、まずそういう人たちが自然環境とかを考慮しないからである。ビルの谷間で生きていても平気な人たちだからである。
そういう非人間性が原発を作り出して田舎を破壊したのかもしれない
ただそれに同調したのも地元の人たちでもあるから都会だけの責任ではないともなる

いづれにしろ桜は今年は早くも散った,外の桜を見ることもなかった
散りいぞく桜だった、そして浮かばれぬというとき戦争で死んだ300百万人の御霊だともなる
あの風は強く被害もあった、ソーラーパネルが災害復興団地から落下した
やはりソーラーパネルはこれから何が起きるかわからいのである。
台風などがきて破壊されるかもしれないし土砂崩れもおきてくる
山には作るのは問題がある。ただソーラーパネルは参入しやすいのかもしれない
どこでもソーラーパネルになっているからである。
そしてこの辺では津浪であれ放射能被害で荒地が膨大にふえたからソーラーパネルになりやすいのである。その荒地になったとこに設置しやすいとなるからだ
津浪で磯部であれ右田であれもうそこには誰も住んでいないからメガソーラ場になったのである

2017年04月19日

死を連想する桜(小夜嵐に散る桜ー三島由紀夫の辞世の歌について)


死を連想する桜(小夜嵐に散る桜ー三島由紀夫の辞世の歌について)


夜をこめて風吹きあれぬ残り咲く桜も散らむたちまちにして

我が家に風の荒くも吹き唸りきしみ春の夜落ち着かぬかも

小夜嵐花吹き散らす死ぬ人や世にある時のままならぬかも


 今年の天候は去年から変わりやすい、暑くなったと思えば寒い、寒暖の差の激しいのは去年からだったのである。今も風はうなり吹いている、これは小夜嵐である。

散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐 三島由紀夫

三島由紀夫が死んだの11月だからこれは想像の歌である。
でもそもそも桜は本当に死を連想するのである。それは咲いた思ったら散っているからそのように短い命ということで戦時中は若い人の命は桜にたとえられた、そして桜が散るように死ぬことがいいことだとされたのである。そのことで批判が今になるとでている
若くして死ぬこと別にいいことではないからである。
みんなもっと生きたいと死んだのである。誰も死にたいとは思っていなかったのである。その苦渋の歌も残されいる、全うされなかった生だったのである。
不思議なのは3百万に死んだとしてもその死を今になると深刻に考えないことなのであるこれだけの人間が死んだら一体なんなのだろうと真剣に考えるからである。
それがないというのがわからない、三島由紀夫はそれを考えた人だったのかもしれない

ただ三島由紀夫は有名になりぎた、マスコミにももてはやされた、だから現実社会というより仮想のマスコミでその名が実質の人間以上に拡大化された、マスコミに紹介されて宣伝されると今でもその人物が巨大化されることがある
何百万人の人が見ていればそうなる、ただ今ではマスコミというのはインターネットとか対抗メデアがでて常に批判の対象になったからあの時代とは違っている
第一あの時代にマスコミ自体が批判の対象になることはなかなかなかった
テレビはお茶の間に入りその影響が大きかったのである。
楯の会の若い人の制服を来て行進しているときそれがドラマを演出しているのかと見えたそれが現実とは思えなかったのである。

何かマスコミとかテレビは今でもそうだが現実と乖離していることがある。
仮想の世界と見ている場合がある、それより仮想と現実の区別がつかなくなるのである。それで仮想の作られた映像が真実と思わせられていたことがありそれが問題になった。
イラク戦争の時は油まみれの海鳥を写して世界でイラクはひどいことをするなと怒りになったのである。
マスコミとかテレビは演出するものであり現実と真実とは違ったものなのである。
だから三島由紀夫が現実に決起して自殺のようにして割腹して死んだのには驚いたのである。演技だと思っていたのが現実になったことにみんな驚いたのである。
ただ人間は自ら英雄になろうとしてもなれない、その時代もあるし平和な時代に英雄になることはできない、いくら演出してもドラマの主人公になろうとしても現実ではなれないのである。その時代時代で状況が違ってくるからである。

散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐

散るのは死ぬのは嫌だというのが普通である。でも散るこそ死ぬこそいさぎよい、死ぬこそ華々しいことだとなった、三島由紀夫は老人になることを異常に恐れていたのである。その気持ちはわかる、想像してみても老醜はあまりにも悲惨だったのである。
それはもう自分でもそうだがみんな恐怖なのである。でも逃れようがないのである。
だから早く盛りの時に桜のように散った方がいい、死んだ方がいいとなるのもわかるのである。
三島由紀夫は英雄になろうとしたが演出しても時代でなれなかった、「心の青雲」のプログの都築氏もそうした英雄を望んだ、でも病気になりプログは中断された
都築氏の方が空手の師範であり実践者だったのであるから三島由紀夫より現実的に英雄になれた人間だったかもしれない、でも病気で中断した、プログを読んでいてなぜ透析しているほどなのにあんなに強きなのかわからなかった
人間はどうしても病気になると弱きになる、自分も病気していたからそうだった
自分の病気は腎臓も悪くしたが透析はしていないし結構身体障害者になり苦しかったが
その時介護までしていたからそれほどの病気ではなかったともなる
でも実際は相当に苦しかったのである。

この歌にも三島由紀夫の作られた演出していることが現れている、作為的であり別にさきがけて死ぬ状況にもないのに自らそうしただけだったのである。
それはまさに演技者でありマスコミにもてはやされた人でありそういう人は演技者になりやすいのである。現実の人間は小さくても巨大化されから巨大であらねばならいとなってしまうことがある、マスコミによって作られた虚像になりやすいのである。
その当時はそれだけテレビとかマスコミの影響が大きかったからである。
演技者は現実の英雄にはなれない、今の時代はそうした派手な英雄は求めていないのである。マスコミはテレビは虚像を作り出すのである、今でもそういうことがある。
でも今はマスコミを批判する対抗メデアがインターネットが出てきたりしてマスコミにテレビの報道に乗らなくなったのである。




桜散るー春時雨(仮設になお住む小高の人ー車椅子の行く風景)



桜散るー春時雨(仮設になお住む小高の人ー車椅子の行く風景)

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畑中を車椅子行く春時雨


幾年をここに桜の咲きて散る仮設に小高の人なお住みぬ

はや散りて残れる花も風荒く今日にも散りなむ時はすぎゆく

復興の団地の隣公園に椿の散りぬ3年はすぎぬ


畑の中を車椅子を押して行く人がいる、何かその光景も自然ととけあっているからなごむこれが病院だとそこは無機質な空間になる、人間はやはり障害者になっても自然の中にあるのが幸福だともなる、そういう配慮はなされていない、病院の中に庭があってそこで自然を感じるということもある
ターミナルケアの病院ではそういうことをしている、それは高額になり金持ち用になる
最期の時はただ体だけをみていてもそれが幸福とはならない
だからガンになっても登山したり合唱したりとしているのはそのためである。
最期はチューブで生かされいるのは悲惨である。
それが直るならいいが直らないから悲惨であり非人間的になるのである。
春時雨というのは結構経験するものである。ただこの季語に注意していないとわからないということはある。

川岸に小高の人がいた、一度も会ったことのない人である。その老人は小高に帰るのかと聞いたら新しい家を建てる予定だが大工さんがいないのでできないとか言っていた。
何か小高の人は新しい家建てるという人が前にもいた、でも老人だけが帰って新しい家に住んでどうなるのだろうとは思った
ただこの際金が入ったりしたから新しくするということはあるだろう。
復興住宅には入りたくないと言うのは家賃が結構高いからである。
近くの復興団地は7万とられているとか言っていた、家族が多いとそうなるし所得によって家賃は差があるからだ。
自分の墓の前の復興団地もすでに2,3年は過ぎているしその隣の公園ではそこに住む人が利用している、そこに椿が散っていた。

仮設暮らしというのは5年とか6年とか住んでいるというどういう気持ちになるのか不思議である。それはそうして住んでいる人しかわからないものである。
小高の人が鹿島に六年も住んでいるというのも不思議だとなるだろう。
他でも津浪の被害者でも未だに仮設に住んでいるし新しく家を建てる人はいても建てられない人も多い、原発避難者は小高でも新しい家を建てるというとき補償金をもらったからそうなるし恵まれているとなる
どうして新地駅前にあれだけ土地整備したのに新しい家が建てられないのか?
やはりそれだけの資金がないのだろう、家を建てるには土地こみ3000万くらい必要になるだろう。その金は大きい、そしてなぜ新地駅前の施設が工事がはじまらないのか?
それも人手不足が影響している、建築関係の人手不足は全国的なものである。

ともかく時間と共に次々に変わってゆくのが人間社会である。それが無常なのである。
震災から6年すぎたときもう祖父母とその子供と孫の生活は変わってしまったのだ。
生活が別々になってしまったから若い人は帰れなくなったのである。
この辺の変化が大きすぎたのである。その変化の波にもまれて時間が無常にすぎたのである。



はや散りて残れる花も風荒く今日にも散りなむ時はすぎゆく


今年の桜はこんな感じだった、咲いたと思ったら散っていた
天候の変化が激しい、一日のうちでもかわりやすい、今は風が強くなっている
プログだと一日の変化だが今昼間であり風が強くなったので書き加えた
こういうリアルタイムの報告に向いている
天候は刻々と変わっているからだ、今の季節は花がいろいす咲いたりまた変化が大きいからである



2017年04月18日

落椿の里(橲原をたずねて)



落椿の里(橲原をたずねて)

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夕日さし土蔵の壁や落椿

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立目石



夕日さし土蔵の壁や落椿

この村に子安神社や春の暮

橲原の名もなき墓や落椿

橲原の渓流に和して夕鶯

渓流に声をみがきぬ夕鶯



滝響き高きに咲きぬ山桜夕日のさして風に吹き散る

夕日さし散りし椿や橲原に名もなき人の静かに眠る

渓流に鶯鳴きて橲原の夕ぐれあわれ山桜散る

橲原に御堂の一つ夕ぐれや枝垂桜に暮るる道かな

立目石夕日のさしてここにあれ渓流のひびき春の日暮れぬ

橲原に一軒隠され家のありたずねてあわれ春の夕ぐれ

橲原の木を柱にしその家に我が住む久し老いにけるかな

帰りきて待つ人なしも我が家かな春の夕星(ゆうづつ)一つきらめく


橲原にひさしぶりに行った、滝の所までは行ったがその奥には暗くなって行けなかった。あそこも放射性廃棄物場になった所があり風致が乱された
ただこの辺では人が住まなくなったというところはない、ただ八木沢峠の麓の家は住まなくなった、それは川をさかのぼったずっと奥である。

橲原(じさばら)というのは不思議な場所である。栃窪とも違う、狭い隠された山間の中にある小さな村である。この村でも江戸時代からあった。たいがい日本の村は江戸時代からある。
そもそもいつも思うことはこうした小さな村が日本には多い、そうしたらどうして暮らしていたのかということが不思議になる、橲原だったら木材資源があり炭焼きをしていたとかは山村だったらどこでも同じである。田畑はあるにしても狭いからその村で食べるくらいはとれた。あとは炭焼きとかで現金収入を得ていた。
炭焼きというのがあり生活できていたのかとなる

自分の家はその時まだ外材が入らないので姉が同級生がいてその人が橲原に住んでいてキリでありその人に木材を選んでもらい買い今の家を建てた
こういうことは戦後まもなくは普通だったのである。
外国は関係ない経済だった、森林でも森林鉄道が網の目のように張りめぐらされていたよように木材であり石材を蒸気機関車で運んだのである。
それは主に東京に運ばれたのである。ただ外国と関係しているというときアメリカに絹製品を売るために養蚕が全国でどこでも盛んでありそれは外国と関係してそうなっていたのである。それが外貨をかせいで外国の資源を石油なども輸入していたとなる
だからその時も外国と関係しないということはなかった
でもその絹製品を生産するのは養蚕だから農業だったのである。
だから山村でもできたしどんな辺鄙な所でもできたのが養蚕だったのである。

ともかくそうした国内経済とか自給自足の村とかに成り立っていたときはそれぞれのつながりが生活の中であった、そういうことは江戸時代から万葉集時代までそうだったし戦後十年くらいまではその延長だったのである。

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

「黒木」は皮のついたままの木のことである

橲原の木を柱にしその家に我が住む久し老いにけるかな

こうなるときやはり生活の充実感を感じる、外材だとそれを感じにくい、それは食糧でも地元からとれたものを食べているのが充実感があるけど外部から入るのが普通だから昔とは違っている、米でもそうだからそこが昔と一番違っているのかもしれない。
熊本地震でも橋が壊れて孤立する村ができた、今でも不便なのである。
今は流通がたたれると生活できないとかいう人がいたが本当にそうである。
あらゆる物資が村や町の外から入ってくるからである。外国から入ってくるのも普通だからである。
そういう生活は便利でも何か不安があり充実感がないのである。
その不安とは何かの異変が起きて外国からは物資でも入らなくなるという不安なのである

橲原は戦後やはり小池ですら戦争の引揚者が開墾に入った人たちがいた。だから開墾に入った人たちがいたかもしれない、ただ狭い所だから飯館村のようには開墾する土地がないからわずかだろう。あの名もない石くれの墓は明治時代からのものである。
なぜあのような墓なのか?普通でも墓を作ることは金がかかるから簡単にできなかったのである。だから墓でも今とは違って粗末なものが多いのである。
まず五輪の塔の墓は武士のものであり庶民はそんな立派な墓は作れないのである。
庶民は江戸時代は墓自体作れなかった、村のホトケッポという場に共同で埋めていたのである。
死者が眠る場所にふさわしいのは山である。だから山にもともと死者を埋めていたのである。
それで万葉集にも死者は山に眠っているのである。その山で死者に会いにゆくということがあった。
海側に墓地があるのは何か今回の津波のように向いていない、波の音がするし落ち着かないのである。

橲原の不思議は隠されたようにある村なことである。今は別に農業しているわけではないみんなどこでも会社員である。ただそこに田畑があり一応農村という外観があるとそこから昔を感じるのである。
だから放射能騒ぎがあってから田畑が作れないとか放射性廃棄物場になるとかそれで乱されたのである。この辺はまだ人が住めるし住んでいるからいいのである。
全く住めなくなった所がありそこは廃村になってしまったからだ。

橲原は落椿の里である。あの名もない墓地の所に椿が散っている、それがなんともあの場所にあっている、そういう場が田舎にはある、その場独特の雰囲気である。
それは新地でもそうであり飯館村でもそうであり何かその村特有の雰囲気がある。
それが放射能騒ぎで乱された、飯館村はソーラーパネルの村になったからそういう雰囲気がなくなった、それが一番自分にとっては悔しいとなる。
そのことで怒りを感じるのである。
例えば都会などは東京でも何か地震でも戦争でも破壊されたときそこはもともと自然が存在しないのだからその跡は無惨でもそんなに感じないかもしれない
そもそもあのような煩雑な場所に人間が住んでいることが異常に思えるのだ。
感覚的におかしくなってしまう、若いときはあのような都会の方でも良かったのである。田舎はなにもないものたりないものとして嫌っていたのである。

とにかく元のような平安な村にもどることである。それは橲原だけではない、避難区域になったところでもそうである。そういう村が消失したということは大きな損失なのであるそして放射性廃棄物場になりソーラーパネルの村になるのも困るのである。
海岸側はある程度はしかたないだろう。山村までソーラーパネルになるのが嫌なのであるでも飯館村ではなってしまった。橲原にはないが原町でも奥の方にソーラーパネルが設置されていたりする、それが数は少なくても嫌だとなる

それにしても家族が待っていない、それでも我が家なのだろうか?
家族がいないという経験もまた不思議である。介護していたときはやはり家族がまだいたから違っていた。がらんとした大きな家に一人いることが何か違和感を感じる
淋しいということもある、でも組でも四人は自分と同じく一人暮らしであり大きな家に住んでいるのである、一人は女性なのである。そういう独居老人が増えているのだ。
そこに問題も起きるのである。
何か家族がいないと誰かと話したいとかなってくる、それでスーパーであれ人ごみに老人が行くという気持がわかる、自分も家族がなくなってから人がいるところに人と話したいとなり駅に行ってボランティアしている、そこで人に話しかけているのである。
それを嫌がられることもあるが外からきた人には案内ということがあり用があるからいいのである。

今年の春は桜が散るのが早い、山桜さえ散っていた、山桜は染井吉野より遅く咲くがもう散っていたし船岡の千本桜も散っていたと車で行った人が言っていた、全国的にも桜が散るのが早かったことはまちがいない、今年は外に桜を見に行く前に散ってしまったとなる

タグ:橲原 落椿

2017年04月17日

朝桜(相馬市から新地まで-俳句十句と写真)


朝桜(相馬市から新地まで-俳句十句と写真)

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相馬氏の八幡神社

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相馬神社
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相馬の城跡の堀の桜


新地の景色

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今落ちた椿
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新地を行く電車
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ここから海が見えた

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新地駅

注意ークリックして拡大しないときれいに見えません

今回の写真はみんな大きくしないと見栄えがしません


朝桜遠くに行かむつばめ飛ぶ

八幡の鳥居の赤く朝桜

金色の錦鯉に朝花散りぬ

金色の錦鯉浮き朝桜

馬を曳き相馬神社の朝桜

今落ちぬ椿の赤し望む海

朝桜海を望みて新地かな

新しき新地駅かなつばめ来る

残雪の蔵王光り見ゆ新地駅

春の朝海を望みて電車行く

草萌えて電車の行くや望む海

薬師堂帰りきてあわれ夕桜


朝日さしロードに走り風に散る花や遠くに我が行かむかな



朝からロードで新地まで行った、途中八幡神社の桜を見た。朝日がさし晴れていたからきれいに写真がとれた、写真は光の影響が大きい、桜はすでに盛んに散っていた
あそこの錦鯉に金色のがいて写真にとれた。
相馬神社では馬を曳いていたのは神社で野馬追いの馬を飼っているから相馬らしいとなる
新地の風景は変わってしまった、電車が海を望んで走っている、あういう風景はまるで変わった風景だし駅でもそうである。
新地の地形の特徴は海と接して高台になっていて海が望める
その高台に家が点々と森につつまれてあるからいいところである。

仙人は山の上から手を延ばして海の貝を取って食べていたと言われ、その食べ滓の貝殻が山のなかから今でも見つかるとのことです。これは、縄文時代の貝塚であり、この地域には石器時代の昔から集落があり、その遺跡が後に伝説を生んだと見られます

手長明神の伝説は各地にあるとして新地はその伝説が勝手に作られたものではない
現実に海の近くの高台に貝塚が発見されている、貝をとって暮らしていた人たちがいたのである。そういう地形になっているのである。
だからなんでも伝説でも歴史でも地形をみることが大事になる、その地形は地図を見ただけではわからないのである。

新地は津波の被害が大きかったけど新地駅は前より開発された良くなったし風景までが変わり電車からみる景色も海が広々と見えるから良くなった。
ただ風の影響を受けるので自分が見た写真にとった電車も徐行していた、それで写真もとれた。写真をとるにはいい景色に変化したのである。
そして新地にはソーラーパネルがなかった、だから景色が乱されていないからいい
実際に新地の人口は減っていない、若者も流出していないのである。

それに比べると小高でも浪江でも飯館でもその差が大きすぎるのである。
飯館は森につつまれたアルカディアだったけどソーラーパネル工場と化してしまった
あそこの草野に住宅ができるとしても何か住みたくない。風致が乱されてしまったのでがっかりした。
この辺で風光明媚というとき浪江の水墨画のような高瀬川であり森につつまれたアルカディア、桃源郷とかが飯館村であり新地は手長明神の伝説が残る海に接して高台に人家がある所としてあった。

阿武隈山脈は森が多いし森につつまれた世界である。だからそういう森の影深いところが多いのである。その風景自体変わっていないが飯館村は変わってしまった。
それが残念なのである。第一土がけずりとられたままで田畑も耕作できなくなったからである。だから飯館村が離れていたけど原発事故の影響が大きかったなと思う
何かそうした風景というのは景観というのは心に影響する、ソーラーパネルはその景観を乱すから嫌なのである。でも土地の利用方法がないからどうにもならないのである。

源義家の〈吹く風をなこその関と思へども道も狭(せ)に散る山桜花〉

今回は朝桜が晴れ渡り映えた、そして風で桜は散った、天候も昼間からは曇り雨も降ったそのあとまた晴れたのである。
だからこの歌がふさわしかった。ここでは山桜になっているけど自分が見たのは染井吉野の桜である。第一山桜だとこんなに散る景色は見ないのである。
だから何かこの山桜と染井吉野が混同されやすいのである。
これは感覚的には相当に違ったものであるが今は染井吉野の桜を見ているのが多いのである。

帰りは日立木の薬師堂の桜を見て帰ってきた。今回も疲れてぐったりして病気のようになった。何か疲れやすくなった。だから自転車は苦しくなった、でもやはり自然と一体化するのには自転車でありまた車もないから自転車で行く他ないのである。

2017年04月14日

朝桜(今年の桜は・・・)


朝桜(今年の桜は・・・)

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鳥の飛び海を望みて朝桜

東風(こち)吹きて海を望みて朝桜

誰か見る桜咲きそめ昼の月

雨ぬれて水々しかな春の草

春の日や山鳩待ちぬホームかな

一里ほど歩いて大地に草萌ゆる

浪江まで開通するや草萌ゆる

山一つ霞むや遠く暮れてゆく

金屏風桜の映えて大広間

政宗の60万石の夕桜


みちのくの桜さきそむ雲間より月いで光りまた隠る

咲きそめし桜やあわれ雨しととぬれてまれにし人の行くかな

たちまちに死してかえらぬ人にあれあといくたび桜見むかな

若くして死す人あわれ生きたしと咲きし桜にその思いかな

満開の桜の風に吹きゆれぬ亡きにし人もかくありしかも

満開の桜そ今し朝日さし輝きけるや鳥飛びわたる

広々と海の開けし満開の朝の桜の丘に映えにき

盲人のまた来たりしやみちびきぬ駅舎に我の今日もありにき


今年は何か気候が変則的である。昨日は冬のように寒く今日は夏のようにもなった。
こういう気候は去年からつづいてる、寒暖の差が激しいのである。
今日の一日はまず駅に行った、そしたらやはり前にあった盲人がいたので導いた。
外部からの人も来たが仕事はわからなかった

それからロードで金沢の方に向かい坂をおりるとき転んだ、そこは急な坂でもなかったが坂はロードだと危険になる、下り坂は自転車では危険になる
前にもそういうことがあった。ロードだとスピードがでているから余計危険になる
そこは転んでも転びやすいところであり草地でありケガするとは思わなかった
自転車はパンクしたのか傷ついたが自分は何の傷もなかったので良かった

そこでそこから歩いたから疲れた、でも歩くことで発見することがある
現代は歩くことが人間回復なのである。つまり歩くことが新鮮な経験なのである。
歩いて見える景色は感覚は違っているのだ
人間の感覚は歩いてみる景色と自転車から見える景色と電車から見える景色は違っている車から見える景色は自分にはわからない、ともかく歩くことが新鮮な経験になっているのだ。車社会になると本当に歩かない、大地をふみしめて歩むという基本的なことがないのである。だから車ばかり乗っていないで歩くべきだとなる。

街まで一里くらいあるいた、草萌える季節であり遠くに鹿狼山が霞んで見えた
歩くことによって俳句でも短歌でも詩でも絵心も生れる、歩くことは新たな発見することなのである。
峠だって歩いて越えたら感覚的に違ってくる、歩けば江戸時代にもどる、江戸時代にもどりたいとか自分は書いてきたが江戸時代にもどりたい、江戸時代を経験したいのなら歩いてみることである。歩いてみる景色が江戸時代になるのである。
戦前までは結構歩いていた、車も乗っていないから歩いていた。
鉄道も実際は高い乗り物だから庶民はそんなに乗っていない、リヤカーとか引っ張り馬を利用していた、鉄道は貨物も多かったのである。

人間を回復するというとき車社会を一時的に拒否することが必要になる
だから鉄道の駅が意外と人間的な場所だと発見したのである。
車社会というのは何か否定できないものでも人間的なものを失わせたことがある。
車には人の出会いとか人間のぬくもりとかを拒絶するものがあるからだ。

今年の桜はあまり感じるものがない、ただ家族がみんな死んだのでそれで桜をみると死んだ人を思い出す
満開の桜のように咲いていたときもあったなと思い出す、それも死んでしまえば昔のことになる
最期は無惨に死んだ、みんな輝くと時は短いのである。
結局それは貧乏人だろうが金持ちだろうが栄華を究めても同じである。
一時の栄えだったとなる 

秀吉であれ政宗であれ結局一時の栄華を究めたにすぎない、別に自分の家なども規模は小さくても栄華があったが死んで消えた、
今跡を継いでいるのが自分だとなる、自分は何もしていないけど受け継いだだけだとなるがやはり栄華がある
貧乏のままで終わるのもまたわびしいとはなる、いづれにしろ栄華は一時のことなのである。
人間は王様に生まれても寿命はみんなさほど変わらないからである。

2017年04月10日

今日の鹿島駅(九州から来たボランティアが去る)



今日の鹿島駅(九州から来たボランティアが去る)


今日駅であったのは九州の福岡から来た人だった、ボランティアはまだ来ている、この前の人は新潟から来た人だった、名取の空港から帰る
九州となると新幹線でも遠すぎる、その人は前にも19時間かけて来たとういう。
小高の方でボランティアしている、ではなぜそんな遠くから来たのか?
鹿島駅の前のホンダの販売店がありその人もホンダで働いていた、その社長と友達だから来たという、何でも小学校に米を寄付して喜ばれたとか言っていた。
それにしても交通費だけで費用がかかると思うわからないがその交通費とか日当とかはボランティアでもでるという人がいるからそうなるのかもしれない、そんなに費用をかけてくることは容易ではないからだ

そもそもボランティアは何かあまり負担になることは向いていない
自分が無人駅の駅員としてボランティアしていると言ったら笑っていたけど
こんなボランティアはまず金の負担も何も負担を感じないからやれる
別に感謝されなくてもいい、そんな軽いものだからやれる

第一ボランティアで交通費でもかかるとしたらやりにくいだろう、最初の津浪の被害のときは自腹で来た人がいた、そのあとは国なのかわからないが交通費を出しているとかいう交通費くらいだしてもらわなければボランティアでも負担になるからできないと思う
そしてボランティを受け入れる側でもボランティアは継続的に来ないから役にたたないとか言っていた
今継続的に来て役に立っているのは花栽培を援助してくれる一つの大学だけだと言っていた。
ボランティアでもその場かぎりで去るようでは役に立たない、継続的に支援してくれないと支援される側もこまるのである。
だから海外の援助でもそうである。一時的に災害があったからと応援するより何か一つの目的のために継続的に支援してくれる人を望んでいるのである。

ともかくこの辺ではこの前は長崎の人が原発で働いていると来ていた。だから遠くから来る人はめずらしくない。
昨日は京都から来た人が大内にタクシーで行った、あそこにはプレハブの宿舎がありそこで働くのだろう。その人も大阪の伊丹空港から来たという、やはり今は関西とか九州になれば飛行機を利用する。

駅でこうして遠くから来た人を見送りしている、迎えるというのも駅の役割である。
駅というのが無人駅でも何か淋しいとはなる、別にいなくても困ることもないが他の遠くから来た人も言っていた
何か無人駅だとこの辺は淋しい町であり活気がない町だと見るというのも本当である。
この辺で無人駅となると日立木とか駒ヶ峰があるがそこは本当に淋しい町にもならない、村という感覚になるからだ
一人くらいしかのりおりがない無人駅である
ローカル線にはそういう一人くらいしかのりおりしない駅がある
だから北海道ではもうローカル線は維持できない

なぜ東JRがローカル線を維持できるのかというと新幹線の収入があり駅の中での店とかホテルとかも経営しているからその収入がありローカル線も維持している
常磐線の津浪の被害にあった区間を400億かけて直すことができたのも全体でそれだけの収入があるからだ、ローカル線は新幹線とつなぐために今はあるともなる

今は車の社会であり第一電車の乗り方さえ知らない人が多い、どうして電車にのるのかと知らない人がいるのに驚く、要するにそれほど電車は乗っていない、車だけの生活になっているからそうなる
電車の不便さは駅から用たすにしてもタクシーとか利用しないとできない、そうなると費用がかかる、高校生は自転車を利用しているが一般人はできない
駅からの交通の便がないのである。そこが一番の問題なのである。
そして駅から離れたところに病院がありスーパーがあったりと駅前通りはシャッター通りになって買物もできないのである。
ただ原町の駅前通りの靴屋にはいいものがおいてあった、あそこの店は見直した。
駅前通りを歩まないから何があるかもわからなくなっている

街の活性化というとき駅を見直すことも必要になる、駅は確かに街の玄関なのである。
外から来る人もまず駅におりたち駅からその市町村に入ってゆくから駅が印象的な場所になる、何か家でも玄関をきれいにしておくと運が良くなるとかいうのとにている。
その家の印象は玄関で決まるということをいうときにている
玄関は福を呼ぶ場になるのは人が出入りしてその家の印象が玄関で決まるとなるからだ。とはいえ自分は玄関も掃除しないとかあり自分の家は北向きで暗いからいい玄関ではない人間は何か明るい所をどうしても求める、店でも暗い所に入りにくい
原町なども駅前通りは狭苦しく暗いのである。どうしても日本の通りは暗い、狭いこともあり路地裏が多いのが特徴である。
沖縄の店が海に面してあったのはいい場所にあって気持ちいいとなる、いつも海が見える場所にあったからである。
景観というのは人間の気持ちにかなり影響する、それで古来から風水の思想が生れたのである。
どうしても人間は毎日住んでいる場所に影響されるからである。大都会だとどうしても狭苦しい所に住んでいるのが多いから心に余裕がないとなる


2017年04月03日

春時雨(原町の駅前通りを歩む)


春時雨(原町の駅前通りを歩む)

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原町の通り歩みて春時雨

春日さす通りに鳩や歩むかな

原町の通りを歩み柳かな店を見につつ帰りけるかな


昨日は浪江を歩き原町により食事をした、それは原町の駅前通りだった、ただその食事はエブフライとかだったが味は良くなかった、チェーン店で作るのとは違うプロが作るのとは違う味だった、それは家庭料理の域をでていない平凡なものだった
やはり揚げ方がうまくできない、料理は自分もしたがむずかしいしめんどうなのである。だから自分は未だにまともな料理ができない、これも結局才能だった、向き不向きだったどんな人でも何でもできるわけではないのである。
人間は何かができる得意だとしたらその他のものはできないともなっているのだ

原町の駅前通りはめったに歩かない、自転車で六号線の道の駅にある方に行くからであるそこで用をたしてしまうからである。
でも街に来る楽しみは通りを歩き季節を感じたり買物することである。
通りを歩むのとイオンとかで品物だけに囲まれるのとは違う
通りを歩むとやはりそこに自然を感じるのである。

昨日は晴れていて本当に春時雨だった、春時雨は結構経験している、なんか雨すら甘い感じがするのである。通りを鳩が歩いているのも平和である。
歩いて経験する、歩いて見えるのものが違ってくる
そして現代はこの歩くことが極端に喪失した時代なのである。
ただ通りでも車は通りすぎて行くだけだからである
歩くことは人間回復になる、本来の五感をとりもどすことにもなる

だから通りが廃れたけどこれからまた見直されるかもしれない、高齢化社会になると車を利用しにくくなるからだ
ただ原町の通りは狭いし歩きにくいのである。相馬市は歩き安いし新しい通りを作った
だから歩く楽しみが他よりはあるとなる
城下町の雰囲気がそれなりにあるともなる

本当は通りでも街でも改革しなかぎり人を寄せつけることはできないだろう
旧来の通りはもう時代にあわないからである。
でもそれには相当な改革が必要になりできない、だからかえって津浪で街全体が喪失したような所では新しい街が作りやすいということもある
新地駅周辺とかはそうなった
通りの復活は旧来のままではできないからである。

靴屋で買物した、いい安いぴったりの靴があったのは意外だった、品揃いもいいものだった、いつもイオンとかの靴屋で買っていたがあそこにはいいものが置いてあった
要するに買うつもりではなかったが通りを歩いているとのぞいたりするから買ったりもする、つまり街には人の流れが必要なのである。
そして歩く楽しみがある通りがあればいいとなる
図書館などが駅前にあるのはあっているかどうかわからない
図書館はかえって閑静な郊外とか森の中にあるような所がいいかもしれないからだ
第一じっくり勉強するには本を読むのでもそういう雰囲気が必要だからである。
ただ自分は図書館に10年くらいほとんど行っていない、その時間が今でも家事は追われなくなったからである。

それにしても朝日公園の通りの店の裏が廃屋化していたのはまずい
あんな街の中心があのようだと荒廃している感覚になる
正直駅前と通りは魅力がないのである。ただ春時雨とか自然を感じるというのは違っている、若い女性だったら街をさっそうと歩きたいとかあるだろう
イオンだとかただ買物ということしかないからである。
通りとは街とは商品だけではない、人を見せる場所でもあるのかもしれない
そういう機能が街にはある通りにはある、だからこれから見直されるかもしれない
人間は買物だけではつまらないとなるからだ。




タグ:原町 春時雨

2017年04月01日

浪江町の春の詩 (浪江駅開通を祝して)


浪江町の春の詩

(浪江駅開通を祝して)

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春の渓流轟き鳴りぬれ
巌重なり塔なして
景勝の地、高瀬川にあれ
奥をたずねて心洗われむ

清流の岸辺、根を張る木
古の技を伝え育む
大堀の相馬焼きの窯元
畑耕す人もありしも

広々と海を望みぬ請戸港
漁に出る船や勇ましかも
鴎群れ飛び波のひびけり
大漁の時もありて港にぎわふ

浪江にそ二つの川の流れけり
鮭の上りて幸もあれ
川岸の桜並木を歩むもなつかし
いつの日か往時の栄いもどらむ

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棚塩の海岸

浪江はやはり高瀬川である、あの川はこの辺ではめずらしい、激流であり上流にダムはない、水墨画のような巌がある、あれが名勝の地である。
景観的にも二つの川があり恵まれている、海も望み請戸港もあり魚もとれたしあそこには岩手県の宮古から鉄の材料が運ばれて葛尾村で製鉄されて葛尾大臣の伝説が生れた

それから相馬焼きの窯元が大堀にあり高瀬川の上流の岸辺にあり立地的に恵まれていた。浪江町はこうして実際は景観的には恵まれていたから観光でも人を呼べる環境にあった
ただそれも請戸港から原発の煙突が見える、そんなに近いのに実は請戸港の放射線量は0、5とか低いのである。海に放射線量が流れたから海側は低いのである

それにしても請戸港は津浪で壊滅した、それがあまりにも酷い風景である。
ただすぐ近くに原発の煙突が見えたのだから危機感を感じる人がいたかもしれない、
でも実際は漁業権を東電に売り渡していい暮らしをしていたのである。
それが今になって露になり批判されている

ただ浪江とかなると実際は原発で働く人があれだかけ近いのだから三分の一はいた、原発は賃金が他により危険だから二倍三倍になるからだ
それで家を建てたという人がいたり金持ちになった人がいたのである。
とにかく経済的には原発周辺はうるおっていた。
だから誰も今でも東電を批判できないんだよなとなっているのである。

でも原発事故はあまりにもこれもひどいものだった、村とか町とか消滅させるほどの被害になるとは誰も思っていなかった、もう大堀の相馬焼きは回復しない、放射線量があそこは高く以前として避難が解除されないからである。
もうすでに相馬焼きの窯元は白河だとか二本松だとかではじめている、大堀で相馬焼きが作られることはないのである。

浪江町には二つの川があり風光明媚な土地だったのである。海はあり川あり山ありといい所だったのである。それが回復不可能になったというのはなぜだろうとなる
それほど原発事故の被害は大きかった
結局、原発でも公害になるとみんなだめになるというのは本当だった

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結局細々としてもそこには自然が汚されずあった、そこで町でも村でも継続されたのである。
まず公害になると市町村自体が継続されない消滅の危機にさらされるのである。
この辺ではつくづくこれと同じ反省を強いられているのである。


写真絵はがき-ここに激流の高瀬川


参考となる詩

浜街道春の浪江町

高瀬川轟き流れ春の日や
広々と浪江の大地開けたり
大堀に陶工の業は受け継がれ
相馬焼きの一品を買いぬ


高瀬川春の光にきらめきて
山鳩の嬉々と飛びつつ
春の日に二つの川落合いて
太平洋と流れゆくかな


その昔言祝ぐ橋の一つかな
村と村とは結ばれ栄いぬ
浪江の大地を耕すものや
新たなる力を注がむ


流れ入る川や広々と
かなたに望む行く船や
春の日に鴎群れ飛び
請戸の湊に漁船いでゆく


知られたる高瀬の清水や
西行もここに喉を潤しぬ
浪江の宿や相馬の殿も休み
磐城の境大熊に向かわむ


夜ノ森は余の森なりき
森深く小暗き道なり
その森に境を成しぬ
小良が浜もここより近しも


高瀬川轟きその奥そ深しも
葛尾村は山中郷の相馬藩
三春藩との境を成して
野馬追いの旗を伝えぬ


浪江は標葉郷にて相馬藩
野馬追いにその旗連らぬ
その日のまた来たらむや
相馬の武士の心騒ぐかも

タグ:浪江町の詩

つばめ来る(祝-浪江駅開通)


つばめ来る(祝-浪江駅開通)


我待ちて紛々とにおふ梅の花

梅の花余すことなく香り散る

万作に冬の貴婦人ボケの花

木蓮の蕾ふくらむ希望かな

10羽ほど一気に来る燕かな

浪江駅開通するやつばめ来る


東風(こち)吹いて枝のゆれにき四十雀しきりさえづりわたり飛ぶかな


今日は十羽ほど燕が来ていた、普通は一二羽と見かけるけど今年は一気に十羽も燕が飛んできていた、そして浪江駅が開通した
何か縁起がいい日だとなる、復興には曇っていたがいい日だったとなる
燕が来るということはやはり何か新しいものがもたらされて何か新しいことがはじまるとかそういう兆しとして燕が象徴されるからだ

でも実際は浪江町でも前途は厳しい、17パーセントとしか帰らないとか帰るのも老人だけである。自転車屋をはじめた人も78歳だとか跡継ぎもいないから店は補償金もらってやめたとかそんな人だけでは復興できないだろう。
でも浪江町はそもそも拠点となる町自体を失い役所も他の市町村にもうけていたので浪江町が避難解除されたことで拠点ができるのはいいことである。
復興するにも地元に帰らねばできないからである。浪江町では公務員が忙しくてやめたいとか言う人がいるというのも公務員は一番恵まれていたなど田舎ではなっていたがそんなものでもなくなった、もう町の生き残りをかけて仕事せざるをえなくなったのである。

浪江町に鉄道が開通したら避難解除したら行きたいのは高瀬川である。
あの川は激流となっているから他の川とは違うし名勝の地であった
ただあそこに大堀焼きの窯元があったがそれもなくなったし放射線量が高い所でそこは避難区域のままであり立ち入り禁止になっているみたいだ
そうなると浪江町の魅力がなくなる、でも駅が開通することは復興のはずみにはなる

東風(こち)は浜通りでは海から吹く春を告げる風である。
その風でしきりに枝がゆれ四十雀がさえづりつ飛びわたってゆく,いかにも春らしい
だからまた遠出したくなった、ただ自転車となると体力的に厳しくなっている
でもなんか自転車でないと自然と一体になりにくいのである。

吾妻山の記憶としては白木蓮である。

山高み残れる雪に木蓮の白さや朝の風に走りぬ

この辺では高い山がないから吾妻山は高い山として望めるから気持ちいいとなる。
これも自転車の旅だから記憶に残っているのである。
鉄道とかだと風を感じない、すると記憶に残らないのである。
意外と車でも風を感じない、するとその土地のことつまり風土が記憶されないのである。
ともかく介護もないから今になると自由にまた旅ができる、だからまた行ってみたいとなる





タグ:つばめ来る

2017年03月24日

春の日の駅(広域化社会が人を分散させる)


春の日の駅(広域化社会が人を分散させる)

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蝋梅や塀静かに猫歩む


この町に住みしと遠く去りにけり我が見送りて春の日さしぬ


駅であったのはカナダのトロントから母をたずねて来たというのも意外だった、昨日は鹿島区の住宅に住んでいたと、中学と高校のとき住んでいたという女性が来た
その人は東京に夫がいて大阪に住んでいるというからどういうことなのか?
母が住んでいると沖縄から来た若者もいた、何かキャンプでする格好をしていたから沖縄で自由に暮らしている若者かもしれない、沖縄にはそういう人が結構いるからである

仙台から来る人が一番多いが他にもいろな地域から来ている、これは別に原発事故で避難したためではない、それとは関係ない人たちなのである。
現代社会は前にも書いてきたが広域化グローバル化社会である。
その影響をどんな小さな田舎町でも受けざるをえないのである。

なぜ原発事故が起きて避難区域に人がもどらないというときこういうふうに広域化グローバル化した社会が影響している
どこにでも住んでいい、昔のように故郷とかにこだわりそこに縛られる社会ではない
そういう社会のいい面もあるが悪い面もある、結局地域の結束力がなくなり金さえあればどこに住んでいようがかまわないとなる、だから補償金一億円でももらって外に暮らした方がいいともなる
広域化社会とかグローバル化した社会は金の力は大きくなる。
田舎でも同じなのである。
大東建託がまだアパートを建てている、もう10以上建てている、それだけの需要があるのだろう。

家でも新しく建った家はみんな外から来た建築会社であり地元ではない、これも広域化社会なのである。自分のユニットバスをつくってもらったのは仙台の会社だった
それで地元の人が怒っていた、仕事をまわせと怒っていた
でも地元だと二倍になっていた。仙台からこうした会社が仕事を求めてくることはそれだけ地元でも競争にさらされているのである。

地元の会社でも地元の人が経営しているのではない、東北サッシが神奈川に社長がいてそこが本工場なのである。たいがい地方の会社や工場はそうなっている
それも広域化社会だからそうなっている、すると地元の材料で家を建て地元の食料でまかなっていた時代とはあまりにも違うのである。
そのことは地元にこだわらない、どこに住んでも金さえあればいいとなってしまう

ただ故郷というときいくら広域化してもグローバル化してもこだわるものがある
アイディンティティを求めるものがある、それは先祖の地だとか代々受け継がれてきたものがありそこにアイディンティティを見いだしてゆく
祭りなどがそうである。何か他にも家があるというときそこには単なる人が住む箱ではない、思い出がつまっている場である。

だからおそらく中学と高校時代にここに住んでいたというときなつかしいとなり訪れる
それがここに育った人なら先祖代々の家なら余計にそうなる
ともかくここに住んでいたとか言う人も結構来る、それだけ人は今や分散化して広域社会に住むようになったのである。

2017年03月22日

春の日の短歌


春の日の短歌

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新しき視界開けぬ春の山

new sight open in the distance

I look around mountains in spring


やすっぽし壺の壊れて悔やまぬも価値ある壺の壊れて惜しも

白菊に朝の日さして金盞花添えて咲くかな我が部屋に見ゆ

こころよく仕える人のあれにかしその女なしも我は哀しき

蝋梅に朝の日さしてなおも咲く母なき後の部屋にいるかな

電車の音のひびくを家に聞く仙台に通ず春の朝かな

駅前に黄のクロッカス咲きにけりその明るさや客を待つかな



壺でも価値のある壺が壊れたら惜しいと思う、でも安っぽい壺なら惜しいとは思わない、ただ壊れたかとかなるだけである。やはり人間も価値が違っている、
ただ人間の価値はわからない、ロックフェラーが死んだけど巨万の富を残したけどその人がどれだけ価値があるかもわからない、どれだけ人類に貢献したかとなるとわからない、むしろロックフェラーは悪の権化のように影の支配者のように常に陰謀論で言われているからである。
本当にロックフェラーが価値ある人物だったかどうかわからないのである。
とすると金だけで人間の価値も計れないとなる、なぜならそれだけの巨万の富を残したのだからそうなる、金で計れば一番価値あるとなるからだ。

金盞花と万寿菊は同じものだった、この色は明るい、確かに金色に輝いている
人間でもまずこころよく仕える人はほとんどいない、いやいやながら仕えている、働いている、金のためにしかたがないんだよなとなる、でも家族だったらそういうことはない
結局家族がみんないなくなってその悲哀を介護から十年間自分が苦しみ悲しんだ
家族がいないことがどれだけ悲惨なことになるか今になって身をもって経験したのであるそれも自分のカルマだった、なんらか起きることはカルマなのである。
複雑ではあるが蝋梅はまだ咲いている、3カ月咲いている、こんなに長く咲く花はない
だから長寿の花としてふさわしい、そして人間は死んでも何かその後がある
家というのは嫁いだ娘のことをその部屋に親が偲んでいるとか何か家にはそうした思い出が残る、人間の家は単なる箱ではない、何か精神的なものが付与されている
だから原発事故でも津浪で避難した人はその家がなくなることが悲しいとなる
家に帰りたいというとき家は単なる物ではない、箱ではないからそうなる

電車が仙台まで開通して不思議だと思ったのはその電車の行く音が家までひびいてくる
それは仙台まで通じている音なのである。
今までは相馬市と原町間の短い区間であったが今度は仙台からさらに遠くへと通じている音である。それが春にふさわしい
この辺では仙台に行く人も来る人も多い、この前は岩切から来ていた。
駅で送り迎えしているのが自分である。駅は今まで感じなかったがそうして人が交わる場所だったのである。バス停にはそういうことはない、何か駅は単に人を運ぶというだけではない、駅に駅前に広場の役目があるとか何か人と人が交わる場所としての機能があっただから駅というの交通の手段としてみるだけではない、そうした別な視点からも見ることが見直すことが必要である。
交通の手段だけだとすると車にはかなわないからである。鉄道とか駅とかには他の役割が機能があるべきでありそうすれば駅も鉄道も活性化するともなる


2017年03月20日

春の日にパークゴルフ場から向かいの山に上る (山から海が広々と見えるようになった)


春の日にパークゴルフ場から向かいの山に上る

(山から海が広々と見えるようになった)

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パノラマ パークゴルフ場の向かい側の山から見る-クリック拡大

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春の山沖に船行く望む丘

船二艘望む丘かな春の海


川子のパークゴルフ場に行った、そこで話を聞いた。

「パークゴルフは簡単にできるもんですか」
「なかなかそうでもないです、ゴルフやっている人も苦労したと聞きましたから」
「この回りを自転車で走れるコースにするのもいいのでは、自転車が好きなもので」
「いや、パークゴルフの玉は重いから危険です」
「あの玉は重いんですか」
「転がってくると危ないです」
「そういうもんなのか、簡単にはできない」
「上達するには訓練もありますしみんなが上手にはなれない」
「そういうもんですか、なんか甘くみていたな」

前の人はパークゴルフは簡単にできると言っていた、では簡単にできるのかと思った、今日聞いた案内の人はかなりむずかしいと言っていた。
前の人はパークゴルフのことを知らなかったのである。
ともかく何であれ遊びだって知らないということは経験していないことは簡単に考えてしまうのである。あの玉が転がってきて危険だとは思わなかった、確かに重そうに見えた

自転車走るのは無理なようだ、向かい側の森を切った所の上り道を電動のマウテンバイクで上ったら山から海から視界が気持ちよく開けた。
この辺は何か森を切ったりして土をとる場所が多いのである。あそこもそうなのかもしれない。ただ道ができていて上に上れるようになっていた
あそこは何かマウテンバイクのコースにはいいなと思った。

山も見えるし海も見える、海には二艘の船が行くのが見えた、あそこを整備すれば気持ちいい場所になる。見晴らしがいいからだ

その後は右田の方にでて帰ってきた、途中津浪で流された右田の墓地に墓参りする女性がいた
何か津浪で変なのは海老でもここでも烏崎で墓地が残り家がなくなっていることなのだ
墓は立派なのが多いのである。
だから常にこの逆だと良かったのになと思う
墓地が残って肝心の住む家がみんななくなってしまったからである。
墓地がなくなっても家があればまた墓は作れるからである。
家がなくなり墓参りする場になったというのも奇妙な感じになる
その人は家を町内に建てたという、仮設でも原発避難者と小高の人をうらやましがっていたかもしれない、津浪の被害者には補償金は出なかったからである。
その女性は家を建てることができたのだから余裕がある人だったのかもしれない。
海老の人はローンで苦しいと言っていた。

ともかくあそこの土地はどうするのかやはりソーラーパネル場になるのか?
田んぼにするとは言っていた、何かにしないと金も入らないしただ荒地になっているだけである。だからどうしても何か金になることに使うようになる
それがみんないいとは限らない、ソーラーパネルがどうしても一番作りやすいのである。
地元のことでも良くわからないことがある、パークゴルフでも経験していない人はわからないのである。また土地の利用をどうするかなども関心をもつ
それは毎日行き来しているからそうなる、何かこの辺は突然にソーラーパネル場になるのが多いのである、これは全国的にそうである。
ソーラーパネルは意外と簡単に設置できるかばしれない、そんなに大工事にはならない
何かそうして安易に作れるからこんなに増えたのかもしれない、業者も増えたのである。それがかえって景観の破壊に通じていたということがある

2017年03月18日

春の日に原町の街中の牛飼う農家から原ノ町駅を見る



春の日に原町の街中の牛飼う農家から原ノ町駅を見る

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パノラマ写真ーソーラーパネルがあるのも今の風景である。
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クリック拡大

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この石はいい石である、これだけの石があり新築である。
誰が建てたのか?気になるが原町は広いからいちいち気にしていられない

古いままの原ノ町駅

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ここにレールが使われていた




紛々と梅のにおふや晩年に

梅林や牛に山鳩畑かな

街中に牛飼う家や春の雲

大石をすえて新居や梅におふ

春耕や残る街中の畑かな


久しくも一本松のここに立ち一つの池の水ぬるむかな


梅は盛りでありいたるところにおっている。晩年というとき一見年取って嫌だなとみる。でも自分はあらゆるものを深く見れる鑑賞できる、詩などもいいものが創作できる
今まではなかなかいいものが作れなかったが自然にできるとなる
やはり芸術などもなかなかすぐには理解できないし創作もできない
それだけ自然を知るのには歳月が必要だともなる
普通の人だったらどうしてもそうなる、だから大器晩成とは別に大器でなくても理解が深まるし創作もできるようになるのだ。

今日見た風景は変わっていた。六号線の高見町から海の方に行くとそこは工場があり倉庫などがある一帯である。渋佐地区になる
仙台にも卸町とかありそういう場所であり景色は良くない。
でもそこに牛を飼う農家があり畑もあった。この風景も不思議だった。
こんなところに農家があり牛を飼っているというのもにあわない風景だった
この辺はもともとは田畑であり農家があった所である。

この梅林に山鳩も来ていたし鳥がとまっていて春の雲が浮いている
何か牧歌的だなと思うが全然そういう場所ではない、第一ここに農家がある、牛がいるということがそぐわないのである。
でもこういう場所がまだ街中に残っていたことはなごむともなる

何かこの辺でも新築の家が増えた、浪江の人が建てた家もあった、小高の人も建てたし相当に原町でも新築の家が増えた、原町はこの辺では一番住むには便利だからである。
原町は大きいからわかりにくい、鹿島区くらいだとすみからすみまでわかるとなる
それでもわからないものがあるのが現代の社会なのである。

今日は原町駅に行き原町の駅舎を見た、そしたら意外とそれは鹿島の駅舎と同じく明治30年に作られたままのものだったのである。
改装はしても中味は変わっていなかった。
南相馬市のチャンネルで原町駅のことを説明していた。
ホームにレールが使われていた、あれは気づかない、なぜレールなど使ったのだろうか?やはり明治となると鉄が貴重であり建築するにも利用したとなる
壁は自分の家がそうだったように土壁だったろう、するとまるで大きな農家のような造りだったとなる、原の町駅は大きいから昔は残っていないと思った。
蒸気機関車のとき方向転換する場があり大きな駅だった、今は半分くらいに縮小している

高校のとき通った駅だがその時蒸気機関車だったけど鉄道自体に興味はその時もっていなかった。やはり人間は興味をもたないと注意して見ないのである。
勉強だって興味がなければしないし強制的に試験があるからとやらせても身につかないのである。
鉄道だといろいろ興味をもつ人がいる、一番多いのは撮り鉄である。
デジタル写真の時代だからそうなる
ただ鉄道は自分でも原町に行くときめったに乗らない、買い物でも自転車である
途中回れないとかへ不便である。駅に来ても歩いて用たせないから困るのである。
タクシーになるとまた金がかかるからである。駅からのアクセスが不便だから利用しないそれで北海道は半分廃線になというのもわかる。
日高線を復旧するのに130億かかるというから洪水で破壊されたレールは放置されたままである。そしてもう復旧できないから廃線にすると会社では言う。
常磐線の復旧は津波で流された区間を直すのに400億かかった
でも東JRでは復旧したのである。今月は浪江まで開通する

今日は彼岸の入りであり原町の橋本町では墓参りの人が来ていた。
原町の街中で畑を耕す女性がいた、まだこういう光景はこの辺ではある。
それでほっとするということはある。
ただ原町の街は通りはシャッター通りでありさびれている、これはどこでもそうである。何か復興事業も一段落してこれからさらにさびれてゆくから困る
それは相当に深刻な状態になるかもしれない、震災前だって生活が苦しい人が多い
そのことで自分はひどいめにあったことを書いてきた。
復興景気は終わるとこれから農産物でも放射能で売れないとか苦しくなる

何か自分でも自分が病気になったり介護になったりさんざんな目にあったことを書いてきた、つくづく負のスパイラルに陥ってゆくのが人間である。
だから小高でも浪江でも飯館でも避難区域になったところは負のスパイラルに陥りやすいから復興がむずかしくなるのである。
結局いいことにいいことが重なり悪いことには悪いことが重なるのである。

また川子のパークゴルフ場によった、あそこに植えた樹が大きくなるにはこれも何十年とかかる、それで夏は日影がなくなるので日ざしをまともに受けたらできないと思った。
海岸地帯も日影ないので夏はいられない、木が育つまでには何十年もかかる、50年もかかるとなったらもう今生きている人は日影休むことができない
でも20代とかなら老人になったときその木も成長しているから休めるとなる
今の老人は日影に休むことができないのである。
だから老人は先は短いからそうした息の長いことをするのに向いていない
だから復興するのにも長い先を考えるとしたらできない

人間は先をみることがつくづくむずかしい、何が起きるかわからないからである。
東芝で失敗したのは原子力に力を入れすぎたことである。
それが未来だとしてフクシマで事故になりその影響でアメリカの会社まで影響して窮地に追い込まれたのである。先をみることを誤ったのである。
それが致命的結果になったのである。
ただその先をみるというときこれは老人ではできない、先がないからである。
たから老人は復興に向いていないのである。



2017年03月11日

今日の南相馬市鹿島区(薪ストーブの家)


今日の南相馬市鹿島区(薪ストーブの家) 

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ここが五六軒が空家になり空き地化している、街の真ん中なのである。



今日の鹿島駅ではない、鹿島区である。自分は毎日鹿島区内を行ったり来たりしている、前から注目していたのが薪を積んである家である。
街中にどうして薪を積んでストーブに使用しているのか?
それが今日薪を積んだ軽トラックの人がいたので聞いてみた

「これも燃やしているんですか」
「そうです」
「いろいろな木があるみたいですね」
「ナラとかケヤキとかあります」
「木によって燃え方は違うでしょう」
「そうですね、杉の木は燃えやすくてだめです」
「燃やしても長持ちしないとやはり薪の場合はまずい」
「堅いのいいです」
「これだけのものを集めるのは大変でしょう」
「これはもらったものでありいらなくなったものです、家の柱などには使わないものですこれは象の置物です、外材も多いです、何か燃やしてくれと頼まれることがあります」
「自分も子供の頃゛バタをとりにいってて鉄砲風呂で風呂たくのが仕事でした」
「そういう時代もありましたね」
「薪でストーブはあたたかさが違うでしょう」
「そうですね、部屋全体があたたまります」
「それにしてもこれだけの薪を割ったりそろえるのは大変だな」
「あそこにも薪を貯える場所を作ったんですよ」
「そんなに薪が必要になるのか」

現代生活に合った薪ストーブ選び

何軒か街中でも薪ストーブをしている家がある。これも今では相当な贅沢である。
これをしているのは倉庫になったような所であり暮らしているのは別な所だった。
薪ストーブというとき冬を楽しむにはいい、エアコンよりぽかぽか体全体が家全体があたたまる感じだからである。
田舎では囲炉裏があり一日燃やしていた、その囲炉裏の側で寝ていたのである。

薪を積んだ家というとき栃窪村などにもあり場所としてはいかにも山の村としてあっている。

栃窪に薪積む家や冬籠もり

こんな感覚になるが街中だとなにかそういう感じはないしこの辺は特別寒い所ではないから必要でもない、やはり寒い山国だとあっている。

この薪積む家の人と話して次ぎに知っている人の畑を見に行った。イヌフグリの根っこをとっていたた。その根っこが細かく張っている、だからそれをとるのが苦労なのである。荒地になったところにイヌフグリが一面に咲いてきれいだと思ったがこれが畑として作物を植えるのには苦労なのである。
その畑に毎日行っている人は畑の話をする、でもイヌフグリが花であり春の季語でありその花の名前も知らないのである。
花を活けるのだが畑でとれた地元の花は長持ちする、でも一旦冷蔵庫に入れた花は長持ちしないという、そういうことに詳しい、野菜作りと花は植物だからにている。
土作りも花の場合も必要なのである。

自分の場合はイヌフグリというとき春を告げる花としてしか見ていなかったのである。
農業するものにとってこうしたものが実際は草にすぎず邪魔者になっているだけだとなるその近くに畑まで歩いてもこれない老人が畑で作業している。もう歩くのもやっとなのである。それで娘が車で迎えに帰るのである。それほどまでして畑をやるのかとなる。
この辺は回りが荒地化しているのだ。それが何か影響してくる
前はこういうことがなかった。その知っている人は一年で千円で土地を借りて野菜作りしている。
ただほんのわずかのものしかとれない、一回トマト数個もらっただけである。
そして苦労話は百倍しているだけなのである。
鳥に食われた、盗まれたなんだかんだと苦労話だけなのである。

その次は買い物でスーパーに行った、新しいのが一軒できたので便利になった。
そこに売っていたのがイスラエル産の果物である。
イスラエルからも果物が来ているのか?それがいぶかったが自分はイスラエルに行ったことがありキリストの生まれたナザレにも行った、イスラエルで誤解しているのはあそこは砂漠であり土地が肥えていない、それで入植して人工的に潅漑などして果物などを作ってたいる、グレープフレーツの品種改良したものである。


スウィーティーはアメリカではオロブロンコ(Oroblanco)と呼ばれているもので、1958年にカリフォルニア州のカリフォルニア大学リバーサイド校柑橘類研究所においてグレープフルーツ とポメロ(文旦の一種)を交配し生まれた品種です。この時に姉妹品種の「メロゴールド」も生まれています。

オロブロンコというのも売っていた。ただイスラエルから輸入されているとういのは意外だったのである。それだけ本当に田舎でも国際化したグローバル化経済の中にある。
田舎といっても昔の田舎とは違うのである。田舎的なものは残っていても自給自足の田舎などどこにもない、どこでも山の中でもグローバル化経済の中にあるから金がないと生活できないのである。

なんか自分は母を介護したときは淋しさを感じなかった、絶えず母に注意していなければならなかった、だから精神的余裕がなかった。外に注意を向けることができなかった。
そして大きな家に一人になったとき感じたことは何かからんとした所に一人いることが普通ではない、淋しいと感じるようになった
それで人恋しくなる、それで駅とかに言って話しかけたりする、今までは家に人がいれば淋しいとういことは感じなかったのである。
それで一人暮らしになった人がお前は介護していても家に人がいるからいいと言っていたその人も妻を失い大きな家に一人でいるようになったからである。
だから一人暮らしになるということがどういうことなのかこれも経験しないとわからない
もう一カ所は街中に空家が四五軒まとまってあり空き地化したところを毎日通る、そこには公園もあるが老人が出てきたので聞いてみた。

「ここには空家が多いな、どこに行ったんですか」
「町内に移動しただけです」
「町からでたわけではなかった」
「あそこも空家なんです」
「あそこは空家に見えないな」
「私も一人で暮らしているんです」
「自分もそうですが・・そういう人が増えたよ」

あそこは別に他の市町村に出た人ではない、そういうことが多いから聞いてみたがかえって金があるから新し場所に家を建てたとなると余裕があったとなる
この辺では震災以後新しい街が三つくらいできたくらい新しい家ができたからである。
鹿島区は人口は減らないのである。人口が減るとやはり全体の影響が大きくなる

いづれにしろ自分は小さな範囲で介護以来生活している、でもそこからも世界は見える
つまり田舎でもいかにグローバル化経済の中にありまねがれないということである。
だからとても昔の自給自足の田舎とは余りにも違いすぎる
イスラエルの果物が輸入されているというのもそうである。そういうことは外人が入ってこなくてもそうでありそういう世界に田舎でも組み入れられているのである。
カナダのトロントから鹿島区に住んでいるフィリピン人の母親を頼りきた息子がいたりとそういう世界に田舎もなっているのである。
そして自分がカナダの国債を買って損したというのもそうである。
そういうことは田舎だってあるしグローバル化経済からどこでもまねがれない社会に生活しているのである。アフリカの奥地でもドルが通用するとなるとそうである。
そこで「ワンドーラー」をくれとかロバに乗った子供が叫んでいるのが現代のグローバル化経済社会なのである。
原発事故だってグローバル化経済とか社会とか世界的なものでありそれが事故となり問題化したのである。原発の是非は世界的な問題でありそれでフクシマが有名になったのである。

タグ:薪ストーブ

2017年03月08日

50年あった東北サッシを思い(詩) (工場も郷土史になる)


50年あった東北サッシを思い(詩)


(工場も郷土史になる)


桜田山に
東北サッシありて
50年は過ぎしも
今日神奈川の社長を
鹿島駅に見送りぬ
そこに働く人も老いにけり
春なれどもなお寒しも
風花の舞いにつつ
東北の風の冷たし
我は今日も見送り
駅に電車を待ちぬ
同輩もみな老いゆくや
すでに死す人も病になる人も
この駅の建てられしは明治30年
歴史をここに刻むかな

東北サッシは桜田山にあったからなじみがある。他に工場があったがつぶれた。
それを長い間見ていた、ただつくづく50年とかあること自体が何であれ歴史になったと思う、会社でもやはり長くあればそれが歴史となる、郷土史にもなる
人生50年となるからそれだけの長い間故郷にあったことが歴史になる

すでにその人も退職する年齢だというときそうである。白髪も多いから同じである。
その工場にその歳まで働いていたということが重みになる
工事でも人間はそこで働いているということは愛着が生れる
50以上の人が癌になり死ぬということを意識したとき工場で一緒に働いていた人とまた会いたいとか働きたいというのもわかる
工場でも長くいればそこの人でも仲間となり愛着が生れるのである。

鹿島駅は明治30年に建てられたのである。それは相当に古い、蒸気機関車の時代もありそれを自分は経験している、その前からも走っていた、ただ戦前はどうだったのかとかその歴史が今一つわかりにくい、原町駅には蒸気機関車の方向を転換する場があった。
原ノ町駅は明治になりできて原町が相馬市より発展したのである。
その原動力となったのが蒸気機関車であり駅だったのである。
その時森林鉄道も全国にあり東京に木材などを運んだからである。
常磐線は常磐炭鉱があり石炭を運んだ、小樽なども石炭を運ぶために作られた。
石炭を運ぶために作られたのが鉄道である。貨物列車の方が先にあったとなる

いづれにしろ何でも歴史がある、明治からの歴史もある、ただ身近なものでもそうした歴史があっても忘れられる、注目しない、駅に人間模様があった。
なんか戦後まもなくは仙台に買い出しに行ったということを姉から聞いた
そんな時代もあったが忘れられる、集団就職でも駅から上野に向かった
それも自分は大学に行ったのだからその時は関心がなかった
ただ常磐線はそうして行き来したから思い出となる

いづれにしろ郷土史の範囲となると本当に広いのである。一人一人の人間が郷土史になるからである。すでに老人になればそういう歴史を一人一人刻んできたのである
現代史も歴史になる、なぜならすでに団塊の世代でももう70とかなり歴史となる
そういう歳になったということである。

a 基本給(月額平均)又は時間額138,000円〜160,000円

でも東北サッシは月給が安い、田舎ではこんなものなのか?
こんなんで生活できるのか?もらっている人はもらっているだろうが安い
田舎は公務員とか医者などが高いが後は安いのが多いのである。
これが初任給なるわかるが安いと思った。
これでは人手不足でも人が来ない,そもそも若い人も少ないのだからそうなる
人手不足といっても誰でもいいわけではない、つまり誰でも人がいないからと補充できないからますます人手不足になるのである。
お手伝いさんであろうが掃除するだけでも誰でもいいというにはならないのである。
それは相手が人間だからそうなっているのである。


2017年02月25日

新田川の公園にできるテニスコートは広い (風致が損なわれる問題もあったー久々に桜井古墳による)


新田川の公園にできるテニスコートは広い
    

(風致が損なわれる問題もあったー久々に桜井古墳による) 

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このテニスコートは六面だから広い

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桜井古墳の所まで津波が来ていた
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壊されるフレハブの宿泊所

みちのくの桜井古墳や冬の雲

みちのくの桜井古墳や冬の暮

東風(こち)吹いて桜井古墳海近し


新田川岸辺を歩む人一人老人多し冬の日暮れぬ

赤々と冬の没りて雲染めるここに住みにつ命はぐくむ


今日ひさしぶりで桜井古墳の方に行った、そしたら新田川の岸辺の公園の隣がテニスコートにするために工事していた。
女性が一人歩いていたので話した

「ここはなになるんですか」
「テニスコートで六面できるそうです」
「ずいぶん広いな そんなにテニスする人がいるのかな」
「若い人にはいいじゃないですか」
「そういうことは言えるかもしれません、自分としては安らぎの場として老人が散歩するのにいい、憩いの場所の方が良かったな」
「それもあるけど若い人にはいいじゃないですか」
「大きなパークゴルフ場が鹿島区にできた、あれは老人向きだからここは若者向きも必要なのかもしれません」
「ここはすでに震災前にテニスコートにする予定だったんです」
「そうですか、すでに決まっていたから実行したということですか」
「でも何かここは新田川があり風光明媚だからテニスコートにするのももったいない所だった、木を植えて花を植えたりした方が良かった気もする」
「それも言えますが若い人の要望もあるでしょう」
「別にテニスする人は今は若い人とは限らないですから、それも必要とは言えます、でも市民が議論しても良かったのかもしれません、まあ、桜井古墳の方は散歩するにいいですからここはさけてもかまわないですが・・・・・」   

何か自分が一番常に気になるのは自然景観なのである。突然自然景観が壊されることがあるのでそのことが残念に思うのである。
人間は普通自然景観に敏感ではないから利益にならないから簡単に破壊されることがあるただ運動場を見ると手狭になっていることはわかる。
そしてテニスをしたことがないものはテニスのことはわからない
テニスをしたい人の要望もあるからここを公園にするということは議論が必要になる
若者が運動するというとき老人ばかりの要望を聞いていられないからである。
ただ高齢化社会となるとき安らぎや憩いの場所が多いと暮らしやすいとなる
別にこの辺は自然がないというところでもない、都会とは違うからである
だからここはそんなに問題にすることでもないかもしれない
ただ新田川があり景色がいいからその景色と調和するのがいいと思っただけである。

桜井古墳は海に近かったしもともと海に向いた古墳だった、何か港のような感じにもなる実際に津波はここまで来ていたからもともとは八沢浦と同じく海だったのである。入江だったのである。その海に面して桜井古墳があった
海に面して古墳があったというときここもそうだが名取の雷神塚古墳でも海から離れているようで実際は海が近かった、仙台の遠見塚古墳でもそうである。遠く見るというとき海を見ていたのかもしれない、海と関係して生活していた人が作った古墳だとなる
たださの古墳にしても観光の目玉ともなりにくい、古墳はなかなかわかりにくいのである真野の古墳からは金銅双魚佩(ぎょはい)出たので目だったがそれでも城のようには目だたないから観光としては歴史的なものとしては注目されないのである。 

今日は東風(こち)が一時吹いた、あとはまた北風になった、そして3月11日は東風が吹き放射性物質が飯館村から福島市までその風にのって流れたのである。

ダイユーの仮設は壊されていた、これを見ても徐々に除染も終わり人が減ってゆく、この辺はそうなると一時の工事とか除染のバブルも終わると経済的影響は大きくなる。
外からの人が来なくなるからである。

帰りは雲が赤く夕日に染まる、ここに住みついて雲が赤々と染まってゆく
何か報道するということはプログでもしてみると近くのことでも関心をもち住んでいる場所を良くしたいとかなる、それは自分が住んでいるからそうなる
旅などではそういうことは思わない、ただ通りすぎてゆくだけだからである。
でも人間は最後はどこかに定着して命をはぐくまねばならない、報道することは何か政治とも関係している、ここはこうしたほうがいいとかなるからである。

一人一人議員になったように狭い場所だとなりやすい、だから原発に無関心だったのはなぜだったのかとなる?
それは報道する者の責任だったかもしれない、第一今ならインターネットでフログなどで発信して報道できるがそもそも一般市民はできなかったからである。
こうしてフログなどでも書いて発信できると違っていたのである。
報道の役割は意外と大きいのである。知らされなければわからないからである。
だからこそマスコミは第三の権力になっていたのである。
民主主義は報道が大きな力をもつからこれが機能しないと今回のような原発事故とかになりとりかえしのつかないものになる
そもそも原発には許可なく誰も立ち入れないし報道機関が報道しない限りわからないものだっからである。

2017年02月23日

鹿島駅の錆びついた入り口の戸は直した 駅とは広場とか待ち合わせとか出会う場所、外部の人との交流の場所

   
鹿島駅の錆びついた入り口の戸は直した


駅とは広場とか待ち合わせとか出会う場所、外部の人との交流の場所
   
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今日も夜は風で遅れている、でもこれはいわきの方だった
今日は仙台方面は遅れてはいなかった

 

今日は福島市からレンタカーで仕事で来た人がいた。目だつところがないので駅に来たという、それからもう一人は車を駐車する所を聞いていた、駅のすぐ前だと長く駐車するには向いていない、自転車置き場の所が空いていた、そこに止めたらいいだろうと言った
指定されている所もあったが指定されていない所もあったからだ

要するに鉄道の駅といってもこうして車時代になると車で行き来しているから駐車場とかが必要になる、街中は駐車場がないのが問題なのである。
それで新地駅とか山下駅は駐車場を駅前に広くとった。車も駐車しやすいから鉄道を利用しなくても待ち合わせでも何かここで用をたすともなる
温泉も出たとなると憩いの場所にもなる

確かにこの本のように駅というのは見直す時期なのかもしれない、駅が街の玄関口なのはまちがいない、そして東京への上ぼり志向から下り志向へ地方へ再び目を向ける時代が逆にきている、東京へ東京へという時代は終わったのである。
地方はこれから見直される、ただその見直されるとしてもみんながそうはならない、地方としての何か創造とか個性とか売りになるものがないと見直されない
外国人旅行者が増えて東京から都市部から地方へ目が向けられるときもそうである。

今はこの辺は外部からの人が結構まだいる、駅の特徴はそういう外部の人とも交わる所なのである。それで自分は全国を隈なく旅行しているから相手がどこから来たかというとき話を合せられるのである、そういう場にいることが何か生きがいにもなる
自分にとっても面白いとか相手もここに来てこの町のことなど聞くのが案内されるのが面白いともなる
ただ案内するにしても今は津波とか原発のことがあるがその他では目だったものはここにはない、でも何かちょっとでも話すると面白いとなる
駅が外部の人との交流の場所となる、それは仙台まで通じたからできたことである。
この六年間くらいはそういうことはなかったのである。

今日はいわき市からきた建築会社の人が戸を直した、ここは前から自分が市にも言っていたし水戸から来た人にも言っていたし原町の駅の人にも言っていた
戸が古くなってあきずらくなっていたのである。
それを今日は直してくれた、それを自分は見ていた

それから今日も夜になって遅れがでていた、昼間はめずらしく風がなく遅れなかった
でも夜になり風が吹き遅れた、だから毎日遅れが出るのが困るとなる。
でもそれはいわきの方であり仙台方面は普通に運行されていた、風がこっちはなかったからである。             
                                  
参考になる本

「老いる東京、蘇る地方ー牧野知弘」

2017年02月14日

春の日(倒木はなお生きて森に還る)


春の日(倒木はなお生きて森に還る)


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駅前の自転車屋かな一軒のみ病とてもなお働きにけり

長々と貨物列車の過ぎ行きぬ病院の窓に枯野広がる

鉄道に貨物列車のみかけぬは原発事故に途絶えしを知る

津浪にも残る社の一つあり形見にあれや冬のくれかな

北風になお吹き鳴るも倒れし木に春の日さしぬ我が見て通る


駅前の自転車屋がありあそこは自転車を使うのでなじみである。
貨物列車を見たのは病院に家族が入院している時だった
長々と貨物列車がゆくときそれが病院に寝ている人とか介護している人とかがいて
何か重荷になる、その重荷というとき重荷を運んでいるように見えたのである。
その時貨物列車のようにみんな重荷となる病人とか介護される老人が運ばれれば楽だなとも不謹慎だが思ったのである
短歌とかでも短いから一つの歌でもどういう場所にいて心境で詠んでいるのかを知ると深く理解できるのである。

今日見たのは道の脇に倒れている木だった、まだ北風が唸り吹いていたがそれほどでもない、春の日がすでにさしている、その倒れた木にもその春の日がさしていた
人間は木でもそれも生き物だから人間のように見ているのである。
すでに自分も家族はみんな死んだけど介護して供養するとき、家族は死んだけど供養しているとなる、その倒木に死んだ家族をイメージする

そして倒木でもそれはやがてまた森に還元される、森の栄養となるのである。
そういうふうに連環した命として植物もある、動物でもそのように昔だったら見ていた
それは人間もまた同じように自然の命としてそのように見ていたのである。
何か倒木にもやさしいあたたかな春の日がさしている、それは死んだとしてもまだ倒木として生きている感じになるからだ。
人間の悲惨は骨となって何も残らないことである。その極端な生と死の断絶がショックであり受け入れられないのである。
倒木は死んだとしてもまだ生きている、それがやがて森の肥料ともなり循環する命を生きているということでその死は無駄ではないと感じる
その死は自然では孤立した死ではないのである。

こういうふうに見るのは田舎ではできる、あるところに長く住んでいると見れる、でも都会では見れない、森というものがない、死というのが何かそうした自然の中の死ではない一つの機械の部品が消えるという感じにもなる、無機質的な死ともなる
人間も自然の中の命の一つだということを自覚できないのである。
そういうことが科学万能社会を作ったともなる
原発のように毒がはき毒を残す、一万年もプルトニウムの毒が消えない、放射線をだしつづけるというのがそうである。それは自然の命のサイクルにはならない
もし炭を燃料にしていたりしたらこんなことにはならない、自然の循環、サイクルの中で生きていることになっていたのである。

では昔に帰れといっても江戸時代にもどれといってもむずかしい、でも人間も自然の命の一つでありそれに逆らうものが科学技術にありそれが原発事故になり致命的な結果になった、そういうことを田舎に住んでいる人は余計に感じるのである。
都会ではそもそも自然と切り離されているから感じない
でも都会でも自然なしでは食料も入らないのだから生きていけない
だから東京でも大都会で食糧不足になり自然とのつながりを田舎とのつながりを具体的に自覚される時がくる、それは地震とかの災害でも必ずくる


タグ:倒木

2017年02月11日

晩冬に仙台まで途中下車の旅


晩冬に仙台まで途中下車の旅(俳句十首)

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キクチスーパー山下駅にできたので便利 

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亘理駅

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仙台駅

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仙台の駅が変わっていた

これも変わったものである。

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満月が出ていた
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雲ににじみ光っていたが雪がちらついた

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一本の冬樹や社に古碑並ぶ

みちのくや途中下車して冬の雲

金華山駅より見えて冬の暮

冬の空城郭映えぬ亘理駅

城郭のかつてはあらむ寒椿

亘理駅枯木五本や風鳴りぬ

亘理駅一羽飛びゆく冬鴎

岩沼駅貨物列車に冬芒

線別る福島の方冬の暮

仙台に冬満月や新幹線


満月の雲ににじみて光るかな仙台あわれ雪しぐれかな

仙台に古本買いて帰るかな枯木並木に灯のともるかな


新地辺りからはいつも金華山とかが見えるようになった。この辺には金華山の碑がある。それは明治時代頃のものでありその頃お参りが参盛んになった。古いものではないのである。むしろ湯殿とかは古いのである。

山下駅におりた、キクチスーパーが駅にできていた。広いスーパーである。あれだと駅前に人を集められる、そこで休む場所があったので弁当を食べた。
駅前にスーパーがあると便利である。駅をおりてすぐ買い物できるし車がなくてもできるからだ。
鹿島駅で老人が車がないのでバスを走らせてほしいと言っていた。
高齢化社会は足が問題になる、それで路面電車が復活したりしている。車も運転すると老人は事故を起こしやすいからである。
前は原町の前にスーパーがあったが今はない、図書館があるがあれもいいものかどうかわからない。やはり買い物する店が必要なのだ。
自分も自転車でゆくと何か最近腰が痛くなるのである。だから自分にとっても足になるものが必要になる。

仙台は便利になったから時々また気軽に行けるのがいい、次は亘理駅によった。
残念だったのはあの城の中は見れなかった、休館だったのである。
あの城はあそこに案たわけではないけど立派であり見応えがある。
中通には城はあるが浜通りにはないからだ。
亘理駅で冬の鴎が一羽飛んでいるのを見たことがある、それであそこも海が近いと思った現実に津波の被害がやはり大きかったからである。
浜吉田というのも浜がついていたから海が近かった、しかし海が見えないので近いと思わなかった、だから浜吉田の駅まで津波が来ていたのには驚いたのである。

亘理駅で五本の枯木が風に鳴っているというとき写生なのである。写生だと何か単純だけど力強い句、簡潔なた句になるのである。

岩沼駅はいつも貨物列車がとまっている、あそこは工場地帯だから引き込み線もあるからだ。原発事故以降は双葉、大熊は通らないので貨物列車とスーパーヒタチなどの急行は通らない、だからそれも不思議である。
自分は介護で家族が鹿島の厚生病院に入院していたとき窓から貨物列車を見ていたのである。その貨物列車がなんとも病院にふさわしいものだった。
重い荷物を運ぶとき病人もそういう感じになるからだ。
何か電車には常に人間的なものを感じるのである。

仙台ではまた古本屋によって本を買った。やはり通販だけでは買い物は面白くないしわからないことがある。本でも中味が見れないからである。
そして仙台だと変わったものが研究した本でもある。
今日は万葉集の絵があるのを買った、それは見れないようになっていた。
でも書店の人にみせてもらい買った、四〇〇〇円だった、これは骨董品だと思った。
相当に紙まで古くなっていたのである。

仙台駅に冬の満月が出ていた。それが曇って雪がちらついた、それはちょっとふっただけのものであり雪しぐれだった。冬の終わり頃に雪しぐれがある。
これは情緒的に日本的な微妙な感覚をかもしだすものだった。
日本の季節は微妙に変化するのである。だから季語が無数にあるのだ。
実際自分は雪時雨は経験していないからである。

帰りは山下駅で十数分下りの電車をまった、強風のため必ず遅れるのである。
駒ヶ峰と山下駅までは高架橋になり風の影響を受けやすくなったのである。
だから風がこの頃必ず吹くから遅れているのである。
これも困ったものだと思って帰ってきた。

2017年02月07日

蝋梅(百歳の間(続)


蝋梅(百歳の間(続)

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蝋梅に風花舞いてそのあとに日さし静けし百歳の間

風花の駅に舞いにし待つ人の今日はなしかも我が帰り来る


百歳の間

我が母の百歳生きぬ
我が介護せしその間や
今年も蝋梅咲きぬ
今我ここにありしも
石一つ庭にありぬ
我が母の嫁ぎて七十年
ただ働きてつとめぬ
母はか弱く地味なる女なり
大正生まれにしてただ働きぬ
我、今百歳の間にありて
この家を一人継ぎぬ
我なおも家族をしのびつつあれ
百歳の間にあり長く生きてあれ
つつがなくも長くも生きてあれ
そして供養するが勤めなるかな

母は自分の家に嫁いでもいいとは言えなかった。この家の事情でそうなった。
ただ働くだけだったのである。だから何か欠けていた。
働くことがいいということはあってもそれが度が過ぎると人間は異常になり狂気にもなる花にも何にも興味もなくただ働く人間は蟻になっていたのである。
蟻の一生だったともなる

ともかくそれぞれの家族には何かしら問題があったり事情があったり何かある
それぞれの家には家風があったり代々つづく家では歴史があり伝えられる
ただなかなか他人の家の事情はわかりにくいのである。
まず自分の家は複雑で他者にはわかりにくい

でも何か家には物語が生れる、代々つづく家だと余計になにかしら物語が生れる
家の価値は単に建物というだけではない、そこに何か家族の物語が生れるのである
「百歳の間」というときまさにそうである。
百歳生きる時代の象徴としてそういう物語がここだけではない生れているのである。
ただ母がこの部屋にいたのは介護している五年間くらいだったのである。
それでもそれが記念として残されたのある。

何かしらぞこの家でも物語がありそこにその家の価値がある。
だから家というのは単に建物だけではない、だから簡単に壊して何もないものとはできない、そこに原発避難民の問題があった。
家は単に建物ではない、家族の物語がある場所でありそこから離れることはそうして作られてきたアイディンティティを喪失することなのである。
町にしても村でも一軒一軒の家がそうした物語をもっているから価値があるとなる
だからこそ老人は故郷に自分の家に帰りたいとなるのである。
逆にその家になにかしら悪いことがあると呪われているとか嫌がられる、価値が低くなる
自殺したり何か嫌なことがある家は価値も低くなり人も住まないというのは当然なのである
家は単なる建物ではない、何かを物だけではなく心を受け継いでるからそうなるのだ

今日の駅には夕方にあわててタクシーに乗りたいという人がおりた。
よほど急いでいた、大きなバックをもって歩いてゆくという
タクシーには先約があって乗れずに待つと時間がかかるからと六号線の方に歩いた
自分も案内した、その間もタブレットで連絡していた
途中で迎えにゆくという連絡あったので自分も帰ってきた
こうして鹿島駅で何かしら用事があり役に立つことがあるもんだとなる
ボランティアの駅員として用事があるのもいい
何も役に立たないとした行ってもつまらないとなるからだ。

今日も風が吹いて風花が舞っていた、この辺は雪はほとんどふらないけど風花は舞う
そして山の向こうの飯館は雪雲に覆われているのがこの辺の冬の景色なのである。

蝋梅の間、百歳の間
タグ:蝋梅 百歳

2017年02月04日

冬の日(青い不思議な花)



冬の日(青い不思議な花)

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冬の灯や石に向かいて一人かな

四輪の藍色深き花を見つ冬の日静か家に過ごしぬ

カーネーションの赤き花にそ藍色の花の青さの深まりゆきぬ


この青い花はトルコ桔梗なのだろう。色が深い海の色のように青いのがいい
赤い花があって青が対象的に映えてくる、これは何も工夫しなくてもフラワーアレンジメントとなっていた。
花の種類が増えたけどこの辺では花の種類はあまりない。
この辺の畑でとれた花を売っているけど主に菊なんだけどその花は長持ちする
でも冷蔵庫に入れておく花は長持ちしないのであ。
だから早い時期に写真をとっておかないといいものがとれない

この前飯館村の若い人が川俣の花屋で働いているのをテレビで放送した、何かフラワーアレンジメントの大会があり入賞したという。そんな人もいたのかとなる
ただ飯館村だと花が何か違って見えたのである。
花が高原の山村にはより美しく映えていた、それも不思議なんだけどいつも感じていた。花もそういう雰囲気に映える、フラワーアレンジメントはまた別である。

ただその人が正月用の生け花を見せたけど竹と梅と苔をあしらっただけげ平凡だった。
そこに創作性はなかった。
飯館村とか大内村とかなると自然の感性を磨くのにはいい、飯館村にゆくと何か空気が違って感じられたからである。
原発事故後はそれも変わってしまった。草野にソーラーパネルとかしかれて山村の雰囲気が乱された、あそこに新しい村が生まれるのでまた違ったものとなる
飯館村は本当は神秘的な場所だったのである。そういうものが損なわれた
これからどういう村になってしまうのか?

自分は花は相当に探求してきた、それはフラワーアレンジメントではない、自然の花を見てきたのである。でもそれはフラワーアレンジメントに通じるものがあって旅しなくなり最近飾り楽しんでいるのである。
それにしても花の種類は多くなった。こんな青い花があるのも不思議だとなる。

2017年01月29日

冬薔薇と石(写真の加工)


冬薔薇と石(写真の加工)


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一輪の石に刻める冬薔薇


冬に咲いたのは今年はあたたかいときもあったからだという、何かあったかくなったり急に寒くなったりと去年から今年もつづいている
今日はそれほど寒くはないが寒いときがあった。

冬薔薇と石はにあっている、ソフトで写真を加工すると一つのまた違ったアートとなる
何か自分は抽象画をソフトで作っているがこういうことがもともと好きだったのである。それがたまたまパソコンが生れソフトが生れて開花したともなる

字のデザインでもパソコンが出る前にもしていたからである。デザインが好きだということである。ただ絵は全く描けないのでパソコンのソフトでできるようになった。
建築でも自分は興味があった。でもこれは数学とかグラフとか関係してくると苦手になる
でもなんか自分はもっと数学でも興味をもてたかもしれない、それがじっくり学べない自分なりに学べないので興味を失った。
ただこれは才能が関係しているから時分には無理だったろう。

ただ人間の才能は開発能力が相当に関係している、自分でも開発していかないと才能があってももちくされるになる。
学問だってそうでありこれも自らの開発能力なのである。
現代の学校教育はこういう点では欠けている、遊びの要素がほとんどないからである。

タグ:冬薔薇

2017年01月27日

冬深む短歌十首(故郷の駅に昔を回想する)


冬深む短歌十首(故郷の駅に昔を回想する)


この町の漬け物会社に働ける女の死にしも駅にし思いぬ

正直に生きて我が町眠る人目たたず生きてあわれなるかも

残りける去年の落葉やあわれかな故郷に住み死ぬ人思ふ

名もしれず働き死にぬその人を誰か思ふや冬深まりぬ

故郷の墓に眠れる人知れや我が参りつつ冬深まりぬ

我が町の駅におりたち淋しかも迎える人もなくなりにけり

この駅の八重桜の樹切られけりその根残りて冬の日暮れぬ

冬の夜に何を思ふや近くあれこの町に暮らす一人なるかな

家無きに墓のみ残る母方の実家を思ふ何か淋しき

人は会い別れて淋し駅にあり枯れし芒や電車すぎゆく


つづきとして川崎から来た女性が香の蔵で土産を買うとタクシーを呼んだ。
その時思いだしたのが菅野漬け物店で働いていた女性である。
それはかなり長く働いていたと思う、それが何か奇妙だけど思い出したのである。
その女性は農家でありもともと農業していた。それで便所から肥料としてくみ取りをしていた。それは農家ではしていたことだが何かそういうことはなかなかしたくないだろう。水洗式になったのはそのあとである、水道も子供の時はなかった。
水洗式になるのは結構遅かったと思う。

そういう時代があったのもこれだけ便利なれば忘れるし経験していないから実感がないとなる
ただ何かそういうなんでもない普通の人を思い出しているのも不思議である。
そういう人もこの町に生きて働いていたのだと思い出す
それで香の蔵でそうして働いていた女性がいて漬け物を買ってゆくんだと思った。
その女性はまず嘘をついたことがない、真面目そのものの正直な人だったのである。
今はあういう女性はいない、やはり大正生まれだったかもしれない

何か目立たない、ありふれたことでもその町を市を支えているということはあった。
それは電車が通じなくなり通じたときわかったようにわからないのである。
ただ自分はみそ漬けは食べない、塩分が多いから食べたくないのである。
でも料理には欠かせないものである。外食だとそうしたものがバランス良く出しているのでそういうものが必要だとわかった。

いづれにしろ何気ないことでも感じる、感傷的になる、それは年のせいだともなる
こういう歌は啄木調なのである。死ぬ前に何気ないことに愛着して歌にしたからである。自分もそういうふうに死が近いからこうして何気ないものにも愛着を感じるようになる。若いときはこんなふうに感じないからである。
当たり前のことに何も感じないのである。

墓でも死んだ人でもやはり町の中に眠っていてなお家族とともにあり町にあるのかもしれない、生きた人があるとするから墓参りするからあるのかもしれない
母方の実家の墓は墓しかない、家はなくなったから墓しか残っていないのである。
それも淋しいとなる、やはりなおすこに住みつづける人がいて墓も生きるとなるからだ。ただ現代は墓だけが残されていて遠くからお参りする人も多い
この辺は仙台から来る人が多い、いづれはその墓も消えてしまうだろう。

ともかく死者も以前として町の市の構成員としてありつづけるのかもしれない、だから死んだ人を回顧するのである。
つまり香の蔵というときここに書いたようにそのみそ漬けでも一つの物語として味わえば違ったものとなる
ただお土産を買うのではない、物があり語りがあるときその物も味わい深いものとなる
ただこれは今の世の中では無理である。外国から来た物でも遠くから来たものはそうした物語を読み取ることは不可能だからである。
物とこうした物語は分離している、そのことが豊かなのだけど人間の経済になっていないのである。






タグ:故郷の駅

2017年01月26日

冬深む短歌十首



冬深む短歌十首

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深々と眠れる山やさわりなく起さずあれやみちのくに住む
故郷の山は眠りぬ責められず我が苦しみは今は去りにき
末永くここにあれや松と菊新年なれや我が家調ふ
我が家を留守にしあれば三色の菊の花映え部屋に和しにき
我が家に石の二つや今はしも争うことなく冷えにけるかな
争いもなきも淋しかしんしんと冬の夜冷えて一人なるかな
寒き日も並び立ちにし樹々なりし今日も通りて日も暮れにけり
猫一匹石にのりつつ我が家になれにしものや冬深まりぬ
一軒の仮設の食堂閉じにけり年なりにしと残り惜しかも
飯館に久しく行かじ古き家何か語らむ冬深まりぬ

眠る山とか山眠るは俳句の季語である。でも俳句は短くて表現できない、だから俳句の季語は活きていて短歌にもなる、俳句はやはり文芸としての限界を自分は感じる
短歌はまだ表現するものがある。

この歌に今の自分の心境が表現されている。これまで苦しんできたことや家族がみんな死んだことなどがありこうないっている、争いがあった家族でも今は全くないというのも不思議である。
今は自分を苦しめるものはない、そしてなぜあんなに苦しめられたのか不可解だともなるどんな苦しみもすぎる、すぎてふりかえると苦しみはない、ただ夢の中でうなされることがある。戦争に行った人などはあとあとまで後遺症が残る、夢でうなされるのである。

でも苦しみも過ぎ去ってしまえばそんなことがあったのかともなる、苦しんでいるときそうはならない、自分は自分自身も他者かも責められつづけていたからである。
何か重しをのせられたような、そして一つの石ではない、さらに石が加えれた責め苦だったのである。
何か苦しいときは不幸なときは悪いことが重なりやすいのである。
一つの石をもたされるだけではない、二つ三つとのせられる責め苦なのである。

山眠るというときそれは平和な時なのである。平和でなかったら眠っていられないからである。
飯館村は山の向こうでありここは雪が降らなくても降っている、寒い標高の高い山であるでもここからだと山の向こう側として意識されるのである。
川俣とかなるともう一つ山を越えるからなかなか意識されにくいのである。
だから空間的なものでつながるのはそんなに広い範囲ではない、20キロ四方くらいかもしれない、そんな広い範囲では空間に一体感は感じられない

猫が一匹飼っているというかいついたとかなるがこの猫も自分にとっては面倒なのであるただ自分は性格的には猫なのである。石の上にじっと座っている猫なのである。

あつみ食堂は明日で終わりである。あそこで一食野菜を食べているとまにあっていた。
必ずケンチン汁を出していたからである。
それがなくなると昼間で食事を用意するのがめんどうなのである。
時間と手間がとられるから困るのである。

ともかく家の中を母が死んでから整理しやすくなった,なんとか整理して身軽にしなければならない、自分も年だから家が重荷になってくるからである。

タグ:冬深し

土とることで景観破壊 (ローソンの人も気にしていた)


土とることで景観破壊

(ローソンの人も気にしていた)

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鹿島のローソン


あそこは別に誰も気にしていなと思ったけどローソンに勤めている人が気にしていた。
古墳が発見されたとかで何かある、それは教育委員会に聞いたら確かに古墳らしきものが発見されたと言っていた。まだ発掘調査はしない
鹿島区では海老の方の山にも古墳がありあの辺は高台だから昔から人が住んでいたとなる鹿島で古墳が一番多いのは小池である。そこも高台なのである。
古墳は鹿島では低い場所には少ない、横手古墳群は別である。
低い場所は湿地帯であり人が住めなかったからである。

海老の津波の跡でも発掘があり弥生時代の住居跡があり鎌倉時代のもあったという。
それは瓦が発見されたからわかった。鎌倉時代に瓦を使っているということは裕福な家であり館かもしれない、あそこには弥生時代から人が住んでいたとうことは重要である。

それで海老はエヒであり蝦夷がエミシが住んだ場所として前に書いたのである。
浜通りにはエとつち地名がつづいてある、それは単なる偶然ではない、エゾ(えぞ)とエヒと関係しているのである。

ともかく人間は景観には無頓着のところがある。それは景観というのは金にならないからである。あそこで土をとれば金になる、売れば金になるが景観を維持しても誰も金をくれるわけではないからだ。だから容易に景観は破壊されやすいのである。
ただあそこを気にしていたのは自分くらいかと思ったらローソンに勤めていた人は毎日来ているから気にしていたのである。

別にローソンに行かなければ気にしないだろう。ローソンにはカフィラティがうまいので毎日のように自分は行っているから気になったのである。
あの土むきだしのを見ると嫌なのである。
この辺では工事で土を取り出す場所が多く景観が破壊されている
でも隠れたところにあるとあまり気にしないがあそこは丸見えであり毎日のように行っていると気になるのである。

景観は利益にならなくても心にかなり影響する、毎日そこに住んでいると余計に影響するなぜなら旅しているなら通りすぎるだけだが住んでいると毎日見るようるなるからだ。
そうなると嫌だとなり心に影響するのである。
でもあれもあのように土むきだしになってはじめて感じたのである。
その前はただ木におおわれていればそれは当たり前でありそれをいいものとして認識していないのである。

ともかくこの辺では津波でも原発事故でも景観が破壊されてしまった。その影響も大きかったのである。


タグ:景観破壊

2017年01月24日

鹿島の仮設のあつみ食堂が1月27日で閉店



鹿島の仮設のあつみ食堂が1月27日で閉店

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ここは二年間くらいやっていたのか、ずいぶん自分も通った、バイキング形式であり野菜が多いのと日替わりでメニューが変わるから一人暮らしの自分には便利だった。
一人暮らしだと野菜がいろいろそろえられないからだ。

ただそのバンキングでも種類が5種類以上とかあったし一人でやるのが大変だと見ていた客も10人も入らないようだとか見ていた、750円では採算がとれない感じにもなる
その割には労力が加重だったのである。

まず自分も食事の用意するのが面倒なのである。だから外食が多くなる、家事もしなければならないし時間がとられるからだ。
だからあそこで一食バランスのいい食事すると楽だった。
ただちょっと脂っこいのが多いなとは思っていた。

そこは別に暮らしに困っているわけでもなかった。何かカラオケ仲間の集まる場所になっていたのである。常連はそうだった、でもそれだけでは経営的には成り立たない、外からの人は3-4人とか来ていた、でも10人までなるようには見えなかった。
だからいつも見ていて採算とれるのかなと見ていたのである。
750円では安いものだったかもしれない、ただ1000円とかなると入らないということもあったからあの値段にしたのだろう、数をこなせば採算がとれたがそれも一人だしできなかった。外から入る人もそれほどでもなかったともなる

娘と二人でやるということであったが娘が病気とかで一人でやっていたのである。
まずあれだけの料理を出してかたづけとか皿洗いするにも容易ではない
自分の家に来ている人の十倍は働いている、でも金はそれほど変わりなかったと思う
とてももうけにすればそうはなっていなかったろう。
その割には労働が加重だったのである。

やめる理由は足が悪くなったからだと言っていた。年もとっているし何か無理だったのである。自分の家にきている人も70にもならないのに体が悪いと必ず言っている
腰がいたとか持病がある。その労働は皿二三枚洗うだけなのにそれでもそういうことばかり言っている、結局自分がしていることは福祉なのである。
それにしても10万近くとられるのは苦しいとなる、ただその他に役に立つことがあると思い払っている、一人だといろいろ困るからである。

もう鹿島の仮設は実質的には食堂は一軒である、もう二軒あるけど一軒は問題があり入りづらいところであり何か客が入っているのを見たことがないのである。
外から来る人も減ったということもある、一時大繁盛していたからである。
ただその人がやめたのはやはり一人であり老人だったからだとなる

つまりこの辺の問題は高齢化が影響している、それはどこでもそうだがあれだけのことをやるにはそもそも老人では無理ということがあった。
これはこの辺でもとくに人手不足になっていることもある、若い人が少なくなり全国平均より10パーセントくらい65歳以上の人口が多くなったのである。
これが復興の大きな障害になっている。
老人がこうして商売でもはじめても体力的にもつづかないということがある。
だから復興ということが避難解除になった地域でもむずかしいのである。

自分もそうだが老人は楽したいのである。のんびりすごしたいのである。
でもそうしたいためには誰か一人暮らしだったら食事ができる場所とか必要なのである。原町とかあるが自転車だと遠いので苦しい、やはり近くにないと困るものがある
そうなるとやはり小高でも避難区域でもそこに老人でも住みたいとしても何もないとなると嫌だとなる

そこがなくなっても弁当とかになるがやはり野菜が少ないことが問題なのである。
あそこはあれだけの野菜料理を出していることが珍しい、他では定番のものが多く野菜が足りないからである。
ともかく食事の用意が一番手間なのである。まあ、簡単に納豆くらいで食べるのがいいかもしれない、それでも何か食事が手間なので困るのである。

ともかくあそこは自分にとって感謝すべき食堂だったのである。

 あつみ食堂さん、ありがとうございました



タグ:仮設食堂

2017年01月22日

去年(こぞ)の落葉 (短歌も写生だったー俳句文芸は終わりかもしれない)


去年(こぞ)の落葉


(短歌も写生だったー俳句文芸は終わりかもしれない)


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冬たんぽぽ今日もここにや住みつきぬ


朝風に頬の冷たき空澄みて枯木の枝の張りにけるかな

去年(こぞ)散る木の葉残りぬ我が庭に動かぬ石を部屋に見つ暮る

去年散りし落葉や我が庭忍び足猫の歩みぬ訪ぬ人もなし

新年に我が挿す菊の花にあれ部屋にさしいる朝日に映えぬ


冬たんぽぽが咲いていた、イヌフグリも咲いた、やはり春なのだろう。
昨日は寒かったけど今日はあたたかである。
人間は住んでいる場所がいいというときそこに家族がいたり友達がいたり何か人でも土地でも住んで気持ちいいというときだろう。
まず家族がいるときはそうである。でも家族がいなくなるとどうなるのか?
それをここ十年家族はいても介護で苦しかったし助ける人もいないので故郷でも住みやすいとは自分ではならなかった。
自分はともかく三〇年間は楽だったから特にそうなった。
でも家族がみんな死んで介護もないので余裕が生れた、そのタンポポがなにかよりあたたかく感じた、人間はそこに住みたいというとき人とか自然環境もありまた他にもある
とても東京がいいというけどあういう所には住みたくない、でも経済的問題があり田舎でも貧乏だと嫌だともなるからむずかしいのである。
大阪から来た人は除染で三年いて田舎は人がいいから長くいたなとか言っていたが住んでみればまた違っている、田舎の姑息さに嫌気がさすだろう。
その人は住んでいるとは言えないからである。

去年散った落葉が庭に残っている、それを気づいたのは昨日だった、でもその落葉は長い間去年からそこにあったのだ、でも気づいていなかったのである。
なんか人間は近くにあっても気づかないことがつくづく多いのである
古い碑なども注意しないと気づかないのである。過去は何かひっそりと埋もれてしまうのである。まず生きている間は人間は騒々しいが一旦死ぬと何も語らないのである。
そしてそんな人がいたのとかみんななってしまうことの不思議である。
人間は生きているとき死んでからの差が大きすぎるのである。
骨になり灰となり無となってしまうことがあまりの変化なのである。

ともかく短歌でも写生である。ありのままを写生することである。この歌はそうだった。写生はいうとき何かそこに感情的なものはあまり付け加えないことである。
この歌にしても写生そのものだからである。
俳句はもう現代では短くて表現しきれない、だから俳句文芸の世界は終わりになるかもれない、ただそれでも芭蕉のような天才が生れればまた別なのかもしれない
でも俳句は表現的に無理があり限界が生れた、でも季語は日本の文化でありこれは変わることなく活きつづけるのである。
俳句とか短歌の世界は結社などあるのもおかしいのである。
俳句は誰でも作りやすいからそれで結社で師匠とかなっていてそれで芸術家だとしている俳句の世界はほとんどディレタントしかいないのである。
もう芸術として成り立っていない、それは自分がそう思うだけだともなるが今では新進の俳句作家でいい人がいるかとなるといないだろう。
ただ自分は短歌は何かまだ表現できるものがあると思った。俳句より短歌の量が多いし表現ができていると自分は思っている

自分の性格は何か異常である、人と接すると異常に疲れるのである。そして三〇年間隠者のような生活ができたのはたまたまそういうことが許される家族環境にあったからである自分には学校も適応できなかったし会社員として勤めることもできない
だから石のように沈黙して人と接しない生活だったのである。
考えてみるとこれも不思議なのだが禅宗の座禅をしていたと同じである。
計らずしてそうなっていたという不思議である、それは精神的に見れば効能があった。
マイナス面も大きかったがプラス面も大きいものがあった。
沈黙するということは自然が大きな沈黙にあるように自然と同一化するには不可欠なことだった。沈黙によって自然を知る、自然と同化するからである。
山でも石でも樹でも沈黙しているからである。
すると沈黙することによって自然のように人間も大きくなるのである。
現代にはこの沈黙が一番欠けているのである
ただこういう生活をするにはアウトサイダーになってしまう。
会社員とかになったらできないのである。自分がそうなったのは社会に適合できないからそうなったのである。






タグ:写生俳句

2017年01月20日

今日の駅の短歌(寒い日に駅で待つ中学生)



今日の駅の短歌(寒い日に駅で待つ中学生)


この駅に電車を待てる時のありしばし話しつ寒き日なりし

冬の雨しとしとふりて石ぬらす一人しあわれこもりいるかな


今日は特に寒い、人身事故があって電車が遅れているという電光掲示板に流れていた。
セブンイレブンから六号線を横切り踏み切りを出た鹿島の十字路で交通事故があった。
車はそれほど損傷がないから大きな事故ではなかったのか?

今日の駅にいたのは中学生だった、また一学年で3クラスくらいあるという、そんなにまだいたのか?ただ鹿島区では中学校は一つであり小高の人もまじっているからかもしれない。団塊の世代の時は一学年で八クラスだった。
何かそれもあまりにも遠い話になった。その中学生は塾に通っているという。
インターネットで英語の単語など勉強すると便利だと言ったら自分もしているという
この前はタブレットを見ていた中学生がいた、その女性は受験生だった。
相農で環境科とかで花の栽培を学ぶという、そういう目的をもって学ぶのはいい。

今日はこれだけのことだけどプログは毎日書くのでありこうして日々のことを伝える
それがプログ的だとなる、その日その日の感想を書くのである。
それはその日だけのことでありあとは書けない、そしてそれが記録となり記憶となってゆく、そういうことは今まではできなかった。
だからプログは何であれ一日一回はその日のことを書く、それが勤めである。

それが読んで面白くないとしても自分の日記だからかまわないとなる。
その日にしか書けないことを書いているのである。
一日一回は駅に行くのが自分の勤めともなっている

ともかく駅は待っていることが人間的なのである。待つ時間が人間的時間を作り出している。
バスだとなにか待っていても電車の駅のようにはならないのである。
旅でもこの待つ時間が記憶として残ったりする
急ぐ旅は記憶に残りにくいのである。

タグ:駅で待つ人

2017年01月18日

新装の新地駅短歌十首 (一変した新地駅の驚きー観光スポットになった)


新装の新地駅短歌十首


(一変した新地駅の驚きー観光スポットになった)


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New station ,SHINCH


all new station

SHINCHI on the Jyoban line

Mt.ZAO in the distance

the snowy severest one

flight of swans in refreshed place

turn around

Kinkasan on the Ocean

in the distance

Shinch station in the future

clear sky in winter


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蔵王
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駅前の開発地 クリック拡大

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新しき街の息吹や新地駅年の明けしも海広しかな

新地駅新装なりて海広く新しき年や金華山も見ゆ

新地駅雪の蔵王の迫り見ゆ白鳥も飛び年も明けにき

新地駅広々として清しかな冬の空澄み電車来たりぬ

新しき新地駅にそおりたちて雪の蔵王の厳しく迫る

新地駅おりたち帰る女高生都会めきたる新装なりぬ

新しき新地駅にそ二本の樹の植えにけるかな冬の日暮れぬ

新地駅電車の待つやうれしかな海広く見え復興成りぬ

新地駅タクシー乗り場に障害者乗る場もうけぬその配慮かな

新地駅昔を想うものもなし悲しく津波被害埋もれぬ


新地駅に今日行って驚いた。全く変わってしまい昔の面影は全く消えて別な町になっていた。雪の蔵王が見えて牡鹿半島も金華山もまじかく見えた、あんなに近くにはっきり見えるのも新鮮である。それは海が広く見えるようになったからである。
そして土盛りして高い所に駅を作ったからである。
だから駅をわたる通路の高架でなくても下のホームからも見える
駅からの景観が抜群になったのである。

そしてもともと新地駅は回りに家がないし海側の港があったところは全部津波で家がなくなった。それで広い土地が自由に利用されるようになり改造された新しい街作りをするようになった。
本当にその土地が広いのである。そこにコンパクトシティのように施設ができる
住宅もできる、温泉も出たということで温泉施設もできる
文化会館もできるとか駅を中心に新しい街が形成されるのである。

何か自分がおりたときそこが全く異次元の別な世界のように見えた驚きである。
宇宙ステーションではないが何かそんな感じの不思議さがあった。
テーマパークというかデズニーランドというか仮想の世界に来たのかとも思った。
こんなふうに変わるものかという驚きである。そこは人工的空間と自然空間がマッチしていたのである。
都会だとこんなに見晴らしがいい場所はないからである。

ともかく雪の蔵王もまじかに見えたし海も広々と見えて金華山も見えたし牡鹿半島も見えた。その景観が素晴らしいとなる、だからここは駅だけでも観光スポットになると思った何しろ広々として気持ちいいし景観がいいからだ。
ここは新しく開発するのには適した場所だったのである。駅前には家がなかったからである。
そして国からも金が出たからである。それは原発の被害がなかったから人口も減っていない、つまり津波だげの被害だったらこんなふうに復興できたのである。
原発の被害地は放射能被害などで復興できなくなったのである。
その差が大きすぎたのである。新地駅と小高駅を比べるとその差が歴然としているからである。

まあ、白鳥が飛んできたのも新しい駅にふさわしかった。またあの駅に行ってみるだけで価値がある。まだまだ整備は完了していないがあの駅には価値がある。
あれだけの広い土地にまだ住宅は建っていない、その点鹿島は新しい家が建ってほぼ完了した。やはり新地では原発などの補償金が出ないことがその差なのかもしれない
新地には原発の被害者、小高でも浪江でも他でも家を建てているのである。
土地が安いと建てやすいからである。

いづれにしろこれだけ変わることには驚きである。なにしろこの辺は常に変化して驚きの連続だったのである。それがまだつづいていたのである。
駅前はどこもさびれたがこれから駅前が復活するという人もいる、駅は他からの人を迎える玄関でありここからその市町村の印象が決まるとうときそれは家でも同じだから玄関を大事にしろという人がいる、玄関は人の出入りがあるから福を呼ぶから大事だと言っているのである。
新地駅はだからその玄関だけは特別立派になった。そしてその前に新しい街が生れて復興するとなる

ただあの駅見たらもう津波のことは忘れられる、わからなくなる、天然ガスのLPGのパイプウラインを仙台までつなぐという大阪から来た人がいたがそうした大工事もある。
その人が掘ったら津波で埋もれた靴とかなにか出てきたというときわずかにそんなことで津波のことを思い出す、でも新地駅から津波の被害を想像するものは何もなくなったとなる
それもまた歴史が埋もれるということで問題があるかもしれない。昔を何か残すことも必要だからである。
ともかくまた行きたくなったのが新しい新地駅である。

5年半ぶりに開通した常磐線 (駅は人間臭い場所だった-新地駅の記憶(詩)


2017年01月17日

鹿島駅で出会った人 (新地町で港から天然ガスの供給基地とパイプラインを仙台まで作る人)


鹿島駅で出会った人

(新地町で港から天然ガスの供給基地とパイプラインを仙台まで作る人)


当社は、震災後の福島県・宮城県・岩手県など東北太平洋沿岸地域等における今後の天
然ガスの需要増に対して、長期安定的に天然ガスを競争力ある価格で供給していくことを社会的使命と考え、相馬港に大型 LNG 外航船を着桟させ、これを LNG タンクで貯蔵し気化する LNG 受入基地の建設と、同基地で気化したガスを、当社の大動脈ともいえる新潟
仙台ラインに(宮城県岩沼市・岩沼バルブステーションで)接続させる約 40kmの新規パイプライン建設を進めてまいります。

名 称 :相馬 LNG 基地
建設地点 :福島県相馬郡新地町(相馬港 4 号埠頭地区)
敷地面積 :約 20ha
主要設備 :LNG タンク(地上式 23 万kl×1 基、将来増設可能)、LNG 外航船受入バ
ース、LNG 内航船出荷バース(LPG 内航船受入兼用、将来増設可能)、LNG
気化器 2 基(将来増設可能)、気化ガス用熱量調整設備、LNG タンクロ
ーリー出荷設備、ほか
投資金額 :約 600 億円(接続パイプ)


今日鹿島駅で休んでいた人はガスの配管工事をする人だった。新地駅でしている大きな工事である。
鉄管を通すために土を掘ったら靴とか何か津波で埋もれていたものが出てきたという、津波の痕跡が地中に埋もれてしまった。
そして新地駅は前とはまるで変わったものとなってしまった。駅前開発がすすんでいる

このガスの工事は船を受け入れるためとか配管するために仙台とつながる大規模なもののようだ。新地町の変わりようも激しい、こういうものができれば前とは違う経済効果もあるのだろう。
六〇〇億円も投資することはやはり大きなものになるだろう。

新地駅前の開発では温泉が出たということで施設が作られるとかもありあの辺は前より魅力ある場所になるのだろうか?駅が高く立派になった。
津波や原発事故を契機にかえって新しい開発進んだのもある
それだけの投資が国からも行われたようだ、鉄道工事はJRで四〇〇億円投じて五年半かけて完成した。これも大きな金である、六〇〇億円となるとこれより大規模なのである。
仙台までガスの管をつなぐためにそうなったのか?

その人は溶接していて目を悪くして原町の病院に行く所だった。確かに目が赤くなっているのが見えた、白内障とか言っていたがそうでもないらしい

可視光による青光障害は,遮光保護具を用いず,裸眼で溶接アークを見つめた場合に発生する。症状は,視力が低下する,暗点(視野内の部分的に見えない領域)が生じるなどである

これも職業病の一種となる。インターネットはこういう時便利である。
これだけでもすぐに検索してわかったからである。

この辺はとにかくまだ工事がつづいている、除染が主だがその他にもこうした工事がつづいている、いろいろな人が入れ代わり入ってきているのである。
意外とだから鹿島駅でもそういう人たちに会うのである。
それが何かこの辺がどうなっているのか知ることにもなる
こうした工事はこの辺でまだつづくのか、あと二三年もつづくのだろうか?
除染関係は相当に縮小したが小高とか浪江とか双葉でも向こうの方へ行く人もいるからこの辺が宿舎にもなっているから駅も利用しているのである。

鹿島駅の回顧の短歌十首 (復興してふりかえる)


鹿島駅の回顧の短歌十首


(復興してふりかえる)


鹿島駅八重桜咲きその影に休みて電車待ちし時かな

この駅のホームに白きつつじかな車窓に写し電車は去りぬ

鹿島駅待つも長しやあわれかな秋の薔薇しもここに見るかな

新年や乗りおりする人それぞれに無人駅に活気のいでぬ

復興の電車通りぬそのひびき今日も駅にし我はあるかな

母待ちぬくもりここに娘かな寒き日なれば寒からじかも

遠くより来る労務者駅にいてしばし語りぬ寒き日なりし

鹿島駅昔ストーブありにしと語りてあわれ寒き日なりし

四両の電車とまりて明るしや仙台へ通ず冬の夜かな

帰りきて待つ人あれや今はなし一人帰りし冬の夜かな

駅をおり月影さして我が一人影ひき帰る淋しき町かな

鹿島駅我が老いつつもここにあり年の明けにきまた旅たたむ

遠き国憧れにつつこの駅ゆ我が旅立ちてまた帰り来ぬ

乗り降りの少なき駅や今になほ二両の電車山眠るかな


鹿島駅の八重桜がみんな切られた、それが残念だった、ただ根っこは残っている
それが成長するには何十年もかかる、だから生きている内はもう八重桜の花は見れない
自分はその花の影で休み電車を待っていたのである。

白いツツジというとき田舎の電車はすいている、仙台近くになるとこむがこの辺はすいているから車窓に白いツツジが移っていてその花を写して去ってゆくのである。
何かそれも情緒がある、見送りしたりするのもそうである。

それは田舎駅だからそういう人間的情緒が残っている、東京都とか都会になると混むからそういう情緒もなくなる、新幹線でもそれが早すぎるから人間的に見送りするにしても時間の余裕がないのである。
結局何度も言うが旅は時間をかければかけるほど記憶に残る、だから意外と電車でも船でも待っている時間が貴重であり記憶に残っている不思議があるのだ。
今の忙しい時代は待つ時間がない、それが無駄とされているのである。

鹿島駅のことをいろいろふりかえる、集団就職の列車もここからでた、でも自分は恵まれていてその時それが何を意味していたかわからなかった、自分は大学に行ったのだからその差が大きかったのである。
その後電車はただ遊びとして旅として乗っていただけである。

実際は旅するにしても家をまもり家に家族がいたから余裕をもってできたなどなと思う
一人になったら家があってももう誰も待っていない、だから何かそれが感覚的に変なものとなる、今度は旅たったらもう待つ人もないのだから永遠に帰らないとまでなってしまう感覚にもなる、家があったとしても待つ人がいないとそんな感じになる
家はあってもそれは建物だけだからである。死んだ人が待っているともならないからである。

いづれにしろ人間は最後はみんな啄木のようになる、啄木は最後にあの若さで死ぬとなったから何でも惜しみ短歌にしたのである。本当に日常のささいなことを短歌にしたのである。そういうなんでもないものでも惜しむようになる。
最後は人間はみんなそうなる。普通は若いときはそうならない、いよいよ死ぬ時期がせまればもうみんな何かつまらない日常的なものでも愛おしくなるのである。
自分にとって駅とか鉄道は愛着がありそれを惜しむものとなるのである。


古い駅の写真

鹿島駅も建てた当時と変わらない古い駅なのである。
この写真の駅は本当に古い、何か駅にはやはり人間的なものがしみついている
ただ新しくなるとそうしたものが消える

城でも新しく建てるとそれが博物館のようにもなる、何かそこにあった人間的なものの記憶が消えてしまうことがある。
日本では木造だから新しくなり昔の記憶が消えやすいのである。

2017年01月15日

冬深む(正常化した自分?)


冬深む(正常化した自分?)

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寒椿雪に散りにき据えし石

平和なり障(さわ)りなくて山眠る

平和なり山の眠りの深きかな

冬深む石黙然と一人かな

冬深む契りを強む森の樹々

何を見む寒星一つ徴しかな

四両の列車明るき冬の夜


凍るごと雪降る庭に一輪の薔薇の咲かむや石の静まる

故郷の老いたる女と親しくも我が家にありて一人なるかな


自分は母が死んで一年とかすぎてようやく正常化したのかもしれない、姉で認知症で苦しみその後も回りは津波だ、原発事故と信じられない異常なことの連続だったのである。
そして常に何かに追いやられていたのである。障りがあったのである。
何かそういうことは人生の中で家族でも誰にでもあることなのだろう。
なぜなら人間は必ず病気になり死ぬからそれが逃れられないから家族でもごたごたするのである。

それはどんな宗教を信じようかカルト宗教団体に入っていようが関係ないのである。
そういう問題から不幸からみんな誰も逃れられないからである。
カルト宗教団体に入ってもいてもそうした不幸になった人は山ほどいるのである。
近くにそういう不幸な人がいて家に住んでいる人はいない
事業が失敗して家がなくなったとかそんな人はめずらしくもないのである。
事業に成功している人の方がまれなのである。

ともかく一人というのはなにかまたこれまで経験しない心境になる
一人も慣れないと淋しいとなる、わかったことは確かに動いて人ごみにまぎれると淋しさもまぎれることがわかった。
それで時々原町に自転車で行くのである。意外と動くということが淋しさをまぎれることになる、大きな家でぽつんと一人でいると淋しさを感じるのである。
動いているとそういうことをあまり感じないのである。
一人は来ているから誰も来ないというわけではない、でも家ががらんとしているのが嫌なのである。

自分で言うのもなんだがここの俳句と短歌はかなり深いものがある。
その深さを読むことがむずかしい、芸術はまず鑑賞すること自体が常にむずかしいのである。だから深く鑑賞できる人はその人は芸術家と同じのように思える
俳句などでも深いものがあっても鑑賞できないのである。
「冬深む契りを強む森の樹々」これは短いから鑑賞できない、別に詩を作っているからだ、それと合わせると鑑賞しやすくなる。
今回庭に咲いた咲こうとしている薔薇は不思議である。凍えるような時に咲くものなのか?
冬薔薇という季語があるから冬に咲く薔薇はある、でもこんなに寒いとき咲くものなのかとなる。
それはまさに自分が一人なのとにている

自分はもともとほとんど人と接しず一人だった。それも何か異常だったのである。
それで介護とかで苦労したのである。社会性がないからそうなった。
でも自分はもともと一人でいるとき精神も安定して平和を感じる
一人でも淋しいとき別に淋しいと感じないときがある。夜はかえって感じないのも不思議である。

今日は本当に寒かった。氷柱が近くで見たのもめずらしいからである。
滅多に氷柱はこの辺では近くでは見ないからである。一部水道が凍結した。
今頃は冬深むの時期である。今年はあたたかったりこんなにもまた寒くなる。
ただ何もわずらわされない平和がある。平和とは結局何もわずらわされないことなのである。
まず自分が病気になったりした平和がないし家族が介護になったりしても平和がないし
また借金などしたら平和がない、もちろんその他で平和がないことはいくらでもある
平和であることが人間はそんなにないということもある
でも自分は30年間くらい平和に暮らしていたのである。確かに家族が平和というわけではないにしろ自分にとってなにもないわずらわされない時が30年間つづいたことは不思議だったとなる、こういうことはまれなことなのだろう。

いづれにしろ冬深む山眠る時である。山眠るというときみちのくが何か合っている。
山眠るというとき高い山ではなく低い山があっている気がする
高い山だと眠るというより冬でも厳しくそそり立つという感じにもなるからだ。
この辺では高い山がない、それが自然としては欠けているからものたりないのである。


タグ:冬深む

2017年01月14日

鹿島駅の重いドアは原ノ町機関区の人が来て直す (今日はホームを雪かきしていたので話できた)


鹿島駅の重いドアは原ノ町機関区の人が来て直す

(今日はホームを雪かきしていたので話できた)

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雪で今日は18分遅れた

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ここで宣伝ができる


鹿島駅の重い扉を直してくれるようだ、原ノ町機関区の人がホームの雪かきにきていて聞いてみたら滑車がなんとか言っていたから重い扉も軽くなるだろう。

これは市役所にも言ったし市の方にもいった。でも実際は原ノ町機関区で管理しているから原ノ町機関区で直すのである。水戸が管理していてもその人に言っても無駄だった。
やはり近くでないとできないことがある

そのJRの人に電車が通ってありがたいものだとみんな感謝していると言った。
今までそんなことを感じなかった、電車賃が高いとか何か文句を言うことが多かった。
でも一番今回復興を感じたのは自分の町では電車が仙台まで通ったことだった。

自分はもともと鉄道が好きで旅したこともあり思い入れがあったこともある
でも鉄道を運営している人々に感謝したことなどない、それは当たり前だと思っていた。でも鉄道がなくなったときバスで難儀した、それから電車に乗って仙台まで行ったとき本当に楽だった。それは五年間も乗らなかったから余計に感じたのである。

人間は何でも家族でも妻でも失ったときそのありがたみがわかる、この辺では津波や原発事故でそういうことが多かったのである。
当たり前にあるものは感謝しない、かえって文句を言うことが多いのである。

電車が走らないのと走るのでは相当に違ったものになる、この辺では見慣れているからだけど何か電車が通らないと僻地のような感覚になる、飯館村などがそうであり電車が通らないから僻地の感覚になる、バスが通ったとしてもバスと電車は全然違ったものなのである。

鉄道でも雪がふれば滑らないように雪かきしたり鉄道を守る、運行する仕事がある。
その仕事をしているのはJRなのである、ただ何か現代はそういう人間が働いて機械が動いているという感覚がなくなっている、鉄道でも自動運転なのかと錯覚するのである。
すると人間に感謝したりしないのである。
でも人間がいなければ機械だけでは運営できない、なにかしら人の手が必要なのである。だから今回の電車を運転しているとか車掌とか鉄道の保守をしている人とかがいて運行していることを自覚した。だから感謝したのである。

まず鉄道が通らないと廃線になるとさびれたものとなる、北海道は半分以上廃線になったしこれからもなる、北海道は採算がとれない、常磐線はまだ採算をとれる線だろう。
仙台との交流もあり学生も通うし坂本山下辺りになると通勤圏にもなっていたからだ
それでも二両の電車が何本か走っている、仙台まで二両でまにあうのかという疑問がある普通は4両が一番多い、八両も走っている、前は八両が多かったのである。
だから二両で仙台まで行くのかと疑問になる、仙台近辺になると乗る人が増えるからである。途中までなのかよくわからない。

いづれにしろ電車が仙台まで通ることがやはり活気がでる、夜でも八両とかの電車が行くと明るい感じになる、前はそれはいつも見ていた光景なのである。
でも今回復興して見ているとき前見ていた感じとは違う。
これが仙台まで通じているということが違っている、相馬市までしか通じないとのとは大きな差だったのである。

2017年01月13日

新年の赤い月を写真に撮る (駅の日常風景がもどった)


新年の赤い月を写真に撮る

(駅の日常風景がもどった)

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夕日さし新年の月赤しかな

新年や外部の人と睦みあう


帰り来る娘を待ちぬ母のあり電車通りて新しき年

何か自然は兆候があるのかもしれない、写真に撮った赤い月もめずらしい
夕日さして赤くなった。月には見えないのである。
今年は月が良く見える、それは何なのか?


睦月(むつき)とは睦み合うということから来た言葉である。正月には人が睦み合う時なのである。正月にはもともとそういう気分があった。人が集まり睦み合う時なのである。
駅で話したのは青森の人だった。青森には仕事がないから来たという、警備の仕事なのか車の整理をしているみたいだ。
大間のマグロを食べてきたと言っていた。何かあまり話しにくい人がいる
その人もそうだったが話が通じないわけではなかった。
まずこの前は長崎の人が来たりと何かこの辺は全国的になる
大間のマグロを食べたというとき一番贅沢だったとは言った

電車が通り日常の風景がもどった。娘が帰ってくるのを母親が待っていた。
仙台から来たらしい、駅は迎えたり見送りしたりする場である。
それが人間的なのである。駅には何か人間的な温かさがある場所なのである。

駅にはこの辺では今いろいろな人が来ている、全国から来ている、それが前とは違っている、前は地元の人しかほとんどいない、地元でもこの前相農で花の栽培などを習う科に入る受験の中学生がいた。そんな科があるのかと興味をもった。自分は花に興味をもっているからだ。

最近はみんなスマホをしているから話しにくい、みんなうつむいてスマホを見ている光景を何か異常にもみえる。受験の中学生もタブレットの漫画を見ていたのである。
スマホは暇つぶしは一番いい、でもその時回りのことが無視される,そこで話することなどなくなる、地元の人と少しでも話すると何か得るものがある場合がある
それがなくなる、ただ旅ではスマホは便利だろう。交通のことがわからないからである。人に聞いても道すら良くわからない場合がある、スマホの方がわかるとなるし案内になる
でもそこでそこにいる生の人間と接しないことは何か大きなものが欠けてくることもある旅でもスマホばかりみていたら辺りのことが記憶に残らないだろう。
風景でも集中しないと記憶に残らないのである。それであとで失敗したとなる
デジタルカメラに撮ることに夢中で風景がかえって心に残らないことすら起きる
なぜなら人間が記憶することと機械が記憶することが違っているからだ。
機械に記憶できるものとできないものがあるからだ。
その場所の雰囲気はカメラで全部記憶できないのである。

ただ今回の月はなかなか見れないし写真にもとれないものだったことは確かである。
カメラは今は近くでも持ち歩かないといいものがとれない
近くでも日々変化しているからである。

2017年01月12日

津波の跡の烏(からす)浜にまだ新年はなかった (五年半過ぎても津波の傷痕は消えない)


津波の跡の烏(からす)浜にまだ新年はなかった

(五年半過ぎても津波の傷痕は消えない)

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樅の木の間より望みぬ冬の海

海暮れて樅の木一本冬の月

烏浜津波の跡や冬の暮   

冬の灯や我が家に帰り石一つ   


烏崎津波の跡に残る墓地なおたずねつつ冬のくれかな

烏浜波うちひびき人をのむ津波の跡や冬の雲垂る

烏浜無情にひびく波の音ただ墓残り冬のくれかな

樅の木の墓地に一本立ちにつつ変わらずあれど家はなしかも

烏崎津波の跡や冬の浪うちひびきつつ暮れにけるかな


烏(からす)浜は烏崎になったけどやはり崎だけではない浜になっていたし人も住んでいたから崎という地名だけでは現せないものがあった。
烏浜は前は東北電力の火力発電がなかったのである。
その時原町と鹿島は砂浜でつながれていた。その時も良く行っていたのである。
火力発電所ができてそういう風景も消えた、あれは景色的にいいものではないと思っていたが今から考えると原発よりは良かったのである。あの中で2000人とか働いているというのは本当なのか?、相当なこの辺での雇用の場所になっているのだ。
東北電力の社宅の団地も鹿島区にあるしまた最近できた広いパークゴルフ場は東北電力の廃棄物処理場の跡にできたのである。

この火力電力が建ったときも烏浜には補償金をもらっていたのである。それで近くの呉服屋が着物を売ってもうけたということは家の人から聞いている。
その時も相当にもらっていたのである。その後は船主など船子は漁業組合に入っていた人は原発で事故前も事故後も補償金をもらっていたのである。
そういうことで墓を見ると立派なものが多いとなるのか?

でも不思議なのは海老でもそうだが墓地が残って家は津波で流されたのである。
だからなんか奇妙な感じになる、墓地だけが墓だけが残って部落が消失するというのはどういうことなのかと思う
海老では本当に墓地だけが高台に残ったから目立つ、ここは隠れるように墓地があったから目立たない、でも墓地だけが残り部落が消失している風景は何なのかとなる
墓地が流されて部落が残っているならいいがそれがないのだ

あの墓地から見晴らしが良くなったのは家がなくなったからだろう。
あそこに立っていると未だに新年を祝う気分になれなかったし現実にそうである。
津波はあまりにも悲惨だったのである。
根こそぎ部落がなくなることが悲惨だったのである。
あそこに野生の咆哮のように冬の浪が打ちつけひびいていた。
まさに自然は無情なのである。ここに死んだ人たちのことなど考慮していないのである。無情もまた自然なのである。自然を呪った海を呪ったというのもわかる
自然には情がないのかとなってしまうのである。

なんか今になるとその波の音が恐ろしいとなる、海はやさしいものではない、自然でもそうである。海はもともと何か恐ろしいものを感じていた。
だからあのように海に面して家々があることが不安にならないかとも思っていた。
海鳴りがいつもひびいているからである。
津波の跡に新年が来るのはいつになるのか?
復興というとき津波の跡でも家が建って人が住めば復興したとなるがここにはない、他でもなくなった。
だから復興したと感じるのはいつになるのか?
それは何十年も先になるのか?ただ墓だけがここにも残っているのである。

2017年01月11日

新春短歌-近辺 (南相馬市のパークゴルフ場は景色がいい)


新春短歌-近辺

(南相馬市のパークゴルフ場は景色がいい)

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正月や森に大きな昼の月

冬の日やゲートボール場に昼の月


去年(こぞ)散りし楓一枚玄関に雨しととふりぬれにけるかな

玄関に新春の光まぶしかな幸あれにしと我が家を守る

新春や松風鳴りぬ錚々と新たな息吹ここに感じぬ

竹青くますぐに伸びて新春や真日輝きつ鳥の羽ばたく

新春やパークゴルフ場開くかな人々集いなごむもよしも

新春やまた活動のひびきかな六号線を我も行くかな

あきらけくきらめきにけり星一つ徴とあれや新年迎ふ


昨日はあたたかいから新春の光を感じた、春の感じの光である。
今日は寒い、玄関は家にとって大事だという、玄関を掃除して整えておけということを言う人がいる。確かに玄関は人が出入りするから福を呼ぶというので大事になる
ただ家事をしているとかたづけることが大変なのである。
未だに片づいていない、空家をかたづけるに十年かかったとか言うのもわかる
今はいろいろなものがありすぎるのである。

今年の新春は何かこれまでとは違った、十年か介護に追われたし余裕がなかった
それで一昨年も母が死んで次の一年も何かそのことで心の整理ができなかった
人間が自分のことでも家族でも介護とか死にかかわることが大変なのである。
何か異常に疲れることなのである。家族でも焼いたり灰にしたり葬式したりそのあとでも墓参りしたりとか何かそれが精神的に疲れるのである。
だから人間が一人でも死ぬということは容易なことではない
それをなんとか乗り切ったという安堵感がある
それで今年は今までと違った新年になったのである。

南相馬市の前の東北電力の廃棄場に大きなパークゴルフ場ができた、あそこは見晴らしがいいのである。だから別にゴルフをしなくても寄ると気持ちがいい、休む場もある。
あの辺に喫茶店みたいながあったら休むのにはいい、喫茶店はやはり場所がいいところにあるといいのである。
あそこは老人が集まるにはいい場所である。隣に小さいが森もある。
なごめる場所になっている。
そこは自分がいつも通る場所にある、川子の坂を上ったところであり鹿島区内にある。
あれは鹿島町だったら財政的に作れなかったかもしれない、とにかく広いからである。
ただ東北電子の土地を無料で提供されたなどはあった。

老人にとっては鹿島区で新しい施設もできたしスーパーも一つ増えたし人口も減らないから津波や原発事故があってもそれほど打撃を受けていない
小高と比べるとその差があまりにも大きかったと今ではなる
小高の人が帰りたくないというとき小高の場合は南相馬市民であり別に南相馬市内なら移り住んでもみな相馬市民であり変わらないのである。
そして小高でも原町の市街が近いから車があれば買物はできる
そういうことがかえって小高に住まないということにもなっているかもしれない。

デイサービスで厚寿園などを利用した。でも母は行くのを嫌がっていた。特に風呂に入るのを嫌がっていたしそれほど利用していいものではなかった。
何が自分もそれで楽したということもそんなになかった。
それより在宅なのだから在宅で家事など少しでも応援してもらえばよかった。
何か介護はそういうことが多いのである。ある人は介護する人に金をやればいいというのもそうである。その人が介護で苦しんでいることを緩和することが施設ばかり作ってできているとはならないのである。
むしろ介護などは人手であり施設ではないとういこともあるからだ。
自分は全くそうした援助は皆無だった、全部一人でせざるをえなかった
そして来た人は自分を借金がどうだとかなんだとか責めるだけだったのである。
強盗も来たり借金の強要があったり弱者と化したらその弱いことにつけこまれるだけだったのである。相手も金で追い詰められていたからそうなった。
人を助けるにはまず余裕がない人はできないのである。

ともかく今年の新年はこれまでとは違って余裕あるものだった。
だから何か昼の月が大きく出ていたのでふさわしかった
自分は30年間ものんびりしたものだったのである。それがまさにあまりにも恵まれた例外的なことだったのである。そんなことがいつまでもつづくとは思えなかったからである。そのカルマがこの十年間の苦しみだったのである。
それが一段落したということである。

今年は世界情勢でも何か不安とか混乱を予想している、でも自分一身上では正月に出た昼の月に象徴されるようにそういうものはない感じがする
そんなに悪いことばかり苦しいことばかりつづいたら身がもたない、生きるのも嫌になってしまうだろう。ただ介護は十年とかそれ以上している人も結構いることが負担なのである。



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2017年01月04日

5年半ぶりに開通した常磐線 (駅は人間臭い場所だった−新地駅の記憶(詩)


5年半ぶりに開通した常磐線

(駅は人間臭い場所だった−新地駅の記憶(詩)



明治時代日本に鉄道が導入されたとき、今の「駅」にあたるものも含め、列車が止まる場所はみな停車場と名づけられた。利用者はこれを駅と呼ぶことが多く、鉄道関係者も時に停車場、時に駅と用語を混用した。時とともに駅が優勢になったが、昭和時代まで停車場という言い方は残った。1936年(昭和11年)の鉄道省の職制改正によって、停車場と駅の呼び分けが明確になり、一般の会話から停車場という表現は少なくなっていった。

今でも都道府県道・市町村道の法定路線名には「停車場」という言葉が使われる。例えば、札幌駅から南にのびる道路は、北海道道18号札幌停車場線(通称:札幌駅前通)である

停車場というのは死語になったけどこれは最初はただ車両が止まる場所だった。
駅とは違っていたのだ。なぜそうなったのか?
駅というのがまだそんなに生れなかった時代の名残りなのだろう。
車両が止まるから停車場でありそれは駅とは違っていたのである。
停車場線というのも不思議である。車両が止まる場所へ通じる道路だとなる。
駅には前は引き込み線があり貨物車両が入り荷物を運んでいた。
だから駅前には自転車屋があったという,荷物を運ぶに便利だからである。
その頃車とかは使われていないからである。
縄屋とかあったのも縄で梱包するからである。
とにかく交通の要として鉄道があり駅前が街の玄関口でありにぎわっていたのである。
駅は人が集まる場所であり交差する場だったのである。
水上勉の「停車場有情」という短編小説などがあるのもそうである。


年末は駅では除染の人でも工事関係者でも中国の女性の出稼ぎ者でも故郷に帰る人が多かった。長崎の人もいた。駅はもともとそういう人間模様がある場所だった。
人間臭い場所だったのである。それは何か車社会の道の駅とは違った感覚の場所である。

ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく 啄木

様々の人間模様や駅をたち帰る人送る年のくれかな

去年は結構駅で外から来た人を案内したり話したりした。鹿島駅が無人駅になったから案内する人がいないのも困ることがある。

正月になり二日は今度は常磐線で帰る人がいた、その人は車をもっているから電車には乗らない、それで電車のことがわからなくなっている
今は車社会だから電車のこと鉄道のことをわからなくなっている人が多いのである。
自分は車に乗っていないから車のことがわからないのである。
今どきそんなことがあるのかと思ってしまう。

「電車はいいよ、景色を見れるから、車だと景色は見ていられないから」
「常磐線は今度は高架橋になり海が広く見えるよ,船も見えたよ」

そう言って見送る人がいたが確かに電車だと景色をゆっくり見られる、車だと運転に集中するから景色が見れないのである。そういうことも車に乗らない人は良くわからないのである。
常磐線は五年半ぶりに開通した。今度は高架橋で広く海が見えるし船が行くのも見えた。

東京へ帰れる人を見送りぬ人も老いにし駅舎も古りぬ

常磐線五年ぶりにし開通す仙台に通じひびき高鳴る

ともかく自分にとってこの常磐線の開通は復興を一番感じた、というのは自分は仙台には良く行っていたし旅をしたからである。
その時はあまり電車のありがたみを感じなかった。つまりこの辺では当たり前にあるものが失われた。第一故郷に住めなくなるなどということをイメージもできないものだったのである。
今でもまだ仮設に住んだり移り住んだ人がいるからその心境はどういうものなのかその人にしかわからないだろう。

普通に電車が走る、今までは原町と相馬市の間しか走っていない、なにかそれも不思議だった。でも仙台まで通じるとまるで違ったものを感じた
その電車が走るひびきは仙台へ通じていることなのだ。その相違は大きいのである。
バスは何か疲れるし好きではない、電車は乗っても楽なのである。
津波で流された駅は新地でも山下でもずいぶん立派になった。
ひなびた駅が都会風になったのである。

まずこの辺はいろいろ変わり方は激しいのである。
駅をおりて浪江の人が新しくできた復興住宅に行ったりと除染や工事関係者がまだ外部から入ってきている。
駅というのがその街の玄関だというとき確かにそうである。
駅からその街をまず見るからである。電車の旅でも駅の名前がなぜか心に残っている
駅はバスとは全く違った乗り物なのである。バス停なとには何か今でも原町の深野の
豪蔵とかの地名が記されている、高瀬川を上った葛尾村に磐城落合とか停留所の地名が記されているときやはりそこでその土地のことを記憶に残すからバスでも昔はその土地の字名を記憶に残したのである。

駅はやはり途中下車なのである。

新地駅おりたちあわれ虫の声ここに聞きつつ月の光りぬ

新地駅五分まちつつ交換の電車を待ちぬ秋の夜かな

日立木駅ものさみしかもおりる人一人二人や冬のともしび

前の新地駅では交換のために五分間待っている、新地駅に来るともう相馬であり鹿島も近いとなる。
その時は家族がいて待っている人がいたからなにかほっとする
今になると家族もみんな死んだから一人帰るのが何か淋しいとなる

いづれにしろ鉄道には自分は相当に愛着がある。鉄道マニアになもっている、ただそのマニアでもいろいろある。鉄道だと今はローカル線では観光鉄道になっているところもある津軽鉄道などがそうである。スト-ブ列車でもある、春には乗ったが冬には乗っていない、やはり冬に乗ることで津軽を感じるだろう。
鹿島駅でもストーブがあったという、何かその記憶にともしいが確かにあったのだろう。それはどこでもあったものである。スト-ブがあるということはそこで待ち時間に会話がある。
この待つ時間が旅では記憶に残るのである。今の時代待つということが効率化で失われたのである。結果的に人生の時間が失われていたのである
瀬戸内海でも旅したとき土地の人と船を待っていたことが記憶に残る
瀬戸内海では船が日常の交通手段だから観光ではないから違っている
そこで瀬戸内海の人々の生活を感じるのである。観光では生活を感じにくいのである。
津軽鉄道があったとしても今はどこでも車が主だとすると何か違ったものになる。

今は車社会だというとき道の駅が生活を感じるものになる、でも何か鉄道の駅のように人間味を感じない、鉄道には何か人間味を感じるのである。
人を迎えまた見送ること、電車を待つことそれは人間的なことなのである。
車には何かそういう人間味がないのである。機能面がけが優れていてそこに人間的なものが生れないのである

常磐線が仙台まで通じて仙台に行きやすくなった。それでまた出かけたいとなる。
仙台に出ればまた遠くに行き安いから旅もしやすいとなる。
ただ何度も言うが旅で大事なのは記憶に残る旅をすることなのである。
それが一見非効率的なものになる、電車を待つとか船を待つとかの時間が記憶に残っている、そういう時間が実は大切な時間だったのである。
だから旅をふりかえると不思議なのである。その記憶が宝となっているのである。
それで思い出して短歌なり俳句なり詩にしているのである。
回想するたびというのもつくづく今になると不思議である。
かえって旅しているときより深く見ているのである。それは人生でもそうである。
その時々の経験したときは何かわからないが老人になるとその意味がわかり記憶が宝となるのである。

だから生きるというときどういう体験を積んだかであり必ずしも大金持ちになったとか金では計れない、何か大きな冒険をして九死に一生を得るというごとくそういう経験した人は貴重な経験をしたのである。津波とかがそうだった。そんな経験は滅多にできるものではないからである。


記憶の駅

津波に流される前の新地駅
五分交換のために電車を待つ
ホームにおりると
虫がかすかに鳴いている
月が光り新地の海側の家々
それらはみんな津波で流された
ここはすでに相馬に入り
我が家も近くほっとする
その新地駅は新しくなった
でも自分は前の新地駅に
なお幽霊のように立っている
そんな簡単に人は変わるものではない
人は長く生きていればどこにも愛着が生れる
だから愛着ある場所にいたいのだ
津波で流された後に松の根が残っているように
人の記憶はそう簡単には消えないのだ
私はそこに以前としている
家族もみんな失った自分だが
やはり以前としているように思う
長くあったものはそう簡単には消えない
記憶はその人の中に残っているのだ

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こういうことなんだろ、津波とかで家が流されて人も大勢死んだ、原発事故で避難した人々の気持ちもこういうことがある。
だから老人はどうしても故郷に帰りそこで死にたいという気持ちになるのである。
何でも長くいると愛着が生れるからである。若い人にはその気持ちがわかりにくいのである。老人になると記憶を生きるようになるからだ。
新地駅はまるで変わったものになった。するとそこからこのように過去を回想することはできないのである。
すると過去の記憶と今の記憶の断絶が生れるのである。そういうことは歴史でいくらでもある。東海道などはもうそこに江戸時代を回想することがむずかしくなる
その変化が激しすぎたからである。
中原中他の「桑名駅」では蛙が鳴いていた。桑名というという東海道の宿駅であったがそれがた現代と結びついている。そういうことは今はまれである。
この辺はまず大きな変化に見舞われた、だから経験し得ないことを経験したのである。