2023年06月01日

栃窪の塩の道から八木沢峠の麓の家 (牡鹿半島が見えたー青葉風、夏つばめ、夏鶯、、、)


栃窪の塩の道から八木沢峠の麓の家

(牡鹿半島が見えたー青葉風、夏つばめ、夏鶯、、、)

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牡鹿半島と松川浦が見える、大きく見えたのは驚き

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AIで作った画像

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八木沢峠の麓の家ーここから山に登る道がある

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五六羽の夏鶯の競う声
大原や黒揚羽三羽夏あざみ
青葉風軽快に走るサイクル車
駐車場車あまたや夏つばめ
喫茶店夏の空にや昼の月
つつじ赤く車の絶えじ六号線

登り来て青葉の山の間海見えて牡鹿半島連なり見ゆる
山囲み家の見えじも誰が住むやここに暮らして何思ふらむ

栃窪から塩の道を登ってゆくと道は崩壊していた。でもそこから男鹿牡鹿半島がはっきり見えた。こんなところから見えるのかと発見だった、意外と浜通りは海を通じて地理的に一体感がある
まず見えなとしたら地理的一体感が感じないからである。
浜通りは阿武隈山脈にさえぎられて吾妻山でも見えないからである、ましてや会津の山は全く見えないからそこは同じ福島県でも別世界なのである。
ただ蔵王は南相馬市でも鹿島区からでもはっきり見えるから山形県と一体感が感じるともなる

塩の道を上って行って助の観音からさらに登ると崖崩れがあり飯館村には行けなかった。それで引き返して上萱(うえがや)を通り八木沢峠の下の道に出た。そこで一軒の家がありそこには人は住んでいない、でも車があったから全く放置はされていない、そこは小高い山に囲まれていて不思議な空間だった。家が見えない、ただ山に閉ざされた空間だった。
その前は湿地帯になり黄菖蒲があまた咲いていた。もともと日本はこうして湿地帯だったところが多い。だから菖蒲田とかの地名がある。
そもそもこうした辺鄙な所に人が住んだのか、そこでも暮らしがなりったったからだろう。その一軒の家から山の中への道があり結構長い道を上ると行きずまりになっていた。

その道にも人の手で作られた石垣があり人がこの道を利用していた。何か木材とかを利用していて道を作っていた。
炭焼きなどでもしていたとなる。なにかしら生業がないと暮らせないからである。
ともかく人間は住む場所によって気持ちでも変わる、家も見えない山に囲まれたところで住んでいたらどんな気持ちになるのだろうかと思う。街が全く見えないからである,隠棲の場所としてはいいとなる。でも不便になるから車がないと生活できない、その家には車があるから人が住んでいるようにみえる。全くの空家とは違う、ただ空家化した所も多い、とにかくあんな不便な場所でも人は住んでいtえ暮らしていけたのである
そういう場所は日本でもいたるところにある、やはり炭焼きとかがあり暮らしがなり立っていたことが大きい、その時山は活きていたのである。

そこから下って来て大原にでてイオンに出て休んだ
昨日は陽射しも強くなく快適だった。五月の気候は気持ちいい時であったが最近暑くなりすぎたのである。陽射しが強いと熱中症になるので出れなくなった

2023年05月29日

桐の花、老鶯、黄菖蒲(梅雨になるのか-桐の花の詩)


桐の花、老鶯、黄菖蒲(梅雨になるのか)

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霧雨や残り咲きひそか桐の花
霧雨や裏道ひそか桐の花
水溜まり映りてひそか桐の花
家近く老鶯鳴くや雨しとと
草深く老鶯鳴くや籠るかな


裏の道
残り咲く
一輪ひそか
桐の花
この道行くを
誰か知る
雨しとと
水溜まりに
その花映りぬ
幽かに
その花の映りて消えぬ
あるともなしに
穢れし手で触れるなかれ
そは水に映り
神の見ていつしか消えぬ
そは神の鏡に映りて消えぬ
そを神に記憶されしも・・・・

The Road Behind
Remaining blooms
A single flower blooms in secret
Paulownia flower
Who knows where this road goes
Who knows
Rain drizzling
in a puddle
Reflected in the flowers
its flowers are reflected in the puddle of water and disappear
without being there
Do not touch it with unclean hands.
It is reflected in the water
God sees it and it will disappear someday
You are reflected in God's mirror and you will disappear
God remembers you: ・・・・


今年は梅雨になるのが早いのか、裏の道をいつも通る。今日もしとしとと雨であり霧雨でもある。強くは降らないから干ばつににもなっていた。でもこれから梅雨になれば長く降るから解消するだろう。また台風も来ているから大雨になるかもしれない。

桐の花は何かひっそりと咲いている。その花は何か自分の性分と合っている。どうしても人付き合いが苦手だからである。
もう一つは人というのは何か必ず汚れたもの醜いものがあり接したくないのである。そのために私は30年間も引きこもっていたのである。それで社会性がなくなり問題が起きた。
小人閑居して不善をなすとなったのである。隠者となるのはよほど優れた人でないとなれない。そこで長野県のようなところで田舎で凶悪な殺人事件がお引きこもりだった人が起こした

ともかく花にもいろいろありその人に合った花があることは確かである。桐の花は私の性分に合っている。
また草深く藪の中に老鶯が鳴いている。いかにも田舎らしい。でも隣の原町だと5万くらいの人口になるからこことはまた違っている。それで夏菊が原町に合っていると見た。
黄色が田植えしたあと水に映っていた。そこに暮らしがあり花も生きてくるのである。だから原発事故で草ぼうぼうとなったとき荒涼となってしまったのである

やはり自然でも人間が住んだ時人間の営みがありそれが自然の中で調和して生きてくる。暮らしがなければそこは生きてこないのである。だから日本からそう今人口が減り縮小して行く時限界集落とかが維持できなくなる。
そこから暮らしがなくなり何か荒れ果てた感じになるのである
また空き家も増えたことで荒れ果てたものとなる
隣の家も空き家となり広い庭何もなくただ積まれた石が残っている。でも冬の日その庭に洗濯物を干していたときその石も人間と一体となり生きていたのである。

冬の日に洗濯物干し大き石

つまり石がありその石も人間の生活と一体化して生きていたのである。それが空き家となった時全体の死んだようになってしまったのである。
田植えをが終わりそこに黄色の菖蒲が写っている。そこに暮らしがあり菖蒲も生きているのである。

写真はAIで作られたものと写真の合成である。

2023年05月25日

赤モズを発見!! (絶滅危惧鳥類アカモズはどこに何個体いるのか?)


赤モズを発見!!

(絶滅危惧鳥類アカモズはどこに何個体いるのか?)


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初夏や赤モズの姿とらえけり

枝渡り飛び去りゆくや夏の鳥軽やかにして涼しかりけり



国内における2019年現在の亜種アカモズの繁殖つがい数は149つがい,成鳥の総個体数は332個体と推定されました。国内における本亜種の繁殖分布域は北海道と本州の一部地域に限られ,過去100年間で90.9%縮小したと推定されました

夏季に中華人民共和国や日本、ロシア東部、朝鮮半島で繁殖し、冬季になるとインドやインドネシア、東南アジアへ南下し越冬する。日本では亜種シマアカモズが九州南部や南西諸島、亜種アカモズが北海道、本州東部に繁殖のため飛来(夏鳥)し、本州西部、四国、九州では渡りの途中に飛来(旅鳥)、沖縄では越冬のため飛来(冬鳥)する。
鵙はスズメ目モズ科の鳥の総称。夏鳥のアカモズ、チゴモズ、冬鳥のオオモズ、オオカラモズなど日本各地に広く繁殖分布し、寒いところで繁殖するものは暖かい平地に移って越冬する。翼長十センチくらい。羽色は全体に地味で、頭は栗色、背は灰色、翼は黒褐色で中央に白斑が一つある。食性は肉食で、昆虫類、節足動物、甲殻類などをを食べる


のうちの1亜種の亜種アカモズ Lanius cristatus superciliosus 以降アカモズ)は,日本とその周辺地域(サハリン南部・千島列島南部)でしか繁殖しません。国内では主に本州や北海道で繁殖するとされ,私の生まれ育った新潟県内でもいくつかの繁殖地が知られていました。図2は新潟市で2005年に見かけた看板ですが,カワラヒワやムクドリに並びアカモズ(図2左上)が紹介されています。かつては,ムクドリやカワラヒワのように,たくさんのアカモズが生息していたのでしょうか。私はアカモズの観察を夢見てこの場所に2005年から2011年にかけて7年間通いましたが,残念ながらアカモズを観察することは叶いませんでした。



モズは秋とか冬に見るけど夏にはみないと思っていた
これは繁殖するために渡って来てその途中にここに寄ったのか
この赤モズは非常に少なくなっている。

私はアカモズの観察を夢見てこの場所に2005年から2011年にかけて7年間通いましたが,残念ながらアカモズを観察することは叶いませんでした。

これほど野鳥を観察している人でも見れないのである。そしたら写真でも撮ったとすると相当に貴重だとなる。
これは街中を流れる真野川の岸辺で撮った、鳥はすぐに飛び去るので撮りにくいのである。一瞬で去ってしまうこともあるからだ。
だからこの写真は相当に貴重になるかもしれな、そんなに見かけないしまして写真にとらえたとしたろそうなる。幸運といえば幸運だった。そのときカメラをもっていたこともそうだった、やはりカメラは常時持っていないとチャンスを逃す、どこでシャッターチャンスがあるかわからないからである。



2023年05月22日

菖蒲の俳句(HIKE about iris) (beingのimage creatorで作る絵の不思議-Image Creator of Being and Haiku)


菖蒲の俳句(HIKE about  iris)

(beingのimage creatorで作る絵の不思議-Image Creator of Being and Haiku)

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草深く菖蒲に大岩村一つ
村一つ色合い濃くも菖蒲かな
岩一つ離れずここに菖蒲かな
貞淑な妻に菖蒲や岩一つ
池映る菖蒲や茶室に心澄む

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これは良くできている


チャットgptチャットでも不思議なものだけどaiで生成する画像も絵画もも本当に不思議である。
文章を入れてそれにふさわしい絵画が創造される。それはなんなのだろうと思う。私は他人の絵から写真から抽象画を大量に作ってきた。そんなことができたのはコンピューターはできて作られたのである。私には全く絵の才能がないからである。でもソフトで写真でも他人の絵画でも変化させると別なものになる。ただそこで著作権違反になっているのもあった。
でもそれもオリジナルの変化でありやはり創作となっているのかもしれない
ともかくコンピューターの特徴は人間の頭脳の代わりになる。それも今まで人間にしかできない芸術の創造の分野まで深く入り込んできていることである。
ただ詩を作ることはまだできないしできない分野も相当にある。
ただ絵画を文章から想像できることには驚くのである

菖蒲と岩と村をテーマにしてbeingのimage creatorで絵画化した。ただ茶室と入れても御堂がでてきたり情報が十分でない
日本の情報が十分に取りいれていないからそんな風になった
でももっと進化すればあらゆる世界の映像が表現できるようになる。だからartとは技術の意味があり技術によって変化するのである。

でも俳句一つでも創作できるのか?また理解して観賞できるのかは疑問である。新しい絵の具のようなものともなる。新しい絵の具が生まれて表現の幅が広がったからである。

With the theme of irises, rocks, and villages, he painted it with Image Creator of Being. However, even if you put it in the tea room, the mido will come out and there is not enough information.
It became like that because I didn't get enough information about the Japan
But if we evolve further, we will be able to express images from all over the world. Therefore, art has the meaning of technology and changes depending on the technology.

But can you create even one haiku? It is doubtful that we can understand and watch it again. It's like a new paint. This is because new paints have been born and the range of expression has expanded.

mido

In Buddhism, a hall where Buddha is enshrined. It also refers to a small sized  temple.


2023年05月21日

空き家の庭に咲く菖蒲と残された岩 (日本の風景になった空家)


空き家の庭に咲く菖蒲と残された岩

(日本の風景になった空家)

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草深く菖蒲に残さる岩一つ
夏の夕鹿狼山見え相馬暮る
菖蒲咲く白紫に黄に暮れぬ

我が庭に薄紫の薔薇一輪隠れて咲きぬ誰か知るらむ
ひそけくも桐の花散るこの道に物音もなく我一人行く
雨しとと桐の花散るひそけしや今日もこの道我は行くかな
何語る空家の庭に残される岩や草むし菖蒲咲き暮る

身近でも空家が増える、隣も空家になった。地震で壊れてそのために家を壊して空地化したのもある。すでに身近で十軒くらい見ている。
これもすぐ近くで空家化した。草が生えてそのなかに菖蒲が咲いていた、そして大きな岩が一つ残っている
草深く菖蒲が咲くというとき別に今は田舎だと咲くのはめずらしくないのである。でも空家の庭に咲いているから違っている。
この岩でも人間化してまだこの家にいるとかになる。こういう景色は原発事故で避難区域になった町や村では空家だらけであり庭でも人が住まずここと同じようになっている。
ただ地震で屋根が壊れても直している家もあり全く放置されたものとも違う、でも全く持ち主もかかわらない、放置された空家もある、それで誰も利用しないからもったないとみる
何か利用されれてもいいと思っても持ち主がいるから簡単にできないのである。
とにかく空家はこれからも増えてゆく、この辺は避難区域から移住した新しい家が増えたからいいにしても空家は確実に増えてゆくのである

鹿狼山はこの辺では原町からでも見える。400メートルくらいでありそれでも遠くから見える。この辺では高い山はないからものたりないのである。

庭にどういうわけか一輪この薄紫の薔薇が隠れて咲く、なぜか一輪ひっそりと咲き散る、桐の花もひっそりと咲き散る、桐の花は不思議な花である雨にしとしと濡れているのがあっているのである



2023年05月12日

夏の日に八木沢峠を上り飯館へ

夏の日に八木沢峠を上り飯館へ

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八木沢峠の入り口 御堂が裏にある

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緑陰に御堂隠され滝響く
新緑や二段の滝のひびきけり
藤高く風にそよぎゆれ触れえじも
汗かきて峠を越ゆや別世界
までい館飛び交い巣作り夏燕
復興や飯館村の張田かな

銀蘭を見つけしと語る飯館の老いにし人や案内するかな

八木沢峠の上り口の滝は二段になっていた。そこには隠されるように小さな御堂がある。新緑に映える、ただ滝は隠れているのではっきりは見えない
そこから飯館へ自転車で上るのは苦しい、かなりの坂が続くからである。標高が400メートル以上あることは鹿狼山の標高くらいあるから高いとなる。そのくらい登ることになるからである。
だから飯館は高原になり夏でも涼しのである、森も寒冷地帯の植生にもなる。

までい館には燕が盛んに飛んでいた。巣作りするためらしい、新しい建物であり復興のシンボルにもなったからふさわしいとなる。
草ぼうぼうだった田んぼも水が張られて蛙も鳴いていた。ここでもそうだったがカエルが鳴いて復興を感じた、でもまだ鷺は飛んでこない、鷺が飛んでくればさらにいい、水田には餌となるものがあるから鷺も来るのである。
ただ溜池でも干上がっていたから今年は干ばつになるのか?
雨が強く降らないからである、少雨になっているから気になっていた、それで心配だとなる

あいの沢で花に詳しい管理人に話を聞いたのは良かった
やはりそこに長く住んでいないとその土地のことはわからない、というのは飯館村だと森が深いし山菜も常食としていた、それで自ずと森に入るからである、私は森深くは入っていないからである。森の中のことがわからないんである。
でも丸森で森に入り抜け出れなかった恐怖を経験している。
だからなかなか森に入ることを躊躇するのである。
次は森に入り花を探して見よう



2023年05月10日

夏の夕暮れに相馬市に行く (張田、植田、藤の花、桐の花)


夏の夕暮れに相馬市に行く

(張田、植田、藤の花、桐の花)

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新築の家の玄関燕来る
満月を張田に映し灯のともし

夕方に相馬市へ行く

鹿狼山張田に映り夕暮れぬ
植田にそ夕日輝き農家暮る
田植え終え映して静か桐の花
松に藤街道静か夕暮れぬ
奥の庭藤の垂れ咲き古き宿
夕藤やおみなしとやか奥に待つ
月幽か藤長く垂れ籠る人
夕月や相馬の城下藤の花
白藤の闇の包むも知りし道

橙の三輪の薔薇咲き朝日さしあまた蕾や夏は来にけり

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5時ころまで片付けがあり本の整理に苦しんだ。それから相馬市に行った。張り田に満月が映っていたのは昨夜だった、今日は月は出ていなかった。
鹿狼山が張田に映る、この山は400メートルくらいでもこの辺では一番高いから結構遠くからも見える。原町の雲雀が原からも見えたからである。

この辺で物足りないのは高い山がないことなのである。
今は張田の季節である。その張田に昨夜かその前に満月が映っていた。田舎だから灯はともしくも満月だけは輝き映っていた
田舎だと月の方が明るくなる、大都会だと月も電気の明かりで美しく輝かない、思うに現代は電気を使いすぎる
夜までそれより眠らない都市とかなる、夜までこんなに活動して電気を使いすぎる、そのために原発が必要となり大事故になったのである。

田植えを終えた田の面に桐の花が映っていた、そして夕日が輝き映り山に沈んでいった。
そこは松並木が残る浜街道である。桐の花が植田に映している風景は常に見る。桐の花不思議な花である。静寂印とか賢治が童話で表現した花と似ている。なにか自分の性格と通じるものがある
自分は引きこもりであり長い間30年とか家に引き籠っていたからである。

藤の花が似合っているのは相馬市である、一応城下町だからである。残念なのは中村喫茶店がなくなったことである。
藤棚があり藤の花のトンネルの庭があったからある、それは城る町に相馬市に似合っていたのである。
夕方から夜になり六号線を帰る、そこに白藤が咲いているのを知っている、それは常にその道を行き来しているからである。

庭には橙の薔薇が今年もあまた咲く薔薇の花なぜかこんなに咲くのか不思議である。三輪開いたが蕾があまたありこれだs家また裂くのである。
このように人間でも子供でも増えればいいとなる。次の代を継ぐ人が少なすぎる、老人ばかり増えるからである。
とにかく夏になればいろいろな花が咲く、燕も新築の家の玄関に飛んで来た、この辺は原発事故で避難区域から移住してくる人が家を建てているからいいのである。
家の片づけと修理は終わていない、また傷んでいたところがあり修理が必要なのである。





2023年05月04日

藤の花、菖蒲、桐の花(夏になり近辺を回る)

藤の花、菖蒲、桐の花(夏になり近辺を回る)

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ジャーマンアイリスだから日本の菖蒲ではない、写真にすると違っているとなるが
言葉だけだったらそれぞれイメージするからいいのである。ただ写生が基本になるから問題にはなる
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これは相馬市のイオンの近くの農家で撮った、桜なのか。4月のはじめか三月に撮ったから

夕月や相馬の城下藤の花

荒らし風痛くな吹きそ藤咲きぬ日陰の道行く心静かに
木の下に菖蒲の咲きぬ変わらずにその色染みて日影の道行く
藤の花そよゆれ静かこの道に鳥鳴く声や行く人もまれ
変わらずにここに石あり菖蒲咲き心静まる家への道見ゆ
藤棚をしつらい咲かす落ち着きて老いの身労りここに住みなむ
留守にせし我が家の庭の花探し黒揚羽の舞い去りにけり
桐の花今年もここに咲きにつつひそか散りにき音もなくして

夏になった、藤の花が咲き菖蒲が咲き桐の花が咲いた。すでに桐の花は散ったのもある。
近くに森があり木陰が深い、田舎だと今は田植えになり季節を感じる。

何か家に整理とかたずけで相当に疲れた。重い本を持ったので疲れたのと階段が急なので何回も上り下りして疲れた
老人になると後になて疲れが出やすいのである。
それでつくづく藤棚がありその藤棚を作るのは大工さんであり老人はそこに藤の花を観賞するのが向いているとなる。
老人は住み心地がいい家とか場所が大事になる。家にいる時間が長くなるからである。
何か老人は変化しないことがいい安心する。ここに前から石があり菖蒲でも咲いていたとかなり安心する
認知症になるとそうして見慣れたものや見知った人としか通じあうことができなくなる。
遠くに住んでる実の子供でも忘れたりするからである。つまり認知症でなくても老人はそういう傾向になるのである。

藤の花は相馬の城跡に藤棚に咲いている、藤の花が似合っている。一応城下町でもあり似合っている。それで中村喫茶店に藤の花の庭があったが閉店したのが残念だったとなる。
喫茶店はどこでも維持できなくなって減少した。残ったのはドライブインの喫茶店というとき車社会だからそうなったのである。
街中の店でも車の駐車場がないと利用しにくいからである。

近くに森があり木陰が深く鳥が鳴いている。今日は風もなくいい天気であり気持ちがいい、遠くに行くにもいいと思ったが疲れたので行けなかった。







2023年04月29日

鹿島駅前の八重桜ー人間的な鉄道の駅 (仙台市の青葉茂る通りの詩)


鹿島駅前の八重桜ー人間的な鉄道の駅

(仙台市の青葉茂る通りの詩)

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車窓から見た蔵王



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これは小さいが前は大きな八重桜だたのである。

駅の前の八重桜

八重桜一本なおも駅の前
ほのぼのと咲き心温まる
人の出会いと別れや
見送る人に見送られる人
人の暮しの駅に続きぬ
駅前に勤めし自転車屋の人
今は亡きしも我お待ちてあれ
我が姉と母も今は亡きしも
待つことあれ心にその面影の浮かびぬ
ああ 忠犬ハチ公のように
主を待ちて駅にあることのあわれ
かく待つことの駅にはあれ
いずれは人は皆死にて消えゆく
そしてここに働きし日々を思い出すなれ
我はなお生きて駅に一人帰り来て淋しかな



青葉茂れる仙台の通り

青葉にまぶしく夏の光
木陰なし通りを歩む
ここに若き人等行き交う
メインストリートにチューリップ咲き
青葉茂れる夏の夕暮れ
ここに若き等の熱気を帯びる
田舎を歩むは杖ついた老人
ここを歩むは颯爽と胸を張る若者
彼は彼女等は何を語っているのか
未来に胸をふくらませているのか
我が青春の日は遠く老いぬ
青葉は茂り夏の光がまぶしくさした
そして若者の熱気が息遣いを感じた
かくて夏の日は暮れぬ


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何か鉄道の駅は不思議である。高速道路の道の駅のとはあまりにも違っている。
それはなぜなのか?鉄道の歴史が長いということもある。明治時代から始まっているからである。
その中で人間は鉄道利用してきたからである。そこに人間のドラマがあり人間的なものは鉄道に付与されたのである。
そして駅も人間的な場所として長い間百年とかあいつづけたのである。なぜ鉄道は人間的なのかとなると車と比べるとわかる。道の駅だと何かそこに人間的なものは生まれない。
人が出会い人が別れそこに人間的なものの情が駅でも鉄道でも付与されたのである
道の駅と違うのはとにかく駅というのは短い時間であれ必ず電車がくるの駅でまず待つ。その待つことが人間的なものを生み出していたのである。それで忠犬ハチ公の物語が生まれたことでもわかる
それは鉄道の駅だからこそ生まれたのである。

なぜなら高速道路の道の駅なら待つということはないからである。そこで人の出会いとか別れもないのである。
ただ機能的なものとしてあれ一時トイレを利用したり食事をしたり買い物したりしてすぐに去ってゆくだけである。そこに待つ時間も別れを惜しむ時間もないのである。
この待つ時間は効率的に見れば無駄だとなる。でもその待つ時間が人間的なものを演出してきたのである。
人間は一見無駄に思えるものが実は無駄ではない。それが人間の特徴なのである。だから老子でも無用の用を説いたのである。

大都会でも空間でもビルに埋め尽くされたら窮屈になり圧迫されるのはそこに無用の空間がないからである。
全ての用あるものとして埋め尽くされたら人間は窮屈になり圧迫される苦しくなってしまう。
時間にしても効率を追求すれば人間は機械かロボットのようにされる。それは流れ作業の仕事などがそうである効率を追求を追求して行けば1分でも休ませてはいけないとなってしまうからである。
そうして人間は機械のようになりロボットのようにさせられることになったのである。
ともかく八重桜は前は三本くらい咲いていた。でもJRで切ってしまったのである。また近くの人が虫が来るということで切ってほしいということもあった。でも一本だけは残ったのである。

この八重桜は桜と違って何かほのぼのとして母の愛のような感じになる。だからこれまで私は家族がいるときは家族が待っていたから良かったのである。
今になると家族もみんな死んで誰も待ってる人もいない。駅前の自転車屋の人も死んだ。それもごく最近のことである。
自転車屋の人は駅前にあるから駅のことを何かと気にしていたのである。駅前の店とかは駅と一体になっていたのである
駅前の通りあり駅の中心になっていたからである。それが車社会になった時その役割を失ったのである。だから鉄道の使いかた乗り方すら知らない人がいたのである。それだけ鉄道は利用されなくなったということでもある。

ただ遠くに行くとき仙台となるとやはり鉄道を利用する。
仙台だと仙台の駅から青葉が茂るメインストリートがありその真ん中にチューリップが咲いていた。
そして若い人たちが盛んに歩いている。そこは若い人たちの熱気に溢れていた。今田舎になると原町などでわ5万とかの人口があっても通りを歩いている人を見かけない。
時々杖をついて歩いている老人を見かけるくらいなのである

町の通りを歩く人が稀である。みんな郊外のイオンとかのスーパーに車で来るからである。ただそのために相馬市でわイオンが閉鎖されて町全体が寂れたようになってしまったのである。
それも問題だと思った。イオンは大資本であり大きなビルを建てスーパーを作っても採算が取れないければ撤退してしまうからである。そのあとは空洞化して町全体が寂れたようになってしまうのである。
でも小さな商店はとてもスーパーにはかなわないし成り立たなくなったのである。
やはり仙台市とかには人が集まりさらに拡大してゆく。震災後原発事故でも帰って仙台市に人が集まるようになったのである。
そしてその周辺地帯は人口が減少してゆくという変化があったのである。

春から夏へ(雲雀、鶯、タンポポ、菖蒲)

春から夏へ(雲雀、鶯、タンポポ、菖蒲)

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今日も見ゆ鉢に菖蒲や貧の家



白波の寄せてひびくや朝雲雀
六号線喫茶店あり八重桜
朝歩む人に鶯鳴きにけり
今日も見ゆ鉢に菖蒲や貧の家

たちまちにタンポポの綿毛飛び散りて雲雀鳴く声朝に響きぬ

朝に海の方に言ったら白波が寄せて響いていた。
4月も終わりになりすでに夏になったようである。
たんぽぽの綿毛が満ちて散ってゆく。一斉にたんぽぽが咲いたがそれもちった。季節が移ってゆく。今度は連休であり夏になる。
すでに藤の花は咲き始めている。
川の土手を歩く人がいる。そこにウグイスがなくそれは何も変わった風景ではないが歩いているということで鶯のが歩く人で響くのである。

何か現在は歩くということが珍しいのである。みんな車であり車社会だから歩くということが珍しくなったのである。
でも歩くということは自然と一体化するのである。それが車となった時自然と一体化しないものとなったのである。
だから江戸時代の浮世絵などで歩いて旅している人を見るとそれは風景の中に溶け込んでいるのである。人間が歩いているとそれは絵になり不死にもなるのである

それだけ人間は今機械に左右されて本来の人間の姿を失ってしまったのである。ただ人間はどうしても便利なことを追求してきた。車なら風だろうが雨だろうは自然に左右されない。
それだけ便利なものだから手放せないようになるのである。
私は毎日朝に川の土手の道を自転車で走っている。でも私自身が歩いていないのである。それで山形市に行って歩いて足を悪く悪くした。

このように人間は今歩くことをしていないし歩く姿も見ない。街でも歩く人も見かけない。それで通りはシャッターとうりになったのである。何かそれが街を寂れさせたのである。
車だと駐車場もないし不便でありどうしても郊外のイオンとか行くようになるからである。それも車社会がそうさせたのである。

毎日市営住宅に入っている人の部屋を見ている。その人のことを知っているからである。そこにわずかな庭があり鉢に菖蒲がさいている。
それを毎日見ている。そこに住む女性は老人は私の家に常に来ているからである。
もしそうでなければその市営住宅に住んでいる人の女性のことなど関心がなかったろう。でも親しくしているからその住んでいる住宅でも見る目が違ったものになる。
でも知らなければ誰が住んでいるかも知らないし関心もないのであう。田舎でもそうなってしまうのである。
ともかく桜も散って夏になる、その季節の変化も早い。昨日は仙台市に行ってきた。そのことは次に書くことになる。


2023年04月19日

桜も散り季節が変わり装いを新たにする (タンポポ、椿、八重桜、牡丹、雲雀など)


桜も散り季節が変わり装いを新たにする

(タンポポ、椿、八重桜、牡丹、雲雀など)


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クリック拡大で鮮明に

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忘れな草




タンポポを踏みて犬散歩

ますぐなる道にタンポポ絶えず咲き朝の海に出て沖に船見ゆ
タンポポの空地に広く咲き充ちぬ朝に雲雀の鳴く声ひびく
八重桜タンポポ眩し土手の道芽吹きし木々の風にそよぎぬ
様々の花を植えたり我が庭に余生ここに楽しむべしかな
我が庭に咲き続けたる牡丹かななお栄えむと咲き続けなむ
咲きつづく牡丹や朝日に眩ゆしや心置きなく咲きて散るらむ
あらたにそ牡丹植えてそ咲くを待つ咲くとかぎらじも我が待ちにけり
地味なれや忘れな草の庭に植えとなり明るくさくら草咲く
庭の奥白椿咲きひそか散る我のみ見つつ部屋にこもりぬ

桜がみんな散った、次に咲くのが八重桜である、これは落ち着いて咲く花である。ほのぼのとして咲く花である。桜は咲いても常に散ること予感させる、だから静心なく咲く花なのである。
その花が咲く道を今日も行く、土手にタンポポが眩しい、犬がそのタンポポを踏んで散歩する、それは平和な光景である

牡丹も庭に咲き続ける、20年なのか30年なのかわからない、そんなに長く咲き続けるものなのか、その不思議がある、場所がマッチしたのだろう。牡丹はやはり栄の象徴の花である。
花の王者である。

そしてこの花のように心置きなく咲いて散る、その生を全うする、そうなるにはやはり長生きしなければならない、早世する天才もいるが普通の人でも長寿の」時代は才能が開花するともなる
心置きなく咲き散っていく、西行の辞世の歌が

願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃

「望月の頃」なので「陰暦2月15日」。今の暦では3月の後半にあたります。まさに桜が満開の時期ですね。

満願かなってこの日に死んだ、心おきなく死んだのである
こんな風に死ねたことは桜を歌い続けて実生活でもそのとうりななったというなはやはり人間の詩も実はその一生の反映としてあるかそうなる。生きざまが死にざまにもなるからそうなる。
ここに死にたいする恐れもなくただ和やかなかな春の満月が照らしているだけである、安らかな死があるのみである。
死は実際は断末魔の形相ともなりそんな安らかに死ねないからである。だからこれは例外的となる死である。

ともかく家と庭でも新しくしたことは良かった、ただまだリホームする場所がありそれでまた仕事が終わらないのである。
家のことを整理するのが大変なのである。捨てるべきもの捨て身軽にする必要がある。ただ本などでも簡単にすてられないから困るのである。良書は不思議に何回読んでもあきない、何か新しい発見がある、結局読書はその人の読む方で相当に理解力がないと
ただ一方的になるだけである。
つまり自分の文脈のなかで引用するようになるとただ一方的読む読まされるとはならないのである。
とにかき知的作業には自分の書斎なり城を持つことが不可欠である。そして庭があるとそこから自然にじかにふれられるからいいのである。
もし大きな庭があり散策できるなら最高である、それは相当な金持ちでないとできない、田舎だと散策は外ですればいいとなる。
今の季節は最高だからである。





2023年04月13日

津波から12年桜咲く常磐線沿線を行く


津波から12年桜咲く常磐線沿線を行く

津波より十二年すぎ海向い桜咲く朝なごみけるかな
車窓より山桜見つ走りゆく咲きつづけて音の高鳴る
我が町に働きつづけて死ににけりその人なしも駅に帰るも

津波から十二年過ぎたということは12歳の人はもう津波のことは知らないとなる。それは親とかからの話を聞くだけになる。
20年もすぎたら20歳になった人は津波のことは知らないとなってしまう。ただいろいろと記録は映像でも残されているから簡単には忘れることはないだろう。
ただ人間の弱点は忘れることなのである。全国を旅したとしてもその行った場所を思い出せなくなる。だから思い出すには行った場所にもう一回行くといい、記憶が蘇るのである。
江戸時代だったら遠くには一回くらいしかいけない。今なら交通発達しているから何度でも行ける。だから近くになると何回もいけるから記憶が蘇る。そして必ず新しい発見がある。

人間はともかく意外と近くでもよく観ていないのである。今回でも山形には必ず寄っていたがよく見ていなかったのである。
月山は山形県から山形市から見えると思わなかったのである。
こうして人間は何でもよく観ていないのである。

津波のことでも原発事故のことでも経験した人は12年過ぎてもまだ生々しいものとなっている。特に津波で家族が死んだ人や他でも死んだ人がいるとその商魂は傷跡はなかなか消えないとなる
とにかく今回は山形まで行ってその後で体調不良になった。
前も歩いて足が腫れたのであろ。そして体全体の不調に見舞われた。ただの電車の旅でもそうなったのである。だから体力の限界を感じたのである。 75歳になると介護状態になる人が居ることが理解した。何らかで体が前のように働かないのである。これもショックだった。

どうしても体が前のように動かなくなる。そして肉体労働となるとできなくなる。旅でもなかなか遠くになると行けなくなる。そういうことでやはり若いうちにやりたいことはやっておくべきである。いくら金と暇ができても体力がなくなると旅するできなくなるからである。
そういうことで今回はショックを受けたのである。

わが町に帰ってきても駅に帰ってきても自転車屋の星淳氏が死んだので店はしまっている。
それもさみしいとなる。家族にしろみんな死んだので誰も待ってくれる人はいない。何か駅前の自転車屋は駅と結びついていたのである。なぜならいつも駅を見ていたからである。それで駅のことを駅のことをよく言っていたからである。だから駅には何か思い入れがあったとなる。
それで帰ってきてもその人がえるような感覚になるのである。
それだけの存在感を持ったのはやはり小さな町であり一軒しか自転車屋なくなっていたからである。それで貴重なものとなり死んだ後でも思うようになったのである

2023年04月09日

残る花(今年は桜が早く咲き早く散った)


残る花(今年は桜が早く咲き早く散った)

花吹雪一人この道我は行く田舎なりしも装われにけり
朝からに風の荒らしも桜花あらかた散りて残る花かな
風荒く夕べなお吹き唸るかな今日もこの道残る花見ゆ
夜の更けて残れる花のあわれかな田舎の闇の深くもあるかな
近くとも心離るれば遠きかな春の荒らしや花は散りにき

私の短歌のテーマは桜でもあった、だからかなり桜については短歌を作った、西行も桜の歌を作り続けて死んだ
桜は日本を象徴する花である。桜に日本人の心にもなっている。
桜に日本人は人生をも投影してきたのである。

今日は朝からも風が強かった、ビュービューと唸って吹き付けていた。夕方も風がやまず吹き付けた。
今年の桜は早く咲き早く散った、遠くの桜を見ないうちに近くの桜は散った。リホームで忙しくして見にいけなかったともなる
大河原の千本桜を自転車で見に行ったとき全部すでに散っていたのである。その時なんともいえぬ感慨があった
あれだけの桜をわざわざ遠くから苦労して見に来たのに無情にも全部散っていたからである。
それだけ桜は散るのが早いということである。
ただこれからでも山形とか岩手の方に行けば見れるかもしれないが今年は散るのが早い、だから意外と桜はどこでも咲いていても見れないのである。

ともかく近くても嫌だとなりその女性は男性のもとに行かなくなった、老人であり別に若い時とは違う、それも金の問題だったともなる、人間は心が離れると近くでも遠くなるのである。それもわびしいとはなる。人間の関係も切れやすいのである。
田舎だと闇が深い、だから田舎では静かな生活とかに適合できな人もいる
にぎやかな所を好む人もいるからである

プログだと毎日報告できる、それで俳句とか短歌を出すには向いている、季節が日本だと変わりやすいし天候でも刻々変わっているからである。
別にプログだとこうして一行ですら書いて出せるのが強みでる
そこに臨場感がでてくるのだが読む人はどうしても何日か遅れて読むとなる。ただプログだと日にちが記録されるからあとでふりかえるのにはいいのである。

とにかく桜の短歌を集めて歌集を出したい、それはアマゾンでできる、一冊でも本を作ることができるようになったからである
それでこれまで書いたものが増えすぎたのでまとめる必要があり
そのために時間がかかるのである。

2023年04月08日

故郷の丘の桜の詩ー桜散る (桜平山と万葉会館の丘の桜)


故郷の丘の桜の詩ー桜散る

(桜平山と万葉会館の丘の桜)

二本の朝の小径に花の影
タンポポのたちまち充ちぬ空地かな
六号線タンポポ充ちてどこまでも

花は散り残れる花や雨しとと朝の静かに今日も行く道
ふるさとに散りし桜を惜しむかな遠くへ行かず雨のふるあと
夕べ吹く風の強しも花の散りさらに花散り残す花かな
移り住む人の庭咲く枝垂桜月日の経るや色濃くなりぬ
早く咲き早く散りにし桜かな夕べの風の荒く吹くかな
庭に石枝垂桜や色濃くも月日を経てそ落ち着きにけり
夜の更けて花は見えじも風荒く吹く音ひびき花は散るらむ

故郷の桜

桜平山に太平洋を望み
沖に船行く朝清し
若草のういういしかも
蕗の薹もあまたいでて
植えにし桜も満開
かなた鹿狼山も望み
ここに新たな視界開けぬ
椿も赤く装う道や
畑は耕され実りあるべし
祖の労苦は時を経て叶えられむ
故郷を受け継ぐ者よ
未来は自然と共につちかれるべし
力尽くせ若きも老いも男も女も
災い深く傷ついた故郷
しかし再び蘇るべしかな

今年は桜が咲くのも早かったが散るのも早かった。
今朝桜の咲く土手を歩いていたら桜が夕べの昨夜の雨で濡れた道に散っていた。
そして夕べになる風は強かった。それでまた花が散ってゆく。今年の桜はこのように何か最低さいてもたちまちに散ってしまった感じである。
桜というのはやはり日本を象徴した花である。そこに何か人の命をその儚さを見るのである。
とにかく桜は咲いたらすぐに散ってゆく。そこに返って桜の美がありそれは人間の命も象徴しているのである。
でも枝垂桜となるとそういう感じはない。この辺では他から移ってきた人たちが二つ三つくらい住宅街を作りそこに住んで5年くらいすぎるだろう。その家の庭に枝垂桜は咲いている。そこに石があり月日おいて定着したともなる

桜平山と新しくできた万葉会館に丘からは街がまた海が山脈が鹿狼山が望まれるから気持ちいい、見晴らす場所としていい。
景観でも人間が作りそれで新たな視界を得ることにもなる。
南相馬市でも津波や原発事故で被害があったが改善されたところもあった。ただその傷は未だに残っている。
避難区域になった所がは回復するのが相当に困難である
南相馬市だと小高とかは回復がむずかしい、若人もまれだし子供もいないとなると老人だけで復興することはむずかしい
原町区とか鹿島区などはかえって移り住む人が増えて人口を減ることをまねがれたのである。
だから日本全国でもこうしたことが起きてくるかもしれない、少子高齢化社会で町や村が維持できなくなるからである
相馬地域だと相馬市と原町区を中心にしえ集約化するのである。
現実に小高の人々が原町に移り住んだからである

自然だと少子高齢化はない、今空家や耕作放棄地が膨大になっているが自然だとその空地でもタンポポが咲いてたちまち埋めつくすのである。そこに美があるから空地でも輝いているとはなる。でも空家にはそいうものがない、ただ荒れ果てて荒廃してゆくだけなのである。
だから人間のいなくなった世界がどうなるのか、そこにはやはり美があり美は消えないともなる。
もともと人間がいないとき荘厳な美が自然にはあった。それを破壊したのも人間だったのである。

鹿島区桜田山から海を見る (万葉会館の丘も桜満開)



2023年04月03日

鹿島区桜田山から桜と海を見る (万葉会館の丘も桜満開)


鹿島区桜田山から桜と海を見る

(万葉会館の丘も桜満開)

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山桜万葉園の芽吹きかな
街中の墓地に参りて落椿

太平洋沖に船行き満開の桜の映える丘に上りぬ
満開の桜に赤し椿かな遠くに望む鹿狼山かな
若草の丘に桜や椿咲き遠く望みぬ鹿狼山かな
我が墓の赤錆落とし春の日や供養と勤む人と語りぬ

桜田山の万葉園は荒れていた、震災以後荒れてしまったのである。もともとここを見に来る人もわずかで寂れていたのである。
何か庭でもそうだがリニューアルしないと魅力がなくなる。
ただ山桜が咲き芽吹きがあり美しかった

今は万葉園の方が整備されて散歩する道がありその斜面に桜が咲き満開だった、でもここの桜の木はまだそれほど成長していないのである
ここは新しいから若草が生い茂り蕗の薹もでていた
遠くに鹿狼山がみえた、この山は400メートルくらいでもこの辺では高い山であり遠くからでも見えるのである
自分の家の墓に御影石に赤錆で汚れたので大工兼庭師兼墓作り掃除する人は重宝する、でも庭でも狭いからそんなに変えることはできない、金もかかる、昔の戦前の金持ちは大工でも庭師でも専属として雇っていたのである。だから技をそこで磨けたのである
そういう家とか庭が今は観光として金をとって見せているのである。




2023年04月02日

相馬六万石の桜 (みちのくの桜の短歌ー城と桜のこと)

相馬六万石の桜

(みちのくの桜の短歌ー城と桜のこと)

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街中に数羽鳴きかい燕来る

満開の桜に夕日映えて暮る六万石の城の跡かな
城跡のお堀にあわれ夕暮れや桜を写して女高生行く
桜色女高生行く城下町辻を曲がりて春の日暮れぬ

城跡に枝垂桜の優艶に小高の暮れぬ我が訪ねて去りぬ
牛越城五年ありしと桜咲き風吹き暮れぬ短き日かな

赤々と椿の映えて安達太良や夕風吹きて花も散りなむ
二本松の城に夕暮れ赤々と椿の咲きて風騒ぐかな
山城に井戸の深きも散る椿赤きや守る侍死にぬ


石垣の反りて高く広瀬川ひびき流れて燕飛び来る
みちのくの仙台の街の夕暮れや遅くも咲きし桜匂いぬ


その場所と歴史とが一体となっている。そういうところが魅力がある。城はそういうことで魅力がある。ただ相馬の城跡があるにしてもそこにどういう歴史があったのかイメージしにくい、
でも六万石というときその規模からイメージするものがある。
それで

城下町六万石や冬椿

私が作ったものであるが何かこれが相馬六万石の城下町をイメージされる

春や昔十五万石の城下かな 子規

ここに6万石と十五万石の差がある。六万石となると規模が小さいからである。だから貧しいともなる。それで冬椿がにあっているとなる。
小高の城は相馬氏が支配した一番古い城である。次に原町の牛越城に移り五年あった、短いにしても小規模でも城があったとなる、城というより館のようなものである。
相馬の女学校ではなぎなたを教えていたのはやはり城があり江戸時代から伝えられたものがあったためおなる
何故なら原町高校とかなると商業高校から始まっているからである。

城というとき二本松の城は魅力がある。山城であり背景に安達太良山が映える、桜がその山城を覆う、椿も赤く咲いていた。
深い井戸もあり城は水を自給するから籠城できたとなる。

城内に120カ所以上も掘られたという井戸で、17カ所が現存しています。深いものは約40mもあるとされ、加藤清正の頃から熊本が豊かな地下水に恵まれていたことを今に伝えています。

これだけの井戸があり政府軍が籠り西郷隆盛の軍が攻略できなかったのである。
つまり籠城しても水がないとできないのである。これは今の戦争でもそうである。食料でも自給できなければ国でも守れないのである。それはウクライナの戦争でロシアが食料を自給できるから戦争できる、ベトナム戦争でも芋を食料としてしのいだ。熱帯だから芋の成長が早かったのである。長期戦でもできるとなったことでもわかる。
日本の危険は外国に食料を頼りすぎて国防からみれば危険なことだったのである。

とにかく城には桜が映える、でも城があるときは桜がさいていなかったのである。
城内に桜が咲き誇るようになったのは明治時代以降のことで、江戸時代までの城には今のように桜の木は生えていなかった。城下町や街道を見張るために城内の木々は基本的には伐採されており、植栽されていたのは食糧にもなる梅や、合戦時に利用できる松・竹などに限られていた。

実用的なものとして井戸があり桜はなかったのである。
城は捨てられてかえりみらなかったのである。
時代劇で浪人が城を嫌っていた、城の侍を妬み恨んでいたからである。私の家を建てた時も家が大きいから妬まれたのである
それは50年前となるとまだみんな裕福になっていなかったからである。その後はみんな豊かになっていたのである。
城でもみんな庶民がいいものとして見ていたとは限らない、庶民は米を侍に収めるのだから支配されるのだからいいものとも見ていなかったのである。元の侍が城が荒廃するの見て桜を植えたからである

ともかく桜は日本を象徴する花である。桜前線は北上して稚内まで咲いていた。すでにその時6月になっていたのである。
このように桜が咲く時期が日本全国で違っているのも魅力なのである。みちのくは西の京都大阪からすれば遅く咲く
西の栄がありその桜が散ってもみちのくでは咲き始めるのである
そのことが地理的にも歴史的にも桜が象徴となっているのである






2023年03月31日

桜咲く六号線を新地まで(俳句連作)


桜咲く六号線を新地まで(俳句連作)

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新地の砂浜は広い

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風そよぎ遠くへ行くかむ朝桜
六号線桜咲き継ぎ走るかな
タンポポや六号線を行き交いぬ
風光る六号線を走るかな
地を離れ天にも咲かむ白木蓮
紫木蓮高貴の色や風光る
(八幡神社)
池映る桜満開錦鯉
金の鯉優雅に泳ぎ桜満開
暇あり休む人あれ花の影
逃がすまじ写真を撮るや花盛り
金運にあやかる者や花に鯉

若草や海の開けて新地町
間を置きて鶯鳴くや夕暮れぬ

(六万石の城下町)
夕日没り六万石の桜かな
桜色に染まりて暮れぬ城下町
堀映る桜や暮れぬ城下町
松並木街道帰る夕桜

今日は天気が良いので六号線を新地まで桜を見に行った。
桜は六号線沿いに咲き続いていた、白木蓮も紫木蓮が美しく咲いていた。
何かその白木蓮も天にも昇って咲いている感じだった。
私の俳号を天華としたのは似合っていたとなる。主に花の美を追求してきたからである。天こそ本当に花は咲く。神の創造したイデアは天にこそけがれなく咲くにふさわしいのである
紫木蓮も高貴で美しい。風光る中にそれが咲くのにふさわしい
紫は高貴な色であり皇族の式典にふさわしかったからである。

八幡神社は桜でこの辺では知られている。そこでいつも写真をとるひとがいる。ここは錦鯉が泳いでいるのがいいのである。
特に金色の錦鯉が映えるのである。この鯉は金運を金持ちをイメージする。金運というのは確かにあるのかもしれない、遺産を相続したとき金運があったと自分が感じたからである。
ただ金運でも危険を伴う、金は何しろ危険なものがあり手放しでは喜べないものを持っているからである、金があっても呪われることもあるから怖いのである。

相馬市から新地に向かった。新地は駅前でもきれいに整備されてまるで都会の駅のようになった。そこに温泉も出たから入浴できる。何か設備は整っている、でも近くの喫茶店に入っておばちゃんと話したら客は来ないという、確かに人の出入りh少ないのである、建物は立派でも人の出入りは少ないのである。
新築の家は多く建ってもそれもローンであり苦しでいるというのもわかる。原発事故の補償金は出ないからである
新地の砂浜は広い、前から広かったのである、もともとここの地形は入り江のように湾のように海が入り込んでいた。だから砂浜が広い、でも鹿島でも原町でも砂浜はもともと小さくなっていた。右田浜で砂浜はわずかしか残っていない。
津波で砂浜が消えたとはならない、四倉は広い砂浜がありそれが緩衝地帯となり津波を防ぎ街の方は被害が少なかった。
海と接した街があっても被害は少なかったのである。
これも地形と関係してそうなったのである。

相馬市に帰ると夕方になり薄暗くなっていた。相馬六万石というとき規模としては小さい、不思議なのはなぜ小藩でも野馬追とか500騎の馬が行列にでるのかとなる。他の大藩でもこうした馬の祭りは残っていないからである。
ともかく一応相馬藩があり相馬市は城下町なのである。
城跡に桜が咲き夕暮れとなっていた。
相馬藩が六万石というときその石高で藩の力を見る

春や昔十五万石の城下哉 子規

この十五万石の石高が正に松山藩の規模を象徴していた、それはかなりの大きさの藩だったのである。六万石の倍以上だからである。
今日は暑いくらいだった。桜の花盛りである。桜は意外と見れない、近くは見れるとしても遠くは見れない、なぜなら二週間くらいしか咲いていないからである。
私は旅して相当桜を見たとしても一部なのである。日本だと桜の名所はいくらでもあるからである。
















2023年03月29日

リホーム終わる(花曇り、枝垂れ桜、大工の技、、、、


リホーム終わる(花曇り、枝垂れ桜、大工の技、、、、

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原町の道の駅の隣の集会所



花冷えや病み上がりの老女来る
花曇り高齢化社会未来なし
病院や誰か入院す花曇り
花の咲く技を見せたる大工かな
花満開熟練の技大工かな
明るくも枝垂れ桜や乙女かな
孫連れてパンジー映えぬ川の道

原町の郊外に出て田畑かな雲雀さえずり海に向き行く

今日は山の方は曇っていたが原町の方に行った。
何か桜も満開になったが花曇でありまだ寒くぱっとしない。
その花曇りが時代を象徴している。高齢化社会が花曇りなのである。何かぱっとしない。未来が見えない。鼻が鼻が花が割かないのである。
また老人が病気になる人が多い。脳梗塞になりやっと歩いてきた老女がそうである。ただ老女にしてもまだ72歳なのである。
でも老人は年の通りではない。同じ歳でも十歳くらい差がある。その人は病気になってさらに老けてしまったのである。もともと苦労していて老けていたのに老けてしまったのである。

原町の道の駅の公園にある集会場にしだれ桜が咲いていた。それは明るく何か憂いがない。若い女性のようである。
でも枝垂れ桜でも濃い愁いに満ちたようなものもある。同じ枝垂れ桜でもいろいろある。
それから海の方に向かって行った。雲雀が鳴いていて太平洋が広がり波が打ち寄せる。それがこの辺の風景である
家に帰ったら大工さんが仕事していた。今日で仕事が終わる。大工さんはその技を見せて仕事に精を出す時生き生きしている。
やはり週に二回ほど流れ作業のようなことをしたがそれをやめたことがわかる

大工の仕事をしているときはやはりそれが天職でありやる気が違う。人間は何でも金でやれるものではない。いくら金をもらってもやりたくない仕事をやらせられるのは苦痛になる
その人は長年大工をして技を磨いてきたのである。だからその技を見せることに価値があるのである。その他の仕事は必ずしも金にはなっても価値にはならないのである。
でも金にならない仕事は誰しもやりたくないのである。その辺が必ず矛盾してくる。また人は金のためにだけ働きたくないということがある。例えば何か金があったとしてもその人があくどいことで金儲けしたりしていたらその人のために働くということが気が進まないということもある。

ただ現代の資本主義社会は金が価値でありその人がどんな人であれ金をもっていれば金を支払えばその人のために働くとなる。
でももし金に余裕があればそういう人のためにも働かないし何か自分の技を示すにもしたくないとなる。つまり金出はなくその人を見て働くともなる。
そうなるといちいち面倒になるから金で全てが価値づけられて働く働かされるともなる。
ともかく働くということは金のためだけではないそれは確かである。他人の庭の草むしりをするだけでもやはりその人に家に尽くすとなりただ金をもらえばいいともならないのである。
家を作る家を修理する家をリフォームする庭を作る庭を掃除する草をむしるそういう仕事でもその家と人とに係るのである
だから働くということは単に金を得るというだけではないのである。でも現実はすべてが金のためというふうになってしまったのである。だから人とか何のためとか考えない。それをいちいち考えたら仕事にもならないからである。

ともかく仕事もしない無職でもあった自分が言うのはなんだが働くということが人間には必要である。
それはただ金をもらうために金のためだけではないからである。
だから人間はベーシックインカムとか働かなくても良いといってもそれで済むことはない。そうなった時生きがいもなく何のために生きているかもわからなくなるし価値のない人間になってしまうのである。
そして何かしら働かない人は社会も分からないし何が価値あるのかも実感できないのである。

ただ現代はあまりにも多様な職業と仕事が分化して分裂してそこで人間のアトム化して騒音の総合の総合的連関を感じなくなったのである。
とにかく一応リフォームは終わった。自分も大工さんと補助とかして働いたのである。お茶とかお菓子とか買ってきて出すことも
働くことでありただ金を出すというだけではない自らもサービスしたのである。ただ金を出すというのではなく自らが大工さんにサービスしたのである。
それは金だけではないそこに自分の家を直してくれたということで感謝の気持ちでそうしたのである。
でも今は大工さんにしろそんなことをしないこともある。大工さんでも別に食事でもして店で食べたいものを買いばいいとなるからである。
ともかくこうして大工さんの補助役としてまたお茶を出すサービスをしたのである。それも一つの経験となったのである。
ただ正直口は悪い大工さんなので疲れたのである。

2023年03月26日

蠟梅と桜のこと(百歳の間)


蠟梅と桜のこと(百歳の間)


百歳の間蠟梅の咲きようやくに風吹き散り心残りなし

雨しとと石を濡らして蠟梅のなお残り咲く庭を見るかな

我が家に蠟梅を見てゆくりかに災いのなく余生過ごさむ

私の母は百歳まで生きた。そこで母がいた部屋に私は百才の間と名付けた。
その部屋から庭の蠟梅を見ていた。この蠟梅は長く咲いている。一か月くらい咲いている。だからこの花は花でも一番長く咲いている。それで長寿の花としてふさわしいとなる。
それもついに風が吹いて散った。その風はそれほど強い風でもなかった。
またその花は散ることで何か惜しい感じるものも無かった。
つまりようやくに散ったという感じだった。。
散るのが遅い感じにもなった。
今日は雨がしとしと降っている、そして庭の石を濡らしている。

花でもいろいろあり桜となると咲いてたちまち散る
そのち散ることに桜の特徴である。美しく咲いてたちまちに散ってしまう。何かいさぎよく散ることで日本の日本人の心に象徴ともなった。
でも人間はやはり長く生きてこそその命が全うされる。
桜は確かに美しく散るのも早く散りぎわがいいとなる。だから戦争でも若くして死んだ人はの花にたとえられたのである。それは美化さやすられたのであり本来は人間は長く生きたいのである

高齢化社会では長く生きすぎることで問題になる。徒然草でも40歳くらいで惜しまれて死ぬのがいいと書いていた
当時は別にそのくらいでも死んでいた人がそれなりにいたのである。
それで現代は高齢化でうとまれて嫌われて生きている。そして死んでも惜しまれことがない、やっかいなものがかたづいたとされるから高齢化社会の負の面が増大したのである。

とにかくこの辺でも桜は咲き始めた。今年は早い。
でも今日は寒い、春寒しとなる。季節は変わりやすい、今年の桜は早く咲き散るようである。

老後は安らぐ場として家が大事になる、その家でも介護になり安らぐ場でなくなった。地獄化したのである。
そして家族もみんな死んだ、でも家は安らぐ場なのである。家で死にたいとなるのは家は何か建物というだけではなく
精神的に安らぐ場である。
この辺は余りにも災いが多すぎたのである。去年の大地震で未だに屋根など直していない家がある。
そういうことでももう災いはないこと切に願うようになったのである。


2023年03月22日

春の日に飯館村から霊山から梁川へ阿武隈川を下る


春の日に飯館村から霊山から梁川へ阿武隈川を下る

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確かに六本の木である
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佐須村や去年(こぞ)の落ち葉踏み碑の一つ

これは馬頭観音だろう

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佐須の峠を越えて伊達市へ
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阿武隈川を下る
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家は兜駅である


春光や六本木見て通り過ぐ
春の水細枝写しやわらぎぬ
佐須村や去年(こぞ)の落ち葉ふみ碑の一つ
訪ね来て消残る雪や佐須の村
春の日や行合道に出会うかな
春の雲境の峠越えてゆく
春光や知らざる道を進みゆく
春光や梁川への道ひた走る
春の灯や金山町を通りすぐ
春の星なお我が家あり帰り来ぬ

広々と阿武隈の流れ彼方にそ吾妻嶺望む春の夕ぐれ
残雪の吾妻嶺望峠越え鳥もさえずり春は来たりぬ
長々と阿武隈川を沿い下り鶯鳴きて夕暮れにけり



阿武隈川滾つ流れや広々と
集めし水や響き高鳴り
淵となり静まり
大岩の厳かに横たえ
春の日暮れぬ
丸森の街やともる灯あわれ
ここに栄いし家もありしも
我は相馬の方へ去り行きぬ



大倉から佐須の方へよく道はまだ工事中である。でも自転車でそこを通った。まもなく新しい道ができる。橋のような道ができる。
途中に確かに六本の木が並んで立っていた。
六本木というと東京の方は有名だが六本木が並んでいるからそうそういう名前がついた。松だと五本松とかなる
佐須村を去り峠を越えると伊達市に入る
その峠から残雪の吾妻峰が望まれる。それから石戸で昼ご飯を食べた。その食堂はこんでいた
福島中央道が出来てここを車が通らなくなり客が来ないと嘆いていたが春になり休みでもあるからここに寄る人があった
そこから梁川の方に向かった。その道は行ったことがなかった。残雪の吾妻峰が見え気持ちよかった

簗川では酒屋だったところが休息所のようになっていた。
そこでコーヒーを飲みちょっと買い物をして休んだ。
梁川には川が二つあり洪水で工事しているとか水害で苦しんだことを言っていた。最近でも丸森の水害被害が大きかった。
日本はとにかく水害も多い。地震も多い。
私の家も二回も水害で床上浸水した
でも河川改修してから水害はなかった。それでも津波が河を遡ってきたときは恐ろしかった。すぐ下の方でわ土手を越えて津波の水が溢れ出していた。
海がないところでわ津波のような恐ろしいものは来ない。だから海側よりは山の方の海のないところが安全だとはなる。
梁川から阿武隈川沿いを下ってきた。

途中工事していた。トンネル工事でありトラックが狭い道をくるので危険だった。このトンネル工事は2年間も続くという。
2年間もこういう状態ではここをゆくのは避けるとなる。
でも阿武隈川沿いを行くのは気持ちが良い
この辺で阿武隈川は大河であり珍しいからである。
岸には鶯が泣いていた。そして夕暮れになりイオン丸森の街に着いた。そのときは暗くなっていた。そこで道に迷い
別な方向に行ってしまった。夜は道に迷いやすい。でもなんとか土地勘があり戻ってきて金山町を通り相馬市まで来た
金山町は結構一つの街となっている。商店も多いのである。

80キロぐらい言ったかもしれない。ただ石戸からは簗川まではそれほどの距離ではなかった。阿武隈川を下る道は結構長かった。
でも思った以上体も疲れなかった。最近腰が痛くなったりして体が弱ったと思った。でも今回は気候のせいもあるのかそれほど疲れなかった。まだまだ自転車で遠くに行けると思った。
ただ疲れは後ででるのでそうともならない楽天。ただ今の時期は一番サイクリングに動いている
春の星が輝き家に戻ってきた。家族はみんな死んで家すらなくなると思った。やはり家族がいなくても家は安らぐ場所なのである。


写真はスマホで撮ったものだからきれいにとれなかった

2023年03月19日

春彼岸−墓の役割(白菊の花ー寒さ戻る―雪残る山)


春彼岸−墓の役割(白菊の花ー寒さ戻る―雪残る山)

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フラワーアレンジメントとでも写真で見ても花は何か違う
花でも本当に生け花であり生きた花を実際にこの目で見ない限りわからない
だから写真で見ても花に感動しないのである
自分の目で直接見ない限り分からない感じないことがある
そこにバ―チャルな世界の限界がある





今朝みれば山に残れる雪見えて寒さ戻りのみちのくの春
我が一人残りて彼岸や近くなる墓に花挿す春の日さして

 白菊

静心白菊の今日も見るかな
塵もつかずに清楚に白し
その花を日々我が部屋に見て
我が心鏡となりて映しぬ
遺影は花の陰にし微笑みぬ

ここ何日か寒い。それまでかなり温かくなっていたから戸惑った。今朝山の方見たら雪が残っていた。今頃雪が山に残っていたのか。山は雪が降ったらしい。この辺は山の方は飯館村なのである。そこは標高が高く冬は寒く夏はは涼しいのである。

今日は日曜日であり春彼岸で墓参りに来る人いて花が挿されていた。
私も花を買ってきて家に飾りまた墓地に挿した。墓と家の中に挿す飾る花の相違は何か。
それは家の中にさすときは長い間その花を見ている。墓に挿した花はそんなに見ないのである。花というのは長い間見てるとその花が心に映り花のことが分かるのである。
墓地に挿した花は近くにあってもただ通り過ぎてゆくだけなのである。そして近くでも春彼岸とか秋彼岸とかにしか挿さない。だから墓というのは近くでも身近にならない。家の中に仏壇が無いにしろ家を飾り花を挿しているとそれは常に身近なものとしてある。
ただ墓地の墓の役割は何なのか

ある人が私の家の墓に花を挿してくれていた。でもそれは長くは続かなかった。今はさしていない。墓の役割としてそれは死んでからも長く続くものとしてある。
人間は死後も関係が切れるわけではない。死後もその人を思ってる人は本当にその人を思っているのであり愛しているともなる
なぜなら人間は忘れやすいからである。だから死んだ時点で人は忘れられてゆく。だから墓の役割としては死んだ人をすぐに忘れない。年に春彼岸とか秋彼岸でも死んだ人を思い出して供養する

それは家の中でもできるのだが墓になると家がなくなっても存在しずし続けることがある。人間最後に残るのは墓だけだともなる。なぜなら家でも空き家化したり消失してゆくからである
でも今の時代墓すら維持できなくなっている
子供たちでも故郷に住まず離れてしまった人が多いからである。
それで墓じまいをするようになったのである。
私の墓でも墓参りしているのは自分だけだからである
ただ奇妙なのは世話になった女性の粗末な墓を作った、それは石を置いただけだともなる。その息子は不詳の息子であり最近死んだ,金もなく墓はあっても母親が死んでも墓に名前も刻まなかった。その母親は情の篤いいい母親であり父親も真面目な人だったのである。
おそらくその人の墓参りする人もいないかもしれない、息子は若くして自殺したからである。
ということは自分だけがその女性を偲んで墓参りしているともなる。だから血縁だけが必ずしも持続する関係とならない、他人でもでもかえって深い関係にもなる。

いずれにしろ人間の関係もたとえ親子でも死んでしまえば続かない。そこに人間の無常がある。この世の人間の関係は一時的なものに過ぎない。それは親子でもそうなのである。
人間の出会いは振り返れば本当に一瞬だったと思うなる。
そして一瞬出会って永遠に会わないというのも不思議である。
対外人間が会うしても金の切れ目が縁の切れ目なのである。
この世の出会いとはそれだけ儚いものだったのである
先祖代々とか村でも継続していた関係でも現代では広域化具グローバル化で空間の拡大で失われてきたのである
原発事故で一挙に江戸時代からでもその前からで続いてきた村でも町でも廃墟化したことに驚いたからである。

とにかく霊前には墓には白菊があっている。その花は清楚であり心清める花である。それを家の中にさして見ているとおのずと心が鏡となり映るのである。
ただ心が濁り曇るとその花も映らないのである。

白菊の目に立て見る塵もなし  芭蕉

白菊というのはやはり一番家に死者に捧げる花としてふさわしい
それにしても春寒しとかなり寒さは戻った。
これまでは春霞になり梅も咲いて匂っていた、だから春らしい気分になった。

春霞里山
共老昔語
梅処々匂
長寿和楽

こんな感じだった。
日本の気候は変わりやすい。それで四季の変化はあれ俳句も生まれたのである。天候が絶えず変わっているからである句点その変化の中で時間軸の中で日本の文化が作られてきたといえる。
日本は島国であり狭い空間に閉ざされていたが時間軸で見れば季節の変化があり式が明確にありその変化で狭い空間でも単調にならないということはあった。
日本人は時間軸で生きているというとき先祖お大事にするという時もそうである。それは狭い村という中でおのずと生まれたはぐくまれた世界観なのである。
それは大陸のようにどこまでも広い空間塾で生きている人たちとは違った世界観をもったのである。

2023年03月12日

春の日に太田神社-岩屋寺- 馬場-高倉-大谷-大原を行く (梅匂う道と家の跡の不思議)


春の日に太田神社-岩屋寺- 馬場-高倉-大谷-大原を行く
(梅匂う道と家の跡の不思議)

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太田神社の前の倉

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岩屋寺
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馬場の樅ノ木
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高倉から大谷へ

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横峯の堤

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寺内の牧の馬

この馬は必ず人が来ると寄ってくる、人に慣れている

街中に初音を聞くや田舎町
初蝶や自転車に走り郊外に
道々に蝶の舞いでて走り行く
紅梅や馬走り来ぬ牧広し
春の日や石の倉古り何の紋
禅寺や梅の匂いて黙す石
菩提寺に梅の匂うや参る人
春日さし墓地も穏やか里めぐる

誰か棲む家の跡かな組む石の残りて匂う梅の花見る
屋敷跡石の残りて春日さす主はなしも石は去らじも
忠実なる下僕(しもべ)のごとく主さる家の跡にし石は残りぬ
誰か棲む家の跡あり隠されて梅の匂うや人は去りにき
家の跡庭に蝶来て鳥も来ぬ人は住まじも春となりしも
二本の樅の木ここに根付きけり古き碑ありて春の日さしぬ
山中に梅林隠され匂いぬ雉のいでしも人影も見じ
紛々と梅の匂いぬ山中に隠され人も来たらず匂いぬ
横峯の堤の広く春の日の映り輝き里の暮行くゆく

太田神社から岩屋寺へゆく、太田神社の前に石の倉があった。
石の倉は多い、それが地震で壊れたのも多い、この石の倉は壊れていない、でもかなり古い感じになる。
ここには紋がはっきりしないがたいがい紋がある。
ただ石の倉は明治以降できたものらしい、なぜならその頃大谷石とかが出回ったためだとしている。江戸時代からの倉は土壁だからであるただ地震に弱かったのである。

岩屋寺は禅宗の寺である、山門があり山で修行したからこれがある。それは中国から入って来たものである。
禅宗は中国と関係しているから茶とかその他中国由来のものが入って来ている。禅宗は簡素であり座禅を組み悟りを開くとなり
それが自分に合っていたのである。なぜなら私は引きこもり沈黙業をしてきたからである、そこで社会性がなくなったマイナスがあった。宗教でもいろいろな派に分かれるのは人の性格性質がありその合ったものがいいからそうなる。
ただ寺というのは官営の寺に江戸時代になった。寺は役所の一つだったので幕府から優遇されたのである
そのために明治維新で廃仏希釈が起きた、神道派が幕府から優遇されなかったのでそうなった、寺には武家の菩提寺になったからでもある
ただ今や未来の年表でも寺自体が消滅してゆくと警告している。
その役割が消失しているからである。武家の菩提を弔うのが寺だとしたら江戸時代ではないのだから継続しないとなる

そこから一軒の家の跡がある場所に寄った、そこは前に竹林があり隠されるようにあった、だからなんか不思議だった。
組まれた石がありそこは農家だったのか?
それほど広いとも言えない、この辺だと街でないから農家だったのかもしれない、何かこの辺では空家が多い、これは全国的なものだが原発事故があり人が避難したからである、でもここは避難区域になった小高区ではない、羽ら原町区である。
ただ農家でも空家化しているのを見かける、津波の跡の家でも石だけは残されて残っていた、何か石が人間化して忠実な僕(しもべ)のようにして残っている感じになる。
一旦人間が棲むと自然のものでも人間化するのである。
主がいなくなっても石はそこに忠実に残っているともなる

そこの家の跡のすぐ近くに黄金神社があった、これは何なのか?
鉄とか関係していたのか、ちょっとわからない
それから馬場の方へ出たら樅の木が二本力強く根付き立っていた
この碑は元久と読むのだろうか?
元久だったら鎌倉時代になるからあり得ない、元処は元の所であり元住んでいた場所のことかもしれない、これも分からない謎である。
次に高倉から大谷から大原の方に向かった、その途中に梅林があり紛々と匂っていた、雉も出てきて匂っていた、何とも至福なものを感じた、その道は細く梅の咲く道だった。
こうして自転車でぶらぶら行くのが気持ちいい季節になった
ただ歳になり腰が痛くなったりする。でも近くならそれほどの影響はない、近くでも依然として何か発見がある












2023年03月09日

里に老ゆ(春霞、春満月、梅香る)


里に老ゆ(春霞、春満月、梅香る)

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芬々と梅の香るや里めぐる
春霞長生きの世や里に老ゆ
春満月輝きまして移るかな
同じ年老人と話す春の里

人ならじ満月のぞく我が部屋や書き物しつつ春となるかな
紅梅の匂やかにして満月の今日も輝き災いなかれ
病より回復せしや春となり歩く喜び買い物に行く

昨日は春霞だった。その前は満月が輝き紅梅が匂っていたんとも春らしい。
長生きの時代も問題は多い。でもこの長寿というのは人類の願いだったのである。なぜならこれまでは早死にだったからである。
とにかくみんな長生きする。苦労して死にたいという言っていた人が脳梗塞になりそこから回復した。その人もやはりいきたいのである。いくら死にたいと云ってもやはり人間はいきたいのである。特に病気から回復したときはそうなるのである解除

一昨日も昨日も満月が輝いていた。その満月が私の部屋を覗いていた。それはいいことである。でも人間が覗くとそこに嫌なものが出てくる。田舎の人間が素朴だとかいいものではない。
ただ四六時中監視してるということがある。そして必ずしも助け合うということは今はない。。かえって人の不幸が楽しみになるのである。ただ田舎の場合自然がありそこで和むのである。

この辺で節水を南相馬市で呼びかけた。確かに雨が今年になっても降らない。雪も一二回降ったがそれはそれでも足りない
乾燥している。だから朧月というのを観ていない。
これから田植えとかあるので水不足になると困る
でも水不足というのはほとんど経験していない
しかし水不足というのも起きうる。山に行くといくら水不足でも水が流れていることに感心した。それはかなりの山の奥だった。
山には水が蓄えられている。だからソーラーパネルなど山に作ると何か影響する。水が蓄えられないとか水は流れだすとか何か自然に悪い影響がある。景観も悪くなるしそれが問題なのである

ともかく里に生きるということそれは幸福なことである
都会にはそういうものは無い。ただ田舎がいいものにはならない。ただ自然がありその美になごむのである。
そして同じ年の老人と話す、その人は農家の人であり農業の話を聞く、それがいいのである。
やはり家で納豆を作っていた。買った納豆は食えなかったとか言っていた
そうなのかと思ったが自家製でもうまっかったということである。
そういう話がおもしろいのである。

原発事故はその里を奪ったのである。ただそれも電気の時代となり農業の時代でないからそうなったともなる
でも里に生きるということそれが幸せだった。でも近くに移住すればやはり里はある。都会に移住すれば里はなくなる。里を失うということは何なのかそれが自覚できなかった。でも時代がそうしたともなる。すでに里というのは失われていたともなるからだ。

2023年03月04日

紅梅の香り気持ちがいい (無垢な幼児や犬猫に癒されるのはなぜか)

紅梅の香り気持ちがいい

(無垢な幼児や犬猫に癒されるのはなぜか)

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月光り紅梅匂い夜の更けぬ

紅梅の匂うや何か若返る

平安や紅梅匂い月光る

広き家紅梅の匂い充ちにけり

新築の家や紅梅匂けり

紅梅の匂い今宵も我が来る月も光りて美しきかな

近くに紅梅と白梅が咲いて匂っている、そこを毎日通ると気持ちがいい、特に紅梅の匂いは特に気持ちがいい。新築の家がまた建った、その人はこの辺の人ではない、原発事故の避難区域から移り住んだ人だろう。
この辺はまだこうして人が増えている。でも避難区域は空き家だらけなのである。その差が大きいのである。そこには春がこないともなる。活気が戻らないとなる。

夜になると紅梅匂いが充ちて夜が更けてくるそこに月が輝いている
いかにも春らしいその紅梅の枝を折って広い家の間に挿す
その匂いがいっぱいに満ちてゆく。それが何とも言えず気持ちがいい
何が梅は近くでその香りを楽しむ。でも桜となると何か遠くで見るのがいいともなる。
そのために桜前線がある。その桜前線は実は韓国まで咲いていた。韓国の古都の慶州にも咲いていた
その桜を東北から韓国まで旅したことがあった。日本の場合日本は電車で行き韓国までは船で行った。こういう旅も面白い。連続して日本列島と韓国まで見たからである。
そういう旅ができたのも私は特別恵まれていたからである。その介護で10年とか震災でもありもう十何年も旅はしていないただ旅の回想をしているのである

また春になって近くの公園に行ったら幼児が笑っていた。
それで心が和んだ。なぜ人はペットとかに惹かれるのか
それは無垢だからである。
そしてなぜかその無垢な表情は飽きないのである。それが不思議である。なぜ大人は生活に疲れるのか。それはみんな無垢というものを失っているからである。日々利益を求めてガツガツして心が休まることもない。

そういう中で無垢な幼児の笑顔でも動物の無垢な表情でも見ていると和むのであるそれが飽きないのである
今ネコに私が餌をやっているのはそのためである。
別に飼っているわけではないが何か心が和むのである。それは花を見てもそうだし自然に触れるとそこに向くがあるために自然は飽きないしなおものである和むのである
そこにこの世のこの世が汚れていても人間が汚れていても無垢なるものに接するとき和むのである。
ただそうした無垢も何か接する機会が少なくなっている。近くで子供が遊んでいるのを見ない,一人いても一人遊んでいるだけだとなるから淋しいとなる。

人間には常に争いがある、そもそもなぜ離婚している人が多いのか、何かそういう人と接する、それだけではない、自分の家族も常に争っていた。でも最後まで家族として維持できたのは私が要として家が守れたとなる。子はカスガイとなったのである。
そうでなければとても維持できなかったのである。
徳川家も維持できたのは長男を後継ぎとして継承して維持できたのである。侍の家が御家大事で維持したのも同じである。
長男ができが悪くても家臣が支えて維持できたのである。
人間はとにかく争いが多すぎるのである。そのために苦しむ人が膨大なのである。この世が地獄になってるのはそのためである。

ともかく春が来た。でも今日は寒かった。でも今年の春は桜の咲く時期が早い。
やはり暖冬気味なのかもしれない。白鳥は見かけないからシベリアに帰ったのかもしれない。そういう時期になったのである

桜前線を旅する短歌

2023年02月18日

春の横峯堤-二宮尊徳の社−梅香る里


春の横峯堤-二宮尊徳の社−梅香る里


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横峯の堤の広く春の山尊徳讃ゆ社かな

春横峯堤

処々梅香里
横峯堤広大
春山映水豊
尊徳讃社哉

今日は暖かったので近くを回った。鹿島区の横峯堤は広い
これは二宮尊徳がかかわった堤であるそれでそばに二宮尊徳の社がある相馬藩は二宮尊徳のことは常に語られる
それは江戸時代のことであり農業社会の時二尊徳の教えが伝わった尊徳自身は相馬藩には来ていない
その弟子が習って伝いたのである。
でも今になると農村社会ではなくなったからその功績のことがよくわからないのである。つまり江戸時代の農村社会であって尊徳の教えは通じていたのである。

確かにこの辺に堤は多い、それは農村社会だったら必要なものであり二宮尊徳はありがたいと思うのである。
これだけ社会が複雑化すると二宮尊徳のこともそれほど偉いのかどういうことが分からなくなっている。
今は農村社会ではない。田舎でも農民は一割にも満たないのである。だから二宮尊徳がどういう功績があったのか理解しにくくなっている。

今日はとにかく暖かく春だった。でも雲が広がり雨模様になった。これもやはり春になってきたからである。
ただ二宮尊徳の思想は自然と一体であり一体化することでありそれは農業は自然と一体にならないとできないものだったからである。そのことは理解できる。
原発は自然から遊離したものでありそれで空気や土に森の木まで放射性物質で汚染したのである。
科学技術の工業社会になったとき自然と一体化する農業は主なものでわなくなりそのために二宮尊徳の思想も実感できなくなったのである。だからその点では二の宮尊徳学ぶことが必要なのである。

2023年02月17日

枯野の海老の浜 津浪で消失した村ー (蠟梅が咲き歩いて病気になった老人が来た)


枯野の海老の浜 津浪で消失した村ー

(蠟梅が咲き歩いて病気になった老人が来た)

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みちのくや枯野の果てに船一艘

蠟梅に静かに日さし我が一人百歳の間に仕事するかな

我を頼り来れる老女や蠟梅に日さし静かに迎えけるかな


枯野海老浜

寥々と津波の後の海老の浜
枯野となりてはや日は没す
沖に船一艘北風吹き海暮る
家々消えて植えし松伸びる
ここに在りし日も遠くなり
我も老ゆるもすぐる時早し
残るは何そ墓のみなりしも



  海老村は消失した、30軒くらいあったのか、それなりの人口は  あった、ここには古墳時代から人が住んでいた、なぜなら最近くでも海に接した崖の所で古墳が発見されたからである
  ここは場所が良かったのである。右田となるともともと海になっていた
  そこを干拓したのである、だから右田村は江戸時代から始まってとしても新しいとなる郷土史でも新旧を見るのが第一である。
 でもここが高台にあるということが今回の津浪で裏目に出たのである。
 なぜなら避難場所になっていたからである。高いから津波は来ないと思っていたのである。でも崖があっても海に接していたのだから危険だったのである
 そのためにそこで三十人とか死んだという悲劇になったのである
 右田村の人は三人とか津浪でこの避難場所に逃げてきたが津波に流されるところを何かにつかまって助かったと言っていた

 ここは高いから津浪が来ないとして逃げて来た、しかし百メートルもない50メートルでも海から遠ざかれば助かったのである。なぜこういうことが起きるのかというとこの辺では全く津波の話など聞いたことがないのである
だから相馬藩政記があってもそんな津波の記録がなかったのである
津波の後に生波(いくなみ)で700人溺死と記録を発見したのである
それもたった二行だったのである。これは郷土史の学者でも知らなかったのである
こういうことがあり何か郷土史でも実際はまだ知らないことがありそれを知る必要があったとなる
郷土史は余り重んじられていない、でもこのように生死にかかわることもあったと驚いたのである

いづれにしろ海老村は枯野となり村は消失した、ハウス栽培はしているが津波に残った二軒くらいしか残っていない、後は墓地だけが高台にあり残ったのである
どういうわけか墓地だけは残っていたりする
烏崎村も消失したが裏山に墓だけは残っているのである
沖に一層船が行くのが見える、せいぜい二艘くらいしか見えないのである

脳梗塞になった女性が歩いて自分の家まできた、それには驚いた、車に乗せられて来ていたがそれだけ歩いたということは回復したとなる。
歩くと私自身も歩かない、自転車だから歩くとなると近くでも遠く感じるのである
まず歩いて買い物はできない、品物でも重くなるからである
買物もできないということは苦しい、相当に老けていたが病気でさらに老けた、その人は苦労ばかりの人生でそうなった
でも軽くすんだので助かったとなる、何か老人になると意外と近くが大事になる
でももう昔のように隣近所に店すらない時代だからこういう時困る
介護とかなると近くに住んでいる人がいいのである、歩いても行けるような近くだといいとなる、8キロでも離れていると車で来てもめんどうになるのである
だから本当は隣近所で助け合えばいいのだが今の社会は仕事でも遠くへ行くので近くが疎遠になっている、近くでも距離が近くても精神的には遠くなっているとなる

みちのくは枯野に果てて海となる景色が多い、そして船は一二艘しか通らないのである
湊があっても少ないから瀬戸内海などとは違った風景なのである
瀬戸内海だと船の航行する数が多いし島も多いからこの辺の海とは違っている
ただ潮の流れは早いのであるみちのくは海でも荒寥としているのである 

百才母が生きて介護した部屋で仕事している、今は蠟梅の季節である、これは長く咲く梅も咲いていた、でも朝は寒かった、昼間からちょっとあたたかくなった、もう少しであたたかくなる、そうすると楽になる


2023年02月13日

橲原村の雪景色-黄金虫、紅梅、冬の灯 (村が生活の基本だった時代)


橲原村の雪景色-黄金虫、紅梅、冬の灯

(村が生活の基本だった時代)

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この馬は人が寄ると近ずいてくる、人に慣れている

黄金虫指にとまりて縁起良し
雪埋もれ村に数軒灯のともる
ホウジロの十数羽来て賑わいぬ
紅梅に馬より来るや牧のあり
雪覆う牧に紅梅咲かんとす

立目石ここに久しく動かずに村の要とありつづけるかな
我が街に生きにし人の何語るなお共にありて街を見守る

ここ二日は雪であり次はあたたかい春になっていた。だから自転車で原町の方に行ったら黄金虫が眼鏡について指にとまった
黄金虫は縁起がいいとなる。
昨日は雪の後橲原に行った、そこで目立つのは立目石である。
それは小池村との境の石らしい、江戸時代だと村が基本になりたっていた。だから境が重要だったのである。
村と村でも争いがあり水争いなどがあり入会権でもありそれが戦国時代にい発展したとされる。
不思議なのは原町はもともと野馬追いの馬を訓練する場所であり
また宿場町であり原っぱが広がっていた。

それが鉄道ができて駅通りになった。そこは原町村であり野馬追に一騎しか参加していないのである。
つまり鉄道の開通とともに発展した街なのである
今そういう村が失われつつある。実際農業で生活している人は一割にも満たないのである。確かに田畑があってもそうなのである
そこが都会の人でも誤解しているのである。
私の家は橲原村のキコリが木材を提供した。だから姉はそのこと常に自慢していたのである。
まだその頃は外材を利用していなかったのである

ともかく雪にうもれしみんりとして数軒の灯がともる光景はそれをただ見ているとしたらいいのだが生活するるのは不便だとなる。
でも今や村は農業で成り立っていない、たいがい会社に勤めている。車があれば通うことができるからである。だから田舎では一人一台車を持っているのである。
だから外国から働きに来ている人が見ると豊かな暮らしをしているとみられる。ベトナムでもみんなバイクはもっている。
それで都会はバイクの洪水となっていたのである。
それもホンダとか日本製だったのである。

近くに牧があり馬がいるのは野馬追があるためである。人に慣れているのか近寄ってきた。でもふれなかった。そこに紅梅が咲いていた。何か動物でも牛とか馬がいるのは心が和むのである
村でもそうである。大都会になると今や見るだけでもいるだけでも疲れる。だから老人はどうしても田舎に住みたいとなる

田舎移住が話題になっているけど一万の町で一軒あった自転車屋がなくなった。それで困っている。だからもし自転車屋ができる人だったら歓迎されるとなる。何もできない人は移住したいとしても簡単にできない、でも若い人は比較的歓迎される。
なぜなら若いから未来がありそこでなじみ暮らせる。老人になると田舎に住みたいとしてもむずかしくなる、かえって介護になったら地元の人に世話になるだけだとなるからである。
若いというだけでそれだけ価値がある、老人となるとその人が何をしてきて成果を出したのかが問われる。
田舎では何もできない何をしてきたのかわからない人は歓迎されない、ただのんびり余生を過ごしたいとなると迷惑にもなる
ただ今の田舎は昔と違っている、この辺だと近くに5万とか4万の都市があるから閉ざされた村とかとは違っている
いずれれにしろ東京などは住みたくない、老後は田舎の方に住みたいというのはわかるのである。






2023年02月11日

橲原で見たホオジロの群れの写真 (野鳥観察に向いている冬)


橲原で見たホオジロの群れの写真

(野鳥観察に向いている冬)

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前に出した写真はホオジロだた

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橲原で見たのは明らかにホオジロだった、近くで見たのもホオジロだった、十数羽は群れて電線に止まっていた
だから近くで見た鳥もホオジロだった、冬は野鳥観察に適している。野鳥でも枯木に止まったりしても目立つからである。
でも今年は知らな鳥を見た、というよりは注意して見てなかったからだとなる。
この年でも知らないことがこうしてある。要するに興味を持たないものはみないのである。ただ鳥はすぐ飛び立つからににくいのである。写真にもとりにくいのである。
でも今年は知らな鳥を見た、ウソという鳥もみたがあれはシメかもしれない、似たのいるからである。
ともかく写真撮ることを目的にして野鳥を観察するのはいい、でも撮りにくいのである。

ホオジロの十数羽群れて雪野かな
橲原や雪野に暮れて家数軒
風にゆれ小枝に止まるホオジロのしばし見れるはめずらしきかな

2023年02月07日

春めきて橲原と大原をめぐる (大原の歴史と前田の斎藤氏のこと)


春めきて橲原と大原をめぐる

(大原の歴史と前田の斎藤氏のこと)

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この老木に幼子と老人がいた、ただ村の子供というものでもない、なぜならここに新しく移り住んだ人の子供かもしれないからだ、今は村という感覚がないともなる
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ここの梅が開いた、墓も後継ぎがいないとかなる、橲原でも大原でもまだ田せも回復していないのが残念





一村や春光眩し石一つ
東風(こち)吹きぬ坂越え来る隣村
墓の二基跡継ぐ人あれ梅開く
老木や村の幼子と春来る


橲原に目印とあり立目石ここに動かず春の日さしぬ
大原の前田に住みし斎藤氏空き家淋しき春となりしも
病院に共にありし日遠きかな大原に眠る人そ偲びぬ
大原の柿の古木や望む山ここに根ずきて春の日さしぬ
大原の前田に古き家なりき遠田は遠く春となりしも
二本の木のますぐに墓守る街を離れし大原の冬



橲原から大原を回った、橲原は立目石が目印となる
そこから大原に向かう、その森の中の道は新しい道である
大原は深野より新しい、相馬氏が入り大原村ができた
何故なら深野には館とつく地名が二つあるからだ
これは中世の地名であり一地域の中心であった
もしかしたら大原をめぐって争いがあったのかもしれない、相馬氏が支配してゆく過程で在地の勢力と衝突した
その謎が

その後善次病死して棺を出す。時に大原村の森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。
海老村の大工の善次が経験した怪異はやはり津波のことだったのか?

(津浪で死体を処理したー日下石のばあちゃんもショックで後で死んだ)

海老の宝蔵寺は古い、紅葉で有名になった、この伝説はなんであったのか、なぜ大工の善次が死んだのか?
この謎が解明されれば津波のこともわかるとなる
確かに中村に城が築かれるときのことであり津波がその時あった、慶長津波があったからである

これは相馬氏が中村に城を作るとき海老の大工がかかわり何かもめごとがあった
その時海老に津波があり大工が中村に今の相馬市に働かせられることを拒否したからかもしれない
ただその謎は解明できない、ただなぜ海老村と大原が関係していたのか、それは大原が深野より新しい地でありそこに相馬氏が支配することでもめたのかとなる。
大原村とか橲原村は江戸時代に開かれた村であり中世にはなかった、大原村の草分けとして前田に住んだ斎藤氏がいたのである。遠田とは前田からさらに離れた森の中の田である。日本ではこうして田を作ることで暮らすことができた。
ここにも越中などからの移民が入ってきた、それは墓をみればわかる、南無阿弥陀仏と刻まれている、そこに戒名はない、死者を供養することもない宗派なのである

ともかく今日は春だった、春光であり山が霞んでもいた
それで自転車で走り気持ち良かった
東風邪が山にも
吹くときこの辺ではどうしても原発事故を思い出すのである東風(こち)が今頃海からふくからである、その風によって放射性物質が運ばれて汚染されたからである
恨めしい風となってしまたのである

2023年02月06日

白鳥の写真ー朝日が昇り満月が山に没す

白鳥の写真ー朝日が昇り満月が山に没す

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これはうそだろう、ウソという鳥など見たことがない、頭が黒いからそうだろう
確かに冬は野鳥観察にむいている
真野川の河口の方には白鳥がいつもいる


東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ

今日は今まで見たことない景色を見た
山の端に満月が出てたのである、それは6時半頃だったまだ暗いから満月が明るかった確かに朝に月を見るがこんな満月を見たことはない、マイ柿本人麿の歌はこの光景に似合っていた
朝日が雲を赤く染めて昇ってくる、雲が赤く染まる、それは陽炎(かぐろひ)ともなる、振り返ると満月が明るく山に映えて沈む
でも月傾く感覚とは違っている。
この意味は新しい太陽が昇り古いものは月のように傾き衰え消えてゆくそういう意味であるでも満月が明るいのでそういう感じはしなかった何か傾くというとき満月ではなく半月とか三日月が合っている、何か衰えて沈んでいくという感じになるからだ
でも今回はそういう感覚にはならなかった満月でも明るく輝いて沈んでいったのである
東に陽炎の見えて山に入る満月輝き冬の朝かな
これは冬の景色だが柿本人麻呂の歌は夏かもしれないでも今回の景色はそれとはそれと似ていたでも感覚的には相当に違っていた結局短歌でもしでもいろいろに鑑賞できるふそれで大阪上で見た
花の盛りに桜が散ってゆくその時夕日が赤々と輝き沈んでいったその夕日の赤さが何とも言えぬ赤さだったそれは歴史を反映したものであり自然そのものとも違っていたのであるそのことはエジプトを旅してナイル川の西に日が沈むのを見た時もそれを感じたのである
繁栄の時がありそしてその繁栄も一時であり落日となって輝き沈んでゆくそういう人間の興亡が反映したものなのである
それは太陽でもそうなのである、その色合いは説明できないものである。
写真は動くものは撮りずらい、でも必ず飛ぶ時がありシャッターチャンスを待つ、今回はそれで撮れた。

遅れじと白鳥飛ぶや陽の昇る


2023年02月04日

冬深む俳句十句 (人間には共有する場が必要である)


冬深む俳句十句

(人間には共有する場が必要である)

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蝋梅や貧者を世話し家の主
街中の神社の古木に寒烏
冬の鴨身を寄せ合うや橋の下
庭の石場所を変えずに冬深む
家になお死者の生きむや冬深む
老人が老人世話す冬深む
我が一人墓を守るや冬深む
冬深む齢を重ね里に老ゆ
土地土地の生きにし場所や冬深む
大原の老木あわれ冬深む
松一本社を守り冬深む
土地土地の土とならんや冬深む
土地土地に年輪刻み冬深む
共に生く場を持ち死なむ冬深む
土地土地の古き家尋ね冬深む
老夫婦結ばれ離れず冬深む

共有す一つの場に生く冬深む

one common life
identified place
deepend winter
in my homeland

冬深むという時これは1月から2月だろう
今は2月4日でも春になったがまだまだ冬である
確かに春の兆しは出てきている蝋梅でも咲いたからである
季語としては西と東では季節感が違っている
西は早く暖かくなるみちのくはまだ冬が長い

北海道だとさらに冬は長いだから季語も違ってくる
何か冬深むというときそこに長年住んでいて一定の場所でその土地に根ずき共感して連帯を深めてゆく
それは老人にふさわしいとなる、人間はやはり一つの場所があってそこでい一体化してゆくアイデンティティ化してゆく、それが自然なのである木がに根付くように人間もそうなる。

ここで問題なのは時間軸と空間軸に人間は生きる
人間は一定の場所に生きざるを得ない
そして一定の場所で世代を受け継いで生きる時間軸で生きる木は長い時間をかけてその土地に根付く
何か冬深むというときそこに長年住んでいて一定の場所でその土地に根ずき共感して連帯を深めてゆく
それは老人にふさわしいとなる人間はやはり一つの場所があってそこで一体化してゆくアイデンティティ化してゆくそれが自然なのである木が根ずくようになる
ここで問題なのは時間軸と空間軸に人間は生きる

人間は一定の場所に生きざるを得ない
そして一定の場所で世代を受け継いで生きる時間軸で生きるきそして長い時間をかけてその土地に根付く
そういう場所が人間には必要なのである
そういう場所を奪ったのが原発だったのである
老人がそうしてなじんだ場所に住めないことは金銭的なものより精神的な衝撃が大きかったのであるでもそれもカルマであり責任は住んでいる人たちにもあったとなる

そもそもそうした精神的なものは自覚しにくいのである
それは失ってみて初めて分かるのである家族でも親子でも夫婦でも死んでみるとその貴重さが価値が分かるのである生きているときはわかりにくい感じにくいのである
だから故郷を失い家族がばらばらになった時痛切にそのことを感じたのである
いつも通る橋の下に鴨が数羽群れている身を寄せ合って群れている
それはありふれた景色であるでも俳句は写生である、ありのままを写すのである
橋というのは人間的なものなのであるそしてそこに鴨がいる
ということは鴨も人間的なものとしていることになる橋があることによってそうなったのであるつまり何でも人間化するのである動物もこうして人間化したものとして表現するのである

老夫婦となると冬深むにふさわしいとなる、でも熟年離婚が多いことにも驚くのであるもうそれも大きな損失である68とかにって離婚する人もいる
でもそもそも人間の時間は限られているそんな年になって人間関係を親密さでも信頼でも作ることは難しくなる
ただいかに男女関係でも人間が平和的にありえないということなのである常に不和が生じるのは人間の世界なのである

蝋梅が咲き始めたそれを母がいた部屋から見ているここで母は寝ていた私は介護したそれでこの部屋を百才の間とした
蝋梅という時これはやはり長寿の花かもしれない百歳まで生きれば充分であるでもその前に病気になるから人間は長生きするのも問題となるのである病気にならなければ別に長生きしてもいいのであるこの部屋から今日もウグイスを見た、その鶯が蝋梅にとまっていたのである
その取り合わせが良かった縁起が良いとなる
写真を撮れなかったがインターネットにでている、蠟梅ででてくる








2023年02月01日

ダイユーエイトの敷地にある田母神の社 (冬に見えた珍しい鳥ーマミチャジナ?)

ダイユーエイトの敷地にある田母神の社

(冬に見えた珍しい鳥ーマミチャジナ?)

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めずらしやマミチャジナイ群れ飛びて枝にゆられつしばしとまりぬ

うぐいすの二羽庭に来て飛び去れりめずらしきかな冬にこもるも

松一本御田母神の守りけり何を語るや冬のくれかな


今日は朝に鶯が二羽庭に来た、冬になると餌がともしいから鳥が餌を探してくるのかもしれない、庭の木の実などを探しにくる、外に出たら頭に白い筋が入っていて腹がモズのような色をした鳥が群れて飛んできた、これはつぐみかと見たが違っている
腹の色が違っている、でも何かと調べたらマミチャジナイとかあった
これならそうらしい、でも聞いたこともない名なのでそうなのかと見た
名前自体がなじみがないからだ、でもツグミでないとするとそうなる
鳥はなかなか見分けにくい、ゆっくり見ていられないからである
写真をとるのもむずかしい、すぐ飛び去るからである
ただ偶然カメラに写っていた、だから間違いないのかとも見た
冬の鳥は葉陰とかに隠れないので見やすいということがある、写真にとるにはいいとしてもすぐ飛び去るからむずかしいのである

ダイユーエイトの入り口に「御田母神」がある、

田母神俊夫という自衛隊の幹部の人が一時有名になったけどこの人は郡山市田村町の出身だった、ここに田母神の地名がある

田母神村: 江戸時代から明治時代中頃まで陸奥国安積郡(田村郡)にみられた村名。当初は白河藩領、寛保元年幕府領、寛延2年常陸笠間藩領、安永6年幕府領、同7年磐城平藩領、寛政3年からは常陸笠間藩領と推移


ここが笠間藩に一時なっていた、笠間焼がありそこで絵付けとかして遊んだことがある、茨城県にはあまり藩はないし城もなかった、だから観光する場がなかった
ただ焼き物から見ると笠間焼とかあるのは江戸時代からあったとなる
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田母神{田母神}の発祥地はここであり田村というとき田村の姓が近くにもありそこから移住してきた人があったためだともなる
この田村は坂之上田村麻呂にも由来している古代からのものである
南相馬市の鹿島区の大内村に坂上田村麻呂に由来する御堂がある
つまり古代から田村とは関係していたのである
それは800年代だから古いのである

いづれにしろあそこはもともと田があり田母神が祭られた、でもその由来はここではない田村町の田母神の神も人ともに移動してきたのである
そういうふうに神も移動するのである、移動するとき人がいて移動する
御神体も人とも移動するのである

いづれにしろここに田があったとき田母神様が活きていた、でもダイユーエイトができたとき田がなくなりただ社だけが残ったとなる
こういうことはいくらでもある、そもそも神田とあれば神の田でありそれが東京のど真ん中にあってももう田をイメージなどできないからである
ただ小さな社でもビルの谷間に残っている、ということはその社でも残っていれば何かを昔を語りつづけけいるのである
でもそれが何かなのかは不明にもなる、何か伝えるために残っている
今この社を守っているのは松一本だとなる
前は六号線であり車が毎日往き来してもこの社に目を留める人はいない
私はダイユーエイトができる前からこれを知っていたらその変わりようを書いた
つまり郷土史として書いたとなる






2023年01月29日

真野川の鉄橋の下の白鳥の写真


真野川の鉄橋の下の白鳥の写真

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氷を割って泳いでいる
薄氷である


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氷割り泳ぐ白鳥朝に見ゆ山は雪なり冷えにけるかも

朝の日の光り反射す川面かな白鳥群れて白に白映ゆ

目覚めれば地表は雪や白鳥の五六羽飛びぬ空澄みにけり

今日は真野川の鉄橋の下に白鳥が30羽くらい群れていた
白鳥のいる場所は変わる、田んぼにいるときもある
ここでこんなに数がいたのはめずらしい、ただここで餌をやっていないのである
白鳥はやはり特別寒い時美しく映える、この辺ではあまり寒くならない寒さの中の美は
感じない、でも白鳥はヨ−ロッパでもいる、ということは白鳥はロシアからシベリアから冬に渡ってくるとなる、でもロシアから来たのは攻めてきたのは残酷な軍隊だった
自然ならそこに美があるが人間は美を破壊するのである

写真はやはり場面とカメラの性能に左右される、私のカメラは高いものではない
またレンズにも左右される、レンズが何十万とカメラより高いのである
野馬追いの写真を撮りに来た人は50万とかのカメラをもっていたのである
カメラが趣味の人は多い、ただ写真もその場面に出合い、その一瞬をとらえることがむずかしい、近くだから撮れたが遠くになるとむずかしくなる

とにかく現代は映像の時代である、だから写俳というのが生まれた、そもそも正岡子規は写生の俳句で俳句の革新を計った、だから写真と相性がいいのである
でも俳句は短すぎるから限界を感じる、短歌だとまだ長いから表現の幅がある
俳句と短歌を作っていてもやはり俳句は限界を感じる
ただ芭蕉のような俳句を作れたのか不思議だとなる、芭蕉より優れた俳人は出ていない
またこれからも出ない、なぜなら時代が違っているからである
現代のような風景と時間感覚とかではとても芭蕉の時代とは余りにも違っている
でも不思議のなのは蕪村は絵画的であり現代にも通じている
だから正岡子規は蕪村を良しとして写生俳句を唱えて革新したのである

ともかく今日は寒い、今キーボードを打っていても手が冷たくなる
ただ白鳥は寒さに映える、冬の美の象徴である



雪の中の白鳥

純白の衣の朝日に輝き
光りは水面に跳ねぬ
雪の朝白さ白さの映えて
優雅に水の上に浮かぶ
乱れなくその純潔の美
その高潔なる貴族のごとし
鴨の群れは下々と従う
神は我が意を得たりと
そのイデアは地上に成りぬ
太陽は喜々として輝き
また朝にここに喜び輝きぬ
その翼を広げし飛翔の躍動
白鳥は凍れる夜に星座と輝く
田舎にそ何か見るもののあれ
北風の吹きつけ白鳥の鳴く声がひびく
その凍てる空に弦の音のように響く
ふの触れがたき聖なる鳥よ
神は自然の天然の美を与えぬ
純白の雪に覆われて人は見えず
白と白は互いに映えて美しさを増しぬ
ただ白鳥のみそ映えるべきかな
黙して自然の美を見よ
黙して自然の声を聴け
地も聖なるものとなるべし

2023年01月28日

みちのくに枯野が似合う(枯野の俳句十句)


みちのくに枯野が似合う(枯野の俳句十句)

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みちのくや休みに入るや枯野かな
人死にて争い終わる枯野かな
みちのくや枯野に残る金色堂
みちのくの金色堂や雪覆う
凍てりつく池や映えにき金色堂
みちのくや線路遠くに枯野かな
青森は遠き果てなり枯野かな
みちのくや枯野の駅や二三人
みちのくや都の遠く老いにけり
争いし境も消えて枯野かな
みちのくに栄華もなしや枯野かな
みちのくや風の唸りて黙す石
みちのくや抹茶を飲みて冬深む
みちのくや木を深く張る木冬深む
みちのくや心にしみぬ冬景色
みちのくへ上野を離れ枯野かな

目覚めれば地表は雪や白鳥の五六羽飛びぬ空澄みにけり

その場所場所で役割というか特徴がありそれに見合った場所としてあるのが本来はいい
アイディンティティもそうして作られる、それぞれ違った地理と風土がありそこに文化が生まれる、みちのくというときもそうである、ただはちのくといっても広いのである
芭蕉がみちのくを旅したのは平泉までである、そこからみちのくは岩手県があり青森県がありと広いのである、ただみちのくというとき地理的に風土的に北であっても北海道とは風土とか地理でも相当に違っている
みちのくは古代史からすでに日本の歴史と深く関係していたからである
それで縄文時代となると東北地方が先進地域だった、礼文島に縄文人の骨が発見されて
アイヌとは縄文人の後裔だとDNAの研究で発表した学者がいる
アイヌが縄文人だったのかとなるがそれに疑問を持つ人もいる
アイヌとは比較的新しい民族だという人もいる、もしアイヌが縄文人の後裔だとしたらアイヌ語が原日本語の祖語となるから大きなも問題になる
それで日本全体の地名をアイヌ語にあてはめた時代があった、でもそれは無理だった

いづれにしろみちのくとなると地理的風土的歴史的にアイディンティティが作られた場所である、だから北海道とは違った世界である
そしてなぜかみちのくに合うのが枯野なのである、わび、さびの世界なのである
みちのくは経済一辺倒の世界とかは合わない、大坂だったら商人の街でありあいさつがもうかりまっかとかなる、仙台市だともともと商人の街であり普通は東北弁だとんだんだになるが語尾にだっちゃだっちゃとなりこれが異質なのである
んだんだというのは何か口籠る言葉であり北国的である
でもだっちゃだっちゃというのは感覚的に全然違っている、押しが強い言葉なのである
伊達藩から伊達政宗のような人が出たという時何か異質なのである
東北人であのような芝居めいたことができる人はいないだろう、くそ真面目という感覚になるからである、ただ相馬藩とかでも実際は千葉県とかから移住してきた相馬氏一族が支配した藩だから別に土着的な人達ではないものが入ってきている
でも方言からするとんだんだとだっちゃだっちゃは余りににも違っているのである

上野去り平野開けてみちのくに我が帰るかな秋の陽没りぬ

上野駅を離れると浦和辺りなのか平野が広がり枯野にもなる、その時地平線に秋の夕陽がかがやき沈みみちのくに帰ってゆく、電車からその赤々と燃える秋の陽を見る
そして常磐線でもいわきまでは昔の平駅までは東京からの通勤列車が出ている
いわき市まで通っているのであり東京は意外と近いとなる
福島県は東京と近いのである、だから東電の原発でも建てられたとなる
郡山市だったら東京から一時間くらいなのである、通勤していた人もいるのである
でも会津とかなると不便であり遠くなる、会津は福島県でも浜通りから遠い、東京よりも遠いという感じにもなっている

ともかくみちのくでも広い、芭蕉が旅したみちのくは平泉までである
そこから岩手県になり青森へともつづく、そこはまさに辺境の地なのである

常夜塔雪に埋もれて野辺地かな

野の辺というときそうなる、津軽鉄道の津軽中里から十三湖に行った時寥々とか湖に風が吹いていた、そこも本州の果てなるか所である、ただ昔栄えた港があった、何かそれも津波で流されたとか言われる、砂に埋もれてしまったとなる
青森はみちのくの果てである、でも函館に行くとそういう感覚はなくなる、函館は明治に反映した近代的なしゃれた街なのである、感覚的に全然違っている
北海道はアイヌの歴史であり日本の歴史の中に入っていない時期が長かったからである

それにしてもなぜ芭蕉は旅に病んで夢は枯野を駆け巡るとなったのか。。。。
みちのくを旅したのは夏だったからである、秋だったら枯野にもなるがみちのくの枯野をイメージしたのか
その辺がわかりにくいのである

江戸だと枯野見があった、わざわざ郊外に枯野を見に行った、それは江戸は人でやはり込み合って枯野がなくなっていたからである
それで風流を演出したのである、今の東京なら電車でも車でも相当遠くに行かないと枯野はないのである

2023年01月20日

冬薔薇、冬の灯、冬の空、枯木、冬の暮 (農家育ちの老女が昔を語る田舎の冬)


冬薔薇、冬の灯、冬の空、枯木、冬の暮

(農家育ちの老女が昔を語る田舎の冬)


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依然として死者は家に取りついている、離れたくない
家はだから物だけとはならないのである

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木一本真すぐに伸びて冬の空

門古りけ農家一軒冬菜かな

古井戸や昔を残し冬の暮

冬の灯や近くに親し家一軒

晩年に才の開くや冬薔薇

石静かようやく咲きぬ冬薔薇


玄関の曇り硝子に映りたる枯木の影や母をし想ふ

この家になお離れじと玄関の硝子に映る枯木一本

冬の薔薇一輪開き間をおきてまた一輪開くを待ちぬ

我が庭に冬の薔薇咲く一輪や静かに見つつ今日も暮れにき

冬あわれ農家生れの老女なれ昔を語り時は過ぎゆく


農家に育った女性は何か街で育った人とは違う、土着的なものを感じる
土地と一体となり生きたとうい感覚になる
農民的体質を感じる、なぜなら茅葺の家にも住んでいた、意外とあたたかいという
土間があたたかいというとき土だからあたたかいとなる
茅葺の家でもやはりそこに人間が培った技があり知恵があるとかなる
だから必ずしも古いものがすべて遅れたとか悪いものだともならない
ただ今になるとなかなかわかりにくくなった
ただ一軒の農家でも自給自足的な暮らしをしていた
まず農家だと買うということがあまりなかったろう
街だとやはり買うことがある、食糧自体買うからである、水さえ隣の井戸からもらっていたとかなるからだ、とにかく現代は買うことが多すぎる
そのために金がかかり結果的にすべて金で計られる時代になったのである
その女性は老女十ならない、72歳だから今ではならない、でも苦労して病気にもなり10歳老けてみえる

何か介護とかなると近くに親しい人がいると助かる
なぜなら隣であれすぐ近くだと毎日のように気軽に行ける、様子もたずねることができるでも隣の市でも8キロ離れたとしても遠くなる、車があっても手間なのである
だから相馬市まで15キロになると結構手間なのである
その人は一人で家にいる、糖尿病でもある、今までは100メートルくらいしかないから歩いて行って話し合い相手になったりしていた、でも脳梗塞で入院した結果そこまで歩いて行けなくなった
また何か不和になり行かなくなった、娘は一人娘でかわいがって育ても冷たいと言っている、金に厳しいとも言っている
その女性が来ても財産ねらいなのかと気にしていて病気になって入院してもお見舞いもないとか言って切れたともなる
ここでもういくら血縁であれ親族であれ近くでも疎遠になることがある
かえって他人が親しくなり助けることもある
それで家族遺棄社会が言われるようになったのである
ともかく介護になるとどうしてももう家族だけではやっていけないのである
負担が大きいからやっていけないのである

冬は昔を語るのにいい、昔を回顧するのにいい、そして人間は待つ時間が悠長に待つ時間も必要である、薔薇でも一輪咲くのも遅かった、それから蕾となりまたそれが開くのに時間がかかる、早く咲かせることはできない、そこに時間の作用が必要である
現代で失われたのはこの待つ時間である、待っている時間の余裕がないのである
駅でいいのはこの待つ時間があったということである
たとえ10分でも待っている時間が人間的だったのである
高速のSAで待つということがないからである
そして本当に待つ時間がないというとき人間が成長させるにも子供をみるにも時間の余裕がない、絶えず膨大な知識に追われじっくり何かを追及する時間がないのである
ただ正直自分の場合は才能にしても華開くのが遅すぎたとはなる
何か理解するのに何でも遅すぎたのである、勉強の方法も悪かったのである
何かやっと冬になって薔薇が咲いたとかなるのと似ている




2023年01月11日

2023冬の俳句短歌8(冬の暮の庭の石−芽吹く花の蕾ー母のこと)

2023冬の俳句短歌8(冬の暮の庭の石−芽吹く花の蕾ー母のこと)

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母は隠れるようにあり姉は目立つ

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新春や松が枝に添えるボケの花

満月や新春三日縁起良し

土壁の蔵に家古り冬柳

家古りぬ社やここに冬の暮

門古りて前田に育つ冬菜かな


津波にそ社流されその跡に枯木一本守り残りぬ

津波後庭の残りてあわれかな石に寄りにつ冬の暮かな

冬の川ひびき清らかその音を聞きつつ歩む心静かに

平穏の日々こそよけれ冬の薔薇我が一人見て暮れにけるかな

石と石物言わずあれ冬の日や穏やかにしてここに暮れなむ

姉と母今は亡きしも冬の暮思い出深く我が家にそあれ

我が庭に根付く木のかたへ久しく見ずや石のあり堅きものかな

我が母の目立たずありぬ陰にあり石の堅きも冬の暮かな

白百合の一輪咲きて我が家に待ちにしあればまた一輪咲く

狭き庭椿牡丹薔薇の芽のふくらむを見ゆ楽しみなりき


今日ひさしぶりで庭を見て水をやった、玄関の木には水をやっていた
でも狭い庭でも全部水をやるのも手間で忘れていた
億の庭を見たら椿の蕾がでていたし牡丹の蕾もでていた
やはり春になっている、今年はもしかしたら春が早いのか?

そして新しい部屋では庭が板で遮られて下の方が隠された
それを庭に出て久しぶりで見た感じになる
根付いた木がありそこに石があったのを見た
その石は堅いと思った、それは母のことを思った
母は目立たない女性であり陰の女性だったからである
そして馬鹿真面目で働くばかりだった、そこで性格的にかたよってものになっていた
面白味のない女性となっていた、それも生い立ちが恵まれていないからそうなった
花より庭に豆を植えて置けとか花にも興味をもたなかったからである
ただ人間は誰かのお陰でありうる、陰になる人がいて表に出る人がいる
それでお陰さまでとなる。、陰になる人がいることを知るべきだとなる

私の家族の不思議はおおらかな姉がいて陰となる母がいて成り立っていた
こういう家族も他からはわからない、でも自分にはいい影響を与えたのである
母だけで父が死んだ後維持できなかったからである
何か母親べったりとなって育つとかえって子供は母を嫌うことがある
そこに緩衝材として叔父とか叔母とか祖父母とかがかかわると子育てにいいとなる
それが核家族でくなったことが子育てが母親一人の負担になることが問題を生んだのである

花でも家に飾ると白百合でも待っていないと咲かない、その待っている時間が実は大事なのである、期待して待っている、それが実は無駄なようで人間にとって有効な時間なのである、それは駅で待つということがありそれが人間的であり駅を活かしていたのである
でも高速道路では待つとういことがないのである
車で寄ってすぐ出て行くだけだとなる、確かに便利なのだがそれがかえって人間的なものを喪失させていたのである
だから高速道路のSAに行くけど魅力を感じないのである、あそこで遠くから来た人と話すこともないからである、駅でちょっとでも話すことができてそれが良かったのである
現代はとにかく人間的なものが喪失してゆく社会である
一見無駄なように見えても無駄とはならないのが人間なのである
それで老子の無用の用の思想が生まれたのである、あらゆものが用で埋め尽くされた都会とかはそこに人間的な空間が失われてしまったからである

御刀神社は津浪でも残った、でも社は流された、この神社ゆ由来は相当に古い、物部系統であり原町の桜井古墳の時代のものである、それは海老とはエヒであり蝦夷(えぞ)なのである、海老には古墳がいくつかありこの辺では古い場所なのである
江(え)とつく地名は蝦夷がいたときからある、江垂(えたり)でもそうである

津浪で判明した江垂の地名の謎 (気になる江のつく地名2-地名伝説には嘘が多い)
気になる江(え)の地名 (蝦夷(エミシ)もエである)

今年はどんな年になるのか?新年に三日ほど満月がでていた
これは吉兆なのかとも見た、何しろ災難が自然災害でも病気でも多すぎた
それで平穏でありたいとなった、何か私は異常だったのたけど30年くらい平和に過ごしていた、そこで引きこもりとなり沈黙業をしていたともなる
だからこういう人生も不思議だとなる、今なら引きこもりとかニートが本当に田舎に多いのである、そういう人とどういうわけ自分は田舎町をぶらぶらして逢うからである
これも時代である、そういう人が普通にいるのが現代なのである





2023年01月08日

2023初春日本列島栄華の詩 (鹿児島から船で大阪城へそして富士山を見て小田原から江戸へ)


2023初春日本列島栄華の詩

(鹿児島から船で大阪城へそして富士山を見て小田原から江戸へ)
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初春日本列島栄華の詩

夕陽に染まる鹿児島の開聞岳
今も煙り吐く桜島迫り
そのシルエットは離りゆく船に見る
目覚めれば四国沖船に昇る春陽を見ぬ
そして難波の港へと船は進めり
明石の戸より大和島見ゆとあれ
春の瀬戸の島々潮はめぐりぬ
秀吉の我が世の春と大阪城
桜満開人絶えず門を入り城内をめぐる
桜はやまず散るやその人の波
夕陽赤々とその昔日の栄心にしみぬ
西の栄よ、我は東に向かいぬ
駿河湾浪ちひびき魚躍り挙がり
富士嶺の高く日本の象徴
天下の険、箱根の山を越えて
海を望めば小島に波よす伊豆七島
小田原宿やその囲い厳しく関東治む
今花盛り望む海や帆船のあまた寄る
小田原を攻める秀吉の連合軍
伊達政宗も遅れて参戦
次に家康大江戸三百年の栄を築く
さらにここより陸奥は遠しも
故郷に帰れば桜咲きそむ
西の桜は散りしもみちのくに桜は咲きぬ
美しき日本の国よ、長寿の国よ
その栄は国土とともに天地とともにあれ
我が命大和にしあれ富士仰ぎ直(なお)くまことにここに生きなむ

電車の旅もずいぶんしたけど船の旅もした、船の旅もいい、一番長かったのは沖縄まで貨物船のようなもので行ったことである
一週間もかかったのである、船旅は時間がかかる、次に電車の旅でありそれも飽きたので自転車の旅になったのである、それだけ旅をしたということである
日本は海に囲まれているからやはり船旅は経験する必要がある
これだけ旅するにはとても勤め人ではできない、自由な時間が与えられたからできたのである、何か今になると旅もできない、意外と退職して自由時間ができてもできないことがある、それは金がないからではない、旅でも結構疲れるからである
だから外国旅行となるともうできない、それで50歳でバックパッカーになったしたのが良かった、その後は介護となりできなくなったからである
人間の一生はともかく短い、何かやろうとしてもできないし何か自分のしたいことをしようとしてもできずに終わるのである
それからその人に合った仕事など与えられないのである、私はたまたま家族に恵まれて好きなことをしてきたのである

旅という時本当は歩いて旅したりしないと地理はわからない、天下の険の箱根の山を登り越えてゆく、それも歩いて行ったら実感するのである
東海道でもそうである、でも車で混雑しているから往時のことがイメージできなくなっているでも海でも富士山でも同じようにある、だから地理は地形はそもそも変わらないのであるともかく船で鹿児島から桜島を見て開聞岳が夕陽の中にシルエットとなり船が離れゆき、大阪に向かったのは印象的だった、そして四国沖で春日が昇るのを船から見た
それから大阪に着き大阪城跡で桜を散るのを見た、その時夕陽がなんともいえぬものであり赤々と輝き沈んだ、それは西の栄を象徴していたのである
つまり自然と人間の歴史が一体となって反映されたものであり自然そのものというものではなく人間の歴史が加味された夕陽の色だったのである
西に先に日本の昔日の栄がありそうなったのである、それはナイル川の岸辺の西の方に太陽が沈んで行くときも感じた、エジプト三千年の歴史が繁栄されてその夕陽が輝き沈んでいったのである、だから歴史がわからないと深く自然でも見れないとなる

それから西から東に行くと富士山が見える駿河湾となり天下の険の箱根の山を越える
そして小田原になる、ここは西と東のせめぎ合いの場所だったのである
小田原城は強大な城郭であり関東を治める城だったのである
そこから家康が治め大江戸三百年の栄を築いたとなる
さらにみちのくとなると辺境の地だったとなる、でも伊達政宗が出て東北の力を示したとなる

華城春望<篠崎小竹>

突兀たる城樓 海灣を俯す
春空目を縦にせんと 一たび登攀
千帆白く映ず 洋中の島
萬樹く圍む 畿内の山
酒を賣るの店は 平野に連なって盡き
花を看るの船は 上流自り還る
牢晴の天氣 多く得難し
凝望せん斜陽の 未だ沒せざる間に

 斜陽大阪城

昔日斜陽赤
大阪城栄跡
秀吉栄華偲
万朶桜散花

凝望せん斜陽の 未だ沒せざる間に

この景色だった、夕陽が赤々と大阪城に輝き映えて沈んでゆく、それを現していたのである、春の夕陽が沈んでゆくのを惜しむのである
それは西の栄華を象徴していたのである、漢詩はむずかしいから作れない、でも確かに表現的には一致していたのである
詩となるとやはり言葉によって感覚的に違ってくる、だから詩語を知らないと表現できない、漢詩だと詩語としてあるから表現できているとはなる
ただ大阪城でも今はビルに囲まれているから当時の規模の大きさを感じなくなっている
でも石垣がやはり規模が大きいので当時の城の大きさを感じる




2023年01月05日

元旦の海辺で見つけたイソヒヨドリ (冬桜、寺の鐘、冬の星)


元旦の海辺で見つけたイソヒヨドリ

(冬桜、寺の鐘、冬の星)



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これは雄なのである、背中が青く腹が赤いのである

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これはメスである

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これは雄か雌がわからない、腹が赤いのは朝日がさして赤くなった
でも背中が青でもなく雄なのかどうかわからない

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新春に見つけし雄雌のイソヒヨドリ

めでたしやイソヒヨドリの雌と雄

新年や波打ち寄せてイソヒヨドリ

(冬桜)

石重くすえてここに冬桜

冬桜石にひびきぬ寺の鐘

冬桜石に寄り暮れ一人かな

土着して蔵ある家や冬桜


石寺の鐘重くひびくや冬の暮

石一つ千歳動かず冬の星

大石に清流のひびき冬の星


海岸の堤防の上に見つけたのはイソヒヨドリであり前にも見かけたからである
雄は青色に赤い腹していてきれいである、でも今回見つけたのメスだった
これは見映えしない色である、地味である、メスがたいがい地味である
雄は雌の気をひくために自然界では目立つ色をしている
ジョウビタキとかでもそうだった、メスはきれいではないのである
鳥をとるのはむずかしい、すぐ飛んで消えるからである
だから狙い定めて写真をとらないととれない、つまり定点観測が必要になる
あそこは毎日自転車で行っている、そしてイソヒヨドリがいたからわかった
ただ雄は見ても雌が見たことがなかったのである
ともかく雄雌の番いを見たということは縁起がいいとはなる

去年になるが宝蔵寺に冬桜が咲いていた、どっしりと石がありそれに似合っていた
寺でいいのは鐘の音である、山とか大地に厳かに響くのがいいのである
教会の鐘だと甲高いし重みを感じないのである
冬桜は年が明けて少し咲いていたけど散った、秋桜があり冬桜があるとしてそれも12月までなのかとなる



2023年01月03日

2023年新年短歌30首 本当の栄とは何なのかー自然とともに天地とともに栄えること


2023年新年短歌30首

(本当の栄とは何なのかー自然とともに天地とともに栄えること)

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我が家や遺影に花を飾りつつ新年迎え共にあるべし

我になお学ぶべきことあり尽きじかも今年も励み齢知らじも

新年に花を飾り松が枝をさして調和し末永くあれ

新年に病も癒えむ我が家に来たりし女やなお生きむかな

赤々と椿百輪公園に原町の道新年に来ぬ

枝張りて木は真すぐに大地にそ根の深く張り椿は映えなむ

それぞれの地に住み人は日本にそ年も新たに力を得なむ

去年(こぞ)に死ぬ人の悲しもその遺志の継ぐ人あらむ年改まる

良きものや電熱ベスト我がまとい技も進みて老いを生きなむ

美しき日本にあれや富士の山新年に映え栄もあらむ

初春の東海道や富士に松波音ひびき今宵の宿かな

富士の嶺映えて旅人東海道五十三次行く春の風吹く

日本にそ生きにしものや大海の波の轟き初日昇りぬ

新しき世の拓けむや老いてなお力尽くさむ日本なるべし

新年を言祝ぐものや大地より山より海より力を得なむ

そが力何に尽くさむ真なれ徒に生きざれ時の貴重なるべし

北風の音のみひびき我が一人巌のごとく打ち籠もるかな

新年に希望はいかに生まるるや偽りに生くば力を得じも

新年や直き赤き心にそ再び日本に栄のあらむ

東西の要とあれや日本なり対立の世にそ和をもたらすべし

神の意志日本に働き新たなる世の拓けるや祈るべしかな

芽吹く木の若き力の育ちなむ様々な花の色にそ調和し映えむ

深々と根を張る樹々やその根こそ見えずも木を支えぬ

騒々しき世を離れてそ黙す石北風鳴りて地も休むかな

争いの時に聞こえず北風の鳴りて休みぬ石一つかな

石一つ何も成さざるも春来れば花も咲きなむ誰か休まむ

復興は人智を越えし神の業働きてこそ成るべきものなり

日本にも衰えざるや天地の力の充ちむ年改まる

大洋に旭の映えて船はいず海の命の尽きざりしかかな

大海に波うち寄せて新年や魚躍りて旭日照らしぬ

海囲み日本育む山々を仰ぎ祭りて初日のさしぬ


今年はどういう年になるのか、いい予想はない、それはみんな経済的な面でそうなのである、日本は後進国になりもう先進国ではないというときも経済的なもの、科学技術的な面で言われる、でも自然からみれば自然はどこの国でも美しいものがある
それは神が地球を作ってから変わりないのである
その美は衰えることがないしまだ発見されない自然の美がある
日本には日本の自然の美がある、それは他の国と違った美なのである
その作られた風土と地勢とから見れば日本は魅力的だとなる
実際世界の大都会をニューヨークでも上海でも東京でもそこに魅力が感じないのは自然の美が映えないからである

都市でもルネサンスが生まれたのはフィレンツにしても5万くらいだったのである
つまり5万くらいであのような魅力的な美の都市が生まれていたのである
それは何のだろうとなる、経済力からしたら雲泥の差がある
一千万都市と5万の都市の差は余りにも大きいのである
だから経済力があり美を産みだすことはない、むしろ経済力だけだとそこは殺伐とした
金だけの世界になる、金融市場の世界の中心のニューヨークなどでもそうである
そこに世界の金が集められ収奪されているともなる

宗教でも大都会から東京から生まれた宗教はカルトでありそこに本来の宗教は何一つないのである、ただ人を集めて大衆化してごたごたと人を選ばずあらゆる人を集めて数で勢力化して権力化利権化するだけである
だからそこから何一つ良きものは生まれない、美も生れない、ただ醜悪な物が生まれるだけである
江戸が美しかったというとき百万くらいであり回りは田園だったのである
そして水路がめぐらされてベネチアのようになっていたのである
もちろん過去を美化することはあるが一千万の大都会を見てもそこには群衆と車と高層ビルなどを見るだけであり人間はただ蟻のようになっているだけである
わからないのはそうして醜悪なものとなるのは何故かとなる
人間のエネルギーがなぜこうして一千万の人間が集まってエネルギーとなってもそこに何か美でも良き物が生まれないのかわからないのである

それより富士山は常に優美に映えている、自然は太古から原始から変わらず美しく映えている、それは人間が作ったものではない、神が創ったものである
だから何が繁栄なのかわからないのである、もちろん日本が貧乏になるのがいとかではない、大都会のような東京のようなものが繁栄にはならない、だから繁栄とは何かとなると

御民我れ生ける験あり天地の栄ゆる時にあへらく思へば
                       海犬養岡麻呂
                       
これなのである、天地(あめつち)が栄えるということは天地は常に栄えていたのである天地の美は常にあり変わることがないのである
神は実りを与えていたのである、それは経済的な面からみれば繁栄の時とそうでないときはある、でも天地の栄とは必ずしも経済的な面だけではない、栄えるとは天地の美があって栄えるともなる、天地の美を失う時、そこに栄があるとはならないのである
現実にこの辺では原発事故で住めなくなった、それは何なのか追求してきた
天地とともに栄えることが基本であり科学技術によって人間は栄えるとはならないのである、もちろん科学技術とか否定するのではない、優先すべきは神が創った業でありそれとともに栄がある、それを失った時、真の栄はないのである

だから東京であれ経済的には巨大化して栄えていてもそこに神の業(わざ)なる自然が映えないから殺伐としているだけなのである
江戸には美があったというとき百万都市でも自然が回りにあり水路が縦横にめぐらされてそれが美を作っていたのである
だから何が栄なのか、常に経済的な面から科学技術的な面からしか見ない
なぜかえって自然を破壊して美を消失させたのが大都会だったとなる
すると何のためにそこで生きているのか労働したのかともなる
むしろ極端になるがそんなものはない方が良かったとまでなってしまうのである

いづれにしろ正月でも正月気分などない、ただ年が変わるというだけである
正月とは祭りでも農業から農民生れたものだから現代では農民は全体の一割もいない
田舎でも農民はそんなものである、だから田舎でも農業のことを知らないのである
私自身も知らなかったのである、つまり現代人は田舎に住んでいても都会人になっているのてある、会社員なのである、それで浪江町で電気工が回りが田圃でも草ぼうぼうになっても何の関心もなかった、悲しいとか嫌だとかもない、全く無関心だったとのである
かえって補償金もらって良かったと言っていたのである
それだけもう農業を知らない人が多いのである、そのことは農業が自然と密接につながっているから自然のこともわからないとなる

むしろ田舎の方にこれから栄があるともなる、その栄は物質的なものではなく自然に映えるものとしての精神的なものである、それは文明ではなく文化だともなる
文明という時大きなものであり文化となると地域地域に根ざして生まれるものだからである、巨大文明都市から小規模地域都市こそ繁栄があるとなる
それを具現したのがフィレンツとかのルネサンスの都市なのである
それは5万くらいの小都市だったのである、それでもあのように荘厳華麗なルネサンスが生まれたのである
おそらく日本もこれから地方の小都市からルネサンスが生まれる、今の機が熟しているのである、高度成長時代は経済成長のみでありそれは物質的なものであり真の繁栄はそれではない、荘厳な美の創造なのである、それは飯館村などでも原発事故があり廃村みたいになったがそこには森に囲まれた美は残っている、だから美の創造はまたそこからもありうる、もちろん物質的なもの食料でも必要だから美だけでは成り立たない、でも大都会とは違って依然として森が消失したわけでもないからそこから再生しうるものがある

東京などでも大都会は何か戦後の焼け野原のようになるのではないかとも危惧する
そこに美がなく精神文化はない、巨大なあくことなく食い続ける胃袋しかない恐怖であるがつがつと食う怪物でも住んでいるのかとなる
だからなぜ東京に人が集まるのか理解できないのである、もちろん田舎がいいわけではない、人間は劣悪だともなる、でも自然に隠されたようになっているとき自然の美が映えるという逆説がある、醜い人間が隠れてあるとき自然の美が映えるのである
だからそもそも人間はなぜあくせく働き消耗されてゆくのか?もし何か意味ある美のあるものに費やされるならいいが実際は醜悪なものに労働を強いられる消耗されるだけだとなる、カルト教団のようなものに消耗され費やされているだけだとなる
ともかく何でもそうだが人間は末永くあることを願う、あまりにもあらゆるものが泡のように一時のものとして消えてゆく
人間の交わりでもふりえれば瞬間であり後は永遠に逢わないとなりはかないとなる
長くつづくものには価値がある、あらゆるものがただたちまち消えてゆくだけである、百年二百年でも継続されるのに価値がある
それでSDGs(持続可能社会)が言われるようになったのである、経済的繁栄は一時的なものである
でも天地の繁栄は太古から古代から変わらずつづいている、その美も一部損なわれてもつづいている
はかなくうたかたのように泡沫のように消えてゆくものに価値はないのである

今年も俳句短歌や詩など創作に励みますのでよろしくお願いします


天地の栄の歌を作った人のこと

犬養部は犬を用いて宮門、大和朝廷の直轄領である屯倉などの守衛に当たる品部であり、海犬養は、県犬養、稚犬養、阿曇犬養、辛犬養連、阿多御手犬養とともにこれを統率した伴造6氏族の一つである。
海犬養氏(海犬甘氏)は、海神綿積命の後裔を称した海神族に属する地祇系氏族で、安曇氏と同族とされる
これは私が古代の部で相馬地域に特に南相馬市の原町区に綿津見神社と山津見神社が多い、原町区には綿津見神社が
やたら多いのである、その関連した地名も多いのである、安曇族の後継者の名前が地名化しているのである、海犬養とあるように海に生きる海人族だったのである
その人が天地の栄の歌を残していた、とういうことは相馬地域にも深い因縁があるともなる
天とあるときこれは天はアマとかともなり海のことだとも解釈している
海人族からすれば天ではなく海なのである、海の魚などをとって生活していたから海の恵みで生活していたからそうなる













2023年01月01日

2023−新春東海道俳句十句


2023−新春東海道俳句十句

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広重画 冨士三十六景駿河三保之松原


ハ百八町大江戸の春明けにけり

めでたしや江戸前の魚味の良し

新春や大橋三つ舟百艘

初春や鴎百羽や隅田川

山登る箱根の道や春の夕

花満開小田原城や海望む

街中の道真すぐに燕来る

春光の電車の行き東海道

波ひびき魚躍りて望む富士

駿河湾魚打ち上げ東海道

海に映ゆ桜満開東海道

沖に船東海道や春の風

東海道でも旅した時とぎれとぎれになる、京都まで歩む旅でないからそうなる
東海道はやはり海に面して京都大阪まで伸びている、駿河湾がありそこで波がうちよけ魚が躍りうちあげられたのである、そして富士山が見えたのである

今東海道となると車が多いから偲ぶことがむずかしい、とぎれとぎれにたどるから旅ともならない、今はいくら歩いても当時の旅を再現はもうできない、車や電車の旅になるからである

新年早々申しわけないがトイレが詰まった、今回は簡単に直せなかった
何かついていない、なぜこうして自分には災いがつづくのか?
大晦日につまったのだが今年もまた災いが来るのか?
ともかく幸先が悪かった、去年の内に修理できれば良かった、それが大晦日だったのが不運だったとなる、前は自分で直したが今回は直せなかったらである

ともかく今年も去年の地震で散乱した本とかかたづけていない、障子も直していない
何かいろいろと追われてできないのである
今年の最大の問題はWIN8.1のサービスが終わりWIN11になるのがめんどうなのである
プログに書くことで時間がとられるからいろいろ手が回らないのである
今まで書いたものを整理することは続く、その量も多いので整理するだけで大変である

今年も書きつづけますのでよろしくお願いします


2022年12月31日

流星、年の暮、冬銀河(年の暮、年終わる)


流星、年の暮、冬銀河(年の暮、年終わる)

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deep rooted one
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冬流星光芒迅速七つかな

動乱期流星光芒七つかな

流星の一つ大きく年終わる

瞬時なり冬流星の墜ちにけり

一つ一つ無益にあらじ冬銀河


冬の日の川の岸辺の桜の木育つ待つや一歩一歩歩む

この道を今日も歩みつ年暮れぬ一本一本根付く木かな

川の面に冬の日まぶし鴨の群れ相寄りにつつなごみて暮れぬ

我が姉と母しもなおも我を見む寒き日なれ熱き茶献ぐ


今年も終わる、流星は秋の季語になっている、でも冬にもみかける、今回見たのは冬である、一週間前くらいだった、冬の方が星がきれいに輝く、冬流星としたが流星で冬の季語にもなるのではないか?
動乱の時代に早死にした若い人がいる、明治維新などがそうだった
でもそこにも瞬時であれ光芒があり命が活きたとなる
街一軒の自転車屋の人も死んだ、自転車屋はこの街から無くなったのは淋しい
流星のように消えてしまったとなる
だからまだ喪の期間であり新年を祝うのをたらうこともある

冬銀河となると星となると無数の星があってもその一つ一つは無益なものがない
そもそも地球にも自然には宇宙では無益なものはない、石一つでも意味がある
でもなぜか人間は無数の人間がなぜ死ぬのかもわからない、無数の人間が無益なことにその労力をそそがれる、これが一番の謎である
戦争でも権力闘争でも何千万と死んだとかそれは何なのだろうとなる
そうなると人間の命は何なのだろうとなる

河岸の桜の木はまだ大きく育っていない、でも一歩一歩歩む、やがて大きく成長して桜が満開に咲く、でもその先が長いのである、だからもうこの年になると大きくなった桜の木は見れないとなる
残念なのは原発事故の避難区域になった所である、そこでも桜並木があり桜は咲く
でも人が消失した、残っている人は少ない、木が成長するには50年とかかかる
それだけの時間で育ったものでありそれは町の人々とともにあった
つまり桜の木で成長して満開の桜を見るには時間がかかるのである
その木でも人とともにあった、でも人が消失したときその桜の木も活きてこないとなる

ともかく人間の生は一歩一歩歩むことである、それしかない、冬だと静かに歩む
そして大地とも一体となるのである、だから冬はかえって大地の力を感じる
それで冬はふゆで増えることだったのである、冬に野菜がかえって育つことがあり冬となった、それは実地の農業から生まれた言葉だとなる

今年も災難だった、地震だけは恐怖だった、未だに家の中がかたづいていない、片づけられない、まだ家を修復していない家がある、それだけの被害だった
そもそもなぜこんなに災害が多いのか?それが疑問になる
今回は隣の原町は被害が少なかった、相馬市とか鹿島区は被害が大きかった
もう災難はごめんだとなる、平和でありたいというとき戦争がなくなってほしいとかあるても自然災害もなくなってほしいとなるがこれは防ぎようがない
地震は防ぎようがないのである、そしていつくるかわからないのである
来年はどうなるのかいい年になると予想する人はまれである
経済的にもっと悪化する、人々に余裕がなくなることも問題である

余裕がない人は困った人を助けることができない、自分のことで精一杯になるからである私が介護で苦しんでいる時来た人はみんな余裕がなかった
だからさんざんな目にあった、大金は盗まれるとかいろいろ責められたのである
それはみんな余裕がないからそうなったのである
余裕がない人はそもそも人を思うこともできない、自分自身のことで精一杯だからであるだから意外と余裕がなくなる社会は全体的に殺伐としたものになる
それが怖いのである、そうは言っても人間は希望をもって生きねばならない
どこまでも希望をもって生きねばならない、今世でだめなら来世へ神の国へ行くことで希望を持つのである、人間はなんらか希望がなければ生きられないのである

今年もプログを書き続けた、書くネタがなくなることはない、でもwin11に移行するのがめんどうである、何かめんどうなことをしたくなくなった、家事に追われているしめんどうなことをしたくないのである、でもどうにもならない、これは変える他ないからである
来年も頑張りますのでよろしく、良いお年を・・・

2022年12月21日

冬紅葉、冬樹、寒椿、寒鳥(冬の日の俳句短歌―桜井古墳から新田川を回る)


冬紅葉、冬樹、寒椿、寒鳥(冬の日の俳句短歌―桜井古墳から新田川を回る)

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真野川の朝

一羽はノスリでありもう一羽は何なのか、写真に写っていたが肉眼では見えなかった
こういうことがある、肉眼で見えないものがカメラで見えることがある



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新田川

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津波の跡がここには生々しくここには残っている

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石置きて曇り硝子に冬紅葉

山は雪ノスリ止まりて冷える朝

雪の山寒鳥二羽や朝に映ゆ

我が街の仕事場なれや冬の菊


十本ほど根付き変わらじ冬樹立つ

寒椿昨日の雪残り明けりけり

閉ざされぬ十一面観音寒椿

死神に追わるる齢や師走かな


朝の空は白鳥一羽鳴きにつつ仲間を探し翔けりゆくかな

新田川山は雪かな瀬のひびき桜井古墳のここに鎮まる

冬の日に桜井古墳に我が上る土地の歴史のここに始まる

津波に流さる家のその跡に石の離れず冬のくれかな

主なし家の跡かな石のみそ残りてあわれ冬の日暮れぬ


玄関の曇りガラスに冬紅葉が映る、母は12月12日死んだ、今年も死んだ人がいる
12月に死んだ人がこの町で二人くらいいる、自転車屋の死はショックだった
師走とは師のために走るとなるが死神に追われるという感じにもなる
どうしてもこの年になると近くでも知人でも死ぬ人が増えてくるからである
母は目だたない陰の人だった、性格的にそうだった、それで私も性格が似てそうなのである、それで冬紅葉忌としたのである
一昨日は雪が残っていた、この紅葉の木はいつも12月頃に紅葉になる
なんか母にふさわしいともなる

原町の新田川の岸辺の公園に十本くらいの木がある、そして椿に昨日の雪が残っていた
一昨日のことである、桜井古墳は大きい、その上に上った、見晴しがいい
山の方は飯館村の方は雪になっている、飯館村は標高が高いから早めに雪がふる
新田川は浅い川でありそれが飯館村の草野から流れている
浅い川だから瀬音がするのである

津波の跡が残っているのは桜井古墳からすぐ近くである
ここに津波に襲われて家が流された、でも林の樹々が枯れても残っている、厥か痛々しいのである、11年過ぎてもここではまだ津波の跡がまだ生々しく残っている
家の跡に石がありそれが離れずに残っているのもあわれだとなる
石がここを離れたくないと残っている、この辺の被害は大きかった

泉の十一面観音は中が見えない、また見たことがない、でも史跡とはなっている
師走はいろいろとやはり忙しいとなる、仕事しなくても忙しさを感じる
知っている人が退院したり自転車屋が死んだことなど近辺で変化があったのもそうである家事も忙しい、暇なく何かをしていなければならない、それでコメントをしていない
何か追われているのである、いろいろなこれまで書いたものの整理にも追われている

そして今やいつ私自身が死ぬかもしれない、これも恐怖である

だから「死神に追われる齢や師走かな」となる、死神に追われて逃れられないとなる










2022年12月13日

冬の朝の虹(写真) (六号線の塩崎方面にかかる)


冬の朝の虹(写真)

(六号線の塩崎方面にかかる)

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朝に雨夢かと消ゆる冬の虹

高平から川子を回り塩崎の方でる道を行くと虹が出ていた
小雨が降っていた、でもあんな方向から虹を見たのはめずらしい
ここではたいがい海の方向に虹を見る、山の方に見るのはめったにない
虹を見る時は縁起がいいとはなる






2022年12月12日

冬の日の俳句十句ー鹿島区から原町へ (枯菊、冬紅葉、葉牡丹、冬の暮・・・)


冬の日の俳句十句ー鹿島区から原町へ

(枯菊、冬紅葉、葉牡丹、冬の暮・・・)

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あわれかな里の小径にあきつ死ぬ

冬の日や里の小径を今日も行く

枯れ菊や今日も行く道日あたたか

葉牡丹の白紫や据えし石

家籠もる曇り硝子冬紅葉

めぐり来る母の命日冬紅葉

塀長く家を構えて冬紅葉

深野(ふこうの)に構えし家や冬紅葉

家一軒林に隠れ冬の暮

ユッサの湯庭に石五つ冬の暮

残りたる五輪塔の墓冬の暮

継ぐ家や冬菜に墓地に残る柿


白鳥の朝の飛翔や鳴き声の晴れし空にそひびきわたりぬ



里=人の住まない山などに対して,人家のあるところ。村落。人里。
田舎。在所。ふるさと。
そこから、実家 在所を
指すように、なりました。
home town of something

宛所が「里刀自」とあり、三六名の農民を郡司の職田の田植のために徴発するという内容のものである。まず第一に、刀自は、家をおさめる主人を家長、主婦を家刀自とするように、集団を支配する女性をよぶのに用いている。

里刀自小論 : いわき市荒田目条里遺跡第二号木簡から
https://cir.nii.ac.jp/crid/1390853649019549184

天皇の藤原夫人(ふじわらのぶじん)に贈へる歌一首

わが里に大雪降れり大原の古(ふ)りにし里に降らまくは後(のち)

里は狭い範囲であり隣に里がありそんなに離れてはないのである

日本にも中国の「里」が伝えられ、律令制では、大宝律令で「里 = 5町 = 300歩」と規定されていた[3]。

当時の尺は、現存するものさしの実測によれば曲尺(1000D 33 cm ≒ 30.3 cm)より2   3 %短いため、歩・町も同じ比率で短くなる。当時の1里はおよそ533.5 mであったと推定されている[4]

里とは自然界と人間界がありその中間になる、里は人間化した畑とかある田んぼでもある場所である、でも自然界と接していて動物でも侵入してくるが里には人間が住んでいるので動物も入ってこない場所としてあった、棲み分けがあった
最近は熊もでも自然界に棲息していたものが里にでてきて人間が住む都会まで出没するようになった、里とは動物でも入らない場所だったのである
動物の棲息範囲から逸脱するのは森に食料がなくなったためとかなる
雲南とかでの野生の象が都市まで出てきたのがそうである、食べるものがなくて移動したのである
動物との棲み分けが必要であり里はその境界として機能していた、動物は里まで出てこなかったのである、ただ里に人が住まなくなると熊でも猿でも侵入している
それは原発避難区域になったところではそうなった、猿でもイノシシでも侵入してきたからである

里というと里とは人間が作った庭の延長のようにも思う、なぜなら故郷でもは里くらいの狭い範囲だと庭のように思えるからである、だからそこで赤とんぼでも死んでいるとあわれだとか見るのである、蛙などでも極めて里にふさわしい、蛙が鳴く声は里にひびくのである、一時は原発事故のために田んぼが荒地になった、その時蛙も鳴く声も聞こえなくなったのである、つまり田んぼも里の景色として第二の自然となっていたのである
蛙はそうした人間化した第二の自然の中で鳴いていたのである
里の範囲だと庭の延長であり何か人間化しているのである
不思議なのは里というとき日本語ではさとるから来ているともなる、里に住んでいて悟るとなる、里の範囲なら狭いから悟る納得して知る範囲にあり愛情でも通う範囲ともなる
村は群れるであり人間をイメージする、自然はイメージしないのである
だから里というのは日本の風土から生まれた独特の感覚なのだろうとなる

枯菊に日があたたかくさしている、これは老人をイメージするのである
親を介護する感覚になる、ただ枯菊が多すぎる老人が多すぎるのが問題なのである

冬紅葉というとき母は12月15日が命日である、それで冬紅葉記とした
今は冬紅葉の季節である、
新田川のユッサの庭には五つくらい石がある、でもものたりてい庭である
もう少しいい庭にすればいいが狭すぎる

白鳥は増えた、20羽くらい見た、白鳥は飛ぶ時が気持ちいい、これから本格的な冬になる、みちのくの冬はわび、さびがあり冬らしいとなる
みちのくは依然として荒野の感覚がある、それで枯野がふさわしいとなる



2022年12月07日

冬の日に新田川を下り墓を見る (枯芒、寒椿、冬椿、年暮れむ・・)


冬の日に新田川を下り墓を見る

(枯芒、寒椿、冬椿、年暮れむ・・)

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新田川瀬音ひびきて枯芒

寒椿赤々と散り映えにけり

公園に赤々と散る冬椿

地元住み桜井古墳に木の葉散る

津波跡樹々枯れ残り冬芒

天明の碑ここに残りて冬の暮

ふるさとの墓をめぐりて年暮れむ


二本の木の残りて津波跡社のありと冬の日暮れぬ

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光明真言とは空海の密教から来ている、15万偏というのは唱えることである
光明とは太陽のことである

https://onl.la/vGSkdcq

ここに詳しい、ここに信女とあるのは女性である、天明とあるとき女性個人の墓はないからおそらく僧侶の妻だったのだろうか?信女とあれば女性であり信士となれば男である
ただこの墓からはこれくらいしかわからない、でも天明の碑はあることはある、私の家の近くの神社にもあった、でもあまりみかけないのである
もう一つも年号であるが読めない、文とついている、文とつく年号は多い、天明の後の年号だろう

信女、大姉、院大姉と位が上がっていきます

大姉というのはみかける、でも戦後ではただ寺で戒名をつけてもうけるためになった
だから別に金を払えばどんな戒名でもつけられるとなったのである
ただ大姉となれば本来は武家とかの家の出だったのかもしれない、でもそもそも庶民には墓はなかったのである



新田川は浅い川である、だから瀬音がひびくのである、真野川は意外と長い川であり瀬音がひびくともならないのである
上流の方では浅いからひびくが街中の川はひびかないのである
川でいいのはやはり浪江の高瀬川の方だろう、渓谷もあるからあそこを訪ねる人は多かった、ただまだ立ち入り禁止にもなっていたが自転車では行けるようになった

公園に赤々と椿が散っていた、今の時期では冬椿の方がいいかもしれない
冬椿というとき「城下町相馬六万石や冬椿」こんな感じになる
相馬市と原町の雰囲気は全く違っているのである
原町には歴史を感じないのである、原ノ町駅が機関区なり駅前通りができて栄えた
新しい市という感じである、でも相馬市は駅前通りとかはなく城下町としてあった
だから城があったところから街が形成されたのである
田町通りというのは田があったところであり地名化した、この地名は日本では多いのである、そもそも田だった所が多いからそうなった

新田川の下流の方に行き川畑とかの姓の墓があった、確かに新田川か近いからそういう名前になったのか、これは他にもあるからわからない、ただ川の側の畑も多いからそういう地名があり姓になったことは確かである
戦後まもなく食べ物がなく川の中の空地を畑にしていたのである
それは私の家でもそうだったのである、なんとか食料を得るためにみんなそうなったのである

あそこに二本の木があり社があった、津波にも流されたみたいだが古い碑が積まれてあった、そこに天明の碑を見つけた、これはめずらしいと見た、天明の碑はなかなかない
天明というとき相馬藩が飢饉で三分の一の人口が消失したのである
それがどこに行ったかもわからない、その跡地に欠けた土地に越中とかから移民が入ってきた、それが三分の一だから多いのである、そのために真宗系の墓が多い、それは見るとすぐわかる、なみあぶだぶつと記されているからである
天明は一つの時代の区切りである、それは飢饉があり相馬藩が苦しんだからである
今回の震災も津波の被害もそうである、時代の区切りは何か大きな事が起きた時である
戦争があれば戦後と戦前は全く違ったものになったからである
だから本当は年号でも変えるべきだったともなる、戦前の昭和と戦後の昭和はまるで違った世界になったからである

原町でいいのは食事する所があるからいいのである、道の駅の天丼はうまい、あと高見ホテルの食堂のさしみ定食は安くてもお得になるからいい、最近は・・・食堂の牡蠣と大きな海老のテンプラがうまい、いい材料を使ったいるからいい
六号線は行き安いからそこに好みの食堂があると助かるとなる
ただ食堂は必ず飽きてくるから一人暮らしは最低でも自炊するほかないのである
でも料理はめんどうだからしていない、家事をやるだけで手間なのである
全部一人で家事をすることは手間である、だからプログに書いて後は時間がなくなる
それでコメントにも答えていないのである
今年も暮れてゆくが地震の被害は大きかった、まだ本など片づけていない、もともとこの本が片づけるのに苦労しているのである、捨てる訳にもいかないので困るのである
蔵書となると歳になればたまる、それもその人の人生を語ることになる
どんな本を読んできたのかでその人を知るてががりにもなる
だから良くテレビに出て来る人がいる、学者でも他にもいる、すると書斎が写っている
その本を見るとこんな本を読んでいるのかとみるのである

今年もやはり墓地を墓を見て暮れるとなった、墓は確かに死者を語るものだがその情報が少なすぎるのである、名前くらいしわからないからそうなる
そこで郷土史を調べるには物足りないとなる
戒名くらいでもその人のことはわかりにくいとなる、でも天明の碑は古いから注目したのである

津波の傷痕は依然としてある、でもだんだん薄れてはいる、右田にある津波で流され家の跡の庭の石は見物である、記念として残しているのか?
他にも空家になって残された石がある、立派な石の庭がある、それがもったいないとなる家より何か庭の方が価値あるとみる、石には価値がある
石が好きだからそうみるともなる、何か活かす方法がないかとなる
またいつまでも空家がありそれが片づけられないである、六号線の南相馬市立病院の近くのレストランだったところでもそうである
あれはいつになったらかたづけられるのか、何十年とあるからだ、この空家の問題が全国的である、活用されないなら壊す方がいいかもしれない、なぜなら見た感じが嫌なのである、寂れた感じになるからである、だから何らか活かす方法が必要なのである

でも商売としては今は成り立ちにくいだろう、相馬市の中村喫茶店でも閉店になったかたらである、あそこでなるとは思わなかったからである
コロナウィルスの影響もあったと思うがそもそも商売でも今やうまくいかない時代であるだから誰かが食堂でも始めるとならないのである
戦後まもなくだったら食堂でもバラックのうよなものでも繁盛したろう
私の家の店がそうだった、資本金はほとんどかからない、ただ品物を並べたものだったのである、それでも売れたからである、他の零細な商店でも物を置けば売れたのである
今はそんなことにならない、飲食店で成功することは相当に難易度が高いのである
なんでもそうである、だから銀行では金を貸す人がいないとなっているのである




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津波の跡に残された家の跡

津浪に家は流されぬ
残りしは石の庭
重々しくも重なり残りぬ
そのかたへ山茶花の咲き
野は広々と枯れにけり
その花の母のごとしや
その花の妻のごとしや
ここに家族の暮らしてありぬ
またここを訪ねて我が一人
ありし日を偲びけるかな
津浪より11年の歳月は過ぎぬ

2022年12月05日

冬桜、山茶花、残る柿、枯野・・(津波で流された家の庭の石) (隠された社一つが語るもの)


冬桜、山茶花、残る柿、枯野・・(津波で流された家の庭の石)

(隠された社一つが語るもの)



小池の埋もれた社

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天文時代で相馬氏の戦勝記念のものだったのだろう
でも津浪のことは記されていないのである
記録に二行だけしか残されていない
これも不公平ではある



右田の津浪に流された家の跡の石の庭

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何か石にも表情がある




隠されて夕月光る冬桜

みちのくや夕月光り枯野かな

山茶花や家は消えしも残る石

社一つ語るは何や冬の暮

落葉踏み隠さる社一つかな

橲原に立目石あり残る柿


冬桜を相馬市の塩手山の登山口で見た、原町では六号線の・・の農家の広い庭で見た
昨日はすぐ近くの小池でも見た、三カ所で咲いていたから意外だった
おりしも夕月が光っていた、それも良かった
ただ今日は曇って雨がぽつり降ってきて寒い、冬になった
それで石油を買った、冬支度になった

朝右田の方に行くと例の石の庭があった、ここにはいろいろな石が見られる
家は津波で消えても庭は残り石が残ったのである
私は石に興味があるからしげしげと見る、石にもなんらか表情がある
ここは大きな庭でありいい石を使っていたのである
ここに家があるときは見ることもなかったが津波に家が流されてこんな庭があったのかと発見したのである、家にはさほど価値がないのかもしれない、最後に残ったのは石だとなる、他でも空家がありその空家が老朽化しているからさほど価値あるとも見えない
でもやはり立派な石組の庭がありそれが残っていて価値あると見た

小池に鳥居がありここに何かあるのかと小高い丘を登る、道のようだが道とも思えない
こんなところに社があるとかと上った、そこにあったのは相馬氏が戦った戦勝記念の社らしい、板にその由来が記してあった、でもここは誰もお参りしていないだろう
落葉に埋もれて訪ねる者もいないとなる

ただこうして戦国時代であれ相馬氏が誰々と戦ったとかは相馬藩政記に詳しく記載されて残されている
こうして埋もれているにしろ戦争の勝利の記念の社も残されている
でも津波の被害のことはたった二行しか記されていなかった
相馬氏の関心はその時この一帯を治めるための戦争のことだったのである
津浪で700人溺死と記しても社とかは何も残されていないのである
庶民は記録が残せないということがあった

今でも権力がないと記録でも残せない、マスコミが力を持ったのは報道できることであった
テレビで報道するだけで知られるし勝手に報道などできなかった
でもインタ−ネットで庶民でもこうして報道したり記録したりできるのである
プログなどは手間であっても無料で簡単にできるからである
ただ一瞬にして記録でも消えることが不安なのである
400年後に残るかとなるとそれはわからない、石にでも記せば残るとはなる

こういう場所に山津見神社があったりする、相馬市から霊山へ行く道に山津見神社があり南相馬市の鹿島区だと栃窪に山津見神社がある
でも鹿島区にはなぜか綿津見神社はないのである、原町は本当に多い、10以上くらいありここも綿津見神社なのかと見る、結構大きな神社なのである
そして意外とその由来でも語られていないのである、これも不思議だとなる
安曇氏系の海人族がここに開拓に入り残したものなのである

ともかく神社は謎である、でも古代にさかのぼり古いのが多い、ただ天文となればかなり古いとなる、でも神社の由来は古代からのものがあり古いのである
日本がの歴史を知るには神社を知る必要がある、そしてその土地の成り立ちを知るにも神社をたずねて知る必要がある、でも旅だと時間がないから見れないのである
神社は数も多いからわかりにくいのである、それだけの時間の余裕が旅ではないのである近くだって知らない神社が由来がわからないのが多いからである

季語/冬桜(ふゆざくら)を使った俳句 | 俳句季語一覧ナビ (haiku-kigo-ichiran.net)
冬桜というのも味わいがありいいと思った、結構咲いているので鑑賞するといい、場所がわかりにくいが
紹介したがもう散っていたとなる


2022年11月30日

冬の菊が似合うもの(葉牡丹、冬桜、冬薔薇) (磐長姫のことなど)


冬の菊が似合うもの(葉牡丹、冬桜、冬薔薇)

(磐長姫のことなど)

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冬桜農家の古りて石の蔵

世も変わる家新しく冬桜

この家に仕事場あれや冬の菊

細工する仕事やここに冬の菊

同じ道今日も行きにき冬の菊

冬の菊夫に仕え歳古りぬ

墓守る我が一人かな冬の菊

葉牡丹や磐長姫を想うかな


石ここに置いて幾年なじむかな葉牡丹植えて冬の日暮れぬ

冬の日に誰と逢うべし静かなる昔のことを語るもよしかな

冬の薔薇五六輪の蕾見ゆ咲きしを待ちぬ我が庭にあれ


俳句は写生だというとき一見何でもないようなものでもそこに俳句になるもの詩になるものがある
そこは農家なのか畑仕事をしている人がいる、だから納屋みたいなものがあり道具類が置いてある、そこに冬の菊が目立たないように咲いている
冬の菊というとき何か質素な夫に仕える妻のようにも見える
木工の仕事をするものも合っている

葉牡丹は岩長姫に似ている、見映えは良くないが体が丈夫で農作業などができる女性だとなる
庭の石は何かここになじむにも時間がかかる、何でも人でもそうだし時間をかけないと信頼関係は作れないのである、そして老人になるともうそうした時間がないのである
だからかえって死者が親しくなる、死者でも家族だったら長い時間を一緒に暮らしたからである
だからわからないのはら熟年離婚なのである、これも増えている、でも68歳とかで熟年離婚して親しい信頼関係が作れるのか、おそらくその人は元気だから不倫だったのかもしれない、その年でもそういう人は現代ではいる、ともかく元気な人は元気であり老化して弱る病気になる人もいるが今は元気な老人が結構多いのである
何か老人が若返り性欲も復活してそれで夫婦の仲が悪くなったという映画を見たことがある、その人はそういう人かもしれない、だから元気すぎることも困る面がある

人間は近くでも良く見ていないのである、灯台下暗しなのである
いづれにしろやはりそこに何らか暮らしが仕事が生業がないと自然でも活きてこないのである
だから空家が多くなるとき淋しいものとなる、その家は医者としてこの辺では常に話題になる人だった、でもその人のことを語る人もいないのが不思議なのである
それはその人とかかわった人も死んだことにもよるがこれも不思議だとなる
ただその人の残した家がありそこは空家化して庭には紅葉が映えている
でも地震で壊れた部分を屋根瓦など直していないから荒れてくる、一部は屋根瓦から草が伸びている、そしてその家の一人息子も死んだのである、その子供は東京にいるがこの家はただ放置されるだけなのかとなる
これももったいないと思う、ただそうして空家化しているのは原発避難区域だったら空家だらけであり空家の街にもなっている

とにかく誰か住んでくれとなる、でも人が移り住まないのである
小高だったら原町に住んでいる人が多い、浪江の人も住んでいる
この空家問題は大きな問題である、街の中でも空家が目立つのである
それが活かされていないのである、ただ持ち主がいて勝手にはできない
でもそうして放置されている家でも土地でも何かただ迷惑になるだけである
ただすぐ近くの街中の空家が数日かかって壊された、そこは空いた土地になる
そういう時隣の人が利用しやすいのである
土地を買う手に入れる時簡単にできないのはいろいろ事情があるのでできない
でも隣の人だと利用しやすいとなる、私の隣でも空家であり広い庭がある
だから庭を利用したいとなるか持ち主がいて事情があってできないとなる

原町へゆく高平の農家の庭が広く椿と冬桜が咲いていた、石の蔵もある
そこの家は古い、冬桜はいいものだと見た
やはり家でも庭でも人が住まないと活きてこないのである
空家一千万とかなるのも恐ろしいし温泉街が廃墟化したり日本が縮小してゆく時
空家や耕作放棄地が増大している、そのことが大きな問題なのである
全体に縮小寂れていく、その極端なものとして原発事故で町や村自体が廃墟のようになっていることなのである、これは回復できないように思う
一旦あれだけ荒廃するともう回復できないように見える
ただ老人だけが残ってどうしても復興できるように見えない、墓場のようになってゆくのかともみる、外国人でも住んでくれともなるかもしれない、なにかいい方法がないのである

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木花之佐久夜毘売とともに天孫邇邇芸命(ににぎ)の元に嫁ぐが、石長比売は醜かったことから父の元に送り返された。大山津見神はそれを怒り、「石長比売を差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、木花之佐久夜毘売を差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからである」ことを教え、石長比売を送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げた。

『日本書紀』には、妊娠した木花開耶姫を磐長姫が呪ったとも記され、それが人の短命の起源であるとしている。

また『古事記』において大山津見神の娘で、須佐之男命の子の八島士奴美神と結婚する、木花知流比売(このはなちるひめ)は石長比売の別名であるとする説もある。


この神話でも事実に基づいている、今でもそういうことがありうるからである
農家だと磐長姫のような女性を嫁にした方が仕事ができるからいいとなる
でも男性は美人の方を好むからこういう問題が起きたし今でも起きている
ここに大山津見神というのが出て来るがこれは郷土史の方で考察したようになぜか相馬地域に多いし他でも思った以上多いのである


2022年11月26日

南相馬市の海老の宝蔵寺の紅葉(紅葉、冬桜、銀杏、椿、冬あたたか) (冬の日に海老ー八沢浦−磯部ー原釜ー相馬市へ)


南相馬市の海老の宝蔵寺の紅葉(紅葉、冬桜、銀杏、椿、冬あたたか)

(冬の日に海老ー八沢浦−磯部ー原釜ー相馬市へ)



御刀神社(右田)
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海老村の宝蔵寺の紅葉
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冬桜がめずらしい

原釜

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クリック拡大で鴎が大きく見える
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全部クリック拡大すると鮮明に見えます!


古寺に大石重し冬桜

古寺に大石数個紅葉映ゆ

冬桜紅葉の映えて古き寺

黒橋に紅葉の映えて城下町

人も見ず家々静か冬の蝶


黄金色に銀杏かがやく朝の日や椿も赤く映えにけるかな

重なりて色合い深く紅葉かな池に映して石の黙しぬ

八沢浦津浪に消えし家の跡我がたずねて冬の日あわれ

高台に海の見えつつ船の行く磯部の村の冬の朝かな

原釜に鴎の群れのあまたかな冬あたたかに船も帰り来る


右田の御刀神社の銀杏を見た、この銀杏はそれほどのものではなかった
この御刀神社は物騒なものなのである、なぜなら蝦夷征服と関係していたからである
刀というのはここで刀を突きさしたとかあるからだ
これは物部氏だったらしい、海老とエヒであり蝦夷のことなのである
海老には最近海に面する崖のところで古墳が発見されたのである
他に古墳が発見されている古い場所なのである
烏崎村より古いのである、古墳があれば古いとなる、ただ古墳でも埋もれている所がありわからないものがある、海老辺りはわからないのである
確かなことは古墳時代から人が住んでいたのだから古いのである
もともと港であり漁港でもあった、だから魚をとったり貝をとったりとか海に面して生活していたのである

八沢浦では二軒ほど津波で流された家の跡をたずねた、ここには石垣があり結構高いように見えるがあの津浪では軽く越えて流された
何でも恐ろしいのは津波が八沢浦とか海老村とかで渦巻きのようになっていたという
その光景を見たら恐怖である、海老村では海岸に接した高台が避難所に指定されてそこに逃げて30人くらい死んだのである
そこは確かに高いのだが海に面していてその高台まで津浪が来たのである
それで右田の松原のある家の人がここまで逃げてきたのだが九氏いっうを得て助かったのである、何かにつかまって助かったらしい、その経験も恐怖だった
海老は高台だから津波が来ないと思っていた、でも津浪は海とも関係して陸地から見てわからないものだったのである
震災から11年過ぎてもその傷痕はまだ痛々しいのである

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津浪は前にさえぎるものがないと被害が大きくなる

次に磯部の方に行った、磯部でも高台の方は津波の被害がなかった、もともと古磯部というのがあり地名にあり高台に住んでいたらしい、被害が一番大きかった磯部はもともと砂州のような地形だったのである、だからひとたまりもなかった、家が津波で揚げられたとういう、その光景も恐ろしいものだった
まずこんなことは予想もできない、イメージもできないことだった

原釜でも変わり果てた、海に面した低地の家はみんななくなった
でも入江の砂浜には鴎がたくさん群れていた、昨日は晴れてあたたかった
それで平和を感じた、ただ11年過ぎても何か完全に癒されることはない
それだけの大被害だったのである、ただだんだん忘れられてゆくにしろ20年過ぎてもまだ忘れられないともなるのかもしれない、それだけの大被害だったのである

相馬市では黒橋に紅葉が映えていた、相馬市の中村喫茶店は城下町に合っていたが閉店したのは意外だった、これはここだけではない喫茶店は激減しているのだ
喫茶店だけでは営業できないのである、レストランとか食堂だと日常的に通うが喫茶店ではそれがないしただコーヒーとか飲み休むだけでは成り立たない
でもレストランとか食堂と喫茶店は役割が違うのである
どうしてもレストランとかはうるさいし落ち着かない、それで何か本を読んだり書き物したりするのにはいいとなる

だから私は喫茶店が好きなのである、でも喫茶店はもうなくなるとまでなる
成立っているのは車でももっていけるハンバーグ店とかである
相馬市には二軒ほどあり若者とかでにぎわっている、あれが気軽るで値段も安いからいいとなる、これも時代なのである
喫茶店でも高級店にして金持ちでも何かサロン的なものとして利用があるかもしれないがどうしても田舎ではそんな人がまれなのだから成り立たないとなる
そしてイオンがなくなったことの影響も大きい、あそこでは休んでいたからである
食事も気軽にできたからである、中に喫茶店もあったからである

ともかく昨日は天気もいいし気持いい日だった、今日は朝から曇っている






2022年11月24日

冬の蝶(ルリタテハ)が庭に来る―茶室のこと (葉牡丹、冬あざみ、冬薔薇)


冬の蝶(ルリタテハ)が庭に来る―日本文化と茶室のこと

(葉牡丹、冬あざみ、冬薔薇)

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風うなり籠り隠る家冬の蝶

北風や茶室に一人籠もるかな

この道の碑の古りあわれ冬あざみ

この道を今日も行くかな冬あざみ

冬薔薇一輪あわれ茶室かな


茶室への径や待ち屋に落葉かな石に対すや主と逢わむ

北風の唸りて茶室に一人あれ茶碗の古りてその重さかな

土壁の茶室に映る日影かな木の葉の散りて径そ暮れゆく


3月〜12月
成虫は初春頃から秋の終わりか初冬までのかなり長い時期を数回に分けて活動しています

木の根っこ
葉牡丹
庭の石
冬薔薇一輪
唸る北風
一人籠もる家

今日朝窓の外を見たら黒い蝶がいた、めずらしいと見た、結構長くとまっていた
それはルリタテハである、羽寝かきざぎざしているしこれは春に山で見かけるものだったではなぜ冬になって街の中で見たのか不思議だった
でも季節的には初冬まで飛んでいる蝶とある
これは普通は山で春を告げる蝶と見ていたから意外だった

狭い庭でもそこは自然があるから蝶でも鳥でもくる、この前はジョウビタキの冬鳥のメスを見かけた、雄はきれいだがメスはきれいではない、紋様もないのである
なぜルリタテハが飛んできたりするのか、それはこの辺はまだ自然が回りにあるからそうなる、この前はジャコウアゲハも飛んできたからである
とにかく庭があるとやはりそこが自然であり自然のものを呼び込むのである

この庭が日本独特の文化となったことがわかる、茶室があり庭があり茶道が生まれた
それは極めて日本的なものとして自ずと生まれたのである
外国のような荘厳な豪華なものではないが小さな茶室という空間が俳句のようなものでも日本的文化を育んだのである、だからエジプトであれ巨大建築があるのとは大分違った文化なのである

わび、さび、ほそみ、とかなる、何かそれは冬の枯野などにふさわしいのである
茶室だと待ち屋とかあり出合いを演出する、ただそういう文化が生まれたのはやはり時間間隔が違うからである、時間の流れが遅かったからそういう文化が生まれた
いちいちそんなふうにして逢う時間を作ること自体は忙しい現代に作れない、似合わないのである、時間の感覚は時代によって相当違っていたのである
現代はまた情報洪水になり何んでも追われている、無の空間が作りにくいのである
茶室とは老子の言う無用の用の空間になるからである

別に私は茶道のことなどわからないが日本人であれば日本の自然に接していれば自ずとわかるものなのである、それは外国でも同じなのである、なぜ万里の長城があるのかとなる大陸は陸続きなのだから侵入する敵を止めることができない、だからこそ万里長城ができた、ウクライナでもロシアが所有しているクリミア半島を壁で囲むようにするとかいうのもそうである、陸続きになれば戦争になればそうして壁を築いた侵入を防ぐほかないからである、だからヨ−ロッパでも都市は壁で囲まれているのである
日本の都市に壁がないのはもともと陸つづきでないから異民族が侵入していこないからそうなったのである

小さな庭でもそこに自然は調和する、木の根っこがあり石があり葉牡丹を植え冬薔薇が一輪咲いているのはいかにも冬らしい
そして一つ一つの事物が何か語っている、互いに調和して語っているのである
だから庭は一つの自然の空間なのである
いづれにしろ冬は老人にあっている、冬ごもりとなり籠もるのである
私は陰の性格だから人と逢うのはまれにしてこうして一人茶室でも籠っているのが気持いいとなる、でも庭は欠かせない、狭い庭でも蝶でも鳥でも来るからである
ただ今日のルリタテハは意外だったとなる
思わぬ訪問者であり幸運だったとはなる、これはおそらくもっと自然のある場所だと家で自然に接することができる、でもそうなると不便になる
だから適当に便利で自然がある場所がいいのである
ただすべてがいい場所などないのである、回りに嫌な人間もいるし何かと不便であったりいろいろ不満がありそういうものはどこにいてもなくならない
自然はいいが人間は嫌だとしてまた都会に帰る人もいるということである



2022年11月19日

塩手山の登山口に咲いていた冬桜(晩菊、冬の灯、冬の星、残る柿)


塩手山の登山口に咲いていた冬桜(晩菊、冬の灯、冬の星、残る柿)

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ここは家の前の畑である、田から仕事しやすいのである

塩手屋山の麓

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冬桜が二本

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今田の古い道

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安永だから古い

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滝平の滝は紅葉が赤ければ良かった
紅葉は季節が終わっていた

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一つの根に三本の木が生えている

玉野村へゆく宇多川の上流



飯館村の佐須

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ここは何を祀っているのか
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享和と見える

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飯館村の前田

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真野川の隠れた大石



牛のいてこちらを見るや残る柿

晩菊や前畑に仕事老婆かな

冬の日や安永の碑古き道

冬の日や古き碑残り松一本

二本の山里に根付く冬桜

冬桜佐藤氏の末二軒かな

塩手山佐藤家二軒冬の暮

根の一つ三本の木や冬の暮

冬の灯や木戸木(ことぎ)にあわれ三軒ほど

石一つ隠され知りぬ冬の星


古き碑の昔の道に並びつつ松一本や冬の日暮れぬ

土壁の蔵に冬日さし映えにけり残る柿あまたこの家の古りぬ

幽かにも冬の林に鳥の声ひびきてあわれ一軒の家あり

山そそり巌にひびく滝の音秋の朝日の頂にさしぬ

境なれ玉野そあわれ冬の日や若木神社をたずねけるかな

霊山をたずねれば紅葉終わりしと南朝亡ぶ我が帰るかな

辛うじて享和と読める佐須村の碑の古りあわれ冬の日暮れぬ


相馬市の塩手山の方をまわり霊山に行きそれから飯館村の佐須村により草野の方に行った距離的には10時半頃を家を出て回ったがそれほどではなかった
ただ日が早く暮れるので急いだ、でも帰りは真っ暗になっていた
そして残念だったことは紅葉は終わっていた、霊山でも終わっていた
紅葉の期間も短い、たいがいもう散っている
紅葉は山より庭とかに真っ赤になっている、やはり真っ赤だと紅葉らしいとなる

ここで一番の見物は塩手山の登山口に咲いていた冬桜である
これは意外だった、こんな所に咲いているのかと不思議だった
確かに農家の庭に冬桜が咲いていたのを見たことがある、でもあそこは山の方であり
冬桜が咲いているので心にしみるともなる、ただあそこが村という感覚はない
家が少ないからである、今は山里でもそこから街に勤めのために通っている人が多いからだ、現代では本当の山村というのはなくなっているかもしれない
自給自足の山村は消滅しつつあるのかもしれない、限界集落となっているからだ
塩手山には二軒佐藤家がある、その佐藤家は佐藤庄司などがいて義経に使えた武士でありその墓がが医王寺にありそこから移住してきた人の子孫だとなる
佐藤家にもいろいろあるがここの由来はそうなる、磯部に住んでいた佐藤氏はその系統であり鬼越館に移った佐藤氏である

義経が挙兵した頼朝のもとへ駆けつける際に従い、目覚ましい活躍を遂げた佐藤継信・忠信兄弟。しかし、継信は屋島の戦いで、忠信は京都で、それぞれ義経の身代わりになって壮絶な最期を遂げています。この佐藤継信・忠信兄弟の墓をはじめ、佐藤一族の墓が並ぶ医王寺。武蔵坊弁慶の笈(おい)が納められ、松尾芭蕉の句碑も立っています。(福島市飯坂)

こうして福島市でも浜通りでも歴史としてつながっている、身近だと歴史をたどることができる、でも高速道路は確かに早くていいのだが用事があるときはいいのだが旅するには向いていないのである、途中に必ず古跡とかがあるからだ
南相馬市の鹿島区には50人くらいなのか只野の姓がある、これは郡山の多田野村から出た姓なのである、霊山が炎上して逃れた落武者の末裔だったのである

宇多川の形がいい大きな石は工事があり土に埋まっていた、それも残念だった
あの石は博物館とかに置けばいいようにも思えた
それから玉野村近くにまた山ごとソーラーパネルにする工事をしていた
どうしても山は仕事がないからそうなる
特に福島まで中央道が直通したとき前の道は旧道となり車が通らない
だから霊山の紅彩館まで影響したという、途中に寄らなくても行けるとなるからだろう
でもソフト屋は繁盛しているように見えた、あれはうまいから寄る人がいると見えた
旧道はサイクリング道路としては最適である、でもそれでは地域に何かうまみがない
だから店でも食堂でもやめたのである
とにかく車社会というとき車の影響が大きいのである
シャッター通りになったのも車の影響があるからだ