2017年01月15日

冬深む(正常化した自分?)


冬深む(正常化した自分?)

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寒椿雪に散りにき据えし石

平和なり障(さわ)りなくて山眠る

平和なり山の眠りの深きかな

冬深む石黙然と一人かな

冬深む契りを強む森の樹々

何を見む寒星一つ徴しかな

四両の列車明るき冬の夜


凍るごと雪降る庭に一輪の薔薇の咲かむや石の静まる

故郷の老いたる女と親しくも我が家にありて一人なるかな


自分は母が死んで一年とかすぎてようやく正常化したのかもしれない、姉で認知症で苦しみその後も回りは津波だ、原発事故と信じられない異常なことの連続だったのである。
そして常に何かに追いやられていたのである。障りがあったのである。
何かそういうことは人生の中で家族でも誰にでもあることなのだろう。
なぜなら人間は必ず病気になり死ぬからそれが逃れられないから家族でもごたごたするのである。

それはどんな宗教を信じようかカルト宗教団体に入っていようが関係ないのである。
そういう問題から不幸からみんな誰も逃れられないからである。
カルト宗教団体に入ってもいてもそうした不幸になった人は山ほどいるのである。
近くにそういう不幸な人がいて家に住んでいる人はいない
事業が失敗して家がなくなったとかそんな人はめずらしくもないのである。
事業に成功している人の方がまれなのである。

ともかく一人というのはなにかまたこれまで経験しない心境になる
一人も慣れないと淋しいとなる、わかったことは確かに動いて人ごみにまぎれると淋しさもまぎれることがわかった。
それで時々原町に自転車で行くのである。意外と動くということが淋しさをまぎれることになる、大きな家でぽつんと一人でいると淋しさを感じるのである。
動いているとそういうことをあまり感じないのである。
一人は来ているから誰も来ないというわけではない、でも家ががらんとしているのが嫌なのである。

自分で言うのもなんだがここの俳句と短歌はかなり深いものがある。
その深さを読むことがむずかしい、芸術はまず鑑賞すること自体が常にむずかしいのである。だから深く鑑賞できる人はその人は芸術家と同じのように思える
俳句などでも深いものがあっても鑑賞できないのである。
「冬深む契りを強む森の樹々」これは短いから鑑賞できない、別に詩を作っているからだ、それと合わせると鑑賞しやすくなる。
今回庭に咲いた咲こうとしている薔薇は不思議である。凍えるような時に咲くものなのか?
冬薔薇という季語があるから冬に咲く薔薇はある、でもこんなに寒いとき咲くものなのかとなる。
それはまさに自分が一人なのとにている

自分はもともとほとんど人と接しず一人だった。それも何か異常だったのである。
それで介護とかで苦労したのである。社会性がないからそうなった。
でも自分はもともと一人でいるとき精神も安定して平和を感じる
一人でも淋しいとき別に淋しいと感じないときがある。夜はかえって感じないのも不思議である。

今日は本当に寒かった。氷柱が近くで見たのもめずらしいからである。
滅多に氷柱はこの辺では近くでは見ないからである。一部水道が凍結した。
今頃は冬深むの時期である。今年はあたたかったりこんなにもまた寒くなる。
ただ何もわずらわされない平和がある。平和とは結局何もわずらわされないことなのである。
まず自分が病気になったりした平和がないし家族が介護になったりしても平和がないし
また借金などしたら平和がない、もちろんその他で平和がないことはいくらでもある
平和であることが人間はそんなにないということもある
でも自分は30年間くらい平和に暮らしていたのである。確かに家族が平和というわけではないにしろ自分にとってなにもないわずらわされない時が30年間つづいたことは不思議だったとなる、こういうことはまれなことなのだろう。

いづれにしろ冬深む山眠る時である。山眠るというときみちのくが何か合っている。
山眠るというとき高い山ではなく低い山があっている気がする
高い山だと眠るというより冬でも厳しくそそり立つという感じにもなるからだ。
この辺では高い山がない、それが自然としては欠けているからものたりないのである。


タグ:冬深む

2017年01月14日

鹿島駅の重いドアは原ノ町機関区の人が来て直す (今日はホームを雪かきしていたので話できた)


鹿島駅の重いドアは原ノ町機関区の人が来て直す

(今日はホームを雪かきしていたので話できた)

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雪で今日は18分遅れた

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ここで宣伝ができる


鹿島駅の重い扉を直してくれるようだ、原ノ町機関区の人がホームの雪かきにきていて聞いてみたら滑車がなんとか言っていたから重い扉も軽くなるだろう。

これは市役所にも言ったし市の方にもいった。でも実際は原ノ町機関区で管理しているから原ノ町機関区で直すのである。水戸が管理していてもその人に言っても無駄だった。
やはり近くでないとできないことがある

そのJRの人に電車が通ってありがたいものだとみんな感謝していると言った。
今までそんなことを感じなかった、電車賃が高いとか何か文句を言うことが多かった。
でも一番今回復興を感じたのは自分の町では電車が仙台まで通ったことだった。

自分はもともと鉄道が好きで旅したこともあり思い入れがあったこともある
でも鉄道を運営している人々に感謝したことなどない、それは当たり前だと思っていた。でも鉄道がなくなったときバスで難儀した、それから電車に乗って仙台まで行ったとき本当に楽だった。それは五年間も乗らなかったから余計に感じたのである。

人間は何でも家族でも妻でも失ったときそのありがたみがわかる、この辺では津波や原発事故でそういうことが多かったのである。
当たり前にあるものは感謝しない、かえって文句を言うことが多いのである。

電車が走らないのと走るのでは相当に違ったものになる、この辺では見慣れているからだけど何か電車が通らないと僻地のような感覚になる、飯館村などがそうであり電車が通らないから僻地の感覚になる、バスが通ったとしてもバスと電車は全然違ったものなのである。

鉄道でも雪がふれば滑らないように雪かきしたり鉄道を守る、運行する仕事がある。
その仕事をしているのはJRなのである、ただ何か現代はそういう人間が働いて機械が動いているという感覚がなくなっている、鉄道でも自動運転なのかと錯覚するのである。
すると人間に感謝したりしないのである。
でも人間がいなければ機械だけでは運営できない、なにかしら人の手が必要なのである。だから今回の電車を運転しているとか車掌とか鉄道の保守をしている人とかがいて運行していることを自覚した。だから感謝したのである。

まず鉄道が通らないと廃線になるとさびれたものとなる、北海道は半分以上廃線になったしこれからもなる、北海道は採算がとれない、常磐線はまだ採算をとれる線だろう。
仙台との交流もあり学生も通うし坂本山下辺りになると通勤圏にもなっていたからだ
それでも二両の電車が何本か走っている、仙台まで二両でまにあうのかという疑問がある普通は4両が一番多い、八両も走っている、前は八両が多かったのである。
だから二両で仙台まで行くのかと疑問になる、仙台近辺になると乗る人が増えるからである。途中までなのかよくわからない。

いづれにしろ電車が仙台まで通ることがやはり活気がでる、夜でも八両とかの電車が行くと明るい感じになる、前はそれはいつも見ていた光景なのである。
でも今回復興して見ているとき前見ていた感じとは違う。
これが仙台まで通じているということが違っている、相馬市までしか通じないとのとは大きな差だったのである。

2017年01月13日

新年の赤い月を写真に撮る (駅の日常風景がもどった)


新年の赤い月を写真に撮る

(駅の日常風景がもどった)

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夕日さし新年の月赤しかな

新年や外部の人と睦みあう


帰り来る娘を待ちぬ母のあり電車通りて新しき年

何か自然は兆候があるのかもしれない、写真に撮った赤い月もめずらしい
夕日さして赤くなった。月には見えないのである。
今年は月が良く見える、それは何なのか?


睦月(むつき)とは睦み合うということから来た言葉である。正月には人が睦み合う時なのである。正月にはもともとそういう気分があった。人が集まり睦み合う時なのである。
駅で話したのは青森の人だった。青森には仕事がないから来たという、警備の仕事なのか車の整理をしているみたいだ。
大間のマグロを食べてきたと言っていた。何かあまり話しにくい人がいる
その人もそうだったが話が通じないわけではなかった。
まずこの前は長崎の人が来たりと何かこの辺は全国的になる
大間のマグロを食べたというとき一番贅沢だったとは言った

電車が通り日常の風景がもどった。娘が帰ってくるのを母親が待っていた。
仙台から来たらしい、駅は迎えたり見送りしたりする場である。
それが人間的なのである。駅には何か人間的な温かさがある場所なのである。

駅にはこの辺では今いろいろな人が来ている、全国から来ている、それが前とは違っている、前は地元の人しかほとんどいない、地元でもこの前相農で花の栽培などを習う科に入る受験の中学生がいた。そんな科があるのかと興味をもった。自分は花に興味をもっているからだ。

最近はみんなスマホをしているから話しにくい、みんなうつむいてスマホを見ている光景を何か異常にもみえる。受験の中学生もタブレットの漫画を見ていたのである。
スマホは暇つぶしは一番いい、でもその時回りのことが無視される,そこで話することなどなくなる、地元の人と少しでも話すると何か得るものがある場合がある
それがなくなる、ただ旅ではスマホは便利だろう。交通のことがわからないからである。人に聞いても道すら良くわからない場合がある、スマホの方がわかるとなるし案内になる
でもそこでそこにいる生の人間と接しないことは何か大きなものが欠けてくることもある旅でもスマホばかりみていたら辺りのことが記憶に残らないだろう。
風景でも集中しないと記憶に残らないのである。それであとで失敗したとなる
デジタルカメラに撮ることに夢中で風景がかえって心に残らないことすら起きる
なぜなら人間が記憶することと機械が記憶することが違っているからだ。
機械に記憶できるものとできないものがあるからだ。
その場所の雰囲気はカメラで全部記憶できないのである。

ただ今回の月はなかなか見れないし写真にもとれないものだったことは確かである。
カメラは今は近くでも持ち歩かないといいものがとれない
近くでも日々変化しているからである。

2017年01月12日

津波の跡の烏(からす)浜にまだ新年はなかった (五年半過ぎても津波の傷痕は消えない)


津波の跡の烏(からす)浜にまだ新年はなかった

(五年半過ぎても津波の傷痕は消えない)

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樅の木の間より望みぬ冬の海

海暮れて樅の木一本冬の月

烏浜津波の跡や冬の暮   

冬の灯や我が家に帰り石一つ   


烏崎津波の跡に残る墓地なおたずねつつ冬のくれかな

烏浜波うちひびき人をのむ津波の跡や冬の雲垂る

烏浜無情にひびく波の音ただ墓残り冬のくれかな

樅の木の墓地に一本立ちにつつ変わらずあれど家はなしかも

烏崎津波の跡や冬の浪うちひびきつつ暮れにけるかな


烏(からす)浜は烏崎になったけどやはり崎だけではない浜になっていたし人も住んでいたから崎という地名だけでは現せないものがあった。
烏浜は前は東北電力の火力発電がなかったのである。
その時原町と鹿島は砂浜でつながれていた。その時も良く行っていたのである。
火力発電所ができてそういう風景も消えた、あれは景色的にいいものではないと思っていたが今から考えると原発よりは良かったのである。あの中で2000人とか働いているというのは本当なのか?、相当なこの辺での雇用の場所になっているのだ。
東北電力の社宅の団地も鹿島区にあるしまた最近できた広いパークゴルフ場は東北電力の廃棄物処理場の跡にできたのである。

この火力電力が建ったときも烏浜には補償金をもらっていたのである。それで近くの呉服屋が着物を売ってもうけたということは家の人から聞いている。
その時も相当にもらっていたのである。その後は船主など船子は漁業組合に入っていた人は原発で事故前も事故後も補償金をもらっていたのである。
そういうことで墓を見ると立派なものが多いとなるのか?

でも不思議なのは海老でもそうだが墓地が残って家は津波で流されたのである。
だからなんか奇妙な感じになる、墓地だけが墓だけが残って部落が消失するというのはどういうことなのかと思う
海老では本当に墓地だけが高台に残ったから目立つ、ここは隠れるように墓地があったから目立たない、でも墓地だけが残り部落が消失している風景は何なのかとなる
墓地が流されて部落が残っているならいいがそれがないのだ

あの墓地から見晴らしが良くなったのは家がなくなったからだろう。
あそこに立っていると未だに新年を祝う気分になれなかったし現実にそうである。
津波はあまりにも悲惨だったのである。
根こそぎ部落がなくなることが悲惨だったのである。
あそこに野生の咆哮のように冬の浪が打ちつけひびいていた。
まさに自然は無情なのである。ここに死んだ人たちのことなど考慮していないのである。無情もまた自然なのである。自然を呪った海を呪ったというのもわかる
自然には情がないのかとなってしまうのである。

なんか今になるとその波の音が恐ろしいとなる、海はやさしいものではない、自然でもそうである。海はもともと何か恐ろしいものを感じていた。
だからあのように海に面して家々があることが不安にならないかとも思っていた。
海鳴りがいつもひびいているからである。
津波の跡に新年が来るのはいつになるのか?
復興というとき津波の跡でも家が建って人が住めば復興したとなるがここにはない、他でもなくなった。
だから復興したと感じるのはいつになるのか?
それは何十年も先になるのか?ただ墓だけがここにも残っているのである。

2017年01月11日

新春短歌-近辺 (南相馬市のパークゴルフ場は景色がいい)


新春短歌-近辺

(南相馬市のパークゴルフ場は景色がいい)

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正月や森に大きな昼の月

冬の日やゲートボール場に昼の月


去年(こぞ)散りし楓一枚玄関に雨しととふりぬれにけるかな

玄関に新春の光まぶしかな幸あれにしと我が家を守る

新春や松風鳴りぬ錚々と新たな息吹ここに感じぬ

竹青くますぐに伸びて新春や真日輝きつ鳥の羽ばたく

新春やパークゴルフ場開くかな人々集いなごむもよしも

新春やまた活動のひびきかな六号線を我も行くかな

あきらけくきらめきにけり星一つ徴とあれや新年迎ふ


昨日はあたたかいから新春の光を感じた、春の感じの光である。
今日は寒い、玄関は家にとって大事だという、玄関を掃除して整えておけということを言う人がいる。確かに玄関は人が出入りするから福を呼ぶというので大事になる
ただ家事をしているとかたづけることが大変なのである。
未だに片づいていない、空家をかたづけるに十年かかったとか言うのもわかる
今はいろいろなものがありすぎるのである。

今年の新春は何かこれまでとは違った、十年か介護に追われたし余裕がなかった
それで一昨年も母が死んで次の一年も何かそのことで心の整理ができなかった
人間が自分のことでも家族でも介護とか死にかかわることが大変なのである。
何か異常に疲れることなのである。家族でも焼いたり灰にしたり葬式したりそのあとでも墓参りしたりとか何かそれが精神的に疲れるのである。
だから人間が一人でも死ぬということは容易なことではない
それをなんとか乗り切ったという安堵感がある
それで今年は今までと違った新年になったのである。

南相馬市の前の東北電力の廃棄場に大きなパークゴルフ場ができた、あそこは見晴らしがいいのである。だから別にゴルフをしなくても寄ると気持ちがいい、休む場もある。
あの辺に喫茶店みたいながあったら休むのにはいい、喫茶店はやはり場所がいいところにあるといいのである。
あそこは老人が集まるにはいい場所である。隣に小さいが森もある。
なごめる場所になっている。
そこは自分がいつも通る場所にある、川子の坂を上ったところであり鹿島区内にある。
あれは鹿島町だったら財政的に作れなかったかもしれない、とにかく広いからである。
ただ東北電子の土地を無料で提供されたなどはあった。

老人にとっては鹿島区で新しい施設もできたしスーパーも一つ増えたし人口も減らないから津波や原発事故があってもそれほど打撃を受けていない
小高と比べるとその差があまりにも大きかったと今ではなる
小高の人が帰りたくないというとき小高の場合は南相馬市民であり別に南相馬市内なら移り住んでもみな相馬市民であり変わらないのである。
そして小高でも原町の市街が近いから車があれば買物はできる
そういうことがかえって小高に住まないということにもなっているかもしれない。

デイサービスで厚寿園などを利用した。でも母は行くのを嫌がっていた。特に風呂に入るのを嫌がっていたしそれほど利用していいものではなかった。
何が自分もそれで楽したということもそんなになかった。
それより在宅なのだから在宅で家事など少しでも応援してもらえばよかった。
何か介護はそういうことが多いのである。ある人は介護する人に金をやればいいというのもそうである。その人が介護で苦しんでいることを緩和することが施設ばかり作ってできているとはならないのである。
むしろ介護などは人手であり施設ではないとういこともあるからだ。
自分は全くそうした援助は皆無だった、全部一人でせざるをえなかった
そして来た人は自分を借金がどうだとかなんだとか責めるだけだったのである。
強盗も来たり借金の強要があったり弱者と化したらその弱いことにつけこまれるだけだったのである。相手も金で追い詰められていたからそうなった。
人を助けるにはまず余裕がない人はできないのである。

ともかく今年の新年はこれまでとは違って余裕あるものだった。
だから何か昼の月が大きく出ていたのでふさわしかった
自分は30年間ものんびりしたものだったのである。それがまさにあまりにも恵まれた例外的なことだったのである。そんなことがいつまでもつづくとは思えなかったからである。そのカルマがこの十年間の苦しみだったのである。
それが一段落したということである。

今年は世界情勢でも何か不安とか混乱を予想している、でも自分一身上では正月に出た昼の月に象徴されるようにそういうものはない感じがする
そんなに悪いことばかり苦しいことばかりつづいたら身がもたない、生きるのも嫌になってしまうだろう。ただ介護は十年とかそれ以上している人も結構いることが負担なのである。



タグ:昼の月

2017年01月04日

5年半ぶりに開通した常磐線 (駅は人間臭い場所だった−新地駅の記憶(詩)


5年半ぶりに開通した常磐線

(駅は人間臭い場所だった−新地駅の記憶(詩)



明治時代日本に鉄道が導入されたとき、今の「駅」にあたるものも含め、列車が止まる場所はみな停車場と名づけられた。利用者はこれを駅と呼ぶことが多く、鉄道関係者も時に停車場、時に駅と用語を混用した。時とともに駅が優勢になったが、昭和時代まで停車場という言い方は残った。1936年(昭和11年)の鉄道省の職制改正によって、停車場と駅の呼び分けが明確になり、一般の会話から停車場という表現は少なくなっていった。

今でも都道府県道・市町村道の法定路線名には「停車場」という言葉が使われる。例えば、札幌駅から南にのびる道路は、北海道道18号札幌停車場線(通称:札幌駅前通)である

停車場というのは死語になったけどこれは最初はただ車両が止まる場所だった。
駅とは違っていたのだ。なぜそうなったのか?
駅というのがまだそんなに生れなかった時代の名残りなのだろう。
車両が止まるから停車場でありそれは駅とは違っていたのである。
停車場線というのも不思議である。車両が止まる場所へ通じる道路だとなる。
駅には前は引き込み線があり貨物車両が入り荷物を運んでいた。
だから駅前には自転車屋があったという,荷物を運ぶに便利だからである。
その頃車とかは使われていないからである。
縄屋とかあったのも縄で梱包するからである。
とにかく交通の要として鉄道があり駅前が街の玄関口でありにぎわっていたのである。
駅は人が集まる場所であり交差する場だったのである。
水上勉の「停車場有情」という短編小説などがあるのもそうである。


年末は駅では除染の人でも工事関係者でも中国の女性の出稼ぎ者でも故郷に帰る人が多かった。長崎の人もいた。駅はもともとそういう人間模様がある場所だった。
人間臭い場所だったのである。それは何か車社会の道の駅とは違った感覚の場所である。

ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく 啄木

様々の人間模様や駅をたち帰る人送る年のくれかな

去年は結構駅で外から来た人を案内したり話したりした。鹿島駅が無人駅になったから案内する人がいないのも困ることがある。

正月になり二日は今度は常磐線で帰る人がいた、その人は車をもっているから電車には乗らない、それで電車のことがわからなくなっている
今は車社会だから電車のこと鉄道のことをわからなくなっている人が多いのである。
自分は車に乗っていないから車のことがわからないのである。
今どきそんなことがあるのかと思ってしまう。

「電車はいいよ、景色を見れるから、車だと景色は見ていられないから」
「常磐線は今度は高架橋になり海が広く見えるよ,船も見えたよ」

そう言って見送る人がいたが確かに電車だと景色をゆっくり見られる、車だと運転に集中するから景色が見れないのである。そういうことも車に乗らない人は良くわからないのである。
常磐線は五年半ぶりに開通した。今度は高架橋で広く海が見えるし船が行くのも見えた。

東京へ帰れる人を見送りぬ人も老いにし駅舎も古りぬ

常磐線五年ぶりにし開通す仙台に通じひびき高鳴る

ともかく自分にとってこの常磐線の開通は復興を一番感じた、というのは自分は仙台には良く行っていたし旅をしたからである。
その時はあまり電車のありがたみを感じなかった。つまりこの辺では当たり前にあるものが失われた。第一故郷に住めなくなるなどということをイメージもできないものだったのである。
今でもまだ仮設に住んだり移り住んだ人がいるからその心境はどういうものなのかその人にしかわからないだろう。

普通に電車が走る、今までは原町と相馬市の間しか走っていない、なにかそれも不思議だった。でも仙台まで通じるとまるで違ったものを感じた
その電車が走るひびきは仙台へ通じていることなのだ。その相違は大きいのである。
バスは何か疲れるし好きではない、電車は乗っても楽なのである。
津波で流された駅は新地でも山下でもずいぶん立派になった。
ひなびた駅が都会風になったのである。

まずこの辺はいろいろ変わり方は激しいのである。
駅をおりて浪江の人が新しくできた復興住宅に行ったりと除染や工事関係者がまだ外部から入ってきている。
駅というのがその街の玄関だというとき確かにそうである。
駅からその街をまず見るからである。電車の旅でも駅の名前がなぜか心に残っている
駅はバスとは全く違った乗り物なのである。バス停なとには何か今でも原町の深野の
豪蔵とかの地名が記されている、高瀬川を上った葛尾村に磐城落合とか停留所の地名が記されているときやはりそこでその土地のことを記憶に残すからバスでも昔はその土地の字名を記憶に残したのである。

駅はやはり途中下車なのである。

新地駅おりたちあわれ虫の声ここに聞きつつ月の光りぬ

新地駅五分まちつつ交換の電車を待ちぬ秋の夜かな

日立木駅ものさみしかもおりる人一人二人や冬のともしび

前の新地駅では交換のために五分間待っている、新地駅に来るともう相馬であり鹿島も近いとなる。
その時は家族がいて待っている人がいたからなにかほっとする
今になると家族もみんな死んだから一人帰るのが何か淋しいとなる

いづれにしろ鉄道には自分は相当に愛着がある。鉄道マニアになもっている、ただそのマニアでもいろいろある。鉄道だと今はローカル線では観光鉄道になっているところもある津軽鉄道などがそうである。スト-ブ列車でもある、春には乗ったが冬には乗っていない、やはり冬に乗ることで津軽を感じるだろう。
鹿島駅でもストーブがあったという、何かその記憶にともしいが確かにあったのだろう。それはどこでもあったものである。スト-ブがあるということはそこで待ち時間に会話がある。
この待つ時間が旅では記憶に残るのである。今の時代待つということが効率化で失われたのである。結果的に人生の時間が失われていたのである
瀬戸内海でも旅したとき土地の人と船を待っていたことが記憶に残る
瀬戸内海では船が日常の交通手段だから観光ではないから違っている
そこで瀬戸内海の人々の生活を感じるのである。観光では生活を感じにくいのである。
津軽鉄道があったとしても今はどこでも車が主だとすると何か違ったものになる。

今は車社会だというとき道の駅が生活を感じるものになる、でも何か鉄道の駅のように人間味を感じない、鉄道には何か人間味を感じるのである。
人を迎えまた見送ること、電車を待つことそれは人間的なことなのである。
車には何かそういう人間味がないのである。機能面がけが優れていてそこに人間的なものが生れないのである

常磐線が仙台まで通じて仙台に行きやすくなった。それでまた出かけたいとなる。
仙台に出ればまた遠くに行き安いから旅もしやすいとなる。
ただ何度も言うが旅で大事なのは記憶に残る旅をすることなのである。
それが一見非効率的なものになる、電車を待つとか船を待つとかの時間が記憶に残っている、そういう時間が実は大切な時間だったのである。
だから旅をふりかえると不思議なのである。その記憶が宝となっているのである。
それで思い出して短歌なり俳句なり詩にしているのである。
回想するたびというのもつくづく今になると不思議である。
かえって旅しているときより深く見ているのである。それは人生でもそうである。
その時々の経験したときは何かわからないが老人になるとその意味がわかり記憶が宝となるのである。

だから生きるというときどういう体験を積んだかであり必ずしも大金持ちになったとか金では計れない、何か大きな冒険をして九死に一生を得るというごとくそういう経験した人は貴重な経験をしたのである。津波とかがそうだった。そんな経験は滅多にできるものではないからである。


記憶の駅

津波に流される前の新地駅
五分交換のために電車を待つ
ホームにおりると
虫がかすかに鳴いている
月が光り新地の海側の家々
それらはみんな津波で流された
ここはすでに相馬に入り
我が家も近くほっとする
その新地駅は新しくなった
でも自分は前の新地駅に
なお幽霊のように立っている
そんな簡単に人は変わるものではない
人は長く生きていればどこにも愛着が生れる
だから愛着ある場所にいたいのだ
津波で流された後に松の根が残っているように
人の記憶はそう簡単には消えないのだ
私はそこに以前としている
家族もみんな失った自分だが
やはり以前としているように思う
長くあったものはそう簡単には消えない
記憶はその人の中に残っているのだ

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こういうことなんだろ、津波とかで家が流されて人も大勢死んだ、原発事故で避難した人々の気持ちもこういうことがある。
だから老人はどうしても故郷に帰りそこで死にたいという気持ちになるのである。
何でも長くいると愛着が生れるからである。若い人にはその気持ちがわかりにくいのである。老人になると記憶を生きるようになるからだ。
新地駅はまるで変わったものになった。するとそこからこのように過去を回想することはできないのである。
すると過去の記憶と今の記憶の断絶が生れるのである。そういうことは歴史でいくらでもある。東海道などはもうそこに江戸時代を回想することがむずかしくなる
その変化が激しすぎたからである。
中原中他の「桑名駅」では蛙が鳴いていた。桑名というという東海道の宿駅であったがそれがた現代と結びついている。そういうことは今はまれである。
この辺はまず大きな変化に見舞われた、だから経験し得ないことを経験したのである。

2017年01月01日

2017新年短歌十首(津波より五年過ぎた右田浜)


2017新年短歌十首(津波より五年過ぎた右田浜)


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これは人が植えた松ではない、自然に育った松である。
防波堤の中にあったからだ。(海老の浜)

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(右田浜)



新年やまず雀の声聞きぬ

遊ぶ子の声野にひびく初笑

浜通り冬たんぽぽや気候よし

新年や鴎とびきぬ街の空

故郷に底辺生きて冬の草


新年に五六羽飛びぬ白鳥や朝日を受けて年は明けにき

松の根の残り鐘の音ひびくかな海に朝日や年の明けにき

津波より五年のすぎて新しき松の育つや年は明けにき

年明けぬ波穏やかに朝日さし新しき松ここに育ちぬ

かもめ飛び海を目指して少年の走りけるかな年は明けにき

一本松五年もすぎてなお残る年も明けしもあわれ朽ちなむ

右田浜かつて人住む今はしも松の根残り枯芒かな

五年過ぎ津波の跡や寥々と松の根のみぞ昔語りぬ

故郷のあしたを生きむともにしや波おだやかに年は明けにき

花の色心に写る赤き花まさりて写る今日も見ゆかな

今年また花を活かさむ我が家に一人し住むも華やぎにけり

百両の二色の実こそ霊前にささげてよしや我が家をつぎぬ

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海老の浜から右田浜に行ったけど以前として津波の跡は残っている
一本松はすでに枯れている、あの松も消えるが松の根は残っていた。

そして新しい松が結構一本防波堤の中に育っていた。
五年すぎて結構育ったのである。
これが自然の再生の力だとなる。この松は人間で植えたのではなく自然にここに育ったのである。だから貴重に思える。
少年が海に向かって走っていた。それは新しい松が根付いて育つのとにている。
自然もそうだが人間もやはり新しい芽がでて子供は育ってゆく。

ただあの子供は正月で外から来た人だろう。土地の人ではない、正月には外から来る人が多いからだ。
雀の声というときやはり政治でも本当は上だけではない、下々の声を庶民の声を聞くことである。雀は庶民なのである。

年末は駅では除染の人でも工事関係者でも中国の女性の出稼ぎ者でも故郷に帰る人が多かった。長崎の人もいた。駅はもともとそういう人間模様がある場所だった。
人間臭い場所だったのである。それは何か車社会の道の駅とは違った感覚の場所である。

ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく 啄木

様々の人間模様や駅をたち帰る人送る年のくれかな

去年は結構駅で外から来た人を案内したり話したりした。今年はどうなるのか、何か一人だと自分も淋しいから駅にゆく、そこで人と交わるのである。

ともかく右田はま何か以前として寂寥としている、新しい防波堤はほぼ完成した。
でもあそこに人が住んでいたということはだんだん忘れれる、でも五年すぎてもやはり人が住んでいて死んだりしたのだから何かそこに淋しさが以前として残っている
それが松の根でありあの一本松でも何か本当に淋しいのである。
それだけすさまじい津波だったからその跡は簡単には消えないのである。

津波の傷痕は本当に深いと思う、家族を死んだりした人は以前として昨日のように思えるかもしれない、自分も家族は全部失った。その傷痕も深い
だから去年はただ呆然として過ごしてたちまち一年がすぎた
でもなんか一人暮らしになれつつあるのかもしれない、家族が死んだすぐあとはショックが大きいのである。

百両の実を霊前にささげた。自分にとって姉と母のことは死ぬまで忘れない、姉と母は争っていたが自分にとっては二人は自分を支えてくれたし家も支えたのである。
二人があって自分があるのである。
百両の実は何か姉と母にふさわしいので買った。二人は争っていたけど今は争わない、実りとなっているのである。

花を挿すということは花を活かすことである。生け花というとき生きた花のことであり生きた花を常に見ることである。
だから家の中で毎日見ることによって花は心に写る、今の花は花屋の花は冷蔵庫に入れるから枯れやすいという、農家が育てた花は近くの市場で買った花は長持ちしている。
花は生き物であり農作物と同じように新鮮でないとだめなのである。

故郷というとき実際は自然と共に生きまた人と共に生きることなのだろう。
それが原発事故で失われた、散り散りばらばらになってしまった。
それもしかしもともとそういう故郷の自然とともに土と共にという生き方が喪失したためかもしれないと書いてきた。
農業中心の社会から工業中心の社会になったとき故郷に自然と共に生きるとか人とともに生きるとかが喪失していたのかもしれない。

それが極端化すると親に農業だけが継ぐなとなぐられたと語る人がいた。その人は原発で主に働いたのである。そんな時代だから故郷を意識することが弱くなっていたのである。啄木が故郷を望郷したというのはまた別な状態から生まれたのである。
みんな故郷がいいなど思っていない、若いときは嫌って外に出たいのである。
故郷はあまりにも平凡に見えるからである。
故郷が別に理想郷でもなんでもない、そこはやはり醜い人が住むし争いもある。
自分もひどい目にあったから故郷は苦い場所にもなっているのである。
一茶はそれで故郷は茨しかないものとなっていた。それもまた故郷なのである。

故郷のあしたを生きむともにしや波おだやかに年は明けにき

今年の海は波は穏やかだった、昨日も地震があったり地震がつづいている。これはまだ余震なのだろうか?
今年は一体どういう年になるのか?自分はいい方向に向かっている、なぜなら介護が終わったし気力も回復しつつある。だから余裕がでてきている。
ただ自分を支えるものは自分しかいない、こが以前として苦しいとなる
それでもやはりこの土地に生きるかぎり共に生きることになるのである。
都会だったらあまりその土地のことを意識しないのである。
郷土というときやはり土の上に成るものなのである。その土が放射能で汚されたことが最大の被害だったのである。


今年もフログがかきつづけます、去年の12月は50タイトルを書いたから最高記録だった。、それだけ余裕が生まれてきたのである。

では皆様の良いおとしを祈ります、今年もフログをかきつづけますのでよろしくお願いします
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新春2017年(春の城俳句十句)


新春2017年(春の城俳句十句)

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春日さし福岡城の跡たずぬ

福山城天守へのぼる花盛り

花冷えや蔵之助の家赤穂城

姫路城天守の高く春の空

春夕陽船の往来明石城

花曇り15万石の松山城

春の海望み船入る今治城

船の入る高松城下春の暮

夕日映え花散り尽きじ大坂城

花吹雪一代の栄華大坂城

花盛り小田原城の栄かな

みちのくや春の夕日に小峰城

安達太良の残雪映えて二本松城

二本松城井戸の深しも落椿

燕来る流れのはやみ青葉城

門古りて枝垂桜や弘前城




和歌山城石段上り朝の菊

金の鯱夏の陽ざしや名古屋城

実り終え近江平野や彦根城

岩手山紅葉に映ゆや盛岡城

井戸多し熊本城や秋深む

熊本城弾痕残す秋深む

金沢城路にちりしく薄紅葉

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日本はやはり城である。城のあるところが歴史的中心になる。城もたずねたけど日本は城が多いから全部はたずねていない、でもほぼたずねている。
それぞれ徴がある、ともかく城から歴史をみるのが一番わかりやすい

今年の自分の生命曲線としては十年介護で精神的に相当に消耗した。
去年一年も何か呆然としているうちにすぎた。
そして母の一周忌もすぎた。
自分にとってこの十年間は修羅場だった。自分の家族が死んだということで気がぬけたようにもなった。
ただ生命曲線としては気力も回復してきたしこれからもしてゆく
だからまた旅に出るかもしれない、それもあまり遠くには行けないだろう。

ともかく人間はいつか旅すらできなくなる、だから死ぬ前にでもやれることはなんでもしていたほうがいいとなる。要するになんであれなんの理由があれやりたいことをやった方が勝ちなのだ。人生は誰のためのものでもない、国のためでも会社のためでもない、自分のためのものなのである。自分の人生を充実するためのものである。
それが最後になってみれわかる、社会でも会社でも国に尽くすためでもない、自分のために生きるのである。結果的には国や社会に尽くすことになっても自分のために生きるのが人生である。

人間はどんな人生を歩んでも後悔する、なぜなら時間は限られていて時間はたちまち尽きるからである。
だからやるべきときにやらないと遂になにもやらずに終わることになる
要するに何もしなくて終わるよりも失敗でも何でも何かを思い切って行動した方が得だったとなるのである。

旅をするというときも何か車だとか電車もいいが自転車だとなんとか醍醐味がでてくる。でもこれもだんだん疲れてできなくなる、でも今年は気力も回復していているからなんとかできるかもしれない。


今年もいろいろと書きますのでよろしくお願いします

2016年12月28日

冬椿(石とかの話をする) 新しく広いパーク ゴルフ場ができた


冬椿(石とかの話をする)


新しく広いパーク ゴルフ場ができた

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新しくできたパークゴルフ場

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パノラマ写真





石に映ゆ今日もここに冬椿

朝日さし散りて赤しも冬椿

大根のむきだしにして風寒し 

老人のパークゴルフ場に冬の雲

広々とパークゴルフ場冬の山


一輪の冬の薔薇咲く誰か住む復興住宅に落ち着くらしも


その人は小高の人だけど石に興味をもっているという、何でも橲原(じさばら)になんとか石というのがあり貴重だったという。津島石というのもありその土地の名で名づけられのが多い、小高の人で庭師が教えてくれた。ともかくあの人は何でもできたから驚いた。
あの人も小高に帰らない,ともかく石とかも貴重である。


石は硬度が大事だという、石の硬さがあるのかとなるとある、一番堅いのはダイヤモンドである。ダイヤモンドでひっかくと必ず傷ができる、それはダイヤモンドの方が硬いからである。石と石とそれを試すとどっちが硬いかわかる、硬い方が傷つけることができるからだ。ギリシャ語でダイヤモンドが征服されざるというのは一番硬いからである。


紀元前600年頃: マグネット”Magnet”の名前の由来と磁鉄鉱
ギリシアのマグネシア地方 Magnesia に天然の磁鉄鉱 Magnetite = Loadstone が産出し、この磁鉄鉱が羊飼いの鉄の杖や、他の鉄製品を引きつけたりしたので、地名にちなんで“マグネット Magnet”といわれるようになったとされています。

ダイヤモンド

鉱物名 ダイヤモンド
日本名 金剛石
語源 ギリシャ語のアマダス(征服されざる)


トルコ石は、トルコから産出されるトルコ石というわけではない。ペルシャで産出された石がトルコを経由してヨーロッパに運ばれたことから、そう呼ばれている。トルコ石ブルーと呼ばれる色は、鉄と銅による発色で、鉄分が多ければ青色に、銅が多ければ緑色になる。
現在では産出量が減ってしまっているので、本物を見ることはほとんどない。

新潟県糸魚川市付近

このあたりは、ヒスイ海岸とも言われ、毎日多くの人がヒスイ探しに訪れる。最近では、無色のコランダムや、青いコランダムが発見されている。糸魚川市のフォッサマグナミュージアムで詳しい説明を受けることができる。川でも採取できるが、一部地域が天然記念物に指定されているので、海岸での採取が望ましい。



面白いのはトルコ石がトルコでとれたものではなかった。、経由地であったがトルコ石になった。有田焼が伊万里の港から輸出されたから外国では伊万里焼になっていたのと同じである。

あそこは新しくできた家だけど垣根があり石があっていい庭である。外から鑑賞するのにいいのである。あそこはシシドスーパーができて毎日買物で通るのである。
何かこの辺は本当に常に変わっているのである。
シシドスーパーの隣に復興住宅ができた、そこにもすでに人が入っている、主に浪江の人である。  

大根が土からむきだしになっている、それを見ると何か売られている大根とは違う感じをもつ、大地に育っている大根なのである。そこが都会と田舎の相違である。
大根が土からむきだしになっている、それがまさしく土から育っていることを示しているのである。風が寒いというとき何か季節を感じるのである。

それから今日は東北電力の処理場だったところが広いパークゴルフ場になっていたのは驚いた。あんなに広いパークゴルフ場はこの辺では見たことがない、相馬市にはあれより広い所があるというが見たことがない、松川浦はあるがあれよりここはずっと広い感じた
あそこだったらのびのびとゴルフができる
あのゴルフは老人向きで簡単にできる、ゴルフのクラブは50円とかで貸し出ししている
500円だすと利用できる。パークゴルフは普通はクラブに入ってしている。
万葉クラブというのがあり120人参加していた。それは鹿島区になるからそれだけいたということになる
パークゴルフは老人がしている、それくらいいても老人が゛多いのだから不思議ではない。

あそこにあると暇な老人が集まるのにはいい、集会所もあり気持ちいい所になった。
老人は暇な人が多いのだ。それでカラオケクラブは盛況である。
パークゴルフはかなりの運動にもなるからいい。
自分はやる気はない、自分は自転車が好きであり自転車がのれる公園があるといいと思うともかくあいういうものもできたのも東北電力があって助力があってできたとなるのか?
広い土地だけど処理場であったからだ。
とにかく今の世の中高齢化であり老人が多いからあういうものも必要になる
この辺は特に老人がまた増えているのである。若い人が外に出て老人が増えたのである。浪江の人などが来てもその人たちも老人が多いのである。
パークゴルフで活気がでても市自体が活気がでるとはならないだろう。
ただ老人にとってはいいものになる

2016年12月25日

南北朝の戦いで小高城陥落に残された短歌二首 (その心境は自分と同じだった)


南北朝の戦いで小高城陥落に残された短歌二首


(その心境は自分と同じだった)


相馬光胤(そうま・みつたね) ?〜1336

相馬氏第6代当主・相馬重胤の二男。相馬親胤の弟。
建武2年(1335)11月、父・重胤が建武政権に叛いた足利尊氏に与することを決めた際に、下総国相馬郡栗野村や陸奥国行方郡耳谷村などを譲渡され、父や兄・親胤と共に鎌倉に参じた。
同年12月に尊氏が新田義貞軍を破って京都に進撃するに際しては兄の親胤が尊氏に従軍、光胤は父と共に鎌倉に残って守衛にあたったが、のちに陸奥国に帰国、建武3年(1336)2月18日には父より陸奥国行方郡小高に築城して足利氏に味方することを命じられている。
3月にはこの指示に従って一族を小高城に結集させて南朝勢力と戦い、その功績で翌4月には重胤に宛てて尊氏方の奥州総大将・斯波家長より所領を預け置かれている。
しかし南朝方の鎮守府大将軍・北畠顕家が陸奥国に下向してくることを知ると討死を覚悟し、5月20日付で消息不明となっていた親胤の子である松鶴丸(のちの相馬胤頼)を養子として栗野村・耳谷村・小高村などの所領を譲ったうえで南朝軍との戦いに臨んだが、5月24日に小高城を落とされて斬られた。

相馬の運命今日限りとして防戦したが遂に保つことができず
光りたねをはじめ一族九七人が侍939人、その他多数のものが討ち死にした。
うかう松鶴丸は当時13歳は母と共に小高の西、釘野山の麓の農家の宅にかくれ山野に辛苦をなめたものの、良くその身を全うすることができた

中秋にあたり松鶴丸が一族譜代の墓に詣でて従者に和歌二首をたむけさせた


去年の今日別れし人の墓に来てみのりを問えば涙こぼるる

我一人残るこの世の憂きづまいおもうがままに後世は問われず

去年(こぞ)今年

あわただしく古い年が去り、駆け足で新しい年がやってきた。
一夜明ければもう新年。昨日は去年なのに、今日はもう新年。

南北朝の戦いはわけわからなくなる、結局人間の戦いでも紛争でも事件や事故でも複雑なのである。なぜそうなったのか?その原因もいろいろなのである。
シリアを見ればわかる、わけわからなくなる。
それはこの辺で起きた原発避難者とかの補償金での対立もそうだった。
津波の被害者も混じったりして複雑だったのである。
相馬は北朝であり南朝が攻めてきたとき小高城を死守したが被害が大きかった。
そこでこの歌が残された。

今なぜこの短歌に注目したかというと自分もこれと同じような経験をしたからである。
これは津波の被害者とか原発避難民とかも経験したことである。
この苦難は生きる死ぬかの苦難だったからまた違っている
ただこの心境は自分の今にあてはまっている

介護十年で苦しみ続けてきた。津波とか原発は直接自分は被害は受けていないがそれでもこの辺は混乱した。
ともかく辛かったのは自分一人で対応しなけれはならなかったことであり自分の所に来た人は助けるためではない、金がほしいだけでありかえって弱者化したから攻めてきたのである。弱者は攻め安いのである。そのことは延々と書いてきた。
原発避難民を批判するときその時の経験からそうなっているのだ。
あのとき避難民でもパチンコ屋通いであり遊んでいたと思うからである。
自分は孤立無援で一人しのいだ、だから我ながら良く耐えたなと思う

去年の今日別れし人の墓に来てみのりを問えば涙こぼるる

この人も相当な苦難を経験した。別れし人とは死んだ人である。
自分も家族は全部死んだから同じ心境になる
そしてなんとかこの人は生き残ったというとき自分もつくづく耐え忍んだなと思う

実りと問えば・・・とは何なのか?

その戦乱生き抜いて何か実りがあったのか、その実りとは何かわからない、自分の場合ともかく一人耐えぬいたということだった。耐えたことが勝利だったとも言える
人間はこうした苦難を減ると精神的に成長することがある。
だからこの人の心境と自分の心境が同じなのである。
そのあとは一人でも気持ち的に楽になったということである。
自分は十年間苦しかった。原発避難民よりも苦しかったと思う
だからこそ原発避難民を責めたのである。
病気のときも全く同情されず責められて一人奮闘するほかなかったからである。
それに比べたら原発避難民は同情されたとかいろいろ恵まれたと思うからこそ批判になったのである。

ただ小高城陥落というとき小高の街が原発事故で消失する危機になっているのとはにている。
小高の人でも離散したからである。そして全国に避難民は散った、最近は南相馬市の復興住宅に今度は浪江の人たちが主に移住してくる
何か戦乱状態とこの辺はにているのである。

ともかく人間は他人の苦しみはわからない、それぞれ違った苦しみになるからだ。
原発避難民でもその人にすれば苦しかったともなるしわからない。
でも結局自分が一番苦しかったと思うのが人間なのである。
それは他人の苦しみがわからないからそうなっているのである。

2016年12月23日

常磐線(仙台ー原ノ町間-強風のために運休)



常磐線(仙台ー原ノ町間-強風のために運休)


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この電子掲示板が見やすいしわかりやすい、無人駅でもこれがあるとわかりやすい

赤い字は運休である。


鹿島駅にまたよったら飯館の方を回ってきた青年がいて仙台から東京に帰れないと困っていた。地元の人も困っていた。その若者は原町まで歩いて行った。
いろいろ教えてやったがありがとうとその青年は言わなかった。
年配の人はいろいろ教えるとありがとうと言う人がいる
そんなこといちいちこだわるわけではないが前にそういうことがあったので若者は違うのかと思った。

第一自分にしても道聞いたりしてありがとうなどあまり言わない、店でも言わない
有名な学者がタクシーに乗ってもありがとうという、それは金を払っているからありがとうと言われてもこちらからありがとうとは言わない、
でも今回は善意でしていたボランティアだった。
だから確かに普通だったらありがとうと言うのかもしれない
年配の人と若者は違っている

なんか最近は毎日鹿島駅に行っている、気晴らしということもある。
今は無人駅であり案内人がいない、それでボランティアの案内人みたいなことをしているそれを最初は意識していなかったがだんだんそうしているうち意識するようになった。
まだこの辺は外部からくる人がいるからそういう人と話して案内する

今日は強風で運休というとき新地から浜吉田とか津波の被害にあったところが高架橋になり風の影響を受けたのかと思った。
ただ新潟の糸魚川で大火事があったように強風の影響だった。
糸魚川で記憶しているのは松本から長い塩の道の終点の街だった。
街道の宿場町ということで古い家が多くあれだけの被害になった。

ともかく今日は強風の一日だった。気温も冬とは思えないあたたかさであった。


年の暮短歌三十首 (仙台から相馬市-鹿島-原町-小高へと)


年の暮短歌三十首

(仙台から相馬市-鹿島-原町-小高へと)

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(仙台まで)


仙台に通いし電車そのひびき高鳴りつつ年も終えなむ

五年ぶり電車通りて仙台に古本買いぬ年のくれかな

仙台の長町におりて新しき通りに落葉電車通じぬ

高架橋電車は走りぬ冬の海広々と見えて船行くを見ゆ

復興の電車通りて海よりそ満月昇りて光りけるかな

日立木駅下りる人あれ冬の月寒々として光りけるかな

鹿島駅こうこうとして冬の月光りて我が一人おりにけるかな

(仮設)

仮設の食堂に通いて二年やなじみにけるや年のくれかな

仮設住む人もともしき冬の灯ややがて消えなむ名残りおしみぬ

(飯館)

飯館は雪になるらし寒しかなかしこ住む人ここに思いぬ 

飯館の佐須は遠しも乳神の碑のありあわれ年のくれかな

飯館の比曽は遠しも一度のみ行きしを覚ゆ年は暮れなむ

(相馬市)

相馬市の街の灯あわれ心にしみカップを買いて冬の夜帰りぬ

五本松また通りにつ冬の夜や我が帰りゆく二本は枯れぬ


(原町)

原町のモスバーガーにそまたよりぬ外は北風汁粉の味かな

原町の街中通り農家かな畑に菜を育てて冬のくれかな

蔵ありて井形紋ありこの家の昔は農家は冬の日暮れぬ

この家の焼けしことありその形見馬頭観世音冬の日暮れぬ

紙漉きの家にしあれと石神や昔思いて冬の夜ふけぬ



(小高)

小高にそ電車はつきぬ小屋木へと行く人あれや秋の日暮れぬ

鹿島にて話す老人今は住む小高にあれや冬の灯ともりぬ 

小高駅おりたちあわれ冬の灯ともりわずかや誰か住みなむ


(浪江ー双葉)

浪江には電車通らじ淋しかなその闇深く冬の夜ふけぬ

双葉町遠くなりにき我が父の酒屋に働く場なりしかな


(鹿島)


庭の石見つつ小高の老人と話すことあり年のくれかな

我が家族争いつつも家族なりその日の長くも今はなしかも

ふるさとは何にしあれや街に人村に景色思いよすところ

広き家に老いても住めぬ女の来て我が家にあわれ年もくれなむ

寺内にホトケッポありはふり場や冬の月光り墓の埋もれぬ

しんしんとして冷える夜こそ一人住む同じ町の人思うものなれ

冬の夜や我が家に一人暖をとり昔偲びつ老いを楽しむ



鉄道の旅は長いから何か線路は心をつないでる感じになる、バスにはそういう感じはしないのである。それで北海道の稚内へゆく線路の詩を書いた。
本当に今回仙台まで電車が通じて仙台まで心が通じたと感じたのである。
これも不思議な経験だった。鉄道は自分にとって特別なものだった。鉄道の旅が長いからである。そこに愛着が生れたのである。

愛着というときそもそも故郷は何かとかこの辺は原発事故で避難したりして問われたのである。
故郷もなにかその土地に愛着を抱く場所である。それは親の代から先祖からもつづく愛着をいだく場所なのである。
だから故郷を離れたとき啄木はあれほど望郷となり短歌を残した。
何か自分も今になり啄木調の短歌が次々にできるのである。
詩も我ながらいいものが作れたなと感じることが多い、それも不思議な経験なのである。
人間は本当は死ぬまで不思議な経験をすることなのである。死の瞬間までそうである。
その経験は老人なるとさらに深まる、まずあらゆることに理解が深まるのである。
芸術の分野では年取るとかえってその芸は熟達するし理解が深まるのである。
今までは何か自分はいろいろなことを理解していなかったし俳句短歌でもいいものが作れなかった、詩でもそうである。

でも今は泉の水がこんこんと湧くように無理しなくても作れるのである。これも不思議な経験なのである。だから自分は老後は暇にならない、常にこんこんと泉湧くように創作できるし理解が深まるから評論なども書ける
本などもすぐに理解できる、どれがいい詩なのかもすぐわかるのである。
今まではなかなか理解することがむずかしかったのである。

ふるさとというとき小高の人などいろいろ言ってきたがそれはやはり同じ南相馬市民とかなり家族のようになるからである。
自分の家族は争いつづけてきて遂に死んだけどやはり家族だったと同じである。
ただその範囲としては双葉までであり大熊となるとなじみがなくなる
双葉では自分の父親が酒屋で働いていたからである。

飯館村はやはり相馬藩内であり何度も行っているし高い峠があるが一つに結ばれて地形的アイディンティティをもつ場である。歴史的には塩の道でつながっていた。
佐須となると飯館の中心地の草野からまたばずれている。
飯館村というと広いから草野から離れるとなにかさらに辺鄙な人も行かないような所に感じるのである。

相馬藩内でもいろいろ特徴がある。こういうことは旅しただけではわかりにくい、人はその場所に住んでみないと根本的にはわからないとういことがある。
そして故郷とはその人であれ街であれ村であれ景色であれ歴史であれ先祖であれ死者であれ愛着をもつ場所である。

人とはあまり接していないがやはり多少接した人のことも愛着がでてくるということである。場所と人はまた結びつくのである。
小高でも小屋木に住んでいるとなると何かその地名がひなびていて印象に残ったのであるただ仮設も来年の三月とかでなくなる、でも六年近くあったのだからこれも名残惜しいとも今ではなる
仮設の食堂にも二年間ぐらい通ったのである。これも結構長いなと思った。それで女性の店主と親しくなったとかある

いづれにしろこの十年間は自分にとって激変の時だった。その間に姉も母も家族はみんな死んで自分一人だけが残されたのである。その変化もあまりにも激しかったのである。
しかしなんとか耐えてやってきたとつくづく思う

人はいろいろいるが他人のことはなかなか理解しにくい、その女性はもう65すぎても狭い市営住宅すまいである。すると一生広い家に住んだことがないとなる
広い家に住んでいる人はそれがわからないのである。
仮設の狭い所に住んだ人はそれを経験したことになる、すると狭い所に住む人の気持ちもわかるということにもなったのである。

ともかくこの十年の歳月は本当に激変であり苦しかった。でもなんとか耐えた。
そして今年ももう終わる、仙台まで電車が開通したことは本当に復興だった。





2016年12月15日

五年六カ月ぶりに仙台まで電車で行く (バスで行くのとは全く違った感覚だった)


五年六カ月ぶりに仙台まで電車で行く

(バスで行くのとは全く違った感覚だった)


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クリック拡大  端に船が見える

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新しい駅、都会風である

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亘理の城が見える

長町でおりる


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定禅寺通りの喫茶店

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なぜか三本の木の絵が





新地駅沖に船見え冬の海

沖を行く船の遅しも冬の海

海見えて駅新しき師走かな

松一本電車に見ゆや枯野かな

長町の通り新しはや落葉

復興の電車に帰る冬満月


船一艘沖に見えつつ冬の海復興の電車高架橋行く

三本の欅の枯木見えにつつ定禅寺通りの喫茶店かな

仙台の通りを行きて骨董店しげじけと見て冬のくれかな

仙台の通りを行きて街灯や雪の舞いきて夕暮るるかも

仙台の通り歩み人ごみにまじりて帰る師走なるかな

五年ぶり電車にのりて年月のいつしかすぎて師走なりしも

なお生きて電車にのりて仙台に行く老人や年のくれかな

我を待つ人とてなしも冬の灯を我が家に帰りともしけるかな


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なんか今日仙台まで電車で行ったことが不思議だった。バスよりずっと楽だし仙台を身近に感じた。
行くとき自分よりふけた老人がやはり乗ってみたいと仙台まで乗った。
何か自分は津波とか原発だけではない、一〇年間介護して近くにもゆっくりでかけられない、旅もできなかった。だから本当にも旅ができないのかと思った。
仙台に行くのもこれで終わりなのかとさえ思うこともあった。
なぜなら本当はまだ長い時間がかかったかもしれないからだ。
80才くらいになったら本当に乗れないと思う人もいた、それだけ五年六ケ月となると長いのである。
人間は本当にこれが最後だなとなんでもつくづく思うようになる。
そのことが老人と若い人との大きな差なのである。
何にしろこれが最後なのかと感じてしまうのである。

車窓からの景色はまるっきり変わった、海が広く見えていた。一艘の船も見えた。
高架橋だから振動が少ないとか踏み切りがないとか今までは違っている
多少早くもなっているのかもしれない、時間は一時間二十分だからたいして変わりないみたいだ。
でもバスと較べると本当に楽だし気持ち的にも楽である。仙台がずっと近くなった感じである。それは結局五年六カ月も電車に乗っていないからである。
何か電車のありがたみを感じた一日だった。
北海道辺りだとこん津波が来たら復興はできない、乗る人が少ないから復興はできない。ここは少なくなってもまだまだ乗る人が多い、山下とか坂本でも仙台の通勤圏内になからだ。今日は結構乗っていたみたいだ。

今日は長町でおりた、ここも変わっていた、大きな家具店ができて高いマンションができて新しい広い通りができていた。これも何か不思議だった。すでに落葉の道となっていたそこから地下鉄で勾当台公園に出て定禅寺通りの喫茶店に入った。
あそこから三本の欅の枯木が見えて落ち着く、壁にその三本の樹の抽象画が飾ってあったのも不思議である。あの場所にふさわしいとなる

仙台では定禅寺通りの欅の木を喫茶店から見ていた。あそこは落ち着く場所である。
それも何か不思議である。ええ、まだ自分はここにまだいるのかというふうに感じたのである。
そういう感覚をもったのは介護十年とか津波原発とか大変化にさらされたからである。
家族二人を失ったことも自分にとって本当に辛い大きなことだった。
人間はこういう大変化になると感覚的に変わってしまう。
戦争など経験した人もそうだろう。まだ生きているんだなとかなってしまう。
例えば津波で流されて助かったような人もまだ生きていたなとか不思議な感覚になるだろう。そういう経験をした人がこの辺には多いのである。

骨董店などをのぞいたがいいものがあった、買いたいなと思ったが今回はやめた、それから古本屋に行き古い詩集などを買った。仙台にはずいぶん通った。それは二〇年前とかは本を買うためだった。まず専門的な本は仙台で買う他ない、でも仙台でも実際は本は相当にたりなかった。それで知識的には田舎は相当にハンディがあったのである。
本がなければ勉強しようがないからだ。インターネットもないのだから田舎はそれでハンディが大きかったのである。ネットで買えるようになったときなぜこんなに本があるのかと本当に驚いたのである。それでまた本の蒐集をはじめたのである。
何か専門的に知るには量を集めないとできないことがわかったからだ。
詩集を今では集めているのである。詩集はなかなか集められない、どこにあるのか良く未だにわからないからである。
仙台にはそうしたなかなかないものがまだあったりする

それから骨董品を二軒ばかり見て歩いた、好みのものがあったが今回は買わなかった。
やはりじかに見れるのかがいい、さわれるのがいい、ネットでは茶碗でも買ったが触ったり大きさなどがわからないのである。
確かに今までバスでも来ていたが今回はまるで違った感じを受けた。
来るにも帰るにも余裕があった。この感覚は本当に失っていたのである。
なぜならバスになると余裕がないし疲れるのである。
別に電車に乗れないということがなければこんな感覚にはならなかった。
五年六カ月も電車に乗れないことがそういう感覚にしたのである。
これは故郷を離れて仮設に五年住んだとかこの辺では変則的な生活になってこういう当り前のことが実は恵まれたことだと意識したのである。

帰りは地平線に大きな月がでていた。冬の満月だった。何か復興の電車が通るにはふさわしかった。
ただ帰っても待っている人もいないので淋しいとなる。なんか一人暮らしというのはこれもまたはじめての経験なのである。
これも経験しない人はにはそうならない人にはわからないということがある。
どうせ家に帰っても家族が待ってもないなとしたら自分の帰ってゆくべきところはどこなのか?
家があっても家族がいなかったら家なのかということになるのである。
まさに根なし草のようになってしまうのである。
ともかくここ十年は一身上でも次々に変化に見舞われたのである。
そのうちにまた年とったのである、確かにポーの大渦にのみこまれて急激に老いたともなる。人生にはこういうことがあるのだと思う
何か荒波にもまれて漂流している感じである。実際に津波では本当に波にさらわれて急死に一生を得た人もいたからである。

ともかく復興の大きな節目となったのが今回の仙台までの開通である。
バスは電車では全く感覚的に違うのである。電車がなくなることはそれだけ痛手が大きいことを実感したのである。

2016年12月12日

今日は母の命日 (母の死顔は相当にインターネット見られている)


今日は母の命日


(母の死顔は相当にインターネット見られている)

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忙しく母の命日師走かな

我が家に母の命日冬紅葉

故郷に枯菊あわれ今日も見る


忙しく師走に死にぬ母なりきその一生にふさわしきかな


今日は母の命日だけど何もしない、人も呼ばない、そういう余裕がまだない、花だけ買って飾った、そして墓を見たら死んだ日が二月十二日なっていた。
それは生まれた日だった。石に刻んだからといってまちがいないということもない
人間のしていることには必ずミスがある。

確かに石屋には12月12日としていたはずなのである。これもどっちがミスなのかわからない、良くみていないのが失敗だった、人間は一人だといろんなことでうまくいかなくなる家族がいれば何人か二人でもこ確かめることができるからである。
だから一人というのはつくづく危険である
なんらか共同で暮らしていればこういうことにはなりにくいのである。
特に老人は一人暮らしは良くない、時代的に最新のことがわからなくなる場合があるからだ。

何か死者とか墓とかが自分のテーマにもなった。
兄の墓の中を見たら骨壺にいれたはずなのがその骨壺もなくなっていた。
木の箱だったから230年もたつと跡形もなくなったのか、骨壺は陶器だったろう。
でもなにもなくなっていた、だからその骨を娘にもっていけといってもできなくなっていたのである。
娘はそもそも事情があってもってゆくつもりもなかったのである。
兄の墓と自分の家の墓は事情があって別になっている。
でも今や供養するのは自分一人しかいないのである。
知っている人も自分しかいないのである。

そもそもだから死者とは何なのだろうとなる。ある人は金がないのとその人がいいがげんなために墓に親の名前を刻んでいないのである。
金がないからしない、でも結構食べ物は贅沢しているらしい
これも親不孝と思うが名前を刻んでいなければそこに死者がいるのかともなる
だから死者とは何なのだろうと不思議になるのだ。

いづれは母と姉も兄も合同慰霊する、それは来年になる、一人だとともかくめんどうになる。いちいちお返ししたりするのもめんどうなのである。
だから自分は供養も断った、ただ線香あげてもらうだけだった。
自分は別に金はいらないからである。あとがめんどうになるのが嫌なのである。
ただ世話になった人には香典を多めにだした。

田舎では毎月のように香典を出している人がいる、そうなるとその金がないと困っている人がいるのである。世話になったら多めに出してそんなに多くの人に出すのは無理である金がある人は多くだして金のない人は気持でわずかでもいいのである。
何かなんでも平等だというのは良くないのである。
貧乏な人は別に香典を出さなくても気持だけでいいとかなる
何かそれが今の世の中おかしいのである。

ともかく母が師走に死んだのはふさわしかった、一生が90越えても家事をしていたし働きづめだったからである、その功罪としては何か楽しむこともない人生だった
それも淋しいとなる、花にも興味ももたない、ただ蟻のように休むことなく働いていたのである。これも一見いいようでも異常であり狂気にもなる
日曜日も休まないしただただ働くだけである。そういう人とは一緒にいたくないともなる正直自分にはそう感じていた。大正生まれとかなるとそういう人が多いのである。
遊ぶという余裕がなかったからそうなる。

母はいつも眠るように死にたいといっていた。何かそれだけはその願いはかなった
100才まで生きてそうなったからである。百歳まで生きる人は病気にならないのである。
血管も正常であった。
そして長生きの秘訣はなんですか?と問われたとき無理をしないことですと言っていた。
確かに母は細身でありそもそも体力的にも精神的にも無理ができない女性だったのである冒険などもできない女性だった。

母の死に顔をプログに出したらかなりの人が見ている、「死顔」のキーワードででてくる。実際に親の死顔など出している人はほとんどいないかもしれない、それで本物の死顔がめずらしいからかもしれない、本物の死顔はいい人はまれなのかもしれない、見られないような死相が多いかもしれない、苦悶の表情なのかもしれない、それは医者とか看護師とか葬儀屋は見ているから知っている
母の死に顔は安らかであり笑っているような感じに見えたので不思議だった。

何か知らないけど創価とか仏教系は異常に死相にこだわる、死相で成仏したかどうか判断するからだ。あれもカルトだから仏教系はともかく生者より死者を相手にする宗教なのである。供養も延々とするしその度に金が入るとなるからだ。檀家宗教は死者の宗教なのである。こういうのは仏教とかとは何の関係もないのある。
もし死相がいいならインターネットにも出すだろう、でもほとんど出ていないというのはやはり死相は気味悪くて出せないからだろう。

枯菊というとき今頃になるといつも見ている、故郷に枯れた菊というときそこに住んでいるからあわれだとなる、それは老人でもある。
それは時間の中で経過する自然な姿なのである。
でもそれは故郷に住んでいるから感じることである。老人の介護のために東京から田舎に移住させるのは何か変である、不自然なのである。

つまり人間も生物の一種だというときその土地に根付き朽ちてゆくのが自然なのである。人間の老いもまた同じなのである。それが生物の一生なのである。
でも現代はそうした自然から切り離されて暮らしているからおかしなこと不自然な生となってくるのである。

プログをふりかえり見たら冬紅葉を遺影にさしていた。母はまた冬紅葉にふさわしかった一生が恵まれないということもあった。ただ別に我が家に嫁いですべてが不幸ともならない、結局人間の幸不幸は計れない、意外と最後になると不幸になる人も多いのである。
金持ちの家に嫁いだとしても金持ちの家では息子でも娘でも金があるから施設にあづけるからである。
最後に不幸になっている人が意外と本当に多い、それは介護とかなると娘とか息子でも本心が現れるから怖いのである。
いくら親子でもそうなってしまう、そうなると最後は不幸になる
だから娘を恨んで死んだ女性もいたのである。そういう人は本当に最後は不幸だったとなる。だから人間の幸不幸もわかないとなるのだ。

ともかく一年すぎて楽にはなった、でも淋しさは感じる、介護しているときは何か夢中だった。懸命だった、だから淋しいという感じもなかった。
家にはやはり介護する人がいるから常に緊張状態にもっないたからである。
今になると何かがらんとしていて一人だとなるからでてある。
でも介護というのは尋常なものではない、異常な状態だったとふりかえるのである。
その負担が大きすぎたのである。十年とかしてみればわかる、そういうことが介護には普通にある、その長さの故にまいってしまうのである。

タグ:母の命日

2016年12月11日

師走俳句十句(鹿島から相馬市へ、復興の電車走る)


師走俳句十句(鹿島から相馬市へ、復興の電車走る)  

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この車両は前に団体とあり特別のものだった
開通のために走らせたものらしい

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冬陽没る六万石の城下町

冬の灯や六万石の城下町

冬の月六万石の城下町

灯のともり田町のあわれ冬柳

晩菊や待つ人あれや無人駅

無人駅おりたちあわれ冬薔薇

復興の電車走るや師走かな

復興の電車や百輪の冬椿

枯芒二両の電車や昼の月

石一つここに落ち着き冬椿


ローソンにカフィラティを飲み外見れば枯野広がり昼の月見ゆ 



一昨日は夜に自転車で相馬市に行った。今までは介護だから夜には行けなかった、介護となると問題はつききりではなれられなくなることなのだ。
認知症の場合は特にそうなる、不安になり一人でいられないからだ。
それで十年間ゆっくり外にでることもできなかった。それは相馬市とか近くでもそうだったのである。

相馬市は六万石の城下町であるが外からきた人は何かそうは感じないだろう。城跡があり石垣がわずかに残っているがそこが城があったとも感じないからである。
ただ入母屋作りとか相馬市では建物を昔風に統一した街作りをしている。
新しい市役所でもそうであり公共的な建物はみんな統一している。
それで落ち着いた感じにはなっている。ただそれに不満な人もいるだろう。
建物だけが立派で他に金が回らないとか思う人もいる

相馬藩が六万石というときそれでも土地としては海あり川あり山ありで広いと思う。やはり海があることが福島県でも違っている、そのために津波の被害や原発でも海があって建てられたがそれが裏目に出たのである。
なぜ六万石で野馬追いのようなことができるのか?それだけの侍がいたのかとか疑問になる、そしてなぜ伊達氏のような大藩を相手に戦い独立を保ったのか?
それはやはり海があり海を利用して運輸がありそれで力をもっていたともなる
海は漁業の海ではなく運輸の交通の海としてあったことが見逃されているのである。

鹿島駅は無人駅になった。小高の方に職員が移った。昨日は電車が仙台まで通じた復興の日だった。これはやはり復興として大きい、今日は原町に12両の電車がとまったという、日曜日で特別乗った人がいたのだろう。
でも以前として二両とか4両とか6両で車両としては少ないから乗る人がまだ少ないとなる前は8両が普通だったみたいだからだ。

二両の電車も不思議だった。相馬市と原町の間を行き来していた
なんかのんびりしていた。それで昼の月があっていたともなる
この辺は自分でもそうだが介護で十年でありその間に翻弄されてきた。
そのことはプログに書いてきた。その後は津波であり原発事故でありここは常に変化の中にあった。なんか落ち着かないのである。
自分の母親も死んで明日が一周忌であるが何もしない、花を一杯さして飾り終わりである何か一人だといろいろなことに手が回らないのである。
フログだって書くの半日かかることもある、家事もしているし自分は介護はなくても常に以前として追われた生活なのである。
だから今年仙台に行ったのは一回だけだった。
今年中にもう一回仙台まで乗って終わりである。

この辺の変わりようははげしかった。新しい家が数百軒もたち復興住宅もたちどうも大熊とかの方の人も建てたらしい、今度は浪江の人が復興住宅に集まり住むとか今度は仮設住宅から南相馬市とか相馬市とかにも移ってくる。そこでまた変化がある、
この辺は常に変化なのである。自分の場合、介護十年だったから一身上も常に変化だった30年間変化ない平穏な生活とはまるで違ったものとなっていたのである。

今も自分はほとんど遠くに行かない、毎日近くを行ったり来たりであり十年間そうであるローソンでカフィラティというのがうまい、ミルク味がいいのである。
あそこで外で休みそれを飲むのが一腹であり楽しみである。
外に昼の月がてて枯野が広がる、それが田舎らしいのんびりさがあるとなる
でもこの辺は何か変化が常にあるからずっとのんびりはしていられなかったのである。




2016年12月08日

年の瀬、短歌十首(死者を偲ぶ街)


年の瀬、短歌十首(死者を偲ぶ街)

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母死して一年すぎむ冬の陽の没りて余光や田舎の暮れぬ

その一生忙しく終ゆ師走にそ死ぬはふさわし母なりしかな

我が姉と母とのここに安らかにあれと祈りつ年の終えなむ

我が庭にねじこむ石に広き葉の散りて重なる今日も来る女

この家の庭に石置き冬となり椿の映えて我が日々通る

年の瀬に老人一人また死にぬこの街に生きし女やしのびけるかな

街中に死者は眠りぬこの道を今日も行きにつ年も暮れなむ

駅により誰かよりなむ淋しきや冬の薔薇咲く田舎町かな

駅前の自転車やかな営みのここにつづきて冬に入るかな

美しきわたりの鴨や来たりけり冬の鴎も飛び来る街

夜の霧深くもおおい街の灯や芒のしげりともしきかな


何か母が死んで一周忌が12日だけど不思議な感じになる、姉と母とは60年間も一緒にいただから二人が死んだということが自分にとってどういうことなのかまだわからない
死者が何なのかということはこうして親しい人が死んでみないと実感としてわからない
最近やはり近くで自分の親のような親しかった女性が死んだ、するとそれも何か身近に感じた。
死者とは全く骨となり灰となり何もなくなるのか?
現実は物理的物質的には科学的にみればそうである。唯物論的にはそうなる。

でも死者はやはり存在し続けるという感覚をもつのも人間は単なる物質的な存在ではないからである。そうでなければ死者をいつまでも偲んだり墓参りしたりしないからである。その体は消えてもなにか霊魂なのかなにかわからないが残っていると感じる
その死者を過剰に思いよせたことにより日本の仏教があった。
死者の供養のための仏教と化したのである。仏教はシャカの教えは死者にそんなに重きを置かないからである。
死者を通じての共同性として檀家が生まれたのである。
それはそれなりの村の共同性だった。
ただ戒名であれそれは仏教とは何の関係もない、別にそんなことで救われることも成仏することもない、それは日本的習性となっただけである。

ただ死者を偲ぶということはやはり死者とのつながりを持続させることであるから悪いことではない、国家が「記憶の共同体」だというときまさにそれは故郷というときそういうものがありもともとは村とかから国になった。おくにはどこですかというとき国はもともと小さな村のようなものだったからである。
そこに記憶の共同体としてあったのである。
それを感じたのは自分の家族が死んだことと近くの人が死んだことで感じたのである。

そして墓はすぐ近くにあり毎日墓の前う通っているから自分の場合は死者と親しいともなる、田舎というとき死者が眠るにふさわしい、都会だと騒々しいし死者も安らかに眠れないともなる、人間の感覚はやはり小さい狭い範囲だと理屈なしで一体化する
一万くらいの街だと何もないが何かそこは人間的な場所になる

自分は介護になってから10年間この近辺を行ったり来たりしているだけになったのであるそれでも見るべきものがある、田舎には季節の変化がある、都会では季節の変化が感じにくいのである。
社会を知るというとき小さな世界、田舎のようなところで考えるとわかりやすくなる
東京のような所ではもう混沌として何も考えこともできなくなる、人間はそこで主体性を喪失する、巨大な大都会の歯車と化してしまうのである。
そこでは死者を偲ぶということもしにくい、常に騒々しい今しかない、死者はそこで忘れられるのである。
だから死者を偲ぶのには田舎いいなと思った。
でも死者を偲ぶにしてもその街で生きていたということがなければ死者となっても偲ばれないともなる
それで東京から介護のために移住させるのは何か不自然であり田舎の人も抵抗がある
それは金では解決しない、何でもすべて金では解決しないのである。

原発事故で避難させられた人たちがそうした自分のアイディンティティの場所から切り離されたことが意外と大きな痛手だったことが外から見てわかりにくい
なぜなら墓も先祖も精神的に以前として結ばれていた場所だったのである。
そういう場所を新たに作ることは老人ならできないからである。
そこで小高の老婆は小さな家を新しく建てて住むというのもわかるのである。

自分の家の庭の石はねじこむ石となる、一人の年配の女性が何かとねじこんで入りこんだとなる、その女性は毎日来ている、仕事は5分くらいでありただ毎日来ているというだけである。それでも誰も来ないよりはいいとなる
何か一人になるとこれもまた新たな経験であり心境になる、なんか一人暮らしというのは今まで経験しないことだった。
介護でも母がいたのだから一人ではなかった。だから淋しいということもなかった。
家にはやはり以前として家族がいるという感じだったのである。
それで妻を亡くした人がしきりに介護する人でも家にいればいいと言うのもある程度はわかった。
がらんとした大きな家にいるのが何か不自然であり淋しいとなるからだ。


補足

俳句と短歌ではやはり短歌は生き延びるが俳句はむすかしいかもしれない、俳句はあまりにも短すぎるのである。
でも俳句でつちかった季語は日本の文化から消えることはない、
今回も本当は冬椿とか冬薔薇というとき短歌にすると冬の椿になり冬の薔薇になる。
俳句の方が簡潔に表現できる。でも何か表現しきれないものが俳句にでてきているから俳句はだんだん消失するかもしれない

石の庭ここ日々通り冬椿

この家の庭に石置き冬となり椿の映えて我が日々通る

これは同じものでも俳句になると簡潔になるのである。
つまり季語が冬椿がひきしめる役割を果す、冬椿からイメージするものがすでにできあがっているからである。

the setting stone

in the garden

red camellia japonica

そこはa stone ではなく新しい家でもthe stoneになっている、要するに家とに我があると定着するという感じになる、アパートとか復興住宅でも庭がないと定着するという感じを受けない、復興団地でもそうである。
おそらく家と庭があると大地に根付いたという感覚になるからかもしれない。




2016年12月04日

一枚の木の葉(詩) (都会と田舎の相違ー土地と密着した記憶の場が田舎)


一枚の木の葉(詩)

(都会と田舎の相違ー土地と密着した記憶の場が田舎)

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一枚の木の葉

この道にゆくりなく
夕べ散りにし
木の葉一枚あわれ
なれ親しみ細き道かな
五本松の二本枯れてなし
その二本の松なお我が心にあれ
その道を我が去りゆくも
我が心に一枚の木の葉残りぬ


五本松のあるところから迂回した道はいつも自転車で行っている。
六号線に五本松があるが六号線は車が多くて情緒がない、今は国道とか高速は早いのだが記憶に残る道ではない、それはただ通過してゆくだけの道である。

何度も言うが現代とは何かいろいろなことが人生でも記憶されないことが多いのである。旅でもそのことを書いた。便利すぎて記憶されなのである。
でも人生をふりかえると記憶がいかに大事になるかである。
記憶そのものが人生になる。何がきおくされたかが人生なのである。

最近一人の近くの老人が95才で死んだ。その人は自分の家で店をしてたときもまたそのあともきていた。90才のときも自分の家に来ていたのである。
そして思いだすのはやはり近くの人で世話になった老人だった。
その女性のことは前も書いた。
自分の母親とその二人の女性はいつも自分の家に来ていたのである。
その三人とも死んだ。でも何かその三人がここにいるような気がする
記憶としてその三人が一緒にいたことが残っている

それは相馬市の道の駅にある五本松ともにている、いつも五本松はあった。
しかし二本は枯れて切られた、でも以前として記憶の中に二本の松はある。
人間も何かこの五本松とにているのだ。
あるところに長くいるとそれが奥深い心の中で記憶となり定着するのである。

一方で都会などではただ騒々しく記憶に遺りにくいのである。
だから原発事故で避難した人たちはそういう故郷で住んだ記憶が奪われたことが意外と深刻なのである。新しい場所でまた記憶を作ることはむずかしいからである。
こういう精神的損害が大きかったことは意外と外から見てわからないのである。
それは補償金でも補いえない損失だったのである。
あれだけ補償金もらったんだからかえって得だったという人も外からは見える
でもそれは金で補えないものだった。
だからといって補償金問題はまた別な問題としてある。

とにかく故郷とか田舎は人生を記憶される場所だったのである。

仕事,職;役目;地位,身分;((one's 〜))立場
get a place in a law firm
法律事務所に就職する

fall into placeとは

正しい場所に収まる、うまく収まる、つじつまが合う、ぴったりする

in placeとは

決まった場所に、適当で、適切で

当然あるべき所に(←→out of place)
I found everything in place.

すべての物があるべきところにあった

the placed memory

the pressed memory

the impressed memory

となる




placeはまたpressと通じている、刻印するとかとなり記憶するともなる
場所があり記憶される所が故郷であり田舎なのである。
それは自然の事物でもそうであり人間もそうである。
三人の老女が死んでその三人が石のようにもなる
そういう記憶された場所が故郷であり田舎なのである。
それは都会では得られないことなのである。
それよりそうして作られた記憶はもう一度作り得ようがないのである。
だから老人は記憶に生きているのである。

遂に認知症になと千回も昔のことを語りつづける、今は記憶されないで過去の記憶にまさに生きている、生きたとはその記憶のことだからである。
戦争で苦しんだことを延々と語りつづけて死んだのはそのことが人生でもあったとなる
それは別に田舎のことではないシンガポールとか戦地のことだったがそれがいつまでも記憶として残って忘れられなかったのである。
だから人生とは何が記憶して残されるるかが大事になる
若いときの不品行も記憶として残されるし消えないから怖いのである。
例え別に警察につかまるとかつかまらないとかではない、その心に刻印されるから怖いのである。

タグ:木の葉の詩

2016年12月03日

栃窪から真野ダムへ(冬景色俳句)

栃窪から真野ダムへ(冬景色俳句)


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栃窪に松一本や冬菜かな

前畑に冬菜や蔵の二つかな

栃窪の奥や墓あり残る菊

栃窪の奥に晩菊蔵ある家

川上や巌に枯木水の音

冬の雲ダム湖に写り山の影


川上や木の葉吹き散り枯木かな巌の固くここにとどまる


栃窪で変わったことは高速道路ができてその下を通って行くことである。
この高速道路は結構この辺で影響しているのかもしれない。
まだできたばかりであり車がないからわからないが何か影響している
仙台の会社でユニットバスを作ったのは高速で近くなったからである。
東京方面などからも来やすいということはあるかもしれない。

松一本があり冬菜畑がある。網で囲っているのはイノシシとかキジに荒らされるからだろう。何か田んぼがほりおこされているのはイノシシなのだろう。
イノシシがこの辺では増えたかからである。

ひさしぶりで真野ダムへ行った、紅葉は散って枯木になっていた。
最近木枯らしが三回くらい吹いてその時散ったのだろう。
冬が早くきたというか季節感が狂った、師走だから冬ではある。
でも今日はまたあたたかった。今年は温暖の差がはげしいのである。

栃窪というとき上栃窪となると奥になり感覚的に違ってくる
田舎はいろいろな村があることで変化がある。
そういう村が限界集落とかなって消えてゆくと淋しい
ただ村でも街とつながったり隣の大きな街とつながったりしていると
限界集落にはなりにくい、車があるから買い物でもできるからである。
飯館村となると孤立して遠い感覚になるからまた違っている

真野川でも写真とっていた人がいた。前もあのダム湖で写真をとる人がいた。
あの辺は絵になる所なのである。
霊山まで行こうとしたが時間がなかった。自転車だと簡単には行けない
でもロードで若い人がすいすいと上ってゆくのはうらやましかった。
歩かないと上れないからである。
ヤハマのロードの電動自転車は馬力がなくて坂は上れなかった。
だからあまり厄にたたないということもあった。

とにかく何か最近遠くに行けないのである。何かと用がある、家を一人で切り盛りすることが以前として結構な仕事となっているのである。
仙台に行ったのも今年は一回しかなかったし旅行もしていないのである。
ほとんど近辺ですごしているのである。

タグ:冬菜

2016年11月27日

近辺の冬の写真と写生俳句


近辺の冬の写真と写生俳句



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石囲む庭や中にそ冬椿

石ありて散り重なれる紅葉かな

鳥一羽枯木にとまり餌ねらう


写生は俳句という時本当にそうである。
この三枚の写真を見ればわかる。
写真がすでに写生でありそれに俳句を付け加えただけだとなる
写真俳句が生まれたのは必然だったのである。

冬椿が咲いていたのは石の展覧会のように庭を飾っている家である。
あの家はこの辺では誰でも知っているだろう
いかにも金持ちの家という感じだからである。
あの石は見物である。あの意志だけで相当に高額かもしれないからだ。
ただ他人の庭でも見るのは無料なのである。

近くでも何か毎日見ているそこに変化がある。季節の変化がある
紅葉が散る、あそこの庭は外から見ても何か日本的でいい感じである。
だから他人の庭でも鑑賞している。

今日は枯木に一羽鳥がとまっていた。いかにも冬らしいとなる。
本当は今は晩秋なのだが冬になっている、綿虫なども飛んだ
季節感がおかしくなる。
この鳥は鳶だったのか?鳶というとき冬の季語なのである。
この鳥はただとまっているのかと思ったら餌をねらっていたのである。
川から魚をとったからである。その場面はとれなかった。
まずそんな場面はよほどでないととれない。

ただ近くでも季節の変化があり何か写真になるものがあることは不思議である。
こんな狭い田舎でそんなにないと思うけど結構ある。
ここ十年は旅に出たことがほとんどないのに結構写真をとっているからである。





タグ:冬の俳句

2016年11月21日

冬の蝶(俳句は写生ー空家にもみんな違った表情がある)


冬の蝶(俳句は写生ー空家にもみんな違った表情がある)

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残る菊空家にあわれ今日も見る

良く見れば空家に一羽冬の蝶

冬の蝶あわれ一羽の消えゆきぬ

晩菊や小さき町の駅舎かな

この庭の石に囲みぬ冬椿

岩風呂や奥山の月我がながむ

磐司岩流れうづまき紅葉散る


この道を今日も行くかな石の庭紅葉の燃えてともに住む街



毎日同じ道を行ったり来たりしていた。それも介護で十年間だったから長かった。
街の真ん中に二三軒空家がある。そこは荒れている
そこは一軒家で500万で売り出していた、でも買ってもリホームしないと住めないかもしれない、そうなると価値が低いというより500万では安い
そこに残る菊が咲いているのを見て通る

空家というのにもいろいろ表情がある。近くの空家は不思議だが荒れていない、そこにはいつも白い薔薇が咲いている、でも住んでいないのである。
そこは時々人が来て掃除などしているから荒れていないのである。

空家でも必ずしも荒れているとは限らない、ただ留守にしているという感じのものもある空家の表情は一軒違うのである。家にもそれぞれの表情があり個性があったためかもしれない。
すさまじい空家は森と竹藪にうばれた空家である。それは街から離れた所にあった。
ともかく全国で空家が800軒というからすごい、空家の時代なのである。
この辺で空家でも他から移って借りた人などもいるから空家の需要があるのかもしれないただみんな新住宅外に建った、でも一部は街の中にも建っている
あそこは二三軒空家が並んでいるからなぜだろうともなる

俳句となると写生だと前から書いてきた。この空家はすぐ近くにありそこにこの蝶がとまっていたのである。アカタテハである。
あまり街ではみかけない蝶である。
要するにただ空家にこの蝶がとまっているということが写生であり不思議だとなる
写生がすべてを語っているのである。ただ今の時代だと写真が不可欠になる。
なぜなら冬の蝶がとまっいているといってもどういう蝶かは写真でしかわからないからである。

よく見れば薺花咲く垣根かな 芭蕉

よく見ればというときこれは写生なのである。そもそも人間はなんでも良く見ていないのである。回りでも平凡でも何か見るべきものがあるが見ていない
旅ではいろいろ見るものがあるのだがゆっくり見れない見ていないとなり忘れたとなるのである。

俳句は写生に徹すれば意外と深いものができる。この句も何か平凡のように見えても鑑賞できる人は深いものを感じるだろう、空家に冬の蝶がにあっているともなるからだ。
庭の石と紅葉が映える新しい家の道を毎日通る、やはり仮設と違い家はそこに定着するとなるから違っている
ともに住んでいるのだとみる、ここに暮らすのだとみる。仮設ではそうは見えなかったからである。


なんか旅から介護で十年間遠ざかった。母が死んでからは本当に一人でありそれがなんとも不思議な感覚になってしまった。
何か特に昼間がらんとした家にいるのが嫌で良く原町のモスバーガーにでかける。
そこでも一人だけど家の中で一人でいるのがいやなのである。
老人の一人暮らしの人がスーハーとか人ごみに出ているというのがわかる
一人で家の中にいることが淋しいからである。夜がそれほど感じないが昼間に感じるのである。

秋保温泉にはなんかずいぶん前に行った、大東岳にも仙山線から上った。あそこも登山になるから結構楽ではなかった。
登山もずっと十五年くらいしていないだろう。
何か外にでる、旅するのが億劫になった。旅でも登山でもそれなりにエネルギーが必要だった。そして家に誰もいない留守する人がいないということも何か嫌なのである。
自分が自由に旅できたのは家を守る人がいたからである。

秋保温泉から二口渓谷に行って紅葉でも見ようかとなるが仙台からバスだしこれも億劫なのである。
思い出すとあの時は二口渓谷を下った所に岩風呂があり入ったことを覚えている
その時も秋で月が出ていたのである。月は山にあう、太陽はやはり太平洋から昇るのがにあうとみなれているとそうなる。


タグ:冬の蝶

2016年11月19日

百万のユニットバス完成 ( イワタニで一坪タイプで二〇〇万だと言った)


百万のユニットバス完成


( イワタニで一坪タイプで二〇〇万だと言った)

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入り口は開閉式であり中は密閉されるから風が入らないからいい

シャワーの裏に給湯器がついている、

この位置がガスでは値段に相当な差がでてくるから注意



仙台の優 創建のユニッハバスが完成した。イワタニガスではこれは一坪タイプで200万するという。
完成品を見て驚いていた。この辺ではこれだけのものを作ると200万するというのは本当である。
要するに人手も集められないし個々に頼んだりすると金がかかる
一式いくらと最初から請け負い値段を決めてかかっているから高くならない
自分もまず壊すだけで大変だと思ったからである。
そしてユニッハバスのことを全然知らなかったのでバスだけをとりつけるのかと思っていた。
でも実際はユニットであり室内にバスがついている一体のものだった。
それがきれいにできたのでまるでホテルの風呂のようになったのである。


まずこの辺ではこれだけのものを一〇〇万で作れない、でもその差が大きいとなると知られれば注文が増えるかもしれない、そうなると福島県とか地元でも競争になり苦しくなるなぜ安くなるかというとやはり安くするシステムを構築してはじめたからだろう
人手確保するだけでもむずかしいことがあるからだ。
それと高速ができたので仙台でも早く来れるというのも大きかったかもしれない

現代というのはこうして交通が便利になるのはいいがそれと同時に広域的な競争を強いられる
それはグローバル経済になると世界の競争とまで普通になっていた。
ところが建築関係でも高速などができるとその仕事の範囲が広がってくるのである。
すると地元でもやはりその競争が強いられるし値段だった安くしないといけない
それは別に今まで起きていたことである。
でも建築関係となると距離があるとむずかしい面があったのだ
あとでめんどうみれないとかもあり不安だったのである。

ガス代も一日ずいぶん安い値段だった、何十円とかかからないとかそれはわからないが相当に安いことを言っていた。
それはホースが長いとガスは高くつくという、風呂のすぐ裏に給湯器を設置したのでそれでガス代がかからないという、この長さが相当に影響すると言っていた。
バスとの距離はほとんどないからである。

ともかく早くできたし安かったし完成品はいいものだったし得なことばかりだった
これを知ったら注文を福島県でもとれるかもしれない
地元でも福島県の業者でもこういう建築業者がリホーム業者がいることを知っていた方がいい
つまり仙台はそれだけ先進的なことをしやすいということである。
すると距離が短くなるとそういう先進的な業者が入ってきて地元の仕事が奪われるということになる
これは建築関係ではあまりないと思ったがここでも広域化経済の影響がでてくる
広域化とかはグローバル化でなくてもこの影響はまねがれないのである。
仙台となるとやはり高速でも近くなりその影響がすでに出てきている
この辺は仙台中心に経済でも先進的なものが拡張してくることがしやすいからである。
前からもそうだったが高速の影響がでてきてリホームにも影響がでる

リホームとかなると何か地元の大工が細々とするというふうに見た、何かそれが人手を集めて短期間で工事が終わった。地元ではあんなに手際よくできない
こういう業者が地元に入ってくることはかなり影響があるようになるかもしれない
百万というのは安いしできあがりもいいからである。


仙台の優 創建でユニットバスの工事開始



2016年11月17日

晩菊(原町へ行く旧街道の川子の枯れた松)


晩菊(原町へ行く旧街道の川子の枯れた松)


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陽のあたり小菊一杯飾る道

晩菊や旧街道の枯れし松

晩菊のとりどりここに今日も暮る

晩菊やここになおあり枯れし松

石の庭ここに落ち着き紅葉燃ゆ

明らかに夕星(ゆうづつ)一つ冬に入る

石二つ庭に眠るや月明かり

枯れし松なおここにありその生を留めんとして冬に入るかな

この道の落葉の雨にぬれにつつ我が踏みつつ今日も暮れにき

木枯らしや老いてあわれも散り散りに木の葉散らさる事故の後かな



今は秋から冬になるけど今年はまだ晩秋になるだろう。晩菊とか紅葉も今にあっている。季節の感覚が変わったのである。
原町への旧街道の松は枯れたままなお残っている、まるで幽鬼のようにまだここに根付いてある。実際はこの松は死んでいるのである。
でもなんか自分の母親は百歳まで生きたけどまさにこの松のようだったのである。

これは死んでいるのか生きているのかやはり倒れないから生きているのか?枯松という地名も残っているようにこういう松は各地にあった。なんかここに自分が死んでも跡を残すような執念すら感じてしまうだろう。人間は思うにそれだけ生の執念は強いものである。
一旦生を受けたら本能的に簡単に消えたくない、いや消えるということに耐えられないのである。
動物には死を気にしないというが嘘だった。隣の犬は死ぬ時三日前くらいから悲しそうに吠えつづけていた。それは死にたくない死にたくないと吠えつづけていたのである。

これは別に寝たきりの人とは違う、最後までその土地に大地に根付き枯れて死んでゆく、ここが旧街道でありその土地にもあっている。その場所にあっている
松は人間ならもっとここにいたいということが伝わってくる
人間は長年住んでいるとそういうふうになる、だから老人は長年住んだ所に生きて死にたいとなるのである。
ただあそこにリサイクルの煙突があったりなにか景観は変わってしまった。
相馬の方に行く五本松は良かったがあそこも二本の松が枯れたのは残念である。
この松に祠もあり供え物もしている、何かここにまだ残ってほしいということで近くの人がそうしたのか?
この根元に橙色の晩菊が咲いている、それは何か自分が百歳の母親を介護しているという感じなのである。自分自身も年であり晩菊になったということである。

石の庭に紅葉が燃えているのもいい、移動して動く時燃えるとなるが実はじっとしていて燃えるということもある、心が定着して燃えるということもある。
それは一つの場所に定着して仕事するということでもあるのだ。
あまりにも動いていると集中できないということもあるのだ。
何か仕事をするにはどこかに定着しないとできないのである。
この辺の状態は変化しすぎて何かそうして定着して落ち着いて仕事しにくいということがある。
あの家だって建ててからまだ一年なのか二年なのかそんなものなのである。
ただ落ち着いたという気分になる。仮設では落ち着いたとはならないのである。

石二つは庭に眠っている、争わない、自分の家では60年も争っていたが今は争いもないというとき不思議だとなる、人間は死ねばみんな争うことはない、生きている内はみな何か争っているのである。男女ともそうである。
死ねば皆争うことはない、石のように争わないから不思議だともなる

それからこの辺では原発事故で避難して家族が散り散りになった。
木枯らしは最近吹いたから冬なのか?
木の葉は風に吹き散ったとき、何か散り散りになった家族のことをイメージした。
自然でも人間のことをみているのである。
散り散りに吹き散らされた木の葉は何かこの辺の状態を象徴している風景なのである。




タグ:晩菊 枯松

2016年11月14日

仙台の優 創建でユニットバスの工事開始 (一式セットで100万は安いー家はあとは直したくない)


仙台の優 創建でユニットバスの工事開始


(一式セットで100万は安いー家はあとは直したくない)

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今日まずタイルとか4人がかりて壊した。聞くとこの壊すのがガス屋で大変だと言っていた。自分も全体を壊すのが大変だと見ていた。
実際にドリルで壊してゆくけど相当な力仕事になる。
これだけで相当な金がかかると見る、でもだいたい一日でほぼ壊した。
だから意外と早くできるなと思って良かった。
実際に金曜日で完成して土曜日には入れるというから早い
中に一日くらい休みがある。
すでに給湯器はとりつけてガスの配管もした。
電気関係の人も来て線の工事をした。
みんな仙台の人である。

ユニットバスだけでこの辺で100万すると聞いたからなぜ安いのかと聞いたら仙台は競争が激しいからです、福島県は高くなっていますと言っていた。
福島県は高いのか?福島県と宮城県では値段が相当に違っているという。
知っている人でその人は一人でやっているが頼んだら高くなるし時間もかかるだろう
壊すのでも一人でしていたら時間がかかる、そしてこれだけのものをセットで買わないでばらばらに買っていたらまた金がかかる
だから最初なにもわからなかったが100万は安いと思って即決した。
というのはこの辺では人手不足で電気関係に頼んだらできないとか最初断られたからである。

つまりこの仕事はガス屋とか大工とか電気関係とかユニットバスとか配管とかもかかわるめんどうなものである。だから一人でやるとしたら手間になるし金もかかるとなる
だから他でも頼む人がいるのかもしれない、担当の人が近くで他も回って仕事していた。た
壊す工事をしていた人は作並の人でその山の方に住んでいて雪がふったという、あの辺は山寺に近く山形に近いから早くも雪がふった。
スマホで雪が積もった画像を見せて説明してくれた。5センチくらい積もったらしい。
あの辺は面白山トンネルをぬけると山形県であり春でも山に雪がある。
それで印象的な場である。あそこから来るとしたら遠くなる。

ともかく最初の日に50万金を払うということで不安だった。でも相手も遠くから来ているから金を最初にとるということになった。
契約書に申込金として50万と書いてあったのである。それを良くみていなかったのである結局遠くなると人間は相手をなかなか信用できない、それは双方でそうなる、だから商売は遠方とか国が違ってするとき互いに信用することがむずかしい、だから契約が大事になる、そして意外と細かい所を見ていないからあとで失敗することがある。
契約しましたよということが商売では大きな意味をもつ、それは地元だったら信用を失うと地元で仕事ができないからそういうことはない。

でも今回わかったことは今の社会は広域社会であり広域的に仕事しないとやっていけなくなっている、地元だけでは仕事の量が限られているからだ。
今回の津波や原発事故ではほとんどの人が外から来た人、九州から北海道と全国から来た人たちが仕事した。地元だけではもう何もできないという状態だったのである。
地元の人はパチンコで遊んでいただけだともなった。
家を建てるのもほとんど建て売り住宅であり外部の人である。仙台から来た人も近いから多い仙台は高速道路もできて近くなったこともある
こういうふうに外から来る人が来ると食事とかでは金は落とす、それでこの辺のレストランとかは繁盛したしその他コンビニも増えたりした。
一番増えたのは宿泊所である、プレハブが多いが新しいホテルもできたし増設したりまず宿泊関係は増えた、外から今でも5000人とか来たとか数が多かった。

ただ福島県全体の特需とかは震災から5年すぎて縮小しつつあり終わりに近づいている
福島県では倒産率が全国でも一番少ないとか特需になっていたのである。
補償金が打ち切られるとこれから倒産が増えてくる、ぎりぎりでやっていた小規模の会社が補償金が打ち切られて倒産が増えてくるという。
何かもともとそういう会社は農業でもそうだったが経営してゆくのが限界でもあった。
たまたま原発事故で補償金が入って継続できたともなっていたのである。

いづれにしろ仙台からこうしてリホームとかの会社が来ると地元の人の仕事が奪われる
ただ広域社会とはそういうものだということを物を売るにしても普通になっていた
競争範囲が全国になったりグローバルになったりしていたのである。
だから建築関係の人が全国に展開して事業に失敗した。一個人とかで全国展開すること自体無理だったのである。

ただもう自分はリホームとか家はこれで直すのは終わりにしたい。これまでも何回も家を直している。もう年だし大きな家が負担になっているのだ。
平屋の小さい家がいい、それなら壊すのにも楽だし今の家は大きすぎるのである。
ただこの家には思い出がある。
気丈夫な姉が作ったとも言える家だが母も店をやっているときはもうけたのである。
それで姉が自転車で野菜を近くの農家から買っていたのである。
その野菜が箱に入れたときかなりの重さになった。
でも姉は太っていて力がありそれを持ち上げて自転車でもってくることができたのであるこういうことを語るとき何かこの家はそうして親が作ってくれたものだということを感じる
家に家族にはそれぞれの物語がある。そうして苦労して作った家に自分が跡を継いで住んでいるということを自覚するのである。

でももし何か株でもうけて家を建てたとかなにか苦労話がないとしたらあんまりありがたみもなくなるかもしれない、親でも何かそうした苦労話があるとき家でも他でもありがたいとなるのである。それは自分だけではない他の人もそういうことを語っているのである自分はこの家を建てるためには何の努力もしていない
ただ最後に介護したとき尽くしたというだけだからである。
今日姉を知っていたという人にあった。その人は姉の友達の息子でありそのことを聞いていた。その母親も死んでいた。68才だったから若かった。
その前に行き来していないからわからなくなっていた。
同じ役場に勤めていたので仲良くなっていたのである。

何かまだ姉を知っている人がいたのかとなる、姉は交際が広かったが役場をやめてからも長いし忘れられていたのである。
人間はとにかく会社でも役所でも退職したりするとすぐに忘れられる、もう5年でも十年でもたつと役場に知っている人もいないと言っていたからである。
これも人間の無常なのであるる。
親しくしている人も死に会社でも役所でもやめるとたちまち忘れられるのである。
生きながら社会から消えているような存在になっているのも多いのである。
だから社会で80くらいでも活躍している人はまれなのである。

ともかくこの家も50年くらいすぎた、だからいたんでいる、でも直したくはもうない。
老人になればだから先のことが考えれられないのだ。
庭に樹を植えてもそれが花咲くまでに十年とかかかるとなるとしたらもう植える気がなくなる
それがこの辺では高齢化で問題になっているのである。
なぜなら復興には時間がかかる、若い人なち十年先でも花が咲くとなれば肥料をやり育てることもできなる、しかし老人はその時間がないからできない、すると復交には向いていないとなるのでてある。

2016年11月10日

近辺を回り秋も深まる (専門家時代でも郷土学とはトータルな学問)


近辺を回り秋も深まる


(専門家時代でも郷土学とはトータルな学問)

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秋の陽が昇る
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八沢浦の長岩

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前畑に鶏頭映えて女のあり

晩菊や仮設に五年過ぎにけり

散り残る花びらあわれ秋薔薇

街の路次今日も秋薔薇菓子屋かな


五年すぐ津波の後や長岩に秋の日さしてここに残りぬ

我が買いてためにし本を晩年に読みつつ書斎に秋深まりぬ

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仮設でも五年もいるとそれなりに年月の重みがあるかもしれない、その心境はわからないがやはり五年もいれば時間の重みがでてくる。
ただその間にパチンコとか遊び費やされたというとき何も残らないかもしれない
ただ時間が過ぎただけでは人生でも何も残らないのである。

前畑というとき家の前にある畑である。それは前田と同じである。
人間の生活の拠点となったのが前田であり前畑である。
だからこそ地名化した、常に家の前が仕事場となっている
仕事と家が密着して一体になっているのが田舎だった
会社に通うとかもない生活だったのである。
それが本来の生活だったのである。

秋薔薇というとき最近路地裏の道をゆく、路地裏の道は何か通りとは違っているのだ。
そこに秋の薔薇が咲いていたが花びらなお散り残っていた。
菓子屋が一軒ある、まず街中で今や営みがあるのはわずかである。
どこに勤めているのか、何で暮らしているのか小さな田舎町ですらわからないというのが不思議である。会社に勤めている人が多いのだろう。

八沢浦の長岩は良く津波にも残ったなと思う、あれだけの津波だから岩すら破壊される力だったからである。
やはりそれなりに大きかったから残ったとなる
だから津波のあとにこの岩は残ったなと見る、これも八沢浦の一つの象徴だからである。八沢浦は広い土地が荒地になっているがあと二三年で田んぼにするという
塩害はあまり米作りは関係なかったらしい、かえってミネラルで栄養になるとか言っていた。右田では津波の後に今年は広く実りがあった

自分は20代から書斎が与えられていた。それでいつも仙台にゆくのは本を買うためだった今ふりかえるとそれでも地方は田舎は本を買うこと、本を読むことで相当なハンディがあった。知識というとき本の時代だったからである。
その本が手に入らないし、目立ったものしか手に入らない、見れないという時代だったのである。だから必要なもの読んでいないとなる
何か知りたいというとき今のように古本でも何でもネットで注文するわけにいかないからである。こういう点では今は田舎でも困らない、あることを知りたいというときネットもあるしもっと深く知りたいというときネットで即座に注文すれば配達してくれるからである。
だから情報的には都会と田舎の差はなくなった。それで都会に住むメリットがそんなにない時代なのである。
ただ田舎は人に関してはいろいろな人はいない、農民とか漁民とかいても何かその他はいない、だから知的刺激に欠けるとるな
銀行員が意外と証券マンみたくなり国際的なものになっていて今日も銀行の部長が来て国際のことトランプのことで話した。
銀行とか特に証券関係は相当にグローバルな知識が必要な仕事だったのである。
自分は世界旅行をかなりしたからそれで話を合わせられるのである。

ただ人間は何かみんなかたよっている、農業の話と証券の話とか国際の話をできる人は少ないだろう。意外とまた田舎が農業が仕事としてあっても農業をしていな人は知らないのである。
自分は畑を趣味でしている人を知ったから農業の苦労を知ったのである。
趣味程度でも毎日草むしりとか農業は苦労が多いのである。
いづれにしろ人間は今は総合的に生きるとか見れる人はわずかである。
自分のように故郷とか自然全体をみている人はまれである。
第一詩的に見る、石とか樹とか山とかそれらを見る人はまれである。
農業している人は別に詩を書かない絵を描かないにしても自然に密着するから自然と切り離されずある。他の人は今は自然と切り離されて仕事しているのである。
銀行マンは何なのか?いま証券会社なのかとなる
郷土史とか郷土学が何か狭い範囲のことの追求に見えるが実は総合的な広い範囲でみるものなのである。だからとても一人ではできないのである。

現実にそこで暮らしている人は農業している人だけではない、田舎でも多様な人がいるからである。それをプログであった人のことを書いたのである。
ただ都会のように何か特殊な人かいてそういう人とは出会いないしわからないのである。一方で都会では農業している人の苦労などわからないのである。
それでも毎日食べねば生きていけないのだから農業と田舎と無関係とはいかないのであるいづれにしろ人間は今複雑に仕事も分化してトータルに知り生きることができないのである。逢う人はみんな専門家でありその専門家はトータルに生きていないしトータルな知識も経験もないのである。
だからトータルに総合的に生きるというときアウトサイダーになるのである。
なぜならアウトサイダーは一つの職に属することがないから広い視野で見るということにもなるからである。
だから一つの世界観をもつというとき今は専門家社会だからできないのである。
どんな人でもただ部分の仕事であり部分を見ているだけなのである。


2016年10月30日

秋の日(穏やかな気分の詩-秋の日の木々)


秋の日(穏やかな気分の詩-秋の日の木々)

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秋の日の木々

(the peacrful lined trees)


川べりの土手の桜の樹々に
穏やかな秋の日がさしている
十数本並んだ樹
その根はその土地に根を張る
その樹に私はよりかかる
穏やかな日がその樹にさしている
樹はここにさらに深く根を張る
人はどこかに根を張る
いつまでも旅しているわけにはいかない
幸福をどこに求めるのか?
そが足元に求めずしてない
人はどこかに根を張らねばならない
川の面に鴨が波紋を静かに広げる
争うことなくここに群れている
今私は心から平和を感じた
様々な苦難と労苦に疲弊した
平和いづこにあるのか
そが足元にある
静かに根を張る樹々よ
平和ここにありて根付く
春には花が一杯にまた咲くだろう
日を浴びて青々と野菜はこの土地に育つ
秋から冬へと移る時期
樹はここに静かに並び立つ
変わることなくいつまでもここに・・・・




人間の気分も常に変わっている、気候でも季節でも人間関係でもなんでも影響して変わってくる
まず介護十年とか津波だ原発事故だとか災難の連続だった
自分の家も瓦礫の山となった津波の光景と同じだったのである。
火事場泥棒とか狂気が病気でも吹き荒れたし借金を求められて汲々としていた。
自分も病気になり弱り目に祟り目だった。
弱者化したときチャンスだと責めてきたのである。
つくづくこれが人間の正体かと思った。
ただ責めてきた人間も金で追い詰められていたのである。

自分の気分は30年くらいはなんかこんな気分であり波風もさほどたたなかった。
ただ家族関係ではいつももめていたがそれでもこんな平和な生活がつづいていたのであるそれが一挙に親の病気やら自分の病気やら介護など様々なことでそういう穏やかな平和な気分は失われた。それはこの辺全体もそうだったのである。
震災から5年過ぎてやっと全体的にも回復基調になった。
それでも避難区域だったところは小高でも浪江でもこうなってはいない
そこにも桜並木がありここと同じような場があった。
そういう場が失われたのである。
桜並木は残っていてもそこには人がいないとなる

結局平和とは何かというとき平凡なものなのである。そういう平凡なもののが意味あると気づかないのである。
さんざん苦しんだ結果としてただこうして並びたつ木々に平和を感じたのである。
避難した人たちも故郷の桜並木によりそこで再び平和を見いだしたい感じたいなるだろう要するにそんなことは当たり前だったがそれができなくなったのである。
いづれにしろ介護は相当に疲弊させる、家の中がそういうふうになるともう平和はなくなる、かえってそれにつけこまれたりする、それが人間の悪質さだったのである。
でもまたそういう人も苦しむようになるのが人間なのである。

今年は夏が長くつづいた。それでどうも今頃になると確かに北風が吹いたし寒くなった。でも秋深しと感じない、秋が短いからそうなったのかもしれない。季節感が狂ったともなる。熱帯化した日本になったからである。
秋が短くなったのである。そして冬が早く来たという感じになる。

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桐の花患いなしに昼の月

桐の花が乱れずに咲いて患いがなかったのである。その時自分は仕事もしていないし三食も用意されていた、ただぶらぶらしていたのである。
そういうふうに時間を過ごしてきたことが今になると不思議だとなる
今はそういう人が若い人でも増えている、やはりそれだけの余裕があるからそうなる
でも団塊の世代ではみんな企業戦士になっていたから自分のように自由に過ごしていた人はまれである。
今になるとこうした平和はつづかない、30年間平和だったということが相当に恵まれた時代だったともなる。時代的にも何か必ず不穏なことが起きてくるからだ。
それは個人でも同じであり一生恵まれて平和に過ごせる人などいないのである。
何か苦しいことが必ずあるしそういうことを前もって経験していればかえっていいとなる苦しんでいないとあとで必ず苦しむようになるからである。




タグ:平和な木々

2016年10月29日

菊(北風が吹いて寒くなった)


菊(北風が吹いて寒くなった)

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いつも行く垣根に菊や路次曲がる

知る人の今日も畑に菊映えぬ

前畑に蔵ある家や柿なりぬ

蔵の壁秋の日さして畑あり

北風の鳴りて蔵ある農家かな

日も暮れむ色様々や秋薔薇

ひまわりや道幅広くなりにけり

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モスバーガー



毎日同じ道を行っている、介護してから毎日同じ近辺を行っている、でもそこにもは味わい深いものがある、人間日々見ていても何かを発見する
何気なく日々見ているものに美がありそれに気づかないのである。

畑で知っている人がいつもいる、ただその人から聞くの畑仕事をする苦労だけである。
それだって別にそれで生活しているわけでもない、趣味なのである。
むしろ金を出してしている、その金を出させられたのが自分である。
トマト五六個もらったがあとは何ももらえないし家で仕事するというのも5,6分なのである。それで金をそれなりに払っている、だから割に合わないとなる

なんか自分は割りに合わないようになった。これまでは三食用意するものがいたが介護になってから食事は自分で作っているし家事も全部自分でしている
誰も自分のためにしてくれる人はいない、結局割りの合わない役が回ってきたのである。人間はつくづくいい役ばかりではない、役というときrollという英語になる、rollingするのが人間なのである。
自分は割りが良かったが介護になってからは本当に割りの悪い役が回ってきたということである。

蔵があり畑があり農家がある、こういう景色が落ち着く、なんかこの辺ではそういう当たり前の景色が失われていたからである。今も全部が回復したとは言えない、
今日は北風が吹いて寒かった。北風が蔵に吹きつけても何かびくともしない重みがある。ただここの蔵は古いというのではない、ただ蔵があるということは何か重みが備わる
でも今はあまり蔵は活用していない、それでも蔵あるのが農家だとなる

新田川の橋の方に行く狭い道路は広くなった。そこにひまわりが咲いていた、広い道路を行くのは気持ちがいい、あそこは狭すぎたのである。
広い道路にはひまわりがにあっていた。ひまわりがあそこには結構咲いていた。
秋から冬にはにあわないがひまわりの写真をとった。
他の人も見にきていた。大きいひまわりが見物だった。
他に農家で薔薇を栽培していた、やはり今は写真の時代である。
俳句にしてもなかなか言葉だけだとイメージできないからだ。

人間はおそらく狭い範囲で生活しているとそこにはあるものに愛着を感じてくる。
日々そこを通り見ているからそうなる、旅だと一過性で終わり記憶から消えやすいのである。記憶に残る、それが生活なのである。

モスバーガーには土曜日なのにがら空きだったのはなぜか?あそこは息抜きにいい、喫茶店で仕事する人もいる
あそこは気楽に入れる、何か店は雰囲気によって気分も変わる、、テーブルや椅子の並べ方でも気分が変わる
あそこは天井が高い、内部がくつろげるようになっている
マグドナルドとかは何か食べるだけというだけで嫌なのである。
今の時代は何か雰囲気が大事になる、食べるだけではない、そういう時代である。







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2016年10月22日

取手から来た歩く旅人 (秋の日に鹿島駅前で話する)


取手から来た歩く旅人

 
(秋の日に鹿島駅前で話する)

 
1871年(明治4年)- 廃藩置県により、常陸国に属した現・久賀地区が新治県、下総国の属した小貝川以南が印旛県に属する。
1873年(明治6年)- 小貝川以南が千葉県に属する。
1875年(明治8年)- 小貝川以南が茨城県に編入される。新治県は廃止され、久賀地区も茨城県となる。
1885年(明治18年)- 地積編成により、取手村と大鹿村が合併して取手村になる。
1889年(明治22年)- 市制町村制の施行により、取手村と台宿村が合併して北相馬郡取手町になる。

取手という地名の由来としては、戦国時代に大鹿太郎左衛門の砦(大鹿城:現在の取手競輪場付近)があったことから名づけられたと言う説が有力ですが、平安時代末の11世紀には、伊勢神宮の 相馬御厨として、取手市周辺がすでに史料に記されており、さらに13世紀になると、稲村、戸頭、高井、大鹿などといった地名も、相馬氏の領地として史料に出てきます。

このあたりが、取手という地名の発祥とも言われています。

鹿島駅前で案内板を見ている人がいた。

「最新必ず退職して旅する人に会います、昨日もここから相馬市まで歩いて行った人がいました、驚いたのは鹿児島から青森まで目指しして歩いた人です、その人も退職した人でした」
「私も九州とか東海道とか中山道とか全国歩きましたよ」
「そうですか、今の60代は元気ですよ、歩くことは疲れると思いますが結構歩いています」
「まだこの辺の浜街道は歩いていないので今回歩いているんですよ、双葉とか大熊辺りは歩けないので残念です」
「ここは相馬市に城跡がありますよ、六号線に道の駅がありそこから分かれた細い道が昔の街道です、そこに松並木が残っています、今はなかなか松並木がないですがあの松並木はいい松ですよ、あそこを歩いてみてください」

その人は何か相当に歩いている、歩いて旅することが老後の仕事にもなっているのか?
とにかくどこにでも退職した人たちが自由な旅人になっていることがわかる。
なにしろ暇あるし金もあるからだ。この前は50日間自転車で旅をしている人だった。
その人はテントを積んでいない、ホテルを泊まりながらの旅である。
札幌から自転車で来た人はテントを積んでいた。そして道の駅にテントで泊まった
67才でそういうことはしにくいがしていた。
ただ思うとフェリーできて八戸で下船して大洗までゆくのだからそれほどの行程ではなかった。数日の行程だったのである。
ただテントに泊まることはあの年では楽ではないと思った。
今日の人は相馬市にホテルを予約していた。なかなかこの辺でホテルに泊まれないからである。その辺は用意周到だった。ホテルに泊まればそれなりに金がかかる。
でも退職した人は金ももっているからできるのである。
ただ退職した人でも問題は体力とか一人旅する気力とかコミニケーション能力がためされる、だから結構楽ではないはずである。

「鹿島の右田浜の一本松見てきました」「あれは高いけど低い太い松が多かった、やはりそれなりに百年とかでも過ぎていたから太かった、松川浦の松はみんな細かったからです」
「津波でも原発事故でもこの辺は大変だったでしょう」
「どこから来たんですか」
「取手です」
「取手というと千葉県でしたか」
「いや茨城県ですよ、それには事情がありました、利根川の関係で改修があって分かれたんですよ」

取手という名前は覚えていた、常磐線で良く電車でその駅を通るからである。
ただそこで盲点だったのはすぐ近くに利根川が流れていた、その利根川のことは電車にのっていてもわからなかったのである。電車の旅は意外と肝心なことを見逃している

「歩く旅は記憶に残るからいいですよ、電車とか車だと記憶に残らない、あとでふりかえっても忘れている、歩いた旅は体で覚えるからいいんです」
「福島県を阿武隈高原を横切り歩きましたよ」
「そうですか、福島県は広い、だから六号線を旅する若者に自転車でも福島県を横断してみろというのですが六号線を走るだけの人が多いです」

福島県を知るにはハマ、ナカ、アイヅとあるとき横断しないとわからない、地理感覚として福島県がわからないのである。その人はそういうことまでしていることは相当に旅している、やはり退職していからけ全国を歩いていているから違っていた。
旅はやはり基本的には歩くことである。歩いて体で知るのがいい、でも車社会だから車にのみこまれる。六号線などはそうである。それで自分は歩く旅はしていないのである。
歩くとなると相当に疲れるだろう。途中でホテルがないと泊まることもできなくなる。
ただその人は電車でもバスでも便利なものを利用している、その中で歩くところは歩いているみたいだ。

ともかく人間は自分のようにこれだけ旅したとしても実際は電車とかなるとまず取手のことは皆目知らなかった。地図で見ると利根川がすぐ近くを流れている、ところが利根川にしてもこれは長い大きな川である。この川のことがなぜ見逃されているのか?
それは今や川は交通路でもない、ただ水が流れているというだけになっているからである利根川は水運があった。ただそういう歴史を知ることは利根川を知るというとき利根川を横切ったとしても橋を渡ったとしてもそれは長い大きな川の一部でしかないのである。
川を知るということはその長さを知るということである。それが日本では外国の川のように水運になっていない、外国の川はみんな水運があり運河のようになっていた。
そして街と街は川で結ばれていた。そこからハンザ同盟とかの商業自由都市が生まれたのである。この川のことを日本人は理解できないのである。
日本にないそうした長い運河のような川とか砂漠とか平原とか草原とかは日本にないのだから理解できないのである。
江戸時代は水運が物を運ぶのに大きな役割を果たしていた。ただ外国のようにもう一つその歴史が見えない、今になると日本の川は急流になったり浅瀬になったりして物を運ぶ船のことがイメージできないのである。外国なら今でもイメージできるからである。
最上川は深いしこれなら船も通れるというのでイメージしやすい、利根川はどうなのだろとうなるとこの川についてはただ電車で横切っただけだから皆目わからないのである。

取手市の歴史にあるように北相馬となり流山市も近いから相馬氏がここで栄えて移動してきた。だから取手でも相馬氏の先祖だから身近だとなる
旅をするというときまず地理を知らないと基本的なことが理解できないのである。
福島県を知ろうとしたらどうしてもハマ、ナカ、アイヅと横断する必要があるのだ。
それはかなりの苦労かある。時間もかかるし歩いたりしたら疲れるから自分は自転車で横断してもしていない。
なぜ自分がこうして旅してきた人とか仕事に来た人でも話をある程度あわせられるのはそれだけその場を踏んでいるからである。それでも日本は広い、だから取手は意外身近なんだけど知らないのである。
そもそも知るということはどういうことなのかというとそのスボットでも知るのにも利根川があるとしたらその利根川の全体の中で取手もあるから知るということは限りなくあるそれで例えその場に行ってもわからないということが多いのである。
今は車でも電車でも一部分を通りすぎるという旅が多いからそうなる。全体からイメージできないのである。

 日既に暮かゝるほどに、利根川のほとり、ふさといふ所につく。此川にて、鮭の網代と云ものをたくみて、武江の市にひさぐもの有り。よひのほど、其の漁家に入てやすらふ。よるのやど、なまぐさし。月くまなくはれけるまゝに、夜舟さし下して、鹿島にいたる。
 (芭蕉、鹿島紀行)

月明かり船の下るや鹿島へと

月見えず闇の深まり帰るかな

夜を船で下り明けて昼は曇り鹿島に詣でて夜は月が見えなかった。その当時は闇は深いのである。鹿島神宮には森があり暗いとなる。その暗さがあって月明かりで船で下ったことが印象的にもなる。月明かりは暗さがなっかたら映えないのである。
今はもう電気の光でそうした月明かりが消されている、東京近辺は特にそうなのである。だから昔を偲ぶことがむずかいしのである。

川上とこの川下や月の友

 今宵は名月。私はこうして小名木川の五本松で川面に揺れる月を眺めているが、この同じ川上には私の心の友もこれと同じ月を眺めているであろう。

 川上で眺めている「月の友」が誰であるかはもちろん分からないが、古来山口素堂であろうといわれている。

芭蕉庵は小名木川が隅田川に流れ込む河口にあり、小名木川沿いには芭蕉の門人たちの家がありました。芭蕉はたびたび船に乗って門人たちの家を訪ね、句会を催しました。

小名木川とう小さな川でも支流であり利根川とつながり舟運があった。江戸でも川船が行き来していた。時代劇の風景は水運が盛んだったことを示している。
写真にもでていたが広々として利根川が満々と水を湛えている、芭蕉が読んだこの句は小名木川とか短い川のことである。月の友といってもすぐ近くだともなる。 利根川は長いとしてもそれより上となると支流で結ばれているから実感がない。外国だったら遠くまで川で結ばれる友となる。それは実感であり違和感がないのである。ただ夜の川を下ることができたのか、月明かりで下ったとなる、月が明るかったからである。
でもなぜそんなに急いでいたのか?夜はやはり何か危険ではないか?
でも月明かりで船で下るとしたら詩的な絵画的な風景がイメージされる

旅の人鹿島の駅や秋薔薇

我が町によれる旅人取手より来るとしばし秋の日暮れぬ

プログはこうしてその時々書くといいのである。引用もしやすい、問題をある場所をどこまでイメージできるかである。この地理感覚がもてない、東京近辺るなると家がたて込んでいたりして昔の風情がなくなっているからである。そうなると昔を偲ぶということがむずかしくなるからである。



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小名木川と芭蕉

東京にもこれだけの歴史があったとしても川も狭いしビルの谷間になっているし昔を偲べないのである。
隅田川は広いからなんとか昔を偲べるが小名木川は狭すぎるのである。

小名木川(小奈木川)は、江戸の時代には「塩の道」と呼ばれ、徳川家康が下総国行徳(現在の千葉の浦安から行徳あたりにあった行徳塩田)から江戸に塩を運ぶために作らせた運河です。描かれている舟は行徳帰りの舟ということです。ちなみに、家康からこの川を作るよう命じられたのが小名木四朗兵衛という者だったことから、この川が小名木川となったようです。


五本松ここに名月や船いずる

江戸時代は江戸でもそこは自然豊なのである。自然と人工的なものが調和していた。だからベニスのように美しい風景になり浮世絵に残されていたのである。今はそうした自然と人工的なものが調和したものが見られない、ビルの谷間で小名木川も死んでいるし松もない。
だから江戸時代の江戸を旅したらそこは今の東京とはまるで違った美しい場所だったとなる。
それはもうイメージしないか限りない、現実にはもうないのである失われたのである。
その場に立ってもそういう風景がないのだから偲べないのである。

小名木川月の写りて五本松芭蕉の友は川の上かな






タグ:取手

秋の短歌(相馬市から家の近辺)


秋の短歌(相馬市から家の近辺)


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玄関に舞いて去りにき秋の蝶

十数個石を並べて秋の風

秋薔薇鹿島駅舎の古しかな

誰か見る路地裏行けば秋薔薇

秋の風ロードに走り鳥の影


城跡に秋の日ざし静なり二人よりにつ歩みけるかな

城跡に石垣残り秋の日のさして偲べる昔なるかな

相馬市に古本一冊買いにけり秋の日のはや没りて暮れにき

宇多川の水清らかに鮭上る実りの季や城跡たずぬ

相馬市の路地裏歩み病院に勤める人の家秋の日暮れめ

今日もまた一羽舞い去る秋の蝶街の通りの静かなるかな

我が庭にジョウビタキ来るかな季節の移り今日感じぬ

青々と野菜の葉広く畑かな秋の日さしてここに育ちぬ

留守にせし部屋に満ちにし百合の香や我が帰れるを花は待ちにき

木の下にあれば木の葉のゆくりなく一枚散りぬ誰か受けとむ

今日もまたこの道行きて一枚のこの葉散りてあわれ深まる


真澄みの空に
鳩の群れ飛び回る
朝日さしまばゆく
地に黄金の実り
そを刈りとる季かな

相馬市は城下町で碁盤の目のような道になる。細い路地が多い。
そこで相馬総合病院でみてもらった医者の人の家が偶然にあった。
それはまちがいないだろう。
別に病院があるのだから医者の家もある。その人たちも住んでいる
でも医者というと病院ではお医者様でありその土地で普通接していない、
開業医は別だけど病院勤めだとその土地に住んでいてもまた別である。
ただ医者でも病院にいるときだけしか見ないからここに家があったのだとなと
不思議に思ったのである。
医者でも相馬市内で生活しているのだから当然だけど何か現代は病院とか学校とか役所でもその人たちが土地の人というよりそういう施設や組織の人間とみる
それからたいだい会社の人間として見ている

江戸時代とかなると農業している人がほとんどでありそれは土地に根ざしている、里の人であり村の人なのである。
まさに土着している人たちである。だからどこの村に住んでいるかでその人を判断していたのである。病院に勤めている、学校に勤めている、会社に勤めている、役所に勤めているとか何かそういうことはなかった。
そんなこと当り前だとかいうけど意外とそれが江戸時代から明治に変わってきて起きたことなのである。

近くの畑に青々と野菜の葉が秋のひざしをうけて育つ、これもまたここに日差しをうけて育つということで売っている野菜とは違う、現代はこういう単純なことが実感できないのである。都会だったら田畑がないのだからまず野菜を育つ場を知らないのである。
田舎だとこの野菜を食べて自分も育まれ生きているんだなとなる
それは復興住宅を作る人たちを見ても感じたのである。
それを作っている現場を知らない、ただ物がどこからでも入ってくる時代である。
そういうことから何か今の社会は様々な問題が生まれる
原発だって東電の人がその土地に生活していた、その時田舎で暮らすことがどういうことか実感する、もし事故が起きてこの土地が放射能で汚されたらどうなるだろうなどと考えたかもしれない、それが東京で暮らしているとわからないのである。

季節は常に変わってゆく、なんか今年は暑くなったり寒くなったり体調を壊す
鮭も上りジョウビタキも来た、これは渡り鳥である。まだこの辺では白鳥は来ていない
猪苗代湖にはすでに来ている
稲穂が黄金色に実る、鳩が群れ飛んでいる、これも気持がいい平和な気分にひたされる
今年は実りがこの辺ではかなりあった。ただ飼料米になるというのもすっきりしないだろう。せっかく作ったものが飼料米ではその米自体が価値がないとみられるのでそうなる
それでも実りがないよりはいいとなる
前は松原があり松原に実りが映えていたのである。それが松は全部なくなってしまった。これもあまりにも大きな変化だったのである。風景そのものがなくなるなど想像もできなかったのである。もちろん村も消失したこともである。

ロードで走ると気分がいい、実りの平野を走る、すると鳥が一瞬飛びよぎる影を見る
まさにこの時自転車と鳥が一体となる、鳥のように走るとはならないが自転車は車と違うから自然と一体化するのである。

日々ゆく道には木の葉が散る、昨日も一枚散り今日も散った。その一枚一枚を感じるというときその木の葉は一人一人の人間のことともなる
なぜなら毎日人が相馬地方でも死んでいるからである。
するとその死んだ一人一人どうだったのだろう、どんな人生を送ったのだろうとか思うのである

鹿島駅舎は明治以来のもので古いという、立て替えられなかったのだろう
ただあのような駅舎は良くみかける、普通あれは駅舎であり変わったものとは思えないし古いものとも思わなかった。でも当時から建てられたまま変わらなかったものだとなる
そこに秋薔薇がにあうとなる、鉄道というとき駅舎にも愛着を感じる
鉄道というのはバスとかとは全然違う、何かそれか生活を作ってきたという感じになる
だから引き込み線があり縄屋とか近くにあり梱包するために使っていた。
自転車屋は駅前にあるのは汽車で電車で運ばれてきていたからである。
前には国鉄の官舎もあったからである。その時代も昔になったのである。
タグ:実り

2016年10月16日

月影の魅力(相馬市の城跡周辺の不思議)


月影の魅力(相馬市の城跡周辺の不思議)

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我が街の細道行きて秋の薔薇一輪あわれ菓子屋のありぬ

満月や平野に実り喜びを分かちあわなむ故郷に住む



秋の城跡

長々と秋の柳のしだれにつ
城跡に秋の日ざしかな
その残れる石垣に偲ぶ昔や
相馬六万石の何か淋しき
その街の細道行きてあわれかな
何か営みのあるべし
街を出て微かに鳴きぬ虫の声
その音に我は耳を傾けしも
芒はなびき所々稲は刈られぬ
五本松に月影の道我は帰りぬ
昔あれ月影に浮かびし城や
そも幻となれやただ石垣のみあり


(城にさす月影あわれ夢の跡)


山本八重(新島八重)が会津鶴ヶ城の開城前夜に詠んだとされる短歌がある。


明日の夜は何国(いづく)の誰かながむらんなれにし御城(みしろ)に残す月影

この歌が月影に浮かんでいる城をイメージしたのか?
会津の城は新しく建てられたからかえって無常観がなくなったのである。
城で昔のままに残っているのは5つつくらいしかないようだ。
新しく建てると何かそれが現実味がなくなる、中が博物館になっていたりしてこれは博物館なのかと思ってしまう。

かえって城もない石垣だけが残っているとそこに無常観を感じる
相馬藩はそうである。天守閣もあったが雷落ちてなくなったとか、何かどういう城があったかもイメージできない、六万石だから大きな城ではないが城があった

何度も書いているけど相馬市の不思議は特に城の周辺の不思議は何なのか?
何かそこが淋しいものとなっている。特に静かになっている
しんみりとしてくる、それが原町では感じない、全く原町では昔を感じないのである。
ただ相馬市でもかえって六号線とか松川浦に行く方になると昔を感じない
新しい街という感じになる。田町辺りまでが城下町の範囲だから昔があったのはその辺までである。

相馬藩だと城跡があってもそこにどういう城があったのかイメージできない、ただ石垣だけが無常に残っているというだけである。
城の魅力は新しく建てられた所にあるとは限らない、石垣だけが残っていてもそこに無常観を感じるとき歴史も感じる
城は常に中心的存在として象徴としてあった。それが明治の時侍はいなくなり城は無用化したからである。この変化も大きかったのである。

昨夜は満月が美しく輝いていた。この辺では浜の方でも今年は実りがあった。
ただ米は飼料米になる、いろいろ風評被害があり売れないからである
でも今年はこの辺は実りの面積はかなり増えた、それで全体的に復興したのかともみる

ともかく月影というとき何か神秘的なのである。月影を感じるには暗ければ暗いほどいいのである。
それで小高辺りは相当に暗いから月影の中に街が浮かぶともなる
何か不思議に感じるだろう。影絵のように街が浮かぶともなる
そんな詩的な幻想どころではないというのもわかるがそういう廃墟とかこの辺をただ面白いから見に来る人も結構いるのである。
現実に廃墟の魅力はそこに人が住んでいたから何か自然そのものとは違うものを感じる

しかしもともと戦前でも大正時代でもランプだった。相当に今より暗かった。
すると月影がさして家の灯であれ街の灯であれともしいものとなる
ただ月影にたよりに歩くことはできる、電気の光りではなく月影の光りで歩いていた。

湯原王(ゆはらのおほきみ)の歌一首

月読(つくよみ)の光に来(き)ませあしひきの山経隔(きへな)りて遠(とほ)からなくに

万葉時代にこういう経験していた。それはさらに暗い時代である。これほど電気の光があり明るいところで暮らしたのはまだ百年くらいなのである。
それまで月の光が頼りだったともなる、都会ではまず月影を頼り歩むなどありえなくなった。すると自然の神秘を感じないで生活している、人工的な電気の光の中で暮らしているのである。これも考えると異常なことなのかもしれないのである。

タグ:月影

2016年10月15日

午後6時交通事故発生



午後6時交通事故発生

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相馬市に行ったら旧街道の細い道で車にテールライトつけろとどなられた。
自転車は車にとって嫌なものである。
突如横切ったりもするからである。今日は暗くなっていたのでそうなった。

そして六号線のサテライト鹿島から八沢浦に入る道を越えた
坂を下る所で交通事故が起きていた。
重症だと言っていた。

あそこは坂を上り下る場所である。それで前の車と衝突したのか?
どこで交通事故が起きるかわからない、意外なところで起きるからである。
あそこは坂を上り下りる所で危険だったのか?

すぐに写真をとった、前がめちゃくちゃに壊れているから相当に激しくぶつかったのである。
自分は自転車は歩道を普通は行っている、街中だとそうはいかないのでやはりテールライトが必要なるようだ。




今回の事故はダンプにぶつかった、何でもヘリで運ばれたという、南相馬市病院のヘリが発着できる、停止できる場がビルの上に作られたからである。
でも救急車でも近いから運ばれたのかと思った。
この辺はダンフが多いから危険なのである。
ダンプの事故は相当にこの辺では起きている
ダンプにぶつかったら本当に危険である。それで前はメチャクチャに壊されたのである。へたすると死んでいたかもしれない事故である。

そして今日はもう一つ鹿島区の千倉でもバイクと車がぶつかる事故があった。
そんなに遠くないところで今日は二つも同時に事故があった。
交通事故はこの辺は増えているから危険である。
なにしろダンプが多すぎるのである。

自転車も夜は危険である。知っている道でも危険である。
歩道を走ればいいが旧道は道が細すぎるのである。
テールライトはすぐにアマゾンで注文した。


タグ:交通事故

2016年10月13日

南相馬市原町区の道の駅で67歳の自転車旅行の人にあう (その人は猛者(もさ)であり冬山にも登っていた)


南相馬市原町区の道の駅で67歳の自転車旅行の人にあう


(その人は猛者(もさ)であり冬山にも登っていた)


この前の自転車旅行の人はバッグをつけていない、ホテルか旅館に泊まっていた。
50日間自転車旅行していてもテントとか荷物がないのだから楽である。
ただ50日間が長いなと思った。

今回の人は北海道の札幌から来た、苫小牧でフェリーで八戸まで来て原町の道の駅に来た何か自転車に詳しい、キャリアーをロードにとりつけるのになく注文して半年か一年かかかった、自分のもロードだがキャリアーつけられない、それから自分の自転車を見て
変速機も軽いものに交換できるという、そこまでできると思わなかった。

どこまでいくのかと聞いたら大洗まで行くという、そこからまたフェリーにのって苫小牧に行き札幌に帰る、苫小牧から北海道には良く行ったけど八戸とか大洗は利用していない仙台から苫小牧とか名古屋には行った
その人はかなりフェリーを利用していた。日本全国自転車でほとんど回っている
自分より相当に上手である。たいして体力あるようには見えない、顔も年とった顔なのである。やせてもいるからだ。でも筋肉はしまっているのだろう。

その人は相当なタフなスポーツマンのようだ。なぜなら冬山にも登って仲間も死んだというからだ、冬山を登る人は並の体力ではない、モサ(猛者)だったのだろう。
なぜならテントも積んでいて原町の道の駅にとまるというからだ。
67歳とかなるとあまりそういうことをする人はいないからだ。
ただ60以降の退職者が良く旅しているから出会う。
今回の人は自転車旅行でも相当に旅慣れている
あの年でテントだと疲れる、自転車旅行はホテルとかに泊まりにくい場合があるからテントを持つのが普通である。
でも年になれば別にホテルでも金あればとまっていい
あの人はテントで道の駅にとまるということはやはりそういう人はまれだろう。

ただ札幌から苫小牧、八戸から大洗となるとそれほどの距離ではないだろう。
ロードだと一日百キロは行くからである。
一週間くらいだとしたら日数的には楽である
でも人間は年取って体力には差があるなとつくづく思う
自分は40代とかでも一日休養をとってやっと行っているくらいだった。
その人は体力もあるがなにかいろいろ器用にこなせる
バスにも自転車用バッグで乗せるというからだ。
人があまり乗らないとできると言っていた。ただそれも交渉が必要でありそういうこともなかなかできる人とできない人がいる
あの人はそういうこともできる人である。

ともかく67歳でもそういう人はいる、退職した団塊の世代はまだ体力がある人がいるしそういう遊びに長けた人が多いのである。
スポーツやっていた人も多いのである。冬山は一番きついのだからやはり体力が違っている、だから自分とはずいぶん違うなと見た
でもその人も最後の旅になるとか言っていたからやはりそういう年になる
何をするにも最後だという感覚になるのである。
それが若い人とは違ったものとなる

ただ札幌に住んでいるということはそこは大都会だから別に北海道でも不便な所に住んでいるわけではない、要するに都会人なのである。
自分は一万の町に住んでいるとしたら田舎人である。だから北海道でも札幌に住んでいるのとそこか離れた辺鄙なところに住んでいる人では全く違った環境に住んでいることになる、この辺では仙台に住んでいるようなものである。
本当に北海道で生活しているとなると牛を飼ったり農業している人が本当に北海道で生活している北海道人となるかもしれない、札幌は都会人なのである。
自転車屋でも大きな自転車屋があるから自転車に詳しくなれるということもある

自分もまた北海道を自転車旅行してたいと思った。ただ何か筋肉痛になったり疲れる
気力も衰えたとかなる、でももう一度北海道走ってみたい、特にロードで平坦な道を走ったら気持ちいいだろとう思う
十年は介護や自分の病気で消耗して時間がまたたくまに過ぎてしまった。
これだけ遊んでも遊び足りない、時間は遊ぶだけでもすぐに尽きる
としたら勤めている人は遊ぶのはほんのわずかな時間しかなかったとなるのだ。
つまり人間の費やす時間はあまりにも限られたものだったのである。
60になって退職して自由になり旅しようとしてもできない場合がでてくる
病気になったり介護になったり何が起きるかわからないからだ。
そして人生の時間はたちまち尽きてしまうのである。


月光る自転車旅行67歳





タグ:自転車旅行

秋の短歌近辺十首 (避難区域の空家の不思議-家が人を待っている)


秋の短歌近辺十首


(避難区域の空家の不思議-家が人を待っている)


真野川の岸辺に男一人いて心にかかる秋なりしかな

同い年死ぬ人二人秋めぐり我が命も長からなくに

はや散りぬ木の葉にあれや仮設住む人も五年や死ぬ人もあれ

五年過ぎ仮設も淋し秋の灯のともるも少なし消えゆく灯かな

群馬より来り働くその人の一年過ぎむ秋となるかな

通りにそ味噌屋の明かり漏れにけり秋にしあれや仕事あれかし

古本を捨てむと思ふも捨てられじしばしまた読む秋なりしかな

我が家を一人守りて秋となる姉と母との我を見守る

人住まず五年をここに淋しかな秋となりしを家族を待ちぬ

小高駅おりてあわれや空家かな誰か住みなむ秋となるかな

新しき家々にともる秋の灯や落ち着く暮らしここにはじまる


秋だと感傷的になる、真野川の岸辺にはベンチがあり誰か座っている、それは地元の人ではないかもしれない,外部から来る人が以前としているからだ。
なんでもないことだが秋は感傷的になる。それで啄木調の短歌ができる
それもこれだけ年になってからである。
だから27歳くらいでこうした短歌を作ってたい啄木が不思議なのである。

二人同じ年の人が近くで死んだと、60代で死ぬ人は一割はいる、すると自分も死を意識する、だから家を整理している、なかなか整理できない、本が意外す捨てられない、本を捨てようとしてその本を惜しんで読んでいた。本は家が傾くほどあったから半分は捨てた、まだ捨てたいが捨てられない、ゴミ屋敷は異常としてもなかなか捨てられないのである。そこには単なるものではない思い出があるからなのだろう。

でも本はなんか買ったけど読んだのだけど読んでいなかった。
これも忘れているのが多いのである。それよりプログでも自分の書いたものも忘れている人間はとはもかく何でも忘れやすいのである。
だから何かとにかく書き記しておかないともう何も残らない、それほど忘れやすい
そしてついには認知症になるとあらゆるものを忘れる、子供の名すらも何かも忘れる、何かそれが極端だけど人間が最後がいかに忘れやすいからを象徴していたのである。

記憶にとどめきれないことは、何でも
この白い紙に書き記すがいい、そうすれば
君の頭が生んだ子供たちはここで養い育てられ
あげくは始めて我が心にあうような思いをしよう
「シェークスピアーソネット集)

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プログなどはこうして日々書いて記憶させておくのにいい、ええ、こんなことを書いていたのか思ったのかとか思い出すのである。それが自分の書いたもののようにすら思えないのである。だから自分の書いたものをまた継ぎ足して新たに書くこともできるのである。
なんか家を考えるとこの辺は奇妙である。小高の駅前でも空家が多い、するとつまり家が住む人を帰るのを待っているのである。家も人が住まないと淋しいからそうなる
家は明らかに人が住まないと死んでゆく、ただたまたま掃除しに来たりしていると荒れてはいない、でも人の住まない家は死んでいるのである。

すでに仮設も五年半過ぎたのである。原発事故などの関連死もあった。でもそれが被害として目立たないのである。原発事故の被害は何か目立たないから外部からたいしたことないじゃないかと見られるのである。一番の被害は故郷に住めなくなったことである。
それも外部から見るとたいしたことじゃないかとなる、別に補償金もらったのだから外に住めばいい、現実に家を建てて住んでいる人も多いからである。

ともかく自分の家でもそうだが家と人との関係というの何かこの辺では考えさせられた。新築の家もまだ建っている、そこに秋の灯がともると何か落ち着く、でも復興住宅もそれなりにできてきたからもうだいたい終わりになっているようだ。
家は今はみんな違った作りである。前は同じような家の作りだったが今はみんな違っている、だから毎日その新しい家々を見て歩いているのである。

鹿島でも通りで店を開いているのは数軒である。味噌屋の明かりがもれてそこは仕事している。
なんかそれだけでも通りがあって活きているという感じになる
でも味噌にしてもスーパーだと種類が多い、自分はダシつきの味噌を買っている、ともかく一人だと何でもめんどうだからそうなる
最近一回相馬市の市でリンゴを買ってもらったがそれがうまかったのでまた買ったら安いリンゴと同じだったのでがっかりした。
それが倍の値段だったのである。そこは地元の市である。そこに地元の産物を売っている
そこで地元の人の会話とか地元のことを知るにはいい、市にはひとのやりとりがある
でも今は全国が世界が競争相手だから農業も厳しいのである。
安いリンゴであり小粒でありなんで倍の値段で買わなきゃならないのかと買う方にしたらそうなる
でも地元産というとき大事にせねばならないということもあるが今はないのである。
そんなこと考える人もいないだろう。スーパーでみんな買っているからである。
昔だったら地元産が多かったのである。農産物はたいがいそうである。すると地元の結びつきがあったのである。
それは高い安いとかではない、地元でとれたものを食べていたから地元を思うとなるのである。

ともかく通りに店もないと通りも死んでいる、シャッター通りにどこでもなっている
なんかそれも地方の衰退である、そういえば秋市なんか昔はあった
そういう時代はやはり近辺の産物が主であり今とは相当に違ったものだったのである。


2016年10月11日

田舎の秋の灯(詩一編)


田舎の秋の灯(詩一編)

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鶏頭の赤さを増して小菊咲く

故郷に三羽ほど舞ふ秋の蝶

ほとけっぽ闇につつまれ雲の間に月の隠れて光り消えにき



田舎の秋の灯

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秋の灯の離れてともる
家居淋しも
草むら深く月見草
我が触れもせじ
草むらに消えぬれ
雲間に月の光り隠れ
星はひそけく煌めきあいぬ
人の交わり熱き交わり
災いともなりて離反する
思いはあれど離れつつ
かそかに虫の鳴き
ひそかに煌めきあうこそよし
死者は静かに眠り騒がず
我が奥津城もそこにあれ
繊々し月は光りぬ

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急に寒くなった。この辺でも原町とか相馬市になると四万以上であり一万の町とはかなり違った雰囲気になる、
鹿島と小高は一万だからにていた。
一万となると街のすぐ外が田畑とか森とか野になるのである。
秋の灯がともっている、川べりの道には草が深く茂り月見草が隠れ咲いている

人間関係はむずかしい、何かしら必ずもめる、女性でもそうだし家族を見ても何か必ずどこの家でももめごとがある。田舎では人間が素朴だなとない、田舎では干渉されすぎるのである。ある人は一人暮らしで四六時中回りから監視されている
畑をしている女性は必ず誰が話しかけて時間をとられると言っていた。
一時間くらい嫁の愚痴を言うばあさんがいるからそうなる
自分は家族がいるとき田舎でも人ととかかわらなかったが介護や病気になってかかわらざるをえなくなったのである。
そのためにひどいめにあったことを書いてきた。

田舎は詩のように静かでいいのだけど人間は何であれ交わりとなると熱くなってもそこに問題が生まれてくる、男女でもうまくいかない、三分の一は離婚しているからである。
離婚していない人でも実際はうまくいってない人も多い
それだけ人間は互いに合わせることがむずかしいのである。男女の関係でもそうだとしたらみんなそうなる
自分の家も死ぬまで事情があってもめつづけていたのである。そして最後は悲劇で終わったのである。

なんか三羽ほど秋の蝶が舞っている、なんでもないんだが秋らしいとみる、三羽でも仲良く舞っているのが平和なのである。鶏頭でもそうだが花と花は何も争うことなく美しく映えているのである。調和しているのである。
ともかくやはり秋は秋らしいのがいい、何か天候が今年は変則的だったのである。
秋は芸術の秋である。頭も冴えてくる、それで詩もできたのである。







タグ:秋の灯

2016年10月09日

秋から冬-墓の短歌(故郷と啄木の函館の墓)

秋から冬-墓の短歌(故郷と啄木の函館の墓)

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高平の五輪塔



ほとけっぽここに眠れる里の人月の繊くもいでて光りぬ

南北朝の謂れのありと五輪塔秋雨ぬれて北風の吹く

白波の寄せて寒しも啄木の墓ここにあり心さわぐも

そそりける立待岬の崖暗く啄木の墓冬にたずねぬ

放浪の啄木の墓函館に冬の海とぶ鴎にそあれ

函館に外人墓地や啄木の墓もたずねて冬の日暮れぬ



墓というときそこは死者を意識する場である、寺内のほとけっぽは杉の林に隠されてわからなかった。
そこは確かに埋葬場であり死者が埋まっていたのである。ただそれも時がたつとわからなくなる、そこに死者が埋まっているのもわからなくなる、一部は畑になっているからその下にも死者が埋まっているのかもしれない、何か不明の石くれの碑もあったからである。となると死者が埋まった土が畑になり野菜を育てているともなる
土の栄養にもなったのかともなる

現代では「里の人」という感覚が失われた。たいがい会社員であり会社の人になっている里の人というときその土地で暮らした人でありたいがい農業が中心になっていたろう。
だからこそその土地と一体となり里の人となっていたのである。
商業とか工業となるなとどうしても土に根ざすということにはならない、外部へと拡大してゆく、行商などで売りに歩くのもそうである。
現代は広域社会でありさらにグローバル化社会である。
この辺で震災や原発事故以後は外部の人であふれていた、日本全国からきているし今も来ている、そういう人は里の人ではないのである。たいがい会社に属しているから会社の人となってしまう。だから故郷と言っても今はその生活が広域的だからこだわらないという感覚になってしまう。

ただ今回発見したほとけっぽはそこに里の人が眠っている、埋まっているということを知って死者を意識したのである。それで月が細く光るというとき意識して光ったとかともなる
墓というときいろいろあるしそこからよみとれるものがある。高平の柳町の墓の五輪塔は南北朝に由来すると原町市の資料の本に出ていたから前に書いたけど再考が必要である。こういう本は資料でも基本的に知っていないとまずかった。
ここからいろいろわかることがあった。

墓で思い出すのは啄木の墓である。その場所が何か啄木にあっている、白波が寄せて立待岬へゆく所にある。
放浪の詩人となるが一家を引き連れて放浪するというのも普通はない、そうなると難民になる。啄木は一家を背負うことになり悲劇となったのである。
啄木は結構世俗とも交われる人だった、だから記者にもなった。
そのことが理解できない、啄木は自然に通じていたことが不思議なのである。
でも三文小説家のような所もあり小説も書いたのである。
いづれにしろ一五才くらいで自然に通じていたということが不思議なのである。
世俗に交わると自然というのは心に映えない、自然は清い心で接しないと写らないということがある。啄木は何かそうでもない、世間と交わり小説家にもなれるような人だったのである。天才となるとやはり普通の人は理解できないのである。

函館には何回も行ったから冬までも行った、なんか自分はただ三〇年間旅行していたのである。函館でも今でもなんかぶらぶら歩いている感じになるのだ。
青函連絡船の時代から行っていたのである。
今ふりかえると不思議に思う、要するにそれだけ暇だったということである。
今になると旅行することが億劫になる、なんか旅行には遊びのようでもそれなりのエネルギーが必要だった。
そのエネルギーは介護十年とかいろいろあってそこなわれた。
ともかく墓は死者を意識する場である。
啄木は函館で死にたかったというからあそこに墓がある。確かにあそこが何か啄木の一生にふさわしい場だったのである。

昨日は秋雨であり今日は一時北風が吹いた、何か今年は変則的て気候なのである。
タグ:啄木の墓

2016年10月07日

南相馬市鹿島区寺内に見いだした共同墓地(仏方ーホトケッポ) (除染のために杉の木が切られて現れた)


南相馬市鹿島区寺内に見いだした共同墓地(仏方ーホトケッポ)


(除染のために杉の木が切られて現れた)

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仏方という字が残っている

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字が薄れてわかりにくくなっていた
仏と読み取れたから想像できた

市の博物館に行ったらここの場所を知っていた
ここは相当に広い森であり埋葬地だったのである
    

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男性の戒名の脇に二人の女性の名

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天保の墓が二つ
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ここのホトケッポは広い、森となっていた



近くにそ埋もれし墓や木の切られ今日見いだされて秋の日さしぬ

寺内に天保の墓二つ埋もれありしも今日見いだして秋の日暮れぬ

新しき家あまた建ちそのかたへ忘れられし碑や秋の日さしぬ

墓一つただ石くれや何語るここに埋もれる里の人かな

我が里に知られず埋もる墓なれや今日見いだして秋となれるも


南相馬市の鹿島区の寺内の杉の木が除染のために切られた、そこに文化財の案内が記してあった。ただその案内の板の字が薄れてわからなくなっていた。
でも仏方と読めてそこは江戸時代からの村の墓地だったのである。
ただ墓地の前は村ではホトケッポという場所に死体を葬っていたのである。
そこには墓はなかったのである。
天保と記した墓が二つあったからその頃から墓を建てた人がいた。それがそれなりに裕福な人である。僧侶かもしれない、不思議なのは信女と一つの墓に二つ記して真ん中に男性の戒名がある。
とすると一人の男性を囲んで二人の女性がいたことになる
これはどういう事情を語っているのだろうか?

何か自分の身の上とにているからこの墓が気にかかった。
自分も60まで二人の女性とともに家族として暮らしていたからである。
「信女」とあるの何かいいのである。戒名は今は必要ない、ただ信女とあるとき信頼できる女性でありその女性と一緒に墓に眠っているというのがいいのである。
今では夫婦で嫁いだ先の墓に一緒に入りたくないという嫁が三分の一くらいいるというのも驚きである。それほど姑嫁問題は深刻なのである。
江戸時代には家族墓はなかった、個人墓かか夫婦墓であり別姓の墓でもある
明治以降・・・家という一家の墓になった。
家族墓というのは明治からはじまったのであり新しい風習なのである。
江戸時代には墓はなかった、村の共同墓地である仏方(ほとけっぽ)に埋めたのである。
だからあそこには死体が埋まっているということを意識せねばならないのである。
ただ全くあそこは杉の林になっていて隠れたいたから気づかなかった。
まず外から見ても墓だったということはわからない、杉の林におおわれていたからである。

意外と人間は一番近くのことを知らないのでる、灯台下暮らしである
今日はその過去を発見したのである。
墓に興味あるのはそこに人間が本当に埋まっているということで単なる書類で過去を確認するのとは違っている、何かなおそこに生きた人がいるという感じになる
だから墓というのはいらないという人もあるが墓が残っていれば過去をそこからイメージするのでてある。
ほとんど人間は死んだらそれは不確かなものとなり本当に存在したのかどうかもわからなくなる、それは死ぬとすぐにそうなる人もいる、全く忘れられてしまうのである。
それは実は60くらいになるともう生きながら忘れられる人も多い
社会から引退して何か仕事もしていないとたちまち忘れられる、人間はともかく忘れられることが早いのである。
自分もまもなくそうなるということをイメージする

人間は何か語り伝えるということも三代目から四代目くらいになるとあやふやとなり伝えられない、特に現代は何かそうして親から子へ孫へと過去を伝えることは希薄になっている、それは大家族でもないし家族が分離しているして村だって昔の村とはあまりにも違う村でもいろんな人が混在しているし職業も違う、すると村といっても形だけなのである。祭りだってもう跡を継ぐ人がいないのである。
つまり村の伝承もなくなってしまっている、長老とかもいないだろう。
その土地土地に歴史があってもそれを語り伝える人がいなくなっているのである。

三里という新しい家々が建って街にもなったすぐ脇でありこれも対称的だった。
新しい街が生れそのかたわらに古い墓が発見される
これが世の中である。古いものもまた大事であり何かを語ってゆくのである
だから古いものも無下に捨てるというわけにもいかない、あそこも更地になるかもしれない、すると過去は完全に消えてしまうのである。
それにしてもあんなところに村の共同墓地があるとは思わなかった。
それは杉の林で隠されていたからわからなかったのである。


新地町仏方


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新地町に仏方(ほとけっほ)という地名があるけど
全国的にはないからこれは相馬地方独特のものだろう

2016年10月05日

秋の蝶(近辺の秋の短歌十首)


秋の蝶(近辺の秋の短歌十首)

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秋の蝶通りに一羽あわれかな


白と黄の菊さす壺に赤き花さして一段と映えにけるかな

真野川の岸辺に今日もちらほらと秋の蝶舞い暮れにけるかな

いつしかに母となりにしその女の落ち着き見ゆも秋の蝶舞ふ

雨しとと秋の蝶舞ふ女一人ここを歩みて去りにけるかな

街の中空家のありぬ誰住むと気にかかるかな秋の夕暮

たまさかに空家にもどる人みかく秋の白薔薇咲くを見ゆるも

我が家の墓そありなめここにしも眠る父姉母や今日も暮る

今なれば災いなきを石二つ庭に静まり秋となるかな

鹿島駅駅舎の古しと駅前の自転車屋語り秋となるかな

我が家も古りにけるかな我が一人もの書く夕べ秋の灯のともる

我が家に一人し住みて猫一匹我を待つかな秋の暮れにき


毎日ほとんど近く行ったり来たりしているだけである。それはすでに介護がはじまって十年はつづいている。
でも介護が終わり死んで楽になったなと思う、だいたい60年も一緒にいた家族がいなくなるということはどういうことなのかわからない、ただ介護は苦しかったから楽になった
毎日一人来る人はいる、何か淋しいということもそれほど感じない
妻を亡くしたよほど一人でいるのが淋しい゛答えるらしい、だから介護する人でもいた方がいいと言っていた。がらんとした大きな家にいるのが淋しいとなる
自分も一時は感じたがそれほど感じない、自分はもともと孤独でありそれほど一人でも淋しさを感じないのかもしれない。
それ以上に介護というのは楽じゃないとふりかえる

同じ場所を毎日通っていてもそれなりに季節が変わる感じるものがある。
今は秋の蝶がちらほらと飛んでいる、通りはほとんど人が通らない、だからその蝶も心に残るのである。都会ではこういうふうに感じることはないのである。
女性でも春の蝶から夏の蝶から秋の蝶、そして冬の蝶とまで変わってゆく
母となった女性は何か違う、落ち着いているので好感をもったりする
短歌は何か女性的な感覚、女性から見た感覚にいい歌がある。
それは何か男性的な感じ方ではないからである。
だから文学面では女性が活躍したのである。

空家が結構多い、街中の空家は売りに出しているものである。
あとは別に空家でも売りに出してはいない、最近は娘の所に移り住んだ人が死んで残された空家で葬式をしたがその家は別に売りに出していない
白い薔薇が咲いている空家はたまに人が来て掃除などしている
だからこういう家は持ち主がいないわけではないから荒れてはいないのである。
たまにきていて掃除などしていれば草茫々にはならないのである。
でもなんか空家に咲いている花というのも不思議だとなる

ともかく自分の家も50年近くたつ、今はこの大きな家にゆったりと住んでいる
自分はこれまで6畳の部屋にいたからこの家でも意外と狭い所に住んでいたなとふりかえる、やはり部屋は広い所がないと圧迫されるのである。

駅前の自転車屋が言っていたけど鹿島駅の駅舎は古い、最初建てられたときから変わっていないという、となると明治から変わっていない、あういう駅舎は今でも多い
とするとそれらは建て替えられない古いものだとなる
自転車屋が駅前にあったのは必ず貨物のため引き込み線が駅にあり荷物として自転車を受け取るに便利だったからである。
その当時車はまだそんなに利用されていなかったからである。車自体がないとういことがあった。それで長々と貨物列車が走っていたのである。

今日は昨日とは違い、涼しい、秋を感じたので短歌も作れた、やはり季節感がないと日本では狂ってくる、感覚的にもおかしくなるのである。

タグ:秋の蝶

2016年09月30日

金木犀(次々に建った新しい家)


金木犀(次々に建った新しい家)

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雨ぬれて石の重しも金木犀ここに匂いて新しき家

次々に新しき家の建ちにつつ誰か住みなむ秋となるかな

秋の夜の灯しあわれも仮設にそなお住む人やまもなく去らむ

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昨日の夕方の雲



新しい家がこの辺では数百軒も建ったかもしれない、その家はみんな違っている。復興住宅も建った、今建っているのは40軒くらいの規模だから大きい
一方仮設の方は住み人が相当に減った、でもまだ住んでいる人はそれなりにいる。二割くらいに減ったかもしれない。

やはり一軒の家をもつことは落ち着く、復興住宅でも部屋が狭いのである。
狭いというのはやはり人間にかなり影響する、最近下の狭い部屋を利用しているので寝ていると何か圧迫されるようで一時胃を悪くした。何か筋肉を痛めたのである。
のびのびとできないのである。部屋が原因でないにしろ狭いと精神にも相当影響する
人間も窮屈になりまた偏屈にもなる。

でも自分は広い部屋に住んでいなかった。6畳の部屋が自分の部屋だったからである。
8畳を利用していた家族が死んだので利用するようになったのである。
4畳半より6畳はまだいい、4畳半は狭く感じる、八畳となると悠々している
天井も高いから寝るとき何か今までとは違う、ゆったりとして眠れるのである。

狭い部屋の市営住宅に住んでいる人は狭い所に住んでみればわかると仮設の人に言っていたがそれもそうである。日本の家はもともと狭く窮屈でうさぎ小屋と言われた
日本は豊かになってたといっても家を見るとまだ貧しいのである。

ただこれからは少子高齢化で空家が膨大になり住まいの方は改善されるだろう。
家や土地があまってくるからだ。
ともかく家は生活の拠点だからそこが整えられないと人間的な生活はできない
どうしてもアパートとか復興住宅でも隣り合って狭いということが問題なのである。

タグ:金木犀

2016年09月27日

実りがもどり秋らしい秋を感じる (日本の美は四季にあることを再確認)


実りがもどり秋らしい秋を感じる


(日本の美は四季にあることを再確認)

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秋あざみ七八輪が同じ場に

外からの来る人へりて燕去る

農家あれ前田に実りもどるかな

萩薄あわれや田舎の道暮れぬ

秋の蝶二羽舞いつつ雨しとと

朝顔や垣根はみだし美しき

図書館の秋や郷土の本並ぶ

図書館に本の手ざわりた秋となる

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南相馬市で贅沢なのは駅前の図書館である、あれには相当な金がかかった、前の市長が建てたことで反対もあった。あのような立派な図書館が必要なのかということもあった。
すでに十何年前とかなるとその時は駅前の活性化のためだった。
駅前はシャーター通りになって淋しくなってしまったからである。
六号線側はレストランが多いし活気がある。喫茶店もあるがコンビニの前るき喫茶店は暗いのである。何か喫茶店は立地が影響する、なぜならただ食べるだけではない、くつろぎたいということがあるからだ。この食べることだけのと喫茶店のような感覚の店とはかなり違ったものなのである。

食べるだけになると何か騒々しくなるのである。軽い食事ならいいが腹を満たす食事になるとうるさくもなるから嫌なのである。
この二つのものはもともと一緒にできないものだったが喫茶店だけではやっていけなくなり喫茶店はどこでも激減したのである。
コーヒー一杯で安いチエーン店の喫茶店は都会にある。
原町のモスバーガーは軽食と喫茶店が融合しているからいい、あそこは本当にわからなかったのが大失敗だった、近くでもこういうことはある

例えばこの辺では医者が少ないがそうした情報も結構わからないのである。
医者となると原町と相馬市になる、それから新地の新しい渡辺病院ができた
でもなかなか病院の情報もわかりにくいのである。
生まれたときから住んでいる場所でもわからないのである。
まず郷土史を興味ない人は故郷の歴史も知らない、石神の人は深野の生まれでも隣が押釜村であることも良く知らない、その名すら良くわからないとかともなる
今の時代は何か外国のことはニュースでも流すから知っていても肝心の隣の村のことは知らないとかなっているのだ。

結局それも広域社会にグローバル社会になったからだとなる、仕事でも復興事業にたずさわったのはほとんど外部の人である。
復興住宅を建てた人は九州から北海道までの会社から来ている、除染関係ならわかるが建物を建てるのになぜそんなに全国の人がわざわざ来ているのかわかりにくいのである
建て売り住宅は仙台の会社の人がきていればわかりやすいし納得する、仙台は仕事でも交流があるからだ。
ユニットバスの工事をするのは仙台の会社である
瓦を直したのはいわきの会社である。その時地元で仕事をしていたが忙しくてできなかった。
ともかくこういうふうに広域化する社会は何か今までの社会とは大きく変わっているのである。
広域化することはやはり地元でもそうであり広域的に働くとなると仕事を求めるとなる地元から故郷から出てゆくということは普通にある

そういう社会であるときどうしても今回のような原発事故のようなものが起きれば離散しやすい、外に出やすくなる、それは津波の被害地でもそうであり人口が流出して離散してゆくのはそういう社会だからでもあった。
なぜなら三陸では明治の大津波でも今回と同じような被害があっても漁業するために人はとどまり住んだからである。要するに漁業を生業としているからその土地を離れられないのである。今なら広域的に仕事を求めるからそうはならない。
ただこの辺で漁業関係者が成り立っていたのは補償金を事後前も事故後ももらっていたからである。あれだけの被害でも経済的には以前として恵まれたものだったのである。

ただ人間は生物の一種だからやはり樹や石のように定着して生を深めることができる
文明はエジフトのピラミッドのように定着しないと生まれないのである。
遊牧民から生まれない、なぜなら一つの場所に長く留まらないと何でも構築できないのである。
つまり何かを作るにしても時間がかかるし何かを自然を理解するにも時間がかかるからである。


俳句にすると秋あざみは同じ場所に七八輪咲いているというだけで何が芸術なのかとなるでも地元に定着してみるとき何か味わい深いものを感じるようになる
秋あざみが今年も同じ場所に咲いているなとなる、それは人間を見ている、同じ場所にやはり人間が住んでいるなともなる
あまりにも変わりすぎたらそういう感覚がなくなるのである。旅は変わりすぎて深く見ないのである。特に現代は早すぎるから事物を良く深く見ないのである。
だから記憶に残るものも少なくなる、今からするとせっかく旅してもったいないとなった
ともかく今日も蒸し暑いけど秋にはなっている、萩薄というとき秋の七草であるが女郎花は見かけない、この辺は荒地になったこともある。七草はみんな咲いている所は田舎でもなかなかないだろう。これはやはり日本的美的感覚なのである。

薄というとき何か老人の白髪に見えるのである。そして萩というときは優雅な花であり宮廷にもにあう花である。
そして垣根からはみだして咲く朝顔が美しい、それは木とマッチしているからである。
外国だとこういう風景はなかなかない、塀は完全に外界から見えない防壁になっているからだ。的に侵入を防ぐものだからである。日本では垣根だというときそれほどの外敵に備えなくてもいいということがあった。外国のように絶えず異民族と戦うということがなかったからである。垣根からはみだして咲く朝顔には何か日本的なもの感じる
日本の自然の美しいのは四季があるからである。それは都会では味わえないのである。
ただ一時この辺は原野化したから実りの稲穂がなくなったから秋の感覚も消えたようになった。今は実りもかなりもどったので日本の秋らしい秋を感じたのである。
タグ:日本の秋

2016年09月21日

秋の日に高倉から小高に行く (小高に帰っているのはほとんど老人だけ)


秋の日に高倉から小高に行く


(小高に帰っているのはほとんど老人だけ)


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高倉の奥の一軒家

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安政の墓や古りて実りかな

虫の音や高倉に残る老夫婦

秋日さし旧街道をたどりゆく


隣家の庭に朝顔咲くを見つ雨しととふり家にこもりぬ

夜のふけて鈴虫すみて鳴きにけり星も清らにきらめきまたたく

ワレモコウ秋薊咲き野菊かな実り戻りぬ村一つすぐ

駅前に花植え飾り揚羽蝶舞ふも淋しも小高の通り

人住まぬ家のありにし誰住むと小高の街や秋となるかな

小高にそ人の帰りぬ少なしも通りに人や秋となるかな

イノシシの街中歩むと今はなし人のまばらに帰る街かな

モスバーガー中に休みて花映えぬふ安らぐ一時ここに得しかな

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昨日は雨であり一日こもっいるほかなかった。隣家の庭に朝顔が咲いている、秋の雨がしとしとふる、窓からその花が見える、別に隣とは仲悪いわけでもないし話もしているからいい、隣とは何かもめやすいことがある。ただ隣でも実際は花だけを見ていれば問題ないとなるのだ。


高倉から小高に行ってきた。安政の墓というのがあった、木幡家であり安政から墓碑が記されていた。高倉には老夫婦が残っている農家がいた。
実りがあるというときそれは江戸時代からつづている。実りの中に墓があるというときそれは継続を意味しているのである。だいたい墓地は必ず江戸時代からはじまっている
なんらかそこが墓がないとしても人を葬った所なのである。
田舎では実りがないということは生活の継続が絶たれることなのである。
それはただ米を収穫して食べるということだけではない、生活の文化の継続ともなっているのである。だからこの辺では原野化したときはそれがなくなったからとまどったのである。原野化したなかに墓がある風景は何か歴史の継続を絶たれた風景だったのである。

ワレモコウに秋薊に野菊が咲いて実りがあって何か田舎は調和している
山側にゆくとまだまだ原野が多い、それでも実りは増えてきた。
山からおりてきて浜街道にでる、秋の日がさしてその道をたどり小高に出る
ただ旧街道というときはわからない、いろいろな新道ができて旅に出たときはわかりにくくなる。ここだってここが旧街道と意識しないかぎりそう思わないのである。
ただ漠然としては昔の道はわからないのである。
自らが意識させない限り昔をたどることはできないのである。
浜街道はいつも意識しているから地元でわかっているから秋の日がさして近くでも旅した感じになるのである。

小高の駅前の希来というところでおばあちゃんがいたので話した。
結構長くいた。

「人が帰っていますか」
「そこの家は子供いて鹿島まで通わせている」
「そうですか、子供もいたんですか」
「帰って来ているのはほとんど年寄りだな」
「人は前よりいるみたいだけど」
「それでも淋しいよ」
「年寄りは若い人が帰ってくるというけどどうかな」
「なかなかむずかしいな」
「年寄りだけ帰ってきてどうなるなのか、街が成り立つのか」
「あそこもあそこの家も帰ってきているのは年寄りだけだよ」
「確かに前よりは住んでいる人がいるみたいだけど」
「それでも少ないよ」
「なんか知り合いの女性が夜が暗くなるので嫌だと言っていました」
「それは言えるな」
「夜に来てみると灯がともることでどれくらい住んでいるからわかる」
「夜は淋しいよ」
「なんかここに来てみると帰る気がなくなるのがわかるな」
「私も帰るけど帰るのは老人だけだよ」
「今はどこに住んでいるの」
「原町の仮設だよ」
「原町だったら便利だから帰りたくなくなる、家も建てた人もいるしな」
「そういう人もいるな」
「それにしても家が空いていることがもったいないんだよ」
「誰か住めといってもな」
「市の方では空家バンクで住まわせようとしているようだが」
「イノシシが前は通りに出てきていたよ」
「誰も住んでいないと家が荒らされる」
「ハクビシンとかも出てきて家にすみついた」
「山の方で50匹もの猿が出ていたとか」
「空家にしておくのは良くないよ」
「駅前に花植えてきれいでいいよ,蝶々がとんでとまっていたよ」
「小高には高校もあって駅を利用する人がいたからな」
「鹿島よりはにぎわっていたんだよな」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

駅前の希来というところでずっと話していたら確かに前よりは住んでいる人もいるし車の通るのも多い、ただ店は開いていないから同じである。
コンビニ一軒と双葉食堂は繁盛している、除染関係の人が寄っているからだ。
双葉食堂は鹿島の仮設でも繁盛していた、ともかく外にいつも並んでいたからである。
小高でも昼間は10人も外で並んでいたから同じだった。
メニューはでもラーメンとうどんしかなくご飯はないのである。
それでも四人くらいで客をこなしていたのである。
ともかく前よりは人が住んで人がいるからいいが何か老人だけでありこの先どうなるのかという不安があるしそれは予想されたことだった。
でも全然子供がいないというわけではない、前は街から離れた所に帰る高校生もいたからである。でもあれだけの空家があり住まないともったいないと思う
ただ来年の三月には仮設も撤去しはじめるので家ある人は帰らざるをえなくなるだろう。そこでまた変わってゆく、でもなんか以前として小高に行ってみると帰る気がなくなるというのが現実なのかもしれない、市の方でもみなんに帰ってもらいたいのである。
そうしないと市の方でも困るので桜井市長が帰って復興に力を尽くしてくれと言うようになった。そして市の方でも小高が負担になる、財政的にも負担になる
そのことで南相馬市民全体の問題として小高がある。
ただ浪江であれ双葉であれ大熊であれ原町の復興住宅に入るようになったというとき広い原発事故の被害地として共有しているのである。
だから原発事故は一地域の問題ではなかったのである。

帰りは原町のモスバーガーで休んだ、あそこに20年も知らないのは大損失だった。
喫茶店として利用できたからである。最近喫茶店がない、食事するのではなく軽いもので何か話したりする場が必要なのである。そういう内装になっている
もう喫茶店だけではやっていけない、でも前からあそこは喫茶店としても利用されていたのである。
喫茶店があるとしたら何か街中というより景色のいいところで休めたらいい。何か自分は今までも喫茶店で思索したりしていたからである。
盛岡は喫茶店がいい場所にあった。川が二つありその側にあったからそれが付加価値をもたらしていたのである。
あそこは景色は良くないにしろ花が映えていたから安らぐ所だった。


2016年09月19日

秋の長岩(八沢浦の長岩は松は消えたが残っている) (人が住みその長岩と一体となる)


秋の長岩(八沢浦の長岩は松は消えたが残っている)


(人が住みその長岩と一体となる)

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この時はまご松だ残っていた、今はない


八沢浦八景(長岩の晴嵐)  雲晴れて入日移らふ長岩の松にしぐれを誘ふ浦風


長岩の津波のあとにも残りつつ住む人あれや秋となるかな

長岩の松はなしかもなお残り住む人あれや秋の日暮れぬ

八沢浦湊部落の消えにけり誰か訪ねむ秋となるかな

八沢浦妙見の社あわれかな津波の後にその跡とどむ

海老の浜たたずみあわれ家もなし悲しむ人のなおありしかも

海老の浜津波に残る樹のあわれ痛々しくも傷痕とどむ


津波から五年半すぎたけどなおその傷跡は深い、ここで家族を失った人はやはりまたそうでなかったものとの差も大きいのである。
それは地元でもそうである。結局人間は人の悲しみとか苦しみを自ら経験しない限りわからないのである。自分も十年間苦しんできたけどほとんど他人はそのことをわからない
それはみんなもそうなのである。他人の苦しみにはいろいろありわからないのである。
あの人何苦しんでいるとなる、一人暮らしの人はあんたは家に介護する人でもいたんだから良かった、誰でもいた方がいいんだ,自分は誰もいないから不幸だという人もいる
介護したことがないからそう言っているのである。
他人の苦しみはいろいろあり他者からわかりにくいのである。

津波から5年半過ぎてもなおお悲しんでいるとしてもなかなかわかりにくいのである。
ただ時間が過ぎるとまた状況も変わってくる、八沢浦の長岩は八沢浦八景の歌として残っている、その岩は津波の後も残っている、ただ松は枯れてなくなった。
長岩の松として歌われていたその松は消えたのである。
おそらく右田の一本松も宣伝しているが枯れてしまうだろう。
海老の浜にはまだ津波にも残っている枯木が痛々しくある
右田浜は工事で変わり果てて家があったこともわからなくなる
海老浜はまだ家が多かったからここがその跡だということは近くの人は感じる

ともかく長岩が残りあの近くに人が住んでいた、あの辺は人の住めない地域だが人が住んでいた。畑がありそこに人がいた、暮らしがそこにあった。一部に実りももどった
でも津波が来た広い範囲にはなにもない原野である。
妙見の社があったがあれば明治維新後武士が入り祀った場所である。
明治行こう400人以上の武士が開墾に入った、中には北海道に移住した人もいた。
城勤めの人がそんなにいたのかとなる、ほとんどは郷士であり農民だったのが相馬藩だからである。ただ飯館村の飯樋(いいとい)には60人もの役人が塩を扱っていたからそれだけ役人が相馬藩でもいたのである。

いづれにしろ人間と風景とか自然と一体となっているのが田舎である。
自分はそこに一番魅力を感じてきたのである。都会では高層ビルとかと一体となるのか?
あんなもの見上げて生活して死ぬのは嫌だなとなる
つまり自然とアイディティテイ化することが本来の人間なのである。
だから長岩が江戸時代から知られていたというときそこに住む人もその岩と一体化するのである。長岩が津波の後にも残りここにまた暮らしがもどったなと感じるのである。
それはここだけではない、津波の被害にあった広い範囲でそういうことがあり原発避難区域でも起きているのである。
暮らしがまたもどればまたその自然も活きてくるのである。
普通はなにもなければそういうことは意外と意識しないのである。
津波とか原発事故は何か悲劇だったのだけど何か大事なものを意識させたことはあった。故郷など当たり前にあるのだけどそれも意識されてそのありがたさを知るとかなった。
そうなるとこの辺はやはり今までとは違う意識でこれから生きるということはありうる
故郷は大事なものなんだなという思いがここには受け継がれるということはありうる

2016年09月17日

秋の蝉(十年以上買物が仕事だったー昨夜は一六夜)


秋の蝉(十年以上買物が仕事だったー昨夜は一六夜)

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一六夜の月


秋の蝉なお一つ鳴き買い物に

一面に夏菊や蝶三羽舞う

家事十年男一人やめぐる秋



秋の蝉一つ鳴きにつ買い物に男一人の暮らしやあわれ

十六夜の月の薄雲に光るかな無月の後に微笑むごとく

微笑みつ去りにし女の面影や十六夜の月雲間に光る


買い物というとき介護の前からもしてたから20年くらいしているかもしれない。
家事というとき意外と料理が主だと思っていたが実際は買い物が主になる
何か料理するにしても材料を買う必要があるしいろいろ買わねばならない
すると今は買う種類が多いのである。どこになにがあり何を買っていいかとなる
それが一番わかりにくいことだったのである。

自分が仕事したというときこの買い物だったのである。だから買い物難民とか言われるけど買い物が不便なところは現代では苦しい、だんだん体が弱ってきたら近くにスーパーがないとまた苦しくなる、何かやっと歩いているような老人も買い物に来ているからである手押し車でも買い物に来ている人はいる、自分の母親90過ぎてもそうして買物していた。
ともかく家事というとき買物が一番時間がかかる、特に介護のときは買物から何からいろいろあったから忙しかったし時間の余裕がなかった。何かにいつも追われていたのであるただ人間は人の苦労がつくづくわからないのである
知り合いの人は妻が死んで一人暮らしであり大きな家にいるから淋しいといつも言っている、そしてあんたは介護している人でも家にいたから良かったんだよと何度も言うのである。

それは妻を介護する経験をしていないからなのである。こういうことは常にある
仕事だった人の苦労など経験してみないとわからないのである。
なんか自分は主婦ではない主夫になっていたのである。
その知り合いの人は買物はせずに親密な女性に頼んでいる
何か男が買物や家事を嫌うということは前はあった
そんなものは女性がするものだというのがあった。
でもその人は糖尿病だから手のこんだ料理はしている、自分はほとんど買ったものですましている、料理は女性でもうまいへたがあり簡単にできないものである。

朝顔に我は飯食う男なり 芭蕉

朝顔というのはイメージすると妻とかの女性なのかもしれない、でも一人身だから淋しく黙々と飯を食う男なんだとイメージする、何か人間は男女があって調和している
女性がいないと男性だけだと淋しいものとなる

ともかく秋になった、十五夜には月が出ない無月だった。昨日は一六夜(いざよい)であり薄雲に満月が光っていた。最近は曇りがつづいている
なぜいざようなのか不思議である。

ほほえみつ去りにし女の面影や十六夜の月雲間に光る

これってもしかしたら恋の歌なのか?女性の魅力は何かこの微笑みにある。
ただ肉体的なものにあるだけではない、肉体と関係なく人間には女性を慕うものがあるのかもしれない、男女の関係はやはり死ぬまで消えないものなのだろう
若いときはどうしても肉体的なものを求める、それでかえって覚めた眼で女性を見れないのである。

ガラス越し身をきよらかに照らしゐる十六夜の月は香のある如し      小林みどり

これは女性的な感性なのだろう、月に香りを感じるということはそんなにないだろう。
いざよいはいざなうでありいざなうには女性が男性をいざなうということがあるかもしれない、女性の微笑みもそうである。

タグ:一六夜の月

2016年09月14日

秋の蝉(末期の目で見る自然ー自然な死を受け入れる)



秋の蝉(末期の目で見る自然ー自然な死を受け入れる)

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蝉一つ死して拾いぬ里の道

秋の蝉今年もここに鳴きにつつその声聞きつここに死になむ

夜をこめてしきり雨ふり虫の鳴く声のひびきつ朝明けむとす

白々と木槿の咲きて雨しとと今朝の静かに我死なむかな


我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れてゐる。所謂いはゆる生活力と云ふものは実は動物力の異名に過ぎない。僕も亦人間獣の一匹である。しかし食色にも倦あいた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう。僕の今住んでゐるのは氷のやうに透すみ渡つた、病的な神経の世界である

芥川龍之介の末期の眼というけど35歳で自殺した、その年で末期の眼とかあるのだろうかそれは無理をしたものである。ただ天才となると凡人にはわからないものがある
啄木の不思議は27歳であれだけのものを短歌を書けたのかということである。
それは老境のものだったのである。20代でそんなふうになるはずがないのだが結局死というものを明確に病気で感じたからそうなった。
だから若いから延々と死の未練を歌ったのである。やはり自然な死ではないからそうなった
ところが人間もやはり60代とか70代となるとだんだん死というのが自然なものになってゆく、

しかし食色にも倦あいた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう

このことが自然な死を受け入れる一番の要因になる、人間の命はやはり本能であり欲望があるからつづいている、それは個々人で差があるが欲望の強い人は老人になっても本能的な欲望は消えない、かえって熾火(おきび)のように燃えあがるのである。
だから週刊誌で老人の性の特集をしているのである。
人間の本能というか動物の本能でもそれだけ強いものであり簡単に消えないものである。人間はともかく快を執拗に追求しているのである。老人になるとかえって食にこだわる。こってりしたものは食べないにしても味にこだわる、これも快の追求なのである。
それが本能であり生きることだからである。まず誰も苦を求める人などいないのである。
ただ人間の自然な死はありうる、やはり人間の動物の本能が消えてゆくと自然な死にいたる。ただ人間の場合は本能というか動物的欲というかそういうものだけではない、様々な欲がある、名誉欲とか名声とか何かそういうものを求めるのが動物と違っている。

人間は老人になれば人によるが自然な死に向かう、すると末期の眼で自然を見るようになる、今回の短歌でも別に自分が今すぐ死ぬわけではないが何か死を受け入れて自然を見ているのである。別に病気でもないし死期が近いわけではないがやはりだんだん死に向かう心境になる。
だから死に場所を意識する、動物が象などが死に場所があり死ぬときそこに行くということはやはり本能的に死を意識するからだろう。猫も死ぬときは消えるとかいうのもそうかもしれない。だからそういうふうに人間は死期を迎え自然に死を受け入れて死んでゆくのがいいのである。

そうはいっても現代の問題は死というのがどうしても病気になると苦痛があり簡単に死ねない、そして延命治療などほどこすと最悪である。死にたいのに死なされないというのは最大の苦しみを与えることにもなるからだ。
だから自分の母親は百歳まで生きて何か苦痛もなく死んだから最後だけは望みがかなったのである。眠るように死にたいといつも言っていたからである。
百歳まで生きるとなると老衰だから苦しみがないのである。
人間はその前になんらかの病気になり死ぬのである。母は病気が死ぬまでなかったのである。

つまりもう60代は元気だけど70代以上になると高齢化でも死を意識するし死が身近なものになる、そこで死に場所が問題になるのである。
意外とこのことが見逃されている、死ぬのはどこでもいいとはならない、やはり長年なじんだ場所に死にたいとなる、故郷で死にたいともなる、それでこの辺は原発事故などで住めなくなり他に移り老人には酷だったということは確かである
そういうことを親に対して気づかう人もないだろう、親を故郷で死なせてやりたいと思う子供がいるだろうか?
それは別に原発事故がなくても親と子が離れて住んで最後は故郷ではなく子供のいる所で死ぬ人も多い、近くではそうだった、葬式のために一時もどってきたが子供の住んでいる所で死んだのである。その人も長年親しんだ故郷で死にたかったかもしれない、ただ別に故郷でなくても長年親しんだ所ならいい、それがたいがい相当な老人になり体が不自由になってから子供の所に引き取られるからその精神的負担が大きくなる

いづれにしろ自然な死を精神的には受け入れるようになる、でも肉体的にはそうはいかないのが問題なのである。死んでもいいなと思っても肉体が生きていれば生かそうとするのが現代だからである。そして家族を二人看取ったが簡単に人間は死なせることができない、延命治療だといっても認知症でも人間は馬鹿になったともいえない、人間として生きているし時々特に最後は正常になることがある。それが怖いと思った。
これも不思議な現象だった。人間が生を全うするというときそういうふうに最後までわからないことがあるからましてや他人の医者やその他の人で簡単にもう死んでもいいだろうともならないのである。社会的には延命治療など金がかかるからさせたくないということがあるが家族にするとそうでもないのが矛盾なのである。

とにかく自然な死を受け入れるばそんなに生に固執しなくなり死んでゆく
でもまだまだ自分がすぐ死ぬということではない、ただそういう心境になったということである。

2016年09月10日

(秋の蝉)南相馬市原町の市街から高倉ー押釜を回り帰る (高倉村では紙漉きが行われていた)


(秋の蝉)南相馬市原町区の市街から高倉ー押釜を回り帰る


(高倉村では紙漉きが行われていた)

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この地図は覚えていた方がいい
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綿津見神社


草茫々刈る人老いて夏の暮

草うもる高倉の墓地夏の暮

流れ落つ清水を沢蟹這いのぼる

高倉や清水にうたる蟹一匹

夏草に馬頭観世音旅の人

秋の蝉鳴きて淋しや旅の人


高倉の街より離れあわれかな秋の蝉なく声ひびき暮る

バス停の目印とあれ歩みつつ秋の蝉なき夕暮るるかな

四方より蝉鳴く声のひびきつつ我が歩むかな秋の日暮れぬ

押釜と奥にしあれや古き墓地野馬追いにいず郷士棲めるも

紙漉きを営めると昔水清し高倉村や秋となるかな




今日は高倉から押釜回り帰ってきた。帰ると7時すきているから暗くなる
前は介護していたから常に早く帰らねばならないとなるからこの辺の近くすら行けなかった。今はいつ帰ってもいいから余裕がある。

高倉の農家の人は草刈りしていた。辺りは草茫々である。若い夫婦はここを出て帰らないという、何か市街の方に出たのではなく、南相馬市を出たらしい、原町でもろくな会社がないからだとか言っていた。
姑と一緒にいるのも嫌だったしこれ幸いと出て行ったとかも言っている
あそことても田んぼにできる場所ではないだろう。
あそこから飯館村の長泥(ながとろ)に出るがそこは帰還困難区域に指定されているから入ることはできない、高倉ダムの方にでる、良く前は行っていたがここにも十年間くらい行っていないのである。
高倉の歴史は明治以降開墾に入った地域かもしれない、綿津見神社があるとてしてもその由来が良くわからない、月山大仏とか石碑にあった。妙見の徴も屋根にあったから明治以降かもしれない、明治以降武士が開墾に入った地域かもしれない

高倉村からは野馬追いに4騎出ていた。押釜村は14騎だからなぜかここがそんなに多いのかとなる、

産馬、養蚕、抄紙の三事は組合村の業なり、紙は押釜村ヨ推し十八戸あり、高倉村ヨ最とす・・と大須賀巡村雑記に記されている

紙を梳くのにいい川があり水があるから紙漉き、紙作りがあって生活が成り立っていた。石神村にも紙漉きをしていた家があった。これは意外と忘れられているのである。
相馬市の山上にも紙漉き沢という地名があるから紙漉きが行われていた。
紙漉きが山の村の産業だった時があったのである。
紙漉きというときこれも自然と融合した生活だったのである。
清い水が必要であり材料となる樹も必要でありそれが近くにないとできない
今だと大量生産の工場となったが昔ならこうして山村でもその回りの資源を利用して生活になっていたのである。そういう村であってこそ村だったのである。
そういう村の方が魅力あるとなる、ただそうはいっても現実その暮らしは紙漉きにしても厳しいとなる。

 10月から越年の春ころまでの冬場を中心とする農閑期に、凍り付いたような水にさらし、長時間の作業が続く。しかも、江戸時代から、この仕事は女性のやるべきこと、とされてきた。しかも、零細な家内での仕事なので、とくに主婦や娘への負担が増す。男も次第に加わるようになる。
 さきにふれた「養女奴隷」への負担も、そこに発した仕組みであったし、年季奉公人という徒弟制度から抜け出せないのも貧困から始まっていた。

 津和野藩では、「養女奴隷」のような記録は見当たらなかったが、奥に隠されていたことかもしれない。ただ、凍るような水に手を入れ、深夜に至る長時間の作業のつらさは語られている。また、コメとしての納税ができなければ、和紙で代替させ、のちには大坂屋敷などで換金しやすい和紙を貢納させることにもなっていった。紙の仕入れは当初、商人の手で行われていたが、藩の有力な収入源とわかる17世紀中ごろからは「紙専売仕法」を定めて藩の独占事業にしてい

『紙漉きになるつもりじゃなかった』

 何か自分は過去になると江戸時代でもロマンチックにイメージするが実際はこれほど厳しいものであり奴隷労働が行われていた。これも意外だった。醜い少女がこの場合は良くて丁稚奉公のように奴隷のように使われた
一方できれいな少女は遊女に売られていたという現実がある
こういうことは今でも最貧国に行ってみればわかる、江戸時代とにているからだ。
でも山にそうした暮らしがあってこそ村も成り立っていたということもイメージする
でも米が納められないから紙漉きだと紙で納めるということもあった、つまり貧乏なときは税金でも過酷になるのである。

そういう税にしても直接的にずっしりと重いものを感じるのである。
つまり江戸時代は子供でも働かせられていて丁稚奉公に出されたとか女の子でも過酷な労働を強いられていたのである。最貧国では子供も労働させられているし子供が多い方がいい、男の子がいいというとき労働力になるからである。労働自体が過酷だったのである。まず紙漉きするような家には嫁さえ来ない、奴隷のように養女をもらって労働させていたのである。

石神で紙漉きをしていたという農家に嫁いだ女性は華奢であり力仕事などできないだろう第一そこは農家ですらない、会社員の家だったのである。
今になると紙漉きをして都会から移住している人もいる。かえってそういう仕事にも憧れ人もでてくるが現実は厳しい、そうして作られた紙だとすると高価であり貴重なものだとなる、捨てるのももったないとなるのは当然だったのである。
紙というのは戦前でも貴重だった、鉛筆でも短くなって使いないくらい短くなっても使っていたのである。物はなんでも貴重な時代だったのである。
こんなに物があふれた時代はなかったのである。これほど物を粗末にする時代もなかったのである。

皇居歌会始め 入選歌

どの家も 紙漉く夜なべ終えたらし峡(かい)を流るる 川音きこゆ

1968年(昭和43年)


ここにこんな歌がでていた。夜なべとういことは夜まで仕事していたのである。ただ昭和43年では戦後二十年でありその頃紙漉きしていた家はなくなりつつあったろう。
でもどの家もとあるからまだしていたのかとなる

そこで今回あったのは何か陶芸をしている人で蛇を探しているという、蛇の鱗が模様として参考になるというからそんな人がいるのかと思った。仙台から来た人で仙台からくる人には良くであう。街の近くにこういう流れがあるのだから夏でも涼しい
一軒家がありその脇を水無し川が最近が雨が一杯ふったので気持ちよく流れている
あそこはイオンからさほど遠くないのである。写真とらないのが失敗だった

今日は山の方で自転車がパンクして歩いた、相当な距離を歩いた、でも歩くということは自転車の感覚とは違う、自分は歩くたびはしていない、そこで歩いてみたいと思った。
鹿児島から青森まで歩いて旅するという人には驚いた。
歩く旅は自転車で感じるのとも違う、だから今の時代は歩くということは新鮮な体験になったのである。
相馬市から鹿島まで旧街道をたどり歩み、次は小高まで歩み鉄道が小高まで通ったから電車で帰るのである。これでも旅なのである。
ともかく介護が終わって余裕ができた、だからまだそんな計画をするようにもなったのである。ともかく昔のことは歩いて生活していたのだから歩いてみないとわからないのである、旅だって歩いてしていたのだから歩いてみないと旅のこともわからないのである。







2016年09月09日

実り(秋らしくなり里に実りが回復した)


実り(秋らしくなり里に実りが回復した)

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我が里に実りもどりぬ秋あざみ

橙(だいだい)の夏菊映えて街の中

陽も落ちむ空に広がるうろこ雲


留守にせし部屋にさしおく菊の花その女見えじひそかなるかな


実りも日に日に色づいて色が濃くなっている。今年は相当実りの範囲が広がった。去年はまだまだだった、5年過ぎて実りの範囲が拡大した、まだ荒地化している所も多いことは多い、でもなんか我が里にも実りがあるなと感じるようになった
実りがもどったという感じである。
第一かえって津波が襲った海側は田んぼの区画を広くして今年は実りがある
塩分なども表面の土をとったから影響なかったのだろう。
田んぼからみるとかなり復興したとはなる

どうしても田舎だと田んぼがあり稲穂があり実りがないと田舎という感じがしない
その実りはただ鑑賞するものではない、この土地に生きるものを支えるものである。
ただ実際は地元の米よりスーパーでいろいろな米を買っているのである。
自分もそうである。地元の米を今は食べていない
それでも震災の時物資がこの辺では二週間くらい入ってこなかった。
その時自分は二週間くらいたまたまあった米を炊いてノリくらいのオカズでしのいでいたそして米が足りなくなったときこの辺で古米を無料で配ったのである。
それで助かったということがあった。郷倉というは飢饉に備えて米を蓄えていたのである
人間は何かこうした災害や緊急のとき遠くの人が助けてくれるのかと不安になる。
グローバル経済になり広域経済になってもそうである。

今も岩手県の岩泉とかで豪雨で孤立して道も遮断されて助けに行けないと行っている
この辺も二週間くらい放射能が怖いと物資が入らなかったのである。
その間をしのぐのが結構大変なことなのである。
水道さえも壊れたところがあり水をもらいに行っていた人もいた。
だから我が里に実りがあることは心強いことなのである。
ただそれは一時しかしのげない、米くらいはあってもその他はとてもたりない
地元で野菜作っている人を知っているし金銭的に応援しているがそこでとれのはほんのわずかである。トマト十個もらったが他は何ももらえない、何かあってもとてもそこでは何の用もたせない、ただ一家族くらいなら用がたせるということはあるがそれでもたりない

人間は村も必要だが街も必要である。街がなかったら淋しいだろうなと思う
自分の街は街とも言えない、一、歯医者4軒とかあるから飯館村とかよりはいいとなる
隣に4,5万の市があるからそこに行けば街の雰囲気が味わえる
橙色の夏菊が街ににあうのである。街ににあう花はある
ただもともと自然に花はにあうから街ににあう花は少ないだろう
今は街がないということは相当に不便であり淋しいものとなる
ただ情報的にはほとんど不便感じなくなった。インターネットがあるからそうなる
買い物もできることが前とは違っている
ただインターネットの買い物は注文したものと違ったものが来たり失敗がある。
でもいいものも買えるので便利である。
今は生活が多様化しているから買い物は近くだけではたりないのである。
自転車関係の備品とかはこの辺では売っていないからである。

家を留守にしていたら菊の花を部屋さしておいてあった。その女は去っていた。
花は買ってきてもらっている。菊の花であり何か秋を感じた。
花だけさして去ってゆくというのも奥ゆかしいものを感じる
その女はそんな人ではないけど何か不思議な感覚になった。
家に入る人はまず信頼が第一である。
でもそういう信頼を築くことが時間がかかるし大変なのである。
それで自分はひどい目にあった。家捜しされて大損失だった
一年以上つきあい信頼関係ができれば安心になる
まず十年とか手伝いしているなら信用されていることである。
自分は何か手伝ってもらっているとういものでもない
ただ出入りを自由にしているという感じである
家政婦として今雇うなら20万は必要である。
自分は家事は全部自分一人でしているのである

今日も午前中は暑かったが昼間からはうろこ雲が広がったから秋になってゆく
ただまだまだ残暑が今年は厳しい





タグ:実り

2016年08月31日

夏の暮(栃窪から飯館村へ) 飯館村の塩の道の旧家の人に話しを聞く


夏の暮(栃窪から飯館村へ)

飯館村の塩の道の旧家の人に話しを聞く

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飯館村へ

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あいの沢

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秋薊

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なんか淋しそう

草野の塩の道


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養蚕した兜作りの家

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斉藤家の蔵

ここは昔旅館だったという、9代つづく古い家

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飛んでいた蝶

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屋敷林木陰の長く田舎道

栃窪に実りもどりぬ古碑一つ

上流の木陰の深く黒揚羽

秋出水激流轟き動かぬ岩

朝の蝉ひびくや清水流れ落つ

飯館に入るやあまたソバナかな

秋めきぬ雲や峠を越えるかな

一歩一歩峠越えるや山の蟻

峠越え遠山望む夏の暮

紋様のめずらし蝶二つ夏の暮

夕暮れや石の五つや秋薊

飯館に木の実あまたや夕暮れぬ


一本の松の変わらずここに立ち道の徴(しるし)や夏の日にゆく

飯館の塩の道来て九代をつづくと蔵あり夏のくれかな

一本の樹のここにし年輪を刻むや長く夏のくれかな

塩の道穂芒あわれ我が帰る斉藤家の蔵我があとにして


今日は涼しいので一年ぶりとかで飯館村に自転車で行ってきた。これまでは日差しが強く行けなかった、今日は日差しがさほど強くないから楽だった
YAMAHA ヤマハ ロードバイク YPJ-Rは坂が急だと役にたたない、馬力が出ない、だから歩く他なかった。なだらかな坂ならいいが急な坂、長い坂はほとんど役にたたない、すぐに電池が切れる、だから坂がつづく長距離では役にたたない
帰りは電池は切れても下り坂だから良かった。

栃窪では実りがもどっていた。栃窪は古い碑の村である。奥州栃窪村と金比羅に碑を奉納したらしい。金比羅参りしてその碑が多いのである。
ここの碑は古峰の碑だろう。とにかく実りが回復したときこの古い碑も生きるし村も生きてくるなと見た。村は全体としてあり田んぼがあって実りがると全体が生きていることを感じる、workingしていると感じる、全体としてトータルなものとして村が生き返る回復したと感じる

飯館村に入るところでソバナの花があまた咲いていた。何かこんな素朴な花が飯館村にはあっていた。秋めいていて涼しいのが良かった。電池がきれるしさほど働かないので歩くほかなかった。まさに山の蟻である。前は坂は自転車を押して歩いていた。
この自転車はまず坂には弱い、坂を上る馬力がないのである。
あそこの峠道は長いから苦しくなる。

飯館村の状況がどうなっているのかたまたま家の前にいた人に聞いた。
そしたらそこは塩の道でありその家は九代つづいている古い家だったのである。
飯館村で草野は古く今でもこの近くで四騎くらい出ているという。
江戸時代からの歴史がある村なのである。
塩の道は作見の井戸の所を通る道でもあった。草野の自動車道路はあとからできた道なのである。それは六号線ともにている。
意外とこの道の新旧とか村の新旧もわかりにくいのである。飯館村でも開墾に戦後入った人たちも多いからわかりにくくなるのである。ただ草野は古いしその家は古い、その辺りの家も古いことがわかった。
そこで今の状況などの話を聞いたがそれはあとにしよう。
その塩の道をたどり帰ってきたが暗くなってしまった。

2016年08月28日

白木槿(いい思い出を残すように勤めよー人生は短い)


白木槿(いい思い出を残すように勤めよー人生は短い)



しとしとと小雨の降りて白木槿庭に咲きつつ事もなしかも

介護せし部屋に我あり母なおあれや白木槿咲く

思い出のこもれる家や我が一人継ぎてありしも秋雨のふる


ここ十年は本当に苦しかった。でも今は楽であり余裕がある,母を介護した部屋にいて書いている。しとしとと秋の雨が降っている
白い木槿がぬれている、ただそれだけのことだが何か患いがないということに幸せを感じる
そして家族が二人死んだが思い出となるだけである。

でも自分は一番良くしてもらったから介護して良かった、二人とも喜んでくれたし自分でも恩返しできて良かったと今では思っている、つまり苦しかったけど今になるといい思い出になったなと思う。
苦しいこともやがては思い出となり笑い話にすらなるのが人間である。
ただ人間はつくづく良い思い出を作るように生きねばならない
それは子供時代でも少年じだいでも青年時代でもそうである。
結局自分は学校ではいい思い出が作れなかった、集団生活になじめなかった、我がままに育ったこともある。

少年であり青年であれいい思い出をもった人は幸せである。でもこの時代は欲望がふくれあがる時代だからなかなかいい思い出はもていなのが多い
必ず若気の過ちがあり後悔しているのだ。それがあとになると大失敗だったと気づくのである
なんらか罪を犯さない人はいないのである。だから青春時代というのはふりかえると大事だった、あとはなにか変化のない延長だった、自分の場合は家庭環境で隠者になっていたニートみたいなものだろう。ただその頃はニートはいないからアウトサイダーとなる
これも実際はふりかえると危険だったし社会性が欠如するとか問題があった。
そのために介護十年して苦しんだのである。
ニートとか無職とかが今やどこにでもいて普通になったけどこういう人は何かおかしくなり自分のように最後の方になると塗炭の苦しみにあうことは間違いないのだ。

そもそもではいい思い出とはなになのか?例えは何か悪いことしたり良心にはじるようなことをしたらそれがいい思い出になるだろうか?
それはその時はいいにしてもあとで苦い思い出となってしまうだろう。
すると成功して大金持ちになっても人生をふりかえりいい思い出をもつのかとなる
現実はそんなことよりみんな金持ちになりたいのである。
それは良心にはじることをしてもそうなのである。だから人間は悪魔に変身するのが多いのである
自分のところに来た親戚がそうだった。事業に失敗して借金して自分を苦しめたのである悪魔に変身したのである。
もしその人が来て本当に苦しいとき助けていたらいい思い出になっていたのである。
それが正反対となり自分は恨みまたは怒りともなっている
ただ不愉快だけでありその人を思い出すと今でも怒りすらこみあげてくるのである。
また近くの人に犯罪にあったということでもそうである。
その人とも近くで会うから腹ただしくなるのである。

結局人間はいい思い出というのはまれなのかもしれない、不愉快な嫌な思い出の方が多いのが人生である。それだけこの世は愛情ある人は少ないと非情の世だからともなる
一人だけいい人だったなという女性がいた、その人は死んだが墓参りを自分はしている
そういう人はまれだということである。
何か昔もそうだから金の切れ目が縁の切れ目となりやすい、金を得ればあなたは関係ないというのが日常である。
自分は家族は複雑だったけどそれなりにいい思い出となっている
自分にとっては悪いことがあってもいい方が多かったのである。

今は秋雨になって涼しい、今日は一日かたづけしていた。いくらかたづけしてもかたづけきれない、料理から掃除から着るものから本の整理からパソコンの中の整理もなかなかできない、整理が一仕事なのである。余裕がでてきたからなんとかこれから順次整理してゆく゛もう余計なものを捨てるほかない、そしてなるべく身軽にする
家すら何か重荷になってしまう。小さい家ならいいが大きい家は重荷になってしまう。
死ぬときは何にもいらないのである。むしろ金はあってもいい、かさばらないからである遺産として残すのにも家や土地よりはいい、何かあること自体負担になるのである。

タグ:良い思い出

2016年08月23日

朝の蝉(家事は自分でできるが女性は必要)


朝の蝉(家事は自分でできるが女性は必要)

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この農家の前は稲穂が実り前にもどった
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元は養蚕の家でありそのまま住んで直した

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この猫は大人しい性格である。なんか自分とにている
石に座るのもマッチしている



朝の蝉近くの女の今日も来る

養蚕の兜作りや木槿かな



実りそむ稲穂に芙蓉農家一軒元にもどりぬ

黒揚羽一羽とまりぬそのあとに木陰の石に猫の休みぬ

出水の流れの早し燕飛び雨に打たれて我も行くかな

台風の雨に打たれて風たたく我が家を一人継ぎて守りぬ


今は家事は一人でもできる、機械がやるし料理でも買いばでとる、野菜をとることには注意している、たいした料理もしていない、別にそれでも栄養はたりている
その証拠がこの暑いのに食欲なく胃が悪くしていたのに太っていたことである。
自分は相当にやせたと思っていたからである。
何か今は栄養をジュース類でもなんでもどこかでとっているのである。
家事は昔のように女中など雇う必要がない、みんな機械がしてくれるからである。
だから一人暮らしでも困らないのである。それで結婚しなくてもいいという若者も多くなる原因の一つである。

結婚するとなにかとめんどうになるし負担が増えるからである。まず結婚したら芸術活動とか知的作業と学問とかなんかそういうものを追求するのはむずかしくなる
それだけそこに時間がかかるからである。家族に妻に子供に気を使っていたら時間がとられできない、結局何度も言うが人生は時間の配分で決まる
何に時間を使ったが人生なのである。最後になればそれが馬鹿でもわかる
なんで馬鹿なことに時間を費やしたのかとなる、それを痛切に感じるのは老人になり時間がなくなるとわかるのだ。
若いときは時間がいくらでもあると思っていたのである。時間をつぶすのに苦労していたのである。その時間がたちまち過ぎてしまう。そして時間はもうないのである。
今や砂時計の砂がおちて残りわずかだということを日々意識する、砂が落ちてなくなったとき死なのである。

お前は旅ばかりして遊んでいただけではないかと外から見る人がいるだろう。
でもふりかえると自分は旅することは仕事だった。旅は自然でも歴史的なものでも見ることに集中しないとあとは何も残らない、つまり相当な集中力が必要なのである。
自転車旅行になるとこれも体力がいるし苦労だった
旅するだけでも人生はたちまち過ぎる、この旅だって会社勤めならできない
それで退職してからその鬱憤を晴らすために鹿児島から青森まで歩いて旅したとか
自転車で50日間も旅したとかそれもテントがないからホテル泊まりでそうした退職者もいる。旅する時間がないから自由になりそういう人が60代以降に増えてくるのである。

人間の時間は限られている、恋愛するにも結婚するにも家族をもつだけでそれだけで時間がとられてしまう。そうなると他の活動は本当に制限されてしまうのである。
何か芸術であれ学問であれ何であれ趣味さえ追求できないのである。
だから芸術家の80パーセントが独身だったというのがわかる、家族をもったら集中できないからである。

ともかく家事に費やされる時間ははぶかれた、でも家事をする女性の仕事がなくなったかというとなくならない、女性は必要なのである。

「愛妻を亡くした71歳は語っています。さらに「女の声を聞きたい、女と話したい。男友達はしょせん『友情』どまり。女の細やかな『情愛』に触れたかなあ。自分の気持ちをオナゴと分かち合いたい。…」

一人になればこういうことなのである。それを痛切に感じるのである。
夫婦で妻が死んだ結果、80くらいの夫が取り残されてその不満から祭りがうるさいと火炎瓶を投げて怪我させた、そういうことに男はなる。

だから自分も家事をしてもらうというより毎日女性が来るだけで慰めになるから金を払うとなる、家事は自分でできるからである。
ただ一人はいろいろと困ることがある。だからその苦労を書いてきた。
家を維持することが容易ではないのである。台風の雨に打たれ風に吹かれ家を維持する
この家も50年近くになるから歴史を刻んだ、介護の十年もこの家とともにあった。
病院や施設も利用したがやはり家が中心だったのである。
このように家はそれぞれの歴史を刻んでいるのである。
そこに家の重みがある、そもそも家であれ家族であれ地域であれ社会であれ一代では築けない、代々苦労して築かれたものなのである。そういうのが故郷でありそれが失われることは原発避難区域でも一から始めることになるから辛いとなる。
結局老人になれば過去を語り自分はここでこう生きてきた苦労したということを次の代に語りそれが受け継がれることがいいのである。
それがたたれると存在意義すらなくなる、東京辺りに避難した小高の人が施設で死んで小高に帰れずに死んだとかあり孫が墓参りしていた。
これは悲しいことだったとなる、補償金もらってもその穴埋めはできないことは確かである。



タグ:一人暮らし

2016年08月16日

お盆終わる


 お盆終わる


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涼しさや月の写れる沼一つ

芙蓉咲くその花見てそ帰るかな


一時はにぎわいにけりお盆かな蝉鳴く声の墓地にひびきぬ

我が墓に花挿す人のありしかな誰とも知らずうれしく思ふ

我が家に帰りて待てる人もなし壺にさす菊映えて待つかな


近くの墓地でもお盆以外は閑散としている、そして生きた花はさされていない、ということは墓参りはたまにしかしないのである。
自分は毎日墓の前を通るから淋しいと思い生きた花をさしている
ただ花は枯れやすいので造花をさしているのが多い
その造花も何か嫌なのである。花はやはり生きた花がいいのである。
その生きた花が死者と通じるということがある。
いつもさしている造花は墓参りしない死んだ花である。

つまり墓も近くで身近でないと活きたものとならないのである。
一年に一回くらい墓参りに遠くにゆくとなると何か墓も死者も遠い感じになる
だから墓守となると墓地の近くに住んでいないとできない
近くだと死者もともに生者とと生きているという感じになる
特に街中にある墓地はそうなるのである。
自分の場合は毎日自分の墓の前を通っているからである。
誰か自分の墓に花を挿してくれた、多分姉が保健婦の時世話した人だろう
あの人だけはいい人だった、一番世話した人は最悪だった
借金だけを病気の時要求してきたからである。
死後までそうして花を挿したり墓参りしてくれる人はよほど誠実な人である
人間はたいだい薄情であり死んだら縁も切れるのが多いからである。

ともかく自分が生きている限りは家でも墓でも以前として死者も生きている
でも自分が死んだらそれもなくなる、この辺でまた空家が一つ増えた
なんか跡継ぐ人がいないのである。全国で800万軒の空家があるという驚きである。
それだけ今の時代は少子高齢化であり跡継ぎがないから何でも家でも墓でもあとをどうするかとなる

墓参りというときお盆というとき遠くから来る人が多い
この辺では仙台が多い、仙台に移り住んだ人が多いということである
墓はだから維持するのがむずかしくなる、それだけ今は広域に人が散らばり住むようになったからである。
でも死者が江戸時代あたりでは山に眠り春には田植えの時には山に下りてくるという葉山信仰とかは死者が死んでも故郷というかその地域に以前として生きているという感覚になるからいい、死者はその土地に長く生きていれば以前としてそこに留まり生きている感じになるからだ。都会だったらそういう感覚はない、ビルの一角にアパートのような狭い所に閉じ込められている、そういう区画した墓がありそれも嫌だとなる
死者が生き続けるというとき故郷が土地がないとき生きてこない、死者を思うときその生きた土地から思うからである。
だから故郷を喪失することは実際は何か人間の根源的なものをアイディンティなるものを失ったとなるから深刻なのである。
ただ若い人はあまりそう考えないかもしれない、便利であればいいというだけで移住した老人は簡単に移住できないのはそうした深く故郷とアイディンティを持つようになったからである。
故郷は別に生れた所ではない、長く住んでいれば自ずとそうなってゆくのである。

あそこの沼も沼らしくなくなったのが残念、近くに家が建ち変化してしまった。
この辺は自然まで変わっている、沼でも自然のままにあれば情緒があるがなくなった
自分の町は都会化したがこれはもともと田舎過ぎたからこの変化は良かった
でも自然があれば安らぎがある
芙蓉が咲く時期である。この花はおおらかであり好きである。
自分は神経質すぎるからである。自分は太った女性が精神的にはあっている
なんかなごむからである。
人間つくづく借金しているような家には行きたくない、こっちまで重苦しくなるのであるそれでずっと自分は苦しめられてきたのである。
あの家の人のこと思うだけで苦しくなるし憤りさえ今でも覚える
結局人間は平和が何かわからないのである。
借金している家には平和はない、病気している家にも平和はない
そういうものがないとき平和なのである。芙蓉のように咲いているのが平和なのである。この辺では当たり前のことが自分の一身上でも失われたし全体でも失われたのである。



タグ:お盆

2016年08月10日

5000キロ自転車で走ってきた老人 (元気な老人に元気ない若者?)


5000キロ自転車で走ってきた老人


(元気な老人に元気ない若者?)

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5000キロ駆けぬけて来ぬ夏の暮

5000キロ駆けて我が町夏燕

街道や木槿の咲きて夕暮れぬ

街道の道の細しや木槿かな

六万石城跡あわれ木槿かな

六号線鳴きあう蝉のひびくかな

ミンミンの高くひびきて六号線

五本松夕蝉鳴いて帰るかな



今日六号線であった人には驚いた。自転車で5000キロ走ったという、日数は50日間であり一日百キロ走っているという、普通のマウテンバイクでありテントなどは積んでいない
京都から走ってきた、イワキの方に行けるかと聞いてきた。
今日は原町に泊まる、年は60代だろう、退職した人だろう。
そんなに休みはとれないからだ。前も鹿児島から歩いて青森までゆく人にも驚いた。
その人も退職した人だった、何か退職するとこうして今までできないこに挑戦する人がいる、60代でも元気な人は元気である。そういう人が結構多いのである。
自転車、バイク、車の旅があるが自転車は一番きつい。
バイクなどは若者に多いけど楽だなと自分も自転車旅行したとき見ていた。
若者だったらもっときつい旅したらいいのにと思う


今の世の中高齢化社会というけど元気な老人も多い、特に60代には多い、団塊の世代が入っている、60代は相当にアクティブである。スポーツが好きである。
でもこのレベルになると自分も経験しているからすごいと思う
何か一カ月走ってくらくらしてやめた。この人はホテルに泊まるだけでも相当な日数であり金もかかる。老人は金がかかるというよりもう体力があることの方が大事になる。
自分も百万かかってももう一度ヒマラヤに上りたいとなる
なぜならそれが最後だともなるからしたいことをして死にたいとなるからだ。
この気持ちが若い人にはわからないのである。したいことをしないで死ぬことは最悪である。だからこそ退職してから自由になりこういうことに体力がある人は挑戦する

なんか今はこういう老人を見ると若者より老人が元気だなとつくづく思う。
全国で旅行しているのは退職した老人が多いのである。
そして若者と比べるとこうして自由に旅している老人などが最後に人生を謳歌していて
若者はただ働かせられているだけだとか老人のために税金をとられているだけだとか嘆くこういう老人を見てうらやましく思っているのである。
老人は若者であり若者は年寄りだということさえ見受けられる社会なのである。
若者だったらもっと無謀なことをしてもいいが何かそれもない、犯罪であったがそれも介護施設とか知的障害者にその無謀さは向かった、介護とかで働かせられている若者の不満も大きいし何かそれが老人に向けられてくる
だから若者と老人を比べると今の若者は損だとなる。

ひさしぶりに相馬市に行った。このころ異常暑かったがだんだん気温が下がり自転車で走り安くなるかもしれない,自分も今度買った電動自転車のロードで走ってみたいと思った本当に行くとしたらこれが最後かもしれない、この自転車が軽く走り安いし意外と荷物は乗せられないが長距離向きだと思ったからである。
だからスイスイ遠くまで走ったら気持ちいいだろうなと思った。
お盆にもなりなんか秋めいてきている、でもまだまだ今年は暑さがつづくみたいだ。
街道の道はソバナとか木槿がにあう、五本松は二本枯れていたのが残念

タグ:自転車旅行

2016年08月09日

暑さー鶏頭の花(詩)


暑さー鶏頭の花(詩)


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朝の蝉農家の人の朝仕事

土ならし土台を築く暑さかな

新築の家のあまたや夏の月

数十輪芙蓉になごみ合歓も咲く


今日も暑い、蒸し暑くはない、クーラーしていると横になるといつのまにか眠ってしまう何か暑いときクーラーの中は眠くなる、それでいろいすな夢を見る
津波の夢も見たし何かいつも旅行している夢を見る、要するにぐっすりと眠りが深くなっているのだ。暑すぎたり寒すぎると人間は眠くなるみたいだ。

土をブルドザーでならしまたは人の手でもしている、この辺では以前としてどこかで家を建てている、その人を見ていると暑いだろうなと思う
これは深く読めば土台を築くとは人生の土台を築くとも見れる
ただこうして家を土台から作るのを毎日見ていると家は土台を作るときから始まっているここは建て売りであり手きたものを買ったとき作る場面を見ていないとその家のありがたさを感じないのである。
考えてみると何か野菜でも何でもあらゆるものがあっても作る現場を見ているというものがほと:どない、ただ金を出せば物が買えるという消費社会は何か労働の尊さというか苦労が見えないのである。
そのことから物も大事にしないとかいろいろ問題が生れる
昔は物が作られる過程が見えた社会だったろう。
ものの価値は作られる過程を知るとわかるからである。

秋になるとお盆の頃、鶏頭だが今日買った、この鶏頭の赤さは不思議である。それは写真でも表現できない赤さである。すべて写真で表現できない
その独特の感じを表現できない、それは人間の心に通じているからである。
人間の心はすべて目に見えるものとして表現はできない
赤い花はいろいろあっても鶏頭の赤さは何か不思議である。


鶏頭

その赤さはなにぞ
内からにじみでる赤
人柄がにじみでるような赤
大地から湧く赤
誠実なる赤
死者となお交わり
そを仏前に添える

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死者は何も語らない、でも何もないものなのだろうか?
そうとも思えない、死者は何も語らなくてもこちらを生者を見ている
花を献げ供え物をして死者と交わる、今年は母の新盆なのである
なんか家族が二人死んで死者を思う、死んでからも死者を思う
そういうことが人間の繰り返しであった。生きていた人は死に死んだ人を想い
まだ自分も死んでゆくのが人間の生なのである。







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