2016年09月21日

秋の日に高倉から小高に行く (小高に帰っているのはほとんど老人だけ)


秋の日に高倉から小高に行く


(小高に帰っているのはほとんど老人だけ)


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高倉の奥の一軒家

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安政の墓や古りて実りかな

虫の音や高倉に残る老夫婦

秋日さし旧街道をたどりゆく


隣家の庭に朝顔咲くを見つ雨しととふり家にこもりぬ

夜のふけて鈴虫すみて鳴きにけり星も清らにきらめきまたたく

ワレモコウ秋薊咲き野菊かな実り戻りぬ村一つすぐ

駅前に花植え飾り揚羽蝶舞ふも淋しも小高の通り

人住まぬ家のありにし誰住むと小高の街や秋となるかな

小高にそ人の帰りぬ少なしも通りに人や秋となるかな

イノシシの街中歩むと今はなし人のまばらに帰る街かな

モスバーガー中に休みて花映えぬふ安らぐ一時ここに得しかな

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昨日は雨であり一日こもっいるほかなかった。隣家の庭に朝顔が咲いている、秋の雨がしとしとふる、窓からその花が見える、別に隣とは仲悪いわけでもないし話もしているからいい、隣とは何かもめやすいことがある。ただ隣でも実際は花だけを見ていれば問題ないとなるのだ。


高倉から小高に行ってきた。安政の墓というのがあった、木幡家であり安政から墓碑が記されていた。高倉には老夫婦が残っている農家がいた。
実りがあるというときそれは江戸時代からつづている。実りの中に墓があるというときそれは継続を意味しているのである。だいたい墓地は必ず江戸時代からはじまっている
なんらかそこが墓がないとしても人を葬った所なのである。
田舎では実りがないということは生活の継続が絶たれることなのである。
それはただ米を収穫して食べるということだけではない、生活の文化の継続ともなっているのである。だからこの辺では原野化したときはそれがなくなったからとまどったのである。原野化したなかに墓がある風景は何か歴史の継続を絶たれた風景だったのである。

ワレモコウに秋薊に野菊が咲いて実りがあって何か田舎は調和している
山側にゆくとまだまだ原野が多い、それでも実りは増えてきた。
山からおりてきて浜街道にでる、秋の日がさしてその道をたどり小高に出る
ただ旧街道というときはわからない、いろいろな新道ができて旅に出たときはわかりにくくなる。ここだってここが旧街道と意識しないかぎりそう思わないのである。
ただ漠然としては昔の道はわからないのである。
自らが意識させない限り昔をたどることはできないのである。
浜街道はいつも意識しているから地元でわかっているから秋の日がさして近くでも旅した感じになるのである。

小高の駅前の希来というところでおばあちゃんがいたので話した。
結構長くいた。

「人が帰っていますか」
「そこの家は子供いて鹿島まで通わせている」
「そうですか、子供もいたんですか」
「帰って来ているのはほとんど年寄りだな」
「人は前よりいるみたいだけど」
「それでも淋しいよ」
「年寄りは若い人が帰ってくるというけどどうかな」
「なかなかむずかしいな」
「年寄りだけ帰ってきてどうなるなのか、街が成り立つのか」
「あそこもあそこの家も帰ってきているのは年寄りだけだよ」
「確かに前よりは住んでいる人がいるみたいだけど」
「それでも少ないよ」
「なんか知り合いの女性が夜が暗くなるので嫌だと言っていました」
「それは言えるな」
「夜に来てみると灯がともることでどれくらい住んでいるからわかる」
「夜は淋しいよ」
「なんかここに来てみると帰る気がなくなるのがわかるな」
「私も帰るけど帰るのは老人だけだよ」
「今はどこに住んでいるの」
「原町の仮設だよ」
「原町だったら便利だから帰りたくなくなる、家も建てた人もいるしな」
「そういう人もいるな」
「それにしても家が空いていることがもったいないんだよ」
「誰か住めといってもな」
「市の方では空家バンクで住まわせようとしているようだが」
「イノシシが前は通りに出てきていたよ」
「誰も住んでいないと家が荒らされる」
「ハクビシンとかも出てきて家にすみついた」
「山の方で50匹もの猿が出ていたとか」
「空家にしておくのは良くないよ」
「駅前に花植えてきれいでいいよ,蝶々がとんでとまっていたよ」
「小高には高校もあって駅を利用する人がいたからな」
「鹿島よりはにぎわっていたんだよな」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

駅前の希来というところでずっと話していたら確かに前よりは住んでいる人もいるし車の通るのも多い、ただ店は開いていないから同じである。
コンビニ一軒と双葉食堂は繁盛している、除染関係の人が寄っているからだ。
双葉食堂は鹿島の仮設でも繁盛していた、ともかく外にいつも並んでいたからである。
小高でも昼間は10人も外で並んでいたから同じだった。
メニューはでもラーメンとうどんしかなくご飯はないのである。
それでも四人くらいで客をこなしていたのである。
ともかく前よりは人が住んで人がいるからいいが何か老人だけでありこの先どうなるのかという不安があるしそれは予想されたことだった。
でも全然子供がいないというわけではない、前は街から離れた所に帰る高校生もいたからである。でもあれだけの空家があり住まないともったいないと思う
ただ来年の三月には仮設も撤去しはじめるので家ある人は帰らざるをえなくなるだろう。そこでまた変わってゆく、でもなんか以前として小高に行ってみると帰る気がなくなるというのが現実なのかもしれない、市の方でもみなんに帰ってもらいたいのである。
そうしないと市の方でも困るので桜井市長が帰って復興に力を尽くしてくれと言うようになった。そして市の方でも小高が負担になる、財政的にも負担になる
そのことで南相馬市民全体の問題として小高がある。
ただ浪江であれ双葉であれ大熊であれ原町の復興住宅に入るようになったというとき広い原発事故の被害地として共有しているのである。
だから原発事故は一地域の問題ではなかったのである。

帰りは原町のモスバーガーで休んだ、あそこに20年も知らないのは大損失だった。
喫茶店として利用できたからである。最近喫茶店がない、食事するのではなく軽いもので何か話したりする場が必要なのである。そういう内装になっている
もう喫茶店だけではやっていけない、でも前からあそこは喫茶店としても利用されていたのである。
喫茶店があるとしたら何か街中というより景色のいいところで休めたらいい。何か自分は今までも喫茶店で思索したりしていたからである。
盛岡は喫茶店がいい場所にあった。川が二つありその側にあったからそれが付加価値をもたらしていたのである。
あそこは景色は良くないにしろ花が映えていたから安らぐ所だった。


2016年09月19日

秋の長岩(八沢浦の長岩は松は消えたが残っている) (人が住みその長岩と一体となる)


秋の長岩(八沢浦の長岩は松は消えたが残っている)


(人が住みその長岩と一体となる)

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この時はまご松だ残っていた、今はない


八沢浦八景(長岩の晴嵐)  雲晴れて入日移らふ長岩の松にしぐれを誘ふ浦風


長岩の津波のあとにも残りつつ住む人あれや秋となるかな

長岩の松はなしかもなお残り住む人あれや秋の日暮れぬ

八沢浦湊部落の消えにけり誰か訪ねむ秋となるかな

八沢浦妙見の社あわれかな津波の後にその跡とどむ

海老の浜たたずみあわれ家もなし悲しむ人のなおありしかも

海老の浜津波に残る樹のあわれ痛々しくも傷痕とどむ


津波から五年半すぎたけどなおその傷跡は深い、ここで家族を失った人はやはりまたそうでなかったものとの差も大きいのである。
それは地元でもそうである。結局人間は人の悲しみとか苦しみを自ら経験しない限りわからないのである。自分も十年間苦しんできたけどほとんど他人はそのことをわからない
それはみんなもそうなのである。他人の苦しみにはいろいろありわからないのである。
あの人何苦しんでいるとなる、一人暮らしの人はあんたは家に介護する人でもいたんだから良かった、誰でもいた方がいいんだ,自分は誰もいないから不幸だという人もいる
介護したことがないからそう言っているのである。
他人の苦しみはいろいろあり他者からわかりにくいのである。

津波から5年半過ぎてもなおお悲しんでいるとしてもなかなかわかりにくいのである。
ただ時間が過ぎるとまた状況も変わってくる、八沢浦の長岩は八沢浦八景の歌として残っている、その岩は津波の後も残っている、ただ松は枯れてなくなった。
長岩の松として歌われていたその松は消えたのである。
おそらく右田の一本松も宣伝しているが枯れてしまうだろう。
海老の浜にはまだ津波にも残っている枯木が痛々しくある
右田浜は工事で変わり果てて家があったこともわからなくなる
海老浜はまだ家が多かったからここがその跡だということは近くの人は感じる

ともかく長岩が残りあの近くに人が住んでいた、あの辺は人の住めない地域だが人が住んでいた。畑がありそこに人がいた、暮らしがそこにあった。一部に実りももどった
でも津波が来た広い範囲にはなにもない原野である。
妙見の社があったがあれば明治維新後武士が入り祀った場所である。
明治行こう400人以上の武士が開墾に入った、中には北海道に移住した人もいた。
城勤めの人がそんなにいたのかとなる、ほとんどは郷士であり農民だったのが相馬藩だからである。ただ飯館村の飯樋(いいとい)には60人もの役人が塩を扱っていたからそれだけ役人が相馬藩でもいたのである。

いづれにしろ人間と風景とか自然と一体となっているのが田舎である。
自分はそこに一番魅力を感じてきたのである。都会では高層ビルとかと一体となるのか?
あんなもの見上げて生活して死ぬのは嫌だなとなる
つまり自然とアイディティテイ化することが本来の人間なのである。
だから長岩が江戸時代から知られていたというときそこに住む人もその岩と一体化するのである。長岩が津波の後にも残りここにまた暮らしがもどったなと感じるのである。
それはここだけではない、津波の被害にあった広い範囲でそういうことがあり原発避難区域でも起きているのである。
暮らしがまたもどればまたその自然も活きてくるのである。
普通はなにもなければそういうことは意外と意識しないのである。
津波とか原発事故は何か悲劇だったのだけど何か大事なものを意識させたことはあった。故郷など当たり前にあるのだけどそれも意識されてそのありがたさを知るとかなった。
そうなるとこの辺はやはり今までとは違う意識でこれから生きるということはありうる
故郷は大事なものなんだなという思いがここには受け継がれるということはありうる

2016年09月17日

秋の蝉(十年以上買物が仕事だったー昨夜は一六夜)


秋の蝉(十年以上買物が仕事だったー昨夜は一六夜)

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一六夜の月


秋の蝉なお一つ鳴き買い物に

一面に夏菊や蝶三羽舞う

家事十年男一人やめぐる秋



秋の蝉一つ鳴きにつ買い物に男一人の暮らしやあわれ

十六夜の月の薄雲に光るかな無月の後に微笑むごとく

微笑みつ去りにし女の面影や十六夜の月雲間に光る


買い物というとき介護の前からもしてたから20年くらいしているかもしれない。
家事というとき意外と料理が主だと思っていたが実際は買い物が主になる
何か料理するにしても材料を買う必要があるしいろいろ買わねばならない
すると今は買う種類が多いのである。どこになにがあり何を買っていいかとなる
それが一番わかりにくいことだったのである。

自分が仕事したというときこの買い物だったのである。だから買い物難民とか言われるけど買い物が不便なところは現代では苦しい、だんだん体が弱ってきたら近くにスーパーがないとまた苦しくなる、何かやっと歩いているような老人も買い物に来ているからである手押し車でも買い物に来ている人はいる、自分の母親90過ぎてもそうして買物していた。
ともかく家事というとき買物が一番時間がかかる、特に介護のときは買物から何からいろいろあったから忙しかったし時間の余裕がなかった。何かにいつも追われていたのであるただ人間は人の苦労がつくづくわからないのである
知り合いの人は妻が死んで一人暮らしであり大きな家にいるから淋しいといつも言っている、そしてあんたは介護している人でも家にいたから良かったんだよと何度も言うのである。

それは妻を介護する経験をしていないからなのである。こういうことは常にある
仕事だった人の苦労など経験してみないとわからないのである。
なんか自分は主婦ではない主夫になっていたのである。
その知り合いの人は買物はせずに親密な女性に頼んでいる
何か男が買物や家事を嫌うということは前はあった
そんなものは女性がするものだというのがあった。
でもその人は糖尿病だから手のこんだ料理はしている、自分はほとんど買ったものですましている、料理は女性でもうまいへたがあり簡単にできないものである。

朝顔に我は飯食う男なり 芭蕉

朝顔というのはイメージすると妻とかの女性なのかもしれない、でも一人身だから淋しく黙々と飯を食う男なんだとイメージする、何か人間は男女があって調和している
女性がいないと男性だけだと淋しいものとなる

ともかく秋になった、十五夜には月が出ない無月だった。昨日は一六夜(いざよい)であり薄雲に満月が光っていた。最近は曇りがつづいている
なぜいざようなのか不思議である。

ほほえみつ去りにし女の面影や十六夜の月雲間に光る

これってもしかしたら恋の歌なのか?女性の魅力は何かこの微笑みにある。
ただ肉体的なものにあるだけではない、肉体と関係なく人間には女性を慕うものがあるのかもしれない、男女の関係はやはり死ぬまで消えないものなのだろう
若いときはどうしても肉体的なものを求める、それでかえって覚めた眼で女性を見れないのである。

ガラス越し身をきよらかに照らしゐる十六夜の月は香のある如し      小林みどり

これは女性的な感性なのだろう、月に香りを感じるということはそんなにないだろう。
いざよいはいざなうでありいざなうには女性が男性をいざなうということがあるかもしれない、女性の微笑みもそうである。

タグ:一六夜の月

2016年09月14日

秋の蝉(末期の目で見る自然ー自然な死を受け入れる)



秋の蝉(末期の目で見る自然ー自然な死を受け入れる)

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蝉一つ死して拾いぬ里の道

秋の蝉今年もここに鳴きにつつその声聞きつここに死になむ

夜をこめてしきり雨ふり虫の鳴く声のひびきつ朝明けむとす

白々と木槿の咲きて雨しとと今朝の静かに我死なむかな


我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れてゐる。所謂いはゆる生活力と云ふものは実は動物力の異名に過ぎない。僕も亦人間獣の一匹である。しかし食色にも倦あいた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう。僕の今住んでゐるのは氷のやうに透すみ渡つた、病的な神経の世界である

芥川龍之介の末期の眼というけど35歳で自殺した、その年で末期の眼とかあるのだろうかそれは無理をしたものである。ただ天才となると凡人にはわからないものがある
啄木の不思議は27歳であれだけのものを短歌を書けたのかということである。
それは老境のものだったのである。20代でそんなふうになるはずがないのだが結局死というものを明確に病気で感じたからそうなった。
だから若いから延々と死の未練を歌ったのである。やはり自然な死ではないからそうなった
ところが人間もやはり60代とか70代となるとだんだん死というのが自然なものになってゆく、

しかし食色にも倦あいた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう

このことが自然な死を受け入れる一番の要因になる、人間の命はやはり本能であり欲望があるからつづいている、それは個々人で差があるが欲望の強い人は老人になっても本能的な欲望は消えない、かえって熾火(おきび)のように燃えあがるのである。
だから週刊誌で老人の性の特集をしているのである。
人間の本能というか動物の本能でもそれだけ強いものであり簡単に消えないものである。人間はともかく快を執拗に追求しているのである。老人になるとかえって食にこだわる。こってりしたものは食べないにしても味にこだわる、これも快の追求なのである。
それが本能であり生きることだからである。まず誰も苦を求める人などいないのである。
ただ人間の自然な死はありうる、やはり人間の動物の本能が消えてゆくと自然な死にいたる。ただ人間の場合は本能というか動物的欲というかそういうものだけではない、様々な欲がある、名誉欲とか名声とか何かそういうものを求めるのが動物と違っている。

人間は老人になれば人によるが自然な死に向かう、すると末期の眼で自然を見るようになる、今回の短歌でも別に自分が今すぐ死ぬわけではないが何か死を受け入れて自然を見ているのである。別に病気でもないし死期が近いわけではないがやはりだんだん死に向かう心境になる。
だから死に場所を意識する、動物が象などが死に場所があり死ぬときそこに行くということはやはり本能的に死を意識するからだろう。猫も死ぬときは消えるとかいうのもそうかもしれない。だからそういうふうに人間は死期を迎え自然に死を受け入れて死んでゆくのがいいのである。

そうはいっても現代の問題は死というのがどうしても病気になると苦痛があり簡単に死ねない、そして延命治療などほどこすと最悪である。死にたいのに死なされないというのは最大の苦しみを与えることにもなるからだ。
だから自分の母親は百歳まで生きて何か苦痛もなく死んだから最後だけは望みがかなったのである。眠るように死にたいといつも言っていたからである。
百歳まで生きるとなると老衰だから苦しみがないのである。
人間はその前になんらかの病気になり死ぬのである。母は病気が死ぬまでなかったのである。

つまりもう60代は元気だけど70代以上になると高齢化でも死を意識するし死が身近なものになる、そこで死に場所が問題になるのである。
意外とこのことが見逃されている、死ぬのはどこでもいいとはならない、やはり長年なじんだ場所に死にたいとなる、故郷で死にたいともなる、それでこの辺は原発事故などで住めなくなり他に移り老人には酷だったということは確かである
そういうことを親に対して気づかう人もないだろう、親を故郷で死なせてやりたいと思う子供がいるだろうか?
それは別に原発事故がなくても親と子が離れて住んで最後は故郷ではなく子供のいる所で死ぬ人も多い、近くではそうだった、葬式のために一時もどってきたが子供の住んでいる所で死んだのである。その人も長年親しんだ故郷で死にたかったかもしれない、ただ別に故郷でなくても長年親しんだ所ならいい、それがたいがい相当な老人になり体が不自由になってから子供の所に引き取られるからその精神的負担が大きくなる

いづれにしろ自然な死を精神的には受け入れるようになる、でも肉体的にはそうはいかないのが問題なのである。死んでもいいなと思っても肉体が生きていれば生かそうとするのが現代だからである。そして家族を二人看取ったが簡単に人間は死なせることができない、延命治療だといっても認知症でも人間は馬鹿になったともいえない、人間として生きているし時々特に最後は正常になることがある。それが怖いと思った。
これも不思議な現象だった。人間が生を全うするというときそういうふうに最後までわからないことがあるからましてや他人の医者やその他の人で簡単にもう死んでもいいだろうともならないのである。社会的には延命治療など金がかかるからさせたくないということがあるが家族にするとそうでもないのが矛盾なのである。

とにかく自然な死を受け入れるばそんなに生に固執しなくなり死んでゆく
でもまだまだ自分がすぐ死ぬということではない、ただそういう心境になったということである。

2016年09月10日

(秋の蝉)南相馬市原町の市街から高倉ー押釜を回り帰る (高倉村では紙漉きが行われていた)


(秋の蝉)南相馬市原町区の市街から高倉ー押釜を回り帰る


(高倉村では紙漉きが行われていた)

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この地図は覚えていた方がいい
参考になる

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綿津見神社


草茫々刈る人老いて夏の暮

草うもる高倉の墓地夏の暮

流れ落つ清水を沢蟹這いのぼる

高倉や清水にうたる蟹一匹

夏草に馬頭観世音旅の人

秋の蝉鳴きて淋しや旅の人


高倉の街より離れあわれかな秋の蝉なく声ひびき暮る

バス停の目印とあれ歩みつつ秋の蝉なき夕暮るるかな

四方より蝉鳴く声のひびきつつ我が歩むかな秋の日暮れぬ

押釜と奥にしあれや古き墓地野馬追いにいず郷士棲めるも

紙漉きを営めると昔水清し高倉村や秋となるかな




今日は高倉から押釜回り帰ってきた。帰ると7時すきているから暗くなる
前は介護していたから常に早く帰らねばならないとなるからこの辺の近くすら行けなかった。今はいつ帰ってもいいから余裕がある。

高倉の農家の人は草刈りしていた。辺りは草茫々である。若い夫婦はここを出て帰らないという、何か市街の方に出たのではなく、南相馬市を出たらしい、原町でもろくな会社がないからだとか言っていた。
姑と一緒にいるのも嫌だったしこれ幸いと出て行ったとかも言っている
あそことても田んぼにできる場所ではないだろう。
あそこから飯館村の長泥(ながとろ)に出るがそこは帰還困難区域に指定されているから入ることはできない、高倉ダムの方にでる、良く前は行っていたがここにも十年間くらい行っていないのである。
高倉の歴史は明治以降開墾に入った地域かもしれない、綿津見神社があるとてしてもその由来が良くわからない、月山大仏とか石碑にあった。妙見の徴も屋根にあったから明治以降かもしれない、明治以降武士が開墾に入った地域かもしれない

高倉村からは野馬追いに4騎出ていた。押釜村は14騎だからなぜかここがそんなに多いのかとなる、

産馬、養蚕、抄紙の三事は組合村の業なり、紙は押釜村ヨ推し十八戸あり、高倉村ヨ最とす・・と大須賀巡村雑記に記されている

紙を梳くのにいい川があり水があるから紙漉き、紙作りがあって生活が成り立っていた。石神村にも紙漉きをしていた家があった。これは意外と忘れられているのである。
相馬市の山上にも紙漉き沢という地名があるから紙漉きが行われていた。
紙漉きが山の村の産業だった時があったのである。
紙漉きというときこれも自然と融合した生活だったのである。
清い水が必要であり材料となる樹も必要でありそれが近くにないとできない
今だと大量生産の工場となったが昔ならこうして山村でもその回りの資源を利用して生活になっていたのである。そういう村であってこそ村だったのである。
そういう村の方が魅力あるとなる、ただそうはいっても現実その暮らしは紙漉きにしても厳しいとなる。

 10月から越年の春ころまでの冬場を中心とする農閑期に、凍り付いたような水にさらし、長時間の作業が続く。しかも、江戸時代から、この仕事は女性のやるべきこと、とされてきた。しかも、零細な家内での仕事なので、とくに主婦や娘への負担が増す。男も次第に加わるようになる。
 さきにふれた「養女奴隷」への負担も、そこに発した仕組みであったし、年季奉公人という徒弟制度から抜け出せないのも貧困から始まっていた。

 津和野藩では、「養女奴隷」のような記録は見当たらなかったが、奥に隠されていたことかもしれない。ただ、凍るような水に手を入れ、深夜に至る長時間の作業のつらさは語られている。また、コメとしての納税ができなければ、和紙で代替させ、のちには大坂屋敷などで換金しやすい和紙を貢納させることにもなっていった。紙の仕入れは当初、商人の手で行われていたが、藩の有力な収入源とわかる17世紀中ごろからは「紙専売仕法」を定めて藩の独占事業にしてい

『紙漉きになるつもりじゃなかった』

 何か自分は過去になると江戸時代でもロマンチックにイメージするが実際はこれほど厳しいものであり奴隷労働が行われていた。これも意外だった。醜い少女がこの場合は良くて丁稚奉公のように奴隷のように使われた
一方できれいな少女は遊女に売られていたという現実がある
こういうことは今でも最貧国に行ってみればわかる、江戸時代とにているからだ。
でも山にそうした暮らしがあってこそ村も成り立っていたということもイメージする
でも米が納められないから紙漉きだと紙で納めるということもあった、つまり貧乏なときは税金でも過酷になるのである。

そういう税にしても直接的にずっしりと重いものを感じるのである。
つまり江戸時代は子供でも働かせられていて丁稚奉公に出されたとか女の子でも過酷な労働を強いられていたのである。最貧国では子供も労働させられているし子供が多い方がいい、男の子がいいというとき労働力になるからである。労働自体が過酷だったのである。まず紙漉きするような家には嫁さえ来ない、奴隷のように養女をもらって労働させていたのである。

石神で紙漉きをしていたという農家に嫁いだ女性は華奢であり力仕事などできないだろう第一そこは農家ですらない、会社員の家だったのである。
今になると紙漉きをして都会から移住している人もいる。かえってそういう仕事にも憧れ人もでてくるが現実は厳しい、そうして作られた紙だとすると高価であり貴重なものだとなる、捨てるのももったないとなるのは当然だったのである。
紙というのは戦前でも貴重だった、鉛筆でも短くなって使いないくらい短くなっても使っていたのである。物はなんでも貴重な時代だったのである。
こんなに物があふれた時代はなかったのである。これほど物を粗末にする時代もなかったのである。

皇居歌会始め 入選歌

どの家も 紙漉く夜なべ終えたらし峡(かい)を流るる 川音きこゆ

1968年(昭和43年)


ここにこんな歌がでていた。夜なべとういことは夜まで仕事していたのである。ただ昭和43年では戦後二十年でありその頃紙漉きしていた家はなくなりつつあったろう。
でもどの家もとあるからまだしていたのかとなる

そこで今回あったのは何か陶芸をしている人で蛇を探しているという、蛇の鱗が模様として参考になるというからそんな人がいるのかと思った。仙台から来た人で仙台からくる人には良くであう。街の近くにこういう流れがあるのだから夏でも涼しい
一軒家がありその脇を水無し川が最近が雨が一杯ふったので気持ちよく流れている
あそこはイオンからさほど遠くないのである。写真とらないのが失敗だった

今日は山の方で自転車がパンクして歩いた、相当な距離を歩いた、でも歩くということは自転車の感覚とは違う、自分は歩くたびはしていない、そこで歩いてみたいと思った。
鹿児島から青森まで歩いて旅するという人には驚いた。
歩く旅は自転車で感じるのとも違う、だから今の時代は歩くということは新鮮な体験になったのである。
相馬市から鹿島まで旧街道をたどり歩み、次は小高まで歩み鉄道が小高まで通ったから電車で帰るのである。これでも旅なのである。
ともかく介護が終わって余裕ができた、だからまだそんな計画をするようにもなったのである。ともかく昔のことは歩いて生活していたのだから歩いてみないとわからないのである、旅だって歩いてしていたのだから歩いてみないと旅のこともわからないのである。







2016年09月09日

実り(秋らしくなり里に実りが回復した)


実り(秋らしくなり里に実りが回復した)

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我が里に実りもどりぬ秋あざみ

橙(だいだい)の夏菊映えて街の中

陽も落ちむ空に広がるうろこ雲


留守にせし部屋にさしおく菊の花その女見えじひそかなるかな


実りも日に日に色づいて色が濃くなっている。今年は相当実りの範囲が広がった。去年はまだまだだった、5年過ぎて実りの範囲が拡大した、まだ荒地化している所も多いことは多い、でもなんか我が里にも実りがあるなと感じるようになった
実りがもどったという感じである。
第一かえって津波が襲った海側は田んぼの区画を広くして今年は実りがある
塩分なども表面の土をとったから影響なかったのだろう。
田んぼからみるとかなり復興したとはなる

どうしても田舎だと田んぼがあり稲穂があり実りがないと田舎という感じがしない
その実りはただ鑑賞するものではない、この土地に生きるものを支えるものである。
ただ実際は地元の米よりスーパーでいろいろな米を買っているのである。
自分もそうである。地元の米を今は食べていない
それでも震災の時物資がこの辺では二週間くらい入ってこなかった。
その時自分は二週間くらいたまたまあった米を炊いてノリくらいのオカズでしのいでいたそして米が足りなくなったときこの辺で古米を無料で配ったのである。
それで助かったということがあった。郷倉というは飢饉に備えて米を蓄えていたのである
人間は何かこうした災害や緊急のとき遠くの人が助けてくれるのかと不安になる。
グローバル経済になり広域経済になってもそうである。

今も岩手県の岩泉とかで豪雨で孤立して道も遮断されて助けに行けないと行っている
この辺も二週間くらい放射能が怖いと物資が入らなかったのである。
その間をしのぐのが結構大変なことなのである。
水道さえも壊れたところがあり水をもらいに行っていた人もいた。
だから我が里に実りがあることは心強いことなのである。
ただそれは一時しかしのげない、米くらいはあってもその他はとてもたりない
地元で野菜作っている人を知っているし金銭的に応援しているがそこでとれのはほんのわずかである。トマト十個もらったが他は何ももらえない、何かあってもとてもそこでは何の用もたせない、ただ一家族くらいなら用がたせるということはあるがそれでもたりない

人間は村も必要だが街も必要である。街がなかったら淋しいだろうなと思う
自分の街は街とも言えない、一、歯医者4軒とかあるから飯館村とかよりはいいとなる
隣に4,5万の市があるからそこに行けば街の雰囲気が味わえる
橙色の夏菊が街ににあうのである。街ににあう花はある
ただもともと自然に花はにあうから街ににあう花は少ないだろう
今は街がないということは相当に不便であり淋しいものとなる
ただ情報的にはほとんど不便感じなくなった。インターネットがあるからそうなる
買い物もできることが前とは違っている
ただインターネットの買い物は注文したものと違ったものが来たり失敗がある。
でもいいものも買えるので便利である。
今は生活が多様化しているから買い物は近くだけではたりないのである。
自転車関係の備品とかはこの辺では売っていないからである。

家を留守にしていたら菊の花を部屋さしておいてあった。その女は去っていた。
花は買ってきてもらっている。菊の花であり何か秋を感じた。
花だけさして去ってゆくというのも奥ゆかしいものを感じる
その女はそんな人ではないけど何か不思議な感覚になった。
家に入る人はまず信頼が第一である。
でもそういう信頼を築くことが時間がかかるし大変なのである。
それで自分はひどい目にあった。家捜しされて大損失だった
一年以上つきあい信頼関係ができれば安心になる
まず十年とか手伝いしているなら信用されていることである。
自分は何か手伝ってもらっているとういものでもない
ただ出入りを自由にしているという感じである
家政婦として今雇うなら20万は必要である。
自分は家事は全部自分一人でしているのである

今日も午前中は暑かったが昼間からはうろこ雲が広がったから秋になってゆく
ただまだまだ残暑が今年は厳しい





タグ:実り

2016年08月31日

夏の暮(栃窪から飯館村へ) 飯館村の塩の道の旧家の人に話しを聞く


夏の暮(栃窪から飯館村へ)

飯館村の塩の道の旧家の人に話しを聞く

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飯館村へ

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あいの沢

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秋薊

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なんか淋しそう

草野の塩の道


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養蚕した兜作りの家

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斉藤家の蔵

ここは昔旅館だったという、9代つづく古い家

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飛んでいた蝶

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屋敷林木陰の長く田舎道

栃窪に実りもどりぬ古碑一つ

上流の木陰の深く黒揚羽

秋出水激流轟き動かぬ岩

朝の蝉ひびくや清水流れ落つ

飯館に入るやあまたソバナかな

秋めきぬ雲や峠を越えるかな

一歩一歩峠越えるや山の蟻

峠越え遠山望む夏の暮

紋様のめずらし蝶二つ夏の暮

夕暮れや石の五つや秋薊

飯館に木の実あまたや夕暮れぬ


一本の松の変わらずここに立ち道の徴(しるし)や夏の日にゆく

飯館の塩の道来て九代をつづくと蔵あり夏のくれかな

一本の樹のここにし年輪を刻むや長く夏のくれかな

塩の道穂芒あわれ我が帰る斉藤家の蔵我があとにして


今日は涼しいので一年ぶりとかで飯館村に自転車で行ってきた。これまでは日差しが強く行けなかった、今日は日差しがさほど強くないから楽だった
YAMAHA ヤマハ ロードバイク YPJ-Rは坂が急だと役にたたない、馬力が出ない、だから歩く他なかった。なだらかな坂ならいいが急な坂、長い坂はほとんど役にたたない、すぐに電池が切れる、だから坂がつづく長距離では役にたたない
帰りは電池は切れても下り坂だから良かった。

栃窪では実りがもどっていた。栃窪は古い碑の村である。奥州栃窪村と金比羅に碑を奉納したらしい。金比羅参りしてその碑が多いのである。
ここの碑は古峰の碑だろう。とにかく実りが回復したときこの古い碑も生きるし村も生きてくるなと見た。村は全体としてあり田んぼがあって実りがると全体が生きていることを感じる、workingしていると感じる、全体としてトータルなものとして村が生き返る回復したと感じる

飯館村に入るところでソバナの花があまた咲いていた。何かこんな素朴な花が飯館村にはあっていた。秋めいていて涼しいのが良かった。電池がきれるしさほど働かないので歩くほかなかった。まさに山の蟻である。前は坂は自転車を押して歩いていた。
この自転車はまず坂には弱い、坂を上る馬力がないのである。
あそこの峠道は長いから苦しくなる。

飯館村の状況がどうなっているのかたまたま家の前にいた人に聞いた。
そしたらそこは塩の道でありその家は九代つづいている古い家だったのである。
飯館村で草野は古く今でもこの近くで四騎くらい出ているという。
江戸時代からの歴史がある村なのである。
塩の道は作見の井戸の所を通る道でもあった。草野の自動車道路はあとからできた道なのである。それは六号線ともにている。
意外とこの道の新旧とか村の新旧もわかりにくいのである。飯館村でも開墾に戦後入った人たちも多いからわかりにくくなるのである。ただ草野は古いしその家は古い、その辺りの家も古いことがわかった。
そこで今の状況などの話を聞いたがそれはあとにしよう。
その塩の道をたどり帰ってきたが暗くなってしまった。

2016年08月28日

白木槿(いい思い出を残すように勤めよー人生は短い)


白木槿(いい思い出を残すように勤めよー人生は短い)



しとしとと小雨の降りて白木槿庭に咲きつつ事もなしかも

介護せし部屋に我あり母なおあれや白木槿咲く

思い出のこもれる家や我が一人継ぎてありしも秋雨のふる


ここ十年は本当に苦しかった。でも今は楽であり余裕がある,母を介護した部屋にいて書いている。しとしとと秋の雨が降っている
白い木槿がぬれている、ただそれだけのことだが何か患いがないということに幸せを感じる
そして家族が二人死んだが思い出となるだけである。

でも自分は一番良くしてもらったから介護して良かった、二人とも喜んでくれたし自分でも恩返しできて良かったと今では思っている、つまり苦しかったけど今になるといい思い出になったなと思う。
苦しいこともやがては思い出となり笑い話にすらなるのが人間である。
ただ人間はつくづく良い思い出を作るように生きねばならない
それは子供時代でも少年じだいでも青年時代でもそうである。
結局自分は学校ではいい思い出が作れなかった、集団生活になじめなかった、我がままに育ったこともある。

少年であり青年であれいい思い出をもった人は幸せである。でもこの時代は欲望がふくれあがる時代だからなかなかいい思い出はもていなのが多い
必ず若気の過ちがあり後悔しているのだ。それがあとになると大失敗だったと気づくのである
なんらか罪を犯さない人はいないのである。だから青春時代というのはふりかえると大事だった、あとはなにか変化のない延長だった、自分の場合は家庭環境で隠者になっていたニートみたいなものだろう。ただその頃はニートはいないからアウトサイダーとなる
これも実際はふりかえると危険だったし社会性が欠如するとか問題があった。
そのために介護十年して苦しんだのである。
ニートとか無職とかが今やどこにでもいて普通になったけどこういう人は何かおかしくなり自分のように最後の方になると塗炭の苦しみにあうことは間違いないのだ。

そもそもではいい思い出とはなになのか?例えは何か悪いことしたり良心にはじるようなことをしたらそれがいい思い出になるだろうか?
それはその時はいいにしてもあとで苦い思い出となってしまうだろう。
すると成功して大金持ちになっても人生をふりかえりいい思い出をもつのかとなる
現実はそんなことよりみんな金持ちになりたいのである。
それは良心にはじることをしてもそうなのである。だから人間は悪魔に変身するのが多いのである
自分のところに来た親戚がそうだった。事業に失敗して借金して自分を苦しめたのである悪魔に変身したのである。
もしその人が来て本当に苦しいとき助けていたらいい思い出になっていたのである。
それが正反対となり自分は恨みまたは怒りともなっている
ただ不愉快だけでありその人を思い出すと今でも怒りすらこみあげてくるのである。
また近くの人に犯罪にあったということでもそうである。
その人とも近くで会うから腹ただしくなるのである。

結局人間はいい思い出というのはまれなのかもしれない、不愉快な嫌な思い出の方が多いのが人生である。それだけこの世は愛情ある人は少ないと非情の世だからともなる
一人だけいい人だったなという女性がいた、その人は死んだが墓参りを自分はしている
そういう人はまれだということである。
何か昔もそうだから金の切れ目が縁の切れ目となりやすい、金を得ればあなたは関係ないというのが日常である。
自分は家族は複雑だったけどそれなりにいい思い出となっている
自分にとっては悪いことがあってもいい方が多かったのである。

今は秋雨になって涼しい、今日は一日かたづけしていた。いくらかたづけしてもかたづけきれない、料理から掃除から着るものから本の整理からパソコンの中の整理もなかなかできない、整理が一仕事なのである。余裕がでてきたからなんとかこれから順次整理してゆく゛もう余計なものを捨てるほかない、そしてなるべく身軽にする
家すら何か重荷になってしまう。小さい家ならいいが大きい家は重荷になってしまう。
死ぬときは何にもいらないのである。むしろ金はあってもいい、かさばらないからである遺産として残すのにも家や土地よりはいい、何かあること自体負担になるのである。

タグ:良い思い出

2016年08月23日

朝の蝉(家事は自分でできるが女性は必要)


朝の蝉(家事は自分でできるが女性は必要)

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この農家の前は稲穂が実り前にもどった
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元は養蚕の家でありそのまま住んで直した

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この猫は大人しい性格である。なんか自分とにている
石に座るのもマッチしている



朝の蝉近くの女の今日も来る

養蚕の兜作りや木槿かな



実りそむ稲穂に芙蓉農家一軒元にもどりぬ

黒揚羽一羽とまりぬそのあとに木陰の石に猫の休みぬ

出水の流れの早し燕飛び雨に打たれて我も行くかな

台風の雨に打たれて風たたく我が家を一人継ぎて守りぬ


今は家事は一人でもできる、機械がやるし料理でも買いばでとる、野菜をとることには注意している、たいした料理もしていない、別にそれでも栄養はたりている
その証拠がこの暑いのに食欲なく胃が悪くしていたのに太っていたことである。
自分は相当にやせたと思っていたからである。
何か今は栄養をジュース類でもなんでもどこかでとっているのである。
家事は昔のように女中など雇う必要がない、みんな機械がしてくれるからである。
だから一人暮らしでも困らないのである。それで結婚しなくてもいいという若者も多くなる原因の一つである。

結婚するとなにかとめんどうになるし負担が増えるからである。まず結婚したら芸術活動とか知的作業と学問とかなんかそういうものを追求するのはむずかしくなる
それだけそこに時間がかかるからである。家族に妻に子供に気を使っていたら時間がとられできない、結局何度も言うが人生は時間の配分で決まる
何に時間を使ったが人生なのである。最後になればそれが馬鹿でもわかる
なんで馬鹿なことに時間を費やしたのかとなる、それを痛切に感じるのは老人になり時間がなくなるとわかるのだ。
若いときは時間がいくらでもあると思っていたのである。時間をつぶすのに苦労していたのである。その時間がたちまち過ぎてしまう。そして時間はもうないのである。
今や砂時計の砂がおちて残りわずかだということを日々意識する、砂が落ちてなくなったとき死なのである。

お前は旅ばかりして遊んでいただけではないかと外から見る人がいるだろう。
でもふりかえると自分は旅することは仕事だった。旅は自然でも歴史的なものでも見ることに集中しないとあとは何も残らない、つまり相当な集中力が必要なのである。
自転車旅行になるとこれも体力がいるし苦労だった
旅するだけでも人生はたちまち過ぎる、この旅だって会社勤めならできない
それで退職してからその鬱憤を晴らすために鹿児島から青森まで歩いて旅したとか
自転車で50日間も旅したとかそれもテントがないからホテル泊まりでそうした退職者もいる。旅する時間がないから自由になりそういう人が60代以降に増えてくるのである。

人間の時間は限られている、恋愛するにも結婚するにも家族をもつだけでそれだけで時間がとられてしまう。そうなると他の活動は本当に制限されてしまうのである。
何か芸術であれ学問であれ何であれ趣味さえ追求できないのである。
だから芸術家の80パーセントが独身だったというのがわかる、家族をもったら集中できないからである。

ともかく家事に費やされる時間ははぶかれた、でも家事をする女性の仕事がなくなったかというとなくならない、女性は必要なのである。

「愛妻を亡くした71歳は語っています。さらに「女の声を聞きたい、女と話したい。男友達はしょせん『友情』どまり。女の細やかな『情愛』に触れたかなあ。自分の気持ちをオナゴと分かち合いたい。…」

一人になればこういうことなのである。それを痛切に感じるのである。
夫婦で妻が死んだ結果、80くらいの夫が取り残されてその不満から祭りがうるさいと火炎瓶を投げて怪我させた、そういうことに男はなる。

だから自分も家事をしてもらうというより毎日女性が来るだけで慰めになるから金を払うとなる、家事は自分でできるからである。
ただ一人はいろいろと困ることがある。だからその苦労を書いてきた。
家を維持することが容易ではないのである。台風の雨に打たれ風に吹かれ家を維持する
この家も50年近くになるから歴史を刻んだ、介護の十年もこの家とともにあった。
病院や施設も利用したがやはり家が中心だったのである。
このように家はそれぞれの歴史を刻んでいるのである。
そこに家の重みがある、そもそも家であれ家族であれ地域であれ社会であれ一代では築けない、代々苦労して築かれたものなのである。そういうのが故郷でありそれが失われることは原発避難区域でも一から始めることになるから辛いとなる。
結局老人になれば過去を語り自分はここでこう生きてきた苦労したということを次の代に語りそれが受け継がれることがいいのである。
それがたたれると存在意義すらなくなる、東京辺りに避難した小高の人が施設で死んで小高に帰れずに死んだとかあり孫が墓参りしていた。
これは悲しいことだったとなる、補償金もらってもその穴埋めはできないことは確かである。



タグ:一人暮らし

2016年08月16日

お盆終わる


 お盆終わる


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涼しさや月の写れる沼一つ

芙蓉咲くその花見てそ帰るかな


一時はにぎわいにけりお盆かな蝉鳴く声の墓地にひびきぬ

我が墓に花挿す人のありしかな誰とも知らずうれしく思ふ

我が家に帰りて待てる人もなし壺にさす菊映えて待つかな


近くの墓地でもお盆以外は閑散としている、そして生きた花はさされていない、ということは墓参りはたまにしかしないのである。
自分は毎日墓の前を通るから淋しいと思い生きた花をさしている
ただ花は枯れやすいので造花をさしているのが多い
その造花も何か嫌なのである。花はやはり生きた花がいいのである。
その生きた花が死者と通じるということがある。
いつもさしている造花は墓参りしない死んだ花である。

つまり墓も近くで身近でないと活きたものとならないのである。
一年に一回くらい墓参りに遠くにゆくとなると何か墓も死者も遠い感じになる
だから墓守となると墓地の近くに住んでいないとできない
近くだと死者もともに生者とと生きているという感じになる
特に街中にある墓地はそうなるのである。
自分の場合は毎日自分の墓の前を通っているからである。
誰か自分の墓に花を挿してくれた、多分姉が保健婦の時世話した人だろう
あの人だけはいい人だった、一番世話した人は最悪だった
借金だけを病気の時要求してきたからである。
死後までそうして花を挿したり墓参りしてくれる人はよほど誠実な人である
人間はたいだい薄情であり死んだら縁も切れるのが多いからである。

ともかく自分が生きている限りは家でも墓でも以前として死者も生きている
でも自分が死んだらそれもなくなる、この辺でまた空家が一つ増えた
なんか跡継ぐ人がいないのである。全国で800万軒の空家があるという驚きである。
それだけ今の時代は少子高齢化であり跡継ぎがないから何でも家でも墓でもあとをどうするかとなる

墓参りというときお盆というとき遠くから来る人が多い
この辺では仙台が多い、仙台に移り住んだ人が多いということである
墓はだから維持するのがむずかしくなる、それだけ今は広域に人が散らばり住むようになったからである。
でも死者が江戸時代あたりでは山に眠り春には田植えの時には山に下りてくるという葉山信仰とかは死者が死んでも故郷というかその地域に以前として生きているという感覚になるからいい、死者はその土地に長く生きていれば以前としてそこに留まり生きている感じになるからだ。都会だったらそういう感覚はない、ビルの一角にアパートのような狭い所に閉じ込められている、そういう区画した墓がありそれも嫌だとなる
死者が生き続けるというとき故郷が土地がないとき生きてこない、死者を思うときその生きた土地から思うからである。
だから故郷を喪失することは実際は何か人間の根源的なものをアイディンティなるものを失ったとなるから深刻なのである。
ただ若い人はあまりそう考えないかもしれない、便利であればいいというだけで移住した老人は簡単に移住できないのはそうした深く故郷とアイディンティを持つようになったからである。
故郷は別に生れた所ではない、長く住んでいれば自ずとそうなってゆくのである。

あそこの沼も沼らしくなくなったのが残念、近くに家が建ち変化してしまった。
この辺は自然まで変わっている、沼でも自然のままにあれば情緒があるがなくなった
自分の町は都会化したがこれはもともと田舎過ぎたからこの変化は良かった
でも自然があれば安らぎがある
芙蓉が咲く時期である。この花はおおらかであり好きである。
自分は神経質すぎるからである。自分は太った女性が精神的にはあっている
なんかなごむからである。
人間つくづく借金しているような家には行きたくない、こっちまで重苦しくなるのであるそれでずっと自分は苦しめられてきたのである。
あの家の人のこと思うだけで苦しくなるし憤りさえ今でも覚える
結局人間は平和が何かわからないのである。
借金している家には平和はない、病気している家にも平和はない
そういうものがないとき平和なのである。芙蓉のように咲いているのが平和なのである。この辺では当たり前のことが自分の一身上でも失われたし全体でも失われたのである。



タグ:お盆

2016年08月10日

5000キロ自転車で走ってきた老人 (元気な老人に元気ない若者?)


5000キロ自転車で走ってきた老人


(元気な老人に元気ない若者?)

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5000キロ駆けぬけて来ぬ夏の暮

5000キロ駆けて我が町夏燕

街道や木槿の咲きて夕暮れぬ

街道の道の細しや木槿かな

六万石城跡あわれ木槿かな

六号線鳴きあう蝉のひびくかな

ミンミンの高くひびきて六号線

五本松夕蝉鳴いて帰るかな



今日六号線であった人には驚いた。自転車で5000キロ走ったという、日数は50日間であり一日百キロ走っているという、普通のマウテンバイクでありテントなどは積んでいない
京都から走ってきた、イワキの方に行けるかと聞いてきた。
今日は原町に泊まる、年は60代だろう、退職した人だろう。
そんなに休みはとれないからだ。前も鹿児島から歩いて青森までゆく人にも驚いた。
その人も退職した人だった、何か退職するとこうして今までできないこに挑戦する人がいる、60代でも元気な人は元気である。そういう人が結構多いのである。
自転車、バイク、車の旅があるが自転車は一番きつい。
バイクなどは若者に多いけど楽だなと自分も自転車旅行したとき見ていた。
若者だったらもっときつい旅したらいいのにと思う


今の世の中高齢化社会というけど元気な老人も多い、特に60代には多い、団塊の世代が入っている、60代は相当にアクティブである。スポーツが好きである。
でもこのレベルになると自分も経験しているからすごいと思う
何か一カ月走ってくらくらしてやめた。この人はホテルに泊まるだけでも相当な日数であり金もかかる。老人は金がかかるというよりもう体力があることの方が大事になる。
自分も百万かかってももう一度ヒマラヤに上りたいとなる
なぜならそれが最後だともなるからしたいことをして死にたいとなるからだ。
この気持ちが若い人にはわからないのである。したいことをしないで死ぬことは最悪である。だからこそ退職してから自由になりこういうことに体力がある人は挑戦する

なんか今はこういう老人を見ると若者より老人が元気だなとつくづく思う。
全国で旅行しているのは退職した老人が多いのである。
そして若者と比べるとこうして自由に旅している老人などが最後に人生を謳歌していて
若者はただ働かせられているだけだとか老人のために税金をとられているだけだとか嘆くこういう老人を見てうらやましく思っているのである。
老人は若者であり若者は年寄りだということさえ見受けられる社会なのである。
若者だったらもっと無謀なことをしてもいいが何かそれもない、犯罪であったがそれも介護施設とか知的障害者にその無謀さは向かった、介護とかで働かせられている若者の不満も大きいし何かそれが老人に向けられてくる
だから若者と老人を比べると今の若者は損だとなる。

ひさしぶりに相馬市に行った。このころ異常暑かったがだんだん気温が下がり自転車で走り安くなるかもしれない,自分も今度買った電動自転車のロードで走ってみたいと思った本当に行くとしたらこれが最後かもしれない、この自転車が軽く走り安いし意外と荷物は乗せられないが長距離向きだと思ったからである。
だからスイスイ遠くまで走ったら気持ちいいだろうなと思った。
お盆にもなりなんか秋めいてきている、でもまだまだ今年は暑さがつづくみたいだ。
街道の道はソバナとか木槿がにあう、五本松は二本枯れていたのが残念

タグ:自転車旅行

2016年08月09日

暑さー鶏頭の花(詩)


暑さー鶏頭の花(詩)


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朝の蝉農家の人の朝仕事

土ならし土台を築く暑さかな

新築の家のあまたや夏の月

数十輪芙蓉になごみ合歓も咲く


今日も暑い、蒸し暑くはない、クーラーしていると横になるといつのまにか眠ってしまう何か暑いときクーラーの中は眠くなる、それでいろいすな夢を見る
津波の夢も見たし何かいつも旅行している夢を見る、要するにぐっすりと眠りが深くなっているのだ。暑すぎたり寒すぎると人間は眠くなるみたいだ。

土をブルドザーでならしまたは人の手でもしている、この辺では以前としてどこかで家を建てている、その人を見ていると暑いだろうなと思う
これは深く読めば土台を築くとは人生の土台を築くとも見れる
ただこうして家を土台から作るのを毎日見ていると家は土台を作るときから始まっているここは建て売りであり手きたものを買ったとき作る場面を見ていないとその家のありがたさを感じないのである。
考えてみると何か野菜でも何でもあらゆるものがあっても作る現場を見ているというものがほと:どない、ただ金を出せば物が買えるという消費社会は何か労働の尊さというか苦労が見えないのである。
そのことから物も大事にしないとかいろいろ問題が生れる
昔は物が作られる過程が見えた社会だったろう。
ものの価値は作られる過程を知るとわかるからである。

秋になるとお盆の頃、鶏頭だが今日買った、この鶏頭の赤さは不思議である。それは写真でも表現できない赤さである。すべて写真で表現できない
その独特の感じを表現できない、それは人間の心に通じているからである。
人間の心はすべて目に見えるものとして表現はできない
赤い花はいろいろあっても鶏頭の赤さは何か不思議である。


鶏頭

その赤さはなにぞ
内からにじみでる赤
人柄がにじみでるような赤
大地から湧く赤
誠実なる赤
死者となお交わり
そを仏前に添える

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死者は何も語らない、でも何もないものなのだろうか?
そうとも思えない、死者は何も語らなくてもこちらを生者を見ている
花を献げ供え物をして死者と交わる、今年は母の新盆なのである
なんか家族が二人死んで死者を思う、死んでからも死者を思う
そういうことが人間の繰り返しであった。生きていた人は死に死んだ人を想い
まだ自分も死んでゆくのが人間の生なのである。







タグ:鶏頭

2016年08月05日

猛暑(復興住宅)

猛暑(復興住宅)


急ぎ建つ復興住宅や蝉の声

建てつづく復興住宅や猛暑かな

ひまわりや新築の家に子供いる


異常な暑さだった、なんかクーラーかけると眠くなる、暑いと眠くなる
プログは実況中継なのである。毎日復興住宅が建つの見ている
二週間で建つというけど結構時間がかかっている

この暑いのに良く仕事できるなと思う、家が建つ過程を見ていると苦労して建てているなというのを実感する、でも建て売りだとできたものを買うから感じない
この猛暑の時に建てていたというのを見ればありがたいと思うだろう

ともかくあの辺は別な街ができた、ここが同じ街とは思えない
それほど家が建ったのである。
シシドスーパーも建ってあの辺は一つの大きな街になっているのだ。

今日は暑さでぐったりした。ただそれだけだったとなる
タグ:猛暑

2016年08月02日

月見草の原野と化した南相馬市の一部


月見草の原野と化した南相馬市の一部

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雉子と烏

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小屋があり畑があるが隠されている

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鬼百合や野原に雉子に烏かな

鬼百合や一代築く女かな

鬼百合や新しき家また建ちぬ

百輪のノウゼン散りてなお散りぬ

農家なれ敷地の広く芙蓉かな


ひまわりや原町広く回る道夕日の熱く照らしけるかな

黒揚羽舞い入る一羽狭き庭石ありひそか我がこもるかな

ラベンダー匂えるこの道今日もよる何かあれかし明日また来なむ

小屋一つ畑にありて月見草広がる野にうもれけるかな


この辺は原野と田畑がまじりあっている。田んぼが確かに増えたが畑はまだ増えない
そこが原野化している、今の季節だと月見草の原っぱになっている。
原野化すると月見草の原になる。
そして必ず雉子をみかける、原野化すると雉子など野生の生物は住みやすくなりふえる。津波から原発事故以後の風景は本当に変わり不思議だとなる
飯館村とか未だに避難区域になったところは野生生物の楽園になったというのもわかる
それはチェルノブエリと同じである。
自然がかえって生き生きとしておおってしまう、これほど月見草におおわれているのも不思議だとなる

さらに大正の末期に渡来したのは「コマツヨイグサ(小待宵草)」と「ヒルザキツキミソウ(昼咲き月見草)」だ。「昼」に「月見」とは変だが、月は昼間に出ることもあるから間違いではない。

江戸時代に園芸植物として入ったとありそんなに野原に増えないとあるが実際見ると空き地とかは月見草におおわれる。最初に入ったのがでが月見草だとするとき月にふさわしいとなる、普通は待宵草である。これでも宵となっているから夕方に咲く花だとなる

花というのはいろいろな場面でそれにふさわしいものがイメージできる。
原町は広い、家も多い、前は5万だったからそうなる、土地も広いのである。
ロードで裏の方を昨日は回った。そしたら家があり畑がある所に大きなひまわりが咲いていた。原町は広いから何かこの大きなひまわりがあっているのだ。
相馬市は城跡があり城下町であり中村神社に古い藤の木があり藤がにあっている。
鹿島となるとなんか月見草がにあっているかもしれない、なんか暑くて日差しが強いので遠くに行けなかった、ロードは倍速になるから走るのに気持ちがいいが買い物には向いていない。

小池の方に行ったらまた家が増えていた、一区画が街のようになっている。
そこは海老とか烏崎とか右田の人たちが建てた,敷地が広く家も大きいのである。
それで気になるのが家の値段である。土地でも百坪以上軽くあるからそれだけでもかなりになる、それにあれだけの大きい家となるとかなりの値段になる
最低でも5千万はするだろう。それでも建てられないだろう。
だから不思議なのはそんなにみんな金があったのかということである。
ただなんらかの補償金があり建てたということも考えられる、石巻辺りでも特別な保険金がおりて一億もらった人もいるというからだ。
一県に500万は援助されている。それでここと同じようにパチンコで遊んでいるというのも同じだった。
海老の人は借金して建てたというからみんながそんなに金あって建てたとも思えないのである。

自分の家は姉と母が建てた、姉は気丈夫な女性でまさに鬼百合だった。強い男でも話するとき怖がっていたのである。まずものおじしない、男も怖がるくらい迫力があったのである。だから認知症になったときこんなに強い人がこんなに弱くなるのかと今でも信じられないのである。だからこそ一代で家を建て材を築いたともなる、母もいたが母は補助であり裏方だった。
人間はなにか急速に栄えても見る影もなくある時急激に衰退する、それは一個人でもい一族郎党でもそうである。石原一族はあれだけ全盛だったがたちまち石原慎太郎もボケたなとかこきおろされる,あの人も迫力あり強い人だったが突然見る影もなく衰える
もう誰も耳を貸さないとまでなる、そのように人間が移り変わりが早いのである。

月見草におおわれたなかに一軒の小屋がある。畑があり野菜を作っている女性がいる。
農業は毎日草むしりである。これは最大の労働である。次から次とってもとっても草が生えてくるのだ。「夏草や兵ものどもが夢の跡ー芭蕉」日本はまさに雑草の国である。
草がとってもとっても生えてくるのだ。
農業は労働の割りに合わないというのはやってみればわかるとなる
農家の人さえ買った方がいいとなる、キュウリが十本で百円くらいだった。
実際このように大量に作らない限り商売にはならない。
あそこでは野菜でもネギ二三本しかもらっていない、一つくるのに十倍の金も労力もかかっている、ではなんのためにやっているのか?趣味であり農業が好きだからとなる
あの小屋の回りがぼうぼうの月見草の原野になって畑を放置したのももうそれだけの労力を費やすのをあきらめた人が多いためである。
金あれば買った方がいいとなってしまっているのである。

そして田舎では畑でもともかく回りがうるさいのである。何やかにや畑仕事しても干渉する、それは町からちょっと離れた所でも農家が多いと四六時中監視されているのである。これが田舎の嫌な点である。でも東京都議会が村社会のいじめをしていたというのも田舎よりひどいというからこれはどこでも日本なら同じなのだろう。
日本社会がいじめ社会なのは大人がそうであり社会自体は村八分とかありそれは狭い土地で細々と生きてきたからである。農業には商人のような豪快なものが生れないのである。
ともかく月見草の原に埋もれてそうした人間関係を忘れるのがいいともなる
月見草というのは他でも原っぱに広がり咲くの見た。一面に咲くということはある。
その月見草に埋もれて眠るとなれば気持ちいいとなる。

新しく小池に建った家の敷地は広いから前のように悠々としている。
田舎は特に農家はそうなっていてそこで何かしら仕事をしていたのである。
だからあのように広い敷地と家を建てた人はいいなと見ていた。
近くで復興団地に入った老人がいて嫌だというのがわかる
その差は大きい、窮屈になる、閉じ込められたような気分になるだろう。
家を建てられた人と建てない人の差は復興でも大きかったとなる



月見草
タグ:月見草

2016年07月30日

夏の雲(建て続けられる復興住宅)



夏の雲(建て続けられる復興住宅)

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右田の津波の跡の庭(クリック拡大)

津波跡庭の大石に芙蓉かな

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これは二所帯用である

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津波跡庭の大石に芙蓉かな

建て続く復興住宅夏の雲

田舎にて木蔭に休む大工かな

新しき復興住宅地夏燕



ここの右田の家は流されて庭だけが残った。
ここの庭は前に外から見ていたけど大きな石があった。
いい庭だったのである。それを中に入って見るのは不思議だとなる
この俳句は別に写生そのものであり何の才能なくても作れる
写生そのものが実際はと驚きになっているのだ。
第一津波など経験しえないことであり庭だけが残っている跡など普通だったら見れないからである。「事実は小説より奇なり」となっているのがこの世なのである。


シシドスーパーの隣に復興住宅は建てられている、あそこを毎日通っている
だんだんできてゆくなと見ている。
ここを建てているのは東京の人だった。
これは地元の大工とも協力してたてている工法だという、それを普及するためにしているという。
大きな家は二所帯用だった。ずいぶん大きいと思ったからだ。
復興住宅はみんな小さい、だからこんな大きな家が建つのかと見ていた。
二所帯分だから大きな家になっていた。二所帯でもかなりスペースがある。

今はみんな建て売りで地元の大工は何しているのかと思っていた。
ここだって実際は二週間で組み立ててできるという。
何か今までの大工の仕事がなくなり家の組み立て屋のようになっている。
だいいちこれだかけの家を建てることはとても地元だけではできない。
その人は会社の人で小池のホテルに泊まっているという
電話工事の人もきていてその人は原町の寮のような所に泊まっているという。

今日はからっとした暑さだったが遠くに行けない、原町でも相馬市でも暑いときは行きにくい、紫外線が怖いからだ。
だから毎日近間を行ったり来たりしているだけなのである。
でもなにかこの復興住宅が建ってゆくのを見ていると活気があるとみる
新しい街ができてゆくのを見ているのも今までだったらありえないのである。
震災前は七〇坪を七〇〇万で整地した土地を売り出していた。
でも誰も買わなかったのである。家も建たなかった、これだけの家が建つということは本当に驚きである。新しい住宅街が10くらいできたかもしれない、それだけ家が建ったのである。だから前とはまるで変わっているから不思議になる。
別な街に来たような気分になる、シシドスーパーもできてこの変は都会化したのである。シシドスーパーは9時まで開いていることもある。

北斎の絵に富士山をバックにして大工が働いている絵があるが足場を組んで働いている人はそれとにている。これも高いから実際は危険であり落ちることがある。
こういう仕事は運動神経が良くないとできないことがある。
田舎だから木蔭で休憩をとっているの都会とは違っている、なんか安らぎがあるとなる。
タグ:復興住宅

2016年07月24日

野馬追いの旗取りが終わり夕べ虹がかかった (南相馬市は合併して十年過ぎていた)



野馬追いの旗取りが終わり夕べ虹がかかった


(南相馬市は合併して十年過ぎていた)


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帰り馬夕燕飛び虹かかる


雲雀が原旗とり終えて帰る馬そのあとかかる夕べの虹かも

南相馬市も合併して十年すぎにしや原町鹿島虹かかる夕べ

交わりて争いつつも過ぎにける時間にあるかな歴史を刻む


野馬追いの帰り馬というのは雲雀が原から神旗争奪戦で旗をとり帰る馬である。
それは三時ころだった

次ぎにこの虹を見たのは虹がかかると予想した
この辺では夕方にかかりやすい、東が曇っていて太陽が沈むころ虹がかかる
何回もそうして虹がかかるのを経験しているから予見した。

虹がかかるなと天候を見たら虹が最初はかかっていなかったがしばらくしてかかったのである。天候はやはり経験でわかるのである。
天候はある程度確かに予測できるのである。
ただ地震だけはできないのである。

今日一日は最初は雨がふっているので雲雀が原に行く気がしなかったけどフログにのせるために何か種になるものかないかとロードで急いで行った
行列は半分終わっていたが会津の日新館の車があったことは収穫だった

そのあとに虹をとった、こうしてフログというのはともかく今起きたことをのせる
すると一日追われるのである。
今日は特に野馬追いがあったので追われた
そうでなくてもプログが今あったことを即座にのせる、報告する
それが醍醐味なのである。
だから読む人もその日の内に読むと臨場感が伝わるのである。
つまり生放送に近いのである。
だからプログに出すということは結構時間であり手間なのである。
本当に読ませるものとなるとかかりきりになるのである。



2006年(平成18年)1月1日:原町市および相馬郡小高町・鹿島町が合併し、南相馬市が誕生

南相馬市が小高、原町と鹿島と合併して十年が過ぎていた。ある意味で記念すべき年だったのか?
それでもなんか津波、原発事故のあとは補償金問題とかでかえって逆にそれぞれの前の町に分断された、特に小高と鹿島の確執は補償金問題で仮設を出てもしこりを残した。
小高には小高の言い分があるし鹿島には鹿島の言い分があるが市長でもその間を取り持つことができなかった。
福祉関係でも良いから補償金を平等にすべきだったのである。
ただ小高の人も何が迷惑なのとか何で鹿島の人が文句言っているの、不満なのということがあるのも相当無神経なことである。
しかたがなかったにしろ福祉関係でも迷惑がかかわっていた人もいたのである。

小高の人だけの問題ではないが自分が病気で苦しんでいるとき
避難して仮設に入りあとはパチンコ屋に何もすることなくおしかけていたのである。
その時自分の所に来た親戚の人はパチンコ屋に働いていた。
それは遊びであり自分は苦しんでいたのである。
それは小高の人の問題とは言えないかもしれないが何でそんなことをしているのだ
どっちにも怒りがあった。でも弱い立場だから何も言えなかったのである。
小高の人に今でも不満をいだき怒っている人もいる。
その人は弱い立場に前からあったから余計にしゃくにさわったのである。
小高の人に馬鹿にされたとか怒っていたのである。
ともかく合併したのはいいが心は分断されてしまったのが残念だった

ただ今日は雲雀が原で神旗争奪戦があり夕べ真野川に原町から鹿島にかけて虹がかかったそして合併して十年過ぎたのかという感懐があった。十年一昔というからである。
なかなか合併して実質的に合塀するということは歳月がかかるのである。
自分も介護始めてから十年すぎた、これも長かったなとつくづく思う
ただ十年くらい介護している人はめずらしくない、それだけ介護は長いことが問題なのである。自分もそしてたちまち年とってしまった。
争うとしてもこれもまた融和するためにも必要だということもある。
良く村同士で綱引きなどがあるがあれも村同士で争っていたのである。
でも時間がたってそれが祭りとてし残ったのである。

人間は例え争っても長い時間を過ごすとそれが愛に変わったりする
争うことが憎むことが愛だったとまでなる。
人生とは最後にどんな感懐を抱くのか?
これも二人の家族が死んでつくづくわからない不思議だと思った。
家族は争っても長い時間を過ごすから例え憎み合ってもそれが愛だったということすらあるのである。
これを合併した南相馬市にあてはめることは別問題かもしれないがやはり何でも時間がかかりそれが歴史となってゆく
時間をかけなければ何でも融和してゆかないのである。

2016年07月20日

夏の日電車で小高まで (小高には帰る人は少ないだろう)



夏の日電車で小高まで


(小高には帰る人は少ないだろう)

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このカバンが何か仕事が始まったというのにふさわしい
品行方正という感じのカバンなのである。

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町暮れむ電車を待つや合歓の花

走りゆく電車に見ゆる夏の月

開通す鉄路の熱く藪甘草

小高へと汽笛ひびきて夏の山

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まだ人気が少ないからこんな感じになる



ひさしぶりで電車に乗り小高まで行った。原町へ小高からは四、五人しか乗らない
女校生が一人おりた。街から離れているという、迎えるにくる家族を待っていた。
もう一人は鹿島の仮設にいる人だった。

「オレ、新しく家建てたよ」
「どこに住んでいるの」
「小屋木だよ」
「みんな帰ってくのか」
「部落では三割くらいだな」
「街から遠いと不便だな」
「街から4キロ離れているよ」
「それは不便だ」
「まあ、仮設には来年の三月までいることできるよ」
「そんなに長くいられるの、みんな帰ってくるのかな」
「帰ってくるよ」
「他で若い人は家建てたとか別な暮らしになったからな」
・・・・・・・・・・・・

みんな同じようなことを言っている、補償金で新築した人も多いだろう。
そういう点では良かったが若い人も帰ってくると思っているのは甘いという人もいる。
要するに避難解除になってもほとんどは帰っていない、仮設にまだまだ住み続ける
20分の停車でありすぐひきかえしてきた。あと帰るとなると便がないからだ。
街中でも住んでいる人はまだ少ないだろう。
小高は終点で駅員がいたが鹿島は無人駅になったのも変化だった。

ともかく電車は待つ時間がありそれが旅するものには記憶となる。
合歓の花が咲いていてホームに涼しい風がふいてくる
それで電車で旅したことを思い出した。
電車を利用するにしても原町まで往復400円だとすると高いとうい感じになる
自転車だったら無料だからである。ただなんか体が弱ってくると電車がいいとなる
小高から買い物の車がでているが便数が少ないからやはり不便だ。

帰りは原町の喫茶店で食事して休み帰ってきた。
原町の駅前の書店も閉鎖した。ただ大きな図書館だけがある。これも何か無駄だったのか?、今になるとインターネット化すると図書館は何か無駄になった面がある
まず図書館で調べ物するのが容易ではないのだ。
なぜなら何か書くときは参考にするものが本でも必要なのだがそれをいちいちとりだすとなるとめんどうなのである。
インターネット化しても蔵書が一定数ないと書くことはむずかしい。
要するに自宅が小さな図書館のようにならないと何かを書けないのである。
自分の家はある程度そうなっている。

時代は常に変わる、本がなくなるなどイメージもできなかったろう。
そしてこの辺がこんなに変わることもそうである。
あそこは高校生が電車を待つ場所なのかとも思う
高校生は帰りで一杯乗っていたからである。

駅前にいろいろあれば電車で来てもいいが今はほとんどなにもない、駅前中心には街は作られていないからだ。
今日も暑かった、電車が走り夕方に夏の月がでていた。これも何か電車ならではの面白さである。

2016年07月13日

抽象画(山-mountains) コンピュターが芸術を創作して鑑賞できるのか?


抽象画(山-mountains)


コンピュターが芸術を創作して鑑賞できるのか?

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密集する山々

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中国の山々(1)

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中国の山々(2)



NHKのクローズアップ現代で人工知能が芸術を作ることを放送していた。
レンブラントの絵の特徴を覚えさせて精巧なレンブラント風の肖像がを作り出したり小説まで作ったし音楽でもコンピューターが作ったものに感動していた
それほどコンピューターは人間の知能に近づいている
だから将来は芸術もコンピューターが作り出すという

抽象画はコンピューターとなじみやすい、紋様などを作り出すのか得意なのである。
パターン化するのがコンピューターは得意である。
自分は抽象画を作るときコンピューターのソフトが作ってる感じになる
ただ不思議なのは川の連作を相当作ったけどどうしてコンピューターは抽象画を川と見るかである。
いくらでも抽象画をコンピュターが作ってもコンピュターは抽象画を認識できるのか?
つまり絵画でも鑑賞できるのか?
つまり芸術は創作する方と鑑賞する方がいる
コンピュターが鑑賞できるなら評価できるなら人間と同じだとなる
芸術はそもそも鑑賞自体がむずかしい、


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somebody watches you


この絵は抽象画である。でもこれにコンピュターはタイトルをつけられるのか?
自分は「誰かがあなたを見ている」とか名付ける
明らかにこれは目だからである。でもコンピュターはどういうタイトルをつけるのか?
自分の作った抽象画をどう見ているのかとなる

それは今回出した山の抽象画でもそうである。山と認識できるのか?
山とか川とかを認識するのは抽象画でも常に具象画をイメージするのが人間である。
そういうふうに人間の認識にコンピュターは近づきできるのか?
いづれにしろすでにコンピュターとの合作化しているのは確かである。
小説すらコンピュターが作ったというとき膨大な情報がインフットされているからできる人間の情報ははコンピュターから比べると一万分の一とかなり少ないからである。

ただ俳句にしてもコンピュターは五七五と並べて創作できるのか?鑑賞できるのか?
コンピュターが膨大な情報から五七五なら数列のようにして組み合わせでできるはずである。それも膨大なものになる。
ただ季語を選べば膨大な俳句を選ぶことができるから創作する方では参考になる
そういうことはできてもコンピュターが創作して鑑賞できるのか?
それが疑問なのである。

2016年07月12日

夏の月(震災後変化がつづく南相馬市)



夏の月(震災後変化がつづく南相馬市)

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豆トラに陽差しの強く藪甘草

十輪ほど鉄路の熱く藪甘草

家建てる働く人や暑さかな

夏燕高くも飛ぶや夕べかな

 a summer swallow 
 flying on the height
 in the evening

草深く茂りの厚く夏の星

新築の家建てつづく夏の月

密生す葉群に光る夏の月

新築の家百軒や夏の月

旅行かむ北斗仰ぐ北海道


この辺は震災以後変化の連続だった。こんなに変わるなど想像できなかった。
家はまだ建てつづけられている。新築の家も売り出されている。
前はそんな建て売りの家などほとんどみかけなかった。
土地も70坪で7百万で売り出していたけど買う人がいなかった。
それが新築の家でこの辺では五つくらい新しい住宅地がうまれた。
活気あるといえばある、今は夏だからその新住宅街に夏の月が輝く

そして新しいスーパーができるのも大きな変化である。
スーパー一つではたりなかった。自分も毎日買い物しているからだ
鹿島にはたりないものがかなりある、でも新しいスーパーができるのは大きな変化であり歓迎する、やはり街にはそれなりのものがないと暮らしにくいのである。
毎日シシドスーパーのできるのを見ていた、品物はすでに並べている。
だからまもなくはじまると思う、鹿島は人口は減らないしわずかでも増えているだろう
外部から入ってきているからだ。新築の家でも磯部の人が来たとかきている

今日は避難解除になり小高まで電車が通った。
これも大きな変化である。
ただ小高にはなにもないし行ってもしょうがないとなる
なんか廃墟の街という感じがするのである。
小高でもそうだが避難区域になったところは何かそうした不利な面を逆手にとるということもありうる、マイナスをプラスにする方法である。
それがなかなか見いだせない、人間は確かに自然があることも不可欠なのだけど街に活気があることも不可欠なのである。
買い物は通販でしいるから便利である。だから特別仙台とか東京にも行く必要もない、それでもう半年もまた仙台にも行っていない
毎日近くを回っているだけなのである。

昨日は晴れて夜の空に夏の星がかがやいていた、北斗七星が真上にはっきりと見えた。
夏に真上に見えだ、北斗七星は冬の星かと思ったが真上に見えた。
夏はいつも北海道に行っていたから北海道を北を目指す
北斗市というのもできたから北にふさわしいのが北斗七星だが夏に真上に見えた。

この暑い中でも働いている人がいる、家を建てている人がいる、それを見ると家を建ててくれる人の苦労を見るとありがたいとなる
でも何か今は家でもほとんど建て売りであり組み立てるだけであり本当に将来的には機械がすくようになるのだろう。
するとそこで働く人が見えないから何かありがたいとかならくなるかもしれない
人間が汗を流し苦労しているのを見ているとありがたいとなるが機械だと機械に感謝したりしないのである。
家事は今ではほとんど機械でてきる、すると主婦業はなくなり女性は外で働くようになった。家事に感謝するというのはなくなるのである。

今日は雲一つなく晴れあがっていて暑い、でもからっとはしている
夏燕が高い空に飛んでいるのを二階から見る
それが夏らしくて気持ちがいい、二階は夏には涼しいということはある
ただ自分の家は北側に窓が風通しが悪いし隣の屋根がトタンなので暑いのである。
クーラーの部屋もあるがクーラーは体に良くない、いつもいる場所が暑いので困る
タグ:夏の月

2016年07月02日

夏の日(相馬市の道の駅ー台前→鹿島区を行く)


夏の日(相馬市の道の駅ー台前→鹿島区を行く)


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白い帽子は女性である

蔵二つがあり前畑があり悠々としている

これが田舎の住まいである。

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この奥に一軒の家がある

その前は草茫々である





蔵二つ前畑に女菖蒲映ゆ

夏草や奥に一軒長き道

立葵映えて畑に仕事かな

大通り田舎の真昼立葵

夏日射しこの家の栄ゆ赤き石

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鹿島区の大通り

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相馬市の道の駅から山の方へ行った、台前という所である。
ゆきどまりの奥に一軒家があった。その前は草茫々だった。
そこは元は田んぼだが放置されたのだろう
相馬市は別に放射能汚染地域に指定されていないから前と同じであるがそこは草茫々だった、奥に一軒家があり廃屋などもあった。
ただ道が舗装されている、それは最近舗装されたものである。
その舗装された道が結構長いけど誰のために作ったのかとなると
その一軒の家のためになのかとなる、それも金が相当かかっているだろう
これがまさに限界集落とにている、一軒の家のたにもインフラを舗装した道を作ったのである。

ともかく田舎は前からいたる所を道にしていた。飯館村の神秘的な森に覆われた場所も道にされた。結局車社会だからそうなる
田舎では車なしでは生活できない、一人一台もっている、農作業でも軽トラが必需品だからである。
それで田舎はかえって金がかかるというのはそのこともある。
一方でなぜそうした不便な所に住めるのかとなる車があるからだともなる
ただ田舎暮らしというとき何か小さな町からでも離れた地域のことを言っている。
でも田舎というとき小さな町とか市がいくらでもある
そこにはスーパーはある、だから別に町内に住めば車なしでも住めるのである。
ただ田舎で普通は車をもっていない人は田舎の下層階級である。
生活保護とかなにか普通ではないと見られるのである。実際に自転車を使っている人はそういう人が多いのは確かである。
田舎暮らしというとき何か特別不便な所をさして言っている。
原町とか相馬市に住んだらそこが田舎暮らしにならないのかとなる。
その辺が田舎暮らしの変な点なのである。

南相馬市の鹿島区の大通りがあり広い、あそこだけなぜあんな広い道路を作ったのか前にフジコシとかのスーパーがありそのために広い道路にした。
鹿島区は原発事故では悪いことには必ずしもならなかった。
なぜなら今度シシドスーパーができる、なぜできたのかと考えると鹿島区は小高は避難区域になったがここはならないし新しい家がどれだけ建ったのか三つくらいの地域が新しい街になったほどである。すると人口は減らないから新しいスーパーができた。
それだけの人口があるから客が来るとして作られたのである。
鹿島区でもう一つスーパーができることは大きな出来事になる。
スーパー一軒だと競争がないから高くなるからだ。
自分は車がないから助かるとなる。

土手の道に立派な家がある、いろいろな石を並べてある。大きな石だからその石自体高価である。一軒見ただけで金持ちの家である。庭に金をかけている所も金持ちの家である。自分は石に興味があるからあの赤い石は女性の石であり女石(めいし)とかなる
貫祿ある石だと見る、毎日あそこを通っているからその石が心に沈着してくる
石というのはやはり長く見ていないとわからない、石というのは自然でも一時見ただけではわからない、長い年月そこにあるからやはり長く見ていないと石のこともわからない、長い時間をかけるとその石と人間が一体化するのである。
だから自然は田舎でも長く住んでいると自ずと自然と一体化するのである。
自然とアイディンティティ化してゆく、それで自分のテーマは石や樹になったのである。
タグ:台前

2016年06月26日

知っていることと理解すること違う (知ることより理解深めること)


知っていることと理解すること違う


(知ることより理解深めること)


知っていることと理解することは違う、知っていることは膨大になるけどそれは単に知っているということであり理解しているわけではない、現代はグローバルに知ることが膨大になる、でも外国になると理解することがむずかしくなる
例えば人間でもあの人を知っているというのとあの人を理解しているというのは相当に違う、まず一人の人間がどういう人なのか理解することがむずかしい
それは家族ですらそうであり、家族でも生い立ちとか境遇が違ってるからである。
夫婦でもそうである。知ることは容易なのだけど理解することがむずかしい

一人の人間を理解するには時間が必要である。理解できないのは時間がないからである。少なくても二三年とか付き合わないとその人のことはわからない。
だからその人がどういう人なのか簡単に判断できないのである。
江戸時代とか村のような狭い社会だったらあの人がどういう人かなど知り尽くしていたろう。でも村以外の人と交わるときその人がどういう人か理解できないから警戒するのは当然だった。
現代はそうしてその人をどういう人か理解できないままに交流することが多くなった。
そしたらどうしてその人を信用できるのか?それでうるさく保証人などが要求される
その人のことを知らないのだから書類選考したり何を判断基準にするか採用する方でも困るからである。
自分も失敗したのは知らない人を家に入れて働いてもらって大損害を受けた。
何か同じ町であり田舎ではそんなことをするとは思わなかったのである。
ただその人が金に困っていたことはわかっていた。
もう一人は親の代からつきあいがあった人だったがその人が金に困っていることがわからなかった。事業で成功した人とばかり思っていた。
なぜならその人はそういうふうに吹聴していたからである。それで病気のとき借金を要求されて苦しられたのである。

いろいろな事件があってもその事件を知ることができてもなぜそうなったのかは理解すことがむずかしい、あらゆることで理解することはむずかしい。あることについて正否があり人についての評価でもそうである。
それは知ることができてもそもそも理解することがむずかしいからである。
現代とは知ることは世界的に膨大になっている、でも理解することは少ない
江戸時代あたりは狭い範囲で生きているから知ることも少ないが理解することはかえって人でも回りのことでも深いものがあった。
それは人間についてもでもその土地のことでもなんでもそうである。
現代は何でも広く浅くであり理解を深めることがしにくいのである。

人を理解するとき、understandとあり下に立つなのである。これもどういうわけで生れた言葉なのかわからないけどヨーロッパは貴族社会だけどそもそも人を理解するにはその下に立たないと理解できない、上からの目線では人は人は理解できない、今度のイギリスの離脱問題でも底辺で働くイギリス人のことがわからない、上流階級は別に移民でもいいとなり残留になったという。そのしっペ返しが投票に現れた。
移民に職を奪われるとか底辺層のことを理解していない、つまりunderstand 下に立って理解しないということなのである。
それも政治家でも何でも下に立たないからそこに底辺で苦しんでいる人たちのことが理解できず無視する、まず貧乏だって今では外見的にはわからない、でも貧乏に苦しんでいる人が増えた。ただ貧乏だからといって生活保護でも人様々でありその事情は良く接してみないとわからないのである。
現代はともかく広くグローバルに交わるのだけど理解することがむずかしい
そこに様々な誤解や軋轢が生れる、外国人が大量に入ればますますそうなる
言葉も理解しないというとどうして理解できるのかとなる
つまり移民問題はただ安い労働力として考える、ロボットのように考える、相手は人間なのだから理解し合わないとまずたがいに協力はできないのである。
だから移民は問題なのである。機械の方がそれならいいとなる。

理解するというとき本当に自分は家が傾くほど本を買ったけど理解していなかった。びっしりと線を引いていてもそのことを全く忘れていて理解していなかった。理解しているのもあったが多くは深く理解していなかった。
そして今になると二三行を読むだけでその言っていることを深く理解できる
老人は理解力とか洞察力が深まる、若い人には行動があっても理解力がないのである。
若いときはどうしても行動が先になる。それは正しいことである。
旅をするということは行動なのである。旅しているときとか何か行動しているときそのことについて理解できない、でもあとで理解することが深まってくる
人生でもその時々にこうどうするのだがその意味が理解できないが老人になりふりかえるとりかいできなるのである。あれはそういうことだったのかと理解できる
歴史でも百年たってふりかえり理解が深まる、最近明治維新について見直されているのはそのためである。

人間は多く知ることではない、あることについての理解を深めることである。それは人間についてでもそうであり社会についてもそうである。
そうしないと浅薄なもので物事を判断するようになってしまう、つまり数が多いとかナチスのようなファシズムになりやすいのが現代である。何か感情的に煽情的なものとしてあおられそれで全員は理解しないで行動することになる
それはカルト宗教団体がこれほど増えているのもそうである。題目を唱えればいいというのはまさにファシズムである。それは何も考える必要がないからである。
すべてはハイルヒットラーで終わりになる。
ホピュリズムになりやすいのがまた民主主義なのである。多数決がすべてだとなるとそうなる、なぜなら庶民は知ることはできても理解できないからである。
そして現代では理解できないことが多すぎるのである。
原発事故もそうして起きたのである。庶民にとって原子力とか核となると理解不能になるからである。

知っていることをいかに増えても結局人間は賢くなれない、互いに理解しあうとき相手との和解があり平和もありうる、貧富の格差が問題になっているが今は金持ちと貧乏人は交わらない、するとたがいに金持ちのことも貧乏人のことも理解できないのである。
理解できないとそこにただ敵対関係だけになるのである。
だから金持ちと貧乏人を分けるマルクスの階級闘争の思想は危険だったのである。
現代がそうなりつつあるから危険なのである。
イギリスの離脱問題でも残留派は金持ちに貴族に多いというとき下で働くイギリス人の庶民のことが理解していなかったのである。

2016年06月25日

黒い百合(金持ちと貧乏人の人類の永遠のテーマ?)



黒い百合(金持ちと貧乏人の人類の永遠のテーマ?)


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緑陰に休めば来る尾長かな

夕月やしきり飛び交う夏燕

馬駆ける野馬追い近し夏雲雀

原町のレストランの窓夏燕

風を切りロードに走る夏燕

薔薇あまた庭に咲くかな肥料やる

老鶯や根を張る樹の太しかな


黒き百合さして我が家に日々来る女(ヒト)そめだたず苦労多しも

その女の苦労の絶えず老けにけり黒百合さしぬ我が見ゆるかな

その女の植えにし薔薇のまた咲くと明日また来たらむ我が庭を見る


その女性は苦労人である。だから十年くらい年齢よりふけて見える、なぜその女性が貧乏なのかわからない、結構働き者のようにも見えるからである。
造園関係の会社で働いていたので花とかには詳しい、それで庭を作ってもらった。
小さな畑で毎日働いている。ただこれは趣味である、なぜならそこに金をつぎこんでもその金に見合うものはとれない、自分から見ると贅沢だとなってしまう。
ただ野菜を作ることが好きなきである。農業が好きでしているとなる
農家の出だし体力もある。ただ耕すとかは人に頼んでいるのである。

金持ちと貧乏人というとき本当に和解しないのか?ただ金持ちを貧乏人はうらやむだけなのか?
これも結局その人の考え方が左右する、もう徹底して金持ちを批判して金持ちは悪だとする人がいる、そういう人は金持ちと敵対するしかないから家の中で雇ったりしたら危険になる、家の中に入るとその差が大きいので問題が起きやすいのである。
なんでこの家でぜいたくしているんだとなる。それがはっきり見えるから危険になる
それで俳優の女性の家から宝石などを盗んで訴えられたお手伝いさんがいた。
ともかく何か家の中に入り働くと問題が起きやすいのである。そういう事件が日常的に起きている。
自分は別に雇っているというものでもない、ただ毎日その女性は来ている

金持ちの家にきて例えば広い庭があるとしてその庭を掃除したり花や樹の世話とか水をやるとか掃除するとかき仕事があるとたらそんなことただ使われているだけで嫌だと思う人がいる。
一方で自分の庭でなくても花を見れるし広い庭にいると気持いいと考える人もいる。
他人の庭でも自分の庭にも思えるともなる、別に花は金持ちの家に咲くとしても同じように美しいからである。
「この花きれいだね」とともにその美を見て喜ぶのである。
そこにともに豊かさを享受しているのである。
でもそういうふうに考えないとしたらこの家ではいろいろな花を買えるとか自分には庭もない花も買えないとか不満だらけになるのである。

金持ちと貧乏人を考えるとき金持ちにあやかった方が実は得である。貧乏人同士ではただ不満ばかりを言うだけになる、何か困ったことがあっても金の問題があっても相手に金がないので解決しないのである。
共産主義がみんなで平等で貧乏になるという社会である。それもつまらない社会だと思う
田舎でも金持ちがいるということは何かその土地に金持ちになるものがある、農家だって金持ちの人はいる。それには金持ちになるものをもっていてる、浪江の広い畑をもってとれた野菜を平に今のいわきに売って娘を3人大学に出したという農家の人がそうである
その人は表彰されたように農民として優れているからそうなった。
そういうふうにして豊になった人をうらやむということはひひがみである。
田舎でもその土地から実りがあり豊かさをもたらすことをその農民は示していのである。そういうふうにして豊になった人を否定したら自分たちも決して豊にはならないのである
ただ株でもうけたとか公務員はたいしたこともしていないのにき給料がいいとか恵まれているとか不満がでる、それは富を得るのに不公平だとなりそうなる
でもまた先祖が努力して残したものを受け継ぎ発展させることも否定できない
なぜなら人間はとても一代では豊になれない、先祖が良ければやはり恩恵があって当然だとなる、先祖の努力や福を否定することはできない、ただ都会などでも土地だけを引き継ぎ地主などが批判されるのは土地だけをもっていて金持ちなっているからだとなる
ただ土地を受け継いだだけで実際は次の代では努力もしていないからだろう。

ともかく金持ちと貧乏人が敵対するでなく何か和解する方法を見いだす、それは双方の歩み寄りが必要なのだと思う。もちろん巨万の富を貯えるというのは問題外だろう。
そんな巨額の金をもつということはどうしても異常でありそれに対する不満は当然だとなる
金でもその人がどういう使い方をするかというのも問題になる、ギャンブルとか女遊びだとか浪費していると批判されるだろう。何か社会に貢献しないと批判される
ともかく現代は金の力が大きくなりすぎたのである。金が人を支配して金持ちと貧乏人が離反してしまう。
ただ田舎だと金持ちは目だちうらやまれる、だからどうしても田舎は平等を追求することが強いられるのである。
大金持ちは都会にいるが田舎には住めないだろう。それは目だちすぎるからである。
金持ちと貧乏と貧富の問題は人類の永遠のテーマなのだろう。
それ故に共産主義革命があり多大の人命が失われた。それは貧富の格差だったが中国ではそれは解決していない、信じられない巨万の富を今度は共産党の幹部がたくわえたからである。この問題を解決することがあるのか?



タグ:黒百合

2016年06月20日

立葵(ヤマハの 電動ロードーYPJ-Rを買う)



立葵(ヤマハの 電動ロードーYPJ-Rを買う)


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ここはクリック拡大しないと映えない(大画面)

写真を見て気づいた、石が一つあったのを・・・

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これもクリック拡大

後ろは津波があった八沢浦-原野化したまま



立葵電動ロードに走りさる

立葵夏菊映えて野の広し

軽快にロードに涼し風を切る

夏菊や花に囲まれ石一つ


25万したけどヤマトの電動自転車のロードのYPJ-Rを買った。
今日一日乗った感想はこれは電動がなくても高級なロードである。
20万クラスのロードなのだ。8キロの八万のロードに前乗ったがこれは全く使い物にならない、軽いにしてもちょとした段差がひびくのである。
安定しないし坂になると普通の自転車よりきつくなる
この買い物は失敗だった。自分は自転車で旅したのは40才からだから詳しくない

今回のYPJ-Rはまず作りが安定しているからブレないのである。
そもそも作りが全く違っている、工学的にも練られて作られているのだろう。
タイヤも細いにしてもそんなにでこぼこにひびかない、ロードだけど軽いのではなく重厚な感覚なのである。
普通に走って20キロは平均的に出るから早い、前からすると倍の速さである。

ロードはだから結構危険な乗り物である。ちょっとしたことで大怪我にもなるし死ぬことあるなと実感した。
自分はだから国道とかの車道は走らない、また下り坂などを下るときもスピードを出しすぎる危険である。ブレーキがきかなかったら即死ぬ怖さである。
前の電動自転車で坂で転んだときあったがこたいしたことがなかった。
同じヤマハでもマウテンバイクの電動自転車だったからである。
今度の全然違う、まず普通に走って20キロでる、30キロも出るとなるとこれは原付バイクと同じである。スピードが出ることは怖いことなのである。

バッテリーは2・5Aであり少ないが平地ではバッテリーはへらないしなくてもロードだから早い、15キロあっても重さは感じないのである。
作りがロードでありいい部品を使っているからである。
ただ坂になると特に急な坂ではバッテリーはへるから一つではたりなくなる
ハイモードにするとすぐに減ってしまう、でも標準モードにして上ればそれほど減らないでも坂を上るとしたら予備のが一つ必要である。
電源装置を携帯すると結構重くはなるしキャリーはつけられない
でもこれは長距離用である。スピードがでるし軽く乗れるからである。
今までの電動自転車の倍の速さが常時でることはそれだけ遠くに行くには便利である。
ただ国道を行くのは車道を走るのは危険でからひかえる
田舎では歩道でも走っていいからである。誰も歩いていないからである。


自転車の醍醐味はロードにある、ただ自分は遅かったので今になると体力も落ちて苦しいでも最後に何年か近くでもいいから乗れたら幸せである。
ただ危険だからよほどこれは注意しないとまずいと思った。
今この辺はトラックが多いから余計に危険なのである。どこでも走っているからである。
老人は金を使わないというとき老人にふさわしいものが売っていない、作られていないというのは本当である。若者向きしかメーカーで作らないというのもそうである。
金をもっていても使うものがない、庭作りでまた30万とか使った。
老人に向いているのは庭作りとか自転車とか他にもある、盆栽などは今は少数派である。一番多いのはカラオケの仲間である。

自分はこれまでの旅行でもその他老後は作品の総まとめでありこれも手間でありかなりの時間がかかる、なんとか介護が終わったのでそこに集中したい。
いづれにしろ何か買っても使いこなせないのが多くなった。
老人は何かを買ってもそれを使いこなすことが容易でなくなる
体力的にもそうであり新技術のものでもめんどうでしたくなくなる
パソコンでもいろいろ新しい技術があってもなかなか理解できなくなる
新しいことを理解しようとすると疲れるのである。
だから庭作りなどは一番適している、いつも身近で楽しめるからである。
それでも小さな庭でも手入れするのが今度はめんどうになる。
家事から料理から介護が終わってもやることが多すぎるのである。

ともかく物が売れないというがこうした新技術の商品が出れば老人向きのものが出れば売れると思う。
いくら老人が使いたくないといっても新しい技術の商品の魅力は大きいからである。
でも自分はあと何年か自転車に乗れるがそのあとはできなくなる
これが最後の自転車になるのかと思う。
タグ:ヤマハ YPJ-R

2016年06月18日

薔薇(真夏になっている)


薔薇(真夏になっている)


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新築の家の増えしも夏雲雀

蕾より薔薇の開くや朝日さす

一輪の薔薇咲きあまたつぼみかな

知る女の暑さの中に畑仕事

木蔭にそ日がな休みぬ庭の石

復興や田んぼの増えて夏の月


真夏になっている、陽差しが今年はずっと真夏だった。
この辺は新築の家が増えた、そして新築の家が立ち並んだ所が一つの街のようになっている
だから前よりかえって活気がでている
田舎でもやはり一万だと今は活気がない
街は必要であり田んぼとか畑だけだったらあまり住みたくないとなる
田舎と都会がほどよく混在している所が今は住みやすいのである。

知っている女性が畑でこの暑いのに仕事している、草取りがかかせないのである。
ただその畑からなにももらったことがない
前にも書いたけど一の収穫を得るのに十倍もの金がかかっているのである。
ただその女性は畑仕事が好きでしているのである。
自分はただその畑仕事の大変さを聞いているだけである

別にしなければ金もかからないし野菜は買った方が安上がりである。
自分で作るとなるとかえって金がかかるのである。
趣味でする方が金がかかる、もし貧乏な時代だったらこんなことを言っていらないだろう。
その暑いさなかにとれた野菜で日々の糧となればそうなる
こんなふうに見ていたらしかられるだろう。


自分は木蔭で石のように休んでいればいいとなる
でも自分の家の作りは失敗している
北側に窓がないから風通しが悪く暑いのである。
隣がトタン屋根になっていてその照り返しでまた暑い
二階はいつもいるが暑いのである。
下も風通しが悪いから暑いから夏向きではない家である。
今からクーラーもしたくないから困る

今年き夏はこれからどうなるのか?
干ばつになるのか?これまた大変である。
それとも7月になくと梅雨が本格化して雨がふるのか?
何か今年は最初から4月から暑く真夏化していたのである。

今年は良くこんなに薔薇が咲いたと思う、肥料の土作りをしていないときだったからである。
もしかしたら何回かやった薔薇専用の液体の肥料がきいたのか?
こんなに咲くということが不思議だからである。
まず花のことを土でもしるのは容易ではない、相当な知識と経験が必要になる。

タグ:薔薇

2016年06月16日

梅雨の日 (暮らしの跡は建物に残っているー家は記憶である)


梅雨の日

(暮らしの跡は建物に残っているー家は記憶である)


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廃屋と化した町医者の医院

我が母のこの医院に通いしを廃屋となり

五月の庭に咲きしも誰か見むあわれかな

この裏路地の道我が日々通り行きしも

今日雨しととふりこの医院の思うかな

母は言いにしこの先生の優しきと

かつて老人のここに集まりしを

その母も遂には死して帰らざるかな



この医院は誰も住んでいない、この建物を見るといかにも町の診療所という感じである。自分の母はこの医院に良く通っていたのである。
だから今になると不思議な感じになる、母は手押し車を押してこの医院に来ていた。
自分も一緒に来たことがあった。
この医院は相当古いのかもしれない、建物の感じではそうである。
廃墟趣味とかで訪ねる人がいるけどそれはなぜなのか?
やはり悪趣味というのではなくそこに人間が住んでいたということで魅力を感じる

要するに人間の生活を刻んだ過去が建物に残っている、何か思い出すにしても思い出すものがないとなかなかできない、もしこの古い建物が取り壊されればなかなかここに医院があったということすら思い出すことができないのである。
つまり過去の記憶が建物がなくなると消えてしまうのである。
これも街中にある一つの過去の記憶として残っている
いかにも街の医院であり何か素朴な感じがした。
今までは注意していなかったが母が死んだことでこの医院のことをふりかえったのである
人が死ぬとその死んだ人の跡をたどる、相続で戸籍でその跡をたどったことを書いた。
母の前の夫が東京の人でありその跡を戸籍からたどった経験は不思議だった。
両親とかなるとその足跡をたどりたくなるのは自分の人生とも深くかかわっているからである。

この医院に通ったということは何気ないことであり特別なことではない、でも何か人間が死ぬとそうした何気ないことが人生の一こまでも記憶として刻まれていることを感じる
それぞれの街で生活すること、村でも生活することはそこに人間の記憶が刻まれているのである
だから原発事故の避難区域になったような所でもそこに生活した人々の記憶が刻まれている
でもこれがただ日々何気なく生活しているときは意識しないのである。
人が死ぬとなぜかそれが貴重な人生の時間のようになるのである。
だからそうして暮らしていた街には愛着あり村でもそうだが他に移るということが辛いとなるのである。これは若い人と老人では全く違ったものとなる。
若い人は他でも新しい生活がはじめられるからである。

ともかく何か人間は当り前に普通にあるものを意識しない、ただこうしてなくなると失われると意識するのである。
死んだ人でもやはり記憶をたどりその人を浮かんでくるのである。
そして建物は家は形となって残っている記憶なのである。だから建物がなくなると記憶も消えてしまうのである。
故郷とはそうしてここに生きた人たちの記憶が刻まれている場所なのである。
ただその記憶にしても普通は意識しないのである。

こうして人がいなくなり廃屋となりここに医者がいて町の人が通っていたなと思い出すのである。廃墟趣味というときそこがかつて人が住んだということで何か人の匂いが以前としてするからひかれるのである。
ただ他にも廃屋があくけど庭があっても人が住んでいないと本当に淋しいなとなる。
庭に置かれた石でも人間の匂いがふるからである。人が住まないと本当に自然にある石より淋しいものとなる
そういうことがこの辺の原発避難区域とかで起きているのである。
町自体が村自体が廃墟化したからである。家自体が遺跡のようにも見えたのである。
家とはともかく記憶が形となって留まっている、そこに家の意味があったともなる
家が失われると共に記憶も消えてしまうのである。

タグ:廃屋

2016年06月08日

夏つばめ(日々行く道)


夏つばめ(日々行く道)

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川の中が放置していたら木が育ち森になってゆく
津波の跡や原発事故で荒地化したところも放置していると
森になってゆくのである、日本では草原はないのである。
だから森というのは自然そのものであり街の中に森ができたら
気持いいのである。
でも今は街の中に森がある所はまれである。
わずかに鎮守の杜(もり)というように神社のあるところが名残りとしてある。
ここの川岸も半分の木は切られている

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軽快にロードに走る夏燕

一、二、三、次々に飛ぶ夏つばめ

夏菊の朝一面に広がりぬ

老鶯の鳴く声聞きつ畑仕事


この道の木蔭の長く叢に鶯鳴くや我が日々通る


夏燕が盛んに飛んでいる、土手の道は木蔭が長くつづくから涼しいし気持がいい
木蔭というとき車だとそうした自然を感じないのである。
風も感じないから自然を詩にするときできないとなる
電車だってそうである。でも車はもう欠かせないのである。
自分は別に仕事もしていないから自転車で生活できているだけである。

ここ十年は遠くに行っていない、なんか近間を行ったり来たりしているだけである。
それでもなぜこれほど買い物があるのか?何かしら買うものが毎日ある。
だからスーパーとドラッグストアとホームセンターに毎日のように寄っている
そうして回っている内に家事をしていると時間がすぎてゆく

介護は終わったけどやはり忙しい,ただ自分の創作に作品の整理とかに時間をとれるようになった。
家の整理もあるが自分の今までインターネットに書いたものの整理がある。
それもかなりの手間なのである。
自分にはだから仕事が一人でこなせないほどある。

何か頭が回転する、頭脳が明晰になり何かわからないものがわかるようになる。
それも不思議な現象である。
本でもぱらぱらとめくっただけで何を言おうとしているのかわかる。
そしてこれが自分の文に引用できるなと今までの一方的に読まさせられているのとは違う読み方になっている
本は明らかに自分の文脈で読むとき活きてくるのである。
本でも知識は膨大でありそれに追われていたら何もできない
読んでいない本が山のように積まれている、こんな本があったのかと読み直している。
そしてほとんどの本は利用していない、ただ読んでも覚えてもいなかった。
そして積まれているだけだったのである。
ただ本を集める蒐集家になっていたのである。

人間はいろんな場所に住んでいる、他から見るとそこがどういう場所かわかりにくい、相馬藩内ならイメージできるが実地に踏んでいない場所はイメージしにくい。
写真を見ても良くわからない、自分の住んでいる所は川があり平地であり一万の小さな町である。
だから自然は豊だとなる、ただ木蔭の道が街内にはかえって今はあるが海の方に行くと木蔭がない、津波で木蔭がなくなったのである。
これが意外と困ったことなのである。暑い時強い陽ざしをうけるからである。
木蔭はやはり自然の樹とか山の陰とかなると涼しいのである。
建物の陰では暑く感じるのである。ともかく今年は春からすぐに夏になってしまったのである。




夏の日の道

川は街中をゆるやかに流れ
つばめが盛んに飛び交う
橙の夏菊が一面に土手に広がる
叢深く老鶯の鳴き
畑に老夫婦が働く
我が知る人も働く
老いて畑の実りを楽しみとす
家々の庭々は良く手入れされている
我が庭にも新しい薔薇の花が咲く
軽快に最新のロードで走る人
ここに木蔭の長い道がある
この道を日々買い物に行く
この町に生きることは幸いなのか?
たりないものが多くある
でも満たされるものがある
でもここが終の棲家なのか?
十年間遠くに行かず
この町を走り回っている





タグ:夏つばめ

2016年06月05日

茨城県の太子町へイワヒバを買いに行く人のことなど


茨城県の太子町へイワヒバを買いに行く人のことなど


特にいわひばをよく見られる・育成が盛んなのが【栃木県】だと思います。
そして栃木に隣する群馬や埼玉でも多くの人がいわひばを育てています


近くの知人がイワヒバを買いに茨城県の太子町まで車で行った、朝五時に常磐高速道で行った。
その人は前にも書いたけど大きな岩を組んだ庭がある、あれだけの岩を用いた庭はなかなかない、それも若いとき三〇代くらいで作っているのである。
庭師は頼まず知っている人に協力してもらい作ったという
それは何か登山もできる山のような庭になっているのだ。

その人は津波が来る前はイワヒバが相当にあったがなくなった。あの庭にとイワヒバがにあうのである。
だからイワヒバを買いにわざわざ太子町で行く、イワヒバは野生のものだと断崖とか危険な場所にあるのでとるのも危険でありそれで値段が高くなる。
何か十万くらいもっていて買ってくるという。自分も欲しいので頼んだ

茨城県は山はあまりないけど栃木県とか群馬、埼玉にはある。とするとそこに太子町は隣接しているから集めて売っているのだろう。
宮城県以南にしか自生しない、福島県ではとれないものなのか?会津などは山が多いけどどうなのか?

イワヒバの特性はほとんど水をやらなくても肥料をやらなくても生きている力強さである水は最低限必要であるが肥料をやりすぎると死ぬというから高山植物ともにているのか?
イワヒバは岩に根付き岩から栄養をとっているとさえ見える
岩に何も栄養がないというが岩は土となる、土はもともと岩だとすると岩には栄養分がある、ミネラルもあり岩の多い所からとれる水はミネラルなどの栄養分が多い
それでヨーロッパの水にはミネラルが豊富である。

植物はやはり南系が多い、サカキなども宮城県が南限だとあり宮城県までが南方系なのだろう。シャリンバイ(車輪梅)この辺では南相馬市の海老浜が南限の地としてあった。
種類はマルハシャリンバイであり丸い葉が特徴である。
北方系だと北海道に自生している花である。尾瀬の至仏山頂に咲いていた檜扇菖蒲などが北海道の平地に咲いている、ハクサンチドリも宗谷岬を回ったとき雨にぬれて咲いていたのは意外だった。
相当自分は野生でも花を見てきた。その後介護で旅行しなくなってフラワーアレンジメントをするようになった。

最果ての宗谷岬へ雨しととハクサンチドリのここに見ゆかな

旅行の時はなかなか花をというものを見ても短い時間だから心に残らない、記憶されないのである。旅のときは何でもそうである。短い時間だから記憶に残りにくいのである。
それで最近気づいたことは活けた花はいつも見える食事するような場所に置くことであるそうするとその花が親しく何日か見ているから心に反映してくる。
一日くらいでは花は心に写らないのである。家でも離れているとじかにいつも見ないから心に写らないということがある。
何でもそうだが何か心に残るという時時間が必要なのである。

旅にはその時間かない、特に車などだと通りすぎるだけになる。自転車だってゆっくり見れないということがある。
人間だって親しくなるのには時間が必要である。
だから人間はつくづく時間が貴重なのである。旅でも実際は気が散りよからぬことに目が向いたりせっかくの貴重な時間を肝心のものに目を向けず終わる人も多い
旅は遊びであり気楽だというが相当に回りの風物に集中しないと何も残らないのである。自分の母親は旅行などしたことがなかった。たまたま団体旅行したがその行った場所すら覚えていなかったのである。
旅でも意外と忘れることが多い、時間をかけないから忘れやすいのである。

あなたが何に時間を費やしたが人生なのである。それが人生の終わりにはっきりと否が応でも自覚させられるのである。
そして最後は記憶をたどる旅になるし人生も回想するだけだとなる
だから人間ほど時間を無駄にするものはいないのである。
旅だとその場に一回しかいないということがある。そしたら二度とそこにいないとしたらその時間が貴重なのである。人との出会いですらそうなる
最後はみんな別れてしまうだけだとなり二度と会わないとなる。

久慈川は幸(さけ)くあり待て潮船(しほぶね)に真楫繁貫(まかぢしじぬ)き吾(わ)は帰り来(こ)む

[丸子部佐壮(まるこべのすけを)

久慈川は鮎で有名である。万葉集時代から久慈川は知られていた。大きな長い川である。そこで天然の串焼きの鮎を買ってきてもらったが一匹五〇〇円だけど価値がある
養殖の鮎はスーパで時々売っているけどうまくない、鮎は自分は好きだった
子供のとき父親が鮎をとってきて食べた、その時の鮎は大きかったのである。
今は小さいしうまくなくなった。久慈川でもきれいなようで水質は悪くなっているから鮎の質も落ちているという。
熊野川だったか鮎を焼いて観光客に売っていたけどあれも養殖の鮎だった。
数が多いからそんなにとれはずがないと思ったからだ。
記憶しているのは新潟県の魚野川の流れる小出の食堂で食べた塩焼きの鮎だった。
それは生きのいいもので身がしまり本当にうまかったのである。
それ以来すでに十年は鮎を食べていないのである。天然の鮎はそれほど貴重になってしまったということである。

幸(さけ)くあり待て・・・・今は天然の鮎が食べられる・・・その幸(さけ、さち)を待ち望むともなる、落ち鮎のシーズンだと磐城の山の川でもとれて簗場があり臨時で鮎料理を出していた。会津辺りなら天然の鮎が食べられるだろう。
でも会津にすら介護で十年以上は行っていないのである。だから旅というのも実際はできる時間が限られているものだと思った。
これだけ旅した自分でもそう思うのだから他の人はましてそうなる。自由な旅はそれだけしにくいものであったのだ。
タグ:イワヒバ

2016年06月02日

黄菖蒲(津波の跡に海老浜に咲いた黄菖蒲の群生)


黄菖蒲(津波の跡に海老浜に咲いた黄菖蒲の群生) 


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夕べなお黄菖蒲映えて蝶眠る

黄菖蒲のあまた咲きにき海老の浜ホトトギス鳴き夕暮るるかも

海老浜になおシャリンバイ咲きにしや津波の跡に命をつなぐ


津波から五年すぎたけど以前としてその不思議さがつづいている
海老の村は家はほとんど流されていない、今日夕方行ってみたら
黄菖蒲が群生していた、なんらか湿地化して元の自然にもどる
現象があった。
そこにホトトギスが鳴いていた。
それがなんともいえぬ不思議な感覚である。

もともとの自然は菖蒲が湿地帯に群生していたのである。
それは釧路湿原などに見られる
今は菖蒲の季節である。
海老の浜の高台では三〇人くらい死んだと言われる
そこが避難場所にしたからである。
前はすぐ海であり高いから津波の避難場所になっていたのでてある。
だからこの黄菖蒲の群生しているところすにも津波がきた、
松の樹皮がはがれているのがみえるからわかる
必死にこの森に逃げて助かった人の話を聞いている

(鹿島町) - 南相馬市に合併される前に、マルバシャリンバイが町の花の指定を受けていた。(福島県)

海老の浜は自生する南限の地としてあった、マルハというのは葉が丸いからである。今は絶滅危惧種となっている
でもこの辺では庭でもいたるところに咲いている
わずかにまた咲きだしているものも見たからこれも増えるかもしれない
この辺はまだあたたかい地だから咲いた
真野の草原の万葉の歌はまさに気候的地理的に南限の地だったともなるのである。  

2016年06月01日

アイリスと夏菊(詩) (乱れた世に詩は切なる祈りともなる)


アイリスと夏菊(詩)


(乱れた世に詩は切なる祈りともなる)


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アイリスと夏菊

ジューマンアイリスに
橙の夏菊が映える
その白い清楚な花冠
光をあびて静かに咲く
ああ ここを乱さずあれ
何故に横暴な人の踏み入れ
花園は荒らされしや
ここは乱れに乱れぬ
そして今は祈りともなる
ここに落ち着きその清楚なる
アイリスと夏菊の調和して
長くもここに咲きつづけよと
それは今や切なる我が願い
そこにアイリスの清楚な白に
橙の夏菊が映える
ある家の庭を見れば
一本の松の根を下ろし
奥に紫菖蒲のひそまり咲きて
やはり夏菊が映えている
ここに穏やかな日々のあれ
いがみあい憎しみ合い
そして乱れに乱れた世
花園は踏みにじられ荒らされぬ
痛く傷つけられた心よ
踏みにじられた心よ
人はいつか定着を望む
花園に木蔭の涼しく
石はそこに影なし休みぬ
そはここに動かざれ
そしていつまでも花は
その美しさを保ち咲きてあれ
それは今は切なる祈りともなる
乱れ荒れ果てたる世となれば
人は切にそのように平和を願う
平和の尊さを知る


つくづくこの辺で起きたことは何なのか?まるで地獄だったしその継続もある
津波の被害もまさに地獄である。これも何なのかわからなかった
そして自分に起きたこともそうである。
ここで書いてきたけど信じられない異常なことも連続だった
それは金にまつわり起きたことである。
そういう異常なことが苦しみが受けると人間は変わる
ハンス・カロッサの詩は戦争を経験して書いた詩だった。
人間は戦争などを経験するとまるっきり変わってしまう
アフガニスタンの少女の願いは戦争のない平和があることが切なる願いとなる。
ただ戦争がなくなって欲しいというだけである。
その他はいろいすあってもまず戦争がなくなって欲しいというのが願いとなる

その気持がこの辺で自分の一身上に起きたことでわかる
この辺は自分でもまさに地獄だった、病気でも同情もなにもない、火事場泥棒であり津波の被害の情況と同じだった。
病気をいいことに借金を要求してきたりとさんざんな目にあってきた。
ただ非情しかない世であり人間である。
そういう経験すると人は変わる、ありふれた平凡なことが尊いものとなりその価値を知るそしてそれは切なる祈りともなる。

故郷を失った人たちもそうであり津波の被害にあった人たちもそうであり自分だと一身上に起きたことの非情である。
普通でも人間はいがみあい傷つけあう修羅だということは変わらなかった。
ただこの辺では極端なものとして全体に現実化したのである。
こういうとき花を見ているといがみあいにくしみあいはない
乱れることなく静かに光をあびて咲いている、それは当たり前のことかもしれないが
これだけいろいろなことに苦しめられ乱れるとなんと平和に咲いているのかと見る

ともかく回りに起きたことでも自分の一身上にい起きたことでも一体これは何なのだとふりかえる、そしてただ花が平和に咲いていることを切に願い祈りともなる
いつまでも乱されずに咲いていて欲しいとなる

この辺では当り前にあるものが失われた。そしてその尊さを知った。
人間はなぜこの世でこれほど平和がないのか?
それは人間は平和の価値を知らないからである。
本当に平和とか知るために天国を知るために地獄を知らねばならないとなる
なぜなら天国にいたらそれが当り前となりその価値を尊さを知り得ようがないからである地獄の対比で天国もあり天国は地獄があって輝きを増すとさえなる

地上が僕らにとって
故郷になるには
血がにじまねばならぬ
あまたの血とあまたの涙が

(ハンス・カロッサ)

戦争を体験したからこの詩が生れた、この辺も戦争状態のようだったのである。
ただ現代というのはどこまでも金でもめる。この辺で補償金でもめているのもそうである自分の一身上の苦しみも非情も金のために起きたことである。
戦争となると金というより人が死んでいるし街も破壊される
シリアのような状態になる。血がにじまねばならぬというとき戦争では人が死ぬからである。
この辺では津波では多数死んだ、それは戦争とは違っていてもにているのである。

2016年05月29日

夏菊(ニコニコ堂から八沢浦をまわる)


夏菊(ニコニコ堂から八沢浦をまわる)

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北海老のニコニコ堂喫茶店

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八沢浦パノラマ写真

両方ともクリック拡大



三色の薔薇の映えにきニコニコ堂

夕暮れに家の間ぬいて夏燕

葉の広み夏蠟梅の隠れ咲く


大空に青鷺遠く飛び去りぬ夏の光になお明るしも

夏菊の風にそよぎて明るしやなお野に働く人のみかけぬ

夏菊に陽差し注ぎぬ夕方に自転車に走る我かなか

鳥の声まじかにひびきこの夕べ叢深く黄菖蒲色の映ゆ

紫の薔薇一輪や庭に咲き町の夜更けて月の光りぬ


半年ぶりとかにニコニコ堂を見た、あそこには三回しか行かなかった。
あそこの庭が花の庭になっていていいのである。
あそこは鹿島では隠れた穴場だとなる、でも商売として成り立っているのか疑問である。昼は予約制だし一週間に三日くらいしかやっていないとなるとそうみる
三色の薔薇が咲いていた、薔薇は夏の季語だった。

八沢浦の方に回ったら広い場所は荒地のままだが脇に入っている所は田んぼになっていたあそこも津波の被害にあったところである。
別に津波の被害にあったところでも田んぼにしている。
ただ海老の方面は荒地になっている。海老は被害が大きかったから田んぼが放置されたのか?

すでに藤の花は終わっていた。今年は暑くて体調崩して相馬市の方に行けなかった
意外と藤の花が早く散ると思った。
夏菊が風にそよいでサイクリングには気持ちがいい
ただ今年は暑くて何回も体調を崩した、胃を悪くした、もともと胃腸が弱い
その原因がわかった。冷たいジュースとか成分的にも体を冷やして悪かったのである。
それでお湯を飲んだら良くなった。
今年はもう暑さ対策が必要である。冷たいジュース類は胃に悪いから飲まない方がいい

自分は毎日買い物だとか自転車でかけずりまわっている
それも近くであり遠くには行かない
すると家の間を燕がとぶ、自分も家の間をぬうて自転車で走る
自転車は自然と一体化するのである。
ただ暑いと陽差しを受けると危険なことがわかった
紫外線の影響も大きい、今年は暑いから気をつけないと危険である。


タグ:ニコニコ堂

2016年05月23日

木蔭(老人は木蔭に休むのがふさわしい) (老人のあるべき所が失われた)


木蔭(老人は木蔭に休むのがふさわしい)


(老人のあるべき所が失われた)


仮設暮らしの老人が日がな川岸の木蔭でやすんでいる、意外と仮設暮らしはまず補償金がもらえるから余裕がでているのだ。
今まで金の入らない人も金がたまったと喜んでいるのだ。
そしていつも仲間の老人と近くで顔合わせられるからいいと言っているのである。
そして老人は何か木蔭に休んでいるのがにあっているのだ。
それも自然の木蔭だといいのである。



故郷の木蔭

故郷の古木の陰に
老人が何人か日かな休んでいる
古木の日影は風が涼しく心地よい
故郷の古木の大木の陰に
老人が休んでいるのがふさわしい
昔を語り心安らかな日々が
長く暮らした故郷にあるのがいい
なじみの人がいて家と土地を持ち
老人はここに安らぐ
皺の深い老人自体がは古木なのでてある 




動かない岩

森の奥処の大きな苔むした岩
どっしりとして動かない
森の木々が覆い影なして
ひんやりと谷間の風が吹いてくる
小鳥の声がひびき流れの音がひびく
清涼なその奥処を乱すものはいない
そこに岩は動かない
そこが岩のあるべき場所だから
そこに岩も樹も老いてゆく・・・・

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都会になると何か木蔭といっても騒々しいし窮屈なのである。自分はずっと学生時代に東京にいたけど都会を嫌悪するようになった。
おそらく性格的なものがある、何か人づきあいが苦手であり30年間隠者になっていたということが不思議である。引きこもりといえばそうなる
こんなことがありえたのは家族環境が特殊だったからである。
自分はそもそも団体生活になじめない、学校もなじめなかったし会社勤めもできない、ただ変なのは懸命に団体生活してとけこもとうしていた、学生時代に体育会に一時入ったのもそうである。カルト宗教団体に入ったのもそういう団体生活をするためだったのであるそれ以後自分は社会から離脱したというか隠れてしまったとなる
ずいぶん旅行ばかりしたとなるが旅となると別にこれは人と関係しないのてある。
一人旅でありこれは何か社会とも関係しない、だから社会訓練に自分は本当に欠けていた社会常識が養われなかったのである。それで親の介護で苦労したのである。
会社勤めとか人間はしていないと社会常識が養われないのである。


木蔭というとき海側は松の木であれ何もなくなったので海岸線に木蔭がなくなったので休む場所がなくなった。
海側に松原があったときは天然のクーラーだった、いつもそこで休んでいたのである。
海側は今や全く木蔭がないのである。
木を植えたが育つのは五十年後とかなってしまうからその頃は死んでいる

田舎にはもともと木蔭が多い、原町から高倉辺りから飯館村に行く道で細い一本の道がありそこは車が通るとしても一台くらいしか通れない狭い森の中の道なのである。
そこは長い日影の森の道である。あのような場所が田舎ではどこにでもあるだろう。
ただ郡山市とか福島市だと近くにはないがここにはある。
そして福島県の浜通りで一番いいのは夏でも海から風が吹くから涼しい
今日は暑い、でも海から風が吹くから福島市のような盆地とは違う
あそこには暑いし寒いから住みたくない、会津でも雪だし住みたくない、老人になると気候の影響が大きくなる
自分の場合暑さにも寒さにも弱いから余計にそうなる
福島県の浜通りは老人がリタイアして住むのは気候的にはいいのである。
会津など雪で向いていないのである。

この辺で津波であれ原発事故であれ避難した人たちがいるがやはり失ったものは故郷でその古木の陰で休んでいるのが幸せということがあった。
東京の高層ビルのマンションに住んでいるのが老人が嫌だというのもわかる
あれは浪江の老女だった、田舎の離れた一軒屋のような所に住んでいたからである。
東京で贅沢しても嫌だとなる


ただ田舎暮らしは意外と都会と同じように都会より今は金がかかる、だから厚生年金で平均して15万というけどそれでもたりなくなるのが実情である。
田舎では家をもって土地をもってその土地も田んぼとか畑をもっている人がもともとの田舎暮らしをしている人である。
でも今はそれだけでは生活できないから金がかかる
車は一人一台とまでなっているからその維持費がかかるとか田舎は意外と金が都会よりかかる
だから家が田んぼ畑があり勤めがあり資産をもっていないと暮らしていけない
そういう余裕のある人だと田舎はいいなとなるのも実情である。

ともかくこの辺は特に老人が増えた、避難区域の小高でも帰っても8割くらいが老人になるだろう。
確かに小高でも木蔭に休む野はいいかそれができるとしたらやはり若い人が働いているからなのである。老人だけだったら街が成り立たないからである
老人がそうして木蔭で休んでいられるのは若い人が働いていればなのである。
8割もの老人がただ木蔭で休んでいたら街は機能しない、老人でも実際はゆっくりそうして木蔭で休んでいられないとなるのだ。
だかち8割も老人だけの街がどうなるのか?それはイメージできない、何か問題が起きても不思議ではないのである。な

タグ:木蔭

2016年05月22日

夏の庭と近辺の風景(短歌) (仮設も消えるので記念撮影ー仮設暮らしは老人にはかえって楽なものだった)


夏の庭と近辺の風景(短歌)


(仮設も消えるので記念撮影ー仮設暮らしは老人にはかえって楽なものだった)

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石の陰クリスマスローズ咲きにけり目だたざるかな我が庭に咲く

我が庭に三色の花植えて見る華やぎにけり老いを楽しむ

真昼間の川の岸辺の木蔭にそ休みつつ鳥ののびやかに鳴く

新しき家々建ちてクローバーのなお空地に匂いけるかな

仮設にそ五年の住みて菖蒲咲く老夫婦のなお帰らざり

赤々と前畑に咲く夏の花午後にひそかや働く女かな

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庭作りしたら肥料だけ二十俵とかかかった、10万は軽くかかるそれに手間賃になる。
何か老後の趣味としては庭作りが向いている、なかなか外に出るのが億劫になるからだ
自分の庭は狭すぎる、そして納屋だったところを庭にしたので土が悪くて花も咲かないのである。
それで肥料をやって花を咲かせることにした。その方面で働いた女性がいて庭作りしてもらっている。
もともとこの庭は小高の人が作ったのである。その人は大工もできて庭作りもできてと何でもできる優秀な人だったのである。仮設に住んでいたが小高には帰らないという

仮設というときすでに五年すぎたし以前として帰らない、7月に野馬追い前に解除すると言っていたのだがそれがどうなるのか?
いづれにしろ今年中には帰り仮設は壊されるだろう
それで記念に写真をとってきた。菖蒲が咲いていてあそこは盆栽を飾る老夫婦が住んでいたのである。菖蒲と老夫婦というのもにあっていると見た
5年もいれば長いからなじむということがある。仮設暮らしというのも不思議な経験だったろう、かえって老人は暮らしやすい、長屋のようになっていていつも顔合わせられるからいいと言っていた。
あれは高齢化社会の一つのモデルだったかもしれない、老人はあのように長屋のような所でまとまって暮らすのが居心地がいいのである。
今は家族でも老人は邪魔者扱いされやすいからである。
そして今思っているかというとこのまま補償金をもらいつづけて仮設にいたいとまでなっているのである。補償金を一人十万以上もらえつづければ老後はそれで楽になる
それで国民年金しかもらっていない人が多いからそうしてもらいたいと訴えているのである。そうなれば原発事故で得した良かったとまでなる

でも小高に帰っても老人が多い、病人の老人の夫婦が帰って暮らしていたけどでは誰が世話するのかとなる、若い人はいなくなっているからだ。
シルバータウンになってしまう、買い物する所も品物が少ない一軒しかなかったのであるそんなところで街が成り立つのかとなる、そして問題は小高の場合は南相馬市だから直接その負担を負うことになる、福祉でもなんでもそうである。
それは浪江町とか大熊でも少ないにしろ住んでいるから病院が満員になっている
入院したらすぐ退院してくださいというのもそういうためである。
一方で浪江町から福祉関係や看護師なども入って働いていることもある
ただ外から入ってきて負担になっているのである。


そして小高とか鹿島区の亀裂は修復できないほどになっている、鹿島の人が集まると小高に対する不満になる、なぜあんなに補償金もらい優遇されているのだという話ばかりなのである。自分もそのことを思っているから小高の人とは話にくいとなる
その亀裂は深い、鹿島の人たちも裁判しているようだがそれも効果ないだろう
福祉関係とかでも医療費でも鹿島区はすぐに打ち切られて恩恵がなかったのである。
もちろん相馬市の不満はさらに大きいだろう。何ももらっていないし他でもそうである
補償金で南相馬市の一体感は失われたのである、そのしこりは残る

前畑で働き赤い花が映えている、まさにこの光景が田舎なのである。
前の畑で収穫があるということは新鮮な野菜がいつでも食べられる
それは売るものでないから農薬も使っていないのである。
それが人間的生活なのである。それが回復さされば復興になったということなのである。



タグ:夏の風景

2016年05月18日

八木沢峠の麓ー大古林道の岩 (避難して人の住んでいない森の中の家の道の不思議)


八木沢峠の麓ー大古林道の岩 
  

(避難して人の住んでいない森の中の家の道の不思議) 

    
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子だくさん岩


屋敷林木蔭の長く涼しかな

清流の朝の岸辺に藤と岩

山の藤高みに垂れて風そよぐ

ひんやりと苔むす岩に谷の風

ひんやりと苔の常陰黒揚羽

老鶯や木立の囲みユッサの湯

庭の石ここに変わらず黒揚羽   


森の中人住む道行き橋わたる今は空家や夏になれども


橲原から八木沢の麓の大胡林道に行ってきた。 
不思議なのは途中あの辺は避難している人が住んでいない、道が一本通じていて小川があり橋をわたる、そこに家が一軒あり前は田んぼだった。
清流が絶え間なく流れてひびいているいい場所である。
その一軒の家に行く道はなんとも不思議なのである。
それはなんというか人が住んで生活していたぬくもりがあるようにな道である。
森の中や山の中の人の住んでいない道とは違う。
何よりそれは一軒の家に通じている道だからである。


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森の中の一軒の家に通じる道
この道を行けば家族がいる
アトホームである
清流がひびき藤の花が垂れている
この道はただの道ではない
家族が待っている道
家族のあたたかさに通じている道
今人は住んでいなくてもそれを感じる

この辺で起きていることは以前として不思議である。
あの辺は放射線量が高いから一部壊したり住んでいない 
住んでいなくても以前として家があるから住んでいるように錯覚する
一二軒は実際に住んでいた
だから全然人が住んでいないというわけではない
でも90バーセントは住んでいない
車がひっきりなしに行き交っているからちょっと外の人は気づかないかもしれない
まるっきり人が住んでいない避難区域とは違うからである。
人がかつて住んでいた、そしてまだ空家があり住むかもしれない、何かそこは自然の道ではない、人間的な道なのである。

大古林道は電動自転車のマウテンバイクで上った。荒れているから上りつらい、杉の木も倒れていたり例の大きな岩のある所までは行くの難儀である
ただあの岩は貫祿がある、写真に撮った三つの石は迫力がある
それから大きな岩一つにその脇に七つくらいの小さな石が並んでいた
それは写真にとっていなかったので失敗した、名付けると子だくさん岩なのである。
なかなかあそこには行けない、残念なのは花は何も咲いていなかった
春だとキクザキイチゲとか少し過ぎると延齢草が咲く、あういう場所に咲くのはなんとも神秘的である

ユッサの湯に回り休憩した、あそこは休憩場所にいい、老鶯が鳴いているというのもなにかにあっている、それでゆっくり湯にひたればいいのだがあそこの湯には入ったことがない、700円は高い、福祉の湯は300円だからである。
食事がとれるのがあそこはいい、あと畳の部屋があり寝ころべるのがいい
庭には石が変わらずある、つくづく自分は変わるのが嫌になった、人でも自然でも変わらないものがあるのがいい、年取ると変わることが精神的ショックにさえなる
だから避難した老人は辛いことは確かなのである。 
石は変わらない象徴なのである。

今回は日影の道を行ったのでそれほど疲れない、まともに日ざしを日中に受けると危険である。タオルを頭にかぶり帽子をかぶり日ざしを防いだ、砂漠の住民の恰好になるのもわかった。今年は陽差し恐怖症になっているからだ。 
タグ:苔の岩

2016年05月09日

夏の草原(田んぼが増えて草原もある世界)


夏の草原(田んぼが増えて草原もある世界)  


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右田の一本松



雉歩み朝の草原夏雲雀
夕暮れや草原広し夏雲
青嵐牛越城の五年かな
一本の大木根付く青嵐

一本松ここに残るや雲雀鳴く声のひびきて夏の陽没りぬ
草原の広々として雲雀鳴く風の涼しき夏の夕暮
声高に夕べ蛙の鳴き騒ぐ田んぼの増えて元に戻らむ  

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この辺は田んぼが増えたから元にもどりつつある、一方で津波の跡はまだ広々と草原になっている。
この草原の世界のことを書いてきたけどこれが気持いいのである。
田んぼとは違った自然なのである。草原にあっていたのが雲雀だった、草雲雀とかあるから本当はこういう草原地帯に雲雀はあっていたのである。
田んぼだったらどうしても水になるから巣も作りにくいのである。
田んぼにあっているのは鷺である。田んぼの水の中の水生動物を蛙などを餌としているからである。

日本でもそもそも草原の世界を見ないから草原のことがわからないのである。
北海道にはあるが他では見ない景色なのである。
草原に風がふきわたり雲雀がなく景色は気持ちがいい、モンゴル辺りだとこういう景色が普通なのである。すると何か人間の感覚が変わってくる
気持まで広々としたものと自ずとなってくるのである。

日本人の文化は田んぼから稲作から作られてきた、それはもう単に米を作るというのではない、心まで作ってきたのである。だからこの辺で田んぼが放射能で汚染されたとき田んぼがなくなる世界、草原化した世界というのがなんなのだろうとなった
それは津波の跡もそうなってしまったかち二重に草原の景色になってしまったのである。
日本では放っておくと草原にはならない、雨が多いからやがて釧路湿原のような湿地帯になる。
ただここでは草原化している、水たまりを埋めたりしているから草原になっているのである。

今年はともかく風が吹く、毎日のように風が吹いている、青嵐というとそんなに吹かないだろう
今年は毎日風が吹き荒れている、こういうのも珍しい、それは桜が咲いた時からである。原町の牛越城は5年ほどで終わった、でもその五年も風雲だった、何か争いがあった
内部での抗争があった。風雲の城でもあったのだろう。戦国期の城だったからである。
だから青嵐ににつかわしいともなる  

右田の一本松は枯れそうに見える、枯れなければ奇跡の一本松になるのだろう。
あそも松原として意識していたのであり一本一本の松として意識したものはなかった
今はあの一本松だけが注目されているのである。

タグ:夏雲雀

2016年05月01日

山桜短歌十首(栃窪から佐須から霊山へ)


山桜短歌十首(栃窪から佐須から霊山へ)



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佐須の峠

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栃窪に老いゆく人やシャガの花

飯館村石に芽吹きや峠越ゆ

花の影休みて去るや峠かな


山桜風に吹きゆれけたたまし朝鳥鳴きぬ声のひびけり

山深みたずね分け入りいづくより朝に風吹きなお花散りぬ

人住まぬ佐須を去りゆく枝垂桜帰りを待ちて庭に咲くかな

八重桜夕日のさして赤しかないつ帰らむや村人を待つ

磐を打つ流れひびきて朝清し高みに朝映え山桜咲く

山桜山間深くなお咲きぬその清しさや風に散りなむ

山桜高みになおも残り咲き散りゆくものや流れ清しも

霊山に雲の乱れて流るかな山桜映え南朝滅ぶ

山桜なおも散りしも霊山を落ちのぶ方は我が里なりき

吾妻峰に残れる雪や山桜霊山に映え岩の黒しも



栃窪村では田んぼをつくっていたが飼料米にするという、栃窪は水がいいので米がうまいと前は自分の家でも栃窪から米を買っていた。
飼料米になるのもわびしいともなる、老人か杖をついて歩いていた
その土地で生れて育ち死ぬのも幸せだとなる
だから原発避難者は不幸だとなる

山桜はまだ咲いていた。飯館村には人は住んでいない、一軒一軒に枝垂桜が咲いていた
八重桜も咲いていた、山桜はもともと日本の山だったらどこにでもけ咲いていた
しかし万葉集時代は山桜は注目されていない、外来の中国から入った梅の方が人気があったのだ、桜の宴ではなく梅の宴だった、だから人間はつくづく人間は身近にあるいいものを理解していないのである。
それは今もつづいている、外来のものばかりいいものとするのか特に日本の風潮なのである。

それで本居宣長が大和心と唐心を区別して大和心を見直したのである。
とにかく明治維新以来外来のものに席巻されて何が日本の心かもわからなくなった
そして言葉だけがとびかっているだけである。
民主主義となれば自己中心の利益主義権利しか主張しない
外来のものがいいとしてももともとあった日本の良さがほとんど喪失した
それより大和心が何なのかわかなくなったのである。

ただ自然というのは自然の美は変わらないからそこから日本を意識する
山桜はいたるところに咲いている、それもあまり注目していなかった。
桜というとき染井吉野が主流になったからである。
山桜は山に咲くからより清しさがある、天然の美があるが染井吉野は何か艶なものなのである。

霊山というとき南北朝の争いの場でありはかなく炎上して終わった
そこから落ち延びたのが南相馬市の鹿島の真野である。
そこにお浜下りの祭りが残されている、それは落ち延びた時の姿が祭となった
でもあんな恰好していたというのも不思議である。そもそも途中にそんなに家もない時代である。
ともかく歴史的なものがあるとその歴史とともに心象風景がつくられる
今回は曇っていた、それで雲が霊山の上を乱れ流れていた
それは何か落ち延びてゆく人をイメージするのである。

タグ:山桜

2016年04月29日

八重桜(小さな町の散らし)



八重桜(小さな町の散らし)


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八重桜風雨の中に赤く咲く

八重桜ここに住みつく人のあれ

雉の鳴き鶯の鳴き蛙鳴く

原町の街の広しも夕燕

鶯の鳴いて種蒔く男かな

菖蒲咲き老舗のあらむ通りかな


通りにそ菖蒲の咲くもあわれかな人行くまれに店なく淋し

福祉の湯入りてあわれ我が一人白き菖蒲の咲きてひたりぬ

店もなき街の通りにあわれかな紫と白の菖蒲映え暮る

街中の畑に菜の花映えにつつ漬け物会社に働く人かな

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介護十年していたときほとんど遠くに行かない、一万の町の中でありあとは隣に4、5万の街がありそこにゆくだけである
ずいぶん生活範囲は狭くなったと思う
というのは絶えず遠くを旅していたのが自分だったからである。
10年くらいは海外旅行だったから余計にそうなる
それでも家事に追われて以前として忙しいのである。


冬は福祉の湯には行っていなかった、8時間くらい水につける電気であたためるものを使っていた。これは時間がかかりすぎるしシャワーは壊れたし自分の風呂は直さない限り十分には使えない、でも金がかかるからやめた
家を直すときりがなくなる、本当は古い家なので冬が寒いから直したいが金がかかりすぎる、福祉の湯は広いし泡が出るのもあるしシャワーでも使いやすいのである。
そしてそこでは入る人は少ない、いつも一人で入れるのがいいのである。
混むのはカラオケやっている時だけだろう

そういう点贅沢だと思う、何か一人暮らしは食事でも風呂でも共同的なものというか家でなくて外でできるのものがいい、一人分はだめんどうだしかえって金と手間がかかるからである。
湯に入りながら庭に白い菖蒲が咲いていたのを一人見ていた、のんびりしていい。
この街の新しい通りでもそこには店がないのである。
その通りに菖蒲が咲いているし菖蒲の季節である。
でも何か店もないのが淋しいのである。どこでも商店街は消滅している
でもなんか商店街がないということは街が死んでいることにもなる
通りもせっかく新しく作っても活きていないのである。

菖蒲が咲いて静かに老舗があるというのが何かあっている
もう一軒の店が成り立たなくなっているのだ
街というのはやはり田舎でも必要なものだと思う
街がないと店がないとその他何か街にあるべきものがある
そういうものがないと人間的暮らしができない
湯でも離れていると簡単には利用できないのが問題なのである。
福祉の湯は近いからいいのである。それでも冬は自転車だと湯冷めするから利用しなかったのである。

桜は散って八重桜の季節に変わった、桜と八重桜はかなり違ったものである。
桜は散るということを前提にして咲いている、散るのが美しいのである。
桜はだから遠くで見るのもいいのである。
梅とか八重桜は近くで定着して見るのがにおうのがいいとなる
昨日は風雨の中に咲いていた、その赤さが何かあたたかさを感じた
八重桜は何かあたたかみを感じる花である。
ほわほわぽかぼかとした感じになる、これは桜といっても普通の桜とはその性質は全く違う。八重桜の方が何か人間をイメージするのである。

小さい町ではたいがい街中でも畑がある、そして菜の花が映えていた
そういう光景はなにか心をなごませるのである。
家で埋まっていたら嫌なのである。前は畑に菖蒲が咲いていたがそこは荒地になった
それも淋しいとなる、この辺の街の様子が大きく変わってしまった
新しい家がどのくらいたったのか三百軒なのかわからない、その数は小さな町にしては多いのである。
いづれにしろ自分の住んでいる街は一人暮らしには不便である。
特に気軽に入れるレストランとかがないことが一番不便なのである。
いつも行っていた仮設のあつみ食堂は臨時休業になりこれから再開するのかどうかもわからない、でも家があるかぎり簡単には移動はできないのである




2016年04月23日

チューリップ(人の住まない小高の不思議)


チューリップ(人の住まない小高の不思議)

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我がここに住みつつあわれ二三人花散るあとを人の行くかな   

チューリップ庭に映えつつ新しき家に住むかなつばめとびかふ

隣にも代わりて住めるその庭にチューリップ咲き幼子のあり


自分の回りも変わってしまった、新しい人が移り住んだこともある
組では子供がいなくなっていたが一人幼子をもつ夫婦が住むようになった。
今は隣でもどういう人が住んでいるのかわかりにくい
一軒は津波の被害のために新築した人である。
自分の家など二代くらいで古くはない、農家だったら何代もつづいている
それでもいつしかこの辺で古株になっているのである。

草の戸も住替る代ぞひなの家 芭蕉

前はそこにも老人が住んでいた、その人は去ったからこの句とにている
人間というのはいろいろ環境が変わるけど世代交代とかをしてゆくのは代わりがない、
そこに人間としての普遍的なものがあり現代でも同じようなことがくりかえされるから
普遍的な価値をもっているのである。

全体的に南相馬市は変化が激しいのである。
新築の家が建ちつづけているし原町辺りは大きな施設が何カ所か建ってい小高の人でここに家を建てた人もいるからである。
今日はスーパーは混んでいた、土曜日であり他からの人が来るからこむ
除染関係とかの人もいるから結構こむのである。


それでも桜が咲いた土手の道はちらほら人が行くだけである。
ただ工事しているから落ち着かないことはある。
不思議なのは小高である。桜が咲いても桜が散ってもそこには人が住んでいない
するとそういう世界は何なのだろうと前からも不思議だった
人が住まない街の不思議である。
チューリップでも新しい人が新しい家に住んで映える
子供が幼子がいれば余計にチューリップもその子供に映える
つまり人間がいて花も映えているのである。
小高では桜が咲いて散っても誰も通らない、小高の人は見に行った人がいても住んでいないのだから日常的にその道を歩く人はいないのである。


だから人が住んでいない街とは何なのだろうとなる
ではこういうことがかつてあったのかとなるとあった
人間が住む前は原野であり森であった
そこには動物や植物も繁茂していた
人口をみれば江戸時代が三千万人であり大正時代で6千万人になった
これをふりかえれば日本は開墾されない土地は広がっていたのである。
その時はそこには人間は住んでいないのである。
大熊とか富岡とか辺りは明治になって開墾された土地なのである。
そこは相馬藩との境目であり原野が森が広がっていた
夜の森とは余の森だったのである。余とは相馬藩の殿様だったのである。
小高や浪江とか避難区域はそうした原野や森にもどったともなる

そして人間がいないということは自然だけになる世界をなかなか経験できない
普通身近に住んでいる場所でそういう所が開発されてなくなっているからである。
感じることは一段とシーンとして静寂が支配している
自然だけだったら当然そうなる、田舎の街だからもともと静かだったけどそれも人が住まなくなったとき余計にそうなったのである。
それで街が暗いから帰りたくないというのもわかる、要するに原始の状態にもどればそうなる
江戸時代ももどるようになる、灯もともしいし一段と静まり返るとなる


小高をどうするのかというとむずかしい゛要するに前例のないことだからどうしていいかわからないのである、人が住まない街とかをどうするのか?
それを模索するのにも今までのやり方も通用しない、では新しいやり方は何なのかとなるそれは簡単には解決できない問題なのである。

2016年04月19日

復興を願いて小高の春二十首 (浜街道を小高へ)

復興を願いて小高の春二十首


(浜街道を小高へ)


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コブシ咲き高松の奥家一軒

芽吹きけり馬飼う家や相馬かな

津波にも残る御堂や蛙鳴く


海近く六号線や朝日さし鳥も飛びきて山桜映ゆ

東風吹きて樹々も芽吹くや朝日さし山桜咲く六号線行く

山桜風にそよぎてゆれやまじ浜街道を朝進みゆく

山桜松に映えにき東風吹きて散り舞う花びら浜街道行く

新田川瀬音のひびき山桜朝日のさして岸に映えにき

街道を行く人あれやチューリップここに映えにき朝の明るさ

小高にそ花みな散りぬ帰らざる小高神社に我がもうずかも

残る花小高神社に散りゆくやここに住む人なしも淋しも

人なしや小高神社の石段に蟻穴いでて働かむとす

津波にそ流さる社再建す誰か守るや雲雀なきしも

人住まぬ小高や原の広がりて雲雀なくかなタンポポの満つ

人住まぬ小高にあれど雲雀鳴く我にひびきて生きるものあれ

小高にそ津波の跡に松二本痛々しくも五年はすぎぬ

鴨なおも渡り去らじも沼に群れ小高に人は住まざりしかも

村上のに城のありしと望む海タンポポ映えてなにかありなむ

村上に波のひびきて山桜朝日のさして海を望みぬ

村上の社を誰かたずねなむ椿の散りてあわれなるかな

村上の墓地の古りしやあわれかな散りし椿や帰らざるかな

福岡と川原と記す碑の一つ田んぼに残る春のくれかな

雲雀鳴き復興ならむ小高かなタンポポまぶし海を望みぬ


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六号線は山桜が今盛りであり朝日に映えてきれいだった

敷島の やまと心を 人とはば しきしまの やまとごころを ひととわば. 朝日に匂ふ 山さくら 花 

これは山桜であり染井吉野ではない、そこがまぎらわしいのである。山桜は野生種であり染井吉野は江戸時代に品種改良したものである、本来の桜は日本では山桜なのである。

ソメイヨシノは加齢とともに危険度が増すことが分かりました。特に樹齢40年を超えると、危険度2以上の占める割合が極端に増え


ソメイヨシノが世の中に広まったのは江戸時代の終わりくらいですから、まだ150年経つか経たないか、まあそれくらいということになります。そうすると当然ながら、それ以前の古い木というのはないので、若い木しか我々は見ていないということになります。

山桜となるとその樹でも樺細工とか角館で作られているし丈夫である。山桜は丈夫であり染井吉野は枯れやすいのである、せいぜい150年が最高年齢としても明治からすでにそのくらいすぎているから寿命が樹としては短いとなる
山桜と染井吉野の相違はにていても大きい、山桜は野生種であり純白の花である。
染井吉野は艶なる花である、だから京都辺りだとにあっているのである。

山桜は六号線沿いにかなり咲いていた。今日は朝日がさしてきれいだった
まさに朝日にこ匂うように咲いていたとなる
山桜は風にそよいで咲くのもいい、浜街道は海が近い、そして東風(こち)が春になると吹いてくる、旅からは遠ざかっていたがまた旅に出る気分だった
生きている間に自転車でもう一度磐城まで行きたいとなる



小高は海の方ではまだ津波の跡が痛々しく残っていた
壊れた家も残っていたし田んぼは湿地になりまだ整地されていない
ただ除染は小高の方が進んでいると太田の人が言っていた。
帰還をすすめるためにそうしているのだろう
小高で感じたことは田んぼが一面に原になりタンポポが咲き雲雀が鳴いていた
それは原町とか鹿島とか相馬市や津波の被害地はそうなっていた
でももう湿地は埋め立てられたし壊れた家もない、小高はまだその点五年前のままの所が残っていた。


小高の復興というときやはり人がともかく住む、誰でもいいから住む、老人でもいいから住む、住まないとしたら人が入ってくる、それだけでも生きてくるものがある
雲雀の声が自分にひびいたとき雲雀も自然も花も生きるのである。
そこに人がいないと自然すら死んでしまうというものを感じるのである
一旦人が住んだ場所は人が住まないと活きてこないのである。
人が住まない太古の自然とは違い人間と共存した自然だったからなのである。


復興というとき歌や詩も力となる。雲雀が鳴いている、その歌は人間にひびくのである。人間にひびくとき最もひびくものとなる、活きるものとなる
それが誰も住まない来ないとしたらひびかないのである。
だからみんな帰らないとしてもそこには人間が入るべきなのである。
人間がいない世界は自然まで死んでしまうということになりかねないのである。
ともかく原っぱでもいい、そこを人間が通ればその道でも何でも活きてくるのである。

雲雀鳴き復興ならむ小高かなタンポポまぶし海を望みぬ









タグ:小高の春゛

2016年04月17日

余花十句(夕暮れの街道を相馬市の城跡まで)



余花十句(夕暮れの街道を相馬市の城跡まで) 

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草青し雨濡れ夕べ春の虹

夕風にゆれやまぬかな山桜

薬師堂古き碑並び花散りぬ

街道に夕日さし松に山桜

花映えて鳩むれとぶや街の空

城跡に夕鶯や月もいず

四十雀枝わたるかな残る花

夕月や薄紫のつつじかな

城跡に余花のあわれやいずる月

人去りて眠りにつくや余花に月


城跡に残れる花や幾人か心静かに夕べ歩みぬ

夕暮れにかそかに残る花も散る城跡静か歩みけるかな

雨の後残れる花に夕日さしあわれ暮れゆく薬師堂かな

残る花薬師堂にそ散りゆくや夕日のさして我が通るかも

宇多川の岸辺にあわれ残る花夕べ歩める人の静けし

五本松一本欠けぬしかあれど五本松かな春の夕暮


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今日は雨がふり午後から晴れた゛その時虹がかかった、短い虹だった、春の虹だった
この時カメラをもっていなかったのが失敗だった、今はカメラを常時もっていなとシャッーターチャンスを逃し二度ととれなくなる

それから日立木の薬師堂を回り松並木の街道を通り相馬市の城跡に行った。
その時は風は吹いていなかった、雨にぬれたあとの散った桜が風情があった。
残り咲く花もまだ散らず城跡にひっそりと咲き行く人もまれだった
苗市が開かれていたが終わったらしい、薄紫のつつじが目をひいた
その時ちょうど月がでていた

今回は余花がテ-マになった、これはあまり人が多いと鑑賞できない
そもそも花見とかいうと大勢になるがそれだけではない、桜でもやはり美を鑑賞するとなると静かな方がいいとなる
大坂城とか京都の桜は歴史があり特別なものがある
ただ今は人が外国人でもこみすぎるから行きたくない
自分はもともと人嫌いであり人ごみが好きでなかった、今になると年とると余計にそうなった
若いときはどうしてもにぎやかな所がいい、でも年取ると一般的に田舎が好まれるのはやはり騒々しい所が嫌になるのである。
個人差があるかたいだいそうなるのが一般的である
自分の場合はある意味で異常だった
30年間恵まれてほとんど人と接していなかったのである。
ひきこもりといえばそうなる、ただその間旅していたからそれとも違う。

ともかく何度も書いているけど相馬市はなぜ不思議なのか?
それは街なのにしんとしているのことなのである。
原町にはそういう感じはないのである
だから余花でも映えるとなる
人も去って街はねむりにつき余花と月のみが映えているのである。
そういう景色が心に映じて自分も眠りたいとなる
なぜならここ十年は介護に終われて疲れてしまったからである。
そして苦しみの連続だったからである。

五本松の一本は枯れて切られ根っこだけがあった。
それでも五本松である。
自分の家族も二人亡くしたが60年も一緒にいたのでいなくなったという感じがないのである。
これは今のところ謎である。そういうふうに親しい人が死んだときその後にどう感じるかはまだ何なのかわからない
でも何か消えた感じがしない、やっはりいるような感覚になるのが不思議なのである。
それは60年も一緒に同じ場所にいたことが影響しているのだ。
五本松でもやはりここにいつでも立っているから一本消えてもやはり五本松としてあるのとょにているのである。

今回は結構山桜は咲いていた、染井吉野はほとんど散った、余花になっていた
桜もこれでだいたい終わりだが実は桜前線はまだ北に向かうから桜はみれるのである。
ただ何か自分は介護十年で終わり家族が二人死んで疲れがでた
でも今回もかいごしなくていいから時間の余裕がありゆっくり帰ってきたのである。





タグ:余花

2016年04月16日

みちのく真野、桜田山に桜散る十首


みちのく真野、桜田山に桜散る十首


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桜田山万葉園


みちのくの真野のあわれも桜田山海を望みて花は散りにき

海望む桜田山に我が上り東風の吹きくる沖ゆく船見ゆ

年古りて桜田山や残る花散るもあわれも今日も風吹く

海望み沖行く船を我が見れば旅心わく春の朝かな

桜田山花の装い燕来る風のあらしもはや散りにけり

海望み桜田山や風あらく花の散りにきあわただしかも

万葉園久々にきて年深み松にしよりぬ春のくれかな

我が生や介護に十年その重み姉母死にてめぐる春かな

我が町を桜田山に望むかな姉母なしも花は散りにき

故郷は思い出深き姉と母眠れる所春のめぐりぬ

年古りて今いくたびの春なれや桜田山に望む海かな

海望み津波の跡の生々し帰り来ぬ人春はめぐれど

故郷に我も老いにき桜田山花は散りにきあわれ深まる

故郷に若き人しも育ちなむ我が老いつつも見まもりけるかな



桜田山に上ったのは数年ぶりというか上っていなかった。それはなぜなのか?
毎日十年は買い物であり介護に追われていた。
この介護の十年は自分の人生の大きな一部となってしまった。
何かに常に追われつづけてきたのである。
桜田山に上らなかったのは失敗だった、ここから海を望んだときそれが新鮮だった
もしかしたら三年くらい上っていなかったかもしれない
とにかくこの辺は津波が来て原発事故になっていらい落ち着かないのである。
それはここ十年は介護であり自分の病気やらで本当にめまぐるしく追われたのである。

30年くらいは平和であり自分は楽だった、その間旅に明け暮れた。
それで桜で思い出したのは

みちのくに桜咲く時西に行き京大阪は散りし後かな

つまり桜前線が西から東へと移ってゆくことで情緒が生れる、みちのくの桜はまだ咲かないというとき桜の咲くのを待っているというとき西は桜が咲き誇り栄華があったのである一方でみちのくの桜も散るしそのあとはさらに北へ向かえば弘前の桜が咲くとなる

稚内六月にしも桜咲き雨のふりにつ寒しを思ふ

稚内まで自転車で行ったとき六月まで桜が咲いていた、その時は寒かったのである。
ともかく人生60年とか団塊の世代も老人となり過去をふりかえるようになる
実際に同級生で死んだ人もいるし脳梗塞とかで手術してやせほそった同級生もいた。
団塊の世代もそういう人生の最終章に向かいつつあるのだ。

何かこの十年は介護であり津波原発事故でありめまぐるしく変わりあわただしいのである介護が終わったということでその時間の重みを知った。
介護がそれだけ長いということは人生の一部として課せられるようになったのである。

万葉園にも久々に行った、何か荒れていた。立て札に記された歌があった。

一つ松幾代か経ぬる吹く風の声の清きは年深みかも(万葉集、市原王)

南相馬市の鹿島区の真野は万葉集の歌にある。

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを (笠女郎)

これは必ず真野の草原となっているから草原(かやはら)だと思っている
でもこれは地名だったのである。だから草原(かやはら)をイメージすると変なものになるのだ、草原を萱の原とするとき全く違ったものになる
草原は地名だった、伽耶の原だったのである。津神社がつの神社でありそれがツノガノアラシトと関係していたように誤解される、津神社で津波と関係していたものはないのである。ツノとなっていればたいがいツノガノアラシト系統なのである。
韓国からの渡来人に由来した地名である。製鉄の技術集団が移動してきたためにつけられた地名であ。ただこれは本当にまぎらわしいのである。

いづれにしろ姉と母が死んだことは自分にとって大きな変化だった。この辺はみんなすさまじい変化に見舞われた。津波でもそうだしそのショックはまだ消えていない
ここ十年で経験した自分のことも生々しいのである
この十年は大きな重圧のもとで生きてきたのである。
だから何か常に生活でも心も負われて生活してきたのである。
そのうち十年がたち相当に老いて市ったとなる、この辺で大病したりすると同教生のようにさらにふけてしまうのである。
自分は体力的には立ち直っているからまだ死ぬのは早いかもしれない、でも何か人生の最終章に向かっていることはまぎれもない実感なのである。
今だから書くことが前に書いたことでもふりかえり書くことが増えた
いくら書いても書き切れないという状態になっている
介護から解放されたからパソコンでも記録したものをふりかえりまとめることが仕事になる、これも相当な手間なのである。





タグ:桜散る

2016年04月15日

荒れ模様の中で今年の桜も散る



荒れ模様の中で今年の桜も散る



日本なれ海の光りて朝桜


昨日は風に吹き散る桜かな今日は静かに小雨に散りぬ

目覚めれば風に吹き飛ぶ花びらや今年の桜散るも早しも

風荒れて残れる花をしばし見つ今年ははやも散りにけるかな

風荒れて桜をゆする咲きし間も今年短き落ちつかぬめかも

花散らしなお風うなり夜となる名残を惜しむ間も短しも



ひさかたの ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 

この歌はひかりのどけきだから風が吹いていない穏やかな日に散る桜である。
でも静心なくというのは穏やかな日でも桜が咲くとそれはすでに散ることを予感させる
今年は風が何度も吹いた、吹かない日がないくらいだった
それも風が強いのである。それで今日も桜が激しく風に揺すられていたのである

花の命は桜の命は短い、そこに日本人の美学が形成されたということはある。
戦争中は若い人が多く死んだから桜にその心が反映されやすかったのである。

たれこめて 春のゆくへも 知らぬまに 待ちし桜も うつろひにけり

桜はあくまでも「晩春を彩る代表的な景物」であり、その花が散ること、
つまり「春が終わる」ことを惜しみ嘆いているのです。
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桜を散る桜を人間の命にたとえたのは戦争中だけでありそれまではただ季節が移るということで桜をとりあげていた
静心なくというとき桜は風に散りやすいからそうなる、風騒ぐというときそれは心も騒ぐということに通じている。
花が散るというとき死をイメージしても不思議ではない
自分の今回の歌も何か死をイメージしている、命が短いというときそうである。
でも桜は毎年咲くのだから咲いて散るのだから命短しとするのはあわないのである。
どちらかというと華やかに儚いというかそういうものの象徴になる

一時に花みな散りぬいさぎよし若き命の今はなしかも

これは自分で作ってみたがこんなふうに戦争のときは桜は歌われていたのである。
こういうことは今は批判されている、戦争を賛美するものだったとなる

はかなくて過ぎにしかたを数ふれば花に物思ふ春ぞ経にける  101式子内親王
みよし野の高嶺のさくら散りにけり嵐もしろき春のあけぼの  133後鳥羽院

これなんかも別に命のことではない、春の象徴として桜があった。
人間の命として桜にたくしていはいない、ただ静心なきとさせるのが桜なのである。
それが死と結びつく、桜は何かそうして死を予感させるものがあったのかもしれない。

朝倉氏が織田信長と戦っているとき家来の武将が桜の歌を残した。それは山桜でもない、糸桜だったのである。糸桜は枝垂桜であるから染井吉野のように華やかには散らない
だから散るという歌はないのである

折りを得て けふ咲く花は君がため今一しほの色やそひけむ 信忠

枝垂桜だったら散るというより枝垂れる色がにあう。この時第一城であっても今のように染井吉野のよう花は咲いていないのである。明治以降に桜の木がどこにでも植えられて飾るようになった。
ただ糸桜は枝垂桜は城内に咲いていたのでこういう歌を残したのである。

自然には人間の心が心境によって絵でも文学でもなる、俳句でも短歌でもそうである。
でも桜だけが命ではなく多くの花もやはり人間の心がたくされる、花の命は短いというときそれは人間のことでもある。
だから普通の花でも咲いて枯れれば死ぬと見るのである。
それは生き物だからそうなる、そして墓にさす花は枯れるがいやなのである。
枯れたままになってさしてあるのが嫌なのである。
それからいつでも造花がさされているのもいやなのである。
造花はやはり生きていないからである。花は枯れても生き物だから違う。
だから時々彼岸でなくても生きた花をさしておきたいとなる
要するに桜でも普通の花でも生きてやがて死すというのは無常であり運命である。
樹ですら千年生きてもいつかは死んで土に還るのが定めである
それは生きものだからそうなっているのだ。
だから桜だけがはかないとかではない、みんな花の命は短いのである。


ここに生きここに死すなれ桜かなまた咲くべしや年はめぐりぬ

桜は日本人の心 (ともに栄えるのが格差がないのが日本の文化)

これは土着的なものとして見た桜である、もともと桜は農耕と関係していた。
それで桜が咲いたら種をまくということで種蒔き桜などがある
桜を戦争のときのように死のイメージとしてだけみてはいない
栄えるものの象徴としても桜はあったのである。
タグ:桜散る

2016年04月12日

花の影(栃窪へ行く)


花の影(栃窪へ行く)

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助の観音

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上萱

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八木沢の麓の大芦とかは人が住んでいない
ここには犬の墓があった

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大原だけどここには人が住んでいない



栃窪に枝垂桜や葉山かな

石一つここに変わらず花の影

栃窪に古りにし家や花の影

栃窪に蓮華畑や眠る人

頂きに咲きて散りにき山桜

山鳩の驚き飛びぬ花の影

犬の墓ここにありしや夕桜

大原の蔵ある家や夕桜

深野のユッサに寄るや夕桜



風に散る枝垂桜や街道に影なしつつもこの家の古りぬ

ようやくに助の観音に着きにり残れる花を見て帰るかな

上萱になお残り咲く山桜またここにより帰りくるかな

山深くさえづり聞こゆその声のひびき鎮まる余韻に暮れぬ

新田川の上の岸辺に誰か見るキクザキイチゲの咲き開かむとす


カメラのレンズが汚れてきれいに写真かとれなかった。街道の枝垂桜は趣がある。
反対方向から撮ったら影がうまくでていた。
街道は道が細いのである。それが街道の面影を残していることなのである。
六号線のようになったらもう街道ではない、細いというとき「奥の細道」となるともっと細い道だったのである。
ただ今になるとあそこは車だと狭すぎるのである。

栃窪では畑とか田んぼを作るのはまだ少ないだろう。あそこは放射線量が高い、でも「花の影」というときそこに落ち着いた生活があるとき詩にもなる
そこにはまた暮らしがないとただ家があるというだけでは都会の郊外の家と同じである。山村の暮らしはもともと自然と調和していたから美しいとなる
貧しいが美しいとなる、その生活が放射能汚染で破壊されたのである。
あちこちに放射性物質を入れた袋があるのも嫌なのである。

葉山信仰は各地にある、ハは端にもなり当て字である。この信仰は田んぼと密接に関係していたのである。
比較的低い里山でありそこから田んぼに水を供給することで結びついていた。
これはだからどこにでもある神社である。
この辺では栃窪にあるのがふさわしいとなる、外にもあるが田んぼに水を供給するというとき栃窪がふさわしいとなるからである。

助の観音は飯館までの塩の道として有名である。助の観音とはまさに助ける観音だというときこの辺で泊まる場所だったのである。
ここまで自転車でのほって来るのか大変だった。電動自転車だからなんとか上れた。
つまりこうして苦しんでくるときその距離感を感じる、ああ、やっとついたというときそこがまさに助の観音だったのである。
歴史を実感するにはだから車だとあまりに便利だとできないのである。

そして上萱(うえがや)についた、一本の山桜がなお残り咲いていた。今回は山桜でも結構散っていた。これは染井吉野ではない、山桜は染井吉野のような華やかさがないのである清楚であり派手ではないのである。この辺が何か混同している
普通は染井吉野を見ているのであり山桜はまた別である。
吉野に咲いているのも染井吉野だろう。あんなふうに華やかには山桜だったら咲かない

いづれにしろ人間はあまり変わりすぎることは良くない、この辺のテーマが変わらないということの価値を見いだしたのである。
つまり石と樹とか自然のものはそんなに変わらないから価値がある。
石だったら千歳の磐とかなることに価値がある
めまぐるしく変わる世界には疲れてしまう、特に老人は変化に弱い
ここにまた変わらずに同じ石があるということで落ち着くのである
この辺の問題は変わりすぎたことなのである。

そして人間が死ぬというとき栃窪では耕さない畑が田んぼになっている所が蓮華畑になっていた。その近くに墓地がある。というとき人はそこに眠っている
蓮華畑であれ菜の花畑であれそういう村に眠るのは幸せだとなる
死んでから関係ないというけど都会のような団地のように区切られた所に押し込められるのを見ていると嫌なのである。
人間は死んだら自然に帰るというけど都会にその自然がないのである。
だから限界集落でありそういう山村がなくなることは経済的な問題だけではなく精神的にも影響する、一万くらいの町でも自分の家の墓は狭い、だからなにか窮屈に感じる
広々としたところに墓地があるというのは墓参りにするにも気持がいいとなる
今回は上萱でチェーンがはずれた、それも深くチェーンが入りこんでとれなくなった。
前にもそういうことがあったが今回は元にもどすことがなかなかできなかった。
木の枝ではずそうとしたができない、木は折れてしまう、それで上萱から出た八木沢の麓に家がありそこが空家になっていてカスガイとした鉄が残っていてそれでなんとかはずすことができた
まず木ではできない、それで考えたことは木の道具では人間は田んぼすら開墾したり何もできない、鍬でも鉄が必要であった、その前は石器が必要であった。
木では道具にならないのである。もちろん武器にもなりにくい、石器は鉄の代わりになっていたのだ。石器というのはあまり注目されていないけど人間が手にした大きな道具だったのである。これは武器にもなったからである。
鉄が発明される前は石器でありこれでしとめた獲物でも切り裂いたりできたことは大きな進歩だったのである。


帰りは原町のユッサに来て食事して帰ってきた、遅くなったが介護がないので余裕である介護がなくなったことでまた旅もできるかもしれない、体力的にもまだ最後の旅ができるかもしれない、ただ新しい自転車をヤマハのロードの軽いのを買おうとしたが坂をとても上れない、2、5アンペアでは上れない、そしてスポーツタイプになると道がでこぼこうしていると危険にもなる、日本の道は舗装していても凹凸があり危険なのである。
今のヤマハのはマウテンバイクタイプだから重いが悪路には本当に強いし安定しているから事故になりにくい、自転車も結構危険な場合がある。
それで20年前だったのか前歯を三本くらい折っていた。その時頭をうちつけると死んでいたのである。このことを忘れていたが思い出してヒヤッとした。
誰でもこうして死の危険がありそこから助かったということはある
それは普通に生活していてもそうである。津波などもそうだった。
自転車だって相当に危険なのである。


注意→栃窪から上萱の道は車では通れません、道路が崩れていて通れません

2016年04月11日

フラワーアレンジメントの本を作る


フラワーアレンジメントの本を作る


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トルコ桔梗と万寿菊

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 (つぼみ)


 

万寿菊トルコ桔梗のともに咲きその色深め家にしあるかな

大輪の紫濃き牡丹かな我が家の主我なりしかも

風荒れて夕日のさしぬ満開の桜しばし惜しみぬ


今日は寒い、風が北風であり寒の戻りである。でも今頃の季語にはないだろう
今年の気候は寒暖の差が激しいことである。
寒いと思ったら暑くなり暑くなったら寒くなる、こういう変化は体に良くない
風がビュービュー吹いて満開の桜に夕日がさしている光景も何か今までに経験していないつまり気候とは毎年違っている、人間が60年生きても70年生きても毎年違ったものを体験しているのである。
その大きなものが気候なのである。その気候によってものの見方も変わってくる
もう桜は満開だけど明日かあさってかもう散っていると感じる
今年の桜は本当にそういう感じの桜だった


フラワーアレンジントは自分の一つの仕事である。これは別に特別の技術は必要ではない生け花を習わなくてもできる、ただ美的感覚がないとできないともなる
花を見て美しさの感覚を養うということもある


写真を絵画風にパソンコでしたものはトルコ桔梗の群青色がいい、それと万寿菊というのが対称的に映える、そして花は何日か一週間くらい最低見ていないと心になじまない、映えないのである。
だから家の中で毎日見れる所に置くのがいいのである。
自然の花はいろいろ花があっても一つの壺に入れてみることはできない
みんなばらばらに咲いているからである。
フラワーアレンジメントは外国の花でも一緒にさして映える
そのコントラストがいいのである。

今は1000円くらいでも写真の本が作れる、それを今作ろうとしている
パソコンでも注文してつくった。キタムラプリントとかは相馬市のイオンにあるので便利である。
結局これも機械化で人がいらなくなるというときそうである。
パソコンがしているのであり人はパソコンの補助にすぎない
パソコンのソフトがすでに人間の代わりになっている、だから人間はこれから高度な仕事を要求される、パソコンにやれないような仕事である。
芸術はパソコンにはできない、小説をパソコンが書いたというときそれはやはりパソコンにある膨大な情報がキーワードでつながるということはありうる
人間の経験していることはパターン化できる、犯罪の動機などもたいがい決まっているのである。

いづれにしろパソコンでは一つのフラワーアレンジメントを見たとしてそれを鑑賞はできないだろう。色で判別できてもそれをどう鑑賞するかとなるとできない
だから俳句の一つも短歌もできないのである。

2016年04月09日

花見(相馬市へ夜桜を見る)


花見(相馬市へ夜桜を見る)  

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新しき自転車買わむ燕来る

鳴きにつつ鳥飛び来る朝桜

朝夕に中館の桜家に見ゆ

この道のゆく人まれに花の影

故郷や母亡き後や花曇り

買い物や原町に来て夕桜

街道や枝垂桜の花の影

混むでなし六万石の花見かな

宇多川の橋を渡るや春の星

城下町枝垂桜や繊き月

夜のふけぬ枝垂桜に繊き月

五本松通りて帰る春の闇


眩しくも新田川に陽は落ちぬ岸辺の桜今盛りかな

訪ねれば一夜の嵐に櫻花散りにしあとや疾く時はすぐ

満開の桜を見れば風騒ぎたちまち散りぬ夢の跡かな

五本松夜に通るも我は知る我が帰りゆく春の夜かな

家に待つ人とてなしも何故や姉と母とは常にあるごとし

我が家に待つは誰なれ猫一匹待つとてあわれ春の夜かな


昨日は原町に行って今日は相馬市に行って花見である。中館は自分の家から見える中世の館である。お浜下りとかの祭りがあるところでこの辺では知られている

桜というのは咲いたと思えばすでに散ることを予感する


ひさかたの ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 

これは桜を象徴した歌だった。今回は特に感じた。最初から風が吹いたり荒らしになったりしてもう相馬市に行ったらいつも咲いている大きな木の桜はみんな散っていたのであるだから今年の桜は早く散った、咲いたと思ったら散っていたとなる

でもひさかたのひかりのどけきという日が今日もそうであり何日かはあった。
今日は暑いくらいだったからだ。

今日は介護もないので夜桜を見て帰ってきた。今までは7時ころまで必ず帰らねばならないのでそういうことができなかった。今は時間の余裕ができた。
でも不思議なのは誰も家に待っている人がいないということである。
それでも姉と母はいつも待っていた、それが60年もそうだったとするときなにかいるような気がする不思議である、やはり60年も一緒にいるとそか簡単には心から消えない
60年の歳月は長いのである。
五本松は夜でもここにあることが知っているのとにている。
60年も一緒にいれば例え憎んでいても記憶から消えなくなる
  
相馬市は何かいつもしんとしている、それで夜の枝垂桜がにあっていた。
細い月がでていたのも良かった。城下町でしんとしているからふさわしい月だとなる
相馬市は何か墨絵のような感覚になる
ともかく今年は桜が散るのが早いからあと二三日が見頃でありあとは散ってしまう。




タグ:夜桜

2016年04月05日

ノートパソコンでプログにアップする実験



ノートパソコンでプログにアップする実験

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飛ぶ鳥の花また花や真昼かな

菜の花や街中に住み暮らしかな

春なれど北斗七星は北を指す


鶯の二三羽ここに今日も鳴きなれにし道や暮れにけるかな


今日はアマゾンで持ち運び用の安いパソコンを買った、3万だから安いけどいいものだった
ASUSでありレビューを読んで買った、量販店とかではすすめるの買うと失敗する、売りたいものを買わせられる
レビューでみんながいいとするものはたいがい間違いなくいい

ただ電気店はyi-fiのことを一番わかりやすく説明してくれた、説明とともに品物も紹介してくれるのがよかった
要するに最近の製品は通信とかでもわかりにくくなっているのだ
それが電話で聞いてもよく呑み込めないのだ、YI=Fは設定できなかった

原町で直接パソコンを持って行って聞いてわかった
ものをじかにもっていって説明されて分かった
そういうことがパソコンとかの接続ではある

外で通信したかったのでそれをどうするか分かった、今日はその実験である




タグ:菜の花

2016年04月03日

桜咲く(今年の花見はどこに)


桜咲く(今年の花見はどこに)

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タンポポや種飛び咲きぬ玄関に

梅香り庭に山鳩飛び来る

十分に梅の匂いて散りにけり

前畑を老婦耕す力かな



みちのくの桜はなおも咲かざりき花見にうかる人をしみれど

故郷に桜の咲くをこの道を歩みて待ちぬ老いゆく我に

東風吹きて川面さざなむ真野川や岸辺の桜今日咲きそめぬ

春風に竹しなりゆれ雲雀なき家々新し街の生まれぬ

石一つ庭に隠され百歳を家支え生く母をし思いぬ


今日この辺は桜咲いた、今日はあたたかい、例年と同じかもしれない
この辺は新築の家がどれくらい建ったのか?
二百軒とかは建っているかもしれない、大東建託のアパートが十軒も建った。
まだ建て続けている
復興住宅も団地も建った
そしてこの辺は新しい街が生まれたのである

前畑を耕すというときそこに生活があり生きる力を感じる
ただまだ畑を作っている所はこの辺は少ない
でも春は一気にやってきたみたいだ

自分は以前として家事に追われかたづけに追われている
なかなか家のなかが整理できないのである。
これは時間がかかるし大仕事だった
放っておくとゴミ屋敷になることを理解した

今年は花見はどこかとなると母が死んでからまだ落ち着かない
だから遠くには行けない、近くになる
西になると東京の方が何か旅行しにくくなった
常磐道で一回バスで行きたい、直通のバスが通るようになったからだ。

玄関にタンポポの種が飛んできて咲いていたのも春らしい
玄関は大事だというと福を呼ぶというときこれは縁起いいとかなる
ともかく不運とか苦しみが十年つづいた。
その苦しみの原因が禄な人間しか来なかったことなのである。
それで犯罪にもあい苦しんできた

家の中に誰かくるか?家の中に入れる人間は要注意である。
一番の危険は家政婦とかお手伝いさんとかである。
これは家の中はみんなわかってしまうから最大の危険である。
時代劇でも最初に女中として商家に入り込ませ手引きさせる
人間の最大の敵と危険は内部に入ってきて攪乱されることである。
外から来る敵ではない、内部に入る敵こそ最大の危険である
避難区域でパトロールしているがそれより内部の人こ危険だといつも見ていた。
内部に家の中に入ると被害が大きくなる。
家の中を知りつくしているからそうなる

母は百歳生きて家を支えてきた、それは目だたない隠れた石だった
でも自分の家に嫁いできて60年の間家を支えたのである。
家を支えた重みが庭の石に残っている
ただこの石は6年前頃だったか新しく作った庭だった
もし旧家だったらそこに石が50年でも百年でもあるとしたらその重みも違っていた。
それがやはり歴史であり自分の家にはそういう歴史はない
せいぜい二代、三代の歴史しかないのである。
長く持続することで重みを増すものがある。
家もそうであり二代三代では重みが備わらないのである。





タグ:桜咲く

2016年03月22日

春満月(津波より五年すぎて平和を感じるー松川浦へ)


春満月(津波より五年すぎて平和を感じるー松川浦へ)

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新しき加工場でき蕗の薹

津波後松川浦に春の鴨

おおらかに春満月や姉の顔

ほほえむや春満月に星一つ

春満月我が家をのぞく平和かな

屋形にそ春満月や幸めぐる

春満月徐々に平和のもどるかな

人のあれ鬼越館に春満月


梅の花日々ににおいて散るころにさらに濃くして匂いけるかな

ゆくりかに春満月の昇りつつここに落ち着く五本松かな

東風吹きて松川浦のさざなみぬかなたに広く海を望みぬ


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津波から五年は一つの区切りなのか?何か今日は春満月が出てさらに平和を感じた。
何か落ち着いてきたなという感じである。
去年とも違う、さらに平和な感じである。自然を感じるというときその人の人間の心境が大きく左右している。
自然は同じでも例えば月をみてもその人の感じはその心境によって変わってくる
津波から五年を過ぎてやはり悲しみもまだ深いが何か平和もまた前より満ちわたるような気がする
5年も過ぎたのだからかいつまでも悲しい悲しいと嘆くだけの時は終わった。
磯部には新しい水産加工場とかできたしこの辺はいろいろ新しい建物だたった
いつまでも過去を引きづっているわけにはいかない
原発事故の被害地域は復興が遅れている、放射能が足かせになり遅れている


それにしてもいい春満月である。それで姉のことを思い出した。
姉は性格がおおらかであり陽気な性格でありいつもにこにこしていた。
自分と母内向的であったが姉は正反対でありそれが良かった。
神経質な人はかえってこうしておおからな人と接していた方が安らぐのである。
ただそれがすべていい方向には働かないがみんな性格とかは良くも悪くも働く


春満月というとき人間は自然に人間を見ているのである。人間の心境で自然を見ているのである。今日の春満月は姉の顔にそっくりだとか見ている
そして微笑んでいるというとき一つ星が輝いていたがそれは子供なのである。
人間は家族の人間関係が大きく影響する、自分の場合特殊だったがそうだった。


相馬市の道の駅に鬼越館跡があるがあれも外から来た人は気づかない
でもそこにも人は住んでいたのである。
鬼越館というと何か怖い名前だが北風の意味でつけられた。
北風がふきつける館だったとなる
それに春満月が昇ったのも不思議な取り合わせだった。
ともかく歴史的なものは知っておく必要がある。


それからいつものように五本松を見て帰って来た。
五本松というときも人を見ているのである。五人の人としてみている
それから屋形に帰ると満月が光っている
屋形の人を知っているからあの人は不幸だったが幸運がめぐってきたのかなどと思う。
何か自然に人間その時その時の心境で見ているのである。




タグ:春満月

春彼岸(この世の無情、津波、家族の死、金の非情の短歌十首)


春彼岸(この世の無情、津波、家族の死、金の非情の短歌十首)


この世への未練のなおもありにしや津波に死せる人をとむらふ

津波にて死す人あまた五年過ぎまことなれかしなお夢とも思ふ

かたわらにつねにありにし母と姉今はなしかも我が一人かな

人の世は会いて別れてみな消えぬ夢の間なれやこの世のことは

姉と母争う時ありそも終わりともに眠るや春の彼岸に

我が母の死してあの世に何思ふ我を見まもる人となれかし

涙すら今はいでじも十年の苦しみ思ふ無情なるかな

万寿菊我が家に咲き慰める女のここにあればよしかな

形見とて残る最後は墓なりし春の彼岸や実家の墓かな

ひたすらに金を求めて金に追わるこの世に生きるは無情なるかな

金求め金に追われてそのうちにたちまち死にぬ人ならじかな

人と人その契りしも短きをたちまち消えてこの世になしも

故郷の家のなきしもかたすみに墓の残りし人知れじかも


この十年間経験したことは人間の非情、無情の連続だった。そこには津波もありそれは自然の無情でもあった。津波はまだ何かまだ遠いものではない、以前として生々としてあるし死んだ人はまだ彷徨っている感じになる


織田信長と「敦盛」[編集]

直実が出家して世をはかなむ中段後半の一節に、
思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか

前置きとしてこういうのがあった。全部を知っている人は少ないだろう。こういうときインターネットは便利である。
戦国時代は動乱の時代だから無常より感じたのである。無常を感じるということは平家物語でもそうだが人が大勢死ぬからそうなる。
それは津波でも自然災害でもつくづくあった。まさにこの辺はそうした無常に襲われた
未だに津波で死んだ人は生々しいしその霊は海辺を彷徨っている
こういう経験もなかなかできない、でも常にそうした無常は個人的にもあった、ただこうして多くの人が共有することはそんなにはない、それでも戦争のときがあったし二〇年もすぎたが神戸地震でもあった。この時は東北は遠いからそれほど身近に感じなかったのである。

この世が夢だというとき秀吉も難波の夢として一生を終わった。
本当に自分も家族を二人失ったとき六〇年も一緒にいたからそれが夢のように思える
そういうふうに長く一緒にいたものが消えるとそれがどうなるかとなると
存在していることが本当だったのかそれは幻だったのかとも思う
そして今度は自分が存在しているのは幻なのかとなる
津波のときも原発事故でも夢なのか現実なのがわからなくなるのだ。
そういうことを戦国時代に感じたのは当然だとなる
そこで人と人が殺し合うからさらに無情であり非情を経験したのである。

自分の一身上のことを語ってきたが本当に無情非情を一身にあびた。
姉が認知症になってからそうでありその後十年はこの世の非情無情無常を経験してきた。自分の周りもそういうこと無常の世界となった。
金を金に追われている人がいるのが普通でありそういう人が来て金の切れ目が縁の切れ目となり去った。
金を求め金に追われてそのうら人は人間的情をかわすことなく死んでゆく
特に現代はそれが人間の現実になっている
金を求め金に追われ人のことはただ金としか見えなくなっているのが現実である。
これも人間として悲しい現実である。そして人は虚しく死んでゆく、そして二度と会うこともないのである。
認知症の姉の最後は遂に金があっても銀行から金をおろせなくなって無常にも死んだ。
金を求め金をためても最後は自分の金すらままならなくなり死んだ
これもまた無常である。認知症は人間の無常を最も現実化したものでもあった。


そして最後に残るのは墓だけである。家がなくなっても墓だけが残っているのを知っている、墓こそがこの世の現実なのである。あとは夢幻にすらなる。
墓は最後に残るものだからである。その墓さえ遂には消えて何も残らない
自分がこの十年間に経験したことはまさに無常無情非情の連続だったのである。
それは回りでもそうであった、大量の死があり町が廃墟化してゆくなど無常がつづいたのである。

平家物語でもうそだがこういう時代は出家したくなるというのがわかる
自分もつくづくこの世が嫌になった。ただすでに老人だからこの世から去るから別に出家しなくてもまもなく死ぬだろうとなるからいい。
前から自分は人間が嫌いだった。それで三〇年間隠者のような生活ができたことは不思議だった。その時社会も平和だったのである。今になるとそれは特別恵まれた結果だったのである。それがあとで今になりまた苦労することになった因を作っていたのである。
楽しすぎることも危険なのである。苦難に対して弱くなるからだ。世間知らずも危険なのである。
ともかく自分はそういうことが重なって塗炭の苦しみをこの十年間経験したのである。

ともかく何にかこの世のことに金に追われ様々な俗世間のことに追われているうらたちまち人生は終わる、生を楽しむ時間をもつ人は少ない、社長になると金が入っても時間に追われているのである。


蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る人、高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕に寝ねて、朝に起く。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし。
身を養ひて、何事をか待つ。期する処、たゞ、老と死とにあり。その来る事速かにして、念々の間に止まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。惑へる者は、これを恐れず。名利に溺れて、先途の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、また、これを悲しぶ。常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。(徒然草)


期する処、たゞ、老と死とにあり。その来る事速かにして、念々の間に止まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん

人は正に今もこれである。金を求め利を求め金に追われて休むことなく人の情も消え楽しみもなくたちまち老いと死がやってきて終わる
自分が接した人がそうだった。人間の情は借金に追われて消え無情と化してただ金を求める,それが犯罪までになる。

常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。

常住できなくなったのが原発事故の避難者であり変化の理を知らなかったのが自分でもあり津波の被害者でもあった。
人間の世は常に変化なのでありそしてたちまち老いが来て死がくる、そのことは人間である限りどんなに科学が発達して便利になっても同じだったのである。


タグ:無常の短歌

2016年03月21日

南三陸町に定住する若者 (何億円の金よりも大事なものがここにある?)


南三陸町に定住する若者


(何億円の金よりも大事なものがここにある?)


南三陸の被害が大きかった、街が壊滅状態に陥った
南三陸町は志津川町であり湾があり景色のいいところだった
それは陸前高田町も湾があり松原があり景色のいい落ち着いた場所だった
あそこも壊滅状態になった

でも南三陸町では外から定住している人を募集して百人とかするとかなると成果があったシェアハウスを用意してまず地元の人が積極的に外部の若い人を受け入れることに勤めたそして三カ月くらいをいてもらいどんなところか実地に知ってもらう
そして定住する人は定住する、そういう地元の人の配慮もあり成功した。

その一人は宝くじで何億円あたっても金で買えないものがある
ここで暮らすのはそれだけ価値があると言っていた。
その人は新潟の人だというとき東京のような大都会ではない
でも南三陸にきてそんな考えを23歳とかでもつものだろうか?
みんな金だという時代にそんな考えをもつものだろうか?

その人は水産加工場で働いているけど結構そこで働き定住するとなると
将来を考えると苦労すると思う
でもよくそういう考えになったのか理解しにくいとなる
そこに住むということにあの状態でも魅力を感じたからだとなる

それはあういう状態で地元の人も積極的に受け入れるということがあったからだろう
なかなか普通だったら田舎ではよそ者を受け入れないからだ
そういう人が住んでくれれば未来がある
津波で地元の人が20パーセントとか流出している、
それも若い人が流出している
でも一方で若い人が入ってくるということで交代して街作りができる

原発避難地域を考えるとここより問題は深刻である。
20パーセント流出したとあるが避難区域では一割しか帰らない、町に帰るのは一割でありそれもほとんど老人だとするときその差は大きい
原発避難区域の方が町の消滅の危機なのである。
そしてそこで訴えているのは補償金でありその補償金をもらって町を復興するとは限らない
みんな外に出てその金を利用して家を建てるなり新しい生活をはじめているからだ
そういう若い人たちももう帰らないのである。
三陸とかの方が深刻のように見えるが原発避難区域の方が町の消滅状態になっているのである。

そして原発避難区域とかその周辺は補償金でもめていたり心もばらばらになった。
それはかえって多額の補償金をもらったことでそうなったのである。
補償金をもらったらかえってもうこんな荒廃した町に住みたくないとなり若い人は流出した
他の津波の被害地と違って子供に放射能の影響があるというと通るからある。
そういわれると残れと強制できないのがこの辺なのである。

ともかくなぜ南三陸に来てここには金で買えないものがある
それだけの価値をあのような状態で若い人が見いだしたのか理解しにくい
ただそういう人かいれば未来がある
そしてもともと田舎でも田舎を嫌っている人はいくらでもいた
今でこそ故郷を返せとか言うけど原発で働き豊かになりたいというのが本音だった
まず農業などでも跡継ぎがないなど不満だらけであり漁業だってそうだった
だから原発を誘致したのである。

地元に住んでいる人が地元の価値を見いだしていない
それが外国人が日本人が当たり前だと思って注意しないものに魅力を感じるのとにているその若者はあのような状態でその土地に魅力を見いだしたのである。
復興が内部の人だけでできないというとき常に被害者になり自分たちはかわいそうで支援されるものであり何もしなくてもいい、外部の人がやるべきだともなっているからだ
かえって外部の人は別に被害者意識がないから新しい街作りにはいいとなる

津波の被害も海を呪っても恨んでもとをにもならない、それがかえっていい方向に働くことがある
一方で原発の被害地は延々と恨みを訴え補償金をもらうことを訴える
その補償金でかえって外に若い人が流出しているのである。
そして原発避難民はその人たちだけではない、回りの人にも影響している
なぜわからないけど南相馬市ナンバーの車が福島市で傷つけられたのか?
単なるうわさなのか?でもいわきでもめたように南相馬市でも小高区などが他でも補償金をもらったことでそれをねたみそうなったのか?
福島県内でもそうしてもめているのである。

何か犯罪の被害者ともにている、自分も犯罪にあってその人を恨みつづけた
そして激しく恨みつづけたら津波が来たのである。
それは自然にも影響したのかと思った。
犯罪の被害者は復讐もするのも普通である。復讐をせざるをえない気持ちがわかった。
でも復讐して心が晴れるかとなるとそうもならない
そして犯罪者がそれで更生するかとなるとならない
かえってその犯罪者が恨み悪い連鎖になる
犯罪者を罰せられるのは当然でもそれで更生するとは限らない
自分はあきらめて許した、そしたら気持ちが楽になった
復讐することもそれも相当な重荷なのである。
なぜ在日とか韓国とか沖縄でもその恨みを言うことは正当にしても
それを言われる方になると嫌なのである。
もうつきあいたくないという気持ちになる
それは原発避難者にも言えるのである。事情が違うにしてもにているところがある
だからそっちにもなんらか非があったのではないかと国民から言われる
何か気持ちきりかえる必要があるのかもしれない、外にでて新しい生活をするならもうこだわらいなからかえっていいともなる
現実はそうなってしまったということである。


だから別に補償金をもらっても訴えても当然だとなると思っているがそれが回りに影響している
それはここだけではない全国的に影響しているのである。
福島ナンバーの車が東京で傷つけられたとかも聞く
そうなると福島の外に出で福島県南相馬市と住所を書くことも怖くなるということがあるつまり避難区域の問題はお前は何もしないから何も言うなとは言えないのである。
そして自分たちは被害者だからかわいそうでり外部の人が何でもしてくれるするべきだとなりそれが当然であるとなる、その意識は在日とか沖縄の意識と同じなのである。
延々と被害を訴えそれを外部に向かって強制さえさせられる
それが当然であっても限度があるべきなのである。
それはその場所だけではない、全国的な問題だからである。
要するに補償金は国民の税金であり国民が何兆円もの金を払うようになるからうるさくなるのである。
そんなに払う必要があるのかと国民からも言われるのである。





タグ:南三陸町

2016年03月12日

無責任な発言が許されなくなったインターネット (匿名でも発言の責任が問われる時代)



無責任な発言が許されなくなったインターネット


(匿名でも発言の責任が問われる時代)


インターネットとにかかわったのは自分は古い、なぜかかわるようになったのか?
それは最初にワープロからはじまっていたのである。
ワープロもローマ字で変換するものではなくオワシスの親指シフトで文章を書くことからはじまった。
自分は悪筆であり字があまりにもへたのでなんとか他人にも読めるものを書くためにワープロになった
その時富士通のニフティでパソコン通信をしていたのである


実はパソコン通信を知っている経験している人は少なくなった。
それはなになのとまでなっている、2チャンネルとにているやりかたである。
それはまずインターネットでも通信環境が調っていなかった
だから相手に文章で書いたものが送信されたかどうかが問題になる
それでその日の内にでも返答しないとレスポンス(レス)しないと議論にも話し合いにも参加できないものだった
それは最初のパソコン通信のインターネットの文化ともなっていたのである。
その時第一パソコン自体もっている人も極めて少ないから技術的な問題も多く
なかなか普通の人はできない、参加できないものだった。
パソコンも高価であり操作するのがめんどうだった


自分がこれにはまったのはワープロのオワシスの親指シフトでやれたからである。
ローマ字変換だと自分はめんどうでついていけなかった
何かこういうことはできる人とできない人がでてくる
文章を書くことが基本だというときここでつまづいてしまう
自分はたまたまオワシスで親指シフトで通信つきのワープロをもっていたことでインターネットができるようになったのである。
そのニフティのハソコン通信は相当な暇な人しかできないものだった
それは答えること自体手間暇であり労力がかかりすぎたのである。
今でも介護してからは忙しくて返答できなくなって一方的に発言するだけになった

それからWIN5でパソコンが普及してホームページを作った。これは自分の主張ができる多機能なものであった。
その後介護になりできなくなりプログに移動した、ホームページからプログと移行して一五年くらいしているのである。プログさえ一〇年もしていた
この辺で相当に技術的にもインターネット自体のコミニケーションも変化した
いろいろなもの、ツッターとかフェスブックとかでてきた
これには自分は忙しくてついていけないからしていない、スマホもしていない
インターネットのコミニケーションは常に変化してきたのである。
パソコン通信と一番にているのは2ちゃんねるでありそこで全くの匿名であり罵詈雑言もしたいほうだいである。
ニフティではある程度そういうことは制御されたが禁止されたが2ちゃんねるとにていた
だからパソコン通信の経験ない人は若い人でも年配でもインターネットのコミニケーションの仕方がわからないだろう
プログになると独立のメデアであり双方向にできても全く違ったメデアである

プログだと匿名でもその人がどういうことを日常的にしていてどういう考えなのかとかその人生でもわかるのである。
二三行発言しただけではその人のことは全くわからない
今回自分に罵詈雑言した奴がそうだった
原発避難民であることはまちがいないだろうがどこの自治体に属しているかなどわからない、それだけでもわかれば会話しやすいのである。
だから今はインターネットのコミニケーションは変わっている
「保育園に入れない、日本死ね」とプログで発言した母親がいて社会問題になったけど
プログなど何百万あるとしたそれがそんなに反響があることに驚いた。
だからサヨク系がマスコミと計ったためだとか言うのもわかる
まずテレビなどだともし百万人がテレビを見ているとしたらインターネットなら絶対そういうことはありえないから影響力が天と地のように違うのである。
ほんとんど数人しか目にふれないプロクなどごまんとかあるからだ
その影響力は余りにも違いすぎるのである。

ただ変わったのはプログができたということはこれは個人的に一応発言ができる
インデビジュアルな個々のメデアなのである。
それは今までのパソコン通信とか2ちゃんねるとは違う、匿名でもその人となりがわかるのである。
だから今回のように突然あいさつもなく罵詈雑言してくるのには違和感を感じた
それは2ちゃんねるのノリでそうしてきたからである。
こういうことはインターネットではやりやすいがもうコミニケーションとしてはできな時代である
発言するのはいいにしても自分の立場を自分がどういう人間かをプログで示しておくべきだろう
そうすれば会話もしやすいのである。
要するにインターネットのコミニケーション方法は変わった
発言は自由である、プログで批判するのもいい、でも自分のことをある程度他人に知ってもらうためにプログをもつべきなのである。

そしてインターネットは今は発言でもかなり責任が問われることがある
今回の発言の責任は相当に重い
自分に対してその価値をおとしめてそれでアバヤとはならない
あなたの発言は長く保存される、それで犯罪歴が消えないと裁判にもなった
インターネットは意外と消えやすいようで記録するのには便利なのである。
だからあらゆることが記録されているのである。
匿名でもその発言も記録されて簡単には消されない
原発避難民にこんな発言した奴かいるのか、やっぱりそんな奴らだったんだ
とんでない横暴な傲慢な奴らだったと思う人もでてくるから注意が必要である

もちろんたいして読まれていないとするとそうはならない
それで気軽に罵詈雑言して喜んでいる人はいる
でもこれからそうはいかない、その発言には責任がある程度厳しく問われる
「こいつの発言はなんなんだ、やっぱり原発避難民はこんな奴らだったんだ、本音が出たな、こんな奴らに援助するのも馬鹿らしい」
そういうことはすでにインターネットで言っている人がいる
自分も本当に今回の自分に対する罵詈雑言ではそう思った。
こんな奴ら助ける必要があるのか、神すら助けないと思った。
極端にしてもそうである

ただこうした罵詈雑言卑語はニフティのパソコン通信では普通であり日常だった
だからとやくか言うのもなんだがインターネットのコミニケーションは変わった
匿名でもその発言は厳しく問われる時代になったのである。
誰でも発言できる、でも責任も問われる、それが民主主義だとなる
だから匿名であってもこの人の原発避難民を代表して発言していないとしても
こういう人が原発避難民にも多いのだと自分のプロクで示したのである。
その発言の責任は今までとは違い重くのしかかるから注意すべきである

第一普通の社会でおまえは何なのだ、馬鹿とか言わないがそういうことはニフティのパソコン通信では普通だった
あいさつもないし目上も下もない、偉いひともなにもない、ともかく相手のことを最初から罵詈雑言して喜ぶ人が多かったのである。
そういう時代は今は終わった、その発言の責任は厳しく問われるし記録に残る
インターネットはそういうふうに自由に誰でも発言できるのがいいのだが
今はプログで自分がどういう人間か示していないと会話はしにくい
誤解が生まれるし対話できない、ただ罵詈雑言して喜んでいるような人間を相手にする暇はないからである。
自分は今まで介護で忙しく答えることができなかった
今は暇ができたのである程度できる,それでも手間なのである。




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