2017年03月18日

春の日に原町の街中の牛飼う農家から原ノ町駅を見る



春の日に原町の街中の牛飼う農家から原ノ町駅を見る

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パノラマ写真ーソーラーパネルがあるのも今の風景である。
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この石はいい石である、これだけの石があり新築である。
誰が建てたのか?気になるが原町は広いからいちいち気にしていられない

古いままの原ノ町駅

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ここにレールが使われていた




紛々と梅のにおふや晩年に

梅林や牛に山鳩畑かな

街中に牛飼う家や春の雲

大石をすえて新居や梅におふ

春耕や残る街中の畑かな


久しくも一本松のここに立ち一つの池の水ぬるむかな


梅は盛りでありいたるところにおっている。晩年というとき一見年取って嫌だなとみる。でも自分はあらゆるものを深く見れる鑑賞できる、詩などもいいものが創作できる
今まではなかなかいいものが作れなかったが自然にできるとなる
やはり芸術などもなかなかすぐには理解できないし創作もできない
それだけ自然を知るのには歳月が必要だともなる
普通の人だったらどうしてもそうなる、だから大器晩成とは別に大器でなくても理解が深まるし創作もできるようになるのだ。

今日見た風景は変わっていた。六号線の高見町から海の方に行くとそこは工場があり倉庫などがある一帯である。渋佐地区になる
仙台にも卸町とかありそういう場所であり景色は良くない。
でもそこに牛を飼う農家があり畑もあった。この風景も不思議だった。
こんなところに農家があり牛を飼っているというのもにあわない風景だった
この辺はもともとは田畑であり農家があった所である。

この梅林に山鳩も来ていたし鳥がとまっていて春の雲が浮いている
何か牧歌的だなと思うが全然そういう場所ではない、第一ここに農家がある、牛がいるということがそぐわないのである。
でもこういう場所がまだ街中に残っていたことはなごむともなる

何かこの辺でも新築の家が増えた、浪江の人が建てた家もあった、小高の人も建てたし相当に原町でも新築の家が増えた、原町はこの辺では一番住むには便利だからである。
原町は大きいからわかりにくい、鹿島区くらいだとすみからすみまでわかるとなる
それでもわからないものがあるのが現代の社会なのである。

今日は原町駅に行き原町の駅舎を見た、そしたら意外とそれは鹿島の駅舎と同じく明治30年に作られたままのものだったのである。
改装はしても中味は変わっていなかった。
南相馬市のチャンネルで原町駅のことを説明していた。
ホームにレールが使われていた、あれは気づかない、なぜレールなど使ったのだろうか?やはり明治となると鉄が貴重であり建築するにも利用したとなる
壁は自分の家がそうだったように土壁だったろう、するとまるで大きな農家のような造りだったとなる、原の町駅は大きいから昔は残っていないと思った。
蒸気機関車のとき方向転換する場があり大きな駅だった、今は半分くらいに縮小している

高校のとき通った駅だがその時蒸気機関車だったけど鉄道自体に興味はその時もっていなかった。やはり人間は興味をもたないと注意して見ないのである。
勉強だって興味がなければしないし強制的に試験があるからとやらせても身につかないのである。
鉄道だといろいろ興味をもつ人がいる、一番多いのは撮り鉄である。
デジタル写真の時代だからそうなる
ただ鉄道は自分でも原町に行くときめったに乗らない、買い物でも自転車である
途中回れないとかへ不便である。駅に来ても歩いて用たせないから困るのである。
タクシーになるとまた金がかかるからである。駅からのアクセスが不便だから利用しないそれで北海道は半分廃線になというのもわかる。
日高線を復旧するのに130億かかるというから洪水で破壊されたレールは放置されたままである。そしてもう復旧できないから廃線にすると会社では言う。
常磐線の復旧は津波で流された区間を直すのに400億かかった
でも東JRでは復旧したのである。今月は浪江まで開通する

今日は彼岸の入りであり原町の橋本町では墓参りの人が来ていた。
原町の街中で畑を耕す女性がいた、まだこういう光景はこの辺ではある。
それでほっとするということはある。
ただ原町の街は通りはシャッター通りでありさびれている、これはどこでもそうである。何か復興事業も一段落してこれからさらにさびれてゆくから困る
それは相当に深刻な状態になるかもしれない、震災前だって生活が苦しい人が多い
そのことで自分はひどいめにあったことを書いてきた。
復興景気は終わるとこれから農産物でも放射能で売れないとか苦しくなる

何か自分でも自分が病気になったり介護になったりさんざんな目にあったことを書いてきた、つくづく負のスパイラルに陥ってゆくのが人間である。
だから小高でも浪江でも飯館でも避難区域になったところは負のスパイラルに陥りやすいから復興がむずかしくなるのである。
結局いいことにいいことが重なり悪いことには悪いことが重なるのである。

また川子のパークゴルフ場によった、あそこに植えた樹が大きくなるにはこれも何十年とかかる、それで夏は日影がなくなるので日ざしをまともに受けたらできないと思った。
海岸地帯も日影ないので夏はいられない、木が育つまでには何十年もかかる、50年もかかるとなったらもう今生きている人は日影休むことができない
でも20代とかなら老人になったときその木も成長しているから休めるとなる
今の老人は日影に休むことができないのである。
だから老人は先は短いからそうした息の長いことをするのに向いていない
だから復興するのにも長い先を考えるとしたらできない

人間は先をみることがつくづくむずかしい、何が起きるかわからないからである。
東芝で失敗したのは原子力に力を入れすぎたことである。
それが未来だとしてフクシマで事故になりその影響でアメリカの会社まで影響して窮地に追い込まれたのである。先をみることを誤ったのである。
それが致命的結果になったのである。
ただその先をみるというときこれは老人ではできない、先がないからである。
たから老人は復興に向いていないのである。



2017年03月11日

今日の南相馬市鹿島区(薪ストーブの家)


今日の南相馬市鹿島区(薪ストーブの家) 

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ここが五六軒が空家になり空き地化している、街の真ん中なのである。



今日の鹿島駅ではない、鹿島区である。自分は毎日鹿島区内を行ったり来たりしている、前から注目していたのが薪を積んである家である。
街中にどうして薪を積んでストーブに使用しているのか?
それが今日薪を積んだ軽トラックの人がいたので聞いてみた

「これも燃やしているんですか」
「そうです」
「いろいろな木があるみたいですね」
「ナラとかケヤキとかあります」
「木によって燃え方は違うでしょう」
「そうですね、杉の木は燃えやすくてだめです」
「燃やしても長持ちしないとやはり薪の場合はまずい」
「堅いのいいです」
「これだけのものを集めるのは大変でしょう」
「これはもらったものでありいらなくなったものです、家の柱などには使わないものですこれは象の置物です、外材も多いです、何か燃やしてくれと頼まれることがあります」
「自分も子供の頃゛バタをとりにいってて鉄砲風呂で風呂たくのが仕事でした」
「そういう時代もありましたね」
「薪でストーブはあたたかさが違うでしょう」
「そうですね、部屋全体があたたまります」
「それにしてもこれだけの薪を割ったりそろえるのは大変だな」
「あそこにも薪を貯える場所を作ったんですよ」
「そんなに薪が必要になるのか」

現代生活に合った薪ストーブ選び

何軒か街中でも薪ストーブをしている家がある。これも今では相当な贅沢である。
これをしているのは倉庫になったような所であり暮らしているのは別な所だった。
薪ストーブというとき冬を楽しむにはいい、エアコンよりぽかぽか体全体が家全体があたたまる感じだからである。
田舎では囲炉裏があり一日燃やしていた、その囲炉裏の側で寝ていたのである。

薪を積んだ家というとき栃窪村などにもあり場所としてはいかにも山の村としてあっている。

栃窪に薪積む家や冬籠もり

こんな感覚になるが街中だとなにかそういう感じはないしこの辺は特別寒い所ではないから必要でもない、やはり寒い山国だとあっている。

この薪積む家の人と話して次ぎに知っている人の畑を見に行った。イヌフグリの根っこをとっていたた。その根っこが細かく張っている、だからそれをとるのが苦労なのである。荒地になったところにイヌフグリが一面に咲いてきれいだと思ったがこれが畑として作物を植えるのには苦労なのである。
その畑に毎日行っている人は畑の話をする、でもイヌフグリが花であり春の季語でありその花の名前も知らないのである。
花を活けるのだが畑でとれた地元の花は長持ちする、でも一旦冷蔵庫に入れた花は長持ちしないという、そういうことに詳しい、野菜作りと花は植物だからにている。
土作りも花の場合も必要なのである。

自分の場合はイヌフグリというとき春を告げる花としてしか見ていなかったのである。
農業するものにとってこうしたものが実際は草にすぎず邪魔者になっているだけだとなるその近くに畑まで歩いてもこれない老人が畑で作業している。もう歩くのもやっとなのである。それで娘が車で迎えに帰るのである。それほどまでして畑をやるのかとなる。
この辺は回りが荒地化しているのだ。それが何か影響してくる
前はこういうことがなかった。その知っている人は一年で千円で土地を借りて野菜作りしている。
ただほんのわずかのものしかとれない、一回トマト数個もらっただけである。
そして苦労話は百倍しているだけなのである。
鳥に食われた、盗まれたなんだかんだと苦労話だけなのである。

その次は買い物でスーパーに行った、新しいのが一軒できたので便利になった。
そこに売っていたのがイスラエル産の果物である。
イスラエルからも果物が来ているのか?それがいぶかったが自分はイスラエルに行ったことがありキリストの生まれたナザレにも行った、イスラエルで誤解しているのはあそこは砂漠であり土地が肥えていない、それで入植して人工的に潅漑などして果物などを作ってたいる、グレープフレーツの品種改良したものである。


スウィーティーはアメリカではオロブロンコ(Oroblanco)と呼ばれているもので、1958年にカリフォルニア州のカリフォルニア大学リバーサイド校柑橘類研究所においてグレープフルーツ とポメロ(文旦の一種)を交配し生まれた品種です。この時に姉妹品種の「メロゴールド」も生まれています。

オロブロンコというのも売っていた。ただイスラエルから輸入されているとういのは意外だったのである。それだけ本当に田舎でも国際化したグローバル化経済の中にある。
田舎といっても昔の田舎とは違うのである。田舎的なものは残っていても自給自足の田舎などどこにもない、どこでも山の中でもグローバル化経済の中にあるから金がないと生活できないのである。

なんか自分は母を介護したときは淋しさを感じなかった、絶えず母に注意していなければならなかった、だから精神的余裕がなかった。外に注意を向けることができなかった。
そして大きな家に一人になったとき感じたことは何かからんとした所に一人いることが普通ではない、淋しいと感じるようになった
それで人恋しくなる、それで駅とかに言って話しかけたりする、今までは家に人がいれば淋しいとういことは感じなかったのである。
それで一人暮らしになった人がお前は介護していても家に人がいるからいいと言っていたその人も妻を失い大きな家に一人でいるようになったからである。
だから一人暮らしになるということがどういうことなのかこれも経験しないとわからない
もう一カ所は街中に空家が四五軒まとまってあり空き地化したところを毎日通る、そこには公園もあるが老人が出てきたので聞いてみた。

「ここには空家が多いな、どこに行ったんですか」
「町内に移動しただけです」
「町からでたわけではなかった」
「あそこも空家なんです」
「あそこは空家に見えないな」
「私も一人で暮らしているんです」
「自分もそうですが・・そういう人が増えたよ」

あそこは別に他の市町村に出た人ではない、そういうことが多いから聞いてみたがかえって金があるから新し場所に家を建てたとなると余裕があったとなる
この辺では震災以後新しい街が三つくらいできたくらい新しい家ができたからである。
鹿島区は人口は減らないのである。人口が減るとやはり全体の影響が大きくなる

いづれにしろ自分は小さな範囲で介護以来生活している、でもそこからも世界は見える
つまり田舎でもいかにグローバル化経済の中にありまねがれないということである。
だからとても昔の自給自足の田舎とは余りにも違いすぎる
イスラエルの果物が輸入されているというのもそうである。そういうことは外人が入ってこなくてもそうでありそういう世界に田舎でも組み入れられているのである。
カナダのトロントから鹿島区に住んでいるフィリピン人の母親を頼りきた息子がいたりとそういう世界に田舎もなっているのである。
そして自分がカナダの国債を買って損したというのもそうである。
そういうことは田舎だってあるしグローバル化経済からどこでもまねがれない社会に生活しているのである。アフリカの奥地でもドルが通用するとなるとそうである。
そこで「ワンドーラー」をくれとかロバに乗った子供が叫んでいるのが現代のグローバル化経済社会なのである。
原発事故だってグローバル化経済とか社会とか世界的なものでありそれが事故となり問題化したのである。原発の是非は世界的な問題でありそれでフクシマが有名になったのである。

タグ:薪ストーブ

2017年03月08日

50年あった東北サッシを思い(詩) (工場も郷土史になる)


50年あった東北サッシを思い(詩)


(工場も郷土史になる)


桜田山に
東北サッシありて
50年は過ぎしも
今日神奈川の社長を
鹿島駅に見送りぬ
そこに働く人も老いにけり
春なれどもなお寒しも
風花の舞いにつつ
東北の風の冷たし
我は今日も見送り
駅に電車を待ちぬ
同輩もみな老いゆくや
すでに死す人も病になる人も
この駅の建てられしは明治30年
歴史をここに刻むかな

東北サッシは桜田山にあったからなじみがある。他に工場があったがつぶれた。
それを長い間見ていた、ただつくづく50年とかあること自体が何であれ歴史になったと思う、会社でもやはり長くあればそれが歴史となる、郷土史にもなる
人生50年となるからそれだけの長い間故郷にあったことが歴史になる

すでにその人も退職する年齢だというときそうである。白髪も多いから同じである。
その工場にその歳まで働いていたということが重みになる
工事でも人間はそこで働いているということは愛着が生れる
50以上の人が癌になり死ぬということを意識したとき工場で一緒に働いていた人とまた会いたいとか働きたいというのもわかる
工場でも長くいればそこの人でも仲間となり愛着が生れるのである。

鹿島駅は明治30年に建てられたのである。それは相当に古い、蒸気機関車の時代もありそれを自分は経験している、その前からも走っていた、ただ戦前はどうだったのかとかその歴史が今一つわかりにくい、原町駅には蒸気機関車の方向を転換する場があった。
原ノ町駅は明治になりできて原町が相馬市より発展したのである。
その原動力となったのが蒸気機関車であり駅だったのである。
その時森林鉄道も全国にあり東京に木材などを運んだからである。
常磐線は常磐炭鉱があり石炭を運んだ、小樽なども石炭を運ぶために作られた。
石炭を運ぶために作られたのが鉄道である。貨物列車の方が先にあったとなる

いづれにしろ何でも歴史がある、明治からの歴史もある、ただ身近なものでもそうした歴史があっても忘れられる、注目しない、駅に人間模様があった。
なんか戦後まもなくは仙台に買い出しに行ったということを姉から聞いた
そんな時代もあったが忘れられる、集団就職でも駅から上野に向かった
それも自分は大学に行ったのだからその時は関心がなかった
ただ常磐線はそうして行き来したから思い出となる

いづれにしろ郷土史の範囲となると本当に広いのである。一人一人の人間が郷土史になるからである。すでに老人になればそういう歴史を一人一人刻んできたのである
現代史も歴史になる、なぜならすでに団塊の世代でももう70とかなり歴史となる
そういう歳になったということである。

a 基本給(月額平均)又は時間額138,000円〜160,000円

でも東北サッシは月給が安い、田舎ではこんなものなのか?
こんなんで生活できるのか?もらっている人はもらっているだろうが安い
田舎は公務員とか医者などが高いが後は安いのが多いのである。
これが初任給なるわかるが安いと思った。
これでは人手不足でも人が来ない,そもそも若い人も少ないのだからそうなる
人手不足といっても誰でもいいわけではない、つまり誰でも人がいないからと補充できないからますます人手不足になるのである。
お手伝いさんであろうが掃除するだけでも誰でもいいというにはならないのである。
それは相手が人間だからそうなっているのである。


2017年02月25日

新田川の公園にできるテニスコートは広い (風致が損なわれる問題もあったー久々に桜井古墳による)


新田川の公園にできるテニスコートは広い
    

(風致が損なわれる問題もあったー久々に桜井古墳による) 

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このテニスコートは六面だから広い

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桜井古墳の所まで津波が来ていた
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壊されるフレハブの宿泊所

みちのくの桜井古墳や冬の雲

みちのくの桜井古墳や冬の暮

東風(こち)吹いて桜井古墳海近し


新田川岸辺を歩む人一人老人多し冬の日暮れぬ

赤々と冬の没りて雲染めるここに住みにつ命はぐくむ


今日ひさしぶりで桜井古墳の方に行った、そしたら新田川の岸辺の公園の隣がテニスコートにするために工事していた。
女性が一人歩いていたので話した

「ここはなになるんですか」
「テニスコートで六面できるそうです」
「ずいぶん広いな そんなにテニスする人がいるのかな」
「若い人にはいいじゃないですか」
「そういうことは言えるかもしれません、自分としては安らぎの場として老人が散歩するのにいい、憩いの場所の方が良かったな」
「それもあるけど若い人にはいいじゃないですか」
「大きなパークゴルフ場が鹿島区にできた、あれは老人向きだからここは若者向きも必要なのかもしれません」
「ここはすでに震災前にテニスコートにする予定だったんです」
「そうですか、すでに決まっていたから実行したということですか」
「でも何かここは新田川があり風光明媚だからテニスコートにするのももったいない所だった、木を植えて花を植えたりした方が良かった気もする」
「それも言えますが若い人の要望もあるでしょう」
「別にテニスする人は今は若い人とは限らないですから、それも必要とは言えます、でも市民が議論しても良かったのかもしれません、まあ、桜井古墳の方は散歩するにいいですからここはさけてもかまわないですが・・・・・」   

何か自分が一番常に気になるのは自然景観なのである。突然自然景観が壊されることがあるのでそのことが残念に思うのである。
人間は普通自然景観に敏感ではないから利益にならないから簡単に破壊されることがあるただ運動場を見ると手狭になっていることはわかる。
そしてテニスをしたことがないものはテニスのことはわからない
テニスをしたい人の要望もあるからここを公園にするということは議論が必要になる
若者が運動するというとき老人ばかりの要望を聞いていられないからである。
ただ高齢化社会となるとき安らぎや憩いの場所が多いと暮らしやすいとなる
別にこの辺は自然がないというところでもない、都会とは違うからである
だからここはそんなに問題にすることでもないかもしれない
ただ新田川があり景色がいいからその景色と調和するのがいいと思っただけである。

桜井古墳は海に近かったしもともと海に向いた古墳だった、何か港のような感じにもなる実際に津波はここまで来ていたからもともとは八沢浦と同じく海だったのである。入江だったのである。その海に面して桜井古墳があった
海に面して古墳があったというときここもそうだが名取の雷神塚古墳でも海から離れているようで実際は海が近かった、仙台の遠見塚古墳でもそうである。遠く見るというとき海を見ていたのかもしれない、海と関係して生活していた人が作った古墳だとなる
たださの古墳にしても観光の目玉ともなりにくい、古墳はなかなかわかりにくいのである真野の古墳からは金銅双魚佩(ぎょはい)出たので目だったがそれでも城のようには目だたないから観光としては歴史的なものとしては注目されないのである。 

今日は東風(こち)が一時吹いた、あとはまた北風になった、そして3月11日は東風が吹き放射性物質が飯館村から福島市までその風にのって流れたのである。

ダイユーの仮設は壊されていた、これを見ても徐々に除染も終わり人が減ってゆく、この辺はそうなると一時の工事とか除染のバブルも終わると経済的影響は大きくなる。
外からの人が来なくなるからである。

帰りは雲が赤く夕日に染まる、ここに住みついて雲が赤々と染まってゆく
何か報道するということはプログでもしてみると近くのことでも関心をもち住んでいる場所を良くしたいとかなる、それは自分が住んでいるからそうなる
旅などではそういうことは思わない、ただ通りすぎてゆくだけだからである。
でも人間は最後はどこかに定着して命をはぐくまねばならない、報道することは何か政治とも関係している、ここはこうしたほうがいいとかなるからである。

一人一人議員になったように狭い場所だとなりやすい、だから原発に無関心だったのはなぜだったのかとなる?
それは報道する者の責任だったかもしれない、第一今ならインターネットでフログなどで発信して報道できるがそもそも一般市民はできなかったからである。
こうしてフログなどでも書いて発信できると違っていたのである。
報道の役割は意外と大きいのである。知らされなければわからないからである。
だからこそマスコミは第三の権力になっていたのである。
民主主義は報道が大きな力をもつからこれが機能しないと今回のような原発事故とかになりとりかえしのつかないものになる
そもそも原発には許可なく誰も立ち入れないし報道機関が報道しない限りわからないものだっからである。

2017年02月23日

鹿島駅の錆びついた入り口の戸は直した 駅とは広場とか待ち合わせとか出会う場所、外部の人との交流の場所

   
鹿島駅の錆びついた入り口の戸は直した


駅とは広場とか待ち合わせとか出会う場所、外部の人との交流の場所
   
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今日も夜は風で遅れている、でもこれはいわきの方だった
今日は仙台方面は遅れてはいなかった

 

今日は福島市からレンタカーで仕事で来た人がいた。目だつところがないので駅に来たという、それからもう一人は車を駐車する所を聞いていた、駅のすぐ前だと長く駐車するには向いていない、自転車置き場の所が空いていた、そこに止めたらいいだろうと言った
指定されている所もあったが指定されていない所もあったからだ

要するに鉄道の駅といってもこうして車時代になると車で行き来しているから駐車場とかが必要になる、街中は駐車場がないのが問題なのである。
それで新地駅とか山下駅は駐車場を駅前に広くとった。車も駐車しやすいから鉄道を利用しなくても待ち合わせでも何かここで用をたすともなる
温泉も出たとなると憩いの場所にもなる

確かにこの本のように駅というのは見直す時期なのかもしれない、駅が街の玄関口なのはまちがいない、そして東京への上ぼり志向から下り志向へ地方へ再び目を向ける時代が逆にきている、東京へ東京へという時代は終わったのである。
地方はこれから見直される、ただその見直されるとしてもみんながそうはならない、地方としての何か創造とか個性とか売りになるものがないと見直されない
外国人旅行者が増えて東京から都市部から地方へ目が向けられるときもそうである。

今はこの辺は外部からの人が結構まだいる、駅の特徴はそういう外部の人とも交わる所なのである。それで自分は全国を隈なく旅行しているから相手がどこから来たかというとき話を合せられるのである、そういう場にいることが何か生きがいにもなる
自分にとっても面白いとか相手もここに来てこの町のことなど聞くのが案内されるのが面白いともなる
ただ案内するにしても今は津波とか原発のことがあるがその他では目だったものはここにはない、でも何かちょっとでも話すると面白いとなる
駅が外部の人との交流の場所となる、それは仙台まで通じたからできたことである。
この六年間くらいはそういうことはなかったのである。

今日はいわき市からきた建築会社の人が戸を直した、ここは前から自分が市にも言っていたし水戸から来た人にも言っていたし原町の駅の人にも言っていた
戸が古くなってあきずらくなっていたのである。
それを今日は直してくれた、それを自分は見ていた

それから今日も夜になって遅れがでていた、昼間はめずらしく風がなく遅れなかった
でも夜になり風が吹き遅れた、だから毎日遅れが出るのが困るとなる。
でもそれはいわきの方であり仙台方面は普通に運行されていた、風がこっちはなかったからである。             
                                  
参考になる本

「老いる東京、蘇る地方ー牧野知弘」

2017年02月14日

春の日(倒木はなお生きて森に還る)


春の日(倒木はなお生きて森に還る)


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駅前の自転車屋かな一軒のみ病とてもなお働きにけり

長々と貨物列車の過ぎ行きぬ病院の窓に枯野広がる

鉄道に貨物列車のみかけぬは原発事故に途絶えしを知る

津浪にも残る社の一つあり形見にあれや冬のくれかな

北風になお吹き鳴るも倒れし木に春の日さしぬ我が見て通る


駅前の自転車屋がありあそこは自転車を使うのでなじみである。
貨物列車を見たのは病院に家族が入院している時だった
長々と貨物列車がゆくときそれが病院に寝ている人とか介護している人とかがいて
何か重荷になる、その重荷というとき重荷を運んでいるように見えたのである。
その時貨物列車のようにみんな重荷となる病人とか介護される老人が運ばれれば楽だなとも不謹慎だが思ったのである
短歌とかでも短いから一つの歌でもどういう場所にいて心境で詠んでいるのかを知ると深く理解できるのである。

今日見たのは道の脇に倒れている木だった、まだ北風が唸り吹いていたがそれほどでもない、春の日がすでにさしている、その倒れた木にもその春の日がさしていた
人間は木でもそれも生き物だから人間のように見ているのである。
すでに自分も家族はみんな死んだけど介護して供養するとき、家族は死んだけど供養しているとなる、その倒木に死んだ家族をイメージする

そして倒木でもそれはやがてまた森に還元される、森の栄養となるのである。
そういうふうに連環した命として植物もある、動物でもそのように昔だったら見ていた
それは人間もまた同じように自然の命としてそのように見ていたのである。
何か倒木にもやさしいあたたかな春の日がさしている、それは死んだとしてもまだ倒木として生きている感じになるからだ。
人間の悲惨は骨となって何も残らないことである。その極端な生と死の断絶がショックであり受け入れられないのである。
倒木は死んだとしてもまだ生きている、それがやがて森の肥料ともなり循環する命を生きているということでその死は無駄ではないと感じる
その死は自然では孤立した死ではないのである。

こういうふうに見るのは田舎ではできる、あるところに長く住んでいると見れる、でも都会では見れない、森というものがない、死というのが何かそうした自然の中の死ではない一つの機械の部品が消えるという感じにもなる、無機質的な死ともなる
人間も自然の中の命の一つだということを自覚できないのである。
そういうことが科学万能社会を作ったともなる
原発のように毒がはき毒を残す、一万年もプルトニウムの毒が消えない、放射線をだしつづけるというのがそうである。それは自然の命のサイクルにはならない
もし炭を燃料にしていたりしたらこんなことにはならない、自然の循環、サイクルの中で生きていることになっていたのである。

では昔に帰れといっても江戸時代にもどれといってもむずかしい、でも人間も自然の命の一つでありそれに逆らうものが科学技術にありそれが原発事故になり致命的な結果になった、そういうことを田舎に住んでいる人は余計に感じるのである。
都会ではそもそも自然と切り離されているから感じない
でも都会でも自然なしでは食料も入らないのだから生きていけない
だから東京でも大都会で食糧不足になり自然とのつながりを田舎とのつながりを具体的に自覚される時がくる、それは地震とかの災害でも必ずくる


タグ:倒木

2017年02月11日

晩冬に仙台まで途中下車の旅


晩冬に仙台まで途中下車の旅(俳句十首)

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キクチスーパー山下駅にできたので便利 

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亘理駅

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仙台駅

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仙台の駅が変わっていた

これも変わったものである。

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満月が出ていた
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雲ににじみ光っていたが雪がちらついた

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一本の冬樹や社に古碑並ぶ

みちのくや途中下車して冬の雲

金華山駅より見えて冬の暮

冬の空城郭映えぬ亘理駅

城郭のかつてはあらむ寒椿

亘理駅枯木五本や風鳴りぬ

亘理駅一羽飛びゆく冬鴎

岩沼駅貨物列車に冬芒

線別る福島の方冬の暮

仙台に冬満月や新幹線


満月の雲ににじみて光るかな仙台あわれ雪しぐれかな

仙台に古本買いて帰るかな枯木並木に灯のともるかな


新地辺りからはいつも金華山とかが見えるようになった。この辺には金華山の碑がある。それは明治時代頃のものでありその頃お参りが参盛んになった。古いものではないのである。むしろ湯殿とかは古いのである。

山下駅におりた、キクチスーパーが駅にできていた。広いスーパーである。あれだと駅前に人を集められる、そこで休む場所があったので弁当を食べた。
駅前にスーパーがあると便利である。駅をおりてすぐ買い物できるし車がなくてもできるからだ。
鹿島駅で老人が車がないのでバスを走らせてほしいと言っていた。
高齢化社会は足が問題になる、それで路面電車が復活したりしている。車も運転すると老人は事故を起こしやすいからである。
前は原町の前にスーパーがあったが今はない、図書館があるがあれもいいものかどうかわからない。やはり買い物する店が必要なのだ。
自分も自転車でゆくと何か最近腰が痛くなるのである。だから自分にとっても足になるものが必要になる。

仙台は便利になったから時々また気軽に行けるのがいい、次は亘理駅によった。
残念だったのはあの城の中は見れなかった、休館だったのである。
あの城はあそこに案たわけではないけど立派であり見応えがある。
中通には城はあるが浜通りにはないからだ。
亘理駅で冬の鴎が一羽飛んでいるのを見たことがある、それであそこも海が近いと思った現実に津波の被害がやはり大きかったからである。
浜吉田というのも浜がついていたから海が近かった、しかし海が見えないので近いと思わなかった、だから浜吉田の駅まで津波が来ていたのには驚いたのである。

亘理駅で五本の枯木が風に鳴っているというとき写生なのである。写生だと何か単純だけど力強い句、簡潔なた句になるのである。

岩沼駅はいつも貨物列車がとまっている、あそこは工場地帯だから引き込み線もあるからだ。原発事故以降は双葉、大熊は通らないので貨物列車とスーパーヒタチなどの急行は通らない、だからそれも不思議である。
自分は介護で家族が鹿島の厚生病院に入院していたとき窓から貨物列車を見ていたのである。その貨物列車がなんとも病院にふさわしいものだった。
重い荷物を運ぶとき病人もそういう感じになるからだ。
何か電車には常に人間的なものを感じるのである。

仙台ではまた古本屋によって本を買った。やはり通販だけでは買い物は面白くないしわからないことがある。本でも中味が見れないからである。
そして仙台だと変わったものが研究した本でもある。
今日は万葉集の絵があるのを買った、それは見れないようになっていた。
でも書店の人にみせてもらい買った、四〇〇〇円だった、これは骨董品だと思った。
相当に紙まで古くなっていたのである。

仙台駅に冬の満月が出ていた。それが曇って雪がちらついた、それはちょっとふっただけのものであり雪しぐれだった。冬の終わり頃に雪しぐれがある。
これは情緒的に日本的な微妙な感覚をかもしだすものだった。
日本の季節は微妙に変化するのである。だから季語が無数にあるのだ。
実際自分は雪時雨は経験していないからである。

帰りは山下駅で十数分下りの電車をまった、強風のため必ず遅れるのである。
駒ヶ峰と山下駅までは高架橋になり風の影響を受けやすくなったのである。
だから風がこの頃必ず吹くから遅れているのである。
これも困ったものだと思って帰ってきた。

2017年02月07日

蝋梅(百歳の間(続)


蝋梅(百歳の間(続)

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蝋梅に風花舞いてそのあとに日さし静けし百歳の間

風花の駅に舞いにし待つ人の今日はなしかも我が帰り来る


百歳の間

我が母の百歳生きぬ
我が介護せしその間や
今年も蝋梅咲きぬ
今我ここにありしも
石一つ庭にありぬ
我が母の嫁ぎて七十年
ただ働きてつとめぬ
母はか弱く地味なる女なり
大正生まれにしてただ働きぬ
我、今百歳の間にありて
この家を一人継ぎぬ
我なおも家族をしのびつつあれ
百歳の間にあり長く生きてあれ
つつがなくも長くも生きてあれ
そして供養するが勤めなるかな

母は自分の家に嫁いでもいいとは言えなかった。この家の事情でそうなった。
ただ働くだけだったのである。だから何か欠けていた。
働くことがいいということはあってもそれが度が過ぎると人間は異常になり狂気にもなる花にも何にも興味もなくただ働く人間は蟻になっていたのである。
蟻の一生だったともなる

ともかくそれぞれの家族には何かしら問題があったり事情があったり何かある
それぞれの家には家風があったり代々つづく家では歴史があり伝えられる
ただなかなか他人の家の事情はわかりにくいのである。
まず自分の家は複雑で他者にはわかりにくい

でも何か家には物語が生れる、代々つづく家だと余計になにかしら物語が生れる
家の価値は単に建物というだけではない、そこに何か家族の物語が生れるのである
「百歳の間」というときまさにそうである。
百歳生きる時代の象徴としてそういう物語がここだけではない生れているのである。
ただ母がこの部屋にいたのは介護している五年間くらいだったのである。
それでもそれが記念として残されたのある。

何かしらぞこの家でも物語がありそこにその家の価値がある。
だから家というのは単に建物だけではない、だから簡単に壊して何もないものとはできない、そこに原発避難民の問題があった。
家は単に建物ではない、家族の物語がある場所でありそこから離れることはそうして作られてきたアイディンティティを喪失することなのである。
町にしても村でも一軒一軒の家がそうした物語をもっているから価値があるとなる
だからこそ老人は故郷に自分の家に帰りたいとなるのである。
逆にその家になにかしら悪いことがあると呪われているとか嫌がられる、価値が低くなる
自殺したり何か嫌なことがある家は価値も低くなり人も住まないというのは当然なのである
家は単なる建物ではない、何かを物だけではなく心を受け継いでるからそうなるのだ

今日の駅には夕方にあわててタクシーに乗りたいという人がおりた。
よほど急いでいた、大きなバックをもって歩いてゆくという
タクシーには先約があって乗れずに待つと時間がかかるからと六号線の方に歩いた
自分も案内した、その間もタブレットで連絡していた
途中で迎えにゆくという連絡あったので自分も帰ってきた
こうして鹿島駅で何かしら用事があり役に立つことがあるもんだとなる
ボランティアの駅員として用事があるのもいい
何も役に立たないとした行ってもつまらないとなるからだ。

今日も風が吹いて風花が舞っていた、この辺は雪はほとんどふらないけど風花は舞う
そして山の向こうの飯館は雪雲に覆われているのがこの辺の冬の景色なのである。

蝋梅の間、百歳の間
タグ:蝋梅 百歳

2017年02月04日

冬の日(青い不思議な花)



冬の日(青い不思議な花)

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冬の灯や石に向かいて一人かな

四輪の藍色深き花を見つ冬の日静か家に過ごしぬ

カーネーションの赤き花にそ藍色の花の青さの深まりゆきぬ


この青い花はトルコ桔梗なのだろう。色が深い海の色のように青いのがいい
赤い花があって青が対象的に映えてくる、これは何も工夫しなくてもフラワーアレンジメントとなっていた。
花の種類が増えたけどこの辺では花の種類はあまりない。
この辺の畑でとれた花を売っているけど主に菊なんだけどその花は長持ちする
でも冷蔵庫に入れておく花は長持ちしないのであ。
だから早い時期に写真をとっておかないといいものがとれない

この前飯館村の若い人が川俣の花屋で働いているのをテレビで放送した、何かフラワーアレンジメントの大会があり入賞したという。そんな人もいたのかとなる
ただ飯館村だと花が何か違って見えたのである。
花が高原の山村にはより美しく映えていた、それも不思議なんだけどいつも感じていた。花もそういう雰囲気に映える、フラワーアレンジメントはまた別である。

ただその人が正月用の生け花を見せたけど竹と梅と苔をあしらっただけげ平凡だった。
そこに創作性はなかった。
飯館村とか大内村とかなると自然の感性を磨くのにはいい、飯館村にゆくと何か空気が違って感じられたからである。
原発事故後はそれも変わってしまった。草野にソーラーパネルとかしかれて山村の雰囲気が乱された、あそこに新しい村が生まれるのでまた違ったものとなる
飯館村は本当は神秘的な場所だったのである。そういうものが損なわれた
これからどういう村になってしまうのか?

自分は花は相当に探求してきた、それはフラワーアレンジメントではない、自然の花を見てきたのである。でもそれはフラワーアレンジメントに通じるものがあって旅しなくなり最近飾り楽しんでいるのである。
それにしても花の種類は多くなった。こんな青い花があるのも不思議だとなる。

2017年01月29日

冬薔薇と石(写真の加工)


冬薔薇と石(写真の加工)


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一輪の石に刻める冬薔薇


冬に咲いたのは今年はあたたかいときもあったからだという、何かあったかくなったり急に寒くなったりと去年から今年もつづいている
今日はそれほど寒くはないが寒いときがあった。

冬薔薇と石はにあっている、ソフトで写真を加工すると一つのまた違ったアートとなる
何か自分は抽象画をソフトで作っているがこういうことがもともと好きだったのである。それがたまたまパソコンが生れソフトが生れて開花したともなる

字のデザインでもパソコンが出る前にもしていたからである。デザインが好きだということである。ただ絵は全く描けないのでパソコンのソフトでできるようになった。
建築でも自分は興味があった。でもこれは数学とかグラフとか関係してくると苦手になる
でもなんか自分はもっと数学でも興味をもてたかもしれない、それがじっくり学べない自分なりに学べないので興味を失った。
ただこれは才能が関係しているから時分には無理だったろう。

ただ人間の才能は開発能力が相当に関係している、自分でも開発していかないと才能があってももちくされるになる。
学問だってそうでありこれも自らの開発能力なのである。
現代の学校教育はこういう点では欠けている、遊びの要素がほとんどないからである。

タグ:冬薔薇

2017年01月27日

冬深む短歌十首(故郷の駅に昔を回想する)


冬深む短歌十首(故郷の駅に昔を回想する)


この町の漬け物会社に働ける女の死にしも駅にし思いぬ

正直に生きて我が町眠る人目たたず生きてあわれなるかも

残りける去年の落葉やあわれかな故郷に住み死ぬ人思ふ

名もしれず働き死にぬその人を誰か思ふや冬深まりぬ

故郷の墓に眠れる人知れや我が参りつつ冬深まりぬ

我が町の駅におりたち淋しかも迎える人もなくなりにけり

この駅の八重桜の樹切られけりその根残りて冬の日暮れぬ

冬の夜に何を思ふや近くあれこの町に暮らす一人なるかな

家無きに墓のみ残る母方の実家を思ふ何か淋しき

人は会い別れて淋し駅にあり枯れし芒や電車すぎゆく


つづきとして川崎から来た女性が香の蔵で土産を買うとタクシーを呼んだ。
その時思いだしたのが菅野漬け物店で働いていた女性である。
それはかなり長く働いていたと思う、それが何か奇妙だけど思い出したのである。
その女性は農家でありもともと農業していた。それで便所から肥料としてくみ取りをしていた。それは農家ではしていたことだが何かそういうことはなかなかしたくないだろう。水洗式になったのはそのあとである、水道も子供の時はなかった。
水洗式になるのは結構遅かったと思う。

そういう時代があったのもこれだけ便利なれば忘れるし経験していないから実感がないとなる
ただ何かそういうなんでもない普通の人を思い出しているのも不思議である。
そういう人もこの町に生きて働いていたのだと思い出す
それで香の蔵でそうして働いていた女性がいて漬け物を買ってゆくんだと思った。
その女性はまず嘘をついたことがない、真面目そのものの正直な人だったのである。
今はあういう女性はいない、やはり大正生まれだったかもしれない

何か目立たない、ありふれたことでもその町を市を支えているということはあった。
それは電車が通じなくなり通じたときわかったようにわからないのである。
ただ自分はみそ漬けは食べない、塩分が多いから食べたくないのである。
でも料理には欠かせないものである。外食だとそうしたものがバランス良く出しているのでそういうものが必要だとわかった。

いづれにしろ何気ないことでも感じる、感傷的になる、それは年のせいだともなる
こういう歌は啄木調なのである。死ぬ前に何気ないことに愛着して歌にしたからである。自分もそういうふうに死が近いからこうして何気ないものにも愛着を感じるようになる。若いときはこんなふうに感じないからである。
当たり前のことに何も感じないのである。

墓でも死んだ人でもやはり町の中に眠っていてなお家族とともにあり町にあるのかもしれない、生きた人があるとするから墓参りするからあるのかもしれない
母方の実家の墓は墓しかない、家はなくなったから墓しか残っていないのである。
それも淋しいとなる、やはりなおすこに住みつづける人がいて墓も生きるとなるからだ。ただ現代は墓だけが残されていて遠くからお参りする人も多い
この辺は仙台から来る人が多い、いづれはその墓も消えてしまうだろう。

ともかく死者も以前として町の市の構成員としてありつづけるのかもしれない、だから死んだ人を回顧するのである。
つまり香の蔵というときここに書いたようにそのみそ漬けでも一つの物語として味わえば違ったものとなる
ただお土産を買うのではない、物があり語りがあるときその物も味わい深いものとなる
ただこれは今の世の中では無理である。外国から来た物でも遠くから来たものはそうした物語を読み取ることは不可能だからである。
物とこうした物語は分離している、そのことが豊かなのだけど人間の経済になっていないのである。






タグ:故郷の駅

2017年01月26日

冬深む短歌十首



冬深む短歌十首

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深々と眠れる山やさわりなく起さずあれやみちのくに住む
故郷の山は眠りぬ責められず我が苦しみは今は去りにき
末永くここにあれや松と菊新年なれや我が家調ふ
我が家を留守にしあれば三色の菊の花映え部屋に和しにき
我が家に石の二つや今はしも争うことなく冷えにけるかな
争いもなきも淋しかしんしんと冬の夜冷えて一人なるかな
寒き日も並び立ちにし樹々なりし今日も通りて日も暮れにけり
猫一匹石にのりつつ我が家になれにしものや冬深まりぬ
一軒の仮設の食堂閉じにけり年なりにしと残り惜しかも
飯館に久しく行かじ古き家何か語らむ冬深まりぬ

眠る山とか山眠るは俳句の季語である。でも俳句は短くて表現できない、だから俳句の季語は活きていて短歌にもなる、俳句はやはり文芸としての限界を自分は感じる
短歌はまだ表現するものがある。

この歌に今の自分の心境が表現されている。これまで苦しんできたことや家族がみんな死んだことなどがありこうないっている、争いがあった家族でも今は全くないというのも不思議である。
今は自分を苦しめるものはない、そしてなぜあんなに苦しめられたのか不可解だともなるどんな苦しみもすぎる、すぎてふりかえると苦しみはない、ただ夢の中でうなされることがある。戦争に行った人などはあとあとまで後遺症が残る、夢でうなされるのである。

でも苦しみも過ぎ去ってしまえばそんなことがあったのかともなる、苦しんでいるときそうはならない、自分は自分自身も他者かも責められつづけていたからである。
何か重しをのせられたような、そして一つの石ではない、さらに石が加えれた責め苦だったのである。
何か苦しいときは不幸なときは悪いことが重なりやすいのである。
一つの石をもたされるだけではない、二つ三つとのせられる責め苦なのである。

山眠るというときそれは平和な時なのである。平和でなかったら眠っていられないからである。
飯館村は山の向こうでありここは雪が降らなくても降っている、寒い標高の高い山であるでもここからだと山の向こう側として意識されるのである。
川俣とかなるともう一つ山を越えるからなかなか意識されにくいのである。
だから空間的なものでつながるのはそんなに広い範囲ではない、20キロ四方くらいかもしれない、そんな広い範囲では空間に一体感は感じられない

猫が一匹飼っているというかいついたとかなるがこの猫も自分にとっては面倒なのであるただ自分は性格的には猫なのである。石の上にじっと座っている猫なのである。

あつみ食堂は明日で終わりである。あそこで一食野菜を食べているとまにあっていた。
必ずケンチン汁を出していたからである。
それがなくなると昼間で食事を用意するのがめんどうなのである。
時間と手間がとられるから困るのである。

ともかく家の中を母が死んでから整理しやすくなった,なんとか整理して身軽にしなければならない、自分も年だから家が重荷になってくるからである。

タグ:冬深し

土とることで景観破壊 (ローソンの人も気にしていた)


土とることで景観破壊

(ローソンの人も気にしていた)

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鹿島のローソン


あそこは別に誰も気にしていなと思ったけどローソンに勤めている人が気にしていた。
古墳が発見されたとかで何かある、それは教育委員会に聞いたら確かに古墳らしきものが発見されたと言っていた。まだ発掘調査はしない
鹿島区では海老の方の山にも古墳がありあの辺は高台だから昔から人が住んでいたとなる鹿島で古墳が一番多いのは小池である。そこも高台なのである。
古墳は鹿島では低い場所には少ない、横手古墳群は別である。
低い場所は湿地帯であり人が住めなかったからである。

海老の津波の跡でも発掘があり弥生時代の住居跡があり鎌倉時代のもあったという。
それは瓦が発見されたからわかった。鎌倉時代に瓦を使っているということは裕福な家であり館かもしれない、あそこには弥生時代から人が住んでいたとうことは重要である。

それで海老はエヒであり蝦夷がエミシが住んだ場所として前に書いたのである。
浜通りにはエとつち地名がつづいてある、それは単なる偶然ではない、エゾ(えぞ)とエヒと関係しているのである。

ともかく人間は景観には無頓着のところがある。それは景観というのは金にならないからである。あそこで土をとれば金になる、売れば金になるが景観を維持しても誰も金をくれるわけではないからだ。だから容易に景観は破壊されやすいのである。
ただあそこを気にしていたのは自分くらいかと思ったらローソンに勤めていた人は毎日来ているから気にしていたのである。

別にローソンに行かなければ気にしないだろう。ローソンにはカフィラティがうまいので毎日のように自分は行っているから気になったのである。
あの土むきだしのを見ると嫌なのである。
この辺では工事で土を取り出す場所が多く景観が破壊されている
でも隠れたところにあるとあまり気にしないがあそこは丸見えであり毎日のように行っていると気になるのである。

景観は利益にならなくても心にかなり影響する、毎日そこに住んでいると余計に影響するなぜなら旅しているなら通りすぎるだけだが住んでいると毎日見るようるなるからだ。
そうなると嫌だとなり心に影響するのである。
でもあれもあのように土むきだしになってはじめて感じたのである。
その前はただ木におおわれていればそれは当たり前でありそれをいいものとして認識していないのである。

ともかくこの辺では津波でも原発事故でも景観が破壊されてしまった。その影響も大きかったのである。


タグ:景観破壊

2017年01月24日

鹿島の仮設のあつみ食堂が1月27日で閉店



鹿島の仮設のあつみ食堂が1月27日で閉店

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ここは二年間くらいやっていたのか、ずいぶん自分も通った、バイキング形式であり野菜が多いのと日替わりでメニューが変わるから一人暮らしの自分には便利だった。
一人暮らしだと野菜がいろいろそろえられないからだ。

ただそのバンキングでも種類が5種類以上とかあったし一人でやるのが大変だと見ていた客も10人も入らないようだとか見ていた、750円では採算がとれない感じにもなる
その割には労力が加重だったのである。

まず自分も食事の用意するのが面倒なのである。だから外食が多くなる、家事もしなければならないし時間がとられるからだ。
だからあそこで一食バランスのいい食事すると楽だった。
ただちょっと脂っこいのが多いなとは思っていた。

そこは別に暮らしに困っているわけでもなかった。何かカラオケ仲間の集まる場所になっていたのである。常連はそうだった、でもそれだけでは経営的には成り立たない、外からの人は3-4人とか来ていた、でも10人までなるようには見えなかった。
だからいつも見ていて採算とれるのかなと見ていたのである。
750円では安いものだったかもしれない、ただ1000円とかなると入らないということもあったからあの値段にしたのだろう、数をこなせば採算がとれたがそれも一人だしできなかった。外から入る人もそれほどでもなかったともなる

娘と二人でやるということであったが娘が病気とかで一人でやっていたのである。
まずあれだけの料理を出してかたづけとか皿洗いするにも容易ではない
自分の家に来ている人の十倍は働いている、でも金はそれほど変わりなかったと思う
とてももうけにすればそうはなっていなかったろう。
その割には労働が加重だったのである。

やめる理由は足が悪くなったからだと言っていた。年もとっているし何か無理だったのである。自分の家にきている人も70にもならないのに体が悪いと必ず言っている
腰がいたとか持病がある。その労働は皿二三枚洗うだけなのにそれでもそういうことばかり言っている、結局自分がしていることは福祉なのである。
それにしても10万近くとられるのは苦しいとなる、ただその他に役に立つことがあると思い払っている、一人だといろいろ困るからである。

もう鹿島の仮設は実質的には食堂は一軒である、もう二軒あるけど一軒は問題があり入りづらいところであり何か客が入っているのを見たことがないのである。
外から来る人も減ったということもある、一時大繁盛していたからである。
ただその人がやめたのはやはり一人であり老人だったからだとなる

つまりこの辺の問題は高齢化が影響している、それはどこでもそうだがあれだけのことをやるにはそもそも老人では無理ということがあった。
これはこの辺でもとくに人手不足になっていることもある、若い人が少なくなり全国平均より10パーセントくらい65歳以上の人口が多くなったのである。
これが復興の大きな障害になっている。
老人がこうして商売でもはじめても体力的にもつづかないということがある。
だから復興ということが避難解除になった地域でもむずかしいのである。

自分もそうだが老人は楽したいのである。のんびりすごしたいのである。
でもそうしたいためには誰か一人暮らしだったら食事ができる場所とか必要なのである。原町とかあるが自転車だと遠いので苦しい、やはり近くにないと困るものがある
そうなるとやはり小高でも避難区域でもそこに老人でも住みたいとしても何もないとなると嫌だとなる

そこがなくなっても弁当とかになるがやはり野菜が少ないことが問題なのである。
あそこはあれだけの野菜料理を出していることが珍しい、他では定番のものが多く野菜が足りないからである。
ともかく食事の用意が一番手間なのである。まあ、簡単に納豆くらいで食べるのがいいかもしれない、それでも何か食事が手間なので困るのである。

ともかくあそこは自分にとって感謝すべき食堂だったのである。

 あつみ食堂さん、ありがとうございました



タグ:仮設食堂

2017年01月22日

去年(こぞ)の落葉 (短歌も写生だったー俳句文芸は終わりかもしれない)


去年(こぞ)の落葉


(短歌も写生だったー俳句文芸は終わりかもしれない)


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冬たんぽぽ今日もここにや住みつきぬ


朝風に頬の冷たき空澄みて枯木の枝の張りにけるかな

去年(こぞ)散る木の葉残りぬ我が庭に動かぬ石を部屋に見つ暮る

去年散りし落葉や我が庭忍び足猫の歩みぬ訪ぬ人もなし

新年に我が挿す菊の花にあれ部屋にさしいる朝日に映えぬ


冬たんぽぽが咲いていた、イヌフグリも咲いた、やはり春なのだろう。
昨日は寒かったけど今日はあたたかである。
人間は住んでいる場所がいいというときそこに家族がいたり友達がいたり何か人でも土地でも住んで気持ちいいというときだろう。
まず家族がいるときはそうである。でも家族がいなくなるとどうなるのか?
それをここ十年家族はいても介護で苦しかったし助ける人もいないので故郷でも住みやすいとは自分ではならなかった。
自分はともかく三〇年間は楽だったから特にそうなった。
でも家族がみんな死んで介護もないので余裕が生れた、そのタンポポがなにかよりあたたかく感じた、人間はそこに住みたいというとき人とか自然環境もありまた他にもある
とても東京がいいというけどあういう所には住みたくない、でも経済的問題があり田舎でも貧乏だと嫌だともなるからむずかしいのである。
大阪から来た人は除染で三年いて田舎は人がいいから長くいたなとか言っていたが住んでみればまた違っている、田舎の姑息さに嫌気がさすだろう。
その人は住んでいるとは言えないからである。

去年散った落葉が庭に残っている、それを気づいたのは昨日だった、でもその落葉は長い間去年からそこにあったのだ、でも気づいていなかったのである。
なんか人間は近くにあっても気づかないことがつくづく多いのである
古い碑なども注意しないと気づかないのである。過去は何かひっそりと埋もれてしまうのである。まず生きている間は人間は騒々しいが一旦死ぬと何も語らないのである。
そしてそんな人がいたのとかみんななってしまうことの不思議である。
人間は生きているとき死んでからの差が大きすぎるのである。
骨になり灰となり無となってしまうことがあまりの変化なのである。

ともかく短歌でも写生である。ありのままを写生することである。この歌はそうだった。写生はいうとき何かそこに感情的なものはあまり付け加えないことである。
この歌にしても写生そのものだからである。
俳句はもう現代では短くて表現しきれない、だから俳句文芸の世界は終わりになるかもれない、ただそれでも芭蕉のような天才が生れればまた別なのかもしれない
でも俳句は表現的に無理があり限界が生れた、でも季語は日本の文化でありこれは変わることなく活きつづけるのである。
俳句とか短歌の世界は結社などあるのもおかしいのである。
俳句は誰でも作りやすいからそれで結社で師匠とかなっていてそれで芸術家だとしている俳句の世界はほとんどディレタントしかいないのである。
もう芸術として成り立っていない、それは自分がそう思うだけだともなるが今では新進の俳句作家でいい人がいるかとなるといないだろう。
ただ自分は短歌は何かまだ表現できるものがあると思った。俳句より短歌の量が多いし表現ができていると自分は思っている

自分の性格は何か異常である、人と接すると異常に疲れるのである。そして三〇年間隠者のような生活ができたのはたまたまそういうことが許される家族環境にあったからである自分には学校も適応できなかったし会社員として勤めることもできない
だから石のように沈黙して人と接しない生活だったのである。
考えてみるとこれも不思議なのだが禅宗の座禅をしていたと同じである。
計らずしてそうなっていたという不思議である、それは精神的に見れば効能があった。
マイナス面も大きかったがプラス面も大きいものがあった。
沈黙するということは自然が大きな沈黙にあるように自然と同一化するには不可欠なことだった。沈黙によって自然を知る、自然と同化するからである。
山でも石でも樹でも沈黙しているからである。
すると沈黙することによって自然のように人間も大きくなるのである。
現代にはこの沈黙が一番欠けているのである
ただこういう生活をするにはアウトサイダーになってしまう。
会社員とかになったらできないのである。自分がそうなったのは社会に適合できないからそうなったのである。






タグ:写生俳句

2017年01月20日

今日の駅の短歌(寒い日に駅で待つ中学生)



今日の駅の短歌(寒い日に駅で待つ中学生)


この駅に電車を待てる時のありしばし話しつ寒き日なりし

冬の雨しとしとふりて石ぬらす一人しあわれこもりいるかな


今日は特に寒い、人身事故があって電車が遅れているという電光掲示板に流れていた。
セブンイレブンから六号線を横切り踏み切りを出た鹿島の十字路で交通事故があった。
車はそれほど損傷がないから大きな事故ではなかったのか?

今日の駅にいたのは中学生だった、また一学年で3クラスくらいあるという、そんなにまだいたのか?ただ鹿島区では中学校は一つであり小高の人もまじっているからかもしれない。団塊の世代の時は一学年で八クラスだった。
何かそれもあまりにも遠い話になった。その中学生は塾に通っているという。
インターネットで英語の単語など勉強すると便利だと言ったら自分もしているという
この前はタブレットを見ていた中学生がいた、その女性は受験生だった。
相農で環境科とかで花の栽培を学ぶという、そういう目的をもって学ぶのはいい。

今日はこれだけのことだけどプログは毎日書くのでありこうして日々のことを伝える
それがプログ的だとなる、その日その日の感想を書くのである。
それはその日だけのことでありあとは書けない、そしてそれが記録となり記憶となってゆく、そういうことは今まではできなかった。
だからプログは何であれ一日一回はその日のことを書く、それが勤めである。

それが読んで面白くないとしても自分の日記だからかまわないとなる。
その日にしか書けないことを書いているのである。
一日一回は駅に行くのが自分の勤めともなっている

ともかく駅は待っていることが人間的なのである。待つ時間が人間的時間を作り出している。
バスだとなにか待っていても電車の駅のようにはならないのである。
旅でもこの待つ時間が記憶として残ったりする
急ぐ旅は記憶に残りにくいのである。

タグ:駅で待つ人

2017年01月18日

新装の新地駅短歌十首 (一変した新地駅の驚きー観光スポットになった)


新装の新地駅短歌十首


(一変した新地駅の驚きー観光スポットになった)


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New station ,SHINCH


all new station

SHINCHI on the Jyoban line

Mt.ZAO in the distance

the snowy severest one

flight of swans in refreshed place

turn around

Kinkasan on the Ocean

in the distance

Shinch station in the future

clear sky in winter


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蔵王
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駅前の開発地 クリック拡大

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新しき街の息吹や新地駅年の明けしも海広しかな

新地駅新装なりて海広く新しき年や金華山も見ゆ

新地駅雪の蔵王の迫り見ゆ白鳥も飛び年も明けにき

新地駅広々として清しかな冬の空澄み電車来たりぬ

新しき新地駅にそおりたちて雪の蔵王の厳しく迫る

新地駅おりたち帰る女高生都会めきたる新装なりぬ

新しき新地駅にそ二本の樹の植えにけるかな冬の日暮れぬ

新地駅電車の待つやうれしかな海広く見え復興成りぬ

新地駅タクシー乗り場に障害者乗る場もうけぬその配慮かな

新地駅昔を想うものもなし悲しく津波被害埋もれぬ


新地駅に今日行って驚いた。全く変わってしまい昔の面影は全く消えて別な町になっていた。雪の蔵王が見えて牡鹿半島も金華山もまじかく見えた、あんなに近くにはっきり見えるのも新鮮である。それは海が広く見えるようになったからである。
そして土盛りして高い所に駅を作ったからである。
だから駅をわたる通路の高架でなくても下のホームからも見える
駅からの景観が抜群になったのである。

そしてもともと新地駅は回りに家がないし海側の港があったところは全部津波で家がなくなった。それで広い土地が自由に利用されるようになり改造された新しい街作りをするようになった。
本当にその土地が広いのである。そこにコンパクトシティのように施設ができる
住宅もできる、温泉も出たということで温泉施設もできる
文化会館もできるとか駅を中心に新しい街が形成されるのである。

何か自分がおりたときそこが全く異次元の別な世界のように見えた驚きである。
宇宙ステーションではないが何かそんな感じの不思議さがあった。
テーマパークというかデズニーランドというか仮想の世界に来たのかとも思った。
こんなふうに変わるものかという驚きである。そこは人工的空間と自然空間がマッチしていたのである。
都会だとこんなに見晴らしがいい場所はないからである。

ともかく雪の蔵王もまじかに見えたし海も広々と見えて金華山も見えたし牡鹿半島も見えた。その景観が素晴らしいとなる、だからここは駅だけでも観光スポットになると思った何しろ広々として気持ちいいし景観がいいからだ。
ここは新しく開発するのには適した場所だったのである。駅前には家がなかったからである。
そして国からも金が出たからである。それは原発の被害がなかったから人口も減っていない、つまり津波だげの被害だったらこんなふうに復興できたのである。
原発の被害地は放射能被害などで復興できなくなったのである。
その差が大きすぎたのである。新地駅と小高駅を比べるとその差が歴然としているからである。

まあ、白鳥が飛んできたのも新しい駅にふさわしかった。またあの駅に行ってみるだけで価値がある。まだまだ整備は完了していないがあの駅には価値がある。
あれだけの広い土地にまだ住宅は建っていない、その点鹿島は新しい家が建ってほぼ完了した。やはり新地では原発などの補償金が出ないことがその差なのかもしれない
新地には原発の被害者、小高でも浪江でも他でも家を建てているのである。
土地が安いと建てやすいからである。

いづれにしろこれだけ変わることには驚きである。なにしろこの辺は常に変化して驚きの連続だったのである。それがまだつづいていたのである。
駅前はどこもさびれたがこれから駅前が復活するという人もいる、駅は他からの人を迎える玄関でありここからその市町村の印象が決まるとうときそれは家でも同じだから玄関を大事にしろという人がいる、玄関は人の出入りがあるから福を呼ぶから大事だと言っているのである。
新地駅はだからその玄関だけは特別立派になった。そしてその前に新しい街が生れて復興するとなる

ただあの駅見たらもう津波のことは忘れられる、わからなくなる、天然ガスのLPGのパイプウラインを仙台までつなぐという大阪から来た人がいたがそうした大工事もある。
その人が掘ったら津波で埋もれた靴とかなにか出てきたというときわずかにそんなことで津波のことを思い出す、でも新地駅から津波の被害を想像するものは何もなくなったとなる
それもまた歴史が埋もれるということで問題があるかもしれない。昔を何か残すことも必要だからである。
ともかくまた行きたくなったのが新しい新地駅である。

5年半ぶりに開通した常磐線 (駅は人間臭い場所だった-新地駅の記憶(詩)


2017年01月17日

鹿島駅で出会った人 (新地町で港から天然ガスの供給基地とパイプラインを仙台まで作る人)


鹿島駅で出会った人

(新地町で港から天然ガスの供給基地とパイプラインを仙台まで作る人)


当社は、震災後の福島県・宮城県・岩手県など東北太平洋沿岸地域等における今後の天
然ガスの需要増に対して、長期安定的に天然ガスを競争力ある価格で供給していくことを社会的使命と考え、相馬港に大型 LNG 外航船を着桟させ、これを LNG タンクで貯蔵し気化する LNG 受入基地の建設と、同基地で気化したガスを、当社の大動脈ともいえる新潟
仙台ラインに(宮城県岩沼市・岩沼バルブステーションで)接続させる約 40kmの新規パイプライン建設を進めてまいります。

名 称 :相馬 LNG 基地
建設地点 :福島県相馬郡新地町(相馬港 4 号埠頭地区)
敷地面積 :約 20ha
主要設備 :LNG タンク(地上式 23 万kl×1 基、将来増設可能)、LNG 外航船受入バ
ース、LNG 内航船出荷バース(LPG 内航船受入兼用、将来増設可能)、LNG
気化器 2 基(将来増設可能)、気化ガス用熱量調整設備、LNG タンクロ
ーリー出荷設備、ほか
投資金額 :約 600 億円(接続パイプ)


今日鹿島駅で休んでいた人はガスの配管工事をする人だった。新地駅でしている大きな工事である。
鉄管を通すために土を掘ったら靴とか何か津波で埋もれていたものが出てきたという、津波の痕跡が地中に埋もれてしまった。
そして新地駅は前とはまるで変わったものとなってしまった。駅前開発がすすんでいる

このガスの工事は船を受け入れるためとか配管するために仙台とつながる大規模なもののようだ。新地町の変わりようも激しい、こういうものができれば前とは違う経済効果もあるのだろう。
六〇〇億円も投資することはやはり大きなものになるだろう。

新地駅前の開発では温泉が出たということで施設が作られるとかもありあの辺は前より魅力ある場所になるのだろうか?駅が高く立派になった。
津波や原発事故を契機にかえって新しい開発進んだのもある
それだけの投資が国からも行われたようだ、鉄道工事はJRで四〇〇億円投じて五年半かけて完成した。これも大きな金である、六〇〇億円となるとこれより大規模なのである。
仙台までガスの管をつなぐためにそうなったのか?

その人は溶接していて目を悪くして原町の病院に行く所だった。確かに目が赤くなっているのが見えた、白内障とか言っていたがそうでもないらしい

可視光による青光障害は,遮光保護具を用いず,裸眼で溶接アークを見つめた場合に発生する。症状は,視力が低下する,暗点(視野内の部分的に見えない領域)が生じるなどである

これも職業病の一種となる。インターネットはこういう時便利である。
これだけでもすぐに検索してわかったからである。

この辺はとにかくまだ工事がつづいている、除染が主だがその他にもこうした工事がつづいている、いろいろな人が入れ代わり入ってきているのである。
意外とだから鹿島駅でもそういう人たちに会うのである。
それが何かこの辺がどうなっているのか知ることにもなる
こうした工事はこの辺でまだつづくのか、あと二三年もつづくのだろうか?
除染関係は相当に縮小したが小高とか浪江とか双葉でも向こうの方へ行く人もいるからこの辺が宿舎にもなっているから駅も利用しているのである。

鹿島駅の回顧の短歌十首 (復興してふりかえる)


鹿島駅の回顧の短歌十首


(復興してふりかえる)


鹿島駅八重桜咲きその影に休みて電車待ちし時かな

この駅のホームに白きつつじかな車窓に写し電車は去りぬ

鹿島駅待つも長しやあわれかな秋の薔薇しもここに見るかな

新年や乗りおりする人それぞれに無人駅に活気のいでぬ

復興の電車通りぬそのひびき今日も駅にし我はあるかな

母待ちぬくもりここに娘かな寒き日なれば寒からじかも

遠くより来る労務者駅にいてしばし語りぬ寒き日なりし

鹿島駅昔ストーブありにしと語りてあわれ寒き日なりし

四両の電車とまりて明るしや仙台へ通ず冬の夜かな

帰りきて待つ人あれや今はなし一人帰りし冬の夜かな

駅をおり月影さして我が一人影ひき帰る淋しき町かな

鹿島駅我が老いつつもここにあり年の明けにきまた旅たたむ

遠き国憧れにつつこの駅ゆ我が旅立ちてまた帰り来ぬ

乗り降りの少なき駅や今になほ二両の電車山眠るかな


鹿島駅の八重桜がみんな切られた、それが残念だった、ただ根っこは残っている
それが成長するには何十年もかかる、だから生きている内はもう八重桜の花は見れない
自分はその花の影で休み電車を待っていたのである。

白いツツジというとき田舎の電車はすいている、仙台近くになるとこむがこの辺はすいているから車窓に白いツツジが移っていてその花を写して去ってゆくのである。
何かそれも情緒がある、見送りしたりするのもそうである。

それは田舎駅だからそういう人間的情緒が残っている、東京都とか都会になると混むからそういう情緒もなくなる、新幹線でもそれが早すぎるから人間的に見送りするにしても時間の余裕がないのである。
結局何度も言うが旅は時間をかければかけるほど記憶に残る、だから意外と電車でも船でも待っている時間が貴重であり記憶に残っている不思議があるのだ。
今の忙しい時代は待つ時間がない、それが無駄とされているのである。

鹿島駅のことをいろいろふりかえる、集団就職の列車もここからでた、でも自分は恵まれていてその時それが何を意味していたかわからなかった、自分は大学に行ったのだからその差が大きかったのである。
その後電車はただ遊びとして旅として乗っていただけである。

実際は旅するにしても家をまもり家に家族がいたから余裕をもってできたなどなと思う
一人になったら家があってももう誰も待っていない、だから何かそれが感覚的に変なものとなる、今度は旅たったらもう待つ人もないのだから永遠に帰らないとまでなってしまう感覚にもなる、家があったとしても待つ人がいないとそんな感じになる
家はあってもそれは建物だけだからである。死んだ人が待っているともならないからである。

いづれにしろ人間は最後はみんな啄木のようになる、啄木は最後にあの若さで死ぬとなったから何でも惜しみ短歌にしたのである。本当に日常のささいなことを短歌にしたのである。そういうなんでもないものでも惜しむようになる。
最後は人間はみんなそうなる。普通は若いときはそうならない、いよいよ死ぬ時期がせまればもうみんな何かつまらない日常的なものでも愛おしくなるのである。
自分にとって駅とか鉄道は愛着がありそれを惜しむものとなるのである。


古い駅の写真

鹿島駅も建てた当時と変わらない古い駅なのである。
この写真の駅は本当に古い、何か駅にはやはり人間的なものがしみついている
ただ新しくなるとそうしたものが消える

城でも新しく建てるとそれが博物館のようにもなる、何かそこにあった人間的なものの記憶が消えてしまうことがある。
日本では木造だから新しくなり昔の記憶が消えやすいのである。

2017年01月15日

冬深む(正常化した自分?)


冬深む(正常化した自分?)

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寒椿雪に散りにき据えし石

平和なり障(さわ)りなくて山眠る

平和なり山の眠りの深きかな

冬深む石黙然と一人かな

冬深む契りを強む森の樹々

何を見む寒星一つ徴しかな

四両の列車明るき冬の夜


凍るごと雪降る庭に一輪の薔薇の咲かむや石の静まる

故郷の老いたる女と親しくも我が家にありて一人なるかな


自分は母が死んで一年とかすぎてようやく正常化したのかもしれない、姉で認知症で苦しみその後も回りは津波だ、原発事故と信じられない異常なことの連続だったのである。
そして常に何かに追いやられていたのである。障りがあったのである。
何かそういうことは人生の中で家族でも誰にでもあることなのだろう。
なぜなら人間は必ず病気になり死ぬからそれが逃れられないから家族でもごたごたするのである。

それはどんな宗教を信じようかカルト宗教団体に入っていようが関係ないのである。
そういう問題から不幸からみんな誰も逃れられないからである。
カルト宗教団体に入ってもいてもそうした不幸になった人は山ほどいるのである。
近くにそういう不幸な人がいて家に住んでいる人はいない
事業が失敗して家がなくなったとかそんな人はめずらしくもないのである。
事業に成功している人の方がまれなのである。

ともかく一人というのはなにかまたこれまで経験しない心境になる
一人も慣れないと淋しいとなる、わかったことは確かに動いて人ごみにまぎれると淋しさもまぎれることがわかった。
それで時々原町に自転車で行くのである。意外と動くということが淋しさをまぎれることになる、大きな家でぽつんと一人でいると淋しさを感じるのである。
動いているとそういうことをあまり感じないのである。
一人は来ているから誰も来ないというわけではない、でも家ががらんとしているのが嫌なのである。

自分で言うのもなんだがここの俳句と短歌はかなり深いものがある。
その深さを読むことがむずかしい、芸術はまず鑑賞すること自体が常にむずかしいのである。だから深く鑑賞できる人はその人は芸術家と同じのように思える
俳句などでも深いものがあっても鑑賞できないのである。
「冬深む契りを強む森の樹々」これは短いから鑑賞できない、別に詩を作っているからだ、それと合わせると鑑賞しやすくなる。
今回庭に咲いた咲こうとしている薔薇は不思議である。凍えるような時に咲くものなのか?
冬薔薇という季語があるから冬に咲く薔薇はある、でもこんなに寒いとき咲くものなのかとなる。
それはまさに自分が一人なのとにている

自分はもともとほとんど人と接しず一人だった。それも何か異常だったのである。
それで介護とかで苦労したのである。社会性がないからそうなった。
でも自分はもともと一人でいるとき精神も安定して平和を感じる
一人でも淋しいとき別に淋しいと感じないときがある。夜はかえって感じないのも不思議である。

今日は本当に寒かった。氷柱が近くで見たのもめずらしいからである。
滅多に氷柱はこの辺では近くでは見ないからである。一部水道が凍結した。
今頃は冬深むの時期である。今年はあたたかったりこんなにもまた寒くなる。
ただ何もわずらわされない平和がある。平和とは結局何もわずらわされないことなのである。
まず自分が病気になったりした平和がないし家族が介護になったりしても平和がないし
また借金などしたら平和がない、もちろんその他で平和がないことはいくらでもある
平和であることが人間はそんなにないということもある
でも自分は30年間くらい平和に暮らしていたのである。確かに家族が平和というわけではないにしろ自分にとってなにもないわずらわされない時が30年間つづいたことは不思議だったとなる、こういうことはまれなことなのだろう。

いづれにしろ冬深む山眠る時である。山眠るというときみちのくが何か合っている。
山眠るというとき高い山ではなく低い山があっている気がする
高い山だと眠るというより冬でも厳しくそそり立つという感じにもなるからだ。
この辺では高い山がない、それが自然としては欠けているからものたりないのである。


タグ:冬深む

2017年01月14日

鹿島駅の重いドアは原ノ町機関区の人が来て直す (今日はホームを雪かきしていたので話できた)


鹿島駅の重いドアは原ノ町機関区の人が来て直す

(今日はホームを雪かきしていたので話できた)

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雪で今日は18分遅れた

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ここで宣伝ができる


鹿島駅の重い扉を直してくれるようだ、原ノ町機関区の人がホームの雪かきにきていて聞いてみたら滑車がなんとか言っていたから重い扉も軽くなるだろう。

これは市役所にも言ったし市の方にもいった。でも実際は原ノ町機関区で管理しているから原ノ町機関区で直すのである。水戸が管理していてもその人に言っても無駄だった。
やはり近くでないとできないことがある

そのJRの人に電車が通ってありがたいものだとみんな感謝していると言った。
今までそんなことを感じなかった、電車賃が高いとか何か文句を言うことが多かった。
でも一番今回復興を感じたのは自分の町では電車が仙台まで通ったことだった。

自分はもともと鉄道が好きで旅したこともあり思い入れがあったこともある
でも鉄道を運営している人々に感謝したことなどない、それは当たり前だと思っていた。でも鉄道がなくなったときバスで難儀した、それから電車に乗って仙台まで行ったとき本当に楽だった。それは五年間も乗らなかったから余計に感じたのである。

人間は何でも家族でも妻でも失ったときそのありがたみがわかる、この辺では津波や原発事故でそういうことが多かったのである。
当たり前にあるものは感謝しない、かえって文句を言うことが多いのである。

電車が走らないのと走るのでは相当に違ったものになる、この辺では見慣れているからだけど何か電車が通らないと僻地のような感覚になる、飯館村などがそうであり電車が通らないから僻地の感覚になる、バスが通ったとしてもバスと電車は全然違ったものなのである。

鉄道でも雪がふれば滑らないように雪かきしたり鉄道を守る、運行する仕事がある。
その仕事をしているのはJRなのである、ただ何か現代はそういう人間が働いて機械が動いているという感覚がなくなっている、鉄道でも自動運転なのかと錯覚するのである。
すると人間に感謝したりしないのである。
でも人間がいなければ機械だけでは運営できない、なにかしら人の手が必要なのである。だから今回の電車を運転しているとか車掌とか鉄道の保守をしている人とかがいて運行していることを自覚した。だから感謝したのである。

まず鉄道が通らないと廃線になるとさびれたものとなる、北海道は半分以上廃線になったしこれからもなる、北海道は採算がとれない、常磐線はまだ採算をとれる線だろう。
仙台との交流もあり学生も通うし坂本山下辺りになると通勤圏にもなっていたからだ
それでも二両の電車が何本か走っている、仙台まで二両でまにあうのかという疑問がある普通は4両が一番多い、八両も走っている、前は八両が多かったのである。
だから二両で仙台まで行くのかと疑問になる、仙台近辺になると乗る人が増えるからである。途中までなのかよくわからない。

いづれにしろ電車が仙台まで通ることがやはり活気がでる、夜でも八両とかの電車が行くと明るい感じになる、前はそれはいつも見ていた光景なのである。
でも今回復興して見ているとき前見ていた感じとは違う。
これが仙台まで通じているということが違っている、相馬市までしか通じないとのとは大きな差だったのである。

2017年01月13日

新年の赤い月を写真に撮る (駅の日常風景がもどった)


新年の赤い月を写真に撮る

(駅の日常風景がもどった)

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夕日さし新年の月赤しかな

新年や外部の人と睦みあう


帰り来る娘を待ちぬ母のあり電車通りて新しき年

何か自然は兆候があるのかもしれない、写真に撮った赤い月もめずらしい
夕日さして赤くなった。月には見えないのである。
今年は月が良く見える、それは何なのか?


睦月(むつき)とは睦み合うということから来た言葉である。正月には人が睦み合う時なのである。正月にはもともとそういう気分があった。人が集まり睦み合う時なのである。
駅で話したのは青森の人だった。青森には仕事がないから来たという、警備の仕事なのか車の整理をしているみたいだ。
大間のマグロを食べてきたと言っていた。何かあまり話しにくい人がいる
その人もそうだったが話が通じないわけではなかった。
まずこの前は長崎の人が来たりと何かこの辺は全国的になる
大間のマグロを食べたというとき一番贅沢だったとは言った

電車が通り日常の風景がもどった。娘が帰ってくるのを母親が待っていた。
仙台から来たらしい、駅は迎えたり見送りしたりする場である。
それが人間的なのである。駅には何か人間的な温かさがある場所なのである。

駅にはこの辺では今いろいろな人が来ている、全国から来ている、それが前とは違っている、前は地元の人しかほとんどいない、地元でもこの前相農で花の栽培などを習う科に入る受験の中学生がいた。そんな科があるのかと興味をもった。自分は花に興味をもっているからだ。

最近はみんなスマホをしているから話しにくい、みんなうつむいてスマホを見ている光景を何か異常にもみえる。受験の中学生もタブレットの漫画を見ていたのである。
スマホは暇つぶしは一番いい、でもその時回りのことが無視される,そこで話することなどなくなる、地元の人と少しでも話すると何か得るものがある場合がある
それがなくなる、ただ旅ではスマホは便利だろう。交通のことがわからないからである。人に聞いても道すら良くわからない場合がある、スマホの方がわかるとなるし案内になる
でもそこでそこにいる生の人間と接しないことは何か大きなものが欠けてくることもある旅でもスマホばかりみていたら辺りのことが記憶に残らないだろう。
風景でも集中しないと記憶に残らないのである。それであとで失敗したとなる
デジタルカメラに撮ることに夢中で風景がかえって心に残らないことすら起きる
なぜなら人間が記憶することと機械が記憶することが違っているからだ。
機械に記憶できるものとできないものがあるからだ。
その場所の雰囲気はカメラで全部記憶できないのである。

ただ今回の月はなかなか見れないし写真にもとれないものだったことは確かである。
カメラは今は近くでも持ち歩かないといいものがとれない
近くでも日々変化しているからである。

2017年01月12日

津波の跡の烏(からす)浜にまだ新年はなかった (五年半過ぎても津波の傷痕は消えない)


津波の跡の烏(からす)浜にまだ新年はなかった

(五年半過ぎても津波の傷痕は消えない)

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樅の木の間より望みぬ冬の海

海暮れて樅の木一本冬の月

烏浜津波の跡や冬の暮   

冬の灯や我が家に帰り石一つ   


烏崎津波の跡に残る墓地なおたずねつつ冬のくれかな

烏浜波うちひびき人をのむ津波の跡や冬の雲垂る

烏浜無情にひびく波の音ただ墓残り冬のくれかな

樅の木の墓地に一本立ちにつつ変わらずあれど家はなしかも

烏崎津波の跡や冬の浪うちひびきつつ暮れにけるかな


烏(からす)浜は烏崎になったけどやはり崎だけではない浜になっていたし人も住んでいたから崎という地名だけでは現せないものがあった。
烏浜は前は東北電力の火力発電がなかったのである。
その時原町と鹿島は砂浜でつながれていた。その時も良く行っていたのである。
火力発電所ができてそういう風景も消えた、あれは景色的にいいものではないと思っていたが今から考えると原発よりは良かったのである。あの中で2000人とか働いているというのは本当なのか?、相当なこの辺での雇用の場所になっているのだ。
東北電力の社宅の団地も鹿島区にあるしまた最近できた広いパークゴルフ場は東北電力の廃棄物処理場の跡にできたのである。

この火力電力が建ったときも烏浜には補償金をもらっていたのである。それで近くの呉服屋が着物を売ってもうけたということは家の人から聞いている。
その時も相当にもらっていたのである。その後は船主など船子は漁業組合に入っていた人は原発で事故前も事故後も補償金をもらっていたのである。
そういうことで墓を見ると立派なものが多いとなるのか?

でも不思議なのは海老でもそうだが墓地が残って家は津波で流されたのである。
だからなんか奇妙な感じになる、墓地だけが墓だけが残って部落が消失するというのはどういうことなのかと思う
海老では本当に墓地だけが高台に残ったから目立つ、ここは隠れるように墓地があったから目立たない、でも墓地だけが残り部落が消失している風景は何なのかとなる
墓地が流されて部落が残っているならいいがそれがないのだ

あの墓地から見晴らしが良くなったのは家がなくなったからだろう。
あそこに立っていると未だに新年を祝う気分になれなかったし現実にそうである。
津波はあまりにも悲惨だったのである。
根こそぎ部落がなくなることが悲惨だったのである。
あそこに野生の咆哮のように冬の浪が打ちつけひびいていた。
まさに自然は無情なのである。ここに死んだ人たちのことなど考慮していないのである。無情もまた自然なのである。自然を呪った海を呪ったというのもわかる
自然には情がないのかとなってしまうのである。

なんか今になるとその波の音が恐ろしいとなる、海はやさしいものではない、自然でもそうである。海はもともと何か恐ろしいものを感じていた。
だからあのように海に面して家々があることが不安にならないかとも思っていた。
海鳴りがいつもひびいているからである。
津波の跡に新年が来るのはいつになるのか?
復興というとき津波の跡でも家が建って人が住めば復興したとなるがここにはない、他でもなくなった。
だから復興したと感じるのはいつになるのか?
それは何十年も先になるのか?ただ墓だけがここにも残っているのである。

2017年01月11日

新春短歌-近辺 (南相馬市のパークゴルフ場は景色がいい)


新春短歌-近辺

(南相馬市のパークゴルフ場は景色がいい)

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正月や森に大きな昼の月

冬の日やゲートボール場に昼の月


去年(こぞ)散りし楓一枚玄関に雨しととふりぬれにけるかな

玄関に新春の光まぶしかな幸あれにしと我が家を守る

新春や松風鳴りぬ錚々と新たな息吹ここに感じぬ

竹青くますぐに伸びて新春や真日輝きつ鳥の羽ばたく

新春やパークゴルフ場開くかな人々集いなごむもよしも

新春やまた活動のひびきかな六号線を我も行くかな

あきらけくきらめきにけり星一つ徴とあれや新年迎ふ


昨日はあたたかいから新春の光を感じた、春の感じの光である。
今日は寒い、玄関は家にとって大事だという、玄関を掃除して整えておけということを言う人がいる。確かに玄関は人が出入りするから福を呼ぶというので大事になる
ただ家事をしているとかたづけることが大変なのである。
未だに片づいていない、空家をかたづけるに十年かかったとか言うのもわかる
今はいろいろなものがありすぎるのである。

今年の新春は何かこれまでとは違った、十年か介護に追われたし余裕がなかった
それで一昨年も母が死んで次の一年も何かそのことで心の整理ができなかった
人間が自分のことでも家族でも介護とか死にかかわることが大変なのである。
何か異常に疲れることなのである。家族でも焼いたり灰にしたり葬式したりそのあとでも墓参りしたりとか何かそれが精神的に疲れるのである。
だから人間が一人でも死ぬということは容易なことではない
それをなんとか乗り切ったという安堵感がある
それで今年は今までと違った新年になったのである。

南相馬市の前の東北電力の廃棄場に大きなパークゴルフ場ができた、あそこは見晴らしがいいのである。だから別にゴルフをしなくても寄ると気持ちがいい、休む場もある。
あの辺に喫茶店みたいながあったら休むのにはいい、喫茶店はやはり場所がいいところにあるといいのである。
あそこは老人が集まるにはいい場所である。隣に小さいが森もある。
なごめる場所になっている。
そこは自分がいつも通る場所にある、川子の坂を上ったところであり鹿島区内にある。
あれは鹿島町だったら財政的に作れなかったかもしれない、とにかく広いからである。
ただ東北電子の土地を無料で提供されたなどはあった。

老人にとっては鹿島区で新しい施設もできたしスーパーも一つ増えたし人口も減らないから津波や原発事故があってもそれほど打撃を受けていない
小高と比べるとその差があまりにも大きかったと今ではなる
小高の人が帰りたくないというとき小高の場合は南相馬市民であり別に南相馬市内なら移り住んでもみな相馬市民であり変わらないのである。
そして小高でも原町の市街が近いから車があれば買物はできる
そういうことがかえって小高に住まないということにもなっているかもしれない。

デイサービスで厚寿園などを利用した。でも母は行くのを嫌がっていた。特に風呂に入るのを嫌がっていたしそれほど利用していいものではなかった。
何が自分もそれで楽したということもそんなになかった。
それより在宅なのだから在宅で家事など少しでも応援してもらえばよかった。
何か介護はそういうことが多いのである。ある人は介護する人に金をやればいいというのもそうである。その人が介護で苦しんでいることを緩和することが施設ばかり作ってできているとはならないのである。
むしろ介護などは人手であり施設ではないとういこともあるからだ。
自分は全くそうした援助は皆無だった、全部一人でせざるをえなかった
そして来た人は自分を借金がどうだとかなんだとか責めるだけだったのである。
強盗も来たり借金の強要があったり弱者と化したらその弱いことにつけこまれるだけだったのである。相手も金で追い詰められていたからそうなった。
人を助けるにはまず余裕がない人はできないのである。

ともかく今年の新年はこれまでとは違って余裕あるものだった。
だから何か昼の月が大きく出ていたのでふさわしかった
自分は30年間ものんびりしたものだったのである。それがまさにあまりにも恵まれた例外的なことだったのである。そんなことがいつまでもつづくとは思えなかったからである。そのカルマがこの十年間の苦しみだったのである。
それが一段落したということである。

今年は世界情勢でも何か不安とか混乱を予想している、でも自分一身上では正月に出た昼の月に象徴されるようにそういうものはない感じがする
そんなに悪いことばかり苦しいことばかりつづいたら身がもたない、生きるのも嫌になってしまうだろう。ただ介護は十年とかそれ以上している人も結構いることが負担なのである。



タグ:昼の月

2017年01月04日

5年半ぶりに開通した常磐線 (駅は人間臭い場所だった−新地駅の記憶(詩)


5年半ぶりに開通した常磐線

(駅は人間臭い場所だった−新地駅の記憶(詩)



明治時代日本に鉄道が導入されたとき、今の「駅」にあたるものも含め、列車が止まる場所はみな停車場と名づけられた。利用者はこれを駅と呼ぶことが多く、鉄道関係者も時に停車場、時に駅と用語を混用した。時とともに駅が優勢になったが、昭和時代まで停車場という言い方は残った。1936年(昭和11年)の鉄道省の職制改正によって、停車場と駅の呼び分けが明確になり、一般の会話から停車場という表現は少なくなっていった。

今でも都道府県道・市町村道の法定路線名には「停車場」という言葉が使われる。例えば、札幌駅から南にのびる道路は、北海道道18号札幌停車場線(通称:札幌駅前通)である

停車場というのは死語になったけどこれは最初はただ車両が止まる場所だった。
駅とは違っていたのだ。なぜそうなったのか?
駅というのがまだそんなに生れなかった時代の名残りなのだろう。
車両が止まるから停車場でありそれは駅とは違っていたのである。
停車場線というのも不思議である。車両が止まる場所へ通じる道路だとなる。
駅には前は引き込み線があり貨物車両が入り荷物を運んでいた。
だから駅前には自転車屋があったという,荷物を運ぶに便利だからである。
その頃車とかは使われていないからである。
縄屋とかあったのも縄で梱包するからである。
とにかく交通の要として鉄道があり駅前が街の玄関口でありにぎわっていたのである。
駅は人が集まる場所であり交差する場だったのである。
水上勉の「停車場有情」という短編小説などがあるのもそうである。


年末は駅では除染の人でも工事関係者でも中国の女性の出稼ぎ者でも故郷に帰る人が多かった。長崎の人もいた。駅はもともとそういう人間模様がある場所だった。
人間臭い場所だったのである。それは何か車社会の道の駅とは違った感覚の場所である。

ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく 啄木

様々の人間模様や駅をたち帰る人送る年のくれかな

去年は結構駅で外から来た人を案内したり話したりした。鹿島駅が無人駅になったから案内する人がいないのも困ることがある。

正月になり二日は今度は常磐線で帰る人がいた、その人は車をもっているから電車には乗らない、それで電車のことがわからなくなっている
今は車社会だから電車のこと鉄道のことをわからなくなっている人が多いのである。
自分は車に乗っていないから車のことがわからないのである。
今どきそんなことがあるのかと思ってしまう。

「電車はいいよ、景色を見れるから、車だと景色は見ていられないから」
「常磐線は今度は高架橋になり海が広く見えるよ,船も見えたよ」

そう言って見送る人がいたが確かに電車だと景色をゆっくり見られる、車だと運転に集中するから景色が見れないのである。そういうことも車に乗らない人は良くわからないのである。
常磐線は五年半ぶりに開通した。今度は高架橋で広く海が見えるし船が行くのも見えた。

東京へ帰れる人を見送りぬ人も老いにし駅舎も古りぬ

常磐線五年ぶりにし開通す仙台に通じひびき高鳴る

ともかく自分にとってこの常磐線の開通は復興を一番感じた、というのは自分は仙台には良く行っていたし旅をしたからである。
その時はあまり電車のありがたみを感じなかった。つまりこの辺では当たり前にあるものが失われた。第一故郷に住めなくなるなどということをイメージもできないものだったのである。
今でもまだ仮設に住んだり移り住んだ人がいるからその心境はどういうものなのかその人にしかわからないだろう。

普通に電車が走る、今までは原町と相馬市の間しか走っていない、なにかそれも不思議だった。でも仙台まで通じるとまるで違ったものを感じた
その電車が走るひびきは仙台へ通じていることなのだ。その相違は大きいのである。
バスは何か疲れるし好きではない、電車は乗っても楽なのである。
津波で流された駅は新地でも山下でもずいぶん立派になった。
ひなびた駅が都会風になったのである。

まずこの辺はいろいろ変わり方は激しいのである。
駅をおりて浪江の人が新しくできた復興住宅に行ったりと除染や工事関係者がまだ外部から入ってきている。
駅というのがその街の玄関だというとき確かにそうである。
駅からその街をまず見るからである。電車の旅でも駅の名前がなぜか心に残っている
駅はバスとは全く違った乗り物なのである。バス停なとには何か今でも原町の深野の
豪蔵とかの地名が記されている、高瀬川を上った葛尾村に磐城落合とか停留所の地名が記されているときやはりそこでその土地のことを記憶に残すからバスでも昔はその土地の字名を記憶に残したのである。

駅はやはり途中下車なのである。

新地駅おりたちあわれ虫の声ここに聞きつつ月の光りぬ

新地駅五分まちつつ交換の電車を待ちぬ秋の夜かな

日立木駅ものさみしかもおりる人一人二人や冬のともしび

前の新地駅では交換のために五分間待っている、新地駅に来るともう相馬であり鹿島も近いとなる。
その時は家族がいて待っている人がいたからなにかほっとする
今になると家族もみんな死んだから一人帰るのが何か淋しいとなる

いづれにしろ鉄道には自分は相当に愛着がある。鉄道マニアになもっている、ただそのマニアでもいろいろある。鉄道だと今はローカル線では観光鉄道になっているところもある津軽鉄道などがそうである。スト-ブ列車でもある、春には乗ったが冬には乗っていない、やはり冬に乗ることで津軽を感じるだろう。
鹿島駅でもストーブがあったという、何かその記憶にともしいが確かにあったのだろう。それはどこでもあったものである。スト-ブがあるということはそこで待ち時間に会話がある。
この待つ時間が旅では記憶に残るのである。今の時代待つということが効率化で失われたのである。結果的に人生の時間が失われていたのである
瀬戸内海でも旅したとき土地の人と船を待っていたことが記憶に残る
瀬戸内海では船が日常の交通手段だから観光ではないから違っている
そこで瀬戸内海の人々の生活を感じるのである。観光では生活を感じにくいのである。
津軽鉄道があったとしても今はどこでも車が主だとすると何か違ったものになる。

今は車社会だというとき道の駅が生活を感じるものになる、でも何か鉄道の駅のように人間味を感じない、鉄道には何か人間味を感じるのである。
人を迎えまた見送ること、電車を待つことそれは人間的なことなのである。
車には何かそういう人間味がないのである。機能面がけが優れていてそこに人間的なものが生れないのである

常磐線が仙台まで通じて仙台に行きやすくなった。それでまた出かけたいとなる。
仙台に出ればまた遠くに行き安いから旅もしやすいとなる。
ただ何度も言うが旅で大事なのは記憶に残る旅をすることなのである。
それが一見非効率的なものになる、電車を待つとか船を待つとかの時間が記憶に残っている、そういう時間が実は大切な時間だったのである。
だから旅をふりかえると不思議なのである。その記憶が宝となっているのである。
それで思い出して短歌なり俳句なり詩にしているのである。
回想するたびというのもつくづく今になると不思議である。
かえって旅しているときより深く見ているのである。それは人生でもそうである。
その時々の経験したときは何かわからないが老人になるとその意味がわかり記憶が宝となるのである。

だから生きるというときどういう体験を積んだかであり必ずしも大金持ちになったとか金では計れない、何か大きな冒険をして九死に一生を得るというごとくそういう経験した人は貴重な経験をしたのである。津波とかがそうだった。そんな経験は滅多にできるものではないからである。


記憶の駅

津波に流される前の新地駅
五分交換のために電車を待つ
ホームにおりると
虫がかすかに鳴いている
月が光り新地の海側の家々
それらはみんな津波で流された
ここはすでに相馬に入り
我が家も近くほっとする
その新地駅は新しくなった
でも自分は前の新地駅に
なお幽霊のように立っている
そんな簡単に人は変わるものではない
人は長く生きていればどこにも愛着が生れる
だから愛着ある場所にいたいのだ
津波で流された後に松の根が残っているように
人の記憶はそう簡単には消えないのだ
私はそこに以前としている
家族もみんな失った自分だが
やはり以前としているように思う
長くあったものはそう簡単には消えない
記憶はその人の中に残っているのだ

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こういうことなんだろ、津波とかで家が流されて人も大勢死んだ、原発事故で避難した人々の気持ちもこういうことがある。
だから老人はどうしても故郷に帰りそこで死にたいという気持ちになるのである。
何でも長くいると愛着が生れるからである。若い人にはその気持ちがわかりにくいのである。老人になると記憶を生きるようになるからだ。
新地駅はまるで変わったものになった。するとそこからこのように過去を回想することはできないのである。
すると過去の記憶と今の記憶の断絶が生れるのである。そういうことは歴史でいくらでもある。東海道などはもうそこに江戸時代を回想することがむずかしくなる
その変化が激しすぎたからである。
中原中他の「桑名駅」では蛙が鳴いていた。桑名というという東海道の宿駅であったがそれがた現代と結びついている。そういうことは今はまれである。
この辺はまず大きな変化に見舞われた、だから経験し得ないことを経験したのである。

2017年01月01日

2017新年短歌十首(津波より五年過ぎた右田浜)


2017新年短歌十首(津波より五年過ぎた右田浜)


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これは人が植えた松ではない、自然に育った松である。
防波堤の中にあったからだ。(海老の浜)

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(右田浜)



新年やまず雀の声聞きぬ

遊ぶ子の声野にひびく初笑

浜通り冬たんぽぽや気候よし

新年や鴎とびきぬ街の空

故郷に底辺生きて冬の草


新年に五六羽飛びぬ白鳥や朝日を受けて年は明けにき

松の根の残り鐘の音ひびくかな海に朝日や年の明けにき

津波より五年のすぎて新しき松の育つや年は明けにき

年明けぬ波穏やかに朝日さし新しき松ここに育ちぬ

かもめ飛び海を目指して少年の走りけるかな年は明けにき

一本松五年もすぎてなお残る年も明けしもあわれ朽ちなむ

右田浜かつて人住む今はしも松の根残り枯芒かな

五年過ぎ津波の跡や寥々と松の根のみぞ昔語りぬ

故郷のあしたを生きむともにしや波おだやかに年は明けにき

花の色心に写る赤き花まさりて写る今日も見ゆかな

今年また花を活かさむ我が家に一人し住むも華やぎにけり

百両の二色の実こそ霊前にささげてよしや我が家をつぎぬ

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海老の浜から右田浜に行ったけど以前として津波の跡は残っている
一本松はすでに枯れている、あの松も消えるが松の根は残っていた。

そして新しい松が結構一本防波堤の中に育っていた。
五年すぎて結構育ったのである。
これが自然の再生の力だとなる。この松は人間で植えたのではなく自然にここに育ったのである。だから貴重に思える。
少年が海に向かって走っていた。それは新しい松が根付いて育つのとにている。
自然もそうだが人間もやはり新しい芽がでて子供は育ってゆく。

ただあの子供は正月で外から来た人だろう。土地の人ではない、正月には外から来る人が多いからだ。
雀の声というときやはり政治でも本当は上だけではない、下々の声を庶民の声を聞くことである。雀は庶民なのである。

年末は駅では除染の人でも工事関係者でも中国の女性の出稼ぎ者でも故郷に帰る人が多かった。長崎の人もいた。駅はもともとそういう人間模様がある場所だった。
人間臭い場所だったのである。それは何か車社会の道の駅とは違った感覚の場所である。

ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく 啄木

様々の人間模様や駅をたち帰る人送る年のくれかな

去年は結構駅で外から来た人を案内したり話したりした。今年はどうなるのか、何か一人だと自分も淋しいから駅にゆく、そこで人と交わるのである。

ともかく右田はま何か以前として寂寥としている、新しい防波堤はほぼ完成した。
でもあそこに人が住んでいたということはだんだん忘れれる、でも五年すぎてもやはり人が住んでいて死んだりしたのだから何かそこに淋しさが以前として残っている
それが松の根でありあの一本松でも何か本当に淋しいのである。
それだけすさまじい津波だったからその跡は簡単には消えないのである。

津波の傷痕は本当に深いと思う、家族を死んだりした人は以前として昨日のように思えるかもしれない、自分も家族は全部失った。その傷痕も深い
だから去年はただ呆然として過ごしてたちまち一年がすぎた
でもなんか一人暮らしになれつつあるのかもしれない、家族が死んだすぐあとはショックが大きいのである。

百両の実を霊前にささげた。自分にとって姉と母のことは死ぬまで忘れない、姉と母は争っていたが自分にとっては二人は自分を支えてくれたし家も支えたのである。
二人があって自分があるのである。
百両の実は何か姉と母にふさわしいので買った。二人は争っていたけど今は争わない、実りとなっているのである。

花を挿すということは花を活かすことである。生け花というとき生きた花のことであり生きた花を常に見ることである。
だから家の中で毎日見ることによって花は心に写る、今の花は花屋の花は冷蔵庫に入れるから枯れやすいという、農家が育てた花は近くの市場で買った花は長持ちしている。
花は生き物であり農作物と同じように新鮮でないとだめなのである。

故郷というとき実際は自然と共に生きまた人と共に生きることなのだろう。
それが原発事故で失われた、散り散りばらばらになってしまった。
それもしかしもともとそういう故郷の自然とともに土と共にという生き方が喪失したためかもしれないと書いてきた。
農業中心の社会から工業中心の社会になったとき故郷に自然と共に生きるとか人とともに生きるとかが喪失していたのかもしれない。

それが極端化すると親に農業だけが継ぐなとなぐられたと語る人がいた。その人は原発で主に働いたのである。そんな時代だから故郷を意識することが弱くなっていたのである。啄木が故郷を望郷したというのはまた別な状態から生まれたのである。
みんな故郷がいいなど思っていない、若いときは嫌って外に出たいのである。
故郷はあまりにも平凡に見えるからである。
故郷が別に理想郷でもなんでもない、そこはやはり醜い人が住むし争いもある。
自分もひどい目にあったから故郷は苦い場所にもなっているのである。
一茶はそれで故郷は茨しかないものとなっていた。それもまた故郷なのである。

故郷のあしたを生きむともにしや波おだやかに年は明けにき

今年の海は波は穏やかだった、昨日も地震があったり地震がつづいている。これはまだ余震なのだろうか?
今年は一体どういう年になるのか?自分はいい方向に向かっている、なぜなら介護が終わったし気力も回復しつつある。だから余裕がでてきている。
ただ自分を支えるものは自分しかいない、こが以前として苦しいとなる
それでもやはりこの土地に生きるかぎり共に生きることになるのである。
都会だったらあまりその土地のことを意識しないのである。
郷土というときやはり土の上に成るものなのである。その土が放射能で汚されたことが最大の被害だったのである。


今年もフログがかきつづけます、去年の12月は50タイトルを書いたから最高記録だった。、それだけ余裕が生まれてきたのである。

では皆様の良いおとしを祈ります、今年もフログをかきつづけますのでよろしくお願いします
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新春2017年(春の城俳句十句)


新春2017年(春の城俳句十句)

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春日さし福岡城の跡たずぬ

福山城天守へのぼる花盛り

花冷えや蔵之助の家赤穂城

姫路城天守の高く春の空

春夕陽船の往来明石城

花曇り15万石の松山城

春の海望み船入る今治城

船の入る高松城下春の暮

夕日映え花散り尽きじ大坂城

花吹雪一代の栄華大坂城

花盛り小田原城の栄かな

みちのくや春の夕日に小峰城

安達太良の残雪映えて二本松城

二本松城井戸の深しも落椿

燕来る流れのはやみ青葉城

門古りて枝垂桜や弘前城




和歌山城石段上り朝の菊

金の鯱夏の陽ざしや名古屋城

実り終え近江平野や彦根城

岩手山紅葉に映ゆや盛岡城

井戸多し熊本城や秋深む

熊本城弾痕残す秋深む

金沢城路にちりしく薄紅葉

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日本はやはり城である。城のあるところが歴史的中心になる。城もたずねたけど日本は城が多いから全部はたずねていない、でもほぼたずねている。
それぞれ徴がある、ともかく城から歴史をみるのが一番わかりやすい

今年の自分の生命曲線としては十年介護で精神的に相当に消耗した。
去年一年も何か呆然としているうちにすぎた。
そして母の一周忌もすぎた。
自分にとってこの十年間は修羅場だった。自分の家族が死んだということで気がぬけたようにもなった。
ただ生命曲線としては気力も回復してきたしこれからもしてゆく
だからまた旅に出るかもしれない、それもあまり遠くには行けないだろう。

ともかく人間はいつか旅すらできなくなる、だから死ぬ前にでもやれることはなんでもしていたほうがいいとなる。要するになんであれなんの理由があれやりたいことをやった方が勝ちなのだ。人生は誰のためのものでもない、国のためでも会社のためでもない、自分のためのものなのである。自分の人生を充実するためのものである。
それが最後になってみれわかる、社会でも会社でも国に尽くすためでもない、自分のために生きるのである。結果的には国や社会に尽くすことになっても自分のために生きるのが人生である。

人間はどんな人生を歩んでも後悔する、なぜなら時間は限られていて時間はたちまち尽きるからである。
だからやるべきときにやらないと遂になにもやらずに終わることになる
要するに何もしなくて終わるよりも失敗でも何でも何かを思い切って行動した方が得だったとなるのである。

旅をするというときも何か車だとか電車もいいが自転車だとなんとか醍醐味がでてくる。でもこれもだんだん疲れてできなくなる、でも今年は気力も回復していているからなんとかできるかもしれない。


今年もいろいろと書きますのでよろしくお願いします

2016年12月28日

冬椿(石とかの話をする) 新しく広いパーク ゴルフ場ができた


冬椿(石とかの話をする)


新しく広いパーク ゴルフ場ができた

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新しくできたパークゴルフ場

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パノラマ写真





石に映ゆ今日もここに冬椿

朝日さし散りて赤しも冬椿

大根のむきだしにして風寒し 

老人のパークゴルフ場に冬の雲

広々とパークゴルフ場冬の山


一輪の冬の薔薇咲く誰か住む復興住宅に落ち着くらしも


その人は小高の人だけど石に興味をもっているという、何でも橲原(じさばら)になんとか石というのがあり貴重だったという。津島石というのもありその土地の名で名づけられのが多い、小高の人で庭師が教えてくれた。ともかくあの人は何でもできたから驚いた。
あの人も小高に帰らない,ともかく石とかも貴重である。


石は硬度が大事だという、石の硬さがあるのかとなるとある、一番堅いのはダイヤモンドである。ダイヤモンドでひっかくと必ず傷ができる、それはダイヤモンドの方が硬いからである。石と石とそれを試すとどっちが硬いかわかる、硬い方が傷つけることができるからだ。ギリシャ語でダイヤモンドが征服されざるというのは一番硬いからである。


紀元前600年頃: マグネット”Magnet”の名前の由来と磁鉄鉱
ギリシアのマグネシア地方 Magnesia に天然の磁鉄鉱 Magnetite = Loadstone が産出し、この磁鉄鉱が羊飼いの鉄の杖や、他の鉄製品を引きつけたりしたので、地名にちなんで“マグネット Magnet”といわれるようになったとされています。

ダイヤモンド

鉱物名 ダイヤモンド
日本名 金剛石
語源 ギリシャ語のアマダス(征服されざる)


トルコ石は、トルコから産出されるトルコ石というわけではない。ペルシャで産出された石がトルコを経由してヨーロッパに運ばれたことから、そう呼ばれている。トルコ石ブルーと呼ばれる色は、鉄と銅による発色で、鉄分が多ければ青色に、銅が多ければ緑色になる。
現在では産出量が減ってしまっているので、本物を見ることはほとんどない。

新潟県糸魚川市付近

このあたりは、ヒスイ海岸とも言われ、毎日多くの人がヒスイ探しに訪れる。最近では、無色のコランダムや、青いコランダムが発見されている。糸魚川市のフォッサマグナミュージアムで詳しい説明を受けることができる。川でも採取できるが、一部地域が天然記念物に指定されているので、海岸での採取が望ましい。



面白いのはトルコ石がトルコでとれたものではなかった。、経由地であったがトルコ石になった。有田焼が伊万里の港から輸出されたから外国では伊万里焼になっていたのと同じである。

あそこは新しくできた家だけど垣根があり石があっていい庭である。外から鑑賞するのにいいのである。あそこはシシドスーパーができて毎日買物で通るのである。
何かこの辺は本当に常に変わっているのである。
シシドスーパーの隣に復興住宅ができた、そこにもすでに人が入っている、主に浪江の人である。  

大根が土からむきだしになっている、それを見ると何か売られている大根とは違う感じをもつ、大地に育っている大根なのである。そこが都会と田舎の相違である。
大根が土からむきだしになっている、それがまさしく土から育っていることを示しているのである。風が寒いというとき何か季節を感じるのである。

それから今日は東北電力の処理場だったところが広いパークゴルフ場になっていたのは驚いた。あんなに広いパークゴルフ場はこの辺では見たことがない、相馬市にはあれより広い所があるというが見たことがない、松川浦はあるがあれよりここはずっと広い感じた
あそこだったらのびのびとゴルフができる
あのゴルフは老人向きで簡単にできる、ゴルフのクラブは50円とかで貸し出ししている
500円だすと利用できる。パークゴルフは普通はクラブに入ってしている。
万葉クラブというのがあり120人参加していた。それは鹿島区になるからそれだけいたということになる
パークゴルフは老人がしている、それくらいいても老人が゛多いのだから不思議ではない。

あそこにあると暇な老人が集まるのにはいい、集会所もあり気持ちいい所になった。
老人は暇な人が多いのだ。それでカラオケクラブは盛況である。
パークゴルフはかなりの運動にもなるからいい。
自分はやる気はない、自分は自転車が好きであり自転車がのれる公園があるといいと思うともかくあいういうものもできたのも東北電力があって助力があってできたとなるのか?
広い土地だけど処理場であったからだ。
とにかく今の世の中高齢化であり老人が多いからあういうものも必要になる
この辺は特に老人がまた増えているのである。若い人が外に出て老人が増えたのである。浪江の人などが来てもその人たちも老人が多いのである。
パークゴルフで活気がでても市自体が活気がでるとはならないだろう。
ただ老人にとってはいいものになる

2016年12月25日

南北朝の戦いで小高城陥落に残された短歌二首 (その心境は自分と同じだった)


南北朝の戦いで小高城陥落に残された短歌二首


(その心境は自分と同じだった)


相馬光胤(そうま・みつたね) ?〜1336

相馬氏第6代当主・相馬重胤の二男。相馬親胤の弟。
建武2年(1335)11月、父・重胤が建武政権に叛いた足利尊氏に与することを決めた際に、下総国相馬郡栗野村や陸奥国行方郡耳谷村などを譲渡され、父や兄・親胤と共に鎌倉に参じた。
同年12月に尊氏が新田義貞軍を破って京都に進撃するに際しては兄の親胤が尊氏に従軍、光胤は父と共に鎌倉に残って守衛にあたったが、のちに陸奥国に帰国、建武3年(1336)2月18日には父より陸奥国行方郡小高に築城して足利氏に味方することを命じられている。
3月にはこの指示に従って一族を小高城に結集させて南朝勢力と戦い、その功績で翌4月には重胤に宛てて尊氏方の奥州総大将・斯波家長より所領を預け置かれている。
しかし南朝方の鎮守府大将軍・北畠顕家が陸奥国に下向してくることを知ると討死を覚悟し、5月20日付で消息不明となっていた親胤の子である松鶴丸(のちの相馬胤頼)を養子として栗野村・耳谷村・小高村などの所領を譲ったうえで南朝軍との戦いに臨んだが、5月24日に小高城を落とされて斬られた。

相馬の運命今日限りとして防戦したが遂に保つことができず
光りたねをはじめ一族九七人が侍939人、その他多数のものが討ち死にした。
うかう松鶴丸は当時13歳は母と共に小高の西、釘野山の麓の農家の宅にかくれ山野に辛苦をなめたものの、良くその身を全うすることができた

中秋にあたり松鶴丸が一族譜代の墓に詣でて従者に和歌二首をたむけさせた


去年の今日別れし人の墓に来てみのりを問えば涙こぼるる

我一人残るこの世の憂きづまいおもうがままに後世は問われず

去年(こぞ)今年

あわただしく古い年が去り、駆け足で新しい年がやってきた。
一夜明ければもう新年。昨日は去年なのに、今日はもう新年。

南北朝の戦いはわけわからなくなる、結局人間の戦いでも紛争でも事件や事故でも複雑なのである。なぜそうなったのか?その原因もいろいろなのである。
シリアを見ればわかる、わけわからなくなる。
それはこの辺で起きた原発避難者とかの補償金での対立もそうだった。
津波の被害者も混じったりして複雑だったのである。
相馬は北朝であり南朝が攻めてきたとき小高城を死守したが被害が大きかった。
そこでこの歌が残された。

今なぜこの短歌に注目したかというと自分もこれと同じような経験をしたからである。
これは津波の被害者とか原発避難民とかも経験したことである。
この苦難は生きる死ぬかの苦難だったからまた違っている
ただこの心境は自分の今にあてはまっている

介護十年で苦しみ続けてきた。津波とか原発は直接自分は被害は受けていないがそれでもこの辺は混乱した。
ともかく辛かったのは自分一人で対応しなけれはならなかったことであり自分の所に来た人は助けるためではない、金がほしいだけでありかえって弱者化したから攻めてきたのである。弱者は攻め安いのである。そのことは延々と書いてきた。
原発避難民を批判するときその時の経験からそうなっているのだ。
あのとき避難民でもパチンコ屋通いであり遊んでいたと思うからである。
自分は孤立無援で一人しのいだ、だから我ながら良く耐えたなと思う

去年の今日別れし人の墓に来てみのりを問えば涙こぼるる

この人も相当な苦難を経験した。別れし人とは死んだ人である。
自分も家族は全部死んだから同じ心境になる
そしてなんとかこの人は生き残ったというとき自分もつくづく耐え忍んだなと思う

実りと問えば・・・とは何なのか?

その戦乱生き抜いて何か実りがあったのか、その実りとは何かわからない、自分の場合ともかく一人耐えぬいたということだった。耐えたことが勝利だったとも言える
人間はこうした苦難を減ると精神的に成長することがある。
だからこの人の心境と自分の心境が同じなのである。
そのあとは一人でも気持ち的に楽になったということである。
自分は十年間苦しかった。原発避難民よりも苦しかったと思う
だからこそ原発避難民を責めたのである。
病気のときも全く同情されず責められて一人奮闘するほかなかったからである。
それに比べたら原発避難民は同情されたとかいろいろ恵まれたと思うからこそ批判になったのである。

ただ小高城陥落というとき小高の街が原発事故で消失する危機になっているのとはにている。
小高の人でも離散したからである。そして全国に避難民は散った、最近は南相馬市の復興住宅に今度は浪江の人たちが主に移住してくる
何か戦乱状態とこの辺はにているのである。

ともかく人間は他人の苦しみはわからない、それぞれ違った苦しみになるからだ。
原発避難民でもその人にすれば苦しかったともなるしわからない。
でも結局自分が一番苦しかったと思うのが人間なのである。
それは他人の苦しみがわからないからそうなっているのである。

2016年12月23日

常磐線(仙台ー原ノ町間-強風のために運休)



常磐線(仙台ー原ノ町間-強風のために運休)


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この電子掲示板が見やすいしわかりやすい、無人駅でもこれがあるとわかりやすい

赤い字は運休である。


鹿島駅にまたよったら飯館の方を回ってきた青年がいて仙台から東京に帰れないと困っていた。地元の人も困っていた。その若者は原町まで歩いて行った。
いろいろ教えてやったがありがとうとその青年は言わなかった。
年配の人はいろいろ教えるとありがとうと言う人がいる
そんなこといちいちこだわるわけではないが前にそういうことがあったので若者は違うのかと思った。

第一自分にしても道聞いたりしてありがとうなどあまり言わない、店でも言わない
有名な学者がタクシーに乗ってもありがとうという、それは金を払っているからありがとうと言われてもこちらからありがとうとは言わない、
でも今回は善意でしていたボランティアだった。
だから確かに普通だったらありがとうと言うのかもしれない
年配の人と若者は違っている

なんか最近は毎日鹿島駅に行っている、気晴らしということもある。
今は無人駅であり案内人がいない、それでボランティアの案内人みたいなことをしているそれを最初は意識していなかったがだんだんそうしているうち意識するようになった。
まだこの辺は外部からくる人がいるからそういう人と話して案内する

今日は強風で運休というとき新地から浜吉田とか津波の被害にあったところが高架橋になり風の影響を受けたのかと思った。
ただ新潟の糸魚川で大火事があったように強風の影響だった。
糸魚川で記憶しているのは松本から長い塩の道の終点の街だった。
街道の宿場町ということで古い家が多くあれだけの被害になった。

ともかく今日は強風の一日だった。気温も冬とは思えないあたたかさであった。


年の暮短歌三十首 (仙台から相馬市-鹿島-原町-小高へと)


年の暮短歌三十首

(仙台から相馬市-鹿島-原町-小高へと)

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(仙台まで)


仙台に通いし電車そのひびき高鳴りつつ年も終えなむ

五年ぶり電車通りて仙台に古本買いぬ年のくれかな

仙台の長町におりて新しき通りに落葉電車通じぬ

高架橋電車は走りぬ冬の海広々と見えて船行くを見ゆ

復興の電車通りて海よりそ満月昇りて光りけるかな

日立木駅下りる人あれ冬の月寒々として光りけるかな

鹿島駅こうこうとして冬の月光りて我が一人おりにけるかな

(仮設)

仮設の食堂に通いて二年やなじみにけるや年のくれかな

仮設住む人もともしき冬の灯ややがて消えなむ名残りおしみぬ

(飯館)

飯館は雪になるらし寒しかなかしこ住む人ここに思いぬ 

飯館の佐須は遠しも乳神の碑のありあわれ年のくれかな

飯館の比曽は遠しも一度のみ行きしを覚ゆ年は暮れなむ

(相馬市)

相馬市の街の灯あわれ心にしみカップを買いて冬の夜帰りぬ

五本松また通りにつ冬の夜や我が帰りゆく二本は枯れぬ


(原町)

原町のモスバーガーにそまたよりぬ外は北風汁粉の味かな

原町の街中通り農家かな畑に菜を育てて冬のくれかな

蔵ありて井形紋ありこの家の昔は農家は冬の日暮れぬ

この家の焼けしことありその形見馬頭観世音冬の日暮れぬ

紙漉きの家にしあれと石神や昔思いて冬の夜ふけぬ



(小高)

小高にそ電車はつきぬ小屋木へと行く人あれや秋の日暮れぬ

鹿島にて話す老人今は住む小高にあれや冬の灯ともりぬ 

小高駅おりたちあわれ冬の灯ともりわずかや誰か住みなむ


(浪江ー双葉)

浪江には電車通らじ淋しかなその闇深く冬の夜ふけぬ

双葉町遠くなりにき我が父の酒屋に働く場なりしかな


(鹿島)


庭の石見つつ小高の老人と話すことあり年のくれかな

我が家族争いつつも家族なりその日の長くも今はなしかも

ふるさとは何にしあれや街に人村に景色思いよすところ

広き家に老いても住めぬ女の来て我が家にあわれ年もくれなむ

寺内にホトケッポありはふり場や冬の月光り墓の埋もれぬ

しんしんとして冷える夜こそ一人住む同じ町の人思うものなれ

冬の夜や我が家に一人暖をとり昔偲びつ老いを楽しむ



鉄道の旅は長いから何か線路は心をつないでる感じになる、バスにはそういう感じはしないのである。それで北海道の稚内へゆく線路の詩を書いた。
本当に今回仙台まで電車が通じて仙台まで心が通じたと感じたのである。
これも不思議な経験だった。鉄道は自分にとって特別なものだった。鉄道の旅が長いからである。そこに愛着が生れたのである。

愛着というときそもそも故郷は何かとかこの辺は原発事故で避難したりして問われたのである。
故郷もなにかその土地に愛着を抱く場所である。それは親の代から先祖からもつづく愛着をいだく場所なのである。
だから故郷を離れたとき啄木はあれほど望郷となり短歌を残した。
何か自分も今になり啄木調の短歌が次々にできるのである。
詩も我ながらいいものが作れたなと感じることが多い、それも不思議な経験なのである。
人間は本当は死ぬまで不思議な経験をすることなのである。死の瞬間までそうである。
その経験は老人なるとさらに深まる、まずあらゆることに理解が深まるのである。
芸術の分野では年取るとかえってその芸は熟達するし理解が深まるのである。
今までは何か自分はいろいろなことを理解していなかったし俳句短歌でもいいものが作れなかった、詩でもそうである。

でも今は泉の水がこんこんと湧くように無理しなくても作れるのである。これも不思議な経験なのである。だから自分は老後は暇にならない、常にこんこんと泉湧くように創作できるし理解が深まるから評論なども書ける
本などもすぐに理解できる、どれがいい詩なのかもすぐわかるのである。
今まではなかなか理解することがむずかしかったのである。

ふるさとというとき小高の人などいろいろ言ってきたがそれはやはり同じ南相馬市民とかなり家族のようになるからである。
自分の家族は争いつづけてきて遂に死んだけどやはり家族だったと同じである。
ただその範囲としては双葉までであり大熊となるとなじみがなくなる
双葉では自分の父親が酒屋で働いていたからである。

飯館村はやはり相馬藩内であり何度も行っているし高い峠があるが一つに結ばれて地形的アイディンティティをもつ場である。歴史的には塩の道でつながっていた。
佐須となると飯館の中心地の草野からまたばずれている。
飯館村というと広いから草野から離れるとなにかさらに辺鄙な人も行かないような所に感じるのである。

相馬藩内でもいろいろ特徴がある。こういうことは旅しただけではわかりにくい、人はその場所に住んでみないと根本的にはわからないとういことがある。
そして故郷とはその人であれ街であれ村であれ景色であれ歴史であれ先祖であれ死者であれ愛着をもつ場所である。

人とはあまり接していないがやはり多少接した人のことも愛着がでてくるということである。場所と人はまた結びつくのである。
小高でも小屋木に住んでいるとなると何かその地名がひなびていて印象に残ったのであるただ仮設も来年の三月とかでなくなる、でも六年近くあったのだからこれも名残惜しいとも今ではなる
仮設の食堂にも二年間ぐらい通ったのである。これも結構長いなと思った。それで女性の店主と親しくなったとかある

いづれにしろこの十年間は自分にとって激変の時だった。その間に姉も母も家族はみんな死んで自分一人だけが残されたのである。その変化もあまりにも激しかったのである。
しかしなんとか耐えてやってきたとつくづく思う

人はいろいろいるが他人のことはなかなか理解しにくい、その女性はもう65すぎても狭い市営住宅すまいである。すると一生広い家に住んだことがないとなる
広い家に住んでいる人はそれがわからないのである。
仮設の狭い所に住んだ人はそれを経験したことになる、すると狭い所に住む人の気持ちもわかるということにもなったのである。

ともかくこの十年の歳月は本当に激変であり苦しかった。でもなんとか耐えた。
そして今年ももう終わる、仙台まで電車が開通したことは本当に復興だった。





2016年12月15日

五年六カ月ぶりに仙台まで電車で行く (バスで行くのとは全く違った感覚だった)


五年六カ月ぶりに仙台まで電車で行く

(バスで行くのとは全く違った感覚だった)


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クリック拡大  端に船が見える

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新しい駅、都会風である

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亘理の城が見える

長町でおりる


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定禅寺通りの喫茶店

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なぜか三本の木の絵が





新地駅沖に船見え冬の海

沖を行く船の遅しも冬の海

海見えて駅新しき師走かな

松一本電車に見ゆや枯野かな

長町の通り新しはや落葉

復興の電車に帰る冬満月


船一艘沖に見えつつ冬の海復興の電車高架橋行く

三本の欅の枯木見えにつつ定禅寺通りの喫茶店かな

仙台の通りを行きて骨董店しげじけと見て冬のくれかな

仙台の通りを行きて街灯や雪の舞いきて夕暮るるかも

仙台の通り歩み人ごみにまじりて帰る師走なるかな

五年ぶり電車にのりて年月のいつしかすぎて師走なりしも

なお生きて電車にのりて仙台に行く老人や年のくれかな

我を待つ人とてなしも冬の灯を我が家に帰りともしけるかな


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なんか今日仙台まで電車で行ったことが不思議だった。バスよりずっと楽だし仙台を身近に感じた。
行くとき自分よりふけた老人がやはり乗ってみたいと仙台まで乗った。
何か自分は津波とか原発だけではない、一〇年間介護して近くにもゆっくりでかけられない、旅もできなかった。だから本当にも旅ができないのかと思った。
仙台に行くのもこれで終わりなのかとさえ思うこともあった。
なぜなら本当はまだ長い時間がかかったかもしれないからだ。
80才くらいになったら本当に乗れないと思う人もいた、それだけ五年六ケ月となると長いのである。
人間は本当にこれが最後だなとなんでもつくづく思うようになる。
そのことが老人と若い人との大きな差なのである。
何にしろこれが最後なのかと感じてしまうのである。

車窓からの景色はまるっきり変わった、海が広く見えていた。一艘の船も見えた。
高架橋だから振動が少ないとか踏み切りがないとか今までは違っている
多少早くもなっているのかもしれない、時間は一時間二十分だからたいして変わりないみたいだ。
でもバスと較べると本当に楽だし気持ち的にも楽である。仙台がずっと近くなった感じである。それは結局五年六カ月も電車に乗っていないからである。
何か電車のありがたみを感じた一日だった。
北海道辺りだとこん津波が来たら復興はできない、乗る人が少ないから復興はできない。ここは少なくなってもまだまだ乗る人が多い、山下とか坂本でも仙台の通勤圏内になからだ。今日は結構乗っていたみたいだ。

今日は長町でおりた、ここも変わっていた、大きな家具店ができて高いマンションができて新しい広い通りができていた。これも何か不思議だった。すでに落葉の道となっていたそこから地下鉄で勾当台公園に出て定禅寺通りの喫茶店に入った。
あそこから三本の欅の枯木が見えて落ち着く、壁にその三本の樹の抽象画が飾ってあったのも不思議である。あの場所にふさわしいとなる

仙台では定禅寺通りの欅の木を喫茶店から見ていた。あそこは落ち着く場所である。
それも何か不思議である。ええ、まだ自分はここにまだいるのかというふうに感じたのである。
そういう感覚をもったのは介護十年とか津波原発とか大変化にさらされたからである。
家族二人を失ったことも自分にとって本当に辛い大きなことだった。
人間はこういう大変化になると感覚的に変わってしまう。
戦争など経験した人もそうだろう。まだ生きているんだなとかなってしまう。
例えば津波で流されて助かったような人もまだ生きていたなとか不思議な感覚になるだろう。そういう経験をした人がこの辺には多いのである。

骨董店などをのぞいたがいいものがあった、買いたいなと思ったが今回はやめた、それから古本屋に行き古い詩集などを買った。仙台にはずいぶん通った。それは二〇年前とかは本を買うためだった。まず専門的な本は仙台で買う他ない、でも仙台でも実際は本は相当にたりなかった。それで知識的には田舎は相当にハンディがあったのである。
本がなければ勉強しようがないからだ。インターネットもないのだから田舎はそれでハンディが大きかったのである。ネットで買えるようになったときなぜこんなに本があるのかと本当に驚いたのである。それでまた本の蒐集をはじめたのである。
何か専門的に知るには量を集めないとできないことがわかったからだ。
詩集を今では集めているのである。詩集はなかなか集められない、どこにあるのか良く未だにわからないからである。
仙台にはそうしたなかなかないものがまだあったりする

それから骨董品を二軒ばかり見て歩いた、好みのものがあったが今回は買わなかった。
やはりじかに見れるのかがいい、さわれるのがいい、ネットでは茶碗でも買ったが触ったり大きさなどがわからないのである。
確かに今までバスでも来ていたが今回はまるで違った感じを受けた。
来るにも帰るにも余裕があった。この感覚は本当に失っていたのである。
なぜならバスになると余裕がないし疲れるのである。
別に電車に乗れないということがなければこんな感覚にはならなかった。
五年六カ月も電車に乗れないことがそういう感覚にしたのである。
これは故郷を離れて仮設に五年住んだとかこの辺では変則的な生活になってこういう当り前のことが実は恵まれたことだと意識したのである。

帰りは地平線に大きな月がでていた。冬の満月だった。何か復興の電車が通るにはふさわしかった。
ただ帰っても待っている人もいないので淋しいとなる。なんか一人暮らしというのはこれもまたはじめての経験なのである。
これも経験しない人はにはそうならない人にはわからないということがある。
どうせ家に帰っても家族が待ってもないなとしたら自分の帰ってゆくべきところはどこなのか?
家があっても家族がいなかったら家なのかということになるのである。
まさに根なし草のようになってしまうのである。
ともかくここ十年は一身上でも次々に変化に見舞われたのである。
そのうちにまた年とったのである、確かにポーの大渦にのみこまれて急激に老いたともなる。人生にはこういうことがあるのだと思う
何か荒波にもまれて漂流している感じである。実際に津波では本当に波にさらわれて急死に一生を得た人もいたからである。

ともかく復興の大きな節目となったのが今回の仙台までの開通である。
バスは電車では全く感覚的に違うのである。電車がなくなることはそれだけ痛手が大きいことを実感したのである。

2016年12月12日

今日は母の命日 (母の死顔は相当にインターネット見られている)


今日は母の命日


(母の死顔は相当にインターネット見られている)

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忙しく母の命日師走かな

我が家に母の命日冬紅葉

故郷に枯菊あわれ今日も見る


忙しく師走に死にぬ母なりきその一生にふさわしきかな


今日は母の命日だけど何もしない、人も呼ばない、そういう余裕がまだない、花だけ買って飾った、そして墓を見たら死んだ日が二月十二日なっていた。
それは生まれた日だった。石に刻んだからといってまちがいないということもない
人間のしていることには必ずミスがある。

確かに石屋には12月12日としていたはずなのである。これもどっちがミスなのかわからない、良くみていないのが失敗だった、人間は一人だといろんなことでうまくいかなくなる家族がいれば何人か二人でもこ確かめることができるからである。
だから一人というのはつくづく危険である
なんらか共同で暮らしていればこういうことにはなりにくいのである。
特に老人は一人暮らしは良くない、時代的に最新のことがわからなくなる場合があるからだ。

何か死者とか墓とかが自分のテーマにもなった。
兄の墓の中を見たら骨壺にいれたはずなのがその骨壺もなくなっていた。
木の箱だったから230年もたつと跡形もなくなったのか、骨壺は陶器だったろう。
でもなにもなくなっていた、だからその骨を娘にもっていけといってもできなくなっていたのである。
娘はそもそも事情があってもってゆくつもりもなかったのである。
兄の墓と自分の家の墓は事情があって別になっている。
でも今や供養するのは自分一人しかいないのである。
知っている人も自分しかいないのである。

そもそもだから死者とは何なのだろうとなる。ある人は金がないのとその人がいいがげんなために墓に親の名前を刻んでいないのである。
金がないからしない、でも結構食べ物は贅沢しているらしい
これも親不孝と思うが名前を刻んでいなければそこに死者がいるのかともなる
だから死者とは何なのだろうと不思議になるのだ。

いづれは母と姉も兄も合同慰霊する、それは来年になる、一人だとともかくめんどうになる。いちいちお返ししたりするのもめんどうなのである。
だから自分は供養も断った、ただ線香あげてもらうだけだった。
自分は別に金はいらないからである。あとがめんどうになるのが嫌なのである。
ただ世話になった人には香典を多めにだした。

田舎では毎月のように香典を出している人がいる、そうなるとその金がないと困っている人がいるのである。世話になったら多めに出してそんなに多くの人に出すのは無理である金がある人は多くだして金のない人は気持でわずかでもいいのである。
何かなんでも平等だというのは良くないのである。
貧乏な人は別に香典を出さなくても気持だけでいいとかなる
何かそれが今の世の中おかしいのである。

ともかく母が師走に死んだのはふさわしかった、一生が90越えても家事をしていたし働きづめだったからである、その功罪としては何か楽しむこともない人生だった
それも淋しいとなる、花にも興味ももたない、ただ蟻のように休むことなく働いていたのである。これも一見いいようでも異常であり狂気にもなる
日曜日も休まないしただただ働くだけである。そういう人とは一緒にいたくないともなる正直自分にはそう感じていた。大正生まれとかなるとそういう人が多いのである。
遊ぶという余裕がなかったからそうなる。

母はいつも眠るように死にたいといっていた。何かそれだけはその願いはかなった
100才まで生きてそうなったからである。百歳まで生きる人は病気にならないのである。
血管も正常であった。
そして長生きの秘訣はなんですか?と問われたとき無理をしないことですと言っていた。
確かに母は細身でありそもそも体力的にも精神的にも無理ができない女性だったのである冒険などもできない女性だった。

母の死に顔をプログに出したらかなりの人が見ている、「死顔」のキーワードででてくる。実際に親の死顔など出している人はほとんどいないかもしれない、それで本物の死顔がめずらしいからかもしれない、本物の死顔はいい人はまれなのかもしれない、見られないような死相が多いかもしれない、苦悶の表情なのかもしれない、それは医者とか看護師とか葬儀屋は見ているから知っている
母の死に顔は安らかであり笑っているような感じに見えたので不思議だった。

何か知らないけど創価とか仏教系は異常に死相にこだわる、死相で成仏したかどうか判断するからだ。あれもカルトだから仏教系はともかく生者より死者を相手にする宗教なのである。供養も延々とするしその度に金が入るとなるからだ。檀家宗教は死者の宗教なのである。こういうのは仏教とかとは何の関係もないのある。
もし死相がいいならインターネットにも出すだろう、でもほとんど出ていないというのはやはり死相は気味悪くて出せないからだろう。

枯菊というとき今頃になるといつも見ている、故郷に枯れた菊というときそこに住んでいるからあわれだとなる、それは老人でもある。
それは時間の中で経過する自然な姿なのである。
でもそれは故郷に住んでいるから感じることである。老人の介護のために東京から田舎に移住させるのは何か変である、不自然なのである。

つまり人間も生物の一種だというときその土地に根付き朽ちてゆくのが自然なのである。人間の老いもまた同じなのである。それが生物の一生なのである。
でも現代はそうした自然から切り離されて暮らしているからおかしなこと不自然な生となってくるのである。

プログをふりかえり見たら冬紅葉を遺影にさしていた。母はまた冬紅葉にふさわしかった一生が恵まれないということもあった。ただ別に我が家に嫁いですべてが不幸ともならない、結局人間の幸不幸は計れない、意外と最後になると不幸になる人も多いのである。
金持ちの家に嫁いだとしても金持ちの家では息子でも娘でも金があるから施設にあづけるからである。
最後に不幸になっている人が意外と本当に多い、それは介護とかなると娘とか息子でも本心が現れるから怖いのである。
いくら親子でもそうなってしまう、そうなると最後は不幸になる
だから娘を恨んで死んだ女性もいたのである。そういう人は本当に最後は不幸だったとなる。だから人間の幸不幸もわかないとなるのだ。

ともかく一年すぎて楽にはなった、でも淋しさは感じる、介護しているときは何か夢中だった。懸命だった、だから淋しいという感じもなかった。
家にはやはり介護する人がいるから常に緊張状態にもっないたからである。
今になると何かがらんとしていて一人だとなるからでてある。
でも介護というのは尋常なものではない、異常な状態だったとふりかえるのである。
その負担が大きすぎたのである。十年とかしてみればわかる、そういうことが介護には普通にある、その長さの故にまいってしまうのである。

タグ:母の命日

2016年12月11日

師走俳句十句(鹿島から相馬市へ、復興の電車走る)


師走俳句十句(鹿島から相馬市へ、復興の電車走る)  

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この車両は前に団体とあり特別のものだった
開通のために走らせたものらしい

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冬陽没る六万石の城下町

冬の灯や六万石の城下町

冬の月六万石の城下町

灯のともり田町のあわれ冬柳

晩菊や待つ人あれや無人駅

無人駅おりたちあわれ冬薔薇

復興の電車走るや師走かな

復興の電車や百輪の冬椿

枯芒二両の電車や昼の月

石一つここに落ち着き冬椿


ローソンにカフィラティを飲み外見れば枯野広がり昼の月見ゆ 



一昨日は夜に自転車で相馬市に行った。今までは介護だから夜には行けなかった、介護となると問題はつききりではなれられなくなることなのだ。
認知症の場合は特にそうなる、不安になり一人でいられないからだ。
それで十年間ゆっくり外にでることもできなかった。それは相馬市とか近くでもそうだったのである。

相馬市は六万石の城下町であるが外からきた人は何かそうは感じないだろう。城跡があり石垣がわずかに残っているがそこが城があったとも感じないからである。
ただ入母屋作りとか相馬市では建物を昔風に統一した街作りをしている。
新しい市役所でもそうであり公共的な建物はみんな統一している。
それで落ち着いた感じにはなっている。ただそれに不満な人もいるだろう。
建物だけが立派で他に金が回らないとか思う人もいる

相馬藩が六万石というときそれでも土地としては海あり川あり山ありで広いと思う。やはり海があることが福島県でも違っている、そのために津波の被害や原発でも海があって建てられたがそれが裏目に出たのである。
なぜ六万石で野馬追いのようなことができるのか?それだけの侍がいたのかとか疑問になる、そしてなぜ伊達氏のような大藩を相手に戦い独立を保ったのか?
それはやはり海があり海を利用して運輸がありそれで力をもっていたともなる
海は漁業の海ではなく運輸の交通の海としてあったことが見逃されているのである。

鹿島駅は無人駅になった。小高の方に職員が移った。昨日は電車が仙台まで通じた復興の日だった。これはやはり復興として大きい、今日は原町に12両の電車がとまったという、日曜日で特別乗った人がいたのだろう。
でも以前として二両とか4両とか6両で車両としては少ないから乗る人がまだ少ないとなる前は8両が普通だったみたいだからだ。

二両の電車も不思議だった。相馬市と原町の間を行き来していた
なんかのんびりしていた。それで昼の月があっていたともなる
この辺は自分でもそうだが介護で十年でありその間に翻弄されてきた。
そのことはプログに書いてきた。その後は津波であり原発事故でありここは常に変化の中にあった。なんか落ち着かないのである。
自分の母親も死んで明日が一周忌であるが何もしない、花を一杯さして飾り終わりである何か一人だといろいろなことに手が回らないのである。
フログだって書くの半日かかることもある、家事もしているし自分は介護はなくても常に以前として追われた生活なのである。
だから今年仙台に行ったのは一回だけだった。
今年中にもう一回仙台まで乗って終わりである。

この辺の変わりようははげしかった。新しい家が数百軒もたち復興住宅もたちどうも大熊とかの方の人も建てたらしい、今度は浪江の人が復興住宅に集まり住むとか今度は仮設住宅から南相馬市とか相馬市とかにも移ってくる。そこでまた変化がある、
この辺は常に変化なのである。自分の場合、介護十年だったから一身上も常に変化だった30年間変化ない平穏な生活とはまるで違ったものとなっていたのである。

今も自分はほとんど遠くに行かない、毎日近くを行ったり来たりであり十年間そうであるローソンでカフィラティというのがうまい、ミルク味がいいのである。
あそこで外で休みそれを飲むのが一腹であり楽しみである。
外に昼の月がてて枯野が広がる、それが田舎らしいのんびりさがあるとなる
でもこの辺は何か変化が常にあるからずっとのんびりはしていられなかったのである。




2016年12月08日

年の瀬、短歌十首(死者を偲ぶ街)


年の瀬、短歌十首(死者を偲ぶ街)

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母死して一年すぎむ冬の陽の没りて余光や田舎の暮れぬ

その一生忙しく終ゆ師走にそ死ぬはふさわし母なりしかな

我が姉と母とのここに安らかにあれと祈りつ年の終えなむ

我が庭にねじこむ石に広き葉の散りて重なる今日も来る女

この家の庭に石置き冬となり椿の映えて我が日々通る

年の瀬に老人一人また死にぬこの街に生きし女やしのびけるかな

街中に死者は眠りぬこの道を今日も行きにつ年も暮れなむ

駅により誰かよりなむ淋しきや冬の薔薇咲く田舎町かな

駅前の自転車やかな営みのここにつづきて冬に入るかな

美しきわたりの鴨や来たりけり冬の鴎も飛び来る街

夜の霧深くもおおい街の灯や芒のしげりともしきかな


何か母が死んで一周忌が12日だけど不思議な感じになる、姉と母とは60年間も一緒にいただから二人が死んだということが自分にとってどういうことなのかまだわからない
死者が何なのかということはこうして親しい人が死んでみないと実感としてわからない
最近やはり近くで自分の親のような親しかった女性が死んだ、するとそれも何か身近に感じた。
死者とは全く骨となり灰となり何もなくなるのか?
現実は物理的物質的には科学的にみればそうである。唯物論的にはそうなる。

でも死者はやはり存在し続けるという感覚をもつのも人間は単なる物質的な存在ではないからである。そうでなければ死者をいつまでも偲んだり墓参りしたりしないからである。その体は消えてもなにか霊魂なのかなにかわからないが残っていると感じる
その死者を過剰に思いよせたことにより日本の仏教があった。
死者の供養のための仏教と化したのである。仏教はシャカの教えは死者にそんなに重きを置かないからである。
死者を通じての共同性として檀家が生まれたのである。
それはそれなりの村の共同性だった。
ただ戒名であれそれは仏教とは何の関係もない、別にそんなことで救われることも成仏することもない、それは日本的習性となっただけである。

ただ死者を偲ぶということはやはり死者とのつながりを持続させることであるから悪いことではない、国家が「記憶の共同体」だというときまさにそれは故郷というときそういうものがありもともとは村とかから国になった。おくにはどこですかというとき国はもともと小さな村のようなものだったからである。
そこに記憶の共同体としてあったのである。
それを感じたのは自分の家族が死んだことと近くの人が死んだことで感じたのである。

そして墓はすぐ近くにあり毎日墓の前う通っているから自分の場合は死者と親しいともなる、田舎というとき死者が眠るにふさわしい、都会だと騒々しいし死者も安らかに眠れないともなる、人間の感覚はやはり小さい狭い範囲だと理屈なしで一体化する
一万くらいの街だと何もないが何かそこは人間的な場所になる

自分は介護になってから10年間この近辺を行ったり来たりしているだけになったのであるそれでも見るべきものがある、田舎には季節の変化がある、都会では季節の変化が感じにくいのである。
社会を知るというとき小さな世界、田舎のようなところで考えるとわかりやすくなる
東京のような所ではもう混沌として何も考えこともできなくなる、人間はそこで主体性を喪失する、巨大な大都会の歯車と化してしまうのである。
そこでは死者を偲ぶということもしにくい、常に騒々しい今しかない、死者はそこで忘れられるのである。
だから死者を偲ぶのには田舎いいなと思った。
でも死者を偲ぶにしてもその街で生きていたということがなければ死者となっても偲ばれないともなる
それで東京から介護のために移住させるのは何か不自然であり田舎の人も抵抗がある
それは金では解決しない、何でもすべて金では解決しないのである。

原発事故で避難させられた人たちがそうした自分のアイディンティティの場所から切り離されたことが意外と大きな痛手だったことが外から見てわかりにくい
なぜなら墓も先祖も精神的に以前として結ばれていた場所だったのである。
そういう場所を新たに作ることは老人ならできないからである。
そこで小高の老婆は小さな家を新しく建てて住むというのもわかるのである。

自分の家の庭の石はねじこむ石となる、一人の年配の女性が何かとねじこんで入りこんだとなる、その女性は毎日来ている、仕事は5分くらいでありただ毎日来ているというだけである。それでも誰も来ないよりはいいとなる
何か一人になるとこれもまた新たな経験であり心境になる、なんか一人暮らしというのは今まで経験しないことだった。
介護でも母がいたのだから一人ではなかった。だから淋しいということもなかった。
家にはやはり以前として家族がいるという感じだったのである。
それで妻を亡くした人がしきりに介護する人でも家にいればいいと言うのもある程度はわかった。
がらんとした大きな家にいるのが何か不自然であり淋しいとなるからだ。


補足

俳句と短歌ではやはり短歌は生き延びるが俳句はむすかしいかもしれない、俳句はあまりにも短すぎるのである。
でも俳句でつちかった季語は日本の文化から消えることはない、
今回も本当は冬椿とか冬薔薇というとき短歌にすると冬の椿になり冬の薔薇になる。
俳句の方が簡潔に表現できる。でも何か表現しきれないものが俳句にでてきているから俳句はだんだん消失するかもしれない

石の庭ここ日々通り冬椿

この家の庭に石置き冬となり椿の映えて我が日々通る

これは同じものでも俳句になると簡潔になるのである。
つまり季語が冬椿がひきしめる役割を果す、冬椿からイメージするものがすでにできあがっているからである。

the setting stone

in the garden

red camellia japonica

そこはa stone ではなく新しい家でもthe stoneになっている、要するに家とに我があると定着するという感じになる、アパートとか復興住宅でも庭がないと定着するという感じを受けない、復興団地でもそうである。
おそらく家と庭があると大地に根付いたという感覚になるからかもしれない。




2016年12月04日

一枚の木の葉(詩) (都会と田舎の相違ー土地と密着した記憶の場が田舎)


一枚の木の葉(詩)

(都会と田舎の相違ー土地と密着した記憶の場が田舎)

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一枚の木の葉

この道にゆくりなく
夕べ散りにし
木の葉一枚あわれ
なれ親しみ細き道かな
五本松の二本枯れてなし
その二本の松なお我が心にあれ
その道を我が去りゆくも
我が心に一枚の木の葉残りぬ


五本松のあるところから迂回した道はいつも自転車で行っている。
六号線に五本松があるが六号線は車が多くて情緒がない、今は国道とか高速は早いのだが記憶に残る道ではない、それはただ通過してゆくだけの道である。

何度も言うが現代とは何かいろいろなことが人生でも記憶されないことが多いのである。旅でもそのことを書いた。便利すぎて記憶されなのである。
でも人生をふりかえると記憶がいかに大事になるかである。
記憶そのものが人生になる。何がきおくされたかが人生なのである。

最近一人の近くの老人が95才で死んだ。その人は自分の家で店をしてたときもまたそのあともきていた。90才のときも自分の家に来ていたのである。
そして思いだすのはやはり近くの人で世話になった老人だった。
その女性のことは前も書いた。
自分の母親とその二人の女性はいつも自分の家に来ていたのである。
その三人とも死んだ。でも何かその三人がここにいるような気がする
記憶としてその三人が一緒にいたことが残っている

それは相馬市の道の駅にある五本松ともにている、いつも五本松はあった。
しかし二本は枯れて切られた、でも以前として記憶の中に二本の松はある。
人間も何かこの五本松とにているのだ。
あるところに長くいるとそれが奥深い心の中で記憶となり定着するのである。

一方で都会などではただ騒々しく記憶に遺りにくいのである。
だから原発事故で避難した人たちはそういう故郷で住んだ記憶が奪われたことが意外と深刻なのである。新しい場所でまた記憶を作ることはむずかしいからである。
こういう精神的損害が大きかったことは意外と外から見てわからないのである。
それは補償金でも補いえない損失だったのである。
あれだけ補償金もらったんだからかえって得だったという人も外からは見える
でもそれは金で補えないものだった。
だからといって補償金問題はまた別な問題としてある。

とにかく故郷とか田舎は人生を記憶される場所だったのである。

仕事,職;役目;地位,身分;((one's 〜))立場
get a place in a law firm
法律事務所に就職する

fall into placeとは

正しい場所に収まる、うまく収まる、つじつまが合う、ぴったりする

in placeとは

決まった場所に、適当で、適切で

当然あるべき所に(←→out of place)
I found everything in place.

すべての物があるべきところにあった

the placed memory

the pressed memory

the impressed memory

となる




placeはまたpressと通じている、刻印するとかとなり記憶するともなる
場所があり記憶される所が故郷であり田舎なのである。
それは自然の事物でもそうであり人間もそうである。
三人の老女が死んでその三人が石のようにもなる
そういう記憶された場所が故郷であり田舎なのである。
それは都会では得られないことなのである。
それよりそうして作られた記憶はもう一度作り得ようがないのである。
だから老人は記憶に生きているのである。

遂に認知症になと千回も昔のことを語りつづける、今は記憶されないで過去の記憶にまさに生きている、生きたとはその記憶のことだからである。
戦争で苦しんだことを延々と語りつづけて死んだのはそのことが人生でもあったとなる
それは別に田舎のことではないシンガポールとか戦地のことだったがそれがいつまでも記憶として残って忘れられなかったのである。
だから人生とは何が記憶して残されるるかが大事になる
若いときの不品行も記憶として残されるし消えないから怖いのである。
例え別に警察につかまるとかつかまらないとかではない、その心に刻印されるから怖いのである。

タグ:木の葉の詩

2016年12月03日

栃窪から真野ダムへ(冬景色俳句)

栃窪から真野ダムへ(冬景色俳句)


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栃窪に松一本や冬菜かな

前畑に冬菜や蔵の二つかな

栃窪の奥や墓あり残る菊

栃窪の奥に晩菊蔵ある家

川上や巌に枯木水の音

冬の雲ダム湖に写り山の影


川上や木の葉吹き散り枯木かな巌の固くここにとどまる


栃窪で変わったことは高速道路ができてその下を通って行くことである。
この高速道路は結構この辺で影響しているのかもしれない。
まだできたばかりであり車がないからわからないが何か影響している
仙台の会社でユニットバスを作ったのは高速で近くなったからである。
東京方面などからも来やすいということはあるかもしれない。

松一本があり冬菜畑がある。網で囲っているのはイノシシとかキジに荒らされるからだろう。何か田んぼがほりおこされているのはイノシシなのだろう。
イノシシがこの辺では増えたかからである。

ひさしぶりで真野ダムへ行った、紅葉は散って枯木になっていた。
最近木枯らしが三回くらい吹いてその時散ったのだろう。
冬が早くきたというか季節感が狂った、師走だから冬ではある。
でも今日はまたあたたかった。今年は温暖の差がはげしいのである。

栃窪というとき上栃窪となると奥になり感覚的に違ってくる
田舎はいろいろな村があることで変化がある。
そういう村が限界集落とかなって消えてゆくと淋しい
ただ村でも街とつながったり隣の大きな街とつながったりしていると
限界集落にはなりにくい、車があるから買い物でもできるからである。
飯館村となると孤立して遠い感覚になるからまた違っている

真野川でも写真とっていた人がいた。前もあのダム湖で写真をとる人がいた。
あの辺は絵になる所なのである。
霊山まで行こうとしたが時間がなかった。自転車だと簡単には行けない
でもロードで若い人がすいすいと上ってゆくのはうらやましかった。
歩かないと上れないからである。
ヤハマのロードの電動自転車は馬力がなくて坂は上れなかった。
だからあまり厄にたたないということもあった。

とにかく何か最近遠くに行けないのである。何かと用がある、家を一人で切り盛りすることが以前として結構な仕事となっているのである。
仙台に行ったのも今年は一回しかなかったし旅行もしていないのである。
ほとんど近辺ですごしているのである。

タグ:冬菜

2016年11月27日

近辺の冬の写真と写生俳句


近辺の冬の写真と写生俳句



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石囲む庭や中にそ冬椿

石ありて散り重なれる紅葉かな

鳥一羽枯木にとまり餌ねらう


写生は俳句という時本当にそうである。
この三枚の写真を見ればわかる。
写真がすでに写生でありそれに俳句を付け加えただけだとなる
写真俳句が生まれたのは必然だったのである。

冬椿が咲いていたのは石の展覧会のように庭を飾っている家である。
あの家はこの辺では誰でも知っているだろう
いかにも金持ちの家という感じだからである。
あの石は見物である。あの意志だけで相当に高額かもしれないからだ。
ただ他人の庭でも見るのは無料なのである。

近くでも何か毎日見ているそこに変化がある。季節の変化がある
紅葉が散る、あそこの庭は外から見ても何か日本的でいい感じである。
だから他人の庭でも鑑賞している。

今日は枯木に一羽鳥がとまっていた。いかにも冬らしいとなる。
本当は今は晩秋なのだが冬になっている、綿虫なども飛んだ
季節感がおかしくなる。
この鳥は鳶だったのか?鳶というとき冬の季語なのである。
この鳥はただとまっているのかと思ったら餌をねらっていたのである。
川から魚をとったからである。その場面はとれなかった。
まずそんな場面はよほどでないととれない。

ただ近くでも季節の変化があり何か写真になるものがあることは不思議である。
こんな狭い田舎でそんなにないと思うけど結構ある。
ここ十年は旅に出たことがほとんどないのに結構写真をとっているからである。





タグ:冬の俳句

2016年11月21日

冬の蝶(俳句は写生ー空家にもみんな違った表情がある)


冬の蝶(俳句は写生ー空家にもみんな違った表情がある)

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残る菊空家にあわれ今日も見る

良く見れば空家に一羽冬の蝶

冬の蝶あわれ一羽の消えゆきぬ

晩菊や小さき町の駅舎かな

この庭の石に囲みぬ冬椿

岩風呂や奥山の月我がながむ

磐司岩流れうづまき紅葉散る


この道を今日も行くかな石の庭紅葉の燃えてともに住む街



毎日同じ道を行ったり来たりしていた。それも介護で十年間だったから長かった。
街の真ん中に二三軒空家がある。そこは荒れている
そこは一軒家で500万で売り出していた、でも買ってもリホームしないと住めないかもしれない、そうなると価値が低いというより500万では安い
そこに残る菊が咲いているのを見て通る

空家というのにもいろいろ表情がある。近くの空家は不思議だが荒れていない、そこにはいつも白い薔薇が咲いている、でも住んでいないのである。
そこは時々人が来て掃除などしているから荒れていないのである。

空家でも必ずしも荒れているとは限らない、ただ留守にしているという感じのものもある空家の表情は一軒違うのである。家にもそれぞれの表情があり個性があったためかもしれない。
すさまじい空家は森と竹藪にうばれた空家である。それは街から離れた所にあった。
ともかく全国で空家が800軒というからすごい、空家の時代なのである。
この辺で空家でも他から移って借りた人などもいるから空家の需要があるのかもしれないただみんな新住宅外に建った、でも一部は街の中にも建っている
あそこは二三軒空家が並んでいるからなぜだろうともなる

俳句となると写生だと前から書いてきた。この空家はすぐ近くにありそこにこの蝶がとまっていたのである。アカタテハである。
あまり街ではみかけない蝶である。
要するにただ空家にこの蝶がとまっているということが写生であり不思議だとなる
写生がすべてを語っているのである。ただ今の時代だと写真が不可欠になる。
なぜなら冬の蝶がとまっいているといってもどういう蝶かは写真でしかわからないからである。

よく見れば薺花咲く垣根かな 芭蕉

よく見ればというときこれは写生なのである。そもそも人間はなんでも良く見ていないのである。回りでも平凡でも何か見るべきものがあるが見ていない
旅ではいろいろ見るものがあるのだがゆっくり見れない見ていないとなり忘れたとなるのである。

俳句は写生に徹すれば意外と深いものができる。この句も何か平凡のように見えても鑑賞できる人は深いものを感じるだろう、空家に冬の蝶がにあっているともなるからだ。
庭の石と紅葉が映える新しい家の道を毎日通る、やはり仮設と違い家はそこに定着するとなるから違っている
ともに住んでいるのだとみる、ここに暮らすのだとみる。仮設ではそうは見えなかったからである。


なんか旅から介護で十年間遠ざかった。母が死んでからは本当に一人でありそれがなんとも不思議な感覚になってしまった。
何か特に昼間がらんとした家にいるのが嫌で良く原町のモスバーガーにでかける。
そこでも一人だけど家の中で一人でいるのがいやなのである。
老人の一人暮らしの人がスーハーとか人ごみに出ているというのがわかる
一人で家の中にいることが淋しいからである。夜がそれほど感じないが昼間に感じるのである。

秋保温泉にはなんかずいぶん前に行った、大東岳にも仙山線から上った。あそこも登山になるから結構楽ではなかった。
登山もずっと十五年くらいしていないだろう。
何か外にでる、旅するのが億劫になった。旅でも登山でもそれなりにエネルギーが必要だった。そして家に誰もいない留守する人がいないということも何か嫌なのである。
自分が自由に旅できたのは家を守る人がいたからである。

秋保温泉から二口渓谷に行って紅葉でも見ようかとなるが仙台からバスだしこれも億劫なのである。
思い出すとあの時は二口渓谷を下った所に岩風呂があり入ったことを覚えている
その時も秋で月が出ていたのである。月は山にあう、太陽はやはり太平洋から昇るのがにあうとみなれているとそうなる。


タグ:冬の蝶

2016年11月19日

百万のユニットバス完成 ( イワタニで一坪タイプで二〇〇万だと言った)


百万のユニットバス完成


( イワタニで一坪タイプで二〇〇万だと言った)

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入り口は開閉式であり中は密閉されるから風が入らないからいい

シャワーの裏に給湯器がついている、

この位置がガスでは値段に相当な差がでてくるから注意



仙台の優 創建のユニッハバスが完成した。イワタニガスではこれは一坪タイプで200万するという。
完成品を見て驚いていた。この辺ではこれだけのものを作ると200万するというのは本当である。
要するに人手も集められないし個々に頼んだりすると金がかかる
一式いくらと最初から請け負い値段を決めてかかっているから高くならない
自分もまず壊すだけで大変だと思ったからである。
そしてユニッハバスのことを全然知らなかったのでバスだけをとりつけるのかと思っていた。
でも実際はユニットであり室内にバスがついている一体のものだった。
それがきれいにできたのでまるでホテルの風呂のようになったのである。


まずこの辺ではこれだけのものを一〇〇万で作れない、でもその差が大きいとなると知られれば注文が増えるかもしれない、そうなると福島県とか地元でも競争になり苦しくなるなぜ安くなるかというとやはり安くするシステムを構築してはじめたからだろう
人手確保するだけでもむずかしいことがあるからだ。
それと高速ができたので仙台でも早く来れるというのも大きかったかもしれない

現代というのはこうして交通が便利になるのはいいがそれと同時に広域的な競争を強いられる
それはグローバル経済になると世界の競争とまで普通になっていた。
ところが建築関係でも高速などができるとその仕事の範囲が広がってくるのである。
すると地元でもやはりその競争が強いられるし値段だった安くしないといけない
それは別に今まで起きていたことである。
でも建築関係となると距離があるとむずかしい面があったのだ
あとでめんどうみれないとかもあり不安だったのである。

ガス代も一日ずいぶん安い値段だった、何十円とかかからないとかそれはわからないが相当に安いことを言っていた。
それはホースが長いとガスは高くつくという、風呂のすぐ裏に給湯器を設置したのでそれでガス代がかからないという、この長さが相当に影響すると言っていた。
バスとの距離はほとんどないからである。

ともかく早くできたし安かったし完成品はいいものだったし得なことばかりだった
これを知ったら注文を福島県でもとれるかもしれない
地元でも福島県の業者でもこういう建築業者がリホーム業者がいることを知っていた方がいい
つまり仙台はそれだけ先進的なことをしやすいということである。
すると距離が短くなるとそういう先進的な業者が入ってきて地元の仕事が奪われるということになる
これは建築関係ではあまりないと思ったがここでも広域化経済の影響がでてくる
広域化とかはグローバル化でなくてもこの影響はまねがれないのである。
仙台となるとやはり高速でも近くなりその影響がすでに出てきている
この辺は仙台中心に経済でも先進的なものが拡張してくることがしやすいからである。
前からもそうだったが高速の影響がでてきてリホームにも影響がでる

リホームとかなると何か地元の大工が細々とするというふうに見た、何かそれが人手を集めて短期間で工事が終わった。地元ではあんなに手際よくできない
こういう業者が地元に入ってくることはかなり影響があるようになるかもしれない
百万というのは安いしできあがりもいいからである。


仙台の優 創建でユニットバスの工事開始



2016年11月17日

晩菊(原町へ行く旧街道の川子の枯れた松)


晩菊(原町へ行く旧街道の川子の枯れた松)


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陽のあたり小菊一杯飾る道

晩菊や旧街道の枯れし松

晩菊のとりどりここに今日も暮る

晩菊やここになおあり枯れし松

石の庭ここに落ち着き紅葉燃ゆ

明らかに夕星(ゆうづつ)一つ冬に入る

石二つ庭に眠るや月明かり

枯れし松なおここにありその生を留めんとして冬に入るかな

この道の落葉の雨にぬれにつつ我が踏みつつ今日も暮れにき

木枯らしや老いてあわれも散り散りに木の葉散らさる事故の後かな



今は秋から冬になるけど今年はまだ晩秋になるだろう。晩菊とか紅葉も今にあっている。季節の感覚が変わったのである。
原町への旧街道の松は枯れたままなお残っている、まるで幽鬼のようにまだここに根付いてある。実際はこの松は死んでいるのである。
でもなんか自分の母親は百歳まで生きたけどまさにこの松のようだったのである。

これは死んでいるのか生きているのかやはり倒れないから生きているのか?枯松という地名も残っているようにこういう松は各地にあった。なんかここに自分が死んでも跡を残すような執念すら感じてしまうだろう。人間は思うにそれだけ生の執念は強いものである。
一旦生を受けたら本能的に簡単に消えたくない、いや消えるということに耐えられないのである。
動物には死を気にしないというが嘘だった。隣の犬は死ぬ時三日前くらいから悲しそうに吠えつづけていた。それは死にたくない死にたくないと吠えつづけていたのである。

これは別に寝たきりの人とは違う、最後までその土地に大地に根付き枯れて死んでゆく、ここが旧街道でありその土地にもあっている。その場所にあっている
松は人間ならもっとここにいたいということが伝わってくる
人間は長年住んでいるとそういうふうになる、だから老人は長年住んだ所に生きて死にたいとなるのである。
ただあそこにリサイクルの煙突があったりなにか景観は変わってしまった。
相馬の方に行く五本松は良かったがあそこも二本の松が枯れたのは残念である。
この松に祠もあり供え物もしている、何かここにまだ残ってほしいということで近くの人がそうしたのか?
この根元に橙色の晩菊が咲いている、それは何か自分が百歳の母親を介護しているという感じなのである。自分自身も年であり晩菊になったということである。

石の庭に紅葉が燃えているのもいい、移動して動く時燃えるとなるが実はじっとしていて燃えるということもある、心が定着して燃えるということもある。
それは一つの場所に定着して仕事するということでもあるのだ。
あまりにも動いていると集中できないということもあるのだ。
何か仕事をするにはどこかに定着しないとできないのである。
この辺の状態は変化しすぎて何かそうして定着して落ち着いて仕事しにくいということがある。
あの家だって建ててからまだ一年なのか二年なのかそんなものなのである。
ただ落ち着いたという気分になる。仮設では落ち着いたとはならないのである。

石二つは庭に眠っている、争わない、自分の家では60年も争っていたが今は争いもないというとき不思議だとなる、人間は死ねばみんな争うことはない、生きている内はみな何か争っているのである。男女ともそうである。
死ねば皆争うことはない、石のように争わないから不思議だともなる

それからこの辺では原発事故で避難して家族が散り散りになった。
木枯らしは最近吹いたから冬なのか?
木の葉は風に吹き散ったとき、何か散り散りになった家族のことをイメージした。
自然でも人間のことをみているのである。
散り散りに吹き散らされた木の葉は何かこの辺の状態を象徴している風景なのである。




タグ:晩菊 枯松

2016年11月14日

仙台の優 創建でユニットバスの工事開始 (一式セットで100万は安いー家はあとは直したくない)


仙台の優 創建でユニットバスの工事開始


(一式セットで100万は安いー家はあとは直したくない)

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今日まずタイルとか4人がかりて壊した。聞くとこの壊すのがガス屋で大変だと言っていた。自分も全体を壊すのが大変だと見ていた。
実際にドリルで壊してゆくけど相当な力仕事になる。
これだけで相当な金がかかると見る、でもだいたい一日でほぼ壊した。
だから意外と早くできるなと思って良かった。
実際に金曜日で完成して土曜日には入れるというから早い
中に一日くらい休みがある。
すでに給湯器はとりつけてガスの配管もした。
電気関係の人も来て線の工事をした。
みんな仙台の人である。

ユニットバスだけでこの辺で100万すると聞いたからなぜ安いのかと聞いたら仙台は競争が激しいからです、福島県は高くなっていますと言っていた。
福島県は高いのか?福島県と宮城県では値段が相当に違っているという。
知っている人でその人は一人でやっているが頼んだら高くなるし時間もかかるだろう
壊すのでも一人でしていたら時間がかかる、そしてこれだけのものをセットで買わないでばらばらに買っていたらまた金がかかる
だから最初なにもわからなかったが100万は安いと思って即決した。
というのはこの辺では人手不足で電気関係に頼んだらできないとか最初断られたからである。

つまりこの仕事はガス屋とか大工とか電気関係とかユニットバスとか配管とかもかかわるめんどうなものである。だから一人でやるとしたら手間になるし金もかかるとなる
だから他でも頼む人がいるのかもしれない、担当の人が近くで他も回って仕事していた。た
壊す工事をしていた人は作並の人でその山の方に住んでいて雪がふったという、あの辺は山寺に近く山形に近いから早くも雪がふった。
スマホで雪が積もった画像を見せて説明してくれた。5センチくらい積もったらしい。
あの辺は面白山トンネルをぬけると山形県であり春でも山に雪がある。
それで印象的な場である。あそこから来るとしたら遠くなる。

ともかく最初の日に50万金を払うということで不安だった。でも相手も遠くから来ているから金を最初にとるということになった。
契約書に申込金として50万と書いてあったのである。それを良くみていなかったのである結局遠くなると人間は相手をなかなか信用できない、それは双方でそうなる、だから商売は遠方とか国が違ってするとき互いに信用することがむずかしい、だから契約が大事になる、そして意外と細かい所を見ていないからあとで失敗することがある。
契約しましたよということが商売では大きな意味をもつ、それは地元だったら信用を失うと地元で仕事ができないからそういうことはない。

でも今回わかったことは今の社会は広域社会であり広域的に仕事しないとやっていけなくなっている、地元だけでは仕事の量が限られているからだ。
今回の津波や原発事故ではほとんどの人が外から来た人、九州から北海道と全国から来た人たちが仕事した。地元だけではもう何もできないという状態だったのである。
地元の人はパチンコで遊んでいただけだともなった。
家を建てるのもほとんど建て売り住宅であり外部の人である。仙台から来た人も近いから多い仙台は高速道路もできて近くなったこともある
こういうふうに外から来る人が来ると食事とかでは金は落とす、それでこの辺のレストランとかは繁盛したしその他コンビニも増えたりした。
一番増えたのは宿泊所である、プレハブが多いが新しいホテルもできたし増設したりまず宿泊関係は増えた、外から今でも5000人とか来たとか数が多かった。

ただ福島県全体の特需とかは震災から5年すぎて縮小しつつあり終わりに近づいている
福島県では倒産率が全国でも一番少ないとか特需になっていたのである。
補償金が打ち切られるとこれから倒産が増えてくる、ぎりぎりでやっていた小規模の会社が補償金が打ち切られて倒産が増えてくるという。
何かもともとそういう会社は農業でもそうだったが経営してゆくのが限界でもあった。
たまたま原発事故で補償金が入って継続できたともなっていたのである。

いづれにしろ仙台からこうしてリホームとかの会社が来ると地元の人の仕事が奪われる
ただ広域社会とはそういうものだということを物を売るにしても普通になっていた
競争範囲が全国になったりグローバルになったりしていたのである。
だから建築関係の人が全国に展開して事業に失敗した。一個人とかで全国展開すること自体無理だったのである。

ただもう自分はリホームとか家はこれで直すのは終わりにしたい。これまでも何回も家を直している。もう年だし大きな家が負担になっているのだ。
平屋の小さい家がいい、それなら壊すのにも楽だし今の家は大きすぎるのである。
ただこの家には思い出がある。
気丈夫な姉が作ったとも言える家だが母も店をやっているときはもうけたのである。
それで姉が自転車で野菜を近くの農家から買っていたのである。
その野菜が箱に入れたときかなりの重さになった。
でも姉は太っていて力がありそれを持ち上げて自転車でもってくることができたのであるこういうことを語るとき何かこの家はそうして親が作ってくれたものだということを感じる
家に家族にはそれぞれの物語がある。そうして苦労して作った家に自分が跡を継いで住んでいるということを自覚するのである。

でももし何か株でもうけて家を建てたとかなにか苦労話がないとしたらあんまりありがたみもなくなるかもしれない、親でも何かそうした苦労話があるとき家でも他でもありがたいとなるのである。それは自分だけではない他の人もそういうことを語っているのである自分はこの家を建てるためには何の努力もしていない
ただ最後に介護したとき尽くしたというだけだからである。
今日姉を知っていたという人にあった。その人は姉の友達の息子でありそのことを聞いていた。その母親も死んでいた。68才だったから若かった。
その前に行き来していないからわからなくなっていた。
同じ役場に勤めていたので仲良くなっていたのである。

何かまだ姉を知っている人がいたのかとなる、姉は交際が広かったが役場をやめてからも長いし忘れられていたのである。
人間はとにかく会社でも役所でも退職したりするとすぐに忘れられる、もう5年でも十年でもたつと役場に知っている人もいないと言っていたからである。
これも人間の無常なのであるる。
親しくしている人も死に会社でも役所でもやめるとたちまち忘れられるのである。
生きながら社会から消えているような存在になっているのも多いのである。
だから社会で80くらいでも活躍している人はまれなのである。

ともかくこの家も50年くらいすぎた、だからいたんでいる、でも直したくはもうない。
老人になればだから先のことが考えれられないのだ。
庭に樹を植えてもそれが花咲くまでに十年とかかかるとなるとしたらもう植える気がなくなる
それがこの辺では高齢化で問題になっているのである。
なぜなら復興には時間がかかる、若い人なち十年先でも花が咲くとなれば肥料をやり育てることもできなる、しかし老人はその時間がないからできない、すると復交には向いていないとなるのでてある。

2016年11月10日

近辺を回り秋も深まる (専門家時代でも郷土学とはトータルな学問)


近辺を回り秋も深まる


(専門家時代でも郷土学とはトータルな学問)

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秋の陽が昇る
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八沢浦の長岩

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前畑に鶏頭映えて女のあり

晩菊や仮設に五年過ぎにけり

散り残る花びらあわれ秋薔薇

街の路次今日も秋薔薇菓子屋かな


五年すぐ津波の後や長岩に秋の日さしてここに残りぬ

我が買いてためにし本を晩年に読みつつ書斎に秋深まりぬ

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仮設でも五年もいるとそれなりに年月の重みがあるかもしれない、その心境はわからないがやはり五年もいれば時間の重みがでてくる。
ただその間にパチンコとか遊び費やされたというとき何も残らないかもしれない
ただ時間が過ぎただけでは人生でも何も残らないのである。

前畑というとき家の前にある畑である。それは前田と同じである。
人間の生活の拠点となったのが前田であり前畑である。
だからこそ地名化した、常に家の前が仕事場となっている
仕事と家が密着して一体になっているのが田舎だった
会社に通うとかもない生活だったのである。
それが本来の生活だったのである。

秋薔薇というとき最近路地裏の道をゆく、路地裏の道は何か通りとは違っているのだ。
そこに秋の薔薇が咲いていたが花びらなお散り残っていた。
菓子屋が一軒ある、まず街中で今や営みがあるのはわずかである。
どこに勤めているのか、何で暮らしているのか小さな田舎町ですらわからないというのが不思議である。会社に勤めている人が多いのだろう。

八沢浦の長岩は良く津波にも残ったなと思う、あれだけの津波だから岩すら破壊される力だったからである。
やはりそれなりに大きかったから残ったとなる
だから津波のあとにこの岩は残ったなと見る、これも八沢浦の一つの象徴だからである。八沢浦は広い土地が荒地になっているがあと二三年で田んぼにするという
塩害はあまり米作りは関係なかったらしい、かえってミネラルで栄養になるとか言っていた。右田では津波の後に今年は広く実りがあった

自分は20代から書斎が与えられていた。それでいつも仙台にゆくのは本を買うためだった今ふりかえるとそれでも地方は田舎は本を買うこと、本を読むことで相当なハンディがあった。知識というとき本の時代だったからである。
その本が手に入らないし、目立ったものしか手に入らない、見れないという時代だったのである。だから必要なもの読んでいないとなる
何か知りたいというとき今のように古本でも何でもネットで注文するわけにいかないからである。こういう点では今は田舎でも困らない、あることを知りたいというときネットもあるしもっと深く知りたいというときネットで即座に注文すれば配達してくれるからである。
だから情報的には都会と田舎の差はなくなった。それで都会に住むメリットがそんなにない時代なのである。
ただ田舎は人に関してはいろいろな人はいない、農民とか漁民とかいても何かその他はいない、だから知的刺激に欠けるとるな
銀行員が意外と証券マンみたくなり国際的なものになっていて今日も銀行の部長が来て国際のことトランプのことで話した。
銀行とか特に証券関係は相当にグローバルな知識が必要な仕事だったのである。
自分は世界旅行をかなりしたからそれで話を合わせられるのである。

ただ人間は何かみんなかたよっている、農業の話と証券の話とか国際の話をできる人は少ないだろう。意外とまた田舎が農業が仕事としてあっても農業をしていな人は知らないのである。
自分は畑を趣味でしている人を知ったから農業の苦労を知ったのである。
趣味程度でも毎日草むしりとか農業は苦労が多いのである。
いづれにしろ人間は今は総合的に生きるとか見れる人はわずかである。
自分のように故郷とか自然全体をみている人はまれである。
第一詩的に見る、石とか樹とか山とかそれらを見る人はまれである。
農業している人は別に詩を書かない絵を描かないにしても自然に密着するから自然と切り離されずある。他の人は今は自然と切り離されて仕事しているのである。
銀行マンは何なのか?いま証券会社なのかとなる
郷土史とか郷土学が何か狭い範囲のことの追求に見えるが実は総合的な広い範囲でみるものなのである。だからとても一人ではできないのである。

現実にそこで暮らしている人は農業している人だけではない、田舎でも多様な人がいるからである。それをプログであった人のことを書いたのである。
ただ都会のように何か特殊な人かいてそういう人とは出会いないしわからないのである。一方で都会では農業している人の苦労などわからないのである。
それでも毎日食べねば生きていけないのだから農業と田舎と無関係とはいかないのであるいづれにしろ人間は今複雑に仕事も分化してトータルに知り生きることができないのである。逢う人はみんな専門家でありその専門家はトータルに生きていないしトータルな知識も経験もないのである。
だからトータルに総合的に生きるというときアウトサイダーになるのである。
なぜならアウトサイダーは一つの職に属することがないから広い視野で見るということにもなるからである。
だから一つの世界観をもつというとき今は専門家社会だからできないのである。
どんな人でもただ部分の仕事であり部分を見ているだけなのである。


2016年10月30日

秋の日(穏やかな気分の詩-秋の日の木々)


秋の日(穏やかな気分の詩-秋の日の木々)

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秋の日の木々

(the peacrful lined trees)


川べりの土手の桜の樹々に
穏やかな秋の日がさしている
十数本並んだ樹
その根はその土地に根を張る
その樹に私はよりかかる
穏やかな日がその樹にさしている
樹はここにさらに深く根を張る
人はどこかに根を張る
いつまでも旅しているわけにはいかない
幸福をどこに求めるのか?
そが足元に求めずしてない
人はどこかに根を張らねばならない
川の面に鴨が波紋を静かに広げる
争うことなくここに群れている
今私は心から平和を感じた
様々な苦難と労苦に疲弊した
平和いづこにあるのか
そが足元にある
静かに根を張る樹々よ
平和ここにありて根付く
春には花が一杯にまた咲くだろう
日を浴びて青々と野菜はこの土地に育つ
秋から冬へと移る時期
樹はここに静かに並び立つ
変わることなくいつまでもここに・・・・




人間の気分も常に変わっている、気候でも季節でも人間関係でもなんでも影響して変わってくる
まず介護十年とか津波だ原発事故だとか災難の連続だった
自分の家も瓦礫の山となった津波の光景と同じだったのである。
火事場泥棒とか狂気が病気でも吹き荒れたし借金を求められて汲々としていた。
自分も病気になり弱り目に祟り目だった。
弱者化したときチャンスだと責めてきたのである。
つくづくこれが人間の正体かと思った。
ただ責めてきた人間も金で追い詰められていたのである。

自分の気分は30年くらいはなんかこんな気分であり波風もさほどたたなかった。
ただ家族関係ではいつももめていたがそれでもこんな平和な生活がつづいていたのであるそれが一挙に親の病気やら自分の病気やら介護など様々なことでそういう穏やかな平和な気分は失われた。それはこの辺全体もそうだったのである。
震災から5年過ぎてやっと全体的にも回復基調になった。
それでも避難区域だったところは小高でも浪江でもこうなってはいない
そこにも桜並木がありここと同じような場があった。
そういう場が失われたのである。
桜並木は残っていてもそこには人がいないとなる

結局平和とは何かというとき平凡なものなのである。そういう平凡なもののが意味あると気づかないのである。
さんざん苦しんだ結果としてただこうして並びたつ木々に平和を感じたのである。
避難した人たちも故郷の桜並木によりそこで再び平和を見いだしたい感じたいなるだろう要するにそんなことは当たり前だったがそれができなくなったのである。
いづれにしろ介護は相当に疲弊させる、家の中がそういうふうになるともう平和はなくなる、かえってそれにつけこまれたりする、それが人間の悪質さだったのである。
でもまたそういう人も苦しむようになるのが人間なのである。

今年は夏が長くつづいた。それでどうも今頃になると確かに北風が吹いたし寒くなった。でも秋深しと感じない、秋が短いからそうなったのかもしれない。季節感が狂ったともなる。熱帯化した日本になったからである。
秋が短くなったのである。そして冬が早く来たという感じになる。

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桐の花患いなしに昼の月

桐の花が乱れずに咲いて患いがなかったのである。その時自分は仕事もしていないし三食も用意されていた、ただぶらぶらしていたのである。
そういうふうに時間を過ごしてきたことが今になると不思議だとなる
今はそういう人が若い人でも増えている、やはりそれだけの余裕があるからそうなる
でも団塊の世代ではみんな企業戦士になっていたから自分のように自由に過ごしていた人はまれである。
今になるとこうした平和はつづかない、30年間平和だったということが相当に恵まれた時代だったともなる。時代的にも何か必ず不穏なことが起きてくるからだ。
それは個人でも同じであり一生恵まれて平和に過ごせる人などいないのである。
何か苦しいことが必ずあるしそういうことを前もって経験していればかえっていいとなる苦しんでいないとあとで必ず苦しむようになるからである。




タグ:平和な木々

2016年10月29日

菊(北風が吹いて寒くなった)


菊(北風が吹いて寒くなった)

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いつも行く垣根に菊や路次曲がる

知る人の今日も畑に菊映えぬ

前畑に蔵ある家や柿なりぬ

蔵の壁秋の日さして畑あり

北風の鳴りて蔵ある農家かな

日も暮れむ色様々や秋薔薇

ひまわりや道幅広くなりにけり

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モスバーガー



毎日同じ道を行っている、介護してから毎日同じ近辺を行っている、でもそこにもは味わい深いものがある、人間日々見ていても何かを発見する
何気なく日々見ているものに美がありそれに気づかないのである。

畑で知っている人がいつもいる、ただその人から聞くの畑仕事をする苦労だけである。
それだって別にそれで生活しているわけでもない、趣味なのである。
むしろ金を出してしている、その金を出させられたのが自分である。
トマト五六個もらったがあとは何ももらえないし家で仕事するというのも5,6分なのである。それで金をそれなりに払っている、だから割に合わないとなる

なんか自分は割りに合わないようになった。これまでは三食用意するものがいたが介護になってから食事は自分で作っているし家事も全部自分でしている
誰も自分のためにしてくれる人はいない、結局割りの合わない役が回ってきたのである。人間はつくづくいい役ばかりではない、役というときrollという英語になる、rollingするのが人間なのである。
自分は割りが良かったが介護になってからは本当に割りの悪い役が回ってきたということである。

蔵があり畑があり農家がある、こういう景色が落ち着く、なんかこの辺ではそういう当たり前の景色が失われていたからである。今も全部が回復したとは言えない、
今日は北風が吹いて寒かった。北風が蔵に吹きつけても何かびくともしない重みがある。ただここの蔵は古いというのではない、ただ蔵があるということは何か重みが備わる
でも今はあまり蔵は活用していない、それでも蔵あるのが農家だとなる

新田川の橋の方に行く狭い道路は広くなった。そこにひまわりが咲いていた、広い道路を行くのは気持ちがいい、あそこは狭すぎたのである。
広い道路にはひまわりがにあっていた。ひまわりがあそこには結構咲いていた。
秋から冬にはにあわないがひまわりの写真をとった。
他の人も見にきていた。大きいひまわりが見物だった。
他に農家で薔薇を栽培していた、やはり今は写真の時代である。
俳句にしてもなかなか言葉だけだとイメージできないからだ。

人間はおそらく狭い範囲で生活しているとそこにはあるものに愛着を感じてくる。
日々そこを通り見ているからそうなる、旅だと一過性で終わり記憶から消えやすいのである。記憶に残る、それが生活なのである。

モスバーガーには土曜日なのにがら空きだったのはなぜか?あそこは息抜きにいい、喫茶店で仕事する人もいる
あそこは気楽に入れる、何か店は雰囲気によって気分も変わる、、テーブルや椅子の並べ方でも気分が変わる
あそこは天井が高い、内部がくつろげるようになっている
マグドナルドとかは何か食べるだけというだけで嫌なのである。
今の時代は何か雰囲気が大事になる、食べるだけではない、そういう時代である。







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2016年10月22日

取手から来た歩く旅人 (秋の日に鹿島駅前で話する)


取手から来た歩く旅人

 
(秋の日に鹿島駅前で話する)

 
1871年(明治4年)- 廃藩置県により、常陸国に属した現・久賀地区が新治県、下総国の属した小貝川以南が印旛県に属する。
1873年(明治6年)- 小貝川以南が千葉県に属する。
1875年(明治8年)- 小貝川以南が茨城県に編入される。新治県は廃止され、久賀地区も茨城県となる。
1885年(明治18年)- 地積編成により、取手村と大鹿村が合併して取手村になる。
1889年(明治22年)- 市制町村制の施行により、取手村と台宿村が合併して北相馬郡取手町になる。

取手という地名の由来としては、戦国時代に大鹿太郎左衛門の砦(大鹿城:現在の取手競輪場付近)があったことから名づけられたと言う説が有力ですが、平安時代末の11世紀には、伊勢神宮の 相馬御厨として、取手市周辺がすでに史料に記されており、さらに13世紀になると、稲村、戸頭、高井、大鹿などといった地名も、相馬氏の領地として史料に出てきます。

このあたりが、取手という地名の発祥とも言われています。

鹿島駅前で案内板を見ている人がいた。

「最新必ず退職して旅する人に会います、昨日もここから相馬市まで歩いて行った人がいました、驚いたのは鹿児島から青森まで目指しして歩いた人です、その人も退職した人でした」
「私も九州とか東海道とか中山道とか全国歩きましたよ」
「そうですか、今の60代は元気ですよ、歩くことは疲れると思いますが結構歩いています」
「まだこの辺の浜街道は歩いていないので今回歩いているんですよ、双葉とか大熊辺りは歩けないので残念です」
「ここは相馬市に城跡がありますよ、六号線に道の駅がありそこから分かれた細い道が昔の街道です、そこに松並木が残っています、今はなかなか松並木がないですがあの松並木はいい松ですよ、あそこを歩いてみてください」

その人は何か相当に歩いている、歩いて旅することが老後の仕事にもなっているのか?
とにかくどこにでも退職した人たちが自由な旅人になっていることがわかる。
なにしろ暇あるし金もあるからだ。この前は50日間自転車で旅をしている人だった。
その人はテントを積んでいない、ホテルを泊まりながらの旅である。
札幌から自転車で来た人はテントを積んでいた。そして道の駅にテントで泊まった
67才でそういうことはしにくいがしていた。
ただ思うとフェリーできて八戸で下船して大洗までゆくのだからそれほどの行程ではなかった。数日の行程だったのである。
ただテントに泊まることはあの年では楽ではないと思った。
今日の人は相馬市にホテルを予約していた。なかなかこの辺でホテルに泊まれないからである。その辺は用意周到だった。ホテルに泊まればそれなりに金がかかる。
でも退職した人は金ももっているからできるのである。
ただ退職した人でも問題は体力とか一人旅する気力とかコミニケーション能力がためされる、だから結構楽ではないはずである。

「鹿島の右田浜の一本松見てきました」「あれは高いけど低い太い松が多かった、やはりそれなりに百年とかでも過ぎていたから太かった、松川浦の松はみんな細かったからです」
「津波でも原発事故でもこの辺は大変だったでしょう」
「どこから来たんですか」
「取手です」
「取手というと千葉県でしたか」
「いや茨城県ですよ、それには事情がありました、利根川の関係で改修があって分かれたんですよ」

取手という名前は覚えていた、常磐線で良く電車でその駅を通るからである。
ただそこで盲点だったのはすぐ近くに利根川が流れていた、その利根川のことは電車にのっていてもわからなかったのである。電車の旅は意外と肝心なことを見逃している

「歩く旅は記憶に残るからいいですよ、電車とか車だと記憶に残らない、あとでふりかえっても忘れている、歩いた旅は体で覚えるからいいんです」
「福島県を阿武隈高原を横切り歩きましたよ」
「そうですか、福島県は広い、だから六号線を旅する若者に自転車でも福島県を横断してみろというのですが六号線を走るだけの人が多いです」

福島県を知るにはハマ、ナカ、アイヅとあるとき横断しないとわからない、地理感覚として福島県がわからないのである。その人はそういうことまでしていることは相当に旅している、やはり退職していからけ全国を歩いていているから違っていた。
旅はやはり基本的には歩くことである。歩いて体で知るのがいい、でも車社会だから車にのみこまれる。六号線などはそうである。それで自分は歩く旅はしていないのである。
歩くとなると相当に疲れるだろう。途中でホテルがないと泊まることもできなくなる。
ただその人は電車でもバスでも便利なものを利用している、その中で歩くところは歩いているみたいだ。

ともかく人間は自分のようにこれだけ旅したとしても実際は電車とかなるとまず取手のことは皆目知らなかった。地図で見ると利根川がすぐ近くを流れている、ところが利根川にしてもこれは長い大きな川である。この川のことがなぜ見逃されているのか?
それは今や川は交通路でもない、ただ水が流れているというだけになっているからである利根川は水運があった。ただそういう歴史を知ることは利根川を知るというとき利根川を横切ったとしても橋を渡ったとしてもそれは長い大きな川の一部でしかないのである。
川を知るということはその長さを知るということである。それが日本では外国の川のように水運になっていない、外国の川はみんな水運があり運河のようになっていた。
そして街と街は川で結ばれていた。そこからハンザ同盟とかの商業自由都市が生まれたのである。この川のことを日本人は理解できないのである。
日本にないそうした長い運河のような川とか砂漠とか平原とか草原とかは日本にないのだから理解できないのである。
江戸時代は水運が物を運ぶのに大きな役割を果たしていた。ただ外国のようにもう一つその歴史が見えない、今になると日本の川は急流になったり浅瀬になったりして物を運ぶ船のことがイメージできないのである。外国なら今でもイメージできるからである。
最上川は深いしこれなら船も通れるというのでイメージしやすい、利根川はどうなのだろとうなるとこの川についてはただ電車で横切っただけだから皆目わからないのである。

取手市の歴史にあるように北相馬となり流山市も近いから相馬氏がここで栄えて移動してきた。だから取手でも相馬氏の先祖だから身近だとなる
旅をするというときまず地理を知らないと基本的なことが理解できないのである。
福島県を知ろうとしたらどうしてもハマ、ナカ、アイヅと横断する必要があるのだ。
それはかなりの苦労かある。時間もかかるし歩いたりしたら疲れるから自分は自転車で横断してもしていない。
なぜ自分がこうして旅してきた人とか仕事に来た人でも話をある程度あわせられるのはそれだけその場を踏んでいるからである。それでも日本は広い、だから取手は意外身近なんだけど知らないのである。
そもそも知るということはどういうことなのかというとそのスボットでも知るのにも利根川があるとしたらその利根川の全体の中で取手もあるから知るということは限りなくあるそれで例えその場に行ってもわからないということが多いのである。
今は車でも電車でも一部分を通りすぎるという旅が多いからそうなる。全体からイメージできないのである。

 日既に暮かゝるほどに、利根川のほとり、ふさといふ所につく。此川にて、鮭の網代と云ものをたくみて、武江の市にひさぐもの有り。よひのほど、其の漁家に入てやすらふ。よるのやど、なまぐさし。月くまなくはれけるまゝに、夜舟さし下して、鹿島にいたる。
 (芭蕉、鹿島紀行)

月明かり船の下るや鹿島へと

月見えず闇の深まり帰るかな

夜を船で下り明けて昼は曇り鹿島に詣でて夜は月が見えなかった。その当時は闇は深いのである。鹿島神宮には森があり暗いとなる。その暗さがあって月明かりで船で下ったことが印象的にもなる。月明かりは暗さがなっかたら映えないのである。
今はもう電気の光でそうした月明かりが消されている、東京近辺は特にそうなのである。だから昔を偲ぶことがむずかいしのである。

川上とこの川下や月の友

 今宵は名月。私はこうして小名木川の五本松で川面に揺れる月を眺めているが、この同じ川上には私の心の友もこれと同じ月を眺めているであろう。

 川上で眺めている「月の友」が誰であるかはもちろん分からないが、古来山口素堂であろうといわれている。

芭蕉庵は小名木川が隅田川に流れ込む河口にあり、小名木川沿いには芭蕉の門人たちの家がありました。芭蕉はたびたび船に乗って門人たちの家を訪ね、句会を催しました。

小名木川とう小さな川でも支流であり利根川とつながり舟運があった。江戸でも川船が行き来していた。時代劇の風景は水運が盛んだったことを示している。
写真にもでていたが広々として利根川が満々と水を湛えている、芭蕉が読んだこの句は小名木川とか短い川のことである。月の友といってもすぐ近くだともなる。 利根川は長いとしてもそれより上となると支流で結ばれているから実感がない。外国だったら遠くまで川で結ばれる友となる。それは実感であり違和感がないのである。ただ夜の川を下ることができたのか、月明かりで下ったとなる、月が明るかったからである。
でもなぜそんなに急いでいたのか?夜はやはり何か危険ではないか?
でも月明かりで船で下るとしたら詩的な絵画的な風景がイメージされる

旅の人鹿島の駅や秋薔薇

我が町によれる旅人取手より来るとしばし秋の日暮れぬ

プログはこうしてその時々書くといいのである。引用もしやすい、問題をある場所をどこまでイメージできるかである。この地理感覚がもてない、東京近辺るなると家がたて込んでいたりして昔の風情がなくなっているからである。そうなると昔を偲ぶということがむずかしくなるからである。



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小名木川と芭蕉

東京にもこれだけの歴史があったとしても川も狭いしビルの谷間になっているし昔を偲べないのである。
隅田川は広いからなんとか昔を偲べるが小名木川は狭すぎるのである。

小名木川(小奈木川)は、江戸の時代には「塩の道」と呼ばれ、徳川家康が下総国行徳(現在の千葉の浦安から行徳あたりにあった行徳塩田)から江戸に塩を運ぶために作らせた運河です。描かれている舟は行徳帰りの舟ということです。ちなみに、家康からこの川を作るよう命じられたのが小名木四朗兵衛という者だったことから、この川が小名木川となったようです。


五本松ここに名月や船いずる

江戸時代は江戸でもそこは自然豊なのである。自然と人工的なものが調和していた。だからベニスのように美しい風景になり浮世絵に残されていたのである。今はそうした自然と人工的なものが調和したものが見られない、ビルの谷間で小名木川も死んでいるし松もない。
だから江戸時代の江戸を旅したらそこは今の東京とはまるで違った美しい場所だったとなる。
それはもうイメージしないか限りない、現実にはもうないのである失われたのである。
その場に立ってもそういう風景がないのだから偲べないのである。

小名木川月の写りて五本松芭蕉の友は川の上かな






タグ:取手

秋の短歌(相馬市から家の近辺)


秋の短歌(相馬市から家の近辺)


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玄関に舞いて去りにき秋の蝶

十数個石を並べて秋の風

秋薔薇鹿島駅舎の古しかな

誰か見る路地裏行けば秋薔薇

秋の風ロードに走り鳥の影


城跡に秋の日ざし静なり二人よりにつ歩みけるかな

城跡に石垣残り秋の日のさして偲べる昔なるかな

相馬市に古本一冊買いにけり秋の日のはや没りて暮れにき

宇多川の水清らかに鮭上る実りの季や城跡たずぬ

相馬市の路地裏歩み病院に勤める人の家秋の日暮れめ

今日もまた一羽舞い去る秋の蝶街の通りの静かなるかな

我が庭にジョウビタキ来るかな季節の移り今日感じぬ

青々と野菜の葉広く畑かな秋の日さしてここに育ちぬ

留守にせし部屋に満ちにし百合の香や我が帰れるを花は待ちにき

木の下にあれば木の葉のゆくりなく一枚散りぬ誰か受けとむ

今日もまたこの道行きて一枚のこの葉散りてあわれ深まる


真澄みの空に
鳩の群れ飛び回る
朝日さしまばゆく
地に黄金の実り
そを刈りとる季かな

相馬市は城下町で碁盤の目のような道になる。細い路地が多い。
そこで相馬総合病院でみてもらった医者の人の家が偶然にあった。
それはまちがいないだろう。
別に病院があるのだから医者の家もある。その人たちも住んでいる
でも医者というと病院ではお医者様でありその土地で普通接していない、
開業医は別だけど病院勤めだとその土地に住んでいてもまた別である。
ただ医者でも病院にいるときだけしか見ないからここに家があったのだとなと
不思議に思ったのである。
医者でも相馬市内で生活しているのだから当然だけど何か現代は病院とか学校とか役所でもその人たちが土地の人というよりそういう施設や組織の人間とみる
それからたいだい会社の人間として見ている

江戸時代とかなると農業している人がほとんどでありそれは土地に根ざしている、里の人であり村の人なのである。
まさに土着している人たちである。だからどこの村に住んでいるかでその人を判断していたのである。病院に勤めている、学校に勤めている、会社に勤めている、役所に勤めているとか何かそういうことはなかった。
そんなこと当り前だとかいうけど意外とそれが江戸時代から明治に変わってきて起きたことなのである。

近くの畑に青々と野菜の葉が秋のひざしをうけて育つ、これもまたここに日差しをうけて育つということで売っている野菜とは違う、現代はこういう単純なことが実感できないのである。都会だったら田畑がないのだからまず野菜を育つ場を知らないのである。
田舎だとこの野菜を食べて自分も育まれ生きているんだなとなる
それは復興住宅を作る人たちを見ても感じたのである。
それを作っている現場を知らない、ただ物がどこからでも入ってくる時代である。
そういうことから何か今の社会は様々な問題が生まれる
原発だって東電の人がその土地に生活していた、その時田舎で暮らすことがどういうことか実感する、もし事故が起きてこの土地が放射能で汚されたらどうなるだろうなどと考えたかもしれない、それが東京で暮らしているとわからないのである。

季節は常に変わってゆく、なんか今年は暑くなったり寒くなったり体調を壊す
鮭も上りジョウビタキも来た、これは渡り鳥である。まだこの辺では白鳥は来ていない
猪苗代湖にはすでに来ている
稲穂が黄金色に実る、鳩が群れ飛んでいる、これも気持がいい平和な気分にひたされる
今年は実りがこの辺ではかなりあった。ただ飼料米になるというのもすっきりしないだろう。せっかく作ったものが飼料米ではその米自体が価値がないとみられるのでそうなる
それでも実りがないよりはいいとなる
前は松原があり松原に実りが映えていたのである。それが松は全部なくなってしまった。これもあまりにも大きな変化だったのである。風景そのものがなくなるなど想像もできなかったのである。もちろん村も消失したこともである。

ロードで走ると気分がいい、実りの平野を走る、すると鳥が一瞬飛びよぎる影を見る
まさにこの時自転車と鳥が一体となる、鳥のように走るとはならないが自転車は車と違うから自然と一体化するのである。

日々ゆく道には木の葉が散る、昨日も一枚散り今日も散った。その一枚一枚を感じるというときその木の葉は一人一人の人間のことともなる
なぜなら毎日人が相馬地方でも死んでいるからである。
するとその死んだ一人一人どうだったのだろう、どんな人生を送ったのだろうとか思うのである

鹿島駅舎は明治以来のもので古いという、立て替えられなかったのだろう
ただあのような駅舎は良くみかける、普通あれは駅舎であり変わったものとは思えないし古いものとも思わなかった。でも当時から建てられたまま変わらなかったものだとなる
そこに秋薔薇がにあうとなる、鉄道というとき駅舎にも愛着を感じる
鉄道というのはバスとかとは全然違う、何かそれか生活を作ってきたという感じになる
だから引き込み線があり縄屋とか近くにあり梱包するために使っていた。
自転車屋は駅前にあるのは汽車で電車で運ばれてきていたからである。
前には国鉄の官舎もあったからである。その時代も昔になったのである。
タグ:実り

2016年10月16日

月影の魅力(相馬市の城跡周辺の不思議)


月影の魅力(相馬市の城跡周辺の不思議)

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我が街の細道行きて秋の薔薇一輪あわれ菓子屋のありぬ

満月や平野に実り喜びを分かちあわなむ故郷に住む



秋の城跡

長々と秋の柳のしだれにつ
城跡に秋の日ざしかな
その残れる石垣に偲ぶ昔や
相馬六万石の何か淋しき
その街の細道行きてあわれかな
何か営みのあるべし
街を出て微かに鳴きぬ虫の声
その音に我は耳を傾けしも
芒はなびき所々稲は刈られぬ
五本松に月影の道我は帰りぬ
昔あれ月影に浮かびし城や
そも幻となれやただ石垣のみあり


(城にさす月影あわれ夢の跡)


山本八重(新島八重)が会津鶴ヶ城の開城前夜に詠んだとされる短歌がある。


明日の夜は何国(いづく)の誰かながむらんなれにし御城(みしろ)に残す月影

この歌が月影に浮かんでいる城をイメージしたのか?
会津の城は新しく建てられたからかえって無常観がなくなったのである。
城で昔のままに残っているのは5つつくらいしかないようだ。
新しく建てると何かそれが現実味がなくなる、中が博物館になっていたりしてこれは博物館なのかと思ってしまう。

かえって城もない石垣だけが残っているとそこに無常観を感じる
相馬藩はそうである。天守閣もあったが雷落ちてなくなったとか、何かどういう城があったかもイメージできない、六万石だから大きな城ではないが城があった

何度も書いているけど相馬市の不思議は特に城の周辺の不思議は何なのか?
何かそこが淋しいものとなっている。特に静かになっている
しんみりとしてくる、それが原町では感じない、全く原町では昔を感じないのである。
ただ相馬市でもかえって六号線とか松川浦に行く方になると昔を感じない
新しい街という感じになる。田町辺りまでが城下町の範囲だから昔があったのはその辺までである。

相馬藩だと城跡があってもそこにどういう城があったのかイメージできない、ただ石垣だけが無常に残っているというだけである。
城の魅力は新しく建てられた所にあるとは限らない、石垣だけが残っていてもそこに無常観を感じるとき歴史も感じる
城は常に中心的存在として象徴としてあった。それが明治の時侍はいなくなり城は無用化したからである。この変化も大きかったのである。

昨夜は満月が美しく輝いていた。この辺では浜の方でも今年は実りがあった。
ただ米は飼料米になる、いろいろ風評被害があり売れないからである
でも今年はこの辺は実りの面積はかなり増えた、それで全体的に復興したのかともみる

ともかく月影というとき何か神秘的なのである。月影を感じるには暗ければ暗いほどいいのである。
それで小高辺りは相当に暗いから月影の中に街が浮かぶともなる
何か不思議に感じるだろう。影絵のように街が浮かぶともなる
そんな詩的な幻想どころではないというのもわかるがそういう廃墟とかこの辺をただ面白いから見に来る人も結構いるのである。
現実に廃墟の魅力はそこに人が住んでいたから何か自然そのものとは違うものを感じる

しかしもともと戦前でも大正時代でもランプだった。相当に今より暗かった。
すると月影がさして家の灯であれ街の灯であれともしいものとなる
ただ月影にたよりに歩くことはできる、電気の光りではなく月影の光りで歩いていた。

湯原王(ゆはらのおほきみ)の歌一首

月読(つくよみ)の光に来(き)ませあしひきの山経隔(きへな)りて遠(とほ)からなくに

万葉時代にこういう経験していた。それはさらに暗い時代である。これほど電気の光があり明るいところで暮らしたのはまだ百年くらいなのである。
それまで月の光が頼りだったともなる、都会ではまず月影を頼り歩むなどありえなくなった。すると自然の神秘を感じないで生活している、人工的な電気の光の中で暮らしているのである。これも考えると異常なことなのかもしれないのである。

タグ:月影

2016年10月15日

午後6時交通事故発生



午後6時交通事故発生

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相馬市に行ったら旧街道の細い道で車にテールライトつけろとどなられた。
自転車は車にとって嫌なものである。
突如横切ったりもするからである。今日は暗くなっていたのでそうなった。

そして六号線のサテライト鹿島から八沢浦に入る道を越えた
坂を下る所で交通事故が起きていた。
重症だと言っていた。

あそこは坂を上り下る場所である。それで前の車と衝突したのか?
どこで交通事故が起きるかわからない、意外なところで起きるからである。
あそこは坂を上り下りる所で危険だったのか?

すぐに写真をとった、前がめちゃくちゃに壊れているから相当に激しくぶつかったのである。
自分は自転車は歩道を普通は行っている、街中だとそうはいかないのでやはりテールライトが必要なるようだ。




今回の事故はダンプにぶつかった、何でもヘリで運ばれたという、南相馬市病院のヘリが発着できる、停止できる場がビルの上に作られたからである。
でも救急車でも近いから運ばれたのかと思った。
この辺はダンフが多いから危険なのである。
ダンプの事故は相当にこの辺では起きている
ダンプにぶつかったら本当に危険である。それで前はメチャクチャに壊されたのである。へたすると死んでいたかもしれない事故である。

そして今日はもう一つ鹿島区の千倉でもバイクと車がぶつかる事故があった。
そんなに遠くないところで今日は二つも同時に事故があった。
交通事故はこの辺は増えているから危険である。
なにしろダンプが多すぎるのである。

自転車も夜は危険である。知っている道でも危険である。
歩道を走ればいいが旧道は道が細すぎるのである。
テールライトはすぐにアマゾンで注文した。


タグ:交通事故

2016年10月13日

南相馬市原町区の道の駅で67歳の自転車旅行の人にあう (その人は猛者(もさ)であり冬山にも登っていた)


南相馬市原町区の道の駅で67歳の自転車旅行の人にあう


(その人は猛者(もさ)であり冬山にも登っていた)


この前の自転車旅行の人はバッグをつけていない、ホテルか旅館に泊まっていた。
50日間自転車旅行していてもテントとか荷物がないのだから楽である。
ただ50日間が長いなと思った。

今回の人は北海道の札幌から来た、苫小牧でフェリーで八戸まで来て原町の道の駅に来た何か自転車に詳しい、キャリアーをロードにとりつけるのになく注文して半年か一年かかかった、自分のもロードだがキャリアーつけられない、それから自分の自転車を見て
変速機も軽いものに交換できるという、そこまでできると思わなかった。

どこまでいくのかと聞いたら大洗まで行くという、そこからまたフェリーにのって苫小牧に行き札幌に帰る、苫小牧から北海道には良く行ったけど八戸とか大洗は利用していない仙台から苫小牧とか名古屋には行った
その人はかなりフェリーを利用していた。日本全国自転車でほとんど回っている
自分より相当に上手である。たいして体力あるようには見えない、顔も年とった顔なのである。やせてもいるからだ。でも筋肉はしまっているのだろう。

その人は相当なタフなスポーツマンのようだ。なぜなら冬山にも登って仲間も死んだというからだ、冬山を登る人は並の体力ではない、モサ(猛者)だったのだろう。
なぜならテントも積んでいて原町の道の駅にとまるというからだ。
67歳とかなるとあまりそういうことをする人はいないからだ。
ただ60以降の退職者が良く旅しているから出会う。
今回の人は自転車旅行でも相当に旅慣れている
あの年でテントだと疲れる、自転車旅行はホテルとかに泊まりにくい場合があるからテントを持つのが普通である。
でも年になれば別にホテルでも金あればとまっていい
あの人はテントで道の駅にとまるということはやはりそういう人はまれだろう。

ただ札幌から苫小牧、八戸から大洗となるとそれほどの距離ではないだろう。
ロードだと一日百キロは行くからである。
一週間くらいだとしたら日数的には楽である
でも人間は年取って体力には差があるなとつくづく思う
自分は40代とかでも一日休養をとってやっと行っているくらいだった。
その人は体力もあるがなにかいろいろ器用にこなせる
バスにも自転車用バッグで乗せるというからだ。
人があまり乗らないとできると言っていた。ただそれも交渉が必要でありそういうこともなかなかできる人とできない人がいる
あの人はそういうこともできる人である。

ともかく67歳でもそういう人はいる、退職した団塊の世代はまだ体力がある人がいるしそういう遊びに長けた人が多いのである。
スポーツやっていた人も多いのである。冬山は一番きついのだからやはり体力が違っている、だから自分とはずいぶん違うなと見た
でもその人も最後の旅になるとか言っていたからやはりそういう年になる
何をするにも最後だという感覚になるのである。
それが若い人とは違ったものとなる

ただ札幌に住んでいるということはそこは大都会だから別に北海道でも不便な所に住んでいるわけではない、要するに都会人なのである。
自分は一万の町に住んでいるとしたら田舎人である。だから北海道でも札幌に住んでいるのとそこか離れた辺鄙なところに住んでいる人では全く違った環境に住んでいることになる、この辺では仙台に住んでいるようなものである。
本当に北海道で生活しているとなると牛を飼ったり農業している人が本当に北海道で生活している北海道人となるかもしれない、札幌は都会人なのである。
自転車屋でも大きな自転車屋があるから自転車に詳しくなれるということもある

自分もまた北海道を自転車旅行してたいと思った。ただ何か筋肉痛になったり疲れる
気力も衰えたとかなる、でももう一度北海道走ってみたい、特にロードで平坦な道を走ったら気持ちいいだろとう思う
十年は介護や自分の病気で消耗して時間がまたたくまに過ぎてしまった。
これだけ遊んでも遊び足りない、時間は遊ぶだけでもすぐに尽きる
としたら勤めている人は遊ぶのはほんのわずかな時間しかなかったとなるのだ。
つまり人間の費やす時間はあまりにも限られたものだったのである。
60になって退職して自由になり旅しようとしてもできない場合がでてくる
病気になったり介護になったり何が起きるかわからないからだ。
そして人生の時間はたちまち尽きてしまうのである。


月光る自転車旅行67歳





タグ:自転車旅行