2016年02月22日

避難区域など小高などは老人だけの町になる? (デンデラ野のように老人が捨てられ場所になる?)


避難区域など小高などは老人だけの町になる?

(デンデラ野のように老人が捨てられ場所になる?)


小高で避難解除してやれるのは双葉食堂とか工事や除染関係の人を宿泊させることだろういつも並んでいる双葉食堂などは小高にもどって始めるがそこでも繁盛するだろう
それだけでも活気を与えることは確かである。
その他は何か補償金頼りになっている、避難解除を4月から5月までに伸ばすというのも補償金目当てだろうとなる
要するにずっと補償金をもらって暮らしたいというのが本音なのである。
みんな国民年金しかもらえないんだよ,もっと補償してくれとなる
そういえる人は恵まれているとなる、中通りでも風評被害があっても補償されない
南相馬市でも鹿島区は30キロからはずれて補償金はわずかだった
それより相馬市は何ももらっていないのである。


何かごねれば補償金がもらえるということになれたのかもしれない
それは何か沖縄とにているのである。
原発というのも何か基地とかとにている、いらないものだがそれにたかり補償金をもらう基地の土地所有者は西日本で長者番付にのっている。
そういう矛盾は原発地域にもあった。それは前からあった。漁業関係者は補償金が多額であり原発御殿が建ったというのは嘘ではない、ただそれは全部ではない、一部の漁業権者だけである。
だから回りではうらやましく見ていて不満だったのである。
それが今回の原発事故で表面化したのである。


小高に帰る人も13パーセントととかなると前よりは相当にさびれた限界集落のようになるかもしれない、それで帰りたくないという人が増える
老人が多いから老人だけの街というのが成り立つのかとなる
テレビで老人だけが住む特区を作ったがうまくいかない、若い人たちを住まわせたら老人と子供の交流ができて活気が生れたというから老人だけでは街は成り立たないだろう。
一つの考え方としては別にもうそこを死に場所としてそこで死ぬというのもありうる
ただそれまでに介護とかあると若い人の世話になったりすると迷惑になる
それで遠野にデンデラ野というのがあったというのも面白い

デンデラ野の説明板にはこのように書かれています。食い扶持を減らすために追いやられた老人たちは、亡くなるとこの場所へ埋められました。デンデラ野は墓場であり、ここへ来た老人は生きていても「墓に入った故人」として扱われたそうです。

まさにこんな町になる恐怖がある。貧乏な時代は老人の食い扶持を減らすことが生き延びることだった。
そこでは医者もいないし介護もない、病気になったら死ぬのである。
食い扶持はそこに捨てられた老人でまかなっていたのである。耕作していたのである。
そこではただ老人が助け合っていたというのが救いといえば救いである。
老人はやはり労働しないから当時はやっかいものとなり無駄なものとしてそうなった。
老人を養う余力がなかった。
今は若者が老人によってそのエネルギーを吸い取られているという異常な時代なのかもしれない、介護施設で三人の老人を世話するのがめんどうだから殺したという事件もやはり時代を象徴している


つまり小高は笑い事ではない、他でも津波の被害地域でも若者が流出しているから老人だけが取り残されてデンデラ野化してしまうかもしれない、それは別にここだけの問題ではない、全国の限界集落はそうなりつつある。
老人が仲間として生活して助け合っているが子供がいないのでいづれ介護になったら世話する人がいない、デンデラ野では老人が老人を世話していた。そうするほかないからそうなった。

いづれにしろそういう場所には帰りたくないという気持はわかる。
でも何かとゴネで補償金をもらうためにしているということが見え見えなので反発される鹿島区などではわずかにもらっても除外されたからである。
前から市長は小高区には力を入れていたのでありそれで鹿島では反発している
鹿島区選出の議員が仮設の小高の人を支援していたから何か鹿島の人も小高を支援していると思っていた知り合いの女性がいた。
常にかわいそうだと支援されてきたから自分たちはかわいそうなのでありこれからもずっと支援されるべきだとなってしまったのである。

沖縄は全国から嫌われている、補助金をいくら出してもたかるだけで以前として貧乏だとかいろいろ不満がある。その特殊な地域で防衛のために欠かせないとか基地があるから補償するとかありこの辺の原発とにていたのである。
ただ沖縄は遠いから工場など作るのがむずかしい、福島県はこの辺でも東京と近いから工場があり沖縄とは違っていたのである。
その近いということが原発が作られた原因だったのである。
浪江の人が小高の人がうらやましがっているの補償金がまだ長くもらえるからである。
補償金で遊び暮らすことになれてしまった。慣れは恐ろしいものではそれが当然だとなってしまうのである。
そして集団化すると批判するとあいつはなんだとかなり圧力をかけたりする
それは沖縄とにた地域となったのである。
こういう市町村はいづれは荒廃してしまうかもしれない、若者は流出して老人だけが残されデンデラ野に置き去りにされてそこで放置されて死ぬとなる
それもまた運命だとして残るものは残る、ただ医者も介護も金の援助も要求できない
そうなるとますます帰る人はなくなるだろう。


この辺は小高がなくなっても原町とか相馬市がありなんとかもちこたえるということはある。小高を捨ててもゆくゆくは南相馬市も相馬市と一体化して相馬市になるかもしれない人口減少すればそうなってゆく、それは全国で市町村が消滅してゆくとうことをこの辺は極端に先取りして具体的に現れた地域なのである。

タグ:デンデラ野

2016年02月19日

紅梅(新しい相馬市の市庁舎が建つ前で話した)


紅梅(新しい相馬市の市庁舎が建つ前で話した)


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紅梅や日立木過ぎて相馬市へ

紅梅やほのぼのと赤い有田焼

梅をまた開きそめるや六号線

春の日や買い物楽し街に来る

我が買いぬ茶碗二つや春の色

五本松浜街道や春の月

石三つ我が庭狭く春の月


相馬市で新しい市庁舎を建てる工事をしていた。そこに一人の年配の女性が立っていた。

「ここもやはり他と同じような建物になるのか」
「和風の建物」
「入母屋作りの屋根の建物、市民会館から道の駅でも建物が統一されているから
相馬市はなんか落ち着くのでいいんだよ」
「相馬市は建物ばかり良くていいことないよ」
「そうですか」
「私は原町の方が好きだよ、相馬市よりにぎわっているよ」

そんなことを立ち話した。相馬市と原町の相違は前にもいろいろ書いてきた。
地元の人ならわかるが外から来た人はわからないだろう。
相馬市は公共的な建物はみんな入母屋作りの建物にしているから統一感があり落ち着くし城下町らしいとなる
それと高いビルがないのが落ち着いた感覚になる。
街作りのことを考えるとやはり高い建物が立つと景観が乱されるのだ
京都でも古い町屋の前に高層のマンションができていたがそれが高いからおおいかぶさるような圧迫を感じたのである。
それは外から見てもそうなのである。高いビルがあると自然も映えないのである。
城下町というとき城下町には天守閣かあり城が町の中心にあり一番目立っていたのであるたいがい二階すらなく平屋であるから当然城が一番目立っていたのである。
大坂城でもそうであり今はビルに囲まれているから目立たない、ただ石垣だけが幾重にも取り囲んでいるからその石垣に感嘆する。
そもそも今になるとなぜ城はあんなに小さいのだろうかとなる。
ビル一つにもならないほど小さいということである。

いづれにしろ人間は自分の住んでいるところがいいという人はいない、何かしら不満であり外から見ていいと思っていても内部に住んでいる人はいいと思っていない
倉敷でも蔵ばっかりで嫌だとか言っていたから同じである。
外から見れば蔵があってまさに倉敷になっていて観光客がくる
でも内部の人はいやがっているのと同じであるか。

「南相馬市は相馬市よりいいよ、震災後も原発の金が入ってきたから」
「それは言えます、仮設の人たちは金が入ってきましたから、原発の金は大きいですから、相馬市は津波の被害があっても原発事故では金は入ってきませんでしたから」
「相馬市は実際は貧乏な人が多いんだよ、建物ばかりがいいだけなんだ」
「原発の金が入らないから相馬市は損だった、それは同情します」

南相馬市と相馬市の大きな相違は原発事故以後が政府からでも入る金の差だった。
津波の被害もあれだけ大きなものだったけど補償金が入らないことがあったからである。漁業関係者はもらっても他はもらっていない、国からもあまりもらっていないだろう。
南相馬市は30キロ圏内だから財政的にも相当援助されたということはある。
確かにイオンがあっても原町のイオンは相馬市よりは規模が大きい、でも原町と相馬を比べたら小高や鹿島よりはずっといいのでてある。
街としては相馬市の方が何かにぎやかさには欠けるが落ち着いていいと思う。
それは城下町としての街作りをしているのもいいと思う。
ただ内部の人からすると何か必ず不満が生れるのである。
相馬市は貧乏な人が多いというとき建物ばかり立派にしないで日々の暮らしとか福祉でも充実してもらいたいとなる、そういう不満は常にどこにでもある。

イオンの中で瀬戸物を売っていた。あれは安物だった。でも有田焼のものがあった。
有田に行ったけどあそこは遠い所で不便だった。電車で行くのには相当に乗り継ぐから不便である。電車はどこも不便になっている。

旅路来て赤絵の町や初燕

こんな句を前に作った。有田焼きは赤絵で有名であり海外にも輸出していた。それも30年前とかなるかもしれない、いづれにしろ自分が旅したことは遠い記憶となってしまう。人間は何するにしろ時間がたつのが早い
そして旅するだけでも人生は終わる、旅するということは結構集中するか他のことができなくなる、つまりそれほど人間はいろいろなことがてきないのである。
ええ、これしかできなかったのかと驚く、若い内なら何でもいろいろできると思っているが老人になるとこれっぽちしかできないのかとつくづくふりかえる
旅というのは遊びではない、享楽ではない、それも勉強だから結構苦労なのである。
旅をするには自然でも何でも見ることに集中しないとあとでふりかえることもできない
たから団体旅行などだと注意力や集中力が緩慢になるから印象に残らなくなる。
旅も今や日本ですらしにくくなった。外国人が中国人などが宿をとりビジネスでも宿がとれないとなると不便である。海外でも円安だとかテロだとかしにくい、自分が旅できたのもこれも今や幸運だったとなる。
この十年間は不運であり苦しかったけど自分は全般的には幸運だった。
ただこの運不運もわからない、姉は強運だったけど最後は最大の不運に見舞われたからである。

ともかくそこで陶器のことなど話したのも面白かった。買い物もこうして遠くから来た人と話すことなどが面白い、インターネットにはそういうことがないから手にとって肌触りみたいなものも感じない、買い物の楽しみがないということもある。
陶器などはやはり手にとって大きさとかを感じるのがいい、インターネットではできない売っていたのは1000円くらいの安物であり買いやすいということはあった。
紅梅が鮮やかに咲いていた。春になったがまだ風は冷たいので服装は冬である。


タグ:相馬市 紅梅

2016年02月17日

「百歳の間」「蠟梅の間」 (家に残りやすい個々人の記憶)


「百歳の間」「蠟梅の間」

(家に残りやすい個々人の記憶)

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我が一人母を介護せし部屋にあり春の日さしてなおいるごとし

我が母を介護せし部屋あわれかな蠟梅静か朝日さしにき

我が家になお北風のうなりつつ手伝いの女今日も来たりぬ

菊の花今日も咲きつつ母の亡きあとし守りぬ我なりしかも


母が死んでからまだ二カ月ほどだから何かまだいる感じがする、こういうのは理屈ではない、特に自分が介護した部屋にいるような気配を感じるのである。
こういう点病院とか施設には個々人の記憶が残らない、世話する人も個々人が死ねば忘れてしまうだろう。
そんな人がいたのかとなる、家とはやはり記憶が継続する場所として意味があった。
空間もあるのだがそれには時間軸としてある空間なのである。
子供から孫から曾孫とかそこには継続する時間があって家がある。
家は今は空家が膨大に増えたように継続されないのだけど家にはそこで暮らした人の記憶が残る、何かそこには死んでもまだいるような感覚になる。


今回の母の死は5年間この部屋で介護したし姉とは違っていた。
姉は家では寝ていない、突然脳出血で倒れて病院で死んだ。
認知症になっても体は普通だったから寝ていないから体は介護していなかった。
ただ精神的な介護だったのである。
姉が死んでから震災になり原発事故になり自分の病気とかわたわたしてゆっくり偲べなかった。
今回はゆっくりと死んだ後も偲んでいる、そういう余裕がある。


要するに介護から看取りからそのあとの供養とかは継続しているのである。
だから理想は家で介護して看取り死ぬのがいい、病院とか施設にはそうした時間の継続がない。記憶が継続されないのである。そして個々に部屋をもっていてもそこで暮らしたことが記憶として残りにくいのである。
家だと死んでもその人のことが記憶としてまだ残っていて偲ぶことができる
家とは記憶を保存するという機能ももっていたのである。
人間は記憶がなくなることも死なのである。何らか記憶が残っている内は死者も生きているのである。
家であれ故郷とかその土地のことは継続なのである。故郷とは過去の先祖の記憶が刻まれた場所である。
だからこの辺で故郷から離れるるとそうした記憶が保存できない、過去は忘れられてしまうということは死者も忘れられてしまうことになる。
そこにまた原発で故郷を離れることの捨てられることの大きな問題があった。


、、、、の間というのはその人を思い出す場である。やはり5年間介護したからここが母を思い出す場となる、介護というのはしているときは嫌でも死んでみるとそのことが思い出になるというのも不思議である。
人間は何でも思い出となってしまう。介護など思い出になるのかというとやはりなる。
その時は嫌でも終わってみると何でも嫌なことすら思い出となる。
死んだら二度と会えないということもその思い出が貴重となる
そこにまた介護のむずかしさがある。認知症を介護したりすると死んでからも思い出したくないという人も多い、だから認知症は悲惨なのである。
人間は嫌なことは思い出したくないとういこともある、それはみんなにある。
こうして母を思い出しているのは介護が自分にとってはそれぼと辛いものでもなかったからかもしれない、ただこの回想することには何か美化されることがある
終わってしまえば苦しみもないから過去は甘美なものとなる
それで江戸時代とかが美化されたり甘美なものとして追想してきたがその時代に生きたものはやはり地獄があった。それが終わり過去となったとき甘美なものとして追想することになるのである。
時が過ぎればなつかしくなるのが人間である。
死んだ人は何か苦労もかけないしただ甘美なものとしてふりかえる、そして良い面だけを回想するということもある、そこに過去は美化されるのである。
生きていれば悪い面が生々しく見えるけど死ぬと見えなくなるということがある


ともかくまだ死んで二カ月だから記憶がまだ生々しい、母は二月に生れて12月に死んだ
冬の女性である、その生涯もそうだった。
生きているときはあまり母のことは思わなかったが死んで思う人もいる
生きているときから死んでも延々と思っている人もいる。
自分はそれほど家族に執着するたちではないのかもしれない、でもなんか姉が死んで8年過ぎてしまったのは本当に驚きだった。
そんなに早く過ぎてしまったのかと思う、その間一周忌もなにもしていない、忙しくてできなかった。
だから一周忌はまとめて一緒に供養したいと思っている
今日は墓に母の名前を刻む、これでだいたい死後の整理は終わりになるだろう。
ともかく人間は死んで終わりにはならないのである。





タグ:死者の記憶

2016年02月15日

白菊と遺影 (過度な供養は先祖崇拝から偶像崇拝になる)


白菊と遺影

(過度な供養は先祖崇拝から偶像崇拝になる)

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白菊の金地に映えて遺影かな

母の亡きあとに遺影の微笑みてなお我が家を見まもりてあれ

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仏様に飾る花としてはやはり赤が交じっているのは良くなかった。
黄色はいいらしい、それは確かである。
一番あっているのは白菊であった。これが一番清楚であっていたのである。

日本では仏教では死者を延々と供養しているのも異常なものとなっている
でも世界的に見ても死者を崇拝する供養するのは普通になる
ほとんど先祖崇拝の宗教が基本にある。それは人間が死ぬとみんな誰でも特別になる。
崇拝の対象になってしまう。それは死者というのが何かわからないからである。
だからそこにどうしても畏れの感情が生れそれは先祖崇拝の宗教となる
モアイ像であれ何であれ古代の像となるとみんな先祖崇拝なのである。

だからこれは仏教とは関係ないものであり先祖崇拝に結びついたものである。
むしろ先祖崇拝を排斥するものとして本来の宗教はあった。
それは釈迦の仏教でもそうであり一神教でもキリスト教でもイスラム教でも先祖崇拝を否定している。それは偶像崇拝になってしまうからである。
宗教で一番怖いのは偶像崇拝なのである。ほとんどの宗教が偶像崇拝になっているからだ人物を神にするもの、仏にするものは偶像崇拝になるから危険なのである。
だから仏教が仏像を礼拝の対象にするときやはり危険になる
それを価値あるものとしても危険がある


人間は死者になると何か過度に死者を祭りあげる傾向がある。それは悪いものではないにしろ月命日だとか仏教では延々と供養をする、こんなに過度に死者を供養するのは先祖崇拝でありそれは仏教にはないことである
ただ死んでも死者を忘れない、死者とつながっていたいとういことは悪いことではない
死者がそれほど尊いものなのかともなる、なぜなら死者がみんなそんなに尊敬に値するものとは限らないだろう。
もしそんなに尊敬するなら生きているとき尊敬するべきだろう
生きている内は老人は死ねとか若い人は毎日ののしっているのに死んだから尊ぶことがあるのか?


ただ嫁いできて嫁が満足しないで恨みを残して死ぬような家は栄えないというのは本当だろう。
そこに介護であれなにか家族の大きな問題がある。母は自分の家でいい待遇をされなかったけど最後はなんとか自分が介護して今は死んでその遺影がほほえんでいるとなると救われる
そういうことは確かにあるから介護とかでも冷たくできないことがむずかしいのである。これはそれぞれの家の事情があり他からわからない問題である


ともかく死者には不思議に菊があっている、「菊の香や奈良には古き仏たちー芭蕉」のように菊があっている。赤い花はあっていないというのは言える



タグ:遺影

2016年02月07日

冬の川子の高台(詩) (太平洋が見えるビューポイント)


冬の川子の高台(詩)

(太平洋が見えるビューポイント)

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冬の川子の高台


長々と寒雲の垂れ
太平洋の沖に一艘の船
川子の高台より見ゆ
なお津波の跡の生々し
その傷痕深く悲しみ癒えず
寥々としてなお残る樹
津波は塩崎の船着までも来たらむ
そは古代の港なりと、、、
万葉の歌にも知られし港と、、、
その時ここは入江にて船の来たりしと
津波は証しぬ古代はここは海なりと
川子の高台の墓地
北風鳴りて冬の陽は
阿武隈の山脈に没りて静まりぬ


川子の高台の道は良く自転車でゆく、電動自転車だから坂を上りやすい
あそこは歩いて上るほかない急坂だからである。
そこから海が見える、見晴らしがいいからビューポイントである。
意外と地元の人でないとビューポイントはわからない
旅をしても観光地でもわからない、あそこには墓地があり山を向いている

そして塩崎がありあの鉄道のトンネルをくぐって船着というところの近くまで津波が来たことには驚いた。船着とは古代に船が来たとして地名化した。
あんなに奥に船が来たというのも謎になる
それで万葉集の陸奥の真野の草原(かやはら)の草原は萱ではなく港の名前だという説を出したのが自分だった

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎

陸奥の真野の草原遠けれど、、、となっていても草原を面影に見るということがありうるのか?それをインターネットで解説した。


ともかくまだ津波の傷跡は生々しく五年過ぎても癒されない、十年たってようやく多少癒されるのか?神戸では二十年たっても以前としてその傷をひきづっている
それだけの大災害だったということである。

川子の高台は森になっているがあそこもダンプがひっきりなしに通るようになったので森の静寂が消えた。この辺はいつまで工事がつづくのかわからない
津波の跡もそのままであり復興というのはない、毎日除染でありダンプがひっきりなしに通るから嫌なのである。

あの高台からはいつも太平洋を行く船が一艘見える、太平洋フェリーの船である。
あれには何回も乗ったからなつかしい、六号線でも太平洋フェリーのトラックが来ていた。
何か荷物を運び太平洋フェリーで運ぶのだろう。
あれは名古屋行きであり名古屋にも何度か行った。
北海道の苫小牧には十回くらい行っているのである。
それも介護になり十年以上は行っていない、今になると介護も終わりどこにでも行ける
でもなんか旅も億劫になってしまった。
何か人が混むところに行きたくない、ただ富士山だけは見たいなと思っているから
近々常磐高速道路をバスで東京まで行き新幹線で静岡まで行ってみたいとは思っている


タグ:川子の高台

2016年02月05日

冬鴎(相馬市の城跡へ)



冬鴎(相馬市の城跡へ)


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我が町の古木の太く冬の虹

the big old tree

the strengthened one

in my town

a rainbow in winter

冬鴎城跡の堀に数羽飛ぶ

城下町辻を曲がりて冬の暮

城跡に木の根露に冬深む


前に夕暮れに自分の町に虹がかかった。あれはめずらしかった。
ちょうど銀杏の古木があるところにかかったのである。
どこにでも古木はある、たいがい銀杏の木みたいだ


今日も相馬市の歯医者に行った。今日はあたたかいし楽だった。
城跡の堀に三羽ほど鴎が飛んできた、あの城跡からは相当に海が遠い
松川浦は相馬市内からかなり遠い、でもやはり海があるから鴎が飛んでくる
鴎が飛んでくれば海を意識するし海が近いのである。
それで亘理駅からも一羽鴎が飛んできたのを枯野に見た
あそこも海が遠いようでやはり海があるから鴎が飛んでくる
不思議なのは琵琶湖にはいつも鴎の群れがいる
海から飛んできた鴎があそこから離れないのだろう。


今日は5日で立春だけどまだまだ東北は冬である。
ただ今年は雪祭がこれからはじまるが雪が会津の方でも少ないから困っているという。
やはり暖冬なのである。
冬は何か外に出るより冬籠もりである。
冬籠もりしていろいろ回想しているのがいい
老人になると回想が一つの仕事になる。
いろいろな所に旅したからそれを今回想して詩にしている
なかなか旅したときはその場のことがわからない
あとで回想してその場のことがより鮮明になりイメージされる
冬は何か想像力が刺激される季節なのである。

タグ:冬鴎

2016年02月04日

49日終わり母の遺骨を墓に納める (死なない限りこの世の欲から逃れられない)



49日終わり母の遺骨を墓に納める

(死なない限りこの世の欲から逃れられない)


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海よりそ今日東風吹きぬ早きかな


白菊と白百合の花遺影にそ向きて咲きにつ今日も暮れにき

墓の中姉の骨あり今はしも何も言わぬや母の骨も入る

人死せば争うことなし人の世はただ変わりゆきそを知らじかも


49日が終わり母の遺骨を墓に納めた。孫も来たのでその接待で疲れた。
お客さんを呼ぶのも疲れる、全部自分一人で用意しなければならないから疲れる
でもなんかホテルとか旅館で客を接待する苦労のようなものを経験で知る
今は何かされる方ではない、絶えず介護であれ何であれ自分がもてなす方になったのである。これもカルマだった。

花を買ったからもったいないからまだ遺影を置き飾っている
遺影に向いて咲いているのは白菊と白百合である
人間はつくづく死なない限りこの世から逃れられない
この世とは欲の世であり欲から逃れられない
死んだときはじめて汚れなき白菊と白百合が向いて咲くのふさわしいとなる

結局今はあまりにも金に翻弄される時代なのである。
もう人は人と見ていない、ただ金があれば人を見ないで金を見ている
だからとても介護など施設ではまともにできないだろう
ある人は家に金をくれときて本当に家捜して大金を失った。
そんなに露骨に金だけを求めるのがあるのかというとそういう時代なのである。
もう人間を人間とみていないのである。
ただ奇妙なのは金持ちが人を雇うとき手伝いさんでも気配りして親切にするのである。
でもそういうことを今は通じない、相手は金しか見ていないからである。


借金して商売した人もそうだった。自分を本当に金として見ていなかった。
何かしたらいくらとしか計算していないのである。
借金している人は相手は金をとるものでしかなくなる
殺してでも金をとるようになるから本当に怖い思いをした
これほどまでに金に支配されているのが現代だということを身をもって知ったのである。下流老人とか言われるが今は貧乏な人が増えて深刻になっているのだ。
もう殺伐とした世界でありただ金しか人間は見ていない
お前もそうかとなれば自分は金に余裕があったから相手を人間的に見て親切にしていたのである。
これも変なんだけど逆に金に余裕があれば相手人間的に接することができるとなる時代なのか?
金に余裕があれば金に左右されないとなるのも現実である。
ただ金のない人に接すると非常に危険になるのである。


ともかく墓には姉の骨は一杯残っていた。太っていて骨も太かったから7年くらいたっても残っていた、6年たって骨が土に帰ってわからなくなった人もいる
今は骨となりもう何も言わない、争ったこともあるがあるのは骨だけである。
それでも夫婦でも一緒に墓に入りたくないというのが結構ある
そんなことより骨は結局土になり何もなくなるのである。
生きているときだけ何かと争うが死んだらもう何もない
墓には骨があるが死者がいるとも思えない
生きている人が死者をいると思い墓参りしているのである。
生きている人がそう思わなければ死んだ人もいないのである。

明日が立春だからやはり今頃に海からの東風が吹く、早いとは思ったがすでに春はきざしているのである。
これからは北風と東風が交互に吹いてくる
今年は気候が変わりやすいから余計にそうなるかもしれない
ともかく納骨が終わりほっとした
何か人が死ぬときそのあとのことは一人で負担が大きかった。
一人というのは何かと老後になったら負担が大きい
病気になったときでも介護でも負担が大きかった。
ただ遺産は一人だと全部もらうから得だとはなるがその分また負担が大きすぎたのである。







タグ:49日終わる

2016年01月30日

雪ふる城下町(雪のふるなかに相馬市へ行く)



雪ふる城下町(雪のふるなかに相馬市へ行く)

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宇多川の橋を渡るや小雪ふる

小雪ふり大雪ふりて夜となる

水仙に小雪のふるや土手の道

軒低く雪ふり暮れぬ城下町

鴨数羽城跡の堀今日も暮る

細雪夕暮れ静か五本松

道の駅雪のふり暮れ五本松


我が庭に石のありつつ小雪ふり母亡き後や蠟梅の咲く

我が家に母を介護すその部屋に蠟梅の咲き母は死ににき

百歳を生きにし母や今朝見れば雪の積もりて蠟梅の咲く

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昨日は歯医者もあり用事があって相馬市へ自転車で行った。最初は小雪だった、次ぎにだんだん大雪になっていった。
雪にもいろいろ種類があるが浜通りは雪はほとんどふらないから雪のことはわからない
ただ昨日は最初は小雪だったのである。
だから小雪だと春雨にぬれて帰ろうとか小雪にふられて宇多川の橋をわたるというのも風流だとなる
その小雪がたちまち大雪になっていった。

相馬市がなぜ原町市などと違うのか?それは何度も書いてきたが高いビルがないくこじんまりとしているからである。
ただそれだけのことで情緒が生れていることの不思議である。
そうなると昔はみんなそんな状態だからどこも情緒があったとなる
橋でも木の橋であり大きな橋はめったにない、宇多川は細い川だから橋も短いから情緒がある
日本画では良く橋がでてくるのは今の橋とはまるで違っていたからである。

浜街道の五本松の写真は絵になっていた、ちょうど雪が大雪になりはじめたころでその時がシャッターチャンスとして良かった。
これは写真そのものが絵になっている、そういう写真は今はいくらでもある
写真と絵の見境がつかないのが多くなったのだ。
細雪(ささめゆき)というとき何か日本的繊細な感じでいい、最初は小雪であり細雪だったのである。
今は鉄道の駅ではなく車の道の駅になり時代が変わった。


庭には蠟梅が咲いていた。この花は春の先駆けとして咲く、冬の内にも咲く、雪の中に咲くのがふさわしい、庭には石が一つあり母を介護した部屋に向いている。
何か人間は死んでも継続がある、ここに母がいてとかなり何か死んでも人間はそれで全部が無とはならない、何かが継続されてゆく、家でも跡を継いで住むものがあれば継続されているのだ。
だから空家とかなると生が継続されないからそこは本当に死んでしまうのである。
そのことは原発の避難地域にもそういえる
人間の生は代々継がれることに意味がある、それが人間が人間たる所以なのである。
動物はそういうことがない、人間は面々と生が受け継がれてきたことに意味がある。

明日は49日であり遺骨を墓に入れる、なんかこれも大きな一つの区切りとなった。
東京から母の唯一の孫がくる、新幹線は普通に運行しているが仙台から相馬までの高速バスがちょっと遅れていることが心配である。
でも一応運行しているから良かった。




2016年01月28日

最近の南相馬市の風景(写真で伝える)


最近の南相馬市の風景(写真で伝える)

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 ノスリ

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ここは菊畑だった

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野馬追いに出るために飼っている馬

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山を崩し土を運んでいる

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プレハブの宿泊所

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風車



最初にノスリが六号線の脇に見つけた。ノスリはノネズミが増えてノスリも集まった。
ノスリはどこでも見かける鳥になった。
それも津波原発事故以来この辺が原野化してノネズミが増えたからである。
小さなカヤネズミというのが増えた。畑で野菜を作っている人はそのことを言っていた。

次ぎに菊畑だったところがソーラーパネルになっていた。
菊畑の方が情緒があって良かった、何かソーラーパネルは景観を破壊するのである。
これも自然破壊になっていたのである。
原発もそうだがなんらか自然に反してこうしたものはできるから自然エネルギーでも自然破壊になっている。
ただ農業より土地代で稼げるからソーラーパネルにするのだろう
でもどれくらい利益があがるものなのか?それも問題である。
ソーラーバネル発電は税金が加算されているから実際はエコでない、国民にとっては高い買い物だというときそうなのだろう。
他のものよりコストが高くついているのはエコではないのである。


次ぎに野馬追いにでる馬を飼っている所である。これもこの辺にふさわしい
野馬追いに出るためにだけ飼っている馬がこの辺ではいるからだ

次ぎに山を崩して土を運び所である。これもこの辺ではあちこち山が崩されて土を運んでいる
相当な土が必要になっている。どこでも暇なしダンプが通って危険でもある
こんな工事がいつまでつづくのかと思う。
何か工事で活気があっても嫌なのである。


次はプレハブの宿舎であるがこれも増えつづけている、いたるところがプレハブの宿泊所になっている、まだまだそれだけ他から人が入ってきて泊まるところがないからそうなる
そして風車がある家にでる


これらの一連の写真を見ると如実にこの辺が今どうなっているからわかりやすい
写真がまさにこの辺を語っているのである。

2016年01月23日

寒雲(相馬市へ行く)



寒雲(相馬市へ行く)


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寒雲に北風鳴りて五本松

山脈に寒雲の影橋わたる

寒雲に二両の電車や昼の月

宇多川の橋をわたるや冬芒

城下町軒を並べて寒さかな

城下町相馬六万石冬の暮

大手門狭しやあわれ冬の暮


相馬市の女性の医院に飾りたる花の絵にそほのぼのとしぬ

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浜街道の五本松の端の一本は枯れてきていた、すると五本松ではなくなる
何か松は枯れやすいのである
相馬市については前にもいろいろ書いたけどなぜ情緒があるかというとそれは意外なものである。
あそこには高いビルとかない、低い家並であり城跡もあるがそれもここが城なのかということも明確でもない、大手門にしても狭いし小さいからここが大手門なのかと思ってしまう。
それだけ小規模の城だった、でも野馬追いがあるから大きな城があるように外からだと見える不思議がある。あれだけの行列があると何か大きな城があるように錯覚するのである実際は相馬藩は六万石の小藩にすぎないのである。
ただ入り組んだ城下町特有の町割りになっている。それも気づきにくいだろう。
だからよそから来ても見るところがないとなってしまう。

宇多川も細い川でありこれも何かぱっとしない川である。
でも橋が何か情緒がある、その橋が短くて小さいから人間的に見えるからである。
それは昔ながらの木の橋のようであり情緒があるとなる
今はみんな大きな橋になっているから人間的でなくなる
要するに現代は何か人間的なスケールを越えているから情緒がなくなる


相馬市は原町とずいぶん感覚的に違うのである。原町市にはこういう情緒はないのである情緒とかは歴史的なものとか自然とかとの融合などから生れる
意外となんでもない平凡な所に情緒がある
パソコンのソフトで写真を絵にしたら何かその雰囲気が出ていた。
写真だけではなかなか情緒を出せないこともある
雲というのは春の雲なのか秋の雲なのか冬の雲なのか区別がつかないのである。
漢字だったら冬の雲と寒雲では違う、寒雲の方がいかにも寒い雲の感じになる


歯医者にも行った、あそこの歯医者は女性でありめずらしい、前に行っていたからまた行った、その医院に花の絵が飾っていたのは女性らしいとなる。
なぜ相馬市と原町ではこんなに感覚的に違うのが不思議である。
よそから来た人にはこの区別はなかなかつかないだろう。
街には街の作り出す雰囲気がなにかある、それが外から一回くらいきてもわかりにくいのである。





タグ:寒雲

2016年01月21日

冬籠る俳句十句(老いをともにする場は田舎がいい)



冬籠る俳句十句(老いをともにする場は田舎がいい)

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土地の人毎日来たりて冬籠る

故郷の人と老いるや冬籠る

母死して四九日や冬籠る

残さるる大きな家や冬籠る

薪積みて貯ふ蔵や冬籠る

野鳥にも糧のあかし冬籠る

石六つ飯館村や冬籠る

曲屋や只見の遠く冬籠る

冬籠る津軽や遠く暮らしかな

みちのくの大地に根付き冬籠る

故郷や墓を守りて冬籠もる

故郷に老いをともにし冬籠る

樹々の列ここに変わらず冬籠る

寒雲に二両の電車や昼の月


中里のタクシー運転手あわれかな冬の厳しく終着駅かな

中里のタクシー運転手仙台に住む息子あり冬の淋しも

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冬籠るというときそこに暮らしがないと季語が活きてこないということがある。
昔だと本当に冬籠るということが生活そのものでそうだった。
自給自足だから冬籠るというとき生活そのものが薪を積んで薪を燃やして貯えたもので暮らしていたのである。
現代は都会だと冬籠るという感覚がない、生活的にも別にいつもと同じであり不自由しないのである。
冬籠もりというときまだ会津の方には曲屋が残っている、そういう所では自給自足だった雪に埋もれているのだから余計に雪国は冬籠るになってしまう
もう外に出るのも容易ではないから家にもこもってしまう
でもそういうの不便で嫌かというとそうでもなかったかもしれない
もちろん不便なのだけどそこに味わい深い時間があり空間があったともなる
冬は何か回想するのに向いている。薪をくべて燃やしたりしていたら余計に想像力が刺激されるのである。

奥会津では今も曲屋が残っている、あれも馬がいたし一つの城のようになって冬籠る
何か冬籠るというとき老人にふさわしいのかもしれない
毎日土地の人がくる、それは老いた女性である。でも六〇代は今や老人とは言えない
限界集落のようにな所で息子や娘が都会に住んでいて一緒に住めといってもその土地を離れたくないというときその気持がわかる
都会には冬籠るという感覚がないし季節感も希薄なのである。
もちろん田舎でも実際は都会化している、昔のような自給自足の生活とはほど遠い
都会と同じように便利な生活をしているのである。


人間が本当に自然と一体化するというときそれは野生の動物や野鳥のように生きるときそうなる、冬でも野鳥を養う実があり動物も生きている。何かしら糧があり生きている。
人間もやはり野生の動物とかとたいして変わりない生活をしていたときがそうなる
現代はそういう生活をとはかけはなれてしまった。
自分は不便でもなにかこうして冬籠るという季節感のある田舎で暮らしたいとなる
便利なものだけがいいのではない、不便さがあってそれもいいなともなる


旅を回想すると只見の方に自転車で行ったことがあった。そこにも曲屋があった。
そして津軽にも春に行った。そこの津軽鉄道の終点の中里駅の一軒のタクシー運転手のことが心に残っている不思議である。
いか。にも最果ての地のタクシー運転手だとなる。
津軽鉄道は中里駅まで行きそこから十三湖を見て帰るのが旅情を味わう旅になる
仙台に息子が住んでいるというのも青森では仕事が少ないからそうなる
その津軽だって雪国の暮らしがあったのである。


飯館村は石が六つくらいあいの沢にある、そこに人が住んでいればまさに冬籠もるにふさわしい場所だったのである。
標高が高いしいかにも冬籠もる村としてふさわしい場所だったのである。
どっちかというと雪に埋もれた所は冬籠もるにふさわしい場所である。
なんか最近はあまり歩きたくない、遠くにも旅もしたちない、一カ所にじっとして冬籠もり回想しているのが老人にはふさわしいとなる
そして老人は墓守りであり老いともにする場として田舎はふさわしいのである。
それで原発の避難区域で老人が故郷に帰りたいとういう気持だけは自分にも共通しているからわかるのである。
補償金問題は別にしてその気持はわかるから同情するのである。
故郷は老いの場所であり死ぬ場所としてみている人は少ない
若い人が故郷を出るというのに抵抗がないのもわかる、でも老人は住み慣れた場所を出るのは苦しいと思う
復興団地に津波の被害にあった老人がここは嫌だというのもわかる
その人は広々とした海岸の家に住んでいたからである。
団地は何か牢獄に閉じ込められた感覚にもなるだろう。庭もないし広々とした家に住むのとは相当違ったものとなるからだ。

故郷は何か老いをとにするのにはふさわしい、老人になればやはり都会より田舎への回帰が起きてくるだろう。もちろんそうでない人もいる
そもそも東京とかなるとそこはもう自然からかけはなれ場であり非常に危険な場所でもある
地震とかで車が渋滞になって身動きとれないとかなるのは怖いことである。
そして水も燃料も食料も得られなくなるかもしれない
津波でも裏山の清水をくみ薪を燃やして米をたきとかしのいだ人がいたがそれもできない都会というのは災害に弱い、その時便利なものが車でもビルでも何でも障害になって人間を殺す凶器になるのだ。
そういう自然から離れた生活は本当は相当に危険をはらんでいる。
もちろん津波では田舎でもその危険を察知できなかった。
でも都会はイメージすれば本当にその怖さを知ったら住んでいられなくなるだろう。
何か都会にはそうした大災害が関東大震災のようなものが起きる不安かある
その時裏山の清水を飲み薪でももやししてしのぐことはできない
水も食べ物も燃料も得られなくなるから怖いのである。


タグ:冬籠る

2016年01月17日

冬深む(人は老いれば故郷と一体化する)



冬深む(人は老いれば故郷と一体化する)


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こんなに実がなっていた不思議


故郷に古木一本冬深む

one old tree

in my homeland

in the deepest winter


故郷に老いてともにし冬深む

故郷に樹々の根づきて冬深む

家の跡松一本や冬深む

縁切れて遠のく人や雪のふる


故郷のここに根を張る樹々の列今日も通りて冬の日暮れぬ

石一つ雪に埋もれて椿映ゆ正直なる女(ひと)ここに眠りぬ

誰かしる雪に埋もれて石一つここは墓なり椿散りにき


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今年も冬らしくなった。この頃は寒いのだけど自分は好きな面もある。冬は何か心を内面化しやすい、冬深むという感覚も日本的なのだろうか
温暖化したらこういう感覚も四季の感覚もなくなるから嫌なのだ。
東南アジアの人が雪を見に来るのもわかる、雪がふらない、見たこともないからだ。

故郷というとき何なのか?それを今回の原発事故などで故郷に住めなくなったことで問われることになった。
故郷とは実際何なのかわからない、ただ故郷とは長く住んだ所であることは確かである。だから子供が故郷から離れて他でなじんだ生活をすればそこが故郷になる
別に生れたところが故郷とも言えないのである。
ただ代々つづく家はやはり故郷の思いが深いとなるだろう。


なんか土手の桜の樹の列を歩いているとそこに根付いている樹々を見るとそれがいかにも故郷に根付いた人間のように見えるのである。
故郷に根づくというときやはりもともとはその土地のもので暮らしていればまさに樹のように根付いた生活になる
だから昨日書いたように寒木が変わらず十数本立っていた。そこにヒヨドリが群れ集まり鳴いていた。
そこには実がなっていたのである。つまり故郷に実がありそれを食べていればその土地に根付いて暮らしているともなる
昔は自給自足が基本だからみんなその土地土地に根付いて暮らしていた。
今は食料でもグローバルに入ってくるからそういう感覚はなくなる
すると何か金さえあればいいとなり故郷とに愛着をもたなくなるのかもしれない
その土地にとれたもので基本的に暮らしていればその土地に愛着ももつようになる
外国から入ってきたもので暮らしていたら金がまず大事になり金さえあればどこでもいいとなってしまうからである。
この辺は補償金をもらってそうなったともいえる、そういう社会も疑問なのである。


いづれにしろ人間は長く住んでいれば自然と一体化してゆく、今回の俳句は内面的なものである。古木というときそれも人間なのである。
人間も自然の生物の一つだから自然と一体化するのである。
この句はあまりにもシンプルなんだけどそのシンプルなものに味わい深いものがある
芸術は本当は複雑なものではない、シンプルなものに深いものがある

ともかく原発事故などで避難区域の人が故郷に帰りたいというのがわかる
それは本能的なものなのである。
人間は長く住んだところで古木となり老木となりやがて朽ちてゆく、生物の一種だからそれは本能的なものである。
それを奪ったということが酷いのである。ただ補償金の問題はまた別である。
故郷に夫婦でともに老いてゆくというときそれも生物として自然だとなる
その中で心も一体化してゆくのが理想だか人間はなかなかそうはいかない
故郷でも人間関係はいびつでありいいものではない、近くでも縁が切れた


一つの石を置いた墓が雪に埋もれている、そこに椿が映えている、その女性にふさわしいものだった。前に書いた馬鹿正直な女性の墓なのである。
その墓が誰のものなのか、誰も気づかないのである。


タグ:冬深む

2016年01月16日

枯木の影(狭い場所で生きるのが老人に向いている) 枯木の影(狭い場所で生きるのが老人に向いている)


枯木の影(狭い場所で生きるのが老人に向いている)


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海老村にここ我が家と枯野かな

海望み海老千軒は枯野かな

十数羽ヒヨドリ群れて鳴き騒ぐ

十数本寒木ここに変わらざり

壁写す枯木の影の一日かな

田舎なり時ゆるやかに枯木の影

縁切れてその人遠く氷張る

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良く見れば枝のくねりて伸ばす影根付く枯木や我も老いにき

黒々と枯木の影やこの道の親しや今日も通りけるかな

家ありて誰住むと知らじ一本の松の残りて冬の日さしぬ

一本の松の残りて何語る冬の日暮れぬ庭の跡かな


海老千軒は枯野となってしまった。津波ではそういう場所が普通にある、だんだん時間がたつにつれ忘れられてゆく、海老村は70軒くらいがあったという
磯部村は大きな村でありその跡は広い、あそこは一番悲惨だったともなる

厚生病院の前の寒木は寒木らしい、あそこに実がなっているのを写真をとってわかった。なぜ十数羽のヒヨドリが集まって鳴き騒いでいたのかもわかった
そこに実が写っていたからである。あんな何もない木に実があるとわからなかった
いつも冬は鳥は何を食べているのだろうと思うときそれなりに食べ物は用意されている不思議である。
普通は虫を食べている鳥が多い、野良猫でも結構生きているから不思議である。

寒木というときそこに変わらないというときそれはその栄養を土からとっている
その土地からとっている、だから変わらないのである。
これは当たり前だとなるがでは人間はなぜこれほど変わるのか?
それはその土地から栄養をとっているわけではない、グローバル化社会なら世界の裏側からも食料が現実に入ってきて食べている。
そういう社会は変わりやすい、移動しやすいということである。
もしその土地からの栄養分をとっているならその土地の材料で生きているなら社会は変わらなかったのである。
実際に江戸時代から戦後十年は自給自足だったのである。燃料は炭だったからである。
それが石炭になり石油になり原子力になり変動が激しかったことでもわかる
世界にも会社が移動するから人間も移動するのである
それで津波や原発事故では若い人が流出するというのもそのためなのである。


一本の枯木が通りの家の壁に影を写している、それは何でもない、まさに写生である。
でもその写す影にやはり人間をみる、何でも自然でも人間をみる
枯木はやはり一人の老人なのである。
良く見れば確かに一本の枯木でも何か枝分かれして趣がある
ただ影を写しているだけだがそれでも心にしみるものがある
つまり芸術の基本は写生なのである。
庭の跡だったところはもう誰が住んだかもわからない、人間は遂にそうなってしまうのか?やがて自分の家もそうなってしまうのか、無常だとなる
なんかこの辺は避難区域でもそういう場所が多いのである。
村や町ごと無人化しているからそうなる、それも不思議なことなのである。


年取るとなんか人間は特に自分は都会にはゆきたくない、騒々しいから嫌なのだ。
そして人間は確かに年取ると認知症気味になることは確かなのである。
狭い範囲で生活していると安心になる、つまり何か複雑な所を認識できなくなるのかもしれない、都会は複雑だからもう認識できないから困惑するから嫌だとなる
これは性格もあるだろう、自分は騒々しい所が嫌いであり一時はそれが高じて異常にもなった。
一万の町くらいでもいい、この辺はとなりに都市があるからいいとなる
孤立していたら限界集落のようになるから今の時代は住みにくくなる
飯館村はそういう場所だった、そこにまた価値があったのである。


今日も寒い、人間の縁も切れやすい、親戚でも一代こんな簡単に縁が切れる思わなかった結婚したりすると前の縁は切れてしまう、これも無常だった
ただ新しい縁もできるし人間関係もこんなに変わるとは思わなかった。
縁を大事にしろというときあまりにも簡単に縁が切れやすいからだろう
最後はあれあの人とあったなあの人誰だったのかとかすれ違っただけだとなり別れて永遠にあわなくなる、ただすれ違っただけだとなる
家族すらだんだん死んで時間がたつと忘れやすいのである。だからこの世は無常だとなる







タグ:枯木

2016年01月07日

山眠る(この辺は住んでちょうどいい規模の街)



山眠る(この辺は住んでちょうどいい規模の街)

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我が町は灯のともしきや眠る山

母死して今安らかに眠る山

駅淋し二両の電車や眠る山

我が町は枯野の広く暮れにけり

樹数本津波の跡は枯野かな


眠る山というとき今は都会でもどこでも眠らずに活動している。自分は都会には住めない人ごみとビルの谷間では暮らしたくない、あういうところで良く暮らせるものである。
若いときはいいにしろ年取ればいやになるだろう。
もちろん都会に都会の良さがある、でもそこに安らぎはない
この辺では相馬市というと何か淋しい、原町はもともと繁華な感じになっていた。
その中間の鹿島とかはずれた小高とかは淋しい枯野が広がる地域だった。
何か自分にとっては枯野が広がっているような風景があるのがいい
原町ですら嫌な感覚になるのだ。

自分にとってはちょうどこれくらいの規模の街が住みやすいのである。
飯館村とかなると住むとなるとかなり不便になる、第一車がないともうそこは住めない
買い物もできないからである。飯館村などは千軒家を壊したから一体そこに新しい家を建てる人がいるのかとなる
現代は便利な社会だから飯館村とか限界集落のような所は消滅しやすいのである。
この辺はまだ常磐線があり六号線があり東京と通じていて市もあるからそれなりに便利であり住みやすい場所である。

そして今は外部から一万人くらい工事とか除染関係で人が入っている、それでダンプがひっきりなしに通るので危険なのである。一方でそのために活気があるというのも矛盾である。
こんな状態がまだ何年つづくのだろうとなる、工事とか除染が終わったら相当にさびれてゆくのも困るともなる
自分にとってはこのくらいの規模なのが住みやすい、都会化すると嫌なのである。
この辺では飯館村があるということも何か安らぎの空間を形成していたのである。
その飯館村の空間がなくなったわけではない、だが人が住まなくなるということはやはり今まではとは違ったものとなる、飯館村といってもそこに人が住んでいて価値があった
人が住まない村となると何なのだろうとなる


二両の電車が往き来しているがこれも人間的なのである。
やはり機械でも小さいと人間的になることがわかる
二両の電車は何か人間のように見えるようになっている
十両とか新幹線とかなると人間からはずれたものになる
巨大化すると何でも親和性がなくなってくる
いづれにしろ冬は山眠るではあり本当は休息の時期である。
自然のリズムで生きればそうなる、今はそうした自然のリズムがない
絶え間なく活動しているから精神的にも疲れるのである。


母が死んで今は苦痛もなく安らかに山は眠っているとなる
生きている限りなんらか人間は苦をもって生きることになるのだ。
死んでやっとその苦から解放されたのである。

タグ:山眠る

2016年01月01日

新年(2016)にふさわしい短歌


新年にふさわしい短歌(2016)

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新年の未明になおも月光り母は死にしも陽は昇りけり


「東の野に炎の立つ見えて
     かへり見すれば月かたぶきぬ」   万葉集 48

今日3月18日は『人麿忌』だそうです。
なぜか、あの万葉歌人の柿本人麿の亡くなった日だそうです。


今年の日の出を海老浜で見た、あそこは津波で村が壊滅した。
ただ見晴らしが良くなり日の出の太陽が見やすくなった。

今年は新年を祝いないけどただ新しい年がはじまった。
それでぴったりの歌が柿本人麻呂の歌だった。
人間は太陽と日の出と月のくりかえしである。
それは歴史でもそうだが常に世代間でも日の出があり傾く月がある
若い人は日の出であり老人は傾く月なのである。
でも母は去年の12月に死んだからまだ月の輝きがある。
だからこの歌は何かぴったりなのである。


今年は自分にとって相当な変わり目の年になるかもしれない
まず介護の重圧から解放されたことである。
介護している限りもう自由はない
軽くても三食を出す、いるだけでも重圧になる
そして介護の問題は長いことなのである。医療が発達すればますます長くなる
すると介護するものの負担がまた増えるのである。
ふりかえると十年間は長かった
介護に費やされる労力は相当なものであった。それから解放されたことは大きい


この短歌の奥深さとか大きさはやはり歴史も暗示するからである
必ずこうして世界でも国でも興亡が繰り返されてきたからである
イギリス帝国は今では傾く月となったしやがてアメリカすらそうなる
人間はこの繰り返しなのである。
アジアとヨーロッパもそうである。ヨーロッパはゆきづまり今度は再びアジアの陽が昇って輝きヨーロッパは月となって傾いてゆくのか世界の歴史なのである。
アジアの興隆の時代が今世紀からさらに一世紀とかかけてはじまる、欧米は衰退してゆくのである。それは歴史の法則でもあるからとめることができないのである。

2015年12月31日

今年も終わり(奇岩のことなど)


今年も終わり(奇岩のことなど)

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雪舟

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冬の日や奇岩の影を濃くしたり

茶室あり枯木の古木影濃くす

世を離れ奇岩の影や冬籠もる

閑亭に石をあしらふ冬の月

三軒ほど一人暮らしや冬灯かな


宇多川の橋をわたりぬ枯芒城跡あわれ暮れにけるかな

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宇多川の橋は大きくないから人間的になり情緒がある




今年も終わりになった。ともかく自分の場合、この十年間は何だったのかと思う
人生にはやはりこんな動乱がある、平和でも必ず病気とか事故とか老いとかがある
天変地異もある、そういうのがこの十年間に一度に起きたのである
他の人も避難生活になり津波では家族も死んでいるからそれはそれで苦しいものとなったただ何でも原発でも津波でもそうだが自分たちだけが苦しんでいると思って
何か同情しないと諫めるようなことになったけど
自分でも他の人でも苦しんでいた人はいたのである。
別にそういう人はどこでもいるが同情もされないのである。
ただ放置されているだけである。
そして介護疲れで殺人になったとかニュースででるが回りの人も同情などしていないのである。
まず原発事故の避難民はかえって楽だったということがあった。
補償金で遊んで暮らせたということである。
ただ津波の被害で家族を失った人たちはそれなりに苦しいとなった


人間は一生の間にそれぞれ何か追及している、芸術でもそうである。
自分の場合は石とか岩をテーマにしてきた。
奇岩というとき世から離れた奇岩なのである。
世を離れるというけどこれもむずかしい
そもそも今の生活から人間は離れられない
電気なしで暮らせるとか車なしで暮らせるとかなる
そういうシステムになっていて人間はその時代の子であり
その時代を否定しては生きていけないようにできている
ただ世にどっぷりと交わるのではなく世を離れた奇岩を貫き通す意志をもつ
それが奇岩の意味なのである。


この辺で組で一二軒とかあっても四軒は一人暮らしとかになると一人暮らしが増えている一人はまだ六〇代の女性である。
一人暮らしはこれからも田舎でも増えてゆく、そういう時代なのである。
自分も本当に一人暮らしとなった。そして介護もしないからまた前のように自由になったその自由も身寄りもない自由だから不安だとなる
でも介護はもう限界だった、十年もすればもう嫌だとなる
だからこれからも前のように自由に旅もできる、ではそうなるのかというとわからない
どうも今は外国人の旅行者が増えて旅しづらくなった。
ホテルも泊まれるのか、高くなったとか何か不安なのである。
まず日本人が日本を余裕をもって旅できないということは日本が貧しくなったということである。日本人優先ではなく外国人優先となってしまったからである。


まだ四七日はすぎてはない、これも結構長いと思った。でも来年は確かに旅に出ることはまちがいない、前のように長い旅もできる、それも何か自分には不思議に思うのである。


タグ:奇岩

2015年12月29日

冬の雲(大正生まれは希少価値がある)


冬の雲(大正生まれは希少価値がある)

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母の好物は干し柿だった

それで伊達のあんぽん柿を供えた

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このご飯入れが霊前にあっていた


家古りて動かぬものや冬の雲

田舎には老人多し冬の雲

この土地に根づき開かむ冬芽かな

姉と母残せし家に冬ごもり

金屏風座敷にたてて松に菊


一年を仮設の食堂すぎにけり我が通いつつ年のくれかな

百歳の母は逝きにき淋しきや大正生れも世に消えるかな

大輪の真白し菊に塵つかず我は遺影を家にまつりぬ


年号というのは後で大事になる、江戸時代の年号が残されているけどその期間が十年とか短い、その年号の時に何があったのか、年号からイメージする、元禄は栄えていたときだとか文明は飢饉のときだとかイメージする、これは日本独特の歴である。
これが西暦だとそういうイメージは湧いてこない、日本は年号によってその時代をみる
今回の津波でしきりに慶長津波のことが話題になった。
結果的に慶長という時代が脳に刻印された。そして津波の前と津波の後で時代を違ったようにみた。それは明治時代と同じである。
明治時代と江戸時代は全く違ったものとしてみている。
慶長時代もそういうふうに見るようになった。それだけ年号というのは意外と日本では歴史をみるとき大事なのである。


それで大正生れもやがて消えてゆくから貴重だなと思った。母は大正四年生まれであり大正一五年間あるとしても短い、でも何か大正生れは希少価値がある
大正生まれでも百歳をみんな生きるわけではないからやがては消えてゆく
そして「降る雪や明治は遠くなりにけり」大正は遠くなりにけり、、、とかなる
九〇才以上は大正生れだから長生きだからまだ当分は大正生れは生きているがそれでも消える日は近づいているのである。

四七日はまだ家にいるというのも何かいわれがあるしそんな感覚になる
なぜなら人間は特に女性は家とともにあったから離れがたいともなる
この辺では雪はほとんどふらない、冬は北風が唸る、残されたのは自分一人である

霊前には何かこの白い大輪の菊があっていた。

金屏風に松と菊

ここに松と菊の金屏風がでている、他にも金屏風と菊のキーワードで画像検索でいろいろでている。
松は主であり座敷に置けば何か日本的な正月の風景である。ただ四七日であり今年は正月はない、参考として出した

ご飯を入れる碗が何か仏前にあっていた。米を備えたがこのお碗が霊前に備えるのにあっていた。正月とかは日本的な文化でありそれにふさわしいものがある
いろいろとまた現代風にもなる

末永く松こそあれや金屏風菊の映えつつ座敷にありぬ

こういうのが日本的なものなのだろう。今の家は座敷とかはない、個別の欧米風の家になった。座敷かあるということはやはりそこでその家の主に重きを置くということがあった主は殿様のような感覚があったのかもしれない、大名屋敷でもそういう造りである。
欧米化したとき兄弟でも何でも平等であり個別の部屋をもつようになったから座敷はなくなる、そこで主の重みもなくなるし家を継ぐ長男の重みもなくなったのである。
やはり家の造りにもそうした文化の反映があったのである。



タグ:大正生れ

2015年12月27日

弱者が特権化して強者になる (原発避難民もそうであり危機意識に欠けるのが人間)


 弱者が特権化して強者になる

 (原発避難民もそうであり危機意識に欠けるのが人間)


知り合いの小高の女性が鹿島区の人がどう思っているか全然知らなかったというのは意外だった。
おかしいのは鹿島区の議員を応援してくれと来た、すると鹿島区の議員と親しくして支援してもらっていたのかとなる
そうすれば鹿島区の人は議員が支援してくれるくらいだから鹿島区の人も応援しているのかと思ったのかもしれない
ともかく原発避難民は最初からかわいつそうだかわいそうだと言われボランティアが来て応援していた。だから自分たちは被害者だから親切にされる応援されるのが当然だという特権意識をもつようになったのかもしれない
それで自分が鹿島区の人は小高の人を良く思っていないと言ったら自分たちは住む場所もなく被害者だということを主張した。
そういう反応は自分にも意外だった。もう少し何か控えめに言うのかと思った。
そう言っただけで相当に気にさわった。
つまり自分達は被害者がということそれは五年すぎても変わりないのである。


ところが南相馬市だけではない、相馬市でも避難民に反発している人が多いし他でもそうである。そのことで気を使っている人もいる。
津波の被害者が相馬市でもいてその人たちには援助がない、するとそういう人も仮設に住んでいるから何かその待遇で不満をもつ人がいるのだ。
それで相馬市では飯館村の人をトマト栽培するのに農家の人は雇わないというとき飯館村の人も補償金をもらっているからそうなった。
別に鹿島区だけのも問題ではないのである。
だから成せそんなことも回りの状況も知らないで五年間過ごしていたのか不思議だとなる何かそういうことが耳に入ってくるはずだからである。知っている大工さんは自分は働いていると言って本当に働いていたからそういう回りの状況を知っていたからそうして働いていたのである


ともかく被害者意識が高じて特権化しているのが現代の特徴だと言われる、それは沖縄がそうであり戦争で被害にあい米軍基地で犠牲になったと延々と被害者意識でこりかたまっている、それは中国でも韓国でもそうである。日本では在日がそうでありその特権化を利用して待遇を良くしろと金を要求する
そのことで批判するとものすごい反発がありそれで差別語などを使うことができなくなった。
それとまた原発避難民もにているのである。自分は当たり前のことを言ったつもりだがこの人はなぜ苦しんでいる自分たちに対してそんなことを言えるのかという態度になった
おれたちはかわいそうな原発事故の被害者なんだということになる
でも原発事故の被害者は福島県全般にわたっているけど手厚い補償金もらった人は少ないのである。三〇キロ圏内でほぼ終わっているのである。


困っている苦しんでいるというとき何か原発避難者だけが津波の被害者だけが特別苦しんでいる、だから同情されるべきだとなった。それは当初はそうだったろう。
でもその時でもやはり苦しんでいた人が回りにいたが同情などされないのである。
自分も介護で十年苦しんできたけど自分が病気になったとき全く同情はされないし責められるだけだったのである。
それでその人も一見助けに来たようだが何もしない、家に二三分来て帰るだけだった
借金していたからパチンコ屋で掃除などで働きただ疲れたと言って帰っていった。
そのパチンコ屋におしかけたのが原発避難民だったのである。
今でもそうでありイオンの近くに新しいパチンコ屋ができたのはまだそれだけ金があり暇な人が増えたからできたのだろう。
なんかその時その親戚の人にも腹正しかったし避難民にも腹がたった
こっちが苦しいのにパチンコ屋で遊びそこで働いている親戚の人にも腹がたった
しかし何も言うことはできなかった。弱者化するとそうなるからである。
弱者となっても全く応援されないものは応援されない、個々別々では応援されない
介護で苦しんで一家心中した人がいても回りではもう限界だったのよねとか冷静にみているだけなのである。
他から来たボランティアもみんなパチンコだギャンブルだとか遊んでいるのに怒って喧嘩になったというのもわかる
何のためにボランティアして働いているのかわからないとなるからだ。

結局小高などの避難民は何も苦労しないしのんびりしたものだったかもしれない
確かに部屋は瀬意にしても働くこともなく遊んでいてもそれが避難民ということで強制はできない
そして絶えずかわいそうな人たちだと見られて支援されてきたのである。
そしてそれが特権化して自分たちは支援されるのが当然の権利だとまでなってしまった
それがまさに現代的である、戦争でも日本ばかり責めるけどでは中国とか韓国に問題がなかったかと言えばそうでもない、中国は欧米によって支配されていたのでありそれは中国の責任であり韓国でもそうである。
そういうことはバランス良くみるべきなのだけど一方的に主張されるのである。


そうしして遊んだ分のつけが今度は補償金も打ち切られて起きてくる。
働く場所がないかとか何かそういうことを言ってきたのはそのためだろう。
でも今までの態度をみているから何か勝手な人たちだとして拒否反応がでてくる
自分たちで何か復興しようという気持はなく誰かがしてくれる、支援してくれるということが身についてしまった
働くのも農地は三年放置するともう回復がむずかしいとか働くのもむずかしいし老人が多いことでももう補償金がもっと長くもらえればいいとなった
だからそのあとは生活保護だという人も多いのである。
でもこれからは避難解除になると相当厳しいことになるのではないか?
帰ってみてもこんな所にもう住みたくないと思う人もでてくるかもしれない
それでも住むほかないとなったり金がなくなり働くこと場がないとか現実問題となる
何かそこで厳しい現実に直面する、その時もう支援はないからである。
補償金はないから今までのように遊んでいられるのかとなる


ともかく人間は安きに流れる、そして危機意識がもていないのである。それは個々人でもそうである。、自分もそうだった、こんなひどいことになるとは思わなかった。
でもそれはある程度予測できたのである。その備えができていなかった。
津波であれ原発事故であれ何が問題かというと危機意識の欠如だったのである。
原発だって安全神話で危機意識が喪失していた。実際は安全を計るなら原発自体の入念な点検をすることだった。今でもいろいろな不備が明らかにされている。
事故は津波だけで起きたものではなかったのである。
原発避難民だってやはり将来に対して危機意識をもてば遊んでばかりいられないとなるはずだった。おれ達は被害者だからなんとかしてくれるという他力本願になっていたのである。
自分でも三〇年間平和で楽だったから危機意識が欠如した。
何の備えもないから悲惨な結果になったのである。
それで今の結婚しないニートとかフリーターとか親に依存している人は悲惨な結果になることは見えている、親に頼れなくなり年金もない、もう年取って働くこともできない、
まず収入のことなら意外とはっきり将来が見える
その他不測の事態が必ず人間には起きてくる。事故や災害や病気や老いもそうである。
突然体が弱るのも苦しいことになる、その時助ける人がいるのかとなると今からすると恐怖になった。
自分も経験から危機意識をもつようになったのである。
人間は実際にひどいめに会わないと危機意識がもちにくいのである。

タグ:弱者

寒椿(北風にきしむ古い家)


寒椿(北風にきしむ古い家)

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百輪の寒椿散る赤さかな

古き家北風にまたきしむかな

母死して我も老いゆく時雨かな

病院に死者また一人師走かな

年の瀬や死者また一人はやすぎぬ

大輪の白菊十輪霊前に


急に冷え込んだ、自分の家は築五年ほどだけど古民家というものではない、ただ古い造りだから座敷とか広いし家も大きいのである。
それを女二人で建てたから自慢だったことは確かである。それせ借金もしないで建てた。家を建てることは一大事業なのである。その時はまた運がよかった
大工の手間賃とか安いし木材も地元のものでできた。そのあと大工の手間賃がおそらく五倍くらいになったかもしれない、そのことで相当に得した。


この家は古い家だから隙間が多いからすきま風か入り困る、家が密閉されていないから風遠しがいいから寒いのである。
今また北風が吹きつけて家がきしむ、家を人間に見ればこの家もまた歳月を経てきしむ
風に耐え雨に耐え地震に耐えたとなる
家がきしむというときその内部もきしんだ。一人が認知症になったときから二人介護になり自分は苦しんだ。
そしてまた北風に今きしんでいる、家の歴史もまた人間の歴史である。


俳句が写生だというとき短い簡潔な表現しかできないからである。
だから写生俳句は鑑賞する方が優れていないと鑑賞できない芸術である。
寒椿の赤さがこの寒さと北風が吹いて映えている
ただ写真では散った椿の赤さが見たように表現されていなかった。
見た目と写真は違うことがありその時は何か失敗しているのだ。
一方で見た目より写真の方がいいとなる場合もある
それは細部を記録して写すのが写真の方が得意だからである。


ともかく母は死んだ、自分も老いてゆく、昨日は時雨れだった、まさに時雨が老いなのである。やっぱり霊前には白菊があっている
四七日で骨納めだけど結構長い、今年はこのまま年を越す
納棺→火葬→四七日→骨納め、、、一応これで終わる
こういう過程を経るというのも死者との別れとして必要だった。すぐに骨納めだと何か簡単にかたづけるという感覚になるからだ。今はそういうのが多い、死者を惜しむということもめんどうになった時代である
実際に自分は家から死者を送り出したの始めてだった。
葬式など家で経験することはまれである。


ともかく人一人死ぬということは大変なことである。
でも他の人が死ぬときはそんなことはない、また一人死んだのかで終わっている
それが家族となると介護でも葬式でも何でも負担が大きいのである。

タグ:寒椿

2015年12月25日

冬薔薇(数にこだわる写生俳句)


冬薔薇(数にこだわる写生俳句)

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白菊の十輪映えて邪を払ふ

七八輪小さき町や冬薔薇

満月や介護を終えて年の暮

故郷の畑に冬菜や親子かな



昨日は満月だった、何か介護を終えてほっとした。一人になるから淋しいといっても絶えずみていなければならないし話もほとんどできないとなると辛いだけになる
生きているからいいとは言ってもそれは外からみればそうなる
外からみている人は何の責任もないし何の負担もないからそうなる
それは自分だってそうだった。他人の苦しみはそれぞれ違っていてわからない
介護はしたからその苦しみはわかる
ともかく人間一人を死ぬことは看取ることは大きな負担である。
それは子がになわされているのである。親のカルマがあり子のカルマがある
そして誰もカルマの代わりを引き受ける人などいないのである。

写生俳句だと十輪だと七八輪にこだわる、それは「鶏頭の十四五本もありぬべし 子規」からはじまっていたのである。その数が写生なのである。
祭壇には大輪の白菊があっていた。純白であり菊の花は長持ちするからいい
薔薇などは飾れないというのもわかる
墓でも菊が一番飾るのにはあっている
七八輪の冬薔薇というときこれも七八輪が大事なのである。
それは人間をイメージしている、田舎だと七八輪の冬薔薇となるとあっている
人間は絶えず意識されるものは少ない、七八人が限度かもしれない
他はその他大勢になってしまう。都会ではあれだけ数が多くなるのだからこういう感覚からあまりにも遠いのである。


それはとりもなおさず非人間的世界である。組織団体でも数が多くなればそうなる
なにか現代社会はそういうことで非人間化して非情になるのもわかる
一方で戦前でも戦後十年くらいは狭い範囲で生活していたから情の通わせる社会があった今は全くない、グローバル化社会となるとこれまた全然情の通じない社会だからである。ただ情がなく物だけが入ってくる社会である
経済にまず情が排斥されてグローバル化社会が成り立つのである。
何でも数値化されるとそこには情がない世界になる、一人一人は違っているということも認識できない、同じ一つの物ののように処理されるのである。

都会から田舎を見直すというとき何か人間的な世界を求めている、親子が冬菜の畑にいる、何かその光景だけでもまだ人間的なところがある。
田舎は実際は人間関係では最悪な所もある、それでも自然があり花が映える
ある程度の空間と自然が映える所でとないと花も映えない
東京には四季もないだろう、枯野といってもそれがない、たた人込みとビルだけとなってしまう。
そういう場所で自然の感性を磨くことはむずかしい、もちろんそれなりにはあるとしても自然はもともとそんなビルの谷間にあるものではないからである
結局俳句などは短いからいかにその背景を読むからである。
俳句を鑑賞できる人は俳句を作る人より優れているまでなる文学なのである。
それはあまりにも短いからそうなっているのである。



冬薔薇(詩)

一輪二輪と数えて
七八輪咲きにし冬の薔薇よ
淋しき町に咲きにし薔薇よ
ともしさに耐えて咲く
ほまれとて何かあれ
七八輪の冬の薔薇咲く
今日もまたこの花見つつ
この町に我は暮らしぬ



この冬薔薇の俳句を詩にするとこんなふうにもなる
写生を俳句から詩に発展する
詩でも文学でも絵でも基本は写生なのである。
写生を基本にしてあらゆるものがある
そこに写生の意義がある

ただここで問題なのはともしきに耐えということは今は田舎でもないのである。
これは昔ならあった、だから昔の状況だったらより写生でありぴったりする
今は田舎でも都会より贅沢だと思うからである
車も一人一台とかもっていて贅沢なのである。
それでも貧乏な人はどこにでもいる、それは田舎とか都会とか関係なくなっている
一般的に田舎はともしいというのが普通である。
でもどうしてもともしさに耐えというのは作っているとなる
リアリティではない、確かに娯楽施設などは欠けているしたりないものはある
そのともしさはそんなに深刻なものではないのである。
ともしてさに耐えられないからこそ原発を誘致したのである。
タグ:写生俳句

2015年12月21日

百歳に死ぬ母を偲べる短歌十首 (女性は家に生きて家に死ぬ)


百歳に死ぬ母を偲べる短歌十首

(女性は家に生きて家に死ぬ)



七〇年やともにありしもあわれかな目立たぬ母の死にけるかな

我が家に嫁ぎてあわれ七〇年悲しむことの多かりしかな

姉死して母も死にき我が一人家を守るや年のくれかな

それぞれの家にしありて人は生く悲しみ喜び女人のあわれ

我が家に争いありぬそのことの死せばはかなし昔となりぬ

玄関に散りし紅葉や冬となる訪ねし女の昔語りぬ

何故か苦労負わさる母なりき我が家にしもあわれ深まる

霜焼けに苦しむ母のあわれかな温水器なし冬のことなり

我が家に七〇年をありしかあらば思い出は深く家にあるべし

我が家は姉と母との二人して作りしものなり感謝すべしも


母の一生は苦労の一生だった。そして体力的にも性格的にも目だたない存在だった。脇役だった。先の夫は東京で工場の事故で死んだ。
それから実家に帰り我が家に嫁いだ、ただ我が家にきても下働きのようにされた。
だからあまりいいことはなかった。ただ母は細身であり何か自分で世間をわたれるような人ではなかった。そういう女性もまた多い。
女性にもいろいろあり自分はわからない、姉は太っていて過酷な世間でも渡れる女性だった。それでシンガポールに四年間従軍看護婦しても生き延びたのである。
何か人と話すときも恐れない、だから大の男が恐れていたのである。
だから母も姉がいたから一面楽したともなるしじ自分は二人がいた結果本当に楽をしたのである。だから三〇年間世間と没交渉でいられたのも不思議だった。
世間の荒波にもまれることはなかったのである。
ただ二〇代は自分は相当に苦しんでいた。他からたいしことがなくてもやはり自分も体力もないからそうなった。それで二〇代で六〇代のようになったのはそのためだったのである。それから楽をした結果体力がなくてもこれまで生きてきたのだと思う。


我が家では母には優しい家ではなかった。それは父の時からそうである。父も再婚であり母よ良くしたとは言えない、だから自分は母には悪いなといつも思っていたのである。
そう思ってもどうにもならないのが自分の家だった。
それぞれの家に必ず何かしらの事情がありみんな違っているからわかりにくいのである。人間の一生にしてもそれぞれであり不運な人もあり楽な一生もある
でも楽なことがいいかというと何かそこが人間の不思議であり楽な人生を送った人はあまりあわれまれない、何か死んだときでも印象を残さないというのも不思議である。
あの人は苦労したなとなるとき人々はその人を思うということかある
それは両親でもそうだろう、苦労して育ててくれたなと思う子供は両親を裕福な両親より思っているのである。
何も苦労しないで育だったとしたらあまり親のことも思わない不思議がある


ただ人間と生きる限りなんらか苦労しない人はいないだろう。
まず苦労しないとすればそのこと自体が人生で欠けてものとなってしまうだろう
自分もここ十年介護で苦労した。そして介護して親の苦労に報いた、親孝行できたということで満足しているのである。
これだけ楽させてくれたのだから当然だとも自分では思っていたのである。
だから介護はこうして常にその親子でも家族でもそれぞれの事情が違ってくる
手厚い介護がされるとすればやはりその親子関係か良かったとなるのだ。
親戚の人は親に対して全くそういう感情がなかったからもう介護もなにもできない
ただ金目当てだけになっていた。その親に金があるから余計にそうなっていた。
金があるからいって老後でも介護されるとは限らないのである。
金がなくても介護できないがまた金だけでも介護することはむずかしいことがある


ともかく女性は今は多少違っても嫁は家に女であり家に生きて家に死ぬというのが定めである、男は家ではなく社会での仕事をして死ぬということがある
女性と家は切り離せないのである。だから家で死ぬのが一番いいとなる
一応家で介護したから自分の場合は良かったとなる。
でも在宅の介護は人手も金もかかるから容易ではない、それで事件が起きる
それでも人間は死んだときみんなふりかえりもっと良くしてやれば良かったと言っているそれも矛盾なんだけどそうなりやすい、実際生きているときはなかなか人間は偲べない
第一嫌なことが必ずありその人時代でも実際はどんな人でも親でも嫌悪を覚えることがある、ただ死んだときそういうことかなくなるから純粋に偲べる
つまり人間が死んだとき美化されやすいのは直接せっしていれば嫌なことが目立つがそういうこともないので美化されやすいことはある。
歴史でも何か過去の人物が美化されやすいのはそのためである。
現実に生きているときはそうはならないからである。








2015年12月20日

母は百歳生きる意味があった (家庭の事情で違ってくる介護)


母は百歳生きる意味があった

(家庭の事情で違ってくる介護の様々)


母死して風鳴りにつつ冬椿

日曜日枯野にあわれ昼の月

母死して玄関に光る冬の月



二本の枯木のここに変わらざれ歳月経てそさらに堅きも

我が母の百歳生きぬ千歳なる巌(いわほ)となれや冬のくれかな

骨のみそ家に飾られあわれかな母ようやく我が家の主


私は人間です。血も心も通った人間です。だから今にも消えそうな命の火が目の前にあれば、努力して1日でも燃やし続けさせてあげたいです。理由はうまくいえませんがそれが人間ではないでしょうか?

介護は家庭の事情と深くかかわってくる。家庭でのその人の立場がどうなっているかで違ってくる。
自分の家は複雑であり他からはわからない、姉が家の主であり母は脇役だった。
目立たない存在だった。だから母が我が家の主役になったのは奇妙だが姉が死んでからであった。
そしてこれも不思議なのだが姉が死んで母が死んで祭壇に母の遺骨が置かれてから我が家の主人となっていた
92-3才までも料理をして家事をしていたから家では現役だった。
自分の家では嫁がいないからそうなった。
だから自分は介護は嫌でも義務だった。介護でも確かに三食を出していたがオムツもしていないし最後まで自力でトイレに行っていたから三食食べさせるよりはずっと楽だった。だからプログとかも創作もつづけていたのである。


そして母が我が家に嫁いで主役となったのは姉が死んでからであり介護されてからだったのである。だから自分の家では十分に介護されていても存在感があった。
まだ家では生きる意味が価値が存在感があったのである
家族が多いと嫁が主役になったりするとそういうことはなくなる場合がある
嫁からすると早く死んでもらいたいとなるだろう。
介護では常にそうした矛盾に悩むのである、もう世話はしたくない、早く死んでくれというのは常にある、それと矛盾しているんだけどやはりまだ生きてほしいということもあるこの二面性は誰でも常にあるのが介護なのである。
だから死んでくれというのは強烈になると、それは我慢の限界が来て殺人にもなる
そういう相反する葛藤が介護者にはある


ともかく母は死んで我が家の主役となった。姉は脇役化したのも不思議である。
死んでから主役になれるのかというがやはり人間にはそういうこともある
生前は注目されなくても死後に注目されることは多々ある
それが生前はその人の価値がわからないが死後に発見されるということがある
だからつくづく人間は死ぬまでわからないものであり死後もまたわからない
死後にその人が見直され価値があるものとされることは良くある
それは別に有名人ではなくても平凡な人でもある


介護はとにかくそれぞれの家庭での立場が強く影響するのである。だから最後まで家で介護されたいとか在宅で死にたいというときその家族のなかでどれだけの立場にあるかが問題になる
病院であったただ手をあげることができるだけの人がいた。その人は妻が来て手をにぎるだけでありほとんど意識がない状態だった。
介護度5であり寝たきりでありしゃべることもできない、ただわずかに手を上げられるだけだった。その介護度5の人を家で介護していたのだから驚く
その人は農家として優秀であり娘三人を大学に出していた、だから家族で大事にしていたのである。
それだけみてもいかに大事にされていたかわかる。
その後どうなったかわからない、浪江の人でありおそらく郡山に娘がいたからそこに避難したのだろう。


こういうふうにそれぞれ介護する家族の事情が違っている。自分はあんな人をとても介護はできない、比較的楽だったからできた。ただ姉がひどい認知症だったから一時はパニックになった
でも2年半くらいで死んだので救われたとなる、もし二人を介護するようになったらもうもたなかった。これも天の助けなのか、悲劇にならないで助かったとなる
あとは母の介護だったがこれも5年は長かったが重度ではなかった。
それは母の頑張りがあったからである。そうでないと苦しくなった。
だから不思議に自分は介護しても恨んでいないし二人には特別良くしてもらったから感謝している。
死んでも今は母を家の主役として祭壇に骨を置き大事にしている
供養もこれから近くに墓があるのでする、死んだ後も二人への感謝は変わることがないからだ。

我が母の百歳生きぬ千歳なる巌(いわほ)となれや冬のくれかな

人間はやはり百歳生きることは何か重みがあると思った。年寄りなど金ばかりかかり社会にとって何の役にもたたないとか言われるが百歳にはやはり意味がある。
千歳の巌のようになってゆく,死んでもやはりそういう重みが残る
やはり百歳はまだ特別なのかもしれない、これが百歳が多くなり百二十才とかにならないと珍しくないとなればまた違ってくる。
人類は百歳の時代からさらに百二十才とかの時代になるのだろうか?

だから今にも消えそうな命の火が目の前にあれば、努力して1日でも燃やし続けさせてあげたいです

母は病院に行っても最後までこうして生きたのである。何日か前までは自分の顔を見てわかっていたのである。意識があったのである。
そうして母は何か師走に冬に死ぬのつくづくふさわしかった。生れたのも2月4日でありもう少しで百一才だったのである。冬に生れ冬に死んだとなる。
苦難の一生だったから冬にふさわしい女性だったのである。
ともかく確かに人間は死んで骨と灰になるが人間はやはり子供であれ他者の心に生き続ける。
あのように自分にトイレに懸命に行っていたこともやはり今になれば良くがんばったなと思うからである。

例の二本の枯木はやはり歳月を経ることによってさらに堅く結ばれる感じになる
何か平凡なんだけど何度もみているのだけど年によって違ってみえるのも不思議である。見慣れたものでも同じものでも違って見えるのである。


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タグ:介護の様々

2015年12月19日

年の暮(介護に費やされた十年をふりかえる)


年の暮(介護に費やされた十年をふりかえる)


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年の暮母の遺骨と我が一人


森の中かすかに残る虫の音を我が聞き母は死なんとすも

我が家に嫁ぎて長し歳月や庭の紅葉燃えつつ死なんとすも

我が家に生きる70年長しかな死ねばつかのま母は逝きにき

母とある最後のときを惜しむかな秋も終わりて冬となるらむ

幸薄き母にしあれやあわれかなその最後は楽に眠るごと死す

西村家最後に残る我が母の今や死なむや何を伝えむ

でで虫の殻一つの残る道安らかにして我が母死なむ

残る虫かすかに鳴くを我が聞きぬ故郷の野や母は死なんとす

近くにそ母の苦しむしもやけを知る人ありて親しさ覚ゆ


母の場合、急に死んだのではない、介護が五年くらいつづき最後も急激に死んでいない
だんだん弱っていった。家では八日間は水しか飲んでいない、それでもホータブルトイレに行っていた。
つまりオムツもしなかったし八日前まではわずかでも何かを食べていたのである。
だから三食食べさせるようなことはしなかった。
他では脳出血とかなると三食食べさせているから手間になる。
そうなると何もできなくなる、プログはたまたま書きやすいから書き続けることができたそれすらできなくなっていた。
つまりそうなるとすべての時間が介護のために奪われることになるのだ。


姉が認知症になったとときはそういうことになった。夜中まで起きていたりしたからである。そうすると夜もまともにねむれなくさえなる。
介護にもだからその人により家族によりいろいろなケースがある。
一番ひどいのは両親でも二人同時に介護するときである。
その時一時そうなったからどうしていいかわからなくなった。
それで近くの人が家に火をつけたとか殺人までになる
でもなぜか介護というのは誰か一人がになわされるのである。
兄弟でも何か協力することが少ないのである。
そういうことから事件がこれからも次々に起きてくる


いづれにしろ高齢化社会で介護に費やすエネルギーは金銭的にも労働力にしても膨大なものである。それで国がつぶれると言う人がいるのもわかる。
介護はそれほどの重圧なのである。まず介護は最低で五年とかであり医療が発達しているからさらにこれからも長くなる
介護というのはそもそも昔はそんなになかったものだろう。
たいがい病気になっても介護もろくにできず死んでいた。
母の場合もすでに一年前入院したとき点滴などしないと死んでいた。すると一年は寿命が短くなった。
それでも祖母は脳出血になり五年生きていたという、藁がオムツ代わりだったという
戦前はそういうこともあったから恵まれている、日本のオムツを中国人が買うのもわかる

なんか地方の仕事が病院関係と介護関係と葬祭関係が主役のようにさえ思う。
病院が街の中心のビルでありそれを取り囲んで薬局があり介護施設があり介護関係の仕事がありとかそして団塊の世代になると死者が増えてゆく、すると葬儀屋が繁盛するとなるこういう社会が何なのだろうと思う
それだけ余裕ある社会ともなるがとにかく膨大なエネルギーが介護に費やされる時代なのは間違いない。
団塊の世代が介護されるようになるとさらにその負担は増える
あの人も母親を介護している、三食食べさせているから大変だとか同級生が脳出血になりやせ細りなんとか生き延びたとかあの人も脳出血になったのかとかそんなことが身近で増えてくる、そして団塊の世代も大量死を迎えるのである。


自分も十年間は介護に費やされた。それでも自分のやりたいことはやらせてくれたから自分の場合は特別であり恨んだりはしない、そして一時は苦しかったが一人でなんとかのりきれた。一時はパニックになり苦しかった。自分自身が病気になり入院してそのあとの二年間が身体障害者のようになり苦しかった。
その時助けるものがいないでただ責められるだけだったのも苦しかった。
それもあまりにも恵まれた結果としてのカルマだったのである。
人間は恵まれたままにいいことばかりで終わらない、かえってそのことが最後の方になり苦しむことになる、資産家の姉妹が餓死して死んだというのもそうである。
恵まれた人は生きる術をもたないからそうなる、地をはいつくばるようにして生きてきた人などを知っているあういう人ならどんなときでも生きられると思った。
人に頼むのがうまいもらうのもうまいし延々と交渉してあきらめないというのにも驚く
お嬢さんだったら自分もそうだが人に頼めないのである。
人に頼むということは相当な能力が必要になるからだ。
自分を偉いとしている、恵まれているとしていればできないのである。
そういう経験がないとこんな時代でも餓死してしまうことになる
おそらく役所の福祉とも交渉できないということもあるからだ。


介護は男だとまた苦しい、家事の延長に介護もあるからだ。介護で家の中がガタガタになってしまうからだ。それで介護になってから家の中がかたづかないのである。
家のことを一人で家事までやることは容易ではない、だからここ十年は何か毎日追われる生活だったのである。
まず食事でも三回ださねばならないというのが手間なのである。
常に何かしてやらねばならないとなりその緊張状態がつづくのである。
つまり気のぬけない時間が延々とつづくのである。
だから仕事でも介護しながらやるというのはむずかしい、技術者が母親を介護しながら仕事していたがあれも苦しいと思う、仕事に集中できないからである。
その人は五〇代であり技術者として仕事をまかせられている人である。
そうなると日本国んの国自体の国力をそぐことにもなるのだ。
高齢化によって国が衰退してゆくというのも現実味がある


ともかく母は何か急激にではなく徐々に死を迎えた、だから死に対する準備ができた。
死ぬ二日前ほど葬儀屋と相談して段取りはできていたのである。
そういう時間があった。だから必ず死ぬ前に葬儀のことは相談しておくべきである。
ただ一回経験していることは強みだった。経験しないことは何でも苦しい
認知症の介護でも経験しているから自分の場合介護しやすいとなる
認知症という病気はわかりにくいからである。


母のことで近くの人がしもやけのことを知っていた、そんなことまで知っていたのかということで驚き親近感を覚えた。姉と関係していた人だけど母もいたから知っていたのである。あのころは水道ができても水が冷たかった温水器がなかっんたからである。
そのことを自分は知っていた。でも何かその頃そんなに母のことに同情したことはない
ただあまりにも店屋をやっていて忙しいから嫌だったのである。
なぜ日曜日も休まずご飯もまとも座って食べないのか嫌だったのである。
そんな働き詰めの母を自分は嫌っていた。ただそう強いられたという面があったから全部が母の悪いのではない、母はそういう性格だったということもある
死者について語るのにもやはり知らない人だと語れない、しもやけのことを知っていたので母の苦しいことを知っていたのだとなり何か共有するものを感じたのである。
第一回りでも人間が変わるし昔のことを覚えている人はまれになる
自分自身すら老人であり昔を語る存在になっている。この辺では母が一番生きたがその前にこの辺を知っている人が死んでいるのが多いからである。


年の暮に母の遺骨と自分一人の家というのも淋しい、でもそれが現実である。
俳句は写生というときまさにその現実が重いものであれば俳句にも重みを帯びる
死は最も重い現実だから俳句も重いものとなった。
つまり文学でも重い現実を反映すれば重い文学となることがわかった。
死から死体を焼き骨となるのは最も重い現実だったからである。


タグ:遺骨

2015年12月17日

冬紅葉(忌中)


冬紅葉(忌中)


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ここで寝起きしていたからふさわしい


我が家の忌中になりぬ冬薔薇

冬紅葉散りて我が家や忌中かな

白菊や忌中に咲きて籠もるかな

母死ぬや曇り硝子に冬紅葉

塔古りぬ奈良を思ふや冬紅葉


七〇十年我が家のここに寝起きして働きければ祭壇のあれ

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忌中とかいろいろな死後のことは仏教に由来する、ただ仏教でもすでに日本流の葬儀の仕方がある、神道が先にありそのあとに新道が入ってきたからである。
第一仏(ほとけ)は日本語、大和言葉なのである。ホトケはホトキだったとか言われる
何らかの死者を祀るものだったのだろう。
いづれにしろ葬儀にはいろいろあるがキリスト教のこともわからない、そもそも死者は何かわからない、いろいろなことをいってもわからない
ただ死ぬときは平凡な人でも厳粛になってくるのも不思議である。
死とはそれだけ人間にとって重大なことなのである

それでも母は働くだけであり多少最後の方で花がきれいだなとか言ったがほとんど関心がなかった。もし金だけを毎日数えているような人間だったら悲しいとなる
冬紅葉の季節に死んだのは母にふさわしかった。
人間は生れる日と誕生日と命日は一番大事である。
そして西行が桜の咲く季節に死んだのはふさわしかった、そもそも西行は桜を愛した歌人だったからである。
別に自分の母はそんな文学も何も関係ない、ただ働きつめの一生であり第一俳句も短歌も関心がないしわからない、自分が母の一生とか性格をみて俳句とか短歌にしているだけである。


冬紅葉というとき何か奈良にふさわしいのかも、もちろん京都にもふさわしい
奈良と京都は何か違っている、もちろん歴史的にもそうだが奈良は田舎的な所がある
自然もあるし田んぼも回りにある、それが何かひなびた感じになる
もちろん奈良は歴史もあるが京都とはまた違っている
奈良と京都の相違がやはり関西ではいろいろ文化があるから歴史がある
万葉集でも以前として奈良だったら偲べるが京都とか大阪になると偲べない
日本の純なる自然がすでに消失しているからである。




タグ:忌中

2015年12月15日

母は今日出棺して火葬場でお骨にしました


母は今日出棺して火葬場でお骨にしました



我が母の出棺の日や冬の朝

冬の草母をはふりて石一つ

火葬場や石に咲きしは冬椿

冬静か二人のみして母おくる

骨となる母の亡きあとや冬景色


朝早み我に食事を用意する高校の時や母を思いぬ

我が家に姉の写真も飾りつつ母をおくりぬ冬の朝かな



遺体を焼いて骨にすると本当にその人はこの世から消える、今日は8時30分に行き焼いた、そこには一人もいない、二人で待って骨を拾った。もう一人は来ていたが用事があって帰った、でも何か静かに見送りできて良かったと思う。
今回の葬儀は一回経験しているので段取りができていたから楽だった
それでもやはり葬儀というのは何か精神的にも重圧なのである。
それで一人だったら苦しかった。一人が補佐してくれたので本当に助かった。
ともかく一人というのは病気とかなにかあるとその負担が大きすぎるのである
親戚でも借金しているような人が来ると困る、そういう人は病気であろうが葬儀であろうがなんでも借金をするためにするとなるから借金している人は罪な人になる


母の頭蓋骨はそっくり残っていた。それは珍しいとも言った。骨も丈夫だから百歳まで生きたのか?その理由ははっきりしない、とにかく母は辛抱強く頑張り屋だった。
何にも楽しみがなくただ働くだけの一生だった。
それで何か人間的に欠けてかたよった性格にもなった。
花とか美しいものを美しいと見ないのも悲しいことだった。
そういうものに価値を見いださないのも悲しい人生だったともなる
ただふりかえれば自分には尽くしてくれた、食事を70年間も用意してくれたのでそれを介護してからその苦労がわかり感謝している


映画で納棺師のことなどを映画になったが今回のフローラの人は何かそのしゃべり方までそんな感じになっている。やけに丁寧でありしゃべり方まで死者に対して敬意を払うので感心した。
これも特別な仕事なのかもしれない、そのフローラの社員は骨まで拾ってくれた。
だから前もそうだったがフローラは何かこれが必要だとか押しつけないのである。
葬儀のときは混乱しているから言うなりになるしケチられないからそうなる
フローラでは何かそういうことがない、これをやりますかということをいちいち納得させてやることを決める、そして本当に安く葬式ができることに前も驚いたが今回も10万安くできた。こんなに安く葬式ができることに驚くのである。
もちろん人も来ないからであるがそれにしても前と同じように安い、前は30万であり今回は20万だった。別にけちったわけでもないのにそうなっていた。


ともかくこの納棺師とかこういう葬式に関係する仕事はまた特殊でありこの仕事にあう人もまたそれなりの適性がないとできないと思う。
フローラの担当した人は若いけどしゃべりかたまで何か葬式にふさわしいように慇懃にしゃべるのである。
これも何か奇妙でありやはりそれは職業として成り立つものであり死者にたちあう厳粛さがあるからそれに対応するのにふさわしい言葉遣いになったのかもしれない
それともその若い人はそういう性格なのか、なにか不思議に思ったのである。


南相馬市長から百歳ということでまた一万香典をもらった、百歳はまだ少ないから意義があるがこれからは増えると希少価値がなくなる

ともかく今回は母の死をテーマにして俳句を作ったがそれが何か我ながら深遠なもの荘重なものになったのはやはり死がそうさせていたのである。
どんな人の死にもその死んだときが最もその人を示すときである。
誕生日と命日が人間にとって一番重要な日であることでもわかる
母は冬の日に死ぬのにふさわしかった。
そして静かに二人だけで送ったことが何かしみじみとして良かった。
姉のときは9月でありその時は親戚が二組とか世話した人も来て三組来てにぎやかだった
だから何かあわただしくすぎてゆっくりおくることができなかった。
その時ひぐらしが鳴いていて

ひぐらしの石にひびきて姉の逝く

今回は五本松の火葬場には二人とか三人だけだったから静かで良かった。母はおとなしい静かな女性だったからあっていたとなる
かえって人が多いと死者を偲べない、ともかくあわただしいからゆっくりと静かにおくれないのである。
今回そういう点では良かった。それで俳句を作ったがそれが何か深遠となり重厚なものとなったのはやはり死者をおくるという厳粛なものがあったからである。
ともかく葬式にかかわることは骨を拾ったりしたらそれは何か相当な縁が深い人ともなる感じがする、ただフローラの職員はそれを日頃から仕事としているし火葬場の職員もそうである。


でも火葬場の職員はそんな仕事しているから嫌われているというのも何かで人間は常に差別したいからである。
納棺から火葬にすることが一番ショックである。骨しかなくなってしまうことがショックである。
ただ母の場合は何か百歳まで生きたからすーと消えた感じもする
もう百歳も生きて苦しんだ体にはとどまりたくないとすーと消えた感じがする
死というのは若いとき経験するのは老人ではまるで違う。
老人は死に近いから自分も死んでゆく番だからそれほどショックにならない
死をもう受け入れるほかないものになるからだ
ただ死んだらその人の何が残るのか、それはその人の生きた一生が残るともなる
もう生きた形はないのだけどその人の生きた一生は残る
母の一生は自分には特に残っているし消えることはないだろう。
つまり体は見えるものは消えてもその人の一生は航跡のように残る
平凡な人間でも死んだときその人の一生を語る
すでに死ななくても老人はその人の一生を語っている
母は介護されても懸命にがんばりやで我慢強いから生きていた。
最後までトイレに行きそしてボータブルトイレには水だけしか飲まない時でも自分でしていた。
入院して小便を管でとるようになったがそれも一カ月もしていなかった。
それを凄くいやがっていた。だから介護のときも死ぬときまで何かがんばったとはなる
そのことは介護についてまたつづきとして書く











2015年12月13日

百歳で死んだ母の安らかな死に顔 (自然と一体化すると荘厳な死になる)



百歳で死んだ母の安らかな死に顔


(自然と一体化すると荘厳な死になる)

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昨日の状態

まだ顔がこわばっている、何かまだこの世に生きようとしている
口の感じからそうなっているのか?


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今日の夜は昨日の顔のようにこわばっていない
何か力がこの世に執着する力がぬけてきているからだろうか?
何か微笑んでいる感じにも見える、死者としての怖さがない不思議がある
母の死に顔は何か安らかなので人に見せてもいいと思った。
なかなかあとは記録していなとこうした写真はとれないだろう。
死者を冒涜しているという人もいるがやはり一つの記録として貴重となる


静粛に母の死に顔冬の水

我が家に母を安置し冬の菊

我が家に母の遺体や朝の霜

死に顔に白百合向きて咲きにけり

しとしとと母は死にき冬の雨


母はともかく辛抱強い女性だった、死に顔をみると唇をしめて何かまだまが辛抱している感じに見える
一方でやっと安らかになった、苦しみから解放されたような顔にも見える
何かほっとした解放された感じに見える
死に顔もまたその一生を物語っているのだろうか?
がまん強い感じはまだあるがそれと同時に安らかな面持ちにも見える
顔はやはり何かその人の一生を語るのか?
やはり死んでも何かを語っている、そこに死に顔の不思議さがある
顔はやはり死んでも精神を表現している
ただそれも一日二日でありあとはすぐ死体は腐乱してゆく
つまり一日二日はなお死人でも生きている感じになる

良く成仏にこだわるけど母の場合はその一生を死に顔に凝縮させている感じである。
唇をしめて辛抱強い、そして性格が柔和だから何かその苦しみから解放された面持ちになっている
人間の死に顔もまたそれぞれの一生や個性を語っている
自分は何か冷静に見ている。その前にずいぶん悲しんだから涙もでない
それで母の死に顔を冷静に見ている
葬儀屋の人に聞いたがみんなが安らかな顔ではないという、事故死とか自殺死は安らかにはとてもならない、だから商売でもそういう人に接するのは嫌になるし
不気味になり、何らかの精神的影響を受けることもある
死に顔から死体は完全に死んだというのではなく何かそこから発するものがまだある


「徐々に霊体は手足から抜け出し、頭の方に凝縮する。やがて頭頂から後光(ごこう)が現れ大きくなる。次第にそれは形を現し、ついに抜け出した肉体と全く同じ形になる。霊体は高く上がり、一個の美しい霊が私の前に立つ。他方、肉体は下に横たわっている。だが一本の細いコードが霊体と肉体をつないでいる。このコードは次第に薄れていき、やがて消滅する。こうして霊は永久に地上と縁を切るのである。」

スピリチャルではそう言っている。だから死んでまもなくの状態はまだ生きているのだ。生の延長がまだ残っている、生前の生が凝縮されて残っている
確かに母の顔にはそれを感じる、だから完全にこの世を去っているように見えない
今も歯をくいしばりこの世に残り生きようとする顔である。
もともと辛抱強い人だったから顔もそうなっている。
昨日死んだのだが今日の午後からの死に顔を見るとさらに安らかになっている。
やはり徐々に顔も変わり体もかわりやがて体から霊がでてゆくのかもしれない。
いづれにしろ人間は神秘的存在であり死んだからすぐ終わりではない、死後まもなくはまだ生きているのだ
だから生きている人のように語り一緒に寝る、死んだ人に思えないからだ。
顔の中にその人の心が以前として残っているのである。


俳句とか短歌でも死をテーマにしたとき荘厳なものとなる
死ぬということは平凡な人でも何か厳粛なものを感じるからである。
そして死というのは自然に映えるとき荘厳なものになると思った。
自然の中での死が理想的である。死ぬとき本当に自然と一体化する
自然の厳粛さと人間の死が一体化して自然はさらに重さを加える
つまり自然も人間の死によって一段と深い意味を価値を帯びることにもなる
だから都会の死には自然がないから荘厳な死がないのである。
ビルの谷間で死ぬのだから何か機械の部品のうような死にもなる
人間は自然の中でこそ意味と価値を帯びるのであり都会にはそれがないから死はただ部品が一つ消えるという感じにすらなる
それで常に言っているように人間の死すら自然によって価値と意味を与えられている
そういう価値観をもつ時田舎に生きるということの方がいろいろたりないものがあってもいいとなる。
つまりそういう価値観は物質的豊さとは違ったものでありそういうものを見直すことが新しい文化を作り出すのである。
それは経済的豊さとかとは違ったものであり原発とかに頼るものとも違う価値観に生きることなのである。
自然の中に荘厳に死ぬということは別に経済的に豊でなくてもできるからである。

タグ:死に顔

2015年12月12日

母(小林トミ子)百歳は今日死亡しました


母(小林トミ子)百歳は今日死亡しました

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今日母の命日となる冬紅葉



5時ころ病院に行ったときまだ生きていた。でも一週間くらい目が閉じて相手が誰かわからなくなっていた。
その時意識不明になり死んでいたのだろう、意識がなくなれば肉体が生きていても死んだと同じなのである。
でも最後まで目がこちらを見ているようだった。姉の場合は目が完全に死んでいた。
その死に方は悲惨だった
母の場合は眠るように死にたいとかいつも言っていたがそのことだけはほぼかなった
体が冷たくなっていたのだから死ぬということはわかったかもしれない

でも血圧が下がっていないとか看護師が言っていた。
ただ今日は酸素吸入をしていた。だから悪くなったのかと思った。
そしてまもなく死んでしまったのである。
やはり体が衰弱しているからもうもたないということであった。
つまりその機械と数値で計れない手とか体をさわってみればすでに冷たくなっていたのである。
それはもう死ぬということだったのである。機械に頼りすぎるのも良くない


ともかく母の一生はいいことはなかった。ただ最後だけが楽に死にたいということをいつも言っていたがその願いだけはかなったのである。
なんか死んでも悲しくないのは自分は姉と母を介護して随分悲しんだ
だから涙もその前に尽きたともなる
最後は家で死にたいと言ったので家で今日と明日と家で一緒にいて送ることにした


合掌

2015年12月07日

年の暮(ここ約十年の苦しみをふりかえる)


年の暮(ここ約十年の苦しみをふりかえる)


朝空にノスリの鳴きて冬樹立つ

我が家を一人にないて年の暮

原町へ買い物忙し年の暮

路地裏の道に目をとむ冬の菊


ノスリは鳶とにているけど違う、鳶が輪をかいて回るような飛び方をしない、グライダーのように水平飛行する、飛び方としてはこっちの方が恰好良くみえる
ノスリが増えたのは荒地化してネズミが増えたからである。
以前としてこの辺は荒地が広がっているからである、それで餌になるネズミが増えた
ノスリの鳴き声は鋭い、ピーと鳴いて水平飛行である。
そのノスリの声がひびき冬樹が農家に立っているのも冬らしいとなる
今年はまだ暖冬であるが冬は冬らしい方がいい、日本から四季がなくなったら俳句も文化もなくなる、そしたら日本に生きる魅力もなくなるのである。


自分は姉が認知症になってから介護に追われた、
2005年11月29日開始からプログを開始して2006年に姉が認知症になった
その年は南相馬市が合併した年だった。その合併のことが話題としていた。
ほぼ介護を始めてから十年がたつとなると一昔ともなる
その間はプログに書いてきたようにさんざんな目にあってきた。
自分自身の病気でも辛かったし助けてくれるものはなくかえってその弱さにつけいれられて借金とか犯罪とかにあった、病院では虐待のようなこともされた。
何しろこうして弱さにつけこまれて責められるのは一番辛い
弱点を責められるのが人間は一番弱いのである。
ところが人間の悪質さはそうした弱さにつけこむのである。
そういうとき一番カルト宗教団体でも効果を発するのである。
それは個人でもそうである、相手を奴隷のように従わせることができる
ただ自分を責めてきた人たちも追い詰められていたのである。
借金とか貧乏で追い詰められていた、まず人を雇うとき借金していないかどうか調べるというのは当然である。借金が一番犯罪のとを気になっているからだ。

ただなぜ自分がこんなひどいめにあったかというとこれもカルマだった、自業自得だったのである。結局自分は20代はそれなりに苦しんできた
そんなもの苦しみではないというかもしれないが自分にとっては苦しかったのである。
その証拠にもともと体力がないにしろ体が非常に消耗していたのである。
それですでに20代で60代に年寄りに見えたのである。
それだけ20代ですでに体を消耗していたのはやはり苦労していたのである。
30代からは故郷に帰り楽していたから体力を回復したことでもわかる
その後30年間は平和がつづき旅などに費やされて苦労していない
それは家族に恵まれたからであった。
自分は何もすることがない、三食は用意されているし家事などしていないのである
それが一転して家事から介護から自分の病気でも誰一人みる人もいなくなったのである。結局これも自分が30年間楽した結果だったのである。
人間も楽することもあとで辛いことに直面したら耐えられなくなる
お嬢さん育ちとかなる苦難に直面したら耐えられない
美人であっても苦難になると弱い女性がいて夫を支えられなくなる
苦難に強い女性がいるがそれは美人でない場合が多いかもしれないからだ。
だから人間はつくづく何がいいのかわからないのである。


人間は例えば生れが良くても金持ちに生れたからといってすべてがいいとはならない
恵まれすぎるとあとで苦難をのりこえられなくなる、だから人間はどんな境遇の人でもカルマをもつ、それは必ず60代以降とかに現象としてそのカルマが現実化する
結婚するとかもそうである。結婚の意味が自分にはわからなかった。
結婚しないと妻がなかったり家族がないとどれだけ辛いことになるか身をもってしった。だからこれもカルマである。もちろん結婚していても離婚している人が三分の一もいるのだからやはりカルマをつむ、
ともかく人間は必ずカルマを一生の間にもたない人はいないのである。
ただそのカルマを自覚しえないだけである。それが60代以降必ず自覚させられる
それは自分が身をもって体験したことを書いてきた
一生の間で恵まれつづけるということ楽しつづけるということはありえないのである。
それで苦労してきた人は60代以降は楽になる傾向がある
大正生れとかは苦労した人が多いから今は手厚く介護されているとかある
でも団塊の世代とかなると恵まれていたからもう手厚く介護されないとかカルマを受ける人間は楽したいと思ってもその楽が苦労につながる、どこかでその楽したことがカルマとなり苦労することになる、それが自分でも身をもって体験したのである。


今日は原町に買い物に行き病院に行き疲れた。自転車だとやはり疲れる、そして家事というのは仕事があるものだと思った。
震災以後以前として家をかたづけられない、それでゴミ屋敷が話題になるが一人暮らしとかはそうなりやすいのである。
いくらかたづけてもかたづけてもゴミがでてくるしかたづけられないのである。
母が死ねばかなりかたづけられる、自分のものだけでもかたづけることが容易ではない
だから震災以後家事に追われ介護に追われてきたのである。
その間病気になったから余計に追われことになった。
病気が直っても今度は母の介護があったからかたづけられなかった
要するに感じたことは家を受け継ぐことは一大事だったのである。
財産でも何でもそうだった。その残されたものを維持することがこれほど労力を費やすものかとつくづく思った。
事業しても二代目がつづかないのはそれだけの能力も必要だし一人ではできない
自分の場合は全部一人でになうことになったから大変な重荷となったのである。
ともかく今年も終わりに近づく、結局母がどうるなのかわからないし以前として何か追われつづけているのが自分なのである。





タグ:年の暮

2015年12月04日

冬の虹(我が街の路地裏の道)


冬の虹(我が街の路地裏の道)

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百歳の母を介護し冬の虹

故郷に住みて長しも冬の虹

我が街の大銀杏に冬の虹

故郷に老いて交わる冬の虹

我が町の路地裏歩み冬の虹

冬の虹消えし余韻や老いにけり


今日は夕方に雨がふり冬の虹が街の上にかかった、大銀杏の樹がありそこに虹がかかったそれは束の間だった、冬の虹は何か消えやすい、カメラをもっていなかたっのが失敗だった、毎日同じ道を行っても変化がある、この前は白い山茶花が雨に散って白く映えていた日常的なものにも詩が絵がある、四季の変化がある
結局詩でも絵でも遠くにあるとは限らない、意外と身近な所にも詩や絵になるものがあるこの路地裏の道を毎日行ったり来たりしていしても詩や絵になるものがあった


人間はやはり長く住んでいるとその街でも里でも一体化してゆく、それは別に京都とか住まなくても同じなのである。ただそこに詩とか美を発見しないだけである。
京都に特別なものが必ずしもあるとは限らない、日々の平凡な生活にもある


なかなか冬の虹は見れない、冬の虹も趣き深いと思った。冬の虹は田舎にふさわしい
老いにもふさわしい、介護も自分はなんとかしたということで冬の虹がかかった
これがやはり介護でもうまくしないとあとで恨まれるから冬の虹として映えないともなる美もまた人間の生活と一体となって映えるからである。


ともかくカメラをもっていなかったのがまずかった、いつも通っている道だからカメラにとるようなものがないと思っていたからだ
しかし自然は意外なとき所に美を作り出すのである。それは思いがけないものだからカメラは常時持ち歩く必要がある。でないと二度とその場面がとれないからである。


なんとか合成写真で冬の虹を再現した。これも現代的である。ソフトに精通すれば本当に現場にいたような写真を作ることもできるだろう。
それは一つの創作にもなっているのである。



タグ:冬の虹

2015年11月30日

我が街の家の墓地への情をつづる (文語体で記す)


我が街の家の墓地への情をつづる

(文語体で記す)


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我が家の近きに墓地あり、その墓地に眠れるは我が父と姉と姉の母なり、次ぎにこの墓に入れるは我が母と我となりしや、ただその後に継ぐものなしも
この墓地の街中の近くにあれば日々我が墓の前を通りぬ、我が墓は道に面してあれば親しく我の通るを死者の見るごとしも、今し秋はすぎ冬となりしも、木の葉は一枚この墓地にひらひらと散りぬる、この墓地の街中にあれどもふるしも、その故の古き碑のあれば知りぬ、古きは宝永(1700)の大きなる石碑なり、これ弘法大師空海の真言宗の碑なり


さらに古きは隣が古代に由来する神社なればここは鹿島神社の領域なり、その後寺になり神宮寺となれり、これは全国的に神社より神宮寺になるもの多し、他に天保の碑あり、これは記されし字を見ればここは寺子屋なりしも、これまた全国に多し、何か暗唱せよという文字の記されてあればなり、天保と言えば明治維新に活躍した吉田松陰、山県有朋、坂本龍馬、,,元勲と言われた人々はみなそうなり
天保が1840年として明治元年が1868年として丁度天保に生れし人が明治に青年となり
重責を担いしなり、それ故に天保は今につづく年なりしを知るべし
天保よりの墓の多くなりしも幕末となりこの頃から豊になりて庶民も墓を作りしためなり
久しくも話もしない、同級生のその家はこの近くにあり、その家の由来を今に知れば古りしも、南北朝時代にさかのぼる古さなり、南北朝時代に霊山から落ち延びた時の祭りお浜下りのおつづら馬という馬につづらをのせたものの役を担う古い家柄なりを知りぬ
その人の街中に住むとなればこの街もまたそれなりに古りしを知りぬ

我が家の墓は新しきものなり、なぜなら我が家は明治か大正時代に今の双葉町の新山より移りすむ、父はそこの酒屋の丁稚にして葛尾村(かつろう)村から出て奉公しぬ。
その後暖簾分けしてここにいたりぬ、明治までさかのほるにしても江戸時代まではさかのぼれぬ新参者の家なり、ただこの街でも我が家の近くの神社に天明の碑あり、天明と言えば相馬藩の大飢饉で三分の一の人口の減りしときなり、そのようにその神社の古しを知らじ、天明は1780年とかになりぬ、天保より一時代前の80年前とかなりぬ
それでもまた天明もさほど遠きにはあらじか、明治より二百年前、今から三百年前、そして慶長津波はそれより百年前なりしも

たいがいの墓地は古く神社も古く江戸時代にさかのぼる、ただここが墓地となりしは明治以降であろう。江戸時代は寺の領域なり、それ故に寺子屋がありその碑があるなり
この墓地の我にとりて親しきは我が父と姉との眠ればなり、父は13才の頃に死ぬもその面影はあり、また姉は最近死ぬ故にその記憶は生々しも、次ぎに入るは我が母なり、余命幾ばくもなし、その後に我も寿命なればいつ死すとも知らじ、故に墓のことの気にかかりぬ我はここ十年介護に追われ遠くに行けず、ただこの狭き街の路地を往き来す、そしてその時必ずこの我が墓のある墓地の前を通りぬ、故に我が墓は親しきものなり

ここに眠れる人はいかなる人や、近くに生きて知る人もあり、同級生もすでにここに葬られてありしも、60代になれば死す人もあり、同じ同級生は脳出血となり一命をとどめしと語りぬ、まことに六〇代は病気の世代なり、必ずやなにかしらの病気のいでくる世代なりそれ故に死はすでに身近なり、両親の今は長生きして我が母の百歳ともなれり、余命幾ばくもなしも次ぎに死すは我なりしも、我が生きるは何故ぞ、我のみの残りて墓参りと供養なるべし、故に母死してもこの墓は我が墓参りと供養のためにありぬ
しかしその後は知らじ、我が生きる限りは墓参りと供養は欠かさじ、近くにあればその前を日々通れば墓は身近にて死者も身近なり、死者とともにあるともなれり


ここに北風は吹き木の葉は舞い散り落葉たまりぬ、この墓地の回りも前は幼稚園がありそれが取り壊されて更地となり次ぎにまた津波や原発被害で復興団地となれり、これは大変化なり、この墓の前はもともと沼地なり、それ故に地盤悪しと建設にたずさわる人の言えり、それが都会のような団地になることに驚く、ここには原発の避難者の小高の人も住めり、この変遷の大きく人の入れ代わりも激しきなり
世は常に変わるとてこれほどに変わることを前もて知るは不可なり、津波にて草茫々となり一軒の家も海岸地帯にはなくなりぬ、この変化はあまりにも無常なりしも
その海岸の村の人は家もなく仮設に住みて同じ場所に住むことなしも


この路地の道の何回か曲がりて行きぬ、晩菊のかたまり咲き日のあびぬ、山茶花の垣根に咲きて道に散り雨しととふりその白さき映えぬ、我はこの道を一人行く、この街の小さくなにもなし、最近この町の本屋も空地となり店もわずかなり、スーパー一軒のみの小さき町なり、ここに用をたすもできず、隣の市に行く、自転車屋すらこの町よりなくなると淋しも、電車は通るも駅舎はあるも二両の電車の相馬市と原町市と往き来す、中に鹿島駅のあれど淋しも、一応無人駅にあらじも乗客も少なく淋し、枯菊の何かにあうもあわれ
秋薔薇も冬となり残る花びらも散りぬれ、寥々と北風の吹く、津波原発事故の後の変わりようは予想だにせざりことなり、ただ我はこの町に生れこの町に生きる、そしてこの町に死するや、その往き来するのは路地裏の道なり

この町に開業医二軒のみなり、前は四軒ほどあり、すぐ近くにもありて往診のあり、我が父は病気のとき良く往診にきて最後を看取りしなり、その医者もなく今は空家なり
そしてもう一軒の町医者の医院も空家となり、その前も日々通りぬれば淋しも
石がありその医院に枯蔦のはいていかにも淋しも、空家となるも多し時代なり、全国にて八〇〇軒の空家ありという時代なり、何か少子高齢化で日本はさびれゆく
その路地の道に一枚の木の葉散りぬ、朝見れば残月のなおかがやく、それは我が母のもはや死なんとするとかさなりぬ景色なり
それで一句作りぬ

残月や木の葉一枚路地の道

この町もしかしにぎやかなる時あり、我が家は駄菓子屋のときあり、子供たちにて活気あり、母は忙しく働き休むことなし、母は大正生まれにて働くことしかなし、何か趣味もなく遊ぶこともなし、しかし子供のときは子供は多くその声は巷に木霊しぬ、町医者も四軒ほどありて忙しき、店も多く活気あり、町はその時活きてありしも、街中に店があり人は買い物をする、今はみなスーパーに行き街中に活気はなし、どこも街中の店はシャッター通りとなりぬ、街自体がなにか空家となる淋しさのあり
墓地もまた街と一体となりてありて活きぬ、墓地もただ死者のみならば活きず、今を生きる人の通いて墓も生きるなり、死者も生きるなり
ああ 我もこの墓地に我が家の墓に眠らむやなればこの墓地の親しきものとなりぬ
四季を通じて我はこの我が家の墓の前と墓地を通りぬ、墓にも墓地にも意味のあるべし
ここに眠れる人々のまたこの町に生きし人たちなり、ただ死者はこの変わりよう知らじ
ただ墓とていつまでもあることなし、墓もまた取り壊されて無縁墓となる時世なり
この世に永遠にあるものはなし、墓も墓地も変わりゆく、しかし我が生きる間しばらくは我が墓と墓地を通りて墓参りと供養のあらむ。
なお我が父と姉とのなおそこに立ちてあらむや、ここを日々我は通りぬ



俳句も写生だが文学でも基本は写生なのである。
空想したとしても実際に起こったことを記すことが歴史であり文学である。
だから写生に忠実だとそれで別に飾らなくても一つの記録となり文学となり歴史となる
それがなぜか現代文より口語体より文語体になると平凡なものでも味わい深いものとなる不思議かある
前にもそういうものを書いて読み直してこれも書いた
これも別に空想ではなく写実文なのである。

やはりある街でも平凡な街でもそこに長く生きることは思い入れができる
だから人は老人は特に簡単に長年暮らしたと土地から離れにくいのである
別にこの土地が街がいいというのではない、長く住んでいる所は人間でも自ずから親しいものとなり一体化してゆく
大都会になるとこういう感情はもていな、あまりにも大きく無機的になり何か書き記すことさえできない
人間が感じ得る範囲は広すぎると人が多すぎてももう人間的に一体化できない
だから大都会に情を感じるということはない、索漠とした世界があるだけになる

ともかく何か書き記すとか語るとかは何か思い入れがあり記して起きたいとなる
それが人間なののだろう。墓地に眠っている人もわからないにしろそれぞれの人生があり今は忘れられ眠っているのである。
いづれにしろ自分に残されたのは墓参りであり墓守となり供養することである。
それもまた人間の勤めなのだろう。
タグ:.墓地

2015年11月29日

木の葉(写生俳句の意味するもの)



木の葉(写生俳句の意味するもの)

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残月や木の葉一枚路地の道

鶏鳴きて朝日昇るや寺の鐘

冬の灯や街中にあれ福祉の湯


はらはらと木の葉一枚我が墓地に散りてここに我も眠らむ

路地裏に雨しととふり山茶花の散りて白しも我が一人ゆく

日々に行く路地裏の道我が墓の前を通りて山茶花白し

街中の菜畑にしとと冬の雨ふりつつあわれ目立たぬ人かな

残月の冬の未明に輝きぬ雲にかくろいまた輝きぬ

秋すぎて駅に散り残る薔薇の花もはや散りなむ我が母も死なむ

庭の石空家に淋しものさびて枯蔦はいて時は時はすぎゆく


写生というとき何か無味乾燥な感じになる、でも写生の意味するものを探求すれは深いものとなる
最近自分の行動範囲は狭い、一万の街の路地裏の道を買い物だとか病院にゆくだとか仮設の食堂にゆくだとかきるりきった平凡な道を往き来するだけである。
だけどそこを写生すれば何か趣深いものがある。

残月や木の葉一枚路地の道

これは最近死にゆく母をテーマにしている、するとなにかそのことにぴったりな俳句だった。
死にゆく母とは残月であり路地裏に一枚の木の葉が散っている
写生はそうして何かそこから深いものを読み取ることに意味がある。
写生はそれぞれ違ったものとして読まれることがある
写生俳句はなるべく主観を入れてはならないのである。

鶏鳴きて海に朝日や寺の鐘

これも全く写生俳句である。鶏が鳴いて海から朝日が昇る、そこに一回だけ寺の鐘がなったのである。
手地は嫌いだけど鐘の音だけがいい、鐘の音はもともと時を告げる時計の役割を果たしていたのである。ゴーンとなるとき何か心落ち着くものがあるのだ。
その寺は山陰の奥まった所にあることはわかっていた。
そこからひびいてきたのである。


短歌となると写生とは違うがやはり写生を基本にしている。ただ現代はもう俳句は短すぎて限界にきている、短歌だと長いからまだ現せるものがある。
俳句はもう短すぎて限界である。でも基本的に写生だということでは変わりがない
写生に専念すれば別に才能がなくてもいいものができる
だから俳句でも上達するのは写生を基本にすべきなのである。

2015年11月22日

人間の見栄の怖さ (世間を脱しなければ見栄からも脱することができない)


人間の見栄の怖さ


(世間を脱しなければ見栄からも脱することができない)



あれよ、スタップ細胞で自殺した人がいたけど責任なんてないんだから 
こういうどうでもいいことに拘るのが自殺者の決定的特徴。 
それは恋愛であったり仕事関係であったりの些細な問題を含む。 
そんなものは蜂に刺されるより痛くないんだから、何故に痛みを求めにいくのだろうか。 

極々小さなプライド、世間体、感情に振り回されているに過ぎない。 
それをノイローゼという。大局に縛られず、小局に縛られる者ほど 
ノイローゼの傾向を持つと言い切れる。 


俺の答えはシンプル。 
自殺の原因は、人間の見栄と、人との関わりだと思う。 

例えば一例をあげると、結婚して、マイホームローン組んで、 
破綻して自殺、 「結婚」も「マイホーム」も糸をたどっていくと結局は「見栄」。 



本当に常に人間社会は見栄の競走である。見栄は様々なものがありそのために死ぬ人までいる、例えば子供でも親は子供を何か自慢したい、自分の子供は優秀だと何か他の親の子供と比べて自慢したい、その見栄の競走は尽きることなくあるしつづいている。
ただ時代によっては様態は変わってきているが本質的には変わりない
見栄などたわいもないものとして無視することもできない、それが世間というものだからである。見栄から脱するには世間から脱するほかないともなる
出家することは世間の見栄から脱することであったことでもわかる。
世間にいる限りもろもろの見栄とか世俗のことにかかわらざるをえないからそうなる


見栄というときだからそれを簡単に無視できないのである。
ある人が大学で一番の美人と結婚したのは博士となり世界保健機構に就職したことを装っていた。毎日出勤していたのである。金は親戚から工面していた。
それが長い間わからなかった、そしてそのことがわかったときその夫は妻と子供を殺して自殺したのである。
その人は優秀でありたいということで装っていたのである。
そこまで極端になるのかと言うが何か人間は極端なところに真実が現れる
これと同じような人を近くで知っている。
その人はある資格で一級の免許をもっているから頭いい人だといつも言われていた。
本当に頭がいいのは確かだった。でも事業をはじめたのが失敗した。
その失敗を隠すためにどうしたかというと借金していたのである。
最近までそのことがわからなかった。自分とも関係していたから怖いことだった
自分の家が苦しいとき病気の時、弱みにつけこんで借金をしてきたからである。
借金してまで自分は成功したのだと装っていた。


たいがい借金している人は常に犯罪者の動機になっている
借金に追い詰められると非常に人間は危険な状態に追い込まれるのである。
もう相手のことなどどうでもいい、金さえとればいいとしかならないのである。
それも人間の見栄からそうなったのだから見栄は恐ろしいのである。
優秀だと言われることに固執するからそうなる
自分の身内でも自分は優秀だと死ぬまで言っていた、でも最後は認知症になったのだから痴呆化したのだから馬鹿になったのでありそれでも自分は優秀だと言って死んだのであるおそらく認知症になって馬鹿になったことを自覚して自分はそんなはずがない、優秀な人間なんだということをかえって言うようになったのかもしれない
ただそんなに優秀だとこだわる心理がわからない、何か自分などはあらゆる点で劣っているから優秀だと一度も思ったことがないからである。
最近やっと詩歌でも何かいいものができているなどは自覚しているが優秀だと思ったことがないのである。だからその心理が理解できないのである。


見栄でもたわいのないものがありそれがその人で終わって他に迷惑とか影響されないならいい、その見栄が他人に甚大な悪影響を及ぼすことが恐ろしいのである。
借金が見栄のためだとしてその借金を他人に要求されて脅迫されたり殺されたりするまでなることが恐ろしいのである。
そんなになるまで借金しなくても手をうてたはずだがその人は自分が優秀だとして通っていたし成功者だとして通っていたから失敗したとは見せられなかった。
おそらくそのことは妻と子供を殺した人のように自分の全存在の否定になるからそうなったともなる。
その人は博士でもないし世界保健機構に就職した訳でもいないし何一つ優秀な所がなかったのである。それがばれたら当然妻にも子供に見捨てられることになるから妻も子供も殺して自殺したのである。


見栄とは自尊心なのだろう、その自尊心が砕かれるから恐怖なのである。
でも人間は宗教的には心理的にはそうした自尊心を一度完膚なきにとりさられるような経験が必要なのである。
それも一つの心の回心となる、宗教は心の回心にあり外見にはない
だから他人からひどいことをされても心の中で許すのも回心である。
そういう心の状態を求めたのが宗教であり外見ではない、だから本当の宗教者は外見にごたわらない、でも世間では常に外見にこだわっているのだ
その外見が見栄なのである。
どんなに家に住んでいるとか、あいつのもっている車は俺より安いとか何か比べて優越感をもつのである。
大学なども会社でも何か世間的評価がありそれが見栄ともなる
社会にでてからも学歴にこだわるのも異常である。でも世間の評価はその人の実質もっているものなどわからないから外見とか学歴とかで判断してしまうのである。


人間は自ら高くするとき卑(ひ)くくされる、だから地位とか何か金持ちでもどうしても高慢になる。自ら高くするから卑(ひ)くくされるのである
地位ある人や金持ちの危険はそこにある、そんなことを意識しなけど心の修行としては危険な状態にある、自分は偉いんだとどうしてもなりその地位や権力にこだわるからであるそれも結局一時的なものであってもそうなのである。
誰も貧乏になりたくないし貧乏になることをすすめているのではない、貧乏というのもまた人間を相当にゆがめてしまう、特に金がこれだけ力をもつと普通にみんなそうなっている。金さえあれば何でもかなうとかなる時代である。
そういう中で貧乏も人間をゆがめる、今は清貧などありえないのである。
最低限の生活を維持するのにも金がかかるからである。清水を飲み裏山の薪でご飯たくなどできないからである。
だからあえて貧乏を求めるのは今では変人になるのである。テレビでそうした人を話題にするのは貧乏は普通と今は違うから注目される
昔はみんなそういう貧乏な暮らしだったけどその貧乏に注目していた人はいない
みんな貧乏だったらみなん同じだとなり変わってもいない普通だから注目しないのであるテレビでは不幸が楽しみとして提供されているのである。
幸せな家族の風景を放送しても誰も注目しないのである。
事件とか犯罪とかともかく変わったことなら注目されるから放送するのである。
それをみんなが要求しているから放送するのである。


だから別に事業に失敗しても世間から見放されても宗教的に心からみればそれですべて終わりだとか自殺するまでもないのである。
そこで世間はどういうものか知れば回心につながる
優秀なとき金があるときは世間の人はほめたりして寄ってきたが一旦失敗するともう誰もよってこない、これが世間の正体だとか悟るかもしれないからだ
でもその前に自殺したり犯罪になるのが多いのである。
つまりこの世に生きるということ自体すでに世間から離れてありえないとするとき
見栄からも離れられない、そしてその見栄が自分だけですむならいいが必ず家族であれ他人に悪影響を及ぼす、殺される人間だっているのだから世間は怖いとなる。
自分は隠者だったから世間とかかわらないから長い間世間を知らずにすんだから良かったのである。それも家庭環境が特殊だからそうなっていたのである。
ほとんど世間と交わらずにすんでいたのである。


ともかくインターネットにはいろいろな実生活の経験を語るものがあるから有名人でなくても示唆に富むものがある。人間の経験が極限られたものであり一体それぞれがどんな仕事をして何を感じているからわからない、そうした個々の経験から語るものが誰でももっているのでインターネットは何か今までとは違ったメデアなのである。
確かに大局的に生きれば小さいことはどうでもよくなる、現代は仕事でも細分化されてもう全体が見えない、全体に機能するものがない、仕事だって金を稼ぐだけだとかなっている
戦争は否定されるにしても日本が世界を導くのだとかなるとそのために生死をかけるとなるとまずそんな小さなことにいちいちこだわらなくなるのである。
そういうものがなくなったから小さなことにこだわりそれが人間の生活のすべてだとなってしまうのである。









タグ:見栄

2015年11月21日

冬の夜明け(海老浜)


冬の夜明け(海老浜)


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海老の浜

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牛越城



七年の牛越城や薄紅葉

鶏(かけ)鳴きて朝日昇るや海明けぬ

路地裏の道や晩菊今日も見る



海老浜に朝日昇りて冬の朝鶏も鳴きけり暮らしのつづく

はらはらと木の葉一枚我が墓地に散りてここに我も眠らむ

路地裏に雨しととふり山茶花の散りて白しも我が一人ゆく

街中になおかすけくも残る虫余命いくばく病院にゆく


牛越城は七年間で終わった、でも一応城の役割を果たした。それも歴史である。
薄紅葉というと何かにあっている。赤い紅葉として燃えない城だったともなる
それより今年は何か気候が変だ、今頃寒いはずだがなまぬるい風が吹いたりする
寒暖の差も大きい、だから風邪ひいた。何年も風邪をひいた覚えがない、


今日の朝の海老浜に冬の朝日が昇る、松原がなくなったから常に朝日が昇るのが見えるようになった。海老にゆくといつも鶏の鳴く声が聞こえる、それが気持いいのである。
卵産むだけのベルトコンベアーの鶏は自然ではない、ニワトリは庭の鳥なのである。
その時ニワトリは生きている、卵産む機械ではない、ニワトリとして生きているのである
海老村は津波で消失した、そこを発掘している。何が発見されるのか、その発掘した土から昔の津波の跡でも発見すれば大発見になる。400年前に津波が確かに来たという証拠になるだろう。ただそこまでは調べないだろう。

何日か前は雨だった、その時路地裏の道に雨にぬれて白く山茶花が映えていた。
自然は何か一人だと映えるということがある。その白さが心に残る
わやわやと騒いで観光しているのは何か自然に接するには適していないのである。
自然に集中するにはやはり一人がいいのである。


母は死にたい死にたいという、点滴をとってくれとか小便をとる管が嫌だとか看護師が若くて乱暴だとか言っていた。
水しか家で飲まなかったとそのままいたら死んでいた。自分はその方がいいのかなと思っていた。つまり老衰になっていたのである。
また点滴したから生きているけど苦しいともなる
でも家で死なせるのはなかなかむずかしい、なぜ放置していたのだとか怪しまれるだろうまず水も飲めなくなったら死んだ方が楽である。
それにしてもまだ意識が鮮明だということに驚く
物忘れでは明らかに認知症になっていたことはわかっていた。
でも自分が今どういう状態なのかわかっている、それは意識が正常だということである。姉は一カ月間無意識となり目も死んで死んだと同じだった。
母の不思議は百歳でも今でも意識は正常であり自分の状態をわかっていることが不思議なのである。
人間はこれだけ百歳にもなり死ぬ間際まで意識が正常だということはやはり生きているのである。
脳が死ぬと意識がなくなれば人間は死んでいるのである。
ほとんどミイラのようになっているけど意識が正常だから生きているのである。
なぜこんなにまで生きるのかいうのも不思議である。

タグ:海老浜

2015年11月15日

晩菊(墓地のある路地裏の道)



晩菊(墓地のある路地裏の道)

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この駅舎とそっくりなのである




枯菊や二両の電車に駅舎かな

晩菊や路地裏通り墓の前

晩菊や古き碑残る街の中

晩菊や雨ぬれあわれ路地の裏

五本松一本枯れるや冬に入る

残菊や街道に残る五本松


ひらひらと木の葉の散るや六号線車は見ずに過ぎ去りにけり

残菊の咲くを見ゆるも六号線車は見ずに過ぎ去りにけり

墓の前木の葉散りにし今日もまたこの道通りなお母生きぬ


枯菊に駅舎がにわっている。駅はさびれている。だから枯菊がにあうともなる
今は二両の電車であり途切れてしまっているから余計にそうなる
枯菊がにあうということはまさに老人が多いということである。
でもそれは何か落ち着いて老人も風景になるのが田舎だとなる
東京辺りの駅とはあまりにも違いすぎるが落ち着いているとなる
やはり老人になると東京のような所に住みたくない
大都会は老人にはあっていない、もちろんそこに住んでいる人はまた違う
便利なものがあることは確かである。
どっちかというと欲望でぎらきらした若者とか中年があっている
自分は何か若いときあんなところにいても違和感を感じなかっんたからである。
今やもう十年以上東京には行っていないから遠いと思った。

毎日同じ道を通っている、路地裏の道でありそこには自分の家の墓がある
その路地裏に菊が咲いている、晩菊である。
鹿島でも街中が意外と古い歴史があった。それは街中に住んでいた同級生の家が南北朝時代からの由来をもつ古い家柄だった。
それはあと書くにしてもここ十年はほとんど狭い範囲で生活していた。
相馬市の日立木の道の駅まで行くがそこから市内は遠いから最近また行っていない
五本松の一本枯れていたことにきづいた
あれも枯れてしまうだろう、松は枯れやすいのである。

木の葉が六号線にはらはらと散る、それを自転車だと見ているが車だと走りすぎるだけなのである。
残菊も道の脇に咲いていても車だと見えないのである。車はそうして何か人間的感覚から離れるのである。車にのっていると季節感も感じないということかあるだろう
ただ車をもっている人ともっていない人との差が大きい
自分には車をもっていないからそれがわからないのである。

いづれにしろ自分の母親は病院で点滴して生き延びているけど生きたくないと言っていた百歳まで生きたから生きたくない、点滴はいらないと言っていた。
ということはまだ意識がありわかっているから生きているということになる
自分の母親はなにかやせていて何もできない人だと思っていたけど百歳まで意識がまだはっきりしてわかっていることに驚く
認知症になって何もわからなくなる人もいるからだ。
姉は最後だけ正気にもどってそのまま無意識になり一カ月後に死んだ
病気になって死んだのである。病気にならないとなかなか死なないのである。
でもそんなふうにして生きているのも嫌だから死にたいとなる
今はなかなか死ねないというのも困る ただ自分は相当に楽になる
家にいればなんかいるだけで疲れるのである。






タグ:晩菊

2015年11月14日

南相馬市小高区の人たちに問われているもの (小高病院の配管修理七億円は誰が負担するのか?)


南相馬市小高区の人たちに問われているもの

(小高病院の配管修理七億円は誰が負担するのか?)


南相馬市の問題はすでに小高と原町と鹿島とが合併したとき起きたのである。
合併のとき利害関係でもめたのである。どうしても原町が五万と人口が多いのだから中心となり予算も原町中心に配分される、主な施設も旧原町市に作られる。
だからそもそも合併したとき鹿島区は一番損だったと言われてきたのである。
結局市町村ではこうした問題は他でも起きている
ただ津波や原発事故でこの辺はその合併のことで問題が浮き彫りにされた。


合併による効果を追求すれば、中心部に投資を集中し、周縁部を切り捨てていくことでしか成り立たない。企業合併では、集中化された投資でこれまで以上の成果があげられればそれでもよいが、市町村はすべての市民と地域に対するユニバーサルサービスが前提であるから、そういう意味でも効率化は進まない。

国が進める市町村合併は、行財政の効率化に主眼が置かれ、本来の目的である地方分権=住民自治の推進の影が薄れ、強制合併の流れを加速させるような動きさえ見られます。

近接する自治体だけでなく、概ね共通した歴史的背景や産業構造に立つ圏域全体について、自分の地域との関連を見渡す視点も必要です

合併論議が行き詰まる背景として、核的な自治体がある場合には「小が大に飲み込まれる」との不安が大きい。

合併というのは行政でもむずかしいものだった。それは国から押しつけられたものであった。だから合併後も様々な問題が他でも生れたのである。
南相馬市は津波や原発事故で特別な地域として合併したことで問題が起きた。
それは原発事故直後から起きた。鹿島区は三〇キロ圏外であり国や東電から補償金が出ない地域だった。でも実際は久ノ浜も三〇キロを栄にした地域だが一所帯百万とか出ていたのである。この辺で一番もめたのが補償金問題である。


最初事故が起きたとき鹿島区の人も補償されないと当面金で困る人がでてくるということで補償の仮払いとして緊急措置として百億円を市の財政から出すことに桜井市長は決めたそのことで旧原町市の人で激しく批判した人がネットにいた。
それが市の財政だからそうなった。鹿島区も原町も小高も財政的配分で一番もめたのである。政治とは財政であり予算の配分のとき、金の配分のとき一番もめる。
それは遺産相続と同じである。それが不公平だと市民としての団結は喪失する。
つまりなぜ鹿島区は30き圏外でありそれを市の財政で一時的にも負担せねばならないのかということで原町の人が怒ったのである。それはネットだらか目立たないにしろ自分は読んでこれは何なのだと思ったのである。


そのことは今度は小高の人たちに向けられている。その具体的例として一番わかりやすいのは小高病院の配管工事に七億円かかるということなのである。
小高の人はそのことについて関心がない、その金をどうするんですかと聞くとそんなもの市であれ県であれ国であれ東電が補償するんだよと言っている。
でも病院の配管が壊れたのは原発事故のためではない、地震のためだったのである。
政府と東電は地震と津波の被害は補償しないのである。
何かこれもこの辺では混同されているのである。


南相馬市民や福島県でも広く放射能の被害があった。そして多額の補償金をもらったのは三〇キロ内の人であり特に小高は一億円もらった人もざらにいるというときそうだった。ではその金をなぜ南相馬市の財政から出さねばならないのか?
また県で国で出せねばならないものなのか?
その理由が明確ではない、原発事故に由来するものならわかる。でもそうでもない。
鹿島の厚生病院でも大規模に直している、でもそれは農協で運営しているから農協で出すのだろう。
小高病院は南相馬市で運営しているから南相馬市で負担しろというとき南相馬市民としては納得できないのである。
小高区は補償金をそんなにもらっているのになぜその人たちが自分達の住む小高の病院のために金を負担しないのかとなる、ただただ自分たちだけ補償金をもらえばいいというのは勝手すぎないか?


小高区の人達はそういうことを全く考えていないし頭に浮かんできてもいない
ただただ自分たちは補償金をもらうだけもらえばいいと思っている
これも合併した結果として起きた問題でもある。
もし小高町としてあったなら小高町の財政から出すのだから別に原町とか鹿島の人から文句は出ないからである。
つまり小高との軋轢は南相馬市民となったときなぜ小高だけがそんなに原発の補償金がもらえるのかということなのだ。
原町区も鹿島区の三倍とかもらっているから鹿島では不満になり不公平感を募らせているそれは国や東電で決めることで南相馬市の行政ではどうにもならないことだとなるがそれもまた政治の問題だから何か解決方法がとられるべきだったとなる。
それは政治家と行政の怠慢だったともなるし市長にも問題があったとなる。
三〇キロ圏外はもともと補償金は支払われないのを支払われるようにしたのですよと市長を援護している議員がいたけどこれもまた勝手に思う
現実に久ノ浜もは三〇キロ圏外でも一所帯百万とか補償金がでているからである。


小高の人は小高病院が老人でも帰るとき大事だとしたら寄付金を集めても修理すべきではないか、それくらいの金はもらっているのだから集まるだろう。
その目的も明確だからである。でもそういうことすら考えにも浮かんでない
ただひたすら補償金を個々にもらえばいいとしかなっていないのである。
そして若い人は補償金をもらったら他で暮らせばいいという考えしかないのである。
だから補償金の奇妙なのは政府や東電から個々の家族に補償したものであり小高区という前の町という共同体に補償されたわけではないからみんなそれでは金をもらったら若い人は外に出て家を建てて帰ってこないとなる
もし南相馬市であれ前の小高町に補償金が出るならその共同体でその補償金を分配すれば違っていた。
小高に住まない人には補償金の配分は少なくするとかいろいろ方法があった。
そもそも個々人に家族に分配したからもう小高としての共同体は分離して分散してしまったのである。


金は誰のものかというときその問題は世界的にも問題になるしどこでも問題になっている金は共同体のものだということを歴史的理論的に追及した本を読んだがなるほどと思った金とは共同体のものであり私権を追及して私利だけでは処理できないものである。
だから小高だけではない、浪江であれ双葉であれ原発事故周辺ではなぜ三〇キロ圏内だけが特別補償されるのかといういわきでもそうだが広域的な共同体として問われたのであるなぜなら浪江の人でも相馬市にでも二本松市でも福島県に広範囲に住むようになったからである。
そうなればやはり現実的に浪江町民だけの問題ではない、そこに住んでいる住民の問題としてのしかかっているからである。
だから自分たちがただ国や東電から補償金をもらうだけもらえばいいとはならないのである。それは広域な共同体の問題となっていたからである。





タグ:市町村合併

2015年10月27日

秋の日(栃窪村俳句十句) (川や小川や街でも堀川で洗濯していた時代)


秋の日(栃窪村俳句十句)

(川や小川や街でも堀川で洗濯していた時代)


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延々と悪路を上り山あざみ

石に菊清流ひびき栃窪村

橙の晩菊にさす朝日かな

動かざる石により映ゆ菊二色

山よりの流れに洗い場秋の蝶

石二つここに動かず秋の暮

秋日さし石重々と無言かな

森深く散れる木の葉や人知らじ

薪積みて栃窪村や冬支度

みちのくの奥津城眠る後の月


小山田の方に出る森の道に迷った、あそこは前にも行ったことがあった。道がぼこぼこであり上るのに苦労した。電動自転車でもヤマハのマウンテンバイク用だから上れた。
ヤマハのは馬力があるから悪路でも上れる

栃窪村というと橲原村よりかなり広い、江戸時代にどれくらいの村の規模だったかは知っておく必要があるだろう。
村というのはなぜ日本では大事かというと村の規模で生活が営まれ村単位で相馬藩だったら藩で支配していたからである。米を納めるのもそうである。
村というのは行政単位でもあり生活の単位でもある。
だから日本では村が消失してゆくと歴史も失われる、日本は村があって国があったとなるからである。
そしてコンパクトシティでももし村がなくなったら何か日本は国としてつまらなくなるだろう。
どんな奥地でも山の中でも営みがあり村があることに日本の特徴があったからである。


ただはっきりいってこの辺は原発事故で田でも集約化がすすみ企業とかが入って大規模農業になるほかないのかもしれない、津波の跡とかは一部そうなっている
小さい田んぼがあちらこちらにあっだがそこは放棄されているからだ。
もう跡継ぎもないということで放棄される、だから小規模農業は成り立たなくなる。
そうなるとこの辺では村はどうなるのかということである。
この辺はまだ村でも限界集落というのとは違っている
街がありんなに離れていないから住居としては残るだろう。車があるから通いるからである。
ただ農業とかはもうやっていけないからどうなるのかわからない。
そういうふうになると何か村の景色とかもなくなり何か嫌である。


例えは栃窪村には山からの水が流れてその水で洗いものしていた家があった
ところがそこも堀にしたのでなくなっていた。
要するにまず自然の小川はなくなった、だから何かそうした自然と調和した生活が今になると牧歌的に見えるのである。
実際は貧しい生活でもなにか自然の中で生きた人間が牧歌的に見える
今になると信じられないけど街中でも川から水をひいて洗濯物まで洗っていた時代があったのである。
自分の家の裏がそうだったのである。それが今になるとここもそうだったと思い出したのである。
つまり山の中だけではない、街ですらそうだったのである。
水道がなければ洗濯物を洗うのは川でするほかなかったのである。
「かわらのおばさん」という黒い蜻蛉を言っていたのは洗濯しているおばさんがいたからだろう。川にいつも洗濯しているおばさんがいたのである。


冬場の洗濯

萩の洗い場

この写真がそうである。これは大きい川だが堀とか小川でもしていたのである。
それは萩などでも街中を流れる堀の水で洗いものしていた。
何か鯉が泳いでいるから新しく作られたように見えるのである。
自分の家では井戸がなく水を近くからもらっていたのである。
水道ができたのは戦後十何年かたってからだったのである。
もともと水道がない、江戸には水道橋があり水道があった。それだけ都会だったとなる

戦後十年の暮らしは江戸時代のつづきだった。燃料は炭だったからである。
だからこの時の経験は貴重だったとなる
人間は時代で錯覚するのは水道がない社会がもうイメージすらできなくなっていることである。
まず洗濯自体が一仕事でありその費やされた労力は世界中で同じである。
セーヌ川で大勢で洗濯している女性の絵があった。
セーヌ川というとロマンチックにイメージするが同じだったのである。

栃窪村は真野川の上流にありあのどっしりと隠れた石がいい
あれは底が平たいし大きいから安定感がある
あの石に気づいている人は少ないだろう
今日は秋晴れで気持が良かった、ともかくこの辺は除染のダンプなどひっきりなしに走っているし落ち着かないのである。
落ち着きを取り戻すには後三年なのか五年なのかわからない
それにしても長すぎるのである。そのうち死んでいる人もでてくる。
なにかわたわたしていて落ち着かずに死んでゆくのも嫌だとなる
とにかく見かけるのは老人が多いのである。





タグ:栃窪村

2015年10月26日

みちのくと十三夜の月と金色堂


みちのくと十三夜の月と金色堂

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月雲に隠れてあわれ秋薔薇

みちのくに十三夜の月眠るかな

みちのくに十三夜の月金色堂

十三夜の月光照らす金色堂


津波の後荒寥と秋の日の没りて枯木のなお立ちにけり

津波より五年も過ぎむ庭の樹のなお立ちにつつ秋のくれかな

一三夜の月の静かな田舎かな遠くに行けず籠もる我かな

十三夜の月こそあわれ夜はふけぬ百歳の母の介護のつづきぬ

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津波の跡にまだ残っている家の庭の樹、枯れているけど倒れることもない
何か離れがたく以前として残っている




昨日が十三夜の月とネットに出ていたけど今日も満月でありきれいである。
何か十三夜の月は神秘的である。
一段と宇宙の静寂の中に美しく輝いている


今は遠くに行けない自分だから籠もる自分になったからこれもにあっているともなる。
一五夜と一三夜の感じが相当に違っている。十三夜の月は何か奥深くものを感じる
だからみちのくにあっているかもしれない、みちのくというときやはり現代でもその感覚は歴史とともにある。
みちのくというとき芭蕉によって一詩人によって印象化された面がある。
もちろん古代からみちのくというのはすでに歴史的に独特の位置づけがあった
京都から離れた遠い辺境の地としての位置づけがあった。
だから「五月雨の降り残してや金色堂」があった


この句にみちのくが印象づけられる、みちのくというときなかなかそれが一つの地域としても一体感をもちにくい、みちのくといっても広いからである。
青森とかなるとみちのくでもさらなる辺境である。秋田といっても何かなじみがない
実際は平泉までがみちのくとしてありその奥となるとまた違っていた。
平泉が栄えたということがみちのくの栄華なのである。ただそれも三代で終わったはかない栄華だったのである。
ただみちのくの魅力は西のように華やかではないのだけど何かそこに魅力がある。
辺境の地として魅力である。それはスコットランドとかにている。
ローマの辺境としてスコットランドがあり薊がその国の紋章となっていることでもわかる

ただ常陸とみちのくの感覚はやはり違うだろう。それは古代からそうなっていたのである白河の関から勿来の関からそうなっていた。その歴史はそれだけ古いのである。
みちのくはだから京都から見たとき遠い辺境の国として江戸時代までもあったのである。今は何か外国人とかの観光で騒々しくなった。
京都でもそうである、どこでもそうである。そうなるとやはり日本的風情もある程度はそこなわれる。経済的には落ち目になり観光の国となりやがて日本人女性が売り物になる時代になってきているのかもしれない、それもカルマだった
日本人もさんざん外国でそういうことをしてきたからである。


今になると日本国内すら旅しにくい、ホテルもとれないとかさらに騒々しくなっている。自分はみちのくが好きである。静寂を追及してきた者としてみちのくが好きである。
西になると騒々しくなるから嫌なのである。そもそも都会が嫌なのである。
そういう性格だったということもある。
まず月を鑑賞するとき騒々しい所ではできない、都会の月は書き割りの月である。
自然の静寂から離れているからだ。都会には自然は映えないのである。
月は一段と闇のなかでこそ輝くものなのである。神秘性を増すのである。
現代は電気の光で闇が消えてしまった。それで本来の自然の神秘性が失われた。
京都には確かに自然があるが観光客が多くなりすぎたことは日本の残した文化でも鑑賞できないものとする
庭などは一回見たくらいではわからない、四季折々何回も見れば鑑賞できる


ともかく月は不思議である。月と蟹は関係しているのか?満月になると産卵するというのも月と関係している、天体は人間にも影響を及ぼす、蟹座生まれなことも月に魅力を感じるのか?
性格的にも自分は陰だからそうなる、十三夜の月がだから何か神秘的でありみちのくにふさわしいともなる
俳句は写生でないといいものはできないが金色堂というとやはりみちのくでありそこをイメージする距離にはある。
今金色堂に平泉にこの十三夜の月が照らしているのをイメージして作った。

後の月

こことあわせて読むとみちのくの月として連続したものとなる

タグ:十三夜の月

2015年10月25日

抽象画(拡散する街ー連結する街)


抽象画(拡散する街ー連結する街)

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拡散する街

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連結する街

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異国の花



抽象画が何に見えるかは決められない、でも何かに具象画にしたいのである。
だからこれも街の拡散と連結というときそういうふうにすでにタイトルから見るのであるでもタイトル通りにはならない
これは秋の色という自分が作った抽象画をまた変化させたのである。
抽象画は無限の変化である。


ただ不思議なのはすべてが変化して抽象画にはならない、いくら変化させてもそれらしいものにならない
抽象画とは何なのか作っている方でもわからないのである。
変化させてみたらこれは街だなとか岩があり森がありとかイメージする
でもそうみんな見えるかといったら見えないのである。
それが具象画と根本的に違っているのである。





2015年10月22日

秋薔薇 草の花(写真を絵画風に)


秋薔薇 草の花(写真を絵画風に)


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この路地を曲がりて一輪秋薔薇
散り残る花びらあわれ秋薔薇
故郷に何を飾るや草の花
百歳の母なお生きる細し月

ながらくも空家に今日も白き薔薇散りて咲きしも秋となるかな
今日も咲く空家に白き秋の薔薇我が通りつつ我に向き咲く
道の辺の叢深く月見草田舎に静まり月の光りぬ

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秋薔薇というのは何かものさみしい、それが何か田舎にあっている。
そもそも花というのは田舎にあうものである。
都会には草の花などあわない、また見つからない、自分は東京で学生時代過ごしたけど自分にあわないことを知った
それ以来田舎の隠者になっていたのである。
でも田舎にも人間の醜さがあるしその醜さがまた露骨に現れやすい
自分はほとんど田舎でも人づきあいしなかった。
つまり隠者でいられたことが不思議だったとなる、それは特殊な家庭環境でそうなっていたのである。
ニートと言えばニートになるが高度成長時代は会社員になるのが普通であり誰でも就職できた時代である。正社員になれた時代である。
だからあの時代はまず会社員にならない人は社会からはずれた人だったのである。

そして今思うことはなぜあのときみんな企業戦士になったのかという疑問である。
もっとその時こそ社会に余裕があったのだからみんな会社員になる必要がなかったのである。
あの時代こそニートでもアウトサイダーでもなる人がもっといていい時代だった。
つまりみんな会社員になることは社会にとってもつまらないことである。
不思議に今になると隠者であってもその中でたくわえたものがあり今実っているといのうも不思議である。
人間はとにかく何もしなくてもつくづく何か蓄積している
その蓄積したものが必ず最後になり花開くのである。

そしてまた今思うことは今の時代はかえって経済が凋落してゆくときニートとか派遣が多いがそういう時代ではかえってそういう人たちは社会にとって奴隷化されていた
一見自由なようでもそんなにニートでも派遣でも多いということがアンバランスになっていたのである。
アウトサイダーはもともと社会ではまれな存在だから意義があった
それがこんなに増えること社会人として普通になることが異常になる
そしてこれからの社会はそうしたニートとか遊んでいる人は社会で許されなくなる
生活がみんな厳しいしそして少子高齢化でどこでも人手不足のときなぜ働かないのだというプレッシャーがどんどん強くなるからだ
もう働かないなら移民の方がいいとか外国人を大量に入れる
そうすると働かない人たちはさらに苦境にたたされる、日本から出て行けとかなりかねないなのである。
だから高度成長時代こそ社会からはずれる人間がもっといてよかったのである。
なぜならその時こそ社会に余裕があったし経済も上り調子だったからである。
その時は人手不足であっても団塊の世代のように若い人が多かったからちょうど時代にマッチして人材は供給されたのである。

ともかく月見草は本当に月見草であった。これは名前が良かった。月を見ている草であり花なのである。こういうのはやはり田舎に住んでいないと感覚的にわからない
自分は田舎の静けさとか人がこまない所がもともと安らぐ、性格的にそれが高じると異常になる。
田舎のシーンとした夜が安らぐ、都会にはそれがない、だから住みたくない
そもそも都会で自然への感性をみがくことはできない
俳句でも芭蕉のような俳句が作れないのはやはり江戸時代のような環境が喪失したためである。江戸時代の静寂とか闇は喪失した。そこで人間の感受性も喪失した。
だから月見草と名付けたのは田舎に住んでいた人が名付けたのだろう。
京都が発祥になるものが多いにしても京都もまだ江戸時代辺りは自然が豊である。
意外なのは大正時代は6000万の人口しかなかったのてある。
東京でも二百万くらいとかの人口しかなかったのである。
そういう世界は確かに貧乏でも今になると落ち着くなと思ってしまうのである。

それにしても空家に咲いている白い薔薇は不思議である。そこは十年以上は人は住んでいない、
でも時々人は来ている、しかし空家に咲いている花は誰も見ない
自分は毎日その前を通るのでその花は自分に向かって咲いては散っている
空家が膨大に増えてくる、空家は自分の家もそうだが古くなり修繕する所が多くなり古い作りだから住みにくいから住むのがむずかしいことがわかる。
いづれにしろ人が住まない庭に咲いて散っている花も不思議である。
やはり花も誰かか見ているとき活きているのである。
誰も住まなくなった家に咲いていても虚しいとなってしまうだろう。





2015年10月14日

コスモスと秋薔薇


コスモスと秋薔薇

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故郷に柿なり親し女(ヒト)一人
朝日さし駅に四五輪秋薔薇
朝日さし40の女(ヒト)や秋薔薇
秋の川鴎に鵜に雁や何語る
コスモスや田舎の道に鳩のいる
秋の空鴎鴎飛びくる街の中

美しく蝶の出会いて別るかな日に日に風の寒くなりゆく

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今は写真の魅力が大きい、田舎でも写真を趣味にしていると退屈しないかもしれない
田舎は四季があるからあきないものがある。
写真をとると自然の新たな発見がある。
見えないものが見える、光がさしているとかこういう一瞬のシャッターチャンスをとらえる。
今は俳句だけだと訴えないだろう
写真をみればまさに写生俳句に自ずからなっている

それから抽象画的なものもパソコンでできるからデジタルカメラとパソコンは切り離せないのである。
二人の女性がいる、一人は六〇代であり一人は四〇代である。
それぞれが違った個性になる。
別にその人が仕事でくるだけでちょっと話すだけである。
でも四〇代でも秋薔薇がにあっているかもしれない
秋薔薇というと何か六〇代の老人にふさわしい感じがする
でも四〇代も成熟しているからふさわしいとなる
はっきりいってまず六〇代になると三〇代でもあわない、なんとか四〇代はあわせられるかもしれない
それはただちょっと話すだけの関係である。

 
川に鴎と鵜と雁がいる、何を語るのかともなる秋である。川には芒がなびいている。
鴎は今日は街の中を飛んでいた。
海が近いから一羽くらい飛んでくる。これが気持いいのである。
鴎が飛んでくることは海が近いのである。
亘理駅にも飛んだのを見た。
あそこも意外と海が近かったし浜吉田駅まで津波が来たことには驚いた。
浜とつくから海が近かったのである。
津波では海を意識させられたのである。常磐線は相馬から岩沼でも海が近かったのである
コスモスと鳩はにあっている。鳩が道に一羽いる、それはなんでもないが平和な光景である。鳩には本当に何か優しさをあたたかさを感じる
つまり動物でも花でも自然は何一つ偽りなくそのままを現しているのである。

何か今年は今日も暑い感じになる、朝晩は寒くても何か暑く感じる
だから秋が深まってゆくという感じがしない
温暖化で季節感が狂ってきたとなる
ともかく写真をとることは自然を深く見ることになった。
だから一眼レフのカメラは必要である。
これも実際は七万くらいで買うことができた
望遠レンズは使っていない
写真はやはり一瞬が勝負になることがある。だかちその点今度かったソニーのα6000はいいカメラである。


タグ:コスモス

2015年10月05日

新築の家の秋の薔薇 (やはり人間は家に住み庭があると落ち着く)


新築の家の秋の薔薇

 
(やはり人間は家に住み庭があると落ち着く)

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しとやかに秋の蝶舞い去りにけり


新築の家に落ち着く秋の薔薇二輪静か午後の日のさしぬ


この道を今日も行くかな鶏頭に夕日のさしぬ十数本見ゆ



この辺で増えたの新築の家である。大東建託のアパートが十棟以上建った、これも多いなと思う、新築の家にしてもこれも何百軒建ったのかわからない
この家も最近建ってやっと庭も作ったのである。
そこに秋の薔薇が咲き午後の日がさして落ち着いた感じになった。
ここは一倍いい場所であり日当たりもいいし見晴らしもいいのである。
自分の家ではこんなふうに日はささない、何か路地の奥のようになっているから暗い感じになるのだ。
家はやはり立地がいいところを選べべきだとなるがそれもみんながかなうわけではない
あそこの土地は三倍くらいに高くなったかもしさないからだ。
でもなんか家が建って人が住んで庭も整備されて落ち着いたなとつくづく見た。
この辺は地震津波原発事故以来常に落ち着かない状態がつづいているし今もそうである。仮設はまだ変わらずにあるしプレハブの宿泊所はさらに増えている。
何かこうしたものは仮りのものであり落ち着かないのである。


自分の一身上でも今日は落ち着かずかけずり回った。
母が腰をぶってからポータブルトイレにゆくのがやっとになった。
厚寿苑でそのぶった原因がわかった。
一週間いるうちにポータブルトイレにつまづいたらしい
というのは夜間は人手不足でポータブルトイレをベッドの脇に設置していなかったのである。
それでトイレに行きたいと夜に行ったら騒いでいたのである。
トイレに頻繁に行くようになったから困った。便秘なので灌腸をしたり点滴もした


ともかく介護施設も人手不足でありそれで一人一人に手が回らない
そのことが腰をぶった原因になっていたのである。
すでに自分は姉と母の介護で十年にもなるから長いなとつくづく思った。
その介護であれ地震津波であれ原発事故であれ自分の病気であれこの十年近くは生活が追われつづけたのである。
だから落ち着かない状態というのは震災前からでありその後もさらに落ち着かない状態になっていた。

やはり人間は一軒の家に住むと何か落ち着いたなと感じる。
仮設とかプレハブとかには落ち着いた人間の生活は感じられない
やはり一軒の家に住み庭があり花が咲いているというときつくづく落ち着いた生活になったなと感じる。
庭も何か落ち着きを与えるものだった。日本では塀で囲まないから花など外から見れる所はいい、都会では塀で囲んでいるから何かものものしいとなり嫌だともなる


ともかく朝晩は寒くなり秋らしくなってゆく、それで明日は常磐高速道路で原町から大野までバスになり行ってみよう
ここは双葉などが通るから一度通ってみたいからだ
ただ日帰りになるだろう。そんなに回れない、なんか母のことが気になる
こういうことも何か落ち着きをなくしているのである。


タグ:秋の薔薇

2015年09月27日

十五夜(今年もさらに平和を感じた)


十五夜(今年もさらに平和を感じた)

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この道を今日も来たりぬ秋薊
この里に根付くや薄秋薊
萩しだれ小蝶隠れて日のさしぬ
数十輪ここに集めて野菊咲く
十五夜やなお健やかに我が生きむ
十五夜や争いやめてなごみあれ
一五夜の光清めむ町一つ
十五夜の我が家を照らし平和なれ
百歳を生きて一五夜団子食う
一五夜や今日は休まむ日曜日
十五夜や今年も復興願うかな

今日は十五夜で円い月がでていた。何か自分の家も震災でも津波でも四年半過ぎてそれなりに平和を感じた、ただ仮設はまだあるし平常には戻っていない
まずこれほどの異常なことが起これば一身上でも平穏を心から願うようになる
この辺はともかく自然災害はまた何十年と来ないだろう。
そして忘れたころにまた災難がやってくる
津波は四百年過ぎて来たからだ。

何か人間界でもある時どうにもならなくなり膿や毒を出して生まれ変わることが要求される時がある。
それが易姓革命である。天変地異が起きて世が変わる。
ともかく平和な家庭ではないにしろそれなり30年間は平和つづきとにかく自分は楽だったのである。
三食は出されていたし自分のすることはしたいことをするだけだった。
今になるとこれは本当に恵まれていたなとつくづく思う。
そういうことは奇跡的であったかもしれない
意外とこうした平和は長くつづかないことを知ったからである。
介護とかすでに10年近く追われる生活だった、今でもそうである。
家事を一人ですることが大変なのてある。

だから本当に近辺しか出歩かない、毎日買い物でありこれも毎日一仕事である。
何か食べ物や飲み物を出すのも手間なのである。
レストランであれ食堂であれ運ぶことも手間だとつくづく思った。つまりこれも食堂でも何でも運んでみれば手間なことを知るのである。
何かサービスを受けることは手間が必ずかかっているが自分でしてみないからわからないのである

今年の十五夜は去年よりさらに平和を感じる
去年も感じたが今年の十五夜はまた違っている、年々違って一五夜はがありこの辺はやがて復興してゆくことを願う
ただ四年半過ぎてもなにかまだまだだなと思う
それだけ被害が大きかったためである。もうどうにもならないほどの大被害だった
だからこれが元にもどるとしたら一〇年とかでやっと一区切りだなとかなってしまう。
それだけの時間もかかる
あと二年で常磐線が仙台とつながったときが一つの大きな復興になる

自分は今や定着文明を生きている。なぜなら近辺しか出歩かないからである。
今年も二回しか仙台に行っていない、ただ津軽に一回花見には行っている
ほとんど同じ道を往き来しているだけである。
それはすでに一〇年近くつづいているのである。
それでも何か新しく見いだすものがあるのも不思議である。
今度のα6000という一眼レフはいいカメラである。
こういうカメラをもつと写真をとりに行きたくなる
このカメラのいいのは液晶画面だけではない、直接目でみる窓があり光に反射しないからねらった写真がとれる
写真でとると何か違ったふうに見えるから不思議である。
野菊の花はこんなふうに見えなかった。
このカメラはいいカメラだからいろいろまだとってみたい、夜景はうまくとれなかった
夜景はむずかしい、でも写真の魅力は大きいということをこのカメラでまた感じた




タグ:十五夜

2015年09月22日

初秋松川浦と浜街道をめぐる


 
初秋松川浦と浜街道をめぐる(写真)

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藤の蔓ここに残りて春なればまた咲かむかな死者を弔ふ

この後ろに残っているのは奇跡の藤の蔓だという、津波にも残ったから春になると藤の花が咲くのだろうか?
それはあたかもその花が死者を弔うともなる



松川浦初秋の風や舟一艘
松川浦釣り人一人秋の雲
海の風松に薄や社古る
島見えて塩釜神社に薄かな
文字島に秋の鴎の一羽かな
柿なりて街道暮れむ細き月
五本松夕月いでて実りかな
街道の五本松暮れむ稲刈りぬ
しみじみと秋夕焼けの濃くなりぬ
薄雲に月のほのかや隠る石

津波跡残る社に幹と根や磯部は消えて秋の風吹く
岩の子の塩釜神社の古りにけり浦に島見え秋の風吹く
津波より五年も過ぎむ秋日和実りもあれや魚も釣れむ
萩しだれソバナの花のうなだれて月のいでしや街道帰る
街道の細道あわれ日立木の家並変わらず月のいでしも

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今日は秋晴れであり松川浦の方に行った。磯部の神社には大杉の幹き根だけが残っていたあれは相当な大きな杉だった。ただあそこの神社には注目していなかった。
ただ稲荷神社とあるだけである。
津波は磯部の村を壊滅させた。そこには何も残らなかった。
そこから少し離れたこの神社には杉の幹と根が残った。
何か今や津波を偲ぶものが少なくなっている。この大杉の幹と根も枯れるのか?
潮水をたっぷりとかぶっているからである。
たいだい残った松でも枯れてゆくと思う
松は潮水に弱いし強く根を張る樹ではなかったのである。

松川浦の岩の子を回ったら塩釜神社があった。この神社の由来は慶長津波の前からあったのであり碑に年代も書いてある。でも慶長津波ののことは書いていない不思議なのであるここからのながめはいい、島が一つ見えることは古歌の通りである。
岩の子の文字島は前を埋め立てたので防波堤にさえぎられ景観が悪くなった。
秋の鴎が一羽はとまり季節を感じる
今日の風は秋風であり北風であった。もう南風とかは吹かないし東風も吹かなくなる
明らかに秋であり風景も変わってくる


松川浦では大橋の辺りでは連休なので釣りの人が一杯いた。仙台から来る人が多い。
食堂も五軒くらいはじめたから困らない、でもまだ津波の影響は消えない
旅館は工事関係者がとまりまだ観光客はどれほどきているか
まだまだ元のようにはもどらない、放射能の影響もあり魚もとることができないのは痛いただ漁師は別に補償金があるから生活には困らないのである。
そこが前の見方とは違っている、前は生活は魚だけでは苦しいと見て同情していたのである。今はあまり同情する気になれなくなったのである。

帰りはまた街道の細道をゆく、ここはなぜか何度も通っても情緒があるのが不思議である普通だったらこれだけ通っていればあきるだろう。
でも何か季節が代わりまた別なものを感じているのも不思議である。
浜街道といっても日立木から松並木から城跡までなのである。
あとはどこが街道なのか良くわからないのである。


10年近くも何か遠くに行けない、近くを行くだけである。
その近くすら行けなくなるという恐怖を感じた
介護して母が腰を打って動けない、ホータブルトイレに行けないと騒いだからだ
そうしたらつききっりで介護しなければならなん、そしたら外も出歩けない
テレビでは脳梗塞になった母を三食食べさせて朝は新聞配達して収入にしている男性を写していた。
ああなると本当に何もできなくなる、外出すらできなくなる恐怖である。
代わってくれるものがいなければそうなるのだ。
介護はそれだけ人の自由を奪ってしまうのである。
その代わりというか自分は自由に旅したのだからその代償なのかと思った。
なんか人間はどんな幸福でも必ずツケを払わされる
60以降に一番具体的なのは借金のツケを払わされることである。
その他自分の場合、自由の代償がこうして全く自由を奪われることであった

津波もまた何かの代償だったのかもしれない、海の幸を与えるがその代償として災いも与えるとなっていたきかもしれない、そういうカルマが常にあるのがこの世だということを身をもって知ったからである。




タグ:松川浦

2015年09月20日

原町の道の駅で盆栽展


原町の道の駅で盆栽展

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石川氏の作品

松林

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曲松

これは二つが組になってみるそうである。


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一本松

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下浦氏の作品


松風


こういう松は山の中でみかけた

いかにも風雪を帯びた松である。

枝垂れた松の枝がいかにも風に吹かれている感じになる

セッティイングが展示がもう少し工夫が必要だった

何か自分もフラワーアレンジメントしているけど

写真映りいいように配置しないといけない

現代はなんでも写真を意識しなければならない時代になったのである。

これは別に写真をとっていいと言っていたのでとった

でもここに出すと名前が必要に思った。著作権があるからだとなる

ただ名前を出すとまた許可されていないからめんどうだとなる

新聞でも許可しないのに名前と住所まで出した人がいたのである。

今はどこで写真がとられインターネットに発表されているからわからない時代である。

それで一応名字だけを出した。

名前の全部を知りたい人は連絡すれば教えることはできる

ただこれも問題になるということはある。

ただ写真をとることを許可したのだから出してみた


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羽根見ればヒョウモンとまる秋薊

ヒョウモンとつく蝶にはいろいろある。北海道が多いのか?寒いところの蝶なのか?
秋の薊にあっていた。



時々あそこで展覧会をしている。野草展などもあった。
今回は盆栽展である。盆栽にも個性がある。
今回を目をひいたのは松林のようになっている盆栽である。
一本の根からこれだけ生えた
これが気にいったのはこの辺では松原が津波で流されてなくなったからである。

右田の松原はいい松原だったけどなくなった。
あそこは一本の松がいいというより松原になっていたから良かった。
一本一本の松は良く見ていなかった。
松は一本一本見るのと二本と三本とか五本とかの松があり松原があり松林がある。
この松が松林のように見えたのである。
だから何か松原があったなとか見えたのである。
もう右田の松原でも高田の松原でも見ることはできないのである。






タグ:盆栽展

2015年09月19日

秋の彼岸が姉の命日で7年すぎた (家と土地に記憶を残す死者)


秋の彼岸が姉の命日で7年すぎた

(家と土地に記憶を残す死者)


姉死してはや七年の過ぎにしや秋の彼岸が命日なるかも

日々通る我が家の墓花なしを見れば淋しも花さしにけり


昭和20年9月21日が姉の命日だった。数えてみればすでに今年は昭和27年だから7年もすぎたのである。
これも早いと思った。6年だと思ったが7年だった。プログをかきはじめたときちょうど認知症を発病した。それまでは良くわからなかったし穏やかだった。
認知症が発病したというのがわかったのはもともと気性が激しい人だから暴力になったからである。
認知症は人によって症状が違う、激情的な人は認知症になると暴れたりする介護する方の負担は大きくなり苦しくなる。
その認知症の介護のことで二年半とかプログにかきつづけた。
ただ二年半すぎたところで死んだので長くは介護しなかった。

その点は救われたのである。あれ以上長くなると自分も母もとも倒れなり家は維持できなくなっていた。
それからまた母の介護でありもうすでに10年にもなるのである。
その間に自分も病気になり犯罪にあいとか借金で攻められとかさんざんな目にあった。
なぜならその間に病院に一カ月入院して二週間は手術のために入院したからである。
これも苦しかった。一人で何でやらねばならなかった。
それまでは社会と没交渉であり隠者のような生活をしていたからである。
だからそういう暮らしができたのも不思議だとなる。
今だとニートとか珍しくないが団塊の世代では相当な変わり者である。

それにしても未だに自分は落ち着かない、母が腰をいためたとかいろいろ介護でめんどうになっているからである。
介護は長いからこれも負担なのである。姉が認知症になって以来毎日生活に追われてきた近くすらのんびりと行けなくなった。
夜の8時ころ帰った時、姉は帰ってこないと近所の人のところに行き騒いでいたのである
その近所の人はいい人だったので受け入れてくれたのである。
あとのひとは親しい人も近寄らなくなった。
自分にとって姉の認知症の介護は限界になっていた。鬱病にもなっていたからである。
その時脳梗塞で倒れて入院してその後半年くらいで死んだのである。

人間は死んでから七年くらいはまだ昨日のことのように思える。
死んでからまだ自分は気持の整理ができていない、というのはその後も今度は母の介護に追われてきたからである。
だからずっーと心の余裕がもてなかった。そしてその間に今度は津波や原発事故が起きたのである。
ともかく激動の十年だった、そしてまだそれは終わっていないのである。

姉についてはいろいろ思い出があるから一つの本にして残そうとしていたがなかなかその余裕がないのである。
七年くらいすぎても思い出はまだまだ生々しいということに気づいた。
人間は死んでもそのあとその人が記憶から簡単には消えないのである。
7年となると長いと思ったがそれは昨日のことのようにも思えたからである。
それだけ人間は例え死んでも影響があり何かしら残った人に記憶を残してゆく
つくづくだから限界集落でもそこに夫が死んで残された妻がその家を離れたくないとかその土地を離れたくないという気持がわかった。
それはまだ死んでも生々しくともに生きた人の記憶がその家や土地に残っているからである。
その土地とか家とか何かに記憶が刻印されている。

だから人間は死んでもそう簡単に記憶は消えないし忘れられということはない
むしろ生々しく蘇るということ残された人にその生前の姿が鮮やかに現れるということもある。
それは7年過ぎてからでもでありまだ時間がたってその人の姿が明確にありありと映し出されるということがある。
津波で死んだ人たちもまだまだ遠い人ではないのである。
10年すぎて一昔になるがそれでも死んだ人は簡単に記憶から消えることはない
だから原発避難者でも故郷とか家から離れられないという気持がわかる。
特に老人に多いのはその家に土地に記憶が刻まれているからである。
その家とか土地から離れたらそういう記憶も薄れて思い出せなくなるからだ。

自分の家の墓はすぐ近くであり毎日のように通っている。ちょうど用事あるとそこを通るからである。だから墓は身近である。
それで毎日見ているからさした花が枯れたとかとりかえて花をさしていないと何か淋しいなと花をさしている。
つまり墓も近くにあれば身近になり生活をともにすることになるのだ。
死者もまた身近にあるともなるが離れていると生きている人も死んでいる人も遠くなる。


タグ:秋の彼岸

2015年09月16日

秋薔薇(移る季節)


秋薔薇(移る季節)

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介護する母にまつわる秋の蠅

一輪の秋の薔薇咲く我が庭に朝の静けく石に映えにき
しんみりと一輪静か秋の薔薇我が庭に咲き季は移りぬ
白々と秋の薔薇咲き空家かな我が見るのみに散りにけるかな
ノウゼンの夏の名残になお咲きぬ朝顔も咲き季(とき)は移りぬ
女郎蜘蛛巣を払いしも巣をつくる生きるためなる業なるかも



庭に一輪薔薇が咲いた、秋になって咲いた。
もう夏は終わり秋だろう、でも夏の名残がありノウゼンはまだ咲いている
他人の庭だがそのとたあわせがいかにも今らしい
秋の蠅が寝ている母にまとわりつく、一週間も施設でショートスティして腰をいためた。ボータブルトイレに立てないでいけないとか難儀した。
その補助もしないとなるとまた大変だと思った。
施設ではトイレの補助をしているからだ。
正直いつまで介護はつづくのだろうと嫌になる。
たいがい介護した人は長いので嫌になるのだ。
それでもうしたくないとたいがい言っている
自分もこれだけしたのだからやりたくない、介護にかかわりたくないとなってしまう。


人間は何か秋の蠅でも嫌なものから逃れられないようにできている
たいがい何か子供でも親でも負担を課せられている
障害者の子供をもち一生苦労する人もいる
今どきは何か子供で苦労している人も多い
ニートとかが増えているしそういうのも重荷になる。
もちろん子供に恵まれた人もいる。
でも子供で苦労する人が多いなというのも昨今である。
ともかく人間は何かしら負担を強いられる、そして自分もやがて年取ったり病気になると負担になる。
自分もこんなに親で苦しむとは思わなかった。
それだけ自分は特別良くされたからしかたないとは思う
一人はひどい認知症で死んだ
一人は延々と介護がつづく
介護はつくづく長いなと思う

女郎蜘蛛が蜘蛛の巣をはらってもはらっても作る、これも業(カルマ)だと思った。
巣を張らなければ餌をとらなければ生きていけないのだからそうなる。
これは殺さない限り家の回りに巣を張りつづけるのである。
蜘蛛が嫌だといっても蜘蛛にすれば巣を張り餌をとらねば生きていけないからそうしている。
人間でも世の中でもそういうことはある。
本当にこの世はカルマがきれない、延々と生きるものにカルマは消えないのである。
だからカルマを断てという仏教の教えもわかる。
それはこの世が終わるまで延々とつづくのである。
秋の蠅でもまとわりつく、何か嫌なものに死ぬまでまとわりつかれる
それは死ぬまで人間はそうした嫌なものから逃れられない
それはどうにもならないことなのである。

近くの空家は10年くらい人が住んでいない、なぜ住まないのか?これもなぞでありあの家のことは聞かない
近くでも知らないのである。そこに一輪白い薔薇が咲いて散る
見ているのは自分だけだというのも不思議になる。
その空家は別に荒れていない、時々人が来ているからだろう。
でもどうしてこんなに長く空家にしているのかわからない
税金の関係とか事情があるとしてもわからない
何か近くでもわからないことが多いのである。


タグ:秋薔薇

2015年09月13日

初秋の街道をロードで相馬市まで


初秋の街道をロードで相馬市まで(ソバナの花)

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街道の実りや城へ6万石
街道の細道つづきソバナ咲く
街道の家並変わらず秋の蝉
街道や芒女郎花祠かな
中年の労務者あわれ秋薊
プレハブに労務者あわれ秋薊
故郷をロードに走る実りかな
初秋の風きり走るロードかな



街道というときこの辺では浜街道であり日立木から相馬市の道である。
あそこはいつ行っても情緒がある。
今はなかなか街道を知ることができない
なぜ情緒があるかというと道が細いから花も映えて人間的になる。
日立木の道は細いけどあそこが昔のままの道なのである。
あの家並も昔のままだから情緒がある。
浜街道でも昔のままに残っているのはまれだてわからなくなる

今はソバナの花が街道沿いに咲いている
この花が何かこの辺の街道にあっていた。
桔梗でもない素朴な花であり街道にふさわしい花である。
現代の旅はなにか情緒がない、旅にならない、六号線を突っ走っても旅にはならない
街道の細道、つまり「奥の細道」だったら旅になっていたのである。
まさに「奥の細道」であったからこそ芭蕉の句もできたのである。

この辺はまた工事であり騒々しい、以前として簡易宿泊所のプレハブが増えている。
それだけまだまだ労務者が入ってきている。
その数も多いから活気あるようにみえるのである。

自転車は今の時期は気持ちいい、昨日はロードで相馬市まで行ってきた。
これは最近乗っていなかった。
これは荷物には弱いが早く走るにはかえって電動自転車より軽いから風にのるように気持良く走れる、まず自転車が好きな人は値段の高いロードにのるだろう
つまりこれは走っていて気持いいからである。
スピードを出して走ること自体が気持いいからである。
自分の八万くらいであり軽いのだが安定性がないのが問題である。
これも忙しくて乗っていなかった。
何かいろいろなことができなくなった。
家事とか介護とかに追われてそうなった。

一週間ショートスティであずけたから楽であった。
でも意外と金はかかる一日5000円とかかかる
だから施設で一カ月15万とかなるのもわかる
物価高であり田舎でも最低で15万はかかる
でもそれだけを負担するとなると田舎では金をもっている人は少ない
自分も年金をもらっていないし母の年金はわずかだから
かえって在宅だと金はかからない
介護も金の問題がからんでくる
やはり年金が老後は大事になる。だから自分は年金は70才からもらうことにした。
そうするとなんとかなるがあと二年とかなるとそこの金の工面が苦しくなる
老後難民になるのもわかる
自分は親に恵まれていたから金銭的には苦しんでいない、その他のことで苦しんできたのである。



2015年09月03日

南相馬市鹿島八沢浦のひまわりの道の写真 (新しいカメラできれいにとれた)


南相馬市鹿島八沢浦のひまわりの道の写真

(新しいカメラできれいにとれた)

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ひまわりに揚羽の舞いし真昼かな
ひまわりに嬉々と揚羽の舞いやまじ
柚木なれ社の一つ秋の蝉

草原に風のそよぎてひまわりの咲きつづく道走り行くかな


ソニーのデジタルカメラが良かったので一眼レフのカメラを買った。
アルファ6000である。
それで昨日ひさしぶりに晴れたので八沢浦に行ったらひまわりの道になっていた。
やはり一眼レフになるときれいにとれる
このカメラは動いているものをとるのにいい、シャッタースピードが早い
瞬時にとれるから動きがあるものには強い
それでひまわりに飛んでいた揚羽の写真がきれいにとれていた。

前のカメラも画質は良かったが動きには弱いカメラだった
このカメラは八万だけど高いとは言えないだろう
このカメラの最大の弱点はバッテリーがすぐきれる
もう三つくらいバッテリーをもっていかないときれてしまう。
これは旅行などでは大きな問題になる
量をとるからバッテリーがきれると困るからである。
そして充電にも三時間もかかるとなると余計に問題になる。

現代はまず日々の記録が写真にもなっているから写真なしではありえない
俳句や短歌でもそうである。むしろ写真の方が注目されるだろう。
まず目で見た感じと写真で見たのとは違っているし
見えないものが写真だと見える
こんなのが写っていたのかという写真で確かめられる
ここでも蝶が飛んでいるのは肉眼では良くわからないのである。
それを連続してとったものを見るとわかるのである。

八沢浦は葦原になってしまった。もうあそこは米も作れないだろう。
何に利用するかとなるとあそこは低い土地だから利用しにくい
ただ草原になってしまったということで気持いいといえばそうなる
これもまたそこに住む人にとっておしかりを受けることになる
ひまわりは何か田んぼとかより草原に映える
雲雀ももともと草原にあうものだったことが草原化してわかった。
ひまわりは大陸が原産だからそうなる

草原というとモンゴルとかであり北海道とかになる
そういう自然がここに一部生じたということも驚きだった
屋形から北屋形とか北海老とかの道は木陰が多く気持のいい道である。
夏は涼しさを感じる道である。
そこから柚木(ゆぬき)に行ったがあそこには文久の墓があった。
柚木は相馬市に入っている。
そこから相馬市の道の駅までは散歩コースになる
相馬市までなると自転車では遠くなる。



タグ:ひまわり

2015年08月27日

木槿(俳句はやっぱり写生だー写生の奥義を究めよ)


木槿(俳句はやっぱり写生だー写生の奥義を究めよ)

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我が庭に木槿に石や落ち着きぬ
雨濡れて雀の来るや白木槿
雨しとと我に一日向き白木槿
鶏頭に黄菊の映えて偽らじ

雨しとと月見草咲きこの道を今日も通りつ田舎に住みぬ
のうぜんの暑さの名残り散りてあり雨しととふり季節変わりぬ
おおらかに芙蓉の咲きていやされぬあどけなきかも田舎に住みぬ
街中の家に赤々とさるすべり鶏(かけ)も鳴きにき田舎町かな

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この頃雨がふる、秋雨なのだろうか?また残暑があるみたいだけど秋である。
庭の木槿の白い花が雨にぬれている。
そして塀に雀がやってくる。その景色のままを写生にした。
雨にぬれている雀がくる、白い木槿が咲いている
そこには何も飾るものがなない、ありのままの写生である。
ただそこには深い真実がもの言わず現れている。
それをどうみるかイメージするかは人によって違う。
雨にぬれた雀とは人に例えれば誰になるのか?
それはそれぞれがイメージすることである。
そこにはいろいろなものがくみとれる景色なのである。
雨ぬれた雀はかわいそうだなとかみるしただそこに白い木槿が咲いている
その雀はやはり人間に見るのである。

なんか雀は庶民であり貧乏人にも見える
ただこうしたシーンを貧乏の時代に見ていたらまた違って見える
その時はしさらにしみじみと我が事のように見えるかもしれない
貧乏なのだけど濡れた雀だけどそこに白い木槿が咲いている
そこには田舎の素朴なものの象徴である。
つまり貧乏な時代だと自然の風景でも一段と心にしみ入るものがある
飽食の時代はそういうふうに見えないのである。
だから貧乏は嫌であるが貧乏な時代には清貧がかえってあった。
清く貧しいということがあった。
そこに精神的に深いものがあった。
豊になってかえって精神の深さは消失するということもあったのである。

 
俳句は写生でないと深いものが作れない
それはあまりにも短いからである。説明できないからである。
だから俳句は読む人がよほど鑑賞力がないとどこがいいのかもわからない芸術である。
要するに鑑賞する側によってその良し悪しが決められるとまでなる芸術である。
それだけ読み取る力が必要になるからである。
だから俳句を作る人より鑑賞する人の方が大事だともまでなる。
俳句の善し悪しは作る人より鑑賞者によって決まるとなるからである。
その背景をいかに読むかが問われているからである。

いづれにしろ写生は物の真実を見つめることである。
ありのままが実は深いものを語っている
雀は自然は何も飾らない、人間ほど飾るものはいない、なぜそんなに飾らなければならないのか?
嘘だらけの虚飾だらけの人間も普通にいる、自然は飾らないことで真実をしめしている
別に貧乏でもいいではないか、この世に生きるということは虚飾であってはならない
貧乏は貧乏でも生きることは自然の中で生きれば自然と調和したものとなる
白い木槿は別に金持ちの家の庭でなくてもどこでも咲いているのである
おそらく貧しい時代でもそうして花は映えていたし一層調和して咲いていたのかもしれない
それがなぜか貧乏というものがわからなくなり豊になることを装わなければならなくった嘘をつき借金までして豊かさを装うということが何か間違っていた。
この辺ではそうである。原発でも何でもいい金になることなら何でもいいとなっていた。それをとめることは誰もできなかった。それは日本がそうであり世界でもそうなのである人間が求めるものが何か間違っていたのである。

貧しい、しかしその心は清く生きている、その時ボロを着ていても美しいものがあったのかもしれない、ただそういうものは忘れられてしまったのである。
昔はただ貧乏でありみじめなものとしてしか見えなくなったのである。
なぜ自然は美しいのか?。それは飾らないありのままであるからだ。
人間はなぜこれほど豊なのに美しくないのか?
その心はもう金しかなく清い心などない、どこまでも欲望を満たす金を求めているのである。
お前もそうではないかとといえばある程度はそうである。
お前には貧乏の苦しみなどわからないというのもそうである。

ただ自分は真実を追及してきたのである。虚飾的なものは拒否してきたのである。
虚飾があまりにも多くなった、貧乏はあってはならない見えてはならないものとなった。それもまた虚飾なのである。
貧しいときはみんな貧しいのだから貧しさが気にならないということがあった。
その貧しさのなかで共有する人間のあたたかみもあったのだろう。
過去はただ否定的に見られるが今の社会の方が人間の方が失ったものが大きいかもしれないのだ。
借金までして贅沢して虚飾の生活していた人は何なのだろうと思う
そういう見栄とかを軽く考えているがそれも怖いことになる
そんな見栄のために他人が苦しめられるからである。
病気の時に借金で責められたからである。
そんなにまでして成功を装いたいのかともなる
現代はそれ相応の生活などしていない、借金している人が多いからである。
だから雨にぬれてくる庶民などいない、金もないのに虚飾の生活をしているのである。





タグ:木槿

2015年08月15日

復興の実り (故郷の実りとは何なのか?)


 
復興の実り

 
(故郷の実りとは何なのか?)


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朝ひびく厨に我や蝉の声

南北に沸き上がるかな夏の雲

夏菊や一雨ふりて水写る

復興や朝日のさして実りかな

復興や墓地の回りに実りかな

復興や故郷の実りうれしかな

山鳩の番いの飛ぶや実りかな

朝畑に一仕事かな菊の花

根を下ろカボチャの花に菊の花

菊の花雨ぬれしっとり湿る土


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津波の来た所は田んぼになっていない、ただ試験的に一部今年は稲か実っている
田んぼがあり稲が実るということは当たり前のことだった。
それがなくなってこの辺が草原化したことが本当に不思議だった
だからそのことを報告してきた。


墓地の回りも実りがありまだ草原もある。まだ田んぼが全部は復興していない
でもそれなりにかなりふえた、五分の一は復興したというからそうなのだろう。
この実りがあるというとき故郷を感じる、故郷に実りがあってはじめて故郷なのである。故郷とは何かなど考えもしなかったろう。田んぼがなくなることもイメージすらできなかった。
だからこの辺はいろいろ考えさせられる場所になりそれを書いてきた。
今は米など余っているとかいろいろいわれてきた。
でも本当の故郷とは故郷に実りがあってその実りで養われてこそ故郷である。
今は米だって外国から入ってくるから地元にこだわる必要がない
何かグローバル経済だから米なんかどこからでも入ってくるから金さえ出せばどこのうまい米でも食べられるからいいというふうになっている


そのことが何かもう当たり前であっても人間の生活として理にもあわない変なものではなかったか?
地元に実りがなかったらよその米を食べるばかりだったら故郷意識もなくなる
故郷に住んでいる意味すらなくなるという感じになる
それは農業している人だけの意識であり今は違うというのもわかる
でもそもそもそういう感覚になってしまったことが原発事故をまねいた原因にもなっているとも書いた。
故郷の実りはここだけではない、他でもないがしろにされてきた。
そして原発でも何でも建ててもっと金を得て贅沢をしたいとなっていた。


だから無理して借金して立派な家を建て今度は原発が建てられると金になると言う人も小高にいた。でもそれも中止になった。
農民は農民でもう農業など手間がかかり苦労ばかりでやっていられない、跡継ぎもいないとか嘆くばかりだったのである。
それはここだけでの問題ではない、日本でも世界でも農業はおとしめられていたのである
米は安い金にならないということでしたくないという声ばかりだった。
今度は放射能汚染の風評被害で米は売れない、だからやめたという人もいる
でも本来の人間の生活はまず地元でとれたものを食料にするのが基本だろう。
地元に米かとれなかったらまさに実りを感じないのである。
だから4年ぶりとかにその実りの米を食べたとき農民はどういう感覚になるのだろうか?
米をとれてありがたい、この米は売れなくても自分たちで食べてその実りに感謝するとかなるかもしれない。それとも売れないのでがっかりしたとなるのか?


ともかくグローバル経済とか広域社会はすべて否定できないものだし必要なものである。でも何かそれが人間の正当な生活の道をふみはずしている。
それがすべてでないにしろ原発事故をもたらした原因になっていた。
自ら作る農民であれ農業しなくてもそこに住む人であれまずその土地の実りに感謝することがない、ただ金があれば何でも買えるからまず金だとなっていた
もう頭に誰でも金しかない、そしてこいつは金もっている金を盗ればいいとかまでなり
相手が困ろうが苦しくても病気でももう関係ない、相手はまさに金にしか見えなくなっているのである。
そういうことにここだけではないなぜなってしまっているのか?
そういうことが原発事故でも問われたのである。


そうはいっても現実社会は東京で一千万以上住んでも都会に住む人も農業とは直接関係していない社会である。
だから田舎に住んでいる人が何を感じているかもわからない
金さえ出せば食料は手に入る、外国からも入ってくると考える
でも何かが津波のような大災害が起こり本当に国内からももちろん外国からも食料が入らなくなったらどうなるのか?
そういうことが今回のように起こりえるのである。
その時現代の文明の矛盾がこの辺のように肌身で感じるようになるのである。

いづれにしろ故郷の実りは放射能汚染でも老人は食べるべきである。
故郷の実りを食べてこそ故郷なのである。
田舎だって他から食料が入らなくなることがある、だから本当は地元のもので最低限はまかなうということが備えになるのである。
ともかくこの辺はまず田んぼなくなのなどイメージもできなかった。
それでいろいろ考えさせられる場所になったのである。


タグ:復興 実り