2016年06月02日

黄菖蒲(津波の跡に海老浜に咲いた黄菖蒲の群生)


黄菖蒲(津波の跡に海老浜に咲いた黄菖蒲の群生) 


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夕べなお黄菖蒲映えて蝶眠る

黄菖蒲のあまた咲きにき海老の浜ホトトギス鳴き夕暮るるかも

海老浜になおシャリンバイ咲きにしや津波の跡に命をつなぐ


津波から五年すぎたけど以前としてその不思議さがつづいている
海老の村は家はほとんど流されていない、今日夕方行ってみたら
黄菖蒲が群生していた、なんらか湿地化して元の自然にもどる
現象があった。
そこにホトトギスが鳴いていた。
それがなんともいえぬ不思議な感覚である。

もともとの自然は菖蒲が湿地帯に群生していたのである。
それは釧路湿原などに見られる
今は菖蒲の季節である。
海老の浜の高台では三〇人くらい死んだと言われる
そこが避難場所にしたからである。
前はすぐ海であり高いから津波の避難場所になっていたのでてある。
だからこの黄菖蒲の群生しているところすにも津波がきた、
松の樹皮がはがれているのがみえるからわかる
必死にこの森に逃げて助かった人の話を聞いている

(鹿島町) - 南相馬市に合併される前に、マルバシャリンバイが町の花の指定を受けていた。(福島県)

海老の浜は自生する南限の地としてあった、マルハというのは葉が丸いからである。今は絶滅危惧種となっている
でもこの辺では庭でもいたるところに咲いている
わずかにまた咲きだしているものも見たからこれも増えるかもしれない
この辺はまだあたたかい地だから咲いた
真野の草原の万葉の歌はまさに気候的地理的に南限の地だったともなるのである。  

2016年06月01日

アイリスと夏菊(詩) (乱れた世に詩は切なる祈りともなる)


アイリスと夏菊(詩)


(乱れた世に詩は切なる祈りともなる)


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アイリスと夏菊

ジューマンアイリスに
橙の夏菊が映える
その白い清楚な花冠
光をあびて静かに咲く
ああ ここを乱さずあれ
何故に横暴な人の踏み入れ
花園は荒らされしや
ここは乱れに乱れぬ
そして今は祈りともなる
ここに落ち着きその清楚なる
アイリスと夏菊の調和して
長くもここに咲きつづけよと
それは今や切なる我が願い
そこにアイリスの清楚な白に
橙の夏菊が映える
ある家の庭を見れば
一本の松の根を下ろし
奥に紫菖蒲のひそまり咲きて
やはり夏菊が映えている
ここに穏やかな日々のあれ
いがみあい憎しみ合い
そして乱れに乱れた世
花園は踏みにじられ荒らされぬ
痛く傷つけられた心よ
踏みにじられた心よ
人はいつか定着を望む
花園に木蔭の涼しく
石はそこに影なし休みぬ
そはここに動かざれ
そしていつまでも花は
その美しさを保ち咲きてあれ
それは今は切なる祈りともなる
乱れ荒れ果てたる世となれば
人は切にそのように平和を願う
平和の尊さを知る


つくづくこの辺で起きたことは何なのか?まるで地獄だったしその継続もある
津波の被害もまさに地獄である。これも何なのかわからなかった
そして自分に起きたこともそうである。
ここで書いてきたけど信じられない異常なことも連続だった
それは金にまつわり起きたことである。
そういう異常なことが苦しみが受けると人間は変わる
ハンス・カロッサの詩は戦争を経験して書いた詩だった。
人間は戦争などを経験するとまるっきり変わってしまう
アフガニスタンの少女の願いは戦争のない平和があることが切なる願いとなる。
ただ戦争がなくなって欲しいというだけである。
その他はいろいすあってもまず戦争がなくなって欲しいというのが願いとなる

その気持がこの辺で自分の一身上に起きたことでわかる
この辺は自分でもまさに地獄だった、病気でも同情もなにもない、火事場泥棒であり津波の被害の情況と同じだった。
病気をいいことに借金を要求してきたりとさんざんな目にあってきた。
ただ非情しかない世であり人間である。
そういう経験すると人は変わる、ありふれた平凡なことが尊いものとなりその価値を知るそしてそれは切なる祈りともなる。

故郷を失った人たちもそうであり津波の被害にあった人たちもそうであり自分だと一身上に起きたことの非情である。
普通でも人間はいがみあい傷つけあう修羅だということは変わらなかった。
ただこの辺では極端なものとして全体に現実化したのである。
こういうとき花を見ているといがみあいにくしみあいはない
乱れることなく静かに光をあびて咲いている、それは当たり前のことかもしれないが
これだけいろいろなことに苦しめられ乱れるとなんと平和に咲いているのかと見る

ともかく回りに起きたことでも自分の一身上にい起きたことでも一体これは何なのだとふりかえる、そしてただ花が平和に咲いていることを切に願い祈りともなる
いつまでも乱されずに咲いていて欲しいとなる

この辺では当り前にあるものが失われた。そしてその尊さを知った。
人間はなぜこの世でこれほど平和がないのか?
それは人間は平和の価値を知らないからである。
本当に平和とか知るために天国を知るために地獄を知らねばならないとなる
なぜなら天国にいたらそれが当り前となりその価値を尊さを知り得ようがないからである地獄の対比で天国もあり天国は地獄があって輝きを増すとさえなる

地上が僕らにとって
故郷になるには
血がにじまねばならぬ
あまたの血とあまたの涙が

(ハンス・カロッサ)

戦争を体験したからこの詩が生れた、この辺も戦争状態のようだったのである。
ただ現代というのはどこまでも金でもめる。この辺で補償金でもめているのもそうである自分の一身上の苦しみも非情も金のために起きたことである。
戦争となると金というより人が死んでいるし街も破壊される
シリアのような状態になる。血がにじまねばならぬというとき戦争では人が死ぬからである。
この辺では津波では多数死んだ、それは戦争とは違っていてもにているのである。

2016年05月29日

夏菊(ニコニコ堂から八沢浦をまわる)


夏菊(ニコニコ堂から八沢浦をまわる)

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北海老のニコニコ堂喫茶店

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八沢浦パノラマ写真

両方ともクリック拡大



三色の薔薇の映えにきニコニコ堂

夕暮れに家の間ぬいて夏燕

葉の広み夏蠟梅の隠れ咲く


大空に青鷺遠く飛び去りぬ夏の光になお明るしも

夏菊の風にそよぎて明るしやなお野に働く人のみかけぬ

夏菊に陽差し注ぎぬ夕方に自転車に走る我かなか

鳥の声まじかにひびきこの夕べ叢深く黄菖蒲色の映ゆ

紫の薔薇一輪や庭に咲き町の夜更けて月の光りぬ


半年ぶりとかにニコニコ堂を見た、あそこには三回しか行かなかった。
あそこの庭が花の庭になっていていいのである。
あそこは鹿島では隠れた穴場だとなる、でも商売として成り立っているのか疑問である。昼は予約制だし一週間に三日くらいしかやっていないとなるとそうみる
三色の薔薇が咲いていた、薔薇は夏の季語だった。

八沢浦の方に回ったら広い場所は荒地のままだが脇に入っている所は田んぼになっていたあそこも津波の被害にあったところである。
別に津波の被害にあったところでも田んぼにしている。
ただ海老の方面は荒地になっている。海老は被害が大きかったから田んぼが放置されたのか?

すでに藤の花は終わっていた。今年は暑くて体調崩して相馬市の方に行けなかった
意外と藤の花が早く散ると思った。
夏菊が風にそよいでサイクリングには気持ちがいい
ただ今年は暑くて何回も体調を崩した、胃を悪くした、もともと胃腸が弱い
その原因がわかった。冷たいジュースとか成分的にも体を冷やして悪かったのである。
それでお湯を飲んだら良くなった。
今年はもう暑さ対策が必要である。冷たいジュース類は胃に悪いから飲まない方がいい

自分は毎日買い物だとか自転車でかけずりまわっている
それも近くであり遠くには行かない
すると家の間を燕がとぶ、自分も家の間をぬうて自転車で走る
自転車は自然と一体化するのである。
ただ暑いと陽差しを受けると危険なことがわかった
紫外線の影響も大きい、今年は暑いから気をつけないと危険である。


タグ:ニコニコ堂

2016年05月23日

木蔭(老人は木蔭に休むのがふさわしい) (老人のあるべき所が失われた)


木蔭(老人は木蔭に休むのがふさわしい)


(老人のあるべき所が失われた)


仮設暮らしの老人が日がな川岸の木蔭でやすんでいる、意外と仮設暮らしはまず補償金がもらえるから余裕がでているのだ。
今まで金の入らない人も金がたまったと喜んでいるのだ。
そしていつも仲間の老人と近くで顔合わせられるからいいと言っているのである。
そして老人は何か木蔭に休んでいるのがにあっているのだ。
それも自然の木蔭だといいのである。



故郷の木蔭

故郷の古木の陰に
老人が何人か日かな休んでいる
古木の日影は風が涼しく心地よい
故郷の古木の大木の陰に
老人が休んでいるのがふさわしい
昔を語り心安らかな日々が
長く暮らした故郷にあるのがいい
なじみの人がいて家と土地を持ち
老人はここに安らぐ
皺の深い老人自体がは古木なのでてある 




動かない岩

森の奥処の大きな苔むした岩
どっしりとして動かない
森の木々が覆い影なして
ひんやりと谷間の風が吹いてくる
小鳥の声がひびき流れの音がひびく
清涼なその奥処を乱すものはいない
そこに岩は動かない
そこが岩のあるべき場所だから
そこに岩も樹も老いてゆく・・・・

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都会になると何か木蔭といっても騒々しいし窮屈なのである。自分はずっと学生時代に東京にいたけど都会を嫌悪するようになった。
おそらく性格的なものがある、何か人づきあいが苦手であり30年間隠者になっていたということが不思議である。引きこもりといえばそうなる
こんなことがありえたのは家族環境が特殊だったからである。
自分はそもそも団体生活になじめない、学校もなじめなかったし会社勤めもできない、ただ変なのは懸命に団体生活してとけこもとうしていた、学生時代に体育会に一時入ったのもそうである。カルト宗教団体に入ったのもそういう団体生活をするためだったのであるそれ以後自分は社会から離脱したというか隠れてしまったとなる
ずいぶん旅行ばかりしたとなるが旅となると別にこれは人と関係しないのてある。
一人旅でありこれは何か社会とも関係しない、だから社会訓練に自分は本当に欠けていた社会常識が養われなかったのである。それで親の介護で苦労したのである。
会社勤めとか人間はしていないと社会常識が養われないのである。


木蔭というとき海側は松の木であれ何もなくなったので海岸線に木蔭がなくなったので休む場所がなくなった。
海側に松原があったときは天然のクーラーだった、いつもそこで休んでいたのである。
海側は今や全く木蔭がないのである。
木を植えたが育つのは五十年後とかなってしまうからその頃は死んでいる

田舎にはもともと木蔭が多い、原町から高倉辺りから飯館村に行く道で細い一本の道がありそこは車が通るとしても一台くらいしか通れない狭い森の中の道なのである。
そこは長い日影の森の道である。あのような場所が田舎ではどこにでもあるだろう。
ただ郡山市とか福島市だと近くにはないがここにはある。
そして福島県の浜通りで一番いいのは夏でも海から風が吹くから涼しい
今日は暑い、でも海から風が吹くから福島市のような盆地とは違う
あそこには暑いし寒いから住みたくない、会津でも雪だし住みたくない、老人になると気候の影響が大きくなる
自分の場合暑さにも寒さにも弱いから余計にそうなる
福島県の浜通りは老人がリタイアして住むのは気候的にはいいのである。
会津など雪で向いていないのである。

この辺で津波であれ原発事故であれ避難した人たちがいるがやはり失ったものは故郷でその古木の陰で休んでいるのが幸せということがあった。
東京の高層ビルのマンションに住んでいるのが老人が嫌だというのもわかる
あれは浪江の老女だった、田舎の離れた一軒屋のような所に住んでいたからである。
東京で贅沢しても嫌だとなる


ただ田舎暮らしは意外と都会と同じように都会より今は金がかかる、だから厚生年金で平均して15万というけどそれでもたりなくなるのが実情である。
田舎では家をもって土地をもってその土地も田んぼとか畑をもっている人がもともとの田舎暮らしをしている人である。
でも今はそれだけでは生活できないから金がかかる
車は一人一台とまでなっているからその維持費がかかるとか田舎は意外と金が都会よりかかる
だから家が田んぼ畑があり勤めがあり資産をもっていないと暮らしていけない
そういう余裕のある人だと田舎はいいなとなるのも実情である。

ともかくこの辺は特に老人が増えた、避難区域の小高でも帰っても8割くらいが老人になるだろう。
確かに小高でも木蔭に休む野はいいかそれができるとしたらやはり若い人が働いているからなのである。老人だけだったら街が成り立たないからである
老人がそうして木蔭で休んでいられるのは若い人が働いていればなのである。
8割もの老人がただ木蔭で休んでいたら街は機能しない、老人でも実際はゆっくりそうして木蔭で休んでいられないとなるのだ。
だかち8割も老人だけの街がどうなるのか?それはイメージできない、何か問題が起きても不思議ではないのである。な

タグ:木蔭

2016年05月22日

夏の庭と近辺の風景(短歌) (仮設も消えるので記念撮影ー仮設暮らしは老人にはかえって楽なものだった)


夏の庭と近辺の風景(短歌)


(仮設も消えるので記念撮影ー仮設暮らしは老人にはかえって楽なものだった)

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石の陰クリスマスローズ咲きにけり目だたざるかな我が庭に咲く

我が庭に三色の花植えて見る華やぎにけり老いを楽しむ

真昼間の川の岸辺の木蔭にそ休みつつ鳥ののびやかに鳴く

新しき家々建ちてクローバーのなお空地に匂いけるかな

仮設にそ五年の住みて菖蒲咲く老夫婦のなお帰らざり

赤々と前畑に咲く夏の花午後にひそかや働く女かな

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庭作りしたら肥料だけ二十俵とかかかった、10万は軽くかかるそれに手間賃になる。
何か老後の趣味としては庭作りが向いている、なかなか外に出るのが億劫になるからだ
自分の庭は狭すぎる、そして納屋だったところを庭にしたので土が悪くて花も咲かないのである。
それで肥料をやって花を咲かせることにした。その方面で働いた女性がいて庭作りしてもらっている。
もともとこの庭は小高の人が作ったのである。その人は大工もできて庭作りもできてと何でもできる優秀な人だったのである。仮設に住んでいたが小高には帰らないという

仮設というときすでに五年すぎたし以前として帰らない、7月に野馬追い前に解除すると言っていたのだがそれがどうなるのか?
いづれにしろ今年中には帰り仮設は壊されるだろう
それで記念に写真をとってきた。菖蒲が咲いていてあそこは盆栽を飾る老夫婦が住んでいたのである。菖蒲と老夫婦というのもにあっていると見た
5年もいれば長いからなじむということがある。仮設暮らしというのも不思議な経験だったろう、かえって老人は暮らしやすい、長屋のようになっていていつも顔合わせられるからいいと言っていた。
あれは高齢化社会の一つのモデルだったかもしれない、老人はあのように長屋のような所でまとまって暮らすのが居心地がいいのである。
今は家族でも老人は邪魔者扱いされやすいからである。
そして今思っているかというとこのまま補償金をもらいつづけて仮設にいたいとまでなっているのである。補償金を一人十万以上もらえつづければ老後はそれで楽になる
それで国民年金しかもらっていない人が多いからそうしてもらいたいと訴えているのである。そうなれば原発事故で得した良かったとまでなる

でも小高に帰っても老人が多い、病人の老人の夫婦が帰って暮らしていたけどでは誰が世話するのかとなる、若い人はいなくなっているからだ。
シルバータウンになってしまう、買い物する所も品物が少ない一軒しかなかったのであるそんなところで街が成り立つのかとなる、そして問題は小高の場合は南相馬市だから直接その負担を負うことになる、福祉でもなんでもそうである。
それは浪江町とか大熊でも少ないにしろ住んでいるから病院が満員になっている
入院したらすぐ退院してくださいというのもそういうためである。
一方で浪江町から福祉関係や看護師なども入って働いていることもある
ただ外から入ってきて負担になっているのである。


そして小高とか鹿島区の亀裂は修復できないほどになっている、鹿島の人が集まると小高に対する不満になる、なぜあんなに補償金もらい優遇されているのだという話ばかりなのである。自分もそのことを思っているから小高の人とは話にくいとなる
その亀裂は深い、鹿島の人たちも裁判しているようだがそれも効果ないだろう
福祉関係とかでも医療費でも鹿島区はすぐに打ち切られて恩恵がなかったのである。
もちろん相馬市の不満はさらに大きいだろう。何ももらっていないし他でもそうである
補償金で南相馬市の一体感は失われたのである、そのしこりは残る

前畑で働き赤い花が映えている、まさにこの光景が田舎なのである。
前の畑で収穫があるということは新鮮な野菜がいつでも食べられる
それは売るものでないから農薬も使っていないのである。
それが人間的生活なのである。それが回復さされば復興になったということなのである。



タグ:夏の風景

2016年05月18日

八木沢峠の麓ー大古林道の岩 (避難して人の住んでいない森の中の家の道の不思議)


八木沢峠の麓ー大古林道の岩 
  

(避難して人の住んでいない森の中の家の道の不思議) 

    
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子だくさん岩


屋敷林木蔭の長く涼しかな

清流の朝の岸辺に藤と岩

山の藤高みに垂れて風そよぐ

ひんやりと苔むす岩に谷の風

ひんやりと苔の常陰黒揚羽

老鶯や木立の囲みユッサの湯

庭の石ここに変わらず黒揚羽   


森の中人住む道行き橋わたる今は空家や夏になれども


橲原から八木沢の麓の大胡林道に行ってきた。 
不思議なのは途中あの辺は避難している人が住んでいない、道が一本通じていて小川があり橋をわたる、そこに家が一軒あり前は田んぼだった。
清流が絶え間なく流れてひびいているいい場所である。
その一軒の家に行く道はなんとも不思議なのである。
それはなんというか人が住んで生活していたぬくもりがあるようにな道である。
森の中や山の中の人の住んでいない道とは違う。
何よりそれは一軒の家に通じている道だからである。


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森の中の一軒の家に通じる道
この道を行けば家族がいる
アトホームである
清流がひびき藤の花が垂れている
この道はただの道ではない
家族が待っている道
家族のあたたかさに通じている道
今人は住んでいなくてもそれを感じる

この辺で起きていることは以前として不思議である。
あの辺は放射線量が高いから一部壊したり住んでいない 
住んでいなくても以前として家があるから住んでいるように錯覚する
一二軒は実際に住んでいた
だから全然人が住んでいないというわけではない
でも90バーセントは住んでいない
車がひっきりなしに行き交っているからちょっと外の人は気づかないかもしれない
まるっきり人が住んでいない避難区域とは違うからである。
人がかつて住んでいた、そしてまだ空家があり住むかもしれない、何かそこは自然の道ではない、人間的な道なのである。

大古林道は電動自転車のマウテンバイクで上った。荒れているから上りつらい、杉の木も倒れていたり例の大きな岩のある所までは行くの難儀である
ただあの岩は貫祿がある、写真に撮った三つの石は迫力がある
それから大きな岩一つにその脇に七つくらいの小さな石が並んでいた
それは写真にとっていなかったので失敗した、名付けると子だくさん岩なのである。
なかなかあそこには行けない、残念なのは花は何も咲いていなかった
春だとキクザキイチゲとか少し過ぎると延齢草が咲く、あういう場所に咲くのはなんとも神秘的である

ユッサの湯に回り休憩した、あそこは休憩場所にいい、老鶯が鳴いているというのもなにかにあっている、それでゆっくり湯にひたればいいのだがあそこの湯には入ったことがない、700円は高い、福祉の湯は300円だからである。
食事がとれるのがあそこはいい、あと畳の部屋があり寝ころべるのがいい
庭には石が変わらずある、つくづく自分は変わるのが嫌になった、人でも自然でも変わらないものがあるのがいい、年取ると変わることが精神的ショックにさえなる
だから避難した老人は辛いことは確かなのである。 
石は変わらない象徴なのである。

今回は日影の道を行ったのでそれほど疲れない、まともに日ざしを日中に受けると危険である。タオルを頭にかぶり帽子をかぶり日ざしを防いだ、砂漠の住民の恰好になるのもわかった。今年は陽差し恐怖症になっているからだ。 
タグ:苔の岩

2016年05月09日

夏の草原(田んぼが増えて草原もある世界)


夏の草原(田んぼが増えて草原もある世界)  


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右田の一本松



雉歩み朝の草原夏雲雀
夕暮れや草原広し夏雲
青嵐牛越城の五年かな
一本の大木根付く青嵐

一本松ここに残るや雲雀鳴く声のひびきて夏の陽没りぬ
草原の広々として雲雀鳴く風の涼しき夏の夕暮
声高に夕べ蛙の鳴き騒ぐ田んぼの増えて元に戻らむ  

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この辺は田んぼが増えたから元にもどりつつある、一方で津波の跡はまだ広々と草原になっている。
この草原の世界のことを書いてきたけどこれが気持いいのである。
田んぼとは違った自然なのである。草原にあっていたのが雲雀だった、草雲雀とかあるから本当はこういう草原地帯に雲雀はあっていたのである。
田んぼだったらどうしても水になるから巣も作りにくいのである。
田んぼにあっているのは鷺である。田んぼの水の中の水生動物を蛙などを餌としているからである。

日本でもそもそも草原の世界を見ないから草原のことがわからないのである。
北海道にはあるが他では見ない景色なのである。
草原に風がふきわたり雲雀がなく景色は気持ちがいい、モンゴル辺りだとこういう景色が普通なのである。すると何か人間の感覚が変わってくる
気持まで広々としたものと自ずとなってくるのである。

日本人の文化は田んぼから稲作から作られてきた、それはもう単に米を作るというのではない、心まで作ってきたのである。だからこの辺で田んぼが放射能で汚染されたとき田んぼがなくなる世界、草原化した世界というのがなんなのだろうとなった
それは津波の跡もそうなってしまったかち二重に草原の景色になってしまったのである。
日本では放っておくと草原にはならない、雨が多いからやがて釧路湿原のような湿地帯になる。
ただここでは草原化している、水たまりを埋めたりしているから草原になっているのである。

今年はともかく風が吹く、毎日のように風が吹いている、青嵐というとそんなに吹かないだろう
今年は毎日風が吹き荒れている、こういうのも珍しい、それは桜が咲いた時からである。原町の牛越城は5年ほどで終わった、でもその五年も風雲だった、何か争いがあった
内部での抗争があった。風雲の城でもあったのだろう。戦国期の城だったからである。
だから青嵐ににつかわしいともなる  

右田の一本松は枯れそうに見える、枯れなければ奇跡の一本松になるのだろう。
あそも松原として意識していたのであり一本一本の松として意識したものはなかった
今はあの一本松だけが注目されているのである。

タグ:夏雲雀

2016年05月01日

山桜短歌十首(栃窪から佐須から霊山へ)


山桜短歌十首(栃窪から佐須から霊山へ)



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佐須の峠

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栃窪に老いゆく人やシャガの花

飯館村石に芽吹きや峠越ゆ

花の影休みて去るや峠かな


山桜風に吹きゆれけたたまし朝鳥鳴きぬ声のひびけり

山深みたずね分け入りいづくより朝に風吹きなお花散りぬ

人住まぬ佐須を去りゆく枝垂桜帰りを待ちて庭に咲くかな

八重桜夕日のさして赤しかないつ帰らむや村人を待つ

磐を打つ流れひびきて朝清し高みに朝映え山桜咲く

山桜山間深くなお咲きぬその清しさや風に散りなむ

山桜高みになおも残り咲き散りゆくものや流れ清しも

霊山に雲の乱れて流るかな山桜映え南朝滅ぶ

山桜なおも散りしも霊山を落ちのぶ方は我が里なりき

吾妻峰に残れる雪や山桜霊山に映え岩の黒しも



栃窪村では田んぼをつくっていたが飼料米にするという、栃窪は水がいいので米がうまいと前は自分の家でも栃窪から米を買っていた。
飼料米になるのもわびしいともなる、老人か杖をついて歩いていた
その土地で生れて育ち死ぬのも幸せだとなる
だから原発避難者は不幸だとなる

山桜はまだ咲いていた。飯館村には人は住んでいない、一軒一軒に枝垂桜が咲いていた
八重桜も咲いていた、山桜はもともと日本の山だったらどこにでもけ咲いていた
しかし万葉集時代は山桜は注目されていない、外来の中国から入った梅の方が人気があったのだ、桜の宴ではなく梅の宴だった、だから人間はつくづく人間は身近にあるいいものを理解していないのである。
それは今もつづいている、外来のものばかりいいものとするのか特に日本の風潮なのである。

それで本居宣長が大和心と唐心を区別して大和心を見直したのである。
とにかく明治維新以来外来のものに席巻されて何が日本の心かもわからなくなった
そして言葉だけがとびかっているだけである。
民主主義となれば自己中心の利益主義権利しか主張しない
外来のものがいいとしてももともとあった日本の良さがほとんど喪失した
それより大和心が何なのかわかなくなったのである。

ただ自然というのは自然の美は変わらないからそこから日本を意識する
山桜はいたるところに咲いている、それもあまり注目していなかった。
桜というとき染井吉野が主流になったからである。
山桜は山に咲くからより清しさがある、天然の美があるが染井吉野は何か艶なものなのである。

霊山というとき南北朝の争いの場でありはかなく炎上して終わった
そこから落ち延びたのが南相馬市の鹿島の真野である。
そこにお浜下りの祭りが残されている、それは落ち延びた時の姿が祭となった
でもあんな恰好していたというのも不思議である。そもそも途中にそんなに家もない時代である。
ともかく歴史的なものがあるとその歴史とともに心象風景がつくられる
今回は曇っていた、それで雲が霊山の上を乱れ流れていた
それは何か落ち延びてゆく人をイメージするのである。

タグ:山桜

2016年04月29日

八重桜(小さな町の散らし)



八重桜(小さな町の散らし)


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八重桜風雨の中に赤く咲く

八重桜ここに住みつく人のあれ

雉の鳴き鶯の鳴き蛙鳴く

原町の街の広しも夕燕

鶯の鳴いて種蒔く男かな

菖蒲咲き老舗のあらむ通りかな


通りにそ菖蒲の咲くもあわれかな人行くまれに店なく淋し

福祉の湯入りてあわれ我が一人白き菖蒲の咲きてひたりぬ

店もなき街の通りにあわれかな紫と白の菖蒲映え暮る

街中の畑に菜の花映えにつつ漬け物会社に働く人かな

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介護十年していたときほとんど遠くに行かない、一万の町の中でありあとは隣に4、5万の街がありそこにゆくだけである
ずいぶん生活範囲は狭くなったと思う
というのは絶えず遠くを旅していたのが自分だったからである。
10年くらいは海外旅行だったから余計にそうなる
それでも家事に追われて以前として忙しいのである。


冬は福祉の湯には行っていなかった、8時間くらい水につける電気であたためるものを使っていた。これは時間がかかりすぎるしシャワーは壊れたし自分の風呂は直さない限り十分には使えない、でも金がかかるからやめた
家を直すときりがなくなる、本当は古い家なので冬が寒いから直したいが金がかかりすぎる、福祉の湯は広いし泡が出るのもあるしシャワーでも使いやすいのである。
そしてそこでは入る人は少ない、いつも一人で入れるのがいいのである。
混むのはカラオケやっている時だけだろう

そういう点贅沢だと思う、何か一人暮らしは食事でも風呂でも共同的なものというか家でなくて外でできるのものがいい、一人分はだめんどうだしかえって金と手間がかかるからである。
湯に入りながら庭に白い菖蒲が咲いていたのを一人見ていた、のんびりしていい。
この街の新しい通りでもそこには店がないのである。
その通りに菖蒲が咲いているし菖蒲の季節である。
でも何か店もないのが淋しいのである。どこでも商店街は消滅している
でもなんか商店街がないということは街が死んでいることにもなる
通りもせっかく新しく作っても活きていないのである。

菖蒲が咲いて静かに老舗があるというのが何かあっている
もう一軒の店が成り立たなくなっているのだ
街というのはやはり田舎でも必要なものだと思う
街がないと店がないとその他何か街にあるべきものがある
そういうものがないと人間的暮らしができない
湯でも離れていると簡単には利用できないのが問題なのである。
福祉の湯は近いからいいのである。それでも冬は自転車だと湯冷めするから利用しなかったのである。

桜は散って八重桜の季節に変わった、桜と八重桜はかなり違ったものである。
桜は散るということを前提にして咲いている、散るのが美しいのである。
桜はだから遠くで見るのもいいのである。
梅とか八重桜は近くで定着して見るのがにおうのがいいとなる
昨日は風雨の中に咲いていた、その赤さが何かあたたかさを感じた
八重桜は何かあたたかみを感じる花である。
ほわほわぽかぼかとした感じになる、これは桜といっても普通の桜とはその性質は全く違う。八重桜の方が何か人間をイメージするのである。

小さい町ではたいがい街中でも畑がある、そして菜の花が映えていた
そういう光景はなにか心をなごませるのである。
家で埋まっていたら嫌なのである。前は畑に菖蒲が咲いていたがそこは荒地になった
それも淋しいとなる、この辺の街の様子が大きく変わってしまった
新しい家がどのくらいたったのか三百軒なのかわからない、その数は小さな町にしては多いのである。
いづれにしろ自分の住んでいる街は一人暮らしには不便である。
特に気軽に入れるレストランとかがないことが一番不便なのである。
いつも行っていた仮設のあつみ食堂は臨時休業になりこれから再開するのかどうかもわからない、でも家があるかぎり簡単には移動はできないのである




2016年04月23日

チューリップ(人の住まない小高の不思議)


チューリップ(人の住まない小高の不思議)

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我がここに住みつつあわれ二三人花散るあとを人の行くかな   

チューリップ庭に映えつつ新しき家に住むかなつばめとびかふ

隣にも代わりて住めるその庭にチューリップ咲き幼子のあり


自分の回りも変わってしまった、新しい人が移り住んだこともある
組では子供がいなくなっていたが一人幼子をもつ夫婦が住むようになった。
今は隣でもどういう人が住んでいるのかわかりにくい
一軒は津波の被害のために新築した人である。
自分の家など二代くらいで古くはない、農家だったら何代もつづいている
それでもいつしかこの辺で古株になっているのである。

草の戸も住替る代ぞひなの家 芭蕉

前はそこにも老人が住んでいた、その人は去ったからこの句とにている
人間というのはいろいろ環境が変わるけど世代交代とかをしてゆくのは代わりがない、
そこに人間としての普遍的なものがあり現代でも同じようなことがくりかえされるから
普遍的な価値をもっているのである。

全体的に南相馬市は変化が激しいのである。
新築の家が建ちつづけているし原町辺りは大きな施設が何カ所か建ってい小高の人でここに家を建てた人もいるからである。
今日はスーパーは混んでいた、土曜日であり他からの人が来るからこむ
除染関係とかの人もいるから結構こむのである。


それでも桜が咲いた土手の道はちらほら人が行くだけである。
ただ工事しているから落ち着かないことはある。
不思議なのは小高である。桜が咲いても桜が散ってもそこには人が住んでいない
するとそういう世界は何なのだろうと前からも不思議だった
人が住まない街の不思議である。
チューリップでも新しい人が新しい家に住んで映える
子供が幼子がいれば余計にチューリップもその子供に映える
つまり人間がいて花も映えているのである。
小高では桜が咲いて散っても誰も通らない、小高の人は見に行った人がいても住んでいないのだから日常的にその道を歩く人はいないのである。


だから人が住んでいない街とは何なのだろうとなる
ではこういうことがかつてあったのかとなるとあった
人間が住む前は原野であり森であった
そこには動物や植物も繁茂していた
人口をみれば江戸時代が三千万人であり大正時代で6千万人になった
これをふりかえれば日本は開墾されない土地は広がっていたのである。
その時はそこには人間は住んでいないのである。
大熊とか富岡とか辺りは明治になって開墾された土地なのである。
そこは相馬藩との境目であり原野が森が広がっていた
夜の森とは余の森だったのである。余とは相馬藩の殿様だったのである。
小高や浪江とか避難区域はそうした原野や森にもどったともなる

そして人間がいないということは自然だけになる世界をなかなか経験できない
普通身近に住んでいる場所でそういう所が開発されてなくなっているからである。
感じることは一段とシーンとして静寂が支配している
自然だけだったら当然そうなる、田舎の街だからもともと静かだったけどそれも人が住まなくなったとき余計にそうなったのである。
それで街が暗いから帰りたくないというのもわかる、要するに原始の状態にもどればそうなる
江戸時代ももどるようになる、灯もともしいし一段と静まり返るとなる


小高をどうするのかというとむずかしい゛要するに前例のないことだからどうしていいかわからないのである、人が住まない街とかをどうするのか?
それを模索するのにも今までのやり方も通用しない、では新しいやり方は何なのかとなるそれは簡単には解決できない問題なのである。

2016年04月19日

復興を願いて小高の春二十首 (浜街道を小高へ)

復興を願いて小高の春二十首


(浜街道を小高へ)


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コブシ咲き高松の奥家一軒

芽吹きけり馬飼う家や相馬かな

津波にも残る御堂や蛙鳴く


海近く六号線や朝日さし鳥も飛びきて山桜映ゆ

東風吹きて樹々も芽吹くや朝日さし山桜咲く六号線行く

山桜風にそよぎてゆれやまじ浜街道を朝進みゆく

山桜松に映えにき東風吹きて散り舞う花びら浜街道行く

新田川瀬音のひびき山桜朝日のさして岸に映えにき

街道を行く人あれやチューリップここに映えにき朝の明るさ

小高にそ花みな散りぬ帰らざる小高神社に我がもうずかも

残る花小高神社に散りゆくやここに住む人なしも淋しも

人なしや小高神社の石段に蟻穴いでて働かむとす

津波にそ流さる社再建す誰か守るや雲雀なきしも

人住まぬ小高や原の広がりて雲雀なくかなタンポポの満つ

人住まぬ小高にあれど雲雀鳴く我にひびきて生きるものあれ

小高にそ津波の跡に松二本痛々しくも五年はすぎぬ

鴨なおも渡り去らじも沼に群れ小高に人は住まざりしかも

村上のに城のありしと望む海タンポポ映えてなにかありなむ

村上に波のひびきて山桜朝日のさして海を望みぬ

村上の社を誰かたずねなむ椿の散りてあわれなるかな

村上の墓地の古りしやあわれかな散りし椿や帰らざるかな

福岡と川原と記す碑の一つ田んぼに残る春のくれかな

雲雀鳴き復興ならむ小高かなタンポポまぶし海を望みぬ


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六号線は山桜が今盛りであり朝日に映えてきれいだった

敷島の やまと心を 人とはば しきしまの やまとごころを ひととわば. 朝日に匂ふ 山さくら 花 

これは山桜であり染井吉野ではない、そこがまぎらわしいのである。山桜は野生種であり染井吉野は江戸時代に品種改良したものである、本来の桜は日本では山桜なのである。

ソメイヨシノは加齢とともに危険度が増すことが分かりました。特に樹齢40年を超えると、危険度2以上の占める割合が極端に増え


ソメイヨシノが世の中に広まったのは江戸時代の終わりくらいですから、まだ150年経つか経たないか、まあそれくらいということになります。そうすると当然ながら、それ以前の古い木というのはないので、若い木しか我々は見ていないということになります。

山桜となるとその樹でも樺細工とか角館で作られているし丈夫である。山桜は丈夫であり染井吉野は枯れやすいのである、せいぜい150年が最高年齢としても明治からすでにそのくらいすぎているから寿命が樹としては短いとなる
山桜と染井吉野の相違はにていても大きい、山桜は野生種であり純白の花である。
染井吉野は艶なる花である、だから京都辺りだとにあっているのである。

山桜は六号線沿いにかなり咲いていた。今日は朝日がさしてきれいだった
まさに朝日にこ匂うように咲いていたとなる
山桜は風にそよいで咲くのもいい、浜街道は海が近い、そして東風(こち)が春になると吹いてくる、旅からは遠ざかっていたがまた旅に出る気分だった
生きている間に自転車でもう一度磐城まで行きたいとなる



小高は海の方ではまだ津波の跡が痛々しく残っていた
壊れた家も残っていたし田んぼは湿地になりまだ整地されていない
ただ除染は小高の方が進んでいると太田の人が言っていた。
帰還をすすめるためにそうしているのだろう
小高で感じたことは田んぼが一面に原になりタンポポが咲き雲雀が鳴いていた
それは原町とか鹿島とか相馬市や津波の被害地はそうなっていた
でももう湿地は埋め立てられたし壊れた家もない、小高はまだその点五年前のままの所が残っていた。


小高の復興というときやはり人がともかく住む、誰でもいいから住む、老人でもいいから住む、住まないとしたら人が入ってくる、それだけでも生きてくるものがある
雲雀の声が自分にひびいたとき雲雀も自然も花も生きるのである。
そこに人がいないと自然すら死んでしまうというものを感じるのである
一旦人が住んだ場所は人が住まないと活きてこないのである。
人が住まない太古の自然とは違い人間と共存した自然だったからなのである。


復興というとき歌や詩も力となる。雲雀が鳴いている、その歌は人間にひびくのである。人間にひびくとき最もひびくものとなる、活きるものとなる
それが誰も住まない来ないとしたらひびかないのである。
だからみんな帰らないとしてもそこには人間が入るべきなのである。
人間がいない世界は自然まで死んでしまうということになりかねないのである。
ともかく原っぱでもいい、そこを人間が通ればその道でも何でも活きてくるのである。

雲雀鳴き復興ならむ小高かなタンポポまぶし海を望みぬ









タグ:小高の春゛

2016年04月17日

余花十句(夕暮れの街道を相馬市の城跡まで)



余花十句(夕暮れの街道を相馬市の城跡まで) 

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草青し雨濡れ夕べ春の虹

夕風にゆれやまぬかな山桜

薬師堂古き碑並び花散りぬ

街道に夕日さし松に山桜

花映えて鳩むれとぶや街の空

城跡に夕鶯や月もいず

四十雀枝わたるかな残る花

夕月や薄紫のつつじかな

城跡に余花のあわれやいずる月

人去りて眠りにつくや余花に月


城跡に残れる花や幾人か心静かに夕べ歩みぬ

夕暮れにかそかに残る花も散る城跡静か歩みけるかな

雨の後残れる花に夕日さしあわれ暮れゆく薬師堂かな

残る花薬師堂にそ散りゆくや夕日のさして我が通るかも

宇多川の岸辺にあわれ残る花夕べ歩める人の静けし

五本松一本欠けぬしかあれど五本松かな春の夕暮


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今日は雨がふり午後から晴れた゛その時虹がかかった、短い虹だった、春の虹だった
この時カメラをもっていなかったのが失敗だった、今はカメラを常時もっていなとシャッーターチャンスを逃し二度ととれなくなる

それから日立木の薬師堂を回り松並木の街道を通り相馬市の城跡に行った。
その時は風は吹いていなかった、雨にぬれたあとの散った桜が風情があった。
残り咲く花もまだ散らず城跡にひっそりと咲き行く人もまれだった
苗市が開かれていたが終わったらしい、薄紫のつつじが目をひいた
その時ちょうど月がでていた

今回は余花がテ-マになった、これはあまり人が多いと鑑賞できない
そもそも花見とかいうと大勢になるがそれだけではない、桜でもやはり美を鑑賞するとなると静かな方がいいとなる
大坂城とか京都の桜は歴史があり特別なものがある
ただ今は人が外国人でもこみすぎるから行きたくない
自分はもともと人嫌いであり人ごみが好きでなかった、今になると年とると余計にそうなった
若いときはどうしてもにぎやかな所がいい、でも年取ると一般的に田舎が好まれるのはやはり騒々しい所が嫌になるのである。
個人差があるかたいだいそうなるのが一般的である
自分の場合はある意味で異常だった
30年間恵まれてほとんど人と接していなかったのである。
ひきこもりといえばそうなる、ただその間旅していたからそれとも違う。

ともかく何度も書いているけど相馬市はなぜ不思議なのか?
それは街なのにしんとしているのことなのである。
原町にはそういう感じはないのである
だから余花でも映えるとなる
人も去って街はねむりにつき余花と月のみが映えているのである。
そういう景色が心に映じて自分も眠りたいとなる
なぜならここ十年は介護に終われて疲れてしまったからである。
そして苦しみの連続だったからである。

五本松の一本は枯れて切られ根っこだけがあった。
それでも五本松である。
自分の家族も二人亡くしたが60年も一緒にいたのでいなくなったという感じがないのである。
これは今のところ謎である。そういうふうに親しい人が死んだときその後にどう感じるかはまだ何なのかわからない
でも何か消えた感じがしない、やっはりいるような感覚になるのが不思議なのである。
それは60年も一緒に同じ場所にいたことが影響しているのだ。
五本松でもやはりここにいつでも立っているから一本消えてもやはり五本松としてあるのとょにているのである。

今回は結構山桜は咲いていた、染井吉野はほとんど散った、余花になっていた
桜もこれでだいたい終わりだが実は桜前線はまだ北に向かうから桜はみれるのである。
ただ何か自分は介護十年で終わり家族が二人死んで疲れがでた
でも今回もかいごしなくていいから時間の余裕がありゆっくり帰ってきたのである。





タグ:余花

2016年04月16日

みちのく真野、桜田山に桜散る十首


みちのく真野、桜田山に桜散る十首


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桜田山万葉園


みちのくの真野のあわれも桜田山海を望みて花は散りにき

海望む桜田山に我が上り東風の吹きくる沖ゆく船見ゆ

年古りて桜田山や残る花散るもあわれも今日も風吹く

海望み沖行く船を我が見れば旅心わく春の朝かな

桜田山花の装い燕来る風のあらしもはや散りにけり

海望み桜田山や風あらく花の散りにきあわただしかも

万葉園久々にきて年深み松にしよりぬ春のくれかな

我が生や介護に十年その重み姉母死にてめぐる春かな

我が町を桜田山に望むかな姉母なしも花は散りにき

故郷は思い出深き姉と母眠れる所春のめぐりぬ

年古りて今いくたびの春なれや桜田山に望む海かな

海望み津波の跡の生々し帰り来ぬ人春はめぐれど

故郷に我も老いにき桜田山花は散りにきあわれ深まる

故郷に若き人しも育ちなむ我が老いつつも見まもりけるかな



桜田山に上ったのは数年ぶりというか上っていなかった。それはなぜなのか?
毎日十年は買い物であり介護に追われていた。
この介護の十年は自分の人生の大きな一部となってしまった。
何かに常に追われつづけてきたのである。
桜田山に上らなかったのは失敗だった、ここから海を望んだときそれが新鮮だった
もしかしたら三年くらい上っていなかったかもしれない
とにかくこの辺は津波が来て原発事故になっていらい落ち着かないのである。
それはここ十年は介護であり自分の病気やらで本当にめまぐるしく追われたのである。

30年くらいは平和であり自分は楽だった、その間旅に明け暮れた。
それで桜で思い出したのは

みちのくに桜咲く時西に行き京大阪は散りし後かな

つまり桜前線が西から東へと移ってゆくことで情緒が生れる、みちのくの桜はまだ咲かないというとき桜の咲くのを待っているというとき西は桜が咲き誇り栄華があったのである一方でみちのくの桜も散るしそのあとはさらに北へ向かえば弘前の桜が咲くとなる

稚内六月にしも桜咲き雨のふりにつ寒しを思ふ

稚内まで自転車で行ったとき六月まで桜が咲いていた、その時は寒かったのである。
ともかく人生60年とか団塊の世代も老人となり過去をふりかえるようになる
実際に同級生で死んだ人もいるし脳梗塞とかで手術してやせほそった同級生もいた。
団塊の世代もそういう人生の最終章に向かいつつあるのだ。

何かこの十年は介護であり津波原発事故でありめまぐるしく変わりあわただしいのである介護が終わったということでその時間の重みを知った。
介護がそれだけ長いということは人生の一部として課せられるようになったのである。

万葉園にも久々に行った、何か荒れていた。立て札に記された歌があった。

一つ松幾代か経ぬる吹く風の声の清きは年深みかも(万葉集、市原王)

南相馬市の鹿島区の真野は万葉集の歌にある。

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを (笠女郎)

これは必ず真野の草原となっているから草原(かやはら)だと思っている
でもこれは地名だったのである。だから草原(かやはら)をイメージすると変なものになるのだ、草原を萱の原とするとき全く違ったものになる
草原は地名だった、伽耶の原だったのである。津神社がつの神社でありそれがツノガノアラシトと関係していたように誤解される、津神社で津波と関係していたものはないのである。ツノとなっていればたいがいツノガノアラシト系統なのである。
韓国からの渡来人に由来した地名である。製鉄の技術集団が移動してきたためにつけられた地名であ。ただこれは本当にまぎらわしいのである。

いづれにしろ姉と母が死んだことは自分にとって大きな変化だった。この辺はみんなすさまじい変化に見舞われた。津波でもそうだしそのショックはまだ消えていない
ここ十年で経験した自分のことも生々しいのである
この十年は大きな重圧のもとで生きてきたのである。
だから何か常に生活でも心も負われて生活してきたのである。
そのうち十年がたち相当に老いて市ったとなる、この辺で大病したりすると同教生のようにさらにふけてしまうのである。
自分は体力的には立ち直っているからまだ死ぬのは早いかもしれない、でも何か人生の最終章に向かっていることはまぎれもない実感なのである。
今だから書くことが前に書いたことでもふりかえり書くことが増えた
いくら書いても書き切れないという状態になっている
介護から解放されたからパソコンでも記録したものをふりかえりまとめることが仕事になる、これも相当な手間なのである。





タグ:桜散る

2016年04月15日

荒れ模様の中で今年の桜も散る



荒れ模様の中で今年の桜も散る



日本なれ海の光りて朝桜


昨日は風に吹き散る桜かな今日は静かに小雨に散りぬ

目覚めれば風に吹き飛ぶ花びらや今年の桜散るも早しも

風荒れて残れる花をしばし見つ今年ははやも散りにけるかな

風荒れて桜をゆする咲きし間も今年短き落ちつかぬめかも

花散らしなお風うなり夜となる名残を惜しむ間も短しも



ひさかたの ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 

この歌はひかりのどけきだから風が吹いていない穏やかな日に散る桜である。
でも静心なくというのは穏やかな日でも桜が咲くとそれはすでに散ることを予感させる
今年は風が何度も吹いた、吹かない日がないくらいだった
それも風が強いのである。それで今日も桜が激しく風に揺すられていたのである

花の命は桜の命は短い、そこに日本人の美学が形成されたということはある。
戦争中は若い人が多く死んだから桜にその心が反映されやすかったのである。

たれこめて 春のゆくへも 知らぬまに 待ちし桜も うつろひにけり

桜はあくまでも「晩春を彩る代表的な景物」であり、その花が散ること、
つまり「春が終わる」ことを惜しみ嘆いているのです。
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桜を散る桜を人間の命にたとえたのは戦争中だけでありそれまではただ季節が移るということで桜をとりあげていた
静心なくというとき桜は風に散りやすいからそうなる、風騒ぐというときそれは心も騒ぐということに通じている。
花が散るというとき死をイメージしても不思議ではない
自分の今回の歌も何か死をイメージしている、命が短いというときそうである。
でも桜は毎年咲くのだから咲いて散るのだから命短しとするのはあわないのである。
どちらかというと華やかに儚いというかそういうものの象徴になる

一時に花みな散りぬいさぎよし若き命の今はなしかも

これは自分で作ってみたがこんなふうに戦争のときは桜は歌われていたのである。
こういうことは今は批判されている、戦争を賛美するものだったとなる

はかなくて過ぎにしかたを数ふれば花に物思ふ春ぞ経にける  101式子内親王
みよし野の高嶺のさくら散りにけり嵐もしろき春のあけぼの  133後鳥羽院

これなんかも別に命のことではない、春の象徴として桜があった。
人間の命として桜にたくしていはいない、ただ静心なきとさせるのが桜なのである。
それが死と結びつく、桜は何かそうして死を予感させるものがあったのかもしれない。

朝倉氏が織田信長と戦っているとき家来の武将が桜の歌を残した。それは山桜でもない、糸桜だったのである。糸桜は枝垂桜であるから染井吉野のように華やかには散らない
だから散るという歌はないのである

折りを得て けふ咲く花は君がため今一しほの色やそひけむ 信忠

枝垂桜だったら散るというより枝垂れる色がにあう。この時第一城であっても今のように染井吉野のよう花は咲いていないのである。明治以降に桜の木がどこにでも植えられて飾るようになった。
ただ糸桜は枝垂桜は城内に咲いていたのでこういう歌を残したのである。

自然には人間の心が心境によって絵でも文学でもなる、俳句でも短歌でもそうである。
でも桜だけが命ではなく多くの花もやはり人間の心がたくされる、花の命は短いというときそれは人間のことでもある。
だから普通の花でも咲いて枯れれば死ぬと見るのである。
それは生き物だからそうなる、そして墓にさす花は枯れるがいやなのである。
枯れたままになってさしてあるのが嫌なのである。
それからいつでも造花がさされているのもいやなのである。
造花はやはり生きていないからである。花は枯れても生き物だから違う。
だから時々彼岸でなくても生きた花をさしておきたいとなる
要するに桜でも普通の花でも生きてやがて死すというのは無常であり運命である。
樹ですら千年生きてもいつかは死んで土に還るのが定めである
それは生きものだからそうなっているのだ。
だから桜だけがはかないとかではない、みんな花の命は短いのである。


ここに生きここに死すなれ桜かなまた咲くべしや年はめぐりぬ

桜は日本人の心 (ともに栄えるのが格差がないのが日本の文化)

これは土着的なものとして見た桜である、もともと桜は農耕と関係していた。
それで桜が咲いたら種をまくということで種蒔き桜などがある
桜を戦争のときのように死のイメージとしてだけみてはいない
栄えるものの象徴としても桜はあったのである。
タグ:桜散る

2016年04月12日

花の影(栃窪へ行く)


花の影(栃窪へ行く)

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助の観音

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上萱

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八木沢の麓の大芦とかは人が住んでいない
ここには犬の墓があった

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大原だけどここには人が住んでいない



栃窪に枝垂桜や葉山かな

石一つここに変わらず花の影

栃窪に古りにし家や花の影

栃窪に蓮華畑や眠る人

頂きに咲きて散りにき山桜

山鳩の驚き飛びぬ花の影

犬の墓ここにありしや夕桜

大原の蔵ある家や夕桜

深野のユッサに寄るや夕桜



風に散る枝垂桜や街道に影なしつつもこの家の古りぬ

ようやくに助の観音に着きにり残れる花を見て帰るかな

上萱になお残り咲く山桜またここにより帰りくるかな

山深くさえづり聞こゆその声のひびき鎮まる余韻に暮れぬ

新田川の上の岸辺に誰か見るキクザキイチゲの咲き開かむとす


カメラのレンズが汚れてきれいに写真かとれなかった。街道の枝垂桜は趣がある。
反対方向から撮ったら影がうまくでていた。
街道は道が細いのである。それが街道の面影を残していることなのである。
六号線のようになったらもう街道ではない、細いというとき「奥の細道」となるともっと細い道だったのである。
ただ今になるとあそこは車だと狭すぎるのである。

栃窪では畑とか田んぼを作るのはまだ少ないだろう。あそこは放射線量が高い、でも「花の影」というときそこに落ち着いた生活があるとき詩にもなる
そこにはまた暮らしがないとただ家があるというだけでは都会の郊外の家と同じである。山村の暮らしはもともと自然と調和していたから美しいとなる
貧しいが美しいとなる、その生活が放射能汚染で破壊されたのである。
あちこちに放射性物質を入れた袋があるのも嫌なのである。

葉山信仰は各地にある、ハは端にもなり当て字である。この信仰は田んぼと密接に関係していたのである。
比較的低い里山でありそこから田んぼに水を供給することで結びついていた。
これはだからどこにでもある神社である。
この辺では栃窪にあるのがふさわしいとなる、外にもあるが田んぼに水を供給するというとき栃窪がふさわしいとなるからである。

助の観音は飯館までの塩の道として有名である。助の観音とはまさに助ける観音だというときこの辺で泊まる場所だったのである。
ここまで自転車でのほって来るのか大変だった。電動自転車だからなんとか上れた。
つまりこうして苦しんでくるときその距離感を感じる、ああ、やっとついたというときそこがまさに助の観音だったのである。
歴史を実感するにはだから車だとあまりに便利だとできないのである。

そして上萱(うえがや)についた、一本の山桜がなお残り咲いていた。今回は山桜でも結構散っていた。これは染井吉野ではない、山桜は染井吉野のような華やかさがないのである清楚であり派手ではないのである。この辺が何か混同している
普通は染井吉野を見ているのであり山桜はまた別である。
吉野に咲いているのも染井吉野だろう。あんなふうに華やかには山桜だったら咲かない

いづれにしろ人間はあまり変わりすぎることは良くない、この辺のテーマが変わらないということの価値を見いだしたのである。
つまり石と樹とか自然のものはそんなに変わらないから価値がある。
石だったら千歳の磐とかなることに価値がある
めまぐるしく変わる世界には疲れてしまう、特に老人は変化に弱い
ここにまた変わらずに同じ石があるということで落ち着くのである
この辺の問題は変わりすぎたことなのである。

そして人間が死ぬというとき栃窪では耕さない畑が田んぼになっている所が蓮華畑になっていた。その近くに墓地がある。というとき人はそこに眠っている
蓮華畑であれ菜の花畑であれそういう村に眠るのは幸せだとなる
死んでから関係ないというけど都会のような団地のように区切られた所に押し込められるのを見ていると嫌なのである。
人間は死んだら自然に帰るというけど都会にその自然がないのである。
だから限界集落でありそういう山村がなくなることは経済的な問題だけではなく精神的にも影響する、一万くらいの町でも自分の家の墓は狭い、だからなにか窮屈に感じる
広々としたところに墓地があるというのは墓参りにするにも気持がいいとなる
今回は上萱でチェーンがはずれた、それも深くチェーンが入りこんでとれなくなった。
前にもそういうことがあったが今回は元にもどすことがなかなかできなかった。
木の枝ではずそうとしたができない、木は折れてしまう、それで上萱から出た八木沢の麓に家がありそこが空家になっていてカスガイとした鉄が残っていてそれでなんとかはずすことができた
まず木ではできない、それで考えたことは木の道具では人間は田んぼすら開墾したり何もできない、鍬でも鉄が必要であった、その前は石器が必要であった。
木では道具にならないのである。もちろん武器にもなりにくい、石器は鉄の代わりになっていたのだ。石器というのはあまり注目されていないけど人間が手にした大きな道具だったのである。これは武器にもなったからである。
鉄が発明される前は石器でありこれでしとめた獲物でも切り裂いたりできたことは大きな進歩だったのである。


帰りは原町のユッサに来て食事して帰ってきた、遅くなったが介護がないので余裕である介護がなくなったことでまた旅もできるかもしれない、体力的にもまだ最後の旅ができるかもしれない、ただ新しい自転車をヤマハのロードの軽いのを買おうとしたが坂をとても上れない、2、5アンペアでは上れない、そしてスポーツタイプになると道がでこぼこうしていると危険にもなる、日本の道は舗装していても凹凸があり危険なのである。
今のヤマハのはマウテンバイクタイプだから重いが悪路には本当に強いし安定しているから事故になりにくい、自転車も結構危険な場合がある。
それで20年前だったのか前歯を三本くらい折っていた。その時頭をうちつけると死んでいたのである。このことを忘れていたが思い出してヒヤッとした。
誰でもこうして死の危険がありそこから助かったということはある
それは普通に生活していてもそうである。津波などもそうだった。
自転車だって相当に危険なのである。


注意→栃窪から上萱の道は車では通れません、道路が崩れていて通れません

2016年04月11日

フラワーアレンジメントの本を作る


フラワーアレンジメントの本を作る


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トルコ桔梗と万寿菊

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 (つぼみ)


 

万寿菊トルコ桔梗のともに咲きその色深め家にしあるかな

大輪の紫濃き牡丹かな我が家の主我なりしかも

風荒れて夕日のさしぬ満開の桜しばし惜しみぬ


今日は寒い、風が北風であり寒の戻りである。でも今頃の季語にはないだろう
今年の気候は寒暖の差が激しいことである。
寒いと思ったら暑くなり暑くなったら寒くなる、こういう変化は体に良くない
風がビュービュー吹いて満開の桜に夕日がさしている光景も何か今までに経験していないつまり気候とは毎年違っている、人間が60年生きても70年生きても毎年違ったものを体験しているのである。
その大きなものが気候なのである。その気候によってものの見方も変わってくる
もう桜は満開だけど明日かあさってかもう散っていると感じる
今年の桜は本当にそういう感じの桜だった


フラワーアレンジントは自分の一つの仕事である。これは別に特別の技術は必要ではない生け花を習わなくてもできる、ただ美的感覚がないとできないともなる
花を見て美しさの感覚を養うということもある


写真を絵画風にパソンコでしたものはトルコ桔梗の群青色がいい、それと万寿菊というのが対称的に映える、そして花は何日か一週間くらい最低見ていないと心になじまない、映えないのである。
だから家の中で毎日見れる所に置くのがいいのである。
自然の花はいろいろ花があっても一つの壺に入れてみることはできない
みんなばらばらに咲いているからである。
フラワーアレンジメントは外国の花でも一緒にさして映える
そのコントラストがいいのである。

今は1000円くらいでも写真の本が作れる、それを今作ろうとしている
パソコンでも注文してつくった。キタムラプリントとかは相馬市のイオンにあるので便利である。
結局これも機械化で人がいらなくなるというときそうである。
パソコンがしているのであり人はパソコンの補助にすぎない
パソコンのソフトがすでに人間の代わりになっている、だから人間はこれから高度な仕事を要求される、パソコンにやれないような仕事である。
芸術はパソコンにはできない、小説をパソコンが書いたというときそれはやはりパソコンにある膨大な情報がキーワードでつながるということはありうる
人間の経験していることはパターン化できる、犯罪の動機などもたいがい決まっているのである。

いづれにしろパソコンでは一つのフラワーアレンジメントを見たとしてそれを鑑賞はできないだろう。色で判別できてもそれをどう鑑賞するかとなるとできない
だから俳句の一つも短歌もできないのである。

2016年04月09日

花見(相馬市へ夜桜を見る)


花見(相馬市へ夜桜を見る)  

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新しき自転車買わむ燕来る

鳴きにつつ鳥飛び来る朝桜

朝夕に中館の桜家に見ゆ

この道のゆく人まれに花の影

故郷や母亡き後や花曇り

買い物や原町に来て夕桜

街道や枝垂桜の花の影

混むでなし六万石の花見かな

宇多川の橋を渡るや春の星

城下町枝垂桜や繊き月

夜のふけぬ枝垂桜に繊き月

五本松通りて帰る春の闇


眩しくも新田川に陽は落ちぬ岸辺の桜今盛りかな

訪ねれば一夜の嵐に櫻花散りにしあとや疾く時はすぐ

満開の桜を見れば風騒ぎたちまち散りぬ夢の跡かな

五本松夜に通るも我は知る我が帰りゆく春の夜かな

家に待つ人とてなしも何故や姉と母とは常にあるごとし

我が家に待つは誰なれ猫一匹待つとてあわれ春の夜かな


昨日は原町に行って今日は相馬市に行って花見である。中館は自分の家から見える中世の館である。お浜下りとかの祭りがあるところでこの辺では知られている

桜というのは咲いたと思えばすでに散ることを予感する


ひさかたの ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 

これは桜を象徴した歌だった。今回は特に感じた。最初から風が吹いたり荒らしになったりしてもう相馬市に行ったらいつも咲いている大きな木の桜はみんな散っていたのであるだから今年の桜は早く散った、咲いたと思ったら散っていたとなる

でもひさかたのひかりのどけきという日が今日もそうであり何日かはあった。
今日は暑いくらいだったからだ。

今日は介護もないので夜桜を見て帰ってきた。今までは7時ころまで必ず帰らねばならないのでそういうことができなかった。今は時間の余裕ができた。
でも不思議なのは誰も家に待っている人がいないということである。
それでも姉と母はいつも待っていた、それが60年もそうだったとするときなにかいるような気がする不思議である、やはり60年も一緒にいるとそか簡単には心から消えない
60年の歳月は長いのである。
五本松は夜でもここにあることが知っているのとにている。
60年も一緒にいれば例え憎んでいても記憶から消えなくなる
  
相馬市は何かいつもしんとしている、それで夜の枝垂桜がにあっていた。
細い月がでていたのも良かった。城下町でしんとしているからふさわしい月だとなる
相馬市は何か墨絵のような感覚になる
ともかく今年は桜が散るのが早いからあと二三日が見頃でありあとは散ってしまう。




タグ:夜桜

2016年04月05日

ノートパソコンでプログにアップする実験



ノートパソコンでプログにアップする実験

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飛ぶ鳥の花また花や真昼かな

菜の花や街中に住み暮らしかな

春なれど北斗七星は北を指す


鶯の二三羽ここに今日も鳴きなれにし道や暮れにけるかな


今日はアマゾンで持ち運び用の安いパソコンを買った、3万だから安いけどいいものだった
ASUSでありレビューを読んで買った、量販店とかではすすめるの買うと失敗する、売りたいものを買わせられる
レビューでみんながいいとするものはたいがい間違いなくいい

ただ電気店はyi-fiのことを一番わかりやすく説明してくれた、説明とともに品物も紹介してくれるのがよかった
要するに最近の製品は通信とかでもわかりにくくなっているのだ
それが電話で聞いてもよく呑み込めないのだ、YI=Fは設定できなかった

原町で直接パソコンを持って行って聞いてわかった
ものをじかにもっていって説明されて分かった
そういうことがパソコンとかの接続ではある

外で通信したかったのでそれをどうするか分かった、今日はその実験である




タグ:菜の花

2016年04月03日

桜咲く(今年の花見はどこに)


桜咲く(今年の花見はどこに)

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タンポポや種飛び咲きぬ玄関に

梅香り庭に山鳩飛び来る

十分に梅の匂いて散りにけり

前畑を老婦耕す力かな



みちのくの桜はなおも咲かざりき花見にうかる人をしみれど

故郷に桜の咲くをこの道を歩みて待ちぬ老いゆく我に

東風吹きて川面さざなむ真野川や岸辺の桜今日咲きそめぬ

春風に竹しなりゆれ雲雀なき家々新し街の生まれぬ

石一つ庭に隠され百歳を家支え生く母をし思いぬ


今日この辺は桜咲いた、今日はあたたかい、例年と同じかもしれない
この辺は新築の家がどれくらい建ったのか?
二百軒とかは建っているかもしれない、大東建託のアパートが十軒も建った。
まだ建て続けている
復興住宅も団地も建った
そしてこの辺は新しい街が生まれたのである

前畑を耕すというときそこに生活があり生きる力を感じる
ただまだ畑を作っている所はこの辺は少ない
でも春は一気にやってきたみたいだ

自分は以前として家事に追われかたづけに追われている
なかなか家のなかが整理できないのである。
これは時間がかかるし大仕事だった
放っておくとゴミ屋敷になることを理解した

今年は花見はどこかとなると母が死んでからまだ落ち着かない
だから遠くには行けない、近くになる
西になると東京の方が何か旅行しにくくなった
常磐道で一回バスで行きたい、直通のバスが通るようになったからだ。

玄関にタンポポの種が飛んできて咲いていたのも春らしい
玄関は大事だというと福を呼ぶというときこれは縁起いいとかなる
ともかく不運とか苦しみが十年つづいた。
その苦しみの原因が禄な人間しか来なかったことなのである。
それで犯罪にもあい苦しんできた

家の中に誰かくるか?家の中に入れる人間は要注意である。
一番の危険は家政婦とかお手伝いさんとかである。
これは家の中はみんなわかってしまうから最大の危険である。
時代劇でも最初に女中として商家に入り込ませ手引きさせる
人間の最大の敵と危険は内部に入ってきて攪乱されることである。
外から来る敵ではない、内部に入る敵こそ最大の危険である
避難区域でパトロールしているがそれより内部の人こ危険だといつも見ていた。
内部に家の中に入ると被害が大きくなる。
家の中を知りつくしているからそうなる

母は百歳生きて家を支えてきた、それは目だたない隠れた石だった
でも自分の家に嫁いできて60年の間家を支えたのである。
家を支えた重みが庭の石に残っている
ただこの石は6年前頃だったか新しく作った庭だった
もし旧家だったらそこに石が50年でも百年でもあるとしたらその重みも違っていた。
それがやはり歴史であり自分の家にはそういう歴史はない
せいぜい二代、三代の歴史しかないのである。
長く持続することで重みを増すものがある。
家もそうであり二代三代では重みが備わらないのである。





タグ:桜咲く

2016年03月22日

春満月(津波より五年すぎて平和を感じるー松川浦へ)


春満月(津波より五年すぎて平和を感じるー松川浦へ)

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新しき加工場でき蕗の薹

津波後松川浦に春の鴨

おおらかに春満月や姉の顔

ほほえむや春満月に星一つ

春満月我が家をのぞく平和かな

屋形にそ春満月や幸めぐる

春満月徐々に平和のもどるかな

人のあれ鬼越館に春満月


梅の花日々ににおいて散るころにさらに濃くして匂いけるかな

ゆくりかに春満月の昇りつつここに落ち着く五本松かな

東風吹きて松川浦のさざなみぬかなたに広く海を望みぬ


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津波から五年は一つの区切りなのか?何か今日は春満月が出てさらに平和を感じた。
何か落ち着いてきたなという感じである。
去年とも違う、さらに平和な感じである。自然を感じるというときその人の人間の心境が大きく左右している。
自然は同じでも例えば月をみてもその人の感じはその心境によって変わってくる
津波から五年を過ぎてやはり悲しみもまだ深いが何か平和もまた前より満ちわたるような気がする
5年も過ぎたのだからかいつまでも悲しい悲しいと嘆くだけの時は終わった。
磯部には新しい水産加工場とかできたしこの辺はいろいろ新しい建物だたった
いつまでも過去を引きづっているわけにはいかない
原発事故の被害地域は復興が遅れている、放射能が足かせになり遅れている


それにしてもいい春満月である。それで姉のことを思い出した。
姉は性格がおおらかであり陽気な性格でありいつもにこにこしていた。
自分と母内向的であったが姉は正反対でありそれが良かった。
神経質な人はかえってこうしておおからな人と接していた方が安らぐのである。
ただそれがすべていい方向には働かないがみんな性格とかは良くも悪くも働く


春満月というとき人間は自然に人間を見ているのである。人間の心境で自然を見ているのである。今日の春満月は姉の顔にそっくりだとか見ている
そして微笑んでいるというとき一つ星が輝いていたがそれは子供なのである。
人間は家族の人間関係が大きく影響する、自分の場合特殊だったがそうだった。


相馬市の道の駅に鬼越館跡があるがあれも外から来た人は気づかない
でもそこにも人は住んでいたのである。
鬼越館というと何か怖い名前だが北風の意味でつけられた。
北風がふきつける館だったとなる
それに春満月が昇ったのも不思議な取り合わせだった。
ともかく歴史的なものは知っておく必要がある。


それからいつものように五本松を見て帰って来た。
五本松というときも人を見ているのである。五人の人としてみている
それから屋形に帰ると満月が光っている
屋形の人を知っているからあの人は不幸だったが幸運がめぐってきたのかなどと思う。
何か自然に人間その時その時の心境で見ているのである。




タグ:春満月

春彼岸(この世の無情、津波、家族の死、金の非情の短歌十首)


春彼岸(この世の無情、津波、家族の死、金の非情の短歌十首)


この世への未練のなおもありにしや津波に死せる人をとむらふ

津波にて死す人あまた五年過ぎまことなれかしなお夢とも思ふ

かたわらにつねにありにし母と姉今はなしかも我が一人かな

人の世は会いて別れてみな消えぬ夢の間なれやこの世のことは

姉と母争う時ありそも終わりともに眠るや春の彼岸に

我が母の死してあの世に何思ふ我を見まもる人となれかし

涙すら今はいでじも十年の苦しみ思ふ無情なるかな

万寿菊我が家に咲き慰める女のここにあればよしかな

形見とて残る最後は墓なりし春の彼岸や実家の墓かな

ひたすらに金を求めて金に追わるこの世に生きるは無情なるかな

金求め金に追われてそのうちにたちまち死にぬ人ならじかな

人と人その契りしも短きをたちまち消えてこの世になしも

故郷の家のなきしもかたすみに墓の残りし人知れじかも


この十年間経験したことは人間の非情、無情の連続だった。そこには津波もありそれは自然の無情でもあった。津波はまだ何かまだ遠いものではない、以前として生々としてあるし死んだ人はまだ彷徨っている感じになる


織田信長と「敦盛」[編集]

直実が出家して世をはかなむ中段後半の一節に、
思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか

前置きとしてこういうのがあった。全部を知っている人は少ないだろう。こういうときインターネットは便利である。
戦国時代は動乱の時代だから無常より感じたのである。無常を感じるということは平家物語でもそうだが人が大勢死ぬからそうなる。
それは津波でも自然災害でもつくづくあった。まさにこの辺はそうした無常に襲われた
未だに津波で死んだ人は生々しいしその霊は海辺を彷徨っている
こういう経験もなかなかできない、でも常にそうした無常は個人的にもあった、ただこうして多くの人が共有することはそんなにはない、それでも戦争のときがあったし二〇年もすぎたが神戸地震でもあった。この時は東北は遠いからそれほど身近に感じなかったのである。

この世が夢だというとき秀吉も難波の夢として一生を終わった。
本当に自分も家族を二人失ったとき六〇年も一緒にいたからそれが夢のように思える
そういうふうに長く一緒にいたものが消えるとそれがどうなるかとなると
存在していることが本当だったのかそれは幻だったのかとも思う
そして今度は自分が存在しているのは幻なのかとなる
津波のときも原発事故でも夢なのか現実なのがわからなくなるのだ。
そういうことを戦国時代に感じたのは当然だとなる
そこで人と人が殺し合うからさらに無情であり非情を経験したのである。

自分の一身上のことを語ってきたが本当に無情非情を一身にあびた。
姉が認知症になってからそうでありその後十年はこの世の非情無情無常を経験してきた。自分の周りもそういうこと無常の世界となった。
金を金に追われている人がいるのが普通でありそういう人が来て金の切れ目が縁の切れ目となり去った。
金を求め金に追われてそのうら人は人間的情をかわすことなく死んでゆく
特に現代はそれが人間の現実になっている
金を求め金に追われ人のことはただ金としか見えなくなっているのが現実である。
これも人間として悲しい現実である。そして人は虚しく死んでゆく、そして二度と会うこともないのである。
認知症の姉の最後は遂に金があっても銀行から金をおろせなくなって無常にも死んだ。
金を求め金をためても最後は自分の金すらままならなくなり死んだ
これもまた無常である。認知症は人間の無常を最も現実化したものでもあった。


そして最後に残るのは墓だけである。家がなくなっても墓だけが残っているのを知っている、墓こそがこの世の現実なのである。あとは夢幻にすらなる。
墓は最後に残るものだからである。その墓さえ遂には消えて何も残らない
自分がこの十年間に経験したことはまさに無常無情非情の連続だったのである。
それは回りでもそうであった、大量の死があり町が廃墟化してゆくなど無常がつづいたのである。

平家物語でもうそだがこういう時代は出家したくなるというのがわかる
自分もつくづくこの世が嫌になった。ただすでに老人だからこの世から去るから別に出家しなくてもまもなく死ぬだろうとなるからいい。
前から自分は人間が嫌いだった。それで三〇年間隠者のような生活ができたことは不思議だった。その時社会も平和だったのである。今になるとそれは特別恵まれた結果だったのである。それがあとで今になりまた苦労することになった因を作っていたのである。
楽しすぎることも危険なのである。苦難に対して弱くなるからだ。世間知らずも危険なのである。
ともかく自分はそういうことが重なって塗炭の苦しみをこの十年間経験したのである。

ともかく何にかこの世のことに金に追われ様々な俗世間のことに追われているうらたちまち人生は終わる、生を楽しむ時間をもつ人は少ない、社長になると金が入っても時間に追われているのである。


蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る人、高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕に寝ねて、朝に起く。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし。
身を養ひて、何事をか待つ。期する処、たゞ、老と死とにあり。その来る事速かにして、念々の間に止まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。惑へる者は、これを恐れず。名利に溺れて、先途の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、また、これを悲しぶ。常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。(徒然草)


期する処、たゞ、老と死とにあり。その来る事速かにして、念々の間に止まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん

人は正に今もこれである。金を求め利を求め金に追われて休むことなく人の情も消え楽しみもなくたちまち老いと死がやってきて終わる
自分が接した人がそうだった。人間の情は借金に追われて消え無情と化してただ金を求める,それが犯罪までになる。

常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。

常住できなくなったのが原発事故の避難者であり変化の理を知らなかったのが自分でもあり津波の被害者でもあった。
人間の世は常に変化なのでありそしてたちまち老いが来て死がくる、そのことは人間である限りどんなに科学が発達して便利になっても同じだったのである。


タグ:無常の短歌

2016年03月21日

南三陸町に定住する若者 (何億円の金よりも大事なものがここにある?)


南三陸町に定住する若者


(何億円の金よりも大事なものがここにある?)


南三陸の被害が大きかった、街が壊滅状態に陥った
南三陸町は志津川町であり湾があり景色のいいところだった
それは陸前高田町も湾があり松原があり景色のいい落ち着いた場所だった
あそこも壊滅状態になった

でも南三陸町では外から定住している人を募集して百人とかするとかなると成果があったシェアハウスを用意してまず地元の人が積極的に外部の若い人を受け入れることに勤めたそして三カ月くらいをいてもらいどんなところか実地に知ってもらう
そして定住する人は定住する、そういう地元の人の配慮もあり成功した。

その一人は宝くじで何億円あたっても金で買えないものがある
ここで暮らすのはそれだけ価値があると言っていた。
その人は新潟の人だというとき東京のような大都会ではない
でも南三陸にきてそんな考えを23歳とかでもつものだろうか?
みんな金だという時代にそんな考えをもつものだろうか?

その人は水産加工場で働いているけど結構そこで働き定住するとなると
将来を考えると苦労すると思う
でもよくそういう考えになったのか理解しにくいとなる
そこに住むということにあの状態でも魅力を感じたからだとなる

それはあういう状態で地元の人も積極的に受け入れるということがあったからだろう
なかなか普通だったら田舎ではよそ者を受け入れないからだ
そういう人が住んでくれれば未来がある
津波で地元の人が20パーセントとか流出している、
それも若い人が流出している
でも一方で若い人が入ってくるということで交代して街作りができる

原発避難地域を考えるとここより問題は深刻である。
20パーセント流出したとあるが避難区域では一割しか帰らない、町に帰るのは一割でありそれもほとんど老人だとするときその差は大きい
原発避難区域の方が町の消滅の危機なのである。
そしてそこで訴えているのは補償金でありその補償金をもらって町を復興するとは限らない
みんな外に出てその金を利用して家を建てるなり新しい生活をはじめているからだ
そういう若い人たちももう帰らないのである。
三陸とかの方が深刻のように見えるが原発避難区域の方が町の消滅状態になっているのである。

そして原発避難区域とかその周辺は補償金でもめていたり心もばらばらになった。
それはかえって多額の補償金をもらったことでそうなったのである。
補償金をもらったらかえってもうこんな荒廃した町に住みたくないとなり若い人は流出した
他の津波の被害地と違って子供に放射能の影響があるというと通るからある。
そういわれると残れと強制できないのがこの辺なのである。

ともかくなぜ南三陸に来てここには金で買えないものがある
それだけの価値をあのような状態で若い人が見いだしたのか理解しにくい
ただそういう人かいれば未来がある
そしてもともと田舎でも田舎を嫌っている人はいくらでもいた
今でこそ故郷を返せとか言うけど原発で働き豊かになりたいというのが本音だった
まず農業などでも跡継ぎがないなど不満だらけであり漁業だってそうだった
だから原発を誘致したのである。

地元に住んでいる人が地元の価値を見いだしていない
それが外国人が日本人が当たり前だと思って注意しないものに魅力を感じるのとにているその若者はあのような状態でその土地に魅力を見いだしたのである。
復興が内部の人だけでできないというとき常に被害者になり自分たちはかわいそうで支援されるものであり何もしなくてもいい、外部の人がやるべきだともなっているからだ
かえって外部の人は別に被害者意識がないから新しい街作りにはいいとなる

津波の被害も海を呪っても恨んでもとをにもならない、それがかえっていい方向に働くことがある
一方で原発の被害地は延々と恨みを訴え補償金をもらうことを訴える
その補償金でかえって外に若い人が流出しているのである。
そして原発避難民はその人たちだけではない、回りの人にも影響している
なぜわからないけど南相馬市ナンバーの車が福島市で傷つけられたのか?
単なるうわさなのか?でもいわきでもめたように南相馬市でも小高区などが他でも補償金をもらったことでそれをねたみそうなったのか?
福島県内でもそうしてもめているのである。

何か犯罪の被害者ともにている、自分も犯罪にあってその人を恨みつづけた
そして激しく恨みつづけたら津波が来たのである。
それは自然にも影響したのかと思った。
犯罪の被害者は復讐もするのも普通である。復讐をせざるをえない気持ちがわかった。
でも復讐して心が晴れるかとなるとそうもならない
そして犯罪者がそれで更生するかとなるとならない
かえってその犯罪者が恨み悪い連鎖になる
犯罪者を罰せられるのは当然でもそれで更生するとは限らない
自分はあきらめて許した、そしたら気持ちが楽になった
復讐することもそれも相当な重荷なのである。
なぜ在日とか韓国とか沖縄でもその恨みを言うことは正当にしても
それを言われる方になると嫌なのである。
もうつきあいたくないという気持ちになる
それは原発避難者にも言えるのである。事情が違うにしてもにているところがある
だからそっちにもなんらか非があったのではないかと国民から言われる
何か気持ちきりかえる必要があるのかもしれない、外にでて新しい生活をするならもうこだわらいなからかえっていいともなる
現実はそうなってしまったということである。


だから別に補償金をもらっても訴えても当然だとなると思っているがそれが回りに影響している
それはここだけではない全国的に影響しているのである。
福島ナンバーの車が東京で傷つけられたとかも聞く
そうなると福島の外に出で福島県南相馬市と住所を書くことも怖くなるということがあるつまり避難区域の問題はお前は何もしないから何も言うなとは言えないのである。
そして自分たちは被害者だからかわいそうでり外部の人が何でもしてくれるするべきだとなりそれが当然であるとなる、その意識は在日とか沖縄の意識と同じなのである。
延々と被害を訴えそれを外部に向かって強制さえさせられる
それが当然であっても限度があるべきなのである。
それはその場所だけではない、全国的な問題だからである。
要するに補償金は国民の税金であり国民が何兆円もの金を払うようになるからうるさくなるのである。
そんなに払う必要があるのかと国民からも言われるのである。





タグ:南三陸町

2016年03月12日

無責任な発言が許されなくなったインターネット (匿名でも発言の責任が問われる時代)



無責任な発言が許されなくなったインターネット


(匿名でも発言の責任が問われる時代)


インターネットとにかかわったのは自分は古い、なぜかかわるようになったのか?
それは最初にワープロからはじまっていたのである。
ワープロもローマ字で変換するものではなくオワシスの親指シフトで文章を書くことからはじまった。
自分は悪筆であり字があまりにもへたのでなんとか他人にも読めるものを書くためにワープロになった
その時富士通のニフティでパソコン通信をしていたのである


実はパソコン通信を知っている経験している人は少なくなった。
それはなになのとまでなっている、2チャンネルとにているやりかたである。
それはまずインターネットでも通信環境が調っていなかった
だから相手に文章で書いたものが送信されたかどうかが問題になる
それでその日の内にでも返答しないとレスポンス(レス)しないと議論にも話し合いにも参加できないものだった
それは最初のパソコン通信のインターネットの文化ともなっていたのである。
その時第一パソコン自体もっている人も極めて少ないから技術的な問題も多く
なかなか普通の人はできない、参加できないものだった。
パソコンも高価であり操作するのがめんどうだった


自分がこれにはまったのはワープロのオワシスの親指シフトでやれたからである。
ローマ字変換だと自分はめんどうでついていけなかった
何かこういうことはできる人とできない人がでてくる
文章を書くことが基本だというときここでつまづいてしまう
自分はたまたまオワシスで親指シフトで通信つきのワープロをもっていたことでインターネットができるようになったのである。
そのニフティのハソコン通信は相当な暇な人しかできないものだった
それは答えること自体手間暇であり労力がかかりすぎたのである。
今でも介護してからは忙しくて返答できなくなって一方的に発言するだけになった

それからWIN5でパソコンが普及してホームページを作った。これは自分の主張ができる多機能なものであった。
その後介護になりできなくなりプログに移動した、ホームページからプログと移行して一五年くらいしているのである。プログさえ一〇年もしていた
この辺で相当に技術的にもインターネット自体のコミニケーションも変化した
いろいろなもの、ツッターとかフェスブックとかでてきた
これには自分は忙しくてついていけないからしていない、スマホもしていない
インターネットのコミニケーションは常に変化してきたのである。
パソコン通信と一番にているのは2ちゃんねるでありそこで全くの匿名であり罵詈雑言もしたいほうだいである。
ニフティではある程度そういうことは制御されたが禁止されたが2ちゃんねるとにていた
だからパソコン通信の経験ない人は若い人でも年配でもインターネットのコミニケーションの仕方がわからないだろう
プログになると独立のメデアであり双方向にできても全く違ったメデアである

プログだと匿名でもその人がどういうことを日常的にしていてどういう考えなのかとかその人生でもわかるのである。
二三行発言しただけではその人のことは全くわからない
今回自分に罵詈雑言した奴がそうだった
原発避難民であることはまちがいないだろうがどこの自治体に属しているかなどわからない、それだけでもわかれば会話しやすいのである。
だから今はインターネットのコミニケーションは変わっている
「保育園に入れない、日本死ね」とプログで発言した母親がいて社会問題になったけど
プログなど何百万あるとしたそれがそんなに反響があることに驚いた。
だからサヨク系がマスコミと計ったためだとか言うのもわかる
まずテレビなどだともし百万人がテレビを見ているとしたらインターネットなら絶対そういうことはありえないから影響力が天と地のように違うのである。
ほんとんど数人しか目にふれないプロクなどごまんとかあるからだ
その影響力は余りにも違いすぎるのである。

ただ変わったのはプログができたということはこれは個人的に一応発言ができる
インデビジュアルな個々のメデアなのである。
それは今までのパソコン通信とか2ちゃんねるとは違う、匿名でもその人となりがわかるのである。
だから今回のように突然あいさつもなく罵詈雑言してくるのには違和感を感じた
それは2ちゃんねるのノリでそうしてきたからである。
こういうことはインターネットではやりやすいがもうコミニケーションとしてはできな時代である
発言するのはいいにしても自分の立場を自分がどういう人間かをプログで示しておくべきだろう
そうすれば会話もしやすいのである。
要するにインターネットのコミニケーション方法は変わった
発言は自由である、プログで批判するのもいい、でも自分のことをある程度他人に知ってもらうためにプログをもつべきなのである。

そしてインターネットは今は発言でもかなり責任が問われることがある
今回の発言の責任は相当に重い
自分に対してその価値をおとしめてそれでアバヤとはならない
あなたの発言は長く保存される、それで犯罪歴が消えないと裁判にもなった
インターネットは意外と消えやすいようで記録するのには便利なのである。
だからあらゆることが記録されているのである。
匿名でもその発言も記録されて簡単には消されない
原発避難民にこんな発言した奴かいるのか、やっぱりそんな奴らだったんだ
とんでない横暴な傲慢な奴らだったと思う人もでてくるから注意が必要である

もちろんたいして読まれていないとするとそうはならない
それで気軽に罵詈雑言して喜んでいる人はいる
でもこれからそうはいかない、その発言には責任がある程度厳しく問われる
「こいつの発言はなんなんだ、やっぱり原発避難民はこんな奴らだったんだ、本音が出たな、こんな奴らに援助するのも馬鹿らしい」
そういうことはすでにインターネットで言っている人がいる
自分も本当に今回の自分に対する罵詈雑言ではそう思った。
こんな奴ら助ける必要があるのか、神すら助けないと思った。
極端にしてもそうである

ただこうした罵詈雑言卑語はニフティのパソコン通信では普通であり日常だった
だからとやくか言うのもなんだがインターネットのコミニケーションは変わった
匿名でもその発言は厳しく問われる時代になったのである。
誰でも発言できる、でも責任も問われる、それが民主主義だとなる
だから匿名であってもこの人の原発避難民を代表して発言していないとしても
こういう人が原発避難民にも多いのだと自分のプロクで示したのである。
その発言の責任は今までとは違い重くのしかかるから注意すべきである

第一普通の社会でおまえは何なのだ、馬鹿とか言わないがそういうことはニフティのパソコン通信では普通だった
あいさつもないし目上も下もない、偉いひともなにもない、ともかく相手のことを最初から罵詈雑言して喜ぶ人が多かったのである。
そういう時代は今は終わった、その発言の責任は厳しく問われるし記録に残る
インターネットはそういうふうに自由に誰でも発言できるのがいいのだが
今はプログで自分がどういう人間か示していないと会話はしにくい
誤解が生まれるし対話できない、ただ罵詈雑言して喜んでいるような人間を相手にする暇はないからである。
自分は今まで介護で忙しく答えることができなかった
今は暇ができたのである程度できる,それでも手間なのである。




タグ:匿名発言

春の霜(この頃の感じることー震災より五年すぎて)


春の霜(この頃の感じることー震災より五年すぎて)


星ひそか夜に梅の香の濃く匂ふ

故郷にともに老いゆく春の霜


赤々と椿の散りぬ雨しとと我が墓の前今日も通りぬ

万寿菊長くも咲きね我が家に今日も来たれる女のありしも

我が姉と母の遺影の我を見る春の彼岸や一人し悲し

五年過ぎさらに老いにき家族みな亡くせし人の追悼の言葉

仮設にも住む人へりぬなじみしも離るる人や春寒しかな

心なき人の心に傷つきぬ神も怒らむ助けざるべし



今日は寒い、朝は霜だった、老人が風ひいたとかおかしくなる
意外とこの風が老人になると危険である。肺炎で60代で死んだ人がいる
肺炎は老人の死因で多い。

春の彼岸も近い、毎日自分の墓の前を通るから墓が身近なのである。
そうなると死者とともに暮らしているともなるから悪いことではないだろう。
遠くに墓があるととうしても疎遠になるからである。

東日本震災から五年がすぎた、それで東京で南相馬市の人か、家族をみな亡くした老人が追悼の言葉を延べていた。
あれもあわれだと思った、実際にかわいそうな人は津波の被害者であり
原発避難民ではない、ただこの辺は津波の被害者と原発避難民とか混じり合っている
それで複雑ななのである。

原発避難民はかわいそうではない、自分に対して発言した人のように禄でもない人が多い普通なら相手にしないがこういう状態だから答えた
もともとこの世の中ろくでもない人の方が多いから原発避難民でもそうであり
いちいちとがめていたらきりがないだろう

だからこそ人の暮らしを隠していたとき良かったのである。
それは飯館村でもそうだった、それが避難民になったときギャンブラーになったとか露骨に隠されていた悪い人間性がむきだしになったのである。
何もすることもないということもあることもありやむをえないともなるが
何か自重してそうならないことを模索するべきでもあった。

いづれにしろ原発避難民は人間性の悪い面を金が入ったりしてむきだしになったのである別に事故がなければこんなに目立つことはなかった。
「俺たちはかわいそうなんだ」そればかりでありそれに意義となえると
お前はそれでも人間なのかとせめてくる、弱者商売なのである。

もうこういう人は神も助けない、この発言のようにそういう人が多いことが問題なのである。
ただ本音で地元なら話し合い、何か次代を開く道を考えることはありうる
でもこういうあからさまな暴言卑語をする人とはできない
それは今まで2ちゃんねるとかでしてきたことである。
でもそういう時代インターネットでも終わっている
発言にはある程度責任をもたざるをえない時代である
インターネットもそうして民主主義のツールとして進化してきているのである

だからこの人の発言は許されことがないし
原発避難民自体もおとしめたのである。
やっはりこんな奴が多いんだなということを言葉で示したのである。

タグ:春の霜

2016年03月03日

春のフラワーアレンジメント二題(万寿菊)


春のフラワーアレンジメント二題(万寿菊)

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金魚草とかスイトピーとか春らしい

真ん中にカーネーショをあしらったのが良かった。

やはり中心になっているからだ

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水がない状態でも
 なかなかしおれない、強い花。

橙の万寿菊四輪土色の花瓶ににあう今日も見ゆかな


この花は田舎の農家のたましい女性をイメージする
日々農作業しているような女性である。
花も必ず人間をイメージする、その花にふさわしいと深く見ることになる

それが土色の花瓶とにあっていた。土と花があっていた。
普通は花だけを見ている、花は土から遊離している感覚になる
説明のようにこの花はなかなかしおれない強い花なのである。


一般に花は華奢な感じの多いがこの花は何かたくましいものを感じる
女性でも華奢な女性にひかれるがごつい女性は敬遠するだろう
でもなにかこの花はかえってそうした素朴な逞しい農家の女性ににあう。


なよなよとして華奢なかわいい女性がいるが女性もそれだけでは生きられないだろ
たくましさをもたないとこの厳しい人生はのりきれない
でもあまりにも無骨でたくましい女性は男性からは敬遠されるが逆にこういう女性を嫁にしたら男性は心強いものとなるだろう。


姉の岩長姫は、妹の木花咲耶姫とは反対に、体ががっしりとして、顔もみにくいものですから、邇邇芸のみことは岩長姫を送り返してしまいました。父の大山津見の神は、姉姫がしょんぼりして帰ってきたのを見て、ひどく胸が痛みました。邇邇芸のみことのお使いの者に、 「私が姉の岩長姫を付き添わせてさしあげましたのは、岩長姫がおそばにお仕えしますならば、天(あま)つ神の御子(みこ)のお命は、雪が降り風が吹いてもびくともせず、 永久に岩のようにご無事でありましょうし、

この神話はやはり木花咲耶姫だけでは家は栄えないことを暗示している。
農作業するにしてもその当時でも今でもやはり力仕事になるから岩長姫のような人でないとできない、華奢な体ではできないのである。
そういうことで結婚して失敗している人もいるだろう。
ただ美人でかわいいだけで何もできない女性もいるだろう。
ただ一人の女性でこの二つを兼ね備えている人はいないのである。


ともかく自分のテーマの一つが花であり自分の花の世界を作り上げることである。
人間は必ず若いときからつづけていれば一つのライフワークをもつようになる。
花の世界はこれは本当に広い、世界の花を究めることはできない
この花マリーゴーマルドであり万寿菊というのも知らなかった。
いかに知らない花が多いかということである。菊の一種であり四季に咲く


フラワーアレジンメントはバックとか花瓶が意外と影響する、それは別々ではなく一つの作品として作る必要がある。
だから花瓶はそれなりに数を用意して花に合わせる、そして必ず写真にとっておく
この花は強い花だから長持ちするからいい、他の花は枯れやすいのが問題なのである。
菊は枯れにくいから墓に挿すのに向いていた。


フラワーアレンジメントはやはり自然の花をアレンジして第二の人工的な花のバラダイスを作ることである。その構想はあるが絵の才能があれば示せるのだができない
でも一つの花の世界を作り出すビジョンが描き出しある程度は実際の花で現実化できるだろう。

花の問題はいろいろな所で花を咲かせているが長く見れないことである。何度も見れないので心に残ることが少ない
花は最低でも一週間くらい見ていないと心に残らないのである。
自分は高山植物でも見て歩いたしそれからフラワーアレンジメントに目覚めたのは最近だった。
このフラワーアレンジメントは自分が作ったものではなく合作だった。
花を買ってきてくれた女性が基本的に作り自分が多少手を加えたのである。
タグ:万寿菊

2016年02月25日

南相馬市鹿島区八沢浦港部落の解散式 (その歴史をたどる)


南相馬市鹿島区八沢浦港部落の解散式

(その歴史をたどる)

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あそこに40軒くい家があり140人が住んでいた、そのうち三分の一が犠牲になった。その数は多い。逃げる場所も近くの海に面した高台だったから犠牲者が増えた。、家はもっと少ないと思っていた。10軒とかあったのかなと思っていた。
あそこは前も防潮堤を越えた波で水浸しになった。あの時移住していれば津波の被害からまねがれた。
海岸は常に浸水の危険にさらされている。それで磯部の鬼越館も浸水であそこに移ったのである。そして津波はその近くまで来ていたことに驚いた。
ある一人は息子を27才で亡くしていた。

27才の息子をなくし父悲し港部落は消えにけるかな

死んだ人は老人が多いが若い人が死ぬとあわれだとなる

そもそもなぜ海岸沿いに家が密集して建ったのかという疑問である。
それは港の機能があるから生活のために魚をとるとかのために漁村になり家が密集したと思うが普通である。三陸とかなると漁業のために危険な海岸地帯に大きな津波の被害の後にも住んだ。
それは漁業で生計が成り立っていたからである。
磯部とか松川浦とか烏崎とか請戸とかは漁業で生計をたてていたし鉄の素材を岩手県の宮古からも船で仕入れていたから港の機能があった。
八沢浦も結構港としては大きな役割を果たしていたのである。
小高も入江が深く入り込んでいて大きな港の機能があったことは学問的に考証されている津波が駅前まで来たことでもわかるように海が深く入り込んでいたから港として利用された。
それは鎌倉時代から江戸時代まであった。ただ小高の港の機能は消滅したのである。
それが慶長津波と関係していたのかということを前に書いた。

八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く 

倉庫海岸にあり、、、郷の税米を納め江戸に運船す(下海老村)

下海老村には江戸時代後半に税として納めた米を江戸まで船で運んでいた。
この一行を見落としていたがこれは重要な記録だった。
八沢浦はその前に七荷運舟とあるごとく港の機能があった


しかし八沢浦の港とあってもそもそも海だったのだからそこが港ではなかった。
江戸時代にはそこに人は住んでいなかった。八沢浦が干拓されて人が住むようになった。
岐阜県池辺村の揖斐川の出崎式排水機を使ったの排水を思いだし八沢浦の干拓をはじめたこの地方では木曽川、揖斐川、長良川の火口に三角州が形成されて川底が上がり洪水に見舞われやすい地形となっていた。
それで輪の中に住居や田畑を作り水害に悩まされながら生活していた。
ここはこれだけ大きな川が三つも交わるのだから広い所である。

港部落は江戸時代までは海だから人は住んでいない、でも港という地名は江戸時代に港の機能がすでにあったから港という地名はあったのか。地名は明治以降についたりしないからである。みんな江戸時代の前であり古いからである。
でも釜舟戸とか舟戸松原とか地名としてあるから港は新しい地名なのか?
釜とつくのが多いのは塩をとっていたためである。
八沢浦が干拓されたとき明治以降に人が住むようになった場所なのである。
それと明治以降に職を失った武士が開拓に入った、それで妙見が祀られている。
でもすぐ近くの山際には熊野神社が祀られている、この熊野神社はいつ祀られたのか?
そこは八沢浦が海だったときもあったのだろうか?
それは妙見の祠より古いからである。あの辺も海になっていたとすると住めたのかともなる


ともかく磯部でも元は砂州だったところでありそこに家が密集した。そこには港の機能が確かにあった。
でも一方で磯部でも開拓されたのであり米をとることで人口が増えた。
そして家は海岸沿いに密集したのである。開拓されて米がとれるようになって人口が増えて家が増えた。その家は開拓された田んぼの中には建てられず海岸沿いに建てられたのである。
それは前にも書いたように土地がないために条件の悪い海岸沿いに家が密集した。
漁業するだけではない、開拓された結果として人口が増えて海岸沿いに家が密集したのである。それが三陸とこの辺の事情は違っていたのである。
特に八沢浦の港部落は漁業とは関係していない、開拓して米がとれることで人家が増えたのである。
ただ八沢浦では鰻がとれたということがありそれを川俣まで天秤棒で担いで売りに行ったという話を屋形の人から聞いた。そんなことがあるのかと疑ったが八沢浦には鰻が結構とれたのだろう。だからそれを川俣まで売りに行った。川俣は織物の町で繁栄していたのでそこまで売りに行った。
そういうことはあっても開拓してから米がとれるようになって海岸沿いに人家が増えた。それが津波の被害を大きくしたことに結果的になった。


日本は国土が狭い、江戸時代からそれで開拓,開墾が延々とつづいていた。米をとるためにそうなった。それは戦後もつづいていたのである。
何をして生活をするかとなると米を作ることでありそのために海側でも山の中でも田んぼが作られてきた。遂には戦争のときは満州で米作りしたのが日本人である。
そこは寒冷地だから稲作に適していないのにしていた。
そして現代になると米あまりになり減反になってきた。
米が余るなど考えられないことだった。
だから自分が八沢浦で注目していたのがそこが干拓されて水田になったことではない、そこが入江だったらどれだけ美しかったろうとイメージしていたのである。
それがそこが本当に一時入江になったときほど驚いたことはなかった。
浦波が朝日に光り打ち寄せていた、それは信じられない奇跡のように思えたのである。
その時ここでは人が死んだのにお前は喜んでいるのかととがめられた。
そこで港部落でも40人以上死んだのだからそれは当然だとなる
でも自分は正直それよりそこが本当に入江になったときほど驚いたことはなかったのである。
ということは現代を繁栄して田んぼというものを米余りや減反で重要なものと見ていなかったからかもしれない、それより風光明媚な古歌にも残っている八沢浦が入江となった再現したことに驚いたのである。







2016年02月23日

猫柳(相馬市に行く- イオンから街中に入るのが相馬市ー駅前通りはさびれる)


猫柳(相馬市に行く)


(イオンから街中に入るのが相馬市ー駅前通りはさびれる)

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素朴な感じの花


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春の雲ゆっくり行くや自転車に

街を飛ぶ鳩二羽見えて春の空

春日さし樹の影交じる街道に

街道の細しや梅の匂うかな

瀬戸物を様々並べ春の色


宇多川の岸辺に咲きぬ白梅と紅梅映えて椿の赤しも

宇多川の岸辺に春の日のさして橋わたりそぞろ歩める人のあれかし

猫柳相馬焼きの壺にさしこの土地に住み安らぎてあれ

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今日は相馬市に歯医者に行きイオンを回り瀬戸物をまた買った。あそこはすでに一週間くらいやっている、新しいものを並べていた。

歯医者では一本欠けた歯は入れ歯だった。前が四つくらいつながった入れ歯だった。
だからその一本をぬいて入れ歯にはできない、4本くらいとってしかできない
それを聞いたときショックだった。一本だけ直せばいいと思っていたからだ。
それでなぜそうなったか思い出した。
自転車で転んで前歯を4本くらいおった、それは結構な事故だった。
頭を打ったら死んでいたかもしれない、激しく打ちつけたのである。
それはこの辺でいつも通る道だった。なれた道でも事故は起きる
でもそのことを全く忘れていた。入れはだったことを忘れていた。
不自由がないから忘れていたのである。
一応王宮措置して使うことにしたので助かった。
自転車も安全なものではない結構危険なのである。
何回も転んでいるから危険なのである。

相馬市には前は駅前から近いので電車で行っていた。それで駅前の花屋によって花を買っていたのである。
それが相馬市だとイオンに用事がありイオンと街が直結している。
すると駅前通りには行かないのである。
こういうこともやはり街が通りがさびれる原因だと思った。
駅におりれば駅前の店によったりするのである。
たいがいは車でもイオンから街中に入る、イオンでたいだいの買い物をすます
そしてイオンを中心に電器店でもあり買い物ができる。
原町の場合はイオンは離れているからまた違っている
街はやはり便利に用がたせる、買い物ができるというのがいいのである。
今までの通りがさびれたのはそういう利便性がなくなっためである。
自転車だとあまり離れたところには行きづらいのである。
何か人の流れがあり外から来るとイオンに来てそれから街中に入るのが相馬市である。
人の流れがイオンに集中してあとは分散するのが相馬市なのである。
その人の流れが商売にとっては意外と大事なのである。


帰りはイオンにより瀬戸物をまた買った。あそこはすでに一週間くらいやっている、新しいものを並べていた。
買い物というとき何かインターネットだと味気ないということがある
店屋は見せるからきているし見せるとか話するとかではインターネットでは欠けているのである。ヒューマンなものもない、人間との接触もない、あそこの瀬戸物を売っている人は対応がいい、やんわりと対応している


それからキタムラでプリントした。あそこの印刷機が最高級のものでありきれいに印刷できる、パソコンからも注文できて前にはフオトブックも作った。
今は個人でも簡単に写真集など作れる、ただデジタルとなると大画面のテレビで見た方がいいとなる、迫力が違うからである。
ともかく母が死んでからもいろいろと用事がある、主なものは買い物である。
買い物は意外と手間なのである。また楽しみでもある。
アマゾンでも買っているから買い物がつぎつぎにある。
何か介護が終わっても家事とか買い物に追われていることは変わりなかった。
だから介護しながらよくプログでも書き続けたとふりかえると思った。
それだけ母の介護はそれほど手のかかるものではなかったからだと思う
それにしてもやはり介護しながら結構書き続けたのだから良く書けたなとふりかえる


相馬焼きと猫柳はあっている、相馬焼きとなるときこれは土地のものだから土着的だとなる、ただこの辺で果たして安らぎがあるかとなると津波原発事故以後はそうはなっていない、第一相馬焼きの浪江の大堀がなくなってしまったいるからである。
白河で移りはじめたとかもう大堀で相馬焼きをはじまるのかどうかわからない
あの辺は放射線量も高いからである。
やはり窯元があって土地の焼き物も生きる、それが欠落したことはいたいとなる

看護婦の姉に献げる猫柳

猫柳そのあたたかさ忘られじ

猫柳というとき何かあたたかさを感じる、看護婦にふさわしい、姉は看護婦だった。
自分には特別やさしい姉だった。
でも実際は看護婦というと自分が病気になり看護婦はきつい性格の人が多いと思った。
それだけ仕事が厳しいからである。だから今になると看護婦にいい印象をもっていない
姉も体育系であり性格はきつかったのである。そうでないと従軍看護婦など修羅場でありとても勤まらなかったろう。
ともかく自分はここ十年は厳しい目にあった。今年の春は何か本来の春かもしれない
ただ回りは違っている、まずダンプとかが多いのが落ち着かないのである。



タグ:相馬市

2016年02月22日

避難区域など小高などは老人だけの町になる? (デンデラ野のように老人が捨てられ場所になる?)


避難区域など小高などは老人だけの町になる?

(デンデラ野のように老人が捨てられ場所になる?)


小高で避難解除してやれるのは双葉食堂とか工事や除染関係の人を宿泊させることだろういつも並んでいる双葉食堂などは小高にもどって始めるがそこでも繁盛するだろう
それだけでも活気を与えることは確かである。
その他は何か補償金頼りになっている、避難解除を4月から5月までに伸ばすというのも補償金目当てだろうとなる
要するにずっと補償金をもらって暮らしたいというのが本音なのである。
みんな国民年金しかもらえないんだよ,もっと補償してくれとなる
そういえる人は恵まれているとなる、中通りでも風評被害があっても補償されない
南相馬市でも鹿島区は30キロからはずれて補償金はわずかだった
それより相馬市は何ももらっていないのである。


何かごねれば補償金がもらえるということになれたのかもしれない
それは何か沖縄とにているのである。
原発というのも何か基地とかとにている、いらないものだがそれにたかり補償金をもらう基地の土地所有者は西日本で長者番付にのっている。
そういう矛盾は原発地域にもあった。それは前からあった。漁業関係者は補償金が多額であり原発御殿が建ったというのは嘘ではない、ただそれは全部ではない、一部の漁業権者だけである。
だから回りではうらやましく見ていて不満だったのである。
それが今回の原発事故で表面化したのである。


小高に帰る人も13パーセントととかなると前よりは相当にさびれた限界集落のようになるかもしれない、それで帰りたくないという人が増える
老人が多いから老人だけの街というのが成り立つのかとなる
テレビで老人だけが住む特区を作ったがうまくいかない、若い人たちを住まわせたら老人と子供の交流ができて活気が生れたというから老人だけでは街は成り立たないだろう。
一つの考え方としては別にもうそこを死に場所としてそこで死ぬというのもありうる
ただそれまでに介護とかあると若い人の世話になったりすると迷惑になる
それで遠野にデンデラ野というのがあったというのも面白い

デンデラ野の説明板にはこのように書かれています。食い扶持を減らすために追いやられた老人たちは、亡くなるとこの場所へ埋められました。デンデラ野は墓場であり、ここへ来た老人は生きていても「墓に入った故人」として扱われたそうです。

まさにこんな町になる恐怖がある。貧乏な時代は老人の食い扶持を減らすことが生き延びることだった。
そこでは医者もいないし介護もない、病気になったら死ぬのである。
食い扶持はそこに捨てられた老人でまかなっていたのである。耕作していたのである。
そこではただ老人が助け合っていたというのが救いといえば救いである。
老人はやはり労働しないから当時はやっかいものとなり無駄なものとしてそうなった。
老人を養う余力がなかった。
今は若者が老人によってそのエネルギーを吸い取られているという異常な時代なのかもしれない、介護施設で三人の老人を世話するのがめんどうだから殺したという事件もやはり時代を象徴している


つまり小高は笑い事ではない、他でも津波の被害地域でも若者が流出しているから老人だけが取り残されてデンデラ野化してしまうかもしれない、それは別にここだけの問題ではない、全国の限界集落はそうなりつつある。
老人が仲間として生活して助け合っているが子供がいないのでいづれ介護になったら世話する人がいない、デンデラ野では老人が老人を世話していた。そうするほかないからそうなった。

いづれにしろそういう場所には帰りたくないという気持はわかる。
でも何かとゴネで補償金をもらうためにしているということが見え見えなので反発される鹿島区などではわずかにもらっても除外されたからである。
前から市長は小高区には力を入れていたのでありそれで鹿島では反発している
鹿島区選出の議員が仮設の小高の人を支援していたから何か鹿島の人も小高を支援していると思っていた知り合いの女性がいた。
常にかわいそうだと支援されてきたから自分たちはかわいそうなのでありこれからもずっと支援されるべきだとなってしまったのである。

沖縄は全国から嫌われている、補助金をいくら出してもたかるだけで以前として貧乏だとかいろいろ不満がある。その特殊な地域で防衛のために欠かせないとか基地があるから補償するとかありこの辺の原発とにていたのである。
ただ沖縄は遠いから工場など作るのがむずかしい、福島県はこの辺でも東京と近いから工場があり沖縄とは違っていたのである。
その近いということが原発が作られた原因だったのである。
浪江の人が小高の人がうらやましがっているの補償金がまだ長くもらえるからである。
補償金で遊び暮らすことになれてしまった。慣れは恐ろしいものではそれが当然だとなってしまうのである。
そして集団化すると批判するとあいつはなんだとかなり圧力をかけたりする
それは沖縄とにた地域となったのである。
こういう市町村はいづれは荒廃してしまうかもしれない、若者は流出して老人だけが残されデンデラ野に置き去りにされてそこで放置されて死ぬとなる
それもまた運命だとして残るものは残る、ただ医者も介護も金の援助も要求できない
そうなるとますます帰る人はなくなるだろう。


この辺は小高がなくなっても原町とか相馬市がありなんとかもちこたえるということはある。小高を捨ててもゆくゆくは南相馬市も相馬市と一体化して相馬市になるかもしれない人口減少すればそうなってゆく、それは全国で市町村が消滅してゆくとうことをこの辺は極端に先取りして具体的に現れた地域なのである。

タグ:デンデラ野

2016年02月19日

紅梅(新しい相馬市の市庁舎が建つ前で話した)


紅梅(新しい相馬市の市庁舎が建つ前で話した)


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紅梅や日立木過ぎて相馬市へ

紅梅やほのぼのと赤い有田焼

梅をまた開きそめるや六号線

春の日や買い物楽し街に来る

我が買いぬ茶碗二つや春の色

五本松浜街道や春の月

石三つ我が庭狭く春の月


相馬市で新しい市庁舎を建てる工事をしていた。そこに一人の年配の女性が立っていた。

「ここもやはり他と同じような建物になるのか」
「和風の建物」
「入母屋作りの屋根の建物、市民会館から道の駅でも建物が統一されているから
相馬市はなんか落ち着くのでいいんだよ」
「相馬市は建物ばかり良くていいことないよ」
「そうですか」
「私は原町の方が好きだよ、相馬市よりにぎわっているよ」

そんなことを立ち話した。相馬市と原町の相違は前にもいろいろ書いてきた。
地元の人ならわかるが外から来た人はわからないだろう。
相馬市は公共的な建物はみんな入母屋作りの建物にしているから統一感があり落ち着くし城下町らしいとなる
それと高いビルがないのが落ち着いた感覚になる。
街作りのことを考えるとやはり高い建物が立つと景観が乱されるのだ
京都でも古い町屋の前に高層のマンションができていたがそれが高いからおおいかぶさるような圧迫を感じたのである。
それは外から見てもそうなのである。高いビルがあると自然も映えないのである。
城下町というとき城下町には天守閣かあり城が町の中心にあり一番目立っていたのであるたいがい二階すらなく平屋であるから当然城が一番目立っていたのである。
大坂城でもそうであり今はビルに囲まれているから目立たない、ただ石垣だけが幾重にも取り囲んでいるからその石垣に感嘆する。
そもそも今になるとなぜ城はあんなに小さいのだろうかとなる。
ビル一つにもならないほど小さいということである。

いづれにしろ人間は自分の住んでいるところがいいという人はいない、何かしら不満であり外から見ていいと思っていても内部に住んでいる人はいいと思っていない
倉敷でも蔵ばっかりで嫌だとか言っていたから同じである。
外から見れば蔵があってまさに倉敷になっていて観光客がくる
でも内部の人はいやがっているのと同じであるか。

「南相馬市は相馬市よりいいよ、震災後も原発の金が入ってきたから」
「それは言えます、仮設の人たちは金が入ってきましたから、原発の金は大きいですから、相馬市は津波の被害があっても原発事故では金は入ってきませんでしたから」
「相馬市は実際は貧乏な人が多いんだよ、建物ばかりがいいだけなんだ」
「原発の金が入らないから相馬市は損だった、それは同情します」

南相馬市と相馬市の大きな相違は原発事故以後が政府からでも入る金の差だった。
津波の被害もあれだけ大きなものだったけど補償金が入らないことがあったからである。漁業関係者はもらっても他はもらっていない、国からもあまりもらっていないだろう。
南相馬市は30キロ圏内だから財政的にも相当援助されたということはある。
確かにイオンがあっても原町のイオンは相馬市よりは規模が大きい、でも原町と相馬を比べたら小高や鹿島よりはずっといいのでてある。
街としては相馬市の方が何かにぎやかさには欠けるが落ち着いていいと思う。
それは城下町としての街作りをしているのもいいと思う。
ただ内部の人からすると何か必ず不満が生れるのである。
相馬市は貧乏な人が多いというとき建物ばかり立派にしないで日々の暮らしとか福祉でも充実してもらいたいとなる、そういう不満は常にどこにでもある。

イオンの中で瀬戸物を売っていた。あれは安物だった。でも有田焼のものがあった。
有田に行ったけどあそこは遠い所で不便だった。電車で行くのには相当に乗り継ぐから不便である。電車はどこも不便になっている。

旅路来て赤絵の町や初燕

こんな句を前に作った。有田焼きは赤絵で有名であり海外にも輸出していた。それも30年前とかなるかもしれない、いづれにしろ自分が旅したことは遠い記憶となってしまう。人間は何するにしろ時間がたつのが早い
そして旅するだけでも人生は終わる、旅するということは結構集中するか他のことができなくなる、つまりそれほど人間はいろいろなことがてきないのである。
ええ、これしかできなかったのかと驚く、若い内なら何でもいろいろできると思っているが老人になるとこれっぽちしかできないのかとつくづくふりかえる
旅というのは遊びではない、享楽ではない、それも勉強だから結構苦労なのである。
旅をするには自然でも何でも見ることに集中しないとあとでふりかえることもできない
たから団体旅行などだと注意力や集中力が緩慢になるから印象に残らなくなる。
旅も今や日本ですらしにくくなった。外国人が中国人などが宿をとりビジネスでも宿がとれないとなると不便である。海外でも円安だとかテロだとかしにくい、自分が旅できたのもこれも今や幸運だったとなる。
この十年間は不運であり苦しかったけど自分は全般的には幸運だった。
ただこの運不運もわからない、姉は強運だったけど最後は最大の不運に見舞われたからである。

ともかくそこで陶器のことなど話したのも面白かった。買い物もこうして遠くから来た人と話すことなどが面白い、インターネットにはそういうことがないから手にとって肌触りみたいなものも感じない、買い物の楽しみがないということもある。
陶器などはやはり手にとって大きさとかを感じるのがいい、インターネットではできない売っていたのは1000円くらいの安物であり買いやすいということはあった。
紅梅が鮮やかに咲いていた。春になったがまだ風は冷たいので服装は冬である。


タグ:相馬市 紅梅

2016年02月17日

「百歳の間」「蠟梅の間」 (家に残りやすい個々人の記憶)


「百歳の間」「蠟梅の間」

(家に残りやすい個々人の記憶)

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我が一人母を介護せし部屋にあり春の日さしてなおいるごとし

我が母を介護せし部屋あわれかな蠟梅静か朝日さしにき

我が家になお北風のうなりつつ手伝いの女今日も来たりぬ

菊の花今日も咲きつつ母の亡きあとし守りぬ我なりしかも


母が死んでからまだ二カ月ほどだから何かまだいる感じがする、こういうのは理屈ではない、特に自分が介護した部屋にいるような気配を感じるのである。
こういう点病院とか施設には個々人の記憶が残らない、世話する人も個々人が死ねば忘れてしまうだろう。
そんな人がいたのかとなる、家とはやはり記憶が継続する場所として意味があった。
空間もあるのだがそれには時間軸としてある空間なのである。
子供から孫から曾孫とかそこには継続する時間があって家がある。
家は今は空家が膨大に増えたように継続されないのだけど家にはそこで暮らした人の記憶が残る、何かそこには死んでもまだいるような感覚になる。


今回の母の死は5年間この部屋で介護したし姉とは違っていた。
姉は家では寝ていない、突然脳出血で倒れて病院で死んだ。
認知症になっても体は普通だったから寝ていないから体は介護していなかった。
ただ精神的な介護だったのである。
姉が死んでから震災になり原発事故になり自分の病気とかわたわたしてゆっくり偲べなかった。
今回はゆっくりと死んだ後も偲んでいる、そういう余裕がある。


要するに介護から看取りからそのあとの供養とかは継続しているのである。
だから理想は家で介護して看取り死ぬのがいい、病院とか施設にはそうした時間の継続がない。記憶が継続されないのである。そして個々に部屋をもっていてもそこで暮らしたことが記憶として残りにくいのである。
家だと死んでもその人のことが記憶としてまだ残っていて偲ぶことができる
家とは記憶を保存するという機能ももっていたのである。
人間は記憶がなくなることも死なのである。何らか記憶が残っている内は死者も生きているのである。
家であれ故郷とかその土地のことは継続なのである。故郷とは過去の先祖の記憶が刻まれた場所である。
だからこの辺で故郷から離れるるとそうした記憶が保存できない、過去は忘れられてしまうということは死者も忘れられてしまうことになる。
そこにまた原発で故郷を離れることの捨てられることの大きな問題があった。


、、、、の間というのはその人を思い出す場である。やはり5年間介護したからここが母を思い出す場となる、介護というのはしているときは嫌でも死んでみるとそのことが思い出になるというのも不思議である。
人間は何でも思い出となってしまう。介護など思い出になるのかというとやはりなる。
その時は嫌でも終わってみると何でも嫌なことすら思い出となる。
死んだら二度と会えないということもその思い出が貴重となる
そこにまた介護のむずかしさがある。認知症を介護したりすると死んでからも思い出したくないという人も多い、だから認知症は悲惨なのである。
人間は嫌なことは思い出したくないとういこともある、それはみんなにある。
こうして母を思い出しているのは介護が自分にとってはそれぼと辛いものでもなかったからかもしれない、ただこの回想することには何か美化されることがある
終わってしまえば苦しみもないから過去は甘美なものとなる
それで江戸時代とかが美化されたり甘美なものとして追想してきたがその時代に生きたものはやはり地獄があった。それが終わり過去となったとき甘美なものとして追想することになるのである。
時が過ぎればなつかしくなるのが人間である。
死んだ人は何か苦労もかけないしただ甘美なものとしてふりかえる、そして良い面だけを回想するということもある、そこに過去は美化されるのである。
生きていれば悪い面が生々しく見えるけど死ぬと見えなくなるということがある


ともかくまだ死んで二カ月だから記憶がまだ生々しい、母は二月に生れて12月に死んだ
冬の女性である、その生涯もそうだった。
生きているときはあまり母のことは思わなかったが死んで思う人もいる
生きているときから死んでも延々と思っている人もいる。
自分はそれほど家族に執着するたちではないのかもしれない、でもなんか姉が死んで8年過ぎてしまったのは本当に驚きだった。
そんなに早く過ぎてしまったのかと思う、その間一周忌もなにもしていない、忙しくてできなかった。
だから一周忌はまとめて一緒に供養したいと思っている
今日は墓に母の名前を刻む、これでだいたい死後の整理は終わりになるだろう。
ともかく人間は死んで終わりにはならないのである。





タグ:死者の記憶

2016年02月15日

白菊と遺影 (過度な供養は先祖崇拝から偶像崇拝になる)


白菊と遺影

(過度な供養は先祖崇拝から偶像崇拝になる)

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白菊の金地に映えて遺影かな

母の亡きあとに遺影の微笑みてなお我が家を見まもりてあれ

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仏様に飾る花としてはやはり赤が交じっているのは良くなかった。
黄色はいいらしい、それは確かである。
一番あっているのは白菊であった。これが一番清楚であっていたのである。

日本では仏教では死者を延々と供養しているのも異常なものとなっている
でも世界的に見ても死者を崇拝する供養するのは普通になる
ほとんど先祖崇拝の宗教が基本にある。それは人間が死ぬとみんな誰でも特別になる。
崇拝の対象になってしまう。それは死者というのが何かわからないからである。
だからそこにどうしても畏れの感情が生れそれは先祖崇拝の宗教となる
モアイ像であれ何であれ古代の像となるとみんな先祖崇拝なのである。

だからこれは仏教とは関係ないものであり先祖崇拝に結びついたものである。
むしろ先祖崇拝を排斥するものとして本来の宗教はあった。
それは釈迦の仏教でもそうであり一神教でもキリスト教でもイスラム教でも先祖崇拝を否定している。それは偶像崇拝になってしまうからである。
宗教で一番怖いのは偶像崇拝なのである。ほとんどの宗教が偶像崇拝になっているからだ人物を神にするもの、仏にするものは偶像崇拝になるから危険なのである。
だから仏教が仏像を礼拝の対象にするときやはり危険になる
それを価値あるものとしても危険がある


人間は死者になると何か過度に死者を祭りあげる傾向がある。それは悪いものではないにしろ月命日だとか仏教では延々と供養をする、こんなに過度に死者を供養するのは先祖崇拝でありそれは仏教にはないことである
ただ死んでも死者を忘れない、死者とつながっていたいとういことは悪いことではない
死者がそれほど尊いものなのかともなる、なぜなら死者がみんなそんなに尊敬に値するものとは限らないだろう。
もしそんなに尊敬するなら生きているとき尊敬するべきだろう
生きている内は老人は死ねとか若い人は毎日ののしっているのに死んだから尊ぶことがあるのか?


ただ嫁いできて嫁が満足しないで恨みを残して死ぬような家は栄えないというのは本当だろう。
そこに介護であれなにか家族の大きな問題がある。母は自分の家でいい待遇をされなかったけど最後はなんとか自分が介護して今は死んでその遺影がほほえんでいるとなると救われる
そういうことは確かにあるから介護とかでも冷たくできないことがむずかしいのである。これはそれぞれの家の事情があり他からわからない問題である


ともかく死者には不思議に菊があっている、「菊の香や奈良には古き仏たちー芭蕉」のように菊があっている。赤い花はあっていないというのは言える



タグ:遺影

2016年02月07日

冬の川子の高台(詩) (太平洋が見えるビューポイント)


冬の川子の高台(詩)

(太平洋が見えるビューポイント)

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冬の川子の高台


長々と寒雲の垂れ
太平洋の沖に一艘の船
川子の高台より見ゆ
なお津波の跡の生々し
その傷痕深く悲しみ癒えず
寥々としてなお残る樹
津波は塩崎の船着までも来たらむ
そは古代の港なりと、、、
万葉の歌にも知られし港と、、、
その時ここは入江にて船の来たりしと
津波は証しぬ古代はここは海なりと
川子の高台の墓地
北風鳴りて冬の陽は
阿武隈の山脈に没りて静まりぬ


川子の高台の道は良く自転車でゆく、電動自転車だから坂を上りやすい
あそこは歩いて上るほかない急坂だからである。
そこから海が見える、見晴らしがいいからビューポイントである。
意外と地元の人でないとビューポイントはわからない
旅をしても観光地でもわからない、あそこには墓地があり山を向いている

そして塩崎がありあの鉄道のトンネルをくぐって船着というところの近くまで津波が来たことには驚いた。船着とは古代に船が来たとして地名化した。
あんなに奥に船が来たというのも謎になる
それで万葉集の陸奥の真野の草原(かやはら)の草原は萱ではなく港の名前だという説を出したのが自分だった

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎

陸奥の真野の草原遠けれど、、、となっていても草原を面影に見るということがありうるのか?それをインターネットで解説した。


ともかくまだ津波の傷跡は生々しく五年過ぎても癒されない、十年たってようやく多少癒されるのか?神戸では二十年たっても以前としてその傷をひきづっている
それだけの大災害だったということである。

川子の高台は森になっているがあそこもダンプがひっきりなしに通るようになったので森の静寂が消えた。この辺はいつまで工事がつづくのかわからない
津波の跡もそのままであり復興というのはない、毎日除染でありダンプがひっきりなしに通るから嫌なのである。

あの高台からはいつも太平洋を行く船が一艘見える、太平洋フェリーの船である。
あれには何回も乗ったからなつかしい、六号線でも太平洋フェリーのトラックが来ていた。
何か荷物を運び太平洋フェリーで運ぶのだろう。
あれは名古屋行きであり名古屋にも何度か行った。
北海道の苫小牧には十回くらい行っているのである。
それも介護になり十年以上は行っていない、今になると介護も終わりどこにでも行ける
でもなんか旅も億劫になってしまった。
何か人が混むところに行きたくない、ただ富士山だけは見たいなと思っているから
近々常磐高速道路をバスで東京まで行き新幹線で静岡まで行ってみたいとは思っている


タグ:川子の高台

2016年02月05日

冬鴎(相馬市の城跡へ)



冬鴎(相馬市の城跡へ)


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我が町の古木の太く冬の虹

the big old tree

the strengthened one

in my town

a rainbow in winter

冬鴎城跡の堀に数羽飛ぶ

城下町辻を曲がりて冬の暮

城跡に木の根露に冬深む


前に夕暮れに自分の町に虹がかかった。あれはめずらしかった。
ちょうど銀杏の古木があるところにかかったのである。
どこにでも古木はある、たいがい銀杏の木みたいだ


今日も相馬市の歯医者に行った。今日はあたたかいし楽だった。
城跡の堀に三羽ほど鴎が飛んできた、あの城跡からは相当に海が遠い
松川浦は相馬市内からかなり遠い、でもやはり海があるから鴎が飛んでくる
鴎が飛んでくれば海を意識するし海が近いのである。
それで亘理駅からも一羽鴎が飛んできたのを枯野に見た
あそこも海が遠いようでやはり海があるから鴎が飛んでくる
不思議なのは琵琶湖にはいつも鴎の群れがいる
海から飛んできた鴎があそこから離れないのだろう。


今日は5日で立春だけどまだまだ東北は冬である。
ただ今年は雪祭がこれからはじまるが雪が会津の方でも少ないから困っているという。
やはり暖冬なのである。
冬は何か外に出るより冬籠もりである。
冬籠もりしていろいろ回想しているのがいい
老人になると回想が一つの仕事になる。
いろいろな所に旅したからそれを今回想して詩にしている
なかなか旅したときはその場のことがわからない
あとで回想してその場のことがより鮮明になりイメージされる
冬は何か想像力が刺激される季節なのである。

タグ:冬鴎

2016年02月04日

49日終わり母の遺骨を墓に納める (死なない限りこの世の欲から逃れられない)



49日終わり母の遺骨を墓に納める

(死なない限りこの世の欲から逃れられない)


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海よりそ今日東風吹きぬ早きかな


白菊と白百合の花遺影にそ向きて咲きにつ今日も暮れにき

墓の中姉の骨あり今はしも何も言わぬや母の骨も入る

人死せば争うことなし人の世はただ変わりゆきそを知らじかも


49日が終わり母の遺骨を墓に納めた。孫も来たのでその接待で疲れた。
お客さんを呼ぶのも疲れる、全部自分一人で用意しなければならないから疲れる
でもなんかホテルとか旅館で客を接待する苦労のようなものを経験で知る
今は何かされる方ではない、絶えず介護であれ何であれ自分がもてなす方になったのである。これもカルマだった。

花を買ったからもったいないからまだ遺影を置き飾っている
遺影に向いて咲いているのは白菊と白百合である
人間はつくづく死なない限りこの世から逃れられない
この世とは欲の世であり欲から逃れられない
死んだときはじめて汚れなき白菊と白百合が向いて咲くのふさわしいとなる

結局今はあまりにも金に翻弄される時代なのである。
もう人は人と見ていない、ただ金があれば人を見ないで金を見ている
だからとても介護など施設ではまともにできないだろう
ある人は家に金をくれときて本当に家捜して大金を失った。
そんなに露骨に金だけを求めるのがあるのかというとそういう時代なのである。
もう人間を人間とみていないのである。
ただ奇妙なのは金持ちが人を雇うとき手伝いさんでも気配りして親切にするのである。
でもそういうことを今は通じない、相手は金しか見ていないからである。


借金して商売した人もそうだった。自分を本当に金として見ていなかった。
何かしたらいくらとしか計算していないのである。
借金している人は相手は金をとるものでしかなくなる
殺してでも金をとるようになるから本当に怖い思いをした
これほどまでに金に支配されているのが現代だということを身をもって知ったのである。下流老人とか言われるが今は貧乏な人が増えて深刻になっているのだ。
もう殺伐とした世界でありただ金しか人間は見ていない
お前もそうかとなれば自分は金に余裕があったから相手を人間的に見て親切にしていたのである。
これも変なんだけど逆に金に余裕があれば相手人間的に接することができるとなる時代なのか?
金に余裕があれば金に左右されないとなるのも現実である。
ただ金のない人に接すると非常に危険になるのである。


ともかく墓には姉の骨は一杯残っていた。太っていて骨も太かったから7年くらいたっても残っていた、6年たって骨が土に帰ってわからなくなった人もいる
今は骨となりもう何も言わない、争ったこともあるがあるのは骨だけである。
それでも夫婦でも一緒に墓に入りたくないというのが結構ある
そんなことより骨は結局土になり何もなくなるのである。
生きているときだけ何かと争うが死んだらもう何もない
墓には骨があるが死者がいるとも思えない
生きている人が死者をいると思い墓参りしているのである。
生きている人がそう思わなければ死んだ人もいないのである。

明日が立春だからやはり今頃に海からの東風が吹く、早いとは思ったがすでに春はきざしているのである。
これからは北風と東風が交互に吹いてくる
今年は気候が変わりやすいから余計にそうなるかもしれない
ともかく納骨が終わりほっとした
何か人が死ぬときそのあとのことは一人で負担が大きかった。
一人というのは何かと老後になったら負担が大きい
病気になったときでも介護でも負担が大きかった。
ただ遺産は一人だと全部もらうから得だとはなるがその分また負担が大きすぎたのである。







タグ:49日終わる

2016年01月30日

雪ふる城下町(雪のふるなかに相馬市へ行く)



雪ふる城下町(雪のふるなかに相馬市へ行く)

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宇多川の橋を渡るや小雪ふる

小雪ふり大雪ふりて夜となる

水仙に小雪のふるや土手の道

軒低く雪ふり暮れぬ城下町

鴨数羽城跡の堀今日も暮る

細雪夕暮れ静か五本松

道の駅雪のふり暮れ五本松


我が庭に石のありつつ小雪ふり母亡き後や蠟梅の咲く

我が家に母を介護すその部屋に蠟梅の咲き母は死ににき

百歳を生きにし母や今朝見れば雪の積もりて蠟梅の咲く

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昨日は歯医者もあり用事があって相馬市へ自転車で行った。最初は小雪だった、次ぎにだんだん大雪になっていった。
雪にもいろいろ種類があるが浜通りは雪はほとんどふらないから雪のことはわからない
ただ昨日は最初は小雪だったのである。
だから小雪だと春雨にぬれて帰ろうとか小雪にふられて宇多川の橋をわたるというのも風流だとなる
その小雪がたちまち大雪になっていった。

相馬市がなぜ原町市などと違うのか?それは何度も書いてきたが高いビルがないくこじんまりとしているからである。
ただそれだけのことで情緒が生れていることの不思議である。
そうなると昔はみんなそんな状態だからどこも情緒があったとなる
橋でも木の橋であり大きな橋はめったにない、宇多川は細い川だから橋も短いから情緒がある
日本画では良く橋がでてくるのは今の橋とはまるで違っていたからである。

浜街道の五本松の写真は絵になっていた、ちょうど雪が大雪になりはじめたころでその時がシャッターチャンスとして良かった。
これは写真そのものが絵になっている、そういう写真は今はいくらでもある
写真と絵の見境がつかないのが多くなったのだ。
細雪(ささめゆき)というとき何か日本的繊細な感じでいい、最初は小雪であり細雪だったのである。
今は鉄道の駅ではなく車の道の駅になり時代が変わった。


庭には蠟梅が咲いていた。この花は春の先駆けとして咲く、冬の内にも咲く、雪の中に咲くのがふさわしい、庭には石が一つあり母を介護した部屋に向いている。
何か人間は死んでも継続がある、ここに母がいてとかなり何か死んでも人間はそれで全部が無とはならない、何かが継続されてゆく、家でも跡を継いで住むものがあれば継続されているのだ。
だから空家とかなると生が継続されないからそこは本当に死んでしまうのである。
そのことは原発の避難地域にもそういえる
人間の生は代々継がれることに意味がある、それが人間が人間たる所以なのである。
動物はそういうことがない、人間は面々と生が受け継がれてきたことに意味がある。

明日は49日であり遺骨を墓に入れる、なんかこれも大きな一つの区切りとなった。
東京から母の唯一の孫がくる、新幹線は普通に運行しているが仙台から相馬までの高速バスがちょっと遅れていることが心配である。
でも一応運行しているから良かった。




2016年01月28日

最近の南相馬市の風景(写真で伝える)


最近の南相馬市の風景(写真で伝える)

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 ノスリ

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ここは菊畑だった

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野馬追いに出るために飼っている馬

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山を崩し土を運んでいる

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プレハブの宿泊所

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風車



最初にノスリが六号線の脇に見つけた。ノスリはノネズミが増えてノスリも集まった。
ノスリはどこでも見かける鳥になった。
それも津波原発事故以来この辺が原野化してノネズミが増えたからである。
小さなカヤネズミというのが増えた。畑で野菜を作っている人はそのことを言っていた。

次ぎに菊畑だったところがソーラーパネルになっていた。
菊畑の方が情緒があって良かった、何かソーラーパネルは景観を破壊するのである。
これも自然破壊になっていたのである。
原発もそうだがなんらか自然に反してこうしたものはできるから自然エネルギーでも自然破壊になっている。
ただ農業より土地代で稼げるからソーラーパネルにするのだろう
でもどれくらい利益があがるものなのか?それも問題である。
ソーラーバネル発電は税金が加算されているから実際はエコでない、国民にとっては高い買い物だというときそうなのだろう。
他のものよりコストが高くついているのはエコではないのである。


次ぎに野馬追いにでる馬を飼っている所である。これもこの辺にふさわしい
野馬追いに出るためにだけ飼っている馬がこの辺ではいるからだ

次ぎに山を崩して土を運び所である。これもこの辺ではあちこち山が崩されて土を運んでいる
相当な土が必要になっている。どこでも暇なしダンプが通って危険でもある
こんな工事がいつまでつづくのかと思う。
何か工事で活気があっても嫌なのである。


次はプレハブの宿舎であるがこれも増えつづけている、いたるところがプレハブの宿泊所になっている、まだまだそれだけ他から人が入ってきて泊まるところがないからそうなる
そして風車がある家にでる


これらの一連の写真を見ると如実にこの辺が今どうなっているからわかりやすい
写真がまさにこの辺を語っているのである。

2016年01月23日

寒雲(相馬市へ行く)



寒雲(相馬市へ行く)


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寒雲に北風鳴りて五本松

山脈に寒雲の影橋わたる

寒雲に二両の電車や昼の月

宇多川の橋をわたるや冬芒

城下町軒を並べて寒さかな

城下町相馬六万石冬の暮

大手門狭しやあわれ冬の暮


相馬市の女性の医院に飾りたる花の絵にそほのぼのとしぬ

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浜街道の五本松の端の一本は枯れてきていた、すると五本松ではなくなる
何か松は枯れやすいのである
相馬市については前にもいろいろ書いたけどなぜ情緒があるかというとそれは意外なものである。
あそこには高いビルとかない、低い家並であり城跡もあるがそれもここが城なのかということも明確でもない、大手門にしても狭いし小さいからここが大手門なのかと思ってしまう。
それだけ小規模の城だった、でも野馬追いがあるから大きな城があるように外からだと見える不思議がある。あれだけの行列があると何か大きな城があるように錯覚するのである実際は相馬藩は六万石の小藩にすぎないのである。
ただ入り組んだ城下町特有の町割りになっている。それも気づきにくいだろう。
だからよそから来ても見るところがないとなってしまう。

宇多川も細い川でありこれも何かぱっとしない川である。
でも橋が何か情緒がある、その橋が短くて小さいから人間的に見えるからである。
それは昔ながらの木の橋のようであり情緒があるとなる
今はみんな大きな橋になっているから人間的でなくなる
要するに現代は何か人間的なスケールを越えているから情緒がなくなる


相馬市は原町とずいぶん感覚的に違うのである。原町市にはこういう情緒はないのである情緒とかは歴史的なものとか自然とかとの融合などから生れる
意外となんでもない平凡な所に情緒がある
パソコンのソフトで写真を絵にしたら何かその雰囲気が出ていた。
写真だけではなかなか情緒を出せないこともある
雲というのは春の雲なのか秋の雲なのか冬の雲なのか区別がつかないのである。
漢字だったら冬の雲と寒雲では違う、寒雲の方がいかにも寒い雲の感じになる


歯医者にも行った、あそこの歯医者は女性でありめずらしい、前に行っていたからまた行った、その医院に花の絵が飾っていたのは女性らしいとなる。
なぜ相馬市と原町ではこんなに感覚的に違うのが不思議である。
よそから来た人にはこの区別はなかなかつかないだろう。
街には街の作り出す雰囲気がなにかある、それが外から一回くらいきてもわかりにくいのである。





タグ:寒雲

2016年01月21日

冬籠る俳句十句(老いをともにする場は田舎がいい)



冬籠る俳句十句(老いをともにする場は田舎がいい)

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土地の人毎日来たりて冬籠る

故郷の人と老いるや冬籠る

母死して四九日や冬籠る

残さるる大きな家や冬籠る

薪積みて貯ふ蔵や冬籠る

野鳥にも糧のあかし冬籠る

石六つ飯館村や冬籠る

曲屋や只見の遠く冬籠る

冬籠る津軽や遠く暮らしかな

みちのくの大地に根付き冬籠る

故郷や墓を守りて冬籠もる

故郷に老いをともにし冬籠る

樹々の列ここに変わらず冬籠る

寒雲に二両の電車や昼の月


中里のタクシー運転手あわれかな冬の厳しく終着駅かな

中里のタクシー運転手仙台に住む息子あり冬の淋しも

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冬籠るというときそこに暮らしがないと季語が活きてこないということがある。
昔だと本当に冬籠るということが生活そのものでそうだった。
自給自足だから冬籠るというとき生活そのものが薪を積んで薪を燃やして貯えたもので暮らしていたのである。
現代は都会だと冬籠るという感覚がない、生活的にも別にいつもと同じであり不自由しないのである。
冬籠もりというときまだ会津の方には曲屋が残っている、そういう所では自給自足だった雪に埋もれているのだから余計に雪国は冬籠るになってしまう
もう外に出るのも容易ではないから家にもこもってしまう
でもそういうの不便で嫌かというとそうでもなかったかもしれない
もちろん不便なのだけどそこに味わい深い時間があり空間があったともなる
冬は何か回想するのに向いている。薪をくべて燃やしたりしていたら余計に想像力が刺激されるのである。

奥会津では今も曲屋が残っている、あれも馬がいたし一つの城のようになって冬籠る
何か冬籠るというとき老人にふさわしいのかもしれない
毎日土地の人がくる、それは老いた女性である。でも六〇代は今や老人とは言えない
限界集落のようにな所で息子や娘が都会に住んでいて一緒に住めといってもその土地を離れたくないというときその気持がわかる
都会には冬籠るという感覚がないし季節感も希薄なのである。
もちろん田舎でも実際は都会化している、昔のような自給自足の生活とはほど遠い
都会と同じように便利な生活をしているのである。


人間が本当に自然と一体化するというときそれは野生の動物や野鳥のように生きるときそうなる、冬でも野鳥を養う実があり動物も生きている。何かしら糧があり生きている。
人間もやはり野生の動物とかとたいして変わりない生活をしていたときがそうなる
現代はそういう生活をとはかけはなれてしまった。
自分は不便でもなにかこうして冬籠るという季節感のある田舎で暮らしたいとなる
便利なものだけがいいのではない、不便さがあってそれもいいなともなる


旅を回想すると只見の方に自転車で行ったことがあった。そこにも曲屋があった。
そして津軽にも春に行った。そこの津軽鉄道の終点の中里駅の一軒のタクシー運転手のことが心に残っている不思議である。
いか。にも最果ての地のタクシー運転手だとなる。
津軽鉄道は中里駅まで行きそこから十三湖を見て帰るのが旅情を味わう旅になる
仙台に息子が住んでいるというのも青森では仕事が少ないからそうなる
その津軽だって雪国の暮らしがあったのである。


飯館村は石が六つくらいあいの沢にある、そこに人が住んでいればまさに冬籠もるにふさわしい場所だったのである。
標高が高いしいかにも冬籠もる村としてふさわしい場所だったのである。
どっちかというと雪に埋もれた所は冬籠もるにふさわしい場所である。
なんか最近はあまり歩きたくない、遠くにも旅もしたちない、一カ所にじっとして冬籠もり回想しているのが老人にはふさわしいとなる
そして老人は墓守りであり老いともにする場として田舎はふさわしいのである。
それで原発の避難区域で老人が故郷に帰りたいとういう気持だけは自分にも共通しているからわかるのである。
補償金問題は別にしてその気持はわかるから同情するのである。
故郷は老いの場所であり死ぬ場所としてみている人は少ない
若い人が故郷を出るというのに抵抗がないのもわかる、でも老人は住み慣れた場所を出るのは苦しいと思う
復興団地に津波の被害にあった老人がここは嫌だというのもわかる
その人は広々とした海岸の家に住んでいたからである。
団地は何か牢獄に閉じ込められた感覚にもなるだろう。庭もないし広々とした家に住むのとは相当違ったものとなるからだ。

故郷は何か老いをとにするのにはふさわしい、老人になればやはり都会より田舎への回帰が起きてくるだろう。もちろんそうでない人もいる
そもそも東京とかなるとそこはもう自然からかけはなれ場であり非常に危険な場所でもある
地震とかで車が渋滞になって身動きとれないとかなるのは怖いことである。
そして水も燃料も食料も得られなくなるかもしれない
津波でも裏山の清水をくみ薪を燃やして米をたきとかしのいだ人がいたがそれもできない都会というのは災害に弱い、その時便利なものが車でもビルでも何でも障害になって人間を殺す凶器になるのだ。
そういう自然から離れた生活は本当は相当に危険をはらんでいる。
もちろん津波では田舎でもその危険を察知できなかった。
でも都会はイメージすれば本当にその怖さを知ったら住んでいられなくなるだろう。
何か都会にはそうした大災害が関東大震災のようなものが起きる不安かある
その時裏山の清水を飲み薪でももやししてしのぐことはできない
水も食べ物も燃料も得られなくなるから怖いのである。


タグ:冬籠る

2016年01月17日

冬深む(人は老いれば故郷と一体化する)



冬深む(人は老いれば故郷と一体化する)


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こんなに実がなっていた不思議


故郷に古木一本冬深む

one old tree

in my homeland

in the deepest winter


故郷に老いてともにし冬深む

故郷に樹々の根づきて冬深む

家の跡松一本や冬深む

縁切れて遠のく人や雪のふる


故郷のここに根を張る樹々の列今日も通りて冬の日暮れぬ

石一つ雪に埋もれて椿映ゆ正直なる女(ひと)ここに眠りぬ

誰かしる雪に埋もれて石一つここは墓なり椿散りにき


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今年も冬らしくなった。この頃は寒いのだけど自分は好きな面もある。冬は何か心を内面化しやすい、冬深むという感覚も日本的なのだろうか
温暖化したらこういう感覚も四季の感覚もなくなるから嫌なのだ。
東南アジアの人が雪を見に来るのもわかる、雪がふらない、見たこともないからだ。

故郷というとき何なのか?それを今回の原発事故などで故郷に住めなくなったことで問われることになった。
故郷とは実際何なのかわからない、ただ故郷とは長く住んだ所であることは確かである。だから子供が故郷から離れて他でなじんだ生活をすればそこが故郷になる
別に生れたところが故郷とも言えないのである。
ただ代々つづく家はやはり故郷の思いが深いとなるだろう。


なんか土手の桜の樹の列を歩いているとそこに根付いている樹々を見るとそれがいかにも故郷に根付いた人間のように見えるのである。
故郷に根づくというときやはりもともとはその土地のもので暮らしていればまさに樹のように根付いた生活になる
だから昨日書いたように寒木が変わらず十数本立っていた。そこにヒヨドリが群れ集まり鳴いていた。
そこには実がなっていたのである。つまり故郷に実がありそれを食べていればその土地に根付いて暮らしているともなる
昔は自給自足が基本だからみんなその土地土地に根付いて暮らしていた。
今は食料でもグローバルに入ってくるからそういう感覚はなくなる
すると何か金さえあればいいとなり故郷とに愛着をもたなくなるのかもしれない
その土地にとれたもので基本的に暮らしていればその土地に愛着ももつようになる
外国から入ってきたもので暮らしていたら金がまず大事になり金さえあればどこでもいいとなってしまうからである。
この辺は補償金をもらってそうなったともいえる、そういう社会も疑問なのである。


いづれにしろ人間は長く住んでいれば自然と一体化してゆく、今回の俳句は内面的なものである。古木というときそれも人間なのである。
人間も自然の生物の一つだから自然と一体化するのである。
この句はあまりにもシンプルなんだけどそのシンプルなものに味わい深いものがある
芸術は本当は複雑なものではない、シンプルなものに深いものがある

ともかく原発事故などで避難区域の人が故郷に帰りたいというのがわかる
それは本能的なものなのである。
人間は長く住んだところで古木となり老木となりやがて朽ちてゆく、生物の一種だからそれは本能的なものである。
それを奪ったということが酷いのである。ただ補償金の問題はまた別である。
故郷に夫婦でともに老いてゆくというときそれも生物として自然だとなる
その中で心も一体化してゆくのが理想だか人間はなかなかそうはいかない
故郷でも人間関係はいびつでありいいものではない、近くでも縁が切れた


一つの石を置いた墓が雪に埋もれている、そこに椿が映えている、その女性にふさわしいものだった。前に書いた馬鹿正直な女性の墓なのである。
その墓が誰のものなのか、誰も気づかないのである。


タグ:冬深む

2016年01月16日

枯木の影(狭い場所で生きるのが老人に向いている) 枯木の影(狭い場所で生きるのが老人に向いている)


枯木の影(狭い場所で生きるのが老人に向いている)


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海老村にここ我が家と枯野かな

海望み海老千軒は枯野かな

十数羽ヒヨドリ群れて鳴き騒ぐ

十数本寒木ここに変わらざり

壁写す枯木の影の一日かな

田舎なり時ゆるやかに枯木の影

縁切れてその人遠く氷張る

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良く見れば枝のくねりて伸ばす影根付く枯木や我も老いにき

黒々と枯木の影やこの道の親しや今日も通りけるかな

家ありて誰住むと知らじ一本の松の残りて冬の日さしぬ

一本の松の残りて何語る冬の日暮れぬ庭の跡かな


海老千軒は枯野となってしまった。津波ではそういう場所が普通にある、だんだん時間がたつにつれ忘れられてゆく、海老村は70軒くらいがあったという
磯部村は大きな村でありその跡は広い、あそこは一番悲惨だったともなる

厚生病院の前の寒木は寒木らしい、あそこに実がなっているのを写真をとってわかった。なぜ十数羽のヒヨドリが集まって鳴き騒いでいたのかもわかった
そこに実が写っていたからである。あんな何もない木に実があるとわからなかった
いつも冬は鳥は何を食べているのだろうと思うときそれなりに食べ物は用意されている不思議である。
普通は虫を食べている鳥が多い、野良猫でも結構生きているから不思議である。

寒木というときそこに変わらないというときそれはその栄養を土からとっている
その土地からとっている、だから変わらないのである。
これは当たり前だとなるがでは人間はなぜこれほど変わるのか?
それはその土地から栄養をとっているわけではない、グローバル化社会なら世界の裏側からも食料が現実に入ってきて食べている。
そういう社会は変わりやすい、移動しやすいということである。
もしその土地からの栄養分をとっているならその土地の材料で生きているなら社会は変わらなかったのである。
実際に江戸時代から戦後十年は自給自足だったのである。燃料は炭だったからである。
それが石炭になり石油になり原子力になり変動が激しかったことでもわかる
世界にも会社が移動するから人間も移動するのである
それで津波や原発事故では若い人が流出するというのもそのためなのである。


一本の枯木が通りの家の壁に影を写している、それは何でもない、まさに写生である。
でもその写す影にやはり人間をみる、何でも自然でも人間をみる
枯木はやはり一人の老人なのである。
良く見れば確かに一本の枯木でも何か枝分かれして趣がある
ただ影を写しているだけだがそれでも心にしみるものがある
つまり芸術の基本は写生なのである。
庭の跡だったところはもう誰が住んだかもわからない、人間は遂にそうなってしまうのか?やがて自分の家もそうなってしまうのか、無常だとなる
なんかこの辺は避難区域でもそういう場所が多いのである。
村や町ごと無人化しているからそうなる、それも不思議なことなのである。


年取るとなんか人間は特に自分は都会にはゆきたくない、騒々しいから嫌なのだ。
そして人間は確かに年取ると認知症気味になることは確かなのである。
狭い範囲で生活していると安心になる、つまり何か複雑な所を認識できなくなるのかもしれない、都会は複雑だからもう認識できないから困惑するから嫌だとなる
これは性格もあるだろう、自分は騒々しい所が嫌いであり一時はそれが高じて異常にもなった。
一万の町くらいでもいい、この辺はとなりに都市があるからいいとなる
孤立していたら限界集落のようになるから今の時代は住みにくくなる
飯館村はそういう場所だった、そこにまた価値があったのである。


今日も寒い、人間の縁も切れやすい、親戚でも一代こんな簡単に縁が切れる思わなかった結婚したりすると前の縁は切れてしまう、これも無常だった
ただ新しい縁もできるし人間関係もこんなに変わるとは思わなかった。
縁を大事にしろというときあまりにも簡単に縁が切れやすいからだろう
最後はあれあの人とあったなあの人誰だったのかとかすれ違っただけだとなり別れて永遠にあわなくなる、ただすれ違っただけだとなる
家族すらだんだん死んで時間がたつと忘れやすいのである。だからこの世は無常だとなる







タグ:枯木

2016年01月07日

山眠る(この辺は住んでちょうどいい規模の街)



山眠る(この辺は住んでちょうどいい規模の街)

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我が町は灯のともしきや眠る山

母死して今安らかに眠る山

駅淋し二両の電車や眠る山

我が町は枯野の広く暮れにけり

樹数本津波の跡は枯野かな


眠る山というとき今は都会でもどこでも眠らずに活動している。自分は都会には住めない人ごみとビルの谷間では暮らしたくない、あういうところで良く暮らせるものである。
若いときはいいにしろ年取ればいやになるだろう。
もちろん都会に都会の良さがある、でもそこに安らぎはない
この辺では相馬市というと何か淋しい、原町はもともと繁華な感じになっていた。
その中間の鹿島とかはずれた小高とかは淋しい枯野が広がる地域だった。
何か自分にとっては枯野が広がっているような風景があるのがいい
原町ですら嫌な感覚になるのだ。

自分にとってはちょうどこれくらいの規模の街が住みやすいのである。
飯館村とかなると住むとなるとかなり不便になる、第一車がないともうそこは住めない
買い物もできないからである。飯館村などは千軒家を壊したから一体そこに新しい家を建てる人がいるのかとなる
現代は便利な社会だから飯館村とか限界集落のような所は消滅しやすいのである。
この辺はまだ常磐線があり六号線があり東京と通じていて市もあるからそれなりに便利であり住みやすい場所である。

そして今は外部から一万人くらい工事とか除染関係で人が入っている、それでダンプがひっきりなしに通るので危険なのである。一方でそのために活気があるというのも矛盾である。
こんな状態がまだ何年つづくのだろうとなる、工事とか除染が終わったら相当にさびれてゆくのも困るともなる
自分にとってはこのくらいの規模なのが住みやすい、都会化すると嫌なのである。
この辺では飯館村があるということも何か安らぎの空間を形成していたのである。
その飯館村の空間がなくなったわけではない、だが人が住まなくなるということはやはり今まではとは違ったものとなる、飯館村といってもそこに人が住んでいて価値があった
人が住まない村となると何なのだろうとなる


二両の電車が往き来しているがこれも人間的なのである。
やはり機械でも小さいと人間的になることがわかる
二両の電車は何か人間のように見えるようになっている
十両とか新幹線とかなると人間からはずれたものになる
巨大化すると何でも親和性がなくなってくる
いづれにしろ冬は山眠るではあり本当は休息の時期である。
自然のリズムで生きればそうなる、今はそうした自然のリズムがない
絶え間なく活動しているから精神的にも疲れるのである。


母が死んで今は苦痛もなく安らかに山は眠っているとなる
生きている限りなんらか人間は苦をもって生きることになるのだ。
死んでやっとその苦から解放されたのである。

タグ:山眠る

2016年01月01日

新年(2016)にふさわしい短歌


新年にふさわしい短歌(2016)

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新年の未明になおも月光り母は死にしも陽は昇りけり


「東の野に炎の立つ見えて
     かへり見すれば月かたぶきぬ」   万葉集 48

今日3月18日は『人麿忌』だそうです。
なぜか、あの万葉歌人の柿本人麿の亡くなった日だそうです。


今年の日の出を海老浜で見た、あそこは津波で村が壊滅した。
ただ見晴らしが良くなり日の出の太陽が見やすくなった。

今年は新年を祝いないけどただ新しい年がはじまった。
それでぴったりの歌が柿本人麻呂の歌だった。
人間は太陽と日の出と月のくりかえしである。
それは歴史でもそうだが常に世代間でも日の出があり傾く月がある
若い人は日の出であり老人は傾く月なのである。
でも母は去年の12月に死んだからまだ月の輝きがある。
だからこの歌は何かぴったりなのである。


今年は自分にとって相当な変わり目の年になるかもしれない
まず介護の重圧から解放されたことである。
介護している限りもう自由はない
軽くても三食を出す、いるだけでも重圧になる
そして介護の問題は長いことなのである。医療が発達すればますます長くなる
すると介護するものの負担がまた増えるのである。
ふりかえると十年間は長かった
介護に費やされる労力は相当なものであった。それから解放されたことは大きい


この短歌の奥深さとか大きさはやはり歴史も暗示するからである
必ずこうして世界でも国でも興亡が繰り返されてきたからである
イギリス帝国は今では傾く月となったしやがてアメリカすらそうなる
人間はこの繰り返しなのである。
アジアとヨーロッパもそうである。ヨーロッパはゆきづまり今度は再びアジアの陽が昇って輝きヨーロッパは月となって傾いてゆくのか世界の歴史なのである。
アジアの興隆の時代が今世紀からさらに一世紀とかかけてはじまる、欧米は衰退してゆくのである。それは歴史の法則でもあるからとめることができないのである。

2015年12月31日

今年も終わり(奇岩のことなど)


今年も終わり(奇岩のことなど)

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雪舟

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冬の日や奇岩の影を濃くしたり

茶室あり枯木の古木影濃くす

世を離れ奇岩の影や冬籠もる

閑亭に石をあしらふ冬の月

三軒ほど一人暮らしや冬灯かな


宇多川の橋をわたりぬ枯芒城跡あわれ暮れにけるかな

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宇多川の橋は大きくないから人間的になり情緒がある




今年も終わりになった。ともかく自分の場合、この十年間は何だったのかと思う
人生にはやはりこんな動乱がある、平和でも必ず病気とか事故とか老いとかがある
天変地異もある、そういうのがこの十年間に一度に起きたのである
他の人も避難生活になり津波では家族も死んでいるからそれはそれで苦しいものとなったただ何でも原発でも津波でもそうだが自分たちだけが苦しんでいると思って
何か同情しないと諫めるようなことになったけど
自分でも他の人でも苦しんでいた人はいたのである。
別にそういう人はどこでもいるが同情もされないのである。
ただ放置されているだけである。
そして介護疲れで殺人になったとかニュースででるが回りの人も同情などしていないのである。
まず原発事故の避難民はかえって楽だったということがあった。
補償金で遊んで暮らせたということである。
ただ津波の被害で家族を失った人たちはそれなりに苦しいとなった


人間は一生の間にそれぞれ何か追及している、芸術でもそうである。
自分の場合は石とか岩をテーマにしてきた。
奇岩というとき世から離れた奇岩なのである。
世を離れるというけどこれもむずかしい
そもそも今の生活から人間は離れられない
電気なしで暮らせるとか車なしで暮らせるとかなる
そういうシステムになっていて人間はその時代の子であり
その時代を否定しては生きていけないようにできている
ただ世にどっぷりと交わるのではなく世を離れた奇岩を貫き通す意志をもつ
それが奇岩の意味なのである。


この辺で組で一二軒とかあっても四軒は一人暮らしとかになると一人暮らしが増えている一人はまだ六〇代の女性である。
一人暮らしはこれからも田舎でも増えてゆく、そういう時代なのである。
自分も本当に一人暮らしとなった。そして介護もしないからまた前のように自由になったその自由も身寄りもない自由だから不安だとなる
でも介護はもう限界だった、十年もすればもう嫌だとなる
だからこれからも前のように自由に旅もできる、ではそうなるのかというとわからない
どうも今は外国人の旅行者が増えて旅しづらくなった。
ホテルも泊まれるのか、高くなったとか何か不安なのである。
まず日本人が日本を余裕をもって旅できないということは日本が貧しくなったということである。日本人優先ではなく外国人優先となってしまったからである。


まだ四七日はすぎてはない、これも結構長いと思った。でも来年は確かに旅に出ることはまちがいない、前のように長い旅もできる、それも何か自分には不思議に思うのである。


タグ:奇岩

2015年12月29日

冬の雲(大正生まれは希少価値がある)


冬の雲(大正生まれは希少価値がある)

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母の好物は干し柿だった

それで伊達のあんぽん柿を供えた

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このご飯入れが霊前にあっていた


家古りて動かぬものや冬の雲

田舎には老人多し冬の雲

この土地に根づき開かむ冬芽かな

姉と母残せし家に冬ごもり

金屏風座敷にたてて松に菊


一年を仮設の食堂すぎにけり我が通いつつ年のくれかな

百歳の母は逝きにき淋しきや大正生れも世に消えるかな

大輪の真白し菊に塵つかず我は遺影を家にまつりぬ


年号というのは後で大事になる、江戸時代の年号が残されているけどその期間が十年とか短い、その年号の時に何があったのか、年号からイメージする、元禄は栄えていたときだとか文明は飢饉のときだとかイメージする、これは日本独特の歴である。
これが西暦だとそういうイメージは湧いてこない、日本は年号によってその時代をみる
今回の津波でしきりに慶長津波のことが話題になった。
結果的に慶長という時代が脳に刻印された。そして津波の前と津波の後で時代を違ったようにみた。それは明治時代と同じである。
明治時代と江戸時代は全く違ったものとしてみている。
慶長時代もそういうふうに見るようになった。それだけ年号というのは意外と日本では歴史をみるとき大事なのである。


それで大正生れもやがて消えてゆくから貴重だなと思った。母は大正四年生まれであり大正一五年間あるとしても短い、でも何か大正生れは希少価値がある
大正生まれでも百歳をみんな生きるわけではないからやがては消えてゆく
そして「降る雪や明治は遠くなりにけり」大正は遠くなりにけり、、、とかなる
九〇才以上は大正生れだから長生きだからまだ当分は大正生れは生きているがそれでも消える日は近づいているのである。

四七日はまだ家にいるというのも何かいわれがあるしそんな感覚になる
なぜなら人間は特に女性は家とともにあったから離れがたいともなる
この辺では雪はほとんどふらない、冬は北風が唸る、残されたのは自分一人である

霊前には何かこの白い大輪の菊があっていた。

金屏風に松と菊

ここに松と菊の金屏風がでている、他にも金屏風と菊のキーワードで画像検索でいろいろでている。
松は主であり座敷に置けば何か日本的な正月の風景である。ただ四七日であり今年は正月はない、参考として出した

ご飯を入れる碗が何か仏前にあっていた。米を備えたがこのお碗が霊前に備えるのにあっていた。正月とかは日本的な文化でありそれにふさわしいものがある
いろいろとまた現代風にもなる

末永く松こそあれや金屏風菊の映えつつ座敷にありぬ

こういうのが日本的なものなのだろう。今の家は座敷とかはない、個別の欧米風の家になった。座敷かあるということはやはりそこでその家の主に重きを置くということがあった主は殿様のような感覚があったのかもしれない、大名屋敷でもそういう造りである。
欧米化したとき兄弟でも何でも平等であり個別の部屋をもつようになったから座敷はなくなる、そこで主の重みもなくなるし家を継ぐ長男の重みもなくなったのである。
やはり家の造りにもそうした文化の反映があったのである。



タグ:大正生れ

2015年12月27日

弱者が特権化して強者になる (原発避難民もそうであり危機意識に欠けるのが人間)


 弱者が特権化して強者になる

 (原発避難民もそうであり危機意識に欠けるのが人間)


知り合いの小高の女性が鹿島区の人がどう思っているか全然知らなかったというのは意外だった。
おかしいのは鹿島区の議員を応援してくれと来た、すると鹿島区の議員と親しくして支援してもらっていたのかとなる
そうすれば鹿島区の人は議員が支援してくれるくらいだから鹿島区の人も応援しているのかと思ったのかもしれない
ともかく原発避難民は最初からかわいつそうだかわいそうだと言われボランティアが来て応援していた。だから自分たちは被害者だから親切にされる応援されるのが当然だという特権意識をもつようになったのかもしれない
それで自分が鹿島区の人は小高の人を良く思っていないと言ったら自分たちは住む場所もなく被害者だということを主張した。
そういう反応は自分にも意外だった。もう少し何か控えめに言うのかと思った。
そう言っただけで相当に気にさわった。
つまり自分達は被害者がということそれは五年すぎても変わりないのである。


ところが南相馬市だけではない、相馬市でも避難民に反発している人が多いし他でもそうである。そのことで気を使っている人もいる。
津波の被害者が相馬市でもいてその人たちには援助がない、するとそういう人も仮設に住んでいるから何かその待遇で不満をもつ人がいるのだ。
それで相馬市では飯館村の人をトマト栽培するのに農家の人は雇わないというとき飯館村の人も補償金をもらっているからそうなった。
別に鹿島区だけのも問題ではないのである。
だから成せそんなことも回りの状況も知らないで五年間過ごしていたのか不思議だとなる何かそういうことが耳に入ってくるはずだからである。知っている大工さんは自分は働いていると言って本当に働いていたからそういう回りの状況を知っていたからそうして働いていたのである


ともかく被害者意識が高じて特権化しているのが現代の特徴だと言われる、それは沖縄がそうであり戦争で被害にあい米軍基地で犠牲になったと延々と被害者意識でこりかたまっている、それは中国でも韓国でもそうである。日本では在日がそうでありその特権化を利用して待遇を良くしろと金を要求する
そのことで批判するとものすごい反発がありそれで差別語などを使うことができなくなった。
それとまた原発避難民もにているのである。自分は当たり前のことを言ったつもりだがこの人はなぜ苦しんでいる自分たちに対してそんなことを言えるのかという態度になった
おれたちはかわいそうな原発事故の被害者なんだということになる
でも原発事故の被害者は福島県全般にわたっているけど手厚い補償金もらった人は少ないのである。三〇キロ圏内でほぼ終わっているのである。


困っている苦しんでいるというとき何か原発避難者だけが津波の被害者だけが特別苦しんでいる、だから同情されるべきだとなった。それは当初はそうだったろう。
でもその時でもやはり苦しんでいた人が回りにいたが同情などされないのである。
自分も介護で十年苦しんできたけど自分が病気になったとき全く同情はされないし責められるだけだったのである。
それでその人も一見助けに来たようだが何もしない、家に二三分来て帰るだけだった
借金していたからパチンコ屋で掃除などで働きただ疲れたと言って帰っていった。
そのパチンコ屋におしかけたのが原発避難民だったのである。
今でもそうでありイオンの近くに新しいパチンコ屋ができたのはまだそれだけ金があり暇な人が増えたからできたのだろう。
なんかその時その親戚の人にも腹正しかったし避難民にも腹がたった
こっちが苦しいのにパチンコ屋で遊びそこで働いている親戚の人にも腹がたった
しかし何も言うことはできなかった。弱者化するとそうなるからである。
弱者となっても全く応援されないものは応援されない、個々別々では応援されない
介護で苦しんで一家心中した人がいても回りではもう限界だったのよねとか冷静にみているだけなのである。
他から来たボランティアもみんなパチンコだギャンブルだとか遊んでいるのに怒って喧嘩になったというのもわかる
何のためにボランティアして働いているのかわからないとなるからだ。

結局小高などの避難民は何も苦労しないしのんびりしたものだったかもしれない
確かに部屋は瀬意にしても働くこともなく遊んでいてもそれが避難民ということで強制はできない
そして絶えずかわいそうな人たちだと見られて支援されてきたのである。
そしてそれが特権化して自分たちは支援されるのが当然の権利だとまでなってしまった
それがまさに現代的である、戦争でも日本ばかり責めるけどでは中国とか韓国に問題がなかったかと言えばそうでもない、中国は欧米によって支配されていたのでありそれは中国の責任であり韓国でもそうである。
そういうことはバランス良くみるべきなのだけど一方的に主張されるのである。


そうしして遊んだ分のつけが今度は補償金も打ち切られて起きてくる。
働く場所がないかとか何かそういうことを言ってきたのはそのためだろう。
でも今までの態度をみているから何か勝手な人たちだとして拒否反応がでてくる
自分たちで何か復興しようという気持はなく誰かがしてくれる、支援してくれるということが身についてしまった
働くのも農地は三年放置するともう回復がむずかしいとか働くのもむずかしいし老人が多いことでももう補償金がもっと長くもらえればいいとなった
だからそのあとは生活保護だという人も多いのである。
でもこれからは避難解除になると相当厳しいことになるのではないか?
帰ってみてもこんな所にもう住みたくないと思う人もでてくるかもしれない
それでも住むほかないとなったり金がなくなり働くこと場がないとか現実問題となる
何かそこで厳しい現実に直面する、その時もう支援はないからである。
補償金はないから今までのように遊んでいられるのかとなる


ともかく人間は安きに流れる、そして危機意識がもていないのである。それは個々人でもそうである。、自分もそうだった、こんなひどいことになるとは思わなかった。
でもそれはある程度予測できたのである。その備えができていなかった。
津波であれ原発事故であれ何が問題かというと危機意識の欠如だったのである。
原発だって安全神話で危機意識が喪失していた。実際は安全を計るなら原発自体の入念な点検をすることだった。今でもいろいろな不備が明らかにされている。
事故は津波だけで起きたものではなかったのである。
原発避難民だってやはり将来に対して危機意識をもてば遊んでばかりいられないとなるはずだった。おれ達は被害者だからなんとかしてくれるという他力本願になっていたのである。
自分でも三〇年間平和で楽だったから危機意識が欠如した。
何の備えもないから悲惨な結果になったのである。
それで今の結婚しないニートとかフリーターとか親に依存している人は悲惨な結果になることは見えている、親に頼れなくなり年金もない、もう年取って働くこともできない、
まず収入のことなら意外とはっきり将来が見える
その他不測の事態が必ず人間には起きてくる。事故や災害や病気や老いもそうである。
突然体が弱るのも苦しいことになる、その時助ける人がいるのかとなると今からすると恐怖になった。
自分も経験から危機意識をもつようになったのである。
人間は実際にひどいめに会わないと危機意識がもちにくいのである。

タグ:弱者

寒椿(北風にきしむ古い家)


寒椿(北風にきしむ古い家)

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百輪の寒椿散る赤さかな

古き家北風にまたきしむかな

母死して我も老いゆく時雨かな

病院に死者また一人師走かな

年の瀬や死者また一人はやすぎぬ

大輪の白菊十輪霊前に


急に冷え込んだ、自分の家は築五年ほどだけど古民家というものではない、ただ古い造りだから座敷とか広いし家も大きいのである。
それを女二人で建てたから自慢だったことは確かである。それせ借金もしないで建てた。家を建てることは一大事業なのである。その時はまた運がよかった
大工の手間賃とか安いし木材も地元のものでできた。そのあと大工の手間賃がおそらく五倍くらいになったかもしれない、そのことで相当に得した。


この家は古い家だから隙間が多いからすきま風か入り困る、家が密閉されていないから風遠しがいいから寒いのである。
今また北風が吹きつけて家がきしむ、家を人間に見ればこの家もまた歳月を経てきしむ
風に耐え雨に耐え地震に耐えたとなる
家がきしむというときその内部もきしんだ。一人が認知症になったときから二人介護になり自分は苦しんだ。
そしてまた北風に今きしんでいる、家の歴史もまた人間の歴史である。


俳句が写生だというとき短い簡潔な表現しかできないからである。
だから写生俳句は鑑賞する方が優れていないと鑑賞できない芸術である。
寒椿の赤さがこの寒さと北風が吹いて映えている
ただ写真では散った椿の赤さが見たように表現されていなかった。
見た目と写真は違うことがありその時は何か失敗しているのだ。
一方で見た目より写真の方がいいとなる場合もある
それは細部を記録して写すのが写真の方が得意だからである。


ともかく母は死んだ、自分も老いてゆく、昨日は時雨れだった、まさに時雨が老いなのである。やっぱり霊前には白菊があっている
四七日で骨納めだけど結構長い、今年はこのまま年を越す
納棺→火葬→四七日→骨納め、、、一応これで終わる
こういう過程を経るというのも死者との別れとして必要だった。すぐに骨納めだと何か簡単にかたづけるという感覚になるからだ。今はそういうのが多い、死者を惜しむということもめんどうになった時代である
実際に自分は家から死者を送り出したの始めてだった。
葬式など家で経験することはまれである。


ともかく人一人死ぬということは大変なことである。
でも他の人が死ぬときはそんなことはない、また一人死んだのかで終わっている
それが家族となると介護でも葬式でも何でも負担が大きいのである。

タグ:寒椿

2015年12月25日

冬薔薇(数にこだわる写生俳句)


冬薔薇(数にこだわる写生俳句)

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白菊の十輪映えて邪を払ふ

七八輪小さき町や冬薔薇

満月や介護を終えて年の暮

故郷の畑に冬菜や親子かな



昨日は満月だった、何か介護を終えてほっとした。一人になるから淋しいといっても絶えずみていなければならないし話もほとんどできないとなると辛いだけになる
生きているからいいとは言ってもそれは外からみればそうなる
外からみている人は何の責任もないし何の負担もないからそうなる
それは自分だってそうだった。他人の苦しみはそれぞれ違っていてわからない
介護はしたからその苦しみはわかる
ともかく人間一人を死ぬことは看取ることは大きな負担である。
それは子がになわされているのである。親のカルマがあり子のカルマがある
そして誰もカルマの代わりを引き受ける人などいないのである。

写生俳句だと十輪だと七八輪にこだわる、それは「鶏頭の十四五本もありぬべし 子規」からはじまっていたのである。その数が写生なのである。
祭壇には大輪の白菊があっていた。純白であり菊の花は長持ちするからいい
薔薇などは飾れないというのもわかる
墓でも菊が一番飾るのにはあっている
七八輪の冬薔薇というときこれも七八輪が大事なのである。
それは人間をイメージしている、田舎だと七八輪の冬薔薇となるとあっている
人間は絶えず意識されるものは少ない、七八人が限度かもしれない
他はその他大勢になってしまう。都会ではあれだけ数が多くなるのだからこういう感覚からあまりにも遠いのである。


それはとりもなおさず非人間的世界である。組織団体でも数が多くなればそうなる
なにか現代社会はそういうことで非人間化して非情になるのもわかる
一方で戦前でも戦後十年くらいは狭い範囲で生活していたから情の通わせる社会があった今は全くない、グローバル化社会となるとこれまた全然情の通じない社会だからである。ただ情がなく物だけが入ってくる社会である
経済にまず情が排斥されてグローバル化社会が成り立つのである。
何でも数値化されるとそこには情がない世界になる、一人一人は違っているということも認識できない、同じ一つの物ののように処理されるのである。

都会から田舎を見直すというとき何か人間的な世界を求めている、親子が冬菜の畑にいる、何かその光景だけでもまだ人間的なところがある。
田舎は実際は人間関係では最悪な所もある、それでも自然があり花が映える
ある程度の空間と自然が映える所でとないと花も映えない
東京には四季もないだろう、枯野といってもそれがない、たた人込みとビルだけとなってしまう。
そういう場所で自然の感性を磨くことはむずかしい、もちろんそれなりにはあるとしても自然はもともとそんなビルの谷間にあるものではないからである
結局俳句などは短いからいかにその背景を読むからである。
俳句を鑑賞できる人は俳句を作る人より優れているまでなる文学なのである。
それはあまりにも短いからそうなっているのである。



冬薔薇(詩)

一輪二輪と数えて
七八輪咲きにし冬の薔薇よ
淋しき町に咲きにし薔薇よ
ともしさに耐えて咲く
ほまれとて何かあれ
七八輪の冬の薔薇咲く
今日もまたこの花見つつ
この町に我は暮らしぬ



この冬薔薇の俳句を詩にするとこんなふうにもなる
写生を俳句から詩に発展する
詩でも文学でも絵でも基本は写生なのである。
写生を基本にしてあらゆるものがある
そこに写生の意義がある

ただここで問題なのはともしきに耐えということは今は田舎でもないのである。
これは昔ならあった、だから昔の状況だったらより写生でありぴったりする
今は田舎でも都会より贅沢だと思うからである
車も一人一台とかもっていて贅沢なのである。
それでも貧乏な人はどこにでもいる、それは田舎とか都会とか関係なくなっている
一般的に田舎はともしいというのが普通である。
でもどうしてもともしさに耐えというのは作っているとなる
リアリティではない、確かに娯楽施設などは欠けているしたりないものはある
そのともしさはそんなに深刻なものではないのである。
ともしてさに耐えられないからこそ原発を誘致したのである。
タグ:写生俳句

2015年12月21日

百歳に死ぬ母を偲べる短歌十首 (女性は家に生きて家に死ぬ)


百歳に死ぬ母を偲べる短歌十首

(女性は家に生きて家に死ぬ)



七〇年やともにありしもあわれかな目立たぬ母の死にけるかな

我が家に嫁ぎてあわれ七〇年悲しむことの多かりしかな

姉死して母も死にき我が一人家を守るや年のくれかな

それぞれの家にしありて人は生く悲しみ喜び女人のあわれ

我が家に争いありぬそのことの死せばはかなし昔となりぬ

玄関に散りし紅葉や冬となる訪ねし女の昔語りぬ

何故か苦労負わさる母なりき我が家にしもあわれ深まる

霜焼けに苦しむ母のあわれかな温水器なし冬のことなり

我が家に七〇年をありしかあらば思い出は深く家にあるべし

我が家は姉と母との二人して作りしものなり感謝すべしも


母の一生は苦労の一生だった。そして体力的にも性格的にも目だたない存在だった。脇役だった。先の夫は東京で工場の事故で死んだ。
それから実家に帰り我が家に嫁いだ、ただ我が家にきても下働きのようにされた。
だからあまりいいことはなかった。ただ母は細身であり何か自分で世間をわたれるような人ではなかった。そういう女性もまた多い。
女性にもいろいろあり自分はわからない、姉は太っていて過酷な世間でも渡れる女性だった。それでシンガポールに四年間従軍看護婦しても生き延びたのである。
何か人と話すときも恐れない、だから大の男が恐れていたのである。
だから母も姉がいたから一面楽したともなるしじ自分は二人がいた結果本当に楽をしたのである。だから三〇年間世間と没交渉でいられたのも不思議だった。
世間の荒波にもまれることはなかったのである。
ただ二〇代は自分は相当に苦しんでいた。他からたいしことがなくてもやはり自分も体力もないからそうなった。それで二〇代で六〇代のようになったのはそのためだったのである。それから楽をした結果体力がなくてもこれまで生きてきたのだと思う。


我が家では母には優しい家ではなかった。それは父の時からそうである。父も再婚であり母よ良くしたとは言えない、だから自分は母には悪いなといつも思っていたのである。
そう思ってもどうにもならないのが自分の家だった。
それぞれの家に必ず何かしらの事情がありみんな違っているからわかりにくいのである。人間の一生にしてもそれぞれであり不運な人もあり楽な一生もある
でも楽なことがいいかというと何かそこが人間の不思議であり楽な人生を送った人はあまりあわれまれない、何か死んだときでも印象を残さないというのも不思議である。
あの人は苦労したなとなるとき人々はその人を思うということかある
それは両親でもそうだろう、苦労して育ててくれたなと思う子供は両親を裕福な両親より思っているのである。
何も苦労しないで育だったとしたらあまり親のことも思わない不思議がある


ただ人間と生きる限りなんらか苦労しない人はいないだろう。
まず苦労しないとすればそのこと自体が人生で欠けてものとなってしまうだろう
自分もここ十年介護で苦労した。そして介護して親の苦労に報いた、親孝行できたということで満足しているのである。
これだけ楽させてくれたのだから当然だとも自分では思っていたのである。
だから介護はこうして常にその親子でも家族でもそれぞれの事情が違ってくる
手厚い介護がされるとすればやはりその親子関係か良かったとなるのだ。
親戚の人は親に対して全くそういう感情がなかったからもう介護もなにもできない
ただ金目当てだけになっていた。その親に金があるから余計にそうなっていた。
金があるからいって老後でも介護されるとは限らないのである。
金がなくても介護できないがまた金だけでも介護することはむずかしいことがある


ともかく女性は今は多少違っても嫁は家に女であり家に生きて家に死ぬというのが定めである、男は家ではなく社会での仕事をして死ぬということがある
女性と家は切り離せないのである。だから家で死ぬのが一番いいとなる
一応家で介護したから自分の場合は良かったとなる。
でも在宅の介護は人手も金もかかるから容易ではない、それで事件が起きる
それでも人間は死んだときみんなふりかえりもっと良くしてやれば良かったと言っているそれも矛盾なんだけどそうなりやすい、実際生きているときはなかなか人間は偲べない
第一嫌なことが必ずありその人時代でも実際はどんな人でも親でも嫌悪を覚えることがある、ただ死んだときそういうことかなくなるから純粋に偲べる
つまり人間が死んだとき美化されやすいのは直接せっしていれば嫌なことが目立つがそういうこともないので美化されやすいことはある。
歴史でも何か過去の人物が美化されやすいのはそのためである。
現実に生きているときはそうはならないからである。








2015年12月20日

母は百歳生きる意味があった (家庭の事情で違ってくる介護)


母は百歳生きる意味があった

(家庭の事情で違ってくる介護の様々)


母死して風鳴りにつつ冬椿

日曜日枯野にあわれ昼の月

母死して玄関に光る冬の月



二本の枯木のここに変わらざれ歳月経てそさらに堅きも

我が母の百歳生きぬ千歳なる巌(いわほ)となれや冬のくれかな

骨のみそ家に飾られあわれかな母ようやく我が家の主


私は人間です。血も心も通った人間です。だから今にも消えそうな命の火が目の前にあれば、努力して1日でも燃やし続けさせてあげたいです。理由はうまくいえませんがそれが人間ではないでしょうか?

介護は家庭の事情と深くかかわってくる。家庭でのその人の立場がどうなっているかで違ってくる。
自分の家は複雑であり他からはわからない、姉が家の主であり母は脇役だった。
目立たない存在だった。だから母が我が家の主役になったのは奇妙だが姉が死んでからであった。
そしてこれも不思議なのだが姉が死んで母が死んで祭壇に母の遺骨が置かれてから我が家の主人となっていた
92-3才までも料理をして家事をしていたから家では現役だった。
自分の家では嫁がいないからそうなった。
だから自分は介護は嫌でも義務だった。介護でも確かに三食を出していたがオムツもしていないし最後まで自力でトイレに行っていたから三食食べさせるよりはずっと楽だった。だからプログとかも創作もつづけていたのである。


そして母が我が家に嫁いで主役となったのは姉が死んでからであり介護されてからだったのである。だから自分の家では十分に介護されていても存在感があった。
まだ家では生きる意味が価値が存在感があったのである
家族が多いと嫁が主役になったりするとそういうことはなくなる場合がある
嫁からすると早く死んでもらいたいとなるだろう。
介護では常にそうした矛盾に悩むのである、もう世話はしたくない、早く死んでくれというのは常にある、それと矛盾しているんだけどやはりまだ生きてほしいということもあるこの二面性は誰でも常にあるのが介護なのである。
だから死んでくれというのは強烈になると、それは我慢の限界が来て殺人にもなる
そういう相反する葛藤が介護者にはある


ともかく母は死んで我が家の主役となった。姉は脇役化したのも不思議である。
死んでから主役になれるのかというがやはり人間にはそういうこともある
生前は注目されなくても死後に注目されることは多々ある
それが生前はその人の価値がわからないが死後に発見されるということがある
だからつくづく人間は死ぬまでわからないものであり死後もまたわからない
死後にその人が見直され価値があるものとされることは良くある
それは別に有名人ではなくても平凡な人でもある


介護はとにかくそれぞれの家庭での立場が強く影響するのである。だから最後まで家で介護されたいとか在宅で死にたいというときその家族のなかでどれだけの立場にあるかが問題になる
病院であったただ手をあげることができるだけの人がいた。その人は妻が来て手をにぎるだけでありほとんど意識がない状態だった。
介護度5であり寝たきりでありしゃべることもできない、ただわずかに手を上げられるだけだった。その介護度5の人を家で介護していたのだから驚く
その人は農家として優秀であり娘三人を大学に出していた、だから家族で大事にしていたのである。
それだけみてもいかに大事にされていたかわかる。
その後どうなったかわからない、浪江の人でありおそらく郡山に娘がいたからそこに避難したのだろう。


こういうふうにそれぞれ介護する家族の事情が違っている。自分はあんな人をとても介護はできない、比較的楽だったからできた。ただ姉がひどい認知症だったから一時はパニックになった
でも2年半くらいで死んだので救われたとなる、もし二人を介護するようになったらもうもたなかった。これも天の助けなのか、悲劇にならないで助かったとなる
あとは母の介護だったがこれも5年は長かったが重度ではなかった。
それは母の頑張りがあったからである。そうでないと苦しくなった。
だから不思議に自分は介護しても恨んでいないし二人には特別良くしてもらったから感謝している。
死んでも今は母を家の主役として祭壇に骨を置き大事にしている
供養もこれから近くに墓があるのでする、死んだ後も二人への感謝は変わることがないからだ。

我が母の百歳生きぬ千歳なる巌(いわほ)となれや冬のくれかな

人間はやはり百歳生きることは何か重みがあると思った。年寄りなど金ばかりかかり社会にとって何の役にもたたないとか言われるが百歳にはやはり意味がある。
千歳の巌のようになってゆく,死んでもやはりそういう重みが残る
やはり百歳はまだ特別なのかもしれない、これが百歳が多くなり百二十才とかにならないと珍しくないとなればまた違ってくる。
人類は百歳の時代からさらに百二十才とかの時代になるのだろうか?

だから今にも消えそうな命の火が目の前にあれば、努力して1日でも燃やし続けさせてあげたいです

母は病院に行っても最後までこうして生きたのである。何日か前までは自分の顔を見てわかっていたのである。意識があったのである。
そうして母は何か師走に冬に死ぬのつくづくふさわしかった。生れたのも2月4日でありもう少しで百一才だったのである。冬に生れ冬に死んだとなる。
苦難の一生だったから冬にふさわしい女性だったのである。
ともかく確かに人間は死んで骨と灰になるが人間はやはり子供であれ他者の心に生き続ける。
あのように自分にトイレに懸命に行っていたこともやはり今になれば良くがんばったなと思うからである。

例の二本の枯木はやはり歳月を経ることによってさらに堅く結ばれる感じになる
何か平凡なんだけど何度もみているのだけど年によって違ってみえるのも不思議である。見慣れたものでも同じものでも違って見えるのである。


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タグ:介護の様々

2015年12月19日

年の暮(介護に費やされた十年をふりかえる)


年の暮(介護に費やされた十年をふりかえる)


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年の暮母の遺骨と我が一人


森の中かすかに残る虫の音を我が聞き母は死なんとすも

我が家に嫁ぎて長し歳月や庭の紅葉燃えつつ死なんとすも

我が家に生きる70年長しかな死ねばつかのま母は逝きにき

母とある最後のときを惜しむかな秋も終わりて冬となるらむ

幸薄き母にしあれやあわれかなその最後は楽に眠るごと死す

西村家最後に残る我が母の今や死なむや何を伝えむ

でで虫の殻一つの残る道安らかにして我が母死なむ

残る虫かすかに鳴くを我が聞きぬ故郷の野や母は死なんとす

近くにそ母の苦しむしもやけを知る人ありて親しさ覚ゆ


母の場合、急に死んだのではない、介護が五年くらいつづき最後も急激に死んでいない
だんだん弱っていった。家では八日間は水しか飲んでいない、それでもホータブルトイレに行っていた。
つまりオムツもしなかったし八日前まではわずかでも何かを食べていたのである。
だから三食食べさせるようなことはしなかった。
他では脳出血とかなると三食食べさせているから手間になる。
そうなると何もできなくなる、プログはたまたま書きやすいから書き続けることができたそれすらできなくなっていた。
つまりそうなるとすべての時間が介護のために奪われることになるのだ。


姉が認知症になったとときはそういうことになった。夜中まで起きていたりしたからである。そうすると夜もまともにねむれなくさえなる。
介護にもだからその人により家族によりいろいろなケースがある。
一番ひどいのは両親でも二人同時に介護するときである。
その時一時そうなったからどうしていいかわからなくなった。
それで近くの人が家に火をつけたとか殺人までになる
でもなぜか介護というのは誰か一人がになわされるのである。
兄弟でも何か協力することが少ないのである。
そういうことから事件がこれからも次々に起きてくる


いづれにしろ高齢化社会で介護に費やすエネルギーは金銭的にも労働力にしても膨大なものである。それで国がつぶれると言う人がいるのもわかる。
介護はそれほどの重圧なのである。まず介護は最低で五年とかであり医療が発達しているからさらにこれからも長くなる
介護というのはそもそも昔はそんなになかったものだろう。
たいがい病気になっても介護もろくにできず死んでいた。
母の場合もすでに一年前入院したとき点滴などしないと死んでいた。すると一年は寿命が短くなった。
それでも祖母は脳出血になり五年生きていたという、藁がオムツ代わりだったという
戦前はそういうこともあったから恵まれている、日本のオムツを中国人が買うのもわかる

なんか地方の仕事が病院関係と介護関係と葬祭関係が主役のようにさえ思う。
病院が街の中心のビルでありそれを取り囲んで薬局があり介護施設があり介護関係の仕事がありとかそして団塊の世代になると死者が増えてゆく、すると葬儀屋が繁盛するとなるこういう社会が何なのだろうと思う
それだけ余裕ある社会ともなるがとにかく膨大なエネルギーが介護に費やされる時代なのは間違いない。
団塊の世代が介護されるようになるとさらにその負担は増える
あの人も母親を介護している、三食食べさせているから大変だとか同級生が脳出血になりやせ細りなんとか生き延びたとかあの人も脳出血になったのかとかそんなことが身近で増えてくる、そして団塊の世代も大量死を迎えるのである。


自分も十年間は介護に費やされた。それでも自分のやりたいことはやらせてくれたから自分の場合は特別であり恨んだりはしない、そして一時は苦しかったが一人でなんとかのりきれた。一時はパニックになり苦しかった。自分自身が病気になり入院してそのあとの二年間が身体障害者のようになり苦しかった。
その時助けるものがいないでただ責められるだけだったのも苦しかった。
それもあまりにも恵まれた結果としてのカルマだったのである。
人間は恵まれたままにいいことばかりで終わらない、かえってそのことが最後の方になり苦しむことになる、資産家の姉妹が餓死して死んだというのもそうである。
恵まれた人は生きる術をもたないからそうなる、地をはいつくばるようにして生きてきた人などを知っているあういう人ならどんなときでも生きられると思った。
人に頼むのがうまいもらうのもうまいし延々と交渉してあきらめないというのにも驚く
お嬢さんだったら自分もそうだが人に頼めないのである。
人に頼むということは相当な能力が必要になるからだ。
自分を偉いとしている、恵まれているとしていればできないのである。
そういう経験がないとこんな時代でも餓死してしまうことになる
おそらく役所の福祉とも交渉できないということもあるからだ。


介護は男だとまた苦しい、家事の延長に介護もあるからだ。介護で家の中がガタガタになってしまうからだ。それで介護になってから家の中がかたづかないのである。
家のことを一人で家事までやることは容易ではない、だからここ十年は何か毎日追われる生活だったのである。
まず食事でも三回ださねばならないというのが手間なのである。
常に何かしてやらねばならないとなりその緊張状態がつづくのである。
つまり気のぬけない時間が延々とつづくのである。
だから仕事でも介護しながらやるというのはむずかしい、技術者が母親を介護しながら仕事していたがあれも苦しいと思う、仕事に集中できないからである。
その人は五〇代であり技術者として仕事をまかせられている人である。
そうなると日本国んの国自体の国力をそぐことにもなるのだ。
高齢化によって国が衰退してゆくというのも現実味がある


ともかく母は何か急激にではなく徐々に死を迎えた、だから死に対する準備ができた。
死ぬ二日前ほど葬儀屋と相談して段取りはできていたのである。
そういう時間があった。だから必ず死ぬ前に葬儀のことは相談しておくべきである。
ただ一回経験していることは強みだった。経験しないことは何でも苦しい
認知症の介護でも経験しているから自分の場合介護しやすいとなる
認知症という病気はわかりにくいからである。


母のことで近くの人がしもやけのことを知っていた、そんなことまで知っていたのかということで驚き親近感を覚えた。姉と関係していた人だけど母もいたから知っていたのである。あのころは水道ができても水が冷たかった温水器がなかっんたからである。
そのことを自分は知っていた。でも何かその頃そんなに母のことに同情したことはない
ただあまりにも店屋をやっていて忙しいから嫌だったのである。
なぜ日曜日も休まずご飯もまとも座って食べないのか嫌だったのである。
そんな働き詰めの母を自分は嫌っていた。ただそう強いられたという面があったから全部が母の悪いのではない、母はそういう性格だったということもある
死者について語るのにもやはり知らない人だと語れない、しもやけのことを知っていたので母の苦しいことを知っていたのだとなり何か共有するものを感じたのである。
第一回りでも人間が変わるし昔のことを覚えている人はまれになる
自分自身すら老人であり昔を語る存在になっている。この辺では母が一番生きたがその前にこの辺を知っている人が死んでいるのが多いからである。


年の暮に母の遺骨と自分一人の家というのも淋しい、でもそれが現実である。
俳句は写生というときまさにその現実が重いものであれば俳句にも重みを帯びる
死は最も重い現実だから俳句も重いものとなった。
つまり文学でも重い現実を反映すれば重い文学となることがわかった。
死から死体を焼き骨となるのは最も重い現実だったからである。


タグ:遺骨