2020年06月17日

夏の日の花の通りー南相馬市鹿島区の花の写真


夏の日の花の通りー南相馬市鹿島区の花の写真   

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ここのシシドスーパーの復興団地の通りの花はきれいである
これだけの花が咲いているのは見ものである

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鹿島駅の花壇

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クリック拡大で鮮明に見える




道広くクローバー一面に匂うかな

白菖蒲咲きしもあわれこの道を行く人なしに我が通りゆく 

日のさして葉陰に咲きぬ夏蝋梅我が家にあり籠り暮らしぬ


鹿島区では一時仮設がそちこちに建った、今は全部なくなった、その後が空地となり道路の脇が一面のクローバーの野になった
これもまた変化である、何かこれも夏らしく気持いいともなる
これは北海道の景色である

それで北海道の札幌の通りが広いということで

しんとして 幅広き街の秋の夜の 玉蜀黍の焼くるにほひよ 啄木

これを思い出した、でも明治でも札幌は都会である、だから一万の町とは違っている
でもそれと似た光景が広がっている
そしてこの通りにはいろいろな花が咲いている、ここは新しくできた通りでありまっすぐである、その通りにそって夏でありいろいろな花が咲いている
まさに花の通である、でもその通りを歩いたのを見たの一人だった
あとは車しか通らないのである
また店もほとんどない、だから新しい通りを作っても店とかがないから淋しいとなる
でもこの場所はいい場所である、真野川が流れて土手があり散歩にはいい場所である

鹿島区というと旧陸前浜街道がある、この道は狭いのである、でも古い道である
だからその道に沿って町ができた
でも何かこの新しい道の方が広々として景色がいいし花も植えてあり気持いいなと見た
でも店はないのである、だからもったいないとも見た
街の通だとしたらそれにふさわしいものがあってもいいと見た
ただ店を出せないのはやはりそれだけの客が来ないからである
それでほとんど人も歩いていないのである
今はただ人は歩かない、みんな車だから歩かない、それで通りでも人が歩かないのであるそれはやはり車社会の弊害なのかもしれない、車だと通りを歩いてちょっと寄るということがない、イオンのような所に遠くても行ってしまう
それで街の通りは廃れたとなる、本当は旧街道の町を一部この新しい通りに移せばいいのだがそれが簡単にできない、それだけの店を維持できないからである

いづれにしろただ花を見て通るだけの通りである、ただ花は映えている、裏の道はさらに人は通らない、歩いていない、歩いているのはめずらしいのである、そこに白菖蒲だけが咲いていた、花だけが静かに咲いて映えていたのである
それで花だけが映えている不思議がある、人で混雑したら花も映えない
ただ矛盾は花だけが映えて人がいないというか店とかないのも淋しいのである、だからその兼ね合いが大事になる
そこに白菖蒲だけが咲いていた、花だけが静かに咲いて映えていたのである

花の写真は光りに影響される、日がささないといい写真がとれない、だから梅雨になると曇っているから写真をとるのには向かなくなる、ただこつは近づいて撮ることだけだった、だからこれは比較的に誰でも撮れるものかもしれない
問題は広い景色がとるのがむずかしいのである
それはレンズとカメラに影響されるから簡単には撮れないのである

2020年06月16日

立葵の咲く場所(花の写真の撮り方)


立葵の咲く場所(花の写真の撮り方)

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日のさして立葵咲く空高く伸びて影なく真昼に映えぬ

これは下からとったからうまくいった

クリック拡大するときれいに見える

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高松の青田酒店は岩と松の写真をとった場所であり
そこからますぐ行くと写真をとった場所がある
ここはわかりやすい場所である



立葵が今咲いている、これは夏にふさわしい、これは光の中に咲くと映える
それで昨日高松の方に行って撮った
その撮り方がわからなかった

花は遠くからとっても小さくなり見栄えしない
クローズアップしないと映えない、それでそれを今回は試してみた
立葵は高く咲くので下から撮ったのも良かった
角度を変えて撮る、接近して花をクローズアップする
そしたらやはり花は映えた、カメラはソニーのα6000でありそれほどいいものではないが高いものではないが映りがいい 

写真もちょっとした工夫で撮り方で見栄えが違ってくる
簡単なのはとにかく接近してクローズアップすることである
小さいと花は映えないのである

プログとかなると映像の時代だから写真が欠かせない、写真と一緒に出せば訴えるものが作れる
それでソニーの広角レンズを買った、今度はキタムラで買った、それを仙台の支店で受け取る、前もキタムラから買ったことがあった
キタムラの支店が相馬市にあったからだ、今はなくなった
やはりカメラ店があるとないでは違ったものになる

とにかくレンズが高いのには驚いた、ただ中古品がある、それにしても高い、カメラとレンズは中古市場があり中古車と同じく高く売れるのである
あとは中古品でもただ同然ともなる、カメラだけは違っていたのだ





2020年06月15日

蛍袋(原町ユッサの裏の大原の道)


蛍袋(原町ユッサの裏の大原の道)

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高松の店はコンビニのようになったが品物が少ないから客も来ない
何かこうした店は古くからあったがやっていけない
ただここは旧街道であり車はひっきりなしに通っている
でも寄る人が少ない、それも淋しいとなる
車社会になるとどうしても小さい店がなくなってゆくのである




老鶯やユッサに休む草深し

赤らみぬ蛍袋やユッサの湯

大原の墓地や影なし涼しかな

草深く蛍袋や社かな

草深く夏薊かな黒揚羽


黒揚羽ここに出会いて舞いにけり草深きかな大原の里

草深く埋もれし墓やその名もなにもしりえぬ大原の里 

大原の日影の道にあまた咲く蛍袋や草深しかな 

この道を行けばあわれも大原の知る人眠る木陰深しも
                                              

新田川の原町ユッサは意外と場所がいい所にある、ユッサそのものはそんなに景色がいいとはならない、でも今日行ってわかったことはその裏の道がいいのである
新田川が流れていて大原の里があり木陰の道がつづいている

今日そこを行ったら木陰が涼しい、そこに墓地があって草に埋もれた墓がある
そこも影になり涼しい場所である、そこに小さな社があった
馬頭観音であり新しいものである、馬頭観音は昭和の戦前まで馬を使用していたからいたるところにある、だから新しいのである
古い神社や社は別である、何か新しいものには価値がなく古ければ古いほど価値が生まれる、神社でも古い神社は価値がある、ただ古さがわからないのが多いのである
神社がいつ建てられたのか祀られたのかわからないのが多いのである

テレビを中古店に引き取ってもらうとしたら型番かわかればそのテレビの製作した年代がわかる、だから型番を教えてくれと言われた
年代的にそれがいつ作られらたものかわかりそれで評価するのである
神社でもその由来が古ければ逆に文化的価値が高くなる
電器製品は新しいものが価値があるの逆なのである

大原は街から離れた草深い里だとなる、今の距離感だと街に近い感じになるが車がないときは遠かったのである、それより前田という地名がありそこが大原の中心だった
そこに住んでいた斎藤氏と病院に入院して知り合ったが死んだ
その人の墓がユッサの裏の道を行くと杉林の中に隠れるようにしてある
その人の家は空家になって住んでいないのである
息子は街中に住んでいるからだ、だから廃屋となっている
その近くに長く廃屋として放置された家がありそれは本当に幽霊屋敷のようになっているなぜか壊さないのも不思議である
本当に幽霊が出て来るくるような家なのである

ともかく原発事故以後意外と大原は放射線量が高く避難した
そこで一時荒廃した、今でも荒地が多い、それより放射性廃棄物の貯蔵している所が目立って嫌なのである
それはこの辺ではこうした山里でも塀で囲んで放射性廃棄物の土を貯蔵している
それがいつなくなるのかわからないのである
それが風致を乱しているから嫌なのである

つくづく原発事故は罪深いものだった、なぜならこうした村を破壊したからである
ただその前に村は荒廃していた、跡継ぐものがないとか全国の村が限界集落化している
原発事故はそういう村落を壊したのである
それで補償金をもらって喜んでいる人たちも現実にいる
別にそこに住んでいる人が自分のように異常に景観とかにこだわらないからである
でもこうして村の景観が壊されることは心も荒廃するようにもなる

本当は村とかあることはそこに生活があることは外から見たらいいものである
何かほっとするものを感じる、でもそこに住んでいる人はそうでもないのである
だから原発でも積極的に誘致したとなる
ただその時昔からあった村という全体が壊されたとういことがある
町でも全体が壊されて風致もなにもなくなった
いまでもやはり放射性物質の廃棄物場がそちこちにあり風致を乱しているのである

とにかく原町だと深野とか大原は奥まった所でいい場所であり鹿島だと橲原(じさばら)村なども奥まった山里でいい場所である
でもそこでの暮らしが破壊された、田畑が回復しなくなったからである
そこは今はクローバーの野原になっている、原野化したのである
クローバーが馬肥しというのもわかる、田んぼの前は一面の馬肥しであり馬の餌になっていたからである、放牧された馬の餌になっていたからその名がついたのである
北海道にはクローバーの原野があり馬や牛が放牧されている
そういう風景が原野の風景があった

今日は暑かった、真夏である、でもあの辺涼しいから気持ち良かった
散歩にはいい場所である、この辺は海の方にも行けるし山里もある
それが浜通りのいいところなのである
ただ高い山がないのでものたりないのである





2020年06月12日

つつじの季節(立葵の写真などー写真の撮り方を覚える)


つつじの季節(立葵の写真などー写真の撮り方を覚える

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花は必ず背景をぼかさないと映えない

水滴が写っている、昨日の雨の水滴である

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花は近づいて大きくすることがコツかもしれない
ここでは大きさが前面にでて映える
同じような大きさにすると映えないのである
つまり何か一つでも焦点をしぼりそこを見させるようにする
これも訓練なのだろう

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大木の木陰に昔語るかな

朝の海広くひびけり夏雲雀

街中の喫茶店に集うつつじ咲く 

なお暮れず外出歩くや夏雲雀

                                                    
行き交いぬ車の列や六号線夕暮れ映えぬ立葵かな

道の駅遠近(おちこち)の人寄りにけりつつじの赤く映えて暮れゆく



道の駅は車はないけど良く行く、原町も相島市も行く
原町の道の駅の公園は散歩するのにいい、そこで小高の人がベンチに座っていてた
あそこに無線塔がありその無線塔の中に入り上ったとか言っていた
あの無線塔は長く原町の象徴だったのである
原町高校に通ったのは蒸気機関車だったということが今になると信じられないのだ
その記憶もないのである、なぜそうなったのか?
高校とか自分が学校になじめなかったしそもそも学校に行くことが嫌だったからかもしれない、何かわくわくして学校に行くようだったらこうはならない
学校は常にいやいやながら行っていたからである

だから学校にはいい思い出がないのである
でもどうしても蒸気機関車に乗って通っていたということが記憶にない
ただ一つトンネルをくぐったときすすけたことを覚えている
それくらいしか覚えていないというのは不思議である
こんなに人間は忘れるということである
いろいろなことを経験しても本当に忘れる、そこにいたのかどうかもわからなくなる
半世紀以上も過ぎれば本当に遠い昔であり記憶から消えてゆくのである

一昨日は海老浜から磯部に寄り相馬市の街中に行った、そこで中村珈琲店に寄った
藤の花は終わりツツジが庭に咲いていた
あそこはカウンターは使わずほかは離れて広い座席だからコロナウィルスでも危険ではないかもしれない、でも何か面と向かって座ると危険になる
みんなで集まり話したりすることが不安になる
それで東京で昼のカラオケで老人が集まり感染した
どうしても三密になると感染するから不安になるのだ
ただこの辺はそんなに警戒する必要はないと思う、その点は楽である

つつじが盛りである、道の駅に一杯咲いていた、写真は意外とむずかしい、それでyoutubeでプロの写真家が教えるのを参考にした
花はクローズアップして大きくとる、何か目立つものに的をしぼり見せる
何か写真でも漠然として撮ってもいいのがとれない、花は二つはうまくいったみたいだ
やはり背景をぼかすと花は映える

とにかくカメラはかかせない、俳句でも写俳の時代である、写真と俳句を組み合わせるのである、写真の不思議はこれはやはり絵画の分野であるがまた絵とも違っている
確かにプロの写真は500万とかのカメラを使っているから違うということもある
ただレンズがいろいろあり最初は失敗した、レンズによっていい写真がとれるのだろう
でばせレンズは高いから困るのである


今日は雲り写真の写りははっきりしないが撮り方は良かった、花をいかにして映えさせるかが問題である
フラワーアレンジメントは活け方が悪くてうまくいっていない、このフラワーアレンジメントも手間なのである、家事から何から一人でやれない、だから私は毎日こうしてプログに書きとか追われているのである

2020年06月08日

海老村ー八沢浦ー磯部村を夏に回り俳句と短歌を詠む (津浪から9年半過ぎた変化)

                            
海老村ー八沢浦ー磯部村を夏に回り俳句と短歌を詠む

(津浪から9年半過ぎた変化)

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ここは金沢へゆく六号線の脇

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この薔薇はブルーバリューと名である

この写真は成功した、やはり一眼レフでないといい写真はとれない
後ろが偶然ぼけたから見栄えがいいとなったからだ
これはプロ級の写真となるかもしれない、自分でも意外だった

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鶺鴒が映っているから拡大しないと見えない

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鹿島区の仮設がみんな壊された
その跡が広いのである、だからその空地をどう利用するのかとなる
家はまだ建っているがこれ以上はそんなに建てる人はいないだろう
でも鹿島区の人口は二割以上が外から来た人になった
だから都会化したのである



磯部村(寄木神社)

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家囲み紫菖蒲の色深む

街中の空地の広く夏雲

外へ出て今日も飛び交う夏燕

黄菖蒲や沖行く船を海老に見ゆ

(磯部村寄木神社)

老鶯や石段上り社古る              


我が庭に薄紫の薔薇一輪奥にそ咲きてつつみ隠さる

我が家の廊下の広く真夜中に夏満月を見て歩むかな

灯のともし月影さして夏の夜や町は眠りぬ音もなくして  
  
(八沢浦)  
         
新しき道まっすぐに八沢浦都草咲き我が行きにけり

湊村消えしもあわれ誰が語るその跡もなく消えてなしかも

(磯部村)

磯部村消えて悲しもその思いいづこに残る社訪ねき

磯部村社の樹々の森なして残るも人は消えて悲しも

ハマヒルガオあまた咲きにつ海広く鴎の群れの鳴きて飛び交ふ   



八沢浦から磯部村に行った、八沢浦の湊村は消えた、磯部村は余りにも悲惨だった

「相馬沖は遠浅だから津波は来ない」。地域の多くの人たちが、そう信じていた。1960年のチリ地震でも津波は防潮堤を越えなかった。経験則があだになった。

相馬市磯部地区では約2000人の住民のうち、251人が大津波の犠牲になった。 市全体の死者・行方不明者458人の半数を超える。

海老村も消失した、崖の高台が避難場所として指定されたのが大失敗だった
あそこで30人くらい死んだ、でもうしろの森に逃げた人は助かったのである
危機一髪で助かった、あそこを津波の避難地として指定したのは津波のことをこの辺では全く知らなかった、まず400年前にあったとしてもそんなことを知る人は学者でもいなかったのである
津波の後に相馬藩政史に二行だけ津波で700人溺死という記録を発見したからだ
だから津波は来ないという確信になってしいたから磯部では逃げなかった
津波の恐ろしさは村ごと消えてしまうことである
磯部村は消え八沢浦の湊村は消え、海老村も消え烏崎村も消えたのである
これほどの被害があったならあんな海岸線に家を建てない
だからなぜあんなに家が密集して建てていたのかという疑問になる
それは日本が全体でもそうである、津波の被害は常に日本であったけど忘れられていたのである

とにかく災害は忘れたころやってくるというのは本当である
コロナウィルスでもそうである、スペイン風とかコレラとかで被害があっても忘れていたそして今回でいろいろとウィルスの怖さを言うのである
つまり人間はこうした自然災害とか定期的にくる、カルマとして来ることなのである
カルマは必ず苦しみとなってくるときそのカルマを自覚するのである
そうしないと自覚できない、昔の人が津波であれ苦しんだとかウィルスでもそうなのである

磯部村ではただ寄木神社だけが残った、あそこは森になっていて何か古さを感じる
でも事実上磯部村は消滅した、丘の方は残ったとしても村として維持できるのかとなる
磯部地区全体としては2000人いたとなると人口としては多い
その大部分が海岸地帯に住んでいたから悲惨だった
ともかく磯部村にはあの寄木神社が残るだけである、ただ丘の上の小学校とかは残っている、もともと磯部村は古磯部がありそっちの方が古いとなる
だからあの海岸線に住んだのは新しいとなる、でも実際はそこでも慶長津波の前から人は住んでいたから古い場所なのでなのである
古磯部とあるのはそこに新しい町が生まれたからである、そっちの方が中心となったから
である、寺も高台にあったことでもやはり古く住んだ場所は高い場所だったとなる

とにかく何か磯部村ではそこはソーラーパネルが一面にしきつめられそこに多くの住んでいた跡がなくなった、だからもうここにあれだけの家があったことを後の人は知ることもできない、つまり偲ぶものがないからだ
神社が残ったとしてもそこに人が住んだ跡とはならない、それは別だからである

なぜか磯部の海に鴎が群れて飛んでいた、あんなに多く飛んでいるのはなぜなのか?
浜昼顔が防潮堤の隙間から咲いていた、砂浜に咲くといいがそれもない
松川浦の海には咲いている

夏は写真とか花を見るにはいい、それで原町へ行く六号線の脇の金沢の坂を上る所の堤の側に新しい家ができた、それは大工の家だった、庭に畑がありその家を囲んで紫の菖蒲が咲いていた、それを写真にとらないんのが失敗だった
人間は何気ない所に美があるが見逃しているのである
あまりに平凡だとそこに美があると感じないのである
ただあそこは前がソーラーパネルになったから景観としては良くない

夜は満月であった、広い家の二階の廊下から見る、まずテレワークとかなると家で仕事するとなると静かな広い空間と部屋が必要になる
子供もいたり何か煩いと仕事ができないからだ、私自身は知的作業するが誰もいないからかえって集中できる、でも家事とかやるのに追われる
これだけの文章でも写真でもプログに出すとなるとそれが一仕事になる
それでフェスブックとかはじめたが一回も見ていない、やり方がわからない
それよりいちいんち答える時間がないのである
まずプログに書くことが一仕事なのである
それでプログの人気者がyoutubeで5000万一年に稼いだという人がその苦労話を語っていた、最初プログの記事を書くために8時間かかったというのもわかる
プログとかインタ−ネットとかで表現する問題はやはり手間がかかり時間がかかるのである、この時間だけは手間だけはいくら便利になってもできない
それはどんな仕事でもそうである、いくら機械化しても人間の手間がかかるのである
その手間がなくなることはないのである

2020年06月05日

夏菊、青葉、夏の雲(夏の日の花の写真)


夏菊、青葉、夏の雲(夏の日の花の写真)

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奥の日影に薔薇が咲いているのもいい

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ここまでクリック拡大

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老鶯に聞き入り根付く木によりぬ 

様々なの薔薇を咲かせて通りかな

SAに寄り夏の雲湧く行き来かな

二手にそ湧き広がりぬ夏の雲  

夏菊や川の流れに沿いて咲く

夏日没る一時燃える牛越城

  
夏菊や雷雲湧きて広がりぬ街の上かな燕飛び交ふ 

野萱草に薊の咲きて草深し高松の家居離れて開墾の碑あり

真すぐなる木の梢にそ風そよぎ青葉にまぶし夏日輝く

分け入りぬ森の中にそ真すぐなる樅の木立ちて力強きも

夕風に青葉のそよぎ六号線萱草咲くや走りさるかな   

満月の植田に写し蛙鳴き原発事故の復興成りぬ


昨日は夕べも原町の方の高松と回り自転車で走った、夕風が涼しく気持ちよかった
夜は満月でありそれか植田に写っていた、蛙が鳴いて南相馬市とか原町鹿島は復興したと見た、小高でも50パーセント帰った、でも小高は復興にはほど遠い隣の浪江町は10パーセントも帰っていないからその影響も大きい

そして今日は暑かった、午後から常磐高速のSAに行った、あそこは休憩できるからいい
それからまた帰ってくると夏の雲今度は海の方に湧いていた
黄色の夏菊が土手に一面に咲いている

それから夏菊が咲いている家の庭を写真にとった、ここは何かいい感じである
ただあまり家を許可なくとるとまずい、でもわからないことがある
畑の写真などはかまわないが家だと誰かの家とわかることがまずい
でも田舎の家自体が絵になるのが多いのである、農家は特にそうである

そして雷雲になり雷(かみなあ)が鳴りを降った、何か梅雨に入る前の夏なのか?
暑いのは暑いが夕方になると涼しいから自転車で運動するのにはいい

高松は越中などの人が開墾に入った土地である、もともと森だったし開墾された場所はどこでもそうである、あそこちは牧場もあったがやめていた、原発事故以後牛を飼うことをやめた人が多い、牛肉がコロナウィルスで売れずに安くなったというニュースもあった
飲食店に売れないとかコロナウィルスの影響は広範囲にある

今の季節はやはりまだ外に出れるからいい、これが30度近くになると熱中症になったりするから危険である、去年だったとか三回くらい熱中症になったので怖い
ただ今の自転車は走って楽だから乗りたくなるのである

写真は結構むずかしい、写真をうまくなるのにはカメラをプロ級にしないといい写真はとれないという説明があったがそうだと思う、もう一つめりはりがない写真になる
一応記録として撮っている、今回は花にいい場面があった、今頃は一番花が咲いているから写真とするにはいい
のである

原発事故では南相馬市の原町と鹿島地区はほぼ復興した、だから満月がにあっていた


2020年05月30日

夏菊 菖蒲(菖蒲と蔵ある家)


夏菊 菖蒲(菖蒲と蔵ある家)
   
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下太田

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高速に遠くより来ぬ青葉かな

黄菖蒲やなお陽の明るし野良仕事                              


夏菊に矢車草の交じり咲きスーパーヒタチのここを行くかな

蛙鳴く植田の縁に萱草の咲きて白鷺の餌あさるかな

影なせる奥の家かな蔵ありて菖蒲の咲けり石の重しも

夏の日のなお輝くや一面に菊の白くも風にそよげり


鉄道でもスーパーヒタチが通るのと通らない差が大きいと思った
その車両に魅せられたとなる
普通の車両はかっこういいとならない、その差が大きい
夏の日に田園を走るのが気持ちいいし絵になっている
鉄道は何か自然と融合するからいいのである
ただ鉄道の問題はせっかくスーパーヒタチが通るようになったのに客がほとんど乗っていないのである、これはまだ当分つづく
まだ一回も乗っていないから乗ってみたいが出にくいのである

蛙が鳴き植田があり萱草が咲き鷺が餌をあさる、この光景は見慣れたものだけどこの辺ではずっとそういう光景が一時消えたのである
それから田が元にもどり蛙が鳴き鷺が来るようになった
田んぼは生態系に融合したものとして自然の一部となっているからそれがなくなると蛙でも鷺でもいなくなるのである
それで蛙が鳴き、鷺が戻って来た時復興したと思った
田舎だとこうして生態系とともに生きている
都会だったら街の復興というとき建物とか道路とかインフラの復興になる

でも浪江の人は回りが草ぼうぼうになっているのにそのことで何も感じていなかった
仕事は東電でしていたから田畑に関心がなくなっていたのである
つまり田舎でもそういう都会人になっている人が結構いる
第一田畑で仕事している人は一割くらいであり他の人は別な仕事をしているからである
だから自分もそうだったが意外と農業のことがわからないのである
自ら米作りしたり野菜作りしている人は少ないからである

ただ生態系とともに生きているということは田舎では普通は感じる
コロナウィルスでも生態系のことを言われた、何か不自然に人間が生態系に入り動物からウィルスを感染する、だから原発でも生態系を破壊されたからコロナウィルスでも共通していたのかとなる
地球規模で生態系の自然の破壊がもう限界に達していた、だからコロナウィルスが自然の逆襲として広がった、また自らの生態系を守るためにウィルスが出てきたのかともなる

柚木(ゆぬき)の家は隠れようにあり何か蔵がありその前に大きな岩がありどっしりとしている、この家を見たとき何かここで営まれた生活の重みを感じる
家構いからしてそうなのである、兜屋根でありたいがい養蚕した場所がある
だからどれだけ養蚕が盛んだったかわかる
今になると地元に根付いた生業というのが大きなものとなっていない
当時は外から何か物が入ることなくやはり自給自足的な生活を継続していたのである
ただ養蚕は絹織物は輸出するためのものだったのである

とにかく大都会には生活の重みを感じられない、家自体がなにか狭苦しくおしこまれたようになるからだ、この家はどっしりとしている、岩もいい岩である
ただ家を勝手に写真撮ったりすると見ている人がいる
実は庭に隠れて人がいたのである
それに気づかなかったのである、それでとがめられたことがある
田舎では人がいないようでいる、そして見ているのである
誰もいないと見てもいるし見ているとなる、やはりこういう場所に来ると目立つのであるあの辺は木陰が多いから自転車で行くと気持ちいい場所である

2020年05月25日

牡丹の写真

 牡丹の写真

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朝の陽の光吸い込む牡丹かな


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これは大きくすると見栄えする、やはり牡丹は大きな花だからである

この写真は成功していた、私の庭の牡丹も毎年五六輪咲いていたが今年は一輪も咲かない
でも20年以上咲いていたのだから驚きである
やはり遂に土地の栄養分がなくなったのかもしれない
でも花を植えても三四年とかで消えたりするのが多い
ただ地下深く根を張る花は長く咲いている
やはり土地に栄養分がなくなると咲かなくなるようだ



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2020年05月22日

桐の花、、白藤の花、菖蒲(俳句短歌と写真を抽象画に)


桐の花、、白藤の花、菖蒲(俳句短歌と写真を抽象画に)

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ここは田んぼだった

そこに桐の花が咲くが田んぼがないから活きていない



石すえて白藤垂れぬ暮るる庭

この道を通りて猫や藤垂れぬ

藤垂れて猫じっとしてここにいる

雨しとと塵もつかずに桐の花


長々と白藤垂れてこの家に大きなる石すえて暮れにき

我が庭の木の実啄むヒヨドリの今日も来たりてつつがなきかも

ひそけくも桐の花散るこの道を今日も行きつつ災いなかれ

桐の花散りて静けき裏の道今日も行くかなひそかなるべし

なかなかに電車来たらじ黒揚羽線路をよぎり舞いさリ消えぬ

梅雨のようになった、桐の花がいつも行く道に咲いている
桐の花は会津の花である、桐のタンスとか有名だからである
桐の花でも田んぼに写すと映える、ところがこの辺で田んぼが荒地になっているのがまだ多い、ある程度は回復しても放置されて草ぼうぼうになっている
そこに桐の花が咲いていても何か活きていないのである
桐の花と田んぼが一体のものとしてあった
つまり景観とかは暮らしの中で作られてきたのである
だから原発事故以後そういう暮らしが失われて景観も失われたのである
自然は原始のままならいいが人が住んだとき人の暮らしと一体となり景観も作られてきたのである
それがこの草ぼうぼうの中に一本立っている桐の花が活きていないことに現れていた

写真の白藤の家は石を飾っている家として有名である
あそこは土手の道でいつも通っている
あの石は大きいし見ごたえがある、そこに白藤は垂れて咲いている
その土手の道に藤の花がたれる、そしていつもそこに猫がいる
猫と藤は似合っている、

写真をとりそれを絵にする、また抽象画にする、パソコンのソフトを使いこなせばそれができる、ただソフトを使いこなすことが容易ではないのだ
ただパソコンは人間の能力を頭脳を補うものとしてある
だから今までの機械とは違っている
AIが第二の脳となっていることが違っている
翻訳でも本当に人間より優れていることに驚く
現代はコロナウィルスでテレワークになったように家で個々人で仕事する時代になる、教育でも学校だけで習うものではなくなる
その時才能がかえって伸ばせて天才が相当数生まれるようなるかもしれない

そもそも才能はその人の資質もあるが環境の方が大事だからである
いくら才能あってもその才能を伸ばす環境がないと埋もれるのである
これから個々人が才能を伸ばす活かす社会になるのかもしれない
在宅が主になるということは集団ではなく個々人となり個々人の才能を育てるということに変わるのかもしれない
まず学校のような一様化した集団教育では才能は開発されないのである
自分は学校を卒業してから才能を開発してきた
それで何か絵の才能が全くなくても写真をとり抽象画にしたり加工して絵にしている
そのことが自分でも不思議なのである
だから人間の才能はこうして機械によっても開発されるものだと思った

ヒヨドリが毎日木の実を食べにくる、何であんな小さな実を食べて生きられるのか不思議である、飛ぶことには相当エネルギーが必要に思えるからだ
何か他にも食べているのか?
鳥は虫を食べている、虫はタンパク質があるからエネルギーになる
でも八つ手の木の実は小さいしそれがエネルギーとなるとは思えないのである
ともかく今は下の庭の見える部屋にいる
だから庭を見るからそこに自然があると安らぐとなる
自分の家は広いから知的作業をするには最適な環境である
大学生の時から書斎が自分にはあった、そういうふうに自分は恵まれていたのである

まず在宅で仕事するとなると広い家が必要である、そこで子供とか妻とかいれば仕事に集中できないからだ、それで問題が起きている
となると在宅のテレワークとなると大きな家が必要になる
ただ通勤とか車とかはあまり必要なくなる
その分大きな余裕がある家が必要になる、ただそうなると家は高いから問題である
何か邪魔されないように仕事をノートパソコンもって公園で仕事していたというがそれでは仕事に集中できないから問題である
そういうふうにコロナウィルス以後の仕事は変わりそれに備えることが必要になる
それは必ずしも悪いことばかりではないと思った
新しい時代の働き方でありまた学び方にもなるからだ

2020年05月14日

夏の日の川の土手の道(藤の花が咲く―写真)


夏の日の川の土手の道(藤の花が咲く―写真)

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なべの形したのがなべかんむり山である

これが鹿島町を象徴する山である

でもこの辺では高い山が見えないからものたりない、でも蔵王が見える場所があり紹介した


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写真⇒ソフトで絵画風に
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深野や紫と白の菖蒲かな 

深野(ふこうの)の田の面に写す桐の花


すくすくと真すぐに木の伸びにつつ五月の風にさやぎゆれにき

夏の日に河岸に鳴く鶯や三人ほどの休み語らふ

藤の花さわに垂れにき午後の陽の光り川面に輝きまぶし

紫と黄色の菖蒲映えにつつ夏の日明るく行き来するかな


今日は暑いけど昨日ほどではなかった、昨日はぐったりした
今日は真野川の土手の道を歩いた、そこで復興住宅の浪江の人が休んでいた
それで話したら同じ自転車に乗った同級生の人に出会った
何か半年ぶりくらいであった、どうしたのかと思ったが元気だった

あそこの土手の道はいい道である、人間はつくづく自分の住んでいる場所の良さを気付かないのである
あまりにも当たり前になって気づかないのである
なぜあそこがいいのかというと河岸に木が生い茂り今回は藤の花が垂れ咲いていた
川面に午後の光りが銀色にまぶしく反射していた
それは一幅の絵だったのである、絵にできないから写真にした
あそこの木を切れという人いた、洪水で水が流れにくくなり土手からあふれることを怖がったためである
実際に去年は水が相当に出てそれで川自体変わってしまった
川岸の花壇もみんな流されたてしまったのが残念だった
でも他では河岸の木を切ってもあそこは一部切ってもきらなかった
だから何かそこに夏になり藤の花が咲き鳥がとまったりして気持いいのである

今はカメラが欠かせない、映像の時代である、それで原町の植松団地で撮った写真を多少変えた、藤の花の写真を写真に藤の花が映っていなかったのでアレンジしたのである
何か写真は作れる、絵のようにもパソコンでできる
ただソフトが使いこなせないのである、機能が多くなりすぎたのである
私は絵の才能は全くないけどカメラとパソコンのソフトで絵が楽しめるのである

とにかく夏の日がまぶしく本当に夏だった、何か外で自然の中で話すると話がはずむのである、屋内より周りの自然が心に影響するからである
ただ明日から曇りがつづく、それが残念である
遠くに行けなくなる、暑いと日射病になりやすくなったのでひかえるようになった
五月にしては暑い、何か気候がおかしくなった
いつも五月には自転車で遠くへ行っていた、どうもここ十年くらいが天気が変動した
温暖化したともなるが暑いのである
一〇年前なのか二〇年前の中、五月はさわやかな季節だった 

それで気持いいから自転車でどこまでも行っていたのである
その時は家族もいたから恵まれていたし何か平和だったのである
そういう日は過ぎて動乱の時代になった、そして歳も取り体力が低下した
でもヤマハのYPG=XCは本当に乗り安いから乗っていて気持ちいいのである
それでなんとか今も遠くに出かけることができる
つまり技術の恩恵を受けるのは時代である、時代が進まないと技術は進歩しないのであるだから時代によって技術が進歩してその恩恵にあづかる
でも逆行に原発は技術のために悲惨な結果にもなったのである

深野(ふこうの)というとき地名がいいのである、それで菖蒲もにあうとなる
人間は名前に左右される、深野は何か地名ににあった場所なのである


2020年05月08日

藤の花(相馬市は詩と絵になる街―写真)


藤の花(相馬市は詩と絵になる街―写真)

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街道の藤の花
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相馬中村神社の神苑
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中村珈琲店の庭の藤

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白つつし夕べひそまり神苑に

夏柳風にそよぎて田町かな

奥に石木陰の深く藤の花                          

夏の夜や赤い満月昇るかな


新緑につつじの赤く映えにつつ蔵王大きく迫り見ゆかな

八重桜あまた散り赤し藤の花さわに垂れ咲き相馬市の暮る

紫と白の藤の花映えにつつ街道あわれ行く人のあれ

相馬市の通りにさしぬ夕日かな夾竹桃の街路を行きぬ
                

前に大きく見えた蔵王の写真をとるために同じ場所を探した、それがわからなくなっていた、場所は地図で示した、ここから意外と蔵王が大きく見えるのだ
他はこんなに大きく見えないのである、ここはだから蔵王のビューポイントである

相馬市は街として詩になり絵になる、何か特徴がないのだが街として活きている
それは原町と比べると違っている、原町は何か詩とか絵になりにくいと思う
街中に丸三製紙工場とかあり煙がでてたり何か街として整っていないのである
相馬市は城下町だから碁盤の目のように作られていて整っている感じになる

相馬神社の神苑にはいつも白いツツジが咲いて今日は藤の花が咲き八重桜が散った後だった、あの藤の花はいい
それから中村珈琲店に藤の花を見に行った、でも今日はコロナウィルスのために閉じていた、何かまだ正常にはならない、店も閉じているのがある
それか残念だったがあの藤の花は見ものである
相馬市の花は藤の花である、鹿島は草深く咲く月見草とかである
原町はひまわりがにあっている、何かにあう花がある、飯館村はゆったりと芙蓉がにあうただ人が住んでいないから花も活きてこないのである

相馬市の通りに夾竹桃の街路樹があり夕日がさして映えて絵になっていた
暗くなって赤い満月がでていた、赤い満月は見ることがある、自然現象であるが今回は大きく見えた、今日は夏らしい一日だった
風が涼しいから暑いというほどではない、去年は熱中症に二三回なった
今年はそんなに暑いというのではない、風は結構涼しい、それで自転車で走るのが気持ちいいのである


2020年05月02日

夏の日に小高まで(萱浜の雫の津神社の不思議-写真)


夏の日に小高まで(萱浜の雫の津神社の不思議-写真
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津神社と11面観音

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ここは海がすぐ近くにあるのに津波にも残っていた

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小高神社
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小高の海の方は田んぼが草原になっている

ここは馬を放つ、牧場にするのもいいと見た

北海道のように広いからである



復興やスーパーヒタチに夏の山

農家の庭までタンポポ入り咲きぬ

社一つ氏子の名前落椿

根の残る津神社にそ落椿

根っこにそ休めば涼し海の風

夏雲雀草原に鳴き沖に船

夏の海船の霞みて沖を行く


タンポポの綿毛や飛ばむ草原をスーパーヒタチの朝に行くかな

桜散る後に咲きにし紫のつつじや小高神社を我がたずぬ


まず塩崎の津波の後の草原でスーパーヒタチが来るのを待って写真をとった
いい写真をとるには場所が大事である、その場所が地元だとわかるのだが遠くに行くとわからなくなる
今はカメラが欠かせない、なぜならこうして毎日プログを書いているからだ
これが意外と手間であり疲れる、自分の場合、同じなのだけど二つのプログにアップしているのが手間なのである、これは成り行きでこうなったのであり変えられない

萱浜に菜の花が一面に咲いていた、何か子供が遊ぶ迷路がある
あそこも津波が来て人も死んだ場所であるが9年も過ぎた
でも不思議なのは津神社と11面観音とある御堂はなぜ残ったのか?
もうそこは海に近いし津浪に襲われたらひとたまりもない、御堂が流されたはずである
でもあの御堂は残ったのか?新しいものではない、それが不思議である

津神社とはツノ神社でありもともと雫(しどけ)の高い奥深い所にあったのを移した
それは烏崎でももともと高い所にあったのを下の平地に移した
だからもともと高い所にあり津浪が来ても流されない場所にあったとなる
なにしろ雫の津神社は高くて奥深い場所にあるからだ
この津神社はツノ神社でありツノガノアラシトが由来の渡来人を祭っている
ツノガノアラシトとは伽耶王国の王子であり日本がからここに来たのは鉄をとるためだった、砂鉄を求めて鉄を作るためだった、そういう技術者であった
松川浦のツノミツ神社もツノガノアラシト系の神社である
浜通りにはそういう系統が実に多いのである
それが先であり11面観音は泉にもありそこから移したて一緒に祀られたとなる

何かその御堂には杉の木とか津波の後にも残っていて椿が落ちていた
そして氏子の名前が書いてある板があった
ただ萱浜というと越中からの移民などか多い場所だともされている
だから人をみさば新しい場所だともなる、でも古代からの歴史がここにもある
それがこの御堂であり社なのである
だから何ともその切られた木の根っこがなんともいえず重々しい、根が長く大地になお
張っていたのである

それから小高に行き神社に回った、桜は終わり紫のツツジが咲いていた
これが似合っていた、何か紫は高貴な感じがするからである
はなまるガーデンに咲いていたのはペトリウムとか言った 

小高は海から駅まで津波に襲われたままの状態で草原になっている、それはスーパーヒタチの写真をとったようにやはり塩崎は草原になったままである
ただ小高は原町や鹿島と違って全体的には復興しない、何か空家が多く淋しいのである
今日は店でもみんな閉まっていた、コロナウィルスの自粛で閉まっていた
だから余計に淋しさを感じたともなる

何か小高の海岸の草原化した場所には馬を放つ、牧場にしたらいいのかとも思った
あのままではもったいないからである、海岸には野馬橋とかありあそこは小高から野馬を引き連れて雲雀が原まで来た道なのである
小高城は最初に相馬氏が築いた城であり由緒ある場所である
そして野馬掛け行事がある古い野馬追い発祥の地なのである

今日はとにかく暑かったから夏である、でもこのマウテンバイクは軽快に走るから気持ちいいのである、だからまだ遠くに行きたくなった
ただ去年は春に暑くて熱中症になったから怖い、ただいろいろあって体力的にも気力も落ちた、また回復したら最後の自転車の旅をしたいともなる
ただ今のマウンテンバイクではできない、荷台がないからである
荷台のある同じタイプのがヤマハからでている、ただこれ30万以上するから高いから問題である
いづれにしろ自分はもう今度旅するとなると最後になると思う
でも今は自粛だからできないとなるのが残念である





2020年04月30日

八重桜(桜散る後にほのぼのと咲く)


八重桜(桜散る後にほのぼのと咲く)


赤々と内よりあたたか八重桜

八重桜母のごとしかほのぼのと

八重桜咲きつづく道走り行く

八重桜に菜の花映えて田舎かな
                                                    

山桜あらかた散りぬなお風の荒しも今日もやまざりしかも


桜は散った、その後に必ず八重桜が咲く、それが季節の変化になる
桜と八重桜は相当違っている、桜は咲いたらすでに散ることを予感する
でも八重桜は散るという花ではない、何か桜があわただしく散った後に落ち着いて咲く
八重桜はなにか内からあたたかさを感じる
また母と言うだけではなく女性的な母性的な何かを感じる
だから桜と八重桜はまるで違ったものである
田舎だと菜の花に似合う花だとなる
だから八重桜も好きなのである、とにかくこれからはいろいろな花の咲く季節である

花でも自然に融合するには自然を見るにはじかに人間に接することが必要になる
自転車だと例えば山を見るにしても徐々に山に近づき大きく見えて来るとか見え方が違うのである、車だとなにか景色でも見え方が違う、だから自然にふれるには歩くか自転車がいいとなる
八重桜をが咲きつづいているところを車で走るのと歩くのと自転車で行くのでは感じ方が違うのである
それで車とういのは人間から本来の感性を奪ったともなる
それは電車とかでも言えるのである、それに気づいたのは常磐線でどれだけ仙台に通ったか?でも山元町の海岸線を自転車で行って蔵王を見たとき全然違っていた
電車で見るのとは全然違っていた、徐々に大きく迫るように見えたからである
電車の中だらぼつんとしか見えなかったのである

人間は車が走っていることに感じない、ただ物体が過ぎ去るという感じになる
ところが不思議に一人の少年が走っていた、赤いつつじが咲いて少年が走っている
芽吹きの季節でもあり何か少年が未来に向かって走っているという感じになる
車だったら第一その人が見えないからそういうことを感じないのである
車社会はだから便利にしても人間的なものを奪ったのである

それで変なのだけど自転車を乗っている人とは誰でも気軽に話し合う、でも車に乗る人とはほとんど話しないのである、車に乗っている人は車の中に閉ざされている
自転車だと姿が見えるから話し合いやすいのである
ただ自分自身は車をもっていないのだから車がどういうものかわからないのである
でも正直私は車が嫌いなのである、だからコロナウィルスで車が道路から極端に減少した時、交通事故もなくなり空気もきれいになったということがあり何か車の無い社会を見直すことにもなった

結局なにかと自分は現代社会に適応できないかった、学校からして適応できなかった
もちろん会社とか社会にも適応できなかった
それを一番象徴していたのは車に乗らないということだったのである
まず自分は車を運転できない、常によそ見しているから自然を見ているから事故になるからだ
ただこういう生活ができたのも別に生活に追われることがなかったからだ
だから常に自分は親に感謝しているのである
今の社会に適応できなくても引きこもりでも自由に旅しても何もとがめられることがなかったからだ、それも60までそうだったのである
何か普通の家族ではなかったにしろ自分にとっていい家族であり楽できたのである
それで人間は育つ家族の影響が大きいと思った
人間は育つ家族の環境でその人生が左右されることが多いのである

山桜もあらかたは散った、でも風が今日も荒いのである、何か今になって風が毎日吹いている、東風が吹いている、普通の桜が咲いてから風が吹いてまだ風が吹いて山桜に吹きつけている
それで落ち着かないともなる、それはコロナウィルス騒ぎが収まらないということで余計にそれを感じてしまうのである

2020年04月27日

(春の日)蔵王が八沢浦の奥から大きく見えた


(春の日)蔵王が八沢浦の奥から大きく見えた

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ここはもう一回行って写真をとる
ただ今日のように快晴でないときれいにとれない
大きなカメラをもってまた行ってみよう
ここは蔵王を見る穴場である


喫茶店隠さる山陰シャガの花

少年の走るやつつじ赤く映ゆ

春の山見えてなじみぬレストラン



田起こしのトラクターの音ひびきつつタンポポ畦に咲き満ちるかも
                                                
タンポポのいたるところに咲きだして燕飛び交い休みなしかな

大きくも蔵王の迫り山桜ここに咲くかな夕日さし暮る        

相馬の城跡たずね残る花一人二人や歩み去りにき 
                                                                  

八沢浦の行ったことのない道を行くと蔵王が大きく見えて鹿狼山も見えた
山が見える場所は不思議である、山は場所によって見え方が違う
山が大きく高く見える場所がある、ビューポイントがある
ヒマラヤでも3000メートルまで上らないと高く見えない、
また富士山でも同じである、何か小さく低くしか見えないことがある
だから山は見る場所によって相当違って見えるのである

北海老の山陰の喫茶店は本当に隠された場所にある、ただ二回ばかり行っただけだった
でもあそこはいつも通っている、今も開いているのかどうかわらなくなった
何か喫茶店が好きである、それも場所がいい所にあるのがいいのである
今度は宇多川の岸にある喫茶店を見つけた、そこも場所がいいと思った
そこにも今度入って見よう
どうしてか原町にいい喫茶店がないのである
いい場所はあるが喫茶店はないのである
喫茶店を回って楽しむのもいい、それにはやはり場所が良くないとだめである
何か食べるとなるとまた別である 

レストランといってもまるまつである、時々入る、相馬市と原町だといろいろある
あそけでカレーの弁当を400円で特別に出していた
この近くでは650円であり800円もして出している
これは高いと思った、ただまるまつのは特別である
期間限定である、ともかく料理がめんどうなので原町と相馬市は一人暮らしだと楽になる定食とかも手ごろなものがあるからだ、とにかく料理はいろいろそろえたり皿まで洗ったりとめんどうなのである
そこに時間がとられると他のことができなくなるのである

とにかく桜は散った、余花の季節で在りつつじとか山吹も咲きだした
田起こしとかあり暮らしがあると活気がでてくる、だからいつまでも放射性物質の廃棄場があるのかとなる、目障りなのである
小高とか浪江とかなるとこうして当たり前にあった田起こして田植えして畑で野菜を作るとかない、そこに暮らしがないと何か活気でない、飯館村では特にそうである
空家があり何か幽霊でも棲んでいる感じだった
別荘のようなこじんまりした家をみんな建てたがそこに人が住んでいないから村全体が活きていない、死んだようになっているのである

2020年04月24日

残る花の短歌


残る花の短歌


今しばし残れる花や病院に命いとしみ明日は散りなむ

今日もまた風吹きやまじ残る花夕べに見つつ帰りけるかな 

雨しとと余花のあわれもこの道を今日も行きつつ暮れにけるかな

みちのくの残れる花のあわれかな夕べ街の灯静にともしも

山の路去年(こぞ)の嵐に倒る木やそのままにして山桜咲く


ここの桜は散った、何か毎日のように風が吹いていた、桜前線はまだ北に進むと仙台とか盛岡では咲いているのかとなる
飯館村だと500メートルの標高の差があるから時期が遅れて桜も咲く
梅が下では散っても飯館村では盛りだったからだ
だから桜前線をたどるなら飯館村とかに行けばいいとなる
とにかく今年は遠くに出れない、だから仙台にも今年になって一回も行っていない
去年でも一回行ったのかとなる
それだけ私は旅もしないし遠くに行かなくなった
そして何か思い出す旅をしているのである

ただ桜前線だと6月のはじめまで日本では桜が咲いている、稚内市で6月でも桜が咲いていたからである、だからそれだけ日本列島は長く寒暖がある
それが日本の面白さだとなる
とにかく桜は咲いたら散るということを思う、その期間が余りにも短いのである
だから名所だけではない、いろいろな場所に桜は咲く、それが二週間しか咲かないから
限られられた桜しか見れないのである
どんなことしたって一生に見れる桜は限られている

私の場合、本当に贅沢な時間を過ごした、西の方に奈良とか京都とか何回も行っていたからだ、そしてそこは歴史の栄華の場所であり桜が散ってもみちのくに帰ると桜が咲いていたとなる

打ち暗み夕べ桜や高館(たかだち)に風吹き荒れて我がたずね暮る

高館義経堂 (たかだちぎけいどう)-義経終焉の地

何かこうしてある場所の記憶がよみがえる、それも不思議である
記憶の旅がある、平泉なら近いから何度でも行けるがここも十年くらい行っていないような気がする、介護とかあり行けなかった
ただまだ盛岡の桜は見ていない、青森の桜は弘前の桜は見た

近くの山の中に入ったら木が何カ所か倒れていた、まだ去年の嵐で川も荒れたままの所がある、あの台風の被害は思った以上大きかった
いたるところ水がでて小さな小川でも鉄砲水のようになり荒らしたのである
だからいたるところで木が未だに倒れたままなのである
その後遺症が残っているのに今度また台風が来たらどうなるのか?
これも心配だとなる、コロナウィルスも収束しないとしたら二重三重の被害となり
どうなるのだろうとなる

いづれにしろ私の場合は籠っていても別に退屈もしない、こうしていつも旅を回想したり書くことがある、それもインタ−ネットだから外に出る必要もないのである
ただ今コメンととかメールを見ていない、対話がない
それはこうして毎日プログに書くことがありそこに時間がとられるからである
家事も全部一人でしているしこれも大変なのである
だから料理は簡単にすまして食事の時間も短い、そこに時間をかけていない
そしてなんとかこれまでの書いたものを作品化しようとしている
でもこれも大変だと思う、手間がかかるのである

今回のように桜の短歌だけをまとめ桜の短歌集を作るにしてもプログとホームページからまた再編成しなければならない、それがめんどうになるのである  




2020年04月19日

桜散る(今年の天気は荒れ模様)


桜散る(今年の天気は荒れ模様)

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この倉はいつも絵になる
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水無川が流れている


春の雷仕事に張り切る大工かな

隣の市燕来たれり次の町へ

大きなる桜井古墳に燕来る

看護師のやさしくあれや花の影

新田川流れひびきて花に風    

荒壁の蔵や古りにき落椿

鳥飛びて芽吹きや滝のひびきかな


水無川今日日のさして光りつつきらめ流れ竹に風そよぎぬ

山桜ここに咲くかなふるさとのまだ知らぬ道我は行くかな

あらかたは昨日(きぞ)の嵐に花は散る残れる花になお風の吹く


何か今年は荒れ模様である、また寒いのである
昨日の嵐で桜は大方は散った、そしてまだ風が吹いている
何かそこに桜の命が息づいている
桜は常に散るものとして見ている
それが桜の特徴なのである

咲いた時から静心なくとなっている、そして風が吹くともう散ってゆくのが桜である
つまり桜はこうして散ることが美しいのである
それで大阪城跡の桜が散ってゆくのが何ともいえないものとして記憶に残っている
その時夕日が輝き沈んでゆく、それが心に残るのは人間の栄華がそこにあり歴史の記憶と一体となり桜の散るのが美しく見えたのである

大阪城栄華の城や花は散る夕陽耀(かがよ)いその時惜しみぬ

何か西の方には歴史があるから違っている、歴史の栄華がありそれで感じ方が違ってくるそれが東になると城があっても感じ方が違ってくる
江戸城などでもその跡でも大阪城のようなものを感じないのである
江戸城なら栄華があったのだから何か感じるものがあってもいいのだが感じない
第一江戸城というのは何かイメージできないのも不思議なのである
いづれにしろ桜というとき西の方が美しく感じるものがある
何かそこには人間の栄華あり歴史があり違って見えるのである

南相馬市立病院に桜が咲いている、看護師だと看護婦だとやさしくしてくれとなるが実際は看護というのは厳しいのである
何かヤワな人で勤まらない、家族に看護婦がいたからわかる、従軍看護婦となってシンガポールで四年間勤めた
それはあまりにも過酷でありとてもやさしいだけでは勤まらない、強靭なものがないと勤まらない
だからやさしさでも強さがないとやさしさももてない、それがむずかしいのである
ただ看護師はいめーじり強面の体育系が多いのもそれでわかる

燕が来ると何か気持ちも新しくなる、それで相馬市から新地から山元町へと自転車で行った
ここは原町市もあり相馬市もありそれなりに都会があるともなる
ただ規模は小さい、仙台市となると規模が大きい、でも去年は一回行ったのか今年は行っていない、というよりコロナウィルスで行けないのである
スーパーヒタチでもがら空きで人が乗っていなかった
常磐高速のSAでも人が少ないという、こうして交通機関とかは客が急激に減った
第一人と接触することが危険だからどうにもならないのである
みんなマスクしているし近づくこともできないとなるからだ












2020年04月14日

春の夜に死んだ人を思ふ短歌十首 (忘れられるのは人の世の常)


春の夜に死んだ人を思ふ短歌十首

(忘れられるのは人の世の常)


隣なる女(ひと)の思ほえず死ににけり忘れ難くもただずみてあり

死ぬ人の心に残るそは何やなお見つめあれ我が庭の花

隣なる人も老いにき病なり妻も死にしを誰かいたわる

ただしばし逢いにし女のあわれかな嵐に花の散らさる夜かな

亡き人の面影浮かびあわれかな嵐に打たれ花は散らさる

年老いて死ぬ人多しかの人のなお生きにしや春の夜思ふ

友見えぬ何かと思ふ春の夜近くにありて心にかかる

人死してなほ残りしは家なりき思いの深く我は継ぎ住む

この家の五〇年はすぐ春の夜や嵐に打たれ痛み建ちにき

この土地に乳と姉住み母の住み我は受け継ぎ春の夜ふけぬ

去る人の日々に疎しと新たにそ来る人ここになじみけるかな

亡き人の遠くなりゆく十年は一昔かなたちまち過ぎぬ

それぞれの家にそ深き思いあれ人住まずして荒るるは悲し

人はみな忘れられしも悲しかも常なき世かな人は変わりぬ


昨日は嵐であり今日は風が強い、桜も散り始める、何か近くの死んだ老人が言っていたことを思い出す、次々に死んだ人が夢に現れて消えたという

これは何を語っているのか?

おそらくそれだけ近しい人が親しい人が死んだからそうなる、最近経験した一番不思議なことは隣の女性が突然死んでいなくなったことである
その女性とは別に親しくもない、ただ庭に来て花を見て話したことがあったというだけである、ただそれも何回かであり何の親しいということもなかった

でもなぜその女性が死んでしまったことで感じるものが生まれる
それは親しいとかではなく隣に住んでいて隣だから否応なく接することがあってそうなった、ただ隣に住んでいたというだけで死んだ時その人がやはり隣に立っている感じになった、そして自分を見つめている感じにもなったのである
人間はやはり今住んでいて人間的感情をもつのは近しい人である
遠くなったらだんだん去る人は日々に疎しとなる、これはさけられない
ただ隣にいるというだけでそれが最後に身近な人として死んでも思うようになる
遠い人はもう思い浮かべることもできないからだ
だから別に親しくなくても近くに住んで日々顔合わせていればその人の方が大事にもなる
特に晩年はそうなってゆく、なぜならそこが死ぬ場所になってしまうからである
最後に逢っているのは近しい人ともなるからだ

ただ本当にこの年になると死ぬ人が増えて来る、家族もみんな死んだ
それも姉の場合でも10年とかすぎてしまっている、これも早いなとつくづく思う
すると何かその記憶もあいまいなものになってゆく
去る者は日々に疎しとなるのが人間である
いくら親しくしてもそうなる、今現実にここにいる人間が親しいものとなる
そして死んだ人は忘れられてゆくのが人間である

死んだ人は忘れられるが家は残っている、家というのは何かその人の思いの残ったものしてかえって存在感があることになる
人間は死んだら骨となり灰となり塵となり消えるからだ
でも何か残した物は何千年も残ったりする
それでその物を通じて昔を偲ぶとなるのである
とにかく家にはそうして何か故人の思いが残った場所なのである
その土地でもそうである、何か思いが残った場所だとなる
その家にはそれぞれの歴史が必ずあるからである

それで原発事故の避難区域は廃屋となり幽霊屋敷のようになった
それがなんとも淋しいのである、それは人が住んでいたから余計にそうなったのである

春の嵐の夜にこんなことを感じて短歌を作った
今日も風が荒れて桜に吹いているから何か今年はコロナウィルスもあり荒れ模様である

2020年04月10日

桜満開―(南相馬市鹿島区の桜の見所)



桜満開―(南相馬市鹿島区の桜の見所)

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さくらホールの丘の公園

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海望む故郷の丘朝桜          

丘の上桜の映えて遠き山

街中を縦横に飛ぶつばめかな

新しく日をまた生きむ春の雷

始動する仕事仲間や春の雷

春の雷刺激与えぬ春の雷 

若き人仕事に挑む春の雷

老いてなお若返らむや春の雷

灯のともる枝垂桜や奥の家

田舎駅待つ人あれや春の月

人逢いて去りて遠しも朧月


みちのくに桜咲きしも風荒し夕日のさして幽か月いず 

風荒し桜をゆすり一日かな散るを思いぬ盛りみじかく

やさしくもきらめきあいぬ星いくつ満月光り花咲き満ちぬ

今しばし逢いにし人も去りゆけば定かならじも朧月かな




故郷の春の丘

ふるさとの丘にスミレ咲き満つ
桜も今し盛りと咲きよそおいぬ
遠く霞みて鹿狼山が見える
さえづりは森にひびきわたり
花の影にそ我は休らふ
ふるさとの畑に耕す人のあれ
実りと幸をここにもたらせ
遠つ世の古墳のそちこちに真野の里
眠れる黄金の魚はここに見出されて
春の雲は真綿のように浮かび
孫と祖母が畑にありて春の日はあたたか
いたく傷つくふるさとなりしも
新たなる装いはまたあるべし
川は光り流れて芽吹きの樹々
つばめ来たりて喜々と飛び交いり
ふるさとに悲しみ苦しみの日よ
涙はとどまらず我が家族はみな死す
人はそれぞれの悲しみを持つ
花はことしもはや散りぬ
残れる花に月影さして誰か見る
花びらの数片かそけく散りて
死者は遂に語らざなりぬ
歳月はまた流れ新たにふるさとの丘よ
生はここに継がれて回復すべしかな
死者はその日を見ずに死にしも
いつしか時を経て報われるべしかな
神にかく願うべしかも
それぞれの日々の務めを果たして
その祈りは通じ祝福の注がれるべし
人の技に限りあるを知り
神の技に限りなしを知るべし
平和の日は長くここに誠の実りあるべし

今年の桜は最初風が荒く吹き波乱含みだった、何か桜の時期は風が吹いたり荒れ模様になりやすい、桜の特徴は咲いた時すでに散ることを見る、だからこそ

紀友則(33番)『古今集』春下・84

ひさかたの光のどけき春の日に 静心(しづごころ)なく花の散るらむ

花は咲いた時すでに散るのを見る、だからこそ本当に静心なくなのである
咲いた時から心が騒ぐのである、だから風が吹けばすでに散るのかともみる
ここに桜の特徴があり他の花とは違っている

南相馬市で桜の名所というととどこなのか?
意外と桜の名所がわからない、それは有名でなくてもいくらでも桜は咲いている
そして桜が意外と名所でも見れないのは咲いている時期が二週間くらいしかないからである、その間にみれなければその一年は見れないから意外と見れないのである
私は桜前線をたどって桜を見てきた、その時は贅沢な時間だった
みちのくから京都の方の桜を見に行きみちのくに帰る、すると桜は京都の方が西が散ってもみちのくでは咲いている、逆にみちのくはそこで空間が隔てられて季節も違うということになる、その時間差が風土の相違が趣をだしている
みちのくと言ったら昔はもう江戸時代でも芭蕉の時代でも遠い異国だったのである

宮こをば霞とともに立ちしかど秋風ぞふくしら川の関

春に京都を旅立って秋になっていたのだからその距離感覚はもう今ではイメージできないのである

南相馬市だと鹿島区の桜の見所は今は桜平公園であるがさくらホールの丘の散歩道がいいそこを散歩すると遠くの山が見えて見晴らしがいい、桜の下にスミレが咲いているのもいい、ただここからせ海が見えないのである、桜平山公園からは海が見える
ただここが残念なのは桜の木が枯れているのが多くなったことである
でも海が見えるので桜を見るにはいい場所である
あとは川の土手の道に桜が咲いている、これはどこでも咲いている


今年は庭の木を剪定してもらったり家を改装したりしているから忙しかった
それでその家の改装をしてもらっていきるとき突然春の雷が鳴りとどろき驚いた
仕事は二人来てしている、人間は仕事している時華である
これを意外と理解できない、なぜなら今仕事している大工さんでも66才だとするともう少ししか仕事ができなくなるからである 
若い人も一生懸命仕事している、庭作りの仕事をしている
それを見ていると気持ちがいい、人間はやはり自分の仕事をもたないとだめである
何か何もしないニートとかがどこにでもいるがそれでは人間として生きていると見えない異常化する人間になる、自分も仕事はしていないにしろ旅がある意味で仕事だったとなるなぜなら現代では旅人はいないのである、ただ発達した交通機関で移動して旅館で保養しているだけなのである
だからもし西行とか芭蕉とか山頭火のように本当の旅人がいたら貴重だとなる
でも現代は交通機関が発達して旅人になれないのである

昨日は朧月だった、人間は逢っても別れるとその人は朧ろなものとなる
何か定かなものでなくなる、これは別に恋の歌でも何でもない、人間自体が常に逢っては別れる存在なのである、そして最後はみんな「さよならだけ人生だ」となる
先日隣の77歳の女性が死んだことには驚いた、その人は数カ月前に庭とか歩いていたと見たからである、そして私の庭の花を見て話ししたりしたことがあったと記憶する 
別に深い付き合いがあったわけではないが隣だったので驚いたのである

復興という時南相馬市の鹿島区は復興している、昨日は障害者の学校が開校した
110名くらい生徒がいて小学校から高校までの一貫教育である
ちょうと鹿島区が原町市と相馬市の中間にあるから交通の便でできたという
鹿島区はそういう位置にある
今年は家の改装工事と庭の手入れで時間をとられた、遠くの桜は見に行っていない
ただ飯館村だと標高が500メートルくらい高くなるから平地では梅が散っていたが飯館村では盛りであり梅がふんぷんと匂っていたのである
でもあの新しいこじんまりした平屋の家には人が住んでいなかったのである
だからそれが淋しいと感じたのである、やはり人が住まないことには建物だけ立派でも
栄える市町村にはならないと見た

とにかくコロナウィルス騒ぎで今年は波乱含みの春である、でも春は春である
何かわからないがコロナウィルスでは田舎の地方の実家に帰る人が増えている
でも東京から來るなとも言われるから苦しい
でもコロナウィルスでこのように何か変わる、田舎への地方へ人が移動する、東京脱出が今だけではなくこれからも起きる予感がする
時代が世界までコロナウィルスが変えることの驚きなのである
すぐ近くの人が東京のライブハウスで感染したことにも驚いたからである

桜前線の短歌



2020年03月31日

みちのくに桜咲く(動乱の時代へ)


みちのくに桜咲く(動乱の時代へ)


波ひびく太平洋や朝雲雀  

沈丁花匂い一人活かす家


太平洋一望にして春の朝雪の覆いし蔵王を見ゆかな

三分ほど花の咲きにきみちのくに風は冷たく身に吹きにけり

昨日ある人も還らぬ人となる世の移りのことに早しも  

ふるさとに苦しくも生き老いし女春となりしも幸のあたいぬ

世にたてば嵐の起きてうたるるや神の意の成り我は死になむ  

小さなる者にしあれど大いなるものに殉じて大となりなむ

天地鳴動
人心一新
世界動乱
壮士起立


桜は三分咲きになった、でも東風が冷たいのである、今になると何か寒いのである
桜前線もこれから北に向かって北上してゆく、
ここが三分咲きだとするといわき市では満開になったところもあるだろう
仙台は同時期になるだろう
この桜前線は日本独特のものである、日本は意外と狭いようでも北海道から沖縄と
北国から南国まである、距離的には長いのである
そしてここから蔵王が見える、ということは山形県が親しいとなる
なぜなら福島県でも阿武隈山脈また高原にさえぎられて福島市の方は全く見えない
吾妻山も見えないからである、霊山まで行かないと見えないのである
だから福島県は地理的一体感を感じないのである
蔵王が見えるからすると山形県を思うことになる、海岸線は海を通じてつながっていたことは津浪で実感した

何か確かにその女性は苦労したのだけどでは同情するのはいいがそれで幸を与えるということはなかなかできない、ただ損するだけだとなる
だから愛をもてというときそれがむずかしいからキリスト教でもやめた人がいた
とても実行できないからである、それぞれの暮らしがあり例えば家族がありそこには金は使っても他人に金を無償で与えられるのか、それはなかなかできないからだ

ただ宗教というとき我を消すことである、人間は結局我(が)に生きる、我欲を消すことができないのである
神とは我を消したところに現れる、人間はただ自分の意を成そうとしている、意を通そうとしている
それで神にとってはその我が邪魔になりかえって神の意が成せない、つまり人間は自分の我を通そうとするだけなのである
宗教団体とはまさに集団で我を通す団体にすぎないのである
巨大な我(が)の塊りとなっているのでありそこに無心の人など一人もいない
だからこそあれだけの人が集まったのである、我が集積して社会に我を通そうとしているだけなのである

仏の意も神の意もない、ただ人間の我欲が集まり巨大化しただけのものである
団体となると他でもみんな利権になっていることでもわかる
原発利権もあったし漁業利権もあったし医師会の利権もあるし労働組合利権もあるし宗教団体も宗教に名をかりた利権団体なのである、それは京都辺りの寺でもそうだしもともと寺自体が侍が支配する前は現実に城がありそこは集団で我欲を通す支配する場だったのである
ともかく今何か社会が変革すのるとき大きく変わる時なことは確かである
それはこの辺で津波や原発事故がありそこから大きな変化がはじまりコロナウィルスもその続きだったのかとなる、これは局所的ではない、世界的になっているからだ
世界自体が変わってしまう、だからこれは何なのだろうとなる
何かこういうとき社会が大きく変わるからそれに応じて人物も出てくるとなる
そういう人が若い世代から出るということがある
明治維新の志士がそうだった、規制のものを打ち破るのはやはり若い力が必要だからである

とにかく70年間隔で大きく時代が変わる、明治維新から70年で戦後の焼野原から70年になるからだ、動乱の時代になったのである
ただ何かを成そうとするとき若いと自分の我を通すことになりなかなかは無心になれない我が意を成そうとするのであり大きく神の意を成そうとならない
つまり自分が成すことではなく大事は神が成すとならねばならない
何か大事はとてもいくら天才的優秀な人でも成せないのである
そういう人も独立不羈の人でも天才でも巨大な我になっていた
三島由紀夫なども実際は自分のエゴであり我になっていた
国に殉じるなどではなく自分一個の我を通すためになっていた
つまり何か自分で英雄とかになるにしてもなれないのである
それは時代が成さしめるのでありいくらそうなろうとしても成れないのである
いづれにしろ津波でもそうだし何か天地鳴動して世の中も動乱の時代に入ってきていることは確かである

2020年03月26日

梅散る-春の森(常磐高速鹿島のSAの裏の森を行く)


梅散る-春の森(常磐高速鹿島のSAの裏の森を行く)

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炭焼き小屋

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今しばし梅の匂いや我がよりぬ明日はありとも知らぬ身なれば 

この森に若木育ちぬ真直かなさえづりの声ひびきわたりぬ

蔦からみ倒木さえぐ森の道一つの命ここに埋もれぬ   


常磐高速のSAの裏の森を行った、自転車で行ける道だった
若木が育ってていた、何の木なのか?
杉ではない、でも真っすぐに伸びていたので気持ちがいい

そして倒木が道をさえぎる、去年の台風の被害は意外と大きかった
だから森でも川でも今でも荒れているのだ
この倒木はいかにも森の中の大きな死を感じる
森の中の多くの木としてあったときは感じない
でもこうして森の中に倒れているとその存在を感じる
その木に蔦がからまり倒れていた
それは人間をイメージする、木にからまる蔦は人なのである

こうして木が倒れてもこの木は森に還る、森の栄養となり循環する
落葉もそうである、ただこの辺では放射性物質も循環して消えないから問題だったのである
小山田の森は結構深いのである、日本は田舎だったら近くに深い森がある
でもそれが利用されていない、炭焼き小屋があったから昔はここで炭焼きしていたのである、ここにはそれだけ豊富な木があったからである

梅は匂い散った、隣の女性が死んだのには驚いた、常に死に接すると人は簡単に死ぬものだと思う、そこにいたのだけどいなくなっている
そうして永遠にいなくなっているのだ、逢うことも永遠にないというのが不思議なのである
だんだん本当に60以上になると確実に死に向かっている
何か死刑台に向かっている感覚になるのだ
この気持ちは若い時は40くらいでも結構生きると思っているから感じないのである
50過ぎるともう人生も晩秋を迎えたと感じる
そして私の場合は50から世界旅行していたのである
今になると遠くに行きたくない、人ごみに行きたくない疲れるのである
だからじっとして閉じこもっているのがいいとなる
それはコロナウィルスで外に出るなというとき自分には苦痛にならないのである




2020年03月20日

蝶の舞う道(南相馬市の原町区に発見された森の小径) (駅近く新しい避難施設の公園から入る)





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原町駅から雲雀が原への近道

ここの道は雲雀が原の裏手に通じている、雲雀が原までの近道なのである

こういう道はわからなかった、雲雀が原へは遠い道を行っていた

ここは最短路であり眺めがいいから市街からも近いから穴場だったとなる


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ここに座る場所があり机もある
休むにはいい

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東屋がある丘



春日さし石もあたたまる道の駅


隠されて社一つやここにあり去年の落葉を踏み参りけるかな

柔かに枝の影交じり春日さす森の小径を我が歩むかな

原町の街の近くに隠されて森の小径や紅梅映えぬ

街近く丘に東屋一つかなイヌフグリ咲き国見山見ゆ

春日さし松の間静か我が歩む三種ほどの蝶の舞いしも


原町の駅の方から自転車で回ったら公園があった、これは見たことがないと入った
そこに施設があり中に入ったら一人の管理人がいた
その人と話した、ここで休めるのかと聞いたら休めるという
避難所施設なので料理する場所とか避難所用に作られている
備蓄する倉庫もある、公園では臨時にテントとして利用するものもある

ここは県営であり県で各地に作っている避難所である
諸井花店とかで公園を管理して花とかも植えると言っている
県営の公園はそんなにないと思うがこれは避難所ということで特別作られた
ただ椅子があり机があり何かここで休むにはいいと見た
ここが駅から近いということで休む場所としていいと見た

そこに稲荷神社が隠されるようにあった、そこを入るとまた溜池があり小径がつづいていた
そしたら紅梅が何本も咲いていたのが意外だった、水仙も咲いていた
その道は雲雀が原につづいていて東屋があり国見山とか見えた
ここが意外だったのは街につづいていてこうした森があると見えなかった
普通は街から森が離れているからである、ここは散歩するにはいい
駅からも近いのである

この辺は原発事故以後は施設はいろいろなものができた
ただ南相馬市まではいいが浪江となるとほとんど人が帰っていない
常磐線のスーパーヒタチが通るようになったが双葉、大熊辺りは人が住んでいない
そして原町でも鹿島でも相馬市でも新地でも移り住んだ人が本当に多い
だからスーパーでなんでこんなに人が来るのかとか知らない人と会うのかとなる
ちょっと話してみるとここに前から住んでいる人ではないのである
それだけ外部から移り住んだ人が多いのである

とにかくあそこの道は街とつながっていて身近である、だから意外であり散歩するには最適な道だとなる、だからあの辺に喫茶店とかあればいいとかなる
駅前にあっても眺めが悪いと価値がないとなもなるからだ
駅前に喫茶店があるのだがそこが暗くて何か嫌なのである
食事でも眺めのいいところで広い場所でとるのがいい
それでホテル兼用の高見食堂には良く行くのである
ただ正直外食は必ずあきるのである、それでどうしても自分で料理せざるえないのである

2020年03月13日

梅匂う(死者は家に生き続ける (忘れられない家族と死んでも生きる)


梅匂う(死者は家に生き続ける

(忘れられない家族と死んでも生きる)

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真日さして山鳩数羽梅匂う

雨雲に月の隠れて春の夜                            

梅の香の夕べ満ちにつ闇に入る 

初蝶の庭に飛び来ぬ人変わる
        

姉死して9年すぎしやなおあれや我への愛の家に残りぬ

目立たざる母にしあれど我が家を支えて長し死してねぎらふ 

相馬焼に猫柳さし梅におい遺影を見つつ我が家に安らぐ

死者はなお家にありしも我が一人なおともにしもあると生きにき

目立たざるクリスマスローズ一輪の我が庭に咲きそを知りふれぬ

餌をやる女(ひと)の死にしも猫は来る知らずとあわれ年はへぬるも

その女(ひと)とわずかの時のともにあり死して見ざりき春になりしも
                              

人間は本当に死ぬと不思議である
自分の場合どうしても姉と母のことが忘れられない、それは複雑でも60年以上一緒にいたのである、子供の時から一緒に一つの家にいたのである
そのことが影響して忘れられなくなった、両親でもそうして一緒にいないと情も薄れてゆく、でもこうしし死ぬまで一緒だったから死んでも依然としているような感じになる
そして自分は複雑な家族でも特別良くされていたのである
何かとがめられたことがほとんどないのである
仕事しなくてもそれをとがめられたことはなかったのである
旅に出てもいつも待っていたのである
その時家事は一切しなかった、30年くらいそうして恵まれた歳月が夢のように過ぎてしまたっのである

最後は悲劇にしろ二人のことは忘れられないのだ
そして何か不思議なのは依然として家にいて当時のようにそこにいる感じになる
何か死者は簡単に消えないのである
何か愛情をそそいだ場所に依然として愛が流れている、エネルギーを感じるのである
死者はそんな簡単に消えない、確かに体はなく何もなくなる
でも依然として霊となってとか何かが存在し続けている

そして花を挿す、供物をささげる、そういう行為で死者ともつながる
死者は消えてなにもないのだが花でも供物でもそれを通じて死者とつながるということがある、たから本当は死者には花でも供え物でも欠かせないのである
墓ではそうしなくても家に遺影があればそこにいつもいるという感じになる

隣の人が死んだ、その女性とはわずかに花がどうだとか話したりした
でもそれは四五年くらいだった、その前は自分は家族がいて誰ともききあっていないのである、家族がみんな死んでからしかたなく話すようになったのである
その女性はおとなしい女性だった、歳は60代から70くらいなのかそんな歳である

その女性が死ぬとは百パーセント思わなかった
数カ月前も庭を歩いたのを見た感じだった
ただその女性は野良猫に餌をいつもやっていた、そのことで自分も猫を飼っているから話した、何匹か野良猫が集まっていた、その野良猫が自分の家の猫の餌をねらって入ってくる
でも餌をやっていないようだ、どうしたのだろうと見ていた
それも最近のことだった、あっけなく死んでしまったことに驚く
仙台の方で入院はしていたようだ、何かそこで早く死んでしまった

とにかくこの年になると知っている人が次々に死んでゆく、隣近所でも死んでゆく
そこでいつも人間のあっけない死に驚く
こんな簡単に死ぬのかと驚くのである

人間は常に変化である、人も死んだり新しい人と入れ替わったりと人間関係も変化である今や昨日会って見ていたが死んだとかなる、それから二度と会えなくなる
人間は次々にあっけなく死んでゆくだけだとなる

初蝶を庭で見た、今日はあたたかい、梅はふんぷんと匂っている
三日前辺り月は雨雲に隠れた、まさにその女性は時死んでいたのである
隠れるとは死ぬことである、その女性の一生は何なのだったのだろうとまたふえかえる
でも次々に死んで忘れられるのも人間なのである
正直夫が一人残されると淋しいとなる、早く妻を死なれた人は悄然としている
息子家族と一緒にいるから一人ではないにしろ淋しくなる

人間は愛着ある場所に生き続ける、そこにいたいからだ、原発事故はそういう場所を奪ったともなる
なぜならそこには死んだ愛する人が生き続ける場所でもあったからだ
ただ自分が生きている間は偲ぶが後はしのぶ人がいなくなる
とにかく人は一時を一緒にいるだけである、実にはかない、後は死んで逢わなくなる
この年になると逢うとしてもほんの一時で後は死んで逢わないとういことが多くなるのだ
それは家族でもそういうことがありたださよならだけが人生だとなってしまうのである

2020年03月07日

梅匂う(海老浜と日立木駅辺りを行く)


梅匂う(海老浜と日立木駅辺りを行く)

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海老浜
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日立木(町場橋)

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薬師堂
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老の身に霰や厳し生き残る

相馬焼に梅挿しにほふ遺影かな

猫柳姉の遺影に挿しにけり

蕗の薹ここに芽生えてイヌフグリ

梅においしばしよりにき昼の月

春の日の日立木駅や昼の月      
                                      
里暮れて柔和なる月いずるかな

今日一日東風(こち)吹き遠きを思うかな


海老の浜津浪よりはや十年や春日さし松の育ちけるかな

日立木の町場橋かな紅梅の薬師堂に映え松並木行く


一時霰がふった、その後結構寒かったら春寒しとなる、老人になっても厳しいことはあるしかえって苦しいともなる
でも今日は一日東風(こち)が吹いた、一日吹くということは春になったということである
東風が吹いても北風がまた吹いたりするからである
この東風はただ原発事故の時悪く作用したのである
ちょうど爆発した時、東風吹いてそれが放射性物資の塊りとなってブルームとなって飯館村から福島市に流れた
だから不運だったのである、それでいまわしい記憶ともなっている

海老の浜に津波の後に松が育っている
やはり十年すぎると人間だと小学生くらいになったのかと見る
でも大人になるには後20年くらいかかるから先が長いとなる
新たに苗を植えた所もありそれも先が長い、大きくなるのはもう見れないとなる
育った松は震災の後に落ちた種が育ったのである

蕗の薹が出ていたから春である、日立木駅は本当に無人駅である
一人二人しか乗り降りがない、鹿島駅は今は高校生の見守りの人がいるから無人駅でもなくなった、日立木駅は本当の無人駅である

日立木の町場橋はやはり街道と関係があるのだろう 

ちょう ば ちやう− [3] 【町場・丁場・帳場

@ 宿場と宿場との間の距離。ある区間の距離。 → 長(なが)丁場
A 夫役で、運送・道路工事などの受け持ち区域。工区。持ち場。
B 馬子やかごかき・人力車夫などのたまり場。

@ 宿場と宿場との間の距離。ある区間の距離

これが適当なのかもしれない、なぜなら松並木があり街道であるからだ
相馬市の城から歩いて来てここで休むとういことがあったのだろう
ただこれは歩いてみないと感覚的にわからない
だから歩くといいのだけど私は歩いた旅は近くでもしていない、疲れるからである
だから歩く人には感心するのである

東風は海から吹いている、だから広い海を思う、東風が吹くと遠くに行きたいとなる
ただここ十年は遠くに行っていない、去年だって仙台に一回しか行ってない
今年になっても一回も行っていないのである
コロナウィルスになってまた出かけにくくなったのである
結局人間はいつか旅すらできなくなる、何するにしろ体力もなくなるしできなくなる
何か登山しようと思ってリュックを買ったがこれも無駄になった
新しい機械も道具も買ったが使いこなせなかった  

つくづく今までしたことを続けようとしているのだができなくなる
それで車の免許でも返納して運転できなくなるとき本当に老いを感じるのである
老いとは今までしていたことをしようとしてもできなくなることである
それでがっくりとして老いるとなる
そういう日は誰にでもくる、だからやりたいことをやっていないと損だったとなる
海外旅行を50でしていたから良かった、そうでないとできなくなっていたからである

姉には猫柳がにあっていた、良く近くの河原でとってきたからである
認知症になったとき本当にあわれだった、最後は無惨だった
でも自分には良くしてくれたから忘れられないのである
複雑な家庭だったが自分にとっていいものだったのである
それを死んでからつくづく感じるのである
二人がいて自分がありえたとつくづく思うからである






2020年02月29日

春寒し(小山田の堤(つつみ)-静謐な堤(詩)


春寒し(小山田の堤(つつみ)-静謐な堤(詩)

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富士の花は良かった、白藤と紫の藤もあるからだ

これを白い藤と別に紫の藤を作るのもいい

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あそこに二つ山が見えるのは大原の山だろう
何かもう一つはっきりしないが大原の山が結構鹿島からも見える

静謐な堤

静謐なる堤
春寒しかな
去年の落葉を踏み
ひそか群れいし鴨
音もなく水脈引き
ここを乱さざれ
聖域のごとくに
幽かに夕べ繊き月  
水面に写して暮れぬ
丘に一本の樅の木
真直に立ちて
ここを己が場として
動かざるかな




春寒し病の老人増えにけり

晩年に春の霰に打たれけり

この道や梅の匂いて今日もよる


大原の双子山見え夕ぐれや春なお寒し小山田の堤

夕暮れや去年(こぞ)の落葉踏みにつつ隠さる堤鴨の群るるも

ひそけくも鴨のむれいし堤かな春の寒しも繊き月いず


常磐高速のSAに小山田まわり行った、何か手芸の催し物をしていた
それからまた小山田の堤を通り帰ってきた、あそこの堤は結構大きい
とにかく田舎には堤がため池が多い
そこは一つの自然の池のようにもなっている
それで飯館村ではそこをキャンプ場にしたけどあの池は浅いからたいした堤ではない
深い堤がこの辺には多いから見劣りする
あそこは自然の散策路にもなっている

あそこから大原の双子山見えた、これは別にそういう名ではないけど丁度二つの山になっているから私が勝手に名付けたのである
何か一時1月でも暖冬だったけど今になって元にもどった
寒いのである、だから春寒しである
二日前だったとか霰も降ったからだ
これは季節が正常にもどったのかとなる
ただ梅は相当に咲いたから早いのだろう

今日は細い月が出た、ひっそりとあの堤に写しているだろう
あそこの道は散策路として整備されているしいい場所である
こういう場所はなかなか外から来た人にはわからないのである
田舎には何でもないようでもそうした隠された場所が必ずある
でも外から来た人には気づかないのである
どうしても目立った所に行く、だから田舎に知るにはある程度長く滞在しないとわからないと思う

季語的には鴨は冬なのである、春の鴨ともあるが今は春という感じがしないのである
寒々としている、今頃このころ風が吹くのだけど今年は吹かない
これから吹くのか天候は歳によって変わる、去年から今年と変則的だったのである


2020年02月21日

冬日没る(大原の里)


冬日没る(大原の里)

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変わらずに山脈区切り冬日没る

誰が参る大原の社冬の暮 

枝ゆらし東風(こち)吹き山の道を行く


跡を継ぐ人のなきしと嘆き死す大原にきて冬のくれかな

太原に空家の形見と残りしも墓に入りし冬のくれかな

太原に冬の日没りぬここに住み死にし人を我が思ふかな

知りし人ここに集まり冬の庭石のいくつか変わらざるかな


阿武隈山脈があり冬陽が没してゆく、この阿武隈山脈に遮られる、区切られる
この地形は太古から変わらないのである
どうしても福島県の浜通りはこの阿武隈山脈にさえぎられるから福島県との一体感がないのである
この地形とは変えられないからである
いろいろなものが変わる、でも地形は基本的に変わらないのである
だから政治でも現代でも地政学がありそれは変わらないのである
山が平地になったりしないし海も陸地になったりしないからである

国とは区切るからきたとか言われる、岩手県の区堺(くざかい)とかそうである
・・・区とは区切られた一地域である
国もそうである、やはり日本だと山が多いから山で区切られた地域だとなる
盆地も多いからそこが小国とか一つの国になる
この山を平地にしたりできないからである

深野のユッサに休んでそこから大原に行く、そこに病院で知り合った大原の農家の人が住んでいた、その人は死んだ、家は空家となっている
息子は市街に住んでいる、それで後継ぐことで何か頼んでいた
でもそこは空家になったままである
その人の墓は森の中にあった、息子が墓参りには来ているだろう
でも息子夫婦はもう大原には住まない、その後放射能騒ぎあった
それて土地をもっていたからかなり補償金をもらったかもしれない、そこは放射線量高かったから避難区域に指定されたからである

今日は常磐高速の方に行き小山田の道を行くと東風(こち)が吹いて枯枝をゆらした
その時、春を感じる、そして津波に襲われて原発が爆発したのが3月11日なのである
この頃東風が海からこの辺では吹く、これが飯館村とかに放射性物質を運んだのが悲劇を生んだのである
もし一月とかだったらまだ北風西風であり被害が少なかった
なぜなら海側では放射線量が高くなかった、海に風で流されたからである
それで原発の煙突が見える請戸ですら0・5マイクロシーベルトだったのである
だから飯館村は悲劇だった、もう二三か月づれていればあんな被害にならなかったからである

とにかく春になっている、今年は暖冬でありあまり寒いということはなかった
でもここ二三日は寒かった

山側の枯木の枝に風が吹いた
枝は言った
「これは東風(こち)だよ」
「今頃になると吹くからな」
「もう梅も咲いているし春だよ」
「梅のにおってくるな」

こんな感じである、ここから童話になればいいがそれが書けないのが残念となる

2020年02月16日

日本のもてなしの起源 ( 歩いて疲れていた旅人だからもてなしがありえた)


 日本のもてなしの起源

( 歩いて疲れていた旅人だからもてなしがありえた)

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旅人が病気になった場合、ケアや看護もしたのでホスピスとなったという
何か巡礼とも関係していたから四国の遍路ともにている、そこに信仰で寺をめぐる人たちのもてなしをしたからである

そもそもなぜ病気になって旅ができなちなったらケアして介護したかというとその時病院とかもない、家に帰るのにも遠いとなると病気で動けなくなった場で癒すほかなかったともなる
つまり当時の旅は歩く旅だから簡単に遠距離を移動できないからである
それは日本でも同じだったのである
みんな歩いていたのである

歩いて移動していたから疲れる、病気になる人もいる!

こういう旅だったのである、旅はそれだけ体力を使い疲れるものであり病気にさえなる
だからこそホスピスが必要でありそれがホスピタルになった
病院の起源がこうした旅人を癒すものから始まったというのも興味深い

なぜこのことを私が関心をもったのはとにかく自転車で旅するとなかなか宿を探すのがむずかしい
そもそも自転車旅行する人は何か胡散臭いとか貧乏人とか見られ安いのである
普通の人ではないと見られやすい、また汚れてもいるら歓迎されないのである
だから私は旅館とかでも特にホテルとなると嫌いなのである

今の旅館もホテルも本当に旅する人はもてなしてくれない!

これも何か時代である、なぜならもし江戸時代なら街道を歩いてみんな旅ししている
旅というより移動するのは歩くのだから疲れる、一日40キロくらい歩いたというから
本当に疲れるのである
そしたら宿についたら疲れているのだからもてなしてもらいたい
苦労をねぎらって迎えてもらいたいとなる
それを迎える人もわかっていたから宿場町ではねぎらいがあった
それは人間の情として自然と生まれたおもてなしだったのである
相手が歩いて疲れたということがわかるからである

ところが現代ではみんな車と電車とかなると疲れるないのである
バイクでも疲れない、すると相手をお疲れでしたねとか迎えるということはない
車で来た人をお疲れでしたねとか迎えるということもないのである
運転は確かに神経的に疲れるから疲れることはある
でも40キロも歩いてきた人とは違うのである

草臥れて宿借る頃や藤の花ー芭蕉

まさに疲れて草臥れてやっと宿につくのである
こういうことから江戸時代には人情が篤い時代だった
現代は何でも便利なのでそうした情が失われたのである
駅でもそうである、何か待つ時間が人間的なものを作りだしていると何度も書いた
その待つ時間が現代には消失した、車は待たないのである
高速道路のSAだと何か待つということはない、買い物して用をたしたらすぐに車で去るだけなのである

とにかく今歩いて旅したり自転車で旅する人は世間の常識からはずれた人間になる
学生くらいならいいがそれ以上になると普通ではないとなる
だからこそ宿にとまりにくいからテントになるのである
宿で旅館でも歓迎されないからである
つまり肝心の旅して疲れている人をもてなさなくなったのである
そんな汚れた人や自転車の人はテントで泊まってくださいとなる
例え金があってもそうなる

だからこれほど交通が便利になってどこにでも行けるのに旅人がいないのである
ホテルとかに泊まる人は旅人ではない、グルメとか保養に来た人なのである
一時は高度成長時代は会社の人が慰安旅行に団体で来ていたようにホテルは旅人を泊める所ではないのである

それで奇妙だったのは古民家のある山形県の田麦俣から街道を行ったらホテルがあった
そんなところに泊まろうとしたができないと思った
でもたずねてみたら泊めてくれたのである、団体が来ていても泊めてくれたのである
何かそういう人にふさわしい部屋があり泊めてくれた
そこはホテルなのだからそんなことありえないことだったのである
そこはビジネスホテルとも違うからである
そこに泊めたのは女将がいて許可したのである
どこのホテルなのかわからなくなったがあれば例外的なものだった

人間は時代が変わると当たり前のことが失われていたのである
なぜもてなしが生まれたのか?

それは旅人が疲れるので癒すために生まれた

でも電車であれ車であれ来る人は疲れるとういこともないのである
神経的に運転は確かに疲れるが40キロも歩くとかとは違ったものである
自転車も歩くよりは楽でも疲れるのである
でももてなしてくれる宿は今はないのである
もちろん全部というのではないが確率的にはほとんどないとなる

要するに時代が変わるとこうして当たり前のことが当たり前でなくなる
もてなしとか盛んに言うけど本当に疲れた旅人を癒す宿はない
ヨ−ロッパですら巡礼の人たちをホスピスしていた
そして病人になったらそのまま看護してケアしていた
それがホスピタル〈病院)の起源だったのである
旅人を癒す介護することが病院の起源だったのである
それは交通が不便だからそうせざるをえないとなっていたのである

なにかどこでも人情がないというときそれはみんなあまりにも便利な生活に慣れているからそうなったのである
不便な時はかえって人を思いやるということがあった
私は無人駅で案内のボランティアのまねごとをした
その時、見ているのはスマホである
それでもわからないことがありその時教えることがある
でもスマホだとそういうことがほとんどないのである
そこに会話もないのである
だからこそ無人駅になりどこも無人化してゆくのである
情など必要ない、人はコストだとなりいらないとなる

そこから起きてくることは何なのか?
駅に駅員はいない、スーパーにレジがいない、コンビニもいない、車でも自動運転だとか人がいなくなる、自動化して人がいなくなるのである
機械がロボットが代わりになりAI化でどこにでも人がいなくなる、無人化する
その時人間の役目は何なのだろうとなる

でも考えてみるとスマホだと地図の代わりになり人に聞かなくてもわかるかもしれない
でも観光案内となるとその土地に住む人に案内されないとわからない
その案内を私はできる、それは機械にはできない、インタ−ネットに情報が出ていても
その場所で説明されるのとは違うからである

ともかく東北を最後に自転車で旅しようかと計画している
今度買った電動自転車は楽に走れるからである
でも荷物がのせらられないので困っている、新しいヤマハのがまた出たがJPYーTCはエンジンが同じものでありいいものである、それは荷物がのせられるのである
ただやはり30万以上で高いので問題である
だから今のマウテンバイクで行くかと準備している

正直もう10年は長い旅をしていない、ほとんど旅していなかった
だからまた自転車で旅するとなるときつい、でももう自分には時間がない
最後のチャンスなのでなんとか行きたいと準備している
テントももっていけないと泊まるのに苦労するが充電しなければならないのでどうしても泊まることになるから結構楽ではない旅になる
何かどうして自分の場合不器用で失敗が多いから困るのである  

今日も雨の中用があって相馬市に自転車で行ったら眼鏡の片方のレンズを雨滴を拭いたりして落とした、これも大失敗だった、なぜなら眼鏡は5万くらいしたからである
何かレンズがきつく入らずに落としやすいものだったのである
それが自転車の振動で落ちたのである
何か自転車というのはトラブルがある、この前は暗闇でライトがなくて転び危険だった
何か命にかかわる危険もある
また車に追い越される時なども危険である、後ろから急に車が来るからである
だから自転車では実際三回くらい死に目にあっている

何か80歳の人が日本一周してトンネルで死んだことがあった
トンネル一番危険なのである、自分もトンネルで死ぬ思いしたからである
東北は自分のアイディンティティの場だからどうしても最後に旅したいとはなる
どうしても体力的にももうできないと感じるからである

モネの詩(松川浦の春の風景)


モネの詩(松川浦の春の風景)
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穏やかなる春の光の水辺にはねぬ
春霞の広らかな浦や鴎の飛び来る
その心は春の野に彩る花々や
やわらかに光は充ちて醜は見ざりき
くめど尽くせぬ美のキャンバスを染める
あたかも神の手のごとく尽きずに
美の神の宿りその一生を終える  

昨日見た松川浦の風景の写真をモネ風にしようとしたができなかった
ソフトがうまく使えなかった、でも何かモネというとき印象画であり印象画風な景色に合っていた、写真を加工することがコンピュターでできる
つまり全く絵の才能がなくてもできる
ただソフトを使いこなすことがめんどうなのである
それでこれまで私は膨大な抽象画をソフトで作ってきた

これも何か第二芸術なのだけど芸術だと思った
なぜなら芸術はartであり技術のことだったからである
つまり技術を駆使すれば芸術を創造できる
それを実感したのがコンピュターのソフトによる抽象画であり加工の芸術である
コンピュターは何か常に人間の頭脳と関係しているから芸術にも影響してくるのである

2020年02月15日

松川浦の春(磯部から海岸線を行く)


松川浦の春(磯部から海岸線を行く)

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春の鳥駅に鳴くかな電車待つ

太平洋春の潮騒バイク行く

日の光り松川浦や春霞


波よせぬ太平洋やはるかにもつづきて遠く春になるかも

何となく道に立ちにつ春の日や行く人ながめ時は過ぎゆく

津浪より9年過ぎむ松川浦幽鬼のごとく立枯れの樹々


磯部の海岸線を自転車で松川浦まで行った、磯部には何もなくソーラーパネルになった
ただあそこには風力発電の風車はない、だから家があったところには松を植えた
だから松が成長すればいい松原になるかもしれない
その海岸の堤防は自転車で走りやすくなった

それで松川浦まで走る、するとバイクが疾走する
それを見ていると気持ちがいい、今日は本当に春だった
今年は梅も咲いたし春が早い、でも何か気候が変だ
それで急にあたたかくなり頭がのぼせたようになり体がだるくなった
それで一時寝ていた

今日は回復したのででかけた、松川浦は春霞だった
はるか遠くまで仙台の方へ海岸線が見えた
それで遠くに行きたくなった
確かに春望である

春望海岸線
太平洋波響
沖船見鴎飛
疾走単車去

これも漢詩もどきだけどバイクだと詩になる、車はならないのである
バイクは自転車とは違っていても風を受けたり自然の中に入るからである
ただ正直バイクに若者が乗っているけど楽である
自転車はバイクに比べると全然違って苦しいのである
だから自転車旅行して若者がバイクにのっているのを見てつくづく楽だと見た
バイクと車は違っていてもスピードとかでは同じだし早いし楽なのである

磯部から松川浦の海岸線はバイクで疾走するにはいい道である
海が前面に見えて気持ちいい
あのような場所はそんなにないからだ 
まだ津波で枯れた樹々が残っていた、何か幽鬼のように残っている
それだけの被害だった、10年過ぎてもその傷痕は残っている

とにかく本当に今日は春だった、だから春になると遠くに行きたいとなる
でもまた寒さが来るのか?今年はこのまま春になってしまうのか?
今日は本当に春だった、だから道になんとなくぼーとして立っていた
道行く人を見ていると言っても車を見るだけになるが一人はマラソンしていた
ライトを腰にまきつけていたから車を怖がっているからだろう
私も頭にライトをつける、これは目立つからいいのである

駅では春の鳥が鳴いている、駅は何か人間的なのである、自然でも何か駅とか鉄道はとけこむのである、高速道路のSAはにぎわっても鉄道の情緒とかないのである
それは待つとういことがないからである、高速では待つことがないのである
現代は待つ時間がもてない、かえってそのことが人間的なものを奪っているのである

2020年02月13日

日本の船旅(俳句20句)


日本の船旅(俳句20句)


(九州)

長崎に大船去りぬ春の暮

たたずみぬ出島やあわれ春の雨

開聞岳春夕焼けの染めにけり

(瀬戸内海)

船の行く沖の小島や春の暮

港古る瀬戸内あわれ春の暮

春の瀬戸汽笛ひびきぬ海峡に

明石の戸船の行き来やつつじ咲く

春夕日明石城染め船の行く

また一つ渡れる島や日永かな

大阪へ春の陽昇る四国沖


春富士や魚跳ねたり駿河湾

鎌倉へ伊豆七島や秋の海


船一艘みちのくに見ゆ冬の海   

北の果野辺地に咲きぬエドヒガン

野辺地駅積もれる雪に常夜塔

苫小牧白波よせて夏に来ぬ

函館にロシア人の墓や冬の暮

浪しぶき夏の日めぐる北海道

船に寄る函館の夏外人墓地  


船の旅も日本だったらほとんど乗った、ただ日本海は回りは乗っていない
とにかく最初は電車の旅であり全国の路線をほとんど乗った
船もほとんどのった、電車でも船でも旅情がある
それから自転車の旅になった、乗り物が違うと見える風景も違うのである
自分がしていないのは自動車の旅である、これは運転できないからできない
それでいいなと見ていたのがキャンピングカーなのである
あれは一か所に落ち着いて見るのにいいと思った
カメラをもって写真撮るのにはいい、写真はやはり定点観測が必要になるからだ

冬はこうして回想するのに向いている、ほとんど遠くに出なかった
仙台にも行かない、じっとして家にいるだけである
そして記憶をたどる旅をしている、日本は海に囲まれているから船旅がある
中国だと大河と運河の旅になる

船の旅となると時間がないとできない、東京から沖縄まで一週間かかったことがある
それは客船ではなく貨物だったのである
それだけ暇でない旅はできない、何か旅となると金がないとできないと思っているが
むしろ時間が必要なのである、こんな自由な旅をしていたらもはや社会からはずれた人になってしまうからである

現代では旅というとき旅人はいない、ホテルでグルメだとか何か旅とは違うのである
また交通の便が良すぎて旅が消失したのである
それでも電車の旅と船旅と自転車の旅は旅になる
正直自転車の旅は辛かった、山登りをしたがこれも体力がないのでやめた
山登りより自転車は楽である
というのは北海道を旅した時、二日休んでやっとまた進んで行った
要するに自転車は休めるからいいのである、疲れたら休む、そしてまた進む
それでなんとか行けたのである








2020年02月10日

城の俳句十句(城が意味するものー時代を知らないと見えない)


城の俳句十句(城が意味するものー時代を知らないと見えない)


白壁に栄し城や春日影

天主閣人ににぎわう花の城

(二本松)

落椿井戸の深くも霞城
                    
(白石城)

山吹や流れ清らか武家屋敷

(青葉城)

石垣の反りに清流燕来る        
          
(相馬藩中村城)

落葉踏み六万石や城の跡

侍の忠義の城や冬の松

松の映え侍参ず冬の城     

侍や忠義に死にぬ冬の城

(盛岡城)

池氷り松数本の城の跡

晩秋や古木に映えぬ熊本城

(弘前城)

門古りて古木の梅や堀凍る


城を見る時、その時代背景を知らない限り城を見ることができない
つまりただの建物にすぎないとなるからだ
建築でもその時代精神が凝縮されたものとしてあり人間精神が表象されたものとして意味がある
それはエジプトのピラミッドでもそうでありそれは王の墓ではないというときただ民衆が圧制のために奴隷とされて作られた物とは違っていた
これもその時代を知らないからそうなるのである
時代とは全体のことであり時代が過ぎると一つの物から一つの建物でも残した遺物から見る、時代全体を見ることができなくなる
そこに誤解が生まれる
またその時代に生きるものはその時代がいかなるものかわからないことがある

それで城とは何なのかという時、城を中心に社会が形成されていた
武士を中心にして当時の社会があった、確かに町人がいて職人がいて住む場所が分かれていた、でも武士がモラルを示す模範を示すものとしてあった
それで丁稚奉公とかも武士のモラルに習って主従関係を築いていた
それが今になると近代化すると何か丁稚はただ働きさせられていたとかなる
でも当時の社会はそういう社会でありその社会がわからなくなったからそういうのである
江戸時代でも武士道があれば町人道があり職人道があり農民道があった
農民道となると百姓道となると二宮尊徳が唱えた道なのである
現代の索漠とした状態はなぜ起きているのか?
いかなる道もない、あるのは金銭道しかないのである
人は人ではない、人としても見られない、金で使われる道具と化している
時給いくらというのがまさにそうである、人間が金によって切り売りされる
人間を人間として見ないのである
だから今こそ人間は奴隷労働されていたと後の時代の人は見るかもしれないのだ

とにかく武士道には主従関係があり鎌倉の東国武士が強かったのは主従関係だとしているそれは金銭抜きの生死をともにする強固な主従関係があったから強かったとしている
ゲルマン民族にもそうした強固な人的結合がありそれで退廃したローマに対抗できたとしている

いづれにしろ江戸時代が明治になってその社会のことがわからなくなった
でも150年過ぎて城は残っているから城をみる
でもその背景となる社会がわからないから実は城もその社会背景から社会の一部としてあったのだからその全体から見ることができないのである
ただ城は当時も一番目立っているから社会の中枢機関としてモラルを象徴するものとしてあった
キリスト教会の大聖堂があったと同じである

自然でも歴史的遺物でもそれを美的な観点から見るだけではない、それを人間の徳とかモラルの反映として見る、侍だったら城が教会のようなものであり一つの焦点としてあったそれは単なる建物ではない、だからこそ会津の白虎隊が城が燃えたと見て自刀したのである、それほど城が精神的物質的でも象徴的存在だったからそうなった
物質的なものより精神的象徴だったのである
今の時代にそうした精神的象徴となる建築物がない、会社のビルはただ金儲けのビジネスだけの建物だともなる、そこに精神的象徴するものはない
それがどこにも本当にない、世界でもニューヨークの株式市場が世界の中心だとして
何かそこに精神的象徴ではない、ただ金が右から左に流れる博打場なのかともなるからだカジノのようにもなっているからだ

城と松がにあうというとき松は忠義を示しているとかなる、自然でも岩とか石は誠実とか正直とかを示している、江戸時代の三百年間はそうして精神的象徴として城と松があり
忠義として立ち続けていたのである
ただ美的には大阪城とか姫路城とか西は栄えたから春にはそれを特別感じるのは歴史があるためである、東北では感じにくいからである
それだけの栄がなかったからである
大阪城に夕日が映えて散る桜の光景は忘れられない、それだけ歴史を反映しているから
自然が歴史によって色づけられているから違って見えたのである
それは京都の桜でも千年の都に咲く桜だから違って見えたのである

今はこうして旅したことをふりかえり思い出して深化して俳句でも短歌でも詩でも作る
それが冬にふさわしいのである
ただ京都となると冬には行っていない、春と夏と秋には行っている
城でもまだ見てない城がある、それだけ日本には城が多いのである

冬の城

白壁に忠節の松
武士は襟を正して登城す
主君にまみえて忠義の心
侍は下々も正して
町は一つに成りぬれ
冬の月皓皓と照らして
静まり治まる城下町かな

冬の城というのが何かいい、冬は精神がひきしまるからである
冬は春夏秋冬で違ってい見えるのである
ただなぜか江戸城というときそれが何も感じないのはなぜなのか?
東京に行っても江戸時代を感じないのである
それだけあまりにも百万都市の江戸が変わりすぎてしまったからである
この辺でも津波で松原が根こそぎ流されて失った時、その跡はソーラーパネルになりとても松原のことを思い出せないとにている
江戸城があったということは何かイメーでできないのである

2020年02月08日

冬の日に金沢の一番星の喫茶店による (松が目印となる場所である)


冬の日に金沢の一番星の喫茶店による

(松が目印となる場所である)

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中から松が見える、外から見るのと中から見るのは違っている

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この木に百舌鳥が止まっていた




冬の松一番星に休むかな

葉牡丹に蔵や農家の喫茶店

蔵に松隠れて休み冬深む 


冬の海望む丘の上農家あり前は畑に金沢に住む

百舌鳥一羽冬樹にとまり隙のなく寒さの凍みぬ飛び去りにけり  


農家民宿の「一番星」によった、何かそこに新しく喫茶店のような休憩所ができた
それは二年前からだった、あれは何なのだろうといつもあそこの道を通って見ていた
民宿とはわかっていてもあそこに食事とかできるとは見えなかった
近くでもなかなかわからないことがあり何かそこにあるということを知るまで時間がかかる

私は喫茶店とかが好きだった、それはいつもそこで休み思索する、何か俳句とか短歌とか詩でも創作する、そういう場として喫茶店が好きだった
ただ喫茶店は場所がいいとその価値が倍増する、都会のごみごみした所は嫌なのである
原町では景色のいい場所に喫茶店がないのである
海の見える場所にあってもいいと思うがない、これまで四つはいい場所にあり紹介した
ただ海老の納屋を改造した喫茶店は予約制とかで入りにくい
だからそこは二回くらい試しに行って後は行っていない、ただちょっと隠れた所にありそれがいいのである、それで名前としてはハイドがいいなと思った

ここの喫茶店はながめとしては良くない、火力発電所の煙突が見えたりする
ただ今日はじめて入って中から見たら松がにあう所だった
松が目印となる喫茶店だった、そして古い蔵がありこの二つが農家らしいものを作り出している
蔵には写真家が写真を飾っていてギャラリーのようになっていた
ここは松と蔵が似合う場所である
それでネーミングとして松倉がいいなと思った
それで松倉と検索するとそういう地名がでてくる


栗駒松倉 [宮城県栗原市]

松倉 [秋田県大仙市]

沢松倉 [福島県二本松市]

松倉 [福島県西白河郡矢吹町]

松倉 [福島県双葉郡双葉町]

松倉 [富山県中新川郡立山町]

松倉台 [岐阜県美濃市

川島松倉町 [岐阜県各務原市]  

福島県に三つある、何か松と倉は一つとなり合うのである

ともかく南相馬市の喫茶店めぐりとしてこれまで四つは紹介した
それにもう一つ加わった、ここは六号線に近くより安い
アルパカなども飼っていて子供が喜ぶ

自転車でぶらぶらして立ち寄れる場所というと今の所は日立木のドマーニと海老村のニコニコ堂なのだが気軽に寄れるのは二カ所くらいしかない
一番星のメニューはレストランではないから軽食であり腹一杯にはならない
ソバ餅というのがメニューにあったがめずらしいから今度食べてみよう
あそこは原町に行くときいつも通れる場所である
ただ食堂ではないから腹を満たすとなると物足りなくなる 

今日は午後からは冷たい北風が吹いた、今になり冬らしくなってきた

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冬柳ー田母神の社(百歳死んだ母が夢に現れ死者は家に生き続ける)


冬柳ー田母神の社(百歳死んだ母が夢に現れ死者は家に生き続ける)

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百歳を生きにし母や冬柳

日も暮れぬ水無川に冬柳 

近くあれ古社の一つや冬柳

路地の奥知られざる家冬柳
なお生きる99歳知るや冬柳
70年嫁ぎて長き冬柳
ここに生き長きものかも冬柳 

蝋梅の実をついばむヒヨドリや田舎に養ふ糧のありしも

田母神の社残りて北風の松に吹きにつ鳶の飛ぶかな 

今日誰か善徳橋を渡るかな冬の柳のここに暮れにき

亡き母の姿の見ゆる冬深む60余年を我が家にあれば    


冬柳と枯柳も違う、枯芒と冬芒の相違とにている
水無川の善徳橋のわたる手前にある柳は大きいから見ものである
この冬柳は何か幽霊のように見える
私の母は百歳生きた、その年になると幽鬼のようになって生きているともなる
だからこの冬柳でも幽霊のように見える
それで昨夜母が家にいる夢を見たのだ
やはりいつものように家にいたのである
何か死者というのは本当に不思議である、死んだら本当に何にもなくなるのか?
私の母は私の家に嫁いで70年近くいたのである
その歳月の長さの故になかなか死んでも消えないものとしてある
本当に依然として変わりなくいるような気がするときがある
それで時々夢を見たりする、するとやはりいるのだと思うのである
死者がいる場所は女性の場合は家だと思う
なぜなら嫁は女と家だから密接に結びついているのである

心が通じ合う。魂が結ばれる。
出典万葉集 三二七六
「たまあはば君来(き)ますやと我(わ)が嘆く八尺(やさか)の嘆き」
[訳] 心が通じ合えばあなたはいらっしゃるだろうかと私がつく長いため息を。

その「こい=乞い=恋」が時代を下って、万葉集の時代には、「一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと、また、そのこころ」を意味するようになりました。

恋は乞うでありもともと死者を思うこと乞うことだったのである
だからそれが切実となる、なぜなら死者とはもう二度と会うことができないからである
万葉集の中に恋の歌が多いのは死者を思うということがあり切実だったとなる
魂合うというのも不思議である
何か魂が合うということそれは確かにあると思う
生者と死者の魂が合う、それは説明できない不思議な現象だとなる
夢を見ることがそれに通じている
昨夜母の夢を見たのは魂合うだったのかもしれない、肉体は消失しても魂はなお生きているとなる

ダイユーエイトの田母神の由来は


「田母神」の名前は福島県に縁のある名前です。福島県郡山市田村町にある山村地帯に田母神地区があり、同地は坂上田村麻呂の母の出身地といわれています。また、福島県内には同じ地名が他にいくつかあります。意味は、「田を守護する神」から来た地名で、田村麻呂の子孫が散らばってその神を祭ったことに由来するといわれています

三春と相馬藩は関係していた姻戚関係にもあった、だからこれは三春から移って来た人が祭ったのかもしれない、田村という姓が鹿島区にありそれは古いものかもしれない。
田母という地名が三春にある

ヒヨドリが庭に来て何を啄んでいるのかと思ったから?梅の実だった
何か実があり冬でも鳥は生きている、主に虫を食べていることは確かである
冬は実がなくなるからだ、でも自然だと烏でも雀でもななんでもその土地のものを食べている、何かしら食べるものがあるから生きている
それも不思議なのである、人間は地元のものだけではない、グロ−バルに世界から食料を入らなければもう生きていけないからだ
だから人間は何か常に自然に反する生き方をしている
科学技術でも原発事故があったりウィルスでも生物兵器がもれたのだとか反自然的なことをして大災害をもたらすのである
それは自然からの一つの警告でありそして実際に自然から罰せられるのである


2020年01月29日

冬の雷(今年は荒れ模様―俳句は気候をまず知る)


冬の雷(今年は荒れ模様―俳句は気候をまず知る)


年明けて始動や雷の轟けり

突然に一月の終わり雷鳴りぬ

荒れ模様一月終わり雷鳴りぬ

禅僧の喝や叩かる冬の雷
  

今冬の雷が突然真上に轟いてびっくりした   


夏と冬の積乱雲を比べると、冬の方が圧倒的に背が低く、規模の小さいものになります。
落雷数は極端に少なく、遠くにいてもゴロゴロと音が聞こえる夏とは違い、冬の雷というのは音もなく近づいてきます。

落雷数が少ないというのは、良いことのようにも思えますが、実は一発の威力が強くなります。
一発雷と呼ばれる冬の雷は、なんと夏の雷に比べ100倍以上に達する凄まじいエネルギーを持っています。

また、冬季雷は、夏に比べて予測が難しいという特徴もあります  

なるほどそういうことだったのか、インタ−ネットは何か知らないことでもそれ相応のものがヒットするとき役にたつ、俳句が気候の挨拶のようになっているからだ
日本人は天気が変わり安いから天気が挨拶代わりになり俳句が生まれたからだ

冬の雷は日本海側が鳴りやすいとある、冬の雷は夏の雷とは違う、夏の雷だと遠雷とかあり入道雲がわき雷雲が湧きあがり徐々に雲が移って雷になり稲妻が走る
今日経験したのは突然にすぐ頭の上に雷が鳴った
それで停電になるかとびびった、パソコンの電源が切れのが怖いからだ


冬の雷は雲が低く突然鳴る、でも夏の雷に比べて百倍のエネルギーがあるとすると怖いものだったのである、ただ冬の雷そんなにごろごろと鳴りつづけたりしない
一二回突然頭の上にがつんとひびいておさまる
これは確かに禅僧が座禅して棒で叩かれる感じなのである

今年の一月も終わりだかなにかいろいろ波乱含みである
2020はみんな変換期で何か大きなことが起きると予想した通りとなるのか?。
その兆候は一月から始まったのである
コロナウィルス騒ぎでオリンピックが開催されるかどうかも怪しい雲行きになる

とにかくこの冬の雷は波乱の年の幕開けを告げるものとなっているかもしれない
今年は新年から不穏である
やはり今の時代は科学的なことを知らないと知識人となりえない
そこが弱いので私の場合は発言するにしても訴えないということがある
科学と文学は結びつきにくいからである
何か今年は波乱模様である、コロナウィルとかでもそうである
今年は新年から不穏である



亡き家族を偲ぶ短歌十首(人は死んでも生き続ける )


亡き家族を偲ぶ短歌十首(人は死んでも生き続ける )


我が家に嫁ぎてあわれ悲しかな母は百歳生きて死にき

辛き日を生きにし母や今はしも彼岸に安らぎ我を見むかな

我が姉の笑いし声のひびくかなその日は遠しも心に生きむ

苦しくもますぐに生きむさもあらば後の人しも習い生きなむ

我が家に60余年を生きにしを心はなおもここにあるかな 

我が家の広しも家族なし廊下の長く寒くあるかな

蠟梅の今年も咲きぬ我が家に我は生きにつ家族を偲ぶ

人は死すも消えるにあらずその家に土地に国にも生きつづけなむ

その土地にともに生きなむ命なれ死にしあともなお生きるなるらむ

争うも家族なりにし死してのちなおともにしあらむと思ふ

人の縁きれやすきかなさもあれど我が家族の縁は死しても切れじ


夢で母と姉の夢をみた、なぜか二人で歩いていた、その後を自分も歩いていた
姉が死んでから10年とかにもすでになる、母はまだ4年とかである
でも人間は60年とか70年家族として一緒に暮らしていれば何か簡単には死んでも消えないものとなる
むしろ死んでからもやはり継続がある、死んだら骨となり灰となり何もなくなるかとんいうとそうでもない、何かその家に土地に他にも愛着するものがあり生きつづける

母は自分の家では苦労した、いいことがあまりなかった、だからといってすべてが悪いとはならなかった、なぜなら姉がいたことで楽だったし自分もそうだった
自分にとっては欠かせないものだった
父が中学で死んだからとくにそうなったのである

普通の家族ではないにしろ家族として必要だった、補うものがあった
最後は悲劇だったにしろ何とか家族としてありつづけた
姉もひどい認知症だったけど納得して最後は死んだ
それが救いだった
何かしら家族でも必ず影の部分があり暗黒がある、ただ60年と一緒にいることの意味は大きい

どうしても人間は何か時間で作られる、家族でもそうである
もう子供でも離れて住むと疎遠になってゆく、それで認知症になると実の子供でも離れて過ごした人がわからなくなる、私は60年も一緒にいたからひどい認知症でも姉は自分のことを忘れなかったのである
そういう差がでてくる、何でも長い時間がないと親密さでも信頼でも作れないのである
だからこそ私はその土地にともに生きること地縁の方が大切だとなる
いくら物が入ってきても地球の裏側の人と親密になれないし信頼も生れないからだ

人間の一生を最後にみんなふりかえる、人が死ぬとその人がどんな人だったかとかかえって生きている時より偲ぶことになる
それは時間で作られたものであり必ずしも血縁とかではない
兄弟でも姉妹でも子供の時一緒に過ごさないと他人と同じになるからだ
兄は5年しか同じ家に暮らさなかった、それは5歳までだった
だから記憶が確かでないにしろ一緒に暮らし記憶があり兄となっていた
でも交通事故で40才で死んだのである
その5年間が貴重な時間だったのである

だから結婚して晩年に熟年離婚するのは損だと思う、なぜならその後は親しい愛する関係はもう時間がないから築けないからである
人間は最後になんでもあれ時間が最も貴重だったと自覚させられるのである
なぜなら何であれもう二度と会ったり何かをしたりすることができなくなるからだ

だから私はその土地と一体になる生にこそ深い意味をもてる、それでグロ−バル経済とかはそうした深い精神的紐帯が作れないからはぐくまないから賛成できないのであく
人間にとって物が大事になりすぎたのが戦後の高度成長時代である
その歪が世界的に多くなりすぎた資本主義でも国際金融資本が富を独占しているとかそうである、人間の心の歪(ひずみ)が世界的に現れた
人間は確かに物も必要であり食べ物がなかったら生きられないのも現実である
ただそれとともにどうししても人間は心に生きるということがある
その矛盾に常に人間は苦しむのである

家族とは心で愛で結ばれたものであり金でもない、そこが違っていた
私は家族の介護があり死んで親戚とみんな縁は切れた
それは「金の切れ目が縁の切れ目」となったからである
もう求めるものは金しかないからである
だからみんなそうなる、もちろんそういう人は生きて入る時から縁が切れているのである人と人が出会ってもただそこにはもの売買とか金のやりとりしかないのである
だからそもそも人間の関係とは何なのだろうとなるのだ 
それあまりにもはかない無常だとなる

でも家族だったらそうはならないのである、死んでもこうして10年過ぎても思っていることその面影とかなにかが見えない糸げ継続している
これはみんな感じているだろうが不思議だとなる
肉体は消えても心の絆が消えないのかもしれない、心とは見なかいけど通じているとなるからだ

ただ正直母は腰が曲がる時苦しくて自殺するところだった、危機一髪で防ぐことができたつまり自殺が後味悪くなるのは残されたものへの影響が大きいからである
もし自殺したら何かこうして偲べないとなるからだ
そして自分が殺したのだとか自虐的にもなるからだ

結局人間は苦しくても生きる、それが定めである、そして苦しくても生きたことにより
その生に重みが生まれる
もし楽して生きたとなるとそうはならないからだ
苦労して生きて私を育ててくれたとなると感謝するが金持ちで楽して育てただけだとか
人に頼んで母は何の苦労もしないとなると感謝もしない、ありがたみがなくなってうしまうのである
だから意外と金持ちの家では介護になるとすぐに金のかかる施設に入れて自分では介護しないのである
金持ちの家はかえって親に冷たいともなるのである



2020年01月27日

葉牡丹、寒烏、寒椿(田舎の冬の暮らし)


葉牡丹、寒烏、寒椿(田舎の冬の暮らし)

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我が家の墓を守るや寒椿

心澄む朝清明の冬の空

寒鳥の鋭く一羽朝の空

寒烏図太く田舎に生きるかな

寒雲や電車を待ちぬ田舎駅


我が庭に葉牡丹植えて石の側花は咲かじも冬を耐えにき

葉牡丹のその色深く心しむ冬にしあれば花もなくして 


田舎の冬は田舎らしくなる、冬ごもりとなくのもいい、都会では冬籠りもない、
常に騒々しく忙しく活動しかないのである
やはり冬は冬らしく休むということがいい
それが自然のリズムだからである、そういうことは農業の時代はあった
今は田舎すら騒々しいとなる、休む時期がない
冬田とかなると休んでいる田である
ところが海岸にある風力発電の風車は休むことがないのである
機械というのには休みがないのである
そこが人間とか自然と違うのである、それは非人間的になる
その機械にすべてを合わせると非人間化するのである
だから一見無駄なようでも非効率的なものでも人間には価値あることなのである
それで無人駅で何か電車を待つ時間が人間的なのである
電車を待っていると辺りの風景が心に映り季節を感じる

寒雲や電車を待ちぬ田舎駅

電車を待っていることが何かそこに人間味がでてくる、これが車だとそういうことがないのである、待つ時間がないからである、なるべく待たないということが現代に人間的なものをなくしているのである
効率ばかり追求することが非人間化させるのである
待っているという時、母親が子供を待っているとか誰かを待っている
親しい人を待っている、待つということはそこに期待感みたいなものか自ずとある
その待つ時間に何か人間的な情がはぐくまれているのである
これは鉄道だけではない、今はあらゆることにそうした人間的情などがなくしているのである、それで無人駅化するのもそのためなのである
人間のような非効率なものはいらないとなっている
これが実際は相当に危険なことなのである

墓守というのも一つの仕事なのだろう、親が死んだし私の家で残ったのは自分だけだからである、墓はすぐ近くにある、そのまわりに椿が咲いている
それは寒くなると今頃は寒椿になる、ただ今年はあたたかいから冬椿になっていた

寒烏というとき何かこれも図々しいというか図太い、何を食べているのかわからないが
烏は何でも食べている、雑食性である、だから図太く生きている
そういう人だと生きられるとなる、嫌がられる面もあるがあまり他人を気にしないのである、
ただ田舎の暗黒は田舎の人が人情にあついというのではない、かえって冷たい
それで田舎の人は不幸な家があるとその話題で盛り上がり楽しむとまでなっている
他人の不幸が本当に蜜の味になる
それだけ娯楽がないからそれが楽しみとなるというが別に今は娯楽はいろいろとある

「噂話ばっかし、噂話ばっかし。田舎には娯楽はないんだ、田舎には娯楽はないんだ。ただ悪口しかない」

 事件後に山中から発見されたICレコーダーにこう吹き込んでいた保見は、広島拘置所で接見した私に、「村人に犬猫を殺された」といった噂話を繰り返し語った。

 事実として保見が5人を殺したことは間違いない。しかし、噂が5人を殺したのか? この問いに対する答えは裁判では結局示されなかった。最高裁では『妄想性障害』という単語すら出てこない。いわば司法は動機を確立することを避けたのだ。

これも田舎の象徴的な事件だった、ただあそこは本当に昔の村であり山奥だから田舎でも違っている、田舎でも一万くらいでも都会化している所もあるからだ
そこは山奥であり極端化したのである

でも共通なことはある、何か他人の不幸が話題になりそれを語ることが楽しみになる
そこに田舎の負の面が露骨になるのである
私の場合だって介護とか病気で苦しんでも隣でも今は助け合うことがないのである
だから田舎と言っても今は昔と違うし昔も田舎の人間がいいとはならない
そもそも同じ人間であり人間の悪質性は変わらないのである

葉牡丹が今の季節にはあっている、私が買って庭に植えた
でも私の家の庭は土地が悪い、掘ったら石ころがでてきたとか土地が悪いから花が咲いてもつづけて咲かない、薔薇も今年は咲かない、肥料もやっていなかった
とにかく家事からなにから一人でできないのである
ただ葉牡丹と石はあっている、そして葉牡丹の紫の色が心にしみる
葉牡丹というのは花ではない、キャベツである、そういえばキャベツであり花は別に咲くらしい、葉牡丹はまさに葉なのである
でも冬の季節にあっているのである 

2020年01月20日

場が人間のアイディンティティの基礎 (調和の庭(詩)−田舎と家と土地)



場が人間のアイディンティティの基礎

(調和の庭(詩)−田舎と家と土地)

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この四つが場所がいい、最近磯部に絆という喫茶店ができたが場所が良くない
海も見えない、庭から道路が見えるだけだとなるからだ
パン屋は海が見える、でもそこは休む家がない、パンだけ売っているだけである
場所として海が見える所が良かったと思う

鹿狼山の下の花木山ガーデンからの見晴しは最高である
あそこにも喫茶店のような休む場所があるがかなり狭い、でも場所としてはいい
ただ私はこれらの喫茶店とか行ったのは二回ほどしかないのである


日本の庭はやはり一つの文化である、家庭というとき家と庭だからである
ただなぜ人間は調和しないのか?
自然は荘厳な調和の世界であり宇宙である
人間社会は別に戦争がなくても絶えず争っている
他人に対してなにやかにやでもめているし衝突している
つまり人間社会には本当の平和は永遠にないのである

田舎でも別に人間が調和しているわけではない
ただ田舎の相違は何度も言うが「場所の現象学」で深く場が考察されたようにその土地と深いアイディンティティをもっているからだとなる
ふるさとというとき故郷でもありこの故は祖父から親から子へと継がれるものがあったからだともなる、里は場なのである

それは農業社会だからそうなっていた、それで農家では三代つづいてはじめて仲間と認定されて部落に受け入れられたというのもそうである
それは土地と深く結びついているからそうなったのである
場という時、私が言う観念的なものとは違う、具体的に生産の場をもたなければ生きていけないからである、農家と土地はそうして一体化しているからだ
土地は血肉ともなっているからだ

やはり何代もつづく家はそこに何か表現できないが重みを増してくる
それは蔵がある農家とかがそうである
都会だといくら豪邸に住んでいてもそうした重みが備わらない
それは土地と一体化した場をもたないからである
田舎の家は農家だと大地に深く根付いた木のように見えるからである

現代人の生が何か希薄化する、浅薄になる、重みがないのは場を失ったためである
日本の神社が社でも深く場とかかわり生まれた、神社と小社でも場と切り離されずあったからである、その地域地域の場と深く関係しているからである
それは外国でも神殿が建つ所はその場と関係していた
不思議なのはイスラム教でも偶像崇拝を拒否してもメッカという場が信仰の場となっている、方角と場に祈っているともなるのだ
つまたそれだけ人間は場から離れてありえない存在なのである
その場とのアイディンティティを失ったとき生の意味ももていなのである

だから何でも経済的に金で今は考える、そんな田舎に住んで金にならない生活できないとなるだけである、では都会で大金持ちになってそれで生の意味が価値が意味がアイディンティティが作れるのか?
普通は今ならそんなことは考えない、でも最近い若者でも田舎に移住する人が増えてきた空家がありそこに住めば広い庭があり場を確保できるからだ
そこで生活するとなると贅沢はできないかもしれないが場をもつことができる

ただ正直田舎の問題はかえってそうして場をもたない、家をもたない、ある程度の資産がないと暮らしにくい、市営住宅に住んでいるような人は何か場をもたないということで余計にみすぼらしく見えてしまうのである
そして田舎だとその土地の有力者は住みやすいのである
何か狭い世界で序列ができて威張ることができるからである
でもそうでないと田舎はそういう序列が見えやすいから住みにくいとなるのである

だから相馬市の煉瓦の喫茶店のことを入ってそれも城下町で場を得て調和したと見た
特に広い庭があったから余計にそれを感じたのである
喫茶店でもレストランでも何か場所がいいと価値がある
海の見える喫茶店とか山陰の隠れ家のような喫茶店とか丘の喫茶店とかである
津波の後に海老村には山陰の隠れ家のような喫茶店が農家の納屋を改造して作られた
磯部の柏崎の丘には薔薇を咲かせた西洋風の喫茶店がある
その場所で価値がまずある、家でもその場所の価値がある
景色のいい所にある家は価値がある、だから都会だとそういういい景色の場所がないから豪邸でも価値あるものと見ないのである

人間は意外と常に場の影響を受けているのだ、それを感じたのは家の中でもそうなのである、二階と下では何か住んだ感覚が違うのである
二階だと空が広く見えているし冬だと廊下に日がさしてひなたぼこして本読んだりしている、すると何かイメージが湧いて詩でも創作する、アイデアが生まれるのである

それは一つの家でも場所が変わると気持ちが変わる

だから何か書き物したり創作したりする人は家が大事になる、家は画家ならアトリエだからである、そこが創作の場所になるからである
そして不思議なのはそこにただ座る、胡坐をくみ座るのとソファーにもたれるという姿勢で脳の働きが違ってくる、これも不思議だと思った
姿勢を変えただけでも脳の働きが変わるのである、だからソファーでも背を伸ばせるソファーが椅子がいいとなる
そこでくつろぐといいアイデア生まれるとなるからだ
その点自分の家は恵まれているとなる、ただ一人で広いから困っているのである

老後を考える時意外とこうして場が大事になる、なかなかもう旅もできない、じっとしていることが多くなるからだ、すると家が広くて余裕があり思索する空間があることが大事になる、だから老後は家が根城となり大事なのである
そこで書き物などもするし仕事の場ともなるからである
だから景色がいい場所にある家だと最高だとなる
ただ私の家は街中にあるから景色がいいとはならない、でも田舎だから回りに高いビルなどないからいいのである

相馬市がいいのは平屋が多い、高いビルがない、ただ田町通りは広く新しくしたから何か違和感が生まれた、公共の建築物のように入母屋式のようにすれば昔の感覚が生まれたかもしれない、ただこれは両論がある
とにかく価値はいろいろある、一つの価値だけてはない、価値を生むものはいろいろある場所も立地も大きな価値なのである、これが価値の基本にある
それが人間の基本的アイディンティティとなるからである 



調和の庭

一つの庭に
石と石は
調和してある
石と石は対等である
石はそこに
一つの調和の世界を作る
それぞれの場を得て
石はそこに落ち着く
場に根ざして石はある
そこに高ぶるものなく
低きものもなく
石は調和して
一つの世界を形成する
大きな石も小さい石も
高い石も一つになる
人に例えれば
兄弟の石があり
親子の石がある
夫婦の石とみるごとくに
祖父の石のごとくに・・・        






2020年01月19日

煉瓦作りの新しい中村珈琲店の不思議 (隣の広い庭が活かされて城下町にふさわしいものとなった)


煉瓦作りの新しい中村珈琲店の不思議

(隣の広い庭が活かされて城下町にふさわしいものとなった)

 相馬「ビートルズ珈琲店」台風豪雨の苦闘奮闘感涙記
2019/11/2(土) 6:00配信新潮社 フォーサイト

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これは八沢浦から見た蔵王

磯部から見た蔵王が近くに見える

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中村神社の池

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松のある玄関と隣の喫茶店の庭が広い

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長い藤棚がある、これは見ものである

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古い藤の木
この庭に池があった

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喫茶店の中から広い庭が見える

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これはアトリ科のシメである


一処(ひとところ)今年も暮れぬ冬木立

六万石城跡たずね冬深む

親子杉ここに根付きて冬深む

目白来て街中の家冬椿

錦鯉赤と黄映えて冬の池

城下町路地の細道冬の松 

松に映ゆ相馬の城下冬紅葉

路地細く相馬の城下冬の暮 


冬の鳥相馬の城下喫茶店

城下町枯木の庭や喫茶店 

いつよりや庭の古木や喫茶店

古池の跡や残りて冬の暮 

城下町庭の古木や冬深む


松並木街道帰る冬の暮


みちのくの蔵王は雪に閉ざされぬ磯部よりしも見えにけるかも

新年に新しき店と喫茶店我が入るかも趣き深めぬ


八沢浦を回り磯部から道の駅により街道を行き相馬市街に行った
蔵王は磯部から大きく見えていた、あれに気づかなかったのが意外だった
ここから蔵王は確かにはっきりと見える、蔵王の見える領域にある

相馬の城跡には日曜日なので何人かたずねる人がいた
中村神社の池に錦鯉が泳いでいた

それから煉瓦作りの喫茶店ができたというので見に行き入った
それがなんとも不思議だたのである
最初路地裏の細道を行くと塀があり松が立つ玄関の家があった
それでいかにも相馬市は城下町らしいと感じた
それは前から碁盤の目のようになっていて城下町の雰囲気があった

その喫茶店は煉瓦作りでありそれも手間をかけた感じである
中に入ると隣の庭が見えた、古木がありそれがこの喫茶店の家の庭だったのである
それが広いのである、なぜこんなに広い庭があったのか?
家は小さい、でもその家に住んでいた人がこの煉瓦の喫茶店を改造して作ったのである

こういうふうにして喫茶店を作ったのが鹿島の海老村の納屋を改造した喫茶店である
ただあそこでは予約注文しなと昼食は食べられない
今回の喫茶店は第一相馬市内のど真ん中にあるから便利であり入ることができる
そしてなぜここにこんな広い庭があったのだろうかとなる
もちろん相馬市内だと農家ではない、ただ原町でも六号線側になると農家があった
でもここは市のど真ん中なのである

そこに藤棚があり長いからこれは咲いたら見ものである
私は相馬市の花は藤の花としてプログに書いてきた
それは相馬市の城跡に藤の花が咲くからである
そして城下町には藤の花があっている、相馬市の特徴は細い路地があり碁盤の目のようになっていて一応城下町なのである
ただ城跡には城も何もない、最初は天主もあった城だったが落雷で消失した
何か城が落雷になりやすいのはもともと江戸時代とかなると高い建物というと城しかないからだとなる、一番目立つ建物が城だったからである
城から天主閣から一望に街を見晴らせるからである

その喫茶店は花屋も併設している、三人四人くらい働いているから一人でしてしいる喫茶店とも違う、何か記事では野馬追のとき外国から研究する大学生が一か月くらい滞在したとか、それは駅でフランスの小学校の先生と出会ったからそういう人がいても不思議ではない、日本の歴史を具体的に感じることがあるだろう

ともかくあそこの喫茶店の価値は煉瓦作りということもあるがあの広い庭である
第一市街にあれだけの庭があったということが貴重なのである
なぜなら喫茶店とかの価値はレストランでもそうだが見晴しがいい、景色がいいと
価値が高まる、だちゃごちゃした狭いとか暗いとか何かそういう所は嫌なのである
ただ場末の飲み屋がいいという人もいるからそれをとがめることはできない

そしてそこの女主人が城でも何もなくても感じるものがあるというときそうである
何か城は新しくしてもそれが本当に博物館に見えるし博物館になっているのである
だから何かそこから歴史をかえって感じなくなるのである
ただ城跡だけでも石垣だけでも残っているとかえって歴史を感じることがあるからだ
そして田町通りはもともと古い場所であった
それがあのように新しくされたとき何かそれも古い情緒が失われたともみる

そしてかえって塀があり一本の松の玄関がありその隣が古い庭でそれが広いのである
古い池の跡もあり井戸もありなんとも不思議だった
なんでもその池を直すのには5百万かかると言っていた
確かにそれくらいはかかる、でもあの庭を整備すれば価値が増す、あれだけの庭が街中にあることが価値がある
それでかえって田町よりこちらの方に城下町の趣(おもむき)感じたのは不思議である

確かに街起こしとして田町通りをあれだけ立派にしたのだからいいと普通は思う
でもそれがあまりにも過去の田町の風情はなくなり新しい別な街になった感じになる
だから必ずしも歴史の保存というとき新しくすることがすべていいものとはならない
ただそうはいっても田町通りが悪いとはならない
それはそれなりの価値を生んでいる
ただ歴史の保存というとき継承というとき何か違ったものになっている

相馬市で感心するのは主な公共的な建物をみんな入母屋作りにしていかにも城下町らしい街作りをしたことである、あそこに高いビルが建ったりするとそうした風情は失われるからだ、それは成功している
平屋だけの方がいかにも城下町らしいからである

ともかく冬の日の相馬市も城下町として風情がある、趣(おもむき)を深めたのがその煉瓦作りの喫茶店である
城下町にあったものとなっていたのである
ここが街作り地域創成で大事なのである、何でもいいとはならないしその場にあったものを作ることである、だから磯部にある薔薇の喫茶店もいいし鹿島の海老の納屋を改造した喫茶店もその場を活かしていたのである
ただ私自身は行っていない

もう一つ価値を高めるのが人間のサービスなのである
その喫茶店の女性は年配であり対応がいいからだ、何かいろいろな人と話すときは人生経験豊かな女性の方がいいのだ、若い子がいいとは限らないのである
やはり年が近いと話が合うのである、それは同じ時代を生きて経験しているからである
そこでビートルズの曲を流していたということはまさに同年代だともなる
学生時代とか青春時代はビートルズ一色だったからである
それで東京の武道館でビートルズが来たときそのライブ演奏を聴くことが自分にもできた切符が手に入ることチャンスがあった、でもできなかった
つまりそのチャンスは非常に貴重なチャンスだったとふりかえるのである
そういうことは本当に人生には多い、貴重なチャンスを逃して永遠にもうそのチャンスはめぐってこない、人生はもう終わりとなっているからだ
この喫茶店ではバンド演奏するというとき何かそういう世代なのかもしれない
ビートルズにうっとりするのは団塊の世代とかその下の世代だからである
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この時興奮して熱狂していた女性でも75以上にもなっている
もうおばあちゃんでありおじいちゃんなのである
だから時間が過ぎるのは早い、あっというまであり二度とそうした興奮した経験はできないのである
いづれにしろその頃はいつもビートルズの曲が流れていたのである
だからその曲とともに青春が甦ることがあるのだ
ある人はそうして泣いていたというのもわかる、なぜなら二度とそういう経験できないし返ってこないからである

また不思議だったのがその庭にアトリ科のシメが餌を啄みに来ていた

その鳥を見たのはここで初めてだった

これも本当に不思議だった、ヒヨドリとか常に見ているが目白を四十雀も見ている
でもシメとか見たことがこの年でもないのである
なぜあそこで見ることができたのか、市街にそんな鳥が来たのかも不思議だとなる
こういう鳥が来るということは自然がまだあるからである
これはなかなか街内には来ない鳥だと思うからである

アトリ科のシメ

まずこれに間違えないと思う、あそこの喫茶店の価値はその建物にもあるがあの広い庭なのである、あそこを整備するればもっと価値が増すのである
でも池を作り直すと500万となると厳しいともなる
人間はやはり常に新しい価値を作りださないと何でもダメになることはたしかである
でも何でも新しいものがいいわけではない
そこも古い広い庭を活かしたことが新しい価値を作りだしたのである
必ずしも何でも新しくしたからそれで価値が生まれるわけでもないのである
それがやはり何か新しいものを作る時問題になる
地域創成がむずかしいのはそのためなのである

2020年01月16日

冬芒(写真と写生俳句ー写生が芸術の基本)


冬芒(写真と写生俳句ー写生が芸術の基本)

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冬芒老いて離れぬふるさとに

ふるさとの倉庫の脇の冬芒

冬芒遠くに行かじ垂れる雲

冬芒故郷に住み根付くかな

ふるさとにその場を得てや冬深む

それぞれの生を深めよ冬の暮

逢わずともその場を得てや冬深む

故郷に死者を思いて冬深む  

ふるさとに深く根を張れ冬深む

田母神のなお残りしや冬深む

ひなたぼこ蔵書を読みぬ広き家


毎日通っている道に冬芒を見る、これを当たり前の風景だと見ていた
誰も気に留めない風景である
だから写生俳句というときありのままを俳句にする
倉庫の脇に冬芒が伸びている、それが何なのだとなる
でもこれを写真にとったら冬の情景が絵のようになって心にしみる
それが一つの絵であり何か冬の心にしみる情景となっていた

人間は何か特別な景色を見ようとばかりしている、いつも見慣れたものをありがたいとも何か風情あるとか見ない、でも人間は老いると何か当たり前のものでも深いものを現しているのだと気づく
倉庫の脇に冬芒がなんなのだとなるからだ
ただこれは枯芒だとまた違った感じになる、
それは冬椿と寒椿では違っているのと同じである、
寒椿は相当に寒い時感じるものである
今年は寒くないから冬椿になる
冬芒はやはり今になるとあっている

芒は意外と強く根を張るのである、だから根を切ることはむずかしいということがある
それで芒を刈ってもまたその後に生えてくる、草は切っても切っても生えてくるのとにている

ともかくもう一月となると大寒にもなり本当はかなり寒くなるが今年はそうではない
だからストーブを今年は使わない、今もエアコンもしないで厚着しているとしのげるほどである
このくらいだと冬も楽だとなる、去年は一日ストーブを燃やしていた
だから今年は暖冬なことは確かである

とにかく冬は冬らしいのがいい、冬には何か思想で深める、ひなたぼっこして蔵書を読むのが幸福な時である、だから本というのは読まなくてもある量を集める必要があるのだ
私設の図書館のようにする、それが今はできる
安い古本をアマゾンで買って集めるとできるのである

介護になってから今も自分はほとんど遠くに出なくなった
去年でも仙台に行ったのは一回くらいしかなかったのである
こんなことは今までなかった、もう冬でなくても外にでない、冬ごもりになったのであるそしてただ石のように地中にひそみ黙しているだけだとなる

でも人間はそうして人と会わないにしても田舎だと実はそこで通じ合うものがある
それはアイディンティティ化する場所があることなのである
田舎だとそういう共通の場の中にある、それが孤独ということにもならないのである
だから都会は場がないから孤独なのである、群衆がいても孤独なのである
田舎の冬は何もないとしても味わい深いものとなるのだ

ただ田舎の問題は何か土地をもっていてまた家がないと落ち着かない、アパートとか住宅のような所だと合わないのである、住宅とは田舎では家のない人が住んでいる
貧しい人が住んでいる、そこに貧富の差が一番でている
私は親に恵まれて大きな家に住んでいる、だから悠々しているのである



2020年01月12日

lower arregement 2020(生け花の心)


flower arregement 2020(生け花の心)

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定位置に石の動かず冬深む


一壺におさまりきれぬ様々の花のともにし映えにけるかな

我が手にそ挿しにし花やいとしみぬ花を活かして心いやさる

幸あれと千両万両我が家に飾りけるかな新年迎えぬ

我が家に大輪の菊十分に見てかえる悔いのなきかも
        

生け花とかも日本の文化である、茶道でもそうであり庭でもそうである
それは京都中心に生まれた文化である
奈良時代の平城宮にはまだそうした文化は生まれていない、万葉集は自然と直結した
素朴な時代であり京都になると文化の時代になったのである
そこで平安時代にかなが生まれたのもそのたとめである

生け花というと花嫁修業とかにしていた、生け花でわかったことは生けであり生きた花を活かすことなのである
だから花を自らの手でさして花をいとしむということが必要になる
ただ生け花というと女性がするものになっている、花はやはり女性にあっているからだろう

私のテーマは一つは花であり石である、花はだからずいぶん旅行しても山でも見たのである、生け花はまた家で飾って見るから違っている
それはいつも花をまじかに見るからである
それで毎日じきまえで大輪の菊を見ていた、それで十分に見たからまた変える
つまり花は十分に見られることでその美を認められた、だからまた次の花をさして見るとなる
生け花はこうしてまじかで日々見られることで花と一体化するのである

ただ花を知るには本当はその心が大事なのである
花でも心が汚れると見えなくなる、他でも美が見えなくなる
そうなるとこの世に生きることは何なのだろうとなる
美をみないとするとこの世は本当に地獄にならないか?
栄誉栄華があっても美が見えないとしたら暗黒しかなくなる
この世が救われているのはこの世に自然の中に美があるからなのだ
だから東京とかにはそうした美がないから索漠としている
そういう場所に住みたくないとなる
ただ科学技術とかビジネスの世界では東京がいいとなる

石も私のテーマである、人間はやはり定点が定位置が必要である
人間はみんなその定位置から場所から世界観を形成するからだ
定位置があってその場からアイディンティティかされる自然や世界がある
「場所の現象学」という本でではそのことを明確に述べられている
そのことを書いてきた、人間は場をもたなくなったから自然からも世界からも疎外される
アイディンティティ化されてないのである
グロ−バル化してもその場のことが実際にその場に立たないとわかならいからである
だから例え世界のニュースをみても表面的なことしかわからていのである
ゴーンが逃亡したレバノンとは何なのだろうとなるとこれも場について歴史的にも地理的にもわからない
なぜレバノンという国があるのだろうからしてわからないから理解できないとなる

いづれにしろ俳句短歌は日本の文化であるが俳句は短すぎてもう表現しきれない
短歌はまだ長いからそれなりに命脈を保つともなる

2020年01月06日

新年-冬椿(冬の俳句十句)

                        
新年-冬椿(冬の俳句十句)

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万両や新年に幸分かち合う

新年に珍しく来る目白かな

白鳥にまばゆき光年明ける

寒雲に二両の電車待ちて来る

社消え落葉にうもれ碑の二つ

冬椿奥に籠れる女(ヒト)静か

路地裏の垣根静かに冬椿

城下町通りを歩み冬椿

冬椿心にしみぬ赤き色

外に出て北風吹かれ帰る家

目白が珍しく庭に来た、これは目が白い縁になっているからわかる
ただ隠れてわかりにくかった
庭だと近くだからなんとか鳥を見分けられる
庭に来るのでは後は四十雀とかでありこれもめったに来ない

万両は新年にふさわしい、豊作だともなる
その幸を分かち合うとなる、白鳥がいたのは手の沢の池である
六号線の道の駅の近くである、あそこは餌やる人がいるから来る
白鳥は餌をやらないと来ないのである
その近くに社が鳥居もなくなって碑だけが落葉に埋もれたのがあった
一応慶応とあり江戸時代のものだった

駅に行くと寒雲がたなびき二両の電車が来る
最近案内していない、何かめんどうになった
ただこの待つということが駅に価値を与えているのである
人を待つということが駅に人間味を与えているのは不思議である
二両の電車は一日二回くらい来る、昼間である
常磐線は一時間おきにしか来ない
不思議なのは人間は何かこうして無駄なこと待つ時間があることで人間的なものが生まれる、まず車だと待つということがないし今は待つことを嫌がる
それだけ時間に追われているからである

冬椿がいいと見た、というのは冬椿と寒椿があるが冬椿だとそれほど寒くない感じがする今年はまだストーブを使っていないし寒い感じでもない
ただ風は冷たいから外に出にくい、ただ冬椿というのが今年はあっている
相馬市は城下町であり冬椿がにあっている
それは病院に通ったりしてしいたとき相馬市内を歩いていたからである
歩くということもなくなっている

冬はやはり冬ごもりである、静かにこもっているのがなんともいいのだ
それはやはり田舎だと冬ごもりがいいのである
これが薪とか積んでストーブを燃やしたりしているとさらにいい
街内にどうも外から来た、都会の人なのか、そうして暮らしていた人がいた

ともかく冬椿が今年が心にしみる、今日だって外は風が吹いて冷たいけど家の中はそれほど寒くないのである、だからストーブをしていない、去年はストーブを一日燃やしていたそれで石油代がかかったご今年はかかっていないのである

何か介護の前のように平穏な日々に戻ったとなる
まず十年間くらいは落ち着かなかった、もう振りまわされて落ち着かなかった
自分の人生をふりかえると不思議なのは家族がいたときは30年間くらい引きこもりでありそうして静かに事もなく暮らしていたことである
そんな暮らしができたこと自体不思議だった
そういう平穏な平和な日がつづくこと自体相当に恵まれたことだったのである
今になりようやくそうした前の平穏な日々が返ってきたのかと思う

いづれにしろ今は遠出も旅もしたくない、めんどうになったのである
何か冬籠りがいい、じっとして家にいるのがいい、人とも会いたくないし人ごみ嫌なのである、そういう性格であったが余計に年取ってそうなってしまった
だから自分はもともと田舎にしか暮らせない人間だったのである
そして仕事をしなくてもそういうふうに暮らせたことが不思議だったとなる
今も別に金銭的に困ることもないのである

ただ今年はどうなるのか?
何か経済的に波乱含みである、アメリカのイラン攻撃もあったりなんだかきな臭い
今年はこれからどうなるのかわからない、大きな波乱がまた来るかもしれない
でも自分の状態は平穏なのである

2020年01月02日

2020年ー日本列島花の俳句


2020年ー日本列島花の俳句   

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(北海道)

夏菊や函館による船を見る

ルピナスや船におりたたつ苫小牧

北の湖シラネアオイの映えにけり

開拓の村にポプラやこぶし咲く 

熊の湯にエゾリンドウや羅臼かな

湯上りや廊下を渡り月見草


(中山道)

山吹や山に分け入る中山道

山吹や中山道に滝ひびく

五月雨の驟雨に森や中山道

山吹に中山道に幟りかな

中山道宿の裏庭藤の花

金沢や松のくねりて十月桜

(京都)

水写る花や京の日夢となる

京の水花に染まりて暮れにけり

花の色濃くも暮れにき京の辻

雨にぬる花もあわれや京に暮る 

(大阪城)

夕日さし桜満開大阪城

夢なるや花散りやまぬ大阪城


三重塔蓮華畑や奈良に暮る 

和歌山城白壁映えて朝の菊

電車行くレンゲ畑に近江富士

島の古り瀬戸田に椿三重塔

(瀬戸内海ー四国)

瀬戸内や潮の流れて夏の蝶  

菜の花や四国遍路や海望む

瀬戸の海暮るるや椿に島の家

開く海平戸に来たり朝桜

(沖縄)

沖縄やサンゴの岩に鉄砲百合

紅の心にしみぬデイゴかな


全国を旅行して花を記憶をたどるとこんなふうになる、シラネアオイは苫小牧の支笏湖の回りに咲いていた、あの辺に咲くということは苫小牧からは北海道なのである
ルピナスは船で苫小牧におりたとき咲いている
何かそこから北海道であり空気まで違っている
北海道は花が映える、広いしまだ原野の感覚が残っているからである
羅臼の熊が入ったという熊の湯は露天風呂である
エゾリンドウは大きく太いから北海道らしいのである

中山道は山吹だったのか?
山間の道でありふさわしいとなる
森の中に入る道があり本当はその山道を行けば良かったが鉄道で行った
五月で驟雨になりそこに深い森があった
このときやはり歩く旅をしないと記憶に残らないし過去を偲べないのである    

北陸は金沢であり兼六園には十月桜が咲いていた、これはめずらしいとなる
これは金沢らしいとなる、何か花が象徴する場所がある
花とその場所が市町村でもあうといいのである
市町村の花があっても必ずしも合っていないからだ

だから相馬地域だと原町は明治以降機関区になって駅前通りから栄えたからひまわりがあっていると書いた、鹿島区は何か草深い感じになり月見草があうとか相馬市は城下町で
城跡に咲く藤の花があうとか柳がにあう市だとか書いたのである

ただこれが全国となると何が象徴的花となるかはむずかしい

近江は滋賀県は関ケ原を出て近江富士が見えてその前が蓮華畑がにあっていた
近江富士は形がいいから目立つのである

京都はどうしても桜であり大阪の満開の桜が散る風景は忘れがたいものだった
夕日の中に栄華の桜がそこはかとなく散った
それがなぜ特別なものに見えたかと言うとそこには歴史があったからなのだ
大阪城にまつわる栄華と滅亡の歴史がありそれでその桜が満開になり散ることがそうした人間の歴史と一体化して特別なものにしていたのである
そういう栄華の歴史は東北になるとなかなかないからである
こういうことは江戸があれほど栄えたのになぜか偲ぶものがないということが淋しいのである、東京ではまず江戸を感じるものがないのである
江戸城があったとしてもそれももう一つ大阪城のように感じないのである

海で印象的だったのは平戸だった、桜が咲くとき平戸の海を見たときそれは東北の海とは違っていた、明らかにその海は外国に具体的に通じる海だったのである
太平洋は外国と通じる海に感じないからだ
伊達政宗がメキシコ経由でヨ−ロッパに船で使節を送り出したのは例外的なことだった
九州とかなるとすでに外国の交流の厚味が違っている、歴史が違っているからだ

沖縄には沖縄の花がある、サンゴ礁の岩に鉄砲百合が咲きラグーンに波が寄せる
紅の何とも言えぬ赤が心に染みる、それは沖縄と一体化した花なのである
まだまだ旅して記憶に残った花があるとして記憶から消えてもいるのだ
とにかく自分は本当に旅をした、だから延々と今で旅路をたどっているとなる
それも経験として貯金だったと思う
貯金というとき金とばかり思っているけど他にいろいろあるのである
人間は何か必ず貯金している、それがわからないき場合がある
でも必ず老人になったとき何を貯金していたかわかるのである
それは人生経験の中でいろいろあるからである
老人はその貯金で生きているともなる
なぜなら新しい経験とかできなくなるからだ、すると記憶に生きるとなってしまう
それで認知症になると若い時のことは覚えていて千回も同じことをしゃべりつづけるのである、何か一番記憶に残ったことをしゃべりつづけるのである
なぜならそれが人生だったからである

ただどうしても記憶が薄れてゆくのである、それが問題なのである
だからいかに記憶に残る旅をするかが問題だと書いてきた
それは歩くとか自転車とかがいいとなる、でもそうなると時間がかかるのである
だから会社員とかはしにくい、旅するには金より時間なのである
今は交通が便利すぎることがかえって旅を経験できなくなったのである



2020年ー新春の短歌


2020年ー新春の短歌

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海老浜ほここは津波で家がなくなった


精悍にノスリ一羽や冬の浪


新春に光あまねく新しき力の湧くや国そ栄えむ

餅食うて力の湧かむ正月や日本に生きる幸を知るべし

紅白の餅を捧げて霊前に新しき年我は迎えぬ

新春の光さしにき我が家の広くもあれな憩い休みぬ

我が家に万両飾り正月に一人来たれる故郷の女

国々に栄のあらむその基見直すべきかな新しき年 


昨日は海老浜の方に行った、そこは津波で家がなくなって枯野になっている
浪がとどろきひびいている、そこにノスリが一羽いた
それから沼津の方から家族連れで海老の津波の死者を供養する観音像を見ていたので案内した
あそこだけは大失敗だった、30人くらい死んだ
避難所として指定していたことが大失敗だった
別に500メートルも歩けば避難する所があったからである
海に接していたからもろに津浪の被害を受けたのである

やはり正月は餅である、近くのやめた菓子屋でついた餅を食べた
これは他のよりうまい、なんか力がついた感じになる、パンより米がいいとか今言う人がいる、やはり日本人は日本食がいいのである
その歴史が長いから腸が長いいうときそういうふうにして体もその風土にあって作られてきたからである
外国人は肉を消化する酵素がでるというときもそうである
遊牧民は羊を常食としているからそうなる

姉と母の霊前に紅白の餅をささげた、これはコンビニに売っていた、ちょうどこれがあっている、この家を作ったのは二人だからである
そして大きな家に悠々と住んでいられるのも二人がいたからである
やはりいい先祖をもつと力となるのである

いづれにしろ世界がグロ−バル化したときその反動が世界各地で起きている
それもグロ−バル化というのは何かその国の風土とか歴史を無視するからである
私はワインなど必要ないと思うし本当は牛肉でも日本人に合っているのか疑問なのである肉食が日本人の体にあっていないような気がするからだ
日本人はもともと肉食ではなく魚を食べていたからである

今年はグロ−バル経済が国際金融資本家が世界の富を奪うことが終わるのかもしれない
そのショックが来る、それは一時的に大混乱になってもその後にいい世界がやってくる
貿易は必要でもまずその国の栄の元がどこにあるかを知るべきである
だから国風文化の時代となる、それが世界で起きているのは神の理だとなる

その国の力の根源がどこにあるのか見直すべき時代なのである

御民 ( みたみ ) われ 生ける 験 ( しるし ) あり 天地の栄ゆる時に 遭へらく思へば
(万葉集 6-996 ).

その国土の天地が実りと豊かさを与えてくれるのが基本なのだ
それを無視すると本当の豊かさはなくなる、それが原発事故で証明されたのである
それで日本が経済が衰退して農業に活路を見出そうとしているのは良い兆候である
耕作放棄地でも利用しなければ生きていけない時代が来るかもしれないからだ
製造業でも日本はもうかつてのように興隆しないからだ
第一輸入すらできなくなる、そうしたら日本国土にあるものを利用する他ないのである
ここ70年くらいがグロ−バル経済になり異常だったのである
もちろん農業とか言っても同じようにはならない
何か新しいものとして日本の風土にあって国土を利用するとなる
そういう大きな変わり目が2020年なのである

皆様も良いお年を・・・                                      



2020年01月01日

2020-謹賀新年(Japanese New Year)


2020-謹賀新年(Japanese New Year)

新年おめでとうございます

我が国を支える柱直ぐにして新たな年を迎え立つべし 

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Nanten, pine, plum, and leaf peony are the lucky
charms of Japanese New Year
Used as a New Year's decoration

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Japanese inn



日本の正月は文化である、韓国とかにはないし中国にもない文化である
それがなくなっているのは感じないのは餅にしてもいつでも食べているし
正月で特別なことがないからである
晴れの日というのがなくなったからである

こういう文化が失われることの深刻さは日本の心が失われることである
文化とか伝統とかは心と一体化しているからである
だから正月は農業とともにあって日本の文化になっていた
そこに代々受け継がれた心があった
それが失われることは日本人の心が失われたことにもなるのだ

確かにいつでも餅が食べられるし何でもいつも食べられるにしろ物質的には満たされても心が満たされないのが現代なのである
歳神の説明のようにそれが何を意味していたのか?
そこには何かやはり深い意味があった
でもその意味は受け継がれなくなったのである

家に歳神を呼ぶことは大事なことである、家に他人を入れることは実際に相当に怖いことだ経験で知ったからである
だから営業の人でも家に入ってくるとするとそこに危険が生れる
災いが生まれる、だから家政婦とかなんでも家の中に入る人は簡単に入れてはいけないのである
そういう経験があって歳神を入れるとかの信仰になったのかもしれない
いい人でも福をさづける人が入ってくれということである
福は内であり鬼は外でもそうである

自分の家に入って来た人たちは悪鬼だったともなっていた
そのショックから今もぬけられない、でもそれも自分の家のカルマだったのである
自分自身のカルマだったのである、それは自分が楽しすぎことから来ていたのである

ともかく家とかかわる人は注意しなければならない、福をもたらすものもあるが災いをもたらす人も多いからである
ただそれもカルマであり逃れられないのである

原町の道の駅でお盆の飾りははなまるガーデンの人が作った、社長が作ったという
うまくできているが他にインタ−ネットで見たらこういう形になっている
だからオリジナルとまではなっていない、正月の決まった形として作られている
でも葉牡丹が質実な感じになり苔がむして梅がこれから開く
その調和が日本的でいいと見た
日本的ミニチュアの小世界を具現化している

今年はどういう年になるのか?

今年はを良く言う人はいない、波乱の年になるとみんな言っている
ただそれを妄りに恐れても良くない、そうあっても常に新たな進化のためにそうなる
そういう変革がないと新しい世は生まれないからである

自分自身は調子がいい、創作は佳境に入っている、だから作品をまとめることが仕事である、これも手間なのだけどそれに励むのが今年もつづく

皆様の幸いとさらなる前進をお祈りします




2019年12月31日

大晦日(風が一日荒く吹いて唸った)


大晦日(風が一日荒く吹いて唸った)


大晦日風荒れ吹きて来年の予兆なるかな外に出られじ

風荒く家に吹きつけ唸りける何か不気味や大晦日かな

大晦日なお風荒れて吹きつけぬ街灯部屋にゆれて光りぬ


何か風は荒れて家にうなり吹きつける、その時いつも思い出すのが姉が認知症になったときである、その時も風が激しく吹いて唸っていて
それ以来プログに書いたように災難つづきになったのである
自分も病気になったし家に来た人はみんなろくでもない金目当ての人だけで被害にもあった   

まず家が乱れると外からもおかしな人たちが入ってくる
いい人は来ないのである、そして家がかえって荒されるのである
それも自分のカルマだった、30年間くらい実に自分は楽だったからである
だから楽は長くはつづかない、必ずいつか苦しい時が誰でも来る
それは母が死ぬまで今度はつづいたのである

今年は台風の被害が現実に自分の家でもあった、床上浸水ではないにしろ浸水したのである、でもその他は今年は大きなことがなっかた
ただ自転車で夜転んだのは危険だった
というのはまだ転んで打ったところがあざになって消えないからだ

とにかく経済でも何でも来年いいこと言っている人はいない
実際に経済でも何かいい兆候がないからである
株でも官製の見せかけの株高でありそのメッキも来年ははがれる


日本における大晦日という慣習は、日本文化に古くからある「歳神様」(としがみさま)、または「歳徳様」(としとくさま)への信仰に基づく儀礼から生じており、これらは歳徳神などとも呼ばれるその年一年間を司る神様である。年の初めから来られるため、「正月様」(しょうがつさま)とも呼ばれ、各年によって来られる方向が異なり、その方角は「恵方」と呼ばれる。この神様は神社のような宗教施設ではなく各家々に訪れると昔から信じられていたため、神様をお迎えし食事を共にしたりするために大晦日から「年籠り」(としごもり)をして(元旦に恵方にある近所の神社へ参拝する恵方詣りをすることもあるが)元旦も家で過ごすことが一般的であった

こういう民俗は何かやはり意味があったのである
信仰とも違う一つの何か神様がいてそれが人間に影響する
というのはつくづく家に来る人間は何か影響が大きいのである
親の介護とかなり自らも病気になったとき自分の家に来た人たちは異常な人たちだった
だから余計苦しんだのである、実際に泥棒も来たしガタガタに家がなった
それは家に来た人が悪かったためだともなる

家に来る人、家に入る人は気をつけねばならない
例えばセールスマンとか何かそういう人も悪い影響をもたらす、今は銀行などの営業の人も危険になった、ゆうちょ銀行でも不正があったりと何か経済が衰退して金融でも悪化しているからそうなる

歳神とかなると何なのかと今ならなるが福をもたらすものを家に迎えることである
この家に迎えることが大事なのである
それは家に入る人の影響が大きいからである、つまり変なのを引き入れるとその家が汚される、その家族すら破壊される恐怖がある
だからそういうことを家々で感じていたからこういうことが信じられたとなる
家の中に悪しきものが入ることを畏れたのである

必ず村の神社などの古い石碑を見ていると必ず正月と刻まれている
正月に奉納したから正月が刻まれている、何かそういう慣習が祭りがあったともなる
そういうものが消えたのは農業ではなく工業化したからだともなる
農業はどうしても自然と結びつき人間の技ではない、神を意識するものとなるからである豊作になるかどうかとも天候に左右されるからそうなる

第一冬というのがふえるーふゆなのである
農作物はかえって冬に育ちやすい、増えるのである
これは意外かもしれないが実地に畑で野菜を作る女性がそのことを言った、そういうものかと知識では知っていてもそれが本当にそうだったとういことを知ったのである
農業でも漁業でも林業でも自然と直接的に結びつく仕事は神を意識しやすいのである
人間を越えたものを畏れるのである
でもこれが野菜工場のようになるともうそこも工場になり自然に存在する神というものから離れるのである、ハウスは一つの工場と化しているからである

今年は台風が一番の被害であり最後にまた風が荒れてうなり吹いた
それも今年の天候を示していたとはなる

では今年もこれで終わりです

何かいちいち対話はしていない、一方的に書いている
対話するにしても何かその人となりを知らないと対話できない
突然コメントされてもその人なりを知らないから対話できない
ただyoutubeのようにその人となりわかるとき対話できる
その人が何を求めているのかも良くわからないから対話できないのである

過去の人でも対話することが相手を理解することである
自分なりに相手の書いたものを対話して消化するのである
ただそのまま引用ばかりしていては読んだことにはならない
だから過去の偉人の言を応用して理解することはむずかしいのである
その力量に差があると余計に応用できないのである
ただ今になって理解力がついた、だから自分の文脈の中で活かすことが可能になる
だから今まで買った本を読み直して理解を深めているのである

では良いお年を・・・・

2019年12月29日

年の暮の俳句(家事に追われる自分に変わりがない)


年の暮の俳句(家事に追われる自分に変わりがない)

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まじかにて花見て遺影年暮れぬ


ひよどりのけたたまく飛ぶ寒椿

荒浪の轟きよすや寒椿    

山鳩に烏に雀年暮れぬ

山茶花のここに咲きしや目をとめぬ

まじかにて花見て遺影年暮れぬ

買物や一人忙し年の暮

野良猫に食われしオカズ年の暮

金なしと嘆く老女や年の暮

死ぬまでの金勘定や年の暮

原町へ今日も行き来や年の暮


今日は原町の道の駅まで行った、そこで正月の飾りなどを見た
花も買った、正月の飾りつけはできた
でも花は活けた花はいつもそばで見ている
そこに遺影がある、食事する場所のすぐ近くなのである
何かそれだけでも花をいつも見て遺影を見ているとなる
離れた所には別に花を飾る場所を作った
生け花はいつも身近に見る所にあるのがいい、家の中でも離れるといつも見るとならないからである
でも床の間だと今はいつもいるとはならない、やはりいつも食事する間がいいとなる
仏壇でもそれは別な部屋にあったりする、花はいつもまじかに見る所に飾るのがいい
ただ生け花はフラワーレンジメントは別にして写真をとるのである

金がないということは苦しい、それでどうにもならなくなり借金する人もいる
そもそも金が基本的にたりないのだから必ず月末に金がなくなり電気水道がとめられたりするのである、そのことが変えられないのである

買物に行っている間に野良猫が入ってきてオカズを食べられたというより口つけられたかもしれないとなりバイキンがついたのかと恐れた
野良猫にすれば食べるものがないのだからなんとか食料を確保しようとする
その親子二代でこの辺にいるのである
もう7年前とかだったかその子猫を生んだ親を知っている
その兄弟がいて子供を産んだから孫になるのである
それだけの歳月がすぎた、隣で餌をやっているから集まる
でも自分の家にも隙を見て餌をねらってくる
これが困ったことなのである
時々留守の時荒らされるからである

猫が危険なのはバイキンである、また人間が危険なのは盗まれることである
これはみんな困っている、人を見たら泥棒と思へどこでもそうである
そうして自ら盗んだり盗まれたりしない人はいないのである
まさに現実に人間の泥棒猫が入ってきて荒らされた
それも近くの人だったのである
野良猫にしてみれば生きねばならない、だから隙をみて飼いネコの餌を狙って家に入ってくる、でも留守の時荒らされてそこにバイキンがつくことを恐れる

ともかく今年も終わりである、相馬市までは今年中には行けない、原町は8キロくらいであり行ける、どうしても買い物があり行くことになる

山鳩に烏に雀もそれぞれに年が暮れた、人もそれぞれである
ただこの一年は台風被害をのぞいてそれほどのことはなかった
ただ何か自分の場合忙しすぎる、全部家事を一人でしてさらにプログに書いているから
ほとんど食事してもすぐインタ−ネットを読んだり見たりしてプログを書く
だからそこに暇がなくなっているのだ
本当は家事を少しでも手伝う人が必要なのだけどそれがうまくいかない
家の中に人をいれることやどういう人が来るかわからない
何か相性もある、今は一人だけ以前として同じ人が来ているがその人はただ話するだけであり何もしない、だから結局介護になってから全部家事はしていることには変わりなかったのである

ただこの年になると時間が貴重になる、生きる時間がなくなってきたからである
本当にいつ死んでもいい年になっている
だから時間を無駄にしたくない、作品を完成するべく整理している
それも手間なのである、写真の撮り方もいい写真をとる方法があってもそれを簡単には会得できないのである
とにかく今年も終わりである










2019年12月27日

年の暮(家の整理に追われる)


年の暮(家の整理に追われる)


年の暮家の整理の月かな

年の暮金の計算に追われけり

冬紅葉雨にぬれけり家の前

我が一人時雨ぼつりと年終えぬ

夕空に鳩十羽ほど年暮れぬ

寒雲や風車はとまり年終えぬ

十数本寒木動かじ風唸る

星増えて星座となるや冬木立


我が庭に今日も数枚の木の葉散る心にとどめ日は暮れにけり

死者なおも家のまわりにいるものや一人守りて今年も暮れぬ  

家の整理と掃除とか金の計算とか料理とか生け花とかして疲れた
なにかずっと介護になってから家族が死んでも家との格闘がつづいている
家は何か物というのではない、そこに生きたものがまだ生き続けているという感じになるだから家を生きるとまでなる、自力で家を花を飾るように作った
何か一つの仕事場にした

今日は夕暮れが迫りぼつりと頬(ほほ)を時雨がぬらした
時雨でも雨と間違えやすい、ぽつりとか濡らす時は時雨である
でも雨が少しでも全体にふれば時雨ではない
せいぜいぽつりと頭でも頬(ほほ)でも濡らすくらいのが時雨である
時雨は何か死をにおわすということがある

夕空に鳩が十羽ほど飛んで旋回した、これはただ写生である
写生が俳句の基本である、いちいち説明するのではない
だからこれは今年も十羽ほど鳩が飛んだということで平和に終わったとみたりする
その解釈はいろいろになる

風力発電の風車は四つあるが海岸でとまったままである
これも長いと思った、もし電気でもこうして発電できなかったら大変なことになる
だからあまり風力発電とかソーラーパネルは頼りになるものではないのだ

銀行員が昨日も来たし今日も近くの地銀に行った
何かこの銀行は何なのかわかりにくいのだ
どういう社会的役目があるのかわかりにくい
でもそこには十数人くらい働いている、するとそれなりの人が社会のために働いているとなるのか、でも今の仕事は投資信託とか今度は保険とかすすめる
つまり地銀は今や証券会社の支店のようになっているのだ
だから何か本来の仕事から離れてもう地域に必要なのかとまでなる

そして地銀でも銀行でも半分がつぶれるとかなると不安になる
地域に尽くすものとして地銀の仕事ではなくなっているのだ
でも利益を出さないといけないからわかりにくい外貨だけの保険とかをすすめる
でも投資信託では損しなかったから助かった
本当は株をもっていればもうかっていた
やはり資本主義を批判してもそのシステムでもうけるには資本が元金がものいうのである

どうも銀行を調べるともともと地元に住んでいた人ではない
銀行は転勤が多いのである、その転勤が多いことには事情がある
銀行特有の事情がある、一地域に長くいられない事情がある
つまり寒木が近くの公園に十数本あり根付いている
そういうふうに地域に根ざすものとも違っている
一応福島県だから大銀行とは違っていても転勤が多いか地域に根付かないのである
土建業などは地域に根付いている、でも土建業も遠くに仕事があると移動するのである
移動社会になっているからそうなる、土建業でもいつも地元に仕事があるとは限らないからである

今日は銀行で記帳してもらい、次に布団を丸洗いした、それで失敗した
丸洗いできない羽布団だった、たいがい布団は今は洗えると思った
それは通販で買ったもので軽いからいいものだった
汚くなって洗えないとなると失敗だったのでまた別なものを注文した
その後に食器を拭く付近を近くの100均で買った、蓋の無い醤油瓶を使っていたらそこに
蠅が入っていてその醤油を使ったのは失敗だった
何か台所仕事は必ず何かある、第一冷蔵庫に何が入っているのか忘れるのである
こうして毎日自分は家事に追われるしプログも書いているから追われるのである
ただ介護が終わったのでその点は楽である
ただこんなに家事に追われると思わなかった
家事には何か細かいことに気を使うのである、料理自体いろいろなものを使いすぎるのである

とにかく今年も終わる、やはり今年は自転車が危険だった、車も危険だが自転車も危険なのである  




2019年12月25日

冬の俳句十句(家に生きる-家の重み)


冬の俳句十句(家に生きる-家の重み)

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ここのバス停があってもほとんどバスに乗る人がいない
一日二回か三回カラのバスが通るだけであり生活から離れている
冬菜があれば生活の匂いがするがバスに乗る人がいないのである

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ひなたぼこ家猫平和争わず

隠れ咲く枯菊ひそか隣かな

大石に冬日のさして隣かな  

玄関の曇りガラスに冬紅葉

我が家や長くも棲みて冬紅葉

我が家に母もなきしも冬紅葉

我が家や冬紅葉も散りにけり

枯蔦や我が一人残り家守る

我が庭に数枚散りぬ枯葉かな

大石に山の枯蔦太しかな

我が家を守りて一人冬の暮

広き家南天飾り幸のあれ  

なまこ壁蔵ある家や冬の暮


我が家に刻みし時の長きかな今年も暮れむ家をめぐりぬ


家というのも何か人間と一体化する、アイディンティティ化する
ただ家を深く意識するようになったのは家族がみんな死んでからである
死んでから親のことなど深く思うようになり家もまた思うようになる
家というのはただの人が寝起きしたり食べるだけのものではない
そこに人間一人の一生が刻まれて一代だけではない、何代も続く場合があり
そこで重みをもつ、だから蔵のある家は重みがある
私の家だってすでに築50年過ぎた、古くなっている
何か私の家は大きい、だから二階の八畳間に寝ていると気分がいい
家の広さは人間の心に相当に影響する、狭い家にいると圧迫されるのである
これまでは狭い部屋に寝起きしていたから圧迫されていたのである

まず田舎だと家とか土地とか恒産がないと住みにくい、市営住宅のような狭い所に住んでいると心まで圧迫されて狭くなる、いつもとなりの人のことが嫌だと言う人がいるからだ何か変な人がいてもがまんするほかない、でも離れていればそれは関係ないのである
そして家というのは長く住むとまた重みがもつようになる
農家がなぜ重みをもつのかとなると土地と一体化して何代も住んでいるからそうなる
農家は三代住まないと仲間になれないというのもそうである

でも私の家は外から来たから二代目とか三代目なのである
街に住んでいる人は比較的新しいのである
隣の家をのぞいたら枯菊が咲いていた、それを今日見つけたのである
なにかひっそりとしている、最近は隣の女性と話もしない
その女性もおとなしいのである
そしてまた左の隣のおくさんも顔すら見たことがない、同級生がおとなしい女性だったというからそうである
その庭には大石がある、ところがその家は貸家である、でも庭が広いのである
そういう家を田舎でぱ安く借りられるのである
もうすでに30年くらい住んでいるとそれは貸家ではない感じになる

何か老人になると家が大事になる、なぜならあまり遠くに行くのも億劫になるからであるすると家にいる時間が長くなる、それで家が広かったり住み心地良くないと嫌になる
また家は周りの環境も影響する、何か田舎でも車社会だから車の騒音に悩まされる
だから立地が悪いと騒音が都会のようにある
ここでも前は道路が近くで車の音がうるさかった
でもそこに家が建ったので音がさえぎられたのと下にいるようになったから車の音は聞こえないのである、だからこの家に満足している
ただ広い家だと掃除するだけで手間なのである
家事に時間をとられるのである

なんか猫が家の前でひなたぼっこている
それが平和だった、ところが野良猫がいつもいる、隣で餌をやっている
その野良猫が自分の家の中に入ってくる、それも問題なのである
地域猫として飼うとういのでもない、ただなんらか餌やる人がいてこの地域にいるのかとなる
地域猫でもネズミ駆除にはいいのかもしれない、というのは田んぼの近くの市営住宅の人は小さなカヤネズミが入ってきて米を汚されたとか言っているからだ
ここでは住宅整備地域にして改造したから堀もなくなった
一時震災後にどぶねずみなどが入ってきたが今はネズミは見ない

飼い猫は餌が与えられるので平和である、でも野良猫は平和ではない
餌が与えられないからである、平和という時これは人間でも同じである
やはり餌が与えられないと治安が悪くなる
貧乏化すると安定しないから治安が悪くなる
日本は今貧困化して犯罪が増えてくる
それは自分自身が被害者だったからである
銀行まで窮地に追い込まれて貯金してもそれが奪われるとまでなっているからである

とにかく田舎は家があり土地がありある程度の金の余裕がないと住みにくい
恒産があれば田舎の方が住みやすいのである、そしてそこで文化的なものをつちかわれるのである
だから公務員とか農協とか銀行は生活的に安定していたのである
それは田舎でぱエリートだったのである
今は貧困化するとそういう安定した職業がなくなる、そこで田舎でも犯罪が増えたり住みにくくなるのである

いづれにしろなぜ老人ホームに入った老人が家に帰りたいというとき家が一生を過ごした場所でありそこに深い思いがあり家は単なる箱ではないからである
だから原発避難者でも故郷に帰りたいというのは老人なのである
それを奪ったのだからそれが罪深いものだったとなる
人生の最後は家で死にたいとか故郷で死にたいとか田舎で死にたいとなるのはそれだけ
そこに深い思いがあるからそうなるのである
家というのはだから嫁にもなる、女と家は一体なのである

そして意外と大工さんというのが家にかかわるから大事だとなる、でも建売とかなるとあまりかかわらない
庭作りでも家でも大工さんの手作りだと家とかかわるだけではない
その家の人とも家族でも深くかかわることがある、ただ今はそういうことは少なくなった
また茅葺の家のときは地区の人がみんなかかわったのである
だから家はその村とかと一体化していのである
それが建売だと地域とは関係ない、ただ金で家を買うという感じなり重みがなくなった
ただこの辺で一つの新しい街ができるほど家が建ったがみんな建売であり一週間くらいで組み立てて建てたものである
昔の家は普請は大仕事であり地域の人がみんなかかわってできた
だから何か昔の家には重みがあるが今の家には重みを感じられないのである
また家の重みは長く住むことによって重みが生れて来る
それはその家族がその家と一体してただ物質ではないものになるからである






2019年12月16日

冬の俳句十句(近辺を回る)

冬の俳句十句(近辺を回る)

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葉牡丹の畑に蔵や陽の没りぬ

誰が眠る桜井古墳や冬深む

冬の日に老人植える桜かな

古社一つ参る人無く木守神

奥の方冬田わずかに籠るかな

冬たんぽぽ我は恵まれ生きるかな

故郷に墓守り我や年暮れむ

墓地近く母の命日冬椿    

街の墓地日々通りて冬椿

冬の菊母の命日墓に挿す

我が一人家を守るや冬紅葉  


新田川に白鳥が二十羽くらい来ていた、そこで土手は広く桜の木を植えていた
市の方で植えた、でもそれが成長する日は死んでいるとなる
この辺では白鳥は今年は見かけない、前は真野川で餌やたしていたから来ていた
今はしていないから来ない、やはり餌やるのがめんどうになる
猫一匹でも餌やるのが手間になる

近くの墓地はいつ、もの通り道である、
そこの脇に公園があり椿が咲いている、冬椿というとき寒椿とは違う
でも今日は寒かった、寒椿は最も寒い時の椿となる
近くにあるということは何かそこに死者もいつもいるという感じになる、墓ですら離れると日々に疎しとなってしまうのである  

母の命日は12日だった、師走に死んだのがふさわしいとなる
なぜなら暇なく働いた人だったからである、93歳頃まで家事もしていたからである
それで認知症にならなかったともなる

人間はだからつくづく皮肉である、そんなに働かせられるのは嫌だと普通はなるが
全然働かない人がぼけやすいのである
それは笑いごとではなく怖いことなのである
奇妙だけど主人がいて召使がいて主人がもし何もしないで召使になんでもさはていると
主人がぼけて召使はボケないとなる
このように人間は召使が不幸だと思っても必ずしもそうともならないのが不思議である

昨日は冬タンポポが二三輪咲いていた、だからあたたかいと思った
浜通りでぱ冬でもあたたかいときがある、今年は暖冬気味だから咲いていたと見ていた
でも今日は寒いのである
家族で自分だけが一人残ったが自分は恵まれていたとなる、それで最後に残ったのが自分だったとはなる


2019年12月15日

秋の蝉の私の句について


 秋の蝉の私の句について

  
町一つ秋の蝉鳴く余韻かな

one town
one sympathy
all in one herat
Cicada voice in autumn
still sounding over


まず秋の蝉だが何か今年は川の土手の道が散歩道と買い物に行く道になっている
そこに座る場所があり秋になっても蝉の声を聴いていた
最後に一匹の声を聴いて後は聞こえなくなった
その余韻が残っていた
英語にしたがそれはグーグルの英語翻訳である、AIでも翻訳はかなり精度が高くなっている
ただ詩の翻訳となると限界がある、一部はでも機械翻訳を使い英語にして見る
すると何か英語の感覚が身につくかもしれない
ただこの英語は正しくはない、あくまで参考であり試しにしている

何か人間の心が一つになるone heratになる場が必要なのである
それがちょうど一万くらいの町だとなれる、原町とか相馬市になるとやはり広いからなりにくいのだ、ただ相馬市の街は原町よりは一体感一つになりやすいのである

人間が共感する一つとなれる場というときそれは狭い範囲になる
そういうところで一つの共感をがあり一体感をもてる
だから江戸時代の村だったらもう500人とかのレベルだからそれ以上に人間でも自然と一体化していたことは確かである
人間があえて絆だとか団結だとか言う時すでに絆も団結もなくなっていたからそういうのである、本当に連帯していればそんなこと叫ぶ必要もないからである
そして原発事故であったのは外から来た人たちの絆であり内部ではなかった
内部では補償金で分断されたのである

人間は家族であれなにかそうした小さな共感する範囲の共同体がないと安定しない
現代の問題はグロ−バル化社会とか広域社会とかで本当にそうした共感する場がない所に無限に広がったのである
そこで人々は経済的一単位とかなり金で何でも売買される世界にひび生きている
そこにはもう絶対に心で一体感をもてる社会ではない
やはり人間はアイディンティティをもてる一つの小宇宙とういか世界が必要なのである
それを求めることはもう都会ではできない、ばらばらのアトム化した社会しかないのである
だから豊かになっても現代の人間はみんな故郷喪失者とか漂流者のようになっている
だからこそ原発事故で簡単に町でも村でも人は補償金をもらってさっさっと出て行ったのである、そういうふうにばらばらになりアトム化した世界なのである
コミニュティとか共同体より金の方が大事になっている社会である   

秋の蝉余韻やここに我が座る
ふるさとや旧友と会い秋の蝉
ふるさとや同じ場所に秋の蝉
ふるさとにともに老いゆく秋の蝉

何かこうして故郷とは共感する場所である、人間にはそういう場所が必要なのである
それが今は喪失した、経済活動でもいくら田舎でもグロ−バル経済に組み込まれているからである
そこで心がココロがココから発しているようにそのココロが失われてしまったのである
だから心は場所と深く関係してありえたのである
それは都会にはない、共鳴したり共感したりする場はないのである

とにかく秋の蝉の俳句はずいぶん作っている、でもそれを調べるのがまた大変になった
膨大なログがありそれをまとめることが大きな仕事となる、それで今冊子のようなものにしよとしているがこれも手間なのである


2019年12月13日

また忘れた母の命日 (死者は生者に何を望むのか―報いは何なのか?)


また忘れた母の命日

(死者は生者に何を望むのか―報いは何なのか?)

meinichi111.jpg   

母の命日(三周忌)
http://musubu2.sblo.jp/article/185201304.html                                    

motherdeath11.jpg

白い清楚な花は隠れるように
つつましく咲いていた
今は亡き女となり 
なお家にいて静に
やはりこちらを見ている?



報いあれ我が家に生きて冬紅葉

冬の菊母は支えぬ我が家かな  


忘れけり母の命日昨日かな満月光り4周忌かな 

明るくも冬の満月照らしけり母は彼岸に我を見るかな 

しみじみとこの家にあれな冬の日や母は長くもここにありせば


昨日が母の四周忌だった、15日だと思っていた、それがどうしてか先入観年になっていた、前の年も忘れていた、こういう勘違いがある

母は目立たぬ女性だった、性格がそういう目立たない女性だった
ただ家事にせわしく子供の時店でご飯を食べる間もなく忙しかった
そして実家の父親が事業に失敗した時、後妻が入ってきて継母でありいじめられたのである
こういう生い立ちは悲惨である、何か愛情をかけられなかったのである
その継母だった人も最後は悪かったなとと言って何かおかしくなり母に頼って最後は死んだ、そして実家の墓にその継母の骨は入った
ただ一人めい子が残ったがその人が異常人格者になったので今は墓参りしていない
何か不和分裂の家系でありそういうことは生前あると死後もつづく
一緒に墓参りできないのである

それにしても我が家にいたのは長かった、百歳まで生きて70年くらいいたとなる
これも長いと思った、だから人間は死んだらどこにいるのかとなるとやはり依然として家にいかるのかもしれない、女性と家は切り離せない、だから嫁なのである

なんか不思議なのは今は私は二階家であっても下にいつもいる、すると母親もその部屋にいて介護したから母もいる感じになる
何か自分を庭からでも見ている感じになる
時々幽霊のように現れる感じにもなる

母は生い立ちとか不幸だったけど経済的には戦後の一時期は苦労してもしなかった
経済的に苦労したという時戦前はみんなそうであり戦後の一時期はみんなそうだったからである、だからそれは苦労したとは言えない、でも自分の家で良い待遇だったとは言えなかった
ただ忍耐の女性でありじっと耐えて暮らしていたとなる
それは自分の性分ともにている
いい家に生まれたらやはり何か文学の才能があったみたいだから短歌など書いたかもしれない、ただそういう余裕が全くなく働きづめで終わったのである
短歌とか俳句でも何か暇があったり余裕がないとできない
そういう余裕が与えられなかったのである

今は遺影に向かい母と姉に語っている、返事はない、なんか認知症になった女性が壁に向かって一人で語っているという時、それは死んだ人と語っていたのである
つまり老人にとって死んだ人の方が生きて入る人より親しいのである
老人になると親しい関係を作ることはむずかしいからである
そして老人にとって家が安住する場なのである、だから家で死ぬのが理想だとなる
ただ母は一か月前に入院して病院で死んだ
でもそれまで家にいたのだから家で死んだ感じになっていたのだ
ちょっと目を離した時に死んでいたのである
おそらく苦痛はほとんどなかった、眠るように死にたいと言っていたがそのことだけはかなえられたのである
やはり苦痛なく死にたいというのがやはり死の理想でもある
百歳まで生きればたいがい老衰ではあり苦しむことはないだろう
だからやはり老衰で死ぬのが理想だともなる 

とにかく死者の報いとは何なのだろうか?
何かそれだけ苦労して尽くしたり働いたのだから報いがあってもいいとなる
でも死んだらその報いは何になるのか?
供養してそれを喜び報いとなるのか?
何か報いが欲しいとなる、でも死んだのだから何かを死者に与えられるのか?
死者に与えるものは何になるのか?

それは物でもないし金でもないし死者が欲するものは何になるのだろうか?

ただ少なくとも墓参りしり遺影に手を合わせたり語りかけたりして死者と交通する
何かそういうことは必要である
でも死者が得る報いとは何なのか?死者には与えるものがない
生きていれば体にふれたり声をかけたりして愛することはある
でも死者にはできないのである
キケルゴールは死者を愛せという論文を書いているけどそれもわかりにくい
死者をどうしたら愛することができるのか?
どうしても歳月が過ぎてその存在が希薄化してあいまいなものになってしまうからであるつくづく人間はここでも忘れやすいのである
60年も一緒にいてもそのことすら記憶が希薄化してゆく
まだ一緒に暮らした家が残っているからそれで記憶するということがある
家がなくなったら施設に入ったりしたらもう記憶がさらに消えてゆく
それだけ何でも家族すら記憶するのがむずかしく消えてゆく無常があった