2019年01月09日

2019謹賀新年(千両と山鳩と松の内)


2019謹賀新年(千両と山鳩と松の内)

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北泉の延命地蔵に江戸時代の碑があり正月と記されている
ただここは津波の被害で村自体が消滅するような状態になった
だから祭りも途絶えることがある




新年を北風受けて走るかな

風受けて赤さを増しぬ寒椿

舞い上がる木の葉や街の辻走る

峰二つ大原に望み冬深む

千両に山鳩来たる松の内

我が家や千両百両栄えけり


新しい自転車でypj-xcで小高い山道を行った、風も吹いていたが今度の風を受けても走れる、何か半分がバイクになっているからだ
それで北風でも向かって走れる、悪路も行ける優れものである
今までは風が吹くと外に行きたく無いし行けなかった
これだと行けるなと思い行った

北風はここでは毎日吹くのだから外に出れないと困るのである
冬でもやはり外の風を受けることが自然と一体になることである
だから椿に北風が吹きつけてさらに赤く感じたのである
それは実際に北風を自分が受けて走っていたからである

大原には二つ並ぶ峰が見える、あれは二つ峰となる、対なす峰であり夫婦峰とかにもなる人間でもやはり夫婦でも家族でも二つが一体になると強さを発揮する
私の家は特殊だったけど最後は一つになったという感じである
それは死んでからだともなる、twined peaceという感じになる

正月気分というとき一月は松の内となり小正月とかあり正月なのである
それは農業で生活していたときのものであり農業が縮小するとそうした伝統が失われたのである、農業は自然と密接に関係しているからそうなった
正月でなくてても松が立っている間は農民は休んだ、それで松が立っている内は休むから松の内となった、一斉に農民は作業して休むからそうなった

今日聞いた話ではクボタでは農機具を販売するが収穫の時期の秋は忙しい、何かと修理とかも頼まれたり忙しいが冬は農民も休むから暇になるから長くも休みを取れるとか言っていた、それは農民の生活のリズムに合わせているからそうなるのである
農業社会だったらみんなそうなるのである

千両とか万両とか十両でもにているから区別しにくい、ただ縁起物であり新年にふさわしいものなのである
正月は農民の文化であり農民の生活が衰退すると正月の祭りも喪失してゆくのである
ただ季節感は変わらずあるが生活そのものが農民社会でなくなるとどうしても正月というのがすたれたものになる
正月とは特別なものであり神社にも正月と印した江戸時代の古碑がある、それは正月に記念するものとして奉納したとなる

千両と山鳩と松は正月にふさわしい、山鳩は平和であり千両は金運だとなる、松と末永くとか長寿を示してもいる
今年はどうなるのか?去年も自分にとっては平和だった、平和がもどったという感じになった、今年もそうあってほしいとなる
日本も暗いことが多いがいい年であることを願う
我が家は自分の代で終わりにしても栄えた家だったのである
そうなったのは父と姉と母がいてその栄えを作ったのである
自分はただ受け継いだだけだからである

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花幸園芸店の作品(南相馬市鹿島区)
はなこうえんげいてん

これは傑作なのだけど近くの花屋の人は思っていない
著作権のことも知らない、でも忙しくて最近はフラワーアレンジメントはしていない
人間は家事から何から色々なことはできないのである
フラワーアレンジメントも結構暇でないとできないと思った
また金もかかるしいろいろなことで使うから最近はしていないのである




2019年01月07日

2019年01月01日

明星(2019新年の挨拶) (青年よ師を偶像を殺し龍となれ!)


明星(2019新年の挨拶)

(青年よ師を偶像を殺し龍となれ!) 

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雲破り初日輝く年男


新年や月と明星輝きて遠くに一つ星きらめきぬ

新年や明けゆく空の清しかな月光り明星輝く幸のあれかし

新年や龍とならむや若者の未来をつぶす大人なるかな

雲さえぎ初日の出待つあせらずに光に欲す時を待つべし


三日月が月の脇に光っていた、それは金星なのか木星なのか?
さらにかなたに一直線の中に小さい星もきらめいていた
今年はめずらしく早く起きた
今年も幸先良いのか?明星は幸運の星なのか?
何かが新しく開ける年なのか?また新しき人が出る年なのか?

私が俳句とか短歌をはじめたのは20代でありそれも25頃からはじめたのである
その時はただ575とか言葉を並べるだけだった
だから結社に入ったが俳句関係は全く認められなかった
ただアララギの結社に入って選ばれて何首かのった
だからここでは認められたが他では認められない
その後どこの結社も入っていない独自で精進してきたのである
だから今でも評価はされていないのである

ただ結社というのはそこに師匠がいてそれがかえってつっかえ棒になる
才能をそぐことになる、そもそも師というのは危険な存在のである
自分より優れたものを出ることを拒むからである
若い人は確かに未熟だけでそれはただ芽であるだけにすぎないからである
その芽があとで大きく花開くことがあるのだ

それはどこの分野でもそうである、日本人は師を異常に崇拝する、人間と一体化するというとき日本的な特徴なのである
だから師と同じくなるなという人は自らを否定する師はいないのである
結局人間は一番自分がかわいいからである
自分がどこまでも崇められたいとしているからである
それでカルト教団では師が神の如くなりそれと一体化して崇拝する
それが偶像崇拝になるのだ、この偶像崇拝ほど怖いものはない
なぜなら一番神が嫌うことだからである
神は妬む神なのである、これは本当なのである
聖書でも信仰とは偶像崇拝の戦いだったからである
それは命がけだったのである、師の呪縛から離れられないからである
子弟不二などという思想はそれはもう師のコピーであり人間として生きることはなくなる
ロボットなのである、人間はなんらかで生まれとか環境とか時代も違うから個性的なるのが神が定めたことなのである

まず俳句とか短歌の師が多すぎるのである、それらは小粒なのだけど師として崇められたいだけなのである
だから師とは否定すべきものである、どうしても人は時代の子でありまたその生い立ちとか性格とかいろいろ違っているから十年も違うと世代の差が生まれてその下の人が理解できなくなるのである
だからその若者がどういう未来があり未来を築くのかはわからないのである
それで必ず師は若者を卑くくみる、つまららないものとみるのである
それは未来というものがわからないしその時代が離れるからそうなる

とにかく私自身の場合は何か才能が開花したのは60過ぎてさらにもう死に近くなってからだった
なぜか不思議なのだけどいろいろなことが理解できる、深く理解できる
今まで理解できないことが深く理解できる、自分なりに理解できる
これが本当に不思議に思う、若い時でもその後なかなか本を読んでも理解できないが今は即座に理解できるのである、そこから自分なりの見解をもつことができる
大器晩成というけども別に自分は大器の片鱗もない、平凡な人間だった
むしろ普通より劣っていたし才能だってなかったのである
啄木とかみればわかる、なぜあんなに若くして才能があったということに驚くからである天才というはそうういものなのである
とにかく師は危険である、師に追従するだけになり自分の個性も才能も殺されるのである

臨済録の「仏や祖師に出逢ったら直ちに殺せ 、父母や親族に出逢っても殺せ」

これは確かに過激なのだけど祖師とか親でもその才能を伸ばさせたりしないのである
むしろ親のいいなりになることを望むし師にしてももしその弟子が大きなものになることを望む人はないないのである、まずは俳句とか短歌の師を崇めていたりしたらもうその未来は小さくされる、そんな人たちは小粒だからである
結社で威張りたいだけなのである
そして自分の不思議は特殊な環境にあり学校とか会社とか集団生活になじめない性格だった、でも会社に入らなくてもその後自由に生活できたし自由に旅もできたし自由が与えられていたのである、それで咎められない環境にあったのである
そのことも自分の形成に大きく影響したのくである
こういうことはなかなかありえないのである、それでマイナスの面もあったが何かそれが自分を大きくしたということは確かである 

私は禅宗にひかれる、真宗とか日蓮宗は庶民的でも盲目的である、奴隷的になりやすいのである、なぜそういう宗教がこれほど普及したのかというとそもそも鎌倉時代とか字を読めない人が多かったからである
そうなればただ題目をあげていれば救われるというのが一番わかりやすいから普及したのである
それはキリスト教でもそもそも字が読めないから絵で説いていたとかなっていた
聖書を読めた人は司祭だげだったとなればそうなるからだ、禅宗は何か個の自立をうながすものであり大衆化しなかったのである
禅宗はだから今の時代にも適合する、自然に習う時禅宗が参考にされるし禅的なものが自然と一体化することなのである
雲水とかでも旅する人でもそうなったことでもわかる、だから日本の宗教では禅宗が普遍的なものとなる
世界的にもそうだったように禅宗は世界的にも普遍的な要素をもっていたからである
それは師を否定する、偶像崇拝を否定するということで普遍性をもったのである

俳句とか短歌は日本の伝統であるがどうしても自分でもそこに限界を感じるから詩の分野にも広げている、とても表現しきれないからである
ともかくいかなる師も危険な存在であり偶像になる危険性がある
もちろん師に一時的に学ぶことは必要である、ただそれが神のようになり永続化することはありえないのである
常に時代は変わりそれとともに人間も形成される
インタ−ネットが生まれればそれによって新しいものが生まれる、技術改革で今までにないものが生まれるからである、インタ−ネットを駆使できる時代とできない時代には才能と関係なく大きな影響を受けるからである

つまりこうしてプログでも自由に表現できることは今までありえないことだったからである、必ず表現するにしても本だった勝手に出せないし雑誌にものせられないしテレビなどでも必ず許可がなければ出れないし意見も言えないのである
それはメデアが力をもっていたからである、インタ−ネットは本当にただメデアであり媒介するものにすぎないのである、そこに誰かの会社の許可がなければできないとはならないからだ
だから表現の幅が広がったのである、インタ−ネットにも問題があるにしろ自分にとってはいいものだったとなる 

青年よあせることなく最後に龍となり天に飛翔せよ!

ということでまた今年も書きつづけますのでよろしくお願いします







2019 新年おめでとう HAPPY NEW YEAR


2019 新年おめでとう

HAPPY NEW YEAR

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私はイノシシ年です

今年は新しい自転車で最後の猛ダッシュになるかもしれません

自転車人生のしめっくりかもしれません

それから故郷の自然とアイディンティティ化した詩の集成です

その他今までしたことの総まとめとなる
                          


今年もよろしくお願いします

みなさまも明るい年であることを祈ります

2018年12月30日

冬深む(年終わる)


冬深む(年終わる

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近江高島市の家形石棺



我が家を継ぎて一人や冬深む

姉語る柱に寄りて冬深む

集めたる蔵書を読むや冬深む

冬深む村に一つの石重し

この石の位置の変わらず冬深む

ふるさとに死者を思うや冬深む

根は深く大地に張りて冬深む

ものみなの静まる時に雪のふる

事もなく今年終わりぬ山眠る

寂けさややがて雪ふり年暮れぬ 
                                          

石造り家型古墳の重々し北風唸りここに生く人



家型石棺重々しかも
ここに生きにし家族なれ
ここにいつまでもあれと
その石棺の重しかな
家族は離れがたくも
ここにあらむと石棺に収まる
落葉を踏みて我がたずね
ここに冬は深まりぬ




今年も終わりになった、家族がみんな死んで一人家に残されたのが自分である
やはりまだ継続して家族でも家でも行きてく、生きるというとき活きることなのである
何かしら活かされることなのである、家でもやがて跡継ぐものがいなくなれば活きることがなくなる、廃墟となるのである

姉は良く柱のことを言っていた、それは近くの橲原(じさばら)の木を同級生の人が木こりをしていて提供してもらって家を建てたといつも自慢していたのである
だからその柱によると何かそれが姉のようにもなる
実際に家族はその家という建物に住んでも柱となって支えたとなる
だから家とはやはり人がいて人がいなくなっても以前として人を思っている
そこに家の重みがある、だから家がそういう思いでとかがつまったものだから老人は愛着があり離れられないとなるのだ
それず避難区域に帰ったのは老人が多いのである

それで近江の琵琶湖畔の高島町の家型古墳はその人間の家を象徴していたのである
どっしりと重みがありここに家族が生きていたという証になる
人間はやはり家族があって人間として生きていたともなる
家族の紐帯が一番強いからである
その他は現代では特に金の関係でしかなくなったからである

ずっと言っていることだが変わらないということに深さを意味を追求する
それがやはり人間として自然だともなる、確かに旅ばかりしていた自分はそういうことはなかったが今になると変わらないものが貴重に見える
変わらないものがある時それで心も安定する
それだけこの辺は変わりすぎたからである
もう老人は変化に弱い、認知症になったらもう今まであるものしか理解できない
それで認知症は謎なのだけどこれは老人一般の心性でありそれが極端化した病気だともなる

老人の心性は過去に生きる、どうしても新しい人とか新しいことになじめないのである
今まであったものを深めることに向いているのである
だから新しい知識でも技術でも新しく起こることに適応できないのである
今まで付き合っている人ならいいが新しく付き合うことがむずかしくなる
だから離婚とかするのは時間の相当な損失ではないか?
他人が親しくなるのは相当に時間がかかる、だから長く一緒にいてまた別れてまた親しくなるというのは時間のロスが大きいとなる、時間が貴重なことが老人になるとわかるからである
時間はもうとりもどせないからである


とにかく今年も終わった、今年をふりかえると何も苦しみがない事もない一年だった
そういう年は介護してからなくなっていた、絶えず何かで煩わされて苦しんでいたからである
ただ家族がいたときは30年間は平穏な日々だったことも不思議である
こういう恵まれた生を送れた人もまれかもしれない、それは特殊な家庭環境でそうなったのである、普通はありえないことである
ただその楽したこと恵まれたことがカルマとなり塗炭の苦しみとなったのである

楽することも実はカルマになっていたのである、人間は楽では終わらない
様々な災難が起きたのもそのためである、なぜなら人間は何かしらみんな苦しんでいるからそうなる、楽することを許されないのである
だからどんな人でもどこかで苦しみが与えられるのである
そして楽している人は苦しみを知らない世間のことを知らないから余計に苦しむのであるそれでお嬢さんで育った姉妹が土地持ちだったのに餓死したのもそのためである
世間のことを知らずに苦しむこともなかったからそうなったのである

俳句でも短歌でもなぜ私が十句と十首で出しているのか?
それはこれは短いから一句一首となるとそれだけでは鑑賞しにくいからである
だから十句とか一連のものとして読めばそれが詩のようになっているし現実にそこから詩にもしているのである
インタ−ネットだと自由に表現できるからいい、他では雑誌でも何でも何かの会に入ってもできないのである
ただ反応はないから淋しいとはなる、やはり同好のものが切磋琢磨するということも必要だからである

でも何か私がしていることは一人で雑誌を作っている、編集者になって雑誌を作っているだから多様なことを書いている、雑誌も多様なことを書いている
それとにている、ただ一人でしているということが違っているのである
書くことはいくらでもある、評論でも創作でもいくらでもある
それができるのがインタ−ネットだったのである
インタ−ネットはどうしても情報の発信者になりやすいのである
それは簡単にできるからである、今思っていることを経験したことを即座に発表できることが強みなのである





2018年12月25日

生協はやめたースーパーでほとんど売っているものだった (鹿島区には弁当屋がないので困る)


 生協はやめたースーパーでほとんど売っているものだった

 (鹿島区には弁当屋がないので困る)

生協は配達される度に200円プラスになる、そしてたいかいスーパーで売っていた
ニラの餃子のようなものを売っていたしナンもカレー付きで売っていた
スーパーを良く見ていないからわからなかった、そういうことが本当に多いのだ
どこに何があるから種類が多すぎてわからないのである
いがい生協で配達されるものはスーパーで売っていたのである
ただ時々郷土料理とか売っていないものは出していた
菓子類はスーパーとかに売ってないものが多かった
それは贅沢品だったのである、自分は菓子は食べない、その代わり果物を食べているからだ、糖分をとりすぎるから菓子は買わない
すると買うものを選ぶのが苦労になる、何も買わないと悪いような気もするからだ
でも配達料は200円は来るたびにとられている

それよりオカズになるように写真に出していたのは料理したものでありその素材だけ売っている、すると料理が手間になるのである
そこがパンフレットの写真を見て違っていたのである
試しにやってみてはということでやってみた
とにかく料理には一番困っている、簡単なことでも自分には簡単ではない
いろいろ料理はそろえるものが多くてめんどうなのである
料理に凝ったら他のことはできなくなる

結局生協では弁当を一週間に一回配達するがそれが良かったのかと思う
それはそのまま料理しないで食べることができるからだ
それは一週間ごとに違っているからだ
400円くらいだから安いご飯の量が少ないから足す必要がある
でも一応オカズは変わるからスーパーで売っていないものだからいいとふりかえり思ったでも一週間に一回ではたりないしそれだけにつづけるのも金がかかる

ただそれで弁当の配達をしているのをインタ−ネットで見たことがあり聞いてみたがそれをしているのは相馬市までだった、南相馬市には弁当の配達を定期的にしている所はなかったのである
それから今になって気づいた、鹿島区には弁当屋がないのである
前はあつみ屋があった、そこでは震災以後仮設で食堂を出していて何か野菜とかけんちん汁のようなものを出していた、だからいいいと思っていたがそれも三年前とかにやめた
ラーメンが主なはる食堂もやめて小高に移った、そこではご飯ものを出していた
カレーがうまかった

テレビで外食産業がつぶれているという、それでカレーでも毎日変わったものを出している所がはやっているというのもわかる
外食は飽きるのである、同じものだから飽きるのである
それでぜいたくになっているからつづかないとなる
でも毎日変わったものを出すということは作る方が苦労になる
それも大変だなと思う
スーパーの弁当は本当に同じものがほとんどでありこれも飽きるのである

原町辺りだと新しい海鮮どんぶり屋が500円で売っているのができたり何かいろいろ外食するのには便利である
鹿島区は弁当屋すらなくなっていたのである
それは需要がないからどうにもならないのである
相馬市まで宮城県の弁当屋が配達しているのはそこまで需要があるということでしいてる需要がないことには商売も成りたたないのである

ただ一軒残った自転車屋はそれなりに需要がまだあり成り立っている
それも需要がなくなればやめる、商売にならないからやめるとなり不便になる
そうなると町では不便になるがみんな車をもっているから原町で修理してもらうとはなるここは都市部の原町が近いからそっちは便利になるが隣の鹿島区は便利にならない
それは需要がないからである、そして別に車をもっている人は原町まで行けばいいとなるから今は人口の集中する都市の周辺は不便になってくるのである

弁当屋でもあってほしいと思ってもそもそも需要がなければ誰もやらない、損してまではやらないのである、でも何か必要なものがありそれがないと困る人はいる
それは自由競争の時代では考慮されない、需要のあるところに便利なものはできてその周辺部は不便になる、それは車社会であり広域社会だからそうなっているのである
地域でも人が集まる場所と集まらない場所があり差が生まれる
便利な所はより便利になり不便な所はより不便になる広域社会の矛盾があるのだ


タグ:生協 弁当屋

冬深む(マウンテンバイクで近くを走る)


冬深む(マウンテンバイクで近くを走る)

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これは木守柿とは言えない、冬に木守柿とは二三個残っている柿である
この社は橲原の子安神社である

誰が守る社一つに木守柿

でこぼこの悪路を進み冬の草

悪しき道北風唸り押し進む

立目石ここに標しと冬深む

変わらざれ地に契りや冬深む

一羽見ゆ枯木林に四十雀

深野なるユッサに休む冬の暮

餌ねらう隙なき姿ノスリかな


玄関に風の唸りて舞い上がり木の葉の散るや向かいの人死ぬ


今日はマウンテンバイクで橲原(じさばら)から大原から深野(フコウノ)を回り帰ってきた
今度買ったヤマハのYPJ=XRで行動範囲が広がった、悪路でも行けるし舗装道路でもすいすい行ける、マウンテンバイクだから悪路に強い、悪路を走るとまた見えないものが見えたりする、橲原の田んぼの真ん中に立ったらあそこは森だったということがはっきりわかるただ今田んぼは荒地になっている

立目石は目印の石となる、何かこうして変わらないものに惹かれるようになった
動かいなということ変わらないということが価値がある
それはあまりにも一身上でも周りでも変わりすぎたからである
この石は変わらずにここにあるなというだけで何か安心するとなる

認知症の人は変わることに弱い、どこがどうだかも地理的にもわからなくなる
人でも今まで長くいた人は認識できる、わかるがずっと会っていないと自分の子供ですらわからなくなるのである
それは人間は去る者は日々に疎しになってしまうからである

向かいの知っている人も突然死んだ、それも驚きだった
玄関に風がうなり木の葉が舞い上がり散る、まさにそんな感じてまた一つの命が消えたのである

契る(ちぎる)というとき人と人ではなくその土地と契るということがある
人間は土地があって自然があって人間だということもある
人間の存在は自然とかその土地とかから離れてあたえないのである
そうでなければ人間の存在のアイディンティティは喪失してしまうのである


2018年12月20日

冬の森の鳥(詩) (自然と調和する時美しい―自転車も調和する)


冬の森の鳥(詩)

(自然と調和する時美しい―自転車も調和する)

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a bird is peaching out keenly in the cold air

the running byecicle against north winds


鳴きひびく森鎮まりて冬の鳥

寒鳥の鳴くや走りて風唸る

寒き駅帰省の人や分かれけり


ヤマハのypj-xcは優れものである、それがなぜなのか?
バイクに近いということである、前のアシストはバイクにはならない
なにかやはり自転車であり自転車の領域をぬけだしていない
それでなにか30万とか新しいものを出してもづとろこしいという感じになる
今度のドライブユニットがエンジン部分が前のとはかなり違って新しものである
新しい技術になり快適にすすむ、なにか自転車をこぐというより自走している感じになるのだ

それで今日も原町に北風が強く吹いて唸っていたがそれでも馬力がありすいすい進むから行けた、今までだとなかなかこうはすいすい進まない
だからこれはバイクに近い、車体も大きいから何かバイクに乗った感じになる
ただ自分はバイクはにはのれない、ここで俳句とか作るとなるとやはり自然を感じないとできないからである
風を感じたり景色を感じるにはバイクだと早すぎるのである
とても景色を見て走れないのである

車だとまた季節感がなくなる、車の中はいつも心地よい空間であり寒いともは感じなくなる、風を感じないから季節感もなくなる
車を乗っていないから私はわからないにしても何か風をさえぎり季節を感じなくさせるのである

今度の自転車は今までのとは違う、倍速になり軽いし安定感が大きいからある
これなら遠くへも行けると思った、北風を受けても走れる
すると行動範囲が広がる、道が悪い所でも行けるから自分にとってはいい
それで道の悪い所に入り森があった
そこで一羽の鳥が鳴いていて感じるものがあり詩にした



鳴きひびく森鎮まりて冬の鳥


冬の森の鳥

誰もいない
何も聞こえない
・・・・と思ったら
静まる森に
一羽冬の鳥が鳴く
その声が森にしみいるように
ひびきてまた森は静まる
その声は森の奥深くまでひびく
そして森はまた静まってゆく
沈黙の中に音がひびく
そしてまた沈黙する
それは騒音ではない
森と調和した神の奏でる音楽である
ここに雑音を出すな
その災いの口を閉じよ!
その声は森にしみいる
自然と調和したときなべて美しい
それは絵であり音楽となる
神はそこに妙なる楽を奏でる


これは近くの土をとって道が悪い所を上ったら森があり鳥が鳴いていたので作った
俳句や短歌から自分の場合は詩に発展する
自然と調和するときそれは絵であり音楽なのである
人間社会は自然と調和しないからいくら都会でも繁栄したとしても醜い限りになるのだ
東京などがどうして人間の成果となるのだろうか?
いくらそこで経済だけを指標としているだけである
ただそこで技術開発する人がいて今回のように優れた自転車を作ればそれは田舎でも反映される、技術の恩恵に自分でも欲することができたとはなる



2018年12月19日

冬椿(津波の後の家の跡の祠) (年末で整理に追われるが整理できない)


冬椿(津波の後の家の跡の祠)

(年末で整理に追われるが整理できない)

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冬椿木立囲みて祠かな

冬の森静まり亡き冬の鳥

大石に冬日さし家の落ち着きぬ

年の暮様々な整理に追わるかな


朝静か庭に一二枚木の葉散る石の黙して下の部屋かな

津波跡祠残りて家の跡木立囲みて冬のめぐりぬ

津波跡住む人なしも椿咲く枯野の中の家の跡かな


枯野に木立が残り祠があり椿が咲いていた
ここに家があったということをなお示している
津波も8年になろうとすると何か残っているものも少なくなる
ここだげは依然として残っている
それもなんとかここに家があったということを示している

大石に冬の日がさすとき家も落ち着くとはなる
庭がいい大きな石がある家はやはり落ち着く
石もいつも見ている石とたまにみる石とは違う
石と人間は一体化してくる

家事でもやることが多い、家事に凝ったらそれだけで時間がとられる、特に料理にこったらそれだけで時間がとられる、それも無駄ではないが料理は時間がかかりすぎる
人間はそんなにいろいろなことに頭がまわらない
料理するとなるとその料理の材料をそろえるだけで大変になる
そうすると他のことができなくなるのだ
今は家事は全部自分一人でしている、すると家事だけで時間がかなりとられる
ただ外食はこの辺ではあきる、決まりきっているからあきる
それでテレビで毎日献立の違うカレーをだしているとか料理が毎日違うものを出す
それなら飽きないので繁盛している、でも出す方になるとさらに手間と苦労になる

本の整理にも苦労している、本は読む気力がないとなっていたが何か参考にするためにかえって前より買っている、そしてまた本がたまって困るとなる
本が古本でも安いから買う、高いのほとんど買わない、でも本というのは読んだのだが読んでいない、本を読みこなせていないのである
本を読むということは対話でありあくまでも自分自身のものをもっていてそれで思想なり創作を深めてゆくものだった
ただ一方的に読んでいても何も身についていなかったのである
だから本を読むということは相当な実力がないと読めない
今は本を評価できる、だから評論に向いていると思った
つまり本が何を語るのか作家が何を語りたいのか要旨をつかめるからである

とにかく物をもちすぎるとこれも困る、整理するものが多すぎる
着るものでもそうだし本でもそうだし道具類でもそうだしいろいろありすぎるとどこに何があるかもわからなくなる
そしてインタ−ネットのホームページも整理できない、プログも整理したいのだができない
意外とここがめんどうだと思った、膨大な量になっているから整理自体が大きな仕事になってしまったのである
でも何かインタ−ネットだと何かでウィルスとか何か突然の故障で消えるということで不安になる
だから本にして整理したいのだがこれもまたさらちにむずかしくなっている
本当に死ぬまで整理が仕事にもなる

いろいなことをしていることでそうなる、そもそも家事を一人でするにもそこから整理なのである
まず買うものが多すぎるからだ、生協に入ったらさらに買うものがふえて整理ができなくなる
それであったものを忘れ腐れせることが良くあるのだ
わかったことは冷蔵庫でも食料でも種類が多いから常に見ている必要があるのだ
それができないから忘れて腐らせたり利用しないままになっていたりする
それは他のことでもいつも目をとめて使っているものは忘れない
でも人間一人でやることには限度があるなと思った

2018年12月15日

母の命日〈冬紅葉忌ー三周忌)


母の命日〈冬紅葉忌ー三周忌)

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冬紅葉小菊をさしぬ命日に

ふさわしき母の命日師走かな

掃除して母の命日冬紅葉

忙しく母の命日過ぎにけり


干し柿を母の命日にささげけり貧しき昔の暮らし思いぬ

朝静か庭に一二枚木の葉散る石の黙して下の部屋かな


母の命日が15日だと思っていたが12日であり過ぎていた
それをプログで調べてわかった、人間は本当に忘れやすい
だからプログは記録しておくので後で役に立つ
こんなこと書いていたのかと自分の書いていたことも忘れているからだ

母は大正生まれでその一生は苦労の連続だったし不運だった
たいだい戦前生まれとかなると苦労している、貧乏である
だから何か趣味などがない人も多い、ただ働く働かせられたとなる
それで趣味もなかった、何か利益になることしか金になることしか価値がないとしていただから一円の金にこだわって金を使っていない
その金も盗まれたが認知症になり笑っていたのも不思議だとなる

百歳まで生きたのが不思議である、体は細いし体力もないのによく生きられたと思う
なぜ百歳まで生きたのですかと聞かれると「無理をしなかったからです」と答えた
そもそも母は無理ができない体力がないからできないのだ
それは自分とにている、体力がないから無理ができないのである
体力がある人は無理ができるのである
ただ長生きとなると体力がある人が長生きとはならない、無理がたたって早死にの場合がある、だから体力と長生きは必ずしも関係していないのである

ともかく家事を93歳ころまでしていた、一時90度に体が曲がったがそれでも手押し車をおして買い物したり普通に生活できたし料理もしていたのである
その体が曲がった時相当に悲観して自殺しようとしたりした
それでもその後は体が曲がっても普通に生活できたのである
それも介護されるのではなく家事を普通にしていたのである

人間死ぬとその後いろいろ死んだ人のことを回想する、回想する時その人だけではないその時代とかも回想する、一つの身近な活きた歴史を回想する
だから郷土史は祖父母から聞くことから親から聞くことからはじまると書いたのである
それが一番身近で在りそれがそもそも歴史となったのである
その後に残された人が死んだ人のストリーをヒストリーをたどるからである

何かいろいろ語ることがあるが姉のことでも一緒に供養のために本でも冊子でも作ろうとしているがなかなか手間でできないのである
このインタ−ネットとかプログはその時々書いているから書けるのである
これを本にまとめようとするとき手間になるのである
家事を全部しているとなかなか他のこともしにくいのである

母の好物は干し柿であったがこれくらいしか戦前だと果物でも食べていないからそうなった、でも戦後は食べ物では贅沢したのである
戦後十年くらいで死んだ人は贅沢はできなかった
父は最後にサシミを食いたいといって死んだ、でも病気で食べれなかったのである
今は貧乏人でも食べる物は贅沢しているのである

母にふさわしいのは冬紅葉である、それで冬紅葉忌にしたのである

相馬藩内の花の短歌 (狭い地域でもそれぞれ個性がある


相馬藩内の花の短歌  

(狭い地域でもそれぞれ個性がある

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相馬市の城跡あわれ藤の花夕闇の中に灯のともるかも

真野川の岸を歩めば草深く月見草咲き夕暮れにけり

原町の線路にそいてひまわりや電車の音の昼にひびきぬ

飯館にソバナの花のあまたかな草深くして家々静まる

飯館に芙蓉の花のおおらかに咲きて隠さる家々なるかな

小高の城跡に立ち海望む紅梅しだれ古りにけるかな

なみなみと青々とのぞむ海村上城跡かもめ飛びゆく

海望み船の行くかな山により桜の咲きて風に散るかな

相馬焼ここに伝えて柿なりぬ大堀の里ありしときかな

高瀬川激ち流れて春の日やさらに上へとのぼりゆくかな

高瀬川そそりし岩や紅葉して色の一際赤くなりしも


その場所にあった花がある、ただこれは外から来ただけではわからない、ある場所に長く住んでいないとわからないものがある
相馬市と原町の区別がつきにくいが相馬市は城下町であり何かしんみりとしているのである
入母屋作りに公共の建物が統一しているのも城下町作りとしては良かった
ただそれに反対する人もいた

相馬市が藤の花だというときあそこに古い藤の木がありそこにたたずむとやがて街が暮れて静かに灯がともる、それがなんともいいのである
それは相馬市がそれほど繁華でない街だからそうなっているのだ
相馬市の街は駅前通りがあっても駅前から発展したのではない
城のある所から街作りしたからそのままなのである
原町は街道が街としてあっても駅前通りが発展した
それは原町が機関区になっていて物資を運んだからである
原町は新しい街として明治以降作られたのである
だからひまわりが似合っているとなる
原町の線路の脇に高い大きなひまわりが咲いていた、今は咲いていたが今は咲いていないともかく相馬市と原町の感覚は相当に違っているのだ

次に小高だと相馬氏が最初に城を築いたところであり枝垂れ桜が咲いていた
そこから海が見えたのである、意外と海が近いのである
この辺では海が近くても海が見えない、でもちょっと高台に立つと海が見えるのである
小高は海が近かった、津波が駅のすぐそばまで来たことには驚いた
その下の水道官から駅を越えて津波によって泥が運ばれたのである

そのことでもともとは駅前は海でありそこには中世に鎌倉時代辺りに港があり蔵院とかがあって相当な船が出入りしていたのだ
そこは港だったのである、それほど海が近い所だったのである
だからそこが海になった時驚いた、それは八沢浦でもそうでありそこも港があった
中世から船運があったのはそうした入り江があったからである
それが失われてわからなかったが津波でその入り江が再現されたのである

相馬藩内でもそれぞれに土地の特徴がある、そこに変化があってあきないとなる
浪江になると前は高瀬川の上流に大堀があり相馬焼の陶工の村があった
そこは高瀬川渓谷に入る所であり場所が良かった
それは原発事故で失われた、それも大きな痛手だった
浪江はほとんど人が住んでいないから悲惨である
ただ別に高瀬川がなくなったということではない
以前としてそこは風光明媚な所なのである

飯館村は森に包まれた静かな隠された村だった
それが原発事故で人が住まない土地になった
田んぼの表土がけずられて無惨である、あとは放射性物質の廃棄場がいたるところにある草野はソーラーパネルが敷き詰められて変わり果てた
素朴な村という感じもなくなった、それより人が住んでいないのである
飯館村の特徴は一軒一軒が離れてあり森につつまれてあった
そこは広いから牛を飼うには良かった、放牧できるからである
今何軒かはじめている、牛の餌は買えばいいとなるから意外と農業よりはいいのかもしれない、農業となると土に頼るから土が汚染されたらどうにもならないからである

人間は場所が変わると心も変わる、飯館村に行ったときは特に変わる
何か花まで草深く咲き純なものが自然のままに隠されて人知れず咲いているとなる
ただ残念なのは原発事故前に大倉から入り峠を越えた所に人の手が入らない森がありそこに清流が流れていた、そこは神秘な場所であり秘境だった
それが道ができて喪失した、秘境というのは今でもある
それはなかなか外から来てはわからていのである、丸森にもあった、そこに行くには道が悪いから簡単には行けない、そこを行ったら道に迷い深い森から出れなくなった恐怖を味わった、それだけ丸森は森が深いのである、飯館も70パーセントが森なのである

それが放射性物質で汚染されたからどうにもならない
ただ森は森として依然としてある、ただこの森に放射性物質が循環して消えないから困るのである
もし森とかでも色が変わったりしたり枯れたりしたらそのショックが大きくもう住めないとなっていたことは確かである、水でも汚れたりしたら住めない
以前として水は澄んでいる、でも魚は放射能で汚染されているのである
それが放射能被害の不思議なのところだった

いづれにしろこの辺は元の状態にもどらない、それは三陸とか他でも津波の被害にあった所は復興していない、それだけ甚大な被害だったのである
8年になろうとしていても復興はしていないのである

2018年12月14日

冬の暮(故郷俳句十句) (景観は歴史的に長い時間で作られたものだから貴重だか意識されなかった)


冬の暮(故郷俳句十句)

(景観は歴史的に長い時間で作られたものだから貴重だか意識されなかった)


隣り合い住みて長しも冬紅葉

点々と農家の古りぬ冬き暮

質実な暮らしつづきぬ冬の暮

松ありぬ一軒一軒や冬の暮

なお立ちぬ家の跡に松冬の暮

老木のここに朽ちなむ冬の菊

陽の没るや冬田に農家五本松

一本の木のここに動かず冬の暮

天明の碑近くにあれや冬の暮

なお空家大原にあり冬の暮

大原に凍み大根や農家古る

干し柿に紙漉きの里水清し

小山田に忘らる道標冬の暮

街道の祠に松や冬の暮

代々や相馬六万石冬の暮 

景観を見る時それが当たり前の風景に見ている、田んぼに点々と農家があることなど田舎では当たり前の風景だから気にも留めない
でもその景観というのは人間のくらしとともに作られてきたものだった
そもそも田んぼの景観は米を作る暮らしがあり作られてきた
農家があるということはそこに暮らしていける実り生業があったからである

そして人間とは長くそこに住んでいないとその土地のことがわからない
長く住むというとき田舎だったら農家だったら何代もつづいて生活している
そこに農家の重みが生まれている、それで農家の人が三代つづかないと仲間に入れないというのもそれは人間の関係でも長い時間の中で作られるからである
つまり歴史的に重みが生まれのは長い時間そこにありつづけたからである

そういう景観が失われたことは大損失だったが第一そういう風景は当たり前のものとして見ていたから貴重だとも思わなかったのである
むしろ農家などはもう農業だけで暮らしている人はまれになった
だから親が農業をやりたくないのだから子供でもやらないとなったのである

ただ景観というのは当たり前にあったものではない、それは長い時間の中で作られてきたのである、そこに人間の営みが暮らしがあり生業があった
景観は簡単に作れないものだった、でも人は景観を大事にしない
景観は努力しないでもそこにあるものとみているからである

結局価値というのが何かというとき人間は全体の価値を見ない、木を見て森を見ないのである
それが津波とかで右田の松原が根こそぎなくなるとか原発避難区域で町ごと人が消えて
空家と化して田んぼが草ぼうぼうとなりその跡にソーラーパネルとかになりまるで変り景観が失われた
それはイメージできないものだった、景観はやはり田舎だったら田んぼがあり畑があり森がありとか変わらないものだと思っていたからである
ただ右田の松原などは人工的な松原であったから根こそぎ消失した

原発訴訟で生業を返せというときこうした代々つづいたものが消失したことの損失であるそれは取り返せないものとなった時その貴重さに気づいた
やはり人間の営みは代々つづいていると歴史があると重みが生まれる
それは一代では築かれないものである
そして何か農家を見ると質実だなと感じる、そういう風景がまた人間の心に知らず影響しているのである

都会ではビルの谷間に生活していればそれも心に影響してくる
都会の人がみんな疲れた顔になるのは当然なのである
田舎だと大地に根を張った木のように強化される、ただそうはいっても今は田舎でも実際は勤めているのは会社であり専業農家はまれである
農業だけで生活している人はまれなのである
田んぼの中に家があるから農業で暮らしているとはならない
ただ風景がそういうふうに見えるだけなのである

でももし戦前とか江戸時代にその風景を見たら感動するだろう
石神とかでは紙漉きをしていた、そういう暮らしがあったことが心にしみるものとなる
紙漉きは冬にするから厳しいのである、でもそういう暮らしがあることがその景観が心にしみるものとなる
今でも大根を干していたり干し柿を見ると冬の暮らしを感じる
都会ではもうそういう風景はないしどこも都会的になっている
田舎でも一見農家のように見えてもそうでもない、ただ蔵があると古い家であり農家だったのかとか見る、でもその蔵は農家として仕事するためのものでもないし飾りのように今はあるだけなのである

ともかく家とかその土地に重みが生まれのはやはり何代とかつづいて暮らしているとそうなる
それで自分の家は二代だから重みが生まれない、それでも自分は二代目だということで一応重みが生まれる、それじ死んだ親のことを書いたのである
明日は母の命日である、母は大正生まれであり干し柿が好きだったということはそれくらいしか食べるものがなかったから好物になったのである
今は干し柿など子供でも食べないだろう、いろいろ果物がありすぎるからである

でも江戸時代に憧れる惹かれるのは素朴で質実なものがあったからだとなる
ただそれはイメージの世界になっているからであり現実はまるで違った貧乏の苦しみを生きていたとなるのである
田舎の冬はとにかくいい、都会は季節感がないのである、だから俳句なども季語も活きてこないのである

故郷の大地に根付き
静かに長くもあれな
樹々は隣り合い黙して
そこに落ち着き根を張る
そこに自ずと連帯が生まれる
ともにここにある
ともに長くここにある故の
深い絆が自ずと生まれる

こういうことになる、そういう田舎の生活を奪ったのが原発だったのである
ただ地元の人でも金を第一にしていた、強欲になっていた
家でも車でもなんでも欲しい欲しいとなっていた
借金しても豪華な家を建てて車でもいい車を買い、とにかく現代では欲が限りなく増大するのである、もう切がなくなる
そして故郷にすら住めなくなったのである
そもそもその土地に故郷でも住むということが最低条件である
住めないということは最悪なのである

ただ人間は当たり前にあることを意識しないのである
それを失ってみてはじめて意識するのである
それで生業を返せと東電とか政府に訴訟を起こしているがそもそもその生業を大事にしていたかというとそうではない、ただ金が欲しいということで原発を誘致して
その後も補償金をもっとよこせと金しかなくなった
そして補償金を一億円でももらったら故郷を出て外に家を建てて帰ってこなくなったのである、それも勝手だなとも思う
それだから確かにその損失を理解できるのだがそこに暮らしている人はそういう田舎の暮らしを別に大事にしていなかったのである
むしろ都会的な贅沢な暮らしを求めていたのである
それはどこでも同じだとなるが何かこの辺ではそういうことが実際にあり意識させられたのである


2018年12月12日

小山田にある道標と道引地蔵 高速道路と忘れられた道標(詩)


小山田にある道標と道引地蔵

高速道路と忘れられた道標(詩

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上真野へー小山田ー岡和田

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馬坂神道ができて古道がある、馬坂新道は高速道路と似ていたのである


道の辻にひっそりと
枯草に隠され道標があった
その字をなんとか読む
東 岡和田
西 上真野
これはすぐ近くだ
昔は近くを示す道標がある
それは今はどこでも忘れられている
それはなぜなのか?
車がひっきりなしに行く道に忘れられている
そういう道の辺には必ず馬頭観世音の碑がある
昔は馬で荷を運んでいたからである
昔は歩いていたからである
それでこんな身近な所にも道標がある
もう今はこの道標を見る人はいない
なぜならその前を高速道路も走っている
新道が古道になる
時代は急速に変わった
遠くから車がひっきりなしに来る
近くは忘れられている
その視線は遠く遠くへと高速のように伸びている
その上に道引地蔵が祭られている
何か不明の石をおく祠がある
そこにまだ生きていた赤とんぼが一羽飛んでくる
今冬の日がここにさしてしばし休む
近くに隠町(かくれまち)という地名がある
何か私はここで休みたくなった、眠りたくなった
山眠る時期だが高速でも車はひっきりなしに行き交う
休むことなく行き交う
世の中は常に変化である
そしてここに地蔵と道標が忘れられている
枯草におおわれ忘れられている  


最近よく常磐線のSAに行く、それほど遠い場所でないから行ける、遠いとなかなか行けない、そこはいつでも自転車で行ける場所である
でも昼食をとるには行けない
そこまで行くのに遠いと疲れるからである、だから近くでないと昼食は行きにくい
昼食も手ごろな値段のがこの辺にはない、1000円だと高いとかなる
だからたまにしか行かない

なぜか最近SAに行くようになったら小山田を通る、すると小山田を意識するようになるのも不思議である
やはり頻繁に行く所を人は意識するようになる
だから新しい人が集まる場所ができることは過去もそこの歴史なども意識することになるのだ
人間とはそういうものだと気づいた、昔の遺跡でもそれは今の生活からかけ離れた所にあると意識しないのである
日々に行く所を意識するのである

だから桜井古墳は街中にあり意識する、そこは公園にもなっていて日常的に意志する
小山田で今回なぜここに道標があるのか、草に埋もれてあったのか?
すぐに上真野であり岡和田であるからこんなところに道標が今なら必要はない
ただ道標はどこにでもある、例えは横手にも栃窪へと印した小さな道標がある
それはあまりにも小さいので気づかない、線路がある道で横手古墳があるところである
それに注意する人は今はなくなる

道標はたいがい明治以降である、江戸時代のがあればこの辺では貴重である
なぜこういう場所に道標があるのか?
それは昔は馬で行くか徒歩で行くしか移動の手段がない
ただ岡和田から上真野に行くとしたらみんな地元だったら知っている
道を知っているからあえて道標が必要だったのかとなる
遠くから知らない人が来るなら道標を見るがここに住んでいる人なら道標がなくてもわかる、ただそう見るのは今の時代から見ているからである
やはり必要だったからここに置かれたとなる
ただどこでも道標は多いのである、やはり目印として欠かせないものだったのである

ともかくあそこは常磐高速が通りその下に隠町とあるのも奇妙である
頻繁に車の通る下にあるからだ、そこに生きていた人がこれを見たら驚くだろう
道標とかは確かに遠くを示すのならわかる、旅では必ず分かれ道があり必要だからである右と左に道が分かれていたら間違えたらとんでもないことになる
歩いてゆくのだから簡単に引き返せなくなるからだ
ただ今は歩く旅がどういうものなのかわからなくなっている
分去(わかれさり)という地名が多い、それはそこで分かれてもう会うことがないということにもなった、今なら会う気があれば距離に関係なく会えるからである

分去(わかれさり)永遠に別れし人もがなここに木の葉の舞い散りにけり

車社会になるとどうしても人間的なものが失われる、そこに人と人の出会いがない
車は閉ざされた空間なのである、だから誰がいるのかもわからないのだ
旅したとしても車の人が泊まっていて誰がいるのかわからない、話もしないからだ
そこは閉ざされた空間なのである、道連れの旅などもないのである

街道を旅している人を見たら歩いているから出会いと別れがある
後姿をいつまでも見ている、やがてその姿が消えてゆく、そこに時間があり人間的なものが生まれる、車だったら一瞬にして消える、だからキレル時代なのである
バイクでもそうである、早すぎるのである

いづれちしろあそこで坂があり高台に上ったら道引地蔵というのがあった
あとなにかわからないが石が小さな祠に飾ってあった、何かそれはわからない
そこで休んでいたらまだ赤とんぼが一羽とんでいた
赤とんぼが地蔵にとまるとかなると何か江戸時代の雰囲気になる
地蔵だって昔はなんらかそこに生活する人に欠かせないものであり活きていたのである
人々がお祈りしていたからである

ともかくなにかあそこでは不思議な気分になった
近くでも発見されないものがいくらでもある、昔は忘れられているからである
人間そのものが死ぬと急速に忘れられる
それで昔も忘れられてしまうのである、そこだってひっきりなしに車が通る、その道標など誰も見る人もいないのである
高速道路を行く人となるとそれこそこの土地のことは関係なくなる
ただ道路を走る機械が行くというだけになる
SAに休んだとしてもそれはその町のことを何か知るということもないのである

2018年12月08日

師走の仙台を歩く(短歌十首)


師走の仙台を歩く(短歌十首)

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みちのくの駅々に散る紅葉かな

木の葉舞う人入り乱れ仙台へ  

仙台の路地のいくつも師走かな


仙台に人入り乱れ木の葉舞う人せわしき行き来師走となりぬ

仙台の銀杏の古りぬ通りかななお散り残る黄金(きん)の葉見ゆ 

二本の(ふたもと)の銀杏の木立にけりホテルの前や冬となりにき

仙台の通りを行けばはなやげる銀杏散りてハイヒールに行く

仙台の喫茶店に入り今買いし本読む銀杏散りにき

民芸店路地にありしも灯のともり冬の夜ここに入り見るかな

仙台の並木道行き師走かな人それぞれや思い交差しぬ

仙台の路地を曲がりてまた曲がり短き日のはや暮れにけり

冬の夜の仙台の街のともしびを電車より見つつ帰りけるかな

みちのくの駅々とまるともしびのあわれや冬の夜帰りけるかな


仙台には東北では街の情緒がある、それはせこの辺では原町市とか相馬市とは違う大きな都会の情緒である、ただ東京とかなると大きすぎるから情緒もなくなる
街歩きで楽しいとなると仙台くらいの規模がないとない
この辺では仙台とか盛岡になる

そして最近家事をして料理などして気づいたことは人間は豊かになると器にこる
ただ食べるだけではない、器にこる、いろいろな器を茶碗でも装飾でもこる
それで茶の湯が生まれた、人間はただ腹が減ったからとがつがつ腹を満たすというのではない、人間は豊かになれば文化を生きることになるのである

現代はいろいろなもの物やインフラは整備された、ハードが整備されたからソフトの時代文化の時代になったのである
そして別にこうした茶碗とかでも高いものは買う必要がない、種類をそろえると楽しめることがわかった

フラワーアレンジメントをして壺などでガラスのも通販で買ったが別に高いものではなかったからだ、ただ種類をそろえると楽しめるのである
だからこうした趣味でも必ずしも金がかかるというわけではないのである

仙台だといろいろな店を見て回り楽しむことができる、店とは見せるからきているからである、本も買ったが今はほとんど通販である
でも今買ったばかりの本を喫茶店で読むのは記憶に残ったりする
書店でも古本屋でも実際に見るとこんな本があったのかと気づいて買ったりする
ただ本は高すぎるから今はほとんど古本とか通販でしか買わない
高いものは買わないでもそれだけで十分になっているからだ

前は一週間に一回仙台で本を買ったいた、今になると本がこんなに多いのかと驚く
前もそうだったがアマゾンとかで買えるようになってその多さに驚く
それだけ知識の量が膨大なのである
それで田舎では知識を吸収する面では不利だった、そもそも本が読めないと新しい知見も得られないからである
今は膨大な本を読んで何か編集するように読んでいる
インタ−ネットでもそうだが編集することで新しい創作になっているのだ

介護十年で仙台でさえゆっくりと行けず楽しむ余裕さえなくなったいた
それをふりかえると介護の負担は人間的生活すら奪ってしまうと思った
余裕がなくなってしまうのである、その負担が大きすぎるのである
今回はようやくゆっくりと仙台を楽しめたなとなる
何か十年前の状態に戻ったという感じになる
そしてまだ仙台に行けるなと喜びを感じてもいる
下手すると死んでいたかもしれないからである









2018年12月05日

冬の鳩に紅葉、木守柿(平和を感じるこの冬)


冬の鳩に紅葉、木守柿(平和を感じるこの冬)



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我に街に平和もどるや冬の鳩

苦労せし地元の女(ひと)や冬紅葉

老人と駅に語るや冬紅葉

金屏風紅葉の映えて古き壺


赤と黄の紅葉交じりつ映えにしも今日が見ればはや庭に散る

駅前の仕事いそしむ自転車屋今日も見につつ冬に入るかな



鳩というとき平和の象徴である、何か平和がもどった感じになる
それは自分自身も介護とか病気とか惨憺たるものだった
ただ毎日四苦八苦していた、だから余裕がなかった

でもすでに十年が過ぎて何か元の平和がもどったのか?
もう確かに家族は帰ってこない、でもまた自分自身にもここでは我が街でも平和が戻ったのかとなる、ここは避難地区ではなかったからかえって他からの人が増えた
それで駅で良く会うのは外部から来た人たちなのである
それは話しているとすぐわかるからである

それだけ外部からの人が実際は相当増えたということなのだ
原町でも同じである、新地辺りでも増えているのだ
それだけの人が移動して家を建てたりして住んでいるとなる
そして避難区域になった所には帰らないともなっているのである
だからそこには未だに平和ないのである

冬の鳩が駅の上を群れ飛んだ、何かそれが平和を象徴していた
ここでは平和な日がもどったとなる
何か自分自身でも周りでもまるで戦争のような状態だったともなるからだ
家族を失ったことはショックだしいろいろショックがつづいたが何か平和がもどったという幸福な感じをもった
それは戦争のように焼野原から復興したとき人々も感じた
平和がやってくるんだなとそういう中で感じていたのかもしれない
平和もまたそうして苦しんできたあと一層感じるということがある

ただこの辺は本当に平和が来るのは相当に先の長いものとなる
避難区域はほとんど復興していないからである




タグ:紅葉 木守柿

2018年12月02日

冬の日の俳句と短歌 (深野のユッサから大原ー橲原ー飯館村へ―ユッサの庭は貧弱すぎる)


冬の日の俳句と短歌

(深野のユッサから大原ー橲原ー飯館村へ―ユッサの庭は貧弱すぎる)

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舞い去りぬ今日も一羽の冬の蝶

道の辺に南無阿弥陀仏木の葉散る

(深野ー大原)

深野に地元の温泉冬紅葉

集いける地元の温泉木の葉散る

大原やや大根干しぬ家古りぬ

冬紅葉水面に写し川の奥

(飯館村)

離れじや落葉に埋もれ四人石

冬日没る遠山の影刻むかな

満天に漏らさず輝く冬銀河

心澄みきらめき増ゆる冬銀河

冬銀河千、万の星秘めにけり

(真野川)

大岩のここに隠され冬の星

闇深く隠さる岩や冬の星


大原に住みにし人の家なほもありしも住まず冬の日暮れぬ

大原に眠れる人の墓あわれここに生きしと冬のくれかな

橲原の奥にし家や隠されて我が知らじかな冬の日暮れぬ


ぬばたまの世のけゆくや大倉に冬の灯二三誰が住めるかも

(大原)

病院に大原語るその人の思いはここに短き日暮る

大原や子は街に出て家継がず残れる家や冬の日暮れぬ

(飯館)

村人の豊作願ふ井戸のあれ帰らぬ人やまた年暮れぬ

庭荒れて空家となりて久しかな帰らぬ人や冬の日暮れぬ

(我が家)

姉と母待ちにしあれや亡きにしをありしと思ふ冬の夜かな

我が家に帰り来たるも一人かななぐさむ人なく冬の夜ふけぬ

我が家に家族のなしも我が家やよすがとすべし冬の夜ふけぬ

(相馬市)

五本松二本欠けしもなおありや冬田の暮れて道の駅かな




天気がいいので深野(ふこうの)から橲原渓谷を行き飯館村までトンネルを通って大倉を通り帰ってきた、橲原渓谷は通行止めが解除されていた

深野のユッサはこの辺では唯一の温泉となるけどそれが本物なのかどうかわからない
一応温泉にはなっている、でも八〇〇円は高いが温泉ならこの辺ではないのだから価値があり高いともならない
ただあそこの問題は庭は貧弱すぎるのである、それはただ石を並べただけでありがっかりする、あまりにも貧弱なのである

普通のありふれた庭より貧弱なのである、個人の庭より人が集まる場所の庭が貧弱なのはがっかりする、まず個人の庭でも目を見張るものがいくらでもある
最近は船主の人が豪華な庭を作っている、それは軽く一千万以上の庭かもしれない
石だけで相当な値段である、なぜなら見ただけでほれぼれするような巨石だからである
私は石が好きだからしげしげと他人の庭の石を見ている
それで何か写真をとってとがめられたことがある
それに比べたらユッサの庭はあまりにも貧弱である

私は今旅行すらならいい庭がある旅館とかホテルに泊まりたい、そういう宿には泊まったことがないからだ、日本の文化は庭にある、だから京都は庭を見て歩くことになるからだなぜいい庭を作らないのか?予算の関係なのか?
今の時代はハードは整備された、それでこれからの経済は感性の時代だといういう人がいる、それはハードは建物であるがそれにほどこす装飾などがソフトになる
それから実は人もソフトなのである、もてなしとかソフトだからである
そういう時代の変化がある、だから人が集まる場所であの庭はあまりにも貧弱である
私がしたいことは庭作りだった、でも私の家の庭は狭すぎてできなかった

温泉という時長野県のアルプスに近い所の岩風呂の露天風呂は貫禄があった
大きな岩でありその岩から何か本当に英気となるものがにじみでていた感じになる
残念ながら浜通りにはあのような貫禄のある温泉はない
何か岩に癒されるとかなる、そういうことは本当にあると思う

深野から大原に行き大原では私立病院で一緒だったS家の家を見た
そこには息子は住まない、街の方に家をもって住んでいるからである
一か月いて大原の話をその人はした、暇だだからその話を聞いて興味をもったのである
でもそのあとすぐ死んでしまったのである
それで今でも大原を通るとその人のことを思い出すのである

橲原渓谷の奥の方に冬紅葉が美しかった、それが水面に映っていた
そこから飯館に向かった、トンネルを歩いた、あそこは幅が狭く歩く他ない
二キロくらいあるらしいがもっと長く感じた
飯館は坂がきつくて簡単に行けない、今回もひさしぶりである

トンネルを出たら日が暮れかかっていた、かなたの山に安達太良なのか冬の日が輝き没するところだった、までい館で働いていた人は地元の人ではなかった
年配の女性の人だったが地元の人ではない、それも変だと思った
飯館村はまず一五パーセントと帰ったとか言っているけど通りは誰も住んでいない
草野ですらそうなのだからもう村が崩壊したという感じになる

途中で石が四つくらい落葉に埋もれていたので四人石と名付けたがそもそも人が住んでいなければそういう石すら活きてこない、人が住んでいて自然も活きるということがある
人が住んでいなければただの石であり名前もないとなるからだ
小高と比べると飯館村は帰った人が本当に少ない、浪江でもそうである
小高は街でも帰っている人が増え店も増えているとかある
飯館村はもともと広いからもう崩壊したという感じになる
作見の井戸でももう人が住まないと生業が消失すると死んだものとなる
なぜなら人がいないければ農業もしていなければ誰も豊作を祈るということもなくなるからだ、その井戸を見て豊作を占なったということもなくなるからだ

大倉も真っ暗だった、二三灯が見えたから誰かが住んでいるが真っ暗である
それで万葉集のぬばたまという表現がふさわしいとなった
万葉集時代にどんな明かりがあったのかとなるからだ、行燈すらない時代だからである
それでぬばたまという表現が生まれたのである、漆黒の闇である

それから我が家を目指して帰った、満天の星がきれいだった、冬の空は澄んでいるから気持ちいいとなる、夜に行くのも景色が変わるから昼に見えないものが見えるのでいい
飯館は日帰りできる、ただ坂がきついのでなかなか行けない、風が吹くと自転車では行けない、今日は風も吹かないし晴天だったから行って見た
トンネルはできても自転車では何の役にもたたなかった
横の道が狭すぎるのである

いづれにしろ家に帰っても誰もいない、それでも何か家族が待っているような気がするのは不思議である、結局それだけ一緒に長くいたせいなのである
六〇年とか子供の時から一緒にいれば人間はその存在が簡単に消えるものではなかったのである

相馬市の道の駅の五本松の二本は枯れて消えたがやはり五本松として地名が残りまだそこには二本の松があるように見えるのと同じである
そこに長くあったものは簡単には消えないのである
ただまだ三本がまだあるから五本松をイメージできる
しかし津波のように根こそぎなくなるともう何もなくなってしまうという恐怖なのであるもう誰も右田の松原を思い出せなくなる、そこには何の面影も残っていないからだ
一本松もないし何も残らないからだ、土盛った高台とか風力発電の風車とかソーラーパネルになったとき思い出しようがなくなっているからだ
そこに津波の恐ろしさがあった、根こそぎあったものが消失させられたからだ



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ユッサのこの庭が貧弱すぎる、枯山水だとしたらもっときれいな砂があったり白い小粒の石でもしきつめるとかあるからだ
狭いこともあるが狭くてももっといい庭が普通の家であるからだ

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2018年12月01日

みちのくの北風と荒野(詩) (みちのくの場の働きは何なのか?)


みちのくの北風と荒野(詩)

(みちのくの場の働きは何なのか?)


ごうごうと北風がまた唸り吹く
木の葉が舞い散る
それは荒野の声だ
みちのくに北風がまた唸り吹く
ごうごうと唸り吹く
その時森の樹々は強く結び合う
巌はさらに威厳まして主となり
みちのくは遠く閉ざされる
みちのくにはなお荒野がある
ごうごう北風がまた唸る
乱雑と騒擾の世に疲れし者よ
都塵を離れて荒野の声を聞け!
聖なる者がここに住む
荒野にこそ神が棲むものなれば・・・・

急にごうごうと朝から北風が唸り吹いた、それはいつも聞いているものだが年年に違って聞こえるのも不思議である
何か見るにしても同じものを見ていても違って見える
年齢によって心境が変わるからだともなる
私の場合は家族がみんな死んで無常をひしひしと感じたこともあり北風は一段とすさまじいものに聞こえた

風土という時、風と土なのである
風の感じ方はその土地土地によって違う、これはなかなか旅してもわからないのだ
まず現代の旅だと車とか電車でも風は感じないからである
風がどういうふうに吹いてくるのか感じることがむずかしいのだ
ここでは海から吹いてくる東風と山から吹いてくる西風と北風に分かれる、でも会津のような山に囲まれたところではどういう風が吹くのかわからないのである

例えばみちのくというとき一つの大きな地域であり今でもそうである、ここには荒野がまだある、みちのくとは日本では辺境であったから荒野がある
ただ仙台辺りになると繁華になるから荒野を感じなくなる
荒野とか自然がないところに宗教もなかった
だから東京とには宗教はありえない、カルト宗教とかなるとそれは宗教ではない、労働組合と経済活動団体である、宗教の神秘性とか聖なるものとか皆無である
どろどろとした人間の欲望がそこに噴き出している

宗教がどうして生まれたのか?
釈迦は洞窟にこもり一神教は砂漠で生まれたことを見ればかる
荒野から生まれたのである、モーゼはシナイ山に上り神の啓示を聞いた、山伏とかの山岳宗教だってそうである
何かいかがわしいように見えても自然の中で六根清浄を求めたのである
今の宗教には全くそういうものがない、ただ組合活動であり経済活動であり世俗の欲を増大させている場だから変なのである

みちのくはまだ荒野があり何か日本でも異質な場になっていた
つまり権力闘争とあまり関係しなかった
だからみちのくは常に敗者が逃れて敗者の場所にもなっていた
強力な権力を持ちえなかったのである
だがみちのくという場は荒野がありそこで西では確かに繁栄したが堕落した
宗教の場も金儲けの場になった、観光の場とか堕落した場なのである

日本をみるとやはりみちのくと北海道は異質だと思う
沖縄も外国になるがみちのくと北海道は感覚的に何か自然でも違っている
北海道は空気まで違うと感じる、原自然がある場なのである
だからみちのくと北海道は原生の心を養成する場なのである
ただ経済的には苦しいということがありそこが問題であり原発事故が起きた

それは間違っていた、みちのくという場はそうした場ではない
原発などは誘致すべきではなかった、本来の場は自然の中で荒野の中で野生の声を神の声を聞く場所だったのである
もちろんあまりにも戦前のように貧乏だと精神も醸成されない
ほどほどのところで質素に荒野の声を聞く場所としてあるべきだったのである

結局なぜこれほど人は働かねばならないのか?
それは余分なもの余計なものを作りすぎているのである
そのために人手不足となる、別に食堂とかで働く人がいないとしたら食堂でもあればいいがそんなになくても間に合うということもある
余計なものがありすぎるとそれだけ労働力が必要になる
オリンピックなどでも本来はするべきではない
なぜならそのためにまた人手が必要であり人手不足になるからだ
なんでも経済成長が果たしていいのかどうか?
それも見直される時が来たのである
それは多数の声とはならないからどうにもならないとはなる

2018年11月28日

冬の菊と老木と樅の木


冬の菊と老木と樅の木

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百歳に母は死ににき冬の菊

老木のここに朽ちなむ冬の菊

樅の木に孟宗竹や冬に入る


一本の樅の木ここに立ちにけり知らざりしかも冬に入るかな 

ふるさとの道に一枚散る木の葉しばしたたずみしみじみと見ゆ

よみとれぬ墓の文字かな誰が眠る短き日のはやも暮れなむ


母は冬の菊だった、目立たない女性だった、それでも最後までりんとしたところがあったただ処世術がない女性だった、何か世の中のことをわからない人がいるのだ
それは自分もそうだった、世の中にうとい人がいるのである

この老木は何か天然記念物のよにうも見える、この木は生きているのか?
まさに百歳の人間と同じである、これから百歳の人も増えてくる
今回発見した樅の木はいい木だった、樅の木は結構ある
でも意外と発見しにくい、ここにこんな木があったのかというのも発見しにくい
でもそういんう木があって故郷を支えていたとかなる

冬の菊でもここに朽ちるというときついの住処としてここで死ぬということにもなる
人間も生物だから最後はそういう気持ちになる
だから避難区域に帰ったのは老人なのである、つまりそういう気持ちになるのが生物として自然だからである


2018年11月24日

大根干し、冬籠り(小山田村の冬景色)


大根干し、冬籠り(小山田村の冬景色)

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大根干し蔵ある家や冬ごもり

小山田の墓地をたずねて冬紅葉

貧しきや土地に働く冬あざみ

溜池に落葉沈むや一部落

鴨数羽しばし安らぎ去りにけり

残菊や人影見えず細き径(みち)

日短き墓地をたずねて名も知れず

小山田の細道今日も我は行く残れる菊にワレモコウかな

この写真は絵になっていた、今なかなか農家でも農家らしくなくなっている、田舎でも田舎らしくなくなっている、この風景はいかにも日本の農村の風景である
それで矛盾しているのがこの道をまっすぐゆきと常磐高速の鹿島のSAになる
そこで昼食をとったが混んでいる、あれほど混む所はこの辺ではない
働いている人も今日は十人以上いた、ひっきりなしに人がきて並んでいる
数えてみれば何人来ているのか?百人とかは軽く越えているだろう
500人とかわからないが相当な数である
これだけ駅と高速道路の相違があることに愕然とするのである
客にしても百倍どころではない千倍の差があることになるからだ 

だから何かこうして鄙びた感じの小山田村を紹介するとき奇妙になるのだ
常磐高速道路にこうした鄙びた村を通りそうした場所に行くからだ
常磐高速から町の方へ来る人は少ない、あそこだけが鹿島では人が集まる場なのである

今では田舎的風景がどこにでもあるという訳ではない、この大根干している風景はいかにも田舎的である、そして冬籠りの季節になる
今になると冬籠りというのもなくなる、冬は土も眠り栄養を貯える時期である
そのことは畑で野菜を作る人がしきりに言っていた
冬には土が眠り栄養が蓄えられるという、冬は増える(ふゆ)なのである
そういう感覚は農業していた人から伝えられたのである
春は張るであり張り田というのもそうである、夏はなじむとかであり秋は商(あきなう)となると商業の感覚が入ってくる、収穫したもの売るということで秋となっるからだ
いづれにしろ季語はこうして実際の農民の生活感覚から生まれたのである
ただ風流とか詩人とかが作り出したのではないのである
つまり実際の生活感覚から離れて芸術もないのである

冬籠りまたよりそはん此の柱芭蕉 

子を負うて大根干し居る女かな 正岡子規

これなどはいい句である、またよりそはむというとき何か変わらぬものがありそうなる
今だと変わりやすいからそういう感覚もなくなる、この柱とは人間と見ればそこに頼りになる親しい同じ人間がいるともなる、そういう人がいつもいるわけではなく現代は人でも変わりすぎるのである

冬田の畔の道を自転車で行く人は知っている人に見えた
最近なにか遠いけど仕事が見つかったとか言っていたからだ
その家に行ったのかもしれない、何か田舎だとあの人はどこの人どこに行くのかとか見ているのである、わかるのである
それで嫌だとなる、写真とっていたら写真とっていたなとか言われたからである

あそこの溜池ははじめて見た、溜池は多い、広い溜池もある、それは人口の沼のようになっている、その回りは林でありなごむ場所だった
鴨も数羽いたがすぐに去って見えなくなった

今年の紅葉は遅いし何か季節的に合わない、一応冬になったたら冬紅葉となるが何かそういう感じではない
まだ秋の感じでもある、なんか季節的に合わない、ただ冬らしくはなってきている
大根干すと冬ごもりで二つの季語になるのはまずい、季語は俳句では一つだからである
都会だと季節感がない、冬ごもりというものもない、一年中活動している、活動も必要だが過剰なのである
冬はやはり休む時であり栄養を貯える時なのである、そういう季節感もない所では住みたくないとなる
暑い寒いの感覚はあってもまわりで季節を感じないからである

日は短くなった、人間は本当にはかない、死んでみればすぐに忘れられる、そして墓に埋められるが
その人をどれだけの人が記憶しているだろうか?
ほとんど忘れられてゆく、そして名前を読みとろうとしてもできないとかなる
あの墓地は慶応とかあったから江戸時代からあった、たいがい田舎の墓地は江戸時代からあった所にありその継続として墓地がある、古い墓があるのは原町であり新地にも古い碑があるのは伊達藩内は相馬藩内より古い碑が多い
それだけ相馬藩より歴史があり古いとなるからだ

2018年11月22日

山眠る(俳句は説明がないと鑑賞できない)


山眠る(俳句は説明がないと鑑賞できない)


晩菊や落ち着き死ぬ場のほしも

数日や部屋に散る入る木の葉かな

無人駅二三枚落つ木の葉かな

平和なれみちのく遠く山眠る

みちのくの山々眠る争わず

石一つここに動かず冬の星


俳句は何か短すぎるから鑑賞しにくい、写生だと本当は説明はしない
詩は説明しにくいのである、説明すると散文になる
でもこの俳句が何を意味しているのか?
その背景を読み込まないと鑑賞できない、でもそれがむずかしい場合がある
それで私の場合は説明している

短いからその後の説明が生まれる、木の葉が二三枚家の中に入っていた
風で入ってきたのだろう、それか数日ずっと家の中にあった
その時向かいの家で死んだ女性のことを思った
その女性のことは知っていたからである
でも一週間前顔出していたら死んだのである
何か知っている人に会いに歩いて行った
だから直ってまた会いに行ったのかと思った

死ぬ人は最後に別れを告げるために知っている人に親しい人に会いに来るというのは本当である
兄も交通事故になる前に私の家に来て笑って去って行った
その後は死んだのである

ともかく人間ははかない、この木の葉のように数日部屋に入っていまのとにている
はかなく散ってしばらく自分の家の中にあった、その木の葉を私は見ていたとなる
無人駅のことはシリーズとしてずっと書いている
二三枚木の葉がホームに散ったりしている
何か無人駅だから数人とか待っていて話したりする
それはこのように人はまれだからである
だからこそ話したりできるのである、数が多かったらとてもできないのである
そこに人が少ないから人間的な場が生まれていたのである
ただ商売にはならないとなる

みちのく的なものは何かとなるとそれは東京とか西のように混雑していないことである
みちのくと的なものとはそこは癒しと休息の場としていいのである
ただ正直この辺は津波や原発事故でそういうこともなくなった
それでいろいろありすぎて疲れたとなり山眠る、静かに冬は眠りたいとなる
津波原発事故でみちのくも平和がなくなったのである

人間はとにかく一つの問題が解決してもまた問題が生まれる、延々と問題が生まれる
もう解決は永遠にないのだ、なぜなら一つの問題が解決したらまた新たに問題が生まれるからである、そして絶望的になるのである
だから山眠る、もうそういうことに関係しないで冬は眠りたいとなるのである
そういう場としてこれまではみちのくはふさわしい場所だったのである

老人になると石のように動きたくなくなる、この俳句は前も作っていた
認知症の問題など今の世の中は変わりすぎることで対応できない
認知症だと何か物を置いても変わらない場所にあるといいのである
いつも同じ場所にありその物を動かさないことがいいのである
なぜならそれを動かすと忘れるからである、それで今ここにあったのがないということでパニックになるのである、いつも同じ場所に同じものがあると安心するのである
だから狭い部屋でそうしておけば財布をなくしてもすぐにその場所が特定できるからいいのである
それで認知症というのは現代では治療しにくい、あらゆるものが変わりすぎるのである
また機械の操作も多い、なぜならテレビをつけるリモコンすら操作できなかったからである  

認知症になったら今の世の中は本当に困る、江戸時代のように単純な社会だったら良かったのである、その時代には時代の悪さもあるが良さもあったからである
江戸時代なら物もあまり持っていない、いつも見知っている人と暮らしているとか
それで症状も安定するのである
認知症にとって現代の環境は最悪なのである
例えば今みんなスマホを操作している、でもは認知症になったらテレビのリモコンも操作できなくなるからどうにもならなくなる
今はいいにしても認知症の人がこれだけ増えるのだからそういうとき困るのである

江戸時代のように情でもって人と人が対面的に情的に通じ合っている社会なら認知症の人にとっても楽なのである
それは認知症だけではない、現代が生む様々な問題も江戸時代のような環境の喪失がそうさせているのである
介護とかは機械で代替できない、それは対面的情的に接しないとできないからである
だからこれから情的なものが大きな役割を果たす時代になるかもしれない
なぜならそれは機械ではAIでも代替できないからである



2018年11月21日

冬の蝶(家の価値は思い出が残っていること―母の介護の思い出)


冬の蝶(家の価値は思い出が残っていること―母の介護の思い出)


厨なる曇り硝子に冬の蝶


晩菊のとりどり咲きて一所あたたかき冬の日のさし安らぐ

60年母の厨(くりや)にありにしを我も立ちつつ冬に入るかな

冬の月部屋をのぞきぬこの部屋に母を介護しぬ思い出なるかな   


家族がみんな死んでから何か不思議である、何か姉が認知症になってから不思議なことがつづく、家族がみんな死んでから不思議がつづく
人間はやはり他人が経験するのと自分自身が経験することは違うのである
家族だったみんな違っているからである

母はおとなしい女性であり裏方だった、母の一生は不幸だった、実家でも父親が事業に失敗して母親が病気になり継母が家に入ってきて苦労した
継母にいじめられたのである、子供の時でも不幸だったのである
結局やはり両親でもこのように子供を幸福にするとはならないのである
つまり両親に家族に恵まれないと本当に損だと思った

その後も東京で結婚したが夫が事故で死んだ、そして後妻に来たのが自分の家だがここでも幸福とはならなかった
女中のように使われただけだとなっていた、それを見ているからわかる
ただ母のことをあまり思ったことはない
死んでから不思議だけど母のことを思うようになった
人間は死んでからこうして思うことがある

今は厨に台所にいつも自分が立っている、すると何か母はそうして60年とかこの家にいて厨にいた、食事を出していたのである
そのことが何か自分が介護して食事を出したりまた死んでからも家事を料理をしている
厨に死んでからもずっと立っている
それで母を思うようになった、母は目立たない女性だったけど60年の歳月は長い
そうして日々食事を出していてくれたのである
生きている時は何も感謝の気持ちもなかったのである
自分自身が厨に立ち家事をして料理するようになって感じたのである

女性の仕事は家事でも目立たない、だから父親のように評価されない
でも縁の下の力持ちとして女性はある
ただ苦労が多かったからそうなるとどうしても歪んだ性格になる
母はそういう面があった、一切何か楽しむことがない、ただ働くことであり庭を作った時そんなものいらないとか強情に言っていたのである
そして庭に豆をまいたりしていた、食料にするためである
何かそうして苦労しすぎていこじになっていたのである
人間はあまりに苦労が多いと心も歪んでくる
でもそれほど母は歪んだものとはならなかった
忍耐強い女性だった、でも母は社会性がないから一人ではとても家を維持できなかった
自分の家の場合は特殊だが姉と母がいて家が保てたのである

だから特殊な家族だったとなる
ともかく家というのはやはりこうして死んでも死んだ人が存在しつづけることがある
なぜなら60年とか家に長くいたからである
家と人間が一体化しているのである、それで嫁とは女であり家であり一体化したものなのである、女性の場合は家事だけをする女性も前は多かったから余計にそうなっていた
それで死んでも家にありつづける、他ではその人が死んだらありつづける場は少ないだろう
男だったら会社にいるのが長いとしても死んでもそこにありつづけるということはないだろう、どこでも退職したりしたら時間がたつとともに忘れられる
でも長く働いた場なのだから退職したりして一切会社との関係が切れるのは淋しいとなる退職しても一緒に働いた人がそこにいたということを記憶されればなお会社で生きているともなるがそういうのはまれだろう

厨は曇り硝子であり外が見えない、でも朝に蝶が飛ぶのを見た
まさに母は冬の蝶だった、夏の蝶ではない、ひっそりと生きてひっそりと死んだ
ただ眠るように死にたいとはいつも言っていた
その願いだけはかなえらたようだ、ただ病院に入院して一か月で死んだ
死ぬ瞬間はわからなかった、病院に来たとき死んでいたのである

でも母は病院で死ぬ前の一週間前くらいまでポータブルトイレを利用していた
オムツをすることもなく死んだのである、オムツをしたのは病院での一か月だけだったのである、だから介護するにも死ぬにも楽だったとなる
苦労の人生だったが最後は楽だったなと思う
まず介護するにしてもオムツとかなると過酷になる
そうなると自分はルーズでありさらに苦しい状態に追い込まれた

それでも今になるとそうして介護して良かったとか思い出になるのも不思議である
早く死んでくれとも思っていたが人間は死ぬとみんな後悔している
もっと良くしてやれば後悔する
それは死んだらもう二度と会えないからである
ただ死者は思い出のなかで生きているだけになる
その思い出も介護で冷たくされたとかなるとなかなか思い出すのも後悔するから嫌になるそこに介護のむずかしい問題がある、介護と死は連続しているからである

いづれにしろ人は死ぬとその一生をたどることになる
家族だったら身近だからその一生をたどる、すると死んだ人がよみがえってくるのだ
死者はどこにあるのかととういと実際は墓とかにはいない、人間は死ぬと灰となりなにもなくなる
でもこうして残された人が思い出したり語ったりすると生きてくる
こうして死んだ人の一生をたどったり家でここにいたなとか思う時なお死者は生きているのである

母はなほ面影として我が家にたたずむものや北風唸る

面影として残るとしてもその場がないと面影として浮かばないのである
それが女性の場合は母の場合は家にあったとなる
恋とは乞う(こう)から来ているという、つまり恋とは必ずしも男女間の恋愛ではない
死者をこうことが一番深刻なのである
なぜなら人は死んだら永遠に会えないからである
そしたらもう一度会いたいと思うようになる、それが恋(こいーこう)だったのである
このことが一番切実だからそうなったのである




晩菊ー北風唸る家(詩)


晩菊ー北風唸る家(詩)

  
  晩菊や色とりどりには映えにけり
  
  晩菊や落ち着きて死ぬ場の欲しも
  
  我が家に一人残りて日向ぼこ
  
  
  北風のうなり誰住むや家の跡に松一本のここに動かず
  
北風唸る家  

木の葉が一二枚
ぽったりと家の中に
また貧しき人が来る
再び北風が今日吹き
我が家にうなる
この家にも悲しみと苦しみが
憎しみといがみあいと争いも
そして笑いと楽しさが
一家団欒があった
しかしそれも昔となりぬ
今は誰もいない一人
この家は父と母と姉が残したもの
私には幸いを与えしもの
家族はみんな死んだ
私が一人この家に残る
二階の広い廊下で一人日向ぼっこ
私には幸いが与えられた
北風が唸っても
この家はなお残り住む
私は一人この家に安らぎ守る
家にはなお家族がいるかもしれぬ
私を見守りつつまた思い出の場所として
・・・・・・・・・・
  

人間は最後は思い出だけになってしまう、死んで何が残るかとなると思い出なのである
でも思い出といっても何か形になっていないと思い出せないとなる
だから老人は思い出に生きるというとき、その思い出の場所が家であったり故郷だったりする
だから原発事故で避難しても老人は故郷に帰り家に帰りたいとなる
また老人ホームに入った人でも家に帰りたいというとき実は家族があった所に帰りたいとなる、でもその家族が実はなくなっているのである

なんか家というのはただの建物ではない、そこは思い出がつまった場所なのである
それでなかなかそこにある喪のでも思い出があるから捨てられないということがある
終活とか言われるけど全部の物を捨てることはしにくい、何か思い出がしみついているものがあるからだ
ものはものがつくとかものは単なるものではない、物心とかあり物と心は日本では一体化している、分離しないのである

家は物ではあるが何か物だけではない、そこに人間が60年とか住んでいれば人間が住んだ生活した思い出がつまった場所なのである
そこに家の不思議がある

ただ家族でも家でも必ずしもそこがいいとは限らないのである
親にひどいめにあった人は墓参りする気すらない、いい思い出がない人もいるからだ
私の場合は過分に親から幸いを与えられたのである
だから死んでからも親が姉が私に与えて残してくれた家になお住むことでまた幸いを感じているのだ
今まではそういうことを思わなったが死ぬと人間は本当に見方が変わる
死んでその人の価値とかを見直す、残されたものでもそうである
だからこうして家族がみんな死んでも残された家にいることが幸せだとなる

ではもしこの家を賃貸して住んだとしてもこういうことは感じない
ただ家賃を払う家である、ただ家が広くて便利でいいなとかはなる
でもそこに自分のように思い出をかみしめるとかにはならない
ただ広い家でいいなとは感じる
だから家というのは家族にしかわからないものがある

それで不思議なのは近くにある誰が住んだ家なのかわからなくなった所である
そこには松一本が残っていて北風が唸る、冬の日がさして残っている
それはがなんとも不思議なのである
家がなくなってもなお松が残っている、その松はその家の標しのように残っている
そこに家族も家もなくなったがそこに家があったということ家族がいたということを受け継いでいるか感じになる
それは自然の中の木ではない、松ではないからである
何か松は人間に見えるのである、あまり高くもない人間より高いにしても人間のように見えるからである、だから松は人間のように短歌にも残されているのである

晩菊というとき何か今や落ち着いて死ぬ場があればとなる、最近そういうついの住処をどうするのかとかそうした老人を問題にした番組が多い
人生百年をどう生きるかとかどこで死ぬかなどが問題になる
それだけ老人が多いから老人について話題になる
やはり落ち着いて死ぬ場所となると故郷であったり家族であったりする
そういう場が奪われた原発避難区域は悲惨だったとなる
金もらったとしてもそうである、そういう精神的損害は償いようがないからだ
でも限りなく賠償を要求することは許されないのである
だから原発事故で失ったものは大きいのだけどそれを外部の人とかあまり感じないのである、賠償金もらったからいいじゃないかともなる

北風が唸ったときどうしても姉が認知症が発症したことを思い出す
その時から自分のこの家での苦しみがはじまったからである
その時はまさに厳しい北風が我が家に唸り吹いたのである
それからプログで書いたきたように地獄を経験したのである

でもそれが終わるとこの家で一人残り思い出の場としてありつづける
それは結局自分は過分に家族に良くされたからである
そうでなければそんなに家族でも親でも思わないからである

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2018年11月16日

新地の右近清水の溜池は広い (鴨の詩)


新地の右近清水の溜池は広い

(鴨の詩)


広き溜池に渡りの鴨や
色鮮やかにつつがなく
荒き波もたたず
ここに交わり安らぐ
そは争うことなく
ここに集い憩いぬ
人は常に争いやまず
故に人はみな疲れぬ
今安らぐ鴨を見て
我も安らぎにけり


鴨は冬の季語である、渡り鳥でありきれいな鴨もまじる、鴨の種類は多い
冬に鴨が渡ってくるから冬の季語になる
ここの溜池は広々としている、溜池でも気持ちいいとなる
溜池でも広い沼のような溜池もある、日本では溜池は多い

ともかく人間には争いが絶えない、どんなにしても争いが絶えない、終わることがない
家族だって争いがあり平和がない、男女間でも争いがあり平和がない
三分の一が離婚することでもわかる
この辺は原発事の補償金でもめた平和がなくなった
それで復興しにくいということもある

まず田舎の人間が素朴などということはない、畑している女性が前の畑の人を嫌がっていた、でも最近病気が悪くなり畑をできなくなったので喜んでいる
また住宅の隣にも嫌な人がいると常に言う
田舎の人間が素朴だとかは今はない、飯館村などはいい村だったけど原発事故以後はやはりいろいろなことでもめる、一番もめいてるのは補償金のことでありそれで村が二分した

要するに飯館村でも隠されるようにしてあったときが良かったのである
その時は自分は何もかかわっていないから良かったのである
新地に行ったとき良かったのもその土地の人とかかわらないからである
近くだから関係あるにしてもその土地に住んでいるわけではないからである

だから私自身が田舎を嫌って旅ばかりしていたというのもそういうことがあった
田舎からの脱出願望は誰でももっているのである
その人間関係が嫌になるのである
ただ遠くから外から来た人なら自然があっていいなとなるのである

ただ何か新地までは故郷の延長のようになる
山元町となると遠いと感じる、そこは宮城県と感じる
新地は特殊な事情で相馬郡になった、もともとは伊達藩だったのである

私の家の父親の前の妻は新地出身の人だった、その人とは会ったことがない
戸籍を見てわかった、戸籍から親類の系統をたどることができる
その新地の女性は自分の家の墓に埋まっている
それでお参りしているのも不思議だとなる
新地とかでも婚姻関係を結ぶ人が多いということである
しかし今はとんでもない遠くの人と結婚する
だから原発事故で避難した人たちは全国に散らばったのである
結婚した妻でも遠い地域に住んでいるからである

自然には平和を感じるが人間社会にはない、自然を見てなごむというときそこに人間社会にはないもの、争いがないから何でもない風景でも平和を感じるのである

2018年11月15日

冬の日の新地の詩 (芸術は平和でないとありえない−新地に平和がもどった)



新地の右近清水の溜池は広い

(鴨の詩)


広き溜池に渡りの鴨や
色鮮やかにつつがなく
荒き波もたたず
ここに交わり安らぐ
そは争うことなく
ここに集い憩いぬ
人は常に争いやまず
故に人はみな疲れぬ
今安らぐ鴨を見て
我も安らぎにけり


鴨は冬の季語である、渡り鳥でありきれいな鴨もまじる、鴨の種類は多い
冬に鴨が渡ってくるから冬の季語になる
ここの溜池は広々としている、溜池でも気持ちいいとなる
溜池でも広い沼のような溜池もある、日本では溜池は多い

ともかく人間には争いが絶えない、どんなにしても争いが絶えない、終わることがない
家族だって争いがあり平和がない、男女間でも争いがあり平和がない
三分の一が離婚することでもわかる
この辺は原発事の補償金でもめた平和がなくなった
それで復興しにくいということもある

まず田舎の人間が素朴などということはない、畑している女性が前の畑の人を嫌がっていた、でも最近病気が悪くなり畑をできなくなったので喜んでいる
また住宅の隣にも嫌な人がいると常に言う
田舎の人間が素朴だとかは今はない、飯館村などはいい村だったけど原発事故以後はやはりいろいろなことでもめる、一番もめいてるのは補償金のことでありそれで村が二分した

要するに飯館村でも隠されるようにしてあったときが良かったのである
その時は自分は何もかかわっていないから良かったのである
新地に行ったとき良かったのもその土地の人とかかわらないからである
近くだから関係あるにしてもその土地に住んでいるわけではないからである

だから私自身が田舎を嫌って旅ばかりしていたというのもそういうことがあった
田舎からの脱出願望は誰でももっているのである
その人間関係が嫌になるのである
ただ遠くから外から来た人なら自然があっていいなとなるのである

ただ何か新地までは故郷の延長のようになる
山元町となると遠いと感じる、そこは宮城県と感じる
新地は特殊な事情で相馬郡になった、もともとは伊達藩だったのである

私の家の父親の前の妻は新地出身の人だった、その人とは会ったことがない
戸籍を見てわかった、戸籍から親類の系統をたどることができる
その新地の女性は自分の家の墓に埋まっている
それでお参りしているのも不思議だとなる
新地とかでも婚姻関係を結ぶ人が多いということである
しかし今はとんでもない遠くの人と結婚する
だから原発事故で避難した人たちは全国に散らばったのである
結婚した妻でも遠い地域に住んでいるからである

自然には平和を感じるが人間社会にはない、自然を見てなごむというときそこに人間社会にはないもの、争いがないから何でもない風景でも平和を感じるのである

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冬の日の新地(俳句10句と写真)


冬の日の新地(俳句10句と写真)

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宝暦は古い−新地には文禄の碑もあったから伊達藩に属していて古い碑がある

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右近清水の広い溜池



冬の日や社を守る古木かな

農家古り古木にさしぬ冬日かな

駅も古り相馬にとまる冬柳

海の青映えて冬田やゆ新地かな

落葉踏み古き碑たずね沼に鴨

枯菊や喫茶店一つ昼の月

枯菊に二両の電車昼の月

蔵一つ扇の紋や木守柿

冬の蝶二羽や新地の小径かな

冬の日や人影まれに新地駅


新地の地形の特徴は海が迫って見えることである、それで手長明神の伝説が生まれた
手の長い巨人が海から貝をとって食べていた
それは貝塚が高台に発見されたことによっている
つまり海から高台になっていて海が迫って見えるのである
だから新地の地形はより海を感じるのである
平地だと海が遠くに感じるし平地からは見えないのである
それで冬田から青い冬の海が見えたのはいかにも新地らしいとなる

それから新地には林が多くその間を自転車で行くのに向いている
ただ新地までは遠いので今度は折り畳み自転車で回ることにした鹿狼山(がろう)山までは坂があるので行けない、でもタクシーで2000円とか言っていた
だから行はタクシーで帰りは自転車で坂を下ればいいとなる
鹿狼山に上れば丸森の方も行きやすくなるなと思った

駅前にアジュールという喫茶店一つあった、そこから眺めた景色も不思議だった
葱畑(ねぎ)畑があり二両の電車が行く、そこで気づかなかったのが昼の月が出ていたのである、そして向こうに墓地が見えた
新地で漁村は全部消失した、そしてあそこの高台の墓地だけが残った
この辺では海老村とかそうであり高台の墓地だけが残ったのである
こ不思議な風景である、そもそもこんなに風景まで変わることが夢のようだとなる
こんな風景を見ていることが信じられないとなる

ただその喫茶店の人は年配の人だった、若い人がしている感じだったが違っていた
それでその墓地のことを言ったら笑っていた
この昼の月をぼんやり見ていてそして墓地のことを言ったら笑っていたことで
津波も昔となりつつあるのかと思った
平和が再びやってきたのかと思った
数年前でも墓地を見て笑っていられないだろう

今でも原発避難区域は小高から浪江と悲惨である、こんなふうにはありえない
俺たちは苦しんでいるんだ、被害者なんだと、お前ら人が苦しんでいるのに物見遊山に来たのかとか何も言われなくてもとがめられる
実際に自分もプログに書いてお前は人の苦しみを見て楽しいかとか言われたからである
そういうつもりでなくてもそこには観光気分では行けないのである
今でもそうなのである、どうししても心苦しくなる

でも新地は津波の被害が確かに大きかったが原発事故の被害はなかった
その差が大きかったのである、新地駅は前より良くなった、それも小さいのに贅沢だなとつ,くづく思った駅前も開発されるから駅前に人が集まる、温泉も出たということも幸運だったのか?何か原発避難区域との差がありすぎた
鹿島でも前より人が増えたし施設とか食堂とかも増えたし新しいホテルまでできた
だから前より良くなった面があるのだ

ただこう感じたのは実は自分自身の心境もある、家族がみんな死んだのだが介護で約十年苦しみ続けた、それから解放されたということもある
もともと私は30年くらい平穏にのんびりくらしていたのである
まさに昼の月だったのである、そういう恵まれた環境にあった
それは一転して家族の介護とか津波や原発事故になったのである
自分自身も病気になり介護しなければならなかった、それでどうしても余裕がなくなったのである

そのことから解放されて前のようにのんびりと昼の月を見るような心境になったともいえる
その喫茶店に一時間くらいじっとしていて何か十年前の気分になった
そして一時間がいた結果、あそこに墓地があるなとか昼の月が出ているときづいたのである、やはり何かその土地のことはやはり過ぎ去るだけではわからない
一か所に定点観測するとその土地のことが記憶される
遠くになると早く早く過ぎ去るから記憶に残らないし見るべきものを見ないのである
新地は散歩するのに自転車で回るのにいい場所である、地形そうさせているのである

今回は俳句にしたがこれを連続すると詩になっていた
俳句とか短歌から詩にすることができる、次はそれを出して見よう

タグ:新地 冬の日

2018年11月10日

木の葉散る (原町の道の駅でもみんなスマホ見ていた)


木の葉散る

(原町の道の駅でもみんなスマホ見ていた)


我一人墓を守るや菊に雨

晩菊をさして一人や墓守る

我が町の隠町にそ落葉かな

原町に行く間に散れる木の葉かな

道の駅原町に来て落葉かな

一軒の空家や松に紅葉映ゆ

何か墓守る人も必要なのか?墓の前を私は毎日買い物で通っている、だから自然と墓に毎日手を合わせるともなる、その墓がすぐ近くなので墓と一緒に暮らしているともなるのも不思議である
何か最後の仕事が墓守りとなることがあるのかと思った

何か今年の季節は変である、今日は原町まで自転車で行く、その間に木の葉が散る、
これも自転車で行くから季節を感じるのである
車だったら風とか何か季節を感じにくいのである
ただ逆に車なしの生活ができるということは車社会ではぜいたくなのである
なぜなら車がなかったら仕事もできない、免許がなかったら就職もできない時代だからである、私の場合は車がなくても仕事もないから自転車でまにわあせてきたとなる
風流は寒きものなりというときもそうである
自然を感じるにはあまりにも便利だと感じないのである  

俳句は写生である、原町の道の駅に落葉している、それはただ写生である
でも同じような俳句があるとして原町だということで同じものはないとなる
原町の道の駅には今日も行った、そしたらみんな9割の人もスマホを手にとって見ていたそれも老人でもそうである、60以上でもスマホを結構している
車で来ているから外部の人だと地理とかホテルとかわからないからそうしている
何か簡単に聞くわけにもいかないからそうなっている
でも変な光景だと見た、まずスマホを見ている人には話しかけられない
たまたま一人だけ案内の本をもっいてる人の所で座り話しかけた
その人もスマホを持っているというから10中9人はスマホを見ていた
歩いてスマホをしている、立ってスマホしている、これも異様な風景ではないか?

旅だとスマホばかり見ていると外の景色も目に入らないかもしれない、するとスマホばかりみて記憶に残らないともなる、旅だと必ずしもすぐに移動するから余計に記憶に残りにくいのである、スマホに集中する分、辺りのことが記憶に残りにくくなる
車にスマホとなるともうそこで木の葉が散っているなとか季節すら感じないかもしれないスマホは字が小さいし狭いから疲れる、パソコンの画面を私自身がいつもみているが画面が広いからそれほど目が疲れないのである
スマホばかりみている人には語りかけられない、駅でもいつもスマホを見ている

ただ私自身も旅して人と語ることはほとんどなかったから批判はできない
機械に頼るというときなぜそうなるのか?
旅してきて何か聞くにしてもそんな都合良く聞ける人がいないからである
道を聞くにしても正確に地元の人だった教えないのである
だからかえってスマホの方がいいとなってしまうのである
ただその便利さが旅をしても人との交流をなくすことがある
旅は道連れとしてスマホばかり見ていたらそういうこともなくなる
何が機械でも便利なものは人間的なものを奪うのである
第一車自体がすでに外部を閉ざす空間になっているからだ
だから車はただ移動するだけで風流は感じない、なぜなら風を感じないからである



本当にスマホのみすぎである、それが異様に感じないものもまた何か異様なのである
現代にはそういうことが結構ある、異様なんだけど異様と思わないのである
それが文明化された人間だとなっているのである


2018年11月03日

変わり果てた南相馬市萱浜の風景 (津波から7年半でも癒えない傷跡)

                                                  
変わり果てた南相馬市萱浜の風景

(津波から7年半でも癒えない傷跡)

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萱浜には墓地だけが残って向こうにロボット工場の建っているのが見える
大規模な工場なのである

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一葉松はやがて枯れる

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この墓地は前からかあったのか?
新しい墓が多い、津波で流されたのを再建したのか?





秋の海沖に船行く二艘かな  
                                                    
                                                      
駅前に木の葉一枚散りにけり今日も我があり暮れにけるかな
                                                          
秋日さす桜井古墳に今日も寄り遠き祖(おや)なれここに眠りぬ

新田川の河口にあわれ立ち枯れの木幽鬼のごとく秋の日没りぬ

一葉松枯れゆくならむ津波来てなお傷痕の癒えざりしかな

新田川芒の白くあわれかな白髪のごとし人も世も変わる

鴨あまたわたり来たりぬ新田川冬に入るかな墓は残りぬ

津波にも残れる木にそ烏かな萱浜の墓地秋にたずねぬ


萱浜に行ったけど工場地帯のようになった、ソーラーパネルにロボットの工場は意外と大きい、ビルも建った、あそこで雇用がかなりうまれるのか?
見た感じでは大きいからそう思う、一大ロボット工場になるのだろうか?

萱浜には墓地だけが残っていた、でもそこから見る風景はまるで違ったものになった
萱浜の面影は全くなくなった、ただ萱浜は前にも行っていたけど何か特徴ある場ではなかった、松原だって右田の松原のようなものはなかった
だから何か印象としていいものではなかった
そこで女高生が死んだのも印象を悪くしたのである、それは殺されたからである
それは津波起きたすぐ前だったのである
その死体は津波に流されて不明になったのである

なぜ萱浜があまり津波の前でもいい印象をもたなかったのか、それは真野漁港のような港もない、何か生業(なりわい)がない、するとただ家があるだけだとなる
松原もない、見栄えしなかったのである、そうはいっても農家があり営みはあったのである
人間の生活はやはり土地に根付いた生業があるとき活きてくる、それがないと活きてこないのである、それで原発事故で生業を返せということで訴訟を起こした
でもそもそもが海側では港がない、漁業がない所は生業もなかったのである
つまり港でも船が出入りしたりまがりなりにも魚をとったりしていると活きているのである、だからそういう場所はなくなると惜しいとなる
ただそういうことが今はできないから船主などは多額の補償金をもらって生活には困らなかったのである、萱浜は田んぼであり越中なのどの移民が多い場所だった
漁業はしていない場所だからあまり印象がない場所だったのである

生業(なりわい)を返せというときその生業とはなになのか?
それが良くわからない、農民とか漁業していればある、でも工場で働いていたりすると生業(なりわい)という感覚がなくなる
ただ山でも炭焼きなどしているのは生業でありその時山も活きていたのである

新田川の河口には今も幽鬼のことく立ち枯れの木が立っている
あれはまさに津波で死んだ人の幽鬼だと思った
まだ倒れないのが不思議だとなる、怨念のようにここに立っている
津波で死んだ人の霊がここにとどまっているという感じである

ともかく津波の被害の傷跡はまだ消えない、それだけ大きな被害だったのである
ただあそこにソーラーパネルとかロボット工場ができるとそうした過去もやがては忘れられてゆく、ただ7年半過ぎてもまだ傷跡は消えない
それが一葉松でもある、一部枯れたしやがて枯れてしまう
あの松はいい松だったから枯れると南相馬市では相当な損失である
でも右田の一本松も枯れたように枯れる

あそこに墓地が残っているのはなぜか?
津波で流されたの再建したのだろうか?
津波にも流されなかった枯木に烏がとまっていた、墓守りのようしてとまっていた
あそこは確実に津波が来ていたし家が結構あったが流されたのである
その写真をとったことがあり流された家の人が指摘したことがあった
それも今は全くわからない変わり果ててしまったのである


ロボットのまち、南相馬を目指して−

2018年10月31日

(秋から冬へ−初時雨)桜井古墳による

  
(秋から冬へ−初時雨)桜井古墳による
                                                  

森の中常行く道や残る虫

我が齢一年老いぬ初時雨

新築の庭の石濡らし初時雨

墓守りや烏とまりて木守神


新築の家建ち並び幾年や秋の日のさしてここになじみぬ

無人駅待つ人あれや秋の薔薇我が見につつくれにけるかな

ゆるやかに雲の流れて我がよりぬ桜井古墳に秋の蝶とぶ  

みちのくの桜井古墳大なりきここを登りて秋となるかな

みちのくの大なる古墳いくつかな海を望みて秋となるかも

耳澄まし桜井古墳に残る虫その音を聞きつ我が帰るかな


季節の変化がおかしい、秋となったがすぐに冬になった、なぜなら今日ははっきりと時雨になった、時雨らしい時雨だったからだ、初時雨になる、時雨は冬の季語である
明日は11月なのだから冬に入ったのである
ただこれまで結構あたたかいから秋という感じになっていた

家でも新しい家が多いけどなじむには時間がかるとなる、農家などはそうして江戸時代から定着しているとかあるから土地になじんでいる
この辺で他の土地から浪江とか小高とか他から移り住んでいる人が増えた
ただ誰が住んでいるかはわからない、もともとここに住んでいた人もいても何か他から来た人たちである、立派な家を建てたのは船主だとういことは原町でもそうだしここでもそうだというのはわかった
その他はわからない、ただこの土地の者でないものかなり住むようになったことは確かである
それで双葉か大熊なのかコンビニ強盗に入ったとか聞いたがそれが本当だとするとやはりそうして原発避難区域から入ってきている人がかなりいる
その人のニュースがあっても後はわからない

無人駅では駅では人が待っている、鉄道だと待つという時間が何か人間的なのである
高速だと待つという感覚がないからである、だから鉄道は車とは相当に違ったものとしてありつづけたのである、そこで出会い別れを演出した歴史ともなっているのだ
だから利便性だけで廃線にしたくないという地元の気持ちはわかる
でもどうにもならない、そんなことでとても残せないからだ

桜井古墳は大きい、こんな大きいものをこの辺で原町で作ったということはこの辺の経済力というか力を示している、桜井古墳は海側にあり海を望んで川も望んでいたとなる
海を望む古墳はあってもみちのくではない、ただ亘理の雷神塚古墳とかでも実際は古墳が作られたときかなり海が入り込んでいたから海側にあった古墳となる
でも今でも海が近く感じられるのはみちのくでは桜井古墳くらいかもしれない、
あそこは散歩の場所としてもいいからたちよる

ともかく初時雨だったけど最近腰をういためた、神経がぴりぴりして痛みがとれなかった一層白髪にもなった、それで体が弱ることが恐怖なのである
自転車に乗れなくなったらもう死んだようになる、それで車の免許を返納した80歳の人が失敗したというときまさに足がなくなることは極端に生活に支障をきたすからである
まず原町まで買い物に自転車で行けなくなったら不便になる
原町は8キロもない所にあるからそれで助かっているのだ

秋から冬なのだけどどうしてまだ秋であり冬という感覚にならなかった
でも明らかに時雨であり冬に入っているのである
ただ秋時雨とはかもあるから季節的には変だなと思うが今日は北風も吹いたし寒かった
やはり冬になっているのである
今家に帰ったら北風が吹いて唸っている、やはり冬になっている

2018年10月22日

柿のエッセイ(柿は日本で一番親しい果物−死んだ家族を思う)

                      
 柿のエッセイ(柿は日本で一番親しい果物−死んだ家族を思う)

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天高く馬肥ゆる秋草競馬

地に根付く変わらぬものや柿と松

ふるさとに墓を守るや柿なりぬ 

誰か住む小松に菊や小家かな

秋の蝶紋見せとまりSAによる


姉と母面影浮かび悲しかな故郷に住み秋となるかな

我が父は丁稚を勤め暖簾分けここに住みしも跡継ぎ住みぬ

我が母は大正生まれ柿好む貧しくを生き百歳に死す


原町の雲雀が原で草競馬があった、でも終わっていた
表彰式をしていた、この辺では野馬追いがあるからそうした催し物がある
馬というととき競馬だけどあれは馬が活きていない
馬は本当は草原のようなところで羊を追ったり走ったりしているとき活きている
だから草競馬などはギャンブルでもないしいいと思った
今は馬に親しむということがない、競馬だけになったから馬をみんな知らないのである

里ふりて柿の木もたぬ家もなし     芭蕉
                     
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺    正岡子規  


柿というのは何か質実なもの堅実なもを示していないか、ちょっと他の果物とは変わっている。昔の道を歩む、そこに柿がなっている、この柿と昔の道は良くあうのだ。果物というと外国産の果物はバナナでも食うだけであり日本にはなっていない、これは変なことなのだ。日本の土地に根付いたとき日本でとれるようになったときそれは食うだけでない文化となる。柿は寒冷地向きなのだろうか、橘というと南国をイメ-ジして万葉集にも盛んに歌われた。柿はなかった。柿の栽培はあとであった。日本では外来種の方が珍重された。梅も中国からきたものだしその梅が盛んに歌われた。日本人は植物からして外来種を外国のものを唐ものを尊ぶ文化があった。柿はその中でも食うものとして干し柿にもなったから食料として貴重なものだった。ミカンなどは食えるようになったのは江戸時代であり柿は最も早くから日本にあった。柿はどこの家にもあった。おそらく垣根とはこの垣は柿だったのだ。柿が植えてあるから垣根であったのかもしれない、それで大垣というのが漢字から石垣でもある城に由来しているのかと思ったらこれは「大柿」だったのだ

江戸後期から明治の初期にかけて生き(1805-1877)、備中松山藩に仕えた儒者・山田方谷(やまだ ほうこく)の手になる七言絶句の紹介です。
それも、「柿」を詠った漢詩のご紹介です。

○山村四時雑詠(冬)   山田 方谷
秋獲功終久息鎌  秋獲(しゅうかく)の功(こう)終(お)わりて久(ひさ)しく鎌(かま)を息(やす)む
更収園柿上茅檐  更(さら)に園(その)の柿(かき)を収(おさ)めて茅檐(ぼうえん)に上(のぼ)す
山邨冨貴初冬節  山邨(さんそん)の冨貴(ふうき) 初冬(しょとう)の節(せつ)
戸々斉垂赤玉簾  戸々(ここ) 斉(ひと)しく垂(た)るる 赤玉(せきぎょく)の簾(れん) 

柿というのはこういう風景として江戸時代からあった、柿はどこでもみかける、果物だとなかなか見かけない、この辺ではリンゴもないしミカンもない、ただ梨だけは豊富だからある、梨は安いのである
柿の不思議は柿というのに何か精神性を感じるのである
バナナとかミカンとか何かいろいろ果物があっても精神性を感じることはない、でも柿は別であり精神性を感じる
栗とかは果物には見えない、柿は明らかに果物であり実になっている
それから干し柿にもしているから冬の見慣れた景色になっている
柿はこれだけなっているのだから柿は日本の風景にとけこんでいた、そして柿はみんな食べていた
果物は贅沢でありなかなか食べられていが柿は食べていたのである

だから何か柿というとき見慣れたものであり確かに前の家の自分の庭にも柿の木があった
その庭は今の庭より広かった、そこに柿の木があった、渋柿だった、つまり街の中でも柿の木はあり柿の木は多かったのである
だから柿は日本の原産のようにも思える、でも中国が原産である、それでもKAKIとして外国津に伝わっているのはそれだけ日本には柿が多いということである 

私の家族はみんて死んだ、何かそれで父は早い時期に中学の時死んだので父のことは思うことがあまりなかった
それが家族がみんな死んだとき父を思うようになったのも不思議である
父は葛尾村から双葉の新山の酒屋に丁稚奉公した、そこで勤めて暖簾分けしてここに住んだのである
それは戦前の話である、戦後はまた違っていた、小さな子供相手の駄菓子屋みたいものを初めて店になり高度成長時代となり繁盛したその時は物がないから物を置けば売れたのである、それは中小の工場でもそうであり東京では人手不足になり集団就職で中卒が補ったのである

人間は親の影響が大きいのかもしれない、親が丁稚奉公したとか母が尋常小学校で原町紡績で糸取りしていたとか、あとは東京に女中になったとか、姉は従軍看護婦になり戦争で苦しんだとか兄は不幸にも集団就職してあとに交通事故で死んだとかそれぞれが戦前の歴史であり戦後の歴史になったのである
自分がここにあるのは親がいてその親の跡を継いでいるのである
だから歴史というと国の歴史とか大きなものがあるのだが実際身近かに感じるのは家の歴史なのである、それが二代でも歴史になるからだ
父親も母親も姉も兄も苦労したなとかなりそれを感じて生きることが歴史なのである
人間の生は一代で終わらない、必ず後の代にも影響する
それでカルマも受け継がれるとなるのである、カルマにもいいカルマと悪いカルマがある
この辺では放射性物質、プルトニウムの毒が二万年消えないとかのカルマを積んだのである

先人がどのように生きたかはその子孫に相当に影響するのである
もしそれを思ったら子孫のためにもいいかげんには生きられないともなる
そしてそういうふうに親のことでもかえって死んでから意識するようになる、父はこういう人だったなとか母は姉は兄はとかなる
だから死者というのは死んでからかえって意識されてふりかえることになる
つまり人間はそうして代々親から子へと何かを伝えて生きてきたのである
だから歴史の継承は大事になるのである、親がまともに生きていればその子もまともになるということは家系のことで言われることは納得する、ただ常に例外は人間社会にはある、親がいい人でまともな人でも子がだめな人もいるし親がだめでも子が立派になる人もいる、ただ一般的には親がまともに生きていれば子もまともになるというのが普通である

なんか家族がみんな死んでから、家族のことを思う、死者はどこにいるのか?
やはり故郷にいるのかもしれない、故郷をなつかしく思い死者はいるのかもしれない、ふるさとに面影として浮かぶのかもしれない
それは何か理屈ではなく感じるものがある 
いづれにしろ柿と松はあっている、それは変わらないものの象徴なのである
堅実であり質素な感じになる、精神性をもつ、そしてこの辺はあまりにも変わりすぎたのである
そのショックが未だに続いている、結局今や自分は墓守りなのか?
それには柿があっているのである                 
                           

タグ: 柿の俳句

2018年10月18日

秋の夜(仙台まで電車で行く)


秋の夜(仙台まで電車で行く)


ふるさとの墓を守るや柿なりぬ

秋晴れや金華山見え電車行く

東口通りの広く秋の風

新書のページをめくり秋となる

待ち合わせ電車のとまり秋の夜

単線や秋の夜長の待ち合わせ

虫の音や新地にとまる昔かな

月光る切符を入れて無人駅

我が家に帰るもあわれ残る虫


墓を守のが勤めだということもある、誰か知らない人が花をいけたりなぜか大きな梨が置いてありそれが烏に食われていた、誰かが梨をあげたのか?
まず死んでからでもそうして何か上げる人は死んだ人を思っているということである
人間は死ぬともう何の義理もなくなるから関係しないからである
だから何か死んでから墓でも花をさしたり何か供え物をする人は死んだ人を思っているいる人でありありがたいとなる

今日は約半年ぶりで仙台に行った、新地駅から金華山が見えた、秋晴れで見えた
ただ金華山があそこに見えると意識していなと小さいから見えない
新地駅からは晴れたら金華山が見えると意識しているから実際に見えたのである

仙台の東口とかを歩いた、通りはあそこは広い、秋の風がそよぐ
今日は本当は登米の方に行こうとしたが何かめんどうなので行けなかった
電車で行けないのところはめんどうになる、だから電車で行けない所は行っていないところがある、それで自転車でその行けない所に行ったがやはり自転車でも行けない所がある本当は北上川を見たかったのだができなかった
あそこは車でないと行きにくい場所だったのである
だから仙台で駅前をぶらついて買い物して終わりだった

仙台というと新しい本にふれて読むのが新鮮に感じた、しかし今は本は書店で買わない
本というのはその数が膨大なのである、大きな書店でも置いてない本が膨大なのである
古本でも膨大である、だからこんなに本があったということに今になると驚いている
それで本を前より買っている、古本だと安いからである
自分の関心があるのを集めるのにもいい、そういう点では恵まれている時代である
だから書店でも本は売れないことがわかる、あるところは本の売り場極端に縮小していた
丸善が前のように多いが必ずしも書店で必要なものは探せない
郷土史などはインタ−ネットの方が詳しいのである
だから本だけに頼る時代は終わった,書店には一部しか置いてないことがわかたからだ
そして必ずしも目立つものがいいものではない、前はそうして宣伝して売れたが今は必ずしも本は売れない
ネットでの情報もあり本とか雑誌に頼る時代は終わったのである

帰りは4回くらい待ち合わせがあった、前はそんなになかった、どうも6時から7時ころで通勤の人が帰るからなのか4階は多いと思った、単線だからそうなる
鹿島駅についたら月が光っていた
切符は買って切符入れに入れた、やはりごまかすということは良心にはじる
ただ真面目な人が多いと思った、無人駅でもごまかす人はほとんどいない
日本人はそういう点では真面目である

家に帰っても待つ人はいない、なにか家がなくなっているのではないかと不安になる
それは津波以後村ごとなくなったりしたからである
家族もみんな死んだから何か人でも家でもなくなるのではないかという不安がある
旅はずっとしていないけどなにかその気力もなくなったのだけど
また旅したいなとは思う、登米などは行っていないし北上川を見たいということもあるからだ、本当は北上川は自転車で川に沿って走ればいい、そうすれば旅になる
ただそれだけの気力がなくなった、だからいつまでも旅もできるものではなかったのである

それにしても新地駅でいつも遅い時間に帰り3分待ちあわせでとまった
その時ホームに出て歩いた、すると虫が鳴いていた
それが記憶していたが今はそれが7年半も過ぎると昔になったなと思う
あの時は海の方に家並みがあった、海側に近かった
今は海側は真っ暗になっている、もう十年も過ぎたら昔になる
ただ記憶だけになるのである


2018年10月14日

秋に思う昔(庭と昔の道と蔵の家−原町の道の駅より)


秋に思う昔(庭と昔の道と蔵の家−原町の道の駅より

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柿なりて昔の道や蔵の家

街中の畑に野菜作りつつ蔵ある家や秋となるかな


道の駅でなぜ庭を無料で提供しているのか?
これは結構高いものになる、百万以上はするだろう
坪庭というものか、これだけでも庭であり憩いとなる
石でも高いしそれなりの値段となる
宣伝のために無料提供しているのか?
ただ工事費とかがかかるからそれで人頼むと金がかかる
もしかしたら工事費用はもらいますよということなのか?
何かわからない

ここから見えた蔵は前に紹介されて入ったことがある
この道は昔の道なのである
写真では見えないが柿の木がありなっている
街中なのに畑がある家がある、この辺は昔は家がない、畑であり田んぼであり農家しかなかった、ただそれを知る者は相当に年とっている80以上かもしれない
でも六号線ができたのは20代くらいのときだったことを覚えている
それからこの辺は変わったのである
こういうふうに変わり歳月がたつと前の状態がわからなくなるのである
それは鹿島でもそうなった、住宅地が広がったが前は畑であり田んぼだったのである

秋となるとやはりしんみりとして昔を思うのである
ここの畑には馬頭観世音がありそれは火事があって家が燃えて馬も死んだから供養したと伝えられているという、それも家の歴史である
あそこはいつも通るから気になっていたのである
いつも通る場所は自ずと気になる、南相馬市でも広いからあまり行かない場所は気にしないのである

ともかく家の前に畑があるというのは恵まれているなと思う
いつも前に食料が供給されるというのが何か心強いと見えるのである
食料不足なってもまにあわせるとか見るのである
そして前に畑があると働き安いのである、だから前畑というのが地名化して姓にもなる
それは農家の暮らしからそうなった
ただ原町は都会である、でも回りは田んぼだから田舎なのである

2018年10月13日

秋となり死者を偲ぶ短歌十首


秋となり死者を偲ぶ短歌十首

(死者はどこにいるのか?−故郷の変化など)


秋鴎飛び去り一羽旅の人

はや散りぬ木の葉の増えぬこの道を今日も行くかな町も変わるに

仮設住む人も去りにき秋なれや代わりて住みぬ浪江の人かな 

鹿島に住み小高に帰りて合併す南相馬市年を重ねぬ

飯館に久しく行かじ悲しかな虫の音あわれ帰り住む人



常に思ふ人にしあれや面影の浮かびあわれや秋となるかな

ふるさとを歩みて時に死者の霊浮かびいずるや秋となるかな

我一人家をになえるその重み死者はなほ我とここに生きなむ

我が家族替えかたきかな今にしてはぐくまれしを心より思ふ

我が家をにない苦しむよそ人は責めにしものや知らざりしかな

死ぬ人のいづこにあれや面影の時に浮かびてまた消えにけり

我が家に生きて流しぬ涙かな今はみな死にとむらうのみかも

二階なる広間にいぬるこの家に我がはぐくまれし幸いを得ぬ

何にあれこの家に生きるは我がカルマ苦楽とともに担い受け継ぐ


急に寒くなった、土手の道は結構木の葉も散った、人間は常に変化である、無常の世界である
この辺の変化はめまぐるしかった、すでに仮設もこわされて残っている人はわずかである、小高の人に代わって浪江の人が住んでいたりする、そして死者の不思議を感じる
もう自分の家族でも一人は死んで8年とかなる、これも早いなと思う、死者もやがて忘れられてゆく

でも家族のことは普通は簡単に忘れることはできない、時々面影が浮かんでくる、60年とか一緒にいたことか影響したのである
妻が死んでも毎日仏壇に供え物している、ご飯などをあげるのはやはりそれだけ死者への思へが強いとなる
ただ死者となる時、死者とは何なのか?
骨となり灰となり消えてしまう、すると死者とは何なのか?
死者は消えたとしてもやはり何か面影として見えるものかもしれない、墓にも実際は死者はいない、では一体どこにいるのか
それは思う人の心にいるともなる
その想う人に死者が浮かんでくるということは依然として死者がその人に生きていることともなる

万葉集の歌は恋愛の歌ではなく死者を思う歌だったという解釈がある、恋とは今の恋愛ではなく乞う(こう)だった
死者と会うことを乞うだったとなれば全然違ったものとして解釈する、

玉相者          たまあはば
君来益八跡       きみきますやと
吾嗟            わがなげく
八尺之嗟         やさかのなげき
玉桙乃          たまほこの
道来人乃         みちくるひとの
立留            たちとまり
何常問者         いかにととはば
答遣            こたへやる

八尺(八坂)の嘆きを、古事記でのこの世とあの世との境を示す伊賦夜坂(いふやさか)の「八坂」と解釈しています。つまり、死出の送りの嘆きを示す言葉と取っています

これは自分の短歌と通じている、魂(たま)が合うということは恋人が会うことだというがこれは死者が現れて魂が合うことかもしれない、この万葉集の歌にはなにか深いものがある
たまほこの道とは故郷の道とかなる
みちくるひとのたちとまり・・・・ふと死者の霊が浮かぶ面影に浮かぶ、そこでたちとまる、そこでいかにと心に問うのである
死者はどこに現れるのか?家に現れたりすることは確かである
そこが一番親しんだ所だからである、また故郷に現れるということがあるかもしれない,そこも親しんだ場所だからである

ともかくこれは単なる恋の歌のようには思えない深いものがある
つまり万葉集の歌には謎が多いのである
それはその当時の人が感じたものがありそれが現代では感じられないからそうなるのである
ただ家族が死んで死者のことを思ったときこういう感じになるなと実感して私も短歌を作ったのである
そこにやはり時代を経ても人間には経験として共通するものがあるからわかるとなる、それは愛する人が死ぬことはみんな経験するからである、その時理屈なしでわかるということがある
死者はどこにいるのかは謎である、ただ残された人の心に死んだ人の面影が浮かぶ時まだ生きているとも解釈できる

ともかく人間の場合は家というのがただの寝起きする箱ではない
それには長い時間を過ごした思い出が記憶が刻まれている
だから家というのは自分の父親は明治生まれであり酒屋の丁稚であった、そこから始まっているのである
家族がみんな死んでそうして父親のこととか今ふりかえる
家を歴史としてふりかえるようになる、人間は死んで終わらない
一庶民でも一つの歴史を残すのである
歴史の中に生きるのである、ただ家族でも親でもいろいろあるからもう親のことを思い出したくないという人もいる
そういう人は墓参りするしないのである
だから家でも家族でも故郷だってみんな思いが違っているのである

私の場合は介護したことで最後に苦楽を共にしたとなる、それまでは楽だけさせられていたからである
でも介護になった時一人で苦しみ介護した、助けるものはいなかった、それで苦楽を共にしたともなる
人間は苦楽をともにしなければ連帯は生まれない、楽ばかりでも生まれない、苦しみもしそこで助け合ったりしたら連帯が生まれる
家族でも金持ちの家の人は親を施設にあづけるのは親を苦労して育てたみていないからである
子は親の背中を見て育つというときそうなのだろう
苦労して子供を育てればそれを子供はみているから年取った時
例え貧乏でも介護するということはある
それは心の問題だからである、金持ちにそういう心が育たないから金で解決するだけだとなるのである

秋になると思いが深まる、しんみりとする、ただ飯館村にはもう半年以上行っていない、何か体力がなくなり行きずらくなった
でも住んでいる人はいるのである、秋になりそれで思うことがある
やはりそこにも人が住まないということは人間は活きてこないのである、飯館村と浪江はもう村でも町でも維持できるのか?
そういう苦境にある、荒れ果てている、小高はなんとか3割は帰った、飯館村は広いからあういうところで住むのは今になるとより不便になる、だから草野辺りに集まって住むようになる
住宅地も作っているからだ、前は牛を飼っていて広い所が必要だったのである、今になると何かそういうふうに住めなくなくなったのである

2018年10月09日

秋の蝶(待つ時間が人間らしさを演出)


秋の蝶(待つ時間が人間らしさを演出)


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柿は古いものでありコスモスは新しいものである

夕日さし柿にコスモス映えにけり

ともなる

クリック拡大しないとはっきりしない

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復興や実りに朝飛ぶ鳩の群れ

前畑に鶏頭や朝の仕事かな

玄関に待てば飛びきぬ秋の蝶

秋の蝶今日もここに遊ぶかな
                                                    

今日もまた駅に待つ人ありにしも秋となりにし鹿島駅かな


復興とは実りがあって復興を感じる、その米を食べるとかではない、実りというのが稲穂が黄金色にそまる、そのことで感じる、米など今どこからでも入ってくる
でももし地元に実りがなければ実りを感じないのではないか?
矛盾しているのはでは地元の米を買っているかというと買っていないということがある
この辺の米は原発事故以後売れないから飼料米になっているのである 

玄関で待っている、人が来るわけでもないが一人待っていると秋の蝶が飛んできた
この何か待つ時間が人間らしい時間なのである
駅ではいつも誰かが待っている、その待つ時間が人間らしさを演出する
何か高速とかのSAにはそういう感覚がない、ただ一時たちよるだけだとなる
駅には何かそうして人間的なものが演出される場所なのである
鉄道は120年とかの歴史がここであるとするとそれだけの歴史を刻んでいるのが駅であり鉄道だから違っている
そこには人間の情がのりうつっているからだ

津波の来た所が草原化した、時々草刈ってもまた茂ってくる、そこに蝶が集まっていた
そこに毎日行っている、蝶が遊んでいるだけだとなる
草原化すると蝶などは増える、遊び場にいいとなる
それでは困るのだが蝶にとってはいいとなるのかもしれない

何か最近AIのことをしきりに言う、人間の仕事がなくなる、人間はみんな芸術家になるとか遊びようになるとか言うのも不思議である
実際趣味で野菜作りしている人は別にそれで生活するためではない
第一売ることもできない、まともに野菜が収穫もできない、とれるのはわずかである
でも自分は肥料代とか道具代とかいろいろ払っている
そしてもらったのはキュウリ数本だけだった
でも何か自分は野菜作りとか農業にもともと興味があり話聞くのが面白いとなり応援している、それから荒地がこの辺では多くなったのでまずいと思い応援している
ただ正直そこに投資しても何の見返りもない、でも荒地にするよりはいいし
その女性にとっては草取りとか嫌でも生きがいともなっている
その人から畑をとると何が残るのか?金の問題は別にしてその人のできることは畑で野菜作りすることだとなる 

前畑に鶏頭が映えてそこで朝仕事する人がいる、田舎では見慣れた光景である
それは自然とマッチしている、わざわざ遠くに通勤しているのは自然ではないのだ
すぐじき前が仕事の場だということは自然なのである
そこから食料をとれることは何か生活の充実感があるなと見る
いづれにしろここ十年は遠くに行かない、仙台にも一回行ったきりである
年取るとやはりなかなか遠くに行くのが億劫になるのだ
そうなると回りが大事になる、近間が大事になる
生活の場が近間になってしまうからである

2018年10月04日

故郷の家への思い−7年半過ぎた津波の跡(短歌30首)


故郷の家への思い−7年半過ぎた津波の跡(短歌30首)




我が家に波乱のありぬその時にこの家を支ゆは定めなりしも

この家に風のうなりて夜のふけぬともにありにし歳月思ふ

我はなほこの家とともに生きゆくやその命も長くはあらじ

たとえ人御殿に住むもその命家より短し一時の栄い

我が家に嫁ぎ母の耐えにつつここに生きにし思い出深しも

ふるさとに生まれ貧しく苦しみつ悲しみ生きて女の老いしも

ふるさとも非情の場なりさにあれど家族に恵まれ我はしあわせ

時にして姉は笑いつ母は寄りにつまたここにしも我は生きたし

病にて姉の暴れしその時にこの家に北風唸り一人苦しむ

台風の去りしもなほも我が家に風のうなるを夜に聞きにき

この家に住みて久しも我が家族みな死ににしも我一人住む

家族みな死して残れる家なりき我がよりにつつなほ住みにけり

我が姉の自慢したる柱かなこの家を支ゆ我がよりにけり

我が家に思いはこもる家族みな死すともここに家は残りぬ

人は死に何を残さむ残る家我が住みにつつ秋となりしも

我が家族裂かれけるかな何故に悲しみ深く泣きつすごしぬ

非情なる世にありしもただ金を求めて人見ず情けもなしも

人の縁みなはかなくも消えにけりただ求むるは金のみなりき

何故に人は争いにくみあう悲しみ深く慈父にあるべし

たちきれぬこの世の欲の深きかな終わりの日までつづく欲かも

ここに生き老いにし人の語りける昔や我も老いてあわれも

故郷の墓にしうもるあわれかな何し語らむ花を挿すかな

ふるさとに生きる思いの深まりぬなどかたやすく捨てられしかな

苦しむも悲しむも生くその所思い出深く忘れがたしも

我が家に争いにくしむ時長しも一つ家にあり家族なりしを




(7年半過ぎた津波の跡)

津波にて家は流さる家族死に何も思ふや7年半すぐ

松と松久しくここにありにしを無情の津波根こそぎ流しぬ

海老村は野となりにけり秋となる何をたずねむ家の跡もなし

烏崎人家もなしも寥寥と草にうもれて社残りぬ

津波にも残りし家の跡あわれ庭の石にそ昔思いぬ

津波より7年半すぐ家なしも庭の石残り秋風の吹く

右田浜松風鳴りて我よりぬその松なしも悲しかりけり

津波跡残れる庭のその石にここに生きたしと亀の置物

ここに住む人こそあわれ何もなしただ無情の風の吹くかな

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右田の津波の跡の庭



私の家族はみんな死んだ、その思いは深い、そして人間が死んで残すものは何か?
それは家なのである、家というのはただの建物ではない、人の思いがこもったものとして残っているのだ
姉がこの柱は橲原の木を使ったものだと自慢していた
その柱によるとき依然として姉が生きているとか思う
家には依然としてここに生きた家族の思いでが残っている
だからこの家に自分は死ぬまで住んでいたと思う
もし新しい家に住んだらそこには家族と住んだ思い出は消える
人間最後に残るのは思い出である、記憶である
その記憶をたどることが新しい家ではできないのである

何か人生も終わりに近づくとどんな人でも家族であれ家であれ故郷であれここに生きたなとあふれる思いが自ずと生まれる
だからこそ老人は故郷から家から離れたくないのである
それで子供が他の場所に家を建てたから部屋まで作ったから移ってくれとしても原発事故の避難区域になった所に住む人がいる
それは小高の人だった、要するにその思いが深いからはなれがたくなる

何も他に住んだらいいのではないかと外から見るが老人の場合はそうは簡単に移れないのである
だから家というのはただの箱ではない、思い出がつまっている箱なのである、自分にしても家族がみんな死んでそのことを思った
この家とともに長く家族として暮らしたからである
特殊な家族にしろ憎しみ合う家族にしろ家族だったのである

そして姉が認知症になり本当に悲しく苦しかった
自分は毎日泣いて暮らしていた、誰にも頼ることもできなかった
来た人はみんな金を求めるだけだったのである
でもそれが自分のカルマであり定めだったから耐えたのである
家族でも家には楽しい時もあるが苦しい時もある
それはどこに住んでも同じである、楽ばかりはないのである
でもそうして悲しみ苦しみ生きたときその場への思いは深いものとなる、もし楽ばかりだったら思い出も深いものにはならない
家でも家族でもそうして苦難がどこの家でもある
なぜなら必ず家族が病気になるからである、そして死ぬからである
そして家族でも必ず死別がある、そして残るのは家であり思い出だけになってしまうのである

ともかく私は介護十年して家族を看取り本当に苦しんだ悲しんだ
それも定めだった、誰も助けるものはない、その時求めてきたのは金だけだったのである、みんて金に苦しんでいたからそうなった
金という時金で補償金でこの辺は争い分断された
金は恐ろしい、なぜならその時平気で殺人にもなる
現実自分も殺されないにしろ殺されると同じような目にあったからである、それで人間観が変わったということもある
ただ自分の場合は結局楽しすぎた結果としてそうなったと思う
楽しすぎることも危険なのである
困難な時は人間に必ず来る、一生楽では人は終わらない
その時耐えられなくなるからだ、そのことにあまりにも楽観的だったのである、それで辛酸をなめたのである

この辺では特に津波と原発事故があり様々な体験をそれぞれにした
だから家というもの家族というものを個々に思うだけではない
全体でも思うようになったのである
津波と原発事故から7年半過ぎてもこの傷痕は消えない
それはあまりにも被害が大きすぎた、深刻だったのである
いくつもの村がこの辺でも消失した、村ごとなにもなくなった
この衝撃はあまりにも大きかったのである
海老村は家の跡すらなく野になってしまった
ここに家があったということすらわからなくなったのである
これこそ本当に無常であり無情だったのである

2018年09月29日

故郷やの俳句鑑賞 (故郷は原風景としてあり津波で右田の松原は消失した)

     
    故郷やの俳句鑑賞
    
    (故郷は原風景としてあり津波で右田の松原は消失した) 
    
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故郷や晩菊そえし古き松

故郷や松に実りに漁の船

故郷や木の根元に虫の声



旧里や臍の緒に泣く年の暮    松尾芭蕉

(ふるさとや へそのおになく としのくれ)

故郷やどちらをみても山笑ふ:正岡子規。

古郷やよるも障るも茨の花  一茶

故郷や酒はあしくも蕎麦の花 蕪村



これは芭蕉が、ふるさと・伊賀上野に戻った時の句。
紀行文「笈の小文」に登場する。
年の瀬の帰省である。
ふるさとに残って家を継いでいる長兄から、母が大事にしまっておいた、芭蕉の「臍の緒」を見せられた。
  
故郷とは何か?それが津波や原発事故で避難したりして問われた
故郷を離れ他郷に住むことを余儀なくされた
故郷自体が無人化して消失する危機にもなったし今でも帰らない故郷となっている人が多い、故郷とは何かということで哲学的にとかいろいろ探求してきて書いた

芭蕉の句は母を思う親を思う場が故郷だという句である
子供の時故郷で両親の元で育つ場が故郷なのである
一方で一茶は継母に育てられたり村人うとまれたりいじめられたりといいものはなかったそれも故郷なのである

正岡子規となると故郷はいいものだった、肯定になる
蕪村は食べ物で故郷を思う、蕎麦の花というとき蕪村は農村出身であり農家の出らしいからそこで蕎麦というのが原風景にのようになっていたことがわかる
故郷の酒はまずくても蕎麦はうまいということかもしれない

私が故郷という時も故郷はそれぞれの原風景なのである
両親の愛のもとで育てられたものとしてあるのも故郷である
ただ一茶のようにそうして継母に育てられたら両親の愛がないから故郷を嫌悪するようになった、そういう人は確かにいる
故郷は全部肯定できるいいものとしてはない、なぜならそこに人間の醜さが露骨に現れやすいからである、田舎の人が素朴な時代はとっく終わっているからだ
やはり欲が深く金を追求しているのは全世界でもう同じなのである

今はホームページの方の俳句日記を整理した
2001年頃から書いていた、もう20年前となるから時間が過ぎるのが早い
そんなに過ぎてしまんたのかとなる
その時は津波もないし原発事故もなかったからもともとあった風景は400年とか変わらなかったのである、右田の松原は江戸時代からあったらしい
だから松が太くいい松だった、松川浦の松と細いから年数がたっていない
いつも右田の松原に行っていた、それは故郷の原風景となっていた

秋には実りがあり黄金色に染まり松原がある
写真には松原と晩菊が映っている、その菊は野路菊とかあつぼったいものであり普通の山城菊とかとは違う種類である
この松がなくなったことは信じられない、松原がなくなったことは信じられない
それは故郷の原風景が全く消失したことだからである
海老村も右田村も烏崎村も津波で消失した、何もない、右田では当時を偲ぶものはなにもない,高い土盛りした防波堤と風力発電の風車が回ってソーラーパネルの風景となってしまった、何か工業地帯のようになってしまった
火力発電所ができたときも原風景は壊された
でも右田の松原がまだ残っていたから松は活きていたのである
それが根こそぎ津波で流されて残っていて一本松も枯れてなくなった
本当に右田の松原を知らない人が生まれて7年とかなる
もうそれを知ることはできない、つまり津波以後の世代は全くここにあった松原をイメージすることもできなくなったのである

ともかく故郷は原風景だというとき風景と生業が一体となったものが故郷である
その原風景が消失したのである、この変化はあまりにも大きいのでとまどう
ありえないことでありどう心の中で消化していいのかわからないのである

  俳句日記(2001−2005)

2018年09月28日

彼岸に虫の音に秋の野 (7年は過ぎた海老の浜など)

彼岸に虫の音に秋の野

(7年は過ぎた海老の浜など)

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海老村のあった所に松が生えて育つ

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昨夜の分

雨しとと死者を思いぬ白木槿

故郷の木の根元にそ虫の声


今日の分

大海に秋の陽昇り鵜の飛びぬ

陽の昇り残月あわれ秋野かな

雨しとと死者を思いぬ白木槿

故郷の木の根元にそ虫の声


雲隠る月に亡き人思ふかなまた光りいで死すともあらじ

この里にともにしあれとあわれかなひびきあいにし虫の声かも

虫の音を今日もここにし聞き入りて近くに住める人思ふかな

耳澄まし虫の音聞きぬ我一人眠りにつきぬ町にしあるかな

耳澄まし今夜も聞きぬ虫の声草深し里ともしびあわれ
(昨夜の分)


今日の朝

津波より7年半過ぎ生い立ちぬ松も育ちて秋の陽さしぬ

津波にも御刀神社残りけり杉木立にそ秋の陽さしぬ

玄関に大岩構え妻亡くす人の住みける秋となるかな

昨夜も虫の声を聞いていた、夜でも歩いている、運動のためである
彼岸だとやはり墓参りであり死者には白木槿がにあっている
お盆ではない彼岸でもそうである

この町は一万くらいだけど河原は草深い、灯でも何かまだ里の感じがある、ただ震災以後は新築の家が何百件も建ったから都会化したのである、ただ灯あわれというときやはり田舎だとなる
これが隣の原町だとまた違っている、原町はやはり都会になるからだ

順序が逆になったが昨夜から今日の朝にかけての感想である
プログは日付順であり本当はその日その日に読むのがふさわしいとなる、俳句短歌とかはプログに向いていたのである
季語があり日本の季節は刻々変わっているからである
俳句はもともとそうした天候の報告として生まれたともなる
日本人の挨拶は天候になっているからだ

今日の朝は晴れたので海の方に行った、海老村は津波で消失した
そこは枯野になってしまった
そして残月が見え海からは陽が昇ってきた
そこには新しく松が根付いて育っていた、津波から7年半過ぎたのである、もうこれだけ育った、枯れた松もあるが新しく生い立つ松もあった、これは津波で塩水をかぶった松とは違うから枯れない
塩分があっても育つ松である
他に松の苗を植えたがそれは苗である、その苗が育つのは30年とか先になるから見れない
ただ自然に育った松がある程度大きくなったのは見れるもしれない
そのうち寿命になる方が早いとなる

いづれにしろ海老村の跡は秋野になった
そこに残月が出て海からは太陽が昇る
右田浜は風力発電の風車である、こんなに変わることが未だに信じられないのである
右田の御刀(みと)神社は残った、あそこまで津波が来たしあそこの家はかなり津波の泥をかぶった、それで京都辺りから大阪からボランティアが来て泥をかきだす作業をしてくれた
その車のナンバーからわかったのである
まず津波の傷痕はまだ消えていないのである
それだけの災害だった、おそらく十年過ぎてもそうである
原発事故も重なってこの辺では傷跡は消えないのである

北海道の方で地震で被害があったがスーパーとかツルハで募金しているが千円札が結構入っていたのには驚いた
この辺ではやはり助けてもらったしそれなりに金が入っている人があるからお返しとして金を入れているのかもしれない
ボランティアも相当に来たからである

知っている人の家は留守である、白内障の手術で二か月仙台に入院している、今日見たら玄関に大きな岩があった
何か岩のような感じのがっちりした人である
でも妻亡くして淋しいと一人で住んでいるのである
そういう人もまた多くなっている

今日は晴れたが昨日は寒かった
本当に秋らしくなった、今日は晴れたからでかけたいとなる
でも遠くには行かない、仙台にすら今年は一回しか行っていない
何か出かけたくないというのもこれだけ旅したの不思議である
ただ思い出す旅はしている、思い出す旅も実際は旅の継続だったのである、とにかく人間は忘れやすい、だから旅を記憶することが意外と大事である、そのことを書いてきた







2018年09月26日

姉と母の死してなお生きる(短歌十首) (家族は死んでも愛で継続される)


 姉と母の死してなお生きる(短歌十首)

(家族は死んでも愛で継続される)
  

 姉と母我に添いつつなほありぬ死すともここに離れざるかも

 姉と母生まれ時ゆ我が家にありてすごしぬ我は離れじ

 姉と母最後は悲し我が泣きつ苦しみ耐えて我が家を継ぎぬ

 姉と母死すともなほもこの家に生きむとするや思い出深しも

 その生の終わりてみれば何思ふただなつかしく面影浮かぶ

 六〇年定めに結ばる我が家族死して絆の強められしも

我が家族みな死ににけるも月日たちなお我家には愛を感じぬ

姉と母今もなお我が家にありて争わずここに安かれ 

父もなお我が家にありて見ゆるかな我一人しも家を守らむ

今年また彼岸の入りと我が墓に花挿す人ありうれしきものかな

悲しきは我が兄なれど子はあれど思う人なく墓参りかな

家族は継続である、だから死んでも継続している、愛は継続しているて消えないのである
父が死んで半世紀以上になるけど忘れていたけど父の存在は家にあり続けた
今は家族で残っているのは自分一人だけになった
でも特殊な事情で自分は家で一番良くされたのである
だからこんな生活がてつづけられらてきたとなる
父親は苦労したから上の学校にあげろといって子供のうち死んだ
なにかそこには自分に託す思いがあった
つまり自分は特別愛されたのでありこの家では良くされたから介護でも必死にしたのである

ただ暗黒面として兄は不幸だった、集団就職で結婚したが離婚して交通事故で死んだ
それも不思議なのは今になると娘がいたとして両親にはひどいめにあったとしかないから恨んでいるから墓参りすらしない
何も関心もないのである、恨んでいるだけだとなる
そこで墓を作って墓参りしているのは自分だけだとなった
その自分の墓に花を一杯挿す人がいた
兄の墓に挿していた、これはありがたいなと思った
それは知られない行為だから尊いと思った

いづれにしろ家族は死んだとして継続がある
死んでも愛を自分の場合感じるのである
それだけ特別良くされたためでもある
だから愛というのは消えないものでもある
死んだらなにもなくなり消えて残らないように見えても
愛というのは継続しているし一種の見えないテレパシーとして感じるものがある
実際父はもう先祖のような存在にしてもやはり自分への愛があったし何か期待があった
何か自分はこの家で特別良くされて期待されていたし担うものがあったとなる

特殊な家族だったが今でも家にいると家族の愛を感じる不思議さがある、だから家というのはただの建物ではない、何かそうして
愛を感じたり受け継ぐものがある
だから故郷でも家でも簡単に捨てた原発避難者のことが理解できないともなる
事情があるにしろ家というのはただの建物ではない
建物ならまた別に他に建てればいいとなるが家にはそれだけではないものがある、建物に付随した付加価値がありそれ故に家には価値がある、ただ他の人にはそれがないから家はただの建物だとなってしまう

とにかく人間は死んで終わりではないことは確かである
歴史でも必ず継続されるものがある
それは家という建物とか物質だけではない、何か精神的なものも継続される、愛は継続して活きているともなる
死んでも愛があれば結ばれているともなる
自分の場合特別家族を思うのはやはり独身だったとか関係している、60年とか長い間一緒に生活していたからである
そういう特殊な事情で家族の思いが深くなっていたのである
歳月の長さというのも関係している
家族が死んで一人はもう8年とか過ぎたが早い
もう一人は三年であり父は半世紀もすぎてしまったのである
でも依然として家族としてある、家族の結びつきはそれだけ強いとなる、ただすべてがそうではない、自分の場合は特殊な事情でそうなったなったのである。

家族でも血縁だけではない、一つの共同体である、そして共同体というとき必ず犠牲が強いられる
私の家族でも犠牲があった、母は家で苦労したし姉も家のために苦労したから今度は自分が苦労する番になっただけである
つまり家族でも共同体でも必ず犠牲が強いられる、それが共同体である
国家でも犠牲が強いられる、国を守るために犠牲になる、300百万人が死んだというときも犠牲だったのである
だから移民として働く人はただかねもうけにくるのでありでは戦争とか放射能汚染でもいち早く逃げたことでもわかる
そういう人はただいいときだけきて後は来ない、そういう人は共同体の一員ではないのである
ただ日本人だってそういう人はいる、金持ちはそういう算段をしているということもある
だから中国の金持ちは外国に逃げる用意をしているというとき何か共同体の一員ではないともなる
ともかく家族にはそうして犠牲が強いられるのである
その番が介護とかで回ってきたとなる、それはやむをえないことだったのである
なぜならそれだけ良くされてきたのだからまた犠牲になるのも順番だったとなるからだ



2018年09月23日

月明りの里(月影の道を歩く)


月明りの里(月影の道を歩く)

晩年や月満ち明るし心澄む
月ひそか我が部屋のぞき消えにけり
誰知るや人は知らじも月は知る
紗(うすぎぬ)の雲のかかりて秋の星

月影の明るし里や虫の音の澄みてひびきつ夜のふけゆきぬ
いつしかに忘らる人や常なき世彼岸の入りと夜虫の鳴く

月読みの光に来ませ あしひきの山きへなりて遠からなくに(湯原王・万葉集673

夕闇はみちたづたづし 月待ちて行ませ吾が背子その間にも見む
(大宅女・万葉集712) 

月影に明るい道だった、でも自転車のライトをつけると月明りは消えた、電動自転車でそのライトが明るいからだ
だから自然というのは人工的なもの電気の光でも自然状態を消すのである、月光で町全体で明るいから見通しが良かった
つまり月明りでも十分に歩ける、電気がない時、月明りの中を歩くのは幻想的である、この辺はまだいいが都会だとあまりにも電気で明るすぎるのである
自然が消失すると詩も消失するのである
だから夕闇は道たづたづしというのはどういうことなのか?
夕闇の方が暗く月が照らしたとき明るいとなる
これも自然の中で生活していればわかるが今はわからない
夕闇の方が普通はまだ明るいと見ているからだ
いづれにしろ月の光のなかでも十分に通うことはできたのである
それは記憶に残る思い出となる
あまりに今のように電気の光に満ちていると何かそれによってかえって心の印象が散らされるともなるからだ
電気を否定はできないが月明りというのも消失すると何か失うことなのである


吉野に遊ぶ(32) 藤原不比等

    夏身 夏色古り
    秋津 秋気新たなり
    昔 汾后に同じく
    今 吉賓を見る
    霊仙 鶴に駕して去り
    星客 査に乗りて逡る
    清性 流水をくみ
    素心 静仁を開く

  夏身(※)の地は夏景色も深まり
  秋津の辺りは秋の気配が立っている
  昔、堯皇帝が汾の地に籠もられたように
  今、そのような地によき人を迎えている
  鶴に乗ってこの地から去った人や
  筏に乗って星に行った人も帰ってくるだろう
  清を好む性格は清らかな水を汲み
  まじり気のない心性は山の情趣に浸っている
     
※現在の菜摘の地
 ・『懐風藻』講談社学術文庫
  現代語訳は、同書にある江口孝夫のもの

菜摘は山蔭にあり清流が流れる場所にある、そこに行ったことがあった
菜摘は夏身としているからこの字とは関係ないのか?
もともとは夏身だったとなる

 山高み白木綿花に落ちたぎつ夏身の川門見れど飽かぬかも

  式部大倭(しきぶのやまと)が菜摘(なつみ)の川の流れを詠んだ歌です。

この漢詩のような気分になった、むしろ晩年になると心が澄むということがある、若い時はやはり欲がむきだしになるからなかなかこうした心境にはなれない、いろいろなものに惑わされすぎるのである、自然に没入できないのである
おそらく今日は満月になるだろう、わずかに時計を見たら月の満ち欠けを示すものだが完全な満月ではない、明日は完全な満月になる
でも今日は雲がでてきた
そっと月が我が部屋をのぞきそっと消えてゆく、月は自分を知っているともなる
でも今日は暑かった、気候の変動が何かずっと大きい、だから秋なのかともなっていた、夕べは秋らしい、それは月見にふさわしいものだった






タグ:月影 月明り

2018年09月18日

月曇る(秋の夜の相馬市)


月曇る(秋の夜の相馬市)


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この写真は相馬市のだてやのものではない



家の跡松一本残り落ちし柿

街道の松一本一本秋没陽 

月曇る相馬の城下路地の道

月曇る着物店かな城下町

月曇る着物の柄や衣替え

月曇るスナック一つ路地裏に


残る蝉奥に聞こえて家のあり夕暮れあわれ柚木村かな

ここにある三本の松我知りぬ秋の夜静か月曇るかな   


家の跡が空き地になりそこに一本の松がある、それは家がなくなってもずっとある
何年もある、近くなのだけど誰か住んでいたのだけどそれがわからないのだ
これも不思議である、近くに柿が落ちていた

今日はロードで夕方に相馬市に行った、途中坂になり歩いた、浜街道の日立木の松並木のところである
歩くと確かに景色は違って見えるのだ、つまり一本一本の松を見て歩くのである
自転車でも一本一本の松は見ない、車だと過ぎ去るだけである
街中を歩くときも一軒一軒の店を必ず見るのである、車だと通りすぎるだけなのである

夜の街と昼の街は見え方が違う、夜にしか見えないものがあるのだ
かえって夜だと店でも電気で明るくなり目立つのである
それで相馬市の夜の街を歩いたのである。
そこに着物店があり「だてや」とあった、いかにもこの辺らしいとなる
だてやは伊達氏であり伊達政宗である、仙台屋というのもあるがだてやというのはわからなかった
つまり昼間ではこの着物店はわからなかった、見えなかったともなる
今回デジカメをもっていかなかったので写真はインタ−ネットから拝借した 

衣替えというとき今は夏から秋である、衣替えとかなると女子高校生などは衣替えがある
しかし着物は日常的に着ていない、ハレの日のものとなってしまった
でも江戸時代から明治でも着物は日常的に着ていた
すると衣替えというのはそういう時代のものであり季語になった
現代は着物が日常的なものでないから衣替えという言葉も死語になってしまうこともある

当初は、貴族社会だけの習慣で、年に2回、夏装束と冬装束に替えるだけでしたが、江戸時代の武家社会では年に4回になり、期間も着るものもそれぞれ定められていました。

・4月1日から5月4日までが袷(あわせ)という裏地付きの着物
・5月5日から8月末までは帷子(かたびら)という裏地なしの単衣仕立ての着物を着用
・9月1日から9月8日までの1週間程、また袷を着用
・9月9日から3月末までは綿入れ(表布と裏布の間に綿を入れた着物)を着用

このように細かく定められていたそうです。   

今日は月が曇って光っていた、それがなんとも相馬市の城下町にあっていたのだ
相馬市の不思議は何度もプログで書いているがしんみりしていることである
それはやはり城下町としての歴史がありそれが残ってる
原町市には相馬市に感じる情緒を感じない、だから何でもないようだが店でも城下町にふさわしいなと見る
陶器店でもそこで飾っているものが見るのが楽しいとなる
店とは見せるだったのである、店で見る楽しみがあった

そして相馬市は城下町であり雰囲気的に古風な店があっている、陶器店とか着物店とかお茶屋とかである
原町にもあるのだけど何か相馬市の城下町とは違う、着物店が呉服店があるのだけど相馬市の着物店は街全体の中に調和してあるとなる、ただそれは外部の人には気づきにくい、相馬市は雰囲気が違うのである
それでなんとも月が雲の中に光っているのがにあっていたのである
陰々とした感じなのである

帰りは五本松の脇道を通る、その五本松も日本は枯れてなくなり三本しかなくなった
でも秋の夜にその松は夜でもあることを知っている、闇の中でも知っているから見えるのである。
認知症になると常にもともと知っている人と場所ならなんとかわかるが地理的感覚がわからなくなる
それで知っている人がそばにいないと不安になる、でも闇の中でもこの松のように知っていれば見えるのである
ここに松があることを何度も見ているから知っているから見えるのである

2018年09月15日

初秋(常磐高速のセディティ鹿島に行く)


初秋(常磐高速のセディティ鹿島に行く)

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鹿狼山(がろうさん)が見える



故郷や先祖の墓地に実りかな

開業し三年ほどや秋の蝉

高速に鹿狼山見え初秋かな

東風(こち)なおも吹いて飛び交う秋燕

酔芙蓉ほの赤く咲き町眠る

虫の音や社一つの何語る

月細く虫の音聞きぬ草深し


常磐高速のセディティとの開業は平成27年(2015)でありそれは東日本大震災の後だった、だから約3年ほどすぎたとなる
あそこの特徴は高速を車で来る人がとまるだけで街の方にはほとんど来ない
あそこで休養してすぐに去ってゆく
だからあそこは街とは離れて孤立した場所にも見えるのである
それが駅とは違う、鉄道の駅はもともと駅ができて街並みができるというほど影響していたのである   

原町は旧街道が中心の通りで宿場町だったのである
それが鉄道ができたとき駅前通りができたのである
街が鉄道によって変わったのである、それだけの影響があった
相馬市は駅前通りにはならず城下町のままだったのである
駅前通りは明治になって鉄道ができたとき生まれたのである
では高速となるとそういうことは全くない

ただ町の中心部から離れたところにあり町自体とは関係しないのである
だから高速は市町村を活性化するというのとも違う
道の駅でも相馬市だったら街の中心部から離れた田んぼの中にある
原町は街の中にあるから活性化することはある
高速道路は道の駅なのだが何か違っていた
つまり車社会が街の商店街をシャッター通りにしたということがある
それは前のように街の通りとは関係しないからである
だから車と鉄道はそもそも街に影響するにしても違ったものになったのである

高速のセデッティから鹿狼山が近くに見えた、この辺では高い山がない
鹿狼山(がろうさん)は400メートルくらいでこの辺では一番高いのである
高速からの眺めはまた違っている、ただ一回も高速を通る経験をしていない
東京までバスで行こうとしたが行かない、何か介護になってから気力がなくなったのである、旅するにも気力が必要だなと今は思った

まだ風は東風である、でも確かに秋なのである、今日は午前中は雨で寒かった
午後は晴れたのである、日ざしは強い、あれだけ暑かったのは日ざしが強いことがわかる日ざしが強いということは太陽の影響で暑かったのだろうか?
氷河期となるなら太陽が影響しているから温暖化とは太陽の影響なのだろうか?

酔芙蓉が街中に咲いている、そして小さな町は静かな眠りにつく、田舎の夜は静かなのがいいのである、何かうるさい所は住みたくない、老人になると余計にそうである
何か疲れやすくなっているからだ
ともかく故郷とは何かということを私は震災後追求してきた
それはやはり先祖というのも関係している、親に育まれたところだとなる
その親が先祖がいて実りがあった
ただその先祖が悪いことでまた原発事故で住めなくなったこともある
だから避難区域になったところではもう住めなくなった
そしてたら先祖もそこにはないとなる、避難区域では今住んでいいる人たちだけではない先祖も住んでいたのである、その先祖の住む場所も奪われたとなる

それは限界集落で廃墟になった村でもそうである
誰もお参りもしない社がある、それも何か淋しいなとなる
そこは山の中にあり家は朽ちてゆく、そういう廃墟趣味の人がyoutubeで放送している
何かそこには幽霊が住んでいるような雰囲気になるのである

2018年09月14日

ニチニチソウ(俳句は写生であり説明しない)


ニチニチソウ(俳句は写生であり説明しない)


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この回りも荒地

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隣は荒地

三色のニチニチソウやレストラン

カタバミにニチニチソウに蜆蝶

赤黄白バラ一列に映えて咲く

同じ道通りて聞こゆ秋の蝉


高見食堂で食事した、ニチニチソウが三色咲いていた
これはいいなと見た、街中はあまり花は見ないからだ
あそこは結構いいものを出す、広いからゆったりする
レストランとはレストであり休む場所だから狭いと嫌になるからだ
食事はくつろいでしたいからである
そこの花壇にはカタバミの花も咲いていた、良くみないと見えないものだった

原町の郊外に畑が薔薇を一面に植えた所があった、これはいいなと写真にとった
ところがこの辺では必ず荒地になっている所がある
その隣は荒地なのである、たたはもともと何か野菜を植えていたけど震災以後荒地化してバラを植えるようになったのかもしれない、薔薇は売ることもできるからだ

この辺の問題は荒地になっていることなのだ、近くでも半分くらい荒地になっているから草がぼうぼうと回りから生えてきて困っているのである
でもそれが荒地のままなのは畑で野菜作るにしろ花を作るにしろ手間だから金にもならないからやらないのである
塩崎の津波をかぶった所は広いが部落の人が草を刈っていた、定期的に刈っている
それは金をもらっているからしているという、そうなのかと納得した
他では金をもらえないから草も刈らずに荒地化しているのである

これはここだけではない、全国的に耕作放棄地が問題になっているのだ
近くの知っている人の畑の隣は家族の人に車に乗せされて這って畑仕事していたが
遂にやめた結果草ぼうぼうになったのである

ともかくこの辺の問題は畑では荒地化しているのをどうするのか?
それが大きな問題である、それは他でもそうである
少子高齢化とかもあり跡継ぎがいない、金にならないし手間だからやらない
すると荒地として放置されたままになってしまうのである

ニチニチソウには季語はない、ここでも俳句が写生であることを示している
何も作り出したものがない、ただありのままを俳句にしただけである
カタバミが咲いている、ニチニチソウ咲いている、そこに蜆蝶が飛んでいたと見たままだからである
ところがみんな何かとそこに理屈みたいなものをそえる、それで俳句をだめにしている
説明をしているから良くないのだ、つまり写生ではカタバミとニチニチソウと蜆蝶とあればそのものが説明している、説明させるのである
だからそれがなにかにと修飾しないことなのである
だから写生俳句はつまらないようで奥深いものとなるのである

2018年09月07日

実り(近間を回る)


実り(近間を回る)

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朝風に風車の回り実りかな

墓もうで深野に休み実りかな

めぐれるや長野深野の実りかな

珍しき蝶のとまるや森の道

前畑に落ち着く菊や古りし蔵

一本の松の変わらず秋の蝉

森に鳴く蝉の余韻や夕暮れぬ


右田の風景は変わった、前は「故郷は実りに松に漁の船」となっていた
松と実りと海に漁師の船がでているという風景だった
それが今や風力発電の風車が回っている
これもこの辺の風景としてなじむのか?
風で回るから自然の影響があって電気が起きていることは意識する
すると何か自然と融和しているのかとも感じる

風車はここだけではない、どこでも設置された、そして台風で倒れたのもあった
だから意外と日本では災害が多いからソーラーパネルでも壊されるということがある
日本は災害の国である、原発でも地震とかで北海道で電源が予備の電源になったり怖いのである、東日本震災以来本当に日本は災害の国だということをみんな意識したのである
だから原発など日本に向いていなかったのである

今日は深野(ふこうの)の方をまわり橲原に出て帰ってきた
大原から橲原の道は森の道である、あそこは車がまれにしか通らない
考えてみるとあそこになぜ道を作ったのかともなる
飯館村でも前にも書いたが大倉から坂を越えた共栄橋があるところの道は森に隠された秘境の道だった、それも原発事故前に道にして消えた
何か公共事業として必要でなくても道を作ることがある

なぜそうなのか?田舎では土木建築関係の会社が多いからである
それで今回の津波原発事故では特需のようになり仕事が生まれて土木建築関係は豊かになった、一時は仕事がないと倒産するとか減っていたが持ち直したのである
相当に金が入った土木建築関係者がいる
補償金をもらってさらに仕事で収入があった人もいたからである 

田舎だと蔵ある家は普通にある、蔵があると何か違っている
それは古い家だと見るからである。そして蔵があると落ち着くということがある
ただ今は蔵はそんなに利用していない、原町で見せてくれた蔵には孫の写真が飾ってあるだけだった、ただ蔵には古い農家だと郷土史の資料になるようなものが埋もれている場合がある

一本の松というとき小島田から金沢へ坂を上る所の池の岸にある
でもそこも池あるとしても変わってしまった
ソーラーパネルになったり廃棄物の処理場とか家も建ったので変わってしまった
あそこはいつも通るので気になる場所だったのである
ともかくこの辺は変わりすぎたのである
だから変わらないものが貴重になったのである

深野(ふこうの)はこれも実際はありふれた名だけど地名の名の影響もある
長野と深野はつづいているからどこが境かわからない
ただ大原にはソーラーパネルになったり田んぼも荒地になっているのがほとんどである
長野深野は実りがあった、この辺は放射性廃棄物の置き場になったところがまだある
それはいつかたづけられるのか?景観として良くないのである
荒地になっているのが良くないのである、田んぼにしなくても何か荒地を利用する方法があってもいいと思う
ただソーラーパネルになるのは土地を貸しているだけで金がもらえるとなるからもう田んぼでもめんどうで金にもならないとなると土地利用のためにそうなる
それは土地をもっていれば所有権があり何に使ってもいいとなるからだ
だからこの辺では荒地化したところはソーラーパネルになりやすいのである

まだ夏のかもしれない、今日だって蒸し暑い、だから秋になっているのだが秋の蝉という感じでもない、やはり気候がおかしくなっているから俳句が季語の芸術だという時それが狂ってしまうのである



タグ:風車 実り

2018年08月30日

木槿、鶏頭(俳句は写生)


木槿、鶏頭(俳句は写生)

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朝庭に鶏鳴き牛いて木槿かな

鶏頭の朝百本ほどや赤さ増す

風そよぎ高き梢や夏燕


 故郷の所を変えて蝉のなくその声聞きつ秋となるらむ

俳句は写生というときこれもそうだった、庭に写真のような鶏(かけ)が歩いて鳴いていた、そして牛がいて木槿が咲いている
それはただ写生であり事実でありそれに付け加えるものがないのだ
ただ広い庭があり鶏が歩み朝にその鳴き声がひびくとき気持ちいいのである
それがケージで鶏が卵を産む機械とされるのを見たら嫌だとなる
それは鶏も人間と同じ生物だからである
鳥だって籠に入れられていて飼われるのは見ていても心が痛むとなる
何かそういうことは人間社会でも人間がロボットや機械に扱われることに通じているのだ工場で流れ作業している人はロボットとと変わりないからである

(鶏頭の十四本のありぬべし)の子規の句は写生そのものだった
だから百本ほどあるというとき写生なのである
ただ写生俳句だと同じような俳句があるかもしれないということがある
それは誰でも作りやすいからである。
そこで月並みなものが大量生産されるのである。

今日は蒸し暑いからまだ夏である、ただ蝉の声は秋になっている
稲穂も色づいて実っているからだ、ここ十年は近間を回っているだけである
家事というのはいろいろあって時間がとられる
原町だと外食するものや弁当でも変わったものを売っているらから困らない
鹿島だとスーパーでも弁当が同じなのが多いのである。
それで簡単にすませたいが種類が少ないからできない
それで生協でオカズを用意しようとしたがこれもそれほどのものはなかった
一人暮らしで困るのは料理なのである
外食だけでは野菜とか不足するものが必ずあるからだ

2018年08月24日

赤いカボチャは熟年の田舎の女性


赤いカボチャは熟年の田舎の女性

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熟年や赤きカボチャのなる田舎

露地もののキュウリをもらう夏の暮

今日も映ゆ畑にカンナ人なしも

若葉して山に轟く滝二つ


蝉一つ我に向かいてひたすらにまた鳴く声や真昼静けし

カボチャは秋の季語であり漢字にすると南瓜になる
良く花は題材にするが野菜とかはあまりしない
でもこの赤いカボチャはいいなと思った

それは熟年の女性をイメージした、老人でもあるけど田舎の熟年の女性である
その女性は太っているからあたたかみを感じる
何かこの南瓜とにていたのである。
自然でも人間をイメージしている、赤いから温かいなと感じる
その人間をイメージするからそうなる

人間は女性でも男性でもそうだがその年によって魅力がある
女性でも別に年とったからといって魅力が出るとは限らないのである。
もちろん若い女性はいいとなるのはやむをえない
でも年を取ることで女性でも魅力が生まれる
その女性は若い時なら近づくもの嫌になったろう
見栄えが良くないからである

でも老人になると見栄えや外見もあるとしても何かその内面的なものが出るのがいいとなる、その女性は農家の出だから生まれつき農民的体質をもっていた
根っからの農民というのが女性でもいるものだと思った
その人を見るとき根っからの職人とか商人とかいる
農民でもそういう人はいる,それは農家に生まれて育ちそうなったともなる

田舎の良さは本当は農業を知らないとわからない、そもそも田舎は農業から成り立っていたからである。あとは漁業であり林業とかで成り立っていたからである
だからこそ田舎なのである。田んぼや畑がない田舎はイメージできないからだ
でもこの辺では原発事故で放射能で汚染されて田畑が荒地化したり住めなくなった
今でも荒地が多い、それはもともと農業をやる人が減っていて後継ぐ人もいなくなっていたからである
田舎でも8割はサラリーマンになっていたからである。

ともかく田舎の魅力は工場があることではない、東電のような発電所と原発があることではない、ソーラーパネルだってふさわしくない、風力発電でもそうである
田畑があり森があり山がありとかそこで営まれる生業(なりわい)があるとき田舎なのである。
その生業の中に実りがあり赤いかぼちゃがありそれが人間をイメージする
その赤さなんとも田舎の熟年の女性を象徴していたのである。
女性は田舎では方言では女子(オナゴ)というから方言だとその感じが出る

ただ女性にしても田舎的な女性は少ない、都会化した女性になっている、サラリーマン化した女性になっている、いかにも田舎で育まれたという女性は本当に少なくなったのである。つまり全国でも一様化して都会化したの現代である。
そもそも田舎的なもの農民的なものを嫌って拒否してきたからである
だから田舎の人間も都会人と変わらないのである。
いかにも田舎で素朴だなという人はまれだとなる
みんな金にあくどいしそういう社会だからどうにもならないのである

現実その熟年の女性でも田舎で暮らしていけない、収入がない、年金も雀の涙だとなっているからだ、そこに田舎の矛盾がある
病院に通っているしそこで金かかったりしているからどうにもてらないのである。
ただ田舎的なものが何かとなるとこの赤いかぼちゃに象徴されていると見たのである。




2018年08月17日

秋めいた一日 (鷺内の社も障害者の学校が建ち変わる)


 秋めいた一日

 (鷺内の社も障害者の学校が建ち変わる)

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この風景も変わる


 駅長の草刈りするや無人駅秋めく風の吹きて淋しも

 鷺内の社に杉の木立かな秋めく陽の山の端に没る

 田植えする女のありしも鷺内の神社に垂れ咲く藤の花かな 



今日は涼しかった、秋めいた風が吹いた、それで駅長がホームで草刈していたことを書いた

夕暮れには菊池の近くの鷺内の社を見て山の端に陽が没る光景が印象に残る
あそこの周りは田んぼだったが障害者の学校が建つ
これも大きく風景が変わることなのだ
前は御田母神のところはダイユーが建ち田んぼはなくなり社だけが残った
ここはまだ近くに田んぼが残るようだが学校だから敷地が広い
良くあそこの鷺内の社は見ていた
女の人が田植えしていた、そこに藤の花が咲いて垂れていた

故郷の光景は長い時間で作られたものである。人の営みがあって作られたものなのであるそれは津波で流された右田の松原でもそうだった
そういうものがなくなることはやはり景観というのはそこに住む人の血肉のよになっている
景観と一体化するのが人間なのである。だから景観が変わるということは実際は相当な影響をする、精神的な影響が大きいのである。

その鷺内の社にしろ長い時間のなかでそこに木のように根付いたものだからである。
そういうことは原発の避難区域で起きた、そこにも神社や社があり人々がそこで営まれ歴史がある、そういうものが失われたのである
神社とか社とか何か信仰とは必ずしも関係ないように思う
ただ豊作を祈るものとしてあるのが多いからだ
それは土地に根付いたものであり土地から離れてありえないものである

何か秋めいたというとき秋になったのか?お盆は終わったから秋だとなる
ただまた暑くなるらしい、残暑がつづくのか?
それでも季節の変わりは早い、前のような暑さはなくなるだろう
日本は季節の変化に敏感でありそれが文化になり俳句短歌が生まれた

ともかく景観が失われることは何か心まで失う感じになる
右田の松原はなくなりここもまた学校が建ち景観が変わる、景観は何百軒もの家が建って変わった、さらに変わるものがまだある,何かこの辺は都会化したのである。その影響のカ?何の影響なのか?あまり揚羽などが見えない、少ない、やはり何か影響で減ったのかもっと飛んでもいいような気がする
タグ:鷺内の社

2018年08月14日

雲の峰(今日は雷が鳴った)


雲の峰(今日は雷が鳴った)

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玄関に配達の人雲の峰

新築の家の多しや雲の峰

雲の峰高空に飛ぶ夕燕

雲の峰に光放ちて陽は没りぬ

見回せばまた新たに雲の峰

雲の峰崩れてはたつ見回せば

雲の峰50羽ほどの鷺帰る

雷鳴りて四方にひびき夕燕 

隆盛夏雲
生々流動
変幻自在
飛廻燕哉

夏の雲次々に変化する、今日は夕立ちがあり雷が鳴った、一雨ふって終わった
毎日近間をぐるぐる自転車で走っている
同じ場所だが自然には変化がある

鷺の巣が川岸の竹藪にあり50羽ほどが集まる、夕方になると次々に帰ってくる
この辺では一時鷺はいなくなったり減ったがまた増えた
田ん゛が増えたためである、それでも田んぼは前より少ない
ただ50羽ほど鷺がいることはなんらか餌がありここに生きられるためだろう。

写真をとるにしても意外と自然の変化が速いので対応できない
いい景色は瞬間的であり瞬間を逃すと二度ととれない
夏の雲それだけ変化が激しい、今日は今年初めて夏に雷が鳴ったのも不思議である
まだまだ夏はつづくのだろう、暑いしぐったりして疲れる
でも夏らしい夏となり夏を十分に味わおう、それでこそ実りの秋になる
もうすでにお盆なのだから秋にもなっている、でもまだまだ夏なのだろう








タグ:雲の峰

故郷の失われた風景(実りと松と漁の船)


故郷の失われた風景(実りと松と漁の船)

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故郷は実りと松と漁の船

釣り人や松原の影涼しかな


故郷の原風景がこれだった、松原があり実りがあり海を見れば漁に出る漁船が見えた
これも実際は今になると失われていた
漁の船といっても東電の原発ができてからは漁師は多額の補償金で暮らしていたことがわかったからである
漁業も農業と同じだった、金にならないとか後継者がいないとかなり東電に漁業権を売り渡して生活していたのである

ただこの故郷の原風景は津波と原発事故前は変わりなかった
それが松原は根こそぎ流されて一本も残っていない
風力発電の風車がまわり津波のために土盛りして高くされた
この風景は何なのだろうとなる、それは火力発電者ができたときもそうだった
でもまだこの原風景は残っていた、今はない

右田の松原は江戸時代からの物であり松が古く太いのが多かったからいい松原だったのである、松川浦の松原は新しく細いからいいものではなかった
だからあの松原がなくなったことはショックだった
ともかくあまりにもこの辺は変化が激しかった
これほどの変化があるとはイメージもできなかった

ただ今やその風景は記憶にのみあるだけである
でも津波の後に原発事故の後に生まれた人はもうそこに松原があったこともわからない
つまり原風景として記憶に残っているのはその松原と親しく接していた人なのである。
夏だといつも自分は松原の影で休んでいた、海からの風が涼しかった
釣りの人もいた、釣りの人は今でも来ている
でも松原はなくなった

秋になると実りがあり松を見ていた、松は何か日本人に最も親しい木であり人のように見えるのである
松は質実なものとして人間の友のようにある木なのである
ただ日本の原風景は戦後の高度成長とかから白砂松原の風景は失われていた
コンクリートの防波堤になり失われていた
でも一応松原の風景はあった、それも喪失したのである、そして二度ともどってこないのである。

時代劇をいつも見ているのはそこになごみがある、その風景になにか落ち着き心もとけいるとかなる,それは江戸時代辺りは日本の原風景の中にまだ生活していたからである。
ビルもないし車もないし人々は貧しくても自然と調和して生きていたからである
ただつくづく時代は変わる、そしてその時代をもう生きることは経験することはできないその時代に生きたということはもう再現はできない、同じ経験はできない
だから過去をイメージするとき何か必ず間違ったものになる
それは過去はイメージの想像の世界になってしまっているからである
もう現実にありえない世界となっているからである。

2018年08月10日

蝉の声、カンナ(小高の街にひびく蝉の声の不思議)


蝉の声、カンナ(小高の街にひびく蝉の声の不思議)

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雨しとと勤めの人や蝉の鳴く

蝉の鳴く定時に来る電車かな

農家の庭の広しも芙蓉かな

街中の古木聞き入る蝉の声

真昼間や高鳴りひびく蝉の声

入り混じり遠く近くや蝉の声

明るしや畑に人なしカンナかな

客よれや6号線にカンナかな

鷺一羽水辺の深く影写す


避難区の街に残りぬ古き木の根を張り聞きぬ蝉の声かな

誰をかに向かいて蝉のひたすらに鳴きにし声聞くべかりけり

人なしに空家にひびく蝉の声聞く人なしも帰らざるかな   

蜘蛛の糸一本なれど揚羽蝶とらえ離さじ巧みなるかな


小高で不思議だったのは街の通りに人はなく蝉の声だけがひびいていたことである
小高の街の通りは歩道もあり駅前から長いから鹿島よりずっと良かった
鹿島の通りは歩道がないしほとんど人が歩いていない
人が減ったのではない、前からそうだったのである
駅前通りも死んでいる感じになる

蝉の声というときこれも誰も住んでいない街に鳴いていたらその声は誰が聞くのだろうとなる
小高の街で目についたのは古い木だったのである
そして帰ったのも老人が多いのである、老人は古木とにている
その古い木が蝉の声を聞いていたのである
ともかく依然として帰った人は増えたが空き家の街である 

知っている人がしている畑があるけどそこに今日は人はなくカンナだけが明るく咲いていた
何か畑でも肥料だ、種だ、農薬だと金がかかりそれで金を要求される
そしてキジに食われた、盗まれた、モグラに食われた、ネズミがでる・・・
こういうことを常に聞かされるので嫌になる
これまでは自分はそういうことにかかわらなかった、でも何か現実の生活にかかわらざるをえなくなったのだ
現実の生活は花ばかりきれいだと見ていられないのである
そこには嫌なことがあり人間関係でも嫌になるのが田舎なのである。
ある人は知っている人と会いたくないからこの道を通っているというとき田舎では常時監視状態にあるからそうなる
四六時中監視されているのである
だからカンナだけ明るく咲いているのが気持ちいいとなる

飯館村などは時々行ったとしてもそこの人間とはかかわらなかった、だからよかったともなる
人間と実際にかかわれば嫌なことが必ずあるからだ
ただ花だけを見て帰るなら嫌なことはないのである。

今日は蒸し暑かった、でも夕方は涼しかった、この辺の暑さは峠を越えたように思う
それでも夏バテになりぐったりしたのである
西のように暑かったら地獄である、住むのも嫌になるだろう
避暑に行きたくなるだろう、35度が連日つづくとしたらもう住む環境でとなくなる
なぜこんなに暑いのか?偶然なのか?地球温暖化でないとしたら何なのだろうとなる
40度近くになるともう住む環境でなくなるからだ
ここは気候だけは暑からず寒からずだから過ごしやすいから助かったとなる

蜘蛛の巣に揚羽が一羽とらえられてばたばたしていた、農家の広い庭である
その蜘蛛の巣は大きいものだった、でも巣の真ん中にひっかかったのではない
はずれた端の方の一本の糸にひっかかっていた
蜘蛛の巣でも何本もの蜘蛛の巣にひっかかるならわかる
一本くらいで動けなくなるのか?
芥川龍之介の蜘蛛の糸という小説があったがそれは一本の蜘蛛の糸をたらしてそこに人間がはいのぼってくる光景だった
つまり蜘蛛の糸は一本でそれだけ強いものがあるということになる
一本の蜘蛛の糸にとらちえられた揚羽はそうだったのかもしれない、それで蜘蛛の巣をとりはらい揚羽を逃がしてやった
これは自然の一つのドラマだったとなる

鷺が水辺に映っていた、増水したから水辺が深くなっていたのである。
自然というのは同じところにいてもつくづく変化する、その変化することで飽きないとなる
同じ所に住んでいると見るものも同じだから飽きる、でも変化するから飽きないとなる    


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震災より7年過ぎた小高の不思議(短歌十首)
(故郷は古里で古きを守る場なのか?)




2018年08月06日

蝉の声(晩年は時間に追われる)

蝉の声(晩年は時間に追われる)

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晩年やせわしなに蝉鳴き暮れぬ

方角を違えて夕べ雲の峰

今日もまた同じ木陰に休みけり

夏の夕馬草を食い眠る蝶

親子して草食う馬や夏の牧


同じ年の人と自転車でよくあう、その人は一回脳梗塞をしたからそれ以後体を気にしている、体が弱っている,でも別に自転車でも散歩しているし普通の生活をしている
その人は郷土のことも調べているので時々話する
その人も晩年である、何か晩年になるとせわしい、楽隠居というが何か追われる
それは生きる時間が短くなって追い詰められるという感じになるからである
まだまだ生きる時間が長ければ追われるという感じになはならい
まず50代すぎるともう人生も終盤が見えてくる
すると何か追われるようになるのだ

人間が死ぬまじかになると延々と自分の生きたことを語る、認知症になっても過去を忘れないからそうなる、そして死んでゆく、それはちょうど蝉が短い間でも懸命に鳴いて死ぬのとにているのだ
最後は人間は日暮らしのように鳴いて死んでゆくとなる
終わってみれば蝉のように人間ははかないのである

昨日も暑かった、方角が違って雲の峰が夕べ見えた
今年は雲の峰が見えても雨がふらないのも不思議である
今日は雨がふってすずしい、ここも34度くらいになったが今日は相当にすずしい
ただ体が夏バテになりぐったりしている
40度近くになるともう耐えられない、体が弱い人は死ぬと思う
自分も体が弱いから危険になる、だからここは気候がいいからなんとかしのげるとなっている、老人は意外とこの気候が影響するから住む場所を選ぶべきだとなるが
簡単に人間はどこでも住む訳にはいかないのである
でも山を越えた福島市だったらもう住めない、夏は蒸し風呂になり冬は酷寒になる
だから気候的にここはいいからしのいで生きられるともなる

毎日川の土手の道の木陰で休む、ほとんど同じ道を行ったり来たりしているだけである、それは十年つづいている
それもいいのかなと思う、やはり人間はあまりに変わりすぎると落ち着かない
人は最後は落ち着く場所を求めるからだ、だから同じ木陰でアイスコーヒ−を毎日飲むのが楽しみだとなっていた
今年の体の状態は胃が悪くならなかったのが良かった、冷たい水を飲んでもならなかった
必ず夏には胃を悪くしていたから不思議である
やはり健康であれば冷たいものを飲んでもいいから夏を楽しめる
人間はやはり健康が第一なのだ、健康でなければいくら金があってもうまいものさえ味わえないからだ

夏の夕暮れこの辺には牧場がある、野馬追いのために馬を飼っている、それがこの辺の特徴である、ただ北海道のような広い牧場はない、写真は北海道なのである
それを写真を加工したからまずいと思うが著作権とかで注意されたことがない
インタ−ネットでは広いからわからないのだろう
現代は写真の時代でありその写真を活かすことが必要になる
でも他人の写真を見て俳句を作ったことはない
今回は親子の馬がいたので俳句にした
写真は写生になるのだが写真を見てだけでどうして俳句などでも作れないのか?
それは写真はあくまでも一部だからである
その辺の気候とか全体がわからない、それでいい写真でもそこにいる臨場感をもていなのである、写真はあくまでもきりとった一部だからそうなる

この辺は野馬追いがあるから馬の風景が一応があるが北海道のように雄大にはならない
そこに不満があるが馬と親しむ場所であることは確かである
それで小高復興のために牧場にして馬を放し飼いするのもありかなと思ったのである

タグ:晩年 蝉の声

2018年07月31日

雲の峰(俳句十句)


雲の峰(俳句十句)

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大いなる空の広きや雲の峰

みるみるに高くなりにき雲の峰

燕飛び見ぬ間に高く雲の峰

真昼間や日射しの強く雲の峰

形変えみるみる高き雲の峰

畑仕事太りし婦(おんな)にカンナかな

新たなる宅地またふえ雲の峰

今日もまた同じ木陰に休むかな

カンナ咲き夏の雲湧く白さかな

暑き日を吸い込み一日雲の峰

雲の峰二つ割れて山を成す                            


この道の行く人知りぬここに立つ木の影濃くも後に人なし


今日は暑いけどからっとしている、ここは32度くらいかもしれない、そのくらいだと耐えられる、晴れ渡り雲の峯がぐんぐんと高くなる
それが気持ちがいい、夏らしいなとつくづく思う
名都を楽しむには34度とか35度になったらもう無理である
熱中症になる、日本は季節の変化がありそれで俳句ができた
夏は夏らしいとなる

太った女性はどこにあっているのか?それは畑にいるときあっている
根っからの農民なのである、生まれも育ちもそうだからである
人間は何かそこにふさわしいとなる場がある
自然の中で人間も映えるから農民や漁師や林業でもそういうところで働く人は自然とかかわり自然と一体となる、ただハウスとかなるとそれは別なものになる
働いている人が見えないからである

でももうハウスでなければ農業は成り立たない、それは不自然に見えても今はそうしないと成り立たない、でもトマトでも露地ものがうまかったということはある
それはたっぷりと自然の光を吸ったからだともなる
現実としてはもう畑といってもそれを維持することの苦労を聞けばもうやりたくないともなる、いろいろと金がかかる、それをこっちで支払うのも苦しいとなる
趣味の畑は金にならない、かえって金がかかる

それでもその女性は畑にいる時カンナのように映えている,そこにふさわしいとなる
それは生まれつきであり育ちもそうであり体つきでも農民だという感じなのである
人間はやはりその人にふさわしいものがありその時その人は生きる価値があるともなる
ただ正直それは外から見ている時そうなるのである。
現実に農業するものは違う、だからなぜ原発事故のあと耕作放棄地が増えたのか?
誰も耕さないのか?それは手間であり金にもならないとなり高齢化して放棄したのである
雲の峯は変化する、雲の峰を見ていると気持ちがいい、そこに自由な力も感じる
自然の雄大さを感じる、この辺には高い山がないから本当に山のように見る
駅前通りにも映えたが降りる人が一人とか少なかった
野馬追いが終わり閑散としている、駅前通りはにぎわっていたが今はどこもにぎわいがないのがさみしい、ただ駅からおりてこの雲の峰を見ればきもちいいとなる

小高の不思議は人が通るのがまれである、車も他よりずっと少ない、すると江戸時代のような雰囲気になっていた、車がないと江戸時代に還る
人が一人道を歩く、その人を道は記憶している、そして木の影が濃く道をおおいその後を一日行く人もないともなる
車がなければ江戸時代は戦前でもそういう風景だったのである
江戸時代にもどりたかったら小高とか浪江でそれをある程度経験できるともなる
夜だって暗くなり江戸時代にもどったようになるからだ
江戸時代を体験するとかの観光さえありうる、そんなことを言うとまたしかられる不謹慎だとなるが「江戸時代にもどった町」とかで人が来るかもしれない
ただそうはいってもやはり駅前通りが活気がないように自然でも街でも活気があるとき自然が映えるとういことがある、都会では自然がないから逆に人の活気だけになるからつまらないともなるのだ
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