2023年11月21日

権力と権威の混同−池田大作死亡で起きること 【人は純粋な権威より権力を求め権力に従う】


権力と権威の混同−池田大作死亡で起きること

【人は純粋な権威より権力を求め権力に従う】

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権威と権力も複雑になる。純粋な権威がありまた権力化した権威もある

●宗教はもともとその開祖は権力はゼロだった

なぜカルト教団が力を持つのか。それは権力があるからでありもともと教祖の権威ただ利用して権力を作り上げた。宗教というとき釈迦であれキリストであれその他の教祖でもほとんど乞食と同じだった。住む場所もなく釈迦は洞窟で修業した。キリストはこのように枕するところなしと言って実際にそうなっていたのである。だからその教祖本来は無一物であり何も所有していないのである。

ただそんな人がなぜ権威を持っていたのか人はそのとき弟子はその教祖の教えに共感していたのである。でも教祖はは一切の権力は持っていなかったのである。でもその後に宗教は権力化して行った。その歴史がカトリック教会である。それは時の王様より強い権力を持っていたのである。なぜならカノッサの屈辱のようにカトリック教会の法王に跪かねばならなかったからである。つまり法王の方が王様より上だったとことを証明したのである

おそらくカルト教団の教祖はそのように俗界の王様より上に立つ者を目指していた。だから池田大作はカトリック教会の法王にあたるのである。現実に池田大作が死んだらなぜ時の最高権力者の首相はわざわざ哀悼の意を伝えたのか問題にしている。。それはまさに池田大作を頂点にして権力を持つ創価学会があるからである。その権力の何かとなると自民党を支える票を得られるということであるである。現代の権力というのは民主主義になれば数であり表まとまった票を得ることなのである。

●人はこの世の権力に従う

だから池田大作とはその配下に何百万人という会員がいてその命令に従う。その会員の数によって権力を持つから人はその権力にひれ伏すのである。もしただ一人の人間なら誰も相手にもしないのである。お前に何の力があるのだとなるからである。要するに人はそもそも権威というものに従うわけではない。人は権力に従うのである。その権力とは何かとなる。カルト教団の場合はその数であり献金を集めてそれを権力とするのである。だからそもそも権威に人は従うのではなく人は権力に従うのである。

そのために自民党すらもまとまった票が得られるのでその権力があるからこそ従うのであり別に宗教とは何の関係もないのである。人間がこの世で一番恐れているのは神でも仏でもない。現実にこの世を動かすもの権力である。権力というときそれが何かというと最大の権力は暴力装置である軍隊でありまた警察である。そこは暴力で強制力を持つ権力だから最大の権力なのである。また民主主義では田中首相が言ったように金と数が権力だとなる。

選挙ではとにかく何百万票を集めるとなると数は問題になるからである。要するに人はその権力に権力を恐れその権力に従うのである。何か罪とか心の問題とかは関係しない。人はただ権力を求め権力に従うのである。だからこそカルト教団はこの世を権力でもって支配しようとしているのである。誰でも会員が何百万人もいるとなればそんなものに一人で戦えるかとなるからである。第一一人など誰も相手にしないのである。何百万人もいるとなれば人はその数に権力に恐れ従うのである。そのようにしてナチスが生まれたり太平洋戦争でも多数が賛成すればそれが狂気的なことでも逆らうことはできなくなって何百万人も死んだということにもなる。

●カルト教団が追求しているのはこの世の権力である

とにかくカルト教団は信仰などは追及していない宗教などとも何の関係もない。ただひたすらこの世の力を権力を得るために運動しているだけである。権力を持てばやがては司法であれ検察権力でありあらゆる権力を操作できるようになるからである。マスコミなどまったくそうした権力化したカルト教団に創価などは巨大であるために批判はしない。第一新聞社は聖教新聞を刷って収入となっているから批判はしないのである。つまり権力によってマスコミも操作されるだけなのである。

権威と権力は違っている。例えばある分野での権威者という時それは権力ではない。それはまた必ずしも権力で得られるものでもない。学術論文であれ芸術作品であれそれは必ずしも権力で持って評価はできない。その道のものが評価するのでありいくら権力があってもできないのである。その評価はは権威は価値は権力では作れないのである。

でも権力で権威を作れるものがこの世にはかなりある。宗教でもそもそも権力では作れないものだがカルト教団の場合はとにかくなんでもいいから会員を増やして数で権力を作る。その数に等ひれ伏すのである。政治家でも宗教団体カルト宗教団体でも票になるとなればそれを利用するとなるからである。つまりこのようにこの世は権力によって動くのであり本来の宗教が求めたものなど誰も必要としていないのである。

大衆社会とは赤信号みんなで渡れば怖くない社会である。
でもこのことがいちばん怖いことなのである。そのためにナチスの大量殺戮があり日本の戦争でも三百万人が死んだとかなる。人間は責任をまねがれることはできない。みんなで渡れば怖くないとしもそのみんなが責任を必ず問われる。そおれが戦争の大量死だったともなる。大衆社会は無責任社会だとしても必ず責任が問われ課されるている。そしてその責任は過酷なもになる。それは歴史が証明している。

●現代の権力とは何なのか―科学技術でもある

そして科学の時代になった時科学が巨大な権力と化す。宗教はこれほど布教したのは実は病気を治すためだったのである。人間の一番の問題は弱さは病気になることだったからである。でも医療が発達しないときはただ神仏に祈るほかなかったのである。だからこそ村の中心には必ず薬師堂があった。病気になったらそこで祈るほか方法がなかったのである。後は地蔵様でも祈る他なかったのである。でも医療が発達すると今度は医者は神様のようになったので今の社会で人はだれも尊敬しない学校の先生も尊敬しない。でも医者だけは尊敬されているのであるお医者様となっているからであるそれは人間の一番の弱さは病気になることだからである。するとお医者様が神様のようになってしまうのである

また科学技術の社会になれば原発のように核を操作して電気を作り出すということが科学技術者にできる。だから科学技術者が神のようにもなってしまうのである。でもその権威は原発事故で崩れ去ってしまったのである。でも依然としていろいろな科学技術があり今や科学技術が信仰の対象となり科学技術者が神様のようにもなってしまうのである。つまり現代でわ科学技術が権力となるのである。でも依然としてなぜ宗教がこれほど人々に力を持つのかそれは人間の問題というのは依然として科学技術でも解決しえないことが多いからである。病気にしても全部が医者で治せるわけでもないからである。その他人間には様々な問題がありそれを解決できないから神仏に頼ることになるのである。

ただ人は権力に従うのであり本来の権威に宗教でも従うわけではない。そこが混同しやすいのである。カルト教団などでもその会員が何百万人もいるとなればその数々は権力となり従うとなる。それはナチスのようになりもはや逆らうこともできなくなる恐怖があったのである。それが創価の恐怖だった。池田大作はハイルヒトラーとなり日本の権力を掌握することを現実に実行しようとしていたからである。誰も創価のことなど批判できないようになっていたからである。 一国の首相ですら今も池田大作が死んで哀悼の意を表したことでもわかる。それはその人の背後にある
権力をおそれているからであり政治的利用できるからである。

●必ず組織団体では権力闘争が起きる―共産党のように

政治に関しては歴史は権力闘争であり武力で争い決めていた。それで民主主義では三権分立になり選挙で平和的に権力を得るものとした。せもそれにしてもやはりいうまくいっていないのである。良くは成っていても依然として権力を欲しいままにしようとする。宗教でもそうである。宗教が権力化して人々を支配支配しようとするそれでカトリック教会が世俗の権力となったことでそのことに反発して政教分離が出来たのである。

でも日本では統一教会のことは政教分離から批判しても創価と公明党に関しては批判しないのである。それは何故かといえば自民党が悪いのである。創価から票を得られるとして政権をを支えているから批判できないのである。つまり政教分離でもその法律も絶対的なものではなく時の権力によって左右されるだけなのである。

そもそもこの世を治めることは不可能だとなる。結局サタンがこの世を支配するというのは人々は飽くことなく権力を求めるからである。その点子供だったらそういう権力を求めないから聖書でも嬰児に収めようとある。老子だったらら治めずして治めるとかなる。飽くことなく人間の欲があり権力欲もそこから生まれる。だから制度を作っても結局それも破られる。この世はいつまでたっても政治的には治められないとなる。

神の国では神が直に治めるから治められるのである。。それがこの世で不可能だから依然として権力にこの世の欲があり権力を求めるからそのためにこの世はサタンによって支配されることが変わらないのである。
とにかく権力と権威は混同しやすいのである。それが純粋な権威であれば問題ないのである。例えば師がいて弟子が十数にとか学ぶとなれば別に問題ないのである。それが池田大作が師弟不二だとか何百万人も奴隷のようにする。それはただハイルヒットラーとなってしまう。でも大衆社会になればそうなってしまうのである。個々人を相手にするのは限られている。

●師弟不二の欺瞞ー大衆を操作して奴隷化すること

第一師弟不二など何百万人を相手にするとなればありえないからハイルヒットラーハイル池田になる。要するにそれはサタンに支配されることであり操作されることである。ではなぜそれだけの人が従うのか?それは権力を得られる。その池田大作であれ教祖が巨大な権力を持っているからそれにあやかりたいのである。ある人は議員になれとなり権力を得ることが具体的に見えるから金になるというこことでも入ってくる。

要するに人を選ばない、ただ一票なればいいだけである。それで創価だと膨大な数が幽霊会員であり座談会にも出ない何の活動もしない人たちの票を得るために学生時代に回ていたのである。何か池田大作から教えを受けたことない、そもそも私を折伏したのが親が市議会議員だったからさらにすべてのエネルギーが選挙に費やされるのである。そんなことさせられれば疑問を感じるはずだが感じないの権力を御利益を得ることのために祈り思考停止になっているためである・。
現実社会でも血眼になって利益を追求している。カルト教団ではさらに拍車をかけて御利益を追求しているのである。

その中核は婦人部だったというとき余計にただ感情的になり思考停止になりナチス化じていたのである。なぜ宗教なのかということがこれだけ毎日選挙運動させられればわかる。それでやめない人はそもそも思考停止しているからである、ただそんなこともわからないのかとなる。いくら学がないにしろわかることがある。女性の場合考えることをしないからかもしれない。盲目的に従うということである。
では創価の会員は全部が池田に心酔しているのかとなるとそうではない。前からこき下ろしている人がいたからである

●原田会長が池田派を排除してきたという

また今の原田会長は池田が病気で現れなくなってから池田派を排除してきたという。つまり内部でも権力闘争がありそうまっている、それは共産党と共通している。内部で熾烈な権力闘争がありソビエト連邦でも粛清された人たちが一千万人いたとか中国なら毛沢東時代に文化大革命でも粛清された人たちの数も多い。それからカンボジアでは二百万人もポルポトに殺害されて骸骨の山が博物館になっている。これも空恐ろしいとなる。

集団化組織化するとこうして内部で熾烈な権力闘争が起きる。だから創価でも四分五裂の権力闘争がおきるかもしれない。そもそも権力を求めて入って来たのだからそれも当然だとなる。そのために今の原田会長が権力を掌握するために池田派を排除したというのもわかる。つまり池田大作を持ち上げて権力を得たいという人たちがいてそうなったのである。

だから必ずしも会員のすべてがそうではない、だからこれからそういう人たちが前面に出てきて内部抗争になり分裂するかもしれない。それは共産党の内部の権力闘争と似ているのである。宗教というより権力を得る為の闘争となるしそれが目的だったのだから当然だとなる。それが人間の業でありカルマであり政治に共通して現れている。ただ現代は大衆社会となり大衆を操作して権力を持つということである。
それがナチスだったのである。

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2023年11月19日

池田大作氏死亡 共通しているカルト教団の構造 【宗教を語りこの世の権力を追求した】


池田大作氏死亡 共通しているカルト教団の構造

【宗教を語りこの世の権力を追求した】

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必ずカルト教団は組織化して序列化する。それは共通している。でもそのとき本来の宗教は喪失する
組織化して権力化して外部に圧力をかける。そしてその組織団体は必ずこの世の権力をもち操作する
支配することを目指している

●池田大作の人物像−カルト教団の教祖の共通性

池田大作氏が死亡した。池田大作とは何者なのか。その人物像はどういうものなのかなかなかそれは外から見てはわかりにくいだろう。創価学会内に居るとなぜかあらゆることが池田大作氏を先生と呼んですべてが先生のために存在するとまでなる。
例えば選挙の時拠点に集まりそこで仏壇があり題目を唱えて池田先生のためにと一票を取るために奔走する。それほど池田大作氏というのはある意味で生き仏にもなっていたのである。
ただなぜそれほどまでに崇拝するのかとなるとそれもよくわからない。ただそういう場に居ればみんながそういうから逆らうことはできない。ただごくわずかの人ではあるが池田大作に相当に嫌って言って発言していた人もいたのである。
ではなぜそれほど池田大作氏にあたかもも神のごとく仏のごとく崇拝するようになっていたのか。それはカルト教団の特徴であり共通していたのである。


例えばオウムでも同じだった。麻原教祖がまるで仏のように祭り上げてその下にその配下に組織が作られていた。その組織でも必ず軍隊のようになっていて序列があり上と下周りその下の人は上に上がりたいと必死になる。それでオウムの場合は理系の人で有名な大学も出ている人もいて高卒だった人が何とか地位をを上げたいと率先してサリンを撒いたのである。

つまりカルト教団に共通しているのは教祖が神か仏になり偶像化してその配下に組織化して序列化してそこでその宗教団体自体が権力団体となるのである。それは例えば幸福の科学でも統一教会でも本当に同じだった。団体が組織化して必ずそこに軍隊組織のようになって序列化して上下関係が作られるのである。だから下のものはなんとか上に上がろうとするわけである。

ではそもそもなぜそんなに上に上がろうとするのかそれはカルト宗教団体というのは教祖が最終的にはこの世の王となることである。そしてこの世の王となった時この世の権力を得ることになるからその配下の者にこの世の権力を得させてそのカルト教団の地位が社会の地位にもなりうるのである。
それは下々の者にとっては魅力だったのである。つまりそのカルト教団の組織中で出世することが社会的にも出世することに通じていたのである。だからこの世から出るということが目的であった仏教でも全く逆の世界になってしまっていたのである。この世で出世することが目的としてそのカルト教団も存在しそのカルト教団の目的は教祖がこの世の王となりその配下の者がこの世の有力な地位につき御利益をを得るということである。

例えば本来宗教であれ釈迦は説法するとしてその弟子は十数人だった。キリストにしても12人であり人であれ孔子が説いたとしてもその数は十数人だたのである。それが何百万人が弟子となるときそれはもはや何になるのか。それはただハイル池田ともなり権力化して数の力を得て権力をほしいままにするというだけである。民主主義社会では選挙がその権力を得るための最大の手段なのだからその一票を得るために人があるだけだとなる。

つまり宗教のなどどうでもいいのである。第一百万票得るためにどうするのかいちいちその人をのことなど関係ない。一票になればいいだけの話である。カルト教団ではただご御利益を説くだけであり一票入れれば御利益があるとかそんなことばかり説くだけである。要するにハイルヒトラーと大して変わらないのである。
その目的は何なのかというとそれは共通している。この世の権力を得て教祖が王となりこの世を支配してこの世の栄華を追求することである。だから宗教とは正反対なのだけども人々が求めるのはこの世の栄華であれ御利益であれそれしかないのだからそれについてくる人が何百万人もいるということである。

●人間は利に敏く宗教も御利益なることで人を集めた

何か宗教に関わる人は胡散臭い。つまり宗教で飯を食うということはすでに何か後ろめたいものがある。だからこそパウロはテントと作りをして布教するにしても信者から金を貰っていないのである。それと正反対にカルト教団というのはどこにしろ莫大なこ金が集まる団体でありだからこそそれを狙って入る人もいる。
その団体に入れば何か得をするということで入る人もいる。そういう団体はどんな人でもいいのである。その人の心などどうでもいいのである要するに創価だったら一票になればいいだけである。そして毎日数を数えているだけである。数は力であり金が力だという時まさにそれしかない。

人間というのはとにかく難しいことは分からなくても利益になることはすぐにわかる。だから発達障害の人も利だけは聡いのである。それは日常生活の中で身に付くから別に考えなくてもすぐにわかるそれと同じようにカルト宗教団体というのは難しいことは言わない。ご利益になるとかいろいろいいことがあるとかそんなことしか言わない。だからこそ人を集めることができるのである。
そこにはまともな求道者などはいない。そんな人はかえって邪魔ものであり必要ないのである。一体法華経信者であれキリスト信者であれカルト教団などに一人もいないという不思議がある。
それが全く理解できないのである。

ただそういう人たちも池田大作氏がカリスマが死んだとき憑き物は取れたように目覚めるかもしれない。それで一部の人が池田大作氏を公然とこきおろしている居るのに驚いた。その人は学会ででも身も心も捧げていたから逆に人生を奪われたとしてあのように池田大作氏をこき下ろしているのかとなる。
他にもカルト宗教団体で辞めた人はだまされたことを知ってその内情を暴露しているのである。いずれにしろ創価学会はもう維持できるのかと思う。後継者も育たないし会員は増えないし票も減るだけだとなると自民党からもやがては捨てられる。

●宗教団体でも御利益があるのは主に幹部

では別に宗教団体なのだから信仰が第一なのだからそれでもいいとなるが実は創価とわは様々なこの世の野心を持った人たちが欲望を叶えるものとして団体としてあったからこそあのように会員が増えたのである。信仰を求めて入ってきた訳ではないのである。その信仰だって御利益だけが目的であり本来の宗教とは何の関係もないのである。だから御利益がなくなれば簡単に宗教だって捨てるのである。ただ宗教の面倒なのはそうなると地獄に落ちるとかバチ当たるとかな呪縛されるから簡単にやめられないのである。ただ一体バチ当たるとか地獄に落ちるとはどういうことなのかそれ自体がわからない。

なぜなら創価の人は何百万人もいるのだからその中で不幸なに死んだ人とか不幸になる人は膨大な数のである。ではどうしてそうなったのかとなる普通の社会でも必ず不幸はありそれがただ何百万人もいれば当然比例して不幸な人は必ずいるいる。近くでも40くらいの息子が病気で死んでその後母親も死んだ。それは創価に入ってからまもなくそうなったのである。そんなこと他にもある。学生のとき活動していた人が交通事故で死んだ。池田大作の息子も30くらいで死んだ。私の父親違いの兄も40歳で交通事故で死んだ。家族にはなにかかにか不幸があるしみんんな病気にならない人もいないのである。それはどうしてかわからない。ただいちいちそれを宗教で判断できないのである。そんな不幸など山ほどあるのである。ただ確かに御利益を得た人はある。私を折伏した人は家族は議員になりそれで大学までは入れたとか言っていた。

でもそんな幹部になる人は一部であり不幸な人はやはり多いのである。つまり創価は貧困ビジネスでもある。不幸な人たちから貧困者から搾取するともなる。そこで票を集めて金になった人は確かにいる。でも御利益を得た人がいたとしても全部がそうはならないのである。
そのカラクリが分かれば馬鹿らしいとなりなぜ献金したのかとなりついには統一教会のようにその恨みを晴らすために安倍首相は犠牲になってしまったのである。つまりカルト教団に入って家族が崩壊したりした人は相当に多いのである。その恨みを持った人が最近あからさまに批判するようになったのである。
いずれにしろ創価は終焉しつつある。カルト教団のこともその内部が内部者から批判されてその実態が明るみに出るからいずれは終わりになっていくだろう。ただ最後の悪あがきが何があるかもしれないそしてまたそこに集めた金が莫大でありその奪い合いが起きてくるかもしれない。もはや維持できないし分裂したり遺産争いみたいなものもにもなるかもしれない。それがまさに罰であり地獄になるということである

●文明社会に狂気を生み出す―宗教は山岳宗教の天台宗が始まり

集団的にカルマを作り出したのがカルト宗教団体でありそれが巨大なるがゆえにその負の影響も大きなものとなる。カルト教団がなぜ現代に生まれたのか、それはやはり文明自体にあり連関を失ったアトム化した社会でつながりを求めるためにナチスのようにハイルヒトラーとかハイル池田になってしまったとも思う。池田大作はどういう人物かと言うと自らを巨大な人物に仕立て上げるためにこの世の王となるために下々の者を利用したのである。
なぜなら学生部の会合でタバコをポンと投げて配ったという。それを喜んでいたのは学生部の幹部である。もちろん池田大作氏に会っただけで有頂天になっていたのかもしれないただ池田大作氏が力を持ったのは強大な権力を持っていたからであるその権力があるからこそ自民党も近付いたしその内部でも池田大作氏に近づけば高い地位を得て教団内で権力を持ち外部でも権力をモデルと言うことでそうなったのである。

池田大作の人間性は人格は関係ない。そんなものに惹かれる人など今の世にはいないだろう。ただ権力が得られるということで野心家などがそこに集まってきたのである。だから普通宗教というと修行者はなっているのが普通であった修行者場なっているのは普通だったそれで日蓮親鸞でも比叡山で修業したのでもともと日本は中国から輸入したのは天台宗だったので。天王台というと山岳宗教でありそれは日本だったら山伏とかにその伝統は受け継がれたのでつまり山を聖なるものとして修業したとなでもカルト宗教団体は創価だったら東京の団地から生まれたようにそれは仲間づくりであり全く宗教とは関係ないものだったのである。ところが山になると人はいない静寂の世界なのである。
都会の大衆とか群衆とかはいないのである。沈黙する荘厳な山に向き合っているのである。カルト教団の特徴は常に大集団となり
示威行動をして社会に圧力をかける存在である。

だからそこで宗教など求める人は一人もいなかったのである。ただそこで御利益語り仲間ができるということであれだけの人数になったのであるだから宗教など求める人は一人もいないのである。宗教を看板にしているから宗教を求めているそういう人たちと思ったら全然違う普通の俗界にいる人たちをより欲望を追求する御利益を追求する人たちだということがその組織団体の実態だとするとき全く何が何なんだとか理解不可能となってしまうのである。ただ確かなことは発達障害の人でも利益になることは何も考えなくても利に敏いのである。それと同じように御利益になるということだけでこれだけの人数は入ったということは理解できるのであるだから御利益がなくなれば当然もう雲霧消散するのである。

ともかく人間社会というのは時代時代によって狂気が生まれる。明治時代のえーじゃないかえーじゃないか騒動もそうだった。また太平洋戦争でも天皇を神としてそのために日本は必ず勝つとして300万人も死んだ。これも狂気的なことであった。人間社会は必ずこうして狂気を生み出す。それは江戸時代までは少人数で狭い範囲でそういう悪徳宗教人がいたが何百万人にも拡大するということはありえなかった。なぜそうなったかというとナチスが
ラジオから生まれたとか通信の発達でマスコミが生まれそのマスコミによって洗脳された結果として大衆社会がありそれが狂気を生み出したのである。

だからカルト教団というのも文明が生んだ狂気的集団だとなる。でもナチスのように国民全員が狂気になればそれは正常なのである。そうかでもナチスのような勢いがあったから恐怖するものだったのである。カルト教団とは文明の病理的現象であり本来の宗教とは何の関係もないものだったのである。

ただ共通していることは一人の教祖が偶像となり神となり仏となりその下に上下関係の組織が作りそれでこの世の権力を得るために運動しているということでは共通していたのである。必ず教祖がいてそれが偶像化して崇拝する。それが今組織的なものとなり宗教団体自体が批判も出来ないものとなったのである。それが極端化したのはオウムであった。宗教の名のもとに殺すことさえ正当化されていたからである。それはまさに狂気の集団だった。創価は庶民を相手にするからそういうことがなかったにしろやはり共通なものがあったのである。

posted by 天華 at 14:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年11月18日

ハマスに拘束されている外国籍保有の人質は120人、27ヵ国にのぼる 【出稼ぎ外国人が犠牲なった理不尽も考えるべき】


ハマスに拘束されている外国籍保有の人質は120人、27ヵ国にのぼる

【出稼ぎ外国人が犠牲なった理不尽も考えるべき】

内訳は、最多のタイが25人、アルゼンチン21人、ドイツ18人、米国10人、フランス、ロシア各7人、ハンガリー4人、ポーランド、ポルトガル各3人、フィリピン、ルーマニア、タンザニア、英国各2人、オーストリア、ブラジル、カナダ、中国、デンマーク、アイルランド、リトアニア、メキシコ、ネパール、オランダ、セルビア、南アフリカ、ウクライナ、ウルグアイ各1人。それ以外にも外国籍の人質がいる可能性があるとされる(ロイター、11月8日付)

イスラエル全土にある様々な農場や砂漠地域で就労するタイ人は最多で2万人とし、イスラエル軍の空爆などにさらされるパレスチナ自治区ガザ地区に近い地域も含まれる。それだけに、「ハマス戦闘員が攻撃を仕掛けた際、多くのタイ人が負傷するリスクがあったことは驚きではない」とも述べた。

●イスラエルの安宿に泊まっていた外国人

イスラエルの安宿に泊まっていたのはオーストラリア人そのオーストラリアに住んでいるアボリジニーそれは真っ黒な人だった。それから英語を流暢にしゃべるドイツ人。それから中国人が何人かなぜそんな人たちが集まっていたのかというとオーストラリア人とかドイツ人を除いては出稼ぎ労働者だった。
なぜかキリストの生まれたナザレで漢字を教えてくれと言う人がいた。その人は中国人と商売しているのか中国人も相当に入ってきている。。つまりイスラエルは世界中の出稼ぎ者が集まる場所だった。というのはイスラエルはIT技術で進んでいて裕福な国なのである。またイスラエルは砂漠でありそこに灌漑して豊かな果実でも実る国にしたのである。でも人手が足りないので世界から出稼ぎ者が来ていたとなる。

イスラエルは兵士が銃をもって普通に店に入ったり街をぶらついている。それは警察官ではない兵士なのである。だから常時国が戦闘状態にもあったとなる。とにかくイスラエルは外国人労働者が多かったのである。その労働者が今回のハマスのテロで犠牲になったのである。一番多かったのはタイ人だった。でも私が行ったときはタイ人は見てなかった。農業関係で働いていたというときイスラエルは砂漠地帯でありそれでそこを灌漑して豊かな実りある地帯にしたから労働力が不足して外国人労働者を働かせたのである。

●イスラエル建国の正当性があるのか?

とにかく今回のハマスのテロで犠牲になったのはイスラエル人だけではない外国人労働者が多かったということである。その人たちが不幸にも巻き込まれてしまったのである。ただそれを見れば今回の問題でも世界的なものとなっていたことがわかる。特に中国人も多く中国人が中立の立場になっているから外交的にイスラエルはよく観ていない。そもそもイスラエルは2000年前に国があったとしても実際は新しい国であり建国してから70年とかにしかなっていないのである。

だからイスラエルという国はユダヤ人が作ったにしても何か世界の人が来て寄せ集めの国のようにも見えるのである。なぜなら2000年間も空白の時期にあれ空白があの時期があればもはや歴史として継続したものはそこにはない。確かに2000年前はイスラエルの国であることは確かであった。でもその後2000年間も空白の時期があってとなれば歴史は継続されるだろうかともなる。日本だったら邪馬台国があったからここはもともとに日本の国だなって言うことにもなる。でも2000年間も空白の時期があったらそんなこと言ってもそこに新しく住んだ人は相手にしないかもしれない。

そもそも日本人がユダヤ人を理解することは難しい。欧米だとユダヤ人とは常に存在しているからその国の住人ともなっているから理解する。そのため差別して迫害にもされたのである。でもなぜ2000年間も国土持たなくて民族として存続しえたのかという謎である。そういう民族は世界には無いと思う。それは神の民として神がその民族を守り維持させたいうのもわかる。普通だったらいろいろな国に散らばってその国民となってユダヤ人だということなど不明になっているはずである。その国に同化しているはずなのである。それがユダヤ人ということで存続していること自体が普通だったらありえないことである。だからこそユダヤ人は特殊であり迫害もされたしっても依然としてユダヤ民族は継続してアメリカでわ強固な力を持っている。

キリスト教徒どうしても聖書中心にして信仰がある。だから旧約聖書でも必ず読むし新約聖書の継続として呼んでいる。それで聖典の民となっているのである。旧約聖書と新約聖書が断絶しているかとなるとそうでもなく継続しているのである。となればユダヤ人でも旧約聖書のときはその民族に神が祝福が与えられていたのだからユダヤ人は別格だともなる。それでアメリカの福音派は旧約聖書でもやはりい重んじているから当然イスラエルの国は再建されたということは一つの大きな兆候あり救世主が現れるとかイスラエルを支持しているのである。他にもキリスト教徒であれば旧約聖書からの継続として新約聖書がありそれでイスラエルを支持するということがある。でも一方でユダヤ人はキリストを十字架にしたして迫害されてもきたのである。

●出稼ぎ外国人労働者をアラブ人とユダヤ人の争いに巻き込む

ともかく1000万くらいの国に世界中の出稼ぎ者が集まっている。それはイスラエルの特徴でもあった。だからこそ多くの国の人が今回のハマスのテロで犠牲になったのである。それは別に宗教的なものとは何も関係ない。ただそうした宗教的なものでもその争いに巻き込まれ犠牲になった。その人たちは別にアラブ人でもなくイスラエル人でもユダヤ人でもないだからその人たちがなぜそこで死ねからばしなければならなかったのかそれがやはり今回のテロの特徴でもあった。

グローバル化するとやはり世界中の人が巻き込まれるからもはや民族同士の争いだけでは済まされないのである。また国同士の争いでも世界中の人が巻き込まれ世界大戦にもなる。だからその国々が勝手に戦争でもなんでもしていいとはならなくなったのである。必ず世界に波及するということである。それがグローバル化でありそのの国だけで勝手に何でもしていいという事にはならなくなったのである。

だからこうして宗教とか関係ない出稼ぎ者が多数犠牲になったということは信仰的問題宗教的問題だけではないものともなっていたのである。その人たちは別にアラブ人でもユダヤ人でもなんでもない。ただ金を稼ぐために来ただけでありその争いとは何の関係もないのである。でも結果的には大勢の人が犠牲になったのである。

今回のイスラエルとアラブ人の争いは単に宗教的なものでもなく民族的なものでもなくそこ犠牲になった人たちを考えるとそれは世界的なものでありただユダヤ人とかアラブ人の戦いであり宗教的戦いであるというだけから見れるということにもならない。そういうことと全然関係ない人も死んでいるからである。ただその人たちのことをあまり注目していない。やはり今回の問題は多角的に見れば全然その争いに関係ない人たちが犠牲になったということである。その点からもこの争いを見るべきだともなる。

●必ず個々人でも家族でも国でも争うと回りも苦しむ

ただ外国で働くとなると何があるかわからないやはりリスクがありそれも考慮しなければならない。ただ金を稼ぎたいというだけで行くとやはり問題が起きるかもしれない。それは日本に来る出稼ぎ者でもそうでありただ金を稼ぎたいそれだけの動機で働くということは何か今回のようなことがあったときリスクを伴う。一旦その国に住んで働きだしたら何かあった場合なかなか助けられないということもある。

いずれにしろ確かなことは個々人でも家族でも争う時全く関係ない人でも巻き込まれてひどい目にあうことが普通にある。それが国同士で起きる時現在のようにグローバル化していると必ずその争いに関係ない国の人も犠牲になるということである。だから外国で働くのはいいのかともなる。別に今回のような事件がなくても工事現場で働く外国人でも言葉が通じなくて事故になったり死んだりしてる人もいるかもしれない。どっちにしろ外国で働くということは危険なことになっている。でも金を稼がねばならずなるとして外国人がどこでも働いている。そういう人たちが今回の事件で犠牲になったということも考えるべきだとなる。

俺たちは金を稼ぐために外国までわざわざ来た家族のためにも働かざるを得ないから来た。でも俺たちとは何の関係もないアラブ人とユダヤ人との争いで死ねばならなかった。だからアラブ人とユダヤ人は俺たちを弔い供養しなければならないともなる。

金のために出稼ぎに来ただけだと言うが金を稼がねばならない切実なものもあるからこそあえてきたのだということである。だからここで死ぬということは全く理不尽だとなる。こういう視点から今回のイスラエルとハマスの争いを見るということもある。要するに多角的な視点が必要になってきているのである。

今回の問題の複雑さはこうしてグローバル化して世界の関係ない人も犠牲になったということである。それはこれだけグローバル化していれば常にあり得ることである。どこでも外国人がいるからである。例えば日本に観光に来ただけでも地震とかある場合もあるしやはり何かしら危険はあるのである。そもそもイスラエルは危険な場所ではあったがこれほどの危険な場所とは認識されなくなっていた。ただそれは問題が解決したからではなく先延ばしになっていただけだったのである。


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2023年11月13日

なぜ戦争がなくならないのか 【人間のカルマが解消されず繰り返されるから】

なぜ戦争がなくならないのか

【人間のカルマが解消されず繰り返されるから】

●人間の争いの原因―聖書から考える

●バベルの塔の崩壊で言葉が通じなくなる
●アベルとカインの争いの原因
●アブラハムの子のイシュマエルはアラブ人

なぜ人間に人類に争いがなくならなくならないのか?その原因は何なのか。その原因を聖書から探ればバベルの塔の崩壊で言葉が通じなくなった。言葉が通じなくなれば意思疎通ができなくなる。そこで必ず争いが生じる。言葉が通じなければ今でも外国人と意思疎通をすることが困難だからである。今でも外国人とうまくコミュニケーションができないのは言葉の障壁だからである。

その言葉が通じなくなったのはこれも実は人間と神と人間の関係の中に原因があった。天まで達するような塔を建てようとして神の怒りをかって言葉が通じなくなりその民族は世界中に拡散したのである。それは神の怒りをかったからである。神との関係から起きたことである。歴史に神など関係しないとなるが聖書では神と人間の関係の歴史でありそれが今日まで継続して続いているのである。なぜ今イスラエルでアラブ人と戦い悲惨な結果になっているのかも歴史をたどればアブラハムが不如意の子として生まれた子がイシュマエルでありそれは神に祝福されたものではなかったからである。

またアベルとカインの物語でもカインは兄弟のアベルを殺した。その原因もまた神が関係していたのである。アベルの捧げた羊は神に受け入れられて祝福された。でもカインの捧げたものは地のものの野菜であるそれを神は受け入れなかった。結果としてカインはアベルを殺害したのである。これもやはり殺人の始まりは兄弟殺しなのである。

不思議なのはなぜカインは神から祝福されなかったとかである。それは神と人間の関係で起きたことなのである。それは一つの最初の宗教戦争であったかもしれない。神に祝福されたものと祝福されないものは対立して殺人までに発展した。するとなぜ神は不公平なのかとなる。そもそも神はまず人を選びその人を祝福して全ての人を救うということなのである。旧約聖書ではヘブル人を神の民として選び神が直接関わり出エジプトとかを成し遂げさせた。それも神が関わりできたことなのである。

ともかく3000年前のことが現在に関係しているのかということである。でも今イスラエルで起きていることは3000年前からのことが根になりそれがカルマとなって現実化しているのである。だから歴史は継続であり3000年前であれそれは現実としてそのとき成された行為がカルマとなって繰り返されているのである。
そもそもなぜ人間は争うのか。戦争になるのか。その原因は何なのか。聖書では神に選ばれた者と選ばれないものは戦う争うとなる。ではなぜ神は平等に祝福を与えないのかともなる。それは不可解である。

●人間の争いは動物と同じ理由で争う

その他人間が争うのは人間が生まれてから変わりなくある。それは動物でもメスをめぐってオスは戦うということは人間でもある。女性をめぐって争いになったというのはトロイ戦争だったからである。一人の女性をめぐって国と国との大規模な戦争になったということである。でも現代でも女性をめぐって争いは絶えないのである。それは動物的本能であり人間も動物と変わらないということである。

戦争の原因が何なのか。それはやはり動物だったら餌を得るために争う。人間でも争うという時何か利益を得るために争う。モンゴルでわ食料がなくなると農耕民族の中国に定期的に侵略してきた。それは食糧を得るためであった。そのために中国では万里の長城を作ったのである。食料めぐる争いを深刻になる。食べ物はなくなれば他国に侵略して食料を得ようとする。それが戦争になる。それは現代まで継続しているから変わらないのである。

また土地をめぐって争いになるのも土地が食料を生み出すからである。イスラエルでもアラブ人が農業していた場所に入植した結果として争いが起きているのもそのためである。戦争の原因で一番多いの土地をめぐる争いだからである。
この争いはわかりやすいのである。でも神がかかわり起きた争いはわかりにくいとなる。でも確かに神が関わり争いがおきていたことも確かなのである、そもそもなぜへブル人(ユダヤ人)を神が選んだのか?そのこと自体が争いの原因となったからである。

要するになぜ戦争はなくならないのか。その原因は何なのか。それは3000年前までもさかのぼり人間の行った行為【カルマ】解消されないために現代までそのカルマをカルマによって苦しむともなる。
そもそも戦争の原因はアベルとカインのように兄弟殺しから始まった。つまり人類は兄弟でありその兄弟を殺すことから戦争が始まったともなる。そしてそのカルマが解消されないから2000年前にユダヤ人の国があったイスラエルにユダヤ人が戻り再建されたということそしてまたそこに神に選ばれた者と選ばれないものの争いが再び生じたということにもなる。


●キリストは民族を越えて異邦人でも万人への愛を説いた

ただキリストが生まれた時ユダヤ人しか神によって救われないとかではなくなった。キリストは民族主義者ではなかった。そのためにユダヤ人に拒否されて殺されたともいわれる。キリストは説いたのは万人の愛であり異邦人でも愛する愛でありということは異民族でも愛するということでありそこに平等に人類を平等に愛するということになった愛となった。だからこそ世界に普及したのである。ただユダヤ人は旧約聖書を元にしてユダヤ人のみが神に選ばれて救われるということに固執しているのである。だからこそユダヤ教となると世界に普及することがなかったのである。

いずれにしろなぜ人間は争うのかその争いが終わることなく続いているのか。その原因は何なのか。それは民族同士の争いでもあり利益をめぐる争いであり宗教をめぐる争いにもなる。それらは複雑に絡み合ってるともなる。でも神は最初に選んだ人周りそれがアブラハムであり次にヘブル人選んで神の民として。
その神のために逆らう者は神によって滅ぼされたとなっている。だから戦争の原因も神が関わっていたともなる。なぜならみんな平等であるべきであり選別するべきではないとなるからである。そうは言っても神は絶対であり神に逆らうことはできない。

戦争はなぜ人類からなくならないのか。戦争の原因が何なのか。その原因が3000年前の行為がカルマとなって現代にも継続されているからだともなる。つまり人類から争いはなくすことはできない戦争をなくすことはできない。個々人の争いもなくすことはできない。その個人の争いから国の争いにまでもなる。そして最終的に人類最終戦争のハルマゲドンによって終止符が打たれる。いつか平和な世界が作られると思うのは想像の世界であり現実にはない

●平和とは何なのかー争わない植物的世界に平和がある

平和というときどういうことかというとき植物は平和なのである。なぜなら植物は動物のように食いつ食われる世界ではない。例えば木が何本か立っているとしてその木は絶対に隣の木と争うことがないのである。それも当たり前のように見ているが絶えず争っている人間から見れば奇跡的に見えるのである。
また石でも争うことはない。石と石が互いにぶつかり合ってたたきつぶすようなことはしない。つまり植物はほかのものを傷つけることがないのである。ほかのものは絶えず人間でもほかのものを傷つける。たとえ殺さなくても言葉で傷つける。他にいろいろと傷つける方法はある。だから殺し合いしなくても人はある意味で人を傷つけ殺しているとまでなる
だから肉食動物はこの世から消えて草食動物が残るとされる。来世は新しい世界は肉食動物はいないのである。そこではまた肉食はしてない。野菜とか果実とかを食べているだけであるそれで充分に健康でありうるし平和な世界になるのである。

とにかくどうしたら戦争は争いが無くなるのか。それは不可能だと思う。人間のカルマが解消しないからそうなる。むしろ人間の罪が積もり積もって最終的に人類最終戦争のハルマゲドンに突入するとなる。だから一旦人間のなされた行為はカルマは3000年過ぎても消滅するわけではなかった。人間の争いも人間も生物の一種だからやはりオスメスの争いはあり雌を巡る雄の争いがあり食料をめぐる争いは続くのである。

でも植物的世界になると争いは消滅する。木と木は争わないし花と花も争わない動物でも争うということはないのである。自然界で実際は人間のような大量殺戮とか熾烈な争いはない。動物にしても他の生き物を殺すことは残酷に見えるがそれは自然の中で生きてゆくためにそうせざるを得ないからしているだけである。人間の争いはそういうものではなく過剰に殺さなくてもいいのに殺しているのである。

●人間は悲しみから深いもの学ぶ―戦争でも同じ

それは文明が発達してもその殺戮はさらに残酷となっているなぜなら原子爆弾を落とすということでもわかる。その殺戮の道具が発達してそうなったのである。問題はいくら技術が発達しても人間社会に平和がもたらせないということである。逆に殺戮する道具はさらに改良されて殺戮兵器が残酷に大量に人を殺すことができるようになることである。だから科学技術が平和をもたらすということがないのである。
結局人類の終末が来ているかもしれない。それを象徴しているのがイスラエルの国が2000年後に再建されたことである。でもそのことが人類最終戦争の危機にもなったいる。
でも人間の平和が実現するのは神の国でありこの世ではできない、人類の希望はそこにある。滅びもない永遠の命に生きる国である。そこで完全な平和は達成されるのである。

ただ人間は悲劇から必ず何かを学ぶのである。悲劇にこそ何か深いものを学ぶものがある。家族でも実際は悲劇で終わる。私自身の家族もそうだった。でもその悲劇から学ぶものはあった。たとえ争っていてもともに生活した時間が長いから愛が生じていたということもある。人間は悲しみから何かを学ぶのである。なぜこれほど血で血を争いがあるのか。それは悲劇である。とてもその悲劇を通じてなぜこんなに争わなければならないのかという疑問生じる。争う人たち同士で深刻なものとして感じるようになる。

だからキリストが言うように悲しむ者は幸いであるという時やはり人間は悲しむことによって深いものを学ぶ。でもただ幸福であれば人間の本当に深いものを知ることはできない。それでシェークスピアが不滅の作品ともなっているのは悲劇がテーマになっていたからである。戦争にしても互いに血で血で争いなぜこんなに争わればならないのかという悲しまねばならないのかということを痛切に感じて戦争などしても無駄だと思うのである。
でも現実に戦争はなくならないのである。人間の争いでもなくなることはないのである。その原因はやはり人間のカルマが解消されないからだとなる。そのカルマが解消した世界は神の国でありそこにしか平和がないともなる


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2023年11月07日

イスラエルの問題の根はアブラハムまで遡る 【ガザの問題は解決していないから再発した】


イスラエルの問題の根はアブラハムまで遡る

【ガザの問題は解決していないから再発した】

●アブラハムの不如意の子のイシュマエルがアラブ人の祖

すでに75歳だったサラは自分には子は授からないと思って、若い奴隷ハガルを連れてきて、夫に床入りを勧め、高齢のアブラハムが奇跡的に身ごもらせた。しかし妊娠するとハガルはサラと不和になり、夫アブラハムは慣習に従い女主人に従うように命じたため、サラの辛い仕打ちに耐え切れなくなったハガルは身重の体で逃亡。神の使いの説得と加護を約束されて、ようやくハガルは帰還して出産することになるが、神の使いからは、息子はイシュマエル(「主は聞きいれる」の意)と名づけるように指示され(創世記. 16:11)、「彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす」との預言を受けていた(創世記. 16:12)。

そこからヘブル人とアラブ人の争いの根がありそれがまた2000年も過ぎて再燃した。そんなことがあり得るのかとなる。そもそもユダヤ人がローマ帝国に滅ぼされて離散して2000年領土もなく存続しづけるということができたことが奇跡的だとなる。だからこそユダヤ人は神の民であり選ばれた民でありそれで神が存続させたという言われる。
でもそんなに長く歴史を見れるだろうかとなる。日本なら2000年前は縄文時代になってしまうからである。そのとき国というのはない。だからそれだけ長い時間で歴史を見るということはどういうことなのかとなる。
ただ何か問題となる根は必ずありそれがたとえ50年過ぎてもまた同じように深刻な結果を招いた。ただ問題を封じ込めていただけなのである。アラブ人はガザに閉じ込められてその不満が鬱積していたのである。常に小競り合いはあったがこんなに大規模な死者が出るということはなかった。でも根本的に問題の根は解決したわけでわなかった。だからやはりまた問題が起きたとなる。

要するに個々の家族でも例えば愛人に生まれた子供が家族の不和をもたらす。それはそもそもそこの出発点からして問題がありだから必ず後々に何か事件となったり家族に不和が起きてくる。そういうことは常に推理ドラマのテーマになっている。何か後々の事件となるね根がありそれがカルマとなり必ず争いとなり苦しみとなり現れるのである。悪しき種をまけばそれはやはりそのままではすまない。必ず問題が起きてくるのである。

でも2000年前のそれ以上前のアブラハムの時代のことが今回のアラブ人とユダヤ人との争いの根となっているとなるとそんなに長くも続くのかとなる。そもそも争いの根となるものは解決していなかった。ただ一時的にガザにアラブ人を天井のない監獄に閉じ込めていただけだったのである。その時はハマスは地下トンネルを作り戦闘の準備をしていたのである。
そして用意周到にしてユダヤ人など外国人もまきこんで千人も殺す虐殺に成功したのである。それはそもそもガザにアラブ人を閉じ込めてその自由とか未来を奪ってしまったからだともなる。その不満は鬱積していてそれがハマスを生んだのである。テロに同調するわけではないが問題の根があれそれが解決されていなかったのである。

●歴史は継続であり3000年前のことも現代に反映する

だから人間の問題は2000年以上でもさかのぼり現代に影響をしている。だからなぜ旧約聖書のことを現代に通じるのかとなる。それはやはり人間の歴史は継続しているからだとなる。2000年前3000年前でも現代に影響して歴史はこうして連続したものであり継続したものであり時代つながり断続したものではない。だからだから今回のイスラエルの問題にしても特に聖書と関係していてエゼキエル書のなどは今の問題として取り上げられたのである。

聖書とは予言の書であり未来に何が起きるかを示したものである。だから2000年後になぜエゼキエル書が取り上げられて語られるのかとなる。その予言でも現実化するからである。 2000年3000年前にどうして現代を予言できたのかともなそこに聖書はいかに人間の未来を予言して見通すものだということがわかる。それはアブラハムの不如意の子として生まれたアラブ人の祖先のイシュマエルの出生の事情が関係していたのである。すでにそんなに前から現在まで継続した問題だったということである。

でもそもそもアダムを神が造りそのアダムが神が禁止した知恵の実を食べて堕落した。神の意に逆らって人間はエデンの園から追放された。そのこと自体が既に人間の根本的な問題が解決しないことになる理由なのである。
それだけではないギリシャ神話でもそれが現代までも生々しく継続されていた問題だったのである。ゼウスから火を盗んで過酷な罰を受けた。それはこの辺で起きた原発事故だったのである。放射性物質に汚染されて故郷にも住めなくなったからである。その盗んだ人は核のことでもあり原発のことでもあった。だからここでも人間の問題というのは常に継続したものとして起きているのである。何か遠い昔の事だから関係ないとなっていないのである。

ともかく神に祝福されたものと祝福されないものとに人間は分別されてそこで争いも起きる。するとカインとアベルの物語もそうであるある。カインは神に祝福されずついには兄弟のアベルを殺してしまったからである。それはやはり神が祝福したものと祝福しないものの憎しみからそうなったともなる。アラブ人もアブラハムの不如意の子としてイシュマエルから始まっているからである。その祝福されないことが今日まで継続して呪いとなっているのかとなる。
でもそんなに長く争いが継続するのかともなる。別にイスラエルは2000年後に建国しなければ争いはなかった。でもユダヤ人が2000年も離散して迫害されたから国を持つことが悲願となったのである。

●なぜ長子が重んじられたのか?

なぜ家にしても長子が重んじられたのか。長子はやはり神より授かった第一子でありそのために家の中心となるものとして大事にされたのである。なぜなら家でも家族でもまとめることが難しいからである。中心になるものがないと人間はまとめられない。だから殿様がいて国でも一応まとめるとなる。何かまとめるものがないと人は争い分裂するだけになるからであるだから日本の天皇というのは何なのかよくわからないにしろ日本日本国民まとめるものとして長子のように存在したのであるその是非はあれそのために日本国民はまとめることができたとなる。
それで南北朝時代に日本全国が隅々まで二分されたのは天皇は二人いるために分裂して互いに熾烈な争いとなったのである。つまり国を治める者が二人人になれば争いとなる。殿様は一人でなければならないのである。家族でもやはり兄弟がいて争いば一つになれない。王が二人人いたらその国はまとまらないのである。

でも世界の国を融合してまとめるものは何なのかとなる。人種も違うし様々な人たちをまとめるものは何なのかとなる。国連で協議してもまとまることはない。結局武力で決着をつけるとほかはないとなっている。話し合いしても国連は何もできない。ただ一応発言をさせているというだけである。国と国の戦争になればそれを裁くことなど誰もできない。日本は東京裁判でアメリカは裁いたとしてもそれはただアメリカが武力にまさって勝ったたからであれ別に正義でもなんでもなかったのである。つまり力が正義でありそれ以外何か正しいとか関係ないのである。

とにかく人間は家族であるいたるところで争いがある。大きくは国と国が争うその争いの問題の根は何かということである。そしてどうしたら互いに争いをやめ平和に暮らせるのかということである。それはその問題の根が残り続けて解決してないからまた再燃してくる。それは宿業をカルマを取り去ることもできないのである。

つまり人間の問題はいつまでたっても解決できないとなる。そして最後は人類最終戦争のハルマゲドンとなり人類は滅亡してゆく絶望的なものとなるのである。
聖書のテーマがノアの箱舟により地上からの脱出であり出エジプトでありソドム、ゴモラからの脱出でありこの世の地獄からの脱出であり神によって救出されることが祈るということでもある。神はその愛したものを祝福したものを見捨てることはないからである。この世の地獄からの救出が聖書のテーマでもあるからである。つまりこの世から地獄はなくならないということである。

それで親鸞が言うよう地獄は一定の住処なりとなってしまうのである。現実になぜまた第二次世界大戦がありウクライナで戦争がありまたイスラエルでも争いがある。この世から戦争は無くなることもないのである。戦争こそ最大の地獄だからである。それは人間のカルマでありそのカルマは消えることはない。それは個人でも家族でも地域とかでも国家でもカルマがありそれが必ず苦しみとなって現れるのである。そのカルマが解消されることがないのである。その問題の根が実際は2000年前3000年前にもありその根は残り続けて現在にまで及んでいるのである



posted by 天華 at 19:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年11月05日

大陸と日本の地理の相違―塔は外敵が攻めてくるのを見張るため 【歴史的トラウマを持つロシアでもユダヤ人のことでも知るべし】


大陸と日本の地理の相違―塔は外敵が攻めてくるのを見張るため

【歴史的トラウマを持つロシアでもユダヤ人のことでも知るべし】

●大陸国家では塔は外敵の攻めてくるのを見張る塔

大陸と日本の地勢的相違は日本は山が多く海に囲まれた島国である。でもヨーロッパとかロシアとか中央アジアは平原が砂漠地帯である。そこで共通しているのは必ず建築的に都市は城壁に囲まれ高い物見の塔が必ずある。それは敵が攻めてくるのを見張る塔ある。それは中国でも共通している。塔は日本のような優美な五重塔とかではない。敵が攻めてくるのを監視するウォッチングタワーである。それは都市には必ず必要な物だったのである。その塔に登れば本当に遥か遠くまで見渡すことができる。

それでケルンのドイツのケルンの塔に登った時それは相当に高い。だから頂上まで登ればオランダの方でも見渡せるしイギリスまでも見渡せる感覚になっている。日本だったら確かに韓半島が近いにしても九州から見えないのである。イギリスはヨーロッパ大陸と一体でありそれほど離れた感覚はないのである:

その下をライン川が流れオランダに通じ物資が船で運ばれている。つまり平坦な地ということは遠くまで高い塔に登れば見渡せるのである。でも日本になると必ず山に遮られて遠くは見えないのである。ヨーロッパとかロシアとかでは遮るものは広大な森であり山ではないのである。ただイタリアになると日本と似て山が多い。だからイタリアは特殊な地域だと思う。

いずれにしろ中国でも本当に塔が多い、大陸ではそこは共通している。遠くを見て外敵が侵入してくるの監視している。日本では五重塔があったとしてもそういう外敵を見守るという機能はないただ優美な塔なのである。そこに地理の相違から来る文化の相違があ。またバベルの塔などというとてつもない塔を作って神の怒りを買ったというのもそれが大陸の文化でもあったからである。

ともかく塔というのは大陸ではヨーロッパで大きな役割を担っていた。敵が攻めてくるという警戒の心が強くあり作られたのである。今回のイスラエルのガザで起きた事件でもイスラエルでは油断していたのである。ガザを塀で囲んで出れないようにしていたがそれが破られて千名以上の人が惨殺されてしまったのである。それはやはり警戒を怠ったということになる。つまり大陸国家でわ常にそうして外敵が侵入してくる恐怖がある。そのために塔が作られたのである。

●歴史的トラウマを知るべしーロシアとユダヤ人の歴史

プーチンにとって、第二次世界大戦でドイツの侵略と戦って勝利したソ連の歴史は大いなる誇りです。
「ロシアにおいて、国家という広域社会が建設されることが、人類の他の文明圏よりもはるかに遅れたという理由の一つは、強悍なアジア系遊牧民族が、東からつぎつぎにロシア平原にやってきては、わずかな農業社会の文化があるとそれを荒らしつづけた、ということがあります。文化も、他の生物学的組成と同様、しばしば遺伝します。ロシア人の成立は、外からの恐怖をのぞいて考えられない、といっていいでしょう」(司馬遼太郎『ロシアについて』)

 ドイツ軍とソ連軍の大規模な戦車戦は、現在のウクライナ東部の平原地帯で展開されました。ここでソ連軍を破ったドイツ軍は、レニングラードやスターリングラードを包囲。ソ連軍に多大な犠牲が出ました。

ドイツによる侵略で、ソ連は兵士や民間人など約2660万人の犠牲を出しました。日本の太平洋戦争の犠牲者は約310万人ですから、ソ連の犠牲は群を抜いていました。

女は拉致、残りは虐殺のモンゴル騎馬軍…プーチンの猜疑心の裏に「259年に及ぶロシア暗黒史」

ロシアは森林を除けば、侵略から身を守る自然の障壁を何ら持たない。最後の陸上帝国であるため残虐に征服されることの意味を深く身に刻み、領土を拡大維持するか少なくとも隣接する影のゾーンを支配しなければならないという強迫観念に囚われるようになった。


地政学の逆襲ーロバート・D・カプラン


歴史とは国家的トラウマである。個人的にも人生経験で必ずトラウマになる。私自身もここ十数年介護とか経験して他者から攻められて人間が信じられなくなった。人間とは相手が弱者と見れば弱体化すれば弱みを見つければそれを責めつける。それより相手が弱体化することを虎視眈々と狙っていたのである。そのように個々人の人生でもそうであり国家間では特にそうになる。それで必ず日本でもそうだな戦国時代があった。食うか食われるかの世界である。そして弱った動物が狙われるように人間でもまた同じなのである。ただ食う方にしても食わねば生きられないということでそうなっている。

でもそういう過酷な経験をしない人間はみんな人間をいい人だと見ているのである。でも現実は人間でも追いつめられればみんな弱肉強食の人間となるのである。だから人間の信じられなくなったしまた。人間ってこんなに酷いものかとトラウマになってしまったのである。つまり個人でもこうして何かひどい目にあうとそれがトラウマとなりの後の行動にに影響してくる。
それは国家間同士でもそうでありそれが歴史的トラウマとなったのである。だから歴史を見るときそこで何があって人間にどういう影響したのかを見るべきだとなる。ロシアはドイツと戦い2000万人以上が死傷したとかその被害があまりにも大きすぎたのである。そうなれば当然それがトラウマになってしまうのである。

●ユダヤ人の歴史的トラウマ―イスラエルは世界の中心

イスラエルにしてもユダヤ民族は離散して2000年間国も無く虐げられてきた。それがトラウマとなった。特にドイツナチスには大量虐殺されたことで大きなトラウマを持つようになったのである。だからどうしても自分たちの国を持たなければならないと今のイスラエル国家を建設したとなる。それはただそこはすでにアラブ人が住んでいて争いとなったのである。でもユダヤ人側に立てば歴史歴史的トラウマがあり自分たちで国を作り自分たちで国を守らない限り滅亡させられるという恐怖がありそのために外部の言うことを聞けないとなる。

ともかく一人の人間でも一つの国でも理解することが難しいのはそれがたどってきたそれぞれの歴史がありそれがなかなか理解できないからである。その歴史的経験がトラウマとなり恐怖心となりやらなやらなければこちらがやられるという感覚になっている。それはウクライナ戦争でありまたイスラエルの戦争でもある。何か今のイスラエルで起きている戦争の恐怖は世界最終戦争ハルマゲドンに通じているかなのかという恐怖である。世界の国がイスラエルに集結してハルマゲドンが起きる。そして人類が最終段階に入ってその時救世主はあらわれそうした予言が本当に現れるような実現するような感覚になっているからである

エゼキエル書のようにゴグとはロシアであり中国でありイランなのかもしれない。一方でイスラエルに味方するのはキリスト教国でありヨーロッパとかアメリカである。でもロシアもキリスト教国である。だから必ずしも宗教で分けられない。ただイスラエルを通じて世界が集結して最終戦争が起きてくる。それで世の終わりとなりそこに救世主が現われてくる。その予言があり何かそういう予感をさせるのもイスラエルユダヤ人起きているからである。

ともかくイスラエルというのもなぜ重要かというと地理的に神が定めた世界の中心だからである。その中心だからそれをめぐって世界中が関係して最終戦争になるともなる。だから世界史とは地理であり地理を知らなければ世界を知ることはできないのである。
でも地理を知るにしてもあまりにも広大で感覚的にそこで必ず誤解して見ているのである。確かに私はエジプトからシナイ半島からイスラエルに来た。イスラエルの地理的特徴は地中海に面してヨーロッパに向かっていることである。ガザとかでも貿易で栄えたというとき地中海に面して船で行き来していたからである。そこに地の利があったのである。確かなことはイスラエルのカナンは神が定めた国でありそこが世界の中心になっているからである。それは神が定めたものでありその位置が重要なのである。なぜなら今起きていることがイスラエルから見ると中東のアラブ人世界と地中海を面したヨーロッパとゴグと言われるロシアとかイランとかその背後に中国がいる。

そして日本の位置は不思議なのはロシアとか中国にも属していない。欧米に属していてもG7は共同でイスラエルを応援するようにした。でも日本はそこに入らなかったのである。つまり日本は東西の仲介役を担う位置にあるとなる。東西を結ぶものが日本なのである。それは内村鑑三などが指摘していたのである。つまり地理的にそういう役割を担っていた国だということである。となるともしかしたら日本の役割はかなり大きなものとなるかもしれない。つまり今仲介役になり得る最適の国なのかもしれない。ただそれもなかなか難しいだろう。下手して介入すると大怪我をするということである。でも今や高みの見物とはいかない。その争いの火粉が必ず飛んでくるからである。それだけ世界が狭くなっているからである。

日本国は世界の一半あ他の一半と結びつけるための偉大なる天職を帯びています。
日本国はアジアの門であります。日本によらずしてシナもインドもペルシャもトルコも救われません。人類の半数以上の運命は日本の肩にかかっています―内村鑑三

その使命があっても太平洋戦争は何であたのか、その犠牲は何であったのかアジアの為の犠牲だったのか?
ただ地理的にはそういう使命を担っていたことは確かである。



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2023年10月25日

今回のイスラエル問題は聖書の理解が不可欠 【神は活ける神であり人間にかかわり続けている】


今回のイスラエル問題は聖書の理解が不可欠

【神は活ける神であり人間にかかわり続けている】


●同じアブラハムの子でもアラブ人の祖のイシュマエルは祝福されなかった

聖書が何なのかということを知らないと今回のイスラエルとパレスチナの争いも理解できない。その歴史はアダムから始まりその後にアブラハムが信仰の祖となったのである

すでに75歳だったサラは自分には子は授からないと思って、若い女奴隷ハガルを連れてきて、夫に床入りを勧め、高齢のアブラハムが奇跡的に身ごもらせた。しかし妊娠するとハガルはサラと不和になり、夫アブラハムは慣習に従い女主人に従うように命じたため、サラの辛い仕打ちに耐え切れなくなったハガルは身重の体で逃亡。神の使いの説得と加護を約束されて、ようやくハガルは帰還して出産することになるが、神の使いからは、息子はイシュマエル(「主は聞きいれる」の意)と名づけるように指示され(創世記. 16:11)、「彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす」との預言を受けていた(創世記. 16:12)。

こんな大昔のことが今と何の関係があるのかとなる。でも現実に関係している。アラブ人とは何かとなればアブラハムの息子であっても不如意なものとして生まれた子である。だから祝福されて生まれたとは言えない。ということはそれが現在までも通じているともなる。でも中東ではアラブ人が増えて繁栄したのである。

彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす

こういう傾向がアラブ人にあるかもしれない。好戦的であり常に争う人たちである。何かアラブ人には依然としてその始まりからして不如意なものとして生まれたものの宿命を背負ってそうなったのかもしれない。それにしてもそんなに長い間民族の歴史として宿命としてカルマを背負っていたのかとなる。つまりアラブ人はアブラハムの子であっても不如意なものとして生まれたのであり必ずしも神から祝福されたものではなかったのである。

つまり聖書は人間と神が直接関わる物語である。神は人間を作ったとしてもあとは何のかかわりもないということではない。神は人間にかかわりその行跡を記したのが聖書だと思う
だから常にあり得ないことは奇跡が起きているのである。アブラハムの正妻のサラが90歳でイサクを生んだということもそうである。そんなことがあり得るのかとなるからである。だから聖書とは神が関わって奇跡を起こした物語だとなる。その後もやはりこならず神が関わり奇跡を起こす物語は続いたので。
そういう物語は他ではない。そこで一番大事なことはアラブ人の祖となったイシュマイルは祝福されて生まれた子でわはなかった。だから神にも祝福されていないからその子孫もまた祝福され民族とはならなかった。

●神は活きる神であり人間にかかわりつづける

そうは言ってもではなぜ正当な神から祝福されたイスラエルのユダヤ民族はそのローマ帝国に滅ぼされて離散して常に迫害されてきたのだろうかとなる。それは神の子のキリストを十字架につけた呪いであったのかとなる。今でもユダヤ人はかたくなにキリスト神の子として認めていないのである。ただキリストもユダヤ人であり旧約につながるものとして存在しているのである。
ただ確かなことは神は人間を作ったがそのまま何の関係もないとして関わらないという存在ではない。神は人間にかかわり続けてきたのである。
それがどういう風に関わってきたかそれはいろいろありその関わり方も違っている。それを記したのは聖書である。

確かなことは神と人間は没交渉であり互いに関係ないということではない。神は人間に直接関与して働く。神は死んだ神ではなく現在でも生きている神なのである。だから生きている神が現在でも人間に関わってくるのである。だからこそ神というのは存在し続けこの世の終わりまで存在しつづけそして一番大事なことは神から祝福されることである。確かに人間でも智慧が働きいろいろなものを発明して文明を作る。でもそこに限界がありこの世に理想の国は作れない。何かしら問題が起きて原発事故のように破綻するのである。

それより大事なことは神に祝福されこの世から離脱して神が備える天の都に救出されることなのである。なぜこうして争いがやまず戦争も止むことなくあるのか。それも人間の力では止めることもできない。国連でもいろいろ議論しても止めることもできないのである。そこに人間の限界がある。そもそも議論してもまとまらないのである。
聖書のテーマはこの世からの救出であり脱出であノアの箱舟がそうであり出エジプトもそうでありソドムゴムラからの脱出がもまたそうである。
この世はこうして業火となりハルマゲドンとなり滅びるとなる。でも神はその後救出して天の国にに導くのである
ともかく神は人間にかかわり続けている。もし関わらなくなったら人間は終わりだと思う。人間はいろいろな問題を解決しようとしても解決できない。人間の力には限界があるからである。ではなぜ悲惨な戦争は終わることなくならないのか。それも人間のカルマが消滅しないからかもしれない。

●人類はもともと兄弟でありそれがなぜ争うようになったのか

アブラハムの子であってもアラブ人の祖となった不如意の子として生まれたイシュマエルのことがカルマとなりそれが今日まで続いているのはなぜなのか。その元をたどっていけば兄弟なのである。でもアベルとカインの物語のように兄弟が殺人の始まりだから人間は兄弟でも殺し合うということでそれが人間のカルマとして継続しているのかとな。確かなことは神から人が祝福されない時それはこの世の終わりかもしれない。神が関わらない世界はいくら人間が努力しても理想の世界など社会など作れないしバベルの塔のように崩壊するだけだともなる。

なぜ今回の問題がほかの問題と違って聖書と深くかかわっている。だから聖書のことをわからないとなかなか理解しにくい。アラブ人とユダヤ人は共に一神教でありどうして争うのかというのも分かりにくい。もともとはアブラハムを祖として兄弟の民族だったからである。そもそも元をたどれば人類は兄弟でありそれがなぜ争うようになったのかとなる。その争いの元の大きな問題が土地を巡る争いだったということである。だからこそ土地に執着しない遊牧民に神は現れたのである。この世は一時的に滞在する場であり異邦人であり本当の生きる場所は神の備えた新しい天と地にある。だからこの世はいくら人間が努力しても最終的に破綻してしまう。でも神は人間にかかわり救出するということである




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2023年10月24日

イスラエル民族主義が問題の根源にある 【石を投げて戦うガザの人たちはゴリアテと戦っているのか】

イスラエル民族主義が問題の根源にある

【石を投げて戦うガザの人たちはゴリアテと戦っているのか】

●新約と旧約聖書の相違

旧約と旧約の相違はなになのか、それが今回のイスラエルの問題でも関係している。神の民としてのイスラエル民族主義がありそれを実行すれば異民族は滅ぼされるべきだとなる。現実に旧約聖書では神に逆らう者は滅ぼされてきたからである。それはその民族を根絶やしにする絶滅させるという徹底したものだったのである。

それが旧約聖書の記録なのである。 ヘブル人が神に選ばれた民である。だからこそ神の味方する。政教一致になるとそうなる。日本だって神国となって特別天皇を神として神の国だと戦争に負けないとかなって3百万にも死んだのである。それは75年前であり遠い昔ではないのである。何故そうなったかのかとなればそれは政教一致だからである。宗教というのは創価でも何でも政治と一体化するのである。神の民となり仏の民となり政教一致となり時の政権を奪取することに向かう。そして反対すると罰当たるとか地獄におちるとか言って批判は許されないのである。

政治とは妥協の産物である。でも宗教は妥協するということはない神は絶対であり仏も絶対でありそれに逆らうことはできない
逆らう者は徹底して攻撃して排除するとな。だから何か妥協するということはないのである。
要するに今回の問題の根源に民族主義があり選ばれた民としてのユダヤ人がありパレスチナ人は民族も違うしまたアラーの上神に祈っているとしてもそれをまた一神教としては同一だがエホバの神ともまた違っている。

つまり民族宗教となるときある民族が優秀でありその民族に支配されなければならない。それがナチスにもなった。アメリカでも白人が一番優れているから白人至上主義になり必ずある。でもどうして白人は皆優れているのか。確かにその中には優れている人もいるわみんなが優れているわけでもないのである。
ある民族が特別すぐれていて神に選ばれた民でありそれを尊ばねばならぬ。それがヘブル人の信仰であり思想である。キリストが現れて新約の時代になるとまた様相がかなり変わってしまった。実際は黒から白になったくらい変わってしまったのである。キリストの信仰は民族主義信仰ではない。ヘブル人が優秀だとして神に選ばれたということではな、なぜキリストが十字架についたのか。それは当時民族派がいてヘブル人の党派に属さないから殺されたとしている。

●キリスト教は人道を重んじる宗教

キリストを通じてヘブル人の宗教でも万人に普及したのである。

【心の清い者は神を見るだろう】

その前にどの民族とか誰かとか選ばない。白人か黒人かとも選ばない、それは人類個々人に当てはまるのであり民族とは関係ないのである
それはヘブル人に限定するものでないから普及したのである。例えば宗教の違った人がイスラム教でも苦しんでいる人を見ればかわいそうだと見て助ける。でも宗教が違っているからといって助けないということはどうなるのかとなる。
つまりキリスト教徒は人道的宗教なのである。人道を一番重んじているのである。その最たる言葉が教えが汝の敵を愛せよということであ。敵でも愛しなさいということを教えたのでだからある。ガザであれだけ苦しんでいる人たちがいるのに宗教的理由から肯定されるということはキリスト教徒だったらありえないと思う。
もちろんユダヤ人の被害も大きかったのだから恨むのはいやむを得ないと思う。それが旧約の時代ならば相手の民族殲滅するとなる。だからイスライルで起きていることは旧約時代の再現なのである

そして旧約聖書でも神は必ず弱い者の味方のなのであ。それが象徴されているのはダビデがゴリアテを石を投げて勝利したことである。相手は強力な敵だったのだが簡単に一つの石が当たって死んでしまったのである。それで思うにはガザではこれまでイスラエル軍にそうして抵抗してきた。それが若い人でも石を投げて抵抗していたのである。武器がないからそうしていたのである。ガザの人たちは弱い人たちなのである。

でもイスラエルは強力な武器があり軍隊を持っていたのである。ただ前の中東戦争でそうではなかった。周りがみんなアラブ人が敵と化してイスラエルに襲ってきたのである。でもイスラエルは勝利したのである。イスライルは四方をアラブ諸国に囲まれて弱い存在だったのであるでも勝つことが出来たのである。そこに神が加勢したともなる。

●日本民族主義と結びついた日蓮の信仰団体の危険

でもその後は強力な軍事国家となりアイアンドームとか鉄壁の守りを作り備えた。でもそれも破られたのである。その原因はあまりにもハイテクに頼った結果だと評している。ここに現代の盲点があったのである。とにかく今やイスラエルはゴリアテであり石を投げるガザの人たちがダビデなのかと見てしまう。だからイスラエルに神は味方するのかと疑うことにもなる。
いづれにしろ民族宗教というのは危険なのである。ナチスとかもゲルマン人が一番優秀だからとあれだけ悲惨な結果になった。日本民族主義でも日本は神国でありだから必ず勝つとなりそして300万人も死んだのである。民族宗教というとき日蓮主義は危険である

日本民族主義であり戦争の時もやはり日蓮主義があったからである。今でも日蓮系統は創価であり顕正会であり国粋主義であり民族主義であり政教一致だから危険なのである。それらどうしても過激になる。
だから政教一致というのは災いの元になる。それを見過ごしていると大惨事になるということである。宗教とならば妥協というのはない。絶対だから従うか従わないかになる。そこで政治的に妥協するということはなくなるから苛烈になり犠牲者も多くでる出るのである
いずれにしろ汝の敵を愛せよといったキリストと旧約の民族的宗教とは違ったものである。そこが混同しているのである。

とまかく世界のことでも力だけでは解決しない、一見解決したようでも怨恨が残りまた争いが再発するのである。
アメリカがしてきこたは力の解決でありそれで失敗したとして反省している。つまり力では平和は来ない、それはキリストがいていたことでありそれがキリスト教徒でも実行していないのである。
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2023年10月21日

なぜ欧米はイスラエルよりになるのか。 キリスト教徒は聖書を基本にしているためイスラム教のコーランは読んでいない


なぜ欧米はイスラエルよりになるのか。

キリスト教徒は聖書を基本にしているためイスラム教のコーランは読んでいない


何か世界でイスラエルを人道的に見て批判するのが多い。でも欧米だとイスラエル寄りになる。それはなぜなのか。それはキリスト教はユダヤ人の旧約聖書がから不可分に結びついているからたとえ新約聖書でも必ず旧約聖書参考にしている。だからキリスト教徒は旧約聖書でも全く新約聖書と別物とは考えていない。ではイスラム教のコーラン読んでいる人は理解している人がどれくらいあるのか。ただ偶像崇拝の禁止ということで厳しく共通している。そもそも旧約聖書でも偶像崇拝との戦いの中からエホバの神を信じる宗教は生まれたのである。

だからその根源はオリジンは共通している。むしろ仏教などは仏像があり礼拝するから偶像崇拝となり過激派が破壊したりする。
でもこうして共通性があるのになぜ欧米でもキリスト教徒コーラン読まないし理解しないのである。私自身もコーランについてほとんど読んだこともないし理解していないのである。そうなるとどうしても旧約聖書を読んでいるからイスラエル側に寄るとなる。

なぜならキリスト教徒でも旧約聖書に通じていて常に引用しているからである。コーランの一節を変容する人などいないのである。そしてキリストを神の子とかだと認めない。イスラム教からすればキリストは神でも神の子でも何でも無いのである。むしろ偶像崇拝ともなる。普通の人間であり人間の像を礼拝することは偶像崇拝になるからである。でもキリスト教徒でもやはり偶像崇拝に関してはに関してはさまざまな禁止がされているのである。。それを調べればわかることである。

カトリック信徒としてキリスト教の神聖なる信仰を広めかつまたひろめマホメットの教義及び全ての偶像崇拝は敵とみなす。フェルナンドおよびイザベル両陛下の命により私は上記のインド諸国に派遣される運びとなった
上記の国の王族や民衆や土地を見聞し彼らの成功を見定めて我々の聖なる信仰に改宗させるべく適切な方策を探るのが目的であるクリストファーコロンブス。

ここにも偶像崇拝お敵とみなすという厳しい言葉がある。ただマホメットの競技に関しても敵とみなすとあれここにキリスト教のみを絶対として布教する目的がコロンブスにはあった。
フェルナンドという姓は日本に来た普通の労働者のスリランカの人にもいたしまたフィルナンドのを姓を持つ人は大航海時代に植民地化されて多いのである。
でもなぜ十字軍の時イスラム教徒とキリスト教徒が激しく戦った。その時イスラム教徒一緒に生活していたユダヤ人はキリスト教徒と一緒に戦ったのである。その時ユダヤ教徒であれ差別することはなかった。キリスト教徒でも啓典の民の民として必ずしも対立するということでもなかった。フォーンはあ

ともかくコーランのことはキリスト教国でわそれを読んだり理解することがない。日本人でも仏教のことはある程度歴史があるから読む人もあり理解することもある。たとえ仏像であれそれに価値を認める人はいる。でもコーランを読んだりそれを理解する人は極めて稀なのである。聖書だったら新約であれ旧約であれ何かしら知っているし身近なものとしてある。でもコーランのこと知る人は非常に少ない。でも宗教であれば本当はそれだけ多くの人が信仰しているのだから理解するべきだともなる。
むしろユダヤ教は旧約聖書から成り立つから理解するのである。そもそもイスラム教のコーランを理解する人がごくわずかだからそこに偏見が生まれ対立が生まれている。

旧約聖書となると新約とは違いヘブル人の民族宗教であり神がヘブル人を選び神の国をつくるものとした。だからユダヤ人以外はへブル人以外は信仰できないものともなっていた。
でもキリストが生まれて万人の宗教となったのである。それはヘブル人だけを選ばれた者としない。全人類に通じる愛を説いたのでありまた聖霊は万人に下る。ヘブル人だけを選ばれることはなくなったのである。だからユダヤ人のユダヤ教はキリストを信仰しないしユダヤ人は宗教的にもキリスト教徒から迫害され続けてきたのである。でもキリスト教徒も必ず旧約聖書を参考にするからユダヤ人を本当は尊ぶべきものとなる。でもキリストを殺したということで差別されてきたのである。
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2023年10月20日

イスラエルへのハマスのテロ 【宗教がからんで奇々怪々にインターネットで多角的に見る】


イスラエルへのハマスのテロ

【宗教がからんで奇々怪々にインターネットで多角的に見る】


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総資産6000億円 ハマスのトップ「5つ星豪華生活」 優雅な“安全圏”から攻撃見守る?

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イスラエル解体を目指すユダヤ教超正統派団体 ナトレイ・カルタ


●ハマスの幹部が巨額の金を貯えてカタールのホテルで贅沢

これほど複雑なものは無い。インターネットで多角的に見ても一色ではない。意外だったのはアメリカのユダヤ人の中でもシオニズムにイスラエルの建国に反対する人たちがいたことである。そのラビがユーチューブに映っていた
またイスラエルから脱出する人も増えている。そもそも最右翼のネタ二ヤ首相で政権に反対する人たちもかなりにいたのである。イスラエルでもユダヤ教でも一枚岩ではない。それも意外だった。
またハマスにしてもその最高幹部たちがカタールとかでホテル住まいをして贅沢をして暮らしている。その人たちは大金持ちだったのである。これも何なのかと見た。その手下たちは命がけで戦っているというのにその幹部は安全な場所で贅沢三昧としているまた巨額の金を貯えている。それもなんなのだろうと見る。まるで人間の善悪でもわけわからなくなる。

イスラム教のアラブ人側にしても金持ちなのだからガザが貧窮化しているのだから金を出して助けるとか移民として受け入れるとかすればいい。でもそういう面でも欠けているように見える
そもそも援助するにしてもその金が上の人に奪われたりまたテロ組織に流れているとか一番苦しんでいる下層の人たちに回らないとかなる。だからイスラエルではガザに援助してもハマスに回り武器を買う金に回され庶民には金が回らないともなる。

ハマスでも幹部には莫大な金が入っても一般人に入らないという矛盾がある。そういう幹部を見ていたら戦う気になるのかとなる。生きる死ぬかの戦いをしている時ホテルでテレビを見て観戦しているのかとなる。アラブ側にも相当な問題がある
そういうことは時代劇でも常に放送している。何か若者でも急進派がいてもその人たちの純粋な気持ちを利用して実際はその上の幹部達上級職の人たちが得するものとなっている。だからここでも同じようなことが起きているのかとなる。

●宗教戦争なのか

カルト宗教団体でもやはり善を正義を主張しても扇動しても実際はその幹部たちは得することになるそうした善とか正義とかには関係なく利益を得るのはその人たちだけだとなる。
ここでも宗教がからんで複雑怪奇になっているのである。だから人間というのは常に仮面を被っていて何が真実だかもわからなくなる。そして宗教が絡んでくるとわけわからなくなってしまう。イスラム教でも聖戦となりまたユダヤ教でもやはり聖戦となりそれで互いに譲り合うことはなくなる。でもアラーの神とエホバの神が戦うのかとなればそんなことはないのである。
ただ一神教なら偶像との戦いだったからそれはありえる。でもアラーの神でもエホバの神でも偶像を否定している神だからその神が争うということはありえないのである。

だからこの問題は宗教の相違から来て宗教戦争と言うのにも思えない。根本的な原因はやはり宗教というのではなくパレスチナ人をガザとかに隔離して閉じ込めて苦しめた事にある。もしそうそれがなければこんな争いにはならなかった。

イスラエルが聖地となっていることは分かる。でももその土地にはにはすでにパレスチナ人が住んでいてその土地を奪うということはいくら宗教であってもそれを主張できるのかとなる。ただイスラエルには三つの宗教の聖地としてありそれは三つの宗教は共同して管理できるものとするべきだった

ユダヤ人でもイスラエル建国に反対していた人たちがいたのである。またイスラエルから脱出する人たちも相当数いる。それはロシアでもウクライナ戦争に巻き込まれるのは嫌だとして脱出したのと似ている。つまり戦争というとき誰が起こしているのかとなる。国民全員が一致ということはないのである。賛成する人もいれば反対する人もいる。それはユダヤ人のラビでも反対する人がいたのである。だから強硬派がいて穏健派がいる。それが政治でもある。

同じユダヤ教だから最右翼の強硬派となっているかとみればそうでもなかったのである。ただどうしても少数派だから目立たないし取り上げない。でもインターネットだとそうした少数派も意見として一応目立たないにしろ報道もされるのである。それが今までのマスコミ中心の報道とは変わったのである。

●インターネット時代は多角的に見る

だから多角的に見ると言うことで一方的にはなりにくい。それを理解するのも難しいがとにかく一方的な報道にならないからそれで全員が黒一色のようにはならない。ファシズムにはならない利点がある。ただそうなるとさまざまな見方がありそれを個人で判断するということは難しい。だからこそ一方的な見方は席巻するのである。
難しいことを言わないで大衆を洗脳するのはそうした一方的な見方でありその内実がどうなっているかなど検討しないでナチスのようになってしまうのである
特に宗教が関わると複雑になり宗教は絶対だとなり創価などでもほかの宗教団体でもとにかく批判すれば仏敵となり罰あたる地獄に落ちるとかなんとかなり議論すらできないのである。

ここでも宗教が関わって本当に複雑である。ハマスはテロ集団だといってもその背後にはイランがいてロシアがいて中国がいるとなるとこれまた複雑なものになる。そのテロの根を断つとしたらその背後の国を断たない限り解決できない。そうなると国同士の戦争となりこれらの国は核を持っているとしたら人類滅亡の最終戦争になってしまうのである。だからこそ今度のイスラエルのハマスのテロは第三次世界大戦の導火線になるということで恐怖したのである。

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2023年10月19日

国家は国土は土地をめぐって争いが終わらない 【アダムの意味は土ーー地から離れて天の国に行く】

家は国土は土地をめぐって争いが終わらない

【アダムの意味は土ーー地から離れて天の国に行く】

●姓から見た世界ー大陸国家と日本の姓の相違

エロヒムによって創られた最初の人間である。ヘブライ語「אדם(アダム)」の名の由来は「אדמה(土)」だが、右から読むヘブライ語としての末尾には語根の「דם(血)[1][2]」が位置する。
Adamという語は、ヘブライ語で「地面」を意味するadamah(アダーマー)という語の男性形である。この言葉は同時に「人間」(アーダーム)という意味も持つ

第2章7節ではこの言葉の起源が、「神は地面の土を使って人間を作った」と説明されている

アダムの意味が土だということは土から作られたということはそこに意味深長なものがある。前に人間の争いが土地をめぐって起きて戦争になったということを考察した。

右から読むヘブライ語としての末尾には語根の「דם(血)[1][2]」が位置する。

日本語でも地【ちー血】になっている。

そして国とは必ず領土があり土地があって国がある。国土のない国はない。そして国家とは領土がなければ国家にはならない。
土地から離れて国家は成立しない。でも民族というのは国家がなくても国土がなくてもありうる。その代表となるものはユダヤ人である。他にもクルド人など国土はない国家がないでも一民族として存在している。
それで人間の姓をみるとき大陸国家では父系である。

イングランドでは、父系の名前の後に「息子」を意味するson(ソン)をつけて苗字として用いられています。
たとえば、Peterson(ピーターソン)は「ピーターの息子」という意味になります。

英語の苗字(姓、ファミリーネーム)の意味や由来をタイプ別に解説

大陸で共通しているのは父系でありその名前でも父親のが誰であるか大事になる。親というとき誰が父親のでありその子供はその父親の息子として認識される。
でも日本はかなり大陸国家とは姓でも苗字でも違っている。
日本の姓は必ず村の地名か地名が姓になっている。だから必ずその元をたどると村の地名に行きあたるのである。大陸国家は村が姓になることはない。むしろ姓が村の名になったりまたは国家にすらなる。 李朝鮮という時そうである。李一族の国が朝鮮だともなる。そういうことは日本ではありえない。でも大陸国家では姓を共有することはその土地を共有することより大事であった。日本ではむしろ土地を共有することで村がありその村の地名が生となったのである。

だから遊牧民だとどこどこの土地に住んでいるとかでその人を判断するのではない。誰が父親でまたその父親の父系たどり判別する。それは遊牧民は土地を持たないで移動するからそうなる。だから遊牧民のことを知らないと大陸の歴史を理解できないとなる
日本が大陸を理解するのが難しいのは日本自体が世界から見ると特殊になっているからである。姓からして世界から見れば特殊なのである。日本の特徴は中国であれ中東であれ大陸国家から切り離されて島国になっていたことである。

●日本人は砂漠と遊牧民のことが理解できない

大陸には砂漠があり中東はイスラエルまで砂漠のである。その砂漠から一神教が生まれた。それはユダヤ教であれイスラム教であれキリスト教でも同じなのである。イスラエルは砂漠であり遊牧民は羊を飼う遊牧民の国家なのである。ただユダヤ人が入植して灌漑して豊かにしたのである。

ではなぜ遊牧民にエホバの神が現れたのか?。砂漠に現れたのか。
その砂漠というのがどういう場所なのか日本人にはそもそも砂漠がないので理解できないのである。砂漠にはさまざまな生物でも植物でもいないしモーゼは登ったシナイ山など岩石の山であり一本の木もなかった。それだけ厳しい荒涼とした場所だったのである。そういう場所に神が現れたと言うことである。
それはやはり偶像崇拝を禁止する宗教でありそれはイスラム教徒も共通している。一神教でありあらゆるものが神となった世界とは違ったものなので。

つまりこうして日本人のユダヤ教であれイスラム教であれキリスト教でも理解しにくいのは砂漠という風土を理解できないからである。そこにはまさに砂漠と岩石くらいしかなく非常に厳格な場所なのである。だから十戒とかでもモーゼが登ったシナイ山で神から授かった。そこは厳しい場所でありその戒律も厳格なものとなったのである

そしてなぜ砂漠に一神教の神が現れ遊牧民に現れたのか。そこに宗教を解くヒントがある。それは最初の人間アダムは土から生まれたということである。そのことで人間の争いが戦争は土地を巡るものだということを書いたがまさに人間は地の者であり天のものではない。
アダムとはまさに地のものであり天のものではない。人間がアダムが知恵の実を食べて神から離れたというときまさに地のものとなったのである。そしてなぜ人間が争うのか。その原因もまだ地のものであるから土地をめぐって戦争がやまないのである。

だからこそイスラエルがアブラハムに与えられたとしてもその地は争いの地となった。ユダヤ人が2000年をへてイスラエルを再び建国した。その時そこに住んでいたパレスチナ人とアラブ人と熾烈な争いとなってしまったのである。カナンの地をアブラハムに神が与えたとしてもそれはあくまでも天の国の神の国の象徴として与えたものであり本当の神の国は地から離れたものにしかないのである。つまり人間は土地をめぐって争いがやむことなくある。人間は地のものであり天のものにならないかぎり争いはやむことがない、それをイスラエルの争乱は示している。

●イスラエルでなぜまた争乱が起きているのか

アダムが土を意味しているようにその土から離れない限り争いはありそのために人類は滅亡する。そのカルマは消滅しないのである。だからこそ2000年も経てイスラエルを建国したということがそれが世界の災いともなる。大争乱となり第三次世界大戦にもなる。それはまさにアダムの土から生まれたの宿命だったともなる。この地から離脱しない限り永遠の平和はありえないともなる。

ユダヤ人はローマ帝国に滅ぼされてから離散して迫害され続けてきた。またキリストを殺したということでキリスト教はヨーロッパに普及したとき迫害されたのである。十字軍の時も相当に迫害されたのである。だからイスラエルで十字軍が攻めて来た時アラブ人と共に戦ったのである。それで国を持たないから国家を持たないから迫害されるとしてイスラエルに2000年後にその土地を得たのである。
でもそれが世界騒乱を生みみ出したというのは何なのかとなる。それはやはりアダムは土から生まれたように土地をめぐって人間は争う。そこから脱することができないからこの世に平和がないともなる。

そして逆にユダヤ人が迫害されてゲットーとかに隔離されたように今度はレスチナ人迫害してガザというゲットーに押し込めたというのも何なのかとなる。いじめられたものはまた他者をいじめる。迫害されたものはまた迫害する。そういうカルマが人間にはある。カルマの繰り返しが終わることなく続くともなる。そして最終的に人類は滅亡するのである。


●情報社会で実況中継されるから人道に反することしにくい

マクルハーンが予言していたように情報社会になった時

グローバル化して世界が一つの村のようになる。

だからいくらイスラエルが遠いとしても爆撃でガザで500人死んだということが衝撃になる。それも今は通信が発達してリアルタイムで映像でなまなましく放送されるから余計に遠いから関係ないとはならないのである。それだけ世界の事件が隣で起きたように感じる。それでマクルーハンは世界が村になると言ったのは慧眼だったのである。

つまり人道に反することをすると世界から責められるて不利になる。それでハマスのしたこともイスラエルでもガザを攻めて多くの犠牲者がでると世界の世論がアラブ人側につくとなる
それは時代がそうしている。世界にとって迷惑でありウクライナでも麦が輸入できないとか困っている。だから戦争をやめてくれとなる。それで情報社会とは世界中にリアルタイムで映像でも実況放送すらしているから世界中が注目しているから勝手にできないともなる。みんなで監視しているともなるからである。
だから人道に反することは世界を敵に回すとなる。

イスラエルの問題の複雑さーエゼキル書の予言 
【人間の業として土地争いが戦争の原因】





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2023年10月18日

イスラエルのカナンの地の重要性 【ロシアはカスピ海を通じてイランに接していた―空間軸と時間軸で見る世界情勢】


イスラエルのカナンの地の重要性

【ロシアはカスピ海を通じてイランに接していた―空間軸と時間軸で見る世界情勢】

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第27回 終末の中東大戦争 〜エゼキエル戦争への道〜


●イスラエルは砂漠であり遊牧民が住んでいた

世界情勢を見るときまず空間軸で地理を見る。それから時間軸で歴史を見る。ところが空間軸でも地球となると広いから必ず何か誤解している。それでグローバルとなると地理がわかったようで実際は分かっていないのである。
イスラエルは砂漠であり羊を飼う遊牧民の国でもあった。でもユダヤ人が入ってきてそこで農業を始めた。でもそこにはアラブ人が住んでいて暮らしていた。ただユダヤ人が入ってきて果実の栽培とか農業を始めた。そこで争いになったのである。

ただユダヤ人が入植した結果そこは豊かな土地にもなったのである。それまではそこは砂漠であり果樹園などはあまりなかったのかもしれない。それで灌漑などをして水が不足してその水を供給して豊かな土地にした。
それができたのはユダヤ人が入植して豊かな土地にしたのである。ただそのために前から住んでいたパレスチナのアラブ人と対立したのである。ユダヤ人は離散してか各地に住んでも土地を持てなかった。だから土地を持ち国を国土を持ちたいというのが悲願になった。
それでキリスト教では利子をとることを禁止していたがユダヤ人は利子をとる高利貸になった。それで嫌われる民族となった。金融業がユダヤ人の得意となりやはり今でもそうなのである。ロスチャイルドはユダヤ人であり巨万の富を築いたから常にそれで陰謀論に登場する

●神から与えられたカナンの地とは

地理的にイスラエルのイメージとしては地中海に面していて砂漠とは思えないのである。そもそもイスラエルでもなぜそこが目指してアブラハムそのカナンの地を目指した。
そこはカナンという名称は、フェニキア人が自分たちを”ケナアニ (カナン) “と呼んでいたことに由来すると言われています。

フェニキア人はアルファベットを発明した航海術にたけた民族でありレバノン辺りに住んでいて地中海を航海して貿易をしていた
レバノンとかイスラエルでも今のガザでも貿易で栄えた地域である。ガザにユダヤ人も住んでいて栄えていたのはそのためである。

カナン人は実際にはイスラエル人と混住し通婚した。ヘブライ語はカナン人から学んだものである
ヘブライ語がカナン人のものとなるとカナンという民族は何なのかとなる。フェニキア人だからアルファベットを発明した民族だからそれに由来する。カナンにはすでに先住民族がいてその言葉を受け継いだとなる。
水の流れる乳と蜜の流れる神の与えた理想の地とされていたのである。
だからこそそこがユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖地となったのである。

●空間軸と時間軸で見る世界情勢

そして地理の盲点となっていたのはロシアとイランは隣同士だったということである。カスピ海を通じてロシアとイランは隣同士だったのである。カスピ海を通て行けばばロシアなのである。だから地理的にロシアとイランは一体化もする。何かロシアとイランは地理的に遠いと見ていたからである。
このように必ず地理を見るときは錯覚しているのである。それだけ地球は広いし外国になると余計に錯覚しやすいのである。そしてどうしても地理で誤解して正確に世界を見れないのである。

もう一つは時間軸でも見るのも難しい。すでにイスラエルでもアラブ諸国との中東で戦争はありアラブ諸国に囲まれて孤立無援のようになっていたが勝利したのである。
その時はイスラエルを応援する人がかなりいたことは確かである。でもそれから50年とかすぎるとまたそのことも忘れられて何なのか分からなくなってしまう。何でも時間が過ぎるとそこその時代時代に起きたことはリアルに意識できなくなるのである。
それがわかるのは日本でも70年前以上に300万人が死んだという戦争のことでもそれを明確にリアルに意識できないなくなっている。

●情報化社会では全世界が戦争でも映像で見て注目する

今ガザで病院が爆撃されて500人死んだというときその方はリアルに意識する。特に情報化されてテレビの映像で見る時生々しいものとなる。なんてひどいことをするのだということになる。。イスラエルには言い分があるにしろテレビの映像からはなんてひどいことをイスラエルはするんだと今度はなってしまうのである。
だから現代では映像の影響が同時間でリアルタイムにで報道されるから影響が大きいのである。それは別に悪いことでもない。そこでどうしても人権とか人道的なものが常に言われるからである。それは映像でなまなましく伝えられるからである。

ただ一方でイスラエル側からすればそうした人道的なことにあまりに配慮すると実ははますがそれを利用してテロのためにその援助を利用していたとされる。それもまた問題なのだけど何かテレビ映像で伝えられる時生々しいものとなりどうしてもイスラエルには不利になるのである。
もちろんイスラエルはも被害が大きかったからその言い分も分かる。でもどうしてもイスラエルは圧倒的に軍備でも力を持っているから世界から批判されやすいのである。そもそもガザのことなど何なのか世界で注目もあまりしなくなっていた。でもそこでは継続的に紛争があり人も殺されていたのである。でも世界的には注目しなかったのである。
それにしても地下要塞には驚く。そんなものを作っていたということ自体問題だった。それだけイスラエルと戦うために用意していたのである。

●聖なる場としてイスラエルがあること

とにかく世界でも空間軸と時間軸で見る。それが基本になる。でもどちらでも必ず見間違う錯覚するのである。時間軸になると前後もわからなくなる。江戸時代などでもいろいろ年号があっても順序が逆になったりもしている。
だから時間軸で見ることも難しい。空間軸でも実際は地球は相当に広い。その広さを実感することは簡単にできない。それは地図をみたくらいでわからないのであ現実にその地図すらよく見てないのである。カスピ海を通じてロシアとイランが隣同士だったということが見逃していた。
でもそれを地図をよく見ていれば普通にわかったことなのである。だから地図を見ても世界のことが錯覚しているのである。すると何か具体的に世界情勢というのは理解できなくなる。だから何かが起こるというときまずtake placeになる。でもその場所も世界が広すぎてリアルに把握できないのである。

ただ地理的にイスラエルはなぜ重要かというと神がイスラエルを世界の中心として定めたからである。またイスラム教ではメッカが中心となりそこにイスラム教徒が参拝する。イスラム教は何かか具体的な像などを礼拝しない。偶像崇拝を頑なに拒否しているからである。でもその方角がメッカが重要でありその方角に向かって礼拝するのである。つまり場所が重要であり場所は聖なるものとなっているのである。
だからこそイスラエルはなぜ重要かというと世界の中心として神が定めたからである。そのためにイスラエルを中心にして世界でも動乱が起きてくる。それで今回のハマスのテロとかが恐怖するものになったのである。
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2023年10月17日

なぜ今回のガザのハマスのテロは恐怖なのか 【第三次世界大戦を予兆されるからーロシアが背後で関わっていた】

なぜ今回のガザのハマスのテロは恐怖なのか

【第三次世界大戦を予兆されるからーロシアが背後で関わっていた】

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●キプロスの歴史

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ユーロになるまえのキプロスの貨幣―イギリスが支配していた

十字軍は、中世ヨーロッパのキリスト教徒による聖地エルサレム奪還遠征軍の総称です。第1回十字軍から第8回十字軍まで、多くの国々が参加しました。参加国には、フランス、イタリア、ドイツ、イングランド、スペインなどがあります1. ただし、十字軍に参加した国々は、各回の遠征によって異なります。
12世紀、キプロス島は十字軍の標的となり、1191年6月には最初の十字軍征服者・イングランド王にして獅子心王の異名を持つリチャード1世がキプロスの地に上陸し、軍はキプロスを占領した

古代から近代にかけローマ帝国・ヴェネツィア共和国・オスマン帝国・イギリスなどの支配を受け、長らく政治的独立を得られませんでしたが、1960年にようやくイギリス連邦内の自治国として独立し、キプロス共和国を成立させることができました
1914年、第一次世界大戦が始まって間もなく、イギリスはキプロスを併合し、1925年、オスマン帝国の解散とともに、キプロスはイギリスの植民地となった。 独立 1959年2月には、イギリス、ギリシャ、トルコがチューリッヒ・ロンドン協定に調印し、ギリシャ、トルコ、キプロスも連合条約に調印した。 1960年8月16日、独立が宣言され、キプロス共和国が成立した

●複雑な歴史の背景−十字軍に対してアラブ人と共同で戦っていた

11世紀〜20世紀 - ガザのユダヤ教徒社会が繁栄
1099年 - ユダヤ教徒、エルサレムの防衛に、アラブ人と共に参加
1100年 - ユダヤ教徒、十字軍の進攻に対しハイファの防衛に参加
1191年 - ユダヤ教徒、十字軍によって追放される

この歴史はユダヤ教徒が十字軍のキリスト教徒に対してアラブ人と一緒になり戦っていた。つまりキリスト教徒とユダヤ人は対立していた。なぜならユダヤ人はキリストを殺したものとして迫害されてきたからである。
ガザでユダヤ教徒が繁栄していたというのもむしろイスラム教徒のアラブ人と一体化していたとなる。だからこそキリスト教徒の十字軍と共通の敵として戦ったのである。もともと古くからそこで生活していたから侵略者と共同して戦ったとなる。
つまりガザにユダヤ人が住んでいて栄えていたのである。だからアラブ人と一体化したのである。

イスラエルから船でキプロスに寄った。 7時間くらいであったがそこでイギリスのが通貨が利用されている。キプロスポンドでありイギリスが七つの海を支配したことでそうなった。
そのイギリスが十字軍時代からキプロスに関わっていたのだからその歴史も古い。エジプトポンドでもそうである。ポンドはそのときドルと同じ役割を果たしていたのである。世界基軸通貨となっていたのである。でもトルコリラも使われる。オスマン帝国とかにもかかわりその使用される通貨も変わってくる。

イスラエルにしてもユダヤ人がローマ帝国に支配されて離散した。それからイスラム系のアラブ人が住んだしまたそこで十字軍のとイスラムの戦いがあった。その歴史の変遷を見るといかに複雑なものになっているかわかる。日本のような島国で他国から侵略されない国は珍しいのである。大陸の歴史は常に他国の侵略にあっている。陸続きなのだから当然侵略されやすいのである。それで国が縮小したり拡張したりしているのである。

だからそれを理解することは日本のような島国に生きていれば分かりにくいとなる。そこに宗教が関わりさらに複雑化してわかりにくくなる。そもそもなぜイスラム教徒とキリスト教徒が対立して戦うのかその原因がなのか理解しにくい。なぜならアブラハム祖として偶像崇拝を拒否する一神教でありその源は同じだからである。
そしてなぜアラーの神とキリスト教徒がユダヤ教徒でもキリスト教徒でも対立するのか。それらは同じアブラハムから出て偶像崇拝を拒否することで同一のものだからである。むしろ仏教徒となると仏像を作るから仏像はイスラム教徒によって破壊されたように対立することは理解できる。

だからこうして対立して争う時アラーの神であれエホバの神であれまたキリスト教であれそもそもその神が争うということがあるのか。そのこと自体不可解だとなる。アブラハムから出た同一の神なのだから宗教的に争うとも思えないのである。すると必ずしも宗教的対立が争いの原因とも思えないのである。

今回のパレスなどイスラエルの争いは宗教的争いなのか。それよりもやはり土地をめぐっての争いだとなる。もともとパレスティナに住んでいた人たちがいてそこにイギリスなどの政治的思惑でユダヤ人にその土地を与えたからである。そこがこの争いの元にもなっていた。ユダヤ人にイギリスがその土地を与えたから当然争いが起きたのである。でも十字軍だったらイスラム教とキリスト教の対立となるがユダヤ人なればユダヤ教なのである。

●ハマスをロシアが支援していた?

ただこの争いが局地的なものに留まらず世界的に波及する。第三次世界大戦になるという不安が生まれている。現実にパレスチナのハマスに対してロシアが支援していたという。またイランが関わりその背後に中国もいる。中国はやはり最近外交的に中東に力を入れて和平交渉イランとかサウジアラビアとかでも和平交渉をの仲介役をしていた。
だからエゼキエル書に記されたゴグのロシアでありまたペルシャもかかわりそれは今のイランなのである。つまりキリスト教側の欧米とイスラム側が争うとなる構図となる。でも旧約聖書の時代にイスラム教はなかった。またロシアはロシア正教でありやはりキリスト教などだから必ずしも宗教の対立でもないのである。

ただゴグといっても紀元前のことだからその時はそんな国はない、ただ位置が一致しているだけである。
第二次世界大戦でもなぜドイツとフランスでもイギリスでも争うのか?同じキリスト教徒の国だからである。
ただエゼキエル書の予言が現在2000年後以上の前の予言が現実化するということになるとそれはやはり聖書というのは予言の書だということは証明されるのである。
ただでも現代は宗教を重んじるというより人道人権主義になりそれで世界の人がテレビを見て注目している。なぜそんな残酷なことをするのか。イスラエルにしてもなぜそんな残酷な事を圧倒的な軍事力でするのかとなる。

●聖書は弱者が神の味方となり勝つ物語

そもそも聖書というのは弱者は強者に味方して勝つという歴史である。でも今のイスラエルは圧倒的な軍事力で攻めてくるイスラエルの後ろには巨大なアメリカは存在している。だから聖書の時代とは違っている。これまではイスラエルに同情的なことはあった。それはユダヤ人が2000年も迫害されてきたことである。だからおそらくそのことでナチスにも大量殺戮されたとかでヨーロッパ人が贖罪のためにイスラエル支援していたのかとなる。そして今こうして迫害されたユダヤ人がアラブ人をイスラム教徒を迫害するということはどいうことなのかとなる。

でも今は人道的な見地から世界を人間を見る。イスラム教だからどうのこうのでなくキリスト教だからイスラム教徒とキリスト教徒とか宗教で分けるのではなく人道的見地からどっちにしろ殺し合いになり子供まで犠牲になるということに対して共通してやめるべきだどんなそこでなんとか仲裁して戦争をやめさせるべきだとなる。ただハマスとはテロ集団でありテロは世界的に許されないとなる。

いずれにしろ世界第三次大戦の不安が高まっている。それはロシアの背後にゴグの背後に巨大化した中国が存在して米中対立がありそれが台湾侵略とかになり日本まで影響するとまさに第三次世界大戦になる。そこで日本の立ち位置がどこになるのか今は欧米側にある。旧約聖書の時代はへブル人はエジプトでも強大な国と戦ったとしてモーゼが杖一本で神に導かれ戦ったのである。
強大な軍備などなかったのである。だからイスラエルの背後に強大なアメリカの軍隊があるのとは違っていたのである。
そしてテレビの討論でイスラエルはアメリカの内政問題だと言っていた。アメリカにユダヤ人が多くいて重要な地位についている人も多いからである。イスラエルはイスラエルで独立国家ではなくアメリカの州とも言える、だから内政問題だとなる。

でももしかしたら日本がイスラム系でありキリスト教系の欧米側であれその中立的な立場にありそこで仲裁役になりうるかもしれない。でも今は日本の国力は減退しているからそれもなかなか難しいだろう。でも何か確かに二つの陣営に分かれて世界第三次大戦の予兆は感じられるから恐怖なのである。イランの後ろにはロシアがいてロシアの後ろには中国がいる。中国はアラブよりであり中国が介入してくれば台湾問題があり世界第三次戦争になる。中国が台湾に攻め入れば日本は欧米側につくことなになるからである。


機会主義者のプーチンはイスラエル・ハマス戦争が拡大し、米国の支援が分散するのを望んでいる。習氏は米長期国債の売却と台湾海峡という2つのカードでバイデン氏を揺さぶることができる。私たちは第三次世界大戦に向かうのか、それとも米中両大国が協力して安定化を図るのか。世界はまさに運命の分かれ道に立たされている。

われわれはいま世界大戦「一歩手前」に、そして米国と同盟国は著しく分が悪い



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2023年10月13日

イスラエルの問題の複雑さーエゼキル書の予言 【人間の業として土地争いが戦争の原因】


イスラエルの問題の複雑さーエゼキル書の予言

【人間の業として土地争いが戦争の原因】

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●なぜ戦争になるのか―土地争いでなる

なぜ人間は殺し合う戦争が止むことなくあるのか。その一つの答えが土地争いにある。そもそも戦争はどうして起こるのか。それには確かにいろいろな原因はある。でも基本的に戦争はなぜ起きるのかというと土地を巡る争いから戦争になってきたのは人間の歴史だと思う。なぜならその土地を巡る争いというのは現代でも終わることなく続いているからである。それは国と国の争いだけではない。個々人の間でも家の間でも土地を巡る争いというのはありそれが揉め事の第一にあり土地を基本にして人間の生活があるからそうなる。

私の家でもわずかな土地でも奪われたことがありそれが私の代でも恨みとなっているのである。その恨みは一代で終わらず次の第代まで続くのである。国にしてもそれは土地を基本にして領土があって国がある。だから領土を持たない国はない。
そして戦争とはなぜ起きるのかそれは基本的には土地を巡る争いである。ここは私たちの国の土地だという時ほかの国の人たちが奪いに来れば当然戦争になるのである。
なぜロシアが北方領土を自国の領土としているのか。そこはもともと日本の領土なのである。でも日本は戦争に負けたからロシアの領土になったのである。それは理不尽なことなのである。それでロシアとは友好関係が保てないのである。
つまり日本の土地を奪ったのものはロシアだからである。またウクライナ戦争はなぜ起きているのかそれも土地を奪ったということで戦争が起きる。ただそこはもともとロシアだったという理屈で戦争にもなっている。
つまり人間の争いの起こりは土地を巡る争いになる。

日本の国にして日本にしてもやはり戦国時代がありそれは土地を巡る争いから始まっている。入会権の争いがありそれをめぐって山を所有する争いになりそれに大名は応援して戦争になったとかある。
また丸森の木材資源をめぐって米沢藩と伊達藩と相馬藩が争った。これはめぐる争いだったのである。土地もこうして常に争いの元としてあった。だから返って農業社会になったとき争いが熾烈なものとなったのである。なぜなら農業というのは土地なくしてあり得ないからである。

●太平洋戦争も満州に農業するため土地を求めたことが原因

それで例えばなぜ日本は太平洋戦争まで突入したのか。その原因もまた土地にあったのである。何故ならその時農業が主なる産業でありその農業のためには土地を必要としたので。それでその頃日本は島国であり土地が足りなそれで新田を作るために狭い領土をだんだん畑やら海側を干拓してた田にしたのである。それも限界がありその土地を求めて満州まで進出したのである。そこには広大な土地があり農業するにはその土地を手に入れればいいとなったのである。

だから農民は満州のような寒いところでも米を作るために努力したのである。それはそのとき農業が主な産業でありその農業をするためには土地を必要としたからそうなったのである。
結果的に日本はその土地を手に入れるために満州を領有したのだがそれがかえって災いとなり戦争で300万人も死んだという犠牲を払ったのである。太
太平洋戦争の原因は主なものはやはり満州に進出したことにあった。それが仇あだとなってついにはアメリカまで巻き込んで大敗北となり300万人も死んだのである。
そして今回のイスラエルの問題もやはり土地争いが原因になっているのである。イスラエルはすでにパレスチナ人がそこに住んでいたのだからそこにユダヤ民族が入ってきてそこが自分たちの国だだからパレスチナ人は邪魔だとなってしまったのである。
その理由は2000年前にイスラエルの国がローマ帝国に滅ぼされユダヤ人が離散したことである。そしてイスラエルはアブラハムは約束の神から約束の地として与えられたものである。そのアブラハムを祖とする宗教がイスラムキリスト教ユダヤ教でありキリスト教でありイスラム教なのである。その三つの宗教の聖地がイスラムなのである。

●なぜ遊牧民にエホバが現れたのかー土地をもたなかったから

神が現れたのは遊牧民だったのである。羊を飼って一定の国をもっていない遊牧民だったのである。遊牧民から生まれたのが一神教の信仰である。それでイスラエルに対しイスラエルに関して誤解しやすいのはイスラエルとは砂漠でありその生活の基本は羊を飼うことである。
またラクダなどが泊まる隊商宿代わり砂漠の中で生活できる人たちだったのである。
ではなぜ砂漠で生活する遊牧民に神が現れたのか
それは人間というのは土地を基本にして生活している。だからこそ土地が最も大事であり命ともなる。でもなぜ農業している農民には神が現れなかったのかとなる。

 カインは農耕を行い、アベルは羊を 放牧 するようになった。 ある日2人は各々の収穫物を ヤハウェ に捧げる。 カインは収穫物を、アベルは肥えた羊の初子を捧げたが、ヤハウェはアベルの供物に目を留めた
バウルは乾燥している地域では農業に携わる人々から豊穣神として崇められた

農業が一神教のエホバから嫌われたのか、そしてその神を偶像を神の敵対者にしたのか?
そこに共通しているものは何なのか。つまり農業は土地を元にして土地から離れることはできない。だからこそ土地にこだわらない羊を飼う遊牧民に一神教のエホバが現れたのである。

そしてキリスト教でもこの世にいることは異邦人であり一時仮の宿なのである。それは遊牧民なら生活上肌で理解する。この世は永住する場所ではない。本当に永住する永遠の都はこの世にはないのである。そのためにその教えを伝えるのは遊牧民が適していたのである。
だからなぜイスラエルに今また深刻な争いが生まれたのか。それはまさに2000年間も世界を流浪したユダヤ人が国を持たない為に起きた事件でもある。ユダヤ人にとっては国を持つことが悲願でありその国とは2000年前にあったイスラエルなのである。そのことに執着した結果としてそこにはすでにアラブ人が住んでいて土地をめぐって熾烈な争いにもなったのである。
ただユダヤ人というのはなぜ2000年も国も持たず流浪してそれなのに強い勢力を持っているのかということである。
そしてなぜユダヤ人は優秀なのかということである。ノーベル賞の2割がユダヤ人でありグーグルとかフェイスブックとかの創始者はユダヤ人でありまたメディアはユダヤ人が経営しているのである。

つまりユダヤ人は滅びていない。土地を領土がないのに国もないのに滅びていないのである。それはユダヤ人は神に選ばれた民族であり選民であるから神は保存して残したともいわれる。聖書での記録ではヘブル人は神に選ばれた人たちであり神に守られているとされる。聖書では必ず神に選ばれた預言者がいてそれは神の聖意お実行するものとして尊ばれたのである。キリストもうその預言者の一人なのである。
ただキリストが出現することによってエホバの信仰はユダヤ民族だけではない世界中の民族に平等にもたらされるようになったのである。だからユダヤ民族だけを特別な選民として神が助けるということは必ずしもなくなったのである。
そもそもは神はこの世に神の国を作らない。もし土地に根ざして神を作れば神の国を作ったとしてもその土地をめぐって国々は必ず争うようになるからである。イスラエルもカナンの地とはあくまでもそれは天の神の国を目指すものとして象徴として与えられたものであり本物の神の国はこの地球には作れないのである。だからこそこの世では必ず土地を巡った争いが終わることなく続いている。その土地から離脱しない限りおそらくこのように永遠の平和など来ないのである。

ただいずれにしろユダヤ人が2000年前にあった自らの土地に帰還するなどということは考えられないのでる。だからこそこれを契機に世界動乱にもなりハルマゲドンにもなるという恐怖にもなるのである。すなわち土地をめぐって争いがありそれがカルマとなり人類最終戦争ともなり人間が滅びてしまうという恐怖にもなるのである。
現代はそうした宗教より人権というのは宗教を超えて重要視されるようになった。宗教が違っても一番大事なのは人権だとなったのである。パレスチナ人が傷つきイスラエル人が傷つきそれを見た時どっちにしろ同情するとなる。それは宗教と関係ないのでそこに苦しみ傷ついた人があれば宗教と関係なく哀れと思い助けるということにことが人権なのである

●宗教の争いの背後に必ず利権争いがある

宗教は関わると例えば日本民族は優れていて天皇陛下は現人神だとかして他民族でも殺していいとかなる。つまりそこでも宗教がかかわるとナショナリズムとなり多民族を殺していいとなってしまう。
でももし人権主義だったらヒューマニズムなら宗教と関係なく他者が苦しみ傷つきそのときは助ける哀れと思い助けるべきだとなる。
だから宗教というのはカルト宗教でもそうだがとにかく自分たちは神仏に守られているとか助けられるとかなってそれがエキセントリックになり争いともなる。
そして土地を持つということはまた権力を持つということにもなる。何か宗教の争いのようにみえてて実際は権力を持つと宗教は必ず争いになる。例えばイギリスのアイルランドでカトリックとプロテスタントは争っていた。でもその原因が宗教の相違というよりカトリック系の人たちが有力な地位に就いているとか経済的に有利だとかってそれが争いの原因にもなっていたのである。そういうことも宗教には多い。

日本でも創価学会の公明党はなぜ国土交通大臣になっているのか?それは枢要な権力なのである。当然それに不満な人たちが出てくる。それは宗教に反対しているというのではなくなぜ得しているのかということだけである。人間はなんでも損得で考えるしそれが一番わかりやすいからである。それでもし宗教で得するとなればご利益があるとなればその宗教に属することにもなる。

だからこそ創価などはその目的は政権奪取であり日本を権力をもち支配することである。そこにまた宗教が関わってくるとややこしいことになるのである。つまり土地から離れて人間がありえないように人間は権力から離れてありえないともなる。もし宗教でも自分たちのにとって利益があり有利だとなればそっち側につくことになる。
つまり宗教にとって何らか権力を持つということは問題なのである。だからこそキリストでも釈迦でも無権力であり食べるものすらなく乞食して与えられたとかなる。それで布教していたとかなる。そこには何の権力もない家すらない食べるものもないそんな状態だからこそ一切権力とは関わらず争いとならないとなる。

だから本当は人間は宗教だったら権力を持つことは危険である。なぜなら人間は宗教というよりその権力に目を付けるからである。その権力を得たいと言うために宗教もあるとなってしまう。そうなっているのは今のカルト宗教である。そこで立派な神殿であれ聖堂であれそういうもので庶民を支配するともなる。だから宗教というのは一つの人民を支配する道具ともなるのである。カルト宗教は宗教を道具にして人民を支配するためにあるからである。

●なぜフランス革命で政教分離になり人権主義になったのか

いずれにしろなぜ宗教フランス革命で宗教は否定されて人権主義になったのかヒューマニズムになった。それはあまりにもカトリックとか宗教の弊害が大きくなったからである。そこで政教分離の法律も生まれた。そういう経過があり宗教は権力と一体化するほど危険なものがないのである。別に何の権力も持たなかった。キリストである釈迦ならそんなことはない。一旦権力を持つときそこに宗教は大きな弊害をもたらすのである。

現実に日本の太平洋戦争でも天皇は神でありその神のために死ぬなら本望だとして日本民族は滅びる瀬戸際でもあったのである。でも私は天皇ではないとして神ではないとして天皇はが宣言したことにより日本民族は生き残ることができたとまでなる。
でも今は人権主義になり国連とかで共同管理するような場所にすべきだと思うのは。ただユダヤ人にしてもシオニズムとかの民族主義が勢力を持つと問題が起きる。もう旧約聖書のように神に逆らう民族は抹殺しろとかなってしまう。それはあくまで旧約聖書時代のものであり今はやはり人権が重んじられることで共通認識を持ち時代である。

エホバは個々人にあらわれるものおであり一国に特別味方したりはしなくなったのである。だから依然として選民思想の宗教であるがある特定の民族とか国とかを関係なくエホバは現れ導くのである。内村鑑三はそのこと言っていた
宗教でも宗派があり対立してそれが利権で争うことになる。その弊害が余りにも大きすぎたからである。だからまたイスラエルでイスラム教徒と戦う十字軍の再現となる。ハマスはそれを狙って攻撃した。それに乗れば世界大戦になるから怖いのである。

●エゼキエル書予言の恐怖

だからイスラエルでも確かにその土地が2000年前に自分たちの土地だったということはわかる。でもそうして土地を持ち国となるときその土地をめぐって熾烈な争いになっているのである。それは個人でも土地を巡る争いというのは熾烈なものになるのである。だからこそイスラエルの国がまた建国したことは意味があるにしても問題だったのである。そこは確かにユダヤ人の聖地でもあるまたキリスト教でもイスラム教の聖地でもある。
宗教でも宗派があり対立してそれが利権で争うことになる。その弊害が余りにも大きすぎたからである。だからまたイスラエルでイスラム教徒と戦う十字軍の再現となる。ハマスはそれを狙って攻撃した。それに乗れば世界大戦になるから怖いのである。

メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。今、わたしは、あなたに立ち向かう。わたしはあなたを引き回し、あなたのあごに鉤をかけ、あなたと、あなたの全軍勢を出陣させる。それはみな武装した馬や騎兵、大盾と盾を持ち、みな剣を取る大集団だ。
ペルシヤとクシュとプテも彼らとともにおり、みな盾とかぶとを着けている。
(エゼキエル38章1〜5節)

これを今の世界情勢から見るとはゴグとはロシアのことであり今そこでウクライナと戦争している。またペルシャとはイランのことであり今回のハマスを支援していたとされる。するとこの聖書の予言は今実現されるのかとなる。それも怖い話である。だから2000年後にイスラエルがわユダヤ人国家となることが世界に大きな影響をもたらす。人類滅亡ともなるともなる。だからこそこのイスラエルの問題はいくら日本は離れていても恐怖になるのである。

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2023年10月04日

総務省は戦前は警察を動かす権限があった (県の政治のことは無関心なことの問題−内堀知事の問題)


総務省は戦前は警察を動かす権限があった

(県の政治のことは無関心なことの問題−内堀知事の問題)

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福島県庁で南相馬市の水害被害の支援を頼む

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【隠蔽、捏造、逃げ虚飾テク!テレビ各局プロレス化で終了!】見せかけの真実の追求で装い、既得権は絶対に離さないメディアの腐ったテクー加治氏将一


福島民報は創価の聖教新聞を刷り県で株を50パーセント持っているから官報である

総務省設置法第3条第1項に規定する任務を達成するため、行政組織、地方自治、地方公務員制度、選挙、政治資金、情報通信、郵便、統計、消防など、国家の基本的な仕組みに関わる諸制度、国民の政治活動・経済活動・社会活動を支える基本的なシステムを所管する。

かつては強大な権力を誇った旧自治省・総務省
 「内務省」の権限の中でも現代の我々からすれば驚きなのは、戦前は都道府県知事の選挙が存在せず、知事は内務省の官僚が務めていた点です。東京都知事も大阪府知事も内務官僚でした。

 ちなみに、内務官僚のなかでもエリート中のエリートだけが到達できる「内務省三役」といえば「内務次官」「警保局長(警察庁長官に相当)」「警視総監(首都警察トップ、今もありますね)」であり、圧倒的に警保(警察)畑が強かったそうです。警察国家です

●総務省の権限の大きさ

総務省のことなど普通わからない。ただジャニーズ事件でクローズアップされた。桜井翔のパパが総務省の有力な地位についていた。だから原発と同じくアンタッチャブルになり隠蔽された
総務省で怖いと思ったのは戦前は内務省でありそれが警察を動かせる警察に命令して取り締まる権力を持っていたことである。
知事でも選挙なしで知事になっていたのである。知事の権限は相当に大きい、知事と原発を建てる土地所有者の許可があって原発が建てられことできたとなる。原発とは事故の被害にあった周辺地域を問題にしているが実際は福島県の知事とか福島県の県庁の行政が深くかかわるものだったのである。

そもそも県庁の仕事は何をしているのかわかりにくい、日常的には市町村と関係していることは直接的に関わるから分かりやすい。でも県庁となると県議会とかにはまるで関心がない。ただ福島県の道路を作り整備管理するのは県庁である。すると建築土木関係の仕事をしている人は県とかかわっている。なぜなら公共事業になると県で予算を決めて地元の会社に仕事を頼む。そこで必ず賄賂問題で逮捕される人が役所の人がいる。やはりそこに利権が一番生まれるからである。
だから公明党が国土交通大臣の役職を手放さないのである。その権力で票を得ようとするからである。

総務省の力はマスコミを牛耳っているということである。だからこそジャニーズ問題でもそこに桜井パパがいて総務省の実権を持っていたから握っていたから何も言わなかったのだという。
マスコミとは政府の官報と似ている。肝心の政府の悪を追求しない。その象徴はジャニーズ事件だとしている。そして福島県の県庁にTOKIO課があったのはその象徴だったのである

それで福島県知事の内堀は総務省の工作員だったということが加治氏の説明でわかった。そして県知事となって総務省の指示に従うことになる。前は内堀氏はの各県庁に入り財政担当の中にはいりそこで工作していたという。やはり県庁でも財政を担当していればそこが一番力を持つからだともなる。
政治とはどうしても利権が変わるからそこでゆがめられる。
この辺で政府の官庁に入ったという人がいた。それも斎藤邦吉氏が国会議員でありそのコネで入ったという。その時結構な金を払ったという。つまり政治とは常に利権とかかわりそうなりやすいのである。

●総務省は戦前の内務省で警察を動かす権限を持っていた

ともかく役所のことなど県庁でも国政に関わる国の官庁でもどういう働きをしているのかどういう仕組みになっているのかわからないのである。特に総務省と言うと名前からして何をしているのかよくわからない。
でもジャニーズ事件で総務省が関わっていたということで明らかにされたのである。そんなところまで関わっていたのかということを知り総務省というのは注目されたのである。
総務省は意外と大きな権限を持つ省だった。その全身が戦前は警察の管理する警察を動かす力を持った省だった。
ということは警察をも動かすこともできる権力かもしれない。なぜならあらゆる人が警察だけは恐れている。庶民も警察は恐れている。なぜなら脛に傷を持たない人などいないからである。警察はそれで人を恐れさせ従わせることができる。

要するに最も権力が露骨に現れるているのは警察である。それは日常的に庶民とかかわりその権力を行使できる強制できるのである。だからその警察を動かすものが総務省の前進の内務省だったということはそれが戦争に通じていたのかもしれない。
なぜなら戦争に反対する人は特高が来て警察に連行されたからである。なぜ警察は一番の権力かというと暴力でもって強制的に従わせることが出来るからである。それは軍隊でもそうである。軍隊を命令して動かせるものは一番の権力者である。

だから軍隊が政権を握るということはミャンマーとか遅れた国で必ず起きてくる。。そもそも権力とは武力から生まれる。戦国時代のように武力によって支配される人間の歴史でもあった。でもそうなる地で血を争う悲惨な結果になったので犠牲があったので民主主義によって平和的に権力を移行させるとかになったのである。

でもこの民主主義をアメリカで発展したとしても最近対立が激しくなり選挙に不正があるとか議会に暴力でふるった人たちがいて世界を驚かした。だからいくら民主主義でもそこに公平はありえない。不満な人たちが必ずありまた社会が既得権化すると得する人はいつまでも得して損する人はいつまでも損する。それが今の日本である。

その原因として県政でも国政でも関心が持てないのは当事者意識がもてない、一票入れても何の変化もないとなり無力感があり投票率が上がらない、自分もそうだったけどプログで時事問題で発言するようになると相当に調べなければならないとか多少責任が生まれた。だからプログでもyoutubeでも発現することは民主主義の促進になる。

●政権交代がない日本は根本的に変わらない

いくら不満があっても自民党政権というのは一回しか政権交代をしていないのである。だから根本的に日本の政治は変わらないのである。既得権者はいつまでも得する場にあって変わらないのである。
でも韓国だと大統領が変わると必ず前の大統領の不正が暴かれ逮捕までされるのである。それを日本では韓国の政治を批判するが日本ではいつまでたってもどんなに不満があっても自民党が政権を担当する。
だからアメリカでも必ず共和党と民主党があり大統領が変わると権力も移譲されて根本的に変るのである。今のウクライナ戦争でもトランプに変われば戦争はやめるという。そこで大きな政治の変化は起きる。日本では政権交代がないから民主主義が機能してないのである。

いずれにしろこの辺で起きた原発事故がなぜ起きたのかということを追求してきたがそれはやはりこうした国とか県とか大きな権力がかかわり起きた。その権力は何か危険があっても隠蔽することができた。
原発にもいろいろな不備があり実際は危険なものだった。でもやはり国とかの大きな権力が関わりまたその背後にアメリカがいて危険は隠蔽されたのである
つまり権力の問題はこうして隠蔽できるということである。そこから危険が生まれ取り返しのつかないものともなる。戦前の戦争でも300万人も死んだということでもやはり国の権力がかかわりそうなった。そこに総務省の前進の内務省がありそれは警察を指揮する権力をもっていたことは怖いことである。
だからジャニーズ事件でも警察がなぜ一切かかわらなかったのか?
総務省も今も戦前の警察を牛耳る内務省と通じるものがあったからなのかとなる。そうなると総務省とは怖いものだと知る
ただ権力構造は複雑でありわかりにくいことで騙される

悪があっても可視化されにくく見えないからである。だからどうしても闇に隠される。するとそこから原発事故でも庶民は大被害になりジャニーズ事件でもそうであり戦前の戦争の犠牲者が3百人死んだとか空恐ろしものとなる。原発の処理水問題でも今や世界から批判される。なぜ批判されるのにあえて処理水を流したのか実際は流さなくてもいいものだったとしている。
ともかくこれほどに世界的問題となるものを原発自体を作ったことが問題だったのである。



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2023年10月02日

空き家1000万軒にもなる (個々人では解決しない社会全体の問題になっている)


空き家1000万軒にもなる

(個々人では解決しない社会全体の問題になっている)




●家は思い出があり愛着があり簡単に壊せない個々の事情がある

空き家のことをNHKで放送していた。10年後20年後に1000万戸が空き家になる。それも都会でも空き家が増えている。その空き家の処理をどうするか問題になる。空き家の問題は簡単に壊せないとかある。そこでその家で育った人がいて愛着が生まれている。家というのはただの建物ではない。箱ではない。そこで人が暮らした歳月があり営みがありそれが思い出として家がある。
だから問題なのは家というのは単なる建物というのではない。その家で暮らした人間の思い出がその家と共に宿っている。物がありその物に心が憑くとなる。物は単なるものとしてあるのではない。物心がつくという時も物と心は一体なのである。仏教で言えば色心不二となる。、物と心は一体なのである。それは東洋的思想だとなる。

そこで家という建物はハードでありその建物どういうふうに利用するかがソフトだという。その利用方法があるのだがそれはソフトだから何かアイディアが必要でありそれが問題になっている。
でもリフォームするとそれは使えるし今中古物件が売れているというのも分かる。そのリフォーム代を不動産屋が金を払ってしている。若い人たちが安い家を買えるのだから人気になるのもわかる。ただ都会の空き家と地方の空き家問題とは違ってくる。
東京でも一部では五軒に一軒が空き家となるという。だから東京というのも全体的に縮小してゆくのかとなる。そしてやはり今までは地方から集まってきた若い人たちがすでに老人になっている。そしてやはり高齢化して老人が増えてくるのである。

●空家問題は市町村で社会全体の問題

この空き家問題は個々人の家の問題でもあるがこれだけ空き家が増えるということはそこに住んでいる周りの人にも相当に影響する。だから自治体でも放っておくのではなく関わらざるを得なくなっている。火事とか誰かが勝手に住むとか犯罪の温床にもなる。アメリカではやはり自動車産業が衰退して街自体がすたれてゆく街を紹介していた。そこでは市が積極的に関わり都市計画として空き家を壊してそこを農地にするとか公園にするとかして都市全体の問題として関わる。
つまりこれだけ空き家が増えるということは個々人の問題でもあるが公共的な問題にもなっている。

また東京都心から埼玉県の方にニュータウンができた。そこから東京都心の都心へ通う住宅地であったがそれも空き家化している。そしてなんとかゴーストタウンになるのを防がなければならないとして対策を考えている。
この辺では原発事故で避難区域になったところは実際に空き家だらけであり街自体がゴーストタウンになったのである。今でも空き家だらけでありそれも壊されている。
最近私の家私の住んでいる近くでも四五軒が壊されてそこが空き地化したのである。町の中でもやはり家が壊されて空き地化しているところがある。

ただこの辺では原発事故で避難区域になったところから移住してくる人も多い。そこで新しい住宅地が四つくらい生まれた感じになる。そして不動産会社でわ土地を整備してその土地を売り住宅さらに建てようとしている。それは原町にも原発避難区域から移住してくる人が多いのである。
だから空き家が増える日本の地図を見るとき南相馬市は空き家が多い場所になっているのは当然である。でもなぜいわき市の方がもっと空き家が多いのだろうか。いわき市には原発避難区域から移住した人が新しい家を建てて近隣ともめたことがあったからである

●いわき市はなぜ空家が多いのか

グラフで見るいわき市の居住世帯あり住宅数は多い?少い?(推移グラフと比較)

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いわき市は原発避難区域からの移住が多いからこういうグラフになった。いわき市は面積が広いから農村地帯もありそれで空家も多いが原発避難者が二万人とか移住して補償金で新しい家を建てたので地元の人もめたのである。

ともかくこの辺は原発事故と津波の被害で海岸地帯の村が消滅したりその変化が激しかった。もし津波と原発事故がなかったらこんな大きな変化にはならなかった。それでもやはり少子高齢化になり空き家はどこでも増えた。それで原発避難区域とかは帰った人もいるがその人たちは老人が多いからまた周りは空き家だらけでありそういう町が維持できるのだろうかとなる。
そこで暮らすのも不便になる。だからいわき市であれ南相馬市でも相馬市にでも移住した人が多いのである。それだけの補償金をもらったからである。

だから原発避難区域になった街は維持できなくなりいわき市とか南相馬市とか相馬市でも移住するようになった。だからそこで減少している人口が歯止めがかかったともなる。
そのことは何を意味しているのかというと人口減少の時代には小さな町とか村が維持できなくなる。それで山の中の村の人を介護とか医者とかでも回るとすると2時間もかかるとかその手間が大きいのである。それが昔のように医者にも見てもらえないとか手厚い介護などしないという時代ならばそこに住むのも良い。

でも今のように手厚い介護とか医者にもかかりたいというとき山間部のような村は一軒一軒回るだけで2時間もかかるとか手間になるのである。そのような村では昔は救急車も来ない。そして子供を医者に診せるために背負って峠を越えていこうとしたら死んでいたとかいう話もある。
でもそうなってもその時代なら諦める他なかったのである。今になるとそんなことはできないとなりそういう僻地の村には住みたくないともなる。でもやはり今の平均的なサービスを受けるとしたらやはりそれだけの手間と金もかかってしまうのである。

●老人は仮設住宅でいつも話し相手がいて良かったという

何か原発事故でこの辺では仮設住宅がいくつも作られた。その時住居も狭いから隣の生活の音が聞こえたり嫌だという人もいた。
でも山間部の辺鄙なところに住んでいた人がいつも近くで話し相手がいていいという女の人もいたのである。確かに山間部だと街から離れていると一軒一軒も離れているから気軽に会えないとはなる。でも仮設住宅だったらいつでも会えるという便利さはあり女の人はいつも話し相手があるとか良い面もあったのである。
どちらかというと老人はそうして離れ離れになっていると孤立しやすい。でも長屋のようなところで集団的に暮らせば返って常に身近に話す人もいて親しい人もいるというとき安心するかもしれない。何か介護となるとき近くが良いのである。それは相馬市に娘がいても隣の市に娘がいても車で15キロくらいあるとやはりなかなか簡単にはこれなくなる。

だから車がない人は一日一回でもいいからバスがでるといいと言っていた。その人は脳梗塞になり自転車に乗れなくなって歩いてスーパーに行くほかなくなったからである。飯館村では大倉の隣の木戸木(ことぎ)に住む老人がそういうバスを利用している。
いくら車で近いとしてもすぐ隣だったら行けるし様子を見にに行くこともできるしまた別々の家でも近くだったら何かおかずを作ったら持って行くとかそういうこともできる。
でも田舎だと離ればなれになって暮らしているし買い物でも街から離れるとどうしても車が必要になるのである。だから車がない人は相当に不便になるのである

●空家で庭の方が価値あると見た

ともかく空き家がこれから1000万軒にもなるという。この数は半端ではない。それをどう利用するのかということは社会全体の問題になる。そしてそれをほっておくのももったいないとなる。だから不動産会社でリフォームして若い人向けに住めるようにしたのはよかった良かった。でもそういうことができるのは東京とか大都市になる。地方になるとなかなか仕事もないから若い人も住みにくいとなる。
私が空き家で注目したのは庭である。近くにも本当にいい庭があった。その家はあまり良いと思わなかった。何か古くなってそこには住みたいとも思わなかった。でも庭が立派でありその庭を活かす方法があってもいいと思った。
でも所有者がいるのだから勝手にはできない。そこを近くの人が集まるような場所にしてもいいとかなる。それも個々にに対応しなければならないから面倒になる。そこには必ず所有者が居るからである。
その所有者がと交渉しなければならないから面倒になるのであるそれで自治体で積極的に関わり空き家を生かす対策をするようになった。でもその家でも空き家でも物置にしたいとか思い出があるとか個々にに違っていて対応が難しいのある。


死者が帰ってきても寄り憑く場がない(詩)

死者が寄り憑く場所としてやはり家がある、その家がなくなると死者はどうなるのか、墓になるのか、墓は家がなくなっても残っているからである。
本当に空家でも幽霊が住んでいると感じる。やはり家とはそれだけ単なる物ではなくなている。だから家を壊してしまうと何も残らなくなる、死者が寄りつく場所がなくなるということである。

posted by 天華 at 17:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年09月27日

一軒の家がまだ壊される (増える空き家の問題)


一軒の家がまだ壊される (増える空き家の問題)

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すぐ近くに何軒か新しい家が建つ



近くの大きま一軒の家が壊された。最近私のすぐ隣で5軒ほどは壊された。それは空き地になってしまった。ちょっと離れたところでその家も壊された。その家をいつでも見ていた。 大きな二階建ての家であり誰も住まないのはもったいないと見ていた。
でもこの家はもうすでに20年くらい住んでいなかったかもしれない。別にそれほど傷んででいないのである。去年の大地震で屋根瓦などが壊れた。でも瓦も直しているから壊されるとは見ていなかった。
そしてこの家にわ誰が住んで何をしていたのかそれも全くわからない。何かこうして家があってもそこに何か物語があったとしてもそれもわからない。すると何も残すものもないとなってしまう。やはり何か語るものがありこの地域でもそこで何か残すものがあってもいいとなる。

だから人間というのは建物だけを見ていてもわからない。そこでどういう暮らしがあったのかどういう人が住んでいたのか地域でどういう役割があったのかそれがまったくわからないのである。ただいつでも見ていたのは大きな家でありここに住まないということがもったいないと見ていたのである。

この辺では去年の大地震で取り壊された家も多い。ただもう跡継ぎがいないとか何かあって直すのも金がかかるとかで解体されたのかもしれない。ともかく津波でも海岸地帯は家がなくなり家がなくなり空き家化して更地にもなってしまった。
それより原発事故で避難区域になったところははゴーストタウンになり空き家の町とも化した。それは今も回復していないのである。
おそらく原発避難区域は残されたのは老人であり回復するのは難しいと思う。つまり少子高齢化で跡継ぎがいなくなっているからである。街中でも壊されて空き地化したところが結構ある。 農村地帯でも空家が目に付くのである。それは農業というのが衰退して跡継ぎも居なくなっているからである。

全国的に限界集落がありそこでは近くにスーパーが無いとか介護でもそうした村落を回るだけで2時間もかかるとか不便になる。車で回ってもそれだけの時間がかかるのである。だからどうしても現代ではスーパーが近くに病院とかあり最低限のものはないと不便になる。私は一万の町でも一応病院がありスーパー二軒あるからなんとか車もないのに自転車で買い物にもいける。
でもどうしても買い物でも足りないものがあるから隣の町まで自転車で行かざるを得ないのである。 7キロくらいだからなんとかいける。だから山の中の限界集落のようにはならないのである。

ただもともと限界集落でもそこで暮らしてきた人がいたのである。ただ病気になったら医者にかかれないとか介護でも大したことができずに死んでいたとなる。それより長生きもしないから病気になったら大した手当をせず早めに死んでいたのだろう。
現実にそういう限界集落では子供が病気になってそれをその子供を町の病院に見せるために運んでいるうちに死んだとかも聞く。救急車すら来ないからそうなったのである。でもそういう場所でも人間は継続して生き続けてきたのである。でも便利な生活が普通になるともうもう住めないとなったのである。

今日テレビで老人が部屋を借りられないという問題を議論していた。その人たちを空き家に住めるようにしたらいいとかいっていた。田舎でもいくらでも空き家があるのだからそこに住まわせればいい。で
も地方でそうした老人を受け入れるのは問題がある。なぜなら老人は労働力にもならないしすぐに介護とか病気とか介護になりその自治体で世話する他なくなる。すると財政的負担が増えるだけだとなる。。たしかに年金をもらっているからそれで暮らせることがあっても何か生産的ではないので受け入れにくい。若い人ならやはりこれから生産的なことをする時間があるから体力もあるから歓迎されるとなる。

例えば戦後戦争からの引き揚げ者がわずかの耕作放棄地でも土地があればそこに開拓に入り貧しくてもそこでなんとか食料を得てくらしていた。では今の時代にそんな人がいるのかといえばいない。耕作放棄地はいくらでもある。でもそこで農業するかといえばしない。そんな苦労はしたくないとなるからである。
ただ田舎で年金があり空き家で暮らすというのはあまり歓迎されないだろう。老人が増えているのにさらに老人を増やしてどうなるのだとなってしまう。そこに少子高齢化社会の深刻な問題がある。

この辺で救われているのは実はその大きな家が壊されてもすぐ近くに新しい家が何軒も建った。それはおそらく原発避難区域から移住した人たちである。その人たちは補償金が結構大きいから新しく土地を買い家を建てたとなる。
でもその人たちは何をして働いているのかはわからない。でもそのために原町区とか鹿島区とか他でも相馬市でも新地でも移住した移住した人たちがいて人口は減っていないのである。

だからもう原発避難区域は復興すること自体が難しいとも見る。復興してもらいたくても現実は厳しい。残されたのは老人が多いからである。そしたら後を継ぐ人もいない。そういう場所で町でも町でも村でも維持できるのかとなる。それで官僚の人が津波で被害を受けたに三陸などにジジババしかいないところに金をつぎ込んでも無駄だという本音をいったことも分かる。現実を見ればそうなってしまうからである。

そして現在の便利な生活をしようとすれば限界集落には住めない。そこで別に介護とか医療とかのサービスを受けずに昔のようにただあきらめて死んで行くならいいがそうともならない、でも現代のサービスを受けるとしたらどうするのかとなる。だからコンパクトシティとかが勧められる。それがこの辺では原発事故で小高や浪江双葉大熊とか空き家化してゴーストタウンにもなった。
そしてその回復が望まれるがそれもうまくいかない。それはやはり少子高齢化が影響しているのである。だから原町とか5万くらいの年に移住した人が多いのである。それだけの家を建てる保証金をもらっているからである。

つまりもしかしたらもともと大熊辺りは広野とか大野とかなって地名のようにそこは原野だったのである。また夜ノ森とあればy夜は余のことであり相馬の殿様の森として名づけられたのである。だから元の森に戻ってしまうのかともなる。復興を望むにしても現実問題としてやはり少子高齢化とか現在の問題現在の問題が難しくなっている。
そもそもが少子高齢化というのは全国的問題でありどうしても現代のサービスを受けるにわ最低限の人口が必要でありインフラも必要である。スーパーとか病院とか無い所で住むことはいやだとなる。
だからコンパクトシテイとか人々を集めてそこでそのサービスを受けさせる。介護にしても2時間もかけて限界集落を点々と点在する限界集落を一軒一軒回ることは手間になるからである。

そして小さい町でもスーパーがあり車がなくても歩いてでも買い物に行ける。だから現在のサービスを受けたいならコンパクトシティというかにして人口を集中させる以外ないかもしれない。
ただ自分としては生活の多様性があって海でも山でも村でも暮らしがあるのがいいと思っている。でもそれはただ外部から見てそう見るのであり現実問題としてそこで暮らす人にとっては暮らせないとなるのである。だから人口集中させてコンパクトシティにするというのが効率的になるのである。
posted by 天華 at 14:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年09月26日

内堀福島県知事は総務省の工作員だった! (ジャニーズのTOKIO課があり依然として応援している)


内堀福島県知事は総務省の工作員だった!

(ジャニーズのTOKIO課があり依然として応援している)

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TOKIOは原発事故前から人気番組「ザ!鉄腕!DASH!!」の企画で、福島県浪江町で農業に挑戦。復興支援に携わり、2
012年度から県産品をPRするテレビCMに出演する。21年には、福島の魅力を発信する県庁内のバーチャル組織「TOKI
O課」が設置された。

TOKIOは家族」福島県知事が連携継続を強調 問い合わせは250件

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●総務省が県の行政を監視して支配する

この説明はわかりやすかった。総務省とはそんなに力あるのかと見えるものがあった。マスコミも支配できるし内堀福島県知事がその総務省から派遣された工作員だったということにも驚く。だからこそトキオ課まで福島県庁に特別設置されたのである。なぜ芸能人を強制で行政でそれまで特別待遇しているのかそれは総務省のトップである桜井パパがいるためにそうなっているのだという。そんなこと普通はわからない。でもこの説明でなるほどとわかった。

何か内堀知事は評判が良かったみたいだ。外国に積極的に福島の宣伝をして福島の産物を売らせている。だから内堀知事対してあまり悪いことを言う人はいなかったみたいだ。何か政治というとき福島県知事にしてもあまり関心がない。選挙でも関心がない。でも知事というのは相当な権限がある。何か原発でも知事と土地の所有者だけでその許可があれば原発でも作れたということを言う人もいる。

そして総務省がそんなに権限のある課とも見ていなかったし関心もなかった。総務省はやはり自治体に対して相当な権限を持っていた。だからこそ内堀知事は各県の財政を調べるため財政課に入っていたのである。それは総務省のトップの指示でそうなっていた。工作員だったと言うことを加治氏が言うのもそのためである。つまり権力構造として地方自治体は総務省の意向に逆らうことはできない。だからこそ東電の原発事故は東電が賠償すべきだという。でもそれを政府がさせないのは政府にとって東電が天下り先だとか金になるから守らねばならない。それは検察庁や警察でも海上自衛隊までも天下りして利益を得ていたのである。

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サンデー毎日ー10月9日号−ジャニーズ事件

これが正しい再出発の方法だったのだろう。これまでの膿をだしてこそ再出発できたとなる

東電を守らねばならない。東電を潰すわけにはいかないとなったのが問題だった。本来は東電を潰すべきだったのだが政府は事故の尻拭いをした。その額は20兆円にもなるという政府の国の予算のから支払われたのである。それは国民の税金なのである。そのことについて何か国民も怒ることもない。おそらくそのその官庁などのことなどよくわからないからとも見る。

●原発事故でも国の権力がかかわり起きた

だからなぜこれだけの大事故を起こして原発に関してはそうした政府の高官でも官僚でも誰一人責任を取らないのである。東電の幹部でも責任を取らない。でも何か人間社会というのは必ず誰かが責任を取らされるようになっているのである。政府と東電の責任があってもその人たちは責任を取らない。でも原発避難区域になったところでわその周辺では放射線被害で進めなくなったとかして大被害に遭う。必ず誰かが責任を取らされる。

例えば歴史でもなぜ太平洋戦争で300万人も死なければならなかったのか。その責任は誰にあるのかそれもやはりその責任者とは誰なのかもよくわからないのである。それで昭和天皇は広島に行ったときその責任を問われてしどろもどろになっていたのである。そしてその後三島由紀夫はなぜ天皇は人間宣言したのかと反乱を起こして自死した。それは天皇を神として戦い死んだ人たちが300万人もいたのだからそのことを許すことができなかったのである。ただその戦争でも責任が誰にあったのかというと国民にもあったしマスコミにもあった。

朝日新聞は戦争を煽ったとかいうこともある。だから今回でもマスコミはジャニーズを批判しなかった。原発でも批判しなかった。なぜならやはり総務省というのはマスコミを管轄していてそれに逆らうことはできないシステムになっていたからかもしれない。桜井パパが総務省のトップに居ればそうなる。だから本当に福島県庁にトキオ課まであるのか本当におかしかったのである。でもそのことを指摘するマスコミはいなかった。第一福島民報などは創価の聖教新聞をする株でも50%が福島県庁の出資しているとなれば国とか県の官報と同じである。中央の権力の意向に従うほかないとなる。だから福島県の政治に関しても何ら批判することもない。

ただ政経東北は内堀知事のことを批判していたことがあった。ただトキオ課があるとか批判はしてないだろう。政経東北にしても何10億の金を幹部が山分けした除染で山分けした相双りテックの宣伝を裏表紙でしていた。だからマスコミというのはとにかく新聞を出すにしても雑誌を出すにしても金がかかるからその金でも読者から得られないから県庁でも大企業でも宗教団体でも資金援助してもらわないと成り立たないからそうなっている。

●権力の横暴と暴走とをいかにとめるのか

だからそこにもはや何か権力を監視することはできない。権力と迎合することしかできないのである。それを象徴していたのは原発事故のとき朝日新聞社から読売新聞社からマスコミの代表は東電に招待されて中国で中国に集まっていたのであるその時原発事故がおきたのである。このように政府権力とマスコミは一体化しているからマスコミに何か期待することもできないので。ユーチューブができてこれはあまり金がかからないが個人でも放送局になるようになっ加治氏のように批判する人が出て来たのである。

ともかく地方自治といっても自治体はなかった。中央の権力の命令に従うのは地方自治体である。その工作員として内堀福島県知事がいたとなる。その地方自治体を取り締まるのは総務省だったとなる。ただ総務省にそんな力があるのかなど普通の人はわからない。それよりそうした官庁とかの権力構造はわからないのである。
でも今回加治氏の説明で私自身もなるほどなと理解したのである。なぜ権力が問題になるのか。権力の怖いのは今回のように原発事故になったりまたナチスのように全体主義になり何百万人とも死んでいくという恐ろしさがあるからである。だから権力というものをどういう風に操作するか。それが大きな問題なのである。

カルト教団でも統一教会でもオウムでもそうだったように創価でもそういう団体が権力を持つことを目指しているのだからそれを批判しないとナチスのようになってしまうのである。だからこそ権力をもつものを監視する役割のものは必要なのである。でも三権分立になっても検察でも東電に天下りしていてそれができないようになっていたのである。日本で民主主義がないというとき政権交代がアメリカのように民主党と共和党で定期的に交代しないということもある。政権が交代すれば前の政権の批判もできるしあくも暴くことができる。日本では政権交代がないのだからいつまでたっても政権の悪を暴くことはできないのである。
韓国で最高権力者の大統領が変わると前の政権の批判して悪事でも暴く、それを何か批判するが日本ではそもそも政権交代がないことが問題なのである。すると既得権者がいつまでも有利になり改革できないのである。

●人間が権力を持つことで起きる恐ろしい結果

原発の悪にしても権力で隠蔽されて何もできなかったのである。マスコミも何もできない。ただ津波が地震がその悪を暴いたのである。巨悪になるとそれが見えない。だから巨悪というのは批判もされないから誰もその暴走を止めることはできない。結果的にはナチスのようにもなるし日本の戦争もやはりその暴走を止めることができず300万人も死んだということになる。その結果の恐ろしさを知るべきである。つまり人間の権力を持つということ自体が問題なのである。そして人間はこの世で権力を持つ権勢を得るということがあまりにも魅力が大きいのでそのために人はその権力を得るために何でもするとなる。

宗教は権力を否定するものであるが結局カルト宗教団体になるとこの世の権力を得るために運動するだけになる。だから人間社会はいつまでたっても変わることがない。共産主義がでも結局人間の欲があり権力を持つことで堕落する。権力は絶対的に腐敗するというときそうである。それは人間の欲がなくならないからである。だからこそこの世に理想の国などいつまでたってもできないのである。それは宗教団体がただただこの世の権力を求めて運動していることでもわかる。全て御利益であり権力を得ることしか興味も何もない。その御利益を得られると説けばあれだけ膨大な人が集まるのである。何故ならその信者もまた御利益求めているからそうなるのである。
posted by 天華 at 11:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年09月23日

今地球に何が起きているのか―リビアの洪水被害 (自然災害も政治的なものが関係している)


今地球に何が起きているのか―リビアの洪水被害

(自然災害も政治的なものが関係している)

●リビアの洪水被害は政治の問題

地球で今何が起きているのか。リビアのダムが決壊して2万人も死んだということそれはなぜそうなったのか。

●自然的要因

●政治的要因

自然的要因としては地中海に何か異変があり大量の雨が降った。そして政治的要因としてはリビアは内戦状態にありのダムの点検を整備を怠っていた。結果的に2万人も死ぬとことになった。自然災害というのは必ずしも自然だけの影響ではない。そこに必ず人為的なもの政治などが関係してくる。

それは東北地方で起きた津波とでもそうだった。特に南相馬氏では相馬藩が支配していた。でも400年前に戦国時代であり相馬藩内でも激しい戦争があった。相馬藩を作ったのは千葉県の方から来た相馬氏でありその相馬氏がこの地方この地を支配するために争いがあった。在地の勢力と衝突して戦争となっていた。その時やはり津波が来ていたのである。

でもその津波のことより事細かく相馬藩政記には相馬氏がこの地を戦いによって支配したかをということである。その論功行賞が詳しく記されていた。でも津波で700人が溺死したというこたった二行しか記されちなかった。ほとんど700人も死んでも記されていなかったのである。それより相馬氏がこの地を在地の勢力と戦い支配することは優先されていたからである。

つまり自然災害でも政治などのにより無視されて何も対策もされない。それはリビアの状況とも似ている。内戦状態になっているのだからいかにして戦いに勝ち支配するということが第一になるからである。そのためにダムの点検整備をないがしろにしたのである。だから人間社会に起きることはすべて自然災害でもそのせいにすることはできない。必ず人間側にも問題がありそれが自然災害が起きて被害を増大させる。

●飢饉も政治的問題でもあった

他にも飢饉あるとしてもそれもすべて自然災害のせいにはできない。東北の米を江戸に送るために商品作物となりそれで米を送ったが地元では米を食べられず飢饉になったということもある。だからこれは経済政策が失敗したのであり必ずしもすべて自然災害ということでわ片付けられないものだった。

それは今でもクライナで戦争がになるとウクライナとロシアは穀倉地帯であり外国に輸出している。でも戦争でそれが止められると輸入している国は飢餓にもなる。
それは政治的要因なのである。今やグローバル化するとどこかで何が起きても世界中に影響するとなる。だから戦争はグローバルに影響してただ二国間の問題ではなくなる。だから政治的問題として世界で解決しようとしなければならない。また原発事故でも処理水を海に流して中国に批判されたように環境問題は地球がつながっているのだから世界の問題でありそもそもは中国でもトリチウムを流しているとか原発そのものが問題があり廃止するべきだとなる。

環境問題になるとそれは世界の問題であり例えば森と海は密接に結びついているというときそうである。森と海をつなぐのが川であり川から流れる森の腐植土とか栄養分が海に影響して海の魚やや海草や貝などに影響する。つまり森と海は別なものではない。一体化したものであり分離できないのである。

それは地球全体がそうであり密接に結びついている。地球を一つの体に例えればどこか一部分がおかしくなれば病気になれば全体も病気になってしまうのである。それで森や山の木を切ってそこをソーラーパネルにしてしまう。それも危険なので森には保水能力がありまた腐植土などを所蔵して栄養分を蓄えそれが川を通じて海に流れ海の生物を栄養分にもなり養うとなる。だから自然は切り離して見れないのである。

●恵みの意味

恵みとはめぐることであり地球全体がめぐるのである。それはその言葉はもしかしたら縄文時代の生活から出てきたしそうかもしれない。だから自然を別々のものしてそれぞれ部分的に考えることはできないのである。
今グローバル化して木材も外国から輸入する。そして日本の森は利用されなくなり間伐しないので森に栄養分が蓄えられないとかそこにいろいろな問題が出てきている。つまりグローバル化とはこうしてもともとあったその国土内での自然の循環を断ち切り自然を破壊してしまうともなる。貿易は必要でも生態系的経済を重んじれば制限をしなければならないのである。

原発事故の処理水で中国がホタテなどを輸入しなくなったことで日本は大打撃を受けている。それも政治的問題であり自然の問題ではない。グローバル化というのは常にそうした政治的リスクは増大することである。食料品でも政治的問題で外国から入ってこなくなることがある。このように政治的問題が人間社会には常にありそのために苦しむのである。それは自然とは関係ない。自然災害は避けようがないかもしれないが政治的問題は人為的なものであり政治的に解決できるものなのである。

●原発事故も自然災害が原因ではなかった

原発事故がなぜ起きたかということを追求してきたがこれを津波地震という自然災害のためだということになっているが実際は人為的なもの政治的なものも関係していた。まず原発が本当に必要なのかどうかそのような危険なものは必要なのかどうかということから検討されねばならなかった。電気は必要だとしても今年の異常な暑さでも電力は不足しなかった。だから原発なくても天気はまかない。ではなぜ原発が必要なのか。それは電気が必要だからだけではない。そこに何か軍事に利用するとか政治的な役割があって原発がある。

だから原発というのはただ電気が必要だからというだけではない政治的なものとしてまたは軍事にも関係して作られた。なぜなら人口がこれから日本で減少してゆけばそんなに電気など必要なくなるからだよ。もう人口は6000万人くらいになればそんなに電気は必要はなくなる。だから人口減少がすべてマイナスに働くともならないのである。やはり日本には日本の国土にあった適正人口がであればいいのである。
また東京周辺に人口が集中しているのだから地方に分散すればいいともなる。それも実は政治的問題でもある。だからこそ一時東京遷都が言われたのだがそれも今は何も言われなくなった。

とにかく自然災害は実は自然の影響で避けられないということにもなるが政治的な問題としてもある。政治的に解決できるものでもありそれを怠ったときリビアのような悲惨な結果になるのである。だから国が分裂するということは恐ろしいことになるのである。それは政治的問題であり自然災害とも違う。

自然災害はある程度洪水があるとしたら堤防を高くするとか津波でも防潮堤をを高くするとかで現実に防げたこともある。だから何らか対策することができる。とても政治的問題として国内が分裂したりするとその被害が増大するのである。それは世界でも世界大戦になればその被害は甚大なものとなる。それは自然災害以上に恐ろしいものとなるのである。だから人間社会における災いはすべて自然災害によるものではない。それは政治的に予防できるものであり解決できるものでもある。


松永勝彦. 森が消えれば海も死ぬ 第2版 陸と海を結ぶ生態学 (ブルーバックス) (Kindle の位置No.1567). 講談社. Kindle 版. 

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2023年09月18日

悪は権力によって隠蔽される (ジャニーズ事件の深層ー背後に権力を持つ官僚の人がいた)


悪は権力によって隠蔽される

(ジャニーズ事件の深層ー背後に権力を持つ官僚の人がいた)

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ジャニーズ不正加害事件の裏第二弾!ジャニー性加害隠蔽〜日本の巨大な力】#980の続き!得体の知れない驚異的な力が、この国を支配する。このシステムを壊さない限り、日本は持続できない!-masakazu kaji-
Kajiチャンネル -加治将一-

絶えず不具合、故障があっても隠せる。だからそれが習慣化していたのである。どうせ誰にも追求などできない、みんな金で抑えている。こうしてしそれが大事故につながったのである。-原発事故も隠蔽が原因


●その背後に総務省の要職の人が存在した

この事件については詳しくない。ただ必ず悪と言う時隠蔽される。それは一つの法則のようになっている。櫻井翔が芸能界で活躍でき有名になったのはその背後に櫻井パパがいてその人が政府の有力な官僚であり権力と地位を持っていた。だからなぜマスコミでも攻めせないのかとなったらその桜井パパに忖度したからだとしている。
この加治氏の説明はわかりやすい。なぜこの背後のことがわかるのかというと彼は直接そうした上層部の人と付き合っているからである。普通の人はそういう人と直接は話したり親しくなれない。だからなかなかそういう人たちのことは分からないのである。

総務省とはテレビとか通信関係など大きな力を持つものだった。だからこそマスコミはそのことで指摘できなかったし放送もしなかった。マスコミというのは常にその宣伝してくれる会社の会社があればその会社を批判はしない。つまりマスコミというのは権力に逆らうことはしない。そうすれば会社自体が維持できないからである。だから宣伝をしてくれる宣伝料をもらうくれる会社には忖度して批判はしない。それが福島県でも政経東北は相双レテックのことを裏表紙で宣伝していたことでもわかるそんなことはないと思っていたが意外だったのである。

マスコミとは既得権者であり権力を持っている側につく。その権力というとき必ずしも政府の権力とかだけではない。マスコミに何か利益を提供してくれる組織団体は批判しない。例えば創価の聖教新聞をすらせている新聞社が多い。福島民報などもそうであり大手の新聞社もほとんど聖教新聞を刷っているしそれを配達している新聞社もいる。そうしたら創価など批判しない。つまりマスコミでもテレビ放送するにも新聞を出すにも雑誌を出すにもお金をかかる金がかかるからその金を本来のテレビ放送でも新聞でも賄えないのである。それで必ず大きな組織団体とか政府にでも頼ることになる。そこからして既に自由な報道はマスコミには無いのである。

●権力で隠蔽される巨悪−原発事故も隠蔽が原因

絶えず不具合、故障があっても隠せる。だからそれが習慣化していたのである。どうせ誰にも追求などできない、みんな金で抑えている。こうしてしそれが大事故につながったのである。

そうして結局巨悪は隠される隠蔽される。それは原発事故でも同じだったのである。そもそも原発というのは放射性物質を出すのだがそれが常に隠蔽されていた。その放射性物質というのは毒にしても匂いも色もなく気づかない。だから隠蔽されやすいものだったのである。そこに政府の権力とかがかかわり御用学者が関わり危険は隠蔽されたのである。なぜなら東電には海上自衛隊から司法関係検察関係から警察まで関わり天下りしていたからである。そのために権力によって安全神話が作られたのである。

そして常に危険は隠蔽されたのである。そこでその現場で働く人はその危険に気づいて東電の上層部にその危険を忠告していたのだがそれも無視された。津波にしても十数メートルの津波が来ると学者集団が東電に警告していたのである。でもそれも無視されたのである。金がかかるとして安全には金をかけなかったのである。それがなぜできたかというとなるとそれだけの権力を持っていて隠蔽することができたからである。
今でも放射背物質を地下深く埋めて隠そうとしている。でもそれが安全なのか何か地震でもありやはり隠したものが災いとなるかもしれない、ともかく原発はこうして常に隠蔽するものだったのである。
だから悪と権力は密接に結びついているのである。そのために巨悪は隠され隠蔽されて表に出ない。だからこのジャニーズ事件でも同じだった。その悪の背後に櫻井翔のパパが総務省の要職についてその権力のゆえにマスコミでも忖度して追求しなかったのである。だからマスコミの言うことを鵜呑みにしていると危険になる。

●この世は変わらない悪も消えることはない

つまりこの世は何か変わったようで変わっていない。時代劇ではよく要職についている上級の侍が裏にいて例えば今回のように性加害あったとしても隠される。それは表に出ないのである。ただそれを追求されて切腹したとかもある。時代劇の場合は今と違ってその悪がわかりやすいのである。現代の悪は複雑であり分かりにくいのである。それは世界でも同じでありそれだけ広い世界になると世界はどうなっているかなど誰もわからないのである。
そうなると巨悪でもでも隠されて見えないのである。だからこそ常に陰謀論になってしまうのである。
グローバル社会というのは公正な社会でもない。やはり今ならアメリカが取り仕切る。覇権国が取り仕切り世界の富はアメリカの一部のものに上層階級に集まるのである。。ただそういうことは可視化されない。だから一般の人はその悪を知ることもできないのである。

とにかく人間の社会というのは進化したとか進歩したとかいうが本質的なところでわ変わっていない。ただ複雑化しているから悪というのは見えない可視化されない隠蔽されやすくなっただけである。
こうしてこの世からは悪はなくならない。それは人間の欲がなくならないからである。だから人間は欲によって滅びると聖書に書いてある。そしてこの世では悪を消滅させることはできない。別にこの世でこうして悪を働いたからといって罰せられることもない。原発事故では東電の幹部でも政府でも官僚でも天下りした検察関係でも罰せられることがなかったからである。

ではこうした人間の様々なな悪はただ放置されているしまうだけなのか?明らかにもされずに隠蔽されたままで終わるのか。それが不可解だとなる。ただ聖書で死後裁きがあるということはそうした悪でも死んでから明るみに出されて裁かれる。

ただそんな死後のことを気にしている人もあまりいないだろう。そのことを恐れたら悪をなすことはできない。権力を持ったものは大きな悪にかかわりやすい。でもそれがまたその人自身によって意識されにくいのである。だから自分が悪人になっているとか思わない。社会でも善人として見ているからである。でもしも白日のもとにその悪が暴かれる時どうなるのか。その人は依然として何も悪いことはしていませんということになる。そもそもその悪を意識できない気づかないからである。でも死後に裁かれるとなって裁かれたら怖いことになる。でも死後のことをそんなに恐れる人はいない。人は今目の前の現実を生きることで精一杯だからある

●人間は人間を裁けない

いずれにしろ人間は人間を裁けない。司法があったとしても検察が裁けるいったら裁けない。現実に検察関係者が東電に天下りしていたことでもわかる。その人たちは東電の幹部も裁けないのである。つまり検察関係でも警察で裁かれる立場にあるのだが権力を持っているから裁かれないとなる。そこに人間社会の限界がある。人間は人間を裁けない。だからこそその悪は隠蔽されて表に出ない。ただそれがその悪はそのままではない。必ず誰かがその悪によって被害を受ける。

日本でも戦争になって300万人が死んだとか原発事故では故郷に住めなくなったとか必ず責任が取らされる。その上層部は利益を得たものは罰せられなくても必ず誰かが被害を受ける責任を取らされる。それが悪の怖さである。悪はそのままで隠されたままで終わらない。必ずその悪は誰かに影響してその人たちが被害を受け苦しめられるのである。
だから悪は隠されたままであることありえない。いずれそれは表に出てきて大きな被害をもたらすのである。それはナチスでもそうだったし日本の戦争でも判断するのは難しいにしてもやはり300万人がなぜ死ななければならなかったのかというとそれも理解できないのである。それは日本だけの責任でないとしてもそれだけの被害があったということがやはりそこに悪がが隠されていたともなるのである。

結局この世は善と悪との戦いでありそれはこの世が終わるまで継続される。ただ何が善なのか悪なのか明確ではない。かえって大悪人が大善人ともされるのはこの世である。それを象徴しているのはカルト教団であるその教祖ははこの世の王となり支配することもある。それはまさにサタンだととなる。つまりこの世の王ははサタンなのである。それは人間から欲がなくなくならないからその欲によってサタンの王となるのである。だからこそこの世は滅びるとか神によって滅ぼされるとかこの世に理想の国などできないないからである。いくら科学技術が発達しても依然としてカルト教団がなどは巨大化して支配しよう支配することにもなる。

それを作り出しているものは何なのか。一人のの人間が作り出したものではなくその一人の教祖でもその教祖を祭り上げる人たちがいるそれでご利益を得ることがありそうしているのである。いずれにしろ人間の悪は消えないなくなることはない。だからこそこの世は一旦滅びそして裁きがある。この世で悪は隠されるても死後裁きにあう。そうしなければ公平にならないからである。そんな世界を見逃して許されるわけがない。この世はそもそもどんなことしても不平等なのである。

●裁けるのは神のみ

主はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と正義で満たされる。知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である。

だからなぜ悲しむ者は幸いなりとか言うのだろうかとなる。つまりこの世で得する人たちたとえ巨悪でも隠されて楽をして良い目を見る。でおこの世では悲しむ人も多いのである。だからこの世では利益を得て得したものがあっても来世では裁かれてこの世で悲しんだものはその涙もぬぐわれて神に祝福される。この世とは逆転してこの世で苦しみ悲しんだものは来世では神の国では恵まれたものとして祝神されるともなる

でも現実は人間は今生きていることしか考えない。それで来世で裁かれなければならないのだとかなる。ただそんなことを恐れたり意識したりしないのである。それで奇妙なのは誰でも来世で裁かれる時こんなことになるなら現世で生きてきた時裁かれた方が良かったともなってしまう。それは現世しか考えないでで生きているからそうなるのである。この世とほんの一時的に生きるだけでありその生はあっという間に終わってしまう。でも来世とか神の国は永遠に続くのである。

そしてもし地獄があるとしたら永遠の地獄があるとしたらそれこそ最大の恐怖である。ただそういう恐怖のことを自覚したらすでにそのことでその人は救われるともなる。悪人は悪のことなど意識しない。だから悪を成したからと恐れることもない。来世のことなども考えない今は良ければいいだけである。だから何か悪を意識する人自分は悪人だと思う人こそ救われるというのはそのことである。普通は自分にしても悪人と思わないからである。
だからは自分は悪人だと思う人は本当は善人だとなる。どんな悪いことをしても悪いと思わない強盗して殺人までした人がたまたまを悪くて捕まったとこ全然反省していないのである。たまたま運が悪かったというだけにしか思ってないそれは人を殺してまでそうなのだからそもそも人間というのは悪を意識することことが難しいとなる。それで親鸞が人を千人殺してみろという言葉になったのであるそのくらいしないと人間は悪を意識できないのである。

そもそも主とか神を恐れるなどということはない。このように無神論者も多い。この世で恐れているのはこの世で権力を持っている人である。神は恐れている人はいない。この世で権力を持っている人は例えば会社であれば社長がいて首にされることが一番怖い。だから一番恐れているのは社長だとなる
その他でもマスコミがジャニーズ事件で攻められなかったのは総務省の要職の人が櫻井翔のパパだったためである。そのためにマスコミ全部が忖度したのである。ということはそれだけ総務省というのはマスコミに対してでもその上にあり権力で報道できなくもさせるのである。

何であれ神など恐れる人がそんなにいるのかとどこに神がいるんだとなってるのは普通である。実際は権力を持ってその権力を行使できる人は恐れるのである。でも本当は一番恐るべきものは神になる。神は見えない形がないでも確実に存在しているのである。人間の権力というのはあくまでも人間が作ったものであるその社会も人間が作ったものでありそれは完璧なものではない。だからこそ結局巨悪には無力だし様々な悪が隠蔽されてしまうのである
そのためにただ悪は常に隠蔽される。権力によっても隠蔽される。でもそれがそのままではありえない。その悪がその本人でなくても周りに次の代にも必ずカルマとなって影響してくる。だから悪そのものは隠蔽されるということはないのである。権力で隠蔽できると思ってもできないそれは必ず時間がたてば明るめに出されたりこの世で裁かれなくても来世で裁かれるのである
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2023年09月14日

介護施設経営の人の犯罪は青森の人だった (青森の介護施設に南相馬市から送られたのはそのためだったー政経東北の記事より)


介護施設経営の人の犯罪は青森の人だった

(青森の介護施設に南相馬市から送られたのはそのためだったー政経東北の記事より)

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【吉田豊】ブローカー問題「借金踏み倒し」被害者の嘆き【南相馬市】
市内で南相馬ホームクリニックという医療機関を運営している。将来的には医療・介護施設を集約した大規模施設を整備する予定だ。一緒に働かないか」。吉田氏からそう誘われたAさんは、2021年5月から同クリニックで総務部長として勤めることになった。

青森県出身。4月現在、64歳。同県八戸市の光星学院高校(現八戸学院光星高校)卒。衆院議員の秘書を務めた後、同県上北町(現東北町)議員を2期務めた。その後、県議選に2度立候補し、2度とも公職選挙法違反で逮捕された。

 青森県では医師を招いてクリニックを開設し、その一部を母体とした医療法人グループを一族で運営していた。実質的なオーナーは吉田氏だ。

政経東北6月号



なぜこの記事に注目したのか私の知っている人がその息子の親は青森の施設に入ったということを知っているからである。なぜそんなに遠くの施設に入ったのか理由がわからなかった。
ただこの辺では原発事故があり混乱していた。それで介護の人材が不足していてそれで青森の方に移されたと思った。青森は仕事もないので介護とかな仕事になると何かで読んだ。だから青森にうつされたのかと思った。でも青森まで行くと時々その息子は呼び出されて車で青森まで行っていたのである。
施設に入るとそれで終わりではない。何かと施設から要求がありそのために施設に通うことがありそれの青森では遠うすぎたのである。だからなんで青森なのかと理解できなかった。
ただ今回政経東北のこの記事を読んでもしかしたらこのことのこのことと関係があったのかもしれない。つまり吉田と言う人が介護施設の運営をしていたからそこにうつされたのかと思った。

青森県では医師を招いてクリニックを開設し、その一部を母体とした医療法人グループを一族で運営していた。実質的なオーナーは吉田氏だ。

これをもしこの記事を読めば辻褄が合うのである。とにかく青森では遠すぎる。そこで息子でも全く放置するわけにはいかない。だから呼び出されてそんな青森まで行くのが大変なことになっていた。だから最近は地元の施設に入れることになった。でも父親はまもなく死んだのである。
それにしてもこんな人がいるのも驚きである。また飯館村でも強盗まで働いた議員だった人がいたのである。そんな人が議員になれることも驚きである。その人は前から悪事を働いていた。でもそれにしてもあまりにも凶悪だったとなる。そんな人が議員になれるということもあるのかと思った。

何か外から来る人にわ信用できないことがある。ただ南相馬市とかでは津波とか原発事故があり工事関係者の人が大量に入ってきた。その中にはヤクザもいて入れ墨をした人たちも入ってきた。それで治安が悪くなっていたのである。ただ介護施設でも暴力団関係が経営していたとかも他であった。そうなると介護施設でもそんなところに入ったら危険だとなる。やはり地元の人で知っている人だと安心だとなる。ただ地元の人だからといって今や信用はできない。そのことを自分も被害にあったのであいた書いた。

何か南相馬市とか原発事故周辺浪江でも大熊でも乱れてしまったのである。多額の補償金でもそれを遊びに使ったとか女に使ったとか復興のために使われたわけでもなかった。その生活も乱れた人も多かったのである。飯館村で強盗した人も娘と一緒に暮らしていたのだがそれが別々になりさみしくなりそれで事件を起こしたともなる。何か知っている人でも小高の人でも詳しいことは分からないにしても妻と離婚したりして一人になって何かそこで寂しくなったりして不安定になっている。原発事故とかで家族でもバラバラになったりしているからである。でも飯館村の議員は考えられない人であった。そんな人が議員になっていることが信じられないとなる。

飯館村でもおそらく他より補償金多くもらっているから金銭感覚が狂い乱れた人がいたかもしれない。それでNHKで津波の被害者と原発の被害者が同じ仮設に住んでいるとかビルに住んでいるとそこで争いがあった。原発被害者は補償金をもらっているが津波被害者は補償金をもらっていないからである。でもNHKでは原発被害者の方に立っていたのである。その報道は不公平なものだったのである。相馬市に避難して仮設に入った飯館村の人がハウスのトマトの栽培なのかそこで働きたいというとき相馬市の津波被害者は優先された。でもその事をNHKではその業者を冷たいとして批判していたのである。

でも津波被害者は補償金を多額の補償金をもらっていた。一方で津波の被害者は補償金はもらえなかったから津波被害者を優先して雇うのはそういう配慮もあってそうしたのだ。だから何も冷たいということはなかったのである。その報道がなぜ問題かというとNHKで報道したからそれも全国に報道されるするとなぜ原発事故の被害者の飯館村の人を雇わなかったのかということでそれが雇わない経営者に批判が全国からされることになったからである。。だからNHKというのは国民から信頼されているからNHKが報道するなら正しいとなるからそこに大きな報道の問題がある。

ただインターネットができてそうしたNHKでも盛んに批判する人たちが増えてきた。それからなかなか批判できない創価なども辞めた人がユーチューブで訴えている
今まではそういうことができなかった。なぜなら創価などは大手の新聞社は全部に聖教新聞を自社で刷らせて批判させないようにしているからだ。今やマスコミというのは常に批判の対象になっているのである。ユーチューブで簡単に放送局作り報道できるからである。創価でも批判できなかったが批判している

政経東北にしてもなぜ放射性物質の除染で大儲けした相双リテックの宣伝を裏表紙でしていたのか。その幹部たちが何億という金を山分けして銀座で遊んでいたという。
とにかく原発事故でわ補償金問題で巨額の金が流れてその金が必ずしも有効には使われていない

何か遊びで使いなくなった人もいる。それで南相馬市の鹿島区のコンビニでーで強盗した人がいた。その人は双葉の人だったと言うことをきいた。双葉だったら相当に補償金をもらったはずだからそんなことありいないと思った。でも大金が入ってギャンブルなのか女なのか何かわからないけど使った人がいたということかもしれない。それは他でも聞いているし高級車を買ったというのは相当数いるから間違いないだろう。

だから別に補償金の復興のためになったということはなかった。でも現在は金なくしてはありえない時代である。日々の生活に事欠く人が補償金が30万ほど入るからと金を貸してくれと言われて貸したからである。それは裁判で勝った結果の補償金である。ただこの補償金も南相馬市なら小高原町鹿島で差があった。原町区は鹿島区の3倍だった。小高は別格であり4人家族だったら一千万くらいになるというから驚く。ただ小高は原町区とか他に移り住んだ人が多い。だから小高はもう維持できるのかと思う。小高を復興とするというより補償金で他に移った方がいいとなっているからである。ともかく補償金が復興のためになったとはならなかったことは確かである。それで水俣病の公害訴訟でも同じことがあり地元の人が報告していた。いったん公害になると終りだと言っていたからである。


政経東北がweb化したことはいいことである。やはりより身近になるからである。ただ詳しくは本を買わないとわからないのである。

posted by 天華 at 17:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年09月05日

なぜ日本は貧困になり衰退したのか? 盛者必衰が歴史の法則ー新しい歌が起こると復興にもなる


なぜ日本は貧困になり衰退したのか?

盛者必衰が歴史の法則ー新しい歌が起こると復興にもなる


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加治将一

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●明治維新はなぜ讃えられるのか?

なぜ歴史というとき人によって見方が違ってくる。歴史をどう解釈するかとなるとそこにさまざまな事実があり様々な人間が関わっていた。でも今になればそうゆうことを人たちを簡単には理解できない。直接会ったわけでもないし何がその人のその人物を見るのかわからなくなる。だから司馬遼太郎の小説に現実のように思えるのである。何か歴史を調べるとき実際は資料でも無味乾燥なのである。でもそこに事実があり真実がある。何か歴史はドラマのように劇的でもない。でもドラマだと劇的に誇張して事実でなくてもそれがあたかも事実のように見てしまうのである。

小説は確かに事実をもとにして書いていることもあるが想像でも書いている。それが見分けがつかなくなる。ただ歴史的真実の考察をすると面倒になる。普通の人は歴史でも何か劇的で刺激的で面白ければ良いとなる。そこで真実や事実は歪められてドラマが小説が真実だとして通るのである。
要するに一般の人にとってそれが真実かどうかなどそれほど重要ではない。何か劇的で刺激的で面白ければいいとなるから小説家はそのためにそれにふさわしいものを提供する。

ではなぜ明治時代時代が特別美化されたのだろうか。日本人だけが植民地化されなかったとか特別明治時代は美化されているのである。実はイギリスであれ外国人が深くかかわって明治維新がなったというのも見逃されていたとなる。つまり明治維新は日本人の力だけで成し遂げたものとなりそれが誇大な誇りとなり日本は凄いとなった。

ただどうしても明治維新がなったのか成功したのはやはり侍がいて侍というのはやはり江戸時代にその前からエリートとして貴族のように社会の中で模範となる人として育てられていた。
明治維新というのはそもそもそうした侍たちがいて成し遂げることができた。その侍たちでも上級の侍ではなく貧乏なの下級武士だったのである。それで下級武士から上に上がろうとして幕藩体制を崩す役割を担った。高杉晋作の奇兵隊は庶民でも参加していた。そこで成り上がろうとする人たちだった。そこに上級侍は主役ではなく下級侍が成り上がるための戦いにもなっていたのである。革命というとき何か必ず上を目指す支配階級に成ろうとする。そのために権力争いになる。そこには何か美名の下に革命を志向しても人間の欲望実現のために革命で既得権者を倒すことを目的にもなる。
ただ侍はやはり何か上に立つ者としてのモラルがありその人たちが明治維新を成し遂げてのである。なぜなら明治時代にあらゆるところで指導者となっていたからである。大学などでもその創始者は侍の出身が多い。侍は読み書きも当然できたし教養もあった。だから明治時代に一番漢詩が興隆したというのも江戸時代にすでに培われていたものが花開いたとなる

●明治時代の指導者は侍がなっていた

確かに江戸時代はすべていいものでもないし貧乏でもあった。ただ江戸時代300年に培われたものは明治維新で生きたということもある。その一つの例が武士道とキリスト教を一体化させた内村鑑三などである。ただ内村鑑三にしてもアメリカのクラークに北海道で教えられた結果である。でも元々いくら教えるにしてもそれを吸収できるものがなければそういう優秀な人は育つことはなかった。いくら弟子でもやはりそれなりのものを持っていて情熱を持っていて教えられて身についたとなる。

つまりそれは個々人でなくても江戸時代という300年の歴史が培ったものはやはり日本にはあったから明治維新が成功したともなる。それを全部否定することはできないと思う。ただやはり問題だったのは実際は民主主義を取り入れても議会制を取り入れても天皇一番上のものとして神のごとくして政治でも行った。それは時代錯誤ともなっていたかもしれない。
それで内村鑑三は天皇方を礼拝すること拒否して不敬罪になったということもあった。そして内村鑑三は日露戦争を批判した。その時日本はロシアに勝利したとか驕りともなった。そのロシアに勝利したということはののちの太平洋戦争にも通じていたのである。
つまり日本はすごい日本は優れている。日本は強いとなり強大なアメリカに挑んで戦争をして300人万人も死んだとなったのである。だから確かにそこに日本人のおごりが出てそれが悲惨な結果になったともなる。やはり日本は島国でありアメリカはどういう国だとかどれだけ大きな国なのかもほんの一部の人しか理解していなかったからである。

それは中国の漢の国に夜郎自大国が戦争しても負けないとなって結果的には負けた。その原因が夜郎自大国は銅の武器しか持っていなかった。漢の国は鉄器でありその武器の差が勝敗を決したのである。
アメリカと日本の戦争でもそうである。最後は核兵器によって日本は完全に敗北した。つまり日本はアメリカのことなど分からなかったのである。だからアメリカなど大したことはないとかその見方が誤って最悪の結果になったのである。人間はおごる時時危険なのである。

●高度成長時代で日本は謙虚に学ぶ姿勢を失った

なぜ日本が高度成長時代には世界でもアメリカでも日本に習いとこ言われていたのである。それが一転して失われた30年代わり日本は貧困の国となったのである。そして日本の悪いことばかり言われるようになったのである。日本は中国よりも遅れた国となりさらに東南アジアとも同等になり今や韓国より貧乏だともされるのである。 30年間給料も全く上がっていないからである。
そして貧困にあえいでいるというのも高度成長時代を経験した者にとっては信じられないともなる。確かに日本人は高度成長によって謙虚さを失った。それは日露戦争によってロシアに勝ったとかなって高慢となりそれが太平洋戦争となりアメリカによって打ちのめされたので。だから常に歴史は奢れる者久しからずで盛者必衰の歴史を繰り返している。

それは別に日本だけではないどこの国でも盛者必衰の歴史を繰り返している。だからアメリカすら衰退してゆくことは確実なのである。いつまでも栄える国はこの世には無いからである。永遠の都は天にありそこで神が治めてその繁栄は尽きることはない。この世の繁栄は常に変化して強いものでも弱くなり弱い者でも強くなり変化してゆくのである。驕れる者久しからず歴史の法則でもあった。日本もまた同じだったのである。それはほかの国でも同じである。

●日本の地政学ー日本の使命ー東西の融合

現在の世界を作ったのはカトリックではなくプロテスタントであり宗教でもプロテスタントがプロテスタンティズムは世界を作った。プロテスタントから科学も発展したという時もそうである。資本主義もまたプロテスタンティズムからも生まれている。社会共産主義というのは何か平等を目指す時それも資本主義を否定するものとしてあったがやはりその資本主義が何かということを解明したのは。社会主義とは平等をめざすからカトリック的なものかもしれない。つまり欧米でもカトリックとプロテスタントは二分されて別のものとして発展したのである。

一方で日本というのは地政学的に東西の分岐点にあり東西を結ぶものとして日本があった。ただアジアとはと中東もアジアでありイスラエルでもアジアである。だからヨーロッパとは違うのである。それはアジアはオリエントでありすべての起源になった場所である。だから宗教というとき仏教でもキリスト教でもイスラム教でもアジアから起こったものでありヨーロッパから起こったのではない。だからキリスト教でもヨーロッパ化したキリスト教でありそれは本来のキリスト教徒も違うと言う人もいる。

つまりあらゆるものの基は実はアジアにありヨーロッパ的なものは新しく別なものなのである。だから真に宗教を理解するのはアジアでありヨーロッパではない。それでキリストが生まれた時東方の三博士が祝福したというのはそもそもはキリストもアジアから生まれたものだからである。イスラエルもアジアなのである。
だからすべての源はアジアにありアジアに帰るのである。ただ現代のカルト宗教などは宗教ではない。それは現代文明に共通した大衆化した宗教であり俗化した宗教でありただあらゆる欲望を叶える資本主義的宗教ともなっていたのである。それはまた大都会から生まれたということでもそうである。自然とかけ離れた大都会で大衆化したナチス的なものとなってそれは現代文明の病理的現象なのである。

いずれにしろ日本の使命は欧米であれアジアであれ東西の文明を融合させる地理に配置させていたのである。なぜ日本が衰退したのかというときやはり明治維新の成功とか日露戦争の勝利とかまた戦後も高度成長時代がありそのために外国から学ばなくなったとか奢りおごり生まれて失われた30年がありそこから回復していないのである。
それはやはり日本という国が新たな文明を創造するという力もない。そこには創造力が必要になる。それが日本はただ真似ることは上手でも改善することは上手でも創造するということにおいてかけているのである。欧米には創造力があり新たなものを生み出す力がある。日本にはそれが欠けている。そのためにやはり失われた30年があり旧来のままの日本がありit革命に遅れてしまったのである。

だから変わり目の早い日本人がなぜそうなったのか理由がわからないともなるやはり日本が奢りが生まれてそうなった。つまり今日本人が必要としてるのはもはや欧米から真似ることではない新しいものを創造することことである。しかしそれは容易ではない一人の天才が出たからといってできるものでもない。でも日本は再び興隆するには今までにないもの新しいものを生みだし創造することが回復することにつながる。だからただ暗記教育とかものまね教育でわそうした新しいものを作り出すことはできないのである。それはあらゆる面でそうでありそれなくして日本の再生は無いのである

●新しい歌が起こる時新しい時代が開かれる

主をほめたたえよ。主にむかって新しい歌をうたえ

今を生きるための神への「新しい歌」を必要としているのです。なぜなら、「新しく造られる民が主を賛美しますように。」(詩篇102:18)とあるように、生きた賛美は主によって刷新された民によって、新しい心をもって歌われるべきだからです。

今どこに新しい歌が起こっているのか。新しい歌が起きたときはどういう時だったのか。それはホイットマンが生まれた時代にアメリカを歌う新しい歌が起きた。それはアメリカという国が新しく生まれた時でありその時賛美されていたのは貴族ではない。ヨーロッパだと貴族になるのアメリカにはそもそも貴族が居ないからである。だからアメリカというのはアメリカ人はすべての人と対等になる。普通に働く職人であり商人であれ農民であれ船乗りであれカーボイであり別に特別な人たちではなかったのである。

アメリカには天皇や王様はいない。最初代大統領のリンカーンでも丸太小屋から始まったからである。アメリカの一開拓者に過ぎなかったのである。だからアメリカ人はフラットなので何か気さくに対等に付き合えるとなる。
でもアメリカでも人種差別がありそうともならない。私も博物館に入ろうとして日本人だと言ったら何か入れないとか差別があったのである。それは厳しい顔をして拒否されたのである。つまりアメリカの人種差別はそれだけ厳しいということである。それはみんな経験していることである。

だからアメリカ人はみんなフラットに対等に付き合うわけではない。アメリカはまたほんの一部の人はその金を集めて莫大な富を少数者が独占している国である。だから確かに貴族というのはいなかったがその莫大な金を独占している人が支配するとなっている。だから今アメリカは全ての人にフラットに付き合えるとなっていないのである。莫大な富を持っていて豪邸の住んでいる人がいるが路上で車で家もなく生活している人もまた多いのである。
アメリカは様々な人種が混交してまた人種差別がある。
ただ確かにアメリカというのは基本的に貴族がいないからフラットな関係になる。だからホイットマンが生まれたのはアメリカの草創期にそういう感覚を共有していた。そのとき西部開拓がありフロンティアスピリットがありそれが北海道に内村鑑三などがクラークに学んだ時代と一致していたのである。

でも時代はちょっとでもずれるとまたそういうフロンティアスピリットの時代も終わっていたとなる。だから時代というのは常に変化しているのである。高度成長日本でも高度成長時代があってそれが失われた30年となったのでもわかる。今やや高度成長時代というのはなんだったのか。そんなに早く時代というのは変化するのである。そのとき盛んに世界は日本に習うべきだと言われていたのである、ジャパンアズナンバーワンとしてその成長ぶりに驚いていたのである。

すべては衣のように朽ち果てます。
着る物のようにあなたが取り替えられると
すべては替えられてしまいます
詩編 102

1【祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。】

このように時代が変わるのが早いのである。高度成長時代から失われた30年がありふりかえると30年ともなれば一時代にもなっていたのである。

とにかく新しい歌が生まれるとき新しい時代が始まることはある。その歌というとき詩だけでない、音楽でもあり絵画でもありり文学でもあり科学的なものでも新しいものが生まれる時神は喜ばれるとなる。それがあって日本もまた再生するとなる。それは歌だけではない社会全体がそういう気分になることである。それはもはや大都会からは生まれない。それは自然がある地方から地方都市からルネッサンスが生まれるのである。

ルネサンスとはフィレンツなどの小都市国家から天才が綺羅星のごとく生まれてその相乗効果がありルネサンスが生まれた、ただ一人の天才のことではないのである。一つの新しい時代がうまれたのである。それは大都会からは生まれないものだった。小都市国家から生まれたのである。一千万の大都会とかなるとそこには巨大な経済力となっても文化が産まれないのである。
文化cultureはcultivate(耕す)からきているからである。
福島県でも会津と海側は風土が違っている。すると文化も違ってくる。土地土地で違った風土があり文化は違ってくるのである。
身近なものでは食文化も違ってくるのである。その土地土地の味が生まれる。だからどこにいってもハンバーグを食べるのは文化がないからつまらないとなる。
つまりこれからはそれぞれの土地土地の文化を掘り起こす文化の時代になる。大量に同じものを作り売るという時代は終ったのである。

posted by 天華 at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年08月30日

なぜ日本人の悪いことばかり今言われるのか? (なぜこれほど評価が変わってしまったのかー戦後の歴史を振り返る)

なぜ日本人の悪いことばかり今言われるのか?

(なぜこれほど評価が変わってしまったのかー戦後の歴史を振り返る)

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【投資より預金!発言より沈黙!特殊な日本脳!】日本脳形成の原因を初めて明らかにした力作!日本脳である限り、日本は隠蔽、差別、体罰、アナログシステム…を是正できない

●日本人は閉鎖的村社会でアイデンティティを築いた

日本人とは何か。何か経済が停滞してから日本人の悪いことばかりしか言われない。でも高度成長時代はジャパンアズナンバーワンとして日本人の良い点ばかりの言われた。そして世界も日本を見習うべきだとしていたのである。それが失われた30年があり日本の悪い点しか言われないのである。
明治時代で積極的にヨーロッパの文化文明を取り入れて改革したことにそのスピードが速いことにヨーロッパ人も驚嘆していたのである。日本人というとき常に村社会のことが言われ狭い閉鎖的な世界で人生きてきたことによりそこはアイデンティティとなり鬼は外福は内の世界の狭い世界間しかなかった。村は世界であり世間であれ社会となっていた。

だからそもそも日本には大きな社会という概念を理解できなかった。社会という字は社に会すということであり狭い世界なのである。村社会では異質なものは受け入れない。それでこの辺の伝説で麦衝きに来た青年が蛇だったとかされている。それは隣の村でも交わらない社会だからそうなっていたのである。
飯館村の大倉村と佐須村が民情が違うということだけで明治以降合併しなかったのである。この民情はわかりにくい。このように交わらない社会だからそうなっていた。。ただそういう村社会が基本にあるとしても明治維新というときなぜヨーロッパの運命を文明を積極的に取り入れたのかそれが一つの謎になる。

ただヨーロッパの文明というとき日本人が注目したのは技術的なものであり文明全体を作っているものに目を向けなかった。ヨーロッパ文明の基本はキリスト教文明であり外国にヨーロッパに行けばいたるところ教会や立派な石造りの大聖堂がある。日本人はそういうものには関心なかったのである。だから内村鑑三などはキリスト教を受け入れない日本日本は西洋文明を基本的に受け入れることは無いと言っていた。欧州で福祉が発達したのはその根底にキリスト教があったからである。
金持ちでも寄付が多いというとき来世で神の国に入れないとか畏れているからだという。つまりキリスト教がそれだけ歴史的にも浸透しているからである。

そもそも日本の社会が村社会が基本だという時それ以上に村以上に広い世界を受け入れるものがなかった。文明を見るときやはり宗教が大きなやはり役割を果たした。キリスト教文明でありイスラム文明であり仏教文明というのはやはり世界を作ったからである。でも仏教を取り入れた時のように明治維新でわキリスト教は日本では受け入れなかった。それが基本的に依然としてもら社会の閉鎖性があり今やただそうして日本人の悪いことばかりが指摘されるのである。

●科学精神はプロテスタントから生まれた

科学技術がヨーロッパで発展したというときそれはカトリックとプロテスタントの対立から科学技術が生まれたというのももともとキリスト教はヨーロッパを社会を作っていたからである。
現在の西欧文明とか資本主義とか科学技術とかはプロテスタントから出ている。カトリックのは世界的巨大な組織でありそこに牧師は介在して民衆を導くことを基本にしている。だからカトリックは宗教による世界的支配構造を持っていてそれに反発してプロテスタントが生まれた。
だからそこから科学技術が生まれたということもわかる。科学を否定しない。すべてが神によって決められているということではなく積極的にその神が造られた世界を解明し探求しようとする科学の精神がプロテスタントから生まれたというのも分かる。
プロテスタントには仲介する牧師がいず直接神と個々人が向き合うからである。

なぜキリスト教からでも科学が発展したのか。それはイスラム教でもそうである。共通しているのは一神教だということである。偶像崇拝を認めないことである。イスラム教はアブラハム基とした宗教でありもともとは聖書のを基にしているからである。共通しているのは偶像崇拝を禁止していることである。この偶像崇拝を禁止しているということでそれが科学を生んだ基ともなっている。あらゆるものは神となるときただ崇めるだけでそれを客観的に探求するという分析するということがなくなるからでもある。確かなことは仏教からは科学が生まれなかったのである。

一番科学が発展したのはキリスト教文明でありその前はイスラム文明だったのである。なぜイスラムに代数学が生まれたかというとそこでは抽象的な思考が行われていた。数式化することが行われていた。それは偶像を否定してそのモスクでの中でもあらゆるものは抽象化して幾何学文様にしているのとも似ている。
つまり偶像を否定して物事を抽象化して数式化するということは一神教においてはそうすることが望まれたと思うんだ
また神の一つであるということは万物は神であり無数の神があるということは混乱する。唯一の神があってこそ精神的にもそこに秩序が生まれるので。だから一神教からは科学精神とか思われたと思うんだ。

●戦後は国際情勢が日本に有利に働いた

とにかくなぜ日本人の悪い点ばかりがこれほど指摘されるのか。それは戦争で負けた結果でもあり高度成長時代はジャパンアズナンバーワンで日本人を見習いとされていたのである。だからそのギャップに戸惑うのである。
日本が高度成長を成し遂げたのは世界情勢とも関係していた。朝鮮動乱がありそこで中国ロシアアメリカが関わりその後冷戦が始まった朝鮮戦争ではロジスティックとして日本が物資をを供給した。それが日本の経済復興への基となっていたのである。
それで子供の時鉄くずを集めてそれを売って金にしていた。つまり鉄が不足していたのである。それは朝鮮戦争への武器とかに使うためにも鉄が不足していたのである。だから大量に鉄が必要となり日本がそうした物資をを供給する場となった。
でも日本人自体は戦争に参加することはなかった。参加しなくてもよかったのである。戦争に負けた国だから戦争する必要はなかったのである。それが幸いして復興のためにだけ国力を注いだ。それからベトナム戦争の時も日本人自身が戦争に駆り出されることはなかった。それでベトナム特需というのもあった。

何かこうして戦後焼け野原になったのだが日本は別に戦争する必要もなく経済復興だけに力を入れればよかった。その後に高度成長時代となり電気製品大量に作り売ることでみんな働けば豊かになれるという時代になったのである。だからやはり国際情勢が戦後焼け野原で絶望的ではあったが日本を助けたということになる日本に有利に働いたということになる。
その後高度成長があったがアメリカはアメリカがそれに不満を持ちアメリカで日本車が壊されることもあった。それでブラザ合意とかか金融政策で日本は苦しくなった。何かその日本の歴史を繰り返しているのが今の中国にもなる。アメリカと対立することによって経済が落ち込み日本と同じようになるかもしれない。つまり中国の高度成長時代は終わり日本のように停滞して失われた30年とかにもなることもありうる。ただ中国の場合は規模が大きいからそれが世界に波及してくるのである

●予測できない未来

日本が良くなるか悪くなるかという時また世界でもよくなるか悪くなるか株でも上がるのか下がるのかそれは必ず二つの面があり良くいう人と悪いという人に必ず別れる。
それは人間が未来というのものを予測できないからそうなっているのである。高度成長の時代は誰も失われた30年となってなってしまうようなことを予測していないのである。また戦争が終わった時ですら戦争に負けるとは思っていなかったのである。このように人間というのは未来を予測できない。だから必ず予測できないことが起きるとなるのである。津波とか大地震のことでもそうだった。だから人間の想像を超えるものは起きるということはありうる。

だからノアの洪水のように神から伝えられてそれを信じてノアが方舟を造作った。そのとき人々はの笑い嘲っていたのである。人間には予測し得ないことが起きるということでだからそれにい備えねばならない。でも現実は備えることが不可能なのである。神によって滅ぼされそれは予言されているのだから確かである。それがいつになるか分からないにしてもそれはいつか実行される。おそらく神が手を上げただけで滅びてしまうのかもしれない。だからこそ神を畏れねばならない。飲めや歌えとか騒いでるうちに死がやって来るように滅びもやってくるのである。








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2023年08月28日

井戸水は安全なのか? (沸騰すれば安全であるー忘れていて近くの井戸の水を飲む)


井戸水は安全なのか?

(沸騰すれば安全であるー忘れていて近くの井戸の水を飲む)

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このように急速に水道が敷かれていった背景には、水系伝染病であるコレラの大流行がある。一八八二年、日本ではじめてコレラが発生する。これは第一次の世界的流行の影響であり、西日本から東海道にまで広がった。

井戸の近くにある従業員七〇人のビール工場では、重症のコレラを発症した人はいなかった。調べてみると、工場の従業員は井戸の水は飲まずビールを飲んでいたのだ。そこで、汚染された井戸の使用を禁止にすると、コレラの流行は、ぴたりと止んだ

井戸水のことを調べたらいろいろ危険なことが書いてあった。それで不安になった。市役所の方に聞いてみた。審査してもらって持ち主は安全だから飲んでいいと言われたので飲んでいる。
その調査結果も持ち主に出している。それは放射性物質だけではない。その他の細菌類なども調査したという。でも本当に安全なのかどうかはどうも保証されていない。その聞いた人に明確な答えはなかった。それでやはり不安は消えなくなった。確かなことは地下水は何かと菌が入りやすいことである。
でも子供の時井戸がないのだからその色の水をもらって飲んでいた。ほかの人も井戸の水を飲んでいたのである。それで細菌が入っていて病気になったということも聞いていない。でもやはりばい菌が混入して病気になった。そういうことがあり水道が作られるようになったのである。
現実にイギリスでわ井戸からこれらコレラ菌が水に混じって伝染した。だからやはり井戸というのはがあったのである。

とにかく今なら山の清水など飲むことはできない。山の清水は上流でも動物のフンなどが混じり意外と汚染されているから危険である。それは直感的にわかる。
つまり自然の水そのものは今は飲むことは危険である。この辺は特に放射性物質に汚染されているから余計にそうなった。でもこの清水でも井戸の水でも沸騰すれば細菌は死ぬという。だから一旦沸騰させてそれをまた冷やす。それも手間になるな安全を図るためにはそうするほかない。すると何か面倒になってしまうことは確かである。

ただこうして近くに地下水から水が50年前からでも出ているその水は尽きることがなかった。それでその水を飲んでいる時何か買って飲むものとは違ったものを感じた。
つまり直に自然の恩恵というか恵というかそういうものを実感した。水道の水とかでわ何かそういうものを感じなかった。水道だったらやはり金を払って買ってるということに今ではなるからである

それを感じたのはやはり近くにあり50年前以上からもその水は絶えることなく地下から出ている。
その恩恵は今もあったということである。だから今では水を買っている人が多い水道の水もやはり金を払って買っているのである。でも全く金も払わず無料で水を利用して飲める。そのことは直接大げさに言えば自然とじかに繋がり自然によって生かされているという感覚にもなったのである

とにかく現代は自然の恩恵を直接的に感じることがない。水ですら何か買っているという感覚になる。そこには必ず金が介在するのである。だから金を払わないで水を飲めるということに感動したとまでなる。でも現実はこうして自然から直接恩恵を感じるということはまれになる。
でも最近日本というのは貧困化して物価も上がり何でも買っていたらもう生活すらできなくなる。水でも買っている人が多い。その金もないという人まで増えている。すると近くの水は無料で飲めるということは貴重なことになる。
人間とは今遠くへ遠くへと関心が向くが意外と近くは今関心がなくなっているのである。それは人間に関してもそうである。外国の困った人には援助してもすぐ近くに困った人人がいても無関心であり援助しないのである。おそらく近くになにかあったものが人を生かしていたものは忘れられているのかもしれない。その忘れられていたものとして隣の井戸があった。この井戸水を飲めばありがたいと思ったのである

それただそれも簡単に飲めるものでもなかった。細菌があるからとして沸騰してまた冷やすとなると手間だし沸騰するどこやはり燃料が必要であり電気代も必要になってくる電気代も必要になってくる。そこでやはり金がかかるとなる。でもただ近くに恵みがあったということは発見である。
最近よく言われることで地産地消とあるわそれはこの井戸水に当てはまる。その水は60年前70年前からも戦前からも絶えることなく水を供給できていたのである。そしてここに水があれば何かあったときこの水を利用できる。するとここに水が自由に無料で使えるということは力強い備えともなっているかもしれない。

確かなことは人間の生活があまりにも何でも買うということになり金なくしてもはや呼吸すらできなくなってしまうのかとなる。つまり空気すら金で買わざるを得なくなってしまうのかとまでなる。
なぜならここでは空気すら放射性物質に汚染されたからである。それで住めなくなったからである。だから原発事故というのは何かこうしてもともとあった水でもあり自然の恵みを忘れていた結果でもあった。ただ矛盾しているのは井戸の水でももし沸騰して飲まなければ安全でないという時その沸騰するのに原発の電気を使うって言ったらそれは何なのだとなってしまう。何かそういう矛盾が現代には常にある。いくら現在では電気を否定しては生活もできないからである。

とにかくこの辺ではやはり原発事故がありもともと自然の恵みがありそれを見直すという再発見するということも必要かもしれない。でも飯館村あたりではもともとまだ自然の水とかを利用していた。でも放射性物質に汚染されてそれもできなくなったということもある。ただもともと地下水とか清水でも危険なものがあった。やはり沸騰しないと飲めないということがあった。飲み水以外ならばそういうことはない。やはり口に入れるということは問題だったのででも子供の時は別に井戸の水をみんな飲んでいたと思う。それをいちいち沸騰して飲んでいたとも思えない。

確かなことはやはり昔からの生活を見直すことも必要になってきた。だから地産地消とかも言われるようになったのである。水まで遠くから買っていることはやはり不自然なのである。その輸送するコストもかかる。本来は地産地消は自然な姿なのである。ただこの辺では原発地区でも放射性物質に汚染されてできなくなったことはあまりにも大きな損失だったのである。
近くが大事というとき介護とかなると近くが大事になる。意外と隣の市とか車で近いとしても娘息子が住んでいるとしてもいちいち車で来るのが手間になる。もし隣に住んでいたらそいうことがないから便利なのである。

脳梗塞になって自転車にも乗れなくなった女性がか自分のところに歩いて来ている。
つまり病気になってもなお近くなら歩いても来れるとなっていたのである。これが遠くなったらとても歩くことは無理である。近くだったら様子を見に行くこともできる。遠くになるとなかなか車を持っていても面倒になるのである。
だから意外とこうして老人が病気になったりすると近くの大事になるのである。昔だったら隣近所に一応店屋はあり簡単な食事を用意くらいできたかもしれない。今は隣に店は全くない。それでその女性は近くに店があったらなと作ってほしいとか言っているのである。

でも今の時代では無理である。でも高齢化社会になると近くが大事になるのである。車も運転できなくなる人もありその人たちは自転車に乗っているからである。
だから高齢化社会に適したものとは近くで用が足せることが大事になってくる。本当は近くの人が助け合えば効率的である。でも今はそういうことはない。車社会になれば近くは遠くが近くになり近くは遠くなってしまったのである。
だからそういう車社会も高齢化社会になれば見直さなければならないことがある。何しろ老人と病人が増えてくるだけの社会であるそれはマイナスにしかならないとみるがやはりそれに適した社会というのはまた健康な人でも若い人でも将来的にも住みやすいものとなるかもしれない。だから今かえって近く見直さなければならなくなっているともなる


自然の恵み

隣の井戸の水は子供の時から
それもさらに戦前からも使われていた
その水は絶えることなく地下から出ていた
地下に蓄えられてたえることはなかった
その水を飲んだ時何かその地下と通じ合う
自然とじかに通じ合うものを感じた
そして自然の恵みを地下に感じた
自然の恵みは尽きることはない
今その恩恵はすぐ隣にあったのだ
しかし忘れていたのである


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2023年08月19日

日大大麻問題「検事上りの日大副学長と警視庁の太いパイプ」 「既得権バームクーヘンの隠蔽体質」-原発事故と似ていたー加治将一氏の説明がわかりやすい


日大大麻問題「検事上りの日大副学長と警視庁の太いパイプ」
「既得権バームクーヘンの隠蔽体質」-原発事故と似ていたー加治将一氏の説明がわかりやすい

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●東電も権力で危険を隠蔽して無視した

この説明はわかりやすかった。常に加治氏が指摘しているのは隠蔽体質である。だからこの事件も表沙汰にしないように日大でも隠していた。隠すことができたのは日大の副学長が検事上がりの人だったからである。つまり検事だから警察庁と通じあっていたのである。これは大問題である。
日大の検事が日大の役員として迎えることは何かあったときそれを表沙汰にしない隠すことができる。そのために検事を役員にしておく。それから学長にしたのは林真理子でありその人はどうでもいいのである。飾りとしてあるだけであり今回の事件でも蚊帳の外に置かれ何も知らなかったという。

この隠蔽体質というのは東電にもあった。東電は危険なことを表沙汰にしない隠すことができていたのである。なぜなら検事でも自衛隊でも警察庁でも天下りしていたからである。だから日大などよりもう鉄壁の守りでありそれを暴くことはできないものとなっていた。
だからこそ実際は安全でないものであっても安全神話を作られていたのである。そこには御用学者も一一役買った。マスコミもそうである。莫大な金が800億円という金が電事連とかから流れていた。一応共産党でも危険を指摘していた。でも電事連といえばやはり共産党系の人たちもいるのだから原発廃止ということにはならなかった。東電とは信じられないほどの強力な大企業であり国家と同じだったのである。そんなものに反対することは不可能になっていたのである。

内部で働いている人は配管などが老朽化していたとか危険を指摘していた。また13mの津波が来ると科学者集団は指摘していたのである。でもそれも無視された。
ともかく危険があったとしても無視されてきたのであそれができたのは強大な権力が国家でも東電と一体化したからである。
だから内部でもそこで働いていた電気関係者の人も配管など何か危険を感じていた。でもそんなこと上の人に何にも言えなかったのであるというのはそういうことを上の人に言うと仕事をもらえなくなるからである。常にそうして権力を持っているから東電には何も言えない。そのために東電は安全神話を作り実際は危険に備える安全対策もしていなかったのである。それができたのはこうして巨大な国家と一体となった権力を持っていたからである。だからそれを暴いたのは津波だったとなる。そんな巨大な権力に対抗することはできなかったからである。

ただそういう隠蔽体質をが危険なのは原発事故で証明されたように事故になったとき住民はもう故郷に住めめなくなった。住民も安全神話を信じており補償金ももらえるとか金が優先になっていたとも言える。
その後の保証金でも何兆円とかなっていることで驚いたので国が関与するとなるとそうして庶民などは考える金とはまるで違ったものとなる。この辺であまり東電を批判しないのはやはり補償金でも貰えたからである。

●原発事故の原因も隠蔽体質から起きたこと

原発事故の原因はいろいろあるにしてもやはり権力による隠蔽体質があった。それは日大の大麻事件でも同じであった。隠蔽する権力でも持っていたとなる。その象徴が検事だった人は役員になっていたことである。その検事が警視庁と繋がり隠蔽するということが出来たのである。
東電になるとそれは国家並みの権力でありあらゆる権力の中枢にある人が海上自衛隊とかでも警察関係者でも天下りしていたのである。そんな巨大な権力に対抗することは不可能だった。マスコミもただ東電から広告費として巨額のお金をもらっていた。だから事故が起きたとき朝日新聞社でも中国に東電から招待されていて飲み食いしていたのである。
だからマスコミも関わり安全神話は鉄壁なものとして作られていた。でもそのことが大事故に繋がっていたのである。爆発が起きてもそもそも安全神話があるのだから避難訓練などしていない。それで一番危険な一番放射性物質が多い場所に町長は何も知らされていないので避難したのである。

東電の人が放射性物質がどういう風に流れるか知らなかったかというと知っていたのである。それで東電の人が山の方より海の方に避難した方がいいとしてそれに従った人たちがいたのである。なぜなら海の方は0.5とかマイクロシーベルトか本当に低かったので山の方の津島になると20から30マイクロシーベルト言う恐ろしいものとなっていたのである。
そういうことになったのはそもそもは安全神話を作り事故は絶対に起きないと言うことを前提にして原発を作ったからである。だから危険があっても隠蔽できたのであそれが後々の大事故にもつながっていたのである。だから権力を持つということは怖いことなのである。そしてなぜ権力は腐敗する絶対的に腐敗する。そう言われるのは権力によってそこに危険があってもまずいことがあっても隠蔽できるということにはそのことから真実が見えなくなる
だから日大の大麻事件でも内部からも告発がありいろいろ指摘があっても隠蔽していたのである。そこには検事上がりの役員が関わっていたのではそもそもなぜ東電がこれだけの大事故を起こしたのに役員でも罰せられないそれはやはり検事でも天下りしていて身内はバームクーヘンは既得権者はお互いに守ろうとするから罰せられないと見た。

●システムを変えても人間社会は根本的に変わらない

いずれにしろ日本には民主主義は根付いていない。民主主義とは選挙の選挙をするというだけではない。様々なシステムは透明化して民主化することである。それが日本では出来ていない。報道の自由もない。今まではマスコミが報道を握り第3の権力になっていた。マスコミが真実を追求しない。やはり隠蔽に協力するものだったのである。た
だだ既得権のバームクーヘンの中にはいっていれば甘い汁を吸いるということになっていた。その報道でもテレビだと莫大な金がかかる新聞でもかかる。そのためにどうしても広告費をもらえないと成り立たないのである。それで聖教新聞すら第1の仕事はこの広告をとることだと言っていたからである。そして何か創価でも環境に良いとか原発の宣伝をしていたのはマスコミの中で二番目に大きかったのでなぜそうなるのかというと金のためいみそうしてるだけである。本当は宗教団体なのだから真実を追究するということが第一にあるべきなのである。

そもそも創価などは権力を得たいというだけである。権力を取るなら手段を選ばない。あらゆることにそのために権力を得るために工作しているのである。新聞社にも聖教新聞を刷らせて反対させないように批判させないようにさせる。福島民報も聖教新聞を刷っているからである。
だから原発のことなど危険危険を知らせないし何も言わないともなる。つまり広告費をもらうことで批判は抑えられるのである。だから大きな権力にはマスコミも逆らうことはできないのである。ただインターネットだと金ががかからないから一個人でもこうして気軽にかけるのである。ただ影響力は少ない。

ともかく加治将一氏がマスコミでも取り上げ無いのは日本のタブーに触れているからである。日本では天皇を批判できないからである。天皇は偽者だという時妄想であるもそうである。またさまざまな多分がありタブーがありそれに触れているからマスコミには出ていないのである。でも何か時事問題とかで話すとき急所を付いていてわかりやすいのである。だから新しいメディアができてそういう人も生まれたとなる。何かインターネットというのは一個人でも新聞社でもテレビ局でも出版社にもなれているので

ただ何であれ発言すれば批判はある。加治将一氏は何かアメリカに対してはあまり批判しないようである。アメリカにもいろいろ問題があるいくら民主主義があるとしてもそれも必ずしも実行されていない。アメリカの一番の問題は超格差社会であるということである。数パーセントの人がアメリカの富の半分を持っているということはもう民主主義も何もない異常なことである

そんな国がもう維持できるのかとなる。システムを変えることが大事だというはそもそもシステムを変えたところで人間が変わるものだろうか。それは社会主義システムに書いてもやはりそこで悪魔必ず生まれているのである。
だから人間というのはシステムを変えてもその中にいるそのシステムを動かす人間を変えない限り社会は変えられない。だから民主主義システムでも共産主義システムでも資本主義システムでもそこに悪が不公平が生まれ格差が生まれ公平にはならないのである。

でもその中で良心がある人はやはりこれはおかしいと思うのである。そもそもシステムを変えれば社会が改善されるということで共産主義でも生まれた。結果として粛清されて何千万人も殺されたという最悪の結果にもなったのである。だから本質的には人間社会というのはシステムを変えても変わらないように見える。人間の個々人が変えない限り変わらないと思う。つまり社会の中で詰めに不正がありそれを指摘して変えようとしない限りいくらシステムを変えても変わらないと思う

●人間の欲は消えないから悪も消えない

ともかく加治将一氏がこうして明確に悪を指摘できるのは作家というだけではない。アメリカに15年とか不動産関係で仕事していたとかその経験が大きいのである。だから常にアメリカと日本を対象的にに見て指摘できるのである。
日本だけに住んでいては日本のこともわからないのである。それは別に日常生活してれば些細な事でも日本との相違がわかる。外国では釣銭を明確に計算して出せないという。日本ではそういうことがない。そのためにかえって遅れた国ではit化して釣銭を数えないようにしたということもわかる。
また固定電話でもスマホになったということも携帯電話からスマホになったということもわかる。つまり遅れていることがかえってよく作用したのである。それは自分自身がそうだった。悪筆をなんとかしようとしてワープロを始めてた。そのワープロに通信機能が付いていたので早い時期から通信での対話などしていたのである。だから遅れてるということは返ってよく作用するということもあ
ただ問題は彼はあまりアメリカのことは批判していない。そこに多少の疑問がある。ただその批判する視点が既得権者のバームクーヘンであるということには賛同するのである。問題はその既得権者にありその人たちをどうして監視して権力を抑制しして操作するようにさせる。

つまり権力というのはそれだけ危険なものを持っているからである。そのためにさまざまな危険がありナチスのように何千万人もう死んだりとか日本の戦争でもやはりそういうことはあった。宗教というのもまた権力と一体化すると非常に危険なのである。
宗教と言うと何か平和のものと感じているが実際は宗教でも常に暴力となり平気で殺すことも是認されるのである。だから宗教対立でも常にあり戦争になっているのでそれは宗教の対立というより権力の対立なんだと思う。なぜなら人は権力を得ることを具体的に得だと思ってしているからである。だからカルト教団もここの内面の心などは全く問題にしていない。
社会で勢力を持ち権力を得ることを目的にしているのである。そして社会というのは人びとは権力に従うのである。
その権力にもいろいろあるが軍事力があり金があり今では民主主義となると数を集めることなのである。カルト教団でも何百万人もいるとなると恐れることになる数で威圧するのであるその中身は何でもいい。正義も何もない唯一がすべてであり数は力であり数を集めて社会を支配するのである。現在で力を持っているのは大衆だからそうなるのは当然である。

●権力を望まない欲のない人が治めるべき

だから理想は権力を持たない人が欲を持たない人は一番上に立ち収めることである。それで聖書では緑子に収めさせようとか老子になると治めずして治まるとかの結論になる。権力を持てばもともと欲があるのだからその欲がむき出しになって権力を利用する。それがあからさまに行われたのは中国である。皇帝がどれだけの権力を持ちその権力を利用してその欲を叶える
それが異常なほどの残虐な行為伴っているのである。
から元々宗教とは欲を抑えるかことから始まった。でもカルト宗教団体になるとどうしたら権力を得て自分の欲を達成することまでだったしかなくなった。だからこそあれだけの人間を集めることができる。ただ一票になればいいだけであり頭数を集めるだけであり後のことは何も関係ないからである。

そしてナチスのようになるのである。だから民主主義というのも今や人々はそのシステム自体を問題視している。それはほかの資本主義でも社会共産主義でも同じであシステムを変えたからと言って社会は変わらないのであそもそも人間の欲は消えないし変わらないから社会も変わらないので社会のシステムを変えても社会は変わらない。そもそも人間が変わらないのだから変わりようがないのであるシステムを動かすのは人間だからである。
資本主義がウエバーのキリスト教修道院内で始まり人々に奉仕するものとして労働がありそこから資本主義が始まったというときまさにそうである。それも全く変質してただの強欲資本主義になってしまったのである。人を助けるということなどは全くないただ自分はもうければいいというだけである。だからこのようにシステムというのは必ず人間の欲によって変質してしまうのである。

だからもともと仏教の出世ということはこの世から離脱することであったが逆にこの世で出世して欲を達成することが目的となったのである。カルト教団でわあらゆる欲は是認されるしもっと欲を持てそれがエネルギーがあることだと言って奨励されているから異常になっているのである。
そこでバチ当たるとか地獄に落ちるとか言っているけどそんなこと言える人間なのかただ自分の欲をを達成するだけを目的にしているのそいうこと自体が異常なのである。でも現代社会では異常でもでも多数になれば正常になるのであるそれがナチスだったわけである。ナチス政権も選挙で選ばれたからである。

日本は民主主義の三権分立があっても機能していない。それは確かである。だからこそバームクーヘンの既得権者は構成されてそれが原発事故であれ日大の大麻事件であれ問題が起きてくるのである。システムを変えることは必要である。でもそれが根本的な解決になるのかは疑問である。結局システムでも人間が動かすものでありそこでまた必ず問題が起きるのである。だから権力を監視するというかそういう機能は必要なことは確かである。
でもマスコミも権力に癒着して既得権」バームクーヘンになっていたのでそれはなぜかとなれば得するからそうなったのである。だから根本的に人間社会を変えるということは難しいとなるのである。聖書でも欲で滅びるというとき人間の最終的な結論はそうなってしまうのである。欲はどんなことしても消せないからである。それに対処方法は無いのでそこに人間社会の限界がある
この世の悪との戦いに終わりがないことなのである。





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2023年07月25日

氷河期世代を見放したことが少子高齢化の原因にも (人間は先を見ることができないから失敗する)

氷河期世代を見放したことが少子高齢化の原因にも

(人間は先を見ることができないから失敗する)

●団塊世代の学生時代

なぜ今になって氷河期世代が問題になるのか?その時就職難でありまともに就職できない人が多かった。高校生ですら16%ぐらいしか就職できなかった。大学生は就職できなくても高校生は大概これまで就職できていたからである。だからよほど就職難であり就職ができないということだったのである。何かその時フリーターとかはモテもてはやされ、自由な仕事の仕方として奨励されたようなことがあった。でも実際は正社員として就職できない人がしかなくてフリーターとかなったのである。そのフリーターとかを新しい仕事の仕方として見ていた人もいたのであ。 

ただ世代が違うとその世代のことが理解できなくなる。そこで戦争を経験した世代としない。戦後の世代とでは、大きな差がある。まず戦争と言うのは経験できないことであり。だから戦争を経験した人の話を聞いてもなかなかわかりにくい。その中には実際に人を殺した人もいる。だから、戦争で人を殺した経験をした人はどういうことかということを理解することが不可能になる。
だから戦前世代と戦後世代は大きなギャップがあるのである。

そして団塊世代というのは、戦争が終わって生まれた人たちである。その数は多かった。都会で一クラス70人ということもあったと聞いた。それも驚きである。私の田舎では50人くらいだったの、今クラスは30人くらいなので。でも同じ年代で8教室とかあった。どれだけ数が多かったということである。だから高校に入れないと騒いでいたのである。その時集団就職があり人手不足で東京の中小の工場に働いたのである。だから中卒で。親をもとを離れて働くということはきびしいことだった。

私は三流でも東京の私立大学に入った。だからそういう厳しさはなかった。第一文系の私立などは遊びの場だったのである。変なのはゼミの教授など一回ぐらいしか見たことがない。大学の先生とは何かを教えるということがないのである。講義でも自由に休むのである。もうそれがどういうことなのか分からなかった。高校とはあまりにも違っていたのである。大学の先生というのは別にを生徒に教えることが仕事ではない。自分の研究をすることが仕事なのである。だから勉強もせずにただ遊んでるだけの人がいたり学生運動がありそこで青春のエネルギーを発散させていたのである。

というのは文系などはそもそもはまともに先生がいても教えないのである。また授業に出るのも自由であり、でなくてもいいのである。そして一年に一回試験があるが。それも形式的なものであり別にそれで落第するなど無いのである。ただ千人が入るくらいの講堂に人を詰め込んで教授がマイクで講義している。そういうことに興味もない人が多いから。一日麻雀をしていたり。遊んだりあとは学生運動にエネルギーを費やしている。

だから大学というところは一体何なんだろうと不思議に思うのである。それは高校とあまりにも違っていたからである。そのギャップが大きく。一体そこはどういう場だったのかとなる。文系の場合は特に何か実験などもしないし、レポートを出すこともないし。ただ時間潰しの場所なのかとまで思った。それで変な方向に行ってしまう人がいたのも当然である。今それが今女子大学生でおきている。
だから手に職をもつこと職人でもなった方がいいとなる。職業訓練校にでも入った方がいいとなる。文系は何も身に着かないからである。これは中国でも起きている。大学生が多すぎて就職先がないそれが大問題になっているからである。

●エリートではなくなっていた大学

今貧困化しても大学に行く。奨学金をもらっても大学に行く。でも金が足りないからと風俗の方に行って稼いでいる。そしてい一体その女子女子学生は風俗が仕事なの勉学なのかわからなくなる。そういうことはすでに団塊の世代でも起きていたのである。現実にバーテンとかして働いてアルバイトしていた学生もいたのであ。すると一体何が本業なのか?学生なのか、それともそうした飲み屋とかで働くことが本業なのかとなってしまう。毎日ギャンブルやパチンコしていた人もいる。だから、一体大学とは何の何なんだろうとなる。それは特に文系の場合はそうなることが多かったのである。

その頃から大学生等も別にエリートでもなんでもない。新宿で石を投げると学生に当たると言われていたほど多くなっていたのである。戦前の大学生とは雲泥の差がある。その人たちは将来を約束された人たちであり特別視されていた。 だから周りでも何か自由にしていても許容していたのである。それは将来日本を担う人たちだったからである。それで寮歌があり選ばれた人として見られていたのである。その人たちはエリートであり将来を約束された上に立つ人だったのである。でも戦後の大学生はそういうものでわなかったなくなった。ただ、田舎では一クラス50人居ても5人くらいしか大学にも行ってないのである。後の1/3は集団就職とかにもなっていた。高卒が三1/3くらいだったともなる。高校すらまともにいかない時代だったのである。

●氷河期世代の問題の顕在化

とにかくこうして世代ごとにその時代があり、状況は違っている。それが歳をとって振り返るとそれが何だったのかとなる。明らかになる。だから氷河期世代というのもその時何があったのかわからなくなる。でもこの氷河期世代は大きな問題と今なっている。それは無視された見逃された世代だったのである。まともに正社員になれない。就職できないそのことが今になって大きな問題となったのである。

なぜなら少子高齢化というときこの氷河期世代が結婚しないということで子どもを産まない育てないということで今深刻な問題となっているからである。団塊の世代ではほとんど結婚している。結婚してない人は例外的存在である。氷河期世代というと40から50の初めまでの人口ボリュームは多いのである。特に団塊の世代の子どもになる。氷河期世代は数がやはり多い。でも結婚していない人が多い。それが田舎でも目に付くのである。

例えばコンビニで二人人働いているその人は40代くらいである。それも結構長く働いているのである。おそらくコンビニくらいしか就職先がないからそこで長く働いている。でもコンビニで働いて結婚するとなるとなかなか難しいだろう。収入もそれほどないからである。そしてそういう場所で働いて何か身につくのだろうか?そしてその人たちを見ているともう結婚もしないし将来も独身であり仕事としたら覚えるのはコンビの仕事だったとなる。
そこでその人独得のスキルが身に着くのだろうかとなる。

そして収入も少ないから年金などどれだけもらえるのがどれだけもらえるのかわからない。他にも結婚してない40代から50の初めとかの人が結構いるなと最近気づいたのである。私自身交際範囲が狭いから昼間買い物の後に行くと目に付くのはニートとかあとはこうして40代50初めでコンビニとか働いてる人なのである。

でも田舎でも現代を反映している。氷河期世代の人口が多くその人たちが結婚しないで子供を産まないから少子高齢化は深刻になったのである。でもその時将来のことを見えなかった考えなかったそれはその人達の責任ではなく上に立つ人たちの責任でもあった。政治の責任でもあった。人間の弱点は一年先でも見えないのである。日々今に追われるだけなのである。

●人間は先がみることができないので失敗する

来年のことを言えば鬼が笑うということになる。先がわからないのが人間なのである。なぜなら津波でもそうだし原発事故でもそうである。そんな大きな事故が災害のくるなど予想もしなかった。だからたとえそういう大災害がないとしても氷河期世代というのは将来どうなるのか?それをある程度見れたから対策するべきだったのだがしなかった。それが今になっても取り返しつかないものとなってしまったのである。もう正規社員にはなれない。

そしてその後日本経済も衰退して立ち直れなくなっているのである。ただ、氷河期世代の上の50代から60代の人はバブル世代であり景気が良かったのである。ただ、氷河期世代だけが割を食ったということになる。それは戦争で死んだ人たちと同じである。その人たちは不運だったのである。この日本の将来が暗いと言う時でもこうして団塊の世代とか数が多くその人たちが75すぎると病気になったり介護になったりする。その子供たちが氷河期世代なのである。だから親を介護するにしても金かねにしてもない。それで負担がかかってくるからどうなるのかとなる。

現実にそういう人を知っている。その人も50歳くらいでで独身であり働いているのは工事現場である。でも母親が脳梗塞になったのである。母親はまだ73歳くらいなのである。そして2025年問題になる。団塊の世代の子供が親の介護に入る世代なのである。その負担を追いきれないとな。そこで悲惨な悲劇が起きてくる負担し切れないからである。

またどうしても病気になるから医療費がば増大する。その負担も大きすぎてもう金も出せないのである。
国で金をも出せないのでそのためにまた増税となり若い世代が苦しむのである。 何かもう家族でも社会自体が破綻して行く。そんなことを私は2人の親がいて介護して苦しんだからわかる。私の場合は金に余裕あったが。氷河期世代には金はない貯金すらない。そしたらどうして介護できるのか?氷河期世代の親の人は脳梗塞になった。その後遺症もあり何とか直そうとしているが。金も無いのである。つまり医療費が増大する。そのために。国は潰れるとまでなるかもしれない。それだけ医療にも金がかかるからである。 

ともかく世代の問題として氷河期世代と。団塊の世代が数が多いから社会を圧迫して大問題となっているのである。
だから日本はこの世代と団塊の世代が消えるまでは苦しむ。そこに悲惨なことが悲劇が起きてくる。それはもしかしたら戦争で死んでいくような世代と似ているかもしれない。もう介護に金を回すとか医療にお金を回すことさえできなくなる。数が多くまた医療も手厚くしていればもう限界になる。 東京では生活保護を金を出して出したくないとして、ほかの市町村に移ってもらう。そこで世話してもらうとかもなった。金を払いたくないからほかの市町村で面倒みてくれとなった。そして家族でも面倒見きれないから家族遺棄社会にもなる。

でも誰かが面倒見させられるということもある。捨てるわけにもいかないからである。いくら愛が大事だからといってそういう。老人とか病人とかあまりにも多くなると社会自体が維持できなくなる。 つまり、老人と病人によって。社会が圧迫されて社会自体が破産してしまうのではないかとも思う。でもやはり人間というのは命が一番大事でありみんな死にたくはないのである。老人もだから簡単に死ねない。そしてやはり手厚い治療もするから今は簡単には死ねないのである

するとまたそこに金がかかり、手間がかかり介護する人の負担となり恐ろしいのは共倒れになってしまうということである。私も自ら病気になり2人の親を必死に介護した。それは60代過ぎてからである。私は特別に親にはよくされて自由に生きたから親には感謝している。でも。今度は団塊の世代でも介護される側になるともうそれは出来ないかもしれない。氷河期氷河期世代とかは金もないしただ不運な世代であり割を食った世代であり親にも感謝しないだろう。だから家族遺棄社会になる。 

●先が見えずITでも遅れ失敗

いずれにしろ人間の問題は一年先すらわからない見えない。だから十年先になるとさらに見えなくなる。でも氷河期世代は何らか対策しなかったのは大問題だったのである。だからなぜ今になって少子高齢化を騒いでるかということである。その原因は氷河期世代が結婚してみんな子供を産めばそうはならなかったのである。だけど氷河期世代は政府からも社会からも放置されたのである。今になって問題にしてももう遅かったということになる。

こうして人間は先が見えないことで手を打たない。そしてその現実は目に見えて来た時やっと反省している。それで氷河期世代とは何であったのかとなるのである。でも既に時遅しになっている。それは例えばITでも日本は遅れた。それも先が見えなかったからである。私はワープロで通信をしていた。それがまさかこんなに通信が世界的になるとは思いもよらなかった。その時も先が見えなかったのである。先を見て手を打てばこうはならなかったのである。

日本人はそれだけの技術がないというわけではなかったのである。ただITというのは通信がこのように。グローバル化してその中心となる技術になることが見えなかったのである。
車などは製造業は見えるでもこのITは何か見えにくかったのである。今までの製造業と違っていたからである。だから人間というのはとにかく未来を見る先を見ることが重要になる。株でも先が見えれば大儲けになる訳である。でもその先を見るということは一番難しいのである。一年先すら何を起きるかわからない。だから来年のことを言えば鬼が笑うとなる。それだけ何が起きるかわからないからそうなる。氷河期世代も当時はどういう影響を将来もたらすのかを見なかったから今日がある。でも今になるともう遅い。それで氷河期世代が60才とかなるとさらなる地獄がまっているとなる。。
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2023年07月19日

川を挟んで戦争が継続した歴史-ウクライナ戦争も同じ (大陸の熾烈な戦争のカルマー地歴を知れ)


川を挟んで戦争が継続した歴史-ウクライナ戦争も同じ


(大陸の熾烈な戦争のカルマー地歴を知れ)


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https://onl.la/bxEkEkj



●今も運輸の大動脈のライン川


ドイツでは物流の大動脈であるライン川の水位が記録的な水準にまで低下していて、水位の低下で石炭や石油製品などを運ぶ船の航行が困難になり、エネルギー価格の高騰に拍車をかける懸念が生じている。

2022.08.23


プーチンの「呪い」だ…! ドイツの「ライン川」でいま起きている「ヤバすぎる

https://gendai.media/articles/-/98726


内陸水運貨物の上位2〜4位であるコークスや石油製品、石炭・褐炭と原油や天然ガス、化学製品は、それぞれ全輸送量の20.8%、27.0%、10.8%が内陸水路経由での輸送だ(添付資料表参照)。また、ロシア産天然ガス供給量の減少により、石炭・褐炭を発電燃料の代替とする予定だが、船舶の航行困難で輸送に影響を受けている。なお、ライン川は欧州域内で最も重要かつ最も交通の多い内陸水路で、ドイツの内陸水運貨物の約80%がライン川上を通る

ジェトロ


民族大移動期にローマ帝国はフランク人のサリ族を傭兵として利用するためにフォエデラティの資格でネーデルラント南部のトクサンドリアに入植させたが、西ローマ帝国の衰退にともない、サリ族入植地から発展して成立したフランク王国に、ネーデルラント全体が取り込まれていった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%

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日本で理解しにくいのは川のことである。 川のスケールが日本とまるで違っているからである。1200キロもライン川があるとすると想像を絶するものなのである。だから、その川は運河のようになっていて。荷物を運べるのである。それは大きな交通路に今もなっているのであ。ただ流れているだけではない。交通路として生きているのである。支流でも大きく 船でものを運べるのである。四大文明が川のそばに生まれたということはそれを?それを知るにはわ川を知らなければならない。


なぜriverをライバルというのか川を挟んで川が障壁となっていたからである。それはウクライナ戦争でもそうだった。ドニエプル川というのはウクライナの中央を横切り流れている。そのドニエプル川を挟んでウクライナとロシアが戦っているのである。その川が障壁となりなかなかその川を渡ることができない。川を挟んで勝敗が決まるとまでなる。ミサイルがが飛んでくる戦争でも依然として陸上戦になると川が障壁となり。そこで戦いが勝敗が決まるとまでなる。だから地理というのは変わらないからやはり人間もその地理に左右されているので。


そしてなぜオランダがライン川の先の海に出るところにあるのか?オランダはどうして作られたのか?それは今のフランスのフランクがありその一部であったドイツではなかった。でも言葉としてはオランダとドイツ語は似ている。ゲルマン系の言葉である。だから。方言の相違くらいのかもしれない。でもフランクに属していればフランス語が使われたから違ったものになっていた。このようにヨーロッパの歴史は複雑でありわかりにくいのである? 


●川が運河となっている大陸やヨーロッパ


でも世界史でもわかりにくいが地理から見るとわかりやすいことがある。その一つが川を見ることである。川が交通路であり大陸の川は運河と同じである。水路のようになっているからである。日本の川は滝だというとき外国の川とあまりにも違っているからそうなった日本の川は山から激しく流れて陸地を長く流れるということが少ないからである。だから運河のようになっていないから。荷物を運ぶのにむいていないのである。最上川は米などを運んだりしたから大陸の川とと多少似ている?でもそういう川はまれなのである。


とにかくヨーロッパの歴史は分かりにくい。それだけではない世界の歴史を知ることは日本人にとっては海に囲まれた島国であり。そこで地理を具体的に感じることができないからそうなっている。一つの世界から孤立した島にもなっているからである。で大陸のような激しい民族や国の興亡を経験してないから大陸の歴史を理解しにくいのである。今のウクライナ戦争でもそうである。陸続きで国境があるというときいつ国境を越えて他国が攻めてくるかもしれない。そういう恐怖がいつもあるのでいつもある。逆に攻められると思う国でも隣り合っているのだから国境を越えて攻められると言う恐怖がある。互いにそうして恐怖の中にある。そういう歴史が継続していたのである。


それからプリゴジンという傭兵隊長がロシアの軍事顧問に大統領まで二不満を言いモスクワまで攻めていくとかいうのやはりその傭兵というのがヨーロッパでは戦争の時必ず出てきていたのである。なぜならオランダでも傭兵が一つの国を作ると言うことをしていた。そんなこと普通日本だったらあり得ないからである。そもそも日本には傭兵というのはなかったからである。そこにやはりヨーロッパでも歴史の継続があるということである。


●戦争に負けると奴隷にされる歴史のカルマ


そして信じられないことはヨーロッパの白人の男女でも奴隷としてイスラムにモロッコとかに売られていたのである。女性は奴隷市場で裸にされて売られていたのである。今になると信じられないことである。黒人が奴隷にされるということはわかる。でもヨーロッパの白人がイスラムの国の奴隷となっていたのである。つまり奴隷というのは、常にローマ帝国時代からありそれはアメリカでも黒人奴隷として働かせたように継続していたのである。


ヨーロッパでも大陸でも絶えず戦争があり戦争に負ければ奴隷にされその厳しい歴史があった。日本でも戦争に負ければそういうことがあったらしい。ただそれは戦国時代のことだけだった。大陸では絶えず戦争があり奴隷化されることが継続していたのである。だからスラブ民族というときスラブはスレーブであり奴隷のことだったのである。そこで今もヨーロッパとスラブ民族系のロシアが戦っているということにもなる。つまり、民族抗争は世界か絶えたことはないのである。ロシアはモンゴル系統が混血している、大陸では人種が混血するのである。


何か歴史というのは東西でも一つのカルマを繰り返すということで共通している。国が弱体化されればそのそこに住む住民も奴隷化され経済でも競争に敗れれば日本が貧乏になって外国人にアジアでも裕福になった中国人に買われるとなる。それは日本は裕福な時東南アジアとかでしてきたことだからである。つまり他国にしたことが、今度は自国にされる。それがカルマなのである。そんな日本人がカンボジアにたむろしていた。今になれば、日本などは東南アジアと同じようにそれ以下にもなっているのである。だからつくづく人間には必ず国でも個人でもカルマとなりそのために苦しむのである。


●ウクライナ戦争もドニエプル川を挟んだ戦い


ともかくウクライナ戦争もドニエプル川をを挟んで戦いがありそこで勝敗が決まる。それは歴史の継続であり。いくらミサイルが飛んでくるとしても陸上戦になるとそうなるのである。やはり陸上戦で住民を支配しないと自国の領土となりにくいからである。


ロシアでも、ドイツでもフランスでも大国である陸の大国である。ランドパワーである。でもスペインとかポルトガルとかは海洋進出した。シーパワーの国であるオランダもそうであり。イギリスは七つの海を支配したのである。シーパワーが世界を支配したのである。ただ、それまではランドパワーの戦いであった。 そこで川を挟んでライバルとなり社会が現代でも継続されていたのである。だから歴史というとき。必ずやはり地歴なのである。地理をを知らないと世界のこともわからないのである。ただあまりに広すぎて、日本では。実感として分かりにくいのである。 


地理とか風土は宿命でありカルマとなる。それは変えられないのである。それを実感しているのは福島県では浜通りが阿武隈高原で遮られて。福島市とか中通りが見えない見ることができない。すると地理的一体感を感じない。ただ飯館の佐須から峠を越えると吾妻山が見える。でもそこまで行かないと見ることはできない。ところが蔵王というのは南相馬市の鹿島区からも見えるのである。結構明確に大きく見えるのである。すると山形県でも地理的一体感を感じるのである。


それから牡鹿鹿半島は思った以上大きく見えるのである。だから海をとうして地理的一体感を浜通りは感じるのである。会津となると別の世界であり山国であり福島県でも東北でも一つの別の世界なのである。雪国でもあり浜通りとはまるで違った風土なのである。だから福島県は地理的一体化を感じない。むしろ海を通じて宮城県の方に地理的一体感を感じる。山が邪魔だからと取り除くことはできない、山が多い日本ではトンネルの技術力が高いといううのも

地理に風土に影響されていたのである。


いずれにしろ。人間に起きてくることは空間軸と時間軸で起きてくる。そこに地理的宿命があり、カルマがある。今のウクライナ戦争でも起きているのでそれは地理からすでに予測していた人が結構いる。それは地理の宿命として戦争が起きていたのである。 平坦な土地だと森が川が障壁となっていた。依然と決せられる。陸上戦ではどうしてもその川を超えなければ戦いに勝つことはできないからである。地理的宿命から逃れることはできないのである。


また時間的宿命カルマとしてアフリカのモロッコとかイスラム国がヨーロッパの白人を女性まで奴隷にしていたということであろう。それが今度は逆にイスラム系とか黒人が。奴隷にされたという歴史がある。それもカルマの繰り返しなのである。人がこのカルマから国であれ個人でも逃れることができないのである。だから人間の社会はカルマの繰り返しであ。それは終わることなくある。個人でもそうだし。国単位でもそうなのである。



ロシアは森林を除けば、侵略から身を守る自然の障壁を何ら持たない。最後の陸上帝国であるため残虐に征服されることの意味を深く身に刻み、領土を拡大維持するか少なくとも隣接する影のゾーンを支配しなければならないという強迫観念に囚われるようになった。


地政学の逆襲ーロバート・D・カプラン


この本を読むとウクライナがロシアに侵略されたのは必然だとなる。地政学的に避けられない運命だったともなる。地理はそれだけ人間に影響してその歴史まで作っているのである


posted by 天華 at 17:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年07月17日

戦後70年を振り返る (縮小化する日本の衝撃ーインフラも維持できない)


戦後70年を振り返る


(縮小化する日本の衝撃ーインフラも維持できない)



●戦後世代の主なもの


団塊の世代。


バブル世代が4年制大学を卒業して就職するのは1987年〜1992年頃で、1986年〜1991年のバブル景気の頃とほぼ重なります。幼少期も日本の高度経済成長期と重なっていて、日本の景気がいい時代の影響をうけて育った世代です。


氷河期世代。


就職氷河期世代とは、1993年〜2005年度に卒業した人たちということができます。


平成15年の就職率は55.1%であり、かなりの就職難であったことがわかります。


また高校卒業者に関しては、たったの16.0%しか就職できていないのです


就職氷河期に入ってからは初任給は20万円を下回るようになりました。


また、どんなに頑張っても初任給から給料が上がらない、ということも珍しくなくなりました。

フリーターやニートが急増している今の時代、正社員として就職することが難しかったり、諦めざるを得ない現状があります。


現代の社会構成は主なものとして戦後の焼け野原から始まった。団塊の世代と高度成長を経験した続きとしてバブル世代の人たちがいる。そのあとにバブルが終わり氷河期世代が始まり失われた30年があった。バブル世代までは今の50代ぐらいまでは高度成長の恩恵を受けたのである。でも氷河期世代からは失われた30年となりそうした恩恵を受けていない。就職すらまともに出来ない時代になったのである。


だから氷河期世代は一番損しているとなる。 何かフリーターとかの自由な働き方を自ら選んだ人たちだというふうにも見られていた。。実際は違っていた。非正規の働き方はむしろ就職できないので正社員になれないのでそうなったのである。だからこの世代は結婚してない人が多い。何か田舎でも私が合うのはニートとかことおじとかである。氷河期世代の人たちでその人たちはどうも結婚してない?40代なのか?50代でもいる。そういう人が近くにいた。


とにかく40代50でも結婚して居ない人が多いことがわかる。団塊の世代はほとんど結婚している。結婚してない人は変わり者であり。例外的存在であった。それは自分自身に言えた。でも今は違うそういう人が相当数いって別に変わり者でもないのである。

でもその人たちを見ると長男の人もいたりいずれは家の跡も継がず家自体が空き家化してくれる?氷河期世代は団塊の世代の子供達であり数が多いからその影響もまた大きいのである。

これは田舎とか都会とかと関係ない。一定数の人が何割かが確実にどこにでもそういう人たちがいる。だから、これは田舎と都会の問題でもないし全国的な問題なのである。この問題はだから団塊の世代のの中で私のように変わり者はならない社会全体の問題となっているのである。それは数が多いからそうなっているのである。 


●温泉ホテルの廃墟化


バブルの世代団塊の世代も数が多くその人たちは高度成長時代を築いた。その後の時代のことがよく理解できないことがある。ただ、バブルがはじけて会社の経営が苦しくなり団体旅行もなくなった。そのために団体旅行の慰安のの場となっていた温泉旅館がホテルが全国的に廃墟化したのである。そこで金を使った人たちがもう使わないからである。 それは一時期の繁栄の跡として廃墟化している。福島県だと東山温泉とか 飯坂温泉である。飯坂温泉は奥の細道の行程の中にある。そしてイ一本の電車が通っていることで魅力もある。


 そこは歴史の道であり。医王寺は義経の家来の佐藤氏の墓所でもあり。芭蕉も寄ったところである。 そういう歴史的場所はやはり価値がある。古い白河街道は街道は猪苗代湖の湖南町の福良の方にある。鉄道の通っているところではないのである。そこを私はそこで私は蔵の宿に泊ったのである。だから昔を偲ぶならその街道をゆくべきなのである。


とにかく70年生きればその人生を振り返る。この戦後から70年は一時代だったと思う。それは明治から太平洋戦争までが70年だから一つの時代だったのである。ただその中でも団塊の世代バブル世代氷河期世代世代が大きな塊としての特徴ある世代だったのである。 


●バブル時代の夢の跡と化した温泉街の廃墟化


その時代の中で温泉旅館やホテルが廃墟化したのである。ただ、私はそうした団体旅行用のホテルとかは苦手でありほとんど泊まっていない。第一温泉ホテルは高いからである。また自転車旅行だと泊まりにくいからである。また断られたこともあるからである。


私はその頃、時間はいくらでもあっても金はなかったからである。最低の旅行しかしてないのである。私はただ泊まればいいと言うだけだったのである。 だから私が思い出に残ってる宿というのはほとんどない。福島県だと福良の蔵の宿が思い出となっている。 現代はそもそも旅はなくなり旅の宿はなくなっている。江戸時代ならどうしても歩く旅たびだから必ず宿で休まない限り旅はできない。というのは相当に疲れるからである。だからこそ旅籠に着いたとき足を洗うのである。それがもてなしである。なぜなら歩くのだから足が汚れるからである。それも草履で歩いてくるから足が汚れるから足を洗うのである。旅籠は相宿であり一つの部屋で一緒に過ごしたのである。ただ殿様だけは陣屋に泊まり特別だったのである。 


温泉旅館はホテルはそうして旅人をもてなす場所ではない。会社の団体旅行をもてなす場である。団体旅行の慰安の場所である。農民の湯治場として温泉があった。それが会社の慰安の場所となったのである。その会社がバブルがはじけて温泉のホテルの団体旅行は衰退した。そして廃墟化したのである。それもバブルの夢の跡だったとなる。


それにしても。温泉旅館ホテルだけではない。駅前通りさびれてシャッター通りになった。それは車社会の影響でそうなった。それは北海道でもそうであり。北海道はやはり温泉ホテルが廃墟化しているところはかなりある。ま駅前通りにも廃れたそれは全国的なことである。今賑わっているのは車が休むSaであり道の駅なのである。


 相馬市のイオンも撤退した。その影響も大きかった。そこが。街の中心の様にもなっていたからである。そういう大きなビルが廃墟化すると街全体にの影響が大きい。だから街づくりというのは、そうした大資本とかその他チェーン店でも経営できなくなる?経営できなくなるとどうしても。撤退する。でも前のように小規模だったら、商店でも食堂でも地元に根付いて経営で来ていたかもしれない。 だから街作りも見直す時期に来ているのかもしれない。


ただそれは車社会とか他にも社会自体の変化にあり簡単には変えられないだろう。でも戦後70年過ぎて色々変化があったが。また変化が起きてくる。もう日本全体がそうなっているのである。なぜなら。ゆうちょう。農協とか地銀でも信用組合でも何かもともとあった、そういう金融機関でも役割がなくなってきているからである。

だからそこに就職すれば、田舎だったら安定したものとなったがそれもなくなるとなる。何かもう安定し就職する場というのもなくなってきている。


これからどうなるのかということが見えない。ただ戦後70年過ぎて、また大きな変化があり変革が要求されていることは確かである。その極端なものとして津波原発事故があり温泉旅館ホテルの廃墟化があり駅前通りシャッター通り化がある

クルマ社会というものは?相当に影響していてもし車社会が多少変われば街の通りでも歩く人が出てきたり街に。にぎわいを戻すかも知れない。つまり常に社会は変化する。その大きな変化が70年ごとにやってくるのである。それが今なのである。だから、こういうときは大きな天変地異も起きてくる。この辺で起きた津波原発事故はそうだったのである。その後遺症は大きく。いまだに回復していないのである。 


●縮小化する日本の社会の衝撃


この20年で廃校になった公立小中学校は、実に8500校を超えています。


全国「3万の橋」がいつ崩壊してもおかしくない「日本の現状」がヤバすぎる…「都市部への引っ越し」を考えたほうが良い理由(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース




廃校になった学校も本当に多い、テレビで廃校になった前の店で学校からただ何か鐘の音が音楽が聞こえてくる、それも淋しいと思った、それだけもう村には跡を継ぐ子供がいないのである

それで長野県の廃校が宿舎になているところに泊ったのが思い出となっている。


このように戦後70年でインフラすら維持できなくなっているのである。その金ももまたマンパワーも不足しているのである。そうなると放置されて危険になる事故にもなる。空き家にしても膨大なのである。それを放っておくと危険にもなる。でもそれを利用する人がいないのである。

少子高齢化であれ、縮小化してゆく社会の衝撃が大きいのである。だからこそ社会自体を見直し対処しなければならない。そこでこれまであったものが維持できなくなる。また切り捨てる事もしなければならない。そこに相当な痛みが生じる。でも何もしなければますます社会が衰退して温泉街でもそうだが廃墟化してくる。この辺では津波と原発事故で村自体がいくつもなくなり町自体も廃墟化。だからこの辺はこれから日本社会が直面することを先取りしたものとなっていたのである。

すでに原発事故の周辺は住むことが難しくなっているからだ。極端なものとして人口減少が起きてそれを維持することができなくなっている。


だからこそ人口が移動して南相馬市なら原町とか鹿島区にまた相馬市に移住した人が多い。都市部に移住しろというとき創もなっている。そのことは確かに日本の未来になるのかもしれない。小さい町とか村が維持できなくなる。そうあってほしくないとしてもそういう社会になっているから人はもう限界集落とかインフラのないところには住みたくないとなってしまったからである。それがいいものではないとしてもどうにもならないということがある。多様な場所に多様に生きるのがいいと思う。それが昔の自給自足的生活だったらできたのである。でも電気がないとか病院がないとかスーパーがないとかそんなところに暮らしたくないとなれば、そうなってしまうのである。 




八坂村の廃校の宿

犀川のうねりつたぎつ 流れを沿い下り 
大岡村や生坂村や 八坂村の山深く
あまた咲きしは木槿の花 その花におおわれ
我は入りにき 今日の一夜の宿はあわれ
廃校となりし村の 小学校の改築の宿
ここに六年生の教室と なつかし泊まる卒業生
窓辺に流れのひびき 校舎の廊下をきしみ歩みぬ
窓辺に寄りて外ながむれば 赤とんぼとぶ山の学校
かすかに虫の音や 校舎は古りて生徒はなしも
その山の道の辺 刈り入れの農婦ありにき
道の辻には地蔵や 昔なつかし何語る
童の遊ぶ声もひびかむ 野に山に川に
祭りの太鼓も笛の音も 野に山に森に
村の墓所には女郎花 我がしばし佇みぬ
山々は打ち重なりて 村は閉ざされしかも
八坂村の坂をし上れば 誰そその墓の主や
我を見送る影のありや 我は汗かきかき坂上る
ああ また来てくれと その影は分かれを惜しむ
ああ なつかしき日本の国の 昔の村を思うかも
旅人はるか大町へ 坂を上りて去り行けり

posted by 天華 at 13:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年07月12日

東北列藩同盟(会津)をプロイセンが支援 ヨーロッパとロシアの領地拡大の戦いウクライナで再現

東北列藩同盟(会津)をプロイセンが支援 


ヨーロッパとロシアの領地拡大の戦いウクライナで再現


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●日本でも外国が入り二分して争う


今回のウクライナ戦争は遠いところだから日本と関係無いと見ていた。でもすでに歴史的に見れば日本も明治維新で世界の政治に巻き込まれていたのである。世界の歴史を見ないと。明治維新もわからない。何か明治維新というのは日本独自の力で成し遂げたと右寄りの人がしきりに言う。でも日本を舞台にして、すでに世界列強が深く関わっていたのである。その。世界列強の関わり方で維新の勝敗も決まったとなる。そこで見逃されているのが?ロシアが関わっていたということである。それとプロイセンが今のドイツが関わっていたのである。


 北海道の半分くらいを会津藩と庄内藩が管轄していた。幕府の命令で北方の防備にあたっていたのである。そのときロシアがヨーロッパに領地を拡大していたのである。その中にウクライナもあった。ウクライナの今の紛争はすでに江戸時代から始まっていたのである。それからも継続してヨーロッパとロシアは対立していた。その延長として今ウクライナ戦争がある。 だから今そのウクライナ戦争は日本から遠いとしも関係ないというものでもなかった。歴史は継続だから遠い国でも関係していたのである。 


戊辰戦争は薩長と幕府軍との戦いというだけでなく。実は外国が関わり特にイギリスが関わっていたのである。そのとき、イギリスは世界の七つの海を支配するとか覇権国だったからである。 ロシアと日本が戦った戦争でも日本を支援して勝ったともなる。その後に日英同盟が結ばれたのである。 その時から日本は国際政治に巻き込まれていたのである。ただ、日本からだけ明治維新を見てもわからないのである。 武器からして鉄砲でも外国から大量に入ってきたのである。アメリカの南北戦争ので使われた鉄砲が大量に入ってきたのである。またイギリス海軍が榎本武揚率いる幕府軍と戦い負けた。それで榎本武揚はイギリスに負けたと言っていたのである。このことでもわかるようにその敵はイギリスであり外国がかかわり日本は二分されて戦っていたのである。



●ウクライナ戦争と会津戦争の似ている点


だから今のウクライナ戦争を見るとやはり同じようなことが起きているのである。ただ、アメリカが。大きな国となってイギリスの代わりをしている。でも依然として、イギリスはロシアに対して敵対してウクライナでも工作員がスパイが入っていたりしているのである。ウクライナ戦争というのはの欧米側とロシアの戦争であり。今はその背後に巨大化した中国がいるのである。

そして日本は欧米側に組み入れられてウクライナを支援しているのである。 


つまり戊辰戦争は会津戦争でも世界情勢を反映してその中で会津軍が悲劇となったのである。それは今のウクライナと似ているのである。ウクライナで二つの覇権国勢力勢力が衝突してウクライナが犠牲になっている。ウクライナの独立を維持するのだというのもわかるが。その中でやはり大国が関わり。ウクライナは戦い自国の国民が多数死んで犠牲になっているのである。独立を守るということで戦っているというが日本の明治維新とも同じように実は外国勢力によって戦わされているということもある。 


とてもウクライナだけではロシアに対抗できないからである。だから常に武器を提供してくれと頼んでいるのである。

会津の戦争では新潟港が貿易港になり。そこに外国の武器が入ってきた。それは会津戦争にも使われたとなる。会津は山国でも新潟は日本海に面して交通路なり古代からすでにこうして流通があった


ともかく戦争になると人間の残忍性があらわになる。それで明治維新でもヤクザが戦争に参加したとか残虐なプリゴジン隊とか犯罪者が受刑者はが最前線で戦うというのと似ている。また会津戦争で女性がレイプされ残忍なことが行われた。今もロシアでウクライナ人をそうしているということでもわかる。戦争というものはそういうものでありそれが繰り返されているのである。日本の戦国時代も乱取りがあり同じだった、だからカルマなのであるかつてしてきたことがまた繰り返される。戦争もやはり終わることなくあり残忍なことがくりされる継続される。まさに人間の業でありカルマなのである。つまり人間からこうして。カルマは消えることなく継続されるのである。そして最後にハルマゲドンなのか、人間は滅亡するのである。


 ●榎本武揚の蝦夷共和国とは


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(3) 天皇率いる新政府軍に戦いを挑んだ旧幕府軍がつくった国【蝦夷共和国】 - YouTube


会津戦争はすでに百年以上過ぎているがそれでもなお長州藩の萩市と友好関係が結べないのである。それだけ恨みが残ったとなる

その傷痕は深く消えないのである。その悲劇が会津を象徴するものとなったのである。この武家の婦女子までが残忍にま殺されてしまったからである。

いずれにしろ明治維新から日本は国際政治に巻き込まれ否応なく戦わざるを得なくなったのである。だから300年の鎖国の時代は終わりついには第二次世界大戦に巻き込まれ3百万人も死んだとなる。必ずしもグローバル化とかはいいものでもなかったのである。貿易だけならいいのだが実際はそこで対立して戦争になり大きな犠牲を払ったのである。

江戸時代、300年はアジアでは戦争もなかったでもヨーロッパと大陸では絶えず戦争が行われてきたのである。ヨーロッパとロシアの戦いは江戸時代でも行われていた。それが今もうウクライナで継続されているのである。


奥羽道中 榎本武揚


鮮血留痕舊戦袍 壯圖一躓氣何豪

松陰凉動羽州道 白雪天懸鳥海高


鮮血(せんけつ)(あと)を(とど)む(きゅう)戦袍(せんぽう)

壮図(そうと)一躓(いっち)して(き)(なん)ぞ(ごう)なる

松陰(しょういん)(りょう)は(うご)く羽州(うしゅう)の(みち)

白雪(はくせつ)(てん)に(かか)って鳥海(ちょうかい)(たか)し


囚われの身となった今、私のこの軍服は過去のものとなってしまった。

この軍服にはあの戦いのときの血の痕が生々しい。

私は蝦夷(北海道)共和国の独立を内外に宣言した。

しかしその建国の壮大な企図は躓(つまず)いてしまった。

しかし私の心は少しもくじけてはいず、ますます意気盛んである。

私は今囚われの身として奥羽の道を歩いている。

その道に松の木陰から涼しい風が吹きぬける。

ふと見ると鳥海山には白雪がかかっていて、山は高く聳えている。



榎本武揚の蝦夷共和国は夢と消えた。この蝦夷共和国とは。実際は、東北列藩同盟と一体化するものとしてあった。現実に会津戦では新撰組も戦ったいたのである。旧幕府軍が会津藩を中心に薩長軍に官軍に抵抗したのである。この連合が強固なものとならず敗退したのである。 ただ東北という地域はもともと蝦夷であり化外の地として古代からあった。だからその延長として蝦夷共和あった。北海道新天地として新しい国を作ろうとしたということは理解できるのである。何か北海道には何回も言ったから親しみがある。北海道は東北と違ってその地を踏んだときから何か空気まで違っているのである。


だから意外と外国でも北海道は相当に人気がある。これもやはり北海道は日本的でなくその風土も違っているからである。田んぼがないということがそうである。清新の気がある大陸的である。だからこそそこでクラークとかが指導して内村鑑三とかが生まれたのである。北海道には確かにアイヌはいたが恐らくアメリカのような手つかずの大地が広がっていたという感覚であった。そこにも確かにインディアンがいたが土地は広大であり、未開だったのである。東北は会津でも古代からの歴史があり北海道とは違っていた。でも明治維新の時。東北、北海道が一体化した蝦夷共和国という発想は理解できるのである。


またプロイセンとかドイツとなるとロシアでも北方の風土であり。でありそれは北海道に似ているのである。北方的な気候であり森林でもエゾ松トド松とか北方的なものがあり寒いから高山植物でも平地に咲いているのである。それで本州とは違っていて魅力がある。田んぼでなく牧場の風景だということもそうである。だからドイツ的なものロシア的なものマッチしてくるのである。日本は沖縄から北海道と南国から北国の植生がありそこに変化がある。だから旅してても飽きないのである。中国などは満州でも果てしなくとうもろこし畑であり変化がないからである。日本は狭い国だけども。その風土でも地形でも変化がある国である。


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2023年07月10日

加治将一氏から戦後の歴史を振り返る―経験が人間を作る (団塊の世代を語る―加治氏も同世代)

加治将一氏から戦後の歴史を振り返る―経験が人間を作る


(団塊の世代を語る―加治氏も同世代)





●戦後の世代の特徴


最盛期には、不動産にも何十億と投資していました。

そんな時、バブルがはじけて不動産価格が急落。

資産が吹き飛んで、倒産しました。

今思うと、あの頃は何でも思い通りになるとどこか傲慢になって自分を過信してしまっていたのですね。

日本に帰国後、アメリカと比較して日本の不動産市場のおかしなところを纏めた書籍を出すことになりました。

これが、メディアにうけてテレビ番組に出るようになったのです。

これが、今の作家の活動に繋がっているのです。


一人の人間を見ることは難しい。その人がどういう人なのか知ることは簡単にできない。でもその人と何か共通点があるとわかりやすいのである。例えば世代が同じだとか産まれた地域が同じだとか同じ興味があるとか同じ専門だとか何か共通点があるとそこからその人間を推し量る。私の場合団塊の世代であり加治氏と同じ歳なのである。だから言ってることに理解できるし共感をもつのである。 





【団塊の世代】1947〜49年生まれ

戦後のベビーブーム世代。大学進学した人は、学生運動が最も盛んな時期に相当する。高度経済成長の真っただ中に社会人となり、バブル経済期の頃は40歳前後の働き盛りで、日本の「右肩上がり」を実感した。

【バブル世代】1965〜69年頃生まれ 50−60代

日本がバブル景気に沸いた企業の大量採用期に社会人となる。「24時間戦えますか?」と高らかに歌う栄養ドリンク剤のテレビコマーシャルが大ヒット。長時間労働に疑問を持たず、接待会食、接待ゴルフ、接待麻雀など、勤務時間外も仕事の付き合いで縛られるのが当たり前のこととして受け入れられて

【就職氷河期世代】1971〜82年頃生まれ 40−50才


バブル経済がはじけ、長期の景気後退局面へ突入。企業が求人を絞ったために正規社員として就職できず、契約や派遣などの非正規の仕事しか得られなかった人も多かった。運よく正社員として就職できた人も、入社早々から業績悪化、経費削減、リストラの波にもまれたために、危機意識が強い。

いた。




戦後では、この三つの世代が目立っている。その数も多いからである。団塊の世代だった私たちの世代は共通したものを持っている。それはあまりにも数が多くて教室すら確保できない状態だった。加治氏も一クラス70人だったというからそういう時代だったのである。

それで高校でも数が多くて入れないとかになり受験競争になったのである。その時私は勉強に興味もないのにしていたのでいやだった。また必ず試験が何度もありその成績が順位でもって学校に張り出されていたのである。その経験は全国的に同じだったのである。そういうことをすると同じクラス、学校でもクラスでも他者に対して何とか抜きん出ようとして競争しよう煽ることになる。でも数が多いから椅子取りゲームになっていたのである。 この競争は数が多いから氷河期世代まで続いていたのである。だから、これらの世代の人は何かと他者に対して競争心が強く自分が上だと言うことを示そうとする。

ただ、加治氏が意外だったのはアメリカに渡って不動産業で成功したもの人だと思っていた。でも実際は失敗していたのである。帰国してから作家となり、ある程度成功したとなる。


●団塊の世代の子供時代、数が多く熾烈な競争を強いられた


人間を見る場合。学歴から見る人が多いが実は人間は経験によって作られるのである。だからその人を見る時、どんな経験したかをみることが大事なのである。何々大学卒とかみてもその人をわからない。ただ外国に留学して外国で学んだ人は価値があると見る。で採用するときもその職歴を見るとわかるし何も職業を経験していない人は採用などされない。自分等は職歴が何もないから会社に勤められないのである。まず採用などされないからである。

学校にも適応できなかったしもちろん会社にも適応できない。だからただ自由に旅して学び終わったのである。そこに大きく欠けたものがあったのである。ただ自分ひとりで個性を伸ばし個性に合ったことをしてきたからよかったのである。それは家族に恵まれた結果だったのである。


とにかく加治氏の場合アメリカで実際に仕事をしてきたということはその経験が大きい。日本で仕事をすることは相当に差があるからである。ただその時代不動産業には適していたのである。高度成長時代に。アメリカの土地がニューヨークでも買い占められると当時アメリカが騒ぎ日本を敵視したからである。今になると日本が中国に土地が買われるということと似ている。 それが今の日本になると信じられないともなる。あまりにも日本が失われた30年があり落ちぶれてしまったからである。

そして目立つのは氷河期世代でこれも人数が多いから大きな問題となったのである。でも当時は自由な働き方であり非正規は時代の働き方として推奨されていたということもあった。ただ、私は社会から離れて暮らしていたからそのことはよくわからなかった。何か時代というのは人生というのはあとから振り返ると見えてくるのである。だから老人になると過去を振り返り明確に見えてくるものがある。それで老人は昔を語るのに向いているのである。


ただ加治氏の育った環境と私の育った環境は似ているが家庭環境は違っていた。これは8人兄弟なのか?末っ子であり粗末に扱われたのである。父親には何かというと殴られたという。そういう時代だったのである。それは学校でもそうだったのである。学校でも先生が平気で殴ったり廊下に立たせたのである。平気でそういうことをしていたのである。それができたのは実際は家庭でもそういうことをしている。子供は厳しくしつけたほうがいいということで容認されていたのである。それで殴られたとか近くの先生だった人を恨んでいた人がいたのである。

だから別に親は何も言わなかったのである。今でも同世代の母親は厳しくした方がいいと言っているの。何故ならその時女性は親に殴られたり、先生に殴られたりされないからそうなっていたのである。こうして同じ世代だと共感することがあり話が分かるのである。


●教育環境が悪かった時代


そして何度も言っているけどその人も勉強する個人の部屋などなかった。だから子供部屋おじさんなども団塊の世代にはなかったのである。何か家で勉強できるようなものは何もなかった。私の家は店屋であり子供の時から絶えず配達をさせられていたので。私の父親は明治生まれで酒屋の丁稚であり。だから私も丁稚のようにされていたのである。

でも戦前でも戦後まもなくは子供はそうして働いて親に尽くすものとしてあったのである。戦前になるとそれはもっと厳しいものとなっていた。今外国から働きに来る人は貧乏であり親に仕送りするために親のために働いているのである。そういう時代があったということである。 

その様子が変わったのは、高度成長時代に入ってからである。それでもわからないのは高校まで東京オリンピックの時蒸気機関車に乗って原町の高校まで通っていたことである。これがどうしても信じられないとなるのでは?

とにかく時代というのはは急速に変わる。昔からも三日見ぬまの桜かなとなる。3日であっという間に桜が咲いたということである。3日も見ないうちに満開になってしまった。それが中国である。十数年前いやもう20年まえのか中国に行ったときは物価は、日本の1/10であり貧乏な国だったのである。それが新幹線のようなものまでが走り、日本より豊かな人が1億人でも増えればそれはもう全く違った国になってしまったのである。このように時代の変化は大きく忽ちまた過去がわかりにくくなるのである

私は加治氏の著作物には関心が無かった。一冊も読んでなかったのである。でもユーチューブで話すことを聞いて、興味を持ったのであるだから人間は本だけがその人を知ることでない。その人全体を語るのは本だけではないユーチューブとかブログでも語れるようになったことを知った。これらのメディアは個人が制限なくいくらでも語れるということである。テレビとかに出てもほんのちょっとコメントするだけだからである。その人の全体像というのは見えないのである。テレビでは主役は司会者なのである。そしてコメンテーターは司会者であり喋れるということもある。あくまでも主役は司会者なのである。でもユーチューブは主役はその本人なのでその差が大きいのである。


ただ加治氏についても分からないことはなぜアンティークコインが投資にいいのかとかは理解できない。そもそもアンティークコインことなどあることすら知らなかった。 加治氏は北海道の札幌出身である。だから、海道のことは詳しいはずだがあまり語られていない。その辺に不満はある。つまり、その人がどこに生まれてどのような家庭環境で育ちその後どういう経験をしてきたか?それはやはりその人物形成に大きく影響しているからである。、私は常に自分の出身地のことを東北地域と福島県と相馬地域のことを語り続けているからである。


とにかく人間はその人の経験したことがその人を作る語るにしてもその人が実際に経験したことが訴えるのであるそこに経験の重みがある

ただその経験はグローバルでありそれは本を読んでしたものではない。経験で知ったものだからである。経験が人間をつくるのでありいくら本を読んだとしても外国のことなどわからないからである。私も50歳からバックパッカーとして外国を回ったことが経験として生きてくるのである。それまでは全く外国に行ってないから恥ずかしいことを言っていたのである。それで加治氏の経歴はやはりほかの人は違ってそこに語るべきものを持っているということである。 


しきりにいう思考脳とかっていうのも理解する。それで暗記教育の学校教育を批判していることも共感する。加治氏の場合は既に小学校からそういう態度であり思考を持っていたことに驚く。私はただ言うなりになっていたし、自分で考えることなどしたことなかったからである。でも何か疑問にもつことがありなぜ人間は死ぬのだろうとか追求し考えてその解答を求めて求道していたのである。


いずれにしろ一人物を知ることは難しい。ただ、同世代であり時代を振り返ると見えてくるものがある。でも戦前の戦争を経験した人を理解することは非常に難しくなっているのである。頭の中で戦争というのは考えてもわからない。だから私の母親は学もなかったが軍人は威張っていたというとき戦争の時代はそうなると言うことをその一言でもわかる。それは実際に経験した人が言ってからであり、本で読んだ人が言ったって実感わかないのである。だから実感というのは大事であり。実際にこの目で見たもの経験したものがその人を作るのである。


そういう事が今ユーチューブとかで語られているから今までの一方的なテレビとは違っている。青山繁晴のフランスの暴動がなぜ起きたか?アフリカの植民地だったアルジェリアとかその人たちがフランス語を喋るのでフランスに来ている。その経済格差が大きいからフランスに移民するのである。そこで差別があり暴動になったのである。その生々しい肌感覚でそこに行った人が語るときなるほどと思うのである。それがただ本などで実際に行ってもいない人が語るとき訴えないのである。だからいかに外国で生活した経験が有益かわかる

生活したとか仕事までしたということがその経験がその人を作るということである。 

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(2) 【ぼくらの国会・第554回】ニュースの尻尾「仏暴動 明日の日本」 - YouTube


●日本の歴史伝統を否定するのは問題


加治氏はにキリスト教徒でもない。でも愛を語る最も大事だとして語っている。 愛がなければ思考のも育たないとしている。実はこの愛というのは愛される愛ではないのである。キリストが教えたのは愛する愛であり、愛される愛ではないのである。それが誤解しているので大方の人はただ愛されたい。そしてなんでもいいからものでも何でももらいたい。そういうのが愛であり、宗教だと見ているのである。そこに大きな誤解があるのである。なぜなら人は何も与えたくない。ただ与えられたい、もらいたい、愛されたいしかないからである。そこに宗教に対する大きな誤解がある。もしそうだとしたらみんな宗教を避けることになる。何ももらえないとしたら与えるだけだとしたらいやだとなるからである。


また加治氏は日本の伝統のことを否定するのがすべてアメリカから入って来たものはいいものではなかった。キリスト教でもその国に入ったとき必ずその国の伝統とマッチして発展したのである。だから仏教でも中国に入ったとき中国的な仏教徒なり。韓国には入いった時、韓国的な仏教となり、日本に入った時、日本的な仏教となったのである。その国の歴史伝統がありそれにマッチしたものとして受け入れたのである。もしそれがなければその宗教も生きてこないのである。それを証明しているのはカトリックはフィリピンとか南米とかに入ったキリスト教はただ押し付けられたものとなり。その国自体の歴史、伝統ととマッチしたものとならなかったのでそこから日本のように仏教文化とか生まれなかったのである。そのときあった伝統的なものは根こそぎ破壊されたからである。

日本だったらキリスト教でも内村鑑三などは士サムライであり武士道に基づいてキリスト教を受け入れたのである。また神道を尊んだ手島郁郎でもそうである。 そこにもやはり見習うものがある。でもその国の歴史と伝統にに基づいてキリスト教も受け入れられたのである。


でも日本の戦後というのはそういう歴史と伝統を根こそぎ失われたということもある。その結果として、日本というのはもはや日本ではない。日本というのは、日本人はすでにアメリカ人になっている。加治氏は日本人ではなくアメリカ人なのでそれを今の日本人はみんなアメリカ人になってしまったのである。なぜなら日本の歴史伝統というものは否定されたり理解できないものとなっていたからである。

そこに良い物があってもアメリカのものはいいものとされたこともある。だからこそ日本というのは本当にアメリカと似ている似てくる。アメリカで起きてくることは日本でも起きてくる。なぜなら日本というのはアメリカのコピーだからそうなるとアメリカの悪い点もまた見習うことになりそれが現実化しているのである。ただ金だけを求める日本人になったからである。すべての価値は金に換算される。金にならないものは何の価値もないとなってしまったのである。それはアメリカ人に習ったからそうなったのである。アメリカに留学した内村鑑三はそう言っていたからである。でもそのときはまだ日本人的なものを伝統歴史が生きていたのからそうなったのである。だから日本の歴史伝統を否定することは問題なのである。


もちろんアメリカにならうことはありそれは否定できない。結局、アメリカの悪いとこも真似て日本も全てがアメリカ化して今日があるとなる。そもそも今?日本人が何なのかということすらわからない。なぜならみんなアメリカ人になってしまったからである。


この人はまさに日本人だなという人は見ないだろう。依然として明治時代の時は内村鑑三のよう侍の伝統は生きていたのであろう。だから明治は偉大な時代だったのである。それは日本的歴史的伝統が継続されて血肉となったものがありそこにキリスト教を受け入れたから日本的キリスト教となり活きたのである。南米ではそこには歴史伝統となるものはなく根こそぎ破壊されたりしてキリスト教は接ぎ木されなかったのである。そこに戦争に負けたということで歴史伝統も破壊されるということがいかに影響が大きかったかということである。 










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2023年07月09日

情報戦争時代で判断できない (情報は権力を持つ者によって操作される)

情報戦争時代で判断できない


(情報は権力を持つ者によって操作される)


●情報過多で判断できない 


現代はグローバル化して情報も膨大になっている。するとその情報が何なのか知る事自体が難しくなる。そんな能力が人間にはないからである。 一個人では判断できなくなる。

そのことは原発事故でも起きたし。ウィルスでも起きた。また、今はウクライナ戦争でおきている。原発事故放射線のことなど素人には分からない。ウイルスもわからない。ウクライナ戦争でもこれも理解するのは難しい。なぜなら必ず原発事故でも安全だという御用学者がいてマスコミでも宣伝費をもらっているから、それに与する。だから専門家が正しい情報を与えるかというとそうでもない。ではどうして判断するのだろうか?


専門家すらわからないことを素人がどうして判断できるのか? ただ、正しい判断をしないと原発事故となり自分たちの住んでいる所にも住めなくなる。実際に住めめなくなった。だから判断できないからといって誰かに判断してもらい任せるということは危険になる。

貯金には利子もつかないし株をしなさいと言う物価も上がり貯金しただけでは目減りするから。でもこれもまた難易度が高いのである。奨める銀行員すら全くの素人だったからである。。証券会社の人が来ても同じである。


要するに銀行でもまず銀行の利益を考える証券会社でも同じである。まず手数料を取ることを考える、私が経験した事では別にインデックス株というのはわかりやすい?安い時買って高い時売ればいいだけである。それを長期的に見れば儲かる割合が大きくなる。だからリーマンショックの時、半分になった株でも元に戻りそれから倍以上になったのに驚いた。

でも銀行では勝手に元に戻った時売ったのである。それは銀行では転売して手数料を稼ぐことで儲けるからである。頭の中にはその手数料を稼ぐことしかないからそうなる。つまり人間はみんな自分の利益だけを考える。それは会社でも同じである。会社の利益になることが自分の利益になることだからである。 そこに必ず問題が起きてくる。


また。カルト教団でも教団の利益になることが自分の利益になるから奨めるのである。人を救うとか関係ない自分たちが儲けることである。


●人間はすべて利益を求めている―公平を求めていない


教団の利益になり会員が増えて権力化してそれでさらに利益を得ることしかない自分の利益となるから運動しているだけである。


人間はそもそもみんなそうして利益を上げることを日々の活動にしている。それをみんな咎めることはできない。それがまた全部悪いということでもないからである。誰も利益にならないことはしない。それでただより高いものはないというのはそのことである。これは本当に?そうである。人間は無料でただでやるとき何かをしてやるときでも高いものになる。 誰も見返りが無く、無料では何もしてくれない。それをするとなる時、暗黙のうち返って見返りを要求しているのである。 だから人間社会は何々してもらったらいくらいくらと金で明確に決めてそれであとは払わなくてもよいとしているのである。でも無料でするときいくらでもいいですよというときそれは最も高いものとなるから、そういうことわざが生まれたのである。


ともかく人間社会はこうして。毎日自分の利益を求めて働いている。そしてそれ相応の利益を得なければ働かない。それは別に悪いことでもない。働いた分の金を利益をもらえるのは当然だとなる。

だから個人でも会社でも自分たちの利益を優先するしそうしなければ何もしない情報も教えないのである。 でも本当に真実を見極めるとしたらその利害にかかわらないことかもしれない。2人が争っている時一人から金をもらったりしていたら利害関係があったら公平には見られなくなる。でも原発事故でも安全神話が作られたのはそこに政治家マスコミでも巨大な利権となり利益が得られるからそうなったのである。危険を言う人もいたがそれは無視されたのである。 


情報というものも必ず操作されているのである。原発で安全神話が作られたのも政府であれマスコミであれ御用学者であれそれらが一体となって操作されたからである。つまり何らかで利益と結びつかないことは、この世にはないとなる。だからこそ無料になる時。それはかえって高くつくのである。誰も無料では何もしないからである。それは当然だとなる。でもなぜ判断が誤るのかとなると必ずこうして利益と結びつき利権となりそこで判断を誤る。 神が偏りみないと言う時公平になるのは利益とか利権にと関わらないからである。だからこそ公平になれるので、人間社会では利益にかかわるから公平になりいないのである。 だからこそ情報自体が真実でもなく科学的に正しいとか正しくないとかでもなく利益利権によって左右されるから学者でも原発は安全だと宣伝していたのである。


●ウクライナ戦争の情報も欧米側に偏っている


それはあらゆることに当てはまる。コロナウイルスにしても医療関係者や医者の利権となるとかで正しい情報が出ないということもあった。本当に何が危険なのかもよくわからなかった。そこで儲けたのはワクチンを売った外国の薬剤会社でありまたコロナウイルスで巨額の金が医療関係者に病院に医者に出たのである。コロナウイルスでも収まるより収まらない方が金になるとなり。コロナウイルスの危険を大きく言うともなる


ウクライナ戦争でも9割ぐらいは欧米の情報でありロシアが悪いとなりロシアが不利となりロシアは滅亡するとか言われ。でもごくわずかであるが1割ぐらいはむしろウクライナが悪いのでありウクライナはもう戦争続けられない。それは欧米からの情報だけに頼っているとそうなる。ウクライナが勝っている欧米側の情報に接することが多いからである。 


要するに公平に判断するのはとにかく利益と利権と関わらないことである。となれば公平に見られる見れるということになる。アメリカは戦争国家でありアメリカはウクライナに入って戦争をするようにしかけた。そういう見方もある。これも全て否定できない。だからこそ。ロシアのプーチンは反発したのである。 アメリカが全て正しいとはならない。それは日本との戦争でも同じであり。アメリカは正しいから戦争に勝ったということではない。アメリカは戦争国家であり何か言い掛かりをつけて巨大な力で圧倒してし敵を潰してきたことは確かなのである。ただ、日本では負けたから。アメリカに逆らえないというだけである。


だからアメリカが欧米が全て正しいとはならないのである。戦争にしても別に正義のために戦うというわけではないからである。自分たちの権益を権力を拡大したいということがありそれが戦争の原因だったからである。だからそこに戦争に正義を持ち出すことは危険なのである。アメリカは何も正義の味方でもなんでもない。軍産共同体があり戦争はないと失業するとか何か利益と関係してるからそうなる。ただ、ロシアはまた正しいということにもならない。 情報とは必ず一方的になりやすい。客観的公平に判断できないものとして情報がある。 


●情報は権力を持つものによって操作される


結局情報を操作できる者が判断をするのでありそれは権力と関わっているのである。NℍKでもその判断は幹部がしているのである。だから、重要なことでもその報道されないこともありその判断は幹部がしているのである。つまり情報自体に公平がないのである。権力が権力を持つものは情報を操作できるようになっている。第一テレビなどは一個人が出て報道させてくれたといってもできない。新聞でも。雑誌でも。本でもそういうことがある。

ただインターネットだとプログとかいろいろ簡単に個人でも発表できる。そこで公平にはなっているが。ただあまりにも数が多いからそこで目立つことは至難である。だから数の中に埋もれて。重要なこともまたわからなくなるのである。これまではマスコミに出ればその内容はともかく。それで有名になりことが出来たのである。 


どうして公平に判断できるのか?これが情報社会の大きな問題である。情報が莫大に増えてもそれでさらに混乱して判断しにくくなる。

 でもどうしても大きな権力を持つ者によって組織に団体によって情報は一方的になりその見方は偏ってしまう。だからアメリカは欧米がウクライナ戦争でもウクライナが有利であり勝っていたという情報が多く欧米側の見方になる。でもロシアの方が実際は勝っていてウクライナは窮地に立たされているという人もいる。それもまた判断しにくいのである。


グローバル化はさらに情報は膨大になり判断しにくくなる。それでフエクニュースにだまされる。アメリカとイラクの戦争でも一羽の海鳥が油まみれになっていたがそれは一羽だけであり周りは油にまみれになっていなかったのである。それはアメリカによって作られた映像でありそれが世界中に放送されて世界の人が起こりをおぼえたのである。それはアメリカによって操作された情報だったのである。だからアメリカも信用できないのである。 


●人間は公平に見れない偏る


いずれにしろ、どうしたら公平に判断できるのか?


それが大問題である。 何故ならその情報によって人は行動に移す。それが戦争にもなり何千万人と死んだということもある?戦争も情報戦争になるからである。でもその正しい情報を。知り見抜けることは非常に難しいのである。ここに現代のグローバル化情報社会の問題がある。 

人間はこれだけ広い世界を知り得ようがない。そこで必ず判断が誤る謝るのである。 そもそもグローバル経済の株式などは?上がる下がるとか景気がよくなってるとか悪くなってるとか常に両方の見方がある。それを判断できない。あまりにも巨大な世界になっているからである。そんなものを。知り得るものはないと思う。だから人間は今日膨大な情報に接して接することができてもどれが正しいかなど判断できない。つまり無力感に苛まれているのである。 


人間が五感で感覚的でしり得る範囲は狭いので、この狭い範囲なら実感として判断できる。でもグローバル化となると、あまりにも広すぎて判断などできないのである。それ人間にはやはり知り得る範囲は狭いものでありその中アイデンティティ化して一つのミクロコスモスの中に生きる。そこではつながりが明確であり。判断もしやすいとなる。それで民主主義でもギリシャだったら1万くらいのポリスで直接投票で決めていたからである。それが百万も票を取らなければ当選できないとなれば


もうただ頭数を集めるにはどうするかとなる。創価でもカルト宗教団体でもただ頭数を会員を集めるのことが日々の活動になる。個々人がどんな人間なのかなどは関係無い。罪とかなんとかそんなものは全く関係ない。その人がどんなあくどい人でも別に構わないのである。一票になればいいだけである。そこに民主主義も限界生きているのである。限界にきているのである。一票など投票しても。社会は何の変化もない。


ただ、そこには。無力感だけがある。それで投票などしたくないのである。すでに組織団体表で決まっているからである。一票など何の価値もないのですべてが。頭数をそろえる。あらゆる場面で数で決まるのが今の政治である。田中首相が言ったように金と数字がすべてなのである。そして規模がグローバル化して誰もそれを見通すことができない。株でも突然暴落したり。天災のように突然破たんしたりする。


●独裁者に従いファシズムになりやすい現代


それはもうその前に経済など見通すことができないからである。 そして最悪はナチスのようにファシズムとなる。ヒットラーは選挙で選ばれたのであり合法的に選ばれたからである。それでもナチスとなり。ファシズムとなり、全体主義となったのである。それはもうとても判断できないということから起きてきたのである。その規模も巨大化して。判断できない。すると誰かが。ヒットラーでも独裁者が。生まれてその独裁者によって人々は導かれ地獄へ堕ちてゆく。


カルト教団の教祖が神のように祭り上げるその人は偉大だからではない。人々はそういう偶像作り上げているのである。その偶像があって何百万人の人間が?一人の。教祖にひざまずき集団として組織としてまとまるのである。カルト教団に共通していることは?軍隊組織なことでもわかる。いちいち個人には対応できない。だから権力を得るには数を集めることだから、一人一人のことなどどうでもいいのである。所詮一票にすぎないからである。

そして数を集めれば権力化して政治化して支配できるということになる。


そこでマスコミでもその巨大な権力にさかろうことはできなくなる。 裸の王様を指摘したのは子どもであった。子供はただありのままを言っただけである。でも王様は権力をもっているからそれにへつらいみんな何も言えなかったのでこのように何か権力を持てばそれが嘘でも人は従うのである。つまりこの世は権力によって情報でも必ずゆがめられるのである。すると正しい判断はできなくなる。これが原発事故で安全神話が作られたりいろいろと情報でも判断できずにそれが大きな災いとなるのである。


神が偏りみないと言う時いかなる利害と利益ともかだか関わらないからできるのである。公平に見ると言うことは?それが条件となる。でも人間は何らか?必ず利害関係があり。それで?情報でも。公正なものもなく一方的になるのである。そして判断を必ず誤るのである。


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2023年07月07日

世代間の差と職業の相違で互いに理解できなくなる人間 (見えない貧困と忘れられていた氷河期世代)


世代間の差と職業の相違で互いに理解できなくなる人間


(見えない貧困と忘れられていた氷河期世代)


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貧困大国ニッポンの闇|中退、パチンコ、ジャンクフードが希望になる理由(室伏謙一×鈴木傾城)

https://www.youtube.com/watch?v=ZxPid10E4J4


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【エルダリーVS 若者】世代間問題は身分制度による分断統治の現代版だ。政府、メディアの「対立分断政策」に騙されるな!-masakazu kaji-

https://www.youtube.com/watch?v=YqISZU63Tvk



●見えない貧困


人間は年齢が十年違うと世代の差が出てくるだからなかなか下の世代のことは理解できないし上の人の世代の人のことも理解できなくなる。 

なぜなら団塊の世代というとき私たちの世代は戦後の焼け野原から始まった。そのときはまさに焼け野原になり、何もなくなってゼロから開始することになったのである。みんな貧乏だったのある

貧富の差はなかったのである。家にあるのは飯台一つである。電気製品など一つもなかったのである。それはみんな変わりなかったのである。


むしろ農家は家で食料があり卵でも鶏を飼っていたから食べられた。また納豆とかも。油とかまで。自家生産だったのである。

みんなこうして貧乏だという時。かえって住みやすいということもあったかもしれない。何か引け目を感じるということもないからである。みんな貧乏であればそうな。


今の貧乏が隠されて見えないというとき貧乏というものは何かわからなくなったのである。でも実際にそういう貧乏な人は増えている。だからこのユーチューブで語られることを私はそういう貧乏な人と接して理解したのである。

その人はタバコを吸っていた。女性なのに吸っていただからやめられないのは絶えずストレスになっていたからである。金に追われてその日ぐらしになっていたからである。だからそのストレスを発散するためにタバコをやめれなかったのである。でも脳梗塞になりたばこをやめた。タバコは血管に悪いものであり、それが脳梗塞の原因になったともみられる。 


とにかく日本が貧乏になったという時その貧乏が見えないものとなっている。だから貧乏人はどこに居るのか?貧乏人というのはどういうものなのか分からなくなっているのである。別にぼろを着ているわけでもないし見た目でわからない。ただ市営住宅などに住んでいれば貧困なのかと見る。 ただまともなものも食べられない。それでジャンクフードを食べそれが体に影響している。医者に行くと栄養を摂りなさいと言われるが今は食料品も高くて買えないのである


●職業の相違で互いに理解できない


世代的には戦前世代があり、戦後世代がある。戦後世代はすでに80から85以上の人であり少なくなっている。団塊の世代の親は?戦争を経験している。だからその語ることが。重みがあった。何か別に知識人でなくてもその経験した重みがあったのである。なぜなら、戦争というのはあまりにも特殊なことだから理解できないからである。人が殺しあうということなど理解できないからである。だから今ウクライナ戦争でプリゴジンという民間の傭兵隊が官僚に対して戦場に来て戦ってみろという言葉を吐いたが。そこに重みがある。命がけで戦っているからである。 そこでバタバタと仲間も死んでいるからである。でもそれがいいのかというとそうでもない。なぜなら自分の母親が戦争を経験したが一番威張っていたのは軍人だったと言っていたからである。


それで今でも墓に二等兵とか上等兵とかその軍隊の位を記した墓を見る でも今になればその墓に注目する人がいるだろうか?戦争とは異常な状態のことでありそこで人間の価値も変わる。プリゴジンは凶悪な犯罪者でありまた受刑者を戦場に出したその数も多いことに驚く。でも戦争に向いているのは、人を平気で殺せるような人なのである。そんな時代が良いのかとなれば、とてもそうは思えないからである。 でも戦争の時は軍人が一番活躍して偉いとなっていたのである。 


ただ、平和な時でも。価値観の対立は必ずある。現場で働く人たちブルーカラーがいるがその人たちは何か事務員などは楽だと見る。もちろんまた学者なども尊敬しない。何故ならその人たちは、高いところに登ったり、危険な仕事をしているからである。それで私も大工さんにお前はただ椅子に座って本読んでいるだけだとと言われたのである。ある意味でそういう人たちを軽蔑しているとまでなる。 

それも一理あるわけである。ただ金融関係に勤める人で金を右から左に移して巨額の暴利を貪る人がいる。それもまた同じであろう。なぜそのそういう人たちがそんなに金が入るのかと命がけで現場で働いている人は不満になるのは当然だとなる。


ただ、事務でも知的労働でも頭を使うから結構疲れることがあるでもそういう人たちにはそれを理解できないのある。その価値も理解できないのである。だからここに職業によって、互いに理解できないことがありそれが協力できないことにもなるのである。


●世代間の差や氷河期世代の問題


それは世代間の差でもあり、世代が十年年齢が違うと理解できなくなるので氷河期世代とは何かということが分からなかった。何か自由に非正規として働く事が良い事のように見られていたのである。だから今になって非正規の人が多いからそれが貧困化している。そのことがわかったのはこうして時間が過ぎて分かるのである。人生もまたふりかえれば老人になってわかることが多いのはそのためである。


40歳後半から50くらいまでは氷河期世代になる。そういう人田舎でも結婚してないたいがい結婚しているのが普通だからである。でも40後半から50くらいまで結婚していない人が多いことが最大の特徴でもある。団塊の世代だったらもう結婚しない人は例外的存在である。社会的不適応者となる。私自身がそうだからである。 だからこそ、少子高齢化社会になっているのである。独身世代が本当に多いのである。そしてその人たちは貧困でありその日暮らしのようになっている。正社員になれないからアルバイトのようなもので稼いで年をとったのである。スキルも身についていないとなる


ともかく世代間の差も大きいし職業の相違も互いを理解できなくさせる。現代はさまざまな職業があり、その種類も多く互いに意思疎通させることが難しくなっている。そこにまた世代間の差か男女の差とか地域の差とか色々あって人は理解しにくくなっているのである。 

それで人をまとめるときは個々人に対応することはできない。ナチス的一方的な強制であり軍隊組織にしてまとめるのでる。カルト教団などはみんなそうである。なぜならそこは参謀とか隊長とか軍隊組織だからである。それはカルト教団だとみんな同じなのである。


だから一見平和団体のように見せているが。実は武装すれば、それはすぐに軍隊になるのである。だからこそオウムでも武装していたし他でも創価などでも実は軍隊である。会員に武器を持たせればそれは軍隊になるのである。参謀とか隊長とか組織なのどだからそうなりやすいわけである。だから、それは本来の宗教とは何の関係もないのである。それは宗教を掲げていても容易に簡単に人を殺せと命令されれば組織に人を殺す軍隊と化すのである。



いずれにしろ、今日本が貧困化しているということは大きな問題である。 貧困化しているからこそ氷河期世代が結婚もできなかったということもある。そして大学に上がるにも借金して奨学金をもらって大学に上がっている。でもその大学もFラン大学とか三流大学が多く果たして価値あるものかどうかわからない。まず文系などは独学でもできる。むしろ自分は大学を卒業してから勉強したからである。大学時代はほとんど勉強してなかったからである。それも失敗だった。理系なら価値があるが文系は価値はない。独学できるからである。今ならインターネットでいくらでも。独学できる時代になったからである。


でもなぜ氷河期世代が、大きな問題になるということを予知できなかったのか?それは会社とか政府の都合でそうされたともなる。それが今になって大きな問題となったのである。何か非正規は自由な働き方であり奨励されてもいたのである。実際は政府とか会社の都合で良い様に使われたとなる。それで政府とは会社は良かったが大きくさらに全社会の問題として考えれば。今になるとそれは大きな損失となったのである。


ただ不思議なのは戦争で日本が焼け野原になってもそれが必ずしも悪いものでもなかった。確かに犠牲も多かったからそのことは問題である。でもそこで既得権者が財閥とか解体され小作が土地を得て農業は発展した。だから一見悪いようなことでもそれがのちに良いものとして働くこともある。ただその時代時代にその中で生きているとその時代が見えないのである。今になって非正規のことか氷河期世代のことが話題になっていることでもわかる。その時は見えないのである。そこに人間の問題がある。人間は個々人でもそうだが、集団でも個々人でも先が見ることができできないのである。だからそこに大きな過ちが生まれるのである。それで求道にしてもそうである。


若きうち神をしれ


それは20代で神を知らなければ知ることができなくなるという恐怖である。でも20代はの飲めや歌いや恋愛だとかで、心も身も奪われて終わる。あっという間に青春は終る。でも20代でだいたいその人は決まる。そからこそ大卒、新卒は会社では重要になる。20代でその方向が決まるのである。女性でも同じである30過ぎるとおばあちゃんとか言われるようになる。そして35になるとなかなか出産もしにくいとなる。だから婚期のことをうるさく親は言うのである。それは男性にしても同じなのである。20代でだいたいその人は決まってしまう。それから先がいくらでもあるじゃないかと言うがそうでもない。あっという間に40代になり白髪も入ってきて50となり60となってしまうだからみんななんでこんなに早く時間が過ぎてしまったのかと老人になると思うのである。


現実自分自身にしても何かしようと思ったけれども、何もできずに終わったのである。自分の場合は文学を追求してきたのである。その他でも何かやろうとしたが、何もできなかったのである。ただちょっと試したというくらいで、なんにもできなかったのである。それだけ時間が過ぎるのは早いのである。そして一番無駄にしてるのが時間だったのである。それで非正規の人もう50ぐらいになるともうその時間が取り戻せないのである。何かしようとしても身につけようとしてもできないのである。そして。人生も終わりとなってしまうのである。






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毎日くらい自分の家の墓の前を通っている。その隣に軍隊の位を記した墓がある

二等兵は内地等で教育中のことが多いので、戦地にある兵卒はそれまで上等兵一等兵のみであるのが原則であった。ところが、1937年に始まった日中戦争の長期化に伴い、現役満期(通常の陸軍徴兵は当時2年)即日再召集される場合が増加し、古参一等兵や古参上等兵が増加し、人事運用上の不都合が生じるようになっていった。そこで、上等兵の上に兵長を設けた。

兵長は高い位だった、でも今注意してその位を見ている人がいるだろうか?
ただ墓とはこうして何か人死んでも訴えている場なのである。でも墓でも維持できなくなる。





posted by 天華 at 15:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年07月02日

少子高齢化は全て悪いものなのか? 地球にはもうこれ以上人口を増やす余裕がないー減らすことが自然である

少子高齢化は全て悪いものなのか?

地球にはもうこれ以上人口を増やす余裕がないー減らすことが自然である

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●東京に偏った人口―大都市の人口集中が問題

人間は何でもいい面と悪い面が出てくる。それはあらゆる問題でそうなのである。科学技術は、人間にの生活を便利にしたがは反面様々な災いももたらしたのである。車は便利でも交通事故で苦しんだのもそうである。それは技術を。人間の技術は?常に生活を便利にするとともに必ず何か不都合なことが出てくる。それで技はわざわいにもなったのである。人間にはそういうカルマがつきまとっている。全面的に良いものはないのである。

だから少子高齢化を考えるときもそうである。それはいい面と悪い面に必ず働くのである。 常に悪いことばかり言われるが、そうでもないのである。 この少子高齢化問題でも歴史的に考察する必要がある
なぜなら元々人口は明治時代で3000万くらいだったのである。今はその4倍もあるからである。これほど人口が増えた時代はなかったのである。だから長い歴史からみれば異常なことだったのである。 

なぜこんなに人口が増えたのか?やはり農業社会から工業社会へ変わる過程で人口が増えた。 江戸時代は農業社会であり、人口はほとんど変らなかったからである。人口を増やすとしたら新田開発であり、元禄時代にすでにそんな状態になっていた。全国の地名に新田とあるのは大概元禄時代までに開拓されたものである。相馬藩内では葛尾村に山の方に元禄という碑がありそれは検地が行われて行われて記念として残された。でも元禄時代で既にかなりの土地が田んぼになった、そのために元禄時代は繁栄した時代となっていたのである。江戸時代に豊になるということは、米を増産する他なかったからである。 だからこそ米を作るためにあらゆる場所が開墾されたのである。

そしてなぜ新潟県が明治時代になっても一番人口が日本で多かったのか?東京よりも多かったのである。そこはやはり米の一大生産地であり水に恵まれていて、うまい米ができたからである。今でもそれは継続されている。それから北前船が日本海を航路として。交通の要所となり栄えたとなる。太平洋より日本海が交通路としてあり日本海側が 栄えるたとなる。それでコロナウイルスで苦しんだは江戸時代にはやはりコレラがあり新潟県の阿賀野川を通じて会津の方に伝染したのである。

つまり。日本海側航路となって川が交通路となっていたから人の移動が多い時ウイルスもやはりは伝染してくるのである。
交通の要所になるところはやはり栄える人口も増える。だから瀬戸内海沿岸地帯の広島とか山口が人口が多く栄えたのは分かる? 
少子高齢化は悪いことばかりしか言われない。でも本当にそうなのだろうか?それは歴史的に考察すれば自然の理でありそれに逆らうことができないのかもしれない。日本の人口であれ地球の人口であれもう限界にきていたからである。
まず1000万も住んでいる東京などはもう人間の住むところではない。だから少子高齢化を語るときこの大都市への人口集中の問題なのである。なぜなら東京の人口は地方に分散すれば日本は返って住みやすい国になる。つまり東京とか大都市に人口が異常に集中するのは、自然の理に反しているのである。
江戸時代であれ明治になっても、日本は人口的にはバランスが取れていたのである。 新潟県の人口と東京の人口は変わりなかったからである。

●農業社会だと人口のバランスがとれていた

そうなっていたのは、やはり日本は農業者会だったからである。
農業社会は土地が資本だから土地に見合った人しか住めないからである。日本の人口は明治から大正から。昭和と人口は増え続けていたのである。戦前も増えていたし。戦争に負けても日本が焼け野原になっても。人口は増え続けていたのである。戦争に負けて生まれたのは団塊の世代である。 そうして高度成長時代があり日本は成長し続けたのである。でもそれに歯止めがかかったのはやはり自然の理であり。これ以上人口が増えることは自然の理には反すから歯止めがかかったともなる。 

そして農業社会は土地が資本だから土地を拡大しようとする。日本の戦争が太平洋戦争は実は満州から始まったというのもそのためである。農業するために満州に渡った人たちが住んでいてその土地の奪い合いから戦争が始まったからである。満州では日本人は米まで作っていたのである。そこは相当に寒いけどでも日本人は米をつくっていたのである。講師、農業社会ではこうして土地を。持たなければ。生活はできない。その土地を手に入れるために戦争にまでなったのである。それは日本では戦国時代からそういうことがあった。
だから意外と農業社会というのは土地の奪い合いがあり、戦争があったとなる。 

なぜそもそも日本であれ世界でも人口は増加し続けて来たのか?日本だけが少子高齢化というのではない。それは世界的に起きているのである。もう地球で増える人口を養えないのである。だから人口が減るということは自然の理であり。それが悪いともならないのである。このまま人口が増え続けてはいれば地球は汚染されて住めめなくもなる。
普通に自分の住んでいる場所は原発事故で住めなくなくなったところがあるからだ。つまり原発にするにしろ。それは危険なものである、人間が操作できるものでもなかった。その無理をした結果として、自然が汚染されて進めなくなったのである。科学技術は万能のようになった時代だが、それにも限界がありかえって人間を不幸にしてしまうのである。

●森が再生して江戸時代から縄文時代に戻る

そもそも人口を人間の力で操作できるものなのだろうか? なぜこれだけ地球で人口が増え続けている?このまま増え続けたら、地球は人間によってを汚染されて住めなくなる?だからこそ自然の理によって人口増加に歯止めがかかったのかもしれない。人工を調節するということも神の力でなされるのかもしれない。ウィルスのがその働きもすることはあると思った。ウイルスによってウィルスがばらまかれ人間の人口増加を減らすということである。人間の活動には問題がある。今やその活動を止めることが制御することが必要になっている
そのことは2000年前にすでに老子が指摘したように言われていたのである。人口が1億人の時、すでにそれが中国で言われていたのである。その十倍以上もの人口になっているのが中国である。だからもう増やすということは限界に来たのである。

だから今実行すべき事は人口減少を止めるということでもない。何か奇妙になるかもしれないが。時代が逆行して行くのである。江戸時代からさらに縄文時代まで戻る。何か空き家とか空き地が耕作放棄地が増えてくるのもそうである。耕作放棄地とかはそのまま放っておくといずれは森になっていくのでは?それはこの辺で津波があり、田んぼが一時的に森のようになったからである。木は伸びなかったが、そのまま放置していると森になったのである。

もともと田んぼだったところは森だったからである。日本はもともと森に覆われた国だったのである。そして再び森が復活して再生する。荘厳な自然の景観が回復するともなる。
そしてそこで自然と調和した適正規模の国土が作られるかもしれない。だから未来が必ずしも悪いはならないのである。なぜなら大都会に未来があるのかといえば無い。むしろ森が再生し復活して日本にが分散して適正規模の中に住んでいればそれはもしかしたら理想的な世界かもしれない。
でも実際は未来とは科学技術の発展のことである。でも原発事故のように科学技術技術がすべて良いものとして働くとこはならない。何か必ずその技はわざわいとなるのである。そして科学技術には限界がないように見させる。でも実際は限界があり。本当に開発を進めていくと災いが起きてくるのである。それは原発事故で証明されたのである。

●人口を人間の力で操作できるのか 

いずれにしろ少子高齢化というのは人口問題は人間の手で操作できるのかという問題がある。むしろそれが自然の理に合ってるから。そうなったともなる。 だから空き家が増えているが隣の家が空き家になったらその庭を隣の家が利用する。 すると狭い住居に住んでいる日本人が広いところに住み気持ちも広く豊かになるというのも一つの見方である。
現実に私の家の隣には空き家になったが、その庭が広いのである。それがが利用されないことが何か見ているのである。その庭に無断で入っているからである。他にも立派な庭がある。家でも放置されているのである。 だからそれをどう利用するのかが問題になる。 

ともかく人間の心情として何か成長する、発展するということが常に望まれる。でも減らすとか成長を止めるとかいうことはいいいい感じがしない。それは何か?気が滅入るということにもなる。でもそこにも良い点がありすべてが悪いとはならないのである。
その成長する増やす、拡大するとかいう思想はヨーロッパから来た思想であり。資本主義の思想でもある。絶えず投資して。成長し、発展させる、進歩するという思想である。でもその思想自体が地球に適用できなくなっているのである。すると東洋的。思想がそこで。見直されることになる。 世界は大航海時代から。西洋中心の世界が作り上げられた。その他は東洋でも。南アメリカでも。植民地化にされたのである。 
その思想自体に自然の理に反するものがあり地球自体に適応できないものとなったのである。
それで老子のいう小国寡民が今何か現実になっているのである。確かな事は人口が増えすぎた事である。だから減らすということが悪いとは見えないのである。日本だって東京は1000万以上住んでいるのだから地方に分散すればバランスが取れてくるのである。

posted by 天華 at 16:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年06月22日

縮小化する日本の象徴が原発避難区域に具体化された (森が再生されて再び森の国になる日本の未来)


縮小化する日本の象徴が原発避難区域に具体化された

(森が再生されて再び森の国になる日本の未来)


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経済的に成り立つであろう地域人口を確保できる中核都市を作り、人が住まないところには行政・民間いずれもサービスをしなくて済むように、不要な橋は維持せず、電力も携帯電波も供給せず、病院もない地域を作って人口減少に備えなければだめでしょう。

 人のいない地域に不合理にお金をかけて、おらが故郷を守れと言われても、その原資は国民の税金であることを忘れてはならないし、これが人口減少時代の「撤退戦」であることは間違いありません。

綺麗事は抜きにして、人が不自由なく住める地域に限定して行政サービスを行えるよう自治体の再々編も必要だろうし、地域金融もテレビ局も電波も再編して、残りは政府直轄地として国立公園にするなり森林環境税とか活用するなりして保全していくほかないんじゃないでしょうかね。

ついに銀行も支店撤退…「人口が減り過ぎて競争が成立しない」地方経済の問題について

●小高は車がわずかしか通らないことで寂れたことがわかる

このことが原発事故の避難区域で起きている。大熊町浪江町南相馬市の小高区そして飯館村である。
若い世代が帰還しない、残されたのは老人なのである。小高区は三割くらいが戻ったからいい方である。高校も再開している。でもその高校生にしても他から通う人たちである。
街の中には確かに人は戻り住んでいる人たちが増えた、でもそこで気づくことは車が通るのが少ない、車が何台か通るにしても少ない、だから静かだなとなり不思議な感覚になる

車がこれだけ少ないことは現代では人が歩く時代ではないから寂れた街になる。というのは車が少ないとしてもその代わりに街の中を歩く人が増えれば寂れた街にはならない、もともと街の通りを歩く人は少なかったからである。通りを歩く人たまにいるが老人であり子供などはまた夫婦とか子でも連れで歩く人は見かけない、それで小高区の人たちは原町に移住している人たちが多いのである。どうしても原町は5万くらいの都市だから便利であり住みやすいからである。
鹿島区では私の家の脇の道路は車がめったに通っていなかった

今ひっきりなしに通る、それは小学校へ通じる道にもなって移住してきた人たちが子供を乗せて通わせていることもある。また他にもこの道を利用する人が増えたのである。
車の行き来が増えることでその場所の経済が活発かどうか判定できるのが現代だからである。
私もどうしても原町には買い物でも鹿島区には足りないものがあるから定期的に行くことになる、最近は一軒の自転車屋も主人が死んでなくなったのも困った。他に弁当屋もないとかないものがあり不便なのである。相馬市までは自転車では15キロあるから遠いので簡単に行けないのである。
ただこんなふうになったのは原発事故とか津波に被害のためでもある。でもこの状況は日本全国になる未来の年表でも話題になっている。

●中核都市の原町に移住する人が多い―他でもそうなる

おらが故郷を維持したいのはわかる。長年住み慣れた町や村を捨てることは簡単にできない、維持されるべきだと思う、そこにも歴史があり歴史が絶たれることは大問題だからである
この辺では原発事故とか津波の被害で小規模の町や村が回復せず強いられて人口が原町から鹿島でも相馬市でも移動したのである
だから人口はそこでは減っていないのである。原町は一番人が原発雛区域から移動している。鹿島区でも新しい住宅地が三つくらいできた感覚になる、でもその人たちがどこで働いているのかわからない、やはり車で働く場所に移動している。それはもともと広域的に仕事する時代だから特別なことではないからである
ここでは原発事故とか津波の被害で人口が原町とか鹿島でも集中したとなる。だから未だに不動産やとかハウス会社が住宅地を造成している。やはり移動して住む人を見込んでいるからだとなる

経済的に成り立つであろう地域人口を確保できる中核都市を作り、人が住まないところには行政・民間いずれもサービスをしなくて済むように、不要な橋は維持せず、電力も携帯電波も供給せず、病院もない地域を作って人口減少に備えなければだめでしょう

ここでは中核都市として原町に人が集中している。そこでは現代の便利な生活が可能だからである。でも南相馬市の小高区とか維持するとなると容易ではない。負担ばかりが市の財政でもかかる。南相馬市では未だに二割の予算が復興のために入ってくる
でもそれもいずれはなくなる。

●飯館村は国立公園にして癒しの場として管理する

飯館村ではもう残ったのは老人であり立派な学校の校舎を作っても地元から通わず村外からか通っている。それも10人も満たないとかなる
つまり将来的に村を維持することが不可能に思えるのである

人が不自由なく住める地域に限定して行政サービスを行えるよう自治体の再々編も必要だろうし、地域金融もテレビ局も電波も再編して、残りは政府直轄地として国立公園にするなり森林環境税とか活用するなりして保全していくほかないんじゃないでしょうかね。


これに一番合っているのが飯館村である。もともと森林面積が70パーセントとか森に囲まれていたかである。それで癒しの村にもなっていた。それがもう維持するのがむずかしくなった
実際飯館村は外部から移住してきた人たちが一割から二割いて公共てきなもの維持している

郵便でも配達しているのは外部から入って来た人たちであり
キコリの宿泊所でもフロントの女性は外部から来た人であった
それも年配の人が多いからいづれ福祉の世話になるとしたらその負担で苦しむ、だから南相馬市と合併するようになるかもしれない、とても維持できなくなる。今住んでいる人たちは老人が多く
それも補償金を多くもらったのでそれで生活が成り立っている

それが切れた時生活自体が成り立たなくなる。農業でも再開しても一部であり収入がなくなるからである。
いくらまでいな村としてあっても成立していたが今後は無理に思える
三陸の津波でもジジババだけが住んでいる場所に税金をつぎ込んでも無駄だと官僚が本音を言った、つまり復興ができないからあきらめろともなる。ただ昔のような自給自足の電気もないガスもない水道もない車もない・・・そういう生活するなら別である
できないとすれば」いくら税金をつぎ込んでも無駄だとなる

だから森林公園として政府直轄地域として管理する、国で管理すれば金は国で出すから維持できる。そして森が維持できればそこは癒しの場として都市せ活でも疲れた人が生気を回復する場として最適だとなる
私はその森をテーマにして詩を作って来たからわかる。飯館村と丸森は本当に森が深いのである。
もともと日本は森の国であった。未だに国土の70パーセントが森なのである。外国になると山でも木がないところが多い、シナイ山とか草木も生えていない荒涼とした場であった

●日本は森の国に戻る

木のある森で覆われた山は世界で少ないのである。でも日本では木に森に覆われている、そこが日本の特徴なのである。
少子化とか人口が減るとか経済が縮小するとか騒ぐけれどももう東京のような一千万都市は人間の住むところではない、すでにそこでは人間の精神を正常に保つことは不可能である
そこから異常なカルト宗教団体が産まれてくる。それは文明的病理現象なのである。

人口が縮小することはその分森が増える自然が復興することにもなる、人が住まないと田んぼでも森になる、森が復活するのである。
もう現代は世界的にも経済成長の時代は限界であり人口縮小になる。そのいい点としては森ととか自然が再生されることである。
これも問題があるにしろ無限の経済成長は無理でありかえって縮小することに備えなければならない。拡大拡散成長の時代は終ったのである。地球にしてももう人口でも収容するのは限界になったからである。だから資本主義も終わりになるのである。






posted by 天華 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年06月20日

真野川に残された一羽の白鳥 (毎日餌をやる老人)

真野川に残された一羽の白鳥

(毎日餌をやる老人)

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首輪をしている


真野川の下流に一羽の白鳥が残された。その白鳥に毎日パンクズなどの餌をやっている老人がいる。に1日三回来て餌をやっているという。その人は車で来てその車に犬が何匹かいる
実際は全部で十匹飼っていると言う。その餌やりだけで手間である 十匹となれば餌代もかかる。デモそれが仕事になっているのだろう。他に苔のようなもの食べている

基本的には水草や草の実などの植物を食しているが、時に昆虫・貝類・甲殻類も食し、穀類も食す。
餌付けする場合はパンの耳や穀類を与える場合が多い。
本来の食性ではないパンの耳や穀類を与える行為は、ハクチョウにとってあまり良い行為ではないので、一般人は自粛するべきである
ハクチョウは田んぼなどで落穂や草の根などを掘り返して食べており、積雪の少ない栃木県内の平野部では自力で餌を探すことが可能です。

当会では、餌付けやそれに伴う渡来の集中化によって、高病原性鳥インフルエンザの感染拡大、残った餌や大量のフンによる水質汚染、渡来地周辺での農作物への食害発生などが懸念されることから、カモやハクチョウへの餌付けは好ましくないと考えています。

私が餌をやろうとしても近づいても来なかった
餌をやるのも問題になる。餌になるものがやはり人間が与えなくてもある探すことができる
昆虫とか貝類を食べている、真野川ではシジミを取る人が増えたから食べているのかなにかしら餌はある
餌をやっている老人には相当に慣れている なぜなら触ることもできるし首輪をかけていたが確かに首輪がかかっているのである
これほど慣れているというのもどういうことなのかそんなに白鳥とは人になれるものなのか分からない

私も一匹の猫に餌をやっているがこの猫は絶対に慣れない何か人間にひどくいじめられたためかなれない空白前の猫は慣れていたが尻尾を焼かれただから猫でも人間を恐れるようにもなるしかし白鳥は大事にされるからそうして人間にいじめられるということはないのかもしれない

それにしても冬まで仲間を待っているのは長いと思ったでも餌をやる人がいるのだからここで生きていける仲間が来るまで待つほかはない。他ほかでもやはりシベリアに帰れない白鳥が必ずいるここの白鳥は羽も直って飛べるようになっている
だから冬まで仲間を待っていればシベリアに帰れるとなるただ一羽では帰れないのだろう
posted by 天華 at 18:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年06月12日

街に記憶された一軒の自転車屋 (場とともに記憶がある―失われる記憶の場)


街に記憶された一軒の自転車屋

(場とともに記憶がある―失われる記憶の場)

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駅降りて自転車屋ありその人の亡きしも思ふ在りし日のごと

人間の謎は老人になると記憶に生きるようになる。記憶されたものが人生にもなる。でもその記憶が消えやすいのである。会場
だからどうして人間は記憶されるのかそれが問題になる。
記憶されるということはそのメカニズムは場所と関係している。
例えば家一軒があるとしてもそれが街の中にあっても記憶されない。でも街全体がありその中に家があり全体は記憶される。ここの家は記憶されなくても街全体を記憶するということがある。

だから自転車屋の場合駅前にあり駅と密接に結びついていたのである。もともとなぜ自転車屋が駅前にあったかというと自転車でも鉄道で運ばれた時代があった。その頃まだ車による運送は盛んではなく遠距離になると鉄道に頼っていたのである。
それで駅は引き込み線があり近くに縄屋とかあった。それは荷物を梱包して使うためであるあった。自転車でも駅前にあれば運ぶことも簡単だから便利なので駅前に自転車屋を開くのはそのためだったともなる。

とにかく人間は記憶するというとき場の働きが大きい。それで自転車屋の場合は駅と一体化して街とも一体化していたのである。ところが現代では商店街とかはシャッター通りとなり小売店は消失した。
でも街に商店街がなくなると街自体がシャッター通りとなり廃墟のようになってしまった。でもスーパーだと何か土着的ではない巨大資本が一時的に巨大なスーパーを作る
でもしかし巨大資本の問題は土着的ではない。そこで土着的に生活するのではなく東京とかでとかに本社がありその本社によってその経営も左右される。
それで相馬市ではイオンが閉鎖された。その影響は大きいものだった。街の一部が廃墟のようになったからである。このように大資本のスーパーなどはイオンなどは閉鎖することがある。それは本来その経営する人がその土地に土着して住んでいないからである。ここに大きな問題があった。

あれだけ大きいスーパーが一挙に消失することは影響がまた大きいのである。イオンは他でも撤退している。それは土着的ではないからそうなったのである。
そのことは原発でもそうだったのである。東京に本社があり東電の幹部はそこで福島の原発に命令する立場にあったのである。
でも事故のとき所長が吉田所長で仕切っていて東電の東京に居る東電の幹部たちとうまく話し合いができず意思疎通ができず混乱したのである。

つまり原発を取り仕切るのは地元にいる者たちではなく東京に居る人達だったからである。そこでうまく意思疎通ができなくなっていたのである。現場に居る人はやはり東京とか離れている人たちとは危機感も違っていたからである。
そして現場に居ない東京の幹部たちともうまく的意思疎通ができなくなっていたのである。ここに科学技術でもやはり場というものは関係していた。その場から切り離されて何でもありえないということである。それはあらゆることにそうなのである。ニュースでも現実の場所がら切り離されてテレビの一場面だけを見るから誤解するのである。

その場のことが実地にその場に立たないと実感できないことがあからである。その点東北電力の女川原発は副社長は5m高くしたことでギリギリで助かったのである。
それは現実にすぐ近くの三陸で明治時代にも1万人くらい死んだ津波があり危機感を地元に住んでいて持っていたからだったのである。だから何事土着的ということは仕事でも必要になってくる。
巨大資本というのは土着的ではないからこの土地で儲けが出なければ他に移るとなる。でも土着的だと自分たち自分そこを経営している人たちも住んでいるのだから簡単に撤退はできないとなる。ただ現代の仕事は広域化してグローバル化しているからなかなか土着的とはならなくなったのである。

土着的とはまた継続するということである。江戸時代なら農村山村漁村でも自然に準じてて生活していたからすでにそのこと自体土着的でありその生活も継続されていたのである
そういう社会では家の跡を継ぐ長男が大事にされたことも分かる。それもそういう社会では何代も家は仕事とともに継続されていたのである。だから農村社会では村では人が死ねば山に葬られ田植えの時期などに山からご先祖様は降りてきて一緒に仕事するということにもなった。
そして盆踊りとは死者とともに踊る祭りでありそれは村という共同体があって成立していた祭りなのである。ご先祖様は死んでも村の中に生き続けていた。それは農業社会であった時そうなったのである。村は一つの空間軸でも場として共有するものはありまた時間軸でも継続するものはあって成り立っていたのである。

でも現在はそうよう共同体が喪失して会社人間になった時会社というのはその土地と必ずしも結ばれていない。会社はいつまでも存続するということはなかなかない。会社がその土地と強固に結びつくことはない。
原町のゴルフ会社があってもそれはその土地と結びつく訳でもない。その製品は外国まで売っているからである。では地元の人でゴルフをするためにその製品を買うかというとそういう人はわずかだろう。だから会社というのはその土地に結びつくということが必ずしも無い時代なのである。
だから浪江の人が二本松に会社が移ったときその人は一時は通っていたが会社のある二本松に移住するようになった。
何かよくわからないがここで子供の時遊んだ人が東京の方に働いていたが会社は岩沼に移り今はそこに住んでいるという。つまり会社が生活の場なのだから会社が移ればその会社と共に人も移住してゆく農村社会のようにその土地に代々定住するということは今は少ないのである。

ただ人が記憶するというときやはり一つの場があって記憶されるということになる。現在はその場が喪失しているのである。
特にこの辺では原発事故がで町や村が消滅の危機に陥った。すると記憶される全体の場が喪失するともなる。継続される生が継続されない。その場を失ったとき人間の記憶される場も失ったとなる。だから離散した人々はその街であれ村であれ住んでいてもその人の記憶は消えてしまうのである
いずれにしろまた電動自転車が故障した。でも見てくれる自転車屋もここには一軒もなくなったのである。自転車の場合特に電動自転車は交渉すると故障すると直接生産しているメーカーに送り修理してもらうのである。だから電動自転車は通信販売でいろいろあっても買いにくいのである。

普通の自転車なら修理はどこでもできる。ところが田舎ではその店で買ったものしか修理でも受け付けないのである。
他でも医者とかでもいつもかかっていないと受け付けないことがある。それで原町の自転車屋ではパンク修理とかでも断られたのである。他の人も断られたと聞いた。イオンでは修理は受け付けている。でも電動自転車の電気系統は修理できないのである。
このように田舎の商売はまた閉鎖的である。でもイオンだと受け付けるのである。それは一回限りでも修理が頼めるのである。
だからイオンを批判したが田舎の店だってまた批判されるべきものがあただイオンが土着的ではないということは言えるのである
ただ自転車屋といっても今は車社会だから自転車に乗らない人は関心をもたないのである。私の場合は駅とかの関係で自転車屋のことが死んでも何か記憶されるものとなったのである。


posted by 天華 at 16:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年06月10日

コロナウイルスのマスクファシズムともなっていた (大衆民主主義はファシズムになりやすい)


コロナウイルスのマスクファシズムともなっていた

(大衆民主主義はファシズムになりやすい)

●未だにマスクしている人が圧倒的でありマスクをはずせない

いまだにスーパーとかに行くと100%みんなマスクをしていた。そうなると一人だけマスクをしないということはほとんど不可能になる。それでマスクファシズムということにもなった。
実際にマスクをしないとひどく責められたことも私にあった。
それはすでに強制的なものでありそれに逆らうことはもはや不可能だった。でもひどく責められたのはで海で釣りしていた人だったのである。スーパーのような人ごみの中ではなかった。
そんなところでもみんなマスクをしていたのである。日本人は同調圧力が強い。だから政府でマスクをしろという時一人ももれなくマスクをしていたのである。

でも外国だとマスクをしないという人が結構いたみたいである。
そしてマスクが自主的に判断してしてもしなくても良いといっても依然としてマスクをしている。
するとどうしてもマスクをしないと暗黙のうちに責められている感覚になりマスクをせざるを得なくなる。
でも道の駅の食堂ではマスクをしてない人が結構いた。そうなるとマスクをしなくても責められる感覚が相当に薄れる。

そこは外部から来た人が多くそのためにマスクをしてない人も多かったのかもしれない。人間の心理として100%の人がマスクをしていれば何であれしないということは相当な勇気も必要になる。でも人間の心理として1割がくらいがマスクをしていないとするとそれで相当に圧迫感がなくなる。それで自分でもマスクをしなくてもいいと言う感覚になるのも不思議である。

●マスクファシズムにもなっていた

そこで考えたのはこのマスクをするということは一種のファシズムとも似ていた。コロナウイルスはまさに感染するからである。
ファシズムもナチスのように国民全員に感染してそれを逆らうことができなくなった。逆らう人は国外に脱出したのである。
何か現代ではいくら民主主義だといってもそれはギリシャの1万くらいのポリスで直接投票された元はあまりにも違っている。
現代の大衆民主主義は常にファシズムの危険がある。
それでピカ―トはラジオからナチスが生まれたということを言った

大衆民主主義になるともはや1万のポリスとかとは考えられない規模であり人を選ぶにしても選挙でも百万以上の票が必要だとかその規模が違いすぎるのである。
そこから起きることはマスコミがテレビがその何百万の人々に情報で洗脳することが容易だったのである。それだけテレビの力が大衆民主主義では大きなものになりマスコミによって世論も形成されたのである。

つまり現代は相互の連関性を喪失した時代である。そこで人々を結びつけるものはヒトラーとかカルト教団の教祖とかになる。だからそうかなどは創価学会などはそのファシズムとなり日本席巻するようにもなる恐怖があった。
戦前だと日本の戦争もまたナチスとは違っていてもそれに反対することはできないのだからやはりファシズムとも似ていたのである。つまり民主主義とは必ず反対する人がいて成り立つ。
ファシズムとは反対を許さない。それは共産主義でも反対を許さないからファシズムとも似ている。ナチスのような独裁者は全国民を一つの色に染めて違った色を認めないのである。認めないというより抹殺するのである。そのためにソビエト連邦でも反対するものは粛清されて1000万人なのか殺されたのである

●感染症専門学者と原発の御用学者は似ていた

だからマスクにしても全員が一人もれなくマスクしているということが何かファシズムに似ていたのである。もちろん医学的に科学的にマスクが必要だということは否定できない
でもいくら医学的に科学的にマスクが必要だとしてもそれを認めない人もいた。これは陰謀だとする人もいた。でも100%の人がマスクをしている時マスクをしないということは不可能だったのである。その同調圧力は強力なものだったのである。
医学的に科学的にその危険性を常に言われたからである。現代人は科学に弱い。科学が宗教にもなったのである。科学者の言うことはまるでご宣託のように聞いている。。それは昔の聖職者とか僧侶にもなっている。

だから今回のコロナウイルスでも感染症学者が一番影響力があったのである。でもその感染症専門の人も実際はコロナウイルスのことを知っていたとはなっていなかった。何か未知のものでありそれで誇大に危険をあおったのである。 40万人が死ぬとか感染症学者が言ったときそのことをありえないとして批判された。だから今回のコロナウイルス騒動は実際のところこのコロナウイルスの正体を感染症の専門の人も分からなかったのである。だから過剰に反応してワクチンを打たせたとも見る。そして大儲けしたのは薬剤会社だったともなる。
だからそこでこれも陰謀論が言われたのである。

いずれにしろ今回のコロナはコロナウイルス騒動は何だったのか。それは過剰に反応したということがないだろうか。全く無視するということではない。危険なものだからそれなりの対応は必要だった。でも実際はこのコロナウイルスの正確な正体を知る人は専門の人でもいなかったのである。そこに世界的混乱が生まれたのである。
中国では大都市まで封鎖してそのために中国人は外国に脱出するともなった。日本へも移住する人が出てきた。中国だと統制が厳しいからそれで嫌気がさしたのである。

今回の問題の処理を見ていると一つはやはり科学的医学的にまず見る。だからまず専門の医者とか科学者が前面に出て話す。それは原発事故とも似ていたのである。事故が起きたときまず専門の科学者が説明したからである。
でもその科学者も政府寄りであり御用学者でありここではその危険を言わなかったのである。ただ放射線の被害というのはそれなりに研究した積み重ねがありそれで判断できたということもある。でもやはり放射線被害にしても明確なことは分からなかった。それでやはりコロナウイルスと同じように混乱したのである。

●マスコミとコロナウィルスとカルト教団とファシズム

とにかく現代の問題は原発事故で考察したように必ず科学的問題としてあり次にそれだけではない報道としてマスコミも影響する。それはナチスがラジオ利用して国民を洗脳したと同じである。現代でわテレビの影響力が絶大だったからそうなったのである

マスコミによって真実も歪められそれも世界にグローバルに情報が瞬時に伝達されて誤解をうむのである。それを象徴したのはイラク戦争の時の油まみれの油まみれの一羽の海鳥だったのである。その一羽のみが強調されて周りの状態は写されていなかったからである。別に海は油まみれにはなっていなかったからである。そういう誤解が常に現代でわ生まれているのである。フェイクニュースは常に生まれているのである。
そしては大衆は洗脳されるのである。
だから大衆民主主義はファシズムに最も近くなりやすいのである。カルト教団というのもやはりファシズムと似ている。宗教となると反対は許されない。反対するとバチ当たるとか集団で攻めてくるからである。だからナチスと似ているのである。
そして教祖は神のごとくなりヒトラーにもなる。それはまさに現代の文明の病理的現象として現実化した。それが恐怖だったのは1000万人とか死んだことである。まさにそうした狂気を大衆民主主義でわ書いて促進させてとめることはできなかったのである。

それで今回のコロナウイルスもそうしたファシズムとも似ていると思った。日本は同調圧力が強く余計にそうなったのである。
そもそも教育からして学校でわ一律的に強制的に人間をロボットのように扱う。制服でも揃いのものであり一律にして違ったものを認めない。それでアメリカとかほかの国でわ制服というものはないから自由な雰囲気があり創造も生まれるとなる。
学校教育自体がファシズム養成する場所にもなる

●大衆民主主義とファシズム

とにかく大衆民主主義とファシズムは似ている。
選挙にしても何百万票を得るとしたらどうなるのか。そのこと自体ファシズム的な手法を利用することになる。

難しいことは言わない
単純明快に言う
ただ中味より大声で訴える

この手法を取ったのが小泉首相だったのである。二三のフレーズを言って単純にして大衆に訴えたのである。大衆を扇動するということはやはりファシズムの手法なのである。
コロナウイルスのようにみんなにマスクをさせて強制させる。またファシズムは感染するのも似ている。国民が全員ひとつの思想であれ間違ったものであっても全員が感染するとそれに逆らうことはできないのである。それはカルト宗教団体の手法とも似ている。ただひたすら題目を唱えるだけで救われるとかこう利益があるとか問題が解決するとかもあそうである。

そこでは一切考える必要もない考えること拒否しているのである。大衆は考えない人たちだからである。
だから宗教というのは危険にもなる。本来の宗教ではなくファシズム宗教として利用されるのである。そして宗教は反対者を許さないから抹殺する殺戮して反対者を許さないのである。それは共産主義も1種の宗教だから1000万人とか粛清されたのであるから怖いものなのである。
ともかくマスクファシズムとも言えることをコロナウイルスで経験した。とても全員がマスクをしている時一人しないということはもう不可能なことを経験したのである。でもマスクがそれほど効用あるものだったかも明確ではないのである

今になるとマスクはするのは自由だとしても依然としてスーパーなどでは全員している。だから一人だけしないということはできない。それは明らかにマスクファシズムとも似ていたのであるなっていたのである。マスクするのは自由といっても現実にみんなマスクをしていればその圧力でマスクをしないということができない。それだけ同調圧力はいかに強力なものかをコロナウイルスを通じても体験したのである。
posted by 天華 at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年06月02日

長野県中野市の警官銃殺事件の深層 (銃を持つこと警察で許可したのは親が市議会議長だったから?)

長野県中野市の警官銃殺事件の深層

(銃を持つこと警察で許可したのは親が市議会議長だったから?)


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長野立てこもり事件】精神科医:和田秀樹としての見解


ここの解説が興味深かった。なぜ銃を持つ許可が降りたのか。その理由が父親が市会議員の議長であり土地の有力者だった。それで父親の威光で許可されたと言っている
それも確かにありうると思った。警察とかは弱い者には厳しいのである。でも権力も持つ者には忖度する。地域でも田舎でも有力者がいればその有力者に媚びる。
警察自体があるある意味で銃なのである。暴力装置であり強制力を持つ最大の権力なのである。それは自衛隊とは違って常に日常生活で庶民にその暴力をもっと暴力装置で強制する力を持っているのである。

でも警察の問題は大きな権力には弱い従うとなる。三権分立でも警察の力はやはり時の権力者に弱いのである。
そのことは庶民も衆知している。庶民でも警察を一番恐れているからである。身近に警官には直接触れるからである。交通事故でもそうだし日常的に警官に関わるからである。そして脛に傷を持たない人間はいない。そのために江戸時代の目明しのように警官は嫌われる存在なのである。

でもその土地の有力者とか権力者となると警察自体が媚びて大目に見ることがある。それで今回でもなぜ銃を持たせたのかをここで指摘している。それはやはり父親が市議会の議長であり有力者でありそのためだったのかということで納得する。
警察は巨大な権力には弱いし忖度してそこに犯罪があっても見逃すともなる。それがカルト教団とか分からないにしても創価などでも常に警察が強制的権力を持っているので何か犯罪があっても表沙汰にしないようにしているともされる。
つまりこうした大きい権力には警察でも弱いとなる。
だからこそ逆に人は権力を利権を得たいとなる。

そもそも人間の問題として権力というのはそれ自体が大きい問題を抱えている。権力というとき暴力装置としての機関だけではなく金も権力を持つ最大のものである。
これによって金によって人を支配することは容易だからである。
だから貨幣には時の土地の支配者たる王の像が刻まれている、貨幣でも紙幣でもそれを発行する力を持っているのはその土地の国家の支配者だからである。
ドルが世界基軸通貨となっているときアメリカが世界を支配していたとなるからである。
だから三権分立として暴力装置である警察とかでも行政から独立した権力を持たせるようにした。
つまりいかに権力を操作する権力を制御する権力を暴走させないそのために三権分立が生まれたのである。

権力は暴走する

銃は暴発する

それは歴史が証明している。ナチスであれ日本の戦争であれ権力が暴走することを止めることができなかったからである。
だから権力をどうしたら制御して大きな災いを産まないようにするのかが大問題なのである。
そして警察を利用する操作する背後の大きな権力が問題になる。だからこそ警察でも地域で働くにしても土地の有力者の方が権力者であり忖度し銃でも許可したとなる。だから警察にも許可を与えたものにも責任があったともされる。
つまり市議会の議長が父親でありその父親がいてその子も大目にみられたのである。ともかく人間は利益を得たい必死になっている。得する地位や職に就きたいとなる。それで公務員は得する立場にあり羨ましがられるということがある。それは親は公務員だったので分かるのである。

権力というのは銃とも似ているのである。銃を持つことは権力を持つことである。武器を持つことになるからである。
だから革命というとき共産主義でも武力革命であり暴力が肯定されていたのである。創価学会などでもそこで言われるのは指示されるのはいかに権力を取ることかである。
それしか頭には無い。その権力を奪うためには民主主義社会では選挙になるから日日選挙活動でありそのために毎日祈っているのである。すべては数であり一票を得るために日々祈り活動しているのである。これも政教分離にが違反しているのだが自民党が公明党と一体化しているとき法律も無効になるのである。

要するに権力を持てば法律など関係なく思いのままにできるということである。日々の生活でも人々は権力を得たいと思うのは権力を得れば思いのままにできるということを知っているからである。それは頭では無い日々の生活の中で具体的に知っているからである。権力を得れば利権を得ていい暮らしができるとなっているからそれは法律に違反してようが権力をもっているものには逆らえないからそこで大きい災いがナチスのように生まれてくる。
権力が巨大化すればもう誰も止めることはできない。戦争にもなり何百万人も死ぬことにもなるのである。
カルト教団は創価などでも頭にあるのは権力を得たいということしかない。それでなぜ創価が東京の選挙区にこだわり自民党ともめるのか、それは東京都が認可権をもっているからだともなる。

原則として、宗教法人の認可は、自治体によります。つまり、その宗教の本拠地がある自治体です。
東京にあるなら、東京都です。

ここで警察の予算にも口だしているというのもそうなる。でもそれを制御しないとナチスのよなり大きな災いとなるのである
いずれにしろここでは銃の問題を指摘したがそれは大きくは武器の問題であり権力の問題でもあった。だから父親が市議会の議長であり土地の有力者であったことが警察でも忖度して危険な人物に銃を与えたということである
結果的に警察で土地の有力者に忖度してその災いが警察自体に及んだともなる。これもカルマだったとなる。権力者でもその上の権力者には媚びるとなった。
・・・に刃物だったのである。それは核兵器とか原発にもいえたのである。ヒットラーでもプーチンでも独裁者にそれを許可して使わせたらどうなるのか、その恐怖が具体的にウクライナ戦争で今でもありうること知ったからである。
この事件で背景がいろいろあるにしても銃の問題があったということこの観点から指摘したことは大事である

posted by 天華 at 11:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年05月28日

若者は病み老人は心身を病む爛熟文明 (一連の若い人の凶悪事件は何を意味しているのか)


若者は病み老人は心身を病む爛熟文明

(一連の若い人の凶悪事件は何を意味しているのか)

●カルト宗教も現代の文明の病理現象として生まれた

犯罪が時代を象徴することがある、ただ人間の業としてカルマとして変わらないものがある
男女関係とか基本的に変わらないものがありそのために同じような事件が起き続けているのである。
ただ犯罪も時代に影響される。現代だと複雑な社会であり昔の江戸時代のような村社会とは違って犯罪もまた複雑化する
なかなか簡単に理解できない事件や犯罪が起きてくる。

統一教会のカルト宗教に歪められた家族の一人が安倍首相を恨んで殺害したのもカルト宗教が増えたために起きた事件である。それも時代を象徴している。
カルト宗教もまた現代の文明の負の部分として生まれたものであり本来の宗教とは何の関係もない。創価などでもその発祥を見れば団地の宗教と言われ地方から出てきた人は仲間意識を持つために生まれた宗教であり組織である。
宗教だとそもそもが自然と一体化して心を清めるとかがあった。
天台宗というのは先にあり天の台というごとく山岳宗教だったのである。。だから山にこもり修業したのが始まりである。
山伏などもその系譜にあるのである。
だから大都会の団地から生まれたような宗教はま全く宗教的要素を欠いているのである。

●一連の若者が起した事件の原因は何なのか?

何か最近の一連の若者の起こした事件は政治的要素より経済的要素より現代文明社会のなかから起きた事件かもしれない。
個々人の問題もあるがやはり時代の社会の歪みとして犯罪が生まれる。統一教会のカルト問題から発したのも阿部前首相の事件もそうである。
その次に岸田首相を狙ったてテロも何か明確な政治的意図があったとも見えない。むしろ個人的なものとして個人的な不満が岸田首相に向けられたのかもしれない。何か公憤ではなく私憤だったとなる。自分の鬱憤をはらすために
起こした事件であり政治的意図があったとも見えないのである。

猟銃で警官を二人も殺した事件も驚いたがこの人は恵まれた家族に育ったのにこんな恐ろしい事件を起こしたことが理解できない、別に引きこもりでも百万人いる時代であり家族にめぐまれたのだからそこで生活できていたからである。ただ何か認められないということで回りに対して敵対的感情をもったらしい
でも高校時代野球部で活躍したとか問題児はなかった。
でももともと社交性が無いとかで陰の性格だったのかもしれない

この性格の人は人付き合いが苦手なのである。それは私自身がそうだからわかる
回りとうまくコミニケションできなかった。陰の性格の人は社会で生きることが困難になる。引きこもりになりやすいのである。
もう一つは大学を中退したということは挫折したということである。必ず何らかで人間は挫折を経験する。若いときは挫折を経験する。私自身もそうだった。まず学校とか集団生活には馴染めなかった。そして大学出ても就職もせず家族に恵まれて引きこもってしまったのである。
でも人間は挫折する経験は必要だった。何か打ちのめされるそして返ってそこで謙虚になるのである。だから挫折することは若いときは返って必要なのである。もし若い時から成功したりしたら高い地位についたりしたらその人は高慢な人となってしまうのである。だから挫折は悪いことではない。
そして別に家族に恵まれているのだから生活にも困らないのだから引きこもりでも良かったのかもしれない。どうしても陰の性格だと社交性がなく周りからよく見られないからである。

今日のニュースでは家に来る女性から話もしないで一人でいると言われたことに気にしていた、母親がフラワーアレンジメントの先生をしていて女性が来ていたからそうなった
そいうことは何か社会で言われる。何でも付き合いがありしゃべらないとか酒を飲まないとかになると変わった奴だとされるのである。無口でもそうである。自分自身が引きこもりだからほとんど付き合ないし沈黙していた。そのために山とか石とかと一体化したのである。何故なら自然は沈黙しているから自然に通じるには沈黙の修行が必要なのである。それが寺とかで座禅すらならいい、社会ではそれができないのである。
でももし花に興味があったらなんらか話はできたとなう。そもそも猟銃を持つような人が引きこもりなのかという疑問もある
でも社会性がないことも問題なのである。

●小人閑居して不善を成す―引きこもりの危険

これが一連の若い人の事件に通じているし引きこもりもそうなるから危険なのである。つまりこれからもこうした事件は起きやすいのである。
ともかく若いときは本当に危機の時代である。何かしら必ず問題を起こす犯罪でも起こしやすいのである。この場合大学を中退としたとしたとしても家で暮らすことができたのだからどういうことなのかなかなか理解できない。
ただ全般的に現代文明の社会の影響はありまた若い時に挫折がありそれが社会にむかって犯罪を起こすということはあった。
でも一方で引きこもりがこれだけ多いということはすでにこれは個々人の問題ではなく社会どう大きく言えば文明の問題だともなるのである。

それで天才的な人は文明批判になったのであるニーチェとかヘンリーミラーとか上野霄里(うえのしょうり )とが強烈に文明を糾弾したのである
ただ引きこもりはそうした特別優れた人ではない。普通の人でありそれが事件を起こしているのである。でも何か共通性はあるとなる。私自身は天才でもなんでもないむしろ劣っている人間だからである。でも引きこもって自然と一体化することから俳句や短歌や詩歌を追求してきたのである。これも異常だったが家族に恵まれてそうなったのであるそれが出来たのである。だから私は家族に感謝しているのである死んでも感謝し続けているのである。

●精神病の医者が語る本に賛同

本を整理していてこの一連の事件でそれにふさわしい本があった。

精神に病理性が発現しやすくなるのは十代中頃からである
この辺りから生命的エネルギーがやあ低く何らかの不器用さをあわせもった少年が次第に競争社会の中で追い詰められてゆく
たいていはひきこもることで当面の困難を回避する。

そもそも殺意とは誰でも少年の中で日常的に懐いているのである
かつて精神病者や病的な心理に基づく犯罪は多く家庭の中にとどまっていた。それが世に向かうようになったのである。
その理由の一つとして家族の力が弱くなったことである。例えば弱々しい母は一人息子に振り回され外への攻撃が向かうの阻止できなくなったおそうしできなくなったようなことが起こる

文明はたいてい外敵の侵入を持って最終的崩壊に至るものであるが。その前におーいなる爛熟がありそれにより弱体化が進む。
爛熟こそが人間を弱くするのである。特に若者に強い依存心をもたらすか無力化させられるのではなかろうか。世紀の節目、文明のの爛熟の中にこの国の衰退を予感するのは私だけではあるまい
素朴に生きる人が残る―遠山高史

いずれにしろ現代社会は文明は病んでいる。それは若い人でもそうだし高齢化社会になり老人も肉体を病んでいるだけではない精神も病んでいる。そしてそうした病んだ人がこれだけ多いとなるともう健全な社会が維持できるのかとなる。確かに若い人はエネルギーがあるから凶悪事件でも起こす。でもこれだけ老人が多いというとき社会自体が老人病人社会にもなってしまう。そんな社会がもう維持できるのだろうか。つまりもう文明社会は病的な社会であり素朴に生きる人が生き残るというものではない。もう老いも若きも病んでいるのである
もう内部から文明社会は疲弊して滅んでゆくのかとも思う。それは世界的に共通しているのである。文明の進歩が果たして人間を幸福にしたかというとそうともならなかったのである。いくら技術が進歩してもプラスの面はあってもまたマイナスの面も大きくなったのである。人間は得るものがあれば失うものが必ずあるということである
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2023年05月23日

市川猿之助の両親、老々介護か (2025年問題は深刻化する―団塊ジュニアには独身者が多い)


市川猿之助の両親、老々介護か

(2025年問題は深刻化する―団塊ジュニアには独身者が多い)

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歌舞伎俳優、市川猿之助(47)が18日に東京都内の自宅で両親と倒れているのが発見された騒動で、亡くなった父の市川段四郎さん(76)を母の喜熨斗延子さん(75)が老々介護していたとみられることが22日までに分かった。

2025年も問題は始まっている、76歳と75歳とは団塊の世代にもなる。この世代は人口のボリュームが厚い、だから介護するにしても割合的に少ないとしても多くなる、だから2025年問題が言われるしすでに始まっているのである。
76歳の父親と75歳の母親というとき自分自身がその年代だからである。その子供たちが介護することになる
その年代が五十代になる、猿之助さんは48歳でもその年代になる。
近くの人は73歳の女性でやはりその息子は52歳とかである。
やはり早いとしても脳梗塞になり入院して介護状態になった
幸い軽くすんだので母親は自力で生活ができるので介護にはなっていないから助かったのである。

ただその後息子は交通事故や階段で足をくじいて仕事できなくなったとか不運が重なって苦労している。仕事は一か月以上休んでいるのである。それで収入もない、貯金もないから援助してくれとなる。ここでの問題は金銭的な問題もありまた人手もないということもある。何故ならその息子は独身だから妻の助けも得られないからである、団塊ジュニアは結婚していない人が多いのである
猿之助さんも結婚していなかった。そして一人っ子だった
すると相談相手もいなかったとなる。

結婚していない人また一人っ子の問題

団塊ジュニアには独身者が多い

ここに大きな負担となっていたのかもしれない、まだわからないにしてもそのことは自分と似ていると思ったからだ
私も複雑でも両親の介護で一人っ子で一人苦しんで介護したからである。一人っ子は兄弟も姉妹もいないから相談相手がいないからである。金銭的には問題ないにしてもそれだけでは介護できないからである。そして仕事やめると収入がなくなることがありやめない方がいいとしている。猿之介さんも舞台があり介護に手が回らなかったのかもしれない、ただ金銭的には相当に恵まれていたのだから何か介護する方法があったかもしれな、ただ相談する兄弟とかもいないので家族で両親とともに心中しようとしたのかもしれない、その詳細は不明にしても2025年問題はすでに始まっているのである。

ただまだ父親が76歳とかで介護になるのは早いとはなる。
でも確実にこの介護問題は深刻化する、そして悲劇が起きるのが日常化するかもしれない、家族でも核家族化とか小人数であり介護する人手が足りないからである、そして男性の場合外部に援助を求めることが苦手だからである。特に一人っ子とかなるとそうなる。でも歌舞伎仲間とか芸人仲間がいたのだから相談できなかったとのかとなる、その辺の事情はわからない、確かなことは
2025年問題は始まっているのである、それは相当に深刻であり悲劇が続出するともなる、わからないにしてもこの事件はそうした事情が背景にあり起きたとなると2025年問題がいかに深刻になるかを示した事件だったのかとなる

posted by 天華 at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年05月15日

使いすぎる電気ー電気を減らしても死ぬことはない (グローバル化拡張成長の時代の終わり)


使いすぎる電気ー電気を減らしても死ぬことはない

(グローバル化拡張成長の時代の終わり)

●電気代があがり家計を圧迫

電気代ガス代水道代などがあがりめんなみんな困っている。
でも戦争は終わり団塊の世代が生まれたがその時ガストか水道は使っていない電気は裸電球一つしか家になかった。暖房は炭だった。それは江戸時代からの続きだったのである。電気製品などなかった。その時不思議なのは電気が使えないとか電気代が上がるとかそんなことを心配もしない。

そもそも電気も使ってないし電気のことを心配している人もいなかったのである。今になるともう電気なしでは生活できない。電気なしではもう生きてゆくこともできない。それは車がないと生きていけないともともなる。でも車はない社会は江戸時代から続いているし人間はそれでも生きてきたのである。
だから電気なしで生活できないとか水道なしで生活できないとかもう死ぬほかないどこまでなるのはそういう生活に慣れきったためである。

現実に電気水道ガスを止められるともう料理もできないし死ぬほかないともなる。それで貧困家庭はそれが払えないので苦しんでいるのである。でも戦後間もなくは電気水道ガスがなかったのである。別にそれでもみんな死ぬということはなかったのである。

●原発は電気を得るためにやめられないのか

なぜこのことを言うかというとこの辺では原発事故があり故郷に住むめなくなった。
でもまた原発なくては日本はやっていけないとなり原発を再稼働しろと言う世論になっている。これもやはり電気社会になり電気なくしてはもう生きていることもできない。また車なしでわ生活できないというのとも似ている。
特に地方では田舎でわ返って車なしでは離れているから買い物すらできないとなりクルマを持つことが必須になっている。
でも戦後間もなくは車などもっていない。近くの店やで用たしていたのである。離れた場所でも萬屋(よろづ屋)などがありそこで買い物してまかなっていたのである。

だから電気水道ガスがない時代が江戸時代からも続いていたのである。その時電気水道ガス代が払えないとか心配する必要はなかったのである。もう電気なしで暮らせないということになったが人間はそれで死ぬことはないのである。
だから電気がなくてもいいとは言わない。でも原発がなくては成り立たないとかようのは論理的にもあっていないのである。
電気がないからもう死ぬほかないというのはあり得ないのである。そしたら江戸時代であれその後の昭和にしても戦前にしても電気など使わないところがあったからである。そしたらそういう人は生活できないみんな死んでいたともなるからである。
これほどまでに電気が大事になったのはやはり電気文明になりそれがさらに原発文明にもなった。でもその文明も電気が得られなくなると消滅するとなる。でも電気文明になったのはここ百年くらいでしかないのである。だから電気がなくても人間の生活は継続できるのである。

●電気は使いすぎるから減らすべき

電気がなくてもいいというのではない。電気を使いすぎる。そこに問題があり電気がなくていいのかという極論になることはよくない。それは金でもそうである。金はあった方がいい。金がなければ金を全部否定することはできない、電気をすべて否定はできない
でも電気を使いすぎる。それは夜でも煌々と明るくして電気を使っているからである。つまり電気を使いすぎるのである。夜でも昼間のように明るくすることが果たして理に適っているのか。夜は暗く眠るときである。その夜まで煌々と電気により明るくしていることが自然に反しているのである。
他にも電気を使いすぎる。そのことに問題があり最小限の必要な電気を使うなら電気代が上がるとか電気がなくなったら生活できない死ぬほかないというふうになるのはおかしなことなのである。

でも全員がそう思っているからそのことに反対できないのである。そのために原発が必要だとなり再稼働しろとなっている。
そしたらまたこの辺のように事故になり故郷に住めなくなるである。
だから個々人が電気がなくても生活できるし我慢できるとかなればそうはならない。でも現実はみんなが電気なしでわ生きていけないと思っているから原発でも必要であり再稼働しろとなっているのである。
でもお前も普通に電気を使っている。他の人より人より使っているのではないかとなる。そこで説得力がないとはなる。

●電気がなくていいのかと脅迫もされる

でも電気がないと生きていけないとか車がないと生きていけないとか思いこんでいる。それらを全て否定するわけではないが電気代が上がり電気を作るための石油であれ石炭であれ円安で高くなる時どうすればいいのかとなる。
その解決方法は何なのかととえばやはり電気をは使いすぎる。またソーラーパネルとかでも山を丸裸にして埋めている。
それで大雨が降り山に保水能力がなくなりまたソーラーパネルが崩れて被害になる。それも必ず電気なくしては生活できない。
文明そのものを維持できない。そのようにみんな思い込んでいるのである。。それに逆らうことはできないのである。

でも電気代がばか高くなってもう払えないとなるときやはり電気代を減らしたいとなる。そうし得られない時どうするのかとなる。炭の時代に戻ることはできないとしても一体どうすればいいのかとなる。
すると天気を減らす使うことを論理的に必要だとなる。電気を全くなくすというのではなく減らすということである。電気を減らすとなると返って人口が少なくなると自ずと電気を使う量は消費量は減る。
そうなると人口が日本でも相当に減っていくからそんなに電気も使わなくてもいいともなる。すると人口が減ることが悪いことばかりでもないとなる。

●人口減少は電気でも減らすことになる

つまり今世界では人口が増えればそれだけまた電気が必要になり電気に頼り電気がなくなれば生活できないとなるのである。
そして電気がなければ死ぬほかないとまでなる。そのことが何か間違っているのである。
もちろん山尾三省のような生活は無理である。ただ明らかなことは電気を使いすぎることは確かである。夜でも明るくして電気を使うことは自然の理に反するからである。夜だけでも天気を最小限にして暗くなってもいいとかなればそんなに電気ににこだわる必要もないかもしれない。では前が夜暗くして暮らせるのかともなる。
お前は蝋燭で夜も暮らせとなる。そういう極論ではなく電気を使い過ぎることは確かなのだからある程度は減らすことが必要なのである。でも電気を減らすことは至難なのである。

ところが右寄りの人は原発推進派である。それはなぜなのかというと外国に中国でも対抗するには電気でも必要であり原発でも必要である。なぜなら原発からはプルトニウムなど核に使うものが作られるからである。原発が必要だという時核武装が必要だからともなっている。
そして日本は外国と対抗するために少子高齢化でわできないまた経済成長しなければ対抗できない。
でも日本には経済成長できないその時代は終わった。もう一度高度成長時代を夢見てもそれはもうできない。でもいったんそういう時代を経験しているからまた高度成長時代がくるという幻想に憑かれているのである。。
成長時代があっても必ず衰退してゆく。それは中国でも同じだし世界的にも帝国になっても領土を拡大したことを経験している。

でもそれも一時的でありやがては衰退してゆく。それは法則のようなものである。世界史でわそういう興亡があり栄えていた国も必ず衰退するのである
おそらく世界的に見ても経済成長するのは限界になってきたのである。世界的に経済成長すれば電気でもさらに必要になる。でもそのエネルギーでも供給するのが限界にきている
だから世界的にも経済成長するということは限界にきているのだと思う。経済成長神話を信じるのはもう限界なのである。
むしろ世界の人口は減るべきでありこれ以上人口が増えることはエネルギーをさらに使うことになり電気でも必要が増大する。

●歯止めがない拡張成長のグローバル化は資本主義は終わる

グローバル経済資本主義の終わるというときそれは地球の資源でも環境でも人間が増えすぎることで地球環境は破壊される。だからこそもう地球の人口はこれ以上増えれば環境が悪化してどうしても電気もさらに必要になり原発も必要になる。だから世界全体を見てもグローバル経済とか資本主義経済が終わるとされるのである。
確かに次はインドが成長する投資先ともなるがインドは中国とは違って何か文化的に経済成長を阻むものがあるかもしれない。
いずれにしろグローバル化資本主義というのは限界に来たのである。コロナウイルスというのもグローバル化とか資本主義に歯止めをかけたのである。資本主義でも無限に拡張し拡大し発展させる成長させるという主義であり思想である。

それが限界にきてもう投資先がないそれで銀行には金が溜まっても投資先がなく利子も得られないのである。
だからこれからの世界はグローバル化による拡張拡大成長することは限界にきておのずと成長でも行き詰まり縮小化して自国優先主義になり保守的になる。
それが中世化するということでもあるがそのことが全て悪い方に働くとは限らない。世界的な成長神話はもうありえない。
グローバル化というのは実際は経済の戦争でありそれに敗れたものは奴隷化される。日本でも成長の時代は終わり輸出するものもなくなり観光でしか外貨を稼がないとかなり今度は外国から中国でも日本は安いとなりもてなしとかで外国人に使える使える奴隷ともなるのである。

●グローバル化の終わりー自国優先の経済に文化になる

そしてグローバル化とは平和をもたらすわけでもない。世界が全部反映するわけでもない。最悪なの何千万人も死んだ戦争になったのである。国と国の衝突があり共存するのではなく敵対して戦争になったのである
だからどこまでも成長拡大するグローバル化は終わったのである。その世界的な変化を見るべきでありそれに反する成長をどこまでも望むというのは返って方向を誤るとなる。

でもそれは何かマイナスに見るし縮小してゆく世界を受け入れにくいのである。でも世界的に見ればもう世界全体で経済成長するということは限界であり無理なのである。そのことを自覚をしていないとやたらさらに経済成長を望むのだから無理である返って原発でも再稼働しろとか原発なしでは日本の国防でも電気がなくては生きられないとなってしまうのである。
それで老子の小国寡民の思想がとか縮小化する世界に合うものとなる。それぞれの国でその風土と地理にあった生き方を追求する時代にもなっている。だから文化的には国風文化の再興になる

でも右寄りの人の軍事力強化とか国防のために原発が必要だとかにはならないのである。軍事力強化とかにはならないのである。ではどうして国を守るのかとなるから国を守ることは必ずしも軍事力だけではない。なぜなら軍事力を突き詰めて行けば核武装になり敵でも味方でも両方は滅びてしまうからである。
勇ましい国威高揚の右寄りの思想はこれからの時代に合わない。
それぞれが自国優先となりグローバル化は抑えられる。グローバル化は世界の文化を風土でも無視して壊してきたからである。
やはり人間はその土地土地に根付いて生活して文化を作ってゆく。それが自然の理合っている。

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

この歌にこそ何かその土地に根付いて充実したものを感じて生きるのである。これからはその土地土地に国々であるものを神から与えられたものを基本にして生きる時代になる。
もちろんそれで外国と関係なくなるわけではない。貿易はあるしそれをなくすことではない。ただ限定されて貿易がある。
基本はその土地土地の国々の財があってありえるのである。それが自然の理に合っているから継続されるのである。グローバル化はその自然の理でも無視するから続かないのである。



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2023年05月09日

去年の地震で破れた障子がなぜまだ直していない家があるのか (障子があけたてできないージャッキを使い敷居をカンナで削る)

去年の地震で破れた障子がなぜまだ直していない家があるのか

(障子があけたてできないージャッキを使い敷居をカンナで削る)

家との格闘はまだ続いている。去年の地震で壊れた屋根の修理をまだしていない家がある。
そして不思議に思っていたのは障子が破れたままの家が結構見かける。私自身の家も障子が破れて直していなかったが大工さんが来て今日やっと障子を直した。
それがめんどうだったのは障子の破れを直すのではなく開けたり閉めたりすることができなくなっていたことである。
地震で重さが加わりそうなった、だからまずそれを直すこと障子がはずせないからそうすることがまず第一となる
それでジャッキを使い持ち上げてとりだすことやカンナで敷居を削ったりしたのである。これは大工さんでないとできないのである。
それでなぜ去年の地震からいまだに障子を直していない家がまだあるのは障子だけを直すのではなくあけたてができないことでそうなっているのかと思った

家でも一部分だけを見てもわからない、障子でも敷居があり上の横の柱があり全体と関係しているのである。
だから修復するには一部分だけを見てもできないのである。
でも家でも家全体を見れる人は大工さんでもできないとなる
私が接した大工さんは家全体をみれるのである。瓦まで直したとか言っていたからである。そもそも家全体を見れる人はいないだろう。部分的にはみても家全体を知ることはむずかしい

そこには電機関係と水回りとか配管とかいろいろあるからである。
トイレの配管も壊れて小便が外にもれだして直してもらった
水道屋、電気工事する人、瓦屋、畳屋、障子張る人、箪笥でも昔の家は箪笥がはめ込みになっていて桐の箪笥であった。
箪笥職人がいて建具職人がいて他にも専門の職人がいた
家にはいろいろな職人がかかわるのである。

そして地元の大工さんが直接かかわるとき地元に地域に共に生きるという共同するという感覚になる。
茅葺屋根の家を農家でつくるとき村の人総出で働き作るというときそれは村全体の人がかかわるとなる。
共同性はこうして共同して働くときに感じる。そこに農村社会の強固な連帯が培われたのである。

ともかく人間は働かないと共同意識が持てない、共に働くことによって共同体が育まれてきたのである。
障子張りでも共にするときそこに共同性が生まれる。その土地で共に生きるのだという共同体意識を持つのである。
だから昔は機械ではなく村人総出で田植えするときそれが祭りにもなったのである。祭りは何かしら共同性があり生まれて育まれてきたものだからである。

つつじ赤く村総出の田植えかな

その協働する共同体もグローバル化して広域化すると失われる。
そもそもに日本の神社が社(やしろ)が無数にあるけど極めて狭い範囲の神だからである。

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

奈良という一地域の木で作った家というとき外材ではないその土地土地でとれたもので作っていたからである。
その家を作った人も地元の大工さんであり村人であったとなる。
現代から共同性が失われるたのグローバル化とか広域社会とかのためである。日本国内なら文化共有することがある。でもグローバル化するとグローバルに協働することが無理なのである。

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2023年05月01日

ドニエプル川を挟んでウクライナとロシアの攻防戦 (地理が変わらないから同じことをカルマを繰り返す)


ドニエプル川を挟んでウクライナとロシアの攻防戦

(地理が変わらないから同じことをカルマを繰り返す)

●ドイツとのドニエプル川の戦いの再現

Dnieper) とは第二次世界大戦中の1943年に行われた戦いのことである。この4か月の戦いの間、ドニエプル川東岸はソビエト赤軍5個方面軍によってドイツ国防軍から取り戻され、さらに西岸にいくつかの橋頭堡を築くために幾筋かの攻撃渡河の先導となった。その後、キエフは別の攻撃(英語版)により解放された。
戦争の中でも損害の大きな戦いの一つであり、犠牲者は双方で1,700,000名から2,700,000名と推測されている
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ウクライナが5月に大攻勢をかけることを宣言している。その衝突する場所がドニエプル川なのである。
テレビで見たら幅が広い。 3キロくらいあるというから日本にはない大きな川なのである。その川をめぐってウクライナとロシアの攻防戦がある。
それはドイツとロシアですでに第二次世界大戦の時激しい戦いがあった場所なのである。今回もと渡河作戦が実践されようとしている。でもそこでかなりの激戦となり犠牲者が出ることが言われる。
それはまた同じドニエプル川を挟んでウクライナとロシアは対立する。それはまさに歴史の繰り返しである。
なぜそうなるのかというとそれもカルマなのである。それは地理としてのカルマ宿命としてある。

ドニエプル川が境界線となり争うことになる。だからriverはライバルのことなのである。川を挟んでライバルとなるのはあらそうのが歴史だったからである。
つまり川というものはそもそも川ができてから何千年とも変わらない。川が埋まってしまってなくなることもないからである。
それが宿命を作り出しカルマとなり同じことが繰り返されるのである。地理的宿命から人間は依然として逃れられない。
確かにミサイルなどは自然の地理的障害を超越して飛んでくる。でも実効支配するにはどうしても陸に上陸して支配しなければならない。そうなると地上戦になり犠牲は大きくなるのである。何か今回のウクライナ戦争はこれまでしてきた戦争と変わらないことがありカルマの繰り返しに見えた

●変わらない地理の宿命

つまり地理そのものは変わらない。山が平地になったり平地が山になったりしない。川が埋まったりもなかなかしない。流れが多少変えても川自体は変わらないのである。
その地理が地勢が変わらないということがやはり今回のように戦争でも変わらないものがあったと見えた。
核戦争にのようになる時代でも依然として川が障害となりライバルとなり対立する。それが変わらないということがつくづく実感したのである。(riverはライバルのこと)
何かこれほど科学技術が発展してもこの戦いが古典的なものにも見える。それはドニエプル川を挟んでの攻防戦が最大の山場になっているということでもある。
それだけドニエプル川というのは自然の境界となり互いに二つの国を分ける働きをしている。そのことは変わらないのである。

だから大陸を見るときは川を知らなければ歴史もわからないのである。そもそも四大文明が川から生まれたというのもそのためである。日本にはそういう大きな川がないから大陸の川のことを理解できないのである。
でもドニエプル川を挟んでウクライナ側ウクライナ側ウクライナが大攻勢をかける。それに対抗するロシアがある。それはまさに川を挟んでの攻防戦なのである。
狭い川幅のところがありそれがとか80mとかの幅でありそんな狭いところでも渡ることは危険であり死んだとかなる。
それだけ川を渡るということは危険なのである。

●地形は変わらない障壁となる

ともかく今回のウクライナとロシアの戦争は近代戦争とも思えない。何か古典的なものであり川をめぐっての戦いの再現だったのである。だから人間は基本的に変わらないということもある。それは地理が地形でも変わらないからその宿命から逃れられないのである。
だから世界でも日本でも地歴を知ることが基本にある。ただ日本の弱点は大きな川や平原や砂漠がないので理解しにくいのである。
とても川の大きさとか平原とかとか砂漠とか森でも平地に延々と続く森を理解できないのである。

人間はどうしても地理的宿命から逃れることはできない。身近なところでわ福島県は浜通りがあるが阿武隈山脈に遮られてどうしても一体感が感じられないのである。
むしろ仙台のほうが海岸沿い太平洋岸沿いで連続しているから地理的には宮城県にも入っているのである。福島市は阿武隈山脈または高原によって遮られて一体感が感じられないのである。

ただ不思議なのは南相馬市の鹿島区から蔵王がみえ見える。それで山形県と通じているというふうにも見るのである。
なぜならあっ吾妻山などは見えないからである。もちろん会津の山などは全く見えない。それで福島県は地理的に一体感は感じられないのである。
大陸になると境界になるのは川であり川の役割が大きいのであ場る。その大きな川がが日本にはないからどうしても大陸を理解できなくなる。
ただ今回のウクライナ戦争で実況放送したので川が依然として大きな戦争の勝敗を決する障害となり戦争の勝敗を決する場となっている。それは人間の歴史が始まって以来変わらないと見たのである。
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2023年04月15日

岸田首相テロ事件の犯人は引きこもりだったのか (引きこもりは社会から孤立化するから危険)

岸田首相テロ事件の犯人は引きこもりだったのか

(引きこもりは社会から孤立化するから危険)

山上の場合は動機がわかりやすかった。カルト宗教に親がはまりそのために自分の未来まで奪われた。
その恨みが統一教会に向い関わった安倍首相は狙われたのである。
そこでカルト宗教の問題が浮き彫りにされたのである。それは社会的効果がかなりあり英雄にされたのである。今回のテロはまだ動機などがよくわからない。だから何かいうことがまだ難しい。
確かなことは24歳でありその年などはかなり危険な年なのである。大学を出て大企業にでも就職して正規のルートに入る人はこういうことを起こさないだろう。
一応大学までは大学で大学生として社会に認められるからいいのである。でも大学を出ると就職しないとなれば社会から外れたものになる。そしてそうなると誰も相手にしない。会社に入っていればそこで仲間がいたり仕事をすることによって社会的常識は目につく。それを逃してしまうのである。

この人も中学頃から学校に馴染めなくなりいじめられたとか報道があった。そこが挫折の始まりになった。
その後は分からないにしても職業にはついてなかったみたいだ。
そうなると孤立感を深める。誰か指導してくれる人もいない。またそういう人は対話を拒否するのである
そして家に引きこもり外の社会と断絶してしまうのである。
そこから突然こうした事件となって現れたのかもしれない。
なぜならひきこもりの人は非常に異常なほど多いのである。
それは田舎でも多い。私はそういう人と会うし何かそういう人が異常なものと感じる。だからそういう人が何かいつか問題を起こすようになると見るのである。
そもそも自分自身がそういう経験をしているからその危険性を感じるのである。

小人閑居して不善を成す

このことである。社会から外れても立派な人はいる。でもそれは実は例外的な優れた人なのである。
それでもアウトサイダーになると狂気になった人が多い。それだけやはり社会から外れるということは狂気的にもなるのである。もちろんカルトなどのように社会自体が集団が狂気になっていることもある。でもそれは社会が認めているから狂気とみなされないのである
現代の問題はいろいろあるにしても引きこもりが100万人もいるとするとそれはもう特殊な人の問題ではない。社会問題なのである。なぜならどうしてもそこから問題が起きて事件にもなるからである。
どうしても正規のルートから外れるとそうなりやすいのである。

それで盛んに引きこもりとかニートとかなどを擁護するひろゆきなどが人気になっている。
私はそういうことに抵抗はない。でも意外と引きこもりで正常保ち有意義に生きることは相当に難易度が高い。
なぜなら人間は社会的動物であり社会の中で仲間の中で生きるからである。でも現代社会はそれに適合できない人。学校に適合できない人。そういう人を必ず相当数出している。
それがしやすいのはやはり親の援助があり一応働かなくても生活できるということである。

それから家業というものもなくなり社会に適応することは会社に入ることである。そこで仲間とうまくやっていけない人も出てくる。家業だと親が無理してできないことをやらせないということもできた。でも会社だとクビになってしまうだろう。
だからこういう事件は現代でわ起こりやすくなっている。
その予備軍が膨大だからである。その中にはこうして過激なテロに走る人も出てくる。ただ集団ではなく個人的になっている。
テロをするにしても孤立化しているのが現代である。そもそも社会から孤立化しているからそうなったとも言える。それが今のテロの特徴だとみる。


何か政治的意図があったのか、まだわからない、でも若い人の不満も大きくなっている。日本が貧困化して全般的に不満が大きくなっている。それが原因なのか、ただ個人的なものだったのか、なにか山上と違い社会的に共感を呼ぶものを感じない
ただまだ動機などはわからないからなんといえないとなる
posted by 天華 at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年04月10日

少子高齢化で仕事がなくなりサービスが受けられなくなる (後継者もいなくなり国も維持できない)

 少子高齢化で仕事がなくなりサービスが受けられなくなる

(後継者もいなくなり国も維持できない)

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近くの人は85歳だけど20代で土地を買い立派な石作りの庭を作った。その石が大きいのである。20代でこんなことできた時代だった。なぜならいくらでも稼げた、運行制限も速度制限もなかったからである。それで人の倍も荷物を運んだ。歩合制であり運べば運ぶほど金になった。ということは月百万もうけることが可能だったいうことは大げさでもないとなる。
高度成長時代とはそういう時代だったのである。

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週刊現代4−15日号


私は旅をしても泊まるだけであり人の接待など帰って煩わしいと思っていた。だから中居とかそういうものは帰ってなくなっても困らない。うまい料理を楽しみたいということもなかった。
ただ旅をしたいというだけだったからそれで困ることもないし返って気楽でいいと思う
そもそも日本人はもてなしおもてなしといってもサービス過剰にもなっていた。そういうことで人件費もかかっていたし人でも人でもかかっていたのである。
だからホテルや旅館はただ泊まるだけであり食事は外出して簡単に済ます。そういうことが書いて返って旅しやすくなる。
それで少子高齢化でも手厚い人のサービスがなくても金が節約できて旅ができればいいという人はいる。若い人などはそうだろう。そのように社会が変っても別に人のサービスは受けられないにしろ旅はありうる。むしろそれで安く旅できればいいとなる。そういうことでわあらゆることが人手不足だからといって悪くなるとは限らないのである



最近リホームしたがその人は大工で一人親方である。腕はいい、それでリホームもできた、ただ水道では水回りでは苦労した
専門家を頼んで何とかできた、これからこういう大工さんリホームできる人はいなくなるかもしれない、技術の伝承ができなくなる。大工でも大きなハウス会社は本来の大工の技術が身につかない、ただプラモデルのように組み立てるだけだからである。
リホームは難易度が相当に高いと見たからである。

少子高齢化とは若い人が激減するとなるから後継者がいなくなることでもある。近くの自転車屋も死んで街には一軒の自転車屋もなくなった。ここでも後継者がいない、他でもそういうことが起きている。日本全国で人手不足になる。
介護分野でもこの辺で介護士が足りないとかなり青森の施設に一時送られたのである、原発事故などで一時若人が流出したからである。

そして外国人でも円安で入って来なくなるしベトナム人でも自国が成長しているから来なくなる。すると専業農家などで雇っていたから困るとなる。日本人を雇うと高くなり野菜でもさらに高くなる。

土木建築関係でもまともに家でもビルでも道路でも橋でも作れなくなる。少子高齢化で子供も少なくなり若者も少ないからそうなる。そうなると消防でも警察でも維持できなくなる。治安も維持できなくなる
増えるのは空家と老人と病人だけだとなる。あらゆる場所で教育でも先生の成り手がいないとか建物があっても維持できなくなる
飯館村では確かに大金をつぎ込んで立派な建物を学校でも施設でも建てても肝心のそこで学ぶ子供が集まらないのである。

「地域があるから人があるの?」「県があるから地域があるの?」「国があるから県があるの?」違う。逆でしょうって。人がいるから地域が生まれ、地域の仕事がたくさんあるから村になり町になり、そして県や国が成り立っているということなんじゃないの。過疎地だって、結局潰れないのは人がいてふるさとを支えているからでしょう?」27    
飯館村村長の菅野典夫氏が村長をやめる
(立派な箱ものだけでは飯館村も復興はできない)

こういう人がいたようにここは原発事故で人がいなくなったが日本全体でも少子高齢化で人が特に子供でも若い人がいなくなり後継者もあらゆるところでいなくなるのである。そしたら日本人がいなくなる、市町村だけではない国も維持できなくなる。
いろいろ言ってもいくらAI時代でもすべてはできない、人がいなくなれば空洞化して維持できなくなる、人がいなくなると野生の動物でも植物でも繁茂する、空地でもタンポポでたちまち埋めつくされたからである。
田畑でも放置すると元の原生林になる、それは縄文時代に回帰するのかともなる。狩猟時代に回帰するのかとなる







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2023年03月05日

南相馬市原町区の大原の強盗事件 (なぜ狙われたのかー人が希薄な所が狙われる)


南相馬市原町区の大原の強盗事件

(なぜ狙われたのかー人が希薄な所が狙われる)

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敷地内にプレハブの宿舎をつくっていた、前にも作っていた、するとかなりの人が利用したとなる
今は利用している人は相当に減った

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長い塀があり寺みたいだ、敷地が広い、家の裏にもプレハブの宿舎がある、これを見れば金持ちの家と見て侵入したこともわかる

パトカーが止まっていた

確かに家の前にプレハブの宿舎がある、この辺では原発事故で外部から人が入り一時は利用する人が多かった
今はかなり少なくなった、これでもうけたということはある。

今回の事件で謎なのはなぜ南相馬市の市街から離れた大原で起きたのか。
またなぜ東京から専門学生の人が20歳くらいで強盗までしたのか
そのことが理解しにくい。その家は金を持ってるということをどうして知ったのか。
確かにその家の前に原発事故以後増えたプレハブの宿舎が建っていた。そこを経営していたとなると金がはいったのかもしれない。

ということは原発事故以後それで収入があり資産家になったのだろうか?大原あたりでそんなに金が入るということはない。知っている人は農業をしていたが死んでやめた。
そこは空き家になっている。息子はいたが市街に移り働いている
だから後を継ぐことはなかった。そして一人で住んでいたのである。私は南相馬市の市立病院に入院していたときその人と同じ部屋だったのである。

ただ大原地区は放射線の被害が結構大きかった。だから補償金もかなり高かった。。
そんなことで星さん家で金が入ったのだろうか?
この辺でわ原発事故で補償金でかなり金が入った人がいた
プレハブの宿舎を作ったということはまた土地を貸したということはそれでかなりの収入が入ったかも知れない
でも謎はなぜ東京あたりからレンタカーを借りてここまで来たのか何かここに来る理由があったのかそれが分かりにくい
もしかしたら原発事故で何か関わりがあったのかそれもわかりにくい。でも一時外部からいろんな人が入ってきたからそれもあり得る。いわき市でも資産家の高齢女性が強盗に狙われて殺された。それもなぜなのかやはり資産家で高齢ということが狙われやすい

原因として今の若者は貧困である
そのためにこうして金も持っている高齢者が狙われやすいということはある。日本全体が貧困化してくるとき凶悪な犯罪も増えてくる。
そして狙われやすいのは何かあって急に金が入ってきた人である
この辺だと原発の補償金で成金になった人がいる
いわき市の高齢女性はゴルフ場になった土地成金だった

それは私自身も経験している。たいした金ではなくても遺産が入った。遺産成り金のようになった。そのために犯罪にあったのである。それは内部の人でありまた内部からもあった。
つまり犯罪というのはその狙われる人も何か問題がある。ただの偶然なのか。そうでもない場合があるのだ。
つまりそうした土地成金とか遺産が入ってくるとかそういうのは何か問題がある。なぜなら別に苦労したわけでもないのに金が入ってくるからである。それで他者からも妬まれるのであるそこに成金の危険が生まれている。
そしてそうした金は何か身につかないのである。金の重みがないのである。だから失いやすいのである。それが苦労して得た金ならばそうはならないのである。

とにかく身近に起きたから話題になり怖くなる。
私自身の家でも外部からの侵入者が現実にあったからである
でも金は置いていなかった。でもその泥棒が入ってきたことはわかっていたのである。でも私は顔を合わせないようにしたのである。それが良かったのである顔を合わせたら危険だったからである。いろいろ防犯のことを言うがこれは防ぎようがないとも見る
どこかに穴がありそこから入ってくる。
防犯には周りの目が必要である。田舎だと町から離れていると人の目がなくなるからかえって狙われやすい。

防犯とは地区ごとに村全体とかでも街でも周りの人が見ていると強盗でも入りにくい。でも今隣近所でも疎遠であり難しい。都会だと帰ってまた人が多くてその人に紛れて泥棒も入りやすい。ただ入りやすい家というのはある。
そして日本全体が貧困化してゆくと本当に犯罪が増えてくる
そのことが貧困化の怖さなのである

余談ではあるが星という姓は気になる。なぜなら近くの自転車屋の人も死んだが星だったからである

下総国相馬郡星村がルーツの族もいる

星村があったのは意外だった。保守性は結構多い星は結構多い。系統も色々ある。ここの星姓ははやはり千葉県の方だろう。相馬藩の旗印が北斗七星だからである。大原はもともと相馬氏が後から進出して住んだ場所である
隣の深野という地名が二つありこれは中世の地名であり古いのである。でも大原は新しい場所にもなる
資産家というとき農業で資産家になる人はこの辺ではまれである。ただ津波や原発事故で補償金で成金になった人はいた
除染で億の金を山分けしたぬ双相リテックなどがそうである。


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2023年03月03日

大川隆法死亡の謎ー2000億の財産争いに (権力を持つ宗教は教祖が死ぬと権力争いになる)


大川隆法死亡の謎ー2000億の財産争いに

(権力を持つ宗教は教祖が死ぬと権力争いになる)


私の知る限りでは、直ぐに死んだ人は一人もいません。
心筋梗塞は脳梗塞と違い、一瞬で意識を失う場合が多いです。
死亡率も高いですが、助かれば脳梗塞のような大きな後遺症に
苦しむ事はありません。

私も脳梗塞を起こしましたが、その部位により後の障害や死亡も変わるようです。
検索したところ、脳梗塞での死亡は10万人当たり57.1人とあります。



脳梗塞で死んだと明らかにされた、でも脳梗塞で死ぬ確立は相当に低い、体が麻痺しても長く生きている、それで妻で十年も介護したという人を二人くらい身近で知っている
だからもし生きていたら体も脳も麻痺して生き続けなければならいなとしたらそういう姿を見ているとしたら地獄になる、池田大作は生きているのか死んでいるのかわからない
とても表に出せないということで出さないともされる。
死んでも武田信玄のように秘密にして教団の維持を計っているとかなる

大川隆法氏が死んで問題になるのは何かとなるとどうも子供が五人いて後妻になった女性には子供がいない、そして跡目争いが前からありそのことを語っていた
この跡目争いというとき教祖の教えを受けづくとか発展させるとかではない、権力がありその巨額の金でも遺産争いになることである。
つまり宗教は権力を持つと必ずその権力に目をつける、もともと権力を求めていることがあり権力を得るためのものが多いから当然そうなる。
だから宗教というのは権力を持つと危険になる、なぜならみんなその教祖の教えより金になるとか権力を得られるとかで入る人が多いからである
大多数は宗教の教えなど関心がない、会員が増えてそこで一定の勢力を権力を持つ、するとそこに入って利益を権力を得ようとする人達が入ってくるのである

幸福の科学の場合はもともと子供たちで跡目争いがあり権力争いがすでにあったようである、だからその死が不自然だとしている、ただ突然死はあるからわからない
でも66歳では早いともなる、もともと病気があってそうなったらわかるがそれが不明なので理解しにくいとはなる
ただ巨額の遺産があり必ず権力争いになる、だから宗教というのは権力自体を持つとこうして歪められる、でもそもそもが政治にかかわり権力を持つことを目的にもしている
現実社会で権力を持つことを目的にしている、そして教祖が死んでまた権力争いになるのは必然だとなる

創価などももう権力しか御利益しか眼中にない人達が集まっている、そのために日々祈り選挙に勝ち権力を得ることが日々の活動である、だからここでもすでに池田大作は死んだのかわからないが何らか権力争いがあり分裂するかもしれない、そして全国にある会館なども会員が減っているから維持できなくなる、だからそうした巨大宗教団体が崩壊するとき権力争いになる、遺産相続で血で血を争うことにもなる、幸福の科学ではそうなっていたしそのために生きている宗祖の大川隆法が殺されたのかとまで疑う人がいるのもわかる

大川隆法でも池田大作でも世俗で宗教を教え大成功した人なのである。そして偶像化されたのである。何百万人の会員に崇められて莫大な金を集めた、大川隆法氏の家が宮殿のようになっていたことに驚いた。池田大作だと庶民を相手だから普通の家にそれもかえって貧しさを感じる家に住んでいるとか言われた、それは庶民向けにそういう演出をしたということである
貧しい会員が多いければ豪邸に住んで贅沢の限りを尽くしているとか言えないからである

そもも宗教が権力を持った時から堕落して世俗化したのである
それはカトリックが政治化して権力を持ったことから始まっていた、カトリックとは土地を持っていたり権力を持っていて庶民を支配していたのである
それで免罪符などを売りつけてもうけていた。それに反発したのがルターでありプロテスタントになったのである。

宗教が権力を持つことは危険である、その動機が不純なものになる、宮殿のようにな豪邸に住んでいれば誰でも信仰すればそうなれるという見本を示すからである
それは本来の宗教の教えとは正反対のものでも世俗的には欲を充たせることを説くことで人が集まる、つまりカルト教団の人達は欲を実現するものとして入ってくる
その中に貧困とか様々な悩みや問題をかかえて解決したくて入る者もいる

そういう人達を集めて会員を増やす、だから創価と共産党は本当に似ている、いろいろ苦しみ困っている、貧困な家庭も多い、他にもいろいろ悩みがあり解決したくて入る
そして共通しているのは社会に対して根強い恨みを持っていることである
自分が不遇なのは苦しいのは社会のせいであり今の上に立つ人達のせいだとしている
そういう点で共通しているのである。
社会に対して深い恨みを持っているのである。でも全部が社会のせいなのか政治のせいなかなのかというとそうでもないのである

生まれつき障害者を持ったのは社会のせいなのかまた政治のせいなのかというとそうでもない、美人に生まれなかったなど恨んでもそれは社会のせいではないのである
それは親を恨めともなる、ただ根強い憎しみを持っている人達だとなる
そういう人達を組織化して政治化して権力を持ちその権力を持った時不満が解消できるとなる、つまり権力も持ったらその権力で得られたものを配分することになる
その分け前は主に幹部が得るのでありその他に富は必ずしも回ってくるとはならないのである

そもそもカルト宗教はこの世で権力を持ち栄誉栄華の生活を送りたいという人達が集まるいろいろいてもその目的はこの世で権力を得て欲望を実現することである
それは幸福の科学でもオウムでも同じだった、創価は最もこの世で権力を持ち支配者になるところだった、そこで権力しか関心がない、その権力を得るとういことは選挙で勝つことでありいかに票を集めるかが日々の活動なのである
そのことが池田大作教祖のためにそうするのである、座談会では選挙の時こうして集まり祈り権力奪取のために日々奔走しているだけである

人間はみんな血眼になって日々金を稼ぎ金を得る為に生活している、だからカルト宗教も血眼になって権力を得る為に金を得るために祈り運動しているのである
だからオウムでもオウム王国を実現すると堂々と主張していたし幸福の科学でもそうである、幸福の科学の王国を目指しているのである。
それは神の国でも仏の国でもない、ただひたすらこの世で欲望を実現するものとしてあるこの世の王となりこの世を支配することなのである。そしてその王が教祖になる

それは偶像なのである、サタンにもなる、でもそのサタンを作りだすのは人間の欲がなくならないからこそこうしてその欲を実現させるとして偶像がサタンが支配することになる幼児のようにみどり子のようであればもともと欲がないのだから欲望を実現するなどと説かないのである、そもそも欲がないのだから説く必要もないのである
だからこそみどり子に治めさせよと言ったのである
でも現実は権力を求めて権力を得ることに世俗社会がありそれを否定はできない、もし欲を抑制して否定しろとなるとついてくる人は極ずかになる、そして世俗の誰にでも欲を肯定してもっと欲望をもてとなっているのがカルト教団なのだからそれがこの世にまかり通っていること自体信じられないとなる

もしあばら家とか粗末な家に貧しくして住んでいたら誰もそんなふうになりたくないとなる、でもキリストは家もなく枕する所なしだったのである。シャカでも王宮に住んでいても出家して洞窟で家もなく修行して悟りを開いたのである
もし宗祖がただ残したのがあばら家とかだったらそこに権力争いなど起きようがないのである、そこに会員でもわずかだったりしたら権力争いは起きない
莫大な富があり権力を持つとその富と権力を目当てに争いが起きる
遺産相続争いが起きる、それがすでに大川隆法の死で家族でも起きているし教団でも起きている、そこに人間の醜さが露骨に現れるのである
だから本来の宗教はせいぜいあばら家でも残すだけとなれば誰も振り返らない、遺産を残さないとしたら血で血を争う兄弟姉妹い争いも起きないのである
だから宗祖でありそうして死んでから会員の争そいの種を残すことが罪なこととなもなるそのために欲が刺激されて争いになるからである

いづれにしろカルト教団が崩壊してゆく、それは幸福の科学だけではない、創価でももう会員が増えないから全国にある会館でも維持できなくなる
金が入ってこないから財政的に維持できなくなる、そもそもそんな会館などなくても良かったのである、そんな所に金をつぎ込む必要もなかった、宗教とはそもそも金をかけるものではない、金を集めれば金だけが目的となる、そして莫大な金が集まりその金を残して遺産争いになり組織自体が分裂してゆく、醜い遺産争いが兄弟で起きるのと同じであるもともと世俗の権力を求めた宗教なのだからそれも当然の結果だとなる
ただ宗教も利益だというときその宗教でも利益になれば利用するものがある
創価の会館を請け負ったのが大成建設とか言われる、富士山の正本堂を建てたのは大成建設だった、大成建設とは密接な関係がある、それが巨大な利権となっているから結びついているとされる、本来の宗教とは関係なく利権があり結びついているとなる
なぜならあばら家に住むだけだとしたらそこに何の利権も生れないからである
宗教が巨大な利権を産むとういことで問題なのである

ただ大川隆法が急激に死んだということは何なのか脳梗塞にしても普通急激に死んだりするのはまれである。そして必ず脳梗塞には前兆が出てくる知ってる人でもそうだった大川隆法だったら家族でもみんなが注目しているのだから何か分かったに違いない
そもそも大川隆法自身がそのことに気づかないということが盲点だった
なぜなら常に会員の心配をし会員のために生きているそういう人が自分自身を顧みないそのために病気に気づかなかったとなる知っている人も他人の心配をしていたが自分自身が病気になって脳梗塞になってかえって迷惑をかけたのであるだから自分自身のことをないがしろにするのも問題なのである

でも大川隆法の死は何か不自然であり不可解である
脳梗塞となればそんなに急激に死ぬとも思えないからである
結局いろいろ預言の言葉を言ったが自分自身についての死については本人も予言できなかったということであるただ突然の死に驚いたのである
人間はつくづく自分の死がいつ来るのかわからない近くの自転車屋にしても3日前まで普通に仕事していたのであるいつまで続くのかということをいっていた
それはすでに10年間くらいガンであり仕事を続けてきたのであるだからいつか死ぬということは予想されていたでもそれは突然だったのである大川隆法については何か前兆があったのかどうかわからないそれで殺されたとかいうことまで言われたのである
ともかく何かこの年になると死ぬ人が増えてくるあっあの人も死んだのかこの人も死んだのかとなってしまうそれより自分自身の死もそんなに遠くないのである



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2023年02月25日

世界を見る基本は地理(地政学)―覇権争いが世界史の現実 (ウクライナの戦争をどうみるかも同じ)


世界を見る基本は地理(地政学)―覇権争いが世界史の現実

(ウクライナの戦争をどうみるかも同じ)

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世界の地政学から世界史を見るとウクライナの戦争をどう見るのかとなる
それは遠大なものになるから簡単にはできない、でも確かに現代はアジアではない、西側がヨ−ロッパが中心になって作られた世界である
世界の西欧文明化であった、大航海時代からそれは始まったのだからその期間は長い
ヨ−ロッパの延長としてアメリカがあった、大英帝国が七つの海を支配して次にアメリカが覇権国となりドルが支配することになった
それから米ソ対立の冷戦があり冷戦ではアメリカが勝利したとなる
しかし次に覇権国としてのしあがってきたのが中国である、それで米中対立の時代になった、今や中国がロシアの兄貴分になった、実際ウクライナの鍵は中国が握っているからだともなる、それだけ中国の力が強くなったのである

アメリカ自体が中国と同じく国土が広く巨大な国である、アメリカとヨ−ロッパとは大西洋をはさんで離れているようで一体でも、つまりアメリカ側からみれば確かに大西洋で離れているようでもヨ−ロッパは大平洋で離れているより身近なのである
つまりアメリカから見ればヨ−ロッパはつながり強く結ばれているともなる
歴史的にもそうである、ヨ−ロッパの延長としてアメリカがあったとなるからである
ただロシアはアジアなのかとなるとそうともいえない、アジアでもありヨ−ロッパでもある、なぜなら顔だちでもモンゴル風でありアジア人の容姿の人もいる
ロシアはアジアの混血でありまたヨ−ロッパとの混血民族だとなる
それは民族というだけでなく文化的にもそうなのである
ギリシャ正教会からルーシーとはロシア正教会になった、それはアジア的なものにキリスト教が変質したとなる。
ロシアはまたスラブ民族はイスラム教と一体化しているから宗教的に複雑である

ともかく東西文明の交流が500年周期であるという説、それは余りにスケールが大きいから理解しにくい、ただ現代は西欧文明の挑戦を世界で受けた時代だった
アジアでは西欧文明の挑戦を受けて日本が最初に世界史の舞台に出てきたのである
中国はヨ−ロッパの植民地化されたからである、だから第二次世界大戦で覇権国になろうとしたのである、世界史は正義とか関係ないのである、アメリカが正義の戦争として日本を攻撃して支配したというのは別に正義を実現するわけではなかった
世界の覇権国がアメリカに移る戦争だったのである、その前の覇権国はイギリスだったのである、七つの海を支配したイギリスでありポンドが基軸通貨となっていたのである
だから日本は悪でありその悪をころしめるためにアメリカが戦い勝ったとかいうのはアメリカの勝手な見方であり世界史は覇権争いでありその延長としての戦いだったとなる
そこに正義など関係していないのである
むしろヨ−ロッパはアジアを蹂躙した侵略者だから悪だともなる
要するに正義で争っているのではなく覇権争い覇道の争いが世界史なのである

ウクライナ戦争でもヨ−ロッパがありアメリカがありロシアがあり中国がありその狭間で起きたことである。もし中国がロシアについて一体化すればヨ−ロッパとアメリカとロシアと中国の二つの陣営に分かれて大三次世界大戦ともなる危険がある
その狭間に日本が置かれて日本は苦慮してウクライナのようになりかねないのである
実際に太平洋戦争では日本はソビエト連邦とアメリカによって分割支配されることにもなっていたからである、その時中国は共産主義革命となり力を持たなかったのである
では冷戦の時は共産主義と民主主義の対立でありそのための戦争だったとしているが実際は覇権争いだったのである。民主主義でもそれが世界の普遍的なもはのとはなりえない
今民主主義自体が危機に瀕しているのはそのためである。民主主義は大衆民主主義になりポピュリズムになりナチスとなった歴史をみればわかる
全体主義と一番近いのが民主主義でもあった、また共産主義とは全体主義であり独裁でもあった。だからどっちにしろその政治体制で世界は決まらない、覇権争いでありそれがウクライナの戦争となったのも歴史は繰り返すとなる

いづれにしろ地政学というとき世界を見るのには欠かせない、でも世界は巨大だから地政学で見るとしてもその視界が狭いから簡単にできないのである
一番簡単なのは聖徳太子が聖徳太子「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す…」である

この解釈はいろいろあっても地理的な単純な事実を言ったともなる
なぜなら太陽が昇り沈むということは一番心に残ることだからである
日本でも太平洋から太陽が昇る、山に沈む、でも日本海になると山から太陽が昇り海に沈む、それは大平洋とは全く逆なのである、だから太陽がどこから昇り沈むとういことは地理で一番印象に残るのである、韓国に行くと海から太陽が昇るその方向が日本になる
日本から見れば日本海に太陽が沈むのである、アメリカでも西海岸に太陽が沈むのであるだからこれは別に中国の隋の皇帝を侮辱するものでもなかった、ただ地理をそのまま指摘したに過ぎないのである
太陽が昇るというとき近江では琵琶湖に西が高島とかでありそこから東があづまであり
そこから太陽が昇るのを見た時もなるほどと思った。西は陽の沈む所であり琵琶湖の湖西線があり比良の山に太陽が沈むのである、ただその光景は見ていない、それで旅した時はどこから太陽が昇り沈むのか見ると地理としてわかりやすいのである

世界史はいろいろあっても空間軸と時間軸で見る、でもそれがスケールが大きいから理解しにくくなる、でもまず世界を見る時地政学で見る、地理から見るのが基本にある
なぜなら時間軸でみるときさらにわかりにくくなる、でも地理は地球が形成されて以来
基本的に変わっていないのである、海が陸地になったり陸地が海になったりしないのである、人間の歴史感覚でみればそうなる。とすると変わらない地理から見れば基本的なものは理解するとなるからである
ウクライナでも地理からみればヨ−ロッパとアメリカとロシアと背後の中国のせめぎ合いなのか覇権争いなのかともみる、それが今度は日本に波及してくる怖さなのである
米中の狭間で日本がウクライナのようになりかねないのである
ただ日本が明治の時に東西の橋渡し役だと指摘されたように本来はどっちにも組みしないのがいいのである。でも現実的にはどちらかにつかざるをえない、そこで日本もウクライナのように引き裂かれる危険がある。またそういう地理にある
だから地政学を知ることが基本になる、日本は一方に偏ると危険になる
でも中立を保てないとしたらどうするのかとなる、それでインドとかオーストラリアとか第三の勢力を構築するということにもなる、それは三国志と同じだとなる



posted by 天華 at 17:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年02月24日

トルコ大地震と原発事故の相似 (安全はコストがかかるので無視されやすい)


トルコ大地震と原発事故の相似

(安全はコストがかかるので無視されやすい)

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市営住宅は中でも被害がなかった
60年も過ぎれば木の住宅はぼろぼろになり壊されている

1999年のイズミット地震(別名「トルコ北西部地震」「トルコ・コジャエリ地震」等[注釈 1])は、1999年8月17日3時02分(EET、現地時間)に、トルコ北西部で発生したマグニチュード7.6の地震である。37秒もの間ゆれ続け[2]、1万7000人あまりが死亡し[3]、およそ60万人が家を喪うなど震源のコジャエリ県イズミット市を中心に甚大な損害をもたらした。



トルコはもともと地震が多い地帯である、だから地震対策が必要だった。
1999年にも地震で大被害があった、だから当然地震対策が必要だった
でも今回エルドワン大統領が責められたのはビルの建築に地震対策をさせなかった
それはコストを削減して業者をもうけされる、そして利権を与えて票を得るという構図があった、また建築でも技術的に進んでいないということもあったのかもしれない
日本だったらこれだけ地震があれば耐震設計でないと許可されないからである
ただ常に安全というのはコストがかかるので二の次になる
そういうことはグロ−バル社会でも同じだったのである

自然災害はどこでもありその安全対策が望まれる、トルコでも地震頻発地帯なのだから当然だったとなる、でも必ず安全対策はコストの面でおさえられる、民間の事業はどうしても利益優先になりコストが問題にされるからである
それは原発事故でも同じだったのである、当時の社長はコストカッターとして手腕を発揮して社長になったと言われる、それで安全はないがしろにした
もともと高い所に作っていたのに電源を地下に作ったからわざわざ高くしたものを低くするために削った、それで津波に襲われて電源喪失したとなる

コストがかかることは民間の会社だと無駄とみる、利益優先でありコストをかけたくないのである、でも一旦事故になるとその被害も甚大になるのである
今回もその恐ろしさを見せつけられたのである、安全というとき何か近くのキクチスーパーのカードをなくした、一万入れていたチャージしていたでもなくなくなったので丸損になった、すると一年でどれくらいもらえていたのか計算すると割りに合わない
二三か月に一回くらい3百円もらったとしてもカードを落とした結果一万損失だから割に合わないとしてやめた、他のクレジットカードなどは無くしたらとめて再発行できるからそんな損失にはならないのである、だからこれも安全が意外とかえって得になることを知ったのである、またナナコとかのカードをなくして5万入れていて損したという話も聞いた、このようにカードがそもそも小さいのでなくしやすいのである
その安全対策がキクチスーパーにはなかったのである

だから安全には金がかかるとしても事故になった場合かえって大損になる
でも民間の会社で安全に金をかけると利益にならない、安全は利益にならない、だから目先の利益を優先するのである、いつ地震が来るのか津波が来るのかなどわからないからである、でもトルコは1999年にも大地震が起きているのだから危機感があってもいいはずだったが建物でもそのままにしていたのはこれまたコストの問題があったのだろう
古い建物でも壊して新しいものにできないいう事情もあったのだろう
これもコストの問題だったのである、安全とコストは必ず関係しているのである
だから安全を民間会社だけで担うのは負担が大きい、そこで政府が介入する役割がある
でも福島原発では政府の保安院は不安員と揶揄されたように何の役割も果たしていなかった、ただ東電から金をもらうというだけだったのである、監視などしていなかったのである

そして東電には官僚も天下りしていた、それが海上自衛隊とか警察関係も多いのである
ここは大きな権力であり原発は国家的事業でありこれに逆らえば警察もかかわってくるというものだったのである、そこで甘い汁を吸っていたのがこうした上級官僚だったとなるだから事故の責任を負って天下りした役人はその金を返却すべきだとなるがそんなことを責任を問う人もいない、ただ最近裁判に勝訴したので地元では補償金がまたもらえるとはなった、ただ地元にしても安全のことなど真剣に検討しない、原発は金の生る木だったのである、国家的事業であり莫大な金が惜しみなくつぎ込まれていたのである
除染にしても6兆円とか途方もない金が使われたのには驚いた、そのために相双リテックとかは幹部で何億の金を山分けしたとかなる、だからその責任は国家だけにあるとはならない、地元にしても金になるから誘致した事情があるからである
安全はないがしろにされまず金だとなっていたからである

常に人間には危険がある、自然災害がある、知床の観光船でもやはり安全がないがしろにされていた、それもコストの問題があり安全は二の次になり事故になったのである
それと地元の人が経営していたのでないからその土地の自然のことがわからなかったのである、潮流とか風が関係していたからである
それも問題であった、風土というのは自然というのは必ず関係してくる
ソーラーパネルでも相馬市の宇多川の上流の丸森などの山まで山ごと木を切ってはげ山にしてソーラーパネルにした、それも危険だと見た、なぜなら雨がふったら木がないから貯水ができなくなり川に急激に水が流れて氾濫もする
数年前に宇多川で相馬市街まで氾濫した、だからソーラーパネルも危険なのである

ただ常に安全はないがしろにされる、それは利益優先になりコストがかかるからそうなるでも一旦事故になると莫大な被害がでる、もし今回のトルコ地震でも耐震設計だったらあんな被害は出なかったかもしれない、それが致命的だったともなる
不思議なのはこの辺の古い1950年代のものなのか、コンクリートの二階建ての市営住宅は古いのに被害がなかった、外から壁を見てもひび割れもしていない
それは去年の大地震でも被害が見えないのである
未だにまだ去年の地震で家を直していない所がある、でもなぜそんなに古い建物なのに被害がなっかたのか、コンクリートは地震に強いからだとなる
でもビルは崩壊したのである、やはり大きくなればその被害も大きくなるのである

いづれにしろ自然災害との戦いが人間の歴史でもあった、だからそれはかなり解決したようでもしなかった、津波だとそうした予想を超えるものとして現実化したからである
トルコの地震は予想外とはならない、そういう地震がすでに20年前に経験しているからである、ただその安全対策ができていなかったということである
だからこそエルドワン大統領が建築業者の安全対策を厳しく指導していなかったとして責められているのである、つまりそれは政府も国家にも責任があったとされるのである
こういう事例が社会には多いのである
posted by 天華 at 10:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年02月22日

星淳一氏(死亡した星自転車屋の写真がシシドスーパーに出ていた)


星淳一氏(死亡した星自転車屋の写真がシシドスーパーに出ていた)


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この写真がシシドスーパーの入り口に貼ってあった
おそらく商工会で出したのだろう
でもあまり注目して視ている人もいないようだった
自転車に乗らない人はかかわらないからそうなる
でもかかわった人は星自転車屋の人が死んだのかとなる

それがなぜそうなったのかというと鹿島区には一軒しかなくなったのと私の場合ヤマハの電動自転車を買っていたから世話になったということで関心があった
無人駅化したとき駅のことでも語りあったりした
何か駅前だから駅のことが一番知っていて気にかけていたのである
駅の活性化とかを語ったのである

今になると一軒しか自転車屋がないから貴重だったのである
原町とか相馬市とかなると何軒か自転車屋があるから他の自転車に行けばいいとなる
でも原町のイオン内に自転車を売っていても張り紙で十項目くらいは直せる
だからそれくらいだったら直せる、でもむずかしいものになると直せない
一回は心臓部分のドライブユニットが故障したので新しいのに取り替えたのである
そういうことはできない、それはヤマハ本店とつながらないとできないのである
またチェーンはずれたとき特殊なものだから特殊な道具が必要になった
それでその道具をとりよせてはずれたチェーンを直すことができたのである
それは特殊な高い自転車だったからそうなったのである

それで通販で外国製でもいろいろいいのがあっても修理などできないから買いにくいのである
電動自転車でなければそれほど困らないと思う、電動自転車はめんどうなのである
イオンに行くにしても自転車屋を持ってこいと言われたからそこまで歩いて持ってゆくのも苦労になる
ともかく自分にとって自転車は欠かせないからこまるのである。

それにしても人間は死ぬと不思議である、それは60年間一緒に暮した家族でも死んでしまってそう思った、何かいつまでも死んでもその死に納得がいかない、完全にこの世から消えることがいつまでたってもそれを受けいれられないとういことがある
それもまだ死んだばかりなのだから余計にそうなる、先日あそこにいたのにいないとうことが不思議なのである
今でも駅を見て仕事をしている感覚になる、鹿島町の行く末を見ているのかともなる
それは小さな街であり一軒しかないということでそうなったのである
つまり都会だったらこうはならなかった、他にも自転車屋はあるから他に行けばいいとなるからである

ここでは他にないから余計に価値あるものとなったのである
だから価値というのは様々な条件で変わってくるのである
田舎には田舎の価値があり田舎に価値を作ることができる
だから田舎に移住したいということが話題になるのが何も持っていない何もできない人は来ても歓迎されないいうことがある
無医村だったら医者は大歓迎になる、他でも大工などでもいないから修理することがあるから必要になる、何もできない人は田舎だって歓迎されない
でも若い人は歓迎される、何もできなくても田舎に来て学び身につければいいとなるからである、そこに時間があるからできるのである

鹿島にそ生きにし人や今はなき淋しきものや春となりしも

posted by 天華 at 18:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層