2025年04月22日

グローバル経済は精神の自立も奪うから問題−アメリカのラストベルトの問題 【昔の山村は自給自足であり都会に頼らないから自立する誇りを持っていた】

グローバル経済は精神の自立も奪うから問題−アメリカのラストベルトの問題
【昔の山村は自給自足であり都会に頼らないから自立する誇りを持っていた】

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富めりとも翁の身には知らざらん木の間のけむり絶えずのぼりて 大和田建樹

能登地震で限界集落に金をつぎ込んでも無駄の問題 
【自給自足の生活の時代は都会の人や税金に頼っていなかった】

都会の人が富んでいようが自分には関係ない、炭焼きで自立して暮らしている、これは炭焼きして自活していた時代であった。戦後十年も炭の生活だった。だからこそ田舎では自給自足で自立していたからこういう自負があった。
国に頼っていない、都会にも頼っていないから都会の人に税金の無駄使いなどともいわれなかったのである。今からすると貧しいのにそういう自負があったということを見直すことになる。おれ達は東京のお荷物ではない、国のお荷物ではない、自分達のことは自分達でまかなっているとうい自負があった。



グローバル化とこのことは何が関係があるのか?なぜトランプ大統領はアメリカファーストというときこの問題と似ている。
グローバル化でアメリカは得していると思ったらアメリカは損している世界に対して関税を高くするようにしたのである。
グローバル経済とは個々の国でも自立するのではなく、世界に依存するということがある。
まず、石油時代になれば日本には石油がないのだから外国から石油を輸入しなければならないのだからエネルギーの面で自立できないのである。すると、絶えず中東のことが問題になる。そこで何か問題が起きると石油が入らなくなると不安になるのである。

そしてあらゆることが石油が関わってくると石油が入ってこないということは国が維持できなくなるともなる。
その点ではアメリカ何でも自立できる供給できるから外国から輸入しなくてもやっていけるとなるからアメリカフアーストになる。ただ車にしても世界にサプライチェーンがあり車でももはやアメリカだけでは作れないシステムになっている
だからアメリカの関税をあげることは自分の国に跳ね返てくるとされる

ただグローバル経済の問題は昔のグローバル経済の問題は昔の自給自足の経済と何か似ている。
アメリカの製造業のラストベルトでは製造業が世界の競争に負けてその誇りを失ったとしているからである。
つまり、それは炭焼きをして、自立して都会に頼らず暮らしていた山村の問題とも似ている。
自律性が失って誇りも失ったということである。

すると今過疎化している山村は炭焼きの時代に戻ればいいとまでなる。またアメリカなら、そのラストベルトでも世界から車を輸入するのではなく国内だけに消費さればいいとなる。それは技術的に劣ったものでもその方が良いというまでになる。
要するに自立性がなくなってしまうことで問題になっている。
そしてそれは精神的にも影響してしてそれは人間の生きる誇りすらなくなってしまう。だから、グローバル経済というのは返って自律性をなくしてその国の地域の誇りすら奪ってしまう。ただ、グローバル化経済でアメリカがグローバル化経済でアメリカが一番得したのかと思っていたら違っていたのである。アメリカはグローバル経済の一番の被害者だと言っていることが奇妙に思えるのである。
グローバル経済でアメリカ人の誇りまで失われたというのはそのためである。

日本にしても、なぜ農民がコメ等作っても金ににならないとして誰もやりたくないそこに誇りを持てない。
その問題も同じ根から発している。今、米が高くなりすぎてそれならベトナムから米を輸入すればいいとかなる。
一部のレストランとかではそうなっている。また日本人は米が高いからパンであれパスタであれ別なものを食べるほか無いともなってしまう。すると、日本自体の文化も失われ、誇りも失われてしまうかもしれない。米というのは必ずしも腹を満たすだけではない。長年の日本で培われた文化だともなるからである。

でも、技術競争は世界で熾烈に行われておりそれに破れたものは。こうして自立性とか誇りまで奪われてしまうのである。
でも、アメリカがグローバル経済で一番損したということは理解できないことであった。
アメリカが世界からグローバル経済によって富を収奪したと思っていたのである。実際はアメリカの富が奪われたと言っているのも意外だったのである。
なぜ日本で米に高い関税をかけているかといえば外国から米が安く入ってくれば食料まで外国に依存するのだから何かあったとき米が入ってこなくなり日本人は飢え死ににしているとなる。それは、食糧を外国に握られているからである。

外国から日本には輸出しない。そうさせたくなければ従いと外国から言われる。実質、外国によって支配されることになる。
だからグローバル経済というのは、世界的経済戦争であり技術戦争でありそれに負けたものは他国に支配され、奴隷化されるということである。それがアメリカでもそうなっているということが意外だったのである。
やはり人間はそうして他国に従属して奴隷のようにされるより支配されるより自立して生きたいということがある。そこに精神の誇りを持ちたいということがある。それは、昔の山村で炭焼きをして、自立して生きているから都会の人にとやかく言われる必要がないというのとも似ている。
なぜ今の過疎地帯が山村は都会の人からいろいろ言われるのは電気であれ水道であれインフラの整備が東京とかでも都会の人がその税金を出している地方交付税で出している。そういうインフラを整えるのに都会の80倍もかかるとかなるからである。

人間というのは、やはり自尊心があり誇りがありそれが失われることに耐えられない。だからこそ国同士でも自立して存在した。独立して存在したい。そのために戦争でもする。そういうことをグローバル経済では、ただ経済中心になり精神的なものを無視しているから問題になる。グローバル経済は精神の自立も奪う武士は食わねど高楊枝とかの諺があるがこれもたとえ貧乏でも、武士には誇りがあるとなる。つまり人間は誇りを最も大事でありそのためには戦う命をかけても戦う性質がある
ただ食うために生きているのではないからである。食料を得るためにだけに物を得るためにあけ生きるのではないからである

そもそも精神的自立性という時日本はアメリカに負けて失ったのではないか、国が独立自立が失った時また個々人でも自立が失ったとなる。それがグローバル経済でアメリカに起きているというのも意外だったのである。
中国の貿易戦争に負けるときそれはアメリカの誇りを失うから耐えられないとなっている。それは中国でもメンツを重んじるとかで同じなのである。日本はアメリカに負けてそうした精神の自立を失ったのである
やはり自国は自国で守らなければアメリカに頼っていただけでは自立はできないとなる
アメリカは日本のために戦うとか世界をリードする時代は終わったとなる。ただそうなると中国、ロシアとアメリカと接して
日本は相当に苦しい立場になる。でも人間は誇りを失いたくない、それがアメリカに起きていたことが意外なのである




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アメリカのテスラなどでは自動運転がすでに行われて実用化しているという、やがて日本もそうなる
つまり電気自動車は通用しなかったとか言われるのは日本車がまだ世界で通用するという偏向報道だと加治将一氏は言っている
すると日本車も将来売れなくなるのかとなる。そうなったら日本は売るものがなくなりどん底になる
そのことは日本では報道されないからみんなわからないという

それは常に高度成長時代にジャパンアズナンバーワンとしてアメリカを見下していた時と似ている
日本はすごいとか礼賛されだけだったがたちまち今や日本ついて悪いことばかり言われる
だから自国礼賛も危険になる、太平洋戦争でもアメリカなどたいしたことがないという傲慢から戦争になったからである
ただその時情報不足があった。それでも外国のことが正確に報道されず日本礼賛になるとき危険である
アメリカがいいというのではなく人間は奢る時危険になるからである。
だから本当の実情を報道を知るべきだとはなる、結局外国は住んでみないと実感できないから判断が誤るのである

posted by 天華 at 13:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年04月20日

アメリカのトランプのエリートの反知性主義と似ていた共産主義の革命? 【焚書坑儒などがあり知識人への憎悪がアメリカを分断する―ラストベルトの反発】


アメリカのトランプのエリートの反知性主義と似ていた共産主義の革命?
【焚書坑儒などがあり知識人への憎悪がアメリカを分断する―ラストベルトの反発】



アメリカの平等主義は、知性と権力の結合、つまり知的エリートが権力を独占することに反感を抱かせるのである。

 したがって、それが反知性主義となり、平等の名の下にエリートの思想狩りをすることに繋がるわけである。ハーバード、イェール、プリンストン大学などがその典型である。

ハーバードを恫喝するトランプの「リベラル狩り」に大衆はなぜ喝采送るのか…背景に米国の低学歴層が抱く反知性主義

なぜ起きたカンボジアの虐殺ー中国の文化大革命も同じ】
【知識人が憎まれた理由ーAI化でかわる労働

クメール・ルージュ政権は頻繁に、専門家、知識人、仏教僧侶、少数民族だけでなく、カンボジアの旧政権や外国とつながっているという疑いで誰も彼も逮捕して処刑した。型にはまったように、眼鏡をかけたり複数の言語を話したりといった特徴で知識人と見なされれば、クメール・ルージュに反抗するおそれがあるとして処刑された[71]。、ビジネスリーダー、ジャーナリスト、学生、医師、法律家に加えて、それまでのカンボジアの軍、政治指導部の粛清につながった

高い地位、儀礼、富、学識など、そういうものに到達した人々について
わたしが思うには、彼らの到達したものは彼らの体と魂に結果を残すものではない限り
すべて彼らの身につかず、浪間に消える‐ホイットマン

ただ高卒の人で大工さんであり庭師の人はその人も何か人に負けたくないという気持ちが人一倍強いのである。それで大工だけではなく庭師もするようになった。田舎だとやはりいろいろなことを要求されるからそうなったのだろう。だからその人は才能があるのであるただその人は異常なほどに人に負けたくないという気持ちが強いのであ。だから私に対して大学出ているということでそれだけで何か自分が劣っているということを感じでマウントしてくるのである。

そして本に対しても憎しみを持っている整理したりしてこんな本はいらない捨てろとか言っているのである。それは別にそういうことはかつて歴史でも起った。知識人が時の王様を批判したとき憎まれて焚書坑儒があり書物が焼かれたりしたからである。まだ中国で文化大革命が起きたときやはり知識人が農家に地方の農家に働かされるようになったからである。下放ということがなされたからである



アメリカが今トランプ大統領になり何が起きているのか、

アメリカの平等主義は、知性と権力の結合、つまり知的エリートが権力を独占することに反感を抱かせるのである。

 したがって、それが反知性主義となり、平等の名の下にエリートの思想狩りをすることに繋がるわけである。ハーバード、イェール、プリンストン大学などがその典型である。

ラストベルトというときそこは製造業でありITとかコンピューターを駆使したカルフォルニアとかの金融業主体の人達とは違う
何かそうしたものに反発する人達がいる、それは自ら汗をかき物つくりをする人達である
それは工場労働者だけど更にさかのぼれば職人である。最初のアメリカ開拓時代は農民であり職人であり肉体労働者であり
その人たちを賛歌したのがホイットマンだった。体で身に着けて人格を作るとしていたからである。
それは職人気質とかが作られた日本とも似ている。そこに誇りを持っていたのである
またその人達の価値は認められていたのである。

だから不思議なのは製造業のラストベルトというとき錆びついた工業地帯で働く人たちがないがしろにされて誇りすら奪われたとしてその人達を代弁しているからトランプは大学を有名大学でも攻撃している
何かこれが毛沢東時代の知的労働者でも下放されて農村で働かされたと共通している。習近平もその経験をしている
またカンボジアでは眼鏡をかけているとかだけでもまた医者ですら粛清されて殺された
それは始皇帝時代から焚書坑儒があり知識人が殺された。それも恐ろしいことである
つまり今起きていることは時間軸で見れば形は変わってもカルマの再現だとなる

現実の私の家のリーホームした大工さんは本を捨てろとか何か知識人であること自体を憎んでいた
ただ私は別にその人を軽蔑したわけではない、むしろ賞賛していたのである
なぜならその大工さんは庭作りから壁塗りからといろいろできる人でありそれで他の大工さんと違っていたから誉めていたのである。でもその大工さんは知識にうといからわからないからそれで反発した
でも家とか建築のことについて詳しいから感心していたのである

つまり人間には歴史をたどればこういうことがあった。僧侶とかでも反発されてたのは知識人だからである
それが共産主義というときマルクス主義という時知識人が現実に導いたものである
そしたらマルクス主義者自体が知識人であり殺されるとまでなっていた。それもおかしなことである
ともかくアメリカ人はホイットマンの時代に郷愁を持っているのかとなる。ホイットマンのように肉体労働者が賛歌された時代である。それは数字を操作する金融業の人達とは違っていたのである

なにかそれが偽りの労働であり人をだますものでありそれでハーバート大学の人はそうして作り出す投資信託であれ金融商品が詐欺だとして良心の呵責に耐えられず辞めたとかある
また日本の銀行員でもそういうことがあり生きがいを感じられず農業に従事したとかなる
何か労働という時、農民が米を野菜を果物をじかに作るとき天に神に感謝する、そのときそのとれたもの食べるとき買うのとは違い特別な喜びがある。それは大地と結びつき天と結びつくからである

何か労働というものが世界的に荒廃している。『西洋の敗北』エマニュエルドットでプロテスタンティズムが失われてしまって空虚化したというのは理解できる。労働は宗教的行為としてもあったからである、何かトランプ大統領が福音主義者の応援を受けているという時も良き古い時代のアメリカへ復古するということである。それだけ何か精神が荒廃したからだとなる

グレートアメリカアゲンとは復古主義である。それは何か西部開拓時代のフロンテアスピリッツの回帰だともみる
つまり日本だって歴史だとそうした復古主義は必ず起きる。日本なら本居宣長の国風文化の見直しがそれである
また明治以降でもやはり戦前を戦争でもそのとき日本人が一体化したということでなつかしむことがある
そういう復古主義は必ずどこでも起きる。つまり何か世界的にいくらグローバル経済になってもそこに精神の空虚さが生まれていて復古主義が起きるのである。グローバル経済は道徳なき経済でありそれで世界的に物だけがやりとりされるもので精神は荒廃したとなる。

ただアメリカはもともと内村鑑三が留学した時代から金一辺倒の社会でそれを嫌っていた。アメリカは移民の国だからアメリカンドリームの一攫千金を得るために移民がある社会になる。億万長者が生まれる国なのである
ただアメリカには物質主義であり文化ない生まれない国である。それは歴史が短いからである
中国を奈良時代に習ったのは高度な文化があったからなのである。まず漢字はその文化の最たるものであり文明とは文で漢字で明らかにするものだともなるから漢字を取りえれることで遣唐使を派遣したともなる
アメリカに文化を習う取り入れるとかはない、科学技術を取り入れるとしても何か文化を取り入れることはない
だから世界でアメリカを尊敬するということはない、ただ軍事力と経済の物質主義の国だとなる
それは西欧文明とも違たものである。民主主義といってもそれは文化ではない、行詰まっている
とにかくグローバル経済自体が行詰っている。それはやはり文化を創造しないからだとなる



posted by 天華 at 14:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年04月14日

日本は農業に向いていない?ー山が多くて平地が少な


日本は農業に向いていない?ー山が多くて平地が少ないから大規模化できない
【人間は自然の風土地理を無視して生きられない】


文明は基本的に地理とか風土とかにより作られる。日本は海と山の国である。平地が少ない、だから海彦山彦の神話になる。そこに平地で暮らす人々がいないのである。平地の民が大陸では普通である。山により遮るものなく大きな川がさえぎるものとなりそこが境界となる。それで日本は実は農業に向いていないと最近大規模農業を始めた若い社長が言っていた
山間部は平地がないから大規模化できない、未だにそうしたところの農業は零細な農家が多くそれで農業では今は苦しいとなる

大規模農業法人が実現するとすれば、地域には少ない人しか住まないことになる。例えば、人口1700人の北竜町で考えてみれば、1700haの水田を1法人が300ha経営するとすれば6法人で可能だ。各法人が数人、たとえば、5人の正規従業員を雇っても、全員で30人に過ぎない。つまり、生産性、コストを追求するとなれば、結局のところ、少数の人間しか住まない地域となる。

日本で大規模農業は可能なのか?

中山間地が多い日本では共同で農村を維持してきたが、企業的農業だけでは農村は守れない。また企業が参入しても採算が取れず出て行けば農村が消滅してしまう。一方で小農は自然を有効に活用し、食料自給率の向上や食の安全を保障し、農村を守る

何かテレビでは農業の会社経営者が法人化して収入を上げて若い人が働いていることを報道した。つまり大規模化して機械化してスマート農法で生産性をあげ効率化する。それは山村部ではできないとしている。平地ではないからである
中国でも麦を収穫するのにコンバインで一気に刈り取りできたが山間部が平坦でないのでできないんでやはり出稼ぎの人が人力でしていた。そこには中国でも機械によらないで人間がするほかないほかないのである
それで平坦な地でも機械で田植えできない所が残りそれは人力でしていると聞いた
何事すべて機械化できない、必ず人間の手が必要になる。それはAI化でも同じである。全部答えを出してくれわけではないのである。そこに幻想を抱じすぎると問題になる

人間はそもそも風土の影響とか地理地形の影響から逃れられない、これはいくら科学技術が発達してもできないということが農業は特に風土とと天候とか地形とか自然条件により規定される度合いが強いからそうなる
工業製品を作るようなわけにはいかないからである。自然を相手にしているからそうなる。農業は文化の基だからである
cultureはcultivate(耕す)から来ているからである。それでワインでもその土地の風土により味が違って名前でもその土地の名前で売り出している。まさに文化なのである。農業は工業製品のように規格化できないのである。また機械化にも限度がある制限される。その土地にあった適正を追求してあったからである。


それで大規模農業で成功した例をあげていたがそれもうまくかないとネットで読んだがそうなのかと納得がいく
ではどうすればいいのかとなると私には深く追求していないのでわからない。でも農業は自然と密接に結びついているからなかなか機械化できないことは理解できる。
そもそも気候であれ地形であれ地理であれ変えられない宿命的なものである。山を平らにできない、だから自然条件に制約されるのである。それで野というとき平なところではなく山の斜面を指している。山が多いのだからそういう地形が日本には多い
入野という地形がそうである。その野とは山の斜面のことなのである。そこに棚田があり段々畑があったりする
それは地形に適応してそうなったのである。

ともかく日本は平地が少ない、だから農業するのにも向いていないというのもわかる。飯館村の木戸木(ことぎ)で畑を作るのに土地を平らにすることで苦労したというのもそうである。奈良はならすからきているとか平坦にするということで苦労する
奈良とは実際は今の平坦な広い地ではなく山間部の斜面の野が起源なのだろう。田にしても県(あがた)から始まりそこが最初の
国の行政に組み入れられたからである。

何か農業は大規模化すればいいとか素人から見ればそうなのかとみるがやはり人間は定められた自然の条件に適合しないでは生きられない、それで行き詰まるのもわかる。海彦山彦の国だったという時縄文時代から日本で暮らすとなると自然を変えることもできないからそうなる。自然災害でもなぜ津波の被害が甚大になったのか、それは海側が魚をとるのに便利だからである
相馬市の磯部では被害が一番大きかった。村は壊滅して誰も住んでいない、なぜそうなったのか、磯部村の家が密集している海岸に集落が作られた。その後ろは田である。つまり田を作る平地には家はまれである。

もともと海であり海を埋め立てて田にした。そして津波で元の海になったのには驚いたのである。海を田にすること埋め立てすることは自然に逆らうことなのである
だから縄文時代にそうして海だったところには人は住んでいない、縄文時代の遺跡は発見されないのである。
要するに人間はいくら科学技術が進歩しても自然に逆らっては生きていけないのである。それは傲慢なことであり自然から復讐されるとなる。山に平地にできないしその自然条件を変えることはできないのである
科学技術にも限界がありそれを過信することは危険になる。

また別に米でもアメリカから輸入すればいいではないかとなるがそれにも限度がある。食料は安全保障でもあり外国から輸入できなかったらどうなるのか、外国に経済でも頼りすぎることは問題なのである。食料がなければ今度は外国に言いなりになる
独立も失われるである、だから中国では一年以上の食料を備蓄している。日本では一か月しかしていないというのも問題である。だから安い米を安易にアメリカからでも輸入するのは危険である。グローバル経済が何でもいいわけではない、その土地に見合ったものとして生活するように神が定めた。それを無視できないのである。日本は車だけ作っていればいいとなれば結局外国に食料を頼れば支配されることになる独立は失われるのである。

また過度なグローバル経済は文化も破壊する、その土地土地に見合ったものとして作られてきたものを破壊する
そもそも工業製品のように一様化できないからである。農業は特にそうであり過度なグローバル経済は文化を破壊する
それは人間の生活を豊かにするわけでもないのである、なぜなら人間は必ずしも物質だけなものだけに生きるのではなく精神的なものも求めているからである。だからグローバル経済が今うまく機能しなくなったのは人間の精神的な面も影響している
貿易は必要でも土地土地の国々の文化まで破壊するときもはや人間の生きる意義まで失われるとなるからである

posted by 天華 at 09:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年04月01日

モータリゼーションに適合した商売が生き残った 【鉄道は東京の山の手沿線くらいしか機能していない】


モータリゼーションに適合した商売が生き残った
【鉄道は東京の山の手沿線くらいしか機能していない】


【地方創生が失敗する最大の理由】東京の鉄道資本主義/駅前が中心ではない/
モータリゼーションは90年代から/無料の駐車場/日産低迷


このyoutubeが興味深かった。鉄道の駅前は廃れたのはモータリゼーションのためだった。
駅前の活性化は鉄道に頼ってもできない、駐車場を作り車中心にしないと活性化できない
駅前の活性化とか言う時何か鉄道中心に考える、鉄道をもっと利用しろとかなる
でも鉄道が機能しているのは東京の山手線くらいだとしている。それで東京では東京では地方より車の所有者が少ない。車をもっていないのである。車がなくても生活できるのである。

つまり、駅前を活性化するとなればもっと鉄道に乗れとなるが現実にはそれはできない。
商売で成功したい会社はみんなモータリゼーションに適合した会社であった。大型店はイオンをはじめとしてみんな郊外に大きな駐車場を持ってそれで繁栄したツルハ薬局とかヤマダ電機とか大型電器店でもそうである。
そのために駅前通リは廃れた。それはモータリゼーションの結果であった
だから駅前の活性化は鉄道に頼るより大きな駐車場を作るべきだというのである
鉄道にこだわっていては活性化できないという。それも確かにそうである

鉄道は一本の線でありそれでは用がたせない、縦横に走れない、だから買い物でも鹿島から原町間まで行くのでも電車だと不便なのである。便数も少ないし駅に降りてもそこから用を足すのはめんどうになる。
だから私は自転車で原町に行き買い物する。他の人は車で買い物することに鹿島だと用が足せないとなる
駅前通りが廃れたのは街の通りでも廃れたのはモータリゼーションの結果である。

相馬市は駅前通りは城下町なので作られなかった。でも商店は駅から離れた地区に集まった、駅前通りには集まらなかったのである。その中には広い駐車場を作ったからである。つまり駅前通りで用を足す人はまれになる。
必ず大きな駐車場がないとそこに人が集まらないのである。仙台市ですら駅前のデパートとかが廃れて郊外のショッピングモールとかに車で行くことになる。それだけ車社会でありそれに適合しない商売は成り立たなくなったのである

もはや駅を中心とした街作りはできない。駅ですら大きな駐車場が必要だとなる。つまり車中心に発想することになる
そうしなければ商売が成り立たない社会である。だから別に商売でも駅前通りとか街の通りとかを中心に発想する必要はない
郊外でもいいし辺鄙な場所でもいいとなる。なぜなら車で行けばいいとなるからである、それで必要になるのが駐車場になる。
なぜ磐城太田駅前の総菜屋は客が並んでいるのか?それは離れた場所であり駅前とも全く関係ないのである

その店で売るものがいいから車で遠くから買いに来るのである。また東北中央道で前の店は廃れたがソフトクリーム屋は有名で依然として繁盛している、つまり交通の変化の影響を受けなかったのである。そのソフトクリームを食べたいとなり必ず寄るからである。つまり今の商売は場所に影響されない、これまでは商売は場所に立地に影響されていた、だから駅前とか有利だったのである。でも車社会になると場所の影響がない、車で遠くでも行くからである

ただ常磐高速道路ができて鹿島のSAは賑わう、レストランもあり賑わう、それはSAがあとはいわき市の方に行かないからここで用を足す人が多いからである。でもここは全く街とは関係ないのである。繁盛する場所はSA内だけであり街に波及しない
駅前通りができたのとは違っている。でもモータリゼーション化すると車に適合した社会となった。
車社会を批判しても現実は車社会に適合しないと生きていけなくなったのである。

そもそも車を持たない運転できない人は劣った人にもなる。江戸時代なら馬を持っている人が侍であり馬を持たない人は足軽となり御徒町(おかち)となると馬を持たない歩く人たちが住む場所だったとなる。つまりその身分制は馬を持つ人と持たない人の差でそうなった
だから今は車を持たない人は劣等な人達だとなる。何か自転車だとニートとか障害者とかまた今やトラックの運転手でも怪我したとか老人になり自転車に乗っている。だから確かに車が運転できない人は劣等者になる

だからどこでも駅前通りとかは寂れている。致命的なのは大きな駐車場をもてないことである。だから車社会では不便になり
駅前通りは廃れたとなる。だからいくら鉄道を利用しろと言っても無理である。それは例えば仙台市まで遠くに行く時便利かもしれない、それでも仙台市に行く時車で行っているのである。仙台市の郊外のショッピングモールがあるとしても車でないと行きにくいからである。どうしても鉄道で行けば駅前が中心になり用をたすとなる
とにかくこのyoutubeはわかり安く説明していた、本で読むとなると何か簡単に理解できないことがある
youtubeだと要点がつかみやすいのである。モータリゼーションのことは常に言われてきたことだがそれを明確化して説明した。

とにかく時代に遅れると適合しないとかは技術の進歩と関係している。技術の進歩で大きく社会が変わる。
インターネットでも社会がこれほど変わるということにも驚いた。70以上の人はスマホでもしていないから
現代の情報社会から取り残されることはある。それは車を否定しても車社会になったらそれに適合しな人は劣った人にされてしまうのである。それが結構怖いことなのである。

例えば石器時代の人が鉄の時代になった時依然として石器を使っているとなるその差が大きいのである
今は情報化社会でありこれに適合しないと取り残されるともなる。70才以上が不利なのはIT社会に適合できない
スマホすらできないとなる。それで情報弱者になる。社会から取り残されるともなる
こういうことは常にあり老人はこれまで経験したことで有利でも新しい社会に適合できなくなる
それで時代から取り残されるとなる。そうなるとますます老人は役に立たないとか無駄だとされる
ただ老人は社会の変化についていけない、そういうことが常にあり不利なのである

何か街の活性化というとき通りとかを考えるが車社会に適合しないと活性化しないのが現実である。歩かない社会になっているからである。それで南相馬市でもか鹿島区でも真野川沿いに通りを作ってもほとんど人が通らないのである
またどこの街の通りでも人が歩くのを見るのがまれなのである。これまでの街は歩く人を対象に作られていた
その肝心の歩く人がいないのだから活性化しないとなる。ただ大きな駐車所がありそこに車を止めて街の通りを歩くということはある。でもどうしても郊外の大型店で用を足すとなる。ただ老人が増えると車が乗れなくなると買い物でも不便になる
だから高齢化社会でかえって車社会は不便なものとなる。それで何らかの変化がまた生まれるかもしれない。






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2025年03月30日

様々な継続されて解消しないカルマ 【地理的風土的歴史的カルマー個々人の家族のカルマ】


様々な継続されて解消しないカルマ
【地理的風土的歴史的カルマー個々人の家族のカルマ】

●様々なカルマ

●遺伝的カルマ
●家族のカルマ
●個々人の行為のカルマ
●土地土地のカルマ
●国々のカルマ

遺伝的カルマは逃れがたくある。私自身は蓄膿症の手術を二回している。だから頭がさえず学校の成績も悪かった。
蓄膿症は頭脳に相当影響する。私の母親も蓄膿症があり遺伝だった。他でも何か先天的に体が悪い人が必ずいる。
それも様々でありなかなか他人のことはわかりにくい、病気も多様であり理解できないのである。
これは一生苦しむ、なぜ去年の異常な暑さで鼻が悪くなり舌が乾くとかそれが未だに完治しないのもそのためである
体の遺伝は死ぬまである。それぞれに体に弱点を持っているからである
だから何らか病気は遺伝と関係しているカルマなのである。

家族のカルマという時これも家族も一様ではない多様でありなかなか他者の家族は理解しにくい。家族はみんな違っていてその不幸もみんな違っているとなる。私自身の家族も複雑で他者に理解できないものだった。たあだれが悪いとは自分にはなっていなかった。成り行きでそうなったとなる。
その家族は障害者をもちその苦労は並大抵のものではない、延々と50過ぎたその息子を心配し世話するとなるとそれも大変な苦労になる。その人は貧困に苦しめ続けられてもいる。そして今は病気になって苦しいとなる
なぜそんなに苦労が課せられているのだろうとなる。何か呪われているのだろうかとも見る
でもそういう人は家族でもそれなりにいる。

カルマは行為のことである。だからその個々人の行為がカルマとなる。何かしら罪を犯すのが人間でありカルマとなる。若気の至りで後年にそれがカルマとなり現れることもある。そうした行為は消えるわけではないからである
土地土地のカルマもある。その土地には山側に住んでいれば山津波に襲われ海岸に住んでいれば大津波に襲われ甚大な被害があった。それは必ず繰り返されてくるから土地のカルマなのである。
この辺では相馬藩政記で400年前に700人人生波(津波)で溺死したという記録があった。それも忘れられていた
自然災害も実際は周期的にやってくるカルマなのである。その土地土地の地形風土により災害が繰り返されてきたのである

●民族抗争のカルマ

国々のカルマでも地理地形とか風土とかが異なり災いが繰り返される。それは自然災害だけではない、戦争も繰り返されている
大陸だと民族抗争が絶え間なくありそれが継続される。ウクライナとロシアの戦争も民族抗争でもある。大陸では多様な民族が抗争を繰り返した歴史でありそれも継続されているのである。
youtubeで奴隷化された民族の国の悲惨なことが映像化しているからその残酷さをリアルに知る
ヨーロッパの女性も白人もイスラムに奴隷化されて売られていたことがありバイキングが侵入して女性が奴隷化される
奴隷はまさに大陸の歴史でありそれでスラブ人とスレーブであり奴隷民族だとなる

つまり大陸欧米の歴史は奴隷と切り離せずある。日本にそれがなかたのは海に囲まれて侵略できなかったからである
大陸では凄まじい民族抗争があり継続される。だからこそジェノサイドとか民族絶滅の戦争とかある。絶えざる民族抗争の歴史である。それで中国では敵が墓に入っても暴き出し罰する。一方は日本では敵味方塚として供養している
戊辰戦争でも東北でも西の侍でも手厚く葬り墓を作っているからである。

つまり日本には苛烈な民族抗争はなかったとなる
中国でも苛烈な民族抗争がある。漢人がメインとしても他に多様な民族があり言葉があるから音では通じないから漢字を共通語とした。テレビのテロップでも漢字を流しているからである。それだけ音だけでは通じないからそうなった
このカルマも延々と立いる気では続く、アメリカでも移民国家だというとき多様な民族が混交している
黒人はまさにアフリカから連れてこられた奴隷である。そうななったのそういう歴史の継続としてそうなった
つまりカルマだったとなる。だから多様な民族が混交するアメリカを一つにまとめることは難しいとなる

●複合的に起きるカルマ

カルマはまた複合的にも起こる。南相馬市小高の人は原発事故で避難区域になり住めなくなった。その人は原町区の空家を買い住んだが病気になり仕事で息子が仙台市に住むようになり難しい病気なので仙台市の病院に入院した。年齢も70才とかである
そして熟年離婚もしていて妻は息子と暮らしばらばらになった。この苦難も原発事故という土地のカルマがあり過去の家族のカルマがありと複合的カルマが重なりそうなった。そこには原発事故だけは原因ではないその人自身のカルマが行為があってそうなった。それは自分の家族の苦難もやはり家族のカルマがありそうなった

ある人は事業に失敗して借金をして苦しむがそれもやはりカルマが関係していたとなる。何らかその家が持っているカルマがありそうなった。それは自分の家族でもそうだった
要するに人間の苦しみはカルマから来ている。そのカルマも多様であるからわかりにくいのである
そうしたカルマを解消しようとしても簡単にできない、遺伝的カルマとなればいくら医者でも直せないからである
人間は生まれた時からカルマを背負っている。そしてその後も個々人で行為がりそれでカルマを積んでいる
悪行は罪の行為はカルマとなり清算が強いられる。そのままでは終わらない消えないのである
ただそのためにカルト宗教団体に入ったりするとその団体自体がカルマを積んでいるから実際はその団体のカルマも背負い二重三重の苦しみとなる。カルマはさらに負荷されるのである。

●解消できないカルマ

いずれにしろカルマは苦しまなければ解消しない、それも並大抵ではない、私自身が介護とかで四苦八苦したことを書いてきた
でも何とか終えたがその期間十数年にもなる。カルマは簡単に消えないのである
原発事故でもプルトニウムは二万年消えないとなりそんな長い期間のカルマをこの辺では背負ったのである
それが土地のカルマとなったのである。

人間はおそらく死なない限りカルマは解消できない、遺伝的なものでも治らないで苦しむが死ねば解放されるとなる
明かに直しようがない病気がある、老いは病気でもあり直せないのである。貧困は何とか将来的なくせるとして病気は依然として全部が直せないし老化自体が病気になることでもある。でも老化を直すことはできないのである
だからこの世は苦界なのである。地獄だともなる。そうした苦しみから解放できないからである
そもそもなぜこうして苦界に生まれねならなかったのか?それは何らかの因縁なのか何なのかわからないのである

ともかく生きるとはカルマを積むことである。善行を積むより人間の行為自体がカルマになりそれが苦を後でもたらすことになる。善を行うとしても悪を行うとなる。カルマの解消は神の国でしか解消されないとなる
カルマは世の終わりまで繰り返される。最後は人類絶滅戦争のハルマゲドンで終わりとなる。そのとき人類のカルマは解消するのかとなる。

死は愚かさの一つの終わり

一つの愚かさの終わり
石は愚かを成さず
石は誤謬を犯さない
石は何も成さず
人は成して成して
愚かさを重ねて
遂に死して一つの愚かさが終る
集団も愚かさの集約
無益な労働、戦争の人命の消費
死体の山を築き終る
人類の大いなる誤謬
壮大な愚かさの終わり
人間のように無益を成さぬもの
自然には壮大な愚行はない
ただ己が分を守り生きる
神の定めし法則からはずれない
それぞれの分を尽くして終る
雀は雀、鴨は鴨、白鳥は白鳥
それぞれは争うことはない
無益な争い、消耗は自然にはない
内面と外面が一致して
単純にして明快
石は何も成さず
無益な愚行はなく留まる
人間は死して愚行が終る
カルマが消滅する
死もまた幸いなるかな
死者は賢く生者を見守れ
死者はもはや愚行を成さず
故に死者も幸いなり

人間の行為がカルマになりそれが延々と消えない、自然は神の法則の中にありそれをはずれることはない、人間の愚行は繰り返す
それは終わることがない。カルマは行為であり繰り返すとなる。それ故に人間の苦しみも終わらない、カルマは消失しない
延々と繰り返すのである。何故諺が今でも活きているのか、それは人間自体は変わらないからである。科学技術が進歩しても人間自体が変わらないから依然としてカルマは消えない愚行は続く。だから絶望にもなる。人類は滅びて新しい人間が生まれない限り愚行がありカルマはくりかえしてゆく。それを止める方法がないとなる。
善行を行うより必ず人間の行為は悪を無し罪を犯すようにできている
だから行為は必ずカルマとなり後で苦しみとなって現れるのである















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2025年03月29日

グローバル企業の社長は情もないサイコパス? 【東電の原発事故とグローバル企業の世界支配の共通性】


グローバル企業の社長は情もないサイコパス?
【東電の原発事故とグローバル企業の世界支配の共通性】

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【世界を支配する超富豪!世界経済破壊の自己矛盾を抱えている】
何兆円稼いでもまだ欲しい!大富豪は、しょせん最大多数から搾取

巨大企業などが地域社会をつぶす (原発事故も東電による地域破壊)


インターネットの機能で有効なのはリンクすることである。そのリンクによって理解を深める
人間はあることには詳しくてもあらゆることに詳しくなれない、それで必ず知識でも補うことが必要になる
それは別にその人との一部見解の相違があってもできる、右左関係なくできる
必要なことは反対意見でも知識を深めることである。なぜ加治将一氏の意見が参考になるのかそれはアメリカで十五年も会社を経営していたことである。それが学者とは違う、肌でアメリカを知り世界を知っているとなる

だから今世界を支配しているのは誰なのかというときわずかの大富豪でありそれは国家を越えた存在でありその目的は金もうけだけでありそれしか眼中になく一つの国の国家予算くらいの何十兆円の金をもっている
その人たちは冷酷であり他人への愛情など無視して金儲けだけを目的としている。でもサイコパスでも人ができないと思うことでも成功させる能力がある。
その人たちには国家とかはない、国家はむしろ大企業に従属させるものである。国家より大企業が上なのである

それは東電が自治体より上となり東電の企業城下町となったのと似ている。そのことを前に書いていたのでなるほどと思った
つまり私の書いていたこととリンクして読むと理解が深まる。
グローバル大企業に世界が支配されるということがどうなるのか、そのことは追求してきた。ただ問題が大きいので分かりにくいのである。ともかくグローバル大企業の問題は国々でも血の通った人間が住んでいるとしてもすべて金儲けの手段になってしまう。それは国家を越えてそうであり東電が一市町村より上であり支配したのと似ている
グローバル大企業となると国家を無視する地方の自治体も無視できる巨大企業である

国家とは国民がいて成り立ち市町村でも市民が町民が村民がいて成り立つ、だからその配慮が必要になる
でもグローバル大企業はそうしたものはなく金儲けに特化して支配する。だからその土地土地の自然でも文化でも無視する
別にそのグローバル会社の社長は一国にも一地域にも住んでない、世界中に別荘を持って住んでいる
その人たちには国家はない国家はただ金儲けのためにあるだけだとなる
だから非情でありただ金儲けに徹するだけなのである。だからサイコパスであるとしている。非情になり世界の人間でもすべて金儲けの手段としか見ないとなる。それができるからこそグローバル大企業になったとなる

これは陰謀論でもない事実である。現代の支配者は誰なのかということである。政治家なのかとなるとそれよりこうしたグローバル大企業でありその社長だとなる。それが国家より上になる。そしてその莫大な富は政治家にマスコミにばらまかれて批判できないようにする。だから国民にとって有害なサントリーとかビール会社を加治氏は批判している
そのウエスキ―会社が相馬市の玉野村にできるというときも巨大な企業の配下となる。農業だけでは成り立たないから企業を誘致することになる。でもそれは有害なことでは原発と同じものともなる。ただ電気は有害とはならないのは違っている

いずれにしろ現代の問題はグローバルに必ず関係する。このように一地域でも必ずグローバルに関係してくる
だからグローバルな理解が必要になる。それがなかなかわかりにくいのが問題なのである
ただこの辺では原発事故で地域が破壊されたことで具体的痛みを経験したから似たものとしてグローバル企業を見る
グローカルというときグローバルなものとローカルなものが一体化した言葉であることもそのためである

グローバル企業だと土着するものではない第一そこに住んでいないからである。だから自然破壊しても別な地域に住みまた別な国であれ地域でもうければいいとなる。ただ原発は日本国家の存亡になったから違っている。吉田所長が東北には住めなくなると言ったときそうである。でもグローバル企業は一国が滅びても他の国で儲ければいいとなる。別にそこに住む必要はないからである。投資家のジム・ロジャーズはシンガポールに住んでいる、ただシンガポールが国かどうかなのかわからない
国という時はその国土から歴史から様々な要素で時間をかけて作られたものであり一企業とは違うからである
だから単なる経済的単位として見れないのである。

そもそもトランプ大統領が国と国の関係もデールとして商売としての関係だというときそれが世界に通用するのかとなる
それは他国でもグローバル企業と金儲けのためにあるとなってしまう。金が儲からなければ切るとなる
これも金の切れ目が縁の切れ目だとなる。イーロンマスクはまさに政府の中の重要ポストに入り込みグローバル企業が政府を動かし支配するともなる。だからトランプと相性がいいとなる。
ただそれで国際関係が成り立つのかとなる。いずれにしろもはやアメリカは世界の指導者の役割を担えないからこそ
世界的にもいろいろな問題が起きている。



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2025年03月26日

統一教会に解散命令―次は創価でありそこが本丸 【隠蔽されてきた悪が暴露される―カルマは消えない】

統一教会に解散命令―次は創価でありそこが本丸
【隠蔽されてきた悪が暴露される―カルマは消えない】

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祝!統一教会に解散命令くだる!次は創価学会!乾杯しましょう
『TTBジャーナル』

ここは法律的にも政教分離を説明しているからわかりやすい
宗教団体でも法人格を得た宗教団体は特権を得るから違っている
創価の問題は検察でも議員でも権力を持つ者とかかわって操作する
そのために政治権力を得ることが活動の中心になる
政治によって利権を御利益を配分するからである

●宗教法人化した団体とそうではない宗教団体の相違

ここの分析はわかり安い、法律の問題点を指摘している。宗教団体と法人格を獲得した宗教団体は違っている
法人格を得れば税金は払わなくてもいい、その特権があるからこ法人格を得た宗教団体は政治運動などをすることを問題にしている。でも法人ではない宗教団体は活動が自由だとしている。これが明確にされていないので混乱する
法人格を得たら政治活動は禁止されて宗教活動のみ許されるとなる
創価でも別に政治活動しても憲法違反にならないとしている。でも創価の場合明らかに憲法違反なのである

ではなぜ放置されちたのだろうか?何か巨悪にしろそれが最初わからない、何か手を打てない間に悪は増長して手が付けられなくなる。それがナチスにもあり他にも悪は隠蔽され増長されても何かわからないのである
それは原発でもそうでありそこで危険があっても政府の権力で隠蔽され続けて来た。そして事故になりその危険性を具体的に被害となって意識されたのである。つまり最初は悪が何かわからないのである。それが重大な被害として現れるときわかる

アンタッチャブル化すること特権化して不可侵の領域にすることが危険なのである。そういう権力をもつと権力が暴走してナチスのようになっても誰も止められない、検察警察も止められなくなる、なぜなら検察も創価の人がいて操作できるからだとなる

でもその時はすでに時遅し

となっている。その被害が甚大なものになって自覚されるのである。ただ悪はいつか露見される。それには時間がかかる。
ジャニーズ性加害でも隠蔽されていた。その期間が長いのである。つまり何が悪なのか見えにくい、特に巨悪は見えにくいのである。むしろ大悪人でも善人とされる、カルト宗教団体の場合がそうである
ではそうした悪が生まれた背景は原因は何だったのか?それはいくら池田大作でもできない、その背景に池田大作を産み出す社会があったとなる。それは戦後の焼け野原からカルト宗教団体は生まれ成長した。また東京に地方から人が移住して人の繋がりを求めてそういう団体に入った。だからその背景にそうした社会事情があり急成長したとなる
社会の不満分子を吸収したとなる。

●創価と共産党の共通点

不思議なのは創価と共産党は似ている。その共通性は生活に困窮していて恵まれていない人たちが多数なのである。
その人は障害者を持っているとか貧乏で食べることもままならない、いつも困窮している。何かいいことがないのである
最近では病気にもなって苦しい、そういう苦しむ人たちは頼るところがなく創価とか共産党に頼る
そしてそういう人達は身の不運は困窮は社会のせいであり常に自民党を批判している。自民党のせいでこうして苦しむからそうなる。でも障害児をもったのは別に自民党のせではないのである。それは何なのかよくわからないのである

ただそいう人は頼るべき人がいないから頼る、すると政治的にであれ利用されるとなる。そういう不満分子を集めて反政府団体と組織して力を持つとなる。そして異常なほど御利益福運を説く、信じれば御利益福運が得られると異常なほどの熱気となり祈るのである。だからナチスを生んだ社会背景がありまた創価を生んだ社会背景があり急成長したのである
だからこうして社会問題を解決できないから何かカルト宗教団体に頼る人達がいるから成り立つのである
そういうことは人間社会で変わらずあり貧困問題でも日本で多数の問題化していてそれが解決しない、そもそも人間社会の様々な問題が解決できないことからそうしたカルト教団がなくならないともなる

●誰でもカルマで苦しむ―解消できないカルマ

人間は誰でも何らかで苦しむのはカルマだともなる。それは親の因果子に報いとなるのもそうである。親から遺伝するということはカルマだとなる。病気でも遺伝だとそうなる。障害者も遺伝がありそれがその親に子にカルマとして苦しめられることになる。家族でも何らかカルマを持ち苦しむ。その原因が様々であり何らかで苦しむようにできているのが人間だとなる

そしてそのカルマは解消できない!

これが衝撃的なことなのである。社会を変えても人間そのものが持っている業がありそれがカルマとなり延々と続くのがこの世だとなる、このカルマは業は消えることがないのである。何故今でも戦争がなくならないのか、それも人間の業がありカルマが原因している。人間のカルマを消滅させることができないのである。それはこの世の終わりまで続く、人間の力では解決できないからである。

つくづく人間はジキルとハイドである、口では善を説き善人のふりをするが実際は自らの我欲で動くのでありカルト教団の幹部などでもそうである。人を助けるよりそういう困った人達を利用して我欲を満たすことである。だから平等を追求した共産主義でも幹部は中国なら共産党幹部が巨万の富を得るし幹部がその師弟でも就職でも優遇される特権化する
だからカルト宗教団体でも利権団体であり利権を御利益を追求するのである。それで政治にもかかわるのである
でも政治の利権にかかわることは法人化した宗教団体では禁止されているのである

それがなぜ黙認されてきたのか?それが最初は悪と明確に見えない、でも後からその実体が悪が見えてきて暴かれるとなる
カルマでも何がカルマを積んでいるのかわからない、でもそれが必ず苦しみとなって現れる時意識する
それは60以降に現れる。いくら恵まれていても何かしらカルマを積んでいてそれが苦しみとなって現れる
そういうことが社会には多い。

●ジキルとハイドになる人間ーでも悪は暴かれる

いずれにしろ統一教会より何百倍も危険な団体が創価である。それがなぜ見逃されてきたのかとなる。それは自民党の責任でもありマスコミの責任でもありこれまた原発事故と同じ構図になる。そこに巨大権力がかかわり見逃されて大被害になった時その悪に気づいたとなる。太平洋戦争でも300百万人が死んだことで悪が暴かれる。ただそれは日本だけではないアメリカの悪もあったとなる、つまり巨悪となるとかえって善と見える。巨悪になると悪が見えなくなる

むしろ善として推奨される。だから自分は最悪の悪人だと自ら説いた親鸞などこそ本当の善人だったとなる逆説がある
何かみんな悪とか罪を意識しない意識できないからである、普通はみんな善人だと思っているからである
だからカルト教団の教祖が最大の悪人だったけど最大の善人もされていたとなる
そういう矛盾をかかえているのが人間でありジキルとハイドになる。

でも悪は必ず露見して暴かれる、この世で露見しなくても隠れたものでも来世で露見して暴かれ裁かれる
つまり悪は見逃されることがない、この世で見逃されても来世で死んでからでも裁かれるとなる
それを自覚して恐れる人は本当の宗教家である。第一来世のことなど恐れる人などいない、今世が良ければばいいとなる
だからこそいつまでたってもこの世から悪はなくならない罪は消えないのである
いつか人類は滅びる運命にある。ただそうなっても依然として神に選ばれた者は神の国で生き続けるとなる




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2025年03月22日

高齢化社会の老人の不幸は価値観が変わったこと 【国家の価値ー会社人間の価値から個々人の価値の変化】


高齢化社会の老人の不幸は価値観が変わったこと
【国家の価値ー会社人間の価値から個々人の価値の変化】

「老いは邪魔者」な超高齢社会をどう生きるか? 

●老人は無用で無駄だという時なぜ他にも無駄な金がつぎ込まれるのか

こんなことは人間社会には成り立たない、老いたゴリラが子育てして役割があり依然としてリーダーでいられる
それは昔の農村社会の村のような共同体があった時代とか大家族だった時代なら成り立つ
そんなことが現代社会では成り立たないのである。子育てするから役割があるとかいってもしたくない老人もいる
またそれで社会的に認められるわけでもない。問題化しているのは社会的に価値がなくなり無用化する老人の数が膨大だということである。ではその人達が子育てを手伝ったとしてもそれで老人を敬うことなどありえないのである
家族内の価値はあるにしてもそれが社会的価値にはならないのである。

そもそも老人がただ負担になるだけの無用な存在だという時何なのか、経済的負担になるだけで若い人でも税金として負担させらるからだとなる。それは数が多いし老人は役に立たない価値がないとされるからである。
それも社会的に何が価値があるのかなどもわからないのである。酒とかタバコなど有害でありそれを宣伝する新聞社も有害だとなる。風俗なども有害だとなる。この世には別に有害なものでも必要だからある。

私はオリンピックなど無駄でありなぜそんなに金をかけるのか、その金はIOCの幹部に入り特別待遇で接待されて金を得る
そんなことになぜ税金を使うのかとなる、大阪の万博でも現代に必要なのかとなればする必要もないとなる
時代的に合わないのである、高度成長時代はあっていたのである。でも今そんなことしても時代に合わないとなる
だから見に行く人国内でもあまりない、だからそんなことになぜ金をつぎこむのだとなる。

老人が無用だというけどこのように無駄なことが社会にはある。老人が無用だから自殺しろというけど他にも無用なことはある
それでもタバコでも酒でもギャンブルでもやめられないからある。老人だけが無駄なものではないのである
ただ老人が無駄だという時、老人の価値が問われてるのである。常に何であれ人間は価値が問われる存在なのである
老人は価値がないから集団自殺しろというときもそうである。それはナチスでも優性思想があり障害者であれ老人でも抹殺しろとなたし古代では福祉ということがないから強い者が生き残ればいいとなり弱いものは抹殺しろとなっていた

●老人に問われるものとは何なのか

ただ正直老人がこれだけ多いと何か老人は人格的におかしい人が多いのかと見る。それは金があっても何か人格的に歪んでいるとかとにかく歪んでいる老人が多いのである。何か尊敬される老人がいるのかとなる。そもそも尊敬される人間がいるのか、人間は他者を尊敬するのかとなる。権力があればそれに従う金があれば従うとかあってもそれは尊敬するからではない
金をもらえるから仕方なくへつらいしたがうに過ぎない、だからいくら金をもっていても高級老人ホームに入っても尊敬しているのではなく金をもらうためだからどうしても粗末に扱われることがある。
そもそも今の時代に他者を尊敬することなどありえるのかとなる

要するに何に価値があるのかということが問われる。その価値を認めれば尊敬されるとなる。それは別の老人だけではない、常に人間は価値が問われているのである。現代社会はその価値が多様化したから昔のように農村社会のような価値観では対処できないのである。何か一芸に秀でていればやはりその人は価値があるとなる。それは老人でも同じなのである
それは老人だから価値がある無いとかではない。ただ老人は若い人より何かしら積み重ねたものがありそれで価値を創っている
若い人はこれかららその人なり価値を創ることでありその期待されることで価値がある

いずれにしろ、これまでは老人はそんなに長生きしていないしそんなに問われることはなかった、今は数が多いからそんな老人無駄だとされる。それはそもそも現代社会は余りにも多様化して複雑化して価値が明確に可視化できないのである
確かなことは村社会のように共同体がありそこで老人がその村の中で生活して知ることがあり教えることがあり長老とかなり死んだら御先祖様として尊敬されることなどないことである

価値はそれぞれが作ってゆく時代である。何か一つのことでも趣味でも専門家になり詳しくなれば一目置かれるとなる
その価値を創るのは若い時から始まっている。老人なってすぐに価値は作れないのである
何でも積み重ねが必要になるからである。でも会社人間になると会社内の組織団体内で価値を創って来たのだから会社を退職すると価値がなくなることが問題なのである。個々人の価値を問われるにしても会社で作って来た価値が通用しないともなる
一部は通用しても全部は通用しない、だから会社人間はその人なりの価値を創ることがむずかしいのである

●会社人間からその人なりの価値が作る時代

江戸時代の職人とかは会社で働いていたのではない、個々人で職人でも働いていた。だからカンザシであれその人が作るということでその人の価値があった。それで下駄作るにしても作った人の名前が記されていた。何か包丁でも近くで作る人がいてそれがいとして名前が彫られていた。それはまさに個々人の価値を示していて誇りになっていた
今は会社で作るものでありそこに個人名など記されない、カメラ一つ作るにも様々な人が関わる、外国もかかわる
そこで個人の価値は失われたとなる。何でも会社で組織で仕事するのが現代だからである。一人では何もできないとなる
でも不思議なのはインターネットだとプログでもyoutubeでも一人で新聞社にもなりテレビ局にもなっている
すると個人でも価値が作れる時代だとなる。テレビ局をもつことなどできなかったからである

価値という時私は何々の会社の一員として働いていましたとなり価値があるというときそれはその個々人の価値ではない
だからこれからは個々人の価値を作り出す必要がある。そのツールとしてインターネットが発達したとなる
この人の言っていることは価値があるとして注目されて金までもらえる。それはマスコミとは違うのである
今までは六局しかテレビ局でも許可されていない、でも今やyoutubeだと何百局何千局のテレビ局がるとなる。
だからまたそこで選ばれることは容易ではない、それで有名人がやはり見られているとなる

ただ現代はこうして個々人の価値が問われる時代になっているのかもしれない、youtubeは一個人のテレビ局だからである
プログでも一個人の新聞社であり出版社になっている。それだけのことを一個人でもできる時代になったとなる
でも一個人と言っても膨大な数になるからそこで選ばれて読まれるのは極わずかだとなりほとんど見られないものも膨大になる。ともかく価値観は常に変化する。団塊の世代は普通に親から殴られ親に逆らうなとか学校では体罰が行われていた
それで親も今も厳しく育てた方がいいと言っている。その考え方が変わらないのである

私の場合明治生まれの父親が中学の時死んだのでそういうことがなく自由に生きられて自分の好きなことを追求できたのも不思議だとなる、父親が生きていたらそうはならなかった。引きこもりなっても自由に旅することを奨められていたのである。とがめられることもなかっのである
団塊の世代はみんな企業戦士となり引きこもりなどいなかったのである。貧乏だから働かざるをえなかったからである。
それが時代が変わり価値観が変わったから子供を殴ってもいいから厳しく育てろとかなると虐待だとか社会から攻めらる時代になった。それも価値観が変わったからなのである。だから老人は昔の価値観で生きているから何で老人を尊敬しなのだとか不満になるのである。だから今の老人は概して不幸だとなる。会社人間でも会社を退職したら会社で築いた価値が喪失するからである。そして価値無いものとされる。社会のゴミだとまでされてしまうのである
それはやはり時代の変化でそうなったのであり価値観の変化でそうなったのである

約30年間にも渡る自身にとっての大東亜戦争が終わると、小野田は1974年(昭和49年)3月12日に日本航空の特別機で日本の羽田空港へ帰国を果たした

小野田少尉が戦争続けていたのである、でも日本に帰って日本が全く変わったことに驚いたのである。戦争を継続してきて
日本に返ったら何か自堕落な平和な日本に失望もしていたのである。戦争でもそれはその当時否定的ではなく日本が一丸となってアメリカと戦うことでそれが日本人の一体感をつくり懐かしんでいるということもあった。
つまり戦争でもその時代はその価値観に生きていた。国家が最重要なものでありそれに殉じることが当時の価値観だったのである。今は否定されるにしてもその価値観をすべて悪いものとして見ていないのである
だから時代による価値観の相違は大きい。それが今の老人にも起きている。どうしても時代が変わるとそうなる
時代は70年周期くらいで大きく変わるからである。







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2025年03月05日

村が消失することは多様な文化も消失すること 【詩でも現実にある場からイメージして作る―橲原〔じさばら〕村のことなど】


村が消失することは多様な文化も消失すること
【詩でも現実にある場からイメージして作る―橲原〔じさばら〕村のことなど】

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石一つの詩

広々と安らぐ枯野の大地
石は黙して耳を澄まし
残る虫の音を聞く
木の葉は石に舞い散り
北風唸り吹き石は黙しぬ
石は所を得て鎮まりぬ
時に休み騒がざれ
汝いかに労するも世は変わらじ
人の労苦は限りなく続き
人の世の騒擾は止むことなしも
人はカオスの世界に倦み疲れぬ
石一つに心を集中する
争いはやまず大地を乱す者等らよ
虚しく人の骨は埋もれぬ
神は関わらざるかな
その岩盤の石は堅く
平和の礎を据えて
末永くここにあるべし
春の風は石に吹きそよぎ
またここに清楚なる木の花の咲くべし



橲原の名の由来はじさの花
白いエゴの木の花
その花が真白く咲いている
清流が流れ滝がひびく
新緑に5月の風はそよぎ
樹々はしなるゆれる
鳥の鳴く声は奥に響き合ふ
一つの石が昔を語り
そこに変わらずありぬ
なお老いたる夫婦畑に働く
ここに生業はつづきぬ
橲原村の名の良きかな
その村の失われるは悲し
そこに先祖は生きしも
その先祖もまた失われぬ
先祖もまた悲しむなりしを
・・・・・

●橲原のジサはエゴの木の花

橲原(じさばら)のジサはエゴの木の古語

新緑の大原から八木沢峠へそして橲原【じさばら】へ 


詩を作るとき現実にある場所をイメージしてつくる。
天国でも現実にある場所からしかイメージできないのである。
これも全部ではないが橲原【じさばら】村からイメージして作った。全部ではないが清楚な木の花とはエゴの花のことである
ジサはエゴの花のことだからである。ただ他にも白い花は咲く石は村の入り口にある立目石のことである。
でも橲原村は原発事故以後田畑は荒れ地になった

原町の大原村でも病院で知り合った農家は息子がいても街に住んで跡を継がない、前田という所にあるから草分けの古い家なのだろう、場所的にそうである。
だから詩にするにしても何か合わないのである
だから全国でこうした小さな村が失われる時何か多様性とは消失して文化が消失する
なぜなら文化はcultivate〔耕す〕からcultureになったからであるう、つまり一つの村でも消失することは日本の文化が消失することである

そうはいっても現実は村だけで暮らすのは不便すぎる。だからそうした限界集落には住まずに一か所に人を集めて住めとなる
すると近くで用をたせるからいいとなる。
実際一万の街でもスーパーでしか買い物はできない、すると車がないと離れていると自転車で買い物するのも手間だとなる
車なしでは田舎では暮らせないということがある

いずれにしろこうした村でも限界集落となり空家が増えて消失することが何を意味しているのか?
それは日本人の心にも影響してくる。多様性がなくなり文化が消失してゆくことである。ただ文化より経済中心になるからそのことを深刻に考える人はまれなのである
現実になれば住みたくないとなるかからである
橲原村にしても農家は数軒であり二三軒くらい空家化している
とにかく空家が街中でも目立つのである。人口減少は全国的に起きている。


●文化の意味ー村があり生活があって文化もある

なぜ文化経済政策が必要なのか
政策特集文化と経済の好循環の創出〜経産省が文化経済政策に取り組む意義
令和4年3月文化経済部会報告書-「文化と経済の好循環を実現する文化芸術の
『創造的循環』」を受けた取組について

アートというとき何か生活から離れた感じになるけどそもそも俳句の季語でも農業から生まれてもいる、
つまり農業に携わること自体が一つの文化である
また他に漁業でも林業でも職人でも文化なのである
ただ絵画とか詩でも生活と分離してありえないのである
でも何か芸術も生活と分離して商品化したのである

だから橲原村でツツジが赤く咲き田植えをしているときとか村は活きていたのである。そこに生活が何らかなくなると文化もなくなる、その村の祭りとかも文化だからである
文化という時どうしても現実の生活から切り離されてみるが実際は文化がcultivvate-cultureとなったようにその土地を耕すことから始まったいる。だから文化というときも部分的なものではなく全体のことである。絵画とか音楽とか文学でも実際の生活から土地からでもはなれてありえないのである。
だからドイツの音楽でも理解するにはドイツの大地を踏みしめて実感するというのもアートは土地と離れてありえないのである。
だから村が消失することこそ文化が消失することになる。

何か伝統芸能とか歌舞伎とかでもなくなることよりそれは相当に深刻なことであり身近な所で文化が消失するからそうなる。
つまり経済的価値があり文化的価値がある、でも経済的価値がなければ文化的価値は無視される
利益にならないものは無視される、でも文化的価値も人間には不可欠なのである
今の時代は逆に経済的価値より文化的価値が追求される時代にもなっているからである

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2025年03月03日

津波の被害と大船渡の山火事の共通性 【杉は人工林であり燃えやすい、ブナの木は無用の木ではない】


津波の被害と大船渡の山火事の共通性
【杉は人工林であり燃えやすい、ブナの木は無用の木ではない】

今は土地の性質を語るときだ。それぞれの土地にどんな力と色があり,
ものを生み出すどのような自然の性質があるのかを
まず扱いにくい土地と意地の悪い丘
それは藪に覆われて痩せた年度と砂利だらけの土地
だがパラスが好む長寿のオリーブ畑には喜ぶ

牧歌農耕詩ーウエルギリウス


◎三陸の地形〔大船渡の地形〕
◎人工林の杉や松は油があり燃えやすい
◎乾燥化
◎水がなく急峻な山の斜面で消化しにくい
◎人工化人為化により被害が拡大

●人工林の杉が燃えやすく松も燃えやすかった

大船渡というと一回行ったことがある。その時大きな船が港を離れるのを見て大船渡という地名が合っていると見た
この辺では海岸でも港があっても大きな船は見ない、たまに松川浦の港に貨物船とかよる。だから大船渡に大きな船が出てゆくことを感動したとなる

大船渡大船出ずる春の日に紅梅咲きぬ我が見送りぬ

今回の山火事の原因が何なのか?やはり自然災害はまず地形が影響しているのと人工的人為的なものが必ず影響する
説明では杉とかは人工林であり松でも油があり燃えやすいという、そして樹冠から葉が茂り燃えやすいという、燃え移り安いという、確かに枯木ではなく葉が茂り密生しているから燃え移り安い、つまり自然は自然のままではない、原生林ではない、人間が便利さを求めて建築に利用しやすい杉林にしたのである。
それが一つの原因だった

そのことはこの辺で津波で松原が根こそぎ失われたことには驚いた。松は根が深く張らず津波に弱かったのである
だから松原が美しい光景としてあったとしてもそれは人工的に人間が作ったものだったのである。だから海の近くでも津波に流されない木が枯れずに残っている。
要するに森という時雑木林であり混合林である。いろいろな木が混じり形成される森である。


そのなかに(橅)ブナの木がありそれが無用の木という字になっていてが木材として人間に使われないものとしてそうなった。
これはただ人間側から見たものであり自然のなかで無用なものはないのである。ブナの木など入り混じっていれば今回の火事のように燃え広がらなったかもしれない。

ただ外国では必ず山火事が落雷などで起こりかえって新陳代謝が起こり木でも植物でも新たに芽生え成長するから自然の作用なのかとも見る。

●三陸沿岸は漁業が中心

当時の三陸海岸は、藩の外港である宮古港を中心に栄え、三陸の俵物(ブリ、マグロ、くし貝、干しタラ、塩サケ、棒タラ、のし鮑)の七品をはじめ、外国向け(長崎俵物)の干鮑、煎海鼠、鱶鰭の俵物三品や、鰹節、スルメやコンブが輸出されるなど、千石船が沖合を行き交い、蝦夷地との探検交流や日本海地方との交易も盛んになっていきます。

三陸の歴史

平地がまれだとなれば漁業が中心なるのは必然である
となると米とかを他から仕入れなければならないので海の産物を売る、それには漁港となり船運で栄えるとなる

なぜ相馬藩の港から米を松前まで運びイワシを買ったのかそれはイワシが当時肥料になったためである、北海道だと寒くまだ稲作ができないことがありそうなった。
イワシは肥料であり農業にとって肥料が最も大事だからそうなった。また宮古から浪江町の請戸港に材料として鉄が運ばれて葛尾村村で製鉄が行われて葛尾大臣が生まれた、ここでも船運が関係していた、江戸時代でも結構船運があった。小高でも港があり中世から船運が盛んだったのである

干鰯の利用が急速に普及したのは、干鰯との相性が良い綿花を栽培していた上方及びその周辺地域であった。上方の中心都市・大坂や堺においては、干鰯の集積・流通を扱う干鰯問屋が成立した。1724年の統計では日本各地から大坂に集められた干鰯の量は130万俵に達した。

蝦夷地では鰯のみではなく鰊(かずのこを含む)[16]やマス類[17]が肥料に加工されて流通した。更に幕末以後には鰯や鰊を原料にした魚油の大量生産が行われるようになり、油を絞った後の搾りかすが高級肥料の鰊粕として流通するようになった

何か自然災害となると津波と同じように人工的なもの人為的なものが関係して被害になる、松原が人工林でありまた杉の林もそうである。それは自然ではなく災害に弱いとなる
もともと(橅)ブナのはどこにでもありこの辺の山の森にもブナ坂とかありブナの木があった。もはやこの辺ではブナの木は見ない
全国的にも相当減っている。

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「橅」の漢字は、木偏に無いで、語源の「分の無い木」と同様の意味から日本で作られた和製漢字である

●自然に無用なものはない

人間とは常に自然に逆らい人工化してきたのが文明である
でもその文明も自然災害を作り出す、なぜなら縄文時代は津波の来るような場所に住んでいなかったからである。
だからこの辺の相馬市の磯部村に500人とか住んでいてもそこは砂州だった所であり消滅した。死者も一番多かった
磯部地区の死者・行方不明者は250人だった

その原因は田にした所はもともと海でありそれを埋め立てて田にした。だからそこが本当に海ななったことに驚いたのである
田にした結果住む場所が海岸の砂州地帯になったということもある。松川浦の磯部の方の漁港は小さいからである
つまり漁業ではなく田を作り稲作の方が頼りだったともなる
それで田のある所には家がないとなる

つまり稲作も自然に人為的に人工化する文明だったのである
だから埋め立てて田にした南相馬市の八沢浦であり右田浜であれ津波で元の海に一時返ったのである
それは自然の作用であれ別に自然に悪意があり人間を苦しめるためではない、自然に則っと暮らしていれば大きな被害はなかったのである。
だからブナの木でも無用ではない

自然に無用な物はない!

むしろ大都会だと無用な空き地とがない、隙間なく有用な建物で埋め尽くされて一旦火事になるとか地震とか災害に弱く甚大な被害になるから怖いのである。
それにしても大船渡は不運なのか、津波で高台に家を建てても山火事になったとか地形の影響が大きかった
やはり平らな所がないというのは住みずらいとなる、だからこそ平地が少ない日本は海だった所を干拓して田んぼにしたりしたが
そこも津波の被害があった、つまり日本の地形地理の宿命がありそうなったとなる。これは変えようがないから常に同じように被害がある。日本はこうして平地が少なく山でも斜面を平にすることで苦労した。それで平という地名が多いのである
平家というのもやはり日本の地形からきているからである。





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2025年02月27日

インバウンド観光でも日本が中国人に占領される恐怖 【グローバル化の経済競争に負けると実質外国に支配される】


インバウンド観光でも日本が中国人に占領される恐怖
【グローバル化の経済競争に負けると実質外国に支配される】

「中国の一部になるのに消されるよ」 マナー違反を注意した京都・高台寺岡林院が脅される

「中国の一部になるのに消されるよ」 

他の人も中国人が日本は中国の一部だと言われていた
古代の歴史から漢委奴国王印がありそう主張する
日本は中国の一部であり日本人は中国に従えとなる
確かに中国人は日本をそう思っている時台湾進攻すれば確実に沖縄を占領する、なぜなら沖縄は明の時代に朝貢して中国の一部とまなっていたからである。だから中国の文化も入って来た
家の造りなどもそうなっている

1372年に中山王が明に朝貢を始めると、翌年には南山と北山も相次いで朝貢を開始した。15世紀、中山が琉球を統一し、独立した琉球王国を建設した。これ以来、中国と琉球は朝貢関係を結び続け、明朝が「尚」という名を与え皇族とする慣わしも踏襲され、「第一尚氏王統」と称された。1392年、朱元璋は福建省の造船・船舶関係の特殊技能を持った「福建人三十六姓」(三十六姓というのは数が多いことを形容すると言われ、多くの福建人を意味する

シーサーとか石敢当とか守礼の門とは中国の様式である。文化も中国だとなると沖縄はもともと中国だった言われる、だから中国の領土であり取り戻すとなる、だから中国が強大化することは沖縄のように日本本土ももともと中国だったととなり中国の属国化する。
これも恐怖だとなる。日本は中国に支配されるとなる。
そもそもインパウンドで外国人が押し寄せるという時何かすでにニセコでも外国人の街になるように明らかに日本の一部が外国になる、やがて日本全体でも中国人の支配下に入ることになる
グローバル化とは経済で競争に負ければ自ずと外国人に実質的に支配されるともなる。外国人の下僕となる。それは日本人でもアジアであれ貧困国にそうしていたからである

だから観光に来ているだけだと見ているが実際は日本が外国人に支配されてゆくともなる。その足掛かりとして観光があるともなる。そして金払えばいいだろう、貧乏人の日本人は黙っていろともなる。それがここで具体的に現れたのである
金が欲しいのだったら黙って従えとなる
つまり日本が軍隊ではなく占領されるともなる
つまりグローバル化とは経済競争に負ければこうなる。召使にされる。要するにそもそもグローバル化とは資本主義は金を払えばその金を払う人に従えとなる社会である

兵力と同盟力と金力と言う三つの力のうち金力がおそらく最も支配できる戦争道具であるあろう

遅かれ早かれあらゆる民族を支配するようになるのはこの商業精神である。つまり国家権力の下にあらゆる力の中で金力こそは最も信頼できる力である
カント―永遠の平和のために

これはまさに現代のグローバル化で現実化した。だからこそトランプ大統領が外交はデールだとなる。商業取引だとなる。
それとカントは江戸時代の長崎の出島の貿易を評価している、なぜなら無制限に外交人を入れた南米とかでは現地民が蹂躙されたからである
すると江戸時代閉鎖的でマイナスの評価になるがそうでもなかったと賢明な政策だったとなる、貿易でも観光でも無制限にすることは問題になる
それが今日本でその被害国にもなっているとなる。ただ観光でも互いに理解を深める作用はある。でも日本の文化すら外国人に金の力で荒らされることは問題である

それはアメリカがそうなっているし中国人でも入ってくればそうなる。それは何か怖いことではないか、金がある外国人優先になり金のない日本人は来るなとなる。それはホテル代が高くなりビジネスマンが宿を確保するに苦しんでいる
社会活動が阻害されているのである。こんな事でいいのだろうか。でも今や日本人は外貨を稼ぐのは観光だとなる
グローバル化は経済戦争に負ければこうなるということである

実際国でも金で買われてしまうとなる。それも怖いことではないか?このことに危機感を持つ人はあまりいない、やはり受け入れる方も金になればいいとなる、すべてが金で決められるからそうなる。そして金で貴重なものを売るということにもなりかねない。それが日本の文化だったりする。そこで日本らしさも奪われ外国人好みのテーマパークになったというのもそうである
それだけ数が多くなればそうなる。

とにかく日本人が貧乏になり自分の国であっても自分の国ではないようになっていしまう危険がある
日本人が日本の文化であれゆっくりと京都でも観光できないとなるとその損失は大きくなるかもしれない、だからグローバル化というのは様々な問題を引き起こすのである
すべてが経済優先にするとそうなる、それはアメリカがそうであり中国でもそうなる。つまり日本が金で買われてしまうことである。日本の文化も心まで金で買われてしまうともなる
ずかずかと日本の神聖な場所にも踏み込んでくるともなる
ただ日本人がそうしてきたのだからカルマだともなる


【悲報】北海道で生活する日本人、住めなくなる

これも異常である、日本人は金が無いので除外されて賃金高いとして人材が奪われている
金の力で日本人の生活まで破壊される。




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2025年02月23日

ウクライナという国はなかった 【大陸ヨーロッパの民族抗争の複雑な歴史―アメリカもウクライナに介入して失敗】


ウクライナという国はなかった
【大陸ヨーロッパの民族抗争の複雑な歴史―アメリカもウクライナに介入して失敗】

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大手メディアでは報道されないウクライナ戦争
【混乱する国際政治と日本A】|伊藤貫

●ウクライナの歴史―国家はロシアによってなど作られたもの

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14世紀にはガリツィアの首都はハールィチからリヴィヴに遷都された。ウクライナ語ではリヴィヴは「レーヴの町」(ライオンの町)という意味で、ガリツィアの地章はカラスからライオンに変わったと思われる。19世紀のガリツィアは「ガリツィア・ロドメリア(ハールィチ・ヴォルィーニ)の王国」としてオーストリア帝国の一部となり、(3) の新しい「王国章」をもらった。中世時代のハルィチナーの「カラス」と、ポーランドの最南部の地章、「三つの冠」をあわせて創った紋章である

ウクライナの歴史も複雑である。もともとウクライナという国はなかった。最近では今のロシア軍がウクライナから奪い取ったロシア人が多い地域はトルコ領だった
その前はヨーロッパのハウスグルグ帝国とかポーランドの一部とかウクライナが継続して一つの国にはなっていない、1920年にロシアで共産革命になり農民は土地に執着するから土地を国家に取り上げられるので反対した。
それで工場の労働者と対立するようにしてロシアのレーニンとかがロシアに組み入れた。
これも不思議である。プロレタリアートとは要するに何も持たない資産を持たない労働するだけの人たちであり資産を持っている
農民は違っていたのかとなる。無産階級の労働者が資本家に雇われる、でも土地を持っている農民は違っていたのかとなる

ガリツィア人というのが国境を接してありポーランド領だったこともある。リトアニア領だったか何か複雑怪奇になる。それがヨーロッパとか大陸の歴史である
そもそもなぜ東欧にチェコとかハンガリーとかいろいろな小国があるのか?それはもともとは民族が違っていて国も違っていたとなる。その民族がわかりにくいから単一民族の日本人は理解しにくくなる。ともかく大陸は民族抗争が激しいのである。
だからウクライナ人とは何かとなるとき何なのだろうとなる。
なぜウクライナ語がありロシア語があるのかとなる。

そのウクライナの紋章にしても変化しているのは国が合体したりして変わっているからである。ただなぜ最初が烏の紋章なのかとなる、日本の天皇もヤタガラス神話がありカラスを神聖化しているからである。その理由がわからない、確かなことはウクライナという国はもともと存在しなかったのである
ロシアの革命で作られた極最近できた国だったとなる

●アメリカの世界支配の歴史の失敗

そしてウクライナはアメリカ軍が直接入り訓練して軍隊にした。
アメリカが他国を支配する時民主化を大義名分として介入してくる。それはあくまでも口実だともなる。
とにかくウクライナが一方的にロシアを侵略したという見方は偏っていたのかとなる。アメリカが介入してその指示でロシアと戦うように強いられたのかとなる

その背景は複雑である。そもそも人間の個々人でも争いになるのはその背景を知らないと簡単に理解できない、だから双方の言い分を良く聞かないと判断を誤る。そして双方の事情でもりかいするのが難しから喧嘩両成敗になったのである。どちらが悪いと簡単に決めつけられないかである。

そういうところにアメリカが軍事力を持って介入してくることが問題だった。だからトランプ大統領はロシアに味方するようになったのかもしれない。アメリカの介入が災いをもたらしたと反省したからだとなる。ともかくアメリカの介入が災いをもたらしてきた。それはベトナム戦争であれイラク戦争であれアフガニスタン戦争であれ今回のウクライナ戦争もそうである。

そうしたアメリカの横暴は日本との戦争でアジアに介入して世界一極支配と進んできた一連のものとしてある。それが今や行きずまりアメリアファーストに変換するようになった。
パックスアメリカは失敗したしまた中国であれ一国がいかに巨大でも世界を支配することは不可能なのである、必ず失敗するのである。中国の一帯一路の政策も失敗しているからである
そこに神の介入がある。世界政府はできない、それはバベルの塔となるからだともなる。かならず崩壊することは確かである

●異民族との抗争がなかった日本人

ともかくこうした熾烈な民族抗争を日本人は経験していない、日本という島国に生活する人はみんな日本人になる
だから民族抗争がない、民族抗争になると相手は許されない存在である。だからジェノサイドが起きる。皆殺しになる。
それは聖書でもそうである。絶えざる民族抗争があり出エジプトでも異民族が邪魔したら皆殺しにした。それも神の命令の下にそうした。また中国では墓を暴いても敵を罰したというのもそうである。異民族の敵は許さないとなる。
日本だと敵味方塚があるように敵でも手厚く葬っている。
戊辰戦争戦争でも東北では敵を手厚く葬っている。

その相違は大きい、同じ日本人だからと西郷隆盛と勝海舟が会談して東京は戦場にならなかったのである、同じ日本人という意識があった。でも大陸では多様な民族が存在してそうはならないのである。異民族は殲滅しなければならないとなる。
今でもウクライナでもそうでありイスラエルのアラブ人もそうだしユダヤ人のホロコーストも異民族の排斥虐殺になる
それが継続されている。陸続きだということは必ず異民族が侵入してくる。それで中国では万里の長城が作られた
遊牧民のモンゴルが侵略してく来るからである。

日本にモンゴルが侵略しても海が障壁となり船も沈み攻められなかった。海に守られて日本は異民族は侵入できなかったのである
そして日本人のアイデンティティは500人くらいの村だった
そうした狭い範囲で一番怖いのは村八分だったことでもわかる
そいうことは一万くらいの町で自分も経験している

日本人が外国に移住しないというときもそうである。陸続きでないあからそうなる。陸続であれば何かあれば国境でも越えやすいからそうなる、日本は海で閉ざされてまた山でも閉ざされた国なのである。それが日本人を偏狭にしている。
ただ海は閉ざすけどまた外に向かって解放する場にもなる
だから世界大航海時代がヨーロッパにあった。日本にはそれがなかった。どちらかというと海は閉ざすものとして働いたのである。










posted by 天華 at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年02月20日

歴史のトラウマとカルマーヨーロッパとウクライナとロシアの戦争のトラウマ 【両方とも責められた被害がありトラウマが消えず信用しない】


歴史のトラウマとカルマーヨーロッパとウクライナとロシアの戦争のトラウマ
【両方とも責められた被害がありトラウマが消えず信用しない】

●個々人のトラウマと国同士のトラウマ

人間は個々人でもトラウマになることが普通にある。トラウマとは傷であり何か心を傷つけられることがあればまたそのことが同じように自分に起きると思ってしまう
それは人生経験の中で裏切られたり人は信用できなくなることは常にある。自分自身でも散々な目に合い人間が信じられなくなった。人を見たら泥棒と思えというのはまさにそういう経験をすればたとえその人はそういう人でもなくなくても現実にそういう経験をするとそうなってしまう。人は信用できないということである。それは経験でそうなってしまうのである。必ずも1回そういうひどい目にあうと人間に対する見方が全く違ったものになってしまった。それはトラウマでありその傷を癒すことなかなか出来ない。人間不信になってしまったのである

このことは個々人のことであってもまたそれは大きな国同士でも起きているのである。韓国であれ中国であれ日本に一回またはその前でも秀吉とか攻めてきて蹂躙されたとかそのことをトラウマとなってまた攻めてくるのではないかという疑心暗鬼になって日本人を責めてくるのである。
それは中国でも同じである。日本人蹂躙されたということでその恨みがやはり残っている。それで怖いのはその恨みを晴らすということで日本攻めてくるということにもなる。そのトラウマが消えることがないのである

●ロシアとウクライナ〔ヨーロッパ〕のトラウマ

ウクライナとロシアの戦争でもやはりそうしたトラウマがあり争いになる。なぜならロシアがヨーロッパからナポレオンであれドイツのヒットラーであれ進められてきて1000万人が死んだとかあれそれがトラウマとなっている。いつまたヨーロッパが攻めてくるかもしれないという不安を拭い去ることができないのである。

逆にヨーロッパ側でもロシアは東欧を攻めてきて占領したとかありロシアは危険だとなるのはそのトラウマが消えないからである
一旦行われた行為がカルマとなる。カルマとは他者にした行為が返ってくることである。ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」という原則はもそうである。つまり一旦相手から受けたことは傷は消えることがないからその仕返しをすることが許されていたとなる
常に人間にはこのカルマの法則が適用される

ウクライナ戦争もそうした歴史のカルマが関係しているそれがウクライナとロシア戦争と見ているわ実際はヨーロッパとロシア対立がありそれでウクライナはその中間にあって紛争の地域とな
の背後のヨーロッパがロシアを恐れてまた逆にロシアはヨーロッパの攻めてくるという恐怖のトラウマ消えないのである
そうした歴史のカルマがありそれは解消されないのである
ロシアにとってはウクライナのキエフとかはロシア発祥の地であり歴史的にもうもともと深い関係はあり言葉にしてもウクライナ語とロシア語あっても通じ合うということもありうる。だから文化的にも共通性がありウクライナはロシアの一部だという認識になる。そういう事情はありそこにアメリカが介入したことで反発したのである。

だからアメリカが介入してありヨーロッパがその背後でウクライナを支援するということはまたロシアにとってはトラウマとなり過去が蘇り攻めてくるのではないかという恐怖になっている。
ただ西側ヨーロッパ側から見れば同じようにロシアもまた攻めてきたように攻めてくるというトラウマがあり恐怖なのである。
要するにそのトラウマが個人で相手から受けた傷を簡単にはいやされない許されないということである。信用できないということである。
だからどちらにしろキリストのようなな〔汝の敵を愛せよ〕という許しがなければ永遠に信用できないし争うとなってしまう
確かに一時的には訂正してまたそのトラウマが消えたわけではなく不安があり警戒は続き平和はないのである

一旦行った行為というのはカルマとなって消えないのである。だから人間の行為というのは罪深いものでありそれが消えないということで延々と苦しむのである。なぜなら中国にしても日本に占領されたこともありそれでカルマとなってその恨みを晴らさなならさなければ収まらないとなってしまうからである

●日本でもロシアを警戒するのは過去の戦争の歴史のため

日本にしろロシアを警戒するのを現実に日本は日露戦争とかまた太平洋戦争で北方四島は奪われたとかりそれがトラウマとなってロシアを信用しないし警戒することになる。ロシアは日本の弱体化にすれば北海道に攻めてくるというのもそのためである。どうしても過去の行為から信じられないからそうなる
一度行われた行為というのはカルマとなり消えることがないから深刻なのである。

それでウクライナはヨーロッパとロシアが中間にあり中立国にすべきだということになる。そういう解決策しかないのかとなる。ウクライナというのはその国家自体の歴史百年とかなのか短いのである
つまりもともとロシアでありヨーロッパに属していたわけではないので。なかなか西側に属していればそういう見方ができない何か一方的に侵略したロシアの横暴のように見えるのである

それでアメリカでもそういう事情がありそれを考慮してロシア側に配慮して和平をもたらそうとしているのかもしれない。そういう歴史的事情がありそこにアメリカが介入したこと自体が問題であったということを認識したのかもしれない。つまり一方的にウクライナに支援したことが問題だったということに気づいたのかもしれない。それでその解決方法というのはウクライナを中立国として存在させるということにもなったのかもしれない。

ともかく人間の問題は国同士であれカルマが関係している。相手にした行為がカルマとなりその結果としてそれがトラウマとなり信じられなくなることである。この辺で起きた原発事故でも同じである一旦こうした大事故で大被害を受ければいくら原発は安全だと言ってる信じられなくなる。それは個々人でも同じであり一旦他者から受けた行為はカルマとなってその傷はトラウマとなって消えないのである。

人を見たら泥棒と思いというのも必ずそういう目に合えばそういうふうに人を見てしまうのである。それは例えば別にそんなことをしない人まで泥棒ではないかと見てしまうのである
それでそういう被害を受けた人は他者を信じられなくなるのである。それは自分自身ですらそういうことを他者にしているから他者を責めることはまたできないともなる
ただつまり人間のそうした罪というかそういうものは決して一人の人に傷つけるのだけでもなく社会全体に影響する。。だからこそ諺は今でも生きているのである

外国人が観光で日本に押し寄せてきているのまた批判したりするのそれはこれまで日本人が外国でしてきたことでありそれがカルマとなった帰ってきたということである。そうした行為というのが必ずカルマとなって返ってきて消えることがない、だから人間の問題というの永遠に解決しないともなるのである
ただそうしたことを深刻に考える人はいない、でもそうした行為がカルマとなって必ず返ってくるということを知らなければならし必ず知らしめられのである。




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2025年02月17日

創価公明党は完全な政教一致の危険な団体 【目的は権力奪取ーそのためには何でも利用する】


創価公明党は完全な政教一致の危険な団体
【目的は権力奪取ーそのためには何でも利用する】

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玉木代表 は認めない!! 悪用の陰謀が暴かれる! 
公明党 まさか!!! 大変な事態が発生!

●創価の目的は権力奪取で完全に政教一致

公明党の根本的問題は完全な政教一致にある。それで矛盾しているから問題は生じる。私が経験したことではほとんどが選挙活動でありそのためにただ使われだけだった。
私を折伏した人が大阪の方の京都の方の市会議員だったから特にそうなったのである。その人は元々は純粋な人であったのだろうでもそうした創価の議員なのだから完全に創価一色になりまるでスナチス党員であり中国なら紅衛兵だったのである。
なぜならすべて公明党の議員になった結果そこで収入があって大学にも入れたとかそのために生活的にも良くなったからそれはすべて創価のおかげであり公明党のおかげだとなっていたからである。だから何か創価というのは公明党というのは何かわかりやすいものだったのである。

創価というのは毎日が選挙のためにあり座談会でも選挙に勝つためにありそのために題目を上げて祈っているのである。また池田大作氏が生きていた時は池田先生のために選挙活動をしていたのである。そして創価の目的とは何なのか権力奪取であるあらゆる手段を講じてただひたすら権力奪取に向かうのである

だから選挙という時すでに二年前なのか選挙活動をしているのである。すでにこの参議院選挙でも半年前から全国にポスターが張られている。選挙活動であり選挙のためにある団体なのである
なぜそうなるかとなれば創価の目的は公明党の目的は権力奪取だと公然として宣言して毎日題目を唱えているからである。その権力奪取のためにはいかなることもする
なぜなら池田大作は愛読しているのは三国志である。いかに権謀術数を用いて権力を奪取するかってことを公然としているからである。
そしてそこで語られるの御利益であり福運でありそれが得られるとして毎日活動しているのである

だから創価というのはその公明党の議員の中に一番その特徴が現れれているのである。議員になれば栄耀栄華がいられるそれで汚職とかなり公明党議員でも逮捕されたのである。それはある意味で当然の結果だったのである。
なぜなら何であれ権力を得ることを目的にしている団体だからである。それに幹部たちは同意しているし公然としてその目的はなにか権力奪取だと宣言していたからである。権力を得れば栄誉栄華がご利益が得られるということでそうなっていたのである
それは明らかに政教分離の法律に違反していて自民党でも一時は公明党を批判したが公明党創価を利用するために票を得るために利用して連立を組んだのである。

●国土交通大臣の椅子を離したくない

そして国土交通大臣の権力を得ることになったのである。結果としてそういう権力を持てばまた票を得られるということがある。すべてがただ権力を得ることに運動するのであるその権力を得るためにはどうするかとなれば選挙で勝つことが最大の目的になるのである。選挙に勝てば仏法の勝利だと何なるからである。だからこうして完全な政教一致の政党はなぜ存在し得るのか理解できないのである

ただそこにはもともと社会の底辺で苦しむ人がいてその人たちを支持層にしていたからそれは共産党とも似ているのである。その人は最低の貧困者であるがその人は共産党に入って常に社会を批判して貧乏なのは政治のせいだといっていた。こういうことで公明党と共産党はそうした社会の底辺層に多いからその人達が運動するのである。そういう人たちは社会で助けないからそれが何であれすがるということである、だからそうした底辺層に目を向けないとそうした団体はやはり無くすことができないともなる
何か必ず別な団体が名前を変えてでてくる。それはまた政治のカルマであり繰り返されるとなる

だからそういう人達を利用して政権権力奪取を目指すものとなったのである。ただ別にもともと宗教団体というのは政治団体というものでもあり中国の中国なら黄巾党とか不満分子を集めて革命を起こすのである起こしたのである
だから今でも習近平などは宗教というのが集団組織化していると政権維持するのに危険だから弾圧するのである
また信長が一向宗などの比叡山のそう僧侶たちをを惨殺したのはそれはそこが信長の権力の及ばない治外法権のようになっていたから敵対するものとしてそう見たのである。それは確かに権力者から見れば権力をに反抗するものとしてそうなったのである

●政教一致はナチスでもマルクスの共産主義でも天皇にもあった

ただ宗教と政治が一体化する時どうなるのか。それは歴史的にはナチスとかとも似ているし日本でも天皇を現人神として戦争を戦って300万人も死んだというそれも宗教的問題だったのかもしれない。天皇のために死ぬということは国のために死ぬことでありある意味で殉教だったからである。つまり政教一致ということはそういうことである。その死んだ人の数も膨大なのである
中国の文化革命でありカンボジアの共産革命であるそのためにどれだけの人間が死んだのか。カンボジアでわ200万人も死んで骸骨の山が博物館になっているのである。つまり共産主義というのも1種の宗教であり教条主義になりそれに反対することは許されないともなった。そして反対者は粛清されたとなる。中国語でも紅衛兵とか毛沢東によって洗脳されて反対者は吊るし上げられて殺されたということもある

なぜそんな悲惨なことが起きたのかというとマルクス主義というのは一つの宗教にもなっていたからである。今のカルト宗教と似ているのである
本来の宗教とは関係なく政治家して権力を得ることが目的としている。第一宗教なのに三国志を経典のように勉強しているというのもおかしな話なのである。そこにはどういう人が集まるかというとまさに権力を奪取して議員になり栄誉栄華だが得られるとして運動しているのである

そこに本来の宗教など微塵もない。でもやたらと反対する人は地獄に落ちるとか罰当たるとか脅して現実にそうなるとみんなで喜んでいるのである。
でも現実はその会員でも信じられない不幸な人が普通の社会より多いのである。そもそも人間は不幸から逃れられない何らか家族を見て見てみると何かしら問題を抱えているのである、それは私の家族もそうだしたった他でもそういう事が多いのである。別に創価の会員でも信じられない不幸に陥っている人もいるし全く問題なども解決しない人もいるのである。

近くの人で息子が病気になるその後その母親は病気になり死んだという不幸がある。それは創価に入ってからすぐにそうなったのである。だから周りの人はなんなのだろうと見たことは確かである。そういう例はいくらでもあるのである。私自身の家族でも認知症になったとか様々な苦しみを経験した。自分が病気になったとか苦しんできたからである。そういうことは別にどこの家族でも起きてくることである。そもそも人間が生きることはそうして苦しむようになっているのである。それがカルマだとなる

ではそのカルマの解消は創価であれカルト宗教団体に入って解決するかとなるとしないのである。むしろ悪い方向に向かうこともありうる。なぜ創価に入った途端に息子が病気になりその後すぐに母親が死んだのかということもそのことである。だからそれを見た時周りの人はなんなのだろうと見たのである。

でもそういうことは別にそう家でなくてもほかの人でも起きている。創価の会員だからと交通事故に遭わないとなるかとなれば学生時代に運動した人は20歳ぐらいで交通事故で死んだのである
いくらでもそうした不幸は別に創価の会員でもカルト教団でも必ずいるしかえってその数は人数が多いのだからそれに比例して多いのである。

そうかはいれば病気にならないとか事故に会わないとかまた商売でもうまくいかないとかにはならない繁盛するすべての人が繁盛するとかもならないのである
現実に創価の会員でも事業に失敗する人など山ほどいるいるだろう。もちろん病気になる人もやはり同じである。そもそもそうした不幸は人間に避けられないのである。だからこそ聖書でもヨブがどれだけ苦難を得たかそれで信仰を捨てなかったかということが記録として残っているのである。それは神がヨブに試練を与えたからである

●カトリックでも免罪符を売り奴隷にしたのと似ている

何か宗教というのは人を奴隷化するのにいいものなのである。それはキリスト教でも同じだったのであるカトリックが人々を奴隷のようにして縛りそして最悪は免罪符などを売り付けたのであるそれで天国に行けるとか金をせしめていた。それはまさにサタンの業だった。それに反抗して司祭か牧師とかそんなものはいらないとしてプロテスタントが生まれたのである

つまり神の権威を語り人々を支配しようとしたのはまさにサタンだったのである。それとカルト宗教団体は似ているのである
第一そんな人たちが地獄に堕ちるだとか罰当たるとか言えるのか?むしろ宗教家と地獄に落ちると不安に思う人は却って救われるということを言っている。それはやはり自分の罪とかを自覚したからかもしれない。それを創価とかこれカルト宗教団体は人を縛り奴隷にするために恐喝の手段として宗教を使ってから相当に悪質である。そういう人は確実に地獄に本当の地獄に行ってると思う。
でもそういうことも恐れもしないのがそうしたカルト宗教団体の幹部なのでだからそういう人達は本当の悪人なのか無知なのかサタンに操られているのか不可解だとなる

ただその罪は相当に重いから確実に来世で裁かれてその人たちこそ地獄に落ちるのである。ただそういう人たちは現世ではそんな地獄の恐ろしさなど感じないのである。ただ現世で得すればいいだけである
だから地獄に落ちるなどと感じる人はその人は本当に宗教家である。だからこそ親鸞は地獄は一定の住処とか言っていたのである。つまりそう思う人は本当の宗教家だったということである

相手に対して地獄に落ちるなどという人はそれはまさにサタンであり悪魔だったともなる。何か平気でカルト宗教団体の人はそういうことを言うからである。その罪は相当に重いから来世で裁かれる罰せられるか恐れるべきである。ただ奇妙なのそういう恐れもないからこそそういうのである
つまり俺は地獄に堕ちるほかない悪人だと思っている人は本当の宗教家でありその人は救われるとなる
いずれにしろ宗教となると何かやっかいなものになる。だからこそ触らぬ神に祟りなしとなる。カルト宗教団体に入ったりしたら会員になったりしたら奴隷にされて金を巻き上げられるだとなる

いずれにしろ創価は衰退して公明党も衰退してやがては会員が減って消滅してゆくのは見えている。だからこそ様々な最後のあがきなのか国民民主党が伸びてきてからそれを利用しようとかなんとか会員を減るのを抑えようと躍起になっているのでは最後のあがきだということである。だから国民民主党でも公明党と組むことは危険である。一つの権謀術数であり国民民主党利用されるということである。

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2025年02月14日

グローバル経済でアメリカも自国第一主義ななる 【これからは経済第一主義から文化の時代になる】


グローバル経済でアメリカも自国第一主義ななる
【これからは経済第一主義から文化の時代になる】

●グローバル化はアメリカでも自国優先主義にさせた

グローバル経済はアメリカに有利に働き金が集まる、ドルが基軸通貨となりアメリカに富が集めると見ていた
でもトランプ大統領が関税をかけること移民を入れない追い出すというときグローバル経済の歪みがアメリカ自身に跳ね返っている。USスチールが日本製鉄が買収するというのでトランプは反対した。でもグローバル経済を追求してゆくとアメリカだけが得するということはありえないとなる。
でもその影響が強くなり国内産業が疲弊してラストベルトの中西部が困窮する。それでその支持層がなんとかしてくれとなりトランプが再び大統領になった

グローバル経済ではアメリカだけが繁栄するとはならないのだろう。ドルが基軸通貨でもそうである。そもそも覇権国はポルトガルであれスペインであれイギリスであれ移動してきたのが世界の歴史である。この流れをとめることはできないだろう。
アメリカファーストを主張してもグローバル経済の影響を止めることはできない。覇権国は必ず移動するし栄枯盛衰があるのが歴史である、驕れる者久からずはどこの国でも世界史的レベルでも通用する。

グローバル化とはヒトモノが自由にで入りする。それが止められない、でも一旦競争に負けるとその国は戦争で敗れた奴隷ではないがそれに似たものとなる。だから日本でも経済が競争に敗れた時逆に東南アジアに出稼ぎに行くとか外国人に売春をするとかこれまで日本人が外国でしてきたことはカルマとなってからとなって帰ってくるのである。

●グローバル経済の敗者となった日本

北海道のニセコだけではない今や富良野でも外国人の別荘は立ち並び街の様子は一変したという。つまりグローバル競争に負けたから日本人は外国の召使いのようになるのである。
肝心の日本人のアイデンティティ化した文化がある
京都ですら外国人に埋めつくされて日本人はゆっくり観光もできなくなっているのである。このことが嫌だとしてもグローバル化とはそういうことなのである。
一旦経済競争で敗者になれば金のある国に国すら買い取られるとなる。それはアメリカでもUSスチールで起きていたのである。
グローバル化がいいとか悪いとかではなく人間社会何でもいい面と悪い面がもたらすのである。そのことは未来であっても同じである。確かに文明が発達して便利になって生活も楽になったということがあってもそこで失われたものは必ずある

ただグローバル経済のマイナスの面が大きく出てきてアメリカすら自国優先主義になったのである。それはやはり自国の産業が衰退してそれで困窮している人がいればその人たちが何とかしてくれとなるからトランプ大統領は選ばれたのである。
グローバル経済とはその国の文化とかコミュニティであれ破壊するものがる。オーバーツーリズムとかもそうでありその国の人が京都であれその文化を知ることもできなくなることは大きな問題だからである。まず日本人こそが京都の文化を知るべきでありそれが日本人の基になっているのだからもしそれができないとなればどうなるのか?

日本に住んで日本人であっても日本のことも分からなくなってしまうということである。そして京都の情緒を破壊されるのである。何か嵯峨野に行った時でも修学旅行した団体が学生が騒いで場所の落柿舎とかあったかそれも何か雰囲気を壊されたのである。
そして浅草でも浅草なりの雰囲気があったが今や外国人のためのテーマパークのようになっているというのもそれもやはり歴史と文化の破壊のである。

でもそこで利益があるのだからいい面と悪い面がありそこに住んでいる人も簡単に辞めることもできないのである。
つまりグローバル経済とはすべて金がものいい金によってすべてが決められる世界である。貧乏人はお断り貧乏人は来なくても良い外国人で金を持っている人は待遇しますということになる、
それは何でもグローバル経済と資本主義社会でそうなるのである。それを全部否定することはできない。ただそれが行き過ぎたときどうなっているかということである。アメリカだけが得しているというわけではなくやはりアメリカでも何かもともとあったものは破壊されそれで失われるものがある。

●経済第一主義は社会を歪める

経済利益第一主義というのはやはり社会を歪めてしまう。それは道徳なき経済でもありただすべてが金で利益があるかどうかで決められてしまうのである。それは世界がアメリカ化したということである。
内村鑑三でも明治時代にアメリカに留学してアメリカはすべて金だということを肌で知ってアメリカを嫌悪するようになったのである。その時日本はまだ日本的な情とか残っていて全てが金で決められている社会でないからその差がありアメリカを嫌悪したのである。
つまり現在のグローバル社会であり資本主義であれあまりにも金だけを追求する利益だけを追求する極端化したものとなってしまったのである。

そうして今世界中がヨーロッパであれフランスでもドイツでも経済的に停滞している。カナダで石油などの資源があってもホームレスが増えているとか衰退している。中国は若者が就職できないと苦しい状態にある。日本もまた物価高になりそれで給料も上がらず困窮している人が多くなっている。
つまりもはやグローバル経済というのは成長は望めないくなっている。それはこれ以上地球で人口が増えて成長を続ければ地球は破壊されるとまでなっていたからである。だから人口減というのは自然の摂理であり経済成長を止めさせたのであ
これ以上成長したら人口が増えたら自然を破壊されて人間が住めなくなるような状態になるからであるだから今世界で起きていることは自然の摂理でそうなっているのかと見る。

文明という時文明というときそれはあまりにも巨大化したのである。 1000万の大都会などそれを有機的に結合するものとみれない。東京などでもそこがとても人間の社会ななのか、どこか別な惑星にでも来た感じになる

ただそこで言葉を失う、言葉にならないとなる

●経済から文化の時代に移行する

そこからナチスとかカルト教団とか異様なものが生まれて来たというのもわかる。そこには真善美は生まれない、かえってフィレンツのような五万くらいの小都市国家にルネサンスが生まれた
また天才が大都市から生まれないというときやはり自然から霊感を受けないから才能が発揮できない、cultureはcultivate〔耕す〕からでている。つまり文化はその土地土地の風土でも相違があり料理でも何でも生まれたのである。

文明でも何か巨大なものをイメージするがcivilizationとcivil〔市民〕のことである。市民社会でありそれは城壁に囲まれた小都市国家から生まれたのである。シチズンシップもそこから生まれたのである。パスポートにもあなたはどこの国からきたということもあるが何処の市から来たのかというのも記すのでる。それは小都市国家のことである、その小都市国家から文化が生まれたのである。その都市都市には文化があった
でも今一千万の都市から来たとしてもそこに文化はない一様化している。高層ビルが建ち都市の景観は同じなのである

これからは産業ではなく文化の時代になる。観光でも誰も工場を見学などしない、その国の自然文化に触れるために来る
文化の交流なのである。ただグローバル化は行きすぎるとその文化を破壊するのである。
いずれにしろコンピュウターは発展して生成AIの時代になったときこれが絵でも詩でも作ることに驚いた

これはやはりそれぞれの国の人たちが文化を発信するのに役立つ
世界の人が文化を発信する時代だともなる。
日本でも唐風文化を本居宣長が批判して国風文化を唱えたように同じことが起きる回帰する。
何か文明自体が限界にきて世界で国内回帰になり文化の時代になる、アメリカですらそうなっている。資本主義は限りなく成長することを目指すがそれも自然の摂理が働き止められてとなる
人口減もそうである。これ以上地球で人間を増やして養えないということである





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2025年02月08日

日本のカルマ個々人のカルマーグローバル経済資本主義の終わり 【預金封鎖、東南アジアに出稼ぎ、また売春など】


日本のカルマ個々人のカルマーグローバル経済資本主義の終わり
【預金封鎖、東南アジアに出稼ぎ、また売春など】

●急激な変化に戸惑う

何か今起きていること起きつつあることが信じられない
つい先ほどまで盛んに中国の飛躍的発展成長のことが語られていた。今は中国が窮地に追い込まれて数億人が飢えに直面するとかそれが理解できなくなる。その変化が急激だから何が起きているのか理解できなくなる
日本の衰退は失われた30年というときそれは相当に長い
でも中国の衰退は急激にそうなった。だからまた日本とは違っている
グローバル経済は何か世界的に変化が速いとなる
だからついていけないとなる。

ただ常にこの世は変化である。三日見ぬ間の桜かなである。
でも逆に三日見ぬ間に散る桜かなともなる
この変化が激しいのである。それで戸惑うとなる。昔からそいうことはあったが今はグローバル化して世界の変化に巻き込まれる
それを理解するのがむずかしとなる。
確かなことは人間は個々人でも必ず人生でも様々なことで変遷する。家族でもそれぞれ違っていて運命なのか翻弄される

私の母は大人しい人だったけど東京に女中で働き東京の人と結婚したが夫が工場の事故で死んだ。そのとき一生暮らすだけの補償金をもらったが戦争が終わり預金封鎖があり金は紙屑になった
ただ実家の近くに土地を買った分だけが残ったのである
だから預金封鎖があるというときそれはまたありうる
つまりこの世に起きることは必ずカルマとなって繰り返すのである。だから預金封鎖などないとは言えなのである

●カルマは相手にしたことが自分にもされること

そしてカルマというとき日本人が東南アジアに出稼ぎに行くとか売春に行って逮捕されたとかこれも信じられないものとなっている。でもそれも日本人のカルマだとなる。なぜならカルマとは繰り返すであり何か相手にしたことがカルマ、業となって返って来る、相手に苦しみを与えたものはやはり今度は苦しみを受ける
それが本当に日本が外国でしてきたことを日本で同じことをされるとなる。それがカルマの法則なのである
だから国同士でもそういうことが起きて来る

また世界の覇権国が常に移動するのもそうである。大英帝国の没落もそうである。次はアメリカ帝国の没落である。今やアメリカは自分の国を守るのに必死になり関税を高くして国内の雇用とか経済を守る守勢にたたされている。これまでは世界の攻めの外交だったが守りの外交になる。自国優先にならざるをえない。グローバル化でアメリカが有利で栄えたように見えて逆に国内産業が衰退したという一面がある。製造業でも衰退してその不満がありラストベルトの人たちを救済するということでトランプが支持された面がある

いずれにしろ人間社会で栄枯盛衰は避けられない。だからアメリカでも衰退してゆく、アメリカはもはや世界の覇権を守ることができない。その限界が隣国にも高い関税をかけるのもそうである
自国の経済を守ることに必死だとなる。それだけ国内経済が疲弊しているのかとなる
ただ世界を見れば経済が成長して伸びている国が見えない、インドもうまくいかないとか行きずまっているとかヨーロッパも苦しいとか行きずまりになっている。それは世界的に経済が停滞して内向きになっている。グローバル化が限界になり世界経済自体成長しないとなる

●インフラの老朽化も修復できない

ともかく中国の衰退は規模が大きいから世界に影響する。日本は日本で衰退凋落がさらに加速する,少子高齢化は深刻である
空家が多いのは東京でもそうなり地方では深刻である
日本が縮小する衝撃痛みが顕著になる。
何か水道管が壊れて道路が陥没して修復できないとかある。
いたるところで人材が不足して直す人もいないとかなる
ローマ帝国は水道橋などが修復する人がいないとかで衰退したという説もでてきた。確かにあれだけのものを維持することが容易でなくなる。日本のインフラもそうなる心配もある
つまり拡大増産から縮小することの衝撃が大きい。そのことが全国で起きる。

不思議なのはカナダで住宅を作る労働者がいなくて住宅費が馬鹿高くなり住むことができないホームレスが増えているとかカナダもそうなのかと驚く、大工と職人が確保できない、それは単純労働とは違うからである。
このことは今日本でも人材不足として起きている。つまりローマ帝国衰退と同じく人材不足で衰退するともなる

この経済の衰退はグローバルに起きている。これはもう地球は経済成長の限界でありこれ以上の人口増加は望めないということかもしれない、何か世界的に縮小してゆく、その衝撃が起きている
地球の許容範囲を越えた結果として起きている現象だとなる。
もはやアメリカのような大国は世界から現れないとなる。
世界自体の経済が縮小してゆくとなる。経済成長がなくなると同時に資本主義も終わりグローバル経済も縮小するとなる
何か中世的世界になるというときもやはら歴史でもカルマがあり揺り戻しが起きる、同じではないにしろ過去への回帰が起きる
そもそも無限拡大拡張拡散増産とか無理だったなる。それが世界的経済の停滞となる、それは自然の理でありそれには逆らえないともなる




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2025年02月04日

多様性の基本はそれぞれの風土地理が基本 【山村とか限界集落となり喪失すると多様性がなくなるー玉野村や浪江町の津島のこと】


多様性の基本はそれぞれの風土地理が基本
【山村とか限界集落となり喪失すると多様性がなくなるー玉野村や浪江町の津島のこと】

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●文化〔culture〕の意味

それぞれの土地の個性は特色はどうして作られのか
その基本になるのは地形と地勢とか地理である。
だからこそcultivate〔耕す〕がcultuerになった。つまり人間は住む場所によってこそ一番影響を受ける。風土地理の影響が大きい、それはまた生まれつきとか遺伝があるにしてもその生まれた家とか家族とかに環境因子に左右されることが多いのである
遺伝も致命的だが環境も致命的である。

双子に生まれても別々の国で育てば言葉も違い全然違ったひとになることでもわかる。また健康というのも遺伝的なものが基礎にあるとしても生活習慣が大事になる、やはり習慣的に運動していないと体全体を健康に保てないのである

筋肉は常に鍛えていないと劣化して全体に影響する、また運動していないと血流も悪くなり体でも脳にも影響する
だから生活習慣が積もり積もって老人なり症状となって現れる
だからかいかにに人間は日ごろの生活が大事かわかる
何でも日々の生活が脳でも体でも影響する、それが老人になり結果として現れる

また人間は風土の影響が大きい、だからこそ風土が文化を作るとなる。風とは天候とかであり土はまさにその土地土地の地勢とか地理とかである。例えば福島県はハマ,ナカ、アイズに分かれている、海側に面している浜通リだと会津とか山に囲まれた地域とは相当に違ったものになる。いつも海を見ているものと海から太陽が昇るの見ているのと山から太陽が昇り沈む場所に住んでいる人の感覚は基本的に違ったものになる
だから場所を変えると気持ちも変わる。それで人は遠くに旅したいとなるのは場所を変えることにより心まで変わる体験する

●隠されてあった玉野村の魅力

それで相馬市の玉野村はかなりの坂を上るから遠く感じた
玉野村の本体は伊達と相馬の境の集落から脇道のトンネルをくぐった所にあった。そこに私が行かなかったのは不便になっていたからだろう。何かそれで失敗した
玉野村の本体はそのトンネルをくぐった所にあった
それはなぜかとなれば平らな土地が拓けてあった。つまり平らな土地があれば田んぼでも畑でもつくり何とか暮らせるとなる
山間だから日本では平な場所が少ないからだ
それで木戸木の人が土地を平らにするのに苦労したと言っていた
平という地名はそこから生まれた。

ともかくトンネルを抜けてかなり広い平らな地が拓けていることに玉野村が形成された。ただ霊山とかあの辺りは石戸村であも坂であり本当に平な土地がない山間の不便な斜面があり家がある
だから野というとき日本では斜面のことだった。そうした斜面に人は畑を作りまた県〔あがた〕を作りそこが県の由来だったのである
ただ県というときそこは今でも中央から認定されて税を納めるのであげるが県になった。行政区域としてあったともなる

●県〔あがた〕の歴史的意味


県 (あがた)

古墳時代に、畿内[きない]の朝廷[ちょうてい]は国造[くにのみやつこ]に地方を支配させていましたが、それとは別に、朝廷が直接支配していた土地のことです。県の責任者が県主[あがたぬし]です。朝廷に食料や物資を納めていました。

山の森は水をたくわえ水を供給するからこそ神聖な山となり祖先の山となり信仰にまでなった。
最初からなぜ日本の中心でなく大和盆地の飛鳥が先になったのかというと飛鳥から水田を造り始めたからだ。大阪は難波江であり八十島であり大きな入江であり葦原の入江であり水田に適していなかったのだ。まずなんらかの生産力がないと貯えがないと国は興らない、飛鳥で水田を米を作り始めて国力がついてきて飛鳥から藤原宮-平城宮-平安宮と発展した。

「県〔あがた〕」は、大和にあった大王〔おおきみ〕家の直轄地である「大和六県〔やまとのむつのあがた〕」(=「曾布〔そふ〕県・山辺〔やまのべ〕県・磯城〔しき〕県・十市〔とおち〕県・高市〔たけち〕県・葛城〔かずらき〕県」)の他、「河内県」「吉備県」「筑紫県」など、西日本に多く見られ、朝廷の直轄的性格が強いようです。

岩手なるあがたの民の憩場(いこひば)の森となれかしけふ植えし苗  昭和天皇

昭和天皇は歌がうまかかった。その伝統も平成天皇令和天皇になると失われたとなる、何か原始的心性がとても東京のような所では養いないとなる


県が多いのは奈良になる。全国的には国造〔くにのみやっこ〕であるがその前に県〔県〕が行政の単位としてあった。
田というのは水の供給が必要であり山だとそれができるから棚田は確かに不便だが水を得るということで県〔あがた〕となった
平地に田を作るのは溜池とか必要であり水を供給するために水路も必要となり土木事業が必要になる。それはそうした技術がないとできないあから最初は山の斜面の県〔あがた〕で田を作っていたのである

●まほらばとは

うつせみの吾が居たりけり雪つもるあがたのまほら冬のはての日 斎藤茂吉

この歌も不思議である。斎藤茂吉には原始的心性があったとなる
つまりまほらというときまさにトンネルをぬけて玉野村の本体があった地域だとなる

ま‐ほ‐ら (マホ(真秀)に、漠然と場所を示す意の接尾語ラの付いたもの)すぐれたよい所・国。
まほらま。まほらば。まほろば。万葉集[5]「きこしをす国の―ぞ」
・・・と「広辞苑」に有ります。

これもあるが何かーまー洞〔ほら〕にも通じる、それは玉野村の本体にトンネルをぬけたときそこが洞に感じたからである
まほらばとは洞が関係しているともなる。一種の隠された桃源郷でもある

ともかく土地の魅力は地理い風土にある。だから私は飯館から浪江の津島に行った時そこが秘境に思えた、長泥でもそうである
私はかえってそういう場所に魅力を感じる。

白藤の垂れて長しも谷間にそ薄雲に月津島に着きぬ

こんな感じになる。それも原発事故で廃墟の村になった。ただ全国でこうした限界集落が増える。それは何を意味するのか人間の多様性が失われることである。

つまりどこでも都市化して人口が集中する、そして辺鄙な村は喪失する。それは多様性が喪失することになる
すると何か欠けたものになる。ただ正直そういう場所は住まないで時々訪れるのにはいいが住むとなると現代では不便すぎるのである、それでも津島にも診療所があった。あれは貴重だった。なぜなら病院に浪江まででも行くのが遠すぎるからである
ともかく私は東京とかに魅力を感じないのである。そこで自転車に乗ってまわることもできないし意外と見るべきものもないのである


飯館村、相馬市玉野村の変化−東北【福島】中央道で旧道となった道 
【山村が失われるてゆくー日本の多様性が失われる】

冬に入る玉野村 【知られざる世界がまだ身近にあった】










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2025年01月27日

事件でも空間軸と時間軸で見ないと理解できない 【関心領域の映画は現代社会の問題を鋭く指摘】


事件でも空間軸と時間軸で見ないと理解できない
【関心領域の映画は現代社会の問題を鋭く指摘】

●時間軸で理解するのが難しい

人間は何かを理解する時他人をを理解するのにも時間軸と空間軸が関係して理解する。問題は時間軸で理解することが難しいことである、空間ならその場に立てば直観的に理解する。
山に囲まれて住んでいるのか海に面して住んでいるなど教えられなくてもすぐにわかる。何か九州の旅館に泊まり老女の身の上話を聞いてもそれを理解できないしそんな余裕もなかった
旅というときいろいろな情報が自然でも入ってくるから処理できないのである、つまり時間軸で理解することが人間は苦手なのである。

でも一人の人間を理解するには時間軸で知らないと理解できない。だから人間を判断する時履歴書を見る、どういう経過をたどったかを見る。職歴を見る、途中で働かない時間が長いと採用されないとかなる。この人は仕事が長続きしないとか見られる
時間軸でその人を判断するのである。また地歴というときも空間軸と時間軸のことであり人間は場所と関係して時間軸からみないとと理解できない。でも2000年前とかなると理解するおが至難になる。空間軸で理解しても時間軸では簡単い出来ないからである。

ただ時間軸でも空間軸が関係していることは確かである。私の父親違いの兄は集団就職で静岡に行ってから交流はあっても何をしているかわからなくなった。妻と離婚して住む場もなく仕事探してトラック運転会社に就職した。そこで交通事故になり死んだ
そのとき中学生の娘をトラックに乗せていたらしい。その後児童保護施設に入れた。その時その施設から連絡が来てわかった
引き取ることができるとかたずねてきたらしい。
こうして何が起きているのか理解できなくなっていた。そして交通事故になり呼び出されて大変な目にあった。保険金のことでもめた。そこにトラック運転会社の人がかかわり骨を置いて行けとかしつこく言われた。墓をつくてやるかと言っていた。なぜそうしたのかというと保険金をもらいたくて身寄りがないと思ってそういったのである。

ともかく何が何だか分からなくなった。第一私は車を持っていないから自賠責とかもわからなかったからである。
もし近くに住んでいれば事情がわかるからこんあことにはならあかったのである。これは空間軸だけではない時間軸でも理解できなくなったためである。

●近くに住んでいても時間軸で理解できなくなる

ただ時間軸というとき空間軸で同じ場所に住んでいてもわからなくなる。その人と30年も40年も近くでも没交渉だと理解できなくなる。
その同級生は近くに住んでも私のことを全く理解できなくなっていたし私自身も没交渉なのだから理解できなくなっていた。
その人はスマホもしないから余計に自分のことも理解できず向こうから関係を断った。それは一瞬のできごとだった。私は自分のことを語ろうとしてもいろいろあり語れなかった。その人は簡単に私との関係を一瞬で断ってしまったのである。
お前は何もしてないというけどそもそも何も聞かないでそうなったのである。私のことはプログで膨大に書いているからそれを読めばわかる。でもスマホを持たないとしたら理解不可能になる
これも近くにいても時間軸で理解できなくなったから起きたことである。

ただ関心領域という映画が話題になったがすぐ隣で収容所で人が殺されていいても無関心だった。日常の生活が行われていた。
それは何か現代的社会の問題だった。それでおにぎり食いたいと言って死んだ人がいる。つまり隣にそういうふうに苦しんでいる人がいても今は無関心なのである。
何か子供のころ乞食が物乞いにきていた。農家でもおにぎりでもたくわんとかでもくれたという、そういう時代は乞食を認識してかわいそうだとなり恵んでいた。今は役所で相談しろとか無関心になったのである

何か職業も無数に分化して理解できなくなった。都会でなくても隣は何をする人ぞとなる。田舎でも同じなのである、なかなか何を仕事としているかわからないのである。
スーパーに行ってもほとんど知らない人である。たただこの辺は原発事故で避難区域から移住した人が三割くらいいるので余計にそうなった。その人達は何を仕事にしているのかわからない、おそらく地元では働いていない、車で避難区域になった所ではたらいているかもしえない、ただ本当に何をしているのかわからないのである。

●移動社会の現代で起きていること

いずれにしろ現代社会は広域化グローバル化している。すると昔のように同じ場所に長く住む人も少なくなる、移動社会にもなる。また会社中心の社会になると農民社会とは違って土地と関係なくなる。農民社会では三代住まないと仲間として認められないとか言う人がいる。それは土地を生活の基としていたからそうなった。
浪江に住んでいる人は会社が二本松に移動してそこに移住するようになった。つまり会社中心社会だとそうなるのである
何か子供のころ遊んだ人が東京に住んでいて岩沼の会社に移住したと聞く。これも会社中心の社会だからそうなった

ともかく空間軸と時間軸で理解する。でも現代社会移動社会でもある。原発避難区域の小高でで大工さんした人は原町に空家を買い住んだが病気になり息子のいる仙台市の病院に入院した
息子は不動産業であり原発事故後仙台市で仕事するようになったのである。
そして60代で熟年離婚した。だからこうした変遷を経験したのは原発事故のためである

私自身も時間軸では親の介護のため十年以上七転八倒して苦しんだ、その間に二回も入院しのであり手術もした。その時親も介護して一人は死んだとかか全部自分一人で背負うほかなかった
ただこうしたことは他の人にも起きている、ただわからないというだけなのである

とにかく人間のことは空間軸と時間軸で起きるが時間軸で起きることがわからないから他者を理解できないのである
小高の大工さんの場合は空間軸で時間軸でも理解したとなる
ただそれも十数年前からでありその前はわからないとなる

時事問題の深層というとき何か事件が起きてもその場所はすぐわかる、だから起きるとはtake place となる。起きた場所はすぐわかる、では時間軸で理解することは至難になる。
通り魔事件で残酷に殺した人は40代でありなぜそんなことしたのかそれも時間軸でみないと理解できない、その人の人生を見ないとわからない、何か積もり積もったものが鬱積したものがあり爆発したのかとなる。氷河期世代とかは恵まれないからこうした事件を起こしやすいのかともなる。また引きこもりも危険である
そもそも隠者となるには相当に優れた人しかなれないからである
それで小人閑居して不善を成すとなる。それは自分で経験しているからわかるのである。

●死者は時間軸でふりかえり思う

死者思う時それは明らかに空間軸も関係しているが時間軸の中に存在している。私は母を思うときその生い立ちを常に思うのである。それは継母に育てられたとか何か家が事業で失敗してそれが苦労の連続となった。それからどうしてなのか東京に女中に出たそこで結婚したのだが夫が事故で死んだ。そして私の家に嫁いだその時つれ子だった兄は私の家でよくしなかった。その兄も集団就職して交通事故で死んだのである

それから私の家で店を始めたとき暇なく働いていた。要するに若い時から一生働き詰めの人生だった原町紡績でも働いていたから本当に働き詰めであり何か他のことに興味を持たなかった。
持つ余裕もなかっただから花どにも興味もなく花はいらないとして豆を植えていたのである。やはり貧乏時代を生きたから食料が優先になっていた。それも何とも殺伐とした人生だったともなる。ただそれは強いられた結果であり一概に批判はできない。でも何とも悲しい人生だったともなる。

でもそのことを時間軸で人生を知っているから母はこの家に尽くし自分にも尽くしてくれたから感謝しているのである。
つまり死者となると空間軸で存在しているというより時間軸で存在しているこの人はこういう人生を送ってきたとか判断するである。その経験してきたことを聞いて時間軸で振り返ってその人思うのである。
だから死者という時確かに空間軸で存在してはいる。でもどちらかというと時間軸で死者を思うのである。普通なかなか死者でも理解できないのは墓を見てその人がどういう人生を送ってきたか分からないからである。
たしかにその場所に空間軸に墓があるということはわかる。でもその人がどういう人生を送ったのか皆目わからないの。だから墓というのは何かもう一つ物足りないのである。むしろ物語としてヒストリーとしてストーリーとして人間が存在するしそれで人間を理解するからそうなる。

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2025年01月20日

養老孟司が「自衛隊のいる後ろめたさ」がなくなるのは危険だと 警鐘するワケ…中国に見る、規範を重視する伝統の重要さ


養老孟司が「自衛隊のいる後ろめたさ」がなくなるのは危険だと
警鐘するワケ…中国に見る、規範を重視する伝統の重要さ

●兵は不祥の器にして、君子の器にあらず

夫(そ)れ兵は不祥(ふしょう)の器、物或(ある)いはこれを悪(にく)む、故(ゆえ)に有道者(ゆうどうしゃ)は処(お)らず。君子、居れば則(すなわ)ち左を貴(たっと)び、兵を用うれば則ち右を貴ぶ。兵は不祥の器にして、君子の器にあらず。已(や)むを得ずしてこれを用うれば、恬惔(てんたん)なるを上なす。勝ちて而(しか)も美ならず、而るにこれを美とする者は、これ人を殺すを楽しむなり。夫れ人を殺すを楽しむ者は、則ち以(も)って志を天下に得べからず。
軍隊は不吉な道具だ。物はこれを嫌うかもしれない。だから、道を修めた者はそういう場所にいない。

軍隊は災いの組織であって、補佐官のための組織ではないので、やむを得ずこれを使うなら、最低限にあっさりと使うのがよい。
勝ったとしても誇らしくはない。これを誇れば殺人を楽しんだことになる。こういう連中は人の上に立ってはいけない。

養老孟司氏が言うのはこのことになる。兵士が軍隊が全面的に出て来た時は戦争の時代である。戦争の時一番威張っていたのは軍人である。軍人が讃えられた、でも軍人は戦争の時人を殺す時必要になる。消極的なものとしてやむえざるものとしてあるべきということになる
だから軍人が讃えれる時危険になる、でも未だに上等兵だとか二等兵だとか軍隊の位を墓に記しているのには違和感を感じる
その時代なら誇りとなっていたし社会でその価値を認めていた
でも今になると何か違和感をもつ。軍人を讃えるものと見るからである。

君子の器にあらず。已(や)むを得ずしてこれを用うれば、恬惔(てんたん)なるを上なす。勝ちて而(しか)も美ならず、而るにこれを美とする者は、これ人を殺すを楽しむなり

だから戦争とか軍人を賛美することに抵抗がある。それを全否定できなくても消極的なものとしてやむをえない範囲に留めるのがいいとなる。そうなると日本の自衛隊はそういうものであり老子の思想にかなっている。
老子の思想は三国志の熾烈な権力闘争があったが老子の思想は何か宗教的でありキリスト教にも通じるのである
柔和なものが地を継ぐであろうといとき老子も剛より柔弱なものが強いとしている。剛は強いようで弱いとなる

キリストの柔和なものが地を継ぐだろうというのもそうである
兵士とか軍隊はなるべくならあってはならないものなのである。
ただそうなると日本は他国に攻められたらどうするのかとなる
無抵抗主義になりただ殺されるのかとなる。でもむしろ軍備を強化すれば他国も警戒する。だから本来は兵は不必要なものであり積極的軍備を拡大することは危険だとなる、剣を持つ者は剣で滅びるにも通じる。

●剣を持つ者は剣で滅びる

ともかく剣を持つ者は剣で滅び核を持つ者は核で滅びる、これは確かである。だから第三次世界大戦になったら確実に人類は滅びる。それがロシア中国アメリカの大国の衝突でなる。その時日本も巻き込まれる。老子の小国寡民というとき日本が江戸時代は世界と交わらない鎖国で戦争のない300年を維持した

でも世界に開国して戦争が3度あり太平洋戦争では3百万人が死んだのである。世界でも何千万人も死んだとなる、だからグローバル化というもものが本当にいいものであるのか疑問になる
ただ小国寡民というとき村のようなものではなく日本一国で小国寡民なのである。それは老子が生きた時代は一億人の人口だった
だからそんな時代でも中国は人口が多いし大国となっていたのである

何故世界でこれほど紛争があり戦争がなくならないのか、世界で人が交わる時グローバル化してかえってそれが世界大戦に発展して何千万人も死んだ。それは何故なのかとなる。世界の人が交わることが悪いものではない、でも一方で世界の人が交わることは対立も激化して戦争になっっということである。

グローバル化した世界は悪いとは見えない、でも貿易戦争にもなりそれが本当の戦争にも発展する。日本の太平洋戦争の切っ掛けとなったのも石油が輸入できない、アメリカの経済封鎖が原因だったともしているのもそうである。また戦争でも燃料になる石油がなく負けたとも言われる。特攻隊のゼロ戦でも片道の燃料しかなく帰ることのできないものとして突撃した
つまり石油がやはり重要なものだったのである

今でも常にアメリカに逆らうものは経済封鎖されて苦しくなる
本当に殺し合う戦争ん前に経済的に窮地に追い込み疲弊させる、そして耐えることができなくなり本当の殺し合いの戦争になる。
戦争は殺し合いの前に経済戦争がある。だからグローバル経済でも必ず経済戦争貿易戦争があり本当の戦争になる。平和な自由貿易などありえないのである。だから今度は中国がアメリカによって経済で締め付けられて不況になり苦しむ、それが米中の戦争にも発展するから怖いのである。

●老子の思想とキリスト教は似ている

いずれにしろ老子の思想とキリストの思想には共通したものがある。治めずして治めよとか聖書なら緑子に治めさせよというときもそうである。何の力もないものに欲のないものに治めよというのも共通しているのである。そこに平和の思想があった。
要するに老子の思想は仏教でも東洋の思想であり共通している
キリスト教もアジアのもであり欧米とは違う、だから欧米のキリスト教は本来のキリスト教ではないというときそうなる
そのオリジンは東洋にあったとなる。

野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

働きもせず、紡ぎもしません

これも無為自然の思想であり老子の思想と似ているのである
何か西欧的働くことを宗教の根本としたものと違っている
それでウェーバーの修道院から他者に尽くすものとして資本主義が始まったというときこうした思想とは反するものでありだから欧米のキリスト教は本来のキリスト教ではないと指摘する人がいる、内村鑑三などがそうである。東洋的思想だとなる。
何か欧米だと他者に尽くすことが強制される慈善活動でもそうである。寄付が強制される、でも内村鑑三などははそうした慈善活動は消極的であれとしているのである。
そうしたことより心の内面を重視した。確かになざ禅宗では何もせず座禅しているのかそういうことは否定される他者のために働けとなる。その相違が大きいものとなる。
ただ禅宗にしても一日作(な)さざれば一日食はずという思想がある、でもそこには他者に尽くすことではない、他者に頼らず自分のことは自分で賄うべしという思想である。

その相違がかなり大きい、それは資本主義が他者に尽くすための労働として発展したとなればそうである。労働の原動力が根本的に違っているとなるからである。でも実際は資本主義は今や他者に尽くすとかではない極わずかの人たちが莫大な富を手にするものとなった、かえって他者を働かせて暴利を得るものとなった。
だから他者に尽くすということがかえって他者を利用して働かせて暴利を貪るとなった皮肉がある。そこに矛盾があり資本主義が崩壊するともなる。それはキリスト教の理解が間違ていたからだともなる、欧米流のキリスト教は本来のキリスト教ではないといううのはそのことになる




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2025年01月13日

新津は鉄道の街だったー栄枯盛衰は避けられない 【交通の変化と栄枯盛衰ーIT、AI社会の変化】


新津は鉄道の街だったー栄枯盛衰は避けられない

【交通の変化と栄枯盛衰ーIT、AI社会の変化】

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三つの路線が交わる新津

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街がシャッター通リになり寂れている

●鉄道で栄えた新潟県の新津

南北朝期からの地名[。地名の由来は近くの古津の港が衰え、新しい港津となったことによる[4]。1889年(明治22年)まであった新津村の区域の一部。

新津の印象は津川から来て新津で鉄道の路線が三つ交わっている。だから鉄道の街ともなっている。また石油が取れたので労働者も集まり遊郭もできて栄えた。石油で栄えたというのはめずらし。石炭で栄えた街は多い、福島県でも常磐炭田があり石炭がとれて栄えた。明治とかでは仙台市よりいわき市の方が人口が多かった、鉄道自体が北海道でも石炭を運ぶために作られた。小樽などでもそうである。そもそも蒸気機関車は石炭が燃料だった
石炭は今の石油だったのである。

何か街の盛衰は交通とも深く関係している。最初に古津が栄えた。次に港が代わり新津が栄えた。ただ同じ地域でも古町と新町があり必ず栄える場所が移行している。
それより新潟県自体が明治の最初は東京より人口が多かったのである。これは意外である。新潟は江戸時代は北前船で栄えた。でもなぜ東京より人口が多かったのかとなる。江戸時代は別に江戸中心の経済ではない。江戸は何か生産するというのではなく大消費地だった。地方は米など主要なものとして生産地だった。
新潟は明治以降も外国船の寄港地として日本全国で5つくらいあり商業が盛んだったとなる。

津川を冬に行った時はそこに阿賀野川の川の港があり栄えた。つまり川も交通路であり栄えたとなる。それが鉄道が交通となった時北前船の港は寂れたとなる。鉄道が主要の時代になったからである。新津でも国鉄に勤める人が六分の一もいたとなるといかに鉄道が働き口になっていたかわかる。必ず駅前には国鉄の官舎があり国鉄で働く人が住んでいた。私の組でも10軒くらいでも2軒が国鉄で鉄道関係で働いていた
だから社会党が野党としてあったとき国鉄の力を背景にしていたのである。その後車社会になったのはその支持する国鉄がなくなり衰退したからである。

●IT社会に遅れた日本の衰退

ともかく交通による栄枯盛衰はある。私の店が戦後繁盛したのはただ角にあり場所が良くて繁盛した。歩く時代だから近くで用をたしていたからである。歩く時代があり鉄道の時代があり車の時代がありと交通の変化で栄枯盛衰がある、また石炭が取れたとか石油がとれたとかでも資源があり栄枯盛衰が生まれる、人間社会にはこうして常に栄枯盛衰がさけられない、相馬市から東北中央道ができて前の道路の食堂などが石戸の一軒を残して消えたのもそうである。

技術の変化でも栄枯盛衰がデジタル化するとIT、AI社会になると新聞テレビでも衰退してインターネットが通信の主流となりyutubeを見てテレビは見なくなる。新聞はそれを刷ったり配ることでも大変な労力であり金がかかりすぎる。今新聞配達は老人がしている。今や新聞でもテレビもオールドメデアになった
個々人がテレビ局にもなり新聞社にもなり出版社にもなる、その変化も大きいものだった。

何か怖いのは別にパソコンなどできなくても困ることはないとか言っていると技術的に取り残される。その人がオールドメデアの人間であり情報も操作されたもので新しい情報にアクセスできない問題が生まれる。
つまりそこで時代から取り残されたようにもなる。車が運転できないと地方では仕事もできないとかなる。
だから私自身車を持っていないから身内が交通事故で死んで自賠責とかも知らないで困ったことでもわかる、それが知らないですまされなくなる、つまり時代から取り残されることになる。

だから今AIが進歩して仕事がなくなるというときもそうである。
そんなものたいしたことがない、人間がやはり主役だとかいっていると会社でも高度な知的仕事でもこなして専門職でも人間に置き換えられる。だからAIが絵を作り詩まで作ることに驚く、それは相当に高度なものであるから不思議だとなる
こういう技術の進歩は常にあり世界を変えて来た、だからその技術から遅れると世界でも競争に敗れて日本でも衰退国家になる
日本はIT分野で遅れたからである。

●栄枯盛衰は避けられない

確かなことはは交通とかは栄枯盛衰と深く関係している。北前船で米相場とかり情報がもたらされて儲けたとかある、それは情報が船でもたらされたからである、今なら情報は瞬時に無線であれ有線であれもたらされる情報社会になった。

それにしても新津の街も廃れている。鉄道な町と言っても今は鉄道は利用しない。だから会津若松から新津まで行くにも便数が少ないから難儀する、
今になるとバスの方が便利になる、ただ私は鉄道が好きなんで敢えて乗るとなる。電車から見る風景とバスから見る風景が全然違っているからである。
ともかく人間社会は同じ地域でも古町があり新町がある。栄える場所も変わる、石炭から石油の時代にもなり大きく変化した。
この辺は原発で栄えても原発事故で街自体が廃墟化した。だからこうして栄枯盛衰は避けられないのである。

それは別に一地域だけえはない世界全体でも栄枯盛衰がある。イスラム諸国はヨーロッパより栄えて白人が奴隷として売買されていたとかある。これも信じられないことである。ある国が栄えてある国は衰退して没落する、西洋の没落とかもあり常に世界的にも栄枯盛衰がある。それがあまりにも現代では早すぎる、中国が繁栄していたとかなるとまた中国は衰退して貧困国に逆戻りだとかなる。それは日本でもそうである、ただ日本の場合は高度成長時代から失われた30年があり変化できなかった。
そして日本も貧困国家になると言われるしそうなりつつある。
そういうことは常にあった。三日見ぬ間の桜かなー三日見ぬ間の枯木かなともなる。人間もまたそうなのである。若い盛りはたちまちすぎて老人になり枯木となってしまったということである。



posted by 天華 at 19:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年01月09日

飯館村、相馬市玉野村の変化−東北【福島】中央道で旧道となった道 【山村が失われるてゆくー日本の多様性が失われる】


飯館村、相馬市玉野村の変化−東北【福島】中央道で旧道となった道
【山村が失われるてゆくー日本の多様性が失われる】

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館東とありこの館は鎌倉時代のものであり地名化した


原発事故で3月21日に原乳が出荷停止となり、搾った原乳を捨てる日々が約1カ月続いた。「牛乳が出せないからお金も入らない」と仲間たちにこぼした。男性が所属するJAそうま酪農部会の酪農家28戸のうち、営業を再開できたのは16戸だけだった。

知人らによると、男性はフィリピン人の妻(32)と長男(6)、次男(5)の4人暮らしだった。そろいのヤッケを着た妻が、牛舎で牛の世話を手伝った。



NHKの放送-絹江さんと春江さん 浪江町津島をあきらめない
 【地理がわからないと何でも実感できないー津島の岩の墓】

相馬玉野メガソーラー】山林大規模開発への懸念

福島県相馬市玉野地区に廃校を利用した新たなウイスキー蒸溜所が操業予定

●飯館村は縄文時代から生活があり古い玉野村は新しい

飯館村の歴史は古い、何故なら縄文中期に遺跡の発掘がありまた木戸木〔ことぎ〕に住んでいた老人が石器を発見したとか聞いた
採集狩猟の生活があり古い、海岸地帯より古い、明確な歴史は鎌倉時代に南相馬市の鹿島区の屋形村の岩松氏の所領になっていた
鎌倉時代から明確な歴史がある。館という地名があるがそれは中世の鎌倉時代にさかのぼる。

飯樋は東日本によく見られる地名で、池の水を田地におくる設備のこと、「比曽」は「檜の生える土地」という意味だと思われる。「佐須」は「焼き畑」を意味する言葉から来たもので、美方郡香美町香住区の「佐津」という地名が由来であるらしい。「大倉」とは「大きな倉」ではなく「大きな崖山」という意味だと地形図から読み取れる。「新舘」の「たて」は、「射楯(いたて)」の意味で、「伊達」と同語源で、住吉神社系統の海神を「イタテの神」と呼んだことに由来し、西日本(播磨国など)からこの地に移住して開墾したものと推定される

これもくわからない、佐須は焼畑地名であることは確かである。
それが「佐津」かたきているとはならない。佐須という地名は多いからである。

大倉御所(おおくらごしょ)、または大蔵御所・大倉幕府(おおくらばくふ[2])は、鎌倉時代の相模国鎌倉大倉郷、現在の神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目一帯にあった源頼朝の邸宅

鎌倉から来た岩松氏が最初に南相馬市鹿島区を支配して飯館村まで所領としたから大倉はそこから名ずけたのかもしれない
鎌倉も崖が多いからである。

相馬市の玉野村となると相馬藩でも新しい、江戸時代に入植して玉野村になった。そこは伊達藩、米沢藩の境でありそれで木材資源をめぐり争いがあった。
玉野村は鎌倉時代までさかのぼるものはない。ただ八木原という地名がありすでに古代から安曇氏系統の八木氏が焼畑をしていて松川浦から入って来た。飯館村の山津見神社と綿津見神社は目立ている。つまり最初は焼畑をするために入って来た海人族がいたのである。飯館村の佐須とは焼畑地名であり山津見神社がある
また浪江町の津島村も途中に大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)があった。

大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、大山祇神を主祭神とする『三島・大山祇信仰』の神社。1973年現在、北海道から鹿児島県まで全国に897社存在する。また、1995年の神社本庁の調査では293社、2019年の金沢工業大学の調査では960社存在するとされる。大山積神社、大山津見神社、山積神社、山祇神社、山住神社

これは安曇系海人族の神社である。ただ玉野村となると江戸時代になり開墾された場所である。だから飯館村と比べると新しい場所だったとなる。

いずれにしろ飯館村の領域は広い、だから未だに知らない場所がある。玉野村は広い場所ではない、飯館村だと戦後引揚者が入植して一万人に人口があったことに驚く、その後6000人に減ってもそれだけ多かった、玉野村一時1000人くらいあ人口があっても今は200人程度とか少ないから限界集落にもなる

でもそれなりに人口があり学校があった。その校舎も使われていない、飯館村には相馬農業高校の分校があり今の新しく作られた道の駅からその校舎が見える、その廃校が何とも淋しい感じになる。それは全国的に学校が廃校になり子供がいないのである
分校が辺鄙な村にあったのは国で援助していたからありえたのである。

●長野県の八坂村生坂村の廃校の宿

私は長野県の八坂村なのか廃校に泊ったことがある。それも奇妙な経験だった、校庭が見えて山また山であり坂が多いから自転車で難儀したのである、ここで子供の声があり賑わっていたとみる
本当にこうした廃校が多くその前の店をしている家では何か依然として学校で時を告げる鐘なのか音楽を流しているのがひびくのをテレビで見た。それも何かわびしいとなる

残念なのは玉野村は山ごとソーラーパネルになりまた廃校になった学校をウイスキー工場にする計画があるという、これも何かいいとは思えない、でも昔のように自給自足の生活もできないから
現金収入がないとその場で生活できなくなる。そして原発事故の影響はあまりにも大きかったのである。飯館村で6000人の人口があったとしても今は千人くらいでそれもほとんど老人であり子供はいないのである。学校は廃校になり別のところで学校に通っているからである。また放射性廃棄物の処理場になるとかそれもいいものとは思えない。

玉野村はもともと飯館村と比べると規模が小さい。だから本当に200人くらいしか住まないとしたら消滅の危機にある。だから今は何か木材で炭焼きしたり山菜を食べたり周りにあるもので細々と生活することはできない、ではその代わりに何になるかというと放射性廃棄物の処理場とかウイスキー工場になるのかとなる。するとその村の良さというものは消失してしまう
ただ不思議なののは身の回りにあるものを利用して竹細工であり藁細工でれ自給自足の生活をしてきた。そのとき電気などは使っていないのである。

ともかく阿武隈山地の村々は限界集落化して消滅するのかどうなる。それは何をもたらすのか何か人間の生活の多様性が失われ旅をしてもつまらないとなってしまう。本当にそういう場所は村は秘境であった。そうした秘境のような村は日本でも至るところにあったのである。浪江町の津島も相当に離れていて本当に秘境だったのである。そういう村々が日本から失われていくとき何か
精神的には貧しいものになるかもしれない。
海彦山彦の山彦の世界が消失してゆく、その生活の多様性が失われ何か画一的なものとなり都会的になり精神も養われないとなる。

八坂村の廃校の宿

犀川のうねりつたぎつ 流れを沿い下り 
大岡村や生坂村や 八坂村の山深く
あまた咲きしは木槿の花 その花におおわれ
我は入りにき 今日の一夜の宿はあわれ
廃校となりし村の 小学校の改築の宿
ここに六年生の教室と なつかし泊まる卒業生
窓辺に流れのひびき 校舎の廊下をきしみ歩みぬ
窓辺に寄りて外ながむれば 赤とんぼとぶ山の学校
かすかに虫の音や 校舎は古りて生徒はなしも
その山の道の辺 刈り入れの農婦ありにき
道の辻には地蔵や 昔なつかし何語る
童の遊ぶ声もひびかむ 野に山に川に
祭りの太鼓も笛の音も 野に山に森に
村の墓所には女郎花 我がしばし佇みぬ
山々は打ち重なりて 村は閉ざされしかも
八坂村の坂をし上れば 誰そその墓の主や
我を見送る影のありや 我は汗かきかき坂上る
ああ また来てくれと その影は別れを惜しむ
ああ なつかしき日本の国の 昔の村を思うかも
旅人はるか大町へ 坂を上りて去り行けり

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玉野村の小学校の廃校

こうした村が失われてゆくことは何か日本の欠けるものが生まれる、どうしても東京とか一千万人も住んでいることが何なのかわからない、人間が住める場所なのかとも見る
明かなことはそういう村でも人は住んできたのである。
そこで生きられないということはなかったのである。
都市にばかり人が集まることは何か異常な現象なのである。
でも現実は今の時代は住むことが容易ではない、でもそうした村々がなくなることは多様性がなくなることであり淋しいとなる

●外国人の嫁が山村にかなり入って来た時代

外国人が入って来て多様性が生まれるからいいというけど日本の中での多様性が失われてゆく、玉野村、飯館村などは原発事故で維持がむずかしくなる、だから森林公園にすればいいとかにもなる、でもそこに人の暮らしがなくなることは何か大きなものが欠落してくる。都会ばかり旅してもつまらないとなる、でも旅することは遊びだともなるからまた別問題になる。

それでもソーラパネルとか放射性廃棄物の処理場とかウイスキー工場とかの村はもはやかつての村とは違ったものとなる
ただ旅人の視点から見るだけだからそんなことは通じないともなる。そういう村は旅で行くならいいのである。でも住むとなると人間でも嫌な人がいても付き合わなわけにはいけないしその人間関係も閉塞的になり息が詰まるようにもなる。
何かそうした村とかなると常識も礼儀も通じない異常な人が普通にいる。それで推理小説で奇怪な事件が起きることがドラマ化する。それは余りにも狭い人間関係で生きているからそうなる。
そうした場所から逃れられないからそうなる。

不思議なのは浪町の津島でも中国人の嫁が来て夫を鉈で襲った事件があった。こんな山奥に住んでいられないと不満が爆発したのである。外国人の嫁をもらった人が本当に山村では多い、飯館村の木戸木〔ことぎ〕でもフィリピン人の嫁がいて40近くになっている。すでにそういう時代があり歳月が過ぎた。
玉野村で乳牛を飼う人がフィリピン人の嫁をもらっていて原発事故で放射性物質に汚染されて生活できないと自殺した。
それも原発事故のもたらした悲惨な例である
飯館村は避難区域になり相当な補償金が入った。それで家を新築しりした人が多い、でも相馬市とか玉野村でも丸森町でも原発の補償金は微々たるものでありそれで不満があった。放射性物質の汚染はそれなりにあったけど30キロで区切られたからである。
玉野村は飯館村の隣なのだから相当に汚染されたと思うからである

●サイクリング道路にはいい玉野から霊山への道

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空家化した玉野村の旧道 若木神社があるのは伊達藩と相馬藩の境にあるから

ともしくも共に生きなむあわれかなその生業や干し大根かな
飯館村冬に行かじも暮らしあれともしくもあれ春を待つかな
玉野村トンネルぬけて遠きかな暮らしの荒れや冬に思いぬ
玉野村境にあれや街遠く家並み古りて冬の日暮れぬ
井戸に蔵残しあわれ玉野村ここに刻みし歴史かな

玉野村の境の村に家並みがありそこに一軒の家が空家になっていた。蔵があり井戸があった。ここにも暮らしがあったとみる
やはり何代かここに住んだことは確かである。でもこうした空家山村でなくても街内でも多いのである。その数も一千万軒にもなるとか大問題なのである、その一軒一軒の家の歴史も失われるとなる。何か活かす方法がないのかと思う
旅人だとそうした空家を休憩所にすればいいとかなる。
なぜなら福島中央道ができた結果そこは車が通らなくなったからである。サイクリング道路としては最高だとなる。車が通らないから道の真ん中でも自由に走れたからである。
バイクでも車を気にせず飛ばしやすいとなっていた。
福島中央道ができた結果旧道化して休息する場とか食事の場がなくなったからである。

古い井戸があり蔵がありる空家
誰が住んでいたのか玉野村の家並み古りぬ
しばしここに休めと茶でも一杯飲む
秋の夕日のさして碑は並び古りぬ
そこは昔の宿場町や旅人は去りぬ

posted by 天華 at 16:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年01月07日

仙台市は観光では魅力がない 【仙台市でも人口が減るー仙台市とつながりが深い相馬地域−広域化する社会】


仙台市は観光では魅力がない
【仙台市でも人口が減るー仙台市とつながりが深い相馬地域−広域化する社会】

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観光の新しい時代を」 郡市長が年頭の訓示 
11月から宿泊税導入へ決意示す〈仙台〉

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●自然景観
●歴史
●現代的実用的魅力

仙台市は自然景観でも確かに広瀬川が流れていいて青葉城恋歌などがヒットした。広瀬川が自然景観となっている。
また歴史としては伊達政宗の城下町となっている。でも青葉城には城がないので何か大きなものが欠落している
ただ石垣の反りが厳しくその下を広瀬川が流れ響く、

広瀬川早き流れや青葉城反りの厳しく燕来るかな

とかなる。そもそも日本の歴史で魅力あるのはやはり城が中心になる。でもその城にしても石垣しか残っていないとかなる
盛岡城は整然と石垣が残りその間を行くと岩手山が厳しく迫る
自然景観とマッチする、今外国人に人気がでてきたということがわかる。仙台市は交通の要所としてあっても何か自然景観歴史的魅力に欠けている、城下町といっても街を歩いてもそれが感じられない、それは日本では共通している、外国だと新市街と歴史地区旧市街があり分けられてる、でも日本だとそれも明確ではない、だから何か歴史を感じにくいのである

仙台は東京から会社の支店が集まるビジネス都市であり観光都市となりにくい、ただ経済的には拡張したのである。
それと十年前以上になった東北大震災で人口がまた集中した、何か小高で不動産の仕事していた人が仙台に移住して仕事をするよういなった。その親も70過ぎて原町に住んでいたが病気になり仙台市の病院に入院したのである。一人で住んでいたから息子の仕事している仙台市に移ったとなる

不動産というとき阿武隈川を挟んで岩沼市から不動産の価格が倍になると仕事している人が言っていた。岩沼市までは仙台圏でありまた亘理とか山下でも通勤圏にもなる
その仙台市でも百万都市でも人口が減少するという、それだけ少子化は深刻なのである。

ともかく仙台市はビジネス中心の都市であり何か観光としては人を集められないとも見る。何か目立つものがないのである
ただ松島は自然景観として優れているから観光客は来る。歴史的にも瑞巌寺とかと観瀾亭か観光の魅力がある
でも仙台市だけを見ると観光する魅力がないのである。だからインパウンドの外国人を集めるのが難しいと見る、つまりありふれた特徴のない都市に見えるからである
それでも城下町である

青葉城のたもとや暮れむ夕桜
並木道若人行くや青葉かな

とかになる。自然的景観として並木道の街路樹はいい。仙台市だと若い人が学生でも多いからそれで活気をもたらしている。何か地方都市とか田舎になると老人が多く若い人がみかけないからである。それでも他に何か特徴がないのである。

とにかく仙台市までが人口が減るのかとなる、日本全体が縮小していく、交通でも常磐線でも一時東北大震災で原町までしか通じなくなった。その時二両の電車が行き来して仙台市まで通じたが
原町からいわき市へが通じなくなったのである。相馬藩の地域は仙台市とかかわりが深いがいわき市の方はかかわりが薄いのである。現実に東北大震災以降確かに屋根瓦を直したのはいわき市の会社だった。
それからユニットバスを直したのは優創建という会社であり100万だった。それはいいものだった。地元だと300百万かかるとか言われた。なぜそんなに安いのかと聞いたら仙台市は競争が激しいからだと言っていた。

またなぜ仕事の範囲を拡張しているのかとなると常磐高速道路できて車で来やすくなったからである。正月のトイレが壊れた時も
郡山の会社の人に頼んだのである。東北自動車道路ができてこれも広域化するsものとなる。福島医大に行く人が時間がかかって困っていると聞いたが高速を使えば福島市も近くなったのである。

このように広域化社会になり遠くの会社とも競争が強いられる知られるようになっている。グローバル化でもすでに世界との競争が強いられているのである
とにかく仙台市はビジネス都市であり観光では魅力がない、だからインバウンドで外国人の観光客を集めるのはむずかしいとみる
観光には自然景観と歴史がマッチしないと魅力が出ない。二本松市は山城を原形として自然景観に恵まれているから魅力がある
それでも城と言っても城門はあるが屋敷のようなものしかなかったとある。でも自然景観と一体となっているから魅力がある

【2025新年東北讃歌の詩−松島など】
 北上川は盛岡から岩手山を経て石巻に流れる




posted by 天華 at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年01月02日

人間は災難から逃れられない 【それぞれの災難苦難を経験した―原発事故、交通事故、病気、犯罪の災難】


人間は災難から逃れられない
【それぞれの災難苦難を経験した―原発事故、交通事故、病気、犯罪の災難】

それぞれに激しい変化に見舞われる。それは私自身の場合は親は2人いたとして一人は認知症になりその衝撃も大きかった。
何になったのかわからなくなり狂気になったのかと思い恐怖した。そのとき家族はばらばらになり一緒に住めなくなった
それも悲劇だった。それから津波原発が起きて四苦八苦した。
それより津波の被害にあいまた原発事故で避難した人はただ翻弄されるだけであった。
その後も家族の一人は死んだがもう一人は5年間介護した。
その間に私自身が二回も病院に入院したし手術もした。その間に盗難は会うとか散々な目にあった。
そのことをプログで書いてきた。

でも人間にはこうした災難が誰にでも起きる、現実に原発避難区域に住んだ人は一時立派な家を建てたがそこを捨てて原町の安い空家を買って住んだ。
でも息子が仙台市で仕事を始めて移り住んだ。そして私の家をリホームしたのだが病気になり息子のいる仙台市の病院に入院したのである
この人も激しい変化に見舞われた。ただ相当な原発事故の補償金をもらって贅沢したようである。他でもレクサスとか買ったとかあった。何か原町であれ鹿島であれ相馬市であれ相当数が移住した、だから新しい住宅街が三つくらい鹿島区でできた
だから3割くらいが外から来た人かもしれない。最近でもまた一棟大東建託のアパートが建った、何等かでまだ人口流入が続いているのかとなる。

知っている人は息子が足を怪我して何か月も働けなかった。それは団地のような所でなぜか骨折したのである。それからその母親は脳梗塞になりそれが最近はその後遺症でほとんど歩けなくなっている。その人は金もなく苦しんでいる。また障害者を抱えている。二重三重苦になっている。
また息子が交通事故になり新しい中古の車を買わざるを得なくなった、その後も何か車が誰かに傷つけられたとか修理に20万かかるとかなった。

なぜこんなに災難が続くのだろうとなる。だからこそ無病息災を神仏に祈る、でもそこで効果があるかとなればないのである。
でもこうして災いが続くとどうしてもまやかしであれ頼り金を払うのである。おそらくカルト教団の会員が増えたのもこうして様々な災難があり解決しないから頼るのである。でもそれで儲けるのは災いを払う人にもなる。
結局この世の中がどれだけ災いが多いのか、それを津波や地震や原発事故や一身上のこと家族のことでも嫌というほど経験した
それは自分にも起きたが他の人でも起きているのである。

ともかく人間は必ず災難に合う、自然災害があり病気があり貧困に苦しむとか必ずある、犯罪に会うのも災難である。
私は金銭的には苦しまないが犯罪にもあったし病気にもなったからである。この世とは一面地獄を生きることである。火宅の世である。必ず災難に会うし逃れられないのである。
この世から災いは消えることがない、まず必ず病気になる、自然災害でなくても病気は万人がなる。だからこそ村の中心に病気を直る祈願する薬師堂があった。それは病気にみんな苦しんできたからである。

何が幸福とかなれば人間の幸福は消極的なものでありむしろ災いがないことが幸福だというショーペンハウエルの言うこともわかる。それだけ災いが多すぎるのである。
自分自身もそうだが他者を見ても災いがあり苦しんでいる
災いは自分自身からも起きて来るし外部からも持ち込まれて苦しめられる。人は信用できないとか油断ならないとかなる。
この世は地獄が一定の住処だとなってしまう、何故なら弱体化すると他者が攻めるのに都合がいいから攻めてくる。弱肉強食の世界である。

とにかく幸福を願うより災いがないことを願う。幸福は人間には得られない、災いがないことが幸福なのである。それだけ災いが多いのである。
今年もやはり災いがある、貧困の時代になりそれも大きな災いの種である。災いの種はなくなることがない、何が災いになるかわからない、そもそも人間自体が災いを生む
動物を見ていると白鳥であれ鳥などは何を食べているのかわからない、動物でも飢えて死ぬことはある。でも鳥にはないようにも見える、それも不思議なのである。
なぜ人間だけが様々なことで苦しむのかとなる。自然災害があるとしても人間が作り出す災いの方が大きい。戦争で何千万人も死んだことでもわかる、自然災害でそんなには死なないからである
一番災いを作り出すのは人間自身なのである。
人間からもたらされる災いの方が多いし大きいのである。

今年の無病息災をお祈りします 良いお年を



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2024年12月28日

なぜ視野狭窄になるのか 【グローバル化広域社会でそうなったー村社会との大きな相違】


なぜ視野狭窄になるのか
【グローバル化広域社会でそうなったー村社会との大きな相違】

●500人くらいの村で自給自足していた時代

何でも人間社会はいい面と悪い面が生まれてくる。車社会の悪い面ばかり指摘してたが良い面も大きくある。それは自分は語るまでもないみんな車持っているのだから当然だとなる。
現代社会とはとにかく車社会だという時その生活する範囲が広くなったのである。例えば江戸時代の村とか考えればそもそも遠くに行くということが簡単にはできない。だからどうしても村という狭い範囲で生活するから外のことは分からなくなる。
でもそういう時代は別にそれでも良かった。その狭い範囲で顔見知りの中で村のことを知っていれば不便にしろいいものではないのにしろその狭い範囲のことを知っていればいいというだけである。そこは窮屈でもなんなんであれそうした生活するほかないそうした狭い村で生活するほかないから別に外からの広い知識を情報を得る必要もないのである

でも現代社会になるとそうはいかなくなる。グローバル化するときそれはまたいい面と悪い面として働く。ただ確かなことはいくらグローバル化を否定しても現実には否定できないし受け入れるほかなくなっている。
例えば広域化社会ということは車社会で起きたことである。例えば車がなかったらどうなるかとなれば南相馬市鹿島区の梨農家が相馬市までリアカーで運んでいたという。相馬市まで15キロくらいありそれを往復していたら大変な労力になる
一日掛にもなってしまうのである。だからそういう時代は基本的には身近なところであるもので生活する他なくなるのである。
だから戦後の間もない時あらゆるものは身近なところにありそれは歩く範囲内にあった。つまり今なら別に隣の市まで原町まで車で相馬市でもそうである。社会というときそれは別に日本全国というのではなく自分の住んでいる場所から30キロ内県内でも一つの生活圏であり経済圏になっているのである。

●広域化グローバル経済で強いられる競争

するとどうなるかというとその30キロ内で日常の生活圏になる時その中で競争することにもなる。なぜなら車で買い物でもなんでもできるからである。つまり昔のように一つの街でさらに狭い範囲内で生活していたのとはまるで違った世界になっているのである。つまりグローバル化というと世界のことを考えるからその前にすでにその生活圏は30キロとか広がりその中で日常の生活が行われている。だから常にすでに30キロ内に住んでいる人たちを相手に商売もするとなる。とても1キロ4方とか2キロ4方とかそんな狭い範囲でわもはや成り立たない。一つの村になくても近くに大きな町があればそこに車で行けるとなるからである。

なぜか私は近くの道の駅ではないが六号線で地元の野菜を売っている人に同級生がいてそこに入ることを拒否された。その理由はよくわからないが何か私が何もしてないと見て対話すら拒否したのである。その人はスマホをしてないから私がプログでいろいろ地元のことでも書いているのも全くわからないのである。このことでもその人は視野狭窄に陥っている。

狭い範囲でしか人を観ていないのである。まだインターネットにも接続していないから今はマスコミのテレビとか新聞だけではない情報に接していないということである。もう一つは70以上超えるとスマホとかはしていない人も多くなる。スマホとは結構パソコンの延長だから難しいのであり携帯電話なら私の母は90歳で携帯電話ができていたのでよでもスマホとなるとその難易度が高くなるのである。

70以上とかの高齢者の問題はインターネットとかの情報にアクセスできなくなることである。それでまた視野狭窄に陥るのである。また昔から井中の蛙とかいうことわざがあったからそういうことは常に起きていたことは確かである狭い範囲でしか世界を見れなかったからである。つまり今の時代はテレビとか新聞自体がオワコンになっている
でも70以上になるとスマホも持っていない人が多い、携帯はもっていてもスマホはもっていないのである。
そのことで情報から取り残されるともなる。500人くらいの村で生活するのとは余りにも違った社会なのである

「井の中の蛙に海の話がわからないのは、その小さな世界にこだわるからだ。夏の虫に氷の話がわからないのは、自分の季節しか見ないからだ。

つまりこの話は常に誰にでも起きている。田舎の人間は都会の人間を知らないし都会の人間は田舎の人間を知らない
日本人は外国を知らない、なぜ狭い範囲でもわからなくなったのかとなれば逆にグローバル化して広域化社会になったとき江戸時代のような限られた世界では通用しない生きられなくなったからである。お前が視野が狭いというときグローバル化広域化社会になればそれだけ村という狭い世界から何万倍かの世界に拡大したともなる。そうしたら世界的視野を持てとなるがそれができないからお前は視野狭窄だとされてしまうのである
現実50才まで自分がそうだった。一回も海外旅行もしないで本を読んで外国のことを書いていたからである。
その後に外国旅行して視野を広めたからである。

●現代社会誰でも視野狭窄に陥る

グローバル化すればどうしても視野狭窄に陥る、世界となれば広すぎるからである。それがグローバル化した現代の問題である。
第一田舎だったら一万くらいの町だったらそもそも外国旅行した人がまれになる。田舎の人間は視野狭窄に陥り安い、付き合う人間も限らていていろいろな情報が得られにくいからである
たとえば大学に入るにしても身近に見聞するのと田舎でイメージするのとは違ったものになる。田舎の人間は受験にしても不利になる。受験などは受験技術とかテクニックが関係していて本当の知識を習得することではない、受験技術に長けた人が合格するとかなる。だから大学序列があっても文系の場合はその能力が反映されないことが多い。都会の人が有利になるからである

視野狭窄にならないためには多様な人を知り多角的に見ろと言っても田舎に都会のようにできない、ただ田舎でも農業に従事する人は一割にも満たない、ほとんど会社員だとなる。
だからゴルフ関係の物を作る工場があった。でもゴルフをしないものにとっては関心もないしわからないのである。その仕事がすぐ近くに工場があっても理解できないとなる。別にゴルフをしない者は関心がないとなる。ただ自転車はいろいろ乗っているから私は関心がある、でも今の社会は自分と関係なければ関心がもてないのである、何かこうしててゴルフ用品作る工場があってもその前を通っても関心がない、それは他の会社工場でもそうである

日々生活するにしても私が行ったすぐ近くの地元の野菜など売る店には本当に行っていないのである。別のそこでしか買えないものもないしスーパーで用が足せるからである。
だから断られても何も困ることがないのである、でもスーパ―がなくなったりしたら生活できなくなるから深刻になる
それでも近くのスーパーに行かず隣の原町で車で買い物に行っている人が普通にいる。車社会になると近くでなくてもいいとなってしまうのである。
磐城太田駅前の惣菜屋は昼間並んでいた、なぜあんな無人駅の前の外れた店が繁盛しているのか、それはいいものを売っているから車でみんな買いに来る。距離は関係ないのである。
私は車がないから買いに来れなのである。
車社会になると別に街から離れた所でも車で買い物にくるから場所が関係しないのである。

だから商売でも狭い範囲の人達を相手にしては成り立たなくなる
広い範囲で競争しなければならないからである。だから別に近くの店で断られても何にも困らないのである。
でもそのことが近くでも疎遠になるとはなる。日常的に買い物のしていれば顔なじみになる。だからカスタマーとなる。習慣的に買い物に来る人である。昔の小さな店ならそうなっていた
お得意さんとかなっていた。今は別にスーパーでなど買う人を客でもいちいち覚えてもいないのである。

●現代は世界が拡大しすぎて視野狭窄に陥る

ともかくいいにしろ悪いにしろ車社会がどれだけ影響したかである。生活範囲が拡大して近くが大事にならない、大事になるものもあるがそれでも医者でもいないとしても車で行けばいいとなる。実際そうなっている。だから医者であれ小さな店であれ断られても困らないのである。
そのために隣近所とか狭い範囲の村で暮らしていたような時代とは余りにも違った社会となったのである。隣近所でも別に無関心で没交渉でも生活できる。広域化グローバル化競争社会なのである。

しかしそのためにまた視野狭窄に陥る。拡大した世界までのことを知るとなれば簡単にできない、だから地銀でも投資信託とかすすめるがそれは世界の市場に参加することであり理解できないのである。だから今や地銀とでも信用できないとなった。
そもそも銀行自体が株でも投資でも素人だからである。また客にはもうけさせるためではなくただ手数料を取る商売なのである。
何でもグローバル化したら理解できなくなる。その範囲が余りにも広すぎるからである。だからどうしても視野狭窄になることが避けられないのである。地銀は地元に根ざすものとしてあったが
証券会社と一体化してグローバル化したのもそうである。

要するにどんな優れている人でも現代は視野狭窄に陥る、専門家でもその専門に閉じこもりむずかしい専門用語を使い実際はその専門家が視野狭窄に陥っていたのである。それは原発事故でもそうである。東電の吉田所長が復水器のことは知らない、材料関係が専門だから知らないと言っていたからである。
原発でも一部分は知っていても全体を知る人いないのである。それがさらに社会となればその範囲が膨大に拡大するのだから余計にわからなくなる。
だから誰しも現代は視野狭窄に陥るのである専門家は専門家で専門バカになっている時もそうである狭い範囲の専門ばかりを追求してその知識の範囲も膨大であり視野狭窄に陥る

人間は何らかで視野狭窄に陥っていることを知るべきである

その視野狭窄にならないことは不可能にもなってしまう。それはまさに現代に共通する問題なのである
だから一人の狭隘な知識を持つ人よりAIと対話した方がいいともなる。膨大な知識でも情報でも処理できないからである
不思議なのは詩とか作り理解する人はまれである。でもAIが詩を作るのには驚いた、そうした詩は普通の人は全く作れないからである。詩であれ何かそうした芸術とか学問的なことを直接語れる人はいないからである。だからAIと対話した方が役に立つともなる。

問題があるにしてもそれだけ知識情報社会になりそうなったのである
老人が今なぜ尊敬もされないのか、それは世界がグローバル化して膨大な知識でも情報でも知らない、狭い村の範囲ならその範囲内で物知りともなり頼られて尊敬されて長老ともなった
むしろ今になると老人はスマホでもできないと情報弱者になる。
だから私がプログで書いたものを今はスマホで見ている人が多い、でもスマホ持たない人はわからないとなる。今や逆に老人でも若い人から教えられることにもなる。確かに老人の体験話は若者でも聞く価値はある、でも膨大な知識情報社会になるととても
一人の老人の知識では追いつかないのである。だからこれだけ老人が増えても尊敬されないし福祉に金を使うだけで社会の発展を阻む者となり金だけかかる無用のものとされて早く死んでくれともなる。そこに現代老人の不幸がある。


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2024年12月22日

北九州市殺傷事件、平原容疑者は「娘を持つお父さんだった」…1年以上前に離婚  【同級生は人相がかわっていたという】


 【同級生は人相がかわっていたという】

何か引きこもりだと思ったそうでもないらしい。結婚して娘までいた。引きこもりとかニートとかは結婚していないしまして子供などもっていない、最初この人は車を持っていたということで引きこもりなのかと疑った。なぜなら引きこもりとかになると車を持っている人は見かけない。だから私が引きこもりとかは自転車に乗っている人が多いのである。

とにかくこの人は何なのかなぜ中学生殺したのか不可解だとなる。確かなことは

平原容疑者は1年以上前に離婚。逮捕後の映像を見た元同級生は「みんな『人相が変わった。別人だ』

つまり何らかの原因で人相まで変わって別人のようになってしまったということである。でも一年くらいでそんな風に変わるものだろうか?ただ人間を何らかの衝撃を受けて変わってしまうことがある。それはこの人はやはり離婚したということでその衝撃が大きく人相まで変わってしまったのだろうか。とにかく何か衝撃的な変化がありそれで急に一年ぐらいで人相まで変わってしまったのかそれがよくわからない。

ただ人間というのは何か大きな衝撃を受けるとまるで変わった人間になるということがありうる。私自身についても2人の親が死んで介護して苦しむだからそれで私自身の人間観などが変わってしまった。そこで誰も助けるものもなくかえって苦しめられたので人間不信感に陥ったのである。
だから人間というのは例えばアメリカでベトナム戦争とかイラク戦争を経験した人はそこでトラウマとなり何らかの精神異常になる人もいる
人を殺すという経験は人間の心理にどういうどいうふうに影響するかである。それは大変した人でなければわからないとなる。とにかく人間はその人の性格もある何らかの体験がその人を変えてしまう。まるで違った人間のようになってしまうこともありうるそれは戦争などを体験して人を殺した人はやはりその内面であり深刻なトラウマとなり人格まで変わるということもありうる
だから人相まで変わったというときそれは何か一年くらいで離婚したりして大きな衝撃があった。それにしてもなぜ中学生を殺害したのかというのは理解できない。

ともかく人間というのは衝撃的なことを経験して悪魔にでもなってしまうのかもしれない。一年でまるで人相が変わったというのもそうである。ともかく人相というのは一年ぐらいでそんなに変わるものだろうかなぜか私の場合は30頃ですでに老成していて60にも見えていた。

というのは私は何か20代頃家を出て東京の大学に行ったとき大きな変化を経験したのである。大学の運動部に入ったというのも陰のの性格の私を変えてしまった。
消極的な私が積極的な人間になったのである。だから人間というのは一年くらいでそうした激しい経験をすると変わるということである。それからも底辺を放浪して底辺の仕事をしていてそれもやはり自分を変えたということがある。だからなぜかすでに30くらいで60くらいの人相になっていたのである。
でもそのが家に引きこもり楽な生活をしたからこれまで生きたのだろう。余りにも厳しい生活を強いられると寿命も縮まる

ともかく何故そんなに人相まで変わるようになったのか?

それも一年くらいでそうなったのか。それが理解しにくいということである。別に資産家だとなれば金銭的には困っていなかった
その動機が不可解なのである。だからこれは引きこもりとかの犯行とも違う、だから何が動機の犯行なのかそれが問題だとなる。

私にしても十年くらいに二人の親の介護でまた自分自身の病気で変わった。でも人相まで変わることはなかった。つまり人相が変わるということは余ほどの衝撃を受けて変わったということである。ただそれほど変えるものは何であったのかは理解できないということである

何にしろ人間は付き合っていないとそれも十年とか付き合っていないと相手のことが理解できなくなる。私にしてもここ十年に起きたことは衝撃的であり変化させた。そしてこのことを知らない人は私のことを理解できない、何があったのかもしらないからである。それで人間は10年とか合わないとか付き合あないとかなれば近くでもその人について理解できななる。

でも相手は私が経験したことに関知しない、そして対話もなりたたなくなる。またこの辺で起きた津波とか原発事故でも他所の人は理解しにくいのである。近くでも別に津波の被害にあった人がいても合わない人はその被害を受けた人の気持ちがわからないともなる。それは私が介護で死ぬような苦しみを受けたことでも他人にとっては面白いとか他人の不幸は蜜の味となる
全然その本人の苦労を察しないからである。それで会話もなりたたなくなる。確かなことあ人間は継続的につきあっていないと近くでも理解できなくなる。
だから関心領域という映画が隣のナチスの収容所で殺人が行われていても無関心だったとなる。それは別に特殊なものでなく常に人間に起きていることなのである。
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2024年12月19日

北九州中学生2人殺傷 近くに住む43歳男を逮捕 【引きこもりなのか?時間軸で見ることが人間には必要−老人は思い出に生きる】


北九州中学生2人殺傷 近くに住む43歳男を逮捕
【引きこもりなのか?時間軸で見ることが人間には必要−老人は思い出に生きる】

●引きこもりのネットウヨなのか?

この事件は何なのか、動機は何なのか、何の目的で殺したのか
通り魔殺人なのか、今わかっていることは自宅で軍歌を流していた。軍歌がなぜなのか

ネットウヨだったのか

騒音で隣近所で問題になり警察も来ていた。つまり何らか日ごろから問題があり騒がせていた。
この43才の男子は引こもりでありネットウヨだったのか、第一その歳で軍歌など流さないだろう。

何か引きこもりとか危険になる。歳にしても43才くらいとなるとやはり危険かもしれない、引きこもりの問題は何か社会性がなくなり異常化する。これは自分自身が経験しているからわかる
社会から離脱して異常化する。優秀な社会から離脱したアウトサイダーの天才芸術家などが狂気となったようにである。その天才は社会に適合できない、でも普通の人とは違った抜きんでた才能を持っていたのである。
でも小人閑居して不善を成すが普通なのである。隠者とかになるのは特別優れた人しかなれないのである。

ただ現代の不思議は引きこもりが百万人いるとか常態化していることである。田舎で昼間仕事しなでうろついているのは奇妙だが障害者でありまた引きこもりだともなる。だから昼間仕事しないでうろついていると警察ににらまれて職務質問される
ただ家に引きこもっていても何か騒音をだして近所で迷惑であり警察も来ていた。何か異常性があり外にでも気づくものともなっていた。だから意外と早く逮捕できたとなる

●人間は時間軸で見ないとわからない

ともかく事件は突然起こるが人間というのは必ず時間軸で見ないとわからないのである。この人が43才までどいう生活をしてきたのかそれを知らないと理解できない。時間軸で見ないとわからない、人間は事件を起こすにしても何か前兆がある。
また人間はある期間を付き合い見ていないとその人のことを理解できない、近く同級生でも本当に十年三十年なのか没交渉だった

私がその人と会ったがもはや何か理解することがお互いに不可能だった。近くにいても何か付き合いがないとその人のことがわからなくなる。30年なのか40年とかのブランクがあったらもう理解し合うことは不可能である、その人はスマホもしていないから私がブログで日々発信していることも全く知らない、インターネットの場合70以上になるとスマホでもしないからわからなくなる

もう一人も30年間何の仕事をしていたかもわからない。語らないからその人理解できなくなる。ましてや遠くになると実の子供でも兄弟でもそれぞれの生活が別になり理解しにくくなる。
人間を理解することはやはり継続して付き合い共同するとかしていないとわからなくなる。すぐ近くでもそうなのである。
私のことはプログで書いた、でもスマホをしないとかインターネット利用しなければわからない、それでその人と切れた
この年になると人間関係は切れやすい、それで最後はさよならだけが人生だとなる。なぜならまもなく同世代でも死んでゆくからである。死は永遠に逢わなくなるということである

ともかく人間は時間軸で見ないとわからない

これは歴史だけでは人間の短い一生でも10年間とか会っていない話もしていないとなればもう理解しあうことは不可能である
そのブランクが致命的なのである。一体その人は人生で何を経験したのか、その経験を知らないと理解することは不可能である
その人の人生は一巻の本でもありそ一部を抜粋しても全体を知らなければその本を理解できないしその人となりも理解不可能になる。
とにかく現代は広域化グローバル化しているときどこかに事件が起きたとしても時間軸で見ることが至難なのである
個人的にも国家単位でもそうである。

●共に働き協働したことで語り老人は連帯する

その女性は私の家で店をしているとき豆腐を下ろしに来ていた
それは子供の時であり随分昔になるけで私の家族の事情を知っていたのである。それで何か親しみを覚えたのである。
何か経験を共にして分かち合っていたとなる。その思い出をか語る時連帯感を覚えたのである
だから原発避難区域でも共に苦労した人たちはそうして心が通じあうとなる。何か浪江の辺鄙な津島あたりでも戦後開拓に入って苦労した人たちがいる。するとそこに住み続ければ必ず共に苦労したことを語り連帯感が生まれる、そしてその土地に愛着が生まれる。でも一旦その土地を離れたらそうした思い出をかたることもできなくなり便利でも何か連帯感は持ちえないのである

つまり故郷にすめないということはそこで暮らした思い出も失うともなる。思い出を共有できなくなりそれは金銭的には恵まれても精神的には損失である。
でも思い出は本当は金に換えられない価値があったともなる
なぜなら何が人生に最後に残るかとしたら思い出だからである
そしてその思い出は老人ななるとなかなか作りにくい、若い人なら遠くに出てもその地で新たな思い出を作ることができるが老人にはできないあからである
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2024年12月13日

後継者がいない、伝統が家が継がれない 【その失うものは何なのか-人間は歴史的存在】


後継者がいない、伝統が家が継がれない
【その失うものは何なのか-人間は歴史的存在】

●長男でも兄弟でも平等になり家は維持できなくなった

昔は家を継ぐということが重みがありそれで長男が家を継ぐ者として重んじられた。長子は昔から重んじっられた。江戸時代だと禄でも家が継続されること与えられていた。
でも家を継ぐことをできない次男三男とか冷や飯食いになった
その差が大きかった。ただ長男は家を背負うから責任が重かった
でも戦後は財産でも兄弟でも均等に与えられる権利をもつようになった。それは伝統的なものに反する、すると家を維持するということができなくなる。

家を維持するということは建物を受け継ぐというだけではない
何かその家々にある受け継がれるものがある。おふくろの味とかでもそうである。でもそういうものなくなり間に合わせでスーパーで買うとなる。便利ではあるが家々に伝えられるものが失われることにもなる。

農業とか菓子店が継続されるのはなぜか

ただ伝統的なものとして今でも伝えられるものはある。それは農業とか伝統の職人の技とかまたは菓子作りとか何かほかにもある。農業だと例えば梨づくりの農家はこの辺でも多い。磯部の梨などは有名である。その梨を作るにしても先祖がいかにうまいものにするかを苦労して作った。
そのノウハウが代々伝えられてきたのである。だから農業新しく一から始めることはなかなか難しい。特産物などもやはりその土地に見合ったものとして作ることが伝えられてきたからである。不思議なのは必ずどこの小さな町でもお菓子屋というのはある
それはスーパーとは関係なく小さな店でも継続しているのであるそれはなぜかとなればその店独自の味を作り出しているからである。あるお店でわカステラだけを作りその味がいいのでそのそのカステラだけを売って商売になっていたのである。

それはどこの菓子屋でもその菓子屋でしか作れない味を出すとその味は伝えられてその店は継続される。つまりノウハウ伝えられて継続される。それでそういう家は代々継続されるということである。その財産は金というものではなくノウハウを伝えられるから継続される。だから必ずしも財産というとき金だけではないのである。何か家訓とかもありそれも伝えられてその家の繁栄が続くともなる。確かなことは家でも一代だけでは栄えることは難しいと思う

ともかく現代で問題になっているのは後継者がいたる所でいなくなることである。それでも無縁仏が増えるというとき受け継がれる家というが消失してきたことにもある。長男は家を継いでいれば兄弟でも死ねば長男が引き取り供養するから無縁化はしないのである。だから必ずしも兄弟で財産を平等に分けるということがすべてが良いとはならなかったのである。なぜなら長男には家を受け継ぐ責任がありだからこそ財産も必要になるからある。
だからなんでも平等というものは良い方に作用する訳ではないのである。それは民主主義の平等を追求してかえって伝統的な貴重なものは失われるということにもなったのである

●明治がなぜ偉大な人物を産んだのか

これを大きく広く日本という国で考えるとき何か明治になったヨーロッパが入るものがすべていいものとして江戸時代まで伝えられてきたものが失われた。論語とかをモラルの基準としていたがそれも失われた。武士道など何かわからなくなった。でも内村鑑三が武士道キリスト教になったとき伝えれるいいものはあった
返って機械とか科学とかはヨーロッパは優れていても精神的なものでは日本が指導すべきものがあったということもあったのだ
それは福沢諭吉がそう言っていたのである。

つまり明治維新からの日本の混乱と失敗は江戸時代から伝えられたものを一切否定してしまったことにもあった。そこにはいいものがあったからである、だからこそ明治時代は偉大な時代だったというとき江戸時代から継続されるものが活きていて和魂洋才となったからである。和魂があったということである。
その和魂を失ったとき何があるのかとなってしまった。
すべてヨーロッパに習いアメリカに習い日本の伝統的なものが失われたのである。ただ過去にあったものがすべていいとはならない。江戸時代の厳しい身分制などはなくなったがそれは良かったとなる。でも受け継がれるべきものがありそれが消失したことが問題なのである。

つまり現代の混乱と不毛は日本的な伝統的なものが失われたことである。だからもともと日本にあったいいものを見直す必要がある。本居宣長が大和心と唐心を区別したようにである。何かもともとあったいいものを伝統的なものを復古させることである
すべて新しいものがいいというのではなくヨーロッパやアメリカにあるものがいいものではなかった。ただ戦争に負けて強制されたのである。日本はただただ金だけを求めるようになったのもアメリカに習ったからである。

明治時代になぜ内村鑑三があれほどアメリカを嫌ったのかというのもその時日本的良きものが継続されていてその比較でアメリカの悪い点が見え日本のいい点が見えたからである。今は日本の良い点が消失したとき喪失したとき何が日本の良い点かもわからずただアメリカを賛美したりヨーロッパがやはりすべて良いものとして見るようになった
もちろんそこにいいものはあるにしても日本にもともといいものがありそれは継続されるべきものだったのである。

いずれにしろ日本を建て直すとき日本にもともとあった伝統的なものを見直すことが必要である
つまり人間は歴史的存在であり歴史的に継承されるものがありそれを失う時荒廃してしまうのである
だから長男でも家を継ぐために責任を課せられていた。でもその家を継ぐということも失われ返って兄弟でも家に所属するものではなく死んでも無縁仏になってしまうということでもある。






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2024年12月12日

同年代の人の死―西田敏行 小倉智昭〔77才〕等など 【死後長く語られる人は価値があるー棺(かん)を蓋(おお)いて事(こと)定(さだ)まる

同年代の人の死―西田敏行 小倉智昭〔77才〕等など
【死後長く語られる人は価値があるー棺(かん)を蓋(おお)いて事(こと)定(さだ)まる

短日や同世代の二人死ぬ

西田敏行 小倉智昭〔77才〕も死んだ。火野正平(75)77才であり同じ年である同世代が死ぬ
この人というときはテレビでなじみだった。だから驚く、何か身近でも消息でも分からないし何をしてきたかもわからない人が同世代で近くでもいる。だからテレビでお茶の間で常に見ていた人の方が親しく感じる。どちらも東北出身であり西田氏は福島県の郡山市だった。でも全く朴訥な東北人とは違っていたのである
軽妙な語り口で人気だった。だから東北人だからと一様ではない、様々な人がいる。

火野正平(75)もテレビのドラマで良く見かけた。個性的な俳優だった。この人はまだ若いと思った。
ただ死というのは常に驚く、でもすぐ忘れてしまう、なぜならその歳ならいくらでお死ぬ人が増えて来る。一応有名だから死んだ瞬間は驚くもすぐ忘れられる
同業というか谷川俊太郎(92)詩人も死んだ、この人は92才だからしょうがないとなる。ただ詩人としての評価はどうなるのか、
単純な詩を作った人である。では評価すればどうなるのか?

つくづく人間は呆気なく死ぬ。この年になれば同年代でも次々に死んでゆく、死ぬと同時にすぐに忘れられてゆく。例え有名人でもそうである。もし死んでから十年後でも語られることがあればいい方である。作品を残してもその後語られることがあればその人は活きる。でも大概忘れられて語られることもないのである。だから芭蕉とか見ればその作品は不朽のように残されて常に語られる。芸術は長く人生は短しとなる。
でもその芸術家にしても語られ続けられる人は本当にまれである
みんな泡沫のように消えてゆくだけである
まず死んで10年でも20年でも語られる人がどれくらいいるのか、
もし死後50年後でも語られるとしたら凄いとなる

それは芸術家だけではないいろいろな分野でそうである。そして百年後のも語られる人はさらにまれでありほとんどの人何も語られない、だから内村鑑三は1861年3月23日〈万延2年2月13日〉[1] - 1930年〈昭和5年〉3月28日を生きた。江戸時代から戦前の昭和まで生きていたのかとなる。約今から93年前である
でも全集を読むと何故これまで聖書を深く研究して書けたのかと感心する。彼は教会を否定して単独者として信仰を貫いたのである。明治時代に死んだと思っていたが違っていたのである。
何か内村鑑三は日本のアブラハムのような偉大な存在に見える
江戸時代になりキリスト教深く知り始めて伝えた人だとなる

つくづく人間とは何を残して死んでゆくのかとなる。芸術家なら作品を残すそれにしてもその残された作品について語られ続けるのは一握りだとなる。何か本でもすで家を傾くほど買ったがその著者も死んでいる人が多いのである、30年前に本を買ったすればすでに著者も90以上とか死んでいるとかなる
でも本を残した人はいい方かもしれない、あとは一般人は何も残らないからである。

ともかく短日というときこの年になるとあっというまに時間過ぎて目前にあるのは死だけだとなる。あと何年生きるのかとなる
そして人間は一体何を残すのだろうとなる。金を持っている人を知っているがその人はその人生を何も語らないからない、中味がからっぽだともなる。
つまり最後にはいくら金を残してもその人の評価にはつながらない、だから人は何を残して死ぬのかとなるとき何を生きたのかとなる。その一生は何だったのか、その人の価値は何だったのかとなる。それは金で計れないのである。
巨万の金を稼いで残してもそれで最後に死後でも価値ある人とされるとはならない。そこに人生の後悔がある。
だからいろいろな分野の人がいて死後も延々と語られ人はその人は死後も生き続けているのである。ただそういう人は極ごくまれな人なのである

棺(かん)を蓋(おお)いて事(こと)定(さだ)まる 
《「晋書」劉毅伝から》人間の真価は、死んでから決まる。人事は棺を蓋 (おお) うて定まる

虎は死して皮を留め、人は死して名を残す

名残す人は極ごくまれだとなる








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2024年11月24日

兵庫県知知事の斎藤氏当選が提起した問題 【マスコミに対抗するSNSが民主主義を促進】


兵庫県知知事の斎藤氏当選が提起した問題
【マスコミに対抗するSNSが民主主義を促進】

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●空間軸と時間軸で見る事件の報道

今回の兵庫県知事の斎藤元彦氏が当選した事の何が問題なのか。それが分かりにくいのはこれまでの経過時間軸で見ることができないからである。ニュースというときとにかく無数のニュースがありそれが確かに空間軸では見る。どこどこで何が起きたとかは瞬間的にわかる。でもそこで問題なのは時間軸で見ることができないことである。時間軸で見ることは本当に難しいからである。

イスラエルの問題にして2000年前まで時間軸で見なければ理解できないからである。そうでなくても何か問題が事件が起きたとき時間軸で見ることが難しい。数年前から兵庫県では斉藤知事のことは問題になり批判されていた。
でもそのことに関心がなければ時間軸で見ることはできないそして瞬間的にニュースを見るから斉藤知事というのは悪い奴だとその瞬間的なニュースの印象でそうなってしまう。時間軸で何が議論されて何が問題になったのかもわからないからテレビの放送での瞬間的な印象で決めてしまうのである。

その時テレビは本当に斎藤知事が悪い奴だと印象受けていた。でも時間軸で何が起きたかを知ることが面倒だからその印象づけに乗せられることになる。そういうことがニュースを見る時多いと思う

●原発事故でNHKの偏った報道の問題

それはこの辺の津波や原発事故でもおきたのである。 NHKで津波の被害者と原発事故の被害者でもめることがあり問題になった
その被害者が同じビルとか仮設住宅に隣あって住んで争うことにもなった。そしてNHKではどういうふうに放送するかということ会議で決めていた。津波の被害者より原発の事故の被害者に味方することにしたのである。

だからその番組を見た人は必ず原発事故の被害者が補償金等で優遇されたから津波の被害者は特に30キロ圏外だと補償金は出ていなかったのである。それで飯館村の人が相馬市に避難してトマト栽培の農家に勤めようとしたが津波被害者の方が優先されて採用したとそのことだけ取り上げ印象付けたのである
するとその番組を全国で見れば

そのトマト業者は冷たい人だ!

こう見るのは当然だと思う。そういうふうに印象づけるようにテレビでは一方的に放送しているのである。双方の言い分テレビで放送しないのである。でも私が疑問に思ったのは地元に住んでいるから飯館村の人はかなり補償金が高くもらった。だから当面はは困らないな津波の被害者は相馬市の場合もらえなかった。原発の被害にしても30キロ圏内で区切られて相馬市で一人6万くらいしか貰っていないのである。

そしたら困っているのは津波被害者であり原発避難者ではなかったのである。だから別にトマト業者の農家が冷たいということはなかったのである。公正に判断しているのである。 NHKこそが偏った判断をしたのである。でも事情を知らなければ全国の人はトマト業者は差別して冷たいとか印象付けられてしまったのである。そういうことが今回の兵庫県の斎藤知事の問題でも起きていたのである

斉藤知事はなんて悪い奴だ!

全国から見れば兵庫県のことが分からないしその瞬間的なことで判断するからそうなってしまったのである。一見NHKとかは中立に見える中立ではないのである。なぜならすでに幹部の人が会議で原発避難者側につくということを決めたからである。それで放送でも一見中立のように見えてもそうではなかった
津波の被害者が悪いとして印象づける放送をしていたのである

私自身は別に飯館村の人がいいとか悪いとかではない。地元だから事情が分かり中立に見ていて判断したのである。なぜなら地元では補償金で揉めていたからそのことを自らも知っていたからである。ただ全国的になるとそうしたことも分かりにくいからNHKの放送で津波の被害者は悪いと印象付けられてしまったのである。

●偏向報道の怖さ―ナチスになる怖さ

だから今回の斎藤知事の問題もテレビの影響はマスコミの影響はあまりにも大きいものとして作用した。常に斎藤知事が悪いとして印象付けられてしまったのである。実際に悪かったのは斉藤知事を裁く百条委員会の県会議員の方だったのである。

NHKでもテレビでもマスコミでも中立ではない。必ず偏っているのである。なぜなら報道するにも幹部が会議でどちらに味方するかを決めていたからである。その方針に則って放送するのだからそうなる。それでまたSNSはすべて正しいかとなればそうでもない。でもSNSはマスコミのテレビの圧倒的な力に対抗できるものとして存在感を増したことは悪いことではなかったのである。
そこに問題があるとしてもあまりにもマスコミがテレビでも一方的に放送できる圧倒的力を持っていたということが問題だったのであるだからそれに印象づけられて国民の判断も誤るのである。

それが恐ろしいのはナチスがゲッペルスを用いて大衆を洗脳して悲惨な結果になった。つまりマスコミでもテレビでも大衆洗脳装置となるそうなりやすいのである。その対抗するものとしてインターネットがSNS生まれたことは民主主義の促進になったことは確かである。ただインターネットにもさまざまな問題がありすべていぃとはならない句点でも圧倒的な力を持っていたテレビやマスコミのの対抗手段がのメディアが生まれたことは民主主義を促進することは確かなのであるである。

神は偏り見ない

人間は必ず偏り見るとぴうことである。そこに人間の限界がありだからこそ人は人裁く権能がないから裁くなとなったのである。
マスコミはNHKでも裁判官になり裁く力を持ったことが問題だったのである

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2024年11月22日

原町のイオンの隣のツタヤの書店CDビデオレンタルの店が閉店 【相馬市ではイオンが撤退の影響が大きい―全国で大型店の撤退が増える】

原町のイオンの隣のツタヤの書店CDビデオレンタルの店が閉店
【相馬市ではイオンが撤退の影響が大きい―全国で大型店の撤退が増える】

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イオンが発表した60店舗の撤退戦略が、地方都市を揺さぶっている。その中心は、不振を極めるジャスコなどの総合スーパーだ。核店舗の閉鎖は、ショッピングセンター(SC)の撤退に直結する一大事だけに、地元への影響も計り知れない。撤退騒動に揺れる街の今を追った。

それに対し、おのだサンパークを運営するのは、小野田商工会議所の役員らが経営幹部に名を連ねる小野田商業開発という地域密着の会社だ。

 「イオン九州の本社サイドが収益が上がらない店を閉じるドライな判断をするのは、商売である以上仕方ない。他方、小野田商業開発はまちづくりの使命感を背負っているから、閉店という選択肢は最初から存在しない。

おのだサンパーク」は、山口県山陽小野田市の地域に根ざした複合商業施設です。
ここでは、ショッピング、食事、カルチャーといった多彩な体験を一日中楽しむことができます。




相馬市のイオンが撤退して空地化した。その影響は大きいものとなる。いつもあそこで休み食事などしていた。ただ市街の方ではあまり食事などで利用しなかった
今日原町のイオンに行ったらツタヤが書店の部もレンタルビデオとかCDなどももう閉店で売らない。書店とか音楽でもネット化して売れなくなった。その影響が大きい。

雑誌でも売れない、みんな楽天の一か月300円から400円でネットで読んでいるから書店でわざわざ雑誌を買う人も減ったのである。そもそもyoutubeで専門的なものでも時流的なものでも無料で見れる。その説明がわかりやすいのである。学校の先生より教え方がうまいし優れている、地方の学校の先生とかレベルが低いからである。世界史のyoutubeでは先生が政界旅行している。それも何十か国とか普通に実際に行っている。団塊の世代で先生自体がそれだけ世界旅行している人はいなかった
だから授業もつまらなかったのである。

今は円高の時は貧乏人の若者でもフリーターとかアルバイトとかでも世界を回っている人がいたのである。海外旅行は実地のその場に行っている人といない人の差が大きいのである。なぜなら外国のこと本を読んでも映像で見ても実地にその場に立たないと実感できないからである。砂漠が日本ないとしたら砂漠を理解できないのである
だから海外で留学したとか仕事したとか人は実感として世界を知るのである

今や誰でも本は出せなくてもインターネットで放送できる、個々人が放送局になれる。それも一人でもできるとなる。今までのテレビ局はその装置だけでも莫大な金がかかるからできなかった。
兵庫県知事選挙でもあれほどマスコミに叩かれた斉藤知事がネットの応援で大差で勝ったことは驚きだった。ネットが明らかに現実に社会に大きく影響する時代になった。インターネットなしで社会でも世界でも知ることができないとか社会参加もできない時代にもなっている。だからテレビであれ新聞であれオールドメデアとしていることが如実に変化したことを示している

つまり古町と新町があり古町になった。現実の古町はヨーロッパの歴史地区として価値があるがメデアの場合はないから消失してゆく。
それでマスコミが第三の権力とまなったのである。
とにかくツタヤはネットに駆逐された、書店もそうである。
今は自分の関心あることをネットで探して後はアマゾンで古本でも莫大な量があり選び買う、だから書店がなくても困らなくなったのである。個人でも放送局にもなれるし出版社にも新聞社にもなれる。ただ取材となるとなかなかできないから記者とか必要になる。

イオンとかの大資本は商売が成り立たなくなれば簡単に撤退する
それが街全体に大きな影響があっても撤退する、でも地元密着のスーパーはそういうことがない、商店街は地元の人が住んで経営していたからである。その商店街もスーパーができて廃れた
それは車社会になったことの影響が大きかった。別に車なら遠くてもかまわないからである。それで商店街には駐車場とかもないので不便になり廃れたのである

何か地名で古町とあり新町とあるとき古町はもともと栄えていたところである。それも意外と近くが古町であり新町でも離れていないのである。それはヨーロッパだと歴史地区が必ずありそこに城があり古い教会がありとか観光客は歴史地区を観光するのである。古町が観光の場になる。

ともかく巨大資本は巨大なるがゆえに土着的ではない、その弊害がある。商売が成り立たないとなると撤退する、その跡が大きな空洞になってしまうから困る。原町のイオンでももし撤退したらその影響は大きい、でも相馬市のようにならないとは言えないのである。全国でも巨大資本のスーパーでも撤退しているからである。



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2024年11月21日

一軒の空家が語るもの―渡辺英夫氏死亡 【全国で増える空家は何を意味しているのか―失われる歴史―物語】


一軒の空家が語るもの―渡辺英夫氏死亡
【全国で増える空家は何を意味しているのか―失われる歴史―物語】

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一軒の空家

玄関に大岩を据えて
また庭に直立した岩
主は死ぬも重々しくあり
この家の道を毎日我が通りぬ
今冬に入るかな
その家を建てし苦労話を聞く
今は亡きしもなおそこに
主のあるごとしも
一軒の家に重みあり
故郷に土着したる一軒の家
主の死してその歴史を語る


その家の主は最近死んだ、85才だった。その家の主は知っていた。その家をどうして作ったのかを聞いた。20代ですでにその家を建てたのだ。そのためにトラック運転手をして人の2倍のものを運び稼いだ。それだけ仕事があり稼げる時代だった
その庭は特別立派であり岩だけで石だけで相当な価値がある

それを自慢していたのもわかる。そもそも20代でそれだけの家を持つことができたのは時代である。高度成長時代を生きたからである。その時若い人でも別に親から遺産を受け継がなくても20代で家と立派な庭を持つことができた。それはローンでもなかったのである。高度成長時代に別にその人だけではない、みんな好景気で働けば働くほど収入が増えて家も建てたとなる

私の家も店が繁盛して昭和42年 → 1967年頃今の家を親が建てた
大きな家なのでまわりの人が驚いた。でもその時代は高度成長時代だから例えば東京でも大都会でも小さな工場でも仕事がいくらでもあり金の卵として地方の中卒者が集団就職したのである
つまり社会全体が活気に満ちていた時代だとなる

今の時代20代でいくら働いても一軒の家もそれも立派な庭を持つことはできない、だから今の若者は将来に希望がもてないのである。
とにかく家というものは一軒家はその土地に土着して存在感がある。でも都会の団地とかマンションとかになると何か存在感がないのだる。市営住宅などでもそうである。その土地に根ずき土着した感覚がないのである。
重みが感じられないのである。

でも空家が増えているのがもったないとなる。立派な庭があり家も立派なのも多い、しかし人が住んでいない、特にこの辺では原発事故の避難区域になった所は空家だらけであり廃墟化したのである。街全体がそうなった。
ただそれは極端にしても全国で空家が増大している。それは何を意味しているのか、失われたものは家という建築物だけではなない。その家と共にあった人間の歴史も失われたとなる

何か必ずそれぞれの家には物語がある。私の家は二代にしても父親が双葉の新山で酒屋お丁稚をして暖簾分けしてこの地に土地を買い家緒を建てたとなる、そのご姉と母が高度成長時代に今の二階の家を建てた。それで私は苦労もせず二人は死んだが住んでいるのである

つまり家というものはただ物としてあるのではない、そこに必ずヒストリーがある。ストリー物語がある。それが失われてゆく
物が失われるだけではないその物と一体化したものが失われてゆく、ただ家が残っていれば依然としてその家のことを考える
家もなくなったら何が残るのかとなる、その人の墓は近くにある。一人娘は結婚して相馬市に住んでいるが墓は家の近くにある

でもそ家は一代で終わり受け継がれない、ということはいずれ墓も受け継ぐ人もいなくなり無縁墓にもなる。それは日本全国で起きていることなのである。たであこの辺は津波の被害や原発事故で町が廃墟化するとか極端なものとして現実化したのである。

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近くなる知りにし人の墓参る冬の日静か我が一人かな

親しかった女性が病気になり杖ついて歩くのがやっとだから墓参りすると言ったがそれも困難になる
その人は生きている時は文句を言っていたが死んでからは車でいろんなところに連れて行ってもらってよかったとか言う
いい思い出だけを言うのも死ぬと余りその人の悪いことは言いたくないともなるのか
この墓は娘一人がいるにしても相馬市に嫁いでいるから墓は別になる
だから墓誌があってもその後は記す人はいない、実家にも墓がある。でも将来的には参る人もいなくなるのか
ただ孫とかいるからそうでもないのか、空家も増えて墓も捨てられる。継続できないのである
妻は早めに死んだが夫は偲んでいた。でも墓誌にはこれ以上記されることはないのである。





posted by 天華 at 13:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年11月19日

情報を判断する難しさ 【兵庫県斎藤知事はSNSの応援で当選ーマスコミの敗北?】


情報を判断する難しさ
【兵庫県斎藤知事はSNSの応援で当選ーマスコミの敗北?】

●口伝えでも情報判断は誤る

なぜ今情報が問題になるのかそれはインターネットなどが生まれてその前もテレビとかで情報の量は膨大に増えたのである。これまでは新聞テレビが情報の主流だった
今はインターネットもありその情報の量がさらに膨大に増加したのである。
そもそも別にマスコミであれインターネットであれそういうものは無い時代でも情報というのは口伝えでも必ずその伝える人でもまたそれを聞く人でも必ず違ったものとして受け取る

ヤクルトの人が怪我したと言うので別な人が来た。違った人が2人来たのだがともに重傷であり今年は配達できないと言っていた。その人はまだ若いし元気なのでどうして怪我したのか足を痛めたのか分からなかった。何か足にひびが入ったとかだから今年中は配達できないと代わりの2人は言っていたのである。それを聞いた時重症だと思うのは当然である

でもこうして口伝えの情報でも誤った情報が常に伝えられる。その原因が重症だと思わせることを言った人たちが実際は直接その本人にお見舞いしたり聴いていないからだとみた。もし直接会って聞いていたらそんなことを言わないと思ったからである。だから何かを伝えるにしても人はいい加減なのである。実際は軽傷であり別に昨日配達に来たからである
だから情報とか人を判断することは本当に難しいと思う何が事実なのかもわからないのである。だから目撃証人にしてもその人を見誤ることは常にある。それで誤解が生まれる。

●簡単に判断できない情報摂取の問題

今回の斉藤知事の問題で何があったのかこれを理解すること自体難しい。でマスコミでも議会でも厳しく批判しているのだから斉藤知事が悪いと言うことが刷り込まれるのであるそれを私自身も発言したように同じだったのである。
なぜならその事を深く知ることは難しいから表面的なことで判断していたのである。いろいろな事件があってもそれを深く知ることはできない。
だからマスコミの報道することそのまま受け入れてしまうのである。あらゆることにいろいろ事件があってもそもそもそのことを深く知ることは難しいからである

だからこそ簡単にいろいろ事件があっても人のことでも判断することは危険なことになる。でもマスコミからばかり情報を見ているとそれも誤解するのである。何かテレビの場合必ず一方的に情報が刷り込まれるのである。

それでイラクの戦争のとき一羽の海鳥が油まみれになっていた映像は世界中に流されそれでイラクはひどいと世界中の人に刷り込まれたのである。だから報道というのは誰かの意図があって放置されることがあり中立ではないのである。それで正しい判断ができなくなるのである

●地域の情報はそこに住んでいないからわかりにくい

SNSにしてもインターネットでも確かに今やユーチューブでも誰でも意見を言うことができる。そして今回の斉藤知事の当選したのはSNSの情報発信がありその応援があって当選したと言われる。
つまりマスコミが敗北したとされる。なぜなら斉藤知事の悪い面しか伝えられなかったからである。そして何が真実なのかを知ること自体容易ではない。それは兵庫県である兵庫県のことは何か分からなかったからである。そういうことは常に起きてくる。福島原発事故でも他県の人はわかりにくくなるのである。

でも私自身は地元だから発信してきたのである。今までならこれはできなかった。それはやはり福島県地方新聞でもテレビでも報道するだけでありそこに地元に住んでいる人が報道することはできなかったのである。それはインターネットで変わったのである。つまり個々人が報道して意見を言うということができるようになったことは大きな変化だったのである
だから斉藤知事があれだけバッシングされているのに選挙で当選したということはなぜなのかとなった。それを若い人たちがインターネットSNSを通じて応援したからだととされる

今やマスコミだけが報道機関ではなくマスコミ自体が常に批判にさらされているのである。マスコミは本当のことを言わない原発事故でもその危険性を指摘しなかったことが大事故にも繋がったのである。なぜならマスコミは宣伝費に頼っているからその宣伝費を出してくれる会社のことは批判できないのであるそれで原発の場合は電事連から600億円なのかなのか莫大な金が主要な新聞社にマスコミに支払われていたのである
そのためにマスコミでも原発の安全神話を作る方に回っていたのである。

●相馬新報の意義―地域からの情報発信の時代

確かにインターネットでもSNSでも問題がある。それは何が真実なのか事実なのかわからないこともある。でもマスコミでも必ずしも真実を追求しているわけではなかったのである
むしろインターネットの方が別に大掛かりな装置など必要ないし金もかからないのだから誰でもできるユーチューブでもテレビ放送でもできる。プログなどをさらに簡単である誰でも気軽に発信できるので手間がかかって金はほとんどかからないからである
ただそれが読まれるかとなるとそれが非常に難しい。その数が多すぎて埋もれてしまうからである
ただSNSのインターネットの強みはマスコミはまさにマスコミュニケーションだけど全国のニュースは話題になるけども一地域に根ざした情報発信はできない。だから福島県でも広いから地域に根ざした情報発信ができない。福島県だとハマナカアイズがあり歴史も風土も違っているのである

それで原発事故のときちょうど3月頃に海から東風が吹くその東風は福島市の方まで吹いて放射線量は福島市の方のが高かった。海側はかなり低いものになっていたのである。そしてその東風が吹いたために飯館村がその風の通り道になり放射線が高かったのである。だから何か事故でも問題が起きる時take placeでありその場所は問題になるのである。でもその地理とか風土は外からはなかなかわかりにくいのである
だからこそ私は相馬新報をプログで発信できるようになったのは大きな変化であり一個人でも力を没ようになったということである。これまでどれだけマスコミが力を持っていたかそのために情報も歪められていたのである

だから斎藤知事のことは深く知らないとしてもSNSはインターネットが相当に普及してそれが影響して斉藤知事が当選したとなる。それは大きな変化だった。どうしてもあれだけ批判されていれば外から見れば当選するとは思わなかったからである
だから今やインターネットSNSを無視しては社会参加もできないと言う状態にもなっているのである。すでに60代くらいでもスマホみんなしているしま70代になると少なくなるやはり時代の影響でスマホは使えるから無視できなくなったのである。
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2024年11月17日

関心領域の欠如が人間の問題であり危険になる 【中国連続殺傷事件も関心をもたせるために起きた】


関心領域の欠如が人間の問題であり危険になる
【中国連続殺傷事件も関心をもたせるために起きた】

●人間は他者の苦しみに関心が持てない

人間は他者にそもそも関心を持てない、映画『関心領域 The Zone of Interest』では隣でナチスの収容所が殺されていても関心がなく普通の生活が行われていた。これは極端な対象で映画化した
ただ人間はそういうことがある

人間は他人の苦しみに無関心である
自分が苦しまない限り関心を持たない

私自身が自らも病気になって親の介護で四苦八苦していても他者は関心をもたなかった。ある人は笑っていたし喜んでみていた
他人の不幸は蜜の味になる。そこまでいかなくても無関心なのが普通である

10年も過ぎたが津波で大被害があり死者も相当数出た

そこで八沢浦が美しい入江にもどったとプログに写真を出して書いたらお前は何のだここで人が死んでいる、泥に埋もれた赤子が掘り出したのだとか激怒した書き込みがあった、他の人責めるのも当然だったと思う。
では自分が介護で死ぬほどの苦しみを受けていた時誰が関心をもったのか?関心を持った人は確かにいたがそれは金を奪えるとなって関心を持ったのである。何か助ける気持ちなどなかった
そのために大金を盗まれたり散々な目にあったのである

人は自分の苦しいことには敏感であり訴える

でも自らが被害がないとかなれば無関心なのである。何か隣でナチスの収容所で殺される人たちがいても平然と楽しみ暮らしていたのである。それは特殊なことではなく人間に起きることである。
相手がどんなに苦しんでいようが別に自分に被害がなければ無関心なのである

●津波原発事故で起きたこと

そいうときなぜ小高の人たちが避難して仮設住宅に入った
その人達はかいそうだとして全国からボランティアが来て毎日のように援助したのである。それでおかしいのは親戚で事業に失敗した人がパチンコ屋で働いた。そのとき避難した人たちが何もすることがなくパチンコ屋に押しかけていたからである
だから私が苦しんでいるのになぜパチンコ屋で遊ばさせるために
働いているのかと不満だった。
ただこの時混乱状態であり何が何だかわからなくなっていた

確かにあなたは津波で八沢浦が美しい入江となった喜んでいるのは何なのだとなり叱責された、その理由もわかる
でも人間は他者に対して関心をもたない、私を一目見れば痛々しい姿でも他者は何とも思わないのである
私に関心を持ったのはあいつは金があるからこの際奪いばいいとしかなかった。現実にそうだった。火事場泥棒として私の家に侵入したのである。
そして私の所に来た人も金で苦しんでいたからそうなったのである

ともかく人間は他者が苦しいんでいてもわからない、関心領域に入らない、無関心なのである。何が苦しいのとなる。
それは津波のことで自分でもそうだったのである。あれだけの被害がすぐ身近で起きてもそこで苦しんでいる人を見ないということがあった。ただ自分自身が苦しんでいるのだから他者を思いやる余裕がなくなっていたのである

●中国の無差別殺傷事件も関心を持たせるため起きた

中国でなぜ連続して無差別大量殺害がおきているのか、それも相当な不満があるけど察してくれる人がいないので爆発したとなる
私自身も力車の青年にカメラを取り上げられ危険な状態になったことがある。それはまだ中国は貧乏な時代だったあのである
そして今なぜ無差別殺傷事件が中国で起きているのか、マグマのように不満が鬱積していてそれが爆発した。裁判にも不満があったとなる。経済的に苦しくなればこうした事件はまた起きて来る

ともかく人間の関心領域は狭い。自分が安全なら何も苦しまないなら他者が苦しんでいても無関心である。外国でいくら残酷な殺し合いの戦争があってもそれを映画のように楽しむことさえありうる
そんなこと私に関係ないとなる。隣でナチスが人を殺害されていてもそうだとなる。それだけ人間は無関心なのである

ただ関心というときinterestであり興味があることは利益があるよ言うとき関心持つのである。あいつは苦しんでいるがあいつは金を持っているから今が奪うチャンスだとなる
それが人間の実体なのである。隣でどんなに苦しんでいる人がいても無関心である、ただ他人の不幸は蜜の味となるのが普通である。
ただそういう人を見逃していると社会にとって危険なものとなる
爆弾をかかえることになる、いつ爆発するかわからないからである
それで無関心でも関心を持たせるために中国の無差別殺傷事件にもなる

八沢浦が元の美しい入江に戻った!
(南相馬市鹿島区の津波の被害写真)

posted by 天華 at 22:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年11月15日

なぜ公明党は選挙で負けたのか 【創価の信者が会員が減っているため―創価と公明は一体不二で不可分】


なぜ公明党は選挙で負けたのか
【創価の信者が会員が減っているため―創価と公明は一体不二で不可分】

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創価の信者が増えれば公明の票も増えて力が増大する
公明の力が増大すれば権力で御利益を配分する
でも公明の議員がへり弱体化すれば創価も弱体化する
創価と公明は一体不二であり不可分であり一蓮托生であるから

●創価と公明党は一体である

今回の選挙でなぜ公明党が惨敗したのか、それは創価の信者が会員が減って増えていなためである。会員の高齢化も影響している
活動している人は70代80代が多いからである。その人達は活動する力がなくなっている。

そしてなぜ公明党は伸びない―国民政党になれないのか?

それは創価と公明党が一体であり分離できないからである
もし分離できていたら今回の国民民主のように三倍もの票を得て躍進できる、ではなぜ国民政党になれないのか。それは創価というのは宗教団体の創価の信者の票に頼っているからである
その人達は信仰として仏法の戦いに勝利するために選挙活動を熱心にする。一票を入れることは信仰の重要な主要な行為なのである。それによって功徳があるとかなり必ず公明党に入れるのである。だから完全な政教一致である。
選挙の時座談会でも御本尊の会員は祈り票をとりにゆく、また池田先生のためと票をとりにゆく、なぜそうなのかわからない、ただ池田大作は生き仏だとか絶対的存在であり神格化仏格化している。だから逆らうことはできないのである

政教一致というとき太平洋戦争でも天皇が神ともなり御真影となり神の国だから絶対に勝つとして天皇陛下万歳として結果的に3百万人が死んだとも似ている。
選挙で死ぬことはないがそのくらい選挙に熱を入れているのである。選挙は具体的に教団の勢力拡大であり自民党を下支えして権力を動かすことができる。創価の目的は日本の権力を奪取して池田大作が日本の王になることだったのだる
だからこそ創価とは軍隊組織になっていた。隊長とか参謀とか軍隊組織であり権力を得ること目的とした団体でありその先兵となるのが公明党であり議員になる。

●信仰の一貫として選挙は最重要である

公明党が選挙に強いというとき創価は信仰の一貫として公明党を応援するからである。ただ逆に信仰と関係ない国民は票を入れるのに限界があるから伸びないし創価の会員が減れば公明党の力も減退する。
つまり創価と公明は一体不二であり不可分なのだから創価の会員が信者が増えれば公明党も強くなり票も増える、逆に創価の信者が減れば公明党の力も弱まる、票も減るからである。
だからたそもそも政教一致でありそのことが信者以外の票が入らないから国民民主のようない一挙に何倍もの議員を増やすことができない矛盾になっている

そして何か常に仏をを批判するものは仏罰があたると脅すのである。別に政治的にはいろいろとあっても政策論議で仏罰が当たるな言わないが政教一致だと平気でそういうことを言うからそのことでマインドコントロールされているのは信者だとなる
つまりカルトとはサタンに支配されたものでありマインドコントロールされた団体である。そこにそもそも法華経の信者がいるのか?ただ御利益とこの世の権力を求めそれを邪魔するものは仏罰が当たると脅す悪質な団体である。
ではなぜ権力を得ることに固執するのか、それは具体的に御利益であれ権力を得れば配分できるからである。御本尊を拝めば何でも叶えられると言っても実際はそうはならないからである。でも政治的権力を持てば具体的に配分できるし議員にも大臣にもなれるとなる。

そして御本尊とか拝んでも人間には必ず悪いことが起きる、もしそうでないいいことばかり起きるとしたら誰で入る
現実はそうならない、近くの人は息子が入信して病気になり次に母親が病気になり死んだ、学生時代活動していた人が交通事故で死んだ、池田大作の息子も若くして死んだとかきりないくらい不幸がある。ではそれは仏罰だったのかとなる。あれだけ会員がいればやはり同じように不幸がある。自分自身の家の不幸のことを書いてきたが別に創価の会員でも不幸がある、それは誰も逃れられないカルマとして苦しむとなる

●創価のような巨大詐欺集団が成り立つ不思議

創価の問題はそれは宗教でも何でもないカルトであり宗教詐欺でありマインドコントロールなのである。新興宗教団体は同じである。だからなぜそんな巨大な詐欺が公然としてこの社会で成り立つのか理解できないとなる。普通みんな金にはシビアである。でも宗教となると金を出すことの不思議である。それで何か問題が解決するならいいがしないからである。その金に何に使われるのかとなる。本部職員の給料となりまた勢力拡大のために使われる

結婚式場やホテルを運営する藤田観光が、25,000uもの広大な日本庭園を持つ老舗の名門結婚式場「太閤園」を創価学会に売却しました。藤田観光は太閤園の売却益として329億円を計上しています。太閤園は藤田財閥の総帥藤田伝三郎が建てた藤田邸がもとになっており、2019年にはG20大阪サミットの閣僚会合の会場にもなった超名門の施設です。

これ程の金があることに驚く、そんなに宗教とは金が集まること自体それが宗教ではないことがわかる。お釈迦様は家もなく乞食でもあったしキリストも枕するとなしであったがカトリックは莫大な富を財産を築きあげたからである。それに反発してプロテスタントが生まれたのである
そもそもみんな十円でも無駄にしたくない、何か見返りがなければ金など払わないからである、ここのところが一番理解できないのである。免罪符をカトリックでは売ったりして腐敗した

●宗教では仲介する者【牧師など】によって支配される

なぜ宗教となるこうして巨大な詐欺が公然と成り立つのか不思議になる。そんな団体にどうして貢ぐのか理解できない
成仏とか天国に行けるというのは詐欺だとなる。そんなことは神しか約束できないからである、それは教会に行って牧師に頼んでもできない、それは仲介者でありその仲介者が問題になり牧師のいないプロテスタントが生まれたからである。

牧師を介さずに直接神を知ることである。だから宗教では仲介する者が大問題になった。仲介する者がまるで神の代理人のようになってしまったからである。その代理人が詐欺師であったとなる
でも創価のような国を乗っ取るような詐欺が成り立つのかとなる。それが理解できないのである。余にも巨大化するとその悪も見えなくなる。その巨大な権力に政治家でも何でも警察でも従うようになるのが怖いのである。
でも創価を支える人たちがいて成り立つ、それは共産党でもそうである。底辺層は頼る所がないから頼る、それは別に宗教とは関係ない、話を聞いてくれる何か援助してくれるから頼る、だからそうした底辺層がいるかぎりカルトでも存在するのかとなる。
共産主義もカルトとと似ているからである。
いずれにしろ創価とは何であったのか、その清算の時がカルマの清算の時が来ている。時代の変化でもそうなってきたのである
公明党は国民政党になれないことで政治て役割は終わり創価はまた宗教的役割も喪失して衰退して消滅するとなる。


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2024年11月08日

内村鑑三がアメリカを嫌ったのはなぜか 【大国は滅び小国がイスラエルがギリシャが後世の遺産となった】


内村鑑三がアメリカを嫌ったのはなぜか
【大国は滅び小国がイスラエルがギリシャが後世の遺産となった】

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●横への拡大が常に戦争になった歴史

禍いなるかなこれらは家にいて家を建て連ね田圃に田圃を増し加え余地を残さず己一人国に住まんとす(イザヤ)
この世のの富豪、実業家の成すことはすべてこれである。そして成すこともこれに変わりない、土地に土地を増し加えて己一人国に住み、世界を横領せんとす、即ち横に平面的に大地主また世界の王と成らんと欲す
内村鑑三全集28−[拡張の横縦]大正13年

大陸の歴史は横の拡張であった、横に土地を拡大するために奪うために戦争があった、それが歴史の興亡いなる。横とは空間の拡大である、空間軸で形成される、それで絶えず衝突があり戦争になる、それは現代でもウクライナ戦争でロシアが横に拡張して戦争となっている。
また歴史を振り返れば大航海時代がありこれも横への拡張であった、そこでアメリカが発見された、そのアメリカも広大であり西部開拓へ西へ西へと拡大する、そして西へ拡大する果てに日本があった。それでアメリカと日本の戦争となった。
横領するとは横に拡大して領地を拡大することである。それが世界の歴史でもあった。またグローバル化というときも横の拡大である、貿易でも横の拡大である、でも必ず横の拡大は衝突があり戦争となって来た。今アメリカと中国が衝突するのも横に拡大拡張すいるからそうなる。

その黄金多き故に霊魂を失う、戦ってこれを倒す必要はないアメリカ自分で滅びる状態にある。
一等国の運命はすべてかくのごとくである。エジプト、アッシリア、バビロン、ペルシャ、ローマ皆一等国となりて滅びた。
イスラエルはバビロンとエジプトの間に挟まれた小国であった
科学、哲学、美術の基礎を定めしギリシャは欧州アジア大陸の間に位置して小国であった、アメリカの大とは日本の大とは根本の精神を異にする、彼の大は物質的のバビロンであり我の大はユダヤ的また理想的ギリシャであらねばならなぬ、日本はアメリカに習わんとして自己存在を否定するものである。
習うべき国】内村鑑三

●イスラエル、ギリシャ、オランダは小国でも大国

一等国というのは覇権国である、覇権国というとき大国でありかつてソビエト連邦であり今でもロシアがそうである。中国が覇権国としてアメリカと対立するのもそうである。大国が必ずしも世界を導く国ではない、神が祝福するのは小国であった。イスラエルは小国だったからである。では小国が世界的にとるにたらぬ意味なき者かとなれば違う、イスラエルは神に選ばれた国でありギリシャは今のヨーロッパ文明の基となったものである。
だから大国に習うことがいいことではない、日本はアメリカに支配され習うことで腐敗したともなる。
いずれにしろ大正13年頃にすでにアメリカと対立してそれが太平洋戦争と発展したともなる。なぜ内村鑑三がアメリカをこれほど嫌ったのか、それはアメリカにも留学して肌で感じるものがあったからでありその頃の日本は日本人的良さを持っていたから比較してそうなった、今は日本人はアメリカ人となってしまったから日本人の良さがわからなくなったのである。

確かなことはアメリカに習うべきではなかったということである。それがアメリカに占領されたことで強制されて日本的良さを見失ったのである、だから日本人はアメリカ人になった,あらゆることが金で換算されてしまうのである。アメリカはすべてが金でありそれで嫌った。そしてアメリカが生み出したのは何、「それは物質的なもの繁栄であり精神が欠けたものである
だからアメリカからはイスラエルから生まれたものギリシャから生まれたものが生まれない、すべて金に換算される黄金を求める国だとなる。物質の繁栄でありそこに精神はない、だからアメリカに習うべきではないと警告した。
日本は小国でもかつてのイスラエルであれギリシャであれ文明の基となるべきものを提供できるとなる。つまり大国を目指すべきではない、またなれない、それは太平洋戦争の失敗だったことが示している。小国であってもむしろ小国を神は祝福する、大国は滅びて行く、それが歴史の教訓だからである

●日本は小国でもその特性を発揮すれば大国になる

だから中国が小日本と言って蔑むとき果たして中国がそれだけ誇れる国となるのかならない。おそらく国の大きさではなくその質を高めることである。だからイスラエルにギリシャにオランダに見習いと内村鑑三は言ったとなる、小国で世界の遺産となるべきものを残したからである。アメリカが果たして世界の遺産となるべきものを提供しているのか軍事力であり経済力であり科学技術力だけで世界に貢献したとなるのか。

だから大国だから世界に貢献するとか限らない小国でも世界に貢献するものを提供できるとなる。その見本がイスラエルでありギリシャでありオランダとかなる。経済力軍事力だけなら世界に貢献するとはならない、世界を支配したとしてもそれで世界に貢献するとはならない、
ヨーロッパが大国がなくてもそれぞれ個性を発揮して互いに切磋琢磨して世界を導くようになったのはむしろアメリカ中国ロシアのような大国でないからそうなった。大国になるとどうしても政治軍事に力入れるから文化的なものが疎かになるとはいえる
だから日本はアメリカに戦争に負けてアメリカに習ったことが日本独自のものを失ったとなる。だから日本独自のものの再興復興こそが日本をにほんたらしめるもんおとなる。

アメリカにならいアメリカ人になることではない、キリスト教でもヨーロッパやアメリカに習うキリスト教ではない、内村鑑三の武士道キリスト教のように日本の伝統の上に接ぎ木するキリスト教である
ヨーロッパとかアメリカのキリスト教は本来のキリスト教ではないというときもともと宗教は東洋が発祥のものだからそうなる。
そしてアメリカがキリスト教国家のように見えて違っている
ただ何かアメリカで生活した人でもアメリカを礼讃する人とアメリカを酷評する人に分かれるのはなぜかとなる。

とにかくアメリカから得るものは物質的なものであり精神的なものはないとして内村鑑三は批判した。アメリカはマモンを財神を崇拝してプラグマテズムの国だとなる、トランプ大統領にしても外交はデールだというとき商売として政治をすることでもわかる、金ねなるかならないかで判断する、得になるかならないかで判断する。高等な精神とか哲学とかはないのである。得すれば付き合う得にならなければ切り捨てる、金の切れ目が縁の切れ目となる。何か世界に貢献するとかはない、損なことは一切しないとなる、それで世界の指導者になれるのか、そこにアメリカが衰退する原因がある。それは中国も同じだとなる。大国は衰退するのはただ軍事力とか経済力で支配しようとするからである。

だからこそアメリカは衰退してゆく、それは歴史でも大国が衰退したのと同じである。軍事力だけでは軍事力経済力だけで栄えることはできない、そこに精神的なものがないと真の栄はないのである。それを内村鑑三はキリスト教徒として主張していたのである。だから小国でも栄えることがあるし世界に貢献することができる。むしろ小国に神の祝福があり神は小国から神の子となるめきものを選ぶとなる、それがイスラエルだったのである。

●米国が日本を「犠牲」にしても守りたいものとは一体

米国を「恐怖の底」へ突き落とした中国!米国が日本を「犠牲」にしても守りたいものとは一体何か

世界の覇権を失うことをアメリカは一番恐ている。だからそのためには中国がその覇権を奪うものとして敵対する,その狭間で日本は洗濯を迫られ苦しむ、願はくは米中対立して恐竜と恐竜が戦い共倒れになることだが日本もまきこまれてしまうから恐怖なのである。核戦争となり人類滅亡の恐怖にもなる。

そして人類最終戦争ハルマゲドンが迫っているのかとなる。人類滅亡の時が迫っているのかとなる、それはイスラエルがローマ帝国に滅亡して2000年後に復活したことでも何かその日が近づいているという不安がある。大国である中国であれロシアであれアメリカであれ禍いの国となる。やはり核戦争が起きるのが最大の恐怖である。

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アメリカを中国をロシアなど巨大国家を理解できないのはなぜか 【大陸国家は奴隷を階級を作り出してきた―アメリカの貧困層】


アメリカを中国をロシアなど巨大国家を理解できないのはなぜか
【大陸国家は奴隷を階級を作り出してきた―アメリカの貧困層】

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【トランプ圧勝】マスコミはなぜ読み間違えたのか?ハリス偏向報道を生んだ上級国民目線〜格差社会を直視せず、米大統領選を左右対決にした

ハリス優勢がマスコミで言われたけど実際は格差で苦しむ人たちがいて
その人たちがトランプを選んだ、マスコミに乗せられると偏る
でも日本尾マスコミも同調するからどうしてもハリスが優勢だと見ていたのである。だからアメリカにしろ日本にしろマスコミは中立ではない

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米大統領選】「ラスベガスでは1か月暮らすのに最低75万円」アメリカで急増するホームレス トランプ新大統領に望むことは




●アメリカがなぜ銃社会なのか

アメリカがどうして理解しにくいのか、その広大な土地がありそれ自体日本と比べると理解できなくなる。一つの州でも日本より大きいとなる。そんな広さの国をどうして理解するのか?
だから広大な土地に牧場を持つにしても盗賊が牛でも奪いに来ても守る人がいない、警察がいたとしても保安官だけでは足りない、頼りにならないから自衛するほかないから銃を持つのが公認される。西部劇では犯罪者を町の人と一緒になって捕まえる
町の人もみんな銃を持っているからすぐに警官にもなれる

ただ町であれ守るの住民が主体である、そうしなければ守れないのである。それで州ごとに法律があり独立国家のようになっているのもそれだけ広いからもともと自分の家にしても家族でも守るのは自分の家の者でありまた家に従属する人だとなる
そういう国柄は歴史的に作られたそれも200年くらいの歴史で作られたのである。
そしてアメリカとは様々な国や人種の寄せ集めなのである。だからどうしても一つの民族としてまとめられない。そこに常に軋轢が生まれる国である


●極端な格差社会のアメリカ

そして極端に金が力を持つのもそれもやはりそんな広大な土地で何が頼りになるのとなると金だとなってしまうのかもしれない。
アメリカは国が広大であり資源も豊かであり億万長者であれ生み出す国だからそうなる。それも日本の金持ちとと違って桁違いの金持ちを生み出すアメリカンドリームの国だとなる

でも貧富の差も極端であり貧困に苦しむ人たちが4000万もいるとなるとみんな豊かではない、極一部の人が巨大な富を持つ国だとなる。それは中国でも同じであり国が大きいから最初の皇帝の始皇帝でも地下にまで宮殿を持ち死んでも住む贅沢な宮殿で暮らそうとしたし酒池肉林にもなる。つまり古代から一部の支配者に富が手中する国である。国が巨大になるとロシアでもプーチン宮殿が別荘が作られたのと似ている。

日本はそうした富を生み出せる国ではない、古墳が大きいからやはり王の権力が大きいからだと見るが古墳は王の墓なのか何なのかよくわからないのである。確かなことはアメリカや中国のようにその王でも富を集中することもできないしそれだけの富を生み出す力も資源もなかったとなる。
だから江戸時代でも侍でも贅沢していないし食べるものでも庶民とさほど変わらなかったのである。つつましかったのである。大陸国家のような富を生み出すことができなかったのである。

●なぜアメリカ州ごとに法律も違い独立国家のようになるのか

そもそもとてつもない広大な国に住んでいる人たちの気持ちはどういうものにあるのか?小さな狭い所で村として暮らしアイデンティティを作って来た社会とは余りにも違いすぎる
つまりそこからして理解するのが基本的にむずかしくなる。
州ごとに法律が違っているということは州自体が独立国にもなっているのかとなる。それは江戸時代の藩のようなものかとなる
その藩にしても一州にしても日本にょり大きいから一つの国であっても不思議はないのである。
それでテキサスが独立するというのもわかる。資源も豊かであり
エネルギーでも自立できるしその方がいいともなる。

だからそもそもアメリカが一つになること自体容易ではない、人種も混交しているし最近は南米とかからの移民が増えている、するとその人達は英語が喋れない人もいるしそれで意思疎通を図るのに困っているという、言葉が通じなかったらアイデンティティを作ることもむずかしくなる。日本人だったら日本語が通じないということなどありえない。ヨーロッでも言葉は通じやすいのである。ドイツ語が基になったのが英語だから通じやすいとなる

ただやはり言葉が違うことはそのアイデンティティのベースとしてあるから問題なのである、中国でもなぜテレビのテロップで漢字を流したり漢字でコミュニケーションを図る。それはもともと言語も様々であり音で通じないから漢字を共通語としてコミニケーションを図ったのである、日本人でも漢字を書いて意思疎通するのと同じである。だから漢字の発明はまさに文明だったとなる。何故なら文は漢字で書くからである。
商業でもフェニキア人がアルファベットを発明したように商業でも必ず文字が必要になるからそうなる。文字ない所に文明はないともなる。

●巨大国家は何をアイデンティティとしてまとめるのか

とにかくアメリカであれ中国であれロシアであれ国家が巨大な土地を持つと統一して治めるのが容易ではないから分裂しやすい、だから中国では三国志が生まれたとなる。
アメリカは何をもって統一できるのか、もはや移民はいらないというとき移民は国を乱すし愛国心も養われない、金を目当てに来るだけだからそうなる。それは他の国でも日本でも移民は日本の一体感アイデンティティを乱すから拒否反応が生まれる
ただ一方でアメリカは優秀な人達を移民として受け入れて発展した国だともなる。中国でもい始皇帝は長安で最初の中国国家を作ったのもその出自は西の人たちだったとなる

いずれにしろアメリカは何も持って統一されるのか?様々な人種
がいて言葉も違う。国土も広大であり共有のアイデンティティを持つことはむずかしい、ただアメリカンドリームがあり移民する人も多かったが今や4000万人が貧困医喘いでいる超格差社会にもなる。そのことでも一体感をもつことがむずかしい。どうしてもこうした巨大国家は奴隷階級が必然的に生み出す、それは大陸ではヨーロッパでもそうでありロシアでもそうであり中国でもそうである。一将成って万骨枯るになる、それは中東でも同じであり大帝国が築かれても奴隷階級が作られる
だからそもそもアフリカ人を奴隷として連れて来たのもそういう歴史があったからだともなる。アメリカは超格差社会であるが大陸国家は大帝国を作るも奴隷階級が生まれ超格差社会になることで共通している、アメリカが民主主の国で平等の国かとなるとそうではない、アメリカの富裕層は莫大な富を得て金に物言わせる国である。すべてが金だというとことでアメリカに留学した内村鑑三はアメリカ嫌いになったのである。それは中国でも似ている。奇妙なのはロシア人はまだ素朴なものがあるという。

●トランプが選ばれたのは経済問題で貧困層が指示したから

トランプ大統領が選ばれたというとき貧困層が物価高とか家が買えないことで苦しんでいる、それを民主党のハリスは考慮しなかったから負けたというとき身近な経済問題が影響したとなる
そこに民主主義に危機がある限界がある、そうした格差は一票が与えられても簡単に解消しないからである。日本では貧富の差があっても飛びぬけた金持ちは極わずかである。だからそうした金持ちへの不満が比較的少ないのである。でも人間社会から格差をなくすことは不可能に近い、社会主義共産主義でも中国でもロシアでも大金持ちが生まれて格差が生まれ共産党幹部が兆の金を持つとかなった。だから格差をなくすことは人間社会ではできないのかとなる。

ただ時間差で格差も解消することがある、何代も貧乏を続けることもなく金持ちも栄えた帝国も没落しているからである
驕れる者久からずも真理である。金は天下の回りものというときも一所に金が貯められない、必ず金は回って行くからいつまで貧乏人が貧乏人になることもない、富める者もいつまでもそ富を維持できないのである。それが歴史でも証明しているし人間の無常を語るとなる。日本でも国民民主が103万から170万まで税金をかけないというのが受けたのと似ている、身近な問題が勝敗を分けたとなる。


内村鑑三がアメリカを嫌ったのはなぜか 
【大国は滅び小国がイスラエルがギリシャが後世の遺産となった】










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2024年11月02日

その女性はコロナワクチンを打ってからおかしくなった 【脳梗塞になり糖尿病になり歩くこともできなくなった】

その女性はコロナワクチンを打ってからおかしくなった
【脳梗塞になり糖尿病になり歩くこともできなくなった】

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作られた“感染症”
大手SNSですら流せない極秘資料を公開


「新型コロナの死亡数急増」→重症化しやすい人の意外な共通点とは?

その女性はなぜ脳梗塞になったのか?
それはコロナワクチンを打ってからなのである。その後眩暈するとかあり脳梗塞になった、比較的軽傷でもその後足腰が悪くなり関節が悪くなりわずかの距離も歩けなくなった
糖尿病にもなっている。その女性はかなり太っている。

新型コロナは肺だけではなく血管にもダメージを与え、脳梗塞や心筋梗塞のリスクを上げる病気です。
高血圧で普段から血管にプレッシャーがかかっている人、糖尿病で血液の中に糖分が多く、血管が糖分によって痛めつけられている人は血管にダメージが加わっているので要注意。また、肥満(BMI30以上)の人も重症化リスクが高いとされています

何かどうしてそうなったのか73才くらいでそうなったのである。もしかしてコロナワクチンが原因していたとしたら大きな問題である。ただその因果関係はわからない。
でも確かなことはコロナワクチンを打ったあとに体の不調になったのである。だからやはり原因としてコロナワクチンが病気の原因になったのではないかとも疑う
でも医者でもそれが原因だとかは全く考慮しないのである
その前に眩暈するとか脳梗塞の前触れの症状があったがそれも考慮しない。目も悪いのもそうだった
つまり最初のコロナワクチンが病気を誘発したとも考えられる

ただ今になってもコロナワクチンで死んでいる人が増えているというのは意外である。ともかくコロナのことは謎であり何か解明されないままなのである。
でももしコロナワクチンでそうなったとしたら怖いことである
その女性は体がボロボロになってしまったからである。

接種直後から2週間以内は、一般的な数日で消失する副反応(発熱、倦怠感)とは別に、スパイク蛋白による血栓症(脳梗塞、心筋梗塞)や重篤な心筋炎による急死や不調が認められる方が多く、接種後2週以降は、日常生活に支障をきたす症状が続きます
スパイク蛋白による血栓症(脳梗塞、心筋梗塞)や重篤な心筋炎による急死や不調が認められる方が多く、
ワクチン接種後に体調不良を感じたら(コロナワクチン後遺症 治療・申請・相談)

でも医者にかかってもコロナワクチンが関係しているとは言われない、でもコロナワクチンを打ってからそういう症状がでたのだから全く因果関係がないとも言えないのである
でもその因果関係はわかっていないしうやむやにされているだけなのではないか、そしてまだコロナで死んでいる人が増えているというのも怖いとなる。明らかなことはコロナワクチンがどう影響したとか良く検証されていないしそもそもコロナとは何だったのか正確に専門家でもわからないということである。

ともかくコロナワクチンは科学者が人工的に作ったものでありこれからも作られるとしている。
科学者は善人ではない、やはり金で動くと指摘している
それは原発事故でも御用学者がいてそうだったからである。それが命にかかわるし故郷にも住めなくなるという被害があり怖いのである、科学者も政治的経的なものと切り離せないのである、危険でもごまかすから危険なのである




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2024年10月28日

公明党は選挙で負けて終わりに・・・・ 【創価も公明は一体だから衰退して終焉】


公明党は選挙で負けて終わりに・・・・
【創価も公明は一体だから衰退して終焉】

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●創価は比叡山の僧兵集団でもあった

今回の選挙で自民党と同じく公明党も肝心の常勝関西でも議席をかなり減らした。だからそもそも公明党であれ創価であれ終わりに向かっている
選挙でも仏法の戦いだとか前の池田先生のために選挙は勝たねばならないとかそんな前時代的なことが平然として実行されていたことが異常だった。

でも宗教を振り返ると

多くの荘園を持ち、経済基盤がしっかりしていた大寺院は力を持ち、発言力を増していました。
そして、彼らの利権に不利なことが生じると、寺院に属する僧兵たちが都の朝廷に押し寄せる「強訴ごうそ」を行ったのです。
これこそ、白河法皇が何とかしたかった問題でした。

そしてこの平家物語で表わされた逸話は、裏返すと「賀茂川の水、双六の賽、山法師」以外の全てが思いのままになる、という白河法皇の絶大な権力を示したものだったのです。

この山法師が僧兵が創価であり公明党にもなる。
寺院は一つの独立国であり不可侵の領域であり時の権力者でもそこを侵害することはできなかった。
そして信長が敵対したのは敵として戦う浅井とかに味方したからである。それで容赦なくつぶす殺戮してまで潰すとなった
それも空恐ろしいことだがそれほど信長にすれば許せないものがあった。敵の浅井と組んで歯向かうとなるし僧兵もいて武装しているから余計にそうなった

●創価の活動は選挙に勝つことが至上命令

ただこいうことは昔のことであると見るが歴史は繰り返すとなる
自民党に一時創価公明党は逆らったが攻められてので従うようになり利権を得ることを優先したのである。
創価の活動は24時間選挙活動なのである。そのために会合して祈り戦う集団である。政治団体であり権力奪取が目的であり総体革命とかで日本を支配することである。

周りが創価の人に成れば従わざるを得なくなる。ともかく一票を得る為なら手段を選ばないのである
学生時代に私を入れた人にしても親が地方の議員でありそのために結局選挙活動員としていいように使われただけである。
そこでは一切罪とか本来宗教が教えるものとは関係ない
御利益追求であり狂気のように御利益を得てこの世での栄誉栄華を求めているだけである、その人がなんであれ問わない,一票になればいいだけである。教義でも国立戒壇とかあり完全な政教一致だからである。

そして何かというと反対する者に宗教を持ち出して罰当たるとか地獄に堕ちると平気で攻めてくる異常な狂気的団体なのである

だから公明党党首の石井は選挙で負けて仏罰があった!痛快だと言われる

あまりにも仏罰だと平気で言っているから因果応報で今度は仏罰が当たりと国民からも言われることに成る
それは宗教をこの世を支配するための道具として使うからそういわれるのでありそのこれまでの所業が悪徳が跳ね返ってくる
そういうふに宗教をテコにして脅迫まがいのことを平気でしてきたからである

●地獄に行くほかないと言った親鸞などが本当の宗教家

地獄に堕ちるとか言える人間なのか、むしろ地獄が一定の住処なりとか地獄に行くほかないのが自分だと言って親鸞のような人が本当の信仰の人なのである。
日蓮の弊害として強烈なナショナリズムとなる危険がある
だから戦争の時も日蓮を信仰して戦争する人達がいたのである
つまり宗教となると何かおとなしいと善良な人達と見ているがそこには有象無象のあらゆる人間は入ってくる。要するにその人がどんな人かは問わない、一票になればいいだけなのである。
創価と公明は一体であり分離するこはできない、もし公明党が生き残るなら国民政党ににならなければならないが創価と分離できないから不可能である。一蓮托生であり滅びるときも一緒に滅びるとなる

いずれいしろ自民党一党独裁の時代は終った。公明党も終わりとなり創価も衰退して消滅する。そしてその悪が暴かれるともなる。
宗教の詐欺集団であありそれは宗教を悪用したものだからその罪は相当に重い
だから成仏するとかない、来世でその悪が罪が暴かれ裁かれるのである。
ただそんなことはどうでもいい現世で栄誉栄華を得られればいいだけの宗教である
一番恐れていることはこの世で利益を得られないことであり損することなのである
高邁な宗教など関係ないのである。
ではなぜ創価が増えたのかそれは様々な現代社会の問題がありそれがナチスのようになった。だから創価がナチスのもなりえた

●創価だけがカルトなのか共産主義者もカルトだった

でも創価だけなのかとなればカルト宗教は同じである。
共産主義でもマルクス主義でも宗教でありソビエト連邦であれ中国であれカンボジアであれ一千万人以上が粛清されて殺されているのである、だからこれは何なのだろうとなる
宗教の思想でも強制されることでこれだけの人がある。だから死んだということで民主主主義が生まれた。それが完全なものではないにしろ共産主義よりはいいとなったのである。

ただ正直別に一票入れても何か社会参加しているとも感じない
相馬市で新しい花屋で花を買った時花屋やでももうかりとか街を活性化するとかなる。消費して社会参加していると感じる
一票入れても社会参加しているとも感じないのである

なぜなら何十万何百万の一とかしかならないからである。
そこに民主主義もうまくいかない限界に来ている。ではどうすればいいのかとなるとわからないとなる
第一民主主義はギリシャの一万くらいのポリスで始まったのでありそれが何千万人が参加するとなると全く違ったものになった。だからこそナチス党は選挙で正式に選ばれたのである。

つまり現代は大衆の時代であり大衆ファシズムになりやすいのである
ただインターネットかで情報環境も変わって来た、選挙速報でもテレビではなくyoutubeでみれたからである。そこでは公明党批判が創価でもしているがテレビでは一切しない。だからマスコミに一方的に報道されていたことでも変わったのである
ただテレビ局でもこれだけ増えると選ぶのに苦労するとなる
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2024年10月26日

選挙で社会を変えられのか 【既得権者の破壊は血を流して成しえたー明治維新と戦後の変化】


選挙で社会を変えられのか

【既得権者の破壊は血を流して成しえたー明治維新と戦後の変化】

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私の親は地方役人だから既得権者だったもなる

●明治維新は下級武士が成した革命

選挙だけど選挙で社会が劇的に変わるものだろうか
社会が本当に変わった時は明治維新と戦後である
でもその時はやはり犠牲があり血を流して成ったことである
明治維新は実は侍のなかで上級武士と下級武士がいてその階級闘争だったのである
それを象徴していたのは初代の総理大臣になった伊藤博文である
足軽の家に養子になって最低のクラスだったからである
江戸時代は強固な身分制社会であり生まれつきで決められる社会である。
福沢諭吉でも下級武士であり明治に成りあがったのは下級武士である。

つまり既得権者といっても侍のすべてが既得権者ではなく侍の中でも身分がありそれが強固な物であり下級の武士は上に上がることができなかったのである。それは生まれた時から決められていたのである。そこに鎖国が外国人が入って来て破られたのである
その変化は劇的でありそのために会津の悲劇などが起きた
つまり社会を劇的に変えるためにはそれだけの犠牲も生まれる
血を流さないとそれだけの変化が起きないのである。

それは太平洋戦争でも戦後大変化したのは3百万人も死んだ犠牲がありそのとき地主とか財閥などが解体された、既得権者がその既得権を喪失したのである。戦前は小作は最低であり苦しんできたが土地を我が物にすることができたからである。
つまり社会が変わるにはこれだけの犠牲があってできることである

●はたして選挙で変えられるのか?

戦後民主主義になっても選挙で変えられたかとなれば一回だけ自民党が政権を失ったがその一回だけでも民主党は批判されてたちまち自民党一党独裁が続いたのである
何か政変というとき自民党内での政変であり既得権者内での政権交代であり実際は何も変わらない、表紙だけを変えてきたようなものである。
むしろ報道分野だとテレビが衰退してインターネットが選挙でも左右する時代になったことが変化である

ともかく選挙で社会が根本的に変わるのか、それが戦後なかったのである。自民党は既得権者として胡坐をかき改革できない、ただ自民党内の派閥争いとかであり劇的に変わることがない、また自民党には2世3世が多く既得権化している。
何か必ず社会は既得権化してそれが次の代にも受け継がれる、それが江戸時代の身分制社会にもなる
ではその既得権化した社会を変えられるのか、選挙で変えられるのか、そこに疑問がある。

既得権というとき東大出で固められた官僚もそうであり選挙で政権交代しても官僚自体は変えられないとか根本的に社会を変えることができるのか、
それは明治維新を戦後の焼け野原から発展したことをみればわかる。その犠牲は余りにも大きなものだったからである
つまり社会を変えるということはそれだけ一票入れたくらいで変えられるのかとなる、血を流すような犠牲がないと変えられない。だからここ70年はただ政権でも表紙を変えただけなのかとなる。それだけ自民党は政権が長いから『権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する』となった

●民主主義がなぜ危機になっているのか

なぜ今民主主義への信頼がゆらいでいるのかそれは社会を選挙だけでは変えられないという現実があるからそうなる。みんな一票なんか何の力もないとなっているからである
だからアメリカでも選挙自体が不正でありと議会に暴力でおしかけたのである。つまり最後は選挙で決めるのではなく暴力で決める内戦にもなるとしている、民主主義自体の危機となっている
つまりいくら選挙をしても社会を変えられないからそうなる。

何か劇的な変化は余ほど大きなことが明治維新の時とか戦後の焼け野原いなったときとかそれだけの大変化があって起きるのであり選挙くらいで変化しないとなる。だからどうせ一票入れても変わらないとして投票率も上がらないのである
馬鹿真面目に投票するのは創価公明党のカルトくらいである。
それも今や自民党の腐敗を裏金議員を応援するとか出で批判される、創価とは選挙が最大の仏法の戦いである、創価は選挙のためにあり信心と選挙が一体化した政教一致のファシズム団体なのである。
そして既得権者になりたくて自民党と一体化したのである

ともかく既得権を破壊することは選挙くらいではできないとなり民主主義に疑問をもち投票率も上がらないのである。
でも世界でもウクライナの戦争とか北朝鮮が直接兵士をウクライナに送ったとか何かキナ臭くなっている。台湾有事も迫っている
だから世界の変化に日本がどう対応するのかが問われる
そのとき既得権者の破壊がおこなわれるかもしれない、常に日本は外部からの外国からの影響で大変化したからである。それがないと変われなかったからであある。
ただ小党が林立しても困る,参政党にいた医者の人が別な新党を起こしたとかわかりにっくなる。ただ日本新党などもできるときやはり社会が変化するとき様々な党派が生まれ争うともなる、それは明治維新と似ているのである。
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2024年10月25日

介護が主な仕事になる異常 【介護社会というのは異常であり成り立つのか?】


介護が主な仕事になる異常
【介護社会というのは異常であり成り立つのか?】

医療・介護分野の就業者数は、2040年において1751万人になる。製造業の2倍を超え、医療・介護は日本最大の産業になる。
現在の我々の感覚からすると、これは、異様としか言いようのない産業構造だ。

低生産性産業人口の急増大で日本の賃金は長期停滞必至、2040年に医療・介護就労者が製造業の2倍に!


介護というときその人は親が介護度2であり脳梗塞になってから杖をついてわずかの距離も歩けなくなった。
手も悪いとかあり介護度2から3にも近づきつつある
その息子は建設工事現場で働いていたが怪我をして何か最近介護の職についたらしい、でもその人は親の介護もまともにしないのである。その親が息子のことを常にくどいているからである
手も悪く料理するのも苦しいのに手伝ってくれず何かと文句ばかり言っていると愚痴をこぼす。その人はとても介護に向いているとは思えない、ただ車の運転はできるから人を運ぶ仕事ならいいとなる。でも介護となるとどうなるのか何か向いていないとも見る。

介護というとき私自身二人の親を四苦八苦して介護した。私自身がその間に二回も入院したりと最悪だった
その時助ける人はいなかった、そのために金は盗まれるとか借金した人が来て要求されるのは金だけだった。
ただ介護は自分だけではない全国で苦しいんでいる人が相当な数だろう。朝一万くらいいの街を回ったら三人くらいが車で送られる。車椅子を車にそのままのせて施設に行く人もいる
だから介護されている人は相当な数でありこれからも増える
隣の人も寝たきりらしく20才くらいの孫が介護している
その息子は何か仕事もしていないから引きこもりなのだろう。
とにかく介護している人は多い、だからこそ

2040年において1751万人になる。製造業の2倍を超え、医療・介護は日本最大の産業になる。

これは確かに異常である。そんな社会が成り立つのかということである。20代だったら何かその歳でするべきことをしないと後はできない、介護してそれで何が身につくのかとなる
でも隣の若者は何か親に甘えている一人っ子でありそんなことをしているが似合っているのかとも見る。ただ若い時は貴重だからそこで時間を消費することが将来どうなるのかということである
人間は20代でその人の未来は見える決まる。その人を見たら生涯引きこもりになると見える。何故なら両親が働き働かなくても暮らせるからである。

私は意外と20代は波乱万丈だった。家を出て東京の大学に入り運動部に入ったとか自分にとっては信じられない経験をした
その後カルト教団に入ったり危険なアルバイトをしたり後は放浪の旅の人生となったのである。
だから20代は波乱万丈であり苦労したともなる
若い時は買ってで苦労せよというのを計らずもそうなったのである。それが一人っ子で甘やかされた自分とっては返って良かったのである。

「鉄は熱いうちに打て」ということわざは、鉄という物質の性質に由来している34。硬い鉄も、高温で熱すると柔らかくなり、打って形を変えたり、曲げて加工することができる。鉄はすぐに冷えてしまうので、冷えて固まらないうちに打つのが重要だ

若い時でないとできないことがある。若い時楽をしていると後で苦しむことになる。だからはたして20頃から介護してそれが後でいいものとなるのか疑問である。でもその人は何かそれがふさわしいとみる、引きこもりだからふさわしいとなる。そしてその人は将来どうなるか?親が働けるうちは困らないでも親が働けなくなったらまた介護になるかもしれない、それは遠い先でも自分の経験から見えてくるのである。つまり20代でその人の未来が見えてくる。だから20代で未来が決まるとなる

20代で親に強制されたようにカルト教団の親に育てられた者もすでに未来が見える、その人は素直だから他のことは全く見えなくなっていたからである。
だから人生で大事なのは20代である。そこでその先が将来が決まるからである。それで若き内神を知れというのが大事だったことを知る、なぜなら30過ぎたらもう神をしることができないとしたらショックだからである35過ぎると人生も余禄だとかなる
40になるとすでに白髪が出たりと老いるのが早いのである。

つまり求道するのは早い時期からするべきであり老人になってするものではないしできないのである
その時すでに時遅しとなっているのである
何かスキルを身に着けるのも若い時である。大工でも昔は18歳以下だと弟子にしないとかあった
それだけ早時期にしないと身に着かないからである、その人の向き不向きもあるがやはり若い内になんでしていないとももスキルでも身につかないのである

いずれにしろ介護が主な仕事になるという社会は何なのだろうとなる、そんな社会が成り立つのかとなる。ますます日本は衰退するのではないか、高齢化社会になると中国でも介護の仕事が増える。でもそんな社会がどうなるのかとなる
確かに若い時は20代が人生の方向を決める、隣の若者でも祖父の介護しているがすでにその人は介護が仕事でありそれしかやることがないのかともみる。一生引きこもりのとなる先が見える
ただ結局人間はそうしたことを自覚できないのである。そして後でみんな後悔しているだけなのである。
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2024年10月20日

新プロジェクトX「革命の自転車 つなげ、感動のバトン 〜世界初 電動アシスト自転車ーその感想


新プロジェクトX「革命の自転車 つなげ、感動のバトン
 〜世界初 電動アシスト自転車ーその感想

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電動自転車の開発はヤマハで行われた、私は早い時期から近くにヤマハの販売店があり乗っていたのである。
電動自転車を作る苦労は自転車でありまた原付きのバイクの中間にある。だから自転車なのか原付なのか判断しにくかった
警察にも法律上認められないとかあった。でも自転車と認められたのである。

何かその開発に当たった技術者が母親が遠くの畑に行くのに難儀していた。それで楽にさせたいということで電動自転車なら楽になるとして開発したとかその動機もいいものだった
また坂を自転車で上ることに苦労していたからそれも電動自転車なら楽になるとして開発の動機になった。
働くという言葉が端を楽にするということからできたとするときまさにそうだったのである。

ただ最初はオモチャのようなものだとか酷評がありなかなか認められなかった。オモチャのようだというとき最初のパソコンでもそうだった。オモチャのようでありそれが世界中に普及するとは思わなかったのである
それが爆発的に普及したのである。電動自転車もそうである。
だから技術というのは何が当たるか最初の内はわからないのである。そしてどうしても売れないとなると開発でもやめることになる。優秀な技術者でも離脱して人がいたからである。

ヤマハの電動自転車で最初の内でも驚いたのはでこぼこの山道をぐいぐい上ることができたことである。馬力があることに驚いたのである。やはり自転車は坂で苦労するからである。
私は本当に自転車旅行でも坂では苦労して自転車を折りて引っ張り登ったからである。

ともかく電動自転車の利点はそれは原付バイクでもないまた自転車でもない、両方をかねそなえたものである、原付バイクだあったら足でこぐということもない、自転車のいい点は機械任せではなく自分の足で踏み自分の力で動かしているということで充実感が生まれる。体でも動かすから健康にいいのである。
今電動自転車でも自分の足を使わないでバイクのように走るものもできている。それだと何か自分の力が加わらないので自分で動かしている感覚がなくなるので満足感が得られないのである。

つまり何でもすべて機械任せになる時人間は満足しない、自分で動かしているという感覚があるといき満足感がある。
車になるとそうした感覚がなくなる、達成感がなくなる。
何かAIが発達して絵でも詩すら作れるのには驚いた、でもそこに自分で創造したという感覚が消失する。機械が何で代わりにするとなると人間は満足しない、それが大きな問題だと気ずいたのである。機械でもコンピューターでも補助役ならいいが人間はいらないとなればどうなるのか?人間の生きがいを奪ってしまうとなり問題になる。

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パナソニックのXEALTS5にはサスペンションがないのが弱点
悪路は走れないの注意


ともかく自転車人生でもあったから自転車には興味がある。
何か自転車の不思議は百台の種類の自転車があったとしてそれがみんな乗り心地が違うのである、それは人間が個性が違っているようにみんな違っている不思議である。
今回ヤマハのYPJーXCが故障したので買ったパナソニックのXEALTS5は乗り心地が全く違っていた。
YPJーXCは大型であり大きな馬に乗っている感覚だがXEALTS5は小型であり地ついて走る。これは長距離用だと思った、つまり長く乗っていても疲れにくい、そしてautoにすると百キロは行く、バッテリーも平地だとそれほど減らないからである。

そして小回りがきくのである。だから街乗りにもいい、馬だったら小型のモンゴル馬である、ypjーxcは今の大型の馬だとなる
ただ馬力はYPJーXCの方がある、なぜならhighよりもっと強力なxpanがあり坂を上るからである。これはマウンテンバイクとして作られたので馬力がある
このように自転車の不思議は乗り心地が百台種類の違ったものがあるとして乗り心地が違うことが不思議なのである
ということはそれぞれのいい点わるい点があるがそれぞれに楽しめるとなる

この番組ではすでに最初から開発したヤマハの技術者は老人になっている。そしてのその開発苦労を語る時共に満足する
つまり老人は過去に何か協働して成し遂げたということで連帯が生まれ満足するのである。それでそいうことがなければ老人は連帯感が生まれないし友にもなれないのである。
共に苦労して成し遂げたということがないと連帯感は生まれない
若ければこれから共に成し遂げようとすることがあるが老人にはそういうことができないからである。


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2024年10月16日

なぜ中国の雲南省の人とか前の社会主義のシリアが素朴だと言うのか 【ヨーロッパ文明が入る前の日本人と似ている―情を失った日本人】


なぜ中国の雲南省の人とか前の社会主義のシリアが素朴だと言うのか
【ヨーロッパ文明が入る前の日本人と似ている―情を失った日本人】

【年金いくら?】73歳「生活保護より貧困-世界放浪した話

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●中国の雲南省とかシリアとかラオスの人たちは素朴

むしろ豊かであることを捨てて平等であることを取ろうとするのである。これが古代からの中国の風格であった。そろばんで固まったようなニクソン大統領さえも1週間の間に時々瞑想にふけった。そして妙に東洋的な風ぼうを備えつ去っていった
文明の反逆―藤堂明保

この人は何なのだろうと理解できなかった、何か大学の教授していたとかあり何なのか、中国が長くそこで生活していた。
特に雲南省で生活していた。何でもバス停で寝ていたりしたが警官がきてもとがめられなかったとか親切だったというのも不思議である。住人も親切だったという、まず外国慣れしていない自分など外国で宿もとらずに野宿することが考えられない、怖くて眠ることもできないだろう。ただその人は世界を放浪した人であり慣れている
そして社会主義の人は素朴であり親切だというのは本当だろう

私がトルコの安宿にいたとき50位の人がシリアに行った、そしたら素朴でいい人達だったしきりに言っていた。
雲南省でバス停で寝た人もそのことを言っていた。またラオスに行った人も素朴だと言っていた。
社会主義とか共産主義が悪いとばかり刷り込まれているが現実はそうでもない。そういう社会では資本主義民主主義国家より人間は素朴であるというのは何かそれは明治前の江戸時代の人を見たヨーロッパ人で同じことを言っていた、人間が素朴でありだからヨーロッパ文明を日本に入れることはいいことなのかと疑問を呈していた。

●なぜ内村鑑三はアメリカを嫌ったのか?

社会主義共産主義がどうのこうのと言う前にそもそも人間が素朴だというのは何か熾烈な資本主義であれ競争社会とかになっていないからだともなる
不思議なのは貧乏な人が戦後まもなくは貧乏で何もなく醤油とかで分け合ったりもらうことができたとかいう、隣近所ででも助け合ったとか言っていてなつかしがっている。今は全くそういうことがなくなたからその時代がなつかしとなる。余りにも全てが金になってしまったからである。

そして戦後アメリカに占領されてアメリカにまねた結果日本人はアメリカ人の悪いことでも真似してアメリカ人人になってしまった。
アメリカはすべて金で計るという社会になったのである。
それは内村鑑三がアメリカに明治時代に留学して肌で感じたことで嫌悪してアメリカに習うなとアメリカ嫌いになったのである。
それはまだ日本は江戸時代の続きであり日本人はすべて金ではない素朴さが残っていたためである、だからここに共通したものがある
文明とは必ずしもいいもものではない。人の心を歪めるものでもある。それでインデアンは正直な人達だったがヨーロッパ人が来て簡単に騙されて土地を奪われたとかある。契約したとしてもそれは法律で騙すものだったということもある。

●文明化で失われた素朴さ正直さはなぜ

今日の社会状況は明らかに人と人を結ぶ場が希薄となっている。もともと日本の社会は情を軸として成立していた。例えば企業の終身雇用というものも会社への強い帰属感に基づいている。情は人を縛るものであり相手の意を組むことでありこの意を抑えるものであり同時に大きな安心感をもたらすものである。すでに日本社会から集団互助的な側面は失われつつあるそれは情の社会の終焉を意味する

平和にして衣食住の足りた今日の日本は戦後の焼け跡からスタートした。半世紀前のその頃日本人の誰もが貧しくことごとく巷に犯罪が横行し争いが絶えなかった。
しかしその頃よく回想する者はこういう。人々は今よりものびのびと自由な気構えを有し未来に絶望することなく困難に際し辛抱強くしかも人々の集まるところに妙に華やいだ分があったと戦後50年日本人は大いなるものを失ったのかもしれない
素朴に生きる人が残る遠山高史

何か素朴とちょか正直とかはなくなった。その女性は馬鹿正直でありまず嘘はつかない、また情に厚いのである、でも別に大正生まれでも戦後は人間が変わり金だけで計る人間になった。だから大正生まれだかろといってそんな人は絶滅危惧種になった。そんな馬鹿正直な人はいない、でももしかしたら江戸時代ではそういう人が結構いたのかもしれない、何か時代劇だと残酷なことばかりでありとても素朴な人達がいたということが実感できないのである。

だから文明化することは必ずしもいいことばかりではない、人間本来持っている素朴さが失われたのである。
それはもともと都市の人間と田舎の人間を比較してそいうことが言われたのも似ている、でも今は全く田舎でも都会人と変わりないのである。田舎が素朴など全くないのである。そいうのはただノスタルジックに見ている時代錯誤なのである
戦後は子供時代であったが何かまだ情がある社会でありわずかな物でも醤油ですら分け合う時代だった。それだけ物がなかったからである。でも不思議なのは活気があったというとき子供がわんさといたからかもしれない。近くに神社ではいつも子供が集まり遊んでいたが今は一人も遊んでいない、子供すら見かけないとなる。
老人だけが増えて沈滞した雰囲気になっている・
そして隣の人が何をしているかもわからない、その頃人々身近で仕事していたからその仕事のことを分かっていたのである。

情が喪失して索漠となった社会

ともかく情が喪失したというときそれは世界的なものであり特にグローバル化して遠くが近くなり近くが遠くなる。身の回りのもので生活している時はやはりそこに人間の情が生まれるがグローバル化した経済となると相手のことなど思いやることなどなく冷徹な利益追求だけとなる。でも国の関係でもこじれるとたちまち日本のの放射能汚染された魚介類は中国で輸入しないとなる
いずれにしろ情を育くむとなるとやはり狭い範囲でないとできないのである。

何かロシア人は素朴さが正直さが残っているというときまだ文明化されないところがあり素朴だからかもしれない、むしろ文明化した欧米人の方が騙すとか計略するとかある。法律でも人をだますためにあるともなる。だから文明とは何なのかとなる。また社会主義共産主義がすべて悪い物ともならない、いいものでもないにしてもすべて人間に悪く作用するとはならない、むしろ資本主義は苛烈な競争社会であり弱肉強食であり残酷な社会だともなる。
ともかく欧米にすべて習うことはいいとはならなかった。それは内村鑑三などがアメリカを嫌悪したのは江戸時代の続きとして明治があったからそうなったのである。そこにはやはり素朴な日本人がいたとなるのである。

また二宮尊徳の教えが普及したのは日本人の8割が農民であり農民であれば当然自然と一体化するからその自然とアイデンティティ化したモラルが形成しやすいし理解されたということである
今田舎でも農民は一割にも満たない、ほとんどは会社員なのである。だから都会であれ田舎の差がなくなっている。それでも高層ビルを見上げて群衆化した世界で違っている。田舎と都会の差はある。でも情が喪失したというとき田舎でも同じなのである

モラルなき団塊の世代以降は弱肉強食の価値観しかない 
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2024年10月15日

私の知った人に起きた不運なこと 【でも人間に事故病気は誰にでもなる-カルト宗教団体に付け込まれるので注意】


私の知った人に起きた不運なこと
【でも人間に事故病気は誰にでもなる-カルト宗教団体に付け込まれるので注意】

●脳梗塞になりわずかでも歩くのが難儀になった73才の女性
●その52才の息子が4回のビルの住居で足の骨折
 その後交通事故でも怪我
●リホームしてくれた70才の大工さんが病気で仙台市の病院に入院
●ヤクルト配達の50才の女性が骨折ー配達できない

これに付け加えると近くの85才の人が糖尿病で最近死亡したがこれは歳であり寿命だとなるから不運とはならない。 
近くの脳梗塞になった女性はだんだん悪くなりわずかの距離も歩くこともできない、杖をついて歩く。他にも目が悪いとかで関節わるいとか介護度2になっている
息子が車に乗せて来る。その息子が住んでるビルの階段で骨折した。それで数か月仕事にも行けなかった。
その後交通事故になった。

70才の大工さんでもなぜ急に病気ななったのかわからない、一小高から原町に移住して一人で住んでいた。
でも病気になり息子が原発事故以後仙台市に移住したので仙台市の病院に入院した。そこで不運というか妻と離婚して原町で一人暮らしになった。でも病気になったので介護する人もいない、それで息子のいる仙台市の病院に入院した。妻はもともと息子の所で暮らしていた。でも離婚しているからどうなるのかとなる

そしてヤクルトを配達している女性が足を骨折して歩けない
11時までには来るのだが11時半になっても来なかったそして別な人が来た。
その人は50歳くらいで元気溌剌であり若く見えた
でも脚を骨折したというのも何なのだろうと思った

これは何かおかしいと思った。ただ60以降病気になりやすい
私は自らも病気になり親の介護で四苦八苦しているとき入院を二回した。兄弟もなく一人だから苦しかった。その時家に来たのは事業に失敗して借金しているとか後は本当に泥棒だった
入院していると時運悪く金を置いていて入院したとき盗まれた
そして親は二人とも死んだ。何か間違いなく悪いことには悪いことが重なるのである

ただなぜ周りでこんなに悪いこと災難が起きるのは何なのだろうとなる。そいうときカルト宗教の人が勧誘に来たりすると入会しやすいのである。近くの人はそうでありでも40くらいの息子が創価に入りまもなく病気で死んだ。そして後を追うように母親も死んだのである。
だから創価であれカルト宗教団体に入ってもこうした災難は人間に必ずあり逃れることができない。かえってそういう場所にはもともと何か悪いことが起きて苦しんでいる人が統計的にでも多いから当然悪いことが他の人達より起きている確率が大きいのである

ただなぜこんなに私の周りで不運なことが起きているのか?
そもそも津波とか原発事故は最大の災難であり不運だったのである。だから小高の大工さんでも多額の補償金をもらっても不運が苦しみが続いたのかちなる
でも正直何故ヤクルトの女性が骨折したというのには驚いた
何の因果なのか計りかねる。なぜこんなに自分自身でも災難が続きまた周りでも災難に見舞われる。
ただこうした災難の苦しみはカルマが関係している。確かに原発は地域を一時的には豊かにしたが事故になり御破算になった。
それもカルマだった。大工さんにしろ熟年離婚したのはその人自身に問題がありカルマとなったのである。

いずれにしろカルマの清算が60以降に強いられる。苦しみとなて現象化する。病気でもそうであり何らかその人の遺伝的なものがありカルマとなり苦しむのである
なぜ今年の暑さで私の体が不調になったのもそうである。何か蓄膿症で息がしずらく舌が乾くとか直っていない、それは遺伝的なものがありそれがカルマとなり苦しむとなる

それにしても悪いことが起こりすぎるとなる。それが何なのかわからない、そいうときカルト宗教団体に付け込まれるから要注意である。




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2024年10月10日

衆議院の区割りが変わり浜通リは福島県の4区になった 【いわき市が30万だからやはりそこが中心になる】


衆議院の区割りが変わり浜通リは福島県の4区になった
【いわき市が30万だからやはりそこが中心になる】

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●古代から鎌倉時代と福島市の山側からの影響はあった

衆議院議員の区割りが変わった。前は福島市と相馬地域が区割りだった。今回は一区割りが減って4区となり浜通リが4区となった
何か福島市が同じ区割りなのは不自然な感覚だった。
地理的に見るとどうしても阿武隈山脈高原に遮られて浜通リは福島市の方が見えない、断絶している。地理的一体感がないのである。

でも古代史で南相馬市の鹿島区が浮田国造が置かれた。それは毛毛野氏系統であり山側からの影響でそうなった。
だから別に山側から福島市の方からの影響も歴史的にあった。
古代もそうでありその後の鎌倉時代でも義経の郎党の佐藤氏が福島市から相馬市に進出して相馬市は佐藤氏が勢力を持っていた
磯部に佐藤氏が支配していて今の道の駅に鬼越館があった。それは佐藤氏の館であった。それで相馬氏と争ったのである。
だから山側から福島市からの影響もあった。

●相馬藩の地域は仙台市の影響が大きい

でも古代でも磐城の方からの影響が大きくなっていった。それえ磐城国となった。現実に磐城太田駅がありまた葛尾村に磐城落合とかの地名が残っている。だから磐城国は地理的一体感がある
でも相馬藩の地域は仙台市の影響が大きくなった、もともと通勤していた人たちもいるし仕事で仙台市から来る人も多いからである。何か面倒な病気になると仙台市に行く人が結構いる
福島医大に行く人もいるが仙台市の方が便利である

だから震災以後仙台に移住した人が多い。小高の人は原町の空家を買って住んでいたが病気になり息子が仙台市に移住したので仙台市の病院に入院した。2011年の津波震災の被害で仙台市に移住した人が多い。
今社会は広域化している。磐城からも震災の時瓦を直しに来たのは磐城の会社だった。またユニットバスを作ったのは仙台市の会社であり格安だった。最近AUの自転車保険に入っていて自転車を運んでもらったのは何故か須賀川市から来たのである。
トイレでも修理してもらったのは郡山市の会社だった、このように社会は広域化してグローバル化している。

●福島4区は浜通リであり地理的一体感はある

ともかく前の磐城国が福島4区になったとき地理的一体感はある。常磐線も通じているからである。でも意外と磐城も遠いと感じる。常磐高速ができたとしても私は車がないから遠いと感じる
鉄道だと常磐線でも原町駅から便数が少なくなるからである。
むしろ仙台市は近く感じるのが相馬地域なのである。

でも津波や原発事故では磐城も被害があり地域的の浜通リは一体感がある。それでも意外なのは放射線被害は飯館村が汚染度が高くまた東風に乗って放射性物質が福島市の方まで流れた
そして福島市がかなり海側より高かったのである。それは意外だったのである。そうなったのは春になると海側から東風が吹くからそうなった。だから地理的に福島市でも通じていたとなる

前の福島市と同じ区割りの時も福島市の影響が大きかった。今回でも浜通リが同じ4区になってもいわき市が30万とかの人口があればその影響が大きくなる。つまり現代は大きな都市の影響を受けやすいのである。それは社会が広域化しているからそうなる
車社会だからそうなる。

●福島4区浜通りに課題は依然として原発事故からの復興問題

ともかく福島4区の浜通リの課題は依然として原発事故からの復興が課題になる。でもそれも未だに進んでいない。肝心の人は流出して戻ってこないからである。確かに建物は作っても人が住まないのが致命的なのである。少子高齢化もあり若い人が住まない

ただ原発周辺地域から人が南相馬市の原町区でも鹿島区でも相馬市でも新地でも移住している。つまり現代は広域社会であり移動しやす、移住しやすいのである。
農業中心の社会だったら土地がなければ生活できないが今は農業の比率が一割にも満たないというとき移住しやすいのである

だから便利な仕事ある仙台市に震災以後移住した人が多いのである。ただ仙台市でもこれから人口が減ってゆくというとき日本全体が縮小してゆくとき何か集中して住まざるをえなくなる。
この辺では津波原発事故で集中化したとはなる。それがいいかわるいかはわからないが結果的にそうなったということである

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2024年10月05日

過疎自治体が5割越え。これからの地方を支える方法論とは? 【南相馬市では元の原町に人口集中−鹿島区でも移住者で人口を維持】


過疎自治体が5割越え。これからの地方を支える方法論とは?
【南相馬市では元の原町に人口集中−鹿島区でも移住者で人口を維持

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衝撃!過疎自治体が5割越え。これからの地方を支える方法論とは?

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相馬支援学校−障害者の学校

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新しくすぐ近くにできる施設、これも障害者の施設だというが小人数の施設である

●原発事故で起きた集約化−原町中心に人口が集中

原発事故でこの辺がここで言っていることが強制されて南相馬市は元の原町市に原発事故で移住した人が多い。また飯館村とかでも原町とか鹿島区に移住した人がいる。
双葉町であれ浪江町であれ移住しているのである。

ただ別に浪江町でも小高区でも過疎地域ではなかった。それは原発が働く場所になっていてそれで過疎地域にならないということがあった。南相馬市でも原町区に東北電力の火力発電所がありそこに原町の自転車屋の人がいてその息子は東北電力で働いているなぜなら自転車屋だけでは生活にならないとして後を継がないからである。前の鹿島区の星自転車屋では東北電力から20台の自転車の注文があった。それだけこ経済効果があるから原発の場合は地元でも反対することもなかったのである
逆に余りにも地域の経済でもそこがメインとなればその影響力が大きくなっていたからこそ原発事故は地域を崩壊させるようにもなったのである。

ただこのyoutubeで言っていることがある程度当てはまることを感じた。人口集積地を作りそこに人を集めて暮らす。まず十軒くらいの村だと維持できなくなる。この辺では橲原村とかそうである。空家化したのニ三軒あり田畑は原発事故以後は草茫々となり耕作放棄地となったからである。そういう村が日本には点々とあり維持できないとしている。
要するにそういう村は集約化して維持するのがいいとなる
私自身はそういう村でも地域に彩りもたらすものであり消失してもらいたくない、ただ現実問題として村自体が子供でもいなくなり老人だけになりいずれ維持できなくなる

●広域社会になり仙台市の影響も大きくなる

それより現代は大都市中心に経済圏が拡大している。この辺だと仙台市中心になり常磐高速道路がでたりして仙台の会社が仕事に来ている。私の家のユニットバスは仙台の会社が作った。それが百万だったのである。それは地元では二百万とか三百万とかかかるものだったのである。なぜそんなに安くしているのかと聞いたら競争が激しから安くしないと受注されないからと言っていた
仙台市は百万都市だから競争も激しい、別に安くてもいいものだったである。現代社会は広域社会になっているから大きな都市の影響を受けるのである。

知っている大工さんは小高に住んでいたが息子が仕事で仙台市に移住して自分も病気になり仙台市の病院に入院した。
一時は原町に中古の家を買って住んでいたのである。
とにかく南相馬市だと元の原町市に移り住んだ人が相当にいる
原発の避難区域から移住した人が多いからである。それだけの補償金も入ったのでそれができたとなる。だからこの辺は原発事故で集中化が行われたとなる。

南相馬市の鹿島区だと人口が減っていたが移住する人が三つくらい新住宅地が生まれた。その家は立派なのである。
わからないがもしかしたらその住民は二割以上に及ぶかもしれない。結果的人口でも減らないとなっている。子供を持っている家族も移住しているから学校でも維持できる
ただそれでも少子化で八沢小学校は廃止されて鹿島小学校に統合された。つまり学校でも村々では維持できないから統合されてゆくのである。

●現代の便利な生活は都市へ人は集まる

現代の便利な生活を享受するにはどうしても都市がいいとなる。
私はつくづく困るのが弁当である。鹿島区には弁当屋があったがそれもなくなった。新しい弁当屋は三種類くらいしか弁当を置いていないから行かない。弁当の種類が少なすぎるのである。
とにかく鹿島区だけでは買い物でも足りないものがあるからどうしても原町に行かざるをえない、特に最近困ったのが町に一軒だけあった自転車屋が主が死亡してなくなった。私は車がないから本当に困ったのである。なぜならパンクを直すにしても近くでないとできない、ただ原町のサイクルショップ柚原(ゆはら)では車で自転車を乗せて運んでくれた。これも手間である。

医者だって病院だって近くにないと困ることがある。浣腸するのに近くの病院でできるから助かるとかある。つまり近くでないと困ることがある。
それは北海道の辺鄙な村で救急車も呼べず子供が運ぶ途中で死んだとかある。医者が近くにいないからそうなったのである。
また江戸時代になると目お直すため遠くに医者に診てもらうために苦労したとかある
この辺でも難しい病気は福島市に行ったり仙台市に行っているのである。特に手術となるとむずかしからそうなる。
こうして広域社会になったのは車社会になったからである

車があり仕事ができるからである。鉄道だったら人は移動できてもユニットバスを作るのにもできない。だから地元の人でないとできないとなっていたが今は家でも外部のハウス会社の人が来て建てる。地元の大工さんとか関係しないのである
たしかなことはこのyoutubeで言うように集中化は避けられない
少子高齢化でもそうだし集中しないといじできなくなっているからである。

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2024年10月04日

学歴はその人を見る目安とならない 【職歴をみるのはそのためーあらゆることに通じる人はいない―小泉進次郎は経験不足】

学歴はその人を見る目安とならない
【職歴をみるのはそのためーあらゆることに通じる人はいない―小泉進次郎は経験不足】

●人間を作るのは学歴ではなく経験で職歴で判断

学歴は文系の場合意味がないと思う、理系は意味がある。文系は何か法学部を除いて専門的知識が身に着かない、遊びの場だったとなる。学歴で効果があるのは留学した人である
だから政治家だと一応みんなアメリカに留学している。小泉進次郎でも関東学院でもアメリカの大学に留学している
ただ職歴がないとか大臣経験でも環境大臣だけであり経験不足だと批判されている

要するに人間を作るのは経験であり学歴ではない、留学となると学歴というのではなく外国に行き外国人と交わることで経験することが貴重なのだる。職歴にしても人間はそもそも職業自体経験するのも極わずかである。学歴より職歴であり何を経験したかが大事になる。今は学歴より学習歴だとされる。それは何を学んで来たのかの方がその人を判断しやすいからである。学歴だけを見て判断することはその人を見誤るのである。

自分自身は大学で全然勉強していない、でも大学出てから旅をしたりして地理に地名に興味を持ったのである。だから私のプログを読めばその学習歴がわかる。この人はこんなことを経験して学んで来たとわかるのである。

本当にこの世は経験しないとわからないことが多すぎるのである
職業が違えばすでにその人を理解することが難しくなる
そういう問題は昔からあった。鉄作りする人は農民にとって理解できない人達であり神秘化した。それは現代でも原発で働く人たちのことが理解できなかった。そのために安全神話を信じたのである
そこはアンタッチャブルの不可侵の領域となり立ち入ることできなかったからである。

●鉄作りと水田の関係

「砂鉄水簸(すいひ)」という用語をご存じですか。
 水簸とは、比重により水中での沈降速度が異なることを利用して、底に沈んだ重い粒子を取り出す選鉱方法で、砂金の採取などに用いられます。
 柴田弘武氏の『産鉄族オオ氏』(2008年 崙書房出版)に、「田」を稲をつくるための水田ではなく、鉄をつくるための「砂鉄水簸(すいひ)」の設備と考える

 奈良・中西遺跡の弥生時代の水田跡は、「砂鉄水簸(すいひ)」の施設跡か?

金山・赤・黒・倉(蔵・椋)・砂・須賀・菅・芦・種・草・カケ・蟹・
サナ・サム・サヒ・サビ・桜・笹・シブ・菖蒲・勝負・
サナダとかサヒタとか蟹田でも製鉄と関係している

鉄を作ることと稲作は深い関係があった。
いずれにしろそういう人達を理解できないからその人たちと交わることもできない、それで何らか衝突も起きてくる
ともかく職業が違うと理解できなくなる。今でも隣の人は何か工場で特殊な技術を持っていて仕事しているとしてもその仕事がわからないのである。

だから政治家となると様々な問題の対処解決が求められる、でもそもそもその職業に携わる人理解できるのかとなると簡単にできないのである。でも政治家はその人たちを対象にして法律を作る仕事なのである。問題はそういう人達の仕事について実感できないことである。だから人見るとき採用する時実は学歴を見ても分らない、職歴の方が大事だとなる。その人の経験したことが大事なのである。学歴は何かテクニックとかありその人が何に向いているか資質など判断できないのである。

●では自民党で誰が首相にふさわしのか?

その判断はどうするのかとなる。一長一短であり迷うのである。
確かなことは学歴をみるべきではない、留学は別にして文系なら学歴でみるべきではなく職歴経験で見るべきだとなる
大臣になるにしてもその地位に着いてみなければその立場であれ理解できないのである。つまり経験しなければわからないのである。だから経験不足として小泉進次郎は責められたのである。

私に経験は旅したことでありそれも経験なのである。旅をすれば実感として地理がわるからである。いくら地図を見ても地理はわからないからである。
ともかく小泉進次郎は経験不足なことはいなめない、では誰がいいのかとなると一長一短なのである。あらゆることを備えている人はいないしあらゆることに通じている人もいない、あの人は何々詳しいとしても他のこてでは詳しくないとなる

ただ政治家とは理系のような一部分を見る専門家ではなくジネラリストになるのかもしれない、細部ではなく全体を統括する人である。
でも現代になるとそれが難しくなる。なぜなら福島原発の東電の吉田所長でも肝心の復水器のこと知らなかった。私の専門は素材であり知らなかったと言っていた、つまり社長でも全体を知る人など今はいないのである。政治家でもそうであり一部は詳しくても全体を知る人はいない、夫婦別姓問題から雇用の問題から防衛の問題からと皇室の問題と通じることが至難なのである。
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2024年09月30日

仙台市から晴れ屋の人がカメラ、レンズなどを買い取りに 【中古品とか古い物が見直される時代】


仙台市から晴れ屋の人がカメラ、レンズなどを買い取りに
【中古品とか古い物が見直される時代】

「リユース業界の市場規模推計2022(2021年版)」によると、2021年のリユース市場の規模は前年比11.7%増の約2.7兆円で、調査を開始した2009年以降12年連続で市場が拡大しています。そして、財務省が公表している「リユース市場における消費者の価値観と企業行動」によると、1年間に発生する日本の不用品は7.6兆円にものぼることから、今後も市場の拡大は続くと考えられています。

リユース・中古の市場規模が拡大傾向へ! その理由や今後の課題を解説

【古物査定士とはなにか】古物査定士認定協会の理念や方針について

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仙台市から来た晴や屋という中古品の買い取りする会社の人が来た。何かよくわからなかったが主に買い取しているのはカメラだった。2万で買ったレンズが一万で売れたことに驚いた
もともとカメラとカレンズはキタムラとかで買い取り売っている
だから意外とレンズは高いことは知っていた、カメラは壊れたこともありジャンク品となり5万が500円とかだった。

この会社の査定はごまかすことはないようだ。何故なら売るにしてもハンコまで押したからである。何か盗品であるとかを注意している。だからごまかすことはない、また買うにしてもそういうことを気を付けている。だから怪しいものではない、何故なら全国的に買取をしている会社だからである。

その若い人はこの仕事に関する学校ま出ていたのである、つまり鑑定士の資格を持っているとなる。でもカメラを中心にして買い取りをしている。そもそもカメラは中古品でも高く売れるのである。その商売はもともあってキタムラが有名であり仙台の駅前にも店がある。ただビルの一角の小さな店なのである。
晴れ屋は仙台に店をもっていない。ただ他より高く買っているかもしれない、レンズが1万で売れたからである

前にも丸森から相馬焼のものがないかと丸森から来た人がいた。何か図々しく家探しのように探し回った。
晴れ屋の人も相馬焼は人気あると言っていた。もともと相馬焼は江戸時代でもその技法を伝播する立場にさった。笠間焼であれ益子であれ相馬焼の方が古くその技法を学んでいたのである

いずれにしろ若い人であったがそもそもカメラの中古品を買い取るにしてもカメラにくわしくないとできない、むずかしいのは骨董品とかなるとその価値判断が相当にむずかしい。その若い人は鑑定士の資格をとるとかあり詳しい。

何か今中古品とか古着とかでも売れているというときやはり日本人が貧乏になったこともある。そうなると中古品でもいいものがあり。古着でもいいともなる。商売にも時代の影響ががある。まず観光でも温泉街が廃墟化したのは高度成長時代が終わりバブルがはじけて会社の団体旅行などでもしなくなったからである。今一人旅で受け入れるようになったという
つまり会社の社員は温泉に泊まり飲み食いして騒ぐ時代が終わったのである。それを再現することは無理である。常に時代時代で栄えるものがあり衰退するものがあるからである。

ともかくお宝発見とかのテレビ番組があるがお宝などある家はまれである。この辺では野馬追いがあり知っている人の家では古く鎧とか兜を博物館に飾ってある。それだけ値打ちがあるものだとなる。ただこうして古い見直されるのも時代かもしれない、常に新しもの新しいものと追い求めてきたが何か古い物に価値をみださうということである
ヨーロッパのルネッサンスとギリシャとかローマの復古であったからである。だから古い物でも装いを新たにして蘇ることはある。

posted by 天華 at 18:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年09月26日

中国人による日本人児童殺害は一個人の不満が動機 【それでも国の外交問題になるから危険】


中国人による日本人児童殺害は一個人の不満が動機

【それでも国の外交問題になるから危険】

《中国・10歳男子刺殺事件》借金苦でブラックリスト入り…前科2犯・鍾容疑者44歳が育んだ「日本人に対する歪んだ憎悪」
「社員2人程度の小さな会社で、現地の信用情報は最低ランク。業績は悪化し、借金苦でブラックリストに入るほど。経済的な理由による閉塞感が日本人に対する歪んだ憎悪を生み出し、犯行を後押ししたと見る向きもあります」(現地メディア関係者)
「週刊文春」編集部/週刊文春 2024年10月3日号

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「日本人で集まるとリスク」深センでも反日活動が活発に…
襲われた日本人男児死亡【報道ステーション】(2024年9月19日)

ネットでの日本人攻撃が影響したのか?それはありうる。それは一部の者でも日本人を殺しても
いいのかと思わせるのが怖い、ネットの問題は一部の者の発言でも誇張されて伝わることである。
過激化するから問題なのである。





やはり戦争とかの恨みではなくっ政治的なものではなく個人的不満が日本人に向けられた。通り魔事件とかとも似ている
ただ日本人の児童が標的にされたのは何なのだろうとなる。
弱いから狙われたのか?それにしてもここまですることは相当に不満であった。仕事もうまくいかず過去に犯罪もして借金があり追い詰められていた。そういうことで犯罪に走る人は動機になる人はどこにでもいる。
でもなぜ子供が狙われたのか弱いからなのか、それにしても残酷だとなる。いくら不満でも子供を狙わない、でも金持ちの子供が誘拐されることは外国で起きている。

そしてランドセルをするなと日本人の子供に言ったのはそれで日本人だとわかるからである。私の場合中国人と同じように汚い格好してていたから中国人に紛れたから良かったのである。
黄沙とかあり汚れやすいのである。

とにかく外国人は目立つから問題なのである。でも中国なら外見で外国人とわからない、だから安全な面がある。当時だと中国人が貧乏だから日本人だと金持ちと見られたから危険だったのである。
この事件は戦争の恨みと政治的なものではない。中国側が言っているように個人的なものであり借金とかで追い詰められてそれが動機で犯罪に及んだ。ただ外国人が標的にされやすいからそうなった。でも児童を殺すということが納得できない、そこまでするのかとなるからである。
確かなことは中国に限らず外国人とかが標的にされやすいのである。日本でもそういうことがり今でも在日朝鮮人とかが問題になる。

とにかく人種差別は常にある。アメリカでは露骨であり博物館に入ろうとしてら何か拒否されたとかあった。何かそこで差別があったことは確かである。どうしても日本だって外国人がこれだけ入ってくると嫌悪する。肝心の日本人が京都でも観光できなくなるとか貧困化するとグローバル化競争に負けると劣等民族にされるのである。民族とか人種でも融和することがが難しいのである。

この問題は政治的なものではなく個人的なものであり日中間の政治問題化することは中国行政側がいうようにそうなのかもしれない。世の中には常に不満を持っている人がいる。その不満が富裕層とかに向けられる。中国の場合政府にその不満をぶつけることがしにくいので日本人が犠牲になったとなるのあ、それにしても児童を殺すというときそこまでするのかとなる。何のメリットもないからである。政治的なものでもないから誰も犯罪を犯した人に対して味方する人はいないからである。

人間はどこの国でも不満な人がいてそれが犯罪になる。
これを中国人全般の問題にすることは問題があるかもしれない。
ただアメリカとの対立とかあり何か政治的なものとして発展することは危険である。でも米中対立で日本も巻き込まれることがありそういう雰囲気の中で事件が起きることが危険になる
そこに憎悪が増幅されるからである。


posted by 天華 at 09:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年09月25日

中国で日本人学校の男児刺され死亡  【不満があると日本人に八つ当たりすこともある】


中国で日本人学校の男児刺され死亡 

【不満があると日本人に八つ当たりすこともある】

これがどういう理由で起きたのか良くわからないにしろ日本人への戦争の恨みとかなのだろうか?
中国人が日本人に対して戦争の恨みをどれほどもっているのか?
直接戦争を経験した人たちも相当に少なくなっている。犯行を決行した人は48才とかであり何か特別日本人への恨みを親からでも聞いたのか?親から直接聞いたとしたらすでに70才以上になっているだろう。だから年代的にはそういうことではないかもしれない。

私は蘇州で観光して力車に乗って若い人にカメラとりあげられてひどい目にあった。その理由はその若者は力車とかで日本人を乗せることに屈辱を感じてそうしたのかもしれない。
それは別に日本人をうらむというのではなく何かその仕事に対して誇りをもてない底辺の職業に感じてそうなったのかもしれない
なぜなら今やそれは20年前のことでもありその頃中国は貧乏だったからである、日本人は裕福であり物価でも十倍の差があったからである。だから相当に安く旅行できた時代だったのである
中国では6月にも江蘇省蘇州市で日本人学校の送迎バスが刃物を持った男に襲われている。だから私自身も経験しているから怖いと思った

その時農村地帯から鉄道を利用するにしてもその出稼ぎ者は家畜のように車両に乗せられていたという、そして車掌は鞭で打っていたともいう時代だった。膨大な出稼ぎ者が民族移動のように農村地帯から都市部に移動していたのである。
今や新幹線と同じ高速列車が走っているのだから隔世の感があるだろう

この事件の原因は必ずしも日本人への戦争の恨みではないだろう。やはり今中国は経済的に苦しくなってその不満が日本に向けられたのかもしれない、でも日本だって前とは全然違って裕福ではないのである。中国人の一部であれ日本人よりずっと豊かであり日本へ移住する人であり旅行する人が逆に日本で威張ることができる時代である

だからなぜそんな犯行になったのか?
やはり経済的不満の八つ当たりなのか?

ドイツでもユダヤ人を迫害したのは経済的苦境の時であり何かそうした不満があるとそのためのスケープゴートにされるのがユダヤ人とか異民族とかある。

「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人や社会主義者が暴動を起こした。放火した」などのデマを妄信した官憲や自警団などが、関東各地で多数の朝鮮人を殺傷した事件の総称である

こいうことが起こりやすいのである。だから今中国経済はかなり悪化しているのか、その不満が日本人に向けられたのか、ただ日本人は前の裕福な日本人とは違っている、羨むとしたら裕福になった共産党幹部とかになるがそれは怖いとなり弱い日本人にその不満が向けられたのか
でも子供まで殺すとなると尋常ではない、何か大きな不満がありそれが経済的困窮だとすると中国の経済の不満は相当に大きいとなる
格差が拡大すると怖さは中国人でも富裕層に向けられたりするから暴動が起きたりするから政府は警戒しているのである。
これは中国人だけでは日本も貧困化しているのだから不満な人が裕福な人を襲う、それは私自身が田舎でも経験しているからである。

なぜ私は中国で事件にまきこまれなかったのか?それは顔見ただけで見分けがつかないのと何か私はバックパッカーであり汚い見すぼらしい格好をしていたから当時の中国人に紛れてしまったからだと思う。いかにも金持ちの格好していたら怖いことになった。
でも奇妙なのは夜行列車で着き泊る所がなくタクシーで行き8000円のホテルに泊まった。バックパッカーで見すぼらしい格好していたからそのタクシー運転手は驚いたかもしれない、当時の値段では日本だったら10万くらいの値段にもなっていたと思う最高級のホテルにもなっていたのである。その時は仕方なく泊ったのである、あとは安旅館ホテルだったのである
その差は十倍くらいの差がある。ただ中国はその泊る所にしても何でも差が大きいのである

今でも安く泊まる場があり中国人は安く泊まったり食事したりできるのである。日本だったら泊るにしてもビジネスホテルでも5000以下はないから意外と節約できないのである。今ならもう5000円では泊まることはできない、だから日本はホテル代が節約できないから旅が高くつくのである。

ただ中国は馬鹿でかいから旅行しただけでその内情はわからないっし20年前となると時代が違っているから院のことにあてはめることできない、でも中国の経済相当に悪いから起きた事件なのか、反日から起きた事件なのかわかりにくいのである
posted by 天華 at 13:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年09月24日

自転車のメンテンナンスの失敗 【パナソニックXEALT S5】を買う―これは長距離にいいみたい。


自転車のメンテンナンスの失敗

【パナソニックXEALT S5】を買う―これは長距離にいいみたい。

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XEALT S5

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プロが教える【チェーン洗浄と注油のコツ!】ぜひ試してほしい。サビや汚れからチェーンを守る方法

ヤマハのYPJ−XCで失敗したのはメンテンナンスをしてなかったことである。それでチェーンとかもおかしくなりブレーキも一つが壊れた
何か原町のサイクルショップの柚原さんが油がやるにも跳ねるから注意しろと言われた、油をただやっていてそれがはねて失敗した。それでyoutubeで油のやり方を説明していた。
油をはねないように布をもって油をやりその油をぬぐいとるのである。それでもいいとあった。

何かメンテンナンスのことが教えられなかった。そのことを何回も言うから調べたのである。何かインターネットの便利なのは動画で説明する人が必ずいることである。
自転車も結構知らねばならないことがあった。私の場合そういう面は詳しくなくただ乗って楽しめばいいというだけだった。メカに弱いからである。自転車でもメカに強くプロ並みの人もいる

ロードを乗る人はそうである。だからいつもメンテナンスしているという、ただロードは危険である、仲間が事故で肋骨が折れ肺に刺さったとかの人がいる。また有名な政治家は首に怪我して大けがになり政治家を続けることもできなくなった
まずロードは危険である、それでなくても私は側溝に三回とか落て極最近でも夜で堀い突っ込んで死ぬところだった

確かなことは自転車は夜は相当に危険である。側溝とかに落ちやすいのである。ただ事故はどこで起きるかわからない、なぜ私が前の歯を二本折ったかという27インチの新しい自転車をを買ってすぐのことだった。細い道で止めることができず突き進んで頭を打ったのである。だからこれも死ぬこともあった
自転車でも死ぬことは結構ありうるのである。車にぶつけられて死ぬこともある。ともかく国道でも歩道がない所は危険である

柚原さんは何か自転車修理の免許をとったりとかしている。まずロードを売るとなると技術力が必要になる。何かアルミニウムでは自転車の走る衝撃を吸収できないという、でもカーボン製は吸収できるからいいと言っていた。ただカーボン製は高くなる
それで仙台市で百万のカーボン製のロードを買う人がいたのである。仙台市とかとなると買う人も金持ちがいるからそうなる。
医者でも難し病気とか目の手術となると仙台市に行くとなるからである。

ともかく今回のパナソニックの自転車はヤマハのYPJ=XC
より軽く小回りのきくものだった。YPJ=XCは大型で重い、でも馬力があるから重さを感じなかったのである
今回のXEALT S5は小回りがきく、軽いので走りは軽快である。ただ馬力はYPJ−XCの方があるみたいだ
XEALT S5のバッテリーは小さかったからである

これは荷台もあるし長距離にいいものかもしれない。なぜならもうひとつバッテリ―荷台に乗せて行けば相当な距離が行けるからである、何か走りも平地では軽快に走る
ただ坂になるとバッテリーでも消耗する。だから距離にしても目安であり坂で消耗するから計算通リにはいかない、だからどうしてももう一つバッテリーが必要になる、それが十万になるから高のである。ただ私がこの自転車に感じたことは長距離用にいいと思った、バッテリーも小さいから荷台に乗せられるからである
でも私は体力が落ちているから何か長距離となると疲れる
でもこれは長距離でも行けると思ったのである。

いずれにしろサイクルショップ柚原でも息子さんは東北火力発電所に勤めている、でも自転車屋の後継ぎにはならない、それだけの収入にならないからである。歳にしても76才となると続かないから後継ぎがいなくなる。この人手不足後継者がいないことが問題なのである。特に地方では深刻になってくる、高齢化して農業でも後継ぎがいなくなるからである。

老人の問題としてなぜ金を使わないのかがある。金がある人も使わないのである。それはこの自転車を買ったのはいいけどあとどのくらい乗れるのか、長距離にいいとしても体力的に無理だとかなる。もし若かったら長距離の遠征に行くだろう、でもこの年になるとなかなか無理になる。すると買い物でも消極的になる
老人は消費できなくなる、例えば庭に木を植えて花を咲くのを見たいとしても8年なのか10年なのか時間がかかるとしたら買うこと自体控える、今咲いている花の木ならいいとなる

何か先が短くなるとそうなるのである。時間のかかることは買い物でもしたくないのである。
それで老人は金を持っていたとしても買っても使いこなせないことがり買わないとなる。消費意欲が減退するのである。
それで金が使わないから金が回らないということもある。そして金を使うとなると病期になりやすいから医療費とか介護につかうことになる。それで景気が良くなるのかとなる。それも高齢化社会の問題なのである。

新しき自転車に乗りさわやかに実りの秋を我は走りぬ





posted by 天華 at 17:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層