自然はすべて解明されていない
【熊だけを駆除することは危険ー自然は依然として神秘−アイヌの熊祭りを知る】
森林伐採により餌となる木の実が減少
生息域が分断され、熊の移動ルートが狭まる
山と人里の境界が崩れ、出没リスクが高まる
つまり、メガソーラーは熊を「人里に追いやる」間接的な要因となりうるのです。
なぜ熊が人里に出没するのか?その要因と冬眠の驚きの仕組み
自然を人間は何でもわかっているわけではない、でも科学が発達して何でもわかるという感覚になった。熊のことも実際はわからない、熊が冬眠してその間に子育てもする。なぜそんなことができるのか?それも実際は解明されていない、つまり自然には必ず神秘の領域が残される。科学ですべて解明されて説明されない。
それで気候変動も温暖化も解明されない、様々なことを科学者が言ってもすべてわかるわけではない。
そして自然を知る時その時間感覚が長すぎて実感できない。
何億年前がどうだとか実感できない、その間に温暖化もあり氷河期もありそれは自然の作用としてあった。ただその時間間隔が長いので理解しにくい
それで自然は人間にはすべてわからない
自然に必ず神秘の領域が残る
それはどんなに科学が発達しても解明できないものが残る
それで自然は不可思議神秘があるとして謙虚に接することも人間にとって必要である。熊の問題でもそうである。熊が自然でどういう働きをするのかも良くわからない。だから熊は危険だから駆除すべきだとはならない
つまり自然を見る場合熊という一動物を見ることではない
熊が生きる山とか森全体を見ることが欠かせないのである
生命は必ず連関しているからである。相互作用のなかで生きているからである
それで宇宙でも月が地球に影響しているとかなる
また太陽の活動にも周期性があり温暖化でも寒冷化でも起きる
ただその期間が長すぎるから理解できなくなる
人間の視野は狭いし時間的にも人間の一生が短いからそこで自然の対処が誤る
それで相馬地域で400年前に生波(津波)で700人溺死したという記録が相馬藩世紀に二行だけ記されてたけど学者すら知らなかったのである
だからこの辺では津波は来ないとなり老人でも逃げないで死んだ人がいる
400年も津波が来なければそうなってしまうのである
つまり自然の時間のスケールが人間の時間のスケールと違いすぎるのである
だからこそ天災は忘れた頃にやってくるとなる。
でも自然の時間間隔にしたら周期的に来ている。300年間隔であれ一千年間隔であれ周期的に来ている。ただ自然の時間感覚長すぎて人間は合わせられないのである。
人間は自然でもすべて解明されないし必ず神秘的なものが残る
すると人間は自然に対して謙虚になり畏敬の念を持つことも大事だとなる
昔なら海の神、山の神が存在してそれを畏敬する、現代ではすべて科学になり
科学で自然を操作できるものとなった。でも実際はできていない、地震でも津波でも温暖化でも気候変動でも実際はわかっていない。太陽の影響もわかっていない
ただ科学者がわかったようなことを常に言うからそうなのかとなるが実際はわかっていない。
要するに自然のことは部分的にしか見れない全部はわからない、だから熊の問題にしても熊が自然でどういう働きをしているか良くわからないから人間側で簡単に操作することが危険になる。原発でも科学者が核のことを全部わかっていた訳ではない、でもわかったように思わせていた。それで現代は科学者が神のようになる
でも科学者もわからないのである。自然は神秘でありすべて解明することはできない。だからこそ自然に対して畏れ抱くべきだとなる
昔なら熊も神であり畏れを抱いていた。そこには生命の神秘があり自然の神秘がある。その神秘を科学で解明されるとなったのが現代である
でも実際はすべて解明できないのである、熊は危険だからが害獣だから駆除すべきだとなるのは人間側で自然をコントロールできるという傲慢なものなのである。
熊を神に還す「イオマンテ(熊送り)」とは「イオマンテ」は、捕えた子熊を一定期間人間の手で育て、その後感謝と祈りを捧げて神の世界へ送り返すという、アイヌ独自の送神儀式です。
この儀式は単なる祭礼ではなく、熊の霊魂を喜ばせ、人間界に恩恵をもたらしてもらうという信仰に基づいています。
自然界と人間の交流が祭りとなった。動物の肉でも殺すのだから痛みがありそれでただ物のように殺すのではなく神からいただくものとして祭りがあった
現代では動物でもただ肉を食べる物として機械的に効率的に殺すとなった。
そこに動物、生物に対する畏敬が喪失したのである
だから人間にとって危険な邪魔なもの殺して排除すればいいとなった
そこに生態系を破壊する危険なものがある
何か祭りとなると科学的ではないとなったが先人の知恵がそこにがあり継承されるべきものがある。確かなことは自然界でもすべて科学で解明されているわけではないことである。だから科学万能主義に陥ることは危険である。
だから橅(ブナ)の木が建築材料に適さないからと人工林の杉にしたことも問題があった
津波で根こそぎ松原が流され喪失したことには驚いた
それは自然のものではなく人工林だから根こそぎ流された
自然の森だったら多様な木があり全部流されるようなことはなかったかもしれない
つまり人間側の都合だけで自然に対処することは危険だった
何故なら縄文人は遺跡でも津波の来る場所にはなかったのである
本来津波の来る場所に住むべきではなかったのである。
それで老子とか荘子の無用の思想が生まれた
自然界に無用なものはない、人間の都合で有用なものだけにすれば人工林となり森全体が損なわれるとして警告したのである
「橅」は、材木として使い物にならない、つまり木では無いということにある。ブナ材は稀にパルプ、床柱、家具(椅子など)、玩具、杓子などに使うが、水分が多くて腐りやすいことや乾燥によって材が乱れやすいこと、変色しやすいことから扱いが難しく、火持ちが悪いため炭としての価値も低い
戦後の拡大造林政策による人工林の放置によってナラ枯れの大発生や荒廃を引き起こし、奥山の深刻な劣化を招いたのは紛れもない人間です 。
日本のクマを絶滅させたらどうなるのか?
人間は自然でも一部分は見る、でも全体は見れないのである。そこに盲点があり限界がある。だから視野狭窄に陥るのである。つまり自然は神秘的なものであり畏敬すべきだという感覚が科学時代になり喪失したのである
そこから様々な問題が起きてくる、原発事故であれ津波であれウイルスであれわからないことが起きてくる。それらをすべて人間が解明したわけでもないのである
熊の問題でも熊が危険だから駆除すべきだというとき熊が自然全体の中に生きていることを無視する。熊という単体を駆除すればいいとなる
それは全体を見ないから見れないからそうなる
要するに熊は神秘的なものであり熊が自然のなかでどういう働きをしているのかわからない、だから単純に駆除すれば解決するとはならない。
ともかくいくら科学が発達してもすべては解明できない、それで自然に対して畏敬の念を持つ、そこには全能なる神の働きがある
そして人間は全能の神になることはできない、いくら科学が発達してもである
その全権を握っているのは神なのである。だからその神を畏れなければならない、
人間の力ではどうにもならないからである。
神には科学を自然越えた奇跡が働く、自然は一定して決められたものではない、
神は新しい天と地を創る。つまりなぜこれほどの災い災害でもあるのか、それは
天と地が完全ではないからである。新しい天と地が造られて完全になる
そこではこんなに自然災害はなくなる。海が無くなるという時海は危険なものでありそこから津波など大災害が起きて来るからだとなる
ただ海が無くなるという世界もイメージできない、確かなことはこの世界は自然でも不完全なものとしてある。完全なものは神の国で実現するとなる