2017年11月11日

観光立国の疑問 (なんでも経済優先は後で後悔する)


観光立国の疑問

(なんでも経済優先は後で後悔する)

デパートの売り上げが大幅に減ったことはともかくとして、これまで培ってきた「洗練された」「高級感あふれる」「落ち着いた」街という銀座のイメージが損なわれてしまったことは残念ですね

短期的な儲けを当てにして、外国人観光客目線の商売をすることは、長期的には、街に対する愛着を失わせてしまう恐れがあります。


NHKで観光立国のことを今放送していたけど疑問である。人間社会というのは何かを得れば何かを失う宿命にあることに気づくべきである。
確かに経済的に困窮してくると観光でもなんでも金を稼がねばならないとなるからそんなことを言っていられないともなる
この観光立国の問題はもしかしたら日本の文化的なものが破壊されることかもしれない
京都などの古都ではそういうことが起きているだろう,しみじみと静けさのなかで味わう日本的情緒が外人がおしかけて喪失する,それはすでに修学旅行生などで起きていたのである。そもそも寺は観光のためにあるのではない,修行の場だったのである。
これは銀座だけの問題ではない,京都などで一番起きている問題だろう

それぞれの土地には、そこに根差して暮らしてきた人々が時間をかけて培い、大切にしてきた歴史的、社会的な「意味」があります。そうした意味を、人々が共有しているからこそ、郷土愛や郷土意識、人々の同胞意識が育まれ、村や町、ひいては国が成り立っているわけです。

ここの文章はうまく表現している,観光が目的化するとこうしたものが無視され外国人のためにばかり配慮してそもそも長年生活していた土地の人のことは無視される
それが国の政策として奨励されると余計にそうなる
京都などは何か和服の人がもともと静かに歩み通るのに向いていた,それがすでに現代化したとき失われていたのである。
さらに外人が増えるともう京都の情緒もさらに失われる,だから宿もとれないとかなるともう行きたくないとなる,自分は十年間旅行していないししたくなくなったからいい。
自分が旅行したときは恵まれていたなとなる,むしろ閑散としていた方が情緒が味わえる
これも不思議なんだけどこの辺では原発事故で一時原町と相馬市の駅の間しか電車が通らなかった,それが何か人間的なのである。今までは6両くらいのときそう感じなかったのである。

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今日も行く二両の電車や秋の虹
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冬の雨(二両の電車の不思議は以前としてつづく(4)
枯野(人間的な二両の電車)

二両の電車は今でも二回くらい行き来している,乗る人が少ない昼間である。
なぜでは六両の電車と二両の電車が違って見えるのか?
それは一つの謎である。六両だと人間的ではない,二両だと時雨たりしても何か電車が人間のように見えるのである。
車だと時雨とか風でも感じない,外から見ても感じない,電車は風景と溶け込むことがあるので人間的なのである。それが二両になったとき余計に感じたのである。
この感覚は不思議だなと思う

だからこういうことは観光にも影響しているのである。京都などは人が多すぎたらもう本来の京都の情緒はないのである。
そして最近観光に来る外国人は別にそんなふうに見る人達でもない,ただラーメンを食べたいとか庶民が来ているのである。それでやはり観光により俗化が起きてくる
夜も楽しみたいというときそこに若者も来ているから見せ物を作り出す,それは日本文化とは違う,テレビのような見せ物になる

ただそうはいっても人間はつくづく背に腹はかえられないのである。
みんな金になるならやるとなる,地方では余計に衰退しているからそうなる
ただそこで失うものもまた生まれる,マイナスの面が生まれる
原発でもとにかく金になればいいと地元の人達が誘致したのである。
今になると後悔しても時遅しだったのである。
だから観光も極端化してゆくと遂には日本文化の破壊までになる

ただ日本はそれだけ落ちぶれたから贅沢は言っていられないとなる
要するに金のために日本の魂まで売るとまで大げさに言えばなる
それは原発でそこに住めなくなったこの辺とも共通しているのである
何か当たり前にあったものが喪失した,「生業を返せ」と補償金を要求しても
金をもらってももう生業は返ってこのないのである。

だから観光立国がすべていいように政府が奨励してもその弊害もある
ただ人間は背に腹はかえられぬとなる,別に自分は海外旅行したから外人と交わるのが楽しいということがある,外人と交流したいということもある
一人一人が外交官になる必要があるというのも面白い指摘である。
外人と交流を深めれば日本を理解されるからである。
それでもこれだけ数が多くなると問題が生じてくる
やはり限度があるが日本は何で稼ぐとなると観光で稼ぐほかないとなりそれをとめることもできないだろう。それで失うものより金が欲しいというときそれは原発と同じなのである。そして後で後悔したりするのである。


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2017年11月10日

原発事故と神戸製鋼など大企業の不正の共通性 (日本の技術への奢りなのか)


原発事故と神戸製鋼など大企業の不正の共通性

(日本の技術への奢りなのか)

●技術の奢り

●コスト競争

●納期を守る

●縦割り組織

●安全の無視

何か最近起きている大企業の問題と原発事故も共通していた,それは日本自体の製造業の危機だとも言われる,東芝とかシャープとか神戸製鋼とか日産などは日本を代表する大企業だからである。
なぜこうした大企業が問題を起こしたのか?それは原発と共通性がある。
根本的にはモラルが喪失がある,企業経営にもモラルが必要なのである。そのモラルが喪失するとき問題が起きる

そして技術の奢りも日本にはあった,日本の製品は品質管理は優れているというのが世界で信頼を得ていたのである。それが壊れたのはなぜなのか?
日本が長年築いてきたそうした技術が奢りになっていたのである。
日本は技術が外国より優れているからロシアのチェルノブエリのような事故は起きないと自分も思っていたしみんな思っていた,それで「安全神話」が作られていたのである。
それは東電だけではない他の大企業でもそういうことがあったのである。

ただ内部事情ではコスト競争とか納期を守るとかそういうプレッシャーとか人手不足で品質管理を怠ったのである。納期を守るということでも急ぐから品質管理をおろそかにしてパスしていた,検査資格もない人にやらせていたのである。
縦割り組織というのも横の連携がなくなる,それも原発事故の原因にもなっていた
縦割り行政の弊害があった,セクショナリズムというのもそうである。
吉田所長が覆水器のことがわからなかったのである。専門分野が違うとなりわからなかった,様々な分野に別れているから全体を知る人がいなくなる
大きな組織はみんなそうなる,役所でも部署が違いますとか言われて何も聞くことすらできないことがある,それは責任逃れなのである。

そしてまたグローバル化するとコスト競争にさらされる,それてコストをおさえようとすると品質管理とかはいい加減になる,何かをコストを減らすことが要求される
それで東電の清水社長はコストカッターとしてのしあがったとういことでもわかる
そういうことが事故につながっていたのである。

東電では10メートル以上の津浪がくるということを試算していた,それがわかっていても対策をしなかったのは金がかかるからしなかったのである。コストの問題なのである。
企業でもやはり根本的な所でモラルがなくなるとそれが事故につながり安全は守れないのである。
ただこれは会社や大企業でも常時起きている問題である。
だからどこでもこういう問題は起きるのである。

奢りといえば別に個々人でも起きてくるし会社単位でも起きてくるし国単位でも起きてくる,奢りが個々人でも滅亡に導く,日本の戦争だって奢りからはじまった,アメリカの強大さを知らなかったからである。
そして日本の技術は特別優れているということをすりこまれてきたのもそうである。
技術のこと科学のことがわからないくてもそう思わされていたのである。
でも電器製品と原子力はまた別物だったのである。原子力の技術はアメリカとかフランスが優れていたのである。
そういう思い込みが一般人にもあり事故など起きないと思わされていたのである。

日本の技術は優れているというときそれがナショナリズムとなり日本礼賛となっていた
確かに優れていたものがあってもすべてではなかったのである。
原発に関しては後進国でありそういうことはなかったのである。
技術というのは安全性が生命線にもなる,鉄鋼でもそうである。
長く使っていると必ず磨耗してくるから強度が大事になる,技術の基礎としてある
ずいぶん長く使っても壊れない機械がある,そういうのには感心するのである。

いづれにしろ東芝であれ日産であれ神戸製鋼でありこうした日本を代表する大企業がこういう問題を起す時世界からの信頼も失われ日本の根幹がだめになってゆく兆候なのだろうか?
だから株価が上がっているけどこれは別に日本の産業が上向きになったからではなく金融の操作でなっているのであり日本の産業の価値があがっているわけでとないのである。
それもまた錯覚させられているのである。
賃金だってあがっているのは一部であり人手不足でもそれは少子高齢化が原因であり景気がいいからではないのである。
ともかく何かそういうふうに政府とかに思わされるのである。
それは原発事故で「安全神話」が作られたと同じなのである。
それは結局奢りであり奢りから事故が起きたり国自体の滅亡になってゆくのである。

日本の大手製造業では、長引く低成長のなかで、名誉職を含め、企業の上層部に団塊世代やバブル世代が長く居座り続け、製造ラインへの新増設投資は乏しく、若手社員の補充が乏しい傾向がある。要するに、活気がないのだ。

こういうことも影響しているのか?少子高齢化も社会を活力なくしている,やはり日本自体が老化しているのである。高度成長時代は若者の人口が多かった,今はその逆だからである。若者のエネルギーが社会にを動かさないのである。
そしてどこでも会社でも技術を受け継ぐ人が不足している,農業や漁業は顕著なのだが
企業でもそうだったのである。中小企業でも後継者がいなくなり倒産している,会社が継続できなくなっているのである。だから少子高齢化は本当は社会全体に影響する大きな問題なのである。
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2017年11月01日

黒人はなぜアメリカの国旗に起立しなかったのか? (グローバリズムで国家が問われる時代)


黒人はなぜアメリカの国旗に起立しなかったのか?

(グローバリズムで国家が問われる時代)


人の痛みはわかりにくい,それは自ら経験してないからだ,今回の警察による駅で職務質問はそんなことたいしたことがない,みんなされていることだとなり関心もない
警官自体が相手がみんなの前で職務質問されたことにどんな気持ちでいるかも無関心なのである。

それで黒人が良く警官に殴られたとかそれでひどい傷を負ったとか死んだ人もいる
そのことを考えるときやはり警官というのは暴力を行使できる権力だということを身をもって感じるのである。
その時権力を露骨に感じるのである。普通社会にいてそんなに権力を直接感じることはない,社会での権力は金があるかないかで感じる
金がない人は常に底辺で余裕もなくきつい労働もさせられる,だから奴隷だというとき金がないということなのである。
別に金があかば働かなくてもいいからである。

黒人がアメリカンフットボールの黒人選手が国旗に礼をして起立しない,膝をついて抗議した,それは黒人が警官などに暴力をふるわれたからだという
それでアメリカの白人が怒ってフットボールを見ないとなった
日本でも国歌を歌わないと国旗に向かって起立しないとかの問題があった
左翼系統の教師がそういうことを指示する
それは日本であることだから外国でもあるとなる

でも黒人差別問題は古いし根深いのである。アメリカの分断を考えるとき国家とは何か?
そういう根本的問題になる,誰が国を作ったんだ,白人だとなる
移民ではない,その移民が多くなることは白人の国家でなくなるということでトランプ大統領が指示されたのである。オバマ大統領が黒人だったということで反発がでてきたのである。

ところがアメリカを作ったとなれば黒人も奴隷としてアメリカができたときから国を作ってきたともなるから黒人は他の移民とは違っている,特にヒスパニックとかとは違っている,アメリカで暮らせば日本人などより黒人が人種的には上になる
黒人はアメリカでそれだけ古くから暮らしているからである。
ただなぜ黒人が本当はアメリカの階級でもそれだけ長く住んでいるのだから上のクラスになっていいのにならない,それは人種的な問題なのか黒人そのものの能力のなさによるのかわからない,ただ確かなことは警官が権力の手先となり白人の手先となり黒人を差別して暴力をふるう,そのことに黒人が凄く怒っているのである。


こういう痛みは外国になると余計にわからない,でも明かにアメリカは人種差別の国なのである。例えばなぜ武田邦彦氏などがあれほど白人嫌悪になったのか?
あれだけの学者で世界的に仕事していても差別があったのかもしれない,まちがいなくアメリカで暮らすと差別を受けるからである。
それは観光旅行でも差別を受けることがある,そういう国がアメリカなのである。
人種差別の根が深いのである。だからアーリア人種批判になったのである。
日本人で差別されるとしたら金があるかないかしかない,アメリカでは人種で差別される国なのである。

ただその痛みを共有することは外国になるとむずかしい,ただあれだけ警官に反発しているのは警官が権力の手先であり暴力装置でありそれで直接的に権力を身をもって感じるからである。それは警官が支配しているのではなく白人が支配者であるからそうなると感じるのである。
権力を一番直接的に感じるのは警察と軍隊である。だからぎりぎりになると軍隊が国を支配するのである。暴力で国を支配することになる
共産主義国家は軍隊や警察を幹部で勝手に動かすことができる体制である。
だから権力が一部のものによって使われる体制なのである。

人間はともかくいろんな事件があっても人の痛みを感じないのである。
すぐ隣でも困っている人苦しんでいる人でも直接接しないとわからないのである。
そんな貧乏しているのかとか今では貧乏も見えないのである。
ただ自分が苦しむとその痛みを理解できるのである。

自分は家族で認知症の人を介護したからその痛みを理解したのである。
認知症にはいろいろな誤解がある,それは認知症の人を介護しないとわからないのである自分は認知症はどういう病気か理解した,その苦しみと痛みを分かち合うことになったからである。
つまり介護することは人の痛みをわかちあうことになる,それは介護する人もくるしいのである。認知症の場合は特にそうでてある。また障害者をもつ人でもそうである。
そういう人を介護することは介護する方も同じような苦しみを背負うことになるのである
ただ黒人の苦しみに外国人が共有することはむずかしい,日本は部落差別などあったが差別がない国だからである。ただ人間の歴史をみると差別は常にあった,戦争に負ければ劣等民族とされて奴隷にされるのが普通であった
それでスラブ民族とはスレーブであり奴隷のことだったのである。今でも東欧諸国は遅れているの出稼ぎに出ている,そういう歴史が普通にあったから黒人だけの問題ではないのである。

いづれにしろ国家に忠誠を誓うというとき黒人が古くからいる人達なのに差別されるとなると嫌だとなるのもわかる,国家とか日本なら江戸時代なら侍は藩に忠誠を誓うとなる
藩が国家だから侍が支配者だからそうなる,外国でも貴族が支配者だから国家に忠誠を誓うのである。黒人は奴隷だったから国家意識がないというのもわかる
ヒスパニックでもそうである。アメリカにただ金が欲しくてかせぐために来ている
それは移民はみんなそうである。ただ金がほしい,楽したいために来ているからである。日本国家がどうのこうのとはみんな関係ないのである。
だから一旦そうした移民はもし戦争になったりしたら日本からでも逃げ出すのである。
日本のために死ぬという人はいないのである。

だから国家というとき何なのか?それが今アメリカでも問われているのである。
アメリカの問題はまた世界の問題にもなる,なぜならグローバリズムが否定されてナショナリズムに回帰するというときそれは世界的傾向だからである。
グローバリズムは国家をなくす多国籍企業が支配することである。
そのグローバリストとナシャナリストが世界的に争うようになったのである。
だから国家とかは何かというときグローバリズムで起きてきたことでもある
だから世界的問題となったのである。

国家とは何かというとき単なる利益共同体ではない,多国籍企業は利益共同体である。会社もそうである。国家は歴史的に作られてきたものであり利益共同体という側面があっても違ったものである。そこに軋轢が生じる,グローバリズムが今批判されるのは国家が何なのかそのものが問われているからである。
だからアメリカでは退役軍人が国旗に経緯を払わないフットボールの黒人の選手に怒りを覚えたのである。俺たちは国のために尽くして仲間も死んだとして怒っているのである。それはただ利益共同体ではない,国家を維持するためには死ぬこともあるから言っているのである。ただ今度は世界的に見ればアメリカが世界でアメリカのために戦争して死ぬとういことが世界で認められるかとなるとならない
そこにも国家間での国家とは何かが問われているのである。
世界的に意義がある戦争だったのかともなるのである。本当に正義があったのかとなると国家間ではそうではないからである。
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2017年10月24日

小池百合子の失敗 (臨機応変に対処できない)


小池百合子の失敗

(臨機応変に対処できない)

人間が生きることがむずかしいのは常に変化するからである。
小池百合子の失敗は都議選で大勝利したことである。
そのとき慢心した,自分の力を過信してしまったのである。
その人の政治の能力があり支持したのではせなかった
都議会議員に不満があったから支持したのである。

今度は国政選挙になり野党連合という新しい事態が生まれたときそれに対処できなかった
それは都議選とはまるで違った状況になっていたのである。
でも小池百合子は都議選と同じように自分の人気で風が吹くと思っていたのである。
そこちる慢心と誤算えあり対応できなくなった

この世とは絶えず変化している、その変化に対応できないのである。
信長が勝利したのは臨機応変だったからである。桶狭間の急襲で勝利したのもそうであり長篠の戦いで武田軍を鉄砲隊で勝ったのもそうである。
秀吉は明智光秀の謀反を知り四国から兵を引き上げて明智を撃った、その速さは奇跡的だったのである
つまり臨機応変に対処できたから勝利したとなる
つまりそのときどういう状況かのみこむだけでも大変である。
でもとっさに行動したからこそ天下をとったとなる
その変わり身の早さは信長と共通していたのである。

当時土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。あるとき龍馬の旧友が龍馬と再会したとき、龍馬は短めの刀を差していた。そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した旧友は短い刀を差すようにした。
 次に再会したとき、旧友が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。納得した旧友はさっそく拳銃を買い求めた。
 三度再会したとき、旧友が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。
 
これは史実ではないにしても幕末にはそういう急激な時代の変化があったからこんな話が残されたのである。
何か時代の変化は急激に起きる,それに臨機応変に対処できないのが人間なのである。
今回の選挙でもそうである。急激な解散に野党は対処できなかった
でも小池百合子が臨機応変にく対処していたら首相にもなれたチャンスでもあった
そしてチャンスは何度も来ない、小池劇場は終わってしまったとなる

臨機応変ということは本当にむずかしい、だからこそ急襲が効果があるのである。
阿部首相の戦略が功を奏したというのは結果的にはなった
まず個人的に急激に起こることは対処しにくいのである。
民進党の希望の党への合流にしても簡単にできない、何になんだとすぐには理解できないのである。
だからそれに無理があった、でもチャンスでもあった
そのチャンスを小池百合子は逃したのである。

臨機応変とともに人間社会はケースバイケースなのである。同じケースがないということである。
怪しいと通報があり職務質問するのすべてしいいのかとなるといくら決まりになっていてもしてはならないケースがある、それで被害を受ける人もでてくる
でも警察の場合は権力があるからできる、そして市民はそのために被害者になり警察不信になる人もいる
そういうことはあらゆることで起きている、医者にしても本当は人間の体もみんな違っていてケースバイケースに対応が迫られる、認知症の人などは特にそうである。みんな症状が違うし家庭環境も違うからである。
そのために失敗するのが人間なのである。

政治のむずかしさは国際情勢が日々変わるから対応できなくなる
中国が遅れているとみていたらすでに日本より技術的に前に進んでいたとなる
すると前のような対応では失敗するのである。
ともかく今回の小池百合子劇場でもこういうことが起きた、都議選のときとは状況が違っていたことで対処誤ったのである。成功体験でかえって次に失敗するものそうである。
同じ状況ではないから同じように成功するだろうとはならなかったのである。
臨機応変,ケースバイケースに対応できない、それで失敗するのである。

洛陽城東桃李花  洛陽城東 桃李の花
  
飛来飛去落誰家  飛び来たり飛び去って誰が家に落つる
  洛陽女児好顔色  洛陽の女児 顔色好し
  行逢落花長歎息  行くゆく落花に逢うて長歎息す
  今年花落顔色改  今年花落ちて顔色改まり
  明年花開復誰在  明年花開くも復た誰か在る
  已見松柏摧為薪  已に見る 松柏の摧けて薪となるを
  更聞桑田変成海  更に聞く 桑田(そうでん)の変じて海と成るを
  古人無復洛城東  古人無復洛城の東に無く
  今人還対落花風  今人還た対す 落花の風
  年々歳々花相似  年々歳々、花相い似たり
  歳々年々人不同  歳々年々人同じからず
  寄言全盛紅顔子  言を寄す 全盛の紅顔の子
  応憐半死白頭翁  応に憐れむべし 半死の白頭翁
  
  
  桑田(そうでん)の変じて海と成るを
  
この辺が津波で本当に桑田が海になったのである。このように人間社会は変化が激しいのである。
だからこそ臨機応変に対処すること変化に対応することがむずかしいのである。
人は同じではない,常に変わっている、親戚もいつまでも親戚でとはない、結婚したりして音信も途絶える
近隣の人でも変わりやすいのである。いつのまにかに知らない人になっている
現代は特に人間関係は変わりやすいのである。
この辺は特に原発事故で故郷まで失ったからその代わりようは信じられないとなる
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2017年10月23日

急な解散で混乱して野党が負ける (急(せ)いては事をし損じる)


急な解散で混乱して野党が負ける

(急(せ)いては事をし損じる)


今回の選挙ではいろいろな見方がある。やはり希望の党が今回は中心になり小池百合子がクローズアップされた,台風の眼となった
それで小池百合子のことがいろいろと一番言われたのである。
その人格とか人となりも言われた,それが何か違っていた

小池百合子が東京都議選で大勝したことで奢りになったとか慢心したとか言うのは本当だろう。それが私が政治家として有能であり選ばれたと勘違いしたのである。
東京都議選では東京都議会の腐敗を一掃するということで選ばれたのであり小池百合子が優秀だからでもなかった,それを自分が政治家として優秀だから勘違いしたのである。
そして何か自分への人気投票のように錯覚したのかもしれない,私の人気は抜群なのね,これなら衆議院選挙でもやっていけると勘違いしたのである。
そこで自分には何の力もバックも組織もないのに東京都議選と同じ結果がでると思ったのである。

それで「排除」の論理も生まれた,私には力がある,私の力だけでもできると慢心した,政策を中心にして排除したのは理解できる,ただ私が中心なのよ,私の力で勝てると慢心したのである。
それから何か必ず諺というのが活きてくる「急(せ)いては事をし損じる」であった
あまりにも急な解散は急襲だったのである。それで野党陣営はまとめられなかった
それも小池百合子は最初は自分の人気で勝てると思ったのである。
小池百合子中心にすすみまるで小池百合子の人気投票のように自分自身が思ったのかもしれない,テレビのアナウンサー出身ということで芸能人だからそういう感覚があったのかもしれない,小池百合子にはそうした指導力はなかったのである。

選挙というとき何か一人物のことがまるで信長と秀吉とか家康とかのように影響することはないと思っていた
今回は小池百合子の動向で決まったということもある,それほど一人物が注目されたのである。だから小池百合子は都議選で大勝して慢心していた
私への人気投票のように選挙結果を見ていたのである。
人間は何でも奢るとかおかしくなってくる,それは国全体とか会社でも個々人でもそうである。

民主主義は一人の人間を偉大な物として祭りあげたりしない,一人一人の投票の結果として選ばれるのだから主権が国民にあって選ばれた人にはない制度なのである。
だから中国のように習金平のように自分の功績を延々と言って自分が王様のようになる共産主義とは違うのである。共産主義下でもまず政治は自分の力で何でもできるものではない,そういう奢りが必ず権力者にはもたらされるのである。

いづれにしろ「急(せ)いては事をし損じる」というとき最初から大勝して首相をねらうということではなく小さくても希望の党の基盤を作ってから首相になることをねらうべきだったというのもわかる
人間はまた何でも人はあせるのである,文学者でも何でも早く賞をもらって有名になりたいとか常にある,人間は待てないのである。

ただ小池百合子の場合年でありもう待てないとういことが急いだことにもなる
そして人生の中でチャンスは一回逃したらあとは来ない
それで小池百合子は東京との知事をやめて阿倍の対抗馬として希望の党の先頭に立ち国民に首相の選択させるべきだったというのもかる
おそらくもう首相になるチャンスは来ないと思って決断するべきだったともなる
人間はワンチャンスで未来が決まる,そのワンチャンスを逃すと二度とチャンスは来ないのである。もう小池百合子にはそれだけの時間が残されていなかったのである。

人間はここが勝負時だというとき賭けなければあとはチャンスがない,小池百合子にはそのチャンスがめぐり与えられたが逃したともなる
だから何か今回は小池百合子の人間的ドラマだったのかともなる
そしてそのドラマも終わったのかともなる
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2017年10月22日

雨の中で投票してきた (田舎では車がないと投票もできない)


雨の中で投票してきた

(田舎では車がないと投票もできない)

街内であり投票所が近くにあるから行ってきた,田舎ではこの雨では街から離れたら車がないと投票もできない
街内でないと一人暮らしは不便であり車がないと現代の生活は不便になる
田舎では一人一台車をもっているのだ

別に自分は投票もしたない,棄権したいのである。特別入れたい人も党もないからであるでも棄権したことがないのは何か具体的に選挙のとき政治を考えるからである。
やはり一票をどこに入れるかは大勢には何の関係ないにしても政治を直接に具体的に考えるものとしてあるからだ

だからどうせ一票など何の影響もないともなるが選挙は具体的に政治を考える場として投票しているのである。
この辺ではどうしても原発は反対になる,それは理屈でもなんでもない,もうこれだけの被害にあったらこりごりだとなってしまったからである。
だから自民党には与党には入れにくいのである。

選挙も蓋をあけてみなんと結果はわからない,今回の天候の影響がどうでるか?
悪天候のありには前より投票率がいいみたいだ
やはり関心があったのか?投票率がいいことは浮動票が反自公の票になるのか?
希望の党はずいぶんたたかれたけどそれはマスコミの恣意的操作だという人もいるからわからない

自分は公明党には納得がいかない,創価をやめた人は普通は票は入れないたろう。
やめたら地獄に落ちるとなっているからだ,でも創価でも今回は票が割れるかもしれないそうなれば宗教で決めないから政教分離だとなる
ただ創価も高齢化している,勢いがなくなっている
それはすでにずいぶん前から頭打ちになっていたのである。
選挙と信仰を結びつけるのは限界になるだろう

ただ野党には政権担当能力がないのである。なぜなら政権担当を経験していないからである。だから民主党は失敗したのである。
政権担当にもノウハウがあり積み重ねがある,するとそういう経験がないのだから失敗に終わった,つまり自民党しか政権担当能力が日本にはないのである。
アメリカだったら民主党と共和党が交代してもどっちも政権担当能力がある
日本で野党にはないのである。
だから一党独裁のような政治が延々とつづいてそれに代わるものがないのである。

確かにアメリカでもこのように支持基盤があり二大政党が成り立っているというとき日本にはないから自民一強政治がつづいている
イギリスでも資産家とう富裕層と労働者層が分かれているから二大政党制が成り立つ
それはもともと貴族階級と庶民階級は言葉も違うほど分かれていたという歴史が反映されているのである。
アメリカの民主党でも共和党でも南北戦争がありその継続としてもある
日本にはそうした地域の対立とか階級の対立がないのである。
労働者でも組合となるとかえって資本家寄りだとかなる,組合にも入っていない人が多いからである。

もしこの悪天候で投票率があがったら現政権にやはり不満な人が多いことがわかる
どうしても一票を投じてその不満を現したいということで投票率があがる,浮動票が入るからそうなる
だから前の選挙より投票率があがったら確実にそうである
こんな悪天候でもこれだけの投票率だとなるとその評価は違う,今回は悪天候を考慮した評価が必要になる。
天候は政治にも歴史にも影響するのは現代でも同じだった
それも天の采配とかなる,この天候だけは人間の力ではどうにもならないからである。
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2017年10月21日

ベーシックインカムに自分は賛成 (嫌々ながら仕事している人が多すぎる)


ベーシックインカムに自分は賛成

(嫌々ながら仕事している人が多すぎる)



ネットがざわついた「ベーシックインカム」に希望はあるのか?


希望の党がベーシックインカムを一応実施するのは別にして取り上げただけでもやはり先進的なことかもしれない,そんなもの空理空論であり馬鹿げているというので取り上げることもしなかったからである。
それは全くの理想論でありとるにたらない空想にすぎないとなっていたからである。

でも現代のゆきづまり社会の変化に対応できるものとして今とりあげられている
現実にスイスとか小国では実施されているのである。
これも賛否両論がある
例えば武田邦彦氏などは反対している,それは彼がエリートであり底辺層のことを知らないからである。底辺で働いたこともないからである。

自分は若い時は流れ作業とか底辺の仕事しかしていない,大学のアルバイトでも底辺の仕事,肉体労働しかしていない,武田氏くらいの東大卒のレベルだと家庭教師でかせげる
要するにこの世にそうしたエリートは少ない,みんな俺たちは社蓄なんだ奴隷なんだとなっているのが普通である。働くことでもそう感じているのである。
働くこと自体に生きがいを感じていないのである。

自分はそうした底辺労働,流れ作業などばかりしていて完全に労働意欲を失った
それはロボットと同じ仕事だからである。三流大学でも出ているのにそんな仕事しかしたことがない,だから社会からドロップアウトすることになった
その後はこれも実に不思議なのだけど仕事していない,それも老人になるまで仕事はしていない,稼いでもいない,旅ばかりしていたともなる
そういうことが許される環境にあったからそうなっていたのである。

それも自分には自分にあった仕事が与えられない得られないということにあった
そういう人の方が世の中の大半なのである。
だから奴隷なんだ,社蓄なんだと言うことになる

だからAIとかロボット化は人間にとって悪いものではない,誰も流れ作業などしたくないのである。一つのネジをボタンをひたすら組たてる仕事に生きがいを見いだせないのである。家だったら大工でも一人で家を請け負い作った人がいる
そうできる人はやはり大工として生きがいを感じるのである。
農業も金になちらないとかいうけど生きがいを感じる仕事なのである。

だから知っている人は趣味なのだが小さい畑で仕事していることに生きがいを感じているしそれがその人の価値になっている,何もしなければその人の価値がなくなるからだ
ただ金にならないというだけでその人に不本意な仕事をすると奴隷だ,社蓄だとなる
今そんなことができるのは家事自体仕事がなくなっている
機械化しているしもう買ってなんでもできる,この前けんちん汁の材料が売っていた,汁もついていた,肉を入れて簡単にできた,それがうまかったのである。
これには野菜が入っているから自分は好きだったが食べることができなかったができたのでうれしかった,家事は一人暮らしでも困らないのである。
だからその人はただ話し相手とかにきて畑のことを話すのが仕事だともなる
家事の仕事は皿に二三枚洗うだけだから必要ないからである。

これはAI化すればますますそうっなってくる,人間から仕事がなくなってくるのだ
すると人間が何をするのかということになる,知的な分野でもそうなる
ビッグデーターは素人でも学者になりうる,古代史関係で自分はそれを利用した
ビッグデーターになると膨大な地方史や古代の情報をキーワードから調べると見えてくるものがあったので書いた
ビッグデーターから自ずと見えてくるものがある
そういう利用の仕方は図書館でも何でもできなかった
今は本も古本だと安いからボタン一つ押して本を集めビッグデーターとのように活用しているのである。

そういうふうにAI化で社会も変わってくるのである,それに適応するには時間がかかるがベーシックインカムを将来の政策として検討したことには意味がある
そしてオリンピックなどは今の時代にもう何のためにしているかもわからないものとなった,今までは何か世界的に意味があるものとして行われていたが今はその必要性がなくなってきたのである。
だから時代と共に人間の社会は変わりそれに適応してゆく政策も必要になる

ベーシックインカムはいろいろ問題があるしそんなこと実現しえようがないというのもわかる,誰も働かなくなる怠け者になり遊ぶだけの人間になる
それもありうる,でも働く人は働く,なぜなら退職した人がいかに働きたいか?
それでボランティアを探してしていることでもわかる
ボランティアは金をもらうためではない,生きがいのためにしているからである。
まさにその時こそ人間は働いているのだ。自由意志でボランティアで働いているのであるそれはベーシックインカムを実現していると同じなのである。
退職して金に余裕があるから時間にも余裕があるからできるからである。

だから豊かになればベーシックインカムが架空のことではない,現実味を帯びてくるのである。全く荒唐無稽なことでもない,現実に退職した老人がそれを実行しているではないかともなるからだ。
自分のしていることもそうである。プログで書いていることはボランティアであり何の収入も得られないけど生きがいを感じるかからしているとなる
芸術的創造とか人間は創造的行為となると無料でも金をはらってでもしたいのである。
つまりそれが極めて人間的なことなのである。
画家でもなんでも芸術を追及するとき絵が売れないとか金にならないとかなる人が多いからである。そんなことを関係なく創造を追及できるのがベーシックインカムとなるからだこの理想もまた現実でくじけたりすることはある,でも現実的にそういう条件が調ってきたとき実行してもいいとなる。そういう環境がAI化などで調いつつあるからこそ今や空理空論でもなくなりつつあることは知るべきだろう。

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2017年10月16日

<衆院選福島>1区で原発事故からの復興巡り論戦白熱 (亀岡氏の五輪の成果は評価できない)


<衆院選福島>1区で原発事故からの復興巡り論戦白熱

(亀岡氏の五輪の成果は評価できない)



亀岡氏は「復興五輪の成功を」と訴える。2020年東京五輪の野球・ソフトボール競技の一部福島市開催決定に奔走したことを実績としてアピールする。

金子氏は亀岡氏をけん制する。伊達市内の10日の演説で「五輪で原発事故をなかったことにはできない」と声を張り上げた。

原発事故後の対応では一部野党も主張する東電福島第2原発(富岡町、楢葉町)の廃炉実現を叫ぶ。民進党が今年3月に国会提出した廃炉法案は廃案にされたとして「東電に決断させるのが国の責任だが、自民にはできない」と批判する

福島一区は自公政権と野党が一対一の激戦の選挙区になった,前の選挙でも小差であり今回は共産党が候補者を立てないから無所属から出た金子氏に票が流れる
票を読むと金子氏が有利になった,でも選挙は蓋をあけてみないとわからない
浮動票がどう動くかもある,そういう自分が浮動票なのである。
別に自民でもないし野党でもない,その時の風によって決まる浮動票なのである。

政策的には原発を廃止するとか五輪などしないでむしろ震災復興に力を入れてもらった方が良かったから評価はしない,そもそも今度の五輪する意義が前の東京オリンピックとはまるで違ったものである。国自体に盛り上がりがないのである。
あの時オリンピックによってインフラを整備するとか高度成長真っ盛りでありそういう目的もあった,今回はそうした国自体の盛り上がりもないしそんな運動会に巨費をつぎこむのは馬鹿げているという意見も多いのである。

だからどうしてそもそも五輪がこうして国民の盛り上がりもないのに実行されたのか?
そのことを疑問に思っている人も多い,なんでも賛否両論があるにしろ今回は否定する人が多かったのである。
もうオリンピック自体に疑問をもっている人が世界的にも多くなった
一体オリンピックが何のためにやっているのかせわからない,それでIOCで金が不正に使われたりオリンピックを誘致するために巨額の金が使われたりと批判がある
そしてオリンピックの競技場で過労のために若い人が死んだとかありそれにも批判がある死者の犠牲の上にオリンピックをやる意義があるのかと批判もある
それだたけオリンピックの意義は今回は国民的合意とはなっていないのである。

ではなぜ行われるのか?それは国民が望んでいるよりゼネコンとか他の動機があってオリンピックが行われる,景気を良くするためだとも言われるがオリンピックで景気が良くなるよりかえって金をかけた分がかえってこないこともあるだろう。
観光客誘致には確かに効果があってもオリンピックをしなくても外国からの観光客は増えているのである。オリンピック景気は一時的なものでありその後は日本の経済は凋落してゆくと指摘する人も多い,だからオリンピックに期待する時代は終わったのである。

それから原発廃止は自民ではできないというの確かである。
この辺ではどうしても原発廃止になる,これだけの被害があったらとても原発を認めることはできなくなったのである。

それから復興は進んでるという自公政権が主張するが避難区域などは全く進んでいない
若い人は帰らないし何も進んでいない,働く場所も避難区域ではないとか若い人は帰ってこない,だから復興は進んでいるとはならない

それから憲法問題になると憲法改正した方がいいというとき自衛隊を軍隊として認めるというときそれは別に今のままでも軍隊であり改正する必要もないという主張もある

自分は精神的には日本文化を尊ぶ右よりなのだけど政策的には左寄りだとなる
そもそも自民と公明党が一体になっていることを容認できないのである。
カルト宗教団体と一体になり政治がゆがめられているのである。
その点を批判しないのがおかしいのである。そして自民党と公明党の政策は違っているのに一緒になっている
むしろ希望の党とか維新の党が右寄りであり自民と一体化しやすいのである。
公明党は野党の方が政策的には共同できるのである。

結局は政策的には左寄りになるが希望の党に入れることは右よりだとなる,ただ希望の党は原発にも反対しているから政策的には支持できる,消費税反対も支持できる
こうしたことは他の人にも起きている,自民党支持者でも消費税反対の人はいる
ただ株をしている人などは経済的には阿部政権で恩恵を受けたのである。
だから利害から選ぶと左だと損するとなる
なんでも右だ左だとかで分けられないのが現実である。

いづれにしろ福島一区は注目の選挙区になった,予想では無所属の前の民進党候補が有利とある,ただ浮動票がどっちに流れるかで変わるが地方では浮動票はそれほどない
票が固定しているからあてにならないこともある
希望の党がマスコミからたたかれたのは政権打倒できたのに排除の論理で野党を分断したからである。
でも希望の党にすればそれが第二民進党になることを拒否したためだったのである。
だからそれが悪いとも言えないのである。
いづれにしろ今回は政策的に希望とか野党の方にこの辺ではなりやすいだろう。
福島一区は自公政権側は不利なのかもしれない,でも希望も全体では50議席くらいしかとれないというのもあたっているのかもしれない,一本化しないから野党が分散化した結果そうなった,希望には保守の票もかなり流れる,保守票もとりこむ,それが民進党とは違っていたのである。
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日本には二大政党制がなく政権交代ができない (民主主義が機能していないから選挙も無力になる)


日本には二大政党制がなく政権交代ができない

(民主主義が機能していないから選挙も無力になる)


今の政治状況はわかりにくい,小池旋風でわかりにくくなった,ではなぜ小池批判が起きてきたのか?
それは左からするとマスコミでも阿部政権打倒だから小池が民進党の一部を排除したことが面白くない,なぜならそうしたら政権打倒の勢いがそがれたからである。
すると小池が民進党の一部を排除して政権打倒できなくなったことが大きな不満となり
小池をバッシングすようになった

一方でその主義主張が根本的に違うものが一緒に活動できないというのも筋が通っているそれを批判するのはおかしいともなる,自分も別に主義主張が違うのだから排除したからとそれを批判するのはおかしい
結局希望の党は民進党になることを恐れたからそうしたのである。
自分たちの独自性を保つためにそうしだけである。
一方政権とるためにはそうした排除の論理ではできないという人がいる
排除した結果野党が一つにまとまらなくなり自公に有利になったというのが左とマスコミの主張である。

要するにマスコミは中立の報道ではなく左であり政権打倒したいとうことで一致しているだから御意見番にそのことを言わせるのだとなる
民主主義は政権交代が必要でありそれで小選挙区制になった
それで小池のような人か出るだけで政権交代にもなりうる
それがそがれたのは自らの主義主張に合わないものを排除したからだとなる

ただ政治の世界は主義主張だけで動かない,政権をとるということが大きな目的となる
政権が変われば政治の世界も社会も変わるからだ,それで失敗したのが民主党が政権をとったときでてある。民主党は「政権」をとるということで一致団結したのである。
だから政治は政権をとる権力闘争になる,それは歴史では戦争になり革命戦争となっていたのである。
共産主義ならその主義主張でイデオロギーで政権をとる,そのためには時の政権を暴力で武力でもとるということをしてきた
民主主義ではそれができないから選挙で政権をとるほかないのである。

日本は政権交代がない,自民一党独裁体制がつづいている,一回民主党になったが失敗した,政権担当能力がない,日本には二大政党が根付かないのである。
要するに日本の政治はアメリカとは違い,政権を維持する党と野党が極端なのである。
その原因は一方はアメリカよりであり一方は中国韓国寄りとなり相反する勢力となる
それは国際政治の力関係が日本にもちこまれているからそうなる
だからアメリカのような保守二大政党が根づかないから政権交代もないのである。
日本が未だアメリカの植民地でもあり自主性がもていなこともそうしている

アメリカだったら二大政党で政権交代してもそんなに政策が変わるわけでもない,国際政治でもそうである。日本だったら極端に変わってしまうからできない,それを証明したのが民主党が政権をとったときで証明されている
希望の党は保守なのである。だからかえって第二自民党だとの批判もある

ともかく日本は民主主義が機能していない,それで選挙に行っても無駄だとかなる
小選挙区制に反対の人もいる,憲法でも議員を選ぶのであって党を選ぶのではないとあるのもそうである。
小選挙区制は政権交代しやすいようにした制度だけでも機能していない
それはなぜなのか?日本は与党と野党が極端に違っているからなのだ
それは野党になれば革命にもなる,共産主義革命ともなる
だから簡単に政権交代できないのである。
政権交代ができるのはアメリカのような二大政党制なのである。
それで権力を交代して腐敗をなくしたり新たな政策を実行する
日本では今のままではこうした政権交代ができるものがないのだ
野党が一つになるといってもできない,それは極端に変わる革命になってしまうのである共産党が政権をとると同じなのである。

選挙民は何か変えたいとは思っているけどこういう状態だからできない,政権交代を望んでもできない,そして無力感になり投票しないともなる
自公政権を嫌っている人が多くても政権交代できない,公明党のようなカルト宗教団体が政権と一体とななっているのも嫌っている人はいる
でもそれもどうにもならない,小池もただ公明を利用しようとしただけであるのでもわかる,こうした団体に政治が牛耳られるのも政権交代できるように日本でなっていないからである。だから日本では民主主義は機能していないから選挙でも無力感があり投票率も上がらないのである。
自分も今回はどこに投票していいかわからない,小選挙区制でも元の民進党の人が無所属ででている,もう一人自民党である。
比例区は希望の党にしようかと思うが小選挙区がどうしていいかわからない
棄権になるかもしれない,今回は浮動票も分散されるから自民党に有利になってしまうのである。
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2017年10月09日

強調されるのはメリットだけ (あらゆる政策でもデメリットがあるが言われない)


強調されるのはメリットだけ

(あらゆる政策でもデメリットがあるが言われない)


メリットのみという政策はまずありません。必ずデメリットがあります。
メリットの選択とは、それに付随するデメリットの選択でもあるわけです。

政策で投票しようとするとき「原発ゼロ」というとき必ずそのデメリットがある。
石炭で火力発電したら二酸化炭素が出ますよとかある
電気が不足して電気自動車にできますかとか日本が核武装できなくる
核の技術がないことは先進国ではないのですよとかなる

デメリットが選挙では隠される,それは原発の安全神話と同じだった,デメリットになることが全く知らされなかったのである。
それは強大な国とか官僚とか電事連合とかマスコミとかが一体となって「安全神話」が作られた。そこではデメリットなにることは言われなかったのである。

地元でもメリットになることだけを要求してデメリットになることはないと思っていたのである。原発で景気が良くなるとか金のことばかりを言っていたのである。
事故になったらとかは言わない,ただメリットになることだけを言っていた。

人間は必ずメリットになることとデメリットになることがある
株でもそうであり危険がありそのことを一応言う,でも奨める人はデメリットを強調しないのである。
だから損したときデメリットが大きいものだと現実に認識する
人間は悪いことを想像したくないのだ
だからメリットのあるものだけに目を向ける性質がある

人間はやはりメリットとになめんとデメリットになる面を明確に知ることが大事になる
そうでないと原発の安全神話が再現される,戦争するにしてもそこにはメリットがある面とデメリットがあることを言わなければならなかった
戦争は負けることもあるしその可能性も大きかったが日本はメリットばかりに目を向けて巨大な幻想に陥ったいたのである。

野党に期待しすぎるのもそうである。希望の党とは何かと言ったら海のもの山のものかもわからない,ただ阿部首相が嫌な人は自民党が嫌な人は希望の党に投票する
でも民主党でわかったように政治は現実であり大きく変わりいいことだけがもたらされるとは限らないし実際はない
でもメリットの面だけを強調されるのである。

メリットとデメリットを明確に意識していればそれほど期待はずれだともならない,必ずデメリットもありそのデメリットを知ってでも投票する
つまりデメリットがあるということを意識して投票するのである。

原発ゼロにするデメリットは大きいことになる,
するとそのデメリットに耐えられるのか?
豊かな生活ができなくなることもある
それを原発問題では問うてきた,極端になると電気でも最低限しか使えなくなり炭を使うような昔にもどるともなる,そんな生活に耐えられるのかと極端になればそうなる
そのデメリットを人は見ない,ただメリットの部分だけを見ているのである。

選挙では票がほしいからいいことしか言わない,デメリットは隠されるのである。
でもデメリットこそ知るべきでありその自覚もするべきなのである。
そのデメリットを自覚して選ぶなら失望はないとなる
メリットともありデメリットもある,その二つを冷静に考慮して選んだとなるからだ

政治の問題,選挙の問題はメリットのみが強調されることである。
それに釣られて投票してあとでそのデメリットを知り失敗したことがくりかえされている希望の党にはそういう面が強い,メリットになる面をだけを強調する
でもデメリットは強調されないのである。
それはだから有権者が冷静に判断すべきことなのである。

教育無償化が全面的にいいメリットの面だけをみればそうである,でもそのためには消費税を10パーセントにする,そうしなければできないからである。
そのデメリットを明確に認識することが必要なのである。
無償化とはないのである。税金で運用するのだからその税金をどうするのかとなると消費税を上げるとかになってしまうからである。

原発事故では本当にデメリットになる面を全く隠されていて地元に金がおりて景気良くなるといういいことばかりが強調されていた
でもそこには大きなデメリットが隠されていたのである。

ともかく阿部政権,自公政権は嫌だから希望の党に入れる,それはそれでいい,ただそこでメリットとなることばかりはない,デメリットもある。
小池都知事なんか何もできない,ただ首相になりたいだけの人だという人もいる
そういうデメリットをもつ人でもある
でも今は希望の党にかける,そして自公独裁の政治を終わらせたいということで投票するそれはそれで希望の党にそれほど期待しないからいいとなる

いづれにしろ民主党を選んだ失敗はメリットの面ばかりに期待しすぎたのである。
高速道路無料とかその他の政策は何一つ実行できなかった,今も小池知事は何も実行していないのである。
ただ今の閉塞感を破ってくれるというメリットの面だけを見ているのである。
でも現実的政策とはないしただあいまいな希望という言葉だけの党だともなる
それでも阿部政権に自公独裁政権が嫌だとなれば浮動票は希望の党に流れる

人間は必ずメリットとデメリットがついてまわっている,そしてデメリットが明確に意識する人が少ないし意識させられないのである。
それをあまりに強調したら誰も投票しないからである。
そこに選挙の問題があった,投票する方もそうしてデメリットの部分を自覚すべきなのである。その上で判断なら失望することもないのである。
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2017年10月03日

ラスベガス銃乱射事件の犯人の動機の謎 (老人特有の心理が関係していたのか?)


ラスベガス銃乱射事件の犯人の動機の謎

(老人特有の心理が関係していたのか?)


人間というものは何するにもどうしてそうするのか?その動機が問題になる
神が人の心を見ているというときもそうである。
その行為があってもどういう心でその行為に及んだのかを見ている
一見善いことをしているようでも行為として現れていてもその心が実は名前を売りたいとか偽善の場合が人間には多すぎるからだ。
だから行為からだけでは人間は判断できないのである。
慈善でもそれも利用して金持ちになっているのもいる
第一寄付金がどういうふうに利用されているのかわからないからだ
それでアグネスでも天皇すら批判されている
赤十字は天皇家がかかわっているがその金をどうしていのか見えないからである。
それはタブーになっているから余計にわからないのである。

今回のラスベガスの事件でも犯罪でもその犯人はどうしてそんなだいそれたことをしたのか?
その動機は何なのだろうと疑問に思う

●ギャンブルで大負けしてやけくそになった

●64才で年なので一発大きいことをして死ぬことを選んだ

●その他

人間は犯罪心理学というも気があってもいいだろう。
まずなんでもそうだが動機が一ついうことはない,動機は三つも四つもあって犯罪にいたる,犯罪の経験があればそうなる
だからこの人の動機も一つではない,ギャンブルに負けたとしてもそれがすべての動機とはならない,何か他にある。

老人の心理も関係している,老人の心理は若者には理解しにくい

どうせ人生も終わりだ,最後に一発大きいことをして死んでやる

そんなことを考えるのも老人なのである。
どうせ死ぬというとき自殺を前提にしてあれだけのことをやったからである。
若者とは違いもう人生終わりだとなるといろいろ家族と社会のことでも考えなくなくなる社会がどうのこうの社会のためになれとかもなくなる
そんなこと死ぬ前にどれだけ意味がるのだとさえなる
社会のためにとか社会といってもそういうものが何か現代はわからないからである。

この犯人は社会から第一疎外されている人ではない,裕福な人だったのである。
そしたらそうした社会の恨みから犯行になったとはならない
では何なのだろうとなると不可解だとなる

誰かの恨みではない,では何のためそうしたのか?
ギャンブルに負けてやけくそになったことが大きな一因であることは間違いない
それで財産全部すったとかなればありうるがその人は金持ちなのである。
すると金だけが動機なのかとなるとこれもわからない

ただ若者と違って老人特有の心理が影響していたかもしれない

一発大きなことをして人生を終わりにしよう

何かそういうことが老人では動機になりうる,老人が起こした老人の心理から特有の犯罪だったかもしれない,だからそれは日本でも起こりうるし起こっていることせある
老人は社会規範からはずれてくる,会社から退職したりするとそういう縛るものがなくなる,この犯人は家族もいないみたいだから余計にそうなったのかもしれない
そもそも親が有名な銀行強盗だったというのも驚きである。
その子供だったとしたら相当に社会では苦しい立場になっていたが別に会計士とか金持ちでありそうもなっていないのである。

ともかくアメリカの銃社会というのは日本ではわかりにくい,西部劇の延長としてそれもある。国の成り立ちとかかわっているから簡単に銃は無くせない
それが外国からすると日本などからすると理解できないのである。
それぞれの国に事情があるというのは本当である。
インドではカースト制が残っていてそれで上の階級の人が下の階級の人が伝統を破ったと殺しているからインドにはインドの事情があり中国にもあるが中国は情報統制されているから悲惨な事件が報道されないのだろう。

いづれにしろ人間の心はあまりにも複雑で犯罪の動機もいろいろあるから決めつけることはできない,アメリカはとにかく犯罪でもスケールが大きいと感じる
ラスベガスというとギャンブルで有名だが何か芸術家が集まる場所でもあるらしい
それでラスベガスから常時アクセスあるのは自分が抽象画を定期的にアップしているからである。
そんな人達もいるしそこがギャンブル場になっているから芸術家がいるにはふさわしくないと思っても第一アメリカは広いのである。
ラスベガスでもいろんな人達がいる,ギャンブルだけではないのだろう。
それにしても最初二万人いたという観客は何が起きたのかわからなかった
銃声が連続的になってもわからない,だからとっさに何をしていいのかわからない
普通銃で打たれるときは伏せろというがかえって伏せたら今回は標的になったのである。
なぜなら30階もの高所から打ったのだから伏せていれば上から撃たれるのだからかえって危険だったのである。その場から逃げることだったのである。
だから何か事件があったとき一つのパターン化した考え方は通用しなくなる
それは自然災害でもそうである。その時々でどういう状態なのか違っている場合が起きるそれで誤り死にいたるから怖いのである。
人間は緊急な事態に弱いのである。とっさに判断できなくなる
だからテロに対処するといってもどういうふうにテロが起きるから予想つかないから備えようがないともなるのだ。
どこかに必ず穴がありそこで大惨事になってしまうのである。
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2017年10月01日

政権交代なき民主主義は死ぬ (世界も主義理念の対立で二分した)


政権交代なき民主主義は死ぬ

(世界も主義理念の対立で二分した)


都議会に理念とかあまり関係ない。国政は理念が対立要素。

そもそも民主主義がどこではじまったのか?ギリシャのポリスからである。
ポリスといっても一万とか二万の都市なのである。
だから直接民主主義であり代議制ではない,何かをみんなの投票で決めていたのである。だから現代の民主主義とは相当に違ったものである。
民主主義は歴史が短い,だいたい古代から中世とか長い間君主制なのである。
その君主制の時代が二千年とかある,民主制の時代はここ100年くらいしかないのである
世界の政治的形態は君主制である。中国でもそうである。

理念というとき主義である。なぜ主義が争いの焦点になるのか?
世界を見ればわかる,なぜ中国が共産主義でありイスラムがシスラム主義であり欧米が民主主義になっているかである。
冷戦というのが共産主義と民主主義と資本主義の対立から生まれた
主義,理念の相違が世界を二分したことでもわかる

宗教でもカトリックに対抗してプロテスタンが生まれプロテタントイズムが資本主義が生まれたというときやはりそこには主義の対立がある,そもそもフロテスタンとはプロテストであり反抗するから生まれた言葉だからである。
これでキリスト教世界が二分されたことでもわかる
その影響が大きいというとき欧米もカトリック系とプロテスタン系に二分されたからである。
そして南米はスペインとかホルトガルとかカトリック系が支配したら発展しないとかあるアメリカは南北があるとき北が工業化に成功したのはプロテスタン系であり資本主義がそこから発展したという分析がある。
だから主義というのが理念が社会に大きな影響を及ぼしているのである。

そして大事なことは世界を見るとき民主主義,資本主義の世界と共産主義とイスラム主義世界に分かれるていることである。
その特徴は

欧米型の民主主義,資本主義→政教分離

イスラム主義→政教一致
共産主義→政教一致

こういう傾向がある,共産主義がマルキシズムを基にしているときそれはイデオロギーと政治が一体化しているから宗教ともなり政教一致になる
政教分離から分けるということもありうるのである。

政教分離というけどヨーロッパではカトリックがローマ帝国で政治化して支配体制組み込まれた,その反発としてプロテスタンとが生まれやがて資本主義が生まれ民主主義が生まれた,
政教分離というとき政教一致の歴史の方がまた長いのである。
仏教でも政教一致で国を治めた時があった,アシャカ王とかがインドで仏教を基に国を治めた。だから仏教には政治的な思想もある
日蓮宗の王仏冥合(おうぶつみょうごう)とは王は政治だから仏教と一体化して治めることである。
創価はそういう主義で戦っている,そういう主義なのである。ブッデイズムとかなる
だから現代の政教分離を基にする民主主義とは合わないのである。
ただ選挙で合法的に政権奪取ができるのだから選挙で勝つことが仏法の勝利となるのである。

ただ世界をみると政教一致というのは危険な思想になる,政治の世界にもちこむと危険になる,天皇が神とされた大東亜戦争も日本が神国だという宗教になり大きな災禍をもたらした。共産主義でも一千万くらいが政教一致でイデオロギーを絶対化して死んだ

共産主義の一番の問題は何なのか?

政権交代ができないことである。イスラム国でもそうなりやすい,一党独裁になりやすいそもそも選挙がないとしたらそうなる,政権交代の仕組みがないのである。
もちろん君主制には君主制の良さがあり民主主義が必ずしもいいとはならない,民主主義の弱点は今だとポピリズム,劇場型とか大衆主義になる
ともかく頭数だけを集めることが優先されるからである。
大衆にむずかしいことを言ってもわからないからである。
そこに希望の党の小池都知事の問題がある。

ただ政権交代がない限り民主主義はありえないのである。政権交代がなかったら民主主義が死んでいる:それは君主制であり一党独裁であり共産主義と同じである。
それで阿部首相のお友達内閣とか自分勝手に権力者が権力をの濫用する
そして検察も警察も動かすことができて原発を反対するとなると公安とか警察がとりしまりできないように現実にしているのである。
検察と警察は時の権力者につくからである。

要するに政権交代がなければもう君主制なのである。政策の変換も何もできない。
そして権力をもつものがコネとか自分のいいようにできる
そのことが社会自体を腐敗させる,そして民主主義は死ぬのである。

いづれにしろ今回の選挙の争点はなにか?

それは原発問題があり政権交代の党を二大政党制を保守系でも作ることである。
そうしなければ民主主義は死ぬし君主制となり独裁と進むことになる
選挙でも政権交代があって民主主義になる,もしそれもないとしたらどうせ自民が勝つようになっているとしたら選挙しても無駄だとなる
民主党でこりたというのもある,でもやはり二大政党制を目指ささなければ民主主義そのものが死ぬ,そうすると選挙などしても無駄だとなる,選挙の意義がなくなるのである。そしたら日本はもうそうなっているとしたら民主主義をやめて君主制にした方がいいとなる,つまり日本には民主主義は向いていなかったともなる
お上があってそれに従っているのが向いていたとなる
現実に戦後70年で政権交代があったのは二回くらいしかないのだから実質は政権交代なき民主主義になっていたのである。
日本は何か内部からは変革できない社会体質なのかもしれない,不満があってもじっと耐えている,それはいい面と悪い面ともなる
やはえ江戸時代の300年の君主制が政治にかかわらないことが体質的にそうさせているのかともなる,そのことでは江戸時代はマイナス的に作用したともなる
戦後の民主主義にしてもアメリカからおしつけられた民主主義でありただ私的権利のみを主張するものとなった。

日本は何か同調圧力が強すぎる世界である。対立することを嫌うのである。それは村社会が長い間に歴史的に生きる場所でありそこに日本人の性格が作られたからだともなる
だから弁証法などわからないだろう。対立するものからアウフヘーベンしてゆく,止揚してゆく,小池首相が言っていたがそもそも対立を嫌うのだからそういう思想になじまないのである。
だから日本は上からの支持に従う君主制が向いているとなると政治体制まで変えねばならない,みんな選挙に無力感を感じているからである。
それは選挙では何も変わらないとかあきらめの気持ちになっているからである。
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2017年09月30日

選挙でどこに投票するのか? (実質一党独裁であり民主主義が機能していない)



選挙でどこに投票するのか?

(実質一党独裁であり民主主義が機能していない)

都議会に理念とかあまり関係ない。国政は理念が対立要素。

いつも無党派層は選挙でどこに投票していいかわからない,それはなぜなのか?
まとせな野党がいないからだ,共産党はいやだとか民進党はもう終わりだとか
現政権に対抗する政党がないのである。
そして野党同士で内ゲバであり分裂して自公政権に有利にしている
みんなそして政治なって何も変わらないよなとなって投票もしたくないとなっている
どうせ投票したって何にも変わらないという政治に対して無力感で一杯なのである。
若者は若者でこれだけ老人が多いのだから俺たちが投票しても変わらないとなり投票しない,すると固定票の公明党とが実際は投票率50パーセンとしかないのに数を確保できる

創価などは毎日二年前から選挙運動でありほぼ毎日が選挙運動のための活動なのである。それでも増えないのだから衰退して停滞するだけである。
選挙で勝てば仏法の勝利だから毎日拝んでF(フレンド票)とりに必死になっている
一票でもとれば数を確保すれば信心の勝利なのである。だからカルトなのである。
今は老人クラブのようになっているというのもわかる
時の権利をもつ側につくのが公明創価である。
こういうふうに公明党に頼る自民も情けないとなるが他に選択がないからもう一党独裁のようになっている

もう民主主義は対抗する勢力がなくなれば一党独裁になり阿部首相のようになんでもやり放題になる,自分は別に右でも左でもない,日本の文化とか伝統とか歴史は大事にするから右よりともなる,左翼になるとこれもネットで常に批判しいてる
中国と韓国のスパイの巣窟でありマスコミもそうでありNHKでもそうである。
マスコミはかたよりすぎているのである。だからネットではその反動として常に在日に支配されているとか中国の傀儡だとか批判のオンパレードになっているのだ

日本では民主主義は機能していない,民主主義とは何かというとき主義なのである。
それは主義だから思想運動なのである。ただそれが共産主義なとと違い明確なものがないでも三権分立とかの法整備があり権力を互いに制御するとか報道の自由とか国民や市民の自発性を育てる思想がある
制度としてはそうなのだが自発性となるとそれは国民が市民が自ら育てない限り自然とは生まれないのである。
だから民主主義は市民の自発性を育てる過程にある
それは国民が市民が目覚めて育てるのである。

では自分はどこに投票するのか?どこにも投票したくないのである。
ただ選ぶとすると政策的には原発ゼロ政策の「希望の党」などがいいとなる
そこに問題があるにしろ民主主義には政権交代が必要なのである。
権力は必ず腐敗するし対抗勢力がなければ一党独裁のようになる
そこではなんでもやりほうだいになる
昨日書いたけど原発では自民党と東電と警察まで一体となり事故にもなった
それを正すとがめるものもいなくなる
天下りもとがめるものもいなくなる
そこに警察権力の横暴も起きてくる,現実にそういうことがあり国民や市民はおびえる,それは時の政権によっても支持されてそうなっているからだ

自分は左ではないけど民主主義の推進にはどうしても対抗勢力が必要であり権力のパランスを計るのが民主主義なのである。民主主義とは権力をいかにして制御するかというものがあり生まれた,それが権力をもつもものが政権交代がなければ一方的になってしまうのである。誰も正すものがいない,すると天下りなどもとめることができない

細野豪志補佐官(当時-原発担当大臣)も追及していた

「警察から東電へ天下りしている元警察官が32人もいるのは多すぎないか。
しかも東電は栗本英雄顧問(元刑事)をはじめとして,彼らの職務内容を明らかにしていない,反原発運動の情報を警察から提供されたりそういう運動をおさえこもとして私兵として使ったりする見返りに業務と関係のない,元警察官を大量に雇用しているのではないか?」

こういう質問する議員すらいなくなる,するとどうなるのか?
原発はとめられずいつか日本自体がメルトダウンして滅びるとまである。
東日本が終わりだとフクシマの原発事故では騒がれていたからである。
民主主義が成り立たなくなり一党独裁になり原発はとめられず遂に日本は滅びる
なぜなら警察だって時の政権側の下僕となり検察でも時の政権側につくからこそ
東電の家宅捜査でも何もしないからである。
そして社長は天下りして何のとがめもないし幹部もないのである。
自公政権がそうさせているともなるからだ
もし政権が交代したら原発に関しては変わるかもしれない
ただ今度はアメリカの圧力を受けるからわからないにしても変わる希望はもてるのかとなる

民主主義にはともかく政権交代が必要であり小選挙区にしたのはそのためである。
一気に政権交代が起きる仕組みだからである。
希望の党とはなにかわからないにしてもそれでも政権交代を言っているのはそうしないともう民主主義は機能しなくなる,一党独裁であり全体主義であり次はファシズムであり戦争に突入とまでなる
前に藤原弘達が創価のファシズム的なものが自民の右などと合体して独裁になってゆくということを警告していた,創価はカルトだから日蓮主義は他でもそういう傾向がある。
だから戦争中も日蓮主義の思想がありナショナリズムと結びつきやすいのである。
日蓮の国粋主義と結びつきやすいのである。

そして公明党は聖教新聞系とかは原発の広告を一番か二番くらいにのせていたのである。それも広告費を東電からもらいたいためにそうしていただけである。
それは他のマスコミも全部そうだった,新聞社とかは維持するには金がかかりすぎるからそうなる,だから昨日も書いたように東電とか電力関係の会社は莫大な宣伝費をマスコミに出していたのである。たから実質の支配者はマスコミではなく宣伝費を払っている会社だったとなる

いづれにしろ右は原発推進である。「心に青雲」の都築詠一氏も右だから原発推進であり核武装はである。そして低い放射線量は体にいいとかフクシマは全体を維持するためには犠牲になるべきだとか言っていた,それには反発を感じたのである。
東京に原発を建てるべきだったというのが今では正論だったのである。
もちろんフクシマとか地方に問題がありそのことは書いてきた
ただ希望の党の「原発ゼロ」政策にはこの辺では賛成するだろう。
まず被害にあったものとないものの差は大きいからだ

ただ正直地元でも何が価値あるものかその価値が認識されていなかったのである。
金になればいいとかしかなかった,そして自分たちが生きる場すら奪われたのである。
だから地元でも反省すべきだが自公政権はもはや一党独裁と同じなのである。
民主主義が機能しなくなったときどうなるのか?
それはただ形だけでありもう崩壊しているのだからその思想を実現することは不可能だとなる,ただ名目としてあるだけであり何の働きもしていない,死んだともなる
そういう状態がやはりつづいたのである。
だから「希望の党」がそういう民主主義の危機でありそれを変えようとすることに期待する,民進党よりましであり保守でも政権交代できる二大政党を日本はめざすべきだとなる

都議会に理念とかあまり関係ない。国政は理念が対立要素

理念となるとわかりにくいけど理念は目標であり行動の基盤である,だから理念に主義に死ぬということもあ
それは利益を越えたものがありカルト宗教団体はその理念を間違ったものとして活動している
原発ゼロというとき相当な変革である。それは社会そのものも変える
原発をもたないことは核をもたないことにも通じている,それは平和の理念を核をもたないことで追及する理念になる,だから大きな争点となるのである。






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2017年09月15日

戦後70年で迫られる変革 (男女平等の弊害ー北朝鮮のミサイル-内憂外患)


  戦後70年で迫られる変革

(男女平等の弊害ー北朝鮮のミサイル-内憂外患)


●男女平等の弊害

結局戦後70年は大きな節目になった,明治維新から70年で太平洋戦争になり敗戦から70年でまた大きな変革が迫られる,70年後ごとに大きな変革が起きてくるのが歴史だった。
戦後70年の結果が今現れている,それはいい面と悪い面として必ず現れる
要するにこれもカルマなのである。

戦後は何でもアメリカに負けたのだからアメリカをいいものとして習い取り入れたのである。男女平等とか民主主義の自由だとか権利の主張とかいろいろそうである。
その結果として今がある。
男女平等というとき戦後は教育でも男女平等となり男女が席を同じくするようになった。男女共学になった,これもいいものかどうかわからない,結果的にかえって男性は男らしさがなくなり女性は女らしさがなくなったということもあった
そもそも男女の機能が違っているのだから男女平等というのは女性が男性と伍して働くことは女性にとっても苦しいものでありいいものではなかったのである。

男女平等というとき男性が結婚しないというときいろいろ理由があるにしろ女性の要求があまりにも大きくなりすきだことがある。
女性は男性にとって腫れ物にさわるようなものになりみんなめんどうだから嫌がっているだから結婚しない男性が増えるというとき女性はめんどうだからである。
そして家事も一人暮らしでも困らない社会になったとき余計に一人でいいともなる
そんなめんどうなもなら一人の方がいいとなる

昔だったら女性を召使のようにして使うというかそういう風潮があった,家事が女性の主な仕事であり中流階級でも女中を二人雇っていたのである。
そういうとき女性は男性にとって召使のように見ていたということもあった。
そうなると男性にとっては結婚は必定となる,結婚は今のように女性を特別扱いすることはないからである。それが問題があるにしろ戦後は何でもまた極端になったのである。

いづれにしろ男女共学にしても例えば痴漢でも一緒に電車に乗るから問題が起きる
男女別々の車両にすればいいというのもそのためである。
女性は腫れ物に触るように接していなければならないからだ
女性の要求が大きくなり強くなり男性は小さくなっていなければならない社会になると
男らしさもなくなるのは当然である。
そこにも社会の歪みが生れた,男は男らしくとか女性は女性らしくとかもくなる
だから女性にも異常な人格が増えてきているのかもしれない
女性でもちょっとでも不満があれば離婚するとかなる

結婚しないことで少子高齢化が国力を衰退させるというときそれはいすいろ理由があるにしろ女性の要求が大きすぎて男性はめんどうになる,それに答えられなくなる。
そして家事は自分でしても一人でできる,選択でも食事でもオカズを買えばいいし女性がいらないのである。そうなるとめんどうな女性をかかえることをあえてしないとなるのだ性欲は別な方で処理するとか生身の女性はとにかく男性にとってめんどうであり腫れ物に触るようなものとなっているのである。

● 北朝鮮のミサイルは国難

ともかく現代はあらゆるものが大きな曲がり角にきている,大変革が迫られている
戦後70年の結果が出ている,その弊害が顕著になっている
それはアメリカに負けた結果として日本の主体性が喪失してそうなったのである。
日本には日本独自の国造りがあって良かったのだが敗戦の結果としてアメリカ一辺倒になってしまったのである。
それは教育だけではない,あらゆる分野でそうなのである。
男女の在り方でもそうだし社会そのものの根本的な改革なしでもう日本は存続できない状態になっているのだ。

北朝鮮のミサイルにしても日本では何ら防ぎようがないという,要するに外交とか防衛でもアメリカ一辺倒の時代では成り立たない,何か今日本独自の外交が防衛でも必要だというときもそうである。日本が北朝鮮に働きかける立場にあるというときもそうである。
中国とロシアとアメリカの中で日本が独自の外交が要求されているがこれまではアメリカ一辺倒の外交しかない,だから変革が迫られているのである。

北朝鮮のミサイルにしても防ぎようがない,その国難にもなんら対処できないのである。それはただアメリカ一辺倒の外交しかしてこなかったからである。
そして津浪とか原発事故もやはり大きな変革を迫られる具体的な問題である。
それが自分の住んでいるところにふりかかった大問題である。
これもまた戦後の経済とか科学技術の結果としてカルマとして現れた問題なのである。
個人的にそうだが戦後70年のカルマの総決算みたいなことが起きているのだ。


日蓮の言うように

仁王経に云はく「国土乱れん時は先づ鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る。
賊来たりて国を劫かし、百姓亡喪し、臣・君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん。
天地怪異し、二十八宿・星道・日月時を失ひ度を失ひ、多く賊起こること有らん」と。

国土乱れるのは鬼神だとしている,賊とは国をおびやかすもの,北朝鮮とかである。

臣・君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん

これは上に立つもの政治家,官僚や経済界の指導者とか資本主義社会で暴利をむさぼるものとか格差社会になりそうしたものへの反発が大きくなり社会が乱れる
金持ちから盗んで当然だとかもなり金持ちも危険になる
天地怪異しとかはこの辺に起きた津浪とか地震とか原発事故だったのである。

国難が内部からも外部からも起きてくる,それに対処するにはどうしたらいいのかとなる日蓮だと法華経を信じろとなるが創価などは宗教と何の関係もない,利権とご利益を目指すだけのカルト団体である。
つまり国難の時日蓮系が出てくる,太平洋戦争でもそうだった,日蓮の思想が戦争の理論的なものとして利用されていたのである。
これをすべて現代にあてはめることはできないのである。
時代的に必ず同じようなことが起きるのは歴史もカルマの繰り返しだからそうなる
でも同じようでも時代によって違ったものだから日蓮の言っていることは現代にあてはまらないのである。

●右傾化するのは日本独自の道を見いだすため

ただ日蓮の国粋主義とか国学とか神道系が国家神道化したようにそういうことが起きてくる。つまり明治維新のようにそこに争いも起きてくる
現代は鬼神乱れる時なのことは確かである。
それは個人的にも経験したことを書いた,自分の家が介護状態になったとき狂気のような鬼神が現れたのである。弱者になったとき信じられない人が来た,泥棒がくる,借金した人がきて脅迫する,それは金に狂った人達だったともなる,それも現代の世相である。何かわからないがそれは本当に鬼が自分の家を荒し回ったのである。これせ自分のカルマだといえばそうだった
金のためにすべてが狂わされている,この辺は原発事故の補償金でもめて分断された
人間は金のために狂気化しているのである。

国が弱体化すると鬼神が乱れる

これは家でもそうであり国でも同じである。弱体化した国がどうっないるのか?
それは世界の大国からでも強国からでも内部からでも食い荒らされるのである。
鬼神が跋扈して乱れに乱れるのである。
弱者化することはそれだけ怖いことなのである。それは国にもあてはまるのである。
国が弱体化するというとき軍備力のことではない,国自体が内部から乱れることなのである。

だから明治維新の大改革,戦後焼け野原からの復興,そして今度は戦後70年で日本は大改革が迫られている,だからどうしても右寄りになるし右に同調する時代である。
アメリカ一辺倒時代から離れるには精神的にもそうなるからだ
日本はアメリカ一辺倒であり精神さえもそうなっていた
日本独自の道を進めなかったのである。だから日本独自の道を鼓舞するとき右寄りになる
日本精神を復古させることが維新になる,明治維新に the Meiji Restoration という「回復」と英訳されている,維新というのはすべてアメリカ流にすることではなかった
古来からある日本精神の復古の意味があった
だからそういう日本精神の復古とともにあらゆるものの改革が制度でも望まれているのである。それは戦後の焼け野原となった時代や明治維新の時と同じなのである。
もし日本が改革できなかったら衰退して三流国になり中国とか今度は他の国の隷属国家となる,そういう大変革が望まれている時代だとなる
ではそれを担うのは誰かとなると今の若い人だといときそれだけの気概とエネルギーがあるのかとなるとそうは見れない,そういう自覚もない,ただ本当にそういう危機が目に見えるとき北朝鮮からのミサイルが本当に落ちてきて多数の死者が出たりしたら目覚めるかもしれない,日本は本当に危機を体験しない限り目覚めないからである。

それでもなぜこれだけの原発事故の被害があったのに原発がとめられないのか?
それだけの危機を体験したのに日本国民は原発を止められないのか?
それはすでに原子力文明となっているからなのか?
つまり今の文明に核は兵器としても必要であり核なしでは国が成り立たないということがあるからやめられない,それは滅びに通じている
人類自体が核を捨てられない,そのことが人類滅亡になってゆく

男女平等の履き違いもやはりそれは単に男女の問題だけではない社会全体の問題として生れているのである。国家の問題としても生れているのである。
確かにだから国家としての存立こそ優先されるべきだという「心に青雲」の都築詠一氏のような思想傾向が強くなる,死んだけどやはりそういう人の思想の影響は大きくなる
それは戦後否定されてきたことである。国家とは悪いものだと敗戦の結果否定されてきたからである。それも北朝鮮から実際にミサイルが飛んでくるとなると見直さざるをえないのである。
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2017年09月04日

人間の歴史は公平と平等の追及 (人間には裁く力がないー核で国は守れない)


人間の歴史は公平と平等の追及

(人間には裁く力がないー核で国は守れない)


平等に権利を得た。公平に権利を与えた。

インターネットのキーワードの検索でこのことが出ていた
平等とは何か,男女の差があっても平等にしろとか能力の差があっても平等にしろとか
生れた出自で生まれつきの家がらに関係なく平等に扱いとか人種で差別するな平等にしろとか平等にしろというとききりなくある

平等の語源は仏教の教理そのものを象徴する語で,全ての衆生はみな均しく悟りに至る資格を備えている,

ヒンズー教ではカーストのよう差別があり釈迦はその差別を廃して衆生が仏の前に平等だとなる,悟ることができるとされる
宇治の平等院とか平等寺とか四国の遍路などにあるのもそのためである。
日本では平等という概念は仏教からはじまっていた,漢字化されたなかには仏教から入ったものが多いのである。
女性は汚れたもので成仏しないとか何か差別されていた,ただ仏教では女性も悟れる,仏の前では平等だとされた,仏教によって平等の権利を得たとなる

人間の歴史をたどれば平等と公平を求める歴史だともなる
そのための闘争だったともなる,フランス革命で貴族階級が倒されたのもそうであり
それは庶民からすると平等ではないとして庶民が反乱を起こしたからである。
人間は必ず何らかの格差が生れる,金持ちと貧乏人が生れる
それが平等でないとなる

でも平等を追及しすぎる個々の個性の差や能力の差や様々な差を認めない,悪平等になる何の能力もないのに努力もしないのに平等を求める
そのことが不平等になる,平等を求めすぎるとかえって公平でなくなる
それが現代では極端化して男女平等をもとめてかえって女性が苦しんでいるのである。
そもそも女性には男性に伍して働く能力がないのである。
それを平等にして働けとなれば女性が苦しむ,女性の能力は別なものに生来あるからだ
平等をあまりに追及してかえってそのために女性の能力を発揮できないとなっている

例えば四角,三角,丸,とかあるとしてみんな平等で同じだとするときただ一つとか二つとか数で数える,するとその形の個性は失われるのである。
平等というときこうして数字的に還元することが多い
どんな人でも一票の権利があるというときもそうである。一人が二票をもつことはできない,そうしたら不平等となるからである。
これも一見いいようでも悪いものともなる,老人が一票もつのも若い人が一票もつものもみんな一票だとなる,そこで老人が多いのだからシルバー民主主主義になり社会がゆがめられる,平等なようで不平等にもなっている弊害がある。

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公平というときはまた違った意味がある
スポーツだと何かルールを決めてしている,そのルールを守らないで勝つことは公平でないフェアではないとなる
例えば格闘技で体重制になったのは体重差があればフェアでとなるからである。
大きいものはどうしても小さいものに勝つ,柔道では大きなものを小さなものが倒すということがあったが確率的にはどうしても大きなものが有利になるから体重制にした

でも国際関係とかになると大きな国がアメリカのような国が小さな国をふみにじる,中国でもそうである。その差が大きすぎるから対等の戦いができないのである。
だから北朝鮮がまるで巨人のアメリカと対等に核で戦っている
核があるが故にかえってフェアになっている,アメリカだけが核を使い小国は使っていけないのかとなる,それはフェアではないとなるからだ
何でも大国の言いなりになる,力でそうなったら公平な世界はなくなる
神がシオンで裁くというとき公平に裁くということである。
世界規模になると裁くことは神しかできないからである。

平等には何か現代では問題が多いが公平は求められる,国だって貧乏な国が一挙に豊かな国になる権利があるというのも問題である。国でもやはりその国が成り立つ歴史があり
その長い歴史で形成されてきたからである。
家でもやはり富める家があるとしたらやはりその先祖が努力してきてその子孫が繁栄しているともなる,それを否定すると社会の調和は乱されるのである。

その大きな過ちの思想がマルクス主義にあった,資本家がすべて悪く階級が悪いとなり
暴力革命になり平等を追及したがそれが悪平等になったからである。
結局共産主義革命は大きな不平等を作り出した,ソビエト連邦でも中国でも共産党一党支配となり幹部が今度は貴族となったからである。
平等を求めて不平等になったのである。それはかえって公平でないとなった
公平を求めるのがいいのだけど平等を求めすぎると人間社会は混乱するのである。

「平等じゃない」「公平ではない」というのは違っている
北朝鮮が核をもってアメリカに対抗するのはアメリカが公平ではないからである。
アメリカだけ一国が莫大な核を保有しているのは公平ではない
小国でも核をもてば平等であり対等になるとなる
アメリカは強大な力があり公平に国に対処しない,力あるものが公平さを与える
ところが警察を見ればわかるように警察自体が職務質問でもなんであれ力がありすぎるから公平を与えない,そして逆らうこともできないのである。
そもそもアメリカが世界の警察だというとき警察とにているのである。
なんでも力で通すことができるとなるからだ

ただ「平等じやない」というとき弊害がありそれが共産主義のような過ちや民主主義でも弊害がある,「公平じゃない」というときは警察があっていいとしてもそこに公平が与えられないと不満になる,大きな権力をもつものに対して要求している
アメリカは世界の警察とされたとき公平でないから世界の反発を受けたのである。
力があってもそれだけですべてが通るわけではない,世界は力だけでは支配できないのである。
ただ国々を公平に治めることなどはできない,そこに世界の政治とかなる法律でも通用しないのである。それはまた神しかできないともなる
国と関係なくそもそも公平に人間は犯罪でも何でも裁く力がないからである。
そこに人間の限界があり

わたしの腕は国々の民をさばく。

シオンは裁きをとおして贖われ(イザヤ)

国々を裁くとなると神しかできないのである。そういう思想があるのは聖書だけである。だから世界史に神の裁きが現れるともなる
つまりあれだけ強大なアメリカでも中国でも力によって世界を思いのままにはできないのである。

そもそも本当に人間は国でも軍事力で守れるのかという疑問がある。
日本も核をもつべきだという主張が強い
でもアメリカがあれだけの莫大な核をもっているのに北朝鮮のような小国におびえているのとはなぜなのか?
それは核だけで軍事力だけで国は守れないからでないか?
聖書でもそう書いてある
かえって力ではなく公平を追及したものが神に守られるともなる
力だけで押し通すことは警察に反発が強いのは公平を与えない,力で押し通すことができるとなるからだ。それで警察に対する反発が大きいのである。
アメリカが力が強大だから反発も大きくなるのである。

馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く/騎兵の数がおびただしいことを頼りとし/イスラエルの聖なる方を仰がず/主を尋ね求めようとしない。 

戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し/彼らを倒して再び立つことを許さず/灯心のように消え去らせた方。 (イザヤ)

この馬とは今では軍事力である,飛行機であり戦艦であり戦車でありありとあらゆる兵器である。そして核である。
しかしそれで国が守れるのだろうか,9条を唱えて守れるのかというのもある
神が守ってくれのかという疑問もある。
でも実際にアメリカは馬を莫大な兵器を核をもっていても北朝鮮のような小国におびえているのはなぜなのか?馬では核では守れないからではないか?
アメリカは公平ではないとうことで実際は世界から責められる
そのことこそがアメリカが世界を敵にまわして恐怖におとしいれられている
それが北朝鮮のような小国におびえる原因ではないか?
馬があれば兵器があれば国が安全だとか守れるとは限らないのである。
そこに何か世界史でも神の力が働いているのかとなる

最近日本の戦争が見直される,武田邦彦氏などの歴史観だと日本はアメリカに対して正義でもって戦いその犠牲になったのだという,ところがアジアでは中国でも朝鮮半島でも
そういう歴史観はない,日本は侵略国なのである。
それはアメリカの歴史観と共有しているのである。
なぜならその侵略者たる日本を成敗したのがアメリカなのだからアメリカは救世主みたいなものになっているのだ。
一方で矛盾しているのは北朝鮮である。北朝鮮とかつての日本は同じなのである。
鬼畜米英としていた日本と同じなのである。
もし北朝鮮がアメリカに殲滅されれば日本と同じ結果になるのである。

北朝鮮の問題はこうして何か過去の戦争の歴史とかアジアの歴史とかアメリカと日本の戦争とかとかかわっている,アメリカと北朝鮮だけの問題ではないのである。
日本の戦争がその犠牲が何であったのかとか北朝鮮によって問われているのである。
もし今度は中国でもアメリカと対立すれば同じようになる
日本が見直され共同の歴史観をもつことになる,アメリカと戦うアジアの同盟国として
歴史観を共有することになるのである。
それが中国と朝鮮半島にはないのである。

つまりアメリカの属国化から解放されても次は中国の属国化の道しかないのである。
それはでにチベットとかウイスラム教徒のウィグル族とかの弾圧になっているから
日本も同じ運命にされる
あくまでも中国中心の中華帝国の再興でありそれが中国の歴史観であり日本はそれに隷属するだけだとなる,それはアメリカに隷属されたと同じなのである。
アジアは共通の歴史観を共有できないのである。
日本は中国に戦争のことで謝罪すべきだとしかないからである。

日本がアメリカに戦争で勝っていたらそうしたアジアの共有の世界観歴史を作っていかもしれない,それがアメリカによって壊滅させられたのである。
次に台頭するのは中国の中華帝国の世界観の歴史である。
だから靖国に礼拝する日本人を中国は絶対に許さないしかえってアメリカと歴史観を共有しているのである。
北朝鮮はアメリカと対抗している国である。そしたらかつての日本と同じでありそれは奇妙だけど北朝鮮は日本を韓国と同じように敵対しているけど共通の歴史観を世界観をもつことになるのである。
北朝鮮問題は過去の歴史を写す鏡でありアジアの焦点としてある国である。
それはアジア全体の問題なのである。
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アメリカでも中国でも強いから何でもできる (そこに正義もなにもない,力の論理があるだけ)


アメリカでも中国でも強いから何でもできる

(そこに正義もなにもない,力の論理があるだけ)

力があるものは力のないものに無理難題を言っていい
なぜ日本を脅迫したのか日本が強いから
中国は南沙諸島を支配するのか,強いからできる
弱いものはそれで怒り戦争になった

力があるものが力のないものを勝手にやっつけてはいけない
力のないものは誇りをもって戦ったのが日本

武田邦彦

世界史的にみれば強いものが勝ち強いものが歴史を作る,それは日本でも世界でも同じである。
そして強いものは正義を主張したとしても強い者の正義でありその力によって強い者が正義とされるだけである。力の論理でそうなっているだけなのである。
正義とかはもともとそういうものではない,公平なこととか何か別な基準である。
それで法律が生れた,でも国際法になるとそうした国内で成立する法律は通用しないのである。
ただ力のあるものが正義になってしまう。
それはアメリカだけではない,中国が南沙諸島が中国のものだといえば中国のものになるそれは何かの基準でそうなっているのではない,強いから強いものがこれは俺のものだといえばそうなってしまうのである。
国内法だったらある程度はいくら強くても勝手にできないものがある。
国際政治ではそういうものが通用しないのである。

アメリカは世界で一番強い国だからアメリカの言い分が正義になる
あの国が気にくわなからやっつけてやろうとなるだけで戦争をしかけて国をつぶすこともできる
それは強大な力をもっているからそうなるのである。
それは警察の権力とにているのだ,警察も一番権力をもっている,だから理不尽なのことでも通りやすい,例えは警察が不法侵入していても罰せられなかった
それでボランティアで街の防犯係をしている人がその警官に逆に職務質問したのである。警察は悪いことをしても隠されることが多いのである。
警察の上に公安委員会があるとしもやはり警察と一体なのだから警察権力で仲間なのである。
だから警察に対抗することはできない,それで行政も警察に脅迫されていたのである。

そしてこうして国家権力が介入してくると小さな田舎の町などの平和が乱されることを駅の自分の職務質問のことで書いた,ただあやしいというだけで職務質問にきて自分のことを説明してもあやしいと通報があればまた来る,自分のことを説明しないというのであるこういうことは警察には非常に多いのである。
それはなぜなのかというと警察が権力をもっているから強いからだとなるのだ
強いものが正義だとなる,いくら法律を楯にしても警察権力と戦うことは簡単にできないのである。強いものが正義だとなるからだ

これは国際政治ではただ強いものが正義であり弱いものは何もできないとなる
アメリカは世界に力があるから介入して世界の平和を乱したのである。イラクなど別に攻撃する理由もなかったけど難癖をつけて攻撃したのである。そしてその周辺の平和を乱したのである。シリアの紛争がそうである。
それはアメリカのイラク攻撃に由来しているのである。

ただアメリカでも中国でもロシアでも強いものが何でも通るとなるのか?
そうはならない,アメリカが一番強いとしてもその力も衰える
すると世界から反撃されてくる,いくら核兵器を北朝鮮の千倍ももっていても
北朝鮮を恐れている,そして世界からのテロにも恐れる
アメリカが世界から反撃ささればとても自国も守れなくなるのである。

国内でもそうだが人間社会は権力だけで力だけでは治めらない,もしそうしたとしても反発が大きくなる,警察でも横暴なことばかりしていたら住民から信頼を失いその権力も剥奪される
自分が経験したように田舎だとなるべく争わないようにするのがいいのであり警察が介入するとかえって平和が乱されるのである。
アメリカは世界に力でも介入しすぎたのである。
力で何でもできる,通るとして介入した結果がかえって平和が乱されたのである。

アジアのことはアジアで解決しろとなっていたらアメリカが介入しなかったら別な解決方法が生れていたかもしれない,それがアメリカが介入したことによって多大の犠牲が生れアジア自体の平和が乱されたのである。
この世は力あるものが必ずしも勝つとは限らない,それは聖書でしつこく言っていることである。聖書では弱いものが神の力で勝つ物語でもあったからである

それが今アメリカの力が衰えるときアメリカが世界から反撃に恐怖となっているのだ。
日本に原爆を落としたこともカルマとなり北朝鮮のような小国におびえている
アメリカは意外と弱いなと見てしまうのである。
そこに中国の台頭もあるがアメリカは世界からの反撃をくらっているのかもしれない
相当に世界で理不尽なことをした報いを受けつつあるのかもしれない
だからアメリカは世界から後退して自国にとじこもり移民も受け入れない
白人優位主義を唱えて昔のエスタブリッシュメントに帰り保守化してゆく
それはアメリカの国力の衰退につながってゆく,アメリカの活力がなくなってくるのである。
アメリカはすでに国内でも人種問題などで衰退国家になってゆく
そして世界からの反撃に核の攻撃に恐れとじこむるだけだとなる
それは日本にも大きな影響がある,もうアメリカは頼りにならないというときどうするのかということが具体的につきつけられるからである。
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2017年09月03日

北朝鮮におびえるアメリカ (原爆落としたカルマなのか?)


北朝鮮におびえるアメリカ

(原爆落としたカルマなのか?)


このままほっとけば米は世界覇権を失うよ 北は世界中に核ICBMをばら撒くからね
世界の津々浦々から米は核攻撃される危険を抱え込み負け犬として引き籠ることになる


なぜアメリカが北朝鮮のような国におびえているのだろうか?
それはやはり日本に原爆を落としたことがカルマとなっていなか?
あれだけのことをしたアメリカが核に恐れているのはやはりカルマなのか?

人間はカルマから逃れられない,カルマはどこかからめぐりめぐって回ってくる
つまり日本で報復しなくても別な国が報復したりする
殺人を犯したら必ずしも殺された本人の家族とかに報復されるとは限らない
回り回って関係ない人から報復される
そう。そいうことがカルマの法則にはある

アメリカが北朝鮮を恐れているではないだろう,その背後に中露がいるからだともなる
でもアメリカが日本に原爆を落としたカルマが消えるとは思えないのである。
だからこそ北朝鮮の核に恐れている,あんなに離れていても恐れている
アメリカは核におびえる,恐れるカルマを日本に原爆を落としたことでもつようなったのだ,それは逃れられない重いカルマなのである。

そんなのんきなことを日本で言えるのか?それもそうである。
日本に核のミサイルがぶちこまれたらどうするのだとなるのもわかる
でも別に日本は朝鮮に原爆は落としていない
日本はアメリカに原爆を落とされてもアメリカと安保条約結ばれているから同盟国である日本が核攻撃されたらアメリカが北朝鮮を攻撃する

でもアメリカが一番核を恐れてはいないか?その恐れは日本に原爆を落としたことによるのである。
自分たちが日本に原爆を落としたようにそのカルマがアメリカに向かうことを恐れる
それも因果応報ではないか?
それだけの重いカルマをアメリカは持ったのである。

そして世界中から核の脅威を受ける,核をもたせないようにしてもできなくなる
とてもアメリカだけで支配できなくなる
そしてアメリカ本土にとじこもるようになるのかもしれない

ただその時日本はまた窮地にたたされるがたろう。
ロシアが北海道に侵略して中国が沖縄から侵略してくる
日本はそして分断される脅威にさらされる
今度は日本はそれに耐えられるのか?
今日本にそんな力があるのかといったらない
日本はとても戦争などできない国になっているのである。

そしたら日本が守られるのか?アメリカが守ってくれないからだ
日本がその時窮地にたたされることは間違いない
今度は中国やロシアの属国化してゆく
そうして国は分断される脅威にさらされる
それはシリアとかではそうなったからだ
大国のせめぎ合いで難民化したからである。

アメリカは北朝鮮とは戦争しない,むしろアジアからは手を引いて自国にひきこもるのではないか?それだけの国力もなくなっている
そして核におびえ原爆を落としたカルマにおびえるのである。
核の呪いがアメリカにふりかかっているのである。
それから白人優位主義は傲慢でありアメリカ国内でも争乱となり二分される
白人優位主義は神によって砕かれるのである。
人間はみんな平等だというとき神の霊は黒人にもアジア人にも日本人にも下っているからである。
何を根拠として白人優位主義があるのかわからない,知的能力なのだうか?
それも別に白人だけが優位になるのではない,すると何を根拠にしているのかわからないのである。
色が白いだけでどうして他の人種より優位にたてるのか?それも合理的に考えればわかるはずだが
なぜそんなことに固執しているのかわからないのである。
それは傲慢なる故にかえって神の罰が下るとなる,文明は東西文明があり東が栄え西が栄え東が栄えと長期的歴史をみればそうなっている,だから今は西が衰えて東がまた栄えるようになる
その西が白人優位主義でもそれも東がまた栄えればいくら肌が白いからなどという白人優位主義は世界で通用しなくなる

いづれにしろ人間は個々人でもそうだが国単位でもカルマから逃れることができないのである。
日本が原爆を落とされた唯一の国である。それは何を意味しているのか?
また日本に原爆が落とされるのか?それはありえないのではないか?
人類を代表して核の被害者となった国だからである。
カルマとしてはアメリカが核攻撃されないにしろその恐怖におびえる
そういう宿命,カルマを日本に原爆を落としたことで背負っているのではないか?

要するにあんな小国でも核をもつと大国に見えるから不思議である。
核をもつと国の力はまるで対等になる,その他だったら経済力でも軍事力でも何でも格段の差があるからだ
ただ核をもつことによって巨人なるアメリカに小人の北朝鮮が対等に戦っている
それが結局原爆を日本に落とした呪いではないか?カルマではないか?
ただ北朝鮮の火遊びも危険である。核のミサイルに酔っているがそれが命取りになる
核をふりまわすことは北朝鮮でもどこでも危険なことになるのだ
それが呪いとなってゆく

剣をもつものは剣で滅びる,核をもつものは核で滅びる

ただ人類は核戦争になったら人類そのものが滅びる,だから核は人類への呪いでもあった原子力発電もいいものと思っていたが呪いだった,この辺では住めなくなったからである核そのものが人類の呪いでありそんな危険なものを作り出したことが人類を滅亡させるものとなる
posted by 老鶯 at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2017年08月28日

「心に青雲」の都築氏が死亡?


「心に青雲」の都築氏が死亡?


コメントした人あったけどこれフィクニュースじゅないだろうな
検索で心の青雲でてこない?
リンクしたものもでてこない,死亡した時点でプログは消されるのか?
何か彼は残すものがあったのか?
今記録が消されたとすると読むことができないのか?

透析していたけどずいぶん病気にしては強きの発言をしていた
透析している人がいるけど「あの人は顔が黒くなると死ぬんだ」と言う人がいた
別に畑で仕事しているからんなふうには見えない

透析していると長くは生きないということはそうなのかもしれない,
極端な右寄りだけど空手をしていたし筋が通っていた
病気なのにあれだけ強きの発言することは驚きだった
なぜなら自分も病気しているからどうしても弱きになるからだ
最近書き込みがないのでどうしたのだろうとは思っていた

あの人には文章からジャングルに生き残った小野田少尉のように感じていた
相当に筋が通っていた,要するに人間は何か筋を通す必要がある
右左関係なく筋を通せば人生でもその人の生は評価できる
日本があれだけアメリカと戦ったのに負けてから全員簡単に転向したことが
異常なのである。変わり身が早いからいいというのもあるが300百万人も死んだ
人達は浮かばれないとなる
一体自分たちは何のために戦ったのかとあの世で思っているかもしれないからだ

天皇をあれだけ批判していたのもわかりにくくかった
右の人は天皇はあんなに批判しないからだ
その点は正直だったのかもしれない,天皇を批判したら右ではないからだ

死亡したのだから検討してみたいがログがないとなるとしにくい
死んだらインターネットの記録は消えてしまうのか?
インターネットは簡単に消されることが問題なのである。
本だったら残るから死んでも誰かまた読んでくれる人がいるかもしれないからだ
それで自分は本にしようとしている,ただ本にすることは今は簡単だがめんどうでもある本とネットの発言は書き込みは違う,ネットは日々思ったことを書ける
本となると一貫したものしとてまとめる編集する必要があるだ

同じ団塊の世代であり共感することと反発することもあった
しかし本当に死んだとすると驚きである。
死ぬ前に遺言のようにして書いたのがプログだったとなるからだ
誰かがログをとっていたら公開すれば読めるかもしれない,
自分のもログをとっていてくれればあとで読めることはある
自分でも何か死というのが身近なのである。

ともかくご冥福をお祈りします

今自分のことで忙しいので何かまた追悼文でも書くことがあるかもしれません


posted by 老鶯 at 10:39| Comment(3) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2017年08月19日

戦意を喪失させられた日本人 (原爆のショックは永遠に消えない)



戦意を喪失させられた日本人


(原爆のショックは永遠に消えない)


NHKの放送で「なぜ日本は焼き尽くされたのか〜米空軍幹部が語った“真相”」を見た
アメリカ軍がB29で日本を焼け野原にしたのは日本が戦争をやめさせるため,市民までまきこんで爆撃した,市民に戦意を喪失させるためにやったという
その目的はあまりにも見事に想像した以上に効果を発してアメリカでも驚いたという
原爆を落としたのも日本に戦争をやめさせるためだったと常にいう
理屈あとでどうでも言えるのである。

こうした焼け野原された日本人はその後どうなったのか?その惨状を見たときどうなったのか?

まさに言葉を失った

言葉に現せないものとしてこの世の地獄を見たのである。爆撃して焼かれた人が子供でも写されていた,それは地獄の光景だった,戦争は非道でありイスラム国だけが非道ではない,過去の戦争でもそれ以上のことが行われていたのである。
戦争というは人間の悪を最大限にひきだすものとしてある。
日本のことを非道というがアメリカの非道も信じられないとなる
それはあまり赤裸々に報道されないからわからないだけなのである。
インターネットを調べればその悪逆非道に戦慄を覚えるだろう。
そんなことがあったのかとういことである。人間の悪逆の限りが尽くされたとなるのが戦争だった
アメリカ人の悪逆非道の方が日本兵の非道よりどうしても勝っている
その悪逆非道を知ったら身の毛のよだつようなことが現実にあったということに戦慄を覚える

ピカートもナチスについて言っていたが

まさに言葉を失った

それが第二次世界大戦の結果だったのである。アメリカが正義でもなんでもない,ただ戦争の勝利者になったというだけである。
それも膨大な人命の犠牲の上に勝利者になったのである。

結局日本は戦争に負けてどうなったのか?

今でも戦意を喪失してしまった

そのあまりの悲惨さに戦争というのは口にしたくないとまでなった
だからウヨが戦争を鼓舞しても日本人は別に9条を守れば国が守れるという左翼も極端だがそもそも日本人は原爆であれなんであれ日本は戦争をする戦意を今でも喪失しているのである。
もちろん戦争をじかに経験していないものがそう言っても説得力がないことはわかる
でも戦争の悲惨さは映像でも残っている

それは津浪とかともにている,あの悲惨な状態の前に自然の大きな力の前に言葉を失ったただ茫然としているというだけだったのと同じである。
あれだけ大きな力を示されるともう何も言えなくなる,ただ自然の力に驚嘆するだけだとなる,それと同じようなことが戦争で起きていたのである。

日本はアジアから中国とか韓国から戦争のことでバッシングされるけどそもそも日本はその報いを敗戦の焼け野原で受けているのである。
なぜそれだけのことが成されたのにさらに日本をバッシングするのか?
それは「水に落ちた犬は打て」になる,弱者になるとかえってその弱さにつけこまれて個人的にひどいめにあったことを書いてきた
それは国家間でも同じなのである。

韓国や北朝鮮は常に不満をもっている,強いものにたかれつづけられた国である。
だからこそその腹いせを日本人に向けているのである。
日本人は確かに今戦わなければ国も守れないと危機意識をもつ
でも戦争で戦意を喪失してまった,悪くとれば戦争する気力がない,意気地がないともなった,それで非戦国家になり9条だけに頼る弱い国家でいいのかとなる

でもあれだけの戦争の悲惨さを見たらとにかく戦争はしたくないと別に経験しなくてもなる,自力で国を守らねば侵略されるというのもわかる
でもその戦意が喪失させられている,それは戦争が終わっても継続しているのである。
それだけ戦争の影響は大きかったのである。
日本全土が焦土となった記憶は簡単には消えないのである。

ではアメリカの戦争犯罪はこれからどう罰せられるのだろうか?
それだけのことをしたアメリカはやはり良心に怯えている
戦争を終わらせるためだったという理屈はただ理屈である。
その良心からその悪が消えることはないのである。

その報いはやはりカルマとなってアメリカに向かってくるかもしれない,なぜ今北朝鮮がアメリカに狙いを定めて核弾頭のミサイルを打ち込もうとしているのか?
それは日本もまきこむのだがやはり原爆を使用した日本を実験場としたカルマであり
核に怯えているである。
核爆弾を使ったものはまた核爆弾が落とされるという恐怖におののくことになる

国内的に人種差別でもめているようにアメリカ自体が分裂するかもしれない
人種差別が日本人に対してもあったがアメリカは白人主義だけではもう成り立たない国である。人種差別したら第一国内で統一できない,それだけ白人ではない人達が増えすぎたのである。

ともかく戦争は人間を非道にする,もう歯止めがきかない,ルールもなにもなくる
人間の悪の限りが戦争で噴出する,それが第二次世界大戦の結果だったのてある。
だから日本はその戦争を身をもって経験した唯一の国なのである。

日本人はもうどうしても戦争ができない

戦意が喪失した

それがいい悪いと関係なく戦争に負けた結果として日本人にもたらされたのである。
要するにアメリカも全土が焦土になれば戦意を喪失する
そういうことが核戦争ではなりうる,なぜ北朝鮮のような弱小国にアメリカがおびえなければならないのか?
それは核がそうさせているのである。核はアメリカでも怖いのである。
日本を空襲するとき飛行機を爆撃する体制が日本にはなかった
だから空襲も容易と見たというときもそうである。
やはりアメリカも核は怖いから簡単に攻撃できないのである。
そして核の呪いがカルマがアメリカに回ってくるかもしれない,それをしているのが北朝鮮なのかもしれない,それはアメリカだけではない,日本も恐怖である
ただ一番恐れているのはアメリカだとなっているのである。
posted by 老鶯 at 05:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2017年08月17日

建築現場で人手不足-死者が出る (オリンピックをやる今意義あるのか?)


建築現場で人手不足-死者が出る

(オリンピックをやる今意義あるのか?)


大手ゼネコン「大成建設」の工事現場でまた死亡者が出た。 
20年東京五輪のメーンスタジアム「新国立競技場」の建設現場で、23歳男性が過労自殺したばかりだが、また現場の過酷さを象徴するような事故が起きた。 

土木屋 塗装 やらはスジモンとまでは行かないが、近いのが多いね 
基本的に誰でもできるような職種に多い 
機械工 電機工は技術持ってるから、比較的きちんとした人が多い

建物は残るから悲しみがずっと続く 
浜松のアクトタワーで死んだ電気屋さんは知り合いだった 
浜岡のゴルフ場で資金が尽きて自殺した型枠大工の親方は友人の父親だった 
あそうだ日航機が墜落したその日だった 
この二つの建物は見るたび怒りが込み上げてくる


城を建てるとき人柱伝説がうまれのもわかる,誰かが建設工事で死ぬからそうなる
誰かが人柱になるからその伝説も生れる
そのことは現代に継続している,建築現場にこの辺で除染でも暴力団が入ってきて
治安が悪くなった,郵便局に入れ墨丸出しの若い男がきていた。

ではなぜそうして暴力団がかかわるのか?
つまり最低辺層の人達がまた前科者とかでも何でもかんでも労働者にするからである。
そういう人達は仕事を選ぶ余裕がない,明日食べものがないとなればどんなことでする
原発作業員にもなんでもなる,人間は追い詰められたらなんでもする

借金のカタに遊女にされたりパチンコ屋で働くとかとにかくもうそこに労働のモラルはない,金になり今日食べれればいいだけになる
建築現場は誰でも引き受ける,最低辺層の人達が集まる場所なのだ
事業に失敗した人なども集まってくる
それはそれなりに働く場所を与えて社会の役にたたせている面もある
アメリカの大企業が受刑者を低賃金で働かせているのとにている

ここに人間のブラックなものがあからさまに現れる,そもそも個々人の家建てるとしたらそれには意味がある,でもオリンピンクのために働くというときそこで働き死んだ者はオリンピックは日本で必要なものであり俺たちもオリンピックに貢献するのだ
日本のためになるんだとか考える人はいないだろう。
そもそもそういう人達は金をもらえればいいとしかならない

奴隷労働にされるのは借金のときがわかりやすい,もう遊女にもされるし何でも金のために働く奴隷にされる,そこに働く意義など微塵もないのである。
そういうことは普通にある,でも道路でも鉄道でも建物でもそれなりに社会インフラの整備のために働いたとはなる,そういう意識をもたなくても結果的になることはある

でもオリンピックは国民にしても今必要なのかどうか深い議論もせず行うことになった
前の東京オリンピックには国民的同意と意義があった,日本が戦後の焼け野原から経済成長した証として行われたからである。
そこに国民的同意があったのだ,今回はそれもないのに勝手に政府主導で行われるから問題が起きる

死んでまで犠牲者をだしてオリンピックをやる意義があるのか?

そういう疑問が国民の間に根づよくあるのだ。それはこの辺で行われた除染でもそうだった,飯館村で一軒の家を除染するのに一億円かかったという,それなら一億円もらった方がいいと村の人が主張したのもわかる,なぜなら後ろ森だから除染しても一時的なものであり効果がないからである。
除染費用の莫大な金は大成建設とかその他大手ゼネコンに流れたのである。
大成建設の社員は放射線量を計るモニターの下の土をとっていたのである。
だから放射線量は半分になっているが実際は倍以上なのである。

大成建設は創価と深く結びついた会社である。それは正本堂を富士山の麓に建てたときそうなった,大きな仕事を請け負ったからそうなった,利害関係で結びついたからである。宗教的建造物というとき信者がその建設にたずさわるなら死んでも信心であり成仏したとかされる,ピラミッドは宗教的建造物であるという見方がでている
王の墓ではない,宗教としての建造物ならそこで死んでもそれなりに意義があったとなるなぜならあれだけのものを建てるとしたらやはり死者が相当数でているからである。

働くということを追及するとただ金だけではない,その意義を認めて働いている人はまれだろう。まずは金が価値となり金をどれだけもらうかだとなる
でも労働で人か死ぬときそれまでして働く意義があったのか?
そんなにしてまでオリンピックには意義があるのかと疑問になる
オリンピックは血にぬられたものであり人柱の上に成り立っている
それほどに今オリンピックが日本人の総意として求められているのか?

まだ東北大震災の復興もできていないのになぜオリンピックに金を使うのかということに対して国民は合意していないのである。
ゼネコンと電通とかのためにするのかともされるのはそのためである。
そして死の犠牲までありそんなことをしてまでオリンピックををやる意義があるのかとなる

建物は残るから悲しみがずっと続く 
浜松のアクトタワーで死んだ電気屋さんは知り合いだった 
浜岡のゴルフ場で資金が尽きて自殺した型枠大工の親方は友人の父親だった 
この二つの建物は見るたび怒りが込み上げてくる

これは現場で働くものの率直な感情である。ただ電気屋でも建築現場は常に危険だから事故が起こりやすい,事故はさけられないことは確かである。
でもオリンピックとなると規模が大きいしその犠牲も大きくなるから問題なのである。
建築は戦争ともにている,道路を作ったり橋をかけたりと建築なのである。
ローマ帝国が道をはりめぐらし橋をつくり建築で大帝国を築いたことでもわかる
建築技術に優れていたから大帝国を築くことができたのである。

このことはオリンピックの熱狂があっても何か後ろ暗いものとして冷たいものとして見る今回のオリンピックはそれだけの意義がないからである。
そんな無駄なことのために労力が人命が費やされたことをどうみるのか?
この人のように怒りがこみあげてくるとなるのではないか?
posted by 老鶯 at 22:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2017年08月15日

日本だけが戦争で悪者にされるのか? (戦争は喧嘩両成敗にするべき)


日本だけが戦争で悪者にされるのか?

(戦争は喧嘩両成敗にするべき)


戦争とは何かというとき戦争は対外的に起こり国を意識する,敵が存在して国家を意識する,それは国内でも同じである。常に回りが敵であり戦国時代になった
相馬藩だと常に伊達藩を意識して軍事訓練していた,それが野馬追い祭りとなっていった日本全体で見ると

百済の援軍として戦ったのは、唐−新羅連合軍です。飛鳥時代だと思います。
白村江の戦いが最初の外国との戦いである。

戦争がなければ日本でも日本という国家を意識しない,それが証明しているのは鎖国となった江戸時代である。対外的に関係を閉ざしたから外国を意識しないのである。
だから日本人だという意識もない,敵も存在しないから300年間平和だった
こういうことは世界史ではまれであり島国だったからできたとなる

そして明治維新になり外国を過度に意識させられるようになった,すでに太平洋戦争の種はこの時まかれていたのである。
吉田松陰はアジアを侵略せよと公言していたからである。
そういう過激な思想がどうして生れたのか?
それが過度に今度は鎖国状態から外国を意識させられるようになったからである。

その意識した外国とは欧米列強だった,その時アジアは中国をはじめ植民地にされていたからその恐怖感があり戦争をはじめた,それが最初はアメリカではなくイギリスだったのてある。その時イギリスが七つの海を支配していたからである。

アジアの拠点がシンガポールであり自分の姉はそこで4年間従軍看護婦として勤めた。
実際はシンガポールの向かい側のジョホールバルでありマレー戦争だった
その赤十字病院だった,つまりイギリスとの戦いでイギリスを追い出してその病院を使っていたのである。それはアジアの国が欧米列強に勝ったということで快挙だったのであるただその後はアメリカが参戦して形勢がたちまち悪化して敗戦になった

日本の明治維新はまず日本がアジアの中国でも植民地にならないために独立した国だったその時日本人は強烈に国家を意識するようになり西南戦争で武士の集団との戦いで形成された国民軍が平民の軍隊が国民の軍隊が勝った,これによって日本軍が形成されたのである。

日本は江戸時代の鎖国から明治維新になり過度に外国を意識させられるようになった
アジアが植民地化されたことの恐怖から明治維新が起こり日本はアジアに先駆けて欧米列強と戦うことになったのである。
だからすでに欧米列強によって明治維新のときから戦争がしかけられていたともなる
しかし日本だけは植民地にできなかったのである。

戦争のきっかけがアジアの植民地解放戦争だったということも一理ある
中国と戦争になったのも中国が欧米列強側に立っていからそうなった
中国は欧米列強の植民地だったからである。
だから日本が中国戦争したときなぜ独立できたのか?
日本が欧米列強と戦ったから中国人が植民地にされていた隷属を破り共産党により独立国家を形成できたとなる,日本が欧米列強と戦争しなかったら中国は独立国家になれなかったともなる

つまり欧米列強とアジアの関係で見るとき日本の戦争がだけが悪だったのか?
なぜ日本だけが悪者にされるのか?中国からも韓国からもアジアからも悪者にされるのか?それは日本がアメリカに敗れたからそうなっているだけなのである。
日本だって国内戦争だったら勝った方が負けた方を悪者にするからである。

世界史でも同じなのである。そこに善悪は通用しないのである。だから日本だけが悪者にされるは負けたからだとなる
善悪を言うなら欧米列強が善なのかとなればそうではない,つまり欧米列強がアジアに進出しなければ第二次世界大戦はなかったからである。
西部劇でインディアンか常に悪者にされていたように日本も悪者にされていたのである。
そしてアジアでも中国や韓国が日本が悪いから謝罪せよというとき戦争で負けたからである。日本が悪いわけでなくても謝罪を要求される
謝罪させることによって上位に立つ,日本の謝る姿を見て優越感にひたる
そして韓国になると永遠に謝罪せよとなり日本を下位にする
しかしアメリカに対しては中国やロシアに対してはそういうことにはならない
日本に対しては下位の国家として謝罪を請求するのである。

そしてNHKの放送は中国や韓国の意向に沿ったものとして常に編集報道しているのであるそれで右側からNHKでも朝日新聞でも左翼系は中国とか韓国(在日)の工作員が入り込んで操作しているとなる
そういうことはネットで盛んに言われるようになったのである。
そう言えばNHKは常に戦争を起こした日本人が悪いとして戦争を否定している
日本人は謝罪すべきだとして報道している,それは中国韓国側の圧力の結果だともなる
だからNHKを見ていると知らず洗脳されるのである。
日本人は悪いのだな謝罪すべきなのだなと番組を見ていると自ずとそうなってしまうのである。そしてNHKは良心的な公平な放送局のように国民には見られているから余計にそうなる,テレビは事実を伝えるものではない,放送局の意向でもって編集して伝えているのである。だからテレビを見ていると意識しなくても洗脳されるのである。

確かに人体実験したとかはひどいとなる,でもそれだけを取り上げ日本人は悪いとされるのも問題なのである。そもそも戦争は非道であり戦争そのものがそういう悪を産み出すのである。現実になぜアメリカが原爆を日本に落としたのか?
戦争自体が非道だから人間的なものをはみだして残酷非道になる
戦争は日本だけが悪いとはいえない,戦争そのものが悪いのである。
どの国が悪いとはならない,アメリカも悪いのである。
日本だけが特別悪いものとして糾弾しつづけられるのはおかしいのである。

いづれにしろ国家間の戦争とかなると争いとなると公平に裁く者はいない,勝ったもの強いものが正義となってしまうのである。
だから常に日本人が悪者とされて謝罪を要求され下位に置かれる
アメリカや中国でもロシアならそうはならない,日本だけがそうさせられているのは国が弱いというだけの理由なのである。

ともかく姉は死ぬ間際まで戦争のことを語り死んだ,それだけ戦争のことが忘れられなかったのである。特に20代の青春が戦争だったから余計にそうなったのである。
戦争の興味は自分の場合は姉から聞かされた話が生々しいものとして残る
従軍看護婦の四年間は辛いし普通では勤まらない,特に敗戦になったジャングルに逃げたときは食うや食わずになり苦しんだ
そして死ぬ間際まで認知症になっても同じ従軍看護婦の戦友のことを忘れなかったのである。青春がまさに戦争だったからそうなった,青春時代は一番印象に残りやすいからである。

戦争というときやはりNHKとか左寄りの圧力が強い,すると常に日本は謝罪すべきだということが知らずに思い込まさせられるるのである。
つまりテレビ見ていると知らずに洗脳されるのである。
なんて日本人は悪い奴なんだ,戦争の責任は日本人にあり日本人は謝罪すべきだとなるのである。そういう意図でもってNHKでも他でも番組を作っているからそうなるのである。
posted by 老鶯 at 07:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2017年06月26日

AIの判断と人間の判断 (データーの処理能力の相違なのか?)


AIの判断と人間の判断

(データーの処理能力の相違なのか?)


AI化はすでにコンピュターが生まれたときインターネットが生まれた時はじまっていたのである。コンピュターがインターネットが人工知能ではないか?
インターネットに接続して知識を吸収していることがすでにAI化した中に入っていることではないか?
インターネットは天文学的な膨大な情報がある、それも日々増加している
それは本の世界とも違う、ただ本でもインターネットのように検索可能にすると本の情報が利用しやすくなる、それも実際はできる

AIと人間の根本的な相違は情報の処理能力である。なぜ将棋でもむずかしいものがコンピュターにもう勝てないのか?それは人間の能力をはるかに超えた情報の処理能力だった
その譜面を記録しいるのが人間にはとても及ばないからだった
つまり人間の記録する記憶する能力はコンピュターと比べるとあまりにも小さいのである人間の記録する記憶する能力は非常に低いのである。

第一人間は忘れる、自分の書いたものも忘れる、それでプログでも何でも書いたものを記録したものを読んでこんなことを書いていたのと改めて発見しているのである。
人間ほど忘れやすいものはないのである。
旅行してもどこに行ったのかもわからなくなる、特に団体旅行だおしゃべりなどしていると回りの景色も心に残らないのである。
だから写真撮ったりメモすることも大事になる、そこから思い出す作業ができるからだ
つまり旅でも何か記憶していないと忘れて行ったということにもならないのである。
それで自分は旅を記憶したものを短歌や俳句や詩にしている、でも記憶していなければできない
でも時がたてばなんでも忘れることが人間の弱点なのである。

コンピュターの優れた面と人間の優れた面がAI化で浮き彫りにされる
例えば株式予想とか天気予報とか何かそうしたものは膨大なデーター処理することによって見えてくるものがある、何か予測するというとき過去のデーターが必要になる
ところが人間はその過去のデーターでも膨大であり一部しか目を通せない
その一部のもので判断するから誤るのである。

それは地震とか津浪でもそうである。その記録でも実際は膨大である、相馬地方でどのくらいの地震があったのか?江戸時代でもあったが小さいと忘れているしまた記録がわずかだからその記録から読み解くことがむずかしい
でもそうした過去の記録はあったが無視していたのである。

現代になると地震でも記録されるからその記録は膨大になる、そのデーターはもう人間では処理できない、大きな地震でも全国的になると震度5などいくらでも起きているからだそういうデーターを処理して予測することがコンピュターにできるようになるのか?
すでに株はAI化して予測している、その膨大な情報からチャートして図を形成すればわかりやすい、一秒感覚で売買して利ざやで稼いでいるいうから驚きである。
それは結局膨大なの情報の処理能力がコンピュターにあるからなのだ

それに比べるとあまりにも人間の情報能力は小さすぎるのである。
すると予測することも判断することも誤ることになる、そして人間の判断能力がAIより優れているとは限らないのである。
例えば戦争でもAIが判断したらアメリカと日本の国力とか総合的に膨大なの情報から判断したら負けるとでる、でも日本では人間が判断すると負けないとなる
その判断は人間だと政治力とか経済とか神がかりなものとか他にも恣意的に判断する
日本は神国だとなれば戦争にも負けないとして戦ったことでもわかる
それはカルト宗教団体ともにている、神の加護、仏の加護があるから負けない
そうして選挙運動している団体もあるからだ

何かそうして人間の判断は不思議に科学者でも非合理的な判断をする
おそらく科学者が科学的に合理的に判断すれば原発事故は起こらなかった
そこに政治的経済的判断が介入してきた、政治家は原発を作りたい、地元の人も金になる仕事が欲しいとして安全を無視する、それは科学的合理的判断ではない
一旦高く土盛りして原発を建てたのにわざわざ金がかかる経済的にコストがかかるとして土地を削った結果として津浪の被害にあった
高い所だと電源が下に置くからコストがかかったからである。
人間の判断にはそうした科学的ではないものが必ず入ってくる
そして「安全神話」が作られたというときもそうである。
それにはマスコミを加担して強力なものとなっていた、マスコミもまた判断を誤らせるこためにあった。

だから人間の判断がみんな正しいとは限らないのである。もちろんAIのコンピュターの判断も正しいとはならない、AIの判断に従ったら致命的なもの人類滅亡になるというのもありえないことではないからである。
ただ原発をAIが予測したらどうなったのか?
様々な見地から膨大な情報を駆使して判断したらどうなったのか?
まず日本だったら地震が多いから建てるべきではないと判断しているかもしれない。
人間の判断はそうはならない、政治的なものや経済的なものや他にいろいろな要素があり判断しているからである。

AIというより科学者が発明したものだから科学的思考が入っている
そして原発でも科学者が判断すれば事故にならなかったかもしれない、そこに政治的なものや経済的コストとか他の要素が入ってきて科学的に判断できなかった
それで湯川秀樹博士が原発を建てるというとき時期が早いと言っていたのはそのためである。現実にアメリカの旧式のお古のマーク1の原子炉を買わされていたから危険だったのである。そして日本ではまだ原発の技術が不十分だったからである。
だから日本では技術的に無理なのに政治的経済的なものでも判断してそれが事故につながった。

何かを判断するとき将棋だったら確実に膨大な譜面を記録してその情報から判断している駒一つどう動かすかの判断が膨大な情報からしている、すると人間が記録しているのは記憶しているのはわずかだから人間の判断は誤るとなる
それは将棋という限られたものゲームのなかだから解析されてもうコンピュターには勝てなくなったのである。
ただ判断をすべてコンピュターにゆだねることはできない
でも人間の判断も誤るとういことである。それが甚大な被害につながる、戦争でも300百万人死んだとか今回の原発事故とかなる、それは科学的な判断ではない
政治的経済的なもの神ががかりなものなどの判断が加わるからである。
また民主主義は大衆のファナテック(狂信的)なものが加わりナチスのようなものにもなってくる
そこではもう科学的合理的判断はできなくなり甚大な被害となる
もしかしたらAIだったらそんなあまりにも馬鹿げた恐ろしい戦争などするなと判断する
でも人間はそのAIの判断には従わないのである。


タグ:AI化 AIの判断
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2017年06月25日

女性の人格障害はなぜなるのか?豊田真由子衆院議員(42)の暴言 (この世に人を選ぶほどむずかしいことはない)


女性の人格障害はなぜなるのか?豊田真由子衆院議員(42)の暴言


(この世に人を選ぶほどむずかしいことはない)


この女性に興味をもったのは異常な女性とかかわってひどめいにあったからである。
一人はおとなしい女性だと思っていた、ただ母親が三人変わったという特殊なことで影響したことはいえる、実際はだいだいその女性とは20年間とかかかわらないからその間に結婚もしたし変貌しているのが当然なのである。
まず人間関係は10年とかでも一年でも疎遠になると連絡がないと事情がわからなくなる
親族でもそうである。だから何が事件があったりすると連絡が来て困るのである。
「便りがないのはいい便り」になるのである。

その女性の異常はどこから生まれたのか?女性は環境の影響を男性より強く受けるかもしれない,女性の場合は育ちが大きく影響するものかもしれない。
いい家柄の女性はやはりいい女性になっているかもしれない
ただ貧乏な女性でも性格のいい人はいくらでもいるからわからない
あまりにも裕福だと高慢になってしまうだろう。人の苦労もわからなくなる
それは男性でも同じである。

女性は一般的に感情的であり理性的ではない、すると感情が制御できないのできれやすいとなる、認知症になると感情が制御できない、怒ると暴力になる、それは病気だったのである。ただ病気と正常はどこが違うのかともなる
もうこの女性は異常の領域に入っているとみんなも感じているからである。
この女性はただ学歴があっても人を使うことができない人だった
そもそも人を使うことほどむずかしいことはないのである。
自分も一人の女性をほんのわずかなことをしてもらうのにも大変であり雇いたくなくなったからである。自分には人を雇う能力などないからである。
またそういう身分でもないからである。

ただこういう女性でもいい面を発揮すれば女傑とかなっているのだ。
何かできる人間なのである。自分の身内はそうだった、過酷な戦争体験もしているし異常に強気だけど何かをできる、実行できる人間なのである。
だから確かに人を馬鹿にするということで共通性がある
でも人生経験があるから違ってもいる

女性はやはり上に立つのは向いていないという意見もわかる、感情的になるとか理性的合理的に考えられないとか何か女性は経営者などはに向いていないから政治家にも向いていないとなる、ただ女性でも男性的な女性は普通にいるから政治家でも女性の首相が世界でいることでもわかる、その辺は判断しにくい。

でもあの女性はおとなしと思っていたのにあんなに暴力的にまでなったのか?
それが良くわからない、何かよ抑圧されていたことはわかる、親におさえつけられていたこと育ちではそうだった
そういう家族環境の影響があり次に夫が問題だったかもしれない、何か夫がおとなしい女性的な夫に見えたのである。そういうことも影響したかもしれない。
その女性は別に金に困ったことはない、世間的に苦労したことはない
経済的に子供から恵まれていたのである。

ただ人間はどんな人でも人格異常性がある、勝気な人が悪いわけではない、そういう人は人に負けないような強い意志をもちなにかができる人である。
一方で内向きな人は極端になると人と接することもできないコミ障となり引きこもることになる、でも内面を追求する哲学者とか思想家とか芸術家には向いているとなる
人の性格を見ていると自分でもそうだがいい方面に性格が活かされれば別にいいわけである。勝気だったら政策でも強い意志でもって通すということができる
ただ悪い方向に向かうと異常になり人格障害になるのである。

要するに人間はバランスがいいことが大事なのである。内向きな人は極端化するとひきこもりになる、だからある程度は社会と交わる工夫が必要になる
外向きの人は人で感情をおさえるとか謙虚になるとか必要になる
そのバランスがとれないと異常人格にもなる
女性一般の問題として感情的になるということがあることは確かである。
感情が制御できない、それは理性とか合理的精神となる前頭葉が男性より弱いということにあるかもしれない。
感情は前頭葉でおさえる,その前頭葉の制御がきかなくなるとき感情はおさえられなくなる、それが病気となったのが認知症だったのである。

この前頭葉は、「辛抱を重ねる」ことで大きく育ちます。

「辛抱すればするほど、辛抱強くなる」ということです。

これもそうだがおそらく勝気な人はその性格をうまく活かされればいいのである。
内向きの人は辛抱強くなる、でも内向きの辛抱強いといっても勝気な人のように何か成す実行力がないのである。だから経営者とか政治家には向いていないのである。
つまり人間には向き不向きがありそれは性格そうなのである。
自分は内向きだから経営者とか政治家とか商売には向いていない、だから内向きの仕事につけばいいとなるが、この世にはその性格にあった仕事など与えられない
文系だと営業にまわされるとなるとそれは外交的な性格が外向きの性格がいいとなるからだ。それ故に自分は環境に恵まれて無職に終わったとういことである。

いづれにしろ人間学歴だけではとうにもならない、現実に人を使うとなると容易ではないそういうことを学校では教えてくれない、学業成績と人を使うことはまるで違ったものである。それができるのは何なのか?それが学歴だけではないということは確かなのであるだから学歴からだけ見て人を見ると失敗する
理系は何かそもそもそういう素養を積んでいるが文系の素養はわからないのである。
文系の学歴は何か具体的に社会で役にたつように見えないし現実にそうである。

ただ人間ほどわからないものはない、

「子曰く、後生畏るべし。いずくんぞ来者の今に如(し)かざるを知らんや」

 (孔子は言われた。私よりも後に生まれた者には畏れをもって接しなければいけない。将来、努力次第で今の私よりすぐれた人物になる可能性があるからだ)

若者は上の人から軽く見られる、それは師でもそうである。師は弟子を奴隷のようにさえみる、自分をもちあげるものとしてしか見ない、優れた上の人ならみんなそうである。
つまり弟子でも師を越えるような人を絶対望まないのである。
権力者でも下の者は自分の地位を脅かすものとして恐れている
こんな人がこんなふうになるのかなど師にもわからないから会社でも人を採用することは本当にむずかしいのである。だからこの女性を政治家にした採用した人も人を見る目がないとなるがそもそも人を見ることがむずかしいから学歴とかで見るのが楽だから当たり障りないからそうしているだけなのである。 

要するに現代は複雑な社会だから膨大な知識が要求される、すると人格的な面が見逃される、人格的には普通の人がいいものをもっている、今回の女性議員のような人はあまりいない、40代の人をみているが性格が素直だとかこんな女性はまれのようにも思える
ただ一人はこの女性とにていたし異常人格になっていたので女性でもなんでもいろいろな人がいるから一般的公式のようなものないから人間の判断は誤るのである。
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長野県南部 震度5強 (あらゆることに地歴の学問が基礎にあることを知るべし)


長野県南部 震度5強

(あらゆることに地歴の学問が基礎にあることを知るべし)

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巨大地震が連続して起きた慶長時代とにている

(東北と九州(熊本)に起こり今度は関東へ迫る恐怖)

今回の長野県の震度5強の地震は熊本からつづく中央構造線と関係あるのか?

図を見ればぴったりあっているから不気味だとなる

中央構造線
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何かある時地理感覚が大事になる、地図を見てもなかなかわからない場合がある
長野県というとき長野県の範囲はどの辺なのかというのもわかりにくい、県からイメージするのがわかりにくい、県は広いからわかりにくいともなる
ただ地理はどこでもわかりにくいのである。
自分は全国を隈なく旅したからある程度イメージできる

木曽町が震度5だったのというとき中山道の木曽町に泊まったこともあるからだ。
そして長野県というとき松本市から糸魚川の塩の道は有名でありここを歩いたことがあるそれで糸魚川が火事になったとき長野県の塩の道からイメージしたのである。
でもそこが新潟県だということはわからなかった
富山県との境だった、県からはなかなかイメージしにくいのである。


7世紀に成立した。成立時の範囲は、現在の岐阜県南部と長野県木曽郡
木曽は古代から長野県の中心部だった
ただ木曽というと中山道でありそこから尾張へ名古屋へ出る
名古屋というと信長であり接して美濃があり斎藤道三が有名になる
秀吉の一夜城は美濃国へ向かう途中にある
ここにも名古屋から自転車で行ったことがある、その時夕月が一夜城の上に出ていたのである。

夕月や美濃に接して一夜城

これもなんか不思議なの感覚だった、これも地理の感覚がわからないと実感しない場所だったのである。

そして長野県と接して山梨県がありここは甲斐であり武田信玄の騎馬軍団である。
それで飯田線を一両の電車が走っている、あそこも線としては長いが本当に人が乗らないのである。
長篠駅がありここで武田の騎馬軍団が信長の鉄砲隊により武田は負けた
その長篠から豊橋にでると東海道であり名古屋なのである。
ただここまで出るには飯田線は長いから時間がかかった、長野県には相当に辺鄙な所がある、だからここも山深いからわからない所がある、御岳山がありそこに玉滝村があるが
ここが震度5だったとある

地理を理解するにはまず地図を見てもわからない、やはり鉄道でも旅するのが一番だとなる、ある程度の輪郭がわかり実感するからである。
地理がわからないと歴史もわからないしまた地震があった、どこだとなりそれがどういう地点なのかもわかりにくい、木曽町辺りから震源地となり回りに拡大した
ただ長野県は山梨県とは違う、それも混同しやすいのである。
静岡県まで影響があったがそこは徳川家康の三河である。
尾張と三河は接している、このように地理は歴史的なものからもイメージしているのである。

地震と何の関係があるのかともなるがやはりその場所がどういう場所だったのか実感するには地理感覚が必要になる、それは地図を見てもわからないのである。
だから長野県と富山県や福井県のことがわかりにくいのである。
おそらく歴史的に信長とかには興味があるからそこから美濃とかをイメージして長野県もイメージしているのである。
それで地歴という造語は的を得ていた、地理と歴史は一体なのである。
それは地震のようなものでも関係してくる

東日本大震災でも太平洋岸が地理的に一体の地域だと地理的にも歴史的にも認識したのである。古代に多賀城がありその時同じように大被害がこの地帯にあった
貞観津浪でありそれは相馬市でも海岸から奥にボーリンド調査で津浪で運ばれた砂が発見されたのである。それは今回の津浪が来る前の7年前のことだったのである。
その時そのニュースに注目している人は少ない
相馬地方では津浪など来ないという確信までになっていて逃げない人がいたからである。それは老人に多かったのである。

地歴というとき長い時間感覚で見るものである、それが欠けたいたから今回のように備えることができなかったのである。
ただこれだけ自分が旅しても地理の感覚を養うことはむずかしい。東北とかだとある程度わかるにしてもそこから離れると地理的一体感がなくなるからだ
そして日本の地形は山が多いから余計にわかりにくいのである
福島県の地理を知ることだけで容易ではないのである。

いづれにしろ地理は地図を見ただけではわからない、立体地図を見てもわからない
その地を実際に歩まないとわからないのである。
土地の高低などもわかりにくいからである。電車だと土地の高低はわからないのである。車だと電車よりはわかるかもしれない、電車だと峠でもトンネルを通るから峠を越えるという感覚がなくなる、福島市に出る所に峠駅がある、そこで力餅というのも売っている
それは峠を越えるために売られていたのもである。
その峠を越えると福島市に出るからそこではある程度峠を感じたのである。
でも日本で地理を知るには山が多いから峠を実地に越えてみないとわかりにくいのである
この地理はあらゆる学問の基礎を成すものである。例えば官庁に勤めていて全国の市町村のことを知るためには単に数字として統計として知るだけではなく地理を知る必要が出てくる、将来消滅する市町村とかあるがそれもやはりその地理的な場所がどういう所か知る必要出てくる。それを一回も行ったことがないならイメージできないのである。
自分は全国を旅したからなんとか全国の市町村でも地理的にイメージできる
だからこの辺で除染とか工事関係で全国から来た人とちょっと話したときその場所がある程度イメージできるから話して通じることができたとなる

それは外国でも一回行った所はイメージしやすいのである。ベトナムかとかネバールとかは行ったからそれでイメージしやすい、スリランカは行っていなくてもインドに行ったからイメージする、ヒンズー教の寺院が多いことも知っているから共通点がある。
ドイツにも行った、そこでケルンに裁縫関係の人がソビエト連邦時代に8年間とかいたというときも話をあわすことができたのである。
ただ日本でも広いし地形が複雑だから地理を知ることは容易ではない、ましてや外国になるともうお手上げだとなる、それでも大雑把な所を知っていれば実際に行っているとイメージしやすいのである。

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2017年06月23日

豊田真由子衆院議員、精神的に不安定となり入院 (人格形成の失敗、人格障害?)


豊田真由子衆院議員、精神的に不安定となり入院

(人格形成の失敗、人格障害?)


東大出でハーバード大学出でも人格がだめになるのか?学歴とかと人格は性格は違ったものなのか?
まず東大とかハーバードととなる普通の人はなぜそんなに利口なのかと考える
人間はどこの大学が出たとか一生つきまとっている
学歴を目安にする、学歴に一生こだわる人もいる
病院で入院して老人が学歴を自慢していたとかいる
いつまでも大学のランクにもこだわる、人間は何んでも比較して優越感をもちたいのである。

ただなぜ人間は例えば体力がありスポーツに秀でていてもまた人格が形成されるとは限らない、結局、人間が奢ること傲慢になることが人格をだめにする一番の原因なのである。一方で頭がいいとかスポーツマンとか優秀なことが悪いことではない
みんなそういう人に憧れているからである。
自分は体力も知力も普通よりだめだった、だから高校でも集団生活になじめないとかわがままであり体力もない、何かいいものがなかった
でも今になると三流大学でも良く入れたなと思う
高校では卒業もできないくらいだったからである。
ただ自分は勉強の仕方が悪かったこともあった。
やはり勉強というとき勉強の仕方がかなり影響してくる
でもやはり東大とかハーバード大学となるとなぜそんなに勉強ができるのかと理解できなくなる

人間は学歴だけではだめである。ただ理系と文系は根本的に違っている、理系はやはり何か頭がいいとみる、違ったものとしてみる、文系の頭がいいというとき文系はたいしたことはないとみる
ともかく人格形成を考えるとき若いとき成功しすぎるとかえってゆがんでしまうだろう。恵まれた環境でもそうである。
金持ちで遊んで暮らせるとかなるとまたおかしくなってくる
江戸時代の映画だと旗本の息子がとんでもない悪さをするがそうなりやすい
つまりあまりにも恵まれた環境も人格形成にいいとは言えない
社会で苦労した人間はやはり人格的にできてくる
でもまたむずかしいのはあまりにも苦労しすぎると人格がゆがむ
そういう人を知っているけど人の不幸を絶えず喜ぶようになっているのである。

ただ人間は狂気になって終わるというとき人格そものものがまともな人がいるのだろうか?
人格を見ると必ずいい面があるとするとそれは悪い面になる、勝気な人は意志が強く何かをできる人である。でもそういう人はまた他者に同情しないとか奢るということもある
でもそういう人は何かできる人なのである。
一方で性格がおとなしい人は控えめであり何かを成すことができないのである。
性格は老人になると極端化してみんな狂気になってゆく
もともとバランスのとれた人格になることはむずかしい
強気の性格で謙虚な性格になることがむずかしいのである。

ともかく自分のあった人間のことを書いたが人格障害者になっていた、すでに60近くでも年数を重ねてもかえって人格が悪くなっていて狂気化していた
それは子供時代しか見ていないからわからなかったがいろいろ人生の中であり異常化して人格障害になっていた、ただそれは外から見てわからないものである。
でもどこかでその異常性が露見する
人間はまともバランスをとれた人格をもつこと自体そもそも一番むずかしいだろう。
それは学問しても作れない、人生経験の中でしか作れないからである。

そもそも人間はこの人は極端だけど人格障害者が多くないか?
人格障害とは何かかたよってしまうことなのである。自分だって何らか人格障害をもつ
性格が内向きだからそれが極端になると社会とも人とも交わらないとなる
ひきこもりになるのである。実際自分は三十年間くらい社会と交わらなかったそうなる
それは家庭環境が恵まれたからそうなったのである。
普通だったら働かざるを得ない勤めざるをえないからである。

いづれにしろ人間の一番の危険は奢ることにある,だから若いときそういう立場にいると危険である。若いとき高い地位につくのは奢りとなり危険である。
また頭がいいと奢ることは危険である。事業に失敗した人は別に高校出くらいだからたいしたことはなくても理系であり資格をもっていたから自分は経営してもできると思っていたのである。ところが理系として技術者としては優れていても会社の経営となると全く別な能力が必要になっていたのである。
でも奢りがあり自分がなんでもできると思い事業に失敗した
そして人格的にもゆがんだものになっていった

確かなことは若いときは失敗したほうがいいし挫折した方がいいし下積みで苦労した方がいいということである。若いとき有名になったり高い地位につくことを望む
それが奢りになり人格障害になってゆく、自分は三十年間隠者になっていたけどそれで良かったともなる、ただその結果としてマイナス面があり介護とかなり苦労したとなる
人格形成というときそれだけいろいろな要素が働くからむずかしいとなる
神は砕かれた魂を望むというときそうである。若いときは一度でも徹底的に打ちのめされた方がいいのである。まず成功しすぎたりあまりにも恵まれすぎると人格が形成されない奢りになるのである。

人格障害というときこの世の中、偉い人と言われる人にも多くないか?
政治家でも弁護士でも医者でも理系の人でも人格から見れば異常的になっていないか?
医者はどうしても今では一番もちあげられるから傲慢になりやすいだろう。
看護師などもそうである。常に弱者を相手にしているから傲慢になってゆく。
すると必ず患者を見下すようになる、謙虚な心はもてないのである。
ただ底辺層でも絶えずおとしめられていると心がゆがむ、だからどっちにしろ人格形成がうまくゆくのがむずかしいのである。

世界は病院である


この世は狂気にいたり滅ぶ

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2017年06月08日

童話-山道の藤の花(平和な時の飯館村へ)


 山道の藤の花(平和な時の飯館村へ)


その山の道は通って行く人は本当に少ないのでありました。この坂を越えれば山の村はありましたが人が行くのは一日何人といほど少ないのでした。

風にぷらりぷらぷら藤の花
この山の道行く人まれや
一日ぷうらりぷらり藤の花

その藤の花に誰かが話しかけてきました。
「藤の花さん、藤の花さん、今日は誰がこの山道通りましたか」
「ええ だれですか、ああ お月さんですか あなたがいたのですね」
「いましたよ、いましたよ、・・・・」
「誰が通っていったですって・・・誰が通ったか・・・まあ 何人かは
通りましたよ、覚えていませんよ 私は関所の役人でもないですから」
「まあ まあ そう怒らずに 誰が通ってもかまいませんよ」
「そうですよ、あなたも無用の暇な方ですね」
「あなたも そうして風に吹かれてぷうらりぷらり 暇な方」
「おたがいさまですね でもこの道を行く人は少ないにしろ毎日働いている人ですよ、ごくろうさんというくらいいう気持ちがあってもいいのでは・・・」
「まあまあ よくいいますね あなたのようなこの世とはまるっきり関係なくぽっかり浮かんでなんにもしないでこの世をながめているばかりの・・」
「まあ そうしたらおたがい重苦しいものになりますよ おたがい責めるのはよしましょうや」」
 その時一羽の黄色い蝶がその藤の花にとんできてまつわりました。
「蝶さん どこへ行くんですか」
「どこということはない、山越えた向こうの村にでも」
「山の向こうに村があるんですか」
「ええ ありますとも 幸いの村がね、山のあなたに幸いが住むという村がね」
「なるほどね、山の向こうにも村がありますか、それはいい、行ってらしゃい」
「行ってきます」

黄色い小さな蝶は一瞬まぶしく光り藤の花にまつわりまた風に流されて山の向こうの村に飛んで行きました。そして藤の花やっぱりのんびりと風にふかれて垂れているだけでした。

風にぷらりぷらぷら藤の花
この山の道行く人まれや
一日ぷうらりぷらり藤の花

お月さんがぽっかり光りさみしい山の道は今日も行く人も本当に少なく暮れるてゆきました。そして蛙が鳴いていました。

「山の向こうにも村がある、ケロケロケロ
 山の向こうでも仲間が ケロケロケロ
 山の向こうの村にも行ってみようや ケロケロケロ」

その蛙の鳴く声は向こうの村にもひびいていったようです。
そして夜になり月が明るく山の道を照らしていました。そしてお月さんは輝き出したお星さんにささやきました。

「この道を確かに人が今日通りましたね、くっきりとその人の影が残影としてこの淋しい山道を行くのが見えます」
「ええ、確かに人の影がゆっくりと行くのが見えます」
その人影はいくつかの坂をこえ曲がる道を行くのでした。そしてなぜか分かれ道でその人影は歩みを止めました。
「どっちの道をゆくかな 右か左か・右は小宮 左は・・・・」
そこは淋しい山の村の別れ道でした。人の影はさらに山の道を移動して行きます。
「ここは二枚橋、家はニ三軒・・・・・」
その人影は独り言をいいつつさらに淋しい山道を移動してゆきます。月はこうこうと明るくその先を照らし出していましたので道に迷うことはありませんでした。



これは前のホームページに書いた童話だった、忘れていた、これは震災前のことであり飯館村が平和なときだったのである。
それがもうそういう感覚はなくなった、別れ道でももう人は住んでないのである。
だからこういう感覚は今はないのである。
やはりそこに誰かが住んでいるときこういう童話もできたということなのかもしれない
たいしていい童話とも言えないが飯館村が平和なときに書けたものだともなる
そういうことがなくなったからである。
栃窪から助の観音を通り上萱(うえがや)に出て八木沢峠に出る塩の道である。
その途中に山藤が山の斜面に一面に咲いていたのである。

これは津浪で被害にあった所でもそうである。村自体が消失したからその村があった街があった平和な時は失われたのである。
つまり平和な時代と今の時代とは違ったものとなったのである。
江戸時代から明治維新後が変わってしまったように一時代が終わり新しい時代ともなったとなる、または古い時代のものは消失してしまった、でもそこに新しい村があるのかとなるとまたわからない、それでも飯館村には住む人がいて明かりがともるとき
なんかほっとするというか昔の村に帰るのかともなる
でも実際は昔の村に帰ることはできない、牛も飼えないし農業もなかなかできないとかソーラパネル工場になったとか変わってしまったからである。

第一ケロケロと鳴く蛙の声が聞こえない、それは田んぼがないからである。
田んぼは無惨に土が削り取られているからだ、この辺でも最初は田んぼがないから蛙の声が聞こえなかった、その後徐々に田んぼが増えて蛙の声が聞こえるようになったのである

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2017年06月07日

ゴミ集積場のトラブル (これも民主主義の自治が関係していた)


ゴミ集積場のトラブル

これも民主主義の自治が関係していた


隣接地がゴミ集積所になっていることを分かっていて土地を購入しましたが、想定し得ない近隣の住民が増えたことで、ゴミの量が圧倒的に増えました。」「仮にこちらが「もう、自宅前はゴミ集積所としては提供しない!」「清掃局は戸別回収に応じるを言っている!」と近隣へ主張した後でも従前の場所にごみを捨て続けられたら、不法投棄で訴える事は出来ますか?」といった相談が見られます。離婚・男女問題分野に「近隣 ゴミ集積所」に関連する相談が多く寄せられています。


10年前、土地の一角にコンクリートのゴミ置き場(不動産会社所有)が隣接している家を中古で買いました。当時、ゴミ置き場があるから安かったという事はなかったです。今までは、収集日にカラス対策として網を被せていましたが、最近ゴミを捨てている近所の方達が、そこに固定式のゴミ箱を置きたいと言いに来ました。景観や不法投棄の心配から反対していました


においの問題はゴミ集積所までの距離と言うより、風向きがかなり影響すると思われます。
幸いうちのゴミ集積所は、まれにですがカラス等でゴミがばら撒かれても、近所の人が率先して片付けをしてくれるので虫とかの被害もありません。


「自ら処分しない一般廃棄物については、その一般廃棄物処理計画に従い当該一般廃棄物を適正に分別し、保管する等市町村が行う一般廃棄物の収集、運搬及び処分に協力しなければならない。」

もし何の法律も条例もなければあなたはあなたのお住まいの市や町のどこのゴミステーションに持ち込もうがあなたの自由になってしまいますね。でもそれは許されませんよね。と言うことは何らかの法律か条令が存在していると考えるのが妥当ではないでしょうか。


自分の家の前がネットをかぶせたゴミがカラスとか猫に食い荒されて道路一面に広がった自分の家の前なのでそのつまにしておけず掃除した、車も震災以後は通る場所になったので困る それが度々そうなっているから困る
このゴミ集積場の問題はなんかめんどうだった

●利用している人が明確ではない

●組が四つくらいに別れている

●設置する場所が問題

●市では金の援助はするがあとは地域で決めろという

ここのゴミ集積場は誰が利用しているか明確ではない、組の人が数人はしているが他の組もしているしそれが三つ四つくらいの組に分かれている
車で遠くから捨てに来る人もいる、その人は組の人で遠くに移った人である。
だから組の問題でもない、近隣の問題なのである。
それよりゴミを捨てる人の問題である。利用者の問題である。
でもその人たちが誰かわからないのである。

そしてなぜここにゴミが増えたかとなると近くの空家に外から来た労務者が住むようになったからである。九人も住んでいるという、となるとゴミの量も増えたのである。
これもこの辺がまだ工事関係者入ってくることの問題だった

市の環境課に相談したが設置する場所とかはゴミを捨てる人たちで決めてほしい、その場所に問題がないなら費用の九割は支払うという、でもその設置場所が問題なのである。
街中ではそういう場所がなかなかない、それで網をかぶせるだけとなる
するとカラスとか猫に荒らされるのである。

道に設置しようとしたらそれも所有者がいるとか人に迷惑になるとかで問題だった
道でも通行権はあるとかの法律も学んだ
このゴミ問題はそれを利用する人たちの自治が要求されているのである。
住民の自治がないと市の方では金は出すがなにもしないとなるからだ
これこそまさに自治が要求されるから民主主義だとなるのかもしれない。
でも自治となると住民の合意になるからその手続きもめんどうだし誰かまとめ役が必要になる、自治といってもみんな勝手なことを言っていたらまとまらないからである。

つまりゴミを捨てる人に責任がある、その責任を果たす必要がある。ゴミ捨てる一人一人に責任がある、その責任を自覚することからはじめねばならない
それは確かに民主主義になる、一票が平等に与えられているがその権利はあるが責任も生じているのである。
ここではそれが具体的な問題として現れているのだ
だからゴミを捨てる人を特定しなければならない、なぜならその人たちが利用しているから責任が生じているのである。

なぜこれほどゴミ集積場でもめているのかとなると明確なルール、法律がないからであるまたそれも決めにくいからだろう。そこには様々なその場その場の問題が生まれているからである。だからルールが作りにくい、するとゴミを捨てる人たちでルールを作り監視してくれとなる
でも組という明確な組織もないからめんどうになる
何かここにも法律問題とか政治とか民主主義の問題がある
政治というと国政になるが卑近なところにも政治があり民主主義がある。
そこで学ぶことがかえってある、法律も具体的な問題の中で身につくしわかりやすいのである。
自分が理論好きである。だから法律も勉強すれば興味をもったかもしれない
社会の問題もこれも学問としてあるからだ
具体的な社会の中で活きる学問があるからだ

民主主義はともかく自分たちの利益、権利を主張することに傾きすぎた
ゴミを捨てるとしても何かを利用する権利があるとしてもそこに責任が生まれる
それはささいなことでもそうである。
漁業権にしても海を東電に売り渡す権利があるのかと書いたがそれだけの権利が生じるとなると責任も問われることになった、だから今になると漁業者への反発が大きくなったのである。今までは知らないし何か被害がないから感じていなかったのである。

責任というときだから国政を担当するとなるとその権限も大きくなると権利も大きいと責任もそれに比例して重くなっているのである。
何か権利があるというとき必ず責任が付随している、その責任を誰が負うのかとなる
それは原発事故でも問われてきたのである。




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2017年05月20日

なぜ原発事故は三〇キロ圏内で区切られたのか? (科学的、経済的、政治的理由があった)


なぜ原発事故は三〇キロ圏内で区切られたのか?


科学的、経済的、政治的理由があった



●科学的理由

●経済的理由

●政治的理由


今回の原発事故ではこの三つが関係していた、だから科学的なものを原子力とか核を知らないとなかなか追求できないものだった、その壁が大きいから素人は立ち入れることができなくなった、お前は原子力のことがわかるのかとなれば自分は科学に弱いからお手上げになる。
それで専門家集団に牛耳られたでしまったのである。

例えば科学的理由というとき原発自体がそもそもが科学者の集まりで作られたから科学的理由を追求する集団だった、だから本当はそうして合理的科学的に原発を建設するべきだった、ところがそこに経済的理由とか政治的理由があってできなかった
経済的圧力と政治的圧力があり科学的合理的にすることができなかった

もともと高い所に原発を建てたのにそれをわざわざ削って低くして電源の近いところに建てたのは経済的理由である。それだと安上がりになるからである。
会社だったらそうして利潤追求だからなるべく安く仕上げようとするからだ。
そこで安全よりはコストをおさえる方にした、それで清水社長はコストカッターとしてのしあがったというときもそうである。
コストをかけないで作り運営して利潤をあげるのが会社だからである。

そして経済的理由というときなぜ三〇キロ圏内で区切って避難させて補償金を支払ったのか?それは科学的理由があってそうしたのではない、経済的理由だったのである。
なぜなら福島市や郡山市の方が浜通りの海岸沿いより放射線量が高い、すると科学的には放射線量が高い所に補償金を支払わなければならない、それが福島市とか郡山市とかなると人口が多いからできないから三〇キロ圏内で区切って支払うことに政府で決めたからそうなった。
それは科学的理由で決められたのではなかった。経済的理由だったのである。

何かこの三つはあらゆることにからんでくる。北朝鮮のミサイルにしてもそこには科学的なものと経済的なものと政治的なものがからんでいる
原発も政治的理由としてはアメリカが大きな力をもっていて影響した、日本に原発を最初に売ったのもそうである、それは古い型のものであり危険だった、アメリカにしてみればそれでもうける経済的理由があったとなる
それから政治的理由としてはアメリカの核戦略がありそれはフランスとかとも協力して成されるものだから日本はその一翼をになわされたともなる
そういう世界政治とも関係して原発は日本に作られたのである。

ともかくもし科学的理由だけを追求して原発でも建てられれば問題なかった
何かそこに原発は経済的理由と政治的理由があり作られた、それによってゆがめられたともなる
科学は悪いものではない、技術が悪いものではない、ただ核兵器とかなると悪く利用されるのである。
科学は純粋に科学ではありえない、そこに経済的理由、政治的が介入してゆがめられるのである。科学者に戦争の意図がないとしてもそれが政治によって戦争に利用される
経済的理由で軍需企業が戦争をしかけるとかともなる、それは経済的理由なのである。
薬などにしても世界的会社が病気がなくなったら困るからガンを直さないんだとかとも言われる、病気がなくなる、病気がへる、ガンがなくなるとしたら薬会社はつぶれるからだ薬はルネサンスの起きたフィレンツのメディチ家が医者や薬の販売で財を築いたというときもともとそれがもうかるものだったからである。薬を売ることは今でもそうだが利益が大きいからである。薬九層倍とはそのことである。

認知症になったから家族をみてもらったが脳の写真をレントゲンでとっても実際は何もわからないものだった
第一脳の写真を詳細にとれるのは福島県には二台くらいしかない、それより脳の写真映像をみてもわからないのが今の認知症の治療の現実なのである。それで三万かかったとすると保険がきいているから五倍くらいの収入が病院に入っている
それは何ら効果のないものでもそうなっていたのてある、医療には膨大な無駄金が使われている
保険から支払われることはまた自分だけではない、国民全員がそうした無駄な金を医療では使われているのである。

何かわからないにてもガンとは実際直せるんだという人がいる、また癌を尿から簡単に発見する技術も開発されたとかある、そういうふうに癌が簡単に見つけられ金もかからないとしたら医療関係者はもうからなくなるから経済的に苦しくなるし会社も倒産しかねないのである。
科学的に病気を治すことを追求するの科学者の役目である、一方で経済的理由でそうなると困るということが起きる、すると癌は直らない方がいいとまでなる
ただ癌を直るとしても馬鹿高い薬の値段にする、そこで科学的に純粋に何でも追求できないのである。そこに経済的理由や政治的理由でできなくなる

科学的合理的に追求すれば三〇キロ圏内で区切る必要がなかった、避難させることもなかった、そのためにこの辺では混乱させられたからである。
それは科学的理由ではない、経済的政治的理由だったのである。
それでこの辺は小高が避難させられて荒廃させられたし補償金で南相馬市は分断されたのである。それは政治的科学的理由のためだったのである。
それはとりかえしのつかないことになったのである。
もう小高は元のように回復できなくなったからである。
そうさせたのは政治的理由と経済的理由であり科学的理由ではなかったのである。

科学的理由というか真理というかそういうものを人類は一方で追求してきた
それは政治的なものと経済的なものと関係はない、地球が太陽の回りを回る地動説は
科学的真理である。それを主張したらカトリック教団からガリレオは批判されて否定された、その時天動説が宗教から定説とされていたからである。
それでそれは神の信仰に反するものだとまでされたのである。
その時宗教というのは政治でもあり権力をもっているから否定されたのである。
宗教的理由というのも歴史的には大きな力をもっていたのである。
宗教というのも何かというとき、それも一つの真理である、不変的真理である。
それは心の内面の問題であり神の実在を信じるものであり政治的なものと経済的なものとは違ったものである。

でも宗教でも政治的理由とか経済的理由がかかわってくる、まずこの二つの圧力が大きいからこれから脱することはできない、それで幸福の科学とかあってもそれはなになのか?
政治的経済的な圧力から離れることはできない,カルト宗教団体はすべて政治的経済的なものと一体化するからカルトなのである。それを如実に示しているのか創価である。
政治経済と完全に一体化しているからである。
日本の戦争にしても天皇教となり宗教と一体化した、でもそれは政治的圧力でそうなったともなる、だから政治、経済、科学、宗教・・・これらは離れられない一体のものとしてこの世にはある。
結果的に今回のように政治経済的圧力がありゆがめらた結果となり甚大な被害を受けたのである。戦争だって現代では宗教と政治と経済と科学が一体となって起されるものである実際に歴史的そうして戦争があった。戦争するにしても勝ちを神仏に祈っているからである。宗教と戦争は一体化していたのである。十字軍もイスラムがその時先進国だから富を奪うためであったとされる、宗教的理由の背後に経済的理由があったとなる
そういうことは人間の歴史をふりかえればいくらでもあるとなる














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2017年04月24日

原発事故と山尾三省 (春の日に鶏が庭を歩く(詩)


原発事故と山尾三省

(春の日に鶏が庭を歩く(詩)

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春の日に鶏は庭を歩く

鶏(にわとり)が庭を歩いている
最近そうした風景を見ていない
鶏は工場のような
ケージの中で卵を産む機械とされる
そして肉はブロイラーにされる
その肉は実は危険なものとなる
鶏は広い庭を歩いている
近くに牛がモウと鳴く
清水が湧く所に清水と地名がついている
のどかな春の日である
この辺には古墳が多い
家の庭にも古墳がある
これらの古墳に春の日がさしている
ここに眠れる先祖は幸いなるかな
犬が春草に鼻をおしつけ匂いをかぎ散歩する
見慣れた光景に実は貴重なものがあった
その貴重なものを貴重なものとしない
鶏が庭を歩いている
その姿が自然であり心がなごむ
春の雲がほっかりと流れて
気ままに自転車でホタリングする
しかしのどかな風景は原発事故で失われた

鶏は庭の鳥だった、あれを見てはっきりわかった。それを見たときなんともいえないものを感じた、そういう姿を見ていないからである。それが近くで見れたので余計にそうなった、こんな光景は当り前であり普通はなんとも思わない
しかし今や鶏でも庭を歩いているのを見ないからそう見えたのである。
その時鶏は庭鳥として生き生きして生きていた、本来の庭鳥になっていた
これは何か人間が江戸時代の浮世絵で歩いて旅している
その歩くということは人間の本来の姿としてある。それが車社会でなくなった
だから歩くこと自体が人間を回復することになっているのだ

鶏は今悲惨である。卵を産む機械であり肉を生産する機械である。そこに人間にとっていいものではない、やはりそこに害あるものが作られている、今の食糧にはそういうことがある。鶏が自然な姿ではないよう人間そのものも自然な姿ではないのが現代文明である。車に乗っている人間は人間の自然な姿ではない、機械の一部に化しているのだ
それはあらゆる面でそうなっている、鉄道でも車より人間的でも電車という機械の一部になってしまうのはまねがれないのである。
もし江戸時代のようだったら人間はみな歩いている、だから人と人がそこで交わり話したりする、車は通りすぎゆくだけである。そうした車の洪水のなかで暮らしているのは本当は異常なことではないか?ただその異常性を鶏が庭を歩いているのが自然なように気づかないのである。

自然の中で動物が生きることが自然なことでありそれを見たとき人間も感動する。動物園の動物を見ても感動はしない、野生の動物をみたときそれが本当の動物の姿である。
人間はそういうことすら気づかないし文明の中で麻痺してしまったのである。
異常なことが異常に見えないのである。第一東京のような所で生活できること自体が異常だからできるとしかいいようがない、そこには自然はないからである。
人間が生きているのではない、機械がロボットになった人間が生きているともなる

山尾三省はそういう都会人だったが屋久島に来て自然と一体となる生活をした。
それは実際は過酷だった、だから妻は早くしんだし本人も60代で死んだのである。
第一パンを食うのが贅沢だとした生活では栄養失調にもなるからだ
そこには無理があった、だから貧乏生活を売りにしている芸人のようにも見られたのである。一面そういことがあった無理な生活だったのである。

現実に農業というけどこれはあまりにも厳しいのである。知っている人が趣味のようなわずかの畑をしているがそこで聞くのはただ苦労だけなのである。
虫にやられた、鳥に食われた、肥料に金がかかる、種に金がかかる、隣の畑の人がじろっと見ていて嫌だとか、そこに聞く話は苦労だけである。
それでまともにとれた野菜もないのである。しかし金はかかっている、ネギ二三本もらって何ももらえないのである。ただ苦労だけを聞かされているだけである。
そんなら買った方がつくづくいいと思うのも矛盾なのである。

山尾三省は都会人であり都会から田舎に来て頭の中での理想を実践したのである。
だからもともと農民だった人とは違う、土着的な農民とは違うのである。
ただ不思議なのは核兵器に反対するのはわかるが原子力発電を拒否する反対することとしてアンチテーゼとして農業をしていたのである。
普通原子力発電まではあまり反対しない、核兵器は反対してもしないのである。
例えば広島でも核兵器には反対しても原子力発電には反対していないのである。

畑には大根が太っている
その大根をひきぬいて大根おろしを作る

つわぶきの新芽がのびている
その新芽をひきぬき集めて食べる
やっと春になった
にこにこしながら食べる
こんなおいしいものは
この世にはまたとない

これは地のものの文化であり文明であり
核兵器を作る人たちや原子力発電所を作る人たちへの、捧げものではない

このように原子力発電所に対して拒絶して抵抗して農民になったのである。
ところが農業の現実はそうんなものではない、前にも書いたけど親が農業していた人が
農業だけはするなと親に殴られたということを聞いた、その子供は原発で働くようになったのである。そして避難区域になった小高にもどっているがそこは帰ったのは老人がほとんどなのである。
その他大原の人は代々の農家だったけど子供は跡は継がない、今はそこは空家になっている、農業の現実は過酷なのである。
だから今になるとみんな高齢化社会になり跡を継ぐ人などまれなのである。
農業は何か代々跡を継いでやるものでありそれに適している
なぜなら土作りとかは簡単にはできない、代々に土を作りをして土が肥えてくるということもある。そういうノウハウは農家で生活していれば身につくこともあるからだ

いづれにしろ人間は矛盾を生きている、自分自身も田舎で暮らしていて投資信託などしてグローバル化した世界で金儲けしようとしているのもそうである。
お前も山尾三省のようになれとか言われることは確かである。
でも自分は山尾三省のようにはなりたくないしそういうことも望んでいないのである。
ある程度の現代の生活を享受したいとなる、パンも食べられない生活はもう現代では偏屈者としかならないし誰もまねもしないからである。
それをみんなに要求するのは無理だとなる
ただ原発事故以後そういう反省が一般の人にも生まれたのである。

この辺の人を見ると本当に貪欲になっていたのである。漁業者は原発の補償金で御殿のような家を建てていたとか他より田舎では贅沢していた、田舎では一人一台車をもっていてそれもいい車をもっているのである。
そして家を建てて借金をしている人も多い、借金して自分は事業して成功したとしている人もいてその人に自分が借金を要求されて苦しんだのである。
そのことをプログで書いてきた、こういう贅沢を望むものが原発を作らせたともいえる。
別にパンなどは原発がなくても食べられる生活はこの辺でできた、山尾三省のような生活は異常であり作られた演技のように見えるのもそのためである。
ただそこに原発事故があり見直されたのである。
自分の求めたものとも共通しているからだ。

ともかく一番自分で不思議だと思ったのは鳥が庭を歩いている姿だった
それが何とも言えないもの、自然でありそれが天国の庭を歩いている鶏に見えたのであるそれはおおげさかもしれなんが何かそれほど人間は自然なものから離れてしまったとういことかもしれない、自然なもののが何かわからなくなった
そして人工的なもの都会でもそこに暮らすことが普通になりその異常性に気づかなくなった、原発でもなんでもいい金にあればいいじゃないかしかない、そのために漁業権をも売り渡すしなんでもするとまでなっていたのである。
借金してまで贅沢しているのと同じである。借金しているのは昔とは贅沢するためにそうしているのが多いからである。
そういう異常性なものが普通となり異常と正常の区別すらつかなくなっているが現代文明に暮らしている人たちなのである。

だから人間は今自然な生とは何か知らねばならない、とりもどさなければならない、医療でもチューブ人間になって活かされたりするのは不自然なのである。
自然な死がそこで何かを知る必要がある、人間の本当の自然な姿とはどういうものなのか知る必要がある、その姿を見たら感動する、それは歩く姿を見てそれに感動しているのと同じなのである。歩くということは人間の自然な姿として太古からあったからである。
それすらない文明社会はなんなのだとなるからである。


山尾三省の詩を読む (原発事故で見直されたその生活)
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2017年02月18日

幸福の科学騒動 清水富美加の出家-芸能人を利用するカルト宗教団体


幸福の科学騒動

清水富美加の出家-芸能人を利用するカルト宗教団体


今回の騒動はなになのか?最初に注目したのが清水富美加の親が借金していたことである。

今回の騒動を通して、
大川隆法および教団が何を得ようと期待したのか?
どういう筋書き・思惑で騒動を起そうとしたのか?

このサイトは幸福の科学に詳しい

カルト宗教団体は一体何か目的なのか?それは宗教ではない、宗教の悟りとか救いとは無縁である。会員を増やすことをひたらすら追求する、それは何のためなのか?
その数と金とで権力をもつためである。それは創価がまさにそうであり幸福の科学も同じことを追求してきたのである。だから選挙にも会員を出した。
政治化したのである。政治は公権力を得ることでありそれでもって会員を増やすことに通じるのは創価を見ればわかる。

清水富美加は何かそうしたものに利用される、親もまたその原因になっている。
なぜなら親が事業に失敗したとういことで借金していたとなるとそうである。
事業の失敗の借金は大きいからである。そういう人を知っているから怖いと思った。
自分が病気のときに家族が苦しんでいるときに借金を要求してきた、脅迫してきたのである。

借金する→モラルの崩壊→犯罪

必ずこれが起きてくる、これは推理ドラマの定番なのである。まず犯罪の動機をみる、恨みなどがあるが借金しているかどうかが一番重要なのである。
借金している人はもうモラルが崩壊しているから犯罪に一番結びつきやすいのである。
要するに借金している人は犯罪予備軍であり犯罪者に近いとなるのだ。

江戸時代なら美人だったら借金のカタに遊女に売られた、不細工だと紙漉きとかの重労働をさせられた。それもまた過酷な現実だったのである。
借金をしたらパチンコ屋に働いているとかそのことも同じである。
もう働く場所を選んでいられない、ただ金になればいいとかないからモラルは崩壊しているのである。そういう人が自分が苦しいとき来たから恐怖だった。
自分は殺されるのではないかとも思ったからである。

清水富美加は親が借金していることからおかしくなり迷路に入ってゆきカルトに入り闇の世界にひきこまれたともなる。カルトとは大きな闇の世界である。そのカルトを作り出しているのは人間の闇が深いからである。
事業に失敗して借金したというときそこに深い闇が生れる、借金を返すために闇のカルトにひきこまれる、何か不幸があると障害者などにはカルト教団が創価でも何でもかかわってくる、それらは餌食になりやすいのである。
自分がそういうことを経験したから怖いと思った。
「あなたの不幸は信仰しないと解消しませんよ、会員になれば解決します」とか言われると藁をもつかむような精神状態になっているからひきこまれるのである。
またカルトはそういう人が一番会員になりやすいことを知っていて近づいてくる
その窮状を救うなどという心はない、会員にして勢力拡大をもくやむだけである

宗教というとき比叡山がそこは一つの国家だったのである。近江の琵琶湖の交通で税金をとっていたし職人であれ何であれその配下にあり従わせていたのである。
そこは治外法権であり一つの国家だったのである。だからそこで裁判も成されていた、今のような国家が中世にはなかったのである。
たから信長が比叡山を焼き討ちにしたのはそこが治外法権の国家であり山僧がいて武装もしていたから権力を得るためには戦わざるをえなかったのである。
第一城を建てるにしても職人が必要だがそれを掌握していたのは寺だったからである。
寺は個人が改心して求道して出家するような場所でもなかった。
そこは一つの大きな国家だったとするときそこで経済活動でも金貸しでも何でも世俗的なことをしていた場所だったとなる
そしてそれが不思議に不可侵の神聖な犯さざる場となっていたから税金をかけられないのは今のカルト教団と同じである。神や仏の所有地となっていたのだからそれに税金はかけられないのは今も同じなのである。だからそれを悪用することにもなる
そういう歴史の継続があることが「寺社勢力の中世」伊藤正敏で読んで面白かった。これは相当に考察する価値がある。

いづれにしろカルトとは何か、今の宗教は団体化した宗教はカルトである。本来の宗教とは何の関係もない、そこに悟りとか救いを求めるのは暴力団に入って悟りを求めるのと同じである。
なぜ暴力団員になるのか?それは犯罪者がいてアウトローになるからそういう場所に入る
そういう機能が寺にもあったという、そこは治外法権であり寺には武装した僧兵がいたからである。
戦国時代に侍が城をもったりする前に寺が城郭の役割を果たしていたのである。
僧侶が武士になったという説も興味深いのである。僧侶は軟弱な人たちではない、僧兵のように騎士団のような強者がいたのである。
侍の前進が僧侶、僧兵だったという説も確かにあると思う。
要するに中世でも国家などは存在しない、比叡山のような所が身の安全とか最低の生きる術を与える食料でも与えられる場所だった。

そういう寺がありやはり現代のカルト宗教に通じるものがある。底辺層なら生活保護を与えるとか何かしら権力をもっていて斡旋してやる、それは宗教とは違う、でも現実には現世利益となるから会員として勢力拡大になるのである。
そういう底辺層は何か高度の悟りとか救いなど求めていない、日々の生活に困窮するからそういう場に入り生きようとするのである。
それは共産主義政党でも同じである。そういう底辺層は常に豊かな現代でもいる、その人たちは損な立場にあるからそうなる
ただ宗教が怖いのはそういうふうに困窮しても安易に入るとどうなるのか?
結局地獄に落ちるとか罰当たるとかそういうものも引き受けるのである
結果的にはかえって地獄だと罰しか与えられないのである。その恐怖におびえるだけだとなる、それはエホバなどでも何でもそうである。宗派に関係ない、現代の宗教はみんな
カルトだと思う、宗教とは地獄を与えられることでもないし罰を与えることでもない
神の祝福を与えられることである。それはカルトでは地獄とか罰を引き受けるだけだとなるからたたらぬ神にさわりなしとなるのである。

ただ人間は何かしらの不幸をまねがれない,でもその不幸がすべて悪いものなのか?
そういう不幸も人間には必要なのである。例えば事業に失敗したからといってすべてが悪いとういものでもない、かえって失敗した方がいいかもしれない
なぜなら俺は頭がいいとかいう人が成功したと世間に自慢していてそれも未だにそうしている、それも借金していそうしている、むしろ別に事業に失敗したからといって人間失格になるわけでもない、俺は借金までして成功しているとしてこと自体が異常なのである。何かそういう奢りが神によって砕かれるべきなのである。
原発事故だってそうだろう、頭のいい人たちが自然の驚異の前にその傲慢さが砕かれたのである。自分たちは頭がいい、それは神のようにすらなっていたから神によって砕かれたのである。

いづれにしろカルトは人間の闇が作り出すからこれからも消えない、人間の闇とは上から作り出すわけでもない、人間そのものが闇をいだいているから闇の団体が作り出されるのである。人間個々人の闇があるからそれが集団化して大きな闇となる
ヒットラーが芸術家になりたっかのになれずに劣等感をいだき政治家になった。
オウムの麻原も目が見えないので劣等感をもったし池田大作も大学も出ないので劣等感をもち世界から勲章を集め大学の学位を政治力と権力でとる
またそれに従っている大衆も闇があるからそういう闇なるサタンに従うのである。
結局こうしてこの世がサタンに支配されるのである。

清水富美加はそうして闇の迷路に入ってしまった犠牲者だともなる、現代は複雑だから闇の迷路に入り安いのである。芸能人などもほとんどカルトのプロパガンダとして利用されるし利用されている、芸能人は芸能をやればいいのであって政治とかにかかわるべきではないと思う、民主主義だったら誰でも政治にかかわるとしても芸能人はプロパガンダに利用されるから危険なのである。大衆洗脳のために芸能人がいるのである。

宗教を見る場合は自分は歴史的に比叡山のようにそこが一つの国家となっていたように信仰とは関係ない俗社会の場だとしても何か奈良時代だと鎮護仏教文化があり平安時代でも貴族の仏教でも文化をつくり鎌倉時代など中世でも武士の仏教文化を作っている
江戸時代からは寺は幕府の役所になっただけである、戸籍係のようになっただけである。だから負の部分があっても中世までは仏教はそれなりに活きていた面があったとみる。
禅寺では貧乏人に薪がないからは寺の一部を壊して貧民に与えたとかある、何かそういうのが宗教者だったのかもしれない、
自らそうした私腹を肥やすようなことをしていたらいくらそこが国家でも成り立たないということはあるからだ

仏教というとき文化的な面から見るとわかりやすい、江戸時代以降はふうた仏教文化は生れていないからである。
中世が僧侶の国家であり文化であったが江戸時代はその僧侶が武士となった武士の文化となったからである。
まずカルト宗教団体から文化は生れない、個人的にも芸術家も生れない、それを見てもわかるのである。そこは利権しかない、利益追求しかない場なのである。
あとは地獄に落ちるとか罰あたるとかしか受けられない場所なのである。
現実にあれだけ数が大けれは不幸な人が山ほどいる、なぜそんなに不幸なのかと現象をもっとも重んじるのが宗教だから不思議だとなる

とはいえ不幸は誰にでもある、不幸はまねがれないのである。そもそも病気にならない人がいないからである。自分も家族や自分の病気でさんざんな目にあったことを書いてきたそれは別にカルト教団でも同じである。かえって自分より過酷な不幸におちいっている人は山ほどいるのである。創価に入って子供が若くして死んだとか交通事故にあったとか親も死んで今は家に誰も住んでいないとか無数に不幸がある。
それは他でも普通にあることである。それは自分にもあった。親が認知症になったとかなるが認知症になるのはもうこれから膨大にふえてくる、ではカルト教団に入っていたらまねがれるのかとなったらむしろ不幸はカルト教団の方が多いのである。
統計とればまちがいないてのである。なぜならそういう人たちもともと入っているからそうなるのである。貧すれば鈍するとなっているからである。

要するカルト教団に入る清水富美加のように闇の迷路に入ってゆく、そしてぬけだせなくなる、それも親が悪いともなる、なぜなら親の因果が子に報いである。
親がカルト教団に入っていればそのカルマを受け継ぐことになるからだ。
この辺では原発事故で住めなくなったように親が先祖のためにそうさせられたのである。ただすでに自分などにも責任はあったとふりかえればなる
この世の中はカルマから逃れられない、カルト教団に入ったことは親でも子にその因果が報いとなる、カルマを作り出したのが親である、先祖であるともなる









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2017年01月31日

世界歴史からふりかえる (アメリカのトランプ大統領の移民排斥はなぜ?)


世界歴史からふりかえる


(アメリカのトランプ大統領の移民排斥はなぜ?)


移民問題は歴史的に世界で起きていた。大規模な民族移動がありゲルマン人の移動などが世界を変えた、歴史を変えた、ゲルマン人の移動でローマは滅びた
世界史は民族の興亡である。戦争では負けた民族が奴隷になる。
スラブ民族とはSlave(奴隷)のことである。奴隷化された民族のことである。
その辺は確かにヨーロッパでも遅れた地域でありそこからEUに労働者として移民となり移動してくる、より豊かな国に人は移動するのは今も昔も同じである。
世界史では強力な民族しか生き残れないのである。
異民族の戦いでは負ければ皆殺しになる、ただ奴隷にされたというときそれは人権的に進歩したのである。なぜなら皆殺しよりはいいということになるからだ。
世界史ではこうした民族間の弱肉強食が普通だったのである。
だから世界史を見るときは日本史を見るのとは違った視点が必要になる。


トランプの移民排斥がなぜ起きたのか、それも歴史の繰り返しだったのである。
メキシコに国境の壁を築くというとき万里長城を思い浮かべる、遊牧民が豊かな農耕民の中国に食料をもとめて侵入してくるからあの壁ができた。
メキシコ人も貧乏だから豊かなアメリカを目指して国境を越える、そこは陸続きだからとめることができないから壁を作る、万里長城を作るとなる
それは歴史の繰り返しでありトランプ大統領の過激な政策もそうである。
アメリカも建国して200年とか時間が過ぎれば何でも無制限に移民を受け入れる時代ではなくなっていた。
なぜトランプ大統領になったかというと移民の国でも元から長く住んでいた人に権利がありその人たちが中核となるべきだ、エスタブリッシュになるべきなのにその白人層が移民により仕事まで奪われて地位も脱落して行くことで不満が募りトランプ大統領がその不満な旧来の白人層に利益を還元するということで当選したからだ。
それだけではない、アメリカに先に移民して国籍を取得した移民もまたトランプ大統領の支持者だった、新たな移民が次々に入ってくれば低賃金競争にさらされるからである。

アメリカという国家は何なのか?アメリカの建国は旧来の白人層が作ったものでありその層を中心にして国があるべきだとなる、そういう国が何なのか、その混乱が起きている
日本だとそういう混乱があったのは奈良時代までである。
その時までいろんな民族が混交していたし国作りでは韓国系統が大きな役割を果たした。それで何か韓国系統の地名が日本に残されている、地名は一番古く住み着いたものが残している、日本では蝦夷であり蝦夷がもともとの原住民だった、そこに仏教が入り蘇我氏などが日本の古来の神道系の物部氏と対立したが仏教系が勝利して日本を統一したのであるそれはアメリカではインディアンがいたがそれは移民によって虐殺された
ただ地名がインディアンの地名になっているのは蝦夷とにていたのである。

アメリカとは何か、アメリカ人とは何なんだとということが今問われている
アメリカファーストでありそのアメリカ人は誰なのか?旧来からいた白人層だとなる
もはや無制限に移民を入れることはそうした旧来の白人層とかのアイディンティティも破壊される、ヒスパニックが10パーセントも入ってきて言葉も通じない、その人たちとは文化も共有できないとか軋轢が大きくなる
でもまたアメリカにそうした強固なアイディンティティがある国家なのかというのもある他の国はそれなりの歴史があるから同じ言語でありアイディンティティをもった国である韓国だって小さいとして言葉があり歴史があるからである。
アメリカはそういう歴史によって形成されていない、多くの民族の意味の寄せ集めの国だとなる。だから今までは自由、博愛、平等とか民主主義の理念に国家を統一してそれを世界にも適応しようとした。
でも世界でその自由、博愛、平等の理念がゆきづまりヨーロッパでも崩壊した
結果的にナショナリズムに回帰するようになってゆく

そもそも国とは何かという問題も問われている、日本だったら歴史が長いからその自然とのアイディンティティもその長い歴史で形成してきた、アメリカにはそういう自然とのアイディンティティも作れる歴史がないのである。
理念国家はマルキシズムのソビエト連邦も崩壊したようにアメリカの民主主義という理念国家もゆきづまり崩壊してゆく、それは強固な国としてのアイディンティティをもち得ないのである。
日本では島国ということで陸続きの世界とは違って独自のアイディンティティを長い時間の中で形成できたまれな例外的な国だったのである。
陸続きだとこうはならなかった。多民族に侵略されて全く違った歴史にもなった。
それはモンゴルが攻めてきたときにそういう危機があった。
でもそれも海が障壁となりできなかったのである。

今アメリカの移民排斥はアメリカの国自体が問われている、それは世界の歴史で起きてきたことだからである。
中国でも統一国家を作ってきた、その中核になったのは漢民族であり今もそうである。
でも中国でも多民族国家である。アメリカとにている所はある。
でも中国人には中国人のアイディンティティが歴史の中で形成されてきたからアメリカとは違っている、アメリカは若い国なのである。
だから何をもって国を統一するかがまだ不安定なのである。

経済のグローバル化世界市場主義とか民主主義などが今や崩壊しつつある。
世界はそういうものでまとめられない、アメリカ自身が世界市場化で一番得していると思っていたが損したとトランプがTPPでも拒否しているのは意外だったのである。
そういう経済だけの自由とか世界市場はゆきづまる
人間は経済だけでは生きていないからである。
ヒト、モノが自由に流通するというのは無理だったのである。
それぞれの国には歴史があり文化があるからである。
日本では中国から宦官制度とか受け入れない、取捨選択して外国文化を受け入れている
そして日本的な風土と文化として融合させたのである。
その一番いい例が漢字を日本的な文化に融合させたことなのである。

日本では奈良時代までは優秀な人とか技術者とかは韓国などから受け入れとしても後は人は受け入れていない、後は人は入れないで物だけは江戸時代でも出島とかから受け入れた文化でもそういう出島から受け入れた、全く鎖国してなにも入れないというわけではなかった。アメリカは無制限に受け入れているのは違っていたのである。
アメリカにも明治維新と同じ外国人排斥の攘夷運動が起きている、それは必ず歴史では起きていたのである。
200年の歴史でもそういう回帰が起きてくる、でもアメリカの場合は歴史が短いからその攘夷運動でも国の核になるものがアイディンティティが強固ではない、そこに混乱が生れる、様々な移民が内部で内乱状態にならないとも限らない、それはどこの国でも長い歴史の国では起きていたのである。



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2017年01月21日

トランプ大統領の就任式の演説の失望 (世界の盟主としてのアメリカがなかったため)


トランプ大統領の就任式の演説の失望

(世界の盟主としてのアメリカがなかったため)


中国には登録商標を勝手に登録されてトランプ企業の名前やロゴが使えないから恨みがある。 娘のイバンカも痛い目にあい、北京に出した自身のブランドの宝石店も景気低迷と偽物続出であえなく潰れた。 


トランプ大統領は経済ナショナリストというときビジネスの経験で国を運営しようとしている、この情報はビジネスで私的な恨みを中国に日本にもいだいている。
自分の会社をもうけさせてくれなかったとして私怨がある。
もうそんなことで国を運営されたらアメリカ自体もまた世界でも困ったことになるだろう
娘のイバンカも中国で会社運営がうまくいかずつぶれたとかなると家族ぐるみで中国に恨みがあるのかとなる、アメリカの富が外国に奪われているというとき自分の会社がもうけられないのは中国や日本のせいだとなりそれが国家に適用されたらどうなるのか?
トランプファミリーが国家になってしまったらどうなるのか?

トランプにはそもそも国家観とか何もない、国家はビジネスのためにあるというだけになる。ただもうければいいんだというビジネスのために国家があるんだとなったらどうなるのか?
国家はそもそも何のためにあるのか?ただもうけるためにあるのか?
阿部首相でも企業のセールスマンとして世界を渡り歩いているのかともなる。
企業社会になれば原発事故の東電でもわかったように政治家はそうした大企業に天下りして甘い汁を吸えばいいとなってしまう。
国家は私益のためにあり企業は国家を利用して私益を追求する、ただどっちにしろ国家でも企業でも私的利益を追求するものとして共同するというだけになる

アメリカでもそれだけでは世界に通用しないから民主主義を普及するためだとか人権を主張していた。それは表向きのもので裏ではアメリカが中国などに対して圧力をかけるものとしてそうしていた。
ただ世界に通用するために普遍的なものが理念が必要になる、それで共産主義がマルクス主義が共通の理念として労働者よ団結せよとなってソビエト連邦とか中国共産党国家が生れた。
フランスだと博愛、平等、自由がありそれもアメリカでも理念として採用された。
しかしソビエト連邦も崩壊したし中国共産党も一党独裁となり貧富の格差社会になった。フランス革命の理念もEUも移民で混乱してイギリスが離脱するとか失敗した。
グローバル経済も世界的試みとしてあったがそれも軋轢が増して貧富の差が世界的に拡大して反発がありナショナリズムに回帰してゆく流れが世界的に起きている。

そもそも自国が第一だというのは当然なのである。どんな国家でも自国を犠牲にして他国に尽くしたりしない、国家というとき経済的なものだけではなく国家を形成すること自体歴史があり犠牲があったのである。
アメリカでも南北戦争がありそこでアメリカが統一されて初代大統領がリンカーンになっているのだ。日本でも古代には邪馬台国があり百余国が争っていたとある。
国を統一することには内戦があり必ず犠牲がある。
その犠牲がある故に国家は形成されているということをその歴史があるということが国家なのである。

最近西部劇をまた見ているが興味深い、ある州が州になっていない、そこは治安が悪く保安官が数十名しかいないので悪人をつかえまて裁判することもできない、それで判事が苦労している、その判事はこの州は準州であり州に昇格させたいために必死になっていると保安官に訴える、つまりstateとなっていない、州が一つの国家とするとき国家がないのだから準州でありそこは法も通用しない無法地帯ともなっていた。
地図をみると明らかなのである。それは西部開拓の地域になっているからだ。
準州だと大統領の選挙権がもてなかったのである。そういう時代もアメリカにはあったのである。
そういう過程が歴史があってアメリカも一つになっていった、アメリカも広いから一つの国家としてまとめること自体苦労してきた歴史がある。
準州というのがこれだけあったということはそれだけ無法地帯が広がっていたのである。だから法の下に治めること自体がアメリカでは苦労していたのである。
そういう無法地帯に西部開拓時代に移民が入ってきていたのである。

subsyate.jpg
アメリカの準州だった所

大国になると国をまとめること自体が最大の難関となる,それは中国でもロシアでも前のソビエト連邦が失敗したように同じなのである。
中国が分断されるということはしきりに言われるがアメリカも分断される危機になっている
アメリカは西部開拓以来、西へ西へと驀進してきたのである。そして太平洋に出てアジアにでて日本と出会い戦争になった。アメリカは何かそうして外に出る力が強い国だった。フロンティア精神が旺盛でありそれが世界もその対象となったのである。
でもまた内向きになるというのもナショナリズムに回帰するのもわかる。
別にアメリカなどは一国で資源もあるし石油もシェールガスとかあるし困らないのである一国で成り立つ経済なのである。かえってTPPがアメリカに不利だと気づいたのである。
アメリカは世界から孤立しても鎖国しても困ることはないのである。
日本は資源がないから困るがアメリカは鎖国しても困らないのである。
何か売るにしても売るものは兵器だとかなるとそんなことで世界経済で利するとなると世界でも迷惑だとなってしまう。

ともかくグローバル経済は何か根本的に人間的に見て無理だったのである。
それは各国の文化すら破壊する、日本から車を買うのだからアメリカの農産物を牛肉でもオレンジでも買いとかなる、牛肉などそんなに日本人は食べる習慣もなかったし食べなくても良かったのである。食も文化であり日本の文化は縄文時代から海産物と米で作られてきたからその文化をグローバル経済で破壊されてきた。
つまりグローバル経済は制限されたものとしてそれぞれの国の歴史とか文化を破壊させない程度にすればいいのであり文化を破壊してまでする必要はないのである。
そういうことに世界で気づいたということがありナショナリズムに回帰するのである。

ただトランプにはそうした国の歴史とか文化とかを語るものはなにももっていない、思想がない、あるのはビジネスとして利用する利用される国家観しかない、ただ国家としての理想も語れない時代にもなっているのかもしれない、メキシコの移民に浸食されてアメリカの歴史とアイディンティティが壊されてゆく危機を白人の中産階級が危機感をもった。現実にトランプ大統領の就任式にはその白人しかいなかったのである。
そこはマスコミで報道していたから良く見ていたと思う。

いづれにしろアメリカは国内のことで精一杯になり外に世界のことにかかわれなくなっているのが本音だろう。
アメリカ自体の国家観とか国造りをどうするのか問われているからである。
内戦が起きるとかカリフォルニアが独立するとかもそうである。
自国が分断の危機にさらされていたら外国のことにかかわる余裕がなくなっているのだ。だから高邁な理想など語れない、ただアメリカが得するビジネスとしての国家観しかトランプにはないとなる

でもアメリカ大統領となるとローマ帝国の皇帝を選ぶような感覚になる。日本もその属州のようなものになっている。世界でもアメリカがローマ帝国としてありその州のようになっている感覚がある、だからそういう大帝国の皇帝となるともっと理想を語ってほしいともなるがその余裕もないからアメリカはもう世界の盟主でもなくなっているのかもしれない、まずアメリカ自体が極端な格差社会でありたからこそカリフォルニアが豊かだから独立するとまでなる。カリフォルニアも一国となっても資源的にも食料でも自給できるから困らないからそうなる。かえって準州並の州とは一緒になりたくないとまでなっている。その格差を解消しないことにはアメリカ自体が統一されず壊れてゆく
それは南北戦争時代と同じだとなる。
黒人奴隷が移民であり移民排斥は黒人奴隷解放を拒否する南部だとなり北部と戦争になったとのとにている。

ともかくアメリカにはローマ帝国のような世界の盟主としての期待があった。それも国内問題の方が優先されるとかローマ帝国が没落してゆくようなものと似た状態が起きているのかもしれない,だからトランプ大統領の就任式でも演説でも世界が失望したというのはわかる。ビジネスのことしかないというのが何か淋しいとなる。
ただオバマ大統領はただ理想を語っただけで何もできなかった、それも批判されているから何か実行力があることは期待されている、でも何かアメリカの大統領はアメリカだけの大統領ではないと見ていたから物足りないものを感じたのである。
評価できるのはマスコミからあれだけ無視されても大統領になったことが功績だったともなる。マスコミの没落させた大統領として自分も評価しているのである。
ヒラリーが大統領になることもまたアメリカ国民は嫌がっていたということである。
それは一部の金持ちのための政治になるから嫌がっていたのである。
ただトランプにしても大金持ちなのだからこれからはどうなるかわからない、結局また失望したとなるかもしれない、なぜならトランプが選んだ指導者はみんな大金持ちだからである。そうなると格差社会を批判していたのにそうした没落した中産階級の白人には嫌がられるだろう。それでトランプ大統領はこれから波瀾であり長持ちしないというのはそうなのだろう。

今年は酉年であり酉は夜明けを告げる酉である、だから変化が起きる、新しいことが起きる

酉年に夜明け告げる鶏の鳴く古きは壊れ未来を望む

それもあるが温故知新ということもある。やはり必ず歴史は元にもどりまた前進する。
維新とは復古でありもともとあったものが新しく復古する維新するのである。

また酉という字自体、象形文字で首の長い酒器を表している。ついでに言えば酒という文字は、「酉」の中に入っている液体だから酒である。この2つのことから、古代中国において、「酉」は収穫した実から酒を作り、利を得ることという解釈が生まれたのである。

何か酉年は商売と関係している、酉の市というのもそうである。
商売というときトランプ大統領はビジネスしかないからあっているのかとなる
これもあくまでもそれぞれの解釈なのである。
自分にとっては今年はいい年になる感覚がある、十年間介護とかで苦労したからである。自分の収穫は自分の作品をまとめることである。
それはインターネット上で本作りなど整理することである。
そういう時間が生れたことが自分にとってはいいことになる



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2016年12月30日

今年起きたことで反省すべきこと (マスコミ報道に操作されなかったトランプの勝利など)


今年起きたことで反省すべきこと

(マスコミ報道に操作されなかったトランプの勝利など)

イギリスのEU離脱でも意外だったとみんなが言う、そのみんなとは誰のことなのか?
それはマスコミでそう言っていたからみんなが言っているとなっていたのである。
第一なかなか一般の人が外国の事情に詳しくないからマスコミで報道すればイギリスの
EU離脱はないと見るのである。

トランプの勝利でもそうだった、最初は泡沫候補と言われていたから良く都知事などでもそういう人が発明王のなんとかとか出てきては消えてゆくだけである。
そんな人なのかなと一般の人はみる、特に外国のことだから余計にそうなるのである。

でもこういうことは別に日本でも常に起きていたことなのである。
それはここで追求してきた原発の安全神話がマスコミと一体化して作られていたとういことである。多額の宣伝費をみんなもらっていたから東電の批判も原発の批判はどこもしていない、結果的には事故などおこるわけがないとなっていた。
それはマスコミと権力が一体となり作られたものであった
それがもろくも崩れ去ったのである。

だからマスコミの報道で世論が形成されたように見える、でもマスコミはまずマスコミで自社で判断しているのである。つまりイギリスはEUを離脱しないと判断している
何か正確な情報でまたは正確な世論調査でもない、マスコミで判断して報道している
この辺のことで原発避難者のことを自分は批判したがそれはNHKでまず避難者側につくということで番組を編集していたのである。
補償金で地元でも不満な人たちがいても避難者側についてかえってそういう不満を言う人を放送の中で批判させていたのである。
ただなかなかわかりにくいものがあり気づかないとういこともあった。
自分は地元だから変だなとしてプログに書いたのである。

要するにその土地の実情というのは外から見るとわかりにくいのである。そのことから全国に放送するときなんだ原発避難者が仕事を求めたのに断ったり仲間に入れないとか冷たいとみんな見る、不満に思っている人には何も言わせないからである。
だからマスコミでも報道は中立というのはありえないのである。
なぜならマスコミ自体がまず方針を決めてどっちの味方になるか決めて取材をして放送しているのである。

イラク戦争でも石油まみれの海鳥を写して世界中に放映した結果、イラクはひどいと世界で思うようになった。それはやらせでありその報道は事実でもなかった
アメリカのプロパガンダでありそのために海鳥が使われたのである。
そういう放送が意外と多いのである。自分たちの有利なようにプロパガンダとして海鳥が使われたように人間すら使われる、現実にシリアの戦争でもどれだけフランスでも飛行機で爆撃して子供まで死なせているかなどは報道しないという批判があった。
戦争なんだからフランス自国でも殺されてもしかたないという意見の人もいたのである。つまり放送は中立はなく常に一方的になるのである。
世界だとアメリカ寄りになるしヨーロッパ寄りになる、ロシア寄りにはならないのである中立の報道などないのである。

本当になぜ泡沫候補のトランプが大統領になったのか信じられないとなる
そうさせたのはマスコミだったのである。アメリカ国民の実情は違っていた。
その実情をみていた人はわずかだがトランプが大統領になることを予言していた。
でもアメリカの実情はどうなんだというとき外国だとわかりにくいのである。

いづれにしろ為替でも急に年末に上がったりしたのも予想しえなかった。トランプが大統領になれば円高になるとか株が下がるとか言われていた。
クリントンならそうはならないとクリトンの価値を予想していた。
ところがそうすでにマスコミがクリントンに大統領になってほしいからクリントン有利と報道していたのである。
「トランプ」あれは何なのだとか外から見るとなっていた。
そう思わせたのはマスコミの報道だった。
ただ今回はSNSのインターネットが底辺層にも普及してその影響があったとも言われる
でも英語など普通は読めないからその実情を知ることは容易ではない
たから外国だと余計にマスコミのかたよった報道を信じることになる

原発の安全神話もそうである。まず原発は安全だということしか報道しないようになっていたのである。それは権力と一体化してなっていたから一般の人も安全だと思い込まされていたのである。日本の技術は優秀だからチェルノブエリのようにはならないとかそういう安全神話を信じさせられていたのである。
だから原発が危険だという情報は極力出てこなかったのである。それはタブー化していたともなる、まず報道できないのである。

ともかく報道でも何を信じて何をみるべきかわからないのである。
情報がマスコミでかたよっているからそのかたよった情報の量が多いから自ずと今回はトランプでもそんな人がなぜ大統領になったのかという驚きになる。
要するにアメリカ国民も多様でありその多様なものをは報道しえない、マスコミの意向でクリントンが大統領になってほしいからその側について報道していたのである。

この辺でも実際は津波の被害者もいるし原発の被害でも避難民と化した人とそうでない人の左が大きいのである。まず補償金にすると格段の差があるから不満になったのである。そういう複雑な事情は外からわかりにくいのである。
だからNHKではそうした複雑な事情を報道するよりまず避難者側についた報道することを決めて取材していたのである。

トランプの勝利でもマスコミの報道する側の意向でトランプなどとるにたらない人だとされていたのである。それは原発神話と同じである。
事故なんか起こりえよがない、そんなことを言う奴は許せないとまでなっていた。
原発で働いている人は上の人から常に安全だと言わせられていたし地元の人にもそう言っていた。だから原発で働く人が多いのだから地元でも安全ではないとは言えなくなっていたのである。そんなことを言うと地元で村八分にもなりいずらくなっていた。
原発で給料をもらっているのだからどうしても東電側につくからである。

だから報道にはマスコミの意向であり国民の意向が世論がどうかはわからなかった。
いかにもマスコミが世論のようになっていたからである。それは操作されたものであり国民は別な意向をもっていてそれが現実の選挙の結果となったのである。
それでマスコミの報道でも一旦疑問にもつということが必要になる。
様々な見方や知識が判断するには必要になる

でも情報量が多いと人間は今度は判断するできなくなる
インターネットのように無限に情報が噴出するともうとても読めないのである。
ジャムでも種類が何十種類とあるとどれを選んでいいかわからず買う人がへるという。
もしその中の5つつくらから選べとなるとき買う人が増えたという
種類が多すぎると買うことすらできなくなるのだ。
スーパーでは種類が多いと本当に買うのに一苦労するのである。
だから情報にどう対処するのかは本当にむずかしい。
それで結局一方的洗脳によるナチスとかカルト宗教団体などが世間を席巻する。
題目や念仏を唱えればいいというのが一番簡単だからである。
ハイルーットラーが一番わかりやすいからそれによって煽動されて国まで滅亡するとまでなる。

情報というのは噂話でもそれが大きな影響を及ぼす時があるから怖いのである。
流言蜚語も怖いのである。情報の取り扱いを誤るとそれが致命的にもなる。
それは国単位だけでなく個々人の単位でも起きている、様々な情報の嘘に惑わされる
でも国際情勢とかなると自分だけで判断するのは本当にむずかしい、専門家でもはずれている。そうなると何に頼り判断すればいいのかとなってしまうのである。
ただ全面的にマスコミとか人の言うことでも信じないということが防衛になるかもしれない、ネットでは常にマスコミで報道したことをそんなことはないと否定するのが多い、事実でもないということを言うのである。
するとそうなのかなと考える、それだけでも何か一方的にマスコミとかの他の判断に頼らないことにはなるのである。
でも今回のトランプの勝利というのは誰も予想しえなかったというときいかに専門家ですらわからないのだから一般の人が知ることはできなかった。
裁判でもそうだが双方の言い分を良く聞くということが大事になる。
そしてわからないことは簡単に判断しないことだともなる。
簡単に白黒をつけるとういことが危険だとなることは確かであったのだ。





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2016年12月24日

鹿島の復興住宅に入る浪江の人と話する


鹿島の復興住宅に入る浪江の人と話する


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原町の雲雀が原の復興団地
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鹿島の復興住宅



シシドスーパーの隣の一軒家風の復興住宅に入る人がいたので聞いてみた。
二本松市から移る浪江の人だった。浪江の室原だとういう。
室原ではすぐ近くが閉鎖された地域だというから相当に放射線量が高い
その人も原発で働いていたのである。
浪江は三分の一は原発で働いていたしその関連で働く人も多かった。

「ここは一人では入れないと思った、何人か家族が入ると思っていましたが」
「自分の母親は死んだんです、今は自分一人です」
「すると母親が生きている時ここを申し込んだ」
「ここは抽選なんですよ、それでも空きが出るみたいです」
「空きが出るということはやはり家を建てた人がいるとか」
「そうです、県では計画を建てて復興住宅を建てたんですが事情がそれぞれ変わってんですよ」
「空きがでるということはもったいないな」
「こっちはあったかいからいい、二本松は寒い」
「ここは気候はいいですからみんな帰りたいですよ、浪江の人とは良く会うな」

その人は二本松で母親と一緒に暮らしていたが最近死んで一人になった。境遇が自分とにている。兄弟もいないらしい。あそこは一人で住めないと思ったがそういう事情があったその人も病気をもっているらしく医者のことを心配していた。
何でも避難のどさくさで死んだ人もいるらしい、病気になった人もいるらしい。関連死が結構あったことは確かである。
どうも六〇代なのかその辺りはみんな何か病気になる世代なのである。重い病気になる人もいる。だからあの人はもう浪江に帰らないと言っていた。
小高でもそうだがそういう人が多いのである。浪江にも復興住宅を建てたが帰る人は少ないのは小高と同じである。
ただ町の計画としては廃炉事業として長くつづくから宿泊所を街に作る、五〇〇〇人規模の街を作るというのを聞いた。
室原だったらもう住めない、イノシシに荒らされているというのはどこでも同じである。
浪江では二本松にはコンクリートの役所を建てたという。二本松市に浪江の町を作るという計画もあったがうまくいかないらしい。やはりそれは無理だったのだろう。
浪江も小高のように復興は容易ではない、町自体が崩壊の危機にさらされている
それで街の役人がもう勤務が忙しくて辛いやめたいという人もでてきている、外からの応援も減ったからである。
何かこうなると町を維持するための瀬戸際の戦いを強いられているとなる
でも若い人は新しく外に家を建てた人は帰らないとか小高と同じである。
だから復興することは本当にむずかしいと思う

ただ浪江と小高の事情はまた違っている、小高は復興するというとき南相馬市民であるから違っている、その点原町でも鹿島でも移り住むのは容易なのである。
そして小高に厳しく自分があたるのは南相馬市民として復興してもらわないと困るからそうなる。南相馬市の負担になってくるから市長も今は小高の人で復興してくれと言っている。
個々にかわいそうな人はいてもやはりいつまでもかわいそうだ被害者だとしたら復興などできない、それよりすでに小高から出て家を建てたり仕事を持ったりした人は小高とはもう関係ないのである。だからその人たちをかわいそうだから援助しなければならないと今も言っているのは納得いかないと自分はなったし市長もそう言っている。
そんならお前も南相馬市民だからお前が住めともなると言われるかもしれない。
それも一つの方法かも知れない、市営住宅に住んでいる人が小高に住めばいいかもしれない、空家があれだけあるから広い家に住めるからである。
ただ市営住宅に住む人は貧乏だからむずかしいことがある。固定資産税だって払えないとなるからだ。それなら税金を免除しても住んでもらうとかの手はあるかもしれない。

その人は来年一月までは移り住むという。あの人は浪江には帰れない、第一病気だから医者が近くにいないと困るからである。
六〇代以上になるとそういう人が増えてくる、だから小高でも浪江でも帰る人がそうした老人が多いとしたらなかなか復興はむずかしいとなる
ともかく原町では相当な数である。鹿島の復興住宅も五〇棟ある。
でもあれだけの復興団地ができても結構空きがでてくる、それは当初の予定では入る人がいたが帰らないとかで他に家を建てて別に暮らしがはじまっているからである。
そういう人が帰らない、そういう人たちは若い人が多いから若い人は帰ってこないから老人が取り残されてしまうのである。
でもあそこに移って来た人も年金をもらえるのか、補償金は再来年で打ち切られる、その後どうするんだろうとなる、そこも大きな問題となってくる
それは小高でも起きたことなのである。ギャンブルして金なくなったから貸してくれと福祉に相談に来た人もいたという。そういう人もいて自分は批判してきた。
ただ鹿島では小高の人を批判してきたが浪江の人はどうなるのか、やはりなにかしら摩擦が起きてくるかもしれない、これはまた別な事情があり変わってくる
こうして原発事故は福島県全体をまきこみそして全国をまで大きな影響を及ぼしたのである。
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2016年12月13日

明治以降エリート養成に失敗した日本 (なぜ一流大学で残酷なレイプ事件が起きるのか?)


明治以降エリート養成に失敗した日本


(なぜ一流大学で残酷なレイプ事件が起きるのか?)

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(週刊現代)

この事件を起こした学生は優秀である。頭だけではない、体力的にも優秀であり家柄も良かった。医学部となれば誰でも一目をおく、医学部は現代では最高のエリートなのである文系だったらどこの大学でも東大だってさほどでないとみれる
でも医学部は違っている。医学部は日本の最高の頭脳集団だと見られているのが現代である。

ではなぜそこでこんな事件が起きるのか?
根本的な問題としては別にこうしたエリートでなくても若いときは奔放なエネルギーが爆発するから若気の至りとして普通にある。だから特別なことでもないとなる
この人たちは体育系に所属していた,すでに頭脳も優秀であり体力もある若者だったのである。
だから自分などは頭脳もだめだ体力もないからうらやましいとなる。
そうなれば女性にもてるということがある。向こうからよってくる女性がいくらでもいるとなる
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こういうふうになり傲慢となってくる、三流大学だったりしたら女性もよってこないだろう。頭が良くて体力がありスポーツマンであり医学部であり将来医者となるとしたら最高だとなるのが現代である。
なぜこういう人がいるのか劣等生とか自分などは理解できないのである。
学力とか体力とかは生まれつきなものがあるとなる。そういう人はさほど努力しなくくても勉強できるのかもしれない、だから劣等生には理解できないのである。

でもなぜこういう若者がこんな事件を犯したのか?それは若気の至りであり特殊なことではなかったのか?
ただこうして優秀な人の問題は必ずうぬぼれる、傲慢になることなのである。
それを何度も指摘してきた。傲慢になることは一個人でもそうだが国家などでもそうである。「奢る平家久しからず」というふうにその傲慢が必ず滅びに通じいるのである。

だから若いときからそうして優秀だと非常に危険なものになってゆく、自分もふりかえると三流大学にしろ田舎ではまず一クラスから四五人しか大学には行けない、自分が行けたのは頭がいいからではなくただ経済的にめぐまれていたからにすぎない、それでも何か傲慢になる。その時代第一集団就職の時代であり金の卵としてクラスの三分の一くらいがそうなっていたのである。その差が大きかったのである。

ただ自分の場合は大学出ても就職もしない特殊なものになった。大学でてもエリートでもなんでもない、放浪したりして底辺労働者になっていたのである。
そうなるととても大学卒などというものではない、底辺労働者にすぎなかった。ホームレスのような時もあったのである。だからうぬぼれることはなくなった。
でももしその時大学出て恵まれた会社であれ公務員であれそういうものになっていたうぬぼれたものになったかもしれない。

だからこういう事件を犯す若者の危険はうぬぼれることにあったのである。
まず若いときに金がありあまっていたりうぬぼれたりする、高い地位についたりすることほど危険なことはない、若いときは望んでも苦労せよというのはそのためである。
ところがこうして優秀な若者はすでにうぬぼれたものとなっている。
人を見下すようになっている、そういう若者がやがて最も尊敬される医者になることは怖いことになる

なぜ医者とか看護師とかがすべてではいないにしろ嫌がられるのか?
今の時代は特別尊敬されるからだろう。
また病人になったとき弱者となったとき何か同情心に欠けてはいないか?
つまり傲慢だということはいくら頭が良くても謙虚さがなく同情心に欠けるからである。でも病人とか弱者を相手にするときは同情心は欠かせないのである。
そういうものがないとしたらいくら技術的知識的に優秀でも怖いとなる
だから自分は病院が怖いとなる、もう苦しいけど病院には行きたくないとかその前に死んだ方がいいとまで思うようになったのである。
それは病院だけではない社会全般に言えることである。
なぜこれほどブラック会社が多いのか?人を人としても見ていない、働くロボットとしか見ていないからかもしれない
そういう非情のシステムの中で働いているのが現代なのである。

つまり医者になる人は今や優秀でもそういう若者が多いとなるから困るのである。
若いとき何でも下積みで苦しみ下々のことをわかる人が上に立つの理想なのである。
結局日本はエリート養成に失敗したである。
それは江戸時代から明治になったとき起こったのでありそこに原因があった。
江戸時代はエリートは侍だったけどその人たちは高いモラルをもっていた人たちだった。
そして江戸時代は不思議なのは寺子屋の先生でもその人柄がいい人とかで決めていたのである。知識とかではなかったのである。医は仁術というのもそうであり医者はその腕よりモラル的なものを重視していたのである。
だから医者は人情に厚い人が多く例え技術がなくてもそれでいいとしていたのである。

今は全く逆なのである。民衆が望んでいることはそういうことではない、教育だったら先生だったら例えば英語がどれくらいできるのか、数学がどれくらいできるのか、専門知識がどれくらいあるのか、そういうことしか見ていない、人柄とかモラルは関係ないのである。
だから江戸時代というのは不思議だと思う、それはあらゆる分野でそうである。
江戸時代の方が入会権であれなんであれ私有という概念がない、共有しかないのである。明治になって私有権が異常なほどに主張するようになったのはそれが認められたからなのである。それが自然破壊とか原発問題にも起きていたことを指摘した。

江戸時代が遅れた時代とされるけど明治になって西欧文明が入ってきたとき日本にあったもの、いいものが失ったことを今考えねばならない、そして第二次世界大戦でも日本がアジアに進出したのは吉田松陰であれ西郷隆盛であり征韓論者でありアジア進出者、侵略を公言していたのである。
現代の問題の根はさかのぼれば明治維新にあったとなる
それで福沢諭吉は学問を出世の手段とした。東大出が法曹界だ支配するようになったり官僚支配の構図も明治にできたのである。その時江戸時代の侍はいなくなっていたのであるそのことが現代の腐敗の原因だったのである。侍はモラルを一番重視していた人たちである。
だから改革というとき江戸時代を見直す作業が必要になるのである。
内村鑑三は西欧文明はキリスト教文明だからキリスト教を導入しないと日本は滅びるということを予言していたのである。
江戸時代は儒教であれモラルを最優先した時代だったとしても社会がモラル的には安定していたとなる

日本は明らかに明治維新からエリート養成に失敗したのである。それが戦争の敗北とかに通じていた。それは現代もその構図は変わっていない、教育でも医学でも科学でもモラル喪失の時代を生きているのである。
もちろん支配階級がそうなのだから下々も当然モラルなどなくなっている、人情もない世界になったいる
だからこれからの問題としてエリート養成の問題がある。その改革をどうするのか?
それが大きな課題なのである。
タグ:レイプ事件
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2016年12月12日

鹿島駅の入り口の戸が重く開閉しにくい (南相馬市市役所に相談したが・・・)


鹿島駅の入り口の戸が重く開閉しにくい

(南相馬市市役所に相談したが・・・)

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錆び付いて重い 

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鉄塔が建ち八重桜は切られて残念



最近毎日鹿島駅に行って外からの人と話したりしていたので駅のことが気になった。
今日は十人くらいかJRの水戸管理局の人たちが来てみていた。
もったいないのは八重桜の木をみんな切ってしまったことである
鉄塔を建てたため切った。やはり駅はやはり街の象徴としてあった。

その入り口の戸は相当に古くなっている、さび付いていて重いのである。
冬だと寒いからいちいち開けたり閉めないといけない、改札口はあいていても入り口も開けていたら寒いからである。
それでそれが開けたり閉めたりするとき重いからやっかいになる
それは利用する人がみんな思っていることである。

今回仙台まで開通することでいろいろ新しく整備したからそのことで聞いてみた。
一応聞きはしたが別にそれで直すとか上の人に言いますとかは言わない
それで市の方に相談した。そこはJRの管理になるので市の方でもどうにもならないですとか言った。
それもおかしいと思った。なぜならみんな市民が困っていることだから市の方でもなんらか対策があってもいいと思ったからである。
これは自分一人が思っていることではないみんな不便を感じていることなのである。
それは市民の要望なのである。

ただJRの土地でありJRのものだから市ではなにもできない、市民も何もできないとなったらこの世の中どうなるのか?
JRでも公共機関であり民営でも公共のものである。そういうことは会社なら必ずある。
会社ならなんでも勝手にしていいとはならないのである。
反面そういうふうに公共的なものとなると利用する方も維持することに尽力する必要が出てくる、なぜなら民営となると利益が出ないならやれないからである。
「迷惑にはなるでしょうが予算がないんです」とかなればどうにもならなくなる
前は国鉄であり国で運営していたから違っていた今は利益を出ないことはしない。
だから北海道の鉄道は運営できないので廃止になってゆく、そういうふうに利用する方も考えることになる

明治以降はかえってこうしてみんな民営になり私有権が認められ主張するようになった。それは過剰なほどそうなった。それで補償金がもらいたくて自分の家の前の海は自分のものだ、私有権があるとまでなって主張したのである。
海は誰のものだとなればそれは本当に漁業する人たちのものだけなのか?
それで民間で勝手に魚釣りをできないと不満を言う人がいた
資源を守るためだと大義名分はそうでも原発事故でそうではなかったからである。
船主などが漁業権を東電に売り渡していたのである。
海を売ることができるのか?海は漁業権をもっているもの達のものなのか?

そういうことは原発事故ではいろいろあった。
極端な話が原発を建てた土地の所有者と県の許可で原発が建てられたことになる
その土地は俺のものだから何も言うなとまでなってししまいこんな大惨事になる
そして双葉町でも大熊町でも富岡町でもそんな狭い範囲で勝手に決められていいのかとなった。
現実に今やそういう人たちが避難して立派な家を建てることに回りの人が不満になったのである。原発はとてもそんな狭い範囲の人たちで決められるものではなかったのである。
土地とか山でも森でも大地でも海でも公共的なものでありなかなか一所有者のものとなりにくいのである。海だって大地だって山だって森だって自然は一つのものとしてつながっているからである。
飯館村で自分の土地を除染するより売りたいというときもし売ったらそこが放射性物質の処理場にされると今度は回りに影響する
現実に放射性物質を入れたフレコンバックが破れて流れだしたら南相馬市にも流れてくるのである。真野ダムでもそうである。

海にしてもあれだけ汚染されたのである。そして東電の前の海は誰も立ち入ることはできない、漁業権を組合で売ったからである。東電の私有地になったのである。
何か私有地というのは明治以降増えたのである。
猪苗代湖でも一部私有地になりバンガローなどが建っている、迷って入ったらしかられたそういうふうに自然を私有することができるものなのか?
それで山でも無数に分割して私有化された結果として土砂災害でもふせぎようがなくなる俺の山だから勝手に木は伐っていいとかなるとそこから土砂災害が起き安くなる。
森も山も全体だからである。

いづれにしろ鹿島駅でもJRの所有地だから全部勝手にしていいとはならないだろう。
街の景観としても維持する必要もあるし街全体の問題なのである。
それはあらゆるところで言えることである、私有権をあらゆることに認めると公共性が失われる、そして公共性のないものはこの世にない、一軒の家をもってもそこには自分のものだけとは言えない,それが空家化するとわかる、周辺に影響するのである。
何かそういう公共的志向がかえって明治になって民主主義化して失われたというのも逆説である。
原発でも何かそういうふうに漁業者でもただ利益しか追求しないで私有化して海を東電にうりわたした。巨大な会社に海が買われてしまったのである。
そういうことはグローバル化して世界で起きた、巨大な多国籍企業に森でも自然でも買われるのである。
第一そもそもが東電によって政府によって双葉町とか大熊町とか富岡町は町ごとが買われてしまっていたのである。それほど東電が大きな会社であり政府もかかわっていたからそうなった。

公共的なもの自分の住んでいる市町村に関心をもつのは日々の生活にかかわるからである毎日駅に行くとして戸を開閉するのに難儀するとなると嫌だとなるからだ
ただこういう身近なものは気づきやすいが大きなものにると原発とかなると立ち入ることも何もできない、その回りに住んでいても何もできない、ちょっとのぞくこともできないその回りに住んでいても一番危険地帯に住んでいても住んでる人は何もできなかったのである。



1898年(明治31年)4月3日 - 日本鉄道の駅として開業。

乗車人員推移
年度一日平均乗車人員
2000 596
2001 564
2002 530
2003 522
2004 524
2005 484
2006 461
2007 434
2008 430
2009 405
2010 378
2011
2012 293
2013 313
2014 299
2015 318

鹿島駅は開業当時からの古い駅舎らしい。だから相当に古くなっている
乗降客を見ると2000年に600人であり震災前の2010年にすでに378まで減っていた。
震災後は半分になっていた。
でも2015年には318になっているし仙台まで開通するとなると増えるかもしれない、
津波原発事故以後外から来ている人が結構いたからである。

岩手県の区界(くざかい)は一日の乗降客が一人しかいない、あそこは雪に埋もれていて岩手県の境だった

一日の乗降客が300人はまだ多い方である。でも鹿島駅でそんなに乗降客がいるようには見えない、なんか10人程度しか乗り降りしていないからだた。
ただここは300人以下にはならなんかもしれない、10人とか20人となると厳しいとなる。

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2016年12月07日

アメリカの国の成り立ち (トランプがメキシコに壁を作るは万里長城とにている)


アメリカの国の成り立ち

(トランプがメキシコに壁を作るは万里長城とにている)


牧場経営というのは 
治外法権の行使なんだよ 

移動保安官がいつ来るか分からないから 
俺たちが法律だ!みたいな意識が醸成される 

理性よりも恐怖が支配的なのが北部13州 


アメリカというとき国の成り立ちが他の国とはまるで違う、なぜ未だに銃にこだわり個々人が銃をもっているのか?
それがその国の成り立ちでそうなっている。
それは西部劇にあるようにアリリカは「荒野のガンマン」だったのである。
荒寥とした西部の広大な土地に牧場をもつとしてもそこには守る人がいない
それで良く西部劇で保安官がいてもそれだけでは守り得ないから住民が一体となって敵と戦うのである。そこには守る警察組織もなかったのである。
それで広大な牧場をもっていても自営するほかない
そしてそこに入ってくるのは見知らぬ人であり常に警戒していなければならない、常に銃を携帯して油断できない、これがアメリカ人のアイディンティティを作っている
日本だったら相当に古い時代から村があり何かそこで守られているものがあり治外法権の場がほとんどなかったろう。
侍は確かに刀をもっていたとしてもそれは一部であり全員ではなかった。
アメリカでは全員が銃をもっていないと暮らしていけない社会だった。
こういう社会に生きることは絶えず恐怖の中に生きていることになる
そして移民社会であり見知らぬ人が絶えず移民として流入してくればその人たちも信用できない敵と化しやすいのである。

そしてなぜメキシコ国境に移民が入らないようにするため壁を築くというトランプの主張がでてきたのか?
それはメキシコから流入する労働者が増大してアメリカの白人のアイディンティティとかが破壊される、オハイオの女性はメキシコ人と接してすスペイン語をしゃべるのに苦慮しているという。英語も通じない人たちが膨大に流入してきている
何か人間の共同の核として言葉がある。その言葉が通じないとなると意志疎通が困難になる。そこに誤解が生まれ争いになりやすい。
国はやはり日本でもどこでもそうだが建国した指導的階層が最初はいる。
それは別に階級制として支配したとかならない、そういうエリートがいないから国も作れないしありえないからだ。
だからアメリカの最初の建国者は英国系であり英語を話す人たちだったとなる。
そういうもともとの開拓者として入ってきた白人が今やメキシコから入ってくるヒスパニックの人たちに浸食されてゆく

だからトランプがメキシコに壁を作るというときそういう危機感が生まれたからである。中国でも古い時代から万里長城を築いたように絶えず異民族の侵入になやまされてきたからこそである。
それは地理的に陸続きだということが大きな影響をもたらした。
それがアメリカで今起きているのである。
最大の課題は陸続きのメキシコとか南米諸国との関係でありそこにアメリカのエネルギーはこれからそそがれてゆくからそういう時代だからトランプが生まれた必然性がある

メキシコ人の帰化率はすべての移民集団のなかで最も低い、ハンティトンは国家は「記憶された共同体」だと延べている、メキシコ系アメリカ人はアメリカの人口の12・5パーセントをしめその大部分が南西部のメキシコに隣接する地域に集中している
彼らはアメリカ史上はじめて国民の歴史的記憶を修正しつつある。
「地政学の逆襲ーロバート、D・カブラン)

個々人でも人間が最後は記憶になる。記憶されたことが人生なのである。それは国とか民族になっても同じである。過去の記憶を共有することが共同体でありそれが国家であり民族である。日本人だったら二千年の歴史があり記憶を共有している共同体だとなる。
それは最近近くで死んだ三人の大正生まれの女性のことをうを語った。
自分の母親もいて三人はいつも自分の店にきたりしていたのである。
それで最近同級の息子が残されて供養に行った。そこに記憶を共有するものとしての連帯を感じたのである。
つまり村というものも一代ではなりたたない、何代も積み重ねてきた歴史がある
そういう共同性が失われたとき、原発事故のようにその土地に住めなくなったときどうなるのか?それはアイディンティティの喪失になり精神的に意外と深刻なのである。

例えばシリアとかでも難民化して他国に移住するときそこでアイディンティティをもつことは時間がかかる、第一もうそういうアイディンティティをもつことを拒否してイスラム社会のアイディンティティにこだわりその国の歴史を無視する
それは今アメリカのメキシコ人がそうなっているからアメリカでは万里長城を築くとトランプが言っているのだ

地政学的な見方としてはアメリカは有利だった、陸続きではない、島国のようになっていて陸続きの中国とか他の国とは違い対立をまねがれていたのである。
現実にロシアがあるとしてヨーロッパは陸続きなるが故に古来から異民族の侵入になやまされてきたのである。その継続としてロシアがある。
そういう地政学的なものからは人間は逃れられない宿命になっているのだ。
人間はものを考えるときでも自分の住んでいる場所がそこが田舎であっても中心として考えるのである。
福島県でも会津と中通りと浜通りとあるとき会津は会津一国として昔からあっり考える
歴史を理解するのには地理の理解が欠かせないのである。
だからあらゆる学問の基礎に地理がある。それで地歴となったのである。

自分が日本はくまなく旅したが外国はしたのはしたがとても外国となると地球となると広すぎるからできなかった。地球を知るとなるとこれは時間がかかる、とても百年くらい生きてもわんかりえようがないのである。
川を知らないと外国は理解できないと書いたがまさにそれが地理だからである。
アメリカは地理的に有利な立場に今まではあった。
陸続きで他国からの侵入がないということである。それが今メキシコからの移民で苦しんでいる、それは陸続きの大国が歴史的に経験してきたことである。
それが万里長城を作ったからである。その歴史の再来がトランプの壁を作るということであり歴史はくりかえすということにもなる
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2016年11月16日

トランプが勝ちマスコミが負けた? 世の中先入観を破ることが一番むずかしい


トランプが勝ちマスコミが負けた?


世の中先入観を破ることが一番むずかしい


トランプというのは名前もはじめて聞くし日本ではほとんど知らなかった。アメリカでさえ泡沫候補だった。それがなぜ大統領までになったのか?
そのことが本当に不思議だとなる。
ヒラリーは知られていた、日本でもあれだけ知られていてトランプなどはじめて聞く名だから当選するとは思えなかったのである。
余程のアメリカ通でないかぎり予測は全くできない
そしてただ自分は傍観していただけだとなる
アメリカがイラクを攻撃したときは自分は「時事問題の深層」で人権的な立場から平和の立場から反対した。今になるとそれは正しかったとなる。
それはほとんど別に読まれていないし影響力などなかった。
ただ自分ながらあのときの判断は正しかったとなる
アメリカは確かに3・11のテロで大被害だったけどそれ以上にアメリカは世界に被害を与えていたからしょうがいないと見る人たちも結構いたのである。
世界でもそうである。たからまた力にまかせて他国を侵略するのかとなったのである。

しかし今回のトランプだけは事前の情報もないし皆目わからないことだったのである。
ただ暴言だけが取り上げられてマスコミで攻撃されて印象悪くされていた。
だからこんな人が大統領までになったということが驚きなのである。
それはなぜなのか?マスコミを大衆が信用しなくなっていたことである。
あれほどトランプが攻撃されても通じなかったことが驚きだった。
マスコミは完全にヒラリー側に規制勢力、既得権をもっている側についていたのである。知識階級はヒラリー側だったのである。

日本でも原発事故でわかったように情報でも権力をもつものに左右されるのである。
原発の「安全神話」を作られたのは政府も官僚も科学者もマスコミも全員で作られていたのである。そこに創価などカルト宗教団体もそうだった。
なぜなら聖教新聞の広告費用を二番目くらい東電からもらっていたからである。
こうなると政府であれ東電であれ原発に反対することはトランプのようになる。
だから左翼系にはなるが原発を東京に作れとか原発は危険だということを本まで出していたが隅の方に追いやられてほとんど注目されなかったのである。
自分も東京に原発を作るというときSFのように見えたのである。
それほど「安全神話」はあらゆる手段で権力で強固に作られていたのである。

これは地元でも利益になるから反対すると住めなくなるような状態にもなっていた。
地元の新聞でも雑誌でもみんな安全神話に加担していたのである。
「財界ふくしま」が一時原発の危険性を指摘したがあとでやめたというとき東電から金が入ったためだとか言われる、それもそうである。あういう地方の雑誌とか新聞でもそれてりに金がかかるのになぜ経営できるのかとなると東電の宣伝費は他の会社の百倍もの金が入るとなれば批判はできないのである。
だいたいどうして地方の新聞社が経営が成り立つかとなると福島民報は聖教新聞を刷っているし大手の毎日新聞もそうである。経済的にもこうして巨大なカルトでも権力をもつものにおさえられているからもう公平な報道はできないのである。
こういうふうに情報でも報道でも常に権力によって操作されているのである。
戦争のときも日本が大敗しているときでも勝っているとか大本営発表に終始したことでもわかる。大本営発表がいかに危険なものかわかる、その情報はもう日本がもう負けて戦いない状態でも勝っているとしていたのである。
原発事故のときもメルトダウンが明確になっていても御用学者がメルトダウンしていないとマスコミで主張していたのと同じである。

だからこうして既得権をもつ権力により情報が操作されるというときなぜトランプが勝ったのかというのは不思議だとなる、一つの勝因はアメリカでは民主党の次は共和党なるという暗黙のルールがあるからだということで予測していた日本のジャーナリストがいた。日本ではそうしてトランプが勝つと予測していたジャーナリストとか学者は数人しかいなかったのである。そうなると日本だって政府でも予測できないものとなっていて失敗したとなる
それがなぜなのかとなるとアメリカですらマスコミの信用が落ちたということである。
マスコミの報道を鵜呑みにしている人がアメリカですら減った、信用しなくなったことである。このことも大きな変化だったのである。
日本ならNHKとか絶大な力をもっていたが今ではNHKすら批判の対象になる。
それはネットが生まれて普及したことも原因している
NHKの一方的な報道に疑問をもつ人が増えたのである。
別に民主主義は報道の自由がある、だから報道してもいいが報道するというとき今まではマスコミしかないしNHKが一番影響力をもっていたのである。だからその報道に左右されてしまっていたのである。

だからトランプが泡沫候補として現れて大統領になったということは奇跡的だった。
マスコミの50社がヒラリーについていてトランプは3社しか報道しないとか攻撃されていて勝ったのはいかにマスコミの影響力が低下したかということである。
マスコミはネットがでてきてただの民営の一私的報道機関になるかもしれない
それよりもともと新聞社でも地方の新聞社でも何か錯覚しているのは公共的報道機関と錯覚していることであった。
だから新聞とかテレビにでるだけで知名度があり力をもつようになったのである
その中味はどうでもいいのである。それで石原慎太郎でも舛添でもみんなマスコミに持ち上げられた人が東京都知事になって今の問題を引き起こしたのである。

一見個人が大きくなるのは個人の力のようでもマスコミの力だったりするし有名になるのは背後に必ず団体の組織の後押しがある。
仏教系だったら戒名商売だなどということはマスコミでといえない、個人として仏教系の人が発言していてもそれは仏教界がなんらか圧力をかけているし個人もその仏教界を代表していっているから同じだとなる。創価は露骨だが方も同じなのである。
背後の権力団体組織の力なくして発言力はもてない仕組みになっているのである。在日団体が背後にあったりするのもそうである。
なんらか背後の権力が関係している、その背後のさらに大きな権力がアメリカだったり中国だったりする
原発を批判するのにも個人ではできなかった、左翼系の団体が背後にあってできた。
となると科学的真理とか公正とかも関係ないの手ある。反対する人は左翼のレッテルがはられ右翼からすると信用できないとなる
そういう科学の問題も政治的な問題にされたことに不公正が生まれたのである。
科学的なことは地動説と天動説のように曲げられないものでも結局カトリック教会が権力側にあったとき否定されたのである。
科学ですら政治とか権力によって曲げられるのである。そこから原発事故も起きたのである。
もともと政治的意図で作られたものでもあったからである。


そのマスコミにのせられたのが東京都民であり大衆なのである。
そういう洗脳するために権力側はマスコミを金で操作する、宣伝費を払い操作する。
創価などは池田大作が新聞は歴史だとかいって非常に重んじていた。
新聞で宣伝することは大きな力となったからである。
だからこそ新聞社で聖教新聞をすらせて批判をおさえるのである。
そうしたマスコミは原発でもそうだがトランプでも同じようにとにかく権力側につくから公正な報道などありえないのである。
つまりただ私的利益を追求する一会社なのだということを認識すべきである。
自分の会社の利益にならないことは報道しない、不利益になる人の意見をのせないのである。

そして人間はそうして先入観として大衆を洗脳する。先入観というのは固定観念化するのである。地動説から天動説になってガリレコが教会から迫害されるようになる。
科学とはこの固定観念を先入観を破ることから始まっている。そしていかに固定観念を破る事かむずかしいかである。それは深く人間に植えつけられているからである。
地理でもまず人間は固定観念に縛られる、海からしか陽が昇らないのを見ている人は山から陽が昇るのが驚きになるし日本海に陽が沈むのも驚きになる。地理的なことは世界になるとさらに驚きがあることも同じである。

自分がユニットバスを作るとき会社の人が実は色がいろいろあっても白を選んだ。
それはなぜか?ホテルなどに泊まると必ずバスは白なのである。
それでユニットバスは白が普通なのかと思ってしまった。でも別にいろいろな色があり白はかえって汚れるから他の色を選んだ方がいいと知っている人が言ってそうだったと失敗したのである。
バスは白だという固定観念、先入観があってそうなっんたのである。
別に色々な色があるのだから選べば良かったのだがその時は良く考えないで選んだ
その時時間の余裕がなかったこともある。
それで先入観で白のユニットバスを選んでしまったのである。

時間がなかった、先入観で選ぶ

これはあらゆる場面でそうなりやすい、選挙でもトランプって何なのだろうと考える暇もなく何かを言うこともできないのである。
あらゆることについて事件がいろいろ起きても考える時間がないから先入観で判断しやすいのである。もともと知っていることならその方面に詳しいなら判断しやすいがいろいろなものに通じることはできないからである。
すると先入観で物事は判断しやすいのである。
そして時代は常に変わっている、自分は水道でガスでも管は鉄だと思っていたがすでにゴムのような伸縮自在のものなっていたのである。
そういうことはみんな知っている、でも技術的なことでも知らない人は知らないのである。
特に老人はそうした技術的なことには遅れるし知らないのである。
スマホしていない人はそのことを知らない、自分はハソコンをしていてもスマホをしていないからその方面のことはわからないし車を運転しないからそこでわからなことがかなりある、ユニットバスにいても全く無知だから判断できないことがあった。

ともかくトランプが勝ったということは今でも不思議である。
それはいくらマスコミで洗脳してもアメリカ人がグローバル化で得していない、不満な層が思っていた以上多かったという現実がある。
移民を禁止しろというとき現実に移民のために職を奪われたとか低賃金化したとか実被害がありそれはいくらマスコミで洗脳しても現実がそうなのだからヒラリー側にグローバルで得している人たちには入れなかったともなる
トランプの暴言がただの暴言だったら勝てない、現実に苦しむ人たちに訴えたから勝てたのである。
ただマスコミの凋落は今回のことではっきりしたことは確かである。



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2016年11月13日

トランプ大統領になったのはなぜなのか?(2) アメリカと共に沈みゆく世界(カレル・ブァン・ウォル・フレン)を読む


トランプ大統領になったのはなぜなのか?(2)


アメリカと共に沈みゆく世界(カレル・ブァン・ウォル・フレン)を読む


トランプがなぜ大統領になりえたのか?それは世界でも日本でも予測外だったしアメリカ自体も予測していないものだった。
ただその背景に何があったのかとなるとそれを解くのはアメリカで何か起きていたのか?
アメリカ社会とは何なのかということを知る必要がある。
ではどうししてアメリカを知り得るのだろうか?
それは様々な人が言う意見がありテレビの意見がありネットの意見がある。
実際に行ってみて知るというのも一番有益だがそれが限られている人しかできない、一番知っている人はそこに住んだ人である。

メデアというときテレビは常にセンセーショナルメデアでありその影響が大衆にはあまりにも効果的だから危険なのである。
第一大衆は考える能力がない、テレビは考えなくても見ることだけだから楽なのである。ただその危険は一方的になり洗脳されることなのである。
この本はアメリカのことを指摘しているが日本のことでもあり世界のことでもある。
世界はグローバル社会になったときやはりなにやかにやあっても世界的共通認識と価値観が生まれた、経済的にはそうである。みんな豊かになりたい、文明の道具を使い電気でも車でも使い便利な生活をしたいということは反対するものがあったとしても極少数であるパンが贅沢などと山尾三省のような極貧の生活を誰も望まないのである。

宗教というとき他にも価値観の相違はあるがイスラムだってその文明を否定しているのかというとしていない、ただそうした豊かな生活をできないということで不満でありテロにもなっているのである。
この本で価値観が違うから共同できないというときその価値観は何なのかということを言っているので自分もそのことを書いたので考えさせられた。
つまりこうして本とか熟考して書いているから考えさせられるのでなしる。
テレビとかでは何かこういうことがない、絶えずセンセーショナルな断片的な意見の表出で終わる、テレビは考えさせないメデアである。
洗脳されやすいメデアである。映像時代はさらにそうである。イラク戦争で油まみれの海鳥を写したとき世界ではなんでイラクではひどいことするんだと感情的になったのである映像は人間を感情的にするのでてある。

今回のトランプが大統領になったというときもむずかしいことをいうより感情を刺激することで成功した。過激な発言に感情的に共鳴する人たちがいたのである。
アメリカではグローバル化してその恩恵をこうむったのは極一部でありIT関係とか金融関係とかが巨万の富を得たが他は中産階級は没落したのである。
移民を受け入れてもうかるのは多国籍企業であり元から住んでいた白人の職も奪われたとなる、移民を入れることで低賃金化してもうけは多国籍企業に入るのである。
そういう不満層が思った以上多かったということである。
だからトランプの過激な発言に感情的にも反応したのである。
ナチスがユダヤ人を敵視したときもユダヤ人が自国で金儲けしているということでそれをあおったのである。

政治のフロパガンダで有効なのはこうしして一部の人が巨利を得ているとかその的をしぼって攻撃することである。
それは世界でもイラクを敵としてアメリカが攻撃した手法ともにている
要するに大衆にとっては感情的にすること敵をしぼり攻撃対象わかりやすくすることである。
常にそういうことは大衆を味方にするときカルト宗教団体でも行われる、こういう団体は考えない集団だから余計にそうなるのである。
現代では世界共通としてメデアがその役をになっているのである。
アメリカでもそうなら日本でもそうである。メデアがどうししてそうなるのか?
それは企業から金をもらっているからそうなる。
アメリカでも日本でも同じ構図なのである。ただ自分たちの利益になるようにしか行動しない、政治家も官僚もメデアもそうである。それで原発事故でもそうだったことは書いてきた。

アメリカとか中国とかロシアでもそうだが巨大な国では矛盾したことが巨悪が露骨になるアメリカの富裕層は数はパーセントでもその富を独占する。中国でも共産党が平等ではなく幹部が巨利を得て富裕層になっている。それはかつての王様と同じなのである。
大国はそうなりやすいのが歴史的にでもそうである。日本ではそうした差は露骨なものとしては生まれにくいのである。
奇妙なのは

だかなににもまして悲惨なのはアメリカの刑務所の民営化だろう
国家の刑罰を儲け主義の民間企業にゆだねれば商業上の理由からさらに多くの人間を罰せねばならなくなる

刑務所にいるアメリカ人の数は50万人ほどでところが今は500万人ほどが獄中にいて700百万人が矯正施設にいる

これもアメリカならではで驚きである。銃をもっているから犯罪にもなりやすい。
前にも書いたがその刑務所で服役している人が安い賃金で労働させられている、
それによってまた企業が大きな利益を得ているのである。

だから犯罪者を多く作り出すことで大きな利益が出るとしたら

もっと犯罪者を作り出せ

こうなるから怖いとなる、それは軍需産業でも同じである。

もっと戦争を起こして武器を売れ

現実にそういうことがこの資本主義社会にはまかりとおっている。

薬剤関係なら

もっと病人を作り出して薬を買わせるようにしろ

会社がもうけるためならなんでもいいというのが今の社会にもなる、それは世界的なことである。政治ももうそうした多国籍企業の下僕になっているのが現状であると指摘している。

「彼らの最大関心事は自分が出世するためには、どうふるまうことが一番有利かという点であるからだ。彼らの行動をみればその背後の政治やビジネス、学界、あるいはメデア、そして軍部の中にアメリカの戦争によって利益を得る大勢の人間がひかえていることになる。かつての政治エリートに取ってかわり新たにその地位をしめるにいたった。
そして彼らの権力、威信、収入は戦争が今後も続行されることにかかわっている。」

まさにこのことは原発事故のことで自分が書いてきたことである。ただ利益になるということで政治家から官僚からマスメデアから科学者でもそうだった。
もちろん住民もそうだったからあらゆる人がただりを求めることだけになりこれだけの被害を受けたのである。
利が権力を生みただ利によってすべてが行われるときそれが危険になる。
利というのはこれだけは誰でもが求めるものだからである。その歯止めとなるものがもはやないというとき原発事故も起こるし戦争も起きる


人間は利から離れられない、そこから過ちを犯す,義とか何か科学的な真理でもいい、そういうもので動かないのである。
科学者すら利で動いていた。それが原発事故になった原因にもなった。
御用学者とか御用マスコミとか御用官僚とか政治とかなる。
卑近な例でも自分も失敗した。
それは自分もなんらか親戚のつきあいでかたよった見方をしていたためである。
母親と娘がいたが母親がひどいと思っていたが実際は娘が本当にひどい娘だったの
である。だから「ひどい娘だ」と言って死んでいったのである。
双方のことを良く聞けばわかったことだがそういう関係になかったからである。
こういうことは常に起きている、事件の当事者とか利害関係があると判断を誤る
でも実際の世の中ではなんらかみんな利害関係で結ばれているから公平な判断ができないのである。
本当に公平な裁きができるのは神しかないとなる
神はは偏り見ないからでてある。
なぜなら人間は公平に見れないからである。それは利から離れられないからである。
ジャーナリストでもそうだしマスメデアでもそうである。
巨額の宣伝費などをだしているのは企業だとなると企業の意向に従わざるを得ない
それは政治でも起きているから大統領にどれほどのことができる権力があるのかとこの本では問うているのである。

いづれにしろトランプがなぜ大統領になったのか、その背景にはアメリカ社会のひいては世界のグローバル化による格差社会化した歪みがあった。
ではトランプが大統領になってそうしたグローバル社会の歪みが是正できるのか?
それはもはや大統領だけでばできるものではない、トランプもまたオバマのようにそうしたグローバル社会を牛耳る極一部のものに操作される
第一大統領でも何でもできるわけではない、この書ではオバマがそうなったとこを指摘している。ただ飾り物のようになっていたのである。
実際の権力を動かすものはその背後にあってオドマばなにもできなかったと批判しているからである。だからトランプがあれだけ過激なことを言ってもやはりそれだけの権力が今はアメリカ大統領でもないとしたらオバマと同じようになってしまうということもありうる。今やアメリカ大統領てもそれほどの権限をもちえないということになったからである


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2016年11月10日

トランプの勝利はなぜ? (グローバル経済は誰のためなのか?)


トランプの勝利はなぜ?


(グローバル経済は誰のためなのか?)


世の中のことはむずかしく考えたら限りなくむずかしくなる、単純に考えるとそれはそれなりに理が通りわかりやすくなる、それでトランプが受けたのである。
みんな学者でもないしジャーナリストでもない、投票する人は日本でもそうだが普通の庶民であり労働者なのである。
第一新聞すら読まない人も多いのがアメリカだと言われる
だからグローバル経済や多国籍企業や株をしている者だけがもうけているのか、なんら自分たちには恩恵がなく格差社会にアメリカもなっていたのである
そういう不満が根強く底辺にあったのである、中産階級が没落したというのもそうである白人の労働者が職を奪われているのもそうである。
アメリカを作りアメリカに住んでいてアメリカの恩恵も受けられないのがグローバル経済だったというのも矛盾だったのである。
恩恵を受けたのは多国籍企業でありウオール街の株をしている人たちだけでありそこで巨利を得るものがありあとは何の恩恵もない、かえって貧乏になり没落したのがアメリカだったとなる。
グローバル経済自体がアメリカ国民全般のためでもなかったのである。
一部の多国籍企業とか株をしている人たちだけのものだったということでヒラリーが負けた、ヒラリーはそうした既得権の上に成り立っていたとみられて嫌われていたのである。

物事を単純に考えるとグローバル経済というのは誰のために働いているのかわからないのである。規模が巨大だからもう金の流れも何もわからない、世界市場では株ではただ数字だけを動かして巨利を得るものもいる、そういう世界はほんのわずかの人しか利益を得ないのである。それで世界の富が数パーセントの人に吸い上げられるだけだとなる
そういう不満がアメリカにもあったということである。
グローバル経済はアメリカ国民が均等に利したものではなかったのである。
アメリカの極一部のものが利しただけだとなっていたのである。
マスコミとか知識階級とかはそうしたグローバル経済に組みして利益をあげていたから30社がトランプを批判していた。3社しかトランプをとりあげなかったとかなる。
アメリカのマスコミもそうしてグローバル経済は多国籍企業から宣伝費をもらい成り立つからそうなる。それは原発でも東電から宣伝費として金をもらっていたので日本のマスコミが「安全神話」を作るのに加担していたのと同じ構図だったのである。
アメリカのマスコミも同じだったのかとネットで批判されている
つまり世の中金で動かされているというのも常に現実でありヒラリー派にはそうした多国籍企業であれウオール街であれ莫大な献金が流れていたと指摘され嫌う人たちが多かったということである。

トランプの言うことは過激でも何か一理あった、日本はアメリカが何かあったとき助けない、でもアメリカは日本が何かあった場合、戦争でもなったら一方的に助けなければならない、アメリカ人の血を日本のために流さねばならない、これも一方的でありアメリカ側からみれば不満になるのも確かなのである。同盟関係だったら対等だからである。
日本もこの際アメリカに頼るだけではなく独立して防衛するべきだという論議がでてきたのもまた今までもアメリカに頼るだけでは守れないということがあるからだ。
今までは敗戦国であり冷戦とかあり従属していたが今度は独立をかえってアメリカから求められるようになったということである。

ともかく物事はむずかしく考えたら限りなくむずかしくなるのである。
つくづく自分の経験では「「遠くの親戚より近くの他人」である。
隣の市まで8キロくらいにしても通うとなると車でも10分できたとしても往復20分になるから時間がかかる、すると助けるにしても手間になる。
もし隣だったらすぐに来れるから助けやすいのである。
アメリカでも日本に何かあった場合、かけつけるとなると遠いから簡単にできない
そういう距離的なものは常に一番影響しているのである。
今は広域社会になり全国に散らばる、すると親子でも助け合うこともできないとなる。
なぜなら東京だったら遠いしとても介護とかなるとできないとなるからだ。
それでは助けるのは誰かとなると地元の人たちなのである。
広域社会とグローバル経済もにているのである。
なんかユニットバスを注文したのが仙台の会社だったのが失敗したのかもしれない、
後何かあった場合、みてもらえないと言われたから地元の業者を知っている人がそう言ったからそうなのかと思った。
ただ地元の人に頼むと50万くらい高くなる、それだけ安くできるとなるとやはり何か問題が起きるのかとも思った。

グローバル経済の矛盾は単純に考えれば誰のために働いているのか見えない、金の流れも世界市場となると見えない、そしてその見えない金がどこに行っているかとなると極一部の者、株式を操作する者に流れているだけだとなる
金の流れが見えないことは闇になる、それで陰謀論が生れるのである。巨額の金が闇の中に操作されているのである。
それはアメリカに流れていると思っていたがアメリカでも大多数の労働者には関係ないことだったのである。
移民をアメリカではあんなに受け入れているということ、それは多国籍企業にとっては安い労働力となりいいが肝心の元からいる白人にとってはその職を奪われるとまでなっていた。移民で得するのはその国の国民ではない,多国籍企業とかでありアメリカの中産階級はそのために没落したのである。
その不満が大きかったがアメリカのマスコミはそうした既得権者が支配しているから表面化しにくかったのだが露骨にトランプがそれを言ったので共感したのである。
ただ共和党というと民主党とは違いどっちかというと富裕層側に立つと思っていた。
トランプ自体が大富豪だからである。ただ単純にそういうふうに分けることもできなくなっていたのである。

ただグローバル経済というとき今度はアメリカだけではだめだとなるとき日本はどうなるのかとなるとむずかしい問題である。
なぜなら日本は中国とはうまくやっていけないのである。
中国は共産主義国家でありアメリカとは全然違った国である。日本はまがりなりにもアメリカの民主主義とかを受け入れて同調して西側の一員になったからである。
同じ価値観を共有するものとして一応してきたのである。
でも中国とはそうした同じ価値観をもつことができないのである。
かえって江戸時代だったらできた。なぜなら江戸時代は儒学の時代だから共通の価値観を中国ともつことができたと思えるからである。
グローバル経済というとき経済だけではない、何か共通の価値観が必要になる。
それでEUはキリスト教共同体として歴史が長いから連合した
ただそこにイスラムとうまくいかないから問題を起こした。
そうした共通の価値観は経済だけではない、単にもうければいいだけでは人間の共同体は作れないのである。そこにそもそもグローバル経済の限界があったのである。
見えざる手に導かれとか世界にはそれは適用できなかったのである。

だから日本がこれからどうするかというとき、中国とは価値観とかで共同しにくいとかなるとアメリカにも頼れないとなるとまた第二次世界大戦のように孤立化する危険がある。中国というのはやはり今度アメリカの時代が終わったといっても中国に同調する国が価値観を共有できるのかというのが問題になる。
人間は経済的なものだけで成り立たない、文化の相違もありその価値観の共有がないと結局グローバル経済だけではうまくいかないのである。
そこがグローバル経済の失敗の要因だったのである。
アメリカ自体が多国籍企業でありグローバル経済の市場を最も推進した国だと思っていたが実際は極一部の多国籍企業の幹部とか株をしている人だけが巨利を得たとなる。
アメリカだと社長が何百億を得るとか考えられない巨利を得ているからである。
そういう矛盾がアメリカ自体にあってトランプがそのことをついたから当選したとなる


アメリカの格差は凄まじいーグラフで見る
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2016年11月06日

イギリスのEU離脱、トランプのアメリカ一国主義 (グローバル経済への変換の世界的兆候)


イギリスのEU離脱、トランプのアメリカ一国主義


(グローバル経済への変換の世界的兆候)


イギリスのEU離脱とトランプのアメリカ一国主義、移民などの排斥、自国優先主義はにている。20世紀はグローバル経済に世界が席巻された時代である。
それがいい悪いではない、世界の人がすべてグローバル経済にまきこまれた時代なのである。そのグローバル経済の中心にアメリカがありアメリカの多国籍企業があった。
アメリカというときアメリカを動かしているのは多国籍企業である。
その中心にゴールドマンサックスなどがありウオール街の金融を支配する
その多国籍企業を後押しするのがクリントンだいうときその対立構図がイギリスのEU離脱とにている。
EU経済圏に入ることはそれもヨーロッパの広域経済圏に入ることである。それは地域的グローバリズムなのである。
でもヨーロッパは宗教とか文化とか歴史的共通性があり世界的グローバリズムとは違うのである。それでも英国は独自の道を選んだのである。

ただトランプの過激な移民排斥の政策とは共通点がある。移民が大量に入りすぎたのである。イギリスの空港では黒人が空港の売店で物をチョコレートなどを盗んでいたのをみた貧乏な人が大量に移民として入ってくると治安も悪くなる。
移民との軋轢が増大したのである。なぜこれほどの移民が生まれ大量に流入したのか?
それは移民というのは多国籍企業の安い労働力として入れる、企業の事情にあった。
多国籍間の企業の競争に勝つには品物を安くする必要がある
でも人間は部品のように扱うことはできない、第一フランスがフランス革命で博愛、自由、平等をスローガンに革命を起こしたとき移民も自国民と同等に扱うのが理想だった。
それがゆきづまったのはいくら多国籍企業が安い労働力を求めても相手が人間であり一人の人間はその国の歴史と文化を背負った存在なのである。ロボットではないしロボットとして扱うことができない、まさにフランス革命の理想を実行してもできなかったのである
アメリカも移民の国だとしてもそのアメリカさえ移民に悲鳴をあげるようになった。
なぜなら移民の数が国をゆるがすほどになっているからだ。
第一英語が通じないヒスハニックが膨大な数になった。英語がしゃべれない人が多いとなると意志疎通もできなくなる。文化の基本は言葉だとするときその同じ国民でも通じないのである。そのことで苦慮していることを語っていた。
そしてアムトラックで真夜中に一人おりた駅名がなぜかプリンスだったのである。
アメリカの地名はインディアンに由来するものとあとは英語である。

そもそもアメリカのアイディンティティがどこにあるのか?
世界中から移民が流入して作った国である。歴史も浅い、アメリカ人といっても様々な人種の混合体でありそこでアイディンティティを作ることは歴史の浅い国ではむずかしい。さらにヒスパニック系が増大したとき余計にそうなったのである。
アメリカが移民を排斥するというときアメリカにも歴史がありアメリカの復古主義だともなる。アメリカを作った中核の白人でありエスタブリュシュを取り戻すことになる。
アメリカで中産階級が没落したというときまさにそうしたもともとアメリカの中核を成してきた人たちが没落したからアメリカの復古主義が起きてくる。
グローバリズムは多国籍企業が支配するというとき移民でも安い労働力として使えればいいからである。そこに人種とかで分けないことである。
単一の価値観がいいのである。宗教でも文化でも世界中に単一の価値観がいいのである。そしてその単一の価値観の中で物が売れればいいとなる。
ハンパーガーとかコカコーラとか世界中に普及すればいいとなる。そういう食生活でももともと世界では多様なものがあり適合しないものがある。

そういう障壁をとりはらうことがグローバリズムなのである。それかアメリカの多国籍企業が成したことである。
それでエジプトであれアフリカの果てであれ子供がワンドーラくれとなる。ドルが世界の金になっり金が支配するというときドルが支配することでありそれはアメリカの多国籍企業が世界を支配することである。別にアメリカという国が支配するとは限らない
なぜならトランプはそのグローバル社会に敵対してアメリカを優先させるとしているからだ。アメリカ復古主義でありイギリス復古主義であり共通したものが起きていたのである
世界が今そうした自国の復古主義に右傾化に傾斜している。アメリカすらそうなのだから当然世界もそうなってゆく、自国優先主義である。それで日本に対しても日本は日本で守れとなる。政治的にそうなると同時に文化的にも復古主義の時代となる。
いい点は日本人の復古主義は日本精神の復古につながる。それは日本文化の再生なのである。そうなるとまた世界が国々で対立するという第二次世界大戦のようになると警告する人もいるのもわかる。日本は中国とかロシアとどう向き合うか真剣に問われるのである。それは第二次世界大戦に歴史がまた違った形でもどるということにもなる。
ただその時と違うのは巨大化した中国が相手になるということである。

いづれにしろグローバル経済は転換期に来ているのである。その試みは20世紀の大きな実験だったがゆきづまったのである。
そこには無理がありその無理が限界に達したのである。グローバル経済というのはヒュ-マンな規模から桁外れになっている。そこでは物が流通しても物は日本では単なる物ではない、ものと心は一体なのである。日本語だけがものと心は一つの意味だというときそれは日本文化なのである。ヨーロッパ文明は物と心は分離して考えるからである。
つまりグローバル経済は極端に物と心を分離させるのである。そうしなければ世界的に物を売ることができないからである。多国籍企業になれば別に日本だって大企業は多国籍企業になっているからアメリカだけではないのである。
世界に物を売るということでは同じなのである。

やはり人間は経済をそうして国を越えたり文化や歴史を越えて優先させることができない存在だった。人間はそういうものであり世界を単一の価値観で支配するということは人間を不幸にする、人間の基本としてのアイディンティティを破壊してその存在の根も破壊するのである。それは相馬郷土史研究で書いてきたことである。
ただもう広域経済を否定することはできない、世界で貿易を否定することはできない、
ただ多国籍企業の強引なやり方に歯止めがかけられる、それが人間の存在の根本まで破壊することに世界できづきはじめたからである。
だからトランプがなぜあれほど人気がでてきたのか、あの人は一体なになのだというときそういうグローバル経済への露骨な反逆がありそれがアメリカでも受けたとういことである。
クリントンは生粋の多国籍企業とかウオール街をバッグにしているから嫌われているというときアメリカ人自体がグローバル経済に異議を唱えている。

それは移民によってアメリカ人の中産階級が職を奪われるとかアメリカ人でも白人でも格差社会になりその恩恵がない人が増えたからである。
そしてグローバル資本主義経済げは世界の数パーセントの人に金が集まりその不満が世界でおさえられなくなったのである。
グローバル経済は無理であり成り立たない、広域経済は否定できない、でもその国の中での広域経済ならいいとか東北とか北海道などのブロック経済とかまたさらに狭い範囲の地理的に交流できる人間と人間が交流できる範囲の経済がいいとなる。
そこでは物だけの価値ではない、人間的交流も生まれるとなるからだ。
そして価値観が一つではない、様々な価値観があり地域的にもそうでありそれが文化を育むのである。それはカール・ポランニーの人間の経済学になる。
人間の価値は多様なのである。とても金だけでは計れないものが無数にある。金で貨幣ですべての価値を計ることは土台無理なのである。それはかえってグローバル経済が非人間的にしたのである。

ただ現実問題となるとこの辺で市が開かれるがリンゴでもうまいものがあったがそれは高くても良かった。てもスーパーで買うと同じものでありそういうものでも三倍の値段で売っていた。他でもバスユニットを仙台のリホーム会社で請け負ったのと今は地元でも大工が暇になったとかで仕事が欲しいというとき、仙台から来た人よりもしかしたら50万くらい高くなるかもしれない、仲介する人がまた金取りになるからそうなる。
狭い範囲の経済流通だと今は高くなる、それも一つの問題として認識した。
ただグローバル経済というのは規模が桁違いであり仙台とかいわき辺りとの経済とはまるで違ったものなのである。
例えばアマゾンで古本などを注文するとき岩手県の店で出品していると近いなとなる
東北圏内とかのブロック経済なら歴史的文化的にも共通のものがありそのくらいの規模の経済だったらこれだけ交通が発達すると否定できないとなる。
グローバル経済はそういう傾向になってゆくのかもしれない、EUだって広すぎたのであるアメリカだったら別に自国内で何でもあるからグローバル経済にする必要もなかったのである。石油だって今や自国内でまかなえるようになっている。
日本は石油とか鉄とか資源がないからグローバル経済のすべてを否定できないことはある移民を安く入れて企業で働かせるということは世界的試みで失敗したのである。

タグ:トランプ
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2016年10月24日

宇都宮の焼死事件はなぜ? 60以降、一人暮らしでは問題が多くなる


宇都宮の焼死事件はなぜ?


60以降、一人暮らしでは問題が多くなる


宇都宮市本丸町の宇都宮城址公園付近で爆発があり、宇都宮中央署によると、同市針ケ谷町の元自衛官・栗原敏勝容疑者(72)が焼死体で見つかった。

5年ほど前から妻子らと別居、1人暮らしをするようになったという。別居前には、夜中に栗原容疑者の怒鳴り声が聞こえていたといい、


完全にカルトが爺さんから金引き出す為に妻側に弁護士付けてやって訴訟起こしたんだな。 
カルト犯罪が司法を欺いて、孤独な老人を爆弾魔に仕立て上げてしまったんだな 


この事件の背景は複雑である。別に老人の一人暮らしが原因とも思えない、離婚だとか裁判で金をとられたとか、嫁がカルトで金がとられたとかなんとかその背景が複雑でありいろいろなものが重なって事件になる。
何か事件とか犯罪は複数の原因があり単一では起こらない、要するに悪いことには悪いことが重なるのである。
そして60以降はこれまでのカルマが総決算のように起きてくる。そのことを自分も書いてきた。

ただここで問題にしたいのは高齢化の一人暮らしは問題が起きやすいことは言える。
その人は近所の人ととけあわない、変わった人だとか言っていた。
それは家族がいるときはそうでもなかったかもしさない、一人暮らしが5年くらいつづいていた。そしてテレビで言っていたが火事のことを気にしていた。
それが自ら火事を起こして死んだのも皮肉である。
火事というとき自分も家を留守にして火事になるところだった。
電気をつけたままで留守にしていた、その時仙台に行っていて後で気づいた。
それで電気鍋が熱くなり火事になところだった。
それから水道がもれて大量の水がでていた。隣の人が水道をとめてくれて助かった。
一人のために大金を盗られたこともあるし様々な困難を強いられた。
一人暮らしは様々な困難を強いられる、だからなんらか問題が起きやすい
一方でこの人は別に結婚しているから一人暮らしではなかった。
子供もいたのである。
ただその子供が問題児で苦労していた。嫁でもカルト宗教にはまっていたとありそのために離婚とかなったと議論されている。
家族があっても家族自体に問題が起きるからこれまた家族がいるから安心だともならない嫁と子供によって家族崩壊したからだ。

一人暮らしが問題になるというとき最近本当に一人暮らし独居の人が増えている、組で12所帯くらいしかいないのに4人は一人暮らしであり大きな家に一人住んでいる。
女性も多いのである。これは明らかに自分だけではない社会問題になる。
妻をなくした人はしきりに淋しさを言う、その人も広い庭と大きな家に住んでいる
だから何かその大きな家ががらんとして嫌なのである。
その人は二階には行かない、二階を嫌っているというのもわかる。
二階になると下が気にかかったり何か嫌になる、自分の場合はトイレが下にあるので嫌なのである。寝るときどうしても下に行かなければならないからだ。
今では平屋で物を少なく死んだら簡単に取り壊されるのがいいと思う
一人暮らしは淋しいから都会でも人の出入りのあるスーパーなどに集まるという、それもわかる。昼間でもがらんとして一人でいるのが嫌になる。
自分は自転車が好きだから走っていると気晴らしになる。一日がらんとしこた大きな家にいることが淋しさを感じるのである。

いづれにしろ一人暮らしは老人の独居が多くなるから問題がこれからも起きてくる。
そしてそうでなくても60以降はカルマの総決算が起きやすいのである。
経済的にもそうだし様々なことで問題が起きやすいのである。
伴侶が亡くなるとうことは相当な痛手である。また離婚したりするのも痛手である。
もともと一人の人でも両親とかがいなくなると痛手になる。
経済的問題もある。ただこの人は他の人より問題をかかえすぎていたのである。

どうしても一人なると一軒の大きな家を維持することそこに住むことが何か適しないとなりやすい、一人暮らしは何か野菜買っても古くなって食べられないとか家が大きいと修理することで金がかかったりかえって金がかかったりする。
まず家を維持すること自体が大変になるのである。家事するのだって家が大きいと手間になる。掃除するだけでも大変になる。
だからかえって共同生活がいいとなる面はある。でもこれもいろいろな人がいてうまくやることもむずかしい。必ず人間関係でもめるからである。
ただいたるところで一人暮らしの老人が増えてくる、するとゴミ屋敷とかも増えてくる。何かかたづけられなくなる。自分も様々なものをかたづけることができない
かたづけるのに何年もかかるのである。その間にまた物がたったりする。
なんか本半分してたとしてもまた買ったりしして投げにくいのが本でもある、それで捨てようとした本をもう一度読んだりしている。

現代は離婚も増えている、三分の一とかになり熟年離婚でも増えている、そうなると一人暮らしも増えている、近くの10匹も猫を飼っている、 猫ばあさんとか一人暮らしの女性もカルトにはまったりとか問題になる。カルト宗教団体に入っているのは何か問題があるから入っている
宗教とは別に関係ないのである。相談するところがないのでそんな場所にゆく、そこもまた危険な場所なのである。地獄に落ちるとかなんとかそういうことも背負うことになる
宗教は触るぬ神にたたりなしなのである。カルト宗教団体に入ることはすでに祟りを受けるだけなのである。
高齢化社会はいい面があっても実際はマイナス面が大きい、それでいろいろなことがこれからも問題になる事件も起きる。経済的にも医療費が莫大なものになっているのも問題である。老害になる方が多い社会である。
ただ今回の事件は何か個人的な事情があり高齢化社会の社会的原因ではない、個人的な事情のためだった。
でも一人暮らしで火事のことを気にしていたのは自分とも共通点があった。
大きな家になると配線などでも何か不安になるのである。
この人はまた話を聞いてくれる人もいなかった。だいだい困っても話を聞いてくれる人がいない、それで嫁も子供にこまり今度はさらにやっかいななカルト宗教にはまる。
結局妻の出来不出来が相当に夫に影響する、家族というのもなんらか問題をかかえてきるのである。

タグ:独居老人
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2016年10月15日

大学の劣化とエリートの劣化ー慶応大学レイプ事件 (それは明治維新から始まっていた)


大学の劣化とエリートの劣化ー慶応大学レイプ事件


(それは明治維新から始まっていた)


大学というとき大衆化したのは団塊の世代からである。でも自分の時代は地方だとクラスで4、5人しか大学に行っていない、中卒で集団就職の時代だったのである。クラスの三分の一くらいが中卒であり高校すら入れない時代だった。
団塊の世代はだから中卒が本当に多いのである。それが普通だとなる。
だから自分は相当に恵まれていたともなる、自分は高校に入るとき受験勉強してそれが何か後々に影響した。それは受験のための暗記だけの勉強だったからである。
本当に学問をしていないのである、そしてなぜそうなったのかというとしきりにその時人数が多いから高校にも入れないと大騒ぎだったのである。
そこからして出発点からして良くなかった。

受験戦争とか騒がれて仲間も蹴落としても上の学校にあがるということが強いられたのである。一方で集団就職と中卒の時代であり自分の入った大学は三流でありマンモス大学だった。それで講堂に3000人が入り授業したとかなると何か授業にも学問にも興味がなくなることがあった。大学は実際は遊びの場だったのである。文系では特にそうだった。
何か勉強をやる気にならなくなる場だった。

学生数10万人の日本一のマンモス大学となっており、いわゆるマスプロ教育を推し進めていた。これが日大闘争の発端となった。

学生運動の原因がこのマスフロ大学化したことにあった。戦前の大学生は真のエリートであり社会の指導的立場につくことか約束されていたのである。

旧制高校の卒業生数とほぼ同じだったので、卒業生は学科を選り好みしなければほとんど無試験で各地の帝大に進学できる特権がありました。従って受験勉強に青春時代を費やす必要が無く、有り余る時間とエネルギーを全て精神的・肉体的成長の為に注ぎ込む事ができました。旧制高校生は白線帽・高ゲタ・黒マント・手拭いの弊衣破帽スタイルに身を包んで街を闊歩し、「デカンショ」と略されたデカルト・カント・ショーペンハウヘルの必読哲学書を読んでは思索を深め議論を好み、酩酊し友と肩を組んでは各校に伝わる寮歌を高歌放吟し、

戦前の大学と戦後の大学、団塊の世代の大学生は全然違ったものになっていた。
ともかく受験勉強に追われる毎日でありそれで精神を消耗していたのである。
現代のエリートを作っているのはこうした東大生でも受験勉強した人たちであり何か人間的にモラル的に優れた人たちではない、そこにあるのは利の教育だけなのである。
出世して社会的な有力な地位を得て楽をするということしかない、それが社会を腐敗させてしまったのである。
それは福沢諭吉の学問をすれば立身出世するという思想が慶応大学が作られたのとにている。ただ戦前の大学は本当のエリートだからもう社会をリードする地位につくことが約束された人たちだから戦後の大学生とは全然違っていたのである。
要するに学問が出世き手段でしかなくなった。大企業でも官僚であれそうした得する地位につくことが目的となったのである。そうなればそもそもモラルなど何もないとなる

歴史をさかのぼれば実は明治維新になったとき日本人のモラルは喪失していたのである。江戸時代三百年で培われた日本人の文明文化が明治維新で喪失した。
その継続として現代がある。なぜなら江戸時代はモラルが高かった。侍はそのモラルの範を示すもきとしてあった。だから責任をとるというとき切腹までしていたのである。
それだけ上に立つものの責任を自覚していたのである。
それは江戸時代三百年で培われたものでありそれは地方の藩でも同じである。藩校がありそこで侍はただ学問だけではない、その土地で生活することでモラルが養成されたのである、地方地方にそれなりの教育があった。
それもまた明治維新で全く変更させられた。教育は中央集権の全国一律の教育になり標準語が採用されたことでもわかる、これも大きな変化であり日本を根本的に変えたのであるその時西欧文明はキリスト教だと内村鑑三が言ってキリスト教を採用しない日本文明は滅びるとか言った。つまり西欧文明を日本では技術を便利な機械とかを採用するものだとして受け入れたのである。
その最たるものが福沢諭吉であり功利的なものしかそこにはないのである。

そのことで最近明治維新が見直されというとき、江戸時代の侍のもっていたものが見直される、それは幕臣からなされている、内村鑑三も幕臣だったから薩摩長州の政府を批判していたのである。
侍とはなにかというとき高度なモラルを具現化した模範として社会は見ていたのである。それがエリートだったわけである。それが喪失したとき代わりとしてのモラルが日本にはなかった。それで今日の頽廃の原因となっていた。
戦前と戦後ではまたそのモラルにしても戦前はまだ日本的モラルが庶民でも義理人情とかがあった。今は全くモラルはない、もうければいい、金になればいい、得すればいいとかしかない、それはエリートであれ庶民であれ同じである。
カルト宗教もまったく肝心の要となるモラルはゼロである。経済原理に金をもうけて地位を得て得すればいいしかないのは同じなのである。

第一現代は民主主義でありエリート自体を否定している社会だからである。
真のエリートを養成するものがない社会なのである。たからエリートは現代ではない、庶民も江戸時代の侍のように尊敬したりしない、現代で偉いのは金をもっている人が一番偉いとしかなっていないのである。それは上から下まで同じなのである。
だから「金をくれ」と家にきて本当に家捜して大金を失った、そんな人が近くにいるしそれが普通の社会になったのである。
庶民でも貧乏でも事情があってもここまで庶民でも劣化しない、なにか義理人情とかまだあったが今はない索漠とした社会である。
だから大学生にしてもすでに団塊の世代から劣化していた、今は少子化で誰でも入れると余計にそうなる。団塊の世代から大学生は戦前の大学生とは間で違ったものになっていたのである。エリートといっても社会的有利な地位について自分は得する金持ちになる、それしか動機がなくなっているのである。
世界的にもグローバル経済になると経済原理が生きるプリシンパルになる。
そうなると金だけが唯一の価値になってしまうのである。グローバル経済にはモラルがないのである。多国籍企業でももうければいいということであり何か規制するモラルがないのである。それで後進国の貧乏な人たちをこき使うともなる。

最近起きている大学の異常なレイプ事件とかはやはりいくら東大であれ慶応であれエリートの自負もなにもなくった、モラルもないからである。それは歴史をさかのぼれば明治になったときから起きていたことなのである。
日本のモラルというとき戦争でも上官はだめで下士官は優秀だったというときそういう社会でもある。

19世紀英国の黄金時代当時は、よく言われる「ノブリス・オブリージュ」といった、英国紳士の社会全体に対する責任意識を説明する

これは江戸時代の侍に通じていたのである。それは300年の江戸時代で培われたものなのである。ヨーロッパでも貴族の歴史は長いからである。
結局人間は歴史的継続性が大事なのである、江戸時代300年で培われたものをすべて否定することが日本人を劣化させたのである。だから明治維新が今見直されるのである。
日本的ないいものをすべて否定するということが起きたからである。

いづれにしろ若いというとき自分でもそうだが何か必ず問題を起こす、そのありあまるエネルギーの捌け口を見いだすことで暴走が起きるのである。
それはくりかえされているのが人間である。
高校から大学へなると急に大人扱いになるけどそういう準備もない、何でも自分の自由にするというときその自由は危険なものとなる
自分でもそうだったが大学で起きているのは

小人閑居して不善をなす

まずこれは必ずあてはまる、大学を毎日マージャンで過ごして終わった人もいる、カルトにはまって終わる自分のようなものもいる、何かそうして無駄なエネルギーをぽ費やして青春が終わっているのである。
青春は誰でも何らかの狂気になってゆく時である。それはエネルギーが肉体的にも噴出するからとめられないとなるのだ。抑制がきかないからそうなるのである。
いつの時代でも青春は危険ととなりあわせである。
ただ人間は青春時代が大事だというとき何か青春時代で人生が決まるというときその方向が決まってしまうからである。青春時代に悪に染まったり利だけをもとめて真の求道をしないものはもう真理にも信仰もない、そういう人たちがエリートとなってモラルもないとしたら社会は今のように全体が上から下まで腐ってゆく

ただエリートエリートというけど社会がその養成ができないことが問題なのである。
大学は別にそうしたエリート養成の場でもない、やはり利を追求する場であり学閥などがあるのも利権集団としての大学がある、有名大学になるとそうなる
三流大学だとどうしても社会的に地位も得る人は少ないから学閥でも弱いのである。
慶応大学というとそういう学閥があり東大でもそうだが社会を支配するということがあるそれで警察も手を出せないとか議論されている、本当は権力をもつものには相当なモラルが必要になる。だから侍が責任をとり切腹までしたのはそのためである。
そういう責任感をもっている人は社会の指導者に官僚でも政治家でも企業でも大学でもどこでも今はないのである。カルト宗教団体とか何かそんなものしか今はないのである。
だから何かを誰かを模範にするということかない社会なのである。
ただ自助努力があるだけだから人格形成とかなると現代は一番むずかしいものとなる

尊敬するにしても先生だって今は尊敬しないし、政治家だって別に自分の力というより民衆に選挙で選ばれたものにすぎない、現代で尊敬されるのは科学者であり医者とかであるここだけはやはりみんな尊敬している、命にかかわこともあくから医者は一番尊敬されているのである。あとは尊敬する人など社会的にいない、金持ちだとしてもそんな人を尊敬しない、うらやむことがあっても尊敬などしないのである。
では医者がモラル的に優れているかというとそんなことはない、医者も金が優先されるからである。医は実際算術になっているからである。
エリートとといっても民主主義社会はみんな平等を目指しているのだから真のエリートなど養成できない社会なのである。地の塩というけどそういうものを否定したのが民主主義なのである。だから民主主義というのも何でもいいわけでもないのである。



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2016年10月10日

舛添、石原、トランプの失墜 (60以降は人生のツケがカルマを支払わされる)


舛添、石原、トランプの失墜

(60以降は人生のツケがカルマを支払わされる)

最近の一連の事件は何なのか?
舛添知事の失脚はあれだけ金にせこい,公金を使うということはそもそも金に困ってい
その理由が隠し子なのか、離婚した女性に金を払わねばならなかったことにあった。

舛添氏は現在の妻のほかに愛人が2名おり、愛人Aに1人の子供、愛人Bに2人の子供がいるというのだ。愛人がいること自体が物議をかもしそうだが、問題のメインはそこではなく「愛人に「妻とは離婚する」「もうほかの人と結婚しない」と言って騙して交際した」

結婚3回、離婚2回、子供2人に愛人の子3人、現在「隠し子、養育費裁判」係争中』
「週刊ポスト」2014年1月24日号

なぜあれほど金にこだわっていたのか?せこいといわれほどに公金を使っていたのか?
本当は知事の給料だけでも十分だし嫁の家が金持ちだとすると困らないはずである。
ただ離婚して養育費とか払うのでそれで金に追われていた。
これは借金している人でも同じである。
借金している人は金を返すことしか頭になくなりよからぬことでもすることになる
こういうことを知られていたのになぜ知事にしたのか?
この背景も謎である。なにか裏にいろいろあったのだろう。
こういうツケやカルマをもっている人は知事にふさわくなかった。それはみんなわかっていたのに知事に押されたのである。
その責任はそうして知事に押した自民党や公明党の責任もあった。
なぜなら今の舛添の嫁は創価の幹部だと噂されたからである。
何か裏にあり押されて知事にされたのである。反対する人もいたが押し切ったのである。つまりこういう過去ももつカルマをもつ人は知事になるべきではなかったし推薦するべきでもなかった。推薦した方にも責任があったともなる
なぜならそういう過去をみんな知っていたからである。

石原知事の場合はなぜあんなに横暴な人が12年間も知事でいられたのか?
ほとんど仕事はしていなかったとか今では言われる
ではなぜそういうことが許されていたのか?
東京銀行の失敗でもその額は何百億円でありその失敗の穴埋めのためになんらか豊洲のことでも不正があり金がゼネコンなどから回っていたという。
第一そのことでも責任が問われないということも不思議だとなる
石原知事をつけあがらせたのはマスコミである。
マスコミは石原を恐れていたというのもわからない、東電のような大きな会社でもないし宣伝費がとめられるでもないし何か組織があるわけでもないし権力のバックもない
石原軍団というのはあったがそれもそんなに権力をもっていたのかとなる
マスコミは舛添をもちあげていたし石原でもそうである。
マスコミにとってその人がどういう人か問わないというのは本当だろう
モラルでも問わない、何か大衆受けする派手な人が面白い人物がいいのである。
だから芸能人がその主役となるのである。
何か本当に真面目に追求している人間は必要ないのである。
そうなるとマスコミが持ち上げる人間は信用できないとなる。
マスコミ自体が今では信用できないものとなっている

次にトランプでも女性蔑視のことで録音されていてそれが暴かれて窮地にたたされた。
これも過去のことであるがツケが回ってきたとなる
トランプはもともといかかわしかったがなぜまた支持されたのかというのうも謎だった
女性蔑視になると女性票を失うから痛いのである。
舛添前知事も女性にだらしないということはわかっていた。
でもなぜ支持されたのかとなるというのは共通した面がある。大衆受けする派手な性格だということなど何か共通性がある。
人間は何か私的な面でも必ず公的なものに反映する
もし私的に女性にだらしないとか何かモラルに反する生活をしていればやはり公的でもそれが反映される、私的なものと公的なものは区別できない
私生活などどうでもいい、公務ができれば政治家はいいんだとはならない
現実に何らか私的なモラルに反することをしているから公的な面でもつまづき失墜しているからである。

これは政治家のことだが別にそうした人でなくても個々人でも60代になると必ずこれまでのツケが支払わされる、これはどんな人でもそうである。
第一何か罪がない人などいない、何らかの罪を犯している
だから推理小説では過去の罪が暴かれることがテーマになっているのだ。
人間が過去に犯した不品行は必ずツケとして罰が与えられる、そのまま隠匿されることがない、もしこの世で暴かれなくてもその罪は来世で暴かれるのである。
自分のこの十年間の介護や病気のことでもそうだった
いろいろツケがカルマを否応でも支払わされるのである。そのための苦しみだったのである。
それはいい面でも悪い面でも必ず人生のツケはカルマは支払わされる

若いときは奔放なエネルギーにまかせるがあとで後悔する、それがあとで苦しめられることも考慮しないのである。
つまりか若気の至りというけどそれは忘れられるものでもないのである。
必ずそのツケは60以降に回ってくる。
健康にしてもそうである。それまでの生活が影響して病気がでてくる。
ただ60以降はなんらかの病気になるがそれまでの生活が体にでてくるのである。
それは心にも関係してくる、心と体も一体というとき人間は日々の生活で作られるのであり生まれつき体力があったとしても不摂生な生活をすると早死にしたり病気になる
スポーツ選手が意外と早く死ぬのは不摂生のためである。

この三人に共通しているのはモラル的に問題があった。それはわかっていたことだが推薦された。そしてその私的生活が破綻の原因だったのである。
石原もスパルタ教育だなんだと言っても自分の子供には甘かった。
でも回りでマスコミでも何でも押していたのだからつけあがっていた。
批判する人がいてもそれは目立たなかったのである。それは原発でも同じである。
原発は危険だというとを本でだしてもほとんど注目されなかったのである。
だからどうしてある人物は大きくされ原発などでも反対意見は大きな声とならないしとりあげられなかったのである。
大きな声を形成させるのは何かとなる、それはマスコミとかその他いろいろな要素がありそうなる、舛添でも石原でも大きくされたのはマスコミの影響である。
大きな声になるのは大きな権力に操作されてそうなる、アメリカが最大の権力としたらアメリカの権力の操作で大きな声が形成される、それで原発も反対できないとなる
民主主義だといっても大きな声になるのは大きな権力に操作されるとしたらどうにもならない、そこに民主主義の限界がある

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2016年09月22日

石原慎太郎はなぜ批判されなかったのか? (巨大権力は必ず闇が生れる- 原発の闇、都議会の闇、ゼネコンの闇、銀行の闇、カルト宗教団の闇・・・・)


原慎太郎はなぜ批判されなかったのか?

(巨大権力は必ず闇が生れる-

原発の闇、都議会の闇、ゼネコンの闇、銀行の闇、カルト宗教団の闇・・・・)

慎太郎が秘書の栗原と組んで、秋葉原再開発、築地市場の移転、東京オリンピックの招致と、大型工事を必要とする政策が次々と生み出され、その工事の多くを受注した鹿島はおいしい思いをした。もちろん、栗原の仲介で慎太郎にもキックバックが回っているに違いない。 もうひとつ、鹿島との関係で深いのが、石原が副知事に招聘した右翼活動家の浜渦武生。彼は、石原とどちらが親分でどちらが子分か分からないくらいの関係で、石原の極右体質は浜渦の影響も大きい。浜渦は、弱者(障害者、高齢者、女性、外国人、貧しい人、失業者)といわれる者すべてが嫌い。週に2・3回しか登庁しない石原知事に代わって都庁を支配した。しかし、当時からマスコミは、このような石原・浜渦の強権的な体質に恐れをなして、批判的な記事を一切書こうとしなかったのです


石原慎太郎はなぜあれだけ力をもったのか?あれだけの横暴なことも許されたのか?
マスコミさえ恐れて何も言えない、そんな力を石原一家だけで財力でも何でももてるのだろうか?何か背後に組織ももっていないのになぜだろうとなる
ただいろいろな組織とは団体は関係していてその力を利用していた。
良くテレビで普通だったら視聴者からも顰蹙をかうことを堂々と言うのにマスコミからは批判されない、苦情も来ないというのも不思議だとなる。
何か石原慎太郎だけは特別扱いだったのである。そういうことを回りでも許していたのである。
石原慎太郎のしたことは前々からいろなことで批判されていた。別に批判されないわけではなかった。

東京銀行の無駄使い

尖閣での寄付はなんだったのか

いろいろあっても批判されないのはなぜだったのか?

公明党と一緒になって財布代わりに使った「新銀行東京」ともありここではう創価とも関係していた。
石原慎太郎は巨悪だったのである。でもその巨悪がなぜ許されていたのだろうか?
マスコミのほとんどは今も恐れていて同じである。
それほどの力をなぜ大きな組織に属してもいないのにもてるのだろうか?

ただ今回話題になった都議会のドンの内田とかはなぜまたそんな力を持てたのだろうか?
これもまた謎だから闇のドンとされる、これは闇であり石原慎太郎は常に表に出てその力を誇示していたのは違っている、特にネットウヨとかにとっては祭り上げられる存在だったのである。小気味よくはっきりと在日であれ何であれ左をこきおろしていたから人気だった。でも尖閣の金はどこにいったのだろうか?そういうことも今は問われている
東京銀行にしても巨額でありそれは創価とも公明ともかかわっているがあいまいであり何も問われない、これも検察が入っていいような問題でもあった。
でも検察も今は力がなくなんの働きもしない、無用化しているのである。
検察は何のためにあるのか?もう東電の事故でも誰も責任が問われないように検察や官僚はただ自分の利得を追求する天下り先を確保するためにだけの存在に成り果てたのだろうか?そこに巨悪はのさばりやがて原発事故のような甚大な被害を国民に与えることになる

結局戦後七〇年すぎて日本はあらゆることで曲がり角に来ている、これまでの組織も何か機能しない、それでそうした官僚機構であれマスコミであれこれまで権力をもっていたものが批判される、何らかのそうした規制の権力が弱体化してゆく
マスコミの信頼は地におちた、芸能人の馬鹿騒ぎを提供するだけだとかなっている
肝心なことはもう追求されない、マスコミを信用している人は減っているしインターネットの方に情報は移っている
「原発の闇」「東京都議会の闇」・・・・の闇がなぜ生じるのだろうか?
やはりそこが巨大な権力が欲が動く場だからである。
権力が何かといったら人間の欲望のことである。それが巨大な組織が関与するから闇になる
創価にしてもなぜあれほど権力追求なのだろうか?それは権力が人間の欲から生れるし欲をかなえるから宗教でも装い実際は欲を追求しているのである。
公明党がなぜ東京銀行にかかわったのか?そこには巨額な金が動くからである。
そこにかかわれば金が入る自由にできるという思惑があったとなる

つくづく権力とか金とかは怖い、一個人でも多少の金でも怖い、自分の経験でも遺産が多少入ってもそこにその金を目当てに事業に失敗した親戚が自分が病気にもかかわらず損なこと関係なく恐喝してきたから怖い。その時自分は弱者になっていたからどうにもならなかった。自分の弱点をついてきたのである。一人は金目あてに実際に盗みとなった。
「金をくれ」ときてそれを実際実行したのだから驚く、こんな人が近くにいるのか?
田舎にいるのかと驚いた、その人たちは金に追い詰められていたからそうなった
相手も金を得るために必死だからそうなった。
銀行もまたにていたのである。これも自分の失敗だった、投資信託などに手を出したが結局手数料が入り証券会社でも銀行でも損はしない、損をするのはそれ信託した人なのである。銀行も実際は金が動くから今はなかなか金を貸してもうけられないからそういうことでもうけることに必死なのである。だから何か勧誘するにしても一旦金をそういう場にあづけるとやめにくくなる。ヤクザまがいになりやめさせないというかそういうこともあるそれもやはりもうける場が銀行に少なくなっているからである。
投資信託の手数料が大きいのである。金をあづかっていても貯金されていても銀行は今はそれでもうけることがむずかしいからそういう方に力を入れているのだ。

原発だって東電は国並の権力を金をもっていた。三兆円の資産があるとか驚きだった。
するとそこに政治家であれ官僚であれ検察であれマスコミであれ地元の人たちであれ群がるのである。マスコミに流れた金も巨額なのである。
だから「安全神話」が作られたのである。何かここでも石原慎太郎のような力を得ていたのである。確かに原発批判している人は左翼系でいたがそれも何かSF小説のように架空のことのように危険性をされていた。
何か大きな声として国民には届かないのである。出版はされていてもそうである。
要するに情報は権力によって操作される、権力というとき政治家であれ官僚であれ検察であれマスコミであれもっている、記者クラブでもそういう権力をもつ人の許可がなければ得られない、だから一個人など何の力もないのである。
そうすると大きな声になるのは権力をもつものによって決められことになるのである。
原発が今でもなぜやめさせることができないのか?それもやはり今度はさらに大きな背後のアメリカの命令でそうなっているとかなる、アメリカ実質上の日本の政府を動かしているとなる。原発がアメリカの政策だからやめさせることができないのである。
日本は敗戦国だからアメリカに対抗できない、逆らえないのである。
それも日本が敗戦から七〇年過ぎて国家の変革期になったのである。
そして日本がこれから真に独立国になるとしたらこれは戦争になったときのように相当な覚悟が必要になる。アメリカに守られていたことから脱することは相当な危険にさらされるからである。そういう日本国家自体の曲がり角にきて津波や原発事故や都議会の闇なども暴かれたのかとなる、なんか時代の節目にきていることは確かなのである。

タグ:権力の闇
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2016年08月20日

秀岳館にも一人も熊本県出身はいなかった (高校野球の意義はスポーツは何のために?)


秀岳館にも一人も熊本県出身はいなかった


(高校野球の意義はスポーツは何のために?)


今の高校野球は地元代表ではない、秀岳館は熊本代表ではない、大阪から根こそぎひきぬいてチームを作った。地元とは全然関係ないチームなのである。

センバツ「秀岳館だけには優勝させるな」という雰囲気あった

東北の私立でも八戸光星とか青森山田とかは東北出身は一人もいないのである。
福島県の聖光学院は地元が二人くらいいるから違っているといってもそれが福島県の代表なのかとなる。
高校野球は地元の人が応援する、地元意識が強いことで成り立っていた。それで盛り上がっていた。
つまり福島県のチームが勝てば原発事故や震災の復興になるとか熊本だったら地震の被害からの復興になるとかなる

でも秀岳館は実際は地元出身ではない、第二の大阪代表だと言われる
地元の代表だったら地元の励ましになるが地元出身の生徒がいないということが変わってしまったのである。
福島県だったら聖光学院を応援するがでもあまり強く応援する気持ちにもなれない
なにかしらけた感じになるのである。
そもそも高校野球自体がこういうふうに地元出身の生徒が出て応援するとういものでもなくなっている、だから全国高校野球というのがどういう趣旨で行われているのか?
その趣旨に反したものである。野球好きな生徒がどこの県でも私立高校に入りそこで甲子園に出るために練習する、その地元とは別に関係ないのである。

今日秀岳館に勝った北海高校は二人くらい大阪出身だがほとんど北海道出身だった。
秀岳館はピッチャーが5人くらいいるのも強みである。北海高校はエース一人でがんばり勝った、秀岳館には勝ってもらいたくないという高校野球にかかわる人が言うのもわかる前に磐城高校が甲子園で決勝まで進出したときはほとんど磐城出身の高校生だった、もともとみんなそうだったが高校野球は甲子園に出たいという特別優れた生徒が全国から集まりチームを編成するのである。
別にスポーツはスボーツが好きな人がどこの県であれ世界であれば国であれ競うとなれば国にこだわることはない、現実に国がないからたまたたま近くにあった国とかから国籍をもらいオリンピックにでたとか国意識が希薄になっているのである。
スボーツはもともと身体能力だけを競うものでありあまり国籍とか県とか関係ないのである。

そして日本が400メートルリレーで銀メダルとったというとき100メートルの決勝に出た人がいないのに勝った、他は9秒台で決勝に出た人が多い、それでも日本が勝ったというとき世界で話題になった、それがなぜなのか?
それはバトンタッチのうまさである。そこを日本チームは相当に訓練していた。
そのバトンタッチが何か日本人的器用さが発揮されたのかもしれない
そのバトンタッチで差がついて勝敗にも影響するということが面白かった。
ただ速さだけではないバトンタッチが勝敗を分けるというときただ身体能力で競争していれば負けるがバトンタッチの技で勝つというのが面白かったのである。
ただ身体能力だけで勝負がつくとなると決まった人しか勝てないのである。
そこには一つの要素でしか勝てない、身体能力の強い人しか勝てないから勝つ人がたいがい黒人になっているのである。それはDNAでもともと優れているからいつも黒人が勝つとなる、それは国と関係なく陸上は黒人が強いのである。

何かすべて身体能力が強いものが勝つとなると面白くない、そうなら最初から競争しても勝敗がわかっているのだから無駄だとなる
柔道にしても小さい者が大きい者を投げたりすることができるものとして人気があった。また日本の武道は精神的要素が多い、精神の修行という要素が多い、だから日本ではスボーツでも道を究めるとなる、柔道、剣道とか道なのである。
ギリシャではじまったオリンピックの競技には何かそうしたものは精神的なものは欠けている、ただボリス同士が戦争ばかりしていたから休戦の意味でオリンピックが始まったというのに意義があった。それで平和の祭典になったのである。

柔道などにはそうした精神的なものがあり文化がある、ただ身体能力を競うものではないものがある。でも一般的にスポーツには文化的なものを感じない、スポーツという言葉が気晴らしだということでもそうである、ただスボーツで優れているということは身体能力で優れいてることは人間的に優れているということはある
特に昔だったらそういう身体能力で人間の優劣は決まる、機械がない時代だからそうなった。
ただ人間の身体能力の不思議は栄養豊かだからといって必ずしも備わるとは限らない
なぜ江戸時代の人とが粗食でも重労働にできたのか身体能力が高かったのか不思議である走るにしても人力車を引っ張るとか飛脚でもマラソンランナーのように走る能力がありそれは相当な重労働であり粗食でやれたのかとなる、でも実際は粗食である。
おにぎりとか沢庵とか味噌汁くらいがおかずで働いていたことの不思議である。

身体能力を考えると栄養をとらないから弱いともならない、今でもネパールなどでは素足で荷を背負い山を下り下りしている、その人たちは粗食なのである。あの高い山では栄養はとれないからである。
粗食というときローマ人も実際は普通の兵士は粗食だった、貴族化したとき贅沢になった日本兵は粗食であったがやはりそれでも戦争をする体力があった。
現代は栄養過多でありそれで身体能力が高まったというとそうはなっていない、とても昔のように歩いて旅するなどできない、今も車に乗っているとかデスクワークだから昔の人より体力がないのである。
つまり贅沢になれると人間は虚弱化して国自体も衰退してゆくという逆説がある。ローマがゲルマン人に滅ぼされたのもそのためである。
原発避難民なども贅沢であり文明人自体が贅沢になれているからあえてもう困難なこと、不便なことは嫌だとなり震災の災害地は復興できないともなっているのである。

なんか自分は今年の暑さでバテた、それで食欲もなく食べていないから相当にやせたと思ったら逆に太っていたのである。それがなぜかわからないがアイスを食べると太るとかジュースで太るとかなるとそういうものに相当な栄養があり太った
夏やせが普通なのだが夏に太る人が多いというときアイスでもジュース類でも相当に栄養があるためである。
そして糖尿病になる人が現代人に多いのは栄養の取りすぎの結果なのである。
なにか暑いと喉か乾き甘いものをとりすぎるのである。甘いものをとりすぎるとかえって疲れるというのもわかる、かえって水の方がいいとなる
自分はやせ型だから太るわけないのである。それが太ったということは甘いものをとりすぎたということなのか?それだけ今はいろいろなものを食べすぎるということなのだ
そしてかえって栄養をとりすぎて虚弱になっているというのも逆説である。
文明人はみんな共通して虚弱になっている、栄養とりすぎて虚弱になっているというのも逆説である。粗食で生活していたときがかえって身体能力があったというのも逆説なのである。

なぜ現代がスボーツの時代になっているかというとともかく文明人の生活が運動しないためである。だから運動することを求めてしないとできないからである。
別にスボーツジムに行かなくても日頃の生活が身体能力が必要ならそんなことをする必要ないのである。米俵でもかつぎあけるとか荷を運ぶにも日頃肉体労働していればそんなことをする必要はないからである。
オリンピックに出る人は超人的能力の持ち主であり普通の人とは関係ない世界である。
それは遊びと気晴らしの世界なのである。そんなものに金をかけるのは企業の宣伝とか国威高揚とかがありそれが世界で生活している人々とは直接的に何の関係もないのである。そういう気晴らしのスボーツに何兆円もかけること自体時代錯誤になっている
高校野球も勝つことだけが問題になり高校生野球のプロ集団同士の戦いとなり地元とか県の代表でもなくなっているのである。
だから福島県でも心から応援するという気になれない、ただ試合には勝たねばならないから勝つということに重点を置けば結果的には地元だけでは勝てないから全国から優秀な選手を抜擢して強いチームを作る他ない、でもそれは高校野球の趣旨には反しているから
秀岳館は負けてほしいとなったのである。



タグ:高校野球
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2016年08月15日

佐藤優なる似非知識人がなぜ持ち上げられるのか? (暗黒時代に突入する日本)


佐藤優なる似非知識人がなぜ持ち上げられるのか?


(暗黒時代に突入する日本)


この人のことは全然知らない、本も読んでいない、ただ良く出てくるからなんだろうとは思っていた。
この人は似非知識人で信じられないのは創価と池田大作を礼賛していることである。
これはなんなのだと信じられないとなる、東電側にもついていている
創価というときこの団体がどれほど危険な団体か自分は自ら活動して知っている
仏教ファシズム団体である。仏教など何の関係もない、ただ会員を増やして権力奪取を目指す団体である。平和だとかいろいろご託は並べるがそれは平和装う狼なのである。
いかに創価が権力を得ようと日夜画策して活動しているか自分は活動していたからわかる選挙が最大の仏教の戦いであり池田大作は先頭にたって選挙のときは指導していたのである。そして先生のためにと婦人部はフレンド票をとるために必死になっている
それが高じて選挙違反者を出したというのもわかる。もうなにながなんでも一票をとることが最優先される、そのためにすべてのエネルギーは注がれているのが創価である
それはなんのためなのか?権力を得るためである。
そこで活動する人にはそういう野心家がいる、創価に入り権力ある地位につきたいという人が入ってくる
あと無知な大衆を操作して会員を獲得して権力を得るために民音と芸能人を支配しているこの人は創価系の芸能人なのである。

マスコミにもちあげられる知識人は危険

なぜこの人がこんなにマスコミとかで持ち上げられるのか?それはマスコミ自体が時の権力側についているからである。都議会選挙でも内田とか黒幕がいるのを暴くことができない、報道しなかった、都議会の闇を暴くことをマスコミはしなかったのである。
マスコミは無知な大衆を操作するためにある。宗教もカルトとなるとそうである。
宗教はファシズムになりやすいのである。創価の会員にもいろいろいるけどどうしても弱者とかが多いからそういう人たちを一票として確保する
宗教で自縛させる、それが効果的であり以前としてそれなりの会員維持に成功している
では宗教を利用して権力奪取をするというけどその幹部自体も池田大作自体も宗教に自縛されているのである。異常に罰とか恐れている、息子の一人が早死にしたとき罰あたったとして表に出すことを拒否したり何か病気になっても知らせないとかある
現実に創価に入っても何か解決しているのだろうか?

近くでは息子が若くて病気になり死んだし次に母親も死んで家はなくなった
創価では仏教では現象を一番重んじるけどそんな不幸なことなど会員数が数百万もいたらいくらでも見ているはずである。自分の家でも認知症になったとか必ずどの家でも不幸はまねがれないのである。第一不幸のない家などない、必ず病気になるし何らかの不幸はあるもしなければみんな入っているだろう。
創価でもエホバでもカルト宗教など人を選ばないのであるどんな人でもいいのである。そこには全くモラルなどない悪質な人間がごろごろしているでもその人がどうなのか性格がどうとかは絶対に問わない、どんないいかげんな人間でも会員になればいいのである。実際回りで創価の人間がどういう人間か見ていてみんな知っているのだからこれはなんなのだろうと理屈と関係なくおかしいなと知る
田舎だとそういうことは目に見えるからあまり増えないということはあったかもしれないそれでも田舎でも増えたというのはそれだけそううい闇の世界に吸収されるのものがあった。まず公明党の張り紙してあるところは何か問題をかかえているのである。

人間の社会はつくづく変わらない、なぜこんな人間が有名になりマスコミに持ち上げられている、クリスチャンなどいくらでいるからそれでクリスチャンとはならない。
教会に行っている人がみんなクリスチャンとは限らないし仏教でも会員になっているから信者でもないのである。ただ会員というだけなのである。最近はエホバが勢力を延ばしている。必ず生活保護者が標的にされて入っている、創価、共産、エホバは生活保護者の数が多い、そこに入る人の意識は高等な宗教は必要がない、要するに政治的便宜を計ってくれるとか何か利益を与えればいいのである。だからもし十万であれ借金があれば肩代わりしてやればすぐにそっちのほうにつく、つまり金で下層階級は支配できる
また公明党の議員が投票させるためにビール券を配っていたとかそんな程度で会員を増やし一票を得るために日々活動しているのである。

いずれにしても、このままゆけば日本はかつて歩んだまたあの”いつか来た道…”を間違いなく《反復》することは疑いようもないではありませんか。そして、知識人、擬似知識人、似非知識人、あるいは、純粋な悪の先導者であるピエロ、道化、マジシャン…等に先導されつつ、かつて想像もしなかった地獄へと転落してゆくのではないでしょうか。


日本でもほかでも同じなのだが人間は以前としてサタンの支配下から逃れていない
同じように似非知識人であれ似非予言者が跋扈して大衆をまどわし地獄に連れ込まれる
これはサタンの手先なのである。マスコミもそうい手先をもちあげる。
マスコミがサタンの手先なのである。だからマスコミは時の権力側にしかつかないのである。
この人は東電をも批判すべきでないと言っている。これも信じられないことである。
こういう人が有名になりもちあげられること自体がいかに今の言論界でももう信じられない堕落しているかわかる。
本当にいつか来た道をまた日本は行くことになる。戦争にもなるし原発事故もまた起きるこれはもう確実である。防ぎようがないのである。
自民党というのも信用できない、創価公明党を一時批判していたが味方になればとりこむ、ただ権力を得るためにそうしているだけであり一貫性がないのである。人間は権力を得るためには悪魔とも結託する、金のために魂も売る、これも人間が変わらないことだった
つまり常に権力を得る維持することが最優先になっているのである。
だからいづれは自公政権は崩壊する、その兆候は東京都知事選挙で現れたのである。
民主主義といっても言論の自由は必ずしもない、組織がなければ出版もできない
要するに人間はひどい目にあわないと現実が何か認識できないのである。
カルマもそうである、何か苦しい目にあうとなぜだろうとカルマを意識する、そうでなければ意識しないのと同じである。
こういう似非知識人や似非予言者にだまされて地獄に連れていかれてひどいめにあったときはじめてカルマを理解するのである。

この世とは変わらない暗黒の世界だったのである。その証明がこういう似非知識人や予言者が大手をふってまかりとることにある。
要するにこういうことが延々と有史以来くりかえされてきたのが人間社会だったのである結局この世には絶望しかない、闇の主がサタンが支配しているのは変わりなかった。
人間の悪など一掃できない、次々に新たな悪が生れる、形を変えて人を変えて送り出されてくる、おそらく創価がなくなっても次にまた新たなカルト団体が生れるし生れている
だから大洪水がきてノアの方舟で生き残る、救うのが神だとなる。
津波はまさにそうしたノアの洪水と思えるほどの巨大災害だったのである。
そして政府と東電が一体となって悪が暴かれたのである。とても人間ではもうそんな巨悪を暴くことはできない、そして必ず歴史的審判が下される

歴史的に長い時間の中で見たときなぜこんな似非知識人が世を席巻したのかと不思議に思うのである。その時はもうその人の名前は何もでてこない、忘れられるだけである。
悪名を轟かせてもその名は消える、この世で大きな名を力をもつものがサタンの手下だということである。誰も歴史的審判からまねがれることはできない
かつて権力をもっていたものも悪も白日の下にさらされる、特に時の権力者は容赦なく断罪されるのである。だから歴史が裁くのであり時間が裁くのであり長い目で見ないと人間社会も見えないのである。百年後くらいから現代を見る必要がある。
今こんなにも有名になり力があり権力かあっても見る影もなくなることがある。
それは個人的にもそうである。家族で死ぬときまで優秀だと言って死んだが実際は認知症になり馬鹿になっていたのである。
いづれにしろ現代の知的水準はこれだけ情報が氾濫していても低下している
カルト宗教がこれほど増えているのもそうであり似非知識人が主役になっていることでもそうである。次の時代は相当に危険であり戦争の時代に突入して地獄になるかもしれないなぜなら歯止めとなるものがもうない、マスコミも戦争中と同じであり権力側につく大本営発表しているだけだからだ。

日本は今外交的にも経済でも岐路にたたされている、中国に責められアメリカは退いてゆく、そしてまた戦争中のように日本は孤立してゆく、そして追い詰められて戦争になってゆく危険が増大しているのである。右翼関係の議員が増えているとか右傾化している
創価やカルト宗教団体は右でありそれが一体となり戦争に向かってゆく
その危険性が現実的に増大しているのである。その象徴が似非知識人がもてはやされていることである。その似非知識人も実は背後のブラックなカルト団体とかに操作されているのである。マスコミはまさに背後に電通とかいて操作されている
電通は何かわからないにしろそれが今度在日勢力の支配下にあるとか外国人勢力に日本はのっとられると右翼が言うのもわかる。
日本は闇の勢力にのっとられる、創価もそうでありまた左翼も在日も日本を中国に売り渡すとか盛んに言われる、真に日本を思っている愛国者は誰なのか?
創価は日本をのっとることを目的にしているし左翼も中国側に日本をさしだすものだと言う。すると真に日本を思う愛国者は誰なのかとなる
ともかく今は日本は非常に危険な岐路にたたされている、これから右だカルトだ左だとか内戦状態になるかもしれない。格差社会も内戦になる。もちろん原発事故で故郷を失ったことも深刻である、それもこれから日本全体に起こる地獄への始まりである。
そういうものとして津波が原発事故が起きたのである。
その反面として詩にしたようにここから故郷の再生がはじまるということもある
つまり原発事故にあったこの辺が福島県が日本の未来の鍵を握っているともなるのだ。
そううい使命がここに託されたともなるのである。

擬似知識人、似非知識人、あるいは、純粋な悪の先導者であるピエロ、道化、マジシャン…等に先導されつつ、かつて想像もしなかった地獄へと転落してゆく

まさにこれが佐藤優がもてはやされることでも具体的にわかる。何かマジシャンのような風貌をしていないか?ピエロとか道化とかがテレビの画面を占拠して大衆は操作される
そしてそれが地獄の道を通じているのである。白痴化された大衆は操作しやすいからである。そしてその大衆自体が地獄へひきずりこまれるのである。
あとどのくらいでそうした地獄が生れるか?その前に自分はこの世を去ってゆきたいとなる、戦後70年は実際はつくづく恵まれた時代であった。しかしそれもいつまでもつづかない。次の時代は暗黒時代になる、ともかくうたかたに消えてゆくような人間が大手をふってこの世を席巻していることそういう人間をもちあげること自体日本国滅亡の亡国の徴(しるし)なのである。

タグ:佐藤優
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2016年08月14日

武田邦彦氏のオリンピック(スボーツ)に対する発言は納得できない スポーツ競技とはなにか


武田邦彦氏のオリンピック(スボーツ)に対する発言は納得できない


スポーツ競技とはなにか


武田邦彦氏がスポーツは意味がないけど意味があるとか言っているけどこれは納得できない、遊びであるから金をかけるのは経済効果を言うのは無意味なのもとしてやるのだからかえって逆効果だというのは同感である。
たかがスボーツというときそこに莫大な金がかかっていることが問題なのである。
たかがスポーツなら草野球のようなものでもいいわけである。
何兆円も金がかかるオリンピックがたかがスボーツですまされないのである。
なんらか意味があるものとして追求されねばならない

それだけの金がかけるなら東北復興に金を使えばほかにもいくらでも使う所があるからだ
他のことは科学者としてその言い分はわかるがこれは根本的に理にあわない
理系というとき文系がおとしめられるが何かあらゆることに通じるわけではない
意味のないものに莫大な金を費やすからこそ問題がある
金を使わないなら草野球みたいなものなら別に問題なのである。
高校野球だってセミプロであり地元とは関係ない選手が集まりしているから地域の代表でもないのである。金もかかっているのでありたがらこそ勝つことが第一になるのである。純粋のたかがスボーツならいいがそうでないから問題なのである。

ともかくインターネットではなかなか議論が直接的にされない
自分もそうだがプログは一方的発言になってしまう。
こうして発言しても相手が読むとも限らない
パソコン通信の時代は逆にあまりにも相手をおとしめるための直接相手を攻撃するためのものだった。
プログになるとなんかそうした攻撃もない、だから一方的な発言となりそれで議論が深められることはない、プログはそうなりやすいのである。
自分だってずっーと膨大なものを一方的に発言しているだけだからである。
「心に青雲」なども内容が濃いのだけど同じである。一方的発言を延々としているとなるそうなるとなかなか議論を深めることができないのである。
その人の発言はその人の発言として終わりになる。

ただこうした内容の濃い人のプログを批判するとなると相当な人でないとできない
科学に弱い自分はまず科学について批判できない
ただ文系になると心の青雲の「国家論」とかなにかそこから議論を深めるものがあるかもしれない、それだって相当な知識が必要であり簡単にできない
第一マルクスとかでもそれを批判するとなればそれを深く理解しなければできない
そうなると批判自体が不可能だとなるのである。

ただ今回武田邦彦氏の言っていることは浅薄だからできたことである。
ほかはなかなかできない、専門的になると余計にできない
現代は専門家の時代であり素人は批判などできない
人間と意味がないことに国家予算なみのものを使うことはまちがっている
なぜなら人間はなんであれ意味を追求しているのである。

スポーツは気晴らしの意味があるときそれも意味だがそうならそんなに国家として金を使うべきではない
ローマの「パンとサーカス」になってしまう。現実になっている。
日本雑技団とか言う人もいて面白い、まさにサーカスなのである。体操などがそうであるそういうものにオリンピックとなると国の誇りだとなるのも納得しえないのである。
それは日本だけでない中国雑技団にもなる。そんな程度のものとしたらなぜ莫大な金をかけるのか?プラジルでは貧困にあえでいる人があふれている
その人たちにとってオリンピックなど何の関係もないのである。
現実にメダルもとれないのだから面白くないとなってしまう。

ただもし意味があるとしたら逆に株価が上がるとしたら経済効果として意味があるとなる武田邦彦氏は経済的効果をスポーツには必要ではないというがむしろ必要だからこそ意味があるとなる、なぜならそうしたらそんなに金をかける意味があるのかとなるからだ。
なぜそんなに金を使うのかということが問題になっているからである。




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オリンピックをする意味がなくなっている (力石のような村社会での意味すらない)


オリンピックをする意味がなくなっている


(力石のような村社会での意味すらない)


“郡上八幡城の力石伝説”
4 / 52015/11/17に投稿しました
かつてこの城の改修時に、通称赤髭作兵衛という力自慢の農民が城下の河原から三百キロを超える重さの石を担ぎ上げたという伝説があり、八幡城庭園内でその石(岩という大きさですが)を見ることができます

高千穂神社の祭神である、 三毛入野命(みけぬのみこと)は弟の神武天皇とともに大和に向われますが、伝説では再び高千穂へお帰りになり、高千穂郷一帯で悪行をはたらいていた鬼八を退治し、この一帯を治めたといわれておりす。
鬼八の大石は、この時、鬼八が三毛入野命に投げ、力自慢をしたという石といわれております。


真光寺にあった力石(郷石)も、賭博の一つとして使われ、村人は、事がある度に寺に集まり、金銭や田畑地を賭けて力比べに興じていました。村人は、そのためにすべてのものを失い、大貧乏になってしまう人が多数を占めました。この当時、村で賭博をやらない家は、2軒しかなかったといわれます。

「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村堺(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されています。

「力石(ちからいし)」とは、力試しに用いられる大きな石のことを言います。
力石の全国的な調査を行った高島愼助氏(四日市大学教授)は、「労働を人力に頼らざるを得なかった時代に労働者の間に発生し、力くらべや体力を養うのを目的にした石を指す。したがって力石による「力持ち」は、一人前の男としての通過儀礼、鍛練および娯楽としての要素が濃厚であった」と定義付けています

 力石は日本各地の神社や寺院の境内などにあり、力比(ちからくら)べや力試(ちからだめ)しに用いる石のことです。5斗石、8斗石などと重量が定められています。差し上げれば千人力になるとか近親の病気が治(なお)ると言われています。また、肩上げ、両差し、片手差しなどといって力を競います。

 住古女あり年20ばかり、木履を納め米一石を頭上に捧げこの坂を上りし故一石坂(いちごくさか)と名づく(南相馬市鹿島町誌)


力石とか比べ石とかは全国各地にあり多い、それは当時は人力に頼ることが多かったからである。持ち上げるのにも運ぶのにも人力頼りになると力がないものは仕事もできない
それで村では特定の石をもちあげれば一人前とされたというのもわかる。
つまり力があることが一人前の男として村に認められたのである。

現代だと力があることは必ずしも自慢にならない、機械が代わりにするからである。
でも以前として体力があることは何するにも必要だから価値がある
でも昔のように力より知能の方が重んじられるようになった。
するとそうした力石とかはただ祭りとして遊び化してスポーツ化する
もともと社会的に有用なことだったがそれがなくなると遊び化してゲーム化するのである
オリンピック自体がもともと戦争のために実際に行われたものである。
槍投げであれ円盤投げであれそれは武器として使われていた人を殺すためのものだった。それがスポーツ化して遊び化したのである。
社会的に意味がったものでも実用とてあったものでも遊び化する、その時実用性がなくなるから祭りともなる、相馬野馬追いなどももともと戦争のために行われていたが祭りとなったのと同じである。

オリンピックというときこれも何なのかというとそうしたもともとあった実用性から離れたものとして追求されている。今どき槍投げと円盤投げとか何の実用性もないのである。そして昔の力石というときそれは現実に仕事するにも力が必要だからこそ社会で意味あるものとして行われていたのである。
そもそもオリンピックになると世界的身体能力の超人を目指している
そういう世界は実用性からは全く離れた世界である。それは超人であり普通の社会の実用性からは離れた世界である。まず百メートルを極限の速さで走る必要性が普通はないからである。そんなことを追求しても意味あるのかとなる

では今のオリンピックはなんのためにしているのか?
それは企業とか国威高揚とかのためであり小さな村社会で行われていたものとは違う。
村社会で行われていたものでもそこには意味があったのである。
超人的スポーツ選手は企業の宣伝として使われている、商業主義のオリンピックなのである。
日本のメダルが多くなると日本の株価があがるというのもそうである。
それは企業にとって宣伝になり売り上げもはあがるとまでなるからである。
そしてテレビで視聴率をあげれば余計に宣伝効果が大きくなる
それでテレビを支配する電通が防いでも莫大な金を東京オリンピックの誘致のために金を使ったのであてる。
それは商業主義オリンピックだからそうなったのである。
オリンピックの選手にしても企業から宣伝費として金をもらうからそうしたプロなのである。だからメダルをとることが最優先される

オリンピックは最初は参加することに意義があるなど意味があった。何か世界平和のためとかもあったし国威高揚とかもあり東京オリンピックの時は意味があった。
今はそういう意味がない、第一すでに50パーセントがオリンピックに興味がないのであるオリンピックを開く民意がない、それでも行われるのは商業主義オリンピックであり企業が金を出すからだともなるしゼネコンが仕事になるからだともなるし電通によりテレビで視聴率を稼ぎ企業の宣伝になるからだともなる
だから意味を追求すれば村社会の力石、比べ石とかより意味としてはないのである。
世界平和というのも関係ないしオリンピック開いたからと世界平和が促進されることもないのである。
ただ身体能力の超人的追求になっている。それは普通の社会で生活する人から見たら関係ないことなのである。体力が必要でもそんなにしてまで体力を追求する必要もないからである。

人間はなにか常にあらゆることに意味を追求しているのである。人間は「考える葦」だというときがそうである。人間は哲学的存在なのである。ただ野獣的に超人的体力を追求するときすでにその時人間でなくなり野獣になっているのである。
今になればそうしたスーバーマン的な体力は機械に置き換えられているからである。
その機械化によっても力あるだけでは人間の価値はなくなったのである。
一体0.1秒とかの差を争うことにどれだけの意味があるのか?世界新記録にどれだけの意味があるのか、そんなものはいづれどんな種目でも限界が見えてくる
そんなことに意味はない、人間は超人にはなれない、スーパーマンになれないからであるだからオリンピックは世界的に日本でも興味を失っているだろう。
何かそういうものにあきたという人が多くなっている
それは社会的にも意味を見いだせなくなったともなる
それをあおっているのはマスコミとか企業でありそれを見る人たちは飽きたとなる
要するにオリンピックでなくても別なエンターテーナメントが娯楽でもいいわけである。何かオリンピックに前のような特別な意味が見いだせなくなっているのである。
だから東京オリンピックは無駄であり日本人の民意とはなっていない
でも別な力で公共事業のためとか企業の宣伝とか電通の利権とか利権としてオリンピックがある。それは村社会にあった力石とかのような意味もないのである。
あれだけ世界的巨大でも意味がなくなっていることがオリンピックの問題なのである。

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2016年08月08日

オリンピックは必要なのか? (巨大利権化したオリンピックは腐敗している)


オリンピックは必要なのか?


(巨大利権化したオリンピックは腐敗している)


リオオリンピックの柔道を見ていた。そこで不思議だったのはオリンピックにはどこかの国に所属していないと出れない、それで小さな国の国籍を借りてというか出ていた人がいたのである。世界にはそういう事情の人もいる。一時的にそうなっていたかである。
オリンピックは今なんのためにやるのか明確ではない、参加することに意義があるなど思って参加している国も人もいない、メダルとるためにしかありえないのが現実である。
そして国威高揚のためにある。その国威高揚に一番効果あるのが国家が金メダルと演奏されることである。水泳で金メダルとったから君が代が演奏された。その時は日本人の誇りというか日本国への愛国心が湧いてくる、なかなか今はグローバル化しても日本国を感じる場面がない、戦前は絶えず日本国が過剰に意識されていた。
それが敗戦になったらその逆になってしまった。日本の国を意識させないようにしているのである。だから愛国心をもたない国にもなっている。
オリンピックが平和の祭典というのも違う。オリンピックしても世界はやはり紛争があり戦争がありテロがあり解決しない、オリンピックは平和とはほとんど関係ない、ただのスポーツの祭典なのである。
そしてここでも利益を得るためのものとしてオリンピックが腐敗したので

この祖国での優勝者への過剰な褒章が、逆に大祭の腐敗を生んだ。祖国が優勝者に支払う報奨金は跳ね上がり、褒章欲しさに、不正を働くもの、審判を買収するものが出て、オリュンピア大祭は腐敗した。買収を行ったものと応じたものは以後の大祭から追放されるだけでなく、多額の罰金が科せられた。

東京オリンピックの誘致にすでに200億円かかったとか莫大な金にふくらむことで東京都知事選挙の争点にもなった。
そんなに金をかけてオリンピックをする意義があるのか?そういう疑問である。
前の東京オリンピックとはまた事情が違ってきたからである。
あの時は高度成長時代であり日本が世界の経済大国となってゆく時でありオリンピックはその国威高揚としてふさわしかったのである。
それからオリンピックは世界で継続されたが果たして本当にオリンピックは今や必要なのかという疑問がある。
オリンピックは公共事業としてテレビの電通の利権としてフランスで取り上げられたように巨額の金が流れるのである。企業の宣伝としても選手もでている。
純粋な心体技を競うスポーツの祭典ではない、国威をかけた巨大な利権の場と化しているのである。
勝つために何でもするようになる、ロシアの国ぐるみのドーピング問題でもそうである。それはギリシャのオリンピックでもそうなって腐敗していたらである。

●国威高揚

●心体技の競争

●スポーツを通じての世界の友好

オリンピックは国威高揚は欠かせない、でも本来スポーツは別に国とそんなに関係しなくてもありえる。世界選手権になるとそんなに国とは関係しない。
スポーツ分野ごとにその技を競っているのである。アーチェリーだったらアーチェリーの技を競う、メンタル的なものだというときそういう精神面でも競っている。
見る方にするとそれを見ればあまり見れないからそういうスポーツもあると啓蒙されることは確かである。
高校野球でも福島県の聖光学園は有名だけど全国から野球好きな高校生を集めて勝っている、地元の高校生は一人か二人なのか?ほとんどいないというし東北では関西とかから来た甲子園に出たいと入った私立高校が強いから地元とは関係ないのである。
地元の代表ではないということはオリンピックで国の代表でないと同じなのである。
ただ野球好きなうまい人を集めているだけなのである。

スポーツにはそれぞれスポーツが目的とするものがある。柔道などは日本から生れたら日本の文化であり柔道を通じて心体技を磨くもの鍛練するものである。
それは「心の青雲」で常に説いていることだからプログを読めばわかりやすい、精神の鍛練として空手をしているのでありただ勝負事としてしているわけではないと言っている。人間は何をするにも精神性がなければ動物に陥る、スポーツにも文化的要素が必ずある。日本から生れた相撲でも武道でも文化的要素がある。
ただプロレスとかには何か体を筋肉だけをぶつけるもので精神性を感じないのである。

「心体技の競争」の競争なら別にオリンピックのような過剰な国威高揚はいらない、世界選手権でいいのである。オリンピックで世界の平和をになうというのも今は消えている
オリンピックしたからといって世界が平和になるということもない、これだけ世界の人々がまじりあうグローバル化社会では世界の人を集めることも必要ない
日常的に世界の人が混じり合う世界だからである。
残るのは別に国に関係なく人間としての心体技の競争である。
ある国がメダル何個とったとか異常にこだわるのも変なのである。国と国が競争するのではなく個々人が心と技を鍛練して戦うとなればオリンピックは必要ないのである。
オリンピックはかえってグローバル化社会では巨大な利権化してその本来の目的とは違ったものとなっている。

柔道を見ていても選手には悲壮感が漂っていた。どうしても勝たねばならないというフレッシャーを受けているからである。日本国のために勝たねばならないとしたらそうなる
でも世界の人々が国に関係なく心体技の競争というならそうはならないのである。
何かオリンピックは国と国の戦争なのである。勝ち負けに異常にこだわるのもそのためである。国と国が争い勝てば戦争のときのように喜び負けるとがっかりする。
勝てば日本人は優秀だとかなる、柔道でも今や何か知らない小さな国の人が参戦しているそれは競技人口が増えたからであり柔道が普及したからであり柔道は柔道でその心体技を競いばいいとなる
今やオリンピックの理念自体が当初のとは違ったものとなっている、時代に合わないものとなっている。だから改めるべきであり必要ないとまで世論的になる
日本だってオリンピックに興味がない人が50パーセンと多い、オリンピックに興味をもつものは推進させるのはその利権にかかわるものである。政治家でありゼネコンでありテレビでありそれらに主導されてオリンピックが推進させられる
国民としたらもっとほかのものに東北復興の方に持続的回すとか他の国民が要望するものに使うということである。国民が本当にオリンピックを望んでいるのかわからないからである。それが前の東京オリンピックとの大きな相違である。
前の東京オリンピックは国民みんなが望んだものだったからである。

posted by 老鶯 at 06:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層