2023年07月10日

加治将一氏から戦後の歴史を振り返る―経験が人間を作る (団塊の世代を語る―加治氏も同世代)

加治将一氏から戦後の歴史を振り返る―経験が人間を作る


(団塊の世代を語る―加治氏も同世代)





●戦後の世代の特徴


最盛期には、不動産にも何十億と投資していました。

そんな時、バブルがはじけて不動産価格が急落。

資産が吹き飛んで、倒産しました。

今思うと、あの頃は何でも思い通りになるとどこか傲慢になって自分を過信してしまっていたのですね。

日本に帰国後、アメリカと比較して日本の不動産市場のおかしなところを纏めた書籍を出すことになりました。

これが、メディアにうけてテレビ番組に出るようになったのです。

これが、今の作家の活動に繋がっているのです。


一人の人間を見ることは難しい。その人がどういう人なのか知ることは簡単にできない。でもその人と何か共通点があるとわかりやすいのである。例えば世代が同じだとか産まれた地域が同じだとか同じ興味があるとか同じ専門だとか何か共通点があるとそこからその人間を推し量る。私の場合団塊の世代であり加治氏と同じ歳なのである。だから言ってることに理解できるし共感をもつのである。 





【団塊の世代】1947〜49年生まれ

戦後のベビーブーム世代。大学進学した人は、学生運動が最も盛んな時期に相当する。高度経済成長の真っただ中に社会人となり、バブル経済期の頃は40歳前後の働き盛りで、日本の「右肩上がり」を実感した。

【バブル世代】1965〜69年頃生まれ 50−60代

日本がバブル景気に沸いた企業の大量採用期に社会人となる。「24時間戦えますか?」と高らかに歌う栄養ドリンク剤のテレビコマーシャルが大ヒット。長時間労働に疑問を持たず、接待会食、接待ゴルフ、接待麻雀など、勤務時間外も仕事の付き合いで縛られるのが当たり前のこととして受け入れられて

【就職氷河期世代】1971〜82年頃生まれ 40−50才


バブル経済がはじけ、長期の景気後退局面へ突入。企業が求人を絞ったために正規社員として就職できず、契約や派遣などの非正規の仕事しか得られなかった人も多かった。運よく正社員として就職できた人も、入社早々から業績悪化、経費削減、リストラの波にもまれたために、危機意識が強い。

いた。




戦後では、この三つの世代が目立っている。その数も多いからである。団塊の世代だった私たちの世代は共通したものを持っている。それはあまりにも数が多くて教室すら確保できない状態だった。加治氏も一クラス70人だったというからそういう時代だったのである。

それで高校でも数が多くて入れないとかになり受験競争になったのである。その時私は勉強に興味もないのにしていたのでいやだった。また必ず試験が何度もありその成績が順位でもって学校に張り出されていたのである。その経験は全国的に同じだったのである。そういうことをすると同じクラス、学校でもクラスでも他者に対して何とか抜きん出ようとして競争しよう煽ることになる。でも数が多いから椅子取りゲームになっていたのである。 この競争は数が多いから氷河期世代まで続いていたのである。だから、これらの世代の人は何かと他者に対して競争心が強く自分が上だと言うことを示そうとする。

ただ、加治氏が意外だったのはアメリカに渡って不動産業で成功したもの人だと思っていた。でも実際は失敗していたのである。帰国してから作家となり、ある程度成功したとなる。


●団塊の世代の子供時代、数が多く熾烈な競争を強いられた


人間を見る場合。学歴から見る人が多いが実は人間は経験によって作られるのである。だからその人を見る時、どんな経験したかをみることが大事なのである。何々大学卒とかみてもその人をわからない。ただ外国に留学して外国で学んだ人は価値があると見る。で採用するときもその職歴を見るとわかるし何も職業を経験していない人は採用などされない。自分等は職歴が何もないから会社に勤められないのである。まず採用などされないからである。

学校にも適応できなかったしもちろん会社にも適応できない。だからただ自由に旅して学び終わったのである。そこに大きく欠けたものがあったのである。ただ自分ひとりで個性を伸ばし個性に合ったことをしてきたからよかったのである。それは家族に恵まれた結果だったのである。


とにかく加治氏の場合アメリカで実際に仕事をしてきたということはその経験が大きい。日本で仕事をすることは相当に差があるからである。ただその時代不動産業には適していたのである。高度成長時代に。アメリカの土地がニューヨークでも買い占められると当時アメリカが騒ぎ日本を敵視したからである。今になると日本が中国に土地が買われるということと似ている。 それが今の日本になると信じられないともなる。あまりにも日本が失われた30年があり落ちぶれてしまったからである。

そして目立つのは氷河期世代でこれも人数が多いから大きな問題となったのである。でも当時は自由な働き方であり非正規は時代の働き方として推奨されていたということもあった。ただ、私は社会から離れて暮らしていたからそのことはよくわからなかった。何か時代というのは人生というのはあとから振り返ると見えてくるのである。だから老人になると過去を振り返り明確に見えてくるものがある。それで老人は昔を語るのに向いているのである。


ただ加治氏の育った環境と私の育った環境は似ているが家庭環境は違っていた。これは8人兄弟なのか?末っ子であり粗末に扱われたのである。父親には何かというと殴られたという。そういう時代だったのである。それは学校でもそうだったのである。学校でも先生が平気で殴ったり廊下に立たせたのである。平気でそういうことをしていたのである。それができたのは実際は家庭でもそういうことをしている。子供は厳しくしつけたほうがいいということで容認されていたのである。それで殴られたとか近くの先生だった人を恨んでいた人がいたのである。

だから別に親は何も言わなかったのである。今でも同世代の母親は厳しくした方がいいと言っているの。何故ならその時女性は親に殴られたり、先生に殴られたりされないからそうなっていたのである。こうして同じ世代だと共感することがあり話が分かるのである。


●教育環境が悪かった時代


そして何度も言っているけどその人も勉強する個人の部屋などなかった。だから子供部屋おじさんなども団塊の世代にはなかったのである。何か家で勉強できるようなものは何もなかった。私の家は店屋であり子供の時から絶えず配達をさせられていたので。私の父親は明治生まれで酒屋の丁稚であり。だから私も丁稚のようにされていたのである。

でも戦前でも戦後まもなくは子供はそうして働いて親に尽くすものとしてあったのである。戦前になるとそれはもっと厳しいものとなっていた。今外国から働きに来る人は貧乏であり親に仕送りするために親のために働いているのである。そういう時代があったということである。 

その様子が変わったのは、高度成長時代に入ってからである。それでもわからないのは高校まで東京オリンピックの時蒸気機関車に乗って原町の高校まで通っていたことである。これがどうしても信じられないとなるのでは?

とにかく時代というのはは急速に変わる。昔からも三日見ぬまの桜かなとなる。3日であっという間に桜が咲いたということである。3日も見ないうちに満開になってしまった。それが中国である。十数年前いやもう20年まえのか中国に行ったときは物価は、日本の1/10であり貧乏な国だったのである。それが新幹線のようなものまでが走り、日本より豊かな人が1億人でも増えればそれはもう全く違った国になってしまったのである。このように時代の変化は大きく忽ちまた過去がわかりにくくなるのである

私は加治氏の著作物には関心が無かった。一冊も読んでなかったのである。でもユーチューブで話すことを聞いて、興味を持ったのであるだから人間は本だけがその人を知ることでない。その人全体を語るのは本だけではないユーチューブとかブログでも語れるようになったことを知った。これらのメディアは個人が制限なくいくらでも語れるということである。テレビとかに出てもほんのちょっとコメントするだけだからである。その人の全体像というのは見えないのである。テレビでは主役は司会者なのである。そしてコメンテーターは司会者であり喋れるということもある。あくまでも主役は司会者なのである。でもユーチューブは主役はその本人なのでその差が大きいのである。


ただ加治氏についても分からないことはなぜアンティークコインが投資にいいのかとかは理解できない。そもそもアンティークコインことなどあることすら知らなかった。 加治氏は北海道の札幌出身である。だから、海道のことは詳しいはずだがあまり語られていない。その辺に不満はある。つまり、その人がどこに生まれてどのような家庭環境で育ちその後どういう経験をしてきたか?それはやはりその人物形成に大きく影響しているからである。、私は常に自分の出身地のことを東北地域と福島県と相馬地域のことを語り続けているからである。


とにかく人間はその人の経験したことがその人を作る語るにしてもその人が実際に経験したことが訴えるのであるそこに経験の重みがある

ただその経験はグローバルでありそれは本を読んでしたものではない。経験で知ったものだからである。経験が人間をつくるのでありいくら本を読んだとしても外国のことなどわからないからである。私も50歳からバックパッカーとして外国を回ったことが経験として生きてくるのである。それまでは全く外国に行ってないから恥ずかしいことを言っていたのである。それで加治氏の経歴はやはりほかの人は違ってそこに語るべきものを持っているということである。 


しきりにいう思考脳とかっていうのも理解する。それで暗記教育の学校教育を批判していることも共感する。加治氏の場合は既に小学校からそういう態度であり思考を持っていたことに驚く。私はただ言うなりになっていたし、自分で考えることなどしたことなかったからである。でも何か疑問にもつことがありなぜ人間は死ぬのだろうとか追求し考えてその解答を求めて求道していたのである。


いずれにしろ一人物を知ることは難しい。ただ、同世代であり時代を振り返ると見えてくるものがある。でも戦前の戦争を経験した人を理解することは非常に難しくなっているのである。頭の中で戦争というのは考えてもわからない。だから私の母親は学もなかったが軍人は威張っていたというとき戦争の時代はそうなると言うことをその一言でもわかる。それは実際に経験した人が言ってからであり、本で読んだ人が言ったって実感わかないのである。だから実感というのは大事であり。実際にこの目で見たもの経験したものがその人を作るのである。


そういう事が今ユーチューブとかで語られているから今までの一方的なテレビとは違っている。青山繁晴のフランスの暴動がなぜ起きたか?アフリカの植民地だったアルジェリアとかその人たちがフランス語を喋るのでフランスに来ている。その経済格差が大きいからフランスに移民するのである。そこで差別があり暴動になったのである。その生々しい肌感覚でそこに行った人が語るときなるほどと思うのである。それがただ本などで実際に行ってもいない人が語るとき訴えないのである。だからいかに外国で生活した経験が有益かわかる

生活したとか仕事までしたということがその経験がその人を作るということである。 

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(2) 【ぼくらの国会・第554回】ニュースの尻尾「仏暴動 明日の日本」 - YouTube


●日本の歴史伝統を否定するのは問題


加治氏はにキリスト教徒でもない。でも愛を語る最も大事だとして語っている。 愛がなければ思考のも育たないとしている。実はこの愛というのは愛される愛ではないのである。キリストが教えたのは愛する愛であり、愛される愛ではないのである。それが誤解しているので大方の人はただ愛されたい。そしてなんでもいいからものでも何でももらいたい。そういうのが愛であり、宗教だと見ているのである。そこに大きな誤解があるのである。なぜなら人は何も与えたくない。ただ与えられたい、もらいたい、愛されたいしかないからである。そこに宗教に対する大きな誤解がある。もしそうだとしたらみんな宗教を避けることになる。何ももらえないとしたら与えるだけだとしたらいやだとなるからである。


また加治氏は日本の伝統のことを否定するのがすべてアメリカから入って来たものはいいものではなかった。キリスト教でもその国に入ったとき必ずその国の伝統とマッチして発展したのである。だから仏教でも中国に入ったとき中国的な仏教徒なり。韓国には入いった時、韓国的な仏教となり、日本に入った時、日本的な仏教となったのである。その国の歴史伝統がありそれにマッチしたものとして受け入れたのである。もしそれがなければその宗教も生きてこないのである。それを証明しているのはカトリックはフィリピンとか南米とかに入ったキリスト教はただ押し付けられたものとなり。その国自体の歴史、伝統ととマッチしたものとならなかったのでそこから日本のように仏教文化とか生まれなかったのである。そのときあった伝統的なものは根こそぎ破壊されたからである。

日本だったらキリスト教でも内村鑑三などは士サムライであり武士道に基づいてキリスト教を受け入れたのである。また神道を尊んだ手島郁郎でもそうである。 そこにもやはり見習うものがある。でもその国の歴史と伝統にに基づいてキリスト教も受け入れられたのである。


でも日本の戦後というのはそういう歴史と伝統を根こそぎ失われたということもある。その結果として、日本というのはもはや日本ではない。日本というのは、日本人はすでにアメリカ人になっている。加治氏は日本人ではなくアメリカ人なのでそれを今の日本人はみんなアメリカ人になってしまったのである。なぜなら日本の歴史伝統というものは否定されたり理解できないものとなっていたからである。

そこに良い物があってもアメリカのものはいいものとされたこともある。だからこそ日本というのは本当にアメリカと似ている似てくる。アメリカで起きてくることは日本でも起きてくる。なぜなら日本というのはアメリカのコピーだからそうなるとアメリカの悪い点もまた見習うことになりそれが現実化しているのである。ただ金だけを求める日本人になったからである。すべての価値は金に換算される。金にならないものは何の価値もないとなってしまったのである。それはアメリカ人に習ったからそうなったのである。アメリカに留学した内村鑑三はそう言っていたからである。でもそのときはまだ日本人的なものを伝統歴史が生きていたのからそうなったのである。だから日本の歴史伝統を否定することは問題なのである。


もちろんアメリカにならうことはありそれは否定できない。結局、アメリカの悪いとこも真似て日本も全てがアメリカ化して今日があるとなる。そもそも今?日本人が何なのかということすらわからない。なぜならみんなアメリカ人になってしまったからである。


この人はまさに日本人だなという人は見ないだろう。依然として明治時代の時は内村鑑三のよう侍の伝統は生きていたのであろう。だから明治は偉大な時代だったのである。それは日本的歴史的伝統が継続されて血肉となったものがありそこにキリスト教を受け入れたから日本的キリスト教となり活きたのである。南米ではそこには歴史伝統となるものはなく根こそぎ破壊されたりしてキリスト教は接ぎ木されなかったのである。そこに戦争に負けたということで歴史伝統も破壊されるということがいかに影響が大きかったかということである。 










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2023年07月09日

情報戦争時代で判断できない (情報は権力を持つ者によって操作される)

情報戦争時代で判断できない


(情報は権力を持つ者によって操作される)


●情報過多で判断できない 


現代はグローバル化して情報も膨大になっている。するとその情報が何なのか知る事自体が難しくなる。そんな能力が人間にはないからである。 一個人では判断できなくなる。

そのことは原発事故でも起きたし。ウィルスでも起きた。また、今はウクライナ戦争でおきている。原発事故放射線のことなど素人には分からない。ウイルスもわからない。ウクライナ戦争でもこれも理解するのは難しい。なぜなら必ず原発事故でも安全だという御用学者がいてマスコミでも宣伝費をもらっているから、それに与する。だから専門家が正しい情報を与えるかというとそうでもない。ではどうして判断するのだろうか?


専門家すらわからないことを素人がどうして判断できるのか? ただ、正しい判断をしないと原発事故となり自分たちの住んでいる所にも住めなくなる。実際に住めめなくなった。だから判断できないからといって誰かに判断してもらい任せるということは危険になる。

貯金には利子もつかないし株をしなさいと言う物価も上がり貯金しただけでは目減りするから。でもこれもまた難易度が高いのである。奨める銀行員すら全くの素人だったからである。。証券会社の人が来ても同じである。


要するに銀行でもまず銀行の利益を考える証券会社でも同じである。まず手数料を取ることを考える、私が経験した事では別にインデックス株というのはわかりやすい?安い時買って高い時売ればいいだけである。それを長期的に見れば儲かる割合が大きくなる。だからリーマンショックの時、半分になった株でも元に戻りそれから倍以上になったのに驚いた。

でも銀行では勝手に元に戻った時売ったのである。それは銀行では転売して手数料を稼ぐことで儲けるからである。頭の中にはその手数料を稼ぐことしかないからそうなる。つまり人間はみんな自分の利益だけを考える。それは会社でも同じである。会社の利益になることが自分の利益になることだからである。 そこに必ず問題が起きてくる。


また。カルト教団でも教団の利益になることが自分の利益になるから奨めるのである。人を救うとか関係ない自分たちが儲けることである。


●人間はすべて利益を求めている―公平を求めていない


教団の利益になり会員が増えて権力化してそれでさらに利益を得ることしかない自分の利益となるから運動しているだけである。


人間はそもそもみんなそうして利益を上げることを日々の活動にしている。それをみんな咎めることはできない。それがまた全部悪いということでもないからである。誰も利益にならないことはしない。それでただより高いものはないというのはそのことである。これは本当に?そうである。人間は無料でただでやるとき何かをしてやるときでも高いものになる。 誰も見返りが無く、無料では何もしてくれない。それをするとなる時、暗黙のうち返って見返りを要求しているのである。 だから人間社会は何々してもらったらいくらいくらと金で明確に決めてそれであとは払わなくてもよいとしているのである。でも無料でするときいくらでもいいですよというときそれは最も高いものとなるから、そういうことわざが生まれたのである。


ともかく人間社会はこうして。毎日自分の利益を求めて働いている。そしてそれ相応の利益を得なければ働かない。それは別に悪いことでもない。働いた分の金を利益をもらえるのは当然だとなる。

だから個人でも会社でも自分たちの利益を優先するしそうしなければ何もしない情報も教えないのである。 でも本当に真実を見極めるとしたらその利害にかかわらないことかもしれない。2人が争っている時一人から金をもらったりしていたら利害関係があったら公平には見られなくなる。でも原発事故でも安全神話が作られたのはそこに政治家マスコミでも巨大な利権となり利益が得られるからそうなったのである。危険を言う人もいたがそれは無視されたのである。 


情報というものも必ず操作されているのである。原発で安全神話が作られたのも政府であれマスコミであれ御用学者であれそれらが一体となって操作されたからである。つまり何らかで利益と結びつかないことは、この世にはないとなる。だからこそ無料になる時。それはかえって高くつくのである。誰も無料では何もしないからである。それは当然だとなる。でもなぜ判断が誤るのかとなると必ずこうして利益と結びつき利権となりそこで判断を誤る。 神が偏りみないと言う時公平になるのは利益とか利権にと関わらないからである。だからこそ公平になれるので、人間社会では利益にかかわるから公平になりいないのである。 だからこそ情報自体が真実でもなく科学的に正しいとか正しくないとかでもなく利益利権によって左右されるから学者でも原発は安全だと宣伝していたのである。


●ウクライナ戦争の情報も欧米側に偏っている


それはあらゆることに当てはまる。コロナウイルスにしても医療関係者や医者の利権となるとかで正しい情報が出ないということもあった。本当に何が危険なのかもよくわからなかった。そこで儲けたのはワクチンを売った外国の薬剤会社でありまたコロナウイルスで巨額の金が医療関係者に病院に医者に出たのである。コロナウイルスでも収まるより収まらない方が金になるとなり。コロナウイルスの危険を大きく言うともなる


ウクライナ戦争でも9割ぐらいは欧米の情報でありロシアが悪いとなりロシアが不利となりロシアは滅亡するとか言われ。でもごくわずかであるが1割ぐらいはむしろウクライナが悪いのでありウクライナはもう戦争続けられない。それは欧米からの情報だけに頼っているとそうなる。ウクライナが勝っている欧米側の情報に接することが多いからである。 


要するに公平に判断するのはとにかく利益と利権と関わらないことである。となれば公平に見られる見れるということになる。アメリカは戦争国家でありアメリカはウクライナに入って戦争をするようにしかけた。そういう見方もある。これも全て否定できない。だからこそ。ロシアのプーチンは反発したのである。 アメリカが全て正しいとはならない。それは日本との戦争でも同じであり。アメリカは正しいから戦争に勝ったということではない。アメリカは戦争国家であり何か言い掛かりをつけて巨大な力で圧倒してし敵を潰してきたことは確かなのである。ただ、日本では負けたから。アメリカに逆らえないというだけである。


だからアメリカが欧米が全て正しいとはならないのである。戦争にしても別に正義のために戦うというわけではないからである。自分たちの権益を権力を拡大したいということがありそれが戦争の原因だったからである。だからそこに戦争に正義を持ち出すことは危険なのである。アメリカは何も正義の味方でもなんでもない。軍産共同体があり戦争はないと失業するとか何か利益と関係してるからそうなる。ただ、ロシアはまた正しいということにもならない。 情報とは必ず一方的になりやすい。客観的公平に判断できないものとして情報がある。 


●情報は権力を持つものによって操作される


結局情報を操作できる者が判断をするのでありそれは権力と関わっているのである。NℍKでもその判断は幹部がしているのである。だから、重要なことでもその報道されないこともありその判断は幹部がしているのである。つまり情報自体に公平がないのである。権力が権力を持つものは情報を操作できるようになっている。第一テレビなどは一個人が出て報道させてくれたといってもできない。新聞でも。雑誌でも。本でもそういうことがある。

ただインターネットだとプログとかいろいろ簡単に個人でも発表できる。そこで公平にはなっているが。ただあまりにも数が多いからそこで目立つことは至難である。だから数の中に埋もれて。重要なこともまたわからなくなるのである。これまではマスコミに出ればその内容はともかく。それで有名になりことが出来たのである。 


どうして公平に判断できるのか?これが情報社会の大きな問題である。情報が莫大に増えてもそれでさらに混乱して判断しにくくなる。

 でもどうしても大きな権力を持つ者によって組織に団体によって情報は一方的になりその見方は偏ってしまう。だからアメリカは欧米がウクライナ戦争でもウクライナが有利であり勝っていたという情報が多く欧米側の見方になる。でもロシアの方が実際は勝っていてウクライナは窮地に立たされているという人もいる。それもまた判断しにくいのである。


グローバル化はさらに情報は膨大になり判断しにくくなる。それでフエクニュースにだまされる。アメリカとイラクの戦争でも一羽の海鳥が油まみれになっていたがそれは一羽だけであり周りは油にまみれになっていなかったのである。それはアメリカによって作られた映像でありそれが世界中に放送されて世界の人が起こりをおぼえたのである。それはアメリカによって操作された情報だったのである。だからアメリカも信用できないのである。 


●人間は公平に見れない偏る


いずれにしろ、どうしたら公平に判断できるのか?


それが大問題である。 何故ならその情報によって人は行動に移す。それが戦争にもなり何千万人と死んだということもある?戦争も情報戦争になるからである。でもその正しい情報を。知り見抜けることは非常に難しいのである。ここに現代のグローバル化情報社会の問題がある。 

人間はこれだけ広い世界を知り得ようがない。そこで必ず判断が誤る謝るのである。 そもそもグローバル経済の株式などは?上がる下がるとか景気がよくなってるとか悪くなってるとか常に両方の見方がある。それを判断できない。あまりにも巨大な世界になっているからである。そんなものを。知り得るものはないと思う。だから人間は今日膨大な情報に接して接することができてもどれが正しいかなど判断できない。つまり無力感に苛まれているのである。 


人間が五感で感覚的でしり得る範囲は狭いので、この狭い範囲なら実感として判断できる。でもグローバル化となると、あまりにも広すぎて判断などできないのである。それ人間にはやはり知り得る範囲は狭いものでありその中アイデンティティ化して一つのミクロコスモスの中に生きる。そこではつながりが明確であり。判断もしやすいとなる。それで民主主義でもギリシャだったら1万くらいのポリスで直接投票で決めていたからである。それが百万も票を取らなければ当選できないとなれば


もうただ頭数を集めるにはどうするかとなる。創価でもカルト宗教団体でもただ頭数を会員を集めるのことが日々の活動になる。個々人がどんな人間なのかなどは関係無い。罪とかなんとかそんなものは全く関係ない。その人がどんなあくどい人でも別に構わないのである。一票になればいいだけである。そこに民主主義も限界生きているのである。限界にきているのである。一票など投票しても。社会は何の変化もない。


ただ、そこには。無力感だけがある。それで投票などしたくないのである。すでに組織団体表で決まっているからである。一票など何の価値もないのですべてが。頭数をそろえる。あらゆる場面で数で決まるのが今の政治である。田中首相が言ったように金と数字がすべてなのである。そして規模がグローバル化して誰もそれを見通すことができない。株でも突然暴落したり。天災のように突然破たんしたりする。


●独裁者に従いファシズムになりやすい現代


それはもうその前に経済など見通すことができないからである。 そして最悪はナチスのようにファシズムとなる。ヒットラーは選挙で選ばれたのであり合法的に選ばれたからである。それでもナチスとなり。ファシズムとなり、全体主義となったのである。それはもうとても判断できないということから起きてきたのである。その規模も巨大化して。判断できない。すると誰かが。ヒットラーでも独裁者が。生まれてその独裁者によって人々は導かれ地獄へ堕ちてゆく。


カルト教団の教祖が神のように祭り上げるその人は偉大だからではない。人々はそういう偶像作り上げているのである。その偶像があって何百万人の人間が?一人の。教祖にひざまずき集団として組織としてまとまるのである。カルト教団に共通していることは?軍隊組織なことでもわかる。いちいち個人には対応できない。だから権力を得るには数を集めることだから、一人一人のことなどどうでもいいのである。所詮一票にすぎないからである。

そして数を集めれば権力化して政治化して支配できるということになる。


そこでマスコミでもその巨大な権力にさかろうことはできなくなる。 裸の王様を指摘したのは子どもであった。子供はただありのままを言っただけである。でも王様は権力をもっているからそれにへつらいみんな何も言えなかったのでこのように何か権力を持てばそれが嘘でも人は従うのである。つまりこの世は権力によって情報でも必ずゆがめられるのである。すると正しい判断はできなくなる。これが原発事故で安全神話が作られたりいろいろと情報でも判断できずにそれが大きな災いとなるのである。


神が偏りみないと言う時いかなる利害と利益ともかだか関わらないからできるのである。公平に見ると言うことは?それが条件となる。でも人間は何らか?必ず利害関係があり。それで?情報でも。公正なものもなく一方的になるのである。そして判断を必ず誤るのである。


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2023年07月07日

世代間の差と職業の相違で互いに理解できなくなる人間 (見えない貧困と忘れられていた氷河期世代)


世代間の差と職業の相違で互いに理解できなくなる人間


(見えない貧困と忘れられていた氷河期世代)


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貧困大国ニッポンの闇|中退、パチンコ、ジャンクフードが希望になる理由(室伏謙一×鈴木傾城)

https://www.youtube.com/watch?v=ZxPid10E4J4


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【エルダリーVS 若者】世代間問題は身分制度による分断統治の現代版だ。政府、メディアの「対立分断政策」に騙されるな!-masakazu kaji-

https://www.youtube.com/watch?v=YqISZU63Tvk



●見えない貧困


人間は年齢が十年違うと世代の差が出てくるだからなかなか下の世代のことは理解できないし上の人の世代の人のことも理解できなくなる。 

なぜなら団塊の世代というとき私たちの世代は戦後の焼け野原から始まった。そのときはまさに焼け野原になり、何もなくなってゼロから開始することになったのである。みんな貧乏だったのある

貧富の差はなかったのである。家にあるのは飯台一つである。電気製品など一つもなかったのである。それはみんな変わりなかったのである。


むしろ農家は家で食料があり卵でも鶏を飼っていたから食べられた。また納豆とかも。油とかまで。自家生産だったのである。

みんなこうして貧乏だという時。かえって住みやすいということもあったかもしれない。何か引け目を感じるということもないからである。みんな貧乏であればそうな。


今の貧乏が隠されて見えないというとき貧乏というものは何かわからなくなったのである。でも実際にそういう貧乏な人は増えている。だからこのユーチューブで語られることを私はそういう貧乏な人と接して理解したのである。

その人はタバコを吸っていた。女性なのに吸っていただからやめられないのは絶えずストレスになっていたからである。金に追われてその日ぐらしになっていたからである。だからそのストレスを発散するためにタバコをやめれなかったのである。でも脳梗塞になりたばこをやめた。タバコは血管に悪いものであり、それが脳梗塞の原因になったともみられる。 


とにかく日本が貧乏になったという時その貧乏が見えないものとなっている。だから貧乏人はどこに居るのか?貧乏人というのはどういうものなのか分からなくなっているのである。別にぼろを着ているわけでもないし見た目でわからない。ただ市営住宅などに住んでいれば貧困なのかと見る。 ただまともなものも食べられない。それでジャンクフードを食べそれが体に影響している。医者に行くと栄養を摂りなさいと言われるが今は食料品も高くて買えないのである


●職業の相違で互いに理解できない


世代的には戦前世代があり、戦後世代がある。戦後世代はすでに80から85以上の人であり少なくなっている。団塊の世代の親は?戦争を経験している。だからその語ることが。重みがあった。何か別に知識人でなくてもその経験した重みがあったのである。なぜなら、戦争というのはあまりにも特殊なことだから理解できないからである。人が殺しあうということなど理解できないからである。だから今ウクライナ戦争でプリゴジンという民間の傭兵隊が官僚に対して戦場に来て戦ってみろという言葉を吐いたが。そこに重みがある。命がけで戦っているからである。 そこでバタバタと仲間も死んでいるからである。でもそれがいいのかというとそうでもない。なぜなら自分の母親が戦争を経験したが一番威張っていたのは軍人だったと言っていたからである。


それで今でも墓に二等兵とか上等兵とかその軍隊の位を記した墓を見る でも今になればその墓に注目する人がいるだろうか?戦争とは異常な状態のことでありそこで人間の価値も変わる。プリゴジンは凶悪な犯罪者でありまた受刑者を戦場に出したその数も多いことに驚く。でも戦争に向いているのは、人を平気で殺せるような人なのである。そんな時代が良いのかとなれば、とてもそうは思えないからである。 でも戦争の時は軍人が一番活躍して偉いとなっていたのである。 


ただ、平和な時でも。価値観の対立は必ずある。現場で働く人たちブルーカラーがいるがその人たちは何か事務員などは楽だと見る。もちろんまた学者なども尊敬しない。何故ならその人たちは、高いところに登ったり、危険な仕事をしているからである。それで私も大工さんにお前はただ椅子に座って本読んでいるだけだとと言われたのである。ある意味でそういう人たちを軽蔑しているとまでなる。 

それも一理あるわけである。ただ金融関係に勤める人で金を右から左に移して巨額の暴利を貪る人がいる。それもまた同じであろう。なぜそのそういう人たちがそんなに金が入るのかと命がけで現場で働いている人は不満になるのは当然だとなる。


ただ、事務でも知的労働でも頭を使うから結構疲れることがあるでもそういう人たちにはそれを理解できないのある。その価値も理解できないのである。だからここに職業によって、互いに理解できないことがありそれが協力できないことにもなるのである。


●世代間の差や氷河期世代の問題


それは世代間の差でもあり、世代が十年年齢が違うと理解できなくなるので氷河期世代とは何かということが分からなかった。何か自由に非正規として働く事が良い事のように見られていたのである。だから今になって非正規の人が多いからそれが貧困化している。そのことがわかったのはこうして時間が過ぎて分かるのである。人生もまたふりかえれば老人になってわかることが多いのはそのためである。


40歳後半から50くらいまでは氷河期世代になる。そういう人田舎でも結婚してないたいがい結婚しているのが普通だからである。でも40後半から50くらいまで結婚していない人が多いことが最大の特徴でもある。団塊の世代だったらもう結婚しない人は例外的存在である。社会的不適応者となる。私自身がそうだからである。 だからこそ、少子高齢化社会になっているのである。独身世代が本当に多いのである。そしてその人たちは貧困でありその日暮らしのようになっている。正社員になれないからアルバイトのようなもので稼いで年をとったのである。スキルも身についていないとなる


ともかく世代間の差も大きいし職業の相違も互いを理解できなくさせる。現代はさまざまな職業があり、その種類も多く互いに意思疎通させることが難しくなっている。そこにまた世代間の差か男女の差とか地域の差とか色々あって人は理解しにくくなっているのである。 

それで人をまとめるときは個々人に対応することはできない。ナチス的一方的な強制であり軍隊組織にしてまとめるのでる。カルト教団などはみんなそうである。なぜならそこは参謀とか隊長とか軍隊組織だからである。それはカルト教団だとみんな同じなのである。


だから一見平和団体のように見せているが。実は武装すれば、それはすぐに軍隊になるのである。だからこそオウムでも武装していたし他でも創価などでも実は軍隊である。会員に武器を持たせればそれは軍隊になるのである。参謀とか隊長とか組織なのどだからそうなりやすいわけである。だから、それは本来の宗教とは何の関係もないのである。それは宗教を掲げていても容易に簡単に人を殺せと命令されれば組織に人を殺す軍隊と化すのである。



いずれにしろ、今日本が貧困化しているということは大きな問題である。 貧困化しているからこそ氷河期世代が結婚もできなかったということもある。そして大学に上がるにも借金して奨学金をもらって大学に上がっている。でもその大学もFラン大学とか三流大学が多く果たして価値あるものかどうかわからない。まず文系などは独学でもできる。むしろ自分は大学を卒業してから勉強したからである。大学時代はほとんど勉強してなかったからである。それも失敗だった。理系なら価値があるが文系は価値はない。独学できるからである。今ならインターネットでいくらでも。独学できる時代になったからである。


でもなぜ氷河期世代が、大きな問題になるということを予知できなかったのか?それは会社とか政府の都合でそうされたともなる。それが今になって大きな問題となったのである。何か非正規は自由な働き方であり奨励されてもいたのである。実際は政府とか会社の都合で良い様に使われたとなる。それで政府とは会社は良かったが大きくさらに全社会の問題として考えれば。今になるとそれは大きな損失となったのである。


ただ不思議なのは戦争で日本が焼け野原になってもそれが必ずしも悪いものでもなかった。確かに犠牲も多かったからそのことは問題である。でもそこで既得権者が財閥とか解体され小作が土地を得て農業は発展した。だから一見悪いようなことでもそれがのちに良いものとして働くこともある。ただその時代時代にその中で生きているとその時代が見えないのである。今になって非正規のことか氷河期世代のことが話題になっていることでもわかる。その時は見えないのである。そこに人間の問題がある。人間は個々人でもそうだが、集団でも個々人でも先が見ることができできないのである。だからそこに大きな過ちが生まれるのである。それで求道にしてもそうである。


若きうち神をしれ


それは20代で神を知らなければ知ることができなくなるという恐怖である。でも20代はの飲めや歌いや恋愛だとかで、心も身も奪われて終わる。あっという間に青春は終る。でも20代でだいたいその人は決まる。そからこそ大卒、新卒は会社では重要になる。20代でその方向が決まるのである。女性でも同じである30過ぎるとおばあちゃんとか言われるようになる。そして35になるとなかなか出産もしにくいとなる。だから婚期のことをうるさく親は言うのである。それは男性にしても同じなのである。20代でだいたいその人は決まってしまう。それから先がいくらでもあるじゃないかと言うがそうでもない。あっという間に40代になり白髪も入ってきて50となり60となってしまうだからみんななんでこんなに早く時間が過ぎてしまったのかと老人になると思うのである。


現実自分自身にしても何かしようと思ったけれども、何もできずに終わったのである。自分の場合は文学を追求してきたのである。その他でも何かやろうとしたが、何もできなかったのである。ただちょっと試したというくらいで、なんにもできなかったのである。それだけ時間が過ぎるのは早いのである。そして一番無駄にしてるのが時間だったのである。それで非正規の人もう50ぐらいになるともうその時間が取り戻せないのである。何かしようとしても身につけようとしてもできないのである。そして。人生も終わりとなってしまうのである。






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毎日くらい自分の家の墓の前を通っている。その隣に軍隊の位を記した墓がある

二等兵は内地等で教育中のことが多いので、戦地にある兵卒はそれまで上等兵一等兵のみであるのが原則であった。ところが、1937年に始まった日中戦争の長期化に伴い、現役満期(通常の陸軍徴兵は当時2年)即日再召集される場合が増加し、古参一等兵や古参上等兵が増加し、人事運用上の不都合が生じるようになっていった。そこで、上等兵の上に兵長を設けた。

兵長は高い位だった、でも今注意してその位を見ている人がいるだろうか?
ただ墓とはこうして何か人死んでも訴えている場なのである。でも墓でも維持できなくなる。





posted by 天華 at 15:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年07月02日

少子高齢化は全て悪いものなのか? 地球にはもうこれ以上人口を増やす余裕がないー減らすことが自然である

少子高齢化は全て悪いものなのか?

地球にはもうこれ以上人口を増やす余裕がないー減らすことが自然である

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●東京に偏った人口―大都市の人口集中が問題

人間は何でもいい面と悪い面が出てくる。それはあらゆる問題でそうなのである。科学技術は、人間にの生活を便利にしたがは反面様々な災いももたらしたのである。車は便利でも交通事故で苦しんだのもそうである。それは技術を。人間の技術は?常に生活を便利にするとともに必ず何か不都合なことが出てくる。それで技はわざわいにもなったのである。人間にはそういうカルマがつきまとっている。全面的に良いものはないのである。

だから少子高齢化を考えるときもそうである。それはいい面と悪い面に必ず働くのである。 常に悪いことばかり言われるが、そうでもないのである。 この少子高齢化問題でも歴史的に考察する必要がある
なぜなら元々人口は明治時代で3000万くらいだったのである。今はその4倍もあるからである。これほど人口が増えた時代はなかったのである。だから長い歴史からみれば異常なことだったのである。 

なぜこんなに人口が増えたのか?やはり農業社会から工業社会へ変わる過程で人口が増えた。 江戸時代は農業社会であり、人口はほとんど変らなかったからである。人口を増やすとしたら新田開発であり、元禄時代にすでにそんな状態になっていた。全国の地名に新田とあるのは大概元禄時代までに開拓されたものである。相馬藩内では葛尾村に山の方に元禄という碑がありそれは検地が行われて行われて記念として残された。でも元禄時代で既にかなりの土地が田んぼになった、そのために元禄時代は繁栄した時代となっていたのである。江戸時代に豊になるということは、米を増産する他なかったからである。 だからこそ米を作るためにあらゆる場所が開墾されたのである。

そしてなぜ新潟県が明治時代になっても一番人口が日本で多かったのか?東京よりも多かったのである。そこはやはり米の一大生産地であり水に恵まれていて、うまい米ができたからである。今でもそれは継続されている。それから北前船が日本海を航路として。交通の要所となり栄えたとなる。太平洋より日本海が交通路としてあり日本海側が 栄えるたとなる。それでコロナウイルスで苦しんだは江戸時代にはやはりコレラがあり新潟県の阿賀野川を通じて会津の方に伝染したのである。

つまり。日本海側航路となって川が交通路となっていたから人の移動が多い時ウイルスもやはりは伝染してくるのである。
交通の要所になるところはやはり栄える人口も増える。だから瀬戸内海沿岸地帯の広島とか山口が人口が多く栄えたのは分かる? 
少子高齢化は悪いことばかりしか言われない。でも本当にそうなのだろうか?それは歴史的に考察すれば自然の理でありそれに逆らうことができないのかもしれない。日本の人口であれ地球の人口であれもう限界にきていたからである。
まず1000万も住んでいる東京などはもう人間の住むところではない。だから少子高齢化を語るときこの大都市への人口集中の問題なのである。なぜなら東京の人口は地方に分散すれば日本は返って住みやすい国になる。つまり東京とか大都市に人口が異常に集中するのは、自然の理に反しているのである。
江戸時代であれ明治になっても、日本は人口的にはバランスが取れていたのである。 新潟県の人口と東京の人口は変わりなかったからである。

●農業社会だと人口のバランスがとれていた

そうなっていたのは、やはり日本は農業者会だったからである。
農業社会は土地が資本だから土地に見合った人しか住めないからである。日本の人口は明治から大正から。昭和と人口は増え続けていたのである。戦前も増えていたし。戦争に負けても日本が焼け野原になっても。人口は増え続けていたのである。戦争に負けて生まれたのは団塊の世代である。 そうして高度成長時代があり日本は成長し続けたのである。でもそれに歯止めがかかったのはやはり自然の理であり。これ以上人口が増えることは自然の理には反すから歯止めがかかったともなる。 

そして農業社会は土地が資本だから土地を拡大しようとする。日本の戦争が太平洋戦争は実は満州から始まったというのもそのためである。農業するために満州に渡った人たちが住んでいてその土地の奪い合いから戦争が始まったからである。満州では日本人は米まで作っていたのである。そこは相当に寒いけどでも日本人は米をつくっていたのである。講師、農業社会ではこうして土地を。持たなければ。生活はできない。その土地を手に入れるために戦争にまでなったのである。それは日本では戦国時代からそういうことがあった。
だから意外と農業社会というのは土地の奪い合いがあり、戦争があったとなる。 

なぜそもそも日本であれ世界でも人口は増加し続けて来たのか?日本だけが少子高齢化というのではない。それは世界的に起きているのである。もう地球で増える人口を養えないのである。だから人口が減るということは自然の理であり。それが悪いともならないのである。このまま人口が増え続けてはいれば地球は汚染されて住めめなくもなる。
普通に自分の住んでいる場所は原発事故で住めなくなくなったところがあるからだ。つまり原発にするにしろ。それは危険なものである、人間が操作できるものでもなかった。その無理をした結果として、自然が汚染されて進めなくなったのである。科学技術は万能のようになった時代だが、それにも限界がありかえって人間を不幸にしてしまうのである。

●森が再生して江戸時代から縄文時代に戻る

そもそも人口を人間の力で操作できるものなのだろうか? なぜこれだけ地球で人口が増え続けている?このまま増え続けたら、地球は人間によってを汚染されて住めなくなる?だからこそ自然の理によって人口増加に歯止めがかかったのかもしれない。人工を調節するということも神の力でなされるのかもしれない。ウィルスのがその働きもすることはあると思った。ウイルスによってウィルスがばらまかれ人間の人口増加を減らすということである。人間の活動には問題がある。今やその活動を止めることが制御することが必要になっている
そのことは2000年前にすでに老子が指摘したように言われていたのである。人口が1億人の時、すでにそれが中国で言われていたのである。その十倍以上もの人口になっているのが中国である。だからもう増やすということは限界に来たのである。

だから今実行すべき事は人口減少を止めるということでもない。何か奇妙になるかもしれないが。時代が逆行して行くのである。江戸時代からさらに縄文時代まで戻る。何か空き家とか空き地が耕作放棄地が増えてくるのもそうである。耕作放棄地とかはそのまま放っておくといずれは森になっていくのでは?それはこの辺で津波があり、田んぼが一時的に森のようになったからである。木は伸びなかったが、そのまま放置していると森になったのである。

もともと田んぼだったところは森だったからである。日本はもともと森に覆われた国だったのである。そして再び森が復活して再生する。荘厳な自然の景観が回復するともなる。
そしてそこで自然と調和した適正規模の国土が作られるかもしれない。だから未来が必ずしも悪いはならないのである。なぜなら大都会に未来があるのかといえば無い。むしろ森が再生し復活して日本にが分散して適正規模の中に住んでいればそれはもしかしたら理想的な世界かもしれない。
でも実際は未来とは科学技術の発展のことである。でも原発事故のように科学技術技術がすべて良いものとして働くとこはならない。何か必ずその技はわざわいとなるのである。そして科学技術には限界がないように見させる。でも実際は限界があり。本当に開発を進めていくと災いが起きてくるのである。それは原発事故で証明されたのである。

●人口を人間の力で操作できるのか 

いずれにしろ少子高齢化というのは人口問題は人間の手で操作できるのかという問題がある。むしろそれが自然の理に合ってるから。そうなったともなる。 だから空き家が増えているが隣の家が空き家になったらその庭を隣の家が利用する。 すると狭い住居に住んでいる日本人が広いところに住み気持ちも広く豊かになるというのも一つの見方である。
現実に私の家の隣には空き家になったが、その庭が広いのである。それがが利用されないことが何か見ているのである。その庭に無断で入っているからである。他にも立派な庭がある。家でも放置されているのである。 だからそれをどう利用するのかが問題になる。 

ともかく人間の心情として何か成長する、発展するということが常に望まれる。でも減らすとか成長を止めるとかいうことはいいいい感じがしない。それは何か?気が滅入るということにもなる。でもそこにも良い点がありすべてが悪いとはならないのである。
その成長する増やす、拡大するとかいう思想はヨーロッパから来た思想であり。資本主義の思想でもある。絶えず投資して。成長し、発展させる、進歩するという思想である。でもその思想自体が地球に適用できなくなっているのである。すると東洋的。思想がそこで。見直されることになる。 世界は大航海時代から。西洋中心の世界が作り上げられた。その他は東洋でも。南アメリカでも。植民地化にされたのである。 
その思想自体に自然の理に反するものがあり地球自体に適応できないものとなったのである。
それで老子のいう小国寡民が今何か現実になっているのである。確かな事は人口が増えすぎた事である。だから減らすということが悪いとは見えないのである。日本だって東京は1000万以上住んでいるのだから地方に分散すればバランスが取れてくるのである。

posted by 天華 at 16:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年06月22日

縮小化する日本の象徴が原発避難区域に具体化された (森が再生されて再び森の国になる日本の未来)


縮小化する日本の象徴が原発避難区域に具体化された

(森が再生されて再び森の国になる日本の未来)


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経済的に成り立つであろう地域人口を確保できる中核都市を作り、人が住まないところには行政・民間いずれもサービスをしなくて済むように、不要な橋は維持せず、電力も携帯電波も供給せず、病院もない地域を作って人口減少に備えなければだめでしょう。

 人のいない地域に不合理にお金をかけて、おらが故郷を守れと言われても、その原資は国民の税金であることを忘れてはならないし、これが人口減少時代の「撤退戦」であることは間違いありません。

綺麗事は抜きにして、人が不自由なく住める地域に限定して行政サービスを行えるよう自治体の再々編も必要だろうし、地域金融もテレビ局も電波も再編して、残りは政府直轄地として国立公園にするなり森林環境税とか活用するなりして保全していくほかないんじゃないでしょうかね。

ついに銀行も支店撤退…「人口が減り過ぎて競争が成立しない」地方経済の問題について

●小高は車がわずかしか通らないことで寂れたことがわかる

このことが原発事故の避難区域で起きている。大熊町浪江町南相馬市の小高区そして飯館村である。
若い世代が帰還しない、残されたのは老人なのである。小高区は三割くらいが戻ったからいい方である。高校も再開している。でもその高校生にしても他から通う人たちである。
街の中には確かに人は戻り住んでいる人たちが増えた、でもそこで気づくことは車が通るのが少ない、車が何台か通るにしても少ない、だから静かだなとなり不思議な感覚になる

車がこれだけ少ないことは現代では人が歩く時代ではないから寂れた街になる。というのは車が少ないとしてもその代わりに街の中を歩く人が増えれば寂れた街にはならない、もともと街の通りを歩く人は少なかったからである。通りを歩く人たまにいるが老人であり子供などはまた夫婦とか子でも連れで歩く人は見かけない、それで小高区の人たちは原町に移住している人たちが多いのである。どうしても原町は5万くらいの都市だから便利であり住みやすいからである。
鹿島区では私の家の脇の道路は車がめったに通っていなかった

今ひっきりなしに通る、それは小学校へ通じる道にもなって移住してきた人たちが子供を乗せて通わせていることもある。また他にもこの道を利用する人が増えたのである。
車の行き来が増えることでその場所の経済が活発かどうか判定できるのが現代だからである。
私もどうしても原町には買い物でも鹿島区には足りないものがあるから定期的に行くことになる、最近は一軒の自転車屋も主人が死んでなくなったのも困った。他に弁当屋もないとかないものがあり不便なのである。相馬市までは自転車では15キロあるから遠いので簡単に行けないのである。
ただこんなふうになったのは原発事故とか津波に被害のためでもある。でもこの状況は日本全国になる未来の年表でも話題になっている。

●中核都市の原町に移住する人が多い―他でもそうなる

おらが故郷を維持したいのはわかる。長年住み慣れた町や村を捨てることは簡単にできない、維持されるべきだと思う、そこにも歴史があり歴史が絶たれることは大問題だからである
この辺では原発事故とか津波の被害で小規模の町や村が回復せず強いられて人口が原町から鹿島でも相馬市でも移動したのである
だから人口はそこでは減っていないのである。原町は一番人が原発雛区域から移動している。鹿島区でも新しい住宅地が三つくらいできた感覚になる、でもその人たちがどこで働いているのかわからない、やはり車で働く場所に移動している。それはもともと広域的に仕事する時代だから特別なことではないからである
ここでは原発事故とか津波の被害で人口が原町とか鹿島でも集中したとなる。だから未だに不動産やとかハウス会社が住宅地を造成している。やはり移動して住む人を見込んでいるからだとなる

経済的に成り立つであろう地域人口を確保できる中核都市を作り、人が住まないところには行政・民間いずれもサービスをしなくて済むように、不要な橋は維持せず、電力も携帯電波も供給せず、病院もない地域を作って人口減少に備えなければだめでしょう

ここでは中核都市として原町に人が集中している。そこでは現代の便利な生活が可能だからである。でも南相馬市の小高区とか維持するとなると容易ではない。負担ばかりが市の財政でもかかる。南相馬市では未だに二割の予算が復興のために入ってくる
でもそれもいずれはなくなる。

●飯館村は国立公園にして癒しの場として管理する

飯館村ではもう残ったのは老人であり立派な学校の校舎を作っても地元から通わず村外からか通っている。それも10人も満たないとかなる
つまり将来的に村を維持することが不可能に思えるのである

人が不自由なく住める地域に限定して行政サービスを行えるよう自治体の再々編も必要だろうし、地域金融もテレビ局も電波も再編して、残りは政府直轄地として国立公園にするなり森林環境税とか活用するなりして保全していくほかないんじゃないでしょうかね。


これに一番合っているのが飯館村である。もともと森林面積が70パーセントとか森に囲まれていたかである。それで癒しの村にもなっていた。それがもう維持するのがむずかしくなった
実際飯館村は外部から移住してきた人たちが一割から二割いて公共てきなもの維持している

郵便でも配達しているのは外部から入って来た人たちであり
キコリの宿泊所でもフロントの女性は外部から来た人であった
それも年配の人が多いからいづれ福祉の世話になるとしたらその負担で苦しむ、だから南相馬市と合併するようになるかもしれない、とても維持できなくなる。今住んでいる人たちは老人が多く
それも補償金を多くもらったのでそれで生活が成り立っている

それが切れた時生活自体が成り立たなくなる。農業でも再開しても一部であり収入がなくなるからである。
いくらまでいな村としてあっても成立していたが今後は無理に思える
三陸の津波でもジジババだけが住んでいる場所に税金をつぎ込んでも無駄だと官僚が本音を言った、つまり復興ができないからあきらめろともなる。ただ昔のような自給自足の電気もないガスもない水道もない車もない・・・そういう生活するなら別である
できないとすれば」いくら税金をつぎ込んでも無駄だとなる

だから森林公園として政府直轄地域として管理する、国で管理すれば金は国で出すから維持できる。そして森が維持できればそこは癒しの場として都市せ活でも疲れた人が生気を回復する場として最適だとなる
私はその森をテーマにして詩を作って来たからわかる。飯館村と丸森は本当に森が深いのである。
もともと日本は森の国であった。未だに国土の70パーセントが森なのである。外国になると山でも木がないところが多い、シナイ山とか草木も生えていない荒涼とした場であった

●日本は森の国に戻る

木のある森で覆われた山は世界で少ないのである。でも日本では木に森に覆われている、そこが日本の特徴なのである。
少子化とか人口が減るとか経済が縮小するとか騒ぐけれどももう東京のような一千万都市は人間の住むところではない、すでにそこでは人間の精神を正常に保つことは不可能である
そこから異常なカルト宗教団体が産まれてくる。それは文明的病理現象なのである。

人口が縮小することはその分森が増える自然が復興することにもなる、人が住まないと田んぼでも森になる、森が復活するのである。
もう現代は世界的にも経済成長の時代は限界であり人口縮小になる。そのいい点としては森ととか自然が再生されることである。
これも問題があるにしろ無限の経済成長は無理でありかえって縮小することに備えなければならない。拡大拡散成長の時代は終ったのである。地球にしてももう人口でも収容するのは限界になったからである。だから資本主義も終わりになるのである。






posted by 天華 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年06月20日

真野川に残された一羽の白鳥 (毎日餌をやる老人)

真野川に残された一羽の白鳥

(毎日餌をやる老人)

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首輪をしている


真野川の下流に一羽の白鳥が残された。その白鳥に毎日パンクズなどの餌をやっている老人がいる。に1日三回来て餌をやっているという。その人は車で来てその車に犬が何匹かいる
実際は全部で十匹飼っていると言う。その餌やりだけで手間である 十匹となれば餌代もかかる。デモそれが仕事になっているのだろう。他に苔のようなもの食べている

基本的には水草や草の実などの植物を食しているが、時に昆虫・貝類・甲殻類も食し、穀類も食す。
餌付けする場合はパンの耳や穀類を与える場合が多い。
本来の食性ではないパンの耳や穀類を与える行為は、ハクチョウにとってあまり良い行為ではないので、一般人は自粛するべきである
ハクチョウは田んぼなどで落穂や草の根などを掘り返して食べており、積雪の少ない栃木県内の平野部では自力で餌を探すことが可能です。

当会では、餌付けやそれに伴う渡来の集中化によって、高病原性鳥インフルエンザの感染拡大、残った餌や大量のフンによる水質汚染、渡来地周辺での農作物への食害発生などが懸念されることから、カモやハクチョウへの餌付けは好ましくないと考えています。

私が餌をやろうとしても近づいても来なかった
餌をやるのも問題になる。餌になるものがやはり人間が与えなくてもある探すことができる
昆虫とか貝類を食べている、真野川ではシジミを取る人が増えたから食べているのかなにかしら餌はある
餌をやっている老人には相当に慣れている なぜなら触ることもできるし首輪をかけていたが確かに首輪がかかっているのである
これほど慣れているというのもどういうことなのかそんなに白鳥とは人になれるものなのか分からない

私も一匹の猫に餌をやっているがこの猫は絶対に慣れない何か人間にひどくいじめられたためかなれない空白前の猫は慣れていたが尻尾を焼かれただから猫でも人間を恐れるようにもなるしかし白鳥は大事にされるからそうして人間にいじめられるということはないのかもしれない

それにしても冬まで仲間を待っているのは長いと思ったでも餌をやる人がいるのだからここで生きていける仲間が来るまで待つほかはない。他ほかでもやはりシベリアに帰れない白鳥が必ずいるここの白鳥は羽も直って飛べるようになっている
だから冬まで仲間を待っていればシベリアに帰れるとなるただ一羽では帰れないのだろう
posted by 天華 at 18:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年06月12日

街に記憶された一軒の自転車屋 (場とともに記憶がある―失われる記憶の場)


街に記憶された一軒の自転車屋

(場とともに記憶がある―失われる記憶の場)

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駅降りて自転車屋ありその人の亡きしも思ふ在りし日のごと

人間の謎は老人になると記憶に生きるようになる。記憶されたものが人生にもなる。でもその記憶が消えやすいのである。会場
だからどうして人間は記憶されるのかそれが問題になる。
記憶されるということはそのメカニズムは場所と関係している。
例えば家一軒があるとしてもそれが街の中にあっても記憶されない。でも街全体がありその中に家があり全体は記憶される。ここの家は記憶されなくても街全体を記憶するということがある。

だから自転車屋の場合駅前にあり駅と密接に結びついていたのである。もともとなぜ自転車屋が駅前にあったかというと自転車でも鉄道で運ばれた時代があった。その頃まだ車による運送は盛んではなく遠距離になると鉄道に頼っていたのである。
それで駅は引き込み線があり近くに縄屋とかあった。それは荷物を梱包して使うためであるあった。自転車でも駅前にあれば運ぶことも簡単だから便利なので駅前に自転車屋を開くのはそのためだったともなる。

とにかく人間は記憶するというとき場の働きが大きい。それで自転車屋の場合は駅と一体化して街とも一体化していたのである。ところが現代では商店街とかはシャッター通りとなり小売店は消失した。
でも街に商店街がなくなると街自体がシャッター通りとなり廃墟のようになってしまった。でもスーパーだと何か土着的ではない巨大資本が一時的に巨大なスーパーを作る
でもしかし巨大資本の問題は土着的ではない。そこで土着的に生活するのではなく東京とかでとかに本社がありその本社によってその経営も左右される。
それで相馬市ではイオンが閉鎖された。その影響は大きいものだった。街の一部が廃墟のようになったからである。このように大資本のスーパーなどはイオンなどは閉鎖することがある。それは本来その経営する人がその土地に土着して住んでいないからである。ここに大きな問題があった。

あれだけ大きいスーパーが一挙に消失することは影響がまた大きいのである。イオンは他でも撤退している。それは土着的ではないからそうなったのである。
そのことは原発でもそうだったのである。東京に本社があり東電の幹部はそこで福島の原発に命令する立場にあったのである。
でも事故のとき所長が吉田所長で仕切っていて東電の東京に居る東電の幹部たちとうまく話し合いができず意思疎通ができず混乱したのである。

つまり原発を取り仕切るのは地元にいる者たちではなく東京に居る人達だったからである。そこでうまく意思疎通ができなくなっていたのである。現場に居る人はやはり東京とか離れている人たちとは危機感も違っていたからである。
そして現場に居ない東京の幹部たちともうまく的意思疎通ができなくなっていたのである。ここに科学技術でもやはり場というものは関係していた。その場から切り離されて何でもありえないということである。それはあらゆることにそうなのである。ニュースでも現実の場所がら切り離されてテレビの一場面だけを見るから誤解するのである。

その場のことが実地にその場に立たないと実感できないことがあからである。その点東北電力の女川原発は副社長は5m高くしたことでギリギリで助かったのである。
それは現実にすぐ近くの三陸で明治時代にも1万人くらい死んだ津波があり危機感を地元に住んでいて持っていたからだったのである。だから何事土着的ということは仕事でも必要になってくる。
巨大資本というのは土着的ではないからこの土地で儲けが出なければ他に移るとなる。でも土着的だと自分たち自分そこを経営している人たちも住んでいるのだから簡単に撤退はできないとなる。ただ現代の仕事は広域化してグローバル化しているからなかなか土着的とはならなくなったのである。

土着的とはまた継続するということである。江戸時代なら農村山村漁村でも自然に準じてて生活していたからすでにそのこと自体土着的でありその生活も継続されていたのである
そういう社会では家の跡を継ぐ長男が大事にされたことも分かる。それもそういう社会では何代も家は仕事とともに継続されていたのである。だから農村社会では村では人が死ねば山に葬られ田植えの時期などに山からご先祖様は降りてきて一緒に仕事するということにもなった。
そして盆踊りとは死者とともに踊る祭りでありそれは村という共同体があって成立していた祭りなのである。ご先祖様は死んでも村の中に生き続けていた。それは農業社会であった時そうなったのである。村は一つの空間軸でも場として共有するものはありまた時間軸でも継続するものはあって成り立っていたのである。

でも現在はそうよう共同体が喪失して会社人間になった時会社というのはその土地と必ずしも結ばれていない。会社はいつまでも存続するということはなかなかない。会社がその土地と強固に結びつくことはない。
原町のゴルフ会社があってもそれはその土地と結びつく訳でもない。その製品は外国まで売っているからである。では地元の人でゴルフをするためにその製品を買うかというとそういう人はわずかだろう。だから会社というのはその土地に結びつくということが必ずしも無い時代なのである。
だから浪江の人が二本松に会社が移ったときその人は一時は通っていたが会社のある二本松に移住するようになった。
何かよくわからないがここで子供の時遊んだ人が東京の方に働いていたが会社は岩沼に移り今はそこに住んでいるという。つまり会社が生活の場なのだから会社が移ればその会社と共に人も移住してゆく農村社会のようにその土地に代々定住するということは今は少ないのである。

ただ人が記憶するというときやはり一つの場があって記憶されるということになる。現在はその場が喪失しているのである。
特にこの辺では原発事故がで町や村が消滅の危機に陥った。すると記憶される全体の場が喪失するともなる。継続される生が継続されない。その場を失ったとき人間の記憶される場も失ったとなる。だから離散した人々はその街であれ村であれ住んでいてもその人の記憶は消えてしまうのである
いずれにしろまた電動自転車が故障した。でも見てくれる自転車屋もここには一軒もなくなったのである。自転車の場合特に電動自転車は交渉すると故障すると直接生産しているメーカーに送り修理してもらうのである。だから電動自転車は通信販売でいろいろあっても買いにくいのである。

普通の自転車なら修理はどこでもできる。ところが田舎ではその店で買ったものしか修理でも受け付けないのである。
他でも医者とかでもいつもかかっていないと受け付けないことがある。それで原町の自転車屋ではパンク修理とかでも断られたのである。他の人も断られたと聞いた。イオンでは修理は受け付けている。でも電動自転車の電気系統は修理できないのである。
このように田舎の商売はまた閉鎖的である。でもイオンだと受け付けるのである。それは一回限りでも修理が頼めるのである。
だからイオンを批判したが田舎の店だってまた批判されるべきものがあただイオンが土着的ではないということは言えるのである
ただ自転車屋といっても今は車社会だから自転車に乗らない人は関心をもたないのである。私の場合は駅とかの関係で自転車屋のことが死んでも何か記憶されるものとなったのである。


posted by 天華 at 16:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年06月10日

コロナウイルスのマスクファシズムともなっていた (大衆民主主義はファシズムになりやすい)


コロナウイルスのマスクファシズムともなっていた

(大衆民主主義はファシズムになりやすい)

●未だにマスクしている人が圧倒的でありマスクをはずせない

いまだにスーパーとかに行くと100%みんなマスクをしていた。そうなると一人だけマスクをしないということはほとんど不可能になる。それでマスクファシズムということにもなった。
実際にマスクをしないとひどく責められたことも私にあった。
それはすでに強制的なものでありそれに逆らうことはもはや不可能だった。でもひどく責められたのはで海で釣りしていた人だったのである。スーパーのような人ごみの中ではなかった。
そんなところでもみんなマスクをしていたのである。日本人は同調圧力が強い。だから政府でマスクをしろという時一人ももれなくマスクをしていたのである。

でも外国だとマスクをしないという人が結構いたみたいである。
そしてマスクが自主的に判断してしてもしなくても良いといっても依然としてマスクをしている。
するとどうしてもマスクをしないと暗黙のうちに責められている感覚になりマスクをせざるを得なくなる。
でも道の駅の食堂ではマスクをしてない人が結構いた。そうなるとマスクをしなくても責められる感覚が相当に薄れる。

そこは外部から来た人が多くそのためにマスクをしてない人も多かったのかもしれない。人間の心理として100%の人がマスクをしていれば何であれしないということは相当な勇気も必要になる。でも人間の心理として1割がくらいがマスクをしていないとするとそれで相当に圧迫感がなくなる。それで自分でもマスクをしなくてもいいと言う感覚になるのも不思議である。

●マスクファシズムにもなっていた

そこで考えたのはこのマスクをするということは一種のファシズムとも似ていた。コロナウイルスはまさに感染するからである。
ファシズムもナチスのように国民全員に感染してそれを逆らうことができなくなった。逆らう人は国外に脱出したのである。
何か現代ではいくら民主主義だといってもそれはギリシャの1万くらいのポリスで直接投票された元はあまりにも違っている。
現代の大衆民主主義は常にファシズムの危険がある。
それでピカ―トはラジオからナチスが生まれたということを言った

大衆民主主義になるともはや1万のポリスとかとは考えられない規模であり人を選ぶにしても選挙でも百万以上の票が必要だとかその規模が違いすぎるのである。
そこから起きることはマスコミがテレビがその何百万の人々に情報で洗脳することが容易だったのである。それだけテレビの力が大衆民主主義では大きなものになりマスコミによって世論も形成されたのである。

つまり現代は相互の連関性を喪失した時代である。そこで人々を結びつけるものはヒトラーとかカルト教団の教祖とかになる。だからそうかなどは創価学会などはそのファシズムとなり日本席巻するようにもなる恐怖があった。
戦前だと日本の戦争もまたナチスとは違っていてもそれに反対することはできないのだからやはりファシズムとも似ていたのである。つまり民主主義とは必ず反対する人がいて成り立つ。
ファシズムとは反対を許さない。それは共産主義でも反対を許さないからファシズムとも似ている。ナチスのような独裁者は全国民を一つの色に染めて違った色を認めないのである。認めないというより抹殺するのである。そのためにソビエト連邦でも反対するものは粛清されて1000万人なのか殺されたのである

●感染症専門学者と原発の御用学者は似ていた

だからマスクにしても全員が一人もれなくマスクしているということが何かファシズムに似ていたのである。もちろん医学的に科学的にマスクが必要だということは否定できない
でもいくら医学的に科学的にマスクが必要だとしてもそれを認めない人もいた。これは陰謀だとする人もいた。でも100%の人がマスクをしている時マスクをしないということは不可能だったのである。その同調圧力は強力なものだったのである。
医学的に科学的にその危険性を常に言われたからである。現代人は科学に弱い。科学が宗教にもなったのである。科学者の言うことはまるでご宣託のように聞いている。。それは昔の聖職者とか僧侶にもなっている。

だから今回のコロナウイルスでも感染症学者が一番影響力があったのである。でもその感染症専門の人も実際はコロナウイルスのことを知っていたとはなっていなかった。何か未知のものでありそれで誇大に危険をあおったのである。 40万人が死ぬとか感染症学者が言ったときそのことをありえないとして批判された。だから今回のコロナウイルス騒動は実際のところこのコロナウイルスの正体を感染症の専門の人も分からなかったのである。だから過剰に反応してワクチンを打たせたとも見る。そして大儲けしたのは薬剤会社だったともなる。
だからそこでこれも陰謀論が言われたのである。

いずれにしろ今回のコロナはコロナウイルス騒動は何だったのか。それは過剰に反応したということがないだろうか。全く無視するということではない。危険なものだからそれなりの対応は必要だった。でも実際はこのコロナウイルスの正確な正体を知る人は専門の人でもいなかったのである。そこに世界的混乱が生まれたのである。
中国では大都市まで封鎖してそのために中国人は外国に脱出するともなった。日本へも移住する人が出てきた。中国だと統制が厳しいからそれで嫌気がさしたのである。

今回の問題の処理を見ていると一つはやはり科学的医学的にまず見る。だからまず専門の医者とか科学者が前面に出て話す。それは原発事故とも似ていたのである。事故が起きたときまず専門の科学者が説明したからである。
でもその科学者も政府寄りであり御用学者でありここではその危険を言わなかったのである。ただ放射線の被害というのはそれなりに研究した積み重ねがありそれで判断できたということもある。でもやはり放射線被害にしても明確なことは分からなかった。それでやはりコロナウイルスと同じように混乱したのである。

●マスコミとコロナウィルスとカルト教団とファシズム

とにかく現代の問題は原発事故で考察したように必ず科学的問題としてあり次にそれだけではない報道としてマスコミも影響する。それはナチスがラジオ利用して国民を洗脳したと同じである。現代でわテレビの影響力が絶大だったからそうなったのである

マスコミによって真実も歪められそれも世界にグローバルに情報が瞬時に伝達されて誤解をうむのである。それを象徴したのはイラク戦争の時の油まみれの油まみれの一羽の海鳥だったのである。その一羽のみが強調されて周りの状態は写されていなかったからである。別に海は油まみれにはなっていなかったからである。そういう誤解が常に現代でわ生まれているのである。フェイクニュースは常に生まれているのである。
そしては大衆は洗脳されるのである。
だから大衆民主主義はファシズムに最も近くなりやすいのである。カルト教団というのもやはりファシズムと似ている。宗教となると反対は許されない。反対するとバチ当たるとか集団で攻めてくるからである。だからナチスと似ているのである。
そして教祖は神のごとくなりヒトラーにもなる。それはまさに現代の文明の病理的現象として現実化した。それが恐怖だったのは1000万人とか死んだことである。まさにそうした狂気を大衆民主主義でわ書いて促進させてとめることはできなかったのである。

それで今回のコロナウイルスもそうしたファシズムとも似ていると思った。日本は同調圧力が強く余計にそうなったのである。
そもそも教育からして学校でわ一律的に強制的に人間をロボットのように扱う。制服でも揃いのものであり一律にして違ったものを認めない。それでアメリカとかほかの国でわ制服というものはないから自由な雰囲気があり創造も生まれるとなる。
学校教育自体がファシズム養成する場所にもなる

●大衆民主主義とファシズム

とにかく大衆民主主義とファシズムは似ている。
選挙にしても何百万票を得るとしたらどうなるのか。そのこと自体ファシズム的な手法を利用することになる。

難しいことは言わない
単純明快に言う
ただ中味より大声で訴える

この手法を取ったのが小泉首相だったのである。二三のフレーズを言って単純にして大衆に訴えたのである。大衆を扇動するということはやはりファシズムの手法なのである。
コロナウイルスのようにみんなにマスクをさせて強制させる。またファシズムは感染するのも似ている。国民が全員ひとつの思想であれ間違ったものであっても全員が感染するとそれに逆らうことはできないのである。それはカルト宗教団体の手法とも似ている。ただひたすら題目を唱えるだけで救われるとかこう利益があるとか問題が解決するとかもあそうである。

そこでは一切考える必要もない考えること拒否しているのである。大衆は考えない人たちだからである。
だから宗教というのは危険にもなる。本来の宗教ではなくファシズム宗教として利用されるのである。そして宗教は反対者を許さないから抹殺する殺戮して反対者を許さないのである。それは共産主義も1種の宗教だから1000万人とか粛清されたのであるから怖いものなのである。
ともかくマスクファシズムとも言えることをコロナウイルスで経験した。とても全員がマスクをしている時一人しないということはもう不可能なことを経験したのである。でもマスクがそれほど効用あるものだったかも明確ではないのである

今になるとマスクはするのは自由だとしても依然としてスーパーなどでは全員している。だから一人だけしないということはできない。それは明らかにマスクファシズムとも似ていたのであるなっていたのである。マスクするのは自由といっても現実にみんなマスクをしていればその圧力でマスクをしないということができない。それだけ同調圧力はいかに強力なものかをコロナウイルスを通じても体験したのである。
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2023年06月02日

長野県中野市の警官銃殺事件の深層 (銃を持つこと警察で許可したのは親が市議会議長だったから?)

長野県中野市の警官銃殺事件の深層

(銃を持つこと警察で許可したのは親が市議会議長だったから?)


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長野立てこもり事件】精神科医:和田秀樹としての見解


ここの解説が興味深かった。なぜ銃を持つ許可が降りたのか。その理由が父親が市会議員の議長であり土地の有力者だった。それで父親の威光で許可されたと言っている
それも確かにありうると思った。警察とかは弱い者には厳しいのである。でも権力も持つ者には忖度する。地域でも田舎でも有力者がいればその有力者に媚びる。
警察自体があるある意味で銃なのである。暴力装置であり強制力を持つ最大の権力なのである。それは自衛隊とは違って常に日常生活で庶民にその暴力をもっと暴力装置で強制する力を持っているのである。

でも警察の問題は大きな権力には弱い従うとなる。三権分立でも警察の力はやはり時の権力者に弱いのである。
そのことは庶民も衆知している。庶民でも警察を一番恐れているからである。身近に警官には直接触れるからである。交通事故でもそうだし日常的に警官に関わるからである。そして脛に傷を持たない人間はいない。そのために江戸時代の目明しのように警官は嫌われる存在なのである。

でもその土地の有力者とか権力者となると警察自体が媚びて大目に見ることがある。それで今回でもなぜ銃を持たせたのかをここで指摘している。それはやはり父親が市議会の議長であり有力者でありそのためだったのかということで納得する。
警察は巨大な権力には弱いし忖度してそこに犯罪があっても見逃すともなる。それがカルト教団とか分からないにしても創価などでも常に警察が強制的権力を持っているので何か犯罪があっても表沙汰にしないようにしているともされる。
つまりこうした大きい権力には警察でも弱いとなる。
だからこそ逆に人は権力を利権を得たいとなる。

そもそも人間の問題として権力というのはそれ自体が大きい問題を抱えている。権力というとき暴力装置としての機関だけではなく金も権力を持つ最大のものである。
これによって金によって人を支配することは容易だからである。
だから貨幣には時の土地の支配者たる王の像が刻まれている、貨幣でも紙幣でもそれを発行する力を持っているのはその土地の国家の支配者だからである。
ドルが世界基軸通貨となっているときアメリカが世界を支配していたとなるからである。
だから三権分立として暴力装置である警察とかでも行政から独立した権力を持たせるようにした。
つまりいかに権力を操作する権力を制御する権力を暴走させないそのために三権分立が生まれたのである。

権力は暴走する

銃は暴発する

それは歴史が証明している。ナチスであれ日本の戦争であれ権力が暴走することを止めることができなかったからである。
だから権力をどうしたら制御して大きな災いを産まないようにするのかが大問題なのである。
そして警察を利用する操作する背後の大きな権力が問題になる。だからこそ警察でも地域で働くにしても土地の有力者の方が権力者であり忖度し銃でも許可したとなる。だから警察にも許可を与えたものにも責任があったともされる。
つまり市議会の議長が父親でありその父親がいてその子も大目にみられたのである。ともかく人間は利益を得たい必死になっている。得する地位や職に就きたいとなる。それで公務員は得する立場にあり羨ましがられるということがある。それは親は公務員だったので分かるのである。

権力というのは銃とも似ているのである。銃を持つことは権力を持つことである。武器を持つことになるからである。
だから革命というとき共産主義でも武力革命であり暴力が肯定されていたのである。創価学会などでもそこで言われるのは指示されるのはいかに権力を取ることかである。
それしか頭には無い。その権力を奪うためには民主主義社会では選挙になるから日日選挙活動でありそのために毎日祈っているのである。すべては数であり一票を得るために日々祈り活動しているのである。これも政教分離にが違反しているのだが自民党が公明党と一体化しているとき法律も無効になるのである。

要するに権力を持てば法律など関係なく思いのままにできるということである。日々の生活でも人々は権力を得たいと思うのは権力を得れば思いのままにできるということを知っているからである。それは頭では無い日々の生活の中で具体的に知っているからである。権力を得れば利権を得ていい暮らしができるとなっているからそれは法律に違反してようが権力をもっているものには逆らえないからそこで大きい災いがナチスのように生まれてくる。
権力が巨大化すればもう誰も止めることはできない。戦争にもなり何百万人も死ぬことにもなるのである。
カルト教団は創価などでも頭にあるのは権力を得たいということしかない。それでなぜ創価が東京の選挙区にこだわり自民党ともめるのか、それは東京都が認可権をもっているからだともなる。

原則として、宗教法人の認可は、自治体によります。つまり、その宗教の本拠地がある自治体です。
東京にあるなら、東京都です。

ここで警察の予算にも口だしているというのもそうなる。でもそれを制御しないとナチスのよなり大きな災いとなるのである
いずれにしろここでは銃の問題を指摘したがそれは大きくは武器の問題であり権力の問題でもあった。だから父親が市議会の議長であり土地の有力者であったことが警察でも忖度して危険な人物に銃を与えたということである
結果的に警察で土地の有力者に忖度してその災いが警察自体に及んだともなる。これもカルマだったとなる。権力者でもその上の権力者には媚びるとなった。
・・・に刃物だったのである。それは核兵器とか原発にもいえたのである。ヒットラーでもプーチンでも独裁者にそれを許可して使わせたらどうなるのか、その恐怖が具体的にウクライナ戦争で今でもありうること知ったからである。
この事件で背景がいろいろあるにしても銃の問題があったということこの観点から指摘したことは大事である

posted by 天華 at 11:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年05月28日

若者は病み老人は心身を病む爛熟文明 (一連の若い人の凶悪事件は何を意味しているのか)


若者は病み老人は心身を病む爛熟文明

(一連の若い人の凶悪事件は何を意味しているのか)

●カルト宗教も現代の文明の病理現象として生まれた

犯罪が時代を象徴することがある、ただ人間の業としてカルマとして変わらないものがある
男女関係とか基本的に変わらないものがありそのために同じような事件が起き続けているのである。
ただ犯罪も時代に影響される。現代だと複雑な社会であり昔の江戸時代のような村社会とは違って犯罪もまた複雑化する
なかなか簡単に理解できない事件や犯罪が起きてくる。

統一教会のカルト宗教に歪められた家族の一人が安倍首相を恨んで殺害したのもカルト宗教が増えたために起きた事件である。それも時代を象徴している。
カルト宗教もまた現代の文明の負の部分として生まれたものであり本来の宗教とは何の関係もない。創価などでもその発祥を見れば団地の宗教と言われ地方から出てきた人は仲間意識を持つために生まれた宗教であり組織である。
宗教だとそもそもが自然と一体化して心を清めるとかがあった。
天台宗というのは先にあり天の台というごとく山岳宗教だったのである。。だから山にこもり修業したのが始まりである。
山伏などもその系譜にあるのである。
だから大都会の団地から生まれたような宗教はま全く宗教的要素を欠いているのである。

●一連の若者が起した事件の原因は何なのか?

何か最近の一連の若者の起こした事件は政治的要素より経済的要素より現代文明社会のなかから起きた事件かもしれない。
個々人の問題もあるがやはり時代の社会の歪みとして犯罪が生まれる。統一教会のカルト問題から発したのも阿部前首相の事件もそうである。
その次に岸田首相を狙ったてテロも何か明確な政治的意図があったとも見えない。むしろ個人的なものとして個人的な不満が岸田首相に向けられたのかもしれない。何か公憤ではなく私憤だったとなる。自分の鬱憤をはらすために
起こした事件であり政治的意図があったとも見えないのである。

猟銃で警官を二人も殺した事件も驚いたがこの人は恵まれた家族に育ったのにこんな恐ろしい事件を起こしたことが理解できない、別に引きこもりでも百万人いる時代であり家族にめぐまれたのだからそこで生活できていたからである。ただ何か認められないということで回りに対して敵対的感情をもったらしい
でも高校時代野球部で活躍したとか問題児はなかった。
でももともと社交性が無いとかで陰の性格だったのかもしれない

この性格の人は人付き合いが苦手なのである。それは私自身がそうだからわかる
回りとうまくコミニケションできなかった。陰の性格の人は社会で生きることが困難になる。引きこもりになりやすいのである。
もう一つは大学を中退したということは挫折したということである。必ず何らかで人間は挫折を経験する。若いときは挫折を経験する。私自身もそうだった。まず学校とか集団生活には馴染めなかった。そして大学出ても就職もせず家族に恵まれて引きこもってしまったのである。
でも人間は挫折する経験は必要だった。何か打ちのめされるそして返ってそこで謙虚になるのである。だから挫折することは若いときは返って必要なのである。もし若い時から成功したりしたら高い地位についたりしたらその人は高慢な人となってしまうのである。だから挫折は悪いことではない。
そして別に家族に恵まれているのだから生活にも困らないのだから引きこもりでも良かったのかもしれない。どうしても陰の性格だと社交性がなく周りからよく見られないからである。

今日のニュースでは家に来る女性から話もしないで一人でいると言われたことに気にしていた、母親がフラワーアレンジメントの先生をしていて女性が来ていたからそうなった
そいうことは何か社会で言われる。何でも付き合いがありしゃべらないとか酒を飲まないとかになると変わった奴だとされるのである。無口でもそうである。自分自身が引きこもりだからほとんど付き合ないし沈黙していた。そのために山とか石とかと一体化したのである。何故なら自然は沈黙しているから自然に通じるには沈黙の修行が必要なのである。それが寺とかで座禅すらならいい、社会ではそれができないのである。
でももし花に興味があったらなんらか話はできたとなう。そもそも猟銃を持つような人が引きこもりなのかという疑問もある
でも社会性がないことも問題なのである。

●小人閑居して不善を成す―引きこもりの危険

これが一連の若い人の事件に通じているし引きこもりもそうなるから危険なのである。つまりこれからもこうした事件は起きやすいのである。
ともかく若いときは本当に危機の時代である。何かしら必ず問題を起こす犯罪でも起こしやすいのである。この場合大学を中退としたとしたとしても家で暮らすことができたのだからどういうことなのかなかなか理解できない。
ただ全般的に現代文明の社会の影響はありまた若い時に挫折がありそれが社会にむかって犯罪を起こすということはあった。
でも一方で引きこもりがこれだけ多いということはすでにこれは個々人の問題ではなく社会どう大きく言えば文明の問題だともなるのである。

それで天才的な人は文明批判になったのであるニーチェとかヘンリーミラーとか上野霄里(うえのしょうり )とが強烈に文明を糾弾したのである
ただ引きこもりはそうした特別優れた人ではない。普通の人でありそれが事件を起こしているのである。でも何か共通性はあるとなる。私自身は天才でもなんでもないむしろ劣っている人間だからである。でも引きこもって自然と一体化することから俳句や短歌や詩歌を追求してきたのである。これも異常だったが家族に恵まれてそうなったのであるそれが出来たのである。だから私は家族に感謝しているのである死んでも感謝し続けているのである。

●精神病の医者が語る本に賛同

本を整理していてこの一連の事件でそれにふさわしい本があった。

精神に病理性が発現しやすくなるのは十代中頃からである
この辺りから生命的エネルギーがやあ低く何らかの不器用さをあわせもった少年が次第に競争社会の中で追い詰められてゆく
たいていはひきこもることで当面の困難を回避する。

そもそも殺意とは誰でも少年の中で日常的に懐いているのである
かつて精神病者や病的な心理に基づく犯罪は多く家庭の中にとどまっていた。それが世に向かうようになったのである。
その理由の一つとして家族の力が弱くなったことである。例えば弱々しい母は一人息子に振り回され外への攻撃が向かうの阻止できなくなったおそうしできなくなったようなことが起こる

文明はたいてい外敵の侵入を持って最終的崩壊に至るものであるが。その前におーいなる爛熟がありそれにより弱体化が進む。
爛熟こそが人間を弱くするのである。特に若者に強い依存心をもたらすか無力化させられるのではなかろうか。世紀の節目、文明のの爛熟の中にこの国の衰退を予感するのは私だけではあるまい
素朴に生きる人が残る―遠山高史

いずれにしろ現代社会は文明は病んでいる。それは若い人でもそうだし高齢化社会になり老人も肉体を病んでいるだけではない精神も病んでいる。そしてそうした病んだ人がこれだけ多いとなるともう健全な社会が維持できるのかとなる。確かに若い人はエネルギーがあるから凶悪事件でも起こす。でもこれだけ老人が多いというとき社会自体が老人病人社会にもなってしまう。そんな社会がもう維持できるのだろうか。つまりもう文明社会は病的な社会であり素朴に生きる人が生き残るというものではない。もう老いも若きも病んでいるのである
もう内部から文明社会は疲弊して滅んでゆくのかとも思う。それは世界的に共通しているのである。文明の進歩が果たして人間を幸福にしたかというとそうともならなかったのである。いくら技術が進歩してもプラスの面はあってもまたマイナスの面も大きくなったのである。人間は得るものがあれば失うものが必ずあるということである
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2023年05月23日

市川猿之助の両親、老々介護か (2025年問題は深刻化する―団塊ジュニアには独身者が多い)


市川猿之助の両親、老々介護か

(2025年問題は深刻化する―団塊ジュニアには独身者が多い)

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歌舞伎俳優、市川猿之助(47)が18日に東京都内の自宅で両親と倒れているのが発見された騒動で、亡くなった父の市川段四郎さん(76)を母の喜熨斗延子さん(75)が老々介護していたとみられることが22日までに分かった。

2025年も問題は始まっている、76歳と75歳とは団塊の世代にもなる。この世代は人口のボリュームが厚い、だから介護するにしても割合的に少ないとしても多くなる、だから2025年問題が言われるしすでに始まっているのである。
76歳の父親と75歳の母親というとき自分自身がその年代だからである。その子供たちが介護することになる
その年代が五十代になる、猿之助さんは48歳でもその年代になる。
近くの人は73歳の女性でやはりその息子は52歳とかである。
やはり早いとしても脳梗塞になり入院して介護状態になった
幸い軽くすんだので母親は自力で生活ができるので介護にはなっていないから助かったのである。

ただその後息子は交通事故や階段で足をくじいて仕事できなくなったとか不運が重なって苦労している。仕事は一か月以上休んでいるのである。それで収入もない、貯金もないから援助してくれとなる。ここでの問題は金銭的な問題もありまた人手もないということもある。何故ならその息子は独身だから妻の助けも得られないからである、団塊ジュニアは結婚していない人が多いのである
猿之助さんも結婚していなかった。そして一人っ子だった
すると相談相手もいなかったとなる。

結婚していない人また一人っ子の問題

団塊ジュニアには独身者が多い

ここに大きな負担となっていたのかもしれない、まだわからないにしてもそのことは自分と似ていると思ったからだ
私も複雑でも両親の介護で一人っ子で一人苦しんで介護したからである。一人っ子は兄弟も姉妹もいないから相談相手がいないからである。金銭的には問題ないにしてもそれだけでは介護できないからである。そして仕事やめると収入がなくなることがありやめない方がいいとしている。猿之介さんも舞台があり介護に手が回らなかったのかもしれない、ただ金銭的には相当に恵まれていたのだから何か介護する方法があったかもしれな、ただ相談する兄弟とかもいないので家族で両親とともに心中しようとしたのかもしれない、その詳細は不明にしても2025年問題はすでに始まっているのである。

ただまだ父親が76歳とかで介護になるのは早いとはなる。
でも確実にこの介護問題は深刻化する、そして悲劇が起きるのが日常化するかもしれない、家族でも核家族化とか小人数であり介護する人手が足りないからである、そして男性の場合外部に援助を求めることが苦手だからである。特に一人っ子とかなるとそうなる。でも歌舞伎仲間とか芸人仲間がいたのだから相談できなかったとのかとなる、その辺の事情はわからない、確かなことは
2025年問題は始まっているのである、それは相当に深刻であり悲劇が続出するともなる、わからないにしてもこの事件はそうした事情が背景にあり起きたとなると2025年問題がいかに深刻になるかを示した事件だったのかとなる

posted by 天華 at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年05月15日

使いすぎる電気ー電気を減らしても死ぬことはない (グローバル化拡張成長の時代の終わり)


使いすぎる電気ー電気を減らしても死ぬことはない

(グローバル化拡張成長の時代の終わり)

●電気代があがり家計を圧迫

電気代ガス代水道代などがあがりめんなみんな困っている。
でも戦争は終わり団塊の世代が生まれたがその時ガストか水道は使っていない電気は裸電球一つしか家になかった。暖房は炭だった。それは江戸時代からの続きだったのである。電気製品などなかった。その時不思議なのは電気が使えないとか電気代が上がるとかそんなことを心配もしない。

そもそも電気も使ってないし電気のことを心配している人もいなかったのである。今になるともう電気なしでは生活できない。電気なしではもう生きてゆくこともできない。それは車がないと生きていけないともともなる。でも車はない社会は江戸時代から続いているし人間はそれでも生きてきたのである。
だから電気なしで生活できないとか水道なしで生活できないとかもう死ぬほかないどこまでなるのはそういう生活に慣れきったためである。

現実に電気水道ガスを止められるともう料理もできないし死ぬほかないともなる。それで貧困家庭はそれが払えないので苦しんでいるのである。でも戦後間もなくは電気水道ガスがなかったのである。別にそれでもみんな死ぬということはなかったのである。

●原発は電気を得るためにやめられないのか

なぜこのことを言うかというとこの辺では原発事故があり故郷に住むめなくなった。
でもまた原発なくては日本はやっていけないとなり原発を再稼働しろと言う世論になっている。これもやはり電気社会になり電気なくしてはもう生きていることもできない。また車なしでわ生活できないというのとも似ている。
特に地方では田舎でわ返って車なしでは離れているから買い物すらできないとなりクルマを持つことが必須になっている。
でも戦後間もなくは車などもっていない。近くの店やで用たしていたのである。離れた場所でも萬屋(よろづ屋)などがありそこで買い物してまかなっていたのである。

だから電気水道ガスがない時代が江戸時代からも続いていたのである。その時電気水道ガス代が払えないとか心配する必要はなかったのである。もう電気なしで暮らせないということになったが人間はそれで死ぬことはないのである。
だから電気がなくてもいいとは言わない。でも原発がなくては成り立たないとかようのは論理的にもあっていないのである。
電気がないからもう死ぬほかないというのはあり得ないのである。そしたら江戸時代であれその後の昭和にしても戦前にしても電気など使わないところがあったからである。そしたらそういう人は生活できないみんな死んでいたともなるからである。
これほどまでに電気が大事になったのはやはり電気文明になりそれがさらに原発文明にもなった。でもその文明も電気が得られなくなると消滅するとなる。でも電気文明になったのはここ百年くらいでしかないのである。だから電気がなくても人間の生活は継続できるのである。

●電気は使いすぎるから減らすべき

電気がなくてもいいというのではない。電気を使いすぎる。そこに問題があり電気がなくていいのかという極論になることはよくない。それは金でもそうである。金はあった方がいい。金がなければ金を全部否定することはできない、電気をすべて否定はできない
でも電気を使いすぎる。それは夜でも煌々と明るくして電気を使っているからである。つまり電気を使いすぎるのである。夜でも昼間のように明るくすることが果たして理に適っているのか。夜は暗く眠るときである。その夜まで煌々と電気により明るくしていることが自然に反しているのである。
他にも電気を使いすぎる。そのことに問題があり最小限の必要な電気を使うなら電気代が上がるとか電気がなくなったら生活できない死ぬほかないというふうになるのはおかしなことなのである。

でも全員がそう思っているからそのことに反対できないのである。そのために原発が必要だとなり再稼働しろとなっている。
そしたらまたこの辺のように事故になり故郷に住めなくなるである。
だから個々人が電気がなくても生活できるし我慢できるとかなればそうはならない。でも現実はみんなが電気なしでわ生きていけないと思っているから原発でも必要であり再稼働しろとなっているのである。
でもお前も普通に電気を使っている。他の人より人より使っているのではないかとなる。そこで説得力がないとはなる。

●電気がなくていいのかと脅迫もされる

でも電気がないと生きていけないとか車がないと生きていけないとか思いこんでいる。それらを全て否定するわけではないが電気代が上がり電気を作るための石油であれ石炭であれ円安で高くなる時どうすればいいのかとなる。
その解決方法は何なのかととえばやはり電気をは使いすぎる。またソーラーパネルとかでも山を丸裸にして埋めている。
それで大雨が降り山に保水能力がなくなりまたソーラーパネルが崩れて被害になる。それも必ず電気なくしては生活できない。
文明そのものを維持できない。そのようにみんな思い込んでいるのである。。それに逆らうことはできないのである。

でも電気代がばか高くなってもう払えないとなるときやはり電気代を減らしたいとなる。そうし得られない時どうするのかとなる。炭の時代に戻ることはできないとしても一体どうすればいいのかとなる。
すると天気を減らす使うことを論理的に必要だとなる。電気を全くなくすというのではなく減らすということである。電気を減らすとなると返って人口が少なくなると自ずと電気を使う量は消費量は減る。
そうなると人口が日本でも相当に減っていくからそんなに電気も使わなくてもいいともなる。すると人口が減ることが悪いことばかりでもないとなる。

●人口減少は電気でも減らすことになる

つまり今世界では人口が増えればそれだけまた電気が必要になり電気に頼り電気がなくなれば生活できないとなるのである。
そして電気がなければ死ぬほかないとまでなる。そのことが何か間違っているのである。
もちろん山尾三省のような生活は無理である。ただ明らかなことは電気を使いすぎることは確かである。夜でも明るくして電気を使うことは自然の理に反するからである。夜だけでも天気を最小限にして暗くなってもいいとかなればそんなに電気ににこだわる必要もないかもしれない。では前が夜暗くして暮らせるのかともなる。
お前は蝋燭で夜も暮らせとなる。そういう極論ではなく電気を使い過ぎることは確かなのだからある程度は減らすことが必要なのである。でも電気を減らすことは至難なのである。

ところが右寄りの人は原発推進派である。それはなぜなのかというと外国に中国でも対抗するには電気でも必要であり原発でも必要である。なぜなら原発からはプルトニウムなど核に使うものが作られるからである。原発が必要だという時核武装が必要だからともなっている。
そして日本は外国と対抗するために少子高齢化でわできないまた経済成長しなければ対抗できない。
でも日本には経済成長できないその時代は終わった。もう一度高度成長時代を夢見てもそれはもうできない。でもいったんそういう時代を経験しているからまた高度成長時代がくるという幻想に憑かれているのである。。
成長時代があっても必ず衰退してゆく。それは中国でも同じだし世界的にも帝国になっても領土を拡大したことを経験している。

でもそれも一時的でありやがては衰退してゆく。それは法則のようなものである。世界史でわそういう興亡があり栄えていた国も必ず衰退するのである
おそらく世界的に見ても経済成長するのは限界になってきたのである。世界的に経済成長すれば電気でもさらに必要になる。でもそのエネルギーでも供給するのが限界にきている
だから世界的にも経済成長するということは限界にきているのだと思う。経済成長神話を信じるのはもう限界なのである。
むしろ世界の人口は減るべきでありこれ以上人口が増えることはエネルギーをさらに使うことになり電気でも必要が増大する。

●歯止めがない拡張成長のグローバル化は資本主義は終わる

グローバル経済資本主義の終わるというときそれは地球の資源でも環境でも人間が増えすぎることで地球環境は破壊される。だからこそもう地球の人口はこれ以上増えれば環境が悪化してどうしても電気もさらに必要になり原発も必要になる。だから世界全体を見てもグローバル経済とか資本主義経済が終わるとされるのである。
確かに次はインドが成長する投資先ともなるがインドは中国とは違って何か文化的に経済成長を阻むものがあるかもしれない。
いずれにしろグローバル化資本主義というのは限界に来たのである。コロナウイルスというのもグローバル化とか資本主義に歯止めをかけたのである。資本主義でも無限に拡張し拡大し発展させる成長させるという主義であり思想である。

それが限界にきてもう投資先がないそれで銀行には金が溜まっても投資先がなく利子も得られないのである。
だからこれからの世界はグローバル化による拡張拡大成長することは限界にきておのずと成長でも行き詰まり縮小化して自国優先主義になり保守的になる。
それが中世化するということでもあるがそのことが全て悪い方に働くとは限らない。世界的な成長神話はもうありえない。
グローバル化というのは実際は経済の戦争でありそれに敗れたものは奴隷化される。日本でも成長の時代は終わり輸出するものもなくなり観光でしか外貨を稼がないとかなり今度は外国から中国でも日本は安いとなりもてなしとかで外国人に使える使える奴隷ともなるのである。

●グローバル化の終わりー自国優先の経済に文化になる

そしてグローバル化とは平和をもたらすわけでもない。世界が全部反映するわけでもない。最悪なの何千万人も死んだ戦争になったのである。国と国の衝突があり共存するのではなく敵対して戦争になったのである
だからどこまでも成長拡大するグローバル化は終わったのである。その世界的な変化を見るべきでありそれに反する成長をどこまでも望むというのは返って方向を誤るとなる。

でもそれは何かマイナスに見るし縮小してゆく世界を受け入れにくいのである。でも世界的に見ればもう世界全体で経済成長するということは限界であり無理なのである。そのことを自覚をしていないとやたらさらに経済成長を望むのだから無理である返って原発でも再稼働しろとか原発なしでは日本の国防でも電気がなくては生きられないとなってしまうのである。
それで老子の小国寡民の思想がとか縮小化する世界に合うものとなる。それぞれの国でその風土と地理にあった生き方を追求する時代にもなっている。だから文化的には国風文化の再興になる

でも右寄りの人の軍事力強化とか国防のために原発が必要だとかにはならないのである。軍事力強化とかにはならないのである。ではどうして国を守るのかとなるから国を守ることは必ずしも軍事力だけではない。なぜなら軍事力を突き詰めて行けば核武装になり敵でも味方でも両方は滅びてしまうからである。
勇ましい国威高揚の右寄りの思想はこれからの時代に合わない。
それぞれが自国優先となりグローバル化は抑えられる。グローバル化は世界の文化を風土でも無視して壊してきたからである。
やはり人間はその土地土地に根付いて生活して文化を作ってゆく。それが自然の理合っている。

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

この歌にこそ何かその土地に根付いて充実したものを感じて生きるのである。これからはその土地土地に国々であるものを神から与えられたものを基本にして生きる時代になる。
もちろんそれで外国と関係なくなるわけではない。貿易はあるしそれをなくすことではない。ただ限定されて貿易がある。
基本はその土地土地の国々の財があってありえるのである。それが自然の理に合っているから継続されるのである。グローバル化はその自然の理でも無視するから続かないのである。



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2023年05月09日

去年の地震で破れた障子がなぜまだ直していない家があるのか (障子があけたてできないージャッキを使い敷居をカンナで削る)

去年の地震で破れた障子がなぜまだ直していない家があるのか

(障子があけたてできないージャッキを使い敷居をカンナで削る)

家との格闘はまだ続いている。去年の地震で壊れた屋根の修理をまだしていない家がある。
そして不思議に思っていたのは障子が破れたままの家が結構見かける。私自身の家も障子が破れて直していなかったが大工さんが来て今日やっと障子を直した。
それがめんどうだったのは障子の破れを直すのではなく開けたり閉めたりすることができなくなっていたことである。
地震で重さが加わりそうなった、だからまずそれを直すこと障子がはずせないからそうすることがまず第一となる
それでジャッキを使い持ち上げてとりだすことやカンナで敷居を削ったりしたのである。これは大工さんでないとできないのである。
それでなぜ去年の地震からいまだに障子を直していない家がまだあるのは障子だけを直すのではなくあけたてができないことでそうなっているのかと思った

家でも一部分だけを見てもわからない、障子でも敷居があり上の横の柱があり全体と関係しているのである。
だから修復するには一部分だけを見てもできないのである。
でも家でも家全体を見れる人は大工さんでもできないとなる
私が接した大工さんは家全体をみれるのである。瓦まで直したとか言っていたからである。そもそも家全体を見れる人はいないだろう。部分的にはみても家全体を知ることはむずかしい

そこには電機関係と水回りとか配管とかいろいろあるからである。
トイレの配管も壊れて小便が外にもれだして直してもらった
水道屋、電気工事する人、瓦屋、畳屋、障子張る人、箪笥でも昔の家は箪笥がはめ込みになっていて桐の箪笥であった。
箪笥職人がいて建具職人がいて他にも専門の職人がいた
家にはいろいろな職人がかかわるのである。

そして地元の大工さんが直接かかわるとき地元に地域に共に生きるという共同するという感覚になる。
茅葺屋根の家を農家でつくるとき村の人総出で働き作るというときそれは村全体の人がかかわるとなる。
共同性はこうして共同して働くときに感じる。そこに農村社会の強固な連帯が培われたのである。

ともかく人間は働かないと共同意識が持てない、共に働くことによって共同体が育まれてきたのである。
障子張りでも共にするときそこに共同性が生まれる。その土地で共に生きるのだという共同体意識を持つのである。
だから昔は機械ではなく村人総出で田植えするときそれが祭りにもなったのである。祭りは何かしら共同性があり生まれて育まれてきたものだからである。

つつじ赤く村総出の田植えかな

その協働する共同体もグローバル化して広域化すると失われる。
そもそもに日本の神社が社(やしろ)が無数にあるけど極めて狭い範囲の神だからである。

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

奈良という一地域の木で作った家というとき外材ではないその土地土地でとれたもので作っていたからである。
その家を作った人も地元の大工さんであり村人であったとなる。
現代から共同性が失われるたのグローバル化とか広域社会とかのためである。日本国内なら文化共有することがある。でもグローバル化するとグローバルに協働することが無理なのである。

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2023年05月01日

ドニエプル川を挟んでウクライナとロシアの攻防戦 (地理が変わらないから同じことをカルマを繰り返す)


ドニエプル川を挟んでウクライナとロシアの攻防戦

(地理が変わらないから同じことをカルマを繰り返す)

●ドイツとのドニエプル川の戦いの再現

Dnieper) とは第二次世界大戦中の1943年に行われた戦いのことである。この4か月の戦いの間、ドニエプル川東岸はソビエト赤軍5個方面軍によってドイツ国防軍から取り戻され、さらに西岸にいくつかの橋頭堡を築くために幾筋かの攻撃渡河の先導となった。その後、キエフは別の攻撃(英語版)により解放された。
戦争の中でも損害の大きな戦いの一つであり、犠牲者は双方で1,700,000名から2,700,000名と推測されている
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ウクライナが5月に大攻勢をかけることを宣言している。その衝突する場所がドニエプル川なのである。
テレビで見たら幅が広い。 3キロくらいあるというから日本にはない大きな川なのである。その川をめぐってウクライナとロシアの攻防戦がある。
それはドイツとロシアですでに第二次世界大戦の時激しい戦いがあった場所なのである。今回もと渡河作戦が実践されようとしている。でもそこでかなりの激戦となり犠牲者が出ることが言われる。
それはまた同じドニエプル川を挟んでウクライナとロシアは対立する。それはまさに歴史の繰り返しである。
なぜそうなるのかというとそれもカルマなのである。それは地理としてのカルマ宿命としてある。

ドニエプル川が境界線となり争うことになる。だからriverはライバルのことなのである。川を挟んでライバルとなるのはあらそうのが歴史だったからである。
つまり川というものはそもそも川ができてから何千年とも変わらない。川が埋まってしまってなくなることもないからである。
それが宿命を作り出しカルマとなり同じことが繰り返されるのである。地理的宿命から人間は依然として逃れられない。
確かにミサイルなどは自然の地理的障害を超越して飛んでくる。でも実効支配するにはどうしても陸に上陸して支配しなければならない。そうなると地上戦になり犠牲は大きくなるのである。何か今回のウクライナ戦争はこれまでしてきた戦争と変わらないことがありカルマの繰り返しに見えた

●変わらない地理の宿命

つまり地理そのものは変わらない。山が平地になったり平地が山になったりしない。川が埋まったりもなかなかしない。流れが多少変えても川自体は変わらないのである。
その地理が地勢が変わらないということがやはり今回のように戦争でも変わらないものがあったと見えた。
核戦争にのようになる時代でも依然として川が障害となりライバルとなり対立する。それが変わらないということがつくづく実感したのである。(riverはライバルのこと)
何かこれほど科学技術が発展してもこの戦いが古典的なものにも見える。それはドニエプル川を挟んでの攻防戦が最大の山場になっているということでもある。
それだけドニエプル川というのは自然の境界となり互いに二つの国を分ける働きをしている。そのことは変わらないのである。

だから大陸を見るときは川を知らなければ歴史もわからないのである。そもそも四大文明が川から生まれたというのもそのためである。日本にはそういう大きな川がないから大陸の川のことを理解できないのである。
でもドニエプル川を挟んでウクライナ側ウクライナ側ウクライナが大攻勢をかける。それに対抗するロシアがある。それはまさに川を挟んでの攻防戦なのである。
狭い川幅のところがありそれがとか80mとかの幅でありそんな狭いところでも渡ることは危険であり死んだとかなる。
それだけ川を渡るということは危険なのである。

●地形は変わらない障壁となる

ともかく今回のウクライナとロシアの戦争は近代戦争とも思えない。何か古典的なものであり川をめぐっての戦いの再現だったのである。だから人間は基本的に変わらないということもある。それは地理が地形でも変わらないからその宿命から逃れられないのである。
だから世界でも日本でも地歴を知ることが基本にある。ただ日本の弱点は大きな川や平原や砂漠がないので理解しにくいのである。
とても川の大きさとか平原とかとか砂漠とか森でも平地に延々と続く森を理解できないのである。

人間はどうしても地理的宿命から逃れることはできない。身近なところでわ福島県は浜通りがあるが阿武隈山脈に遮られてどうしても一体感が感じられないのである。
むしろ仙台のほうが海岸沿い太平洋岸沿いで連続しているから地理的には宮城県にも入っているのである。福島市は阿武隈山脈または高原によって遮られて一体感が感じられないのである。

ただ不思議なのは南相馬市の鹿島区から蔵王がみえ見える。それで山形県と通じているというふうにも見るのである。
なぜならあっ吾妻山などは見えないからである。もちろん会津の山などは全く見えない。それで福島県は地理的に一体感は感じられないのである。
大陸になると境界になるのは川であり川の役割が大きいのであ場る。その大きな川がが日本にはないからどうしても大陸を理解できなくなる。
ただ今回のウクライナ戦争で実況放送したので川が依然として大きな戦争の勝敗を決する障害となり戦争の勝敗を決する場となっている。それは人間の歴史が始まって以来変わらないと見たのである。
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2023年04月15日

岸田首相テロ事件の犯人は引きこもりだったのか (引きこもりは社会から孤立化するから危険)

岸田首相テロ事件の犯人は引きこもりだったのか

(引きこもりは社会から孤立化するから危険)

山上の場合は動機がわかりやすかった。カルト宗教に親がはまりそのために自分の未来まで奪われた。
その恨みが統一教会に向い関わった安倍首相は狙われたのである。
そこでカルト宗教の問題が浮き彫りにされたのである。それは社会的効果がかなりあり英雄にされたのである。今回のテロはまだ動機などがよくわからない。だから何かいうことがまだ難しい。
確かなことは24歳でありその年などはかなり危険な年なのである。大学を出て大企業にでも就職して正規のルートに入る人はこういうことを起こさないだろう。
一応大学までは大学で大学生として社会に認められるからいいのである。でも大学を出ると就職しないとなれば社会から外れたものになる。そしてそうなると誰も相手にしない。会社に入っていればそこで仲間がいたり仕事をすることによって社会的常識は目につく。それを逃してしまうのである。

この人も中学頃から学校に馴染めなくなりいじめられたとか報道があった。そこが挫折の始まりになった。
その後は分からないにしても職業にはついてなかったみたいだ。
そうなると孤立感を深める。誰か指導してくれる人もいない。またそういう人は対話を拒否するのである
そして家に引きこもり外の社会と断絶してしまうのである。
そこから突然こうした事件となって現れたのかもしれない。
なぜならひきこもりの人は非常に異常なほど多いのである。
それは田舎でも多い。私はそういう人と会うし何かそういう人が異常なものと感じる。だからそういう人が何かいつか問題を起こすようになると見るのである。
そもそも自分自身がそういう経験をしているからその危険性を感じるのである。

小人閑居して不善を成す

このことである。社会から外れても立派な人はいる。でもそれは実は例外的な優れた人なのである。
それでもアウトサイダーになると狂気になった人が多い。それだけやはり社会から外れるということは狂気的にもなるのである。もちろんカルトなどのように社会自体が集団が狂気になっていることもある。でもそれは社会が認めているから狂気とみなされないのである
現代の問題はいろいろあるにしても引きこもりが100万人もいるとするとそれはもう特殊な人の問題ではない。社会問題なのである。なぜならどうしてもそこから問題が起きて事件にもなるからである。
どうしても正規のルートから外れるとそうなりやすいのである。

それで盛んに引きこもりとかニートとかなどを擁護するひろゆきなどが人気になっている。
私はそういうことに抵抗はない。でも意外と引きこもりで正常保ち有意義に生きることは相当に難易度が高い。
なぜなら人間は社会的動物であり社会の中で仲間の中で生きるからである。でも現代社会はそれに適合できない人。学校に適合できない人。そういう人を必ず相当数出している。
それがしやすいのはやはり親の援助があり一応働かなくても生活できるということである。

それから家業というものもなくなり社会に適応することは会社に入ることである。そこで仲間とうまくやっていけない人も出てくる。家業だと親が無理してできないことをやらせないということもできた。でも会社だとクビになってしまうだろう。
だからこういう事件は現代でわ起こりやすくなっている。
その予備軍が膨大だからである。その中にはこうして過激なテロに走る人も出てくる。ただ集団ではなく個人的になっている。
テロをするにしても孤立化しているのが現代である。そもそも社会から孤立化しているからそうなったとも言える。それが今のテロの特徴だとみる。


何か政治的意図があったのか、まだわからない、でも若い人の不満も大きくなっている。日本が貧困化して全般的に不満が大きくなっている。それが原因なのか、ただ個人的なものだったのか、なにか山上と違い社会的に共感を呼ぶものを感じない
ただまだ動機などはわからないからなんといえないとなる
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2023年04月10日

少子高齢化で仕事がなくなりサービスが受けられなくなる (後継者もいなくなり国も維持できない)

 少子高齢化で仕事がなくなりサービスが受けられなくなる

(後継者もいなくなり国も維持できない)

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近くの人は85歳だけど20代で土地を買い立派な石作りの庭を作った。その石が大きいのである。20代でこんなことできた時代だった。なぜならいくらでも稼げた、運行制限も速度制限もなかったからである。それで人の倍も荷物を運んだ。歩合制であり運べば運ぶほど金になった。ということは月百万もうけることが可能だったいうことは大げさでもないとなる。
高度成長時代とはそういう時代だったのである。

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週刊現代4−15日号


私は旅をしても泊まるだけであり人の接待など帰って煩わしいと思っていた。だから中居とかそういうものは帰ってなくなっても困らない。うまい料理を楽しみたいということもなかった。
ただ旅をしたいというだけだったからそれで困ることもないし返って気楽でいいと思う
そもそも日本人はもてなしおもてなしといってもサービス過剰にもなっていた。そういうことで人件費もかかっていたし人でも人でもかかっていたのである。
だからホテルや旅館はただ泊まるだけであり食事は外出して簡単に済ます。そういうことが書いて返って旅しやすくなる。
それで少子高齢化でも手厚い人のサービスがなくても金が節約できて旅ができればいいという人はいる。若い人などはそうだろう。そのように社会が変っても別に人のサービスは受けられないにしろ旅はありうる。むしろそれで安く旅できればいいとなる。そういうことでわあらゆることが人手不足だからといって悪くなるとは限らないのである



最近リホームしたがその人は大工で一人親方である。腕はいい、それでリホームもできた、ただ水道では水回りでは苦労した
専門家を頼んで何とかできた、これからこういう大工さんリホームできる人はいなくなるかもしれない、技術の伝承ができなくなる。大工でも大きなハウス会社は本来の大工の技術が身につかない、ただプラモデルのように組み立てるだけだからである。
リホームは難易度が相当に高いと見たからである。

少子高齢化とは若い人が激減するとなるから後継者がいなくなることでもある。近くの自転車屋も死んで街には一軒の自転車屋もなくなった。ここでも後継者がいない、他でもそういうことが起きている。日本全国で人手不足になる。
介護分野でもこの辺で介護士が足りないとかなり青森の施設に一時送られたのである、原発事故などで一時若人が流出したからである。

そして外国人でも円安で入って来なくなるしベトナム人でも自国が成長しているから来なくなる。すると専業農家などで雇っていたから困るとなる。日本人を雇うと高くなり野菜でもさらに高くなる。

土木建築関係でもまともに家でもビルでも道路でも橋でも作れなくなる。少子高齢化で子供も少なくなり若者も少ないからそうなる。そうなると消防でも警察でも維持できなくなる。治安も維持できなくなる
増えるのは空家と老人と病人だけだとなる。あらゆる場所で教育でも先生の成り手がいないとか建物があっても維持できなくなる
飯館村では確かに大金をつぎ込んで立派な建物を学校でも施設でも建てても肝心のそこで学ぶ子供が集まらないのである。

「地域があるから人があるの?」「県があるから地域があるの?」「国があるから県があるの?」違う。逆でしょうって。人がいるから地域が生まれ、地域の仕事がたくさんあるから村になり町になり、そして県や国が成り立っているということなんじゃないの。過疎地だって、結局潰れないのは人がいてふるさとを支えているからでしょう?」27    
飯館村村長の菅野典夫氏が村長をやめる
(立派な箱ものだけでは飯館村も復興はできない)

こういう人がいたようにここは原発事故で人がいなくなったが日本全体でも少子高齢化で人が特に子供でも若い人がいなくなり後継者もあらゆるところでいなくなるのである。そしたら日本人がいなくなる、市町村だけではない国も維持できなくなる。
いろいろ言ってもいくらAI時代でもすべてはできない、人がいなくなれば空洞化して維持できなくなる、人がいなくなると野生の動物でも植物でも繁茂する、空地でもタンポポでたちまち埋めつくされたからである。
田畑でも放置すると元の原生林になる、それは縄文時代に回帰するのかともなる。狩猟時代に回帰するのかとなる







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2023年03月05日

南相馬市原町区の大原の強盗事件 (なぜ狙われたのかー人が希薄な所が狙われる)


南相馬市原町区の大原の強盗事件

(なぜ狙われたのかー人が希薄な所が狙われる)

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敷地内にプレハブの宿舎をつくっていた、前にも作っていた、するとかなりの人が利用したとなる
今は利用している人は相当に減った

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長い塀があり寺みたいだ、敷地が広い、家の裏にもプレハブの宿舎がある、これを見れば金持ちの家と見て侵入したこともわかる

パトカーが止まっていた

確かに家の前にプレハブの宿舎がある、この辺では原発事故で外部から人が入り一時は利用する人が多かった
今はかなり少なくなった、これでもうけたということはある。

今回の事件で謎なのはなぜ南相馬市の市街から離れた大原で起きたのか。
またなぜ東京から専門学生の人が20歳くらいで強盗までしたのか
そのことが理解しにくい。その家は金を持ってるということをどうして知ったのか。
確かにその家の前に原発事故以後増えたプレハブの宿舎が建っていた。そこを経営していたとなると金がはいったのかもしれない。

ということは原発事故以後それで収入があり資産家になったのだろうか?大原あたりでそんなに金が入るということはない。知っている人は農業をしていたが死んでやめた。
そこは空き家になっている。息子はいたが市街に移り働いている
だから後を継ぐことはなかった。そして一人で住んでいたのである。私は南相馬市の市立病院に入院していたときその人と同じ部屋だったのである。

ただ大原地区は放射線の被害が結構大きかった。だから補償金もかなり高かった。。
そんなことで星さん家で金が入ったのだろうか?
この辺でわ原発事故で補償金でかなり金が入った人がいた
プレハブの宿舎を作ったということはまた土地を貸したということはそれでかなりの収入が入ったかも知れない
でも謎はなぜ東京あたりからレンタカーを借りてここまで来たのか何かここに来る理由があったのかそれが分かりにくい
もしかしたら原発事故で何か関わりがあったのかそれもわかりにくい。でも一時外部からいろんな人が入ってきたからそれもあり得る。いわき市でも資産家の高齢女性が強盗に狙われて殺された。それもなぜなのかやはり資産家で高齢ということが狙われやすい

原因として今の若者は貧困である
そのためにこうして金も持っている高齢者が狙われやすいということはある。日本全体が貧困化してくるとき凶悪な犯罪も増えてくる。
そして狙われやすいのは何かあって急に金が入ってきた人である
この辺だと原発の補償金で成金になった人がいる
いわき市の高齢女性はゴルフ場になった土地成金だった

それは私自身も経験している。たいした金ではなくても遺産が入った。遺産成り金のようになった。そのために犯罪にあったのである。それは内部の人でありまた内部からもあった。
つまり犯罪というのはその狙われる人も何か問題がある。ただの偶然なのか。そうでもない場合があるのだ。
つまりそうした土地成金とか遺産が入ってくるとかそういうのは何か問題がある。なぜなら別に苦労したわけでもないのに金が入ってくるからである。それで他者からも妬まれるのであるそこに成金の危険が生まれている。
そしてそうした金は何か身につかないのである。金の重みがないのである。だから失いやすいのである。それが苦労して得た金ならばそうはならないのである。

とにかく身近に起きたから話題になり怖くなる。
私自身の家でも外部からの侵入者が現実にあったからである
でも金は置いていなかった。でもその泥棒が入ってきたことはわかっていたのである。でも私は顔を合わせないようにしたのである。それが良かったのである顔を合わせたら危険だったからである。いろいろ防犯のことを言うがこれは防ぎようがないとも見る
どこかに穴がありそこから入ってくる。
防犯には周りの目が必要である。田舎だと町から離れていると人の目がなくなるからかえって狙われやすい。

防犯とは地区ごとに村全体とかでも街でも周りの人が見ていると強盗でも入りにくい。でも今隣近所でも疎遠であり難しい。都会だと帰ってまた人が多くてその人に紛れて泥棒も入りやすい。ただ入りやすい家というのはある。
そして日本全体が貧困化してゆくと本当に犯罪が増えてくる
そのことが貧困化の怖さなのである

余談ではあるが星という姓は気になる。なぜなら近くの自転車屋の人も死んだが星だったからである

下総国相馬郡星村がルーツの族もいる

星村があったのは意外だった。保守性は結構多い星は結構多い。系統も色々ある。ここの星姓ははやはり千葉県の方だろう。相馬藩の旗印が北斗七星だからである。大原はもともと相馬氏が後から進出して住んだ場所である
隣の深野という地名が二つありこれは中世の地名であり古いのである。でも大原は新しい場所にもなる
資産家というとき農業で資産家になる人はこの辺ではまれである。ただ津波や原発事故で補償金で成金になった人はいた
除染で億の金を山分けしたぬ双相リテックなどがそうである。


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2023年03月03日

大川隆法死亡の謎ー2000億の財産争いに (権力を持つ宗教は教祖が死ぬと権力争いになる)


大川隆法死亡の謎ー2000億の財産争いに

(権力を持つ宗教は教祖が死ぬと権力争いになる)


私の知る限りでは、直ぐに死んだ人は一人もいません。
心筋梗塞は脳梗塞と違い、一瞬で意識を失う場合が多いです。
死亡率も高いですが、助かれば脳梗塞のような大きな後遺症に
苦しむ事はありません。

私も脳梗塞を起こしましたが、その部位により後の障害や死亡も変わるようです。
検索したところ、脳梗塞での死亡は10万人当たり57.1人とあります。



脳梗塞で死んだと明らかにされた、でも脳梗塞で死ぬ確立は相当に低い、体が麻痺しても長く生きている、それで妻で十年も介護したという人を二人くらい身近で知っている
だからもし生きていたら体も脳も麻痺して生き続けなければならいなとしたらそういう姿を見ているとしたら地獄になる、池田大作は生きているのか死んでいるのかわからない
とても表に出せないということで出さないともされる。
死んでも武田信玄のように秘密にして教団の維持を計っているとかなる

大川隆法氏が死んで問題になるのは何かとなるとどうも子供が五人いて後妻になった女性には子供がいない、そして跡目争いが前からありそのことを語っていた
この跡目争いというとき教祖の教えを受けづくとか発展させるとかではない、権力がありその巨額の金でも遺産争いになることである。
つまり宗教は権力を持つと必ずその権力に目をつける、もともと権力を求めていることがあり権力を得るためのものが多いから当然そうなる。
だから宗教というのは権力を持つと危険になる、なぜならみんなその教祖の教えより金になるとか権力を得られるとかで入る人が多いからである
大多数は宗教の教えなど関心がない、会員が増えてそこで一定の勢力を権力を持つ、するとそこに入って利益を権力を得ようとする人達が入ってくるのである

幸福の科学の場合はもともと子供たちで跡目争いがあり権力争いがすでにあったようである、だからその死が不自然だとしている、ただ突然死はあるからわからない
でも66歳では早いともなる、もともと病気があってそうなったらわかるがそれが不明なので理解しにくいとはなる
ただ巨額の遺産があり必ず権力争いになる、だから宗教というのは権力自体を持つとこうして歪められる、でもそもそもが政治にかかわり権力を持つことを目的にもしている
現実社会で権力を持つことを目的にしている、そして教祖が死んでまた権力争いになるのは必然だとなる

創価などももう権力しか御利益しか眼中にない人達が集まっている、そのために日々祈り選挙に勝ち権力を得ることが日々の活動である、だからここでもすでに池田大作は死んだのかわからないが何らか権力争いがあり分裂するかもしれない、そして全国にある会館なども会員が減っているから維持できなくなる、だからそうした巨大宗教団体が崩壊するとき権力争いになる、遺産相続で血で血を争うことにもなる、幸福の科学ではそうなっていたしそのために生きている宗祖の大川隆法が殺されたのかとまで疑う人がいるのもわかる

大川隆法でも池田大作でも世俗で宗教を教え大成功した人なのである。そして偶像化されたのである。何百万人の会員に崇められて莫大な金を集めた、大川隆法氏の家が宮殿のようになっていたことに驚いた。池田大作だと庶民を相手だから普通の家にそれもかえって貧しさを感じる家に住んでいるとか言われた、それは庶民向けにそういう演出をしたということである
貧しい会員が多いければ豪邸に住んで贅沢の限りを尽くしているとか言えないからである

そもも宗教が権力を持った時から堕落して世俗化したのである
それはカトリックが政治化して権力を持ったことから始まっていた、カトリックとは土地を持っていたり権力を持っていて庶民を支配していたのである
それで免罪符などを売りつけてもうけていた。それに反発したのがルターでありプロテスタントになったのである。

宗教が権力を持つことは危険である、その動機が不純なものになる、宮殿のようにな豪邸に住んでいれば誰でも信仰すればそうなれるという見本を示すからである
それは本来の宗教の教えとは正反対のものでも世俗的には欲を充たせることを説くことで人が集まる、つまりカルト教団の人達は欲を実現するものとして入ってくる
その中に貧困とか様々な悩みや問題をかかえて解決したくて入る者もいる

そういう人達を集めて会員を増やす、だから創価と共産党は本当に似ている、いろいろ苦しみ困っている、貧困な家庭も多い、他にもいろいろ悩みがあり解決したくて入る
そして共通しているのは社会に対して根強い恨みを持っていることである
自分が不遇なのは苦しいのは社会のせいであり今の上に立つ人達のせいだとしている
そういう点で共通しているのである。
社会に対して深い恨みを持っているのである。でも全部が社会のせいなのか政治のせいなかなのかというとそうでもないのである

生まれつき障害者を持ったのは社会のせいなのかまた政治のせいなのかというとそうでもない、美人に生まれなかったなど恨んでもそれは社会のせいではないのである
それは親を恨めともなる、ただ根強い憎しみを持っている人達だとなる
そういう人達を組織化して政治化して権力を持ちその権力を持った時不満が解消できるとなる、つまり権力も持ったらその権力で得られたものを配分することになる
その分け前は主に幹部が得るのでありその他に富は必ずしも回ってくるとはならないのである

そもそもカルト宗教はこの世で権力を持ち栄誉栄華の生活を送りたいという人達が集まるいろいろいてもその目的はこの世で権力を得て欲望を実現することである
それは幸福の科学でもオウムでも同じだった、創価は最もこの世で権力を持ち支配者になるところだった、そこで権力しか関心がない、その権力を得るとういことは選挙で勝つことでありいかに票を集めるかが日々の活動なのである
そのことが池田大作教祖のためにそうするのである、座談会では選挙の時こうして集まり祈り権力奪取のために日々奔走しているだけである

人間はみんな血眼になって日々金を稼ぎ金を得る為に生活している、だからカルト宗教も血眼になって権力を得る為に金を得るために祈り運動しているのである
だからオウムでもオウム王国を実現すると堂々と主張していたし幸福の科学でもそうである、幸福の科学の王国を目指しているのである。
それは神の国でも仏の国でもない、ただひたすらこの世で欲望を実現するものとしてあるこの世の王となりこの世を支配することなのである。そしてその王が教祖になる

それは偶像なのである、サタンにもなる、でもそのサタンを作りだすのは人間の欲がなくならないからこそこうしてその欲を実現させるとして偶像がサタンが支配することになる幼児のようにみどり子のようであればもともと欲がないのだから欲望を実現するなどと説かないのである、そもそも欲がないのだから説く必要もないのである
だからこそみどり子に治めさせよと言ったのである
でも現実は権力を求めて権力を得ることに世俗社会がありそれを否定はできない、もし欲を抑制して否定しろとなるとついてくる人は極ずかになる、そして世俗の誰にでも欲を肯定してもっと欲望をもてとなっているのがカルト教団なのだからそれがこの世にまかり通っていること自体信じられないとなる

もしあばら家とか粗末な家に貧しくして住んでいたら誰もそんなふうになりたくないとなる、でもキリストは家もなく枕する所なしだったのである。シャカでも王宮に住んでいても出家して洞窟で家もなく修行して悟りを開いたのである
もし宗祖がただ残したのがあばら家とかだったらそこに権力争いなど起きようがないのである、そこに会員でもわずかだったりしたら権力争いは起きない
莫大な富があり権力を持つとその富と権力を目当てに争いが起きる
遺産相続争いが起きる、それがすでに大川隆法の死で家族でも起きているし教団でも起きている、そこに人間の醜さが露骨に現れるのである
だから本来の宗教はせいぜいあばら家でも残すだけとなれば誰も振り返らない、遺産を残さないとしたら血で血を争う兄弟姉妹い争いも起きないのである
だから宗祖でありそうして死んでから会員の争そいの種を残すことが罪なこととなもなるそのために欲が刺激されて争いになるからである

いづれにしろカルト教団が崩壊してゆく、それは幸福の科学だけではない、創価でももう会員が増えないから全国にある会館でも維持できなくなる
金が入ってこないから財政的に維持できなくなる、そもそもそんな会館などなくても良かったのである、そんな所に金をつぎ込む必要もなかった、宗教とはそもそも金をかけるものではない、金を集めれば金だけが目的となる、そして莫大な金が集まりその金を残して遺産争いになり組織自体が分裂してゆく、醜い遺産争いが兄弟で起きるのと同じであるもともと世俗の権力を求めた宗教なのだからそれも当然の結果だとなる
ただ宗教も利益だというときその宗教でも利益になれば利用するものがある
創価の会館を請け負ったのが大成建設とか言われる、富士山の正本堂を建てたのは大成建設だった、大成建設とは密接な関係がある、それが巨大な利権となっているから結びついているとされる、本来の宗教とは関係なく利権があり結びついているとなる
なぜならあばら家に住むだけだとしたらそこに何の利権も生れないからである
宗教が巨大な利権を産むとういことで問題なのである

ただ大川隆法が急激に死んだということは何なのか脳梗塞にしても普通急激に死んだりするのはまれである。そして必ず脳梗塞には前兆が出てくる知ってる人でもそうだった大川隆法だったら家族でもみんなが注目しているのだから何か分かったに違いない
そもそも大川隆法自身がそのことに気づかないということが盲点だった
なぜなら常に会員の心配をし会員のために生きているそういう人が自分自身を顧みないそのために病気に気づかなかったとなる知っている人も他人の心配をしていたが自分自身が病気になって脳梗塞になってかえって迷惑をかけたのであるだから自分自身のことをないがしろにするのも問題なのである

でも大川隆法の死は何か不自然であり不可解である
脳梗塞となればそんなに急激に死ぬとも思えないからである
結局いろいろ預言の言葉を言ったが自分自身についての死については本人も予言できなかったということであるただ突然の死に驚いたのである
人間はつくづく自分の死がいつ来るのかわからない近くの自転車屋にしても3日前まで普通に仕事していたのであるいつまで続くのかということをいっていた
それはすでに10年間くらいガンであり仕事を続けてきたのであるだからいつか死ぬということは予想されていたでもそれは突然だったのである大川隆法については何か前兆があったのかどうかわからないそれで殺されたとかいうことまで言われたのである
ともかく何かこの年になると死ぬ人が増えてくるあっあの人も死んだのかこの人も死んだのかとなってしまうそれより自分自身の死もそんなに遠くないのである



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2023年02月25日

世界を見る基本は地理(地政学)―覇権争いが世界史の現実 (ウクライナの戦争をどうみるかも同じ)


世界を見る基本は地理(地政学)―覇権争いが世界史の現実

(ウクライナの戦争をどうみるかも同じ)

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世界の地政学から世界史を見るとウクライナの戦争をどう見るのかとなる
それは遠大なものになるから簡単にはできない、でも確かに現代はアジアではない、西側がヨ−ロッパが中心になって作られた世界である
世界の西欧文明化であった、大航海時代からそれは始まったのだからその期間は長い
ヨ−ロッパの延長としてアメリカがあった、大英帝国が七つの海を支配して次にアメリカが覇権国となりドルが支配することになった
それから米ソ対立の冷戦があり冷戦ではアメリカが勝利したとなる
しかし次に覇権国としてのしあがってきたのが中国である、それで米中対立の時代になった、今や中国がロシアの兄貴分になった、実際ウクライナの鍵は中国が握っているからだともなる、それだけ中国の力が強くなったのである

アメリカ自体が中国と同じく国土が広く巨大な国である、アメリカとヨ−ロッパとは大西洋をはさんで離れているようで一体でも、つまりアメリカ側からみれば確かに大西洋で離れているようでもヨ−ロッパは大平洋で離れているより身近なのである
つまりアメリカから見ればヨ−ロッパはつながり強く結ばれているともなる
歴史的にもそうである、ヨ−ロッパの延長としてアメリカがあったとなるからである
ただロシアはアジアなのかとなるとそうともいえない、アジアでもありヨ−ロッパでもある、なぜなら顔だちでもモンゴル風でありアジア人の容姿の人もいる
ロシアはアジアの混血でありまたヨ−ロッパとの混血民族だとなる
それは民族というだけでなく文化的にもそうなのである
ギリシャ正教会からルーシーとはロシア正教会になった、それはアジア的なものにキリスト教が変質したとなる。
ロシアはまたスラブ民族はイスラム教と一体化しているから宗教的に複雑である

ともかく東西文明の交流が500年周期であるという説、それは余りにスケールが大きいから理解しにくい、ただ現代は西欧文明の挑戦を世界で受けた時代だった
アジアでは西欧文明の挑戦を受けて日本が最初に世界史の舞台に出てきたのである
中国はヨ−ロッパの植民地化されたからである、だから第二次世界大戦で覇権国になろうとしたのである、世界史は正義とか関係ないのである、アメリカが正義の戦争として日本を攻撃して支配したというのは別に正義を実現するわけではなかった
世界の覇権国がアメリカに移る戦争だったのである、その前の覇権国はイギリスだったのである、七つの海を支配したイギリスでありポンドが基軸通貨となっていたのである
だから日本は悪でありその悪をころしめるためにアメリカが戦い勝ったとかいうのはアメリカの勝手な見方であり世界史は覇権争いでありその延長としての戦いだったとなる
そこに正義など関係していないのである
むしろヨ−ロッパはアジアを蹂躙した侵略者だから悪だともなる
要するに正義で争っているのではなく覇権争い覇道の争いが世界史なのである

ウクライナ戦争でもヨ−ロッパがありアメリカがありロシアがあり中国がありその狭間で起きたことである。もし中国がロシアについて一体化すればヨ−ロッパとアメリカとロシアと中国の二つの陣営に分かれて大三次世界大戦ともなる危険がある
その狭間に日本が置かれて日本は苦慮してウクライナのようになりかねないのである
実際に太平洋戦争では日本はソビエト連邦とアメリカによって分割支配されることにもなっていたからである、その時中国は共産主義革命となり力を持たなかったのである
では冷戦の時は共産主義と民主主義の対立でありそのための戦争だったとしているが実際は覇権争いだったのである。民主主義でもそれが世界の普遍的なもはのとはなりえない
今民主主義自体が危機に瀕しているのはそのためである。民主主義は大衆民主主義になりポピュリズムになりナチスとなった歴史をみればわかる
全体主義と一番近いのが民主主義でもあった、また共産主義とは全体主義であり独裁でもあった。だからどっちにしろその政治体制で世界は決まらない、覇権争いでありそれがウクライナの戦争となったのも歴史は繰り返すとなる

いづれにしろ地政学というとき世界を見るのには欠かせない、でも世界は巨大だから地政学で見るとしてもその視界が狭いから簡単にできないのである
一番簡単なのは聖徳太子が聖徳太子「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す…」である

この解釈はいろいろあっても地理的な単純な事実を言ったともなる
なぜなら太陽が昇り沈むということは一番心に残ることだからである
日本でも太平洋から太陽が昇る、山に沈む、でも日本海になると山から太陽が昇り海に沈む、それは大平洋とは全く逆なのである、だから太陽がどこから昇り沈むとういことは地理で一番印象に残るのである、韓国に行くと海から太陽が昇るその方向が日本になる
日本から見れば日本海に太陽が沈むのである、アメリカでも西海岸に太陽が沈むのであるだからこれは別に中国の隋の皇帝を侮辱するものでもなかった、ただ地理をそのまま指摘したに過ぎないのである
太陽が昇るというとき近江では琵琶湖に西が高島とかでありそこから東があづまであり
そこから太陽が昇るのを見た時もなるほどと思った。西は陽の沈む所であり琵琶湖の湖西線があり比良の山に太陽が沈むのである、ただその光景は見ていない、それで旅した時はどこから太陽が昇り沈むのか見ると地理としてわかりやすいのである

世界史はいろいろあっても空間軸と時間軸で見る、でもそれがスケールが大きいから理解しにくくなる、でもまず世界を見る時地政学で見る、地理から見るのが基本にある
なぜなら時間軸でみるときさらにわかりにくくなる、でも地理は地球が形成されて以来
基本的に変わっていないのである、海が陸地になったり陸地が海になったりしないのである、人間の歴史感覚でみればそうなる。とすると変わらない地理から見れば基本的なものは理解するとなるからである
ウクライナでも地理からみればヨ−ロッパとアメリカとロシアと背後の中国のせめぎ合いなのか覇権争いなのかともみる、それが今度は日本に波及してくる怖さなのである
米中の狭間で日本がウクライナのようになりかねないのである
ただ日本が明治の時に東西の橋渡し役だと指摘されたように本来はどっちにも組みしないのがいいのである。でも現実的にはどちらかにつかざるをえない、そこで日本もウクライナのように引き裂かれる危険がある。またそういう地理にある
だから地政学を知ることが基本になる、日本は一方に偏ると危険になる
でも中立を保てないとしたらどうするのかとなる、それでインドとかオーストラリアとか第三の勢力を構築するということにもなる、それは三国志と同じだとなる



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2023年02月24日

トルコ大地震と原発事故の相似 (安全はコストがかかるので無視されやすい)


トルコ大地震と原発事故の相似

(安全はコストがかかるので無視されやすい)

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市営住宅は中でも被害がなかった
60年も過ぎれば木の住宅はぼろぼろになり壊されている

1999年のイズミット地震(別名「トルコ北西部地震」「トルコ・コジャエリ地震」等[注釈 1])は、1999年8月17日3時02分(EET、現地時間)に、トルコ北西部で発生したマグニチュード7.6の地震である。37秒もの間ゆれ続け[2]、1万7000人あまりが死亡し[3]、およそ60万人が家を喪うなど震源のコジャエリ県イズミット市を中心に甚大な損害をもたらした。



トルコはもともと地震が多い地帯である、だから地震対策が必要だった。
1999年にも地震で大被害があった、だから当然地震対策が必要だった
でも今回エルドワン大統領が責められたのはビルの建築に地震対策をさせなかった
それはコストを削減して業者をもうけされる、そして利権を与えて票を得るという構図があった、また建築でも技術的に進んでいないということもあったのかもしれない
日本だったらこれだけ地震があれば耐震設計でないと許可されないからである
ただ常に安全というのはコストがかかるので二の次になる
そういうことはグロ−バル社会でも同じだったのである

自然災害はどこでもありその安全対策が望まれる、トルコでも地震頻発地帯なのだから当然だったとなる、でも必ず安全対策はコストの面でおさえられる、民間の事業はどうしても利益優先になりコストが問題にされるからである
それは原発事故でも同じだったのである、当時の社長はコストカッターとして手腕を発揮して社長になったと言われる、それで安全はないがしろにした
もともと高い所に作っていたのに電源を地下に作ったからわざわざ高くしたものを低くするために削った、それで津波に襲われて電源喪失したとなる

コストがかかることは民間の会社だと無駄とみる、利益優先でありコストをかけたくないのである、でも一旦事故になるとその被害も甚大になるのである
今回もその恐ろしさを見せつけられたのである、安全というとき何か近くのキクチスーパーのカードをなくした、一万入れていたチャージしていたでもなくなくなったので丸損になった、すると一年でどれくらいもらえていたのか計算すると割りに合わない
二三か月に一回くらい3百円もらったとしてもカードを落とした結果一万損失だから割に合わないとしてやめた、他のクレジットカードなどは無くしたらとめて再発行できるからそんな損失にはならないのである、だからこれも安全が意外とかえって得になることを知ったのである、またナナコとかのカードをなくして5万入れていて損したという話も聞いた、このようにカードがそもそも小さいのでなくしやすいのである
その安全対策がキクチスーパーにはなかったのである

だから安全には金がかかるとしても事故になった場合かえって大損になる
でも民間の会社で安全に金をかけると利益にならない、安全は利益にならない、だから目先の利益を優先するのである、いつ地震が来るのか津波が来るのかなどわからないからである、でもトルコは1999年にも大地震が起きているのだから危機感があってもいいはずだったが建物でもそのままにしていたのはこれまたコストの問題があったのだろう
古い建物でも壊して新しいものにできないいう事情もあったのだろう
これもコストの問題だったのである、安全とコストは必ず関係しているのである
だから安全を民間会社だけで担うのは負担が大きい、そこで政府が介入する役割がある
でも福島原発では政府の保安院は不安員と揶揄されたように何の役割も果たしていなかった、ただ東電から金をもらうというだけだったのである、監視などしていなかったのである

そして東電には官僚も天下りしていた、それが海上自衛隊とか警察関係も多いのである
ここは大きな権力であり原発は国家的事業でありこれに逆らえば警察もかかわってくるというものだったのである、そこで甘い汁を吸っていたのがこうした上級官僚だったとなるだから事故の責任を負って天下りした役人はその金を返却すべきだとなるがそんなことを責任を問う人もいない、ただ最近裁判に勝訴したので地元では補償金がまたもらえるとはなった、ただ地元にしても安全のことなど真剣に検討しない、原発は金の生る木だったのである、国家的事業であり莫大な金が惜しみなくつぎ込まれていたのである
除染にしても6兆円とか途方もない金が使われたのには驚いた、そのために相双リテックとかは幹部で何億の金を山分けしたとかなる、だからその責任は国家だけにあるとはならない、地元にしても金になるから誘致した事情があるからである
安全はないがしろにされまず金だとなっていたからである

常に人間には危険がある、自然災害がある、知床の観光船でもやはり安全がないがしろにされていた、それもコストの問題があり安全は二の次になり事故になったのである
それと地元の人が経営していたのでないからその土地の自然のことがわからなかったのである、潮流とか風が関係していたからである
それも問題であった、風土というのは自然というのは必ず関係してくる
ソーラーパネルでも相馬市の宇多川の上流の丸森などの山まで山ごと木を切ってはげ山にしてソーラーパネルにした、それも危険だと見た、なぜなら雨がふったら木がないから貯水ができなくなり川に急激に水が流れて氾濫もする
数年前に宇多川で相馬市街まで氾濫した、だからソーラーパネルも危険なのである

ただ常に安全はないがしろにされる、それは利益優先になりコストがかかるからそうなるでも一旦事故になると莫大な被害がでる、もし今回のトルコ地震でも耐震設計だったらあんな被害は出なかったかもしれない、それが致命的だったともなる
不思議なのはこの辺の古い1950年代のものなのか、コンクリートの二階建ての市営住宅は古いのに被害がなかった、外から壁を見てもひび割れもしていない
それは去年の大地震でも被害が見えないのである
未だにまだ去年の地震で家を直していない所がある、でもなぜそんなに古い建物なのに被害がなっかたのか、コンクリートは地震に強いからだとなる
でもビルは崩壊したのである、やはり大きくなればその被害も大きくなるのである

いづれにしろ自然災害との戦いが人間の歴史でもあった、だからそれはかなり解決したようでもしなかった、津波だとそうした予想を超えるものとして現実化したからである
トルコの地震は予想外とはならない、そういう地震がすでに20年前に経験しているからである、ただその安全対策ができていなかったということである
だからこそエルドワン大統領が建築業者の安全対策を厳しく指導していなかったとして責められているのである、つまりそれは政府も国家にも責任があったとされるのである
こういう事例が社会には多いのである
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2023年02月22日

星淳一氏(死亡した星自転車屋の写真がシシドスーパーに出ていた)


星淳一氏(死亡した星自転車屋の写真がシシドスーパーに出ていた)


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この写真がシシドスーパーの入り口に貼ってあった
おそらく商工会で出したのだろう
でもあまり注目して視ている人もいないようだった
自転車に乗らない人はかかわらないからそうなる
でもかかわった人は星自転車屋の人が死んだのかとなる

それがなぜそうなったのかというと鹿島区には一軒しかなくなったのと私の場合ヤマハの電動自転車を買っていたから世話になったということで関心があった
無人駅化したとき駅のことでも語りあったりした
何か駅前だから駅のことが一番知っていて気にかけていたのである
駅の活性化とかを語ったのである

今になると一軒しか自転車屋がないから貴重だったのである
原町とか相馬市とかなると何軒か自転車屋があるから他の自転車に行けばいいとなる
でも原町のイオン内に自転車を売っていても張り紙で十項目くらいは直せる
だからそれくらいだったら直せる、でもむずかしいものになると直せない
一回は心臓部分のドライブユニットが故障したので新しいのに取り替えたのである
そういうことはできない、それはヤマハ本店とつながらないとできないのである
またチェーンはずれたとき特殊なものだから特殊な道具が必要になった
それでその道具をとりよせてはずれたチェーンを直すことができたのである
それは特殊な高い自転車だったからそうなったのである

それで通販で外国製でもいろいろいいのがあっても修理などできないから買いにくいのである
電動自転車でなければそれほど困らないと思う、電動自転車はめんどうなのである
イオンに行くにしても自転車屋を持ってこいと言われたからそこまで歩いて持ってゆくのも苦労になる
ともかく自分にとって自転車は欠かせないからこまるのである。

それにしても人間は死ぬと不思議である、それは60年間一緒に暮した家族でも死んでしまってそう思った、何かいつまでも死んでもその死に納得がいかない、完全にこの世から消えることがいつまでたってもそれを受けいれられないとういことがある
それもまだ死んだばかりなのだから余計にそうなる、先日あそこにいたのにいないとうことが不思議なのである
今でも駅を見て仕事をしている感覚になる、鹿島町の行く末を見ているのかともなる
それは小さな街であり一軒しかないということでそうなったのである
つまり都会だったらこうはならなかった、他にも自転車屋はあるから他に行けばいいとなるからである

ここでは他にないから余計に価値あるものとなったのである
だから価値というのは様々な条件で変わってくるのである
田舎には田舎の価値があり田舎に価値を作ることができる
だから田舎に移住したいということが話題になるのが何も持っていない何もできない人は来ても歓迎されないいうことがある
無医村だったら医者は大歓迎になる、他でも大工などでもいないから修理することがあるから必要になる、何もできない人は田舎だって歓迎されない
でも若い人は歓迎される、何もできなくても田舎に来て学び身につければいいとなるからである、そこに時間があるからできるのである

鹿島にそ生きにし人や今はなき淋しきものや春となりしも

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2023年02月09日

悪が可視化されないのでなくならない (グローバル化する犯罪)


悪が可視化されないのでなくならない

(グローバル化する犯罪)

この世の善悪は明確に見えない、何が悪なのか善なのかもわからない、偽善が多すぎるのである、そもそも宗教が一番偽善なのである、宗教が一番善を追及していると見ている
でもカルト教団が膨大な会員がいるのにその人達が善を追及しているのかとなるとしていない、天使を装ったサタンだともなる、ただそういうふうに善を装ってもその化けの皮はいつかはがされる、やかで赤日の下にさらされる、隠すことができなくなる
まずこの世では悪は隠される、かえって巨悪は隠されてわからないのである

そしてグロ−バル化経済では巨悪が何なのかもわからなくなる、それで常に陰謀論になるのである、今回のフィリピンに隠れて支持していた盗賊の一団でもそうである
警察でも賄賂をばらまきしたいほうだいになっていた。
ビルまで拠点として買っていた、相手が誰だろうが金があればなんでもできるとなる
国境を越えた犯罪集団になる、グロ−バル化社会で起きた犯罪である
そうなると悪人でもつかまえられなくなる、それで感じたことは必殺仕事人は架空の事だと見ていた今にもそれが成り立っていたとなる
なぜならルフィとか指示役の人がつかまったが実はその上にさらに支持する黒幕がいたとしているからだ、組織犯罪でありその黒幕がわからないとなっている
それは常に言われる陰謀論になるのである。

巨悪は暴かれないというときもそうである。それはなぜなのかというとき可視化されない見えないからである。隠されてしまうからである
悪が可視化されない、それは別にこうした犯罪集団だけではない様々な悪が隠されて見えないのである、常に隠ぺいされるからである。原発事故でもいろいろなことが隠ぺいされていたのである。危険なことがあっても隠ぺいされていた。
そこには素人とか誰も立ち入ることもできなかったからである。マスコミは巨額の電事連とかからの宣伝費が入るから巨悪を暴かないのである
創価とか統一教会でもそこに巨悪がある、でも福島民報では聖教新聞を刷っているので
その悪を暴くことはしない、巨大な権力に従い操作されることになる
原発事故ではそうして権力によって安全神話が形成されたのである
学者や研究者には研究費の名目で金を出したりしていた、そうしたら学者でも科学者でも危険でも目をつぶることになる

要するにこの世に悪があってもそれが可視化できない、特に巨悪は可視化しにくい、するとそこに悪が醸成される、警察も踏み入ることができないとかなる
特に原発は国家がかかわるから自衛隊でも警察でもかかわっていた
なぜなら天下りしていたからである、巨大な国家ぐるみの犯罪でもあったのだ
でも東電の幹部でも一人も罰せられないのである、そもそも検察も東電に天下りしていたからである。原発は金の成る木だったのである
そこにはだから地元の住民でも利益得ようとしていた、政府とか東電とかは地元に反対されないように金をはらまけばいいとなっていたのである
だからこの問題は科学技術の問題だけではなかったのである
隠される闇化して誰もその真実を言う者がいなかったとなる
そして大事故になり故郷にも住めなくなったのである

要するに問題は可視化できないことである。明確に見えるものとして悪が可視化されないのである。むしろ悪でも善とされる、特に団体組織となると権力があるから悪でも善として認められるのである、それを証明したのがナチスだとなる。民主主義の選挙で選ばれたのだから民主主義でも悪を抑えることはできなかった。
グロ−バル化社会では本当に何が善悪なのかもわからない、余りにも巨大化しているから悪も見えなくなる、つまり現代のグロ−バル化社会とは巨悪が隠ぺいされやすいのであるそれは悪が可視化できなからである。不正に莫大な金が使われてもわからないのである
そもそもアメリカ自体がそうした悪を隠す張本人かもしれない、なぜなら世界の覇権国だからそうする権力を持っているからである、だから世界の富を極ずかな数パーセントの人達によって集められている。それ自体巨悪なのである
そして巨悪は罰せられないのである
カルト教団になると宗教を隠れ蓑として善を装い搾取するとなる
でも巨大な集団で組織化して権力化したら悪は悪でなくなる、警察でもとりこむことができる、グロ−バル化社会だとフィリピンのような国に入り込んでそこで悪が見えなくさせていたのである
賄賂社会になっているのがフィリピンでありそういう国が世界にはある

本当は民主主義とは悪を可視化することが国民によって成されることに意義がある
でも実際はされなった、マスコミはその役割があってもやはり宣伝費などがなければ放送できないので巨大な権力に取り込まれたのである
一応三権分立で司法があるがこれも東電に検察の幹部が天下りしていたから東電の権力は絶大なものでありそれに対抗できるものはいなかったのである
ただその悪を暴いたのが津波だったのである
もうそんな巨悪を暴くことなどできなかったからである

とにかく可視化して悪を見えるようにするのが報道するものの役割だったができなかった悪を可視化することがマスコミの役割だった、でもできなかった、むしろ巨大な権力に悪に取り込まれたとなる。
コーヒーカップで透明なものがあった、それで汚れが可視化されていた
だから汚れると洗わなければならないと洗うようになった
他にもユニットバスも白いから汚れると目立つので洗っている、汚れた場所が白いので可視化されやすいのである。私自身はずぼらであり掃除を余りしていないがどうしてか汚れが白いので目立つなのである。
つまり汚れを消そうとする、それは可視化されているからだと見た。どうしても汚れているのが嫌だからである、でも可視化されないとそのつまにしているのである
だから絶えず汚れが目立つので洗ったり掃除したりすることになったのである

ただこの世では悪は隠れる、隠される、隠ぺいされる。その原因は悪が可視化できない
それで常に黒幕がいるとかなり陰謀論にもなる。その悪の張本人とか見えないからである今回フィリピンで逮捕された人達の上にさらに黒幕がいるとかなるとそうである
そして遂に黒幕の裏に黒幕がいるとかなってこの世の悪は暴かれないのである
デーブステートがあってそれは見えないのである、それが明確に見えるようになる、可視化さればわかるができないのである
グロ−バル化とは巨悪でも世界に散らばり隠ぺいされる隠されるともなる、タックスヘイブンなどでもそうである。税金逃れにしているとしてもそれを罰することもできない
そうなるとグロ−バル化というのは実は犯罪の温床にもなる。
だからこそフィリピンに詐欺グループが隠れて支持していたとなる
それはこうした悪と見えて逮捕されたものだけではない巨悪は見えないしそこに巨額な金が集まり世界を支配するともなる、それが世界中央銀行とかになる

とにかく悪でも汚れでも透明な器なら白いものだったらそこに明確に汚れを意識できる
でもそうでなければ意識できない、つまりもし真っ黒の器があるとしてそこに白い点がついたとするとその白は明確に意識できる、でも黒いものに茶色とか黒味帯びたものを灰色でもついたとしても明確に見分けられない、もし黒いものに黒がついたとしたら全く見分けがつかないのである、この世から悪をなくそうとしてもできない、そもそもこの世は黒で闇の世界だからである。悪は常に闇に隠されるからである。
とにかくもし白いもの透明な器でもそこに汚点がついたら意識する。そしてその汚れを落とそうとる。でも現実社会ではその悪がこのように意識できないから可視化できないから悪は依然として闇に隠れて存在しつづけているのである

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2023年02月02日

宮台氏を襲って自殺したのは引きこもり (引きこもりの危険と現代社会の問題)

宮台氏を襲って自殺したのは引きこもり
(引きこもりの危険と現代社会の問題)

宮台真司さん「(男の)年齢は、でている通りロスジェネ世代。無差別殺傷事件を起こす人が多く生まれている。容疑者がなくなったことはかなり残念。容疑者の襲撃の動機がわかるかな、というところに興味がある」
宮台さんは2022年11月、東京・八王子市の大学のキャンパスで男に切りつけられ重傷を負っていて、容疑者とみられる相模原市の無職の41歳の男が、事件からおよそ2週間後に、自宅で死亡していたことがわかった。
自殺とみられている

この犯人は引きこもりであった、家族と一緒に暮していたが別に部屋を借りて一人で暮らしていた、働かなくても暮していけていた、家族が援助していたからであ

ではなぜこんな殺傷事件までになったのか?

これが疑問である、宮台氏とのかかわりでそうなった、何か日ごろから宮台氏の発言に不満があった、思想的に反発するものがあった、それが引きこもりになってネットとかで発言していたのかもしれない、ネットウヨとかも言われた人達がいた
ただこの人がどういう発言をしてどういう思想の持主かはわからない
ただわかったことは引きこもりであり家族からも分離しても無職であった
そこで一日中何をしていたのか?なぜ宮台氏を殺したいほどになったのか?
その辺がわかりにくい、思想的に反発するものがあったからなのか?
でも相手刃物で襲うということは相当に何か宮台氏にかかわるものがあったとなる

私がこの事件に興味を持ったのはやはりこの人が引きこもりだったとういことである
そのことで自分自身の経験から前から述べてきた
ただ団塊の世代で引きこもりなどほとんどいない、ほとんどが企業戦士とかなり馬車馬のように働いた、そして高度成長時代を築いたのである
中卒も多く金の卵として都会で働いた時代である、その時代の差がある
私は特別恵まれて三流大学を出ても就職もしなかったのである
そういう人はまれだったのである、でもふりかえれば私は必ずしも引きこもりではなかった、なぜなら20代とかは底辺でも労働していたからである
そして大学は東京だったから親元を離れた生活をしていたからである
それが人間形成に良かったのである、かわいい子供には旅させろというのがわかる
親元を離れて人は一人前になる、でも社会になじめず引きこもりになったのである

こうして引きこもりの経験者だからその心情が理解できるのである
引きこもりは社会性が喪失してゆく、一人閉じこもっていると上から命令されるものもいない、別に上司にしかられることもない、ただ一人でありそうなると何か自分自身が偉いという感覚にもな実際は落ちこぼれでも誰かに雇われる使われるとかではない
自分が常に主人でいられるのである、ただ親がうるさければそれが問題とはなる
でも親が許していれば三食つきであり親は召使のようになっているからいい身分なのである、私は30歳からそうして引きこもりだったのである、それも30年間とか長いのである
だからそれをふりかえったとき異常だったとなる
ではその30年間何をしていたのか?それは自分の好きなことをしてきたのである
主に旅をしてきたことになる、それで地名に興味をもってその方面から歴史とかに興味をもったり詩歌を追及して来たのである

ただふりかえりこういう人生は危険なものでもあった、社会性が喪失して何か変な方向に向かうことになる、だからアウトサイダーとも似ている、でもそういう人は特別優れた天才とかなっていた、今はそれが普通の人でもなる普通のことになったのである
なぜなら本当に引きこもりというかニートというかそういう人達が田舎でもいる
なぜか自分はそういう人達と逢うのである、類は類を呼ぶということにもなる
そういう人を見ると何か体も貧弱であり劣っている、だから社会に適合できなかったのかと見る
一方でアウトサイダーとなると全然違っている、むしろ優れていて社会に適合できない天才が多いとなる
そしてそういう人は狂気になった、ニーチェでありヘルダーリンであれ文学の分野でそういう人がいる、そういう人達はむしろ特別優れていて社会に適合できなくなったのであるでも今の引きこもりは普通の人でありむしろ何か劣っていてそうなった人達である
ただその数が多すぎるから何なのかとなり社会問題になったのである

ただ何かアウトサイダーと似ているのである、ただこれだけ数が多いということ別な問題として引きこもりが生まれたとなる、引きこもりの効用としては社会から離脱して人と極力交わらないとういことで禅僧のようになる、沈黙業をすることになる
それは寺だったら許されるが社会ではそういうことは許されないのである
でもその効用はある、沈黙するということは自然と一体化するのにはいいのである
なぜなら大地であれ山であれ木であれ石であれ沈黙しているからである
だから自然と一体化するには沈黙をすることを学ばねばならないのである
でもそれは社会にいてはできないことである、また社会から離れて生活することは社会のことはわからなくなり危険にもなる、社会の常識から逸脱してゆくのである
だからインタ−ネットとかが生まれてネット空間だけで対話などしているとおかしくなるこの人はどういう状態でそうなったのかわからない、わかっているのは引きこもりだったということである、でもそれが危険なことは理解できる

つまり小人閑居して不善を成す・・・これなのである、また君子危うきに近寄らず・・なのである、一般的に小人はそうなる、隠者とかになり閑居することはハードルが高いのである、よほど優れた人でないとできないのである、だから若い時は社会人として働き社会的常識を身に着けた方がいいとなる、その後に引きこもりになってもそういう人はまた違ったものになるかもしれない、この人がなぜこんな犯罪を犯したのか、そしてまた自殺したのか・・・・・これは引きこもりした結果として起きたことである
それは私が経験したことで理解できるのである
これは現代的問題でもある、それだけ引きこもりが多いからである、もう一つの問題として社会に適応できないというとき社会で自分に合った職業などにつけないことがある
そんなこというのは贅沢だというのもわかる

でも現実問題として別に仕事が嫌ならやめても生活に困らなければ引きこもりになるのは当然だともなるのである、自分に合わない仕事をしてもまた精神が病んでくる
それで現代でぱうつ病が増えているのである、それは天職などにつける人が少ないからである、何か機械の歯車のようにされるのが現代社会である
私自身の仕事も流れ作業とかしかなかった、それで仕事自体に嫌悪を覚えるようになった別に自分に合った仕事があればそういうことがないのである
それは確かに甘えだともなるが別に生活できれば親でも援助してもらえるなら自然とそうなるのである

とにかく引きこもりは百万人一人くらいの天才的アウトサイダーとかは違うものである
でも似ているのである、社会から脱落したとしても別に生活できるなら社会で無理して働くこともないとういことである、いづれにしろ天職につける人などこの世にどれだけいるのか、社会に適合したとしてもただ社畜だとか自ら言っているように奴隷だと言っているように不本意なものとして働いているのが大多数にもなる社会である
そこに根本的問題がある、ただ引きこもりとはアウトサイダーとは違って何か能力的にも欠けている、体自体が何か貧弱な人が多いようにもみえる
すると力仕事ができないとういことで建築土木関係の仕事にもつけないのかとも見る
それは天才的アウトサイダーとは似ていても相当に違っているとなる

確かなことは人間は天職につける人はまれでありそんな仕事をなど与えられないのである社畜であり奴隷的仕事が多いということである、昔の職人だったらそういうことはない
自分の仕事に誇りをもっていた、だから下駄一つでも作った人の名前がついていたり
今でも近くで包丁を作っている人がいて名前がついたりしているのである
手仕事の時代はそうして自分の作ったものに誇りをもっていた、今は大量生産になればそういうことはない、みんな巨大の組織社会の部品化するのである
昔は徒弟制度などがありふそこで技を磨くだけではなく人間として教えられるものがあった,今はそういう場所がなくなった
学校は膨大な知識知識を詰め込む場所であり人間と人間が向き合うような教育はなくなった,本質的に人間を育てる場所がなくなったのである、それは社会自体の機能不全でもあるそこそこに教育というだけの問題ではない解決しないのである

そして大衆化してナチス化する、それは現代文明社会の病理的現象なのである
カルト宗教団体でもそうである、それはアウトサイダー化したものより最も社会に適合するものとして生まれたのである、なぜならその組織は軍隊化していて結局現代社会と適合するものとして生まれた、それが極端になるとナチス化するのである
そこに一切もともと宗教を追及しているものなどないのである

でも数が多いとういことは社会化して権力化するから正常として認められるのである
ということは現代文明社会事態が異常だともなる、そうして何が異常か正常かもわからないのが社会なのである、それで文明社会を極端に否定するアウトサイダーが生まれたのである、その人も異常にしろ社会も異常なのである
ただ確かなことは引きこもりとかは異常化して犯罪者にもなりやすいのである
また狂気化も異常化もしやすいのである、ただ個人も狂っているが集団組織も社会も狂っているとニーチェが言ったがまさにそうである、社会もナチスのように狂気化するし
それだけ現代文明は狂気的なものになっている、もはや誰も全体のことなど知り得るものがない、カオスでありそこで狂気が生まれる、ファシズムでも生まれる
そうなっても数が多ければそれが正しいとなり何でも通ってしまうのが現代でありナチス化するのである



金銭面では金の匙くわえて生まれてて勝ち組ぽいなのに、もったいないなあ
一度でも貧乏経験あればこんな仕上がりにはならなかったんだろうね

ひきこもりにはこうして恵まれた人がいるだろうなあ
この人は20代でも働くことなかったのかな何か苦労したこともなかったのかな
やはり人間若い時はなんであれ苦労することが大事だ家から離れることも大事だ
この人はそういうことがなかったのかなあ,貧乏の経験も大事だよな
そうすると無駄に金を使わないから

とにかくこの人の動機がなんであったのか動機が何であったのかその辺がわからないそしてなぜ死んだのかそれもわからないただ危険を感じて自殺したのか
引きこもりはこうして危険なのであるいくら恵まれていても危険なのである
もう40になったらどうにもならないともなるそして40になるのはすぐなのである人間はやはり社会的動物なのであるま普通はやっぱり社会的動物として生きることがいいのであるアウトサイダーとなるとハードルが高いのであるだから小人閑居して不善を成すになる

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2023年01月27日

犯罪もカルマが関係している (今回の強盗事件でも因果関係はあるのか?)


犯罪もカルマが関係している

(今回の強盗事件でも因果関係はあるのか?)

「なぜ私だけがこんな目に遭うのでしょうか」。犯罪の被害者は異口同音に同じようなことを言います。世間には多くの人がいるのに、なぜ自分だけが悲惨な目に遭わねばならないのか、それは誰でも考える理屈でしょう。

犯罪の被害者、加害者の運命を調べてきました。その結果わかったのは犯罪の背後には複雑に絡み込んだ運命の因果があるということでした。ただそれが全てではありません。犯罪のすべてが運命的な原因をもつわけではないのです
犯罪とカルマの相互作用がある

犯罪に合う人と犯罪を犯す人に何らか関係があるのか?
ただそれは偶然のこととして起きたことなのか?
そこに複雑な因果関係があるということを書いている
例えは昔だったら因業な金貸しが貸した相手に恨まれて殺される
そこに確かな因果関係がある、動機もある
でもなぜ毎日のように犯罪が起きる、今回の強盗事件でもそうである
90歳の女性が殺された、ではこの90歳の女性と殺した強盗と何か関係があるのかとなる
それは外からはただ偶然の出来事に見えるし知り得ようがないのである

でも犯罪は必ず起きるし自らでも犯罪を起こす、何かしら犯罪にかかわらない人はいない自分自身がそうである、なぜ私の家で次々に不幸があり犯罪者が入ってきたのか?
それも何かしら因果関係があってのことだったのか?
それはわかりにくいにしても犯罪者がただ偶然に来たとも思えないとも見た

なぜ母が積んでいた金が盗まれたのか、なぜその人が来たのか?

ここに因果関係があるのか?その人はここに前から住んでいた人ではない
ただ偶然でそうなったのである、そういう犯罪の機会が与えられたのである
でもよくよく考えてみるとその女性は金に窮していた、その生活はずっと金に窮していただから切実に金が欲しかった、その機会が偶然に私の家にきてめぐってきたのである
母が積んでいた金は実はその時積み立てていなくても国から支払われていた
月三万もらっていたのである、百才まで生きたのだからそれが結構な金になっていたのである
でもその金が盗まれた、これは何なのだろうと思った
結構な大金だった、私の母親は吝嗇でケチであった、何か無駄なことに金を使わない
それで花なんかいらない、買う必要がないと言って私を責めたのである

それは極端な貧乏を経験していて継母に育てられた金銭に余裕がないからそうなった
店をしているときも一円でも無駄にしない人だったのである
でもその年金は高度成長時代に国が豊なので無料でもらえた金だったのである
たとえ3万でも今の年金とは違い無償でもらえた金だった
それで後五年たつと5万もらえたとか悔しがっていたのである
その時代は国が豊でありそうなったのである、今でも年金が4万とか5万しかもらえない人がいる、その人達は一応積み立てていてそうなのである
年金制度が確立する前は積み立てていなくても無償でもらえた時期があった

でもその金は盗まれたというときそこに母と盗んだ人の因果関係があったのかとなる

あなたがもらえた金は国で支払った金と同じです

それは国のものであり国民の金です

だから私ももらう権利だある

それで盗んでいいのです

こんな論理も成り立つでのである、なぜなら私がそのことを責めたら私自身が警察からでもみんなからも責められたからである、御前は金を持っているから何も言うなとなっていたのである、その犯罪をとがめる人はいなかったのである

ただこうして犯罪者と犯罪を受けた人の相手とに全く何の関係もなく偶然にすぎなかったのかとなるとそうでもない、その金は盗まれても犯罪者を責められないものでもあったとなる、つまり犯罪の被害者の方にも何かしら犯罪を受けてもいいものだったとも見れる
でももし金がない人だとわずかの金でも盗まれたりしたら借金でも返さないとしたら殺人にまでなっている、だから犯罪者であゃ犯罪の被害者であれ双方に何の因果関係もないのかとなるとそうでもないとなる

そもそも犯罪でもそうだが何か偶然に起きる事がこの世にあるのか、偶然と見えるものも必然だったとかなる、金を不正にためこんだりしていると盗まれても当然だと外から見られる、二人も家政婦を雇っていた地主の人なのか家を貸している人なのか殺された
でも二人の家政婦は何の被害もなかった、ねらちわれたのは地主なのか金持ちだったのである
何か不正に貯えたとか本来はそんな金を得られないのに得たとかなりそれが盗まれたともなる、その金に正当性がなくて盗まれたとかにもなる

そうして犯罪が起きているのかもしれない、犯罪にカルマが関係している
そのカルマでも前世まで関係しているともなる、何からのカルマが双方にあってそうなったともなる、つまり全然関係がない因果関係はないとは言えないとなる

何らか人間はどこかでカルマを解消させるために事件が起きる、苦しみが生じる
それが過去に積んだカルマが原因だともなる、もしためこんだ金でも人のために使うとかしていればそうはならなかったとかなる
ただ私欲のためにため込んだ結果として盗まれたのかともなる
ただ盗んだことがいいことということではない、その盗んだ方もカルマを積んだとなり
いづれ苦しみとなって現れる

ともかく犯罪を犯す人と犯罪の被害者はただ偶然に出合ったことであり関係ないのか
それを日々のニュースを見てもわからない、ただ恐怖になる
でも犯罪を防ぐことはできないのではないか、いくら防備しても穴がありそこから犯罪者は入ってくる、もう鉄条網とか城のようにしないと防げない、それで回りのもの隣近所と連携しろということもわかる
隣近所で協力して犯罪者の侵入を防ぐとなる、ただ現代は隣近所は疎遠である
都会だと特にそうだし田舎でもそうなっている、それで犯罪に弱くなっている
まず江戸時代のような村だったら回りがみんな警備員のようになったいた
だからよそ者が簡単に侵入できない、関所もあり簡単に他藩に入れないからである
今は車で簡単にどこにでも行けるしすぐに遠くに去ってゆくから犯罪しやすい社会でもある、ただ自転車だと自転車に乗っているだけで犯罪者にも見られのである
これもおかしい、車に乗っている人が犯罪者になる、つかまりにくいからである

一回は内部の犯行

次は外部の犯行

次も外部の犯行?


一回は近くの人の犯行であり二回目は外部の人の犯行であった
なぜなら物色されたからである、それで二階まで来ていた、証書を盗まれたがそれは金にならないものだった、金庫も開けられたが金は入っていなかった
今は現金は置いていない、その次はジャンパーとその何か入っていた財布が盗まれた
クレジットカードが入っていたが金は一万くらいだった
でも未だにジャンパーが出てこないからやはり盗まれたのだろう
これはどうも内部ではなく外部の人だったらしい、通りすがりの犯行だったのかとなる
でも何か常に警戒しなければならないので困るのである
こうした犯罪の困ることは家でも安心できなくなる、また誰が盗んだのだろと疑心暗鬼になり近くの人でも疑うことになる、これも困ったことなのである

ともかく日本は貧困化して犯罪が増えて来る、回りをみると日々の暮らしで苦しんでいるそういう人は犯罪予備軍にもなる、そして犯罪でも今回の強盗事件のように凶悪化してくる、つまりアメリカのようになってくる、日本はアメリカに戦後まねたのだからアメリカのようになってくる、もちろん犯罪そのものはこのこの世から絶対になくならない
この世に罪を犯さない人などいないからである
例え現実に犯罪を犯さないにしても人間は心で悪意とかもっただけで犯罪なのである
心で悪い思いが生まれただけで実は罪なのである、それはそう心で想うことが必ず行為となるからである、相手を憎むということがありそこでは犯罪にならないとしてもそれがいつか行為となり最悪は殺人までなる、だから念というのも怖いのである

日本は貧困化してくると犯罪が増えてくる、これは防ぎようがない、それも今回の強盗事件のように凶悪化してくる、いくら防備しても侵入を防げない、だから謎のなのはどうしてその家がねらわれて殺されるまでなったのかということである
その因果関係がどうなっているのか謎だとなる
犯罪に合いにくい家があることは確かである、一軒屋はどうしてもどこかに隙があり犯罪を防げない、そこでいくら防せごうとしてもできないということになる
もう犯罪にあうのも宿命なのかカルマなのかとあきらめるほかないとなまでなる
犯罪者であれ犯罪の被害者でカルマがありそうなったのかとなりあきらめる他ないのかともなる、ただ正直その因果関係は外から見てもわからないとなる

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2023年01月24日

家族の限界,家族の崩壊がみんなに起きる (介護やその他の問題で起きる)


家族の限界,家族の崩壊がみんなに起きる

(介護やその他の問題で起きる)

●家族だけでは担いない問題

家族と言う時そこで人は育つしそこが拠り所となる、でも家族だけで何でもまかなえることはない、家族でも多様であり他者の家族のことはなかなか理解しにくいのである
確かなことは家族だけではこの世の中やっていけない
家族でも様々な問題をかかえている、だからそれを家族だけで解決できないのである
そして家族が崩壊する時がみんなに来る、家族を大事にして生きていてもいつか家族は崩壊する、そんなことありえないと思っても最後は家族は消失するともなる
なぜなら必ず親は死ぬし夫婦でもどちらかが死んで一人になってしまうのである
今一人所帯が多いというとき何らかで家族がいなくなり一人で暮らすようになった
老人の一人暮らしも多いのである、つまり家族がいなくなっている

そしていづれ最後は家族はいなくなる、家族というのも一時的なものだと思った
家族も永遠のものではない、この世での一時同じ屋根の下で暮らすがそれも永続はしないのである、だからどこかでいつかは家族は終焉する、崩壊して破綻したりする
別にそれは離婚が三分の一があるように家族自体が分離して分解するともなる
介護とかなると家族だけではやっていけないのである
でも日本の場合は家族にまかされる、そこで負担が大きく悲劇が事件が起きる
ヨ−ロッパでは家族ではなく国でめんどうをみるシステムである
だから家族に負担はかからない、それだけ福祉の歴史がありまたキリスト教の歴史があり社会の中で培ったものがありそうなった

日本ではそういう福祉というものがなく村とかの小さな共同体がその代わりをしていた
だから村の子供は村を支えるから村人全員で育てたのである
一つの家族のようになっていたのである

それで興味深いのは浅間山の火山が爆発して 

93人の中で、夫を亡くした妻と妻を亡くした 夫とを再婚させ、また子を亡くした老人に親を亡くした子を養子として養わせるなどして、93人全員を実際に一族としてまとめ直し、その門出を酒・肴を贈って祝った。誠に非常時における有力百姓の対応の仕方は興味深い。

身分も関係なく救済を優先にした、そうでなければ村を維持できなうなったからである、つまり被害が大きくそうなったのである、強いられたともなる。
そうしないと村が維持できなくなったからである

こういうことは今ならありえないのである、それだけ村は家族のようになっていたということである、そうしなければ生きていけない事情があった。一家族ではどうにもならないことが起きたのである

●家族は永続的なものではない

現代ではそういうことは福祉が担っているが何かそれはあくまでもシステムとしてあり心が通わない場合がある、事務的にもなっている、それは日ごろから村のようにみんなで村を維持する仕事を共にするという関係もないからだろう
ただ金をもらえるからしかたがないとしてやっている、その動機は金しかなくなっているのが現代である、小さな町でも金が力となり金がすべての社会になってしまった
でも金だけではやれいなこともある、それが福祉の分野に多いのである

とにかく今は何かあれば金で解決する、だから自分が介護で苦しんでいてもまず金をくれとなっていた、そして家に入って来た者に大金を盗まれたり借金している人はまず金をくれとなっていた、多少心つかいがあってもまずは金をくれとなっていたのである
ただ自分の場合はそういうカルマを背負っていたともなる
でも一般的になんでも金だとなる、でも福祉とか介護とか病気のときでも金だとなるとき殺伐としたものを感じた

とにかく家族でも崩壊する時がくる、これは別に特定の家族だけではない、みんなに起きてるのである、なぜなら両親でも必ず死ぬしまた夫婦でもどちらかが死ぬとそうなる
つまりいつか家族は崩壊する、家族はこの世ので一時的な交わりだったともなる
それを両親が死んだりすると痛切に感じる、家族でもはかないものだと感じる
結局人間は無常を生きている、この世の人間の交わりも無常なのである
永続するものがない、家族はそうではないとしてもやはりいつか死に別れるのだからそうなる、そもそもこの世に永続するものはない、人間関係でも常に変化なのである
特に現代社会は変わり安いのである、江戸時代の村社会とかなると余り変わりないだろうだから精神的には安定していたとなる、それも過去は理想化するからわからないにしても現代社会は変わり安いのである

そしてこの世を生きることは「地獄は一定の住処なり」と親鸞が言ったようにそうなのである、一定ということは変わりないということである、それは時代が変わってもやはり同じなのである、時代によって地獄の様相は違っていてもやはり地獄を生きるのである
現代には現代の地獄あり過去には過去の地獄があった、では地獄が消えるかと言えば消えていないのである、どんなに豊かになったとしてもこの世から地獄は消えないのである
それは何故なのかとなれば人間の欲は限りないし消えないからである
その欲が地獄を産むともなる、結局この世には安住の地などもともとなかったのである
家族が安住の地と思っていたがそれも崩壊した、家族も最終的には崩壊する
老人の一人暮らしが多いことがそれを語っている、家族は分散したり死んだりして維持できない、介護になるともう家族だけでできないのである、だから家族だけに負担をかけることが問題になる、でも福祉というときシステムとして備えてもそこに心が入らないとできないのである、それはシステムでも経済的にでも整えても心が入らないとできない
それは何でもそうだろう、心が入らないと活きたものとはならないのである

●なぜ家族を妻帯を宗教は否定したのか

そもそもなぜ宗教では仏教でもキリスト教でも出家するとか家族を否定したのだろうか
妻帯でも否定したのだろうか?それはそもそも肉の交わりそのものもを否定したからだろう、肉から生まれるものを否定した、ということは家族そのものを否定した
そこが宗教の出発点にもなっていた、男女の交わりは肉の交わりでありそれが家族を形成してもいつか破綻する、崩壊する、そして最後は一人になる
家族も無常だったとなる、永続しないのものでありそれを悟ったから妻帯しないとなった家族でもそれはエゴの団体であり自分の家族さえよければいいということにもなる
それが拡大化すると家と家の争そいになり平家と源氏が家と家が戦争の始まりだったともなる、そもそも江戸時代でも一つの有力な家が一つの団体となり勢力を権力を持ったとなる、そして徳川家が治めたともなる、家の拡大したものが国になっていたのである
天皇でも天皇家があって天皇の赤子が国民だったとなるのもそうである、国民は天皇を父として家族だとなったのである

いづれにしろ家族は最終的に崩壊する、介護とかになったりして維持できない、両親でも死んで維持できない、ということは家族だけには頼ることができないともなる
家族には限界がある、いくら家族を維持しようとしてもできない、家族だけで何でもできないのである、それが自覚されていなのである、でも最後に自覚させられる
家族がみんな死ぬということもあり家族だけでは介護できないとかなる
それはみんなに起きることであり例外がないともなる、家族は何らかで消失してゆく
それはみんな死ぬからそうなる、必ず両親でも結婚してもどちらかが死ぬ、すると一人になってしまうのである

そして宗教でもカルトになると一つの宗教共同を形成するように偽装する、それも結局幹部とかによって困った人を助けるふりをして搾取するとなる、献金させて得すること権力を得ることしか考えていないのである、でもそうして騙されるのは何故なのか
それは偽装されたものでも頼るのはそれだけ頼るものがいないからそうなっている
安倍首相を暗殺した山上でも母親が夫が自殺して統一教会に頼ったからである
カルト教団はそもそもが信仰などない、御利益を得るための利権団体なのである
そこではあらゆる欲が肯定される、むしろ強い欲望を持つことを奨励している
それは金もうけでも何でもいいのである、ただ欲望を実現するために祈るだけのなであるだからそこからも地獄が生れている、そこに集まるのはまた地獄的人間なのである
その地獄人間が罰当たるとか地獄に落ちるとか言っているのだから空いた口が塞がらないともなる、御前はどんな人間か知れとなる、地獄行きが決まっている人間が言っているのだから信じられないとなる

●この世の地獄から脱出することが宗教のテーマ

結局宗教とは何かとなると仏教でも出家するとかこの世間からの離脱である
この世に生きるのは地獄人間である、その地獄人間に交わって生きざるを得ない、だからこの世から脱することがテーマになる、一見聖書だと何かユダヤ民族の物語のようにみて個々人は関係ないようにみる、でもそのテーマも脱出だったのである
この世から脱出だったのである、ノワの箱舟でもそうである、悪に満ちているこの世からの脱出であり出エジプトも脱出である、ソドム、ゴムラからの脱出だったのである
それが集団的民族的になっているから別だと見ているが今は個々人の問題でありやはりこの世からの脱出こそ救いなのである
この世はいづれ神によって滅ぼされるとういことである
まさに地獄の炎となってこの世は滅びる、地獄の世の中が滅びて新たな天と地が神によって作られる、そこに安住の地がある

第一いくらこの世を変えようとしても変えられない、必ず地獄が生れ地獄に生きることになる、それはそもそも人間の欲が消えないからである、だからこの世は欲で滅びるとなっている、原発でも再稼働となるのはやはり人間の欲が関係している
電気がなくては便利な生活ができないとなりやめられないとなる、別にまた車でもなくても死にはしないし電気がなくても死にはしない、なぜならこれまで人間はそういうものがなくても継続して生きてきたからである、貧乏にしろ生きてきたことは確かなので在り電気がなくても死にはしないのである
電気がなくて暮らせないというとき原発事故になりこの辺では故郷にも住めなくなった
その代償は余りにも大きいものだったのである

宗教的な問題は別にしてどうしても介護とかなくと家族だけではやっていけなくなる
だから近くの人が一人娘でも親をめんどうみない、金にケチだとかなりいつも行っていて話相手とか介護を手伝っていた女性は不満だった
それで今度は自分自身が脳梗塞になり行けなくなった、見舞いもなかったとか不満であり切れた、それも結局家族だけでは介護ができないということである
もっと他人でも心つかいがあるべきだったとなる、何か他人が入ることを嫌っていたからである、娘は遺産とかの関係でそうしていたとか言っている
でも他人はその遺産をねらっているとか入れたくないということがあったらしい
これも問題だった、一人娘でも親をめんどうみたくないということがある
でも他人でもそこに考慮がなかったとなりうまくいかなくなった
つまりここでも家族だけでめんどうみるのは限界がある、家族が崩壊してはいないにしろ家族だけでは介護とかなるめんどうみきれないとなる、だから家族遺棄社会になったのである

●見知らぬ他人に冷たい日本人

新幹線のデッキで大泣きする娘をあやしていたところ、他の乗客に誘拐を疑われ、警察に通報されて取り調べを受けたとの一件があった。

誰かがなにかを疑問に思ったのなら、警察に通報する前にたった一声かければよかったのに、と思う。「どうしたの、大丈夫?」と。そして一緒にあやしてあげればよかったのに、と思うのだ

子供の命より「家族」を尊ぶ日本社会の異常性

現代社会はこういうことが多い、それは余りにも不特定多数の見知らぬ人と交わる社会だからそうなる、結局見知らぬ人だからそうなる
村社会のような所で生きていないからである
もう子供に声をかけることもできな、あやしいとなり警察に通報される
ということは村社会のように日ごろから交わりがないからである
日ごろから何か共同性がないとしたらそうなるのである
広域社会だとそうなりやすいのである

また日本では村社会がアイデンティティになっていた時代が長い
そのために広域的な人間と交わる歴史がない、外国だと常に陸続きであり他民族でも交わらざるを得ないがそこで戦争にもなるがまた他民族の理解も生まれる。法律でも日本のように腹でわかるとか話せばわかるとかでは通じない、それで契約とか法律が生まれたのである
つまりなぜ日本では家族中心になるのかとなれば村社会という狭い範囲でしか社会を共同体を作れなかったからだとなる
そこで内と外を分けた、外の見知らぬ人は信用しないのである
社会というものが日本ではなかった、明治以降に生まれた言葉である
社に会すとは村の社に集まるの人たちである、それ以外は社会に入らないない人たちなのである、そうなるとこれだけ広域化グローバル化した社会に適合できないとなる
その問題が日本が家族中心になっている、公共的なものパブリックなものが欠けている社会になっている、それが福祉とか介護で問題になるのである

日本は家族に負担がかかりすぎる

このために家族だけでは処理できない問題で苦しむ人が多いこと確かなのである


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2023年01月23日

未来の年表が現実化した原発事故周辺 (街中も家が壊され空地が増えたーやめた店も増える)


未来の年表が現実化した原発事故周辺

(街中も家が壊され空地が増えたーやめた店も増える)

ツルハドラッグは拡大している、鹿島区でも二軒になった、原町でも増えた
それは目に見えてわかる、南相馬市原町区でも二軒くらい増えたと見る、イオンの近くと六号線のキクチスーパーのある所にもできた
なぜこんなに増えるのか確かに1000軒から二〇〇〇軒に増えたというのも近くを見ても実感する
一方で通りを見たら家が五六軒壊されて空地になっていた
それは最近のことである、回りもそうだったが街中も空地化しているのである
まず商売している店は何軒なのか、二三軒なのかとなっている
街の通の薬局もやめていた、もう一軒の薬局もやめた、それはツルハドラッグができたためである、そこに客も吸収されたのである
第一そんなに薬局も必要がない、でも新しい薬局が厚生病院の隣にできた
たから薬局は必ず病院の脇にできて薬を調達しているから成りたつ

それにしても店が消失してゆく、家も壊されて空地化してゆく、未来の年表はもう先のことではない、今の進行している、街一軒の自転車屋も主人が死んで今はなくなった
だから自転車持っている人達は困っている
パンクでも直せないとどうなるのかとなる、街でも空洞化してゆく、つまり個人商店は成り立たなくなっている
でも原町区だと新しい店が生まれている、通信できる喫茶店のようものもできている
他に無人の餃子を売る店とかできていたし他にも新しい店ができていた
原町には新しいものができる、でも相馬市となるとイオンが撤退したのは影響が大きかった、何かあの一帯が街の中心とも見ていたからである
あそこで休むのが習慣にもなっていたからである、何か今は街中で休むということがあまりない、あそこはやはり街の中心になっていたのである

外国だと旧市街とか歴史地区があり新市街がある、観光するのは歴史地区の旧市街であるそこに古い城があったりする、相馬市は城下町であり一応歴史地区であり趣きがある
だから入母屋の庁舎にもしたし高いビルもないから城下町の雰囲気があった
日本でも古町と新町があり街でも栄枯盛衰がある
でも現代の問題は新しい街ができないことである、真野川沿いでも場所がいいのに新しい道はできてもそこに店などはできなかった、むしろやめた店もあった、そこにも廃墟の家があり活用されていないのである
街が活きていない、何か死んだ街になって行く駅前の自転車屋も暗くなり灯が灯ってないのも淋しいとなる
相馬市の中村喫茶店などは新しくできたのに藤の花が似合っていたのにやめた
コロナウィルスの影響もあり人が集まりにくくなったこともある
でもやめたのが早すぎた、せっかくあれだけのものをレンガの建物を建てたのにもったいないとなる、それは城下町に合っていたのである
ビートルズの曲を流していたしそれは団塊の世代とかでも昔をなつかしんで集まっていたようである、でも若い人は集まらない、そもそも若い人は少ないし金もないので集まらないとかある、高校生などはマグドナルドとかに集まっている

本当に未来の年表の予想していることは遠い先のことではない、ただいま進行中なのである、この辺では原発事故で双葉とか浪江とか小高でも移住してきた人達がいて新しい住宅地に住んでいる、だから人口的にはそれほど減っていないのである
でも街の通りとかは寂れている、家でも歯がぬけるように壊され消えてゆく
それは最近目立ったことだった、十軒くらいの家が壊されて空地化した感じになる
だから驚きにもなった、街は衰退してゆく、何か商売でも成り立たない、増えたのはスーパーが一軒とツルハドラッグである、そういうチェーン店しか成り立たなくなっている
駅前に農協のスーパーがあったときはまた駅前もそれなりににぎわっていたとか思い出すでもその時小さな店はやれくなったのである
そういう変化が常に社会にはある、でも今度の変化は日本全国に及ぶから違っている

そもそも自転車屋でも街に一軒は必要である、自転車を持っている人でもこれから買う人でも必ず修理とかあるので欠かせないのである
だから自転車屋もいない街というのは生活してゆくのに困るとなる
でも民間だと利益をあげなければやっていけないのでつづかないのである
駅は無人駅だったが高校生の見守り役として市で金をだして人を配置することにした
その人達には金は払われている
つまりこれからは今までのように必要でも維持できないものが出て来る
するとみんなが困るのだから商売でも成り立つように援助しないと保てないとなる無医村のようになる、ここだとまだ近くに市があるからなんとかやってはいける
ただ自転車屋でも簡単にできない、だから自転車屋でも他から来てやる人がいれば歓迎してみんなで市でも支える、それは利益だけではない、必要なものとして維持する

良く自転車を使う人は近くに買い物できる場所があればいいとかしきりに言っていた
その人は老人であり今度は脳梗塞とかなり歩くのもままならなくなった
だから近くに店があれば簡単な買物はまだできた、一応短い距離なら歩けるからである
でもそんな店はない、自転車に乗れたらスーパーまで買い物できた
でも自転車に乗れなくなったらできない、すると昔のようにすぐ近くに店があれば買い物でもできるし頼まれたものを配達もできると奈々、配達でも近くのだから届けるという感覚になる、戦後まもなくは隣に店があり隣近所の人が買い物して成り立っていたのである私の家でも店をしていてそうだった、その時は何でも万屋(よやずや)のように置いていたのである、だから近くだったら例え足が弱っても買い物ができるとなる
また届けることもできるとなる、何かその頃配達もしていたし自分が子供の時配達させられていたからである

老人になると意外に近くが大事になる、知っている人は病気になり車にも乗れなくなり
自転車にのってよるかとか言っていた、それで元気な時、親しい女性が買い物してくれていた、でもその女性が脳梗塞になりできなくなった、また仲も悪くなった
隣の市に娘が住んでいても一週間に一回しかこない、だから困っている
つまり一見車があるが手間になる、介護とか病気になったときなど近くがすぐ行けるからいいのである、でも今は近くが遠くなり遠くが近くなっている時代なのである
でもこれは高齢化社会には向いていないと思った
近くで用を足せるのがいいのである、車に乗れなくなったら困る、買い物すらできなくなる、車社会になったのも高齢化社会になると向いていないとなる
脳梗塞になった女性はもう二三百メートルの距離にあっても来れない、今までは自転車で来ていた、自転車にものれない、歩くとなると相当な距離になり来れない、家内なら歩けても歩けなくなったからである
すると近くが頼りになるのが近くに頼る者がないとなる、人でも病気とか介護になると近くが便利なのである、でも車社会とか広域社会になり近くに何か頼りになるものがないのである

今になるとこうして車社会であり広域化社会の負の面が現れてきた
車社会でも負の面が現れてきた、そうは言っても歩けなくなっても息子の車で来れるのだから車があることはありがたいとはなる
車社会になったことで近辺の店が成り立たなくなり巨体中央資本のイオンとかチェー店が増えた、つまり車社会の影響がどれほど大きいものだったかわかる
シャッター通りになったのもそうである
なぜなら車だったら郊外でも簡単に行けるからである、かえって街中は車の駐車場もないので行きにくくなったからである、それで人が車に乗らなくなると街を歩く人達が増えると活性化するというのもわかる、極端な車社会が現代の状況を作ったからである
でもそれは簡単にはできない、そういう社会になったときその社会に適合せざるをえないからである、でも車社会も行きすぎたものだったということを反省すべき時期になったとも言える

これだけ少子高齢化になると社会自体もまた変わることが望まれる
その社会は車社会とか広域社会とはまた違ったものになる
近くで用が足せるとか昔の時代を取り戻すともなる、病気とか介護とか老人になるとそういう社会が良かったともなる、車が運転できなくなるともう足がなくなる、そして近くでも疎遠になり助ける人もいない、孤独死とかも増える、だから時代も逆戻りすることもある、これだけ老人が増えたら老人向きの社会にもしなければならない
そんなことはいいと言っても現実問題としてそうなる、若者向きにしても若者自体がいないからである、そしたら商売にもならないのである
まず子供とか若い男性でも女性でも中学高校生はいてもその上になるとなかなか見かけないとなる

原発事故で避難区域になった町や村はもう自治体が維持できない、それは未来の年表が現実化している場所である、飯館村にしても一割以上が村外から来た都会からの人達であるでもその人達も年の人が多い、つまり老人になる人でありそれはやがて病気になり介護される人にもなる、今特別養護老人とかが順番待ちで入れないのは別に建物があり部屋は余っている、でも肝心な働く人がいないのである
それは飯館村などでも公共の施設が学校でも多額の金を補償金使って建てても生徒が五六人とか子供がいないのである、ここでも介護する人がいないとかなり青森の施設に送られたことがあった、どこでも人材とか働く人が減ってゆく、そして社会自体を維持できなくなる、その未来の年表がここではすでに具体的なものとして現象化している
どこでも後継者がいなくなり何でも維持できなくなる、ここでは自転車屋がなくなったということで現実化したのである






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2023年01月12日

人口減少して高齢化で縮小化する日本 (世界で起きている人口減少は地球規模の問題)


人口減少して高齢化で縮小化する日本

(世界で起きている人口減少は地球規模の問題)

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日本人は「人口急減の恐怖」を直視するべきだ
高齢者と若者の溝は、ますます深まっていく

建設業界で働く外国人11万人が去ってしまうと、家の建設5年待ち、マンション建設10年待ちも当たり前になり、道路や橋のメンテナンスが滞ってしまえば、地方都市への流通が軒並みストップし、地方のお店は閉店ラッシュに追い込まれるかもしれない。
河合氏はこうした状況については、「仙台が消滅する! は言い過ぎだが、仙台までもが! が正しい。




隣近所を見ると空家化であり空地化している、すぐ隣で三軒の家が壊された
また一人暮らしも多い、それも老人である、それもやがて空家化するとなる
跡継がいないからである、街一軒の自転車屋も死んでなくなった
駅の活性化など語ったがその人が死んでしまったのである
ここだけではない日本全体がこのような状態になっているしなってゆく
一万くらいの人口だと自転車屋もなくなる、無医村のようになる
自転車屋がないと困るのはパンクしても近くでないと直せないので困るのである
また修理が必ずあり近くでないと困るのである

何か人間は近くでないと困ることがある、介護とかも近くの人が看るのが効率的なのである、隣の市でも車で近いようでも結構手間になるからである
でも現代社会は遠くが近くなり近くが遠くになってしまった時代でもある
隣近所でも疎遠であり何しているのかもわからないのである
だから病気になっても介護になってもその家のことは無関心だともなる
要するに誰も助けてくれない、役所関係が来ても事務的なもので終わるということもある

市町村でも消滅してゆくというときこの辺は原発事故で住めなくなりゴーストタウンにもなった、でもそれが復興できるのかとなるとできないとも思う
なぜならもともとこうして若い人がいない子供がいないというとき飯館村などでも立派な施設を高額な費用で学校を新築しても肝心の生徒は村に住んでいない、他の市町村から通っているとなる、でももしかしたら戦後の焼け野原のような所でも人口が多いと復興するなぜなら戦後引揚者が大量に還ってきた、その人たちは若かった、だから大量に還って来た若者が結婚して子供生んだ、それが団塊の世代だったのである
戦後の焼け野原になっても人口爆発がありそれで引揚者がなんとか職もないので不便な地域に開墾に入ったのである、つまり土地を求めて農業するためだった
でもそれも困難であり半分は撤退したと言われる

このことは何を語っているかというと若い人の人口が多いということはそれだけ社会に活力をもたらす、不便な不毛な地でも開墾してなんとか生活しようとしたからである
でも現代は九州くらいの面積が耕作放棄地になっている、農業しているのは67才以上とか高齢化しているし後継ぎもいないとかなる
戦後の焼け野原から復興したのは電器産業で物造りで日本製品が海外に売れたからであるそこで団塊の世代を吸収した、都会でも集団就職があり中卒を労働者として吸収した
若い人の人口が多い時それがどこの国であれ未来があるとなる
ベトナムであれミャンマーであれ今は若い人達が多いからやはり未来があるとみる

ただ日本の人口でも世界の人口でも限界に来た、これ以上人間を養えないという所まで来ている、それは自然破壊にもなる、膨大なエネルギーを消費するからである
そこでアマゾンで開墾して食料を得る為に森を破壊して畑にするとなり原住民とか森を維持するために反対する、このままではアマゾンもなくなるとなっている
人口圧力は自然でも社会でも大きな影響力がある
不思議なのは日本では大正時代とかなると6千万人であり東京でも百万くらいだったのである、そして新潟県の人口の方が多かったともなる
地方の人口が東京より多かったのである、それから東京が一千万都市になったのだから十倍にもなったのである
何かその時東京は讃美されていた、都会としての価値が高かったのである

その東京の発見が人口増加が周辺に影響した、常磐線は常磐炭鉱があり石炭がエネルギーとして東京に運ばれたしいろいろな木材や石材や資材が蒸気機関車で運ばれたのである
だから子供の時長い貨物列車を見ていた記憶がある
鉄道は北海道ならもともと石炭を運ぶためのものであり人を運ぶものではなかったのである、その時は外国からまだ石油でも入ってこない、石油があっても買う金がなかったともなる、だからあらゆる場所で石炭を探していたのである
第一戦後十年は炭が燃料であり街中の家でも囲炉裏があったのである
その時電器製品はない、洗濯機もない、冷蔵庫もない、だから裏の堀の川で洗濯していた風呂炊くには山で落葉などを拾ってたいていた、便所紙は新聞紙だったのである
今の水洗トイレ用の紙などなかったのである、そんな暮らしは原始時代でもあり江戸時代からの継続だったのである、

おじいさんは川に柴刈りに おばあさんは川に洗濯に

これが戦後十年の生活だったのである、それは江戸時代の継続だった、戦前でもそういう生活をしていた、洗濯機などないからである、それで今なら一人暮らしでも洗濯機に衣服をほうりこめばいいのだからできるとなる、家事の手間は大幅に省かれたのである
その代りは電化するとあらゆることに電器がエネルギーが必要となったのである
それが原発にまで発展したというのが現代である
そして現代社会は便利さを追求して機械化でも何でも限界に達したのかともみる
何でも過剰化した、そして膨大な無駄な消費もした、膨大な食料でも何でも捨てているからである、そして交通が発達して車社会になり運送社会にもなった
それも何か頂点に達した感がある、そこに起きて来たのが原発事故でありまたコロナウィルスウィルス騒ぎだった、これは何を意味しているのか?

やはり科学技術の限界が現れたのかもしれない、常に未来とは現代でぱ科学技術であり
それが万能でありますます科学技術が発展してとどまることを知らないとなっていた
でも本当にそうだったのか、それが原発事故で問われた
科学技術の限界があり危険があることを認識したのである、科学技術をみるとき必ずバラ色の未来のみ語られるのである、空飛ぶ自動車とか実現するとかなるがそんなものが空をぶんぶん飛んでいたらどんな気持ちになるのか、何かゆっくり空すら見てられなくなる
また騒音があり空にも静寂がなくなるとなりそれが本当にいいことなのかもわからないのである、必ずマイナスとプラスの面が人間には生まれるからである

疑問なのは常に科学技術はいいものであり肯定されることである
科学技術がすべてを解決される万能のように見させることである、だから未来というき科学技術なのである、遂には人間は歌学の力によって死ななくなるとか言われる
老化を防ぎ死ななくなるとかも言うがそういうのは嘘なのである
ただ科学技術はバラ色の未来を見せるしそれを信じるのである
だからこそ科学技術者がまるで神のようになっているのが現代なのである
でもそこにも原発事故のように落とし穴があるとなる

もしかしたら人口が抑制されるのは原発事故でもコロナウィルスでも津浪とかウィルスでも神からの働きかけがあったのかとなる
地球の環境を守るための働きかけとして制御するようになったのかもしれない
また資本主義が終わりだというときそれは資本主義がSDGs(持続可能社会)を目指すのに合っていないからだとなる、資本主義は常にフロンティアを必要とする
だからグロ−バル資本主義になったのである、未発展があるとしたらそこに世界で投資して発展させる、そういう未開の地が常に必要だった、それが大航海時代からアメリカ発見からつづいてきたのである、でもそれも終焉しつつある

地球にフロンティアが消失しつつある、むしろさらに資本主義でもフロンティアを求めて投資すると自然破壊が大規模に起きて原発事故のように人が住めなくなる危機になっているのである、つまり人間が住める許容範囲を現代文明は越えているとなり人口減少が起きるのはやはり自然からの働きかけでそうなったのかとなる
つまり人口減少はそういうことであり地球で養える人口には限度があるということで起きた、とするとそれに逆らうことはできない、自然で地球で養える人口がありそれみ見合った人口にしようとする働きかけがあってそうなったともなる
日本の人口は多すぎたのである、だから減少することは理にかなっている

ただそのい衝撃も大きい、でも適正人口がありそれは自然と調和する人口規模だとなる
それを越えているからこそ減少するのは理にかなっている、いくら経済成長とか国力がなくなるとか言っても自然の理に逆らうことはできないのである
すべて人間側の都合で決めることはできない、そもそも人間が地球を自然をコントロールなどできないからである、それでグロ−バル経済も崩壊する
グロ−バル経済も限界に来たのである、そこに市場の公正などないのである
規模が大きすぎて誰も知る人はいない、だからギャンブルにもなる、どのように天文学的な金が流れて極一部の人が超富裕層になり富が集まるシステムになっている
そこに公正な市場の取引などないのである、そもそもグロ−バル化の金融システム自体が崩壊しつつある、なぜなら誰も公正なものだと見ていないし信用していないからである
それで投資信託を発明した優秀な人がそれが詐欺だとして良心の呵責に耐えられず公表したとなる、つまり富が一部のものに収奪されるシステムとして作られていたのである
だから銀行でももう成り立たない、金を貸してその金を有効に利用して利益をあげることができなくなっている、もう資本主義は成り立たなくなっているのである



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2023年01月09日

中国人が極東の土地を買い占めロシア人と対立 (ロシアは中国の植民地になる)


中国人が極東の土地を買い占めロシア人と対立

(ロシアは中国の植民地になる)

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【ドキュメンタリー】中国・農民工の大群がロシアへー国境の小さな村で勃発!大地争奪戦ー知られざる「食糧」を巡る攻防をカメラが捉え


これは興味深い、ロシア人の土地が中国人に買い占められている、それは北海道の山林とか土地とかでも買い占められているのと似ている
違っているのは広大な土地を買って自ら中国人が働き大豆を栽培している
ロシア人はなまけもので働かない、社会主義時代にソ連連邦時代にそういう癖がついてしまったとうい、働いても働かなくても給料は同じだとなってそうなった
ロシアどう理解するのかということがむずかしい、ウクライナとロシアが戦争になっていることはなぜなのだろうとなる
それは日本からすると遠いから理解しにくい、でも極東もロシアである
それは中国と接しているのである、日本とも海を隔てて接している

ウラジオストックからロシアをまわり中国の満州を回り日本に帰ってきた
それも長い旅であり外はトウモロコシ畑であり家も見えない、どこまでもつづいていた
満州というとと満州里がありそこではすでにトヨタの車を持っていた富裕層がいた
そこはロシアと中国の国境の街である
十数年前でありそんな所ですでにトヨタの車をもっていた人がいたのである
ただ春でも凍てついた大地が広がっていた、中国にはまだ未開の地がある
それでその延長の極東に広大な土地がありロシア人はその土地を開拓できない
そこで中国人にその土地を売っている、高い値段で買うからロシア人は土地を売っている
そこに日本人も大豆をとるために機械を売るとかその大豆をとるために商社がその土地を利用しようとしている、日本には農機具が技術的に優れている、アメリカからだけでは
遺伝子組み換えの大豆となり日本では買いたくないとしてそうなった
日本の問題は大豆でも自給できていない、大豆が大事なのは日本の食の根幹である味噌とか醤油の材料だからである、世界的にも食糧危機になるとき自国でも海外でも日本の食糧を確保しなければならない、ただ中国の力が強大になり日本は食料でも買い負ける
つまりいかに中国が巨大化しているかを実感させる放送だった

何かロシア人が中国人に土地を売り中国人のいる場所はゴミだらけだとか言っていた
中国人に相当不満だった、私は満州里でロシア人の女性が買い物して何か盛んに不平を言い怒っていたのを見ている、中国人が進出してロシア人が中国人からも買い物して不満だったのだろう、ロシアをみるとき一体なぜウクライナと戦争したのだろうか?
そのことを見る時、ロシアと中国は陸続きであるという地理を見なければならない
広大な土地が陸つづきなのである
そして中国人でもなぜあれだけ広大な土地があるのにロシアに極東に土地を求めているのか?中国では土地を持てないからだとなる、すでに誰かの所有になっていて新しい広大な土地を持てないからだとなる、それで渡り鳥としてロシアの極東で出稼ぎしていたのだが土地を買い占めて広大な土地で大豆を作りもうける、そしてロシア人はかえって劣悪な土地で耕作しているという矛盾がある

つまりロシア人には広大な土地を利用する活力というか人間もいないとなる
それは何を意味しているのか、土地があったとしてもそこでその土地を利用して働く人がいなければいくら広い土地があっても活かせないとなる
ロシア人にはそれができなくなっている、ここにやはりロシア人の問題がありロシアが
衰退してゆくものがある
それは日本でも同じである、東京のマンションとか買い占められたり中国に北海道の山林が買い占められたりしているのと似ている、北海道でも広大な土地を持っていても金にもならないとなれば土地を売って金にした方がいいとなるからである
そこで別に戦争する前から侵略される前から静かな侵略で中国人が日本を支配してゆくとなる、中国人はアメリカ人と違って人間がじかに移住してその国の人となり国を乗っ取るともなるのである

ウクライナのダニロフ国家安全保障・国防会議書記は1日の地元テレビで、中国を念頭に、ロシアが「植民地になる可能性がある」と主張した。兵器不足に陥り、思うようにウクライナ侵攻を進められないロシアが「隣国」の支援を受け、やがて支配下に置かれるシナリオに言及した。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023010200101&g=int

中国はウクライナに戦争を仕掛けるほどの国力がなかったのではないか?
ロシアはソ連連邦が崩壊して弱体化した、中国と比べると余りにも差が大きい
どうしてそうなったのか、だからウクライナ戦争でもロシアがあんなに弱いのかとかえって世界にその弱体化を露呈したのである、張り子の虎とはロシアのことだったのである
確かに核兵器がアメリカと同等にある、でも軍事力だけでは国力にはならない
ロシアは核で脅す北朝鮮と同じだと言われたらからである

ただロシアでも中国でも国土が巨大すぎて理解しかねる、でも中国があれほど発展しているのにロシアが衰退したのか?結局ソ連時代の大国としての矜持がありその再興のためのウクライナ戦争なのだろうか?
様々な見方があるにしろロシアと中国を比べると余りにも違いすぎるのである
だからこそロシアは中国の植民地化するとロシア人の高級官僚が言うのも真実味がある
ロシアはウクライナの戦争で疲弊してやがて中国に併合されるとまでなる
とても極東などの広大な土地も活かせないしやがて中国の領土にもなる
ロシアはやはり縮小してゆく、要するにウクライナ戦争は大国の意地を見せたロシアの最後の戦いなのかもしれない、結果的には中国の植民地になるというのもイメージできる
ただ逆にロシアがエネルギー大国であるから西側のアメリカ支配を破るという意見もあるそれはやはりロシアが何なのか理解しにくいからだろう
ただロシアは土地が広大しにしてもGDPにしたら小国なのである
だから戦争つづける経済力がないとか言われる、武器も供給できないとか言われる

いづれにしろ今年はウクライナ戦争は停戦になるのか?

それとも規模が拡大してさらに激しい戦争になるのか、でも一体どちらが優勢なのか
おそらく今年は決着するのではないか、プーチンが癌を患っているというのも本当かもしれない、癌は意外と普通に行動できる、近くの自転車屋は三日前頃まで普通に仕事していたのである、そして死んだことに驚いたからだ
ガンの種類によるにしろ三日前まで仕事していた死ぬこともあるということになる
するとプーチン大統領もそうなるのか?元気そうにみえて突然死ぬかもしれない
今年は死ぬかもしれないとなる、そして異変があり戦争は終結する
それもわからないにしろ今年はとういう年になるのか、やはりウクライナ戦争は一番の世界の問題だとはなる



あとがき

外国は本を読んだりテレビを見ただけでは理解できない、その土地にじかに立つとき実感する
だから外国を理解できる人はそこに住んだ人である、短期間でもいいその土地で暮らしてみれば実感する
それで外国を語れるのはそこに住んだ人であり留学することが外国を知るには大きな力をとなる

満州里でなぜロシア人が買い物して中国人に対して怒っていたのか?その事情はわからないにしろ何かやはり中国人に不満がありそうなった、それはこの放送のように極東であれ国境を接してロシアの領土内にも中国人が土地を買ったりして農業をするようになったからである,ロシア人はもう極東とかでも土地を活かせない維持できなくなっている
それは日本でも北海道の土地が中国人に買い占められて維持できなくなっているのと似ている
つまり戦争する前から中国人が世界を支配するとはそういうことなのである
そこでアフリカでもソロモン諸島でも中国人排斥運動が起きる、それだけ中国の影響がグロ−バルに拡大したのである
posted by 天華 at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年01月06日

近くの家が何軒か解体される (縮小する日本がここに見えるー未来の年表の恐怖)


近くの家が何軒か解体される

(縮小する日本がここに見えるー未来の年表の恐怖)

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すぐ隣の家が一軒空地化した、その隣が今日壊されていた、去年の地震で壊れていたが取り壊れた、その家は理髪店であり40くらいだったのか息子が死んで次に母親が死んだのである
そして後ろの家の人は最近死んだ、そこは農家だったので広い空地になり不動産屋が買った、そしてその隣は空家になった、でもそこを借りていた人は近くに新しい家を建てて
住んでいる、道路を挟んで医者をしていた人の家も地震で壊れても屋根を直していない
それももったいないのだけどその一人息子も東京で医者をしていたが最近死んだ
78歳だった、去年だったか78才で三人くらい知っている人が死んだ
隣の女性も癌で78歳で死んだ、これも元気であり話したことがあり死ぬとは思わなかった、最もショックだったのは街一軒の自転車屋が去年死んだことである
この町ではもう自転車屋はないから困ったことになる

この状況はまさに日本が縮小してゆく象徴にも見える、子供もいない、遊んでいるのは幼稚園なのか保育所でしか見ない、ただ病気になった、50歳の息子が親を介護する人とか増えてゆくだけである、ただその親は軽い脳梗塞ですんだのである
ただそれでも金がもともとないのでいつも電気水道ガス代が払えないと嘆いていた
依然として退院したとしても金がない問題は解決しないのである
こういう状態はここだけではない全国で起きている現象である
この辺は津波や原発事故で廃村になったり街でもゴーストタウンのようになった
そこは空家だらけなのである、帰ったとしても老人が多いのである
もうそうなるととても復興できないとみる、また街一軒の自転車屋が死んで跡継ぎがいない、全国的にも後継者がいないとなっている
そして高度技術者のITかの人材不足が言われる、つまり人材不足が深刻になってくる

原発事故で街自体が廃墟のようになったのは極端にしろ私の回りをみても歯がぬけたように人がいなくなる、空家があったが解体される、ただ私の町は原発事故で住めなくなった避難区域から浪江とか双葉とかから移住してきた人達が新しい家を建てている
それで人口自体は減っていないみたいだ、一番移住したのは原町である、ここは住むのには便利だからである、相馬市より便利である、いろいろなものがそろっているし新しい店もできている、店員がいない餃子の自動販売店ができたりもしている
原町には新しいものができているから活気がある、相馬市はイオンが閉店したことが衝撃だった、あそこは街の中心のようにもなっていたからである
いつもあそこで休んで食事などもしていたからである
原町は離れているから郊外にあるから閉店しても街自体が寂れた感じにはならないかもしれない、相馬市の場合は街中にあったから寂れた感じになったのである

新年早々暗い話になるけどこれが現実である、日本が縮小してゆく、自治体でも生き残れない所が相当数出て来ると試算している、財政的に苦しくなってそうなる
税金にしても人口が関係しているし少子高齢化では働く人達がかなり減るのだから福祉関係でも年金でも維持するのがむずかしくなる
そして8050問題が深刻になる、50才くらいの人が80代とかの親を介護することになる、それは現実に見ている、その人は50代であり施設に父親を入れた
でも日給の建築土木関係で働いていて金がない、それで今度は母親が入院したとかで苦しむ、何かこの50代に親の介護の負担がかかり仕事もできなくなるとか問題になっているこの世代はまた氷河期世帯とか言われ経済的に苦しいのである
そして全体的にも日本は賃金が物価が上がっても上がらないのである
こうして日本自体が貧困化している、中産階級で下の方に落ちてゆく、みんなぎりぎりになる、、最下層もまた一千万人とか多いのである
それで日本では稼げないとして外国に働き稼いだ金が大きいとなり自慢する人がでてきている、日本ではもう稼げないのである、日本に来る外国人労働者はベトナムとかネパールとかミャンマーとか最低の生活をしている人しかこない、ネパールの山で生活している人はボールペンすらない、だからくれとなる
日本はもうそうして最下層の人しかこないしいづれはその人達も来なくなる

未来の年表が話題なになったようにこうして日本の未来は本当に深刻なものとなる
人口6千万人くらいになるとかそうなると空家化して耕作放棄地がさらに増えて今度は空家が隣のように解体されてゆく、その衝撃は相当に大きなものとなる
そして少子高齢化では全体の雰囲気がどうなるのかというと若者すら何か新しいことに
チャレンジすることもない、それは老人が上にいて頭を抑えられてあきらめているからだという、上にいる人達がこれは世界でもアメリカでも70代で80にもなっても大統領なのかとなる、ロシアですらプーチンがそうである、これも問題だろう
世界全体が老化してゆくのか?中国でも人口が減ってゆく、現代はもう人口はピークになり減少してゆく、これ以上人口を養うことが地球でできなくなっている

もう他の惑星にでも移住しないかぎり限界なのである、でも他の惑星に移住はできない
つまり世界自体が縮小化してゆく、人口も減少してゆく、でも高齢化はどこでも進んで行くのである、別に長生きが悪いわけではない、なぜなら人類の願いは長生きすることだった、それだけ若くて死ぬ人が多すぎたらそうなった
幼児の死亡でも多かったのである、だから大正生れとかなると家族でも兄弟でも必ず幼児が死んでいるのである、それだけ出産も危険であり死んでいる
また病気でも肺病とかでも若死にする人が多かったのである
延命地蔵とかあるのは長生きできる人は限られていたからである

ともかく新年になり明るい未来があるのか?この縮小化社会は相当な衝撃になる
徐々に百年とかそれ以上の時間をかけてなればいいが急激になると衝撃が大きい
辺りを見たら子供いない老人だらでけであり自転車屋が死んで一軒も街になくなったとか賃金は上がらない、物価だけが上がって苦しいばかりだとなる
そして電気水道ガス代が払えないという人が増える

そして貯金しても利子は一切つかない、だから銀行の役割は貸金庫なのか、何の役割があるのだろうかとなる、ただ投資信託とかは売りつける、でも銀行は証券のことはわからない素人と同じなのである、ただ借りてくれる会社とかがないので投資信託で手数料を稼ぐ商売になったのである、そもそも地銀でもつぶれてゆくとか言われる
何か社会での役割がなくなった、前なら銀行に金をあづけていれば7パーセントとかの利子をがついていたし銀行では金を集めるだけで良かったからである
今になると預金した金でも預金封鎖がありとりあげられるとか恐怖になる
何か安心がない社会なのである

そしてもう一つの問題は私の家も築50年で家がいたんできた、だから地震でトイレの配管なども壊れた、それを直すのに20万もかかる、トイレ自体を変えないと工事できないとしているからだ、それは郡山から来た会社の人だった、元旦でも仕事していたから頼んだ、他にキッチンも壊れてこれも直さなければならない、去年はいろいろ地震で壊れた所を直して金がかかった、こうして古くなると傷んできて直すの金がかかる
それは自分の家だけではない、水道管とか道路とか橋とかでも古くなって直す必要がでてきているのである、それでトンネル事故とかあったのも古くなってそうなったのである
これを直すのにもかなりの金がかかってくるのである
そして今日はビデオレコダーが壊れたので見てもらったらもう直せないとういう、それは10年前に買ったものだったのである、だから直しようがないと言われたのである
でもビデオレコダーだと安くていいものがでている、これはそれほどの金ではない
そしてWIN8.1のサービスが終わる、これでWIN11のパソコンを買わねばならない
これも出費になるし何かいろいろなものが変わり操作が変わることがめんどうなのであるでもウィルスの危険があるから変えざるをえないのである
老人は機械でも変わるとめんどうになる、慣れたものの方がいいのである

こういうことはあるにしろ夕べ帰りに見たら満月だった、それだけは心なごんだ

新年に満月にこやかなごむかな災いなかれ兎の年かな

月には兎がいるとかなっていた、兎年である、兎は飛び跳ねるから飛躍する年なのか
何かわからない、去年は怖い地震があったりウィルスが収まらず本当に激動の寅年だった月に兎がいるというときもしかしたら今年は悪い事ばかりではない状況が変わる年かもしれない、今日満月を見てそう思った、これもわからないがそう願うほかない
でも兎年はそんなに波乱はないかもしれない、でも人間は短い期間でも一年でも未来はわからないのである、今日も地震警報が出てびっくりしたからである
地震でも予測できない、ただこれだけ災難があると平穏であれ平和であさと願うほかないウクライナの戦争でも終わってほしいとなる、ただ和平が今年にあるかもしれない
私の姉は兎年みたいだった、私自身は猪年である、何かこの十二支は年に関係あるのか
今日の満月にはなごんだ、それが吉兆なのかどうか?ただそう願うほかないのである


ともかく無病息災を自分にも皆さまにもお祈りします






posted by 天華 at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年01月04日

去年の地震の被害がつづいているートイレが壊れる (自然災害から逃れられない日本)

去年の地震の被害がつづいているートイレが壊れる

(自然災害から逃れられない日本)

トイレが故障したのは配管が割れていたという、これは去年の地震のためでありまた家自体が古くなったためである、築50年とかなるとやはり痛んでくる
そのために大工さんにも壊れた部分を直してもらった、トイレを直すのは配管が関係しているからめんどうでる
TOTOの販売店でも配管までの工事はしない、トイレの製品売るだけである
それで床をはがして配管を見たりトイレ自体を新しいものにするのに10万かかり床をはがして工事するにのに十万とかかかり消費税で22万もかかる
大工さんには3月頃にキッチンを直す、これも地元だとかえって高くなる
でも地元の大工さんとかだと細かいところまでしてくれる、注文もできる
アフターサービスもいいとかなる、だから地元できいなものがある
なんでも大手だけではたりないのである、クラシアンとか郡山の会社は一日で来た
トイレは早く直さないと困るのである,トイレが使えないことは困るからである

とにかく去年の地震の被害は大きかった、まだ瓦とか直している、この修理代でも相当金がかかったろう、そもそも家を持つと修理代とかが大きいので金がかかる
私の家は築50年で古くなって傷んでいたから配管でも壊れたのである
去年の地震では古い家は相当に破壊された、だから全体を修理する家がまだある
家一軒持つことは金がかかる、私の家は1960年代の後半に建てた、その時は400万で二階建ての家が建てられた、大工の賃金が安かったからできた、その後大工の賃金は急に高くなったのである、あの頃は依然として高度成長時代であり今とは違っている
そもそも全国相手にするハウス会社はなく地元の大工さんが全部作った
その材料も橲原の同級生がキコリだったとか太い柱を地元の木を買い作ったのである
だからいつも姉は自慢していたのである

いづれにしろこの家そのものもが歴史であり郷土史になっている
それぞれの家を見ればそうなる、私の家はなぜ大きな二階建てにしたのか?
それはその前の家が粗末なものであり真野川が氾濫して水害で天井に水がつくくらいの被害だった、その原因は私の家の土地が街で一番低い土地にあったからである
そのために今でも雨がふると水がたまり三回くらい水があふれて道に流れ私の家に入ってきたのである、だから土地は良くない、でも私の家は乳が酒屋の丁稚してここに移り苦労して手に入れたものなのである
ただここの土地は低くて良くない土地だったのである
家というのはどういう場所にあるか問題なのである、だからテレビで常に放送されるように土砂崩れがあり家が埋まって死んだとか常にある、そういう場所は危険な場所である
でもなぜそういう場所に家を建てたのかそれも事情がある
それは外から見てわかりにくいのである、危険な場所でもそこに建てざるをえない事情があったともなる、また山の方だと家を建てるのにも平な場所がなく危険な所に家を建てたのかとなる

この家では水害を二回経験している、それも床上であったから被害が大きかった
それは真野川が二回氾濫したからである、それは40年前頃だったかもしれない
でも川幅を広げて堤防を頑丈にしてから氾濫しなくなった、水害はなくなったのである
日本は自然災害が本当に多いことを実感した、津波から去年の大地震からとつくづく何でこんなに災難がつづくのかと思った、他では津波では家族でも死んでいるからもっと過酷だった、しかしそうは言っても水害の被害がない場所も多い、高台にある家がある
そういう家は被害がないのである、だから日本だと本当にどこに住むかが大事になる
常に危険な場所がある、まず海岸地帯が港ととかがぎれだけ危険な場所だったか津波で
痛感した、とてもあんな所は住め場所でなかった、でも利便性があり三陸でも死者が多くてもやはり海の近くが便利なのでもどり住んだのである

なんか今年は幸先が悪い、トイレとか使えないと困る、電気水道ガスでもそうである
だから金がなくてもなんとか払うほかないとなる,ライフラインだからそうなっている
とにかく家というのは金がかかる、それが借りている市営住宅でもそうである
それを市の方で出してくれるとしても全部がそうはいかない、それよりか電気水道ガスが高くなると貧困者はその取り立てで苦しむ、そしてなぜ金がかかるのか、それは一人一人別々に部屋を借りて住んでいるからである
そこで一緒に住めといっても住まない、息子がいたとしても喧嘩になるからと住まない
また福祉関係だと一緒に住めないとかある、でも現代ではここが贅沢なのである
昔は大家族で住んでいたし江戸時代なら長屋であり狭い部屋で何人も一緒に住んでいたからである、いくら貧困化してもここは贅沢だとみる、でもそういうことが続けられるのか誰がその金を負担するのか、そこまで負担させられるとなると負担しきれないとなる

一軒一軒の家は郷土史である、でも近く家が何軒か壊されて空地になった、家がまるで歯がぬけたようになくなるのも現代である、空家が膨大に増えてゆくのである
駅前の活性化を語っても一見の歯医者がいななり空地になったままでありすぐ近くの自転車屋も去年で死んでしまった、その人はいつも駅を見ていて街の活性化を語っていたのである、その本人が死んでしまったのである
畑でも前の人は病気になり死に隣の畑は車で老人が来て這って作業していたがやめた
知っている人も体がつづかなくてやめた、そして最近脳梗塞になって入院した
軽かったがこうしてその後継ぎになる人もいないのである、耕作放棄地も膨大なのである少子高齢化であり日本が衰退してゆく、縮小してゆくのである
その衝撃は大きなものとなる、どこでも後継者がいないということも大問題なのである
一軒でも自転車屋があったときは貴重だった、でもその一軒の自転車屋も消えた
無医村のようにもなったのである

新年早々暗い話になるがこれが現実なのである、ともかく郷土史というとき一軒一軒の家が郷土史なのである、ただ家がない人もいる、市営住宅を借りて家がない人もいる
そうなると家の歴史はないとなる、ただ借りる家だとなるからである
でも家は本当に金がかかる、建て増ししたりもしたから家は新しく建ててからより建て増しとか修理とかで金がかかっている、これも問題である
でも家族全部死んでも不思議なのは家には依然として家族がいる感覚にもなる
家というのはこうして単なる人を入れる箱ではない、ごから家族が死んでも依然としているように思えるのである


まず狭い家では何か知的作業をするのは向いていない、また余りに家族が多いと煩いので知的作業には向いていない、気が散るからである、それで個室がない時代は勉強する環境としてはいいものではなかった、でも子供の時個室を持っているのは相当な金持ちだったろう、みんな小さな飯台一つを囲んで食事して個室というのはなかったのである
個室を持つことは贅沢だったのである、それで貧乏人でも別々の部屋を借りて住んでいることは金がかかる、それをしているのは贅沢だとみる
でも人間は個室があればそこで思索したり知的作業するのにはいいのである
私の家は部屋が七つもあり一人で使っているから贅沢だとなる、でも部屋を変えると気分転換になるのである
家でいいのは部屋によって見える景色が違うと相当に気分転換になりいいものになる
そこで違った景色を見るからである、だから今は知的環境としては最高の環境に自分は住んでいる
ただ家事に追われる、掃除するだけで家が広いとめんどうになる、だから家一軒を維持することが結構な労働になっている、それで暇なく家事やら掃除やらなにやらと家で働いているともなる

クラシアンでは正月でも電話一本で即座に来るのには驚いた
トイレの修理は早くないと困るからそういうサービスになった、そのついでにトイレを売ることもできる、こうしてこの会社は全国でしている、地元は意外とこうしたサービスをしない、屋根を直したのはいわきの会社でありユニットバスは仙台市の会社であり
安くていいものだった、百万は安い、工事が結構大変だったからである
地元だと二百万から三百万になると言っていた
でも今度は春にキッチンを直す、これでまた金がかかる、地元の大工さんであり細かいことまでしてくれるが金は高くなるのである
こうして去年の地震の被害は今年もつづいていたのである、まだ瓦でも直していない家がある、

今年はどういう年になるのか、去年は寅年であり本当に大きな災難の年だった
今年は兎年であり跳ねる年になるのか、家族が認知症とかなり地震津波がありここ十数年はもう災難つづきだった、日本とは本当に自然災害が多いのである
でも災害は忘れる頃にやってくるというように警戒が十分でなかった
災難というとき病気も大きな災難である、知っている人は脳梗塞になったが普通にしゃべれる、軽くてすんだのが幸いだった、でも病気も大きな災難である
結局人間はどんなことしても災難から逃れられない、それは必ず来るということである

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2023年01月01日

海老の宝蔵寺であったミャンマー人 (日本語がうまいのに驚いた―日本にはもう最貧国の人しか来ない)


海老の宝蔵寺であったミャンマー人

(日本語がうまいのに驚いた―日本にはもう最貧国の人しか来ない)

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インド、ネパール、タイ、カンボジア、ベトナムは行った


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スカートの丈が長い女性が来ていた、でもベトナムとも似ている


特徴A:言語能力が高い

「言語能力が高い」こともミャンマー人の特徴です。

ミャンマーでは元々イギリス領だったいうこともあり、幼稚園から英語を学習するという風習があるのです。

これまで鎖国状態だったことから、授業や試験では英語が使われており、日本人に比べるとはるかに高いレベルにあります。

最近では日本への移住を考える人も増えたことから、日本語を学習する人も多くでてきています。
https://one-team-project.jp/burmese-person-japan/


何か日本人だと思い海老の宝蔵寺で冬桜を見ていたので話しかけた、そしたらその人はミャンマーから来た人だった、女性一人と男性三人だった、原町で働いているという
その人は日本語がうまい、かなり高度な日本語を話せる、どうしてなのか?
日本語をミャンマーで相当学んだらしい、そしてその人は大学を出ている
ミャンマーで大学を出ているとしたら相当なエリートである
でも不思議だったのは二年間いるとしてそんなに日本語がうまくなるのか?
ミャンマー人は言語能力が高いということをネットに出ていた
なるほどそういうことか?日本語を何年間もいてかたことしかしゃべれない人がいる
スリランカの人はそうだった、でも英語で多少通じた、スリランカでも英語をしゃべる、ミャンマーでも英語をしゃべるというときイギリスに支配されたからである

その若い人は漢字がむずかしいと言っていた、でも東南アジア系の文字もわかりにくい
確かに漢字は全く慣れていない人にはむずかしいだろう、発達障害の人は普通の人と同じように話す、だからどこが悪いのか話しただけでは分りにくいのである
でも漢字が書けない読めないと言っていた、だから漢字を読んだり書くことは相当に高度なものだとある、なぜならアメリカ人でも新聞を読めないという人が結構いるというときでもそうである、日本人はみんな新聞を読めると感心しているからである
でも言葉だとまず音から話せるようにはなる、その音にしてもわかりにくいのである
だから中国語は何を言っているのかわからない、古代でも外国語を話す人を鳥のさえづりに例えたのもわかる、さっぱり音からわからないからそうなった
むしろ漢字が中国の多様な民族の共通なものとして中国統一の大きな力になった
今でも中国人とは筆談で漢字を書いて多少は通じるのである
上海と北京では音では話しが通じないという、それだけ中国では多様な民族がいて通じないのである
だからこそ漢字が文で明らかにするが文明を作ったともなる

ミャンマー人は宝蔵寺に来たのは同じ仏教国だから寺に来てみたとなる
でもこの仏教でもミャンマーであれタイであれ中国であれ韓国であれ国によって違っている、それは国にはもともと培った文化がありそれに適合させるからそうなる
中国でも仏教が盛んになったときがある、それは唐の時代である、その時日本から遣唐使が渡って学び日本に漢字を取り入れたのである、ミャンマーとかタイでも漢字を取り入れていない、ベトナムは一時取り入れている、だから中国から入った言葉がある
多少日本と似ているとなる、それにしても今日本に来ているのはベトナム人が多く私の住んでいる町にもいるようだ、原町だと働く場所があるから多い、そこでネパール人にもあっている、これらはもう最貧国なのである、もう最貧国しか日本には来ないし円安とかなり日本には外国人の労働者は来なくなると言われる
そして冗談で次はアフリカの黒人が来る、そして黒人との混血が生まれる、極一部では現実化ししているからだ

それにしても太平洋戦争で日本軍がビルマまで侵攻した、その時戦った相手がイギリスだったのである、七つの海を支配したイギリスを知る時、いかにイギリスの力か大きいものだったかを知る、シンガポールも英領でありマレーシアでも英語が通じるというときそうである
そして私の姉は従軍看護婦としてシンガポールの向かいのマレーシアのジョホールバルで四年間辛酸をなめた、そこに赤十字の病院がありそこで傷病兵を看護したのである
それは地獄にいるような経験したとなる
そして遂に死ぬときまでそのことを語りながら死んだ、それは24歳くらいであり青春時代であり忘れることのできない経験だったからである
そして世界帝国を築いたイギリス軍と戦い勝ったということが世界の驚きとなった
日本がその時世界史の大きな担い手として出て来た時だったのである
イギリスとは当時最強国だったからである、だからイギリスにとってはショックだったのである
今でも日本人に捕虜にされて虐待されたとか恨んでいるからである

不思議なのはミャンマー人は日本人に似ているというときも親近感を持つともなる
タイ人とかとも違う、ベトナム人とも違うのである、ただ様々な民族が混交している
目鼻立ちがくっきりしているのはインド人でありアーリア人系統と原住民が混血したからだとなる,インド、パキスタンとかイランの系統はアーリア人系統が混血した
そして印欧語系統として共通性がある、それは遊牧民の言葉なのである
ドラビダ族がインドの原住民でもアーリア人との混血があり宗教もイスラム教が入ったのである
いづれにしろ言語は余りにも多様である、なぜそうなったのか?その理由はバベルの塔の崩壊からきている、神に逆らってバベルの塔を作り神が崩壊させた、そして民は言葉が通じなくなったのである、その理由が的を得ている
それは単なる神話ではない、今もそれを現実として人類がある、人間は言葉の面でも一つにはなれないのである

その人は大学もでている、ミャンマーで大学を出ているとしたら相当なエリートである
だから大学でも日本語を学んだ、日本語相当に学んだから日本に来てしゃべるようになったとなる、ただ漢字はむずかしいというのは何でも文字を理解することはむずかいしということである、英語だってアメリカ人でも別に知識人でなくてもしゃべるからである、発達障害の人もしゃべることは普通にできる、結構高度なこともしゃべっているのである、でも漢字が書けない読めないとなる、しゃべることより書いたり読んだりすることが知的に高度だということになる

世界史で共通しているのは隣国とは必ず争っている、それも熾烈な争いになっている
タイ人とは今でもミャンマー人が争っているのもそうである
タイでは仏像とか壊された戦争の跡が残っている
タイ人とは人種も違っているのも不思議である、仏教でも同じようで違っている
そして争っている、ミュンマーの問題は軍部が既得権者となり経済的にも利権を握っている、その利権を手放したくないから権力を持ちつづけたいからそうなっいるという
軍部に金が入る仕組みを作っている、それは中国でも同じである、アメリカでもそうだし日本でもそうだとしている、既得権者は権力を利権を手放したくないというので共通しているのである
カルト教団でも宗教でも歴史をみてもカトリックが権力を持ち権力を手放したくないなったのと同じである
人間は一旦権力をもったら手放したくない、権力がなければ相手にされなくなる

権力を持っいることで利権がありそのためにカルト宗教もその利権と権力を得るために運動している、それが一連の統一教会のことなどで明らかにされたのである
創価とかなどはそうした権力奪取とか利権を得るためであり御利益しか眼中にないのである、だから宗教と何の関係あるのかさっぱりわからないのである
単純に考えてもお釈迦さまがなぜ仏さまになっているのか、そうしたこの世の欲を求めて達成するためにではない、だからこそ王宮から乞食にもなったからである
カルト宗教とはだから宗教ではない、では何なのかとなればナチスのような現代文明から生まれた病的なものであり異様な集団である、でも明確なのは御利益を得ることであり
権力が御利益と利権と結びつくから運動しているとなる
それは人間なら理解できるのてある、それがどうして宗教と結びつくのかそれがどうしても理論的に理解できない、でも人間は利権や利益があれば何でもいい喰らいついてくる
だからあれだけ会員が増えたとなる、山で修行して欲をなくせと言ったら誰もついてことないからである

いづれにしろミャンマー人はめずらしい、でも今や最貧国の人たちしか日本に来ないしやがて日本には来なくなる、それより日本人が海外に出て働くようにもなる
まだわずかでありそういう報告が円安で起きているのである
外国人を安い労働力として使うことはもうできなくなる、次はアフリカの黒人だとなるがこれも抵抗があるだろう、それらり日本人自体が外国に出稼ぎに行く時代になる
日本はそういう最貧国にならないにしろそういう人達とも同等になる恐怖でありそうなりつつある、なぜ日本がそんなに落ちぶれたのかということである
イギリス帝国は長かったが日本は高度成長時代は20年ー30年くらいしかなかった
余りにも短い繁栄で終わったとなる、その理由が何なのか問われているとなる



元日にベトナム人が大仏に大集結する理由、福岡の南蔵院・茨城の牛久大仏


「数年前からベトナム人が来ている。元日は多い」「ミャンマー人も来ている。伝統衣装で大仏の前で手を合わせている」(東京・多摩大仏のある寶光寺)、「それほどではないが、たまにベトナム人やミャンマー人が来る。ミャンマー人は10〜20人くらいの団体で年に2〜3回来る」(岐阜大仏のある正法寺)、「5年ほど前からミャンマー人が来るようになった」(愛知県の聚楽園大仏)、「ミャンマーの人は多いです。寄付する人も中にはいる」(千葉県の日本寺大仏)などの声があった。

仏教国だから日本に来ても大仏があれば母国のものと同じともみる、でも日本の寺と東南アジアの寺は違っている
妻帯しないとかあり日本は妻帯して普通の人と同じ生活している、そもそも日本では寺は宗教の場なのかとなる
葬式とか死者とか墓がある場所であり信仰の場所なのかとなる
だから外国人が同じ仏教徒でも受け入れないとしている、観光に来るのはいいとして共通の信仰の場にはならないのである
キリスト教だと日本でも外国人を教会で受け入れることがある、共通の信仰者として受け入れる
それよりカトリックだったら同じ信徒としてあるからグロ−バルだから受け入れるとなる
イスラム教徒でもそうである、でもまたイスラム教でもセクトがあり戦争までしている
宗教でもこうして派閥争いがある、大仏とかに外国人が集合するのは観光の要素が大きいだろう、なじみの仏像があるからなごむとなるのかもしれない、日本人でも京都辺りだと庭を見たり美術鑑賞したりする場にもなっている
別に信仰の場としてあるわけではないからである

インタ−ネットの強みはこうして情報を連結させることである、この記事でも他の場所でも東南アジア系統の仏教国の外国人が寺に集まっているのかと言っていたからである
確かにここでも寺に集まっていたのである、なも礼拝する場とういのではなく庭を見たり宝蔵寺だと紅葉がきれいだから来ていたりりしていたとなる、そもそも仏教というのはイスラム教徒とかキリスト教のようにグロ−バルな連帯がない
ただベトナムでもミャンマ-でも日々の生活の中で活きている、でも日本のような葬式宗教だけではないだろう
ただ大仏があるとなれば同じとみているのかもしれない、元旦に観光に来ているともなる
posted by 天華 at 16:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年12月26日

人間の評価は死後に明確になる (自転車屋の死で考えたことー金で計られないもの)


人間の評価は死後に明確になる

(自転車屋の死で考えたことー金で計られない価値)


人間は生きている時はなかなかその人の価値がわからない、生きている時の価値はたいがい金で計られる、どのくらい稼いでいるかで人を見る、金を稼げない者は価値がないとなる、でも不思議なのは一旦死ぬとこの人はいくら金を稼いだかいくら金を残したのか
一千万残した一億残した十億残したとかで価値が計られるのか?
それは遺産をもらう人によって価値があるが他の人にとってはそうはならない
遺産をもらうわけではないからである

すると何が価値になるのか?それを近くの自転車屋の死で考えた
死んでその人の価値が明らかになった、なぜならこの町では一軒しか自転車屋がなかったからである、他に頼みようがないからである
何か隣の市で聞いたら断られた、自転車を買って日ごろから修理とか頼んだりしてないと受け付けないのである、商売だからそうなる

自転車屋が近くにないことはヤマハの販売店になっていたからヤマハの電動自転車のいいものを買っていた、そのチェーンがはずれた時、直しようがなかった、それはそれを直す特殊な道具が必要になったからである、それをヤマハの本店から仕入れるほかなかったのである、前はエンジンの不具合で全部取り代えたりもした
これができるのは本店と直接交渉できるからである
このように自転車屋か近くにないと困るのである、パンクは一番困る
それだけではないタイヤで規格がありヤマハで買った場合、ヤマハからタイヤでも仕入れることがある、だから自転車屋の場合近くにないと困るのである

その自転車屋の価値は一軒しか町になかったことで価値が高くなった
何か無医村とも似ていた、医者がいない村では医者の価値は本当に高いものとなる
病気は深刻だからである、でもこの辺だとまだなんとか近くに市があり医者はいる
そこに通えばいいともなる、今医者でも地方で問題になっているのは医者自体が高齢化しているのである、近くでは90歳まで現役だった医者がいた
現実にすでに60以上とかの医者が多いだろう、そして後継者がいなくなっているのである、また医者でも自転車屋でも若い人がいいというとき技術的に進んでいても老人はついていけないし遅れるからである、それも問題なのである

前は一万五千人くらい人口があり自転車屋四件くらいあった、その頃子供が多いしそれで成り立っていた、でも一軒となりその一軒も消えたのである
これはここだけの問題ではない、いたるところで起きて来る問題である
後継者がいないということである、農業でもそうである、ただこの町では経営としては成り立っていたろう
人間の価値とか決めるのはいろいろな要素がある、ここでは町に一軒しか自転車屋なくなったことで価値があがっていたのである
そして死んだ結果その価値がさらに明確になった、みんな自転車を使っている人は困るからである、それは鉄道とかでもそうである、無人駅化して困るとかある
それは日本がこれから起きて来る現象の一つなのである、縮小化してゆく日本で起きて来る現象なのである

だから人間の価値は必ずしも金では計れない、その人が必要なものであるとき必須ものとしてあるとき価値がある、その人がいなければみんなが困るというとき価値がある
それがここで起きたのである、あの人がいなくなって困ったとなったからである
その人は病気でも懸命に仕事していた、そこにも価値があった、それは一軒しかないからそうなったのである、他に自転車屋があればそうはならなかったからである
こうして人間の価値とは必ずしも金で計れない、でもすべては金で計られる
自転車屋でも経営がここでは成り立たないとなれば生きている内でもやめることがあるからだ、民間だとそうなる、でも只見線とかは莫大な復旧費がかかったけど県でも国でも出費して復興して再開したのである

ともかく一軒だけあった自転車屋の価値は死んで明確になった
ではその死を弔うのに供養するのに金をやればいいのか多くの金を死者に与えればいいのか?

それも実際は死んだ必要がないのである、なぜなら死者は何を望むのか?

金が欲しいのか?

死んだ死者が望むものは金でもなく供物でもなくその人自身の評価である
何を生きたのか、何を与えたのか、何の役割があったのかとかある
それは家族内でもある、私の場合は姉と母には自由に生かしてくれたので今でも感謝しして供養している、このように感謝されれば価値がある
でも別に死んだら金で報えることはできない、死者が望むものは何なのか
それは死者がしていたことを認めて評価してまたその遺志を継ぐこととかなる
それは金ではないのである、一旦死ぬと人間は金で評価されないのである
死者に報えることはその人の価値を認め評価して感謝することだともなる
それで自転車屋に献げる詩を書いたのである


お悔やみに行く

今日お悔やみに行ってきた、祭壇は大きなものではなかった、だから金銭的には苦しかったのかもしれない、それで病気の治療代もかかっていたこともある
お悔やみの金は実際は残された人には必要なのである
残された妻がこれからどうなるのかはわからない、娘の孫が来て騒いでいた
その孫は東京にいるから跡は継がない、他にも東京とかに娘が嫁いでいる同世代の親がいる、後継ぎがいなくなり空家家するのである、駅前の理髪店も廃業して家が壊されていた駅前の活性化とか言っていたがそう言っていた本人が死んでしまったのである



posted by 天華 at 14:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年12月24日

今年の私の重大ニュース―災難は続いている


今年の私の重大ニュース―災難は続いている


●大地震の被害

●知人が脳梗塞

●盗難

●自転車屋の死

●win8・1のサービス終わる

今年の最大のニュースは事件は地震だった、また本でも片づけていないし障子も直していない、散乱したままなのである、本が多いからそもそも整理してきれないでいた
それからここではまだ屋根を直していない家もあるて地震で壊れたのを直していない
今年最大の災難は地震だった
東日本大震災以後またそれ以上に強い地震がきたのである
今回の地震も東日本大震災の余震だったのである、まだ余震がつづいてる
その大きなものが来たのであく

知人の脳梗塞には驚いた、日ごろから手が悪いとか目が悪いとかめまいがしたとか訴えていた、それは明らかに脳梗塞の前兆でありそれが事前に医者でも見抜けなかったのはなぜなのか、そのことを書いた
でも実際は二週間くらいで退院できるのをコロナウィルスを警戒して入院をしていたという、軽い脳梗塞だったのである、それでしゃべることは普通であり脳も正常であり
ある程度歩けていたのである、だからこれは回復すると見た

どういうわけか姉が死に母が死に一人になってから盗難が増えた
大盗難の被害もあった、それは近くの人である、今回もジャンパーがなくなった
でも置き忘れたのかと見た、中に財布がありカードなどがなくなったのでめんどうだったでも盗まれたように見えないのである
今度も100円ショップで買ったソーラー発電の人に感知して光るものが張り付けていたのがなくなっていた、これはそれなりに大きいものであり風で落ちたとも思えないのである、落ちていたらわかるだろう、遠くに飛ばされるとも思えないのである
どうも私の家に出入りしている人がいるという不気味である
そういうことを言う人が他にもいたからである

この問題は軽いようで軽くない、なぜなら通りすがりの人だったら後は来ない
それは金庫を開けられたプロの泥棒が入ってきたがその人は通りすがりでは一回だけであり来ないと見た、でも近くでねらって来ているとしたらまた来るから怖いのである
それも近くだから怖いとなる、いつも狙っているとしたら怖いのである
それも誰なのかと不安になるからである

街に一軒しかない自転車屋の突然の死にも驚いた
3日前くらいにタイヤ交換してもらったときいつまでつづくかわからないと言っていたがそれが最後だった
最後まで仕事をしつづけて仕事しながら死んだともなる
ここが貴重だったのは一軒しかないからである
それは無医村と似ていた、そういう場所では価値が高くなり貴重になる
原町まで行くにも大変だからである、そしていつも買ったり利用していないと自転車屋というのは受け付けないことがある、それで断られたことがあるからだ
通信販売ではいろいろあってもアフターサービスがないので利用できないのである

win8.1のパソコンのサービスが終わる、これもめんどうになる
でも危険になるから対処せざるをえない、これの問題は手間が相当にかかりめんどうになることである、新しいパソコンに移るのに時間がかかる
これもやっかいである、何かめんどうなことをしたくなくなったからである

ともかく今年も波乱の年だった、地震が一番怖かった、またこの歳になると知っている人が同世代の人が死んでゆく、自転車屋の人は66歳だからまだ若かったとなる
その後を継ぐ人もいないのである、それでみんな困っている
なくてならていものがありそれが無くなることは不便になる
無医村のようになってしまうのである、ただ救われているのはこの辺は近くにまだ5万とかであれ都市がある、でも自転車の場合は近くにないと困るのである
本当に一回は電動自転車のエンジン部分が買ったばかりで交換したのである
それからもう一台の高価な電動自転車もチェーンがはずれて直せなかった
それを直すのにヤマハの本店に直接聞いてそれに対応する道具を送ってもらって直してもらった、こういうことがあるから自転車屋がないと修理するできなくなり使えなくもなるのである、これも大きな問題だった

いづれにしろ今年も終わるがやはり様々な災難の厄払いをしたいとなる
でも簡単には行かない、来年もいい予想はないのである
何かいいことがあるようには思えないのである、でも知人の脳梗塞が軽くすんだということはいいことになる、でももう一人の親しい男性の家には行かないとなり切れてしまったこれも問題である、近くの人間は老後は大事になる、近くだと常に近くにいるのだから
遠くの親戚より近くの他人となるからである、現実に相馬市から娘が週に一回しかこない意外と近いようで車でも手間なのである、介護になったら毎日とか来ざるをえなくなる
となると会社勤めしているとできないとかなる
遠いというとき8キロでもその倍でも遠いとなる、これも問題なのである

とにかく人間は生きている限り災難から逃れられない、その人によってどこでもそれぞれに災難がある
病気であれ自然災害であれ盗難であれ様々な難がありそれから逃れられないのである
他人の災いを笑っている人や楽しんでいる人もいる、でも必ず他人に起ることはそうして関係ないとみていても必ず災いは
誰にでも起きて来る、順々にカルマは回ってくるのである
この世は地獄であり逃れられないともなる、死んではじめて災いが終わるのかとなる

posted by 天華 at 17:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年12月20日

街一軒の自転車屋の死について (星淳氏に献げる詩)


街一軒の自転車屋の死について

(星淳氏に献げる詩)

その人は癌でありながら懸命に仕事した
死ぬ直前まで仕事していた
苦しくも仕事していた
点滴する所がなく首にしていた
その痕が痛々しかった
でも何か弱音を吐かなかった
ただ死ぬ数日前に
「いつまでつづけられるのかわからな」と言った
それが私と最後に語った言葉だった
その時死ぬということを全く思わなかった
だから突然の死に驚いた
その人は死んでも心残りがあるだろう
駅前が寂れてゆくことや
ここで暮らしたことをあの世で想うだろう
なつかしく回想するだろう
そこで長い町の人とともに長い歳月を過ごしたから
何か悲しい次々に知っている人が死んでゆく
人間の命ははかない
人は短い人生で何を残してゆくのか
つくづくそれを知らねばならない
その人は懸命に働き続けて死んだ
治療代も払わねばならない
自ら生きるためにも働いた
それが貴重だったのは一軒しか自転車屋がなかったから
年の暮にその人は死んだ
その人は死んでもここで暮らした日々をなつかしむだろう
私はここで働いた、懸命に働いた
それが私の人生だったと・・・・
(一人また町に働く人死にぬそを偲びつつ年も暮れなむ)

一隅の死

街の一隅に
名もなく
ひたすらに
そは働けり
あわれかな
駅に咲きにし
冬の薔薇
駅に人はまれなり
その駅を共に見守りぬ
そは死すも
その駅を見て
そこに立っている
いつまでも立っている
何か悲しき街一軒の自転車屋
消えて語りぬこの町の歴史
一人の庶民の人生なれ
歴史はここに刻まれぬ
年の暮雪降り冷えにけるかな
惜しまれて死ぬ人の良しや
人の心に残りけらしも
人は働く者なれ
その果はいつか実らむ
死して後実ることあるべし
仕事なき者こそ虚し
人は天職持ちて勤め死なむ
それが幸いなるべし

なぜ自転車屋に思いがあるのかとなると自転車が自分自身好きであり足が自転車になっていたからである、それで自転車屋とも深くかかわったとはなる
ただ深いといってもその人特別親しいというわけでもない、ただ自転車を通じて親しくなったのである

何か車がないと自転車に乗る人と仲間意識が生まれるのである
車に乗っている人はそうはならないのである、そして車がないとその人は一段劣った人に見なされることもある、なぜなら田舎だとみんな車を持っているから持っていないのは変な眼で見られる、変わり者ともなり警官からは怪しいとも見られるのである
ただ最近は老人が車の免許を返上して自転車に乗っている人をみかける
だから自転車の需要は結構ある、自転車は健康には運動にはいいのである

またなぜここの一軒の自転車屋に思いがあるとなるとやはり一軒しかなくなっていたことである、後は隣の市に行くほかない、それが不便なのである
やはり近くにないと困るものが結構ある
弁当屋もないのも困る、百円ショップもないのも困る、医者でも困る
やはり平均的現代の生活になると一万の町ではそろえしられないのである
原町と比べるとその差が大きいのである

とにかく人間の価値は働くことにある、天職を持ちて働くことにある
だから自転車屋でも働きながら死んだようになったから死に方としては良かったのかもしない、向かいの自転車屋でもそうして死んだのである
仕事して体の調子が悪いと言って病院に行きまもなく死んだのである
だからこの人も仕事しながら死んだとも言える
こういう死に方は長く十年とかでも介護されて死ぬの比べるといい死に方だったなとも見る、ほとんど迷惑かけず死んだからである

ともかく郷土史も探求しているが郷土の歴史を刻んだ人でもあった
それは特別な人でないにしろ郷土史としてはやはり一つの歴史を刻んだのである
その価値はやはり狭い町だからあったとなる
もし仙台市とか東京のような所に住んだらこうはならない、いくらでも自転車屋とかあるからである
ここでは一軒しかないから価値あるものとなっていたのである
だからこれから修理とか何か自転車に関して困ることがでてくる
後継者もいないからである、中小企業でも農業でも後継者がいないことで困る時代になっている、空家をどうするのかもそうである
これは全国的な課題である、それが実際は深刻なのだけど今の社会は別にここになくても車があれば買い物でもなんでもできるということで深刻にならない
でも車がない人は深刻なのである

ともあれご冥福をお祈りします、この町を死んでも見守って下さい・・・

66歳ではまだ今では若いとなる、でも技術的な面で追いつけないハンディはでてくる
そこではロードとかは詳しくないからあまり買う人がいなかったろう
相馬市と原町にはあった、でも必ず自転車屋は必要なのである、そういうものが他にあるので困るのである

posted by 天華 at 08:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年12月19日

南相馬市鹿島区の星自転車の主の星淳氏死亡 (後継者がいないことが全国でも問題になっている)


南相馬市鹿島区の星自転車の主の星淳氏死亡

(後継者がいないことが全国でも問題になっている)

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これも驚いた、何日か前にタイヤを交換してもらった
ヤマハの直販店なのでヤマハの自転車を特に電動自転車を何回も買っていた
それは十年前より前でもあった
なぜならその前はすぐじき前の自転車屋で買っていたからである
その人も急に死んだのである
今回も急なことなので驚いた、とても死ぬとは見えなかった
でも癌になっていたということはみんな知っていた

でも仕事は普通にしていたから死ぬとは思えなかった
それも十年くらい癌になってからでも仕事していたのである
だから癌でそんなに仕事ができるのかという不思議があった
ただ点滴した痕は首のところありいたいたしく見た
でもその他は普通に仕事していて話ししていて死ぬとはとても見えなかった
「いつまでつづけられるのか」と私に何日か前にタイヤ交換に行った時言っていた
それが私との最後の会話であった

その人は駅前にいて駅前で無人化したことで案内したとき駅前の活性化とかで話し合ったことがあった、それが死ぬとは信じられないともなる
いくら病気でも実際昨日普通に話ししていて死ぬものなのか?
心筋梗塞だとそういうことがある、でも癌だと死ぬまで入院してとか療養して死ぬとかになるだろう、それが普通に仕事のことで話しして死んだとなる
それは前の自転車屋でもそうだった、やはり仕事していたのだが調子が悪いと言って入院したらまもなく死んだのである
その人もあっけなく死んだのである、そこに何か苦しんだようなものが見えないのであるだからそういう死に方はいいのかもしれない、認知症になったり七転八倒して死ぬよりはいいのかもしれない、でも一概には言えない、残された人はそうは思わないだろう

鹿島区で困るのは自転車屋が一軒もなくなることである
自転車は通販で買っても後で修理とかあるので困るのである
現実ヤマハの電動自転車のエンジン部分が故障して全部交換したことが最近あったからである、こういうことがあるので通販ではいいものがあってもなかなか買えないのである
またパンクの修理とかその他故障がありアフターサービスが必要なので困るのである
原町に行ったら一回自転車を買ったことがある所に行ったら自転車のことを相談もできなかった、自転車屋でも商売だから常に買ったり修理したりとお得意さんにならないと断られたりするのである、相手も商売だからそうなる
その星自転車屋でも折り畳みの電動自転車のことでナンバーをつけてくれとか頼んだができないと言っていた、金にならないのだからできないのである
でも死んだということは驚きである

その自転車屋では娘がいる、その娘が父親が死んだので来た、でも東京とかに住んでいてここには戻ってこない、そして跡継ぎがいないのである
ただバンクを修理するくらいの人はいるらしい、自転車は結構乗る人が増えている
なぜなら老人が増えて車に乗らなくなった人は自転車に乗るようになるからである
だから需要がないというのではない、またこの辺で原発事故で避難区域から移住してきた人も多い、それで知らない人が来ると自転車屋の人は言っていた
ということは自転車を経営するのがむずかしいというのでもなっかたろう
問題は病気でありそのことで継続できなくなったのである

そのこは前に書いたけど畑を借りてしていた人がその人も体が弱りできなくなった
その前の畑をしていた人も70前で腎臓が悪く透析になり死んだ、その隣の人は80過ぎて娘に車に乗せられて畑にきて這って働いていたが力尽きて放棄された
そして知っている女性も力尽きて放棄した
今度はその女性が脳梗塞になり病院に二カ月入院して昨日とか退院したのである
見た限りでは思った以上元気に見えた、これならまだまだ生きると見えた

ともかくショックである、人間は死ぬ時はあっけないというか簡単に死ぬものだと思ったそれはこれまでも経験してきた、でもまさか今度は昨日まで普通に仕事していた人が死んだので驚いたのである
そして問題なのは後継者がいないことである、これは農業でもそうである、65才以上が農業をしていていづれは継続できない、また中小企業でも後継者がいなとしている
それも全国的な深刻な問題になる、空家の増加と後継者不足とか社会が衰退してゆく
前は自転車屋など小さな町でも四五軒あった、それが一軒もなくなった
自転車は通販ではだめである、修理とかアフターサービスが必ず必要だからである

とにかく鹿島区だと不便になる、弁当屋もないから一人暮らしには困る
前にしていた人を知っていたがその人もやめたからである
百円ショップなどでもダイユーエイト内にあっても品物の数が少ない、これも今の社会では必要だから困る、私の場合車がないので困るのである
その自転車の死を知らせてくれた人も自転車で配達の仕事とかしているから困るのである私は何か自転車に乗る人とは親しくなるのである、車の人とは親しくなれないのである
自転車仲間になるのである

それにしても駅にクリスマスのイルミネーションが点滅していた、でも前の自転車は閉じてなくなる
いつも駅前で駅を見ていた人がいなくなった、これも淋しいとなる
駅前通りでは一軒の家が壊れて空地にもなった、駅前通りは活気がなくなっていたしこれからもなるのか
鹿島区にとっては大きな死だったともなる

年の暮親しき人のまた死にぬ

その人と自転車につき語りしを今はなしかも年も暮れゆく

葬式の日取りとかは出ていた

心からお悔やみ申しげます、お仕事ご苦労様でした、お世話になりました


死んだ後の処理で困ること

自転車は何かあったとき困る、ナンバーを取得していないと困る、なぜなら警察に職務質問されたりするからである
盗品とか疑われたりする、その時買った自転車屋に連絡することもある
それが死んだできないとなる、これも大きな問題かもしれない、死んだ保証もしてくれないとなる
だから自転車は通販で買いにくいのである

何かいろいろなことで駅でもそうだが無人化すると困ることを書いてきた
自転車でもそうなのである、町で一軒もなくなればみんなが困る
だから商売が成り立つようにしないとみんなが困る、でも商売にならなければ誰もやらない
ボランティアではやれない、何か公共的な役割がある時それがなくなるとみんなが困る
でも市とかで援助したりしないのである、それより自転車屋は技術的な面で簡単にできない
そのことでこれからいろんな場面で困ることが全国で起きて来る
少子高齢化で縮小社会になるときいろいろものが維持すらできなくなるからである
posted by 天華 at 18:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年12月10日

風力発電のメンテナンスの仕事も危険 (風力発電もヨ−ロッパの方がすすんでいる)


風力発電のメンテナンスの仕事も危険

(風力発電もヨ−ロッパの方がすすんでいる)

windenergy1.jpg

windenergy2.jpg
写真では人が見えない、機械だけでできる仕事のように見えない
見た感じでは鉄塔に簡単なもので支えている
これはどうなっているのかわからない



風力発電設備は、メンテナンスすることが保安規程によって必要になっています。国の決まりによって、メンテナンスする回数は毎月1回以上となっており、外回りのメンテナンスと一緒に運転を停めて制御回路、主回路端子のチェック、動作チェックを、毎年1回くらいは実施することが必要です。

1年間の1,200万円の維持費・風力発電にプラスし、作るためのコスト6億円の1年間の回収コストがかかります。風力発電の場合には17年が法律で決まっている耐用年数になっているため、作るためのコストの1年間の回収コストは6億円を17年で割った約3,500万円になります。

1年目から17年目は、作るためのコストの1年間の回収コストも考えて、1年間の儲けは8,100万円の収入から1,200万円のランニングコストと3,500万円の回収コストを差し引くと
3,400万円になります。この儲けは、6億円の風力発電を作るために投資した額の5.6%にあたります
https://www.tainavi-pp.com/investment/wind/53/

再生エネの支柱は太陽光よりも風力だ。再生エネ導入が29%と進むドイツでは、うち風力は12%と太陽光6%の2倍。英国は再生エネ25%中、風力は12%と太陽光2%の6倍に上る。




この風力発電もどれだけ発電できるのか、投資額にしては見返りがあるのかとなる
メンテナンスも定期的にする、その費用もかかる、海上に作るとしても日本では海が深いから普及していないという、ヨ−ロッパではかえって30パーセントとか普及している
遠浅の海があるから設置しやすいからそうなっているという
南相馬市の鹿島区の風力発電を作るのにかかわったのはドイツだったのである
技術者と駅であったからである、また外国の技術者がドイツからでも原町火力発電所に来ていた、だからヨ−ロッパの方がドイツなどが先進国だとなる
特に風力発電はそうなっている、もともとオランダに風車がありまた風車は中東で発明されて発展した、風が吹くから風車もできた、これも風土と関係してそうなったのである
そのオランダの風車の技術が造船で利用されとかある、低地のために排水に利用された、やはり地盤に風土があり技術が発展することがある、日本だと山が多いからトンネルの技術が優れたものになったのである

ソーラーパネルでも必ずしも発電量があるわけではなく採算があっていないともいう
でも相馬市の玉野村へ行く山がまるごとソーラーパネルになる
あれは宇多川にも水が流れ込むからなんらか影響がある
景観的にも良くない、丸森の方では山がいくつかまるごとソーラーパネルになっていた
反対する人もいるが結局木材が使われない売れないということでそうなった
外材を買うからそうなった、でも円安とかなり日本の木材の方が安上がりだとなれば
売れるようになる
日本の木は山にあるから運び出すのが手間なのである、そこにコストがかかる
大陸だと平坦な土地が延々とつづいてそこが森になっている、すると運ぶには楽なのである

ただ何らか科学技術は自然破壊になる、一見自然エネルギーだからいいように見えてもそうではない、風力発電でもそうなのである、何か回りに必ず悪い影響がある
地熱発電がいいとしてもこれも温泉地にあり問題がある
人間の成すことは必ず自然を破壊になる、職業は業でありカルマなのである
農業でも焼畑は森を焼くのだからそこから自然破壊だったのである
原子力発電でもそうでありこの辺は甚大な被害を受けて住めなくなったのである
でも石炭とか使った火力発電だったらこんな被害にはならなかった
そのくらいはしかたがないとなっていた

とにかく高い所で仕事するきは怖い、高所恐怖症の人はできないとみる
怖いのは高い所で仕事して突然地震などが来たら怖い、地震の怖さはそこにある
地震は結構頻繁に起きているからである
危険な仕事がある、実際電気を送る鉄塔で感電して死んだ人がそれなりにいる
電気の仕事も危険なのである、建築関係でも高い所で仕事するから危険である
鳶職は江戸時代の火消しが由来となると燃える家の屋根に上って纏を建てるのだから
命がけだったとなる

posted by 天華 at 10:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年12月07日

あらゆる所で継承継続ができなくなる (少子高齢化による(未来の年表)の衝撃)


  あらゆる所で継承継続ができなくなる
  
  (少子高齢化による(未来の年表)の衝撃)

futureshock.jpg

未来の衝撃という本が話題になっている、これは本当に現実化しているからである
それはもう確実に未来がそうなると予測できるから単なるSFの空想でもないからショックなのである、それでこの辺が原発事故で極端な現象として現実化したことを書いてきた
農業しているのも65歳以上の人が8割とかである、そして耕作放棄地でも膨大なのである、近くで小さな畑で野菜を作っていた女性が72歳で脳梗塞になった
その前の畑の人は腎臓が悪く透析をしていたが60代で死んだ
隣の畑をつづけていた人は娘に車に乗せられて這って仕事していた
80代でありでもつづけられなくなった、そこは草ぼうぼうになっている
つまり隣の畑が放置されると困るのは草がすぐ生えてきて影響するからである
だから田舎では草むしりが日々の仕事なのである

その女性は苦労したので普通の人より10歳くらいふけていた、そして煙草を吸っていたそれが血管に悪かったのである、でもストレスが絶えずありやめられなかったのである
まず煙草とか酒は体に良くない、私は30歳くらいでやめたかさ良かった
その女性は知っている人を私の同級の人がやはり脳梗塞になり片足が悪くなっていたのを見ていた、脳梗塞は再発するんだよとか言っていた、そうして他人を見ていた人が脳梗塞になったのである、だから他人の心配するより自分の心配が先だとなる
なぜならかえって自分の健康管理していない人は誰かの世話になったり他でも迷惑をかけるからである
脳梗塞も多い、同級の人はすぐに病院に行ってカーテルを入れて助かった
南相馬市には新しく脳出血のセンターのビルができた、そこには優秀な医者がいたからである、若い医者でも習いに来ているからである、だから助かったのかとなる
でもその女性は脳梗塞の症状があっても専門の病院に行かなかったのである
医者が見抜けるはずだったができなかったのである

いづれにしろ8050問題とかは始まっている、その女性は入院している、50代の息子が病院に行ってみている、ただ脳出血では意外すぐには死なない、心筋梗塞では死ぬ
だから10年くらい介護している人を知っている、その苦労も大変なものだとなる
リハビリをすればそれなりに回復するのである、長嶋茂雄も脳梗塞になった、でもそれなりに回復している、これは脳の部位で体の影響が違ってくる
こうして増えるのは老人と病人なのである、子供など近くでも見かけないのである
まず少子高齢化の問題はあらゆる分野で継承継続ができなくなる
私の住んでいる街でも一軒しか自転車屋がない、その人も60代後半であり病気でもあるそれでもつづけている、自転車屋でも技術者だから簡単にできない、他でも原町の自転車屋でも老人だった、そして老人より若い人がしている自転車屋に行けというとき自転車の技術も進歩しているからついていけないからである
自転車は後で必ず故障とかで世話なになるから通販はできないのである
またいつも利用していないと隣の原町で断れらたとういことがある
だから自転車屋が今一軒しかなくそこがなくなると困るとなる
そこでも継承する人がいなくなるのが問題なのである

それより田舎だと広いから山の村でもその村自体を維持するのがむずかしくなる
より不便な所だと限界集落になりもう老人しか住んでいない、継承する人がいなくなるのである、祭りでも若い人がいなくて継承できないとかの問題がすでにでている
すると歴史と文化も継承できなくなる、村というとき江戸時代からでも長い歴史がある
そしてその村にあり石一つでも何かいい伝いとか伝説とかあ村の人とともに活きていたのである、庭が人間化しているように村の自然も人間化している、だからそこに人間が住まないと荒寥としたものとなる、それは家の庭の石とも似ているからである
人間化した石になっていたからである、そういうことでも継承がなくなるとき淋しいものとなる、村自体が消失してゆくことは歴史でも文化でも継続できないということである
これはかなり深刻なことである、そこで失われるものが何か、それが原発避難区域で問われているからである、先祖とのつながりも絶えることにもなるからである

もう過去の経済成長させるとかの問題はない、今あるものを継承継続させることが問題でありそれができなくなる問題なのである
自治体自体が維持できなくなるというのもそうである、半分以上が維持できなくなるというのも深刻なのである、この辺では原発事故で避難区域には老人だけが取り残されてそうなった、もうそこにいくら新しい施設とか建物を作っても肝心の人が住んでいない
立派な学校を建てても肝心の生徒がいないのである、外から通っているとかなる
また老人ホームでも人手がたりないとかで青森に送られたとかもある
つまりあらゆる分野で継承継続が問題になるのである、IT技術者が70万人不足するとかもそうである、そうなると通信のインフラも整備できないとなる
老朽化したインフラでも直すこともできないから橋を壊したとかなる

そうして空家が800万軒とかにもなる、近くの街中の家も一軒取り壊された
他には壊されないで利用されない空家が近くに何軒かある
原発避難区域では空家だらけでありゴーストタウンにもなっている
それで最初は復興を盛んに言っていたが残されたのは老人だけである
だから小高からとか原町に移住した人が多い、立派な家を建てた人も家を放置して原町に住んだとかなる、また原町だけではない鹿島だと新しい家が建っているから救われているそれはおそらく地元の人でない、原発避難区域から移ってきた人達なのである
だから原町とか鹿島でも相馬市でも新地でもそういう人が新しい家を建てて移り住んでいるのである
つまり集住化が起きているともなる、とても復興はできないとなりそうなったのであるこれは全国的に起きていることでありここだけではない、でもここは極端な現象となって現れたのである、これが日本の衝撃的な未来なのかともなる

その対策はどうするかとなるともう分散しては住めない、集住して住むとなる
ただそうなると継承して継続してきた村とかが失われる、それも大きな問題なのである
都会からすると痛みをも感じないかもしれないがそこで多様の生活が歴史でも文化でも失われ何か精神的には貧しくなるのである
でも現実問題として優先されるのは歴史とか文化でなく日々の生活を成り立たせることだからどうにもならないともなる
その解説は簡単にできない、それは個々の問題ではなく全体の問題だからである
日本全体の問題であり縮小してゆく社会をどうするかとなるからである  

「後継者難倒産」が過去最高水準に

これはあらゆる分野で起きている問題である


posted by 天華 at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年12月06日

2030年に地方から百貨店や銀行が消える「衝撃の未来」 (原発事故の避難区域で起きたことが全国的に起きる)


2030年に地方から百貨店や銀行が消える「衝撃の未来」

(原発事故の避難区域で起きたことが全国的に起きる)

山里に行くと90代1人暮らしの人だらけという光景が珍しくない。そこに30代の家族が移住したとする。10年後には高齢者が亡くなり、若い移住者だけが残ることになる。

 「ポツンと5軒家」から「ポツンと1軒家」の状態になるのだ。すると、わざわざ1軒のために、電気やガスや水道を提供しないといけなくなり、他地域のインラフの料金もアップする

 「2030年には大型ショッピングモールは維持できなくなる」という事態が起こる。見込んだお客さんが来ず、場所によっては閉店が始まっており、今年だけで25店が閉店しているという。想定以上に人口減少が進んでいるのだろう。

 2030年となると意外と早い、まだ私でも生きているだろう、このことが先取りして極端化して原発事故で現れた地域にもなる
盛んに復興とかいってもできない、若い人は流出して残されたのは老人だけなのである
そうなったところでいくら復興といってもできないとみる
復興してもらいたいと望む、でも現実を見ればもうできないと見るのである
どうしても大熊とか双葉とか浪江とか小高や飯館村を見ると復興できないように見える
だからそこにいくら金をつぎ込んでも無駄にも思える

それはここだけで起きたことではない、全国で起きていることなのである
空家が800万軒なのかその数も凄い、それより町や村が廃墟化してゆく
それが原発事故の避難区域で起きたのである、極端なものとして起きた
でも日本全国で起きている現象なのである、空家問題でもそうだし過疎化の問題もそうである、少子高齢化で縮小してゆく日本の対策が望まれている
インフラ整備でも過疎化した所では都会の80倍もかかるとかその金の負担は東京とか都会の人が払うということで不満なのである、だからむしろそういう所には住まないで一か所に集中して住めとなる、私自身としては人間の多様な生活があって地域があって住むのがいいと思っている、でもそれは何か自分の場合は常に美的観点とかから見ているからである、現実生活するとなると自分自身はとても今は村には住めない

近くにスーパーもないところに住めない、車もないのだから買物だけで苦労になる
今なぜそうした街から離れた所でも住めるのかというと車をみんな持っているからできるのである、だから田舎では車無しでは暮らせないのである
でも私は車がなくてもスーパーが近くにあるからできるのである
原町にも相馬市にも自転車で行っているからなんとか暮らすことができる
鉄道は好きでも利用しない、なぜなら駅から買い物するにも遠くなるからである
そして商品を持つにも重くなり運べないとういこともある、鉄道は仙台市とかに長距離には便利なのである、短距離になると不便になり日常的に利用できないことがある

この辺では原発事故で浪江町でも二万の人口があり小高でも一万の人口があったところが極端に減って廃墟化のようになった、そしてその人達は復興より原町とかに移り住んだ人が多いのである、原町はもともといろいろなものがそろっている、だから便利だから住みやすいとなっていたのである
つまりもうとても復興できない、元の町には戻らないとなりそうなったのである
だからそうなると復興といっても何か見直す必要があるのかとなる
とても元の町に戻らないのに若い人でも帰ってこないのに老人ばかり残って復興できるのだろうかという疑問がある、それは全国でも起きている

だからここでそうして分散して住むことが不効率でありインフラでも金がかかるからあきらめて集住をすすめている、ばらばらに分散するのではなく集中して住む
例えば介護でも田舎は広いから一軒一軒でも回るのが手間になる
でも一か所に人が集住すると回り安いとなる、そして介護というとき隣近所とかが協力すると効率的なのである、車でも相馬市とか原町から娘息子がいても来るとなると手間でありめんどうになるからである
でもすぐ近くで歩いて行けた人が病気で毎日行っていた女性が脳梗塞になり入院した
そしたらその人は自転車にも乗れない、歩いてもその人の所に行けないともなったのである、自分の家にも来れないとなったのである、これもショックである
ただ元気であれば私はその人の所には行くことができる

ともかく今現実問題として理想論ではなく原発避難区域はもう復興自体あきらめるほかないのでないか?
そこにいくら金をつぎこんでも無駄に思えるからである、それで三陸の津波被害の町に対して官僚がジジババしかいない所に税金をつぎこんでも無駄だと本音を言ったのである
私自身は多様な場所でそれぞれ生きることがいいと思っている
いろいろな場所で村があり生活がありというのが実際は国土の利用としてはいいし文化的にも豊かな感覚になる、それが実際江戸時代からできていたのである
それは燃料も炭とかであり自給自足で贅沢していない、電気も水道もない時代だからできていたのである、その時は別に都会の人が田舎の人達に税金を使うことなどなかったから自立していたから良かったのである、都会の人に文句を言われることもなかったからかえってそうして自給自足していた生活を誇りにしていたのである

そして今貧乏になると必ず電気水道ガス代を払えない人が相当数いる、そこで必ずその金がないと嘆いて訴えていたのである、日本が貧困化してくると最低の生活すら維持できなくなっている、昔に戻って自給自足の生活もできない、そうなるとどうしても分散型の生活ができない、だから集住したコンパクトシティとかの発想になる
車は金がかかる、その金も十年二十年と計算すると意外と一千万とかにもなる
都会の人は東京とかるなると若い人は車を持たない、別に車がなくても生活に困らないからである、田舎ではそれができないから車代の出費でも大きいのである

少子高齢化というのも深刻であり人口は減少してゆくだけである、それで未来か描けない縮小してゆく日本にしてもその未来が明確に描けない、徐々に衰退してゆくから明確に見えない、でも原発事故周辺では極端なものとしてその未来が提示されたのかもしれない
実際にゴーストタウンにもなったからである
そうなったときもう復興できない、回復できない状態になっている
そこを復興させようとしても確かに建物が作られたがそこに肝心の人が住んでいないのである、そこで人が住まない限り町でも村でも活きないのである
電気ガス水道がない時代でも人は生きていた、その時飯館村でも山村でも今の二倍の人口があった、それが半減したのである、だから人間は別に電気水道ガスがなくても住めていたのである、でも今のような便利な生活になるともうてきないとなる

未来の衝撃というときなかなか実感できない、でも原発事故の避難区域を見れば実感できる、極端な現象として現実化しているからである、そこでは住民は移住したからである
住んでいる人達は老人が多く学校すら子供がいないのだから成り立たない、立派な施設を作ってもそれを活かせない、人がいなくなっているからである
だからそういうことに金を使って有効だったのかと疑問になる
もちろん私自身は人が住んでこそ村でも活きる、多様な地域があり人が住むことが精神的にも豊かになることだと見る
でも現実を見るとそれができなくなっている、そうしてもらいたいと言っても現実はできなくなっている、でも飯館村辺りでも人が住まないとどうなるのか、元の自然に還るわけではない、そこが政府で放射性物質の廃棄場にしたり何かソーラーパネルとか風力発電の工業地帯のようにされ景観は壊されるのである

もともと原自然があり人間によって作られた第二次自然があり農業などがそういう景観を作って来たのてある、それが里の景色だとなる
だから人が住まないことはそこは元の自然に還るわけでもなく荒廃するのである
人が住んでいればそうしたものに反対する人もいるからできないとなるからである
でも現実問題としてどうしたらいいのかとなるともう維持できないとなる
肝心の人がいなくなったいる、いるのはそこで死んでゆく老人だけだとなる
老人はなかなか移動しにくい、慣れ親しんだ土地で人とともにあり死んでゆきたいとなるでもそれがしにくくなっているのである
ではどうしたらいいのかとなると解決策があるのかとなるとわからないとなる

でも人間は電気がなくても水道がなくてもガスがなくても生きてきたのである
だからそれがなくなっても生活できないとか死ぬということはなかったのである
戦後まもなくは電気製品などないのである、裸電球一つくらいが電気であり車もないし
水道もない、別にそれで死ぬこともなかった、生活は貧乏にしろできていたのである
不思議なのはかえってそれで人口が今の倍もあったということなのである
つまりそれだけの人口を養うものが飯館村であれ山村であったのである
だから人間が生活できない、死ぬとういことは電気や水道やガスがなくてもありえないのである、むしろ原発事故になり空気も土も水でも森林でも汚染されたとき住めなくなったのである、この住めなくなることが人間にとって最大の問題である
気候変動でも住めなくなって人類は移動した、だから農業より狩猟採集民の方が生き残ったという見方もある、食糧のある場所に移動すればいいからである
国境とかない広大な自然がある時その方が生き残ることができるとなる
そうして人類が広大の地球に分散したとなる

相馬市のイオンが閉鎖したことは驚きだった、あそこには休憩所があり食事ができたら喫茶店もあったからである、また中村喫茶店も閉店したことも驚いた
何か相馬市は原町より衰退したのかとみる、原町には何か新しいものができている
松川浦の方には新しいものができている、だから原発事故で原町に移住した人が多いのである

要するに原発事故周辺では集住化が起きた

だからそれは全国でも起きる現象だとなる、そうしないと現代の便利な生活は維持できないからである、貧困化もしているしそうなる
都市そのものが便利な生活するためにできたともなるからである
それがいい悪いにしろ便利な豊かな生活を生活を維持するとなればそうならざるをえないとなる、それに私自身は賛成しているわけではないけど現実を見るとそうなってしまうのである




posted by 天華 at 13:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年11月16日

南相馬市市議会選挙―民主主義が機能しなくなっている (前回も投票率が60パーセントくらい―無駄な議員は減らすべき)


南相馬市市議会選挙―民主主義が機能しなくなっている

(前回も投票率が60パーセントくらい―無駄な議員は減らすべき)


●議員の不満が多いのはなぜかー議員自体も成り手がいない

「町政与党に所属しているだけで、意見も言わず一般質問もせず、ただ集票のみの存在だけの議員がいることが地元住民から『議員なんていらない』という考えがなくならない原因なのではと思うことが多々ある」

議員の私個人の考えではあるが首長がしっかりしておられるかたであれば議会不要と考える…都道府県議会も同様と考える。特に県議会議員は金儲けである。多くの歳費以外に月額30万もの政調費を支給されているのはおかしいと思う県会議員は月に50万預金できるらしい話はたくさんある。
最近の地方自治法は首長に権限が集中するべく方向に改正されていく傾向にあり、議会の権能が低下しており議会不要への方向となっていることも事実である。首長が決定した事項を議会が変えることはほぼ不可能であることも事実としてある」

自分の地域の利害で活動するのなら議員は不要、自治会長会で充分」

県議会議員の報酬活動費が高すぎる。普通市の市議会議員はその半分以下、生活ができない。働きざかりの人はなれない、ならない。質の低下がひどい。

「市民から見れば『議会で、何の話がされ、何が決まっているのかわからない』状態がある。実際まちを歩き、声を聞くと、『議会がなにをしているかわからない』という声は多い。


議員なんて、もうやめたい
〜地方議員2万人アンケート

「地方議員が中央政党の使いっ走り、出先機関になり下がっている。選挙のときには『市民の声を市政に反映させます』と約束しながら当選すれば『政党の都合』を『市民』よりも優先させる議員が多すぎて、そのために、地方議会の改革は大きく滞ってい

地方議員になるためには、地縁・血縁・カバンが最重要で、資質・行動力・実現力が軽視されている」

日本の政治家の数、主に地方議員の数は大幅に減らすべきです。

そしてその方法とは、都道府県の廃止と市町村の合併推進だと私は考えます。
この件についての詳しい話はいずれ書こうと思いますが、都道府県を廃止すれば都道府県知事と都道府県議員がいなくなり、市町村が合併されれば市町村長と市町村議員の数を減らすことができます。

2018年)の同市議選は、定数22に対し24人が立候補し、現職17人、新人5人が当選しました。党派別では共産2、公明1、無所属19で、女性は1人(党派は選挙時)。投票率は55.91%でした

南相馬市長選 門馬氏当選投票率63.75%




●地方議員が中央政党の使いっ走り、出先機関になり下がっている

地方議員の問題はいろいろあり常に言われてきた、そもそもが議員が何をしているのかさっぱりわからない、関心もないからでもあるが関心を持たされないこともあるし何か要望があっても議員を通して実現されることもあまりないだろう
ただ身近な問題が常にある、この辺ではゴミを投げる場所がなくて困っている
その場所さえ確保されれば市ではゴミ箱を設置できるとしている
でもこれもなかなか私人ではむずかしいのである
回りと交渉しなければならないし合意しないとできないし誰かの所有の土地だからできない、つまり強制力がないのである
また回りでも烏につつかれたりしてゴミが散らばったりした、それを私はかたづけたりした、でも回りでもそもそせ関心がないのである
この関心がないことが結局民主主義を発展させないのである
何か個々人でも損害を受けるとかならないと関心がないのである
ただ介護とか病気になると切実な関心を持つようになる
でも議員に相談する人は少ないだろう、何かしてくれるわけでもないだろう
でも共産党とか公明党だと生活保護を優先的に市の方に働きかけてとれるとかはある

地方議員が中央政党の使いっ走り、出先機関になり下がっている。選挙のときには『市民の声を市政に反映させます』と約束しながら当選すれば『政党の都合』を『市民』よりも優先させる議員が多すぎる

共産党とか公明党は強固に国政にかかわり地方議員でも党勢を拡大して国政に国家権力にかかわることで運動している、公明党はそれより地方議員でも仏法の戦いとして位置付けていて政教一致の戦いとして地方議員を確保する
だからこういう党は地域としてはふさわしくないのである
地方地域になるとそれより日々の生活の中での要望を斡旋する仲介することが主な仕事になるからである
でも底辺層になると頼る人がいないので頼るのである

何かわからなかったが創価とかなると市会議員に家族がなって今度は中央の本部に就職した人がいる、その人は家族ぐるみで一体化して国政にかかわる、、政教一致にもなる
地方議員もその駒として働くとなる、確実に公明党と共産党は地方議員でも国政が主体であり地方議員はそのためにある、党勢拡大とか公明党になると宗教とも一体化した政教一致であり会員を増やす手段としてある
公明党とか共産党の最終目的は権力奪取だからである
創価だと仏教による革命であり、共産党になると共産主義の革命であり権力を得るために運動しているのである
でも地方議員となるとそうした国政にかかわることではなく、地域地域の問題に要望を聞いてそれを解決することにある、その一つはゴミの処理問題だったりするのである

驚いたのは全国の衆議院参議院選挙でも投票率が50パーセントくらいであり市会議員となればもっと身近だから高いと思った
でもは60パーセントくらいしかないのである、こんなに低かったのかと驚きである
何か地域でも関心がなくなっているのは何か要望があっても聞いてももらえないし何にもしてくれない解決してくれないとかあきらめているからである
私自身も投票する候補者がいないとなる
つまり議員とは頼りにならない存在なのである、ただ金だけを税金でとられるとなっている、でも逆に町村になると報酬が少なくてやっていけないと議員になる人が減っている
そもそも議員に仕事として魅力を感じなくなっている

●議員の成り手がいない、議員に魅力が感じられない

仕事というとき何でも達成感があると生きがいになるやる気がでてくる
それは別に報酬がなくてもそうなのである、だから議員でももともとは金持ちがボランティアとして名誉職としてしていたのである、金の報酬はなかったのである
かえって選挙運動すると金がかかっていたのである
だから実はそういう人こそかえって向いていたともなる
なぜなら金をもらえるとなると必ず金に注目する、すると本来の目的とは違ったものとして仕事することにもなる
それは芸術家でも金のために絵を描いたり何か詩でも書いたり物を作るとなると金が欲しいとういことが優先されるとかえっていいものはできないのである
金によって惑わされ本来の目的からはずれてしまうのである
私は金が欲しいために議員になりかいとかなったらおかしいのである

宗教となると金をもらうためにお布施をもらうために僧になりたいとか牧師になりたいとなったりしたらおかしいのである
でも現実はそうなっている場合がある、だから常に金によって人間は歪められるのである
そうは言っても現実に議員になりたくない人が多いというとき何か議員の仕事に生きがいを感じないからそうなる、何か達成感がない、芸術家だったら別に金にならなくてもいいものを作ろうと懸命になる、職人でもそうである、それが生きがいとなる
ただ民主主義の基礎として地方議会とか地方議員がいるとしてそこは草の根民主主義になるから重要だともなる
でも現実にはそうなっていないから投票する人も議員自体もやる気がなくなっている
実際に権限があり決めているのは市町長村長だというときそうである
議員自体で何か権限があって決められることがないからそうなる
でも原発とかなると市民であれ重大なことだった、でもそのことでどんな議論をしていたのか議員がどんな発言をしていたのかその時はやはり関心がなかった
それよりもう市民でも町民でも原発に反対する人などいないのだからそんなことをすることもなっかともなる

だから新潟県の巻町で町民が議論して反対して原発を拒否したことは稀有なことだったのである、その時新潟日報とかも反対して協力していたのである
何か重大なことが地域である、命にかかわることがある、だからその時議会とかが必要でありそこで議論する、それが民主主義だとなる
でも議員は権限がないから国ー県ー市町村となりただ国の命令に従うだけだったとなる
まともに議論すらしていないのである、そして福島県では福島民報でも県で株を50%を持っているとかなり県の広報機関だったのである
そうして原発は素人だとわかりにくい、専門家の言うことに反論できないから安全神話が作られて誰も事故など起きないと思うようになったのである
でも巻町のように町民で議論して新聞社でも応援して止めることができたのである
そこでは民主主義が機能していたとなる
民主主義とは過程にあり完成することはない、国民でも市民でも民主主義を促進していかなければ民主主義自体が崩壊する、それはアメリカでも民主主義の危機になっているから日本でもそうなる

●広域化する社会に対応ー飯館村は南相馬市と合併するべき

日本の政治家の数、主に地方議員の数は大幅に減らすべきです。

そしてその方法とは、都道府県の廃止と市町村の合併推進だと私は考えます。
この件についての詳しい話はいずれ書こうと思いますが、都道府県を廃止すれば都道府県知事と都道府県議員がいなくなり、市町村が合併されれば市町村長と市町村議員の数を減らすことができます。

これは飯館村の選挙で議員に立候補した人に聞いたりしたら応援している人がよそ者はかかわるなとか言われた、つまり議員というのはおらが村とかおらが町とかだけになる
でも今回の原発事故で飯館村から放射性物質のフレコンバッグが破れて放射性物質が流れ出した、それは南相馬市と川で結びついているし土地が結びついているのだから村意外のよそ者がかかわるなとはならないのである
でも別に一票がないのだから相手にされないとなっていたのである
ここでいかに地元であれば一票持つことか重要なことがわかったのである
もし一票をもっていればこんな扱いにはならなかったからである
それは浪江町とか双葉町から避難した人々に言える、南相馬市に移住しても選挙権がないのだから何か要求する権利もないとなる
でも小高の人が避難してきたとき鹿島区に住んでいる議員が応援していたのである
南相馬市と合併したからそうなったのである、一票の権利を持っているからである

議員がいらないというとき多いというときやはり現代は広域社会になっているからそうなる、もう昔の村のような狭い範囲で生活していないからである
広域化グロ−バル化もしているから議会でもそうならざるをえないのである
おらが村の町の感覚では成り立っていない社会だからである

飯館村ももう南相馬市と合併するべきだ!

今やもうそうならざるをえないのではないか、とても飯館村だけはもう成り立たないのである、財政的にもそうでありもう飯館村自体が消滅する危機にもなっいるからである
もう飯館村の議員はなくして南相馬市の議員とする、そして議員を減らすのである
もともと飯館村は鹿島の屋形で鎌倉から移り住んだ岩松氏が支配していた
だから相馬藩内でもあり歴史的地理的一体感があるから違和感がないからである
そしてもう議員に払う金も自治体にはなくなる、それで消滅する自治体のことが常に語られているのである、それでどうしても広域的に合併せざるをえないのである
つまりもう税金の無駄はできない、コンパクトに縮小化する社会になるからである
今までのような無駄な金は使えないのである
だから少数精鋭で自治体も議員でも運営する他ないのである


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2022年11月12日

弁護士は見た!うっかりでも現行犯逮捕の可能性も…… セルフレジ通し忘れの意図せぬ万引きで気を付けたいこと


弁護士は見た!うっかりでも現行犯逮捕の可能性も……

セルフレジ通し忘れの意図せぬ万引きで気を付けたいこと

(MSNニュース)
hanzai122.jpg


●セルフレジで盗みを疑われた

セルフレジの設置率が増えるに伴って万引きは増えていると言われています。自分でバーコードを読み込んで会計をするわけですから、中にはバーコードを読み取らずに会計をしたかのようにしてレジを通ってしまう人もいるわけです。

では、うっかりレジを通さずに商品を持って帰ってしまったらどうなるのでしょうか、現役弁護士の幸谷泰造さんが解説します。

セルフレジを通さないまま意図して商品を持ち帰ってしまった場合は窃盗罪になります。いったん窃盗罪になると、後で商品を返した場合でも窃盗罪になってしまいます。

万引きと疑われないためには、セルフレジの通し忘れがないか、その場で確認するようにしましょう。

私はキクチスーパーで最初の内わからないでこうなった
それで後で店長がきて問い正された、これは警察に通報されると犯罪になる
でもキクチスーパーではセルフレジは最近導入したのもであり使い方がわからない人が多いのである、だからこうしたミスもある
でもスーパー側からみると犯罪に見えるのである
だから今は必ず見守る人のところで領収書をだして脇の箱があり捨てている
何か結局必ず便利なものでも犯罪は防げない、つまり新しい便利なものが出るとその便利なものによる新種の犯罪が増える、パソコンが生れインタ−ネットが生まれた新たな犯罪が生まれたように生まれる
これが人間社会なのである、でも機械化するのは経営側からすれば人件費を減らすためにしている

そもそも犯罪とは何なの?

私の場合は犯罪ではなかった、ただミスしただけであり盗むとかを意図していなかったからである
これは前にもコンビニで経験している、私は親の介護とか自分の病気で苦しんでいた
それでコンビニで週刊誌なのか立ち読みしていて自分が気づかないのにパン二個をボケっとに入れていたのである
それは無意識にそうしていた、でも監視カメラがありそれで犯罪人扱いにされた
店長がしきりに言うのには私たちは十円二十円のもうけの商売なんだとか犯罪人扱いして責めてきたのである
それは他のコンビニでもそうである、盗みが多いとかで手を無理やりこじあけて調べたのである
これもやはり十円二十円でも万引きされて経営に困るからそうなる事情がある
つまり盗みが多いからそうなる、コンビニとかは通りすがりの人達が利用するから犯罪が多いかもしれない、車で遠くに行ってしまうからわかりにくいのである
第一店長自体が地元の人ではない、雇われ店長なのである

●犯罪とは何なのか (故意とそうでない見分けがつかない)

ともかく犯罪とは何なのか?

奇妙なのだけど盗む意志がないのに盗んでいたこともある、無意識にそうなっている場合だってある、私の場合は自分で気づかずにパン二個をボケットに入れていたのである
そして現代では地元の人が経営したり地元の人が買い物するのではない
コンビニとかなればみんな外部の人を相手にしている、でも私はそのコンビニに十年間くらい行っていたのである、だからいつも来ている人と店の人も認識はしていたけど
今はそんなことは関係ない、お得意様とかもない、みんな誰かわからない人達であり
だからみんな疑うとなる

「故意」とは「わざとすること、またはその気持ち」、故意の対義語である「過失」は、「不注意などによって生じたしくじり、過ち」を意味します。日常生活の中で使われる場合、故意は「わざと」「意図的に」、過失は「うっかり」といった意味をもつ

刑事事件における故意と過失の違いとは? 判断基準について解説
https://keiji.vbest.jp/columns/g_other/4919/

法律ではこの故意かどうかを問題にする、とういのは私の場合のように盗む意図もなにもないのに盗むとういこがある、無意識に盗むことがある
私はいろいろ悩み苦しみ知らないうちにボケっとにパン二個を入れて支払うのを忘れていた、それでコンビニにそのまま出たのである
でもそれを見ていたらあの人は盗んだとしか見えないのである

だから人間とは複雑でありそのパン二個のために犯罪人にされてひどく責められたのである
一方で大金を盗まれてもその人は何も責められない、回りの人でも自分を責めてきたのである、一方はパン二個でこっぴどく責められ何百万とか盗まれても警察では証拠がないからと相手にもしないのである、盗まれた方が悪いとされたのである
こうしてこの世と理不尽なのである、別にそれは自分だけのことではない、何もしないのに天下りとか地位ある者は金が入ってくる、下々ではいくら働いても金にならないこととか普通にある、でも決して上のものは責められないましてや犯罪人などにされないのである、百円千円盗んで刑務所に入れる人がいるが何億もたいして働かなくても地位があり
金が入る上級国民もいるのである、東電に天下りした検察関係者がいた、その人こそ厳しい罰を与えられるべきだができない、検察だとなる裁く方になるからである
裁く方が犯罪人になっているのである
だから神は裁くなというとき裁く能力が人間にないからである、こうして人間は複雑であり裁くことができないからである

●人間で一番難しいのは信用すること

つくづく人間で一番むずかしいのは信用だった!

どうして相手を信用するのか!

これが人間の最大の問題だったのである、だから契約というときそれは相手を信用するからするのではない、損しないようにするために細かく法律を作っておく
また責任をとらないためにあらかじめ法律決めておくのである
それはそもそも相手を信用しないから契約が生まれたのである、見知らぬ人と商売したら必ずそこでだまされることが普通にあるからである
日本で契約とか発達しなかったのはもともと村社会が基本であり顔見知りであり信用しあっていたからである
でも今や広域グロ−バル化社会になればそういうことはなくなった
でも人間は信用が基本にある、そうしないと社会自体が成り立たないのである

その信用が一番問題になるのは家に入って働く人である、家の中がわかってしまうから本当は信用がないと家の中には入れるべきではない
それで私は大金を失い大損した、私自身も犯罪にあっている
まず信用を得るにはこれは簡単にできない、私自身が人を雇ったりすることをしていないでもほんのささいなことでも家で働いてもらうことで一番重要なのは信用だったのであるなぜなら何か物がなくなると盗まれたと思うからである
家の中のことがわかるとそうなゃやすい、それでアメリカでは金持ちの家で雇われる人を手伝いさんを裸にして働かせたという、必ず盗まれるからそうなったのである
家の中には入り働く人は特に信用が大事になる、だから手伝いさんを雇う場合、他で十年働いて信用されたとかなれば安心だとして雇うとなっていた
そのことが私にもわかった、やはり五年間くらい一緒に暮せばその中で何かいざこざあり疑うこともあるがやがて互いに信用関係が築かれる
人間はとにかく何でも時間がかかるのである
そして人間の生きる時間が短い、だから熟年離婚は相当に損だと思う
60以降離婚してまた結婚したとしても信用関係が築かれるのか、ただ金目当てで結婚するとかあり信用できないとなる

いづれにしろ現代は広域グロ−バル化社会であり信用することがむずかしい社会である
田舎だって隣の人が何の仕事をしている人かわからなくなっている
子供の時から大人になるまですぐ近くに家をもって住んでいた人がいなくなった
その家の人とは何も話すこともなかった、第一夫をその家で見かけたことがないのである遠くで働いていたためである、おそらくだから仕事関係で遠くにまた移住したのだと思うただ家をもっていたのだから移り住むとういのもわからない、その家のことはだから不思議であり都会と同じである
また市営住宅の隣に住んでいた人が死んでいて二カ月間も隣の人が知らなかった
これも不可解であった、別に近くに兄弟が住んでいたのである
でも付き合いがなかったのだろう、電気がついていたので死んだのを二か月間も知らなかったのである、だから今は田舎でも都会化しているのである
仕事を地元でしているとは限らない、建築土木関係だと遠くで仕事をする
その人は九州の佐世保に足場組みの仕事に行ったというのも驚きである
青森に行った人もいる、これだけ全国で仕事しているのである

●広域化グロ−バル化社会の信用問題

とにかく現代の問題は様々ある、やはりこの広域化社会というのもグロ−バル化も大きな問題である、もちろんそのいい面がある、でもまたマイナス面もある
その大きなものが信用できない社会になっていることである
コンビニでもなぜそんなにしてまで人を疑い犯罪人とみているかとなるといつも盗まれているからそうなる、そうなるとどうなるのか疑心暗鬼になる
どうしても損するから人は常に見知らぬ通りがかりの人だから疑うとなる
だから必ずしも店の人とかばかりを責められないのである
要するに互いに信用しえない社会になっているからである
なぜなら村社会のようにいつも同じ場で共同で仕事している人とは違うからである
だから村社会では容易に商売人は入れなかったのである
取引でも神社で無縁な人達が商売できたのである、神社は縁結びにもなるがそういう自由な市場にもなっていたのである、無縁な人を受け入れる場所としてあった
それはそもそも外から来る人を信用できないからである
関所があるのも外から来る人を信用しないからである、これが人間としては当然だったとなる、

でももはやいかなる関所もない、見知らぬ人が入ってくるが常態化したのが現代社会である、車であればどこにでも行ける、かえって遠くが近くなり近くが遠くなった社会である、でも信用となるとそうして外から来る人は簡単に信用できないとなる
ただ近くでも今は信用できない、それで私は犯罪にあっているからだ
そして近くにそういう犯罪する人がいると困るのは内部の人に裏切る者がいるということは安心できない社会になる
外からの犯罪者は一時的であり通りがかりでありいつもいるわけではない、でも近くだとまた狙われるのか盗まれるのかと警戒して疑心暗鬼になり安心して住めなくなるのであるだから近くで犯罪が起きるのは怖いのである
でも今や近くでも村社会とは違ってつながりが希薄になり金だの社会となると犯罪も起きやすい、互いに信用していないからである、またつながりがないからである
それで皮肉なのは東日本震災の時、しきりに「絆」を言われた
でもその絆とは内部のものではなく外部との絆だったのである、なぜなら外部から来た人達が復興のために働いていた、ボランティアでもそうだった
でも被災者は何もしない、パチンコだとかで遊んでいたとして怒っていたのである
つまりこれも広域化グロ−バル化社会で起きたことなのである

広域化グロ−バル化社会で通信が発達してインタ−ネット社会になったときでも相手のことを信用することはむずかしい、そこでも新種の犯罪が起きてだまされるとかなる
常に技術が発達してまた新しい犯罪が生まれのが人間社会である
ただ別にインタ−ネットだから信用できないとういことはない、でも信用するとなるとむずかしくなる、信用には互いに協同するとかの体験と時間が必要なのである
そういうことがないと信用は築けないのである、一朝一夕に信用は得られないのである

●信用を得るには時間がかかる

例えばなぜ侍社会で信用が生まれたのか、それは戦国時代なら共に命をかけるから強い絆が生まれた、殿様がいて忠誠を誓う、まるで家族のようになったいた、だから御家に尽くすとなる一つの堅固な共同体が形成された
そこに忠臣も忠義も生れたとなる、それも一代ではない、代々受け継がれて扶持を得て暮らしていたからその絆も強いものだったのである
それもやはり時間があってできたことなのである、一朝一夕に信用関係はできるものではないからである
つまり人間で大事なのは信用なのである、だから信用されれば例え金持ちの家に手伝いとして勤めるにしてもその主人に信用されればその勤める人も信用されてやがて金持ちになることもありうる、重要なことをまかせられるようになるからである
それは会社でもある、ともかく互いに信用して共同して働くことが簡単にできないからである、それで会社でも常に横領とかあったり裏切りがあるのが常だとなるからである

ともかく今は田舎でも実際は都会化している、それは広域化グロ−バル化した社会であり仕事でもそうである、狭い村社会で生活している人はいないからである
常に車が行き来している、働く場所は車で通うからである
でも外から来る人は信用できないということはある、でも全部がそうかとなると違う
ユニットバスを作った優・創建(仙台市)とかは百万で作った、それはいいものであった
でも地元で作る二百万と以上になっていたのである
こういうことはやはり広域的グロ−バル的に競争を強いられている社会だとなる
こういう会社が入ってくれば地元で仕事を奪われるとういことがある

でも金だけから見ると安いからいいとなる、でも後で故障したりしたら修理とかが簡単に頼めないとかあり問題はある、だから何でも外部から来たものが安いといってもいいとは限らない、でもそもそも現代はそういう広域化社会グロ−バル化社会に生きているのだからそういう社会に適合する他ないとなる
ただそこで問題なのが信用なのである、グロ−バル化でも中国でも大きく巨大化して日本が攻められ乗っ取られるとか問題になる、巨大な市場があるから日本で売ればいいしもうければいいとなるが逆に国と国が対立すれば争いとなり貿易もできなくなる、肝心の物すら入ってことなくなるのである、特に食料はそうである、これは自国優先になるからである、人間と人間でもそうだが国と国でも信用があってこそ貿易でも成り立つ、それが外国になると信用できないとなる、つまり人間は個々人でもそうだが信用しえないということである
インタ−ネットでも信用が問題になる、それでわからないにしろブロックチェーンで信用を築くシステムを作るとかなる、インタ−ネット社会でも信用が一番の問題になるからである

posted by 天華 at 11:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年11月07日

相馬市の中村喫茶店が閉店した、他にもイオンが閉店した相馬市の衰退 (純喫茶は全国的にも消えてゆく)


相馬市の中村喫茶店が閉店した、他にもイオンが閉店した相馬市の衰退

(純喫茶は全国的にも消えてゆく)

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ここに五本松があり次に枯れて三本松になり遂には松は全部消えたのである
何かこれも淋しい、喫茶店も消滅してゆく、限界集落とかも消滅してゆく
温泉街も廃墟化したのには驚いたからである



喫茶店数は30年で半減! 「純喫茶」はこのまま絶滅してしまうのか

全日本コーヒー協会によれば、喫茶店数は1981年の15万4630がピークで10年後の91年には12万6260、そして2016年には6万7198まで減少している。つまり、なんとこの30年間でほぼ半分にまで減っているのだ。

 これを受けて近年叫ばれているのが、「純喫茶の絶滅危機」である。

 『絶滅危機?昭和レトロな純喫茶 「文化残す」受け継ぐ若者の思い』(毎日新聞 21年10月4日)というニュースも近年増えてきている。

 明治に西洋から「カフェー」という文化が入った当初、ここは文化人や上流階級の人々のサロン的な役割だった。

 「喫茶バー」や、画廊だったが珈琲を出すようになった「画廊喫茶」もあれば、音楽を延々と流す「ジャズ喫茶」、漫画をたくさん置く「漫画喫茶」もできた。その中でも1960年代に爆発的に増えたのが、若くて美しいウエイトレスがウリの「美人喫茶」である。

 創業60年を超えるある老舗純喫茶は、Wi-Fiや電源を新設して「リモートワークできます」と掲げてコロナ禍でも売り上げを伸ばしている。
 https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/902102?page=6
 
道の駅の近くの六号線にあった喫茶店も閉店した、道の駅は新しく開業したが魚は売っていない、でも食堂はあるし休める、ところがコーヒーを飲んだりしして休む場所がない
食事するところはあるがくつろぐ場所がない、何かコンビニでも休む場所があるのはまれである、これも困るのである、ただそれは商売になると無駄だとなりそうなる
コンビニだと狭いからである

喫茶店は1980年代が最盛期だった、だからずいぶん昔になったのである
その頃まだ若者が多かったからかもしれない、喫茶店に若者が集まっていたからである
私は喫茶店というときどうしても旅行して休む場所としてくつろぐ場所としてあった
そこで詩作したりもしていたからである
ただ喫茶店はその頃青春時代を過ごす場だったのかかもしれない、恋人との出合いの場所とかなっていたのかもしれない、だから若者の熱気であふれていた
とにかく団塊の世代とかは若者が多くそれがムーブメントになっていた
学生喫茶とかあり歌声喫茶とかありそこでみんなで歌って青春を謳歌したとなる

1955年(昭和30年)、東京・新宿に「カチューシャ」、「灯」がオープン。これをきっかけとして東京に歌声喫茶が続々と誕生する。労働運動、学生運動の高まりとともに人々の連帯感を生む歌声喫茶の人気は上昇し
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%A3%B0%E5%96%AB%E8%8C%B6

これは政治とも関係していて左翼の集会の場所となっていた、私は歌が苦手なので東京の大学で学生運動があっても喫茶店というのにはあまり行った記憶がない
ただ50年前となると忘れるのである
確かなことは喫茶店は若者が集まる場所だったのである
でも今高齢化社会になったとき中村喫茶店ではビートルズの曲を流していてバンドもそこでしていた、その人たちは昔をなつかしんで集まっていたのである
ビートルズは団塊の世代とかが熱狂したからである
そうなると老人が昔をなつかしんで集まる「老人喫茶」にもなってしまう
喫茶店は結構金がかかるから今の若者は金がないから入らないし若者の人口も少ないからはやらないとなる、今どこでも喫茶店に集まるのは意外と老人になっているかもしれないこれだけ老人の数が多いとそうなる、老人が集まれば昔の話に花が咲くとなる
だからこそ中村喫茶店もビートルズの曲を流していたのである
ただこういうことは時代に合わないともなる、なぜなら老人も今は金に余裕ある人は少ないからである、特に地方ではそうである、また喫茶店より飲み屋の方が肉体労働者だったら集まり安いからである、でもそこでも金がないと行けないとなる

とにかく何でも時代の影響がある、流行がある、その流行を若者が作っていたのである
若者が新しいものを作っていた、流行を作っていた、今はその若者が減少しているから
若者文化は生まれないともなる、地方ではしきりに嫁になる若い女性が都会へ東京とかへ流出して若い男が結婚できないとしている、今同世代の老人でも娘が結婚して東京に行っている人がかなりいる、地方に田舎に残った人は少ないのである
それはまた若者の働く場所がないことで男でも結婚相手が見つからないのかとなる
地方の仕事はどうしても建築土木とかであり知的な仕事は限られている
だから公務員とか教師とか郵便局とか銀行員とか農協に勤めれば田舎ではエリートだとなっていたのである、今になると郵便局でもゆうちょでも銀行でも農協でも経営が苦しいから変わったのである、それは全国的なことである
地方には活気がなくなっている、ただ地方には田舎には田舎の良さがある
私が一番常に気にしているのは景観なのである

喫茶店でも前に紹介したが

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ここは景観がいいのである、一番景観がいいのは鹿狼山の花木山の喫茶店である、太平洋を一望できるからである、ただ自転車で行くのに遠いから三回くらいしか行っていない
そこは喫茶店というより休息所である

洒落た建物であり前は畑で見晴しがいい、バラの園にもなっているからいい
でもここでも数回しか行っていないのである、だから常連客にはなっていない
でも景観がいい場所にあるのは気持いいのである、だから原町だと喫茶店が景色のいい場所にない、海の見える場所にあればいいと思う、六号線でもそういう場所にあればいい
また花が好きだから花屋兼用の喫茶店などでもあればいいと思う
ただやはり時代に合わせないと商売はうまくいかないのだろう
高齢化社会の客は老人になってしまうからである、若者の数が少なすぎるから客になりえないのである

また老人にしても年金暮らしであり金に余裕がある人は少ないから老人相手の商売は成り立ちにくいのである
ただ商品でも老人向きのものがでていないというのは確かである
なんでも若者向きだというのも矛盾なのである、だから金がある老人でも買うものがないと言う人がいる、スマホでも操作がめんどうなのである
老人に向いているのはスローなものであり何か昔を語り合うとかである
だから車などは向いていないかもしれない、そのスピードが速すぎるからである
老人はとにかく過去を思い出して語り合うことに向いている
過去でも昔でもやはりその経験したことが違っているからである
だから私は老人からそうして昔の話を聞いて郷土史を知る、そこに老人の存在意義があるからである

とにかく相馬市で中村喫茶店は城下町の雰囲気に合っていた、レンガの喫茶店なのもレトロで合っていたし市内にあるからそれなりに人が集まると思っていた
隣が庭になっていて藤の花がきれいだった、それが売りでもあった
それが閉店したのは残念だった、それも一二年くらいで閉店したのはなぜなのか?
老舗の喫茶店ではないのである、つまり現代社会に喫茶店が合わなくなったとういことである、喫茶店は地方で維持するのは相当にむずかしくなっている
ただ原町に確かに通信してテレワークできるような場所ができていた、また新しい店もできていた、だから原町には新しいものができる
でも相馬市は城下町であり城下町の雰囲気を壊す街作りは合わない、だから原町と相馬市の雰囲気は相当違うのである

でもイオンとかなくなるとこれも影響が大きいと思った、何か寂れた感じになる
あそこでいつも休んでいたからである
そしてそこでは相当数の人が働いていたのである、するとその人たちが失業することも影響が大きい、でも別に地元で暮らす人スーパーが他にもあり困ることはないだろう
イオンの危険は地元に根ざすより東京の会社だから撤退することがある
するとそこが空洞化して影響が大きいのである、それを私も感じた
だからイオンとういのは土着的ではない、チェーン店はこういうことがあるから困ることがある、でも現代は小さな店は商売にならないのである
そうはいっても結局商売も時代によって常に変化して変わらざるを得ないのである
それに適応しないか改革しないと取り残されて衰退するのである
それがグロ−バル化した経済でも日本が世界に遅れたのと同じである
IT化に遅れて貧困化したとかあるからだ、ただなんでも新しいものがいいとは限らない
伝統的なものにも価値があるか、昔ながらの良さが必ずありそれも見直されるのである

中村喫茶店の庭とかレンガの建物や花屋とかしていたけどそれをどうするのだろうか
何かもったいないと思った、隣の家は壊されていた、あそこはやはり藤の花がきれいだから何か活用すればいい、庭は五百万円かけて作り直すことができると言っていた
それもできずに終わった、ただ城下町に合ったものをここで継続すればいいと思う
問題は資金である、それはやはり金を集めることが必要になる、市民の協力が必要になるでも喫茶店だけではもう経営できない時代だからどうするのかとなる
相馬市には他にも喫茶店はある、でもかなり少ないし喫茶店は消えつつあるのが現状である、書店も消えてゆくのもそうである、どうしても時代の影響がありそうなる

結局私が寄って休んだのはドライブインの店だった、結局これも車社会だからこういうものができて成り立つ、時代の影響を商売でもまねがれないのである

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 藤の花と相馬の城下町 (中村喫茶店の藤の花)
 http://musubu.sblo.jp/article/188664973.html
 
 喫茶店は場所がいいと価値がある
 http://musubu.sblo.jp/article/189432870.html
 
posted by 天華 at 10:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年10月29日

統一教会が批判されて創価公明が批判されない怖さ (マスコミは時の権力を持つ側につく‐ナチスになる危険)


統一教会が批判されて創価公明が批判されない怖さ

(マスコミは時の権力を持つ側につく‐ナチスになる危険)

●統一教会より創価が危険

旧統一教会を問題視するマスコミの問題点


(統一教会と創価学会の違い)50歩100歩。


そのため、安倍元首相の殺害事件をきっかけに、特定の宗教を過度にバッシングしたり、その活動を制限したりといった、事実上の「宗教弾圧」が始まることは避けるべきだ。

国民が今統一教会問題でこれほど騒いでいるのになぜ創価公明については批判しないのか?
このことが本当にかえってマスコミでも一言も問題しないことにこそ大きな問題が浮上していたのである
統一教会とか会員数にすれば創価と比べたらとるにたらない、そもそも統一教会員と直接接している人などどれくらいいるのだろうか
エホバだと一万の人口でも集会所が一つくらいあるからエホバに接している人は多いのである、統一教会員など聞いたことすらないのである

だから逆になぜこんなに大騒ぎしているのか?

それよ創価公明こそ大問題なのである、それがしていないということこそ大きな恐怖を感じた、何か統一教会がこれほど騒がれるのにマスコミで問題にしているのに創価のことは一言も言わないのである
余りにもと統一教会が責められるがどうして創価公明は一言もマスコミでは言わない

マスコミは最も大事なことを報道しない!

これが明確になったのではないか?マスコミは巨大な権力がある団体は批判しない
また聖教新聞などをすっているので金をもらっているので批判できない
そもそも新聞などは金がかかりすぎる、するとどうしても団体の組織の援助が必要になるそれが宗教団体でもいいとなる、金がかかりすぎてそうなる
それは選挙でもそうである、金がかかりすぎて金を持つ団体に左右される
選挙に金がかかりすぎているからこれらをなんとかしないことにはもう選挙で勝つとなると必ずそうしたカルト団体だろうが何だろうが票集めしなければ勝てないからそうなる

確かに創価では統一教会のような悪どい金集めはしていない、ただそれは数で金を集めている、新聞でも何百万部売れれば金になる、統一教会だと数で金を集めることができないから高額な金を集めるために信者が犠牲になっていたのである
ただ不思議なのは人間は金にはシビアである、そんな簡単に金など出さないのである
いくらいろいろ脅されても金だけは出さないのに出していることも理解できないのである

●宗教がビジネスとして成功しやすい、金になるから権力を得られるから集まる

宗教と経済(宗教は金を集めやすい―成功しやすい)

このサイトで宗教が商売になりやすい、宗教も経済と切り離してあってはならないという宗教は金になる、税金もかからないから金が集まる、それでその金を目当てに御利益を目当てに人が集まるとしている
つまりカルト教団とは宗教を装って商売しているのである、だから相当に悪質なのだけど不思議なのは国民でも容認している、悪徳商人でもあるが税金も払う免除されて宗教を利用したあくどい商売が許されているとなる

そのため、安倍元首相の殺害事件をきっかけに、特定の宗教を過度にバッシングしたり、その活動を制限したりといった、事実上の「宗教弾圧」が始まることは避けるべきだ

ダイヤモンドでもこんなことを言っている、これも危険だと思う
宗教でないものを宗教と認めることである、宗教弾圧などと言っていると今度は逆にナチスのように弾圧される方になる
宗教というのは一面危険なものなのである、日本の戦争だって天皇がかかわ現人神(あらひとかみ)として民族的ナショナリズムの戦争となったからである
そのために初代の創価の会長の牧口恒三郎が獄死したのである
また三島由紀夫がなぜ天皇は人間宣言したのかと怒り自刀とした
宗教戦争にもなり三百万人が死んだ、だからこそ靖国神社に英霊として祀られているとなる、それを全部否定するということではないがやはり政教一致であったことに問題があった、慰霊は必要でも政教一致になることはもう妥協がなくなる
天皇のために殉教するともなる、それは間違ったものでありそのために死ぬことで正当化されるのである
だから政教分離がヨ−ロッパでは法律化した、それはカトリックが政治と一体となり支配した歴史が長いからである

特定の宗教を過度にバッシングしたり、その活動を制限したりといった、事実上の「宗教弾圧」が始まることは避けるべきだ

これも危険なことである、弾圧するとかではない、宗教が政治を積極的にかかわることをしているからである
ただ正直統一教会がそれほど力がある団体なのか、でも現実に政治にかかわり日本の独立を脅かす団体であったことは確かである、だから国家的問題になったのである
でも統一教会自体がそんなに権力を左右するほどの力をもったのかとなるとそうは見えないのである
だからむしろ本丸は創価公明こそ危険な団体なのである
ただ本当に似ている、何か瓜二つでありそれでその矛先が創価公明に向かうことを恐れるとういうのもわかる

その手法が創価公明と似ているのである、創価は二十四時間でも活動は選挙である
選挙に勝つことにすべてのエネルギーを費やすからである
そのこと自体が権力奪取すると毎日活動している、題目や拝むのも選挙で票をとるためであり座談会の目的も票をとることである
選挙で勝つことが信仰の最大の目的でありそのために団結する
だから完全に政教一致なのだけで自民党も票を得たいために見逃しているのである
どうしても創価公明と比べると小粒である

統一教会は小粒だからマスコミも批判する!

統一教会を批判してもマスコミにとってはたいして影響がない、でも創価を批判したら新聞社でも地方の新聞社でも福島民報でも聖教新聞を刷っているから批判はできない
毎日新聞も刷っているとか読売新聞でも今度は聖教新聞を配達するようになるとか金を得ている批判できないのである
ここにマスコミの問題がある、youtubeだと創価でも批判しているのである
それは金がかからないからできるのである、プログなどでも簡単だし金はかからないのである

●危険を報道しないマスコミは信用できない

でもマスコミでも何か危険なことを報道しないとどうなるのか?

それは国民が大被害になる、原発事故でも安全神話が政府と東電と一体となりまた検察でも警察でもマスコミでも一体となり安全神話を作ったからである
海上自衛隊まで天下りしていたのである、検察でも警察幹部でも天下りして甘い汁を吸っていたのである
このことが確かに津波のためであっても危険が隠されていたのである
誰も危険を言うこともできなくなっていたからである
だから創価でもナチスのようになることすらあった、なぜなら創価は権力を得るために外務省であれ国の政策を決める場にも会員がいてその人達が創価の指令に従うとなる
そのために会員を送り込んでいるともなる、総体革命とかを目指していたからである
本当の目的は宗教ではない権力を得て日本を支配者になることである

それはオウムでも小集団でも暴力化して権力を得ることでオウム王国を作ろうとしていたのである、幸福の科学でもそうだし他のカルト教団も権力を得ることを目的としている
心がどうのこうのではないのである
だからそういう宗教団体が放置されているとどうなるのか、それを弾圧するのは言論の自由とか信仰の自由を奪うものだとなるのか?
実際の活動は全然違ったもので明確に権力奪取を目的として活動している
統一教会も韓国が日本の政治権力を動かすとういことがあったから危険だったのである
創価でも中国と一体であり中国の命令には絶対服従だとなると中国が攻めて来た時どうなるのか、中国人と一体となり日本の権力を操作して支配者になる
だから宗教弾圧するべきではないとかの問題でもない
むしろ逆に国民が宗教の自由とか宗教団体の法人の自由とかで思想でも言論の自由でも奪われるのである、その認識が甘いのである

いづれにしろ本当にマスコミが報道しないことに重大なことがある

これだけは確かである、報道されなければ重大な危険でも知ることはできない
結果的に国民自体に大きな被害になる

津浪でも実際は相馬藩政記録に二行だけ700人溺死と記されていた、それは400年前のことであり学者すら気づかなかった、でも津波の後にそれが発見されたのである
もしこういうことが発見されて報道されていればここにも巨大な津浪が来ると警戒したかもしれない、でもここには津波か来ない場所だと思い込んでいたのである
ただ東電でも科学者集団が十数メートルの津浪が来ると警告していた
でもそう警告していてもマスコミでは地元でも報道しないから警戒もしないとなっていたのである

●報道の使命は危険を知らせること

報道の使命とはやはり危険を知らせること

ここにあるともなる、なぜなら命にかかわることだからそうなる
その危険もいろいろある、でもカルト教団でも野放しにしているとそれがナチスのようになって日本を支配するとなる
つまりそうなったときすでに遅いとなるのである、そして戦争のように莫大な犠牲ともなる、だから危険を警告する必要がある
宗教団体だから平和な団体とかではない、あくまでも宗教による偽装でありその目的は権力を掌握したり奪取することである、いかに権力を得ることを最大目的にしているか
そういう野心家が宗教の名の下に集まっている、だから平和どころではない、権力を得る為には武装集団にもなる、僧兵にもなるのである

統一教会の会合でも何か手を挙げて気勢を上げていた、その人達に武器をもたせたら戦争でもすることになる、キリスト教とかでも武装勢力になるのである、それがカルトなのである、アメリカの統一教会の文鮮明の息子が武装集団化していることでもわかる
オウムも武装化したからである、平和集団などではないのである
日本の権力を政治を通じてかかわり乗っ取るともなっていたのである、韓国と直接結びついていたことがまた危険だったのである
だからそういう危険を報道しないマスコミはもう信用してはならない
肝心なことを報道しないからである、批判もしないからである

むしろマスコミは信じるな、騙されるな

こうにもなってしまう、確かなことはマスコミも時の権力側につくことである
そして報道というのは世界でもウクライナで戦争があったら必ず欧米側一辺倒になる
もちろんロシアがいいとかでなはい、世界の報道でもやはり日本はアメリカの属国だからアメリカ側の情報しか入らないとなる、世界となるとわかりにくくなるからである
そこで中立的見方ができなくなるからだ
そこにも危険がある、そうして報道されないことで危険なことに戦争にもまきこまれるとなる、中立的見方ができないからである
一方的な見方になって失敗するのである

ともかく宗教とか信仰の自由がある、それを盾にして何でも許されるとはならない
それが集団化して組織化して権力を左右する、積極的に権力を得ることが目的化しているだから公明党が国土交通大臣になることは憲法違反なのである、でもそれが自民党は票を得るために許可しているのである、それは統一教会と同根の問題なのである
でも創価公明は一切批判されない、そのことに大きな危険が潜んでいる
一時創価の会員が増えてナチスのように日本が席巻される危機にもなっていたからであるただ創価だけではない、民主主義からナチスが生まれたように民主主義とはギリシャのポリスのような小人数のものではない、大衆民主主義は全体主義にナチスのようになりやすいのである、すべて数だけで何でも決まるからである、数が恐怖になるのである
何百万の会員がいる、その数がすべてになり政治でも社会でも動かすようになるからである
だから赤信号みんなでわたれば怖くないとなる、それが全体主義でありナチスになったのである、その危険が常にあることを知り備えるべきだとなる

インタ−ネット時代になると多角的な見方が可能になる、マスコミ一辺倒の時代は終わりつつある
多様な見方になるのは地域地域でも必ず違った見方があるからである
また人間の経験することも年代の差でも違ったものになる
だから一つの見方は成り立たない、そこに偏見が生まれる、とにかく何か人間は直接経験していることに真実が生まれる
実際カルト教団でもその中で運動したり被害にあえばその人が訴えればそれが真実だとなる
内部情報を持っている人が真実を語っているとなるからだ
そうでないと真実は隠されやすいし何か危険を感じないし幻想でも信じるとなる
現代は何かありもしない幻想をバーチャルとして信じやすいのである
それはやはりインタ−ネットでもそうした仮想区間になるから現実から離れる場合がある
それも問題になる、でもマスコミだけでもそこは必ず偏るのである
人間は何らかで偏る、なぜなら人間は万能でもないから複雑な社会で専門家でも偏るからである
だから多様な見方があり一つの色にナチスのように染められないことが大事なのである

『公明新聞』を印刷している新聞社系の印刷会社、毎日新聞グループの東日印刷など26社、
新聞ジャーナリズムが機能しない客観的な原因に




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2022年10月18日

日本のあるべき姿ー小国寡民 (日本は島国で資源もないから豊になれないーでも平和であることが肝心)


日本のあるべき姿ー小国寡民

(日本は島国で資源もないから豊になれないーでも平和であることが肝心)

資源に乏しく、国土も狭い。原材料、食料の海外依存度が高い。人口が減り続けることによる労働力不足。でもそれでいいのかも。所詮、小さな島国日本。平和であるならそれでいい。

日本は石油とかでも資源がない、ロシアなどは石油でもガスでも資源があることで大国となっていた、だから別にドルを使わなくてもルーブルでいいとなった
でも石油でも中東から買うのに他の国はドルで買う、ロシアは石油を買う必要がないからルーブルでいいとなった、つまり富とは紙幣とか貨幣とかにはないのである
いくら紙切れの紙幣を積んでもそれは所詮紙切れになる運命にある

富とは何なの?

資源だけではない、現代では科学技術力が富になる、欧米が力を持ったのは科学技術力である、ヨ−ロッパは特にそうである、アメリカは資源もあり技術力もあり豊かになった
軍事力も豊さを作る、覇権国になり基軸通貨にドルがなっているからだ
日本は科学技術力で世界の競争に負けた、高度成長時代は特別優れた技術力というものでなくても電器製品が売れたから豊かになったのである
その科学技術力も中国であれ韓国に追いつかれて抜かれたともなり貧困国になってゆく

日本はそもそも大陸国家のようには豊かになれない国だった
そして日本は地政学では島国でありそれで300年の鎖国がありえた、そこに300年間戦争がないということは世界の歴史でも奇跡的だったのである
それができたのはまだグロ−バル化していない時代であり外国とかかわらないことでも
それで国が継続できないとか破産するとかはなかったのである
確かに貧しいとしても国自体が破綻するとかはなかったのである

富とは何かとなれば紙幣とか貨幣にはもともとなかった、最近証券の証券化債権化とか起きているという、それも不思議なのだけどそれは単に紙幣を増やしているにすぎずその証券も債権も紙切れだから紙切れにもなるという、いくら証券とか債権とかでもそれは紙幣と同じく紙切れになる、実際の富は現物でありまた技術とかも関係している
だから極端な円安とかなるのは紙幣にはもともと価値がないのだから紙切れだからそうなる
紙幣にしてもカンボジアとかベトナムとかネパールの紙幣をもってきてもそれは本当に紙切れにすぎなかった、それに比べればドルは違っていたのである
だから日本の経済が弱体化すると恐怖なのはカンボジアのようにな紙幣になる
それも恐怖だがそもそも紙幣とか金自体には価値がないのだから大きく変動して紙切れになっても不思議ではないのである
要するにいくら紙幣を紙幣を貯えても安心はない、それは本当に紙切れになる

本当の価値は現物にある、米であれ野菜であれ木材であり石油であれ石炭であれ工業製品であれ現物こそ変わらぬ価値がある、紙幣はいくら貯えていても紙切れになる
だから銀行であれ国であれいくら紙幣を作れるとしてもそれが富にはならないのである
それでグロ−バル化経済で金融で証券でも債権でも操作して架空の虚の富を作り出しているとされる、だからそれせリーマンショックとかなり金融市場の崩壊現象のようなものが起きて来る
つまり銀行であれ国であれいくら紙幣を金を貯えてもそれが富にはならないとなる
世界に売れるもの、車を作れば富になる、また何か世界に売れるものがあれば富になる
その富はどこから作りだされるのか?それは金融の操作では作れないのである

日本はもともと経済的には豊かにれない国であった、大陸だと資源もありアメリカでも馬鹿でかい土地を持っているし富が国に蓄積される
それは中国でも皇帝となれば王ともなれば地下にまで大宮殿を作って墓ともなる
その富が支配者階級に蓄積されてそうなった、今でも共産党幹部は兆もの金が労せずして入るとかなる、それは支配者階級に富が集中するからである
日本はもともとそれだけの富を産めない国だからそうはならなかったのである

ただ日本は大陸のような熾烈な民族抗争もなかったし貧乏でも平和な国だった
鎖国はマイナスともなってもそこで300年間も平和がつづいた、戦争がなかったということは世界史では稀有なことだったのである
それは明治になって日本も世界の戦争にまきこまれて遂に太平洋戦争で3百万人も死んだとなる、こんなことは世界の戦いに巻き込まれなかったらありえないことだったのである日本はアジアの覇権国になろうとして失敗したのである
そんな強国になりえなかったのである、日本は島国で貧乏でも平和な方が良かったのである、覇権国となると確かに豊かにはなれる、それを担うとなるとアメリカであれ中国であれロシアであれその負担は馬鹿高いものとなる
日本はそもそもそんなことできる国ではなかったのである

結局老子が2000年前に説いた小国寡民が平和なのである、大国化することが平和にはならない、日本はもともと小国寡民の国だったのである
だからこそ平和な国でありえたのである、それは地政学的にも島国で恵まれていたからである、海に囲まれていて海が自然の防衛を担ったからだとなる
大陸だとどうしても陸地がつづいているのだから国境争いがあり戦争が絶えなかったとなるからである

いづれにしろ紙幣に貨幣に本当の価値がない、だからこそ極端な円安にもなる、でも資源の価値はそんなに変動しない、石油が一時安くなってもやはり回復した
つまり石油の価値は基本的にはなくなることはない、多少の変動があっても価値がありつづけるのである、そこに資源がある国は強いとなる、アメリカが強いのは資源国でありまた科学技術に優れているからだとなる
日本は資源もないのだからどうしても大国にも強国にもなれないのである
だからどうしても独立志向でもアメリカか中国に従属するほかない国だとなる

ただ従属する国を選ぶだけでありとても太平洋戦争のように覇権国になることはできないそれは歴史か証明したのである、中国でも十数年前まで後進国だったのにみるみる巨大化した成長したことに驚く、中国とはそもそも国自体が巨大でありそういう潜在力があってそうなったのである、日本にはそうした潜在力がポテンシャルがなかったのである
つまり身の程を知れということであり日本は過剰に日本を誇大化して見ていたのである
それが太平洋戦争でアメリカに打ち砕かれたのである
ただ明治維新で世界に伍するようになったことは不思議だとなる、鎖国から一挙に世界の国と伍するようになった、でもそこには相当な無理がありそれが太平洋戦争で破綻したのである

日本は日本なりの道がある、それが何になるのか、とても覇権国になどなりえない国なのである、だから問題は覇権国を選ぶ従うことだともなる
それが悪いともならないのである、だからかえって問題があるにしろアメリカに負けて従属してもそれが豊になることでもあったからだ
とても日本は覇権国家にはなりえないのである、ただ平和を維持するにはどうするのかということが問題なのである、自ら覇権国になることではない、そんな力はない
すると中国側につくより欧米側につくほかないとなる、そこでは一応自由は保証されるとかなる、ただ覇権国には従わざるを得ないともなる
でも中国に従うよりはましだともなる、そこには確かにいろいろな問題があり簡単には言えない、でも中国に従うと自由などなくなる、完全な属国となり自由は奪われる
日本はそうした選択を強いられる、日本が覇権国になれないのだからどうにもならないとういことである

経済でも食料などでも自給することである、それはウクライナ戦争とか何かなると食糧を入ってこないからである、アメリカではトウモロコシをとれても食糧として輸出しない
餓えている国があり人達がいても安くは売りたくないからエタノールにして売る
つまり世界ではアメリカは人権とか人道とか言っても上辺だけであり自国の利益優先なのである,グロ−バル化経済というのはこうしてリスクがある、互いに助け合うことではない、どこでも自国優先なのである、まず自国民を食べさせなければ国が成り立たないからである、だから食料を他国に頼ることがいかに危険であるかが今回の争乱で証明されたのである、他でもなるべく自国で供給する体制を作っていることが安全を計る防衛にもなるそれは軍事力だけではないのである
本当に武力だけで平和が守れるのか?中国の防衛費はすでに日本の十倍である、そういう国と戦えるのかとなる
貧困化している日本にそんな財力はもうないのである、すでに自国防衛自体が不可能なのである
最右翼の人が日本は侍の国だから戦う精神をなくしたら終わりだとかいうけどそれは時代錯誤になる
そもそも刀で戦う時代ではない、ミサイルとか核が飛んでくる時代に戦争ができるのかとなる
軍事力を増強してもそれが防衛になるのか疑問である、ただ防衛としても食糧自給とかはできるのである、食糧自給できなくなったら戦争にもなる
だから自国でなるべく自給する体制をしておくことが必要である
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2022年10月08日

汽笛一声!文明開化を決めた資金調達若き大隈・伊藤の挑戦(NHK英雄たちの選択) (鉄道開設に見る明治維新―鉄道開設百五十年)


汽笛一声!文明開化を決めた資金調達若き大隈・伊藤の挑戦(NHK英雄たちの選択)

(鉄道開設に見る明治維新―鉄道開設百五十年)

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●鉄道開設でも日本は欧米の植民地にならないために苦慮した

当時の国庫には余裕がなく、「植民地主義を推し進める西洋列強に対抗するための軍備増強を最優先すべし」と唱える西郷隆盛らは、鉄道建設に猛反対。さらに、藩邸や兵部(ひょうぶ)省(軍務機関)の海軍操練所などがあった新橋から品川にかけての土地の買収問題も鉄道建設の行く手を阻みました。

日本初となる鉄道の敷設事業は、民部・大蔵両省の大輔(次官職)である大隈重信の主導のもと、民部省鉄道掛(がかり)により進められることとなった。

大隈は佐賀藩の出身で、精煉方が製作した蒸気機関車を見ていただろうし、西洋文明を尊重する土壌に育ったことも大きかった。日本を近代化させ欧米列強と肩を並べるためには早急に国を豊かにしなくてはならない。その一つの手段として、交通制度の整備が急務と考えたのである。そして「鉄道より軍艦を優先すべし」と主張する反対派を押し切って鉄道敷設を実現させたのだ。

実際に工事を指揮したのは、英国人鉄道技術者のエドモンド・モレル。さらにいえば、建設費も主に英国からの外債で調達し、汽車も英国製だった。レール幅は英国の規格に合わせた。ただし英国本国のそれではなく、植民地用の狭いゲージ(軌間)だった。このため、日本の鉄道は欧米よりずっと狭くなり、列車の幅も細くなってしまった。

資金や資材の調達は、パークスから紹介された英国人金融家のホレイショ・ネルソン・

レイに一任していた。ところが彼は、日本政府をだまして利ざやで儲けようとした。これが発覚すると新政府はレイを解雇したが、すでに中古の汽車や狭いゲージのレールが発注されていた。のちに大隈重信は、狭いゲージを採用したことについて「一生一代の不覚」と悔やんでいる。

いずれにせよ、当初の鉄道は、英国頼りでつくられたものだった。


これは興味深かった、明治維新を鉄道開設から見えるものがあった
明治維新はわかりにくい、良く日本だけが欧米列強の植民地にならなかったという
そして太平洋戦争はアジアの植民地解放の戦争だったという
そういうことは実際は明治維新を知らないとわからない
鉄道開設が明治維新の原動力にもなったことを知らないとわからない
なぜなら鉄道開設には巨額の資金が必要だった、その資金をどうするかがまず大きな障壁となっていたのだ

●金をいかに調達するかで苦労

●アメリカの資本家から調達ーでも経営権を渡すことで拒否

●イギリスの資本家からイギリス国家から資金援助を頼む

●国内資金でまかなう

ここに一連の資金調達の経過がでている

資金援助してもらいたいが経営権を渡すとそれは日本が植民地化されることにもつながる国内資金でまかなうべきだとか論議があった、でも急いでいたので資金調達を早くしなければならないのでそれもできなかった
最終的にはイギリスの銀行家が資金を調達できた、それは国家からではなく一銀行家であり経営権は日本にあり利益を出したら配当するということになった
その前にイギリスでも投資家がいて資金調達すると話しがあったがそれは日本が経営するものではなかった、それは契約書を良くみていなかった、まだそうした契約書に慣れていないからそうなった、見落としていたのである
そのことでアメリカではやはりインディアンを契約書でだまして土地を奪ったということがあった、欧米人はこの辺が巧妙であり契約書でもだますために使っていたのである

ではなぜイギリスから資金が調達できたかというとその頃イギリスの植民地化に収奪された国が反乱を起こしたりして政策が変わった、利益を出せばいいとしてイギリスの銀行が資金を出したのである、それは経営権を奪うということではない、日本人が経営して利益を出してその一部の利益を銀行に出すということになったのである

ともかくここで日本人は経営権とか独立して鉄道を運営することにこだわったのである
なぜなら外国資本が入り経営権がないと例えば鉄道を見守るとか保守するとかで軍隊まで駐屯するとかにもなる、実質植民地化されることを危惧したのである
それはイギリスがこれまでしてきたことでありそれを大隈とか伊藤博文はヨ−ロッパとかにも直接行ったので知っていたのである
明治維新の時上海でも高杉晋作が中国人がイギリス人に支配されて苦しんでいるのをじかに見ていた、それで日本は外国に植民地化されてはいけないと肌で感じていたのである
日本はとにかく欧米の植民地化されることを警戒していた
でも鉄道開設に関しては西郷や大久保利通などは薩摩は反対していたのである
軍事を優先するべきとして反対したのである
薩摩屋敷がありそこを鉄道が通ることにも反対したので海の方に鉄道を石積みで敷設したのである

鉄道開設に関してはまた庶民の反対も大きかった、篭屋とか馬車屋とか運送業が反対したりした、何でも鉄道と馬が競争したとかもある、それだけ鉄道というのがどういうものかまだ庶民はわからなかったのである
最初は鉄道の枕木は鉄で作ろうとしたが費用がかかることで木にしたのである
また橋でも鉄橋にしようとしたが費用がかかることで時間もかかることで木で作ったのである
最初はいろいろ苦労があった、その車両でも箱家とか見た人がいたこともわかる
家が移動するように見えたからである

●鉄道事業か明治維新を成功させた

日本は明治維新から鉄道の果たした役割が大きい、その後も日本は鉄道王国にもなった
イギリスがもともと鉄道を蒸気機関車を発明した、それはイギリスには石炭が豊富だったからである、まずエネルギーがないと蒸気機関車も動かない、エネルギーが大事なのである、それで日本の鉄道も常磐炭田があったが石炭を運ぶものとして拡大した
北海道でも石炭の産地でありその石炭を運ぶものとして鉄道は日本中にめぐらされたのである、つまり鉄道は石炭と一体となり発展したのである
鉄道は国家的事業だった、そしてそれは百年以上も国鉄であったことでもわかる
この国家的事業は世界にも拡大したのである、韓国に鉄道を敷設したのもそうである韓国の鉄道は日本が最初に作ったのである、そして朝鮮半島から満州鉄道が伸びて行ったのである、満鉄が日本の満州支配の原動力となっていたのである

ハリマンは、日本の財界の大物や元老たち、桂首相らと面会した際、日本はロシア帝国から譲渡された南満洲鉄道の権利を、アメリカ資本を導入して経営すべきだと主張し、アメリカが満洲で発言権を持てば、仮にロシアが復讐戦を企ててもこれを制止できると説いた[24]。9月12日、彼は日本政府に対し、1億円の資金提供と引きかえに韓国の鉄道と南満洲鉄道を連結させ、そこでの鉄道・炭坑などに対する共同出資・経営参加を提案した


「ひかり」の歴史は、日韓併合(1910年)までさかのぼります。日韓併合に合せて朝鮮鉄道局(以下「鮮鉄」)が設立、翌年の1911年に新義州と安東1を結ぶ鉄橋が完成、長春まで直通する「鮮満直通急行」が運転されました
明治45(1912)年6月、新橋〜下関間に特急(列車番号1/2)が運転されます。それに合わせて関釜連絡線の運行時刻も改正され、さらに鮮満直通急行が釜山にまで延長されました。さらに翌年、運転区間を釜山より釜山桟橋に変更、関釜連絡船との接続が重視されたダイヤとなりました。
船が釜山港へ到着後、目の前に停車している「ひかり」「のぞみ」に乗れば、朝鮮半島経由で大陸(満州)へ。そこからシベリア鉄道に乗ればヨーロッパへ。このルートが、当時の欧州への最短ルートでした。

ロシアから譲渡された鉄道が満州鉄道であった、アメリカを味方にしてロシアが満鉄を奪い返すことを防ごうとした、こういう時代もあった
金のない時代は飛行機が高いので鉄道を利用した、ウラジオストックからシベリア鉄道でヨ−ロッパへ向かった、日本からヨ−ロッパに行くには鉄道を利用したのである
私はウラジオストックからシベリア鉄道に乗り満州を回り日本に帰ってきた
外の景色はとうもろこし畑ばかりで飽きた、変化がないから飽きた
ただ満州となると相当に寒い場所だったのだろう、春だったのか大地が凍てついていたのである、日本人だったら満州の広さに驚いたろう、農業が主な時代だとどうしても土地が必要であり満州のような広大な土地があるということは驚きだったとなる

●明治は植民地化されなかった偉大な英雄の時代

明治を知ることは今の日本を知ることである、でもいろいろと錯綜していて明治維新はわかりにくいのである、確かなことは欧米列強の植民地化することに抵抗して自立するという意志が日本人にあったということである
これは日本だけがアジアでできたことでありそれは誇りとすべきものだった
でも太平洋戦争は確かにアジアの植民地支配からの解放というけどまた違っていた
とにかく明治は偉人が様々な分野で輩出した、それはなぜだったのか?
その偉人とはたいがい侍が多かったのである、だから明治維新は侍が成したものであり庶民ではないのである、侍が優秀だったから成したともなる
例えば宗教の分野だと内村鑑三がいる、彼も独立信仰を唱えた、外国人の宣教師を嫌ったのである、これも明治になかなかできないことである

カトリックとなるとそうしてヨ−ロッパ人に支配されたともなるからだ
内村鑑三が武士道とキリスト教を一体化したのである、ただ彼はヨ−ロッパの文明をキリスト教文明と見ていた、鉄道とかではない機械とかではないものとして見ていた
でも日本は鉄道とか機械とか便利なもの実用的なものを西洋文明として見ていたのである常にモラルを重んじていた、それも先見の明があったとなる
なぜなら今や日本人にはモラルすら消失したともなるからだ
ただそうして便利なもの機械とか道具が文明として追及してきたからである
不思議なのは仏教を取り入れた時はそこに確かに大仏とか仏像を作るとか寺院を作るのは技術力である、そういうものを取り入れたとしても本質的には精神的な仏教を取り入れたのである、でも西欧文明を取り入れる時日本は物質的なもの機械とか道具をその文明とみて取り入れたのである、その最大の象徴が鉄道だったのである

そういうことがあってもなぜ明治が偉大だったのか、その理由はやはり侍がいてその侍が日本人として独立心があり優れていたからだとなる
ただ現代をみれば侍などいない、太平洋戦争で戦った人たちはもう江戸時代の侍とはかけはなれていた、そもそも世界的にも戦争は貴族がしていたものだから外国でも何か違っていた、でも国民戦争になるとき戦争の形態が変わったのである
大衆戦争ともなったのである、機械戦争ともなったのである
だからそこに英雄がいないということでもそうである、英雄というときそれは極めて人間的な人だからである、でも現代の戦争には英雄は生まれない、ただ機械と物量の戦争であり人間的なものがなくなる、人間はただ機械より劣るものであり英雄は生まれないのである、ただ何か物のように人間が消耗されるのである
それは戦争でなくても文明は人間を物のように消費しているからだともなる
現代の戦争からは英雄が生まれないのである、ただ命が物のように消耗されるだけだとなる、そして死ぬ数が莫大なのである、何千万人も死んでもそこに一人の英雄も生れないのである

ともかく何か明治維新とかは人間的なのである、人間のドラマがある、だからこそドラマにもなる、太平洋戦争とかではドラマになりにくい、もちろんナチスとかでもそうであるただ大衆戦争であり人間の莫大な命が消費されるだけだともなったのである
核戦争になればもうそこには人間はいない、もう戦争することは人類滅亡にもなる
そういう危機がウクライナ戦争で迫っている、時代によって戦争の意味も変わった
もう戦争自体が核戦争となると人類滅亡の戦争となるだけなのである




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2022年09月28日

安倍前首相の国葬の是非―祭政一致が政治でもあった (死者は誰でも美化されるそして生者によって利用される)


安倍前首相の国葬の是非―祭政一致が政治でもあった

(死者は誰でも美化されるそして生者によって利用される)

●死者は美化される

いづれにしろ死者は美化され安いのは過去が美化されやすいのと似ているのである
何かもう過去は人を害することはない、過去の人は人を害を与えないからいい人が多かったとかなるのである、親でも実際生きている時は嫌な面があった
でも死んでみるとそうした嫌な面は消失する
ただ何か今残され生きている人はやさしく見ているだけだとなる
それは何も生者に対して要求しないからである、また何かを与えてくれとも要求しないのである、するとそういう存在はあるとしたら美化されやすい、観音様のようだとかなる
これも不思議なの現象なのである

つまり死者と生者の関係には利害関係はなくなる、何らか人間は利害関係で生きている

過去は美化されのはなぜか?
 (死者は美化されるのはなぜか―利害関係がなくなるのから)


死そのものを社会的に美化したのは明治以降ですよ。
いつからという明確なものではないけれど、美化することによって死にに行く事に抵抗力をなくしているんでしょうね。つまり明治以降軍の力が強くなってからです。

株価も円高も市場が安倍総理と政策を歓迎したのです。

死んだ人のことを悪く言うとバチが当たるような恐怖感がみんなの心の片隅にあるから正直に言えなくなってしまいます。
それと、死んだ人のことを悪く言うと、人から悪い人間だと思われるからです。
結局みんなうそつきってことです。

そもそも安倍じいじが壺を日本に呼んできたのは
団塊が学生運動して国家転覆しかけたからだよ

そもそも安倍前首相が国葬にするほどの人物だったのか?国葬に値する人物だったのか
首相で国葬になったのは吉田首相だけである、すると吉田首相と同等の功績があったのかそのことでも議論すらない、権力者の一方的判断で強行された、民主主義だと常に議論があり是非が問われるがそれもなかった
結局死者は生者によって恣意的に利用される、死者を祭りあげて今生きている人が有利にする、権威を高めるとなる、そういうことはソ連時代の書記でも神のように死ぬと神のように祀られていた、つまり死は無神論者でもその前に厳粛ならざるをえないのである
だから死者は神にもなりやすいのである、生前がどうであれ死ぬと神になるというのは
原始時代からあった、死者は神になりやすいのである
日本でも先祖崇拝となるとき先祖が神となるのもそうである

ともかく自民党の権威を高めるために国葬にしたともなる、祭りは祀るからきているからである、死者を祀ることは祭りになったのである、神聖政治であり政教一致である
政治とは祀ることであり政りごとのことだからである
つまり政治も何かしら権威が必要でありただ権力とか武力とか数だけでは権威は得られない、権力だけでは権威が得られない、だから祭政一致になっていたのである
宗教が政治にかかわってきたのである

●祭政一致ー政(まつ)りごとが政治だった

天皇は国の祭司であり死者を祀ることが仕事にもなる、だから戦没者慰霊蔡が毎年あり天皇が司祭となり死者を供養して祀ることが仕事なのである
国のために死んだのだから国家的行事としてつづいている、それを日本人は否定できないのである、でも韓国とか中国にとってその死者は犯罪人としているのである
アメリカでもそうだったのである、戦争犯罪人をどうして英霊として祀るのかを問題にしている、ただ死者に対して責めないというのが日本の文化でもある
だから戊辰戦争でも官軍の戦死者でも戦士塚として碑を建てて供養している、敵味方塚として供養している、そういう文化があるのは日本だけだとなる
なぜなら大陸だと中国だと民族抗争で熾烈であり民族自体を殲滅するジェノサイドがあるからだ、墓まで暴きたして罰する、日本人はみんな日本人でありそうした熾烈な民族抗争は経験していないのである

ともかく皮肉にも阿部前首相が凶弾に倒れた原因も統一教会とか宗教とかかわりそのために殺された、政治が宗教とかかわりそのとばっちり受けて殺された
宗教と政治がからんでそれが原因となり殺された、カルト教団にだまされて人生を破壊された人がいてその恨みで殺された、ただ政治家は危険な職業である
常にテロに合いやすい、それは様々な人達がいて利害関係がありまた宗教でも安易に票になるとかで野合する、それが危険なのだけどともかく票が喉から手が出るほど欲しいとなり野合する、創価と一体化した自民党自体が野合政権である
そこに危険性がすでにありそのために殺されたともなる
でも政治家は何らか現政権に不満やら恨みを持つ人がいるからテロを受けやすい
でも統一教会がそんなに力があったのかということが理解しにくい
創価ならわかるが10万くらいの信者で自民党を動かすような力をもったのかという疑問である

いづれにしろ宗教と政治は不可分なものとして歴史的にあった、第一邪馬台国のヒメ子かが鬼道で治めたというとき宗教で治めていたとなるからだ
国を治めるにしてもそうした権威が必要であり力だけでは治められないからそうなる
カトリックがローマ帝国にキリスト教が国教化したとき政治化して力を持つようになったその弊害が大きかったので政教分離がフランス革命で起きたとなる
宗教による弊害が大きくなりすぎたのである、そもそも宗教が権力と結びつくと歪められる、なぜなら宗教は個々の心を見ることであり一つの勢力化した権力化した組織団体とは相反するのである、でも社会では心の問題より社会としてはどれだけ勢力があるかで判断する

そして日々会員を増やすことに奔走する、創価ならすべてが選挙に勝つために運動している、統一教会と似ているのである、何か映像みたらみんな集まり気勢をあげて戦う姿がテレビで映されていた、それは何で一致しているのか、日本の政治権力とかかわり日本の政治に影響して金を収奪して国まで収奪しようとする
つまり創価でも目的は日本権力の収奪でありそのために選挙運動がすべての活動として信仰となる、そこで利するのは幹部とか利権にあづかるものである
御利益を得ることが最大の目的である、あとは罪だとか罪障だとか一切問わない、欲望の否定もない、題目をあげてむしろ欲望を強くもって欲望をかなえろしかない
そしてともかく人数を集めてこの世で社会で力を持つことである
そういう団体と一体化して政権を担う自民党も危険である、それはナチスのようなファシズム化の危険がある
でもそうなったのは自民党の票田が農民とか地方から消失して支持基盤が弱くなったためである、一定数の票をが確保しにくくなったためである、そこでカルト教団であれとにかく当選するには票が欲しいとしてそうなったのである

●宗教が権力を持つことの危険

政治はこの世のことである、宗教はこの世となるべくかかわらないで来世で神の国に生きることを目的としているからである、この世にあるかぎりこの世のことにかかわらざるをえなけどなるべくかかわらない、だから運動とかならない、集団化組織して社会を変えようとはしないのである、カルト教団は政治団体でありこの世の権力を得るために日々運動している、統一教会だっから韓国がかかわり政治化して日本とかかわり日本から金を巻き上げて収奪していた、それに組していのが自民党だったということが山上のテロで暴かれた、その首謀者が安倍前首相だったのである、そういうことで自民党が攻められたので
それを隠すために安倍前首相を国葬にして覆い隠そうとしたともなる
死んだ人は罰せられないとなる、でも中国では死んだ人も墓から暴きだして罰している
それだけ激しい憎悪の争そいが中国にあったからだとなる
日本では死者に鞭うつなという文化がある、一旦死んだらその人がどんな人であれ批判はしない、美化されるのである、神となるのである

そもそもなぜ国会での議論もなく自公政権で国葬にできたのかとなる、民主主義的手続きもないのである、権力の怖さはこうして勝手に国民に強制できることである
戦争の時は突然赤紙がきて地獄の戦場に連れて行かれた、それが今ロシアで行われて反対している、権力とは強制できる力を持つことである、だから警察とか軍隊とかと結びついている、警察と軍隊を動かすことができるのが権力だからである
国葬というのもそういう国家的動員をして国民の一体感を高める、でも今回の国葬には反対する人達が多かった、だから国民総意ではないのである
むしろ阿部前首相の悪行が隠されて統一教会問題を自民党は隠して終わりにしたいとしている、そういう政治的意図がある国葬だったのである
阿部前首相がどういう功績があったのかも良く国民にはわからない、むしろ悪行が死とともに隠されてしまった、でもなぜ安倍前首相が死んだ結果オリンピックの賄賂で逮捕された人がいたり司法で悪が暴かれたのか、それは安倍前首相が死んだからだとしている
すると司法でも首相がトップの権力者で逆らえなかったとなる
それだけの権力を持っていたとなる

政治家の側にありては宗教は政治問題として扱われ宗教家の側にありては政治勢力を占めるにいたってその成功が確かめられるのである(内村鑑三)

いづれにしろ政治は宗教を利用して宗教は政治を利用して権力を強固にする
この世の権力は権勢を得ることが政治の目的であり宗教もまた政治にかかわり権力を得たいとなり政治にかかわる、このことが危険なのである
政治と宗教が一体化すれば宗教は批判を許さないから何かあると宗教をもちだして罰当たるとか地獄に落ちるとか脅迫する、それが権力をもったら現実に警察とか軍隊を動員して刑務所に入れることもできる、イスラム世界では宗教と政治が一体だから反対勢力は容認しない、宗教裁判があり法律ではなく罰を与えられる、宗教がこの世の権力を持つとどうなるのか、それを証明したのかカトリックである、この世と姦淫したのがカトリック団体だとしている,ローマ帝国の宗教になったときそうなった
そもそも宗教はいくら強制しても改悛したり信仰に目覚めるとかないだろう
あくまでもそれは自主的な行為であり強制できない、宗教は強制できない、強制する力をもっていない、この世の権力は強制する

宗教自体が権力を持つことが危険なのである、だから宗祖はキリストであれシャカであれ寝る所もなく住んでいたのは岩窟でありそこで悟りを開いたとなる
一人は浮浪者であり一人は乞食だったのである、それが宗教者にふさわしいとなる
なぜなら宮殿に住んでいたり大金持ちだったり栄誉栄華の暮らしをしていたら信仰すれば俺たち庶民でもあのような暮らしができるとなりそうした組織集団に入る
それがカルト教団なのである、世俗的な欲望を達成するものとしてカルト教団がある
だから容易に政治化する、すでに政治団体であり利益団体である、だから税金をとれというのがわかる、営利御利益団体でしかないからである
別に資本主義社会だったら利益を得ることを批判できない、でも宗教化かかわるから問題になる、宗教がかかわるとそもそも宗教でもないのに税金なしで御利益追求ができるとなるからだ

そこに宗教で偽装しているのである、だからこの偽善はいつか矛盾して災いをもたらす
要するにこの世とは人間とは余りにもこうした偽装とか偽善とか偽りが多すぎるのであるそして信教の自由を盾にして批判を許さない、でも実際は本来の宗教でもないのである
規制するという時、組織化団体化した宗教であり個々人の信教の自由ではないのである
組織化集団化自体が権力化することである、キリストが二三人いるところに私がいるというときもう百人でもいたら多いとなる、それがカルト教団になると多すぎるし数を増やして権力を得ようとする、なぜなら十人でも会員が店に買い物に行けば権力化する
会員が十人買うということでも権力化する、店ではそういう組織団体を批判できなくなる民主主義社会では数が力なのである、赤信号みんなでわたれば怖くないが民主主義でもあるのだ、それが極端になると全体主義になりナチスになるのである

●この世は偽善と無駄が多すぎる

自然をみるとそういうことが全くないのである、その美は純真であり偽りは全くない
花を見ても山を見ても動物を見てもそうである、鳥でもそうである
その相違が余りにも大きすぎるのである、その対比でみると人間社会とは何なのだろう
人間とはそもそも何なのだろうとなる、なぜこんなに差があるのか?
何かこの世で仕事するにしてもその職業でも人をだますとかが多いのである
まず金融関係がそうである、銀行など堅い職業だと思っていたが全然今は違う、むずかしい手の込んだ詐欺なのかとも思った、投資信託であれ簡単に理解できないからである
人間の職業は業(カルマ)になっている、何らか必ず職業にはカルマがある
そもそも軍隊とか警察とか医者とかもともとない方がいいのである
なぜなら軍隊が兵士がいないことは平和なのであり警察がいないということは犯罪がないことであり医者がいなければ病気がないということである

そういうものは神の国にはないからである、そこに膨大な力を尽くすことは甚大な無駄だとなる、それで高齢化社会になるとその医療費のために国がつぶれるまでになっているのだ、宗教家なども実際は無用のものなかのかもしれない、極々一部を除いて害になっている、それが膨大なカルト教団なのである、それは実際は害悪でしかないのである
老子の無用の用というとき空地などは都会ではかえって無用の空間でも必要なのであるそこで休息の空間である、びっしりと用で埋め尽くされた建物のなかに空地があることは
むしろ無用でもない必要なのである
でも人間は無用といっても害になる物が多い、人間そのものが害になる人が多すぎるのであく、無用の人にはなれない、必ず害悪をもたらすのが人間である
人間は本当は無用でありえない、そういう人がいたら貴重である
なんらか害を及ぼすのが人間なのである、政治でもそうである、プーチンとかいて戦争を起こして大害悪を作り出し貴重な若い命が無駄死にさせられる
人間は膨大な人間は無益に消尽される、無用ならいいが必ず害悪となるのが人間なのである、自然にはこうした無益なこと無駄なことをしない、自然では何も無駄なことはないのである、人間から無用に見えても無用ではないのである

宗教の専門家などいらないのである、個々人で学べるものであり教会にも寺にもましてやカルト教団などに行かなくても宗教は個々人で学べるし神を知ることができる
かえってそうした仲介者は危険である、金儲けのためとか他者を支配しようとするからである
それは宗教家だけではない、師も危険である、もちろん師にもいろいろあるから全部は否定できない、でも師も偶像崇拝になってしまうのである
だから師というのも危険なのである、師を神のように偶像化して崇める、それはカルト教団ではそうなっている、そしてまるでそのロボットのようになる
師と同一化するロボット集団化する、カルト教団はみんなそうである、全くロボットであハイルヒットラーとたいして変わらないのである、そこに個性は認められないのである
同じ色であり様々な色は認められないのである、メカニカルに一斉に動くロボット集団なのである、それが現代文明の病弊となってナチスが生まれたのである
現代文明は画一化大量生産であり地域性の文化とかを無視する、日本語でも英語にすればいいとか日本文化そのものも否定する、確かに英語は世界の共通語のようになっいるから必要である、でも日本語まで否定することはないのである
むしろ方言とかが見直さらる、方言は国の訛りであり文化でもありそこに温かみがあるからだ、標準語には温かみがないのである、数字のようになってしまうからである












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2022年09月27日

ロシア人の生死をかけた深刻な選択 (他の国でも同じことが起きるし起きてきた)


ロシア人の生死をかけた深刻な選択

(他の国でも同じことが起きるし起きてきた)

russia1.jpg

ロシアで今何が起きているのか、それは生死をかけた選択である
ウクライナと戦うとなると死ぬことが普通にある、戦争は生死をかけた戦いだからであるすると何かそこに意義がないとやれない、それでロシアではウクライナとの戦争に消極的であり士気が低いとされる、ウクライナは自国防衛で士気が高い
それでロシアは混乱している

さらに百万人をも徴兵しプーチンが戦わるとしたら死ぬ確立も高くなる
すると死にたくない、何で死ぬまでして戦争するのか、そういう疑問が生まれる
それも深刻なのである、生死の選択にもなるからだ
祖国防衛戦でもない、わずかの土地を奪うために戦うとなるとそこに意義が見いだせないだから戦いたくないとして脱出する人たちも増えている

でも逆にそれを受けいれない、国内でプーチンに反対して戦いとなる
それもやはり生死をかけたものとなる、反対運動があるがつかまり戦場に強制的に送りこまれる、どちらにしてもその選択は命がかかっているから深刻だとみる
そもそもロシアでもそうだが国とは誰の者なのかということである
平和に住んでいる時意識しない、でも平和な時でも日本だって上級国民のために働かせられているとかある,国のためという時上級国民のために働かせられる、犠牲にされる
上級国民の奴隷だとも常に言う、つまり国家は誰のためにあるのかということである

ロシアとか中国とか巨大国家はもともと一将功成りて万骨枯るとなりやすい
ロシアはプーチンがそうでありプーチンのために犠牲になり死ぬのかとなる
だからロシア国内ではプーチンに反対する勢力もあってプーチンを倒せとなる
でもそれもロシアとかは独裁であり強固な権力がありおさえる、命令する、反対すると殺されるとなりそこで反対して殺されり国を脱出した方がいいと考える人達もいる
大陸だと陸続きだからそういうこともしやすい、でも断る国もいる

それはロシアだけではない戦争となれば死ぬのは嫌だとなるのは当然なのである
ただ大陸国家だと常に激しい民族抗争があり戦争がつづいてきた、だからジェノサイドも起きてきた、聖書でも神の命で民族を根絶やしにするジェノサイドが認められていた
それでけ民族抗争が激しいからそうなった
日本だと島国でありそうした激しい民族を抗争を経験していない、最初は百余国が争うとかあっても日本は島国であり異なった民族でもみんな一つの民族に融合したのである
だから戊辰戦争でも東北では官軍でも敵味方塚として戦死した人達を手厚く葬っているのである、それは中国ではありえないと言っている
中国だと死んでもその墓を暴いて罰しているのである
それでだけ民族間の抗争が激しいのである、日本人はそういう厳しさを知らないのであるただ明治維新後グローバル化して世界の民族抗争に巻き込まれたのである

いづれにしろ人間は死にたくない、でも死ぬとしたらその意義を求める、わずかの領土を得るために死にたくない、戦争自体にそもそも意味があるのかとなる
今回の戦争でもウクライナでも莫大な損失だった、人命から土地から建物からインフラからその損失は巨大なものであり双方ともただ消耗したというだけになる
何か奇妙なのはロシア人の優秀な人達がエリートが国を脱出する
でも戦争という時、本当はそういうエリート達は支配階級の貴族だったら率先して戦った

『貴族が義務を負う(noblesse oblige)』のならば、王族は(それに比して)より多くの義務を負わねばならない。」と書いたのが最初である[4]。

最近では、主に富裕層、有名人、権力者、高学歴者が「社会の模範となるように振る舞うべきだ」という社会的責任に関して用いられる。

ノーブレスオブレージがありそれは戦士でもあり国のために率先して戦う人達だった
日本がだったら侍だった、そして戦争とはもともとそういう支配者同士の戦いだったのである、国民全員が戦った訳ではないのである
そうなったのは世界第一次大戦とか第二次大戦からである、国民同士が全員兵士となり戦うようになったのである
日本だと西南戦争で侍集団と国民軍が戦い国民軍が戦い侍はいなくなったのである
そして国民全員が兵士にされ戦うことになった
だからこそその犠牲も信じられないものとなった、日本だと三百万人が死んだとかなる
他でもロシアでも一千万人死んだとか信じられない犠牲者を出したのである

第二次世界大戦以後大きな戦争がなかった、でもウクライナであのような大きな戦争がまた起きたことは意外だった、それはロシアが西側に攻められた防衛戦とは違う、ウクライナはソビエト連邦から離脱して独立国になったからである
だから今回の戦争では国論が統一しない、プーチンという独裁者に不満が多い
そして奇妙なのはロシアから国民が脱出する
それが極端になるとプーチンとそれに従うわずかの国民が残り戦うとなる
「プーチン、お前が最前線で戦い、もうお前に従う者はいない、お前一人で戦い」
こうまでなる、そしてロシアという国自体が消失する
だから国家とは国とは誰のためにあるのか、一人の独裁者のためにあるわけではない
スリランカでも国を牛耳っていた大統領一家が外国に追われて逃亡した
国を私物化していたからである、プーチンも国を私物化しているともなる
そして誰も従うものがいなくなったら国は消失する

いくら独裁者でも国は一人では維持できない、また強権的にも維持できない、何らか国を愛して守る自主的な人達がいなかったら国は守れないし消失する
だからロシアは今はそうして国が分解して消失してゆくのかとなる
ただ見方としてはロシアは西側にアメリカに対抗するものであり有利に展開している
報道は西側よりでありアメリカ寄りであり現実の戦況がわからないとも言う
でも大方の見方としてロシアがプーチン独裁であり積極的に戦う意志がないと見る
そもそもロシア国民が大量に脱出するということは戦う意志が本当はない
ただ日本でもグロ−バル化してひろゆきのように日本は駄目になるから脱出しろと戦争する前から叫んでいる、そういう人達も増えているのである
すると日本にも戦争となったらそういう脱出する人たちも増える
でも日本人は外国に住める人はわずかである、島国であり日本は日本国内一億総玉砕となる心情にある、つまり大陸のように簡単に逃れられないからである

いづれにしろ人間が生死をかけた選択を迫られるとき深刻である、その時何のために死ぬのかと平和の時と違って深刻に考える、行動でも迫られる、そういうことでウクライナ戦争はやはり自国の問題でもある、それは他の国でも同じなのである
中国でも台湾が欲しいからといって戦争にふみきれば犠牲者がでる
そうなるとき死んでまで台湾が欲しいのかとなる、それなら支配者がまず率先して戦場に行き戦いとなる、犠牲になれとなる、国民はみんな台湾を中国にすべきと思っているとは限らないからである

ともかく戦争は勝にしろ負けるにしろ余りにも犠牲が多すぎるのである、それで得るものもたいしたことがない、わずかの領土であり台湾にしてもそうである
ウクライナにしても争っている領土はわずかである、そのための犠牲が余りにも大きすぎるのである、とても見合わないのである、損得で考えれば戦争は損しか双方にない
でもなぜ戦争がなくならないのか、人間は愚かなことをカルマとして繰り返すのかとなるそれも人間の業(カルマ)であり逃れられないのかとなる
そしてこれだけグロ−バル化すると最終戦争のハルマゲドンになる、核戦争の恐怖になるこうして人類は滅びゆくほかないのかとなる
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2022年09月17日

グロ−バリゼーションの終わり (経済も国内回帰―文化も国風文化の再興にー柿の詩)


 グロ−バリゼーションの終わり

 (経済も国内回帰―文化も国風文化の再興にー柿の詩)

 グロ−バリゼーションの崩壊ー文藝春秋(中野剛志)

 今インフレにより、激しく破裂するのではなく、着実に萎み始めているのである。そして、萎んだ後は、長期停滞、膨張しない経済、膨張しない時代が始まるのである。

 この「膨張しない時代」においては、日本経済と日本社会の安定性、効率性という強みが発揮されることになるのである。
 円安が進んでいてもついに「日本が独り勝ちする時代」がやってきた
 

  グロ−バリゼーションが始まったのは明治維新からまたは大英帝国が七つの海を支配した時だろう、そこで世界共通貨幣が基軸通過がボンドになったのである
次にアメリカが覇権国になりドルが基軸通貨となった
明治維新で日本が鎖国から開国してグロ−バリゼーションの中に組み入れられた
グロ−バリゼーションとはまた世界で対立が激化して世界戦争になった時代だったのである、その負の面も大きかった、何千万人の人間が戦争で死んだからである
世界大戦の時代がグロ−バリゼーションの時代だったのである
日本の太平洋戦争も日本が悪だとしているがそれはそういうグロ−バリゼーションの中で起きたことである、世界の覇権争いに巻き込まれたのである
大英帝国は日本の太平洋戦争で敗れて終わった、アジアから追放された
それは快挙だったのである、最初にアジアの覇権国になろうとしたのが日本だったのである、それは失敗に終わった,アメリカが台頭してきて次の覇権国になったからである

グロ−バリゼーションといっても覇権国があって成り立つ、無制限なものではない、統制する覇権国がありグロ−バリゼーションが成立する
無政府的グロ−バリゼーションはありえないのである
ヒト、モノ、情報でも金でも自由に流通するということではないのである
そこに自ずと限界があり人間はその定められた地理や風土や生態系に依存して生きる
それを越えられないのである、だから国境も必要だと認識した
コロナウィルスなどでやはり国境がないと境界がないとウィルスも自由に入ってくる
関所も必要でありそこで人の流れを止めるということも必要だとなる

グロ−バリゼーションは頂点に達して負の面が大きく認識されるようになったのである
経済面でもそうだが精神的にもそうなる、経済的には内需型になり文化的には国風文化の復興になる、日本は奈良時代は中国の唐から学び奈良時代に遣唐使を派遣して国造りをした、漢字なども取り入れた、でも平安時代になると国風文化になった
そして鎌倉時代になるとやはり中国から禅宗などを取り入れた、でも東(あづま)に政権を樹立して東が支配するようになった、そして戦国時代になり安土桃山文化になった
これはキリスト教などが入り国際化したグロ−バル化した
外国の文物でも技術でも文化でも積極的に取り入れた、その一つが信長が鉄砲を輸入したことである、その技術を取り入れたことである、それが戦争を変えた
そこで絢爛な安土桃山文化が生まれた

次に江戸時代の鎖国になった、国風文化になった、その300年で日本文化が歴史が培われた、ここは世界から遅れたものとして見られていたが実際は内需型であり日本国内で
経済を回す社会である、自給自足の社会が形成されたのである
この時世界から孤立していたとしても戦争のない平和な三〇〇年がつづいたのである
この三〇〇年があまり評価されていない、でも明治維新が成立したのはやはりこの三〇〇年に培ったものがあり成功したとなる
明治維新になぜ綺羅星のごとく偉人が生れたかでもわかる
それは侍がいたからである、明治維新は庶民の力ではない、真のエリートの侍がいたからできたのである、つまり侍が人材となり新しい日本を導いたとなる
侍とは武だけの人ではない全人格として全人間として優れた人達だったのである
それはその後の人間が劣った人達になったということでもわかる
侍はいなくなったのである
ただ世界的にも戦争していたのは貴族であり戦士として選ばれた人達だった
その後は国民となり大衆化したのが現代である、つまりエリートというのは世界的に消失したのである
戦争とはもう数であり機械の戦争となったのである、そこで何千万人もの人間が無惨に物のように殺戮されたのである、国民と国民、大衆戦争だったのである

そして太平洋戦争後から七五年は経済のグロ−バリゼーションの時代だった
それはアメリカ覇権のドル基軸通貨となったグロ−バリゼーションだった
でもこれも終わりになりつつある、中国の台頭とかで終わりになりつつある
アメリカの覇権は終わる、日本はどうなるのかとなるとアメリカが覇権国でなくなるとアメリカは守ってくれない、そこに台湾有事が大問題になるのである
アメリカは武器を与えても直接戦争にかかわらないというときウクライナを見ればわかるアメリカはもう直接兵士を派遣したり戦争にかかわらないとしている
トランプ大統領がアメリカファーストを言っているからである、国内第一になる
外国にかかわらない政策になってきたからである

そして日本もまた国内回帰になる、経済でも国内で極力回す、エネルギーでも石油でもガスでも何かあると輸入できないからである、ただ原子力発電を再稼働するのは問題であるあまりにもリスクが大きすぎるのである、一旦事故になったらこの辺のように住めなくなるからである、ただ国内自己完結する経済になる、だから鎖国時代にもなる
結局人口が縮小して日本が縮んでゆくのはこういう時代だからそうなった
日本がの人口は江戸時代で3000万人とかでありせいぜい6000万くらいの人口が適正規模なのかもしれない、そこで国内需要とまかなうとなるかもしれない
ただそうなると小国になるから中国に支配されることの恐怖になる

でもどうしても日本はもうかつての高度成長とかないし縮小をまねがれないのである
そのことはは文化にも影響する、思想的にも国内回帰であり国風文化の再興になる
世界的にも中世に戻るというときでもそうである
文化的なこと内面的なこと思想の深化とか学術的なこと芸術的なことそうした時代になるだから今なぜオリッピックでもするのかとかなぜインフラでもリニアなど必要なのか問われる、そんなもの本当に必要なのかどうか問われる
高度成長時代には道がないのだから道を作ることに疑問などなかった
でも鉄道でも整備されているし新幹線もあるしそれにリニアなど必要なのかとなる
何があらゆることで意義が問われる、哲学の時代になもなっているのである

いづれにしろ社会は内向きになる、コロナウィルスなどで在宅で家で仕事するリモート会議などしてするのもそうである、働き方も変わった、何か巣籠りというときそれも内向きになり外向きのグロ−バリゼーション時代の終わりを示唆している
世界でもそれぞれの国で国内経済中心となり国内で文化を育てる時代にもなる
自然はやはりそれぞれの地理があり風土がありその中で人間は育つ、それを無視して人間はありえない、自然をグロ−バル化などできないのである、それを多国籍企業がする自然破壊になる、生態系が破壊される、そこでウィルスがたちまち世界に感染するのである
そこに時間差もなくなったのが現代なのである
人間はそれぞれの地理と風土で育つのが自然である、食糧でもやはりその地理と風土の中で育つ、それを食べるのが体にもいいのである、そもそも体はその土地でとれたもので食べるのがいいのである、日本食はだから長寿食になったのである
牛肉とか外国のものをいろいろ食べることはいいことではない、またそれもできなくなる円安になりもう外国のものは高くなり買えなくなるからだ
すると日本にあるものでまかなうほかないとなる
日本がにあるものでもそれなりに豊かな食生活が今ならできる、別に葡萄でもとれているし前よりはいろいろなものがとれているからである
ハウス栽培で南国産のものも作れるとかなる、ともかく外国から輸入することは高くなるしむずかしくなる、そういう時代になったのだからそれに適応した生活をしなけぱればならないとなる


柿の詩

ここに柿なりぬ
今年も違わず柿なりぬ
その柿を食せよ
我が母は貧しく育ち
柿が好物なり
干し柿も好物なり
今あまたの果物あれども
昔はなしも貧しき
柿は日本の産物
それぞれの土地に実りあり
その実りを尊ぶべき
外に求めて欲は限りなしも
今年もここに柿はなれるも
その柿に感謝して
ここに住める良しとすべし

柿はkAKIとして外国に通じる、柿は日本の産物なのである、私の母は大正生れだから貧乏に育った、原町紡績で働いてその食事は一汁一菜である、沢庵とか味噌汁とかで良く働けたと思う、それでもそれが当時では現金収入になったから良かったと言っていた
その他は女中だったからである、女性の働く場がなかったのである
イギリスでも貴族に女性は下働きしていたから同じだったのである
ともかくいろいろな果物を食べれる時代が終わったのかもしれない、なぜなら円安で外国産は買えなくなっている
でも山形産のメロンが五〇〇円だった、それが大きなものであり得した感じになる
私は果物が好きであるから高いと買えないことは辛い、でも別に日本で果物はそれなりにとれている、でも昔は柿くらいしか後はミカンかくらいしか食べてないのである
リンゴも東北だと青森でとれるから食べていたのか果物はあまり食べていないだろう
ただ私は柿はあまり食べていない、母が好きだったので供養として買ってあげている

柿は、16世紀頃に南蛮貿易で日本と交易のあったポルトガル人によってヨーロッパに渡り、のちにアメリカ大陸に広まっていったという。またポルトガル領だったブラジルにも同様にして伝わったようだ。そのときに用いられたのは日本の品種である。そのため、前述したように世界でも「KAKI」とよばれるようになった。

日本における柿の歴史は古く、縄文時代や弥生時代の遺跡から柿の種の化石が発掘されています。奈良時代には日本の各所に柿が流通していたとされ、当時は祭祀に使われたり、冬場の大事な糖分補給源として食されていたとのこと。しかし当時流通していたのは、渋柿。人々は渋柿を熟柿や干柿にして食していました。

ポルトガルから鉄砲が入って逆に柿が輸出されていたのである
果物があまりないから柿は糖分をとるのに貴重だった
でも柿は今高い、干し柿でも高い、伊達市が特産物となっている
だから今は簡単に柿も食べられないとなる、今貧困化しているから果物には手が出ないという人もいる、でも一応日本産のものは輸入しないからまかなえるとはなる
外国産よりなんでも日本産のもの国内でまかなうようになるから貴重だとなる


柿の話ー俳句エッセイ

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2022年09月09日

政教一致の危険 (安倍前首相暗殺も宗教と安易にかかわっため起きた事件)


政教一致の危険

(安倍前首相暗殺も宗教と安易にかかわっため起きた事件)

山上の安倍首相の暗殺は私憤と公憤の問題になる、一面から見ると身の不遇を嘆く私憤に見える、でもまたそれが統一教会のカルトの被害者でありそれと政府が結託していたということで公憤に見える、私憤が公憤となったと見るのが妥当だろう
私情からの犯罪はある、特に男女間では常にある、でもそれは公憤にはならない5.15事件とかは政治テロであり公憤であった、もちろん底辺で苦しむからそ政治への不満となりテロとなった、私憤があり公憤にもなった
そして複雑なのは宗教がからんでいてそれが政治ともかかわっていたことである

だから政教分離ともかかわっていた、政治は宗教とかかわると危険になることを政治家は意識していなかった、なぜ政治と宗教がかかわると危険なのか?
カルト教団では世俗的なことに宗教をもちだすからである
何かというと罰当たるとか地獄に落ちるとか脅しそれでやめさせないようにする
でも逆に今度は世俗にそれを持ちだして言うとかえって創価の場合など地獄に落ちろとか罰当たるとか攻撃される、そこで統一教会に安倍首相が率先してかかわり政治的に票を得るために利用した、また統一教会でも利用したとなる

ここで問題なのは何なのか?

政治と宗教の一体化による危険である

宗教となると政治と違って絶対的になる、反論は許されない、でも政治となるといろいろな問題があり議論して決めたりする、宗教となると議論はできない、もし反対したりすると罰当たる地獄に落ちるとかなり反対が許されなくなる
だから戦争でも宗教がかかわると聖戦となり神が天皇が味方するのだから必ず勝つとなるそれでもう日本だったら一億総玉砕にもなるところだったのである
宗教には妥協がないからそうなる、政治とは賛成反対があり双方の言い分を一応聞いて判断する、そこで妥協するとなる、でも宗教だと絶対だから反対は仏敵となり許されないのである、だからこそ政教分離が生まれた
なぜならカトリックが政治と一体化して政治的に支配されたからである
その反発がありプロテスタントが生まれた、政教分離も生れたからである

そして政治と一体化した宗教は実はサタンが支配することになる、それはカトリックの歴史で証明している、政治と一体化して世と姦淫したサタンが支配するのである
聖俗が分離せずに一体化する、そして獣の印を押される、つまりそれがカルト教団なのである、宗教と政治が一体化するからである、それが統一教会であり創価でも他の団体でも同じなのである、つまり宗教が世俗化して政治化することは現実の社会を政治権力でも乗っ取りこの世の王となることである
そこでカトリックのように宗教が政治を支配するのである

日蓮の国立戒壇などでもそうである、それが政治的に実行されれば社会は宗教によって完全に支配される、何か逆らうものがあれば仏敵となり地獄に落ちる罰当たるとなり支配する、つまりそれはサタンに支配されることなのである
要するにカルト教団は異常にこの世の欲に執着している、この世の王になることに執着している、この世に天国を作るとしているがそれは実は自分たちが支配者になりこの世の王となり支配することであり地獄を作ることにもなる
心が清い者は神を見るだろうなど関係ない、この世で実質的に御利益を得て権力を得て
この世の王となり人民を支配することなのである、だからサタンなのである

ともかく私憤と公憤というとき今回の山上の安倍前首相の暗殺は宗教と政治がからんで複雑になった、それは宗教が政治にからむとそうなるのである
だから政治家は票になるからは政治にかかわることはつつしむべきであり危険なので悪
その火の粉が飛んできたのが今回の事件だったのである
一見統一教会に援助されるのは票になるからいいことである、そうしか見ないが宗教とかかわると危険だということを警告したのである
だからこそ政教分離が必要でありそれが軽視されていたのである

だから創価などは非常に危険な団体である、完全に政教一致だからである、そういう団体と自民党が一体化することはまた同じようなことが起きる、宗教の問題が政治に反映してまた逆に世俗的な政治の問題が宗教に反映して複雑になり事件が起きる
聖俗があり聖俗分離が必要にもなる、カルト教団になると聖俗もない、完全に聖なるものが俗化したものである、だから世俗的なものに支配される、すべて御利益であり金でありこの世の権力を得ることが第一になり目的化したのである
創価となればそれしかない、毎日選挙運動であり権力をとるために祈っているだけであるカルト教団はオウムでもそうだし幸福の科学でもそうだし統一教会でもこの世の権力を得て人民を支配することなのである、そのために宗教がある
宗教とは世俗を支配する道具にもなるからサタンなのである

でもなぜそれがなくならないのか?

それはいかにサタンが強力なものかということでもある

そのサタンと戦えるものはなにか?それはまたキリスト教でも仏教でもサタンに乗っ取られたことでもわかる、それはどうしてなのかとなると余りにも人間の欲望がこの世に執着して切り離すことができないからである、そこにサタンがつけいり支配するのである
老人になっても性の欲望が消えないとか人によるが欲に支配されるのである
だからこの世は欲で滅びるとされたのである
つまり獣の印をサタンに押されるのである、その人達は地獄に行くのである
それによって聖別される、カルト教団員は獣の印を押された人達なのである
要するに人間の欲が消失すれば自ずとこの世でも天国になるのである
子供ならそこに天国的なものを見ることができるのと似ている、でも大人になれば欲にふりまわされ欲にまみれ堕落してゆくのが普通だからである
そして兄弟でも遺産争いになり殺し合いまでなっているのも普通である

それは欲があってそうなる、なぜ創価であれカルト教団であれ根強くあり数を増やすのかといえば欲を否定しないからである、かえって教祖自体が欲望が強くこの世を支配したいとなっている、王とされたいとしている、だからカルト教団の教祖はサタンでもあるのだサタンを崇拝するということは人間で現世の欲をかなえてやるとしているからついてゆくのである、そこにだまされる人がいたとしても幹部などはみんなそうである
自分の欲望を実現するために運動するのである、他者を助ける気持などない
普通だったら金にそんなに執着しないからである、信者から金をとることなどないのである

だから何か宗教家というのは胡散臭い、社会にとって害になり無用なものに見える
かえって下々と汗して働いている人の方がまともであり上に見えるのである
宗教だけで糊口を得ている人は胡散臭いとなる
それで四国遍路でホームレスになった人がにわか僧侶となって御経を上げて金をもらうとなったのもそうである、もう追い詰められてそうなったのである
すると乞食でもない、俺は偉い僧なのだとなる、それと宗教にかかわるものは似ているのである、金を得る欲望を達成するための方便として宗教を利用するのである
宗教にかかわる者はカルトだけではないみんな何かいかかわしいは見れる
何かお経でも唱えていれば生活できるとなれば楽だともなるからだ
一方で働く人は汗して危険でも仕事しているからである、その方が立派だともなる

いづれにしろ政治と宗教の問題はそれが一体化すると危険だということである
そのために今回の事件が起きた、だから政治家もいくら票を得たいとしても深入りすることは危険である、自制が必要であり創価公明と連立政権を自民党を組むことは危険である何かしら今回のような事件が起きるかもしれない、でも票が喉から手をでるほど欲しいとなりそうなっているのである、だから民主主義とういのもそうしたカルト教団に支配されたりナチスのファシズムになりやいから問題なのである
数さええれば権力を得ることが危険なのである、結局それがナチスとなりファシズムとなったからである



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2022年09月07日

この世の中は何故なのかが問われる (様々な問題でも何故そうするのか問われる―国葬でもオリッピックでも事業でも)


この世の中は何故なのかが問われる

(様々な問題でも何故そうするのか問われる―国葬でもオリッピックでも事業でも)

自然であれ社会であれ個々の人間であれ何か起きることで問題になるのが何故なのかということである
結果があり因果関係を求める、だから因果応報がありカルマだとなる
なぜそれぞれの家に問題が起きるのか?
それもその家の持っている因果がカルマが関係しているとなる
それで統一教会では先祖が悪いことしたから今あなたが苦しんでいるというのは説得力がある、でもそれで金をとるということは相手の弱みにつけこんでそうしている
実際はカルマはそれぞれか苦しまなければ解決しないのである
金を貢いでも実際とカルマは解消しないのである

人間の問題は常に何故なのかということで問題になる
それが自然現象なら科学となり原因と結果を求める、それは明快でありわかりやすいとなる、では人間に起きることで社会現象とかまた経済のことでもわかりにくいのである
明確な因果関係がわからない、この何故を探求するのが学問になる
例えばある人が事業を起こす、結果として失敗して多額の借金に苦しむ
ではなぜ事業に失敗したのかとなるとわかりにくいのである

その人はなぜ事業に失敗したのか?

それは社会のせいだともしている、自分の責任ではないとしている、でもそうはいっても必ず責任をとらされるのである、それで借金で苦しむ、その人には確かに技術者でありだから技術に通じているから成功するとして事業を起こした
でも経営となると違ったものになり失敗した、また家族でも経営者になると巻き込む
その家族自体が妻でもうまく協力できなかったとかともなる
経営には向いていないともなる
その人はまず人のために何かをするという感覚はない、自分は技術的には優秀だから自ずと成功すると思って事業を起こしたのである
でも経営するとなると様々な要素が関係して来る、その社長の人間性とかまで関係してくる、でも理系だとそんな人間性などを見ない、つまり技術的に優れていれば成功すると見ていたのである

だから会社でトイレ掃除していた人が社長だったとかある、それで新入生がその人を馬鹿にしていた、でも社長だったということで驚いたのである
そんなこと社長がやるべきではないということを言う技術者もいた
でも技術者なら技術をみがけばいいとなる、それは雇われていてそうなる
でも経営するとなると違ったものになる、そこの理解がなかったとなる
社長は社長として威張っているだけではできない、会社全体を見て社員を見てその上に立ち会社を経営する、会社を経営することは今度は社会全体と関係してくるし多くの人々とも関係してくる、だから経営となると一部の専門的技術者と違ったものになる
理系だと一部の専門的技術者に通じていればいいとなる
でも病院を経営するとかなると優秀な専門的医者が必要でも病院を経営することは病院全体をみてまた社会にもかかわる仕事になる

だから社長がトイレ掃除するときそうして下々のことで目配りしていて全体を見て経営することになる、トイレ掃除する人もやはり社員だからである
私の母親の実家の父は警察署長で退職して事業を起こしたが失敗した、そもそもこの人も警察署長だから成功するとして事業を起こした、実際は能力はなかったのである、母が言うには威張っているだけだったという
これもやはり事業するノウハウも何もないのに警察署長したから事業が成功すると思ったのである
その後事業に失敗して一家離散になったし不和の家になったのである、それが自分に影響して苦しんだともなる
こっちの方が専門知識もなにもないのに事業を起こしたのだからひどいとなる、その結果の責任が負わされたとなる

その人は他人のために箱一つもちたくない人だったともみる、なぜなら私が病気になってその人は助けに来たとしても箱一つ持つのを嫌がっていた
またその家族でも相当に嫌がっていた、だから入院して手術する時もその家族は来たにしろ見守ることさえ嫌がっていた、、そもそも何も私のためにしたくなかったのである
親が世話したことがあってもその子供は関係ないとなっていたからである
だから金が欲しいというだけだったのである、借金をかかえていたから余計にそうなっていたのである
そうなったのも自分のカルマにしろその人は他人のために何か尽くすという気持ちはなかった、自分が技術的には優秀だから社長としてみんなから偉い優秀だと見られることで事業を起こしたのである、その動機がそうだったのである

ではなぜ事業に失敗したのか?

その理由は一つではないにしろそうしてその人はもともと他者に尽くす気持がなかった
簡単なことでも他人のためにしたくない、もちろん無償ではしたくない、その気持ちが行動に現れる、ただ技術的には専門的技術では優れているから成功すると思って事業を起こしたのである
その人はささいなことでも他者のために何かをしてやりたいということはなかった
人間は大きなことよりそうしたささいな小さなことにその人が現れる
もし妻がいたとしても夫に尽くしたくない、でもしかたがないから一緒にいるとなるといつか破綻する、それで意外と熟年離婚が多いのである
嫌でも一緒にいる、でもいつ本心が必ず現れる

いつか必ず本心が現れる、行為となって現れる

これが怖いとなる、積もり積もったものがいつか行動として現れる
人間は表面上は善人面しても実際は悪人でありその本性が必ず現れる
つくづくなぜこんなに人間の職業でも悪が多いのか、まさに職業とは業(カルマ)であるなぜこれほど職業が何か嘘ついたりごまかすものとなっているのか
第一宗教が一番偽りが多い、それは宗教の目指すものが余りに高いものだからそうなる
誰もキリストやシャカのようになれない、その目指すものが高すぎるのである
結果的に宗教と言っても今度は自分たちの欲のために利用するとなる
それがカルトなのである、宗教そのものが方便でありそれで自分たちの欲望を実現しようとする
ほとんどの集団化した組織化した宗教は本来の宗教ではない、ただそれぞさの私利私欲を実現するために団体化して権力化したものである

だからこの世とは何なのか

これ自体がわからなくなる、親鸞が言うようにみんな悪人だとか、義人一人もなしとかなる、職業でも業でありカルマであり悪いことをするものとして職業もあるとなる
銀行員でも投資信託とか売りつけて人をだますとか証券会社とかもなにかうさん臭いとかまともに見えるものでもそこはまともでなくなっている
マスコミも平気で嘘つくとかあらゆる職業が何かそこに倫理にそむいているとなる
政治家とかなると自ら言っているように選挙の時はとにかく頭を下げる、後は知らない、自分の利益を追求するだけだと自ら言っている
別にどの宗教など関係ない票をもらえればいいとういだけである
いちいち選別していたら票にならないからである、それがまた民主主義の弊害でもある
もう人物がどうか人格がどうかなど関係ない、数が集めた人が勝ちだけだとなっているからである、そして選挙はすでに組織団体の票で決まっている、一票など何の力にもなれないなのである、すると相手にするのはカルト教団でもなんでもいい多数の票をもらえることに働きかけるとなる、その相手がカルトでもどうでもいいとなまでなってしまうのである

ともかくこの世の中では何故が常に問われる、安倍首相の国葬でもそうである、なぜ国葬にする必要があるのか?それが問われる、そこで必ず議論すれば賛成と反対論がある
でも何故する必要があるのか明確化しないと国民をも納得しない
今回は国民が納得しないから問題なのである
ただ何故を求めるとあらゆることでその何故がわからないのである
戦争でも三百万人も死んだのになぜ戦争したのかも今になってもわからないのである
科学だと何故を追求すると明確に数学のように答えが出やすい、でも社会現象となると
明確な答えがでないのである

なぜ日本が戦争したのか?

これも明確な答えがないのである、これだけ大きな問題でも答えがない、すると三百万人も死んだ人達は報われないとなる、ただ靖国神社に祀られて英霊とされる
国のために尽くした人達だとされる、それで慰めているが果たしてそうだったのか?
それで死者は報われているのか満足なのかとなる
それは結局何故それだけの戦争をしたのか明確な理由がわからないからである
安倍首相の国葬問題でもそうである、なぜ国葬にするのかその理由が明確ではないし
国民がみんな納得しているわけではない、でも権力者は実際に権力を行使することができる、つまり何故するのかとあっても権力者は何かを決めてそれを成す、そして後で何故そんなことしたのかと問われるのである
人間が権力を持つことは何故かとかを真剣に考えないでも実行できる力を持つことなのである、人間は何故かより権力をもって実行したいとなる
カルト宗教団体でも権力追求になるのはそのためである

つまりこの何故かと問うのが学問であり学者とかになる、哲学者にもなる、自分はこのタイプである
でもその人たちは権力を持っていないから何か実行することはできないのである
だから政治家と哲学者は学者は違ったものである
実業家であり政治家が学者を嫌うのは理屈ばかりこねていて実際には何もできないとしているからである、でも何かを実行するとして必ず何故そんなことしたのだと問われるのである,オリッピックでもそうである、今になると金にまみれたものであり逮捕者もでている、そんなオリッピックをすべきだったのかと問われる
それは私でも前らオリッピックにはもう意味がないと反対していた、他でも反対する人達がいた、でもそういう人達を無視して実行された
結果的には一部の利権者のためにしていたとなって追求される
行動の前に何故そういう行動に出たのか、行動した後にまたなぜそんなことをしたのかと問われるのである
でも現実社会では何故かより行動をすることが先になる

なぜならこうして考えることが先になると
ハムレットのように

あるべきかあらざるべきか

と逡巡して行動できなくなるからである、優柔不断になってしまうのである
でも何故かを無視すると必ず後で何でそんなことしたのかと必ず問われるのである




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2022年09月04日

宗教の献金の問題 (宗教団体でも集団化組織化は利権、権力団体となる)


宗教の献金の問題

(宗教団体でも集団化組織化は利権、権力団体となる)

●宗教の組織化団体化は権力化

今統一教会で多額の献金は禁止すべきだと議論していた、それぞれの収入に見合ったものに制限する、法律化するべきだという提言があった
ここで弁護士とか法律から規制しようという発言があった
弁護士にはカルト教団の被害者からの訴えがありそれに答えるためにそうなった
消費者庁とかありその大臣が発言していた

そもそも人間は集団化組織化するとそこは利権団体になるのではないか?
民主主義とはそうした様々な利権団体に推薦されて力を持つ、政治にもかかわる
どうも自民党が前は票田としていたのは農家であり農協とかが票田となっていたが
その力が弱まって他に頼るようになったとかいう
それでカルト教団でも票になるとか選挙の応援をしてくれるとかで統一教会とかかわった議員は喉から手が出るほど票が欲しいからである
それも一票とかではないまとまった票が欲しいからである

だからこそ創価になると一定の票があてになるから連立になった
それは政教分離に違反していても自民党は責めないのである、一連托生になっているからだ、創価の票がないと当選もできないとなり創価のことは批判しないのである
マスコミも批判しない、なぜなら聖教新聞を刷らせて資金援助している
福島民報などがそうである、毎日新聞でもそうである
そうしてマスコミはとにかく金がかかりすぎるのである

そもそも一軒一軒新聞を配ること自体手間なのである、そこに資金がかかりすぎるのである、インタ−ネットになれば全国に配信するのにも個人レベルでできるとなる
だから報道はテレビ局だと六局しか放送できなかったとかなる
それで絶大な力をマスコミは持ったのである
それがインタ−ネットが発展して個人がテレビ局をyoutubeなどで持つようになった
テキストだと文章だとプログとかで新聞社にもなった
その変化が大きかったのである、今はテレビを見なくても別に困らないのである

宗教が組織化集団化すること自体権力を得ることでありやがて日本国でもその権力で支配することを目指している、実際この世では特に民主主義になると確かに個々人の自由があり権利を主張できる、でも一人だったら誰も相手にしない、それはボランティアすらできない、20人くらい集まらないとボランティアもできないのである
つまり民主主義はすべて数で決められる、数の力で決められる、それが権力になる
だから田中首相は政治は金と数だと言ったのである
金と数が最大の権力になったのが現代だからである

●宗教は個々人の心の問題だが集団化組織化すると権力利権団体になる

経済活動でも一人が買い物するのと十人が買い物するのとでは十人を相手にする
一人などどうでもいいとなるのが社会なのである
一人は相手にしない、私は個人というだけで本を置くのを地元の図書館とかで断られた
そこに管理する公務員がいてそうなった
その公務員というのは権力を持っていたのである、それも一人だからそうなった
私は会員十人の代表ですとかなれば公務員でも権力をもっていても考慮することになるのである、まず一人などどこでも相手にしないのである,ボランティアにすらなれない

こうなるとどうなるのか、人はどうしても権力を持とうとする、権力を持つためにどうするのかとなる、それは宗教でもそうなのである、宗教でも一人など相手にしない
権力を持つために数を集めることだとなる、だから創価でも他の宗教団体でも常に会員を増やすそれを一票に結びつける、それが日々の活動になるのである
でも預言者とかは一人だった、日蓮は預言者であり一人で時の権力者と戦ったのである
だから今の組織化集団化した宗教団体は全く別物でありただ権力を得るために活動しているのである、聖書でもそこはある一人の人間を選び神の実在を示したのであり集団に示すことはなかったのである

だからそもそも宗教と政治の何が問題なのかとなれば組織化集団化することは権力化することである、それはカトリックで強制的になり免罪符まで売るようになった
それが統一教会ではあからさまに霊感商法で宗教を盾に商売化したのである
カルト教団はまた宗教を利用した商売でもあるから当然だとなる
宗教団体は利権団体であり本来の宗教は何の関係もない、集団化組織化して権力奪取を目指すのである
統一教会の場合はさらに問題だったのは背後に外国がかかわり日本の政治に影響して日本を韓国の支配下に置こうという魂胆があったからである

それは秀吉の時代にもあり外国に国がのっとられるという恐怖がありキリスト教が禁止された、キリスト教でも自国から自発的に起る信仰ならいいが外国から押し付けられると問題になる、それで内村鑑三とかは外国の宣教師を嫌った、でも何らか日本キリスト教団でも外国の援助がありかかわっているともなる
資金の援助があるかもしれない、この資金の流れが問題なのである
何か大きな犯罪でも資金の流れをみればわかりやすくなるからである
信教の自由があるにしてもそれも悪く利用されるのである、法律でも解釈がいろいろあり悪く利用されるのである

●宗教に金がかかわると汚される

なぜそんなに金が宗教に必要なのかとなる、宗教には金をかけるべきではない、また金をとるべきではない、そうなると金だけが目的になってしまう、パウロはキリスト教を広めるのに金をとることはいけないとテントを作り自ら働いた、何かそこにやましいものを感じたからだろう
宗教はそもそも極力金にかかわらないことがいいのである、金にかかわると汚されるとなるからだ、でも僧侶でもお布施が足りないとかなり不満になるとしたら自分で働いて金を稼いだ方がいいともなるのである

何かわからなかったが四国遍路でホームレスになった人がいた、その人に 同情して金を与えようとした数万をやろうとしたらその人は自分に向かってお経をあげた、なんのことかわからなかった、要するに無料では金をもらえないという自負があった
その人はなんらかで四国遍路の国だから御経を覚えたのである
だから乞食ではない、ただでは金をもらいたくないとしてそうなった
その動機はそもそも宗教にはない、日々の金が欲しいからそうなっただけである
そしてお前にありがたいお経をあげてやったのだから金をもらっても当然だとなったのである

この人はこうしてホームレスになり追い詰められてそうなった、つまり実際は金のこめに仮の僧になり金をもらうことになった、こういう人を見れば何かカルト教団でもそうなのかとも見た、ただ規模が大きくなったのがそうなのかともみた
何かありがたいお経をあげてやるから金をもらうとなる、その人はただ金を欲しいためにそうなったのである、別にくれるというのだからもらえば良かったのである
おそらくカルト教団はこんなものである、宗教とは方便であり金が欲しい権力が欲しいともなり仮の僧になった人だとなる
ただ数が増えて巨大化すること自体が権力化することなのである
数が増えて権力化するとマスコミでも政治でもその数を利用しようとする
だから自民党は統一教会でも創価でも何でも票をえるために利用する、そしてまた利用もされるのである、現実に創価のことは批判しないのである
それは創価というのは巨大であり誰も批判できない、マスコミも批判できない、自民党政権と一体化もしているからだ、それがどうなるのか、ナチスのようになるのである
社会全体が創価化してくればそうなる、ただ最近は力も衰えた、限界が来て減少するだけである、そしてインタ−ネットではyoutubeなどでも盛んにその実体が暴露されているのである

●創価と統一教会は同類でカルト

政治と宗教の問題が統一教会問題であぶりだされた、それはもともと創価が自民党を牛耳るために一体化していたことでもわかる、そして批判もされないのは権力と一体化しているからである、人間の問題は政治でもなんでも権力をどう操作するかにある
そのために統一教会でも裏で操作している、創価でもそうである
でもその権力というのは本当の権力者は誰なのかとなると不可解になる
なぜなら統一教会の裏にはアメリカのCIAがかかわっていたとか創価なら中国と一体であり中国の命令で動く日本を乗っ取る団体にもなっている
つまりその背後には中国がありアメリカがあり統一教会でも韓国でも北朝鮮でもアメリカでもかかわっていたとなるのである
そうしてそれが不可解だから必ず陰謀論になるのである、つまり本当の権力者は見えないそうなるとその隠れた権力者は遂にサタンだともなってしまうのである

宗教でも集団化組織化すると権力集団化して政治を支配する、だからイスラム教だと政治と一体だから政教分離していないから経済も発展しないのかともみる
レバノンではイスラム教でも派閥がありセクト化して四っつくらいに分断して政治が機能していない、援助しても上の方で奪われて下には回らないとかなり国が破綻状態になった宗教はこの世のことではない、政治はこの世に力を具体的に力を持つことである
でもそうした宗教の架空のようなことより現実社会に活きていれば毎日食べなければならないとかパンの問題が優先されるのである
つまり宗教は本来パンの問題ではない心の問題なのだけどどうしても現世に生きる限りパンの問題になる、明日食べるものがないとしたらどうにもならなくなる
また様々な問題をかかえているのでそこでカルト教団はつけいる、それは金をとる一票を得るためであり確かに先祖がどうのこうのとかは現実にある

ただそれがあったとしてもカルト教団はそれで脅迫して金をとるためにしている
目的は金なのである、つまり金をとるということで宗教は必ず歪められるのである
もちろん新聞代くらいはしかたないかもしれない、でも寄付金でもあまりにも多額になることは問題なのである、ただカトリックでも一割の宗教税があった、でも一割を越えてはならないということもあった、その辺の線引きがむずかしいのである
献金を多くした金持ちがいたとしてその人は福運とか幸運とか救いがあって献金の少ない貧乏人には救いもない福運も授からないとかなったらどうなるのか?
それが宗教だということ自体おかしいのである

まず人間は金を払いたくない、金に対してはシビアである、だからそんな多額の金を払うこと自体その払う人自体がおかしいのである
御利益を得たいというのはわかるがその御利益を自ら献金して貢いでいる
その金はどこにゆくのか、なんのためなのか、それは結局幹部などに流れ団体組織の権力の拡大に使われるのである
結論は集団化した組織化したカルト教団自体を規制すべきだとなる、でも少人数だったら規制はできない、でもオウムとかはたいして大きな組織でもないのに危険なものとなったどこで規制の線引きするのかがむずかしいとなる
ただ議論では金の面から規制するというのはわかりやすい、第一何十億と何百億とういう金をどうして集めているのか、それ自体が宗教にしては問題だからである
宗祖をみればシャカでも住む家もないしキリストでもそうだった、枕するところなしだったからである、そこに宗教があまりにも違った全く世俗化したものとなったことを示しているのである

宗教団体の政治活動は否定しない、政治活動を行うなら情報開示を義務つけるべきだ
企業献金は厳しく開示が求められる
宗教団体の信者が無償で政治家の選挙の手伝いをしていることも事実情は宗教団体が献金しているのと同じなのである実態を開示すべきだ

週刊東洋経済ー9月3日号

宗教団体の信者が無償で政治家の選挙の手伝いをしていることも事実情は宗教団体が献金しているのと同じなのである実態を開示すべきだ
宗教課税とカルト規制法は、セットだろ!

信教の自由は有るけど、課税は別。 課税と規制しないから、邪教が生まれる。
本来宗教は信仰するだけなら、お金掛からないだろう。
イベントとか葬式するとかの物理的な物動くなら代金掛かるけど。
皆が集まれる場所作るなら、生活に困らない範囲の低額でカンパ募るだろうけど。

かろうじて残ってる信者から
カネを搾り取ろうと必死になって
さらに信者を減らしていくパターンになりそうだよねw

原発村が盗電社長を庇った結果村自体が存続の危機に陥ったのが良い反面教師になっているな、宗教村が全力で統一潰しに行ってるよいけいこうだ、次は創価だけどな

5ch


創価などは日々選挙運動であり選挙のためにある団体である、それも会員が信仰のためであり御利益のためであり無償で選挙運動を毎日しているのである
そんなことわかっているのに誰も批判しないとりあげない、それは自民党と一体となりマスコミでも批判しないとなる、だから自民党自体がもともとカルト政権だとも言われる
票が欲しいから批判しなかったのである、票を得たいとなり統一教会とかかわり創価公明と一体化する、票のためになら何でもするとなる
悪魔とも手を結ぶのが政治家なのである、その弱みをついてカルト教団が自民党を操作しようとする、またその背後には今度は中国とか韓国とかアメリカがかかわり陰謀論になるのである

●youtubeなどで創価をあからさまに批判

政治と宗教】統一教会より創価学会が問題だ!【朝香豊の日本再興チャンネル】


9/2 CIA・創価学会・南米麻薬組織と小沢一郎の複雑な関係

創価批判がyoutubeで相当にでている、これはありえないことだった
これだけあからさまに批判できているのも変わった
統一教会のことは霊感商法の壺を売りとか以来報道されなかった
すると報道されないのだから問題がないともなっいてた

つまり報道されないことは悪は隠ぺいされていたことだ!

NHKでも他でも報道されなかった、それはマスコミも統一教会の支援を受けていたとか
かかわっていたからだとなる
こうして報道されないことで重大なことが起きる
原発事故でも危険は報道されず安全神話が作られて甚大な被害になったからである
つまりマスコミで報道しないと真実は隠されその結果として国民に被害が及ぶのである
そして宗教は信教の自由だとかを盾に批判させないのである
信教の自由は個々人にはある、でもそれが集団化組織化して巨大化すると権力化して社会を支配してやがてナチス化する、また原発の安全神話のように危険が隠ぺいされて甚大な被害が起きる、だから国民でもそういうことで関心を持ちマスコミ報道にまかせないことである、でもyoutubeとかではプログでもインタ−ネットだと金がかからず報道できるので民主主義の促進にはなる

posted by 天華 at 12:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層