2017年11月06日

深野から石神の旧家に嫁いだ女性 (紙漉きをして古い鎧があった)


深野から石神の旧家に嫁いだ女性

(紙漉きをして古い鎧があった)


郷土史とかは家の歴史が基本にある,誰でも家のことに一番関心があるからだ:それでおじいちゃんとかおばあちゃんから聞いたか話が郷土史に興味をもつ
だから郷土史でも古い旧家に生まれると郷土史に興味をもつのである。
そうでなくても一軒一軒の家には二代くらいでもそれなりの歴史がある,謂われがある

深野(ふこうの)から石神の旧家に嫁いだ家は古い家だった,野馬追いにもでていて鎧が博物館に飾ってあるという。この辺では野馬追いがあるからそういうことがある

遠き粗(おや)の片身の鎧萬代にいかで我が名を伝えてしかな

これは柳田国男の家の歴史をたどり兄が残した短歌だった,野馬追いにでている家は相馬氏一族につながり相当に古い,戦国時代までさかのぼる,ただなぜか野馬追いの旗の由来はわからないのが多いのである。
なぜなら旗印は鎌倉時代からはじまるとしたらその源をたどると古いからわからなくなる紋を基にしてもそれが古代にもさかのぼる

例えば只野家の由来は郡山の多田野村に由来して南北朝時代に霊山が炎上したとき落ち延びてきた末裔なのである。その旗印は杉だった,その杉の旗印の源をたどると奈良の三輪山にいたる,奈良の三輪山は雄略天皇時代からの信仰の山である
杉が神聖化されていた,杉の旗印はそこから生まれていたのである。

味酒(うまさけ)三輪(みは)の祝(はふり)がいはふ杉手触(てふ)れし罪(つみ)か君に逢ひがたき

杉は神聖なものだった,三輪山は山自体が神になっているから祭るものがないのである。
古い家というとき深野から石神の旧家に嫁いだ女性は紙漉きをしていた家である。
紙漉きは相馬市の山上に紙漉き沢という地名が残っているからどこでも生業となっていたただその古い家を新しい家にした,それは原発の補償金が入ったからだとなる
その女性は深野出身であり実家の母親は臼作りをしていたという

臼作りというとき餅を作るには必ず必要だから各地で作られていた

船引のけやきの森で臼作りで

欅(けやき)は硬いから臼に向いていた,槐(えんじゅ)というのアイヌのお土産屋で聞いたら灰皿にも使えるという,それだけ硬いから火も消えるとなる
ただこの辺で杉は多いけど欅は少ないかもしれない,ただ材料があったから作られたのである。材料がなっかたら陶器でも作れない,相馬焼を庶民化した左馬という人か大堀で陶器になる土を見いだして左馬茶碗が大堀で普及したのである。

木はもともと器として作られていた,茶碗でもなんでも地元の木を利用して作られていたそれで木地師の伝説が生まれたのである。山の奥地に箸だけを作る村があるとか分業化もされていたらしい,船引では臼だけを作っていた
中山道の昔の街道ではおろく櫛というのが有名である。そこでは櫛だけを作っていたのである。
何かそうした生業というのものが今はほとんど忘れられている,生業とは生まれついてする職業のことである。だから自ずと地元に密着したものであった
原発事故で「生業を返せ」東電や政府に訴えた,その生業は農業なら今も通じるが何か工業化自体になると通じにくいのである。
戦後十年くらいは炭焼きもしていたから生業は地元にあるもので生活していたのである。
そしてともかく物は道具でもお碗一つでも貴重なものだった,そこからもったいなという言葉が生まれた,片身分けというのも衣服でも貴重だから片身分けになる
今は物を遺しても貴重なものとはならない,金の方が大事になる
「生業を返せ」というけども何か地元に密着した生活は喪失していたのである。

いづれにしろ郷土史は家の歴史をたどることからはじまる,一軒一軒の家から見えてくるものが郷土史なのである。
注意すべきは深野は大原より古いことである。館という地名が二つあるのはこれは中世のものだからである。大原は相馬氏が開墾に入った場所だったのである。
最近は畑が牧草地になったり小池の親戚が荒地になった所を耕しているというとき近いからそうなる,深野と小池は山があるにしても近いのである。

只野姓の由来
南相馬市鹿島区に多い只野(但野)氏の謎 
タグ:家の歴史
posted by 老鶯 at 11:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2017年06月14日

集団就職の金の卵が故郷に帰る (真野川の橋の上で)


集団就職の金の卵が故郷に帰る

(真野川の橋の上で)

真野川の橋でやはり川を見ている人がいた

「水がにごっているね」
「鯉はいるけどな」
「昔こんなじゃなかったな」
「昔というとどのくらい」
「わたしは50年ぶりに帰ってきたんです」
「ええ、とすると集団就職の人」
「そうです」
「じゃ、苦労しましたね」
「本当に故郷は変わってしまいましたよ」
「この辺は特にそうですね」
「なんかのんびりしようとしたけどこの辺はそうもならない」
「それは言えます、あまりにも変わりましたから」

集団就職というとき自分の暮らすで三分の一くらいが集団就職だったかもしれない、ただその時何なのかのみこめなかった。
自分は大学に行って遊んでいたからである。その差が大きかったのである。
集団就職の人は相当に苦労したと思う。

「水がにごっていないときは魚とっていましたね」
「ヤスとかで魚を追ってとっていた」
「あの頃は水がにごっていない、きれいな水だった」
「そうです、きれいな水でないと魚はいない」
「上流がダムになったりして魚をとる人はいなくなった」

その人は団塊世代だから同世代だった、だから同じ経験をしていた。
鰻釣りのことも知っていた。田んぼの畦道で穴に餌をついたミミズをつけた棒を入れて釣るのである。子供のとき父親につれていかれて見ていた
それがかなり待っていないとかからないから嫌だった、何か自分は待つのが嫌な性分だったのである。常に動いていないとだめなのである。
子供だからというのではなく今でもそうだからである。絶えず自転車で動き回っているからである。
鰻とか鮎もその時は大きくうまかった、それを料理するとき手伝わされた、家族みんなで料理した、それが思い出となっている、でもその家族もみんな死んでいなくなった
ただ思い出だけになってしまったのである。
それで今日同じ世代の人と話して思い出がよはがえったのである。

団塊の世代でも今になるとこのように故郷に田舎に帰ってくる人がでてきている
今までそういう人と会わなかったのが不思議であった
自分は同級会には出ていないからでもあるがそういう人と会っても不思議ではなかったのである。
集団就職、金の卵、全学連とか学生運動などは団塊の世代の時代の青春だったとなる
ただ学生運動と集団就職の金の卵の相違は大きかった
自分は学生でも遊んでいただけだからである。一方は油まみれになり狭い宿舎につめこまれて下町の中小企業の工場で働いていたからである。
実はそういう所でアルバイトしていたことがあったから知っている
何か自分が働いたというときアルバイトしかないのである。
自分は別に金に困っていたから働いていたのではないのである。
働く経験をしていただけだとなる

これからはこうして集団就職した人たちも田舎に帰る人が増えてくる、でもこの辺は帰ってものんびりできるところではないのが不幸である。
若い人が流出したりして世話する人がいない、人手不足になっているからだ
そして老人ばかり増えても市町村では負担になるだけだとなる
いくら金があっても働いてくれる人がいなくては金も役に立たないのである。

その人も釣りをしているのでスズキのことを知っていた、海には大きな蟹も上がってきているとかスズキが河口で見たとか知っていたのである。
もともと田舎の出なのだから知っている
そして言葉使いが東京弁とこの辺の相馬弁になっている、でも東京にそうして長くいるとなまりが出ないのである。だからこの人は故郷の人なのかと思った
訛りでお里がしれるというが50年ぶりとかなるともう半世紀であり訛りが出ない
それでもなんか帰って二年間いるからなまりがもどってきたともなる
でもやはりなまりだけはなかなか消えるものではない、東京でそれだけ長く過ごしたことがなまりが出ないということがそれを示していたのである。


ガラスの箱をのぞきヤスで魚とる写真
posted by 老鶯 at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2016年07月09日

末続村の新妻氏からのコメントがありました (興味深いのでここにものせておきます)


末続村の新妻氏からのコメントがありました


(興味深いのでここにものせておきます)


すみません、パソコンの整理に忙しくコメントを見逃していました
メールで知らせが来ると思っていたのでプログのコメントを見なかった


貴重な郷土史の発言ありがとうございます


末続の新妻氏のコメント

suixuguuu2.jpg

クリック拡大

原発の影響も隣町の広野までは避難区域でしたが、末続は原発の場所から25キロ地点でありながらもかろうじて避難区域からは外れました。

末続駅を境に山側は津波の影響は何もなく、海側は壊滅状態です。

母実家の新妻家は山側の一番奥に家屋敷を構えておりますが、原発の影響で若い世代は近隣の町に出て行ってしまい、久しぶりに墓参りなどで帰郷しても、子供達の姿なく何とも寂しい限りです。

将来的には消滅してしまうのかもしれないとの思いもあながち外れてはいない厳しい現実も感じます。

処で母実家の新妻家ですが、先のコメントに書いた先祖からの言い伝えですが、

1 仏壇にキキョウの花は捧げない。墓にも。
2 里芋は栽培しない。

というのがあり、理由は

昔、新妻家の先祖である殿様が、間者であるキキョウという名の腰元の手引きにより敵に矢を放たれ、倒れて亡くなった場所が里芋畑だったと。縁側から崩れ落ちたらしいとの。

代々言い伝えられて来た事により現在でもそれを継承しています。
他の新妻家ではそんな事は無いらしく、里芋は近隣の家の方がお裾分けしてくれるそうです。(食するのはいいみたいです。)

当主である叔父も祖父も代々ご先祖様から言い伝えられて守って来た事を自分の代で無くしたくない、と言っていました。
現在は原発の風評により作物は作らなくなってしまいましたが。


他にも色々聞いた話はあるのですが、末続という地名もこちらの記事記載にあるようにこんな由緒あるとは思っていませんでした。

あ、思い出した事が。末続は天領だったとも母から聞いてます。

色々と思い出しつらつら書き出してしまいました。

有り難うございました。

・・・・・・・・・・・・・・・・

コメントの自分の答え

末続とは天領だったのですか?とすると末続という地名は他から来た姓で末続というのは代官の話があるからそこから来たのか?
興味深い話です、なぜ末続なのかわからなかった

末続の由来をたどると末継であり島根県に神社があるからもともとは渡来人系である。
つまり須恵器というのがあり末は陶(すえ)陶器のことでしょう
陶器を作る人の末裔とか陶を継ぐから出た名前でしょう

末次と起源をともにする。はっきりとした出自は不明。近年、長崎県に多く、特に南高来郡口之津町に多数みられる。

現島根県である出雲国島根郡末次村が起源(ルーツ)である、宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)。現広島県西部である安芸国末次庄が起源(ルーツ)である、大江氏(土師の族で相撲の元祖の野見宿禰の子孫。平城天皇の子孫ともいわれる)などにもみられる。

長崎県に多いということはやはり島根県が基で移った人たちでしょう
末続、末継、末次などがあり末次が一番多くて一万人くらいいる
末続はやはり姓が地名化したものでしょう
でも新妻氏が末続の姓になったのは末続という姓は相当に古くそのあとに千葉氏系統の新妻氏が入って来たとなるのでしょうか


(昔、新妻家の先祖である殿様が、間者であるキキョウという名の腰元の手引きにより敵に矢を放たれ、倒れて亡くなった場所が里芋畑だったと。縁側から崩れ落ちたらしいとの)

そんな言い伝えが残っていたんですか?
まるで時代劇ですね、これは作り話ではないんですね
忍者とかでも女性が出てくるでしょう

落ち武者の伝説ではこういう禁止されている話がタブーが伝わっている、身を隠しているからそういうことがあった、・・・をしてはいけないということがあった。
それは山深く隠れていて交流があまりないからそうした伝説が伝えられ守られてきた
いろいろ外部と交わるとそういう一族意識もなくなってしまうでしょう

南相馬市の鹿島区では栃窪村は山の方の村ですが大谷一族というのがあり大谷(おおがい)という姓が多いです、そういうことが各地の村にあります
新妻一族というのがす末続村に墓地をみたら80パーセントくらいあったのには驚きました栃窪村にしても一割くらいか大谷(おおがい)ですから

末続村は何かそういう地形にあった。何か山と海の狭隘な地域でありだから余り外からの人の出入りが少なく新妻一族が代々継がれてきた。
栃木県の湯西川でも山の奥で落人伝説で有名である。

原発から25キロですか、微妙な地点ですね
鹿島区は30キロ地点です
30キロ内だと原発補償金がもらえる地点です
なかなか地理的にわかりにくいのですがやはり相馬藩の境だったようです
相馬藩の参勤交代で江戸に行くとき末続村の人が出迎えたということはどこかで書いてあったようです
つまり岩城藩から相馬藩に移った人も武士もいたからです


何か北海道の方が自分の先祖がいたということを書いてきたことてなどあった。
新妻という姓は結構多いですからルーツをたどる人がいるのでしょう。
末続で津波で七人死んだ、駅の前の所だった。
あとは山が多いから助かった、ただ末続でも一部しか見ていないからわからない所があった。末続が何か地形的に変わっているから印象に残っていた。
歴史的にも地形的にも印象に残る場所だった。

メールでコメントが来るのかと見ていたのですが来なかった

それでプログのコメント欄を見てなかったので遅れてしまいました。
また何か言い伝えなどあったら書いてみてください

末続村と新妻氏については全国的に興味をもっている人がいるみたいです
末続の姓の人は興味をもっています 

興味深い話ありがとうございました、また何かありましたら書いて下さい




今いろいろ書いたもの整理中です、メールの方でスバムがあったのでそれで追われていたのも見逃していた要因だった
量が多くて自分で書いたものがわからなくなり整理中です






タグ:末続村
posted by 老鶯 at 15:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2016年04月13日

郷土史の基本は村の新旧を知ること (一地域の新旧も歴史であり重要)


郷土史の基本は村の新旧を知ること


(一地域の新旧も歴史であり重要)


郷土史をどういうふうに研究するかとなるといろいろあるが基本はやはり村の新旧を知ることである。
前にも書いたけどそもも明治以降なら時代を間違いることはない、現実に祖父母まで生きているとき接している、自分の父親は明治生まれだから明治と大正が逆になるはずがない、でも江戸時代になると時代を間違うのである。
「天保」となると古い感じになるが実際は天保生まれの人は明治で活躍した人なのである江戸時代では時代をとりちがえる、つまり父親が祖父母となり祖父母が父親のようになる、普通はそんなことありえないのだけど江戸時代になると新旧がわかりにくくなる


それが大事なのは原町でみると原町市となっているけどそもそも原町の市街地は新しい街である。そこは雲雀が原であり野馬追いのために馬を放し飼いにしていた広い牧場だっただから原町村となり野馬追いに出ていたのは一つの家だけである。
村の新旧を知るというとき一番の目安は中世の城館があったかどうかである。
これが意外と大事なのである。それは地名からわかる、館とか楯とかある

東北地方で「館」の名前がつく地名の由来と意味とは

東北に特殊な事情があり館という地名が多い、でもこの館は江戸時代前の地名でありそこが古い場所であることを示している
原町は新しいのであり原町で古いのは中世では泉館跡とか深野でもそうだが館という地名が二つあり古いのである。
誤解しているのは大原より深野は古い、深野には実際に古い墓があったことでもわかる。相馬氏は中世に土豪として土着していた人たちを征服した氏族である
例えば最近高校で習った西徹男死が死んだ、その住所が中館になっていた。
その中館が自分の家からいつも見えるのである。
今は桜が咲いているから身近だとなる、そこは南朝で滅びた一族が逃れたところであり由来がはっきりしているのである。
たいがい中世の館は小高い山に砦を構えて住んだ。磯部の鬼越館もそうである。
最近発掘された津波の被害を受けた海老村の跡は鎌倉時代だった
そこはすでに弥生時代の竪穴式住居跡もあったというから古いのである。
あそこは右田村より高台にあり住むには適地であり古くから港の機能があり江戸時代には船で米を江戸に運んでいたという、となるとそれだけの米を運ぶ船が出入りしていたのかとなる
鎌倉時代から住んだというとき南相馬市の鹿島区の屋形は岩松氏が鎌倉から来たことで有名である。
この岩松氏は一番古い氏族なのである、それは原町も支配していたし大倉とか飯館村も支配下に置いたのである。


前に相馬氏の進出径路について書いたが大原というとき深野はすでに中世の館があり地名として二つも残っている、大原は未開の地であり文字通り大原であり原町も原っぱだったのである。
そこに相馬氏が進出して支配したのである。
地理的にも大原というと深野より奥になるから地理からまず納得する、橲原でも江戸時代からあったとしても中世は森だった。
一方栃窪村は中世の館があったから古いとなる
こういうことは地元の人でも外から来た人だと余計にわからない、新旧を取り違えるのである。
八沢浦は江戸時代は浦であり港であり明治になって開拓された、小高の井戸川も大正になって開拓された場所なのである。
ただ小高は縄文時代の遺跡が多く古いのである。縄文時代の遺跡があるところは一番古いからである。そこは今回の津波の被害にあっていないのである。
縄文時代は海だったからである、津波では鹿島区では塩崎の船着という地名のすぐ近くまで津波が来たのである。古代には船の往き来があり海だったからである。それが津波で証明されたのである。

ともかく郷土史でも新旧を知らないと誤解が生れる、相馬氏が今の相馬市に城を移したのは慶長時代でありそれは津波の被害があった一カ月後だった。
損なときに何故城を移したのか、大工事をしたのか?それが疑問なのである。
その謎解きの一つとして海老村で大工の一人が大原と関係していて天守閣の普請に使われることで苦しんでいたのである。それは海老村に津波の被害がありそのために地元で働くために天守閣造営に使われるより津波の被害のために尽くさねばならないからであったかもしれない、「大原」と関係していたことはその時相馬氏が大原に進出していたからである。


相馬氏が進出した城のあるところはすでに伊達氏などの支配地であり黒木氏など黒木館などがあり有名である。中村とはもともとあった地名でありそれで相馬市はもともと中村市だったのである。そしてなぜ松川浦の近くの津波の被害にあった新田村に元禄の碑があったのか?
これも相馬氏が進出していち早く開拓が行われたためだとなる
この辺では元禄の碑はめったにないからである。
いづれにしろ新旧を知らないと歴史を知らないと俳句とか短歌にしろそういうものも深く味わえない、深野が大原より古いということを知るのと知らないのではやはり感覚的に違ってくる、栃窪村でも中世からある古い村だということを認識しないと自分が今回作った「花の影」という俳句も深くは味わえないしまた自分にしても歴史を知らないといいものは作れないとなる、全国でも歴史を知らないと俳句でも短歌でも作れないのである。
また深く味わえないのである。だから伊勢湾から名張を通り奈良に自転車で行ったときはそこは歴史の道であり意味深いものがあったと後でふりかえることができたのである。
それは一地域でも新旧があり大事なのである。
そういう歴史が原発事故で放射能汚染で失われことが大損失だった
人が住まなくなれば歴史も失われる、するとその地域の魅力も喪失する、栃窪村でも俳句にするにしても短歌でも深く味わえないものとなる
例えばアメリカの歴史は浅いからヨーロッパのような歴史がないから浅薄でありつまらないとなるのである。
タグ:村の新旧
posted by 老鶯 at 10:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2016年03月05日

元号の意味するもの (グローバル化して時代にそぐわなくなった)


元号の意味するもの

(グローバル化して時代にそぐわなくなった)

7割近くを占める西暦派が挙げた理由は「便利」がもっとも多かった。年数計算の起点がひとつなので,過去の出来事と現在との時間距離が簡単に分かる。創立 ?! 周年,祖父母の年齢,


tennpppp1234.jpg
天平

宮城県遠田郡涌谷

gengou11122.jpg

文禄


tanakaaaa111.jpg
慶長

shinnnyq1.jpg


元禄ー相馬市新田

gennrokuuuu222.jpg
元禄

tennnpooooo1.jpg

天保


天平 ( 729-749)
 - 雲はめぐり、雨はあまねく潤して、天下が平和に治まる。

大同 (806-810)- 君が事をなさんと決意し、すべてが賛同すれば、もとより事をなして吉。君ご自身は、心安らかに、身体すこやかに、子孫にまで吉は及ぶ。

貞観 (859-877)- 天地の道は節義を変えずに守り通すただしさによってしめしている。



慶長(1596-1615)

元禄 (1688-1704)

天明 (1781-1789)- 天下に安寧をもたらした帝王が取り次がんとして残された、天の明らかなる命の兆しを見る。また、天の明らかなる命を受けて、王者として天下の万民を有する。

天保(1830-1844)

明治(1868-1912)

大正(1912-1926)




時代をみるとき日本では元号でみる、この元号が意外と重要である。その元号から時代をイメージするからである。西暦の数字だとイメージしにくいことがある。

例えば津波があった年は今回の津波で重要だったことがわかった。そして大きな津波があったのは貞観津波でありこれは記録にも残されて多賀城での被害が記されている
そして最近ボーリング調査した結果貞観津波が来た地点の砂が掘り出されている。
それは相馬市でもかなり奥まで貞観津波の砂が今回の津波が来る何年か前に発見されていた。
そのことを自分は時事問題に書いていた。でもこのことに注目する人はほとんどなかったろう。
貞観津波というとあまりにも古いからそうなる。その貞観津波は古代に蝦夷征服の時でありそれ故京都と陸奥が結びついたことで記録されたのである。


天平大同貞観は陸奥と中央の政権が結びついた時代であり記憶されるからなじみがある。

天平産金遺跡は、宮城県遠田郡涌谷町の黄金山神社付近で、「天平」の文字瓦が出土している。

ここから黄金が産出して奈良の大仏に使用されたのである。

すめろぎの御世栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲く

このとき陸奥は奈良時代、平安時代(京都)に知られる時代だった。ここから陸奥の歴史が日本史として記された。その前に蝦夷の歴史があったがそれは消滅したのである。


貞観時代の後は鎌倉時代とかになっているが元号でなじみがないし興味がない
その後元号で興味が出たのは慶長時代である。
この時代は慶長津波で有名になったがこの時は戦国時代であり江戸時代の支配が確立する前であり重要な時代だった。
でも今回の津波で大津波が襲った時代は一つの大きな時代の区切りとして意識された。
津波の前と後では別な時代のように意識されたのである。
特に東北の沿岸地帯ではそうなった。

ただグローバル化した結果元号はなじみがなくなった。何か違和感を感じる人が多くなった。
でも江戸時代までは元号が時代をみるには重要だった。自分は必ず古い碑を見るとき元号をみる、その元号によって時代がわかるからである。
この辺では東北では江戸時代の前の元号があるのはまれである。
慶長時代の墓が南相馬市鹿島区の屋形にある。はっきりと時代が記されている。
田中城主だった人の墓である。これが一番古い墓に思える。

それから元禄というと何をイメージするかというと日本が戦国時代が終わり社会が安定して繁栄した時代をイメージする、それで不思議だったのは葛尾村の落合に明暦と元禄と記された碑があった。
あそこになぜこんな古い碑があったのか謎である。葛尾村でも古い歴史をもっていると感心したのである。
それから新地には文禄の碑があった。新地は伊達領だから宮城県に伊達藩には相馬藩より古い碑があるから納得がいく。文禄と記されたのは検地をした記念だった。
そして元禄というと華やかな時代でありその時芭蕉が「奥の細道」を旅した時だったというのも不思議である。
奥の細道は中通りであったがすでに葛尾村に元禄の碑があるように元禄時代には地方でも相当に開墾されて栄えたことは確かである。
相馬市からも近い松川浦に面した新田にも元禄の碑があった。
ここに元禄の碑があったのもここが開拓された開かれたからである。でも元禄時代というどこの辺では古いから意外ということもある。
それでも元禄時代は地方でもそれだけ開墾開拓されて発展した時期なのである。
関西辺りでは元禄と記された墓が最近墓を継ぐ人がいなと捨てられていたのは驚いた。
この辺だったら文化財になっているからである。


元禄の後は文明が記憶に残る。これは全国的飢饉の時代であり相馬藩でも人口が三分の一に減ったことで有名でありそのあと越中などから移民がきて復興したのである。
だから相馬藩では天明という時代は重要である。
その天明が自分のすぐ近くの子供のとき遊んだ神社にあったことも驚いた。
すでにこの辺は天明時代から人が住み生活がありつづいていたのである。
自分の家は明治に父が移り住んだのでありそこまでの歴史はない、一般的に町内では他から移り住んだ人が多いが同級生但野氏は南北朝時代からつづいていたのには驚いた。
町内でもそれだけの歴史がある家があったことに驚いた。

それから天保という碑が自分の墓地にあった、それはそこが寺子屋だったらしからである天保というとすでに明治時代につづいている。天保に生れた人が30年くらいすぎて明治になっているからである。
だからここで錯覚していたのは天保は明治を基点としてふりかえると遠い時代ではないのである。時代というのは常に錯覚している
でも時代が重要なのは例えば明治以降ふりかえると明治生れと大正生れとかその後の昭和生れでも時代を明確に分ける

両親から祖父母の時代でありその前後を間違えることはないし身近なのである。
自分の父親は明治生れだから明治の人であり母親は大正生れである。
それを逆にふりかえる人はいない、ところが江戸時代でも時代をさかのぼるといつの時代なのか古い時代と新しい時代を錯覚することがある
どういうふうに時代を認識するかは百年単位になるくらいならいいが千年単位になると本当にむずかしい。
津波など大きな自然災害など何かその時代に歴史的事件があればそれでもって意識する。そういうものがないと時代は意識されにくいのである。

そして現代では元号は時代にそぐわなくなった。そもそも明治になっんたとき元号には無理が生じていた。武士の世でも天皇の世でもなくなった、平民の民主主義の世になったからである。元号は天皇支配の象徴でもあったからである。
もちろんそれが日本の伝統だからそれなりの意味が歴史的にあった。
でも今はもうこれだけグローバル化社会に生きているとき日常生活でも不便になった。
常に自分の生年月日を書類に書くとき昭和という元号と西暦がダブってこんがらがるからでしなる。

元号が何か時代にそぐわなくなったというとき「降る雪や明治は遠くなりにけり 草田男」というとき明治という時代は明確に一時代を築いた時代であり誰でもイメージしやすい、そしてその次の大正時代も明治のあとの何か革命の時代が終わった頽廃的なものを感じる
それより大正生れというとき今も90才以上でまだ親が生きている、だからまだ身近なのである。
自分の母親は去年、百歳で死んだのもそうである。母の一生は働きづめの一生だった。
若いときは紡績工場で原紡で糸取りでありあとは東京で女中をしていた
その頃の働き場所はそういうところだった。母が言うには現金収入になったから良かったとも言っていた。つまりその頃女性が現金収入を得る働き場ができたということでそう言っていたのである。
それから関東大地震を子供のとき感じて知っていた。そういう時代の人だった。


大正といってもまだ生きている人が相当いるし百歳まで生きる人も増えているから大正は過去のものではない、大正時代までは何か元号が活きていたと思う
昭和になると昭和天皇でありそれは戦前は二十年つづき戦後も長くつづいた。
でも昭和は明らかに戦前と戦後では連続性がないのである。
時代は戦前と戦後では全く変わってしまったからである。
だから年号はこの辺からそぐわなくなった。平成とかなってもこれは何なのだとみんなが思うようになった。
西暦の方がグローバル化社会ではあっている。歴史はもはや日本だけのものではない現実の生活で世界史の中でどこでも語られるようになっているからだ。



タグ:元号
posted by 老鶯 at 19:11| Comment(1) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2016年02月24日

相馬市南相馬市(原町区)などの街作りをどうする? (歴史的にふりかえる街作り)


相馬市南相馬市(原町区)などの街作りをどうする?


(歴史的にふりかえる街作り)

souma11111222m333.jpg


自転車で行くと相馬市はイオンから街中に入る
街中と一体化している
でも電車だと駅前を通る
電車に乗らないからまずイオンに行く
それよりイオンが中心でありそこで用をたすのである
そのために相馬市のイオンでは8時から営業しているのは勤め人が利用するからだろう。

ionnnnnnnnnnn23455.jpg

原町は中心街は道の駅のある六号線である。
そこからイオンまでは自転車では遠いのである。
だからイオンは陸の孤島のように自転車では感じる
だから駅前に図書館など作ったのは街作りでは失敗だった
駅前にイオンのようなスーバーを作れば人の流れができたのである
図書館は閑静な場所があっていた
駅前の中心が図書館というのはそぐわないのである。
実際に駅前通りというのが何か六号線の中心街からイオンに行くとき
ぬけおちているのである、シャッター通りにもなっている
これは前の市長の失敗だった、ただ図書館を駅前に作っているのは郡山でもそうであるから何か駅前に人の流れを作るためにそうしたことは共通している


ただ図書館などは街から離れていて閑静な場所が本来にあっているものだろう。
そこに回遊式の庭があるとか森の中にあるとかなると何か雰囲気的にいい
そんなところで読書していれば何かアイデアが生れる
駅前とかはやはり買い物とかが主になるのがふさわしい
結局車社会になり電車を利用しないということが街の通りを衰退させたのである。


いづれにしろ駅前通りでも旧来の街が衰退したのはシャッター通りになったのは車社会になったためである。
ただそれだけではない、街は常に興亡をくりかえしている、もともとは陸前浜街道沿いが宿場町として栄えたりしていた。
それは江戸時代のつづきでそうなっていた。それから駅前通りが栄えたのは電車が足となったとき駅を中心の街作りになったからである。
そして車社会になったら当然車社会にふさわしい街になる
江戸時代辺りでも地名を見ると必ず古町というのがある
それも小さな狭い町でも古町がある、古町と新町はそんなに離れていないのである。
人間社会は常に変化しているからそうなる
自分の家で店をしていたとき繁盛したのは前に小さな店が繁盛していたのは徒歩の時代だったからその利便性は道の角のような場所だったのである。
買い物する人はあまり遠くからは来ないからである。
近隣の人の利便性があり繁盛していた。それで角屋という屋号はそういう場所が繁盛したからである。
それがスーパーができたとき衰退して店もなくなった。

街作りは歴史的なものと新しい時代に対応するものが必要になる
相馬市は城下町でありそれで入母屋式の屋根を作り景観を統一しているのである。
それは評価できるが新しい街としての活気に欠けている、それはどこでも共通した問題である。
外国でも古町は歴史地区であり観光の中心になる。その外郭に現代の街が広がっている
それがはっきり分かれているが日本だと混在していて良くわからない面がある
相馬市は原町と違うのは高いビルがない、ただそれだけで景観が保たれている
高いビルは景観をそこなうのである。それで京都の町屋の前に高いビルが作れたときそれがのしかかるようになり景観は失われた。
江戸八百屋町とあっても二階くらいであり長屋にしても一階でありそういう場所は空も広いし空間的に景観をそこなわない、それで浮世絵では常に富士山が描かれている
一番高い建物は城であり天守閣だったのである。


日本の場合はともかく計画的に都市をつくるのが苦手である。雑然としてごちゃごちゃになる、路地も多いし計画的に立案して都市を作れない、原町はイオンがあってもそれが陸の孤島のように離れている、自転車だと六号線から入ってゆくから余計に遠くなるのである。
原町の街作りは失敗したのだろう。駅前にこだわったこともそうでありイオンが離れすぎていることもそうである。
相馬市の方がこじんまりしてまとまっているのである。
商業地区とか文教地区とか歴史地区とは分かれるべきだったろう。
歴史地区に文教地区があるのが望ましいとはなる
それだけの歴史遺産があればそうなる
もともと日本の都市は戦国時代の延長として防衛のために作られていた。
城の回りに寺が多いのは寺が防衛のために配置されていた。
城と寺は一体であり寺と一つの行政機関でもあった。
寺町とあるときそれは防衛のためのものだった。
歴史的に街作りをふりかえれば東西で共通したものがある。
寺町はヨーロッパになると修道院になる、教会も防衛のためにあったともなる

街作りはまず歴史地区、文教地区、商業地区、医療福祉地区、農耕地区、純粋自然地区、、、とかに分かれる
townnnn11111.jpg

歴史地区に文教地区も入るのにふさわしい、商業地区には娯楽地区が入り医療福祉地区には墓地なども入る、墓地というのも街の中にあるのがいい、何かそぐわないようでも自分は小さな街内に住んで毎日自分の墓の前を通るから死者を意識する、最近二人家族が死んだから余計にそうなった。毎日通るから手を合わせるとなる
離れていればこうはならない、一年に二三回墓参りに行くだけだとなる
老人ホームに墓まで用意しているのが在り安心だというとき何かそういう心境もわかる。死者をかけはなれたものではなく死者と一緒に住むというのも街だとなる

商業地区には娯楽施設などがあっている。農耕地区があり純粋自然地区がある純粋自然地区は聖なる場所でもある、田舎だと身近にそういう場所が近接している
大都会になると農耕地区とか純粋自然地区は消失しているから街作りとしては大規模になるがかたよるのである。
田舎だと純粋自然地区と農耕地区のしめる割合が土地にして大きい、そこに安らぎあり神道のようなものが生れた、ただご利益宗教になったとき俗化したのである。
まず純粋自然地区がないところには住みたくない、安らぎがないのである。
森につつまれているような飯館村などがあると心に安らぎが生れる
広い地域でも歴史地区なら相馬藩内では城があった相馬市であり原町は商業地区として明治以降発展した。全国でも東京は商業地区であり関西は歴史地区である。
世界的にそうである。中国では上海が商業地区であり北京は歴史政治地区になる。
それで上海語と北京語が違っているというとき関西弁と標準語の相違とにている

いづれにしろ原町の街作りは駅前に図書館を作ったことはそぐわないものだったかもしれない、医療機関も多いが電車を利用すれば便利だがどうしても車を利用することで駅前はすたれる、何か自転車だと街全体を回れるからいいが電車で来て徒歩だと手間が時間がかかりすぎる時代になったのである。
もし電車が足だったら駅前中心の街作りができたのである。
日本はともかくこうして全体をみわたし計画的に街作りすることが苦手なのである。
だから何か雑然とばらばらになっているのである。

そしてこの辺では津波原発事故で新しい街作りを要求されている、これだけ変化すると新しい街をどう作るのかとなると今までの発想ではできない
大きな発想の転換が必要になっているのだ。
少子高齢化というのも街作りに大きく影響する、町自体が消滅するとか農耕できないとかなると新しい街作りをどうするかとなるとイメージできないのである。
ただこれだけ変化すれば新しい発想をして新しい街作りをやりやすいとはなる、津波で町が消滅したような場所もそうなのである。
街自体がなにもなくなったらそこに新しいものは作りやすいのである。
でもそれはどういう街になるのかそれともう若い人も流出しているから街自体の再建ができないとかなって深刻なのである。



タグ:街作り
posted by 老鶯 at 17:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2014年03月26日

溜池が稲作文明を発展させた原動力 (水の管理が稲作では一番大事だったあー鹿島町誌より考察)


溜池が稲作文明を発展させた原動力

(水の管理が稲作では一番大事だったあー鹿島町誌より考察)

toishita.jpg

ここは下が鉄道になっていて高い、ここの地名が樋下となったのは
そういう理由があったつまり地名にはそれなりの理由があって名付けられている。

これは唐神堤から引くための水路だった。


tameikeeeee1111.jpg


樋の水流れてうるおし実りかな二宮仕法に相馬藩栄ゆ


溜池には水利を通じての人と人との交わり、繋 がりがある。それは、親池、子池、孫池といった関係か ら、その輪を広げながら、広い範囲でのコミュニティーと して、重要な働きをしてくれている。


相馬領全部226ヶ村、この内明治4年までに実施した村は101ヶ村、更にその内で仕上成就した村は55ヶ村であって、これに用いた領主の分度外米248,220俵、開発2千余町歩、費用2万余両、溜池692ヶ所、水路等合計費用2万余両、新家作573戸、この費用2万余両、その他諸施設合計99,180余両であって、このために増加した戸数
1,135軒、人口21,715人である。
http://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/22000/

樋町、樋口、樋上、樋下
樋口は文字どおり樋(用水管)の口(取水口、水門)のある場所から起った地名です

「筑前国続風土記」には「樋井川」の名の由来として「其の川、樫原、東油山より出、田島村の東、鳥飼村を西を経て海に入る。此の郷中、桧原村の東、長き樋有り。是は川上に樋を掛て川向に水を取り、田を浸す為なり。樋長さ七間半あり。昔より此の樋ある故に、此の邊を樋の郷という。」とある。
http://nagaoka.blog.jp/?p=18

樋がつく地名 樋越、樋口、樋田(といた):水路(管路)のことを「樋」と呼んでいる。地名以外に苗字に多く拡っている


鹿島町誌より


真野川は有効に利用するかいなかは農耕の死生にかかわる
まず真野川上流の栃窪堰の手入れをして嘉永五年以来廃止していた一の堰(大谷)を改修した。正月から五カ月間を要した。
高一丈五尺平均、堰口十六間余大石積み上げた技量をほめ・・・

荒専八の代官の事業である。荒は二宮門下唯一の洋式土木技法をも心得た技術家であった

また川子村の嘆願書の中に「小堤等数多く築きたてくだされ莫大の難儀これなく」とあり(安政二年)、牛河内村では(安政元年)にお願いして水不足故に中丸堤土手つぎたし」といっているし・・・

中でも一番の大工事は唐神堤の手入れであった。この堤は領内第一の大堤で安政四年五月の再度にわたる大崩壊、もし決壊となれば産米七千石の田から民家一円亡村の惨事となる・・

七千石掛入は真野川より取り入れるももとは唐神をへず直接通じたが御山堀を高め新江の延長として横手地内68間の岩を切り通しトンネルをうがち、水路を唐神に引水して冬の貯水に便をえしめるために溜池の水増加して上真野、八沢、鹿島の一町二ケ村にわたる
(鹿島町誌)

文政年間、鹿島村の西河原において真野川をせきとめ一里の間を穿ってその水を最も裾の南右田の地にひいて百余町の内を灌漑した。自ら毎夜提灯をたてて並べさせて堀の高低をためし、時に水上の村民の激怒をかって命をねらわれた。(和算学者-荒専八-奥州相馬-森鎮雄))



稲作というのは実際は大きな文明であり自然を改革する一大事業だった。稲作は水の管理が最大の問題となる。いかに水を利用するかが稲作を拡大することに通じていた。
米の生産量をあげるかに通じていた。だかち灌漑事業でありこれは大規模な土木事業であり文明だった。水を利用するということが文明のはじまりである。そこでメソポタミア文明などでもいかにエジプト文明でも農業はいかなに水を利用するかが文明を作る。
だから四大文明は大きな川の辺に生まれたのである。カンボジアのアンコールワットの巨大な貯水池もそうだった。そこに一大栄華を築いた都市文明が生まれたのである。
溜池を改修するのにその堤を集団で人力によって固める絵がでているが機械がないのなら人力になるからその労力は並大抵のものではなかったのである。

溜池の建設ー大地の刻印(ここには絵がでているから参考になる)
http://suido-ishizue.jp/daichi/part3/01/04.html

巨視的にもそうだがミクロ的にもみると小さな村でも稲作はいかに水を利用するかで水田を拡大して収穫量をあげるかが決まる。だから必ず溜池が必要であり無数に溜池がある。稲作は溜池なくして成り立たないものだった。大きな溜池もあり小さな溜池も無数にある。それほど水の管理が稲作には必要だったのである。
水田は水なくしてはありえない、絶えず水を流していなければならない、だから水路となる樋がいたるところに必要でありそれにまつわる地名も多い。
そして溜池は必ず順次広くされている。水がたりなくなりそうなった。
水争いがあり荒専八が真野川の下流に堰を作ったら上流の人が水が不足すると思い殺そうとするまでになった。これもいかに水が大事かを物語るものだった。
入会権でもそうだがここも大規模な戦争の初端になったし水争いもそうだった。
水資源の争いは文明国では常にあった。イスラエルでのデカン高原でのシリアとかの戦争もヨルダン川の水争いに起因しているのだ。

ともかく田んぼを拡大するには土地だけではできない、水を得る必要があった。だから南右田は海側であり開拓された所だが真野川の水を確保できるうよになり水田になった。
今は津波で壊滅した。

この水が大事な故に山から水が絶え間なく供給されるので山が神となり春には田植えの時は山から神がおりてくるという信仰にもなった。山には先祖が眠り見守ってくれるという信仰にまでなった。稲作は長い間に単なる米を作るというものではない信仰となり文化になっていたのである。
だから津波や原発事故で田んぼが荒地になり水が流れないということに違和感を覚えたのはそれはすでに単なる米を生産するというのではない心に深くその景色であれ農耕というのがアイディンティティ化していたからである。
別にこれは田舎に住んでいれば農家の人でなくてもそうなる。
都会だとまた違っていてそういうふうにはならない、回りに田んぼも畑もないからである。だから大都会には文化がないのである。ただ物質化した精神性のない人工的機械的空間になっている。古代都市なら自然との密接な関係から構築されたものだから今の都会とは違っている。自然村があるというとき自然から生成発展した文明であった。
エジプト文明でもマヤ文明でも農業文明なのである。

津波原発事故では水田がなくなり荒地となり水が流れていても水は活きていないのである。その時神となっていた山をも死んだようになる。
日本では葉山羽山信仰でありこれは低山であるが水を供給するものとして信仰になったのである。山は水と密接に関係してあったのが日本だったのである。

posted by 老鶯 at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2012年07月31日

死者の名前が刻まれていない墓の怪 (墓より名前の方が大事だった)


死者の名前が刻まれていない墓の怪

(墓より名前の方が大事だった)

no name.jpg

お盆近くになったけど墓の意義とかお盆の意義とかで検索している人がいる。奇妙なのは近くで世話になった人の家の墓参りに行ったけどその墓には墓銘碑があるのだけどそこにお参りする人の名前がまだ刻まれていない、死んで二年になるけど名前が刻まれていない、息子がいるのだけどこの息子がもともと不肖の息子でありいろいろ失敗ばかりしていた人である。離婚してもいるしいろいろな不幸を作り出した人であった。今はひどい貧乏になっている。だから金がかかるから墓銘碑に母親の名前を刻んでいないのだ。名前を刻むだけで何万円とかかるその金がない貧乏なのである。しかし墓参りする方になると名前がないということは奇妙な感覚になる。この人には世話になった、いいい人だったと思って墓参りするのだけど名前がなかったらその人がいるのかどうかわからない、墓は確かにある、一家の墓としてある。

でも死んだ人の名前が刻まれていない!するとその人が墓にいるのと疑問になる。つまり墓には確かに骨が埋まっていても名前がなかったらその人がいるかもどうかもわからない、それで思ったのは人間最後に残るのは墓ではない、骨でも灰でもない、名前である。名前が残らなければその人が存在したかどうかわからない、しりえようがない、自分の墓にも祖父にあたる人の名前が刻まれている。これもあったこともないのだから名前しか知らないのである。でも一応存在した人として残っている。


墓の意義は何かなどと検索している人がいる。墓の意義は死んでもその人の代わりとなるものである。現実に自分の実家の墓は原町に残っていても実家はない、墓だけが残っているのだ。墓は家がなくなっても消えないのである。墓は家より寿命が長いとなる。その人の存在した証として残っている。でもその墓にしても名前が刻まれていなかったらその人の存在すら不明になる。戒名より実際は名前の方が大事である。戒名は誰なのか良くわからなくなる場合がある。名前は一番その人を記憶したものなのである。例え一行でも名前が刻まれていることはそこに確かにその人が生きていたという証なのである。ただその人がどういう人かわからない場合がある。

前に27歳で死んだ人は肺病で死んだと教えられた。その人のことはそれしかわからなくてもその当時、肺病で死んだ若者が多かったからさぞかし無念だったろうなとか思う。何も聞いていないと全くその人についてしりえようがないのだ。自分の祖父は名前だけしかわからない、人間は骨も灰も結局消えて残らないのだ。わずかに由緒ある武家の家系でも名前しかしりえない人がいる。何百年前になれば名前しか残らない、墓もわからない、すると名前だけが頼りになるのだ。古代の天皇でも墓がなく仰々しい名前だけが残っていてそこからその人を探ったりしている。名前しか探る手がかりがないのである。人間最後に残るのは骨でも灰でも墓でもない、名前である。名前が最も大事なのものである。近くに農民の墓が残っている。姓もあり名前もあるがその人のことについては何もわからない、ただ名前だけが残っている。その名前からしかその人を探る方法がないのだ。


「御名をあがめられますように・・・」というとき正に名前しか最後は残らないからそうなっていた。キリストであれシャカであれ骨も灰もどこにあるかわかりえようがないし残らない、ただ名前だけは残っているのだ。名を残せというときまさに名前が残ればその人が記憶されているからだ。一般的には名前すらほとんど残らないからその人が存在していたのかどうかもわからなくなる。名前の一字でも残っていればいい方であのが人間だった。それほどはかないのが人間だった。あなたの残すものはわずかに名前でありその名前すら残らないのが普通なのである。

人間のはかなさもこれからも知った。あなたがどこで記憶されるのか?名前だけである。その名前すら忘れられる存在が人間だったのである。名前が残るということは動物と違っている人間の証でもあった。名前でも残れば歴史が人間にあるということである。動物は名前も残らないから歴史に残らない、ペットブ-ムで名前つけた墓があっても一代で忘れられるだろう。動物には歴史がないのである。人間は名前が残り歴史が記されているのだ。


墓というときだから別に墓がなくてもいい、墓の代わりになるものを名前刻んで位牌のように家にでも飾っておけばいいのだ。そうすれば骨も灰もなくても名前だけは記憶されるし存在した証になる。そうした名前の方が大事だったのである。ここに意外と気づいていない人が多い。たまたま名前の刻まれていない墓にお参りしてこれは変だなと思ってわかったのである。

posted by 老鶯 at 20:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2012年04月30日

大芦や地蔵木などは昔は秘境だった (不便な地域に分家して開拓に入るプロセス)


八木沢峠の麓の大芦や地蔵木などは昔は秘境だった

(不便な地域に分家して開拓に入るプロセス)

map-ooashi.jpg


郷土史でもやはり地形に通じないと見えてこないものがある。日本の地形は山あり谷あり川あり海ありと複雑なのである。海にそった浜通り側は比較的わかりやすい地形だった。でも山側になると複雑に入り組んでいるのだ。だから阿武隈高原でも地形的にはわかりにくい所だった。
飯館村の八木沢峠の麓の地帯は山間であり地形的に窮屈な所でありここに人が住んだの南相馬市の原町区や鹿島区の橲原村よりはあとである。分家した人たちが入植した。姓を見れば橲原村や大原村の人たちが入植したことがわかる。あそこでは田にする平地がない、それでもわずかに田を作っていた。大原から坂を上って遠田と地名があるから大原の草分けの前田から遠田に開拓地を広げた。それは分家して遠くに田を作り人が住み着くようになる。それが八木沢峠の麓の谷間に人が住むようになったプロセスである。ただ江戸時代からあそこに人が住んだかどうかはわかりにくい、真宗系の石塚の墓が一つあったが時代がわからない、橲原村でも明治時代ものしか残っていない、あそこの谷間から上萱(うえがや)へは戦後に開拓する人が入った。新しい村でありそれも消滅した。
江戸時代に人が住んでいたかどうかが村を見るには大事である。

橲原渓谷から大原への坂を下る所に六地蔵があった。これは埋もれていたのでわかりにくい、六地蔵は村と村の境界にある。とするとあそこが橲原村と大原村の境界だったのか?江戸時代は村単位で生活していたから境界が大事だった。一つの関所のようになっていて人々が簡単に他の村に出向くことはない、よそものとして隣同士の村でも扱われたのである。だから明治になり村が合併するとき常に民情が違うので合併しなかったとある。飯館村辺りでも大倉村と佐須村が民情が違うので合併しなかったとなる。民情が違うということはどういうことなのかわかりにくいけど村と村は交わらない一つの国と化していたためだろう。橲原村と大原村には新しい道ができたけどそれまでは地蔵木からなどの道が大原に行く道だった。今は車が頻繁に通るからあそこが不便な所などと意識しないのである。あそこは大原村よりも橲原村よりも不便な所だった。車のために本来は不便なところが便利な所のように見える錯覚を作り出しているのだ。
あそこの谷間の特徴は道を挟んで原町区の大原村と橲原村に分かれていた。どちらからも分家した人たちが開拓に入った。そこで混在することになったのだ。上萱は栃窪村に編入された。原町市と鹿島町が合併する前は行政的には統一されていなかった。


橲原村からであれ大原村からであれこの土地で暮らすとしたら土地が必要である。その土地がないとなるとあのような不便な土地を開拓して住むほかなかったのである。地形を見ればその村の古さがわかる。そして郷土史研究の基本が村の新旧を知ることがまずある。江戸時代から村があるのと明治以降開拓された村は分けるべきである。武家の出や野馬追いの出る家はそうした家にはない。なぜ上萱とかさらに不便な場所に開拓に入ったのか?それはもう土地がないからだ。それで戦後農業する人はプラジルに渡ったりしている。土地がないから土地を求めて渡ったのである。

あそこは自然的には魅力ある場所だった。橲原渓谷の上流であり不動滝の御堂があるところから太古林道を上るとその源流があり大きな岩があったりする。橲原村が鹿島区の奥座敷でありそこからさらに奥の秘境だったともなる。ただ今は車が頻繁に通るからあそこがかえってにぎやかな所だと錯覚しているのだ。昔だったら人も訪ねるもまれなる地域だった。橲原からも大原からも坂でありいかに辺鄙な場所だったかわかる。あそこには村の墓地があったのか?一つだけ家の墓があった。それも新しいものである。上萱には墓地があったがなくなった。いづれにしろ人間は地形にそって住む場を広げたことがわかる。

posted by 老鶯 at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2012年04月19日

怪しい地名の研究(島野氏)の解読


怪しい地名の研究(島野氏)の解読


ikkeshi123.jpg


●日本のニは湿地帯の意味

「日新」「新田(にった)」など語尾はいろいろであるが、語頭が「ニッ」で始まる地名は縄文地帯の東日本に明白に偏在する。「にっぽん」「にほん」の「ニッ」あるいは小さな「ッ」が脱落した「ニ」は「湿地帯」「しめった」と解釈した。(怪しい地名の研究7)

日本(にほん)が二に注目するとニはそもそも湿地帯のことは明らかなようです、新田(にった)は地名では多いですから間違いないでしょう。
日本は湿地帯の国、豊葦原瑞穂国の国です、そこで邪馬台国とは台であり湿地帯の中で高台になっているところでしょう。湿地帯があり高台に国ができた。日本が最初は縄文時代は東が東北地方が人口が多く栄えていた。「日高見国」がもともと大和の前の国号だった。日本の地名は湿地帯が多いから湿地帯のニのつく地名と台のつく地名が対称的になって多い。台から低地の湿地帯と住む場所を広げた。海側でなくても奈良盆地でもとともと盆地の真ん中は湖であり湿地帯でありその山辺に日本最古の道ができた。飛鳥も前が海のような地形だから鴎が飛んでいる歌が万葉集にのっている。ヤマトとやはり山の戸(門)であり山口のことでしょう。
山の入り口は神社の入り口-鳥居のある場所で結界になっていた。奈良の三輪山は山自体が御神体ですから山そのものに対する信仰があったのです。


東日本の内陸盆地のみならず、奈良盆地にも多くの「いそ」「ふね」「おき」など海洋を思わせる地名が散在する。「くじら(櫛羅)」さえ居る


奈良盆地は海とつながっていたという説がありするとこの地名はその太古の状態をさしているとすると地名はそれだけ古いとなる。自分も今回の津浪でヒントを得て書きました。海になったときクジラが入って来たということになると地名がどれだけ古いかともなる。


太古の奈良盆地
http://musubu2.sblo.jp/article/45685693.html


「ほ」が「穂」であるという解釈を力づけてくれる


稲作は南から入ってきたとすると東から入った二(湿地帯)と南から入ってきた穂が合体して日本となったというのは理屈的にはあう。なぜならもともと縄文時代は東中心であり日高見国(ひだかみのくに)があったからである。


●川(かわ)沢(さわ)はわの人たち、東日本に多い

「沢」地名の、明確な東日本偏在を考えると、「わ」の人々は氷河期には陸続きであったサハリンから徒歩で南下してきた人々だと考えた。

カワ(川)のワがわの人たち、民族集団をさしていた、さわはさ-わでありわの住む人たちでありカワのワもそうである。この人たちは北から南下した人たちだというのはユニ-クな解釈である。
川と沢はにている。人間はもともと水のある川や沢の場所に住みはじめた。水がないことには生活できないからだ。南から来た人たちはネの人たちであるというのも独特の解釈である。島根とかそうでありネの人たちは日本海回りで来たのかもしれない、確かに倭人というのワの人たちのことですから一字が部族名であり一部族が拡大化して倭人になったとは言える。ただ日本語そのものがどこから来たか謎ですから言語学的にはいろいろ問題があるでしょう。

funemojiii111.jpg


船(ふね)米(よね)であり金(かね)はネ族のものがもたらした言葉である。言ってみれば外来語であり新しい文化をもたらした言葉だとなる。船も米も金も縄文人にとっては新しいものだったといえる。これなどからネ族が南方系の稲作文化をもたらした人たちだという推測はあたっているかもしれない。そもそも船は丸木舟でも縄文時代使っていたとしても金(かね)や米(よね)は縄文時代はないからだ。だから縄文人はその言葉を知らないとなる。そういう分け方はわかりやすい、中国から入った漢字と大和言葉を分けることはわかりやすいのである。


●ヒの謎

ヒについてはこれも謎が多い。干潟-干るというのは見ずが引いたからであり日をあてるのではなくもともとひあがる・・・水が引くことを意味していた。水が引いたり上がったりすることであり太陽のことではない、海に囲まれていたから潮の満ち引きには敏感である。潮が引いたらそこで干潟になり鳥も餌をついばみにくる、人もそこで貝をとったりするからヒは干上がるということが基本にありヒル(昼)は潮が干上がった時が昼であった。アサヒも浅く干上がった干潟のことである。太陽のことではないとなる。海辺に住んだ人たちの生活感覚から生まれた言葉だとなる。縄文人は貝塚があるように貝を主食としていたから干潟は大事だった。生活の根拠となる場だったからヒが生まれた。ヒは太陽と関係なく潮の満ち引きと関係しているとなるとヒが日になり太陽となったのか解せない、ヒは家族語だというのはどういう意味なのだろう。?家族語の意味がわからない。

干上がるということで干潟を中心に生活していたヒ族がいてサワとかカワとか川を中心にして生活していたワ族がいてヤマを中心に生活していたヤマト族いたのか?船(フネ)をあやつるネ族が南から入ってきて縄文人と交わったのか?一番の疑問はヒの解明でしょう。引く(ひく)は日本では引地とか引いたという地名が多い。それは水が引いたですから潮の満ち引きとにている。

higata1111.jpg

日高見国(ひだかみのくに)とは干潟(ひ-がた)-高見の国である。とすると干潟の高見にある国となる。干潟を見下ろす高台にあった国となる。干潟を中心として貝をとって暮らしていた縄文人なのだろうか?この辺の新地はそういう地形であり海が近く高台に貝塚があった。そして手長明神の伝説がある。貝をとって暮らしていた巨人がいたというから地形的にはあっている。
たた日高見の国でも内陸部にもあり北上は日高見だともいうし海岸とは限らない。
要するにヒが解読できないことに問題がある。

ヒラが平たいとからが複数形のようだとヒはやはり干潟のことなのか?
人(ヒト)とはなになのか?日がとまると解釈するが干潟(ひがた)に止まっている人なのか?
ヒトとは干潟にいつもいて貝をとっているからヒトになったのだろうか?
縄文時代は確かにそうだった。

百済や新羅から入ってきた地名

百済とか新羅とかから入った言葉が地名化したのはなかなか証明しにくい


みちのくの真野の草原(かやはら)遠けれど面影にして見ゆというものを・・笠女郎


この歌の草原(かやはら)は地名だと解読した。草(かや)は伽耶のことでもあり入江のことを意味していると近江の人も言っている。草原(かやはら)を奈良から面影にして見るというものにはなりえない、地名のことだったと解釈した。現実に入江は塩崎まで入り込んでいて今回の津浪で船着という近くまで船が烏崎の港から流されてきたのには驚きました。

ともかく地名の解読はむずかしいです、どうしてもあてつけが多くなりますから・・・
では今回はこのくらいでまた暇があったら書いてみましょう
posted by 老鶯 at 19:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2012年04月16日

太陽も航海民にとっては方向として見ていた (東と西の方向感覚-海と陸(土)を分けた地点が日下石(にっけし)?)


太陽も航海民にとっては方向として見ていた

(東と西の方向感覚-海と陸(土)を分けた地点が日下石(にっけし)?)



「日(ひ)出(いず)る処(ところ)の天子(てんし)」
    「書(しょ)を」
    「日(ひ)没(ぼ)っする処の天子に致(いた)す」
    「恙(つつが)なきや。」

聖徳太子の小野妹子が隋に送った国書である。太陽は光として作物の実りをもたらすものと実はもう一つ重要な感覚があった。それは方向を示すものとして太陽があった。航海民は太陽を方向として意識した。太陽がどこから昇りどこへ沈むのかが大事だった。この方向感覚は平原とか砂漠とか遊牧民にとって生死を分けるものとなるから大事だった。砂漠でもどっちに水があるかないかで生死が別れる。だから星などが方向を知る目印として大事だった。北極星や北斗七星信仰が中国で起こったのは遊牧民の文化である。砂漠の民のイスラム教がメッカの方向をいかに大事にしているか?方向がまさに神であり信仰なのである。妙見信仰もそこから起こった。太陽は稲作民族だと天照大御神になるが航海民にとっては方向をみるものとして太陽があったのだ。だから太陽が昇る方向と沈む方向を注意深く見ていたのである。聖徳太子がこの国書に書いたのはまさに太陽の方向感覚であり航海民の文化を引き継いでいたからである。日本は南から船で渡ってきた人々が作った国だということは古事記などの神話で語られている。船でわたってきたということは常に方向が大事になるのだ。方向がまちがったらとんでもいな所に行って命まで落としてしまうからである。


海があり陸地がある。それを分けるのも大事になる。海から陸地が見えるところが重要になる。海を長く航海して陸地が土が見える所があったならその時そこは重要な地点になる。その陸地や土になっているところは航海民の上陸地点になるから大事なのである。「陸が土が見えたぞ」と海から見てなるのだ。西(にし)のニが土だということは海になっいる所と土になっている所を分けたのである。
だから日下石(にっけし)は津浪でわかったようにそのじき前は縄文時代は海だったのである。縄文海進時代は深く海がはいりこんでいた。でも縄文時代ではない万葉時代、奈良時代には海は深く陸に入り込んでいた。その地名の一つが万葉集の真野の草原(かやはら)の歌でありそこに船着とか市庭とかの地名が残っている。津浪が実際にあそこまで押し寄せたのは驚いた。日本全国であのように海が深くはいりこんでいた。縄文時代ではない、万葉時代でそうだったのである。だから別に縄文時代にさかのぼらなくても深く海がはいりこんでいた地域が海側には多い。今回津浪に襲われた地域は縄文時代ではない、万葉時代に海であったことが推測されるのだ。


だから太陽を方向としてみるとき日の昇る方向と日の沈む方向が大事になり東はひの岸(かし)になり西はニが土であり陸を示していたのである。地名をなづける場合、陸地から海を見れば海岸は東浜とか名づけられる。しかし海から見れば逆になり西が名づけられる。常識的には陸地から見て地名がつけられたと見ている。海から陸地をみて西と名づけることはなかなか気づかない、日下石(にっけし)は西という意味ではなく土(に)のある場所、陸地のことだった。海から来て土がある場所、陸地として別れる地点だったのである。だから今回の津浪で日下石(にっけし)まで海になったのである。
方向地名はどこを基点にしているから重要である。どこからみて西なのか東なのかである。陸地から見れば東になり海から見れば陸地は西になるのだ。西(にし)の二が土だというのは普通に気づかないから発見であった。


ではなぜそうした方向感覚が生まれたのか?それは日本にやってきた人たちが海からしか来れないし
航海民であり航海の技術がなかったら日本には来れない、海からやってきたのだから海からの視点で日本列島を見ていたとなる。それは日本の神話の基にもなっている。九州の異民族化されたハヤトなども南から渡ってきた人たちである。



竹にかかわる人々は海洋民族であったと言われています。かつて九州南部にいた隼人民族は南洋諸島の竹細工技術を身に付け、日本にたどり着いて土着民となりました。彼らは勇敢で強大な畿内政権に最後まで頑固に抵抗しましたが、ついに破れ畿内に連れて来られ、畿内隼人と呼ばれて竹器を作らされていたのだそうです
http://www.shinrin-instructor.org/ren08/02.htm


漢字で「東雲」と書くのは、東の空の意味からの当て字。
語源は「篠の目(しののめ)」であろう。
古代の住居では、明り取りの役目をしていた粗い網目の部分を「め(目)」といい、篠竹が材料として使われていたため
「篠の目」と呼ばれた。



竹の家がありそこから東雲(しののめ)の言葉が生まれた。日本では大和でも奈良でも竹はなかったとい。竹はもともと東南アジア辺りに多い。ベトナムなどに多い。竹の文化が伝わり東雲(しののめ)が生まれたというのもわかりにくい。どうしてもここに東は当て字である、ただ雲というとき東の空が曇っているように夜明けは暗いから雲をあてた。竹の文化では竹取物語もそうであり竹は外来のものでありその話なども東南アジア辺りから伝わったものとなる。原型はそこにある。梅すら中国から入ったものであり桜より梅が尊ばれた。

さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君


さす竹が大宮人を導く枕詞となっていることはいかにすでに竹が日本の文化となり根付いていたか証明している。

隼人(ハヤト)族も海を渡ってきた航海民である。だから方向として太陽を見ていた。日の本(ひのもと)は日の下であり日本の国号になったがこれは日の出る処としての日の本である。ところが日本は(にほん)でありに(ニ)は土を示しているとなり西を意味しているとなると日の沈む土地ともなる。
ともかく方角地名が地名の基本であることはまちがいないのだ。



西原、西台とか柏崎にあるのは土があるところ陸になっているとして海から意識して名づけられたのか?瀬戸内海とか九州だと船の航海は具体的なものとなるのだが東北の海は荒く航海となると古代ではむずかしいからどういう感覚でつけられたのかわかりにくい面はある。ただ西原は一段低くそこに田んぼがあり辛うじて津浪の被害からまねがれた田があった。その下は津浪で浸水した。西台はもっと高くここでは津浪の被害がなかった。柏崎は津浪の被害はなかった。引沼はずっと奥だから津浪とは関係ないでしょう。それでも津浪を考える場合、海であった処がありそれと関係して名づけられている場合があるから注意する必要がある。南相馬市鹿島区の塩崎まで海であった。地名の通りそこまで万葉時代は奈良時代は海だったのである。そこに船着や市庭とかの地名が残っていた。


郷土史関係ではインタ-ネットは実際かなり役立つ、地名の研究なども全国のネットワ-クを作って研究すれば新しい発見もでてくる。地形とかに深く関係しているので地名も地元の人でないとわからないことがかなりある。そこが地名を知るむずかしさである。西原と西台は高さが違っていることなどわかりにくいのである。

地名は研究してきたので地名から学問に興味をもったので鳥野様の研究も暇があったらまた気づいたことを書いてみましょう
posted by 老鶯 at 09:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2012年04月12日

相馬市の日下石(にっけし)の地名の謎(2)


相馬市の日下石(にっけし)の地名の謎(2)

東(ひがし)はひんがしは陽(日)向かう岸だろう。岸ということは海の岸になる。東を意識したのは海を望んだ時だった。でも陽が昇るのは海からとは限らない、山からも陸地からも昇る。日本海などは山から昇り陽は海に沈むのだ。海に陽が沈む所もある。日本語では大和言葉では東は海から昇るものと意識した。一方西はニに日をあてているごとくやはり陽でありニシのシは土とか陸だとするとニシは陸地の方であり陸地に沈む方を西と意識した。日本でも世界でもそういう方向感覚がユニバ-サルではない。それは一面一地域としてのロ-カルな方向感覚なのである。

hinichiiiii11111.jpg


日(ひ)にちを数えるという言葉を分解するとヒ(陽)ニ(にし)ち(地)である。ヒはわかりやすいけど
ニチはわかりにくい、ニチはニも陽であり地と一体化している。つまり西は地と陸に一体化しているから西は陸地の方だという感覚なのである。日にちは日西(ヒニシ)であり日が昇り沈むことを数えることである。聖(ひじり)はまさにその日を数える人だったとなる。日を支配するものが王となるというのはマヤ文明を見ればわかる。エジプトなども天体学が発達していたことでもわかる。
天の岩戸の神話も日食に由来していたとか言われるから日と関係していたのである。もし日食を予言できたらその日を予言できたら絶大な権力をもちえるのである。それは科学の世界であり今日までつづいている。


ともかく東はひんがしは海から昇る日の方向であり、西は地や陸や山の方に沈む方向である。とするととは日下石(にっけし)とはいかなる方向なのか?今回の津浪でわかったように日下石(にっけし)近くまで津浪が押し寄せていたから日下石(にっけし)の前は海が入り込んでいたのである。そうなるとその海から日が昇るのだから日下石(にっけし)というのがわかりにくくなる。西の方角だとすると
海から見て陸地の方角だったとなる。海の岸の陸地でも海から見れば陸地であり西の方角になるのだ。実際に津浪で日下石(にっけし)近くまで海が湾のように入りこんだとき陽が陸地の方に日下石(にっけし)の方に沈むのを見たのである。湖のようになったので見えたときはなんともいえぬ驚きだった。それは一回しか見られない美しい光景だった。春の陽が広々とした湖と化した所に輝き陸地の方に沈んでいったのである。


方向地名はどこが基点となるかが問題になる。基点とする場所によって違ってくるのだ。海を基点とするということは常に海で暮らすような民の方向感覚だとなる。海から見て陸地の方に沈む方角が西となる。しかし日本海では海からみて山側が陽の昇る方角であり陽が沈む方角が海なのだから反対になる。世界的に日が昇る方向が東であり沈む方向は西である。どこから昇るかは問題にしない。日本は海に囲まれていたから海の意識が強いといかことで違っていた。


日の昇る場所が「日ケ子」で、日の没する場所のあるところの重要な地面が「土(に)子(し)」である。九州到達までは方位の定義としては適切である。


沖縄各地の「西原」は「城(ぐすく)跡」などの「北側の原」という意味とみられる、と述べている。なお「西原」は「にしはら」「にしばる」とよむとも言っている。
琉球音声データベースで確認しても「にし」とは祖先がやって来た(きた)方角、「北」のことである。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/unolab/timei4/timei4.htm


西と北は方角として混同しやすいのである。西風と北風はわかりにくい、風はいつも一定ではない、西風が北風に変わりやすいし北風は西風に変わりやすいのである。春になると東北の海側では北風から東風になる。これは春を告げる風だし全国的にそうである。だから沖縄で西が北と意識するのはわかるし九州の陸地を意識したというとき沖縄は西から北から移住した人々である。それは言葉などからも証明されている。沖縄の言葉は古い大和言葉が残っているからだ。青森などの辺境に古い大和言葉が残っているのと同じである。地名研究では方角地名が基本にある。南相馬市も城のあった相馬市の南だから合併してそうなったことでもわかる。

nnnkeshi11111.jpg

津浪で大きな湖と化した磯部から日下石(にっけし)方面

nikkkeshi222222.jpg

posted by 老鶯 at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2011年09月20日

南相馬市原町区片倉村の由来


南相馬市原町区片倉村の由来

katajinjya111.bmp

katajinjya22222.bmp


●片倉辺の神が由来

諏訪大社は2万5000以上の末社を持ち、起源も非常に古い。
信濃国の一宮であり、神位は正一位であり、信濃的には日本一の神社。
よく誤解されるが、諏訪大社は春宮・秋宮・上社・下社の4宮で構成され
場所としても諏訪〜茅野の広域に分散している、神社集合体。

祭神は大国主の子である建御名方神とその奥さん。

国譲りの段で天津神に敗れた建御名方神は諏訪に逃げ込んだ事になっているが
その際に、上記神々を率いたモレヤ神と戦争になり、勝利して現在の地位を得る。

建御名方神の氏族は諏訪氏で、代々大祝を担い
洩矢(モレヤ)神の氏族は守矢氏で、代々神長官を担う。
どちらも、神から続く家系図を持ち、諏訪では神として扱われていたが
既に大祝は途絶え、神長官についても守矢氏は生き残っているものの


洩矢神    →千鹿頭神 →児玉彦命
建御名方神 →片倉辺命 →児玉彦命

↑ここ

片倉辺命─(実子)→児玉彦命
         ↓
千鹿頭神─(養子)→児玉彦命

知名度としては落ちるものの、御頭祭も奇祭として有名。
狩りを行い鹿を得て、頭を切り落として捧げるが、その数が75頭とかそんなレベル。
(現在は非常に残念な事に剥製を使っています。神様怒るだろjk)
それ以外にも鹿の「脳和え」「生鹿」「生兎」「切兎」「兎煎る」鹿の五臓などが神饌として捧げられて居た。
ちなみに兎はまるごと一匹、下から串刺しにして立った状態。

諏訪で鎌を軒先(?)に飾るという風習があると聞いたのですが、
これについて詳しく知っている方がいたらいろいろお話を聴きたいです。
どのようないわれがあるのでしょうか?
諏訪大社と関係はあるのでしょうか?


2挺の鎌(男鎌・女鎌)を日室に迎え、同地の開祖の屋敷跡に2番奉斎する
http://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/minzoku/k2-4.html


鎌宮諏訪神社(鎌の宮) 石川県鹿島郡中能登町 15.11.23
http://genjin.cool.ne.jp/suwasya/kamanomiya.htm





この由来をみると狩猟時代が彷彿とする内容である。長野県となると山深いから狩猟が盛んだったのである。縄文時代にもさかのぼる古い謂われが祭りとなって伝えられているのである。


諏訪神社は古いから全国にあるし相馬藩にもある。相馬市の黒木の諏訪神社は立派である。神田として諏訪田という地名も残る。この諏訪神社は由来が非常に古い。出雲から天津神の建御雷之男神に追われ信州の山深く逃れた先祖になった。天文年間から室町時代に由来を持つとして文書もあるとかになるがここには相馬氏が移動してきたときもたらされたものだろう。

『奥相秘鑑』によれば、一族・家子郎従を率いて奥州行方郡太田に入った重胤は、下総から鳳輦に奉ってきた妙見・塩竃・鷲宮の三神をここに勧進したのち小高村に移り、城を築いて本拠としたという。

shiogamajjj123.bmp


相馬重胤
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/soryo14.htm#sigetane


この案内板と神社がある場所が問題である。ちょうど八重米坂をおりた所であり山を越えてここに休む場所としてふさわしい。片倉村の入り口だったのである。そこに片倉辺の神を祀ったからここが片倉村になったのだ。建御名方神 →片倉辺命が由来であった。各地にある片倉の地名はここに由来しているのが多いのだろう。伊達氏の片倉氏は有名でもそれが地名化したわけではない。氏族名は地名になるのがまれだからである。ここから下って旧陸前浜街道の交差点辺りに塩釜神社の案内があった。そこから先に行くと太田神社になるからその跡が裏付けられる。いづれにしろ戦乱があり相馬氏はここに逃れて新しい相馬氏の基礎を築いたのである。初発神社とはここから始めるという意味もあったのか、その場所が歴史を如実に示しているのである。


野馬追いの旗をみると渡辺氏があり今も渡辺氏の墓が分家となって並んでいる。旗も分家して新しい旗となった。もともと渡辺氏の旗は一つでありここにきて分家して新しい旗になった。その旗がもともと共通したものとしてあった。分家した旗はわかりやすい。そういう旗も多いことは確かである。そういう旗は分類しやすいのである。


鎌の旗は一つのと二つが組み合わせたものがあり男鎌と女鎌に由来するものだろう。鎌の由来も諏訪神社から由来したものでありそれが旗印になった。片倉村の由来は相馬重胤から始まっていることは間違いない、地名としてはすでに相馬氏が移住する前からあったものが多い。古代の地名が多いがこの片倉村は片倉辺の神を祭ったものであり相馬重胤に由来していた。だから一面新しい地名だとも言える。おそらく相馬氏がきたときは原野か森だった。そこを開墾したのである。その中心になったのが渡辺氏であった。

katakurahata123.bmp


南相馬市片倉村の謎
http://musubu2.sblo.jp/article/28478326.html

posted by 老鶯 at 16:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2011年08月10日

UNITED SOMA MAP(相馬藩内の市町村)


UNITED SOMA MAP(相馬藩内の市町村)

somauuuu123.png

unitesomaend1.jpg




相馬藩くらいが人間としてちょうど地理的ちも一体感をもてる世界だった。余りに広いと人間は地理的に把握できなくなる。これはあくまでも地図上ではなく人間のヒュ-マンサイズとしての感覚である。相馬藩くらいの地域がちょうど人間の感覚でとらえられるのである。ここには海もあり街もあり山ありと世界の縮図としての世界がある。飯館村も山中郷としてあったのはやはり山から水が流れてくるからである。そこで地理的にも一体感があった。放射能騒ぎでセシウムが流れてくるとか問題になったのもそのためである。水の供給地として飯館村があった。浪江も標葉郷としてあり葛尾村も飯館村と同じ山中郷としてあった。双葉町が相馬藩の境界だった。この辺までが一体感がもてる。歴史的にも地理的にもそうだった。ただ放射能を考えるとこんなに広範囲に影響するとは思わなかった。中通りはもともと地理的一体感をもてない、それが放射能でかえって影響が大きかった。風には境界はなかったためである。

ともかく相馬藩は山あり海あり平地ありといいところだった。気候的にも今年はそれほど暑くない、去年は本当にここも暑かった。でもここは海からの風が吹いてくるからそんなに暑くならない、気候的には恵まれた所であった。それだけはいい所だと思っていた。会津のように雪も降らない、松川浦などの浦ももあった。明治時代前は八沢浦は文字通り浦であった。それを津浪が再現したときは驚いた。いつもあそこが入江になっていることをイメ-ジしていた。しかしあの浦浪が奥によせてきた。、春の光にきらきら光りよせてきたことは想像できなかった。想像を越えているのが自然だった。一度しか見れないにしても現実に見たことは奇跡的だった。あそこは都の役人が歌ったようにそういう場所だった。松原はなくなったが津浪にも残った松は記念の松となった。右田浜は昔の湿地帯にもどった。


橲原は奥まった所であり南相馬市の鹿島区の奥座敷である。江戸時代は大原もそうだった。県道が通りそういう雰囲気に欠けるようになったが「大原山人」という人がいたことでもあそこはやはり橲原とにていた所だった。小高は縄文時代の遺跡が多いということは昔から貝などをはるのに適した場所だった。相馬藩でも山には山の役目があった。木材や馬の飼料となる草が多かった。だから馬を多く飼っていた。その馬は三春藩などにも売られた。葛尾村となると三春藩に近いから藩主が葛尾大臣が招待したというのもわかる。鉄作りでは鉄の素材となるものを請戸港から岩手県の宮古からも運んだ一大製鉄所として栄えた。製鉄となると大量の薪が必要になるから山の方がいいのである。

相馬藩は確かに海があるということが福島県の中で違っている。飯館村を通り塩の道があったというのもそのためである。原釜には塩田があり双葉町にも塩田があり塩を東京の方に売っていたということもあった。その塩田が東京の財閥に買われやがて原発が建てられたのである。



昭和38年には用地交渉中であったので、現地調査は東電の人とさとられないように若い女子社員を連れピクニックをする格好をして日曜日にサイト内を歩いた。5千分の一の航空写真化地形図を頼りに中央の沢を下って海岸に出ると、塩水を汲み上げていたパイプの配管が寸断されたまま沢の途中に残っていた。沢の上方に古ぼけた掘立小屋(若衆宿跡?)がありその北方に平坦で広大な塩田用地(元陸軍訓練所飛行場)があった。
http://tokyopastpresent.wordpress.com/2011/04/07/



そもそも夜ノ森は余の森であり相馬藩主が余の森として境界争いしたところである。だから原野の風景が明治以降も残っていた開墾されたのである。原発の位置としてはいわき市の昔の平からも離れているし相馬市からも離れているから適地だった。しかしこれほど相馬藩内が原発事故になり苦しむことは想像できなかった。それだけ原発問題は国民的にも県でも市町村でも隠されたものとして秘密のベ-ルのなかにありうかがい知れないものとしてあったのだ。それが今回の事故にもつながっていた。城のあった相馬市は辛うじて被害がまねがれたにしても相馬藩内はぐたぐたに傷ついた。回復されないほど傷ついてしまったのである。


橲原村と大原村の地想学(トポス)

http://musubu.sblo.jp/article/43639625.html

posted by 老鶯 at 14:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2011年05月21日

津波で明らかになった南相馬市鹿島区の土地の高低


津波で明らかになった南相馬市鹿島区の土地の高低

tunamikyoudomap.jpg



東日本大震災で津波被害を受けた宮城県から福島県にかけての太平洋岸では、「貞観地震」(869年)を挟み、約450〜800年間隔で大津波が起きていたとみられることが18日までに、産業技術総合研究所の分析で分かった。
http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011051801000727.html

人間がどのようにその土地で暮らすようになったか?それは自然の条件の制約の上に暮らすようになった。南相馬市の鹿島区を例にとれば最初に浮田国造(うきたくにのみやっこ)と文献にあり最初の国がこの地域にあった。その土地を見れば一目瞭然である。この辺では一番住みやすい所にあった。平地であり高い所だった。土地の高低はわかりにくいが鹿島の歴史をたどると自然条件に基づいて発展したことがわかる。浮田国造のある平地の高いところが最初に人が住み次に山際の高い所でありそして浮田の前の横手古墳群のある所から田中城のあった台田中が中心地になった。今回の津波でなぜ田中城があそこにあったかわかった。津波はすぐ近くまできたが田中城の回りまでは来ていなかった。田中城の回りは湿地帯だった。その前も湿地帯であり海が迫っていたのである。そして津波により土地の高低が浮き彫りにされた。真野川に沿った地点は両側は土地が低くあとから開墾された場所であった。だから小島田でも津波が六号線近くまで押し寄せたことに驚いた。島田とあるごとく湿地帯に島になっているような地形だったのだ。


それから右田ももちろんあとから開拓された場所であり大内村の前の田もそうだった。そして常磐線の鉄道の橋の下をくぐりぬけて塩崎(シオノサキ)まで津波が押し寄せていたことには驚いた。そこには船着という平安時代のものらしい地名も残っている。本当に船が来ていたからその名がついた。化石のような地名だった。そもそも塩崎というのもそこが海を前にしていたからその地名がついた。地名はそれだけ古いということである。その辺は低い土地だったのである。この土地の高低は歩いても見ていてもわからない、津波によってわかったのである。低い場所にはより深く津波がおしよせた。もともと塩崎は真野の入江とされてをり遠浅の海だった。みちのくの真野の萱原遠けれど面影にして見ゆというものを(笠女郎)・・・この有名な万葉の歌の草原は地名だったと自分が書いたがまさに草原は真野の入江の港だったのかもしれない、でも笠女郎はここには来ていないのだからここを面影にまで見るということがありうるのかということで疑問に思って書いたのである。結局以前として謎なのである。ただそこが深い入江であり船着という地名や市庭があった。品物を取引する場所があったとするとなんらか港の役割を果たしていたとなる。今回の津波で一番驚いたのは八沢浦が前の入江に戻ったことだった。満々と水をたたえる入江に戻ったこと奇跡のようだった。明治時代に開拓された場所だったから大昔のことではない、それにしても夢見ているようだった。磯部も全滅したらそこはもともとは砂州である地形がはっきりした。ちょうど北海道のような荒寥とした風景になったことに驚いた。北海道はまだまだそうした原初の地形のままに残っている所が多いからである。広大な砂浜が残っているからである。


右田の松原は江戸時代からの開拓で作られた。そこはもともと海だったのである。日本人は江戸時代に海の方へ開拓をすすめた。青松白砂の風景は人工の美として人間が作ったものである。そういう場所が各地にあることはそれだけ人間が開拓した場所が多かったということである。それが根こそぎ今回の津波で破壊された。この開拓も自然条件に逆らうものだったことは確かである。なぜそういう無理な開拓がつづいたかというと日本の土地は狭く人口を増やすのに限界に達していたのである。だから幕末辺りでは江戸時代ではすでに人口を増やすことができずグラフは横ばいになっていた。つまり江戸時代は開拓で田を作り人口を増やしたのである。それが海側への埋め立てや開拓でありそれが自然条件を無視したものでありやむをえなかった。それが今回の津波でもとの原初状態に戻ったのである。そして青松白砂の無数の松がなぎ倒され流された。それは信じられない風景だった。津波の猛威をまざまざと松に残したのである。でも500年周期くらいで大津波が来ているとしたら海側に開拓が進んだ江戸時代は仙台平野や福島県の浜通りでもそうした大きな津波はなかった。三陸にはあってもここにはなかったのである。それも500年単位になるととても人間の歴史の単位も越える。だから江戸時代から五百年はそんなことは考慮しないのである。平和のうちに危険だった場所の開拓はすすめられ人口は増えたのである。


今回の津波が明かにしたのは何なのか?それは五〇〇年が過ぎて大きい津波が来たことも忘却されていた。三陸は違っていたが仙台平野から福島県の浜通りについてはそうである。人間の記憶は五〇〇年もすると失われ忘れられる。人間は忘れやすいのである。忘れたころに災害がやってくるというのはそのためである。五〇〇年も何もなかったら全く忘れてしまう。三陸とここは違っていた。でも海は怖い、だから海側に住んでいる人は浪が海が押し寄せてくる夢を見る。小学校の前辺りまで浪がおしよせてくる夢を見ていたが現実になった。夢はどんなものでも現実化するのかもしれない、誰も隕石が落ちてくるような夢は見ない、それはほとんどありえないことだからだ。海は違っている。毎日接しているから恐怖の夢を見るのである。それが現実になったのである。人間は危険を察知すま能力か弱くなっているのかもしれない、あまりの文明化で機械化で人間の五感も直感も衰退した。これだけ情報化文明化しても人間は危険を察知する能力が衰退した。震度9の地震はスマトラでも起こっているし他でも起こっているからそこに注意していれば日本でも起こるのではないかと危険を感じることができたが不思議にスマトラのことは他人事であり警報装置がなかったから津波のことを知らないから被害が大きくなったと言っていた。日本人はこれだけ地震があるのに警戒していなかったことも不思議である。

人間は今やどこでも自然条件を無視して生活範囲を拡大化している。だから災害の被害は信じられないほど巨大化する。自然に制約されていればこういうことはない、海側にはそもそも人は住めなかったからである。三陸ももともと八沢浦のような入江でありもともと平地には人は住んでいなかったのである。でも平地が便利だから住むようになった。その平地を田にしたことも確かである。田にして米を作りすることが日本人の文明でもあったからだ。田を作るにしてもやはり文明というのは自然に逆らうことになるのだ。そしていかに文明が今や自然に逆らったものとなっているか?その一つが原子力事故でもあった。これも実際は自然に逆らうものであった。何故ならどうしてもとも自然にない物質、放射性物質を作り出すようなもの毒を作り出すようなものを作ること自体が自然に逆らうものだったからである。文明はそういうことで常に自然に神に呪われている側面があった。それが津波でまざまざと見たから驚いたのである。

mappppppp11.jpg

posted by 老鶯 at 23:43| Comment(2) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2011年01月18日

郷土史は悪人がいないからつまらない?


郷土史は悪人がいないからつまらない?

私の郡山歴史考
http://blogs.yahoo.co.jp/asakayama1000/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%BF%B7%C5%C4&sk=1

ここは誰が書いたかわからないが著作権フリ-である。内容もある。郷土史には悪人がでてこないからつまらないと書いてあった。郷土史は郷土の悪人について書けないのである。岩松氏の悲劇を前に書いた。これは悪逆非道なこととして語り伝えられた。でも鎌倉時代のことであり500年前とかなるとすでに時効のはずだがそうでもない、その子孫が現実に相馬藩内に生きている。四天王の姓を受け継ぐ人が生きている。一人はその姓を変えたこともわかっている。ただその姓にしても分家しているし数が多くなっているから悪事としても忘れられてもいいものである。でもその歴史的事実を書けば自分の先祖がそんな悪いことをしたのかと500年前のことでもいい気分にはなれないのだ。だから郷土史では郷土のいいことしか書けない、俺の先祖の悪いこと書くなと抗議がくるかもしれない、そして自分の家の歴史が郷土史なのだがそれも書きにくい、その家のことがわかってしまいまずいこともあるからだ。だから郷土史でなかなか自分の家のことを書いていない、そこでは知られずに埋もれている。ただ自分の先祖が古いということを自慢する人はいるだろう。そういう点で郷土史はつまらないとなるのか、郷土史はあまり読まれていないのも事実だろう。泉官衙跡などでもそこには建物の遺跡だけであり人物が出てこないからつまらないとなる。どういう人物がいたかなど古代ではほとんどわからない、もちろん古代にも東北にも蝦夷にも人物はいても消されて残らなかったのだろう。人物が出てくるのは鎌倉時代以降である。それで岩松氏が鹿島区内に相馬藩内に一族が虐殺されたのでその子孫が残っていない、岩松氏の姓が相馬藩ではないからである。それは明かに一つの歴史の証となっているのだ。

それぞれが家の歴史を書けばそれが郷土史なんだけどそうれが書けない、そこに郷土史がつまらない、新しい発見がないとなる。ネタきれになりやすいことも確かである。


岩松氏の伝説
http://www.musubu.jp/kashimamanonado.htm

posted by 老鶯 at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2010年12月12日

岡和田氏の謎


岡和田氏の謎

相馬一族。相馬胤村(孫五郎)の二男・相馬胤顕(五郎)が胤村の遺領分配によって陸奥国行方郡岡田村(福島県南相馬市小高区岡田)を与えられ、室町時代後期に「相馬」を改めて岡田を名乗った
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku32.htm


岡田重胤 (1608-1650)
 中村藩御一家。相馬岡田家十三代当主。
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/okada3.htm


弟は木幡勘解由長清の遺跡を継いで木幡加左衛門貞清を名乗り・・・


古館跡 久保畑にあり、古昔岡和田氏世々居る。今土垣なく悉く圃となる。応仁の乱の頃岡和田下総当邑(むら)を食(は)み其の子勘解由の子、遠江虎其の子安房宗北郷の兵士50余人の長として武功あり。(鹿島町誌)


●制野下総 (?〜1615年)

 元和元年、片倉重綱に殉死した。
 
●片倉家臣団-岡和田太郎左衛門 (?〜1615年)
 元和元年、片倉重綱に殉死した。


そもそも相馬氏系統に岡田氏も岡和田氏もいない、岡田氏となのったのは小高に岡田という地名があり岡田所領したから岡田氏をなのった。では岡和田氏は何なのか?応仁の乱の頃岡和田下総当邑(むら)を食(は)み・・と鹿島町誌に出ている。この意味がわかりにくいのだ。下総に岡和田村という所があったのか?それが不明である。和田村があっても岡和田村はないのだ。
岡和田氏は伊達氏の片倉家の一人にも仕えている。そして原町区に片倉村があるのはどういうことなのか?岡田重胤 (1608-1650)の弟が木幡勘解由長清であり重という名が受け継がれているから岡田氏と関係深いことは確かである。岡田→岡和田氏と分かれたからそうなったのか?岡田氏の系譜の中に岡和田氏があった-鹿島区の古館跡には岡田氏から分かれた岡和田氏が住んでそこが岡和田という地名化したとなる。他は地形を基にした地名が多いし姓を地名とすることはないがここだけは例外だったのだろうか?岡田氏の系譜に岡和田氏も入っているから有力である。ただもし姓が地名化するとしたらここに岡和田氏がいても不思議ではないがいない、中村城に出た岡和田氏がいて他にも分家した岡和田氏が上高平にいた。こういうことは栃窪氏とか小山田氏とかいる。その土地の村の名を他の土地で姓としている。そもそも岡和田の謎は岡和田下総当邑(むら)を食(は)み・・・というところにある。下総に岡和田村がありその村の名がここに移動してきたのかということである。確かなことは岡田氏の系統の中に岡和田村氏があったことは言える。


北海道に移住した岡和田村氏からのコメントがあったので調べてみたが明確なところは不明である。

南相馬市原町区上高平の五輪塔のある墓地の謎
http://musubu.sblo.jp/article/36245436.html

posted by 老鶯 at 00:05| Comment(11) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2010年12月04日

地名から南相馬市原町区の大原村をみる


名から南相馬市原町区の大原村をみる

国魂太郎゛岩城氏の一族であり好嶋庄内の村々の地頭と同じ程度の名田を所有していた。
手作りとは名主の直営地のことで、佃(つくだ)、門田(かどた)、前田、内田などともいわれ、居館の近辺にあった。地頭、名主たちは土塁、堀をめぐらしてた居館に住んでいた。
堀の内、内城、御城、殿の前、竹の内、腰巻などの中世の名残と思われる地名がある。
(新しいイワキの歴史)

地名から歴史を探る場合、時代区分を明確にする必要がある。中世と江戸時代とかを区別する必要がある。中世の地名が多いからここは中世から人が住んでいて地名化したということを認識する。館とつくのはたいがい中世でありそこが生活の中心となった場所である。今の感覚だと生活の中心は鉄道の駅があるところとかさらに車社会になり道の駅が中心になったり常に中心は変動している。中世は館とか堀の内、内城、御城、殿の前、竹の内・・とかが中心地になっていた。その典型的な例が南相馬市の鹿島区の駅に近い「田中城」であった。城といっても江戸時代のような城ではない、堀をめぐらしたものであり田中城はそもそも回りが湿地帯であり橋が多く天然の要塞になっていた。あと館とつのには江垂の中館とか小高い山を根城としたところが多い。これも敵を防ぐ天然の要害だからそこを中心として生活があった。
shirouchi222.jpg

インタ-ネットで読んで面白かったのは中世には飢饉が少なかった。庄園とか館とか中世の城内に住んでいた人は個々の家族に分離したものではない、その内では生活は分離していないで一体化していた。一つの大家族だから飢饉がきても食料をみんなで分け合うから江戸時代のような広範囲な飢饉はなかったというのも不思議である。江戸時代になると個々に別れた農家がふえたからだという。中世の生活がどうだったのかこれもわかりにくい、生活が個々に別れたというとき現代は核家族してさらに細分化しているから社会全体では協力しないから助け合うことがないからいろいろ困るのとにている。地名は生活を共同した証でもありただ中世の地名は多いことは確かである。必ず館という地名がありそれがあればその土地の中心地がそこにあったことなのである。相馬藩内でも堀の内とか内城とか殿とか竹の内とつく地名は多い。竹の内は全国的に多い。そういう地名があればそこは中世から人がすみ中心地がそこにあったということである。屋敷というつく地名もその屋敷を中心に暮らしがあった。明治時代から中心地の変動が激しくなり工業化して郷土の生活も個々に細分化されつながりが失われた。

yashiki123.JPG


大原の前田という所には病院で知り合った人が一人で住んでいる農家がある。古い家だと言っていたが確かに前田となっているとそうなのだろう。つまり家の前の田がまずその地域の中心地となり草分けとなった。そこから開墾されて田が拡大化していった。下田とあるのは下田が先にあったのではなく前田が先に人が住んで下田が開墾されたのだろう。そしてさらに上の方に坂を上ると遠田という字地名があり現実に隠れるように田が確かに坂をかなり上った所にあるのを知っている。それからさらに急な坂を上ると六地蔵が隠れるようにしてあった。これは今は誰も気づかない、堀がありコンクリ-トの壁を上った上にあったからだ。あそこを見る人はいない、あの六地蔵は江戸時代からあったものだろう。あそこが昔の道だったのだろう?橲原村と大原村の境界だったのだろう。江戸時代は村が行政の単位だから村の結束力が強いから境界は強く意識された。その境界に六地蔵が置かれた。ともかく米を作るためにあのような高い不便な所まで田を作ったのが日本だった。ネパ-ルでもあんな高い所高い所へと人が住んでいることに驚く、高ければ高いほどすみにくい、すみにくい所に土地を求めて移住する。遂には冗談ではなく天に到り天に土地を求めて耕すほかなくなっているのだ。でも2000メ-トルくらいまでが限度だろう。さらに上ると万年雪が残ってしまう領域になる。

ooharay33333.jpg


上萱もネパ-ルと同じ事情であんな不便な高いところに住むようになった。養蚕とかが盛んな時代であり桑畑を作ったりしていた。炭焼きもしていた。でも戦後のことでありあそこに人が入ったのは新しいのである。大原に学校がありあそこから歩いてきて遅刻してしかられたというが上萱から大原まで歩いたら大変な距離である。坂道でもあるから歩いたら大変な労力である。でもそういう時代もあった。それから遂に土地を求めても土地がなくなり戦後は北朝鮮でもブラジルでも移民を募り外国に出て行った。そういう人は結構多い、アメリカで消息不明になった人が親戚にいた。実際は成功した人は少なく失敗して悲惨な生活に陥った人も多かったのである。
上萱(うえがや)は鹿島区の栃窪村に属していたが橲原村とかも近いから関係した。でも学校は大原とかなり大原の人があそこに入ったようでもある。山田という姓の家が二軒くらいあった。



その人は原町区に移り土を盛った粗末な墓があったがその墓も移動した。墓は人とともに移動する。でも土を盛った土饅頭の墓があったということはあそこで暮らしあそこで死んだ人がいたのだろうか。大倉の奥の二軒の一軒もなくなり墓も一つなくなっていたから墓も人が住まなくなれば移動するのである。大原村に前田とありさらに山田と地名がある。山田とはそこに住んでいた人かもしれない、小山田という姓があり小山田という地名もあるからだ。ともかく日本ではある程度地名からその土地の歴史がわかるのである。

ooharamap1111.jpg

大原に冬の陽没りぬあわれかな街は遠しも昔の暮らし

posted by 老鶯 at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2010年12月01日

南相馬市立病院の同室の浪江町の富永氏の由来は?


南相馬市立病院の同室の浪江町の富永氏の由来は?

病院で同室だった富永氏は浪江の請戸の出身であった。そこで15町分の田畑をもっていた。中国の研修生を雇い三回も中国に行ったという、他に地元の人を指導する立場にありその土地では優秀な農家であった。娘四人がいて大学まで全部出して一人は30代で死んだ。そのことを妻はしきりに言っていた。それで介護度5なのに早く家に連れて帰りたいと言っていた。介護度5で在宅介護をできる人はまれである。それほど夫のことを思っているので珍しいと大原の人と語り合った。大原の人は息子娘が近くにいるのに大病したあとも一緒に住まない、大きな家で一人猫とまた暮らすことになる。そしてその家は空家になってしまう可能性が高い。農家でもそういう家が多いのが現状だからそんなに夫のことを思い介護するのはうらやましいとなるがその姿はあまりにも痛々しいものだった。


ともかく平の方に野菜などを売っていた。浪江となると磐城との関係があった。その頃市場が磐城にあった。その頃小さな範囲ではない、大きな市場が平市に磐城地方に生まれたので大量生産するようになった。市場はだんだん拡大化して今やグロ-バル市場となったのである。近くに市場が形成されなければ農家も農産物を大量に売れないから豊になれないのである。それはどこでも同じである。中国でも都市近辺の農家は商品として大きな市場に農産物を大量に売るとき豊になったのである。大きな消費地がないと豊になれないのである。こうして市場に売れたからこそ娘四人も大学に出すことができたのである。そもそも浪江はもともとは古代に標葉郷であり標葉一族が勢力をもった地域であり。隣に楢葉があり標葉があり双葉郡は二つの葉からとってそうなった。

そこはあとで相馬氏と岩城氏との境界争いの場ともなった。相馬氏が勢力を伸ばして岩城氏は後退した。その中で標葉氏は相馬氏に組み入れられた。標葉氏は葛尾(かつろう)村の境界の津島までその領地であった。津島は今でも浪江町の行政下にあるのはそのためである。そこは三春藩と境を接する所でもあった。

その中で富永氏というのはやはり由緒ある姓なのだろうか?
namietomi2222.jpg


富永雅楽助(刑部)


実名勝安。山城守政辰の二男。富永氏は代々北条氏に仕え、曾祖父山城守政直が北条早雲・氏綱・氏康に仕え江戸城を守った。祖父神四郎直勝は江戸城に加え、葛西城将となるも、永禄七年鴻台で討死した。父政辰は北条氏政の一字を賜っている。政辰の嫡男(勝安の兄)は直則で幕府旗本となった。(「諸士」)

http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/echizen-kasin.html


富永という姓はそれなりに由緒あるもので鎌倉時代の北条氏系統につながる。千葉氏とは縁がそれほどなくてどういう経路で浪江の請戸に来たのか不明である。相馬藩ではそれほど有力な一族ではない、浪江からも野馬追いに出る家がある。浪江の標葉氏は相馬藩に組み入れられて野馬追いに出る。浪江から南になると相馬藩に組み入れられるのはのちのことで野馬追いに出る家がない、浪江となるとやはり磐城との関係が深くなる。距離的に地政学的にそうなってくる。


権現堂城は標葉(しねは)氏の居城であった。標葉氏は代々、太平洋に近い平野部の請戸館を居館としていたが、防御力の不備から、本城館を築いて移ったという。室町時代中期の嘉吉年間頃(1441〜44)のことであるといい、時の城主は標葉清隆であった。
http://homepage3.nifty.com/otakeya/hukusima/namiemati.htm



請戸は古い地域である。だから中世から標葉氏が根拠とする城がありあとで権現堂の地域に移り相馬氏の支配下に入った。富永氏も鎌倉時代に請戸に入ってきたのか、請戸港も古く
岩手県の宮古から鉄になる素材を葛尾(かつろう)村に運び葛尾(かつろう)大尽が製鉄して三春藩などに売っていた。三春藩は近いから第一のお得意先になっていた。それで葛尾大尽の屋敷に呼ばれて歓待されたのである。その屋敷跡が葛尾村に残っているのは知られている。
津島を通って塩の道もあり塩も浪江から運ばれていた。棚塩とある地名は塩がとれた地域である。請戸港まで行くと相当に広い田が広がっているから、15町分という広さをもてる地域であった。浪江駅から山は近いが海の方に平野が広がっている。海の方に向かって広がった地域である。請戸地域に平坦地が多いのだから請戸に標葉氏の根拠地があったことがうなづける。江戸時代でも塩がとれる、塩を売る、鉄の素材を運ぶ、魚もとれるとかそれなりに豊かな地域だったともなる。富永も富が永くつづくという縁起のいい姓であり今の静岡県を三河を中心にして全国に富永の姓は広がっている。

posted by 老鶯 at 20:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2010年06月07日

相馬藩の地理的一体感

somaoneee12345.jpg


相馬藩の魅力はやはり地理からはじまっている。この地理をわかるのはそこに長年住んでいる人でないとわからないだろう。福島県になると大きすぎてもはや地理的一体感がもてない、会津は全く別の一国であり地理的一体感がもてない、相馬藩の地理的一体感は狭い地域だから持ちやすい、丸森が伊達藩だったけど一時は金山城が相馬藩に属していたから相馬藩だった。ではなぜ丸森町が伊達藩になったかというと角田から平地がつづき丸森まで伸びていたからである。一方相馬藩は山にさえぎられたから丸森を支配できなかったのである。これも地理がわかれば納得する。飯館は一見標高が高く相馬藩に地理的になりにくい面もあったがそれなりに地理的に一体感も持ちうるものでもありえた。塩の道などを通じて経済的一体感も持ち得た。飯館や葛尾村には森林資源があったから相馬藩ではその資源を必要としていたから相身互いだったのである。
相馬藩内はそれなりに地理も複雑である。阿武隈高原を擁して平地が海沿いに広がる。海と山との国となる。国見山から一望できたのは合併した南相馬市(小高、原町、鹿島)だった。まさに国見山でありこの三つの市町村は地理的に合併するにふさわしかったのである。飯館村は合併しなかったがもともと相馬藩内であり山中郷として野馬追いにもでていたから連続したものとしてあったのだ。
相馬藩が外から研究されるとき国替えがなく代々相馬藩は相馬氏に受け継がれてきたことである。だから資料としても研究されやすいことがある。相馬藩政期なども膨大な資料として残されているからである。相馬藩内でもいろいろ俳句短歌で紹介してきたが地理が複雑だし魅力的なことを再認識した。山あり川あり海ありだとなる。ただ海は磯がないから魅力がないことはいえる。久之浜の方にいかないと磯がないから磯遊びなどあそこしかできないのがつまらないとなる。ただこの相馬藩内でも地理的にも歴史的にもそれぞれ色合いが違うのである。特にいち早く近代化したもとの原町市は相馬地方の中心地帯となった。相馬市は城跡のあるところだったが原町市の方が近代化して発展したのである。それが南相馬市となったときわかりにくい、相馬市の南か、相馬市が中心で南相馬市は付属しているのかくらいにしか思われなくなった。他の人は地理も歴史もわからないから名前だけから判断する他ないからだ。どこの地域でも相馬藩のような地理があり歴史がある。それは外から一回くらい行ってもわかりにくいのである。

ただインタ-ネットなどで紹介すればその狭い地域でもいろいろあるんだなと知ることになる。
インタ-ネットの強みは全国の人が見ていることなのだ。日本全国に放送することはやはり今までありえないことであり絶えず地方から情報が発信されるようになったのである。いろいろ相馬郷土史研究でも書いてきたがもっとそれぞれの立場で書く人はいるだろう。書くべきものもあるだろう。こうした狭い範囲でもやはり郷土史の研究はとても一人でできるものではない、様々な角度から探求する必要があるのだ。そのためにはまず地理を知ることなのである。相馬藩を一つの宇宙として一体感を高めるのである。相馬藩そういう点で野馬追いとかあるから一体を持ちやすい面はあるのだ。つまり一つの世界としてちょうど一日の範囲で行けるような地理感覚なのである。会津とか伊達藩になると大きすぎるのだ。とても地理的感覚で一体感を持ち得ない世界である。狭い地域だからこそ自己同一性-アイデインティティが持ちやすいということがある。アイデインティティも新しく再構成する必要があるのだ。常に時代は変化しているし何がアイデインティティなのかも変わってきているのである。現代はグロ-バル化したからこのアイデインティティをどこに見出していいかわからない、経済規模が世界大に拡大してもではアイデインティティはやはりその土地に根ざしてculture(文化)が形成されてきたのである。相馬藩はほとんど隈なく歩いているから自分の中で地理的一体感をもてる。相馬藩内は一つの世界としてアイデインティティを持つのには適当な規模なのである。日本だって実際は広すぎるからだ。

中国とかアメリカなどはどうして一体感をもつのか?余りにも広すぎて茫然としてしまう広大さであり地理的に一体感などもちえない世界だった。どこまでも平地が地平線まで広がっている感覚は日本にはないからだ。そういう世界に住んでいる人たちと日本の地理的感覚は相当違っているし思想的にも異質になるのはさけられない、日本は盆地が多くそこが一つの世界、宇宙となってしまう地理的環境にあったのとは大違いだからである。
posted by 老鶯 at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2010年06月04日

黒揚羽(国見山から飯館へ-2)

takitubooo11.jpg

 

 

何やらの草の実あまし夏の朝

滝壺に黒揚羽舞いひそむ魚

木漏れ日やトオスミかすか飛びにけり

飯館の広々として新緑に風の涼しくわたりそよぎぬ

飯館に日のなお暮れじ明るさや遠くに望む夏の峰かな

山藤のふさに垂れにき風そよぎ飯館の道長くつづけり


六号線のところに赤い実がなっていた。それがグミではない、グミは酸っぱいがあれは小さく甘い、それが何とも甘美だった。つまり無料で食べた味がなんともいえぬのだ。それも自然から得られたものだから格別だった。人の手からわたるものはうまくてもそこには常に代価が必要とされる。苦労して作ったものだからということでただで食べるわけにはいかない、そうだったとしてもなんか悪いなとか遊んで暮らすものは他人の労働から無料で食べるわけにはいかないとかなる。ところが自然の中にもしなっていた実だとしたら誰もとがめるものはいない、純粋な神からの賜物(たももの)となるから格別に甘美なものとなるのだ。エデンの園ではそうして純粋に神からの賜物として食料を得ていたのだろう。自然に生きるものの幸福は神からの賜物だげで暮らしているからである。一番甘美な食料はマナだったのである。人間が労働して栽培したものではない、神から純粋の賜物として与えられたものである。

 

高倉ダムから流れをさかのぼった所にある滝はたいしたものではない、あそこには魚もいないかもしれない、でもあそこは車が日に何台かしか通らない、涼しく風がそよいですぎてゆくだけである。そこにじっとしているだけで気持ちいい、そこには社会の喧噪は及ばない世界である。ただあそこまで行くのは結構大変だった。運動すると体に異常が出るようになった。登山して電動自転車でも乗れば体に答えた。でも自転車だと涼しい風とか感じるが車だと感じない、それでも暑い光をさえぎるから楽である。車を運転できる女性と結婚すればいいというのは確かにそうである。そうすれば遠くにも行けることになる。車はそれだけ便利なものなのである。でもどこの家でも車の事故にあっているからいやである。自分の場合は車の運転には向いていない、常によそ見しているし考えことしたりしているから事故にあいやすいから乗らないのだ。

飯館村が気持ちいいのは広々とした地域に家が隠れるように点在しているからである。道にしても車が通るのが少ないからいたるところ涼しい木陰をなしている。飯館村は静寂の度合いが違ってくる。原町より小高や鹿島が静寂があるがさらに町より飯館村は静寂の度合いが深まるのだ。飯館村に住んだらいろいろ不便でもその静寂の中で別な神秘的体験をするのではないだろうか?暮らしのことは別として深い自然の癒しがあそこにはある。ただきれいな水の流れがないことが残念である。前は一カ所山陰にあったが道になりなくなった。流れは寸断されてしまったから自然な流れではない、夏になるとやはりきれいな流れがあると癒されるのだ。会津の方にきれいな流れが多い、あれだけ高い山があるのだから当然だなる。ただ会津は地理的にわかりにくい地域なのだ。

やはり夏は涼しさを求める、本当の涼しさは自然にあり自然を離れたら本当の涼しさはなくなる、ク-ラ-も不自然なものであり飯館のような高原に棲めば全体が自然のク-ラ-になっているのだ。

 

 

posted by 老鶯 at 15:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2010年04月05日

新地の地勢は日本の典型(鹿狼山の伝説など)

garouyama111.jpg


新地の地勢は日本の典型(鹿狼山の伝説など)


手長明神は年を経た鹿を愛し、白狼を馴らして連れ歩いた。山頂から長い手で海から貝を取って食べ、その貝殻を捨てた所を貝塚屋敷という。相馬郡の方のふもと新地の小川部落にあった。

浜から離れた場所で貝殻が発見されるため、手長明神が長い手で海から貝をつかんで食事した場所だったという伝承が残っており、その社の跡も残っています。
http://www.mahoron.fks.ed.jp/bunkazai/264.htm


歴史が地理だと書く度に指摘しているけど、それが一番身近な住んでいるところでも地理がわからないのだ。そこに長年住んでいても地理の感覚は身につかない、新地などすぐ近くだからわかりきったところじゃないかとなるそうでもない、新地の地理的特徴は同じ浜通りでも特殊なのである。山と海が近接している、海までの距離が一番近いのである。新地駅からのみ太平洋が見えることでもわかる、ここが海なのか、歩いて行けるなという距離なのである。鹿狼山も浜通りでは最も海に近い高い山だから手長明神の伝説が生まれるにふさわしかった。伝説であれ何の根拠もなく生まれない、ここでは明らかに地理が歴史を説明している。手長明神のある所、手の長い神が貝をとって食べて捨てたという貝塚との距離感が現実的なのである。縄文時代は海が奥に入っていたからさらに距離的に貝をとるにはいい場所だった。その頃沖まで行って魚をとるという技術はもっていないから貝中心の食生活になったのだ。鹿狼は当て字でありガロウという音に漢字をあてたのだから鹿狼と漢字でなってるからそのあとにこんな伝説を作った。地名伝説にはそういうのが多い、鹿と狼は関係ないのである。ごろごろした山とかの意味である。

鹿狼山の麓あたりは海から一段と高いところになっていて住みやすい所だった。海と山が近接しているから海の幸、山の幸に恵まれていることになる。また縄文時代は湿地帯が多いから人は高台に住んでいた。すると新地には海のすぐ後ろが高台になっている。間に平地があっても距離が短いのである。最初は平地は住みにくい湿地帯であり人は住めなかった。高台が住むに適していた。だから新地は最初に人が住みやすい場所であり手長明神の伝説が生まれたのも今でも地理がわかれば納得するのだ。松川浦とか真野川とか他は山はずっと背後になっているからだ。その分湿地帯が広範囲にありどうしても松川浦もその湿地帯の中にあったから万葉集の歌(松がうらにさわゑうら立ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも)・・・はありえないと考証したのである。これも地理がわかればそうなるのだ。


鹿狼山の麓の杉の目に生まれ育った人の農家は水に恵まれていた。山の清水を家にとりこんでいた。三段の水槽にその水を流し入れて鯉を飼っていた。そこで子供のとき泳いでいたし風呂の水もその清水を利用していたから水で苦労したことがないという、これも鹿狼山が海に近くても山が近接しているからそうなったのだ。他では相馬市でも南相馬市でも山は相当背後にあり清水は出ない、鹿狼山のような大きな山が迫っているから清水がでてくる。他にも新地には清水で有名な場所が二カ所ほどありその清水をとりにゆく人がある。それはやはり山が近くに迫っているためである。町では前にも書いたようにもらい水である。水道がないときは自分の家では風呂の水は近くの江戸からバケツで運んでいた。子供のときそのバケツで水を運ぶことが家族総出で大変だったので文集にそのことを書いたのである。水をもらうことはまた井戸がない家にとっては苦労となる。「水をください」と頼まねばならないからである。新地では水に恵まれていたことは山と海が近接していたから山の幸と海の幸に恵まれていたことになる。平地の幸、米作りは後から湿地帯を苦労して人力で作り出したものである。縄文時代は海彦山彦の時代であり海の幸、山の幸の時代である。その典型的な地形が新地にあったのである。

ともかく日本では水だけには恵まれている。海から山へと行けばそこには豊富な水が流れている、その水もきれいであり飲めるから外国ではこんなに水に恵まれているのに驚くだろう。外国では川でも泥川が多いのである。水が飲めるような川などみかけないのだ。ともかく水道がない時代は水に苦労しない山の人は恵まれていた。山がすべて今のように悪いイメ-ジとはならない、木材が使用されていたときはそれで大儲けした人もいるからだ。新地でも「父の共有林」という話がインタ-ネットに出ていたが杉の目の人は知らない、その時すでに牛は使っていない、その前の代になっていたからだろう。人間は近くでも経験していることがかなり違っているのだ。そもそも海の幸と山の幸の国だとすると海の幸で生きる人と山の幸で生きる人はかなり違っているから海彦山彦の物語が生まれたのである。

(郷土史研究(水の問題)
http://musubu.sblo.jp/article/17441829.html

posted by 老鶯 at 19:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2010年03月31日

郷土史研究の意義-アイディンティティの基を見直す


郷土史研究の意義-アイディンティティの基を見直す

●空間的地理的認識がアイディンティティの基

大和は国のまほろば たたなづく.青垣 山こもれる 大和しうるわし (古事記).


大和の国の認識は奈良盆地に行けばわかるが回りを囲む青垣山なのである。大和(ヤマト)は極小さな一地域名に過ぎなかった。それが国の名前にまでなった。青垣山というと奈良盆地を囲む山であっても小さくはない、その中の平野は相当に広大なのである。それだけの広い地域を国のまほろばと認識していた。それだけの空間認識があった。そこが自分たちの生きる故郷だという認識があった。村単位で暮らしている人がそれだけの広い空間を故郷と認識していた。これもやはり空間的に認識しやすい場所だったからそうなった。日本では山に閉ざされてさえぎられるから自分たちの国を故郷を一体のものとして空間認識することはむずかしい。だから相馬藩というとどうしても飯館は地理的に隔絶しているから一体として認識しにくく飯館村は独立した村として残ったのである。ハマ、ナカ、アイヅというのは福島県を地理的に空間認識した結果である。空間的地理的認識としてのアイディンティティはそうなる。浜通りは海に面している地域であり中通りと会津が別にある。会津は広大な山国の地域である。別な一国でもあった。相馬藩の地理的空間認識はこれも確かにある。三春とか川俣とかが境になるが山にさえぎられるからこの山の向こうは別な世界、藩だという意識がでてくる。そういう意識は歴史的にも作られてきた。だから江戸時代は境が重要であった。つまり藩中心の生活でありアイディティティの中に生活していたのだ。そういう生活は拘束されているとか狭い中に閉ざされている感覚になるけど人間の基盤は自然村的に作られるのではないか、人間は福島県すら空間的に地理的に認識できないことをみればわかる。福島県ですら認識の範囲を越えているのだ。
日本が比較的空間地理的認識で一体感をもったのは海に囲まれている島国であるから観念的にも一つの国土として認識しやすいからだった。でも内部は山国であり実際は空間的地理的認識がむずかしい国だった。福島県すら空間的地理的に一体感をもてない、他でももてない、だから中国などは余りに広すぎてどうして空間的地理的に一体感が持てるのか?だから万里長城のようなとてつもない国境を自ら作る他なかったのである。それは空間的地理的に作られたものではない、人為的に作られた国境であり空間認識である。


●人間の空間的地理的認識は限定される

江戸時代は藩中心の世界であり世界観が基としてあった。実質的生活も藩中心であり自分のアイディティティをもつことが容易であった。どういう世界に所属しているのか空間的地理的認識として自然に身についたのである。そういう世界に生きることは精神的に安定する。強固なアイディティティの地盤があればそこから人間は一つの世界観を作りやすい、でもそういう世界がないとき人間は混沌(カオス)のなかにほうりこまれて自分のアイディンティティを築くことができない、現代とはまさに経済的にはグロ-バル化しても他国の人と精神的に通じ合っている世界ではない、ただモノを交換しているだけである。アイディンティティは余りにも広いと築くことがむずかしい、中国とかアメリカになるとどうして国民としての自覚がもちえるのだろうかと思う。中国はだから一見大きな国でも一体感がなくまとまりがなく他国にも蹂躙しやすいものとなっていた。アメリカも国としての一体感が薄弱だから絶えず他国として戦争して勝利して一体感を保つということがある。生死をかけて戦争すれば否が応にも一体感が高まるからだ。相馬藩にしても戦国時代もそうだった。伊達に抗い戦うために野馬追いが軍事訓練として行われた。そのことが伊達に支配されずに相馬藩が残ったともいえる。伊達に抗することにより一体感がもてたのである。

日本人のアイディンティティの基礎が村にあった。その無数の姓が村の地名にあったことでもわかる。つまり血縁よりその共に共同する土地と一体化した村にあった。外国では血縁が重視されるのはあまりにも国土が広すぎるということが逆にあった。小さな地域に分化されていればそこでアイディンティティが築きやすいからだ。そして土地とか空間は実質的には変わっていない面が多くなるのだ。人間はその間にめまぐるしく変わっている、血縁もいつまでもつづくわけではない、だから相馬氏として氏から相馬藩の一体感を持っているのは日本ではそんなにない、村からその土地として一体感をアイディンティティをもって生きてきたのである。相馬では相馬野馬追いが継続されているから相馬氏として氏の一体感をもち得たが他ではもちえない、伊達でも伊達氏の一族だと確かにその子孫は思っていてもその住民はそうした意識は喪失している、仙台でも他から入ってきた人が多いからである。

●江戸時代の藩が地理と一体のアイディンティティを作った
今またなぜ地方意識が高まっているのか?江戸時代への回帰が地方分権とかで実質的にも望まれるのか?それは人間の空間地理的認識は限られている、一挙に日本全国を俯瞰するようなことかできない、もちろん地球だったら余計にそうである。人間は狭い限定された範囲でしか物事を本当は認識できない、福島県を一体として認識できていないことでもわかる。福島県だけでもそれだけ広いし複雑だからそうなるのだ。文明は交通の発達でグロ-バル化しても人間が空間認識できる範囲が広がったわけではない、人間は限定された狭い範囲でしか認識できないしアイディンティティも築けない、限定された中で一体感を深めることはできる、でもこれが一挙に拡大化すると認識できなくなる。現代の混乱はここから起きている。アイディンティティとなる基盤の喪失なのだ。そんな狭い中で自分の生活を閉ざしてしまうこと時代遅れているというのも言える。でも東京のような一千万都市のようになったらどうして空間的地理的認識として一体感とかない、アトム(原子)化した世界であり原子爆弾が破裂してもおかしくない状態にある。そういう中で精神の安定を保つこと自体不可能である。「相馬郷土史研究」でいろいろ探求してきたことはやはりそうした混沌化したアイディンティティ喪失の時代に江戸時代に回帰して大地からアイディンティティを築く作業としてあった。そこに意義があった。教育にしても今までのような中央志向ではない、藩校みたいなのが望まれるのかもしれない、明治時代はどうしても過度の中央集権的、富国強兵の工業化としての一律教育であった。それは人間を規格化して大量生産に合わせるということでもあった。地域独自の世界観や文化も例えは方言なども標準化しして否定されたことでもわかる。それは文化の破壊でもあったのだ。グロ-バル化した反面に地域への回帰も同時に起こっているのだ。だらか山村などの過疎化はそうした地域を一部でも破壊するからアイディンティティを破壊するから問題なのである。経済的合理性だけで国土を考えていいのかという問題があるのだ。

idenntitiy.jpg


posted by 老鶯 at 01:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年12月25日

相馬市成田の竹内氏の姓の由来

takeuchi123.JPG
ootake12.JPG
takeuchimaru1.JPG

丸森
takehaka1111.jpg


相馬市成田の竹内氏の姓の由来



「竹の内」は「館(たて)の内」がなまった地名として、城館跡に時々見かけられるものである

武(竹)城について
http://homepage3.nifty.com/azusa/saitama/okegawasi.htm

樋ノ口はあるところは竹の内は呼ばれていた。竹の内という地名は全国にある。竹を植えて要害にしたという説がある。この宇多川沿いには大竹があり近くに篠竹があるから竹の多い地域だった。竹に由来することは確かであり竹が舘(たて)になるのか?竹で囲んだ館のあったところとなる。丸森にも竹の内という地名があるから竹の内は一般的にあるある地名である。そこに館があるとなると人がそれなりに中世に要害の地にして住んでいた。そしてそこから遠くない成田の斜面の墓地に竹内氏の墓がある。ここは明らかに竹内一族の墓所となっていることがわかる。下の江戸時代の墓のある所にも竹内氏の墓があり江戸時代からつづいて竹内氏がある。
弘化5年(嘉永元年・1848)である。一月早々、勘定組頭の竹内清太郎氏と面談した池田家老から「二宮氏の仕法が民間に益あることは一通りではない。自分も是非これを聞きたい。代官出府の節は自分からもよく話し合おう。なお富田には自分も面会したい。何時にても罷り越されるよう」という竹内氏の言葉を聞かされた。(日記・書簡2)

takechiii1111.JPG

相馬藩政期

他に標葉郷軍者の武内殿・・・・とあるとき武内は竹内が変化したものである。竹内の姓は竹の内がありその地名をとって竹内とした。鹿島区の塩崎の大岩は地名としてあり越中から移ってきてもその大岩を姓としたのかもしれない、その土地の名を名乗ることがよくある。相馬氏は移住しても相馬という地名をこの地につけていないのだ。中村・・・となのる人はいた。中村は村の名だからそうなった。黒木というのも地名として先にありその地名を姓とする武家がいたのである。いづれにしろ竹内の姓の起こりは竹の内にあることは間違いない、竹内氏が移住して地名となったのではない、前から竹の内という地名がありその土地の名を姓としたのである。

posted by 老鶯 at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年12月18日

相馬藩内の人の移動について


相馬藩内の人の移動について

●相馬藩の外部からの移民

南相馬市の鹿島区でも原町区でも前は鹿島町であり原町市であって街としてあり中心だったがもともとは鹿島村であり原町村だった。原町市が原町村だったというのは意外お思うかもしれないが原町村からは野馬追いに一つの姓で一つの旗しか記録のっていないのだ。他の村はいくつも旗が記されているから昔から農家として郷士が住み着いていたのである。一地域内にも人の移動がある。大きな移動は相馬氏の移住だった。次に大きな移動は越中や薩摩など全国にわたり相馬藩は飢饉に陥って人工が激減したとき三分の一くらい減ったとき相馬藩では「相馬、相馬と草木もなびく・・・」と民謡のコマ-シャルソングを作り全国から人を呼び寄せたのだ。だから鹿島区に薩摩内とか他にも九州地名が残っている。なぜ九州の方からまで相馬に来たのかというと様々な事情があった。薩摩に真宗が広まったのは越中などの薬売りが広めた。薩摩とは薬を通して深くかかわっていたのである。真宗が薩摩で禁止されて移住したとかあるのは薩摩と越中が薬を通して結ばれていたからである。相馬藩内で移民の影響はかなり大きかった。相馬藩の墓所を見れば必ず真宗系の墓が二割三割とありその影響を如実に知る。
今日見た六号線の脇の川子の小高い山の上の八龍神社のあるところから下ったところの墓所は三分の二くらい真宗系の墓であり越中などの移民でしめられていた。ここは集中的に越中の移民が住んだ場所だった。

富山の薬売りと薩摩藩」の周辺
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2008/07/magn_8ec0.html



●鹿島区塩崎からの鹿島町への移動(中田氏など)


塩崎の中田氏は文政十年十月、越中砺波郡中田村より当地に来る


中田氏と大岩氏は一緒に来た

記録にはこうあるがこれは塩崎であり川子ではない、でも川子にも越中系の移民が多く住んだのである。塩崎から川子へと移民は拡大して住んだ。塩崎は越中の移民が多い場所だった。
中田とか大岩という姓は実際に鹿島区の鹿島町内にその姓の人が住んでいてその子孫である。もともと農家だったのだが町にきて大工とか菓子屋とかその他商売やら職人となって町を形成した。町はまず近郊の在-農村から移動した人たちによって人が集まり形成された。だから代々続いている家は少ない、でも農家だった家は町のなかでもかなりある。その家は広い庭と敷地をもっていたし今ももっている家がある。その家は古い家なのである。そのあとに職人や商売する人がすみついたのである。面白いのは鹿島区の鹿島村の橲原(じさばら)に橲原田がある。これも橲原の人が移り住んで田を作ってなづけた。橲原(じさばら)という奥から鹿島村に移り新しく田を作ったという不思議があるのだ。中田氏については明確だが大岩氏は大岩村から移り住んだのだろうか?不思議なのは詳細な字を記した地図に大岩下とある。これも地名だとするとこの大岩から大岩の姓となったのか、越中から移住したとなるともともと大岩姓だったのか、移住しても土地の名前をとることがある。相馬氏は移住しても相馬という地名はなかった。土地の名前の中村をとって中村と名乗る人はいた。とするとここに大岩という地名がありその地名を名にしたのか、この辺が混乱するのが姓と地名の関係なのである。

nakadajisa12.jpg
ooiwamura1.jpg
kawago12.JPG


●明治になってからの人の移動



相馬藩は小さいから中村市(今の相馬市)に城が作られてもそこに城勤めする人は少ない、郷士として農家として住み着いた。農業と武士の兼業だった。相馬藩で一揆が起こらなかったのは農民のなかに郷士が多く武士が多いから純粋の農民が少ないから不満があっても反乱できなかった。北朝鮮では兵士の数が多い、農民のなかにも兵士がどこでも交じっているからなかなか農民が苦しくても反乱を起こせないという、監視役の兵士がいたるところにいるからだ。明治維新で郷士が武士階級が廃止されると武士は失業したのだから職探しが大変だった。それで北海道への移民が推奨され武士が大量に移動した。仙台藩は伊達氏は大打撃を受けたし武士の数も多かったから移住した先が伊達氏となった。ゲルマン人の移動ではないが社会の大変革時期には大きな人の移動が起こる。絶えず人は移住している。小さい地域内でも移住しているのだ。また移住を強いられる運命にもあるのが人間である。一カ所で人が住むにも人が増えれば耕作地域を広げねばならない、それで分家して新しい土地を耕すことになる。明治維新でもやはり農業中心であり開墾することが新しく住む地域を広げることだった。それで相馬藩の中村の城下の武士は鹿島区の八沢浦を干拓して移り住んだ。田の中に妙見神社があるからわかる。普通は田の中には妙見神社はあまりないだろう。つまり城下に住んだ武士はまた郷士のように農業に帰ったのである。その頃まだ農業が主産業でありそれで人を養うほかなかった。相馬藩でも北海道にかなり移住した。どこだか不明になったが鹿島区江垂の宝財(ほうさい)踊りをしていた町があった。祭りも北海道に移民した人がそのまま伝えたのである。その後も人の移住はつづいた。遂には農耕地を開墾地を外国までにも求めるようになった。満州がそうでありそれが戦争にもつながったのである。日本にはもう開墾する土地がない、外国しかない、満州はどでかい、いくらでも土地はあるとなり移住が戦争となり悲劇を生んだのである。ゲルマン人の移動でないにしろ移住することが戦争になることがある。アメリカも移民がインディアンを殺戮してできた国であった。戦後も土地を求めて移民はつづいた。アメリカにもブラジルにもペル-にも移民がつづき藤森大統領まで出たことでもわかる。農業は土地が必要だから土地を求めて移動するようになるのだ。二十世紀になり工業化したが基本的には農業中心の世界だったのである。

原町の名の起こり
http://musubu.sblo.jp/article/25384267.html

八沢浦の妙見の祠

http://www.musubu.jp/somahantokushoku.htm

posted by 老鶯 at 20:09| Comment(12) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年12月10日

なぜ棚田が作られたか?



なぜ棚田が作られたか?


棚田について
http://highknowledge.seesaa.net/article/118728697.html


棚田などない方がいい、棚田ほど非効率的なものはない、なぜこんな棚田を山の中に苦労して作ったのかという疑問を書いている。このプログは東京から四国の山間部で農業をはじめた30才の人が書いている。これほどしっかりしているなら東京からこんな辺鄙な場所でも根付くことができる。自分は農業のことを語るのとは実際の経験から地に足をついて語っている。自分は田舎に住んでいても農業のことがほとんどわからないことがこのプログを読んでわかった。農業はこれほど奥深いものなのである。農業とはこのプログのように実地に経験しない限りわからない、この人は東京から来て自然とか農業のことを実地で経験した。そこでは次々と新しい発見の世界だったから東京からこんな辺鄙な田舎に移って農業した意義があった。これだけしっかりしているからこそ農業を新鮮な世界として体験しているのだ。農業をしている人は金にならないとか不満しか言わない人もいる。逆に東京から来てこれだけ自然と結びついた農業に新しい発見の生活をしている人もいるのだ。これも30才だからできたことかもしれない、団塊の世代などが田舎に憧れるのは危険である。体力的にも精神的にも田舎暮らしをはじめるのが遅すぎるからだ。若いなら適応力があるが田舎暮らしをのんびりとなどできない、農業も無理である。やはり地方の大都市が老後には向いているのだ。

ここで私が前にも書いたが棚田を作ることは大変な努力が必要でありなぜこうしたものを作ったのかという素朴な疑問を出している。それは結局、米作りする場所がないためである。ネパ-ルに行ってみればわかる。まるで天に届くような所に家がある。そんなところにどうして住むんだとなる。不便なところへ住むところが拡大化したのは分家したとしても土地がないのだから土地を求めて不便な所へ住むほかないのである。まるでもう耕す場所が天になってしまう。耕して天に至るとは実感である。棚田は天まで耕すとかいわれて美しいというがそれはかえってそうしなければもう耕す場所がないからだった。冗談じゃなくてネパ-ルでは天に達しして天に家があり天に畑を作るほかないような世界になっているのだ。

南相馬市の鹿島区栃窪の上萱(うえがや)も相当山の上の不便なところである。そこは塩の道があっても古い村ではない、戦後に開拓に入った新しい場所なのである。戦後も生活は農地を開拓することがつづいていたのである。だからあんな辺鄙な場所に開拓に入ったのである。今では誰も住んでない、廃村になった。 飯館村でも大倉からの坂を越えた場所にある二軒の家も新しく開拓に入った家であり一軒は廃屋になった。あんな不便なところに昔から住んではいなかったのである。人間はそもそも不便な所には住まない、住む場所がないから仕方なく不便な場所に住むようになる。その不便な場所でなんとか米作りする場を確保するために棚田ができた。それが外から来た人は棚田を作る苦労がどれほどのものか知らずただ美しいと美的なものとして見る。そこに実地に生活してみれば棚田など必要ないという発想になる。地名も実用的なものから名づけられたのであり詩的なものとして単なるイメ-ジでは名づけられていない、そもそも奈良が均す(ならす)から来た言葉であり営々とその土地を耕作に適したものとして均す作業が奈良の都を作ったとなるからだ。平地でもそこに人間の労苦があり住みやすいように作られてきたのでありそこが都となったのである。住みにくい場所でもなんとか住みやすいように努力するのが人間である。それで棚田を作るようになった。米を食べたい、米を作る場所を広げたいということで棚田が作られてきたのである。

山深く棚田に実り営々と労苦のありてここに暮らしぬ


この労苦を象徴しているのが中国の黄土高原なのだ。中国人とは労苦の民である。黄土高原には木がない、日本より索漠としている。黄土高原では土の洞を家として生活していた。中国は沿海部ではすでに文明の最先端の生活をしているが奥地では原始時代に毛のはえたような生活をしている人がいる。鎌一つで麦刈りに出稼ぎに来た人がいたが今はコンバインの時代であり人より百倍千倍も労働量に差があるのだから原始時代から一飛びに文明時代に突入しているのだ。

隠し田
http://blog.livedoor.jp/apec_pe/archives/cat_971663.html


棚田は隠し田でもあった。隠し田を作るのも棚田を作ると同じ苦労があった。これもなんとか米を税として納めることから逃れるために目立たないように米作りには適さない隠れた場所に作られた。それもわずかな土地である。鹿島区の隠町とかもそうである。越中から来た移民などが隠れて作った田かもしれない、なぜなら移民だからもともと土地を与えられていなかったからである。わずかの土地をこっそりと拓き作っていたのが地名化したのかもしれない、それが字地名として残ったのかもしれない、隠し田の話が多いのも今も税金逃れが多いのと同じなのである。ここにも生きるための農民の必死の努力があったのである。そういう努力は今になると忘れ去られているのだ。農民さえ忘れているだろう。これは農民だけではない、過去の先人の労苦は忘れられ安いのだ。これは別に職業に関係ない、人の労苦は忘れられやすい、老人が話す苦労話も伝えられなくなる。戦争の話などもそうである。戦争でなくてもたいがい今の80才以上の老人は何かと苦労が多い世代だったから苦労話がある。例えば継母(ままはは)にいじめられた話が良く残っているがそういうことを身近に聞いたのでそいうことは昔からあったことだと納得して同情したのである。人間は苦労話でも自分が体験したりしないと実感がでてこないから老人の話でも良くきかないのである。だから前にも書いたように郷土史は祖父母の話を聞くことからはじまる。それが一番身近な郷土史になるからだ。




posted by 老鶯 at 00:08| Comment(2) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年11月15日

木枯らしの山路-冬の短歌十首(大倉-佐須-霊山-玉野)

asataki2222.jpg


木枯らしの山路-冬の短歌十首(大倉-佐須-霊山-玉野)


竹の葉に朝露光る上栃窪

朝静か上栃窪や冬の蝶

冬の蝶いづこに消えし分かれ道

山の田を守りてあわれ冬あざみ

木枯らしや落武者追わる古道かな


冬の朝大岩二つ相対すその厳しさや風の鳴るかも

冬の朝大岩二つもの言わず清流ひびき向き合いにけり

冬の薔薇二輪淋しも風吹かれ我が朝過ぎぬ山の道かな

大倉の奥に一軒残る家冬の日さして大石鎮まる

我が来れば朝吹き散る木の葉かな巌静けく滝のひびきけり

霊山に攻防の昔木枯らしに舞い散る木の葉清流ひびきぬ

山上の落合静か木の葉舞い我がまたここにしばしとどまる

玉野なる伊達と相馬の境かな木の葉舞い散り風の鳴るかも

ごうごうと山上の森木枯らしの鳴りつつ暮れて相馬にい出ぬ

縁切れて永久に会わざる人もがな木枯らし唸り木の葉舞い散る

sasuhe111.jpg

朝は晴天で風もなかったがあとから木枯らしになった。でもあたたかいから木枯らしでも寒々としたものは感じなかった。栃窪は上栃窪となると奥である。この距離の感覚は車とかバイクでは感じないから困るのだ。一気に到達してしまうからである。栃窪から例の二つの大岩を通り「原生岩」「神座石」見て大倉に出てそれから大倉の奥の一軒残る家に出て佐須に出た。滝が幾筋かあり朝気持ちよくひびき紅葉が盛りだった。途中玉野へ行く道に分かれていた。その古樹の根元に古い碑があった。慶応とか見えたから江戸時代のものだから古いし貴重だとなる。行合道から一路玉野に出て相馬に出た。やはり木枯らしが鳴り木の葉が吹き舞っていた。ここは霊山が炎上して南朝が滅びその落武者が南相馬市の鹿島区真野に落ち延びた落武者コ-スである。卒塔婆峠を来るつまりだったが道がわからなくなっていた。山上では必ず落合にとどまる。ここで流れが落ち合うが人もここで休むのだ。自転車だと人間的リズムだからそうなる。今回は相馬市から霊山回りではなく大倉-佐須から霊山回りで相馬市に出た。この方が楽だった。相馬市からだと延々と坂だったから辛い、下ってみてこんな坂だったのかとわかった。下るのは自転車では気持ちいいが坂だけは難儀する。それで自転車で行くのが嫌になるのだ。おそらくだんだん行けなくなることは確かである。それで電動自転車を買うことになったのだ。
木枯らしがごうごうとなり木の葉が舞い散る、そして永久に縁切れた人とはもはや会わない無常、無情がある。それは親戚とかでもない、若いとき馬鹿げたカルトの運動とか他の人でもいろいろと馬鹿げたことで別れた人はいくらでもいるだろう。もはやそういう人とはこの世でも二度と会わないのだ。確かにまだ死んではいないから会えないことはないが会わないのだ。無情もまたいいのである。いつまでも未練をもつのはよくない、どこかで悪しき縁は断ち切らねばならない、それでなければ悪い親戚でもカルトでも男女の腐れ縁でも断ち切ることができないからいろいろ禍がふりかかってくるのだ。いづれにしろこのコ-スは南朝滅びの落武者コ-スだったのである。

 

簡単な地図

marryozen12.jpg

湯船は岩松氏の伝説地名である。ここまで奥方が逃れお産して湯を使ったから湯船、これは必ずしもいい加減ではない、ここまで逃れることは理にかなっている。卒塔婆峠はどこから入ったのか、地図ではかなりの距離である。ここを行くことはかなりきつい、舗装もされていない埋もれた道になっていた。


冬の樅の木二本(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/33657722.html

posted by 老鶯 at 19:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年11月11日

秋から冬の短歌十首(2)(山上-大倉-玉野)


秋から冬の短歌十首(2)(山上-大倉-玉野)

伊達の将相馬の将や冬の暮

米沢藩古地図に残る冬の暮

十一(ジュウイチ)の入山上の森に鳴くその声聞き入る夏の夕暮

相馬より分け入り上る山上に流れの清し秋の朝行く

山上に流れの清し蝶の飛ぶ秋の朝かな奥に分け入れる

筆甫(ひっぽ)へと山分け入りてつづく道我が立ち止まる秋の夕暮

みちのくに攻防終えて静かなる北風吹きて城の跡かな

大倉は玉野の隣卒塔婆の峠の道や秋深むかも

大倉の奥は佐須なりその昔行き来淋しく冬となるかも

墓一つ標とあるも消えにけり大倉の奥冬となるかも

山上に落葉を踏みて佇みぬ中村近しも我が下るかな

三〇戸紙漉沢の昔かなその水澄みて冬に働く

山上に中村近しも薪運ぶ昔にあれや冬の日暮れぬ



自転車で前は山上から霊山辺りは相当行き来していた。ここ十年以上は行っていなかった。自分の仕事は旅することだった。例えば山上には入(いり)山上となると山上の上流地域になる。その辺に橋がありそこでいつも休んでいた。その時森の中から聞こえてきたのが十一(ジュウイチ)の鳴き声なのである。これは相当前でもめずらしいから記憶していたのだ。ジュウイチジュウイチと低音で鳴いてもこの鳥の姿を見ることなかなかできない、暗い森の中で姿を見せず鳴いているから神秘的である。あそこでこの鳥の声を聞いたが他では聞いていない、これなども相当暇人でないと鳥の観察もしにくいだろう。暇人だからその声を聞くことができたのである。

山上は宇多川の上流でも真野川などと違って川は短いからすぐ山に入り清流になっている。街中を流れている水は澄んでいないが山上に入るとすぐ清流になっているのだ。紙漉沢という地名が残っていて実際に三〇戸も紙漉をしていたのだからこの地名が残った。
冬は紙漉に大切な谷間の湧き水が冷たく澄む最適な季節。 紙漉は冬に行われる。冬は農家も仕事がないから仕事になり良かった。相馬では障子紙を作っていた。三〇戸もあるということはそれだけの需要があった。障子ならそれくらい必要になる。障子なら字を書く紙とは違いそれほど高等な紙とはならないから大量生産できたかもしれない、紙漉となるとぽつんと一軒二軒とかになっているが実際は三十戸もあったのだから村全体が紙漉の村となっていたのだ。

紙漉の俳句
http://www.balloon.ne.jp/453room/new_page_36%20kamisukisikoro.htm


山上から薪なども運ばれた。ここからなら馬車などで城のあった中村は近い、今は相馬市となっているが元は中村市であり中村駅だった。京都の大原などは相当遠いし奥地でありあそこから大原女が薪を運んだということが地理的にわかりにくい、山上だったら地理的にわかりやすい、城のある中村に山上からは障子の紙や暖房や燃料の薪や炭、松川浦からは魚が供給されたことは今でも簡単に想像できる。玉野村の隣は大倉だけど大倉にとっては佐須の方が身近だったかもしれない、川が昔は道となっていたからそうなる。ただ卒塔婆峠は南北朝時代からあったのだから一番古い道であり大倉と玉野は行き来があったのだ。玉野村より大倉が早く開けた。岩松氏の時すでに大倉はあったからだ。岩松氏の伝説の地名が残っているからだ。つまり鹿島区の屋形から一族が大倉に逃れたからである。この辺では卒塔婆から筆甫に行っていない、まだ相馬藩内でも未知の道があったのである。
だから次はここを探索してみよう。





posted by 老鶯 at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年11月01日

相馬藩玉野村の境界争いはなぜ起こった?



●米沢藩が玉野村にかかわった由来

相馬市の玉野村は米沢藩と伊達藩と相馬藩の三つ巴の境界争いで有名である。
ここに相馬と伊達の境の桜がある。

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に実は伊達に  相馬二編返し


天文の大乱の際、伊達稙宗の娘婿、相馬顕胤は稙宗の側につき、度々晴宗と合戦に及びました。それ以降は伊達氏と争うことが多くなり、天正十八年(1590)までの五十年間に三十数回もの合戦がありました。桜は、伊達と相馬の境界を定めた桜として植えられたもので、もともとは相馬街道(川俣町と飯館村)の境界、水境神社にあったものです。

川俣の方にあったとすると川俣の方で争いが激しかったのか、玉野村も米沢藩時代から境界争いの地だった。なぜ、米沢藩なのか、玉野村は最初横田大学という人が会津西部大沼郡金山谷の横田城から上杉氏に仕官した、それで上杉氏の城であった梁川城に配属された。そこに大学舘、大学曲輪(くるわ)と称されたとありそれだけ重きを成した人であった。相馬の城でも岡田館とかすぐそばにあるのと同じである。この時まだ伊達家の領地とはなっていなかった。その後伊達家が進出して領地化して玉野村にかかわることになった。最初にかかわったのは上杉氏であった。玉野村にはその後も伊達藩からも相馬藩からも入植がありともに住んだのである。上杉氏系統が一番古いのである。
tamanozu1.jpg


伊達義広 粟野大館(梁川城?)
伊達政依 梁川城?
伊達宗綱 梁川城?
伊達基宗 梁川城?
伊達行宗 梁川城?→霊山城→伊佐城→梁川城?
伊達宗遠 梁川城?
伊達政宗 高畠城→赤館
伊達氏宗 赤館
伊達持宗 大仏城(後の福島城)→梁川城
伊達成宗 梁川城
伊達尚宗 梁川城
伊達稙宗 梁川城→桑折西山城→丸森城(隠居)
伊達晴宗 西山城→米沢城→杉目城(隠居)
伊達輝宗 米沢城→舘山城(隠居)
伊達政宗 米沢城→黒川城(後の会津若松城)→米沢城→岩出山城→仙台城→若林城(隠居)


伊達政宗の前は梁川城を伊達氏は根拠としていた。

●玉野村が前は笹町-その由来の謎?

玉野村の前は笹町と言われていた。そこに昔から家が集まり建っていたとあり最初に入植した人々が住んだ。玉野村となる前に笹町があった。ではこの笹町の由来は何なのか?笹が繁っていたから笹町となったのか?それとも他に由来があるのか?

西館は笹町城とも言われた。名門葛西氏の家臣、笹町新九郎経尚の居館、本姓は千葉氏である(岩手県東磐井郡室根村)

『倒れ墓』と呼ばれる葛西氏家臣笹町彦三郎安頼の墓があり、牧山長禅寺の住職栄存法印(?〜1681)との因縁話が伝えられています。(石巻)

「懸田氏は源義家公の六男、陸奥六郎源義隆より出ず、十四世の後裔を高松近江守定隆と為す、定隆正中二年(1325)四月を以て、杉野目郷高松城に止住し、高松と称す。建武二年(1335)北畠顕家の命で高松城から懸田城へ移り、懸田氏を称した」と記されている。懸田氏は南朝方として活躍し、懸田城は霊山城や藤田城と共に南朝方の拠点となったのである。

戦国大名葛西氏の家中に掛田氏がいた。掛田氏は葦名氏に仕えていたが、故あって葦名氏のもとを去り、葛西氏に仕えるようになったという。

 正長元年(1428)、懸田氏は宇多庄をめぐって相馬氏と結んで結城白川氏と対立し、伊達持宗の調停によって和睦しているが、その後も対立関係にあったようで、永享二年(1430)幕府内で「懸田退治」が議されている。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kakeda_k.html

高松の地に入り次に掛田(懸田)に入り掛田を名乗ったのである。その土地の名を名乗ることは在地の勢力化したということである。この掛田氏が相馬氏と争ったということはすでにここから境界争いが始まっていたのだ。笹町の地名の発祥は不明にしても葛西氏に笹町氏とか笹町城とか現実になるのだから由来がここにないとはいえない、地名からだけ歴史を解釈すると歴史的考証としては誤る場合がある。掛田(懸田)とはかかるであり山にかかるとか山の上にある田である。県(あがた)-上田でもあった。日本では最初に田が作られたところは平地ではない、山の上の水に恵まれた地域だった。平地に大きな田を作るようになったのは大きな土木工事が大きな溜め池などを渡来人などの技術でできるようになったからである。奈良とは均(なら)すであり
耕地としてならしてできた都だったとなるのだ。


●玉野村がなぜ三っつの藩の境界争いに

玉野村はやはり地理的要因で三つの藩の争いの場所になったのだ。米沢藩も伊達藩の前に領地として所領していた。そのあとに伊達と相馬がかかわってきた。だから最初に米沢藩が玉野村を所領していた。米沢藩の人がいち早く入植していたのだ。ここは交通の要所でもあった。相馬から坂を上ればここから平坦なところがつづき石田や大石につながる。だからもともと石田郷の枝村としてあったことがわかる。ここはまた米沢藩で重視したのは相馬から塩などが運ばれる所として宿駅としてもうけたこともわかる。ここは宿駅となるべき村だった。なぜなら相馬から坂を上ってくるとどうしてもここで休みたくなるからだ。ここは地勢的な自然の境界なのである。

慶長3年(1598)上杉氏家臣横田大学は相馬海岸と伊達郡を結ぶ往還の中間地点に、「人馬疲労ニ難堪ヲ憂ヒ」、宿駅本玉野村を開いた

中世はここは急な坂だから卒塔婆峠を通り大倉に出た。それは霊山城が炎上して桑折氏などが南相馬市の真野に逃れた道だったことでもわかる。ここはまた山の入会権でもめたということは木材の供給地であり山の中まで境界争いしているのはやはり木材を確保するために争ったのである。当時は木材は相当な資源だったのである。飯館村の大倉は最初に所領したのは鹿島区の岩松氏であった。玉野村は浜通りではない梁川城や石田-大石から所領化されたのである。ではなぜこれも玉野村となったのか?高玉氏が山上にあり墓も残っていた。高玉氏が進出して玉野村となったのか?それは定かではない、地名からすべて解釈すると歴史考証的には過ちを犯すからだ。飯館村は合成地名だから分解すれば元の地名の痕跡がわかる。でも笹町からなぜ玉野村になったのかは不明である。みちのくの真野の草原の草原(かやはら)を地名としたとき真野郷となる前に草原(かやはら)という地名があったから歴史に残った。笹町も最初に人が移住して住んだ一地点名であった。ただここは最近知ったので詳細に調べないとわからない、その暇もないからできない、玉野村から山上地域には何か謎が多い、境界は歴史を研究する場合に重要になるからだ。ここは自分にとっては未知であり予測するのにも知識がたりないからおおざっぱなことしか言えないのである。

宇多郡玉野とその北東部における争論の歴史地理的考察 
http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/1978/1/6-248.pdf

ここは詳しい、一万で詳細な研究書を出している。その一部がインタ-ネットのに出ていたので参考にできた。要するにインタ-ネットに学術書の研究論文が公開されていれば自宅でも素人でもかなり調べることができるのだ。図書館とかに行くと調べることが手間なのである。厚い本を引き出しては参照するのが手間なのである。だから今は暇がなくなったので図書館には5、6年以上一回も行っていない、なぜなら図書館では一日はりついていないと調べることができないのだ。本をもし十冊調べるとなるとかなりの手間であり労力なのである。つまり自宅で調べそれを発信しない限りもはやあとは何かできない、郷土史研究も最低近辺の町誌とかそろえて参考にしないとだめである。これを図書館でやると手間がかかりすぎるからだ。今までは暇だからできたが今やできなくなったのである。

sasasa1.jpg



補足


相馬藩政史に相馬 昌胤(そうま まさたね、寛文元年7月7日(1661年8月1日) - 享保13年10月6日(1728年11月7日)の時代に巡見使が坂本まで来てそれから相馬の城まで来た 。昌胤君御見舞とあるからこの時病気だったのか、その後笹町御休-草野御泊とあるから玉野村の笹町では休みそれから卒塔婆峠を通り大倉に出て草野についてここでは一泊した。とすると相馬から歩いて笹町で休みそれから大倉に出て草野まで来た。この行程は一日だったのだろうか?一日で歩けるものかという問題がある。その前に相馬のどこから出発したのか問題になる。馬ならこのくらいの道は行けたから一日の行程だったのかもしれない、歩くとなると一日では無理だろう。相馬から塩の道では栃窪を通り助けの小屋があったのはやはり一日では越えられないからあそこで泊まることがあったからだろう。とすると馬でも結構な距離になるからこの記録はさらなる検証が必要だろう。いづれにしろ玉野村がこの時はまだ笹町と言われていたことは確かである。

注-これはグ-グルのブック検索の「相馬藩世紀1」に出ていた。



posted by 老鶯 at 15:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年10月06日

南相馬市栃窪村十首(秋から冬) ( 栃窪村の今昔)


南相馬市栃窪村十首(秋から冬) ( 栃窪村の今昔)


春なれど北風寒し栃窪の町より遠し車なければ

栃窪の奥に墓地あり秋の朝静に蝉の鳴く声ひびく

栃窪へ車なければ遠しかな粗末な墓に虫の鳴くかな

栃窪に見るべきものの何かあれ古き碑並べ秋の日暮れぬ

栃窪に古き碑並びあわれかな柳は枯れぬ人も老ゆかな

栃窪に我が知る人も死ににけりともに働きしは役場なるかな

役場という名もなつかしき今はなし南相馬市と変わりけるかな

草枯れて昔の道のその跡に古き碑残る栃窪村かな

真野川を上り栃窪大倉へさらに遠き佐須は淋しも

冬の日に木の葉一枚散りにけりその静けさや人知らぬかも


栃窪で一番古いのは冠嶺(さかみね)神社である。御山神社は葉山信仰だから江戸時代のものだろう。 冠嶺(さかみね)神社は日本武尊(ヤマトタケル)の奥州蝦夷征服の伝説に由来するから古い。その前に浮田国造(くにのみやっこ)が最初に記されているしそこに隣接しているのだから古い地域である。栃窪の特徴は「古碑の村」になっている。御山の入り口に碑があるのが象徴的である。その碑はいつもひっそりと草に埋もれている。その碑には藁に詰められたご飯などが捧げられていた。それから上栃窪の方に上ると道に沿い古い碑が並べられてある。あれはあそこに集めて並べたものであり今ではどこにあったのか良くわからない。古い碑などを一カ所に並べることが結構ある。古い墓を無縁化した墓を一カ所に集めるのとにている。でもどこの場所にあったかわからなくなるのは歴史の保存としてはよくない、場所が大事でありその場所にあって活きるものがあからだ。今でも畑の中に古い碑が並んでいるがそこはかつて道だったのである。いつしか道の役目がなくなり碑だけがここが道だったことを示しているのだ。

郷土史研究の基礎は村の新旧を知ることである。八沢浦とかはじめて来る人は古い村と思うかもしれない、上萱などは山の上に孤立してあるし塩の道沿いにあるから古いと思うかもしれないがあれは戦後開拓に入って作られた村だから新しいのである。遠くから来た人は明らかに古い村と錯覚するだろう。外から来た人にはどこがその市町村で古い場所かわかりにくい、城などがあれば目印になりわかりやいのだが何もないとわかりにくいのだ。神社の由来も新旧の目安となる。冠嶺(さかみね)神社の由来を知れば古いとわかる。浮田が鹿島区で一番早く開けた地域である。その次に栃窪も古いのである。栃窪の特徴はやはり「古碑の村」である。金比羅の碑が多いからここから金比羅参りに行き箸蔵寺への道標に奥州栃窪村の人が寄進したとしるからだ。そして鹿島区では実際に栃窪村に一番金比羅の碑が多いのである。記録としても金比羅参りした人のものが残っている。

役場(ヤクバ)というときこの言葉は死後になっていないが今は南相馬市の支所であり鹿島町であったときの役場という感覚とはかなり違っている。役場とは死語になっていなくてもここではすでになっている。役場とみんなが呼んでいたときそこは町のコミニュティの中心としての役割をになうものとしてあったのだ。姉が保健婦として役場に勤めていたし知人も役場に勤めていたし役場に勤めている人が田舎では多い、役場で書類などをもらう時嫌な目にあったとか事務の対応で素っ気ないとか悪評もあった。じも役場というのがなくなってみると何かなつかしくなる。


人間はその時感じなくても一旦なくなってしまうとひとしおなつかしくなるのだ。言葉も死語になった言葉が多いがその言葉のなかにはそうした生活の中で生まれた言葉だった。それが生活が変わり喪失したのである。言葉のもっている実感が喪失してしまったのである。

栃窪村も変わる、あそこに常磐高速道路ができてその下のトンネルをくぐって栃窪村に入る感覚は相当今までとは違っている。何か違和感があり素朴な栃窪村も変貌した。入り口に古い碑が草に埋もれてある感覚とは違ってしまった。常磐高速道路ができればかなりまたこの辺も変容する。高速道路の無料化はその変化に拍車をかける。恐れるのは常磐線が消失するのではないかという危惧である。なぜなら高速道路で仙台まで一時間とかなると鉄道を利用しなくなる。車のない人も高速バスを利用するようになる。すでに東京まで高速バスが原町から出ていることでもわかる。高速道路無料化は鉄道に痛手でありJRは政府に抗議しているのもわかる。常磐高速道路の影響も相当に大きい、交通体系を変えてしまうほどに大きいものとなるかもしれない、火力発電所ができたときも大きな変化だった。ここも環境破壊だったがあそこで地元の働き場になっている。一般の人は環境に考慮しない、小高と浪江辺りに原子力発電所できれば景気よくなるとか建築土木関係の業者は言っている。仕事がない不況の昨今、環境より仕事なのである、収入なのである。環境にやさしいのは鉄道のはずだがますます車を使うとなると鳩山首相の環境政策優先など実行できるのか疑問である。

人間は本当にそれぞれ住んでいる土地のことをわかっているかというとき今はわかっていない、時間と距離の感覚があまりにも違ってしまったからだ。車をもっているものともっていないものとのその土地を認識する感覚がかなり違っているのだ。車をもたないものにとって栃窪すら遠い地域になる。これが自転車もない荷車の時代だったらさらにそうである。栃窪は鹿島区では一番遠い場所になるのだ。その遠さの感覚から詩が生まれる。栃窪にも奥があり墓地がありここに秋の蝉の鳴く声がひびいている。栃窪の奥は本当に奥になるのだ。車だとこういう意識は生まれてこない、芭蕉にしても新幹線で平泉に来たなら「奥の細道」は生まれない、つまり車では奥の意識がなくなるのだ。一気に早く到達しすぎるからである。今の時代そんな悠長なことでは生活できないとか言われるのはわかっているがしかし車をもたない生活の方がとてつもなく長い、それが車なしでは生きていけないとまでなった。その変化は政治の変化より余りにも大きいものであり根本的に社会を変えてしまったのである。

栃窪村の金比羅の碑
http://www.musubu.jp/tochikubo.htm


posted by 老鶯 at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年08月10日

お盆の風習の相違(鹿島区では提灯を表に飾らない・・・?)

お盆の風習は地域で違っている。小高の人がしきりに死者を迎えるために灯明を提灯を表に二つ下げねばならないと言う、その明かりを目印しに死者がやってくるからだという、それもそうかと理屈的にわかる。 ところが鹿島区ではお盆でも玄関とかに提灯は飾らないという、鹿島区は簡素だからしないというのも不思議だった。小高は盛大にお盆のお祭りをするという、また部落ごとに違っているともいう、それにしても死者を迎えるために明かりが必要なことがわかる。だから家の外に提灯が必要だというのも納得する。でも鹿島区では家の中でいいというのも不思議である。どうしてそうなったのかその理由もわからない、仏具屋の人がそう言ったのである。



お盆の場合には鬼灯(ほおづき)と書く方が、その意味に相応しいようです。と言うのは、お盆には迎え火や送り火ということをする場合があります。その場合、13日の夕方には、墓地に行ってご先祖様をお迎えします。予め持参した盆提灯の灯りで先導しながら、ご自宅へと導きます。そして、ご自宅の軒先には高燈籠などを飾っておき、霊が迷わぬよう配慮しておきます。

http://www8.ocn.ne.jp/~ohmybud/jihou2.html

これが一般的である。理屈的にも納得する。鬼灯というのもその赤さからイメ-ジされる。電機がない時代になると余計自然の中でそうしたものに目が向けられた。

それにしても鹿島区ではなぜ死者を導く盆提灯を家の表に飾らないのかなぞである。鹿島では簡素にしているんですよというがどうしてそうなったのか謎である。一般的にはそうなっていない゛盆提灯を表に飾らないことは一般的でないからそこに何か理由があったのか謎である。
お盆の風習は各地でいろいろあり部落ごとにも違っているとなると相当な数の違った祭り方がある。でも実際はお盆の祭りでも忘れられてしまっているのが多くなった。こうした古来からの風習は伝承するのがむずかしくなっている。こういう風習はやはり田舎で残りやすい、都会化すると忘れられてゆく、田舎でも農家の方で残りやすい、祭りの起源は農家に農耕の仕事に由来するものが多いからである。建築関係でも小高から鹿島区に仕事に来る人は少ないのかもしれない、鹿島区であの庭はオレが作ったんだよとか聞いていないからだ。そうでなければ鹿島と関係していれば新盆などに来ていたかもしれないからだ。それにしても鹿島区でのお盆の簡素さはやはり派手にやっていたのでそれを戒めた、そういう取り決めなどをしたからかもしれない、お悔やみを一律いくらとか決めたとか冠婚葬祭の出費が大きいから制限したためにそうなったのかもしれない、本来のお盆だったらそうなるはずがないからだ。
posted by 老鶯 at 21:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年06月14日

姓の移動


私の場合は、ずっと武家であった事や、鎌倉時代から代々言い伝えられてきたので、違う土地から、金鉱発見の密命を国主より受けた御家人の子息として、鉱山技師共に移ってきたことが解っています。鎌倉以前も容易に辿れました。
私の苗字は、住んでいる地では、一族以外ほとんどいません。
しかし、歴史を辿って、近隣を旅するうち、同じ苗字の人が、どんどん増えて、土地によっては
10%ぐらいいたりして、驚きましたよ。



歴史に興味をもつというとき教科書で習うようなもの受験勉強的なものからではない、祖父母の話やら極めて私的なことからはじまる。ここからだけでも小説家なら一遍の小説書けるだろう。
鉱山技師とかは全国を移動する。鉄生産にまつわる話は古代からあり伝説化している。
陸奥の真野郷が知られたのは鉄の生産のためであり鉄の資源を求め移動してきた人たちがいた。それは一団となって移動してきた。その中には渡来人が交じり主導的な役割を果たした。
ただこの話からは一団で集団で移動した人たちではなかったからその姓はその土地では孤立していた。土着した人たちの中で孤立していた。元からその土地に古くある姓と新しい姓の人はたいがい職業と関係している場合がある。職を求めて土地を移動すると姓も移動するからだ。今でも火力発電所とか東京から出張所とか工場ができればもともと土着でない人たちが移動してきて珍しい地元にはない姓の人が入ってくるのである。今は姓はあまりにも多様に混じり合ったから姓から歴史を考えることはむずかしい。ただ江戸時代から土着した家の姓は歴史を調べるには不可欠である。その姓を中核にして村ができてきたということがわかるからだ。


八茎寺と波立寺は閼伽井嶽と並びいわき三薬師に数えられる。八茎寺には古い墓石が多く残されていた。そこには建立者の名が刻まれているのだが、例えばこんな風に書かれている。


「加賀国住人 野村○○/親族一同/子分一同/義兄一同」

http://loveiwaki.cocolog-nifty.com/duketogo/2007/02/post_f57a.html


このように野村というのは加賀から移ってきた人の姓である。でもそのあと野村という姓がつづいていればその土地に土着したことになるがでなければ絶えたことになる。鉱山とか資源を求めて職を変わる人は移動する人は土着しないとその子孫が土地に残りにくいかもしれない、ただ相馬に移住した越中の人たちは農業するために移住したのだから土着したのである。だからその姓も一族の子孫も相馬藩の各地に残っている相馬の墓地に必ず越中などから移った人の墓がありその人たちは真宗だから法名であり南無阿弥陀仏が墓石に刻まれる。相馬では相馬氏系統の姓が一番多いのは当然だがその前にも鹿島区などでは霊山落城のおり逃れてきて桑折氏などの姓がある。これはだから相馬氏より古いのである。姓の分類も郷土史研究には必要である。

南北朝時代- 桑折
岩松-廃絶
相馬氏系統
江戸時代- 越中加賀などの移民系統


これらは相馬藩で姓が明確である。記録に残っているからである。


posted by 老鶯 at 19:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年05月04日

春の短歌十首(津島から葛尾、三春、飯館へ・・)

tutushimama123.jpg


春光やかなたは三春道分る


津島より飯館遠きこの道を幾度か我が行きにしも淋しかりけり

浪江より津島は遠き春の日や三春へ通ず道を望みぬ

春日さし三春の方に心向く浪江の海より津島は遠しも

浪江より津島の遠き墓所のあり春の日静か誰か眠らむ

下冷田越えて津島や春の日に二本松へバスにのるかな

津島より二本松へ遠きかな乗る人まれに蛙鳴くかな

津島より葛尾に入る道遠し廃屋一軒残るもあわれ

津島には何かありなむ弁慶石一つ残りて春の日暮れぬ

三春より津島に来る人見れば老いたる人や桜咲きにき

津島にも新しき店開かむや春の鳥鳴き人も来たらむ


●三春の名前の由来




一般的に「梅・桃・桜の花が一度に咲き、三つの春が同時に来るから三春と呼ばれるようになった」と言われています。「三春」ではなく「御春」と表記されています。このため、「ミハル」という読みが先にあり、それに「三つの春」という文字を充てたと考えられます。
 こうしたことから、三春は小高い山がいくつも連なり、そこからは郡山盆地を一望にすることができるため、見張りをする「見張る」から「三春」に変わったのではないかとも考えられます。


三春は春とは関係なかったのか、御春とかいう地名も当て字だったのか、地名は実際は味気ないものが多いからやはり「見張る」から来たのだろう。これなら実用的だからである。

惜春 詞
小野 湖山
1814 〜 1910

芳事茫茫欲問誰
青天碧海枉相思
笙歌一陣遊仙夢
杯酒三春送別詩
辛苦醸花花已老
生成在雨雨應知
年來自覺栄枯理
閲到今朝又却悲

三春==盃春・仲春・李春の三ヶ月
http://marute.co.jp/~hiroaki/kansi_syuu/kansi_syuu-20/sekisyunsi.htm

春にも三つありこれは時期的に三つの春があるから三春とした。三春は梅・桃・桜の花が一度に咲くからとなっている。いづれにしろ今頃の季節、春は一番いい時である。


相馬より三春に城や春惜しむ



三春は相馬にとっては境を接してかなり身近な所だった。三春藩から相馬藩へ相馬藩から三春藩へと交流があった。三春藩へは相馬藩の姫も嫁いでいるからだ。相馬藩と三春藩との交流の歴史も研究テ-マとなる。


●津島は四方に通じる道の要所



津島は最初は標葉氏に属していたから継続として浪江であった。三春にも属していたこともあり最後に相馬藩に属し山中郷の一部となった。津島は葛尾村に通じ三春へ通じ二本松へ通じ飯館村へ通じる要所である。この辺は何回も自転車で行ったから実感する。二本松へのバスに乗ったが一時間半以上かかるから二本松は相当遠い、三春は近い、距離的感覚は車だとわかりにくい、車では距離の感覚がなくなる。だから今では移動する人はいても旅している人はいない、自転車で行けば津島は遠いな、ここに墓地があるけど浪江から遠く離れてここに眠っている人は誰なんだろうとかなる。途中冷田などという地名があるのも山の奥ならではの地名になる。寒い所だからそうなる。ここで中国人の妻がいて都会に東京に出たいとナタで夫を襲ったのには驚いた。確かにずいぶん山奥に感じてしまったのだろう。ただ今はみんな車持っているのだから街にはいつでも出れる。東京に憧れるような女性ではあまりにも違っていたとなる。ここに弁慶石とかあるのはやはり三春の方から伝わってきたのでありそれから浪江の方に伝説は伝わっていった。弁慶橋とか二つ浪江に行く方にあったからだ。津島はこのうよに四方に通じている道の要所なのである。
posted by 老鶯 at 20:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年04月15日

南相馬市原町区片倉村の謎

南相馬市原町区片倉村の謎

mapootajin12345.jpg


平将門の血を引くと言われる、奥州相馬氏の誕生は鎌倉北条氏(長崎氏)に圧迫を受け、茨城県下総地方から奥州(福島県相馬地方)に下向したので有る。元亨3年(1323年)頃かと思われ、当主は相馬重胤の時代で有った。奥州相馬家ではこの重胤を初代としている。

重胤が下向した道程は、茨城県下総地方(千葉県を含む)から白河口に向かい、ここから阿武隈高地の標葉(シネハ)の津島に出て、鉄山(現南相馬市)から太田川の上流に有る横川に沿って、片倉の八重米坂に着いたと言われる。

yaekomemesaka.jpg

この時すでに八重米坂とういのはあった。片倉という地名もありのちに片倉村となった。もちろん太田という地名もあった。八重米の意味は米の種類というのではなく八重に重なる米の意味で米がたわわに実る場だったという意味かもしれない、米の種類を地名にすることには無理がある。この辺りは山であるから田を作るのに適していた。山を背にして日当たりのいい場所が米作りに適している。だから日本で最初に田が作られたのは県(あがた)なのである。この辺りが最初に田んぼが作られたところであるからこの地名がついた。片倉というところに社があるが妙見である。片倉というのは伊達政宗の重臣の片倉氏に由来するのか、その頃伊達氏が勢力をもっていたから片倉氏がこの辺を支配していて片倉になったのかわからない、ただ小浜城の脇に片倉と地名があるのは片倉氏と関係しているかもしれない、片倉は他にもあるからよくわからない、ここでわかったているのは

obamaa12.JPG

重胤は妙見、塩釜、鷲宮の三社を同じ神輿に乗せ、人目を避け・・・それは逃亡の旅でもありました。久慈川を遡り、三春、葛尾を経て行方郡に入り、太田川沿いに現在の原町市片倉に辿り着きます。ここで、太田村別所(現在の太田神社)の館の住人三浦左近国清と館の明け渡しの交渉を行い、ここに、ようやく安住の地を得ました。そして捧持してきた妙見尊を館の内に仮宮を建てて祀りました。

shiogamamama1.JPG

ここから上太田石積に住む「太田兵衛」に迎えられ、一時その屋敷に滞在し、さらに東数町の別所の館に住む「三浦左近」から館の提供を受けて移り、それより四年後の嘉歴元年(1326年)に小高町舘内(現南相馬市小高区小高神社)に移ったと言われる



太田には塩釜神社があり鷲宮がありここに遷された神社である。三浦近国という人も実在の人物である。案内した太田兵衛も太田に住んでいた実在の人物である。 太田地区、片倉村の発展は八重米坂からはじまり下におりてきた。山側から広がっている地域は湿地帯になっていることが多い。山沿いに沿って家があるのはそのためである。神社も山側にある。

この片倉村でもう一つ注目したのが墓地に渡辺氏の墓が三つあった。これは分家してそうなった。墓がやたら増えたのは分家してそうなった。渡辺氏はここでは元は一つだったが分家した。村の中心には最初姓を同じくするものが住んだ。いわきの末続村では新妻氏であり栃窪村は大谷氏など村にはある一族が住みその姓を同じくする。葛尾村は三分の一が松本氏である。この村は渡辺氏である。それを証明していたのが旗印だった。

野馬追いの旗印をもっている武家は古い、その村の草分けなのである。いづれにしろ太田地域は最初に相馬氏が入ってきた地域であり太田神社は一番古い、次に小高神社であり城も小高にあった。小高から海側の村上城に移り中村に移り今の相馬市の城ができた。相馬藩内でもどこが古いかが問題になるのだ。相馬氏がこの地を支配する順序なら太田地域が一番古いとなる。その前に鹿島区の岩松氏がいたから相馬氏が一番古いわけではない、相馬氏の歴史としてみると太田地域が最初に相馬氏が土着した地域だから古いとなる。つまり郷土史は常に新旧をみるのが基本なのである。

この墓地には他に江戸時代の供養碑があるからこれは飢饉の供養碑だろう。供養とあれば飢饉の供養が多い。村の歴史を見るとき必ず墓地を見るとわかりやすい、墓地は必ずみるべきである。


watanabee1232.jpg


kuyouuutou123.jpg
posted by 老鶯 at 00:05| Comment(14) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年03月29日

いわきの姓と相馬氏の姓

●日本人の姓はその土地や村の名に由来している

日本人の姓と外国人の姓は違う、中国とか韓国とかヨ-ロッパでも属人主義であり属地主義ではない、血統を重んじるのが外国である。日本人は住んだ土地に属するから血統主義ではない、姓の基は必ずある土地の名、地名であり村の名である。中国とか韓国では姓によって系統がわかり派閥を形成する。姓の名が国の名でもあったりする。韓国でも姓が重んじられて未だに結婚さえ姓を重視して行われている。一族意識が非常に強い。国の名というとき李とか朴とか日本で名乗っていればその人は在日であり韓国の一人だということを宣言している。国は韓国だよという意志を示しているのだ。日本人の姓にするとそれは不明となる。姓とは国の名であっても不思議ではないことがこれでもわかる。日本だと姓による一族意識よりその土地に根ざした村意識が強いのである。だから養子という制度が行われたのは血統にこだわらない、家業を優秀な人に受け継がせるものであった。相馬氏というのも確かに移住してきたのだがそもそも相馬市となったのは最近のことである。相馬市はもともと中村市だった。中村は昔からありだから相馬氏であってもその土地の名の中村を名乗るようになった。この名づけ方は日本では一般的である。だから相馬氏だからといって村の名前に相馬や相馬一族の姓が村の名前となることはない、相馬地域でも小高の村上というのが姓であるが南朝時代の北畠系統のものでありその他別に相馬氏一族のものでも村の名となることはない、黒木とあれば黒木氏があったとしてももともと黒木という地名があり黒木氏になったのだ。一般的に公式的には日本の姓の名づけ方は土地に由来している。相馬氏が移住して支配したからといって地名はもともとあったものでありかえって相馬氏でもその土地の名、村の名を姓としている。相馬氏でも中村に住めば中村氏と名乗ることになる。

●いわきの村の名前に一部姓を用いたもの

寛永2年(1625年)に記された『岩城貞隆浅草御浪人中随身諸士名元覚』には、浅草浪人中の貞隆に随従した家臣・四十二士の名がある。

好間兵部大輔、佐久間総右衛門、大館帯刀、高橋五郎右衛門、大塚内蔵頭、鵜沼主馬、服部監物、新妻久左衛門、中山采女、佐藤右近、加瀬太郎兵衛、古宇田新助、秋山采女、中山主殿、八嶋宮内、諸橋玄蕃、大館備前、駒木根茂兵衛、志賀八左衛門、小泉九郎左衛門、四倉下野、富岡伝七、白土孫七、鵜沼図書、白石又右衛門、大須賀織部、斎藤兵左衛門、長谷左門、三浦七兵衛

この中に四倉下野、富岡伝七とあり四倉の隣が富岡町であるから四倉がここから生まれたのか、姓を基にしている。四倉氏が移り四倉となった。小泉も小泉村があるからそうなる。いわきには一部に姓を村の名としているところがある。 大館とか白石も市の名としてあるからここから起こったのだろうか?

四倉下野⇒四倉町 富岡伝七⇒富岡町 白石又右衛門⇒白石市、大館帯刀⇒大館市 秋山采女⇒秋山村

四倉と富岡はこの姓に由来しているのだろう。その他に由来を考えることができないからだ。その他は地名化するにはいろいろあるから判定はむずかしい。

秋田久保田藩(藩主:佐竹氏)の藩士に四倉家という家があります。この家も千葉氏の流れをくんでいるようです。関が原の戦い以後、岩城氏は佐竹氏とともに秋田へ移っていったことがありますので、窪田藩四倉一族となにかご関係があるのかもしれませんね。

四倉は単純に四つの倉がある町だと思ってしまうが姓が基になっている。その他いわきには平安末期に岩城氏の所領となり東庄と西庄に鯨岡、国魂村とかありこれらは氏族名である。
末続も姓としか考えられないがその由来は不明である。ただ須江(末)一族は有力な氏族でありやはり末という姓を基にして末続となったとしか考えられないのだ。

●新妻氏と千葉氏

新妻氏と千葉氏は一体であった。もともと千葉氏から新妻氏や相馬氏から出たのだからそうなる。

寛永年間にこの地に移り住んだと伝えられる新妻胤重(にいづまたねしげ)といい、新妻家の祖である。かつては伊達政宗に仕え、のちに栗原郡岩ヶ崎において正宗の五男宗信(むねのぶ)の補弼役(ほひつやく)を務めたと言われている。墓地は川の右岸にあり、極めて小規模な段丘面に位置していた。新妻家墓地は、市道七北田−国見線の新設工事に先立って、昭和59年(1984)に改葬が行われた。墓石には埋葬の年月日や戒名が刻まれており、最も古いものが寛文10年(1670)に、最も新しいものが明治12年(1879)に埋葬されたことがわかる。29基の墓のうち、新妻家の墓は15基、新妻家とは直接関連性は無く、武士と考えられる千葉家の墓が6基、名字は無く名前だけのもので武士では無いと考えられる墓が4基、不明な墓が4基である。当初は新妻家の墓地であったものが、千葉家などの墓地としても利用され、3系統以上の被葬者群が想定される。

(仙台市の遺跡)

http://www.city.sendai.jp/kyouiku/
bunkazai/iseki/k0000000091.html

新妻家は相馬氏にも一人旗印をもっている者がいたが姓としては少ない、伊達氏の方に多く移住したからそこに新妻家の墓地が残っていた。そこに千葉姓のものがありのちに千葉氏の一族のものの墓地となったのもそのためである。末続村の古峰神社の寄進した名には千葉氏は一人しか記されていないが新妻氏と千葉氏は一体であったことがこれでもわかる。

末続の旧名主の家の人で、相馬藩の参勤交代のときは殿様が泊まったとか、もと新妻家だったのが千葉姓と「常」とか「胤」にちなむ名前をもらったとか興味深い話を聞かせていただいた。相馬藩は千葉氏が千葉から分かれてきた。先祖は鎌倉武将千葉常胤に遡る。

この話もあとから作られたのかもしれない、史実と関係なく作られる話も結構あるからだ。地名の由来の話にもあとからこじつけられた話が多いからだ。別に相馬藩と関係しなくても新妻氏と千葉氏は一体だからこうなったのである。その証拠が 仙台から出た新妻家の墓地だった。相馬氏と関係なく新妻氏と千葉氏は一体であり末続村の新妻氏は岩城氏に仕えていたし岩城氏は平安末期がらいわき地方に所領をもっていた。千葉氏もそのなかに入っていた。相馬氏は千葉氏から別れた一族であり岩城氏のあとに相馬氏が勢力を伸ばしてきたのである。相馬氏は新興勢力だったのである。相馬氏には千葉氏の姓がないのもそのためなのかもしれない、千葉氏から相馬氏が出たとしても千葉氏の旗印を用いるとしても千葉氏とは袂を分かったから千葉氏の姓がその後相馬氏の中の武家名鑑に出てこないのかもしれない、・・・・

posted by 老鶯 at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年03月24日

標葉郷(浪江)-末森村の謎


標葉郷(浪江)-末森村の謎

 

御棚町(おたなちょう)

 古くは「御棚妻」といいました。末森城主の奥方を「御棚の方」と呼んだからという説と、陶器を乾かす棚を「御棚」といったからという説があります。

末盛通(すえもりとおり)

 江戸時代には末森村と呼ばれていました。陶(すえ)・末は、古代の部民である陶器製造に従事した人々の地名に多く、「陶器を生産する森」であったと解釈してよさそうです。ちなみに、東山一帯は、陶業の発祥地です。

信秀殿は古渡の城を破却し、末盛@という地に築城して居城としていた。
今日は弘治2年8月23日です。この末森の城は、9年前の天文16年(1547)、信長の父である織田信秀が築いた城です。

 尾張町は加賀藩祖前田利家が出身地の尾張から町人を呼び寄せ、ここに住まわせたことに始まる 能登の境にあった末森城の戦いは有名

末森村が浪江(標葉郷)にあった。末森村をキ-ワ-ドで調べると尾張が元になっている。末森は末盛が基である。信長の家臣の前田家が加賀に移り尾張町が生まれた。末森という名もその時尾張からもたらされたのか、地名は人ともに移動するからだ。浪江に末森村があり棚塩村がある。棚塩村というのはキ-ワ-ドでひいても他にないめずらしいものである。この地名がいかにして発想されできたのかとなると

尾張(名古屋)御棚町(おたなちょう)がある。古くは「御棚妻」といいました。末森城主の奥方を「御棚の方」と呼んだからという説と、陶器を乾かす棚を「御棚」といったからという説があります。

どちらにしろ棚という字を使っている。それは棚塩と結びつく。今でも陶器は棚に並べているから棚と関係している。不思議なのは末森と大堀は近接している。するとやはり末は陶であり陶器生産と関係していたのか、地名は人とともに移動する。末森村が渡辺氏二人が野馬追い旗帳に記されている。棚塩村にも一人記されている。渡辺氏が深くかかわっていた。その渡辺氏は尾張から出た渡辺氏となる。その経路は千葉氏や相馬氏とのかかわりにあった。ただ末森村というのをキ-ワ-ドでひいたかぎりでは尾張(名古屋)にしかなく棚塩という地名もほかにないのだ。これらが二つセットで尾張からもたらされたものなのだろうか?棚塩とあるのは海に近いからかもしれないがなぜ棚とついたのか不思議である。尾張から移った人が尾張で棚というのを使っていて棚塩と命名したのだろうか?ともかく末続にしろ末森にしろこれは陶でありその土地に陶器生産のための土を求めた人がその名をつけたのかもしれない、ただ別に末とあっても陶器生産とは関係ないのも多い、石崎氏が須江(末)の村と名づけたのはやはり陶器を作る村という意味があったのかもしれない、単に須江氏の移動だったかもしれないからどうともいえない、いづれにしろ地名は人とともに移動している。相馬に尾張屋敷などがあるがこれは相馬の移民のとき移って来たものだろう。でもその前に尾張からの人の移動がありそこに移った人が故郷の地名を名づけたのかもしれない、複雑なのは千葉氏-相馬氏と経由しているからわかりにくいのだ。その間に時間の経過があるから末が陶と関係なくなっているのが多いから謎である。ただ末続も末森も共通性があるのか、共通性があるとしたら末-陶であり陶器生産の関係となる。その他相馬の末氏が関係してなったのか、末の謎は深いとなる。

 

watasui12.jpg

 

 

watanabetana12.jpg

 

 

posted by 老鶯 at 14:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年03月21日

末続村の謎(2)-相馬氏にも末(須江)氏がいた

●「奥州相馬氏の誕生」  
平将門の血を引くと言われる、奥州相馬氏の誕生は鎌倉北条氏(長崎氏)に圧迫を受け、茨城県下総地方から奥州(福島県相馬地方)に下向したので有る。元亨3年(1323年)頃かと思われ、当主は相馬重胤の時代で有った。奥州相馬家ではこの重胤を初代としている。

重胤が下向した道程は、茨城県下総地方(千葉県を含む)から白河口に向かい、ここから阿武隈高地の標葉(シネハ)の津島に出て、鉄山(現南相馬市)から太田川の上流に有る横川に沿って、片倉の八重米坂に着いたと言われる。

この経路は義経伝説がある場所であり津島に弁慶石があり浪江に出る方に弁慶橋が二つくらいある。八重米とは八重原米に由来するものか?米の品種なことは間違いない、その米は特別なものだから目立つから地名化したのだろうか、四重麦という地名が丸森にあるからこれともにているのかもしれない、長野県東御市八重原地区の「隠し田」で作られたコシヒカリです。八重原米というのは昔からあったからもともと八重原で作られたからその土地の名がついたともとれる。

ここから上太田石積に住む「太田兵衛」に迎えられ、一時その屋敷に滞在し、さらに東数町の別所の館に住む「三浦左近」から館の提供を受けて移り、それより四年後の嘉歴元年(1326年)に小高町舘内(現南相馬市小高区小高神社)に移ったと言われる。

上太田石積という地名は相馬氏が来る前からあった。その太田の地名をとって「太田兵衛」が住んでいたのである。

始めて踏んだ太田の地には下総地方から奉じてきた「妙見神社」、「塩釜宮」、「日鷺宮」の三宮を祀り安じた言われる。

下総から従って来た者は主従13騎と言われ、相馬重胤を始め、門馬(文間)氏、木幡氏、青田氏、須江氏、西山氏、増尾氏、立野氏等で有った様です。また下総の岡村(旧藤代町)からは百姓八戸が移り住み、正月には相馬家の門に門松や注連縄を飾る事を任務にしていたと言う。

武家だけではない、百姓も移住してきて相馬家に仕えていたのだ。

●相馬氏の須江氏
須江氏も全国で5百軒もない珍しい姓氏です。
福島でも、伊南と相馬(小高・原町)の二ヶ所のみです。他は、関東と長野の佐久、岡山の津山に集中しています。戦国時代の奥会津に須江氏の姓名はみえませんが、山内氏に従って奥会津にはいった諏訪氏は後、諏佐氏、須佐氏を名乗っています。須江氏も山ノ内氏滅亡後、諏江氏からの転化も十分考えられると思います。


芦名家臣- 須江氏

(参考文献:戦国大名葛西氏家臣団事典 紫桃正隆著(宝文堂))
 深谷石崎氏は、磐井郡長坂城(東山町)七代当主の千葉日向守胤重の二男千葉胤清(勘解由)が、応永二六年(1419)桃生郡深谷に分地して、糠塚館に居住したとき、母方の姓の石崎を名乗ったことに始まる。胤清の母は京都聖護院石崎右衛門尉源清長の娘である。石崎氏の家紋は三ツわらび、氏神は貴船神社とある。石崎氏は勘解由を世襲名としたようである。姓氏家系大辞典にも、「陸前の石崎氏 封内記に須江邑古壘、古昔石崎勘解由左衛門なる者居る所」なる記事があるがこれと符合する。


千葉氏系統に石崎氏がいた。 陸奥国岩崎郡は常陸と陸奥の境目にあり重要な地域だった。

いわきの歴史年表

鎌倉時代
(建長七)(1255) 大須賀氏、小久に龍光禅寺を開基す
弘安9(1286)岩崎氏一族、熊野参拝
文保(1318)奥州岩崎郡長谷寺木造一一面観音立像造立


新妻氏が大須賀氏の出自かはわかららないのですが、仙台藩の家中にあった新妻氏は、下総国匝瑳郡を発祥とする匝瑳氏(千葉介常胤の叔父・常広を祖とします)の子孫と伝わっています。岩城のほうに移住していますので、大須賀氏とともに下総から移っていったのかもしれないですね。

鎌倉時代に大須賀氏、新妻氏、それから岩崎氏が関係して須江邑がその関係で生まれたように末は鎌倉時代にさかのぼる。須江氏は会津にも分布しているし宮城県にも須江邑として地名化しているから須江はわかるが須江⇒末⇒末続となるのかどうかこの辺がわかりにくいのだ。ただ姓の系統をたどってゆくとこの須江が末続に通じてゆくのが有力になるのだ。

千葉一族。須江時胤は相馬重胤に従って奥州に下向、相馬四天王の一家となる。中村藩政内では「末」とも称した。

―須江氏略系図―

→須江時胤…胤遠―――秀正――+―杢之進
(備中守)(山城守)(新十郎)|
               +―雲====九郎兵衛―――三郎兵衛
                (新大夫)(木幡家より)


◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』

名前 身分 石高 住居
須江三郎兵衛 大身 100石 鷹巣町
◎安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』

名前 身分 石高 住居
末 八郎左衛門 給人 15石 行方郡中郷高村
末 庄右衛門 給人 8石 行方郡中郷南新田村
末 任市 給人 8石 行方郡中郷南新田村
末 三五郎 給人 5石 行方郡小高郷小高村(のち上根沢村)


ここでは須江が末となっているから末続となっても不思議ではない、末氏は集中的に存在していたことは末氏の勢力が大きかった。この末は須江氏でありそれが末になった。中郷には新妻氏が末続村から移住して旗印が記されている。二宮仕法で有名な高田高慶は45歳になって藩公のお声かがりで継室を迎えた。新夫人はサイといい中村藩士須江氏の娘だった。須江氏は江戸後期まで有力な武家として存続していたのである。これらの資料から推測するとどうしも相馬氏系統の末氏がかかわり末続という名が生まれ末続村となった。

●相馬氏にない石崎の姓

須江氏をたどると石崎氏の系統から「陸前の石崎氏 封内記に須江邑古壘」これが一番古いのだ。石崎氏がいわきに入ったのは鎌倉時代だからである。相馬氏内には石崎という武家の姓はない、岩崎はあるがこれとは違っている。古さをとれば石崎氏から須江(末)という名が入り末続となった。新妻氏が入った時、末続村という名はあった。相馬氏には確かに末氏というのがあり末氏一族が分布した。中郷(原町区)に集中的に存在した。これは鎌倉時代ではない、
地名は古いからより古い方が地名の基となったとするのが無難である。 相馬藩の領地争いで抵抗したのは新妻氏であり青田氏などはかかわったが末氏がかかわったとは史実にはない、ただ末と末続は何らか関係しているので無視することはできない、末続館の由来がわかれば何か解決するヒントがでてくるかもしれない、それが相馬藩のものだったのか岩城方の館だったのかそれがポイントである。末続村から出た根本氏は標葉郷の小入野村と夫沢村に在地化して根を張り相馬藩の城下士となった。もともとは末続村から出た子孫だったのである。氏姓を研究するときある地域にない姓というのが意外と大事なのである。現代は明治以降は姓は混交してわかりにくい、でも江戸時代の姓を基本にして研究すると石崎の姓がないことは石崎という一族は相馬氏の一族内に入って来なかったことを証明している。岩松氏というのも家臣の反逆でその姓がたたれたことは歴史の厳粛な事実であり今もつづいている。鹿島区内に岩松の姓はないし相馬地方にないのである。

正平二三年1368 奥州中村城主(一説では石崎城主)の中村弾正忠 通行は北畠顕家に随行後、豫州能島へ下向し、河野氏に属す。中村氏の子孫が石崎氏を名乗る。
天正十八年 1590 石崎氏が出たとされる常陸大掾一族は、佐竹義重に天正十八年ことごとく攻め滅ぼされた。
天正十九年 1591 石崎次郎左エ門幹継のとき、茨城より栃木県芳賀郡天子村に来住し、下野の石崎の祖と一つとなった。
慶長八年 1603 内藤家分限帳に石崎半左衛門200石が見える。
寛文十一年 1671 内藤家磐城に入封、寛文十一年(1671)分限帳には、石崎半左衛門300石が見える。
宝永元年 1703 石崎氏、仙台より宇和島に移住、宇和島の石崎の祖か。

石崎氏は相馬氏には仕えず伊達家に仕えた。陸前の「陸前の石崎氏 封内記に須江邑古壘」とは宮城県である。

正平二三年 1368 奥州中村城主(一説では石崎城主)の中村弾正忠通行は北畠顕家に随行後、豫州能島へ下向し、河野氏に属す。中村氏の子孫が石崎氏を名乗る)

これが不思議である。中村城主が石崎城主だったとなるとやはり石崎氏も関係していたのか?ただ相馬氏には石崎姓は見当たらない、ただ石崎姓はこれでわかるように古くから奥州にかかわっていたのだ。


suiishi222.jpg
posted by 老鶯 at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年03月19日

常磐線-末続駅の謎(新妻氏一族の村だった)

suetugu_2.jpg
常磐線-末続駅の謎(新妻氏一族の村だった)

●末続の謎は深い
築城前の亀田山には、極楽寺、須衛都久(すえつぐ)社、稲荷神社、荒神などの社寺があり、山上・山腹・山麓には農民や漁民の家がありましたが、これらはすべてよそへ移されました。末次郷といったこの周辺は民家が点在し、田畑や沼沢が広がる一帯でしたし、南の白潟には人家がありませんでした。しかし、末次の地は『出雲国風土記』に須衛都久社のあるところと記してあり、古くから開けていた地域でした。中世には末次荘や末次保があり、守護佐々木氏の一族に末次氏がおり、この一帯がその所領であったと思われます。
上石川朝臣橋継を遣唐使船修理長官とす。筑前の守従五位の下小野朝臣末継並びに遣唐判官従五位の下長峯宿祢高名は次官となす。
黒田氏は鎌倉末に近江の名族佐々木氏の流れを汲む京極宗満が近江国伊香郡黒田村に拠って「黒田」を名乗ったのがはじまりと言われ、室町後期の高政に至って将軍足利義稙の怒りを買い、前述の備前福岡に移ったとされています。ですから「黒田氏の発祥」ということになると近江になる訳ですが、備前に移るまでの二百年間のことはよくわかっておらず、長政にとって「父祖の地」と言えるのが「福岡」だったということかもしれません。

(1415―76)

琉球(りゅうきゅう)王国の第二尚氏王朝の開祖。金丸(かなまる)ともいい、神号を金丸按司添末続之王仁子(あんじそえすえつぎのおうにせ)と称した。伊是名(いぜな)島の百姓の出と伝わるが詳しい経歴は不明。
『千葉大系図』によれば「故あって肥前国から近江国に移り住み、天文7(1538)年、守護・佐々木氏の扶助を受けた」とあるが、

近江の国の守護を鎌倉時代以来相伝してきた有力御家人・佐々木氏の本家であり(分家が近江半国守護を相伝する守護大名・六角氏である)、足利氏からみれば外様である
末次という名は出雲から発しているから古い、古代に末次郷があったことでもわかる。末次は須恵であり陶であり須恵器を作ることから発した、渡来系の名から起こっている。末高、末野とかも須恵、陶から波及したのである。その末次は佐々木氏と関係してくる。ササキも渡来系の名だとある。これが近江に進出してそこから中国や九州に波及した。だから末続という姓は九州に多く子孫が繁栄した。 末続でなくて末次だと調べやすいし末続は調べにくい、中国、九州に一族は散らばった。福岡の末継という地名も同じ系統だろう。末次氏が地名化したと同じである。近江から波及してここに千葉氏がかかわり佐々木氏から末次氏もかかわり千葉氏と相馬氏は同族であるから末続は相馬氏からもたらされたのかもしれない、末続館というのがここの地名の基となったと思われるからである。ただこれは全く違っているかもしれない、小高の海側の南北朝時代の貴布根神社がある村上氏に由来する館がありそこの地名は村上だから氏族名が地名化することはある。相馬も相馬氏の氏族名だし千葉県も千葉氏である。なぜ相馬野馬追いの旗があれほど多様で多いのかというと千葉氏一族から相馬氏が出た同族だとすると千葉氏系統の武将が相当入っている。すると近江と深く関係してその旗は全国規模の旗印になっているためである。
●末続は新妻氏一族の村


niiituma12343.jpg


新妻氏が大須賀氏の出自かはわかららないのですが、仙台藩の家中にあった新妻氏は、下総国匝瑳郡を発祥とする匝瑳氏(千葉介常胤の叔父・常広を祖とします)の子孫と伝わっています。岩城のほうに移住していますので、大須賀氏とともに下総から移っていったのかもしれないですね。
相馬顕胤は大永5(1525)年8月、久浜(双葉郡広野町久浜)、四倉(広野町四倉)を攻略。続いて仁井田城(広野町上仁井田)に攻め寄せたものの、城代・新妻氏の好守になかなか攻め落とせず、義弟の西右衛門尉胤次が討死を遂げた。この苦戦に、顕胤は手勢を迂回させて岩城氏のもっとも重要な拠点のひとつ、白土城(いわき市南白土)に攻めよせた。さすがに岩城氏の抵抗は激しく、相馬家大将の一人・青田孫四郎常義(新山城主)が討死をするほどの激戦だった。
ここで相馬氏と岩城が領地争いがありもともと岩城氏に属していた新妻氏があとで相馬氏に組み入れられたのかもしれない、城代・新妻氏の好守になかなか攻め落とせず・・・とあるのはその時から新妻一族がここに根付いていたのである。その継続として末続に新妻一族がある。ここの墓地を見たらほとんど新妻の姓だった、9割は新妻氏だった。古峰の碑に寄進した名前が彫られているがこれも新妻氏であり鯨岡とかもある。鯨岡は岩城氏から入ってきた。相馬ではなじみがないからだ。また千葉の姓が一つありこれは相馬氏系統から入ってきた。

末続の旧名主の家の人で、相馬藩の参勤交代のときは殿様が泊まったとか、もと新妻家だったのが千葉姓と「常」とか「胤」にちなむ名前をもらったとか興味深い話を聞かせていただいた。相馬藩は千葉氏が千葉から分かれてきた。先祖は鎌倉武将千葉常胤に遡る。

http://hyakkaido.travel.coocan.jp/
iwakisoumakaidou9hisanohamatatuta.htm

という話が伝えられているとかその真意はわからないがこういう村では姓は変わらない、よそから入ってくる人は少ないからだ。鹿島区の栃窪村なども大谷(おおがい)姓が代々継がれて多い、葛尾村でも三分の一は松本氏であり由来も明確である。だから岩城氏の配下にあった新妻氏が相馬氏との領地争いでもともと新妻であったものが千葉氏の姓に変えた。その証拠が古峰の碑の寄進した名に一人千葉氏の姓が記されていたからだ。

furumiyukk1.jpg


●岩城氏、(末続村)新妻氏、根本氏は相馬氏の旗下へ入る
標葉郷-熊村,熊川村,夫沢村,小良浜村,小入野村
陸前浜街道で宿駅として末続駅があり次が久之浜駅だから常磐線でもこれを継承して駅となっている。末続村で岩城氏と相馬氏が争ったことは史実として確認されている。その後岩城氏の一部も相馬氏に仕えることになる。だから岩城氏の旗印も記されているし末続村の新妻氏も中ノ郷の旗印にある。それから根本氏は標葉郷の大熊の小入野村に三者記されている。小入野村の近くの夫沢村にも根本氏の旗印が記されている。 そして古峰の碑に寄進した姓の中に根本氏も二人ほど記されていた。根本氏ももともと岩城氏の一族であり相馬氏と戦い相馬氏に仕えるようになった。こういうことは戦国時代はよくあったしだから野馬追いの旗にはいろいろな氏族の系統が混じっているのだ。新妻氏と根本氏は領地争いの境界にありあとで相馬氏側に組み入れられたのである。だから根本氏は小入野村と夫沢村に一末続村より一族として移動したのである。境界には歴史が凝集して残されているから境界の研究は歴史を解きあかす鍵となる。それが末続村にあった。
nemotosoma1.jpg
suiniisei1.jpg



koirinofu.jpg
posted by 老鶯 at 22:58| Comment(8) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年03月18日

福島県陸前浜街道の自然と歴史をたどる

suetuguu1.jpg

●文化は多様性(文化は細部にあり)
自然も多様なように人間の歴史の積み重ねも実際は多様なのである。文化とは多様性のことである。江戸時代まで隣の村と民情が異なるから村が合併するのはむずかしいとしきりに言われるのは日本では山一つ越えると言葉まで微妙に違ってくる。文化はまず地域に根ざすから単一化できないのだ。文明が発達したとき汽車が電車が車が交通手段になったとき、多様な自然と文化が歴史が単一なものとして平板化した。日本の地貌は複雑であり地名も多様なのはそのためである。それが一様に見えるようになったのは交通手段の発達によるのだ。新幹線で東京まで行ってもそこで自然の変化や土地土地の文化にふれることはない、ただ人間が移動しているだけであり間はとばされて目的地について用事を果たすだけなのである。だから現代から旅は失われた。新幹線で数時間で青森まで行ってもそこにはすでに旅はない、遠くに行くということで便利なだけである。北海道を目指して途中の東北の旅はぬけてしまうのである。現代は途中を飛ばしぬける旅になるのだ。これは極身近なその人が住んで暮らしている所でも同じだったのである。自然が文化が多様だというとき身近な所でも多様なのである。それを今まで郷土史に地形の観点から書いてきた。今回は浜通りの陸前浜街道をたどってみる。

●自然条件と歴史の一致
浜通りの磐城から相馬まで他から来た人はたいして魅力も感じない、自然も平凡であり海も見えないから何か浜通りとさえ感じられないかもしれない、でもそうした平凡な地に見えても自然は様々であり歴史もある。それは細部になるから見逃されるのである。交通手段が発達するとき細部は見逃されるのだ。その最たる例が飛行機である。飛行機はロシアのシベリアの広大な上を飛んでも何も見えない、暗黒でしかない、細部は何も見えずにヨ-ロッパに到着するのだ。文化とは多様性であり細部のことなのだ。ある土地をしる、文化をしるためには今や過去にさかのぼり歴史をさぐり昔あった大地の様相をイメ-ジして再現させる作業が必要になっているのだ。相馬藩の地域内でも相当に複雑な地形であり歴史もある。だからその昔の自然の状態からイメ-ジする再現する作業が必要なのだ。磐城が温暖だというとき波立海岸には南国産の樹や植物が多い、石蕗も咲く、でも楢葉辺りからへって相馬辺りではほとんど見られない、これは気候が植生に深く関係しているのだ。石蕗の花は秋に咲き伊勢志摩辺りではいっぱい咲いていた。

石蕗のあまた咲きける伊勢志摩に波にゆれつつ船の浮くかな
福島県の浜通りでは磐城までしか咲かない、そして陸奥の真野の草原遠けれど・・・この歌のもっている意味は浜通りのもっている自然条件と一致していた。東北全体でも万葉集の歌の残っているのは陸奥の真野郷-安達太良であり緯度も一致している。マルハシャリンバイが陸奥の真野郷の南相馬市の鹿島区の海老浜になっているのもそのためである。ここから先になるとさらに寒くなるから咲かなくなる。それは文化的境界でもあったのだ。波立海岸は浜通りでは唯一岩礁があり磯がありそこに熱帯魚がくる。現実千葉県からその熱帯魚を求めて探しに千葉県から来た青年がいた。毎年くるというから必ずここには熱帯魚が夏になるとくる。黒潮にのってくるのだ。その岩に珊瑚礁が小さいながらできている。磐城は熱帯の海とも通じていた。磐城の海の底には大きな珊瑚礁があった。鹿島区から珊瑚礁の化石が発見されてフタバススギ竜などの化石が出たのは温かい海が太古あったからである。

●失われ見逃される歴史の跡
 見逃されているものとして各地の鎌倉、南北朝、戦国時代の遺跡である。相馬三八館、田村四八館、磐城四八館があった。田村は三春だから三春の勢力も大きかったことがこれでもわかる。相馬氏は小高城から村上城へ移ることを決めたが成らなかった。村上城跡には貴布根神社があるがこれは小高城から遷したものだった。その後相馬氏の内城とか聖とかある塚部地域にも遷された。村上城は要害として地のりがいいから選ばれた。貴布根神社も船に由来するからあっていたとなる。ここにも忘れられたが人間の歴史の興亡の跡がひっそりと埋もれていたのである。そういう場所は全国にあるがあまり注目せずに通りすぎて行くのだ。これは城が多いドイツでもそうである。城の城壁のうよなものがわずかに残り昔を伝えているがそこにも歴史があり興亡が悲劇もあった。ヨ-ロッパは城が多いから日本と共通した歴史があったのだ。
相馬三八館、田村四八館、磐城四八館の攻防が浜通りにあった。それらは土深く埋もれてしまったのである。磐城の境に末続の駅がありここにおりたのも一興だった。ここには相馬藩の陣屋があり参勤交代のおり泊まった家が残って昔を伝えているとかインタ-ネットに出ていた。
末続の名の起こりはわからない、末続館があったのだから末続という姓もあるから末続氏と関係したのかその辺のつながりがわからない、でもこうした何もない駅にも調べてみるとそれなりの歴史がある。この辺は相馬藩と岩城藩の境でありかつては森や野が広がっていた未開の地だった。それで相馬藩の殿様が夜ノ森-余の森といい小良が浜といい領土を争った所なのだ。http://hyakkaido.travel.coocan.jp/iwakisoumakaidou9hisanohamatatuta.htm

(南相馬市鹿島区海老浜)

海老浜になお車輪梅咲き残る秋の夕日にかもめ飛ぶゆく

車輪梅なお咲き残る我はまた地元なればここに見に来ぬ

車輪梅いつしか消えぬさみしきや松風鳴りし海老の浜かな

車輪梅いつしか消えぬ海老の浜我がたたずみて冬に入るかな

(小高)
村上城忘れらるるや海の風そよぎ古木の桜咲くかな


村上城知る人まれにたずぬ人あれや古木の桜咲くかな

夜ノ森は昔森なれここ拓き桜並木の花盛りかな

熊川をそいくだりきて桜咲き沖に船見ゆ耕しの人

相馬より岩城は遠し広々と大野広野の枯野身にしむ

末続に我がおりたれば菖蒲咲き畑耕す婦一人かな

一本の松に春日や末続に来たりて磐城の国に入るかな

波立に石蕗咲きぬ相馬より磐城に来たりてあたたかなるかな

(四倉)
春の日や四倉に来て漁船に旗ひるがえり磐城近しも


四倉に春の岬やかもめ飛び海の光りて磐城近しも


桜咲く春の浜通り(俳句-写真)
http://musubu.sblo.jp/article/3723665.html

posted by 老鶯 at 00:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年03月14日

南相馬市の鹿島区に九州の国の名が地名としてある訳


 

南相馬市の鹿島区に九州の国の名が地名としてある訳
http://musubu2.sblo.jp/article/27582397.html

 
九州からなぜ相馬まで来たのか不思議だった。それは越中薬売りが関係していた。薩摩と深い関係があり真宗の信徒ともなっていた。ということ越中の相馬へ移民する真宗信徒と仲間意識がもてる。薩摩では禁止されていた。一時京都にいて情報を探っていた。京都はやはり人が集る、情報が集る場所だからそうなる。ともかく相馬藩は飢饉で人がいなくなり相当に困っていた。それでコマ-シャルソングの相馬民謡を作りかなり強引な勧誘を全国的に展開していたのだ。越中が中心となってはいたが全国から移民が集ったのはその効果があったのである。
posted by 老鶯 at 16:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年03月04日

旗巻峠-伊達と相馬の攻防の歴史


 

旗巻峠-伊達と相馬の攻防の歴史
http://musubu2.sblo.jp/article/27366573.html

 
旗巻峠は今は廃道地なっている。細い一すじの昼なお暗い道だった。昔の道はみな細い道であり山の中だったらなおさらそうである。奥の細道で当時の状態が残っているのは白河の関に出る道くらいである。あういう暗い細い道をたどっていったのが奥の細道であり今とはあまりにもちがいすぎたのだ。丸森は歴史的にも古いから古い碑も多い、弁財天の碑が多いのはなぜなのか、相馬市にも多いが隣り合う鹿島区では一つくらいしかない、丸森と相馬市に集中するのはやはり近いから同一の信仰が普及したのか、やはり歴史は地理である。大坪に相馬氏の伊達を防ぐ土塁跡が発見されたのは旗巻峠を下ってくる麓にあるから敵を防ぐための場所だった。その後方に黒木氏の城があったからだ。黒木氏は伊達と相馬の板挟みになって戦った。かなり苦労したのはその地理的条件のためである。丸森は地形が複雑で山々がかさなり阿武隈川も流れているし歴史もあるし魅力的な所だった。一方角田は平坦になって地形的にはつまらない、自然環境がベ-スとなり魅力が形成されるからどうにもならない、丸森はまた軽く行けるから詳しくなれる。
 
posted by 老鶯 at 19:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年02月27日

近くにNPOの福祉(介護?)施設屠殺場跡に建つことの問題(差別はなぜ起こる)

 
 

近くにNPOの福祉(介護?)施設屠殺場跡に建つことの問題(差別はなぜ起こる)
http://musubu.sblo.jp/article/27303482.html (おくりびと)

屠殺場跡にNPOの福祉(介護?)ができるので身近な問題だと思い書いた。これは郷土史と深くかかわっている。郷土史は草の根の歴史だから意外と様々な問題の根としてかかわっている。大きな歴史、マクロ的な歴史があるがミクロ的なものとしても歴史は構成されている。ミクロ的なものからマクロ的なものが見えるしマクロ的ものからミクロ的なものを見てゆく作業が必要なのである。インタ-ネットではミクロ的な情報が豊富である。つまりミクロ的なものからマクロ的な歴史の見直しができるのである。ミクロ的なものは見逃されてきたのである。全国的にミクロ的な歴史、郷土史が連携されると新たな歴史が見えてくる場合があるのだ。これまでは郷土史は調べようもないからわからなかったのである。
 

posted by 老鶯 at 16:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年02月24日

野馬追いの旗の研究-目立つ大将の母衣(ほろ)の意味(地域代表の旗)

 
 

野馬追いの旗の研究-目立つ大将の母衣(ほろ)の意味(地域代表の旗)
http://musubu2.sblo.jp/article/27155600.html

 
母衣(ほろ)は一番目立つ、これは郷大将の旗で地域の代表の目印になる。小高、中ノ郷、北郷、宇多郷が中核となり色分けしていた。三社合同旗も色分けされていた。こうした地域を代表する旗はわかりやすい、それぞれの姓の旗になると種類が多くてわかりにくいのだ。どこに所属しているかわからなくなる。普通野馬追いの旗は先祖伝来だし変わらない、変えてはならないものでっあった。でも北郷の紫の母衣は緋色だったのが紫に変わったていた。本来は赤と黄色しかなかったのだ。こうして勝手に帰ると歴史的な史実と反するから野馬追いでは変えてはならないのである。でもほんの一部が変わったものがあるかもしれないがほとんど変わっていないのが野馬追いである。
posted by 老鶯 at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年02月21日

戊辰戦争東北の一つの哀話(白河の遊女の墓)

 
 

戊辰戦争東北の一つの哀話(白河の遊女の墓)
http://musubu2.sblo.jp/article/27039464.html

 
相馬郷土史研究の意義は何か、各地の郷土史研究の意義は何か?それは日本の歴史をミクロ的に探求するものと同時にマクロ的な日本の歴史へと展開することである。日本の歴史の底辺に郷土史があり全体の歴史も構成される。一遊女の無惨な死も戊辰戦争に起こり民間の人も犠牲になっている。アメリカ軍のアフガニスタンやイラクでも誤爆のように被害が必ず民間人にもでてくる。インタ-ネットの時代の情報はかたよった見方をしないことである。今までの情報はなかなか庶民の情報や郷土史のような各地の情報を知ることはむずかしかった。インタ-ネット時代の情報は様々な見方を参考にして編集することなのだ。今までのように学者や本からだけではない、インタ-ネットで庶民や各地の郷土史から総合的に判断する、そういう豊富な材料から資料から情報から編集して判断するのである。靖国神社の起こりも戊辰戦争に発しているしそれは各地の郷土史とも深く関係しているのである。情報かたりないと情報が一方的だとかたよった見方になる。例えはいまなら長州の萩市と会津で双方で情報を出し合い議論もできる。現実九州の福岡辺りの出身の人が相馬郡内の戊辰戦争の犠牲者の墓にもうでている。苗字が違ってるからわかる。双方の犠牲者を葬ったのが戊辰戦争であった。一方靖国神社かえって天皇に味方した人しか招かない、祀らない、かたよった神社である。そういう歴史は日本になかった。そういう視点からも靖国神社を見る必要がある。
 
posted by 老鶯 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年02月19日

野馬追いの旗にある冠木(かぶらぎ)の姓と冠木門の旗印の謎

 

野馬追いの旗にある冠木の姓と冠木門の旗印の謎
http://musubu2.sblo.jp/article/26932691.html

 
冠木(かぶらぎ)、蕪木という姓について興味を持ったのは喜多方で蕪木という旧家の人と話したことがきっかけだった。喜多方には冠木の地名もあった。とするとそこから姓が起こったのか?全国的にカブラギの地名は多いし姓も由緒ある。千葉氏系統にカブラギが由緒正しきものとしてあるからそこからこの姓が相馬氏の旗印のなかに入ってきたのか、千葉氏と相馬氏は同族であり千葉氏の旗印を主要なものとして使っている。また中野村に熊野堂近くにカブキと伝承であるが言われていた地域があった。とするとその辺に冠木氏が住んでいて旗印になったのか、他に標葉郡にも岡田氏が冠木門を旗印にしている。相馬でカブラギ姓の人はいなくなっている。佐藤氏とか岡田氏にすでに冠木の姓は変わっていた。ただ中野村でカブキという名だけが伝承として伝えられていた。だから確かに冠木は存在していたし野馬追いの旗印に残っていたのである。
posted by 老鶯 at 12:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年02月18日

郷土史研究で大事な字地名(黎明さんから提示された相馬市の地名の謎)


 

郷土史研究で大事な字地名(黎明さんから提示された相馬市の地名の謎)
http://musubu2.sblo.jp/article/26899498.html

 

郷土史研究は今はインタ-ネットでかなり調べられる。地名はやはり歴史を解く鍵になるのだ。
今回提示された疑問の地名は貴布根であった。キ-ワ-ドで調べたら小高の村上城に貴布根神社があったのだ。そこは北畠氏の城がありそれで村上氏源氏の系統の北畠氏が貴布根(貴船)神社を遷した。その神社が今度は相馬市の方に遷された。相馬市内はその頃伊達氏と南朝方の北畠氏が連合していた。そこに北朝方の相馬氏が進出してきて争いになった。その争いは伊達氏との争いはこの時からずっと継続していたのだ。だから確かに神社や仏教関係の地名が集中している所は内城が城があったのだろう。簡単な防御の要塞かもしれない、とにかくそこに北畠氏と伊達氏が関係した地域だったことは確かだろう。他の人も何か郷土史関係でわからないことがあったら書いてみてください、ある程度インタ-ネットから調べることができる。
郷土史は全国レベルでも地域でも共同研究になっているからです。

posted by 老鶯 at 19:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年02月12日

奥州栃窪村が寄進した四国遍路(箸蔵寺へ)の丁石の裏付け

 
 

奥州栃窪村が寄進した四国遍路(箸蔵寺へ)の丁石の裏付け
http://musubu2.sblo.jp/article/26653503.html

 

インタ-ネットで郷土史研究に新しい道を開いた。これもほとんど引用して編集しただけであった。でもインタ-ネットから調べて裏付けがある程度できた。もっと詳しく調べればさらに確実な裏付けとなる。資料がいくら出ていても編集しないとばらばらであり意味をもたないのである。
テレビを見ながら討論しているの編集したのも同じだった。ただテレビを見ているだけではその意味もわからない、一方的に聞いているだけだから参加できないから人ごとになる。ところがテレビを見て感想を自分なりに書くと議論に参加していることになる。インタ-ネットはともかく参加できるメデアなのである。これまでのメデアは新聞でもテレビでも大きいメデアであり参加できない、発言できない、出版もほとんど大手出版社経由だからそこで普通の人は入る余地がない、書店に直接本を置くことはできない、売れないものとかは置けない、社会に向かって普通の人は発言できなかったのである。特に権力のない個々人は発言できない、組織力があればできるがほかはできない、組織を通じて力をもたないかぎり出版とかできない仕組みになっていた。インタ-ネットは何であれ参加できることが大きな今までのメデアとの相違だったのである。

posted by 老鶯 at 18:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年02月11日

奥州栃窪村(現 福島県鹿島町)の住人が寄進した金毘羅参り「箸蔵寺百丁」の道標は歴史的事実

 
 
奥州栃窪村(現 福島県鹿島町)の住人が寄進した金毘羅参りの

「箸蔵寺百丁」の道標は歴史的事実
http://musubu2.sblo.jp/article/26610015.html

 
江戸時代は資料が豊富だからよくよく調べれば歴史的事実を証明できる。そこが郷土史でも面白い。まず歴史的事実の確認が歴史を知る基本である。江戸時代はそれができるのだ。具体的に資料からでもそういう人が生きていたということで親しみを覚えるのである。こう書いてあっても本当なのかと思っていたがやはり栃窪に金毘羅の碑が多いのだからそれが裏付けとなるし資料にもある。栃窪村から寄進しても不思議ではないとなる。北海老村から肝入りの人が金毘羅参りした記録が残っていても実際は栃窪に碑が多いのだからそこの住人が金毘羅参りに一番多くかかわたというのが裏付けとなるからこれは真実なのである。
posted by 老鶯 at 16:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年02月01日

相馬野馬追いと酷似していたミルトンの詩


相馬野馬追いと酷似していたミルトンの詩
http://musubu2.sblo.jp/article/35280454.html


これも意外と思うけど本当に野馬追いの祭りを詩にしたとしても変わりがないほど酷似していたからヨ-ロッパの歴史も日本と共通なものがあった。城があることも共通している。全然違ったように見えるけどにているのだ。ヨ-ロッパでは紋章も多様であり数が多いことは野馬追いの旗と共通していたのだ。野馬追いの説明を外国にするときこの詩と共通なことを示せばわかりやすいだろう。そういうことかと簡単に理解される。人間はやはりどんなに文化が違ったいるようでもにているものだとつくづく思った。ヨ-ロッパの歴史的発展と日本の歴史的発展も封建時代は城があるからにていたのだ。外国でも日本と共通性があるものは理解しやすのである。
posted by 老鶯 at 03:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年01月28日

市のつく地名(古市の古さ


市のつく地名(古市の古さ)
http://www.musubu.jp/somagappeijiji.htm#ichi


市のつく地名が東北には少ない、山形市は例外なののか?相馬藩内でも市のつく地名がないから市がたつことがそんなになかったのか、東北は少ない、奈良や大阪、京都となると万葉集時代からあったから相当古い、こうした民俗学的研究の意義は今と比べるために必要なのである。江戸時代でも今の経済とは根本的に違っている。市はハレの日であり近隣の人がたりないものを補うあうために物をもちよったためでありそこに今の商品経済とは根本的に違っていた。人と人がつながる場所であり常に物らり人に重点がおかれていたのだ。今は物の方に物を買う金の方が強大な力を持つようになった。昔は確かに奴隷も売り買いされていたが逆に人は今やモノと金の奴隷になりふりまわされているのだ。モノと金だけが全面にでてきて人間はモノと金に使われている、奴隷化しているのだ。ともかく正月は市のたつ日にふさわしいものであった。市というと今では仙台に行くことである。そこがハレの場となっているのだ。でもここでも別に人と交わるわけではない、あくまでもモノが中心なのである。現代ではハレの日を経験するには金がないとできない、その辺も昔とは違っている。
posted by 老鶯 at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連