近くには南北朝時代、北畠顕家が霊山城を築いた際、鬼門であるとして薬師如来を祀ったといわれている薬師堂の小祠があります。
2025年02月18日
相馬市玉野村の歴史とその生活の変遷
近くには南北朝時代、北畠顕家が霊山城を築いた際、鬼門であるとして薬師如来を祀ったといわれている薬師堂の小祠があります。
2024年10月31日
秋の陸前浜街道の詩−失われた旅の回復 【歩く旅で原発事故からの町を見直す】
2024年08月23日
侍の身分制社会から能力主義社会へ 【生まれた家で価値が決められていた江戸時代】
2024年06月12日
事実の歴史とフィクションが混同される問題 【歴史はまず事実を知ることが第一】
2024年03月25日
町場の地名の由来ー歩く時代に感じたもの(秋の蝉) 【左沢(あてらざわ)小国の地名由来ー運ぶことが簡単にできなかった時代の感覚】
2024年02月04日
地名は方角地名が基本ー相馬市の日下石(ニッケシの由来) 【東は明るく西は暗い感じになる―日本海は暗い】
2023年11月28日
地名は方角地名が基本‐相馬藩の妙見信仰の由来
2023年09月24日
インターネットで郷土史の研究ができる時代 (神は人の移動とともに移動するー南相馬市鹿島区秋葉神社(只野氏)の由来)
2023年01月07日
南相馬市鹿島区海老村に乳の木を発見ー乳神信仰はなぜ起きたのか
南相馬市鹿島区海老村に乳の木を発見ー乳神信仰はなぜ起きたのか
「乳神神社とは? 乳神様とは?」
浦幌神社の境内には、「乳神神社」(ちちがみじんじゃ)、
通称「おっぱい神社」と呼ばれている神社があります。
そこには、乳神様(ちちがみさま)と呼ばれている神様がおります。
正式な御神名は、乳授媛大神(ちちさずけひめのおおかみ)といいます。
なぜ、おっぱいの神様が浦幌神社に?
と不思議に思われる方も多いと思います。
この乳神様の正体とは、女性の乳房に似たコブをもつナラの大木のご神木で、
乳神様と呼ばれるようになりました。
岡山県総社市の軽部神社で崇拝されている「乳神様」もそのお一人。その名のとおり、お乳に関する神さまであり、拝殿にはオッパイをかたどった絵馬がたくさん奉納されています。
「垂乳根の桜」(たらちねのさくら)と呼ばれる枝垂桜にあります。「垂乳根の」は古代より「母」「親」にかかる枕詞。毎年、春になると美しい花を咲かせた垂乳根の桜はそれ自体が崇拝の対象となるとともに、枕詞としての「母」「親」という意味が加わり、いつしか当社全体が乳神様として崇敬されることとなったのでしょう
オッパイいっぱい!乳神様として崇拝される岡山県の軽部神社
https://www.travel.co.jp/guide/article/8165/
『大正年間に建立、県道角田線字羽抜の八雲社内にある。
明治大正年間のころ、子供を産んでも乳が不足だったり、出なかったり、
又乳房の病気にもなり困っているお母さんたちがいたので、
同の一條利吉という人が、妻の胸を見ながら刻み乳神を祀った。
乳の出難い人や、病気の人は、甘酒を入れた2本の竹筒を供えて祈願すれば、
たちどころに効能があったと伝えられている。
大正12年耕野村で生まれた子供は、244世帯中、121人であったのが最高で、
その子供が小学校に入学したのは57人だけであった。
この碑は宮城県では珍しい
秩父、仙台まほろばの道
https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/1af84c192b6a71792b03778e4abba6d1
ひとつ気がかりなのは…
おっぱいが張りにくくなってきたことだ…
このままおっぱいが出にくくなって
断乳、になるのだろうか。
不本意な断乳、悔しい。
昨晩は一応マグマグに母乳をしぼって置いてきたが
娘は飲んでくれたんだろうか。
よく寝ただろうか。
飯館村佐須の乳神の碑から現代を考える (牛乳がない時代は乳が頼り)
http://musubu.sblo.jp/article/79186515.html
乳神の木が海老村にあった、それが本当に乳房とそっくりなのである
乳神の木である、なぜそうしたことが語られるようになったのか?
それは子供を育てるのに乳が出ないと困るからである
乳が授かるように出るように祈ったとなる、それが乳神の木となったのである
飯館村の佐須にも乳神の碑があった、畑の中にあった、相当不便な所だから乳が出ないと困る、牛乳とかも余りない時代だと江戸時代とかなると乳がでるかでないかは切実な問題になっていた
大正12年丸森耕野村で生まれた子供は、244世帯中、121人であったのが最高で、その子供が小学校に入学したのは57人だけであった
私の母は大正4年生まれである、尋常小学校卒であった、小学校には行っていたのである丸森では耕野村でその時半分も小学校に行っていない
ということは読み書きをどこで習ったのかとなる、聞いた話では子守りとかで学校に行けなくて小説読んで字を覚えたという大正生れの女性がいた、つまりその時代必ずしも学校に行っていなかった、私の母は原町に住んでいたから小学校に入り字は覚えたとなる
大正でもその後でもまともに学校に行っていない人がいたとなる
その頃は本当に読み書きソロバンができれば良かったのである、それすらできない時代だったのである、ネパールとかになるとまた遅れた国だと学校に行けるだけでいいとなる
鉛筆とかすらない、書くものがない、それでボールペンをくれとなっていたのである
切実に乳をでるのを祈りけり乳神の木や年は明けにき
乳出ぬと女の悩み乳の木にさわり祈るも切実なりし
木は意外と男性的なものではなく女性的なものとしてもある、植物は女性的である
動物は男性的だとなる、女性は大地を根を張り定着して大きくなる
そして定着しないとなかなか子供を育てにくい、確かに遊牧民でも子供を育てたとしても本来は一か所に安定して子育てするのが向いている
世界を男性と女性に分けて言葉も作られた、男性名詞と女性名詞である、でもそれがどうしてそうなったのかわからないという、木にしても男性的に見る人もいるし女性的に見る人もいる、ただ植物はどうしても女性的なのかとなる
2022年12月29日
郷土史とは何かー支配者ではない庶民を語り残すこと (街一軒の自転車屋の死で考えたこと―庶民が歴史に記される時代)
郷土史とは何かー支配者ではない庶民を語り残すこと
(街一軒の自転車屋の死で考えたこと―庶民が歴史に記される時代)
●インタ−ネットで郷土史を各自追求できる時代
郷土史とは何かとなればそれは狭い地域であっても広範囲でありそれで理系も課かわてくるので私は文系であり地質学とか科学に弱いから語れないことがあった
地質学というときそもそもどうしてその土地が成立ちどういう土地なのか知ることであるそれで最初は日本全国を旅して「地名」に興味をもったことが自分自身の大きな歴史であれ郷土史であれ関心を持ったのである
どうしても学校の教科書で教えられたことは興味が持てなかった
でもだんだんと郷土史というより郷土学のようになり今は相馬新報とかなった
そこで書いているのは広範囲だからそうなった、今があり昔があり時間軸と空間軸と郷土を放送する、それはインタ−ネットができてホームページとかプログが個々人でもメデアを通さなくても発表できることになったのが大きかった
それでメデアが今までも新聞とかテレビに独占されてどれだけ力を持ったか知った
報道する力は実は大きな力を手にした、権力を手にしたことなのである
これまでは新聞であれ雑誌であれ本であれメデアをマスコミを通さなければ知らせることもできなかった、つまり報道することは権力を持っていないとできないことだったのである、だからこそマスコミは第三の権力となっていた
そこで宣伝してもらえば商品でも知れ渡り売れるとかありまた人でもマスコミに出ただけでたいした人物でなくても知れ渡り議員にもなれるとなった
それで「青島だ」とかふざけているのかそんな人でも東京都知事になったのである
それはマスコミの力でありその人の能力ではなかったのである
メデアは仲介するものでありその仲介するもものが力を持った、そのメデアに出るにはメデアの許可が必要でありそれはまた権力を持たない者は出れないし発言もできなとなっていた
でもインタ−ネットだと一応誰でも手間であれ発言はできなる、それは大きなものとならないにしろ発言はできる、ただインタ−ネットだと本当に誰も読まないということが普通に起きる、膨大な人がプログを書いているからそうなる、そこで目立つのは極少数になってしまうのである
だからいくら発言が自由になったとしても必ずしもそうはなっていないのである
膨大な数の中に重要な発言でも埋もれることが普通にある
だからネットの世界で目立つことは至難なのである
ともかくインタ−ネットの特徴としていろいろあるにしてもその人の住んでいる場所が基点となり発信する、ということは郷土史とか郷土学と密接に関係するのである
さらにその郷土の狭い範囲で基点になるのはその人が住んでいる家なのである
郷土史は家の歴史からはじまる、歴史そのものが家の歴史なのである
聖書もそうである、日本でも天皇家の歴史が歴史となっていることでもわかる
家は先祖がいて祖父ー父ーと系譜があり一軒一軒が郷土の歴史なのである
ただその中でも古い家はその土地に代々歴史を刻んでいるからそこを中心としてみる
野馬追いに出る家は歴史として保存対象にもなっていて野馬追いの場合勝手に旗印を作り行列に出れないのである、正確な歴史の再現でありハロイーンとかの馬鹿騒ぎとは違う
そもそもそれは日本の歴史とも何ら関係ないのである
祭りというとき小さな村でも代々伝えられたものがありその再現だから歴史的意味があるその歴史を伝えるために祭りがある、そこに祭りの意義がある
●郷土史はそれぞれの家から始まる
いづれにしろ郷土史は郷土学は家の歴史から始まる、私の父のことを書いたが他にもどうしてその家が成立ったのか自分の場合二代目にしろそれでも歴史なのである
只野家とかなると南北朝までさかのぼるから古い旧家だから違っている
そして意外とそれぞれ住んでいる場所が古くから人が住んでいた、この辺ではもともと農民が中心に住んでいた、だから街とかあってもそこは農家が多かったのである
町というとき宿場町でありそれも農民が参勤交代の時に臨時に侍を泊めるものとしてあった、それで双葉では長塚宿があり新山宿があったとなる
交代で村の人が接待したとなる、双葉町という地名は明治以降できた町名である
それで私の家の近くの神社に文明時代の碑がある、また法印の山伏の墓もある
ここに天明の碑があるということはここも古いとなる
まず江戸時代の碑には注目する、天明は飢饉の年でありこの辺でも何らかの影響があったでも街だと明治以降になると農民ではなく商人とか職人が移り住んだ、農民がいてもそっちの方が多いとなる、でも依然として街から二百メートルくらい離れた場所に田畑が広がりそこには農民が住んでいて農民の付き合いが代々ありよそ者は住みにくいということがある、小さな町でも外から住む場合そのことを知るべきだとなる
そもそも農民共同体としてあり街内でも農民がいて他所から来た人も住むようになった
郷土史というとき相馬藩政記があり相馬藩は代変わりしていないから外の人も参考にしている、相馬藩は六万石でもそれなりに大きい藩でありごからこそ伊達藩とも対抗できたともなる、第一相馬野馬追いの壮観を見る時そうである、なぜこれだけの行列が歴史に基づいてできるのかとなる、相馬藩は300藩あった江戸時代に60位の格があった
それなりに大きいというのでもなくても中堅の藩だったとなる

●地歴として郷土史、郷土学
ともかく郷土史でも空間軸があり時間軸からみる、空間軸から見るのは比較的わかりやすいのは今でも空間自体は地理自体は変わっていないからである
でも地理でも福島県の地理でも簡単にわからない、地理は車とかで行ってもわからない
土地の高低差などがあり体の感覚で知らないと体得できないからである
私は自転車で相馬藩内なら回っているから体で知っているとなるそれでもわからない所がある、空間でも知るのは容易ではない、会津になったらもうわからない、山また山である二千メートルの山がひしめいているからである
また空間だと地史とも関係している、地歴というとき地理であり歴史を合体したものである、だから地史というときもそれは日本列島がどうして成立ったかまでさかのぼらばならない、とういうのは阿武隈山脈は高原は意外と古いのである
それで地盤が安定しているから放射性廃棄物を地下深く埋めておくのに向いているとか言われたのである、そういうふうに地歴を知ることが郷土史でも不可欠なのである
そして時間軸で見る時、これも重要だった、なぜなら400年前の慶長津波のことが相馬藩政記に二行だけ700人が生波(いくなみ)−津波で溺死したと記されていた
これほど重要な記録はなかった、でも学者すら知らなかったのである
これは大問題だったのである、なぜならこの辺には津波は来ないとしていたからである
だから津波のことを三陸のように警戒していなかったのである
そして相馬藩政記でも戦争のことはことこまかに記している、どこどこで戦争があり誰が死んだか誰が活躍したとかはこととこまかに記している、つまり戦国時代では庶民のことは話題にならない、支配者の侍の関心は戦さにあったからである
特に相馬氏は騎馬軍団を率いてこの地の支配者になったからそうである
土着した豪族と衝突して争いになり戦争になっていたからである
相馬藩政記の主流となるのはその戦(いくさ)のことである
庶民のことではない、だからこそ津波で700人溺死したことは大事件でも二行した記されていなかったのである
今だったら絶対にそういうことはない、いろいろ記録が映像でも残される
私自身もデジカメで写真をとってプログで放送したからである、その時はアクセスが相当あった、関心が震災や津波や原発事故でここに集まったからである
確かに福島民報や民友とか福島テレビとかでも放送した、でも個人で放送したということの意義は大きかったのである、そんなこと今までできなかったからである
それは明らかに全国の人達が見たのである
なぜ相馬藩政記で400年前の津浪の被害を二行しか記されなかったのかとなれば侍が支配者であり庶民は発言することもできないし記録にも残せなかったのである
何らか残っていいと思う、正式に紙に記さなくても伝説とかでも語りでも伝えられていいとも思う、でも紙に記すにしても紙が必要であり文字も書かなければ残らない
紙は紙漉きであり相当に貴重なものだから庶民は使えないものだったともなる
つまり記録することは金も必要だったし文字も書けなければならなかった、それがその時代に庶民にできなかった、侍にはできていたのである
ただ江戸時代の後半になると読み書きソロバンを寺子屋とかで習った
それで識字率があがった、その頃になると庶民でも記録することができたとなる
でも実際は侍が記録していたのである
もしその400年前に庶民でも記録することができたらその津波のことを記していたらそれは貴重なものになった、そして後世に伝えられて今回の津浪も警戒して被害をが少なくすんだともなる
●記録されるのは勝者であるーこれからは一庶民が歴史にその功績が記される
要するに記録することでも発言することでも現代でも放送することは権力を持たないとできないのである、そうなると庶民が直接発言するのではないから必ず歪められるし重大なのことも放送されないのである
そして狭い地域となると余計に報道できない、例えば福島県でも広いからである
地理的に広く中通りとは浜通りとは阿武隈山脈でさえぎられて地理の一体感がないのである、会津にしても地理的には隔絶した地域でありわかりにくいのである
福島県を一つの国と見ることは地理的にはむずかしい、地理的一体感がないのである

(隠された社一つが語るもの)
http://musubu.sblo.jp/article/189970774.html
こんな所に隠されて社がありそれも相馬氏の戦勝記念の社だったのである、これでもわかるように相馬藩では相馬氏の戦(いくさ)のことを相馬藩政記でも事こまかに記しているでも津浪の被害のことは700人溺死で二行だけしか記されていなかった
だから歴史とは何かというとき支配者の歴史だとなる、それは全国規模でもそうである
一地域ですらそうなのだから日本の歴史とは支配者の歴史でありまた世界史でもそうである、アメリカは覇権国となったとき世界史はアメリカの歴史であり日本はただ悪者にされるだけだとなる、歴史とは勝者の歴史であり敗者の歴史ではないのである
ただこれからの歴史は民主主義となりプログなど誰でも発言してyoutubeでもテレビ放送もできなるようになった、その時郷土史でも興隆することになる
なぜなら郷土史は地元の人は読むにしても外部の人は余り読まない、関心かない、でも
誰でも発言できて表現できて放送できるようになることは庶民が権力を持ったことであり民主主義の促進にはなる
私がホームページからプログですでに20年とか発言している、それも今や一つの歴史ともなる
何か古い本を整理していると30年前とか買った本が多くもっと前のもありそれが何なのだろうとみる、そして著者がすでに死んでいるのも多いのである
この人も死んでいると本の著作者を見ると不思議になる、死んだ人を知るのは残された本しかない、あとは分らないのである、でもプログとかでも記録が残っていればそれも死者の残した物として参考になる、それで都築氏はプログにだけ書いて死んだのである
そのプログの記録も消していいとして著者が消したのである、するとその人の残した物は消えたともなる、これも問題だった、本だったら残り誰がが読んで参考にすることがあるそれができなくなったからである
郷土史というとき近くの自転車屋が死んだことはショックだった、そこは町に一軒しかなくなった自転車屋だったからである、それも郷土に懸命に生きた人として郷土史に刻んだ人だったとなる、それが死んでから余計に感じた、それで私は詩を献げたのである
郷土史に記される人だったとなった、相馬藩政記なら記されない、もちろん国史にも記されない、でも郷土史となると郷土に懸命に生きたものとして歴史を刻んだものとしてけ記されるとなったのである
民主主義とは平民の時代であり平民が主役になる時代である、だから庶民が歴史に記される、庶民が歴史を作るともなる時代である,そこに郷土史を郷土学の意義があるとなる
柳田国男の功績は文書だけに記されたものではない口碑で口伝いで庶民に伝えられたものを掘り起こして新たな民俗学を起こしたことである、時代によって新しい学問が起きる、脚光浴びるのも違ってくる、侍の時代は侍になるのが民主主義の時代は庶民がキ脚光をあびるとなる、ホイットマンが讃えたのは平民だった、労働する平民だったのである、ヨ−ロッパのように貴族はいなかったからである、それで皇帝も貴族もいないからリンカーンのように丸太小屋から歴史が始まったからそうなったのである
この時は大衆は存在しない、民衆が存在していたのである、それが讃えられたのである
アメリカは平民によって民衆によって作られた国なのである、でも今は格差が極端でありそれが失われたとなる
巨額な金をもった一部の人がいて支配する国になった、そこには建国時代の開拓者魂とかはなくなったのである
今年も終わりだが地震で散らかった本をまだ整理していない、障子も直していない、他でもまだ工事をしているとかあの地震の被害も大きいものだった、今年で一番印象に残ったのはあの地震だった
2022年03月15日
ウクライナの戦争の真実 (ネオナチがいて残虐な殺人は現実にあったー錯綜する報道の真意)
チェチェンは18世紀からロシアの侵略と迫害を受け、1990年以降、二度に渡ってロシアを相手に独立戦争を仕掛けたイスラム系民族だ。しかし、二度ともロシア軍の武力によって制圧され、二度の戦いで30万人以上のチェチェン人が亡くなっている。
シリア内戦はアサド政権政府軍と反政府軍の戦いだけでなく、クルド人勢力やトルコ支援勢力、それぞれを支援するアメリカとロシアの代理戦争と宗教的、政治的思惑が複雑に絡み合っている状況にあります。
推計死者総数は492,118人となる。
シリアの悲劇は三つ巴の争そいとなった、イスラム系もかかわりアメリカも西側もロシアも宗教争いにもなり複雑になった、その被害者が膨大な何百万人の避難民となったのである
この継続としてウクライナのロシアの侵略もあったとなる
ウクライナの戦争でもわかりにくいのはてぜなのか?
大陸では特にヨ−ロッパとかでは複雑なモザイクのようになっている
様々な民族が国が抗争をつづけてきていて訳からなくなる
敵の敵は味方だとかもなる、そこで根強く民族同士の争いで怨念があり憎悪がある
今回のロシアのウクライナ侵攻でも確実にロシアに殺された人の家族でも子孫でも恨みを持つようになる、そういうことが歴史的背景として外部のものは簡単に理解できない
日本だとそうした異民族同士の争いが少ないし日本人はみんな日本人であり民族差別はないのである
ただ在日朝鮮人だけが日本にあって別な民族なのである
でも顔つきなど区別できないのである、だから日本がでは人種差別はないのである
ただ韓国とかでは根強く日本統治に恨みをもっているからこれが多少似ているとなる
日本への怨念が継続しているとなる
でもチェチェンとかシリアとかで起きた紛争はそこにイスラム系が交じり複雑化しているユダや人もいてユダや人でも一つではない、ロシアとかではスラブ系ユダや人なのであるおそらく純粋のユダヤ人はいなのではないか?
ユダヤ教を信じている人がユダヤ人だとなる、旧約聖書を基にした人達である
ユダヤ人は国土を持たない民族として前からあり迫害を受けていた
それで離散してから二千年後にイスラエルを建国したのである
ウクライナのゼレンスキー大統領はユダヤ人である
だからyoutubeの説明ではプーチンが標的にしたのはネオナチだからゼレンスキーを標的にはしていないという、首相を継続してもいいという、
ウクライナ内戦では、ナチスの過激派に深く影響を受けたウクライナのネオナチが、東ウクライナの民兵に敗れた怒りを爆発させるために、多くの虐殺を行った。
ロシアメディアの報道によると、2014年9月24日、28日、30日にドネツク地方で3つの集団墓地が発見され、調査の結果、ウクライナ国家警備隊とネオナチ「アゾフ大隊」が退却前に生き埋めにし射殺した民間人の遺体が暴かれ、生きたまま内臓が採取されたことが確認された。
http://eritokyo.jp/independent/Ukraine-as-a-neo-Nazis-ao1455.html
youtubeではネオナチとはアメリカのネオコンと結びついたものだともしている
その勢力がウクライナに入っていた、そこで戦争を起こして金儲けするとか説明しているウクライナでもこうして実質の争そいはアメリカとロシアとか大国の争いであり
正面から戦わなくても裏ではすでにその国の内部に入って勢力を拡大する
それでロシアが西部のアメリカが入った軍事訓練施設を爆撃した
アメリカの勢力を追い出すためのものでありそれは確かにロシアにとっては許されないとなる,アメリカが直接ではなく公式ではないにしろウクライナに入り込んで軍事訓練もしていたし武器も供与していたのである
だからアメリカ側の西側のロシアをプーチンを責めるだけの報道は問題だともしている
実際爆撃されて血だらけの老女はフェイクの映像だった、それは2018年の映像だっただからフェイクの動画とか写真もある、それが巧妙だから見分けがつかないのが現代である
どういうわけかこの戦争で得しているのはアメリカである、アメリカは直接被害はない
でもドイツではアメリカの最新の戦闘用の爆撃機を買うことにした、13兆円もの軍備増強を計るするとアメリカの軍需産業がもうかるとなる
何かアメリカは直接介入しないとしていたが間接的には介入していた
ロシアに強く出ないで侵略を容認したとしている、そこには裏に意図があってそうしたのかとなる、ロシアの侵略をとめるのはアメリカしかできないからである
何か個人的にも力を持つ時背後にバックに実際は大きな組織団体の力がある
それでプロパガンダになる人がいる、創価のプロパガンダになっているのは佐藤優とか
田原総一朗とかであり賞賛の本を出している、すると会員が買うので売れるとなるからだまた在日関係だとこれも強力な組織団体でありそういう作家いて南相馬市の市役所でも宣伝したりする、つまりそれだけの団体組織の力があってそうできるのである
まずそうした団体組織がないと個人など普通は相手にしないからである
それは作家でも必ず何らか個人の作品が優れているとかでもない、背後にその人の所属している組織団体がありそれが権力をもっているから宣伝されるのである
それで個人を見るとき必ずこの人はどういう組織団体が背後にあるのかと見ると分りやすいとなる、つまり組織団体のプロパガンダとしてあるからそうなる
今回でもその背後にあるものが何なのか見なければその真相はわからないとなる
たいがい日本の教会があるとしてアメリカから資金が与えられていたりもする
エホバなどはそうだろう、資金の流れもみておかないと真相はわからないのである
結局報道も公正ではないのはこうして常に背後の組織団体の意向にそって報道されるからわからなくなる、ただ今は知識がなくても多角的に見る情報が出るようになった
まずマスコミでもNHKでも偏っている、西側中心の情報しかでないからだ
だからyoutubeを見て参考にして書いた、でもこういうふうに多様な視点で多角的に見るとなるとめんどうになる、普通の人は時間がないのだからそんなに多くの情報を分析できないのである
ただ多角的なものの見方はインタ−ネットでしやすい、でも多角的でもそれが今度は陰謀論とかが出てくると訳わからなくなるのである
でも何が事実としてあるのか?
ウクライナにネオナチ勢力がいて残虐な殺戮は現実にあった
するとプーチンの言っていることは全部嘘ではない、作り話しでもないフェクでもない
私はどっちにも見方かするとかではない、公平に見ようとしている
だから公平に見ようとすれば組織団体に所属しているとできないとなる
また組織団体から援助されるとできないのである
これまでは報道はテレビ局六局とかNHKとかしかできなかった、それは金がかかりすぎてそうなっていたのである、そこでマスコミは第三の権力となっていたのである
今回の戦争でも報道合戦にもなる、西側の報道が主になるからロシア側の報道は信じられないとなる、でも確かに西側の報道でもイラク戦争の時、油まみれの海鳥はフェクだったのである、作られた映像だったのである、今は動画でも作られた映像がある
それだけ映像の技術が発達しているからだ、だから映像をすべてとして信じることも問題になる、でも映像の迫力に圧倒されるのである
要するに情報社会というとき個人個人で情報を収集して判断することである
でもそうなると時間がかるしめんどうになる、相当な知識も必要になる
ネオナチによるロシア系の人への残虐な殺人は日本に住んでいるウクライナ人が流暢な
日本語話していた、するとそれもウクライナ人の一方的な情報ではあ全部が真実ではないとなる
私が言いたいのはどっちに味方するのかではない、公平に見ようとしているだけなのである
ロシアは日本人の抑留とか北方領土の問題があり良く思えないのである
つまりどうしても過去にあったことから人間は人でも国でも見るとなる
それでロシアには好感をもていないのである、ただそうはあってもやはり何でも公平に見るということが不可欠なのである
でも人間はもう公平に見れない、公平に見れるのは神しかない、だから人は人は裁けない裁くなというときそうなる、裁く能力がないのである
特に国同士の争いとかなると裁くのが本当にむずかしくなる、それが余りにも複雑でありわからなくなるからだ
ただどうしてもなぜロシアはウクライナに対して大軍で攻めてきて市民を殺しているのかとなり世界で反発する、ただそれが理由がないわけではなくあったとインタ−ネットで
知ったとなる
いづれにしろこういうときは情報は錯乱する、何が真実なのか交錯してわからなくなる
でもプーチンが核を使うというときそれがこれまでの紛争とは違う最大の恐怖を与えた
そのことはあってはならないことだったのである
まだ原発を攻撃したり放射性物質でウクライナを汚染して占領するとか
プーチンが死ぬと自動的にロシアの核ミサイルが全世界に発射されるとか本当に核戦争で人類が滅亡する最終戦争で人類が滅亡することが現実化することに恐怖したのである
そのことでロシアは誰も相手にしなくなる、狂気化したとも見られた
一人の狂気的独裁者が人類を滅ぼすという恐怖を与えたのである
それで本当に聖書の予言した、ロシアがゴグでありそこから全世界が恐れをもたらしたことは確かである、世界最終戦争がハルマゲドンが起きることが現実化するのかとも見た
日本にもロシアが北方領土でミサイル実験したとか脅しているからである
【ウクライナ】プーチン の軍事作戦の目的「非ナチ化」とはS'【及川幸久"BREAKING"】
2021年05月22日
人間がみんな老人になると自分のしてきたことを認めてもらいたい (郷土の歴史もその苦労を知ること)
人間がみんな老人になると自分のしてきたことを認めてもらいたい
(郷土の歴史もその苦労を知ること)
たいがい60以降になると自分がこういうことをしてきた、その苦労話がある
私の家では街内で一番低い土地にありそれで被害がまた一番大きかった
家が流される寸前になっていた
その家と土地にしても父親が葛尾村から双葉の新山で酒屋で丁稚をしていた暖簾分けしてここにきて土地と家を建てたのである
父親は早く死んだが成人して生きていたらそのことを延々と語っていたとなる
そのことを聞けなかったので残念だったとなる
つまりこの土地であり家であれそれぞれ歴史がある、歴史には必ず苦労話がある
歴史というと国家となると大きなことになりわかりにくくなる
でもそれぞれの家の歴史だと身近でありわかりやすいのである
だから私は郷土史とか歴史は家の歴史からはじまっている
じいちゃんばあちゃんから聞いた話しが郷土史となると言ってきた
だから歴史とは身近なものである
それぞれの家の歴史がありその集積として村の歴史があり町の歴史があり市の歴史があとなる
家の歴史でもまた家族がいたとしても例えば三人家族が三人三様なのである
その相違もまた大きいのである、なぜこれほど同じ家族なのに違うのかとなる
母は原町で原町紡績ーハラボウで十年間糸取りをしていた
それから東京に行き女中になった、そこで結婚したが夫が死んで原町に帰ってきた
そして私の父親と結婚した
姉は養子とかでありこの運命も数奇だった、常に語っていたのは今のシンガポールの向かい側のマレーシアのジョホールバルで四年間従軍看護婦として働いていたことである
このことを死ぬ直前まで語っていた、そのことをどうしても忘れられなかった
人生で一番印象に残ったことだからそうなった
こうして家の歴史をふりかえるとまさに戦前からどちらも大正生まれであり父は明治生まれであり歴史を語っていたのである
つまり家族の歴史が大きな日本の歴史でもあったのだ
なぜなら絹を輸出して日本は戦争する経済力をつけていたともなるからだ
姉が従軍看護婦になったのも戦争の歴史である
そしてトタン屋根の家から二階建ての家にしたのはすでに50年前とかになった
その二階建ての家にしたのは真野川の氾濫で一番被害を受けたから逃げる場所がなく
二階にすることが悲願となったのである
何か胸とかまで水につかり近くの旅館に逃げたのである
そうして新しい家を建てた時、姉は死ぬまでこの家は私が建てたのだと自慢していた
その柱は橲原の同級生がキコリをしていてそこの木から作ったと自慢していた
つまりこういう一家族の歴史が一つの郷土史でありそこから苦労を偲ぶのが歴史でもあるそれはどこの家でもあるかことだからである、ただめいめいの家族が事情が違うから理解しにくいのである
何かその女性はしきりにいう、私は福相(裁縫会社)で働いていたとか原町の旅館の丸屋で働いていたとか食堂でも働いていたとかあとは相双緑化(建築と造園)で働いていたとうかいう、この辺での働き先だったとなる
そこで言いたいのは私はこうして郷土で働いたということである
その苦労を語るのは普通にある
ある人はトラック運転手をしていた、その人は他の人より荷物を二倍を請け負ってトラックを走らせた、そして500万の立派な庭を作ったとなる
その庭は確かに立派な庭である、大きな石を積んだ庭だからである
そうして老人は昔を語る、それはなぜなのか?
私は家のために子供のためにそして郷土のために働いたということまた従軍看護婦となると国のために働いたとかまでなる
ただそういうことは地元だから知るが他の土地に行くとわからなくなる
そうした歴史がわからなくなる、特に外国に行くと空間を移動しても時間軸で作られたもの歴史がわからないからである
この歴史が知ると知らないでは相当な差が生まれる
そうしうた苦労話を聞けば家でも大事にするし親でも苦労して家でも作ってくれて今自分が住んで楽しているんだとなるからである
ところが原発避難区域とかなるとそうした家の歴史があってもそれが失われた
5000万で作った家を小高に置いて原町で中古の家を600円で買ったとかなる
するとその5000万の家は無駄になったともなる
確かにそれで補償金をもらったとしてもその家を作った苦労話は子供でも孫でも話せないとなる、小高でも浪江でも原発避難区域になったところはそうして実はそれぞれの家が築き上げた家の歴史も失われたのである
それはたいした損失のようではない、むしろ補償金をもらって良かったとも外部からだとみる、でもその土地の歴史は失われたときこうして苦労話を次代の人にできない
すると何か親の苦労でも継承されない、ということは親でも先祖でもその価値が失われたともなる
確かに多額の補償金をもらったからいいじゃないかともみる
でもその補償金はこうして苦労して作られた残されたものとは違っている
俺は原発事故でこれだけの金をもらい残したとか自慢できないだろう
それで郷土に尽くしたとか自慢できない、むしろそのために郷土に住めなくなった
そういう歴史が失われとなるからだ、その損失は大きかった気付くかもしれない
むしろ親でも子供はうらむとまでもなるかもしれない、また郷土とは関係ないものとなり苦労話をしてもそれを受け継ぐことはない、第一もう郷土に住んでいないからである
歴史とは何かというときその土地土地で長い時間をかけて継続されたものである
例えば飯館村の歴史も古い、有名なのは六字名号供養碑とかの飢饉の碑である
飯館村は高原の地であり寒いのである、だから飢饉があり苦しんだ
その碑があり春の日に行ったらそこに木が根付いて露わに木の根が見えたのである
その木の根に春の日がさして春の鳥がさえづっていたのである
その根が何かこの土地に根付いて暮らしてきた歴史を刻んできたものとして見えた
つまり過去に飢饉がありそれでもここに暮らしが継続されてきたのである
この土地に根を張り代々生活は歴史は刻まれてきたのである
その歴史が原発事故で失われる危機にある、村自体が消失する危機にある
それは全国の限界集落でもそうなりつつある、それは代々築かれた先人の苦労も無駄になるともなる
部落自体村自体が消失すればもう個々人の家の歴史も失われ廃墟として埋もれてしまうからである、だからゴーストタウン幽霊村とかなり神社があるとしても草に埋もれ誰も参る人がいなくなるそこは動物の住処となり猿が住んだりするとなる
飯館村でも神社を見たらそういうふうになっていた、何か一段と淋しいものとなっていたのである、人が住んだ場所は自然のままのものではない、何か一段と淋しいものとなり
幽霊が徘徊しているような感じになるのである
それは先祖の苦労もなにもすべて失われたものともなる、継続するものがいなくなったからである、ただそうした村とかはここだけではない全国的にこれから増えてくる
空家が800万軒とか耕作放棄地が膨大なのである、この辺でももう耕作放棄地が原発事故以後増えた、小さい田畑はもう放棄されてソーラーパネルになったりしている
ただ他は田は広い田にしている、機械を利用するのにいいように広い田にしている
つまり小規模農業は成り立たなくなっているのである
2021年04月11日
歴史とは家を基本として伝えられたもの (家々に歴史がありそこから地域でも探る)
歴史とは家を基本として伝えられたもの
(家々に歴史がありそこから地域でも探る)
歴史という時何なのか?基本的には家から歴史が始まったという時、なぜそうなるのか?親がいて祖父母がいてそれで何か受け継がれるものがあり歴史が生まれる
その基本は家族だとなる、家族が歴史になり家が歴史になる
そもそも家が歴史だというとき国家自体が家族が一族となり拡大したものである
日本だったら天皇の歴史となるときそれは天皇の家族の歴史が日本の歴史とまでなっている、これは特殊でも家族が中心となって歴史がったということになる
平氏とか源氏でも一つの家が拡大化したものである
江戸時代の御家中といったのも家が拡大したのが藩になった、相馬氏とかでもそうである聖書でもアダムの子孫というとき代々ある人を神が選び家族となったがその家族が代々伝えた者でありそれが歴史となった
神が現存したことをその家族が伝えたものである
だから神がアブラハムを祝福したということでそれが信仰の基となったのである
人間はその生まれた家族とか家とかに一番関心をもつ、そこが人間として育つ原点だからである、だからそれぞれの家な成り立つことが歴史である
地域でも一軒の家がどうして成立ったのかということが歴史である
そこにはみんな違った事情があり歴史がある
だから丸森の筆甫で最初に出会ったばあちゃんが枝垂れ桜のことを語った
それは50年過ぎた木だったのである
50年前に植えた木が50年過ぎてあのような美しい枝垂れ桜になったのである
木がこのように育つには50年はかかるのである
それで古い家だと庭に古い木がある、その木は50年とか普通であり百年とかありさらに長いともなる、そういう家は古いとなるのである
ただ筆甫のばあちゃんの家は丸森が木材が豊富でも古い家の木材を利用していた
50年前以上となるとその頃外材ではなくまだ国内の材木を利用していたこともある
丸森というと江戸時代に伊達藩、米沢藩、相馬藩で三つどもえで木材資源を得るために熾烈に争っていた
だからさそれだけ木材資源が豊富なのになぜ古い家の木材を利用したのかとなる
それだけの金がなかったからだとなる、いくら木材が豊富でも山持ちでもなかったとかなる、ただその家が50年前に家を建てたのかわからない
でもそれだけ豊富な木材があるのに古い家の木材を使って家を建てることしかできなかった、つまり金がなかったからだみる
なぜなら自分の家は50年前でも地元の木材を利用して二階だての家を作ったからである
その柱は地元の木材であり柱もそうでありそれで姉はいつもそれを自慢していたのであるまさに大黒柱だったのである、大黒柱というときまさに家を象徴しているのである
私の家は古いとはならないにしても戦前からこの地に来ていた
もともとは葛尾村出身であり次に双葉の新山で酒屋に勤めていて暖簾分けしたのである
だから戦前からの歴史があるがそれでも農家だと江戸時代からつづいているから新しいとはなる
ただそれでも三代くらいつづいたとはなる
そしてなぜ自分の家がここに建ったのか?この土地は実際はいい土地ではなかった
町内で一番低い場所にあり二回も川が氾濫して床上浸水していたからである
前の家はトタン屋根のみすぼらしいものだった、それで二階建ての家を建てたのである
それは川が氾濫したとき逃げるためにまず二階建てにしたのである
最初の台風の被害のときは逃げる場所がなくて近くの二階建ての家に逃れたからである
九死に一生を得たからである
つまりそういう歴史がありそれで姉はいつもその地元でとれた木材で柱をにしたのを自慢していたのである
あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも
こんなふうになっていたのである、そういう歴史が家々にありそれが歴史の原点だというとき歴史は実際は身近なものである、何も特別有名な歴史的人物のことではない
個々の平凡な庶民の中にも歴史はある、そもそも人間ならみんな歴史がある
親がいて子供がいるというときそこで二代でも歴史が生まれているからだ
いづれにしろその土地の歴史を知るという時、個々の家の歴史を知ることが何か実感する歴史になる
原発事故では町や村から若い世代が流出したとき町や村の歴史が消失する危機になった
なぜなら老人だけが取り残されたからである
するとその家だけではない土地の歴史すら失われるという危機になったのである
もう流出した人たちは故郷の歴史より自分たちが生きる場で歴史を作ることになる
第一孫にあたる人たちも別な土地で生きるから故郷は移り住んだ場所の方になるからだ
そこで歴史が断絶することも大きな問題になったのである
そうなるとじいちゃんでもばあちゃんでもこの家は苦労して建てたんだ、そういうことを何度も言って自慢することもできない、つまり祖父母の存在感ももてないのである
第一孫も別なの土地に移り住んで祖父母の家に住まないからである
ただそうして歴史の継続がなくなることは別に原発事故の周辺だけではない
膨大な空家化する日本で起きていることである
大原のS氏の家は代々の農家でも死ぬ前にすでに息子は市内に住んで農業を継がなかったからである、そこは今は空家になって誰も住まないからである
何かこうして歴史が継続しなくなったのが現代である
でも古い家には古い木があるというとき人間の実りとなるとやはり50年とか代を重ねないと実り生まれないとなる、とても一代では実りにならない、つまり実りをもたらすのにはこの枝垂れ桜の木のように最低でも50年はかかるのである
それで老人になると何か木を植えて花を咲かせようとするが10年先だとなるとしたくなくなる、だから老人には復興できない、海岸の松が津波で流されたがまた松の苗を植えた
それが大きくなるのは50年後だとかなるともう見れないのである
何か復興というときそれだけ長い時間がかかるということである
それだけの大被害だったからである
ともかく郷土史でも一軒一軒の家が実は郷土史なのである、どうしてその家が成立ったのかを知るとそこからその地域の歴史がわかってくることがある
ただ家でも古い家の歴史を知ることがその地域の歴史を知ることになる
ただ二代三代の家の歴史がないにしろそれでも歴史になる
動物は一代で終わりでありただ種として生きて終わりである
でも人間は歴史的存在であり代々伝えられるものの中で生きる
その歴史が失われるとき何か重大なことが失われるともなる
家にもこうしてそれぞれ歴史がありそこで伝えられものがありそれが消失するとどうなるのか?
今だけを生きることになり何かとても積み重ねられたものとして実りがなくなる
一代では何でも芸術とか学問でもそうである、一代では木が成長するのに50年かかるように昔だったらそういう生業にたずさわっていたから気が長いし家を継ぐことが第一とされたこともわかる、家を継ぐ長男が大事にされたこともわかる
50年で木が育つとなればとても一代だけではその木を利用することもできないからであるすると次の代のものがその実りを得るとなるからである
家の歴史は二代だけでも百年とかなる、それに比べると会社でも団体でも組織でもなかなか百年つづくものがないのである、会社だったらもう20年30年で終るとかなる
50年もつづくということは大会社でもなかなかなくなるとういことになる
時代の変化で技術が急速に代わりグロ−バル経済の中で高度成長の日本の電器産業が衰退したようになる
歴史とは継続であり積み重ねなのである、人間は一代ではとても何かを達成することができない、代々努力を積み重ねて実りが生まれるからである
だから農業でも新しく始める人は相当に苦労する、親が残した田畑だとそこにはすでに土も作られていて豊かな実りをもたらすように備わっているということがあるからだ
農業でも一から始めるのは相当な苦労を強いられるからである
それは何でもそうである、技術でも必ず積み重ねがありその上に新しいものが作られるからである
この家は百五十年ぐらいたつと思います、天保年間にここから三軒目から火事がその時
焼けて、その年は危機が流行って父親を亡くしたんだって、そしてその時ここの門吉っていう養子が家を建てられなくなくて、浜にニシンのカスをとるための大きな小屋があったのをここにもってきて、仮にこの家を建て替えたんだそうです
だからこの家は本当の家ではなくて屋根も小屋作りなんで、屋根屋さんが上さあがってみさばわかるんだって、その門吉というっていう人がそれこそ大変な苦労して建てた家だしおじいちゃまや主人が大事にしてきた家だから、大事にしねばまいねえと思っているんです
(大黒柱に刻まれた―家族の百年ー塩野米松)

何かこうした苦労話しが必ず家々にある、だから祖父母でもまた親からもそれを延々と聞かされる、それだけ言うのは苦労したからである
何にも苦労しないで家を建てたとしたらそういうことはないからである
そうした苦労があってその家にも価値が生まれているのである
だから歴史を受け継ぐということはそういう先人の苦労を知るということでもある
それが歴史が断絶すると失われるのである
何か重大なことでも伝えられずそれが後の災いにもなる、津波などがそうだった
400年まえに相馬藩でも津浪で700人死んだけどそれが伝えられなかったからだ
ただ文書に二行だけ記されているだけだった、忘れられていたからだ
そういう先人の苦労を知るべきだとなる、疫病でもこれも実際は絶えず被害があり恐れられていたのである、だから八坂神社とか何か神社は疫病を防ぐものとしても祈っていたのである
2021年02月28日
権力側の歴史と民衆の歴史 (歴史を作るもの)
2021年02月18日
塩の道から歴史を考える (千国街道ー相馬藩(飯館村)への塩の道)
2021年02月03日
四街道市の地理がわからない (半杭氏のプログを読むーコメント(2)
四街道市の地理がわからない
(半杭氏のプログを読むーコメント(2)
千葉県でも実際に私は何回か行っている、千葉県となると相馬氏が出た所で相馬という地名もあるから歴史的つながりがある
それで半杭氏が小高出身で関心があり手紙ももらった
それからプログも詳しく読んでいなかったが読んだ、やはり今の時代に何か表現する時プログとかが必要になる、そこでその土地のこと人間のことがわかってくる
ただ地理だけは本当にわかりにくい、千葉県で実際行った場所は富津とかあり他に行っている
富津だと風の強く吹いたことで覚えている、それで千葉県が台風の被害で風の被害で屋根に一番被害があった、富津が風が強かったのでそういう場所なのかとも思った
では四街道市の地理でも歴史でもわからない
半杭氏のプログの写真などを見て何かそこが田舎的風景なのである
でも東京に近いとなるからそんな場所があるのかとも見る
でも何か写真からはのどかな田舎の風景なのである
そこが一番わかりにくいことだった
地理というのは一回その地を踏むのと踏まないのでは相当に差がある
地理は実感として感じないとわからないのである
地図を見ただけだと東京に近いからそんなに田舎的風景があることが実感できないのである、だから地図だけ見てもわからないのである
ただそこから富士山が見えるの?これも意外だった、千葉県からあんなにはっきりと富士山が見えるというのも意外だったのである
こうして地理はわかりにくいのである、どうししても四街道市というのがわかりにくいのである、名前からすると四つの街道が交わるとあるからそういう場所だとはなる
でもその地理でも歴史でもそれだけではわからない、だからいかに地理でも歴史でも理解するのが難しいか知る
確かに利根川とか鬼怒川とか東京とか千葉県の方に流れてそこで運送があった
でも利根川というのも一度を見ていないのである、するとイメージできなくなる
確かに千葉県には何カ所か行った、でも千葉県全体はわからないのである
それは福島県にも言える、福島県は広いからである、海側の浜通りと会津は全く違った景色になり別な世界にもなるからだ
つまり千葉県でも実際に多様な場所なのである、これを旅したとしても一部でありそれで全体像はわからないのである
なんか大学の時も茂原から通っていた人がいた、通うだけで二時間かかっていたようだ
なぜなら私の大学は神奈川県であり東京からはずれた場所だったからである
そこは相当に遠いけど通っていたのである
だからどうしても東京が通勤圏にもなり近いと感じる
結局人を理解するとき人そのものもあるがその住んでいる土地の理解が欠かせないのである、そして日本の地形は複雑でありその土地を理解することがむずかしいのである
私はだから全国を隈なく旅しているからだいたいイメージできるのだがそれでも日本でも広いし地理が複雑だからわからないのである
その人がまずどんな場所に住んでいるのかを知ると通じ合うということがある
そこでまずお国はどこですかとなる、でもその国に行ったことがないとイメージできないのである
だから富士山が写真ではきれいに見えているのが意外だった、あんなにきれいに見えるのかと意外だった
埼玉県でも富士見野市とかあるから富士山は埼玉県とか茨城県でも見える
それも意外と大きくきれいに見えるのである
ともかく人間は二つの世界に生きると豊かになる、それで外国生活した人は日本を見る目が比較するからより日本がどういう国か見える、それで辛辣な批判にもなる
でも日本だけに住んでいる人は日本しかしらないから日本の国がどういう国なのか偏るとなる
半杭氏の場合は中国でビジネスしてきたことがあり中国を肌で知っている
また相馬の小高出身であるがまた四街道市が第二の故郷ともなっている
それで二つの世界に生きているから精神的にも豊かになる
私の場合は旅行しただけだから外国の深いところはわからないのである
つまり人間とは本だけの知識とかだけでは駄目である、私は50歳から海外旅行したので辛うじて目が開けたとなる、でも深い所は外国で暮らさないとわからないのである
そういうことで若い時の留学などは相当に価値がある
外国で暮らす経験は簡単にできないからである
半杭氏の場合は中国とのビジネス経験しているから実感としての中国を知っているとなる
英語でお聞きしたら
「ベトナムです。」との事です。
今度は、中国語で聞いて見ました。
「日本の印象は如何ですか?」
若い研修生は、シッカリとした中国語(普通語)で答えてくれました。
https://cutt.ly/jkscewy(半杭氏のプログ)
ベトナム人に中国語が通じる?これは疑問になるがベトナムでは一時漢字を使っていたのである、漢字圏の中に入っていたのである、だから今でも中国がまじっている
日本でも中国の漢字を使っているがその音は中国語であり呉音とかになる
ベトナムの首都ハノイ。かつてベトナム王朝の中枢であったタンロン王城跡の南側に「文廟(ぶんびょう/ヴァン・ミウ)」と呼ばれる儒教の開祖「孔子」を祀った霊廟があります。そこはベトナム最古の大学でもあり、官僚の登用試験である「科挙」が行われていました。敷地内には歴代合格者の氏名が刻まれた石碑が並んでおり、ハノイの受験生は試験前に必ずお参りに行くという、ベトナム屈指の合格祈願スポットです。
文廟の創建は約千年前の1070年、李王朝の第三代皇帝であった李聖宗(リー・タイントン)によって設立されたと伝わります。それまでのベトナム王朝は仏教国でしたが、国として結び付きが強かった宋(中国)から儒教が取り入れられ、その開祖である「孔子」を祀る文廟が築かれました。
その時漢字も使用されていた歴史がある、中国と東南アジアは深い関係がある
カンボジアのアンコールワットの遺跡に中国兵が壁画に彫られている
今でも華僑が東南アジアでは勢力をもっているから歴史は古くから継続されていたのである
そういうことで中国との関係が深く中国語で答えてくれたというのもわかる
ともかく人間を知るのは地理と歴史であり地歴なのである
この両方を知ることによって理解が深まる、でもどっちも現実に知ることがむずかしいのである、日本ですらそうなのだから外国だったらさらに理解できなくなる
だから一度だけでもいいからその地を踏むことは本を読むより価値あることなのである
四街道市の人
四街道市に住む人や
道の辻道祖神の碑
ここに住みつつなじむ人
畑に冬菜や日没るや
寒夕焼けに染まり
かなた富士の峰映える
相馬の小高出身の人
そこもまた故郷や
その土地に老いぬ
中国では紀元前から祀られていた道の神「道祖」と、日本古来の邪悪をさえぎる「みちの神」が融合したものといわれる
道祖神も中国由来だった、半杭氏の写真では大正時代とかあり新しいものだった
そうなると価値が低下する、江戸時代だったらなんでも価値がある
墓を見て歩くがどうしても明治以降は価値がないと見るからだ
いづれにしろ二つの故郷に住むということは精神的に豊かになる
とにかく人間は住んでいる土地の影響を受けてその土地と一体化してゆく
そして死んでその土地の土となりその土地に眠るとなる
そこが死ぬ場所だというとき深い愛着も生れるのである
そういう年までその土地に生きたということである、相馬と四街道に生きたとなるのである
流山市とか北相馬郡とかがあり流山市は相馬氏の軍歌であ相馬流山の民謡がある
そういう歴史としてくながりがある場でもある
今はプログとかで自ら表現しないと交流できないともなる
プログだと表現の幅が広くなる、するとその人なりの人物像とかまた地理とかを知る
それで短いコメントでは知りえない全体像がわかる
だから今はコメントはしていない、もしプログで書いていればそれを読むとその人なりがわかり返答もできる、そうでないと相手のことがわからないのである
人間は対話するとなると相当なエネルギーが必要になる
相手を知るといこかとは容易ではないからだ、でもその人がどういう人なのか知らないで対話していると部分的であり何か一過性で終わってしまう
それで深く対話できないのである
2019年04月21日
神社は何なのか、何のためにあるのか? (謂れがわからないのが多い)
2019年01月15日
相馬市の山上の塩手山や茄子小田の地名の由来は?
2018年08月04日
三春で相馬氏と伊達氏が熾烈な争い (インタ−ネットで読める一連の物語)
2018年07月29日
原町の雲雀が原へ(野馬追い短歌十首) (黒い顔のイスラム系のモハメッドの姓の人が出ていた)
2018年06月29日
相馬藩内の地名を探る (津波で原始の状態が再現されて地名を理解した)
2018年06月28日
人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ! (相馬市は中村でありその由来は)
2018年06月09日
高平(タカヒラ)地名と貝餅地名の謎(他に曲田の由来)
2018年01月19日
町(街)作りは土地の特性を活かすこと (相馬地方にも多様な土地の特性がある)
2017年11月06日
深野から石神の旧家に嫁いだ女性 (紙漉きをして古い鎧があった)
2017年06月14日
集団就職の金の卵が故郷に帰る (真野川の橋の上で)
2016年07月09日
末続村の新妻氏からのコメントがありました (興味深いのでここにものせておきます)
末続の新妻氏のコメント
2016年04月13日
郷土史の基本は村の新旧を知ること (一地域の新旧も歴史であり重要)
2016年03月05日
元号の意味するもの (グローバル化して時代にそぐわなくなった)
2016年02月24日
相馬市南相馬市(原町区)などの街作りをどうする? (歴史的にふりかえる街作り)
2014年03月26日
溜池が稲作文明を発展させた原動力 (水の管理が稲作では一番大事だったあー鹿島町誌より考察)
溜池が稲作文明を発展させた原動力
(水の管理が稲作では一番大事だったあー鹿島町誌より考察)
ここは下が鉄道になっていて高い、ここの地名が樋下となったのは
そういう理由があったつまり地名にはそれなりの理由があって名付けられている。
樋の水流れてうるおし実りかな二宮仕法に相馬藩栄ゆ
溜池には水利を通じての人と人との交わり、繋 がりがある。それは、親池、子池、孫池といった関係か ら、その輪を広げながら、広い範囲でのコミュニティーと して、重要な働きをしてくれている。
相馬領全部226ヶ村、この内明治4年までに実施した村は101ヶ村、更にその内で仕上成就した村は55ヶ村であって、これに用いた領主の分度外米248,220俵、開発2千余町歩、費用2万余両、溜池692ヶ所、水路等合計費用2万余両、新家作573戸、この費用2万余両、その他諸施設合計99,180余両であって、このために増加した戸数
1,135軒、人口21,715人である。
http://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/22000/
樋口は文字どおり樋(用水管)の口(取水口、水門)のある場所から起った地名です
「筑前国続風土記」には「樋井川」の名の由来として「其の川、樫原、東油山より出、田島村の東、鳥飼村を西を経て海に入る。此の郷中、桧原村の東、長き樋有り。是は川上に樋を掛て川向に水を取り、田を浸す為なり。樋長さ七間半あり。昔より此の樋ある故に、此の邊を樋の郷という。」とある。
http://nagaoka.blog.jp/?p=18
鹿島町誌より
真野川は有効に利用するかいなかは農耕の死生にかかわる
まず真野川上流の栃窪堰の手入れをして嘉永五年以来廃止していた一の堰(大谷)を改修した。正月から五カ月間を要した。
高一丈五尺平均、堰口十六間余大石積み上げた技量をほめ・・・
荒専八の代官の事業である。荒は二宮門下唯一の洋式土木技法をも心得た技術家であった
中でも一番の大工事は唐神堤の手入れであった。この堤は領内第一の大堤で安政四年五月の再度にわたる大崩壊、もし決壊となれば産米七千石の田から民家一円亡村の惨事となる・・
七千石掛入は真野川より取り入れるももとは唐神をへず直接通じたが御山堀を高め新江の延長として横手地内68間の岩を切り通しトンネルをうがち、水路を唐神に引水して冬の貯水に便をえしめるために溜池の水増加して上真野、八沢、鹿島の一町二ケ村にわたる
(鹿島町誌)
稲作というのは実際は大きな文明であり自然を改革する一大事業だった。稲作は水の管理が最大の問題となる。いかに水を利用するかが稲作を拡大することに通じていた。
米の生産量をあげるかに通じていた。だかち灌漑事業でありこれは大規模な土木事業であり文明だった。水を利用するということが文明のはじまりである。そこでメソポタミア文明などでもいかにエジプト文明でも農業はいかなに水を利用するかが文明を作る。
だから四大文明は大きな川の辺に生まれたのである。カンボジアのアンコールワットの巨大な貯水池もそうだった。そこに一大栄華を築いた都市文明が生まれたのである。
溜池を改修するのにその堤を集団で人力によって固める絵がでているが機械がないのなら人力になるからその労力は並大抵のものではなかったのである。
溜池の建設ー大地の刻印(ここには絵がでているから参考になる)
http://suido-ishizue.jp/daichi/part3/01/04.html
巨視的にもそうだがミクロ的にもみると小さな村でも稲作はいかに水を利用するかで水田を拡大して収穫量をあげるかが決まる。だから必ず溜池が必要であり無数に溜池がある。稲作は溜池なくして成り立たないものだった。大きな溜池もあり小さな溜池も無数にある。それほど水の管理が稲作には必要だったのである。
水田は水なくしてはありえない、絶えず水を流していなければならない、だから水路となる樋がいたるところに必要でありそれにまつわる地名も多い。
そして溜池は必ず順次広くされている。水がたりなくなりそうなった。
水争いがあり荒専八が真野川の下流に堰を作ったら上流の人が水が不足すると思い殺そうとするまでになった。これもいかに水が大事かを物語るものだった。
入会権でもそうだがここも大規模な戦争の初端になったし水争いもそうだった。
水資源の争いは文明国では常にあった。イスラエルでのデカン高原でのシリアとかの戦争もヨルダン川の水争いに起因しているのだ。
ともかく田んぼを拡大するには土地だけではできない、水を得る必要があった。だから南右田は海側であり開拓された所だが真野川の水を確保できるうよになり水田になった。
今は津波で壊滅した。
この水が大事な故に山から水が絶え間なく供給されるので山が神となり春には田植えの時は山から神がおりてくるという信仰にもなった。山には先祖が眠り見守ってくれるという信仰にまでなった。稲作は長い間に単なる米を作るというものではない信仰となり文化になっていたのである。
だから津波や原発事故で田んぼが荒地になり水が流れないということに違和感を覚えたのはそれはすでに単なる米を生産するというのではない心に深くその景色であれ農耕というのがアイディンティティ化していたからである。
別にこれは田舎に住んでいれば農家の人でなくてもそうなる。
都会だとまた違っていてそういうふうにはならない、回りに田んぼも畑もないからである。だから大都会には文化がないのである。ただ物質化した精神性のない人工的機械的空間になっている。古代都市なら自然との密接な関係から構築されたものだから今の都会とは違っている。自然村があるというとき自然から生成発展した文明であった。
エジプト文明でもマヤ文明でも農業文明なのである。
津波原発事故では水田がなくなり荒地となり水が流れていても水は活きていないのである。その時神となっていた山をも死んだようになる。
日本では葉山羽山信仰でありこれは低山であるが水を供給するものとして信仰になったのである。山は水と密接に関係してあったのが日本だったのである。
2012年07月31日
死者の名前が刻まれていない墓の怪 (墓より名前の方が大事だった)
死者の名前が刻まれていない墓の怪
(墓より名前の方が大事だった)
お盆近くになったけど墓の意義とかお盆の意義とかで検索している人がいる。奇妙なのは近くで世話になった人の家の墓参りに行ったけどその墓には墓銘碑があるのだけどそこにお参りする人の名前がまだ刻まれていない、死んで二年になるけど名前が刻まれていない、息子がいるのだけどこの息子がもともと不肖の息子でありいろいろ失敗ばかりしていた人である。離婚してもいるしいろいろな不幸を作り出した人であった。今はひどい貧乏になっている。だから金がかかるから墓銘碑に母親の名前を刻んでいないのだ。名前を刻むだけで何万円とかかるその金がない貧乏なのである。しかし墓参りする方になると名前がないということは奇妙な感覚になる。この人には世話になった、いいい人だったと思って墓参りするのだけど名前がなかったらその人がいるのかどうかわからない、墓は確かにある、一家の墓としてある。
でも死んだ人の名前が刻まれていない!するとその人が墓にいるのと疑問になる。つまり墓には確かに骨が埋まっていても名前がなかったらその人がいるかもどうかもわからない、それで思ったのは人間最後に残るのは墓ではない、骨でも灰でもない、名前である。名前が残らなければその人が存在したかどうかわからない、しりえようがない、自分の墓にも祖父にあたる人の名前が刻まれている。これもあったこともないのだから名前しか知らないのである。でも一応存在した人として残っている。
墓の意義は何かなどと検索している人がいる。墓の意義は死んでもその人の代わりとなるものである。現実に自分の実家の墓は原町に残っていても実家はない、墓だけが残っているのだ。墓は家がなくなっても消えないのである。墓は家より寿命が長いとなる。その人の存在した証として残っている。でもその墓にしても名前が刻まれていなかったらその人の存在すら不明になる。戒名より実際は名前の方が大事である。戒名は誰なのか良くわからなくなる場合がある。名前は一番その人を記憶したものなのである。例え一行でも名前が刻まれていることはそこに確かにその人が生きていたという証なのである。ただその人がどういう人かわからない場合がある。
前に27歳で死んだ人は肺病で死んだと教えられた。その人のことはそれしかわからなくてもその当時、肺病で死んだ若者が多かったからさぞかし無念だったろうなとか思う。何も聞いていないと全くその人についてしりえようがないのだ。自分の祖父は名前だけしかわからない、人間は骨も灰も結局消えて残らないのだ。わずかに由緒ある武家の家系でも名前しかしりえない人がいる。何百年前になれば名前しか残らない、墓もわからない、すると名前だけが頼りになるのだ。古代の天皇でも墓がなく仰々しい名前だけが残っていてそこからその人を探ったりしている。名前しか探る手がかりがないのである。人間最後に残るのは骨でも灰でも墓でもない、名前である。名前が最も大事なのものである。近くに農民の墓が残っている。姓もあり名前もあるがその人のことについては何もわからない、ただ名前だけが残っている。その名前からしかその人を探る方法がないのだ。
「御名をあがめられますように・・・」というとき正に名前しか最後は残らないからそうなっていた。キリストであれシャカであれ骨も灰もどこにあるかわかりえようがないし残らない、ただ名前だけは残っているのだ。名を残せというときまさに名前が残ればその人が記憶されているからだ。一般的には名前すらほとんど残らないからその人が存在していたのかどうかもわからなくなる。名前の一字でも残っていればいい方であのが人間だった。それほどはかないのが人間だった。あなたの残すものはわずかに名前でありその名前すら残らないのが普通なのである。
人間のはかなさもこれからも知った。あなたがどこで記憶されるのか?名前だけである。その名前すら忘れられる存在が人間だったのである。名前が残るということは動物と違っている人間の証でもあった。名前でも残れば歴史が人間にあるということである。動物は名前も残らないから歴史に残らない、ペットブ-ムで名前つけた墓があっても一代で忘れられるだろう。動物には歴史がないのである。人間は名前が残り歴史が記されているのだ。
墓というときだから別に墓がなくてもいい、墓の代わりになるものを名前刻んで位牌のように家にでも飾っておけばいいのだ。そうすれば骨も灰もなくても名前だけは記憶されるし存在した証になる。そうした名前の方が大事だったのである。ここに意外と気づいていない人が多い。たまたま名前の刻まれていない墓にお参りしてこれは変だなと思ってわかったのである。
2012年04月30日
大芦や地蔵木などは昔は秘境だった (不便な地域に分家して開拓に入るプロセス)
八木沢峠の麓の大芦や地蔵木などは昔は秘境だった
(不便な地域に分家して開拓に入るプロセス)
郷土史でもやはり地形に通じないと見えてこないものがある。日本の地形は山あり谷あり川あり海ありと複雑なのである。海にそった浜通り側は比較的わかりやすい地形だった。でも山側になると複雑に入り組んでいるのだ。だから阿武隈高原でも地形的にはわかりにくい所だった。
飯館村の八木沢峠の麓の地帯は山間であり地形的に窮屈な所でありここに人が住んだの南相馬市の原町区や鹿島区の橲原村よりはあとである。分家した人たちが入植した。姓を見れば橲原村や大原村の人たちが入植したことがわかる。あそこでは田にする平地がない、それでもわずかに田を作っていた。大原から坂を上って遠田と地名があるから大原の草分けの前田から遠田に開拓地を広げた。それは分家して遠くに田を作り人が住み着くようになる。それが八木沢峠の麓の谷間に人が住むようになったプロセスである。ただ江戸時代からあそこに人が住んだかどうかはわかりにくい、真宗系の石塚の墓が一つあったが時代がわからない、橲原村でも明治時代ものしか残っていない、あそこの谷間から上萱(うえがや)へは戦後に開拓する人が入った。新しい村でありそれも消滅した。
江戸時代に人が住んでいたかどうかが村を見るには大事である。
橲原渓谷から大原への坂を下る所に六地蔵があった。これは埋もれていたのでわかりにくい、六地蔵は村と村の境界にある。とするとあそこが橲原村と大原村の境界だったのか?江戸時代は村単位で生活していたから境界が大事だった。一つの関所のようになっていて人々が簡単に他の村に出向くことはない、よそものとして隣同士の村でも扱われたのである。だから明治になり村が合併するとき常に民情が違うので合併しなかったとある。飯館村辺りでも大倉村と佐須村が民情が違うので合併しなかったとなる。民情が違うということはどういうことなのかわかりにくいけど村と村は交わらない一つの国と化していたためだろう。橲原村と大原村には新しい道ができたけどそれまでは地蔵木からなどの道が大原に行く道だった。今は車が頻繁に通るからあそこが不便な所などと意識しないのである。あそこは大原村よりも橲原村よりも不便な所だった。車のために本来は不便なところが便利な所のように見える錯覚を作り出しているのだ。
あそこの谷間の特徴は道を挟んで原町区の大原村と橲原村に分かれていた。どちらからも分家した人たちが開拓に入った。そこで混在することになったのだ。上萱は栃窪村に編入された。原町市と鹿島町が合併する前は行政的には統一されていなかった。
橲原村からであれ大原村からであれこの土地で暮らすとしたら土地が必要である。その土地がないとなるとあのような不便な土地を開拓して住むほかなかったのである。地形を見ればその村の古さがわかる。そして郷土史研究の基本が村の新旧を知ることがまずある。江戸時代から村があるのと明治以降開拓された村は分けるべきである。武家の出や野馬追いの出る家はそうした家にはない。なぜ上萱とかさらに不便な場所に開拓に入ったのか?それはもう土地がないからだ。それで戦後農業する人はプラジルに渡ったりしている。土地がないから土地を求めて渡ったのである。
あそこは自然的には魅力ある場所だった。橲原渓谷の上流であり不動滝の御堂があるところから太古林道を上るとその源流があり大きな岩があったりする。橲原村が鹿島区の奥座敷でありそこからさらに奥の秘境だったともなる。ただ今は車が頻繁に通るからあそこがかえってにぎやかな所だと錯覚しているのだ。昔だったら人も訪ねるもまれなる地域だった。橲原からも大原からも坂でありいかに辺鄙な場所だったかわかる。あそこには村の墓地があったのか?一つだけ家の墓があった。それも新しいものである。上萱には墓地があったがなくなった。いづれにしろ人間は地形にそって住む場を広げたことがわかる。
2012年04月19日
怪しい地名の研究(島野氏)の解読
●日本のニは湿地帯の意味
「日新」「新田(にった)」など語尾はいろいろであるが、語頭が「ニッ」で始まる地名は縄文地帯の東日本に明白に偏在する。「にっぽん」「にほん」の「ニッ」あるいは小さな「ッ」が脱落した「ニ」は「湿地帯」「しめった」と解釈した。(怪しい地名の研究7)
日本(にほん)が二に注目するとニはそもそも湿地帯のことは明らかなようです、新田(にった)は地名では多いですから間違いないでしょう。
日本は湿地帯の国、豊葦原瑞穂国の国です、そこで邪馬台国とは台であり湿地帯の中で高台になっているところでしょう。湿地帯があり高台に国ができた。日本が最初は縄文時代は東が東北地方が人口が多く栄えていた。「日高見国」がもともと大和の前の国号だった。日本の地名は湿地帯が多いから湿地帯のニのつく地名と台のつく地名が対称的になって多い。台から低地の湿地帯と住む場所を広げた。海側でなくても奈良盆地でもとともと盆地の真ん中は湖であり湿地帯でありその山辺に日本最古の道ができた。飛鳥も前が海のような地形だから鴎が飛んでいる歌が万葉集にのっている。ヤマトとやはり山の戸(門)であり山口のことでしょう。
山の入り口は神社の入り口-鳥居のある場所で結界になっていた。奈良の三輪山は山自体が御神体ですから山そのものに対する信仰があったのです。
東日本の内陸盆地のみならず、奈良盆地にも多くの「いそ」「ふね」「おき」など海洋を思わせる地名が散在する。「くじら(櫛羅)」さえ居る
奈良盆地は海とつながっていたという説がありするとこの地名はその太古の状態をさしているとすると地名はそれだけ古いとなる。自分も今回の津浪でヒントを得て書きました。海になったときクジラが入って来たということになると地名がどれだけ古いかともなる。
太古の奈良盆地
http://musubu2.sblo.jp/article/45685693.html
「ほ」が「穂」であるという解釈を力づけてくれる
稲作は南から入ってきたとすると東から入った二(湿地帯)と南から入ってきた穂が合体して日本となったというのは理屈的にはあう。なぜならもともと縄文時代は東中心であり日高見国(ひだかみのくに)があったからである。
●川(かわ)沢(さわ)はわの人たち、東日本に多い
「沢」地名の、明確な東日本偏在を考えると、「わ」の人々は氷河期には陸続きであったサハリンから徒歩で南下してきた人々だと考えた。
カワ(川)のワがわの人たち、民族集団をさしていた、さわはさ-わでありわの住む人たちでありカワのワもそうである。この人たちは北から南下した人たちだというのはユニ-クな解釈である。
川と沢はにている。人間はもともと水のある川や沢の場所に住みはじめた。水がないことには生活できないからだ。南から来た人たちはネの人たちであるというのも独特の解釈である。島根とかそうでありネの人たちは日本海回りで来たのかもしれない、確かに倭人というのワの人たちのことですから一字が部族名であり一部族が拡大化して倭人になったとは言える。ただ日本語そのものがどこから来たか謎ですから言語学的にはいろいろ問題があるでしょう。
船(ふね)米(よね)であり金(かね)はネ族のものがもたらした言葉である。言ってみれば外来語であり新しい文化をもたらした言葉だとなる。船も米も金も縄文人にとっては新しいものだったといえる。これなどからネ族が南方系の稲作文化をもたらした人たちだという推測はあたっているかもしれない。そもそも船は丸木舟でも縄文時代使っていたとしても金(かね)や米(よね)は縄文時代はないからだ。だから縄文人はその言葉を知らないとなる。そういう分け方はわかりやすい、中国から入った漢字と大和言葉を分けることはわかりやすいのである。
●ヒの謎
ヒについてはこれも謎が多い。干潟-干るというのは見ずが引いたからであり日をあてるのではなくもともとひあがる・・・水が引くことを意味していた。水が引いたり上がったりすることであり太陽のことではない、海に囲まれていたから潮の満ち引きには敏感である。潮が引いたらそこで干潟になり鳥も餌をついばみにくる、人もそこで貝をとったりするからヒは干上がるということが基本にありヒル(昼)は潮が干上がった時が昼であった。アサヒも浅く干上がった干潟のことである。太陽のことではないとなる。海辺に住んだ人たちの生活感覚から生まれた言葉だとなる。縄文人は貝塚があるように貝を主食としていたから干潟は大事だった。生活の根拠となる場だったからヒが生まれた。ヒは太陽と関係なく潮の満ち引きと関係しているとなるとヒが日になり太陽となったのか解せない、ヒは家族語だというのはどういう意味なのだろう。?家族語の意味がわからない。
日高見国(ひだかみのくに)とは干潟(ひ-がた)-高見の国である。とすると干潟の高見にある国となる。干潟を見下ろす高台にあった国となる。干潟を中心として貝をとって暮らしていた縄文人なのだろうか?この辺の新地はそういう地形であり海が近く高台に貝塚があった。そして手長明神の伝説がある。貝をとって暮らしていた巨人がいたというから地形的にはあっている。
たた日高見の国でも内陸部にもあり北上は日高見だともいうし海岸とは限らない。
要するにヒが解読できないことに問題がある。
ヒラが平たいとからが複数形のようだとヒはやはり干潟のことなのか?
人(ヒト)とはなになのか?日がとまると解釈するが干潟(ひがた)に止まっている人なのか?
ヒトとは干潟にいつもいて貝をとっているからヒトになったのだろうか?
縄文時代は確かにそうだった。
●百済や新羅から入ってきた地名
百済とか新羅とかから入った言葉が地名化したのはなかなか証明しにくい
みちのくの真野の草原(かやはら)遠けれど面影にして見ゆというものを・・笠女郎
この歌の草原(かやはら)は地名だと解読した。草(かや)は伽耶のことでもあり入江のことを意味していると近江の人も言っている。草原(かやはら)を奈良から面影にして見るというものにはなりえない、地名のことだったと解釈した。現実に入江は塩崎まで入り込んでいて今回の津浪で船着という近くまで船が烏崎の港から流されてきたのには驚きました。
では今回はこのくらいでまた暇があったら書いてみましょう
2012年04月16日
太陽も航海民にとっては方向として見ていた (東と西の方向感覚-海と陸(土)を分けた地点が日下石(にっけし)?)
太陽も航海民にとっては方向として見ていた
(東と西の方向感覚-海と陸(土)を分けた地点が日下石(にっけし)?)
「日(ひ)出(いず)る処(ところ)の天子(てんし)」
「書(しょ)を」
「日(ひ)没(ぼ)っする処の天子に致(いた)す」
「恙(つつが)なきや。」
海があり陸地がある。それを分けるのも大事になる。海から陸地が見えるところが重要になる。海を長く航海して陸地が土が見える所があったならその時そこは重要な地点になる。その陸地や土になっているところは航海民の上陸地点になるから大事なのである。「陸が土が見えたぞ」と海から見てなるのだ。西(にし)のニが土だということは海になっいる所と土になっている所を分けたのである。
だから日下石(にっけし)は津浪でわかったようにそのじき前は縄文時代は海だったのである。縄文海進時代は深く海がはいりこんでいた。でも縄文時代ではない万葉時代、奈良時代には海は深く陸に入り込んでいた。その地名の一つが万葉集の真野の草原(かやはら)の歌でありそこに船着とか市庭とかの地名が残っている。津浪が実際にあそこまで押し寄せたのは驚いた。日本全国であのように海が深くはいりこんでいた。縄文時代ではない、万葉時代でそうだったのである。だから別に縄文時代にさかのぼらなくても深く海がはいりこんでいた地域が海側には多い。今回津浪に襲われた地域は縄文時代ではない、万葉時代に海であったことが推測されるのだ。
だから太陽を方向としてみるとき日の昇る方向と日の沈む方向が大事になり東はひの岸(かし)になり西はニが土であり陸を示していたのである。地名をなづける場合、陸地から海を見れば海岸は東浜とか名づけられる。しかし海から見れば逆になり西が名づけられる。常識的には陸地から見て地名がつけられたと見ている。海から陸地をみて西と名づけることはなかなか気づかない、日下石(にっけし)は西という意味ではなく土(に)のある場所、陸地のことだった。海から来て土がある場所、陸地として別れる地点だったのである。だから今回の津浪で日下石(にっけし)まで海になったのである。
方向地名はどこを基点にしているから重要である。どこからみて西なのか東なのかである。陸地から見れば東になり海から見れば陸地は西になるのだ。西(にし)の二が土だというのは普通に気づかないから発見であった。
ではなぜそうした方向感覚が生まれたのか?それは日本にやってきた人たちが海からしか来れないし
航海民であり航海の技術がなかったら日本には来れない、海からやってきたのだから海からの視点で日本列島を見ていたとなる。それは日本の神話の基にもなっている。九州の異民族化されたハヤトなども南から渡ってきた人たちである。
竹にかかわる人々は海洋民族であったと言われています。かつて九州南部にいた隼人民族は南洋諸島の竹細工技術を身に付け、日本にたどり着いて土着民となりました。彼らは勇敢で強大な畿内政権に最後まで頑固に抵抗しましたが、ついに破れ畿内に連れて来られ、畿内隼人と呼ばれて竹器を作らされていたのだそうです
http://www.shinrin-instructor.org/ren08/02.htm
漢字で「東雲」と書くのは、東の空の意味からの当て字。
語源は「篠の目(しののめ)」であろう。
古代の住居では、明り取りの役目をしていた粗い網目の部分を「め(目)」といい、篠竹が材料として使われていたため
「篠の目」と呼ばれた。
竹の家がありそこから東雲(しののめ)の言葉が生まれた。日本では大和でも奈良でも竹はなかったとい。竹はもともと東南アジア辺りに多い。ベトナムなどに多い。竹の文化が伝わり東雲(しののめ)が生まれたというのもわかりにくい。どうしてもここに東は当て字である、ただ雲というとき東の空が曇っているように夜明けは暗いから雲をあてた。竹の文化では竹取物語もそうであり竹は外来のものでありその話なども東南アジア辺りから伝わったものとなる。原型はそこにある。梅すら中国から入ったものであり桜より梅が尊ばれた。
さす竹が大宮人を導く枕詞となっていることはいかにすでに竹が日本の文化となり根付いていたか証明している。
隼人(ハヤト)族も海を渡ってきた航海民である。だから方向として太陽を見ていた。日の本(ひのもと)は日の下であり日本の国号になったがこれは日の出る処としての日の本である。ところが日本は(にほん)でありに(ニ)は土を示しているとなり西を意味しているとなると日の沈む土地ともなる。
ともかく方角地名が地名の基本であることはまちがいないのだ。
西原、西台とか柏崎にあるのは土があるところ陸になっているとして海から意識して名づけられたのか?瀬戸内海とか九州だと船の航海は具体的なものとなるのだが東北の海は荒く航海となると古代ではむずかしいからどういう感覚でつけられたのかわかりにくい面はある。ただ西原は一段低くそこに田んぼがあり辛うじて津浪の被害からまねがれた田があった。その下は津浪で浸水した。西台はもっと高くここでは津浪の被害がなかった。柏崎は津浪の被害はなかった。引沼はずっと奥だから津浪とは関係ないでしょう。それでも津浪を考える場合、海であった処がありそれと関係して名づけられている場合があるから注意する必要がある。南相馬市鹿島区の塩崎まで海であった。地名の通りそこまで万葉時代は奈良時代は海だったのである。そこに船着や市庭とかの地名が残っていた。
郷土史関係ではインタ-ネットは実際かなり役立つ、地名の研究なども全国のネットワ-クを作って研究すれば新しい発見もでてくる。地形とかに深く関係しているので地名も地元の人でないとわからないことがかなりある。そこが地名を知るむずかしさである。西原と西台は高さが違っていることなどわかりにくいのである。
2012年04月12日
相馬市の日下石(にっけし)の地名の謎(2)
相馬市の日下石(にっけし)の地名の謎(2)
東(ひがし)はひんがしは陽(日)向かう岸だろう。岸ということは海の岸になる。東を意識したのは海を望んだ時だった。でも陽が昇るのは海からとは限らない、山からも陸地からも昇る。日本海などは山から昇り陽は海に沈むのだ。海に陽が沈む所もある。日本語では大和言葉では東は海から昇るものと意識した。一方西はニに日をあてているごとくやはり陽でありニシのシは土とか陸だとするとニシは陸地の方であり陸地に沈む方を西と意識した。日本でも世界でもそういう方向感覚がユニバ-サルではない。それは一面一地域としてのロ-カルな方向感覚なのである。
日(ひ)にちを数えるという言葉を分解するとヒ(陽)ニ(にし)ち(地)である。ヒはわかりやすいけど
ニチはわかりにくい、ニチはニも陽であり地と一体化している。つまり西は地と陸に一体化しているから西は陸地の方だという感覚なのである。日にちは日西(ヒニシ)であり日が昇り沈むことを数えることである。聖(ひじり)はまさにその日を数える人だったとなる。日を支配するものが王となるというのはマヤ文明を見ればわかる。エジプトなども天体学が発達していたことでもわかる。
天の岩戸の神話も日食に由来していたとか言われるから日と関係していたのである。もし日食を予言できたらその日を予言できたら絶大な権力をもちえるのである。それは科学の世界であり今日までつづいている。
ともかく東はひんがしは海から昇る日の方向であり、西は地や陸や山の方に沈む方向である。とするととは日下石(にっけし)とはいかなる方向なのか?今回の津浪でわかったように日下石(にっけし)近くまで津浪が押し寄せていたから日下石(にっけし)の前は海が入り込んでいたのである。そうなるとその海から日が昇るのだから日下石(にっけし)というのがわかりにくくなる。西の方角だとすると
海から見て陸地の方角だったとなる。海の岸の陸地でも海から見れば陸地であり西の方角になるのだ。実際に津浪で日下石(にっけし)近くまで海が湾のように入りこんだとき陽が陸地の方に日下石(にっけし)の方に沈むのを見たのである。湖のようになったので見えたときはなんともいえぬ驚きだった。それは一回しか見られない美しい光景だった。春の陽が広々とした湖と化した所に輝き陸地の方に沈んでいったのである。
方向地名はどこが基点となるかが問題になる。基点とする場所によって違ってくるのだ。海を基点とするということは常に海で暮らすような民の方向感覚だとなる。海から見て陸地の方に沈む方角が西となる。しかし日本海では海からみて山側が陽の昇る方角であり陽が沈む方角が海なのだから反対になる。世界的に日が昇る方向が東であり沈む方向は西である。どこから昇るかは問題にしない。日本は海に囲まれていたから海の意識が強いといかことで違っていた。
日の昇る場所が「日ケ子」で、日の没する場所のあるところの重要な地面が「土(に)子(し)」である。九州到達までは方位の定義としては適切である。
沖縄各地の「西原」は「城(ぐすく)跡」などの「北側の原」という意味とみられる、と述べている。なお「西原」は「にしはら」「にしばる」とよむとも言っている。
琉球音声データベースで確認しても「にし」とは祖先がやって来た(きた)方角、「北」のことである。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/unolab/timei4/timei4.htm
西と北は方角として混同しやすいのである。西風と北風はわかりにくい、風はいつも一定ではない、西風が北風に変わりやすいし北風は西風に変わりやすいのである。春になると東北の海側では北風から東風になる。これは春を告げる風だし全国的にそうである。だから沖縄で西が北と意識するのはわかるし九州の陸地を意識したというとき沖縄は西から北から移住した人々である。それは言葉などからも証明されている。沖縄の言葉は古い大和言葉が残っているからだ。青森などの辺境に古い大和言葉が残っているのと同じである。地名研究では方角地名が基本にある。南相馬市も城のあった相馬市の南だから合併してそうなったことでもわかる。
津浪で大きな湖と化した磯部から日下石(にっけし)方面
2011年09月20日
南相馬市原町区片倉村の由来
●片倉辺の神が由来
諏訪大社は2万5000以上の末社を持ち、起源も非常に古い。
信濃国の一宮であり、神位は正一位であり、信濃的には日本一の神社。
よく誤解されるが、諏訪大社は春宮・秋宮・上社・下社の4宮で構成され
場所としても諏訪〜茅野の広域に分散している、神社集合体。
祭神は大国主の子である建御名方神とその奥さん。
国譲りの段で天津神に敗れた建御名方神は諏訪に逃げ込んだ事になっているが
その際に、上記神々を率いたモレヤ神と戦争になり、勝利して現在の地位を得る。
建御名方神の氏族は諏訪氏で、代々大祝を担い
洩矢(モレヤ)神の氏族は守矢氏で、代々神長官を担う。
どちらも、神から続く家系図を持ち、諏訪では神として扱われていたが
既に大祝は途絶え、神長官についても守矢氏は生き残っているものの
洩矢神 →千鹿頭神 →児玉彦命
建御名方神 →片倉辺命 →児玉彦命
片倉辺命─(実子)→児玉彦命
↓
千鹿頭神─(養子)→児玉彦命
知名度としては落ちるものの、御頭祭も奇祭として有名。
狩りを行い鹿を得て、頭を切り落として捧げるが、その数が75頭とかそんなレベル。
(現在は非常に残念な事に剥製を使っています。神様怒るだろjk)
それ以外にも鹿の「脳和え」「生鹿」「生兎」「切兎」「兎煎る」鹿の五臓などが神饌として捧げられて居た。
ちなみに兎はまるごと一匹、下から串刺しにして立った状態。
諏訪で鎌を軒先(?)に飾るという風習があると聞いたのですが、
これについて詳しく知っている方がいたらいろいろお話を聴きたいです。
どのようないわれがあるのでしょうか?
諏訪大社と関係はあるのでしょうか?
2挺の鎌(男鎌・女鎌)を日室に迎え、同地の開祖の屋敷跡に2番奉斎する。
http://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/minzoku/k2-4.html
鎌宮諏訪神社(鎌の宮) 石川県鹿島郡中能登町 15.11.23
http://genjin.cool.ne.jp/suwasya/kamanomiya.htm
この由来をみると狩猟時代が彷彿とする内容である。長野県となると山深いから狩猟が盛んだったのである。縄文時代にもさかのぼる古い謂われが祭りとなって伝えられているのである。
諏訪神社は古いから全国にあるし相馬藩にもある。相馬市の黒木の諏訪神社は立派である。神田として諏訪田という地名も残る。この諏訪神社は由来が非常に古い。出雲から天津神の建御雷之男神に追われ信州の山深く逃れた先祖になった。天文年間から室町時代に由来を持つとして文書もあるとかになるがここには相馬氏が移動してきたときもたらされたものだろう。
『奥相秘鑑』によれば、一族・家子郎従を率いて奥州行方郡太田に入った重胤は、下総から鳳輦に奉ってきた妙見・塩竃・鷲宮の三神をここに勧進したのち小高村に移り、城を築いて本拠としたという。
相馬重胤
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/soryo14.htm#sigetane
この案内板と神社がある場所が問題である。ちょうど八重米坂をおりた所であり山を越えてここに休む場所としてふさわしい。片倉村の入り口だったのである。そこに片倉辺の神を祀ったからここが片倉村になったのだ。建御名方神 →片倉辺命が由来であった。各地にある片倉の地名はここに由来しているのが多いのだろう。伊達氏の片倉氏は有名でもそれが地名化したわけではない。氏族名は地名になるのがまれだからである。ここから下って旧陸前浜街道の交差点辺りに塩釜神社の案内があった。そこから先に行くと太田神社になるからその跡が裏付けられる。いづれにしろ戦乱があり相馬氏はここに逃れて新しい相馬氏の基礎を築いたのである。初発神社とはここから始めるという意味もあったのか、その場所が歴史を如実に示しているのである。
野馬追いの旗をみると渡辺氏があり今も渡辺氏の墓が分家となって並んでいる。旗も分家して新しい旗となった。もともと渡辺氏の旗は一つでありここにきて分家して新しい旗になった。その旗がもともと共通したものとしてあった。分家した旗はわかりやすい。そういう旗も多いことは確かである。そういう旗は分類しやすいのである。
鎌の旗は一つのと二つが組み合わせたものがあり男鎌と女鎌に由来するものだろう。鎌の由来も諏訪神社から由来したものでありそれが旗印になった。片倉村の由来は相馬重胤から始まっていることは間違いない、地名としてはすでに相馬氏が移住する前からあったものが多い。古代の地名が多いがこの片倉村は片倉辺の神を祭ったものであり相馬重胤に由来していた。だから一面新しい地名だとも言える。おそらく相馬氏がきたときは原野か森だった。そこを開墾したのである。その中心になったのが渡辺氏であった。
2011年08月10日
UNITED SOMA MAP(相馬藩内の市町村)
相馬藩くらいが人間としてちょうど地理的ちも一体感をもてる世界だった。余りに広いと人間は地理的に把握できなくなる。これはあくまでも地図上ではなく人間のヒュ-マンサイズとしての感覚である。相馬藩くらいの地域がちょうど人間の感覚でとらえられるのである。ここには海もあり街もあり山ありと世界の縮図としての世界がある。飯館村も山中郷としてあったのはやはり山から水が流れてくるからである。そこで地理的にも一体感があった。放射能騒ぎでセシウムが流れてくるとか問題になったのもそのためである。水の供給地として飯館村があった。浪江も標葉郷としてあり葛尾村も飯館村と同じ山中郷としてあった。双葉町が相馬藩の境界だった。この辺までが一体感がもてる。歴史的にも地理的にもそうだった。ただ放射能を考えるとこんなに広範囲に影響するとは思わなかった。中通りはもともと地理的一体感をもてない、それが放射能でかえって影響が大きかった。風には境界はなかったためである。
橲原は奥まった所であり南相馬市の鹿島区の奥座敷である。江戸時代は大原もそうだった。県道が通りそういう雰囲気に欠けるようになったが「大原山人」という人がいたことでもあそこはやはり橲原とにていた所だった。小高は縄文時代の遺跡が多いということは昔から貝などをはるのに適した場所だった。相馬藩でも山には山の役目があった。木材や馬の飼料となる草が多かった。だから馬を多く飼っていた。その馬は三春藩などにも売られた。葛尾村となると三春藩に近いから藩主が葛尾大臣が招待したというのもわかる。鉄作りでは鉄の素材となるものを請戸港から岩手県の宮古からも運んだ一大製鉄所として栄えた。製鉄となると大量の薪が必要になるから山の方がいいのである。
昭和38年には用地交渉中であったので、現地調査は東電の人とさとられないように若い女子社員を連れピクニックをする格好をして日曜日にサイト内を歩いた。5千分の一の航空写真化地形図を頼りに中央の沢を下って海岸に出ると、塩水を汲み上げていたパイプの配管が寸断されたまま沢の途中に残っていた。沢の上方に古ぼけた掘立小屋(若衆宿跡?)がありその北方に平坦で広大な塩田用地(元陸軍訓練所飛行場)があった。
http://tokyopastpresent.wordpress.com/2011/04/07/
そもそも夜ノ森は余の森であり相馬藩主が余の森として境界争いしたところである。だから原野の風景が明治以降も残っていた開墾されたのである。原発の位置としてはいわき市の昔の平からも離れているし相馬市からも離れているから適地だった。しかしこれほど相馬藩内が原発事故になり苦しむことは想像できなかった。それだけ原発問題は国民的にも県でも市町村でも隠されたものとして秘密のベ-ルのなかにありうかがい知れないものとしてあったのだ。それが今回の事故にもつながっていた。城のあった相馬市は辛うじて被害がまねがれたにしても相馬藩内はぐたぐたに傷ついた。回復されないほど傷ついてしまったのである。橲原村と大原村の地想学(トポス)
http://musubu.sblo.jp/article/43639625.html
2011年05月21日
津波で明らかになった南相馬市鹿島区の土地の高低
東日本大震災で津波被害を受けた宮城県から福島県にかけての太平洋岸では、「貞観地震」(869年)を挟み、約450〜800年間隔で大津波が起きていたとみられることが18日までに、産業技術総合研究所の分析で分かった。
http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011051801000727.html
人間がどのようにその土地で暮らすようになったか?それは自然の条件の制約の上に暮らすようになった。南相馬市の鹿島区を例にとれば最初に浮田国造(うきたくにのみやっこ)と文献にあり最初の国がこの地域にあった。その土地を見れば一目瞭然である。この辺では一番住みやすい所にあった。平地であり高い所だった。土地の高低はわかりにくいが鹿島の歴史をたどると自然条件に基づいて発展したことがわかる。浮田国造のある平地の高いところが最初に人が住み次に山際の高い所でありそして浮田の前の横手古墳群のある所から田中城のあった台田中が中心地になった。今回の津波でなぜ田中城があそこにあったかわかった。津波はすぐ近くまできたが田中城の回りまでは来ていなかった。田中城の回りは湿地帯だった。その前も湿地帯であり海が迫っていたのである。そして津波により土地の高低が浮き彫りにされた。真野川に沿った地点は両側は土地が低くあとから開墾された場所であった。だから小島田でも津波が六号線近くまで押し寄せたことに驚いた。島田とあるごとく湿地帯に島になっているような地形だったのだ。
それから右田ももちろんあとから開拓された場所であり大内村の前の田もそうだった。そして常磐線の鉄道の橋の下をくぐりぬけて塩崎(シオノサキ)まで津波が押し寄せていたことには驚いた。そこには船着という平安時代のものらしい地名も残っている。本当に船が来ていたからその名がついた。化石のような地名だった。そもそも塩崎というのもそこが海を前にしていたからその地名がついた。地名はそれだけ古いということである。その辺は低い土地だったのである。この土地の高低は歩いても見ていてもわからない、津波によってわかったのである。低い場所にはより深く津波がおしよせた。もともと塩崎は真野の入江とされてをり遠浅の海だった。みちのくの真野の萱原遠けれど面影にして見ゆというものを(笠女郎)・・・この有名な万葉の歌の草原は地名だったと自分が書いたがまさに草原は真野の入江の港だったのかもしれない、でも笠女郎はここには来ていないのだからここを面影にまで見るということがありうるのかということで疑問に思って書いたのである。結局以前として謎なのである。ただそこが深い入江であり船着という地名や市庭があった。品物を取引する場所があったとするとなんらか港の役割を果たしていたとなる。今回の津波で一番驚いたのは八沢浦が前の入江に戻ったことだった。満々と水をたたえる入江に戻ったこと奇跡のようだった。明治時代に開拓された場所だったから大昔のことではない、それにしても夢見ているようだった。磯部も全滅したらそこはもともとは砂州である地形がはっきりした。ちょうど北海道のような荒寥とした風景になったことに驚いた。北海道はまだまだそうした原初の地形のままに残っている所が多いからである。広大な砂浜が残っているからである。
右田の松原は江戸時代からの開拓で作られた。そこはもともと海だったのである。日本人は江戸時代に海の方へ開拓をすすめた。青松白砂の風景は人工の美として人間が作ったものである。そういう場所が各地にあることはそれだけ人間が開拓した場所が多かったということである。それが根こそぎ今回の津波で破壊された。この開拓も自然条件に逆らうものだったことは確かである。なぜそういう無理な開拓がつづいたかというと日本の土地は狭く人口を増やすのに限界に達していたのである。だから幕末辺りでは江戸時代ではすでに人口を増やすことができずグラフは横ばいになっていた。つまり江戸時代は開拓で田を作り人口を増やしたのである。それが海側への埋め立てや開拓でありそれが自然条件を無視したものでありやむをえなかった。それが今回の津波でもとの原初状態に戻ったのである。そして青松白砂の無数の松がなぎ倒され流された。それは信じられない風景だった。津波の猛威をまざまざと松に残したのである。でも500年周期くらいで大津波が来ているとしたら海側に開拓が進んだ江戸時代は仙台平野や福島県の浜通りでもそうした大きな津波はなかった。三陸にはあってもここにはなかったのである。それも500年単位になるととても人間の歴史の単位も越える。だから江戸時代から五百年はそんなことは考慮しないのである。平和のうちに危険だった場所の開拓はすすめられ人口は増えたのである。
今回の津波が明かにしたのは何なのか?それは五〇〇年が過ぎて大きい津波が来たことも忘却されていた。三陸は違っていたが仙台平野から福島県の浜通りについてはそうである。人間の記憶は五〇〇年もすると失われ忘れられる。人間は忘れやすいのである。忘れたころに災害がやってくるというのはそのためである。五〇〇年も何もなかったら全く忘れてしまう。三陸とここは違っていた。でも海は怖い、だから海側に住んでいる人は浪が海が押し寄せてくる夢を見る。小学校の前辺りまで浪がおしよせてくる夢を見ていたが現実になった。夢はどんなものでも現実化するのかもしれない、誰も隕石が落ちてくるような夢は見ない、それはほとんどありえないことだからだ。海は違っている。毎日接しているから恐怖の夢を見るのである。それが現実になったのである。人間は危険を察知すま能力か弱くなっているのかもしれない、あまりの文明化で機械化で人間の五感も直感も衰退した。これだけ情報化文明化しても人間は危険を察知する能力が衰退した。震度9の地震はスマトラでも起こっているし他でも起こっているからそこに注意していれば日本でも起こるのではないかと危険を感じることができたが不思議にスマトラのことは他人事であり警報装置がなかったから津波のことを知らないから被害が大きくなったと言っていた。日本人はこれだけ地震があるのに警戒していなかったことも不思議である。
人間は今やどこでも自然条件を無視して生活範囲を拡大化している。だから災害の被害は信じられないほど巨大化する。自然に制約されていればこういうことはない、海側にはそもそも人は住めなかったからである。三陸ももともと八沢浦のような入江でありもともと平地には人は住んでいなかったのである。でも平地が便利だから住むようになった。その平地を田にしたことも確かである。田にして米を作りすることが日本人の文明でもあったからだ。田を作るにしてもやはり文明というのは自然に逆らうことになるのだ。そしていかに文明が今や自然に逆らったものとなっているか?その一つが原子力事故でもあった。これも実際は自然に逆らうものであった。何故ならどうしてもとも自然にない物質、放射性物質を作り出すようなもの毒を作り出すようなものを作ること自体が自然に逆らうものだったからである。文明はそういうことで常に自然に神に呪われている側面があった。それが津波でまざまざと見たから驚いたのである。
2011年01月18日
郷土史は悪人がいないからつまらない?
郷土史は悪人がいないからつまらない?
私の郡山歴史考
http://blogs.yahoo.co.jp/asakayama1000/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%BF%B7%C5%C4&sk=1
ここは誰が書いたかわからないが著作権フリ-である。内容もある。郷土史には悪人がでてこないからつまらないと書いてあった。郷土史は郷土の悪人について書けないのである。岩松氏の悲劇を前に書いた。これは悪逆非道なこととして語り伝えられた。でも鎌倉時代のことであり500年前とかなるとすでに時効のはずだがそうでもない、その子孫が現実に相馬藩内に生きている。四天王の姓を受け継ぐ人が生きている。一人はその姓を変えたこともわかっている。ただその姓にしても分家しているし数が多くなっているから悪事としても忘れられてもいいものである。でもその歴史的事実を書けば自分の先祖がそんな悪いことをしたのかと500年前のことでもいい気分にはなれないのだ。だから郷土史では郷土のいいことしか書けない、俺の先祖の悪いこと書くなと抗議がくるかもしれない、そして自分の家の歴史が郷土史なのだがそれも書きにくい、その家のことがわかってしまいまずいこともあるからだ。だから郷土史でなかなか自分の家のことを書いていない、そこでは知られずに埋もれている。ただ自分の先祖が古いということを自慢する人はいるだろう。そういう点で郷土史はつまらないとなるのか、郷土史はあまり読まれていないのも事実だろう。泉官衙跡などでもそこには建物の遺跡だけであり人物が出てこないからつまらないとなる。どういう人物がいたかなど古代ではほとんどわからない、もちろん古代にも東北にも蝦夷にも人物はいても消されて残らなかったのだろう。人物が出てくるのは鎌倉時代以降である。それで岩松氏が鹿島区内に相馬藩内に一族が虐殺されたのでその子孫が残っていない、岩松氏の姓が相馬藩ではないからである。それは明かに一つの歴史の証となっているのだ。
それぞれが家の歴史を書けばそれが郷土史なんだけどそうれが書けない、そこに郷土史がつまらない、新しい発見がないとなる。ネタきれになりやすいことも確かである。
2010年12月12日
岡和田氏の謎
岡和田氏の謎
相馬一族。相馬胤村(孫五郎)の二男・相馬胤顕(五郎)が胤村の遺領分配によって陸奥国行方郡岡田村(福島県南相馬市小高区岡田)を与えられ、室町時代後期に「相馬」を改めて岡田を名乗った
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku32.htm
岡田重胤 (1608-1650)
中村藩御一家。相馬岡田家十三代当主。
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/okada3.htm
弟は木幡勘解由長清の遺跡を継いで木幡加左衛門貞清を名乗り・・・
●古館跡 久保畑にあり、古昔岡和田氏世々居る。今土垣なく悉く圃となる。応仁の乱の頃岡和田下総当邑(むら)を食(は)み其の子勘解由の子、遠江虎重其の子安房宗重北郷の兵士50余人の長として武功あり。(鹿島町誌)
●制野下総 (?〜1615年)
元和元年、片倉重綱に殉死した。
●片倉家臣団-岡和田太郎左衛門 (?〜1615年)
元和元年、片倉重綱に殉死した。
そもそも相馬氏系統に岡田氏も岡和田氏もいない、岡田氏となのったのは小高に岡田という地名があり岡田所領したから岡田氏をなのった。では岡和田氏は何なのか?応仁の乱の頃岡和田下総当邑(むら)を食(は)み・・と鹿島町誌に出ている。この意味がわかりにくいのだ。下総に岡和田村という所があったのか?それが不明である。和田村があっても岡和田村はないのだ。
岡和田氏は伊達氏の片倉家の一人にも仕えている。そして原町区に片倉村があるのはどういうことなのか?岡田重胤 (1608-1650)の弟が木幡勘解由長清であり重という名が受け継がれているから岡田氏と関係深いことは確かである。岡田→岡和田氏と分かれたからそうなったのか?岡田氏の系譜の中に岡和田氏があった-鹿島区の古館跡には岡田氏から分かれた岡和田氏が住んでそこが岡和田という地名化したとなる。他は地形を基にした地名が多いし姓を地名とすることはないがここだけは例外だったのだろうか?岡田氏の系譜に岡和田氏も入っているから有力である。ただもし姓が地名化するとしたらここに岡和田氏がいても不思議ではないがいない、中村城に出た岡和田氏がいて他にも分家した岡和田氏が上高平にいた。こういうことは栃窪氏とか小山田氏とかいる。その土地の村の名を他の土地で姓としている。そもそも岡和田の謎は岡和田下総当邑(むら)を食(は)み・・・というところにある。下総に岡和田村がありその村の名がここに移動してきたのかということである。確かなことは岡田氏の系統の中に岡和田村氏があったことは言える。
北海道に移住した岡和田村氏からのコメントがあったので調べてみたが明確なところは不明である。
南相馬市原町区上高平の五輪塔のある墓地の謎
http://musubu.sblo.jp/article/36245436.html
2010年12月04日
地名から南相馬市原町区の大原村をみる
地名から南相馬市原町区の大原村をみる
国魂太郎゛岩城氏の一族であり好嶋庄内の村々の地頭と同じ程度の名田を所有していた。
手作りとは名主の直営地のことで、佃(つくだ)、門田(かどた)、前田、内田などともいわれ、居館の近辺にあった。地頭、名主たちは土塁、堀をめぐらしてた居館に住んでいた。
堀の内、内城、御城、殿の前、竹の内、腰巻などの中世の名残と思われる地名がある。
(新しいイワキの歴史)
地名から歴史を探る場合、時代区分を明確にする必要がある。中世と江戸時代とかを区別する必要がある。中世の地名が多いからここは中世から人が住んでいて地名化したということを認識する。館とつくのはたいがい中世でありそこが生活の中心となった場所である。今の感覚だと生活の中心は鉄道の駅があるところとかさらに車社会になり道の駅が中心になったり常に中心は変動している。中世は館とか堀の内、内城、御城、殿の前、竹の内・・とかが中心地になっていた。その典型的な例が南相馬市の鹿島区の駅に近い「田中城」であった。城といっても江戸時代のような城ではない、堀をめぐらしたものであり田中城はそもそも回りが湿地帯であり橋が多く天然の要塞になっていた。あと館とつのには江垂の中館とか小高い山を根城としたところが多い。これも敵を防ぐ天然の要害だからそこを中心として生活があった。
大原の前田という所には病院で知り合った人が一人で住んでいる農家がある。古い家だと言っていたが確かに前田となっているとそうなのだろう。つまり家の前の田がまずその地域の中心地となり草分けとなった。そこから開墾されて田が拡大化していった。下田とあるのは下田が先にあったのではなく前田が先に人が住んで下田が開墾されたのだろう。そしてさらに上の方に坂を上ると遠田という字地名があり現実に隠れるように田が確かに坂をかなり上った所にあるのを知っている。それからさらに急な坂を上ると六地蔵が隠れるようにしてあった。これは今は誰も気づかない、堀がありコンクリ-トの壁を上った上にあったからだ。あそこを見る人はいない、あの六地蔵は江戸時代からあったものだろう。あそこが昔の道だったのだろう?橲原村と大原村の境界だったのだろう。江戸時代は村が行政の単位だから村の結束力が強いから境界は強く意識された。その境界に六地蔵が置かれた。ともかく米を作るためにあのような高い不便な所まで田を作ったのが日本だった。ネパ-ルでもあんな高い所高い所へと人が住んでいることに驚く、高ければ高いほどすみにくい、すみにくい所に土地を求めて移住する。遂には冗談ではなく天に到り天に土地を求めて耕すほかなくなっているのだ。でも2000メ-トルくらいまでが限度だろう。さらに上ると万年雪が残ってしまう領域になる。
上萱もネパ-ルと同じ事情であんな不便な高いところに住むようになった。養蚕とかが盛んな時代であり桑畑を作ったりしていた。炭焼きもしていた。でも戦後のことでありあそこに人が入ったのは新しいのである。大原に学校がありあそこから歩いてきて遅刻してしかられたというが上萱から大原まで歩いたら大変な距離である。坂道でもあるから歩いたら大変な労力である。でもそういう時代もあった。それから遂に土地を求めても土地がなくなり戦後は北朝鮮でもブラジルでも移民を募り外国に出て行った。そういう人は結構多い、アメリカで消息不明になった人が親戚にいた。実際は成功した人は少なく失敗して悲惨な生活に陥った人も多かったのである。
上萱(うえがや)は鹿島区の栃窪村に属していたが橲原村とかも近いから関係した。でも学校は大原とかなり大原の人があそこに入ったようでもある。山田という姓の家が二軒くらいあった。
その人は原町区に移り土を盛った粗末な墓があったがその墓も移動した。墓は人とともに移動する。でも土を盛った土饅頭の墓があったということはあそこで暮らしあそこで死んだ人がいたのだろうか。大倉の奥の二軒の一軒もなくなり墓も一つなくなっていたから墓も人が住まなくなれば移動するのである。大原村に前田とありさらに山田と地名がある。山田とはそこに住んでいた人かもしれない、小山田という姓があり小山田という地名もあるからだ。ともかく日本ではある程度地名からその土地の歴史がわかるのである。
大原に冬の陽没りぬあわれかな街は遠しも昔の暮らし
2010年12月01日
南相馬市立病院の同室の浪江町の富永氏の由来は?
ともかく平の方に野菜などを売っていた。浪江となると磐城との関係があった。その頃市場が磐城にあった。その頃小さな範囲ではない、大きな市場が平市に磐城地方に生まれたので大量生産するようになった。市場はだんだん拡大化して今やグロ-バル市場となったのである。近くに市場が形成されなければ農家も農産物を大量に売れないから豊になれないのである。それはどこでも同じである。中国でも都市近辺の農家は商品として大きな市場に農産物を大量に売るとき豊になったのである。大きな消費地がないと豊になれないのである。こうして市場に売れたからこそ娘四人も大学に出すことができたのである。そもそも浪江はもともとは古代に標葉郷であり標葉一族が勢力をもった地域であり。隣に楢葉があり標葉があり双葉郡は二つの葉からとってそうなった。
そこはあとで相馬氏と岩城氏との境界争いの場ともなった。相馬氏が勢力を伸ばして岩城氏は後退した。その中で標葉氏は相馬氏に組み入れられた。標葉氏は葛尾(かつろう)村の境界の津島までその領地であった。津島は今でも浪江町の行政下にあるのはそのためである。そこは三春藩と境を接する所でもあった。
富永雅楽助(刑部)
実名勝安。山城守政辰の二男。富永氏は代々北条氏に仕え、曾祖父山城守政直が北条早雲・氏綱・氏康に仕え江戸城を守った。祖父神四郎直勝は江戸城に加え、葛西城将となるも、永禄七年鴻台で討死した。父政辰は北条氏政の一字を賜っている。政辰の嫡男(勝安の兄)は直則で幕府旗本となった。(「諸士」)
富永という姓はそれなりに由緒あるもので鎌倉時代の北条氏系統につながる。千葉氏とは縁がそれほどなくてどういう経路で浪江の請戸に来たのか不明である。相馬藩ではそれほど有力な一族ではない、浪江からも野馬追いに出る家がある。浪江の標葉氏は相馬藩に組み入れられて野馬追いに出る。浪江から南になると相馬藩に組み入れられるのはのちのことで野馬追いに出る家がない、浪江となるとやはり磐城との関係が深くなる。距離的に地政学的にそうなってくる。
権現堂城は標葉(しねは)氏の居城であった。標葉氏は代々、太平洋に近い平野部の請戸館を居館としていたが、防御力の不備から、本城館を築いて移ったという。室町時代中期の嘉吉年間頃(1441〜44)のことであるといい、時の城主は標葉清隆であった。
http://homepage3.nifty.com/otakeya/hukusima/namiemati.htm
請戸は古い地域である。だから中世から標葉氏が根拠とする城がありあとで権現堂の地域に移り相馬氏の支配下に入った。富永氏も鎌倉時代に請戸に入ってきたのか、請戸港も古く
岩手県の宮古から鉄になる素材を葛尾(かつろう)村に運び葛尾(かつろう)大尽が製鉄して三春藩などに売っていた。三春藩は近いから第一のお得意先になっていた。それで葛尾大尽の屋敷に呼ばれて歓待されたのである。その屋敷跡が葛尾村に残っているのは知られている。
津島を通って塩の道もあり塩も浪江から運ばれていた。棚塩とある地名は塩がとれた地域である。請戸港まで行くと相当に広い田が広がっているから、15町分という広さをもてる地域であった。浪江駅から山は近いが海の方に平野が広がっている。海の方に向かって広がった地域である。請戸地域に平坦地が多いのだから請戸に標葉氏の根拠地があったことがうなづける。江戸時代でも塩がとれる、塩を売る、鉄の素材を運ぶ、魚もとれるとかそれなりに豊かな地域だったともなる。富永も富が永くつづくという縁起のいい姓であり今の静岡県を三河を中心にして全国に富永の姓は広がっている。
2010年06月07日
相馬藩の地理的一体感

相馬藩の魅力はやはり地理からはじまっている。この地理をわかるのはそこに長年住んでいる人でないとわからないだろう。福島県になると大きすぎてもはや地理的一体感がもてない、会津は全く別の一国であり地理的一体感がもてない、相馬藩の地理的一体感は狭い地域だから持ちやすい、丸森が伊達藩だったけど一時は金山城が相馬藩に属していたから相馬藩だった。ではなぜ丸森町が伊達藩になったかというと角田から平地がつづき丸森まで伸びていたからである。一方相馬藩は山にさえぎられたから丸森を支配できなかったのである。これも地理がわかれば納得する。飯館は一見標高が高く相馬藩に地理的になりにくい面もあったがそれなりに地理的に一体感も持ちうるものでもありえた。塩の道などを通じて経済的一体感も持ち得た。飯館や葛尾村には森林資源があったから相馬藩ではその資源を必要としていたから相身互いだったのである。
相馬藩内はそれなりに地理も複雑である。阿武隈高原を擁して平地が海沿いに広がる。海と山との国となる。国見山から一望できたのは合併した南相馬市(小高、原町、鹿島)だった。まさに国見山でありこの三つの市町村は地理的に合併するにふさわしかったのである。飯館村は合併しなかったがもともと相馬藩内であり山中郷として野馬追いにもでていたから連続したものとしてあったのだ。
相馬藩が外から研究されるとき国替えがなく代々相馬藩は相馬氏に受け継がれてきたことである。だから資料としても研究されやすいことがある。相馬藩政期なども膨大な資料として残されているからである。相馬藩内でもいろいろ俳句短歌で紹介してきたが地理が複雑だし魅力的なことを再認識した。山あり川あり海ありだとなる。ただ海は磯がないから魅力がないことはいえる。久之浜の方にいかないと磯がないから磯遊びなどあそこしかできないのがつまらないとなる。ただこの相馬藩内でも地理的にも歴史的にもそれぞれ色合いが違うのである。特にいち早く近代化したもとの原町市は相馬地方の中心地帯となった。相馬市は城跡のあるところだったが原町市の方が近代化して発展したのである。それが南相馬市となったときわかりにくい、相馬市の南か、相馬市が中心で南相馬市は付属しているのかくらいにしか思われなくなった。他の人は地理も歴史もわからないから名前だけから判断する他ないからだ。どこの地域でも相馬藩のような地理があり歴史がある。それは外から一回くらい行ってもわかりにくいのである。
ただインタ-ネットなどで紹介すればその狭い地域でもいろいろあるんだなと知ることになる。
インタ-ネットの強みは全国の人が見ていることなのだ。日本全国に放送することはやはり今までありえないことであり絶えず地方から情報が発信されるようになったのである。いろいろ相馬郷土史研究でも書いてきたがもっとそれぞれの立場で書く人はいるだろう。書くべきものもあるだろう。こうした狭い範囲でもやはり郷土史の研究はとても一人でできるものではない、様々な角度から探求する必要があるのだ。そのためにはまず地理を知ることなのである。相馬藩を一つの宇宙として一体感を高めるのである。相馬藩そういう点で野馬追いとかあるから一体を持ちやすい面はあるのだ。つまり一つの世界としてちょうど一日の範囲で行けるような地理感覚なのである。会津とか伊達藩になると大きすぎるのだ。とても地理的感覚で一体感を持ち得ない世界である。狭い地域だからこそ自己同一性-アイデインティティが持ちやすいということがある。アイデインティティも新しく再構成する必要があるのだ。常に時代は変化しているし何がアイデインティティなのかも変わってきているのである。現代はグロ-バル化したからこのアイデインティティをどこに見出していいかわからない、経済規模が世界大に拡大してもではアイデインティティはやはりその土地に根ざしてculture(文化)が形成されてきたのである。相馬藩はほとんど隈なく歩いているから自分の中で地理的一体感をもてる。相馬藩内は一つの世界としてアイデインティティを持つのには適当な規模なのである。日本だって実際は広すぎるからだ。
2010年06月04日
黒揚羽(国見山から飯館へ-2)
何やらの草の実あまし夏の朝
滝壺に黒揚羽舞いひそむ魚
木漏れ日やトオスミかすか飛びにけり
飯館の広々として新緑に風の涼しくわたりそよぎぬ
飯館に日のなお暮れじ明るさや遠くに望む夏の峰かな
山藤のふさに垂れにき風そよぎ飯館の道長くつづけり
六号線のところに赤い実がなっていた。それがグミではない、グミは酸っぱいがあれは小さく甘い、それが何とも甘美だった。つまり無料で食べた味がなんともいえぬのだ。それも自然から得られたものだから格別だった。人の手からわたるものはうまくてもそこには常に代価が必要とされる。苦労して作ったものだからということでただで食べるわけにはいかない、そうだったとしてもなんか悪いなとか遊んで暮らすものは他人の労働から無料で食べるわけにはいかないとかなる。ところが自然の中にもしなっていた実だとしたら誰もとがめるものはいない、純粋な神からの賜物(たももの)となるから格別に甘美なものとなるのだ。エデンの園ではそうして純粋に神からの賜物として食料を得ていたのだろう。自然に生きるものの幸福は神からの賜物だげで暮らしているからである。一番甘美な食料はマナだったのである。人間が労働して栽培したものではない、神から純粋の賜物として与えられたものである。
高倉ダムから流れをさかのぼった所にある滝はたいしたものではない、あそこには魚もいないかもしれない、でもあそこは車が日に何台かしか通らない、涼しく風がそよいですぎてゆくだけである。そこにじっとしているだけで気持ちいい、そこには社会の喧噪は及ばない世界である。ただあそこまで行くのは結構大変だった。運動すると体に異常が出るようになった。登山して電動自転車でも乗れば体に答えた。でも自転車だと涼しい風とか感じるが車だと感じない、それでも暑い光をさえぎるから楽である。車を運転できる女性と結婚すればいいというのは確かにそうである。そうすれば遠くにも行けることになる。車はそれだけ便利なものなのである。でもどこの家でも車の事故にあっているからいやである。自分の場合は車の運転には向いていない、常によそ見しているし考えことしたりしているから事故にあいやすいから乗らないのだ。
飯館村が気持ちいいのは広々とした地域に家が隠れるように点在しているからである。道にしても車が通るのが少ないからいたるところ涼しい木陰をなしている。飯館村は静寂の度合いが違ってくる。原町より小高や鹿島が静寂があるがさらに町より飯館村は静寂の度合いが深まるのだ。飯館村に住んだらいろいろ不便でもその静寂の中で別な神秘的体験をするのではないだろうか?暮らしのことは別として深い自然の癒しがあそこにはある。ただきれいな水の流れがないことが残念である。前は一カ所山陰にあったが道になりなくなった。流れは寸断されてしまったから自然な流れではない、夏になるとやはりきれいな流れがあると癒されるのだ。会津の方にきれいな流れが多い、あれだけ高い山があるのだから当然だなる。ただ会津は地理的にわかりにくい地域なのだ。
やはり夏は涼しさを求める、本当の涼しさは自然にあり自然を離れたら本当の涼しさはなくなる、ク-ラ-も不自然なものであり飯館のような高原に棲めば全体が自然のク-ラ-になっているのだ。
2010年04月05日
新地の地勢は日本の典型(鹿狼山の伝説など)

新地の地勢は日本の典型(鹿狼山の伝説など)
手長明神は年を経た鹿を愛し、白狼を馴らして連れ歩いた。山頂から長い手で海から貝を取って食べ、その貝殻を捨てた所を貝塚屋敷という。相馬郡の方のふもと新地の小川部落にあった。
浜から離れた場所で貝殻が発見されるため、手長明神が長い手で海から貝をつかんで食事した場所だったという伝承が残っており、その社の跡も残っています。
http://www.mahoron.fks.ed.jp/bunkazai/264.htm
歴史が地理だと書く度に指摘しているけど、それが一番身近な住んでいるところでも地理がわからないのだ。そこに長年住んでいても地理の感覚は身につかない、新地などすぐ近くだからわかりきったところじゃないかとなるそうでもない、新地の地理的特徴は同じ浜通りでも特殊なのである。山と海が近接している、海までの距離が一番近いのである。新地駅からのみ太平洋が見えることでもわかる、ここが海なのか、歩いて行けるなという距離なのである。鹿狼山も浜通りでは最も海に近い高い山だから手長明神の伝説が生まれるにふさわしかった。伝説であれ何の根拠もなく生まれない、ここでは明らかに地理が歴史を説明している。手長明神のある所、手の長い神が貝をとって食べて捨てたという貝塚との距離感が現実的なのである。縄文時代は海が奥に入っていたからさらに距離的に貝をとるにはいい場所だった。その頃沖まで行って魚をとるという技術はもっていないから貝中心の食生活になったのだ。鹿狼は当て字でありガロウという音に漢字をあてたのだから鹿狼と漢字でなってるからそのあとにこんな伝説を作った。地名伝説にはそういうのが多い、鹿と狼は関係ないのである。ごろごろした山とかの意味である。
鹿狼山の麓あたりは海から一段と高いところになっていて住みやすい所だった。海と山が近接しているから海の幸、山の幸に恵まれていることになる。また縄文時代は湿地帯が多いから人は高台に住んでいた。すると新地には海のすぐ後ろが高台になっている。間に平地があっても距離が短いのである。最初は平地は住みにくい湿地帯であり人は住めなかった。高台が住むに適していた。だから新地は最初に人が住みやすい場所であり手長明神の伝説が生まれたのも今でも地理がわかれば納得するのだ。松川浦とか真野川とか他は山はずっと背後になっているからだ。その分湿地帯が広範囲にありどうしても松川浦もその湿地帯の中にあったから万葉集の歌(松がうらにさわゑうら立ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも)・・・・はありえないと考証したのである。これも地理がわかればそうなるのだ。
鹿狼山の麓の杉の目に生まれ育った人の農家は水に恵まれていた。山の清水を家にとりこんでいた。三段の水槽にその水を流し入れて鯉を飼っていた。そこで子供のとき泳いでいたし風呂の水もその清水を利用していたから水で苦労したことがないという、これも鹿狼山が海に近くても山が近接しているからそうなったのだ。他では相馬市でも南相馬市でも山は相当背後にあり清水は出ない、鹿狼山のような大きな山が迫っているから清水がでてくる。他にも新地には清水で有名な場所が二カ所ほどありその清水をとりにゆく人がある。それはやはり山が近くに迫っているためである。町では前にも書いたようにもらい水である。水道がないときは自分の家では風呂の水は近くの江戸からバケツで運んでいた。子供のときそのバケツで水を運ぶことが家族総出で大変だったので文集にそのことを書いたのである。水をもらうことはまた井戸がない家にとっては苦労となる。「水をください」と頼まねばならないからである。新地では水に恵まれていたことは山と海が近接していたから山の幸と海の幸に恵まれていたことになる。平地の幸、米作りは後から湿地帯を苦労して人力で作り出したものである。縄文時代は海彦山彦の時代であり海の幸、山の幸の時代である。その典型的な地形が新地にあったのである。
ともかく日本では水だけには恵まれている。海から山へと行けばそこには豊富な水が流れている、その水もきれいであり飲めるから外国ではこんなに水に恵まれているのに驚くだろう。外国では川でも泥川が多いのである。水が飲めるような川などみかけないのだ。ともかく水道がない時代は水に苦労しない山の人は恵まれていた。山がすべて今のように悪いイメ-ジとはならない、木材が使用されていたときはそれで大儲けした人もいるからだ。新地でも「父の共有林」という話がインタ-ネットに出ていたが杉の目の人は知らない、その時すでに牛は使っていない、その前の代になっていたからだろう。人間は近くでも経験していることがかなり違っているのだ。そもそも海の幸と山の幸の国だとすると海の幸で生きる人と山の幸で生きる人はかなり違っているから海彦山彦の物語が生まれたのである。
(郷土史研究(水の問題)
http://musubu.sblo.jp/article/17441829.html
2010年03月31日
郷土史研究の意義-アイディンティティの基を見直す
郷土史研究の意義-アイディンティティの基を見直す
●空間的地理的認識がアイディンティティの基
大和は国のまほろば たたなづく.青垣 山こもれる 大和しうるわし (古事記).
大和の国の認識は奈良盆地に行けばわかるが回りを囲む青垣山なのである。大和(ヤマト)は極小さな一地域名に過ぎなかった。それが国の名前にまでなった。青垣山というと奈良盆地を囲む山であっても小さくはない、その中の平野は相当に広大なのである。それだけの広い地域を国のまほろばと認識していた。それだけの空間認識があった。そこが自分たちの生きる故郷だという認識があった。村単位で暮らしている人がそれだけの広い空間を故郷と認識していた。これもやはり空間的に認識しやすい場所だったからそうなった。日本では山に閉ざされてさえぎられるから自分たちの国を故郷を一体のものとして空間認識することはむずかしい。だから相馬藩というとどうしても飯館は地理的に隔絶しているから一体として認識しにくく飯館村は独立した村として残ったのである。ハマ、ナカ、アイヅというのは福島県を地理的に空間認識した結果である。空間的地理的認識としてのアイディンティティはそうなる。浜通りは海に面している地域であり中通りと会津が別にある。会津は広大な山国の地域である。別な一国でもあった。相馬藩の地理的空間認識はこれも確かにある。三春とか川俣とかが境になるが山にさえぎられるからこの山の向こうは別な世界、藩だという意識がでてくる。そういう意識は歴史的にも作られてきた。だから江戸時代は境が重要であった。つまり藩中心の生活でありアイディティティの中に生活していたのだ。そういう生活は拘束されているとか狭い中に閉ざされている感覚になるけど人間の基盤は自然村的に作られるのではないか、人間は福島県すら空間的に地理的に認識できないことをみればわかる。福島県ですら認識の範囲を越えているのだ。
日本が比較的空間地理的認識で一体感をもったのは海に囲まれている島国であるから観念的にも一つの国土として認識しやすいからだった。でも内部は山国であり実際は空間的地理的認識がむずかしい国だった。福島県すら空間的地理的に一体感をもてない、他でももてない、だから中国などは余りに広すぎてどうして空間的地理的に一体感が持てるのか?だから万里長城のようなとてつもない国境を自ら作る他なかったのである。それは空間的地理的に作られたものではない、人為的に作られた国境であり空間認識である。
●人間の空間的地理的認識は限定される
江戸時代は藩中心の世界であり世界観が基としてあった。実質的生活も藩中心であり自分のアイディティティをもつことが容易であった。どういう世界に所属しているのか空間的地理的認識として自然に身についたのである。そういう世界に生きることは精神的に安定する。強固なアイディティティの地盤があればそこから人間は一つの世界観を作りやすい、でもそういう世界がないとき人間は混沌(カオス)のなかにほうりこまれて自分のアイディンティティを築くことができない、現代とはまさに経済的にはグロ-バル化しても他国の人と精神的に通じ合っている世界ではない、ただモノを交換しているだけである。アイディンティティは余りにも広いと築くことがむずかしい、中国とかアメリカになるとどうして国民としての自覚がもちえるのだろうかと思う。中国はだから一見大きな国でも一体感がなくまとまりがなく他国にも蹂躙しやすいものとなっていた。アメリカも国としての一体感が薄弱だから絶えず他国として戦争して勝利して一体感を保つということがある。生死をかけて戦争すれば否が応にも一体感が高まるからだ。相馬藩にしても戦国時代もそうだった。伊達に抗い戦うために野馬追いが軍事訓練として行われた。そのことが伊達に支配されずに相馬藩が残ったともいえる。伊達に抗することにより一体感がもてたのである。
日本人のアイディンティティの基礎が村にあった。その無数の姓が村の地名にあったことでもわかる。つまり血縁よりその共に共同する土地と一体化した村にあった。外国では血縁が重視されるのはあまりにも国土が広すぎるということが逆にあった。小さな地域に分化されていればそこでアイディンティティが築きやすいからだ。そして土地とか空間は実質的には変わっていない面が多くなるのだ。人間はその間にめまぐるしく変わっている、血縁もいつまでもつづくわけではない、だから相馬氏として氏から相馬藩の一体感を持っているのは日本ではそんなにない、村からその土地として一体感をアイディンティティをもって生きてきたのである。相馬では相馬野馬追いが継続されているから相馬氏として氏の一体感をもち得たが他ではもちえない、伊達でも伊達氏の一族だと確かにその子孫は思っていてもその住民はそうした意識は喪失している、仙台でも他から入ってきた人が多いからである。
今またなぜ地方意識が高まっているのか?江戸時代への回帰が地方分権とかで実質的にも望まれるのか?それは人間の空間地理的認識は限られている、一挙に日本全国を俯瞰するようなことかできない、もちろん地球だったら余計にそうである。人間は狭い限定された範囲でしか物事を本当は認識できない、福島県を一体として認識できていないことでもわかる。福島県だけでもそれだけ広いし複雑だからそうなるのだ。文明は交通の発達でグロ-バル化しても人間が空間認識できる範囲が広がったわけではない、人間は限定された狭い範囲でしか認識できないしアイディンティティも築けない、限定された中で一体感を深めることはできる、でもこれが一挙に拡大化すると認識できなくなる。現代の混乱はここから起きている。アイディンティティとなる基盤の喪失なのだ。そんな狭い中で自分の生活を閉ざしてしまうこと時代遅れているというのも言える。でも東京のような一千万都市のようになったらどうして空間的地理的認識として一体感とかない、アトム(原子)化した世界であり原子爆弾が破裂してもおかしくない状態にある。そういう中で精神の安定を保つこと自体不可能である。「相馬郷土史研究」でいろいろ探求してきたことはやはりそうした混沌化したアイディンティティ喪失の時代に江戸時代に回帰して大地からアイディンティティを築く作業としてあった。そこに意義があった。教育にしても今までのような中央志向ではない、藩校みたいなのが望まれるのかもしれない、明治時代はどうしても過度の中央集権的、富国強兵の工業化としての一律教育であった。それは人間を規格化して大量生産に合わせるということでもあった。地域独自の世界観や文化も例えは方言なども標準化しして否定されたことでもわかる。それは文化の破壊でもあったのだ。グロ-バル化した反面に地域への回帰も同時に起こっているのだ。だらか山村などの過疎化はそうした地域を一部でも破壊するからアイディンティティを破壊するから問題なのである。経済的合理性だけで国土を考えていいのかという問題があるのだ。

2009年12月25日
相馬市成田の竹内氏の姓の由来
丸森
「竹の内」は「館(たて)の内」がなまった地名として、城館跡に時々見かけられるものである
武(竹)城について
http://homepage3.nifty.com/azusa/saitama/okegawasi.htm
弘化5年(嘉永元年・1848)である。一月早々、勘定組頭の竹内清太郎氏と面談した池田家老から「二宮氏の仕法が民間に益あることは一通りではない。自分も是非これを聞きたい。代官出府の節は自分からもよく話し合おう。なお富田には自分も面会したい。何時にても罷り越されるよう」という竹内氏の言葉を聞かされた。(日記・書簡2)
相馬藩政期
他に標葉郷軍者の武内殿・・・・とあるとき武内は竹内が変化したものである。竹内の姓は竹の内がありその地名をとって竹内とした。鹿島区の塩崎の大岩は地名としてあり越中から移ってきてもその大岩を姓としたのかもしれない、その土地の名を名乗ることがよくある。相馬氏は移住しても相馬という地名をこの地につけていないのだ。中村・・・となのる人はいた。中村は村の名だからそうなった。黒木というのも地名として先にありその地名を姓とする武家がいたのである。いづれにしろ竹内の姓の起こりは竹の内にあることは間違いない、竹内氏が移住して地名となったのではない、前から竹の内という地名がありその土地の名を姓としたのである。
2009年12月18日
相馬藩内の人の移動について
相馬藩内の人の移動について
南相馬市の鹿島区でも原町区でも前は鹿島町であり原町市であって街としてあり中心だったがもともとは鹿島村であり原町村だった。原町市が原町村だったというのは意外お思うかもしれないが原町村からは野馬追いに一つの姓で一つの旗しか記録のっていないのだ。他の村はいくつも旗が記されているから昔から農家として郷士が住み着いていたのである。一地域内にも人の移動がある。大きな移動は相馬氏の移住だった。次に大きな移動は越中や薩摩など全国にわたり相馬藩は飢饉に陥って人工が激減したとき三分の一くらい減ったとき相馬藩では「相馬、相馬と草木もなびく・・・」と民謡のコマ-シャルソングを作り全国から人を呼び寄せたのだ。だから鹿島区に薩摩内とか他にも九州地名が残っている。なぜ九州の方からまで相馬に来たのかというと様々な事情があった。薩摩に真宗が広まったのは越中などの薬売りが広めた。薩摩とは薬を通して深くかかわっていたのである。真宗が薩摩で禁止されて移住したとかあるのは薩摩と越中が薬を通して結ばれていたからである。相馬藩内で移民の影響はかなり大きかった。相馬藩の墓所を見れば必ず真宗系の墓が二割三割とありその影響を如実に知る。
今日見た六号線の脇の川子の小高い山の上の八龍神社のあるところから下ったところの墓所は三分の二くらい真宗系の墓であり越中などの移民でしめられていた。ここは集中的に越中の移民が住んだ場所だった。
富山の薬売りと薩摩藩」の周辺
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2008/07/magn_8ec0.html
●鹿島区塩崎からの鹿島町への移動(中田氏など)
塩崎の中田氏は文政十年十月、越中砺波郡中田村より当地に来る
中田氏と大岩氏は一緒に来た
記録にはこうあるがこれは塩崎であり川子ではない、でも川子にも越中系の移民が多く住んだのである。塩崎から川子へと移民は拡大して住んだ。塩崎は越中の移民が多い場所だった。
中田とか大岩という姓は実際に鹿島区の鹿島町内にその姓の人が住んでいてその子孫である。もともと農家だったのだが町にきて大工とか菓子屋とかその他商売やら職人となって町を形成した。町はまず近郊の在-農村から移動した人たちによって人が集まり形成された。だから代々続いている家は少ない、でも農家だった家は町のなかでもかなりある。その家は広い庭と敷地をもっていたし今ももっている家がある。その家は古い家なのである。そのあとに職人や商売する人がすみついたのである。面白いのは鹿島区の鹿島村の橲原(じさばら)に橲原田がある。これも橲原の人が移り住んで田を作ってなづけた。橲原(じさばら)という奥から鹿島村に移り新しく田を作ったという不思議があるのだ。中田氏については明確だが大岩氏は大岩村から移り住んだのだろうか?不思議なのは詳細な字を記した地図に大岩下とある。これも地名だとするとこの大岩から大岩の姓となったのか、越中から移住したとなるともともと大岩姓だったのか、移住しても土地の名前をとることがある。相馬氏は移住しても相馬という地名はなかった。土地の名前の中村をとって中村と名乗る人はいた。とするとここに大岩という地名がありその地名を名にしたのか、この辺が混乱するのが姓と地名の関係なのである。


●明治になってからの人の移動
相馬藩は小さいから中村市(今の相馬市)に城が作られてもそこに城勤めする人は少ない、郷士として農家として住み着いた。農業と武士の兼業だった。相馬藩で一揆が起こらなかったのは農民のなかに郷士が多く武士が多いから純粋の農民が少ないから不満があっても反乱できなかった。北朝鮮では兵士の数が多い、農民のなかにも兵士がどこでも交じっているからなかなか農民が苦しくても反乱を起こせないという、監視役の兵士がいたるところにいるからだ。明治維新で郷士が武士階級が廃止されると武士は失業したのだから職探しが大変だった。それで北海道への移民が推奨され武士が大量に移動した。仙台藩は伊達氏は大打撃を受けたし武士の数も多かったから移住した先が伊達氏となった。ゲルマン人の移動ではないが社会の大変革時期には大きな人の移動が起こる。絶えず人は移住している。小さい地域内でも移住しているのだ。また移住を強いられる運命にもあるのが人間である。一カ所で人が住むにも人が増えれば耕作地域を広げねばならない、それで分家して新しい土地を耕すことになる。明治維新でもやはり農業中心であり開墾することが新しく住む地域を広げることだった。それで相馬藩の中村の城下の武士は鹿島区の八沢浦を干拓して移り住んだ。田の中に妙見神社があるからわかる。普通は田の中には妙見神社はあまりないだろう。つまり城下に住んだ武士はまた郷士のように農業に帰ったのである。その頃まだ農業が主産業でありそれで人を養うほかなかった。相馬藩でも北海道にかなり移住した。どこだか不明になったが鹿島区江垂の宝財(ほうさい)踊りをしていた町があった。祭りも北海道に移民した人がそのまま伝えたのである。その後も人の移住はつづいた。遂には農耕地を開墾地を外国までにも求めるようになった。満州がそうでありそれが戦争にもつながったのである。日本にはもう開墾する土地がない、外国しかない、満州はどでかい、いくらでも土地はあるとなり移住が戦争となり悲劇を生んだのである。ゲルマン人の移動でないにしろ移住することが戦争になることがある。アメリカも移民がインディアンを殺戮してできた国であった。戦後も土地を求めて移民はつづいた。アメリカにもブラジルにもペル-にも移民がつづき藤森大統領まで出たことでもわかる。農業は土地が必要だから土地を求めて移動するようになるのだ。二十世紀になり工業化したが基本的には農業中心の世界だったのである。
原町の名の起こり
http://musubu.sblo.jp/article/25384267.html
八沢浦の妙見の祠
2009年12月10日
なぜ棚田が作られたか?
なぜ棚田が作られたか?
棚田について
http://highknowledge.seesaa.net/article/118728697.html
棚田などない方がいい、棚田ほど非効率的なものはない、なぜこんな棚田を山の中に苦労して作ったのかという疑問を書いている。このプログは東京から四国の山間部で農業をはじめた30才の人が書いている。これほどしっかりしているなら東京からこんな辺鄙な場所でも根付くことができる。自分は農業のことを語るのとは実際の経験から地に足をついて語っている。自分は田舎に住んでいても農業のことがほとんどわからないことがこのプログを読んでわかった。農業はこれほど奥深いものなのである。農業とはこのプログのように実地に経験しない限りわからない、この人は東京から来て自然とか農業のことを実地で経験した。そこでは次々と新しい発見の世界だったから東京からこんな辺鄙な田舎に移って農業した意義があった。これだけしっかりしているからこそ農業を新鮮な世界として体験しているのだ。農業をしている人は金にならないとか不満しか言わない人もいる。逆に東京から来てこれだけ自然と結びついた農業に新しい発見の生活をしている人もいるのだ。これも30才だからできたことかもしれない、団塊の世代などが田舎に憧れるのは危険である。体力的にも精神的にも田舎暮らしをはじめるのが遅すぎるからだ。若いなら適応力があるが田舎暮らしをのんびりとなどできない、農業も無理である。やはり地方の大都市が老後には向いているのだ。
ここで私が前にも書いたが棚田を作ることは大変な努力が必要でありなぜこうしたものを作ったのかという素朴な疑問を出している。それは結局、米作りする場所がないためである。ネパ-ルに行ってみればわかる。まるで天に届くような所に家がある。そんなところにどうして住むんだとなる。不便なところへ住むところが拡大化したのは分家したとしても土地がないのだから土地を求めて不便な所へ住むほかないのである。まるでもう耕す場所が天になってしまう。耕して天に至るとは実感である。棚田は天まで耕すとかいわれて美しいというがそれはかえってそうしなければもう耕す場所がないからだった。冗談じゃなくてネパ-ルでは天に達しして天に家があり天に畑を作るほかないような世界になっているのだ。
南相馬市の鹿島区栃窪の上萱(うえがや)も相当山の上の不便なところである。そこは塩の道があっても古い村ではない、戦後に開拓に入った新しい場所なのである。戦後も生活は農地を開拓することがつづいていたのである。だからあんな辺鄙な場所に開拓に入ったのである。今では誰も住んでない、廃村になった。 飯館村でも大倉からの坂を越えた場所にある二軒の家も新しく開拓に入った家であり一軒は廃屋になった。あんな不便なところに昔から住んではいなかったのである。人間はそもそも不便な所には住まない、住む場所がないから仕方なく不便な場所に住むようになる。その不便な場所でなんとか米作りする場を確保するために棚田ができた。それが外から来た人は棚田を作る苦労がどれほどのものか知らずただ美しいと美的なものとして見る。そこに実地に生活してみれば棚田など必要ないという発想になる。地名も実用的なものから名づけられたのであり詩的なものとして単なるイメ-ジでは名づけられていない、そもそも奈良が均す(ならす)から来た言葉であり営々とその土地を耕作に適したものとして均す作業が奈良の都を作ったとなるからだ。平地でもそこに人間の労苦があり住みやすいように作られてきたのでありそこが都となったのである。住みにくい場所でもなんとか住みやすいように努力するのが人間である。それで棚田を作るようになった。米を食べたい、米を作る場所を広げたいということで棚田が作られてきたのである。
山深く棚田に実り営々と労苦のありてここに暮らしぬ
この労苦を象徴しているのが中国の黄土高原なのだ。中国人とは労苦の民である。黄土高原には木がない、日本より索漠としている。黄土高原では土の洞を家として生活していた。中国は沿海部ではすでに文明の最先端の生活をしているが奥地では原始時代に毛のはえたような生活をしている人がいる。鎌一つで麦刈りに出稼ぎに来た人がいたが今はコンバインの時代であり人より百倍千倍も労働量に差があるのだから原始時代から一飛びに文明時代に突入しているのだ。
隠し田
http://blog.livedoor.jp/apec_pe/archives/cat_971663.html
棚田は隠し田でもあった。隠し田を作るのも棚田を作ると同じ苦労があった。これもなんとか米を税として納めることから逃れるために目立たないように米作りには適さない隠れた場所に作られた。それもわずかな土地である。鹿島区の隠町とかもそうである。越中から来た移民などが隠れて作った田かもしれない、なぜなら移民だからもともと土地を与えられていなかったからである。わずかの土地をこっそりと拓き作っていたのが地名化したのかもしれない、それが字地名として残ったのかもしれない、隠し田の話が多いのも今も税金逃れが多いのと同じなのである。ここにも生きるための農民の必死の努力があったのである。そういう努力は今になると忘れ去られているのだ。農民さえ忘れているだろう。これは農民だけではない、過去の先人の労苦は忘れられ安いのだ。これは別に職業に関係ない、人の労苦は忘れられやすい、老人が話す苦労話も伝えられなくなる。戦争の話などもそうである。戦争でなくてもたいがい今の80才以上の老人は何かと苦労が多い世代だったから苦労話がある。例えば継母(ままはは)にいじめられた話が良く残っているがそういうことを身近に聞いたのでそいうことは昔からあったことだと納得して同情したのである。人間は苦労話でも自分が体験したりしないと実感がでてこないから老人の話でも良くきかないのである。だから前にも書いたように郷土史は祖父母の話を聞くことからはじまる。それが一番身近な郷土史になるからだ。