2023年11月28日

地名は方角地名が基本‐相馬藩の妙見信仰の由来


地名は方角地名が基本‐相馬藩の妙見信仰の由来

●東(あずま)の由来

 古代におけるツマという語のこうした用法は、アヅマにもまたその対偶項が存したことを暗示する。むろん大和を座標としての話だが、一方の端がアヅマなら他方の端をなすのはサツマだという関係になるのではなかろうか。ヤマトタケルの物語で、クマソとエミシの征討のことがサツマとアヅマのこととして対応するかのように語られているのも、両者のこうした相関を暗示する。さきに宇宙的方位における東と西、大和と出雲の対立にふれたが、空間も同質ではなく、大和を中心とするヒエラーキーがそこに存したといっていい。
西郷信綱は「古事記註釈

地名で一番多いのは方角地名である。東西南北と名付けた地名が多い。大きく方角地名となるとき世界では東と西に分かれる。東は東洋であり西は西洋である。東洋文明と西洋文明にも別れる。
日本でも東西に別れる。その分かれ目が関ヶ原でありそこで家康の東軍と石田三成の西軍は戦ったことでもわかる。天下分け目の戦いがそこでおこなわれた。関ヶ原から東が東でありそこは日本から見れば東西の分かれ目だった。ただ東というときここに述べられているように妻だとするときそれは端の意味であり中央から見れば端になる。そもそも妻というときは端に居ると言う人にもなる。

方角地名を見る時大事なのはどこがどこを中心として見ているかである。日本だったら大和【奈良】を中心にしてみているからその端となると東【あづま】になり薩摩【さつま】となる。例えば南相馬市だと相馬市に城下町がある。だからその相馬市が中心でその南にあるということで南相馬市になった。またもともとは最初に相馬市の城が作られてその北にあるということで鹿島区は北郷となった。だから方角地名というときどこはが中心なのかを知る必要はある。

会津の喜多方は会津の城のあるところから北にあるから喜多方となった。でも明治以降は北が商業で栄えて多くの蔵が建った所で有名である。また南相馬市でも原町は鉄道の機関区となり相馬市より発展したのである。だから必ずしも相馬市が中心でその南にあるというだけの命名には問題があったかもしれない。他の人から見れば相馬市が中心であり南相馬市はそれに付随した脇役のように思われてしまうからである。

とにかく方角というのは移動するとき旅をするとき一番問題になる。例えば福島県の海側の浜通りから峠を越えて飯館村に行ったときそこでも方角がわからなくなったのである。そこは常に行っている近い場所である。それでも方角が分からなくなり迷ったのである。ただ日が昇る方向と日が沈む方向があり日が昇る方向は東であり日が沈む方向が西なのである。だから周りが山に囲まれていれば日が昇る方向と日が沈む方向で方向を見る。
会津でも東山温泉がある。どうしてそこが東山になるのかわかりにくい。また京都でも東山となれば陽の昇る山であり東山というだけで何か明るいイメージにもなる。でも会津の東山となるとあこがなぜ東なのかわからないとなる。だから方角は山に囲まれているとまたわかりにくくなる。

●世界でも方角はさらにわかりにくいくなる

これは世界でもそうである。だからアメリカのカリフォルニアの海岸の鉄道で走っているとき海が見えるのだが太陽は海の方に沈んでゆく。それも不思議な光景だった。なぜなら私の住んでいる浜通りは常に太陽は海から昇ってくるからである。
でもあの太平洋でもアメリカのカリフォルニアの海岸から見えるのは太陽は海に沈むのである。つまりそこから見れば西になるのである。だからこそ西部劇ではアメリカ開拓の西に向かうのでありその西に向かう先がアジアになり日本にもなるのでは。だからこの方向感覚というのは世界でも日本でもその近くでも分からなくなってしまうのである。その方向が分からないととんでもない方向に向かって迷ってしまうことになる。

だからこそ方角のことが移動するためにわ確実に知らないとそれは死にも結びつく。それでなぜ北斗七星信仰までになったかというとそれは北極星が常に北にありそれが方向を示すからである。北の位置を知るということはそれでできるから信仰までにもなったのである。相馬藩も妙見様信仰は北斗七星信仰である。それは大陸から始まったものであり日本に移って日本でも信仰するようになったのである。

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なぜなら大陸では遊牧民がいてその人たちは大草原を常に移動する人たちだから方向を知ることが大事だから北斗七星信仰が生まれたのである。また砂漠でも方向は知ることが大事であり方向が誤ると死ぬこともあるからである。つまり方向を知るということは生死に関わるということなのである。それは海の航海でも同じである。ここでは何か方向の目印となるものは無い。すると星が目印になるのである

道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、「妙見菩薩」と称するようになったと考えられる[6]。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである

信濃から関東・東北にかけての牧場地帯に多く見られる信仰で、「七」を聖教とし、将門伝説とは関係が深い[12]。 北斗七星の内にある破軍星(はぐんせい)[注釈 2]にまつわる信仰の影響で、妙見菩薩は軍神として崇敬されるようになった。

軍神となった妙見は一族を強力に守護する氏神とされ、一族や家臣が新たに城や館を建てる際には妙見社を建立しました。千葉氏の所領であった地域の城跡内もしくは近隣には必ずというほど妙見由来の寺社が見られます。『妙見』は仏教では菩薩ですが、天の中心にあって星々を従えていることから神道では『天之御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)《北辰妙見尊星王(ほくしんみょうけんそんじょうおう)》』となります。

●エジプトのナイル川の西岸に沈んだ太陽

ただ本当にこの方角を知るということは難しい。例えばエジプトで日が沈んでゆく。それはナイル川の西岸になる。そこに夕日が沈んでゆくとき何とも言えないものを感じた。 3000年もの歴史があるエジプトに背後にピラミッドがあり太陽はナイルの岸に静かに徐々に輝き沈んでゆくのである。それはまさに3000年の
エジプトの歴史を象徴して太陽は沈んでいったのである。それは歴史と関係してただ太陽が沈むというだけではないものとなっていた。それは大阪城でも春に太陽が輝き沈んでゆくとき同じような感覚を持ったのである。それは歴史をと自然が一体となり大阪城に栄えた秀吉の城がありそれが春の日の太陽はそこに輝き沈んでゆく。そこに自然だけではない歴史が反映して何とも言えぬ感懐を抱いたのである。

ともかく人間は方角を知るするということが基本的に命にも関わることでありそれが大事だからこそ北斗七星信仰を生まれたのである。

遣隋使の小野妹子が、持って行ったとされる書簡が「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)で始まります。
現代語訳すれば「日が昇る国の天子(国王)から、日が沈む国の天子へ

これにしてもただ日が昇るところは日本であり日が沈むところは中国になるからそれがやはり基本になるからそういっただけであり別に中国を貶めるということではなかったのである。また韓国から見れば日本海は東海になるのである。日本から見れば太陽は日本海に沈む。でも韓国から見れば東海となり日の昇るところなのであるその相違があまりにも大きいのである。感覚的にまったく逆にもなってしまうからである。このように地理の感覚というのはただ地図を見ただけでもわからないのである。どうして地理を知るかとなるとそれはその場に実際に立って実感しないとわからないのである。そこに常に驚きがある。




2023年09月24日

インターネットで郷土史の研究ができる時代 (神は人の移動とともに移動するー南相馬市鹿島区秋葉神社(只野氏)の由来)


インターネットで郷土史の研究ができる時代

(神は人の移動とともに移動するー南相馬市鹿島区秋葉神社(只野氏)の由来)

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天明というとき飢饉のあった時代である。相馬藩では人口が三分の一に減った
だからここも古い土地である。国誉の戒名は何を意味しているのか?国の誉れになる人だったのか不明である。

「橋本郷土研究会資料」相模原市

郷土史研究というときその方法方法がある。私の場合は地名に興味を持って歴史でも郷土史にでも興味を持った。
でも学問というときそれをどういうふうに研究するのかそれが問題になる。今になると郷土史というのはインターネットの中にいろいろと発表する人が増えてきた。郷土史というのはその市町村でも数が多いからとても調べようがない。確かに本はいくらでも出てる。でもその本でもとても買うことも難しいし調べることも難しかった。インターネットだと学者の論文も出てるしその地域に住んでいる人が郷土史を発表すればそれが全国の人に読まれることがある。でも数が多いから何が重要なのか検索するのが難しいのでは

でも郷土史という時数が多いから調べにくい。でも郷土史でも必ず日本だったら共通性がある。それはなぜかというと神社でも必ず例えば日吉神社とか山王神社とか秋葉神社とかなどこにでもある。それはなぜかというと人が移動してきてもたらされた神だからである。例えば日吉神社とかは南北朝の争いで霊山から逃れてきた人たち落ち伸びてきた侍がその神も一緒にもたらしたからである。
それで南相馬市の鹿島区の日吉神社でもそうである。でも日吉神社となれば全国どこにでもある。ここにだけあるものではない。日吉神社の元は比叡山のあり比叡山は天台宗とかでもあり日本の仏教の総本山になっていたのである。だから鎌倉時代でも日蓮がそこで修業したり日本の仏教の比叡山から広まったのである。

近くの秋葉神社には郡山市の多田野村由来の只野氏の碑がある。それは最近作られたものである。神社を守っていた只野さんは死んでいる。だから祭りも途絶えるともなる。南北朝の争いの時霊山から逃れてきたのが只野氏である。。だから南相馬市鹿島区には只野という姓が50人くらいもいるのでは。只野一族の村でも街でもあった。
だから秋葉神社でも只野氏が移動してきてもたらされたのである。まず人が移動してその人が神も一緒にもたらして移動しているのである。秋葉神社というのは秋葉山がありそこで修験者がが山伏が修業した場所である。だから法院とかの墓がある。

郷土史でもその土地独特の神というのはほとんどない。たいがい日吉神社とこのように総本山があり京都とか奈良から神も移動してきたのである。だからいくら郷土史でもその土地独特のものというより神に関しては共通したものが多いのである。だからかえってどこの郷土誌でも研究していれば共通したものは必ずある。すると理解しやすいとなる。その土地だけにしかないものではないからである。ここにも日吉神社がある秋葉神社があり他にも共通したものがある。だから他の郷土史でも理解しやすいからである。まったく馴染みのない神社というのは少ないのである。

このPDFは一冊のの本のようにもなっていて何か郷土史を調べる基本のものとして優れていると思った。だからこれは読んでおいた方がいい。

2023年01月07日

南相馬市鹿島区海老村に乳の木を発見ー乳神信仰はなぜ起きたのか


南相馬市鹿島区海老村に乳の木を発見ー乳神信仰はなぜ起きたのか

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乳の木があった場所

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「乳神神社とは? 乳神様とは?」
浦幌神社の境内には、「乳神神社」(ちちがみじんじゃ)、
通称「おっぱい神社」と呼ばれている神社があります。
そこには、乳神様(ちちがみさま)と呼ばれている神様がおります。
正式な御神名は、乳授媛大神(ちちさずけひめのおおかみ)といいます。

なぜ、おっぱいの神様が浦幌神社に?
と不思議に思われる方も多いと思います。
この乳神様の正体とは、女性の乳房に似たコブをもつナラの大木のご神木で、
乳神様と呼ばれるようになりました。

岡山県総社市の軽部神社で崇拝されている「乳神様」もそのお一人。その名のとおり、お乳に関する神さまであり、拝殿にはオッパイをかたどった絵馬がたくさん奉納されています。

「垂乳根の桜」(たらちねのさくら)と呼ばれる枝垂桜にあります。「垂乳根の」は古代より「母」「親」にかかる枕詞。毎年、春になると美しい花を咲かせた垂乳根の桜はそれ自体が崇拝の対象となるとともに、枕詞としての「母」「親」という意味が加わり、いつしか当社全体が乳神様として崇敬されることとなったのでしょう

オッパイいっぱい!乳神様として崇拝される岡山県の軽部神社
https://www.travel.co.jp/guide/article/8165/

『大正年間に建立、県道角田線字羽抜の八雲社内にある。
明治大正年間のころ、子供を産んでも乳が不足だったり、出なかったり、
又乳房の病気にもなり困っているお母さんたちがいたので、
同の一條利吉という人が、妻の胸を見ながら刻み乳神を祀った。

乳の出難い人や、病気の人は、甘酒を入れた2本の竹筒を供えて祈願すれば、
たちどころに効能があったと伝えられている。
大正12年耕野村で生まれた子供は、244世帯中、121人であったのが最高で、
その子供が小学校に入学したのは57人だけであった。
この碑は宮城県では珍しい

秩父、仙台まほろばの道
https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/1af84c192b6a71792b03778e4abba6d1

ひとつ気がかりなのは…
おっぱいが張りにくくなってきたことだ…
このままおっぱいが出にくくなって
断乳、になるのだろうか。
不本意な断乳、悔しい。
昨晩は一応マグマグに母乳をしぼって置いてきたが
娘は飲んでくれたんだろうか。
よく寝ただろうか。

飯館村佐須の乳神の碑から現代を考える (牛乳がない時代は乳が頼り)
http://musubu.sblo.jp/article/79186515.html

乳神の木が海老村にあった、それが本当に乳房とそっくりなのである
乳神の木である、なぜそうしたことが語られるようになったのか?
それは子供を育てるのに乳が出ないと困るからである
乳が授かるように出るように祈ったとなる、それが乳神の木となったのである


飯館村の佐須にも乳神の碑があった、畑の中にあった、相当不便な所だから乳が出ないと困る、牛乳とかも余りない時代だと江戸時代とかなると乳がでるかでないかは切実な問題になっていた

大正12年丸森耕野村で生まれた子供は、244世帯中、121人であったのが最高で、その子供が小学校に入学したのは57人だけであった

私の母は大正4年生まれである、尋常小学校卒であった、小学校には行っていたのである丸森では耕野村でその時半分も小学校に行っていない
ということは読み書きをどこで習ったのかとなる、聞いた話では子守りとかで学校に行けなくて小説読んで字を覚えたという大正生れの女性がいた、つまりその時代必ずしも学校に行っていなかった、私の母は原町に住んでいたから小学校に入り字は覚えたとなる
大正でもその後でもまともに学校に行っていない人がいたとなる
その頃は本当に読み書きソロバンができれば良かったのである、それすらできない時代だったのである、ネパールとかになるとまた遅れた国だと学校に行けるだけでいいとなる
鉛筆とかすらない、書くものがない、それでボールペンをくれとなっていたのである

切実に乳をでるのを祈りけり乳神の木や年は明けにき

乳出ぬと女の悩み乳の木にさわり祈るも切実なりし

木は意外と男性的なものではなく女性的なものとしてもある、植物は女性的である
動物は男性的だとなる、女性は大地を根を張り定着して大きくなる
そして定着しないとなかなか子供を育てにくい、確かに遊牧民でも子供を育てたとしても本来は一か所に安定して子育てするのが向いている
世界を男性と女性に分けて言葉も作られた、男性名詞と女性名詞である、でもそれがどうしてそうなったのかわからないという、木にしても男性的に見る人もいるし女性的に見る人もいる、ただ植物はどうしても女性的なのかとなる



インタ−ネットの情報は地域の詳しい情報を出すのに向いている
おおきなニュースは全国版であり世界版になるからである
地域の情報はそれぞれの地域に住んでいる人が詳しい、それは大きな新聞とかテレビ放送でも出さない、出せない
福島県にしても福島県は大きい、でも市町村単位でもいろいろ違っていてそこに住んでいる人が一番知っている
でもそういうものはと全国版とか福島県全体にしても見ないのである
でも別にプログなど一人でも見ていてもいい、金にらなくてもいい、視聴率も関係ないからである
それは金がかからないからできることである
人間に起きることは場所と深く関係している、だからそれぞれの場所を知っている人が伝えるのがいいのである
take placeであり場所が起ることに関係しているからである

2022年12月29日

郷土史とは何かー支配者ではない庶民を語り残すこと (街一軒の自転車屋の死で考えたこと―庶民が歴史に記される時代)


郷土史とは何かー支配者ではない庶民を語り残すこと

(街一軒の自転車屋の死で考えたこと―庶民が歴史に記される時代)

●インタ−ネットで郷土史を各自追求できる時代

郷土史とは何かとなればそれは狭い地域であっても広範囲でありそれで理系も課かわてくるので私は文系であり地質学とか科学に弱いから語れないことがあった
地質学というときそもそもどうしてその土地が成立ちどういう土地なのか知ることであるそれで最初は日本全国を旅して「地名」に興味をもったことが自分自身の大きな歴史であれ郷土史であれ関心を持ったのである
どうしても学校の教科書で教えられたことは興味が持てなかった
でもだんだんと郷土史というより郷土学のようになり今は相馬新報とかなった
そこで書いているのは広範囲だからそうなった、今があり昔があり時間軸と空間軸と郷土を放送する、それはインタ−ネットができてホームページとかプログが個々人でもメデアを通さなくても発表できることになったのが大きかった

それでメデアが今までも新聞とかテレビに独占されてどれだけ力を持ったか知った
報道する力は実は大きな力を手にした、権力を手にしたことなのである
これまでは新聞であれ雑誌であれ本であれメデアをマスコミを通さなければ知らせることもできなかった、つまり報道することは権力を持っていないとできないことだったのである、だからこそマスコミは第三の権力となっていた
そこで宣伝してもらえば商品でも知れ渡り売れるとかありまた人でもマスコミに出ただけでたいした人物でなくても知れ渡り議員にもなれるとなった
それで「青島だ」とかふざけているのかそんな人でも東京都知事になったのである
それはマスコミの力でありその人の能力ではなかったのである
メデアは仲介するものでありその仲介するもものが力を持った、そのメデアに出るにはメデアの許可が必要でありそれはまた権力を持たない者は出れないし発言もできなとなっていた

でもインタ−ネットだと一応誰でも手間であれ発言はできなる、それは大きなものとならないにしろ発言はできる、ただインタ−ネットだと本当に誰も読まないということが普通に起きる、膨大な人がプログを書いているからそうなる、そこで目立つのは極少数になってしまうのである
だからいくら発言が自由になったとしても必ずしもそうはなっていないのである
膨大な数の中に重要な発言でも埋もれることが普通にある
だからネットの世界で目立つことは至難なのである

ともかくインタ−ネットの特徴としていろいろあるにしてもその人の住んでいる場所が基点となり発信する、ということは郷土史とか郷土学と密接に関係するのである
さらにその郷土の狭い範囲で基点になるのはその人が住んでいる家なのである
郷土史は家の歴史からはじまる、歴史そのものが家の歴史なのである
聖書もそうである、日本でも天皇家の歴史が歴史となっていることでもわかる
家は先祖がいて祖父ー父ーと系譜があり一軒一軒が郷土の歴史なのである
ただその中でも古い家はその土地に代々歴史を刻んでいるからそこを中心としてみる
野馬追いに出る家は歴史として保存対象にもなっていて野馬追いの場合勝手に旗印を作り行列に出れないのである、正確な歴史の再現でありハロイーンとかの馬鹿騒ぎとは違う
そもそもそれは日本の歴史とも何ら関係ないのである
祭りというとき小さな村でも代々伝えられたものがありその再現だから歴史的意味があるその歴史を伝えるために祭りがある、そこに祭りの意義がある

●郷土史はそれぞれの家から始まる

いづれにしろ郷土史は郷土学は家の歴史から始まる、私の父のことを書いたが他にもどうしてその家が成立ったのか自分の場合二代目にしろそれでも歴史なのである
只野家とかなると南北朝までさかのぼるから古い旧家だから違っている
そして意外とそれぞれ住んでいる場所が古くから人が住んでいた、この辺ではもともと農民が中心に住んでいた、だから街とかあってもそこは農家が多かったのである
町というとき宿場町でありそれも農民が参勤交代の時に臨時に侍を泊めるものとしてあった、それで双葉では長塚宿があり新山宿があったとなる
交代で村の人が接待したとなる、双葉町という地名は明治以降できた町名である

それで私の家の近くの神社に文明時代の碑がある、また法印の山伏の墓もある
ここに天明の碑があるということはここも古いとなる
まず江戸時代の碑には注目する、天明は飢饉の年でありこの辺でも何らかの影響があったでも街だと明治以降になると農民ではなく商人とか職人が移り住んだ、農民がいてもそっちの方が多いとなる、でも依然として街から二百メートルくらい離れた場所に田畑が広がりそこには農民が住んでいて農民の付き合いが代々ありよそ者は住みにくいということがある、小さな町でも外から住む場合そのことを知るべきだとなる
そもそも農民共同体としてあり街内でも農民がいて他所から来た人も住むようになった

郷土史というとき相馬藩政記があり相馬藩は代変わりしていないから外の人も参考にしている、相馬藩は六万石でもそれなりに大きい藩でありごからこそ伊達藩とも対抗できたともなる、第一相馬野馬追いの壮観を見る時そうである、なぜこれだけの行列が歴史に基づいてできるのかとなる、相馬藩は300藩あった江戸時代に60位の格があった
それなりに大きいというのでもなくても中堅の藩だったとなる

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●地歴として郷土史、郷土学

ともかく郷土史でも空間軸があり時間軸からみる、空間軸から見るのは比較的わかりやすいのは今でも空間自体は地理自体は変わっていないからである
でも地理でも福島県の地理でも簡単にわからない、地理は車とかで行ってもわからない
土地の高低差などがあり体の感覚で知らないと体得できないからである
私は自転車で相馬藩内なら回っているから体で知っているとなるそれでもわからない所がある、空間でも知るのは容易ではない、会津になったらもうわからない、山また山である二千メートルの山がひしめいているからである
また空間だと地史とも関係している、地歴というとき地理であり歴史を合体したものである、だから地史というときもそれは日本列島がどうして成立ったかまでさかのぼらばならない、とういうのは阿武隈山脈は高原は意外と古いのである
それで地盤が安定しているから放射性廃棄物を地下深く埋めておくのに向いているとか言われたのである、そういうふうに地歴を知ることが郷土史でも不可欠なのである

そして時間軸で見る時、これも重要だった、なぜなら400年前の慶長津波のことが相馬藩政記に二行だけ700人が生波(いくなみ)−津波で溺死したと記されていた
これほど重要な記録はなかった、でも学者すら知らなかったのである
これは大問題だったのである、なぜならこの辺には津波は来ないとしていたからである
だから津波のことを三陸のように警戒していなかったのである
そして相馬藩政記でも戦争のことはことこまかに記している、どこどこで戦争があり誰が死んだか誰が活躍したとかはこととこまかに記している、つまり戦国時代では庶民のことは話題にならない、支配者の侍の関心は戦さにあったからである

特に相馬氏は騎馬軍団を率いてこの地の支配者になったからそうである
土着した豪族と衝突して争いになり戦争になっていたからである
相馬藩政記の主流となるのはその戦(いくさ)のことである
庶民のことではない、だからこそ津波で700人溺死したことは大事件でも二行した記されていなかったのである
今だったら絶対にそういうことはない、いろいろ記録が映像でも残される
私自身もデジカメで写真をとってプログで放送したからである、その時はアクセスが相当あった、関心が震災や津波や原発事故でここに集まったからである
確かに福島民報や民友とか福島テレビとかでも放送した、でも個人で放送したということの意義は大きかったのである、そんなこと今までできなかったからである
それは明らかに全国の人達が見たのである

なぜ相馬藩政記で400年前の津浪の被害を二行しか記されなかったのかとなれば侍が支配者であり庶民は発言することもできないし記録にも残せなかったのである
何らか残っていいと思う、正式に紙に記さなくても伝説とかでも語りでも伝えられていいとも思う、でも紙に記すにしても紙が必要であり文字も書かなければ残らない
紙は紙漉きであり相当に貴重なものだから庶民は使えないものだったともなる
つまり記録することは金も必要だったし文字も書けなければならなかった、それがその時代に庶民にできなかった、侍にはできていたのである
ただ江戸時代の後半になると読み書きソロバンを寺子屋とかで習った
それで識字率があがった、その頃になると庶民でも記録することができたとなる
でも実際は侍が記録していたのである
もしその400年前に庶民でも記録することができたらその津波のことを記していたらそれは貴重なものになった、そして後世に伝えられて今回の津浪も警戒して被害をが少なくすんだともなる

●記録されるのは勝者であるーこれからは一庶民が歴史にその功績が記される

要するに記録することでも発言することでも現代でも放送することは権力を持たないとできないのである、そうなると庶民が直接発言するのではないから必ず歪められるし重大なのことも放送されないのである
そして狭い地域となると余計に報道できない、例えば福島県でも広いからである
地理的に広く中通りとは浜通りとは阿武隈山脈でさえぎられて地理の一体感がないのである、会津にしても地理的には隔絶した地域でありわかりにくいのである
福島県を一つの国と見ることは地理的にはむずかしい、地理的一体感がないのである

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(隠された社一つが語るもの)
http://musubu.sblo.jp/article/189970774.html

こんな所に隠されて社がありそれも相馬氏の戦勝記念の社だったのである、これでもわかるように相馬藩では相馬氏の戦(いくさ)のことを相馬藩政記でも事こまかに記しているでも津浪の被害のことは700人溺死で二行だけしか記されていなかった
だから歴史とは何かというとき支配者の歴史だとなる、それは全国規模でもそうである
一地域ですらそうなのだから日本の歴史とは支配者の歴史でありまた世界史でもそうである、アメリカは覇権国となったとき世界史はアメリカの歴史であり日本はただ悪者にされるだけだとなる、歴史とは勝者の歴史であり敗者の歴史ではないのである
ただこれからの歴史は民主主義となりプログなど誰でも発言してyoutubeでもテレビ放送もできなるようになった、その時郷土史でも興隆することになる
なぜなら郷土史は地元の人は読むにしても外部の人は余り読まない、関心かない、でも
誰でも発言できて表現できて放送できるようになることは庶民が権力を持ったことであり民主主義の促進にはなる
私がホームページからプログですでに20年とか発言している、それも今や一つの歴史ともなる

何か古い本を整理していると30年前とか買った本が多くもっと前のもありそれが何なのだろうとみる、そして著者がすでに死んでいるのも多いのである
この人も死んでいると本の著作者を見ると不思議になる、死んだ人を知るのは残された本しかない、あとは分らないのである、でもプログとかでも記録が残っていればそれも死者の残した物として参考になる、それで都築氏はプログにだけ書いて死んだのである
そのプログの記録も消していいとして著者が消したのである、するとその人の残した物は消えたともなる、これも問題だった、本だったら残り誰がが読んで参考にすることがあるそれができなくなったからである

郷土史というとき近くの自転車屋が死んだことはショックだった、そこは町に一軒しかなくなった自転車屋だったからである、それも郷土に懸命に生きた人として郷土史に刻んだ人だったとなる、それが死んでから余計に感じた、それで私は詩を献げたのである
郷土史に記される人だったとなった、相馬藩政記なら記されない、もちろん国史にも記されない、でも郷土史となると郷土に懸命に生きたものとして歴史を刻んだものとしてけ記されるとなったのである
民主主義とは平民の時代であり平民が主役になる時代である、だから庶民が歴史に記される、庶民が歴史を作るともなる時代である,そこに郷土史を郷土学の意義があるとなる
柳田国男の功績は文書だけに記されたものではない口碑で口伝いで庶民に伝えられたものを掘り起こして新たな民俗学を起こしたことである、時代によって新しい学問が起きる、脚光浴びるのも違ってくる、侍の時代は侍になるのが民主主義の時代は庶民がキ脚光をあびるとなる、ホイットマンが讃えたのは平民だった、労働する平民だったのである、ヨ−ロッパのように貴族はいなかったからである、それで皇帝も貴族もいないからリンカーンのように丸太小屋から歴史が始まったからそうなったのである
この時は大衆は存在しない、民衆が存在していたのである、それが讃えられたのである
アメリカは平民によって民衆によって作られた国なのである、でも今は格差が極端でありそれが失われたとなる
巨額な金をもった一部の人がいて支配する国になった、そこには建国時代の開拓者魂とかはなくなったのである

今年も終わりだが地震で散らかった本をまだ整理していない、障子も直していない、他でもまだ工事をしているとかあの地震の被害も大きいものだった、今年で一番印象に残ったのはあの地震だった

来年はどうなるか、いい予想はない、暗黒時代の継続になるとしている
近くの自転車屋が死んだことは年の暮でショックだった、その衝撃で新年を祝うとういこともそがれた
でも来年もがんばるほかない、コメントもできなかった、整理とか何か家事とかいろいろ忙しくて追われてできない
今まで書いたもの詩なども整理しようとしているができない、整理するだけで大変な作業になっている

では良いお年を・・・






2022年03月15日

ウクライナの戦争の真実 (ネオナチがいて残虐な殺人は現実にあったー錯綜する報道の真意)


ウクライナの戦争の真実

(ネオナチがいて残虐な殺人は現実にあったー錯綜する報道の真意)

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チェチェンは18世紀からロシアの侵略と迫害を受け、1990年以降、二度に渡ってロシアを相手に独立戦争を仕掛けたイスラム系民族だ。しかし、二度ともロシア軍の武力によって制圧され、二度の戦いで30万人以上のチェチェン人が亡くなっている。

シリア内戦はアサド政権政府軍と反政府軍の戦いだけでなく、クルド人勢力やトルコ支援勢力、それぞれを支援するアメリカとロシアの代理戦争と宗教的、政治的思惑が複雑に絡み合っている状況にあります。
推計死者総数は492,118人となる。



シリアの悲劇は三つ巴の争そいとなった、イスラム系もかかわりアメリカも西側もロシアも宗教争いにもなり複雑になった、その被害者が膨大な何百万人の避難民となったのである
この継続としてウクライナのロシアの侵略もあったとなる

ウクライナの戦争でもわかりにくいのはてぜなのか?
大陸では特にヨ−ロッパとかでは複雑なモザイクのようになっている
様々な民族が国が抗争をつづけてきていて訳からなくなる
敵の敵は味方だとかもなる、そこで根強く民族同士の争いで怨念があり憎悪がある
今回のロシアのウクライナ侵攻でも確実にロシアに殺された人の家族でも子孫でも恨みを持つようになる、そういうことが歴史的背景として外部のものは簡単に理解できない
日本だとそうした異民族同士の争いが少ないし日本人はみんな日本人であり民族差別はないのである
ただ在日朝鮮人だけが日本にあって別な民族なのである
でも顔つきなど区別できないのである、だから日本がでは人種差別はないのである
ただ韓国とかでは根強く日本統治に恨みをもっているからこれが多少似ているとなる
日本への怨念が継続しているとなる

でもチェチェンとかシリアとかで起きた紛争はそこにイスラム系が交じり複雑化しているユダや人もいてユダや人でも一つではない、ロシアとかではスラブ系ユダや人なのであるおそらく純粋のユダヤ人はいなのではないか?
ユダヤ教を信じている人がユダヤ人だとなる、旧約聖書を基にした人達である
ユダヤ人は国土を持たない民族として前からあり迫害を受けていた
それで離散してから二千年後にイスラエルを建国したのである
ウクライナのゼレンスキー大統領はユダヤ人である

だからyoutubeの説明ではプーチンが標的にしたのはネオナチだからゼレンスキーを標的にはしていないという、首相を継続してもいいという、

ウクライナ内戦では、ナチスの過激派に深く影響を受けたウクライナのネオナチが、東ウクライナの民兵に敗れた怒りを爆発させるために、多くの虐殺を行った。

 ロシアメディアの報道によると、2014年9月24日、28日、30日にドネツク地方で3つの集団墓地が発見され、調査の結果、ウクライナ国家警備隊とネオナチ「アゾフ大隊」が退却前に生き埋めにし射殺した民間人の遺体が暴かれ、生きたまま内臓が採取されたことが確認された。
http://eritokyo.jp/independent/Ukraine-as-a-neo-Nazis-ao1455.html

youtubeではネオナチとはアメリカのネオコンと結びついたものだともしている
その勢力がウクライナに入っていた、そこで戦争を起こして金儲けするとか説明しているウクライナでもこうして実質の争そいはアメリカとロシアとか大国の争いであり
正面から戦わなくても裏ではすでにその国の内部に入って勢力を拡大する
それでロシアが西部のアメリカが入った軍事訓練施設を爆撃した
アメリカの勢力を追い出すためのものでありそれは確かにロシアにとっては許されないとなる,アメリカが直接ではなく公式ではないにしろウクライナに入り込んで軍事訓練もしていたし武器も供与していたのである
だからアメリカ側の西側のロシアをプーチンを責めるだけの報道は問題だともしている
実際爆撃されて血だらけの老女はフェイクの映像だった、それは2018年の映像だっただからフェイクの動画とか写真もある、それが巧妙だから見分けがつかないのが現代である

どういうわけかこの戦争で得しているのはアメリカである、アメリカは直接被害はない
でもドイツではアメリカの最新の戦闘用の爆撃機を買うことにした、13兆円もの軍備増強を計るするとアメリカの軍需産業がもうかるとなる
何かアメリカは直接介入しないとしていたが間接的には介入していた
ロシアに強く出ないで侵略を容認したとしている、そこには裏に意図があってそうしたのかとなる、ロシアの侵略をとめるのはアメリカしかできないからである

何か個人的にも力を持つ時背後にバックに実際は大きな組織団体の力がある
それでプロパガンダになる人がいる、創価のプロパガンダになっているのは佐藤優とか
田原総一朗とかであり賞賛の本を出している、すると会員が買うので売れるとなるからだまた在日関係だとこれも強力な組織団体でありそういう作家いて南相馬市の市役所でも宣伝したりする、つまりそれだけの団体組織の力があってそうできるのである
まずそうした団体組織がないと個人など普通は相手にしないからである
それは作家でも必ず何らか個人の作品が優れているとかでもない、背後にその人の所属している組織団体がありそれが権力をもっているから宣伝されるのである
それで個人を見るとき必ずこの人はどういう組織団体が背後にあるのかと見ると分りやすいとなる、つまり組織団体のプロパガンダとしてあるからそうなる
今回でもその背後にあるものが何なのか見なければその真相はわからないとなる
たいがい日本の教会があるとしてアメリカから資金が与えられていたりもする
エホバなどはそうだろう、資金の流れもみておかないと真相はわからないのである

結局報道も公正ではないのはこうして常に背後の組織団体の意向にそって報道されるからわからなくなる、ただ今は知識がなくても多角的に見る情報が出るようになった
まずマスコミでもNHKでも偏っている、西側中心の情報しかでないからだ
だからyoutubeを見て参考にして書いた、でもこういうふうに多様な視点で多角的に見るとなるとめんどうになる、普通の人は時間がないのだからそんなに多くの情報を分析できないのである
ただ多角的なものの見方はインタ−ネットでしやすい、でも多角的でもそれが今度は陰謀論とかが出てくると訳わからなくなるのである

でも何が事実としてあるのか?

ウクライナにネオナチ勢力がいて残虐な殺戮は現実にあった

するとプーチンの言っていることは全部嘘ではない、作り話しでもないフェクでもない
私はどっちにも見方かするとかではない、公平に見ようとしている
だから公平に見ようとすれば組織団体に所属しているとできないとなる
また組織団体から援助されるとできないのである
これまでは報道はテレビ局六局とかNHKとかしかできなかった、それは金がかかりすぎてそうなっていたのである、そこでマスコミは第三の権力となっていたのである
今回の戦争でも報道合戦にもなる、西側の報道が主になるからロシア側の報道は信じられないとなる、でも確かに西側の報道でもイラク戦争の時、油まみれの海鳥はフェクだったのである、作られた映像だったのである、今は動画でも作られた映像がある
それだけ映像の技術が発達しているからだ、だから映像をすべてとして信じることも問題になる、でも映像の迫力に圧倒されるのである

要するに情報社会というとき個人個人で情報を収集して判断することである
でもそうなると時間がかるしめんどうになる、相当な知識も必要になる
ネオナチによるロシア系の人への残虐な殺人は日本に住んでいるウクライナ人が流暢な
日本語話していた、するとそれもウクライナ人の一方的な情報ではあ全部が真実ではないとなる
私が言いたいのはどっちに味方するのかではない、公平に見ようとしているだけなのである
ロシアは日本人の抑留とか北方領土の問題があり良く思えないのである
つまりどうしても過去にあったことから人間は人でも国でも見るとなる
それでロシアには好感をもていないのである、ただそうはあってもやはり何でも公平に見るということが不可欠なのである
でも人間はもう公平に見れない、公平に見れるのは神しかない、だから人は人は裁けない裁くなというときそうなる、裁く能力がないのである
公平に見ようとするとき利害が関係すると見れなくなる、組織団体に入っていても利権と利害に結びつくから公平にみれないのである
特に国同士の争いとかなると裁くのが本当にむずかしくなる、それが余りにも複雑でありわからなくなるからだ
ただどうしてもなぜロシアはウクライナに対して大軍で攻めてきて市民を殺しているのかとなり世界で反発する、ただそれが理由がないわけではなくあったとインタ−ネットで
知ったとなる

いづれにしろこういうときは情報は錯乱する、何が真実なのか交錯してわからなくなる
でもプーチンが核を使うというときそれがこれまでの紛争とは違う最大の恐怖を与えた
そのことはあってはならないことだったのである
まだ原発を攻撃したり放射性物質でウクライナを汚染して占領するとか
プーチンが死ぬと自動的にロシアの核ミサイルが全世界に発射されるとか本当に核戦争で人類が滅亡する最終戦争で人類が滅亡することが現実化することに恐怖したのである
そのことでロシアは誰も相手にしなくなる、狂気化したとも見られた
一人の狂気的独裁者が人類を滅ぼすという恐怖を与えたのである
それで本当に聖書の予言した、ロシアがゴグでありそこから全世界が恐れをもたらしたことは確かである、世界最終戦争がハルマゲドンが起きることが現実化するのかとも見た
日本にもロシアが北方領土でミサイル実験したとか脅しているからである


【ウクライナ】プーチン の軍事作戦の目的「非ナチ化」とはS'【及川幸久"BREAKING"】

2021年05月22日

人間がみんな老人になると自分のしてきたことを認めてもらいたい (郷土の歴史もその苦労を知ること)


人間がみんな老人になると自分のしてきたことを認めてもらいたい

(郷土の歴史もその苦労を知ること)


たいがい60以降になると自分がこういうことをしてきた、その苦労話がある
私の家では街内で一番低い土地にありそれで被害がまた一番大きかった
家が流される寸前になっていた
その家と土地にしても父親が葛尾村から双葉の新山で酒屋で丁稚をしていた暖簾分けしてここにきて土地と家を建てたのである
父親は早く死んだが成人して生きていたらそのことを延々と語っていたとなる
そのことを聞けなかったので残念だったとなる
つまりこの土地であり家であれそれぞれ歴史がある、歴史には必ず苦労話がある
歴史というと国家となると大きなことになりわかりにくくなる
でもそれぞれの家の歴史だと身近でありわかりやすいのである
だから私は郷土史とか歴史は家の歴史からはじまっている
じいちゃんばあちゃんから聞いた話しが郷土史となると言ってきた
だから歴史とは身近なものである

それぞれの家の歴史がありその集積として村の歴史があり町の歴史があり市の歴史があとなる
家の歴史でもまた家族がいたとしても例えば三人家族が三人三様なのである
その相違もまた大きいのである、なぜこれほど同じ家族なのに違うのかとなる
母は原町で原町紡績ーハラボウで十年間糸取りをしていた
それから東京に行き女中になった、そこで結婚したが夫が死んで原町に帰ってきた
そして私の父親と結婚した
姉は養子とかでありこの運命も数奇だった、常に語っていたのは今のシンガポールの向かい側のマレーシアのジョホールバルで四年間従軍看護婦として働いていたことである
このことを死ぬ直前まで語っていた、そのことをどうしても忘れられなかった
人生で一番印象に残ったことだからそうなった

こうして家の歴史をふりかえるとまさに戦前からどちらも大正生まれであり父は明治生まれであり歴史を語っていたのである
つまり家族の歴史が大きな日本の歴史でもあったのだ
なぜなら絹を輸出して日本は戦争する経済力をつけていたともなるからだ
姉が従軍看護婦になったのも戦争の歴史である
そしてトタン屋根の家から二階建ての家にしたのはすでに50年前とかになった
その二階建ての家にしたのは真野川の氾濫で一番被害を受けたから逃げる場所がなく
二階にすることが悲願となったのである
何か胸とかまで水につかり近くの旅館に逃げたのである
そうして新しい家を建てた時、姉は死ぬまでこの家は私が建てたのだと自慢していた
その柱は橲原の同級生がキコリをしていてそこの木から作ったと自慢していた

つまりこういう一家族の歴史が一つの郷土史でありそこから苦労を偲ぶのが歴史でもあるそれはどこの家でもあるかことだからである、ただめいめいの家族が事情が違うから理解しにくいのである
何かその女性はしきりにいう、私は福相(裁縫会社)で働いていたとか原町の旅館の丸屋で働いていたとか食堂でも働いていたとかあとは相双緑化(建築と造園)で働いていたとうかいう、この辺での働き先だったとなる
そこで言いたいのは私はこうして郷土で働いたということである
その苦労を語るのは普通にある
ある人はトラック運転手をしていた、その人は他の人より荷物を二倍を請け負ってトラックを走らせた、そして500万の立派な庭を作ったとなる
その庭は確かに立派な庭である、大きな石を積んだ庭だからである

そうして老人は昔を語る、それはなぜなのか?

私は家のために子供のためにそして郷土のために働いたということまた従軍看護婦となると国のために働いたとかまでなる
ただそういうことは地元だから知るが他の土地に行くとわからなくなる
そうした歴史がわからなくなる、特に外国に行くと空間を移動しても時間軸で作られたもの歴史がわからないからである
この歴史が知ると知らないでは相当な差が生まれる
そうしうた苦労話を聞けば家でも大事にするし親でも苦労して家でも作ってくれて今自分が住んで楽しているんだとなるからである

ところが原発避難区域とかなるとそうした家の歴史があってもそれが失われた
5000万で作った家を小高に置いて原町で中古の家を600円で買ったとかなる
するとその5000万の家は無駄になったともなる
確かにそれで補償金をもらったとしてもその家を作った苦労話は子供でも孫でも話せないとなる、小高でも浪江でも原発避難区域になったところはそうして実はそれぞれの家が築き上げた家の歴史も失われたのである
それはたいした損失のようではない、むしろ補償金をもらって良かったとも外部からだとみる、でもその土地の歴史は失われたときこうして苦労話を次代の人にできない
すると何か親の苦労でも継承されない、ということは親でも先祖でもその価値が失われたともなる

確かに多額の補償金をもらったからいいじゃないかともみる
でもその補償金はこうして苦労して作られた残されたものとは違っている
俺は原発事故でこれだけの金をもらい残したとか自慢できないだろう
それで郷土に尽くしたとか自慢できない、むしろそのために郷土に住めなくなった
そういう歴史が失われとなるからだ、その損失は大きかった気付くかもしれない
むしろ親でも子供はうらむとまでもなるかもしれない、また郷土とは関係ないものとなり苦労話をしてもそれを受け継ぐことはない、第一もう郷土に住んでいないからである
歴史とは何かというときその土地土地で長い時間をかけて継続されたものである

例えば飯館村の歴史も古い、有名なのは六字名号供養碑とかの飢饉の碑である
飯館村は高原の地であり寒いのである、だから飢饉があり苦しんだ
その碑があり春の日に行ったらそこに木が根付いて露わに木の根が見えたのである
その木の根に春の日がさして春の鳥がさえづっていたのである

その根が何かこの土地に根付いて暮らしてきた歴史を刻んできたものとして見えた
つまり過去に飢饉がありそれでもここに暮らしが継続されてきたのである
この土地に根を張り代々生活は歴史は刻まれてきたのである
その歴史が原発事故で失われる危機にある、村自体が消失する危機にある
それは全国の限界集落でもそうなりつつある、それは代々築かれた先人の苦労も無駄になるともなる

部落自体村自体が消失すればもう個々人の家の歴史も失われ廃墟として埋もれてしまうからである、だからゴーストタウン幽霊村とかなり神社があるとしても草に埋もれ誰も参る人がいなくなるそこは動物の住処となり猿が住んだりするとなる
飯館村でも神社を見たらそういうふうになっていた、何か一段と淋しいものとなっていたのである、人が住んだ場所は自然のままのものではない、何か一段と淋しいものとなり
幽霊が徘徊しているような感じになるのである
それは先祖の苦労もなにもすべて失われたものともなる、継続するものがいなくなったからである、ただそうした村とかはここだけではない全国的にこれから増えてくる
空家が800万軒とか耕作放棄地が膨大なのである、この辺でももう耕作放棄地が原発事故以後増えた、小さい田畑はもう放棄されてソーラーパネルになったりしている
ただ他は田は広い田にしている、機械を利用するのにいいように広い田にしている
つまり小規模農業は成り立たなくなっているのである

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江戸時代からの継続として飯館村があり
それがこの碑なのである
そして木の根っこがまさにここに根を張って生活を継続していたことを
象徴していたのである

飯館村の春の塩の道を行く
http://musubu2.sblo.jp/category/1556951-1.html

家の力、土地の力、歴史の力 (グローバル化に対立するもの、ナショナルな力)

老人は過去を昔を語ることに役割がある
(でもそれを受け止める場や共同体がないと活きない)

2021年04月11日

歴史とは家を基本として伝えられたもの (家々に歴史がありそこから地域でも探る)


歴史とは家を基本として伝えられたもの

(家々に歴史がありそこから地域でも探る)

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丸森の筆甫の家ーばあちゃんが語った家



歴史という時何なのか?基本的には家から歴史が始まったという時、なぜそうなるのか?親がいて祖父母がいてそれで何か受け継がれるものがあり歴史が生まれる
その基本は家族だとなる、家族が歴史になり家が歴史になる
そもそも家が歴史だというとき国家自体が家族が一族となり拡大したものである
日本だったら天皇の歴史となるときそれは天皇の家族の歴史が日本の歴史とまでなっている、これは特殊でも家族が中心となって歴史がったということになる
平氏とか源氏でも一つの家が拡大化したものである
江戸時代の御家中といったのも家が拡大したのが藩になった、相馬氏とかでもそうである聖書でもアダムの子孫というとき代々ある人を神が選び家族となったがその家族が代々伝えた者でありそれが歴史となった
神が現存したことをその家族が伝えたものである
だから神がアブラハムを祝福したということでそれが信仰の基となったのである

人間はその生まれた家族とか家とかに一番関心をもつ、そこが人間として育つ原点だからである、だからそれぞれの家な成り立つことが歴史である
地域でも一軒の家がどうして成立ったのかということが歴史である
そこにはみんな違った事情があり歴史がある
だから丸森の筆甫で最初に出会ったばあちゃんが枝垂れ桜のことを語った
それは50年過ぎた木だったのである
50年前に植えた木が50年過ぎてあのような美しい枝垂れ桜になったのである
木がこのように育つには50年はかかるのである
それで古い家だと庭に古い木がある、その木は50年とか普通であり百年とかありさらに長いともなる、そういう家は古いとなるのである

ただ筆甫のばあちゃんの家は丸森が木材が豊富でも古い家の木材を利用していた
50年前以上となるとその頃外材ではなくまだ国内の材木を利用していたこともある
丸森というと江戸時代に伊達藩、米沢藩、相馬藩で三つどもえで木材資源を得るために熾烈に争っていた
だからさそれだけ木材資源が豊富なのになぜ古い家の木材を利用したのかとなる
それだけの金がなかったからだとなる、いくら木材が豊富でも山持ちでもなかったとかなる、ただその家が50年前に家を建てたのかわからない
でもそれだけ豊富な木材があるのに古い家の木材を使って家を建てることしかできなかった、つまり金がなかったからだみる

なぜなら自分の家は50年前でも地元の木材を利用して二階だての家を作ったからである
その柱は地元の木材であり柱もそうでありそれで姉はいつもそれを自慢していたのであるまさに大黒柱だったのである、大黒柱というときまさに家を象徴しているのである
私の家は古いとはならないにしても戦前からこの地に来ていた
もともとは葛尾村出身であり次に双葉の新山で酒屋に勤めていて暖簾分けしたのである
だから戦前からの歴史があるがそれでも農家だと江戸時代からつづいているから新しいとはなる
ただそれでも三代くらいつづいたとはなる

そしてなぜ自分の家がここに建ったのか?この土地は実際はいい土地ではなかった
町内で一番低い場所にあり二回も川が氾濫して床上浸水していたからである
前の家はトタン屋根のみすぼらしいものだった、それで二階建ての家を建てたのである
それは川が氾濫したとき逃げるためにまず二階建てにしたのである
最初の台風の被害のときは逃げる場所がなくて近くの二階建ての家に逃れたからである
九死に一生を得たからである
つまりそういう歴史がありそれで姉はいつもその地元でとれた木材で柱をにしたのを自慢していたのである

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

こんなふうになっていたのである、そういう歴史が家々にありそれが歴史の原点だというとき歴史は実際は身近なものである、何も特別有名な歴史的人物のことではない
個々の平凡な庶民の中にも歴史はある、そもそも人間ならみんな歴史がある
親がいて子供がいるというときそこで二代でも歴史が生まれているからだ
いづれにしろその土地の歴史を知るという時、個々の家の歴史を知ることが何か実感する歴史になる
原発事故では町や村から若い世代が流出したとき町や村の歴史が消失する危機になった
なぜなら老人だけが取り残されたからである
するとその家だけではない土地の歴史すら失われるという危機になったのである
もう流出した人たちは故郷の歴史より自分たちが生きる場で歴史を作ることになる
第一孫にあたる人たちも別な土地で生きるから故郷は移り住んだ場所の方になるからだ
そこで歴史が断絶することも大きな問題になったのである

そうなるとじいちゃんでもばあちゃんでもこの家は苦労して建てたんだ、そういうことを何度も言って自慢することもできない、つまり祖父母の存在感ももてないのである
第一孫も別なの土地に移り住んで祖父母の家に住まないからである
ただそうして歴史の継続がなくなることは別に原発事故の周辺だけではない
膨大な空家化する日本で起きていることである
大原のS氏の家は代々の農家でも死ぬ前にすでに息子は市内に住んで農業を継がなかったからである、そこは今は空家になって誰も住まないからである
何かこうして歴史が継続しなくなったのが現代である

でも古い家には古い木があるというとき人間の実りとなるとやはり50年とか代を重ねないと実り生まれないとなる、とても一代では実りにならない、つまり実りをもたらすのにはこの枝垂れ桜の木のように最低でも50年はかかるのである
それで老人になると何か木を植えて花を咲かせようとするが10年先だとなるとしたくなくなる、だから老人には復興できない、海岸の松が津波で流されたがまた松の苗を植えた
それが大きくなるのは50年後だとかなるともう見れないのである
何か復興というときそれだけ長い時間がかかるということである
それだけの大被害だったからである

ともかく郷土史でも一軒一軒の家が実は郷土史なのである、どうしてその家が成立ったのかを知るとそこからその地域の歴史がわかってくることがある
ただ家でも古い家の歴史を知ることがその地域の歴史を知ることになる
ただ二代三代の家の歴史がないにしろそれでも歴史になる
動物は一代で終わりでありただ種として生きて終わりである
でも人間は歴史的存在であり代々伝えられるものの中で生きる
その歴史が失われるとき何か重大なことが失われるともなる
家にもこうしてそれぞれ歴史がありそこで伝えられものがありそれが消失するとどうなるのか?
今だけを生きることになり何かとても積み重ねられたものとして実りがなくなる
一代では何でも芸術とか学問でもそうである、一代では木が成長するのに50年かかるように昔だったらそういう生業にたずさわっていたから気が長いし家を継ぐことが第一とされたこともわかる、家を継ぐ長男が大事にされたこともわかる
50年で木が育つとなればとても一代だけではその木を利用することもできないからであるすると次の代のものがその実りを得るとなるからである

家の歴史は二代だけでも百年とかなる、それに比べると会社でも団体でも組織でもなかなか百年つづくものがないのである、会社だったらもう20年30年で終るとかなる
50年もつづくということは大会社でもなかなかなくなるとういことになる
時代の変化で技術が急速に代わりグロ−バル経済の中で高度成長の日本の電器産業が衰退したようになる
歴史とは継続であり積み重ねなのである、人間は一代ではとても何かを達成することができない、代々努力を積み重ねて実りが生まれるからである
だから農業でも新しく始める人は相当に苦労する、親が残した田畑だとそこにはすでに土も作られていて豊かな実りをもたらすように備わっているということがあるからだ
農業でも一から始めるのは相当な苦労を強いられるからである
それは何でもそうである、技術でも必ず積み重ねがありその上に新しいものが作られるからである

この家は百五十年ぐらいたつと思います、天保年間にここから三軒目から火事がその時
焼けて、その年は危機が流行って父親を亡くしたんだって、そしてその時ここの門吉っていう養子が家を建てられなくなくて、浜にニシンのカスをとるための大きな小屋があったのをここにもってきて、仮にこの家を建て替えたんだそうです
だからこの家は本当の家ではなくて屋根も小屋作りなんで、屋根屋さんが上さあがってみさばわかるんだって、その門吉というっていう人がそれこそ大変な苦労して建てた家だしおじいちゃまや主人が大事にしてきた家だから、大事にしねばまいねえと思っているんです
(大黒柱に刻まれた―家族の百年ー塩野米松)

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何かこうした苦労話しが必ず家々にある、だから祖父母でもまた親からもそれを延々と聞かされる、それだけ言うのは苦労したからである
何にも苦労しないで家を建てたとしたらそういうことはないからである
そうした苦労があってその家にも価値が生まれているのである
だから歴史を受け継ぐということはそういう先人の苦労を知るということでもある
それが歴史が断絶すると失われるのである
何か重大なことでも伝えられずそれが後の災いにもなる、津波などがそうだった
400年まえに相馬藩でも津浪で700人死んだけどそれが伝えられなかったからだ
ただ文書に二行だけ記されているだけだった、忘れられていたからだ
そういう先人の苦労を知るべきだとなる、疫病でもこれも実際は絶えず被害があり恐れられていたのである、だから八坂神社とか何か神社は疫病を防ぐものとしても祈っていたのである

2021年02月28日

権力側の歴史と民衆の歴史 (歴史を作るもの)


権力側の歴史と民衆の歴史

(歴史を作るもの)


歴史の見方となると常に権力闘争の歴史でありそこに欠けているのが民衆の歴史である
津波のことでも相馬藩で700人溺死と二行だけ記されていた
でもそれも忘れられていて津波の後に発見されたのである
そこに誰も注目していなかった、この辺では野馬追いがありまだ殿様が活きている
歴史を伝えている、それはいいとしても津波のことで大きな歴史の欠落があった
それは歴史と言ってもいろいろな見方があり一様ではない
歴史として記されるのは権力側から権力闘争の勝者によって記されたものである
そこでの一番の関心は相馬藩でもいかに相馬氏がこの地を支配したかということであり
戦争の記録は事細かに記されている
でも津波のことに関しては700人溺死しても関心もほとんどなかった
むしろこの辺では海側に旧勢力がありかえって津波でそこが打撃を受けて好都合になっただから相馬藩政期には二行しかた記されていなかったのである
その時戦国時代であり戦争が主な関心事だったからである
戦争に功績があったものが記されても民衆が津浪で700人死んだことより大事だったのである

歴史は一般的にそうして権力側から勝者から記されたものである
民衆からは記されていない、民衆からの歴史は公式な文書に記されないことが多い
ただ万葉集などには民衆の歌をのせてあり民衆の息吹を感じるものがある
でも歴史は一般的に権力者側から記されたものであり民衆側から記されたものがない
例えばなぜ明治維新で会津藩の悲劇が語られるがそれはあくまでも権力側からみる悲劇である
それを象徴していたのがその侍の悲劇と関係なくヤーヤー一揆を民衆がその時起こしていたことである
つまり侍が悲劇的に死んで薩摩長州に負けても民衆には関係ないものとして見ていた
かえって税金を高くとられていて不満がありそれでこの時とばかり一揆を起こしたのである
民衆と侍は一体ではない、侍は税金をとるものとしての侍でありそれで不満だったから一揆になった、なぜなら薩摩長州が攻めてきたらその土地の民衆も一緒に戦うはずだからである、それがかえってなかった、会津藩内に住んでいても侍と民衆は別々だったのであるだからあれだけ語られる会津の悲劇も別にそこに住んでいる農民などにとってはそう見ていないのである

民衆側にたって歴史を語ったのは柳田国男である、そこでは権力側のこと織田信長とか秀吉とか家康でも支配者のことは語られない、民衆の生活を探求したのである
そこで民衆は文書で歴史を残さない、だから口碑として言い伝えられたこと伝説でも重んじた、直接民衆から話を聞いたものから歴史を説いたのである
そういうことは今までになかったことでもある
権力闘争の歴史ではなく民衆の生活を歴史として発掘したのである
そういうことは地味でありドラマにもなりにくい、つまりドラマとして面白いのは取り上げられる、歴史となれば信長とか秀吉が主役となりドラマとして面白いとなる
でもそこで暮らした民衆のことは語られない、でも人間の歴史は営々とそれぞれの土地で暮らしてきた民衆の歴史が基になっている

それで会津藩があったとしてもヨ−ロッパのような市民というものが日本では発達しなかった、つまり会津藩ならヤーヤー一揆があったことでもわかる
もし市民共同体があれば市民が敵から責められたら一緒に戦ったはずだからである
市民はシテズンシップであり仲間である、侍と農民は別々のものとしてあり共同していない、そこにヨ−ロッパの歴史との大きな相違がある
それでパスポートに住んでいる市を書くのである、でも日本だと市としても市のもっている意味が違うのである、日本で市が生まれたのは明治以降だからである
市の門があり市長が市の鍵をもって市壁の中に許可がなければ入れないというのもそうである、市長の権限が大きいのである
歴史とはどうして共同意識を培ってきたかでもある
日本だったら村という単位でありヨ−ロッパだと市という範囲である
だから市を取り囲む市壁がある、それはがヨ−ロッパの歴史の特徴である
歴史的に作られたものでありそれがアイディンティティになる 

そして明治までは江戸時代には国民というのはいなかった
それぞれの藩に属していて国民というのはいなかったのである
それで西南戦争で明治政府の国民軍と西郷隆盛の侍集団の戦いがあり国民軍が勝って国民意識が生まれたのである、侍が支配する国ではない、国民が主役となる社会になったのである、その国民は対外的にもグロ−バル化した結果として国民がどこでも意識されるようになった、そして結果的には国民同士の熾烈な全面戦争となって何千万人が死んだとなる
ともかく歴史は作られるものでありそれぞれの一人一人が作ってゆくものである
それが今までは侍の歴史が歴史となっていたが柳田国男は民衆側にたった歴史を発掘したそこに功績があった、現代は逆に民衆が力をもったというとき民衆に国民一人一人が主役ともなるから責任は国民一人一人にあるともなる
でも依然として権力側と支配される者がいる、それは原発事故でも明らかになった
「安全神話」はあくまでも権力を持つ者立にらって作られたからである

現代の権力者とは官僚であれ学者(専門家)であれマスコミであれ組合であれ別なものに変わったからである、ただ現代では社会が複雑化してそうした権力が見えないのである
なぜなら民衆自体が権力化するということもある
民主主義は数がすべてとなるときそれが力となる時社会は歪められる
多数がすべてとなればただ数を集めればいいとなる、そしてナチスとか大衆ファシズムとかポピュリズムとかになりやすいのである
だから田中首相は数と金で決まると言ったのである
民衆と大衆は違ったものである、ギリシャのポリスとかヨ−ロッパの市民共同体とかは今の大衆とは違ったものとしてあった、市民として自覚は別なものとしてあった



会津世直し一揆(あいづよなおしいっき)は、明治元年10月3日(1868年11月16日)から同年12月1日(1869年1月13日)に旧会津藩領内で発生した世直し一揆。ヤーヤー一揆(やあやあいっき)とも。会津藩が降伏したことで起こった、溜まっていた会津藩への不満から起きた農民の反乱。明治政府は積極的に鎮圧せず、会津藩の元役人に交渉させて一揆勢は要望をいくつか実現させた

2021年02月18日

塩の道から歴史を考える (千国街道ー相馬藩(飯館村)への塩の道)


塩の道から歴史を考える

(千国街道ー相馬藩(飯館村)への塩の道)


人間は時代が変わるとその時代を生きることが実感できない、するとそこに相当な誤解が生まれる
それで冷蔵庫とか洗濯機がテレビがない時代をイメージすることがむずかしくなる
団塊の世代などは戦後十年くらいは水道もない、洗濯機も冷蔵庫もなかった
洗濯は裏の堀でしていたがそれも今になるとイメージもできなる
堀もなくなっているからである
そこで一番生活を変えたのが冷蔵庫だったということをyoutubeで聞いた
その理由は冷蔵庫がないと新鮮な食料を貯蔵できないからその日に買ったものを食べる
それはかなりの手間になる、そのために近くに店が必要だったとなる
近くの店でないといちいち貯蔵できないからそうなる
街自体もそのために小さな店が並んでいたのである
農家になると納豆とかすら自前で作っていた、自家生産していた
そして常に新鮮なものを食べていた、冷蔵庫がないから今とったものを食べていたのである

この貯蔵するということが文明を作ったともなる、魚で塩漬けで保存するといつでも食べられるとなる、だから塩漬けの技術は人間の生活を変えたのである
他にもなんらか保存するということは人間にとって文明を作る基礎技術だったともなる
例えば米は蔵にある年数保存できる、すると保存できるから貨幣の役割りにもなる
保存食となり米をもっている人は権力をもつことにもなる
災害などがあったら米があれば高く売ることもできるからだ
保存する貯蔵する、貯えるということは権力を持つことであり神殿は食料の貯蔵庫としても機能したというのはそのためだともなる
食料があればそれを配ることができるから力をもつことになる
その人に従うとなるからだ

塩というのは塩自体の効能も大きいが塩漬けで食糧を保存するということで貴重なものとなった、塩の道があり塩は山の村に運ばれた、塩は塩自体を利用して料理するが塩漬けにして保存できる、貯蔵できることで価値があった
塩なしでは人間は生活を維持できなかった、だから世界中で塩が貴重だったのである

死海などの塩湖があった地域では古代オリエント文明が栄え、ヨーロッパ文明の礎になったともいわれています。

 サラリーマンの語源はラテン語のsal(塩)といわれています。 古代ローマ時代、兵士の給料は塩(sal)だったそうで、英語のsalary(サラリー:給与)はここから由来しています。    

 金属は交換貨幣として使われる唯一の材料ではなかった。塩もしばしば基本的に個人的な重要性を持つ話題として特別に重要な日用品として述べられた。個人の収入またはローマ兵士の‘サラリー’はしばしば塩(サラリウム)で一部支払われ、そのことからサラリーと言う言葉が生まれた。

 アフリカではサハラで岩塩が産出し、イスラーム商人(ムスリム商人)の手でアフリカ内陸に運ばれ、サハラ南方のガーナ王国で産出する金と盛んに交易されていた。ニジェール川上流域の都市トンブクトゥは塩と金の交換などの交易で繁栄し、イスラーム教のモスクやマドラサが建てられた。 

 中国では、前漢時代より塩の専売が行われており、2000年にわたる皇帝支配の財政的基盤となった。『塩鉄論』のように、塩の専売制度を巡る議論は前漢から行われている。一方で、王朝による高額な専売塩より安く塩を密売して、巨額の利益を上げる者(塩賊)もおり、その中でも唐を崩壊させる黄巣の乱を起こした黄巣は有名である。

塩と黄金が対価で交換されるほど塩は貴重だったのである、それほど塩は貴重だった
黄金はあくまでも装飾として価値があったが塩は日常生活に欠かせないものとしてあっただから人間の生活にとって黄金より塩が価値があり貴重だった

塩の専売という権利は大きな権利だった、近くで塩を売る専売権をもった家があった
それで自分の家でも店を出していたので争ったことがあった
煙草も専売なのである、その専売権を得ることは大きな利権だったとなる

ともかく塩の道は相馬藩でも松川浦で塩田を作りその塩が鹿島区の栃窪を通って運ばれた栃窪の山の中を通る塩の道があったがそこは馬が通るには細い道であり危険なのである
ちょっとずれると谷底に落ちるような杣道なのである
そこでそき山中を通る時,助の観音堂がある、ここに茶屋があり泊めた
丁度この辺が相馬市の松川浦から来ると一日かかって来れる場所だったとなる
塩だけではない、魚でもは海産物が運ばれた、それは山では貴重なものだった

SOLTHISTORY.jpgュ殿様道

塩の道を行く-殿様道(歴史春秋出版)

飯樋では60人も塩の番屋で働いていた、相馬藩は塩をとることでそれが財政を助けた
また飯館村は木材資源がありそれで伊達藩との関係があり争った歴史がある
塩と木材は当時では最も大事なものだった、なぜなら木材でもそれを燃料として炭として利用していたからである

助の小屋というのがありそこで一夜を過ごしたということある
一日で運べないからそういう小屋が必要になった
とにかく塩の道は世界でもそうだが各地にある、塩がなくては生きていけないからである有名なのは長野県の塩の道である、松本城から日本海の千国街道は有名である
そこは牛で運んだのである、山道を運ぶには牛の方が適していた 
途中に牛宿がありそこで牛を休ませて人も泊まったとなる
そこで山中に牛繋ぎ石とか松本市内にもある、塩の道を回想するにはその塩の道がいい
そして上杉謙信が武田信玄に塩を贈ったというのは日本海側では塩がとれたからである
それで敵に塩を送るという諺が生まれたいてある
それだけ塩が貴重だから塩にまつわる話が伝説でも多いのである  

千国街道

黒々と牛繋ぎ石落葉踏む

秋深む山中踏み入り塩の道

馬ととも塩を運びし苦労かなゆえにともにし家族ともなる

曲がり屋でも馬小屋でも家の中にあった、つまり馬は家族の一員のようになっていた
それで馬と娘が結婚したとかの伝説が残る、それは家族の一員になっていて馬に親しんでいたからである、現代はこうしして動物との交流もなくなる、でも今は猫とか犬がペットとして家族の一員になっている
相馬地域は野馬追いがある、でもその馬は軍馬だったのである、ただ耕作にも使っていた馬と人間の関係は深いものがあった、でもそれも自動車社会になると喪失した
そこでも失われたものがある、馬とか牛と接していると情が養われで情深い人間になるいうこともある、相手は動物でも機械ではないからである

その情が動物に通じるからである、それで名前で呼ぶ、飯館村では牛を飼う村だったが
原発事故で避難して十頭の牛に名前をつけていた、それをみんな覚えていたのである
何かこうして人間の生活が変わると時代が変わると失われるものがある
それは人間の心にも影響してくる、何か現代人がかえって便利な生活しても殺伐としている、それは情を失ったからである、この情は機械にはないからである
何でも機械化ロボット化コンピュター化すると情がなくなるのである
駅でも無人化するとそこに情がないものとなる
だから時代が変わると人間の心に影響する、そこに失われたものがある
つまり機械化とかコンピュター化でもそこに必ず失われたものが生まれて来るのである

子供の家から機械ばかりに接していると子供からも情が失われる、それが大人になったとき情のない人間になる、何か戦前とかは貧乏でも情が深い人がいた
それはそういう環境にあったからだとなる、だからその時代がわからなくなる
ただ不便なものとして遅れた社会としてみる
でも時代が変わり失ったものがあることを知るべきである、それは人間にとって最も大事なものだったともなる、機械に囲まれて病院に治療するがそこに情が欠けているのである人間も物体のように扱われる、確かに医療は進歩しても殺伐としているともなる
人間はそこで死んでゆくにしても物体のように扱われるとなるから家で死にたいとなるのである
私も病気で二回入院したりした、でも病院は嫌なのである、そこに情が欠けているということがあるからだ、これは今やどこでも全般的にそうである
情がなくなった世界では便利でも効率的でも科学技術の恩恵を受けても何か情がないからどこでも殺伐として社会になっているのである



2021年02月03日

四街道市の地理がわからない (半杭氏のプログを読むーコメント(2)


四街道市の地理がわからない

(半杭氏のプログを読むーコメント(2)

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千葉県でも実際に私は何回か行っている、千葉県となると相馬氏が出た所で相馬という地名もあるから歴史的つながりがある
それで半杭氏が小高出身で関心があり手紙ももらった
それからプログも詳しく読んでいなかったが読んだ、やはり今の時代に何か表現する時プログとかが必要になる、そこでその土地のこと人間のことがわかってくる
ただ地理だけは本当にわかりにくい、千葉県で実際行った場所は富津とかあり他に行っている
富津だと風の強く吹いたことで覚えている、それで千葉県が台風の被害で風の被害で屋根に一番被害があった、富津が風が強かったのでそういう場所なのかとも思った
では四街道市の地理でも歴史でもわからない
半杭氏のプログの写真などを見て何かそこが田舎的風景なのである
でも東京に近いとなるからそんな場所があるのかとも見る
でも何か写真からはのどかな田舎の風景なのである
そこが一番わかりにくいことだった

地理というのは一回その地を踏むのと踏まないのでは相当に差がある
地理は実感として感じないとわからないのである
地図を見ただけだと東京に近いからそんなに田舎的風景があることが実感できないのである、だから地図だけ見てもわからないのである

ただそこから富士山が見えるの?これも意外だった、千葉県からあんなにはっきりと富士山が見えるというのも意外だったのである
こうして地理はわかりにくいのである、どうししても四街道市というのがわかりにくいのである、名前からすると四つの街道が交わるとあるからそういう場所だとはなる
でもその地理でも歴史でもそれだけではわからない、だからいかに地理でも歴史でも理解するのが難しいか知る

確かに利根川とか鬼怒川とか東京とか千葉県の方に流れてそこで運送があった
でも利根川というのも一度を見ていないのである、するとイメージできなくなる
確かに千葉県には何カ所か行った、でも千葉県全体はわからないのである
それは福島県にも言える、福島県は広いからである、海側の浜通りと会津は全く違った景色になり別な世界にもなるからだ
つまり千葉県でも実際に多様な場所なのである、これを旅したとしても一部でありそれで全体像はわからないのである
なんか大学の時も茂原から通っていた人がいた、通うだけで二時間かかっていたようだ
なぜなら私の大学は神奈川県であり東京からはずれた場所だったからである
そこは相当に遠いけど通っていたのである
だからどうしても東京が通勤圏にもなり近いと感じる

結局人を理解するとき人そのものもあるがその住んでいる土地の理解が欠かせないのである、そして日本の地形は複雑でありその土地を理解することがむずかしいのである
私はだから全国を隈なく旅しているからだいたいイメージできるのだがそれでも日本でも広いし地理が複雑だからわからないのである
その人がまずどんな場所に住んでいるのかを知ると通じ合うということがある
そこでまずお国はどこですかとなる、でもその国に行ったことがないとイメージできないのである
だから富士山が写真ではきれいに見えているのが意外だった、あんなにきれいに見えるのかと意外だった
埼玉県でも富士見野市とかあるから富士山は埼玉県とか茨城県でも見える
それも意外と大きくきれいに見えるのである

ともかく人間は二つの世界に生きると豊かになる、それで外国生活した人は日本を見る目が比較するからより日本がどういう国か見える、それで辛辣な批判にもなる
でも日本だけに住んでいる人は日本しかしらないから日本の国がどういう国なのか偏るとなる
半杭氏の場合は中国でビジネスしてきたことがあり中国を肌で知っている
また相馬の小高出身であるがまた四街道市が第二の故郷ともなっている
それで二つの世界に生きているから精神的にも豊かになる
私の場合は旅行しただけだから外国の深いところはわからないのである
つまり人間とは本だけの知識とかだけでは駄目である、私は50歳から海外旅行したので辛うじて目が開けたとなる、でも深い所は外国で暮らさないとわからないのである
そういうことで若い時の留学などは相当に価値がある
外国で暮らす経験は簡単にできないからである
半杭氏の場合は中国とのビジネス経験しているから実感としての中国を知っているとなる

「貴方は何処の国の人ですか?」

英語でお聞きしたら

「ベトナムです。」との事です。

今度は、中国語で聞いて見ました。

「日本の印象は如何ですか?」

若い研修生は、シッカリとした中国語(普通語)で答えてくれました。
https://cutt.ly/jkscewy(半杭氏のプログ)

ベトナム人に中国語が通じる?これは疑問になるがベトナムでは一時漢字を使っていたのである、漢字圏の中に入っていたのである、だから今でも中国がまじっている
日本でも中国の漢字を使っているがその音は中国語であり呉音とかになる

ベトナムの首都ハノイ。かつてベトナム王朝の中枢であったタンロン王城跡の南側に「文廟(ぶんびょう/ヴァン・ミウ)」と呼ばれる儒教の開祖「孔子」を祀った霊廟があります。そこはベトナム最古の大学でもあり、官僚の登用試験である「科挙」が行われていました。敷地内には歴代合格者の氏名が刻まれた石碑が並んでおり、ハノイの受験生は試験前に必ずお参りに行くという、ベトナム屈指の合格祈願スポットです。

文廟の創建は約千年前の1070年、李王朝の第三代皇帝であった李聖宗(リー・タイントン)によって設立されたと伝わります。それまでのベトナム王朝は仏教国でしたが、国として結び付きが強かった宋(中国)から儒教が取り入れられ、その開祖である「孔子」を祀る文廟が築かれました。

その時漢字も使用されていた歴史がある、中国と東南アジアは深い関係がある
カンボジアのアンコールワットの遺跡に中国兵が壁画に彫られている
今でも華僑が東南アジアでは勢力をもっているから歴史は古くから継続されていたのである
そういうことで中国との関係が深く中国語で答えてくれたというのもわかる

ともかく人間を知るのは地理と歴史であり地歴なのである
この両方を知ることによって理解が深まる、でもどっちも現実に知ることがむずかしいのである、日本ですらそうなのだから外国だったらさらに理解できなくなる
だから一度だけでもいいからその地を踏むことは本を読むより価値あることなのである


四街道市の人

四街道市に住む人や
道の辻道祖神の碑
ここに住みつつなじむ人
畑に冬菜や日没るや
寒夕焼けに染まり
かなた富士の峰映える
相馬の小高出身の人
そこもまた故郷や
その土地に老いぬ


中国では紀元前から祀られていた道の神「道祖」と、日本古来の邪悪をさえぎる「みちの神」が融合したものといわれる

道祖神も中国由来だった、半杭氏の写真では大正時代とかあり新しいものだった
そうなると価値が低下する、江戸時代だったらなんでも価値がある
墓を見て歩くがどうしても明治以降は価値がないと見るからだ

いづれにしろ二つの故郷に住むということは精神的に豊かになる
とにかく人間は住んでいる土地の影響を受けてその土地と一体化してゆく
そして死んでその土地の土となりその土地に眠るとなる
そこが死ぬ場所だというとき深い愛着も生れるのである
そういう年までその土地に生きたということである、相馬と四街道に生きたとなるのである
流山市とか北相馬郡とかがあり流山市は相馬氏の軍歌であ相馬流山の民謡がある
そういう歴史としてくながりがある場でもある

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中国旅行のお土産



今はプログとかで自ら表現しないと交流できないともなる
プログだと表現の幅が広くなる、するとその人なりの人物像とかまた地理とかを知る
それで短いコメントでは知りえない全体像がわかる
だから今はコメントはしていない、もしプログで書いていればそれを読むとその人なりがわかり返答もできる、そうでないと相手のことがわからないのである
人間は対話するとなると相当なエネルギーが必要になる
相手を知るといこかとは容易ではないからだ、でもその人がどういう人なのか知らないで対話していると部分的であり何か一過性で終わってしまう
それで深く対話できないのである




2019年04月21日

神社は何なのか、何のためにあるのか? (謂れがわからないのが多い)


神社は何なのか、何のためにあるのか?

(謂れがわからないのが多い)

なぜ日本にはこんなに神社があるのか?もう無数にある、それは何を意味しているのか?それは信仰の対象というよりは歴史的遺産として残してある
でもそもそも不思議なのはなんの謂れかもわからないものだとするとそれは何のためにあるのか?
それは相馬市の坪田の都玉神社がある、これは国魂神社のことである
国の魂となる神社という意味なのか?

主祭神は相馬都胤命(そうまくにたねのみこと)。

合祀神は大貴己命(オオナムチノミコト)、相馬昌胤命(そうままさたねのみこと)。
正徳五年(1715年)、第五代藩主・相馬昌胤公の息子・都胤がわずか五歳という年齢で亡くなってしまう。

都胤公を寵愛していた昌胤公は嘆き悲しみ、現在の社殿のある場所の裏山に石室を築き、都胤をそこに埋葬する。

その後、享保三年(1718年)には神社を建立。

都胤の御魂を御祭神として祀ったのだという。

都胤(くにたね)公の御魂(みたま)を祀ったので、『 都玉(くにたま)神社 』と称するようになったのだとか。

さらに、昌胤公の死後、天保十三年(1842年)には昌胤公も合祀される形で都玉神社に祀られている。

このように由来が明確である、だからここにお参りする時は五歳で死んだ相馬都胤命を祭るからその人を供養することになる
由来が明確だからその是非はともかくそこにお参りする理由にある
他にも子安神社などが各地にありそれは子を安らかに産んで育てる願いがあって建てられた神社であり社である、それもわかりやすいのである

ところが神社には何の謂れがあるのかわからないのが多いのである
それでおかしなのは今回の津波で相馬市の松川浦の津神社が津波からまねがれた
そこで言い伝えがあり津波の時にその神社に逃れると助かると伝えられていたという
それで実際に助かった人がいたからここは津波を記念して建てられたのだという人がいたそれで相馬市の城跡で会った歴史の高校教師であった人すらそう言ったのである

ところが津神社というのは「つのみつ)神社と言っていた
津神社となっていてもツ神社とは言わないのである、それは当て字なのである
これがまぎらわしいのはツの神社となるがツノはツできれるのではなく角(つの)なのである
つのみや神社とかも言っているからだ
そして津神社はこの辺で海岸沿いに多いのである
砂鉄を求めて来た渡来人の技術者達が建てた神社だったとなる
原町の雫(しどけ)も高い所に津神社があるがそれもつの神社なのである
烏崎にも津神社があった、その神社はもともと高い所にあったが移されたのである
それもツ一字では読まないはずである
そもそもこうして津神社が多いという時、それが津波のために建てられたものではないのである
津浪に由来する神社は仙台市の波分神社くらいである、そこで津波の波が分かれたというので明確である、実際に今回の津波でもそこまで津波が来ていたのである
他にはほとんどないように思う
津神社はツノガノアラシトのツノなのである
ただそれも大和王権に統一されたとき隠されたのである
そして由来がわからなくなったのである

神社の由来がわからなくなると別にお参りしなくても何のためにあるのだろうとなる
鹿島神社は多いがこれも大和王権に統一される過程で作られたタケミカヅチの神である
武力で制服した神なのである、ただ後で豊作の神とかにされたのである
他に綿津見の神が多いし山津見の神社も多い、これは安曇族など海人が移動してきて建てられた、そういう人たちが入ってきてその人たちの先祖が祭ったとなる
それは歴史的遺産として残っているし残しているとなる

神社でもそうだが何か祭る時、それは何かしら伝えるものがありそれで祭られている
でも何を伝えようとしているのか?それがわからなかったら維持できなくなるのではないか?何かわからないとしたら何のためにお参りしているのかもわからない
祭りでも何の祭りかもわからないのがありそれだけ古いものだからそうなる
でも何の言い伝えが謂れがわからないものをいつまでも維持できるだろうか?
信仰するにしてもそうだろう、何かわからないものにただ祈ることはできない

ただそうでも何かしら歴史を伝えるものではあるから残している
でも相馬市の松川浦の津神社を津波の神社とか真面目に言われ歴史の高校の教師まで信じていた、別に松川浦には他にも神社がありすれすれで津波からまねがれているのである
それは神社が古いからもともと海だった所や湿地帯だった所には低い場所にはないのが多いからである

とにかく神社の問題は何か由来がわからないのが多いから気持ちとしてすっきりしないのである、何か不明な謎としてあるとなりすっきりしない、それでいろいろ調べる人がいるそれは謎だからそうなるのだ
それで都玉(くにたま)神社の謂れはわかりそこにお参りする土地の人が守るというとき五歳で死んだ子供を供養するということになる、また相馬氏の殿様がそこに葬られ祭られたと知る
それは明確でありわかりやすいのである

でも神社には何か由来がわからないのが多すぎるのである
それで安産の神だとか豊作の神だとかに後世にされたが実際はそういうことで建てられものではないものが多いのである
飯館村の山津見神社でも狼を神としているがもともと関係ないのである、それは海人系の綿津見神社と対になった神なのである
後から別なものの神にされているのである
神社というのは確かなことはその土地土地に根付いた先祖がいてその人たちが祭ったことは確かである、それも大和王権が成立する前からのも多いから謎になるのである
ツノガノアラシト系とか韓国系統とか物部系統とか蝦夷として大和王権に征服された人たちの神は祭られているとしても隠されたからその由来がわからなくなっているのである
それは敗者の神だからそうなったのである、でも歴史的遺産として残されているのである



2019年01月15日

相馬市の山上の塩手山や茄子小田の地名の由来は?


相馬市の山上の塩手山や茄子小田の地名の由来は?

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こういう地形だから塩手山は地形から名付けられた


「なす」の語源は、「なすりつける」とか、「ならす」の意味の他に、「なずむ」というどろどろの湿地の意味もある。栃木の那須は平坦な地形の「なら」に通じる地名由来だ。岐阜県の茄子川は、川がついているので、平らなところを浸食した意味も含まれる。 


シオデ(牛尾菜)

漢方では、根茎を「馬尾伸筋(ばびしんきん)」と呼び、鎮痛などに効能があるとしています。 

しおしおと

 凹んでーしぼんで、生気を失う、陰気な・・・・

地名を解くとき注意しなければならないのが漢字は当て字でありその漢字から地名を見てはいけないのである、もともと音がありそれに漢字を当てたからおかしくなる、誤解されるのである、北海道のアイヌに漢字をあてた結果奇妙な地名になっているのでもわかる

茄子とあるから茄子と関係しているのかというとない、那須は有名だけどそれ茄子とは何の関係もないのである、地形的なものなのである
川が関係しているとなるとあそこにも川があるからそうなのかともなる
そして茄子小田となれば小田は小さな田だからまさにそうである

そして塩手山とあるがそれは何になのか、塩とあるから塩とは関係ないことが多い
それは山の中に塩とつく地名が多いからである

 山間に多い塩地名 ― 塩原(しおばら)
  
(1)楔形の谷の奥
(2)川の曲流部
(3)撓たわんだ土地(長野県北部〈北信〉にみられる)
(4)植物のシオデ(牛尾菜)に由来 

この四つのどれかとなる、楔形の谷の奥、川の曲流部、たわんだ土地というとき塩手山とか奈須小田はあてはまる、しぼんでゆくつ地形であり、しおしおという言葉がありそれは何か陰気な生気がなくなる場所としているからだ
確かにそういう地形なのである

もう一つはシオデという植物がありそれは薬草として利用されていた、農家の出の人は自分の家で薬草を作って処方していたという、それは千振(せんぶり)とかドクダミとかである、それから血止め草と呼ばれていたのもあり薬がない時代は自家製で作っていたのである、現実に千振山といかのがあったり薬として欠かせないものが野草にあった
これはチフリ山と読んでいる

この地方で人気のある「薬来山」は、昔は「せんぶり」の宝庫でした。

千振(せんぶり)山とつく地名があるのか?センブリが薬草として貴重だから薬の山はセンブリが豊富にとれる山だったとなっていた

たいがい何か花でも薬になる、トリカブトは毒薬でありこの辺で山中深く咲いていた
漢方薬が生まれたのは人間にとって必然だったのである
ただそういう知識は専門化したがもともと自家製でも作っていたのである
そうしないと生きていけないからである
その農家出の人は納豆まで作っていたというからだ

いづれにしろ地名の由来で一番多いのは地形に由来したものである
だから塩手山がシオデという植物に由来するかとなると疑問である

インタ−ネットでは地名に関するものが多いから参考になる
全国的に共通なものを調べやすいのである

台町とかあったけどかなり高い所にも畑があり見晴らしが良かった
その前にあの辺は今田という地域である、今田とは新しく田にした地域だともなる
新田は新しく開拓した田のことである
あそこには紙漉川というものが近くにあるから紙漉きが行われていたのである
あの辺は地形的に複雑である、入り組んでいるからである

南相馬市と相馬市の相違は原発事故の被害が南相馬市と相馬市では格段の差があった
放射線量は海側だと変わりないが南相馬市では鹿島区でも半分は避難したのである
相馬市は避難した人はほとんどない、その影響が大きかったのである
だから南相馬市の地域は原発事故で田畑が荒地化した、8年過ぎて回復したにしても南相馬市地域では荒地が依然として多い
特に橲原とか大原とか山側になると荒地のままなのである
それから小さな田はソーラーパネルになったりする、小さな田畑はもともと跡継ぎがないとか生産性が低いので原発事故以後は放置されてしまったのである
だから金にするためにソーラパネルにされやすいのである
宮城県とかでも津波の被害地では農業をやめた人が多いというのもわかる
それはもともと農業していたのは60歳以上であり高齢化で継続できなくなっていたからである

ただそうして荒地化しているのが景観として嫌なのである
でも相馬市は山側でもあんなに高い所でも田畑を継続しているから南相馬市とは違っているとみた
そもそも小高などは避難させるべきではなかったのである
みんな言っている、3年農業をやらないともうできない、体がなまってできないと言っているからである、今でも原発事故の後遺症は南相馬市にあり相馬市は津波の被害が大きかったが荒地は目立たない、全国的に耕作放棄地は多い、それをどう利用するのかとなると全部ソーラーパネルになるのかとなると嫌だなと思う
グーグルの地図で見ると山の中にもあり玉野村では大規模なソーラーパネルが設置されることで問題になっているのである
もうそうなると山村というものではない、工場地帯みたくなるから嫌だなと見る
海岸部は仕方ないにしろ山の中までそうなるのは景観的に嫌だとなる
でも私の場合は景観とか風流だけから見ているからそうなる
そこで生活するとなるとまた違った問題になるのである



2018年08月04日

三春で相馬氏と伊達氏が熾烈な争い (インタ−ネットで読める一連の物語)


三春で相馬氏と伊達氏が熾烈な争い

(インタ−ネットで読める一連の物語)


伊達政宗の夫人愛姫の父田村清顕は三春城主でしたが、天正14(1586)年に亡くなりました。清顕には男子がいなかったため、相馬派と伊達派で家督を巡り争いがおきましたが、故清顕の婿である伊達政宗が調停に乗り出し、跡継ぎを清顕の甥であり伊達家の血も引く宗顕に定めました。(田村仕置) 

しかし、当主・田村宗顕が小田原北条攻めに参陣しなかった事を理由に、豊臣秀吉によって田村家は改易されてしまいます。(奥州仕置)
  このとき、田村宗顕をあえて参陣させなかったのは、他でもない政宗でした。 
 そして、結果的に田村領は伊達政宗に与えられてしまい、事実上の領地乗っ取りとなり、改易された宗顕をはじめ田村家中は 「政宗にしてやられた!」 と大いに憤慨したと記録されています。


清顕は、相馬高胤(たかたね)の娘を室として迎えます。
政略としての婚儀の意味合いもありますが、古道、岩井澤、葛尾、南津島はその時の化粧料として田村氏の領土として授けられたとされています。

この都路村は、田村領の中でも相馬領に近く、隣接の葛尾村(現双葉郡)田村領内でも治外法権的な要素を持った地域で、田村家旧臣が多数移住して開墾していたのではないかと考えられます。

 清顕には男子がおらず、後継を決める間もなく急死したため、相馬家出身の清顕夫人を中心に重臣たちの合議制がとられます。当初は、政宗に男子が誕生したならこれを田村家の後継にするという清顕の言葉に従い、何事も政宗の意向を受け、さらに伊達・相馬両家の家臣は三春城へは入れないと取り決められました。しかし、政宗夫妻の不仲が清顕夫人に伝わると、夫人は実家の相馬家に頼ろうとし、清顕夫人を中心とする相馬派と、伊達家出身で先代隆顕夫人を中心とする伊達派に家中が二分されます


 天文18年(1549)相馬顕胤の娘が三春領主田村清顕に嫁したが、天正14年(1586)清顕が男子の跡継ぎなく没した。清顕には顕胤の娘との間に娘(愛姫(めごひめ))があったが伊達政宗に嫁いでおり、田村家は断絶。田村領をめぐって伊達政宗と相馬義胤が争ったが、結果は伊達の傘下となった。三春家中で相馬側であった大越・熊耳・阿部・栗崎の諸氏は相馬の臣となった。

 田村郡大越村

第一章 大越氏 


 田村家家臣で伊達家召し抱えの田村家御家門方坂ノ上田母神玄蕃頭が天正十五年に記した「田母神氏旧記」(田村仕置き直前の田村家臣録


 母野家の墓碑の写しの一つ[故祠掌田母野坂上衛之墓]と、石に彫るための準備であったと思われる墨書[田母野坂上家之奥津城]を奥から持ってきてくれた。  
 「ウチは田村郡田母神村(現・郡山市田村町田母神)出身で、元の姓は田母野ではなく田母神だった。田母神は田村麻呂と関係があると言われている。                                     

 神社明細書]を見せてくれた。それには、(田村大元神社が)[小山田村今明王壇より移され]と記されてあった。

 その他別系の田村氏
武蔵七党に属す“西党”に田村氏がある。多摩川中域を統治していた日奉氏を祖とする地方豪族である。一族には小川氏、立川氏、中野氏、柚木氏、稲毛氏、平山氏、田口氏、西氏、由井氏、高橋氏などがおり、活躍した武将も存在する。



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この書状で寒気節とあるのは寒い時期である、でも朧月とあるのは春なのである。
春だけどまだ寒いということになる、ここでよくわからないが取籠とはとりこむということで相馬氏への味方として取り込むことをお願いした書状なのかとなる

いづれにしろ寺までまきこんで熾烈な争奪戦が三春で行われていたのである。
それは戦国時代は全国でそうだった、家督相続でももめていたらそこにつけ入られて相馬氏と伊達氏などが好機とばかり侵入してきたのである
こういう経験を介護の時したから戦国時代は弱肉強食が露骨だったのである
相手が弱ったらチャンスなのである、その弱みにつけこまれるのである。
ここは大きなドラマにもなる、小説にもなるからめご姫のことが物語となりNHKでもドラマ化したのである
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これとは別に田村氏は相馬氏と関係して田村氏関係の人が相馬氏に移り住んでいるようである
その証拠はダイユーにある(田母神)である、これはダイユーができる前に田の中にあった、その田がダイユーの建物になったがこの社は残されている
これは単純に田の神と思ったがそうではない、田母神村という村が三春にある
これの由来がインタ−ネットに出ているように坂上田村麻呂に由来しているとすると
三春関係の人が相馬氏と関係してここに移ったためだとなる
信仰も人とともに移動するからである
田村という姓を鹿島で身近に知っている、他でもあるにしてもこの三春から移住してきた
それはかなり有力な証拠である
ともかくここに引用したものを一連の物語として読むことをすすめる
小説のように面白い、一部は小説家して語っているからだ


インタ−ネットの優れている点は知識を関連付けられることである
リンクできることである、図書館ではそういう機能がない、本をいちいち取り出して読んでもわからない、郷土史でも知識が膨大だからである
そして介護とか家事に時間をとられるから図書館に6年間でも行っていない
図書館とは意外と使いにくいのである、何か調べたり物を書くときは自宅でできるのがいいのである、そのために自宅にある程度資料となるものを用意するといい
だから南相馬市博物館のテレビのチャンネルで今回放送した伊達氏と相馬氏の関係は面白かったのである。
そういう地元で番組つくりする、それはインタ−ネットでしているのである
テレビだって本当はyoutubeでもできるのである
ただ手間になるから一人で時間がかかりすぎる、でも今回引用したものを連続的に読むとすでに郷土史の物語になっていたのである

次回は南相馬市の姓について


2018年07月29日

原町の雲雀が原へ(野馬追い短歌十首) (黒い顔のイスラム系のモハメッドの姓の人が出ていた)


原町の雲雀が原へ(野馬追い短歌十首)

(黒い顔のイスラム系のモハメッドの姓の人が出ていた)

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イスラム系の騎馬武者





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ナマズの旗印は面白い




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北郷の旗印
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只野氏の旗印
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雨しとと舗道をぬらし大将の母衣(ほろ)の赤くも進み来たりぬ(鹿島−北郷)


鬼百合の朝日さし映ゆ野馬追いの騎馬武者そろい雲雀が原へ

夏日さし旗ゆらめきて野馬追いの行進続く雲雀が原へ

大声の時にあげにつ野馬追いの一年に一度晴れ姿かな

旗印そろい三つや同族の頼もしきかな行進続く

原町の昔の街道練り歩く騎馬500頭の勢揃いかな

原町の昔の街道松古りぬ騎馬武者の兜誇らしきかな

朝日さし兜光りぬ手綱とり馬も誇らし昔思いぬ

小高郷神社の旗は黄色かな雲雀が原へ入りゆくかな

北郷の旗印一つ我が見つけ雲雀が原へ武勲あれかし

総大将の後につづきぬ奥方の紫の旗ついてゆくかな

野馬追いにモハメッドの姓黒き貌国際化する時の変わりて

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原町の野馬追いの行列を見に行った、すでにはじまっていた、今年の野馬追のニュースはなにか?
モハメッドというイスラム系の黒い顔の人が出ていたのである。
これはめずらしいと思った、確かに前にも外人で出ていた人がいた
今回はイスラム系の人なのである。イスラム系というと東南アジアにも多い
中東ではないだろう、なぜ出ていたのか?
東南アジア系の人が野馬追いに出る家の女性と結婚したのだろうか?。

中村神社の神輿をかついでいるのは東京電力の会社員だった、これも原発事故で被害を与えたのであえてそうしているのか?会社員が担いでいることは聞いたが東京電力だとは思わなかった

野馬追いはやはり旗が何を示しているのか?それをある程度わからないと深く見れないかもしれない、基本的に小高郷と中の郷(原町)と北郷(鹿島)と宇多郷(中村)が一体となり雲雀が原に合流している入ることは知らねばならない
標葉郷(しめは)浪江も参加するが基本的にはこの四つの郷が一体となり原町の旧街道を行進する、その時相馬藩の歴史が再現されて一体化するのである
小高からも出るということは原発事故で避難区域からも出たとなると復興のための野馬追いがつづいているとなる、野馬追いは相馬藩を再現する一体化する祭りだからである。

野馬追いも国際化することはさけられないだろう、外国人は日本の侍に憧れる、それを目の当たりにするから魅力を感じるだろう
侍の国でも日本ではこうして侍の時代をリアルに再現する祭りがないのも不思議である
例えば会津藩などは30万石とか大きいのにそういう祭りが残っていないのも不思議なのである。会津武士道の日新館の車が必ずきている、でも武士道は会津に残っているが相馬藩ではそうした藩校などはなかった
でもなぜ野馬追いがこれだけの規模で残っているのか?。
それが相馬藩の特殊性なのかもしれない、代々殿様が変わらずつづいたのもめずらしい
必ず代替わりを他ではしているからである。殿様が継続して変わらずつづいたことが野馬追いを残したともなる

野馬追いの見方として旗印だが三つそろったりするのは同一の一族であり村も同じだろう北郷(鹿島)では副大将の紫の母衣9ほろ)の武者がいる、これも特徴である
小高の神社の旗は黄色だとか見分けることも必要である
そして総大将の後ろに紫の旗がありこれは奥方の旗なのである。奥方も旗印をもって総大将についていたのである。奥方も城では力をもっていたのである。

原町の雲雀が原に行く道は昔の街道である、その絵も残っている、宿場町だった
木戸があり許可なしでは通れなかった、いい松があったがそれほど古いものではないだろう、ただ通りに松があるだけで違うなと思った
ただ家だけがあると景観としてものたりないものとなるからだ
並木道として松があるのがふさわしいとなる、松がもっともふさわしいのである

いづれにしろ国際化して外国人が大勢来る時代になると英語で説明することが必要になるそれを自分でもグーグルの翻訳で試みてみよう、あの翻訳は本当に優れている
外国人でスマホがあればある程度は基本的なものは通訳できるかもしれない
どうししても単語が出てこないからだ、日本では話す機会もないから最近英語で通じにくくなった、でも絵や写真を通じてだとわかりやすいのである。
それをスマホとかですると通じるとなる、まず言葉だけでは今は通じにくいのである。
言葉だけで説明することはわかりにくいのである
ただそこで問題なのは説明の仕方だとなる、外国人にわかりやすい注意をひくものとしないと通じない、外国人に日本をどう紹介するのかということにもなってくる
ただ説明する時ヨ−ロッパだと城が多いからにているから説明しやすいとなる
東南アジアとかなると説明しにくいのである。 

今回は雲雀が原で旗とりは見なかった、行列で盛り上がるのは雲雀が原に入る時である
だからあそこで写真をとるのがいい、曇っていたりちょっと雨がふったり台風が来て変わりやすい天気だったが晴れあがったから写真をとるにはいい天気になった
やはり野馬追いは暑くて晴れて夏の雲が湧きあがるときあっているのである。
ただ雨の時でも風情はある、雨しととふり大将が行進してくるのも良かった

2018年06月29日

相馬藩内の地名を探る (津波で原始の状態が再現されて地名を理解した)


相馬藩内の地名を探る

(津波で原始の状態が再現されて地名を理解した)

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八沢浦にこんな広い沼が生まれた
二つも三つも生まれた、それで二ツ沼という万葉集の歌があることを実感した
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荒地化して羚羊がでて猿が増えた原発避難地域 
(橲原渓谷からバラ坂、大葦、大古林道から大原へ)

田の意味に「田畑のように何かをうむ所」があり、古訓に「ところ」があるのです。                       
 黒ノ田は「黒がある所」の意になります。  
 この周辺は金銀銅鉄などの鉱産物が多い地帯ですから、
 黒はくろがねの黒で砂鉄か鉄鉱石を産出した所と推測できます。


 大畠一・大畠二(小字名) 
上坂田集落の南東側の水田の地名です。耕地面積の大きい畑の意の地名です

地名から探る郷土史と歴史のポイント

●原始の自然状態をイメージする

●地名でも新旧を探る

●渡来人の地名は古く多いから要注意

地名学となるとまず日本の自然状態、人の手のはいらない自然状態をイメージすることが不可欠である
津波で驚いたのはその原始の自然状態が再現されたことであった
八沢浦が元の入り江にもどったときほど驚いたことはない、そして塩アまで津波が来ていた
そこに古代の港とされる船着という地名がありその近くまで津波が来ていたことには驚いた、つまり太古の状態が再現されて船着という地名があり確かにここに船が来ていたことが津波によってリアルに証明されたのである。
地名はまるで化石と同じくらい古いのである。船着といってもそれは化石地名となっていた、どうしてあそこに船が来たのかということがイメージできなくなっていたからだ
でもあそこはもともと低い場所でありだから津波が奥までおしよせたのである。

このように原始からの手のはいらない自然状態から考察しないかぎり地名はわからないのである。自然状態というとき一時八沢浦とかでもほかでも大きな沼ができたことにも驚いた、日本の原始状態は湿地帯であり沼が多かった、だから海側には沼とつく地名が多いのである。沼田とか池田となるともともとそこはには沼があり埋め立てて田にしたとなる
田下駄というのがありそうした湿地帯や沼を田にするのに下駄が生まれたのである。
その後でも下駄はぬかるよに強いからである。舗装されていな道では下駄が良かったのである。

ともかく無数の地名があるとしてまず原始の自然状態をイメージすることから地名を知るそれは歴史でもそうである、原始の自然状態から地理から歴史を知ることが不可欠なのである。
例えば芦田というのも多い、そこには芦が茂っていたからその名がついた
ところがアシは悪しきとかになり縁起が悪いとして吉田にしたという
吉田でも葦が茂っていたからの意味もあるが縁起を担いで吉田としたとある
吉原とかは遊郭で有名だけどそこは葦が茂っている原野だったのである。

ともかく相馬郷土史でも地名から探る時人の手の入らない原始状態を見るべきである。
原町だと長野とか深野があり大原がある、それが原始状態としてある
原町は原っぱであり名付けられた、そこは野馬が放し飼いされた広大な牧であり今の街などなかったのである。人も住んでいない原っぱだったのである。
原町の成り立ちは今の街の周辺地域から始まった、まず館とある地名は鎌倉時代とか中世に由来するからそこを注目しておく、深野には館とつく地名が二つもあり古い、大原は相馬市が入ってきて開墾された場所であり新しいのである。
この地名の新旧も大事なのだ、そもそも歴史でも郷土史でも村の新旧でも何か古いのか新しいのかを知ることが基本的にある、これを間違うと歴史を誤解する

新旧というとき朝鮮半島からなどの渡来人がきて地名化したことは要注意である。
例えば末続(すえづく)などは須恵器を作る渡来人の技術集団がきてなづけたし津宮(つのみや)とかあるのもそうだった,ツノとはツノガノアラシトのことだからである。
これは製鉄の技術をもっていた技術集団でありそれが最初に地名化したのである。
朝鮮半島には伽耶とかが百済とか新羅の前にあり日本の天皇が伽耶に由来しているとかの説もある、つまり伽耶(かや)という地名は萱(かや)と混同しやすいが伽耶の国の人たちが移住してきてついた地名がある
そしてこの人たち日本の大和王権成立前から来ていた
それで蝦夷とはこの伽耶族とかが入ってきて大和王権に対抗した人たちなのである。
それだけ日本に来たことが古いのである。

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原始の状態を見るとき地名が解明されることがある、大原から八木沢峠に行く道の薔薇(バラ)坂がある、ここになぜ薔薇なのか?それがわからなっかた、薔薇というとき薔薇の花をイメージするが茨のことであり荊とか棘とかなる,刺(とげ)がある茨(いばら)の原だったのである。
それを実感したのは薔薇坂でそこの家が放射能汚染で避難区域になった
その時そこに入ったら茨があり難儀した、そしてそこにカモシカが出てきたことにも驚いた、茨は茨木になった由来は知られている
なぜここが薔薇坂なのか?薔薇という字ではなく茨にしていればイメージするものが違っていたとなる
これでもわかるように地名は常にその土地の原始状態を人の手のはいらない状態をイメージすることが不可欠なのである。
そして地名でも常に新旧を知ることである。
深野にあった豪倉という地名は昭和十年とかに建てられた新しいものだった、だからそれほど価値ないと見た、歴史では常に古いものが価値があり古いものから歴史を探る

だから相馬市はもともと中村があり城が作られた側まで中村だった、その後に田町とか大町とか町(街)になった、ただ曲田となるともともと田があったとなる
順序的には田町は新しいとなる、城がてきてその後に地名化したとなる
それは中村という大きな村がありその中に後から町(街)ができたからである。
もともと田があったから田町となった

基本的に日本では田と畑の地名が多い,でも田より畑の地名が古い、畠とあり畑とあると火があるから焼き畑地名である。田が作られる前は焼き畑がった
だからこそ焼き畑地名は多いし古いとなる、飯館村の佐須とか比曽とかも焼き畑地名である。山林地帯であり森を焼いて畑にした場所であり狼が祭られていた山津見神社は
焼き畑とか関係し神社なのである。なぜなら狼は作物を荒らすイノシシやサルやシカを食べるからである、狼はだから大神になっていたのである。
焼き畑地名は田のつく地名より古いのである。

ただ黒田が黒の田というときそこに鉱物資源がとれたというのはわかりにくい、鉄生産の地名も多い、そしてその鉄生産に渡来人がかかわっていた
海側だと砂鉄がとれるしそのために海側を伝って移動してきたとなる
ツノガノアラシトの角(つの)とつく地名が小高にある角部(つのべ)なのである。
津軽(つがる)もツノガノアラシトがなまったものでありなぜ棚倉で大和王権軍と戦ったことが伝説化している津軽(ツガル)族がここで一緒に戦っていたのか?
ツノガノアラシト系が東北で離れていても連携していたともなるのである。
ただ渡来人系の地名とか足跡は大和王権になり隠されたことは確かである。
それで不明になったのが多いのである。

ともかく地名の起こりは日本の原始の状態がはじまっている、だから日本の純自然状態を知らないと地名もわからないのである。そこが吉原だったち遊郭とかなればイメージできなくる、都会のビルが林立すればイメージできなくなる
でも津波で原始の状態が再現されたときリアルにイメージできたのである。

南相馬市の大原から八木沢峠へ (バラ坂の地名由来の考察)

荒地化して羚羊がでて猿が増えた原発避難地域

(橲原渓谷からバラ坂、大葦、大古林道から大原へー春の短歌)


2018年06月28日

人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ! (相馬市は中村でありその由来は)


人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!

(相馬市は中村でありその由来は)

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このNHKの番組は面白かった、ドラマ仕立て姓の由来を追求していた
方角地名は一番多い,だから地名を見るとき方角からみる
でも方角でも東西南北があってもどこが中心か問題になる
中村は最初に人が住んだ古い村だから中心になる

相馬市は中村からはじまった、中村という地名が起こりであり中村市だったし中村城になっていた、相馬市と名付けられたのはまだ新しいのである。
中村という方になじみがある人はもう老人だとなってしまった

中村というのが駅前にあり城の側にも中村とある,これは何なのか?
中村が移動したものなのか?中村の発祥の地ではない、
なぜなら中村の城は中村という地名がある所に後から作られたからだ
だから相馬市は中村から生まれて城が作られた、中村は古いのである。

つまり何でも新旧がありそこから郷土史でも歴史でも見ることが基本なのである。
つまりこの城の側の中村は新中村なのかもしれない、中村の人達が城ができて移り住んだのである。何か城下町として城の側だから仕える仕事があってそうなったのかもしれない古町とか新町がありこれは狭い範囲でそうなる、鹿島区でも新築の家が何百軒と建ったから新町ができたとなる
ただこの見方は違っていた、中村という村の領域が城の近くまであったともなる
田町というとき城ができてそこが町になった、田町は新しいともなる、城ができた後に名付けられたからだ
やはりこれは中村という領域にあり中村はそれだけ広かったとなる

そして面白かったのは村は中村から開墾して広がっていった、分家していった
その時竹村とあるとき竹が生い茂っていてそこを開墾して住んだ
そして竹細工を作り売る村になった、他に樫の木があり樫村になったというときその樫は鍬に固いから使用されていた、つまりその木を鍬にして売る村があっとなる
栗村だったら栗を作り売り梅村だったら梅を作り売りとか様々なものを栽培して生活するそれは農村もただ米を田んぼを作るだけではない多様なものを作るうよになった
それは農村が分業化したことなのである。
百姓というとき百の姓があるということはそれだけの分業が起こりそうなった
分業というとき工業のことを考えるがそうてはなかった,村には多様な職業が生まれたのである。

木村が紀伊の国からきているというのも面白い、木のある村ではない、紀伊の国は古代に有力氏族だったからである。紀伊とは和歌山県でありその人たちが全国に散らばり木村となった、現実に紀伊国に年貢などを収めていたからである。
紀伊というとき和歌山県というとき熊野で有名であり熊野神社が多いのはそのためであるいたるところに熊野神社があり鈴木という姓は熊野から和歌山県から由来しているのである。

毛野国は古代で大きな国であり今の栃木県とかで大きな領域をしめていた
南相馬市の鹿島区の浮田は浮田国造(うきたくにのみやっこ)があり一番古い
それも紀伊国に由来しているともなる、ただ木村のすべてが紀伊国とはならないだろう。ただ古代だけではないクジラがとることで太地とか有名だけどそうした漁民もその後東北に移動しているからだ,漁をする技術を伝えているからだ
万葉集に真熊野の船を歌ったものがあり木が豊富だから船作りを古代からしていたのである。

島隠り 我が漕ぎ来れば 羨しかも 大和へ上る ま熊野の 船 

こういう番組の作り方はいい、ドラマ仕立てでできるのがNHKとかの強みなのである。
ただ番組は今や無数に作れる、テレビ番組すらyoutubeで作れる
そして番組の作り方は一つではない、無数にある、その説明の仕方も無数にある
説明の仕方で新たな視点を得ることもできる
だから現代は情報化社会なのである。
まずNHKで番組を作ったからといってただ見ているだけだった
今や批判もできるしその説明も即座にしているからだ
もう番組作りに参加しているのである。共同制作になっているのがインタ−ネットである新聞とかテレビだけが番組を作る時代は終わったのである。

2018年06月09日

高平(タカヒラ)地名と貝餅地名の謎(他に曲田の由来)


高平(タカヒラ)地名と貝餅地名の謎(他に曲田の由来)

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名取(なとり): 「ナ」は古代語で「土地・地盤」のことで、また「トリ」は「洪水や津波などによる欠損や崩壊」を意味し、「ナトリ」とは洪水や津波で土地が削り取られた土地を表す。

平泉(ひらいずみ)

(1)「平」は斜めに平らな土地のことで、北上川氾濫原の平地、泉地 
(2)方言「ひら」泉で、逆芝山の山麓の清泉 
(3)伽羅御所などの奥御館の南隅に湧く平地の湧井


平安時代以降、とりわけ江戸時代以降の新田開発に
関係しているところばかりです

宮古島の平良市を調べて、「宮古島では、ピラは『坂』という意味の言葉だという。」(65頁)、「石垣島のコンピラは、
まさに坂で、 通称コンピラ坂と呼ばれていた。」、「いまはアスファルト舗装
されているが、 舗装される前、この坂を登るのは容易ではなかったと地元の
人はいう。」(同66頁)、石垣島の川平(かびら)は「海に突き出て崖状になった所であった。」(同67頁)、宮古島でも、「ひら」が崖として使われている、
file:///C:/Users/USER/Downloads/j19_05.pdf

名取が津浪と関係した地名なのか?名取の被害も大きかった,そういう地形にあったのか?

平泉は平はやはり傾斜地であるがここでは斜めに平な土地としている,泉があるところは人が住むから多い,ヒライズミというときヒラ+イズミであり一体化しているところが地名としてある,ヒラタイというときまさにそうである。ヒラという地名は一語ではあまりないだろう
なぜならヒラはアイヌ語のピラ(崖)から来たというが本当にそうなのか?
もしそうだとしたら日本中がアイヌ語が基となりアイヌが住んでいてアイヌは縄文人だとなる,それは解明されていないし日本の地名をアイヌ語で解明することは危険なのであるアイヌと縄文人はまた違っているし縄文語とアイヌ語もまた違っているのだ
このヒラにしても日本語でちゃんとヒラク(開く)という動詞がある
日本では山が多いから傾斜地を開いて生活してきたのである。
野が傾斜地を意味しているのもそのためである。日本には大陸のような平坦な土地が少ないのである。
だからこそヒラタイというとき開くとタイ(平)が一体化しているのである。
そこに先人の苦労が言葉に残されているのだ

だから高平とは高いということがまずある,どうしてそこが高いのだろうか。
そこは低い場所としてしか見えないのに高いのだろうか?

高平という地名はまず傾斜地があり斜めに平な所があり開く,開墾する,開拓する,そういうことで名付けられた,順序として金沢の方の高台がありそこから斜めに平らな所を開いて人の住む場所が広がった,何故なら低い場所は日本ではほとんど湿地帯になっていたからである。川の側も氾濫するから住むに適していないのである。
だから新田川付近は住むに適していない,ただ桜井古墳のあるところは一段と高くなった場所だった,古墳があるところは鹿島でも寺内と小池であり高い場所である。
横手の古墳は低い場所にあるがそれは時代的には寺内小池の古墳より新しいのである。

ともかくここで引用した学者でもヒラをアイヌ語のピラ(崖)から解釈するのは危険である。縄文人とアイヌが同一民族だというということは証明されていないからだ
あくまでも推測だからである。


●貝餅地名の謎

「度重なる飢饉や旱(ひでり)の連続で人びとはみな飢え、路傍で餓死するものが続出した。食うものもなく、やせ衰えたわが子のためかい餅三個と先祖伝来の美田一枚を交換した故事を地名とした」(『医王山物語』)。

私が育った越中散居村ではボタモチを「かいもち」と言ってました

高平地区に貝餅とあるのは何なのか?
これも不可解である。貝と餅でありこれは単なる当て字ではない
ここの伝説では貝餅とは単なる餅のことであるという,餅ならわかりやすい
貝餅坂というのはこの伝説から生まれた
ただ貝というときカイがカウ(買う)からきているかもしれない,餅を買うとなればわかりやすいからだ,ここの伝説では餅三個と美田一枚を好感した,買ったということで買った餅が貝餅と当て字になったともなる
なぜここに貝がでてくるかわからないからだ
貝とつく地名は貝戸とかあり場所的にはいい場所ではない,ここで貝餅とあっても貝は関係ないかもしれない

気になるのは

私が育った越中散居村ではボタモチを「かいもち」と言ってました

相馬藩内には三分の一が越中などからの移民で構成されている
天明の飢饉のときに相馬藩に移民として入ってきた人達なのだ
するとボタモチとこの辺では言っていたが越中の移民は貝餅といいそれが地名化したのだろうか?
そこには越中などの移民が住んでいたのかともなる
餅は持ち運びやすいから貨幣の役割もしたかもしれない,交換するものとして持ち運びできるからである。
でも越中の移民が来てそこが地名化したということはほとんど聞かない
ただ言葉は入ってきた,ノバというとき裸という意味であり子供の時使っていた
だから言葉は人とともに移動するのである。
西殿をニシドンというときもその基は京都とかにありやがて九州にも伝播して関東にも伝播する,それで蘇我殿というときソガドンになったとかなる
千葉県は相馬氏の発祥の地だからその一族が西殿に住んだからニシドンという言葉も移動したとなる

原町区の地名については解説した人がまだいないみたいだ,相馬市にはいた
地名は誤解が多いかあてつけが多いから問題がある
人によっていろいろと勝手に解釈しやすいから学問になりにくいのである。
ただ地名はいつも使っているから最も親しみやすいものなのである。
だから当然興味をもっても不思議ではない
自分は全国を旅行して最初鉄道だから駅名に関心をもった
地名から歴史とか郷土史に興味をもったとなり遂に
陸奥の真野の草原(かやはら)の歌の草原(かやはら)は地名だと考察したのである。
それはずっと地名に関心があったからである。

●曲田地名

曲田とあるのは田の形が曲がっているから名付けられた,扇田とか丸田とか三角田とか細田とか田に関する地名が多いのは当然である。
まず正方形と長方形にするのが文明のはじまりである。
でも田でも正方形と長方形に作ることはできない,どうしても曲がる田になってしまう
日本には無数の田がある,その田も小さいのである。わずかの土地を開き(ヒラ)きヒラタイものにして田畑を作ってきた

それで例の家が壊された広い土地をもつ人の話を聞いたらあそこがまっすぐな道路になっているがあれはまっすぐでなかったという,まずまっすぐな道路は日本では作りにくいのだ,いろいろな障害があって作りにくいのである。
それには相当な技術が必要なのである。
だから日本では曲がった道が多いのである。

ともかく最近この辺を見ると金沢へ行く坂もソーラパネルになった,あそこも小さい田が多かったのである。
今やそうした小さい田を維持できない,するとそんな土地をもっていても役に立たない,金にならないからソーラパネルにする,他でもそういう土地が多い
荒地になっている,するとそこはソーラパネルになりやすいのである。
でもそうなると景観が壊されるのである。
家の前が田んぼだったがソーラパネルになっている所をみかける
あれは夏にるなと光りの照り返しがあり暑くなる
環境破壊でもあるのだ,でも何にもならない土地をもっていても無駄だからしかたがないとなる
田畑をやめた人がかなりいるからだ,田畑を維持すること自体後継者もいないとか原発事故前からなっていたからそうした半端な田畑はみんなやめたとなる
ただ菊畑であったところもソーラパネルになったし何かそこで月が出ていい感じだったがソーラパネルになるとそんな風流もなくなったのである。

ともかく自分は相当に地名には興味をもちつづけていた,それは旅行したときから始まっていたのである。
人間は何か興味をもつ,ただそれをもちつづけないと成果がでない
雑学でもだからそれを成果に結びつけるには日頃からずっと継続して勉強していないと成果は出ないのである。
つまり能力がない天才でなくてもそうして継続していると何かしら専門家として通るようになる
「継続は力なのである」だから雑学でも学問であり馬鹿にできない
人間は雑学すらものにしていないからだ,それは継続しないからなのだ

2018年01月19日

町(街)作りは土地の特性を活かすこと (相馬地方にも多様な土地の特性がある)


町(街)作りは土地の特性を活かすこと

(相馬地方にも多様な土地の特性がある)

実はドイツにも「まちづくり」のような使い勝手のよい言葉はある。「立地要因」「立地特性」などと訳される”Standortfaktor”がそうだ

市町村でどうして特徴を出した町作りができるか?
ドイツでは町作りという概念がないという
「立地要因」「立地特性」というのがある

これは興味深い言葉である。立地要因とはその土地の特性このである。
相馬地方でも立地特性というときどういうことなのか?
原町の深野のことを例にあげたがそれは地理的特性と歴史的特性とがある
まず地理的特性から人間の住む場所が決められる
だから地理的特性の影響は大きいのである。
海側と山側に住むものは感覚的に相当違ってくるのである。
職業でも漁業にたずさわるものと農業にたずさわるものでは感覚的相当違っている
浜通りにはこの二つの特性がある,常に海に面して山に面しているからである。
ただ山は高くないからどちらかというと森につつまれているともなる
飯館村は森の村だったからである。70パーセントが森だったからである。

相馬地方の立地特性としては海側と山側に分かれるからである。
松川浦があり八沢浦があり津浪の前は右田浜の松原があったが消失して風力発電の風車の風景になった,あとはソーラーパネルになったから土地の特性を失ったのである。
必ず土地の特性はある,新田川とういう浅い川であり瀬音がするから広瀬川とにている
それで青葉城恋歌ができたりする,それは土地の特性と結びついていたのである。

その土地の特性を活かすことが町づくりの基本としてある,松川浦がありそこに海の幸があり特性を活かせる,ただ津浪で松原とかアサリ取りがなくなり打撃が大きかった
その特性を活かせなくなったからである。
松川浦でとれた魚を出せないとしたら魅力がなくなるからだ
その土地の特性が津浪とか原発事故で失われたことは痛手だった
ただ海でも山でも川でもなくなったわけではない,だから高瀬川は景勝の地としてある
そこに相馬焼きの大堀の窯元があった,ふさわしい風光明媚な場所にあって特性を活かしていたのである。

だからどういう町作りをするのか?南相馬市長選挙があり課題となる
そういうことは別に争点にはならないがその土地の特性を活かすことが町作りになる
深野のことを書いたがあそこにユッサがあり温泉が一応あることはその土地とマッチして特性を活かしたものだったのである。
自分は深野というとき何か魅力を感じる,そこは何も変哲のない場所なのである。
その理由はわからない,ふこうのという地名の名もいいのか?
歴史としても中世からあり古いのである。大原より古いのである。
それは歴史的特性としてある,その歴史的特性を活かすことも町作りである。

相馬氏では公共の建物を入母屋作りにして統一しているからそれも街作りになる
そこには相馬の六万石の城跡があるからそこを基点に城下町風の街作りをしている
それはある程度評価するがそんな建物ばかりに金をかけるなという批判もある
何か自分は異常に景観にこだわるから評価している
景観を壊すものソーラーパネルでも過剰になると嫌だとなる
最近は深野でも土がえぐりとられてむき出しになっている所が多いので嫌だとなる
でもそういう景観は金にならないから普通は無頓着なのである。

自分は全国でも旅したからその土地の特性を地理からみる,相馬地方でもそうである。
狭い地域でも実は土地の風土の特性と地勢の特性と歴史的特性がある
これを町作りに活かすことなのである。相馬地方が海と山と森があるから平凡なようで多様な土地の特性がある,それを自分は詩にしてきた
少子高齢化でコンパクトシティが言われるが自分としては村が消失することはその土地の多様性が失われることだから問題があるとみる
街の中心にすべてがあること,病院でもスーパーでも何でもそこで用を足せるから車が無くても暮らせるようにするというのもわかる
鉄道の駅を中心にするというのもそうである。鉄道の場合は老人が車を運転できなくなるからである。

駅で会った元は小高に住んでいた女性も車を運転しなくなったので電車を利用してきた
でも電車の乗り方がわからないといっていた,そういう人も車社会では多いのである。
だから車社会は高齢化社会にはそぐわないものとなる
そのためには小高では乗合タクシーを市の方に何度も陳情して利用できるにしていた
その女性もかかわって何度も要求してできたのだといっていた
ところが鹿島ではそういうことをしないから原発事故の前は小高の方が何かと役所でも立派なものが建ったり高校ができたりと良かったのである。
それはやはりこうして運動する人がいたからだと思った

南相馬市の市長選挙でこうした町(街)作りのビジョンを建てているのか?
そういうものが見えない,何か政策も似たりよったりである。だからどっちに票を入れていいかまたわからないのである。
際だって違うものがないのである。脱原発だけが相違というのでは何かもう一つ地方選挙では目立たないのである。
ただ実務となると自分のように詩的な観点からは見ない,自分はどうしても景観とか詩的美的観点から見ているのである。
だから八沢浦が入江に一時になったとき奇跡だとして感動していたのである。
でもそこで死んだ人がいて幼児でも泥のなから掘り出しているという人がいて叱責されたのは当然だったのである。
一般的には美的観点から見る人はまれだからである。
ただその土地の特性を活かすときそこに安らぎが生まれる,その土地にそぐわないものがあると安らぎが失われる,ソーラーパネルなどはそうなるが経済的には土地を活かすために容認せざるをえないのである。

ともかく津浪原発事故後の町づくりは変わってしまった,すでに変わっている右田は風力発電となり景観がまるで変わってしまった,あそこに植樹して森を作っても森は映えない風力発電の方に圧倒されるしそこからの騒音があるかもしれない,つまりそこがかつての右田の松原のように憩える場ではなくなったのである。
だから50年後でもそこに森が生まれてもそうだろう。自然は活かせないのである。
なんらか人工的なものは自然を破壊して景観を乱すのである。


深野の秋の詩

その家は石神にありて古しも
昔紙漉きをしたる家と
深野より嫁ぎし女は語る
新田川、水無川の清き水に
寒き冬に紙漉きの生業ありぬ
押釜村には一六軒もありぬれ
今日石神村の八坂神社をたずねぬ
団栗の石段に落ちて我が上り
その木々の古りしと秋の日さしぬ
その謂れは何や社も古りしも
石神より深野に来たりて
百井の姓と深野の姓の家や何か語る
その細道行きて土地の人と話しぬ
豪倉という地名は村の米倉
今この一村にも実りのあれ
飢饉の時の備えなりと地名に残りぬ
樹々の根づきて屋敷を囲む
松に蔵ある家や秋の日のさし
落ち着く暮らし継ぎにしも
ここに誠の日と美しき日々のあれ
深野は大原より古き村なり
山陰に墓のもの寂びてあり
新田川の岸辺に芒なびきて
流れに光まぶしく反射しぬ
ここに太陽も喜び輝き沈む
国見山仰ぎて深野の秋の日暮れむ

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この詩でも詩とか芸術は深くその土地の地勢とか歴史的特性から生まれているのである。


八坂神社は日本に多い,この辺では相馬市にもある,いたるところにある
もともとは渡来系である,秦氏関係だという
京都の八坂神社が本殿である。でもなぜ全国にあるのか?
そしてなぜ石神にありいつ建てられたのか?
神社の場合,なぜそこにいつ建てられたのか?
それが不明なのが多いのである。

2017年11月06日

深野から石神の旧家に嫁いだ女性 (紙漉きをして古い鎧があった)


深野から石神の旧家に嫁いだ女性

(紙漉きをして古い鎧があった)


郷土史とかは家の歴史が基本にある,誰でも家のことに一番関心があるからだ:それでおじいちゃんとかおばあちゃんから聞いたか話が郷土史に興味をもつ
だから郷土史でも古い旧家に生まれると郷土史に興味をもつのである。
そうでなくても一軒一軒の家には二代くらいでもそれなりの歴史がある,謂われがある

深野(ふこうの)から石神の旧家に嫁いだ家は古い家だった,野馬追いにもでていて鎧が博物館に飾ってあるという。この辺では野馬追いがあるからそういうことがある

遠き粗(おや)の片身の鎧萬代にいかで我が名を伝えてしかな

これは柳田国男の家の歴史をたどり兄が残した短歌だった,野馬追いにでている家は相馬氏一族につながり相当に古い,戦国時代までさかのぼる,ただなぜか野馬追いの旗の由来はわからないのが多いのである。
なぜなら旗印は鎌倉時代からはじまるとしたらその源をたどると古いからわからなくなる紋を基にしてもそれが古代にもさかのぼる

例えば只野家の由来は郡山の多田野村に由来して南北朝時代に霊山が炎上したとき落ち延びてきた末裔なのである。その旗印は杉だった,その杉の旗印の源をたどると奈良の三輪山にいたる,奈良の三輪山は雄略天皇時代からの信仰の山である
杉が神聖化されていた,杉の旗印はそこから生まれていたのである。

味酒(うまさけ)三輪(みは)の祝(はふり)がいはふ杉手触(てふ)れし罪(つみ)か君に逢ひがたき

杉は神聖なものだった,三輪山は山自体が神になっているから祭るものがないのである。
古い家というとき深野から石神の旧家に嫁いだ女性は紙漉きをしていた家である。
紙漉きは相馬市の山上に紙漉き沢という地名が残っているからどこでも生業となっていたただその古い家を新しい家にした,それは原発の補償金が入ったからだとなる
その女性は深野出身であり実家の母親は臼作りをしていたという

臼作りというとき餅を作るには必ず必要だから各地で作られていた

船引のけやきの森で臼作りで

欅(けやき)は硬いから臼に向いていた,槐(えんじゅ)というのアイヌのお土産屋で聞いたら灰皿にも使えるという,それだけ硬いから火も消えるとなる
ただこの辺で杉は多いけど欅は少ないかもしれない,ただ材料があったから作られたのである。材料がなっかたら陶器でも作れない,相馬焼を庶民化した左馬という人か大堀で陶器になる土を見いだして左馬茶碗が大堀で普及したのである。

木はもともと器として作られていた,茶碗でもなんでも地元の木を利用して作られていたそれで木地師の伝説が生まれたのである。山の奥地に箸だけを作る村があるとか分業化もされていたらしい,船引では臼だけを作っていた
中山道の昔の街道ではおろく櫛というのが有名である。そこでは櫛だけを作っていたのである。
何かそうした生業というのものが今はほとんど忘れられている,生業とは生まれついてする職業のことである。だから自ずと地元に密着したものであった
原発事故で「生業を返せ」東電や政府に訴えた,その生業は農業なら今も通じるが何か工業化自体になると通じにくいのである。
戦後十年くらいは炭焼きもしていたから生業は地元にあるもので生活していたのである。
そしてともかく物は道具でもお碗一つでも貴重なものだった,そこからもったいなという言葉が生まれた,片身分けというのも衣服でも貴重だから片身分けになる
今は物を遺しても貴重なものとはならない,金の方が大事になる
「生業を返せ」というけども何か地元に密着した生活は喪失していたのである。

いづれにしろ郷土史は家の歴史をたどることからはじまる,一軒一軒の家から見えてくるものが郷土史なのである。
注意すべきは深野は大原より古いことである。館という地名が二つあるのはこれは中世のものだからである。大原は相馬氏が開墾に入った場所だったのである。
最近は畑が牧草地になったり小池の親戚が荒地になった所を耕しているというとき近いからそうなる,深野と小池は山があるにしても近いのである。

只野姓の由来
南相馬市鹿島区に多い只野(但野)氏の謎 
タグ:家の歴史

2017年06月14日

集団就職の金の卵が故郷に帰る (真野川の橋の上で)


集団就職の金の卵が故郷に帰る

(真野川の橋の上で)

真野川の橋でやはり川を見ている人がいた

「水がにごっているね」
「鯉はいるけどな」
「昔こんなじゃなかったな」
「昔というとどのくらい」
「わたしは50年ぶりに帰ってきたんです」
「ええ、とすると集団就職の人」
「そうです」
「じゃ、苦労しましたね」
「本当に故郷は変わってしまいましたよ」
「この辺は特にそうですね」
「なんかのんびりしようとしたけどこの辺はそうもならない」
「それは言えます、あまりにも変わりましたから」

集団就職というとき自分の暮らすで三分の一くらいが集団就職だったかもしれない、ただその時何なのかのみこめなかった。
自分は大学に行って遊んでいたからである。その差が大きかったのである。
集団就職の人は相当に苦労したと思う。

「水がにごっていないときは魚とっていましたね」
「ヤスとかで魚を追ってとっていた」
「あの頃は水がにごっていない、きれいな水だった」
「そうです、きれいな水でないと魚はいない」
「上流がダムになったりして魚をとる人はいなくなった」

その人は団塊世代だから同世代だった、だから同じ経験をしていた。
鰻釣りのことも知っていた。田んぼの畦道で穴に餌をついたミミズをつけた棒を入れて釣るのである。子供のとき父親につれていかれて見ていた
それがかなり待っていないとかからないから嫌だった、何か自分は待つのが嫌な性分だったのである。常に動いていないとだめなのである。
子供だからというのではなく今でもそうだからである。絶えず自転車で動き回っているからである。
鰻とか鮎もその時は大きくうまかった、それを料理するとき手伝わされた、家族みんなで料理した、それが思い出となっている、でもその家族もみんな死んでいなくなった
ただ思い出だけになってしまったのである。
それで今日同じ世代の人と話して思い出がよはがえったのである。

団塊の世代でも今になるとこのように故郷に田舎に帰ってくる人がでてきている
今までそういう人と会わなかったのが不思議であった
自分は同級会には出ていないからでもあるがそういう人と会っても不思議ではなかったのである。
集団就職、金の卵、全学連とか学生運動などは団塊の世代の時代の青春だったとなる
ただ学生運動と集団就職の金の卵の相違は大きかった
自分は学生でも遊んでいただけだからである。一方は油まみれになり狭い宿舎につめこまれて下町の中小企業の工場で働いていたからである。
実はそういう所でアルバイトしていたことがあったから知っている
何か自分が働いたというときアルバイトしかないのである。
自分は別に金に困っていたから働いていたのではないのである。
働く経験をしていただけだとなる

これからはこうして集団就職した人たちも田舎に帰る人が増えてくる、でもこの辺は帰ってものんびりできるところではないのが不幸である。
若い人が流出したりして世話する人がいない、人手不足になっているからだ
そして老人ばかり増えても市町村では負担になるだけだとなる
いくら金があっても働いてくれる人がいなくては金も役に立たないのである。

その人も釣りをしているのでスズキのことを知っていた、海には大きな蟹も上がってきているとかスズキが河口で見たとか知っていたのである。
もともと田舎の出なのだから知っている
そして言葉使いが東京弁とこの辺の相馬弁になっている、でも東京にそうして長くいるとなまりが出ないのである。だからこの人は故郷の人なのかと思った
訛りでお里がしれるというが50年ぶりとかなるともう半世紀であり訛りが出ない
それでもなんか帰って二年間いるからなまりがもどってきたともなる
でもやはりなまりだけはなかなか消えるものではない、東京でそれだけ長く過ごしたことがなまりが出ないということがそれを示していたのである。


ガラスの箱をのぞきヤスで魚とる写真

2016年07月09日

末続村の新妻氏からのコメントがありました (興味深いのでここにものせておきます)


末続村の新妻氏からのコメントがありました


(興味深いのでここにものせておきます)


すみません、パソコンの整理に忙しくコメントを見逃していました
メールで知らせが来ると思っていたのでプログのコメントを見なかった


貴重な郷土史の発言ありがとうございます


末続の新妻氏のコメント

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クリック拡大

原発の影響も隣町の広野までは避難区域でしたが、末続は原発の場所から25キロ地点でありながらもかろうじて避難区域からは外れました。

末続駅を境に山側は津波の影響は何もなく、海側は壊滅状態です。

母実家の新妻家は山側の一番奥に家屋敷を構えておりますが、原発の影響で若い世代は近隣の町に出て行ってしまい、久しぶりに墓参りなどで帰郷しても、子供達の姿なく何とも寂しい限りです。

将来的には消滅してしまうのかもしれないとの思いもあながち外れてはいない厳しい現実も感じます。

処で母実家の新妻家ですが、先のコメントに書いた先祖からの言い伝えですが、

1 仏壇にキキョウの花は捧げない。墓にも。
2 里芋は栽培しない。

というのがあり、理由は

昔、新妻家の先祖である殿様が、間者であるキキョウという名の腰元の手引きにより敵に矢を放たれ、倒れて亡くなった場所が里芋畑だったと。縁側から崩れ落ちたらしいとの。

代々言い伝えられて来た事により現在でもそれを継承しています。
他の新妻家ではそんな事は無いらしく、里芋は近隣の家の方がお裾分けしてくれるそうです。(食するのはいいみたいです。)

当主である叔父も祖父も代々ご先祖様から言い伝えられて守って来た事を自分の代で無くしたくない、と言っていました。
現在は原発の風評により作物は作らなくなってしまいましたが。


他にも色々聞いた話はあるのですが、末続という地名もこちらの記事記載にあるようにこんな由緒あるとは思っていませんでした。

あ、思い出した事が。末続は天領だったとも母から聞いてます。

色々と思い出しつらつら書き出してしまいました。

有り難うございました。

・・・・・・・・・・・・・・・・

コメントの自分の答え

末続とは天領だったのですか?とすると末続という地名は他から来た姓で末続というのは代官の話があるからそこから来たのか?
興味深い話です、なぜ末続なのかわからなかった

末続の由来をたどると末継であり島根県に神社があるからもともとは渡来人系である。
つまり須恵器というのがあり末は陶(すえ)陶器のことでしょう
陶器を作る人の末裔とか陶を継ぐから出た名前でしょう

末次と起源をともにする。はっきりとした出自は不明。近年、長崎県に多く、特に南高来郡口之津町に多数みられる。

現島根県である出雲国島根郡末次村が起源(ルーツ)である、宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)。現広島県西部である安芸国末次庄が起源(ルーツ)である、大江氏(土師の族で相撲の元祖の野見宿禰の子孫。平城天皇の子孫ともいわれる)などにもみられる。

長崎県に多いということはやはり島根県が基で移った人たちでしょう
末続、末継、末次などがあり末次が一番多くて一万人くらいいる
末続はやはり姓が地名化したものでしょう
でも新妻氏が末続の姓になったのは末続という姓は相当に古くそのあとに千葉氏系統の新妻氏が入って来たとなるのでしょうか


(昔、新妻家の先祖である殿様が、間者であるキキョウという名の腰元の手引きにより敵に矢を放たれ、倒れて亡くなった場所が里芋畑だったと。縁側から崩れ落ちたらしいとの)

そんな言い伝えが残っていたんですか?
まるで時代劇ですね、これは作り話ではないんですね
忍者とかでも女性が出てくるでしょう

落ち武者の伝説ではこういう禁止されている話がタブーが伝わっている、身を隠しているからそういうことがあった、・・・をしてはいけないということがあった。
それは山深く隠れていて交流があまりないからそうした伝説が伝えられ守られてきた
いろいろ外部と交わるとそういう一族意識もなくなってしまうでしょう

南相馬市の鹿島区では栃窪村は山の方の村ですが大谷一族というのがあり大谷(おおがい)という姓が多いです、そういうことが各地の村にあります
新妻一族というのがす末続村に墓地をみたら80パーセントくらいあったのには驚きました栃窪村にしても一割くらいか大谷(おおがい)ですから

末続村は何かそういう地形にあった。何か山と海の狭隘な地域でありだから余り外からの人の出入りが少なく新妻一族が代々継がれてきた。
栃木県の湯西川でも山の奥で落人伝説で有名である。

原発から25キロですか、微妙な地点ですね
鹿島区は30キロ地点です
30キロ内だと原発補償金がもらえる地点です
なかなか地理的にわかりにくいのですがやはり相馬藩の境だったようです
相馬藩の参勤交代で江戸に行くとき末続村の人が出迎えたということはどこかで書いてあったようです
つまり岩城藩から相馬藩に移った人も武士もいたからです


何か北海道の方が自分の先祖がいたということを書いてきたことてなどあった。
新妻という姓は結構多いですからルーツをたどる人がいるのでしょう。
末続で津波で七人死んだ、駅の前の所だった。
あとは山が多いから助かった、ただ末続でも一部しか見ていないからわからない所があった。末続が何か地形的に変わっているから印象に残っていた。
歴史的にも地形的にも印象に残る場所だった。

メールでコメントが来るのかと見ていたのですが来なかった

それでプログのコメント欄を見てなかったので遅れてしまいました。
また何か言い伝えなどあったら書いてみてください

末続村と新妻氏については全国的に興味をもっている人がいるみたいです
末続の姓の人は興味をもっています 

興味深い話ありがとうございました、また何かありましたら書いて下さい




今いろいろ書いたもの整理中です、メールの方でスバムがあったのでそれで追われていたのも見逃していた要因だった
量が多くて自分で書いたものがわからなくなり整理中です






タグ:末続村

2016年04月13日

郷土史の基本は村の新旧を知ること (一地域の新旧も歴史であり重要)


郷土史の基本は村の新旧を知ること


(一地域の新旧も歴史であり重要)


郷土史をどういうふうに研究するかとなるといろいろあるが基本はやはり村の新旧を知ることである。
前にも書いたけどそもも明治以降なら時代を間違いることはない、現実に祖父母まで生きているとき接している、自分の父親は明治生まれだから明治と大正が逆になるはずがない、でも江戸時代になると時代を間違うのである。
「天保」となると古い感じになるが実際は天保生まれの人は明治で活躍した人なのである江戸時代では時代をとりちがえる、つまり父親が祖父母となり祖父母が父親のようになる、普通はそんなことありえないのだけど江戸時代になると新旧がわかりにくくなる


それが大事なのは原町でみると原町市となっているけどそもそも原町の市街地は新しい街である。そこは雲雀が原であり野馬追いのために馬を放し飼いにしていた広い牧場だっただから原町村となり野馬追いに出ていたのは一つの家だけである。
村の新旧を知るというとき一番の目安は中世の城館があったかどうかである。
これが意外と大事なのである。それは地名からわかる、館とか楯とかある

東北地方で「館」の名前がつく地名の由来と意味とは

東北に特殊な事情があり館という地名が多い、でもこの館は江戸時代前の地名でありそこが古い場所であることを示している
原町は新しいのであり原町で古いのは中世では泉館跡とか深野でもそうだが館という地名が二つあり古いのである。
誤解しているのは大原より深野は古い、深野には実際に古い墓があったことでもわかる。相馬氏は中世に土豪として土着していた人たちを征服した氏族である
例えば最近高校で習った西徹男死が死んだ、その住所が中館になっていた。
その中館が自分の家からいつも見えるのである。
今は桜が咲いているから身近だとなる、そこは南朝で滅びた一族が逃れたところであり由来がはっきりしているのである。
たいがい中世の館は小高い山に砦を構えて住んだ。磯部の鬼越館もそうである。
最近発掘された津波の被害を受けた海老村の跡は鎌倉時代だった
そこはすでに弥生時代の竪穴式住居跡もあったというから古いのである。
あそこは右田村より高台にあり住むには適地であり古くから港の機能があり江戸時代には船で米を江戸に運んでいたという、となるとそれだけの米を運ぶ船が出入りしていたのかとなる
鎌倉時代から住んだというとき南相馬市の鹿島区の屋形は岩松氏が鎌倉から来たことで有名である。
この岩松氏は一番古い氏族なのである、それは原町も支配していたし大倉とか飯館村も支配下に置いたのである。


前に相馬氏の進出径路について書いたが大原というとき深野はすでに中世の館があり地名として二つも残っている、大原は未開の地であり文字通り大原であり原町も原っぱだったのである。
そこに相馬氏が進出して支配したのである。
地理的にも大原というと深野より奥になるから地理からまず納得する、橲原でも江戸時代からあったとしても中世は森だった。
一方栃窪村は中世の館があったから古いとなる
こういうことは地元の人でも外から来た人だと余計にわからない、新旧を取り違えるのである。
八沢浦は江戸時代は浦であり港であり明治になって開拓された、小高の井戸川も大正になって開拓された場所なのである。
ただ小高は縄文時代の遺跡が多く古いのである。縄文時代の遺跡があるところは一番古いからである。そこは今回の津波の被害にあっていないのである。
縄文時代は海だったからである、津波では鹿島区では塩崎の船着という地名のすぐ近くまで津波が来たのである。古代には船の往き来があり海だったからである。それが津波で証明されたのである。

ともかく郷土史でも新旧を知らないと誤解が生れる、相馬氏が今の相馬市に城を移したのは慶長時代でありそれは津波の被害があった一カ月後だった。
損なときに何故城を移したのか、大工事をしたのか?それが疑問なのである。
その謎解きの一つとして海老村で大工の一人が大原と関係していて天守閣の普請に使われることで苦しんでいたのである。それは海老村に津波の被害がありそのために地元で働くために天守閣造営に使われるより津波の被害のために尽くさねばならないからであったかもしれない、「大原」と関係していたことはその時相馬氏が大原に進出していたからである。


相馬氏が進出した城のあるところはすでに伊達氏などの支配地であり黒木氏など黒木館などがあり有名である。中村とはもともとあった地名でありそれで相馬市はもともと中村市だったのである。そしてなぜ松川浦の近くの津波の被害にあった新田村に元禄の碑があったのか?
これも相馬氏が進出していち早く開拓が行われたためだとなる
この辺では元禄の碑はめったにないからである。
いづれにしろ新旧を知らないと歴史を知らないと俳句とか短歌にしろそういうものも深く味わえない、深野が大原より古いということを知るのと知らないのではやはり感覚的に違ってくる、栃窪村でも中世からある古い村だということを認識しないと自分が今回作った「花の影」という俳句も深くは味わえないしまた自分にしても歴史を知らないといいものは作れないとなる、全国でも歴史を知らないと俳句でも短歌でも作れないのである。
また深く味わえないのである。だから伊勢湾から名張を通り奈良に自転車で行ったときはそこは歴史の道であり意味深いものがあったと後でふりかえることができたのである。
それは一地域でも新旧があり大事なのである。
そういう歴史が原発事故で放射能汚染で失われことが大損失だった
人が住まなくなれば歴史も失われる、するとその地域の魅力も喪失する、栃窪村でも俳句にするにしても短歌でも深く味わえないものとなる
例えばアメリカの歴史は浅いからヨーロッパのような歴史がないから浅薄でありつまらないとなるのである。
タグ:村の新旧

2016年03月05日

元号の意味するもの (グローバル化して時代にそぐわなくなった)


元号の意味するもの

(グローバル化して時代にそぐわなくなった)

7割近くを占める西暦派が挙げた理由は「便利」がもっとも多かった。年数計算の起点がひとつなので,過去の出来事と現在との時間距離が簡単に分かる。創立 ?! 周年,祖父母の年齢,


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天平

宮城県遠田郡涌谷

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文禄


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慶長

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元禄ー相馬市新田

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元禄

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天保


天平 ( 729-749)
 - 雲はめぐり、雨はあまねく潤して、天下が平和に治まる。

大同 (806-810)- 君が事をなさんと決意し、すべてが賛同すれば、もとより事をなして吉。君ご自身は、心安らかに、身体すこやかに、子孫にまで吉は及ぶ。

貞観 (859-877)- 天地の道は節義を変えずに守り通すただしさによってしめしている。



慶長(1596-1615)

元禄 (1688-1704)

天明 (1781-1789)- 天下に安寧をもたらした帝王が取り次がんとして残された、天の明らかなる命の兆しを見る。また、天の明らかなる命を受けて、王者として天下の万民を有する。

天保(1830-1844)

明治(1868-1912)

大正(1912-1926)




時代をみるとき日本では元号でみる、この元号が意外と重要である。その元号から時代をイメージするからである。西暦の数字だとイメージしにくいことがある。

例えば津波があった年は今回の津波で重要だったことがわかった。そして大きな津波があったのは貞観津波でありこれは記録にも残されて多賀城での被害が記されている
そして最近ボーリング調査した結果貞観津波が来た地点の砂が掘り出されている。
それは相馬市でもかなり奥まで貞観津波の砂が今回の津波が来る何年か前に発見されていた。
そのことを自分は時事問題に書いていた。でもこのことに注目する人はほとんどなかったろう。
貞観津波というとあまりにも古いからそうなる。その貞観津波は古代に蝦夷征服の時でありそれ故京都と陸奥が結びついたことで記録されたのである。


天平大同貞観は陸奥と中央の政権が結びついた時代であり記憶されるからなじみがある。

天平産金遺跡は、宮城県遠田郡涌谷町の黄金山神社付近で、「天平」の文字瓦が出土している。

ここから黄金が産出して奈良の大仏に使用されたのである。

すめろぎの御世栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲く

このとき陸奥は奈良時代、平安時代(京都)に知られる時代だった。ここから陸奥の歴史が日本史として記された。その前に蝦夷の歴史があったがそれは消滅したのである。


貞観時代の後は鎌倉時代とかになっているが元号でなじみがないし興味がない
その後元号で興味が出たのは慶長時代である。
この時代は慶長津波で有名になったがこの時は戦国時代であり江戸時代の支配が確立する前であり重要な時代だった。
でも今回の津波で大津波が襲った時代は一つの大きな時代の区切りとして意識された。
津波の前と後では別な時代のように意識されたのである。
特に東北の沿岸地帯ではそうなった。

ただグローバル化した結果元号はなじみがなくなった。何か違和感を感じる人が多くなった。
でも江戸時代までは元号が時代をみるには重要だった。自分は必ず古い碑を見るとき元号をみる、その元号によって時代がわかるからである。
この辺では東北では江戸時代の前の元号があるのはまれである。
慶長時代の墓が南相馬市鹿島区の屋形にある。はっきりと時代が記されている。
田中城主だった人の墓である。これが一番古い墓に思える。

それから元禄というと何をイメージするかというと日本が戦国時代が終わり社会が安定して繁栄した時代をイメージする、それで不思議だったのは葛尾村の落合に明暦と元禄と記された碑があった。
あそこになぜこんな古い碑があったのか謎である。葛尾村でも古い歴史をもっていると感心したのである。
それから新地には文禄の碑があった。新地は伊達領だから宮城県に伊達藩には相馬藩より古い碑があるから納得がいく。文禄と記されたのは検地をした記念だった。
そして元禄というと華やかな時代でありその時芭蕉が「奥の細道」を旅した時だったというのも不思議である。
奥の細道は中通りであったがすでに葛尾村に元禄の碑があるように元禄時代には地方でも相当に開墾されて栄えたことは確かである。
相馬市からも近い松川浦に面した新田にも元禄の碑があった。
ここに元禄の碑があったのもここが開拓された開かれたからである。でも元禄時代というどこの辺では古いから意外ということもある。
それでも元禄時代は地方でもそれだけ開墾開拓されて発展した時期なのである。
関西辺りでは元禄と記された墓が最近墓を継ぐ人がいなと捨てられていたのは驚いた。
この辺だったら文化財になっているからである。


元禄の後は文明が記憶に残る。これは全国的飢饉の時代であり相馬藩でも人口が三分の一に減ったことで有名でありそのあと越中などから移民がきて復興したのである。
だから相馬藩では天明という時代は重要である。
その天明が自分のすぐ近くの子供のとき遊んだ神社にあったことも驚いた。
すでにこの辺は天明時代から人が住み生活がありつづいていたのである。
自分の家は明治に父が移り住んだのでありそこまでの歴史はない、一般的に町内では他から移り住んだ人が多いが同級生但野氏は南北朝時代からつづいていたのには驚いた。
町内でもそれだけの歴史がある家があったことに驚いた。

それから天保という碑が自分の墓地にあった、それはそこが寺子屋だったらしからである天保というとすでに明治時代につづいている。天保に生れた人が30年くらいすぎて明治になっているからである。
だからここで錯覚していたのは天保は明治を基点としてふりかえると遠い時代ではないのである。時代というのは常に錯覚している
でも時代が重要なのは例えば明治以降ふりかえると明治生れと大正生れとかその後の昭和生れでも時代を明確に分ける

両親から祖父母の時代でありその前後を間違えることはないし身近なのである。
自分の父親は明治生れだから明治の人であり母親は大正生れである。
それを逆にふりかえる人はいない、ところが江戸時代でも時代をさかのぼるといつの時代なのか古い時代と新しい時代を錯覚することがある
どういうふうに時代を認識するかは百年単位になるくらいならいいが千年単位になると本当にむずかしい。
津波など大きな自然災害など何かその時代に歴史的事件があればそれでもって意識する。そういうものがないと時代は意識されにくいのである。

そして現代では元号は時代にそぐわなくなった。そもそも明治になっんたとき元号には無理が生じていた。武士の世でも天皇の世でもなくなった、平民の民主主義の世になったからである。元号は天皇支配の象徴でもあったからである。
もちろんそれが日本の伝統だからそれなりの意味が歴史的にあった。
でも今はもうこれだけグローバル化社会に生きているとき日常生活でも不便になった。
常に自分の生年月日を書類に書くとき昭和という元号と西暦がダブってこんがらがるからでしなる。

元号が何か時代にそぐわなくなったというとき「降る雪や明治は遠くなりにけり 草田男」というとき明治という時代は明確に一時代を築いた時代であり誰でもイメージしやすい、そしてその次の大正時代も明治のあとの何か革命の時代が終わった頽廃的なものを感じる
それより大正生れというとき今も90才以上でまだ親が生きている、だからまだ身近なのである。
自分の母親は去年、百歳で死んだのもそうである。母の一生は働きづめの一生だった。
若いときは紡績工場で原紡で糸取りでありあとは東京で女中をしていた
その頃の働き場所はそういうところだった。母が言うには現金収入になったから良かったとも言っていた。つまりその頃女性が現金収入を得る働き場ができたということでそう言っていたのである。
それから関東大地震を子供のとき感じて知っていた。そういう時代の人だった。


大正といってもまだ生きている人が相当いるし百歳まで生きる人も増えているから大正は過去のものではない、大正時代までは何か元号が活きていたと思う
昭和になると昭和天皇でありそれは戦前は二十年つづき戦後も長くつづいた。
でも昭和は明らかに戦前と戦後では連続性がないのである。
時代は戦前と戦後では全く変わってしまったからである。
だから年号はこの辺からそぐわなくなった。平成とかなってもこれは何なのだとみんなが思うようになった。
西暦の方がグローバル化社会ではあっている。歴史はもはや日本だけのものではない現実の生活で世界史の中でどこでも語られるようになっているからだ。



タグ:元号

2016年02月24日

相馬市南相馬市(原町区)などの街作りをどうする? (歴史的にふりかえる街作り)


相馬市南相馬市(原町区)などの街作りをどうする?


(歴史的にふりかえる街作り)

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自転車で行くと相馬市はイオンから街中に入る
街中と一体化している
でも電車だと駅前を通る
電車に乗らないからまずイオンに行く
それよりイオンが中心でありそこで用をたすのである
そのために相馬市のイオンでは8時から営業しているのは勤め人が利用するからだろう。

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原町は中心街は道の駅のある六号線である。
そこからイオンまでは自転車では遠いのである。
だからイオンは陸の孤島のように自転車では感じる
だから駅前に図書館など作ったのは街作りでは失敗だった
駅前にイオンのようなスーバーを作れば人の流れができたのである
図書館は閑静な場所があっていた
駅前の中心が図書館というのはそぐわないのである。
実際に駅前通りというのが何か六号線の中心街からイオンに行くとき
ぬけおちているのである、シャッター通りにもなっている
これは前の市長の失敗だった、ただ図書館を駅前に作っているのは郡山でもそうであるから何か駅前に人の流れを作るためにそうしたことは共通している


ただ図書館などは街から離れていて閑静な場所が本来にあっているものだろう。
そこに回遊式の庭があるとか森の中にあるとかなると何か雰囲気的にいい
そんなところで読書していれば何かアイデアが生れる
駅前とかはやはり買い物とかが主になるのがふさわしい
結局車社会になり電車を利用しないということが街の通りを衰退させたのである。


いづれにしろ駅前通りでも旧来の街が衰退したのはシャッター通りになったのは車社会になったためである。
ただそれだけではない、街は常に興亡をくりかえしている、もともとは陸前浜街道沿いが宿場町として栄えたりしていた。
それは江戸時代のつづきでそうなっていた。それから駅前通りが栄えたのは電車が足となったとき駅を中心の街作りになったからである。
そして車社会になったら当然車社会にふさわしい街になる
江戸時代辺りでも地名を見ると必ず古町というのがある
それも小さな狭い町でも古町がある、古町と新町はそんなに離れていないのである。
人間社会は常に変化しているからそうなる
自分の家で店をしていたとき繁盛したのは前に小さな店が繁盛していたのは徒歩の時代だったからその利便性は道の角のような場所だったのである。
買い物する人はあまり遠くからは来ないからである。
近隣の人の利便性があり繁盛していた。それで角屋という屋号はそういう場所が繁盛したからである。
それがスーパーができたとき衰退して店もなくなった。

街作りは歴史的なものと新しい時代に対応するものが必要になる
相馬市は城下町でありそれで入母屋式の屋根を作り景観を統一しているのである。
それは評価できるが新しい街としての活気に欠けている、それはどこでも共通した問題である。
外国でも古町は歴史地区であり観光の中心になる。その外郭に現代の街が広がっている
それがはっきり分かれているが日本だと混在していて良くわからない面がある
相馬市は原町と違うのは高いビルがない、ただそれだけで景観が保たれている
高いビルは景観をそこなうのである。それで京都の町屋の前に高いビルが作れたときそれがのしかかるようになり景観は失われた。
江戸八百屋町とあっても二階くらいであり長屋にしても一階でありそういう場所は空も広いし空間的に景観をそこなわない、それで浮世絵では常に富士山が描かれている
一番高い建物は城であり天守閣だったのである。


日本の場合はともかく計画的に都市をつくるのが苦手である。雑然としてごちゃごちゃになる、路地も多いし計画的に立案して都市を作れない、原町はイオンがあってもそれが陸の孤島のように離れている、自転車だと六号線から入ってゆくから余計に遠くなるのである。
原町の街作りは失敗したのだろう。駅前にこだわったこともそうでありイオンが離れすぎていることもそうである。
相馬市の方がこじんまりしてまとまっているのである。
商業地区とか文教地区とか歴史地区とは分かれるべきだったろう。
歴史地区に文教地区があるのが望ましいとはなる
それだけの歴史遺産があればそうなる
もともと日本の都市は戦国時代の延長として防衛のために作られていた。
城の回りに寺が多いのは寺が防衛のために配置されていた。
城と寺は一体であり寺と一つの行政機関でもあった。
寺町とあるときそれは防衛のためのものだった。
歴史的に街作りをふりかえれば東西で共通したものがある。
寺町はヨーロッパになると修道院になる、教会も防衛のためにあったともなる

街作りはまず歴史地区、文教地区、商業地区、医療福祉地区、農耕地区、純粋自然地区、、、とかに分かれる
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歴史地区に文教地区も入るのにふさわしい、商業地区には娯楽地区が入り医療福祉地区には墓地なども入る、墓地というのも街の中にあるのがいい、何かそぐわないようでも自分は小さな街内に住んで毎日自分の墓の前を通るから死者を意識する、最近二人家族が死んだから余計にそうなった。毎日通るから手を合わせるとなる
離れていればこうはならない、一年に二三回墓参りに行くだけだとなる
老人ホームに墓まで用意しているのが在り安心だというとき何かそういう心境もわかる。死者をかけはなれたものではなく死者と一緒に住むというのも街だとなる

商業地区には娯楽施設などがあっている。農耕地区があり純粋自然地区がある純粋自然地区は聖なる場所でもある、田舎だと身近にそういう場所が近接している
大都会になると農耕地区とか純粋自然地区は消失しているから街作りとしては大規模になるがかたよるのである。
田舎だと純粋自然地区と農耕地区のしめる割合が土地にして大きい、そこに安らぎあり神道のようなものが生れた、ただご利益宗教になったとき俗化したのである。
まず純粋自然地区がないところには住みたくない、安らぎがないのである。
森につつまれているような飯館村などがあると心に安らぎが生れる
広い地域でも歴史地区なら相馬藩内では城があった相馬市であり原町は商業地区として明治以降発展した。全国でも東京は商業地区であり関西は歴史地区である。
世界的にそうである。中国では上海が商業地区であり北京は歴史政治地区になる。
それで上海語と北京語が違っているというとき関西弁と標準語の相違とにている

いづれにしろ原町の街作りは駅前に図書館を作ったことはそぐわないものだったかもしれない、医療機関も多いが電車を利用すれば便利だがどうしても車を利用することで駅前はすたれる、何か自転車だと街全体を回れるからいいが電車で来て徒歩だと手間が時間がかかりすぎる時代になったのである。
もし電車が足だったら駅前中心の街作りができたのである。
日本はともかくこうして全体をみわたし計画的に街作りすることが苦手なのである。
だから何か雑然とばらばらになっているのである。

そしてこの辺では津波原発事故で新しい街作りを要求されている、これだけ変化すると新しい街をどう作るのかとなると今までの発想ではできない
大きな発想の転換が必要になっているのだ。
少子高齢化というのも街作りに大きく影響する、町自体が消滅するとか農耕できないとかなると新しい街作りをどうするかとなるとイメージできないのである。
ただこれだけ変化すれば新しい発想をして新しい街作りをやりやすいとはなる、津波で町が消滅したような場所もそうなのである。
街自体がなにもなくなったらそこに新しいものは作りやすいのである。
でもそれはどういう街になるのかそれともう若い人も流出しているから街自体の再建ができないとかなって深刻なのである。



タグ:街作り

2014年03月26日

溜池が稲作文明を発展させた原動力 (水の管理が稲作では一番大事だったあー鹿島町誌より考察)


溜池が稲作文明を発展させた原動力

(水の管理が稲作では一番大事だったあー鹿島町誌より考察)

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ここは下が鉄道になっていて高い、ここの地名が樋下となったのは
そういう理由があったつまり地名にはそれなりの理由があって名付けられている。

これは唐神堤から引くための水路だった。


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樋の水流れてうるおし実りかな二宮仕法に相馬藩栄ゆ


溜池には水利を通じての人と人との交わり、繋 がりがある。それは、親池、子池、孫池といった関係か ら、その輪を広げながら、広い範囲でのコミュニティーと して、重要な働きをしてくれている。


相馬領全部226ヶ村、この内明治4年までに実施した村は101ヶ村、更にその内で仕上成就した村は55ヶ村であって、これに用いた領主の分度外米248,220俵、開発2千余町歩、費用2万余両、溜池692ヶ所、水路等合計費用2万余両、新家作573戸、この費用2万余両、その他諸施設合計99,180余両であって、このために増加した戸数
1,135軒、人口21,715人である。
http://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/22000/

樋町、樋口、樋上、樋下
樋口は文字どおり樋(用水管)の口(取水口、水門)のある場所から起った地名です

「筑前国続風土記」には「樋井川」の名の由来として「其の川、樫原、東油山より出、田島村の東、鳥飼村を西を経て海に入る。此の郷中、桧原村の東、長き樋有り。是は川上に樋を掛て川向に水を取り、田を浸す為なり。樋長さ七間半あり。昔より此の樋ある故に、此の邊を樋の郷という。」とある。
http://nagaoka.blog.jp/?p=18

樋がつく地名 樋越、樋口、樋田(といた):水路(管路)のことを「樋」と呼んでいる。地名以外に苗字に多く拡っている


鹿島町誌より


真野川は有効に利用するかいなかは農耕の死生にかかわる
まず真野川上流の栃窪堰の手入れをして嘉永五年以来廃止していた一の堰(大谷)を改修した。正月から五カ月間を要した。
高一丈五尺平均、堰口十六間余大石積み上げた技量をほめ・・・

荒専八の代官の事業である。荒は二宮門下唯一の洋式土木技法をも心得た技術家であった

また川子村の嘆願書の中に「小堤等数多く築きたてくだされ莫大の難儀これなく」とあり(安政二年)、牛河内村では(安政元年)にお願いして水不足故に中丸堤土手つぎたし」といっているし・・・

中でも一番の大工事は唐神堤の手入れであった。この堤は領内第一の大堤で安政四年五月の再度にわたる大崩壊、もし決壊となれば産米七千石の田から民家一円亡村の惨事となる・・

七千石掛入は真野川より取り入れるももとは唐神をへず直接通じたが御山堀を高め新江の延長として横手地内68間の岩を切り通しトンネルをうがち、水路を唐神に引水して冬の貯水に便をえしめるために溜池の水増加して上真野、八沢、鹿島の一町二ケ村にわたる
(鹿島町誌)

文政年間、鹿島村の西河原において真野川をせきとめ一里の間を穿ってその水を最も裾の南右田の地にひいて百余町の内を灌漑した。自ら毎夜提灯をたてて並べさせて堀の高低をためし、時に水上の村民の激怒をかって命をねらわれた。(和算学者-荒専八-奥州相馬-森鎮雄))



稲作というのは実際は大きな文明であり自然を改革する一大事業だった。稲作は水の管理が最大の問題となる。いかに水を利用するかが稲作を拡大することに通じていた。
米の生産量をあげるかに通じていた。だかち灌漑事業でありこれは大規模な土木事業であり文明だった。水を利用するということが文明のはじまりである。そこでメソポタミア文明などでもいかにエジプト文明でも農業はいかなに水を利用するかが文明を作る。
だから四大文明は大きな川の辺に生まれたのである。カンボジアのアンコールワットの巨大な貯水池もそうだった。そこに一大栄華を築いた都市文明が生まれたのである。
溜池を改修するのにその堤を集団で人力によって固める絵がでているが機械がないのなら人力になるからその労力は並大抵のものではなかったのである。

溜池の建設ー大地の刻印(ここには絵がでているから参考になる)
http://suido-ishizue.jp/daichi/part3/01/04.html

巨視的にもそうだがミクロ的にもみると小さな村でも稲作はいかに水を利用するかで水田を拡大して収穫量をあげるかが決まる。だから必ず溜池が必要であり無数に溜池がある。稲作は溜池なくして成り立たないものだった。大きな溜池もあり小さな溜池も無数にある。それほど水の管理が稲作には必要だったのである。
水田は水なくしてはありえない、絶えず水を流していなければならない、だから水路となる樋がいたるところに必要でありそれにまつわる地名も多い。
そして溜池は必ず順次広くされている。水がたりなくなりそうなった。
水争いがあり荒専八が真野川の下流に堰を作ったら上流の人が水が不足すると思い殺そうとするまでになった。これもいかに水が大事かを物語るものだった。
入会権でもそうだがここも大規模な戦争の初端になったし水争いもそうだった。
水資源の争いは文明国では常にあった。イスラエルでのデカン高原でのシリアとかの戦争もヨルダン川の水争いに起因しているのだ。

ともかく田んぼを拡大するには土地だけではできない、水を得る必要があった。だから南右田は海側であり開拓された所だが真野川の水を確保できるうよになり水田になった。
今は津波で壊滅した。

この水が大事な故に山から水が絶え間なく供給されるので山が神となり春には田植えの時は山から神がおりてくるという信仰にもなった。山には先祖が眠り見守ってくれるという信仰にまでなった。稲作は長い間に単なる米を作るというものではない信仰となり文化になっていたのである。
だから津波や原発事故で田んぼが荒地になり水が流れないということに違和感を覚えたのはそれはすでに単なる米を生産するというのではない心に深くその景色であれ農耕というのがアイディンティティ化していたからである。
別にこれは田舎に住んでいれば農家の人でなくてもそうなる。
都会だとまた違っていてそういうふうにはならない、回りに田んぼも畑もないからである。だから大都会には文化がないのである。ただ物質化した精神性のない人工的機械的空間になっている。古代都市なら自然との密接な関係から構築されたものだから今の都会とは違っている。自然村があるというとき自然から生成発展した文明であった。
エジプト文明でもマヤ文明でも農業文明なのである。

津波原発事故では水田がなくなり荒地となり水が流れていても水は活きていないのである。その時神となっていた山をも死んだようになる。
日本では葉山羽山信仰でありこれは低山であるが水を供給するものとして信仰になったのである。山は水と密接に関係してあったのが日本だったのである。

2012年07月31日

死者の名前が刻まれていない墓の怪 (墓より名前の方が大事だった)


死者の名前が刻まれていない墓の怪

(墓より名前の方が大事だった)

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お盆近くになったけど墓の意義とかお盆の意義とかで検索している人がいる。奇妙なのは近くで世話になった人の家の墓参りに行ったけどその墓には墓銘碑があるのだけどそこにお参りする人の名前がまだ刻まれていない、死んで二年になるけど名前が刻まれていない、息子がいるのだけどこの息子がもともと不肖の息子でありいろいろ失敗ばかりしていた人である。離婚してもいるしいろいろな不幸を作り出した人であった。今はひどい貧乏になっている。だから金がかかるから墓銘碑に母親の名前を刻んでいないのだ。名前を刻むだけで何万円とかかるその金がない貧乏なのである。しかし墓参りする方になると名前がないということは奇妙な感覚になる。この人には世話になった、いいい人だったと思って墓参りするのだけど名前がなかったらその人がいるのかどうかわからない、墓は確かにある、一家の墓としてある。

でも死んだ人の名前が刻まれていない!するとその人が墓にいるのと疑問になる。つまり墓には確かに骨が埋まっていても名前がなかったらその人がいるかもどうかもわからない、それで思ったのは人間最後に残るのは墓ではない、骨でも灰でもない、名前である。名前が残らなければその人が存在したかどうかわからない、しりえようがない、自分の墓にも祖父にあたる人の名前が刻まれている。これもあったこともないのだから名前しか知らないのである。でも一応存在した人として残っている。


墓の意義は何かなどと検索している人がいる。墓の意義は死んでもその人の代わりとなるものである。現実に自分の実家の墓は原町に残っていても実家はない、墓だけが残っているのだ。墓は家がなくなっても消えないのである。墓は家より寿命が長いとなる。その人の存在した証として残っている。でもその墓にしても名前が刻まれていなかったらその人の存在すら不明になる。戒名より実際は名前の方が大事である。戒名は誰なのか良くわからなくなる場合がある。名前は一番その人を記憶したものなのである。例え一行でも名前が刻まれていることはそこに確かにその人が生きていたという証なのである。ただその人がどういう人かわからない場合がある。

前に27歳で死んだ人は肺病で死んだと教えられた。その人のことはそれしかわからなくてもその当時、肺病で死んだ若者が多かったからさぞかし無念だったろうなとか思う。何も聞いていないと全くその人についてしりえようがないのだ。自分の祖父は名前だけしかわからない、人間は骨も灰も結局消えて残らないのだ。わずかに由緒ある武家の家系でも名前しかしりえない人がいる。何百年前になれば名前しか残らない、墓もわからない、すると名前だけが頼りになるのだ。古代の天皇でも墓がなく仰々しい名前だけが残っていてそこからその人を探ったりしている。名前しか探る手がかりがないのである。人間最後に残るのは骨でも灰でも墓でもない、名前である。名前が最も大事なのものである。近くに農民の墓が残っている。姓もあり名前もあるがその人のことについては何もわからない、ただ名前だけが残っている。その名前からしかその人を探る方法がないのだ。


「御名をあがめられますように・・・」というとき正に名前しか最後は残らないからそうなっていた。キリストであれシャカであれ骨も灰もどこにあるかわかりえようがないし残らない、ただ名前だけは残っているのだ。名を残せというときまさに名前が残ればその人が記憶されているからだ。一般的には名前すらほとんど残らないからその人が存在していたのかどうかもわからなくなる。名前の一字でも残っていればいい方であのが人間だった。それほどはかないのが人間だった。あなたの残すものはわずかに名前でありその名前すら残らないのが普通なのである。

人間のはかなさもこれからも知った。あなたがどこで記憶されるのか?名前だけである。その名前すら忘れられる存在が人間だったのである。名前が残るということは動物と違っている人間の証でもあった。名前でも残れば歴史が人間にあるということである。動物は名前も残らないから歴史に残らない、ペットブ-ムで名前つけた墓があっても一代で忘れられるだろう。動物には歴史がないのである。人間は名前が残り歴史が記されているのだ。


墓というときだから別に墓がなくてもいい、墓の代わりになるものを名前刻んで位牌のように家にでも飾っておけばいいのだ。そうすれば骨も灰もなくても名前だけは記憶されるし存在した証になる。そうした名前の方が大事だったのである。ここに意外と気づいていない人が多い。たまたま名前の刻まれていない墓にお参りしてこれは変だなと思ってわかったのである。

2012年04月30日

大芦や地蔵木などは昔は秘境だった (不便な地域に分家して開拓に入るプロセス)


八木沢峠の麓の大芦や地蔵木などは昔は秘境だった

(不便な地域に分家して開拓に入るプロセス)

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郷土史でもやはり地形に通じないと見えてこないものがある。日本の地形は山あり谷あり川あり海ありと複雑なのである。海にそった浜通り側は比較的わかりやすい地形だった。でも山側になると複雑に入り組んでいるのだ。だから阿武隈高原でも地形的にはわかりにくい所だった。
飯館村の八木沢峠の麓の地帯は山間であり地形的に窮屈な所でありここに人が住んだの南相馬市の原町区や鹿島区の橲原村よりはあとである。分家した人たちが入植した。姓を見れば橲原村や大原村の人たちが入植したことがわかる。あそこでは田にする平地がない、それでもわずかに田を作っていた。大原から坂を上って遠田と地名があるから大原の草分けの前田から遠田に開拓地を広げた。それは分家して遠くに田を作り人が住み着くようになる。それが八木沢峠の麓の谷間に人が住むようになったプロセスである。ただ江戸時代からあそこに人が住んだかどうかはわかりにくい、真宗系の石塚の墓が一つあったが時代がわからない、橲原村でも明治時代ものしか残っていない、あそこの谷間から上萱(うえがや)へは戦後に開拓する人が入った。新しい村でありそれも消滅した。
江戸時代に人が住んでいたかどうかが村を見るには大事である。

橲原渓谷から大原への坂を下る所に六地蔵があった。これは埋もれていたのでわかりにくい、六地蔵は村と村の境界にある。とするとあそこが橲原村と大原村の境界だったのか?江戸時代は村単位で生活していたから境界が大事だった。一つの関所のようになっていて人々が簡単に他の村に出向くことはない、よそものとして隣同士の村でも扱われたのである。だから明治になり村が合併するとき常に民情が違うので合併しなかったとある。飯館村辺りでも大倉村と佐須村が民情が違うので合併しなかったとなる。民情が違うということはどういうことなのかわかりにくいけど村と村は交わらない一つの国と化していたためだろう。橲原村と大原村には新しい道ができたけどそれまでは地蔵木からなどの道が大原に行く道だった。今は車が頻繁に通るからあそこが不便な所などと意識しないのである。あそこは大原村よりも橲原村よりも不便な所だった。車のために本来は不便なところが便利な所のように見える錯覚を作り出しているのだ。
あそこの谷間の特徴は道を挟んで原町区の大原村と橲原村に分かれていた。どちらからも分家した人たちが開拓に入った。そこで混在することになったのだ。上萱は栃窪村に編入された。原町市と鹿島町が合併する前は行政的には統一されていなかった。


橲原村からであれ大原村からであれこの土地で暮らすとしたら土地が必要である。その土地がないとなるとあのような不便な土地を開拓して住むほかなかったのである。地形を見ればその村の古さがわかる。そして郷土史研究の基本が村の新旧を知ることがまずある。江戸時代から村があるのと明治以降開拓された村は分けるべきである。武家の出や野馬追いの出る家はそうした家にはない。なぜ上萱とかさらに不便な場所に開拓に入ったのか?それはもう土地がないからだ。それで戦後農業する人はプラジルに渡ったりしている。土地がないから土地を求めて渡ったのである。

あそこは自然的には魅力ある場所だった。橲原渓谷の上流であり不動滝の御堂があるところから太古林道を上るとその源流があり大きな岩があったりする。橲原村が鹿島区の奥座敷でありそこからさらに奥の秘境だったともなる。ただ今は車が頻繁に通るからあそこがかえってにぎやかな所だと錯覚しているのだ。昔だったら人も訪ねるもまれなる地域だった。橲原からも大原からも坂でありいかに辺鄙な場所だったかわかる。あそこには村の墓地があったのか?一つだけ家の墓があった。それも新しいものである。上萱には墓地があったがなくなった。いづれにしろ人間は地形にそって住む場を広げたことがわかる。

2012年04月19日

怪しい地名の研究(島野氏)の解読


怪しい地名の研究(島野氏)の解読


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●日本のニは湿地帯の意味

「日新」「新田(にった)」など語尾はいろいろであるが、語頭が「ニッ」で始まる地名は縄文地帯の東日本に明白に偏在する。「にっぽん」「にほん」の「ニッ」あるいは小さな「ッ」が脱落した「ニ」は「湿地帯」「しめった」と解釈した。(怪しい地名の研究7)

日本(にほん)が二に注目するとニはそもそも湿地帯のことは明らかなようです、新田(にった)は地名では多いですから間違いないでしょう。
日本は湿地帯の国、豊葦原瑞穂国の国です、そこで邪馬台国とは台であり湿地帯の中で高台になっているところでしょう。湿地帯があり高台に国ができた。日本が最初は縄文時代は東が東北地方が人口が多く栄えていた。「日高見国」がもともと大和の前の国号だった。日本の地名は湿地帯が多いから湿地帯のニのつく地名と台のつく地名が対称的になって多い。台から低地の湿地帯と住む場所を広げた。海側でなくても奈良盆地でもとともと盆地の真ん中は湖であり湿地帯でありその山辺に日本最古の道ができた。飛鳥も前が海のような地形だから鴎が飛んでいる歌が万葉集にのっている。ヤマトとやはり山の戸(門)であり山口のことでしょう。
山の入り口は神社の入り口-鳥居のある場所で結界になっていた。奈良の三輪山は山自体が御神体ですから山そのものに対する信仰があったのです。


東日本の内陸盆地のみならず、奈良盆地にも多くの「いそ」「ふね」「おき」など海洋を思わせる地名が散在する。「くじら(櫛羅)」さえ居る


奈良盆地は海とつながっていたという説がありするとこの地名はその太古の状態をさしているとすると地名はそれだけ古いとなる。自分も今回の津浪でヒントを得て書きました。海になったときクジラが入って来たということになると地名がどれだけ古いかともなる。


太古の奈良盆地
http://musubu2.sblo.jp/article/45685693.html


「ほ」が「穂」であるという解釈を力づけてくれる


稲作は南から入ってきたとすると東から入った二(湿地帯)と南から入ってきた穂が合体して日本となったというのは理屈的にはあう。なぜならもともと縄文時代は東中心であり日高見国(ひだかみのくに)があったからである。


●川(かわ)沢(さわ)はわの人たち、東日本に多い

「沢」地名の、明確な東日本偏在を考えると、「わ」の人々は氷河期には陸続きであったサハリンから徒歩で南下してきた人々だと考えた。

カワ(川)のワがわの人たち、民族集団をさしていた、さわはさ-わでありわの住む人たちでありカワのワもそうである。この人たちは北から南下した人たちだというのはユニ-クな解釈である。
川と沢はにている。人間はもともと水のある川や沢の場所に住みはじめた。水がないことには生活できないからだ。南から来た人たちはネの人たちであるというのも独特の解釈である。島根とかそうでありネの人たちは日本海回りで来たのかもしれない、確かに倭人というのワの人たちのことですから一字が部族名であり一部族が拡大化して倭人になったとは言える。ただ日本語そのものがどこから来たか謎ですから言語学的にはいろいろ問題があるでしょう。

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船(ふね)米(よね)であり金(かね)はネ族のものがもたらした言葉である。言ってみれば外来語であり新しい文化をもたらした言葉だとなる。船も米も金も縄文人にとっては新しいものだったといえる。これなどからネ族が南方系の稲作文化をもたらした人たちだという推測はあたっているかもしれない。そもそも船は丸木舟でも縄文時代使っていたとしても金(かね)や米(よね)は縄文時代はないからだ。だから縄文人はその言葉を知らないとなる。そういう分け方はわかりやすい、中国から入った漢字と大和言葉を分けることはわかりやすいのである。


●ヒの謎

ヒについてはこれも謎が多い。干潟-干るというのは見ずが引いたからであり日をあてるのではなくもともとひあがる・・・水が引くことを意味していた。水が引いたり上がったりすることであり太陽のことではない、海に囲まれていたから潮の満ち引きには敏感である。潮が引いたらそこで干潟になり鳥も餌をついばみにくる、人もそこで貝をとったりするからヒは干上がるということが基本にありヒル(昼)は潮が干上がった時が昼であった。アサヒも浅く干上がった干潟のことである。太陽のことではないとなる。海辺に住んだ人たちの生活感覚から生まれた言葉だとなる。縄文人は貝塚があるように貝を主食としていたから干潟は大事だった。生活の根拠となる場だったからヒが生まれた。ヒは太陽と関係なく潮の満ち引きと関係しているとなるとヒが日になり太陽となったのか解せない、ヒは家族語だというのはどういう意味なのだろう。?家族語の意味がわからない。

干上がるということで干潟を中心に生活していたヒ族がいてサワとかカワとか川を中心にして生活していたワ族がいてヤマを中心に生活していたヤマト族いたのか?船(フネ)をあやつるネ族が南から入ってきて縄文人と交わったのか?一番の疑問はヒの解明でしょう。引く(ひく)は日本では引地とか引いたという地名が多い。それは水が引いたですから潮の満ち引きとにている。

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日高見国(ひだかみのくに)とは干潟(ひ-がた)-高見の国である。とすると干潟の高見にある国となる。干潟を見下ろす高台にあった国となる。干潟を中心として貝をとって暮らしていた縄文人なのだろうか?この辺の新地はそういう地形であり海が近く高台に貝塚があった。そして手長明神の伝説がある。貝をとって暮らしていた巨人がいたというから地形的にはあっている。
たた日高見の国でも内陸部にもあり北上は日高見だともいうし海岸とは限らない。
要するにヒが解読できないことに問題がある。

ヒラが平たいとからが複数形のようだとヒはやはり干潟のことなのか?
人(ヒト)とはなになのか?日がとまると解釈するが干潟(ひがた)に止まっている人なのか?
ヒトとは干潟にいつもいて貝をとっているからヒトになったのだろうか?
縄文時代は確かにそうだった。

百済や新羅から入ってきた地名

百済とか新羅とかから入った言葉が地名化したのはなかなか証明しにくい


みちのくの真野の草原(かやはら)遠けれど面影にして見ゆというものを・・笠女郎


この歌の草原(かやはら)は地名だと解読した。草(かや)は伽耶のことでもあり入江のことを意味していると近江の人も言っている。草原(かやはら)を奈良から面影にして見るというものにはなりえない、地名のことだったと解釈した。現実に入江は塩崎まで入り込んでいて今回の津浪で船着という近くまで船が烏崎の港から流されてきたのには驚きました。

ともかく地名の解読はむずかしいです、どうしてもあてつけが多くなりますから・・・
では今回はこのくらいでまた暇があったら書いてみましょう

2012年04月16日

太陽も航海民にとっては方向として見ていた (東と西の方向感覚-海と陸(土)を分けた地点が日下石(にっけし)?)


太陽も航海民にとっては方向として見ていた

(東と西の方向感覚-海と陸(土)を分けた地点が日下石(にっけし)?)



「日(ひ)出(いず)る処(ところ)の天子(てんし)」
    「書(しょ)を」
    「日(ひ)没(ぼ)っする処の天子に致(いた)す」
    「恙(つつが)なきや。」

聖徳太子の小野妹子が隋に送った国書である。太陽は光として作物の実りをもたらすものと実はもう一つ重要な感覚があった。それは方向を示すものとして太陽があった。航海民は太陽を方向として意識した。太陽がどこから昇りどこへ沈むのかが大事だった。この方向感覚は平原とか砂漠とか遊牧民にとって生死を分けるものとなるから大事だった。砂漠でもどっちに水があるかないかで生死が別れる。だから星などが方向を知る目印として大事だった。北極星や北斗七星信仰が中国で起こったのは遊牧民の文化である。砂漠の民のイスラム教がメッカの方向をいかに大事にしているか?方向がまさに神であり信仰なのである。妙見信仰もそこから起こった。太陽は稲作民族だと天照大御神になるが航海民にとっては方向をみるものとして太陽があったのだ。だから太陽が昇る方向と沈む方向を注意深く見ていたのである。聖徳太子がこの国書に書いたのはまさに太陽の方向感覚であり航海民の文化を引き継いでいたからである。日本は南から船で渡ってきた人々が作った国だということは古事記などの神話で語られている。船でわたってきたということは常に方向が大事になるのだ。方向がまちがったらとんでもいな所に行って命まで落としてしまうからである。


海があり陸地がある。それを分けるのも大事になる。海から陸地が見えるところが重要になる。海を長く航海して陸地が土が見える所があったならその時そこは重要な地点になる。その陸地や土になっているところは航海民の上陸地点になるから大事なのである。「陸が土が見えたぞ」と海から見てなるのだ。西(にし)のニが土だということは海になっいる所と土になっている所を分けたのである。
だから日下石(にっけし)は津浪でわかったようにそのじき前は縄文時代は海だったのである。縄文海進時代は深く海がはいりこんでいた。でも縄文時代ではない万葉時代、奈良時代には海は深く陸に入り込んでいた。その地名の一つが万葉集の真野の草原(かやはら)の歌でありそこに船着とか市庭とかの地名が残っている。津浪が実際にあそこまで押し寄せたのは驚いた。日本全国であのように海が深くはいりこんでいた。縄文時代ではない、万葉時代でそうだったのである。だから別に縄文時代にさかのぼらなくても深く海がはいりこんでいた地域が海側には多い。今回津浪に襲われた地域は縄文時代ではない、万葉時代に海であったことが推測されるのだ。


だから太陽を方向としてみるとき日の昇る方向と日の沈む方向が大事になり東はひの岸(かし)になり西はニが土であり陸を示していたのである。地名をなづける場合、陸地から海を見れば海岸は東浜とか名づけられる。しかし海から見れば逆になり西が名づけられる。常識的には陸地から見て地名がつけられたと見ている。海から陸地をみて西と名づけることはなかなか気づかない、日下石(にっけし)は西という意味ではなく土(に)のある場所、陸地のことだった。海から来て土がある場所、陸地として別れる地点だったのである。だから今回の津浪で日下石(にっけし)まで海になったのである。
方向地名はどこを基点にしているから重要である。どこからみて西なのか東なのかである。陸地から見れば東になり海から見れば陸地は西になるのだ。西(にし)の二が土だというのは普通に気づかないから発見であった。


ではなぜそうした方向感覚が生まれたのか?それは日本にやってきた人たちが海からしか来れないし
航海民であり航海の技術がなかったら日本には来れない、海からやってきたのだから海からの視点で日本列島を見ていたとなる。それは日本の神話の基にもなっている。九州の異民族化されたハヤトなども南から渡ってきた人たちである。



竹にかかわる人々は海洋民族であったと言われています。かつて九州南部にいた隼人民族は南洋諸島の竹細工技術を身に付け、日本にたどり着いて土着民となりました。彼らは勇敢で強大な畿内政権に最後まで頑固に抵抗しましたが、ついに破れ畿内に連れて来られ、畿内隼人と呼ばれて竹器を作らされていたのだそうです
http://www.shinrin-instructor.org/ren08/02.htm


漢字で「東雲」と書くのは、東の空の意味からの当て字。
語源は「篠の目(しののめ)」であろう。
古代の住居では、明り取りの役目をしていた粗い網目の部分を「め(目)」といい、篠竹が材料として使われていたため
「篠の目」と呼ばれた。



竹の家がありそこから東雲(しののめ)の言葉が生まれた。日本では大和でも奈良でも竹はなかったとい。竹はもともと東南アジア辺りに多い。ベトナムなどに多い。竹の文化が伝わり東雲(しののめ)が生まれたというのもわかりにくい。どうしてもここに東は当て字である、ただ雲というとき東の空が曇っているように夜明けは暗いから雲をあてた。竹の文化では竹取物語もそうであり竹は外来のものでありその話なども東南アジア辺りから伝わったものとなる。原型はそこにある。梅すら中国から入ったものであり桜より梅が尊ばれた。

さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君


さす竹が大宮人を導く枕詞となっていることはいかにすでに竹が日本の文化となり根付いていたか証明している。

隼人(ハヤト)族も海を渡ってきた航海民である。だから方向として太陽を見ていた。日の本(ひのもと)は日の下であり日本の国号になったがこれは日の出る処としての日の本である。ところが日本は(にほん)でありに(ニ)は土を示しているとなり西を意味しているとなると日の沈む土地ともなる。
ともかく方角地名が地名の基本であることはまちがいないのだ。



西原、西台とか柏崎にあるのは土があるところ陸になっているとして海から意識して名づけられたのか?瀬戸内海とか九州だと船の航海は具体的なものとなるのだが東北の海は荒く航海となると古代ではむずかしいからどういう感覚でつけられたのかわかりにくい面はある。ただ西原は一段低くそこに田んぼがあり辛うじて津浪の被害からまねがれた田があった。その下は津浪で浸水した。西台はもっと高くここでは津浪の被害がなかった。柏崎は津浪の被害はなかった。引沼はずっと奥だから津浪とは関係ないでしょう。それでも津浪を考える場合、海であった処がありそれと関係して名づけられている場合があるから注意する必要がある。南相馬市鹿島区の塩崎まで海であった。地名の通りそこまで万葉時代は奈良時代は海だったのである。そこに船着や市庭とかの地名が残っていた。


郷土史関係ではインタ-ネットは実際かなり役立つ、地名の研究なども全国のネットワ-クを作って研究すれば新しい発見もでてくる。地形とかに深く関係しているので地名も地元の人でないとわからないことがかなりある。そこが地名を知るむずかしさである。西原と西台は高さが違っていることなどわかりにくいのである。

地名は研究してきたので地名から学問に興味をもったので鳥野様の研究も暇があったらまた気づいたことを書いてみましょう

2012年04月12日

相馬市の日下石(にっけし)の地名の謎(2)


相馬市の日下石(にっけし)の地名の謎(2)

東(ひがし)はひんがしは陽(日)向かう岸だろう。岸ということは海の岸になる。東を意識したのは海を望んだ時だった。でも陽が昇るのは海からとは限らない、山からも陸地からも昇る。日本海などは山から昇り陽は海に沈むのだ。海に陽が沈む所もある。日本語では大和言葉では東は海から昇るものと意識した。一方西はニに日をあてているごとくやはり陽でありニシのシは土とか陸だとするとニシは陸地の方であり陸地に沈む方を西と意識した。日本でも世界でもそういう方向感覚がユニバ-サルではない。それは一面一地域としてのロ-カルな方向感覚なのである。

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日(ひ)にちを数えるという言葉を分解するとヒ(陽)ニ(にし)ち(地)である。ヒはわかりやすいけど
ニチはわかりにくい、ニチはニも陽であり地と一体化している。つまり西は地と陸に一体化しているから西は陸地の方だという感覚なのである。日にちは日西(ヒニシ)であり日が昇り沈むことを数えることである。聖(ひじり)はまさにその日を数える人だったとなる。日を支配するものが王となるというのはマヤ文明を見ればわかる。エジプトなども天体学が発達していたことでもわかる。
天の岩戸の神話も日食に由来していたとか言われるから日と関係していたのである。もし日食を予言できたらその日を予言できたら絶大な権力をもちえるのである。それは科学の世界であり今日までつづいている。


ともかく東はひんがしは海から昇る日の方向であり、西は地や陸や山の方に沈む方向である。とするととは日下石(にっけし)とはいかなる方向なのか?今回の津浪でわかったように日下石(にっけし)近くまで津浪が押し寄せていたから日下石(にっけし)の前は海が入り込んでいたのである。そうなるとその海から日が昇るのだから日下石(にっけし)というのがわかりにくくなる。西の方角だとすると
海から見て陸地の方角だったとなる。海の岸の陸地でも海から見れば陸地であり西の方角になるのだ。実際に津浪で日下石(にっけし)近くまで海が湾のように入りこんだとき陽が陸地の方に日下石(にっけし)の方に沈むのを見たのである。湖のようになったので見えたときはなんともいえぬ驚きだった。それは一回しか見られない美しい光景だった。春の陽が広々とした湖と化した所に輝き陸地の方に沈んでいったのである。


方向地名はどこが基点となるかが問題になる。基点とする場所によって違ってくるのだ。海を基点とするということは常に海で暮らすような民の方向感覚だとなる。海から見て陸地の方に沈む方角が西となる。しかし日本海では海からみて山側が陽の昇る方角であり陽が沈む方角が海なのだから反対になる。世界的に日が昇る方向が東であり沈む方向は西である。どこから昇るかは問題にしない。日本は海に囲まれていたから海の意識が強いといかことで違っていた。


日の昇る場所が「日ケ子」で、日の没する場所のあるところの重要な地面が「土(に)子(し)」である。九州到達までは方位の定義としては適切である。


沖縄各地の「西原」は「城(ぐすく)跡」などの「北側の原」という意味とみられる、と述べている。なお「西原」は「にしはら」「にしばる」とよむとも言っている。
琉球音声データベースで確認しても「にし」とは祖先がやって来た(きた)方角、「北」のことである。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/unolab/timei4/timei4.htm


西と北は方角として混同しやすいのである。西風と北風はわかりにくい、風はいつも一定ではない、西風が北風に変わりやすいし北風は西風に変わりやすいのである。春になると東北の海側では北風から東風になる。これは春を告げる風だし全国的にそうである。だから沖縄で西が北と意識するのはわかるし九州の陸地を意識したというとき沖縄は西から北から移住した人々である。それは言葉などからも証明されている。沖縄の言葉は古い大和言葉が残っているからだ。青森などの辺境に古い大和言葉が残っているのと同じである。地名研究では方角地名が基本にある。南相馬市も城のあった相馬市の南だから合併してそうなったことでもわかる。

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津浪で大きな湖と化した磯部から日下石(にっけし)方面

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2011年09月20日

南相馬市原町区片倉村の由来


南相馬市原町区片倉村の由来

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●片倉辺の神が由来

諏訪大社は2万5000以上の末社を持ち、起源も非常に古い。
信濃国の一宮であり、神位は正一位であり、信濃的には日本一の神社。
よく誤解されるが、諏訪大社は春宮・秋宮・上社・下社の4宮で構成され
場所としても諏訪〜茅野の広域に分散している、神社集合体。

祭神は大国主の子である建御名方神とその奥さん。

国譲りの段で天津神に敗れた建御名方神は諏訪に逃げ込んだ事になっているが
その際に、上記神々を率いたモレヤ神と戦争になり、勝利して現在の地位を得る。

建御名方神の氏族は諏訪氏で、代々大祝を担い
洩矢(モレヤ)神の氏族は守矢氏で、代々神長官を担う。
どちらも、神から続く家系図を持ち、諏訪では神として扱われていたが
既に大祝は途絶え、神長官についても守矢氏は生き残っているものの


洩矢神    →千鹿頭神 →児玉彦命
建御名方神 →片倉辺命 →児玉彦命

↑ここ

片倉辺命─(実子)→児玉彦命
         ↓
千鹿頭神─(養子)→児玉彦命

知名度としては落ちるものの、御頭祭も奇祭として有名。
狩りを行い鹿を得て、頭を切り落として捧げるが、その数が75頭とかそんなレベル。
(現在は非常に残念な事に剥製を使っています。神様怒るだろjk)
それ以外にも鹿の「脳和え」「生鹿」「生兎」「切兎」「兎煎る」鹿の五臓などが神饌として捧げられて居た。
ちなみに兎はまるごと一匹、下から串刺しにして立った状態。

諏訪で鎌を軒先(?)に飾るという風習があると聞いたのですが、
これについて詳しく知っている方がいたらいろいろお話を聴きたいです。
どのようないわれがあるのでしょうか?
諏訪大社と関係はあるのでしょうか?


2挺の鎌(男鎌・女鎌)を日室に迎え、同地の開祖の屋敷跡に2番奉斎する
http://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/minzoku/k2-4.html


鎌宮諏訪神社(鎌の宮) 石川県鹿島郡中能登町 15.11.23
http://genjin.cool.ne.jp/suwasya/kamanomiya.htm





この由来をみると狩猟時代が彷彿とする内容である。長野県となると山深いから狩猟が盛んだったのである。縄文時代にもさかのぼる古い謂われが祭りとなって伝えられているのである。


諏訪神社は古いから全国にあるし相馬藩にもある。相馬市の黒木の諏訪神社は立派である。神田として諏訪田という地名も残る。この諏訪神社は由来が非常に古い。出雲から天津神の建御雷之男神に追われ信州の山深く逃れた先祖になった。天文年間から室町時代に由来を持つとして文書もあるとかになるがここには相馬氏が移動してきたときもたらされたものだろう。

『奥相秘鑑』によれば、一族・家子郎従を率いて奥州行方郡太田に入った重胤は、下総から鳳輦に奉ってきた妙見・塩竃・鷲宮の三神をここに勧進したのち小高村に移り、城を築いて本拠としたという。

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相馬重胤
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/soryo14.htm#sigetane


この案内板と神社がある場所が問題である。ちょうど八重米坂をおりた所であり山を越えてここに休む場所としてふさわしい。片倉村の入り口だったのである。そこに片倉辺の神を祀ったからここが片倉村になったのだ。建御名方神 →片倉辺命が由来であった。各地にある片倉の地名はここに由来しているのが多いのだろう。伊達氏の片倉氏は有名でもそれが地名化したわけではない。氏族名は地名になるのがまれだからである。ここから下って旧陸前浜街道の交差点辺りに塩釜神社の案内があった。そこから先に行くと太田神社になるからその跡が裏付けられる。いづれにしろ戦乱があり相馬氏はここに逃れて新しい相馬氏の基礎を築いたのである。初発神社とはここから始めるという意味もあったのか、その場所が歴史を如実に示しているのである。


野馬追いの旗をみると渡辺氏があり今も渡辺氏の墓が分家となって並んでいる。旗も分家して新しい旗となった。もともと渡辺氏の旗は一つでありここにきて分家して新しい旗になった。その旗がもともと共通したものとしてあった。分家した旗はわかりやすい。そういう旗も多いことは確かである。そういう旗は分類しやすいのである。


鎌の旗は一つのと二つが組み合わせたものがあり男鎌と女鎌に由来するものだろう。鎌の由来も諏訪神社から由来したものでありそれが旗印になった。片倉村の由来は相馬重胤から始まっていることは間違いない、地名としてはすでに相馬氏が移住する前からあったものが多い。古代の地名が多いがこの片倉村は片倉辺の神を祭ったものであり相馬重胤に由来していた。だから一面新しい地名だとも言える。おそらく相馬氏がきたときは原野か森だった。そこを開墾したのである。その中心になったのが渡辺氏であった。

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南相馬市片倉村の謎
http://musubu2.sblo.jp/article/28478326.html

2011年08月10日

UNITED SOMA MAP(相馬藩内の市町村)


UNITED SOMA MAP(相馬藩内の市町村)

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相馬藩くらいが人間としてちょうど地理的ちも一体感をもてる世界だった。余りに広いと人間は地理的に把握できなくなる。これはあくまでも地図上ではなく人間のヒュ-マンサイズとしての感覚である。相馬藩くらいの地域がちょうど人間の感覚でとらえられるのである。ここには海もあり街もあり山ありと世界の縮図としての世界がある。飯館村も山中郷としてあったのはやはり山から水が流れてくるからである。そこで地理的にも一体感があった。放射能騒ぎでセシウムが流れてくるとか問題になったのもそのためである。水の供給地として飯館村があった。浪江も標葉郷としてあり葛尾村も飯館村と同じ山中郷としてあった。双葉町が相馬藩の境界だった。この辺までが一体感がもてる。歴史的にも地理的にもそうだった。ただ放射能を考えるとこんなに広範囲に影響するとは思わなかった。中通りはもともと地理的一体感をもてない、それが放射能でかえって影響が大きかった。風には境界はなかったためである。

ともかく相馬藩は山あり海あり平地ありといいところだった。気候的にも今年はそれほど暑くない、去年は本当にここも暑かった。でもここは海からの風が吹いてくるからそんなに暑くならない、気候的には恵まれた所であった。それだけはいい所だと思っていた。会津のように雪も降らない、松川浦などの浦ももあった。明治時代前は八沢浦は文字通り浦であった。それを津浪が再現したときは驚いた。いつもあそこが入江になっていることをイメ-ジしていた。しかしあの浦浪が奥によせてきた。、春の光にきらきら光りよせてきたことは想像できなかった。想像を越えているのが自然だった。一度しか見れないにしても現実に見たことは奇跡的だった。あそこは都の役人が歌ったようにそういう場所だった。松原はなくなったが津浪にも残った松は記念の松となった。右田浜は昔の湿地帯にもどった。


橲原は奥まった所であり南相馬市の鹿島区の奥座敷である。江戸時代は大原もそうだった。県道が通りそういう雰囲気に欠けるようになったが「大原山人」という人がいたことでもあそこはやはり橲原とにていた所だった。小高は縄文時代の遺跡が多いということは昔から貝などをはるのに適した場所だった。相馬藩でも山には山の役目があった。木材や馬の飼料となる草が多かった。だから馬を多く飼っていた。その馬は三春藩などにも売られた。葛尾村となると三春藩に近いから藩主が葛尾大臣が招待したというのもわかる。鉄作りでは鉄の素材となるものを請戸港から岩手県の宮古からも運んだ一大製鉄所として栄えた。製鉄となると大量の薪が必要になるから山の方がいいのである。

相馬藩は確かに海があるということが福島県の中で違っている。飯館村を通り塩の道があったというのもそのためである。原釜には塩田があり双葉町にも塩田があり塩を東京の方に売っていたということもあった。その塩田が東京の財閥に買われやがて原発が建てられたのである。



昭和38年には用地交渉中であったので、現地調査は東電の人とさとられないように若い女子社員を連れピクニックをする格好をして日曜日にサイト内を歩いた。5千分の一の航空写真化地形図を頼りに中央の沢を下って海岸に出ると、塩水を汲み上げていたパイプの配管が寸断されたまま沢の途中に残っていた。沢の上方に古ぼけた掘立小屋(若衆宿跡?)がありその北方に平坦で広大な塩田用地(元陸軍訓練所飛行場)があった。
http://tokyopastpresent.wordpress.com/2011/04/07/



そもそも夜ノ森は余の森であり相馬藩主が余の森として境界争いしたところである。だから原野の風景が明治以降も残っていた開墾されたのである。原発の位置としてはいわき市の昔の平からも離れているし相馬市からも離れているから適地だった。しかしこれほど相馬藩内が原発事故になり苦しむことは想像できなかった。それだけ原発問題は国民的にも県でも市町村でも隠されたものとして秘密のベ-ルのなかにありうかがい知れないものとしてあったのだ。それが今回の事故にもつながっていた。城のあった相馬市は辛うじて被害がまねがれたにしても相馬藩内はぐたぐたに傷ついた。回復されないほど傷ついてしまったのである。


橲原村と大原村の地想学(トポス)

http://musubu.sblo.jp/article/43639625.html

2011年05月21日

津波で明らかになった南相馬市鹿島区の土地の高低


津波で明らかになった南相馬市鹿島区の土地の高低

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東日本大震災で津波被害を受けた宮城県から福島県にかけての太平洋岸では、「貞観地震」(869年)を挟み、約450〜800年間隔で大津波が起きていたとみられることが18日までに、産業技術総合研究所の分析で分かった。
http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011051801000727.html

人間がどのようにその土地で暮らすようになったか?それは自然の条件の制約の上に暮らすようになった。南相馬市の鹿島区を例にとれば最初に浮田国造(うきたくにのみやっこ)と文献にあり最初の国がこの地域にあった。その土地を見れば一目瞭然である。この辺では一番住みやすい所にあった。平地であり高い所だった。土地の高低はわかりにくいが鹿島の歴史をたどると自然条件に基づいて発展したことがわかる。浮田国造のある平地の高いところが最初に人が住み次に山際の高い所でありそして浮田の前の横手古墳群のある所から田中城のあった台田中が中心地になった。今回の津波でなぜ田中城があそこにあったかわかった。津波はすぐ近くまできたが田中城の回りまでは来ていなかった。田中城の回りは湿地帯だった。その前も湿地帯であり海が迫っていたのである。そして津波により土地の高低が浮き彫りにされた。真野川に沿った地点は両側は土地が低くあとから開墾された場所であった。だから小島田でも津波が六号線近くまで押し寄せたことに驚いた。島田とあるごとく湿地帯に島になっているような地形だったのだ。


それから右田ももちろんあとから開拓された場所であり大内村の前の田もそうだった。そして常磐線の鉄道の橋の下をくぐりぬけて塩崎(シオノサキ)まで津波が押し寄せていたことには驚いた。そこには船着という平安時代のものらしい地名も残っている。本当に船が来ていたからその名がついた。化石のような地名だった。そもそも塩崎というのもそこが海を前にしていたからその地名がついた。地名はそれだけ古いということである。その辺は低い土地だったのである。この土地の高低は歩いても見ていてもわからない、津波によってわかったのである。低い場所にはより深く津波がおしよせた。もともと塩崎は真野の入江とされてをり遠浅の海だった。みちのくの真野の萱原遠けれど面影にして見ゆというものを(笠女郎)・・・この有名な万葉の歌の草原は地名だったと自分が書いたがまさに草原は真野の入江の港だったのかもしれない、でも笠女郎はここには来ていないのだからここを面影にまで見るということがありうるのかということで疑問に思って書いたのである。結局以前として謎なのである。ただそこが深い入江であり船着という地名や市庭があった。品物を取引する場所があったとするとなんらか港の役割を果たしていたとなる。今回の津波で一番驚いたのは八沢浦が前の入江に戻ったことだった。満々と水をたたえる入江に戻ったこと奇跡のようだった。明治時代に開拓された場所だったから大昔のことではない、それにしても夢見ているようだった。磯部も全滅したらそこはもともとは砂州である地形がはっきりした。ちょうど北海道のような荒寥とした風景になったことに驚いた。北海道はまだまだそうした原初の地形のままに残っている所が多いからである。広大な砂浜が残っているからである。


右田の松原は江戸時代からの開拓で作られた。そこはもともと海だったのである。日本人は江戸時代に海の方へ開拓をすすめた。青松白砂の風景は人工の美として人間が作ったものである。そういう場所が各地にあることはそれだけ人間が開拓した場所が多かったということである。それが根こそぎ今回の津波で破壊された。この開拓も自然条件に逆らうものだったことは確かである。なぜそういう無理な開拓がつづいたかというと日本の土地は狭く人口を増やすのに限界に達していたのである。だから幕末辺りでは江戸時代ではすでに人口を増やすことができずグラフは横ばいになっていた。つまり江戸時代は開拓で田を作り人口を増やしたのである。それが海側への埋め立てや開拓でありそれが自然条件を無視したものでありやむをえなかった。それが今回の津波でもとの原初状態に戻ったのである。そして青松白砂の無数の松がなぎ倒され流された。それは信じられない風景だった。津波の猛威をまざまざと松に残したのである。でも500年周期くらいで大津波が来ているとしたら海側に開拓が進んだ江戸時代は仙台平野や福島県の浜通りでもそうした大きな津波はなかった。三陸にはあってもここにはなかったのである。それも500年単位になるととても人間の歴史の単位も越える。だから江戸時代から五百年はそんなことは考慮しないのである。平和のうちに危険だった場所の開拓はすすめられ人口は増えたのである。


今回の津波が明かにしたのは何なのか?それは五〇〇年が過ぎて大きい津波が来たことも忘却されていた。三陸は違っていたが仙台平野から福島県の浜通りについてはそうである。人間の記憶は五〇〇年もすると失われ忘れられる。人間は忘れやすいのである。忘れたころに災害がやってくるというのはそのためである。五〇〇年も何もなかったら全く忘れてしまう。三陸とここは違っていた。でも海は怖い、だから海側に住んでいる人は浪が海が押し寄せてくる夢を見る。小学校の前辺りまで浪がおしよせてくる夢を見ていたが現実になった。夢はどんなものでも現実化するのかもしれない、誰も隕石が落ちてくるような夢は見ない、それはほとんどありえないことだからだ。海は違っている。毎日接しているから恐怖の夢を見るのである。それが現実になったのである。人間は危険を察知すま能力か弱くなっているのかもしれない、あまりの文明化で機械化で人間の五感も直感も衰退した。これだけ情報化文明化しても人間は危険を察知する能力が衰退した。震度9の地震はスマトラでも起こっているし他でも起こっているからそこに注意していれば日本でも起こるのではないかと危険を感じることができたが不思議にスマトラのことは他人事であり警報装置がなかったから津波のことを知らないから被害が大きくなったと言っていた。日本人はこれだけ地震があるのに警戒していなかったことも不思議である。

人間は今やどこでも自然条件を無視して生活範囲を拡大化している。だから災害の被害は信じられないほど巨大化する。自然に制約されていればこういうことはない、海側にはそもそも人は住めなかったからである。三陸ももともと八沢浦のような入江でありもともと平地には人は住んでいなかったのである。でも平地が便利だから住むようになった。その平地を田にしたことも確かである。田にして米を作りすることが日本人の文明でもあったからだ。田を作るにしてもやはり文明というのは自然に逆らうことになるのだ。そしていかに文明が今や自然に逆らったものとなっているか?その一つが原子力事故でもあった。これも実際は自然に逆らうものであった。何故ならどうしてもとも自然にない物質、放射性物質を作り出すようなもの毒を作り出すようなものを作ること自体が自然に逆らうものだったからである。文明はそういうことで常に自然に神に呪われている側面があった。それが津波でまざまざと見たから驚いたのである。

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2011年01月18日

郷土史は悪人がいないからつまらない?


郷土史は悪人がいないからつまらない?

私の郡山歴史考
http://blogs.yahoo.co.jp/asakayama1000/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%BF%B7%C5%C4&sk=1

ここは誰が書いたかわからないが著作権フリ-である。内容もある。郷土史には悪人がでてこないからつまらないと書いてあった。郷土史は郷土の悪人について書けないのである。岩松氏の悲劇を前に書いた。これは悪逆非道なこととして語り伝えられた。でも鎌倉時代のことであり500年前とかなるとすでに時効のはずだがそうでもない、その子孫が現実に相馬藩内に生きている。四天王の姓を受け継ぐ人が生きている。一人はその姓を変えたこともわかっている。ただその姓にしても分家しているし数が多くなっているから悪事としても忘れられてもいいものである。でもその歴史的事実を書けば自分の先祖がそんな悪いことをしたのかと500年前のことでもいい気分にはなれないのだ。だから郷土史では郷土のいいことしか書けない、俺の先祖の悪いこと書くなと抗議がくるかもしれない、そして自分の家の歴史が郷土史なのだがそれも書きにくい、その家のことがわかってしまいまずいこともあるからだ。だから郷土史でなかなか自分の家のことを書いていない、そこでは知られずに埋もれている。ただ自分の先祖が古いということを自慢する人はいるだろう。そういう点で郷土史はつまらないとなるのか、郷土史はあまり読まれていないのも事実だろう。泉官衙跡などでもそこには建物の遺跡だけであり人物が出てこないからつまらないとなる。どういう人物がいたかなど古代ではほとんどわからない、もちろん古代にも東北にも蝦夷にも人物はいても消されて残らなかったのだろう。人物が出てくるのは鎌倉時代以降である。それで岩松氏が鹿島区内に相馬藩内に一族が虐殺されたのでその子孫が残っていない、岩松氏の姓が相馬藩ではないからである。それは明かに一つの歴史の証となっているのだ。

それぞれが家の歴史を書けばそれが郷土史なんだけどそうれが書けない、そこに郷土史がつまらない、新しい発見がないとなる。ネタきれになりやすいことも確かである。


岩松氏の伝説
http://www.musubu.jp/kashimamanonado.htm

2010年12月12日

岡和田氏の謎


岡和田氏の謎

相馬一族。相馬胤村(孫五郎)の二男・相馬胤顕(五郎)が胤村の遺領分配によって陸奥国行方郡岡田村(福島県南相馬市小高区岡田)を与えられ、室町時代後期に「相馬」を改めて岡田を名乗った
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku32.htm


岡田重胤 (1608-1650)
 中村藩御一家。相馬岡田家十三代当主。
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/okada3.htm


弟は木幡勘解由長清の遺跡を継いで木幡加左衛門貞清を名乗り・・・


古館跡 久保畑にあり、古昔岡和田氏世々居る。今土垣なく悉く圃となる。応仁の乱の頃岡和田下総当邑(むら)を食(は)み其の子勘解由の子、遠江虎其の子安房宗北郷の兵士50余人の長として武功あり。(鹿島町誌)


●制野下総 (?〜1615年)

 元和元年、片倉重綱に殉死した。
 
●片倉家臣団-岡和田太郎左衛門 (?〜1615年)
 元和元年、片倉重綱に殉死した。


そもそも相馬氏系統に岡田氏も岡和田氏もいない、岡田氏となのったのは小高に岡田という地名があり岡田所領したから岡田氏をなのった。では岡和田氏は何なのか?応仁の乱の頃岡和田下総当邑(むら)を食(は)み・・と鹿島町誌に出ている。この意味がわかりにくいのだ。下総に岡和田村という所があったのか?それが不明である。和田村があっても岡和田村はないのだ。
岡和田氏は伊達氏の片倉家の一人にも仕えている。そして原町区に片倉村があるのはどういうことなのか?岡田重胤 (1608-1650)の弟が木幡勘解由長清であり重という名が受け継がれているから岡田氏と関係深いことは確かである。岡田→岡和田氏と分かれたからそうなったのか?岡田氏の系譜の中に岡和田氏があった-鹿島区の古館跡には岡田氏から分かれた岡和田氏が住んでそこが岡和田という地名化したとなる。他は地形を基にした地名が多いし姓を地名とすることはないがここだけは例外だったのだろうか?岡田氏の系譜に岡和田氏も入っているから有力である。ただもし姓が地名化するとしたらここに岡和田氏がいても不思議ではないがいない、中村城に出た岡和田氏がいて他にも分家した岡和田氏が上高平にいた。こういうことは栃窪氏とか小山田氏とかいる。その土地の村の名を他の土地で姓としている。そもそも岡和田の謎は岡和田下総当邑(むら)を食(は)み・・・というところにある。下総に岡和田村がありその村の名がここに移動してきたのかということである。確かなことは岡田氏の系統の中に岡和田村氏があったことは言える。


北海道に移住した岡和田村氏からのコメントがあったので調べてみたが明確なところは不明である。

南相馬市原町区上高平の五輪塔のある墓地の謎
http://musubu.sblo.jp/article/36245436.html

2010年12月04日

地名から南相馬市原町区の大原村をみる


名から南相馬市原町区の大原村をみる

国魂太郎゛岩城氏の一族であり好嶋庄内の村々の地頭と同じ程度の名田を所有していた。
手作りとは名主の直営地のことで、佃(つくだ)、門田(かどた)、前田、内田などともいわれ、居館の近辺にあった。地頭、名主たちは土塁、堀をめぐらしてた居館に住んでいた。
堀の内、内城、御城、殿の前、竹の内、腰巻などの中世の名残と思われる地名がある。
(新しいイワキの歴史)

地名から歴史を探る場合、時代区分を明確にする必要がある。中世と江戸時代とかを区別する必要がある。中世の地名が多いからここは中世から人が住んでいて地名化したということを認識する。館とつくのはたいがい中世でありそこが生活の中心となった場所である。今の感覚だと生活の中心は鉄道の駅があるところとかさらに車社会になり道の駅が中心になったり常に中心は変動している。中世は館とか堀の内、内城、御城、殿の前、竹の内・・とかが中心地になっていた。その典型的な例が南相馬市の鹿島区の駅に近い「田中城」であった。城といっても江戸時代のような城ではない、堀をめぐらしたものであり田中城はそもそも回りが湿地帯であり橋が多く天然の要塞になっていた。あと館とつのには江垂の中館とか小高い山を根城としたところが多い。これも敵を防ぐ天然の要害だからそこを中心として生活があった。
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インタ-ネットで読んで面白かったのは中世には飢饉が少なかった。庄園とか館とか中世の城内に住んでいた人は個々の家族に分離したものではない、その内では生活は分離していないで一体化していた。一つの大家族だから飢饉がきても食料をみんなで分け合うから江戸時代のような広範囲な飢饉はなかったというのも不思議である。江戸時代になると個々に別れた農家がふえたからだという。中世の生活がどうだったのかこれもわかりにくい、生活が個々に別れたというとき現代は核家族してさらに細分化しているから社会全体では協力しないから助け合うことがないからいろいろ困るのとにている。地名は生活を共同した証でもありただ中世の地名は多いことは確かである。必ず館という地名がありそれがあればその土地の中心地がそこにあったことなのである。相馬藩内でも堀の内とか内城とか殿とか竹の内とつく地名は多い。竹の内は全国的に多い。そういう地名があればそこは中世から人がすみ中心地がそこにあったということである。屋敷というつく地名もその屋敷を中心に暮らしがあった。明治時代から中心地の変動が激しくなり工業化して郷土の生活も個々に細分化されつながりが失われた。

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大原の前田という所には病院で知り合った人が一人で住んでいる農家がある。古い家だと言っていたが確かに前田となっているとそうなのだろう。つまり家の前の田がまずその地域の中心地となり草分けとなった。そこから開墾されて田が拡大化していった。下田とあるのは下田が先にあったのではなく前田が先に人が住んで下田が開墾されたのだろう。そしてさらに上の方に坂を上ると遠田という字地名があり現実に隠れるように田が確かに坂をかなり上った所にあるのを知っている。それからさらに急な坂を上ると六地蔵が隠れるようにしてあった。これは今は誰も気づかない、堀がありコンクリ-トの壁を上った上にあったからだ。あそこを見る人はいない、あの六地蔵は江戸時代からあったものだろう。あそこが昔の道だったのだろう?橲原村と大原村の境界だったのだろう。江戸時代は村が行政の単位だから村の結束力が強いから境界は強く意識された。その境界に六地蔵が置かれた。ともかく米を作るためにあのような高い不便な所まで田を作ったのが日本だった。ネパ-ルでもあんな高い所高い所へと人が住んでいることに驚く、高ければ高いほどすみにくい、すみにくい所に土地を求めて移住する。遂には冗談ではなく天に到り天に土地を求めて耕すほかなくなっているのだ。でも2000メ-トルくらいまでが限度だろう。さらに上ると万年雪が残ってしまう領域になる。

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上萱もネパ-ルと同じ事情であんな不便な高いところに住むようになった。養蚕とかが盛んな時代であり桑畑を作ったりしていた。炭焼きもしていた。でも戦後のことでありあそこに人が入ったのは新しいのである。大原に学校がありあそこから歩いてきて遅刻してしかられたというが上萱から大原まで歩いたら大変な距離である。坂道でもあるから歩いたら大変な労力である。でもそういう時代もあった。それから遂に土地を求めても土地がなくなり戦後は北朝鮮でもブラジルでも移民を募り外国に出て行った。そういう人は結構多い、アメリカで消息不明になった人が親戚にいた。実際は成功した人は少なく失敗して悲惨な生活に陥った人も多かったのである。
上萱(うえがや)は鹿島区の栃窪村に属していたが橲原村とかも近いから関係した。でも学校は大原とかなり大原の人があそこに入ったようでもある。山田という姓の家が二軒くらいあった。



その人は原町区に移り土を盛った粗末な墓があったがその墓も移動した。墓は人とともに移動する。でも土を盛った土饅頭の墓があったということはあそこで暮らしあそこで死んだ人がいたのだろうか。大倉の奥の二軒の一軒もなくなり墓も一つなくなっていたから墓も人が住まなくなれば移動するのである。大原村に前田とありさらに山田と地名がある。山田とはそこに住んでいた人かもしれない、小山田という姓があり小山田という地名もあるからだ。ともかく日本ではある程度地名からその土地の歴史がわかるのである。

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大原に冬の陽没りぬあわれかな街は遠しも昔の暮らし

2010年12月01日

南相馬市立病院の同室の浪江町の富永氏の由来は?


南相馬市立病院の同室の浪江町の富永氏の由来は?

病院で同室だった富永氏は浪江の請戸の出身であった。そこで15町分の田畑をもっていた。中国の研修生を雇い三回も中国に行ったという、他に地元の人を指導する立場にありその土地では優秀な農家であった。娘四人がいて大学まで全部出して一人は30代で死んだ。そのことを妻はしきりに言っていた。それで介護度5なのに早く家に連れて帰りたいと言っていた。介護度5で在宅介護をできる人はまれである。それほど夫のことを思っているので珍しいと大原の人と語り合った。大原の人は息子娘が近くにいるのに大病したあとも一緒に住まない、大きな家で一人猫とまた暮らすことになる。そしてその家は空家になってしまう可能性が高い。農家でもそういう家が多いのが現状だからそんなに夫のことを思い介護するのはうらやましいとなるがその姿はあまりにも痛々しいものだった。


ともかく平の方に野菜などを売っていた。浪江となると磐城との関係があった。その頃市場が磐城にあった。その頃小さな範囲ではない、大きな市場が平市に磐城地方に生まれたので大量生産するようになった。市場はだんだん拡大化して今やグロ-バル市場となったのである。近くに市場が形成されなければ農家も農産物を大量に売れないから豊になれないのである。それはどこでも同じである。中国でも都市近辺の農家は商品として大きな市場に農産物を大量に売るとき豊になったのである。大きな消費地がないと豊になれないのである。こうして市場に売れたからこそ娘四人も大学に出すことができたのである。そもそも浪江はもともとは古代に標葉郷であり標葉一族が勢力をもった地域であり。隣に楢葉があり標葉があり双葉郡は二つの葉からとってそうなった。

そこはあとで相馬氏と岩城氏との境界争いの場ともなった。相馬氏が勢力を伸ばして岩城氏は後退した。その中で標葉氏は相馬氏に組み入れられた。標葉氏は葛尾(かつろう)村の境界の津島までその領地であった。津島は今でも浪江町の行政下にあるのはそのためである。そこは三春藩と境を接する所でもあった。

その中で富永氏というのはやはり由緒ある姓なのだろうか?
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富永雅楽助(刑部)


実名勝安。山城守政辰の二男。富永氏は代々北条氏に仕え、曾祖父山城守政直が北条早雲・氏綱・氏康に仕え江戸城を守った。祖父神四郎直勝は江戸城に加え、葛西城将となるも、永禄七年鴻台で討死した。父政辰は北条氏政の一字を賜っている。政辰の嫡男(勝安の兄)は直則で幕府旗本となった。(「諸士」)

http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/echizen-kasin.html


富永という姓はそれなりに由緒あるもので鎌倉時代の北条氏系統につながる。千葉氏とは縁がそれほどなくてどういう経路で浪江の請戸に来たのか不明である。相馬藩ではそれほど有力な一族ではない、浪江からも野馬追いに出る家がある。浪江の標葉氏は相馬藩に組み入れられて野馬追いに出る。浪江から南になると相馬藩に組み入れられるのはのちのことで野馬追いに出る家がない、浪江となるとやはり磐城との関係が深くなる。距離的に地政学的にそうなってくる。


権現堂城は標葉(しねは)氏の居城であった。標葉氏は代々、太平洋に近い平野部の請戸館を居館としていたが、防御力の不備から、本城館を築いて移ったという。室町時代中期の嘉吉年間頃(1441〜44)のことであるといい、時の城主は標葉清隆であった。
http://homepage3.nifty.com/otakeya/hukusima/namiemati.htm



請戸は古い地域である。だから中世から標葉氏が根拠とする城がありあとで権現堂の地域に移り相馬氏の支配下に入った。富永氏も鎌倉時代に請戸に入ってきたのか、請戸港も古く
岩手県の宮古から鉄になる素材を葛尾(かつろう)村に運び葛尾(かつろう)大尽が製鉄して三春藩などに売っていた。三春藩は近いから第一のお得意先になっていた。それで葛尾大尽の屋敷に呼ばれて歓待されたのである。その屋敷跡が葛尾村に残っているのは知られている。
津島を通って塩の道もあり塩も浪江から運ばれていた。棚塩とある地名は塩がとれた地域である。請戸港まで行くと相当に広い田が広がっているから、15町分という広さをもてる地域であった。浪江駅から山は近いが海の方に平野が広がっている。海の方に向かって広がった地域である。請戸地域に平坦地が多いのだから請戸に標葉氏の根拠地があったことがうなづける。江戸時代でも塩がとれる、塩を売る、鉄の素材を運ぶ、魚もとれるとかそれなりに豊かな地域だったともなる。富永も富が永くつづくという縁起のいい姓であり今の静岡県を三河を中心にして全国に富永の姓は広がっている。

2010年06月07日

相馬藩の地理的一体感

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相馬藩の魅力はやはり地理からはじまっている。この地理をわかるのはそこに長年住んでいる人でないとわからないだろう。福島県になると大きすぎてもはや地理的一体感がもてない、会津は全く別の一国であり地理的一体感がもてない、相馬藩の地理的一体感は狭い地域だから持ちやすい、丸森が伊達藩だったけど一時は金山城が相馬藩に属していたから相馬藩だった。ではなぜ丸森町が伊達藩になったかというと角田から平地がつづき丸森まで伸びていたからである。一方相馬藩は山にさえぎられたから丸森を支配できなかったのである。これも地理がわかれば納得する。飯館は一見標高が高く相馬藩に地理的になりにくい面もあったがそれなりに地理的に一体感も持ちうるものでもありえた。塩の道などを通じて経済的一体感も持ち得た。飯館や葛尾村には森林資源があったから相馬藩ではその資源を必要としていたから相身互いだったのである。
相馬藩内はそれなりに地理も複雑である。阿武隈高原を擁して平地が海沿いに広がる。海と山との国となる。国見山から一望できたのは合併した南相馬市(小高、原町、鹿島)だった。まさに国見山でありこの三つの市町村は地理的に合併するにふさわしかったのである。飯館村は合併しなかったがもともと相馬藩内であり山中郷として野馬追いにもでていたから連続したものとしてあったのだ。
相馬藩が外から研究されるとき国替えがなく代々相馬藩は相馬氏に受け継がれてきたことである。だから資料としても研究されやすいことがある。相馬藩政期なども膨大な資料として残されているからである。相馬藩内でもいろいろ俳句短歌で紹介してきたが地理が複雑だし魅力的なことを再認識した。山あり川あり海ありだとなる。ただ海は磯がないから魅力がないことはいえる。久之浜の方にいかないと磯がないから磯遊びなどあそこしかできないのがつまらないとなる。ただこの相馬藩内でも地理的にも歴史的にもそれぞれ色合いが違うのである。特にいち早く近代化したもとの原町市は相馬地方の中心地帯となった。相馬市は城跡のあるところだったが原町市の方が近代化して発展したのである。それが南相馬市となったときわかりにくい、相馬市の南か、相馬市が中心で南相馬市は付属しているのかくらいにしか思われなくなった。他の人は地理も歴史もわからないから名前だけから判断する他ないからだ。どこの地域でも相馬藩のような地理があり歴史がある。それは外から一回くらい行ってもわかりにくいのである。

ただインタ-ネットなどで紹介すればその狭い地域でもいろいろあるんだなと知ることになる。
インタ-ネットの強みは全国の人が見ていることなのだ。日本全国に放送することはやはり今までありえないことであり絶えず地方から情報が発信されるようになったのである。いろいろ相馬郷土史研究でも書いてきたがもっとそれぞれの立場で書く人はいるだろう。書くべきものもあるだろう。こうした狭い範囲でもやはり郷土史の研究はとても一人でできるものではない、様々な角度から探求する必要があるのだ。そのためにはまず地理を知ることなのである。相馬藩を一つの宇宙として一体感を高めるのである。相馬藩そういう点で野馬追いとかあるから一体を持ちやすい面はあるのだ。つまり一つの世界としてちょうど一日の範囲で行けるような地理感覚なのである。会津とか伊達藩になると大きすぎるのだ。とても地理的感覚で一体感を持ち得ない世界である。狭い地域だからこそ自己同一性-アイデインティティが持ちやすいということがある。アイデインティティも新しく再構成する必要があるのだ。常に時代は変化しているし何がアイデインティティなのかも変わってきているのである。現代はグロ-バル化したからこのアイデインティティをどこに見出していいかわからない、経済規模が世界大に拡大してもではアイデインティティはやはりその土地に根ざしてculture(文化)が形成されてきたのである。相馬藩はほとんど隈なく歩いているから自分の中で地理的一体感をもてる。相馬藩内は一つの世界としてアイデインティティを持つのには適当な規模なのである。日本だって実際は広すぎるからだ。

中国とかアメリカなどはどうして一体感をもつのか?余りにも広すぎて茫然としてしまう広大さであり地理的に一体感などもちえない世界だった。どこまでも平地が地平線まで広がっている感覚は日本にはないからだ。そういう世界に住んでいる人たちと日本の地理的感覚は相当違っているし思想的にも異質になるのはさけられない、日本は盆地が多くそこが一つの世界、宇宙となってしまう地理的環境にあったのとは大違いだからである。

2010年06月04日

黒揚羽(国見山から飯館へ-2)

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何やらの草の実あまし夏の朝

滝壺に黒揚羽舞いひそむ魚

木漏れ日やトオスミかすか飛びにけり

飯館の広々として新緑に風の涼しくわたりそよぎぬ

飯館に日のなお暮れじ明るさや遠くに望む夏の峰かな

山藤のふさに垂れにき風そよぎ飯館の道長くつづけり


六号線のところに赤い実がなっていた。それがグミではない、グミは酸っぱいがあれは小さく甘い、それが何とも甘美だった。つまり無料で食べた味がなんともいえぬのだ。それも自然から得られたものだから格別だった。人の手からわたるものはうまくてもそこには常に代価が必要とされる。苦労して作ったものだからということでただで食べるわけにはいかない、そうだったとしてもなんか悪いなとか遊んで暮らすものは他人の労働から無料で食べるわけにはいかないとかなる。ところが自然の中にもしなっていた実だとしたら誰もとがめるものはいない、純粋な神からの賜物(たももの)となるから格別に甘美なものとなるのだ。エデンの園ではそうして純粋に神からの賜物として食料を得ていたのだろう。自然に生きるものの幸福は神からの賜物だげで暮らしているからである。一番甘美な食料はマナだったのである。人間が労働して栽培したものではない、神から純粋の賜物として与えられたものである。

 

高倉ダムから流れをさかのぼった所にある滝はたいしたものではない、あそこには魚もいないかもしれない、でもあそこは車が日に何台かしか通らない、涼しく風がそよいですぎてゆくだけである。そこにじっとしているだけで気持ちいい、そこには社会の喧噪は及ばない世界である。ただあそこまで行くのは結構大変だった。運動すると体に異常が出るようになった。登山して電動自転車でも乗れば体に答えた。でも自転車だと涼しい風とか感じるが車だと感じない、それでも暑い光をさえぎるから楽である。車を運転できる女性と結婚すればいいというのは確かにそうである。そうすれば遠くにも行けることになる。車はそれだけ便利なものなのである。でもどこの家でも車の事故にあっているからいやである。自分の場合は車の運転には向いていない、常によそ見しているし考えことしたりしているから事故にあいやすいから乗らないのだ。

飯館村が気持ちいいのは広々とした地域に家が隠れるように点在しているからである。道にしても車が通るのが少ないからいたるところ涼しい木陰をなしている。飯館村は静寂の度合いが違ってくる。原町より小高や鹿島が静寂があるがさらに町より飯館村は静寂の度合いが深まるのだ。飯館村に住んだらいろいろ不便でもその静寂の中で別な神秘的体験をするのではないだろうか?暮らしのことは別として深い自然の癒しがあそこにはある。ただきれいな水の流れがないことが残念である。前は一カ所山陰にあったが道になりなくなった。流れは寸断されてしまったから自然な流れではない、夏になるとやはりきれいな流れがあると癒されるのだ。会津の方にきれいな流れが多い、あれだけ高い山があるのだから当然だなる。ただ会津は地理的にわかりにくい地域なのだ。

やはり夏は涼しさを求める、本当の涼しさは自然にあり自然を離れたら本当の涼しさはなくなる、ク-ラ-も不自然なものであり飯館のような高原に棲めば全体が自然のク-ラ-になっているのだ。

 

 

2010年04月05日

新地の地勢は日本の典型(鹿狼山の伝説など)

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新地の地勢は日本の典型(鹿狼山の伝説など)


手長明神は年を経た鹿を愛し、白狼を馴らして連れ歩いた。山頂から長い手で海から貝を取って食べ、その貝殻を捨てた所を貝塚屋敷という。相馬郡の方のふもと新地の小川部落にあった。

浜から離れた場所で貝殻が発見されるため、手長明神が長い手で海から貝をつかんで食事した場所だったという伝承が残っており、その社の跡も残っています。
http://www.mahoron.fks.ed.jp/bunkazai/264.htm


歴史が地理だと書く度に指摘しているけど、それが一番身近な住んでいるところでも地理がわからないのだ。そこに長年住んでいても地理の感覚は身につかない、新地などすぐ近くだからわかりきったところじゃないかとなるそうでもない、新地の地理的特徴は同じ浜通りでも特殊なのである。山と海が近接している、海までの距離が一番近いのである。新地駅からのみ太平洋が見えることでもわかる、ここが海なのか、歩いて行けるなという距離なのである。鹿狼山も浜通りでは最も海に近い高い山だから手長明神の伝説が生まれるにふさわしかった。伝説であれ何の根拠もなく生まれない、ここでは明らかに地理が歴史を説明している。手長明神のある所、手の長い神が貝をとって食べて捨てたという貝塚との距離感が現実的なのである。縄文時代は海が奥に入っていたからさらに距離的に貝をとるにはいい場所だった。その頃沖まで行って魚をとるという技術はもっていないから貝中心の食生活になったのだ。鹿狼は当て字でありガロウという音に漢字をあてたのだから鹿狼と漢字でなってるからそのあとにこんな伝説を作った。地名伝説にはそういうのが多い、鹿と狼は関係ないのである。ごろごろした山とかの意味である。

鹿狼山の麓あたりは海から一段と高いところになっていて住みやすい所だった。海と山が近接しているから海の幸、山の幸に恵まれていることになる。また縄文時代は湿地帯が多いから人は高台に住んでいた。すると新地には海のすぐ後ろが高台になっている。間に平地があっても距離が短いのである。最初は平地は住みにくい湿地帯であり人は住めなかった。高台が住むに適していた。だから新地は最初に人が住みやすい場所であり手長明神の伝説が生まれたのも今でも地理がわかれば納得するのだ。松川浦とか真野川とか他は山はずっと背後になっているからだ。その分湿地帯が広範囲にありどうしても松川浦もその湿地帯の中にあったから万葉集の歌(松がうらにさわゑうら立ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも)・・・はありえないと考証したのである。これも地理がわかればそうなるのだ。


鹿狼山の麓の杉の目に生まれ育った人の農家は水に恵まれていた。山の清水を家にとりこんでいた。三段の水槽にその水を流し入れて鯉を飼っていた。そこで子供のとき泳いでいたし風呂の水もその清水を利用していたから水で苦労したことがないという、これも鹿狼山が海に近くても山が近接しているからそうなったのだ。他では相馬市でも南相馬市でも山は相当背後にあり清水は出ない、鹿狼山のような大きな山が迫っているから清水がでてくる。他にも新地には清水で有名な場所が二カ所ほどありその清水をとりにゆく人がある。それはやはり山が近くに迫っているためである。町では前にも書いたようにもらい水である。水道がないときは自分の家では風呂の水は近くの江戸からバケツで運んでいた。子供のときそのバケツで水を運ぶことが家族総出で大変だったので文集にそのことを書いたのである。水をもらうことはまた井戸がない家にとっては苦労となる。「水をください」と頼まねばならないからである。新地では水に恵まれていたことは山と海が近接していたから山の幸と海の幸に恵まれていたことになる。平地の幸、米作りは後から湿地帯を苦労して人力で作り出したものである。縄文時代は海彦山彦の時代であり海の幸、山の幸の時代である。その典型的な地形が新地にあったのである。

ともかく日本では水だけには恵まれている。海から山へと行けばそこには豊富な水が流れている、その水もきれいであり飲めるから外国ではこんなに水に恵まれているのに驚くだろう。外国では川でも泥川が多いのである。水が飲めるような川などみかけないのだ。ともかく水道がない時代は水に苦労しない山の人は恵まれていた。山がすべて今のように悪いイメ-ジとはならない、木材が使用されていたときはそれで大儲けした人もいるからだ。新地でも「父の共有林」という話がインタ-ネットに出ていたが杉の目の人は知らない、その時すでに牛は使っていない、その前の代になっていたからだろう。人間は近くでも経験していることがかなり違っているのだ。そもそも海の幸と山の幸の国だとすると海の幸で生きる人と山の幸で生きる人はかなり違っているから海彦山彦の物語が生まれたのである。

(郷土史研究(水の問題)
http://musubu.sblo.jp/article/17441829.html

2010年03月31日

郷土史研究の意義-アイディンティティの基を見直す


郷土史研究の意義-アイディンティティの基を見直す

●空間的地理的認識がアイディンティティの基

大和は国のまほろば たたなづく.青垣 山こもれる 大和しうるわし (古事記).


大和の国の認識は奈良盆地に行けばわかるが回りを囲む青垣山なのである。大和(ヤマト)は極小さな一地域名に過ぎなかった。それが国の名前にまでなった。青垣山というと奈良盆地を囲む山であっても小さくはない、その中の平野は相当に広大なのである。それだけの広い地域を国のまほろばと認識していた。それだけの空間認識があった。そこが自分たちの生きる故郷だという認識があった。村単位で暮らしている人がそれだけの広い空間を故郷と認識していた。これもやはり空間的に認識しやすい場所だったからそうなった。日本では山に閉ざされてさえぎられるから自分たちの国を故郷を一体のものとして空間認識することはむずかしい。だから相馬藩というとどうしても飯館は地理的に隔絶しているから一体として認識しにくく飯館村は独立した村として残ったのである。ハマ、ナカ、アイヅというのは福島県を地理的に空間認識した結果である。空間的地理的認識としてのアイディンティティはそうなる。浜通りは海に面している地域であり中通りと会津が別にある。会津は広大な山国の地域である。別な一国でもあった。相馬藩の地理的空間認識はこれも確かにある。三春とか川俣とかが境になるが山にさえぎられるからこの山の向こうは別な世界、藩だという意識がでてくる。そういう意識は歴史的にも作られてきた。だから江戸時代は境が重要であった。つまり藩中心の生活でありアイディティティの中に生活していたのだ。そういう生活は拘束されているとか狭い中に閉ざされている感覚になるけど人間の基盤は自然村的に作られるのではないか、人間は福島県すら空間的に地理的に認識できないことをみればわかる。福島県ですら認識の範囲を越えているのだ。
日本が比較的空間地理的認識で一体感をもったのは海に囲まれている島国であるから観念的にも一つの国土として認識しやすいからだった。でも内部は山国であり実際は空間的地理的認識がむずかしい国だった。福島県すら空間的地理的に一体感をもてない、他でももてない、だから中国などは余りに広すぎてどうして空間的地理的に一体感が持てるのか?だから万里長城のようなとてつもない国境を自ら作る他なかったのである。それは空間的地理的に作られたものではない、人為的に作られた国境であり空間認識である。


●人間の空間的地理的認識は限定される

江戸時代は藩中心の世界であり世界観が基としてあった。実質的生活も藩中心であり自分のアイディティティをもつことが容易であった。どういう世界に所属しているのか空間的地理的認識として自然に身についたのである。そういう世界に生きることは精神的に安定する。強固なアイディティティの地盤があればそこから人間は一つの世界観を作りやすい、でもそういう世界がないとき人間は混沌(カオス)のなかにほうりこまれて自分のアイディンティティを築くことができない、現代とはまさに経済的にはグロ-バル化しても他国の人と精神的に通じ合っている世界ではない、ただモノを交換しているだけである。アイディンティティは余りにも広いと築くことがむずかしい、中国とかアメリカになるとどうして国民としての自覚がもちえるのだろうかと思う。中国はだから一見大きな国でも一体感がなくまとまりがなく他国にも蹂躙しやすいものとなっていた。アメリカも国としての一体感が薄弱だから絶えず他国として戦争して勝利して一体感を保つということがある。生死をかけて戦争すれば否が応にも一体感が高まるからだ。相馬藩にしても戦国時代もそうだった。伊達に抗い戦うために野馬追いが軍事訓練として行われた。そのことが伊達に支配されずに相馬藩が残ったともいえる。伊達に抗することにより一体感がもてたのである。

日本人のアイディンティティの基礎が村にあった。その無数の姓が村の地名にあったことでもわかる。つまり血縁よりその共に共同する土地と一体化した村にあった。外国では血縁が重視されるのはあまりにも国土が広すぎるということが逆にあった。小さな地域に分化されていればそこでアイディンティティが築きやすいからだ。そして土地とか空間は実質的には変わっていない面が多くなるのだ。人間はその間にめまぐるしく変わっている、血縁もいつまでもつづくわけではない、だから相馬氏として氏から相馬藩の一体感を持っているのは日本ではそんなにない、村からその土地として一体感をアイディンティティをもって生きてきたのである。相馬では相馬野馬追いが継続されているから相馬氏として氏の一体感をもち得たが他ではもちえない、伊達でも伊達氏の一族だと確かにその子孫は思っていてもその住民はそうした意識は喪失している、仙台でも他から入ってきた人が多いからである。

●江戸時代の藩が地理と一体のアイディンティティを作った
今またなぜ地方意識が高まっているのか?江戸時代への回帰が地方分権とかで実質的にも望まれるのか?それは人間の空間地理的認識は限られている、一挙に日本全国を俯瞰するようなことかできない、もちろん地球だったら余計にそうである。人間は狭い限定された範囲でしか物事を本当は認識できない、福島県を一体として認識できていないことでもわかる。福島県だけでもそれだけ広いし複雑だからそうなるのだ。文明は交通の発達でグロ-バル化しても人間が空間認識できる範囲が広がったわけではない、人間は限定された狭い範囲でしか認識できないしアイディンティティも築けない、限定された中で一体感を深めることはできる、でもこれが一挙に拡大化すると認識できなくなる。現代の混乱はここから起きている。アイディンティティとなる基盤の喪失なのだ。そんな狭い中で自分の生活を閉ざしてしまうこと時代遅れているというのも言える。でも東京のような一千万都市のようになったらどうして空間的地理的認識として一体感とかない、アトム(原子)化した世界であり原子爆弾が破裂してもおかしくない状態にある。そういう中で精神の安定を保つこと自体不可能である。「相馬郷土史研究」でいろいろ探求してきたことはやはりそうした混沌化したアイディンティティ喪失の時代に江戸時代に回帰して大地からアイディンティティを築く作業としてあった。そこに意義があった。教育にしても今までのような中央志向ではない、藩校みたいなのが望まれるのかもしれない、明治時代はどうしても過度の中央集権的、富国強兵の工業化としての一律教育であった。それは人間を規格化して大量生産に合わせるということでもあった。地域独自の世界観や文化も例えは方言なども標準化しして否定されたことでもわかる。それは文化の破壊でもあったのだ。グロ-バル化した反面に地域への回帰も同時に起こっているのだ。だらか山村などの過疎化はそうした地域を一部でも破壊するからアイディンティティを破壊するから問題なのである。経済的合理性だけで国土を考えていいのかという問題があるのだ。

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2009年12月25日

相馬市成田の竹内氏の姓の由来

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丸森
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相馬市成田の竹内氏の姓の由来



「竹の内」は「館(たて)の内」がなまった地名として、城館跡に時々見かけられるものである

武(竹)城について
http://homepage3.nifty.com/azusa/saitama/okegawasi.htm

樋ノ口はあるところは竹の内は呼ばれていた。竹の内という地名は全国にある。竹を植えて要害にしたという説がある。この宇多川沿いには大竹があり近くに篠竹があるから竹の多い地域だった。竹に由来することは確かであり竹が舘(たて)になるのか?竹で囲んだ館のあったところとなる。丸森にも竹の内という地名があるから竹の内は一般的にあるある地名である。そこに館があるとなると人がそれなりに中世に要害の地にして住んでいた。そしてそこから遠くない成田の斜面の墓地に竹内氏の墓がある。ここは明らかに竹内一族の墓所となっていることがわかる。下の江戸時代の墓のある所にも竹内氏の墓があり江戸時代からつづいて竹内氏がある。
弘化5年(嘉永元年・1848)である。一月早々、勘定組頭の竹内清太郎氏と面談した池田家老から「二宮氏の仕法が民間に益あることは一通りではない。自分も是非これを聞きたい。代官出府の節は自分からもよく話し合おう。なお富田には自分も面会したい。何時にても罷り越されるよう」という竹内氏の言葉を聞かされた。(日記・書簡2)

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相馬藩政期

他に標葉郷軍者の武内殿・・・・とあるとき武内は竹内が変化したものである。竹内の姓は竹の内がありその地名をとって竹内とした。鹿島区の塩崎の大岩は地名としてあり越中から移ってきてもその大岩を姓としたのかもしれない、その土地の名を名乗ることがよくある。相馬氏は移住しても相馬という地名をこの地につけていないのだ。中村・・・となのる人はいた。中村は村の名だからそうなった。黒木というのも地名として先にありその地名を姓とする武家がいたのである。いづれにしろ竹内の姓の起こりは竹の内にあることは間違いない、竹内氏が移住して地名となったのではない、前から竹の内という地名がありその土地の名を姓としたのである。

2009年12月18日

相馬藩内の人の移動について


相馬藩内の人の移動について

●相馬藩の外部からの移民

南相馬市の鹿島区でも原町区でも前は鹿島町であり原町市であって街としてあり中心だったがもともとは鹿島村であり原町村だった。原町市が原町村だったというのは意外お思うかもしれないが原町村からは野馬追いに一つの姓で一つの旗しか記録のっていないのだ。他の村はいくつも旗が記されているから昔から農家として郷士が住み着いていたのである。一地域内にも人の移動がある。大きな移動は相馬氏の移住だった。次に大きな移動は越中や薩摩など全国にわたり相馬藩は飢饉に陥って人工が激減したとき三分の一くらい減ったとき相馬藩では「相馬、相馬と草木もなびく・・・」と民謡のコマ-シャルソングを作り全国から人を呼び寄せたのだ。だから鹿島区に薩摩内とか他にも九州地名が残っている。なぜ九州の方からまで相馬に来たのかというと様々な事情があった。薩摩に真宗が広まったのは越中などの薬売りが広めた。薩摩とは薬を通して深くかかわっていたのである。真宗が薩摩で禁止されて移住したとかあるのは薩摩と越中が薬を通して結ばれていたからである。相馬藩内で移民の影響はかなり大きかった。相馬藩の墓所を見れば必ず真宗系の墓が二割三割とありその影響を如実に知る。
今日見た六号線の脇の川子の小高い山の上の八龍神社のあるところから下ったところの墓所は三分の二くらい真宗系の墓であり越中などの移民でしめられていた。ここは集中的に越中の移民が住んだ場所だった。

富山の薬売りと薩摩藩」の周辺
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2008/07/magn_8ec0.html



●鹿島区塩崎からの鹿島町への移動(中田氏など)


塩崎の中田氏は文政十年十月、越中砺波郡中田村より当地に来る


中田氏と大岩氏は一緒に来た

記録にはこうあるがこれは塩崎であり川子ではない、でも川子にも越中系の移民が多く住んだのである。塩崎から川子へと移民は拡大して住んだ。塩崎は越中の移民が多い場所だった。
中田とか大岩という姓は実際に鹿島区の鹿島町内にその姓の人が住んでいてその子孫である。もともと農家だったのだが町にきて大工とか菓子屋とかその他商売やら職人となって町を形成した。町はまず近郊の在-農村から移動した人たちによって人が集まり形成された。だから代々続いている家は少ない、でも農家だった家は町のなかでもかなりある。その家は広い庭と敷地をもっていたし今ももっている家がある。その家は古い家なのである。そのあとに職人や商売する人がすみついたのである。面白いのは鹿島区の鹿島村の橲原(じさばら)に橲原田がある。これも橲原の人が移り住んで田を作ってなづけた。橲原(じさばら)という奥から鹿島村に移り新しく田を作ったという不思議があるのだ。中田氏については明確だが大岩氏は大岩村から移り住んだのだろうか?不思議なのは詳細な字を記した地図に大岩下とある。これも地名だとするとこの大岩から大岩の姓となったのか、越中から移住したとなるともともと大岩姓だったのか、移住しても土地の名前をとることがある。相馬氏は移住しても相馬という地名はなかった。土地の名前の中村をとって中村と名乗る人はいた。とするとここに大岩という地名がありその地名を名にしたのか、この辺が混乱するのが姓と地名の関係なのである。

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●明治になってからの人の移動



相馬藩は小さいから中村市(今の相馬市)に城が作られてもそこに城勤めする人は少ない、郷士として農家として住み着いた。農業と武士の兼業だった。相馬藩で一揆が起こらなかったのは農民のなかに郷士が多く武士が多いから純粋の農民が少ないから不満があっても反乱できなかった。北朝鮮では兵士の数が多い、農民のなかにも兵士がどこでも交じっているからなかなか農民が苦しくても反乱を起こせないという、監視役の兵士がいたるところにいるからだ。明治維新で郷士が武士階級が廃止されると武士は失業したのだから職探しが大変だった。それで北海道への移民が推奨され武士が大量に移動した。仙台藩は伊達氏は大打撃を受けたし武士の数も多かったから移住した先が伊達氏となった。ゲルマン人の移動ではないが社会の大変革時期には大きな人の移動が起こる。絶えず人は移住している。小さい地域内でも移住しているのだ。また移住を強いられる運命にもあるのが人間である。一カ所で人が住むにも人が増えれば耕作地域を広げねばならない、それで分家して新しい土地を耕すことになる。明治維新でもやはり農業中心であり開墾することが新しく住む地域を広げることだった。それで相馬藩の中村の城下の武士は鹿島区の八沢浦を干拓して移り住んだ。田の中に妙見神社があるからわかる。普通は田の中には妙見神社はあまりないだろう。つまり城下に住んだ武士はまた郷士のように農業に帰ったのである。その頃まだ農業が主産業でありそれで人を養うほかなかった。相馬藩でも北海道にかなり移住した。どこだか不明になったが鹿島区江垂の宝財(ほうさい)踊りをしていた町があった。祭りも北海道に移民した人がそのまま伝えたのである。その後も人の移住はつづいた。遂には農耕地を開墾地を外国までにも求めるようになった。満州がそうでありそれが戦争にもつながったのである。日本にはもう開墾する土地がない、外国しかない、満州はどでかい、いくらでも土地はあるとなり移住が戦争となり悲劇を生んだのである。ゲルマン人の移動でないにしろ移住することが戦争になることがある。アメリカも移民がインディアンを殺戮してできた国であった。戦後も土地を求めて移民はつづいた。アメリカにもブラジルにもペル-にも移民がつづき藤森大統領まで出たことでもわかる。農業は土地が必要だから土地を求めて移動するようになるのだ。二十世紀になり工業化したが基本的には農業中心の世界だったのである。

原町の名の起こり
http://musubu.sblo.jp/article/25384267.html

八沢浦の妙見の祠

http://www.musubu.jp/somahantokushoku.htm

2009年12月10日

なぜ棚田が作られたか?



なぜ棚田が作られたか?


棚田について
http://highknowledge.seesaa.net/article/118728697.html


棚田などない方がいい、棚田ほど非効率的なものはない、なぜこんな棚田を山の中に苦労して作ったのかという疑問を書いている。このプログは東京から四国の山間部で農業をはじめた30才の人が書いている。これほどしっかりしているなら東京からこんな辺鄙な場所でも根付くことができる。自分は農業のことを語るのとは実際の経験から地に足をついて語っている。自分は田舎に住んでいても農業のことがほとんどわからないことがこのプログを読んでわかった。農業はこれほど奥深いものなのである。農業とはこのプログのように実地に経験しない限りわからない、この人は東京から来て自然とか農業のことを実地で経験した。そこでは次々と新しい発見の世界だったから東京からこんな辺鄙な田舎に移って農業した意義があった。これだけしっかりしているからこそ農業を新鮮な世界として体験しているのだ。農業をしている人は金にならないとか不満しか言わない人もいる。逆に東京から来てこれだけ自然と結びついた農業に新しい発見の生活をしている人もいるのだ。これも30才だからできたことかもしれない、団塊の世代などが田舎に憧れるのは危険である。体力的にも精神的にも田舎暮らしをはじめるのが遅すぎるからだ。若いなら適応力があるが田舎暮らしをのんびりとなどできない、農業も無理である。やはり地方の大都市が老後には向いているのだ。

ここで私が前にも書いたが棚田を作ることは大変な努力が必要でありなぜこうしたものを作ったのかという素朴な疑問を出している。それは結局、米作りする場所がないためである。ネパ-ルに行ってみればわかる。まるで天に届くような所に家がある。そんなところにどうして住むんだとなる。不便なところへ住むところが拡大化したのは分家したとしても土地がないのだから土地を求めて不便な所へ住むほかないのである。まるでもう耕す場所が天になってしまう。耕して天に至るとは実感である。棚田は天まで耕すとかいわれて美しいというがそれはかえってそうしなければもう耕す場所がないからだった。冗談じゃなくてネパ-ルでは天に達しして天に家があり天に畑を作るほかないような世界になっているのだ。

南相馬市の鹿島区栃窪の上萱(うえがや)も相当山の上の不便なところである。そこは塩の道があっても古い村ではない、戦後に開拓に入った新しい場所なのである。戦後も生活は農地を開拓することがつづいていたのである。だからあんな辺鄙な場所に開拓に入ったのである。今では誰も住んでない、廃村になった。 飯館村でも大倉からの坂を越えた場所にある二軒の家も新しく開拓に入った家であり一軒は廃屋になった。あんな不便なところに昔から住んではいなかったのである。人間はそもそも不便な所には住まない、住む場所がないから仕方なく不便な場所に住むようになる。その不便な場所でなんとか米作りする場を確保するために棚田ができた。それが外から来た人は棚田を作る苦労がどれほどのものか知らずただ美しいと美的なものとして見る。そこに実地に生活してみれば棚田など必要ないという発想になる。地名も実用的なものから名づけられたのであり詩的なものとして単なるイメ-ジでは名づけられていない、そもそも奈良が均す(ならす)から来た言葉であり営々とその土地を耕作に適したものとして均す作業が奈良の都を作ったとなるからだ。平地でもそこに人間の労苦があり住みやすいように作られてきたのでありそこが都となったのである。住みにくい場所でもなんとか住みやすいように努力するのが人間である。それで棚田を作るようになった。米を食べたい、米を作る場所を広げたいということで棚田が作られてきたのである。

山深く棚田に実り営々と労苦のありてここに暮らしぬ


この労苦を象徴しているのが中国の黄土高原なのだ。中国人とは労苦の民である。黄土高原には木がない、日本より索漠としている。黄土高原では土の洞を家として生活していた。中国は沿海部ではすでに文明の最先端の生活をしているが奥地では原始時代に毛のはえたような生活をしている人がいる。鎌一つで麦刈りに出稼ぎに来た人がいたが今はコンバインの時代であり人より百倍千倍も労働量に差があるのだから原始時代から一飛びに文明時代に突入しているのだ。

隠し田
http://blog.livedoor.jp/apec_pe/archives/cat_971663.html


棚田は隠し田でもあった。隠し田を作るのも棚田を作ると同じ苦労があった。これもなんとか米を税として納めることから逃れるために目立たないように米作りには適さない隠れた場所に作られた。それもわずかな土地である。鹿島区の隠町とかもそうである。越中から来た移民などが隠れて作った田かもしれない、なぜなら移民だからもともと土地を与えられていなかったからである。わずかの土地をこっそりと拓き作っていたのが地名化したのかもしれない、それが字地名として残ったのかもしれない、隠し田の話が多いのも今も税金逃れが多いのと同じなのである。ここにも生きるための農民の必死の努力があったのである。そういう努力は今になると忘れ去られているのだ。農民さえ忘れているだろう。これは農民だけではない、過去の先人の労苦は忘れられ安いのだ。これは別に職業に関係ない、人の労苦は忘れられやすい、老人が話す苦労話も伝えられなくなる。戦争の話などもそうである。戦争でなくてもたいがい今の80才以上の老人は何かと苦労が多い世代だったから苦労話がある。例えば継母(ままはは)にいじめられた話が良く残っているがそういうことを身近に聞いたのでそいうことは昔からあったことだと納得して同情したのである。人間は苦労話でも自分が体験したりしないと実感がでてこないから老人の話でも良くきかないのである。だから前にも書いたように郷土史は祖父母の話を聞くことからはじまる。それが一番身近な郷土史になるからだ。




2009年11月15日

木枯らしの山路-冬の短歌十首(大倉-佐須-霊山-玉野)

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木枯らしの山路-冬の短歌十首(大倉-佐須-霊山-玉野)


竹の葉に朝露光る上栃窪

朝静か上栃窪や冬の蝶

冬の蝶いづこに消えし分かれ道

山の田を守りてあわれ冬あざみ

木枯らしや落武者追わる古道かな


冬の朝大岩二つ相対すその厳しさや風の鳴るかも

冬の朝大岩二つもの言わず清流ひびき向き合いにけり

冬の薔薇二輪淋しも風吹かれ我が朝過ぎぬ山の道かな

大倉の奥に一軒残る家冬の日さして大石鎮まる

我が来れば朝吹き散る木の葉かな巌静けく滝のひびきけり

霊山に攻防の昔木枯らしに舞い散る木の葉清流ひびきぬ

山上の落合静か木の葉舞い我がまたここにしばしとどまる

玉野なる伊達と相馬の境かな木の葉舞い散り風の鳴るかも

ごうごうと山上の森木枯らしの鳴りつつ暮れて相馬にい出ぬ

縁切れて永久に会わざる人もがな木枯らし唸り木の葉舞い散る

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朝は晴天で風もなかったがあとから木枯らしになった。でもあたたかいから木枯らしでも寒々としたものは感じなかった。栃窪は上栃窪となると奥である。この距離の感覚は車とかバイクでは感じないから困るのだ。一気に到達してしまうからである。栃窪から例の二つの大岩を通り「原生岩」「神座石」見て大倉に出てそれから大倉の奥の一軒残る家に出て佐須に出た。滝が幾筋かあり朝気持ちよくひびき紅葉が盛りだった。途中玉野へ行く道に分かれていた。その古樹の根元に古い碑があった。慶応とか見えたから江戸時代のものだから古いし貴重だとなる。行合道から一路玉野に出て相馬に出た。やはり木枯らしが鳴り木の葉が吹き舞っていた。ここは霊山が炎上して南朝が滅びその落武者が南相馬市の鹿島区真野に落ち延びた落武者コ-スである。卒塔婆峠を来るつまりだったが道がわからなくなっていた。山上では必ず落合にとどまる。ここで流れが落ち合うが人もここで休むのだ。自転車だと人間的リズムだからそうなる。今回は相馬市から霊山回りではなく大倉-佐須から霊山回りで相馬市に出た。この方が楽だった。相馬市からだと延々と坂だったから辛い、下ってみてこんな坂だったのかとわかった。下るのは自転車では気持ちいいが坂だけは難儀する。それで自転車で行くのが嫌になるのだ。おそらくだんだん行けなくなることは確かである。それで電動自転車を買うことになったのだ。
木枯らしがごうごうとなり木の葉が舞い散る、そして永久に縁切れた人とはもはや会わない無常、無情がある。それは親戚とかでもない、若いとき馬鹿げたカルトの運動とか他の人でもいろいろと馬鹿げたことで別れた人はいくらでもいるだろう。もはやそういう人とはこの世でも二度と会わないのだ。確かにまだ死んではいないから会えないことはないが会わないのだ。無情もまたいいのである。いつまでも未練をもつのはよくない、どこかで悪しき縁は断ち切らねばならない、それでなければ悪い親戚でもカルトでも男女の腐れ縁でも断ち切ることができないからいろいろ禍がふりかかってくるのだ。いづれにしろこのコ-スは南朝滅びの落武者コ-スだったのである。

 

簡単な地図

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湯船は岩松氏の伝説地名である。ここまで奥方が逃れお産して湯を使ったから湯船、これは必ずしもいい加減ではない、ここまで逃れることは理にかなっている。卒塔婆峠はどこから入ったのか、地図ではかなりの距離である。ここを行くことはかなりきつい、舗装もされていない埋もれた道になっていた。


冬の樅の木二本(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/33657722.html

2009年11月11日

秋から冬の短歌十首(2)(山上-大倉-玉野)


秋から冬の短歌十首(2)(山上-大倉-玉野)

伊達の将相馬の将や冬の暮

米沢藩古地図に残る冬の暮

十一(ジュウイチ)の入山上の森に鳴くその声聞き入る夏の夕暮

相馬より分け入り上る山上に流れの清し秋の朝行く

山上に流れの清し蝶の飛ぶ秋の朝かな奥に分け入れる

筆甫(ひっぽ)へと山分け入りてつづく道我が立ち止まる秋の夕暮

みちのくに攻防終えて静かなる北風吹きて城の跡かな

大倉は玉野の隣卒塔婆の峠の道や秋深むかも

大倉の奥は佐須なりその昔行き来淋しく冬となるかも

墓一つ標とあるも消えにけり大倉の奥冬となるかも

山上に落葉を踏みて佇みぬ中村近しも我が下るかな

三〇戸紙漉沢の昔かなその水澄みて冬に働く

山上に中村近しも薪運ぶ昔にあれや冬の日暮れぬ



自転車で前は山上から霊山辺りは相当行き来していた。ここ十年以上は行っていなかった。自分の仕事は旅することだった。例えば山上には入(いり)山上となると山上の上流地域になる。その辺に橋がありそこでいつも休んでいた。その時森の中から聞こえてきたのが十一(ジュウイチ)の鳴き声なのである。これは相当前でもめずらしいから記憶していたのだ。ジュウイチジュウイチと低音で鳴いてもこの鳥の姿を見ることなかなかできない、暗い森の中で姿を見せず鳴いているから神秘的である。あそこでこの鳥の声を聞いたが他では聞いていない、これなども相当暇人でないと鳥の観察もしにくいだろう。暇人だからその声を聞くことができたのである。

山上は宇多川の上流でも真野川などと違って川は短いからすぐ山に入り清流になっている。街中を流れている水は澄んでいないが山上に入るとすぐ清流になっているのだ。紙漉沢という地名が残っていて実際に三〇戸も紙漉をしていたのだからこの地名が残った。
冬は紙漉に大切な谷間の湧き水が冷たく澄む最適な季節。 紙漉は冬に行われる。冬は農家も仕事がないから仕事になり良かった。相馬では障子紙を作っていた。三〇戸もあるということはそれだけの需要があった。障子ならそれくらい必要になる。障子なら字を書く紙とは違いそれほど高等な紙とはならないから大量生産できたかもしれない、紙漉となるとぽつんと一軒二軒とかになっているが実際は三十戸もあったのだから村全体が紙漉の村となっていたのだ。

紙漉の俳句
http://www.balloon.ne.jp/453room/new_page_36%20kamisukisikoro.htm


山上から薪なども運ばれた。ここからなら馬車などで城のあった中村は近い、今は相馬市となっているが元は中村市であり中村駅だった。京都の大原などは相当遠いし奥地でありあそこから大原女が薪を運んだということが地理的にわかりにくい、山上だったら地理的にわかりやすい、城のある中村に山上からは障子の紙や暖房や燃料の薪や炭、松川浦からは魚が供給されたことは今でも簡単に想像できる。玉野村の隣は大倉だけど大倉にとっては佐須の方が身近だったかもしれない、川が昔は道となっていたからそうなる。ただ卒塔婆峠は南北朝時代からあったのだから一番古い道であり大倉と玉野は行き来があったのだ。玉野村より大倉が早く開けた。岩松氏の時すでに大倉はあったからだ。岩松氏の伝説の地名が残っているからだ。つまり鹿島区の屋形から一族が大倉に逃れたからである。この辺では卒塔婆から筆甫に行っていない、まだ相馬藩内でも未知の道があったのである。
だから次はここを探索してみよう。





2009年11月01日

相馬藩玉野村の境界争いはなぜ起こった?



●米沢藩が玉野村にかかわった由来

相馬市の玉野村は米沢藩と伊達藩と相馬藩の三つ巴の境界争いで有名である。
ここに相馬と伊達の境の桜がある。

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に実は伊達に  相馬二編返し


天文の大乱の際、伊達稙宗の娘婿、相馬顕胤は稙宗の側につき、度々晴宗と合戦に及びました。それ以降は伊達氏と争うことが多くなり、天正十八年(1590)までの五十年間に三十数回もの合戦がありました。桜は、伊達と相馬の境界を定めた桜として植えられたもので、もともとは相馬街道(川俣町と飯館村)の境界、水境神社にあったものです。

川俣の方にあったとすると川俣の方で争いが激しかったのか、玉野村も米沢藩時代から境界争いの地だった。なぜ、米沢藩なのか、玉野村は最初横田大学という人が会津西部大沼郡金山谷の横田城から上杉氏に仕官した、それで上杉氏の城であった梁川城に配属された。そこに大学舘、大学曲輪(くるわ)と称されたとありそれだけ重きを成した人であった。相馬の城でも岡田館とかすぐそばにあるのと同じである。この時まだ伊達家の領地とはなっていなかった。その後伊達家が進出して領地化して玉野村にかかわることになった。最初にかかわったのは上杉氏であった。玉野村にはその後も伊達藩からも相馬藩からも入植がありともに住んだのである。上杉氏系統が一番古いのである。
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伊達義広 粟野大館(梁川城?)
伊達政依 梁川城?
伊達宗綱 梁川城?
伊達基宗 梁川城?
伊達行宗 梁川城?→霊山城→伊佐城→梁川城?
伊達宗遠 梁川城?
伊達政宗 高畠城→赤館
伊達氏宗 赤館
伊達持宗 大仏城(後の福島城)→梁川城
伊達成宗 梁川城
伊達尚宗 梁川城
伊達稙宗 梁川城→桑折西山城→丸森城(隠居)
伊達晴宗 西山城→米沢城→杉目城(隠居)
伊達輝宗 米沢城→舘山城(隠居)
伊達政宗 米沢城→黒川城(後の会津若松城)→米沢城→岩出山城→仙台城→若林城(隠居)


伊達政宗の前は梁川城を伊達氏は根拠としていた。

●玉野村が前は笹町-その由来の謎?

玉野村の前は笹町と言われていた。そこに昔から家が集まり建っていたとあり最初に入植した人々が住んだ。玉野村となる前に笹町があった。ではこの笹町の由来は何なのか?笹が繁っていたから笹町となったのか?それとも他に由来があるのか?

西館は笹町城とも言われた。名門葛西氏の家臣、笹町新九郎経尚の居館、本姓は千葉氏である(岩手県東磐井郡室根村)

『倒れ墓』と呼ばれる葛西氏家臣笹町彦三郎安頼の墓があり、牧山長禅寺の住職栄存法印(?〜1681)との因縁話が伝えられています。(石巻)

「懸田氏は源義家公の六男、陸奥六郎源義隆より出ず、十四世の後裔を高松近江守定隆と為す、定隆正中二年(1325)四月を以て、杉野目郷高松城に止住し、高松と称す。建武二年(1335)北畠顕家の命で高松城から懸田城へ移り、懸田氏を称した」と記されている。懸田氏は南朝方として活躍し、懸田城は霊山城や藤田城と共に南朝方の拠点となったのである。

戦国大名葛西氏の家中に掛田氏がいた。掛田氏は葦名氏に仕えていたが、故あって葦名氏のもとを去り、葛西氏に仕えるようになったという。

 正長元年(1428)、懸田氏は宇多庄をめぐって相馬氏と結んで結城白川氏と対立し、伊達持宗の調停によって和睦しているが、その後も対立関係にあったようで、永享二年(1430)幕府内で「懸田退治」が議されている。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kakeda_k.html

高松の地に入り次に掛田(懸田)に入り掛田を名乗ったのである。その土地の名を名乗ることは在地の勢力化したということである。この掛田氏が相馬氏と争ったということはすでにここから境界争いが始まっていたのだ。笹町の地名の発祥は不明にしても葛西氏に笹町氏とか笹町城とか現実になるのだから由来がここにないとはいえない、地名からだけ歴史を解釈すると歴史的考証としては誤る場合がある。掛田(懸田)とはかかるであり山にかかるとか山の上にある田である。県(あがた)-上田でもあった。日本では最初に田が作られたところは平地ではない、山の上の水に恵まれた地域だった。平地に大きな田を作るようになったのは大きな土木工事が大きな溜め池などを渡来人などの技術でできるようになったからである。奈良とは均(なら)すであり
耕地としてならしてできた都だったとなるのだ。


●玉野村がなぜ三っつの藩の境界争いに

玉野村はやはり地理的要因で三つの藩の争いの場所になったのだ。米沢藩も伊達藩の前に領地として所領していた。そのあとに伊達と相馬がかかわってきた。だから最初に米沢藩が玉野村を所領していた。米沢藩の人がいち早く入植していたのだ。ここは交通の要所でもあった。相馬から坂を上ればここから平坦なところがつづき石田や大石につながる。だからもともと石田郷の枝村としてあったことがわかる。ここはまた米沢藩で重視したのは相馬から塩などが運ばれる所として宿駅としてもうけたこともわかる。ここは宿駅となるべき村だった。なぜなら相馬から坂を上ってくるとどうしてもここで休みたくなるからだ。ここは地勢的な自然の境界なのである。

慶長3年(1598)上杉氏家臣横田大学は相馬海岸と伊達郡を結ぶ往還の中間地点に、「人馬疲労ニ難堪ヲ憂ヒ」、宿駅本玉野村を開いた

中世はここは急な坂だから卒塔婆峠を通り大倉に出た。それは霊山城が炎上して桑折氏などが南相馬市の真野に逃れた道だったことでもわかる。ここはまた山の入会権でもめたということは木材の供給地であり山の中まで境界争いしているのはやはり木材を確保するために争ったのである。当時は木材は相当な資源だったのである。飯館村の大倉は最初に所領したのは鹿島区の岩松氏であった。玉野村は浜通りではない梁川城や石田-大石から所領化されたのである。ではなぜこれも玉野村となったのか?高玉氏が山上にあり墓も残っていた。高玉氏が進出して玉野村となったのか?それは定かではない、地名からすべて解釈すると歴史考証的には過ちを犯すからだ。飯館村は合成地名だから分解すれば元の地名の痕跡がわかる。でも笹町からなぜ玉野村になったのかは不明である。みちのくの真野の草原の草原(かやはら)を地名としたとき真野郷となる前に草原(かやはら)という地名があったから歴史に残った。笹町も最初に人が移住して住んだ一地点名であった。ただここは最近知ったので詳細に調べないとわからない、その暇もないからできない、玉野村から山上地域には何か謎が多い、境界は歴史を研究する場合に重要になるからだ。ここは自分にとっては未知であり予測するのにも知識がたりないからおおざっぱなことしか言えないのである。

宇多郡玉野とその北東部における争論の歴史地理的考察 
http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/1978/1/6-248.pdf

ここは詳しい、一万で詳細な研究書を出している。その一部がインタ-ネットのに出ていたので参考にできた。要するにインタ-ネットに学術書の研究論文が公開されていれば自宅でも素人でもかなり調べることができるのだ。図書館とかに行くと調べることが手間なのである。厚い本を引き出しては参照するのが手間なのである。だから今は暇がなくなったので図書館には5、6年以上一回も行っていない、なぜなら図書館では一日はりついていないと調べることができないのだ。本をもし十冊調べるとなるとかなりの手間であり労力なのである。つまり自宅で調べそれを発信しない限りもはやあとは何かできない、郷土史研究も最低近辺の町誌とかそろえて参考にしないとだめである。これを図書館でやると手間がかかりすぎるからだ。今までは暇だからできたが今やできなくなったのである。

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補足


相馬藩政史に相馬 昌胤(そうま まさたね、寛文元年7月7日(1661年8月1日) - 享保13年10月6日(1728年11月7日)の時代に巡見使が坂本まで来てそれから相馬の城まで来た 。昌胤君御見舞とあるからこの時病気だったのか、その後笹町御休-草野御泊とあるから玉野村の笹町では休みそれから卒塔婆峠を通り大倉に出て草野についてここでは一泊した。とすると相馬から歩いて笹町で休みそれから大倉に出て草野まで来た。この行程は一日だったのだろうか?一日で歩けるものかという問題がある。その前に相馬のどこから出発したのか問題になる。馬ならこのくらいの道は行けたから一日の行程だったのかもしれない、歩くとなると一日では無理だろう。相馬から塩の道では栃窪を通り助けの小屋があったのはやはり一日では越えられないからあそこで泊まることがあったからだろう。とすると馬でも結構な距離になるからこの記録はさらなる検証が必要だろう。いづれにしろ玉野村がこの時はまだ笹町と言われていたことは確かである。

注-これはグ-グルのブック検索の「相馬藩世紀1」に出ていた。



2009年10月06日

南相馬市栃窪村十首(秋から冬) ( 栃窪村の今昔)


南相馬市栃窪村十首(秋から冬) ( 栃窪村の今昔)


春なれど北風寒し栃窪の町より遠し車なければ

栃窪の奥に墓地あり秋の朝静に蝉の鳴く声ひびく

栃窪へ車なければ遠しかな粗末な墓に虫の鳴くかな

栃窪に見るべきものの何かあれ古き碑並べ秋の日暮れぬ

栃窪に古き碑並びあわれかな柳は枯れぬ人も老ゆかな

栃窪に我が知る人も死ににけりともに働きしは役場なるかな

役場という名もなつかしき今はなし南相馬市と変わりけるかな

草枯れて昔の道のその跡に古き碑残る栃窪村かな

真野川を上り栃窪大倉へさらに遠き佐須は淋しも

冬の日に木の葉一枚散りにけりその静けさや人知らぬかも


栃窪で一番古いのは冠嶺(さかみね)神社である。御山神社は葉山信仰だから江戸時代のものだろう。 冠嶺(さかみね)神社は日本武尊(ヤマトタケル)の奥州蝦夷征服の伝説に由来するから古い。その前に浮田国造(くにのみやっこ)が最初に記されているしそこに隣接しているのだから古い地域である。栃窪の特徴は「古碑の村」になっている。御山の入り口に碑があるのが象徴的である。その碑はいつもひっそりと草に埋もれている。その碑には藁に詰められたご飯などが捧げられていた。それから上栃窪の方に上ると道に沿い古い碑が並べられてある。あれはあそこに集めて並べたものであり今ではどこにあったのか良くわからない。古い碑などを一カ所に並べることが結構ある。古い墓を無縁化した墓を一カ所に集めるのとにている。でもどこの場所にあったかわからなくなるのは歴史の保存としてはよくない、場所が大事でありその場所にあって活きるものがあからだ。今でも畑の中に古い碑が並んでいるがそこはかつて道だったのである。いつしか道の役目がなくなり碑だけがここが道だったことを示しているのだ。

郷土史研究の基礎は村の新旧を知ることである。八沢浦とかはじめて来る人は古い村と思うかもしれない、上萱などは山の上に孤立してあるし塩の道沿いにあるから古いと思うかもしれないがあれは戦後開拓に入って作られた村だから新しいのである。遠くから来た人は明らかに古い村と錯覚するだろう。外から来た人にはどこがその市町村で古い場所かわかりにくい、城などがあれば目印になりわかりやいのだが何もないとわかりにくいのだ。神社の由来も新旧の目安となる。冠嶺(さかみね)神社の由来を知れば古いとわかる。浮田が鹿島区で一番早く開けた地域である。その次に栃窪も古いのである。栃窪の特徴はやはり「古碑の村」である。金比羅の碑が多いからここから金比羅参りに行き箸蔵寺への道標に奥州栃窪村の人が寄進したとしるからだ。そして鹿島区では実際に栃窪村に一番金比羅の碑が多いのである。記録としても金比羅参りした人のものが残っている。

役場(ヤクバ)というときこの言葉は死後になっていないが今は南相馬市の支所であり鹿島町であったときの役場という感覚とはかなり違っている。役場とは死語になっていなくてもここではすでになっている。役場とみんなが呼んでいたときそこは町のコミニュティの中心としての役割をになうものとしてあったのだ。姉が保健婦として役場に勤めていたし知人も役場に勤めていたし役場に勤めている人が田舎では多い、役場で書類などをもらう時嫌な目にあったとか事務の対応で素っ気ないとか悪評もあった。じも役場というのがなくなってみると何かなつかしくなる。


人間はその時感じなくても一旦なくなってしまうとひとしおなつかしくなるのだ。言葉も死語になった言葉が多いがその言葉のなかにはそうした生活の中で生まれた言葉だった。それが生活が変わり喪失したのである。言葉のもっている実感が喪失してしまったのである。

栃窪村も変わる、あそこに常磐高速道路ができてその下のトンネルをくぐって栃窪村に入る感覚は相当今までとは違っている。何か違和感があり素朴な栃窪村も変貌した。入り口に古い碑が草に埋もれてある感覚とは違ってしまった。常磐高速道路ができればかなりまたこの辺も変容する。高速道路の無料化はその変化に拍車をかける。恐れるのは常磐線が消失するのではないかという危惧である。なぜなら高速道路で仙台まで一時間とかなると鉄道を利用しなくなる。車のない人も高速バスを利用するようになる。すでに東京まで高速バスが原町から出ていることでもわかる。高速道路無料化は鉄道に痛手でありJRは政府に抗議しているのもわかる。常磐高速道路の影響も相当に大きい、交通体系を変えてしまうほどに大きいものとなるかもしれない、火力発電所ができたときも大きな変化だった。ここも環境破壊だったがあそこで地元の働き場になっている。一般の人は環境に考慮しない、小高と浪江辺りに原子力発電所できれば景気よくなるとか建築土木関係の業者は言っている。仕事がない不況の昨今、環境より仕事なのである、収入なのである。環境にやさしいのは鉄道のはずだがますます車を使うとなると鳩山首相の環境政策優先など実行できるのか疑問である。

人間は本当にそれぞれ住んでいる土地のことをわかっているかというとき今はわかっていない、時間と距離の感覚があまりにも違ってしまったからだ。車をもっているものともっていないものとのその土地を認識する感覚がかなり違っているのだ。車をもたないものにとって栃窪すら遠い地域になる。これが自転車もない荷車の時代だったらさらにそうである。栃窪は鹿島区では一番遠い場所になるのだ。その遠さの感覚から詩が生まれる。栃窪にも奥があり墓地がありここに秋の蝉の鳴く声がひびいている。栃窪の奥は本当に奥になるのだ。車だとこういう意識は生まれてこない、芭蕉にしても新幹線で平泉に来たなら「奥の細道」は生まれない、つまり車では奥の意識がなくなるのだ。一気に早く到達しすぎるからである。今の時代そんな悠長なことでは生活できないとか言われるのはわかっているがしかし車をもたない生活の方がとてつもなく長い、それが車なしでは生きていけないとまでなった。その変化は政治の変化より余りにも大きいものであり根本的に社会を変えてしまったのである。

栃窪村の金比羅の碑
http://www.musubu.jp/tochikubo.htm


2009年08月10日

お盆の風習の相違(鹿島区では提灯を表に飾らない・・・?)

お盆の風習は地域で違っている。小高の人がしきりに死者を迎えるために灯明を提灯を表に二つ下げねばならないと言う、その明かりを目印しに死者がやってくるからだという、それもそうかと理屈的にわかる。 ところが鹿島区ではお盆でも玄関とかに提灯は飾らないという、鹿島区は簡素だからしないというのも不思議だった。小高は盛大にお盆のお祭りをするという、また部落ごとに違っているともいう、それにしても死者を迎えるために明かりが必要なことがわかる。だから家の外に提灯が必要だというのも納得する。でも鹿島区では家の中でいいというのも不思議である。どうしてそうなったのかその理由もわからない、仏具屋の人がそう言ったのである。



お盆の場合には鬼灯(ほおづき)と書く方が、その意味に相応しいようです。と言うのは、お盆には迎え火や送り火ということをする場合があります。その場合、13日の夕方には、墓地に行ってご先祖様をお迎えします。予め持参した盆提灯の灯りで先導しながら、ご自宅へと導きます。そして、ご自宅の軒先には高燈籠などを飾っておき、霊が迷わぬよう配慮しておきます。

http://www8.ocn.ne.jp/~ohmybud/jihou2.html

これが一般的である。理屈的にも納得する。鬼灯というのもその赤さからイメ-ジされる。電機がない時代になると余計自然の中でそうしたものに目が向けられた。

それにしても鹿島区ではなぜ死者を導く盆提灯を家の表に飾らないのかなぞである。鹿島では簡素にしているんですよというがどうしてそうなったのか謎である。一般的にはそうなっていない゛盆提灯を表に飾らないことは一般的でないからそこに何か理由があったのか謎である。
お盆の風習は各地でいろいろあり部落ごとにも違っているとなると相当な数の違った祭り方がある。でも実際はお盆の祭りでも忘れられてしまっているのが多くなった。こうした古来からの風習は伝承するのがむずかしくなっている。こういう風習はやはり田舎で残りやすい、都会化すると忘れられてゆく、田舎でも農家の方で残りやすい、祭りの起源は農家に農耕の仕事に由来するものが多いからである。建築関係でも小高から鹿島区に仕事に来る人は少ないのかもしれない、鹿島区であの庭はオレが作ったんだよとか聞いていないからだ。そうでなければ鹿島と関係していれば新盆などに来ていたかもしれないからだ。それにしても鹿島区でのお盆の簡素さはやはり派手にやっていたのでそれを戒めた、そういう取り決めなどをしたからかもしれない、お悔やみを一律いくらとか決めたとか冠婚葬祭の出費が大きいから制限したためにそうなったのかもしれない、本来のお盆だったらそうなるはずがないからだ。

2009年06月14日

姓の移動


私の場合は、ずっと武家であった事や、鎌倉時代から代々言い伝えられてきたので、違う土地から、金鉱発見の密命を国主より受けた御家人の子息として、鉱山技師共に移ってきたことが解っています。鎌倉以前も容易に辿れました。
私の苗字は、住んでいる地では、一族以外ほとんどいません。
しかし、歴史を辿って、近隣を旅するうち、同じ苗字の人が、どんどん増えて、土地によっては
10%ぐらいいたりして、驚きましたよ。



歴史に興味をもつというとき教科書で習うようなもの受験勉強的なものからではない、祖父母の話やら極めて私的なことからはじまる。ここからだけでも小説家なら一遍の小説書けるだろう。
鉱山技師とかは全国を移動する。鉄生産にまつわる話は古代からあり伝説化している。
陸奥の真野郷が知られたのは鉄の生産のためであり鉄の資源を求め移動してきた人たちがいた。それは一団となって移動してきた。その中には渡来人が交じり主導的な役割を果たした。
ただこの話からは一団で集団で移動した人たちではなかったからその姓はその土地では孤立していた。土着した人たちの中で孤立していた。元からその土地に古くある姓と新しい姓の人はたいがい職業と関係している場合がある。職を求めて土地を移動すると姓も移動するからだ。今でも火力発電所とか東京から出張所とか工場ができればもともと土着でない人たちが移動してきて珍しい地元にはない姓の人が入ってくるのである。今は姓はあまりにも多様に混じり合ったから姓から歴史を考えることはむずかしい。ただ江戸時代から土着した家の姓は歴史を調べるには不可欠である。その姓を中核にして村ができてきたということがわかるからだ。


八茎寺と波立寺は閼伽井嶽と並びいわき三薬師に数えられる。八茎寺には古い墓石が多く残されていた。そこには建立者の名が刻まれているのだが、例えばこんな風に書かれている。


「加賀国住人 野村○○/親族一同/子分一同/義兄一同」

http://loveiwaki.cocolog-nifty.com/duketogo/2007/02/post_f57a.html


このように野村というのは加賀から移ってきた人の姓である。でもそのあと野村という姓がつづいていればその土地に土着したことになるがでなければ絶えたことになる。鉱山とか資源を求めて職を変わる人は移動する人は土着しないとその子孫が土地に残りにくいかもしれない、ただ相馬に移住した越中の人たちは農業するために移住したのだから土着したのである。だからその姓も一族の子孫も相馬藩の各地に残っている相馬の墓地に必ず越中などから移った人の墓がありその人たちは真宗だから法名であり南無阿弥陀仏が墓石に刻まれる。相馬では相馬氏系統の姓が一番多いのは当然だがその前にも鹿島区などでは霊山落城のおり逃れてきて桑折氏などの姓がある。これはだから相馬氏より古いのである。姓の分類も郷土史研究には必要である。

南北朝時代- 桑折
岩松-廃絶
相馬氏系統
江戸時代- 越中加賀などの移民系統


これらは相馬藩で姓が明確である。記録に残っているからである。