2009年03月21日

末続村の謎(2)-相馬氏にも末(須江)氏がいた

●「奥州相馬氏の誕生」  
平将門の血を引くと言われる、奥州相馬氏の誕生は鎌倉北条氏(長崎氏)に圧迫を受け、茨城県下総地方から奥州(福島県相馬地方)に下向したので有る。元亨3年(1323年)頃かと思われ、当主は相馬重胤の時代で有った。奥州相馬家ではこの重胤を初代としている。

重胤が下向した道程は、茨城県下総地方(千葉県を含む)から白河口に向かい、ここから阿武隈高地の標葉(シネハ)の津島に出て、鉄山(現南相馬市)から太田川の上流に有る横川に沿って、片倉の八重米坂に着いたと言われる。

この経路は義経伝説がある場所であり津島に弁慶石があり浪江に出る方に弁慶橋が二つくらいある。八重米とは八重原米に由来するものか?米の品種なことは間違いない、その米は特別なものだから目立つから地名化したのだろうか、四重麦という地名が丸森にあるからこれともにているのかもしれない、長野県東御市八重原地区の「隠し田」で作られたコシヒカリです。八重原米というのは昔からあったからもともと八重原で作られたからその土地の名がついたともとれる。

ここから上太田石積に住む「太田兵衛」に迎えられ、一時その屋敷に滞在し、さらに東数町の別所の館に住む「三浦左近」から館の提供を受けて移り、それより四年後の嘉歴元年(1326年)に小高町舘内(現南相馬市小高区小高神社)に移ったと言われる。

上太田石積という地名は相馬氏が来る前からあった。その太田の地名をとって「太田兵衛」が住んでいたのである。

始めて踏んだ太田の地には下総地方から奉じてきた「妙見神社」、「塩釜宮」、「日鷺宮」の三宮を祀り安じた言われる。

下総から従って来た者は主従13騎と言われ、相馬重胤を始め、門馬(文間)氏、木幡氏、青田氏、須江氏、西山氏、増尾氏、立野氏等で有った様です。また下総の岡村(旧藤代町)からは百姓八戸が移り住み、正月には相馬家の門に門松や注連縄を飾る事を任務にしていたと言う。

武家だけではない、百姓も移住してきて相馬家に仕えていたのだ。

●相馬氏の須江氏
須江氏も全国で5百軒もない珍しい姓氏です。
福島でも、伊南と相馬(小高・原町)の二ヶ所のみです。他は、関東と長野の佐久、岡山の津山に集中しています。戦国時代の奥会津に須江氏の姓名はみえませんが、山内氏に従って奥会津にはいった諏訪氏は後、諏佐氏、須佐氏を名乗っています。須江氏も山ノ内氏滅亡後、諏江氏からの転化も十分考えられると思います。


芦名家臣- 須江氏

(参考文献:戦国大名葛西氏家臣団事典 紫桃正隆著(宝文堂))
 深谷石崎氏は、磐井郡長坂城(東山町)七代当主の千葉日向守胤重の二男千葉胤清(勘解由)が、応永二六年(1419)桃生郡深谷に分地して、糠塚館に居住したとき、母方の姓の石崎を名乗ったことに始まる。胤清の母は京都聖護院石崎右衛門尉源清長の娘である。石崎氏の家紋は三ツわらび、氏神は貴船神社とある。石崎氏は勘解由を世襲名としたようである。姓氏家系大辞典にも、「陸前の石崎氏 封内記に須江邑古壘、古昔石崎勘解由左衛門なる者居る所」なる記事があるがこれと符合する。


千葉氏系統に石崎氏がいた。 陸奥国岩崎郡は常陸と陸奥の境目にあり重要な地域だった。

いわきの歴史年表

鎌倉時代
(建長七)(1255) 大須賀氏、小久に龍光禅寺を開基す
弘安9(1286)岩崎氏一族、熊野参拝
文保(1318)奥州岩崎郡長谷寺木造一一面観音立像造立


新妻氏が大須賀氏の出自かはわかららないのですが、仙台藩の家中にあった新妻氏は、下総国匝瑳郡を発祥とする匝瑳氏(千葉介常胤の叔父・常広を祖とします)の子孫と伝わっています。岩城のほうに移住していますので、大須賀氏とともに下総から移っていったのかもしれないですね。

鎌倉時代に大須賀氏、新妻氏、それから岩崎氏が関係して須江邑がその関係で生まれたように末は鎌倉時代にさかのぼる。須江氏は会津にも分布しているし宮城県にも須江邑として地名化しているから須江はわかるが須江⇒末⇒末続となるのかどうかこの辺がわかりにくいのだ。ただ姓の系統をたどってゆくとこの須江が末続に通じてゆくのが有力になるのだ。

千葉一族。須江時胤は相馬重胤に従って奥州に下向、相馬四天王の一家となる。中村藩政内では「末」とも称した。

―須江氏略系図―

→須江時胤…胤遠―――秀正――+―杢之進
(備中守)(山城守)(新十郎)|
               +―雲====九郎兵衛―――三郎兵衛
                (新大夫)(木幡家より)


◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』

名前 身分 石高 住居
須江三郎兵衛 大身 100石 鷹巣町
◎安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』

名前 身分 石高 住居
末 八郎左衛門 給人 15石 行方郡中郷高村
末 庄右衛門 給人 8石 行方郡中郷南新田村
末 任市 給人 8石 行方郡中郷南新田村
末 三五郎 給人 5石 行方郡小高郷小高村(のち上根沢村)


ここでは須江が末となっているから末続となっても不思議ではない、末氏は集中的に存在していたことは末氏の勢力が大きかった。この末は須江氏でありそれが末になった。中郷には新妻氏が末続村から移住して旗印が記されている。二宮仕法で有名な高田高慶は45歳になって藩公のお声かがりで継室を迎えた。新夫人はサイといい中村藩士須江氏の娘だった。須江氏は江戸後期まで有力な武家として存続していたのである。これらの資料から推測するとどうしも相馬氏系統の末氏がかかわり末続という名が生まれ末続村となった。

●相馬氏にない石崎の姓

須江氏をたどると石崎氏の系統から「陸前の石崎氏 封内記に須江邑古壘」これが一番古いのだ。石崎氏がいわきに入ったのは鎌倉時代だからである。相馬氏内には石崎という武家の姓はない、岩崎はあるがこれとは違っている。古さをとれば石崎氏から須江(末)という名が入り末続となった。新妻氏が入った時、末続村という名はあった。相馬氏には確かに末氏というのがあり末氏一族が分布した。中郷(原町区)に集中的に存在した。これは鎌倉時代ではない、
地名は古いからより古い方が地名の基となったとするのが無難である。 相馬藩の領地争いで抵抗したのは新妻氏であり青田氏などはかかわったが末氏がかかわったとは史実にはない、ただ末と末続は何らか関係しているので無視することはできない、末続館の由来がわかれば何か解決するヒントがでてくるかもしれない、それが相馬藩のものだったのか岩城方の館だったのかそれがポイントである。末続村から出た根本氏は標葉郷の小入野村と夫沢村に在地化して根を張り相馬藩の城下士となった。もともとは末続村から出た子孫だったのである。氏姓を研究するときある地域にない姓というのが意外と大事なのである。現代は明治以降は姓は混交してわかりにくい、でも江戸時代の姓を基本にして研究すると石崎の姓がないことは石崎という一族は相馬氏の一族内に入って来なかったことを証明している。岩松氏というのも家臣の反逆でその姓がたたれたことは歴史の厳粛な事実であり今もつづいている。鹿島区内に岩松の姓はないし相馬地方にないのである。

正平二三年1368 奥州中村城主(一説では石崎城主)の中村弾正忠 通行は北畠顕家に随行後、豫州能島へ下向し、河野氏に属す。中村氏の子孫が石崎氏を名乗る。
天正十八年 1590 石崎氏が出たとされる常陸大掾一族は、佐竹義重に天正十八年ことごとく攻め滅ぼされた。
天正十九年 1591 石崎次郎左エ門幹継のとき、茨城より栃木県芳賀郡天子村に来住し、下野の石崎の祖と一つとなった。
慶長八年 1603 内藤家分限帳に石崎半左衛門200石が見える。
寛文十一年 1671 内藤家磐城に入封、寛文十一年(1671)分限帳には、石崎半左衛門300石が見える。
宝永元年 1703 石崎氏、仙台より宇和島に移住、宇和島の石崎の祖か。

石崎氏は相馬氏には仕えず伊達家に仕えた。陸前の「陸前の石崎氏 封内記に須江邑古壘」とは宮城県である。

正平二三年 1368 奥州中村城主(一説では石崎城主)の中村弾正忠通行は北畠顕家に随行後、豫州能島へ下向し、河野氏に属す。中村氏の子孫が石崎氏を名乗る)

これが不思議である。中村城主が石崎城主だったとなるとやはり石崎氏も関係していたのか?ただ相馬氏には石崎姓は見当たらない、ただ石崎姓はこれでわかるように古くから奥州にかかわっていたのだ。


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2009年03月19日

常磐線-末続駅の謎(新妻氏一族の村だった)

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常磐線-末続駅の謎(新妻氏一族の村だった)

●末続の謎は深い
築城前の亀田山には、極楽寺、須衛都久(すえつぐ)社、稲荷神社、荒神などの社寺があり、山上・山腹・山麓には農民や漁民の家がありましたが、これらはすべてよそへ移されました。末次郷といったこの周辺は民家が点在し、田畑や沼沢が広がる一帯でしたし、南の白潟には人家がありませんでした。しかし、末次の地は『出雲国風土記』に須衛都久社のあるところと記してあり、古くから開けていた地域でした。中世には末次荘や末次保があり、守護佐々木氏の一族に末次氏がおり、この一帯がその所領であったと思われます。
上石川朝臣橋継を遣唐使船修理長官とす。筑前の守従五位の下小野朝臣末継並びに遣唐判官従五位の下長峯宿祢高名は次官となす。
黒田氏は鎌倉末に近江の名族佐々木氏の流れを汲む京極宗満が近江国伊香郡黒田村に拠って「黒田」を名乗ったのがはじまりと言われ、室町後期の高政に至って将軍足利義稙の怒りを買い、前述の備前福岡に移ったとされています。ですから「黒田氏の発祥」ということになると近江になる訳ですが、備前に移るまでの二百年間のことはよくわかっておらず、長政にとって「父祖の地」と言えるのが「福岡」だったということかもしれません。

(1415―76)

琉球(りゅうきゅう)王国の第二尚氏王朝の開祖。金丸(かなまる)ともいい、神号を金丸按司添末続之王仁子(あんじそえすえつぎのおうにせ)と称した。伊是名(いぜな)島の百姓の出と伝わるが詳しい経歴は不明。
『千葉大系図』によれば「故あって肥前国から近江国に移り住み、天文7(1538)年、守護・佐々木氏の扶助を受けた」とあるが、

近江の国の守護を鎌倉時代以来相伝してきた有力御家人・佐々木氏の本家であり(分家が近江半国守護を相伝する守護大名・六角氏である)、足利氏からみれば外様である
末次という名は出雲から発しているから古い、古代に末次郷があったことでもわかる。末次は須恵であり陶であり須恵器を作ることから発した、渡来系の名から起こっている。末高、末野とかも須恵、陶から波及したのである。その末次は佐々木氏と関係してくる。ササキも渡来系の名だとある。これが近江に進出してそこから中国や九州に波及した。だから末続という姓は九州に多く子孫が繁栄した。 末続でなくて末次だと調べやすいし末続は調べにくい、中国、九州に一族は散らばった。福岡の末継という地名も同じ系統だろう。末次氏が地名化したと同じである。近江から波及してここに千葉氏がかかわり佐々木氏から末次氏もかかわり千葉氏と相馬氏は同族であるから末続は相馬氏からもたらされたのかもしれない、末続館というのがここの地名の基となったと思われるからである。ただこれは全く違っているかもしれない、小高の海側の南北朝時代の貴布根神社がある村上氏に由来する館がありそこの地名は村上だから氏族名が地名化することはある。相馬も相馬氏の氏族名だし千葉県も千葉氏である。なぜ相馬野馬追いの旗があれほど多様で多いのかというと千葉氏一族から相馬氏が出た同族だとすると千葉氏系統の武将が相当入っている。すると近江と深く関係してその旗は全国規模の旗印になっているためである。
●末続は新妻氏一族の村


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新妻氏が大須賀氏の出自かはわかららないのですが、仙台藩の家中にあった新妻氏は、下総国匝瑳郡を発祥とする匝瑳氏(千葉介常胤の叔父・常広を祖とします)の子孫と伝わっています。岩城のほうに移住していますので、大須賀氏とともに下総から移っていったのかもしれないですね。
相馬顕胤は大永5(1525)年8月、久浜(双葉郡広野町久浜)、四倉(広野町四倉)を攻略。続いて仁井田城(広野町上仁井田)に攻め寄せたものの、城代・新妻氏の好守になかなか攻め落とせず、義弟の西右衛門尉胤次が討死を遂げた。この苦戦に、顕胤は手勢を迂回させて岩城氏のもっとも重要な拠点のひとつ、白土城(いわき市南白土)に攻めよせた。さすがに岩城氏の抵抗は激しく、相馬家大将の一人・青田孫四郎常義(新山城主)が討死をするほどの激戦だった。
ここで相馬氏と岩城が領地争いがありもともと岩城氏に属していた新妻氏があとで相馬氏に組み入れられたのかもしれない、城代・新妻氏の好守になかなか攻め落とせず・・・とあるのはその時から新妻一族がここに根付いていたのである。その継続として末続に新妻一族がある。ここの墓地を見たらほとんど新妻の姓だった、9割は新妻氏だった。古峰の碑に寄進した名前が彫られているがこれも新妻氏であり鯨岡とかもある。鯨岡は岩城氏から入ってきた。相馬ではなじみがないからだ。また千葉の姓が一つありこれは相馬氏系統から入ってきた。

末続の旧名主の家の人で、相馬藩の参勤交代のときは殿様が泊まったとか、もと新妻家だったのが千葉姓と「常」とか「胤」にちなむ名前をもらったとか興味深い話を聞かせていただいた。相馬藩は千葉氏が千葉から分かれてきた。先祖は鎌倉武将千葉常胤に遡る。

http://hyakkaido.travel.coocan.jp/
iwakisoumakaidou9hisanohamatatuta.htm

という話が伝えられているとかその真意はわからないがこういう村では姓は変わらない、よそから入ってくる人は少ないからだ。鹿島区の栃窪村なども大谷(おおがい)姓が代々継がれて多い、葛尾村でも三分の一は松本氏であり由来も明確である。だから岩城氏の配下にあった新妻氏が相馬氏との領地争いでもともと新妻であったものが千葉氏の姓に変えた。その証拠が古峰の碑の寄進した名に一人千葉氏の姓が記されていたからだ。

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●岩城氏、(末続村)新妻氏、根本氏は相馬氏の旗下へ入る
標葉郷-熊村,熊川村,夫沢村,小良浜村,小入野村
陸前浜街道で宿駅として末続駅があり次が久之浜駅だから常磐線でもこれを継承して駅となっている。末続村で岩城氏と相馬氏が争ったことは史実として確認されている。その後岩城氏の一部も相馬氏に仕えることになる。だから岩城氏の旗印も記されているし末続村の新妻氏も中ノ郷の旗印にある。それから根本氏は標葉郷の大熊の小入野村に三者記されている。小入野村の近くの夫沢村にも根本氏の旗印が記されている。 そして古峰の碑に寄進した姓の中に根本氏も二人ほど記されていた。根本氏ももともと岩城氏の一族であり相馬氏と戦い相馬氏に仕えるようになった。こういうことは戦国時代はよくあったしだから野馬追いの旗にはいろいろな氏族の系統が混じっているのだ。新妻氏と根本氏は領地争いの境界にありあとで相馬氏側に組み入れられたのである。だから根本氏は小入野村と夫沢村に一末続村より一族として移動したのである。境界には歴史が凝集して残されているから境界の研究は歴史を解きあかす鍵となる。それが末続村にあった。
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2009年03月18日

福島県陸前浜街道の自然と歴史をたどる

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●文化は多様性(文化は細部にあり)
自然も多様なように人間の歴史の積み重ねも実際は多様なのである。文化とは多様性のことである。江戸時代まで隣の村と民情が異なるから村が合併するのはむずかしいとしきりに言われるのは日本では山一つ越えると言葉まで微妙に違ってくる。文化はまず地域に根ざすから単一化できないのだ。文明が発達したとき汽車が電車が車が交通手段になったとき、多様な自然と文化が歴史が単一なものとして平板化した。日本の地貌は複雑であり地名も多様なのはそのためである。それが一様に見えるようになったのは交通手段の発達によるのだ。新幹線で東京まで行ってもそこで自然の変化や土地土地の文化にふれることはない、ただ人間が移動しているだけであり間はとばされて目的地について用事を果たすだけなのである。だから現代から旅は失われた。新幹線で数時間で青森まで行ってもそこにはすでに旅はない、遠くに行くということで便利なだけである。北海道を目指して途中の東北の旅はぬけてしまうのである。現代は途中を飛ばしぬける旅になるのだ。これは極身近なその人が住んで暮らしている所でも同じだったのである。自然が文化が多様だというとき身近な所でも多様なのである。それを今まで郷土史に地形の観点から書いてきた。今回は浜通りの陸前浜街道をたどってみる。

●自然条件と歴史の一致
浜通りの磐城から相馬まで他から来た人はたいして魅力も感じない、自然も平凡であり海も見えないから何か浜通りとさえ感じられないかもしれない、でもそうした平凡な地に見えても自然は様々であり歴史もある。それは細部になるから見逃されるのである。交通手段が発達するとき細部は見逃されるのだ。その最たる例が飛行機である。飛行機はロシアのシベリアの広大な上を飛んでも何も見えない、暗黒でしかない、細部は何も見えずにヨ-ロッパに到着するのだ。文化とは多様性であり細部のことなのだ。ある土地をしる、文化をしるためには今や過去にさかのぼり歴史をさぐり昔あった大地の様相をイメ-ジして再現させる作業が必要になっているのだ。相馬藩の地域内でも相当に複雑な地形であり歴史もある。だからその昔の自然の状態からイメ-ジする再現する作業が必要なのだ。磐城が温暖だというとき波立海岸には南国産の樹や植物が多い、石蕗も咲く、でも楢葉辺りからへって相馬辺りではほとんど見られない、これは気候が植生に深く関係しているのだ。石蕗の花は秋に咲き伊勢志摩辺りではいっぱい咲いていた。

石蕗のあまた咲きける伊勢志摩に波にゆれつつ船の浮くかな
福島県の浜通りでは磐城までしか咲かない、そして陸奥の真野の草原遠けれど・・・この歌のもっている意味は浜通りのもっている自然条件と一致していた。東北全体でも万葉集の歌の残っているのは陸奥の真野郷-安達太良であり緯度も一致している。マルハシャリンバイが陸奥の真野郷の南相馬市の鹿島区の海老浜になっているのもそのためである。ここから先になるとさらに寒くなるから咲かなくなる。それは文化的境界でもあったのだ。波立海岸は浜通りでは唯一岩礁があり磯がありそこに熱帯魚がくる。現実千葉県からその熱帯魚を求めて探しに千葉県から来た青年がいた。毎年くるというから必ずここには熱帯魚が夏になるとくる。黒潮にのってくるのだ。その岩に珊瑚礁が小さいながらできている。磐城は熱帯の海とも通じていた。磐城の海の底には大きな珊瑚礁があった。鹿島区から珊瑚礁の化石が発見されてフタバススギ竜などの化石が出たのは温かい海が太古あったからである。

●失われ見逃される歴史の跡
 見逃されているものとして各地の鎌倉、南北朝、戦国時代の遺跡である。相馬三八館、田村四八館、磐城四八館があった。田村は三春だから三春の勢力も大きかったことがこれでもわかる。相馬氏は小高城から村上城へ移ることを決めたが成らなかった。村上城跡には貴布根神社があるがこれは小高城から遷したものだった。その後相馬氏の内城とか聖とかある塚部地域にも遷された。村上城は要害として地のりがいいから選ばれた。貴布根神社も船に由来するからあっていたとなる。ここにも忘れられたが人間の歴史の興亡の跡がひっそりと埋もれていたのである。そういう場所は全国にあるがあまり注目せずに通りすぎて行くのだ。これは城が多いドイツでもそうである。城の城壁のうよなものがわずかに残り昔を伝えているがそこにも歴史があり興亡が悲劇もあった。ヨ-ロッパは城が多いから日本と共通した歴史があったのだ。
相馬三八館、田村四八館、磐城四八館の攻防が浜通りにあった。それらは土深く埋もれてしまったのである。磐城の境に末続の駅がありここにおりたのも一興だった。ここには相馬藩の陣屋があり参勤交代のおり泊まった家が残って昔を伝えているとかインタ-ネットに出ていた。
末続の名の起こりはわからない、末続館があったのだから末続という姓もあるから末続氏と関係したのかその辺のつながりがわからない、でもこうした何もない駅にも調べてみるとそれなりの歴史がある。この辺は相馬藩と岩城藩の境でありかつては森や野が広がっていた未開の地だった。それで相馬藩の殿様が夜ノ森-余の森といい小良が浜といい領土を争った所なのだ。http://hyakkaido.travel.coocan.jp/iwakisoumakaidou9hisanohamatatuta.htm

(南相馬市鹿島区海老浜)

海老浜になお車輪梅咲き残る秋の夕日にかもめ飛ぶゆく

車輪梅なお咲き残る我はまた地元なればここに見に来ぬ

車輪梅いつしか消えぬさみしきや松風鳴りし海老の浜かな

車輪梅いつしか消えぬ海老の浜我がたたずみて冬に入るかな

(小高)
村上城忘れらるるや海の風そよぎ古木の桜咲くかな


村上城知る人まれにたずぬ人あれや古木の桜咲くかな

夜ノ森は昔森なれここ拓き桜並木の花盛りかな

熊川をそいくだりきて桜咲き沖に船見ゆ耕しの人

相馬より岩城は遠し広々と大野広野の枯野身にしむ

末続に我がおりたれば菖蒲咲き畑耕す婦一人かな

一本の松に春日や末続に来たりて磐城の国に入るかな

波立に石蕗咲きぬ相馬より磐城に来たりてあたたかなるかな

(四倉)
春の日や四倉に来て漁船に旗ひるがえり磐城近しも


四倉に春の岬やかもめ飛び海の光りて磐城近しも


桜咲く春の浜通り(俳句-写真)
http://musubu.sblo.jp/article/3723665.html

2009年03月14日

南相馬市の鹿島区に九州の国の名が地名としてある訳


 

南相馬市の鹿島区に九州の国の名が地名としてある訳
http://musubu2.sblo.jp/article/27582397.html

 
九州からなぜ相馬まで来たのか不思議だった。それは越中薬売りが関係していた。薩摩と深い関係があり真宗の信徒ともなっていた。ということ越中の相馬へ移民する真宗信徒と仲間意識がもてる。薩摩では禁止されていた。一時京都にいて情報を探っていた。京都はやはり人が集る、情報が集る場所だからそうなる。ともかく相馬藩は飢饉で人がいなくなり相当に困っていた。それでコマ-シャルソングの相馬民謡を作りかなり強引な勧誘を全国的に展開していたのだ。越中が中心となってはいたが全国から移民が集ったのはその効果があったのである。

2009年03月04日

旗巻峠-伊達と相馬の攻防の歴史


 

旗巻峠-伊達と相馬の攻防の歴史
http://musubu2.sblo.jp/article/27366573.html

 
旗巻峠は今は廃道地なっている。細い一すじの昼なお暗い道だった。昔の道はみな細い道であり山の中だったらなおさらそうである。奥の細道で当時の状態が残っているのは白河の関に出る道くらいである。あういう暗い細い道をたどっていったのが奥の細道であり今とはあまりにもちがいすぎたのだ。丸森は歴史的にも古いから古い碑も多い、弁財天の碑が多いのはなぜなのか、相馬市にも多いが隣り合う鹿島区では一つくらいしかない、丸森と相馬市に集中するのはやはり近いから同一の信仰が普及したのか、やはり歴史は地理である。大坪に相馬氏の伊達を防ぐ土塁跡が発見されたのは旗巻峠を下ってくる麓にあるから敵を防ぐための場所だった。その後方に黒木氏の城があったからだ。黒木氏は伊達と相馬の板挟みになって戦った。かなり苦労したのはその地理的条件のためである。丸森は地形が複雑で山々がかさなり阿武隈川も流れているし歴史もあるし魅力的な所だった。一方角田は平坦になって地形的にはつまらない、自然環境がベ-スとなり魅力が形成されるからどうにもならない、丸森はまた軽く行けるから詳しくなれる。
 

2009年02月27日

近くにNPOの福祉(介護?)施設屠殺場跡に建つことの問題(差別はなぜ起こる)

 
 

近くにNPOの福祉(介護?)施設屠殺場跡に建つことの問題(差別はなぜ起こる)
http://musubu.sblo.jp/article/27303482.html (おくりびと)

屠殺場跡にNPOの福祉(介護?)ができるので身近な問題だと思い書いた。これは郷土史と深くかかわっている。郷土史は草の根の歴史だから意外と様々な問題の根としてかかわっている。大きな歴史、マクロ的な歴史があるがミクロ的なものとしても歴史は構成されている。ミクロ的なものからマクロ的なものが見えるしマクロ的ものからミクロ的なものを見てゆく作業が必要なのである。インタ-ネットではミクロ的な情報が豊富である。つまりミクロ的なものからマクロ的な歴史の見直しができるのである。ミクロ的なものは見逃されてきたのである。全国的にミクロ的な歴史、郷土史が連携されると新たな歴史が見えてくる場合があるのだ。これまでは郷土史は調べようもないからわからなかったのである。
 

2009年02月24日

野馬追いの旗の研究-目立つ大将の母衣(ほろ)の意味(地域代表の旗)

 
 

野馬追いの旗の研究-目立つ大将の母衣(ほろ)の意味(地域代表の旗)
http://musubu2.sblo.jp/article/27155600.html

 
母衣(ほろ)は一番目立つ、これは郷大将の旗で地域の代表の目印になる。小高、中ノ郷、北郷、宇多郷が中核となり色分けしていた。三社合同旗も色分けされていた。こうした地域を代表する旗はわかりやすい、それぞれの姓の旗になると種類が多くてわかりにくいのだ。どこに所属しているかわからなくなる。普通野馬追いの旗は先祖伝来だし変わらない、変えてはならないものでっあった。でも北郷の紫の母衣は緋色だったのが紫に変わったていた。本来は赤と黄色しかなかったのだ。こうして勝手に帰ると歴史的な史実と反するから野馬追いでは変えてはならないのである。でもほんの一部が変わったものがあるかもしれないがほとんど変わっていないのが野馬追いである。

2009年02月21日

戊辰戦争東北の一つの哀話(白河の遊女の墓)

 
 

戊辰戦争東北の一つの哀話(白河の遊女の墓)
http://musubu2.sblo.jp/article/27039464.html

 
相馬郷土史研究の意義は何か、各地の郷土史研究の意義は何か?それは日本の歴史をミクロ的に探求するものと同時にマクロ的な日本の歴史へと展開することである。日本の歴史の底辺に郷土史があり全体の歴史も構成される。一遊女の無惨な死も戊辰戦争に起こり民間の人も犠牲になっている。アメリカ軍のアフガニスタンやイラクでも誤爆のように被害が必ず民間人にもでてくる。インタ-ネットの時代の情報はかたよった見方をしないことである。今までの情報はなかなか庶民の情報や郷土史のような各地の情報を知ることはむずかしかった。インタ-ネット時代の情報は様々な見方を参考にして編集することなのだ。今までのように学者や本からだけではない、インタ-ネットで庶民や各地の郷土史から総合的に判断する、そういう豊富な材料から資料から情報から編集して判断するのである。靖国神社の起こりも戊辰戦争に発しているしそれは各地の郷土史とも深く関係しているのである。情報かたりないと情報が一方的だとかたよった見方になる。例えはいまなら長州の萩市と会津で双方で情報を出し合い議論もできる。現実九州の福岡辺りの出身の人が相馬郡内の戊辰戦争の犠牲者の墓にもうでている。苗字が違ってるからわかる。双方の犠牲者を葬ったのが戊辰戦争であった。一方靖国神社かえって天皇に味方した人しか招かない、祀らない、かたよった神社である。そういう歴史は日本になかった。そういう視点からも靖国神社を見る必要がある。
 

2009年02月19日

野馬追いの旗にある冠木(かぶらぎ)の姓と冠木門の旗印の謎

 

野馬追いの旗にある冠木の姓と冠木門の旗印の謎
http://musubu2.sblo.jp/article/26932691.html

 
冠木(かぶらぎ)、蕪木という姓について興味を持ったのは喜多方で蕪木という旧家の人と話したことがきっかけだった。喜多方には冠木の地名もあった。とするとそこから姓が起こったのか?全国的にカブラギの地名は多いし姓も由緒ある。千葉氏系統にカブラギが由緒正しきものとしてあるからそこからこの姓が相馬氏の旗印のなかに入ってきたのか、千葉氏と相馬氏は同族であり千葉氏の旗印を主要なものとして使っている。また中野村に熊野堂近くにカブキと伝承であるが言われていた地域があった。とするとその辺に冠木氏が住んでいて旗印になったのか、他に標葉郡にも岡田氏が冠木門を旗印にしている。相馬でカブラギ姓の人はいなくなっている。佐藤氏とか岡田氏にすでに冠木の姓は変わっていた。ただ中野村でカブキという名だけが伝承として伝えられていた。だから確かに冠木は存在していたし野馬追いの旗印に残っていたのである。

2009年02月18日

郷土史研究で大事な字地名(黎明さんから提示された相馬市の地名の謎)


 

郷土史研究で大事な字地名(黎明さんから提示された相馬市の地名の謎)
http://musubu2.sblo.jp/article/26899498.html

 

郷土史研究は今はインタ-ネットでかなり調べられる。地名はやはり歴史を解く鍵になるのだ。
今回提示された疑問の地名は貴布根であった。キ-ワ-ドで調べたら小高の村上城に貴布根神社があったのだ。そこは北畠氏の城がありそれで村上氏源氏の系統の北畠氏が貴布根(貴船)神社を遷した。その神社が今度は相馬市の方に遷された。相馬市内はその頃伊達氏と南朝方の北畠氏が連合していた。そこに北朝方の相馬氏が進出してきて争いになった。その争いは伊達氏との争いはこの時からずっと継続していたのだ。だから確かに神社や仏教関係の地名が集中している所は内城が城があったのだろう。簡単な防御の要塞かもしれない、とにかくそこに北畠氏と伊達氏が関係した地域だったことは確かだろう。他の人も何か郷土史関係でわからないことがあったら書いてみてください、ある程度インタ-ネットから調べることができる。
郷土史は全国レベルでも地域でも共同研究になっているからです。

2009年02月12日

奥州栃窪村が寄進した四国遍路(箸蔵寺へ)の丁石の裏付け

 
 

奥州栃窪村が寄進した四国遍路(箸蔵寺へ)の丁石の裏付け
http://musubu2.sblo.jp/article/26653503.html

 

インタ-ネットで郷土史研究に新しい道を開いた。これもほとんど引用して編集しただけであった。でもインタ-ネットから調べて裏付けがある程度できた。もっと詳しく調べればさらに確実な裏付けとなる。資料がいくら出ていても編集しないとばらばらであり意味をもたないのである。
テレビを見ながら討論しているの編集したのも同じだった。ただテレビを見ているだけではその意味もわからない、一方的に聞いているだけだから参加できないから人ごとになる。ところがテレビを見て感想を自分なりに書くと議論に参加していることになる。インタ-ネットはともかく参加できるメデアなのである。これまでのメデアは新聞でもテレビでも大きいメデアであり参加できない、発言できない、出版もほとんど大手出版社経由だからそこで普通の人は入る余地がない、書店に直接本を置くことはできない、売れないものとかは置けない、社会に向かって普通の人は発言できなかったのである。特に権力のない個々人は発言できない、組織力があればできるがほかはできない、組織を通じて力をもたないかぎり出版とかできない仕組みになっていた。インタ-ネットは何であれ参加できることが大きな今までのメデアとの相違だったのである。

2009年02月11日

奥州栃窪村(現 福島県鹿島町)の住人が寄進した金毘羅参り「箸蔵寺百丁」の道標は歴史的事実

 
 
奥州栃窪村(現 福島県鹿島町)の住人が寄進した金毘羅参りの

「箸蔵寺百丁」の道標は歴史的事実
http://musubu2.sblo.jp/article/26610015.html

 
江戸時代は資料が豊富だからよくよく調べれば歴史的事実を証明できる。そこが郷土史でも面白い。まず歴史的事実の確認が歴史を知る基本である。江戸時代はそれができるのだ。具体的に資料からでもそういう人が生きていたということで親しみを覚えるのである。こう書いてあっても本当なのかと思っていたがやはり栃窪に金毘羅の碑が多いのだからそれが裏付けとなるし資料にもある。栃窪村から寄進しても不思議ではないとなる。北海老村から肝入りの人が金毘羅参りした記録が残っていても実際は栃窪に碑が多いのだからそこの住人が金毘羅参りに一番多くかかわたというのが裏付けとなるからこれは真実なのである。

2009年02月01日

相馬野馬追いと酷似していたミルトンの詩


相馬野馬追いと酷似していたミルトンの詩
http://musubu2.sblo.jp/article/35280454.html


これも意外と思うけど本当に野馬追いの祭りを詩にしたとしても変わりがないほど酷似していたからヨ-ロッパの歴史も日本と共通なものがあった。城があることも共通している。全然違ったように見えるけどにているのだ。ヨ-ロッパでは紋章も多様であり数が多いことは野馬追いの旗と共通していたのだ。野馬追いの説明を外国にするときこの詩と共通なことを示せばわかりやすいだろう。そういうことかと簡単に理解される。人間はやはりどんなに文化が違ったいるようでもにているものだとつくづく思った。ヨ-ロッパの歴史的発展と日本の歴史的発展も封建時代は城があるからにていたのだ。外国でも日本と共通性があるものは理解しやすのである。

2009年01月28日

市のつく地名(古市の古さ


市のつく地名(古市の古さ)
http://www.musubu.jp/somagappeijiji.htm#ichi


市のつく地名が東北には少ない、山形市は例外なののか?相馬藩内でも市のつく地名がないから市がたつことがそんなになかったのか、東北は少ない、奈良や大阪、京都となると万葉集時代からあったから相当古い、こうした民俗学的研究の意義は今と比べるために必要なのである。江戸時代でも今の経済とは根本的に違っている。市はハレの日であり近隣の人がたりないものを補うあうために物をもちよったためでありそこに今の商品経済とは根本的に違っていた。人と人がつながる場所であり常に物らり人に重点がおかれていたのだ。今は物の方に物を買う金の方が強大な力を持つようになった。昔は確かに奴隷も売り買いされていたが逆に人は今やモノと金の奴隷になりふりまわされているのだ。モノと金だけが全面にでてきて人間はモノと金に使われている、奴隷化しているのだ。ともかく正月は市のたつ日にふさわしいものであった。市というと今では仙台に行くことである。そこがハレの場となっているのだ。でもここでも別に人と交わるわけではない、あくまでもモノが中心なのである。現代ではハレの日を経験するには金がないとできない、その辺も昔とは違っている。

2009年01月12日

南相馬市鹿島区の発展の順序(陸奥の真野郷に二つの入江)

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海水が深く侵入して大部分が海中に没していたらしい。その海は栃窪の付近まで湾入し、一つの内海を作り、波もなく静かであり瀬戸内海のようであった。ただわずかに烏崎や江垂の大窪、屋形、海老などがの丘陵その他の小高い丘があたかも海面に浮かぶ島々のように美しく横たわっていたと想像される。(鹿島町誌)

どこに一番最初に人が住んだのか?それはやはりその場所がその地域で一番住むにいい場所であった。そのあとはだんだん悪条件の場所を開墾せざるをえなかった。だからネバ-ルでも条件の悪い高地へ高地へ住むほかなかったのである。では鹿島区で一番住みやすい場所はどこなのか?それは歴史的には浮田国造として最初の国として中央から定められた所であった。浮田から栃窪方面だった。栃窪は山の方であるが冠嶺神社などがあり御山には古代の貯蔵庫と思われる正倉があり鎰取(かぎとり)地名伝説が残っている。浮田から栃窪が最初に田に開墾された場所だった。ただその前に寺内-小池などが高台にありそこに金銅製双魚佩(こんどうそうぎょはい)が発見された前方後円墳がある。最初の集落はヨ-ロッパでも日本でも高台に作られた。低地は湿地帯とか虫の害で住めなかったのである。日本も葦原みずほの国であり低地はほとんど湿地帯であり海岸線も湿地帯であった。そこはあとから開拓されたのだ。だから小池は高台にありそこには古くから人が住んだ。しかし田を作るには適していなかった。鹿島町誌の最初の文に出ているように栃窪方面まで海になっていたというのはどうかなと思う、人が住み始めたときは浮田や栃窪は高台だから海にはなっていない、それより前はそうなっていた。平らな地域では今の鹿島町地帯は浮田より低いから湿地帯だった。群集古墳の円墳がある横手もそうである。

小池村は地の高く水乏しきよもって耕地はなはだ少なし、だめに小山田へ出作りするおよそ二十町歩なり、寺内は水を貯え多し。(大須賀・・巡村雑記)

小池と寺内は江戸時代には違っていたが古代ではやはり高台にあり水の便は悪かった。水無川があってもまさに水無だから供給できない、浮田、栃窪は水の便がいいから最初に田を作られた地域である。右田の方になると海に近くなると湿地帯だから田はあとから作られた。そこは水が良くないので米もうまくない、米がうまいのは今でも栃窪の山の方である。水の便がいいところに田が作られた。県-上田(あがた)が最初の国であるのはやはりそこに良質の米が作れたからそこが最初の国となった。小山田も古代は湿地帯である。あとから田にされた場所である。寺内から小池に古墳が相当数発見されているから人が古くから住んでいたのだ。ただ田にすることはなかなかしにくいところだった。たいがい古代の大きな集落は川岸にあったというとき桜井古墳がそれを証明している。川岸はやはり水の便がいいから住みやすいのである。でも海岸近くになると湿地帯だから住んだのはあとである。

南北右田村の東辺耕地の間に宅地あり、聞く、五十年前まではこの辺は葦芦叢生せしよ開墾し、新植の民家の宅よ構えしなりと。(大須賀・・巡村雑記)

右田辺りは相当な湿地帯だから江戸時代まで開墾していたのである。最初鹿島区では寺内、小池に集落があり次に田を作る浮田、栃窪に人が移り今度は今の鹿島町の鹿島神社があるところに移り群集古墳が作られた。前方後円墳の大きな古墳が国を形作るための象徴として最初にあった。桜井古墳も寺内の前方後円墳もそうである。そこの土地の人より外来の文化としてもたらされた面もあった。その土地のものではそうした大きな土木事業ができない、また古墳の文化もない、外来の文化が導入されて作られたから金銅製双魚佩(こんどうそうぎょはい)も埋葬されたのである。

浮田国造から古代の真野郷となったときその中心地は寺内の前方後円墳のあった場所だった。小さい円墳の群集古墳が横手にできたのは後の時代である。小池にも小さな群集古墳がありそれらは寺内の前方後円墳のあとにできた。古墳文化が民衆化して作られたのである。土地の有力者が増えて前方後円墳をまねて個々に円墳を作ったのである。これは墓というのが江戸時代には武家しかもてなかった。そのあとに農民も余裕ができてオレも侍のように墓を作ってみようということで小さな墓を作った。それは名字がない名前だけの個人の墓だったことでもわかる。一族の墓ではなかった。一家の墓が一般化したのは明治時代以降なのである。墓を作るには金がかかり墓を作ることが念願だったとか言う人も明治以降もかなりいたのである。古墳も墓の大きなものだから人間の心性は古代から変わらない面があったのである。

寺内古墳群(74基)
小池古墳群(20基)
江垂大窪古墳群(10基)
横手古墳群(13基)


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これらは一番最初の海が広く湾入していたとき島のように浮かんでいた高台の場所だった。例えばもし栃窪までも海だったとするとそれは広大な海だからその美しさは今では信じられないような自然景観だったとなる。それで「みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを」 笠女郎が歌った真野の草原の草原は萱ではなく地名でありむしろ広大な真野の入江であった。塩崎も深い入江であり船着と地名が残るごとく古代には船が入っていた。どちらにしろ深い入江でありその美しさを聞いて憧れた。それは大伴家持とだぶらせてこの歌ができたのである。真野の草原の草原(かやはら)のカヤは近江方言で入江のことだとインタ-ネットに出ていた。そのカヤは渡来人が韓国からもたらした言葉である。それが伽耶(カヤ)の国に通じているし渡来人も現実に古代に来ていた。「嶋□郷□□里」の「□□白人」の木簡はやはり渡来人だったからである。

泉廃寺跡の木簡
http://www.musubu.jp/kashimamanogimonizumi1.htm

2008年12月27日

前田前畑の地名の意味(南相馬市原町区大原村から)

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大原は街より遠き昔なれ前田前畑支えなるべし

南相馬市の原町区の大原村のことを京都の大原と地名の共通性があると書いた。徒歩とか馬車の時代だったら原町から大原は今なら近いが遠いのである。そこにもすでに江戸時代から大原村としてあった。野馬追いにもでていた。そして国土地理院の地図をパソコンでたどってゆくとやたら前田という地名が多い、大原には北前田と前田がある。あと原町区に三つくらいある。この前田は全国的にあるからパタ-ン化して名付けられたのだ。というよりは農民の生活に必要不可欠なものとして地名化したのである。前田は家の前の田だから一番大事な田であり良質の米のとれる田であった。門田もそうである。門の前の田であり農家にとって大事な田だった。門とつく地名はその地域で重きを成した草分けの農家でありつまり大きな古い門があり古い農家がありそこが地域の中心的存在、庄屋のようになっていた。だからその門を通じて人の出入りも多かった。地域の拠点であり会社のようなものであった。だから・・・屋とつく地名などもその地域の中心をしめていた。門暮などという地名もありある農家の門を中心に村落が形成されていたのだろう。門が暮れてゆくとはその門に出入りする人が多くその門とともに暮れてゆく暮らしがその地域にあったのである。 仙台の名取郡に属していた六郷の郷土史に門暮という地域に300以上の家が集まっていたことでもわかる。その他の地域は10だったり多くても40とか非常に少ないのである
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/
wakachu/archives/saguru.pdf

今回三年ぶりで一日泊まる旅行ができた。岩手の三陸から北上山地を回ってきた。岩手や会津の奥にはまだ曲屋がわずかであるが残っている。この曲屋には馬が必ず飼われていた。馬と一緒に生活していた。江戸時代からその後も馬は欠かせないものだった。運搬や農耕に使われていた。馬はどこでも必需品として飼われていたのだ。今や一人一台車をもっているように馬も必需品であり馬は農家で何頭も飼われていたのである。相馬藩ではさらに野馬追いに必要であるから馬の数は多かった。今でも野馬追いのためにだけ馬を飼っている農家が結構あるのもそのためである。その費用も馬鹿にならないが野馬追いのためにだけ馬を飼っているのである。昔の生活は自給自足が基本だった。馬の餌も農家で自給自足していた。味噌でも自家製のものを作っていたりなるべく買わない生活が基本だったのである。曲屋を見ると何か薪を積んで冬支度してこれから冬籠もりに入るという構えが見える。曲屋は自給自足の農家の城のように見えた。街から離れていれば街で買って用を足す現代とは余りにも違う、すべて身近なところで用を足す体制にしていないといけない、雪国では特にそうなる。雪に閉ざされてしまうからだ。だから野菜まで保存しておく必要があった。曲屋にしたのも雪かきを便利にするためだった。だから雪の積る所に曲屋が多いのがうなづける。

そういう昔の生活から前田、門田、他に後田、後畑などもあり家の回りこそ大事なもとなっていた。現代は車で遠くへ遠くへと行き近くは大事なものでなくなっている。その遠くは外国にもなっているのだから余りにも変わりすぎたのである。大原には遠田という字がある。字はひとかたまりの田畑の区画であり字が集まり大字になった。前田があれば前田から離れた遠田もあった。遠田は不便な場所であり新しく開拓して作った場所になるからさらに奥の地域になる。前田から遠田へと田を作りふやしていったのである。地名から生活の範囲が拡大化してゆくさまが見えるのだ。前田も遠田も姓になっているからすでに遠田でも土着して古いからそうなる。新田でもそうであり田を作りその田を基にして暮らしをたててきたからそうなる。
さらに田代とつく地名は尾瀬にもありあんな山中まで田にすべきものとして地名がつけられていた。日本は山国で耕地が狭いから田になるべき所を常に探していた。八沢浦でも入江だったが埋め立てられて田にしたのである。どうにかして田にしようと努力してきたのが日本だったのである。

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舘岩村の前沢の曲屋集落
http://www.okuaizu.net/okuaizu-paper/16.html

2008年12月13日

原町の名の起こり(地名も合併しても歴史的継承が必要)

 
 

原町の名の起こり(地名も合併しても歴史的継承が必要)
http://www.musubu.jp/somagappeijiji.htm#harana1

 
原町村というのはあったがここからは一騎しか野馬追いにでていない、郷士が一家くらいしか住んでいなかった。あとは後から入ってきた人たちだった。原町村は小さい村であり新しい村だった。雲雀が原が広がっていたのだから原っぱが多かったから今の雲雀が原の地域には人はあまり住んでいなかったのである。野馬土手があり馬が逃げないように見張る木戸番が回りにおかれていて町はなかったのである。その後陸前浜街道ができて宿場町として原町宿ができたがそれでも江戸時代には大きな町は形成されていなかった。そこには郷士は住まず古い村々に郷士は住んでいる。比較的鹿島区でも町内から野馬追いにでる人は少ない、村が先であり町はあとから住むようになったからである。南相馬市の合併の名前の問題では随分書いてきた。その続きとしてまた書いた。南相馬市の名前の問題では是非があったがまあ、無難だった。やたら新しい、詩的な名前に地名はすべきではない、歴史の継続が必要なのだ。相馬だということでそれは受け継がれたがやはり相馬市に従属する感じになったのがまずいことはまずかった。でも明治以降の合併でも飯館のように大館があり飯樋がありその一字をとって村の名前にても江戸時代からのつながり継承はあった。ただ美里とかなると全く江戸時代からの継承がないから地名から昔をたどることはできなくなるからまずかったのである。地名は簡単に歴史を無視してつけてはならないことがこれでわかる。

2008年12月12日

相馬市の発展の歴史的順序(方角地名が地名の基本)



相馬市の発展の歴史的順序(方角地名が地名の基本)
http://www.musubu.jp/somagappeijiji.htm#nakanomurahokaku


相馬市でもどういうふうに街が発展していったか、その中で方角地名はやはり地名の基本であり歴史的発展経路が方角地名からわかる。北郷は相馬氏が小高城を根拠にして中村に進出してきたから小高から北だから北郷になった。今の相馬市は中村でありそこはまだ相馬氏の領地ではない、伊達氏と争い、結城氏と争う、熾烈な場所だった。「相馬半分、北郷一円」とあるのは中村の領域は北郷一円の延長としてとらえられていた。半分は伊達氏の領域だったのである。中野村と中村は一つの村であり宇多川で分断されていた。でもどちらも南郷となっていたのは宇多川は城の近くを流れていて中野村と中村は分断されていなかったと岩本氏は言っている。宇多川は五つも川が変化した川だった。川の流れもかなり変化するものなのである。

地名からわかるものが結構ある。原町は原という地名が他より多い、それは海に比較的面していない山側に原とつく地名が多い、一方相馬市は松川浦があるように湿地帯が多いから原とつく地名は少ないとなる。雲雀が原は広大な馬の放牧場だから文字通り原だから原町となった。地名から最初の自然状態がわかることがあるのだ。


この文章はホ-ムペ-ジの地名談義のシリ-ズにのせた。ここでは連続して地名を追求していたからだ。連続してまとまって読むにはホ-ムペ-ジの方がわかりやすいからだ。

相馬市の発展の歴史的順序(方角地名が地名の基本)


相馬市の発展の歴史的順序(方角地名が地名の基本)
http://www.musubu.jp/somagappeijiji.htm#nakanomurahokaku

 

相馬市でもどういうふうに街が発展していったか、その中で方角地名はやはり地名の基本であり歴史的発展経路が方角地名からわかる。北郷は相馬氏が小高城を根拠にして中村に進出してきたから小高から北だから北郷になった。今の相馬市は中村でありそこはまだ相馬氏の領地ではない、伊達氏と争い、結城氏と争う、熾烈な場所だった。「相馬半分、北郷一円」とあるのは中村の領域は北郷一円の延長としてとらえられていた。半分は伊達氏の領域だったのである。中野村と中村は一つの村であり宇多川で分断されていた。でもどちらも南郷となっていたのは宇多川は城の近くを流れていて中野村と中村は分断されていなかったと岩本氏は言っている。宇多川は五つも川が変化した川だった。川の流れもかなり変化するものなのである。
地名からわかるものが結構ある。原町は原という地名が他より多い、それは海に比較的面していない山側に原とつく地名が多い、一方相馬市は松川浦があるように湿地帯が多いから原とつく地名は少ないとなる。雲雀が原は広大な馬の放牧場だから文字通り原だから原町となった。地名から最初の自然状態がわかることがあるのだ。

 
この文章はホ-ムペ-ジの地名談義のシリ-ズにのせた。ここでは連続して地名を追求していたからだ。連続してまとまって読むにはホ-ムペ-ジの方がわかりやすいからだ。

2008年12月04日

郷土史研究の基本(地名や村の新旧を知る)



郷土史研究の基本(地名や村の新旧を知る)

郷土史研究で前に村の新旧を知ることが基本になると書いたけど他でも新旧が基本的なものとして大事なのである。なぜなら新旧を知らないと基本的なことを知らないことになるから歴史もわからないことになる。鹿島区の栃窪の上萱(うえがや)は塩の道の通じる山の上に隔離されてあるから古い村のように思えてしまう。他からきた人はそう思うかもしれない、平家落人の部落だよとか言うと信じるかもしれない、ところがそうした辺鄙な奥地も戦後開拓に入った人が多いのである。その歴史は新しいし今は誰も住んでいないからその歴史は一代ももたないで終わっているのである。阿武隈山地でも飯館の共栄橋のある所は山陰の本当に辺鄙な所に二軒あり今は一軒は廃屋になってしまった。ここも地名から開拓に入った場所だったとわかった。上萱(うえがや)はもともとここは人が住んでいなくてもこういう地名があったのかもしれない、萱場とか草刈り場とかどこにでもあり茅葺きの家だったから大量の茅を必要としていたからそういう地名がついた。茅葺きの職人が出稼ぎで会津から来たのも茅葺きの渡り職人がいた。それだけ茅葺きの需要があった。だから上萱はもとからありそこに戦後開拓で人が住み着いたがその人たちは去ってもやはり上萱という地名は残っている。飯館の共栄橋ももし二軒ともなくなれば共栄橋という地名だけになってしまうかもしれない、でもその地名は新しいのである。

財産相続のことで戸籍をとりよせて改製原戸籍をさかのぼりとりよせることになった。それを見たら私の父は葛尾村の小出谷の出であることはわかっていた。でもその前に柏原に住んでいたことがわかった。そこに先祖が住んでいて小出谷にでてきた。小出谷は小出屋であり出小屋を作り開拓した土地である。だから小出とつく地名はあとから出来た地名だとわかる。出小屋が村となった、分家が村となったからである。改製原戸籍から曾祖父までさかのぼってわかった。姓がないいかにも江戸時代の名前らしい人が戸籍にのっていた。侍の出ではなかったことがこれでわかる。郷土史研究の基本は地名だけではないあらゆるものの新旧を見極めることからはじまるのである。それを心がければあらゆるものが系統的に分類できる。姓の新旧もある。岩松氏は鎌倉時代にさかのぼり相馬では一番古い姓でありその姓は謀叛で岩松一族が滅ぼされて消失したから岩松氏の姓がないということが厳粛な歴史の事実となっているのだ。この村の新旧とかは旅してもわかりにくい、目安として城のあったところは古いから一番目安になる。墓地の新旧なども意外と大事である。鹿島区の町中の墓地は新しい、何故なら江戸時代の墓はない、台田中とかの墓について書いたがそこに1600年代の墓が残っているから古いのである。墓地にも新旧があるのだ。つまりこの新旧を見極めることが郷土史研究の基本でありこれを科学的に合理的に統計的にするだけでも郷土史研究になる。中には消えた地名もありそれが一番古い地名だったりする。陸奥の真野の草原遠ければ面影にして見ゆというものを・・笠女郎・・この歌の草原は実は消えた地名だったということでもわかる。万葉集に歌われた地名は700年代だから化石のように古いものである。地名は歴史の化石というとき本当に歴史の記憶として残るものなのである。


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2008年10月30日

秋深む飯館村の道(飯館村の今と昔)

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秋深む飯館村の道(飯館村の今と昔

●水境峠から「森の駅」−「あいの沢」−大倉


川俣より水境峠を越えて

二枚橋、臼石にいたり

飯館村の道の辺に一本の樹

秋の夕日さしてここに暮る

何故かこの樹の心に留まり

我はこの一本の樹に寄りぬ

作見の井戸とあわれも

昔豊作の願いは強く

不作は飢饉にも通ぜし故に

村人はここに集まり真剣に見る

宝暦の飢饉の供養の碑

その犠牲の悲惨を伝えぬ

飯館の新しきホテルの湯

黄落を見つ老二人浸る

遠くより訪ねて泊まる人もあり

木の葉の静かに散りぬ

あいの沢の木道に残り咲く竜胆一輪

心にしみて山路めぐりて

峠を越えて大倉に下る所に

なお一軒の家は残りぬ

一軒は廃屋となりてあり

飯館村の草野と大倉は山にさえぎられ

今は近くなれども遠きかな

佐須はここよりさらに奥地

玉野とも通ぜし道に卒塔婆峠

今は行く人もなく埋もれし道

山にさえぎられ峠の多く難儀せし村々

その灯(ともしび)静か秋深まりぬ


●作見の井戸(昔は真剣に見守っていた)

川俣から水境峠を越えて飯館村に入ったがここの坂は延々とつづく、日本は坂が多いが坂と峠は違う、峠は国字であり日本は山国であり大きな急峻な峠が多い、峠はまさに国を分かつ国境である。川俣からこの水境峠を越えるのは容易ではないということは自然の境界でありまた歴史の境界ともなる。相馬藩と伊達藩の境になる。会津の八〇里越は実際は八里なのだがあまりにも険しい峠道なので八里が八〇里に感じられるというのはまさにここの峠も同じ感覚だった。自転車を押して歩けばそうなる。車だとこうした道も軽々と過ぎてしまうので昔の人の苦労がわからなくなってしまうのだ。
この峠の頂上にも田があり稲が今実っていた。地名にすれば峠田となる。日本では耕作地が狭く少ないからこうしたわずかの土地でも田にした。ここは川俣の方から上ってくるのは大変である。とすると飯館の方の人が作った田なのだろうか、今なら車で簡単に行けるが昔ならこんな不便な所にはなかなか行けない、でもこうした不便な所にも田を作り米を作ることが日本の農業だったのである。

飯館村で有名なのは作見の井戸である。

古来、寒の節の水量でその年の米の豊凶がわかるとされている井戸。水深2.25mを境に、それ以上を豊作、それ以下は不作といわれている。

飯館村は高地だから飢饉になりやすかった。宝暦の飢饉は悲惨だった。それで供養の碑が建っている。だから作見の井戸というとき今は真剣さがないが昔は村人が真剣にその井戸の回りに集まって豊作か不作かを見守っていたのだ。昔の祭りは今の祭りとは違う、そもそも真剣な祈りがありその吉兆も命にかかわることがあり現実に村の娘が雨乞いのために犠牲に捧げられたとか伝説にあるから真剣だったのである。今なら交通事故にならないようにとか願かけたり株の上下などで一喜一憂(いっきいちゆう)するのと同じである。時代が変われば何に真剣になるか変わるのである。今とは違い不作になることも多い地域だから真剣に豊作になるかどうか見ていたのである。最近できた「森の駅」による。ここで米のパンを買った。これは厚いし食べてみても米とはわからないがやはり麦とは違うのでパンは麦でないと味がでないので困る。でも麦が高くなってきたから米のパンでも食べる。現代の山村問題として過疎があるがこれは深刻である。

学校や病院がどんどん、無くなっているし、公共交通も廃止。 車もない老人は、もう住めない状況だからなあ。
うちの親父も、長いこと入院して逝ってしまったが、家から100km離れている病院に行くしかなかった。
出来れば、地元で過ごさせてやりたかったけどな。
効率性のみを追い求めた小泉自民党で地方はガタガタだな。


100キロ病院と離れていたら大変である。ここから仙台まで80キロでありそれより遠いとしたらどれだけの山の奥地なのだろう?福島市までも100キロはないとするとこれは相当な僻地である。私も家族が入院したのが隣の市で自転車で通える所だったから助かった。でも車がないと病気になるとつくづく困ると思った。地元には大きな病院や専門の病院がないからである。山村では車なしでは住めない、その車代にも金がかかるから大変なのである。

●明治時代の飯館村の合併問題

「きこりの宿」で湯に入りあいの沢を出て大倉の方に出てきた。ここはかなりの標高差がある。大倉に入る前の山間に二軒の家があった。ここに共栄橋とあり戦後開拓に入った家であろうが一軒は残ったが一軒は廃屋となって残っている。共栄という名前で開拓に入ったことがわかるのである。これはもともとあった地名ではないからだ。飯館村史を調べていて面白かったのは江戸時代は交通が不便だから頻繁に隣り合う村と村さえ行き来が少ない、そして草野村と大倉村が合併できない理由が書いてあった。

「大倉村と草野村は民情風俗同一ならず、民業にいたってもまた大に異なる」

草野村はまた佐須村とも同じ理由で合併していない。つまり江戸時代までは隣の村すら遠い世界である。言葉も微妙に違っていたり風俗も違っていたりとあるが家の作り方も違っていたりする。現実相馬藩と三春藩を境にして家の作り方が違っていた。ただ民情風俗同一ならずというのが何を意味しているのか今ではわかりにくい、でもあれだけの峠があるとき峠を越えた向こうの世界は別世界を形成しやすいのだ。不思議なのは佐須村と大倉村はそういうことはなかった。でも佐須も大倉から相当奥地なのである。ただ古代から真野川を通じて佐須村とは通じ合っていたことは地理的に想像できる。昔は川が道となっていたからかえって川を通じて交流があったことは想像できるのだ。それにしても民業が違ってるとは何なのか、同じ山なのだからかえって仕事は共通しているように思えるが違っていた。伝説に残されている麦つきの男は大蛇だったというのも隣村から来るものさえ当時は異体の知れない神秘的な存在となっていたのだ。仕事が異なることはすでに人間は通じ合えないものとなる。だから木地師や鉄作り−たたらの民は山の民は神秘的なものとして扱われた。これは今でも同じなのである。ある人の仕事は大工関係なのだが木材を切る機械など資産が一億で売れると聞いたとき本当かと思った。それなりの額はしていてもそんなにはならなかった。でもそうした建築の仕事を知らない人はそんなものかと思ってしまう。素人には見当つかない仕事が今でもあるからだまされたりするのだ。人間仕事が違うとその仕事自体理解することがむずかしくなるのだ。デイトレ−ダ−などで何億もうけたとういうのもわかりにくくなる。だからたいがい昔あることは今も同じようなことはある。人間自体はそもそも変わっていないから同じことはある。

飯館村と相馬を結ぶ道として相馬の玉野村に通じる道があった。卒塔婆峠である。ここは今全く埋もれた道となってしまった。それでも高玉氏が飯館に境目付としてあり玉野村に高玉という姓が残っている。その旗印もカタバミであり一族が分布したことは確かである。飯館は境が多いから境目付も多かったのである。草野から大倉−卒塔婆峠−玉野村−相馬という道があった。ここは忘れられた道となった。一方二枚橋村−臼石村−関根、松怐A須萱、前田、伊丹沢村の七つの村が相馬村として合併させようとしていた。ここは相馬の延長としてとらえられてもいたのだ。いづれにしろ飯館村は歴史的には相馬の影響が大きかったし現実に相馬藩の山中郷になっていたし郷士も移り住み野馬追いにも出ていたのである。







2008年10月26日

葛尾(かつろう)村から三春へ(秋の暮) (残された一つの物語)

葛尾(かつろう)村から三春へ(秋の暮)
(残された一つの物語)



葛尾は本当に深い縁ある所
父は柏原から小出谷(屋)に出た
戸籍をたどりわかった
小出谷はまだ人がそんなに住んでいなかった
そこで小屋を建て住むようになった
地名はそこから起きているから
それにしても事実は小説より奇なり
人は死ねばミステリ−の物語
小出谷から出た姉も死んだ
そこは確かに父方の実家
でもその実家は消失した
葛尾の道を曲がると古い碑が並ぶ
小さな五輪塔があるのも
ここには江戸時代から住んでいる
野川に明暦と元禄と記され碑が残っている
その頃ここに検地がありその記念なのか
松本という姓が三分の一をしめている
信州の葛尾城から逃れた末裔
葛尾大尽には館が並び建ちその石垣が残る
その館の跡を踏み歩みつ昔を偲ぶ
近江からイネという後妻をもらったと・・・
近江八景の庭を作り京桜が春に美しく咲くと
そろそろ秋は早くも暮れてゆく
葛尾は相馬藩の一部でもあるが三春に近い
相馬と三春の境であり家の作り方も境を越えると違っていた
葛尾大尽は三春の城の方に親しかった
葛尾は山深いから電気が通じるのも遅かった
戦後も電気が通ぜずやっと電燈がともった
森林があり木材を求めてトロッコ電車は
はるか高瀬川を上り浪江から落合まで通じていた
この山里にも文明の利便さはもたらされた
葛尾から風越峠を越えて三春に向かった
風が越す峠というのはふさわしい
三春はさらにかなたで秋の日もとっぷりと暮れてゆく
途中の道すがら秋の灯が農家に点々とともる
三春に着いたのは夜もふけていた
そして三春から葛尾と相馬を思う秋の暮
ここ三年は介護で一日も泊まることはできなかった
今ひさしぶりで三春に泊まりうれしかった
相馬藩の妹思いの兄が山木屋の別れ道などで
その妹のことを思ったという
それは三春でも峠を越えるので遠い
峠を越えて相馬のかなたを思うしんみりとした秋の暮
縁の深い所、歴史で結ばれた所、秋は深まりぬ



葛尾を通り風越峠を越えて三春まで自転車で行った。葛尾は父方の出た村であり縁の深い場所である。相続のことで戸籍をとって前の戸籍をたどると柏原と出ていた。ということは柏原から小出谷に移った。小出谷は小出谷(屋)であり出小屋を作って住んでいるうちそこに定住するようになった。だから小出谷はあとから開けた地域である。葛尾村は三春と境を接している。山の峠を越えれば三春である。三春がより近い感覚になる。葛尾大尽も三春藩と親しい関係にあった。相馬藩だと今の城ある所は遠いからである。三春まで行き相馬を思う秋の暮であった。三春をめぐっては伊達氏や岩城氏や相馬が争った。その後も三春とは婚姻を結んだりして相馬藩から姫が嫁いだ。妹思いの兄が山木屋やの別れ道で三春の方を見て妹を思ったというのも三春と相馬の歴史を語る。三春への道は葛尾から川俣からいくつかあった。今回は詩だけをのせてあとで葛尾村のことをさらに書く・・・

2008年09月09日

浪江の地名と土井晩翆の歌

浪江の地名と土井晩翆の歌

●小野田橋の由来

土井晩翆が浪江に残した歌に地名が二つ読み込まれていた。

小野田橋新たに成りてこの郷(さと)の栄と睦(むつみ)いや増すぞよき


ここは板の橋であり大雨がふるたびに橋板をひきあげたり流されていたりした。日本の橋はヨ−ロッパがすでにロ−マ帝国時代から頑丈な石の橋を作っていたのに木の橋でありそれもただ板を渡したくらいの粗末な橋だった。二枚橋とかあるがこれも二枚の板を渡しただけの橋だった。だから橋は常に大雨になれば流されていたのだ。野馬追いの行列の絵巻でなぜ新田川に橋がない、川を渡り野馬追いの行列が通っている。なぜわざわざこんな絵巻を描いたのか?つまりしょっちゅう橋は流されていたのだ。橋がないというのがありふれたことだったのだ。そうでなければわざわざ橋のないところを描くはずがないからだ。子供の頃の記憶でも町から真野川を渡り寺内方面に行く橋は木の橋であり埃が立ち橋は行き来するとぐらぐらゆれたから橋をわたることは怖かったのだ。台風とか洪水になれば橋はしょっちゅう流されていた。流された橋の絵が日本では多く残されている。

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新田川をわたる行列

今は近くに一億円かけた橋がかかっている、これも無駄な公共事業であったがそれほど橋も様変わりしてしまったのだ。この頃に橋を作ることは大きな意味をもっていた。まさに橋は栄と睦(むつみ)を増すものだった。時代によって土木工事の価値も変わる。不便な時代ほど土木事業の価値はあった。今や公共事業の土木事業は税金の無駄使いとされる。時代も変われば変わるものである。児童がここを通るのに難儀したとかありこれは南相馬市鹿島区の六号線にできた地下歩道と比べると児童の交通事故から守るためのものだがそれにしても立派なものである。一見すればすぐわかる。これも8ケ月かくらい工事していたから相当な金がかかった。でもそれほど金をかけて作るべきものだったのか今では土木事業の価値はかえって予算の無駄使いだと非難されることも多いのだ。この小野田橋のような価値が生れないのである。

●田尻原の由来について

田尻原拓きて稲の八束穂のみのりをみるぞうれしき 晩翆


江戸時代に田端村としてできた。田圃の端(はじ)に拓いた村であることから、田端と名づけられたといわれる。

尻とつく地名

http://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/49394517.html

この地名の由来は田端とにている。田があったところの尻の原でそこはまだ原野のようになっていた。ここは小野田と隣接して大堀に通じている。昭和6年から14年までこうした原野があり開拓はつづいていた。新田を作ることはつづいていた。ここは大堀村に近くこの辺はまだ原野になっていた。地名からその土地の状態がわかる。土井晩翆が戦後も生きていたとは知らなかった。明治時代の人かと思っていた。仙台の空襲によって蔵書三万冊を焼いた。仙台空襲のとき空が赤くなり相馬から見えたという、意外と新しい人だった。それにしても三万冊は図書館をもつ規模である。物書きは自前の図書館をもつ必要がある。今ならアマゾンなどで古本を買いもつことができる。郷土史もまず自宅に資料が豊富にないと書けないのである。図書館で調べている暇はもはやないのだ。これも一冊の郷土の本を読んで書くことができた。やはり地名には歴史を解く鍵があった。最も身近に歴史を感じるのが日本では地名なのである。

2008年09月04日

常磐線10句−常磐線の果す役割(福島県内)

常磐線10句−常磐線の果す役割(福島県内)
http://musubu.jp/jijirailway.htm#jyoban(鉄道の部)

日本の鉄道は百年以上の歴史があり様々な視点から語られる。一路線だけでもすでに様々な歴史をもっているから奥深い。そして外部からはわかりにくいのがやはり交通なのである。歴史が地理だということを何度も言ってきたがまさに鉄道も地理でありそれも生活に密着しているから外からわかりにくいのだ。常磐線が仙台に向かうのが上りであり磐城は下りになる。磐城は東京と結びつき原町を基点として仙台に結びついている。仙台の方に二つの新しい駅ができたのもそのためである。仙台へ向かうとき例えば「浜吉田」で月見草の俳句を作ったがこれも常磐線の背景を知らないと鑑賞できない、それは江戸時代の俳句がその背景を読まないと鑑賞できないと同じである。そしてこの背景を読むことが江戸時代はむずかしいから鑑賞もむずかしくなる。街道がどういう働きをしていたか今になるとりかいするのがむずかしいからだ。ともかく自分にとって旅は鉄道が主であったから鉄道の旅は人生そのものですらあった。これほど鉄道に思い入れが強いのが自分だった。つまり老人になれば何に思い入れが強かったかでてくる。会社で一生働いた人はやはり会社に思い入れが強くなっていたのだ。だから会社から離れることは人生そのものを否定されるようにさえ思う人もでてくるのは当然である。会社に骨を埋めるとまでなっていたからだ。まちがっていてもカルト宗教団体に一生費やした人もそうなってしまう。だからその価値を否定されたくないとなる。旅に一生を費やしたものは旅に人生を終わるのがいいとなる。回想の旅は今や延々とつつくのである。

鉄道と郷土史も相当関係が深い、磐城太田はここが古代に磐城国となっていたからでありその名残を留めた地名であり駅名であった。鉄道の歴史はすでに百年以上あり常磐線にも相当な歴史を刻んでいる。浪江から阿武隈を横切り中通りに出る線を見当されていたし森林鉄道も葛尾の落合まで伸びていたことに驚く、そこは延々と坂がつづくからだ。森林鉄道を詳しく調べている人には驚く、地元の人ではない外からきた人なのである。小名浜から泉までの線もあってそこを春の夕べに自転車でたどったことは思い出となった。郷土史というとその分野は広いのである。とても一人で全部を担当することはできない、鉄道一つとっても今や極め尽くせない奥深いものとなっているからだ。

2008年08月23日

飯館村の魅力

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飯館村の魅力

●地形的要因

その土地の魅力はいろいろある。飯館村に関しては地形的要因が一番魅力を形成しているのだ。なぜなら浜通りは平坦であり仙台までも平坦だから地形的魅力にともしいからだ。平坦なところになると変化がないから旅しても単調になり飽きてしまう。満州がそうだった。大きな山もあるわけではない、川はあったとしてもただ延々と平坦な大地がつづくだけだった。どこまで行ってもあとはトウモロコシ畑である。モンゴルのような遊牧民の平原でもない、ただ平坦な大地がつづくだけなのである。変化がないからあきあきしてしまった。日本は狭いけど地形が変化に富んでいるから旅するにはかえって魅力がある。秀麗な高い山も多い、坂が多いのも変化がある。ただ坂は自転車などで旅行するには鬼門である。平坦なら自転車でも楽だが坂が多すぎて日本では苦しくなる。

飯館村の魅力はまず地形的な要因が第一にあるのだがこれもやはり全体の中で魅力を形成する。川俣方面から来るのと相馬方面から来るのでは感じがかなり違ってくる。川俣から来るのにも水境を越えてくるのだから変化はある。でも相馬から来るのとでは相当違っている。相馬と飯館村の標高差は大きいのだ。八木沢峠を越えるのは容易ではない、その標高差がかえって大きな地形的変化をもたらし飯館村の魅力となっているのだ。急峻な長い長い峠を越えたとき飯館村にようやくつくからである。そこは別世界の感じになるのだ。旅でもアプロ−チの仕方で感じがかなり違ってくる。飛行機だと旅にならないのは移動だけになってしまうのは目的地に着くまでの過程が省かれてしまっいるからだ。飯館村は相馬から行くとき一番地形的には魅力を感じるのだ。

●飯館と相馬のつながりの魅力(塩の道)

飯館村と相馬の結びつきは経済的には塩の道にある。塩の道は各地にある。塩なくして人間は生きられない、だからすでに縄文時代から相馬と飯館は塩を通じて結ばれていた。長野県の日本海から松本までの塩の道は遠大であり古くは縄文時代からあり黒曜石と塩を交換していたとかある。黒曜石は石器時代は石斧などの材料として不可欠だった。それが長野県の和田峠辺りが産地だったことは有名である。それほど古いものとして塩の道はあった。そして飯館が早い時期からなぜ相馬の支配下になったか?相馬氏の前にすでに岩松氏の時代に相馬に属していたのだ。地形的要因からすると一体化しにくい、でもそうなったのは塩の道があり経済的要因だった。飯館で塩を必要としたように相馬でも飯館は塩を出す拠点の地として必要だった。つまり相馬から塩を出すにしても飯館を自国の領内にしていないと他藩が支配していたら通行税をとられて自国の利益にならないからだ。ライン川では川沿いに多くの城がありその城を治める領主に通行税を払わねばならないから川での交通は便利でもその負担は大変なものになった。飯館を確保していれば塩を独占して販売できたのである。だから伊達氏との争いが飯館村で熾烈になったのだ。武田信玄と謙信の戦いで謙信が塩を送るということで有名になったがこれはまさに日本海側でとれる塩が山国の武田では不可欠だったことを意味していた。塩は砂漠地域では金と交換されているところもあった。塩の道はライフラインだった。今の石油と同じであり石油の資源を巡って戦争になると同じように重要だったのである。だから飯樋(いいとい)に塩を管理する陣屋があり60人も働いていた。塩の積み出しの重要な場だからそうなった。その当時塩がいかに重要な働きをしていたか忘れられている。飯館は塩の道の経済的要所として重要だから相馬とは地理的に不便でも確保しておく必要があった。だから飢饉のときも相馬藩内から小高や中之郷(原町)北郷(鹿島)宇多郷から塩であれ味噌であれ米も援助したのである。

●相馬藩の境としての飯館村

相馬藩は海沿いは地形的には平坦だから一体化しやすいが飯館は地形的に一体化しにくかった。それで最後に山中郷として相馬藩の一部になり野馬追いにも参加するようになった。相馬藩から新郷士として移住した。もともと葛尾は松本姓が多く一字をとって松と書かれた新しい野馬追いの旗も山中郷で作られたのである。飯館は相当に広い地域である。佐須も大倉もあり広い、回りを山が囲みやはり自然の境界となっていた。伊達氏が攻めてくるのにも山にはばまれる。明治に草野と大倉を合併しようとしたが地理的隔絶されているので中止された。。草野と大倉はまた相当標高差があり七曲がりの峠を越えないと飯館に入れないのだ。大倉はむしろ真野川を通して鹿島区に近いのである。

葛尾村でも山を境にしているし塩の道も山木屋に出るところも山で境を接している。川俣も水境で境を峠で接している。飯館村は飯樋などで平地が広がっているが三春や伊達氏と山で境になっている。日本は峠が境になり峠を越えると別世界になる、新しい世界が開ける地形になっている。水境を越えると川俣になりそこに安達太良の大きな山稜が望まれる。別世界というとき安達太良山を望むことができるからだとなる。阿武隈山地は高い大きな山がないことで魅力に欠けている。会津は2千メ−トル級の山が連なるから山によって魅力が形成される。その山を知ることはむずかしい。山は重なっていてわかりにくいからだ。飯館村はそれでも三春や川俣などより平地がかなり広がっている。だから耕作地として適していたのである。米の生産が結構あったかもしれない、ただ寒冷地だから飢饉にもなったのである。飯館村の魅力というとき地形的なものではあるのだが文化的には見つからない、ただ文化はその土地と密接に結びついて作られるからこれから文化が作られることがある。飯館村の紋章となると緑深い緑を象徴したものとなる。

峠越え安達太良望む秋の夕道端に吾も農夫も休みぬ

都路は山のかなたや久しくも訪ねゆかじも冬に入るかな

飯館へ峠を越えむいくたびや秋の蝉鳴き我が年古りぬ


山のかなたに幸いのあり・・・とういときまさに飯館村もそうだった。山のかなたに都路がある都があるというのも名前だけなのだが不思議は山のかなたには別世界の都があるような感じになるから人間は名前に左右される、イメ−ジに左右されのだ。相馬藩の領域と三春や伊達の領域は山が壁となってさえぎっている。これは相馬から見てそうなのであり川俣の方から入ってくるとまた見方が違ってくるのだ。飯館に住んでいる人にととっては相馬の海の方に下ってゆくのが地形的変化となるのである。いづれにしろ相馬藩という歴史に培われたものと地形を知らないとその土地の魅力はわかりにくいのだ。だから外部のものが旅をしても印象が浅薄になる、まず何度もその地を踏まない限り地理や地形がわかることがむずかしいからである。相馬藩内でも歩いたり自転車で行ったら結構広いのである。でも相馬藩内なら当時でも歩いても馬で行くにしても約一日くらいで行ける範囲内にある。地理的に把握するには適当な規模であり今でも自転車で一日で行ける距離なのである。

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2008年08月01日

都路(みやこじ)山都 宮古 みやこ町 都田・・・・みやことつく地名の謎

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都路(みやこじ)山都 宮古 みやこ町 都田・・・・みやことつく地名の謎


都路は都にあらじさにあれど都を思ふ名のふしぎかな

都路村は田村市になって合併で消えたけど人間の不思議は名前に左右されることである。都路といえば都があるのかなとどうしても思ってしまう。そこには実際何もないのだ。都路の中心が古道というのも不思議である。古道(ふるみち)なのはそこは昔からあった道でありかつては頻繁に通っていた道であった。だから都路の中心なのである。

 都城市の市名

初代領主の北郷資忠(ほんごうすけただ)-二代領主北郷義久(よしひさ)は、天寿元年(1375)神代(かみよ)の時代に神武天皇(じんむてんのう〜初代の天皇〜)の宮居(みやい)の跡と言われる「南郷都島(みやこじま)」(今の城山辺り)に城を築いて移住したので「都之城(みやこのしろ)」の名が起こり、その後、都城(みやこのじょう)の名の起源となったという。

都田」という名は、平安時代に書かれた古い書物の中に「京田郷(みやこだごう)」と記されていることや、この文字を記した木簡が出土していることから約1000年前から使われているようです。

新都田(しんみやこだ)古くは京田郷(みやこだ)「美也古多」の時期もあった。京は、くらの意味「税金」の収納場所物資の集められるところを「都」と呼ぶ。こんなことから名をつけられた。

首里王府の辞令文書の中では、美里間切が創設された当初(十七世紀)、「見里」と記述され、その後に「美里」と改められている。集落の政治をつかさどる中枢を意味する言葉として「みさと」(みやこ・御里と同意)が使われ、後に「見里」や「美里」を当てたという説もある(美里自治会発刊、美里誌より)。


インタ−ネットで調べたらこのくらいあった。都城市とか都田は古い由来の都である。都と同一化されていたのが沖縄の美里である。この名前は合併でふえすぎて平凡化した。

宮古(みやこ)市

(1) 閉伊地方の経済・文化の中心地の意味で「都」から
(2) ミヤコ(都)物の輸入港
(3) ミヤ(宮)コ(処)で、神社があるところ
(4) 「港」からの転化
(7) 「宮子」で神社の氏子
(8) 「深山処(ミヤマコ)」の略で山中の在所のこと


宮古市からみやこの由来を考えると(2)(3)があたっているような気がする。宮古は地形的に岩手県でも閉ざされた地域である。区界(くざかい)という雪に埋もれた山の駅を越えたことがあった。岩手県は広い、宮古は辺鄙な閉ざされた地域であり海にのみ道が開けているような所だった。都路という地名を考えるヒントになったのは

都路の古道川は高瀬川に合流し、太平洋に注いでいる。かつて相馬藩に属していたこともあるのだが(戦国時代に田村領=現在の中通りに移った)、どの町村とも峰境になっていること。北は葛尾、西は常葉、南は川内、東は大熊に接しているが、いずれも小さな峠を越えないと都路に入れない。それが都路の地名の由来=都落ち(みやこおぢ)説につながっている?

都路の地名の由来としては北畠親房やその息子の顕家は戦いで20歳で死んだ。阿武隈山地にはその南朝の落ち武者伝説がある。霊山城が消失したとき鹿島町真野逃れてきたのがの桑折五郎元家であった。都路もその由来から都路となった。都へ通じる道とされる。でもよくよく考えたらそうでもないみたいだ。ここで注目したのは宮古でもそこはかえって辺鄙な場所である。都路も山深い閉ざされた辺鄙な場所なのだ。だから地形的なものと関係していた。地名は地形から読み解くことが大事である。(8) 「深山処(ミヤマコ)」の略で山中の在所のこと ・・・この説が面白い。都路はこれにあてはまるのかもしれない、宮のあるところもやはり村の中心地にあったからそうなる。つまり都路の由来は霊山城が炎上して落ち延びた落武者とかは関係ない、また都に通じるとなればその都とはどこなのか、霊山城なのか?となるとそうではない、都に通じる道とは辺鄙な所から町へでてくる、集まる地域となる。そこが都だとなる。都路の都とは古道のある場所だったのだ。そこに小さくても人々が集まる地域で都になったのである。これでわかるように地名に解きあかすには自ら路査しないとわからない、都路村が四方から峰を峠を越えないと入れないというのもなかなかこれも地元でないと地形がわからないのだ。一方から入ることがあっても四方から入る経験はできないからだ。宮古港から江戸時代に鉄が相馬藩に船で運ばれた。これも陸を輸送したら遠くて大変になるが船だとできたのである。宮古も閉ざされた地域だか海に開かれて貿易があったから宮古−都になった。

都路の古道(地名の古さ)

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都路は都にあらじさにあれど都を思ふ名のふしぎかな


都路村は田村市になって合併で消えたけど人間の不思議は名前に左右されることである。都路といえば都があるのかなとどうしても思ってしまう。そこには実際何もないのだ。都路の中心が古道というのも不思議である。そこには町があるのだが古道(ふるみち)になっている。でも古道となっていることはそこが逆に古い場所なのである。古い村の地籍図に古道とあり馬坂新道というのがある。古道の脇を馬が通る道ができてそこが古道になってしまった。古道とか古町はいつそうした地名ができたのか問題である。結構古いかもしれない、地籍図にあった古道は中世のものだからその時からすでに古道になっていたのだ。

新しく作った相馬郷土史プログは相馬関係のデ-タベ-ス化にはいいがこここは前より使いにくいしアクセスもされにくい、やはりプログは一つの方がアクセスされやすい、ピングがグ−グルだけにか反映されないからだめなのだ。ここがデ−タ−の保管場所になる。両方に書いておかないとアクセスされない、デ−タ−ベ−スとしては関連づけで読みやすくなるが二つあるとめんどうになった。

今回のこの記事は試しにここのプログだけに書いた。

2008年07月28日

方言のもごいと酷い(むごい)の意味は?


方言のもごいと酷い(むごい)の意味は?

 

相馬弁の「もごい」には
@(「めごい」が訛った)「かわいい」
A(「むごい」が訛った)「かわいそう〜」

 
もごいは酷い(むごい)がなまったものだった。酷い(むごい)ともごいがなぜ共通しているのか?酷いな(むごいな)というときかわいそうだなということにもるのだ。なぜなら病院で瀕死の状態の人を見舞ってくれる人がしきりもごいな、もごいなと頭をなでてくれたからである。実際病人は悲惨な酷い状態にある。熱が出て最近はしゃべることすらできずただ眠っている。体もやせてきている。病人は酷い状態にありそれがもごいになったのだ。めごいはめは別な意味である。めんこいというとき面のめがちぢまったものだから別系統なのである。方言を使ったのは65才くらいの女性だった。ところが60才以下、団塊の世代になると方言を使う人は少なくなるかもしれない、それは団塊の世代はテレビ世代なのである。一番最初にテレビに接した世代なのである。ボクシングであり相撲であれ野球であれ最初テレビがでてきたとき食い入るように見ていたのである。テレビ世代ということは方言より標準語を耳にすることが多くなった世代でもある。
 

団塊世代といわれる50代後半〜60代の人たちでさえ、聞ける事はできても話す事ができる人は少なくなってきているようです。
沖縄には戦後、方言禁止、標準語励行の指導影響があったりして、ちょうど団塊の世代でその影響があらられているのではないかと思います。

 
団塊の世代から方言がなくなるかもしれない、これは地方の文化の大きな喪失になるかもしれない、標準語で離すのと方言で離すのは違う、方言にはやはり情がこもるのだ。もごいな・・・というときそれが理屈なしで情がこもっているのだ。そしてもごいとはまさに病院にふさわしい言葉だったのだ。あまりにも酷い(むごい)病人が過去にもいたからそれが転じてもごいなとな、かわいそうだなとなった。沖縄であれ地方で方言がなかったら地方の文化に接することが一つ減る、方言に接して土地の手形とか言われるようにお国訛りでその土地の出身地を知る。大阪、京都、奈良、和歌山、三重とかは一見同じように見えてもアクセントが微妙に違うのである。それで出身地がわかるのだ。東北弁はどうしても劣等感をもたらすもので馬鹿にされるから外では使わなくなる。でも地元ではやはり方言を使った方が情がこもる。ただもごいという方言はここだけではない広くあるから方言の基は古語だからそうなっていたのだ。五島列島とかの方言と相馬弁であれ東北の方言と一致していたのもそのためである。
 
方言によって出身地がわかることはその土地のことに注意が向く、ところが標準語になるとどこの出かわからない、大阪弁のように聞こえても近畿の人は微妙なアクセントでどこの出身か見分けられる。文化は多様であり一様化すると文化は消失するのだ。日本は明治以降急激な中央集権化で一様化しすぎた、画一化しすぎたのだ。標準語というのもその一つだった。そして今逆に文化の時代になったとき多様化が求められる時代になった。だから方言を失うことは多様化された文化の喪失なのである。ともかく郷土史研究には言葉の研究、方言の研究は欠かせないことは確かである。でもこれは本を読んだりしてもわかりにくい、これはじかに生活の場で聞かないと実感としてわからないのだ。だから方言が現実の生活の場から消えることは方言を聞けなくなることは方言のもっている文化を喪失するから深刻なものになる。実際今まで使っていないものを使うことはなくなる。団塊の世代からはこうした方言は使わないとなると現実そうなってしまう。言葉は生き物だから若者言葉が生れたように若い人と意志疎通もできなくなる。またそうした方言でもって意志疎通もできなくなっているから医者は方言を覚えて患者との意思疎通を図るべきだとかなる。まだ老人は方言の世代だからである。


 

2008年07月11日

野馬追いの一つの旗の意味は? (山中郷(飯館村)の山とついた旗の謎)

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野馬追いの一つの旗の意味は?
(山中郷の山とついた旗の謎)

 
今年も野馬追いが近くなったけどキ-ワ-ドで「野馬追い 改革」などときている人がいたし野馬追い関係でインタ−ネットで検索している人が増えているのだろう。野馬追いの改革の前にまず野馬追いの歴史を知ることが肝心なのだ。野馬追いの歴史にもいろいろあるけど野馬追いは旗祭りといわれほど旗が実に多様である。しかし不思議なことにこの旗について研究して本に出している人がいない、これは地元だからいても不思議じゃないからだ。相馬史編纂関係でも由来が良くわからない、私自身も郷土史で書いてきても真野の草原についてはいろいろ調べたがその他は基本的な資料さえ読んでいなかった。今回スポットライトをあてたのは飯館村の山中郷のことである。山中郷からは今は野馬追いにはでていない?江戸時代には飯館村史資料に残っているから出ていたのだ。それで一つ注目したのが山という旗である。この旗に注目したのは山中郷となっているからこれは山中郷を代表するものとして作られた旗かもしれないと想像したからである。野馬追いの旗は分類とかしているものがないのも不思議である。野馬追いの旗は先祖伝来のものだから古い謂われがある。一家に古くから伝えられたものである。だからそのもとをたどってゆくと相馬氏一族関係だから移住してきた流山市からのものでありこの土地の人ではない古い家柄により伝えられた旗となる。また相馬氏に仕官した他藩の旗標もある、武田藩の三菱の旗や伊達藩の雀の旗も交じることになる。
 

相馬氏一族に連なる旗印
他藩の旗(武田、伊達)
相馬藩が成立して作られた旗印
同族の波及した旗印


旗は多様であり今は分類できない、今回問題にした山の旗印は山中郷が成立してからの旗印ではないか?
山中郷は伊達氏の境を接して争いの激しい場所だった。山中郷は冷害で飢饉のひどかった所でありそれを助けるために小高や原町や北郷(鹿島)や中村から救援の米やら塩やら味噌やら援助物資が送られた。江戸時代の藩政は他藩は他国であり援助を受けられない、敵だからである。その代わり藩内は一致結束して助け合う、一つの家族のようにもなっていたのだ。山中郷が相馬藩として成立したのが遅かったのは伊達氏との争いのために雌雄を決することが遅くなった。山中郷は相馬藩では最後に藩として組み入れた地域になる。だから山という旗は山中郷が成立してから旗印が山として作られたのかもしれない、たいだいは先祖伝来だから相馬氏が流山から移住してきた一族の旗印が多いが山という旗印は山中郷が成立してから作られた新しい旗かもしれない、旗にもいろいろな謂われや意味がある。相馬に移住する前からあった旗印と相馬に移住して作られた、地元で作られた旗があるかもしれない、それが新しく相馬藩に組み入れられたのが山の旗かもしれない、他に蕨模様や熊の旗印がありこれも山中郷ならではのものではないかとしてもそれは他でもありえたから不明である。ただ山というのは何か山中郷が新しく成立して作られる旗にふさわしいのである。
 
旗印は何かを象徴して作られる場合がある。何かを記念して作られる場合がある。山中郷が相馬藩に組み入れられたときこの旗が象徴的に作られたのではないか?この旗印を使用したのは給人であり深谷村の村目付の佐藤五兵衛という人であり18石の給人である。石高としては何番目かに高い方である。ただなぜこの人がこの旗印を使用したのか?もしこの人が流山以来の相馬氏一族の旗を使用していたのか、そこがこの旗の謎を解く鍵となる。他にこの山の旗印がなかったとしたら新しく山中郷の象徴として作られた旗印となるのだ。資料を読まなくても意外と自分の想像したことが的中していた。資料の裏付けをそえれば歴史的に史実だと証明できる。その作業を誰がやるのか、結構手間だから暇な人は探ってみればいい、いづれにしろ野馬追いが旗祭りなのになぜ詳しい旗の研究がないのか不思議である。ここが学問として未開拓の分野でありそれも野馬追いが旗祭りというのに研究書がないことが不思議である。野馬追いの改革というときまずこの旗の研究が第一になる。旗祭りだから新しく旗印を創造することも必要になるとかなるのである。

 
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●補足−山中郷のカタバミの旗


飯館に山中郷に限るとカタバミの花の旗印は三つともカタバミの花でありて赤とか青の一本線を引いただけだからこれは旗印をもらった人であったり同族であったりする。新郷土−高玉軍治とあるからカタバミに線がないのが元の旗であり古くそのあとに赤い線や青い線を引いたのが新郷土として旗印を変えたのである。こういうのはヨ−ロッパの城の旗でも良くあるからわかりやすいのである。旗印でも野馬追いに全部出るとは限らない、出なくなった旗印もありこのカタバミであれ山の旗も今は野馬追いに出ているかいなかいか確定できない、つまりこういうところから歴史をふりかえる必要がでてくる。もしこの旗がないとしたらその謂われを正して出す必要がでてくるのである。山中郷関係は今の野馬追いには出てないとする過去の歴史だけのものとなったのだうか?
 
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山中郷(飯館村)の山の旗印は「山中郷」を意味していなかった
(野馬追いの一つの旗の謎−続)

2008年06月24日

忘れられた道−卒塔婆峠

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忘れられた道−卒塔婆峠
 
玉野地区は宇多郡・伊達郡・伊具郡の境界に位置している。相馬地区から伊達郡や福島へ塩荷を駄送する。街道の中継基地で重要な場所であった

その霊山城が消失したとき鹿島町真野逃れてきたのがの桑折五郎元家であった。元家は顕家の姫をともなって落ち延びた。真野にすでに館をもっていたのでそこを頼りに落ち延びたのだが北朝の勢力が周囲に迫っていて落ち延びることが容易でないために旅芸人の姿に身をやつして玉野から卒塔婆峠に入り栃窪にでて真野に入ってきた。

卒塔婆は、もちろん信仰上のものですが、一町(約109m)ごとに立ち、町数が刻まれ道標の役目も兼ねています。この他里石も三十六町ごとに立てられ、一里が三十六町であることを表しています
http://www.town.kudoyama.wakayama.jp/Contents/

7D8210E3B7/12/1209/1209.html
 
相馬市から前は中村市から霊山の方へ自転車で行った。そこが昔の街道だった。当時はバスも通っていたが今は通っていない、それで車がないと霊山には行きにくくなった。伊達氏とか米沢藩とか玉野は境界争いの場所だったから要所の地だった。そして玉野から大倉に通じている道があった。卒塔婆峠という峠を越えて大倉に入る道である。これは南北朝からあったとすると相当古い道なのだ。この道は大倉から飯館の草野と通じていた。卒塔婆峠とは本当に誰かがここで死んで卒塔婆が建てられていたので卒塔婆峠となったとか言われるが卒塔婆は道標の役目もしていたのだから特別ここで事件があったとか必ずしも人が埋まっている所とは限らないだろう。まちがいやすいのは大倉から佐須へ真野川をさかのぼる道は昔はなかった。もしあるとすれば真野川をさかのぼるほかなかった。卒塔婆峠の道はありここを通って霊山城陥落炎上したとき桑折五郎が真野に逃れてきて真野五郎と称したのだ。相馬(原釜)から栃窪−飯館への塩の道は今でもその跡が残っているし塩を運ぶ道として重要だったし相馬藩もここを通り二本松へ出た。それで栃窪の山中に殿様道というのが残されたのである。ところが卒塔婆峠というのは相馬藩の殿様が通ったようなことはない、ただ玉野に通じていた。でも草野−大倉となると利用する人もまれだった。大倉から真野や中村(相馬市)や松川浦へは通じやすい、それは縄文時代から人が住み通じていた。エイが大倉から発見されたことは海との交流があった。でも飯館の草野→大倉→玉野という道筋はどういう人が利用したのか具体的にイメ−ジしにくいのだ。ただ霊山→玉野→相馬という街道がありそこに通じる道として昔からあった。南北朝時代頻繁に利用されていたとするとずいぶん古い道である。玉野から大倉へ出て真野川そいを真野に下る道は真野への近道なのである。ただ草野から大倉をへて玉野へゆく道は坂道がきついしどれほど利用されていたのか?親戚関係で飯館の草野辺りから玉野に行き来した人の話があるが今になると本当に落葉に埋もれた古道になってしまった。
 
落葉踏み卒塔婆峠ゆく人の今日一人あり猿の知るらむ

我が越ゆる卒塔婆峠遠きかな玉野への道秋の日暮れむ
 
ここは今や猿しか知られないような道になっている。都路にも古道があるがこれも古道になってしまった。一方佐須からは真野川沿いに舗装の道路ができたからこの道を利用する人は増えた。古道は歴史の道だからまず古道を探ることが郷土史には必要である。

2008年06月18日

相馬市は城跡のお掘りが今も中心 (歴史は地理的位置関係が重要)


相馬市は城跡のお掘りが今も中心 

(歴史は地理的位置関係が重要)


城の側守りとあれな岡田館その位置にこそ昔偲ばれ


この頃は病院通いで原町には行っているが相馬にはなかなか行けなかった。相馬の中心は城跡の堀りなのである。街の中心地がどこなのかというとき外国でも旧市街とか新しい街がある。旅で泊まるなら歴史ある旧市街である。インタ−ネットに相馬の城については古い城で良く残っているとかの評価がある。城マニアがいて外部の人が解説している。ここではマイナ−な城跡も紹介しているからそれ比べれば形は残っているということである。歴史はその場をともかく自ら踏まないとわかりにくい、でも一回だけ行ったくらいでは普通はわからない、地元に住んでいて堀りのすぐ側に岡田館とあるから岡田氏は相馬藩にとって重要な役割を果たした人だと実感する。城の回りにはどこでも侍屋敷があり城を守るために取り囲んでいた。一方足軽は城から相当遠く離れて住んでいた。仙台藩でも今の仙台駅辺り五百人町とかあるのだから遠いのである。この位置関係が大事なのである。岡田館とあるときまさに城を守るために家老のように従っていたことが位置関係からわかる。白虎隊が城が燃えているというとき死を覚悟して実際に死を選んだのもそのためである。それほど城は大事であり城とともにあり城が命だったのだ。江戸時代は交通が発達していないのだからその地理的位置関係に生活は左右される。その位置関係が如実に歴史を語っているのだ。つまり歴史は地理だというとき地理がわかれば歴史がわるというとき江戸時代では明確にあてはまる。黒木氏が新地などの境に城をもっていたが一時は伊達氏にとりこまれたというのも地理的必然からそうなっていたのである。
 

丘の北に溜池、蓮池という内堀を兼ねた池を置き、さらにその北側に北三の丸、岡田曲輪、外堀を配置する。北に多重に郭等を配置するのは当然、伊達氏を意識してのことであろう。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/fukusima%20iwaki/souma2.htm

 
この真意はどうなのだろうか?万里長城ならモンゴルの守りとして作られたことは一目瞭然だがこのような小さな城でもそうなのか?その池の前に岡田館があるのだから岡田館が伊達氏から守るために建てられたとなるのか、南側には石垣が残って高低差があるから入りにくいが北側は平地だから池を広くとり防御したともとれる。岡田氏が相馬藩では重要な役割を担っていたことが位置関係から具体的に納得するのである。岡田塁というのもあったから防御のために岡田館が置かれた。小高城から相馬氏が中村に移ったのはそもそも伊達氏に対抗するため守るために移った。その名残として北郷は小高から北にあるからであり北郷となっていた。もし中村に移ったあとなら南郷となっていたのだ。現実に今や逆に相馬市から南だから南相馬市となっているのでもわかる。相馬市を中心として南相馬市になったのである。これは昔に逆戻りした発想である。何故なら原町市はいち早く近代化した街であり明治以降は原町市が中心となって発展していたからである。
 
1591(天正十九)宇多川を境に、宇田南郷18ケ村と宇田北郷18ケ村に分かれていたとき南郷のうちに中村と仲野がみられる。ただし中村は当時の宇多川の北にあったにもかからわず南郷となっている。
(歴史としての相馬−岩本由輝)
 
これも北郷の由来と同じなのである。相馬の城は4ケ月で作られたというから立派な城ではない、防塁的なものであり肝心の城の本体が見えないからだ。中村城で珍しい石壁(石垣)を作ったのは会津の浪人幸田彦左衛門だったという。浪人でも技術をもっていたので技術を売り込んだとなる。会津藩は古いからすでにそうした技術者を有していた。他に会津から木挽きなどが流入しているからこれも技術をもっていたためであろう。絵師などもきて相馬焼きの駒焼きを作らせた。技術は内部より外部から入ってくるのが多いのである。
 
いづれにしろ相馬の街が城跡の堀りを中心に今もある。情緒的にもそうなる、仙台などは青葉城が遠く隔絶されているから今はそうはならない、駅が中心になって発展している。相馬の場合は相馬に行けば必ず城跡の堀りをめぐることになるから城を意識するようになっているのだ。今はこの歴史的位置関係を意識することがむずかしい。街道を来るのではなく電車で来た場合どうしても駅が中心となり駅から街を見てしまうからである。福山城は駅そのものが城になっている。駅と城が一体となっているから印象的なものとして記憶に残されたのである。汽車で旅していたら印象に残るのはやはり駅になるからだ。仙台では広瀬川の橋をわたりそこに五十人町−三百人町−五百人町とかの足軽の住んでいる所を進みさらにまた青葉城までまた橋をわたり進んで行きようやく上り伊達氏の重臣にまみえることになる。その行程は仙台に入ってからも遠い、青葉城は奥の奥なのである。藩主にあうとなると雲の上のような人に合う感覚になるのだ。かしこくも謁見できるという効果がでてくる。青葉城から仙台の街を見下ろした時何ともいえぬ感慨をもったことは確かである。今では計りえない感慨なのである。仙台の青葉城と違い相馬の城跡は街の中心地にあることが大きな相違なのである。
 
城跡の堀りの近くの家なれや螢袋に夕暮るるかな

城跡の堀りに黄菖蒲映えにつつここ行き来して相馬の暮れぬ

2008年06月09日

HARAMACHIの灯(病院で発見された南相馬市原町の魅力)

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HARAMACHIの灯
(病院で発見された南相馬市原町の魅力-詩と解説)
 
  HARAMACHIの灯
 

原町のイメ−ジは横文字−HARAMACHI

東洋一の巨大な無線塔があった

原町機関区、原町森林鉄道、戦争中の飛行場跡 雲雀が原

丸三製糸の煙、長い駅前通り、一早く近代化された街

時代が変わり、六号線−南相馬市−道の駅

大きな市立病院の屋上から太平洋

しきり窓を飛ぶつばめに見上げれば鴎

HARAMACHIににあう黄色の薔薇

6号線−レストラン多し、赤いつつじ

病院に介護すれば街の灯が映える

主長は誰、古代の象徴、新田川の辺り桜井古墳

前方後方墳 その四角が斬新なり

日々通いその地を踏めば土地の人

浜風そよぎ、その大いなる主、大いなる主

ここに眠ればHARAMACHIの街の灯の中に眠る

田んぼに蛙鳴き街の灯は近代の都市、発展途上の都市

風を切り六号線を走り去るもの、外国人のサイクリスト

今HARAMACHIで一番立派な建物は市立病院

広々と緑の田野につつまれた街

太平洋の沖ゆく船、梅雨の日に街の灯がしみる

一山越えてHARAMACHIは異境にもあれ

一山越えて行き来し国二つなり

ここに死すればHARAMACHIの人

ここに我がはらからの眠る墓

そこに我が思いはありて供養しぬ

誠にその奥津城は徒にはあらじ

死せるものの魂と合うべき所

祖父母の御霊はここに祀られ眠りぬ

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原町のイメ−ジは外からは雲雀が原の野馬追の神旗争奪戦である。しかし地元からみると原町は無線塔に象徴された一早く近代化された街のイメ−ジなのだ。原町機関区もその象徴であり原町は相馬市より人工が近代化で増大した。相馬は昔ながらの野馬追いの城下町である。雰囲気がまるで違っていた。原町には別に相馬藩の名残となるものが残っていないのだ。原町はだからHARAMACHIのイメ−ジなのである。他からみると相馬は原町でも南相馬となっても野馬追いの相馬なのである。内部では地元からみると違っている。このずれはどこにでもある。一地域でも街の歴史は違って個性がある。日本は一つの山を越えると違った世界になっている。坂は境であり峠が多く峠を越えると別世界に出る感じになるのだ。これが大陸のようなどこまでも平坦な地理だったらこうはならない、地形的な変化がないから街の個性はむしろ人間が作り出した文化にある。キリスト教圏からイスラム圏に入ると異質だとか地形的なものより人間が作り出した文化の相違が地域を分ける。
 
私が原町の病院通いして不思議な感覚を味わったことはない、それは病院が一番大きな建物であり太平洋から原町を一望できたからである。その視点と病人を看護しているという体験が今までにない感覚をもたらした。そして原町は自分にとって相当因縁深い土地であったことをしらしめられた。というのは自分の母方の墓が街中にあるからだ。そして人間はつくづく意外とどこに死ぬかということは大事である。骨の埋める場所が大事である。私の兄は原町に住み集団就職で東京から静岡の方まで行ったが交通事故で死んだ。その兄はいろいろな複雑な悲惨な経過をたどり原町の実家の墓に眠っているのだ。実際は子供は静岡で育ち今も離れているとするとここに埋葬されるはずではなかった。本人もそう思っていたのである。今は離れて暮らす人が多いから東京にでて行ったものは子供が東京にいるのだから東京に墓参りすやすいから東京の人となって眠ることが多い、でも人間は生れた所と死ぬ場所は一番大事である。
 
ともかくそこが深い因縁の場所になるからだ。最後に末期に見る光景はどんな平凡な所でも違ったものになる。ここが最後の見納めだとなると平凡な景色でもこの世で見る最後となるものだからどんな場所でも特別なものとなる。だから外国の戦地で死んだ人は悲惨である。もし遺骨でももって故郷の墓に眠れば供養されるかもしれないがそうされないものが多いからその魂は幽魂となり荒魂となってさまよっているかもしれないだ。直観的に埋葬され魂が眠る場所があることに気づいた。そこはやはり生者と死者とあう場所でもあった。それだ桜井古墳の大いなる主は誰なのだろうとつくづく思った。原町の最初の首長は桜井古墳の主だったからである。古墳は古代の墓でありその墓の主に思いはせることは自分の近親の因縁深い祖先に思いをはせることに通じていたのである。桜井古墳は前方後方墳でりこれの方が斬新であり前方後円墳より原町という場にあっている

 
郷土史というと過去だけではない常に今と関係して過去があるのだ。今の生活からでは桜井古墳がどんな関係があるのかとなるとやはり現実的にあった。原町の最初の大いなる祖が眠る場所だった。それを近くの六号線を通り病院で自覚したというのは想像もできないことだった。
今は常に新たであり想像しえないことを体験するのが人間である。そして過去も新たにその今を通じて変容してくる。歴史は新たに再認識される。それを詩で現した。こんな詩を書く自分がこの年まで想像されなかった。人間は死ぬまで未来はわからない、新たな体験を強いられ新たな角度から世界を見ることになる。異境というと遠い外国のことだと思っているが一番身近な所が異境だったということも意外なことだった。今や国際化で外国が故郷になっている人も多い、そして最も身近な生まれ育った所の魅力を感じない人が多いのである。最後に発見されるのが自分の生まれ育った所だというのも人間の皮肉だったのである。

2008年06月07日

飯館地名歌集

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飯館地名歌集 
 
山木屋に分かる道三つ芽吹きかな

飯館の名を昔の人聞けばいぶかし知らじいづこにありと

家の前乳神の碑ある畑かな佐須は遠しも久しく行かじ
落葉踏み卒塔婆峠ゆく人の今日一人あり猿の知るらむ

我が越ゆる卒塔婆峠遠きかな玉野への道秋の日暮れむ

 

臼石二枚橋や昔より人の暮らしや飯館の村

久しくも小宮には行かじ別れ道今日風荒し春の午後かな

飯館に辛夷の花の咲きにつつ耕す人あり鶯鳴きぬ

飯樋(いいとい)墓にし眠る人その名をよみつ春日暮れにき

飯樋の一軒の店我がよりぬ坂こえ昔の茶屋の跡かな

遠くより来る石工の物語春の日あわれわれはよりにき

古き碑の比曽にあわれや柳かな人のまれにし遠き道かな

山木屋に道は分かれて春の日や安達太良望まむ我はゆくかな

山木屋に三春への道小出谷へも通ぜし道や春の風吹く

相馬の街道たどり霞城たずねてみれば花は散りにき


飯館は飯樋村と大館村があり合成地名だった。この合成地名は地名をゆがめてしまった。昔の人がたずねた時、飯館村はありえないのだ。ここに歴史の継続がたたれてしまったのだ。臼石とか二枚橋は元からありそれなりの謂われがある。佐須は焼き畑のことだから現実に焼き畑が行われる地にふさわしい奥地なのだ。そこには家が一軒あってその前の畑に乳神の碑があった。あんな奥地では昔は牛乳もないのだから乳が出ないことは深刻だから碑をたてて祈っていたのだ。飯樋に出ると草野より広々としているから気持ちがいい、飯樋には塩の道の陣屋が置かれていたし役人が60人もいたとかなると塩の道として行き来がかなりあり昔の交通の要所でありにぎわっていたのだ。
 

山中郷(がう)草野村を以て開業に当てん。
夫(そ)れ草野村なるものは山中高山の間にあり、夏は冷気にして冬は最も寒し。
故に三年の中一年は五穀実らず。
是を以て貧民多く、戸数減少田圃(でんぼ)荒蕪(くわうぶ)し極めて難村なり。
故に此の邑(むら)を以て領中再復の始(はじめ)となすべしと。
即ち此の議を以て東都(とうと)に達し、草野村に開業せん事を先生に請(こ)ふ。

 

 報徳記巻の7【2】先生相馬藩の分度を確立す
http://plaza.rakutenco.jp/jifuku/diary/20071219/


相馬藩の陣屋の記録によれば、江戸時代の飯舘村は人口2888人、それに対して馬は1400頭、実に人間の半数に及ぶ馬がいたことになる
 
飯館村のもう一つの特徴が1400頭の馬が飼われていた。これは今は牛が飼われているが実に多いのに驚く、野馬追いの馬もここで飼われて供給されたのかもしれない、これだけの馬は売るために飼われていたのである。馬や炭や薪も供給していた。相馬藩の山中郷としてそれなりに供給するものがあった。 ただ高原地帯で寒いということは生活するには厳しい所であり宝暦の飢饉の供養の碑があることでもわかる。冷害にあいやすいことはまちがいないからだ。
 
山木屋は塩の道の別れ道であり三春にも通じているから交通の要所だった。今はさほど重要でない場所でも昔は重要だった。時代が変わり忘れられてしまうのである。小出谷は小出屋であり出作り小屋のことだった。

ともかく地名はやはり村や町や市を知る手がかりなのである。地名を目安に村をみることがある。地名は歌枕にもなったが飯館という小さな地域でも歌枕になるのだ。

2008年05月23日

麦のつく地名の背景(麦と米は併存していた)(地名談義)


 

麦のつく地名の背景(麦と米は併存していた)(地名談義)
http://musubu.jp/somagappeijiji.htm#mugi

 
田麦、麦田という地名になっているのは田と麦は一体として栽培されていたからである。私の子供の頃麦飯だった。江戸時代になると麦の方が米より多くまじっていた。麦は生活に欠かせないものだった。今でもネパ−ルとか後進地域では麦と田が並んで栽培されている。その光景は戦後まもなくもつづいていたのだ。麦は輸入されるようになり日本から麦の畑は消えた。麦はエジプト時代からパンを作るものとして栽培されていたから歴史も古い、主な文明の発祥地も黄河であれ、メソポタミアであれ麦の栽培で栄えたのである。米より麦の文明が先にあったのだ。今回なぜ麦に注目したかというと丸森に四重麦(よえむぎ)という地名がありこれは何だろうと思い麦の地名に注目した。田麦俣とかには実際に行ったことがありその名前は記憶していた。地名とともにその場所は記録されることが多いのだ。そこは街道の要所であり今でも立派な茅葺きの家が残っているのである。俳句などでもえと時代になると広範囲な当時の生活を再現して読まないと理解できない、単なる俳句だけではない、その背景を知らないと理解できない、俳句だけが孤立してありえない、江戸時代の全体の生活の中で詠まれたものだからそうなる。地名もやはり田と麦が欠かせないものであり併存していたから田麦と麦田という地名が極自然に生まれたのである。

原町の青鷺(南相馬市原町区の街の変遷)

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(南相馬市原町区の街の変遷)
 
  原町の青鷺

青鷺の梢に高く一羽休めり

海も見え四方を見晴らす

眩く夏の光に映える優美な姿

新田川の辺り桜井古墳あり

ここに土地の長の住めるや

その岸辺の緑陰を我が歩みつ

この地もまた佳きかな

山一つ越えてかなたは古代真野郷

古(いにしえ)も深くつながる地

青鷺の梢に高く一羽休めり

青鷺のまた優雅に飛び立ちゆかむ

川のひびきや餌も豊かなれかし

真昼間の明るさの中青鷺は飛ぶ
 
南相馬市原町区の発展径路はまず江戸時代は陸前浜街道としてあり原町宿があった。陸前浜街道沿いが最初に街並みを形成した。次に汽車が通り原町は機関区にもなったから近代化したときここを基点に発展した。駅前通りが次に新しい街となった。次に車社会となり六号線沿いが発展した。今一番活気があるのは駅から東であり六号線沿いでありそこに新しい道の駅ができた。町は古町になるのが多いのだ。古町が街の中にあるのも町(街)は変遷しやすいためである。不思議なのは原町の最初に開けた地帯は新田川辺りの桜井古墳のある場所だった。今でもここが原町では一番気持ちのいい場所である。ここは六号線沿いの街と古代の好適地があったことで古代が一番最新の街が一体になった。駅前通りはさびれてどこでも古町になった。私自身も駅には行っても駅前の通りで買い物することはない、買い物は六号線沿いが便利なのだ。病院に行くようになってから食事したりオムツの紙や薬を買ったりとこの辺でかなり買い物したからだ。南相馬市立病院があることで人が出入りするから辺りもにぎわうことになる。原町の中心が桜井古墳にあったとき古代にも戻った感じになった。
 
古墳というと高台にあるものが多い。それは日本は低地は湿地帯であり住みにくかった。高台や台地が住みやすい場所だった。真野古墳でも亘理の雷神塚古墳も丘の高台にある。低地に古墳ができるのは時代が遅いのが普通である。鹿島の横手の円墳群は寺内などの高台にある前方後円墳よりはあとにできたものである。湿地が開拓されてできた。原町の桜井古墳は川の辺りであり低地にある。これは川と海に面して作られたのかもしれない、古代は海が相当陸地に入り込んでいたから海に面していた。竹水門(たけみなと)から倭健が上陸したという伝説がありここが港の船着場のような役目を果たしていたのか、立地的には高台にあるにしても海に面していたのである。海に面した古墳では明石の五色恁テ墳などが有名である。これは航海の目印しになったとか瀬戸内海の交通と関係していた。これだけ海に接近した古墳はめずらしい。海を意識して作られた古墳なことはまちがいない、瀬戸内海なら古代でも船の交通があるから別に特別なことでとないが東北だとやはり海は荒いし船で行くことはむずかしい、ただ桜井古墳の立地は川と海を意識して作られたことは推測できる。もっと内陸部に作られてもいいのに海と川に面して作られたから何かそこに謎を解く鍵があるのかもしれない、海というと六号線から常磐線でも海が見え所は少ないが南相馬市立病院の最上階の食堂から見える。海を見たかったらここの病院から見るといいのだ。それで前にここが隠れた観光スポットだと書いたのである。
 
いづれにしろ街は変遷しやすい、次はイオンのショッピングセンタ−ができることで問題になっている。これはイオンという一つの会社が街を作ってしまうことであり他の会社は補足的になる。イオンという大資本によって作られる街なのだ。だから利益は中央に吸い取られるだけだという意見がある。私としては自転車だと六号線からまた遠くなるから不便なのである。車だと不便は感じないかもしれないが意外と自転車はニ三キロでも遠くなる。往復になると遠く感じるのである。だから街は六号線沿いにあった方がいいのだ。
 
青鷺というと大きいから飛ぶ範囲がも大きい、それを新田川沿いで見た。青鷺は原町という広い地にあっていた。花でも鳥でもその場にふさわしく感じるものがある。白鷺は鹿島区のような比較的狭い場所にあっていたが青鷺となると原町があっていた。相馬はまた松川浦があるから別な鳥があっているのかもしれない、ともかく青鷺は原町にふさわしい鳥だと思った。

2008年05月20日

病院から南相馬市原町区の街をながめ昔を思う (原町市は一早く近代化された街だった)


病院から南相馬市原町区の街をながめ昔を思う
(原町市は一早く近代化された街だった)

 
今日も見ゆ丸三製糸の煙かな病院を出れぬ患者とともに

大正後半から昭和初期の話だが、うちの曾祖母は小卒後、地元の県立工業学校で自動織機を学びながら働いてて、当時としては貴重な技術だったため、小学校の校長と同じ給料を貰ってたとさ。数ヵ月に一度は実家に田畑を買ってやったと言ってた。
歳にして13〜だから、今の時代じゃ考えられんな

http://nikuch.blog42.fc2.com/blog-entry-148.html


これは今でIT企業で働くような人である。パソコンの技術者とかである。プログラマ−とかもそうである。これは中学生とか高校生でもプログラムできてゲ−ムを作っている人がいるから最先端の技術は若い人が習得するのが早くそれがこれだけの金をかせぐことにもなっていた。常に最先端の技術は最初金になるのだ。
 
1926年 - 豊田佐吉発明の「自動織機」を製造するため、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)に株式会社豊田自動織機製作所(現・株式会社豊田自動織機)を設立。

トヨタ自動車が自動機織を作ることから始まっていた。宮田自転車のはじまりは鉄砲鍛冶だった。技術も関係ないようでも受け継がれるものがある。ともかく戦前の産業はこの機織りだったのだ。その材料は養蚕であり桑であるからいたるところで養蚕が行われていた。今でも古い家では養蚕をした二階建ての家が残っている。白川郷の合掌作りも二階は養蚕のために作られていた。大正生まれの母の話を聞くと家では手作業で機織りまでしていた。この女性は字を読めないし書くこともできなかった明治生まれの人である。郷土史というと親や祖父母から聞いた話自体が郷土史なのである。郷土史は非常にすべての人にとって身近なものなのである。個々の家の歴史が郷土史だから誰でも郷土史について語れることになる。今家族が南相馬市の前の原町市の病院に入っているのでそこで原町の街をながめていると原町が身近に感じられた。そもそも原町市は私の母のでた所だから身近な街だった。墓もこの街のなかにある。糸取りで機織りで娘の時10年くらい働いたのだ。その話は前にも書いた。大正生まれ、戦前の人はたいがい機織りにかかわっていた。現実母方の家は機織りの会社をはじめて倒産したことが悲劇のはじまりだった。一家離散してしまったのだ。成功する人もいたが失敗する人もいたのだ。
 
原町という街は近代化を象徴した街だった。それを一番示していたのが東洋一という空をつくような無線塔だった。これは相当な威容だったのだ。原町はまた機関区であり原ノ町駅から木材や鉱物資源が貨物列車で東京方面に運ばれた。森林鉄道がかなりあった。これは全国にあった。木材を積み出すことが多かった。丸三製糸会社というのもかなり古い、ここで私の家の親戚の人が働いていたからここも原町市の重要な雇用の場だった。何か不思議なのは病院からながめる景色である。丸三製糸の煙が街中にはきだしているがこれは昔と変わらない、ただ昔は地元の木材を利用していた。今は外材になっている。産業というとやはり資源が地元から供給されるときより活気あるものとなる。山村でも炭焼きで暮らしていけた。その時は山村も活気があり人間も自立していた。中央への依存体質がなかった。自分たちは炭焼きで食っていけるという自信があったのだ。要するに戦前は山村が資源の供給場所だからそうなっていた。だから原町は近代化を象徴した市であり原町という名もそのイメ−ジのなかにあった。戦争中は飛行場もありその格納庫跡が残っている。相馬というと相馬藩であり相馬野馬追いになるが原町はむしろ明治以降いち早く近代化された街としてあった。街にも個性がありそれは歴史的に作られている。明治以降の近代化もすでに歴史となったのである。

 
富めりとも翁の身には知らざらん木の間のけむり絶えずのぼりて 大和田建樹

この歌の意味は都会には金持ちがいても俺たちは田舎で山の中でも炭焼きをして暮らしていけるから満足だ。そんな都会の贅沢とはかかわらなくても暮らしていける。そういう自負の歌だったのだ。それは炭焼きという自活の道があったから都会から税金を分けてもらうような依存体質がなかった。その炭焼きの煙が絶えてしまった結果として山村の過疎化荒廃化になったのである。


郷土史の基本は家にあるから祖父母の話を聞くことから興味を持つ、介護にしても昔の介護はどうだったかとなると悲惨だった。脳出血で倒れた祖母は藁に寝せられ藁で便をしていたというから信じられない。それで四年間も生きていたとか悲惨である。なぜ藁なのかというと紙というのは実際もともと相当貴重なものだった。便に使うにも新聞紙を使ったりと今のような柔らかい紙を使っていない、日本ではもともと江戸時代から紙を使っていた。ヨ-ロッパではその時紙は余り使われていない、それで伊達政宗に派遣された支倉常長の一行が鼻をかむのに紙を捨てていたらその紙が貴重だと地元の人が拾っていたというから紙はヨ-ロッパでも貴重なものだった。鼻をかむのち紙を使うこと自体相当な贅沢なことでありそこで日本は豊かな国とさえ思われた。こういう話を聞くとオムツの紙をこれだけ使っていることなんと贅沢なのだろうと思ってしまう。これは膨大な紙を全国で使っているのだ。高齢化社会もいかに資源の消費するかという問題にもなる。看護にも介護にもいろいろ歴史がある。点滴でも昔は切れたらいちいち看護婦を呼ばねばならなかったから一日見ている必要があった。今は自動化されているからそんな苦労もないのである。人間はやはりなんでも歴史をふりかえり考える習慣をもつべきなのである。歴史というとむずかしく考えるが最も身近にあるのが歴史なのだ。家の歴史がそもそも歴史のはじまりだからである。天皇家の歴史も一つの家の歴史であり日本の歴史になっていることでもわかる。


郷土史はインタ-ネットで調べると無数にある。全国で語りが生まれた、これはいちいち直接話を聞く手間が省ける。この全国の郷土史を編集すれば新たなインタ-ネット郷土学、民俗学など生まれる。郷土史の分野は全国に散らばり出版されても全国にでまわらないし調べようがないものだった。それがインタ-ネットで結ばれたことは新しい郷土史学が形成される。
 

2008年05月04日

飯館の大倉の名の由来は鎌倉の大倉郷から?


飯館の大倉の名の由来は鎌倉の大倉郷から?
http://musubu.jp/somagappeijiji.htm#ookura

 
地名は意外と移動地名が多い、古代の真野郷であれ草原(かやはら)であれ中世の岩松氏関係であれ相馬氏関係であれ移動地名が多い、山の中の大倉もそうなのか?と注意していなかったが鎌倉に大倉御所がありここが鎌倉の中心地だったとすると岩松氏が鎌倉から来たのだから関係あるのかとひらめいた。山の中だからもともとここの地形などから名づけられたと思うが意外と違っている場合がある。葛尾(かつろう)でも長野県の葛尾城と関係がありそこから移動してきた人々が名づけたのだから山の中でも移動地名が結構あるのだ。日本には移動地名が多いことを注意しなければならないのだ。

2008年04月25日

飯館村はなぜ南相馬市に合併しなかったか? (地形的要因が大きい)


飯館村はなぜ南相馬市に合併しなかったか?
(地形的要因が大きい)

 
町(街)、村の魅力を形成するもの
 

●天然−地形
●歴史
●現在の活動


地域を活かすとか街の活性化とか言われる時代になった。地域の魅力とか街の魅力、個性とは何かとなるとこの三つが核となって形成される。戦国時代だと地の利、天の時、人の和が国を守るとされた。それも今も活きている。地の利が戦略上一番大事でありこれは今も変わらない、地の利がなければ国も町も市も栄いない、奈良や大阪が先に日本の中心地なったのは地の利のためである。これは神の配剤であり人間の力を越えた所で神が計画したものだからその備えられたものにより人間は歴史を作り文化を作ってきた。これは世界的にもそうであり小さな地域でもそうなのだ。隣の村というだけで言葉がちょっと違っていたりそれぞれの個性を育むものが生まれてくる。culture-その土地をル−ツとして耕すものが文化となった。日本は狭い島国だが国土は多様性に富んでいる。山あり川あり海ありと変化に富んでいる。一つ山を越えると別な異境に行くような感覚になる。坂−境が非常に多い国なのである。天の時はやはり時が熟さないと実りもない。栄えるには長い時間がかかるし外部からの刺激も必要であり時を待たねばならない、時間の作用も大きいのである。

今の時点を見るのは空間は容易に今でも体験できるが時間は歴史的に積み重ねられた時間を体験することは身近なところでもむずかしい。この辺でも江戸時代にどんな暮らししていたのかとなにとすでにわからなくなっている。
 
福島県にしてもこれも山国の会津がふくまれると多様性に富んでいる。会津はもともと一つの大きな国であり山国であり異質なのである。福島県が会津をふくんでいることは地形的に無理があった。どうしても地形的には宮城県との仙台の一体感が強くなる。会津は浜通りからすると交通も不便であり行きにくいし山が多くてもその山についてなかなか知ることができないのである。この地形的な地勢による一体感は飯館村が南相馬市と合併しなかったことでもわかる。地形的、地理的一体感がもてなかったのである。小高−原町−鹿島は鉄道でも地形的にもすでに一体のものとしてあったから抵抗がなかったのである。飯館は八木沢峠でも相当な高度の差もあり別世界なのである。地形からすると中国の内モンゴルでも遊牧民のいる地帯は標高が相当高いから寒冷地帯である。これは鉄道でなくて車で行ったから実感した。スケ−ルの違う高原地帯なのである。飯館もまた阿武隈で最も高い所に位置する高原地帯でありそれで寒冷化の影響が受けやすく米をとることもむずかしい所であり江戸時代に飢饉の被害者が出たということもわかる。南相馬−相馬市からみるとイギリスであればスコットランドのような別世界になっている。ただ川俣の方からすると地形的、地理的一体感はあるのだ。ただ歴史的に相馬氏に属することになった。地理的境界があったのだが歴史的に相馬に支配された。こういうこともありうる。地理的境界を無視して歴史的境界も作られる。すべてが地理によって地形によって人間の生活は制約されるとは限らない、国境も地理的境界だけでは決められない、一般に地形的、地理的境界になるが例外的に歴史的境界、人工的に作られる。いづれにしろ飯館は地理的境界として地形的一体感がもてないから飯館村として自立的に存続したともいえる。チベットともにているとなる。
 
相馬という狭い地域でも南相馬の原町区は東洋一の無線塔建てられたように明治以降一早く近代化した街としての歴史が原町市のイメ−ジを作っていた。それは今でもそうしたイメ−ジが継続される。相馬市は城下町だから原町とは雰囲気が相当違っている。原町には相馬藩の歴史を思わせるものが少ない。無線塔とか戦争中に飛行場があり飛行機を収める倉庫の跡が残っていたりと近代化された都市としてのイメ−ジがある。今でも対象的なのが道の駅の南相馬と相馬市である。南相馬の道の駅は今年になってできたのだが六号線の繁華な所にあり相馬市は曲屋風の建物で田んぼのなかにある。これも市の個性であった。南相馬の道の駅には現在の活気が感じられる。相馬の道の駅は田んぼのなかにあるから感じが相当違っているのだ。駅という時鉄道の駅が前は主役であり駅から新しい街が発展した。駅前通りが中心となった。これは小高でも原町区でも街の作りが駅前から作られていることでもわかる。それが車社会になった時、駅前通りは廃れるようになった。江戸時代は街道沿いが交通の場だからそこに家が建ち並んでいた、次に鉄道の時代となると駅前通りでありその次は車社会になると道路にそって街が発展することになった。人間の生活は交通の影響が大きいのである。飯館は交通でも不便であり一体化しにくい、一方で地形的には飯館は別世界になるので相馬市−南相馬市からすると魅力的だとなる。自転車で上るのは大変だがその落差が大きいから山を下る時は爽快であり気持ちいいとなる。いづれにしろ町(街)の村の個性は地形(地勢)−歴史−現在の活動から作られる。それが一体となる時個性的な魅力をもつことになる。過疎化という現象は現在の暮らしの活気が失われることでありこの影響が今は一番多い、いくら自然的魅力があっても人々の暮らしに活気がなければすべて活きてこないからである。病院すらそこに人々が集まる故に活気ある場所だったようにやはり人々が集まり生産、消費する遊ぶ場が活気を作るのである。

2008年04月01日

自転車の思い出再考(日本の自転車の歴史)


自転車の思い出再考(日本の自転車の歴史)

 
1960年代半ばから70年代にかけて、庶民が最も購入したがる商品としての「三大件(三種の神器)」には、腕時計、ミシンと並んで自転車が入っていた

宮田自転車の宮田英助も元はこの鉄砲鍛冶職人であった。この国友の自転車は現在東京の江戸・東京博物館に展示されている。
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/ordinary/JP/ordinary/index2.html

 
「国友鉄砲記」によると、天文13年(1544)2月将軍足利義晴が、管領(かんれい)細川晴元を通して国友村の鍛冶・善兵衛らに鉄砲製作を命じ、6ヶ月後に6匁(もんめ)玉筒2挺(ちょう)を完成させたといい、それを国友鉄砲鍛冶の始まりとしています。この「国友鉄砲記」は、国友における鉄砲の製作開始にまつわる話として引用されることが多いようです。

明治時代の自転車店は、輸入自転車の修理が主な仕事であり、フレームパイプが曲がったり折れた場合、パイプを取り替えるのに火床(木炭炉)か必要であった。フイゴは炉に風を送る道具で、鍛冶屋は毎年旧歴の11月8日に鞴祭を行い、鞴はとても大切にされた
http://sca.cool.ne.jp/bunka/siryo41-50.htm

 
ひじやうなる白痴の僕は自転車屋にかうもり傘を修繕にやる   前川佐美雄
 
日本で明治になり様々なの技術が入ってきた。汽車もそうだが自転車もそうだったのだ。鍛冶屋がだから最初に自転車を作り宮田自転車となった。フイゴまで使ってフレ−ムを作っていたのだから驚きである。明治維新がなぜ日本で成功したのかというと技術的な面でも日本は江戸時代にすでにすぐれたものがあったのだ。そもそも何もないのに明治維新のような大事業ができるはずがない、教育でも寺子屋が各地にあり庶民が読み書きできたし英学の前に蘭学があり移行できた。技術的にも鍛冶屋の技術も役立っていたのだ。江戸時代と明治時代は連続性がないようでも連続性があったのである。明治維新を成功させる土壌がすでにあった。
自転車は貴重なもので一生に一台大切に使うものだから丁寧に磨き手入れしておくのが日課だった。荷台がついたがっしりとしたものである。物を運ぶものとして使われていた。自転車で商いするものもいたしキャンデ−を売るのも自転車だったり自転車の活用範囲は広かったのだ。
 
私の生まれたところは、かつての浅草区象潟町八番地。このあたりの江戸の古地図を見ると、六郷屋敷となっている。六郷様の領地が秋田の象潟だったことから、象潟町と名付けられたという・・・道路は広く、自動車なんて通らず、たまに通るのは馬力だけ。自転車屋で子供の自転車を一日五銭で貸してくれるので、私たちは大威張りで乗り回したものだ。

空が明るくなってくると、納豆売りが来る。
「なっとなっとオ、なっとなっとオオオ、みそまめ」
豆腐屋も、真鍮のラッパを吹いて廻って来る。
http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/taitou-imamukasi/kisakata.html

 

自転車はみんなもっていないから貸し自転車商売が生まれる。貸本屋も昔はあった。今はブックオフに変わった。金のない時代ものの少ない時代は借りることが多くなる。
真鍮のラッパを吹いて・・・この真鍮の思い出は真鍮は子供のとき貴重でありくず鉄やで売れたのである。本当に金をもらっていたから真鍮を探していたのだ。朝鮮戦争のあとも日本では貴金属類が不足してくず鉄が金になっていたのである。

 
自転車は、町の自転車屋が注文すると、部品が鉄道の貨物として送られてきて、それを自転車屋の親父が組み立てて、末端の消費者に販売するのが基本だ。部品代はもちろん自転車の「定価」に比べれば安く、どのぐらいの割合だったかは(昔聞いたときは知っていたが忘れた)多分2〜3割ぐらいか? 町の自転車屋は、小型トラックが普及する以前は、駅の傍にあることが多かった。昭和30年代、40年代の半ば頃。昭和40年頃の自転車は、高かった。大人用が3〜5万ぐらいしただろうか。別に高級品というわけではなくて、鉄製で、(良い製品は亜鉛めっきされたもので、)重たかった。値段の高いものは、ステンレス製品が多くつかわれていた
 
この町の駅前にも自転車屋があり二代つづいているから古いのかもしれない、今駅前に自転車屋はあまりみかけない、駅には必ず引き込み線があり荷物を下ろしのせたりしていた。その時縄が使われていたから縄屋というのがあった。近くに縄屋とあるのはそのためである。倉庫だけが当時のままに残っている。鉄道と自転車は密接に結びついていたのである。
 

縄屋と引き込み線
http://musubu.sblo.jp/article/3590684.html


私の自転車の思い出は店屋をやっていたとき卵買いに行かされたことだった。ダンポ−ル箱にぬかをつめて壊れないように卵を運ぶのである。しかし必ず卵は一つくらいは壊れるのである。道は舗装されていないからガタガタ道だったからである。小池から寺内にきて町に来る真野川に橋がかかっていたがこれは木の橋で舗装もされていず揺れたりするから危ない橋だった。橋は昔から流されたり危ないものだった。今はそうした木の橋がないからあんな橋があったことは信じられない、橋を作る技術は木だったらどうしても頑丈にはなりえなかったのである。
 
自転車に乗りて娘のさがしこし卵九つ真玉のごとし 吉野秀雄

その当時卵はまだ大量生産されていない、農家の庭で放し飼いの鶏であり商品化されていない、需要がなければ商品化されない、高度成長に入り卵も売れるものとして商品化されてきたのである。娘が探してくるというのは農家を探してゆずり受けていたのだ。これはさらに明治頃になるから卵はその当時も商品化され店にあったわけでなかったのである。真玉のごとし・・とあるごとく非常に貴重であり病人が食べていたが普通は食べることはまれだったのだ。大鵬、巨人、玉子焼き・・・の意味も玉子焼きも食べられなかった時代があった。それは戦後十数年のことであり戦前のことではなかったのである。

 

私が自転車に思い入れが強くなったのは実際は自転車旅行するようになってからである。それは四〇代以降なのである。その前は汽車旅行だから汽車や鉄道への思い入れが強い、今でもそれはつづいている。郷土史というときその人それぞれが生きた人生が郷土史であるから範囲が広いのである。それぞれの人生を聞き取り郷土史を編纂しているのもそのためである。郷土史に関してはインタ−ネットの情報は豊富である。あと病気に関しても情報は多岐にわたる。この点でインタ−ネットは効用があった。やはり情報が集積されないと深く知ることはできないのである。
 
 

2008年03月21日

橲原(じさばら)のジサはエゴの木の古語


 橲原(じさばら)のジサはエゴの木の古語

 

「山萵苣(やまぢさ)の白露しげみうらぶれし 心に深くわが恋止(や)まず」。
万葉集にでてくるこの「やまぢさ」はエゴノキのことだという。

 木材は緻密で粘り気が強く、各種の木工細工 に適しているため、「ろくろ木」とも呼ばれてい ます。 薪炭にも使用される。
http://www.wood.co.jp/wood/m053.htm

 
南相馬市鹿島区ののジサはエゴの木の相馬地方の方言としてジサノキ−エゴノキと「相馬方言考」新妻三男に書いてあったがこれも万葉集に出ていた古語だった。もともとはやまぢさでありぢさ→じさ(原)になったのだ。方言の基は日本語の古語なのが多いのである。漢字も国字であり特殊である。方言が地名化するとよその人はわかりにくい、どうしてこれがジサと読めるのか、全くわからない、でもここがエゴの木が繁茂する原だったので名づけた。玩具、寄木、薪炭などに使われたからここで山を管理する人が江戸時代から住んで藩の御用を勤めていた。つまりじさという万葉集からある古い言葉がここも残されていた。そくなりと同じ日本語の古語だったのである。橲原 (じさばら)は寺内→小池→橲原となり一番奥になる。寺内だと寺の内とかなり文化的な色彩があり古くから寺があったので寺内となった。小池はやはり湿地帯で小池が多かったからだろう。そして橲原はエゴの木が繁茂するさらなる未開の地だった。だからここは明治以降開拓に入った人が多かった。古い名もない墓所の石くれの墓は明治時代のものであり江戸時代のものがない、この辺では江戸時代のものがあるのは古いしなかなかないのである。小山田は江戸時代から人が住んですでに開拓されていた。隠町(かくれまち)とかあるのは隠田村だったのか年貢を治めない奥地に田を作っていったのかもしれないがこの地名は江戸時代のものである。塩崎(しおのさき)にも隠町という地名があり越中からの真宗の移住者が住んで開拓したところかもしれない、他から入ってきた人は不便な所を開拓する他ないからである。小池には戦後まで入植した人がいる。まだ開拓の余地があった土地なのである。


一軒古い村のように見える所でも新しい場合があるのだ。栃窪の上萱は不便な場所で塩の道筋にあるから古くからあったと思うとこれも歴史は新しい、戦後入植したとか新しいのである。これはもう人は住んでいないから村の歴史は短くして終わった。茅葺きの家があったとき行ったことがある。墓も移動したから何も残っていない。他に飯館の大倉から草野に行く所に共栄橋とかあり二軒ほど家があったがあそこも不便な地域であるが戦後入植したのである。だから二軒あって共栄橋−ともに栄えると名づけた。こういう名づけ方は新しいのである。他にも阿武隈高原にはこういう地名があり入植した人が多いのである。大倉は葉山祭りが残っていたから江戸時代からあったのだ。不便な所でも江戸時代からあった村は古いのである。江戸時代から確かに橲原村があり小池村があり寺内村があった。橲原村に高七石(大塚与右衛門・・・作右衛門、助右衛門)とか給人郷士がいた。橲原には大塚姓が古く栃窪には大谷(おおがい)姓が多く一族を形成していた。郷土史研究の基本は村の新旧を最初に知ることである。意外とこれがわかりにくいのだ。奥地だからいかにも古いと思ってしまうが意外と新しいのが多いのである。最低限江戸時代からつづいている村と明治以降できた村は知らねばならない、江戸時代からあるものは確実に古いからである。八沢浦は明治にに干拓したのだから新しい。郷土史でどこか古いか新しいかわかればある程度のその町や村の歴史がおおざっぱにわかるのである。
 
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2008年03月19日

相馬方言の「そくなり」の意味 (方言は情の言葉−方言の消失はは文化の消失)


相馬方言の「そくなり」の意味

(方言は情の言葉−方言の消失はは文化の消失)
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方言はどこでも廃れてゆく、80代だったらまだ方言を使っている。病院では認知症同士が隣り合わせで話している。方言で話すことが多いから話が通じ合うのだろう。辻褄が合わなくても認知症同士でも話はできる。看護婦は孫の世代であり若いから方言がわからなくなっている。「そくなりだ」と言ったときわからなくなった。うまく看護婦がしてくれなかったので「そくなり」と言った。天草方言で やりそくなう やりそこなう 失敗する ・・・とあったからもともとそくなうの古語でありそれが損なう(そこなう)になった。相馬方言ではそくなったとなる。つまりそくなりという古語が全国的に変化して方言化したのだ。だから天草という東北からすれば果てのような地域にも同じ方言が生まれた。沖縄でも青森でも方言の基は古い日本語なのである。平安時代の古語が残っていて方言化しているのだ。かえってこうした辺境に古い言葉が化石のように残されている。日本語の伝播はもともと京都とか関西で話されていたものだろう。ところが京都から関西、和歌山県、三重県とかはアクセントがにていても微妙に違って方言化しているのだ。東京は標準語だからつまらないしどこの出身かわからない、関西だとすぐわかってしまう。関西弁と東北弁はあまりにも違いすぎる。アクセントそのものが違う。東北弁は訥弁でありアクセント自体が重いし関西の人のように流暢にぺらぺらしゃべれないのだ。ここにすでに文化の差というか人間そのものが言葉によってすぐにわかる。東北人はすでに顔見ただけでわかる人もいる。暗い感じするからかもしれない、文化の破壊について書いてきたけど方言の破壊もこれも文化の破壊である。これは日常的に最も身近なものだから影響が多い。でも言葉でもアイヌ語ならべつだけど東北弁でも日本語の古語は変化したものが方言なのだからそのもとは同じだったとなる。蝦夷語があったとかいうが
そもそも平安時代から話されている言葉が全国に伝播したのでありそれが方言化しているのだ。方言の起源は地元にあるのではなく伝播されたものだった。ただアクセントの違いが独特な情の言葉にしたのである。
 

方言は情の言葉である。例えば家族が認知症になってもいつも行っていた隣の家の人は学もない話も良く通じないような人に見えたがこの人は「がんばぺっな」(がんばろう)と励ましてくれていたから情ある女性だった。わけのわからないことを言っても嫌がらず話を合わせていたのだ。病気と知っていて受けいれてくれていた。これはなかなかできないことである。ここでも方言で「がんぱぺっな」というとき情がこににじみでていたのである。認知症の人と普通の人とつきあうことは非常にむずかしい、今は同じ病室の認知症の老人とはうまく話している。なぜかというと訳のわからないことを言っても答えてくれし訳がわからなくても通じ合うという不思議がある。その話はほとんど方言である。訳がわからなくても通じ合うということは互いにそこで励まし合っているのかもしれない、何らか情が通じ合っているのかもしれない、言葉の前に人間は情があり言葉に情が乗りうつってはじめて伝わるものがある。言葉でも愛情をもって呼びかける言葉とただ単に記号のように呼ぶような言葉は違う。何号室の何番さんとか呼ばれたらそれは記号として呼ばれているのだ。現実に現代社会は人間は数字的単位であり数値化していることが多いのだ。いろいろな文書は数字とたいして変わらない、理知的な言葉である。ただ話し言葉になると情を交わすことが多くなるから方言が向いているのだ。
 
地方の医療現場では今、標準語を話す若い医師や看護師が増え、方言を使う高齢者が、身体の痛みや心の悩みを伝えにくくなっているという問題を抱えている。こうした中、医療や看護の場面で多く使われる方言をデータベース化し、世代間や地域間の“言葉の壁”を取り払い、お年寄りが住みやすい地域作りを進めようというユニークな取り組みが行われている。
http://sankei.jp.msn.com/life/body/080308/bdy0803081932002-n2.htm
 
医者にも方言を覚える必要があるのだ。むずかしいにしても方言だと情が通じやすいからだ。方言は文化であり医学は共通の科学なのだが方言は情を通じ合わせるのに不可欠なのである。特に年寄りを相手にするときはどうしてしも方言が必要なのである。方言が消えることは文化が消えることであり情も消えて行く、希薄化してゆくという深刻な問題があるのだ。言葉は数字ではない、情を通じ合わすものとして言葉があることを忘れてはならないのだ。


郷土史研究といういろいろある、意外と老人ホ−ムとかで老人の話を聞くと意外な発見があるかもしれない、老人は生き字引ということもあり方言を調べるにも本ではなく本当にしゃべっている、生きている言葉を聞くことができる。それは若い人に伝えねばならぬものかもしれない、日本全国がみんな一様な言葉の標準語になったらつまらない、というより文化の破壊なのだ。英語が世界語になると同じである。老人は無用の存在で地域でも役に立たないとか邪魔だとかなりやすいが老人は何かしら文化を伝える役目をになっているのだ。

認知症の人でも全然通じないわけではない、かえって饒舌になる人がありいろいろ遠慮なく話すから聞き取ることが楽な面もある。意外な秘密までしゃべってしまったというのもそのためである。老人は郷土史研究には必要不可欠の存在である。老人の一生そのものが生きた郷土史だったからである。

2008年01月08日

相馬市日下石地域の方角地名


相馬市日下石地域の方角地名
http://musubu.jp/somagappeijiji.htm#nikeshihokaku

 
国土地理院の地図閲覧サ−ビスで見たら日下石の松川浦に出る柏崎の方角地名が目にとまった。こうした狭い一地域でも方角地名がつけられる。やはりそこに暮らす人にとっては方角が一番目印になるしわかりやすいし名づけるのも簡単だからそうなる。南相馬市もそうだったのである。つまり方角地名は名づけやすいしわかりやすいし生活するにも便利だから多いのである。道の駅の近くに鬼越館などがあったことなど知らなかった。城のことを綿密に調べ歩いている人がいる。それがインタ−ネットにのっていたのだ。それであそこのことがわかったのである。意外と外から来た人によって郷土のことがわかる場合があるのだ。まあ、地名の研究したらきりがない、でも地名の研究は一番郷土研究には入りやすいのである。ともかく学問というほどでもないが何であれ積み重ねが大事である。こうして積み重ねてゆけば何かが系統的にわかってくる。インタ−ネットは郷土史研究に役立つのである。もっと情報がでればいいのだがまだたりないから厚みがないからインタ−ネットでは限界がある。郷土史でも範囲が広いから各自興味あるものをインタ−ネットに出せばそこからまた結び発展してくるのである。

2007年12月11日

名取に鯨が打ち上げられた (相馬(鹿島区)にもあった鯨の碑)


名取に鯨が打ち上げられた(相馬(鹿島区)にもあった鯨の碑)


宮城県名取市の砂浜に10日朝、体長11メートルのクジラが打ち上げられた。同市によるとマッコウクジラで、昼過ぎに死亡が確認され、同日夕、砂浜に埋められた
(朝日新聞)
 
名取とういうとかなりここから近い、ここの鹿島区の烏浜の港にも鯨大明神という碑があるから鯨が打ちあげられてその鯨の供養のために碑を建てたのかもしれない、明らかに名取に鯨が打ち上げられたことはここでも打ち上げられることは不思議ではないと思った。現実味のある話としてこのニュ−スを聞いたのである。
東北ではまたなぜ鯨取りがそれほど盛んにならなかったかというと地形にあったということは意外だった。鯨は入江に入ってきた鯨や入江に追い込まないととれないものだった
 
八戸地方の漁民たちが守り神とあがめていた「八戸太郎」とよばれる大きな鯨がいた。それとおぼしき鯨を紀州の熊野浦のモリ打ち漁師が突き漁で深手を負わせる。漁師はそのたたりか同じモリで事故死する。その鯨が八戸の鮫海岸の漂着して死ぬ。死体は朽ちることなく大きな岩になり、今日まで地元漁師にまつられているという。
 
ここで注目すべきは熊野から来たモリ打ちが鯨取りを伝えたのである。紀州の熊野から各地に移住した人がいる。東北にも熊野神社が実に多いのだ。明治になっても鮎川に来た。熊野というと紀州だからずいぶん遠いところから来たと思うが相馬辺りでも実に「熊野神社」が多いからこうして移動してきた人がかなりいたのである。
 

紀州出身の鈴木重原(孫)の次男か三男が相馬の西方、熊野神社が有りました場所になる中野地区の場所の地名を取って中野と名字を名乗り、その後北畠顕家の家臣に成っていた、中野左近亮が北畠顕家の死亡の後に北畠家より離れて相馬の南方に当たる立谷部落に移り、立谷左近亮と名乗り、立谷家が生まれました。
http://blog.livedoor.jp/tachiyafamily/archives/2004-12.html

 
一端は中野とその土地の名を苗字にして次に日立木の立谷の地名をとって姓にした。何南北朝の時代だから北畠顕家の家臣というから相当古いことになる。熊野神社が相馬にも多いというのもうなづける。
 

(鯨の話−東北と関西)
http://musubu.jp/jijimondai28.htm#ku

 
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古老の話によると、慶長津波の後に福島県相馬地方の武士であった相澤家、
大友家、柴崎家などが移住して中野集落ができたと言伝えられる。相馬の地名
にちなんで中村屋敷、吉田屋敷とよばれていた。この地は現在も住宅地である。

(六郷の会)
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/
archives/sagufuji.pdf
 
この津波が相当大きなもので記録に残された。津波のあとで開拓に入った。他の人も慶長津波の後に新しく開拓に入っている。名取もヌタリであり湿地帯が海の方に向かって広がっていたのだ。津波の後に伊達藩では開拓に入る人を必要とした。それで相馬藩からも呼んだとなるのか、相馬藩でも飢饉のとき人口が減り越中から人を呼んだからだ。相馬、相馬と草木もなびく・・・という民謡は相馬に人を呼ぶのために作られた。やはりよほど困っていたからそんな歌まで作ったとなる。
 
ここで注目したのが六郷と七郷の境にあるという一本松であった。これは境の松とはなっていないが平野のなかに一本ぽつんとあったから目立つ松だった。まさに「一本松」だった。
 

広瀬川が水不足になれば六郷・七郷の水争いは絶えなく,鎌や鍬等を持った大勢の農民が堰に集まり流血騒ぎになるほどの水争いとなり,死活問題でもあった
http://www.pref.miyagi.jp/sdsgsin/nn/pdf/67walk.pdf

 
この松はその境だとするとここを境に争いがあったとも想像される。
この写真を見比べてわかったのだ。現代はデジカメ時代は一人一人が監視カメラのようになって一地点の写真や説明をインタ−ネットに書いている。それで郷土史の研究にはかなり役立つのである。あらゆるものが情報化するのがインタ−ネットであるというとき全国の碑の場所と説明と写真が情報化されることになるようなのがインタ−ネットの情報化社会の未来なのだ。この松で奇妙なのはこの境の一本松を通って仙台空港に行ったことなのだ。境はなく空を飛んではるか沖縄や外国に行くということが今の時代を象徴している。ともかくこうして郷土史研究はインタ−ネットで役立つが編集する必要があるのだ。編集するとこのように一つの論文のようにもなるのである。つまり仙台と相馬は伊達と相馬で争っていたから関係深いからそこから郷土史への広がりでてくるのである。
 
昔なる境の松の残りしも空港へ行く夏の朝かな


 

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2007年11月16日

明治−大正−昭和−元号の町村名は消える運命に(地名談義)

 

明治−大正−昭和−元号の町村名は消える運命に(地名談義)
http://musubu.jp/somagappeijiji.htm#gengo

 
明治村が消えたとすると大正村も昭和村もいづれ消える運命にあるのか?やはり一時代を象徴するものは地名にふさわしくない、地形とかから地理の目印としてつけられたのが地名とすると地名にはふさわしくなかったから消える。明治以降は日本にとって特殊な歴史であり地名化もその一つだったが時代を残すことむずかしい。空間は地形は千年前と同じであり変化しない、だから地形を基にした地名は千年も残るのである。時代は変化するから残らないのだ。

2007年10月27日

土のつく地名(地名分類)

 

土のつく地名(地名分類)
http://musubu.jp/somagappeijiji.htm#tuchi

 
万葉集に真土とありここから発想してキ-ワ-ドでひくと土に関することがでてくる。土は多様であり農業は土とかかわるのだから土に根ざしているのだから良い土を求めた。陶芸家でもいい土を求めて良い土を得られる所で釜を開くということがある。インタ−ネットでの学問の仕方はまだまだわかりにくいが郷土史や地名研究には役立つ、全国の市町村の一ペ−ジの情報でも膨大だから役に立つのだ。インタ−ネットは調べ方が大事である。自分の探すものが意外なところにある。有機農業をしている人たちのペ−ジに土に関する詳しい情報があった。地名を調べるときそれと関係ない分野にもいい情報がありそれらと結び付ける(MUSUBU)ことがインタ−ネットの勉強の仕方なのだ。一冊の本を読むのとは違う、異分野の情報とも結び付ける作業が必要なのである。

2007年10月22日

グロ−バル化広域化は地名も破壊する (常磐線の新しい駅−太子堂の是非)

 

グロ−バル化広域化は地名も破壊する
(常磐線の新しい駅−太子堂の是非)
http://musubu.jp/somagappeijiji.htm#taishhi2

 
グロ−バル化は世界的広域化であるが国内的にも広域化があらゆる面で進んでいるから知名にも影響したのだ。外からみてわかりやすい地名にする。南相馬市もそうだったし観光客を呼ぶために白神市とか南アルプス市とか外からの視点で名づけられるのが多くなった。常磐線の新駅の太子堂はかえって地域的な古いものを駅名にしたから違っていた。でも外からの視点、常磐線を利用するものから見ると南長町の方がわかりやすかったとなる。でも地元の感覚からすると太子堂となる。ただこの太子堂は全国的にあるしその由来も古かった。グロ−バル化もそうだが広域化すると文化は破壊される。地名もその一つだったのである。

2007年10月12日

飯館村が残った理由(地形的境界と歴史的境界


飯館村が残った理由(地形的境界と歴史的境界)-地名談義
http://musubu.jp/somagappeijiji.htm#iidachikei

 
飯館村が南相馬市と合併に加わらなかったのか?財政的問題とかあるみたいだけどやはり地理的一体感がもてないのも理由だったのか?小高−原町−鹿島はそもそも常磐線沿線としてもすでに経済的にも地理的にも一体化していた。飯館村は地理的に山でさえぎられている山国として別なのである。交通の難所として山に隔てられている。むしろ川俣の方と地理的一体感をもちやすいのだ。歴史的にも小手森があり小手姫伝説が伝わっている地域である。相馬には伝わっていないからだ。今回の合併問題はやはりいろいろな問題があった。地理的に一体感がもてないものを無理やり広域市化したのも問題だったしまた文化の破壊もあった。飯館村が残ったのは山国の小国が独立国として残ったという感じでもある。南相馬市とは別な山国としての独自なものとして残ったから良かったのか、経済的には苦しくなるから悪かったのか、合併問題は文化的な側面もあったから地名変更は単なる名称の変更に留まらなかった。最悪なのは美里とか全国で何カ所か変更したことである。これはあまりにもありやれた美称であり何の根拠も個性もないものであり地域性も文化も抹消してしまったのである。

2007年09月22日

地名は実益からつけられた


地名は実益からつけられた
http://musubu.jp/somagappeijiji.htm#jitueki

 
地名はまずそこに住む人によって必要なものとしてつけられた。だから方角地名だけでも意味があった。私の住む所でも上町と下町があり下町は土地がかなり低い、それで私の住んでいるところが洪水で二度も被害を受けた。一番土地が低いところだったからだ。それが新しく変わった地名はそうした土地の事情とは何の関係もないものだった。下町とい住所はもともとなかったにしろ上町と下町に分かれていたのはそれなりに意味があったのだ。こういうことはどこにでもある。その土地に住む人にとってカミとシモというだけでどの辺に住んでいるかわかるからだ。
 
陸奥の真野の草原(かやはら)も萱がなびいている美しい場所だから憧れたというものではなかった。これは歴史的地名でありそんな名前を地名にはつけないのである。全国で美里という名前をつけたのは最悪だった。その土地の人にとっても他から見てもまた美里かとなる。美しい国というのと同じである。美しい国という言葉より実益から名づけられたのが地名だからである。
 
これは本サイトの連続して書いてきた「地名談義」に書いた。ここは一番アクセスがある。毎日10くらいあることは他にない、それがすでに3、4年くらいつづいているからだ。

2007年09月19日

陸奥の真野の草原の歌の謎が解けた!

 

陸奥の真野の草原の歌の謎が解けた
http://musubu.jp/manokayagimotoketa.html

 
一年間くらい私の研究テ−マだった陸奥の真野の草原の歌の謎解きのつづきをまた書いた。いろいろな本などに書いたものをつなぎあわせた感じもするが草原(かやはら)は古代の郷名をたどると伽耶に通じていた。大草は大伽耶であり単なるクサやカヤではないのだ。草原郷とある所は伽耶と関係していた。それは出雲の意宇(オウ)郡の意宇氏の移動がありこれには宗像氏とか安曇族の海人族がともなって移動してきた。草原とあるところはまた産鉄集団の移動であり産鉄が行われたところでもありまたカヤが入江とすると港と関係があり武蔵国の草原が大和王権の大伴氏が来る前に草原は港の地名としてあった。そのあとに大伴系統の真野の地名を常陸から移動してもってきたのである。草原は単なる自然の萱などではない、壮大な伽耶に連なる、大和の建国に連なるなかでもたらされた地名だったのだ。自然的地名ではない、その背後に大和建国の歴史が埋もれていたのである。

2007年08月29日

新鉄道唱歌(仙台−相馬−磐城)


新鉄道唱歌(仙台−相馬−磐城)

 

時事鉄道へ
http://musubu.jp/jijirailway.htm#song

 
鉄道は今や百年たって歴史となり回顧の時代に入った。鉄道ブ−ムの原因は廃線なども多く歴史として城の跡をたずねるように回顧の時代に入ったからだ。鉄道の旅は全国を俯瞰するのに向いている。30年鉄道に乗り続け全国の線を全部乗ったから思い出も多い。ただ鉄道の問題もスピ−ドが早すぎて空間的認識では俯瞰できる面があったが時間軸の歴史となると深い認識ができない、時間軸の歴史はその場所での積み重ねの知識や想像力が必要であり簡単にできないからその印象を書くとき浅薄になるのだ。今回は仙台−相馬−磐城ということでここは生活路線なので過去から現代へとさかのぼり新鉄道唱歌を作ることができたのである。