2020年09月21日

敬老の日ー長生きではその意味が問われる (ただ長生きしても価値も意味もない―新しい老人観が必要)


敬老の日ー長生きではその意味が問われる

(ただ長生きしても価値も意味もない―新しい老人観が必要)

高齢化社会になると百歳以上も増えてくる、これまでは百歳生きたとなると凄いなとそれだけで価値が認められていた
でもこの数が多くなるとまた見方が変わってくる、百歳など普通でありいくらでもいるとなれば価値がなくなる
だから今やそういう段階に来ている
パークゴルフをしている人が多い、この辺でも広いパークゴルフ場が作られた
そこは広いから見晴しもいいからそこに老人が集まる、社交場にもなる
それをとやかくは言わないしそういう場があってもいいとなる

ただなぜ高齢化社会になって老人どうのこうのといろいろ言われるのはそれが今までの老人と違ったものになっているからである
今までの老人は人生50年とか70年でもそれで老人がとやかく言われない
その生きた人生を語れば死んでいたからである
だから長い老人の生を問われない、60まで70まで生きた人生を問われるだけである
ただ百歳となると今での人生とは違う、100歳まで生きる価値と意味を見出す、また社会に提供しなければならなくなる
ただ健康に長生きすれば価値と意味が生まれるとはならない時代になった

でも一般的にそういう価値と意味を作れるのか?

これが問題になるが会社を退職したら何をしてそれができるのか?
趣味とかもありそれで意味と価値を見出すこともありうる
ただみんな趣味に向いているわけではない、それで私の家族の一人が公務員を退職してから何もしなくなった、何か仲間で貼り絵などしていたがそれは向いていなかった
看護婦だったから人の世話に向いていた、でも一切何かそういうことをしなくなった
家事すらしてくれる人がいたのでしない
毎日何かテレビを見ているとかであり何か合ったこともしていない
ただ毎日怠けていたとなる、怠け人間になったとなる
ただ一緒にいてそのことに私は気づいていなかった

それに気づいたのは認知症になったときなのである
それでなぜそんなふうになったのか?病気でもあるがその原因が55歳くらいで役所を退職してから何もすることもなくなっていた、家事もしない、何か頭を働かせることもしない体も働かせない、怠け者になったのである
でも85才まで生きた、でも55才で退職したら30年もそうして何かやりがいもなくただ怠けていたとなる
せめて家事でもしていれば良かったがする人があったのでしなかったのである
そのうちボケて来たのかとふりかえり思うようになった
それは病気にしろボケた原因が認知症になった原因がそのように生きがいもない、家で何もすることがない、家事もしないということにあったのかもしれない
家事はしてみれば結構頭使うからである、その他趣味もなかったから余計に頭を使はないそうして認知症になったのかとふりかえり見る

認知症の原因はわからないにしてもそういうふうに退職して何もしない、趣味もない、家事もしない、ただテレビを見ているとかなると認知症になりやすいかもしれない
それが30年もつづけば相当に影響する、つまり退職してからの生活に問題があったとなるまず会社を退職するとその人の役割りは消失する、地域とかで何かボランティアなどするにもできない、地域社会自体がもうないからである
すると家族しかなく、妻の後をついてゆくだけとかになる
それで妻からもうざいとなり嫌われる
ただそれが70くらいまでならなにやかにやあってもそんなに問題にならない
百才まで生きるとなるとそうはならないのである
私はこう生きたとか語っているうちに死んでしまうからである

でも百歳になると新たなその年月の価値と意味を発見して作り出さなければならなくなるそれがパークゴルフとかで作りだせるのか?仲間とそこで楽しみまた動くことで健康にはいい、でも外部から社会全体からみる、若い世代から見てもパークゴルフに費やされる人生をどうみるだろうか?
一日遊んでいていい身分だとかともみる、でもその老人たちを養う金を年金を払っているのは若い世代だとなりそういうことをしている老人を価値ある、意味ある人と認められるのか?
これが70歳くらいで死んだら何も言わない、何かそうして見ている時間がないうちに死んでしまうからである
百歳まで生きるとしたらそうは見ないのである
そこで何のために生きているのか、ただ人の迷惑のために生きている人もででくる
切れる老人とかいろいろな問題老人が社会を歪める
ただ自分にしても百歳まで生きることがイメージできないのである
あと10年くらいは生きるだろうとはなっているが百歳となると長すぎるのである

だから高齢化社会というのは今まで経験していないことであり模範になるものもない
またその価値と意味も作りだされていない、だから金銭面だけではない、何か精神的にもそこまで生きる価値と意味を作りださなけれ社会ではただ下の世代にとって重荷とされるだけになる
私の場合は認知症になっても介護したのは特別世話になったからである
60まで食事でも用意してくれたし好きなことをさせてくれた
だから介護になったとき自分はそれが苦しくても当然だと思うようになっていてできた
完全ではないにしろ懸命に介護したのである
それで最後にわかってくれて本当に今になると良かったと思う
それだけ世話になった恩返しを少しでもできたとふりかえるからである
正直これからは親孝行したいとき親はなしにはならない
親の介護は必ずありその恩でも返さなければならない、報いなければならない
それがまた高齢化社会でもある、諺は時代を越えて通用するものだがこれは通用しない
親孝行したいとき親はなしでなく親の世話を強いられるとなる

敬老の日というときそれは今までのとは違うものになっている
敬老というときただ長く生きたものを敬うべきだとしていた
でも今までは長く生きても短い、70くらいだとまだまだ元気な人が多い
全然老人に見えない人もいる、髪も黒くふさふさしているのに驚く
個人差があるにしてもなんかあの人が老人なのかと見えないのである
私と同じ年なのにそうなのである

要するに老人観が変わってしまったのである、今までの老人観は通用しない
これだけは確かである、それでいろいろと誤解があり若い人も老人をどう見るか戸惑うとなる、それは老人がまた多すぎるからこんなに老人ばかり必要ない、税金とられるのも嫌だというのもわかる
第一そんな老人ばかりで社会が成り立つのかともある
ということは今や老人は今までのように社会から隠居するかにはなれない
社会の一員として価値と意味をもたないとただ無駄なものとして早く死んでくれと言われるだけになる
百歳まで生きてどうなるのだとか見られる、何のために生きているのだとか言われる
だからパークゴルフしてそれが社会にとって何んの意味があるんだともなる
ただ老人はそんなことで何も思っていない、当然の権利だと思っている
若い世代は老人に尽くせとしか思わないともなる

ともかくこれだけ老人が多いということは老人は長い生きしたからといって百才まで生きても敬われたりしない、今までの敬老は通用しないのである
だから敬老の日も何か時代に合わなくなっている、それはただ長生きしたから敬うという前時代の観念なのである
ただ正直高齢化時代、人生百年時代の社会がどうあるべきかを社会自体で示されていないしまた老人でも作りだしていない、それは人生百年とかの時代を経験もしいないからである、だから新しい老人像とか老人観とかを作りださねばならない時代になったのである
金銭的問題も深刻だが精神的な問題としても問われているのである

何か自分にとっては長生きすることはいいことである、今までしてきた探求追求してきたことを作品化したりもっと学問的にも芸術的にも深められるからである
まず「少年老い易く学なりがたし」とかあり

芸術は長く人生は短し

ヒポクラテスが医術について言った言葉。医術を修めるには長い年月を要するが、人生は短いから勉学に励むべきである、がもとの意〕 

何かを究める時、時間がかかるのである、その時間がたりないからこういう言葉が生まれた、人間は本当に何するにしても時間が短すぎるのである
60くらいあっという間にすぎる、遊んでいても何もしなくても過ぎる
自分の場合はただ旅していただけで過ぎてしまったのである遊戯三昧で過ぎてしまったからだ、ただそれも無駄ではなかった、それで旅を思い出して今作品化しているのである

これから会社を退職してからでも百才まで生きるとしたら人生が二つあることになる
ということは儲けものだともなるがまた重荷にもなる
ただ確かなことはいろいろと理解することが多くなることは確かである
人間はつくづくいろいろなことを知らない、経験するにしてもわずかなことしかしていない知識も膨大でありわずかなことしか知りえない、だから常に学ぶ必要がある
知識を広めるまた深めることが必要になる、すると時間がかかるから百才まで生きることはそれができるからいいとなる
でも百才の人生を有意義に他者かも若い人からも認められて生きれる人はそんなにいるのかとなる、何もすることがなくボケる、認知症になるという人も増えて来る

平成29年度高齢者白書によると、2012年は認知症患者数が約460万人、高齢者人口の15%という割合だったものが2025年には5人に1人、20%が認知症になるという推計もあります。

これも恐ろしいことである、こんな社会がどうなるのか?まさに悪夢である
認知症の人を介護することは経験したからもう地獄になるからだ
私は二年半で終わったから助かったけどそれが長引いたら地獄になる
隣の原町で認知症の母親を殺した50代の男性がいた、こういうことは頻繁に起きて来るから高齢化社会の暗黒があり悪夢になる
なんらかこの認知症を治す方法があるのか?これはコロナウィルスより怖いともなる
これはなんとか治まるとして認知症は治まらないからだ
90以上になったら半分は認知症になる、その症状はさまざまでもやっかいな病気だからそれが介護負担となり家族まで崩壊するから怖いのである
自分自身がその家族崩壊を経験したからである  

こうなると敬老どころではなくなる、老人は殺せ始末しろとかまでなる
何でもいい面と悪い面がでてくる、ただ百歳人生というのはイメージできないのである
そういう社会は何か今までの老人観とか通念では理解できないものである
だから新しい老人観を高齢化社会の見本を作りださねばならないとなる
ただそういうふうに社会でも老人でも自覚していない、パークゴルフでもしていればいいとかくらいである、でも会社退職してからでは何かそうした人生百年には備えられない
精神的にもやはり若い時から備えねばならないともなる
会社員としての人生があったとしてももう一つ60から40年の人生があるとしてそれに備えねばならないともなる
ただ人間が老人になるとわかる、それはいくら長生きでも死ぬということである
死を常に感じる、すると今生きているということが本当に貴重だとなる
なぜなら明日はもうここにいない、また明日はもう人とも永遠に別れて二度と合わないという意識になるからだ、常に死を意識するから若い時とは全然違った感覚になるのである


2020年09月14日

医療の無駄は大きい (4兆円コロナウィルスで病院の収入減るー2025年問題の深刻)


医療の無駄は大きい

(4兆円コロナウィルスで病院の収入減るー2025年問題の深刻)


福祉でも必要でも無駄が多い、とにかく検査するために東京の方に医者に行けとかまた
人間ドッグに入るとか何かと医者通いである
それも無料ではない、負担がある、でもその負担ができない、そしたら普通はそんなに医者に行けなくなる、現実にそうして金がなくて医者に行けないと薬も飲めないとかある

なぜこうなるのか?福祉だと医者がそれほど必要なくてもすすめるからかもしれない
とういうのは医者でも相手が生活保護だったり何か貧乏でも国から補助されたりしていて金がもらえとふんでいるからである、そして別に一般の人でも医者にかかると必要のない医療とかを受けさせられる

現実に近くの病院で認知症をみるCTとかを受けた、でもそれは何の役にも立たないものだった、それは病院でもわかっていた!
それで3万もとられた、3万は安いようで一割負担の後期高齢者だから実際は30万にもなっている!
その人は5万だとしている、でもその負担は大きいのである
結局福島県でCTを撮れる機械があるのは二台だけである
あとはそういう高度の機械ではないのである、それは前からわかっていて金のためにそれをすすめただけだとなる
普通だったら専門家はそのことを知っているから奨めないのである
でも金のためにすすめる、その機械自体が高価だから利用しないと病院経営もしていけないとかなる

つまり何か他でも医療は相当な無駄がある、それが保険で安くなるから気軽にかかるとなる、それが今度は国民健康保険とかのみんなの負担になるのである
なぜ医療費がこんなに莫大なものとなってもう限界だとなるのか?
それはこのように医療は無駄なものが多いのである、延命治療とか終末期医療になるとここでも相当な金がかかる、だからそうした手厚い医療はいいようでも最後は苦しめるだけだとして治療をしない方がいいともなる
ただこの判断は実際はむずかしいから議論になる

でもこれから2025年問題がありそこで団塊の世代とかが病気とか介護になる人が増大するそこで日本の手厚い保険制度がありそれはいいものでも負担しきれないとなり国がつぶれるとまでなる深刻な問題になる
とにかく介護で苦しむ人が増えて来る、この辺では原発事故で介護士がいないとか青森県に送られて介護してもらっている
でもその息子も実は生活が苦しい、でも何か小遣いとか足りない金を送っている
だから親を活かすために苦労しているとなる
これは金銭面だけではない、介護は必ず人手が必要でありそれをすべて金でまかなうことはできない、この辺で認知症の親を息子が殺したという事件でもそうである
こういう事件は日常的に起きて来る社会にもなる

そしてなぜ医療費の無駄が多いのか?
それはコロナウィルスで証明された、不必要でも医療というのは日本では保険制度があり病院にかかれる、アメリカだと金がないと保険に入っていないとかかれない
だからアメリカでは医者にかかれず死ぬ人がでてくる
日本では逆に不必要でも病院に行きみてもらいるからそこで負担が大きくなる
今日本が経済的に落ち込んで苦しくなっているときその負担に耐えられなくなる

コロナウィルスでわかったことは大病院でも軒並み病院にかかる人が減って収入が激減した、それで結果的に4兆円くらい保険の支出も減ったのである
つまり4兆円分は別に病院に行かなくてもなんとか患者が耐えられるものだった
またそうでなくても医者にかかれないから危険だからひかえてそうなったのである
医療にはそれだけ無駄が多かったしそれは言われてきたがそれがなかなか節約できないのは命にかかわることでありあなたはもう治療しても直らない死んでくださいと言えないからである、ただ介護する方になるともう死んでくれとなる

それは自分自身が思ったことでもあった、それは誰でもそうなるのである
一時は二人を同時に介護する恐怖があった、それも意外と一人は認知症でも二年半で死んだしもう一人は5年くらい介護しても一週間前までポータルブルトイレに行っていたので
なんとか介護できた、それがオムツとかなると相当な負担で耐えきれないとなっていた
私自身が何かずぼらでありそういうことに向いていなかったからである
その時自分自身も病気になり二回も入院していたのである
自分自身が病気でも介護する人がいないからそうなった
その時助ける人が自分自身しかいなかった、それでさんざんな目にあった
そのことをプログに延々と書いてきたのである
介護は金だけではできない、人手が必要になる、それも愛情をもてる人でないと本当はできない、でもそうでなくても介護自体が負担なのである
だから早く死んでくれないかなと誰でも思うのである

でも死んでみるともっと親切にしていたらと後悔する人も多いのである
そうして悩むのが介護だとなる、自分の場合は介護して良かったと思っている
最後は認知症になっても私の介護したことを認めてくれてわかってくれて死んだからである、認知症の怖いのは馬鹿になったのとも違う、人間としてわかることがある
この人は冷たくしたとかわかる、すると恨んで死ぬということがあるのだ
そのことが死んだ後に怖いとなる、私がずぼらでも介護できたのは60まで身の回りの世話をしてずっと良くされたからである
それは普通ではありえないことだった、それだけ世話になれば自ずと介護する動機があるだからできたのである、他の人はそうした動機がない、金だけでは介護とかはできない
その金すらたいしてもらえないとなると余計できないとなる

いづれにしろ高齢化社会の問題は病気であり介護であり金もかかる
その金でももう食べることもできないような人がいる、日本全体でも5パーセントが電気水道ガスがとめられる、家賃でも払えない人がいる
5パーセントというと少ないようでも多い、100人で5人であり一千万人で50万いるとなるとそれなりの数になるのだ
その人たち月末に電気、ガス、水道代が払えないのである
それでそれを取り立てる仕事の人が嫌でやめたともいうのもわかる
相手は払えない人たちだからである、そうして最後は住む所もなくなりホームレスとかなる、コロナウィルスではそういう人もでてきた

日本が今や三等国だというときもう福祉とかに金が回らない、医療にも回せない、生活保護でも最低の生活費がもらえない、医療費もただではない、必ず負担がある
そうなると人間は餓死するか、病院にもかかれず早めに死ぬことにもなる
現実そうなっているのだ、もう無駄ができないのが日本なのである
だから高齢化社会は実際は金がないとかだけではない、弱い者は生き残れない
淘汰されていくほかない、手厚い福祉とか医療とかはもう受けられない覚悟が必要になるのかもしれない、それだけ国にも余裕がくなるなからだ

ましてや氷河期などが非正規とかが60以上とか70以上になったらもう悲惨である
生活保護も受けられない、国民保険は雀の涙とかなり死ぬほかなくなる
とても手厚い医療は受けるのは無理になる、だから病気になったら医療も受けられず介護もなく死んでゆくことになる、その未来はもう見えているのである
元気な人は生きてもいいが弱ったら老人は捨てられる、だから健康には気を付けろとなるか貧乏なると栄養すらつけられないのである、だから高齢化社会は闇黒ともなる
それも2025年とするとあと5年だからすぐなのである

2020年09月05日

墓とは何なのか? (墓は人間の最後に訴えつづける場)

墓とは何なのか?

(墓は人間の最後に訴えつづける場)


墓とは何かと追求して来たけどこの年になると家族でもみんな死んだし親戚でも死んだしまた身近で知っている人でも死んでゆく、だから死が日常にもなる
でも墓とは何なのか?
それを具体的に感じたのは母の実家の25歳で肺結核で死んだ人である
母の兄になっていたのだろう、その墓の前に立つとき常に死者から聞こえて来る声がある
「俺は生きたかった、もっと生きたかった、無念だ、無念だ」という切実な声である

他にも31歳で戦死とかの墓もあった、そこからもそうした声が聞こえて来る
つまり墓というのはそこに依然として死者がいるという感覚になる
江戸時代の墓でもそうでありだから私は墓をいつも見ていたのである
江戸時代の墓があればそれは歴史的遺産にもなる、それで死んだ人の年号をみる
そこが一番大事だからである
江戸時代になると歴史的遺産であり何か聞こえるものがない、歴史の記念碑のようなものになる

でも明治から家族墓になったとき一家の墓になったとき個人もそこに埋められて 墓碑銘に記される、個人でも個人墓はなく家族墓になっているのが日本である
江戸時代でも個人墓か夫婦墓であるのに家族墓になったのは明治政府の強制があったためであり庶民が望んだわけでもないのである
つまり家族墓は歴史が浅いのである、第一侍の墓はみんな個人墓であり家族墓はないのである、ここが誤解しているのである

おそらく明治になったとき家族を日本の国の基としたためにそうなった
そして天皇を親として国民は赤子として子供として国家をまとめた
国家とは国の家になるからだ、そこで家を継ぐ長男が重んじられた、それは外国でも同じである、長子は特別な存在であるのは家を継ぐものとしてあったからだ
長男は家をまとめるものとしてあった、だから必ずしも戦後の法律が相続でも兄弟平等にしたのはいいとはならない、そういう文化の方が何か人間にとって大事なことがあるからだ、なんでも新しいものがいいとか外国のものがいいとはならない、国とか地域のアイディンティティは長い時間で作られたものだからである
それで法律の基が風習とか慣習にもなっているのもわかる

とにかく墓があると不思議なのはその人の訴えるものがある、姉は従軍看護婦としてシンガポールでその向かいのジョホールバルで働いた
そのことが忘れられないから死ぬ直前までそのことを語っていた
認知症になってもその四年間は忘れられなかったからである
生前もそうなら死んでもそうだともなる、墓には良く陸軍二等兵とかなんとか軍の階級をしるした墓がある、今になるとそんなことに何の意味があるのかとなる
でも戦前は戦争中はそれが名誉とされたからそう記されているのである

墓とは何か?墓などいらないという時代にもなった、それはとりもなおさず家族の繋がりが薄れた結果なのだろう、無縁社会とか孤独死が増えるのもそのためである
震災以後に絆、絆とか言われたけどそれはむしろ社会に絆が失われたからだろう
震災以後原発事故にしろ絆は外部の人たちに生まれたが内部では補償金でもめて分断したのである、南相馬市では特にそうなった
そして先日小高の復興住宅で孤独死した人が発見された
それはなぜなのか?避難区域になった人は本当に家族もばらばらに住むようになった
そこで取り残されたのが老人なのである、本当に老人だけが残されてシルバータウンになったのである、ここでも家族の繋がりから先祖の繋がりから分断されてそうなった
それで墓でも故郷に置けず移している人もいる

墓は家族墓だとしているとき墓とのつながりは家族のつながりであり先祖となのつながりでありもう一つ大事なのことは土地とのつながりなのである
なぜならその土地に埋められたということはその土地との因縁があって埋められたとなるからだ、でも東京とかは墓地がないから遠くに墓地を作る
するとそこは土地の因縁とかはない場所なのである
こうして現代人は土地とのつながりも失ってしまったのである
アイディンティティになるものがなくなっている、ばらばらの個人となりアトムとなったそれに拍車をかけたのがグロ−バル経済とか資本主義とかである
そこで通用するのは金だけだからである
金さえあれば国など関係ないとする社会だからである
それでこの辺では多額の補償金をもらった時、仙台市とかに移り住んでそこでアパート経営とかして成功した人がいる、資本金が入ったことでそういうことができた
そこに代々住んでいても簡単に故郷でも捨てられるという時代になった
ただ放射線の被害があると言えば許されるという特殊な事情があったとしてもどこにでも住んでいいとなると東北では仙台市に住みたい人が多いのである
だから震災以後仙台市に移り住んだ人は多いのである

人間は過去とのつながりがあって生きるものである、それが歴史である
歴史という時、国とか世界とかの大きな歴史もあるが個々人でもその人の生きた人生が歴史である、家族でも歴史がある、それは庶民で語り継がれる、それが人間の営みである
人間はそうして家族でも祖父母がいて親がいてと生はつづいてゆく
だから先祖とか歴史と切り離して人間の存在はありえないのである
動物は一代だけの生だけど人間の生は何千年もさかのぼり連綿として続いている生なのである

でも墓が今や取されるときそこに何もなくなりただ物語だけが残るのである
すると物語がhistoryがstoryが歴史だともなる
それしか残らなくなるからだ、遺品とか残っていても庶民になるとそれも価値がなくなるでも物語は語り継がれからそれが歴史だとなる
母の実家はともかく複雑であり闇黒があった、その結果として不和の家であり結局そこに残された者も異常化していた、300万円でその家の長男は「墓を守ってくれ」と言って死んだ、それを託されたのはその家族につながるものだったがその縁も耐えた
私自身も今は墓参りしていない、結局本当に不和の家でありそれが子孫にも影響したとなる、それを頼まれた家族の一員だった女性はその墓をどうするのかわからない
なぜならもう一つ墓を父親の墓もあるからだ

ただその父親の妻はその子を恨んで死んだのである、その子は普通ではない、常識すらない異常化していた、だからその人は人間なのかとも思った
いろいろあっても世話になった母親はひどい娘だわと言って最後に自分に電話してきて死んだのである、本当になぜあんなひどい娘になったのかわからない
まず生活的に貧乏したことはないからである、大事にされすぎたということがあってもなぜそんなになったのか理解できないのである
ただ私の家族ではかかわっていないしもめていたから何かと言えない
その継続として分断されて縁も切れたとなる

その実家の家族での悲しい物語は後妻に来た女性が恐ろしく気が強くて母が語ったのは
「子どもの時俺の作った弁当は食えないのか、実の母親でないからなのかとか言われその弁当をぶちまけられた」これはひどいと思った
私の母親は何かこうして不運というか不幸だったのである
でも最後養老院で目がみえなくなり何か異常化した、そして母を呼んだ
そして「悪かったな」と言って泣いていたという
それからその死体がもともと解剖を頼んだので骨となって自分の家に来た
そして母の実家の墓に埋めたのである
つまりこれがその墓の物語なのである
ただ結核になった兄を世話したのはその後妻だったのである
だからすべてを悪いとはされない、ただ継母でありそういうことがあった
こんなことをされたら一生の傷となったろう
たから母は不幸だったとなる
実家の家の物語はまだつづいている、でもやがて墓は捨てられるだろう
その時何が残るのか?こうした物語だとなる

墓とは何かというとき、そこで必ずそこに生きた人のことを思うことは確かである
そして供養するということは確かである
いろいろあっても死んだら供養することである
そして人は死者の前で厳粛ならざるをえない、死者の前で偽ることはできない
死者は今や冷徹な目で凝視しているからだ、その死者に向かって偽れることはできないのである
だから私が苦しかったけど良かったなとつくづく思うのは特別良くしていれた親に最後介護して感謝されたことである、最後は認知症になった姉もわかってくれた
認知症は正気になることがあるから怖いのである
私に冷たくしてくれたとかわかるのである、それが死んだ後も尾を引くから怖いのである
あなたは墓参りするけど私に何をしてくれた、病気の時冷たくしたことを覚えているよ、良く平気で墓参りできるな、私はあなたの心を知っているよとかなる、そうなると墓参りだってできなとなる、そこに介護の大きな問題があったのだ
介護と死はつづいたものになっているからだ
だから最後に私に感謝してくれたことで救われたのである
それは自分は特別良くしてもらい世話になったから介護もしたのである
十分ではないにしろ努力したのである、それはそれだけの動機があったからできたのである
それで墓参りでもできるし今でも遺影に向かって話しかけている

それが恨んで死んだりしたらどうなるのか?

死者とまともに向かい墓参りでも供養ができるだろうか?

死者は冷徹に見つめているからだ、その心を死者に対して偽ることができないからだ
それは怖いことでもある、墓とは何なのか?
それは死者が訴える場所であもある、死者は何かを訴えている、それはもう声にもならないが訴えているのである、それを具体的に残しているのが墓だとなる
ただ墓がなくなってもその物語はヒストリーとしてストリーとして残るのが歴史だとなる

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墓地に倒れていた墓

俺にも名前がある、俺を忘れないでくれ、捨てないでくれ

最後に墓が叫んでいる

死者は最後に墓として残り訴えている

これも捨てられる墓になる、倒れたまま誰も直さないからである
こういう墓も増えてくる、墓の無縁仏になる
そういう墓を集めている場所もある


2020年09月03日

生活保護はもらえなくなる (国で予算を減らしている‐困窮する老人)


生活保護はもらえなくなる

(国で予算を減らしている‐困窮する老人)


厚生労働省の調査によると平成30年10月末時点での生活保護受給者は209万人にのぼっており、日本人口の約50人に1人は生活保護を受給していることがわかっています。

簡単に言えば、我々が汗水流して働いた税金からです。内訳について説明させていただきますと、その約75%を国が、25%を地方公共団体が負担しています。

生活保護の減額についてです。10月から1580円も減らされ77650円しか生活費が支給されません。これってひどくないですか?生存権の侵害です。

日本の生活保護受給率(総世帯÷生活保護世帯)は、3.24%(平成27年度)で、10年前(平成18年度)の2.26%に比べ約1%も上昇しています。特に65歳以上が占める割合は年々増加し、高齢者人口の2割超が生活保護を受給しており、今後の社会保障費の増加が懸念されています。(数値は、厚生労働省「被保護者調査」より引用)

2030年問題の本質は、2030年には日本人の3人に1人が65歳以上の高齢者という社会が訪れるというものです。



生活保護は最低限の生活を保証するというけど実際はそうなっていない
最低限の生活の保証としてら一か月の生活費10万は必要である、それでもたりないけど
他に医療費とか援助されるからそうなる
でも今生活保護は相当に厳しい、最低限の保証がされていない
その条件も厳しくなっている

●年金を少額でも支給されていると生活費の援助がない

●医療費も全額負担してもらえない

4万もらっていたとしても5000円とかしか生活費がもらえないとか制限されてしまう
ただこの計算は人によって違うから一概に言えない
いろいろ事情があるからそれを考慮する

ともかくもう最低限の生活保証がされていない、ただ自治体によって一級市とか格付けがありそれによって支給される額が違ってくる
県庁とかある都市や大きな都市は一級になるから額が違ってくる
福島県だと福島市は一級都市になる、何かこういう差別があるのも何なのだろうとなる

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他の県もこんなふうになっている

約75%を国が、25%を地方公共団体が負担しています。

国で負担しているとなるとなぜ自治体で差別しているのか?別に物価が安くなるとはならない、今は地方と都会では物価は同じである、この差別は家賃などを考慮したものなか?ただ自治体の割合が少なすぎる、ということは国の財政が豊かなら生活保護もそれなりにもらえるとなる、でも生活保護の予算は減らされているから実際は相当に苦しい
もう生活保護だけでは最低限の生活もできない

現実に4万の年金をもらっている人でも5000円とかしかもらかない、交渉してももらえない、77650円で生活できるだろうか?最低でも10万は必要だろう
それでもたりない、もう食べることすらできない状態になる
生活保護自体崩壊しているのかともみる
もし10万でももらえるなら生活保護として成り立つけどそれが成り立たなくなっている
そして国の財政も苦しいからこれからも減らされる
つまり生活保護は国で減らしたら75パーセント出すとしたら国で出さなければ成り立たないとなる、自治体で25パーセントではたりないからだ

総数でみると、最低生活費以下の世帯割合は、13年に15・9%だったものが、16年には14・1%と落ち込みます。母子世帯では、13年は85・5%、16年では65・5%です。(表)

この家に住む菅井敬子さん(68才、仮名)が「電気代がもったいないから」と夜間も消灯を続けているからだ。

敬子さんは毎日、夕方頃にスーパーに行き、店員が食材に5割引のシールを貼るまでじっと待つ。今年の暑い夏もクーラーはほとんど使用しなかった。

下流老人とは、生活保護を受ける生活レベルで暮らす高齢者、およびそうなる恐れのある高齢者のことです。現在も増え続けていて600万〜700万人いると推定されます。今の日本には、かつては大多数だった中流は存在しません。ひとにぎりの富裕層と、大多数の貧困層というのが実態です

浪江の人たちが入っている復興住宅で夜に電気をつけない人がいるという
浪江だと原発事故の補償金をかなりもらっているともみたがもう事故から10年もすぎると金でもなくなっている人が増えて来る
そして現代の貧乏とは必ず電気、ガス、水道が止められるのである
そういう人たちが全体の5パーセントもいるということはその人たちぎりぎりで生活している、こうなる人は最低限の生活をしている
それでその電気代とかをとりたてる委託された人がいて嫌でやめたという報告があった
こういう人たちは毎月月末に電気代、ガス代、水道代が払えないのである
そういう人たちが5パーセントいるということはかなり多い、一割にならなくてもそれだけいることはいかに目に見えないが日本人が貧困化しているかの指標なのである 

確かに現代の貧乏は見えにくい、ボロを着ているわけでもない、物乞いしている乞食がいるわけでもない、貧乏は見えにくいのである
貧乏は戦後まもなくでも戦前でも江戸時代でも見えるものとしてあった
戦後焼野原から育った団塊の世代などは本当になにもないところから始まった
水道はないから近くの井戸から水をもらっていた、電気は裸電球一つとかでありトタン屋根の家で冬は風がうなっていたことを思い出す、私の家には本は一冊もなかった
鉄腕アトムとかの漫画を読んでいた、それも買ったものではない、貸本屋から借りていたのである、つまり本でも漫画でも買う金がなかったとなる

貧乏という時さらに戦前でも子守りして学校に行けず文字を覚えらられないという女性がいた、明治生まれで手紙を書けず頼んでいた人がいた、字が書けなかったのだ
それで小説を読んで字を覚えたとか言っていた
それは後進国でも今でも学校に行ける人は恵まれた人だとなっていることでもわかる
人間はもともと戦前まで貧乏な国だったのである、私の母親は原町紡績で糸取りを十年していてその時のオカズはつけものとかであり沢庵とかであり後は味噌汁だけだったとかある、なんでも休憩時間の30分の間に御飯を早食いして死んだと聞いた
そのことが良く呑み込めなかったが遊びたくて飯を早く食べて体を壊したらしい
休憩時間が短いからそうなったのかとなる

戦前になると味噌汁とタクワンとか一汁一菜とかなる
だからそんなもので良く仕事できたと不思議になる
今の最低限の生活でもサシミなどを誰でも食べているからだ
私の父親は明治生れで最後に病気になりサシミを食べれるようになったが食べたくないと言って死んだ、その頃豊かになったのだが病気になり食べることができなくなっていたのである、バナナは田舎では売っていなくて仙台市まで買って食べさせたのである
そういう時代と比べると生活保護でもまた最低でも現代は豊かだとなる

隣の人は私で貸していたが店を出してたが売れるわけでもなく品物もろくなものがなく餓死したようである
家賃が払えないでわずかの金をもってきただけである
ただこの人には息子がいたしそこには金はあったが嫁が悪くて見捨てたとされている
その事情は子供だったのでわからないがまだ幼児だったかである、餓死した人は結構いた時代があった
でもやはりその時代とは違うから比べることができない、もう現代の標準の生活自体できなくなっている,携帯は老人でも必需品であり電気代から水道代からガス代がかかる
それをまかなうだけで今度は食料に回す金がなくなってくるのだ

ただ本当に貧乏な時代のことも忘れられた、私は子供時代のことを思い出して貧乏をイメージするが今の人はもうできない、だから子供時代の生活は不思議だった
炭が燃料であり卵を食べられなかったという時代でもあった、ただ農家の人はニワトリを飼っていたから食べていたからかえって農家は恵まれていたとなる
貧乏になると御飯に醤油をかけて食べるとかもあった、オカズがなければそうなる
こういう貧乏から比べると現代は最低限でもいいものを食べているとはなる

奇妙だけど人間は本当に貧乏になるとつまり電気、ガスとか水道を使えなるともなる
電気は石油とか石炭を燃料としているがそれは外国から入ってくる、輸入しないと買えないものである、でも日本が貧乏になれば買えなくなるのである
電気はただ生まれのではない、燃料が必要でありそれが日本にないとしたら電気を作れないのである、ソーラーパネルとか風力発電があるようになってもそれでは工業用にはならないからである

このように現代の貧乏は電気、ガス代、水道代が払えなくなる、それが貧乏として一番切実に現れている、そうして家に住めなくなったり家賃が払えなくなったりする
でも戦前とか戦後まもなくは水道もない、電気もない、ガスもない生活していた
本当に竈があり木材を燃やして米をたいていた、原始的な生活でもあった
裏には水が流れていてそこで洗濯していたというのも今ではそんなことをしていたのが思い出せなくなる
だからそういう時代は家事に時間がかかる、今なら電機製品で一人でもできる
それて東京では中産階級でも女中を二人雇っていたとかある
私の母親は原町紡績で働いた後は東京で女中で働いたからである
二人の女中が普通の家庭ですら必要だったのである、それだけ家事に労力がかかったのである、だから女性の仕事は女中にもなっていたのである

いづれにしろその時生活保護もなかったようである、だから乞食が多かったのである
そもそも生活保護とはなになのか?
市町村があったとしたら困っている人をみんなで助け合うという趣旨である
そうなるとその困った人が何でそうなったのかとかみる、ギャンブルで身をもちくずしたとかなんとか事情がいろいろありそんな人を助ける義務があるのかともなるからである
だから今でも生活保護を受けるとなると審査が厳しくなるのである
要するにみんなで困った人を助ける気持ちをもてるかとなるからだ 
そしてしこの人が本当に困っているのかとなると見分けるのもむずかしいのである
ただこの人は本当に困っている、そういうふうに同情されればみんなで助けるとなる
自然災害のときなどはそうである、原発事故でもそうだった、こういうときは同情されやすいから援助もされる
ただ国家で援助するとなると大きくなるから見えなくなる、それでも自治体から25パーセントと出ているから回りの眼が厳しくなる、田舎ではとくにそうなる
でも生活保護は国で75パーセント出していることを注意すべきである

地方自治体でも地方交付税とかあり市町村の財政は国が大きく関与している
だから国自体が貧しくなるとその影響は日本全国に及び生活保護もできなくなる
そもそもいくら福祉でも税収が入らなければできない
ただ生活保護が必要なのは犯罪者になるのを防ぐことだというのもわかる
もうこうして貧困化してくると犯罪が必然的に増える、そして治安が悪くなるから余裕がある金持ちにも影響するのである、もう枕を高くして眠れなくもなる
だから格差社会は怖いものなのである、そのことを金持ちは自覚しない、すると害が金持ちに及んでくる、ただ確かなことは国自体が貧困化することが福祉にも金を回らないということでありするといかに国を豊かにすることが問題になる
貧困は一部の人の問題ではなく国全体の問題であり国が豊かにならないと解決できないともなる

いづれにしろ生活保護はこれから氷河期世代とかが老人になったときもう成り立たなくなる、経済が停滞してゆけば余計にそうなる、そんな財源がなくなるからだ
生活保護を受ければいいというがその内容は今や最低限の生活保証はされないことを知るべきである、生活保護はもう最後のセーフティネットにはならない、
そして年金も微々たるものだとするときどうなるのか?
それは恐怖の時代になる、犯罪者が増えて治安が悪くなり暴動のようなものも起きて来る金持ちでも襲われるから貧困者だけの問題ではないのである

2020年08月14日

墓の歴史の再考 (人間は親でも忘れる、墓も継続できない、無縁化する)


墓の歴史の再考

(人間は親でも忘れる、墓も継続できない、無縁化する)

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お墓のゆくえ】 誰とどこに入りたい? 4000人が一緒のお墓に眠る村、抵抗のある人も
8/13(木) 16:00配信

SBC信越放送

みんなで一緒のお墓の理由


「ひとつのお墓に入るのは抵抗があります。ここは嫁いできた村なので私は別のお墓に入りたいと思います。私はこの村に溶け込めずに生きてきました。

他の土地から嫁いできた女性だとそうなることがある
でも別に本当に村で暮らしてもそういうことがあるだろう
ある女性は土地の生まれで生涯貧困であり土地の人に親切にされたわけでもない
むしろ苦しい目に嫌な目にあった人でもある
村人が必ずしも助け合うなどないのである、特に今はない
この村で共同墓地になったのは墓となる平坦な土地が山間でなかったという経済的事情があった、そもそも墓を持てる人は侍とかでありそれも個人名で記されている
家族墓というのは明治以降天皇制国家となったとき作られたものなのである
強制されたものなのである   

だから江戸時代までは家族墓はない、一家の墓はない!

ただ夫婦の墓などはあった、それは明治になっても継続された、夫婦墓は良く見かけるからである
何か私は必ずその土地に行って墓を見ていたのである
つまり墓から郷土史というのが見えてくるからである
そして墓と文書の記録とは違う、墓には人間の実物が埋まっているという感覚になるからだ、結局人間死んで残るのは普通は墓だけだとなる
最後に墓が生きていた標となる
本当に人間は家族でも肉親でも60年一緒に住んでいても死ぬとたちまち不確かな存在になる、私は特別親でも良くされたから家族に深い愛情と思いをもっている
それでも10年とかすぎるとどうしても記憶も薄れて忘れてゆくのである
それで親でも残した財産の方が大事だとかなるのもそのためである

人間の結びつきでもこの世でははかない、親戚関係でも兄弟でもないしもともと薄かったからみんな切れた、これも全くはかない関係だったのである
この世の人間関係も無常であり無情なのである
永続するものがないということである
でも人間はたちまち死んで消えるが不思議には土地は消えないのである
土地には場所には永続性があるのだ、一万年前でも一億年前でも土地は場所は消えない
同じ場所が永続している、すると人間一代などあっというまに終わる
でも土地だけは消えない、それで歴史を偲ぶ時、その土地に外国でも立つことができる
でもそこに生きた人はもう誰もいないのである
めまぐるしく人間は変わってしまうからである、次々に生まれては死んで人は変わってゆく、でも土地には永続性がある

日本がでは姓という時、血縁から起きていない、村の地名が姓となっていた
つまりその村の地名が姓となり一族となる、小林村とあれば小林姓になっていた
只野姓は郡山の多田野村から起きている、日本では姓をたどると村の地名にゆきつく
どこどこの村の出身というのが日本人のアイディンティティだったのである
そして墓も作れない時代は村の共同墓地に一緒に葬られたのである
それがこの辺ではホトケっボとか言われた、または地図では仏方として記されている

とにかく墓でも嫁いできた女性の三分の一が夫の系統の墓に入りたくないというのは驚くそれはなぜか?やはり村になじめなかった女性のように嫌なことが多かったからそうなるだから現世の続きとして墓にも一緒に入りたくないとなったのである
正直人間社会で何か助け合うとか愛し合うとかそんな甘いものはない
村だってそういうことがある、この世に理想的な世界などそもそもないからである
理想的な世界は天国にしかないのである
それはこの世だったら常に心でイメージされるしかないし現実にはない
この世では常にどこであれ醜いものと接するからである
それで私は人間嫌いであり自然と接してアイディンティティ化して人間とは極力接しない生活をしてきた、60まで引きこもりだったのである

ただ共同墓地を作りそこで墓友とかになるとかあるがそれも不自然だろう
もともと昔の村だったらいろいろあってもそこで共に生きたという歳月がありそれで一体化する、墓友となると不自然になるのである
墓とは何かそれも個人墓でないとしたら共同性としてあったとなるからだ
でも江戸時代にはかえって個人墓であり侍でも一族の墓がないのである
かえって明治以降家族墓一家の墓が生れたのは実は天皇制国家として家族が組み入れられたからである、むしろ村の共同体中心の社会だったら家族墓は不自然になる
そこに何か墓に対して相当な誤解が生まれているのである

いづれにしろ墓参りというときそこに死んだ人がなおいるという場所なのである
だから私の兄は交通事故で死んだ、だから六万で碑を家族墓の脇に作った
でも骨もなにもないのである、でも墓を作ったことでそこにいるとして墓参りしているのである
娘はいたとしてもひどい目にあったとして何の思いもない、墓参りしてくれとして10万くれたが来なかった、ただ十万欲しかっただけなのである
こうして親の関係でも金で簡単にきれる
「金の切れ目が縁の切れ目」であり無常である、死んだ人間はもう金をくれないからである、すると関係ないとなってしまうのである
この世はこういう場所であり家族でも親でも忘れられる、それで墓参りというときお盆でも義務としても墓参りすることに意義があるとなっているのである
そうしないと他に死んだ人でも忘れられる、記憶から消えてゆく
戦死した人でも関心が薄れてゆく、語る人もいなくなる、そして恐ろしいものはそんなことがなっかたとまでなる

人間は本当に忘れやすいのである、第一人間は死ぬと確実に加速して忘却されてゆく
これをまねがれないのである、だから死ぬとこういう人が生きていたのは事実なのかとなる、百年前にでもこの人が事実として生きていたということが驚きにもなるのである
たいがい名もない人は忘れられるからである、また墓が残るとしても今は跡継ぎがいないとか無縁化する、墓を集めた無縁仏もある、つまり墓は破壊して捨てにくいからそうなっている、要するに人間は最後は人間は無縁化する、そんなに長く家はつづかないからである、だから墓は立派なものにする必要はなかった
卒塔婆の様な碑だったら簡単にとりさることができる、その方が良かったとなる
むしろ共同墓地だと昔の村の墓地のように誰かが縁ある人が墓参りするとなるからいいとなる、だから永代供養などできない、その寺自体が消失してゆくからである
つまり人間は無常からまねがれえないのである

墓の種類  

先祖代々でつないでいく「継承墓」
一人で眠る「個人墓」
夫婦二人だけで眠る「夫婦墓」
二つの家系が一緒に眠る「両家墓」
管理の手間が省けて他の人と眠る「共同墓」
樹木やお花の下で眠る「樹木葬」
手元で供養をする「手元供養」
お骨をパウダー状にして海に撒く「海洋散骨」


墓でもこのように多様なのである

お墓の歴史!縄文時代から現代まで15000年を振り返る

ここで注意しなければならないのは家族墓や一家の墓は明治以降に天皇制ができて普及したものであり歴史が浅いとういことである
だから家族墓が核家族とか時代の変化で継続できなくなった
寺もその役割がなくなってゆき維持できなくなる
結局いろいろ墓にこだわってもこの世にあるものはみんな無常化をまねがれないのである

2020年08月11日

お盆でも祭りは共同体があって継続される (現代は村とか共同体は喪失したので機能しない)


お盆でも祭りは共同体があって継続される

(現代は村とか共同体は喪失したので機能しない)


仏教用語の「盂蘭盆会」の省略形として「盆」(一般に「お盆」)と呼ばれる。盆とは文字どおり、本来は霊に対する供物を置く容器を意味するため、供物を供え祀られる精霊の呼称となり、盂蘭盆と混同されて習合したともいう説もある。現在でも精霊を「ボンサマ」と呼ぶ地域がある。


盆の明確な起源は分かっていない。1年に2度、初春と初秋の満月の日に祖先の霊が子孫のもとを訪れて交流する行事があった(1年が前半年と後半年の2年になっていた名残との説がある)が、初春のものが祖霊の年神として神格を強調されて正月の祭となり、初秋のものが盂蘭盆と習合して、仏教の行事として行なわれるようになったと言われている。日本では8世紀頃には、夏に祖先供養を行う風習が確立されたと考えられている。。

祭とはナ何なのか?それは共同体があって日本だったら村があってその村の共同体を維持するためにあった、それでたいかい豊作を祈る行事が多いのはそのためである
つまり村の生活の基本は稲を米を主食としていたからそうなる
それは切実なものである、だから各地に豊作を祈る祭りがある、その豊作を祈ることが
お盆とか祖先崇拝まで一体化する
なぜなら春には御先祖様が山から下りて来るというのはその時期に田植えなどが行われるつまり稲作と深く関係して御先祖様ありえたのである
飯館村では作見の井戸がありその井戸でその歳が豊作になるのかならないのか占うのである
だからその行事は真剣なものになる、もし豊作にならないとしたら飢饉にもなるからだ
そしてお盆はもともと新年に歳神を迎えるということで行われていたものが8月になったとも言われる
豊作を祈るとしたら正月が向いているのである、正月に餅の花とかの飾りを売るのはこれも今年の豊作を祈るためである

年神様は、新しい年の幸福や恵みとともに、私たちに「魂」を分けてくださると考えられてきました。「魂ってなに?」と思うかもしれませんが、「魂」とは、私たちの生きる力、気力のようなものです。
では、どうやって年神様から「魂」を分けていただくのでしょうか。年神様の「御魂」(みたま)は、年神様が依りつく鏡餅に宿るとされ、この鏡餅の餅玉を分けていただくことで「魂」をいただいたのです。
その年の魂となる「年魂」をあらわす餅玉は、家長が家族に「御年魂」「御年玉」として分け与えました。これがお年玉のルーツで、玉には「魂」という意味があります。
そして、いただいた「魂」を体内に取り込むための料理が「雑煮」です。ですから、お雑煮には必ず餅が入っており、お雑煮を食べないと正月を迎えた気がしないというのも当然なのです

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お盆より正月の行事の方が農家にとっては大事だったのである
だから必ず神社に奉納される碑は正月と記されているのである
正月に奉納したからである

そして盆踊りとは死者と踊ることなのである、死者が家に故郷に帰ってきて生きている人と一緒になって踊ることなのである、そういう意義があったのである
でもその村とかの共同体が喪失すればその意味もなくなるのである
第一江戸時代の村では個々人の墓がない、わずかにある農民の墓は江戸末期に豊かになった農民が建てたものである
たいがいはホトケッポとか仏方とかに葬られた、そこには墓はない共同墓地なのである
今なら樹木葬とかに似ている、だからお盆では墓参りはしていないともなる
なぜなら墓がないからである、ただ盆踊りなどして先祖を迎えたとういことである
その先祖とは村の先祖であり必ずしも個々人ではないし家の先祖でもないとなる

要するに村という強固な共同体があり稲作を中心として生活してきた結果として祭りが生れた、それがなくなると祭りは失われる、ただ形式的なものとなる
その由来さえわからなくなる、お盆といっても今は生活が離れ離れであり一つの村にずっと長く定住して生活する人は少ない、たいがい嫁ぐにしても全国であり世界にもなる
今は本当にインドでも日本人女性がインド人と結婚したとか他でも外国人と結婚しているそうなると村を基本にしてアイディンティティを築いてきた歴史も祭りの意義も失われるそれでこの辺で「田母神」とかの社が田んぼにあった、その田んぼがなくりそこにダイユーとかのホームセンターができる
他にも小池の鷺内の社があってそこに障害者の学校ができた、そこは駐車場にもなっている、こうして社だったところが街にもなる、だからそもそも神田とかあれば東京でも田んぼだったのである、そうなるともう信じられないとなる  

そこで確かに神輿をみんなで担ぐ祭りがあったとしてもそこに住んでいる人は別に農業など無縁だし何か共同するというのも希薄である、みんな会社員だからである
そして田舎でも一万の町でも本当に近くでも何をして生活しているのかわからない人が多いのである、それだけ多様化している
子供の時なら近くで何をしていたか見えていた、石屋があった、墓を作っていた、籠屋があった籠を竹で一日作っていた、漆屋があった、漆を塗っていた、豆腐屋もあった、また馬車屋もあった、精米屋があったとかありその仕事内容がわかっていたのである
みんな何で生活していたか見える社会だった
みんな狭い範囲で生活していたのである
指物大工がいて私の家は仏壇を作ってもらった、今は大工でもハウスメーカーが会社が遠くから来て一週間くらいで組み立てて家を次々に作ったのである
特にこの辺は外から入って来た人が多いから新しい街が三つくらいできた感じになった
だから余計に都会化したのである、もともと私はひきこもりだから人とかかわらないから知らないにしても本当にちょっと会って話してみると外から来た人たちなのである

ともかく戦後でも社会が凄まじく変化した、戦前から戦後十年くらいは依然として農業が中心的社会だったのが工業社会になった、すると農業社会と工業社会はまるで違ったものになったのである、機械化されると農家でも協同で田植えしたり稲刈りしたもしない
個々の農家でするようになるとかその変化が余りにも大きいものだった
それで共同性が失われた、つまりもう村とかいう共同体はない、一部何か全体から見れば取り残された島のようにあるともなる
ただ田舎は依然として回りが田んぼであり畑もあるから農業社会に見えるのである
でも現実は田舎も工業化して会社人間になっている
この辺でも東北電力の発電所とか双葉大熊の原発がむしろ町の中心的存在と化していたのである、だからこそその被害が余りにも大きいものとなったのである
でも農業でも漁業でもそれでは生活できないとなっていたからこそそうなったのである
農業でも漁業でも林業でももう生活できないからこそそうなったのである
もし農業中心の社会だったら米がとれないとなったらみんな死ぬ
でも別に米をとれなくても現金があれば外国からでもなんでも買えるとなる
そういう大きな社会の変化の中で原発も作られて大被害になった
なぜなら原発こそが栄をもたらすものでありそれで双葉町は原発とともにあるという横断幕を街にかかげていたのである

いづれにしろお盆でも社会が変わりその意義が失われる、ただ別に先祖を供養するとか思うことは悪いことではない、ただ今は個々の家族で先祖を供養することになったのであるだから本来の祭りとか意義が失われている
そしてもう墓も維持できないという人も増えている、跡継ぎがいないとかなったからである、墓というか死者を祭るというときそれは個々人だと維持しにくいのである
なぜなら個々人だと子供がいないとか離れてしまったとか維持しにくくなる
でも村全体で先祖を祭るとなるとみんなでするのだから維持しやすい、それで都会では共同墓地を作ったりしてそこに入りたいとなる、永代供養してもらいたいとかなる

でもそれも寺でもできない、寺自体もう維持できない、消失してゆく
常に社会が変わってゆくからそれに対応できなくなりその意義も失われてゆく
ただ現代は共同体というのはない、会社共同体になったりした
それだって変わる、そして人間は孤立化して孤独死が多くなる
つまり現代文明社会はアトム化したのである、原子のように無数に分化して共同体というのはない、それは世界的に同じである
グロ−バル社会とは共同体とか関係ない、ただ物と物を交換するだけで精神的なこととは関係ないのである、そこで人間はただ無数の経済的単位となるだけである
数と量だけで計られる世界である、それは国内でも同じなのである
カルト教団があって疑似共同体を作ったりしてもそれも一票として数えられるだけである、共同体は人工的には作れない
農業の場合は自然と密接につながり共同体が作られてきた,ヨ−ロッパの市民共同体もやはり城壁の中で生死をともにするということで作られてきたから違っている、それだってその場が深く関係していたのである

それだけ社会が多様化して分散して広域化してグロ−バル化して村という最小単位の共同体のアイディンティティ保てない、だからなぜ原発事故で簡単に村でも町でも家族でもばらばらになり離散してゴーストタウンに村になったかもそういう時代の影響なのである
確かに放射線が怖いからだというのもわかるが何かそれだけではない社会の変化の中で
失われたものがありそれが原発事故を契機に表面化した
多額の補償金をもらったことで一気に表面化して加速して町で村でもゴーストタウン化したともなる、それはここだけではない、他でもそういう危険をはらんでいる
絆、絆と言われたが内部では補償金で分断してかえって外部との絆が生れたことがそれを物語っていたのである、広域化社会とかグロ−バル化社会はそういうものだったからである 


白菊黄菊
清雅典雅
正月千両
霊前奉献
積善家生
長子継富
身心正者
弥栄和楽
満月皓皓
災厄無祈

今年の祈りの詩ー霊前菊花
                                             

正月がお盆と関係していてまた満月も実りをもたらすものとされていた
ただこの詩にしても家のことを祈るのであり村とか社会に及ばないのである
そもそも社会とは社(やしろ)に会すだった、そこは共同体の要としてあった
だから村とかの狭い範囲が日本人の社会だったのである
それが余りにも社会が変化して村とかの世界とは違ったものになり祭たも維持できない、先祖も維持できない、社会自体がばらばらになったのが現代だともなる


死者は生きた地に場にいる (死者とともに生きると生も豊かになる)

死者はいづこにありや
死者はその生きた家に地に山にいる
死者の霊はその地を離れず
地とともにある          
その地にその影は大きくなる
死者はその地に持続して生きる
神話となり伝説となり生きる
死者は今貶められず
汚されることなく
威厳もて生者をみつめる
その前に偽ることはできない
死者の前で人は威を正す
その霊は重く軽きにあらず
厳かにその声はひびく
死者がその地に生きて父祖の地となる
その地を受け継ぐものは誰か
正当の跡継ぎは誰か
そは父祖の地を受け継ぎぬ
神の国を御国を受け継ぐのは誰か
それは国と地にかかわらず
天なる父が決める
その契約を破ることはできぬ
天なる父はましまして決める
そのまばゆい神の国は壊すことはできない
人は地を知り天を知る
神はなきにしあらず汝の心を見
死者もまた汝の心を見る
その前に厳粛に偽ることはできない
地から神の国へと生は連続する
そは地で学び神の国へと導かれる

故人はこの地と縁を切らず、日を決めて子孫の家と往来し家の発展を見たいと思っているという心情をもっている。

柳田国男ー先祖の話

つまり先祖とのつながりは継続される、そこに死者は依然として家でもその村でも土地にでも生きつづけるというとき死者は供養されて生きているともなる
ただそれは個々人では継続しにくいのである
現実に自分自身の家族でも一人はもう死んで十年にもなる、もう一人は3年とかすぎて何かその記憶が薄れてきたのである、私は特別良くされて60年も一緒に生活していても人間は一旦死ぬとその記憶も薄れてゆき、忘れられてゆくものだと思った
家族すらそいういうものでありはかないとなる、人間は何でも継続することがむずかしいのである、だから天皇がいろいろあっても日本では継続されたことが驚きなのである
ただ天皇すらもう継続されるかどうかもわからないのである
時代の変化をまねがれないのが天皇でもそうである、ましてや他では余計に維持できない継続できないのである 

ただ死者と生者を考える時、人は死者を恐れる、怨霊となることを恐れる
自分の家族でも不遇で事故で死んだ人がいるから私は墓を建て祀った
それは簡単な六万で作った碑だった、そこには骨も埋まっていなかった
だから死者は逆に立派な墓を建てる必要はなかった、なぜなら墓はもう継続できないからである、すると立派な墓でも壊すとなると大変なにるからだ

それより死者ー生者の関係は

生きている者が死者を守る、死者を維持する!

この方が強いのである、なぜなら死者は何もしてくれないからだ
生者でも供え物したり供養しないと死者はないのである、生者が死者を思わない限り死者はないのである、それがだんだん時間がすぎるとどうしてしも忘れやすいのである
そこに死者の問題があった、死者は本当に忘れやすいのである
だから死者を思いつづけることはむずかしいともなる、現実のことに追われるからであるそれで祭りでも儀式のようなことでもしていないと死者は忘れられる
戦没者慰霊祭だって地域では継続できないとなっているのもそのためなのである
300百万人死んでも忘れられてゆく、それが人間の問題だったのである
それで常に歴史というのが大事になる、津浪でもそうだった、この辺では400年前に津波で700人溺死したと記録されていたがその記録さえ知る者がなく津波は来ないという確信までになっていたからである、それだけ人間はあらゆるものを忘却してゆく存在なのである

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私の二人の母親-姉と母

ほのぼのとホウヅキ赤し遺影にそ供えて祀りぬ死者も生きなむ

ホウヅキは確かに死者に供えるにあったものだった、あかあかと燈明のようでもある
そこに死者がなお生きている、死者の霊がうつってゆくともなる
死者はな何か花とかまた供え物にその霊がうつる、だかち本当は供え物に手をつけることは危険なのである、それは死者が食べるものだからである
ただ死者に許しをこうて食べるのはいいのである、なぜならそうして死者から先祖から恩恵を受けたものがあるからそうなる

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正月の碑(北泉の延命地蔵神社)

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(仏方の地図) 

南相馬市鹿島区寺内に見いだした共同墓地(仏方ーホトケッポ)




2020年07月06日

世界一孤独だが、健康で長生き…「日本人男性」という修行僧


世界一孤独だが、健康で長生き…「日本人男性」という修行僧


日本には「孤高」を美化する精神文化があります。孤独がストレスとなっていても、不規則な生活から飲み過ぎ、喫煙、運動不足、肥満などに陥ることもなく、そのストレスを少なからず改善させるほどに、日々の独り身の生活を前向きにとらえ、平穏な心身の状態で行動できている人が多くいるのではないでしょうか。

この記事で日本人が孤高を美化するという精神文化はうそだろう
日本人に言われるのは常に集団ですることき仕事でもなんでも効果を発する
個人になると弱い、一方中国でも個人主義であり個人になると強い、だから英雄が出るのは大陸国家である、アメリカでもトランプ大統領はマスクをしないというとき弱さを見せたくないからだという、日本だったらそんなこと言う人いないからである
日本はとにかく全体に同調して個で行動する人はほとんどいない、同調圧力が強いのである
だから孤高を美化するなどありえないと思う
そういう人は社会からはずれアウトサイダーになる、それをできるのは特殊な異常に個性が強い天才肌の人間だとなる、そういう人は日本人にはまれである

ただ退職したりすると会社とかの仲間もいないしどうしても孤立しやすくなる
地域などでも今はなく受け入れることができない、ボランティアでもそうだがかえって
そういう人は迷惑にされる、それで正論おじさんとか議員をやめた人が何か川をかってにして迷惑だとか訴えられたりする
つまり今は一旦会社でも退職すると用のない人間にされる
それで住宅の隣で何かわめいていて奇怪な行動をしている80くらいの老人に悩まされている人がいる
なんらかこうして迷惑老人になりやすい、現代は老人の居場所がないのである

ボランティアも簡単にできない、ボランティアも権力をもたないとできない
それは自分自身がたまたま無人駅でボランティアのまねごとをしたら駅長やら客からも拒否されたからである、勝手なことをするな、迷惑だとかしかならない
それがある程度役に立っていてもそうだった
誰も認めないから今度は怪しい人だと警察に通報されて職務質問されただけである
でももしNPOとかとして認められて権力をもてばそういうことはないのである
だから個人的にはボランティアをすることは不可能なのである
そして個人的なボランティアには何の保証もないとか言うのもそうである
こういうことが事件化したのが正論おじさんとか退職した議員が川を勝手に掃除したのかなにかで問題になった
奇妙なことは行政の許可なくしたことでそうなった
つまり議員であっても退職したら権力を失うのだからそうなる
つまりボランティアでも何らか権力がないとできないのである
だから退職してボランティアすることは簡単にできない、そして高齢化社会では無用な老人が膨大に増えるのである、そして変な老人として社会では問題にされ排斥されるだけだとなる

「真面目に自分と向き合う」ことは「コツコツと努力する」ことでもあります。こうした性格が、実は最も長生きできる可能性のあることがわかったのです。2011年に米国で発表された、性格と寿命についての80年にわたる男女1.5千人余りの追跡調査研究で明らかにされました(フリードマンHS、マーティンLR、『長寿と性格 なぜ、あの人は長生きなのか』清流出版2012年)

これは本当である、その具体的例が私の母親だった、まず暇なく家事でも何でもこまめに動き働いていたのである
それも93才とかまで家事をしていた、若い時から暇なく働いていた
働き詰めの人生だった、それがすべていいものではなかった、花にも何にも興味もない働き蟻の一生だった、それも本当にそうなると人間も異常化していたのである
ただそうして94までも家事をして用事があり働いていた結果認知症にもならなかった
ただ95以上になり認知症になったことはやむをえないことである
ただ長生きしたということはそういうふうな性格がありまた何より家でする仕事があったからである
嫁にお母さんは何にもしないでいいですよ、ゆっくりテレビでも見ていてくださいと言われる姑は認知症になるというのもわかる
つまり何の用事もなくなるから張り合いもなく脳までボケて来るから怖いのである
そして本当に何か変な恰好してわけのわからないことをわめいている老人のようになる
その人には用事がないからそうなるのである、何の用もない人になりそうなる

だから人生百年時代は何か退職してもその後が長いのだから何か社会にとっても用ある役に立つ人間になることが大事になる、でもそれを見出すことは相当に今はむずかしいのである、芸術家になれととかいっても簡単になれないだろう
では社会に役立つといっても簡単に受け入れられないのである
つまり会社という組織があって権力をもっているとき社会に役立つとなるからだ
それで不思議なのは近くの自転車屋である
病気でありそれも悪い病気でも5年より以上長く仕事をつづけている
今は一軒しか町にないから忙しいのである
また一軒しかないとなれば町にとって困る、隣の市に行ったらお前は来るなと言われたからだ、なにかそういうせこいのが田舎なのである
他の人も言われたからである、ただそこの自転車屋はそういうことはいわない
他で買った自転車の修理もしているのである、なにか商売できる人だからこの辺ではめずらしいとなる

ただなぜそんなに病気でも仕事できるのか? 

それが謎なのだがやはりそれが生きがいとなり周りの人からも仕事してくれという要求がある、そのために死なないともなっているのかもしれない、ボランティアだとそういうことはない、もしそれが周りの人からの要求がありそれを満たしていればいらないとはならないからだ、でも現実に会社を退職したらそういう仕事につくことは相当にむずかしい
なぜなら自転車屋でも長年仕事しているからできる、技術的にもできる
だから簡単に何でも仕事ができるとはならない、自分にしてもこうしてプログで書けるのはやはりそれなりの知識の積み重ねと経験があってできることである
まず退職して一から新しいことを始めることは容易なことではないからだ
だから人生百年時代は金でもそうだがこうして何をするかということでも問題になる
それに備えられる人はまれだともなり無用老人となり迷惑老人になる人の方が多くなるのである、孤高に生きる老人はまれだろう、孤立して無用老人になる方が圧倒的に多いのである
だからこの記事は何かおかしいと思って読んだ、ただいちいち記事の解説でもこうしてすぐにコメントしたりできるのはインタ−ネットでできたことである
新聞の記事の解説でもいちいちすぐに答えることなどできなかったからである
そこが言論でもインタ−ネットで変わったことである

ただ同感することは「修行僧」のようになりやすくなる、なぜならあまりそもそも人と接する必要がなくなるからだ、会社に勤めて入たらそうはならない、会社を退職すると接触するのは妻とかしかなくなる、それで妻の後をついてゆくだけでありそれで妻からも迷惑がられているのが現状だからである
一方で会社勤めしていないから孤独にもなり人とも付き合わないとなるとそこで誰とも話さないとなり「沈黙」していられる、普通は会社などではできないからだ
自分自身は引きこもりで30年間とかそうしてきたからそれが自分にとっては普通だったからただ延長しているだけだとなる
でも退職した人はそうして環境ががらりと変わるから戸惑うとなるのである
ただ人間関係のわずらわしさがなくなり妻がいれば別にそんなに人と付き合う必要もないそれほど孤独も感じないのである、ただ一人だけになると感じる
だから今は自分も一人でありしかたないから一人の女性とは話したりしている
あとは自分自身が「修行僧」なのである、それは前からそうだったから違和感がないとなっているのだ、でも急激な環境の変化に退職すると戸惑うことは確かである

2020年07月02日

人生百年時代の高齢化社会の暗黒 (社会に無用化された変な老人が増えるのと死ぬまで働かされる老人)


人生百年時代の高齢化社会の暗黒

(社会に無用化された変な老人が増えるのと死ぬまで働かされる老人)


その女性は来るたびにとなりに変な老人がいることを愚痴る
何か異様な恰好して笑ったり何か言うと警察を呼んだりする
そこに何か異常性を感じる、80近い年齢だろう
そして大声でわめいているときがあるという
それが狭いこの辺では住宅だから余計に気になり苦しんでいる
それで騒音でアパートで殺人まであった

何か現代は高齢化社会なのだから老人が社会で問題になる
それは経済的にもそうだしそれだけではない、老後が長くなったせいなのである
それで50歳で一区切りでそれから50年が第二の人生だという人もいる
それだけ人生が長くなるとそれに備える人は経済的にもまたそれだけではない
その長い時間を費やすものがないと変な老人になる

そういう老人は回りで相当に増えているだろう
前は正論じいさんとかがいた、法律関係の仕事をしていて法律をたてに文句を言っていたのである、他にも何か町会議員なのかやめた人が勝手に川の掃除したのかなにか市の許可なくして川を勝手に変えたことでも問題になったとかいろいろある
それは本当に一部であり社会全体では増えていることは間違えない
この人も市町村の議員なのだから議員だったらいうことを聞く人もいたのかもしれない
でも議員でなくなったらただの人となっていたから通用しない
つまり権力をもたないと実社会では何もできないともなる
だから民主主義では一人では何もできない、10人でも100人でも集めれば政治でも動くのである
だからカルト教団でも人を集めるために票するために活動している
NPOで10人集めないとできない、認められないのである
ボランティアをするのにも権力が必要であり善意だけではできないのである
議員という権力を失って何もできなくなったとも言えるのかもしれない
ただその事情はわからないがそういうことはありえる

なぜそうなるのか?

それは老後が長くなってもすることがない、会社を退職するとすることがなくなる
地域でもそうした老人を受け入れることもない、また若い人が老人に頼ったり尊敬したりもしない、ただ若い人が税金を払って生かしている邪魔者、ごくつぶし、無用のものと見ている、だから早く死んでくれという気持ちになっている
そういうふうに老人に対する風当りが強いのである
それは口に出さないにしてもそういう気持はいつか現実に出て来る
日頃からそう思っているのだからそうした念が必ず表に現れる

例えばボランティアでも自分が駅でたまたま無人駅化したので案内などしていた
そしたらそんなことするな、必要ないと地元の女性がどなりつけてきたのである
でもその時、風で遅れたから案内していた                        

でも結局無人駅のボランティアで経験したことは余計なことをするな!

これはJRからも駅長からも常にとがめられた、でも自分のしたことは多少は駅の改善になったのである、でも誰も認めるものはいなかった
それで今度はあいつは怪しい奴だと警察に地元の人が通報したのである
それでみんなの前で職務質問された、ただそれだけだったのである

だからいかにボランティアというのは個人的にはできない、前の正論おじさんでもそうだし議員をやめた人も個人で勝手に許可なくしたから問題になったのである
別にNPOのように集団化してやればそういうことはなかった
何か現代の社会は個人で何かすることを認めないのである
集団化すれば数を集めれば認める、民主主義は多数決だからである
多数がすべてなのである、集団化すれば容認される、宗教でもそうである
何百万人いるんだということで誰も何も言わなくなる、ただ恐怖になるだけである
それがいい悪いなど関係ないのである
そうしてナチスのようにファシズムになるのが現代なのである

とにかく老後が長いという時会社を退職してでは何か地域のために尽くすとかなにか役にたつことをしようとしてもできない、そういうコミニュティもなくなっているからだ
昔だったら村の長老としてその経験と知識で尊重されていた
でも今はかえって機械頼りの社会になる時、若い人に教えてもらう方にてっているからだまた知識が膨大になり教えることも不可能である、それでむしろインタ−ネットで知識を得るという社会になっている

つまり老人の出番がない!

また一方で老人が金がなくて70までも働かざる得なくなっているのも現実である
それで老人がケガする人が増えている、それで老人にとって過酷な社会だともなる
悠々自適の生活などしている老人は少ないのである
人間は金も必要だが生きがいも必要である、人間は死ぬまで仕事を持つべきなのである
それで90過ぎても医者で現役でそのまま一週間くらいで死んだ
そういう人はいい死に方だったとなる

ともかく変な老人が増えるという時これからますます増える、そういう老人を受け入れる社会ではなくなったからである
だからやたら何の役にもたたない老人がいるなと邪魔者扱いしかないのである
でも社会のために地域のために何か役たとうとしても拒否される
犯罪者扱いにされるのである
それが現代の社会であり老人にとっては高齢化社会でも過酷な現実が待っている

その老人は確かに特殊な異様なものであり肯定はできないし同情はできない、ただそういう老人が増えてくることは確かなのである、それが高齢化社会の暗黒面なのである

金のない老人は死ぬまで働け!

暇な老人は社会に用はない、早く邪魔だから死んでくれ!

これが高齢化社会の過酷な現実なのである、そのことは今の40代以上、氷河期世代になるとさらに過酷になる、年金ももらえない、生活保護も雀の涙くらいしかもらえない
現実生活保護は今は厳しい、5千円しかもらっていなとか現実にある
医療費もただではない、わずかでも年金もらうとそうなるのである
つまり老人はもう死んでくれとなっているのだ、それだけの国に余裕はないのである
ますますそれは日本が衰退してそうなる
もし日本が経済的に余裕があればそうはならないけど日本は衰退するばかりであり三等国になり貧困化しているからだ
何か貧困層ではもう十円二十円を節約する戦後まもなくの貧困にも戻っているからだ

人生百年時代は暗黒である

そのことがこれから現実化して表面化してくる、その兆候として変な老人とか死ぬまで働かねばならない老人とか毎日の食もままならない老人が現実に増えている
その対策を日本の経済自体がここ20年賃金があがらないとかで衰退しているのだから何もできないとなる、政府はもう増えるばかりの老人は見捨てる

(社会の負担となり圧迫するから問題)

2020年05月09日

還暦(60)で四分の一が貯金が百万以下 (貧困化する老後‐田舎の例)


還暦(60)で四分の一が貯金が百万以下

(貧困化する老後‐田舎の例)
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100万以下が増えていて24パーセントもいる

その女性はもともと食べることもまともにできていない、70近くになる
その女性が畑で野菜を作っている
でも勝手に草取りしたから金を要求する、それも5000円とかである
また蛇が畑にどぐろを巻いていたからとってくれと頼んだら5000円要求された
また肥料が蓄えていたものが盗まれた
あとは畑をうなってもらうのに金がかかる

畑の作物が果物でも盗まれることが良くある、畑の小屋とかなると夜なら誰も見ていない盗まれやすいのである
でも知っている人が勝手に草取りして金を要求する、また蛇をとってくれと頼んで金をとるというのは何かせこいなと思った
そんなこと善意で無料で知っている人ならするだろう
第一その女性は金が貧窮している、そんな人から金を要求するだろうか?

その人はおそらく60代だろう、何か余裕がないからそうなっている
なんとか現金を得たいということでそうなっている
それだけ金に窮している人が田舎でも増えているのかもしれない
現実そのために盗難で大金を失ったことがありそれも田舎で生活に窮している人だった
今はなかなか金に窮している貧困が見えない社会である
一応みんな田舎でも車を持っているからその車を持っているということで貧困に見えないのである
私は車をもっていないから実際は貧困の部類に入る、車ももっていないのかと今の時代ならなるからだ、でも別に自分は貧困ではない

だからこんなに貯金がないことに驚く、なぜなら私の親の世代は貯金することが楽しみであり貯金した、その時はまた必ず利子が高いから貯金したのである
だから団塊の世代ならその親の遺産を受け継いだ人は貯金がそれなりにある
でもここでも格差が大きくなっている

表でみると

百万未満の人が24パーセントもいる

これは尋常ではない、もちろん年金が高いならそれでもやっていける
でも厚生年金にしても15万くらいでたりないとしている
他の人は農業している人などは国民年金になるから少なくなる
だから貯金がない人がこんなに多いということに本当に驚く
つまり還暦になり60才で貯金がないということは相当に厳しい
普通に働けなくなっているからだ、収入は会社をやめたら半分くらいにもなる

それで2000千万貯金しろと政府が言うのである
国ではめんどうみれないからそう言ったのである
そして恐ろしいのは60代より今の50代以下がまた40代が氷河期世代はもう貯金もないし年金ももらえないとされる、そうしたらどうなるのか? 

これを予想すると本当に老後の生活が成り立つのか?

みんな生活保護になる、それより生活保護でも田舎だとただ医療が無料になるとかの生活保護もあり後は何ももらえない
第一国民年金でも4,5万しかもらえない人が結構いるのだ

そんな人がどうして生活ができるのか?

コロナウィルスでもその日暮らしのような人が困窮する、若い人は貯金がない
するとたちまち困窮して暮らしていけなくなる
だから何かあるときのために貯金がある、コロナウィルスのように経済が不安定になると解雇されたりするから貯金がないとどうにもならなくなる
でも貯金がないから10万の政府からの給与でも助かるとなる
何か怖いのはこういうふうに日本人が貧困化する犯罪が増える
その被害者に自分もなったから怖いのである
コロナウィルスではすでにそうして解雇された人がわずかの金が欲しくて強盗に入ったとかある
そううい人が増えてくると本当に怖いことになる、格差社会は南米のように犯罪国家になる

なぜこんなに日本は貧困化したのだろうか?

それはコロナウィルス前からそうだった、さらに拍車をかけて貧困化する
その割には貧困が見えない社会である、都会辺りだとホームレスとか見かけると一目でわかる、コロナウィルスで仙台にホームレスが増えたという時わかる
田舎ではかえって貧困見えないのである
なぜ食べるものも事欠く人からそんな金を要求するのかとなるからだ

現代の貧困は田舎でも車が無しでやっていけないとか金がかかる、何かと金がかかる
それで金がなくても出費が抑えられないのである
その人は毎月ガス、水道、電気がとめられると騒いでいるからだ
結果的に自分が払ってやる

まず畑で野菜を作ること自体が簡単にできない、とれるものはほとんどなかった
こうしてただかえって機械が必要だとか肥料だとか鳥にネズミに食われたとか盗まれたとかなんとかかんとか苦労だけ背負ったとなる
ただ少しでも収穫があると喜んでいてその人は農業がしたい好きなのである
でも実際は腰が痛いとか体も弱っているから無理なのである
それで隣の畑は車に乗せられて這って野菜を作っていた人がやめた
向かいの畑は病気で死んでこれも草ぼうぼうになった
そうして誰もそんな零細な農業をしない、跡継ぎがいないのである

その原因は実際の農業は専業農家が8割くらい食料を生産している
その専業農家は裕福でもある、キャベツ農家が話題にもなった
ただこの辺では梨の生産が盛んでそういうものは生活が成り立つのだろう
あとはなかなかむずかしいと見る
田んぼでも15町とかもっていれば専業農家なら成り立つ

そしてなぜ荒地が増えるのかというと全国が市場なのだからいくらでも全国から食料が入ってくる、すると全国の中でもキャベツ専業農家ならやっていける
他は田舎でも食料でも買うことになるからである
もし地元だけで自給自足しろとなるとそんなに荒地にしておけないからである
どうにかして地元で食料を得なければならないからだ
それどグロ−バル―化で外国から食料が入っていてそうなったのである

いづれにしろ人生百年時代にすでに60で百万以下の人が4分の一とかは異常である
もう老後の生活が成り立たないレベルである
それほど貧困化している日本でありコロナウィルスでますます貧困化する
ではどうするのかとなると私にはわからない
ただ農業というのは8割の専業農家が食料を供給している
それも全国からだから食料が高くなっても足りなくなることはないようである
でも零細農家などはとてもやっていけないのである
それでそうした零細農家とかもう跡継ぎもいない農家は廃業するようになる
そこで荒地が耕作放棄地が全国で増えているのである

2020年03月09日

死者を思う時はその個人を思う (人は死んだ時霊が辺りを彷徨っている)


死者を思う時はその個人を思う

(人は死んだ時霊が辺りを彷徨っている)

家族墓とかは江戸時代までなかった、個人墓しかない、侍でもそうである
個人墓である、夫婦墓はあった、でも基本は個人墓である
ということは死者とは集団の死ではない、個人が死んだ時個人を偲ぶ
あの人はこうだったとかなんとか偲ぶ
家族全部を偲ぶということはない、個々人を偲ぶのである

近くの女性が死んだ時も突然でありびっくりした
その女性とは最近ちょっと話しただけである、何か大人しい人だった
でもとても死ぬとは思いもよらなかったのである
ただ猫に最近餌やっていないと見ていただけなのである

この年になると本当に知っている人でも死ぬ人が多くなる
でも死んだ時衝撃である、何か突然空虚感を感じる
そして死んでもまだ霊があたりを彷徨って離れないとなる
でもそれもまた忘れやすいのである
何か次々と人も入れ替わりするからである

とにかくその女性は病気だと思わなかった、だから突然死んだとなりびっくりした
例えば癌になり病院に通っているとかわかればまもなく死ぬのかとして心の準備ができる何年も介護していればいづれは死ぬのだと思う
でも介護していてもなかなか死ぬとは思えないのである

死は突然に来る!

死というのは何か突然なのである、急に有なものが無になるのが死なのである
その落差が大きすぎるから突然大きな穴があいたようになる
そしてその穴を埋めることができないのが死なのである
なぜなら永遠に帰ってこない逢うこともできなくなるからだ

老いも突然に来る! 徐々に老いるのではない、突然にがっくりとくる
体力的突然に弱る、病気にもなる、何かこの世のことは突然に来る
自然災害でも原発事故とか今回のコロナウィルスでもそうである
何か悪いことは突然にくる、だから対処できないのである
それで心が折れてしまうのである

ただそうして死んでも現実生活に追われて忘れてゆくのである
その女性はすぐ近くだから余計に死を感じた
親しいとはならない人でもすぐ近くだからである

不思議なのは今逢っている人でもいつか永遠に別れて逢わなくなるとして見ていない
でも年になると今逢っている人ともそうなりやすいのである
家族すらそうなってゆく、要するに無常が現実化するのが老人である
死が日常的になってしまう、それで香典とか田舎ではうるさいからその費用が馬鹿にできないのである

今や多死化の時代である、死者の数が膨大になる、それだけ老人が多いからそうなる
まるで戦場で人が次々に倒れてゆくように死んでゆくともなる
人が死ぬと必ずその人個人を偲ぶ、その人の人生は何なのだったろうとか偲ぶ
田から通夜とかあるのだろう、その時みんなで個人を偲ぶのである
ただ自分はそういうことをしなかった、まず一人なので何もできない
でも死んだ時くらい死者を偲ぶ、それは悪いことではない
でも葬式になるといろいろめんどうなのである
今は簡単にすませるから楽ではあるが死者を送ることは相当な精神的負担なのである

ただ身近だったからその突然の死に驚いた、向かいの人が死んだ時も驚いた
その女性は病気で寝ていたのが直ったんだようと言って一週間前に歩いていたのである
そして友達のところを回って歩いた、そうして死んでしまったのも不思議である
死ぬときゆかりのある人たちを回って歩くというのは本当である
でも逢っている人はそのことが自覚できない、まさか今生の別れとなるとは思いもよらないのである

今日は曇って雨もふった、春でも月は見えない

雨雲に月は隠れて春の夜

隠れるとは死のことなのである、お隠れになったということは死のことである
月は雲が晴れればまた現れるが死んだ人は永遠に現れないのである


肺癌で近くの女性死亡に驚く (何か最近まで歩いていたのを見た感じー一年くらいで悪化?)


肺癌で近くの女性死亡に驚く

(何か最近まで歩いていたのを見た感じー一年くらいで悪化?)

そのうち肺癌は、最近急速に増加している癌で、肺癌による死亡者数は、
1970年には 10,489人であったのが、2002年には5万6千人と増加し、2015年には我が国における1年間の新患者数は男性11万人、女性3万7千人になると予想されています。胃癌を抜いて第1位となり、肺癌死は全癌死亡のおよそ20%にあたります

肺がんは自覚症状が出にくい、発見された時には手遅れ

肺癌で近くの女性が死んだのにはまた驚いた
一年前くらいに歩いているのを見ていた、でも最近見ないと思っていた
猫に餌をやっていた、野良猫がその家の前に集まっていた
私も猫を飼っているからいつも見ていた
でも最近猫が集まらない、どうしたのだろと見てたい
それは最近のことでありおそらく病気になっても餌をやっていたのかもしれない
でも死んだのは余りにも急だったとなる
付き合いでも深くしていないからわからなかった
かえって旦那さんの方が病気だということを知っていた
だから意外だった

何か人間は突然思いがけなく死ぬ、この年になると知人でも死ぬ人が多くなった
あの人も死んだあの人も死んだとなる
その人は60代だろう、癌で死ぬのは60から70代である
ただ癌はなぜか増えている、その原因は何なのだろうか?煙草とも確定できていない
私の父親も肺癌で死んだから無惨だった
その死の状態を見て中学生だったからそれ以来死のことばかり考えるようになった

とにかく人は呆気なく死ぬ、家族もみんな死んだ、この年になると次々に死んでゆく人が増えて来る
病気になっている人も本当に多い、自分自身も病気になった
回りをみても同年代でも病気の人が多いのである
でもなぜ癌になってから7、8年くらいしても仕事している
その手を見たら点滴の跡だらけであり痛々しい
でも仕事ができているのが不思議なのである
おそらく肺癌でないからかもしれない、肺癌になると早く死ぬとういことがあるのかもしれない、癌によってその症状をもいろいろだからである

肺癌は症状が出ないからわかったときもう死に向かっている
その女性は病院に通っていた、でも発見したときはやはり手遅れになっていかのかもしれない
コロナウィルスも肺がやられる、インフレインザとにているから肺がやられる
老人は肺炎で死ぬ人が多い、肺気腫とかなって死んだ人も知っている

こうして妻の方が早く死ぬと夫の方は残されて淋しくなる
一人暮らしではないが近くに妻を早く亡くした人は大きな家で淋しいと言っている
そう言う人がまた増えてくるのである
夫婦でもどっちらかが死ぬと一人になるのである
多死化社会というのも現代である、高齢化社会では死ぬ人も増えて来る
それで駅前がもともとはスーパーだったが農協の葬儀屋になった
つまり葬儀屋が繁盛する時代なのである

その女(ひと)とわずかの時のともにあり死して見ざりき春になりしも

わずかの時をともにあったがもういなくなってしまった、なんともはかない、この年になるとただ別れだけが増えて来る
それでさよならだけ人生だというのは冗談ではなく厳粛な現実なのである

2020年03月01日

福祉社会の限界(病人介護社会で国も自治体も破綻)


福祉社会の限界(病人介護社会で国も自治体も破綻)

その女性は腰が悪いと東京の方までみてもらうのに行った
今度は目が悪いと仙台の病院で手術する
費用の半分は市で援助する
歯医者にもかかって治療に金がかかる
その女性の息子は独身であり40越えている
その父親は青森の介護施設に入っている
この辺では介護士がいないので青森の施設に送られる
金はかからないとか言っていたが施設は必ず何か足りないと要求される

つまりすでに5080問題ははじまっている
50くらいで親が介護状態になるのである
そして自治体も財政が苦しくなり破綻するとかも言われる
南相馬市は財政状況がいい方ではない
南相馬市は原発事故で国からの財政援助がありそれでもっていた
でも10年過ぎれば来年から打ち切られる、その時苦しくなってゆく
市長の給料を減らすとか議員を減らして対応した市もすでにある

その他福祉が限界になるのは病人介護社会になっている
回りを見ても脳卒中になった人が同年代で3人いた
一人は足が悪くなりもう一人はろれつがまわらなくなり一人は辛うじて死をまねがれた
一人は仕事しているが相当に悪い、つまり病人介護社会になっているのだ
私自身も自ら病気になり認知症の介護とか二人介護して四苦八苦した
でも経済的には余裕があった、これからは経済的に余裕がなくなる
福祉が限界になる、なぜなら病人と介護が増えてくるからだ

団塊の世代が75以上になると増えて来る、その数が大いから福祉が限界になる
80の人は糖尿病で4カ月入院したとか病院通いである
毎月医療費に3万かかるとかいう女性もいる
とにかく日本は高齢化社会になり健康な人も多いとしてもまた数に比例して病人と介護が増えてくるのだ
その圧迫は切実になり介護する人も介護される人も限界になり共倒れになる
そういう危機をここ十年の介護で自分が経験したからである
自分の場合は経済的には余裕があったが人手がなく一人で奮闘してきた
その時何の助けもなかった、それも自分のカルマだったとはなる

でもこれから自治体でも生活保護とか福祉関係は極力減らされる
もう福祉の限界なのである、日本自体の経済も衰退するだけでありアベノミックスで株とかでもたせているけどこれも限界が来て崩壊しつつある
こうして弱り目の時祟り目にもなる、3・11の東日本大震災があり原発事故があり
台風被害があり今度はコロナウィルスで日本経済は打撃を受ける
何か今は明治維新とか戦後の焼野原のような状態になる危機が近づいている
70年で大きな変化がある、明治維新から70年で敗戦になりそれからまた70年過ぎる
今がその大変化の時代に突入している
銀行が半分以上なくなるとかいうのもそうである、それはあらゆるものに及んでくる
自治体の存続すら限界状態になりサービスも受けられなくなるかもしれない
とても病人介護社会に対応できない、財政状態が自治体でも悪化して限界になっているからだ

もう病院に行けない、医者にもみてもらえないでアメリカのように貧困層は死ぬほかないとなるかもしれない。アメリカでは保険は国民保険がない、だから馬鹿高い医療費を払わなければならないからかからないのである
日本でも日本経済の全体がおちこめば税収もへるのだからそうなってゆく
そういう兆候はすでにあり現実に始まっている
生活保護だってまともに支給されなくなる、雀の涙のような金しか支給されなくなるかもしれない。
そしてこういう時代になると治安が悪くなる、経済的に追い詰められた人は犯罪者になるそういうことは南米とかで日常的に起きている、日本も安全でありえない
貧富の差が拡大することも危険になる、金持ちは必ず狙われるからである

つまり限界集落というけどあらゆるものが限界になり福祉でも維持できなくなる
もうサービスは受けられない、自治体でも国でも頼れなくなる
そしてなぜかコロナウィルスとかでも経済に打撃であり連続して災難が起きて来るのか?これも末世である、それは社会が既得権者が破壊するためなのか?
時代が変わる時、戦後でも焼野原になり地主など既得権者が消失した
明治維新でも侍が消失したとか大きな変化が起きる
銀行も既得権者でありそれも消失するとか既得権者が安泰でなくなる

でもその既得権者がその権力を失う時、社会が大きく変わる
それは情報分野でもマスコミの権力はインタ−ネットとかで失われつつある
ここも大きな既得権者だった、テレビの六局で放送を独占していた
そして実はマスコミはまた背後に既得権者と結びついていたのである
情報は操作されていて既得権者に不利な情報が流されなかったのである
原発で安全神話を作っていたのはと既得権者だったからだ
ただそこには地元の人たちもかかわっていたのである
原発は国家予算並みの金がでるからそこが利権の場となった

いづれにしろ2020年はこうして大変革が現実化してくるというのは本当だった
それがコロナウィルスで始まったということもそうである
それも世界的に影響してグロ−バル経済自体に歯止めがかかる
それも大きな世界の時代の流れとなる、グロ−バル経済は縮小してナショナルな社会にもどる、グローバル経済も限界にきてそうなってゆく   
「一難去って一難」こういう時代なのである、それは私の一身上でも経験して来た
それは日本全体でも起きて来る、それが時代が変わる時に起きて来る

2020年02月07日

迷惑老人が増える (死んでくれ死んで良かったねとか言われるのは悲惨)


迷惑老人が増える

(死んでくれ死んで良かったねとか言われるのは悲惨)


同署によると、男性は6日午後2時50分ごろ、同県秦野市内の中古品店での支払い時に「レジ袋が有料」と言われ激高し、店員の胸ぐらをつかむなどした。通報を受けた同署員が署に連れて行き保護。署内で引き続き暴れたため、署員5人が頭や両足、両腕をつかむなどして別室に移したところ容体が急変し、搬送先の病院で午後6時10分ごろに死亡した

レジ袋5円に文句言っている、最底辺の老人だったのか?
この人に同情している人はまれである、警察良くやったとか迷惑老人を始末してありがとうとか若い人に言われる

ここには実際警察の問題もあった、無理やり五人がかりでおさえつけて殺したとかも言う警察の強権がここにある、それも経験しているから怖い、問答無用で警察はそういうことをする
自分も駅で人前で職務質問されて公共の場から追放されるところだった
そこでの問題は駅は公共の場でありそこで職務質問されたらみんな見ているから怪しいとなるからだ
それ以来警察を嫌っている、ただ何かそういうことを経験すると不信になる
その時はこちらに落ち度がなかったからである
別に駅は鉄道を利用しなくても人と話したり集まる場合があるからだ

だからこれは警察のやりすぎだったのだろう
それも確かに責められるべきである、というのは他の人も必ずこういう目にあうからである、それが怖いのである

ただこの老人はそうされてもしかたがないものがあった
そういうクレーム老人を知っている、いつも5円十円でも値段を気にしている
それでここに二つのスーパーがあっても一つは嫌がって絶対にいかないのである
何か気分を害することを言われたからだろう
そういう人は不満がたまっているからクレームをつけて店員でも弱い者にうっぷんを晴らす、クレームでもそうである

ところだその人の住む市営住宅ではその人自身隣の老人に苦しめられている
何か異常な行動が多く騒いでいる、それで眠れないという
第一その老人も何か問題があり迷惑行為をしている
市営住宅にはそういう人が多い、経済的にもいろいろ不満をもっている
隣にいるとそれをさけることができないから困る

いづれにしろこうした迷惑老人が膨大に増えてくるのも高齢化社会である
第一認知症になると大迷惑老人にみんななるからである
自分も家族が認知症になって経験しているからわかる
ただ自分の場合は特別世話になったから懸命になり介護したのである
でも社会的に認知症になると家族だけではない回りに社会自体に迷惑をかけるようになるそれが問題なのである

認知症は社会で役割がなくなったときなりやすいということも書いた
家族で女性でも何もすることがなく家事もしない、ただボケーとしていると本当にボケるつまり今の老人の問題は役割喪失であり社会的に無用化されることである
それが大量に生まれる、それがこうした迷惑老人になる
それがもう日常的光景となる
ここでレジ袋の5円とかにこだわっているのは金がないとまたそういう人が増える
そういうぎりぎりで生活している人は常に不満がたまっている
そこでクレーム老人になり迷惑老人になる

だから若い人に早く死んでくれ、警察がかたづけてくれて良くやったとか言われる
このことをみると本当に高齢化社会はいいことだけではない

こんな老人は警察にでも殺されて良かったのだ!

こんなことを言われることは本当に長生きするべきではなかったとなる
一面これは怖いことではないか?
老人でこのことを深刻に自覚している人はそんなにいないかもしれない
かといってこれから高齢化がすすむと8百万人が認知症になるとか言われる
それをイメージしたら空恐ろしいともなる
つまりこうした迷惑老人が巷にあふれ回りが巻き込まれるのである

ここで警察が5人かかりでおさえつけたのはやりすぎだった
それも問題だったがそのことで何か警察のしたことをとがめる人が少ない
これからは老人はこういうふうにされるのかもしれない

迷惑老人は始末しろ

病院や施設で老人は虐待される

これが高齢化社会の現実でもある、老人でも何か社会に貢献しろと言ってもそれが今の社会では老人を受け入れない、ボランティアでも簡単にはできないめんどうなのである
正式にその仕事を認め社会で受け入れないとできない
でも老人は邪魔だとされる、それで家族でも居場所がないとかなる
老人でも最後まで人間は社会に生きる
その社会に仕事も与えられない、居場所がないということは深刻なのである

そして家族でも社会でも無用化された老人はどうなるのか?
社会全体から早く死んでくれとなる
そういう目で見られる時怖いと思う
例え迷惑をかけなくてもそういう目で見られる
そういう目で回りに見られるとき恐怖なのである
それがいつか現実問題として虐待とかこうしたことで警察に殺されるような状態になっても誰も同情しない、始末して良かったとされる

いづれにしろ何らか社会で役割をもたないとこうなることを老人は深刻に受け止めるべきである
そして本当に迷惑老人は始末され病院や介護施設でも虐待されて殺されるとまでなる
そういう事件も起きた

ただ老人になってからこれも時遅しなのである
なぜなら人間は若い時から生きる積み重ねがその人を作る
だからもう老人を変えることはできないからである
何か趣味でもこれまでの継続としてできる、老人になってはじめてやることは実りとなりにくいからだ

ただこれだけの高齢化となると

89才でライダーになった

そんな人も出てきている、その人は40頃からなのかもっと遅くなのか60頃なのか
ライダーになって89歳でライダーになり旅していたのである
だからこういう異色の老人も出てくるのが高齢化社会である
74歳のライダーにも実際あっているし70歳でもロードに乗っていた老人にもあった
だから元気な人は今までしたことを続けることに固執するのである

そういう人はそれでいい、迷惑をかけないかぎり遊んでいてもいいとなる
そういう時代でもあるからだ
でも何か社会に貢献しないと白い眼で見られるということが怖いのである
それで徒然草で吉田兼行は言っている

命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬ程にて死なむことめやすかるべけれ。

今はまさに「命長ければ辱多し」であるが40才では早すぎる
それは今でぱ非業の死である、寿命が短い時こういうことを言うのは解せない
ただ人に惜しまれて死ぬ人はいいということは確かである
早く死んでくれないからなと言われるときすでにその人は社会的死を宣告されている恐怖を知るべきである
あの人なんであんなに生きてているの、それも金でも社会の負担で生きているとか言われる、そう見られること自体生きていることが肩身の狭く生きること自体苦しいともなる
ただ老人側でそういう自覚をしない、それで迷惑老人になる
でもこういう老人は今や増えるばかりでありどうにもならないとみる
それが高齢化社会であるというのもさけられないのである  

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地方交付税も問題だが公共事業費が少ない
高度成長時代は多かったが今は社会保障費が増大したのである


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予算の中で特別会計が主だがここで医療や介護や福祉の費用がこれだけ多いのである
実際知っている人は糖尿病になり病院通いなり70になる女性も腰が痛い、歯が悪い...
病院通いなのである、そして何か保険がきかない、福祉の金も出ない
薬でも風邪薬は医者では出さないとか政府でも医療関係でひきしめている
それもつくづくわかる、老人病人社会になんているからだ
これらに金をあてたらもう政府でやっていけないのである
そしてますます負担になる人が増えるだけなのである
だんだん自分自身でもそうなってゆくのが怖い
将来日本はどうなってゆくのか不安になる

それは経済的面でこれだけ老人が増えて介護とか病人社会になれば当然である
その負担が下の世代にこれからかかってくる
すでにその人は40過ぎて80くらいの施設に入った親の負担が強いられている
また母親もいてその人もどん底である
親のために介護のために仕事をやめるとか50代でも問題になっている
どう考えてもいい面はない
ただ一割くらいはいい面はある、要するにおそらく昔のように一割くらいしか長生きしない、70以上など生きていないとなれば良かったとなる
9割は不用な老人になっている、数の問題なのである



2020年02月04日

年金がもらえなくなるとみんな老後破産 (老後の年金の価値は大きい)


多様な個人が主役になる社会 

(マスコミの時代は終わった-youtubeの感想)

Diversified world Multipolarization 

   
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youtube

多様化となると個性になる、多極化となるとマスコミからyoutubeのような変化である
多元化とはmany rooted landになる
多極化はやはりシステムの変化である、六局だけのテレビ放送は終わった
今やその数が次々に増大しているからだ

最近youtubeを見て発見がある、加治将一チャンネルと今日見たつねあきチャンネルでもそうだった
年配だから人生を語り金融を語り資本主義を語る、それだけ経験があるから厚味と深さがある、やはり40代ではまだ人生を語れないからである
今価値があるのはそれぞれの人生を語ることである
それも多様化であり多極である

こんな人生送っていたのかと驚きがある、加治将一氏などは自分には理解できない
破天荒な人生だったとなる、現代の大金持ちの生活を体験しているからだ
アメリカでも実業していたから驚く、そういうことが自分にはイメージできないからである
若い人には個性がない、それは経験がないからである
人生を経験した人しか語れないからである
それは失敗したことでもそうである、ワインを飲んだ蘊蓄があったがそれも無駄だったというのもそうである、別荘をもってももしあましただけだったとかもそうである
そういうことは自分のような貧乏しか知らない人にはわからないのである

deep max 妙法の中国に関する情報は内容が濃密である、これは中国に専門化しているからマスコミより詳しい
中国の知らない面を知る、語り方もうまい、このチャンネルは明らかに今のマスコミの情報を越えている
中国で干ばつがありそのためにそこから細菌が生まれて流行するとかそしてそこで大型の動物が生き残れない
ネズミが繁殖して移動するからそこから細菌が人にも伝染してゆくという
そもそも大型動物は生存競争で不利なのである、だから恐竜が滅びたが小型の哺乳類は生き残ったのである
つまり中国の様な巨大な国家でもそれが恐竜のように滅びてしまうような弱点があるかもしれない
だから何でも巨大なものがいいとは限らないのである

武田邦彦氏チャンネルとなるととにかく科学に強い、そこから世界をみる
その支点が専門の科学にあり技術者でもあるから世界でも仕事していたからその見方が深いのである、マスコミだとコメンテ―ターとして呼ばれても話すことが短すぎるから
深く知ることができないのである
その主役はコメンテーターではない、司会者なのである
司会者が芸能人になっていることでもわかる
注目するのは司会者でありコメンテ―ターは脇役にすぎないのである

イケハヤ大学だとその住んでいる場所に興味をもった
四国の山の中であり平家落人伝説のある祖谷(いや)に近い
そこにも行ったことがあるから相当山の中だとイメージする
その他世界旅行した生々しい話についても興味をもった

とにかくて多様な人物が語る時代になった、マスコミではそうしして自らを語る場ではないテレビ局でも支持されたものをその人のほんの一部しか語れないのである
youtubeだと誰々のチャンネルであり一人の個人のチャンネルであり自分のことを制限なく語れるのである、だからその人の全体に注目する
例えば本一冊だして読んだとしてもその人の全体はわからないのである
何か推理小説一冊読んだなとかで終わるからである
だからメデアが変わるとその表現されるものがまるで変わるということがわかった
今その変わり目でありまだその全貌はわからないのである

多様化多極であり多元化である、多元化とはそれは様々な土地であり土地が場が個性を作り出している
そこに住んでいる場所の価値が再確認される時代である
それが相馬市が城下町でありそこに隣の庭を活かした煉瓦作りの喫茶店ができた
私が紹介した喫茶店は場所を活かしたことにより価値が生まれた
料理ならたいして変わりないのだがその土地の場のもっている雰囲気の価値が違う
山木屋のガーデンは海が一望にできる、隠れ家の鹿島の海老の喫茶店もそうである
ただ不思議なのは原町にはそういう喫茶店が見出されない
でも北泉とか雫〈しどけ)辺りに海が一望できるから喫茶店があればいいとなる

しかしこんなふうに膨大に多様多極多元化するとそれを追うだけで時間がとられるし理解することも大変だなと思った
でも明らかに老人の価値は人生を語ることである、これは若い人にはできない
そこに教訓を見出すことができる、例え失敗談でもそうである
そういうことが無駄だったのかと知るべきである
つまり共通しているのはいかに時間を浪費したかということなのである
金を浪費したということもあるが時間を浪費したことが一番の後悔だったことが共通しているのである

つくづく現代は百家争鳴の時代になった、これから何か紹介したように団塊の世代が人生を語る時代になった、何か遅い感じがするが人生百年時代は人生を語るのが遅くなる
60からでも70からが人生を語ることになる、それが成熟社会なのである
そういう場が与えられた時代だともなる
ただ60代以上とかなるとyoutubeに出ているのはまれである
電子空間は紙の空間のように制限されない、いくらでも語っても書いてもいいのである
それで延々と個人を語ることになる
ただこれだけ多くなると前もそうだったが読まれたり見られることが簡単ではないそれでただ放置されているだけのチャンネルもでてくる
それはインタ−ネットでは極端なのである

でも何かyoutubeという媒体(メデア)は不思議だと思う、要するにテレビに50年以上なじんでいたからそうなっているのだ
それが習慣となって何かyoutubeというのが何なのだろうと戸惑うのである
これもこれから習慣化すれば別にそれが当たり前となるのである
マスコミの時代は終わったことを告げているのである

ここで時代の変化を表にしている、今までの世界とは違っている
大事なことは今までは高度成長時代でも同じものの大量生産であった、それで日本が外国に輸出することで豊かになった
それが今は通じない、そうした製品ではなく物ではなく情報が価値をもつ時代になった

例えばニュースを語るにしても住む場所も年齢もその人の個性も違うからいろいろな解釈の仕方がある、自分だと郷土史とか調べているからその住んでいる土地と関連して説明したりする、マスコミだとみんな同じになり安いのである
そこで主役になっているのは司会者でありあとのコメンテーターは局から選ばれたものしか出さない、話すことも局の指示通りすにする、そして主役は必ず司会者になっている
そういうシステム自体が古くなったともなる
個々人がyoutubeで語るのが新鮮なのはそのためだろう
個人のテレビ局というのはありえなかったからである

そしてこうなると個々人でもいかに表現するかが勝負だとなる
表現力を磨かなければ見てくれない

つまりマスコミのように同じことを話していては誰も見ない

その人なりの解説がないと見ない、だからニュースでもその説明の仕方が個々人によってその立場によって経験によって違ってくる
そうなると必ず自分なりにそれらの情報を集めて編集することが必要になる
それが手間になる、テレビだとただ一方的でありその報道したことについて個々人は全く受け身になっていた
インタ−ネットではyoutubeでも能動的にその意をくみとろうとする
それが今までのマスコミの情報と違っている 
ニュースとかはマスコミが独占していたけどその解説となると本当は個々人によって違ってくるものだったのである

だから子供からの教育でも変えねばならない、いかに表現するか、表現力を磨くことである、今までの様な暗記ばかりしていては表現力は身につかない
そこで教育もフリースクールのように学校に行かなくてもいいように政府が応援していとかなるも時代の変化である



2020年01月07日

団塊の親の世代が介護などで子供の負担になる (高齢化社会でも価値観が変わるー老人は負担なだけ?)


団塊の親の世代が介護などで子供の負担になる

(高齢化社会でも価値観が変わるー老人は負担なだけ?)


5080問題はひきこもりが長期化して親の介護になったとき地獄になる
それは自分自身が経験して来た
親が大正生まれで会った、いまはすでに団塊の世代もまもなく介護される方になる
その人は80くちいなのだろう、その息子は40代である
別に引きこもりではない、土建業で正社員でありボーナスをもらったとか足を怪我した時社長みずから見舞いにきたりいろいろと世話をやいているからいい会社なのである

ただ問題はその父親が介護状態になり青森の施設に移された
南相馬市では介護する人手がたりないのでそうなった
たいがいここでは青森に移されている、青森は仕事がないのでそうした介護事業が仕事になりやすいからである
でもその施設に入れたからそれで終わりではなかったのである
その後に施設で使うものを負担しなければならない、おむつなどでもそうである
その負担がその一人の息子にかかってきたのである
もう一人息子がいても絶縁状態でありめんどうはみないからだ
その息子は結婚していない、結婚が嫌だというより結婚できる余裕がないのだろう
この世代には結婚したくてもできない状態の人が多かった
氷河期世代だったのである

そして70にもなる母親がいるがそれにも金を送らねばならない
その母親は年金でもわずかでありとても生活できないからだ
医療費は無料でも生活費自体が少なすぎて生活できないのである
時々わずかの金を送ってくるがそれもその息子にとっては負担である

すでに5080問題はひきこもりのことだったがそうでなくても40代から50代の親が介護状態になってくるのも怖いことである
その数が多いことが問題なのである、それで会社をやめたとか苦しい状態に追い込まれるただ金があればこの場合は問題がない、まだ親が一応体に故障があっても生活できるからである

これが介護になったらどうなるのか?

父親は介護して回復しているから帰ってくるとかとも言う
それはいいことにしても息子にその負担が長く続くことになるのだ
これも高齢化の厳しい現実である
高齢化社会とは病気になっても介護されてなかなけか死ねない社会なのである
それで介護しているとき早く死んでくれたらなと自分も思ってそのことを書いた
そしたら他の人も介護している人がそう思っている
それは別に悪い人でもないし普通の感情なのである
必ずそうなる、これは個々人だけではいない

社会でも老人は負担になるから早く死んでくれ

それが本音になる、個々人ではいろいろな人がいるから一様には言えない
元気な人は80でも90でも元気だし10歳は若くなっているのが現代である
だから本当に老人となるのは75歳以上からだろう、それまでは老人と言えない時代ともなっている、ただ老人になると個人差が大きいのである

このことはこれからでもすでに起きているのである
別にひきこもりだけではない、50代になると親の介護に入ることが多くなる
それですでに会社をやめたとか問題が起きているのである
これから数が多いのだからどうしても負担が増大してゆくのである

結局高齢化社会とは残酷なようだが

この老人にこれ以上長生きする価値があるのだろうか?

そういう疑問も生じてくるのである、命はかけがえのないものだということはわかるにしてもこれだけ老人が増えて負担になるときそう疑問になるのも当然だとなる
高齢化社会はそういうことを問う時代にもなる
いつまでもこの老人を活かして負担になって子供が苦しむのがいい社会なのだろうか?
そういう疑問をもつのはやはり老人に希少価値がなくなったためである
50から60で死んでいた時代だったらこういうことはないのである

こういうことを言うとお前こそ死んでくれとかなる
だから誰もそういうこと言いにくいのである、この人はもっと長生きするべきかしないかと判別などできないからである

正直あの人はなぜ長生きしているのか、馬齢を重ねているのか?
その子供は親のために若い時自殺したとか知っている
その親は80近くまで生きている、むしろ自殺した子供がべきだったとなる
ただ命に値踏みができないからみんなそういうことを言わないだけである
何かその人の価値がどこにあるのかわからないからである

とにかく高齢化社会の価値観もまた変わるのである
今までの価値観では対応できない、長生きしたらみんなかさ喜ばれる社会ではない
そうなると価値観が変わる、何か時代とともに人間の価値観が変わる
なにより次の世代の負担になり若い人達の足かせとなることが問題なのである
自分は親に感謝して必死になって介護した
それは60以降でありやりたいことをやらせてくれたからである
それは仕方ないと甘んじて必死に介護したのである
だからその人によって介護の事情は変わってくるのである
毒親の介護のことを言っている人もいるからである

いづれにしろ高齢化社会というのは歴史上世界でも経験ししていないのである
だからそこでいろいろな問題が生まれる、それは今までにないとことだからそうなっているのである
お年寄り大切にしてくださいということも成り立たなくなっているのもそうである
それは余りにも老人が多すぎるからそうなったのである

2019年12月17日

死者を愛しつづけることができるのか? [わたしたちは愛においていかに死者を憶(おも)うか(キケルゴ-ルを読む)]


死者を愛しつづけることができるのか?

[わたしたちは愛においていかに死者を憶(おも)うか(キケルゴ-ルを読む)]

●死んでみればどんな人もあっけない

人間は死んでみると実にあっけないことに驚く、生きているときは大騒ぎしても死ぬと全く信じられないほどあっけないことがわかる。灰となり煙となり終わりである。姿も形もなくなる。そしてあとは何もない、沈黙して終わりである。こんなに人間はあっけないのかとあきれるてしまうほどである。認知症になるとまわりに大変な迷惑をかけるが死んでみると全くそれも嘘のようにあっけない、死んでみればどんな人もあっけない、それは地位ある人もみんな同じである。人間の一生なんて大騒ぎしてもこんなにあっけないのかと唖然としてしまう。人生はこんなものなのかとむなしくなってしまうだろう。どんなに生きても人間は死ねばあっけない、この世で功績を残した人でもあっけないのである。そういう点で死は平等なのかもしれない、死はありふれているしどんな人も死ぬ、人間はどんなにがんばってもはかないものだとつくづく思った。そんなはかない人間がこの世でじたばたしてもはかない、むなしいと思う、何にしろしょせん、塵となり煙となるにすぎないではないか、つまり人間はどんなに生きてもどんな人の生も最後はあっけない死で終わりむなしいとなる。この世に受けた生ははかないものでしかすぎなかったのである。また一人死に自分も近い内死んでゆく、それは逃れられない人間の定めである。

だからこそ永遠の命を求める信仰が必要になる。この世限りの生はどんなに生きたってどんな人だってはかなくむなしいのである。死を見ればわかる、あまりにもあっけない、あまりにも無惨だった。人間はどんなにもがいても死ねばはかないもの、あっけないもの、死んだら何にもない、それだけのものにすぎない、あなたが求めていること焦燥していることは実際つまらないことである。最後はみんな塵となり煙になるだけではないか、何を成そうとしてあせるのか?この世にあせって成そうとするようなことはなにもない、結局人間の行き着く先は死なのだから、死の克服がない限りこの世をどう生きようがむなしいとなってしまうのだ。社会をどうのうこうのと言っても結局社会自体は死の問題を解決することはできないのだ。カルト宗教団体は社会改革を目指す、創価なんか特にそうである。宗教とは関係ない、カルトは社会改革を目指し傾向があるのだ。集団化するとそうである。宗教は政治で解決しない問題を追求してきたのである。

●生前と死後の継続

ただまだまだ死んで間もないとあっけない死でもその人を想いつづける日はつづく、新年もまた死者とともに明ける、いくら死があっけなくても死者との思い出はなおつづくのである。死んではじめてその人が自分にとってどうい人だったかわかる、生きているときは意外とわからないのである。60年一緒にいてもわからない、その人が死んだとき本当に痛切にわかることがあるのだ。だから人間の関係は死があっけないにしてもずっとつづいているのだ。死によってその人が自分にとってかけがえのない人だったことを気づくこともある。結局死の残酷さどんなに今や思ってもその人自体には会えないということにあったのだ。夫婦で喧嘩したり親子で喧嘩してもあとで反省して仲直りもできる、でも死んだ人とはできない、その人と永遠に会えないのだから和解もできなくなる。後悔しても相手は死んでいるのだからわかってもらえない、死んだ人と語っても返事がないのだ。だからわかってもらっているのかどうかわからないのだ。

あなたは私に対して介護で冷たかったね、だから呼びかけても返事しないんだよと死んだ人が思っていたら衝撃になる。そういうこともありうるのだ。生前冷たくした人がでは死後はどうなのか?やはりいくら死者に語りかけてもいい返事はかかってこないかもしれない、死者は何も言わないにしろそう語りかける人自体がそう感じてしまうだろう。やはり死者は語らない、返事がないにしろ真心で語りかける必要がある。死んでいる人に自分の心を偽ることはできない、死者は厳粛に見ている、死者に手を合わせることはやはり生きているときとは違う神仏に手を合わせるような気持ちになるからだ。あんたは生きているとき冷たかったね、あなたの心を私は知っているよ、しらじらしいとなる、そう思われたら見抜いているとしたら神仏に手を合わせることはできないだろう。死者は今や介護される必要もない、手をわずらわすこともない、では何を求めているのか?生前から継続する真心を求めているのだろう。あなたは生前良くしてくれたな、私はわかっているよ、ありがとうと感謝の気持ちが死んだ人から伝わるようだったらいい、でも自分にしてもそこまではしていなかった。家に帰りたいと言っても家庭事情でできなかったし病院での介護もそんなにしていないともいえた、ただそういう落ち度があってもわかってくれよなと願っている、認知症になったのだから直ったら事情をわかって感謝もしてくれよなともなる。
いづれにしろ老人の介護は死と結びつくものとしてある。それは介護している人が死んだ時わかるのだ。これは施設でも別に親族でなくても世話した人が死ぬことはやはり厳粛なものであり同じなのである。 山姥伝説は親を蓮台野に捨てたことが基になっているという、捨てた親が山姥となり恐れられた結果だという、これもわからないが人間の心性はそもそも変わらない、伝説も何らか人間の変わらない心性があるからこそ突飛なものでも理解できるのだ。あくまでも人間が作ったものだからである。死者への恐れは共通してあるからだ。

●キケルゴ-ルの死者の対処方法

死者のために声をひそめけ泣け、彼は安らぎに入ったのだから」

ひとは死者を想いつつ声をひそめて泣くべきであり、しかも長い間なくべきである

死者を憶(おも)うことは愛の仕事である。

死者はいかなる仕方でも報いるということをしない

死者はいかなる禍もこうむることがない、しかもこれほど容易にその人の遠ざかることのできる相手をもたない

死者の見開かれた眼をのぞきこんで嘲笑することはできない

私たちは愛において死者を想うことはもっとも信実な愛の行為である

死者を恐れよ、彼の狡猾さを恐れよ、彼の確固たる態度を恐れよ、彼の強さを恐れよ、彼の誇りを恐れよ

たとえ死が私たちの現に見ている人々をわたしたちから引き離すとしても彼らを愛するという義務はなくなりえない、なぜなら義務とは永遠であるからである。

人間が死んでしまうこと、これが何を意味しているのか、一体死者はどうなったのかなど理解することは簡単にできない、死者については霊媒者とかいろいろ語るけどわからない、キケルゴ-ルの言う死者についての話はわかりやすい、インタ-ネットで死別のことでいろいろ語っている人がいる。慰めている人もいる。そういうなかで10年とか20年とか想いつづけている人もいる。そんなに想いつづけられるのか、死者もそれなら幸せだと思ってしまう。たいがい死者とは死んだ時点でも忘れられてしまうことがある。肉親でも死んだら財産の方の話になり金にしか関心がない人も多いのだ。一方で逆にいつまでも死者を想いつづけている人もいる。それでは病気になってしまうという人もいる。確かに延々として死者を想い泣いていたら現在の生活に支障をきたす、もっと現実を生きろとなる。一般に死者を想い続けているのは若いとき死別した人なのである。老人の場合は少ない、天寿を全うしたんだからこの世に未練などないから想いつづけないことがある。これは個別にみんな違っているから外からは計りにくい問題である。死者でも障害者、知的障害者でもいつかは死ぬ、そして認知症になって死ぬ人もこれから多数になる。そういう人もやはり死者はかえって威厳あるものとして生者と向き合うようになるのだろうか?死者は区別がないのだろうか ?生前にノ-ベル賞をもらった人は優秀な人も多々いるし市井に極平凡に掃除婦などとして終った人も多数いる。そういう人も区別なく死者は威厳あり恐れるものとなるのか?死者はそうかもしれない、この死者は特別偉いというのではなくキケルゴ-ルの言っているのは一般的な死者のことである。

いづれにしろ死者はどうしたって忘れられる存在である。そのなかで死者を想いつづける人は相当に死者を愛している人だったとなる。でもそれは生前と関係してそうなっている場合が多い、生前に愛し合わないものが死んでからその人を愛すことがありうるのか、それはなかなかできない、生きているとき、生前愛さない人は死後も愛さないのである。認知症になったとき長年親しんだ人もよりつかなくなった。やはり死後もその人たちは死者を想わない、やはり生前と死後は連続している。認知症になったような人は死後はどうなるのか?回復して正気にもどりまた賢い威厳あるものに戻っているのか?やはり死者には変わりがない、死んでから馬鹿のようには扱えないものになる。死者はみんな厳粛なものになるからだ。死者を嘲笑したりできない、知的障害者でも認知症の人でもそうなる。この人は馬鹿だった、死んでからも馬鹿だとは言えない、死者とはみな平等なのである。

死者の見開かれた眼をのぞきこんで嘲笑することはできない

二カ月間意識失ったとき眼を開くのだがそれが魚の死んだような眼だった。それをみたときまともに見ていられない、気持ち悪いものだった。でも自分は眼を開けと開かせたのである。手も握っていた。手はまだ血が通いあたたかかった。そのあたたかい手をにぎり最後は手は冷たくなり死んでいった。そこまで生きていたし生きる交流はあったのだ。このとき死んでいなくてもその眼をのぞいたときこの言葉を確かに感じた。半場死んでいたのでありその眼を見て嘲笑はできない、半場死人になっていたからだ。死者を誰も笑うことはできないだろう。認知症だと生きていれば馬鹿を言うが死んでしまいば馬鹿なことも何も一切語らないことは他の死者と同じなのである。そこに死者の共通性がある。死者は一切語らない、しかし死者は何も見ていないのか?死者は見ている、まるで外観ではない、神は心を見ているというごとく生者を見ている。それゆえに死者は恐るべきものである。あなたの誠実と不誠実を見ているし知っているとなると偽ることができないとなるとそれは神がみていると同じになる。それゆえに死者を恐れよとなる。 そして生と死が連続したものであるときまた生者も軽んじることはできない、生者も死者になるからである。生者だけを重んじ死者を重んじないまた死者だけを重んじて生者を重んじないということもできないのである。いくら死んだからといって生と死は断絶したものとしてはないからだ
時事問題の深層からの転用です



前のホームページからプログに移した、まとめ作業をしている
それも膨大になるとまとめること自体がいつまでも終らないとまでなる
これが自分自身が書いたのを忘れていたのである
自分が書いても忘れているのが結構あるので読み返しているのである

2019年12月14日

墓とは何なのかその謎 (墓参りすれば良心がなぐさめられる?)


墓とは何なのかその謎

(墓参りすれば良心がなぐさめられる?)

墓が何なのか?これも知ることは簡単ではない、そこで墓の歴史を見る
江戸時代には侍意外は墓はなかった
村の共同墓地に埋められていた、つまり墓はなかったのである
そこはホトケっボとか言われて残っている
そこには死体が埋められたのである
でもそこには誰々の墓とかはないのである

殿様とか侍の墓は菩提寺にある、それも個人名であり家の墓がない
…家という墓はないのである、男性でも女性でも個人名の墓はある
女性でも侍の家だったら個人名である
だから墓がある人は特別な人であり一般の人は墓がなかったのである

でも経済力がついた幕末辺りになると農民でも個人名の墓が生まれた
墓を作るのは結構当時は金がかかるから作れない
でも経済力がついたとき農民でも墓を作ったのである
今でも立派な墓を作るのは裕福な人だからにている
墓はあくまでも個人であり個人を供養するものである
ただ村という共同体があるときは共同の墓地にうめていた
ただそこには何もないのである

家族墓が一家の墓が生まれたのは明治以降なのであり新しいのである
それは上からの政策でそうさせられたということがある
家を一つの単位として国をまとめる国の政策として一家の墓が奨励させられた
天皇が日本国民の親であり国民は子であり赤子であるとかなった
それは上からの押しつけだったのである
だからち歴史的にみれば家族の墓は新しく作られた制度のようなものだったとなる
家族の墓は世界的にみてもない、みんな個人の墓である
そうすると家族の墓は一家の墓は特殊だとなる

不思議なのは共同墓地に個人が埋められたとき個人は消失する
でも村の人たちがそのホトケッポにお参りしていた
だから村がある限り誰かがそこにお参りしていたということはある
でもそれは特定の個人にお参りしていとはならない、なぜなら個人はそこで消失しているからである

墓の不思議は墓は家より長く残る、家が消えても墓が残っている
家は絶える家があるからだ、今になると家が維持できないとなり墓終い(はかじまい)
する人が多くなった、墓はこのように維持することがむずかしいのである
だから誰もお参りしない墓があり捨てられるようになる
墓の墓地ができてしまうのである、特に家族のつながりが希薄化している現代ではそうである、子供でも女性なら遠くに嫁ぐとか広域化すると代々つづく家というのが少なくなる
なぜ墓が家より長く残るかというとその土地と関係している
家だと家という建物は消える、でも土地にあれば墓は例えばその家の人が死んでも墓だけが残ることがある、無縁墓になっても残ることがある
家はもし人が住まなくなったら壊されてなくなるからである
そして家族がお参りする人がなくても無縁墓でも土地の比とがわれだとして花でもたむければ墓だけはその後も残るということがある
そこに墓の意味があるともなる

ともかく墓というのはまず人間は家族でも死ぬと何もなくなってゆく
そこで死体を埋める、そうしたときそこに卒塔婆のようなものを建てることからはじまった、死者はいないのだがそれが代わりになる
でもその卒塔婆だとこれも古くなり朽ちてなくなる
それでなくならないように石にしたともなる
ただ問題は墓でも誰かがお参りしないと墓は捨てられるのである
そのように継続することがむずかしいのである
それが共同墓地になると数が多いから誰かが子孫でもお参りすると継続できるのである
一家の墓は継続しにくいのである
それは墓石会社が言うのとは違ってくる
こういうふうに死者を商売するするとき何でも歪められる
墓を売りたくてそういうからである、また戒名などもそうである
そんなもの第一仏教ではそもそもなかったからである
それも寺や僧侶の金儲けのためであり歪められるのである
人間は必ず利益がかかわると公正に見れなくなるのだ

ただ骨を海に散骨するとか木の下に埋葬するとかして墓を建てないということも選ぶ人がいる
そうするとどこに墓参りしていいかわからなくなるので困ることになる
墓というのは墓参りがあって墓の役目を果たすからだ
その人の墓があればその人を供養することになる
そして何か墓というのは良心をなぐさめるためにあるともなる
親に苦労かけたのに何もできなかったから墓参りするとかである
それで心が慰められるのである
何か本当に死者に対しては良心が問われるものである

第一死者は何を生者に求めているのか?

供え物なのか?そうでもない、死者は心から私を思ってくれますか?
そのことかもしれない、死者はもう何も与えてくれないしまた何を与えても返事もないからである
それでそういうことになると何も思っていない人は墓参りもしなくなる
現実に実の娘ですら金にならないとして墓参りしなくなった
こちらで電車賃とか10万とか払ってもそれはその金が欲しくて墓参りすると言ったが来なかった、その人は事情があるにしろその10万が欲しかっただけなのである
それで死んだにしろ親の縁もキレたとなる
それは親に責任があるにしろなにか人間の縁などあっけない無常だと思った

とにかく墓があればその個人を偲ぶことがある、それは具体的に墓というものがあり墓参りして何か良心のなぐさめとなる、墓がないとそれがなくなる
死者との縁が墓を通じて結ばれるということはある
でも立派な墓は必要ないのである、そういう死者を思う心があれば卒塔婆のようなものでもいいのである、第一石の墓だとお参りする人がいなくなれば片付けるのに困るからである、卒塔婆のようなものだったら片付けるのが簡単だからいいのである 

私が新しく兄の墓を作ったとしてもそこに骨もなにも埋まっていないのである
でもそこに兄がいるとしてお参りする、不幸にも若くして事故で死んだしいろいろ私の家族ではマイナスのものとしてあったからお参りする
それで良心のなぐさめになる、母もまた苦労したからそれでお参りして良心の慰めになる不幸という時、子供の時不幸なのは愛されない最悪だからである
母も継母に育てられたからそうだった、継母にいじめられたのである
兄も私の家では愛されなかった、だから不幸だった

それで不思議なのは母の場合は何か愛されないというカルマをもっていたのかともなる
その子もそうなったりしたからである、それは自分の家族とも関係していた
それで私は恵まれたらか良心の慰めとして兄の墓を作りお参りする
でも実の娘も不思議なのは愛されないものとなった
これもカルマなのかとなる

親ー子ー孫とありみんな愛されなかったという連鎖はカルマなのか?

こういうことがカルマとしてあるのは確かなのである

いづれにしろ母の命日を今年も忘れていた、ただ一人になるとそうしていろいろ気がまわらなくなる、家事するだけでも忙しいからである
だから命日だけでも個人を偲ぶということは必要である                               



2019年10月27日

悪い病気でも死なない人の謎 (社会的役割があることの大事ー何もしないと認知症になる)


悪い病気でも死なない人の謎

(社会的役割があることの大事ー何もしないと認知症になる)


医療が進歩しているから今やいろんな病気でも簡単には死なないのだろう
その人は病気と聞いてから5年以上それより長く普通に働いている
そして街に自転車屋が一軒しかないからもしそこがなくなると不便になる
それで古くなった自転車を無料でひきとってもらった
それは高価だったが使えなくてなんにもならなかった自転車だった

ただそれなりに商売できるからつづけいるのだろう
あまりに収入が低くかったらできない
その人は話ができる、ただ自転車の技術屋ではないのである
良く職人気質とかいうときただ物つくり一筋に励んでそれを売るということでは商売では愛想が悪いという人がいる
そこが一人で経営していることのむずかしさである
大工さんでも本当に話がうまいというか商売に向いている人がいた
その人は自ら注文をとる一人親方だったのである
そういう人はいるにしてもみんながそうはならない
自転車屋はただ自転車だけを見ていては商売にならない、客との交渉とかあるからだ

その店は時々休むにしてもなぜそんなに長くつづくのか?
それはその仕事をすることに役割がある、その仕事をする人がいなと困る
町に一つしかないとそれは貴重になる
隣市に行くと不便なにるからだ、するとそういう気持ちがその仕事をしている人に反映するのかもしれない、それで病気でも仕事が続けられるとなっているのか?
休む時は点滴しているというから結構病状はいいとはいえないのである

ここは謎ではあるが認知症の場合は確実にあてはまる
認知症も謎だけどどうしてなるのか?それを前にも書いたけど役割喪失であり仕事がなくなることなのである
一人は家事を94歳までしていた、働き詰めだったし趣味もなにもない
でも94歳まで家事の仕事をしていたのである
一人は役所を定年退職してなにもしなくなった、家事すらしない、用意されるからしない結果的に認知症になった

仕事がない、役割がないは認知症になる確率が高い

これは原因はわからないにしてもその確率が高くなる
仕事がない、役割がないということは人間にとって相当に深刻なのである
何もしなくてもいいのだから楽でいいのではないかとなるがそうではない
それは人間にとって深刻な問題を引き起こすのである
それがボケになり認知症になることに通じていたからである

たから嫁にばあちゃんは何もしなくていいですよ、テレビでも見ていてくださいと言われる老人がぼけるというのがそうである
つまり家でも家事をすることがないからである、でももし料理が上手なら料理を嫁に教えたりしていたらそういうことはない、でもそれはみんなができることではない
何故か家事をしてみると料理でもこまかいのである、いろいろ種類をそろえねばならないから手間だなとりほとんど買っているだけである
人間はいろいろなことを一人ではできないのである

だから人生百年時代の大きな問題は金もある、これも深刻だけど会社を退職したりするとそこで役割を失う、仕事を失うことが深刻なのである
そして会社を退職すると「ばあちゃんはテレビでも見ていてくださ」と男でもされるのである、ボランティアにしてもそれを受け入れる場所はない、地域でもない
すると仕事がない役割がない、生きがいがないとなることが深刻なのである
高齢化社会はそういう人が社会にあふれる時代だともなる
高齢者の役割は何か?病気になり病院に行くことであり介護されるだけだとなる

しかしそれは社会的費用が膨大にかかる、労力もかかるのである
認知症患者が800万人になるというとき空恐ろしいものとなる
社会を認知症の患者が徘徊して彷徨うとなると悪夢だとなる
人生百年時代になると会社人生だけではなんライフワークとかをもつ必要がある
雑学でもいい何か専門をもち認められるように努力することが必要になる
そうしないと会社を退職した時点で仕事もなく、役割もなく、生きがいもないとなり
認知症になりやすいから怖いのである

働くということはWORKすることであり機能することである、社会的にもその人が機能する
役割をもち社会に機能することである、そこに生きがいが生まれる
ただ社会に機能しなくてもアウトサイダーのように別個の価値を追求することもあり売るただこれはかなりむずかしい、だから簡単なことでも何か社会に機能する仕事が必要なのである
女性ならやはり家事を続けるとかでもいい、家の中でも機能する、役割を喪失させると認知症になる危険が高まる
それは今度は周りに迷惑をかけるから家族も崩壊するようになるから家族の人も認知症にならないように注意しないといけない
何か役割を与えるようにしないと危険になる

とにかく人生百年時代は人類でも経験していないことである
だからそこに様々な問題が起きて来る、経済的問題も深刻だけど社会から無用化されて
家でも無用化されて何の役割も生きがいもないとなりボケになり認知症になる
それも高齢化社会の大きな深刻な問題なのである

自分の場合は性格的に内面的な仕事に向いている、外面的な人と接する仕事には向いていない、それで社会と適合できずに社会からはずれた生活をしてきたのである
でも社会的生活も有益である、無駄ではない
結局人間が経験するのはわずかだからである、するとなんでも経験したことが貴重になる個人では限られたことしか経験できないからである
でも仕事は積み重ねである、知識でもそうである、だから退職してから何かはじめようとすると困難になる
ただ人生百年となるとそこからでも自らにあったものを仕事とか役割をもたなければならない時代になった、そうしないと認知症になるリスクが高くなるからである

もしかしたらその人が社会に役割があり家族でも役割があるとき死なないのかもしれない役割も仕事もなくなった時その人は認知症になったり病気になったりして社会的家族的死になる、その時その人はもうすでに社会から忘れられたものとなっていたのである
その人がいるかもとうかもわからない、社会から消えるのである
社会的死になっていた、そして後は大迷惑かけるだけの存在になってしまったのである
そういう認知症が800百万にになるのが高齢化社会でもあるとしたら空恐ろしいとならないか?医療費ももう限界にきている、介護も人がいない、貧乏社会になり介護費用も払えない、その負担が今のロスジェネ世代なのである
その人たちは金銭的にも余裕がないからだ
そういう悪夢の時代が現実化するのがもうすぐだという恐怖になる

ただいい面としてはそれだけ長く生きると何かをライフワークを追求するのには有利になる、急ぐ必要がないからである、成果を出すのは七十以上てもいいとかなるからだ
その後でも精進つづけられるからである、何か本当に学問とか芸術とかでも知識の分野は一代でも追求しきれないものがあるからだ
それだけ知識の分野は広いからである、それでそういう分野では才能を発揮できる人が増えてくる、インタ−ネットなどでも独学でもできる環境が整ってきたからである
それで自分自身もこんなにプログで書いているのである
文章だと書ける、しゃべるとなると私は苦手だからできない、それでこんなに書いているのである


2019年10月24日

負担になる老人が増える(介護や病気で金がかかる)


負担になる老人が増える(介護や病気で金がかかる)

青森に送られた親は最初は金がかからないとか預けるだけでいいと言っていた
実際は何か必ず必要なものがあり金がとられている
それを息子が払っている
その息子も非正規ではないから社長がいろいろとめんどうみる
怪我した時もいろいろと世話をやき母親のところまできた
人手不足だから人を大事にしている
建築土木の仕事である

それで今度は丸森が大被害になりそこに働きに行った、それも大変だと言っていた
自衛隊が入るのを規制している、断水もつづいている
そこもこれから復興には相当な労力が必要になる

そして一週間くらい来ないでどうしたのだろうと思ったらその人は目の手術をしてきたという、それも仙台まで行ってなのである
この辺で仙台まで行く人が多い、仙台の医者や病院は設備が良く優秀な医者がいるとして行っている、それで金がかかったと来る
必ず自分の所に金を要求してくる
なぜこうしう金を払わなければならないのかわからない

ただ考えてみると丸森に応援しなければならないと思ったがこうして現実に働く人がいるのだからその後押しとしてその母親のめんどうを金銭的にみるのかとなる
丸森では人手を必要としているからである
かなりの工事関係者がそこに集まっている

●介護で金がかかっている

●老人の病気で金がかかっている

こういうふうに今はそれぞれの家族でも必ずこの二つで負担になっているのだ
介護でも後はかからないといっていだが結構かかっている
そして母親の分までめんどう見れないとなっている
でもなぜ自分に要求されるのか?別に払わなくてもいいけど払っている
約束の倍以上払っているから苦しいとなる

何か今は本当にこうして必ず高齢化で負担を背負っているのだ
その数も増えてくる、福祉でも今はかなり制限されていてもらえないのである
全部病院でも福祉でまかなうことはできない、福祉といってもいろいろな段階がある
最低クラスだと本当に援助がないのである

ただ今回は丸森を応援しなければならないというときその人の息子は丸森で働くのだから間接的には丸森の人を応援しているとなる
だからやむをえないともなるが何かなぜ自分にだけ要求されるのかとも思う
友達だった人は糖尿病でもう4か月くらい入院しているから金銭的援助ができない
これもまた負担となっているのだ

いづれにしろ少子高齢化社会は団塊の世代が75以上になったらその負担で日本自体がつぶれるではないかとさえ思う
必ず介護になりその期間が長いから金銭的にも労力的にも負担になるのである
私の場合は介護も終わりすでに4年とかになる
なんか楽になったなとつくづく思う、余裕がでてきたから人のことを考えられる
余裕がなかったらとても他人のことを考えることも思うこともできない

でもそんなことをかまわす人間かは絶えず自分のことで頭が一杯であり俺たちは苦しいんだ、金がないんだ、・・・・と要求してくる
それは津波の被害とか原発避難者とかの時はもうそううい人たちが押し寄せてきたのである
でも自分自身が介護で病気で苦しんでいる時でもそうである
事業に失敗しし借金した人と金がないから盗むために家探ししていたとか人が苦しんでいることなど関係ないのである

ともかくなぜこんなに自分自身でもそうだけど災難がつづくなのだろうか?
相馬総合病院に入院していた人は津波被害者が新地と松川浦の人でありそして丸森の金山の人も入院していたのである
丸森と相馬市は近いから結びつくのである
今度は丸森町が大被害になったのである
そしてなんというか今度は郡山市まで被害になった
ここの地銀の営業に来ていた人は郡山市であり本店は郡山市にある
こうして何か福島県に災難がつづくのは何なのだろうとなる

今回の一番の被害は丸森町だった、宮城県だけど近いから隣という感覚の地域なのであるなぜか飯館村では原発で被害が大きかった
でもその代り補償金も多額であり立派な家を建てた人もいた
でも丸森町とか相馬市でも宇多川が氾濫して床上まで水につかったが補償金はもらえないのである、保険をかけていればもらう人もいるのが原発のように補償金はもらえないのである

もともと相馬市と丸森町も放射能の被害があったが補償金はもらっていない
それで相馬市の丸森のすぐ近くの玉野地区の酪農家が自殺したのである
何かこの辺ではそうして悲劇がつづくのはなぜなのだろうかとなる
津浪、原発事故、今度は洪水と三重苦になっているのだ
これも呪われているのか何なのか不可解だとなる

今日はgooglechromeのブラウザで文字入力ができくなった
これも直すことができず手間取った、それで時間がとられた
ウィルスではないみたいなのでほっとした
パソコンの問題は何か不具合があると原因が複雑になり直せなくなる
それは原発とも似ている、いろいろな原因が考えられるからもうわからなくなるのであるいろいろ試しても文字が入力できないのである
ただ別なブラウザ、インターネットエックプロラーは正常なのでそれほど困らないが
インタ−ネットは一旦なれて利用していると変えるのがめんどうになる

ここ一週間はこんなことで忙しく追われたが断水はとまった、それて楽になった

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2019年10月21日

困っていても「福祉に頼んでください」あとは関係しない社会 (ダークネスサイトの批判の試み)


困っていても「福祉に頼んでください」あとは関係しない社会

(ダークネスサイトの批判の試み) 


街に出ると、貧困に苦しんでいる「見知らぬ他人」をみかける、ホームレスを見かけることもあれば、深夜のマぐドナルドで寝ている若者も見かける、そうしたニュースに接して、あなたは見知らぬ彼らに「自分の貯金からこれを使ってください」とさしだすだろうか?おそらくそうしないはずだ、しかしそんなことしなくてもいい理由がある(鈴木傾城)    

(ダークネス(鈴木傾城)

これも一理ある、人それぞれの言い分や考えはある、だからいちいち怒ったりしてもしょうがないとなる
このサイトと武田邦彦氏のyoutubeとかを見ている
だからこの人に別に特別反感もない、何か人はそれぞれの立場で住んでいる所も違うし生い立ちも違うからそれぞれの言い分が生まれてくる

ただこういうことに反感をもつ人がいることは確かである
税金収めているから助けているし助ける必要はない、今ここに飢えているものがいる病気の人がいるとして助ける必要がない、それは福祉がすることだとなる

とにかく苦しい時今は「福祉に相談してください」で終わりなのである
私とは関係ありませんとなっているのだ
何か困った人は福祉に相談してくださいで終わりです

私自身も介護とか自分の病気とか窮地にたたされたとき全く近隣の人は見て楽しんでいるだけである、田舎では特にそういうことがかえってあるのだ
他人の苦しみは密の味とかなっているのだ
だから何か人間観が自分は自分が苦しんでから変わってしまったのである
それも自分自身がそうなるカルマを背負っていたということもある
そうして今ではあきらめている

でも自分の問題は金の問題ではない、金は別にあったからである
みんな金で困っているわけではないのである
多くは金の問題にしろそれだけではないのである
人手がいるとか何か慰めてくれとかある、自分には金があったのだからそういうことをしてもらいたいかった

しかしなぜ何もしてくれないのか?
福祉でなにもかもしてくれないのである、福祉に頼んでくださいと言うのはあなたのためには何もしたくないからそう言っているのである
またそういうのもそういう人にかかわるとめんどうになるからである
いろいろと世話するようになると負担になるからである
そして金の問題になればその数が多いのだからとても無理だとなってしまう
だから福祉に頼んでくださいとなる

たいがい人生相談しても誰か親身になって相談にのってくれる人などいないのである
それは負担になることが嫌だからである
でもこのサイトでは金のことを問題にしているけど人間は金なくても何かできることはある、またそれほど負担でなくてもできることはある
洪水の被害でもそういうボランティアは肉体労働になるから負担でできない、だから寄付をしよう、金で応援しようとかある

自分がしてもらいたかったことは金の問題ではない、金があったし金は与えていたのである
でも実際は大金を盗まれたり金を要求されるだけだった
自分の苦しみを知るものは一人もいなかったとなる
なぜなら自分の家に来た人は金に苦しんでいたから何もできなかったのである
事業に失敗して借金していたとか大金盗んだ人は年金がたりないとか何か苦しんでいた
そういう人は自分のことで精一杯なのである
だからまず金のことより相手のことを思いやるという余裕すらないのである
そういう人が何か相手のことを気遣うことはできない
自分自身のことで精一杯だからである

ただその人を思う時何か異常だとも思った、何か自分の家に来た人は異常だったと思う
全く相手のことを思いやる心がなかったということである
そういう人たちしか来なかったということは自分の家と自分自身のカルマだったともなる
でもそれ以来人間不信になったしどうせこの人と付き合っても助けられることもないと見てしまうようになった、だから人間を見る目が変わってしまったのである
それは今までそうした苦労なく何不自由なく暮らしてきた自分のカルマだったとなる
だから苦しんできて自分に常に金のことで水道とめられた電気とめられたと来る人が

あそこの道で倒れても誰も助けない

そういうのを自分自身も納得したのである、現代はそれだけ金だけを求める社会なのである
ただ不思議なのは金が欲しいことはわかる、でも事業している人が他人のために荷物一つは運ぶことを嫌がる人が事業できるのか?
だって事業は人のためになることをすることだからである
ただ社長としてふんぞりかえって威張ることではないけどその人はそういう人だったとなる、そんな人がいくら技術的に優秀でも事業ができるのかという疑問である
そんな人にいくら社長でもついてゆくだろうか?
だから人手不足になれば社員自体がやめてゆく、ブラック会社は淘汰されるのではないか?

別に事業が慈善事業ではない、利益をあげることである、でも他人のために荷物一つも持ちたくない、それは無料でもなかった、すでに私は百万単位で金を与えていたのである
その後も借金していたのをゼロにして縁を切った
だから無料でしてくれではなかったのである
でも簡単なことでもその人は他者のためにはしたくない、そんな簡単なこともできない人がどうして社長になっていられるのか?
もちろん自分は事業をしていないから会社経営のことはわからない
でもその人の人間性に大きな問題があったのではないか?
それは原発事故でも何でもそうである、その会社を運営する人間性の欠陥がありそれが事故につながる、何かそういうことは原発関係では多かったのである
モラルが欠けていたことが事故につながった原因でもあったからだ

いづれにしろ困った人は苦しんでいる人にかかわるとかえって損するということは確かである、だから人はそういう人とかかわらないかかわるのはそういう困った人たちを利用する人たちなのである
共産党でも創価でも他のカルト宗教団体でもいろいろな団体でもそうである
そういう人たちを味方にして票を増やして権力を得ようとする
数が集まれば権力になるのが民主主義だからである
そして共産党すら幹部が裕福なのである、それは今の中国を見ればわかる、幹部は王侯貴族になっているからだ、人民服きていた共産党の時代とは全く違ったものになっている
人民から富を収奪しているのが共産党だっともなっているからだ

誰か本当に困った人を苦しんでいる人を助ける人はいるのか?
それはその人たちのために税金を払っているのだから福祉がすればいいとなる
でも福祉でなんでもしてくれるのか?
「福祉に頼んでください」あとは知りませんとなる
それで本当に自分自身が苦しい時そう言われると腹正しくなる
それは私はあなたのために何もできません、それよりしたくないのです
だから福祉に頼んでくださいとなる
これも現代の資本主義なのである

でも自分の場合だけど別にそんなに負担にならないで助けていればお礼はあったのであるそれはなぜ自分がそういうことを強く思ったかというと
困っていて苦しんでいてその人から得るものはない、金にならないというけど金はあったのだからそんな負担をかけずにも何かできたことがあった
ただの励ましでも言葉でも助けることだってあった
ただそういう気持ちが全くなかったのである
それは後で大きなお礼となって金銭的に得することがあった

例えば大金持ちの人でも何かそこで多少でも助けたらお礼が大きなものとなる
ただその大金持ちでもわからないいことがある、それでたまたま何か苦しんでいたそれをちょっと助けたが後で大きな金銭としてのお礼があったとかもありうる
でもそれも最初からこの人は大金持ちだからとわかっていて助けるのはまた別である
そのとき動機はただ金が欲しいというだけになるからだ

人間は今だと毎日働いてもたいして金にならない、でも人を助けたときそこで恩を感じた人は大きな金を払うということはありうるのだ
金をもっていることがあるからだ、でも実際は大金を盗まれたというだけだったのであるまた何一つ気遣いもなくただ金が欲しいというだけあった
でもその人は他で毎日働いていた、それは苦しい労働だったのである
要するに自分が苦しんでいることに対して全く関心もなにもないし何か助けるいう気持ちもなかったのである
そういう人が他者に気づかいできない人が事業を成功できるのだろうか?

何か人を助けるというとき重い負担が課せられるから嫌だというのはわかる、自分も嫌だからである
でも簡単なことあるとき水一杯やることが助けることだったある、でもそれすら関心がない人は気づかない人はしないのである
そういう気持ちがないからしないのである

損して得をしろ!

何も介護の重労働をさせるわけではない、言葉で慰めることくらいでもいい、でもその人はそういう気遣いはゼロだったのである
そういう人たちはもう人間ではないとも思った、ただ金だけを求める社会になるとそういう人達が普通になっている
だから目の前に苦しんでいる人たちがいても何もしない、「福祉に頼んでください
それですべて終わりである、今そこで倒れても何もしないのか?
救急者も呼ばないのかともなる
だからあそこの道で倒れても誰も助けないという人の気持ちがわかったとなる

ただ助けられ人にも問題がある、そういう人たちは何か性格的にもおかしいという人がまた多いのである
貧乏しているのに金が入ったらぱっぱっと使った、そして金をねだったりギャンブルに使ったりできることをしない、何か家に来て金だけはねだる
でも何もしない、食器洗うことでも自分の家の台所仕事だったらていねいにするけどなおざりにする、何か汚くなっていたがそこをきれいにしていないとか気づいた
それは自分が食器洗っているから気づいた、自分は汚くしているけどやはり自分で食器あらってみると食べ物を扱うからきたないとまずいと思ったのである
ここでも他人の家のことだし自分とは関係ないとなり家事手伝いでもなおざりにすることがあるだろう
そういう人にまた次に頼むということがしにくくなることもある
ただ自分の場合は何もしなくてもいい、来てくれるだけでいいとか見回り役として金を払っているからいいとはなる

ともかく人間関係は複雑でありややこしいから一面だけを見てもわからないのである
ただこのサイトの人は底辺の人たちを扱っているから同情しているのかとも見ていたのである、でもそれは割り切ってこういう言い方になった
それは今の社会の一般的な見方なのである、そういう言う人が多いから特別ではないのである
福祉にたのんでください」私たちは税金を払っているから助けている、ただ個々人には対応できない、だからかかわるなとなる
でもこの人でも本当に困った立場になって「福祉に頼んでください」私には何もあなたのためにはしたくないです、そう言われるとどういう気持ちになるのだろうか?
そして逆にそういうふうに頼まれても同じよう「福祉に頼んでください」となる
あなたとは関係したくないです、あなたがどうなろうと私の責任ではないです
福祉がすることです、何かそれが現代社会なのである

おにぎり食いたいという言って餓死した人がいた
生活保護をもらっていたが打ち切られてそうなった、病気になって仕事をやめた人だった
でも昔なら隣近所でそういう人がいたら頼まれたらおにぎりくらいくれていた
現実に昔は戦後まもなくでも乞食がそうして回っていた
それで物をくれていたのである、かえって乞食がそうして豊かになっていたとか責められたこともあったのである
そういう時代と対比すると何か個々人でも情がなくなっている
言うことは福祉に頼んでくださいというだけである

でも福祉から断られたらもう行き場がなく餓死する社会だとなってしまうのである
また交渉力がない人はそうなりやすい、男性はプライドがありそうなりやすい
女性はコミ二ケーション能力がたけているし同情されやすいから生き延びるとなる
もう福祉係にしがみついても恫喝しても金をもらうとか援助を要請する人もいるからである、そして福祉係を襲う事件がある、それは切羽詰まってそうなっているのである
それは明日食べるものがないというとき人を殺して奪ったりするのとにている
だから追い詰められた人間は怖いのである
自分の所に来た人たちはそういう人達だから怖いものだったのである
ただそれも自分の場合は他者を責めるにしても自分自身のカルマだったというほかなかったのである      



  
あとがき

インターネットはもともと対話からはじまった、でも二三行の応答だった、プログとかなると長くなるから深い見方をして批判したりできる
私は二三行くらい書いてもその人のことがわからないから答えにくい
でももしプログでいいから匿名でも何かその人なりのの発言していれば答えるかとになるかもしれない、対話が成立するかもしれないただ二三行だとケチつけるだけで終わりだとなっているからだ、それで答えにくいのである
それでただこれだけ一方的に書いている、対話成立しないのである

対話が成立しているのは武田邦彦氏とここのダークネスサイトだけかもしれない、ただダークネスサイトは対話できなかった
今回は経験から批判したとなる
何かインタ−ネットとにかく応答しやすいメデアなのである、だから誰かの書いたものを引用してそこから自分なりの言説を展開しやすいのである

そしてアマゾンで本も買いやすい、千円以下の本を買っている、本は内容があるから違っている、そしてその本でも何冊でも読むと多様な見方が生まれる、何かつなぎあわせると編集するとそれが一つの論文のようになるのも不思議である
こうした知的作業がもっと前にできていたら知的な進歩があった
第一仙台まで行って本を買うこと自体が手間だったのである、仙台でも売っていない本が山ほどあったのである
それが何か関心があったときすぐに本でも読める、洪水があり川のことを知りたいと(川と国土の危機)という本を買った
今関心があるものをすぐに手に入る、また今度はプログでも利用できる、対話できる、そして編集できる
それで知的仕事ははかどるなとつくづく思った






2019年09月09日

無益な老人、無益なニートは数が多いから問題 (社会の負担となり圧迫するから問題)


無益な老人、無益なニートは数が多いから問題

(社会の負担となり圧迫するから問題)

無益な老人

その老人は何もしない
何もすることがない
体も悪いらしい
でもまだ体は普通に動いている
まだ70歳だ
何もすることがないのでパチンコ通い
病院にも通う
高齢化社会でただ病院に通うことだけの人が増える
そこで病人として認められて存在感をもつ
そして国の負担になる
その人は本一冊も読まない人
何か勉強もしない人
知的に存在感もない
毎日パチンコで勝った負けたと終わるのか
やるべきことがこの世に無数にある
でも何もしない、何もさせられない
そうしてただ飯くらいとだけになる
後は病人という特権になる
そういう老人を誰も良く見ない
そういう老人ばかり増える時
若い世代は老人に憎悪を抱く
その怖さを知るべきである
そういう老人は耕作放棄地となる
そこを耕すべきなのだが耕されない
無益に草ぼうぼうになっているだけ
社会をも荒廃させている


老人でも別に少数だったら何もしなくてもとがめたりしない
それはニートとか40くらいまででもいる、その人たちは無益な人たちとしてとがめられる、それは老人より厳しいものとなる
一応老人は体が弱っているからとか見られるからである
でもまだ若いとは何もしない無益な人であることは許されない
そして最大の問題は数が多いということなのである
ニートとか百万とかまた老人はさらに人数が多いから問題なのである

別に無職の人はいた、その人たちはアウトサイダーとかになり極わずかである
百万人に1人くらいになるとそういう人は社会にとって害でも無益でもないのである
そんな人いてもいなくても気づかないからだ
別に社会の圧力にもならない、むしろそういう人たちは何か社会の規範からはずれて独創的な人になるからいた方が良かったのである
それが高度成長時代の団塊の世代だった
みんな猛烈な企業戦士になっていた、そこから外れる人はほとんどいなかったからだ

今の問題は数が多いということで起きているのである
ロスジェネとかの数も多い、一千万単位でいる、するとそれが社会の圧力となる
老後になると生活保護になるとか国で心配する、負担が国民全体にかかるからだ
別にアウトサイダーなど数十人単位ならそんなこと社会問題にならないのである
そんな人いたのか、どうでもいいとなっているからだ

つまり膨大に増えた活用されない耕作放棄地が今のニートとかの問題なのである
こういう人は例えば農業するにも地主から土地を借りて農業するにしても信用されないという、それは農業をするという何か強い動機がないし明確な計画もない
ただ農業したいでは信用できない、また放棄されてしまう恐れがある
それは職につくにしろ信用されないから就職できないとなる
これが別に極わずかだったら全国で百人単位とかなれば関係ないのである
耕作放棄地でもこんなに増えなければ問題にならない
空家でもそうでありあまりもに増えすぎたから問題なのである

社会的に無益でも無用でも社会の求める価値とは別な価値を求める人はいる
それも価値なのである、でもそれが可能なのは極わずかなのである
そうなると無益な人とか無職の人とかは数が多いから社会問題化する
ともかく何らか農業でもいいから肥(こ)やしにでもなれとなるのだ
無用の用というとき障害者は戦争に行かなくてすんだとか反戦的思想とか政治的思想がありそういう思想が生まれた経緯があるからだ

この辺では原発事故で他より耕作放棄地が増えすぎたのである
だからそれをなんとかしなければならないとなるがここだけではない他でもできない
高齢化社会でできないのである
それでニートでもやればいいとなるがニートには農業すらできない、農地を借りるにしても信用がないからである
つまり新規に農業できる人はその人がそういう資質をもっているからできるとなる

そうして現代でニートであれ老人であれ人口の三分の一とかなる社会は異常である
それはもう国の衰退であり国力が減退して他国に攻められても戦いないとないとまでなるもうそういう国自体維持できるのかとまでなる
私が主張した無職のことは今のニートとかのかかえている問題とは違う
そこが混同されやすいのである、今のニートは数か多すぎる、そのことが社会の圧力となり社会を停滞させて衰退させるから問題なのである 
これだけ数が多いとやがて強制労働とかになるかもしれない、徴兵制とかにもなる
兵隊にされて国家の肥(こ)やしになれとまでなる
それが笑いごとではないのはそれだけ人数が多すぎるからなのである

新規就農に向けて農地を借りるときの交渉術

こういう人だったら農業できるとなるのかもしれない、農業だって誰でもできるわけではないのである




2019年09月04日

破壊された村の共同体、アイディンティティ (消える御先祖様、維持できない墓―無縁化する社会)


破壊された村の共同体、アイディンティティ

(消える御先祖様、維持できない墓―無縁化する社会)

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柳田国男ー先祖の話

日本人のアイディンティティは村で作られた、それで村の地名が姓になっているのかほとんどである、姓をたどればどこかの村に突き当たりそこが姓の発祥地なのである
相馬地方で大原の隣に大谷(おおがい)村がある
そこは土地が狭い、山があり耕作する土地が狭い、そこでなぜ栃窪村に大谷の姓があり一族を形成している、何か古い村だと都会のように外からの人が交わらない時その村を形成した一家がありその姓が分家したりして増える
例えば常磐線の末続駅をおりると墓地があり新妻の姓が八割くらい新妻の姓だったのである、ここでは明らかに新妻一族の村だとなる
他に葛尾村は松本の姓が三分の一でありこれは信州の方から今の長野県から移動してきた侍の子孫だとなる
そういうふうに辺鄙な村だと同じ姓の人がいることはわかりやすい。
井川線のローカル線の秘境駅に土本という姓の駅がある
そこにその姓となる家が三軒ほどあるからそうなった 

南相馬市に多い只野、但野という姓もそうである、これは本当に多いのである
その只野という中心となって人が同級生だった
それは南北朝時代に霊山での争いで落ち延びた侍の子孫だったのである
その基は郡山の多田野村にあった、これも落武者の系統に入る姓だった
何か落武者伝説が各地にある、葛尾村の松本姓ももともと信州の長野県の侍が落ち延びてきたともなる 

姓は血縁から生まれた、姓(かばね)のことだからである、屍(かばね)に由来しているからである、でも日本では村を中心にして社会が形成された
社(やしろ)を中心にして社会が形成された、社会とは社(やしろ)に会すからきているそれが会社ともなったのである、会社も一つの村という感覚にもなっていた
高度成長時代終身雇用制度が生まれたのはそのためだったとのかともなる
そもそも村での農業社会に定年はない、死ぬまで村に所属して死後は先祖になる
そういう長い継続のなかでアイディンティティが築かれてきた
だからこそ社会があり会社になったともなる
第一社会はソサイアティという訳語であるけどこれは仲間という意味である
この仲間がどういう意味なのかわからない、ただ血縁とか地縁とかとも違う意味があるのだろう、ヨ−ロッパでは社会の形成は広範囲なものがあり小さい村を越えて形成されているからである

日本でも最初は血縁で結ばれていた、第一天皇でも萬世一系とか今日までつづいていることでもわかる、2000年とかその血縁が変わらず続いているのは日本だけだとなる
外国ではたいがい姓は血縁であり父方の姓になる、中国でも韓国でも一つの姓で結合する李氏朝鮮とかあったのも李一族が支配するとなっていたのである
だから日本がなぜ村を中心にして共同化したアイディンティティ化したのか特殊だったとなる
そこに日本文化の特殊性が形成されたことを基本的に知らないと日本は理解できないのである、確かなことは血縁もあったのだが村という土地で共同して働き助け合いしているうちにその村で一つの共同体が形成されて一つの御先祖様になった
だから私は先祖になるということを言ったのは重みがある
その村の御先祖様になる、今ならそんなことを言うとだいそれたことになるからそれだげ時代が変わってしまったのである
つまり御先祖様になる基盤となる村が消失してしまったからである
今農業を継いでいる平均年齢は68歳だというから驚く、もう跡継ぎがいないのである

それで大原村では前田というところに草分けの農家らしいが病院で知り合ったがもともと息子が市街に出て働いていて一緒に住んでいなかったのである
それで猫のことを心配していたのである、猫と一緒に住んでいたからである
その人が死んで今は空家になっている、その墓は大原にある、何か墓に刀自とか記されているから古い家の感覚がそこにあったのかとなる
つまりこの人も御先祖様になるということに昔だらなっていた
でも今は墓はあるにしろ息子は市街に住んでいるからやがて大原とは疎遠になる
農業を受け継ぎそこで暮らすならそこに御先祖様がいることになる
それで春になると田植えの時期に御先祖様が山から下りて来るというのは農業がその土地で継続されてこそありえたのである
その基盤が失った時御先祖様は存在しえなくなったのである
だから墓を維持できないとかいろんな問題が生まれてきている
それがあまりにも戦前からでも戦後でも社会の変化が激しいからその拠り所とするものがアイディンティティが失われたからそうなったのである

要するに〈先祖になる)という場もなくなったのは農業社会から工業社会とかに移行した結果なのである、そこで共同の場は会社に移行したのである
でもそこでは御先祖様とかになることはありえない、会社を退職すれば会社の縁は切れるそれは死後もつづくようなアイディンティティの場にはなりえない
そもそも会社自体がグロ−バル化競争の中で消滅している、大企業でもそうなる
でも村の歴史は日本では長いのである、何代もつづいてきたのである
千年くらいつづいてときた村もある 

そこで日本人のアイディンティティが築かれて来たのである、だからこそそこに日本人の精神が築かれたのだからそれを失うということはアイディンティティの喪失になり実際は精神的拠り所になるものがあらゆることで失うことになるから深刻になる
それで先祖になるというときその言葉に重みがあるのはやはり死というものが共同体の中で位置づけられた重みがあったからである
それは靖国で会おうといって戦士した英霊にも言える
その人たちも日本の先祖になりたくてそう言ったのかもしれないからだ
それがなされないとき亡霊として日本を彷徨うとなるからである
それで村に帰ってきた兵士が亡霊となりそれがトンネルから出てきたのだか追い返えされた黒沢明の映画(トンネル)が何かリアルだったのである

いづれにしろ死という問題が今うまく対処できないのはこうした社会の急激な変化によってである、死というのも個人的な死と社会的に意味付けられる死があるからだ
個人的な死は世界共通であり世界宗教の問題である
でもまた共同体の中での死がありそれはまた別な問題としてある
それで同じ墓に入るために墓友達を作っているのも現代的である
でもこれも老人になってから作るからとても村のような深い強い継続的なアイディンティティは作りえないのである、ただ一時的なものとして処理される
つまり今の時代は長い時間で継続される、時間軸で生きることができないのである
そのアイディンティティとなる場が村がなくなったからだともなる
だからなぜ原発事故で簡単に町でも村でも解体したのか?
放射能汚染で住めないということもあったがそれだけではない、そもそもそうした町であれ村でれグロ−バル化広域化社会の中に貨幣経済のなかに巻き込まれてあった
どんな辺鄙な地域でも今はそうなのである
第一石油を使っていればそれは中東と関係してグロ−バル化しているからである

そうして商業というとき奇妙なのは神社が市場になりそこを村から無縁化した場所として提供されたのである
つまり村から無縁化されないかぎり自由な商売はよそものは村に入れなかったのである
今でも村となると都会の人が入りにくい、よそものとして見られるとか嫌がれるとういことでそういう継続がある
しかし資本主義となるとそうして無縁化して貨幣経済にすることで成り立つ
それがグロ−バル経済として現代文明を作ったのである
だからそこで無縁化社会になり孤独死とかが増えるのもそうした社会の変化の中でそうなったのである

それは世界的にグロ−バル化した社会でありそこで実際は様々な問題が矛盾が生まれたのである、人間が商品化する貨幣経済がすべてになり商品化するとかマルクスの思想とかがもてはやされたのである、人間とは経済的な一単位ではないからである
人間はとにかく経済的に何でも割り切れる存在ではないから様々な問題がそこに噴出している、墓の問題でもそういう矛盾となって現れる、それは全体の一部の問題にすぎないのである、他にも様々な問題が生まれたのである、原発事故もそういう社会の変化の中で起きたことなのである、そうして俟ち村も解体されていったというのもその原発事故前にもそうした日本人のアイディンティティとなるべきも基盤が失われていたためだともなる
それが原発事故で一挙に加速してそうなったのだともなるからだ

かつて日本人の間には一人一人の人間の個別性よりも、ある家やある土地に生まれ、一定期間の人生を生きて死んでゆく者は一つの大きな命のプールのようなものの中からある時間帯だけこの世に生まれ来て死ぬとまたその命のプ―ルに帰るとでも比喩される時代があった{波平恵美子)

これを政経東北8月号の「なぜ福島は分断するのか」に引用されていた
これこそまさに村というアイディンティティの場があり死後も継続していることを示している
ただこれはここでは極端なものにとして起きたが社会全般に起きていたことなのである



2019年08月24日

若い人はなぜ老人を理解できないのか? 老人の心境(安住する場所)


若い人はなぜ老人を理解できないのか?

老人の心境(安住する場所)



老人は新しいものを受け付けない
これまで形成して組み立てたものの中に生きる
空間でも時間の中でアイディンティティ化したもの
時間軸で生きるようになる
若い時は空間をどこまでも駆け巡る
マ―キューリーのように動き回る
でも老人になると鈍重な土星のようになる
老人は人でも外界でも時間の中で作られたものに生きる
それで今より過去に生きる
だから死者は死んでいない
その人の中で親しく生き続けている
むしろ新しい人を物を老人は取り込めない
今まであったものが親しくその世界を形成している
それは固陋な古い家であり神殿のようでもある
その柱は時間軸の中でともに存在した人でもある
そこに新しい人は入りこめない
時間軸で形成した固定して閉ざされた世界
時間の中でアイディンティティ化した世界
老人はその中に生きている
大きな大地に根を張った古木
時間の中で成長してきたもの
そういうもののなかに安住する
そこに昔からあった石
そこに座り見慣れた風景の中で安住する
長くともに生活した家族は死んでも生きている
だから死者に話しかけて生きつづける
死者が老人には生者より親しいもの
新しい人の名前を覚えることができない
新しい人はその時間軸で形成された空間に入れない
堅く拒んで入れない
老人は過去から今へつながっているものの中に生きている
新しく生成したものは存在しない
固陋な老人のアイディンティティ化した世界は変えられない
それは古木のように大地に根を下ろして変わらない
そこに老人は深く安住して動かない
その建物は完成したものであり新しく変えることはできない
その中に長く一緒に生活を共にした人も生きている
死者は老人の中では死んでいない
むしろ若い人を認識できない
名前も覚えることもできない
老人の中ではそうして新しいものを取り込めない
ただ古い家や神殿のようになっている
一時代に形成されたアイディンティティ化されたものに生きる
新しい時代を拒否して受け入れない
変化できないのが老人の世界
そのために世代の差が埋められないのである

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ソリドゥス金貨(ソリドゥスきんか、Solidus)は、4世紀のローマ皇帝・コンスタンティヌス1世の時代よりローマ帝国・東ローマ帝国で鋳造された金貨の総称。東ローマ帝国では「ノミスマ」(ギリシア語: νフμισμα)と称された。11世紀ころまで高純度を維持し、「中世のドル」として東ローマ帝国の内外で流通した。

中世フランスや南米などで使われた通貨のソル(Sol)、中世イタリアで使われたソルド(soldo)、中世スペインで使われたスエルド(sueldo)はソリドゥスに由来し、ペルーでは現在もヌエボ・ソルという通貨が使われている。

ドル記号$の由来ともされる。また、兵士(ソルジャー、soldier)という語は、「ソリドゥスのために戦う者」という意に由来する。

solidとはまさにこうした純度の高い金貨である
老人は純度の高い精神性を追求して表現するのに適している




人間は意思疎通ができないというとき職業が違ったり住む場所が違ったり男女間でもそうだし特に世代間で意思疎通ができなくなる
若い世代と老人のギャップは大きい、まず若いという時その心は外に向かう
だから空間的に生きる、広い世界を見たいと思う
自分自身にしてもこれだけ旅行したのはそのためである
女性でも若い時は冒険的になり遠くに出る、今なら外国にも普通に行く
そしてインドでもインド人と結婚した日本人女性がいた
それには驚いたが良く話は聞けなかった、そういう余裕もなかった
ただ女性一人で旅行していた人もいたことには驚く

若い人は空間を生きるのである、まだ見ていないものを見たいという欲求が強烈なのである、だから故郷から出たいとなるのが普通である
故郷だったらそこは常に見るものも同じでありあきるからだ
だからむしろ故郷を嫌悪して外にでる
自分自身でも故郷を嫌悪していたから東京の大学に入った
それはどうしても親元から故郷から出たいということが動機となっていたのである
勉強する気持ちもなにもなかったのである
それが自分のような一人っ子のわがままなものには良かったのである
だから東京に行くとか20代は一番冒険的だったのである
これは自分だけではない、みんなそうなのである
私の母は内気な性格であり冒険的なところのない人だった
その人さえ東京に出て女中になり東京の人と結婚したのである
それはその当時相当冒険的なことだったろう
そこで夫が工場で働いていて事故で死んだ故郷に帰ってきたのである

とにかく自分の場合、50代でバックパッカーで外国旅行したからその時も外部志向であり空間を生きていたのである、空間の拡大の中に生きていた
これは他の人にはないし異常だったと思う
50になればたいだい内向きになってくるからだ
ただ外国旅行というときもとから外国に憧れていたからそうなった
私が失敗したのは田舎に友達もいないし何か情報にうとかったからそうなった
ただ外国に対しての強い憧れがありそれで50からでも外国旅行したのである
だから本当に辛い苦しいものとなった
こうしたきついことは若い内にするべきだったのである

いづれにしろなぜ老人のことが理解できないのか?
むしろ老人になると若い人のことを理解している
それはみんな若い時を経験しているからである、ただ子供時代になるとなかなえ理解できなくなる、子供の時代は特別な時代でありその経験はもうできない
そして大人になると子供時代のことを理解できなくなる
でも若い時のこと大人になってからのことは理解できるのである
若い時は若気のいたりがあるというのもわかる
必ずエネルギーがありあまり噴出して過ちを犯すからである
それがその時で終わると思うが実は老人までその時の過ちをひきづる
それが若い時はそれで終わると思っているからそういうことをするのである

不思議なのは若い時は老人のことをなにやかにや言うにしても老人のことを理解できないそしてみんな60くらいで死ぬとか言う、でも実際は今なら百歳まで生きるようになる
若い世代は得にそうなのである、早い内に死ぬからいいとはならない
そして60過ぎても誰も早く死にたいとは思わないのである
そして60とかなると20代からするととてつもなく先のように見えるのである
でも50、60になるとあっというまに過ぎたとなる

ただ年齢をふりかえるともう40になると白髪でてきたりするから老化してくる
それで40は何か人生の分かれ目のようになる
それで結婚しないとか給料が安いとか非正規の底辺労働者が嘆いているがその心境がわかるのである、40はまだ挑戦できる時代だが50になると無理になる
50になるともう初老になってしまうのである、ところが40でも50になるのはすぐなのである
50から外国旅行でバックパッカーしていた自分は普通ではない人間だったのである

とにかく自分は本当に老人になった、体力的にはまだ体に柔軟性があり運動もできる
でも精神的には老人になっている、介護になってから十年は旅行もしない、ただ毎日同じ場所にいる、外に遠くに行くのが億劫になった
仙台にすら今年は一回行ったのかとなる
何かもともとそうだったのが人ごみの中に行くの余計に嫌になったのである
もともと自分自身の性格は山の中で一人石のようにしているのがあっていた
人と会うことや人ごみの中に人と接することが向いていないのである
その気質も異常化する、引きこもりの性格がもともと自分にはあっていたからこうなったのである

なぜ自分が老人になったということを意識したかというとこの詩のように心境がなっているからだ
そして老人の心境を理解したのである
例えば老人は新しいものを受け付けない、新しく接した人の名前を覚えられないのである特に一回切りだとかなると余計に覚えられない、それで認知症になったとき遠くの子供の名前やその人自体を忘れるというのはありうる
それが身近にいないからそうなる、でも身近に暮らしていればそういうことはない
いつも一緒にいた人は覚えているのである

そして気づいたことはいかに長く一緒にいた人がその人に影響して人間を作ったいたかということである
私は結婚もしないし子供もいない、でも親と一緒に60まで暮らしていた
姉ともそうだった、だから他人にとっては嫌かもしれないが姉と母のことをこうしていつも語っているのである、それは夫なら妻のことを妻なら夫のことを語るのと似ているのだいい年して親にこだわるというのもわかる
でも現実がそうなっていたのだからどうしようもないのである
自分にとって一番影響して親しいものは姉と母だったからである

そして死んでわかったことはそれだたけ長く一緒に生活していると死んでも生きているという感覚になるのだ
これも自分だけではない老人の心境なのである
それで認知症になった人が死んだ人と話しているということが理解できる
別に認知症でなくても死んだ人と話しているのである
その時死んだ人は死んでいないのである

今生きている人より死んだ人が老人には親しい

死んだ人の方が生きている人より身近である

こういうことが一般的になっているのが老人なのである
だから死者の方が親しいから死者にいつも話しかけるとなるのである
その時死者は死んではいないのである

そして老人の世界観はこれまでの生きた人生の中で人でも空間でもアイディンティティ化した一つのコスモスを形成している
それは変えられないのである、だから新しいものを受け入れられないのである
固陋な神さびた神殿のようなものを形成してその中に生きているのである
それでそこに若い人は入れないとなる、拒絶されているのである
老人が安住する世界はそうして一緒にともに生きた人がいて人生の中でアイディンティティ化したもののなかに生きることなのである
その時精神が安定するのである
だから原発事故とかで避難した老人が故郷に帰りたいという心境がわかるのである
それはそこで長く生きていたから環境でも人でも一体化して生きていたからそうなる
それがまるで違った環境に移住することは苦痛になるのである
ただ南相馬市だったらその内に移住したらそれほどの違和感がないかもしれない
小高の人が原町に住んでも鹿島に住んでもそれほど変わりないとはなる

老人は空間を生きるより時間軸に生きるようになる、時間軸に生きるということは空間を移動するのではない、一か所に定着して生きることである
そして物事でも深く見る、深く鑑賞するのに向いている
だから本でも深く理解できる、そして鑑賞できる、それで批評家に向いてくるのである
批評はやはり一段と高いところから心境からしかできない
若い人はどうしても人生がわからない、老人が理解できないというとき老人になる経験がないからである
老人は人生をふりかえり誰でも経験しているから若い人のことも理解できる
40の人でも自分があの時代はどうだったとかふりかえり理解できる
何か焦燥感が一番出る年代だということを経験で知っているからである

でも40代の人は60以上の人のことをまだ理解しないのである
60以上になるともう死に向かっている
この世から離脱してゆく年代になる、だから40の時のような焦燥感も何もなくなっている、あきらめにもなる、どうせまもなく死ぬんだとなるといろいろ悩まないのである
むしろこの世から消えるのだから気持ち的には楽なのである
何かを成そうともしない、あとは死ぬだけだとなれば気持ち的に楽になるのである
それも老人にならないとわからない、その老人というのは今なら70以上だと思う
老人はどんな人でもどうしても一種のあきらめになり悟ったようになる
でも別にこの世の欲がすべて消えるわけではない、簡単に欲は消えない
残り火のようにかえって性の欲でもなんでも燃え上がることがある
それだけ人間の欲が強いものであり消えないということも実感する
だから老人がそういうことで問題を起こすことも理解できるのである
ただ老人の心境は詩のようになることは確かなのである



2019年08月21日

姉の北海道旅行の写真 (姉がいて自分は自由に生きることができた)

姉の北海道旅行の写真

(姉がいて自分は自由に生きることができた)

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コロポックル

この写真がたまたまでてきた、旅行の写真はかなり残っていたが何か貴重なものにはならない、この写真は姉らしいものなので出した
姉はおおらかな陽気な女性だったのである
いつもにこにこ笑っていたのである

だから認知症になって一時自殺したいと言ったとき悲しかった
社交的な女性でも認知症になってから誰も来なくなった
話がまともにできなくなったからだ
話好きだったから本人もがっかりしていた、
話す相手は自分しかなかったからだ
そして戦争の話を千回聞かされたのである

でも時間が過ぎるのが早かった
死んでから8年とかなる、それは津波とか原発事故とかあり余計にその間にごたごたして時間がまたたくまに過ぎたのである
十年がまたたくまに過ぎてしまったのである

ともかく何か死んだら記念になるものを残すといい、それで偲ぶことができる
姉とは子供の時からずっと一緒だった
60年間一緒だった、その長さがやはり忘れられないものとしたのである
もし結婚して他の家に行っていたらこうはならなかったのである

また姉がいたから中学生の時父が死んでも家を維持できたし繁栄できた
私が勉強嫌いだったが大学に行けたのもそうである
あと何もしないで旅行とか自由な生活を送れたのもそうである
私は学校とか会社には適応できない人間だったからだ
そういうことができたのも姉がいたからだとなる

ただこれにもプラスとマイナスの面があった
そのために社会で働かないから社会性がなく介護になってから苦しむ結果となったのである
ともかく学問でも芸術でも追求できたのは姉がいたからだとなる
旅行していても何も言われなかったからである
ただ自由にしていいとなっていたのである
ひきこもりでも別に何も言われないのである
かえって旅行することをすすめられていたのである
だからこういう人生になったのも姉がいたからだとなる


2019年08月17日

親が子を捨てる、子が親を捨てるカルマ (親より今は金が大事な時代)


親が子を捨てる、子が親を捨てるカルマ

(親より今は金が大事な時代)


自宅で男性の遺体の両ひざ部分を包丁で切断しようとした疑いがある。千村容疑者は父親(90)と2人暮らし。16日午前、千村容疑者が昭和区役所に「5日ごろ(父親が)死んだ」と電話し、連絡を受けた区役所が署に通報した。

 千村容疑者は「生活保護費を受給できなくなると困るので、見つからないようにしようと思った」  
  
この事件は生活保護と親と子が関係して起きた
親が死ぬと生活保護費がもらえない、それで親が死んだので隠そうとした
でも死んだ親でも親の体を切断するとなるといくら追い詰められてもできるものなのか?ただ人間は追い詰められるとなんでもする
生活保護を打ち切られると食べていけないと包丁をもって役所に行き警察に捕まった人もいる
人間は善悪ではない、もう追い詰められた人間はなんでもする
今日食べるものがなければ人でも殺すようになるから怖い
そういう人と出会ったら怖いとなる

そして今は誰か助けてくれ、今日食べるものをくれとか他人に言えない社会である
だから役所が生活保護が命綱になっている人が多いのである
貧困化する日本ではそういう人たちがますます増えてくる
老人でも増えてくる、生活保護は医療費が無料でもその他なにももらえない人がいる
また田舎と東京とかでは違ってくる、だからみんな生活保護がいいというけど
そういうことはないのである
地方だと東京のように十何万とかもらえないのである
そして最後の頼みの綱が役所になるから命がけで交渉することにもなる

親が子を捨てることなど普通にありふれている、親が子を捨てるというとき例え親がその子に食べ物を与えても子を捨てている人もいるのだ
精神的に子を愛さないし事実上捨てている親も多いのである
親は子供を産んだから親になるわけではない、子供が生まれて愛情もって育てれば親になる、ただ飯を与えただけでも親にはならないのである
だから親としての価値を作る努力を親がしなければならないのである
子がない私も言えたことではないがそういうことが多いのを見ているから言うのである
それは昭かにカルマとなっている

親に苦労させられた子は親を親とも思わない、もうぎりぎりになったら親の死体でも切り刻むともなる、親より金だとなるのも普通だし多いのである
その人は12,3歳ころまでは一人娘で大事に育てられたがその後は両親は離婚したりして親戚にあづけられたとか親にひどい目にあっているから親を親とも思わないとなる
それで私が私の墓のとなりに墓標をたてたから墓参りしてくれと10万電車賃を渡した
でもお盆で来ると言ったが来ずにその関係もキレたのである
その人は貧乏なので10万の方が大事だったのである
親のことを供養するとか頭にない、親はすでに捨てられていた、10万の方だ大事でありそれをもらったから墓参りにも来ないとなったのである
ただ私は本当はめんどうだから関係したくなかったからかえってキレて良かったとなる
親だけではないその人自体に問題ある人だったからである
祖母の遺産を二百万やっても一年足らずで全部使ったとか金使いが荒い、性格がそうだからどうにもならないとなる

本当に親子の問題は延々と繰り返されているカルマだとつくづく思った
親が子を捨てる、子が親を捨てるというカルマは延々はつづいている
子捨てとか親を捨てる姥捨てとかは昔からあったのである
ただ間引きとかは食料がないのだから貧乏なのだからやむをえないことがあった
子供や老人の食い扶持を減らさざるをえなかったからだ
だから子捨て姥捨てにも今とは違った事情があるからそれらが非情だとも言えないのである

現代は食い扶持を減らすというより精神的に子を捨てたり親を捨てたりしているということがある、ただ貧乏になるとやはり昔のように食い扶持を減らすということでてくる
親が子を遊女にしたり丁稚奉公させたりと貧乏であればそういうことがあった
そうせざるをえなかったのである
今の時代はそういうことではなく子に愛情をもたない、精神的虐待が多いのである
それで傷つき正常な人格形成ができなくなっている
これも現代的な子捨てなのである

とにかく人間はみんな子供をもったとしても親としての価値ある親になるとはならない
そのカルマは親を簡単に捨てるとかとなって現れる
知っている人も確かに両親にひどいめにあったとしても今度は自分の子供に同じことをするようになる
とてもその女性はまともでいなからだ、すると経済的にも精神的に子供に負担をかける
親→子→孫とカルマがつづくのである
そのカルマの連鎖が切れないのである、それがカルマの怖さなのである
あなたの行為(カルマ)があなただけで終わらない、その子や孫まで受け継がれるのである、原発事故になると放射能が消えないからいつまでこの地に影響するのか?
孫の代からさらに曾孫からさらに子孫に延々と影響してゆくのが怖いのである
そのカルマを断てなくもなる、遺伝子障害がそうである

いづれにしろ親に捨てられまた結婚して妻に捨てられまた子にも捨てられとその人生は何なのだったのかとなる、それは自分も関与することだからそれは何なのだったとなる
でも特殊な例ではなく親が子を捨て子が親を捨てることなど普通にありふれている
そのカルマは消えることなくこの世ではありつづけるのである
こういう基本的なことでカルマがありまたいろいろなことでカルマがありそれが解消しないのである、人は必ずカルマで苦しむのである
何もないと思ってもいつかカルマが苦しみとなって現れ自覚させられるのである

現代は親より金が大事となり金のために簡単に捨てれる
5歳まで親として育てていてもその後に子に世話になるというのも虫のいい話である
それで施設に入ったがその子はその親の金だけが目当てなのである
愛情など微塵もないのである、ところがその親は認知症になっているから余計に悲惨だとなる
ただこういうことは必ずまたカルマとなりその親でもまた子があり子に捨てられるということが起きてくる
こうなると子がないのもカルマだが子があることもカルマでありどっちにしろカルマから逃れることはできないのである、それが人間の宿命だとなる

今や親が子を捨てる悲惨だけではない、高齢化社会で子が親を捨てることが日常的になる中国でも子が親を捨てている、世話しないのである
それも高齢化社会の暗黒であり世界的に起きているのである
だからその人の価値を作るのは親子関係でもそうであり親として価値あるものとなる努力が必要になるのである
ただ血縁だけでは親となるとはならない、いかに育てるとかで価値ある親になる
人間の価値はなんでも与えられたものではなく作り上げることが要求されているのである



2019年08月16日

墓の歴史(家制度は新しく、江戸時代に庶民に姓がなかった―夫婦別姓問題)


墓の歴史(家制度は新しく、江戸時代に庶民に姓がなかった―夫婦別姓問題)

明治期に入って、急激に離婚件数が激減した理由は、1898年(明治31年)に施行された明治民法です。明治民法の最大の特徴は、「家」制度を明確に規定したことにあります。妻は、ある意味「家」を存続させるためのひとつの機能として縛り付けられることとなりました

墓の問題は江戸時代から明治になったときこの家制度が強固に作られた、法律的にも作られた結果、家の墓が生まれた
この家制度は政府によって上から作られたものだった
なぜなら江戸時代の方が離婚も多く再婚も多かった
家に縛られていないのである、明治以降は家と家の結婚なのである
侍は家を重んじた、家を維持することが生計を立てることだったからである
ところが侍の割合は0・8パーセントとか少ないのである
野馬追いでも500騎出るとして相馬藩内の人口からしたらほんのわずかなのである
だから野馬追いに出る家のことを知らないのが多いのである
ほとんどは庶民であり農民だったのである

武家でも結婚しても墓に両家の姓が記されているように実家をひきづっていた
それを認められていた、だから女性が男性の姓に変えることに反対する

【夫婦別姓問題】半数が「夫の姓にしたくない」アンケートから見えた、妻の本音

女性から見るとこれが本音なのだろう、それで夫の墓に入りたくない人が30パーセントかいるのもそのためである
そもそも姓を考えると侍には姓があっても庶民にはなかった
苗字帯刀があり特別功績のあった人にしか姓は与えられなかった
そしたら一家の姓とかはない、ただ名前だけである
だから農民でも庶民でも墓が第一なかった、幕末に経済力がついて農民でも墓を作るようになったのである、それまでは墓は普通ない、墓地は仏方(ほとけっぽ)とかの村の共同墓地に埋められていたのである

そして姓を考える時、日本人の姓がかならずのその由来になったのが村であり村の名が地名が姓になっている、村の共同体が基本として日本にはあった
それが中国とかも違っている、中国に遊牧民系の人たちが入り最初の始皇帝の国家を築いた、遊牧民系だと土地に根ざしていないから血縁が大事になるからだ
それで中国でも今も同じ姓の人を血縁の結びつきを大事になる
それは韓国でもそうである、第一李氏朝鮮とかあると中国の李氏の支配下にある国だとなっているからだ
日本人は土地とのつながりが深いが血縁はそれほどでない、だからこれは世界から見たら特殊なのである、日本の文化は世界のスタンダードから見たら特殊なことがいろいろあるのだ

明治に作られた強固な家制度自体が時代の変化で合わなくなったから墓の問題もある
一家の墓として持続できなくなっているからだ
家の結束とか家族のつながりも薄れている、そして最大の問題は農業中心の社会でなくなったことである、農民だったら土地を資本として継続できる
だから土地こそ大事なものであり土地を受け継ぐ長男が大事にされた
でも誤解しているのは江戸時代が強固な家制度があったというわけではない
それで結婚でも離婚が多くまた再婚も多かったのである
明治になってから離婚が極端に減ったのは家制度が強固に上からおしつけられてた離婚できなくなっていたのである
ということはもともと結婚はむずかいしものであり離婚になりやすいことは変わりなかったのである

結局、家の家族のつながりの希薄化、崩壊、土地とのつながりの希薄化して崩壊

このために墓を維持できなくなってきた、原発事故でもなぜこんな簡単に一つの町自体が一挙にゴーストタウンになったのか?
それは放射能のせいだともなるが何かそれだけではないもの、土地とつながりが希薄化してどこにでも金があれば住めるという広域化社会、グローバル化社会と関係していたと私は考察したのである

ともかく家制度というのは明治以降に法制化されて上から押し付けられたものだった
そこにもともと下からの要望をではないから不自然でもある
女性の姓が結婚すると男性の姓に変わるのもそうである
そもそも第一江戸時代には姓がないのだからそういうこともなかった
ただ名前だけであり姓がないからそんなこともなかったのである
だから新たに姓が与えられてかえってその姓に縛られるようになったのである
それは武家ではそうだったが庶民までそうしたのである

それで墓に「安らかに」とか「和」とか「愛」とか記されているのは姓を記すとその姓に所属するものとしてありでも跡継ぎがいなくなると墓を維持できなくなった
天皇に姓がないのはある一族によって藤原氏となれば藤原氏が支配するとなるからないのである
いづれにしろこうしした歴史的経過があり墓を考える必要がある

村の共同の墓地→個人の墓→夫婦の墓→家の墓

家の墓は古いものではないのである、武家でも個人の墓であり家の墓はないのである
なぜなら死者を偲ぶ時は個人を偲ぶのであり家を偲ぶということはないからだ
その人生もみんな違っているからそうなる
そして不思議なのは今は墓はこの逆行にもなっている
樹木葬とか共同墓地志向が強くなっている、それはもう家の墓が維持できなくなっているからである

自分にしても村の共同墓地とかの方がいい、ただ個人墓となるときそれは特別功績のあっ人だろう、その記念碑みたいものになる
他はたいだい忘れられる、墓は増えてもそれが誰も参るものもなくり墓の墓場ができているのもそのためである、ただ記録して元禄時代のものも西の方であったりするら貴重だとはなる、私は必ず墓の時代をみて江戸時代だと貴重だと思っているからである
それもやはり歴史として貴重な活きた資料ともなっているからである
とにかく団地のような狭い部屋にとじこめられるようにして墓になっているのは嫌だとはなる、それも結局社会が時代の変化で墓の考え方が変わったためなのである


2019年08月14日

金のことで縁がみんな切れた (親も子に捨てられる、墓参りすらしない)


金のことで縁がみんな切れた

(親も子に捨てられる、墓参りすらしない)



物心がついた6歳のときから父親の再婚相手である義理の母のもとで育った。愛情は血の繋がっていない弟に向けられていたこともあり、17歳で高校を中退後、古川市(現大崎市)の親戚の家に転がり込んだ。実質的に親を捨てた瞬間だ。

「仮に今、父親の介護を負担していたとすれば、経済的にも精神的にもストレスは計り知れません」

昨年、連絡先を調べた姉が訪ねてきて父親が亡くなったことを知った。1回だけ墓参りに行ったがそれきりだ。自宅マンションには仏壇もない。

方法2. 冠婚葬祭のイベントにも顔を出さない
親族の付き合いは、結婚式や葬式・法事など、どうしても外せないものが多くなります。しかし縁を切りたいなら、徹底して参加しないという決意をしておきましょう。

縁を切ったつもりでも、親族のイベントに出席すれば、どうしても顔を合わせることになってしまいます。顔を合わせればトラブルが再燃しておかしくないのです。


兄のことでいろいろ事情があって私の家の墓の隣に墓標を建てた
それでその娘が墓参りするというので十万電車賃を払った
でも今回は来なかった、それがなぜなのかわからない
そもそも娘でも13歳ころまではかわいがられたが中学で両親が離婚してもめたとか経済的にゆきづまり家を出て住む所がなくなったとかさんざん親のために苦労したので
親といっても親への思いがなかったのだろう
ただ自分の家では兄の家族について離れていたので何をしているのか良くわからなかったのである
それで交通事故で死んだとき残された娘は妻の家族にひきとられた
でも高校生になっていたが卒業して東京に出て来た
金はあったのでそこで一人暮らしして結婚して一人娘をもうけた
でも夫は早い時期に離婚した

とにかく両親もこのように問題があり娘はひどいめにあった
ただではその後のことがすべてこうして両親が悪いからなのか?
それはそうではない、その娘にも問題があったのである
金使いが荒いとか性格的な問題だとかその本人にもいろいろ問題があった
母が認知症になり死ぬ一か月前に二百万やれという遺言を残したのには驚いた
その金を払ったがそれを一年も満たずに使った
兄も金使いが荒い、金があるとぱっぱっと使うのである
そういう性格なのである、それが娘も同じだったのである

だからなぜ父親の墓を作ったとから墓参りしてもらいたいというということで10万払ったが来なかった
向からお盆に来るからと言ったので払った、でも来なかった
つまり父親のことなどどうでも良かったし墓参りのことなどもをとでもよかった
したくなかった、ただ10万という金が欲しくてお盆に来ると言っていたのである
前も来るときは電車賃を払っていたからである
その娘には父親に対する思いがないのである
別に金もかかるわけでもないのだから墓参りくらいできるがしない
ただ十万欲しいというだけであり父親のことはどうでもいいのである
もちろん相手が死んでいるのだから死んだ人は金をくれない
ただ私が金を払うことを知っているからお盆に墓参りに行くと言ったのである
そうすれば金が入るからである

それで死んだ親との縁とも自分の家との縁もキレたと思う
もともと親密な関係でなかったから仕方がないしもうつづくのが限界だったともなる
このように相手が望んでいたのは金しかなかったからである

親族の付き合いは、結婚式や葬式・法事など、どうしても外せないものが多くなります

親戚の関係はこういうことでつづき断りにくいことがある
最後は墓参りとか死者を通じてもつながるからである
でもこうして簡単に10万もらったら後は用はないというのも親にとっては悲しいとならないか?死んでいるからどう感じているかはわからないけど親も死んでも捨てられたとなる、本当は無縁仏になっているのである
だから親でもいろいろあって兄弟でもかわいがられた人なら親を思うがそうでないと思わないのである
だから介護の時、お前は一番かわいがられたから親の介護をしろとなるのである

私の場合は親に対する思いが深いのである、親と言ってもここがわかりにくいのだが
二人いたとなるのだ、姉と母は年齢がさほどかわらないから母と同じだったのである
そうして60まで自分は二人が世話してくれたのである
だからこの歳月が自分にとっては忘れられないのである
その時は気分いいものであり何か殿様のようにして過ごしたともなる

つまりこうして特別良くされたからこそ介護も必死でしたし死んでも供養するし楽した日々が思い出となっているのである
二人がいたから安住したとなる、その後は介護となり死んでいいことがなかった、そのことをプログで書いてきた
外からはわかりにくいにしても

親に良くされた人は親を大切にする、死後も篤く供養する

兄弟でも親に良くされない人はやはり良くしない、介護もしたくないとか墓参りすらしないのである
それは生前からそうなっていたのである、墓参りでも死後でも生前に良くされない人はやはり墓参りすら親でもしないとなるのである
親でも別に血がつながっていなくても養子とかなっていても親が愛して良くしてくれれば子も親を思い良くするのである
それもカルマだとなる、カルマがどこかで返ってくる

何か60年も一緒にいると死んだ人でも依然として家にいるようにな気がするのである
その長い歳月がやはりそうさせている、例えば子供が家から育って遠くに行ったりすると肉親でそうした親密な感情が失われてゆく
それで認知症になったとき遠くに行った子供は忘れても近くで一緒に生活していれば忘れないと思う
私のことは名前でも憶えていたからである、遠くに行った人はいくら血縁でも肉親でも忘れやすいのが人間なのである
それが人間というものである

去る者は日日に疎し

死んだりしたら本当にそもそも本人が影も形もなくなるのだから日々に疎しとなる
どうしても忘れられるのである、それは死んだ時点でその人が消えるのだからすでにそうなる
だからもうこの世にいない死んだ人を延々と思っている人はその人に対しての思いが深いということなのである
だからこそ忘れるからこそ義務的にでもお盆でも一年に一回でも墓参りすることに意義があるとなる、死んだ人を振り返る意義があるとなる
記念日をもうけて何かを振り返ることに意義がある、そうしないと人間は忘れるのである

人間とは本当に忘れやすいのである
プログでも詩でも自分で書いていたものを忘れている、そして自分の作った書いたものを読んで感心しているというのも不思議なのである
それだけ人間とは忘れやすいものだから何か書いておくとかがどうしても必要なのである写真でも残しておくとか何か思い出すもの記憶になるものを記しておく必要がある
墓はそうして死者を忘れないものとしてあるものとして意味があるともなっている
具体的に物としてあるからそれを通じて過去を忘れないようにしているともなる
ただ立派な墓はいらない、なぜなら後継ぐ人がいないと後で邪魔になるからである
墓標のようなものでも十分だとなる、つまり代々墓を維持できなくなっているからだ
墓標のようなものだったら片付けるものも簡単だからである
墓が捨てられ墓の墓場になるのも無常である
結局この世は無常であり誰しも無常から逃れられないのである



人間の縁の不思議(親戚の縁はみんな切れたー遠くの親類より近くの他人)


人間の縁の不思議(親戚の縁はみんな切れたー遠くの親類より近くの他人)


縁というのは何か離れて住むとキレやすい、例えば兄の場合、静岡の方に住んだ
それだ頼りもあまりないと何が起きたかもわからなくなる
ところが何かあると急なことがあり連絡来たりする
するとなぜそうなったのか?
その事情がのみこめなくなりそこで困惑する

交通事故になりそれが離婚して電気水道をとめられて家を出た、それから運送会社に運転手として入った、そこで保険金のことでもめた
子供もいたので混乱した、一時は子供を連れて運転していたらしい
それから児童相談所に行きあづかってもらった
もしこのとき近ければ事情がわかり子供でも一時あづかることができた
ところが静岡となるともう行くだけで容易ではない
兄は静岡の方に行ったときこっちに帰らないとしていたがそれはいいとしてこうして問題が起きたとき困るのである

そのためにこっちに死んだとき連絡が来ても静岡まで行くだけで大変である
そしてその運送会社で何日かいて責められたのである
それは保険金の代理人に運送会社の社長がなりたいということだったと思う
なぜなら骨をここに置いていけとか墓を作ってやるとかいろいろ言っていたからである
ところが私の家ではまず車をもっていなかったから自賠責とか保険のことがわからなかったのである、それでその事情をのみこむことがむずかしかった
その間に連絡していてもたまにしかしていないし何しているのかもわからなくなっていたからだ 

ただ不思議なのは交通事故になる前に運送会社の人と家に寄ったのである
それも不思議な現象だった、死ぬ前に何か親戚でも知己でも友達でも回ってゆくというのは本当である
その時機嫌が良かったのである、その運送会社が悪いというのではなかった
ただ保険金が下りるとなり変わったのだと思う
なんか児童相談所とかその運送会社とか自分の家でもめた
自分の家は母親がいたからそうなった

でもこのことが何なのかのみこめなかった、ただ保険金が金がからんでおかしくなっていた
死体は運送会社に一時もちこまれそこで通夜みたくなっていた
さらに複雑なのはちょうど離婚した後であり妻がかかわってきた
何か金がないということで困っていた、子供はまだ中学生だから子供は母に頼ろうとしていたのである、母はその後病気になったり入院したりした
金がもらえると思い自分の家に来たのである
ここでも金でもめていたのである
人間のもめる一番の原因は金である、もし金が入らなかったらもめなかった
原発事故でももめたの補償金であり金だった、それで兄弟が仲たがいしたとか聞いた
「金の切れ目が縁の切れ目」というのは痛いほど経験した

今回は兄の墓標を隣に作った、でも肝心の娘は来ると言ったが来ない
十万を電車賃として送ったが来ない、だからこれもキレたのだと思う
これも何か離れて連絡をとっていないから事情がわからなくなる
そして突然何かあると連絡されるから困るのである
つまり離れていると相手のことがわからなくなる
また疎遠になって連絡しないとわからなくなる
そこで誤解が生まれたり信じられなくなる
つまり離れていることはこうして互いに疎遠にして不信にもなる
ただ離れているだけでそうなるのである

こちらから連絡しようとしたが携帯の電話番号を書いていたのだがそれが間違ってのか通じない、今自分は携帯をもっていないからだ
すると連絡しようもなくなった、相手も連絡してこないでのキレたのかとなる
ただ父親の墓を作ったので今回は墓の魂入れとかなるので来て欲しかった
でもこうして実際は前からうまくいっていないからキレたのだと思う
こちらにしてもかかわることがめんどうになるのである
それなら一層キレた方がいいともなる
とにかく親戚とかもともと自分にはない、兄弟もいないからキレてもしょうがいなとなっていたのである

でもどうして連絡が来ないのか?それが謎である、10万という金が欲しいだけで連絡して来たのか?何か謎であるのも相手の事情がわからないからである
もともとキレてもいい関係だったから意外でもないとはなる
親戚でも兄弟まででありそれ以上はあまりつづがないだろう
ただ近くの人が甥だった人が叔母を介護するために引き取りにきた人もいた
だから家族でもいろいろありそういう家族もいる
家族の事情はいろいろでありそれを理解できないのである
自分の家族も複雑でありまた親戚関係もうまくいかなっかたからこうなったともなる

それでも兄の墓を作ったしそれで供養する他ない、母の実家の墓には行かない
何かもともともめていて分裂不和の家族であり親戚だったからこうなったともなる
それもしょうがいないとなる
人間は何かこうして協力すること自体むずかしい、だからもう協力できないとしたら関係を断つということした方がいいとなる、問題が起きたとき事情もわからないのに呼ばれたりすると困るからである

いづれにしろ日ごろから協力しない関係では何かあったときも協力し合えない
原発事故の避難区域になったところでもそうである
そこでは内部的にも協力し得ないともなった、そこで外部から入った人たちがいて復興に尽くしている、すると内部で協力しえない人たちより外部の人たちが頼みになるともなるつまりどういうふうにして協力関係を築くかが問題になる
そして協力できないとなったときもうかえって関係しない方がいいとなる
それでも地域だとどうしてもそこで生活しているから関係を切ることはできない
もし切るとしたら他に移るほかないのである
でも協力できないとこうした事態でみんな困っている時はそういう人は迷惑になる
親子でも兄弟でも原発事故ではばらばらになり地域でもばらばらになった
それはなぜなのか?
かえって金をもらった結果ばらばらになった、そして金をもらったら外に出て暮らした方がいいとなり若い世代でも出て行って帰ってこないとなったのである

とにかくお盆は死者のことを先祖のことを思う時である
ただ最後は墓が残るがそれも捨てられる、親子の縁もキレる
ただ無常があるのみだとなる 

とにかく

遠くの親類より近くの他人

この諺はこんなに交通が発達しても変わりないのである、遠くになると事情がわからなくなるのである
それで原発事故でも東電と地元の福島で意思疎通ができなくなっていたのである
それはいくら電話であれインタ−ネットであれ通信でも連絡できたとしてもそうなのである、その現場の事情が伝えられなかったのである
それで吉田所長が独断で決めたとなる、そうせざるをえなかったともなる


2019年08月13日

墓は何であったのか? (もともと個人の死を悼むものであり家族墓は明治以降で新しい)

                    
墓は何であったのか?

(もともと個人の死を悼むものであり家族墓は明治以降で新しい)

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庶民がお墓を立てるようになったのは明治以降だそうです。(庶民が名字を持ったのは明治以降ですから当然かも)
また、それ以前のお墓が個人名であったのに対し、「○○家」の墓という風に「家」の墓になったのは、当時の「家制度」を普及浸透させる社会潮流と合致しています。

妻が夫の姓を名乗るのは明治時代以降のことである。それであるから、妻が死ぬとその遺骸は里方の墓地に葬られることが多かった。夫方の墓地に葬られても、その名は里方のものを記されたのである。


石のお墓を建てられるのは、武士や貴族などの有力者の話で、庶民は共同墓地に土葬されるのが一般的。盛り土をして目印となるような石を置いたり、木を立てたりといった簡単なものでした。その後、檀家制度により葬儀や供養が生活の中に浸透していったことから、庶民の間にも墓石を建てることが広がりました。

またお墓は、もともと個人や夫婦単位のものでした。家単位で作られるようになったのは、江戸時代の檀家制度の普及と、明治時代に入って庶民も名字を持つようになったためといわれています。


墓の歴史は何を語っているのか?
それも歴史だとなる、古墳が墓なのか?ピラミッドが墓なのか?
これも議論がある、中国だと巨大な権勢があり始皇帝のような山のような墓がありその地下まで墓なのである、地下帝国がありそこに王が眠り生きつづけるとまでなる
死後も権勢を誇るとなる

そもそも墓とは死者を葬り死者を記念するものとして墓が生まれた
だから個人墓が最初に生まれた、古墳にしても墓だとすると天皇の墓であり個人の墓なのである
なぜなら死者を悼むというとき個人が死んだとき個人を悼むことだからである
常識的に考えても死者をいたむというときまず個々人が死ぬのだから死んだら個人を悼むのである、その後に家族墓に埋葬されると家族を悼むとなる

そして村の共同体があるときは個々人の墓はない、まず個人が死んだら村人全員で悼み
供養して共同墓地の仏方(ほとけっぽ)に葬る
それが今でもこの辺では地名として残っている、個人の墓はないのである
有力な武士の墓は殿様の墓は残ったとしても農民の墓はないのである
ただ幕末期になると農民の個人墓が生まれた、それは財力がついたので墓を作れるようになったからである、それも個人墓なのである
その個人墓から夫婦墓になった、信士、信女の墓になった
家族墓はないのである、だから家族墓は明治以降できたものであり新しいのである

だから家族墓は実際はなじまないし変わるべきものだったともなる
それで今時代が変わりもう家族墓は維持できなくなったのである
長男とかが家を守る時代ではなくなったからである
戦前でも農業主体だと農民が8割とかなれば土地を受け継ぐということで長男が家を守ることがあった、でも農民が一割にもみたなくなったらもう長男が家を守る時代が終わったそれで兄弟で遺産を平等に分割する時代になり土地まで分割されるようになる
それは農業の時代でなくなったからである

いづれにしろ墓は何なのか?
これもわからないのである、人が死ぬと結局灰になる、私の兄は交通事故で死んで母の実家の墓に骨壺に入れて収めたがその骨壺もなくなり灰も実家の兄弟と親の骨と灰と交わりなにもない、土となっていたのである
するとどうなるのか?実家の親戚ともめたから兄の墓を私の家の墓の隣に墓標として建てた、そこに別に兄の骨も灰もないのである
ただ名前が記されているだけである
死者は骨なのか?それとも名前なのか?何なのか?
それ自体がわからないのである

ただ明確なのことはそもそも墓は人が死んで偲ぶために生まれた

形あるものとして墓を作りそれで死者を供養し偲ぶために生まれた
ここが起源でありだから死者を偲ぶというとき個人を偲ぶのであり家族ではないのであるなぜなら家族でもみんな違った人生を歩んでいるからである
兄弟でもまるで違った人生を歩む残すことになるからである
だから死者を偲ぶというとき個人を偲ぶのであり家族を偲ぶということはないのである
家族は確かに最も深い因縁で結ばれているとしても死んだときは個人を偲び個人がどういう人であったとかどいううい人生を生きたとか何を残したのかと問われる
家族が何を残したかより個人を偲ぶのである

姉はシンガポールの向かい側のジョホールバルの赤十字病院で従軍看護婦として4年間地獄の苦しみを受けて帰ってきた、そのことを死ぬ直前まで語っていた
母は原町紡績で十年間糸取りとして働いた、その後東京で女中して働いた
兄は集団就職で静岡の方に行き交通事故で死んだ
他に母の実家の墓では肺病で25歳で死んだ人がいた、何かそうした人生を個々人が語る家族でもみんなその人生は違っているのである
すると家族を偲ぶというより個人の人生を偲ぶとなるのである

兄の墓標を私の家の墓の隣に建てたときもそうである、その娘が墓参りに来るときもその親である個人を偲ぶとなるのである、それがお盆であり墓参りだとなる
その娘にとっては私の家族のことは必ずしも深い関係にないから家族にお参りするということにはならない、父親の墓参りに来るからである
母親は祖母として私の家族に墓参りすることになるにしてもそうである
だから家族は必ずしも一体というものではなく個々別々なのである
それで家族墓が現代では家族形態が変わると維持できなくなっている
そしてどうしてどこに埋葬していいかもわからなくなる

村のような親密な共同体で生きていればその場所にもアイディンティティがあり人も親しいから村の共同墓地に葬りそこで村人が代々供養できる、でもそういう共同体もないのだからどこに葬り次に誰が供養するのか問題になる
家族にしても途切れてしまうからである
現代は広域社会であり子供でも遠くに嫁ぐし分散して暮らすようになっている
すると土地との縁も関係も薄れる、それで余計に墓の維持もむずかしくなる

だから樹木葬と海に灰をばらまくとかなる、自然に還るとなる
それはもう死ぬ場所もないことの象徴なのである、一見自然に還るというが村で生活していれば本当にその土地の土に還るとなる
でも普通の人はみんな農民ではない、だから自然に還るというのも何か違うのである
そして孤独死とか孤立死が増えるのも現代である
また宗教団体に入るとその人たちが村の土地の一部を占領して自然破壊までになっているそれも死ぬ場所がないことのためにそうなる、村で暮らしていたらその村で死ぬのが自然だからである、都会人はそうして死ぬ場所がないのである

いづれにしろ人間死んでも後で偲んでくれる人はいなくなる、子供でも孫の代までくらいであり後は供養するものがなくなるのが多い
すると立派な墓を作っても維持できないのである
だから墓は簡単な墓標のようなものがいいともなる
それなら簡単に片づけられるしまたそこに死者を葬ることができる
それは村の共同墓地ともにている、永代供養ともなる
ただ今の永代供養は僧侶が金をもらい管理する、村の墓地は村の人たちが供養する永代供養だったのである
それだって時代が変わり村という共同体も変わるとすでにその共同墓地は文化財として歴史として地名として仏方(ほとけっぽ)として記されているだけだとなる

ともかくいろいろあっても人間が死者を供養するとかはならない
ただ墓という形式が変わりなくなるということはある
そして死者を供養することは死者個人を偲ぶことでありその霊を慰めることである
慰霊だともなる、何故なら不幸に死んだ人が多いからである
すると何か祟りがあるとかなり畏れがあるからだ
肺病で若くして死んだとか戦争で死んだとか交通事故で死んだとかいろいろ不幸な死が多いからである、それも墓参り供養の意義だとなる

私は常に墓に注目してきた、墓地でも江戸時代のものがあるとき注目する
ただたいがい墓地あるところは古い場所であり江戸時代からつづいているものが多い
そこは共同墓地だったところだともなる
それが東京とか大都会と違っているのである、土地と結びついているのが田舎なのである土に還るというのはまさにその生まれた土地で生活してその土地の土に還るということなのである、代々そうし農業だと土地に養われて生きてきたのだから自然とそうなったのである、それがもはや土に還るとかありえないのである
東京のような大都会では死後も団地のような狭い場所に箱のような一部屋を墓としているそれも窮屈で嫌だと思う、でもそれも今の生の継続としてそうなったのである
死後でも見晴らしのいい場所にいたいともなる、そんな窮屈な所なら海とかに骨をまいてくれともなるのである 

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これは武内と岸の両家の姓が刻まれている、明治と思うが江戸時代のつづきとしてまだあった
家族の墓とか一家の墓の形式は明治以降であり新しいのである
だから実際はなじみにくいものだったのである、それで嫁ぎ先の墓に入りたくないという嫁が多いのもわかる
もしここに実家の姓を記していればまた別である
嫁でも実家を引きづっていてこの姓から実家を知るからである
明治になって男性の家に嫁ぐということが生まれて姓も男性の姓に女性は変わる
それを今になり嫌がる女性がいるのもわかる、なぜならもともとこうして両姓が記されているからである
家族墓といっても家族は一つになりにくいのである
それで姓がない(安らかに)とか墓に記されているのは姓を記すとその姓に所属する人たちのもになってしまうからである
天皇が姓がないのもそのためである、もし藤原とかなっていれば藤原氏一族が国民を支配するとなってしまうからである


2019年08月09日

盆踊りは死者も一緒に踊る祭り (日本の心は村で培われたーでも今は失われた)


盆踊りは死者も一緒に踊る祭り

(日本の心は村で培われたーでも今は失われた)

これが死者を供養する本当の盆踊りだ、一人ひとりの踊り手の後ろには、この人たちを可愛がってくれた両親やお爺さんお婆さん、そしてそれに連なる御先祖様がお盆に帰ってきて、ここでともに踊っているのだなぁ、とそんな事を考えながら、めったに見る事の出来ない盆踊りに、独り乾杯したことが有ります。

あれから三十数年、あの時死者を供養していた踊り手の内何人かは、今はもう供養される側にいるかも知れませんがそんな事は大した事ではありません。

盆踊りでは死者の供養のために死者とともに踊るという
死者も一緒に混じり踊る
これは何なのだろう?

こういうことは何か最近わかるようになった
それは家族もみんな死んだし回りの知っている人も死んだ
それで私は葬式などしなかったがお悔みとかもらったのでお返しした
本当にその人たちは近所の子供の時から知っている身近な人たちだったのである
そういう人たちが相当に死んだ

そういう死んだ人たちはみんな小さなコミニュティでずっと生きていた人たちである
すると死んでもつながりがキレルということはないのである
そういうことが特に村社会では何か理屈ではなくあったことがわかる
村のような狭いコミニュティではみんな一人一人顔見知りであり知っているからである
すると死んでもその子供や孫とかがいて人間関係が継続する
それで寺がその中心になっていたのである
ただこれは仏教とは関係ない、仏教も日本化した祭りに変化しているからだ
第一ホトケという自体、ホトキとかであり本来の仏とは違うからである
先祖を祀るものと通じているからである

とにかく祭りは死者を祀ることからはじまったことは確かである
盆踊りもそうなのである
それは狭いコミニュティで村で始まったものである
日本人の精神形成は村なのである、だから明治時代にヨ-ロッパの文化が入ってきたとき
世間を社会と訳したがソサィティは広いものであり日本の精神形成の原型となった村とは違っているのである、だから現実に日本社会にないものを訳しようがなかったのである
市民などというのもそもそも村人がいても市民など日本にはいないのだから訳しようがないのである

現代の問題はそうして長い歴史で形成された精神の形成が文化が根こそぎ破壊されたことにある、墓の問題でもそうである、アイディンティティ化する拠り所となる場の喪失でありそれとともにみんな故郷喪失者になってしまった
グローバル化広域社会になるとそれは物質的には有益でも精神とか文化面になるとかえって破壊することになった
また工業社会とかもそうであり情報社会でもマスコミとかもテレビが茶の間に置かれるとき何か家族の会話がなくなり絶えずその目は外に向くようになった

つまり外国に向くようになって身近な所がかえって注目されない、知らないなのである
そうして長い歴史の中で培われたコミニュティが破壊されるとどうなるのか?
それが様々な問題を引き起こした、物質的には豊かになったとしてもかえって人々のつながりは喪失したとなる
何か情もなくなった索漠とした世界になったのである
それで知っている人がいつもいう、道に誰か倒れていても助けないとか言う
それもそうだと思う、何かそうして非情化無関心化した社会である

それで親戚とも言えないが「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらへ」と血相変えて去った
それ以来母親の実家には墓参りもする気がなくなった
ただこれが異常かというとそうでもない、みんなそうなったのである

「金でめんどうとみてもらへ」

これが現代社会の普通の人間である、金がないなら死ねということである
道に倒れていても誰も助けない、助けてもらいたかったら金で助けてもらへとなる
それて私が弱者化したとき要求するのは金だけであり実際に奪うものもいた
それだけもう金しかない、あらゆることでそうである
この辺で原発事故でなぜ簡単に町自体が崩壊してゴーストタウンになったのか?
これも放射能のせいとばかりも言えない、つまり補償金をもらったときいち早く土地を買って移り住んだ人が近くにいるからだ
その人はすぐに故郷に見切りをつけた、それで早く土地を買ったから賢いと言われた
なぜならその後土地が値上がりしたからである
つまり故郷でもそういうものでしかない、何かあったらもう金がもの言う
金をもらえばすぐに故郷とかでも捨てる、それが現代人なのである

だからといって江戸時代とか理想でも何でもない
ただ今の社会と比べるとこんな状態ではなかったろう
貧乏なりに何か助け合うということがあった、情がある社会だったと思う
戦前でもそうだったろう、それが戦後高度成長時代から日本はアメリカに習いすべて金になったのである
そうして長い間でつちかわれた日本人がもっていた美徳も失われた
それが墓の問題とか死者をどうするかということにも起きている
生者と死者もそうした濃密なコミニュティが失われたときその関係も断絶して失われたのである

そして親が田舎に残っていても娘息子が東京とか遠くに暮らしている人も多い
すると墓の後継ぎもいないとかの問題が起きている、墓も維持できないとなる
村のような社会だったら継続する社会だから代々家が受け継がれるからそういう問題は起きないのである
大原でも知っている人は親が一人で家と田畑を守っていたがその前に息子は市街に出て働いていて一緒に住んでいなかった、今は死んで空家になっている
そして墓だけが残されたのである、でも近いから墓参りには来るとなる
これが東京とかに住んだとしたら墓すら受け継がれないのである

人間は確かに経済とかせ利益は第一にされるのは仕方がない
ただ何か利益とか金を第一にするとき代々受け継がれた文化が破壊される
それが精神に影響する、それが深刻なのである
仏教というのは日本的文化に変容したものであり本来の仏教ではない
日本的アイディンティティを形成したものとしてあったのだ
そうはいっても時代は常に変わる、それに人々は対応できない
特に文化的なものは精神に影響する、だからこそグロ-バル化とか大きな問題をはらんでいたのである

死者をどう扱うのか?死者をどう祀るのか?死者とどうつながるのか?
それがむずかしいのは経済的問題ではなく精神的問題から文化的な問題だからむずかしいのである、それはもう昔のように回復できないのである
ただ形式的に受け継がれているだけであり実体は形骸化して中味はないとまでなる
それは日本の精神形成がアイディンティティが濃密な狭い村にあったことによる
それがグロ-バル化と広域化社会では活きてこないから形だけのものとなってしまったのである

2019年08月08日

墓をどうするのかなぜ現代人は悩むのか? (死ぬ場を失ったのは生きる場を失っていたから―万葉集の歌から)


墓をどうするのかなぜ現代人は悩むのか?

(死ぬ場を失ったのは生きる場を失っていたから―万葉集の歌から)

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事しあれば小泊瀬山の岩城にも隠らば共にな思いそわが背

万葉集をすべて恋の歌として解釈すると深いものとはならない
恋が乞うであり死んだ人とまた会いたいという説になるとそれはうわついたものにならないのである
これも岩城に隠れるともに思うということ自体今ならありえないことである
だからこの歌も何なのだろうとなる
岩城とは墓のことだからである、何かあったら墓に入るという意識も理解できない
でもこの歌の解釈は岩城にあり墓にある
ただこういうふうに古墳が石室として残っていた所に隠れたとなるのか?

つまり岩という頑丈なものである墓に入る、それは死んでも岩城の中にあるということなのである
墓の中に一緒に入ることが深い意味をもっていた
なぜなら生をともにして遂には墓の中にも入り死後も一緒にいるということである
夫婦だと偕老同穴というがそれは墓まで一緒だということである

ただなぜ夫婦でも妻は夫の墓に入りたくないとなっているのか?

「あさイチ」で既婚女性が「夫(旦那)の先祖のお墓に入りたくない」と回答した理由を見てみると、

・知らない先祖と一緒に入りたくない ・・39.3%
・お墓がゆかりのない土地にある   ・・32.3%
・夫の家族、両親が嫌い       ・・30.7%
・子どもに面倒をかけたくない    ・・20.0%
・自分の両親と入りたい       ・・20.0%
・夫が嫌い             ・・13.9%

知らない先祖というとき一度も会っていない人が先祖にはいる、そういう人と入りたくない、自分とは関係ない人だともなる 

お墓がゆかりのない土地にある  

これは「場の現象学」の本を読んで考察したようにその場とはそこで一生生活した場だから愛着がありアイディンティティ化した場所だからである
ただこういうのは田舎だったら通用するが東京とかなると通用しない
墓地自体を遠くに買って葬る、それで墓参りに残された人が行くのがめんどうだとなる
また宗教団体が土地を買いしめてそこに墓苑化する、その数が多くなり村とかの自然破壊までになっている、宗教団体にとって墓苑とは商売になるからビジネスなのである
でももともと住んでいたと土地の人からすると迷惑なになるのである

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とにかく墓をどうするのかというのは厄介なのである
それでシベリア抑留で死んだ人たちの遺骨をもってきたのだがそれが日本人ではなかったとして問題になっている
要するにそもそも誰の骨なのか70年もすぎたからわからなくなる
私の兄の骨は母の実家に事情あって埋葬したがそこに母方の実家の人たちが五六人埋まっている、その中に兄の骨がまざってわからなくなったのである
骨壺に入れていたのだがそれもなくなり誰の骨かわからなくなった
それでしょうがいないから私は自分の家の墓に小さな墓標を建てたのである
その実家の人として残っている人がいたがその人とは異常人格者だから会いたくないからである、だから母の実家の墓には墓参りしないのである
ただ兄については責任があるし子供いたので自分の家の墓の脇に墓標を建てたのである

いづれにしろ墓というのは何なのか?それ自体が不可解なのである
そもそも明治以降に家の墓が生まれたのでありそれまでは個人の墓か夫婦墓である
明治以降には夫婦墓が多いのである
江戸時代の幕末頃には経済的に豊かになり農民でも個人墓を作りまた夫婦墓を作っている戒名に信士とか信女とか記されているのでわかる
つまり家族墓は江戸時代になかった、それは明治時代になって政府の政策でそうさせられたのである、だからそれが不自然になっているのである
家族は意外とまとまりにくいのである

夫婦は三代の契りとかあり契りが深いものがある、でも家族となると姑が入ってきて姑にいじめられたとか嫁は嫌うからなかなか一つになれないのである
それで墓も同じなら嫌だとなる、それもわかるのである
やはり共に生活して協力して愛し合った人たちが一つの墓に入ることは死んでもそこで結びついている感覚になる
そこで死後まで結びついて離れない一緒だという感覚になる
それが実際は家族にはなかなかないから不自然なのである
第一先祖といっても嫁いだ先の先祖など知らない人だからである

墓というのは実はそうして一代だけのものではない、その子に子孫に受け継がれるものだからまたやっかいなのである
なぜなら跡を継ぐ人自体がいなくなるというのが多くなっているからだ
そうなると村の共同墓地に葬ってもらった方がいいとなる
江戸時代はこの辺では仏方(ほとけっぽ)として共同墓地に葬ったのである
それはその土地にゆかりがあるからそうなったのである
場としてアイディンティティをもっている場所だからそうなったから自然だったとなる

なぜ今墓が問題になるのか?
それはもともと人間が生活していた場が失われたからである
みんなその土地と深くつながる農村社会に生活していない
その土地に根ざして生活していない、グロ-バル広域社会で生活している
すると土地の縁というのも薄くなる、だから今では地域でも田舎でも農村でも強い人間のつながりはなくなっている

人間の生と死を考える時
                      
死ぬ場所をどこにするのか?
                          
これは意外と大きい問題になる、どこで死んでもいいとはならない、それで骨を海にまいてくれとか樹木葬とかがある
樹木葬だと土地と関係しているが別に農民でないのだからその土地と深く結びついて生活していた訳ではないけどそれを願うのはそもそも自分のアイディンティティとする土地をもたなくなったからなのである
そのことが生だけではなく死までそうなって死ぬ場所をどこにしていいのかもわからなくなったのである 

事しあれば小泊瀬山の岩城にも隠らば共にな思いそわが背

事しあらばを・・・死んだなら小泊瀬山の岩城に隠れてその堅い岩で閉じこもりともにありたいというのはまさに死としての理想があるかもしれない。
隠れるとは古代では死を意味しているからである
天皇でもお隠れになったという時、死んだということだからである    

いかでわれこよひの月を身にそへて死出の山路の人を照らさん』(山家集・七七四) 

七月十五夜というのはお盆です。盂蘭盆会のことです。非常に月が明るかった。そのときに船岡山
に行ったのです。船岡山は平安京に隣接した船の形をした丘です。ここは平安時代の初めくらいまで
はハイキングする場所で平安京を一望できる眺めのいい場所です。

お盆には死者というあうとうことでこの歌が作られた、死んだ人が月明りに見えるとなる

人間の死は何なのか?生者と死者は何なのか?それは断続したものではなくつながるものとしてある
死者は生者の中に生きつづける、それが人間の営みであり生の継続であり国単位になると歴史となるのである   

我が死して後もありなむこの地にそ思いは深くとどめおきなむ

何かしら死んでも必ずその生きた地に思いが残る、それが具体的に形になったのが墓なのである
ただ墓はいくら石でも消失しやすい、誰も参るものがなくなったら墓は二度死ぬことになる
なぜか墓地に倒れたままの墓がある
なぜそれを立て直す人がいないのか?それはその人を知る者もいないしかかわるものがなくなったからである
今はそういう墓がいくらでもあるのだ、結局この世あるものは墓でも無常なのである
それがいつまでも維持できないのである
なぜか私は墓に興味があるというとき江戸時代の墓があればそこに人が本当に生きて埋まっていると思うからである
書類だと実感として人が生きていたと感じないのである
それが墓の不思議だとなる





2019年08月01日

先住者と後から移り住む人たちの軋轢 (現代は老人が生きずらい社会である―江戸時代が老人が生きやすい時代だった)


先住者と後から移り住む人たちの軋轢

(現代は老人が生きずらい社会である―江戸時代が老人が生きやすい時代だった)


この辺では移り住む人たちが多い、駅でも道を歩いても元から住んでいる人たちではない第一一つの新しい街ができたくらい家が建ったからである
津波で被害を受けた人たちはこの町に元から住んだ人たちである
でも原発事故関係で避難して住んだ人が多いのである
ちょっと話してみると元から住んでいた人ではない、それから外国人もまじっているから外から人たちと混在している、それは全国的傾向であり特にここだけではない
広域社会とグロ−バル社会とはそういうものである

そこで軋轢を生んだのがいわき市である、二万人も移住して新しい家を建てたとういからそこになんらか軋轢が生じてもめた、なんであの人たちは他からきてすぐに新しい家を建てたんだろうとかうらやましがられたのである
もともと住んでいる人はそんな金がない人たちがいてうらやましがられた
そしてかわいそうだとか他から同情されたことも影響したのである
それはこの辺でもあった、ここでは津波の被害者もいて複雑になっていたのである
原発避難者は多額の補償金をもらったが津波の被害者はもらえなかったからだ

とにかく先住者と後から移住してきた人たちとうまくいかないことが普通にある
それを象徴していたのがアメリカだったのである、インディアンが先住者だったけど
その人たちは正直な人たちでありアメリカの土地に最初から根づいた人たちだったが
横暴な白人に踏みにじられて殺戮された
それは人だとアイヌでもそうだったとなる
こういうことは世界史でも民族の興亡が激しいからあった

でも先住者より他から入ってきた人たちが威張るとかなることもある
村で暮らしていた日本人だとよそ者を簡単に受け入れないことがある
おそらくそれは農業社会だったからだろう
なぜなら相馬藩では越中とかの移民を飢饉で受け入れたとしてもその人たちは先住者に草分けという農家に指導を仰いだから先住者が上になっていた
それで苦労して荒地を開墾して住みついたのである

だから農業だと先住者でもその土地についてはわからないからその土地の人に教えられないと住めないから先住者に従うとなる
でも現代の社会は何か広域社会でグロ−バル化社会であり工業社会である
すると金があればどこに住んでいいとなる金がある人がもともと住んでいない土地に来て威張るとか支配者にもなる
この辺でも立派な家を建てた人が多いのだからそうなっている
とにかく外から来た人たちは何をしているのか?
それが良く見えないのである、浪江の復興住宅に住んでいる人は仕事はしていない
ただ他に新しい家を建てた人たちは仕事しているのか?それが見えない
もともと何をしているか仕事しているから見えない時代だったから新しく来た人たちでもわからないということになる

でも何か新しい土地に来ても世話になりますとかはない、金さえあればどこに住んでもいいし金がある者が上なのだとなる
現実に土地の人で金のない人に与えればそうなるのが現代である
そんなことを言う人がいるから田舎は閉鎖的で嫌なのだとなるのも確かである
でも何か先住者というかもともとその土地に住んでいた人たちに教えてもらうことはあるだろう、すると金さえあれば関係ないということにはならない
それは自分自身も旅したとき、そんなふうにして旅していない、その土地の人に世話になるというか教えられるという気持ちがなかった、今はそういうことは確かにない
金さえあれば何も教えられなくてもいいとなる、道を聞くにしてもスマホがあればいいとかなっている、人は関係ないともなっている
でも旅をふりかえるとそれではまずかったともなる、自分の場合社会性が欠如していたからそうなったのである、この社会性が欠如するからニートとかは問題なのである

とにかく外国人をおもてなしとして日本人が迎えるのももそうである、日本人が貧乏になった時そうなったのである
本当は外国人がお世話になりますというのが順序なのである、知らない国に来るのだからそうなる
それが日本人がおもてなしとか金のために頭を下げて迎えるのである
そういうことを日本人か好景気のとき外国でそうされていたのである
今度はその逆となり貧乏になったからおもてなししろとなったのである
だからこれもつくづくカルマだとはなる
つまりグロ−バル競争社会では世界的にそうなるのである
経済力強いものがその土地に長く住んでいようが関係ない、上になり従うとなる、おもてなしされるのである
金だけ世界の共通の価値となればそうなるのである、何か金意外のことは無視される
それは観光だけではないあらゆることでグロ−バル化することで起きている
その国の文化とかも無視されて外国人が入ってくるのである

こういうことは別に田舎とか農業だけのも問題ではない
会社とかでも起きているのである、終身雇用というときそこに長くいた人に給料が多く払われ長くいる人は先住者で価値があるとなっていたのである
だから後から入る人は教えこうという立場にあった
それは職人でも徒弟制度があり厳しい上下関係があったのである
でも終身雇用がなくなると新人でも技術者は特別待遇されて給料も二倍とか三倍で優遇される、すると会社に長くいた人たちは先住者は価値がないとなるので不満になる
新旧の問題でも軋轢が生まれる

駅でも私は案内していたので今見守り役した人に盲人が来たとき導くことなど教えた
だかその人たちは何もそういうことを教えてもらわなくてもいいとしていた
そこで考えたことはどこでも必ず先住者がいてそこで経験を積み重ねた人がいる
すると何かしら教えられることがあるのだがそれを無視している
何か教えられることもないよはなっているのだ
だからとにかく農業社会だったらどうしても土地のことはわからないから先住者に教えられるのでその下で働くこともいとわないのである

今の社会の問題は例えば老人がいたとして誰も尊敬しない、教えられることもない
かえって老人は何もできない、無益な邪魔者で俺たちの金を使って遊び暮らしているだけだと見られている、それは社会が工業社会とか変わってしまったためである
それで法律の専門家が正論おじさんとか馬鹿にされたことでもわかる
情報社会だとインタ−ネットで教えられるとかともなる、老人に何かわからないから聞きに行く人などいないのである
ただその態度が問題なのである、やはり先住者に何かしら教えられることがありそれを拒否することは何か問題である
結局工業化社会というときどうしてもその土地のことは関係ないとなるからそうなった
車を作るのでもその土地のこととは関係ないからそうなった
そうなると先住者の方が肩身の狭い思いをするとかまた先住者は邪魔者だとインディアンのように滅ぼされるともまでなる

現代は本当に老人にとっては生きにくい社会なのである
老人が価値がないとされる時代なのである、それは数が多くなったせいもある
でも老人が長生きしても尊敬もされない、ただ社会の重荷になっている、早く死んで方がいいのだと若い世代に思われること自体、老人は長生きすることは苦痛になるのだ

そして認知症になっても江戸時代辺りだったら意外と生き安かった
いろいろな機械も使うことはない、非常にわかりやすい単純な社会でありいつも同じ人がいてなじみの人がいて変わらない社会である、そこで老人に教えられることもあるからだ老人はそこで尊敬されていた、老人に教えられることが何かしらあったからである
長屋とか人が常に変わって移り住んでいるようにドラマでは見るが長屋に住んでいる人はそこに長く住んでいる顔なじみの人が多かったのである
つまり江戸時代は人があまゃ移動しない時代だったのである
そういう所では認知症の人でも住みやすかったと思う
単純な社会であり人と人が直接情で結びつく社会でもあったからだ

江戸時代の日本人は明治の時外国から来た人たちが称賛しているがそれはそういう社会であったからだ、それは日本人だけではない、例えはラオスに行った人たちも同じようなことを言っていたからである、人間が素朴だと言っていたからである
つまり文明人になるとみんな同じになるのである
とにかく現代は老人には生きにくい社会である、そして老人が多くなりすぎることがさらに生きにくくしているのである
もし江戸時代のようなら老人は尊敬されていたし居心地よかったのである
ただ貧乏ということで生きにくかった、すべていいものとしては何でも働かない
ただ現代社会はかえって外から来た新来者が先住者を踏みにじることが多いのである
だからその土地に長く住んでいてもまた会社で長く勤めていても価値がないとされる
そういう社会は老人にとって本当に生きにくいと思った
老人は別に年とっているとういだけで敬われないし価値もないとされるからだ
そういうことで高齢化社会が実際は地獄化する、それは年金とか金の問題だけではないのである 

佐保過ぎて 奈良の手向けに 置く幣は 妹を目離れず 相見しめとぞ 

この歌のように峠を越えて異郷に行くことはその当時大変なことだった
だから人も変わるし妹の顔を浮かび離れたくないとなっていたのである
峠(とうげ)は手向け(たむけ)から来ていてそこ手向けして神に祈り幣を置くことでもわかる、隣の村でも見知らぬ土地に行くことは大きな変化であり畏れきもなっていたのである
この妹は親でも兄弟でも村の人でもいいのである
こういう心情は人間にはもともとあったし今のように絶えず見知らぬ人と交わっている時代はなかったのである
ただこういうことは老人にとって苦手になる、老人はいつもなじみの人と会いそこで精神の安定化を図る
認知症になると子供でも離れていると名前さえわからなくなるがずっと一緒にいた人は忘れないのである
だから認知症になる人が膨大に増える、その時老人はさらなる地獄を生きることになるのである
長生きは悪いことではないがこうなると本当に長生きは地獄だとなる

sightseeing111.JPG
週刊新潮8月8日号

これも他国でもずかずか遠慮なく入ってくることで起きている
グロ−バル化で相手の文化とか事情におかまいなく入ってくる
そういうことを日本人でも他国でしてきたから同じだとはなる
もう金さえ払えば王様だとどこでばそうなってしまっているのだ
何かお世話になりますということはないのである
それは観光だけではない、グロ−バル化するとあらゆることでこうなる
金があれば王様であり待遇される
日本だって金があれば高級旅館でおもてなしされる
金のないやつは来るなとかなる

だから私は旅したとしても高級旅館と温泉旅館には泊まらなかった
というより泊まることができなかったとなる
テント張ってとまった方がいいともなっていたのである
何でも金ある者が優遇される社会はおかしいのである
金をやれは傍若無人にふるまうことも許されるとなる
広域化社会とかグロ−バル化社会の弊害が今になると顕著になったのである
ただこれは外国人だけの問題ではない
日本人自体が外国でそうだったからである
日本国内でもそうである、金さえ払えばいいじゃないか、また受け入れる人は金のない奴は来るなとなる
金を落とす人だけ来ればいいとかなっているのも現代の矛盾なのである
江戸時代だったら殿様意外は貧乏だから同じ待遇だったと思うからである

2019年07月30日

NHKの杉本八郎氏の逆転人生「認知症治療薬の開発秘話」を見る (認知症が直る薬が生まれるのかーその謎はあまりに深い?)


NHKの杉本八郎氏の逆転人生「認知症治療薬の開発秘話」を見る

(認知症が直る薬が生まれるのかーその謎はあまりに深い?)


認知症の薬のアセリプトを開発した人の人生である、最初高校卒で研究所に入るのかと思った、その後大学に入り研究者になれた
認知症にはじめて効く薬が発明された意義は大きい
認知症の治療とか介護に苦しんでいる人が多いからである
ただ杉本氏は母親がひどい認知症になってそれに心痛めて薬を開発することに熱心だったのである、そこに強い動機があったことで成功したのかとなる
動機は大事である
そもそも官僚になっている人は志がほとんどない、東大出たらいい暮らしができるとか
自分の利益しか考えないからだめなのだと東大出の人が言っているのだからそうなのかとなる

団塊の世代でも数が多いから熾烈な受験戦争であり志など皆無である
要するに他者を蹴落としてまでも点数をあげて得する立場になれということである
そこに動機としては自分のことしかない、自分か良ければ自分がいい暮らしできればあとは関係ないという世界である
だから東大に入ればそれで官僚になり財務省にでも入ればそこでいい暮らしができる
何か国のためにはか国民のためにかはないというときそれはそういう教育しか受けていないのが戦後の団塊の世代だったからである
その前の世代、例えば小学校でも戦争の時育った人たちは団塊の世代とは違っている
国民意識国家意識が強いのである、そういう教育を戦争とともに受けたからである
それは戦後否定されたにしても何かそれが全部必ずしも悪いとはなっていないのである
それで林秀彦の本を読んで日本語を見直すということで興味をもったのである

戦後の教育というそもそも教育がなくなっていたのである
何が教育なのかわからなくなってしまったのである
日教組が極端な左寄りとかなりそれも日本人としての教育ではない
左翼が風靡したとしてもそれは教育にならなかった
つまり何ら指標となる教育はなく、知識の詰め込みと受験戦争でいい大学に入りいい暮らしをするということしかなかったのである
ただ高度成長時代になりそれがかなえられたのである

教育というのは自分自身で一人で作りだされるものではない、社会自体に道徳とか規範とかあってできるものである、そういうものがなくなったとき誰も教育できなくなったのである、まねるものがなくなったのである、でも新しいものを造りだすこともできない
そこでただ民主主義とかマルクス主義とかそうした実のないうわべだけのものを言葉だけを取り入れたのが戦後だったのである
だからいかに伝統が大事だったかともなる、なぜならそもそもそうして歴史的伝統的に作られてきた民族の文化の骨格を否定する、でもそうなると新しいものを作る時なるとき作れないのである

だから宗教でもカルト宗教団体が戦後跋扈したのである、それも御利益宗教である高度成長時代にマッチしていかに得していい暮らしをするしかなかったのである
日本から教育がなくなった、道徳すらなくなった、宗教もカルトになった
そうしたら何を見本にするのか?
ただこういうことは文明自体の問題として世界中で共通していたということはある
宗教の力がなくなり物質的欲望を追求のことで共通していたからである

ともかくアセリプトを発明した人は強い動機があったことが成功へと導いたのかもしれない、それから各人に自由に開発させた、各人の能力を引き出すように指導したとかある
でも8年とかそれ以上時間がかかった、二回も挫折して研究は停止したとかある
それだけ一つの薬を発明するのに苦労したのだなと見た
そうなればその薬はありがたいなともなる
その薬が奇跡のように生まれたわけではなかったからである

ただ正直この薬にしても認知症は直すことはできない、ただ若干症状を遅らせるだけでありまた人によっては効かない、かえって副作用が出る
だからこれで認知症が直るというのではない、ただはじめて認知症に若干でも効く薬が発明された意義は大きい
認知症というのは謎である、だから別に医者でなくても対処療法があり心理的に対応する方法がある、それは医者でなくてもできる
それをこれまで私は書いてきたのである

認知症という病気を良く理解することである、それは化学的に体をみること脳をみることではない、だから別に医者のように知識もなくてもできるのである
ただ認知症がどういう症状がでてそれにどういうふうに対処するかがある
それも個々人で対処することがむずかしい病気なのである
だから認知症の介護できる人はずっと一緒に生活している人である
例え親子でも離れて暮らしていると自分の子供すらわからなくなるのだ
それで杉本氏の母親が自分の子供なのにわからなくなったというのはなぜか、そのことがわからなかった
一緒に生活していればそうはならないはずだからである、離れて暮らしているとそうなりやすいのである

まず認知症ほど謎めいた病気はない、なぜなら正気を失った、馬鹿になったとなるが必ず正気にもどる時がある、まず死ぬ前に一か月前とかに正気にもどる
これはなぜなのか?これも不思議だった、二人の認知症を介護したけど二人とも最後に正気にもどった瞬間があった、それで私は懸命に介護したので報われたともなる
だから生まれつきの知能の障害者とも違っていたなとふりかえる
要するに本当に謎が深い病気なのである、この病気は果たして化学的にとか薬で直るとかあるのか?
それが疑問なのである、だって脳となれば精神が影響しているだろう

では認知症は海馬が損傷してそうなったのか?脳の一部の障害なのか?
ただ人間であり人間として認められる、感情もある、喜んだり悲しんだりする
それで感情があれば人間なのか?何かそうしたことを考えさせられるものだった
だからこれは精神病とか心理学とか何かそうした人間の心の分野と関係もしてくるから
ただ化学的体だけからみただけでは解決しないのではないのか?

でも認知症を直す薬が生まれのだろうか?
それが生まれたらすごい、海馬が損傷するとしてそこを直せば全体も回復したりするのかとにかく認知症だけは謎が深い、それは直接介護してみないとわからない病気だったのである
医学でも科学でも何か今は限界がないとみられる
でも本当にそうなのか?
原発事故のように限界がある、ただ限界がないように常に発見があり発明があり科学が解決すると期待されるのである
でも医学でも科学で限界が生じる、それは人間の限界なのである
もし限界がないとしたら遂に人間自体が神となり解決しないものはないとなるからだ

とにかくその人をみるときその人の成したことをみるとき動機が何かを見ることは大事である、神は人の心を見ている時、その動機が良くなければいかに成功したとしても成功したとは言えないのである
そうして成功したとして金持ちなったとしても成功したといえるのか?
俺は優秀だからその優秀さをみせるために事業を起こした、それも田舎では金をもっている人がいないから都会の人を相手にする、何かこんな動機で事業を起こした人がいる

そもそも動機がそんなふうでは成功したとしてもますますその人は増長するだけであり
人を見下すようになるだけである
自分の親が認知症になりそれをなんとかしたいというのとはあまりにも違うからである
ただ成功と失敗もか一重なのかもしれない、もうそういうぎりぎりのせめぎ合いで偶然新人が入ってきてその人が実験して成功したともなる
そしてもし成功しなかったら時間の無駄になり金の無駄になり何にも得られないとなる
そうなることだってありえたしその方が確立が高かったとなる
それだけ薬の開発がいかに容易ではないかわかった番組だったのである


エーザイ新薬治験で健康男性死亡 極めてまれ、厚労省が調査

世界大手も尻込みする認知症新薬開発

エーザイのようにアルツハイマー型認知症新薬を開発する製薬企業に対する期待は否が応にも高くなる反面、開発が不調となれば、失望も極大化してしまう。師走のエーザイの株価急落は、まさにそのことを端的に示している。


厚生労働省は9日、免疫の仕組みを利用したがん治療薬「オプジーボ」を投与された患者11人が、副作用とみられる脳の機能障害を発症し、うち1人が死亡したとして、製造元の小野薬品工業(大阪市)に、薬の添付文書に重大な副作用として追記するよう指示した。 

薬は必ず副作用がある、アセリプトにもある、エーザイは杉本氏が勤めていた会社である
やはり一連のニュースとして注目するものがある
ニュースも自分用に編集する時代なのである
でもこれだと時間がかかるのである
だから仕事している人はやはり情報がいくらっても目を通すことはむずかしい
インタ−ネットは相当暇でないとできないのである
ただいつもアクセスするところを情報源とする
それでもインタ−ネットだと情報が多すぎるから編集するにしても時間がかかりすぎるのである

2019年07月07日

日本の高齢化、世界の高齢化で戦争ができない (中国も韓国も高齢化になっている)


日本の高齢化、世界の高齢化で戦争ができない

(中国も韓国も高齢化になっている)

この高齢化は20歳代の隊員が大幅に減ったことが主因である。さりとて、わが国は社会全体で少子化である。若年層は産業界にとっても労働力として貴重であり、自衛隊員だけ若年層を増やすわけにもいかない


平均年齢は31.8歳から35.9歳に上がった。現在士の充足率は73.7%で、頭でっかちの年齢・階級構成になっているのだ。
このままいけば、前線兵士が少ないのに指揮官は多いといういびつな構造がさらに強まりそうだ


高齢化いうとき日本だけではない、中国の高齢化がより深刻になる、数が多いからだ
自衛隊の高齢化もある、若い人が入隊しない、日本も戦争の終わりころは戦地に送る兵隊がいなくなり40才くらいの人まで招集されたのである
それで相馬市の40歳の人が戦地で戦った
そこで子供がかわいそうだとして恵んだとかいうのはその人も子供をもつ親だったからである
一方で18歳くらいの人が志願兵にもなった、そこで人を殺すことを強いられたがそのことは言わなかった

戦争はどうしても過酷すぎるから若い人でしかとても勤まらない、最も体力が充実しているのは20代までである、30過ぎる相当に体力が失われる
戦争をできるのは20代までの人口が多いというときできる
日本ではこうみると戦争などできなくなっている
40でおっさんとか言われ体力がなくなって力仕事がきついという人がいるからだ
それは中国でも同じなのである

指揮官が多くて兵士が少ない

これも歪になる、若い兵士が多い方が戦争にはいいのである、それは日本の会社でも起きている
若い世代の社員が少なく役職をもった人たちが多いのである、その人たちは給料が高いからかえって負担になっている
JRでも50代以上が多いとかそれはどこでもそうなっている
それで若い外国人労働者が会社に入ってきたとき活気でてきたなとなるのはそのためである
これは世界的高齢化であり日本の高齢化が一番早いのである

今の時代はもう戦争はできなくなっているように思う
ただなぜ第二次世界大戦ということが起きたのか?
それは世界的なものとして発生した
その発端はドイツだった、ナチスが興隆してヨ−ロッパが争うようになりイギリスとドイツが争いそこにアメリカが加担してきた
そしてドイツを見て日本が同盟を結んでアメリカと戦った
その時ドイツは大きく見えたのである、アメリカが大きく見えなかったともなる
その時の時代感覚は今からではわからないからである
ドイツをみて同盟してアメリカと戦って失敗したとされる

白人が確かにアフリカ人を奴隷にした、アジアを植民地にした、南アフリカに強盗団のようなスペイン人が侵略してマヤとかインカはあっけなく滅びた
その前にアメリカのインディアンが白人に掃討されて多数が死んだ
つまり白人の世界への膨張がこうした悲劇を生んだ
その欧米の世界進出にアジアで抵抗したのは日本だったとはなる

ではこれから同じようにカルマとして世界大戦が起きるのか?
米中で戦争が起きるのか?
これは冷戦となって引き分けとなる、それがソビエトとアメリカの冷戦で証明された
ただ小国はベトナムのように犠牲になった
イラクでもそうである、その後中国が台頭してきたときまた冷戦になる
でも戦争にはならない、戦争ができない状態に世界はなっている?
ソビエトでも核兵器で対抗した、もし本当に核の戦争になったら共倒れであり人類滅亡にもなる
すると戦争は互いに威嚇しあう動物でも縄張り争いで威嚇しあう、でもそれが死ぬまでの争いには発展しない、できないのである

ともかく第二次世界大戦のような大規模な戦争は起こしにくい、明らかに第三次世界大戦になったら人類滅亡だということはわかっているからである
すると相互に牽制するようになる、直接の衝突はできるだけ避けるようになる
そこでなんとかバランスが保たれる
ただ大国の回りは中国の周辺国のチベットとかウィグル族とかは併合される
だから日本はそうした小国にならない、もちろん大国にはなれないがそれなりの規模の国として侵略されない国にになる必要があるとは言える

奇妙だけど高齢化が国際関係に影響してくる?
そういうことを考えなかった、でも一番これから高齢化になるのは中国なのである
そうなると戦争でもしにくくなる、高齢化が戦争の歯止になるのも奇妙だとなる
それはクルマ社会でも高齢化になると運転できないとかなり別な交通を望む人が増えてきてクルマが減退する社会になる

血の気の多い若い世代が多ければどうしても戦争でもイスラム国に参加するような日本人までいたようになる
高齢化した社会は国は戦争はしにくいのである
アメリカが日本から撤退しても中国が攻めてくるのか?脅威となるのか?
それが疑問になる、韓国でも日本より高齢化している
高齢化社会になると無茶なことはしにくいのである
高齢化が戦争のブレーキになるというのも奇妙だけどそれだけ高齢化というのは世界的な問題になっている
要するに人類はペストとか細菌で大量に死んだ、そこで人口が調節された
戦争でも死んで人口が調節されたということもある
でもそれがなくなるときと人口が増えるとまた様々な問題が生まれる

高齢化社会というとき深夜に外国人労働者が働いている現場で老人が働いているという
長生きするから先が心配で働いているという
そういう姿を若い外国人が見てどう思うのか?かわいそうだとなる
そういう若い人が激減している日本で戦争だって起こせるのか?
戦争になったら若い人が激減して働く人がいなくなるのである
それは原発事故の避難地域に起きている
若い世代が流出して働く人がいない、介護士もいないから青森に送られている
農業するにも復興するにも若い世代が流出したら復興もできないのである

少子高齢化は中国でも韓国でも日本でも深刻になってくるし日本ではすでになっている
老人大国で戦争はできない、世界でも高齢化するとき戦争できるだろうか?
何か戦争の時代は終わったのではないか?小規模の戦争はあっても第二次世界大戦のようなことが起きるだろうか?
むしろ人類は老人ばかりふえてエネルギーがなくな衰退してゆく
その結果として人口もこれからまだ増えるにしても減ってゆく
人口が産業革命で一世紀の間に爆発的に増えたからである
これは異常であり反動がありこれから人口が減らなければ地球が悲鳴をあげる
ただ人口が増えるという時高齢化で老人が増えるのである
高齢化というということはそれだけ様々に世界的にも影響するのである
人類は縄文時代なら30歳が寿命だったとか若くして死んでいた
それが世界的に寿命が延びることは今まで人類が経験していないことなのである

それで建築現場で働いてる40歳代の人が青森の施設に入れた親がいた、施設に入れたから終わりではなくその他にかかる費用があり困っているという
それに母親は70近くであり腰が悪いとかなんとか体がまともではない
それが介護になったらどうなるのか?
金もないし誰が世話するのか?生活保護も受けられない状態にある
高齢化で介護が大きな問題となる、もう老人は捨てられるかもしれない
それだけの人も金もないからである
団塊の世代が75歳以上になったとき危機がくる
もう世話できないと捨てられる、そんなときとても戦争はできない
ただナチスは戦争するために障害者を始末した
もし戦争になったら老人は邪魔だとかなり始末されるかもしれない
だから中国でも韓国でも高齢化であり戦争できるのかとなる

2019年06月20日

土地とつながりなくなったとき人の価値はどうなるのか? (介護とかでただ金だけでできるものなのか?)


土地とつながりなくなったとき人の価値はどうなるのか?

(介護とかでただ金だけでできるものなのか?)

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   地域を守る看護(鹿島厚生病院)


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介護のために東京でも南相馬市でも施設があっても介護士不足とかで青森に送られた
それは一人だけではないのである
何かそうして故郷から離れて家族からも離れて介護される
それはどうしてかとなると地元で介護士などがいないからである
それは東京でも数が多くなるから東京でも地方の介護施設に送り問題となる
これから東京では介護しきれないから地方に送り介護してもらうとなる

でも介護される方でも介護する方でも介護となるとまた別問題である
人間を品物のように移せるものかという問題である
それは極めて現代的な問題であることに気づいた
移動が容易だとしてもそんな簡単に人間か長く住んだ所になじんだ所から移れるものかということである
それは老人になると愛着ある場所とか家族がありそこで最後を生きて死にたいということがあるだろう
そのことが原発避難者に起きた、老人が故郷に帰りたいというのはまさそうだった
それは人間としての生物の本能みたいなものだったからそうなった

そして日本人はもともと村とか狭い範囲で生きてきた長い歴史がある
それが現代になり移動が容易になり激しくなった
そういう移動する社会では価値観も相当に変わる
人間の価値観はその場所に拘束されない、金があればどこにでも住んでいいとなる
だからこそ青森で仕事がないから介護を仕事として引き受けることになる
それは距離というものも関係なくなり金だけでめんどうみてくれとなる

でも介護となるとまたこれは他のものとはただ物をやりとりするのとは物を運ぶのとは違うのである、モノだけだったら地球の裏側から運んできても問題はない
でも人間が移動してきたら必ず様々な問題が生まれる
それが外国人労働者が日本に入ってくることでそうなった
相手は人間でありモノではないからだ
それは日本国内でも言えたことなのである

現代の価値観はその場所とか関係なくなる、移動が容易であり金があればどんなサービスでも受け入れられるともなる
それで東京の人は金をもっているから地方都市に福祉サービスがいい都市に移住する
そこなら手厚い介護が受けられるとか思うからである
でも介護となるとまたモノのやりとりとは違ったものになる
金がやるから地方で手厚く介護してくれとなりでは地元の人がそうして全く知らない人に手厚い介護ができるものだろうか?

もともと東京とかに生活して東京に貢献していたとするならそこで介護されるのがいいとなる、要するに人間の一生はやはりどこかに愛着が生まれてそこで死にたいとなるだろうまた人でもそうだろう、いろいろな人があっても一般的に長く生活を共にした人のもとで死にたいともなる、全然知らない人たちの中で介護されるとうのも何か不自然なのである別にそこに親切な人たちがいれば地元だからとしていい人ばかりではないことは知っている、だからそんなことに今はこだわる必要がないということもある
地元だから故郷だからいいとはならないからである

ただ一般的問題として現代とは広域社会でありグロ−バル化社会である
そういうことで問題が起きる、東京に原発を作れというときなぜ福島とか地方に東電は原発を作ったのか?それも広域化社会になっている問題である
福島の双葉とか大熊は出稼ぎ者が多く地元で仕事があればいいとして原発を誘致したからである、それで確かに地元に金になる働き場が生まれて潤ったとなる
それと何か介護でもにているのだ
青森は仕事がない、それで金になるために遠くてもそうして介護する人を引き受けるとなるからだ

現代はその土地土地で生きる価値を作らない社会である
その土地に長く生きてきたからと言ってその人に価値があるともならない
ただ金をどれだけ多く稼いだかで価値が決まるとなる
だから東京辺りで株でもうけたとかして億の金があるから地方で手厚い介護しろとかなるなにかすべてが金で価値が計られることがおかしいのである
すべての価値が金で決められるのか?
その人の価値がすべて金で決められるのか?

村のような所で生きてきたら何かその村の中でどういう役割を果たした人かなど狭い範囲だとみる、それでその人の価値をみる、それは金だけではない価値観が働く
でも金だけをもってきて手厚い介護しろというとき何かそれをすんなり受け入れられるだろか?
それはグロ−バル化社会でも起きていて世界がただ金だけすべての価値を計る
そういうことはできない、国々にはそれぞれの文化があり文化をすべて金で価値を計ることはできない、金で買うこともできない、その文化とはその国の風土があり長いその土地の歴史があって形成されてきたからである
だから原発避難地区ではそうした歴史を奪われたとなりアイディンティティを失った
それは金で補償できないものだったのである
そういうことは意外と意識しない、精神的なものだからであり金で買ったり売ったりするものではないからである

とにかく現代は広域社会でとかグロ−バル化で矛盾が起きる
それは人間の価値はすべて金で計れないからである
金にならないものはすべて価値ないものとはできないのである
都会だと自然がない、景観がない、索漠としている
でも景観自体に価値あるともみない、森より木材が金になるとして伐採してはげ山にするそれは地方でもグロ−バル化するとき熱帯の森でも失われたからである
そこに生きるものにとっては金が入っても森を失われることが精神的な喪失感を生む
それは原発事故でも起きたのである、自然が放射性物質に汚染されたからである

広域化社会というというとき距離は関係ないとかどこに生活しようが金さえあればすべてまかなえる、介護を受けたければ福祉サービスがいい都市でも地域でも移ればいいとなるしかしそれを受け入れる方ではどうなるのか?
別に金が入ればいいとなるのか?なぜこの人に尽くさねばならないのかという問題も起きる
もし地元だったら地元に生きて働いて貢献した人だとなればそこに介護する人の動機が生まれる、家族が介護すれば一番いいようにである
グロ−バル社会を批判して来たけど何か最後に老人になってそういう社会がいいものだったのか介護とかで問われているともなる
ただ地元にしても何かトラック運転手が多い、それは現代は運ぶ仕事が多いということなのである、それは広域社会だからそうなっているのである
だからみんな地元だけで仕事している人は少ないのである

現代は何かそうして広域社会化でもグロ−バル化社会でも矛盾がでている
それはどうして人間の価値が生まれているのか?
その土地に尽くして生きたならその土地の人に世話になり死ぬというのが自然になる
もちろん尽くすとか貢献するとかではなくても人間の心情としてその土地と一体化するということがある
金さえあればどこに住むのも勝手だとか金があればすべて解決するとかには人間にはならないのである
人間はモノではないからAからBへと簡単に移れない、住めないなのである
Aを中心に価値を作って来た人がBへ移って価値観を作ってゆくことはむずかしい
そうしして移動すれば人も環境も自然も生活も変わるからである 

ただ都会になると東京とかるなとそうした土地とは関係ない、みんなよそ者の集まりだからである、それが田舎に住む者との大きな違いである
都会では点々と都会内でも移住するからである、ただ家を建てるとやはり移住しにくくなる、そこに定着するようになるからである
でも都会の人と田舎の人の感覚はその辺が相当に違っている
何かおかしいなというとき現代はあまりにも金で割り切る、すべてを金で価値を計っているからそうなる、そこに一番の問題がある
人間は金で計れない価値が相当ありそれを無視して生きることはできないのである
もし無視するともう人間として生きていけないとまでなる
それがグロ−バル化社会の深刻な問題なのだけど金一辺倒の価値観しかなくなっている
そこに大きな歪(ひずみ)が生まれているのである

2019年06月15日

13万プラス2万くらいが一人の老後で暮らせる (それがもらえないのが現実ー百年安心などありえなかった)


13万プラス2万くらいが一人の老後で暮らせる

(それがもらえないのが現実ー百年安心などありえなかった)


老後の金の計算はむずかしい、第一人生百年といってもいつ死ぬかわからない、それでいくら金をためても貯金があってもたりなくなることもある
だからつぐつぐ年金は老後にとって大事だなともらってみてわかった
年金の強みはし死ぬまでもらえることである、百年生きてももらえるのである
だから払う方にすると額が大きくなる
そういうふうに払う方が損する仕組みなのが年金なことがわかったしだからこそ政府でそれをつづけられなくなったことがわかる
若い人が今の65歳以上の人に払うのでありそれが若い人は将来もらえなくなるから損だとなる、世代間の差が大きいからそうなる
団塊世代は逃げ切りの世代というのもそうである
そして何よりも日本の経済が衰退してゆくし少子高齢化で働き手も減ってゆくから余計に年金を維持することや医療でも維持することがむずかしくなる

ただ老後の生活費がいくらかかるか、最低限になると使ってわかたっことは13万プラス2万くらいである、すると生活保護でもらえる13万がその金になっていた
でも実際は国民年金でもそれだけはもらえないから問題なのである
だから生活保護の方がいいとなる、でも生活保護は簡単にもらえない
例えば国民年金、4,5万しかもらてっていない人も結構多いのである
そういう人は生活保護をもらえないのである
ただ医療費が無料となることがありそういうこともある
何か生活保護を簡単にもらえると思っているが地方ではもらえないし福祉では地方で差がある、老後は医療費がかかる人が多いからそこは無料になるだけで楽になる

何か2000万はたりなくなるから貯金しておけというがそれは厚生年金と国民年金では差が大すぎるのである、厚生年金で夫婦で25万くらいもらっていれば十分のような気がする、一人暮らしで13万だからである、ただ実際はその他の物はレジャーの費用とか家の修繕とか交際費とかはかからないとして13万だともなる
だから確実に貯金は必要なのである
でも2000万の貯金は若い世代では今は苦しいとなる
なぜなら団塊の世代とかその後でも退職金が貯金すると倍になっていたのである
だからこれは大きかった、今は地銀に貯金すると投資信託などをすすめられて必ず損してかえって利子をとられる、なぜなら地銀などはもう金を貸してもうける先がなくなっているからだ、投資信託は銀行にとって確実に手数料がはいる利子が得られるもので損することは絶対にない商品なのである、それは証券会社とか銀行のために作られた商品である
正直よほどの知識がなければもうからない商品である
だから2000万得るために投資しろというのは本当に政府は何を考えているのか無責任だとなる

厚生年金をもらっている人は贅沢しなければ一応生活は成り立つが国民年金の人は絶対に生活すらできない状態に追い込まれる、そういう人を知っているである
老人はみんな金をもっているというすうに見るが現実は老人にも格差がありみんながそうではない、ギリギリの人も多いのである
そして金だけでは介護でもなんでもどうにもならないことがある
もし家族に人手あればなんとかしのげるがない人は悲惨なものとなる
いくら金があっても手厚い介護は望めないからである
だからすべて老後は金でなんとかなるとはならない、老後自体の生活でも文化的な面でもそうである、金があっても豊かな老後になるとは限らないからである

ただ正直未来はわからない、計算できないのである
例えばこれから10年生きるのか20年生きるのかもわからない
10年だったら半分ですむが20年だったらその倍の費用がかかる
そして私も金の計算をしょっちゅうしているが計算しきれない
それはこれからどのくらい生きるかわからないからである
そして不思議なのは一ケ月いくらかかるとか計算する
それで節約して一か月15万とするのだがこれを5日10日とか延長するとその分が節約できる、

150000÷30日=5000円

一日の費用が5000円かかる、でも15万円内で5日延ばすと一か月で2万5千円の節約となりそれが一年になると12か月かける25000円となり30万となる
                                                      
5×5000×12=300000円

これが10日延ばすと

5000×10×12=600000となる

一か月の費用を5日分を延ばすだけで一年に二か月分の節約になる
10日分だとその倍になる
一年分で計算するとこれだけ節約することが不思議だったし本当にこうなるのかと今でも理解できないところがある

つまり金の量ではない、日にちで計算しているからわかりにくくなるのである
それが納得いかない、間違っているのかと思うのはやはりそもそも日にちで金の計算しているから納得できなくなる
それだけ未来を計算することが何かわかりくいものとなっていたのである
でも一日の費用が5000円として計算に間違いがあると思えないのである

人間はつくづく金でも近い将来でもなおさら長い未来となると計算できないようにできている
なぜなら必ず不測の自体が起きるからである、計算し得ないことが長い人生で起きる
この辺で起きた津波とか原発事故がそうだった、完全にこれで計算が狂ってしまったからである、そういうことが起きるからこれから若い人が30年後にどうなるかなど計算できないのである、実際60になっても70になっても将来は計算できない

人生はそもそも計算できない、何が将来起きるかわからないからである
一寸先は闇だというのもそうであり世界情勢だって計算できない、必ず不測の自体が起きる、いくら貯金していてもそれも価値がなくなることもある
常にあらゆる価値が変動しているからである
正直未来に備えることもできないのが人間なのである
一億円貯金しても安心はないのである
人間は生きている限り安心が得られない存在なのである
だからあらゆることに備えることは老後でも無理だとなる
だから貯金しても年金を収めても無駄だというのではない、それですべて安心とはならないということである
百年安心などありえないことだったのである

ただ逆に何か長い時間の中で逆転が起きてくるのも人間社会である
10年前ですら中国があんなふうに発展するとは思わなったろう
それがみるみる日本を技術的にもぬいて先進国化していたのである
そういう逆転現象が人生でも個々人でも日本でも起きてくるかもしれないからだ
高いものが低くされ低いものが高くされるのがこの世である
それを操っているのは人間ではない、神だとなってしまうからである
いくら金があっても老後は病気になったら終わりである
寝たきり何なったら何もできない、ただ天井を見ているだけになる
金があっても何もできないとなるからだ
そういうリスクも老後は増えるからだ

それで認知症になったら最悪である、銀行から金を下ろせないとか看護婦だったのに病院に行ってもそこが病院だとわからないとか本当に最悪だった
金は何の役にたたなくなったのである、金をもっていても銀行から金を下ろせないのだから金は何の役にもたたなかったからだ
こんなことまで老後に起きるから金があるだけでも安心などないのである
ある人5歳で子供と離れて暮らしていたが金持ちの後妻に入っていい暮らしをしていた
でも認知症になり世話する人がいずその娘に頼った
でもその娘は異常人格者でありその人を母親だとは思っていない
ただ金をもっているから施設に入れているだけである
それも悲惨だとつくづく思った、認知症になったらこうして最悪になるから怖いのであるそれもこれかち800百万人もなる恐怖である、その時金があってもどうにもならないのである

人間にはそういう極端な逆転現象も起きてくる、だから大きくは国家でもその未来は神がにぎっているともなる、神のみが未来を知っているともなる
人間は十年先でも何が起こるからわからないからである、ましてや20年とか30年とかいろいろいうけどそれだってわからないのである、あくまでも予測だからである
ましてや100年後の未来などどうなっているから誰もわからないのである
そこに人間の限界がある

2019年06月12日

松坂市の正論おじさん”看板撤去は「お年寄りのため」 (高齢化社会で生きがいが喪失する問題も深刻)


松坂市の正論おじさん”看板撤去は「お年寄りのため」

(高齢化社会で生きがいが喪失する問題も深刻)

一切妥協せず三重・松阪市の商店街ののぼりを撤去していく89歳の男性、男性は旧満州生まれの89歳、貧しい中、戦後の復興を支えた自負があるという。

我々の時代は高齢者を尊重する心を持っているが、高齢者を尊重する心がないと話す


これも看板撤去だけの問題ではない老人問題なのだろう
この人は法務省に勤めていて法律の仕事をしていたこととも関係していた
それで今までしていた法律の仕事を役立てようとした

それはなぜか?

家にこもっているだけで法律の仕事も何もない、役立てることができない
それで法律を盾にして商店街にケチつけるようになった
つまり老人が尊敬されないというとき老人の用がない、居場所がないことなのである
でもこの人は夫婦で暮らしているから一人暮らしとは違う
一人暮らしだとさらにいろいろな問題が起きてくる
とにかく老人が増えてくるからこのような問題は増えるばかりだとなる

要するに私は法律に詳しいんだということを仕事してきたから言いたいのかとなる
それも迷惑なのだけどこれは社会全般で老人が増えすぎて用亡き者となっているからである、89歳となったら用もなにもないと思うがそれだけ長生きの時代だからこれからこういうこともありうるのである
それだけ老後の時間が長く暇をもてあます老人が増えるのである
だから金の問題もあるけどそれだけ長い老後をどうすごすのかも問題なのである

そして怖いのは仕事がない社会に用がない、家族でも夫婦でも夫が退職する邪魔者扱いにされる、でも今の社会は一旦退職するとまず今までの仕事を活かすことができない
駅が無人駅になったので私はボランティアで案内とかしたけどJRの駅長からにらまれて排除されることしかなかった
お前はそこで何しているんだとかなり警察が駆けつけて職務質問したりされたし誰も認めないから案内はやめた、ただ時々駅にきて話したりしてはいる
つまりボランティアというのは他でも正規に仕事している人たちにとって邪魔者扱いされているのである
たまたま無人駅になったから私は案内をするようになったが受け入れられない
今は高校生の見守り役が朝と2時半からいるからやめた

とにかく高齢化社会で老人ばかり増える、そこで様々な問題が生じる
老人だけではない、不満な人は執拗なクレーマーにもなる
その女性は田舎の最底辺だから執拗にスーパーとか他でもクレーマーになっている
それは店に行ってももともと貧乏だからまともに相手にもされないことにもある
田舎では何か底辺だと目立つなのである、田舎ではかえって資産とかないと暮らしにくいのである、そしてその人のことを知っているから地位とか資産とか何か役割がある人は暮らしやすいとなる、序列化されやすいからである
田舎でわかるのは市営住宅に住んでいる人たちは底辺なのである
そこには生活保護者が多いのでわかる

高齢化社会の問題は社会で無用化された人が膨大にいるという社会なのである
それで怖いのはそうして家族でも社会でも用なくなった人がぼけっとしていると認知症になり安いのである、そこで生きがいもなにもなくなるからだ
私の家族の一人は公務員だったけど早い時期にやめてから何もしていない、家事もなにもしない、やる人がいたから何もしない、そのうち認知症になったのである
認知症になった原因が後からわかったが何も用がなくなったことが大きな要因だったことは間違いないのである
そして認知症が800万人もなるというときこれは恐怖である
その介護のために社会自体疲弊して国力まで減退するとまでなるからだ

老人が尊敬されるべきだと言ってもこれだけ多ければ価値がないのである
そして法務所に勤めていたからとしてその仕事を継続して活かす場がないのである
昔の村の長老のような人なら村の掟(おきて)守る人として尊重されたかもしれないが
会社というか国家公務員でも一旦退職すると用なくされるのが現代社会なのである

だから私自身も駅のボランティアで経験したのでこのことが理解できる
おそらくこの老人は善意でしているつもりなのである
そして家では夫婦でいても妻に疎んじられる、何の用もないとなる
例えば仕事でも法律の仕事しても社会で活かされることはない
街に出ても何か尊敬されるわけでもない、ただの用なきありふれた老人であり無用の人にすぎないのである
でも客になればそれなりに受け入れられる、ただそういうこともなかったのか?
商店街を利用していなかったのかもしれない、今は商店街を利用しない
それでそんなところで店が潰れたという時、もともと客が少ないからそうなったと言う人もネットにいた

そして車社会になったことが商店街をさびれさせたのである
商店街にきてケチつける老人がいるということで商店街が目立ったが普通は目立たない
シャッター通りになっているのが多い
それも時代である、老人が運転することで交通事故が話題になっているのもそうである
高齢化社会はこれだけ老人が増えると当然様々な問題が起きてくるのである
現代社会は老人には合わない社会なのである
膨大な老人が無用となるだけではない邪魔者扱いされる社会である
だから若い人は老人は始末しろとまでなる、社会の害悪だとなってしまう
ただ東京の商店街でも老人が集まる食堂で繁盛したりと老人相手の商売も生れるのも高齢化社会である
でも商品でも老人用のものが作られていない、商品化されないのである

私は老人になってかえっていい面がでてきた、何かいろいろなことを深く理解できるのである、本でも今までただ買って積読だったが読み返してみるそれを自分なり解釈できるのである、これは何か不思議である、人間は老人にならないと理解できないことが相当あると思った、これは老人の強みとしてある
本でも一読して要旨がわかり評論もできる、それでアマゾンで1000円以下の本を買い集めているのである、それは読むだけではない、評論してアウトプットするためである
それがインタ−ネットでありプログになっているのだ
何か文章を書くということは理解を深めることである
文章にすることによってそれが何か形あるものとして現れるという感じになる
私は何か書くことは文章にすることは得意である、しゃべることはだめである
それでこうしてプログで書きつづけているのである
それも無料だからまた即座に反応できるから書いているのである

2019年05月23日

施設で老人が若い介護士に殺される (介護は動機がないとできない、老人の虐待日常的に起きている)


施設で老人が若い介護士に殺される

(介護は動機がないとできない、老人の虐待日常的に起きている)


 勤務先の有料老人ホーム「サニーライフ北品川」(東京都品川区)で入所者の男性(82)を暴行して殺害したとして、警視庁は22日、元介護職員の根本智紀容疑者(28)=東京都新宿区北新宿4丁目=を殺人容疑で逮捕し、発表した


このサニーライフは月の料金が23万とかそれなりにいい施設なのかもしれない
東京だと高くなる、ただ必ずその他にもいろいろ料金がかかり要求される
だから本当は25万くらいになっているかもしれない

なぜこの介護職員が殺人までにいたったのか?

それが知りたいとなる、なにかこういう事件はこれから増えてくる
認知症の介護だったのか?何が原因でそうなったのか?

介護問題はこれからさらに深刻になる、知っている人も非正規の建築現場で働いているのに親が施設に入った
それもこの辺の近くでは立派な施設があっても介護する人がいないから青森の施設に送られた、この辺では青森に多く送られているのである
つまり介護する人がいないのである 
そして施設に入れば後はみんなやってくれるというがその非正規の息子は施設から別途に金を要求されて払っているのである
つまり施設に入れたからといってそれで終わりではないのである
その人は金持ちではないから最低辺の施設に入れた、それで青森に送られた
青森は仕事がないのでそういう人を受け入れていたのである

介護する人がいないというとき介護の仕事が過酷だからそうなっている
誰もやりたくない、家族でもやりたくない、それで金がある人は施設に入れる
でもそこが介護される人にとっていい場所とかなるとはならない

介護の問題は何かエネルギーが奪われる、肉体的にも精神的にも奪われる
そういう仕事に若い人がつくのは何の生産的なことがないともなる
自分自身10年かしてもう肉体的精神的にエネルギーが奪われた
ただ私の場合は特別親に世話になったから自然と介護を懸命にしたのである
そういう動機が特別あったからである
だから認知症になっても懸命になってしていたのである

では介護施設では若者がそんな動機などないとしたらどうなるのか?
貴重な青春時代のエネルギーを奪われるだけだともなる
ただ別に若者の仕事でも最底辺で非正規で辛い仕事をしている人はいくらでもいる
自分も最底辺の肉体労働をしていたからである
ただそれも一時的でありそれ以後一切仕事はしていない、後は旅していただけだとなる
つまりそういう仕事でも一時的なら救われるのである
それが若い時長くつづきさらにその仕事で何かスキルがつくとか生きがいになればいいがならないとしたら誰もしたくないのである

何か自分は30頃だったとか親戚の人が叔父にあたる人が手術をするので輸血してくれとか頼まれたが断った
その時山登りして非常に疲れてしなかった、つまり自分のしたいことをして老人のために病人のために何もしなかったとなる
このように今なら介護とか病人の世話より若いなら遊びたいとなる
そういう時代であり介護とかなると誰もしたくないのである
自分が家族の介護をしたのは若い時ではない、60以降だったからである
それは特別世話になったから自然と介護に懸命にれたのである
もし若い時そんなことを強いられたら親を恨んだともなるからだ

山登りでも今になると体力がないからできない、すでに40頃から自分は登山をやめた
体力がないのでやめた、それで自転車旅行に切り替えたのである
自転車旅行も若い時はできないとと思っていた、でも実際は40過ぎても自転車旅行はできた、なぜなら疲れれば休めばいいからである
そうして私は旅ばかりしていたとなる
そのプラスマイナスはあった、仕事をしない人間は会社のことを知らない人間は何か欠けたものになる、それで介護では苦労したのである
介護では社会とかかわるからである、それでニートは親に頼っていられるときはいいが親が介護状態になりそれから死ぬと地獄になる
もし金もないとしたら最悪になる、それをプログで書いてきた
誰も同情しない助けない、弱者になった結果困窮した人たちが襲ってきたからである

いづれにしろこれからこういう事件が増える、これがどうして起きたのかわからない
原因がわかないがこういう事件が起きやすくなる
たとえ金持ちが入る施設でも起こる、かえって金持ちに若者が使われているとか不満になっているかもしれないからである
つまり介護には動機が必要だが金だけだったら手厚い介護はできないからである
それで虐待になる、非正規の底辺労働者は身寄りもなくあとは施設に入れられて虐待されて死ぬだけだと恐怖を語っている
身寄りがないとそうなりやすいので恐怖になる、そういう人を自分自身も見ている
病院でも特養に入っている人が虐待されていたからである
自分も病院に入院して虐待された
虐待は日常的にある、ただ殺人までになるとなかなかないが当然殺人までなることがありうるしこれから増えるのである、だから施設とか病院は自分自身が恐怖なのである



サニーライフの評判

ここも悪徳ブラック?

サービス残業や休日返上が当たり前の社風

入社後の離職率が高い。大量採用、大量退職を繰り返している
スタッフがやる気なくして次々と辞職

社長なんかが施設みたいな豪邸に住み、ロールスロイスポルシェベンツマイバッハとかを会社の経費として乗り回して、下は薄給そのものじゃ 
当然、下の人間は(不当な搾取に)あまりにも馬鹿馬鹿しくなり、まともな神経で働かなくなる罠 

ここの支配人の月収は25万円で、土日祝祭日出勤当たり前、残業手当はなし。 
こんなんでモチベーション維持して働いていけますか? 
支配人もそうだけれど社員は消耗品で使い捨てで、潤っているのは経営者一族を 
始めとした一部の人だけなの?これじゃ何かと世界を騒がしているどこかの国と 
変わらないんじゃないか? 

贅沢は言わねえけどそろそろ休みが欲しいよ。 
ベテランはどんどん辞めてくだろ。


やはり離職率が高いからあまりいい評判ではない、働く人が働き安い環境がないと介護はむずかしいということか


2019年04月25日

「高齢ドライバー」の運転を止められないのか (老人でも今までしてきたことは簡単にやめられない)


「高齢ドライバー」の運転を止められないのか

(老人でも今までしてきたことは簡単にやめられない)
  

高齢者がなぜ車の運転をやめられないのか?
車社会だからやめられない、車社会用ように社会ができているからだ
もし車を運転できなくなると社会的弱者に転落する、社会から置き去りにされる
どういうわけか私は車を運転できないから自転車に乗っているから自転車の人とは話が合い仲間になりやすいのである
駅でトラック運転手だった人が足を怪我して運転できないので自転車に乗って遠くに行くその人は60代であり70なのかわからないが結構相馬市とか松川浦とか行っている
15キロとかなるとかなり遠くなる、それも電動自転車ではないのである
まずその人が車を運転していたら話もしないのである
自転車を通じて話をするようになったのである
その人が言うには車を運転できないのは何か問題があり能力的にも問題があり社会的劣等者に見られると言っていた
そういうことは確かにある、そして自転車は車に嫌われる、突然横切ったりするからである、自転車は車にとって特に目障りなのである

高齢者でも車を運転できないことは夫婦だと女性も今は普通に運転しているが運転できないと妻を乗せられないとかなり頼りにされなくなったりする
田舎では特にそうである、買い物でも街内に住んでいない人が多い、するとどうしても車が必要であり一人一台とかでももっているのだ
第一男が車をもっていないと女性だってついてこない、車に女性を乗せられることで一人前の男だと今はなっているからだ
そういうことが車社会なのである
それは江戸時代辺りだったら馬をもっているのが侍であり馬を持たないものが庶民階級だとなる、それで馬を飼うための専用の家来をもつのが侍である
そして徒町(かちまち)があるがこれは徒歩で歩く人の町だと区別されたともなる
御徒歩(おかちまち)とかがそうである、そこにも馬を持つものと持たない者の差があった、それが車社会になれば車をもたないものは足軽のようなものになる

現代で車をもたないことは実際に私自身経験している、モスバーガーは車専用だとばかり思っていた、それでそこで中が喫茶店のうよになっていて休める場所と思っていなかったのである、それは車を利用していないからそうなったのである
それも20年間くらいわからなかったのである
つまり車を持っていなものは社会のこともわからなくなる、なぜなら車社会だからであるそういうことはパソコンとかスマホとかでもそうである
情報社会でインタ−ネットをしていないものは時代に乗り遅れるのである
インタ−ネット社会になっているからインタ−ネットから情報を得たり発信しないものは遅れるのである、ただこれはまだ車社会とは違っている
車社会では社会全体で生活するのに不可欠になっている、だからこそシャッター商店街が生まれたとき駐車する場所がないということが要因でそうなった
車社会になっていることは駐車場がないことは致命的だからである

それで鹿島駅で案内などのボランティアをしていて自転車の駐輪場が前は広く両側に置くことができたのに狭くしたのである
それは車が八台駐車するためのスペースをとるためにそうしたのである
なぜなら駅には駐車する場がないからである
地元の人が駐車しているのは契約して場所を確保しているから外部の人は駐車できない
それから駅前は一時的にしか駐車できない
その八台分は商工会の観光協会に連絡して金を払うと長くとめられる
それは前々からわかっていた、鉄道を利用しなくても車で駅に来る人がいたからだ
道の駅がここにないので街の中心が駅と思い車で来る人がいたからである
駅でも車が遠くから来た人でも駐車できる場があれば駅周辺も活性化するとなる
鉄道だけでは今は活性化しないからである

いづれにしろ高齢化で車の運転をやめるという人に免許を返上したという人に何人かあった、それは80くらいの人である、男性もいたし女性もいた
そして鉄道を利用していたのである、そういう人は電車の乗り方さえわからなくなっているのである、でもそういう人か高齢化社会で増えているからこれから交通の問題が生まれる、田舎で老人でも車を利用できなくなったらどうするのかとなるからだ
そうなるとバスとか他の交通手段の整備が必要になってくるのである

老人の習性として今までしていたことを同じように続けようとする
それは自分でもそうだった、今までしていたことをやめられないのである
年寄りの冷や水というけど今までしていたことは依然としてできると思いやる
それで74歳でもバイクに乗っていた人がいた
ハーレーダビッドソンに乗っていたのである、それは双葉の人である
補償金で金が入ったから買ったのだろう
何か自分でも病気とか介護から解放されたら登山しようとか新しいザックを買ったりしたでもそれも利用していない、ビデオカメラもしていたから買ったが利用していない
ビデオカメラは格段に進歩していたから小型のものでもデジタルカメラでも良かった
10年くらいしたら技術が格段に進歩して買い物すらできない状態になっていたのである

とにかく老人は今までしてきたことやめられない、それはあらゆる面でそうなのである
肉体の快楽でもそうである、それも老人になると異常化している人がいたというのも納得する、性の快楽などでもやはり一旦味わった快楽をさらに追及しよとつづけようとするのである
つまり老人になったからと言って淡泊になったりしない、また車の運転が危険になってもやはり運転しようとする、また登山でも体力がなくなってもしようとする

それが年寄りの冷や水なのである、年取ったんだからそれ相応に隠居して楽しているということでもない、今までしてきたことを簡単にやめたり継続している生を断絶することはできないのである
だから車の運転もやめられない、死ぬまでセックスとか週刊誌であおる
それは個人差があっても人間は今までしてきたことを簡単にやめられないのである
90歳になってもやはり車の運転を使用とするし今までしていたからそうなる
第一車だと体力はいらないから老人にとって車に乗れないことは行動範囲が狭くなり視野も狭くなる、そして鉄道とかバスなどは不便であり利用できないから余計にそうなるのである

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駅前の自転車置場が車の駐車のスペースを作るために狭くさせられたのである
前は広かったのに車の駐車のために狭くさせられたのである
ただここには外からの人が長く駐車する場がないからこうさせられたのである


2019年04月01日

なぜ南相馬市から青森の老人施設に入れられたのか? (青森は月額利用料金が全国で最低だった)


 なぜ南相馬市から青森の老人施設に入れられたのか?

 (青森は月額利用料金が全国で最低だった)

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 週刊現代2019年4月13日号
 

福島県は一か月の入居費が13万だからそれなりに高い
東北では宮城県についで高い、13万くらいが全国平均になるのか?
東京となると20万とか格別になる、入居費用も高い
最低は宮崎県だった、ここも青森と似ているし九州は10万以下であり
東北より低いのはなぜだろうとなる
北海道は12万でそれより高いからである

この図は日本全国の経済状況を反映しているとなる
青森が下から二番目で安いから今南相馬市では青森に介護される人が送られているという福島県でも南相馬市でも人手不足であり施設という建物があっても介護士とかそこで働く人が不足しているからそうなる
ではどこでめんどうみてくれるのかとなると青森が費用が安いからとなり送られている
青森はもともと仕事がない地域だったからである
九州でも福岡を除いてそういう傾向があった、福岡市とかに人口が集中しているのである

老人になるとこういうことに興味をもつ、明日は我が身とかなるからだ
でも8万とかなると安い、何か身元保証人すらなくても入れる施設があるという
そこは劣悪でもそういうのもあるのかと知る
そこでなぜ経営破たんして倒産しているのか?
それは長生きしすぎると新しく人を入れられないのでそこで収入が減るとかのためだと書いてある、これも経営するためには金のことを考慮すればそうなるのか?
そういう施設では経営が苦しいから何を使うのにも金を要求される
細かく要求されるという  

青森の施設に入った人も貧乏でありぎりぎりしか払えない、でも入って終わりかとなるとそうではない、何かその他にかかる費用があり食費でも別に払う
その金がないので息子が働いて払うという
その息子もまた苦しいのである、建築関係で働いていて給料の高い所に行っているという飯館村でまだ除染の仕事とかしてもいた、今度は宮城県の方に行くとかしている
それで家族が青森まで呼ばれて行った
その時その人は新幹線で行くとしてその金がないとかなり援助してくれとかなる
帰りはバスで帰ってこといと言った

2025年になると団塊の世代で介護される人が増大する
その時どうなるのか?みんな安い青森に送られるのか?
青森がそうした老人の引き受け場所となるのか?

ともかく施設でもなかなかそこは終の住処にはなりにくい、家族でも世話できないとかなり介護難民があふれとか認知症になった人が日本中でうろうろする時代が来るとか言われる、認知症の介護となると自分も経験したからその労力は生半可なものではない
心身ともに衰弱してしまうのである
そういう人を介護する家族は自分もそうだったが鬱病になるのである

新元号が令和になったけど何かこれもいい面もあるが令は冷たいにも通じている
老人がこれだけ増えるということはいい時代にはならない
青森が姥捨て山になるのか?そう前にも書いたが安い料金の身元保証人もいらない所はそうなる、そういう施設でも無許可でも需要があるから増えてくる
それも老人にとっては地獄かもしれない、だてから長生きしすぎるとそれも不幸になるなと予想する、でもどうしても手当したりするから長生きするのである
長生きすると施設でも新しい人を入れられず収入が得られないというのも矛盾なのである


2019年03月29日

死者が残した物 (残された物から昔を偲ぶ詩)


死者が残した物  (残された物から昔を偲ぶ)

家には何かここに生きた者のの
記憶が隠されている
死者はもう何も語らない
その代りに残された物が語る
なぜ手鏡が二つ棚の奥から出て来たのか?
ここに住んだ女性は死んで歳月がすぎた
でもその鏡を手に取って見ていた時があった
でもその鏡にはもう顔は映らない
人は死ぬと忘れられるのが早い
死んだ後に家や物や墓が残る
なぜずいぶん死んでから月日が過ぎて
何かその人が愛用したものがひょっこり出てくる
それはなぜだろう
それは死者がその物に霊のように憑いているからなのか
だから物が憑くとなる
何か私を忘れないでねと
その物を通じて語っているのかもしれない
忘れな草は春に咲いている
その忘れな草のように忘れないでねと今は言う
でも死者を訪ねてくる人もいない
人はたちまち死ぬと忘れられる
その人がいたのかどうかすら不明にすらなる
それでも忘れないで思い出してと
家の中の奥からその人の愛用したものが出てきたりする
それでまた故人を偲ぶのである  


 

誰かの煙草入れ

山の中のなのか
どこなのか
一服して仕事を休む
この煙草入れはずいぶん使った
これをもっていた人は
ずいぶんと働いた
何かそれがこの煙草入れからにじみでている
ぷかぷかとタバコをキセルで吸う
その時一時安堵がある
一休みしたからまた働くか
そしてこの煙草入れを下げて働きはじめる
それは山の中なのか
山の中で腰をおろして吸っていたのか
何かそこに男の体臭を感じる
それはすりきれるほど使ったもの
人は死んでも何かを残す
この煙草入れでもその人の体臭が染みついている
この物に人の記憶がしみついている
だからただの物ではない
人間の残すものには心が宿る
物は物ではない、物と心は一体なのである  

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人間は何か物を残す、その物が何かを語る、この煙草入れはリサイクル店で買った、一万以上したから高かったとなる
銅製か鉄製で錆びたりして鏡として顔を映すのは結構むずかしかったとある
ここから何か江戸時代のことがイメージできる、旅するとなると明かりが必要である、火も必要である、蝋燭も必要である
そして火打石のようなものも持ち運びしていた、何かこの物から江戸時代がイメージされる
時代劇だと現実のものではない、この物は江戸時代の人が確かに使っていたものなのである
こんなふうにして旅していたのである、これらのものは結構高いもので誰ももてるものでもなかった
  
江戸時代の旅の小道具

携帯用に工夫された燭台とかもあり手鏡もあるがガラスではない、 何かこういうものを使っていたのが不思議である
真っ暗闇のなかで携帯用の蝋燭がゆらゆらと燃えてその明かりで矢立で字を書いている
その時江戸時代だから車の音もなにもしないのである、不気味なほど静かなのである
何か東京とか都会に興味がもてなくなったし人ごみの中に入るのも嫌になった
まず今は旅に向いていない、外人ばかりが多いからである、日本人がゆっくり旅できなくなったのである
それはなぜか?日本人が観光で稼ぐほかなくなった貧乏になったのである  

日本がすでに安価な旅先として選ばれているというようになった
そして日本人がのんびり旅すらできないとなったのである
それは外国の貧乏な国ではそうだったのである、観光立国などとなればそれは貧乏な国が目指すことである
カジノなどでもそうである、金持ち呼び込んで金を得る
つまり日本はすでにかなり落ちぶれた国になっているのである
そしてますますその傾向は強くなってゆく
だから観光客が何千万とか増えたからと喜んでいいものかとなる  

京都辺りでは観光客のためにバスさえ乗ることに難儀していることでもわかる
それでも観光客を来るなとは言えない、それは貧乏になったからである
白馬村でも旅館のおばちゃんが外人にまた来てくれと抱きついているのを見たらそうなる
それが嫌でも外国人観光客に媚びなければならないのである
そういう国はもう発展途上国並みになっているとも見れるのである
ともかく私は旅を60までしてきたけど何かしたくない、私はいい時代に旅したとなる
日本人がゆっくり旅できない、泊まる所もないというのはなんかがっかりする
それでも貧乏国になればそれをやめることはできないのである



家は記憶の貯蔵庫 (何か隠れたものが出てくる)


家は記憶の貯蔵庫

(何か隠れたものが出てくる)

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家の棚の奥にあったもの



家の不思議を追求してきた、家は何かというとそれはただの寝起きするとか食事するとかだけではない、そこにはその家族の記憶が貯蔵されている場所なのである
それでいろいろなものが捨てられないという時、その物には思い出が染みついている場合があるからだ
ただそれは他人にとっては何の価値もないものとなる
別にその人にとっては便利に使うだけものだからである

よく蔵に何があるとか番組があるけど古い家だと江戸時代のものでもさらに古い物でも貯蔵してある、それは忘れられていたものである
だから蔵の機能はそうして記憶の貯蔵庫ともなっていたのである
人間は死ぬとその人間自体が消えるのだから思い出すにしてもできなくなる
遺影を見たりして思い出したりするが残された物からも思い出す、記憶するのである

歴史でも考古学がありそれは人間は骨となって消えるし骨すら残っていない
古墳が墓だとするときそこにモノが残っていてそれでその歴史をたどる
それから物語が残っていてそこからも過去をたどってゆく
それは個々人でも同じなのである、家があるときはその家が継続していればそれは生きたその家の記憶の貯蔵庫となっているのだ

物には単なる物ではなく物語がある、物語がヒストリーが歴史である
ただモノにしてもいつまでもあるわけではない、モノでもいつまでも残されない
やがては埋もれ消えてゆく、人間が死ぬと去る者は日々に疎しとなる
それは家族でもどうにもならない、この世は無常なのである
常なき世の中なのであるそれは変わっていない、死んでしまうと日にちがすぎてそんな人がいたのかとすらなる

とにかく不思議なのは死んでから何かその人の思い出になるものが家から出やすいのである、それは忘れられていたがふいと家をかたづけていると掃除していると出てきたりするそれはつまらないものであってもそこにその家の記憶が家族の記憶がその人の生の思い出が残っている
認知症になると何かつまらないものを肌身離さず持ち歩いていた
それを私の家でも経験した、戦争で生死をともにした戦友が送ってくれた手作りのバッグを宝物ののように大事にしていたのである
それは映画でも放送していたから同じだった
つまり何かつまらないものでもそこには人生の思いでがしみついているからそうなったのである

だからなかなか捨てようとしても捨てられない、それも困るのだがそうなる
家には記憶の貯蔵庫なのである、だから家がなくなると個々人とかでも家族とかでもその記憶が失われるのである
例えば老人ホームに入った老人が「家に帰りたい、帰りたい」というときその家が実はなくなっているのである、ただ家族と一緒に暮らした昔にもどりたいということなのであるつまりもうその人にとって記憶の中の家であり家族になっているのである
老人は思い出と記憶の中に生きているのである
だからなかなか断捨離とかあっても老人は物を捨てきれないのである
そのモノには人生の記憶がしみついている、それを捨てることは何か人生そのものを捨てる感じにもなるからである  

手鏡の隠され残るあわれかなその面影を映すことなし

この手鏡は何なのか?何か使ったようには見えない、ただ買っただけなのか?
そういうものもある、ただ女性ということで残していたとなる

2019年03月18日

認知症は歯が原因でなる? (私の母は60代で総入れ歯になっても95歳まで認知症にならなかった)


認知症は歯が原因でなる?

(私の母は60代で総入れ歯になっても95歳まで認知症にならなかった)

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週刊新潮3月21日号

認知症に関する知見は信用できるのか?専門家でも信用できるのか?
ここでは入れ歯になって認知症になったというが
私の母親は60代総入れ歯になっていた
でも96歳くらいまで認知症になっていない
だから本当に歯が認知症になる原因なのか?
これも実際は実証されていないのである
それは例外だともなるが本当にそうなのか?
つまり認知症の原因がわからないからそうなっているのだ
いろいろなことを言う人が専門家でも多いとなる

例えば趣味も何もない人は頭の働きが悪くなって認知症になるとかもそうである
私の母親は趣味もなにもない、花を庭に植えると無駄だとか一切趣味もなにもない
ただ一生働きづめであり95歳くらいまで台所で仕事していたのである
その趣味もない人がなぜ認知症にならなかったのか?
それは台所で仕事を持ち役割があったということは影響している
そこで家の中で役割があったからである

一方もう一人は姉はひどい認知症になった、役所を退職して以降何もしない
台所仕事もしない、趣味をしたとしてもそれは何の才能もなくただ集まりに参加していたというだけである、もともとそういう方面の才能はなかった
看護婦だから別な方の仕事に向いていたけどそれもしなかった
そして結果的にひどい認知症になった

なぜ認知症になる人とならない人がいるのか?
ただもう90歳以上になると半分は認知症になる
だからこれは脳の老化と関係していることは確かである
95歳以上になると90パーセントはなると思うからだ

ただ認知症と歯の関係となるとそれが認知症の原因だだとはならない
確かに母は生真面目であり食べるのも良くかんでゆっくり食べていた
でも60代で総入れ歯だったのである
だからここで書いている記事には合わないのである
それで認知症に関しては専門家でもまだ解き明かされていないからいろいろなことを言う人がいる、でもそれをすべて鵜呑みにはできないのである
つまり認知症の原因は未だにわからないからそうなっているのだ

おそらくこうした記事をのせると歯医者に行く人が増える
それで歯医者がもうからかなのかともかんぐる
そうでないにしろ何か専門家の言うことを信じやすいからである
でも認知症に関しては原因がわからないのだから信じられないとなるのだ
それだけむずかしい病気だということである
だからまるで確信したように実証されたように言うのは問題である
それは認知症に関してはまだまだみんな仮説なのである
それで勝手にいろいろ言われてもそれを信じることはできない
もし妙薬が発見されたら誰でも信じるがそれができないのだから勝手にいろいろなことを言うと混乱するだけだとなるからだ

タグ:認知症と歯

2019年02月18日

高齢化社会の商売は芥川龍之介の羅生門の世界 (老人が食い物にされまたそれに罪悪感を感じない―変わらない人間のエゴ)


高齢化社会の商売は芥川龍之介の羅生門の世界

(老人が食い物にされまたそれに罪悪感を感じない―変わらない人間のエゴ)

芥川龍之介(羅生門)

何か最近会った人は遺品整理会社の人が福島市から来たり近くでも家事手伝いとか老人の話し相手とかの家政婦斡旋の仕事をはじめた若い人がいる
銀行では金をもっている老人に必ず手数料でももうける投資信託を売りつける
もともと介護でも老人が増えてそのサービスが増えていた
地方ではそういう仕事が増えていた、若い人がそういう所で職を見つけていた
第一私の駅前が葬儀屋になっていることでもわかる
そこはもともと農協のスーパーだったことがある、それが葬儀屋になった
そさは死ぬ人が増えてゆくから商売になるからである

それが芥川龍之介の羅生門ににていると思った
羅生門には次々に死体が運ばれる、火葬にもされない、死体が捨てられる場所になっていた、そこで死人から髪の毛をぬいている老婆がいた
それで鬘を作るためだった、それを見ていた通りがかりの人がそれを見て嫌悪した
その老婆の言い訳はこの死人たちはあくどいことをしていた人たちだからかまわないと言ってしていた
そしたら通りがかりの人にその老婆の着ているものをはがされて裸にされた
こういう人間の醜い姿を芋粥とか蜘蛛の糸とかで小説にした
それを今になりなるほどと理解した

その描写はまさに現代の高齢化社会を表現していたのである
次々に死体が運ばれるという時まさに団塊の世代がそうなってゆく
それは自分でもそうである、そこで老人向きの商売が増えるのである
つまり人間の醜さは死体からも金目になるものでも役にたつものでもはぎとるのである
そういう輩が普通であり人間は生きている時からそうなのである

自治体が運営する火葬場からでる仏さんの残骨灰を、廃棄物業者の間で奪い合いになっています。この灰のなかには、人骨などと同時に金、銀、プラチナなどの貴金属も交じっているからです。

少し前まで、これらよごれビジネスは、金にはなるけれど多くが手を出さない嫌われるビジネスでした。それが、今では脚光を浴びるビジネスへと姿を変えています。

大きな目でみますと、現在のわが国は過去にため込んだ資金や資産などを、掘り返すビジネスが脚光を浴びています。想像している以上に、この国のパイは小さくなっている気がします。


このようにまさに羅生門と同じなのである、ナチスでもガス室で殺された人たちから死体から金歯をとったということがあるから世界でも共通している
人間の欲は世界共通なのである、宗教が違っても同じである
キリスト教徒がみんな聖人でもなんでもない、欲深い人たちだからカトリックでは免罪符などを売りつけたのもそのためである
つまり死者でも金儲けになる、それは一見供養しているようでも仏教でも日本では戒名商売とかある、それは免罪符ともにているのである
そんなことで何か成仏するわけでもないからだ

そもそも人間はどう人間を見ているのか?
人間にとって他者は何なのか?
他者は金でしかないのである、またその人をどうみているかというとただその人はどうでもいい、その人のもっている金と財産だけを見ているのである
その価値はわかるがその人が芸術家だとしてもそれを理解しないものには絵でも何の価値もないからである、その人の持っている価値が万人にわかるのは金であり財産である
家とか土地でも目をつけている、そういう自分もそうだから羅生門の老婆と同じなのである 

老婆に髪の毛をぬかれた人たちもあくどい人たちでありそうされたもかまわないとかなるその老婆もまたそういっていたが身ぐるみはがれて裸にされた
「蜘蛛の糸」でも人を蹴落としてでも自分だけは助かろうと地獄から這い上がろうとしていた、つまり人間とはそういう醜いものだということを描写した作品なのである
それはシューペンハウエルの人間の醜さを哲学的に解説した生きんとする意志と認識する幸福を説いたのと同じである
人間の欲、エゴはこのように隠されているかそれを生々しく赤裸々にするときこうなる
現実そういう私も世界を経験した 

金にむらがるだけであり自分自身が介護と病気で苦しんでいても関係ないのである
それは相手もまた金に追い詰められているから余計にそうなったのである
人間は人間の真実を見るべきである
それは自らも欲があり他者とは金と財産とからしか見ていないのだ
それがまず地獄を作りだすのである
人間はハエエナともにている、死体に群がるのである、金と財産に群がるのである
その醜さを嫌というほど今になって体験したのである
それでこの小説を理解したのである
この世はまさにこうした人間の欲の醜さが現れた地獄なのである
国と国の争いでも美名があるにしてもやはり利益が関係している
食うか食われるかとなる弱肉強食の世界での闘争だったともなる

人間は仮面をかぶっている動物と変わりないのである、それも善人のように見させるから偽善になるから悪質なのである、一皮むけば欲は共通にあり否定できない
そこに地獄が生まれるのである、だから死人から金目のものもをはぐということは戦国時代でも行われていた
死人などはどうでもいい、金目のもの残された髪の毛であれ金歯とかダイヤモンドとか金目のものにこそ価値があるということを如実に表現したのである
それは今の現実社会と同じであり人間の様相は時代が変わっても変わらないのである
こんなに科学が技術が発達した社会でも変わらないのである
そもそも高齢化社会で老人は早く死ねと毎日のように若い人が叫んでいる
老人の金は欲しいが財産は欲しいが早く死んでくれということである
それはあまりにも多すぎるからそうなるのである

そして人間のはかない欲を描写したのが「芋粥」である、食い意地というのもなくならない、それもなにか母がある仙台の有名な最中を食べてみたいといったときそうだった
そういう欲は誰にでもある、それも何かはかないものとして小説にしたのである
人間の欲というのはそれだけ別に古代からでも変わらないのである
そこでこの社会でもこれだけ科学技術社会になっても変わらない
その科学技術を利用して欲を満たそうとすることに変わったともなる

人間の欲とエゴは人間である限り消えないからである
この欲とエゴが消滅したとき天国が来るともなる、現実にはそうはならないのである
だから人間社会はイデオロギーがなんであれ変わることはない
資本主義だろうが社会主義だろうが変わらないことを証明された
ただ自らの欲を達成することになり極一部の人がその富を独占するのはそのためである
もし人間にそんなに欲がないなら分けているはずだからである
そして若い人たちを見ていると同じことの繰り返しをしている
同じような犯罪を犯している、ただ手口が変わったとかにすぎない
やはり欲があるからそういう問題が同じように起きているのである


結局芥川龍之介が何か人間のこうした欲とエゴに絶望して自殺したのかとなる
このことを私も身をもって経験した、こんなに人間は醜いものなのか?
ただ人間は実は他者は死体であり何も見えない、見えているのはその人が身につけている金目のものでありそれ以外ないのである
それは普通のことである、自分だって他者は何だろうとというときそういう眼で見る
つまり人間とは動物と変わりないのである
ただ動物の欲は単純だけど腹が満たされればいいのだが人間の欲は複雑だからこのように赤裸々に見えないだけなのである
善人のようにすら見えるからである、でも善人も一皮むけば同じ欲の塊りであるという話なのである

そもそも老人は見栄えも良くないから愛しずらい、なんでこいつ生きているんだという嫌悪感を普通にもつ、小説では具体的に死体だから悪臭を放っているからそっとするものとなるが老人だってもう死にかけると死体のようにすら見えるからもしれないからだ
親なら別だがとても他人である老人を愛すことはむずかしいと思う
ただ介護する人でも金をもらえるから仕方なくしているというのが多いだろう
それを批判はできない、それはみんな同じだからである
ただ人間はみんなこうして醜いものだということを知れば体験すればこの世は地獄に生きているということもわかる、だからこの世にいたくない去ること死ぬことがかえっていいことにもなるのである 

この世の地獄にしがみついていること自体異常だともなってしまうからである
ただこの世には地獄があってもやはり天国を連想されるものがある
それは自然の美とかでありそれは天国をイメージさせるものであり救いなのである
ただ人間はその美の世界に住むのにふさわしくないとなるのである
たからこそこの世の欲は滅びるというとき世界は神によって滅ぼされるというとき欲が滅ぼされるのである、人間の欲は限りないからである
それを露骨にしたのが中国の歴史でもあった、それはあまりにも凄まじいものとしてあった、ただ世界共通として人間のは変わりないから同じことを繰り返しているのである

ただこうした商売は別に需要があるから成り立つのでありそれがこうした小説の世界のことではない、人間一般の醜さを表現したものである
だからここは誤解しないようにしてもらいたい、それはそれなりの仕事であり需要があるからである
でもなんか灰になったあとから金目の金属類を取り出すというとき気持ち悪いとはなるかもしれない
そこに死者の霊がついていたりする、何か人が身に着けていたものとか人が住んでいた家には人の霊がまたついているとかなる
だから何か気持ち悪くならないのかともなる、でせそれよりも利益が優先するということなのであるそれが人間社会なのである

2019年02月09日

精神的に体でも障害者と化す老人 (一人暮らしになって起きた悲惨な実例)


精神的に体でも障害者と化す老人

(一人暮らしになって起きた悲惨な実例)

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週刊現代2月16日号

Cさんの代わりに買い物したり、ディサ―ビスに向かう際に手助けしてくれるなど何かと身の回りを世話してくれていた知人に、お金を持ち逃げされた
Cさんはその人を信頼して、部屋の鍵を渡していたほどだったのですが全部で3000万円ほど金を盗まれてしまったのです
その結果体調を崩し入院した
(長寿大国日本と下流老人ー森太)

●精神の知的弱者化(認知症などの増加)

●体力の弱体化病気化

●絆が壊れる弱体化(一人暮らしの増加)

このように老人は弱体化する原因がある、これに金のあるなしでも弱体化する
何かしら夫婦でもどちらかが死んだりすると途端に弱者化して支えるものがなくなり弱体化する
弱体化すると非情な競争社会の中で援助がなくなる、かえってその弱者化したことにつけこまれる
そういう経験を自分がしてきた、ただそうしてつけこんできた相手もまた借金とか金のないことで追い詰められていた弱者化した人たちだったのである
そこで弱者同士のぎりぎりのせめぎ合いとなる
でも病気になったりしたらもう弱者は言いなりになってしまうしどうにもならない
だから3000万も盗まれたがその犯人もわからなくなる

なんらか寄ってくる人も困窮しているからそうなる
金に余裕がないからそうなる、そして金に余裕がある人は寄ってこないしヘルパーとか介護とか嫌な仕事はしないのである
金持ちの人がそんな仕事をしない、何か金に追い詰められて困っている人が嫌な仕事でもするのである
だから家に入ってくる人は危険になる
この人は妻が死んで家族の絆が失われて一人暮らしになってどん底に落ちたのである
夫婦でもどちらかが死ぬと介護になったり追い詰められるのである

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週刊現代2月16日号

こんなこともあったのか、ヤクルトを配達する人は定期的に来るから頼んだとなる
老人で70くらいで目が悪くなる人が多い、その人は80歳で白内障の手術を受けた
今も仙台に通ってもう片目を手術する、仙台にはいい医者がいるからだ
糖尿病の食事療法をしているので手術も危険なので仙台の医者に通っている
もう一人の女性も目が悪く視力が衰えて細かい字が見えない老眼なのである
そんな人が来ても実際は役にたたない、仕事にならないのだ
助けにもならない、こっちが助けているだけなのである
他にも緑内障の女性も知っている、何かしら60以降は病気になる人が多いのである

そして一人暮らしにてる人も多い
その一人暮らしが危険なのである、一人暮らしになると頼る人がいない
そこで非情化した社会ではそういう弱者は餌食になりやすいのである
動物でも弱ったものが襲われ食べられるのとにている
つまり弱者化すると襲い安いからである
それは人間ても同じなのである

老人になって目が見えなくなるのと元から目が見えない人には相当差がある
老人になって目が見えなくなるとそういう暮らしをしていないからもう一人でも生活はできない状態だがその人は3年も一人で生活していたのである
それは相当に過酷だったとなる

一人暮らしは金があっても一旦こうして病気になったりすると弱者化して非情化社会の餌食になりやすい、それは自分もそうだったからそのことを延々と書いてきた
一切同情はない、ただ金が欲しいというだけである
それはもう現代社会は相手を金にしか見えなくなっている
そして貧困化しているから金だけを目当てに近づいてくるだけになる
そこで弱者は食い物にされるのである

これから一人暮らしの人は増えてくる、夫婦であっても一方が病気になると介護になったりすると弱者化する、そしてどちらかが死ぬと一人暮らしになりこういう危険な状態になる
そういう人は別に子供がいても頼れないとかも増えている、子供自体が生活が楽でないからそうなる
だから高齢化社会とはとても今やぎりぎり生活している人も多い、下流老人が本当に多い第一4,5万くらいしか年金をもらえない人も結構いるからだ
それでぎりぎりになっているのだ

この高齢化は日本だけの問題ではない、中国が一番深刻化してくる、数が多いし日本のような福祉もないのに急激に膨大な数が高齢化してゆく
現実に老人の自殺が増えている、儒教の国でも子供は親を敬わないとか大家族制がなくなりめんどうみれないとなっている、これは世界で共通した問題なのである
長寿でもこうして何かのきっかけで長生きが地獄と化してゆく
それは自分が体験したことであり恐怖だとなる、特に一人暮らしで身寄りがないとかなると夫婦でも一方が死んだりするとこのように悲惨な状態になる
ただどうしても老人は病気になりやすいからそうなる確率が高くなるのだ

そして知的な面でも認知症になると銀行から金が下せないとか全くの知的障害者になり悲惨なことになる、その時いくら金あってもその金を狙われるだけでありどうにもならなくなる
その時も同情は他人はしないのである
そして認知症にならなくても何か時代についていけなくなる、知的にもいろいろ書類でも銀行のことでもわかりにくくなるのだ
投資信託などすすめられたばあちゃんが一千万損しても銀行員を信じていたように古い時代の固定観念があり支配されて時代についていけなくなる

それは自分でもそうして失敗した、地銀は昔のように信頼できるものだと思っていたからである、そういうものでも常に変わっているからついていけなくなるのだ
ただ知的な面ではこれまで学んだものが実ることはある
それはその特定の分野のことでありあらゆる分野に通じることはできない
だから銀行で投資信託などすすめられただまされやすいのである
毎月分配型は利子が毎月入るのかと錯覚していたからである
それは元金から引かれていたのである

いづれにしろ高齢化社会の問題はますます70以上とかでも増えるし75歳以上になるとまた病気になりやすい、そこで団塊の世代の数が多いから負担しきれなくなることが予想されている
なぜ78歳の人が介護状態になり青森に送られたのか?
施設があっても働く人がいないのである、青森だと仕事もないから引き受けたとなる
東京でも高齢化した団地とか問題になる、一番東京が人手不足とかになり数が多いから問題になる、悲惨な老人がこれから続出することは間違いない

だから長寿社会の暗黒面も大きいから地獄の高齢化社会に突入する恐怖になる
さらにその下の世代は年金がもらえないとか過酷になることが予想されている
何かそれに備えるにしても備えようがないのである
あらゆるものが満たされる人などいないからである、金があっても助ける家族がないとか人の絆がないとかまた金がないということでも苦しむ人が多いからである
何かで人間はたりないものがあり弱者化するのだが老人は余計にそうなりやすいのである



2019年01月28日

高齢化社会の仕事(南相馬市に家政婦紹介所開設) (家政婦を雇うのは一番むずかしい)


高齢化社会の仕事(南相馬市に火星紹介所開設)

(家政婦を雇うのは一番むずかしい)

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広告にでていたがこのクリ―ムスタッフとはなになのか?
仕事の内容は家政婦の仕事である、ただ定期的に頼むのではなく家の中の仕事を請け負う仕事である、ここに話し相手ともあるらか老人の一人暮らしア相手ともなる
対象はやはり家事などに困っている一人暮らしの老人であり
それを家政婦として常時雇うのではなく安い値段で請け負うとなる
まず家政婦を雇うとなると今では社長級とか特別な人しか雇えない
戦前の女中を雇うような訳にはいかない、時代がまるで違っているからだ
その時は中流家庭でも家事のために二人も女中を雇っていたのである
電化されていないからそれだけの人手が必要だったのである

とにかくこういう時代は女中でも雇うことが容易になる、そういう社会でありそこで働くことが普通だからである、するとそういう社会では女中でも信用して雇うことができるのである
ただ女中とか召使とかは何かそういう貴族社会のようであれば雇いやすい
江戸時代なら侍ならそうしやすい、それはそういう社会であり別に侍ならそういう人を雇うことが普通であり雇われる人も別に差別されたとか何か不満も言わないからである
そこで雇う者と雇われる者のモラルがあるから問題が起きないのである
ヨ−ロッパの貴族階級でも問題があるにしろそういう社会であり伝統があり慣習がありそれに従うのである
だからチップ制度はそうした階級社会があり貴族がいて成り立った風習なのである
日本がではそういう社会ではないからチップの制度はないのである

いづれにしろ家政婦とかの問題は家の中に入ってくる家の中がわかってしまうから一番危険なのである
信用が一番大事なのである、気軽に頼めるものでもないのである
だからヨ−ロッパではどうして信用したとなるかというとその人が働く前の家でどうだったか調べる、履歴を調べるともなる
そこで信用して雇うとなる、それは簡単に雇えるものではないのである
だかさ家に入れる人は一番危険であり信用が問題になる
自分自身はそういう経験がないから失敗した、盗難問題は常にどこでも起きているからだ
要するに家政婦など雇うには雇う側でも相当な経験が必要となる、だから代々金持ちの人は雇いやすい、そういう家であり雇う側も知っているからである
経験しているからである、でも今はそういう社会ではない、だから家に入れる人は危険になる
そしてそういう社会ではない伝統もないとなると使用人に使われるともなる
現実に自分がそうだった、その人とは相性がいいにしても話し相手にはいいとしても
決まった金以上を要求されるし様々なことで相談にのり金銭面から何から福祉係のようになってしまった、その人は福島市とか仙台市とか裁判所に行ったり後は腰が悪いとか病院通いなのでありとても家政婦の仕事するできない、簡単なこともできないのである
だから自分は使用人に使われているともなる
それでこのチラシを見て頼めば料理もしてくれるのかと関心をもったのである

とにかく高齢者向きの仕事は増えてくる、特に一人暮らしも増えてくるからその方面での仕事も増えてくる
「遺品整理士」なども一人暮らしの老人向きの仕事なのである
それだけ需要があれど供給するものもでてくるとなる

そして三春であった事件だがこれも高齢化と関係している
その詳しい内容はわからない、でも3万ばかり欲しいのに強盗に入ったのは尋常ではない強盗に入った人も追い詰められていたのである
その家は裕福な家にみえないからである
その犯人も61才であり同じ三春に住む人だった
だから今や近隣でも同じ町に住んでも危険な時代になっている
なぜなら60以上で65歳以上で年金をもともにもらっている人は少ないからだ
国民年金で4万とか5万とかしかもらえない人もいるのである
国民年金では生活できないのである

そして生活保護になるにしても簡単にもらえない、ただ医療費が無料にされたりしいるが南相馬市ではあとはもらえないとかなっている人を知っている
そしたらその人はどうして生活するのか?その人も追い詰められているから犯罪予備軍だとなる
実際に全国的に本当に老人で金があるのは一割くらいでありあとぎりぎりなのが20パーセントから30パーセントくらいいるかもしれない、そういう人は追い詰められているのである、だからこんな犯罪が起きてくるのはそうした背景があるからだと思った
3万ばかりで強盗に入るとなると相当に追い詰められているからである

これから老人の犯罪が増える、追い詰められている人が増えているからだ
そういう人はなりふりかまわない、わずかの金でも強盗でも殺人までするようになる
それは追い詰められているからである
みんな追い詰められると会社でも今や銀行でもそうなっている
投資信託とかうりつけて手数料でかせぐ、銀行も追い詰められるようになったからきれいごとを言っていられくなくなったからである
だからこれからの社会は危険度が高くなる、信用もできない社会になっている
格差社会になると影響を受けるのは貧乏な人だけではない、金持ちでもまたそんなに金持ちでない小金持ちでもその下が増えてくると襲われるのである
そういう危険な時代になっている
それも同じ村とか町の人なら安心だというが今はそうういことはない
金だけが唯一頼りになる世界では近隣でもそうであり追い詰められ人が近くにいれば襲われるのである、そういう経験を自分はしてきたからである

とにかく高齢化社会は高齢者特有の問題が起きるしそれに見合ったもの、需要があれば供給もありそういう仕事も増えてくる
でもここのクリームスタッフの対応は若い人であり何もわからない感じである
仕事をはじめたばかりで経験もないのだろう
こういう仕事は人の管理が一番むずかしいのかもしれない
そもそもそうしてその会社でもどういう動機でしているのか?
ただ金のためにしているのか?結局はそうなるけど何か仕事はそれだけではできない
この人は困っているから助けることが使命だとかはならない
まず金をもらうことが動機であり後はないだろう、でも福祉的な仕事になると何かそうした営利目的だけでも合わないのである
ただ今の世の中がすべて金出動くという時、こういう仕事でも金になるとなれば生まれるそれが悪いことではない、困っている人が自分だけでなく一人暮らしが増えるからであるそして気軽に近隣でも助けたりしないし無関心社会だからである
そういう中で一人暮らしの人は孤立しやすいとなるからだ
それはいくら金をもっていても一人暮らししてみると弱者だと思った
親身になって支えるものがない、ただ金だけを要求されることになるからだ



2019年01月26日

味覚は人間の防衛本能 (老人でも食物の味をかみしめて食べるようになった)


味覚は人間の防衛本能

(老人でも食物の味をかみしめて食べるようになった)



若い時は腹減れば腹を満たせばいいという感じだった、私の場合は食とか料理にこだわったことがない、旅行で料理が楽しみにはならない
旅行だと旅行したいというだけであり食べることではなかった
外国でもだからまともなものも食べていない、ただ外国に来て行けて良かったなとしかない、でも実際はその土地の食を味わうことも旅である
今になるとそう思う、ただそうなると金がかかりすぎるからできなかったのである

食べたいものを食べる、うまいと思うものを食べる

おいしいというものが安全でありおいしいというものが体にいい

味覚を感じやすくするには食事するにも静かな環境とかが必要

これが武田邦彦氏の推奨することである

味覚とは人間に備わった防衛本能だとしている、それもそうかもしれない、現代は調味料とか過剰に使っているし本来の食物の味が失われている
まず動物は人間のように加工したものより生のものを好むのはそこに本来の味があり栄養があるからだとなる
現代文明の逆説として老子の無味を味わうというときもそうである
水こそが一番人間にとっていいものだということである
それはジュース類の多さをみればわかる、あれにはほとんど自然の栄養物は入っていないだから運動した後ジュース類を飲むと疲れるというのはそのためである
糖分をとりすぎると砂糖などをとりすぎると疲れるのである
現代人に糖尿病が多いのは栄養をとりすぎるからである
動物はいつも空腹状態にあるというときそれが自然の状態だとなるからだ

そうはいっても人間はそもそも味覚でもそれがおいしいというとき快感を覚えるからである、そして意外なのは老人になっても快感、快楽を追求することは変わりない
性で食でも同じなのである、老人になると異常性欲者にもなる
淡泊になるということはないのである、だから私もなぜ食にこだわるようになったのか?食物の味をかみしめるようにして味わっているのか?
それは意外と老人になるとき逆になんでもデーブなものを追求する
それは食事にも現れる、知識でもそうだがデーブなものを求める
でも自分自身は料理はほとんどしない買ったものでまにあわせている
それはそんなに色椅子なことに時間をさけないからである

そして食事する時食事に集中することが必要だというのもそうかもしれない
がやがや騒いで食べるのがいいように思うしレストランではみんなそうしているしそうした方か楽しいとかうまいとかなる
一人で食べていると孤食になり食事もまづくなるとかいう
でもそうでもない、一人で誰もいないところでしんみりとして食べていると食物の味を深く味わうということがあるなと一人暮らしになって気付いた

だいたい日本人は忙しい早食いである、じっくり食物の味を味わないで食べる
ヨ−ロッパなどではレストランとなると特別の場所であり正装しないと入れない
そこは静かな場所なのである、がやがや日本のように騒々しくないのである
でも自分の場合はそういうレストランに一度も入ったことがない、そういう身分でもなかった
でもヨ−ロッパでは街でも静けさを大事にしているからレストランでもそうなる
そこにはやはり日本にはない貴族の文化が伝統が活きていてそうなっているのかとなる

老人に対する誤解は何かなんでも淡泊になると言うがそうでもない
確かにあまり油ぎったもの厚い肉などを食べたくないことはあるかもしれない
でも何でも淡泊になるわけではない、だからなぜ自分自身が今になって味にこだわるようになったのか?
それは食事でもそうだが何でも芸術でもじっくり味わいたいということになるからだ
デーブなものを求めるのである、ただそれは別に贅沢とするということではない
普通の食事でも何か味わいかみしめて食べるというふうになった
それは老人になるとおそらく何でも生きることが残り少ないということが影響している
遂に食べることもこれで終わりかとか病気になり最後に好物のものを食べて死にたいとか言って本当にそうして死んだ人もいるからだ
そういう心境は若い時にはない、結局老人の心境は老人になってみないとわからないのである


2019年01月13日

怠(なま)け者が認知症になりやすい (頭を体も働かせないと危険)


怠(なま)け者が認知症になりやすい

(頭を体も働かせないと危険)

なぜ認知症になるのか?この原因はなんでもそうだが一つではない、だからこれが原因だというのは言えない、犯罪でもなんでもその原因となるのは一つではないからだ
私の家族が認知症になった一つの大きな原因が怠け者になっていたことである
人間はそもそも本来怠けやすいのである、そういう習性がある
だから人間は怠ける環境にあると自ずと怠けるのである
それで怠けられない環境にある、強いられる環境にあることも大事になる
人間は怠けるし楽をしたいとか快楽を求めるということがあり決して自ら苦しむようなことはしたくないのである

過去に人が苦しんだのは自らそうしたのではなくそう強いられていたのである
貧乏な時代だったら嫌でも働かざるをえない
ニートのような人はまず団塊の世代ではほとんどいなかった
みんながむしゃらに働いていたのである
そういう中で働かない人は本当にまれだったのである
今はなぜ普通にニートがいるのか、それはそういう環境にあるから働くなくてもいいからそうなっているのである

ただここに危険があった、私の家族の一人公務員で働いていたが55歳くらいで早期退職した、その後何も仕事はしていない、家事も何にもしない、趣味はしていたがそれも別に才能がないからその趣味を究めるものでもなかった
それでふりかえるとその後30年くらい仕事もしない、家で何もしない、だらだらと過ごしていたのである、そこには緊張感もない、張りもない生活だったのである
ただそれを自分は気づいていなかった、認知症になってから気づいたのである

そしてわかったことは家事を自分でしてみてこれは結構大変だなと実感した
まず掃除というのは本当は毎日しなければならない、それができないから自分の家は汚れている、散らかっている、こまめにしていないとだめなのである
それから片付けるものが常にある、特に手間がかかるのが料理なのである
だから自分自身は料理は買ったものでまにあわせている
ところがその買う種類が多いので買うことが一仕事になる
何を買うかが問題になるのだ、それで時間がかかる
また何を買うべきかわからないのである

そして一番の問題は料理なのである、料理は本当に手間がかかる、そろえるものが多すぎるのである、それで冷蔵庫の中に種類が多いからいつも何が入っているからわからなくなる、なぜならいつも見てチェックしていないからである
他にやることがありプログを書いたりインタ−ネットを見たり本を読んだりしているからそんなに頭が回らなくなっているのだ
だから料理とか家事は一仕事だと思った
そして一番料理は頭を働かすから料理をしていることは頭を働かすことなのである

それで一人は店を70頃までかしていたしずっと90過ぎても料理して家事をしていた
趣味はなにもないが庭に花を植えるのも無駄だとしてそうして働くことしかなかった
大正生まれだった、でもそうして家事を90過ぎてまでしていたことが良かったのかと思う、最後に95過ぎて介護状態になって認知症になっていた
もう90過ぎる半分は認知症になるのであるからやむをえないとなる
だから姑が嫁におばあさんはなにもしなくていいですよ、テレビでも見ていてくださいと役割がなくなると呆け安くなるのである

人間は何か強いられないと仕事はしない、怠け者になりやすい、だから強いられるということも大事なのである
朝起きるにしても強いられなければ朝早くは起きないからだ
規則的生活も強いられないとできないからだ
勉強でも自主的にするものだかある程度強いられないとしないのである

何か自分は介護から今でも一人になってから常に追われている、家事することがなにかかにかあるのだ、その合間にプログを書いているから追われるのである
つまり自分は家事をしないでいられない、強いられているからしているのである
誰もしてくれる人がいないからである、今までは全部料理でもなんでもしてもらっていたのである、そこて自分は怠けものになっていたことは確かである
人間は環境によって作られるのである、時代時代で環境が違うから人間もその時代で環境で作られるのである

認知症にならないためにはどうしたらいいのか?
その一つは心身ともにWORKさせることである、働かせる、機能させることである
そこで危険なのが役割がなくなることなのである
会社を退職すると役割がなくなる、かといって家事が妻がしていたりすると何もすることがなくなる、これが危険なのである
料理はいろいろ頭を使うのである、でも夫は何もしないと危険になる
つまり人間は役割がなくなると心身ともにworkしなくなるのである
それで頭を使わないからだんだん機能が低下してくるのである
それが認知症につながってゆくことがある、それがすべてではないにしろそうなりやすいそうでなくても老化してゆくのだから認知症になりやすいのである

いづれにしろ認知症の予防ができるかぎり心身ともに働かすことである
男性と女性はまた違っているが男性の場合会社を退職すると役割がなくなるから危険なのである
女性でも障害児をかかえてそのことが心配で世話を焼いて心身を働かせていたら人は認知症にならないとか言う人もいたのも逆説である
何か自分自身の家族でもそうだった、あんなに一方は働いているのに一方ただ食事を出されているのを待っているだけだったのである
だから奇妙なのは主人がいて召使いるとき何でも召使がしていたらその主人呆ける認知症になるともなる、それも逆説である
つくづく人間は何が幸せかわからないのである
実際に経験しているだろう、不幸が幸福の原因になっていたり幸福が不幸の原因になったりしているからである

いづれにしろあまりにも怠ける状態にあることは危険になる

シーシュポスは神々を二度までも欺いた罰を受けることになった。彼はタルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられた(この岩はゼウスが姿を変えたときのものと同じ大きさといわれる)。シーシュポスがあと少しで山頂に届くというところまで岩を押し上げると、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまい、この苦行が永遠に繰り返される

怠け者の罰はこうなる、有益なことをしないから延々と無益なことを強いられるともなる
ただ人間は何もしなくても何かしても必ずカルマを積んでいる、楽をした人も金を持ちすぎた人も有効に使わない人は罰をカルマをもち何かそれが後で苦しみとなって現れるのである、要するに人間ち起きることは何かしら因果応報だともなるのだ

2018年12月04日

年寄りの冷や水 (人間はこれまでやってきたことを老人になってもやめられない)


年寄りの冷や水      

(人間はこれまでやってきたことを老人になってもやめられない)

週刊誌ではしょっちゅう死ぬまでセックスとか一面で出している
週刊誌とかテレビは老人向きの番組作りにある
老人が多く老人が読み見るからである
老人社会になっているからである

人間は老人になろうがつくづく今までしてきたことをやめられないのである
死ぬまでセックスとかもそうである
なぜそうなるのか?快楽が忘れられないのである
これも中毒のようなものである

死ぬまで登山とか死ぬまでバイクとか死ぬまで車とか死ぬまで自転車とか死ぬまで・・・・・とかなる
死ぬまで酒飲んで早死にした評論家もいる、これもやめられないのである
自分もそうだった、自転車に乗ってきたからやめられない
電動のロードバイクは合っていなかった、軽くていいのだがふらついて危険だった
だから今度は最新式のE=BIKEが欲しいとなる
それは今までより馬力があり技術進歩がある
やはりロードは危険だかこれなら安定して安全だとなるからだ
私はあまり悪路を走ることはないが歩道を走るので安定性があるのがいいとなる

年寄りの冷や水という言葉の意味は何なのか?
それは今までしていたことをやめられないということで無理をする
今までバイクに乗っていたから74歳でもバイクで飛ばしていた人がいた
登山でも70歳でしていた人が普通にいる
それで遭難したとかある、それから車でやめられない、それで事故を起こしたとか免許を返納して失敗したと80歳の人が言うのもわかる
そして何か今までしていことができると思うのである、だからそれが年寄りの冷や水になる

人間は年をとろうが今までしたことがやめられない、酒が好きな人もやめられない
そういう快感が頭にインプットされているからやめられないのである
麻薬と同じである、人間の業(カルマ)は死なない限り消えることがないのである

結局自分の場合は

死ぬまで自転車だ!

これもどうにもならないのだ、40万近くても欲しいとなる
悪路を行かないにしろこれなら乗ってみたいとかなる
ただ乗ってみてロードのように失敗するかもしれない
でも乗ってみたいとなる

やはり技術革新したものはイノベーションしたものは売れる、老人でも買う
もともとe-bikeは老人が体力がないので作られたのだから合っているのである
70代でもまだ元気な人がいる時代である
だからこういうものでも老人が買うかもしれない、金のことがあるけどどうしても快感を味わいたいとなる
そしてどうせ死も近いんだからやりたいことをやって死んだ方が得だという考えになるのだ、この年になると毎日いつ死ぬのかとなる、現実に死んでいる人も多いからだ

死ぬ前に何をすべきなのか?

それが老人にとっては切迫したものとなる
何か常に死を意識するのである、金があってもそれを使わないで残しても損だとなる
無駄には消費しないにしても何かやりたいことしないで金を使わないのは馬鹿らしいともなるのである

ただ正直老人は動的なものより静的な志向にはなる、私はもともと性質は静的なのでじっとしていることが性にあっている
それで何か深い詩が作れるようなったとも自分ながら感じる
こういうことはほとんど金はかからない、田舎で冬ごもりで風の音とかじっとしている聞いているのがいいのである、そこで沈黙するとき自分は充実感を感じるのである

2018年11月23日

死者はどこにいるのか? (母は厨に立ち続けていたー詩)


死者はどこにいるのか?

(母は厨に立ち続けていたー詩)

母は厨にいつも立っていた
60年の歳月がそこにあった
目立たずそこにあり料理を出してくれた
母は細身であり霜焼けに苦しんで
台所仕事をしていた
その時温水器がなかったからだ
私はただその時当たり前のことして
母に感謝もしなかった
その労もいとわなかった
母は家で酷使された
私はずっと楽をしてきた
母はこの家で耐えていた
悲しみ涙も流した
そうして母は百歳で死んだ
母はどこにいるのか?
母はなお厨にいる
もの言わず影のように
厨に依然としている
そうして今も家を支えている
他人は私のために何もしてくれない
要求するのは金だけである
何の関心もない
そして私は厨に一人立って食事の用意をする
そのことにより母がここに立っていた
その苦労を知りその意味と価値を知る
外には北風がうなりはじめた
寒い季節がやってくる
人は死してその意味を知る
その存在価値を知る
死してその存在価値が現れる        
そのように無視され目立たぬものが
大きな価値を帯びて現れる
不壊なるもののごとく現れる
死者はなお生きてこの世にある者を支える

死者はどこにいるのか?それも謎である、墓にはいない、死者はどこにいるかとなるとやはりその人が長くいた働いた場所だろう
なぜならそこに60年もいたとしら長いからである
私の場合は結婚していないから何か親を思うようになった
結婚していれば妻を亡くせばこのように思うだろう
それで悲しんでいる淋しいという人がいる

でも生きている時は母のことは意識しなかった、目立たない存在だった
性格でも内向きであり派手でないから目立たない存在だったのである
それが死んでから意識するようになったのも不思議である
それはなぜなのか?

それは介護はじめてから自分自身が厨に立つようになってからなのだ
自分自身が今度は食事を出したり自分の食事を用意しなければならない
そのことによってここに母がいて食事を60年間だしてくれたのだなと自覚したのであるだから母が死んでも母はここにいるのだなと自覚した

死者がどこにいるのか?それはその人が一番長くいたところではないか?
一番長く働いた所ではないか、なぜならとにかくそこにいた働いた時間が貴重だったとなるからである、人生の時間は限られている、いくら長生きしてもそうである
すると何に時間を費やしたかが人生になる
才能あるなしにしろ何に人生の時間を費やしたかが人生になってしまうのである  
それでぽっぽやという鉄道員、駅員が最後に死んで電車が棺となりあの世に送られる
鉄道と電車と人間が一体化していたのである
男の場合は仕事が命となるのである

母の場合はこの厨にその人生を費やしたのである
母はその時何かそれが報われないものとしてしていたかもしれない
それは女性の場合はみんな言える、家事に生きがいを見出せないとかなっている
それで戦後は外で働くことで生きがいを見出そうとするようになったのである
でもそもそも女性の生きがいとは男と違って本質的には子育てとか家を守るとか
家と切り離せずあったのである
つまり女性は家の中で存在感があり意味と価値をもつものだったのである
ただそれが女性自体でも価値がないものとしていた
では外で働いて価値あるものとなったかというとそうもならなかった

母刀自(あもとじ)も 玉にもがもや 戴きて みづらの中に 合へ巻かまくも
  〜津守宿祢小黒栖 『万葉集』 巻20-4377 防人歌

これは若い防人にしてもこれだけ体と一体化しているのが母だったのである
こういうことは父親にはない、父親はまた別な意味と価値がある

 真木柱(まけはしら)ほめて造れる殿のごと

  いませ母刀自(ははとじ)面(おめ)変りせず」

    巻20−4342 坂田部 首麻呂(おびとまろ) 駿河国防人   
 
   
真木柱というとき実は私の家では姉がいつも橲原の木材を使って建てたということを自慢していたのである、そして面変わりせずというのは死者のことにもなる
死んでも変わらず厨に母がいるとか感じる
つまり家というのは女性が主役であり女性の存在感を示す場所なのである
男性の存在感を示す場所は家ではなく外にある、仕事場にある
なにかそこを戦後はき違えたのである、女性はいくら外で働いても存在感をもちえなかった、なぜなら女性の役割は家にあったからである
だから嫁は女と家なのである

そもそも外で仕事をしてもそこをやめたとしたらそこに仕事していたということを記憶する人がいるだろうか?
別にレジで働いていても人が変わるだけでありその人がいたということで記憶している人がいるだろうか?
それはロボットのように見えるからである
だから女性で外で仕事して存在感をもつのは看護師とかはあってもまれである
ただいくばくかの賃金をもらうだけであり何かそこに存在感と意味と価値がもてないのである

とにかく人間は死んでからでないとわからないことがある
他人は全く皿洗ってもらうにもただ金ばかり要求されるだけである
金くれ金くれしかないのである、ただその女性でも息子のことは40とかすぎてもあれやこれやと気遣っているのである
だから家族と他人の相違はあまりにも大きいとなる
それは介護になりそういう非情を今でも続けて経験しているのである
他人がこれほど非情で冷酷なものか知らなかったのである
それは家族がいればそうなるのである、でも人間はそんな家族中心で他人は虫けらと同じだ、金しか関係ないとなるとそこは地獄だとも思った
家族がないものは地獄だとなる、身寄りのないものは地獄を生きることになる
それでいいのかとなるがそれが現実として経験したということである