2023年09月06日

失われたファミリー大家族 2025年:単身世帯が1996万世帯 加速する「ソロ社会」化


失われたファミリー大家族

2025年:単身世帯が1996万世帯 加速する「ソロ社会」化

非人口要因のひとつとして考えられるのは、老親とその子どもとの同居率の低下である。すでにこの傾向は進んでおり、妻と死別した80歳以上の男性とその子どもとの同居率は、1995年の67%が2015年には43%まで低下した


●ファミリーは大きな範囲の人の結合体

現代の社会状況を見ると例えばニートとかことおじとか40くらいでも働かない人が普通に居る。確かにそういう人はいた。でもごく少数でありそれは特殊な人として別に社会の話題になるということもなかった。でもその数が百万とかなればそれは特殊な人の問題として片付けられない。それはさまざまな社会問題を引き起こす。
また単身所帯が増えるというのもそうである。ただ明治以降に家族という言葉が生まれた。また家族の墓が生まれた。それは江戸時代にはなかったのである。何かこれが理解しにくいのである。

江戸時代の墓はホトケッポとか村のの人たちが一か所に葬られた。そこは村の共同墓地であり個々のの家族の墓というのはなかったのである。だから家族という言葉は明治以降生まれた言葉でありその前に家族というのはなかった。家族でも家族が無いにしろそれより大きな家族のようなものが大家族はありたとえ結婚しなくてもそういう大家族の中に所属して共に生活していたのかもしれない。一族郎党とかにもなる。
外国でもファミリートはその範囲が広いからやはり日本と同じように大きな範囲がファミリーなのである。ファミリーというとき親しいという意味があり日々生活する中で顔を合わせて生活する人たちがファミリーだったかもしれない。サクラダファミリーという時やはり教会を中心にしてファミリーが形成されだということでもある。その中心に教会があったとなる。

家族の変化で変化となるとそうした大家族よりもまた大きいファミリーというのは喪失して個々のの家族になった。だから家族の単位は狭い範囲になった。でもやはり今の核家族化したものよりは大きなものだったのである。だから農家は大家族で経営していて東京に働きに出て帰ってきてもそこに長男がいて家を継いでいるから養うということもできた。何か大家族ファミリーにはそうしてを広い範囲の人たちを糾合するものを持っていた。
核家族になると家族よりさらに狭い範囲のものとなりそれは家族としてすら維持できないものとなったのである。だから何かあると介護でも病気でも核家族だけではとても維持できなくなる。今人々が拠り所となるものを失い単身化して孤立化して孤独死に至るということが増える。

●所帯人数が少ないので介護とかで担いない

今所帯というのは構成人数が少ない。本当に一人だけの人とか夫婦とか子供がいても一緒に子供所帯と住む親は少ない。結果的に夫婦の所帯とか単身所帯が増えたのである。夫婦の所帯でも一人がどちらかが死ねば一人になってしまうのである。それよりもまた熟年離婚も増えていて一人暮らしの人は増えたのである。
その人はこの辺の原発事故とか特殊な事情で一人になってしまった。原発避難区域に住んでいて息子夫婦は仙台に住むようになったからである。そしてまた65歳なのか離婚熟年離婚して一人になってしまったのである。その事情は原発事故だけではない。そもそも熟年離婚もどこでも増えているからである。

そして一緒に墓に入りたくないという人も死後離婚も増えている。そういう社会的事情があり単身所帯が増えたのである。それは若い人でも結婚しない人が多いから単身所帯が増えたのである。ある意味でソロ社会になっているというのも分かる。ただ熟年離婚は男の方が衝撃がある。特に妻に支えられてきた人は熟年離婚すると精神的にもショックが大きい。でもそういう人も増えているのである。その人でも男性でも家族に尽くしてきたのだがいろいろな事情もあり本人の性格とか色々あって離婚になった。それで孤立化して不安定になり困っている。そういう人も増えたのである。
やはり人間は拠り所となるものは必要でありそれがないと不安定になるのである。ただ別に単身所帯でも特殊な人がいてそういう人はそういう人生を選びそれでその人生を全うしていた。それはアウトサイダーとか極めて特殊な人だったのである。現在の問題はそういう特殊な人ではなくどこにでもいる一般化した問題なのである。だから社会問題になるのである。

現代というのは村のような狭いところでより合い助け合い生活しているのではない。別に金さえあれば身近でもよりあい助け合うということをしなくてもなんでも物は買えるし何か近くの人と協力して生活するということもないのである。だから近くでも何をしている人なのかもその仕事も分からない人も結構いるのである。
それだけ人間は今互いに知り合うと言うこともないのである。だからこそ逆に家族が拠り所となる。夫婦でも拠り所となる。でもその範囲が狭いし家族といっても少人数であり夫婦だけとかになってしまうのである。そうなると何かある時支えられなくなるのである。ヨーロッパあたりでは介護とかは国ですることになる。そのために多くの税金を払っているからである。

日本にはそれがないから家族に負担がかかるがその家族が少ないから介護とかなると苦しくなる。ともかく70くらいになる職人の人でも家族に尽くしてきても単身所帯となって不安定となってしまったのである。何か息子娘もいても近くに居ないので頼りにならないと言っていた。なにか老人になると体も弱るので近くは見る人はいるといいのである。でも近くに住んでいないと隣の市まで15キロもあるから車で来るのも結構手間になる。それで病気になった人は一人で住んでいるが苦しいとな。いずれはとても一人では生活できなくなる。

いずれにしろ何か家族というのは夫婦とか子供とは別になり一人が倒れるとその負担が大きくなるし家族でも崩壊するのである。
それは介護で一人で悪戦苦闘して家族自体が崩壊したことを自分自身が経験している。そして私自身も単身所帯になったということである。でもそれは私の場合は特殊であったがほかの人は別に結婚して子供を持って仕事して家族に尽くしてきたという人が普通である。それでもやはり単身所帯化しているのである。それはその人自身にも問題があるにしてもやはり社会的な問題として現象化したのであり社会の問題なのである。
なぜならやはりファミリーというとき今の家族をイメージするがもともとはそういうものではなかった。その数でも今よりずっと多い人の集まりがファミリーだったのである。

それが喪失した時拠り所を失い不安定となり孤立化してまた孤独死が増えたのである。何か巨視的に見るとき社会自体が個々バラバラのアトム化社会だとかも言われる。それは経済が広域化グローバル化したということも関係している。金さえあれば別に物は買えるし一人でも生活できるからである。
おそらく江戸時代あたりだったらとてもその後でもファミリーに属していなければ生活できなかったろう。もうそこに縛られるにしてもやはり拠り所となる所がありそこでともに生活して仲間として死んでいったともなる。とにかく何らかの共同性があって暮らしていたなる。共同しなければ基本的に農民社会であれば生きていけなかったからである。
それでなぜ現代でカルト教団が増えたのか?それも大きな家族であるファミリーを喪失した。結果として疑似ファミリーに吸収され所属することで安定化を図る。ただそれはナチス的な組織になるから怖いものがあり危険なものなのである。

●人間社会は得るものがあれば必ず失うものがある

何か無縁化社会とか言われる時それは金だけが支えるものとなり金さえあれば別に孤立してても一応生活はできる。でも問題はなにか事故であり病気であり介護とかなると一人でわ支えることができなくなるから問題なのである。もちろん夫婦がいれば一人が支えることができるがそれでも負担が大きいのである。
そして介護でも家族だけが任されることが負担が大きすぎるのである。だから人間社会の不思議は江戸時代など貧乏であり食うことすらまともにできないし飢饉もあったとか現在ど比べれば地獄だとも言われる。それも事実であり現実であった。
では今の社会がまた江戸時代とか戦前とかと比べていいものなのかとなればそうともならない。それが人間社会の不思議なところである。というのは昔の江戸時代の医者などはそもそもが病気を直すということができないのでそれでもともと治せないということがわかっていて医者を責めたりしないのである。そして医は仁術とかなっていたのであるつまり今風に言えば愛を持って患者に接する同情する。でもとても現実に直す術はなかったのである。

逆に現代では病気は直されるべきものであり治せない医者は責められる。
でも医者は患者に同情を持って接するということも無くただ医は算術となったのである。まず金の計算をするからである。だから人間の社会というのは確かに医学でも進歩してそれは悪いものではない。治らない病気が治るのだからそれは江戸時代などよりずっといいものなのである。
でも何かを得ることが何かを失うということが人間にはある。そのことは人間である限り人間社会であるために変わらないとなる。何かを得ることはとにかく何かを失うことなのである。だから今いろいろ文句をいう不満をいうが過去に比べれば今の社会はいいものだとなってしまうのである。
何か家族というのでも江戸時代から考えるとそもそもは家族という言葉自体明治になって生まれた言葉のようにそれは江戸時代の大きな家族とは違ったものである。小さい単位のの少人数のことであり江戸時代にはなかった言葉なのである。だから言葉というのはそういう社会背景があって理解できるのである

とにかく人間社会は確かにいろいろと科学でも技術でも進歩する。でも必ずそこに失うものがある。家族でもやはりさまざまに変化して作られてきた。何か家族というとき人間社会から始まる出た時からあったように見られる。でもそれは狭い範囲の今の家族からイメージしているから過去の昔の家族のことが理解できなくなったのである。いずれにしろ単身所帯が増えるというときそれはやはり社会が変化してそうなった。だから個々の家族の問題ではなく社会自体の問題であり簡単に解決はできないともなる。
だからとにかく人間社会というのはいくら進歩しても何か必ず問題が起きてきて理想社会など作れないのである。そこに人間の限界があ。それを解決することが人間の力ではやはりできないとなるからである。何か一つ問題を解決してもま新たに一つ問題が生まれるのである。つまり一つの地獄が消える、で。新たな地獄が生まれる、親鸞の言うように(地獄は一定の住みかなり)なのである。時代が変わっても地獄社会なのである。


家族とは明治以降に作られた言葉
(江戸時代の家は一族郎党の広い範囲の共同体ーファミリーの語源)

2023年08月12日

少子高齢化は文明が発達すれば必然である (動物と人間の相違- 人間は成熟に時間がかかりすぎる―余暇を活かすことが課題に)

少子高齢化は文明が発達すれば必然である


(動物と人間の相違- 人間は成熟に時間がかかりすぎる―余暇を活かすことが課題に)


●人間は育つのに手間と時間がかかりすぎる


なぜ少子高齢化が起きているのか?それは日本だけの問題ではない。先進国では共通している問題である。 ただ、アメリカなどは高齢化している人が多いにしても大統領でも80歳になっているとしても子供の数が日本のようには少なくならない。その原因は移民がいてそれで補っているのである。 

だから、ほかの国とは事情が違う。そもそも人間というのは動物とは相当に違っている。人間が成長するにはとにかく手間がかかり時間もかかる。そのことが動物とはあまりにも違っているのである。動物は生まれてすぐ立つことができるし食べ物でもすぐに捕れるようになる。長くても一年であり。その一年かかるということも長すぎる。生まれてすぐ立って餌をとっていけるということもある。


つまり、動物は本能によってのみ生きるのである。人間のように様々な手をかける。教育するとかはないのでる。本能によって生きてゆくのである。 人間にも確かに本能はあるが人間は生まれて親からでも社会からでも教育されない限り生きる術も身につかない。その期間が長すぎるのである。人間の子供を育てるということは経済的にも相当に負担だし動物のようにはいかない。 

ただ、人間にも生殖本能がありだから先を見ないでセックスして子供を産むということがある。それで貧乏人の子だくさんというのも戦前からあったし戦後もあった。戦後の焼け野原から団塊の世代が生まれたのかそれは戦地から帰ってきた人たちが男たちがセックスして子供を大量に産んだともいわれる。それは本能の力が働いてそうなったとなる。


実際、焼け野原になって食べ物もないのになぜそんなに子供が生まれたということは理解できない。それはやはり本能の力だったのかともなる。貧乏な国ではアフリカなどの貧乏な国では、食い物わなくても本能の力によって子供がたくさん生まいる。 それは動物と同じよう同じように本能の力が働いてそうなっているということもある。

ところが人間というのは?そうした本能的なものを性欲でも抑制することもできる避妊とかもできる。特に文明化した社会ではそうした薬も作られて避妊できる。遅れた国ではできないから子供が増えたと思う。


つまり人間だけが本能だけはいけない本能に逆らい生きる動物である。 でもなぜ人口というのは地球の人口は急激に増えたのか?逆に人間が文明化したためだと思う。人間でもそもそもは生きるには必ず食料が必要であり。もしその食料がなければ。人間も生きていけない。だから、その食糧分だけの人間しか養えないから江戸時代までは農業でなったが限界になった。それ以上は増えなくなった。


●なぜ明治以後に人口はこれだけ増大してきたのか?


それは工業化したりして農業だけではない食料以外でもさまざまな職業が生まれてまた食糧でも江戸時代のように一反からとれる米の量が限られるという事も無かった。生産技術の発達で一反からとれる米の量が2倍3倍となった。すると。食糧でも2倍3倍となりそれだけの人口も増えても養うことができるようになった。


でもその中心が農業にあった。今は田舎でも農民は1割に満たないのである。つまり食料生産に従事する人はそれだけ少なくなりでも食料は供給されているのである。それは農業技術の進歩から来ている。 農業は主要な産業ではなくなったのである。それを象徴しているのは1000万の東京の人口があるとしてその人たちを養う食料がどこから来ているのか 東京の中に田畑はない食料は供給されている。江戸が百万都市だとしてもその周りはやはり田園地帯が広がっていたのある。


だから、その周りから食料が供給されていた。ただ米などは船で東北からでも江戸に集められた。だから食料のすべてを賄っていたとはならない。でも野菜などは東京周辺で江戸周辺でまかなっていた。それでその周りで特産物が生まれた練馬大根とかがそうである。また肥料でも糞尿を江戸まで農民が来てそれを取り出し運び肥料としていたのである。密接にその食糧を得るためにその周辺地帯と繋がり食料を供給していた

また、江戸前寿司というように東京湾で新鮮な魚をとりそれも食糧となっていた

ただ、江戸時代までは農業社会だから人口は抑制されて4000万以上にはならなかった。それで新潟県の人口は百万とかあり東京の人口も百万とかになっていた。実際は新潟県の人口の方が多かったのである。大正時代でも東京の人口は300万であり今の規模とは相当に違っていた。でも明治初期から比べれば相当にふえた。


●東京に人口が集中してきた歴史 


私の母も大正生まれでありその当時東京へ行く人が増えた。母も女中として東京に出た。また森林鉄道が網の目のように全国にはりめぐらされて木材とか石材とかが東京に運ばれた。また鉄道はもともと石炭を運ぶものとして全国に普及した。北海道でもそうであり福島県なら常磐炭礦は有名である。

東京は大正時代に300万人になるということはやはりそれだけ東京に人口が集中してきて、食糧であれ物資であれ必要となったからそうなった。その東京への人口集中は戦後でも高度成長時代があり続いていたのである。

ただ、基本的にはまだ日本は農業社会であり。農業で生活していたから人口の移動はそれほどなかった。


なぜ人口が増えるかという時その理由はやはり農業でも食料は増産する技術が生まれ食料は供給される。そしてその上に工業社会が生まれ工業社会になる時工業地帯が生まれて人々がそこに集中する。戦後の焼け野原から団塊の世代が生まれてその時中卒の集団就職があった。それは工業社会になり働く人手が地方から集められたのである。そうして東京は人口が今の1000万円に増大したのである。それは世界中で起きたのである。巨大な都市が生まれて農村から分離して人口が莫大に増えたのである。


ここが増えるというとき農村農業中心では増えない。それは縄文時代のような狩猟採集文化だったらやはり人口は極端に少ない。人口を増やすことができないのである。でもそこに農業が取り入れるとやはり人口が増大した。それはやはり食料が縄文時代より膨大に増やすことができたからである。

だから人口が増えるということは産業構造が変わり食料だけを生産することは第一とならず工業社会となり田畑がなくても都市化して人はそこに住む。 そこで都市に人口が集中するのである。 


とにかく明治江戸時代では3000万人くらいなのになぜ急激に大正時代では6000万とかなり人口は増え続けた。それは戦後の焼け野原でもそうだったのである。なぜこれほど人口が増加してきたのか?それはもともと農業から工業社会への変化があった。戦後、焼け野原から出発した団塊の世代が生まれた。その数も多くでもその就職先が中卒なら集団就職して都会の中小の工場で働いたとなる。つまり農業ではない中小の工場で働く場所があったからである。 


●人間は本能だけに生きない―少子化高齢化は文明化して起きた


なぜ今、少子高齢化がこれほど問題になっているのか?


日本国から日本人がいなくなり、日本民族は消失することまでなっている。それはなぜそうなったのか?それは日本だけではない。ヨーロッパとかでも少子高齢化になっている。だからそこに共通性がある。

そもそももし生物でもただ放置していれば自然の摂理で人口は調節される。動物の場合はその取れる餌によって特定の動物は増えるということはない。


人間の場合は本能によって生きるだけではない。本来は少子高齢化というのは生物界でわありえな。動物界では力が弱ったら?死ぬことになる。力があるものしか生きていけないのである。でも人間なら能力が弱くても老人になってもいろいろと手当をして長生きさせることができる。それは自然の摂理に反していても人間というのはそもそもは自然の摂理によって生きるわけではない。それが人間の特徴である。


だから少子高齢化というのは人間特有の問題なのである。自然では少子高齢化はありえない。だから大量に魚でも卵を産み本能的生殖で子孫を絶やさないのである。ところが人間の場合はそうした本能に従わずにも生きるのが特徴である抑制することもできる。 ただ、その本能に逆らえないということもある。


女性が子供を生む期間は短い。30歳までが出産適齢期である。その後になると出産することで子供に異常が生まれたりするからなるべくなら30歳まで子供を産んだ方がいいとなる。本能的にはやはり生殖作用が盛んになるのは30までくらいだとなる。ここにやはり人間も生物としての限界がある。それでも精子の冷凍保存とかなにか技術の発達で人間の場合は変えることができる。人間には別に本能的に生きるのではなく本能を抑制できる人間の文明とは、そもそもそうして生物的本能によって生きるわけではない。そこにやはり少子化となり、高齢化となる原因がある。


つまり本能的に生きる生物界では少子化などあり得ないし高齢化もありえない、ただ動物園とかペットになるとやはり寿命は延びるのである。

ただある種が増えすぎると食物連鎖のバランスは損なわれて生態系でも異常が起きてくる。 でも基本的には動物は生態系を壊したりはしない。 人間のみが生態系を壊す、だから人間というのはそもそもは本能というものから逃れられないにしろそれを抑制し。調節することもできる人工で敵にできる。


とにかく自然界では子孫を残すために大量の卵とか多くの子供を産むというのは普通である。それは人間も同じだったのである。なぜなら人間も昔なら生まれてもすぐ死ぬことも多かった。医療も発達してないからそうなった。子供を多く産まなければ死ぬのも多いのだから子供でも子沢山にしないとその社会でも維持できなくなる。

 戦前は若い人でも肺病で大量に死んで国民病となっていたのである。また疫病もあり大量に人が死ぬからやはり子沢山でないと社会は維持できなくなっていた。


医療技術が発達して食料生産でも一反あたりの収穫が何倍にもなるとか改良されてくると養う人口も増大する。高齢化になるということも必然なのである。栄養も良くなり医療も発達すれば当然、長生きする人が多くなるのである。つまり人間社会とは文明化するということは高齢化するということにもなる。ペットでも栄養をとらせて病気になっても手当てするから長生きするのである。


だから少子高齢化というのは人間社会にとって避けられないものであり、必然だということを知るべきである。それは悪いものとされているが高齢化というのは、実際は悪いものではない。なぜなら。人間早く死んでいたからである。そして長く生きることが人類の願いだったのであるだから延命地蔵とか長生きすることを願うことが人間の願望となっていたのである。


つまり人間というのは自然の本能のみに生きるわけではなく自然に反して生きるということにもなる。 それが人間の本質なのである。そしてそれが悪いものでもないのである。


●人間は成長するのに時間がかかる


とにかく人間というのは何であれ成長するに時間がかかる。その成長するというと動物なら別に知的活動などはしない。人間は知的なものを育むからそのことによって時間が必要なのである。何かを習得するにも時間がかかる。動物は本能によって餌でもとるし親から多少教えられるにしても本能的にできるのである。人間は何か教育されたり自ら育んだりしないとできない。そして知識になると膨大なものでありそれを理解するということは相当な時間がかかる。


それは私自身が一番感じたことである。何か知識でも自分のものにするには相当な時間がかかる。それは私自身が才能もないからだともなる。何か60過ぎてとかやっと70過ぎてから自分なりのものを表現できたということにもなるからである。というのはそれまでいろいろ体験したり、本を読んだりして理解するのに時間がかかったということである。

だから高齢化というのは悪いものではない。何か一つのことを理解するにも時間がかかるからある。それが今まではその時間が短かった。でもこれだけ時間があるというときもう70からでも学ぶ学ぶこともできるし表現することもできる。


だから高齢化というのは人間にとって悪いものではない。その長い人生の中で充実した人生を送ることができる。というのは退職してからも30年もあるとしたら第2の人生となってしまうのである。そこで何か実りのあることを達成できる。ただマイナス面として語られることが多いのはまだまだ高齢化ということに人間が適応してないからである。これからは高齢化ということは普通でありそれに適用して人間はさらに意味ある充実した人生を生きることもできる。


ただ、少子高齢化というのは最近起きた起きたことであり人間がそれにまだ備えていないし適応できていないのである。ただ自然界から見れば本能的に生きる動物などのようにそれは不自然なことなのである

でも人間っていうのは文明でも不自然なことなのである。少子高齢化というのも、そのために起きてくる。つまり人類は少子高齢化に生きるほかないともなる。 それが問題があるにしろその高齢化で人間の知的能力は確実に拡大し、成長する。それは私自身が遅すぎたが70過ぎでこうして何かを深く理解してインターネットで表現していることでもわかる。


つまり、これからは。インターネットとかが生まれて。個々人の表現の時代になるのでそのツールもできている。個人でもテレビ局となり、出版局となり新聞社にでもなれるからである。そこで何か表現するものが必要になる。それは高齢化の中で育むことができるのである。 だから高齢化というのは文明の中で必然的に起きたことなのである。ただ、まだそれに備えることが出来ないから問題が多いのである。老人は負担だけだとなるというときそれは介護とかの問題でありどうしても病人が増えるからである。でも老人は何かに対して理解力は深まり洞察力も深まりより成熟した人生を送るようになる。 


今は高齢化の負の部分だけが取り上げられるのはそれはあまりにも高齢者が多いことでそうなったので。だから自然ならば子だくさんである。もともとは長生きしてる人はそれだけで尊ばれた。どうしてもそういう老人はごく一部だとなり。後の大多数は無用の老人であり、ただ社会の負担であり、お荷物であるとされているのである。

でも社会も進化する人間も進化する文明も進化する。だから高齢化に適応した社会となりそれが悪いものともならないのである。ただ、少子化ということはこれまた別の問題でありいいものではない。社会の活気が失われやはり新しいものが生まれなくなるということもある。

それとは別にして高齢化というのは?文明が進んで必然的にそうなったのである。


だからどこでもそうなっていくのである。アフリカでもそうなってゆく。だからそれを止めることはできない。そういう社会に適応することであり、その社会が悪いということでもないのである。ただ。今はそのマイナス面だけが強調されているだけなのである。それぞれの人生は今までは60ぐらいで死んでいたのにそれからさらに20年以上とかとか生きるとなればそれぞれの人生を意味ある価値あるものとさらにできるから悪いものではない。ただ、その過渡期にありやはりマイナスの面だけが強調されるのが問題なのである。



●高齢化社会では余暇いかに過ごすかか問題になる


それだけ生きる時間が長くなれば暇も多くなる、会社で働きずめの人生でも。退職したらその後30年も生きるとしたらその暇をどう生かすのかとなる。

ただ、貧困化して働かざるを得ないということもある。でもそうして強制されて働くことはするべきではない。つまり人間にとって長生きすることもう一つは自由な時間を持つということである。それが人間の進歩にもなる。それは人間が望んできたものである。古代になると余暇を持ったものは貴族であった。あとの90パーセントは奴隷であり奴隷がいて貴族は自由な余暇をもったのである。そこで学問芸術とかに費やされるようになった。


それで学校というのは?スクールというのがスコレーでありそれは暇の意味だったのである。。なぜそうなのか?暇があったから労働から解放されて何か学校をつくり学ぶということになったのである。

それが高齢化でまた起きている。退職しても30年間も生きるとしたらその間に何かまた学ぶということが必要になる。理想的なのはライフワーク持って退職してもそのライフワークを続けることである。

そのためにはやはり老後でも金が必要になる。


でも今は日本が貧困化しているとき、老人でも働いている。それは食べるために働いている。でも、そのことがいいとはならない。 もはや金のために働くべきではない。食うため、パンのためにも働くべきではない。それぞれの自己実現というかしたいことをする。だからこそ暇の活用が大きな問題となるのである。


ただ、それはやはり人類が進化したのであり高齢化というのもまた人類がこれまで望んでいたことなのである。それが実現されていたのである。

でもその実現された長寿社会というのは有効に生かされないということである。それで社会全体から見てみると、こう高齢化社会の老人はただ負担になるばかりのマイナスのものとして見られる。

現実に病気の人も多い。介護になるとその負担もあまりにも大きすぎる。そこに大きな負の部分があり。若い人から社会全体から見ると、ただ重荷となり負担となり社会を停滞させる。マイナスのものとしてしか見られないのである。 

そして老人は技術の習得には遅れる?新しいものに?適応できないし利用できないとなる。それがパソコンとかITとかになじめないというのもそうである。それがまた社会全体に影響するから問題なのである。 子供でも、若い人は新しいものに。馴染み利用する。スマホなどはそうである。でも老人になると面倒だとなってしまうのである。


ただ、現代ではもうすでにパソコンは必須でありスマホも必須である。それなくして生活すらできなくなる。また創造の面でもパソコンなくしてはできなくなっている。

絵画するAIで作れるし音楽も作れるし小説でも作れたからである。だから意外とパソコンとかITは人間の頭脳と深く関係している。それが今までの技術とは違ったものなのである。


ただもともとアートというときそれを技術のことであり技術とアートは密接に結びついていた。写真というカメラ技術が生まれればそこで新しい芸術も生まれたし庶民もまた写真というものは欠かせないものとなったのである。それが今はデジタルカメラとか誰でも気軽に写真をとれるので写真の時代だともなったのである。 


だから高齢化社会になったとしても、やはりそうした技術を修得するべきだとなる。その技術の習得というのは、実は才能というより時間が必要なのである。

私は何か時間がなくなって家事とか毎日しているので新しいことワードプレスとか動画編集とかはできない。それは難しいことがあっても、時間をかけてやればできるものなのである。老人にはその時間がなくなっている。

私の場合は家事に追われるのでできなくなったのである。だから人間は時間に比例して知識も拡大するし、広めることもできる。若い時は相当に時間の無駄をしている。そして青春などあっという間に過ぎてしまう。そして40になると。白髪が入ったりしてしまうのである。


それが今までだったらもう60くらいでは死んでしまったのである。いまそいいうことはない、依然として時間がありその時間の多さで新しいことを習得できるのである。

そこに。高齢化のプラスの面がある。ただマイナスの面があまりに大きいので。そればかり強調されるのである。そこまでまた人間が進化してない適応できていないということにもなる。でも徐々にそういう高齢化社会にも人間は適応して長生きするということが人間にとって、より多くの豊かな実りを与えるという時代になるのである。その過渡期だから、いろいろと問題が起きてくるのである。 







2023年06月24日

家族とは明治以降に作られた言葉 (江戸時代の家は一族郎党の広い範囲の共同体ーファミリーの語源)


家族とは明治以降に作られた言葉

(江戸時代の家は一族郎党の広い範囲の共同体ーファミリーの語源)


「家人」と「御家人」の違いとは?分かりやすく解釈
「御家人」とは、鎌倉時代において鎌倉殿と呼ばれる「幕府の主権者の家と主従関係を結んだ家来」のことを表す言葉です。
「御家人」制度は鎌倉幕府の根幹となるもので、主従関係の基本は「御恩と奉公」という考え方で成り立っていました。

家人」と「御家人」の違いとは?分かりやすく解釈
onkefamily.jpg
野馬追いの御家の旗は小高区からでている。小高が相馬氏が最初に城を築いた所だから御家の旗印があるとなる

●家族は明治以降に作られた言葉

家族という言葉自体明治になって造語されたものでありもともとなかった言葉である。家族というとき当たり前でありそのことで今違和感を感じることはない、でも明らかに江戸時代にはなかった言葉なのである。日本が開国してヨーロッパの文明を受け入れた時その概念でももともと社会に存在しないものだから訳すのに困ったのである。
社会自体がそうである。社に会すが社会だとするとそれは村という極めて狭い範囲のことであり社会となればsocietyは広いのである。市民というとき日本にはそもそもいなかった。市民とはヨーロッパでは都市国家があり都市が城壁を壁をめぐらして敵から守るためでありそこで強固な一体感が生まれた。citiznshipが生まれた。だからパスポートにどこの市民なのか記すのである。

だから家族という言葉は明治になった生まれた言葉であり江戸時代にはなかったのである。江戸時代の規範は侍が作った。
家というとき家とは大きな範囲の共同体だった。平家とかなればそうであり御家あり御家人がいる。家人となればただの使用人だったなる。それでも一つの家に仕えるということがあり家とは今の家族とは違っていた。
徳川家となればと徳川家となれば国を支配するとまでなるのだから家とは大きな共同体であり家族となるとそういう感覚にならない。親がいて兄弟姉妹がいてとか狭い血縁関係である。なぜ家族という言葉が作られたのかとなると誤解しているのは一家の墓家族の墓は明治以降作られたもであり江戸時代までは家族の墓はない、・・・家の墓はないのである

侍でも個人の墓であり夫婦の墓はあったが家族の墓はなかったのである。江戸時代の末期に庶民も豊かになり姓を持ち個人墓を作った。大方は村の共同墓地に葬られた。そこを仏方(ホトケッポ)とかなり地名として残っている。
だから明治以降家族という言葉が生まれた時、家族は今までのものと違ったものなのである。血縁だけの狭い範囲のものとなったのである。家は一族郎党のことでありその範囲は血縁に限らないのである。家の子というとき家に所属する人であり血縁者ではない、だから一つの家の墓がありその前に墓標とかだけの小さな墓がいくつもあるのを見かける。ただ土を盛っただけの墓とかある。それはその家で働いた人たちでありそれでもその家の人として埋められたともなる。

●ファミリーの意味

英語のファミリーの語源はラテン語のファミリアである
このファミリアは畑、家屋、金、奴隷、であり財産のことである。
ローマ人の場合にはそれは当初決して夫婦とその子供を刺すのではなく奴隷だけを指すfamulusは家内奴隷のことでありfamiliaは一人の男に属する奴隷の総体のことである

ファミリーは財産とのその維持管理があって生きていけることをファミリーの語源は示している。一般に財産の維持管理を継続的計画的に行う組織が経営であるがファミリーにも声援の生活保障のためのファミリアの経営が必要である

ここで奴隷がファミリーの一員になっている。つまり奴隷は家で働くものでそれでファミリーの一員になり手厚く主人の家族のようにも扱われたという事実もある。そこが誤解している面がある


柳田国男に言わせるとファミリーはそれ自身労働組織であり親子という言い方ももともと血縁関係を意味するよりは労働の組織であったオヤコのコは家の子、ミヤツコ(造)などのコであり労働者を意味していた

最初の国が国造(クニノミヤツコ)としたのはそれとにている。一つの家に働く人たちでありそれが国の始めだったなるからである。
相馬藩は相馬氏から作られた、御家の旗が野馬追に出る時、御家とは相馬氏の一族だけでない広範囲な共同体があり形成されたものであり範囲が広いのである。
御家とは一つの会社でありそこで共同で働くということで連帯感を持った。人間はやはり共に働くということで連帯感をもつのである。だから村は一つの家族ともなる。取り上げ親、乳付け親、名付け親元服の際の烏帽子親とかあい村の子供は村のファミリーの一員になるからである。
家族とは子供を夫婦で育てるという本能としてある。でも人間の場合そういう動物的なものから血縁的なものからだけではない広範囲なものとしてそれが社会になったのである。

そうして家族でも社会によって規定される社会の変化によって家族の形態も変わる
江戸時代の家族と明治以降の家族は違っているさらに戦後の家族は会社中心の社会になったとき核家族と言われかえってファミリアと言われた大きな共同体が失われたのである
それでそのことからいろいろとまた問題が生まれたのである昨今の介護の問題でも大きな家族ファミリアがあれば助け合う人は広範囲にいるともなる今は家族というだけの狭い範囲で介護とかでも押し付けられるのであるそこで数々の悲劇が起きてくるのである

また孤独死の問題でも人間は拠り所とするファミリアが無くなったことにも原因しているだから家族といっても時代によって変わり今や核家族という時それはもうともにともに支え合うという余裕がなくなっている個々バラバラになってしまった社会にもなったのである。ファミリアというとき親しいという意味もある
つまり人間が親しい関係を作れるのは狭い範囲なのである
グローバル化して物が外国から入って来ても親しい関係にはなれない、グローバル経済は人間を経済からしか見ない、だから人間も外国人を労働力として入れるとしてもあくまでも奴隷的労働力としてしか見ない,情のない一時的雇用関係となってしまう、ファミリーを形成することはないのである。

要するにファミリアな親しい関係を築くのにはとてもグローバルには築けない、封建時代という時何か遅れた社会とも見るがそこで形成されたのは人間と人間の強い絆であり結びつきである
それは常に顔と顔を突き合わせる狭い範囲での親密な交わりがあったからこそあり得たのであるグローバル化してもそうした親密な人間関係は作れないものと物のやり取りでありそこで人間の心で結びつくということは無いだからその関係も1時的で壊れやすいのである人間も今やものとして扱われ経済的一単位として扱われそこにやり取りされるのは金だけだとなる

●失われたファミリーとしての共同体

それでも高度成長時代は終身雇用とか会社が一つの村のようになり福祉もになっていたそれは高度成長時代だからできたのであるでも今度は会社でも終身雇用などできないすると会社員もジョブ型雇用になりその時々の会社の方針で一時的にその才能を利用するだけだとなる
とても全人間として扱うことはできなくなったのであるいずれにしろ人間をにはファミリーが必要であるでもそのファミリーが明治以降家族になった時そこにかつての村とかの大きな範囲のファミリーは喪失したのである
家族を考えるときそれと同時に社会も考えるなぜなら明治以降は封建社会でなくなりその代わりとして天皇を親として国民を赤子として新しい国家体制を作ったからである

言えることは家族とは意外と脆弱なものであり維持すること継承することでも難しいのである
でもファミリーとなる時それは家族を超えた血縁でも超えた大きなものでありだからこそそこでは単に経済的単位というのではなく人間としての深い結びつきが育ったのである
家族遺棄社会という時家族だけではもう介護でもできない金がないということもあるが人でもないということがあり限界になる
そして家族を捨てるともなる家族という単位は実際は少ないためにも手が回らないとなっている。
とにかく人間社会というのは何かを得れば何かを失っているだから封建時代など前近代的であり遅れたものでありとかなるそれはヨーロッパでも奴隷がいて遅れていたとかなるでもその時代に時代でやはりそこには現代が社会が失ったものはあったということである
そういうことで人間は歴史を学ぶ必要がある今なくなったものが過去にあり過去にないものが今にあるそういう比較をして今を知るのである

長塚節の「土」の勘次一家の美しい家族愛が示すように貧農のファミリーでは成員のすべてが愛よりあい助け合ってお互いの肌をお互いの肌でぬくめあって生きていた
貧農のファミリーには家族の絶対専制はなく権威は一つの温かな人情的情緒的雰囲気の中にありだからそれは同時に共同体的意識を伴っている(日本社会の家族的構成(日本評論新社括弧)

つまり人間というのは奴隷であれ身近に一緒に暮らしていれば自ずとファミリー親しさを感じてくる
だからこそいくら奴隷でも家族のように扱われたという事例がある。今ではそういうことはありえないただ小さな会社だと社長が親とかなり社員がもう家族のようになるそれは狭い範囲で一緒に働いているから自ずとそうなったのである
そもそも働くことは端(はた)を楽にしたいということが働く動機となっているそれは身近に苦労して働くことを見ていたからである

でもグローバル社会になればその働く人は全く見えないのであるそれでバナナを取るにしても暑いところで汗をかき楽ではないと報告があった
でもそれを買って食べる人はそんなことを全然思わないのである思いようがないのである。外国で働いている人のことなど見えないからであるだからグローバル経済というのは非情なものになるのである。経済の原理だけが働き人間的なものは無視されるのであるただ旧来のファミリーとかがすべていいものとして見ることはできないでもそれをすべて悪いものとして否定もできないのである社会は時代は常に変化している
それと共に家族も変化してきたのであるだからファミリー的なものが共同体が再び新しく構成されることを望むのである
でも疑似共同体とかまた生まれてからそれがカルト教団でありそこを拠り所にどころとする他ないのもやはりファミリーとか何かよりどころとなる共同体の喪失がそうさせているのである

家族の文化構造―川本彰

この本を参考にした


サグラダ・ファミリア(カタルーニャ語: Sagrada Família)は、スペインのバルセロナにあるカトリック教会のバシリカである。聖家族贖罪教会(カタルーニャ語: Temple Expiatori de la Sagrada Família)という正式名称を持つ。日本語では聖家族教会と呼ばれることも多い。

このファミリアは訳すと家族になるがその訳からイメージすると違ったものになる。その家族は小さな親兄弟とかの範囲である
でもこのファミリアは相当に広い範囲のことを人間共同体を示している性家族協会ということは聖家族教会ということはキリスト教の信徒団体のことだからである
だから訳すと常に何か誤解があるそれは日本語で表すとそのから離れたものとなるからである
そこに言葉で表せないものがある

2023年05月24日

家の修復が依然として続く (水漏れしたの樋をまっすぐに下にしなかったから)


家の修復が依然として続く

(水漏れしたの樋をまっすぐに下にしなかったから)

houserepair.jpg

樋を真っすぐ下に作れば水漏れはなかった、樋を曲げて迂回したため管に落葉がたまてつまった
それで水があふれて家の下に落ちてきたとなる



家の問題は家そのもの物体としての家がある。建築物としての家がある。なぜ玄関の入り口が水漏れしたのか?
それは樋の配管に問題があった、本来はまっすぐに下に水を流す配管をするべきだったのが建物の構造でしにくくなり遠回りの配管になりそれでつまりながれなくなり逆流した
水がそこであふれて下に落ちてきた。
それを説明されたのでそうなのかとも納得した、でもそこは見ていないので明確にはわからない、そこは入りにくい場所だからである。

前の大工さんは見て水漏れた原因がわかったと言ったがそれを説明していない、でも金は払ったのである
ここで問題なのはなぜそうなったのかそしてなぜ直ったのかの説明が必要だったのである。
家というのは素人でもなんとかわかる理解できることがあるからである。
ただまだ完全にわかったはならない、落葉がたまってながれにくくなりあふれたとしてそれがどういうふうにもれたのかわからない、それはそこ見れないからである。危険な場所でもあるからだ

ともかく家との格闘はつづいているし整理も終わらない、本の整理がどうしてもできないのである。簡単に捨てられないからである。
なぜ樋で失敗したのかというと水の流れに逆らう配管をしたからだともなる。下にまっすぐに流すべきところを流す管を迂回させてめんどうな場所に配管したからである。
それが失敗だったのである。それが今になって問題が起きたとなる。でも築50年となるとなんらか家が傷み修理が必要になる
ここはなにかめんどうな場所だったのである
前は樋から水がもれても流れ出しても簡単に直した、そこは見える場所であり樋を曲げたら直ったからである
家の修復でも終活でも簡単に終わらない、人生も依然として終わらないのと同じである

ただそれぞれの家が確かに郷土の歴史を語っている、私のいえもそうである。二回も水害に合い一回目は二階がないので逃げる場所がなく二階の家を建てることが悲願になっていたからである。それで二階の家を早い時期に建てて親が自慢していたのである
今でもここは街でも一番低い場所であり下水の水があふれ二年前とかでも水が家の中に入って被害があったのである
でも父親が苦労して土地を買いそのあとに建てられた家なのである。だから家には一代だけでは何代かの人間の思いが歴史があるものだとなる。
ただ正直家でも負担になってしまう、大きいと掃除するだけで負担になる。一人だと余計にそうもなる。
この家でも築50年で傷んできたのである、でも住み続けるほかないのである。

2023年03月27日

茅葺屋根の家は冬はあたたかく夏は涼しい (コンクリートの家の問題ー自然に反するものの問題)


茅葺屋根の家は冬はあたたかく夏は涼しい

(コンクリートの家の問題ー自然に反するものの問題)

かやぶきのメリットはたくさんありますが、その中でも利点を実感しやすいのが「断熱性に優れている」ということ。多くの茅を使用するかやぶきの屋根は、分厚い空気の層ができるため、一般的な屋根に比べて外部からの熱を遮る能力が高いという特徴があります。そのため、冬は室内の温度を保って暖か。反対に、夏は屋根からくる太陽熱を遮って涼しいというメリットがあるのです。


人間は誤解が多い。茅葺屋根の家など旧式の住みにくい前時代的なものと見ていた。でもそうでもなかった。冬は暖かく夏は涼しい。雨漏りするかとみたらしない。私の家は子供の時はトタン屋根の家であり常に雨漏りしていたのである。
だから洗面器を並べていたのである、それは江戸時代でもあったことである。トタン屋根とか簡単な屋根だと雨漏りしていた。
茅葺屋根の家は意外といいものだったのである。実際に茅葺屋根に住んだ農家の人の話を聞くとわかる。
今になるとどうしても茅葺屋根の家はとても住みよい家だとは思えなかったのである。そこに昔に対して必ず誤解が生まれていたことがわかる。

もう茅葺屋根の家というのはほとんどない。だからそういう家があったとしてもその住み心地がわからなくなったのである。
私の家は前は店屋であり父親がコンクリートにしてそこに簡単な物を置くものを品物をおくものを用意してただ並べただけだった。そんな簡単なことで店を開くことが出来たのである。
そのコンクリートのは残っている。でも今になると冬になるとそのコンクリートが寒さをもたらしている。すきま風が入りコンクリートが寒くしているのである。

でも昔の農家の家の土間だと土だから夏は涼しく冬は暖かいのである。それは土の作用でそうなっているのである。
だからコンクリートの家になると熱がこもったり夏は暑く涼しくならないということがある。木は湿気を帯び乾いたりしてあたかも木が呼吸しているようになっている。コンクリートではそういうことはない。
それで気密性が高いからエアコンなどで調節するのには向いている。でもそれは自然の作用ではないのである。そこにコンクリートの問題がある。
都会だとコンクリートジャングルになっている。それが相当に影響して夏は異常に熱くなっている。エアコンで調節するにしてもエアコン自体が熱を出して熱くしているのである。

ここでわかることは人間の技術とか文明には必ず自然に反するものはある。自然に逆らうものが人間の技術であり文明なのである。
だから必ずその反作用があり問題が起きる。
自然の中に生きるものは動物でもそれは自然に適合して生きている。でも人間は文明はそもそも自然に逆らうものとして作られたのである。だからその反作用として必ず環境汚染したりして問題が起きるのである。原発事故でもそうだった。それは人間の力では操作し得ないものでもあったからである
そして原発事故以後自然再生エネルギーとしてソーラーパネルとか風力発電を増やしたがそれも実際は自然に適合したものではないのである。ソーラーパネルは山をおおってしまった。そこには木もなくなり雨が降って貯水能力もなくなり洪水になりやすくなったともなる。
つまり人間の作り出すものは文明は必ず自然を破壊し反作用があり自然を汚染して問題が起きるのである。

茅という自然素材を大量に使うため、かやぶき屋根はこまめなメンテナンスが欠かせません。江戸時代は、このメンテナンスを村に住む人たちが持ち回りで担当していました。しかし、明治時代以降はコミュニティの変化により、次第にこうした習慣がなくなり、メンテナンスができなくなってしまった

この指摘も興味深い。茅葺の屋根の家は村の人たちが総出で集まり協力して作られたものである。そこに村という共同体があっ茅葺の家を作られていたのである。そこにも大きな意味があったのである。
材料でも外材になっている。家を建てるにしてもハウス会社がまるでプラモデルのように二週間くらいでたててしまうのである。そこには地元の人も大工さんも関わらないということがある。
だからなぜか最近普請しても建前があり餅ををばらまいたり小銭をばらまいたりもしないのである。
そういう風習も消失したのである。つまり家は個人的なものであり周りの人でも隣近所でもかかわらないともなったのである。

だから茅葺の屋根というのは後のメンテナンスも必要であり常にそこに村の共同体がないと維持できないものだったのである。そういう共同体が崩壊してきた歴史が明治以降の歴史でもあったのである。それがさらに戦前から戦後でも全く変わったものとなってしまったのである。
だから原発事故でも簡単に町や村が破壊されてバラバラになり回復しない復興しないともなった。それは放射線の被害もあるがコミュニティーが共同体がすでに失われていたということもあった。それでこんな簡単に江戸時代からさらにその前からも続いていた継続されていた村や町が簡単に崩壊してしまったのかとも見た。

いずれにしろ家というのは物理的なものとして地震によって全体がゆがんでしまった。これはなかなか修復することが難しい
基礎から作り直すことができないからである。
耐震設計のにするために市の方でで資金援助するはというが全体が歪んでしまったので修復することは難しいと見た。もう50年もすぎると新しい家にした方がいいとなってしまう。
他でも50年過ぎた家はかなり傷んでいる。病気で入院した人の家も庭も荒れている。その家を孫に譲ると決めているがその孫がその家に住むとも思えない。古くなっているから問題が起きるからである。こうして空き家が多くなっているが活かすことも難しいのである。直すにしてもかえって金がかかってしまうからである。
リフォームは返って金がかかることがある。
私の家も継ぎ足したり修復したりもうかなりのお金がかかっている。だからこれ以上金をかけて直したくないとはなる。
でも年をとると古い家は断熱もないし冬は寒い、耐震設計もしていないから怖いともなる。
でも古くてももう死ぬまでこの家に住み続けるほかないと思っている。

2023年03月18日

発達障害とは何か-50歳でも大きな子供で大人になれない (親が死ぬと兄弟間で険悪になり殺人にもなる)


発達障害とは何か-50歳でも大きな子供で大人になれない

(親が死ぬと兄弟間で険悪になり殺人にもなる)

発達障害とは何か。それがよくわからなかった。
でも何回か付き合ってみて何かを知った。いろいろ症状があるにしてもその人の場合何が異常なのかわかった
その異常性は母親に対するものだった。母親には一番世話になり苦労をかけていてもその意識がないのである。
母親に対してばばだとか何か尊敬の気持ちもないのである。それが子供なら分かるがすでに53歳なのである。
その年ならみんな親にもなっているから親の気持ちもわかっている。でも発達障害の人はそれがわからない。
要するに本当に発達が普通にできなかった人なのである。子供のにままに大きなおとなになってしまった人なのである。
だから親に対して何か感謝するとかの世話になったという気持ちがないのである。そこが一番変だと見た。
年は50歳でも依然としてその点から見れば子供なのである、大きな子供なのである。

そして家でしていることはゲームなのである。たいがいゲームをしているのである。
ただ何か普通に話が出来るからどこがおかしいかわからないのである。でも私は親に対する態度がまともではないと感じた。
50歳にもなれば親に対しての感謝の気持ちとか生まれる。それは自ら親になったりして親の気持ちを理解するようになるからである。またいろいろと社会で経験して苦労するから親の気持ちも分かってくる。
発達障害の人はそれがわからない。子供のままに未熟なものに大人となったのである。
それだけ親に迷惑をかけて世話されてもそのことに対してなんら思うこともない。感謝もないのである。
それはまさに子供のままにただ年を取って大人になったということである。

ただ親でも子供から虐待されたり最悪は殺されたりもしている。だから発達障害の人がだけがそういう方になったとは考えられない。
だからこそ親孝行したい時は親はいないとなっていたのである。それは親が早く死ぬ時のことである。長生きの時代は親は必ず生きていて子供は介護を強いられる。親は必ず生きていて子供は孝行しなければならない時代なのである
それは時代の変化でそうなったのである。
ただ今私が感じているのは兄弟がいたとして弟とは折り合いが悪い。というよりは険悪であれ危険な状態にもなっている。
今はなんとか母親が生きていて収まっているが死んだら危険な状態になっているなる。親は今弟の方に脳梗塞になり世話になっている。だから弟に対して強く言うことができないのである。
でも障害者の人を兄弟であっても殺したという事件があった。

家族以外の関わりが難しい障害者とその家族をどう支援するかは、同居の親が障害者を残して亡くなる「親なき後」を見据えた場合にも大きな課題となる。

 知的障害がある人の中には、人見知りが激しかったり、家族以外に体を触られるとパニックになったりするケースもある。
知的障害の弟を支えた末に「弟の命をたちました、これから後をおいます」…自殺した兄を書類送検

 両親が他界、知的障害の弟は私が一生面倒を見なければならないのか?

知的障害を持つ74歳の兄を70歳の弟が殴打し、その後、遺体で見つかった富山県上市町での事件。その弟も精神科の受診を続けていて、裁判官は「社会の中で更生する機会を与える」として猶予付き判決を言い渡しました。
70代兄弟の2人暮らし…知的障害の74歳兄への暴行事件で判決

家族に障害者をもつと家族が悲劇的に崩壊する。それは普通の親の介護でも家族が崩壊するということがある。それを自分自身で経験したので書いてきた。
私が接した障がい者を持ったた家族でもそうである。発達障害ではあるがやはり手を焼き苦労している。
この事件では別に兄弟でも情があり世話していたがたが限界が来て殺人にもなった。そういう事件は多い。障害者をもつ親を介護するその負担が大きすぎるのである。
50過ぎてもまだ子供であり親は世話をし続けねばならない。
子供は親に対して依然として子供であり何か感謝するとか助けるという意識が薄い。
そして親が死んだとき大きな問題が生まれる。それは共通しているようだ。ニートとか引きこもりでも親が死ぬと大問題になる。

それで自分は引きこもりのような状態で60歳まで生きてきた。だから死んだとき介護になった時大変なことになったのである。誰も助ける人もなく介護して葬儀でも一人でみんなしなければならなくなったからである。
ただ私の場合は特別世話になったということで感謝していて懸命に介護して親を見送ったとなる
死んでからも感謝しているから供養続けているのである。
でも障害者の人はそうした親に対する感謝も希薄なのである
大人になっても親に依存する子供なのである。何か感謝の気持ちも希薄なのである。だからそこが異常なのかとも見た。
でも親が死ぬと相当に厳しいことになる。兄弟がいたとしても親とは違う。私が接した兄弟では情がない兄弟としての情がない。だから親が死んだらどうなるのかということである
それは殺人にもなる危険を感じた。今でも直接会うことをひどく嫌っているからである。ただそうした自分の立場も理解できない
そうなると親は死んだら困るから施設に入るのがいいともなる誰も面倒を見る人がいなくなるからである。それは私が接しした障害者の家族だけではない。共通した悩みとして障害者家族は持っている。だからいかに知的障害者をもつということが家族を家族に負担がかかるか理解したのである。

2023年03月17日

親の遺産を跡継ぐのが60過ぎては遅かった (高齢化社会は老人が金と権力を持ち社会が停滞する)


親の遺産を跡継ぐのが60過ぎては遅かった

(高齢化社会は老人が金と権力を持ち社会が停滞する)

親が死んであとに残された子供は後を後を継ぐことは結構楽なものでわなかった。家も古くなったのでそれを修繕することが苦労だった。
また家事をすることも大変だった。介護になり親二人のして苦労した。それまでは親が何でもしてくれた。親が死んでから家のことを一切するようになりそれが意外と苦労するものだった。
だから自分の場合実際は家を継ぐことが遅すぎたのである。
60過ぎて親の介護になり10年くらい続いた。それで家のことがよく解らなかったのである。
例えば重大な問題としてどのくらい財産があるのかもわからなかった。遺産相続をしたのだがその額が明確に分からなかったのである。なぜなら生きている時でも親の貯金とか金融資産がどのくらいあるかわからないのである。
それで親が何かの保険に入っていた。その保険が満期になり死んでからだいぶ経ってからその書類が送られてきた。
その保険を見た時かなり前のもので相当な利子がついていたのである。それは高度成長時代があり保険で利子がついて高くなっていたのである。
意外とこうして親の財産を把握することは難しい。

親が生きている時そういうことをしにくいからである。親も教えないからである。それも親にとってはそうした方がいいからである。なぜなら今病気になって娘の世話になっている人は娘にすべて金を預けたのである。そのことで問題が起きた。
自分の金でも自分の自由にできなくなったのである。それで世話になっている貧乏な女性に金をやるにしてもできない。
それでその女性はいろいろ話したり世話もしたが自分自身が金に困っているのでその男性とは付き合わないようになった。
それは自分自身が脳梗塞とか病気のためである。だから金を子供に預けてしまうと困ることがある。
人間はやはり金とか権力を持つとき人はそれに従うのである。
それだけではないにしろ金であれ地位であれ人は権力を持てばそれに従うのである。
そして権力を持たないと金でも自由に使えないと自分のしたいこともできないのである。
そこに大きな問題がある。それが高齢化社会の問題でもありまた

つまりこれだけ老人多くなれば長生きしていると後を継ぐにしても遺産を相続するにしても60過ぎになってしまうのである。すると後を継ぐにしても遅すぎるのである。もし私でも早い時期に家を遺産でも受け継いでいたら自分のしたいことができたとなる。
それは家でも会社でもどこでもそうである。人間は実際に金でも権力でも持って自分で経験しない限りわからないからである。
若いから経験がないからどうして何もやらせなかったら結果的にその人は何も身につかないしできないのである。
60歳になって遺産相続して後を継いだとしても遅すぎるのである。ただ人間の習性として金でも権力でも手放すと子供でも他人でも相手にしないということがある。だから老人にとって金でも権力で地位でも手放すと誰も相手にしないということにもなる。それも問題なのである。

明治時代は明治維新は20代の人がそれを成した。その激動の時代を乗り越えるには若さは必要だったからである。切りあいもしたし激しい戦いでもあったからとてもそれは若い人でないとやれないものだったからである。老人ではとてもやれないものだったのである。戦争だって老人にはとてもできない体がついていけない
だから激動の時代になれば老人はついていけない。ただ平和な時代だったらその経験を活かすことはできる。でも実業とか何か厳しい激しい体力も知力も必要とすることはできなくなる。

現代の問題は高齢化社会でありその高齢者が多すぎて社会が停滞してできないということがある進歩できないということがある。後継ぐにしても60過ぎてはもうその人も老人なのである。そうなると遺産を相続しても権力をもっても何か革新的なことができない。老人はどうしても保守的になるのである。その相続した遺産にしてもただ守るというだけで何か事業起こして社会のためになるということもしにくいのである。

あと何年生きるのだとか何か未来のためにするということができなくなる。それで庭に花の木を植えようとしたがそれが10年かかってやっと実りとなり花が咲くとなりその咲くのを見るのが10年後になるとなると植える気にもならないのである
今花が咲いているのを見たい実がなっているのを見たいとなってしまうのであある
だからこの辺の津波や原発事故の復興するにしても老人になるとむいていない。その先が長く時間がかかるからである。老人の先は短いそしてまた体力知力も驚は衰える
老人はこれまで生きたことでその経験がありその成果と実りを示すことなのである。これから経験して成果と実りを得ることではないのである。

だから老人には復興は向いていないのである。。でも若い人は流出して老人だけが避難区域に残されたのである。そのために復興が難しくなったのである。
戦後戦争に負けて焼け野原になってもなぜ復興できたのか
団塊の世代などまともに食べるものもなくても大量の子供が生まれて活気があったのである。その時子供に食べさせたのはアメリカからもらった脱脂粉乳などであった子供の時それを飲んだがまずくて吐いたことを覚えている。
そんな風に貧乏でもなぜあんなに子供が多かったのかとなる
今は確かに貧乏になっているがあの時の貧乏と比べれば比べようがないのである。実際何もなかったのである水道も天気も電気もガスもない。家にあったのは飯台一つだけだった

それはみんな同じだったのである。みんな食べるものさえなかったのである。それで豊かだったのは家に食べるものがあった農家だったのである。農家でわ納豆まで作り油も作っていたのである。栢の実とかで油も作っていたのである。
燃料は炭だから近くの山で木か炭をを作っていたのである。外国から入ってくるものはなかったのである。
そんな貧乏でも子供が多くその遊ぶ声がいたるところで聞かれたのである。今子供を見かけない。遊んでいる子供を見かけない。
ただ幼稚園とかで見かけるだけなのである
いずれにしろそもそもあらゆるところでああ跡継ぎさえいなくなっているのである。中小企業であれ町の自転車屋であれ一軒しかなかったがそれも死んで自転車屋もない街となってしまったのである。それは全国的にあらゆるところでこれから起きてくることである。

そして老人ばかりが増えてくるのである。その後を継ぐにしても60過ぎになったら若い何か新しいことをすることが難しくなる
それももし百歳まで寿命が延びたらどうなるのか。そのあとを継ぐのは70にもなってしまうのである。それも絵空事ではなく百歳まで生きるとしたらそれはあり得ることなのである。
だから少子高齢化社会というのは大きな問題であり社会が停滞してもう未来の年表で言うように国を守ることすらできなくなる
自衛隊に入る人もいなくなり消防や警官とか安全を守る人もいなくなる。なぜならそういう仕事は若い人がするものだからであるだから自衛隊でも入る人がなく60歳の人が国を守るとかになる。それも冗談ではなく未来の年表は現実化してくるのであるともかく後を継ぐ家を維持することは結構難しいものだった。

でも早い時期にしていれば経験も積むし自分のしたいことが出来たのである。やはりどうしても親とかが老人が金と権力をもっていることは若い人は何かしたいと思ってもできないのである
私は別に親に恵まれてしたいことをさせてくれたからそれで恨むことはない。それでもやはりもっと早く家を継ぐとか遺産をもらうとか金を持ち権力をを持てば自分のしたいようにできたとなる
これは私個人の問題だけではなく国全体の社会全体の問題なのである。どうしても高齢化社会は保守的になり停滞してしまうのである。

2023年03月15日

人間の性格の謎 (A型の大工さんと仕事してわかったことー日本人は40%がA型だった)


人間の性格の謎

(A型の大工さんと仕事してわかったことー日本人は40%がA型だった)

●陽と陰の性格
●長男長女次男次女一人っ子の性格
●血液型の性格

●陽と陰の性格

人間の性格は陽と陰に大別される。陽の人は社交的である人当たりが良く集団組織的に行動することが向いている。
それに比べて陰の性格の人は非社交的であり人付き合いが苦手である。そのために社会から社会にうまく適合できなくなる度合いが大きい。なぜなら社会とは反対にすれば会社のことになるからである。
今の社会は会社に就職することが生活することになる。とすると陰の性格の人は会社でもうまく行かない適合できないのである。
それは会社だけではない。そもそもが社会は常に集団行動を教えられる。それはすでに幼児からそうである。
幼稚園からでもそうであり学校でもそうである。第一学校は集団組織に適合するための訓練なのである。
そこからして陰の性格の人は実は合わないのである。私の場合は小学校はそういうことはなかった。中学になってから学校に適合できなくなった。高校でもそうだった。

そのために勉強もできず成績も悪かった。組織的集団的に画一化された教育が合わなかったのである。まあ才能もなかったが何か自主的に自分なりのペースで時間でやれば身につくものがあったと振り返る。
どうも陰のの性格の人はみんなと一緒にやるのがうまくいかないのである。でも社会は大多数は陽の性格の性格の人が作っている。だから陽の性格の人たちにとっては生きやすいのである。
陰の性格の人は性格の人は生きにくいのである。それでそういう人は引きこもりになっているのかもしれない。まあその原因はわからないにしろ集団に組織的に適応できないとそうなりやすい。
社会は陽気な性格の人に合わせて集団組織がしたかしているからである
それで陰の性格の人は生きにくいのである。そういう人は内面的なこと哲学宗教または芸術とか内面的なものを追求するのに向いている。そういうところで独自性と独創性を発揮するようにもなる。
でも社会全般は集団的組織的に形成されているからそういう人は変わり者になってしまう。
ただ一概に分類はできない。ただでも大雑把に見ると確かに陽の人と陰の人にまず二分できる。

●長男長女次男次女一人っ子の性格

それから人間を形成するものに兄弟姉妹が関係する。長男長女は次男次女がいていて何人か兄弟がいて姉妹がいてすい子がいてそれぞれの性格が形成されていることは確かである。
だからここにも性格が如実に反映されている。これはわかりやすいのである。この人はなんかおおらかでのんびりしているなと見ると長男長女が多いのである。
何かすばしこいずるいとか機転が利くとかは次男とか地上に次女二多いとなる。それは兄弟の中で長男長女は親から何でも与えられるがその下は与えられないから自ら取りに行かればならない
それでのんびりしていないのである。自ら取りに行かないと食べるものも得られないことがあるからなのだ。
長男長女はまず親から与えられるからそういう方にならない。
のんびりした大らかな性格になるのである。その中でも一人っ子特殊なのである。
一人しかいないのだから兄弟間の争いもない、でも親からなんでも与えられるのである。だから長男長女は競争するのが嫌いなのである。それより兄弟間で争うということがないから競争もできないのである。そのために結婚していない一人っ子が多いというのも分かる。兄弟もいないし姉妹もいないから女性でも親しか知らないから女性と上手く付き合えないのである。
そこに一人っ子は異常なものともなる。
こうして兄弟姉妹の中で人間の性格も作られることは確かである。この二つは分かりやすいし理解しやすい。確かにそういう性格の人がいるからである。

●血液型から見る性格

わかりにくいのは血液型から見る性格である。
これは明確に判定できないからである。でも明らかに血液型による性格があるがある。だからこれは不思議になる。
なぜ血液型の違いでそうなるのか科学的にもわからないからである。でもこれは明確に分けられない。曖昧になる。でも確かにある。
意外なのはa型は日本人で四割もいるということは日本人の性格はA型は主流だということになる。ということはA型の人を知ることが日本人を知ること知ることだともなる。
私はB型である。そこでA型の大工さんと家の仕事を一緒にしてわかった。その大工さんはA型なのである


集中力バツグンのA型。

仕事も趣味もとにかく集中的に取り組み、極めるプロフェッショナルタイプです。

その性格は几帳面そのもの。
とにかく几帳面で細かいことでも集中する長所の持ち主です。
しかし、自分への厳しさが他人にむくことが多々あります。

自分にも厳しいのですが、他人のことも気になってしまう細かさがたまにキズになってしまうんです。

「注意が細かい」「小言が多い」「そんなこと言わなくてもいいじゃん」と思われて、鬱陶しがられる上司になりがちなのもA型の人に多いですね。

きちんとしていないと気が済まない、几帳面なA型さんなんです。

真面目で中途半端が嫌いなので、手を抜くことができません。
非常に良いことなのですが、全てに全力投球しすぎてしまい、キャパシティを超えてしまうこともありそうなのがA型です。
自分の能力を過信することはないのですが、手を抜いていいところでも抜くことができないので、心身ともにいっぱいいっぱいになることが多いようです。

A型の性格の特徴はコレ!24個のあ...(続き2)


そのA型の大工さんの助手のようなことをしてつくづくそのことを感じた。とにかく几帳面でありゴミ一つでも落ちていたら厳しく指摘して掃除を命令する。
潔癖性がありそうして汚れていることを許さないのである。
そのことで随時指示されてそれを守らないと厳しく言うのである。ただリフォームの仕事でそうするのは仕事だからきちんとしなければならないからそうなったとも見る。
A型の人はこうした掃除することや整理整頓することに向いている。なぜならゴミ一つでも落ちていたらそれが気になってそのままにしておけないからである。
そしてそのことで厳しくいちいち指示するのである。

それは私がB型であり何か雑であり整理整頓ができていないそれでその反対の性格の人で特に感じたのかもしれない。
だからA型の人はこうして整理整頓とか掃除とか大工仕事でもきちんと計っていろいろ作ってゆく。その仕事に向いているのと向いていたのかと見る。
何か私はルーズでありだらしがない。 A型とは正反対なのである。あまりそうした細かいいことに拘らないのである。
おおざっぱな性格なのである性格なのである。だからA型の人とは相性が悪いことに気づいた。でも一緒に仕事をして学ぶことがあった。別に血液型に関係なく仕事を手伝えば何か学ぶことが必ずある。大工仕事でも職人の仕事でもそれができる人について見ていれば必ず何か学ぶことができる
だから職人が親方が何も教えなくてもその仕事を見ていればその技を盗むことができるということがわかる。
血液型から見ればA型とB型は相性が悪い、B型とO型は相性がいいことが直接O型の女性と付き合いわかった。

ともかく今は多くの人の仕事が理解できない。あまりに多様化してできない。ただ大工ならそれは奈良時代からもある職業である。それでその仕事はある程度は見ていれば理解できる。現在の仕事は理解できないものが多い。原発の放射線の仕事など分かりにくいし理解できないのである。そういう仕事もまた多すぎるのである。
人間というのは性格にしろ相手を理解することが難しい。そこでなかな人間関係が上手くいかず争いにもなる。だから私は人間嫌いであり人間と付き合わず引きこもりになり自然を相手にして木や石とか一体化してアイデンティティかすることをしてきたのである

そこには人間はいなかったのである。そのためにまた偏ったものとなってしまったのである。人間社会に生きる限り社会を知り人間を知ることも必要だったのである。それが失敗だったのである。そのために親の介護で死ぬほどの苦しみをしたのである。
でも人生は必ずこうして何か足りないものがあり失敗するのである。あらゆることを経験もできないし知ることもできないからである。そしてその人に合った性格に合った仕事など与えられないからである。そのために引きこもりが60万とかの数になるのも理解できるのである。それもわがままと言えばそうなのだがやはり性格的なものがあり適合できないということがある。。
その大工さんでも流れ作業のようなことを2週に2日ぐらいしていたが辞めた。やはり大工とは違って機械のようにロボットのようにされるということでやめたらしい。歳のせいもあるようだ

とにかくなんとか台所のリフォームも終わった。
風呂どうかトイレとかキッチンは毎日使うものだから直さざるを得ないのである。それでどうしても大工さんがある程度定期的に見てもらうことも必要なのである。
私の家は50年過ぎてもう限界になっていたのである。二回も大きな地震が来て歪んでしまっていたのである。もし柱でも曲がったらもう住んでいられなかった。その点まだ進むことができるので助かったのである。
結果的には50万かかった。でもキッチンは11万で安かった。その他の大工さんの手間が大変だったのである。だからあとは手間賃だったのである。その苦労を見ていたから実感していたし仕方ないと思ったのである



2023年03月14日

土地の大工さんに頼むリホームと外部の会社に頼むことの相違 (広域化グローバル化で時間軸で作られた継続するものが失われた)


土地の大工さんに頼むリホームと外部の会社に頼むことの相違

(広域化グローバル化で時間軸で作られた継続するものが失われた)



家を直すにしても家を作るにしてもリフォームするのにもユニットバスは仙台市の最近できた会社の人が100万で作った。
それは安いものだった。それからトイレはやはり郡山市の方から来た会社の人だった。震災の時は瓦屋根を直したのはいわき市の会社の人だった。
今回一部の部屋とキッチンを直したのは地元の大工だった。その人は会社の人ではない一人で仕事を請け負い仕事してる人である
ただリフォームというのは面倒なものだと思った。一からやり直すより古いもの残すのは回転面倒なのである。
そしてリフォームは何か密なコミュニケーションが必要になる
そのリフォームする大工であれ人とコミュニケーションは必要なのである。
それで思ったようなものが作られないという苦情が多いのもそのためである。。

そして現代では仕事が広域化している。だからこそいわき市の人が来たり郡山市の人が来たり仙台市の人が来たりとなったのである。
でもそうして広域化して家を部分的に直す。でも何か家全体を見ることも必要である。それがなかなか出来ない。人間にはそんな全体を見る能力はない。でも家にしても全体を見るということが必要なのである。
それは人間の体でも同じである。人間の体を部分として見て治療する。でも人間の体は互いに通じ合うものであり部品としてだけ見ることは問題が起きる
でもどうしても人間の仕事は専門家する。それがあまりにも複雑な社会となり無数の専門家が生まれ互いにその専門家同士でも互いに理解できないものになる。

そこに現代の大きな問題が潜んでいる。原発でも全体を分かる人はいなかった。
吉田所長すら復水器のことすらわからなかった。それは重要なものでも私の専門外だということで分からなかったのである。
社長でも今や全部を知ってる人はいないそれだけ複雑でありひとりの人間が知り得るものは一部分に過ぎないのである
だからその大工さんは庭作りすらできる壁塗りもできる才能ある人であったが水道のことがわからなかった。それでキッチンを入れるとき合わせることができず焦ったのである。

リフォームはとても一人ではできるものではない。建売住宅のように組み立てるプラモデルのように組み立てるものではないからである。
そこには細かい技が必要になっていた。古いものに合わせて作るとかなかなか難しいものであった。だから密なコミュニケーションが必要になった

そして大工さんの仕事でも前は地元の木材で家を作っていた。外材などを利用していないのである。するとまたたいがい地元の人の大工さんが家を作っていた
今のハウス会社などではない。ハウス会社になると地元はあまり関係ないのである。多少地元の大工さんに委託するようなことがあっても別に地元はそんなに関係しないのである。フランチャイズ店などもそうである。コンビニでもそうである。
こうして現代で広い地域かになりグローバル化して地域のつながりというのが希薄化したのである
でも地域の人に仕事をしてもらうということは例えばトイレを作ったユニットバスを作ったトイレを直した瓦屋根を直したとか地元の人と関係していない

そうして外部から来た人で仕事する人はどうしても一時的な関係になりやすい。でも地元の大工さんに頼むとその大工さんは近くに住んでいるから一時的ではなくなる。何度も家を直したりする。
何か家のかかりつけ医のようになったのである。それは近くに住んでいるからこそできたことである。だから一時的な関係ではなく継続的な関係にもなる。それはただ家のことだけでなくその他のことでも地域の中で生きてゆくことで関係してくる。同じ市内に住んでいることでもあり生活を共有するということがありそうなる。
原発事故では互いに危険でも共有するものであった。でもそのことでみんなが議論したりすることもなかったのである。今になるとやはり地域が危険になるということでみんなで一応議論すべきだったのである。
つまり地域で様々なことで問題を共有するということがある。でもそこでも対立はある。原発に賛成するか反対するかそこで地域内でも対立はする。

現実問題として原発事故以後では南相馬市でも補償金で対立したからである。
ともかく人間は空間軸と時間軸で生きている。時間軸とは継続することである。広域化グローバル化は空間の拡大である。でも継続するというときは時間軸で継続するのである。
先祖代々の地というときそれは継続してきた時間を言っているのである。そして日本だと空間軸と時間軸は狭い国土と地域で村単位で一体化した
先祖が春になると山を下りて田植えを見に来るというのはそのことである。
先祖は山に眠るからである。村ではそうして空間軸と時間軸で一体化する。
でも空間軸が広い地域してさらにグローバル化するとき時間軸で形成された継続するものが失われたのである。
原発事故でも江戸時代からでもその前からでもあった村とかが消滅したからである。その時代々継続された時間軸のものが消失したのである

ただ現代は空間軸で拡大した。でも時間軸で継続されたものが失われた。人間の関係も空間軸では拡大したとしても代々続くとかの人間関係はない。ただ一時的な関係に過ぎない。先祖代々の繋がりとか時間軸で形成されるものは失われたのである。
仕事でもだから家にしても家の一部分として仕事してその後の関係はなくなるのである。でもその当地の地域の大工さんが変わる時関わるときそれは一時的なものではなく同じ空間と時間を共有する中に関わることになる。
それが遠くから来て一時的に部分的に関わるのとは違っているのである

現代はあまりにも空間的に拡大してしまった。その代わり時間的に継続するものが消失した。それが問題なのである。
人間はそれぞれの地域で風土の中で生きる。
でもその自然にしても地域地域に違ったものがありそれが一体化するアイデンティティするにわ時間がかかるのである。その時間の中で空間軸と一体化してアイデンティティ化して文化が生まれるのである。ただ空間的に拡大しただけでわ物の交換はあったとしても文化は生まれないのである。
だからグローバル化からは文化は生まれないのである。物の交換でありそこに精神的なもの文化は生まれないのである。

これからの時代はグローバル化による物質的豊かさよりその土地土地に根付いてたがやすカルチャーお育む時代になっている。
風の時代ではない。地の時代なのである。
そして家というのは老後には大事なものになる。なぜなら老人はあまり遠くにゆかず家に居ることが増えるからである。だから家の住みやすくして家に居る時間が長くなる。それでリフォームは必ず必要なのである。
もう50年もすぎたら老化してきていい時代に住めなくなっていたのである。
大きな地震も二回来て家が歪んでしまったのである。
それで大工さんもリフォームするのに苦心したのである。
ともともかくなんとかリフォームしてキッチンも直して快適に住めるようになった。
まあと何年生きるのかわからないがやはり住み心地良い家であれば助かるとなる

2023年02月15日

高齢化社会では老人の価値が問われる (多様な価値を追及する時代-組織集団的価値から個々人の価値へ)


高齢化社会では老人の価値が問われる

(多様な価値を追及する時代-組織集団的価値から個々人の価値へ)


老人が尊敬されないとか老人が邪魔者しかならない社会、それはどうしても老人の数が多すぎることなのである
つまり老人の数が今の十分の一とかなるとその老人が別に特別の能力がなくても社会で貴重なものになる
確かに老人の語ることは人生経験から語る、そこが若い人と違っていて価値がある。でもその経験に価値があっても社会にとって価値があるかとなるとわかりにくい、単なる自慢話しにもなり聞きたくないともなる
ただ老人は必ず語り部になる、過去に経験したことを語る、そこに価値がある、だから郷土史の基本が親でも祖父母でも聞いた話が基本にあると書いてきた

結局人間は誰でも自分が価値あるものだとみとめてもらいたいのである。別にそれは科学者とか学者とか特別の人ではない、あらゆる分野で庶民でもそうなのである
知っている大工さんだと自分の技を誇る、庭作りでも壁塗りでもできたからそれは他の人にはできないから誇り私の価値を認めてもらいたいと切実に要望しているのである

私の家でもそうだった、親が橲原の同級生のキコリが柱となる木を与えてくれて大黒柱のようにしたとか認知症にもなり本当に百回でも語りつづけたのである、だから聞く方も閉口したのである
また戦争のことでも延々と語りつづけた、なぜならシンガポールの向かい側のジョホールバルで従軍看護婦として四年間も勤めたからである。その苦しみは忘れられないから語りつづけた。
遂に入院して死ぬ直前までそのことを語っていたのである
それだけその戦場での経験が忘れられないから語りつづけた。
その戦いは日本のために戦ったのでありだから命がけで国のために戦ったのだからその価値を認めてもらいたいというのは理屈なしでわかる。戦争の是非はともかくとしてそれだけ苦しんで戦ったのだからそれは無視できないのである

老人の価値はこうして過去に何をしてきたのかで決められる。
戦争を経験した人は戦争のことは忘れることができない、だからそんなこと無駄だったということはなかなかできないのである
それはただの人殺しした犯罪に過ぎないと言えないのである
そう言われることはもう人生そのものを否定してその人間自体も価値なきものともされてしうまうからである
そして三百万人も死んでいるのだから余計にそれらが無駄死にだったなど言えないのである

老人の価値は今生きている価値ではない、過去に生きた価値なのである。歴史だと長い時間の中で色あせない価値がある
ただ戦争とかなるとその価値は国民的価値であり個々人の価値ではない、国家の価値だとなる、組織や集団でもその価値は個人の価値ではない、カルト教団でもそれは組織集団の価値であり個々人の価値ではない、でもその組織集団の価値も喪失することがある。カルト教団などはいくら数が多くても数だけで権力を誇示するものだから数が減ると価値も喪失する。でももともと宗教は創始者がいてその創始者の価値は持続するのである

要するに常に人間は価値が問われる、あなたにどんな価値があるのかと個々人でも問われる。もちろん会社でも何でもどういう価値があるのか問われる、障害者でも何の価値があって生きているのかとなる。何か世話ばかりされてごくつぶしであり生きる価値があるのかとして大量殺人にもなったのである
それは重度の精神障害者だからそうなったのである
軽かったら価値以前にしかたないとして生かされていたのである
それは自分でそうなりたくてなったわけでもない、生まれつきだともなるからである、その責任は誰にあるのかとしたら親にあるとしても全部は親でも負えないからみんなで負うとなったのである

今老人に何の価値があるのかということで問われている
老人にこんなに金を使って何になるのかともなる、それは無駄だとなる。でも人間社会には無駄が多いのである
ギャンブルでもそんなの無駄だとなりスポーツでも見るスポーツは無駄だともなるし価値がないともされる
そしたらなぜそんなものに金を使っているのだともなる
こうして価値を問えばある人からみれば膨大な価値無きものに金を使い費やされているのである

そもそも老人に価値がないという時、何に価値がないかである
働かないで金を稼げないから価値がないのか、ただ病気にもなり老いて人の世話になるばかりだら価値がないのか、それは障害者が価値がないのと似ている
そこに費やされるエネルギーも膨大だからである、だから障害者も始末しろとなる、障害者と老人は似ている、優生学だとどちらも社会の負担であり抹殺しろともなる

ただ老人の場あいはいろいろな人がいるから一緒くたにはてきない、老人でも価値がある人はいるからである
別に若者より価値がある人はそれなりにいる。みんな価値がないものではないのである。若者だからすべて価値あるものとは言えない、でも若者は価値ある人間になれる、それが違っているだけである、老人になれば価値を作りだした人でありその価値が評価されるのである、若者はまだ価値を作りだしていない、未完の大器としても見られるから価値があるとなる
今は価値を作りだせなくても未来に価値を作りだすものとして価値があるとなる
そのことで一番感じたことが原発事故の復興である。60代の人が来てもすぐ70とかなる。すると未来が望めない
若人が来れば長い時間で達成できることがある、ただその時間があることで未来があるとなる
老人になると何か花の木を植えても花が咲くまで時間が十年とかかかるとなるとその前に死んでいるともなり長期的に見れない
今花が咲くの見たいとなるからだ。だから投資に向いていない、投資は長い先を見ればもうかる。
投資とは株だけではな長い先を見て投資すると成功することがあるからである。
60代の人が来てもやがて介護になったら誰が世話するのかとなりただ重荷になるだけにもなるからである。
でもそういう年の人が移住しているのが多いのである

確かなことは老人が少なければこうはならなかった、数が多いということは価値が減退するのである
長生きした人は昔ならそれだけでも価値があった、みんな長く生きないから長く生きているだけで価値があったとなる
だから価値ある老人になるためにはどうすべきかが高齢化社会では問題になる、必ずしも金を残した人が価値があるともならない
ただ金があればその金に人は寄ってくる、それはあくまでも金が目的であり金の価値でありその人自身の価値ではない
その人自身の価値とはその人が人生の中で作りだしたものである
芸術家だったら作品があり作品によって評価されるとなる

とにかく今老人の価値が問われている、国家予算でも老人に費やされる割合が多くなりすぎたからそうなる
なぜ老人福祉に金をそんなに使うのか若者に子どもにも使うべきだとなる、全部ではないにしろ無用な価値無い老人に国家の金を使っても無駄となる、そんな余裕はないともなる

老人に金を使っても無駄というとき結局将来性がないからだとなる。若者だったら例えどんな若者でも未来を嘱望されるからである
老人の価値はこれまで生きて作りだしたものに価値がある
だから意外と老人の価値は明らかになり安い、子供とか青年はこれから何になるかわからない、大物になるかもしれないし泡沫のように消えてゆくかもしれない、それは未知なものとして価値があるとなる、成長するものとして価値があるとなる

でも若者でもみんな価値ある人間になるとは限らないのである
だから老人が尊ばれるとかなるとやはり老人になってからでは遅いのである、その前に価値あるものを作り出して価値ある人間となっていなければならない、老人になっただけでは馬齢を重ねるだけであり価値ある人間にはならないのである
それで高齢化社会ではいかに価値ある人間となり老人となるかが問題になる、会社とか組織とか団体は集団しての価値でありそれはその価値は全体にある、会社員だったら全体の会社の価値を高めるために働いていた、でも退職すると大企業の社長でも一介の庶民にもなる

退職すると個々人の価値が示さないと価値ないものともなる
個々人の価値となると芸術家などはそういうことを追及してきたから老人になって継続してその価値を示せる
でも会社であれ組織であれ集団的に価値を追求してきた人は一旦退職したら価値なきものともなる
それで価値ある老人になるには若い時から準備していいかねばならないとなる。あることに詳しいとなれば素人でも学者になるとかある、集団的組織的価値ばかり追求しているとその老人は価値がないとされる

発達障害の人がスマホとかタブレットはできる、でもそれを自慢はできない、それができたからといって価値ある人間にはならないのである、もし私のようにパソコンでいろいろ創作したものを発表すれば価値あるとなる
スマホを操作できても価値ある人間にはなれない、プログラムでもできれば違うが別にスマホを操作できるから価値ある人間とは認められないのである
ただ価値が多様化するから何か価値あるものを発見したり創りだすことが要求されていることは確かなのである
ある一分野でもマイナーなものでもそこを追及して第一人者になれば価値ある人間ともされる。ただそれで金になるとはならない
趣味の世界ではそうである、老人の趣味で花に興味を持ちクリスマスローズに詳しい人がいた、その花だけでも栽培して詳しくなれば価値があると花の分野で地域でも認められるとなる価値あるものとされることはある
人間の価値と金は等しくならない、莫大な金になっても価値がないもみられるし金にならなくても価値があるとされるものもある





2023年01月15日

家族だけでは介護でも障害者でも看ることは無理 (家族遺棄社会になる背景)


家族だけでは介護でも障害者でも看ることは無理

(家族遺棄社会になる背景)

発達障害者の人は弟がいるのだがその人と合わない、私自身がじかに接してわかった
とにかく障害がある兄でも厳しいのである、母親のような愛情もない、だから自分のいいことを聞けとなり厳しく命令する、あなたは何もわからないのだから俺の命令を聞けと一点張りなのである、あなたは何もできないから命令に従い逆らうなとなる
そして厳しく叱責もする、お前は何もできないのだから俺がやってやっている
その苦労を自分にも語ったことは理解できる、やはり精神障害者で認知症の家族を介護したことがあるからわかる、でも発達障害者の兄は嫌がっている、付き合いたくないと言っている、頭がパニックになり苦しくなるから嫌だという強い拒否反応を示している
それで発達障害者がyoutubeで自ら語っているのを聞いた
それだと発達障害者が付き合っていい人と付き合っていけない人のことを言っていた
弟でもこの場合付き合っていい人ではない、付き合ってはならない人となっていることがじかに接してわかった
愛情もないしただやっかいものとして扱い強制して服従させるということになっているからである

私と接してはそういうことはない、私は厳しいことを言わないからである
弟の場合は強制的に服従させようとしている、でもできないことがあり弟が代わりにしている、弟も苦労しているそうなった、母親も脳梗塞になりそのめんどうも一手に引き受けることになったからである、だから弟でも責めることはできない、普通ならその苦労をわかってあげるとなるがそれができない、そういう余裕もないからである
確かなことはとても弟は世話するのが無理だと見た
何かわからないのだけど発達障害者と認知症でも似ている面があった
それはプライドを持っている、お前は何もできないから弟が俺が世話してやっている
だから俺に従いばいい、そういう態度が発達障害者の兄は嫌っている
自分ができないにしてもそれで責められるのに反発する

認知症の人の場合は親を介護することになり親だと人生経験も積んでいるし一方的に世話される関係ではない、親として子供に尽くしたということがあり簡単に親を馬鹿だとは扱いない、特に親でも特別良くされた人は粗末に馬鹿として扱えないのである
やはり親には親のプライドがありそれで子供に馬鹿にされると怒るのである
できないことがあっても親は親でありプライドを持っているからである
部下だったら上司はやはり上司でありまた社長だったら社長なのである
そこで社長は社長としてたてると気分良くなる、馬鹿になったから馬鹿として扱うと怒るのである、そこで演技が必要だとしている、あくまでも演技として認知症になってもたてると認知症の人も気分良くなるのである、そき気分良くなることは精神にいい影響を与えるのである、穏やかになるからである

ともかく認知症でも介護でももともと継続した人間関係がありそれを否定できない
親は親であた子供は子供である、それで兄弟姉妹関係になるとむずかしくなる
兄弟姉妹は親に良くされるために争うことがあり親の愛情を受けるの偏ることがある
それが大人になっても不満になっている、そのために親の介護になるとき一番良くされた人が兄弟でも親の介護しろとなる、つまりそうした人間関係は継続するのである
発達障害者の人は兄であり世話している人が弟である、すると何か親のように世話になった関係でもないからうまくいかない、兄弟姉妹で介護とかするのはむずかいしとなる
特に認知症でも発達障害でもそうである
発達障害者でも人間でありプライドを持っていることがわかった
実際にできないことがあってもプライドを持っているのである
それを傷つけられると不満になる、でも世話する側になればそんなブライドをもっていても実際はできないことが多いのだから認めることはできない
親だったら世話になったとういことがあり大目に見ても兄弟姉妹ではそうなりにくいのである

精神障害者の問題は発達障害者とかでもプライドを持っているということである
だからあなたは何もできない馬鹿だと扱うと怒る、そうなると介護でも世話もできないのである、それは身体が悪いならその補助をすればいい、でも精神となるとめんどうだとなる、でも盲目の人を駅で案内したが何か助けることをしたが自分で電車に乗れると嫌がっていたのである、やはり人間とは必ずしも何でも他者からしてもらうことに抵抗がある
それは無能だということありそれより自分でやれることはやる、その方がいいとなる
そこに人間のむずかしい問題がある、でもこの場合は兄弟関係であり世話になった親との関係でもないから問題が生まれた、私自身は親の介護でも認知症になっても特別世話になったし家でもそうである、家を作り支えてきたということを自覚していたから苦しいけど相手をたてて介護していたとなる、つまり親は親でありその関係は変わらないものだったのである、馬鹿としては扱いないかったのである

その弟はそういうことはない、だからその関係もうまくいかない、そこで感じることはそもそも介護とかなると家族だけ負担しきれないものがある
介護の負担は大きいので家族だけで背負いきれない問題がある
そのために介護で家族が崩壊する破綻することもでてくる
日本の場合は家族に介護の負担が全部負わされる、それが問題としている
ヨ−ロッパとかでは福祉が充実して家族だけで介護するということはないという
日本の問題は家族にすべてがまかされる、そこでその負担に耐え切れずに問題が起きる
発達障害者でもやはり家族だけではめんどうみきれないということがある
つまり弟でも合わないことがありその状態は発達障害者自身にとっても良くないのである

そこで介護になると家族がばらばらになったり崩壊したりする、もう家族だけでは見きれなくなるからである、近くで認知症の母親を介護していた息子が母親を殺してしまったということも起きている、それは息子だけに介護をまかされたからである
その負担の重圧でそうなった、私自身も一人だけであり自らも病気になり二人を介護して家族崩壊になったからである、だから介護となるともう家族だけでは無理になる
でも今外部からの助けを得られない、隣近所も疎遠であり無関心である
公的なものとして福祉があったとしてもそれも事務的なものとかにもなる
また金銭的なことも援助できない、特に今は福祉関係は厳しくなっている、日本が貧困化して福祉に金が回らない、すると介護でも家族にまかされてそこで悲劇が起きる
それは8050問題が深刻なものとなる、そこで事件が多発する、家族だけにまかせる介護は限界である、ここの問題も家族だけでは解決しない、むしろ家族が悪い方向に導いているのである、それがやっかいなのは精神障害者を扱うことのむずかしさがありそうなった
家族遺棄社会とは家族が必ずしも冷たいというのではなく家族だけで介護することが限界に来て家族を捨てるともなる、金銭的にも負担でありまた人手もかかるからそうなる
それで会社をやめて介護に専念することにもなりその負担も大きいからである

でもそういう家族に他人がかかわることはめんどうになる、負担が負わされることで敬遠して見放すともなる、かかわるにしても簡単にはできない、まず金銭的にも体力的にも時間的にも余裕がないとできない、まず事業が失敗して借金しているとかそういう人は助けることもできない、かえって負担になり介護される人でも苦しいものとなる
それは自分自身が経験してきたからである、人間はとにかく余裕がないと他者を助けることはできない、自分自身が借金に追われているとか金がないとか病気だったら他者のことを助けることなどできないのである、自分自身のことで精一杯だからである
現代は金銭的にも余裕がある人は少ない、だからみんながそういうふうに余裕がない社会は福祉の方にも手がまわならなくなる、そこで悲劇が起るのである

2022年12月16日

突然人は逢えなくなる、すぐ近くでも逢えなくなった (60以降に起きやすい、親との別れも・・・貴重な共にいる時間)


突然人は逢えなくなる、すぐ近くでも逢えなくなった

(60以降に起きやすい、親との別れも・・・貴重な共にいる時間)


その人は一人でいるからいつも親しくしていた女性が毎日通っていた、話し相手としてもまた多少治療のためにも来ていた、でもその女性は嫌がっていた
その女性はすぐ近くであり見える範囲にあり歩いて行っていたのである
でも突然脳梗塞になり入院した、すでに二カ月にもなる、別に街の病院だから近いのだから見舞いにも行ける、ところが自分自身が病気であり見舞いにも行けない、今はウィルス感染がうるさく病院でも警戒して入れないとなっているからだ

だからこんなに近くても逢えなくなるというのは驚きである
離れて暮らしていれば逢えなくなっている、それはわかる、でも同じ街内に住んでいて逢えなくなのことがあるのかとなる
その女性はまだ72歳とかであり男性は85歳とかである
でも治療していて歩くこともままならない、自分自身が病人だから逢えないしまた女性も脳卒中で歩けないとかなり逢えないのである
それで男性は相当に一人で淋しいとなっている、娘は一週間に一度しか相馬市からしか来ないのである
何か私自身でも経験したことは原町だと8キロもないくらいでも車だと近いようだがが
意外と手間になるのである、だから特別な肉親とかではないならめんどうだとなる
その娘にしても一週間に一回しか来ないのである

何か人間は老人になると別離が多くなる、親子でも兄弟でも夫婦でもどっちかが死んだりして永遠に別れる、逢えなくなるのである
それは常にそういうことが起きる、私自身も両親でも家族は全部死んだからである
回りでも知っている人が死んでゆくのを経験している
ただ別に近くでも親しくしていないのだからその人のことを余り思わない
でも別れが多くなりその分れも二度と逢わない別れなのである

だからこんなにすぐ近くなのに逢えなくなるということもある
それも信じられないとなる、歩いて逢えに行くこともままならないとなったからである
別れというとき肉親でも介護の時は早く死んでくれないかなとなる、負担が大きいからである、でも死んでみるともっと良くしてやれば良かったと後悔している
それはやはり苦しかったけど二度と逢えなくなったことにあった
もう逢いたくても逢えないからである、するともう一度逢いたいとなりそれが切実なものとなるのである

その男性にしてもその親しい女性にもっとやさしくしていれば良かったともみる
でもその男性にしても自分が病気なのだからいたわれる者としてあった
それが突然逢うこともできなくなったのである、意外と老人はこうなりやすい、突然病気になり倒れて動けなくなったりするからである
人間は老人になると死期が近くなるとなぜか必ず知っている人でも回って歩くという
最後の別れのために回っているのかと不思議になる、兄も一回私の家に来たがその後交通事故になり永遠に逢えなくなったのである
肉親でもそうして突然別れが来て永遠に逢えなくなるのである

そして死ぬとき後悔しているのがもっと人にやさしくしていれば良かったとか反省している、その男性もその女性にもっと優しくしていれば良かったともみる、ただ自分自身が病気なのだから相手を思うことそんなにできないということはあった
別に冷たい人間ではない、でも突然近くでも逢えなくなったということはショックになるだろう、それも百メートルも離れていない所に住んでいたのである

人間は最後はさよならだけが人生だとなる、身近な人でも死んでゆくからである
でも生きている時そんなに感じないのである、それで一期一会とか末期の眼とかが言われる、まさに残り少ない生きる時間を惜しむとなる
末期の眼で見る時その価値は金には代えられないものとなる
なぜならもう生きる時間は伸ばせないからである、いくら金があっても時間は買えないからそうなる
ああ、まだ生きているなということが感慨深いものとなる、なぜならもうこの世にはいなくなるからである、人ともみんな別れるからである
こうして生きていれば無駄に時間を浪費することはなかったとなる

逢うは別れの始めなりとかあるが本当にそうである、人間確かに逢うのだがそれは別れを前提としていたのである、だからこそ逢うということを大事にしろということで一期一会の思想が生まれたのである、ただ人はなんで逢うのかとなる
ただ行きずりで逢うこともありギャンブル仲間として逢うこともあり男女なら肉欲で恋愛で逢うこともあるし逢うといういってもいろいろである
何か目的が同じでないと人間は永遠に別れる、そもそも求めるものが違っているからである、社会にでればただ金儲けが目的であり会社でも目的は利益を得ることだけになる
カルト教団などだともう信心とかで逢うのではない、数を集めるために権力を得るために逢うとなる、だから権力を得られない金を得られないとなると離れる
人が出合っても目的がそういうものであるから当然そうなる
そしして金の切れ目が縁の切れ目となり永遠に逢わないのである

結局この世は出合いでも一時的であり生きるのも一時的である
永遠の住いでもない、一時の仮の宿になる
そして神が結びつけないものは離れる、家族ですら離れる、神の国でこそ永遠に生きて別れることがなくなる、ともかく人間は本当に出合いにしろ逢うにしろ一時的なので悪
だから熟年離婚も多いのに驚く、68で離婚した人はおそらく不倫なのだろう
また嫌で嫌でしょうがなかったがやっと離婚できたとか老人でもいる
同じ墓に入りたくないという人も多い、こうなると別れて当然だとなる
男女でもその出合いは一時的なのかとなる、そこにも無常がある

集団とか組織でもカルト教団などでも一時的なものである、あとは烏合離散して終わりである、そもそも信仰など求めていない、俗世と同じようにこの世のもの権力であれ地位てあれ金であれ女であれあらゆる欲を求めて集まったからそれができないとなると離散してゆく、そんな場所なのである、群衆とか大衆とかなるとそこに集まっても騒いでも一時的でありあとは烏合離散するだけだとなる
会社でも実際は長い時間を共に過ごしても退職するとその関係も終わる、継続しないのである
人間が出合いとは何なのか?毎日買い物しても物を買ってもそこに出合いはない
現代は実際は広域化してグロ−バル化しても人間が出合いということがない、出合い意味が見出されないのである、それでナチスのようになり集団化するのだかそこに出合いがあるわけではない、何かそこで偽りの一体感を持ちでも虚しく離散するのである

人間がパーツになりアトム化して真実の出合いとか結合などないのである
これだけの多くの人間がいても真の出合いは極まれにしかないのである
それより死んだ人の方が老人になると親しくなる、家族とかでも死んだ人の方が死んでもいなくなっても依然としている感じになっているのである
それは一緒に長く暮らしたということでそうなっていたのである
もしかしたら一緒にいる時間と比例して親密になっているのかもしれない
でも子供の時一緒に暮らさなければ実の親でも兄弟でもそういう感じにならないのであるだから子供の時の時間は大切だったともなる
それで熟年離婚とか損に思える、そもそも人間の時間は何でも限られている
一緒に暮らす時間でもそうである、ABCDE...とか人がいても長く暮らす人は数人でしかないからである、だから共にする時間が貴重だったのである

もう一度呼んでもらいたい
母であれ姉であれ父であれ兄であれ
私の名前を呼んでもらいたい
そこに愛が通っている
今そうして呼んでくれる人は一人もいなくなった
ただ死んだ人に呼びかけるだけになった
でも死者は答えない、でもそうする他なくなった

人の出合いは何なのか、それは一時的である、でも目的が同じならまた逢うことがある
目的が違うから逢わなくなったのである、真に神を求める人ならまた逢うのである
でもそういう人はめったにいないのである
だからこれだけの人間がいていつまでも思っている人もいない、人はただ烏合離散するだけだとなる、現代は何か広域化グロ−バル化すると余計に確かに多くの人が交わるのだが親密に交わる人はまれになる、江戸時代のような村だったらもう同じ土地に住み共に生活しているのだから自ずと親密になる、ただそういう閉鎖した村は嫌だともなる
だから現代は別に村とかの狭い窮屈な場に住む必要がない、それで人と土地でも人と人でもつながりは希薄化したのである
そこで金の切れ目は縁の切れ目となるのが顕著になったのである、ただそれで自由を得たとなる、でもそこで失われた物もあった、人間は土地とのアイディンティティも持てないとか人と人も一時的であり絆がもていないとかなった
そのためにこの辺の津浪とか震災で絆が盛んに言われたがそれは外との絆であり内部では補償金の争奪で争っていたのである、つまり金の力が余りも大きくなってそうなったのである

2022年11月14日

深刻な8050問題ー貧困化福祉の崩壊の恐怖 (家族崩壊を経験したのでわかる)


深刻な8050問題ー貧困化福祉の崩壊の恐怖

(家族崩壊を経験したのでわかる)

fukushicare1.jpg

医療崩壊のしわ寄せ】「財政面で壊れるのか、人材面で壊れるのか」 多額の損失で追い込まれる障害者事業所【大阪】
https://www.youtube.com/watch?v=vl93SJ4hW6Y&ab_channel=ABC%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%
E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9

コロナウィルスが影響してこうなった、中村喫茶店などもコロナウィルスの影響があり閉店にもなった、それだけではないにしろ原因としてはあった




72歳で脳梗塞になった女性はまだ年齢的には若いと見た
ただ脳出血とか脳梗塞は若い時でもなる、そして脳梗塞でも症状がいろいろである
つまりその脳のどの場所かで後遺症が出る
でも脳梗塞や脳出血ですぐに死ぬことない、身近で聞いた話でも十年くらい夫を介護していたという人が普通にいるし介護というとき十年くらいかかる場合がある
だから長いと思った、この長さでまいってしまうのである
私自身も介護していていつ終わるのかと恐怖だったからたいがい早く死んでくれないかなと思うようになるのである、それは冷たいことでもないのである
それだけ介護の負担が大きいからそうなる、でも死んでしまうともっと良くしてやれば良かったとまた後悔する人も多いのである

これは人間としてやむをえないということである
なぜかというとこの介護のむずかしさは死んだ後まで影響していることである
介護が苦しくても冷たく扱われたとかなるとか恨んで死なれると困るのである
実際親戚にそういう人がいたのである、全く病気になっても放置して何もしない非情な娘がいた
その親は相当に悔しかったのか恨んだのかもともと自分の家とはうまくいっていなかったし自分とは余り関係がないのに「ひどい娘だわ」と言って死んだのである
それで救われたのは介護もされずにすぐに白血病で死んだことである
そもそも介護する人もいないのだからそういう死に方は良かったのである
そしてその娘は葬式では世話したとか言っていたそうである
そんなこと全くなかったのである

これは極端な例にしても恨まれて死ぬことは怖いと思った、介護は苦しいとしても恨まれて死ぬのは後味が悪いし成仏しないとかなる
私は認知症の姉とあとで母を介護したがわかってくれて死んだから良かった
私はその後でも毎日遺影に向かい供養している、それは私は特別良くされたからできたことである、他の人はこんなに良くされないから介護したくないとなる
それはそれぞれの家族が違っているからなかなかわかりにくいのである

確かなことは8050問題は始まっている、50歳の人が80歳の人を介護することである、団塊の世代が80歳になるときその数が多いからその子供が50歳になっているからである、これは非常に深刻である
72歳であれ早めにしてもその子供は50歳である、でも障害者なのである
ただ軽いから会話できるし意思疎通はできる、だから誰かが側にいて援助すれば介護ができる、でも一人だと負担になる、でも介護度からするとどれくらいになるのか?
それを見て判断するのは福祉関係である
寝た切りとかではないしリハビリすると回復もするからその先が長いのである
そして金もない、でも福祉では金は本当に出さないのである

福祉関係のyoutubeで介護士などがボーナスを出してくれとか要求している、コロナウィルスで経営が苦しくなったからである、重度の障害者を世話することは見ているだけで苦しくなる、そこで思うのは障害者が生きる価値があるのかとまでなる
世話する方からするとそうなってしまう、愛がどうのうこうのという前にその介護が過酷だからである、障害者でもいろいろある、でも私が接した障害者は会話もできるしどこが障害者が見分けがつとにくいのである、その人はただうまく会話ができないようである
でも別に話してみると会話ができる、ただ口籠るとかスムーズに会話できないようである何か子供のころに父親に殴られたとか言っていた
だから重度の障害者とは別物である、重度の障害者となったら過酷である
そうしたら介護する方でもボーナスを出してくれというのは当然だとなる
ただ引きこもりが多いからそれは障害者問題とも共通している

ともかく8050問題はすでに始まっている、そこで家族崩壊と福祉崩壊が起きて来る
自分自身でも家族崩壊が起きた、認知症になったとき起きた、家族が別々に住むようになり起きた、助ける人はなく一人孤軍奮闘しなければならなかった
その時自分自身も病気だったのである、手術もしたのである、それを一人で切り抜けるほかなかったのである、ただこれも特別親に良くされたから私自身のカルマとして起きたのである、何か必ず悪いことが起きるのはカルマが関係しているのである

おそらくこれから8050問題では悲惨なことが起きて来る、今でも起きて来るが日常的になる、すでに貧困化して困窮化もするし介護の人出もないとなる
そこでは二人正常な息子がいるとして働くことをやめるわけにはいかない、収入がなくなるからである、だから会社をやめて介護した人は後で苦しみやめなければ良かったとかなる、それだけ介護の負担は大きいのである

そして介護となると意外と遠くの親戚とか遠くがあてにならないのである、例えばこの辺だと相馬市とか原町市だと近いとしても車で10分くらいにしてもいちいち来るのが手間なのである、だから相馬市から娘が一週間に一回くるがそれも手間なのである
介護なるとき日常的に接する必要があり近くがいいのである
その人は歩いて5分もかからない距離にあり介護するというのではなく話し相手として毎日のようにもともと親しい人の家に行っていた、その人は糖尿病なのである
ただ自分のことができる、でも一人だから淋しいので話し相手として毎日呼ばれて行っていたのである、でもその人が脳梗塞で倒れたからもう行けないのである
とにかく何か人間は突然人間関係でも変化する
その人は私の家に五年間くらい来ていたけどもう来ることもできないと言っている
これも驚くともなる、先日まで来た人が逢いに来ることもできないともなったのである

金がない、人手がない、・・・・・

それで追い詰められてゆき家族崩壊福祉崩壊医療崩壊とかになってゆく
福祉だってそんなに金を出せない、日本自体が貧困化しているからである
予算を削られるからである、だから南相馬市長選挙などあるが議員など減らせば良いとなる、もうそれだけの予算が金がないのである
すると優先して金を使うのは何になるのかとなる、どうしてもまず命が大事だとなるとなかなか医療福祉は削りにくい、だから議員はせいぜい5人くらいでいいとなる
無駄な金はもう使いない時代になっている


いづれにしろ何か市町村でもこうして苦しむ人がいると誰かに負担がカルマが回ってくるのである、それが自分にも回ってきたとなる、ただ人間は障害者は無駄だとなるが老人になるとどうしても病気になるし体が弱ってくるから障害者になるのである
だから驚いたことは看護婦としてばりばりに活躍していた姉が認知症になり馬鹿になったということには驚いた、つまり知的障害者になってしまったのである
つまり障害者の問題は老人になると身近なものとなる、認知症も知的障害者だからであるただ生まれつきではなから社会でも親としてもありそれで対処の仕方が違ってくる
親であり功績ある人だから馬鹿にはできないのである
そして馬鹿にすると怒るのである、だから依然として生前のように扱うようにしないといけない、でも人間は結局弱者化するのだとつくづく思った

どんな強い優秀な人でも最後は弱者化する、だから障害者というのが全く関係ない存在だとはならないのである、ただ正直重度となるとその負担は重すぎるのである
そして障害者とは何のために生きているのか?ただ一生世話されるために生きているのかとなる、だから親にもう50歳まで尽くされた人は親に恩返ししろとなるがそれもできないとなると悲劇だとなる、ただその人は軽度だから別に親の世話はある程度はできるのであるそれは救いであるがやはりもう介護問題はこれからますます深刻化する
日本でも貧困化しているしその余裕がない人が多いからである
そして介護というのは何か不毛なのである、生産的なことがないのである
ただ私のように特別親に良くされたとなるとそれは不毛でなはない、親孝行できて良かったとなるからである、それで親もある程度は報われたとなるからである
ただヤングケアラーとか自分の人生を犠牲にされたら親を恨むとまでなる
私の場合は60歳から介護だったから良かったとはなる、それまで何でもしたいことをさせてくれたから特別だったから介護でもできたとなる
他の人はそうはいかないからそこで悲劇が生まれる、家族崩壊が生まれるし社会全体でも福祉崩壊医療崩壊とかになるから地獄だともなる


2022年11月05日

精神障害者とは何なのか (そもそも人間とは何なのかー知情意の問題)


精神障害者とは何なのか

(そもそも人間とは何なのかー知情意の問題)

精神障害者といっても千差万別なのかもしれない、直接接してみないとわからない
そもそも精神障害というとき何が精神障害なのかもわからない、例えばその人は100×100を計算できないという、では何もできないかというとそうでもない
知人の家で納屋にいろいろなものがありそこに米が入っていて取り出せなかった
自分も取りだせなかった、でもその人はとりだせたのである
するとそのことを見れば自分より優秀だとも見たのである

では何が精神障害なのか?

これがわからないのである、計算できないということは知的障害者なのか?
何か精神障害者とか発達障害とかは小学生くらいで発達が止まっているという
要するに子供だとしている、では子供と大人の相違は何なのか
例えば子供は親に世話されものだと思っている、何でも与えてくれるものだと思っているその障害者は何かそういうことがある、親がその人に対しては他に兄弟がいてもどれだけ尽くしたか理解していない、いつも心配していたのである
ても50歳になってもそのことがわかっていないから依然として子供なのかとも見る
だから母親が脳出血で倒れて介護状態になっても世話することができない
それだけの能力もないとなる、負担がかかるからできないとなる
でも軽いことならできるのである、父親の時でも何か足りないもなのを持っていたりしたからである
ただそれはあくまでも軽い作業であり負担にならないことである
だからとても自宅で介護するということは負担になってできないようにも見えた

ともかく人間は何かということが実はわからないのである、この人は人間ではない!
こういう時その人は非情な人であり残酷でありとても人間ではないとみる
でもその人は別に精神障害者にならない、かえって社会で重要な役割をもっていたり金持ちでもあったりする、社会的地位も高いということがある
何かわからないにしてもサイコパスとかもいる
非情でもそれが人間ではないなど言っても別にそういう人は普通に社会で暮らしているのである

その人が何が精神障害なのかよくわからない、ただ確かなことは50歳まで母親に世話になったか、その苦労を見たら母親に対して依然として小学生のようだというときただ世話になることしか頭にない、また介護でもできないとなるとそれが精神障害者であり普通の人間ではないとなるのか、それは言えるかもしれない、だから母親にしてみれば世話をしても何の報いもないとなる、でも何もできないことはない、病院に行って頼まれたことをしているのである、でも自宅で介護することは無理だと見たのであく

不思議なのはこの人は人間ではないというときもう残酷な非情な人をさしていう、そういう人は現実にいる、かえって戦争とかなるとそういう人の方が適任であり優れた人ともされるのである、人を殺すことが仕事にもなるからである
そこで相手をかわいそうだとか言っていたら戦争などできないからである
そこで非情な人間が英雄ともなる、プーチンとかでもそうなのかもしれない、ヒットラーでもそうだった、戦争ではジェノサイドとかありむしろ残酷なことが平然と行われるのである、そしたらその人たちは人間なのかともってしまうのである

例えば認知症とかでもそうである、これも精神障害だからである、ただ認知症で違っているのは病気になる前までは社会的地位もあり優秀な人でもなるのである
だからこれは何なのだろうと衝撃だったのである、もう人間でなくなったのかと疑った
でも物忘れとかは誰でもする、でも何かとわからないことがでてくる
計算もできない、漢字も読めない書けないとか銀行から金を下ろせないとかもある
知的障害がある、でもこれまた人間でなくなったのかとなるとわからない
なぜならこれまで生きた人生の中で培ったものがあり何もわからなくなったわけではないだから親切にすれば喜ぶし何か対話でもできる、人間としてわかることはある
良く世話してくれた人に感謝しているのである
そういう感情はありこれは生まれつき小学生から発達が止まった人とは違うのであく
またこれまで苦労して生きたというプライドもあるから違っている
だから馬鹿にすると怒るのである

それでこの人は人間ではないとして20人以上精神障害者を殺した原因は何だったのか
何か精神障害だったのかその辺がわからない、ただ小学生で発達が止まったというとき
いつもまでも母親は世話してくれる、では母親が病気になり世話する方になったときそれができないとなる、となると精神障害者は一人前の大人として扱えないとなる
50歳になっても子供だとなってしまう、でも何もできないことはない、でも普通の人ができることでも負担になるからできないとなる
だから親は一番世話した人に世話になれないとなり悲劇だとなる
何か親が世話される状態になったことを良く理解できていないからである

とにかくこの人は人間ではないというとき知的なことではなく、非情であり冷酷であり残酷な人を言っている、それは人間ではないというとき獣だともなる
ところが獣でも人間より優れていることがあるのだ、10年以上とか世話していた動物、ライオンでも虎でもその飼い主を忘れずに本当に再会を全身で喜んでいたのである
それは感動的である、猛獣でも恩とか忘れない、情は持っているとなる
でも人間は恩でも忘れるしあんなに体全体で世話になった人に喜びを表現することもないのである、恩を仇で返すこともある
すると人間とは何なのかとなる、動物より劣っているのかともなる
人間の知的能力は動物より格段に優れている、でも情的な面では恩を忘れるとか動物より劣っているともなるのである
精神障害者も千差万別であるが何か小学生で子供の状態のままで大人になっていないのかとなる、親にいつまでも甘えている、だから親が病気になり苦しんでいても軽いことはできても負担になることはできないとなる、世話する方になったことがわかっていないのである
だから精神障害者は親でも世話できなくなったらかなり厳しいことになる
親のように思う人も世話する人もいないからである、これは引きこもりとかでもそうである、介護のようになると厳しくなる、急激に関係が変わり世話する尽くす方になるからである、親はもう何もできない、ただ頼るだけの存在になってしまうからである

精神障害者の問題はいろいろある、そもそも精神障害者のことが理解できないのである
だからどう対処していいかもわからないのである

皿を1枚割っただけですぐ警察が入って逮捕する。一方で障害者が被害を受けた時は、殴られても被害者になれない。こういった障害者への不均等な差別は実際にあります。

精神障害者は罪を犯しても罪にならない、ということは罪の意識がないからだとなる
でも人間は罪を犯しても罪の意識などない人はなどいくらでもいる
刑務所に入って殺人を犯した人もそうだった、たまたま運が悪くて捕まっただけであると言っていた、つまり人を殺しても罪の意識がないのである
でもそもそもこうして罪の意識を持たない人は犯罪者でも相当いる
でも何も罪を具体的に犯していないのに罪の意識をもっている宗教家もいる
俺は悪人だとしているのである、だからそもそも罪の意識を持てる人は相当に優れた人だとなる

人間にはいろいろな面を持っている、例えば全然は何に興味を持たない人がいる
私の母親はただ働くばかりでそうだった、花などいらないとして庭に豆を植えろと言っていたのである、これも異常だったがびんぼうて苦労してきたからそうなっていたのであるまたそうした教育もされていないからそうなったのである
でも花を美しいと思わないとしたらその人は人間なのかとなる
でもそういう人は女性でも別にいる、その女性は花に興味がない、美人なのだけど花に興味もがない、性格的には陽気であり悪いことはない、でも花に興味がないのである
するとその女性は人間なのかとなる、美的なものに興味がない、美しいものを美しいものと見ないとなるからだ、それは動物なのかとなる
でもそういう人もいる、別に花に興味をもたない、美しいと見ない人は結構いるからだ
それぞれの趣味とか関心は違っているからである、でもそこに人間として大きく欠けたものがあるとなる

精神障害者でも画家がいたようにあることに能力がある人はいた、だから何か精神障害なのかわからない、むしろ最も残酷非情な人が英雄のようになる場合もある
政治家とかはそうなりやすい、プーチンとか習近平とか前はヒットラーなどがそうだったからである、政治の世界ではマキャベリズムになる、官前首相の愛読書がマキャベリの君主論であったとでもわかる、政治の世界は非情になりやすいことがあるからだ
だから精神障害者だけではない、普通に生きる人にも何かそれは人間ではない障害者なのかとなってしまうのである
ただ根本的に人間として生き物として情が通じないことが人間ではないとなっているのか?精神障害者と意思疎通できないというとき知的な面もあるが情的な面もある
認知症の場合は知的な面で通じなくなっているが別に情的な面では通じ合うことができるのである、親切にしてくれる人のことはわかるのである、またこれまでの人間関係がありそこで培ったものが継続するのである、つまり愛というものは通じるのである
ただ愛は動物にも通じるということである、植物にも通じるという人もいる
愛情をもって植物でも育てれば育つとなる、心が作用してそうなる
宗教だと知的なことより情的なもの愛情が大事だと説いたのである

だから人間ではないというとき情的な面から人間ではないとなる、でもそういう情がない人も実際この世に普通にいるのである、としたらどうなるのか、この世そのものが人間の住む所ではないとなってしまうのである、地獄とはそのことにもなる
確かに知的な面では人間は優れている、でも情的な面では愛情では動物より劣っているともなるからである、だから人間とは何なのかわからないのである
要するに知、情、意のバランスがとれた人間がいない、科学技術とか理系で機械とか物の分析している人は頭が冷たくなるという、それは人間相手ではとないからである
でも家畜でも動物を相手にしていると情が育まれるのである
そのために馬でも牛でも人間のように見て一つ屋根の下で暮らすと家族のようになっていたのである、今は動物と接する機会が少ない、でもペットを飼うのはやはり動物でも情が通じるからだとなる、現代文明社会といっても情の面ではかえって昔より後退しているのである、だから人間の進歩とは何かというのもわからないのである
人間が非情化する社会がいいものなのかとなるからである

2022年11月02日

愛は死んでも消えない (家には愛が残り通っている−心は見えないが通い合う)


愛は死んでも消えない

 (家には愛が残り通っている−心は見えないが通い合う)

FAMILYPHOTO1.jpg

DARUMA111.jpg

遺影にそ花を献げて姉と母なお家にそ生きつづけなむ

地震にも落ちずにあれや達磨かな姉なお家を支えてそあれ

愛はなお我が家に通い姉と母我を見守り心安らぐ


不思議なのは今年の地震でダルマが落ちなかったことである
あれだけの揺れだから落ちてもいいが落ちなかった
姉はダルマと似ているところがあった、それで家を守ったのかと見た
父親が死んでから姉がこの家を支えたともなるからだ



 
人間には謎が多い、科学的に解明できないことがある、愛というのでも何が愛なのか良くわからないのである、母の愛もあるし父の愛もあるし兄弟愛もある
また祖父母の愛もある、これらはそれぞれ違ったものなのである
家族でもそれぞれ違ったものでありなかなか理解しにくい、でも母の愛といっても必ずしもその愛が良く働くとは限らない、何か母に反発する人が多いのは母のエゴの愛だからだろう、純粋に子供を思う愛ではない、母のエゴの愛がありそれで反発する
何か条件付きの母のために子供を利用する愛ともなる
そこに母のエゴがあり肯定できないものがあり反発して母を良く思わない人も多いのである、なぜ祖母がばあちゃんがいいかというと孫にはいろいろなことを要求しないからである、ただかわいいとなりかわいがるというだけだからである
母の場合はいろいろ子供に要求することが多いから反発される

人間は常に愛が大事だと言われるけど母と子供でも本当の愛がないのである
また兄弟が多いとどうしてもみんな平等に愛せない、かたよるのである
だから介護になったとき一番良くされた者が介護しろとなるのである
兄弟を平等に愛さなかったからそうなる、それもむずかしいからである
だから必ずしも親を子が良く思わないことがある、ただいろいろ家族のことはあり外からわかりにくいのである

ただ愛の不思議はそれが意外死んでからわかることがある
私の家族はすでにみんな死んだ、姉の場合は十年も過ぎた、だから人間は日々去る者は疎しとなり忘れられてゆく、でも人間は肉体は消えても愛は消えない
これは合理的には説明できない、人間には何か目に見えないものが働く
愛といっても目に見えないものだからである
では目に見えてないから何もないのかとなると違っている
私は家族が死んでも依然として家にいると感じることがある

何か今姉の寝ていた部屋に寝ている、するとぽかぽかとそこに愛のぬくもりを感じた
姉は特に自分に良くしたからである、それは自分に全く要求するものがなかった
肯定することしかなかったのである、だからいつも肯定することしかなくとがめることもなかった、それはまた特殊な家族環境でそうなった
でも本当の愛は相手に何かと要求したりしないのである、ただ肯定することなのである
こうして肯定されず愛されない人は心も歪んでくるのである
実の母親でもどうしても子供に要求することがありまたあからさまに否定されることもありそれで歪められる
8人兄弟とかで父親は何か言うと怒り黙っていろとかなり反抗的態度をとると殴られたという、それが明治から戦前の戦後十数年の父親像だった

だからその女性は常に厳しく育てた方がいいと言っていた、学校では体罰でもあった方がいい、厳しく育てた方がいいと言っていた
でも結果的にはそうして育てられた子は親を良く思っていないのである
それで学校で体罰を受けた人は今でも近くの先生を恨んでいたのである、その人は死んだにしろそういうことがある、でもそういう時代だったのである
子供は厳しく育ててしつけた方がいいとなっていたのである
兄弟が8人とか11人いたとかなるとどうしてもそうなる
でもそこに問題があった、そこには本当の愛がなかったともなる
だからこそ大人になっても親を良く思っていないのである

そしてこうしたことは長く尾を引くのである、一方で本当に愛された人はその親でも兄弟でも死んだ後まで親のことを想っている、そのことを自分はわからなかった
それは親が死んでからわかったことである
複雑でも二人の親がいて特に姉は私を良くしたから親でもあったからその愛が不思議に家に通っている、それは姉の寝ていた部屋で自分が今寝ているかそこに愛を感じた
愛につつまれていることを感じた不思議がある
ぽかぽかと愛につつまれた感じになった、ただ死んでから十年も過ぎたのだから忘れるがそうではなく愛はやはり消えずに通っていたのである
だから家は単なる箱ものではなく精神的なものとしてもある、つまり愛が通い合う場所なのである、それで家にいると安らぐのである

その人は病院に半年くらい入院していたがかえって悪くなった、でも家に帰ったら回復した、その人は死んだ妻のことを死んでからも思っていたのである
余程妻を愛していたのかもしれない、それで親しい女性が手伝いに行っていたがその女性は死んだ妻のことを良く思っていなかった、妬んでいたともなる
死者を妬んでもしょうがいないが死んだ妻のことをそれだけ思って愛していたからそうなったともみる
人間は死んでも肉体は消失してもすべてが消えるわけではない
やはり愛が消えずに残っているのである

自分の場あいは特にそうだった、生まれた時から60年間一緒に生活していた
そのことの影響も大きかった、もし結婚したりして別々に暮らしていたらそうはならなかった、だから外孫には愛情が通わないということは離れるとそうなってしまうのが人間だからである、そもそも人間は一緒に暮らさないと愛を持てないからである
それで例え憎しみ合っても一緒に暮らしていると実際は愛していたともなる
いくら争っていても60年とか一緒に暮らしていると実は愛していたともなるのである

ともかく家に自分はこだわっている、家を否定する人もいるが何か家とか家族は人間の根源的な場所だからどうしてもこだわる、家にはやはり愛がある愛が通っているということで違っている、他の場所では愛は感じない、建物にしても愛は感じない
病院でも公共的な場所でも愛を感じない、家では例え家族が死んでも愛が通い合っているだからそれは説明できない不思議なものなのである

愛は人の肉体は消えても残っている

愛は消えないということなのである、目に見えないけど愛は残っている、家には残っているとなる
ただその愛にしても私の家族でも他者には冷たかったしまた兄には事情があり冷たかったこれも兄弟がみんな愛されるとはないと同じであり差別があった
それが心の痛みとして残ったのである

愛とういとき目に見えないが常に働いている、だから愛がない人がそばにいることはその影響が大きいのである、なぜなら私が病気になって手術したときその女性はそこにいることすら嫌がっていた、つまり愛が全くないからそうなっていた
それも怖いことである、何もしなくてただいることで見守ることでも愛がないということは恐ろしいことなのである、ただ病院では体は診ているが愛をもって接する医者か看護師は家族でないからできないとしているのもわかる
愛といってもそれが何か大きな負担になることをするということではない、ただ見守ることすらできないのである
また荷物の箱一つを持つのも嫌がっていたのである

要するになにもしたくなかった⇒金だけが欲しかった

私の来た人達そういう何ら愛をもたない人だったのである、それも余りにも恵まれた自分だからこそ起きたカルマだったともなる
ただ確かなことは愛は死んでも肉体が消失しても残り続ける、これは重要なことではないか?
なぜなら肉体が消えて灰になって見えなくなったら何もなくなるのかとなるとならないとなるからだ
人間は死んでその人の肉体は消える、でも愛は残りつづける、これは救いでもある
人間死んだら何もなくなる終わりだよとはならないということである
死者はせ依然として生者の中に愛があれば生き続けるのである
だから愛が一番大事なものとしてシャカでもキリストでも説いたのである
ただその愛とか慈悲は家族の愛というものでもない、高度な愛である
そうでなくても愛が大事だというときそれは肉体を越えて働くものだからである

人間は死ねばすべて終わりだと思っている、確かに肉体は消えるのだからその人は完全に消失してないとなる、でも愛が消えずに残っている
このことは重大なのことである、人間など死ねば終わりだと思っている
肉体は灰となり塵となり消える、要するに何も残らないと思っている
それで絶望して虚無的になる、でも愛は消えない残るとしたらそこに希望がある
この世にいくら宝を積んでも無駄というのも確かである
でも愛は消えないとすれば人間の最大の宝は愛だともなる

その他のものは消えてしまうからである、そもそも肉体自体消えてしまうからである
でも死んでも愛が消えずに通っているとなればその愛こそ最も大事なものだとなる
それは生きている時はわからない、でも死んでも肉体は消えても愛は消えずに残りその人が生きているとも感じるのである
これは理屈ではないから説明しようがないということである
ただそういうことを感じている人も多いことは確かだからやはり人間は眼に見えるものだけを価値あるものとすることはできない、天に宝を積めということは目に見える物ではない、愛とかを持てということにもなる
そうすれば愛は消えずに残り活きつづけるとなるからである
ただ愛というとき血のつながった親子すら愛がもてない、なにやかやと要求する愛なのである、愛は無条件に肯定することであり何やかにやと要求するものではないからである
私の場合は60歳までそうされてきたのである、これは例外的なことでもあった
だからこそ愛というのはなかなかありえないとなる、何か常に要求する愛はある
でも純粋な何も要求しない相手を肯定する愛というのはなかなか持ちえないのである

ただこの世の生ははかない、もうあっという間に人生は終わるとなる、そういうとき何か永続的なものなのか、それを見る必要がある、その重要なものが愛だとなる
肉体は消失しても愛が消えず残るというときそれを重要なものとして価値として生きればはかない人生も死後でも活き続けることができるとなる
でもこの世では欲がありエゴがあり様々なものに魅惑されて肝心なものが見失うのである愛より金だとなるのが普通である、他人ならそうだし家族でも本当の愛を持つ人は親でもなかなけかないとなる、自分の場合、特殊な家族のためにそうなったのである
愛というとき何か人に特別尽くすということでもない、ただ病人を見守るというだけでもそこに愛がないと怖いことになる、それを自分は病気になって経験したからである
愛がなければただ座っていて見守ることすらできないのである
その心が病人に通じて来るからである、すると病気でも悪化することになる
だから何か愛というとき苦しいことをするということではないのである
心の中で愛を持つことでありただそれだけのことでも人間はできないのである




2022年10月20日

老人医療は総合診療が必要 (体の部分ではなく心まで全体を診る医者が必要)


老人医療は総合診療が必要

(体の部分ではなく心まで全体を診る医者が必要)

agecare22.jpg

agecare11.jpg
週刊新潮10月27日号

これは確かにそうだった、この人は老人医療の専門家にもなっいてた
老人医療は60代以下とかと同じにできない
老人は体の部分を見るより全体を心まで見る必要がでてくる
体の一部を部品を見てその数値とか見ているだけでぱわからない
特に老人医療の場合はそうなのである

その女性は72歳だけど体の不調を絶えず訴えていた、でも医者には行って訴えて相談していた、何か所もの開業医とか病院にも行ってみてもらっていた
だから片方の手がきかない、食器でももちにくいとか訴えていた
他にも目まいがしたとかして実際目の前で自転車で転んだ
明らかに脳梗塞の前兆の症状が出ていたのである

ではなぜ医者が脳梗塞と気づかなかったのか?

それが理解できないのである、ただ脳の写真をMRIで遠くにも近くにも行って撮っていた
それも何ら脳梗塞のことを疑う人はいなかったのである
あちこち不調を訴えてもそれぞれ一部分として診ていたのかもしれない
ここで書いている総合診療をしていない、またそういう医者がこの辺ではいなかったのかとなる
つまり仙台市の上手の眼科に行ってもその人は眼しか見ていない
でも片手がきかないとか目まいするとか脳梗塞の症状が出ていた
眼だけ見ないで全体を診ていればわかったかもしれない

その人の行くべき病院は南相馬市だったら脳出血をみる新しいセンターができているし
そこに優秀な医者がいる、なぜ開業医でもそこで診てもらわないかとすすめなかったのだろうか?それも不可解なのである
老人に必要なのは総合診療であり心のケアまで必要なことである
体の一部分の専門家ではない、心までふくめた総合診療なのである

でもそれをやれとなれば一人の医者では重荷になる、ただ精神的ケアになると別に医者でなくてもできる、何か医者だけが医療にたずさわることではない
病気には必ず精神的ケアが必要なのである
むしろもしただ人間を機械のようにみて臓器でも機械の部品のように診ている人がいたら怖いとなる、でも実際はそうもなっているのである

まず一人の人間でそんなにいろいろできる人が気が回る人はいないだろう
数をこなさなければならないから一人にそれだけ気を遣うことはできない
だから病院で議員でも番号で呼ばれて怒ったというのもわかる
つまり病院では数をこなすから数として処理されるのである
だから看護師でも家族の役はできないというとき精神的ケアは必ず病人には必要なのである、そこに心の働きが必要なのである

要するに医者とか看護師でも病人を機械のように数として診たりしていることは怖い
でも数をこなすとなればそうなりやすい、だから私は二回病院に入院して虐待もされたし親戚でもその人は全く愛情がない人だったから手術の時何もしなくてもいるのが嫌だったのである、また箱一つ入院するとき持つのも嫌がっていた
私のために何もしたくない人だったのである、そういうことは必ず行為となって現れる
それが病人に影響する、もうそういう人がいるだけで体は悪くなる
私はこうして病気になり介護になり人とかかわって恐ろしい目にあった
ただこれも楽をしてきた自分のカルマとなってこういう恐怖を味わったのである

心のケアとなると宗教家の役割なのかもしれない、医者は体をみるが心までみれない、
ただそれにしてもそんなに一人の人のために気を配る人はいない
前にも書いたけど

「もっと栄養をとりなさい」
「私は金がないので果物を食べろと言って買いません」

そうは医者には言えない、では金をあげますから果物を買って食べなさいとはしてくれない、むしろ医者は常に金をのことだけは心配しているのである
だからいらない薬でも飲ませるとかなる、そのために病気でも悪化するとここで書いている、医者は家族と違うのだから金のことや心まで診れないのである
そこに限界がありそこまで要求もてきないのである
でも医療は心が相当に影響する分野である、もともと心と体は一体である
それを分離するのが西洋式だともなる、漢方とかなると体と心を一体のものとして見ているからである、色心不二とかそうである、色とは肉体のことだからである

いづれにしろ現代の問題はあらゆるものが専門化して部分化することである
教育自体もそうだし学問でもなんでもそうなのである
全体としてみれないのである、職業でも無数に部分化して田舎でも近くでも何をしているのかわからないのである、これもだから不思議だと思う
何で生活しているのだろうとなる、昔だったら農業に従事している人が六割とかなれば自ずとどういう人なのかわかる、今は本当に職業自体が部分化してわからないのである

だからとても総合診療というけどできない、総合的に見れないのである
それは原発事故でもそうだった、原発もエネルギーを作る全体の一部分だったがそれが生態系を空気でも水でも森の木でも土でも放射性物質で汚染された
つまり生態系とは全体のことである、その全体にどういう影響があるのか見れなかったのである、つまり現代の問題は総合的に見れない、もし事故になったらどうなるのか生態系が汚染されたらどうなるのかを見ていないのである
ねの全体を壊すということを見ていないのである
人間はまず本当は全体を総合的に知り仕事でもするべきなのだけどそれが理解不可能になっている

第一原発事故でも吉田所長すら復水器のことがその方の専門家でないから知らなかったのである、他の社長でも会社のことを全部知っている人などいないのである
何かそういうことから破綻してゆく、社会が大きく文明も崩壊してゆく
それは科学技術の分野だけではない、経済の分野でもそうである
誰もグロ−バル経済のことなど知りうる人はいない、だから当然ある時株が暴落したり
世界中で破綻して混乱してコントロールできなくなる
経済政策してももう物価高がとめられないとか円安がとめられないとか世界恐慌になるとかなる、全体のシステムが崩壊してゆくのである
それはバベルの塔と同じなのである
要するに誰も全体を知りうるものはいない、そこでカタストロフィが起きてくる
そうして文明は崩壊するのである


2022年10月16日

愛とか慈悲が一番実行されにくい (宗教団体でもそんなものはない)


愛とか慈悲が一番実行されにくい

(宗教団体でもそんなものはない)

宗教というと愛と慈悲を説く、でもこのことを実行している宗教団体でも宗教家でもいるのかとなる
カルト教団で共通していることは会員を数としてしか見ていない、数として増やして勢力化する、創価なら一票とみて政治化して権力を得ることしか考えていない
そもそも政治家にしろその人達は自分のために働くのであり選挙の時は頭を下げても選挙の時だけだと言っている
選挙自体が利権を得るために議員に成りたい人がいてまた利権を得たいために投票する方もある、それが基本的に政治である
第一党派になるとき我が党のためということは実際は我が家族のためとかになる
我が家族のためが我が党のためにもなる、創価でも議員に成っていた人はそうだった
我が家族の御利益が我が党のためになっていたのである
そもそも党派とはそういうものである、宗教でも党派化するとそうなる
宗教でもそうして党派争いになり戦争にもなる

人間は基本として家族愛がありその延長として集団の愛がある、党派愛がある
だから宗教で説く愛とか慈悲とかはない、愛でもいろいろある、家族でも親子の愛があり夫婦の愛があり兄弟愛がありまた男女の恋愛もある
だから愛というときキリストが説いた愛とかシャカが説いた慈悲とかはない
それがどういうものかもわからないだろう
それは家族を越えたものでありまた男女の恋愛とかでもないし党派愛で仲間愛でもない
だからこの世にある愛とかはそういうものではない
それが宗教団体でもそこにあるのは家族愛であり党派愛とか団体愛とかなりその仲間にならないものは排斥される、ではなぜそれが宗教なのかとなる
そういう根本的なことが理解できないし当然実行もされていないのである

家族愛とかは基本にあり否定できない、それが悪いともならない、でもそれが本当のキリストが説いた愛なのかシャカの説いた慈悲なのかとなるとそうではない
家族愛は団体愛、党派愛へと拡大する、侍が御家とかあり有力な家が拡大したものが一つの集団となり他の団体と戦うことになるからだ
それはヨ−ロッパでも外国でも同じだった、ハウスブルク家がヨ−ロッパを支配したというときそうである、これも御家だったのである

例えばキリスト教だと当時ユダヤ人がいてユダヤ民族主義がやはりあった、でもそれにキリストは組みしなかった、民族を越えた愛を説いたのである
良きサマリア人の例えでもそうである、多民族でも平等の愛を説いたのである
なぜ民族と民族の争そいが熾烈になるのか、そこに平和がないのか、今起きているウクライナ人とロシア人の争そいは民族争いでもある、でももともとウクライナ人は日本だと沖縄のようなものだという言う人がいた、沖縄人は日本人であるが沖縄人はまた別だともなる、ロシア人と沖縄人はおそらく言葉にしてその顔にしてもたいして変わりなく見分けがつかないとなるからだ
大陸ではとにかく多様な民族がいてその民族争いが熾烈なのである
だからジェノサイドがある、互いに容赦なく殺し合う、もう相手が人間でもないとなる
中国では敵の墓を暴いてもまで罰するというときそうである
日本のように敵味方塚などないのである、日本は大陸と違って民族がすでに古代で融合していたのである、同じ日本人になっていたのである

ともかく宗教の要に愛とか慈悲がある、でもこれが何なのか誤解しているし実行できない
そもそもなぜ宗教団体であってもそれはキリストが説いた愛とかシャカの説いた愛とは違っている、誰もそんなことを実行している人はないないのである
確かにそこに党派愛はある、仲間にあれば愛すことがある、でも仲間に入らなければ敵ともなり徹底的に戦い殺し合いとまでなる、そのことで疑問も感じないのである
地獄に落ちろとか罰当たるとして大集団で仲間にならないのも攻撃してくるのである
それが宗教の名のもとに正しいとして行われるのである
こうして国と国でも民族と民族でも争いが絶えることがなく最後はハルマゲドンの争そいとなり人類滅亡するともなる

では一体愛とか慈悲がどこにあるのか、誰かそんなこと実行できなるのかとなる
人間の日々の活動が愛と慈悲など関係ない、利益を得るために働ているのでありそこに愛とか慈悲など関係ないのである、むしろ利益を得るためには何でもするとなる
相手を騙してもでも利益を得るというのが人間社会である
損して相手に尽くすなどありえないのである、別にそれでとがめる人もない、だますとなればまた別だが働いて利益をあげるのは正当な活動なのである

ただ愛というときどこでも必要なことは確かである、私の母は継母に育てられていじめられた、その継母はなぜ愛がもてなかったのか?
自分の血のつながらない子供だったからである、それで弁当を作って与えられたがそれを残した時、俺の作ったものを実の母親でないから食べられないのかとその弁当を投げて怒った、その女性は余りにも気が強いということでそうなった
これも別に愛を持てば良かっただけのことだが実の子ではないから愛を持てなかったのである、ただ最後に死ぬときになり悪かったなと言って死んだのである

愛と言う時何かむずかしい負担になることでもない、別に血のつながらない子供でも愛したら実の親子と同じになる、むしろその子供は実の親子でないのに愛しててくれたからと感謝するのである、かえって実の親子でも何も感謝しない子もいるからである
だから家族愛でもいろいろある、家族でさえ愛し合わない人も普通にいる
その親は一人娘をかわいがったが親が病気になり介護になったとき冷たい仕打ちをしている、何か金をあづけたのだが出したくないのである
別に介護にもなっていない、一週間に一回くらい世話に来ているだけである
つまり愛というときまた家族では当然だとしてもなかなかそれすら実行されないことがあるのだ
何か血のつながらないということで父親でも母親でも愛さないということがある
私の家族でもそうだったのである、そこは複雑であり簡単には言えない事情がある
ただそういうことは家族でもある、だから必ずしも特殊なことではないのである


そもそも愛とは何かなのかということがわかりにくいのである、ただキリストとかシャカの慈悲とかを実行している人がいるのかとなる
それは別に血縁とか党派愛とか民族愛とも違ったものである、それは人類的な愛だとなる慈悲だとなる、だからキリストの愛はユダヤ人の中で民族愛の集団では受けいれられなかったとなる、シャカでも仏教を受けいれたのはインドではなくその周辺国だったとなる
それは民族宗教ではないからである、ナショナリズムとは違っていたからである
人類への普遍的な愛であり慈悲である、だからかえって人道というのが愛になる
人道だと宗派とは関係ない、イスラム教だから親切にしない助けないともならないからである、でも宗教でも違うと血で血を争うものとなっていたのである
かえって宗教戦争は熾烈なり神の名の下に敵を残酷に殺したとなる、それも神の名のもとにそうなったのである、宗派とか団体だとそうなりやすい、仲間にならないものは人としても扱わないとなっているのだ

だからこの世の中宗教自体が不可解だとなる、これだけの人がキリスト教徒であり仏教徒でありイスラム教徒になっていもそこで愛とか慈悲とか何かそうしたものが実行されているのかとなるとされないない、そんな人がいるのかとなるからだ
そこで実行されいてるのは民族愛であり集団愛であり仲間愛であり党派愛である
それは本来の愛とは違ったものだけど実際は集団化して組織化したものがそうなっているそれは世界中で共通しているのである、これはエゴの延長なのである
でもこの世の中は何らかの集団に属さない人はいない、その人は人間でもないとなってしまうのである、だからキリストはどの団体に属さないからユダヤ民族からも排斥されて十字架で死んだともなる、党派を否定したからである

いづれにしろ人間は愛は不可欠である、でもその愛が実行されない、医者などでも愛が必要である、今回どうしてその女性が脳梗塞になったのか、その兆候があっても医者でもわからなかったのか?それはその女性を親身になって診ていなかった
いろいろな症状を総合すれば医者ならこれは脳梗塞の兆候ではないかとか気がついたかもしれない、そこに愛が欠けていたのかもしれない
私自身もその人を親身にみていないからただいつもの愚痴を言っているのだとしてただうざいとまでなっていたのである
家族だったら親身になり相手をみる、どこが悪いかとか別に専門知識がなくても心配するその愛には利害は関係していない、だからなぜ一人暮らしの人が早死にするかとなると身近に家族がない、妻がないとなるとその体でも心配する人がいないからである
何か体でも悪くなっても心配する人もいないのである


それは自分自身のことだった、家族が死んで誰も心配する者がいなくなった結果さんざんな目にあったのである、自分の所に来たのは金目当ての人しかいなかったからである
相手にとって自分の病気などどうでもいい、金をとればいいとしかなかったからである
これは医者でも患者をそうみるだろう、いらない薬でものませたりいらない治療をして金稼ぐこともある、どうしても医者でも利益をあげることが第一になるからだ
人間社会はそれから逃れることができないのである
だから一概にそれがすべて悪いとはならない、でも医者となるとそこに愛が必要になる
それで医は仁術だというときそういうことだった、つまり医は算術ではなく仁術ということは何かしらそこに愛の作用が必要とすることだとなる

でも医者にしても相手は家族でもない、多数の一人にしかすぎないのである
とにかく数を多くみるというとき愛など実行されないのである
だから議員ですら病院で番号で呼ばれて怒ったということにもなる
大勢の一人にすぎない、家族でもない人に親身になり多数を診ることなどてきないのである、それはどこでもそうである、多数を相手にするところでは愛はありえないと思う
だから大衆を愛するなどありえないと思う、大衆というのはもう人間ではない、ただ数としてあるだけだとなる、そして数として処理されるだけだとなる

2022年10月06日

金だけで解決しない人間の問題 (特に介護とか病気とかになると愛がないとできない)


金だけで解決しない人間の問題

(特に介護とか病気とかになると愛がないとできない)

●家族の限界

私が親の介護と自らの病気で苦しんできたことを書いてきた
その時来た人は一人は借金で苦しんでいる人でありもう一人泥棒だったとかまたその後に来た人も借金で苦しんでいたとか貧困で苦しんでいたか金に苦しんでいる人達だった
だからこういう人達そもそも人を助けること自体できない人達だったのである
自分が苦しんでいる、金がないと苦しんでいる
その時私の家族でも自分自身が苦しんでいても金が欲しいということで来たとなるからだそれはふりかえれば恐ろしいことである
相手が弱っているからこの際金をとるのにはチャンスだなっていたのである
それも自分自身のカルマであれ人間の恐ろしさを身をもって知った

どうしても介護とか病気とか弱者になったときその時相手の心が露骨現れるのかもしれない、強い時はそういうことはない、相手も恐れてそんなことできないからである
相手が弱った時チャンスなのである、人間の社会は食うか食われるでもある
動物でも子供とか弱ったものが狙われて食われるからである
人間にもそういうことがある、相手が困ったらと助けたりしない
助けるとしてもそこには魂胆がある、この際弱ったから金をとってやろうとなる

まず人間をみれば確かに家族はいいものである、でも家族優先であり家族さえ助かればいいとなる、他の者はしょせん他人でありどうでもいいともなる
家族内では愛があっても他者にはないとなる
そういうことはどこの家族にもあるし自分の家族でもそうだった
確かに家族愛というのは人間の基本的なものとして不可欠である
でも本来の宗教だと仏教でもキリスト教でも家族を否定したのか?
シャカは王様の家に生まれて出家したりキリストでも親を否定したりしたのはなぜか?
それは家族は必要でも家族だけの愛はエゴになるからである

●病人とか弱者の虐待の恐怖

でも家族は必要である、そこが人間の基本的な生活の場でありそこが人間として学ぶ場になるからだ、とても養護施設などでは家族の代わりになれないからである
ただその家族が基本的なものとして必要でもすべてをまかなえるとはならない
だから介護とか病気とか他でも他者の助けが必要になる
でもその時問題なのはまた家族のように接することができないことである
愛をもって接することができないのである、そこに大きな問題が生まれる
なぜならそもそも愛がもていないと必ずそれが行動に現れる、それで虐待ともなる
それは弱者相手の世界で起きやすい、病気になると弱者となる

すると医者とか看護師でも弱者化しているから権力をふるうことは容易になる
そもそもそういう立場の人は愛がないとできない
直接体にふれたりただ身体を診ているだけではない、心も関係している
愛の心がないとみれないのである、愛でももって接することがなければできないのであるでも現実は患者を機械のように見ている、ただ注射して薬を与えどこから悪ければそこを切除すればいい機械のようにどこが不具合があれば部品を交換すればいいくらいにみる
そこに愛はなくてもいいとなる、それより患者は金になるものでありいらない薬でも手術でもするとなる、つまり医は算術になる
でも患者の方でも優秀な医者となれば体をみる技術者であり腕のいい技術者を選ぶのが
普通である、愛があるかどうかなど見ないということもある

近くの開業医の医者は見立てがいいと評判だった、腕は良かったのである
でも私の母はその医者の所に行かなかった、口が悪くずけずけと言い冷たい医者だったのである、でも腕がいいから繁盛していたのである
私の母はそれで別の医者に行っていた、そこは優しい医者だと行っていたのである
でも矛盾は優しい医者が医者として優秀ともならないことである
優しい医者より腕がいい医者の方を選ぶともなるからだ

これが大工とかなると他でも技術であれば腕のいい大工さんを選ぶ、でも別にその人が優しいとか必ずしも愛があるとかあまり関係ないからである
でも実際はある人に愛をもって家を建てるということは必要である
でも大工の場合はそういうことはあまり関係ないのである
でも医者とか福祉関係はかなりこの愛とかは関係してくる
人間の体は機械ではない、心をもっているからである
そもそも愛をもって体に接するのとそうでないのでは影響するだろう
人間はとてもいくらAIで診断するとかなってもそれで全部できることはない
病気になればやはり人間には愛がないと診れないと思う

ただそういうことより医者は腕がいい医者がいいとなる、また機械とかでも設備が持っている病院がいいとかなる、優しい医者だとかその性格みたいなものを見る人はいない
第一医者にしてみても大勢を診るのだから愛とか言っていられない、何でも大勢になると愛は消失する、だから議員ですら病院で番号で呼ばれたとなり怒ったとなる
病院は数をこなさなければならないからいちいち愛だとか言っていられないのである
どこでも数が多ければそうなる、政治家などでもとにかく票を集めなければならない、数を集めなければならない、個々に対応などできない、愛など全くなく民衆と接しているのである、ただ選挙の時愛想良くしている、実際自分のことしか考えない
議員自体がそう言っているからである、学校でも生徒でも一人一人見れない、だから先生が生徒に愛をもつことはむずかしいのである
結局人間は数が問題になる、数をこなすとなるととても愛など持てないのである
家族が一応愛をもてるのは数が少ないからなのである

●金だけでは解決しない問題ー病気と介護には愛は必要

ただ愛がないとできないことがあることは確かである
それは自分自身が介護で自分の病気で経験した、その人は愛はなかった、借金して金を欲しいというだけであり愛がなかった、愛を持てる状態ではなかった
だからそういう人が来たことは恐ろしいと思った、その人は特別何もすることはなくてもたいしたことをすることでも愛がそもそもないのだから箱一つもちあげる気持もなかったいやいやながらしていたのである、そのことはその表情とか気持に現れていた
自分のために何もしてやる気持がなかった、金が欲しいから仕方なくしていたのである
そういう気持で病人や弱者にかかわることは怖いことである
その人への影響が大きいからである、病気すら悪くなるだろう
別に病気が治ってほしいということでもないからである、ただ金が欲しいというだけだからである

でも金はもっていても困っている時まず金を出せとういうことは強迫にもなっていたのである、借金していたからそうなったのである、だから借金とか負い目も持った人は弱者を助けることができない、自分のことで精一杯であり他者を見る余裕がないからである
その人はただ患者を座って見ているのも嫌だったのである、何もしないとしても嫌だったのである、そういう人が苦しい時来たことは怖いことである
その人はただ何もしなくても見守ることすら嫌だったからである
でも金で苦しんでいるとしても後で金をやることはある、でもまるで金をくれたら助ける今くれとなる、でも苦しんでいる人はそういう余裕すらないのである

とにかく人間はそもそも家族であれ個々人であれ何か足りないのである
金だけの問題ではない、特に介護とか病気の人をみるとき心が深く関係してくるのである介護とかは気持がないとできないのである、病気の看護でもそうである
それは家族でもそうなのである、その親の娘は一人っ子であり親に特別良くされたのである、でも親は冷たいとして怒って来るなと言ったという、病気で苦しんでいるのに冷たいのである、そこに知っている70くらいの女性が何かと世話を焼いている
その女性は金に困っている、でも親はその一人娘に金を預けている、それで金が欲しいとしてもその娘はケチで金をくれないといい怒ったのである

だからこうして家族ですら愛がないと介護などできないのである
兄弟でも親に良くされたのだからお前がやれとなる、そして遺産では必ず争うのである
また意外なのは60パーセントなのかまたそれより兄弟でも付き合わなくなったということが50代で多いのである、結婚して家族が別々になってそうなったともなる
だから兄弟は他人の始まりだというのは本当である
私が特別親を愛しているのは死んでも愛しているのは60代まで一緒に生活していたからなのである、それで特別良くされたからそうなった、これは他ではないことだから特別だとなる

●愛とか慈悲とか最高にむずかしい

いづれにしろ愛を言うがそれはこの世でほとんど実行されていないのではないか?
それは家族であっても実行されない、だから宗教でも愛を慈悲を説いても実行されていない、カルト教団の人に愛があるのか?多少団体内で助け合うことはあるかもしれない
でも実情はやはりエゴであり自らの欲望を追及しているのである
議員になりたいから信者を票とみて接する、その内心は他の議員と同じである
選挙の時だけ愛想良く接することである、その本心は自分のことしか考えないのである
それは数を集めなければならないからそうなる
百万とか集めるとなるといちいち愛がどうだごうだなどと関係なくなるからである

結局愛が実行されている場とかあるのか人がいるのかとなる
愛といっても恋愛もあり家族愛とかもありシャカの慈悲とかキリストの愛とかは別物である、そもそも愛、愛、といっても本当の愛が実行できるのか、そんな人がこの世にいるのかとまでなる
愛とは愛さ愛を一般的に要求している、でも自分ではなく他者を愛することが愛だとするときそれが実行している人がいるのかとなる、ただみんな愛と言う時愛してもらいたい愛なのである、それも都合いいエゴなのである
もしかしたら本当の愛を実行できる人は一人もいないとかにもなる
愛はそれだけ実行することは困難を極めているからだ

わかりやすいのはとにかく人は愛というとき愛してもらいたい愛であり見返りのある愛であり家族だけの愛であり本当の愛はほとんど実行されないのである
そこに人間の絶望があり人間も動物界とたいして変わらない弱肉強食の世界だともなる
ただ表面上は愛を装うのがこの世である、カルト宗教団体でもそうである
そういう場所は他者を弱者でも食い物にもする場なのである
それが統一教会で極端なものとして現れたのである、他のカルト教団でも同じなのである愛と慈悲を看板にしてそんな人がいるのか一人もいないとなる不思議なのである
だからこの世と何なのだろうとなる
この世こそがこうして地獄そものもなのである、動物の弱肉強食の世界と変わりないのである、つまりそういう場に生きていることこそが地獄なのである
いくら科学技術が発達してもやはり人間が地獄を生きている、そのことに変わりなかったのである

●何の返答も見返りもない死者を愛せとういことはどういうことなのか ?

死者を愛しなさいとキケルゴールの本で書いてあった、死者を愛するとはどういうことなのか?死者を愛することができるのか?
死者はそもそも何も答えない、死者が本当に存在しているのか?
そういう死者を愛することができるのか、死者を愛するとはどういうことなのか
これがわかりにくい、でも私は家族がみんな死んでしまったからそのことが気にかかった死者を愛することがわからない、でも私は特別二人の母親に良くされたから今でも二人を思っている、それは特殊な事情でそうなった

何も答えないのだけど語りかけている、何か認知症になった人が延々と死者と語っていたという、その人にとって死者は死んではいないのである
だから認知症は必ずしも人間の異常でも狂気でもない、死者が死んでも生きてると思うことは人間にとってはむしろ正常だともなる
それより死者を全く思わない人がいる、親でも思わない、そういう人こそ異常なのである人間ではないともなる、その人は生前も愛することもなかったからそうなった
ただ遺産がもらいたくて親とかかわるという人も相当数いる
そして今は経済的にも苦しいから子が親を捨てるという時代にもなっている
もしかしたら江戸時代のことではない、現代こそ姥捨て山の時代なのかともなる
老人が増えすぎたこともありそうなることもありうる、現実に若い世代は老人は早く死んでくれというときそういう心情に若い人がなっているときまさに実際に捨てないにしても心では捨てているからそれが現実化するのである

愛と言う時、愛がないというとき、何か愛が介護でも重い負担なことではない
簡単なことでも愛がないということがある
介護するにも別に重い負担のことを言っているのではない、ただ何もしないで一時見守ってくれるということを頼んでもその人にはそういう気持ちがないからその人はが側にいること自体怖いことになる、その人はいやいやながらそこにいるからだ
何もその人に愛もないどころか全くそういう心を持っていない、そんな人がいること自体怖いことである、私はそういうことを家族の介護と自分の病気で経験して来た
そうなったのも自分自身のカルマだったとなる
それは余りにも自分は家族でも良くされた結果としてそうなった

他では親に虐待されたとか親ガチャの人が多いからである、私にはそういうことは全くなかったのである、それは60歳までもそうだったのである
そのために死んでも供養して語りかけている、死んでも愛しているとはなる
死者を愛することは介護のような重い負担はない、死者は何も要求しないのである
でも死者を愛し続けることはむずかしい、なぜなら返答がないからである
また報酬もないのである、そういう死者を愛し続けられるのかとなる
ただ家族が全部死んで今になると思い出が宝になったことは言える
家族として暮らした日々がなつかしくそのことを思い出しているとき家族がまだいるようにも思える
最後は人間は記憶に生きるのである、家族がみんな死んでも記憶としては消えていない
それで思い出しては生きているように感じるのである
でも嫌なことは思い出したくない、そういう記憶もありそういう記憶は消したいのである家族でも親に虐待することはむしろ心の傷となっているからそんな親を思い出したくないとなる、その時親は親ではない、死んだ人を想ってくれない人はやはり何かそこに問題があったとなる、ただ個々の事情は複雑でわかりにくいのである




2022年10月02日

大学がかかわり久山町の健康増進運動はなぜ失敗したのか? (集団的平均的に人間をみたため?ー人間は個々に体でも違っている)


大学がかかわり久山町の健康増進運動はなぜ失敗したのか?

(集団的平均的に人間をみたため?ー人間は個々に体でも違っている)

illness1.jpg



久山町でかえって大学がかかわり健康増進とかしたら病気が増えた、くも膜下出血
で死ぬ人が増えたという

それはなぜなのか?

糖尿病および予備軍発症予防
は失敗し、著明な増加が認められた 8。実際 14 年間の努力にも関わらず、糖尿病の確定診断がついた人が男性で 15.0 から 23.6%、女性で 9.9 から 13.4%と著明に増加した。
また男性では、40 歳以上の久山町住人の約 6 割が、予備軍を含めた耐糖能異常という、数字に増えていた。研究責任者の九州大学・清原裕教授も 2007 年 7 月 27 日(金)の毎日新聞朝刊 で「1988 年以後、運動や食事指導など手を尽くしたのに糖尿病は増える一方。どうすれば減るのか、最初からやり直したい」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jln/26/1/26_47/_pdf/-char/ja


なぜ大学で健康指導してかえって病気が増えたのか?
武田先生の言うには人間を平均として見ることはできない、血管でも様々であり人によって違う、だから血圧でも130でも150でもそれを平均としてみることはできない
別に平均より高くても健康である状態の人がいる
降圧剤とか飲んでもかえって悪くなるという、確かに人間の体はいろいろである
体重でも体形でも体質でもそれぞれ違っている
もしかしたら人間が多様な個性があるように違っているのかもしれない
私の母親は百才まで生きたけど細い体であり重いものも持てない女性だった
でもどうも血管が丈夫でそれで病気にならずに百才まで生きたようだ
ただその人の体質によっていろいろな病気にかかることは確かである

私の母親は丈夫な体ではない、そして私の母親はそもそも無理をできないから激しいことはできない、日々家の中で同じようなことをして過ごしていたのである
一方姉の方は太っていて力があり男優りだったが認知症になり85歳で死んだのである
だから何か体力がないと細い体とか繊細な体でも長生きはできる
でも以外は体力ある人でも何か急な病気で死ぬことがある
スポーツ選手が意外と早く死ぬのはやはり体を丈夫だから無理もできるから過酷な運動で体を消耗して早く死ぬのかとも見る
私自身も体は丈夫ではない、体力がない、でも別に長生きするかどうかは関係ないから
もしかしたら長生きするのかとも思う、体力があるとかないとか長生きには関係ないようだからである
ただ体力がない人は激しい運動ができないから冒険などしにくい、それで私自身が登山をして死ぬほど疲れた、それで早めにやめたのである

人間の問題は平均的に何でも分類してとか見るのは危険である、人間の体にも個性があり多様性がある、でも大学では人間を平均的にみて健康増進を計った
糖尿病には減塩食でこういうものがいいと提供した
でも減塩するとかえってエネルギーがでなくなるという
だから人間を一様に平均的に見るのは良くないのである
それは人間の体だけではない、人間そのものもみんな違っている、それはその育った環境もみんな違っている、育った場所でも家庭でも環境でもみんな違っているからだ
教育でも問題なのは人間を平均的に一様に見る、それは明治から学校教育が始まりそうなったのである、なんでも点数をつけ平均化してみる
現代文明自体が常に数字化して平均でみる、でも人間は個々に様々であり違っている
でも個々に対応できない、それでかえってヨ−ロッパの貴族は家庭教師を雇ってそれぞれの個性にあった教育をしたから天才が生まれたのかとなる

また薬でも製薬会社のもうけのために過剰にのまさせる、これも確かにある
日本人は特に薬に頼りすぎる、すると必ず薬に副作用がありかえって悪くなったりする
糖尿病が増えているというときある人は病院に半年とか入院してかえって悪くなった
まともな食事もとれないことや精神的負担も大きくそうなった
そして家に帰ってその人なりの生活をしたらかえって良くなったのである
それは家に癒す効果があったからだと思う、その人は妻はいないが家に精神的に癒す効果がある、だからみんな家で死にたいというときそれは体の問題ではなく心の問題になっているからである

ともかく人間の問題は病気でもそうだし教育でもそうだしあらゆる面でそれぞれの個性にあったように対処できない、集団的に平均的に見てしまうのである
そして病院では番号で呼ばれたとか議員でも怒っていたのである
人間は数が多くなると当然そうなるのである、一人一人をなかなか診れないのである
一人一人の体が違っていても対処できないのである
それは病気だけではないあらゆることに一人一人に対処できない
だからこそ政党があっても政党では一人一人の言うことを訴えることを聞けない
あくまでも票として数を集めることが優先するからである
人間一人一人をみるのではなく人間を数として見ている
だからそれがカルト教団でも何でもいいとなりやすいのである
まとまった票になるからカルト教団でも頼りになるとなる、でもそうして集団だけを見ていると個々のことは見ないから問題が起きる
久山町で起きたことはやはり集団的平均的に見て個々の対応がなかったからなのかとなるでも久山町は小さい町なのだからそれができなかったのかとはなる

こうして現代ではみんな集団的になり個々人は見ない、それはカルト教団でも創価でも
共産党でもどこの政党でもそうなりやすいのである
第一何百万人のものも個々に対応することが不可能だからである
いくら相談になるのとしても無理である、でも個々に対応しないと問題が解決しないことがある
前にも述べたが人間の問題はカルマが関係している、そのカルマも個々に違っていて複雑だから一様に対応できない、貧乏な人はみんな苦しいから金の面だけからみる
それはわかりやすいからである、年収いくらだとか貯金がいくらもっているとか常に平均でみる、そういうのはわかりやすいから政策として反映しやすい

でも個々人の問題はそれだけではない、それぞれのカルマがありそれが他者からわかりにくいのである、それは別に金持ちの家でもカルマをかかえているのである
それがいつか必ず苦しみとなって現象化するのである
それは個々に違っているのだから集団で平均化して解決できないのである
そのことを私は家族の介護のことなどで書いてきた
カルマの解消はそれぞれが苦しまないと解消できないのである、金だけで解決するとは限らないのである
創価とか共産党でも組織団体では平均化して一様にみる、それは票になる数を集めることが優先されるからである
そこでは問題は解決しない、何百万に何が起きているのか、そこには不可解なことが常に起きている、罰当たるなど脅しているが信じられない不幸になっている人達が無数にいるのである、人間はそれぞれカルマを持っているからいくら集団化しても個々のカルマは解消できないのである

ただそもそも人間は個々に対応ができない、せいぜい数人しかできない、わずかの給付金を配ることなどはできる、根本的には解決できないのである
そこに政治の限界がある、政治家とは別に自分の利益を追及しているのであり身銭を切って困った人を助けることなどない、創価でも共産党でも他の党でも金に困っているから助けて下さいとか言っても党として政府に要求しますとなるだけである
それは国民の税金を分配することなのである
つまり集団的には問題は解決しないのであく、だから運がめぐると言っていたけど運が関係しているのである、その運が謎なのである、それはもしかしたら神の采配かもしれないからだ、だから人為的には解決しないのかとまでなる

ともかく人間は体でも個々に違っている、その違いをみないから久山町でも集団的に平均的に見て大学が健康増進運動でも失敗したとなる
現代は何でも集団的に平均的にすべてをみる、だから人を同じように見て平均的に対処したから久山町では失敗したのかとなる
でも個々に対応することはむずかしい、だから医者とかは体だけを見ていてもわからないその家族とかどんな暮らしをしているのかとまで診ないと本当は診れないとなる
様々なことは実際は関係しているからである
それで礼文町とかは島で二千人とかの人口でありそこの医者はたいがい一人一人のことがどんな生活化しているまでわかっている、すると体だけではないそれぞれの生活を知っているから個々に対応しやすいのである
それは小さな島だからできることである、ただそこにも専門医がいないとかで問題が生まれる
結局人間の問題は余りにも複雑な要素があり一面だけを診ては解決しないのである
集団化して平均化して見ては解決しないのである

例えばスリランカでは村の人が病気になると村の人みんなで祈っていた
そういうことは医者がいない時代に日本の村とかでもあったかもしれない
薬師堂が村の中心に常にありそこで祈るほかなかったからである
でも今のような医療がないから直しようがないことはあった
でも精神的にはみんなで祈ってくれるのだからそれが効果がないとは言えない
逆に現代では地域の人がそんなことするかとなるとしない
むしろ無関心でありかえって冷たい、田舎でも助け合うなど今はない、かえって人が苦しむことが楽しいとかまでなる、何か話題がないからそういうことで害にならなければ娯楽のようになっているのである
だから田舎でも相当に人間は変わってしまった、もともとそういうことが人間にあったにしろやはり時代の影響でそうなったのである




2022年09月14日

なぜ医療費が増えるのか、病院、医者に頼りすぎる (生活保護は上客になる理由ー病院経営が苦しいから)


なぜ医療費が増えるのか、病院、医者に頼りすぎる

(生活保護は上客になる理由ー病院経営が苦しいから)

生活保護の総支給費は10年前の2004年度には2.5兆円だったのと比べると、10年間で1兆円以上も増えています。

内訳は2011年の例で見ると、医療費が全体の47%(1兆6000億円)

立行政法人福祉医療機構の調査「平成28年度 病院の経営状況について」によると、平成28年では一般病院の41.2%が赤字経営であることが報告されました。同データは平成24年に28.1%、平成25年に35.3%、平成26年に40.7%、平成27年に39.6%と推移しており、全体的に年々増加しています。

赤字経営!?今だからこそ病院経営の見直しを始めよう

この数字を見れば明確である、生活保護でも医療費の額が大きいのである
それは無料だから気軽に医者にかかる、まるで医者が友達のようにもなっている
それは生活保護者だけではない、普通の人でも病院が老人のサロン化しているとかある
老人の話の話題は病気になることが多いからである
何かしら病気を持っていてそれを通じて話しが合うのである
日本がは国民保険があるので気軽に医者でも病院でも行けるということでもそうなる
アメリカなら国民保険がないので民間だから病院に簡単に行けない、保険に入っていない人は診てもらえないのである

その女性は確かに生活保護であっても国民年金が四万とかもらっているから生活保護とも言えない、その金で暮らしていきなさいとなっているのである
でも医療費は無料となるとしているがならない、必ず足りない金を要求される
それが一万とか二万とか高いのである
だから本当はそんなに医者にかかれない、目まいが治るとか医者に薬を飲めとして
二万を要求されたとか言う、他でも脳の機械での検査では2万要求されたとかなる
その金は生活保護でも市では払わないのである
だからすべてが医療費無料だとかならないし何か生活保護でもとても10万などもらえない人がいる、その人は国民年金に加えて5000円しかもらっていない
医療費でも必ず数万の金を要求される
そして医者にそういわれると断ることもできない、でも金がないのだからと言って断ればいいのである、それでも医者に言われると直したいとなり金を工面する
その金を自分に要求されるのも困るのである
この前も埼玉の方まで行って特別の検査をして治療したとかなる
それは医者に紹介されて行ったとなる

「先生私は金がありませんので治療費を払いないのでできません」

こういっても医者はすすめる、これは医者の方で金が欲しいということも確実にある
なぜなら今の治療は高価な機械が必要でありそれを供えていないと患者でも来ない
するとその高価な機械代の元とるだけで多額の金が必要になる、するとどうにかしてその機械を使う患者が欲しいとなる
現実に近くの病院で認知症になった家族を連れて行って脳の写真を撮ったが実際は認知症は診れない、福島県だと郡山市とか大きな病院二台しか精密に見れる機械はない
でもあえて何もわからないのに機械で写真をとったのかというと金になるからである
医療にはこうして金が無駄にかかりとられることがある

それは病院でも経営の面から見れば苦しいからそうなっているのである
相当に無駄な治療があることは確かである、そもそも薬でも治療でも医者に診てもらったからみんな良くなるとは限らないのである
でも人間は病気に一番弱いから医者に頼り機械に頼りあらゆるものに頼る
宗教でもカルトでも頼る、それは病院もない江戸時代からそうたった
現代では科学技術に神のように頼る、お医者様となり神のようにもなる
今でも一番尊敬されているのは医者だからである
森喜朗元首相が一千万とかの癌の薬をオプジープを使用して寿命が延びたとされる
それだけ高価なものでも病気になれば服用するのである

病院の経営が4割で赤字経営だというときやはり設備費とかにかかるし医者の給料代とかも高いからかかる、おそらく医療というのは金をかければいくらでもかかるものなのかもしれない、治療でも切りがないからである
でも本当にその治療で治るのかはわからない、特に老人の病気は治らないのが多い
するといくら金をか治療しても無駄な金を使うともなる
そのことが医療費が増大してもう国を圧迫している、そしてその保険料を払う世代が若い世代だから不満がつのるとなり老人は早く死んでくれとなっているのだ

ともかくこの世は無駄がどこでもある、もしかしたら膨大な無駄に費やされるのが人間社会かもしれない、なぜカルト教団に一千万とか寄付するのかそこに何百億もの金が集まるのかともなる、それも無駄だとなる、無駄を言えばきりがなくなる
最大の無駄は戦争だとなる、何百万人も死ぬ、それも無駄なのか徒労だったのかともなるからだ
医療の問題は必ずしも治療しても高価な機械でも薬を使っても治らないことがある
それで糖尿病の人は病院に半年入院してかえって悪化した
でも家に帰って療養したら良くなったのである
家の方が回復力を持つものがあったとなる、それは肉体だけではない精神的なものが影響していたからである

だから病院経営でも在宅医療とかコミニュケーション重視とか介護との連携とかで病院経営を立て直したことでもわかる、高齢化社会の医療は今までも医療とは違ってくる
介護の人が増えるし需要が高まるからそうなる
つまり肉体の治療も必要なのだが精神的なもの心が大事になる
それに対応することが肉体の治療と同時に必要になっている
高齢化社会の医療はやはり今までのただ肉体を診ているだけではな成り立たない
心も診る必要がある、でもそれを医者にみんなできるかとなるとなかなかできない
だから礼文島の医者のように少ない人口の村とかではその土地のことでも人でもわかるからコミニュケーションを取り安い、全体の中に医者も医療もあるとなる
医療と福祉は不可分なものとしてある
それでスリランカでは誰か病気になったらみんな集まり治ることを祈る
そういう社会だと高価な機械とかなくても何か福祉がありそれが補完するともなる
医療の問題は体だけにはとどまらない、何でも実際は全体と関係しているのである

高齢化社会の問題はこれから深刻化する、知っている人は一人娘に金をあずけて自分で
自分の金を自由に使えない、それでもめた、その娘は一人娘であり良くされたのけど
親のことを思わない、それで怒って来なくてもいいと言ったという
こうして親子の間でももめる、親子でも近くにいても挨拶しない人もいる
それぞれ家庭の事情が違うからそうなる、なかなか他の家族のことが理解しにくいからである
もう子供でもあてにならない時代でもある、それで家族遺棄社会にもなる
それは非情になったというより介護の負担が金銭的にも精神的にも肉体的にもも大きいからそうなる、それを担える余裕がなくなった、貧困化でもそうである
だからこれから介護とかで悲惨な事件が日常化する、孤独死も日常化する
老人が多すぎて病人社会にもなるからだ、まず百才まで生きるとしてもほとんど病気になり健康には生きられないからである
高齢化社会はどうしてもプラスにはならない、一部ではなったとしても全体的にはなりにくいのである

2022年09月13日

全体的俯瞰的思考ができない現代文明社会 (部分化してアトム化した文明ー医療でも教育でも仕事でもなんでも)


全体的俯瞰的思考ができない現代文明社会

(部分化してアトム化した文明ー医療でも教育でも仕事でもなんでも)

tunagal11.jpg


unitedone1.jpg

病気になるといろいろな科があり専門の医者がいる、ところが江戸時代とかなると専門の医者はいない、何でも見ていたのが医者である、様々な体の部分の専門家ではない、全部を見ていたのが医者でありさらに医は仁術というとき相手の心まで見ていた
生活状態まで見ていた、それは江戸時代とかなると専門家とかは限られているからかえって全体的に考える、村という小さな社会が社に中心にしてあった
でもそこでも困ったことが常にある、病気が一番困ったことなことは同じである
だから村の中心には必ず薬師堂があった、病気が治ることを祈るのである
でも地蔵でも腰が悪いと祈る地蔵とか目が悪いとか祈る地蔵とか今の病院の科のようになっていた、だからどうしてもこうして専門家してゆくのが人間社会てある

その人は常に金がない、頭がふらふらして目まいしてこまるとなり隣の市に脳をみる機械があるからそこでみてもらいと言われた、でも金が必要になるがない、そんなこと医者に言って金もめんどうまで見ないのである
でも江戸時代だったらその人が困っていたら後で金をはらってもいいとか安くするとかあったろう、それはその人全体を見ているからである
医は仁術にもなっていたからである、医者にみてもらう金がないというときそれを相談するのは役所の福祉に相談するとなる
不思議なのはスリランカなのか村の一人が病気になるとみんなで集まり病気が治ることを祈っていた、それは迷信的にもなるがそれにも効果があると見た
みんな治ってもらいたいというときそういう気が全体に働くからである
ただそれは医者もいないし病院もないからそうなったのである

でも今はそんなことはない、個々に人は分裂して金が唯一の頼りになっている
金がなければ医者にもかかれないし診てもらえないとなる、地獄の沙汰も金次第となる
森喜朗元首相が癌になりオプージプという薬を一千万とかかけて服用して寿命が延びたとか報道があった、そんな大金を払って普通は飲まない、でも金がある人はそこまでする
それで東京五輪で賄賂をもらっていたのかともなる
金で病気でも直すことができるが金がないものはできないともなる
ただ日本は国民保険があり公平である、アメリカは本当に医療費が馬鹿高いからその差がはっきりと現れる、医療費が高くて医者に貧乏人はかかれないのである、結果的に早く死ぬとなっている、日本はその点いいのだがもうこれだけ老人が増えて病人が増えるとそんなに医療費に回す金もなくなる、特に日本は貧困化しているから余計にそうなる

どうも医者というのは医は仁術というとき人間を患者を機械のように見れないだろう
機械の部品が悪くなったからその部品を交換するように患者を見れない
でも実際は人間の体でも部分化して見ている、専門家とはそうである、人間の体全体を診る人はいない、でも老人になると体だけで診るのではない、心まで診る必要がでてくる
それは老人はいづれまもなく死ぬということが避けられないからである
だから糖尿病で半年も入院した人が栄養がたりなくなりかえって病気が悪化したのであるでも家に帰ったら回復したのである、つまり医者でも病院でも体だけを診ている
その心を診ていない、そして老人になるとなかなか病気でも治らないから、心の問題が割合で大きくなる、だから延命治療はいらないとか自宅で死にたいとなる
それはもう体を看るだけではない、心の方が大事になるからである
家というのは何か安心する場所であり威厳を持てる場所でもある
その人は20代で一人倍以上働いて稼いだ金で立派な庭を作り家も建てたからである
それが自慢になりそれが人生の証しだまでなる
病院に入院したらその人はただ病気の人となるだけでありその人の人生とは関係ない無機質な病院に隔離されるだけなのである

人間というのはやはり体だけでを診てもわからない、心の問題があり老人になると特にそうなる、近いうちに死ぬのだから体より心の問題の方が重要になる
そしたら延命治療して廃人のように生きるより家で威厳をもって死んだ方が幸福だとなるどうして死ぬのかが重要になる
でも医者はそこまでは診ないのである
ただ礼文島の医者のことをNHKで放送したけど2000人とかの人口となるとその一人一人を知っている、何をしているのかどういう人なのかまでわかる
すると医者は体だけを診ているだけではない、その人間を全体を診るとなる
ただむずかしい病気になると稚内の病院と連絡して診てもらうようにしている
小さな島だったらその人の体だけではない、その生活や人なりを知っていて治療するとなる
礼文島は花の島であり花に癒されて死にたいとなる、稚内の病院とかで死にたくないとなるかもしれない、それは小さい島だともう全体につながりが明確に見えているからそうなる

とにかく現代は医療でもそうであるが何にしろ全体が見えない、部分化してアトム化している、一万の田舎町でもそうなのである、ただ大工さんを見たらその人は大工もできるし庭作りもできる、壁塗りまでできていた、それはその人の特別の才能からできたとなるがやはり田舎だと何でも屋になる、そういうことが強いられるからである
百姓とは百の仕事をできる人だとなる、それだけ農家でも多様な仕事があるからそうなった、また時代がさかのぼればのぼるほど人間は全体を生きていたのである
なんでも屋にならざるをえなかったのである、第一ケガするとしてそれでその傷に効く薬草などを知らなければならない、医者がいないのだから普通の人でも知って治療するほかないとなっていた、そういうことは農家とかでも薬草とかを知って備えていたとなる

村に鍛冶屋があるとする、するとその鍛冶屋は農民一人一人にあう農具を注文に合わせて作っていた、それは村で生きるとなるとそうして農民一人一人の要望に応えるためにそうなった、今のように規格品を買うことにはならない、道具でも職人でも様々なものが必要になるからである、その鍛冶屋にしても村全体の中で生きていたのである
ただ個々人に道具を売るというだけではない村全体のために働いていたとなる
現代はその全体のコミニュティが喪失したのである
田植えでも稲刈りでも人力だったら村全体でする、それで早乙女が田植えする、みんなでする、それが祭りになっていたのである、つまり祭りとは村全体でするものだからであるそれはみんなで協力しないとできないからそうなっていたのである
祭りがなくなるというときそうした共同性がコミニュティが喪失したことを示しているのである、今や農民が戦後まもなくでも6割とか戦前とかだと8割りの社会ではないからである

御民我れ 生ける験あり 天地の 栄ゆる時にあへらく思へば  犬養岡麻呂

こういうことで自然と人間が一体化していた、天地(あめつち)が栄えることが生活の基本である、でも今は科学技術とかがで栄えることであり天地とかは言わない
でも持続可能社会でそういうことが再び言われるようになった
天地がなければ人間の栄は基本的にないからである、天皇とはその栄を祈るものであり日本の祭司だったのである、だから皇居で田植えしたり蚕を飼っているのである
でも工業科学技術社会になればそれも現実と離れたものとなってしまった
日本がの高度成長は科学技術力で栄えたとなるからである

いづれにしろ人間は全体を見ないし見れないのである、無数に部分化してアトム化して分裂しているのである、原発でも吉田所長は復水器のことがわからなかったのである
それは肝心なものでもわからなかった、私は資材の専門家だからわからなかったと言っていた、原発でも余りにも複雑だから全部知っている人はいなかった
その前に原発が地域社会で生態系でどのように作用するかなど考えなかった
もし事故になったら生態系が汚染されて空気すら吸えなくなる恐怖になったからである
つまりこれも全体を生態系でも考えない全体を見れないということから起きたともなる
科学技術は巨大化して生態系すらも破壊してしまうのが現代である
気候変動も起きるとか全体に影響するのである
ただ人間は全体を見るのは苦手である、ただ一部分を見ているだけである
そこに人間の弱点があり今のような複雑怪奇な文明の全体を知る人などいないのである
それを総合する人もいない、それは神しかありえないだろう
文系理系とかあってもそれを総合的に見れる人などいないのである
そこに結局原発事故のように破滅的なことが起きて来る、そして文明は滅亡するともなるバベルの塔のように崩壊する運命になる

2022年07月11日

田舎の孤独死の怪 (隣の人が死んでいても二カ月わからなかった)


田舎の孤独死の怪

(隣の人が死んでいても二カ月わからなかった)

lonlydeath.jpg
この住宅はコンクリートであり隣の物音など聞こえるかもしれない
でも二カ月も死んだのがわからなかった
二カ月も見かけなかったらおかしいと思うかもしれない
ただこの人は日ごろから付き合いがないからそうなった
回りの人が悪いわけでもなし冷たいことでもなかったのである



市営住宅の隣の人が死んでいるのに二カ月もわからなかった
その隣に住んでいる女性を知っている、良くしゃべる人である
それにしてもなぜ隣に住んでいても死んだのを知らなかったのか?
その女性は気さくに誰でも話す人なのである

その死んだ男性は変わり者でありあいさつもしなかったという
付き合いはなかった
でも知っている女性と立ち話していたらその死んだ人の兄が通って行ったのである
兄弟がいたのにそれも付き合いがなかった
これもどういうことなのかわからない
つまり近くに兄弟がいても付き合いがなかったということなのか?

それにしても隣に住んでいる人が死んでも二カ月もわからないものだろうか?
その時は冬だから匂いもしなかったという
その女性はいろいろ気を配る人である、それでも隣の人が死んでいて二カ月もわからなかったというのも謎である

もう田舎も都会と同じだよ

こう言うのもわかる、市営住宅だから特殊にしても底辺層がいるにしても田舎でそういうことが起きるのか?
というのは田舎だと誰だ出入りしているかと四六時中監視されている
近くに親戚がいて監視されている、女性が出入りしたりするのも監視されている
それが田舎である
でもここで孤独死した人は誰も関心がなかったということも謎である

ここの市営住宅には金属の塊りをぶらさげてただ毒口をつくだけの迷惑老人がいる
この人は話しかけても話すこともない、ただ毒口をついているだけだという
こうなると本人にとっても生きることがただ苦しいだけではないか
本人自体が地獄に成ってしまわないか?
何か前に他の市営住宅にいて追い出されたとか言っていた
市営住宅には何か問題な人たちがいることは言える
猫十匹飼っているエホバに入っている女性がいる
底辺層は創価が共産党に入っている
それで名古屋に行った時、そこも市営住宅地であり共産党と公明創価の宣伝があり
おそらくそういう場所ではどちらかに属していないと生活できなくなっている

とにかく〔田舎も都会と同じだ」というときこの孤独死は特殊なことではないかもしれない、田舎でも別に関心を持つとしても監視しているとか何か苦しんでいる時
他人の不幸は蜜の味となる、それがあからさまなのである
そういうことを話題にして楽しむのが田舎だともなる

その女性は農家の出である、それでも(農家は汚い)としきりに言う
そのことは戦後食料不足になったとき都会から食料を高価な着物とか骨董品とか何か食料と交換したとき嫌というほど思いしらされた
農家の人が素朴とかはない、田舎の人間が素朴とかないのである

ともかく田舎でも底辺層がいる、そこはみじめだとなる
むしろもしかしたら江戸時代の長屋のような所では人情があったとか見る
現代はむしろこうして隣に住んでいても無関心だったとなる
ただその人による、死んだ人は普通ではない、異常だったともなるからだ
でもそうして孤独に死んでゆくのも悲惨である
でもまたそうなり安いのが現代でもある、それは都会だけのことではない、田舎でもそうなのである

何か原発事故で復興住宅でも団地のような所でも孤独死があったとされる
孤立してそうなった
でも逆に仮設住宅では一軒一軒であり協力しあって一人暮らししていた人が喜んでいたというのも不思議である、そこは江戸時代のような長屋のようになったのかもしれない
年配の女性でも辺鄙な場所に住んでいたからいつも近くで逢えるからいいと言っていた
これも意外だった、田舎だと離れて住んでいるからである
女性は話し好きであり話すのが生きがいともなるからだ

現代の問題は一人暮らしが多くなることである、すると孤独死も増えて来る
最近知った大工さんも離婚して小高から原町に移り住んだ
すると一人になる、それで家事とかで困っている、でも仕事するから仲間もいる
でも家に帰ると一人なので今までは違ってくる、がらんとした家に一人でいることになるからだ、とにかく離婚する人もまた熟年離婚になる人が多いのである
死別もあるが一人暮らしが増える、すると孤独死に増えてゆくのである

とにかく近くに住んでいても何の仕事をしている人かわからないことも多い、田舎でもそうなのである、そこで人間関係が希薄化している
ここで孤独死した人は特殊な人だからそうなったのだがそれでもこうなりやすいのが現代だとなる、田舎でも都会のように他者の関係が希薄化している
ただ田舎は逆に関心を持つにしても同情するとかではない、相手の不幸を喜ぶ関心だとなるから困る
結局この世の中で住みよい場所などないのである、田舎だと自然がありその美に身近に接するとしても人間自体はいいとはならないのである

それにしても隣の人が病気になり福祉の車に乗せられていた
こうして病気になれば福祉関係の人が来る、でもそこには二カ月間死んだまま放置されていたのである、ただ突然死んだからそうなったともなる
病気になったら福祉関係の人が回るからである、それがないから突然の死で放置されたのかとなる
ともかく高齢社会ではこうして孤独死する人は増えて来る
そうなると阿部前首相が殺害されたが世界中からお悔やみがあったりするからそれが悪いものでもないとも見る、一方全く兄弟すら付き合いがなく放置されて誰も知らず死んだ人がいた、その差も大きいとなる
その人は冬に死んだけど夏だったらこうはならなかった、匂いがするからである
いづれにしろ一つの田舎の怪であった

2022年07月01日

それぞれの土地と家の物語 (歴史も家と土地の物語から始まる)


それぞれの土地と家の物語

(歴史も家と土地の物語から始まる)

familyhistory222234.jpg

歴史と言う時多岐にわたるから理解しにくい、むずかしいとなる
でも家族からみるとわかりやすいとなる、みんな家族が一番関心があるからだ
聖書にしても家族の物語からはじまり国の物語となり歴史となっている
アダムが祖となり綿々とつづいたその系譜の物語だった
何か中心となる家族がいてそれが分派する、一族となり家族が拡大する
今でも中国だと李氏が大きな一族を形成している、李氏朝鮮というときもそうである
李氏によって国が作られたとなるからだ、日本では逆に天皇に姓がないのはどこの氏族にも所属しないということで国を治めることができたとなる
たいがい力のある一族に属しているからどっちかに族していれば公平にならないからである、でも権力争いになると天皇は錦の御旗として持ち上げられて官軍と賊軍に分かれた
古代では天皇が兄弟で二つの勢力に分かれて熾烈な戦いとなる
南北朝でも天皇は二つに分かれて熾烈な争いとなりそれが国のすみずみまで争いとなり戦乱はつづいたのである、今の天皇は南朝の末裔だとしているのもそうである

家というとき土地があって家が建つのだから土地と関係している
その土地に土着するには土地が必要だからである、だから家と土地は切り離されずある
特に農家の場合は土地がなかったら生活もできないのだから土地と密着しているし
土地から離れて家も家族もありえないとなっていた
だから農家では土地を売るなとなっていたのである

先祖代々の土地を売って引っ越すと、先祖の祟りがあるというのだ
https://ameblo.jp/hirosu/entry-12281454084.html

これも土地と言うのが深く人間にかかわるものとしてあるためにそうなった
農民だと土地が命であり土地無くして生活が成り立たないのだから当然そうなる
そもそも農家の土地は代々その地域で先祖から耕して作られてきたものであるからだ
ある人は梨農家でも良い梨を作るには十年かかるとか言っていたからである
農家では跡を継ぐのが有利なのはそうして先祖が土地を苦労して作ってきたからだとなるたわけは「田分け」のことであり田を土地を分けること売る人はたわけになったのである
何が今住んている自分の土地もそうである、私の父親が双葉の新山で酒屋の丁稚であり暖簾分けしてこの地に来た、この土地はこの街で一番低い土地にあったがやはり土地を得たということで土着したとなる、土着とは土に着くことであるからだ
でも戦後二回洪水になり私の家は一番被害があった、今でも下水から水があふれ浸水しているのである、一番低いから水が集まるのである
その土地土地にはこうして悪い土地がありそこに住まざるを得ない理由がある
がけ崩れとか台風とか大雨で日本では常にある、そこはやはりもともとそういう悪い土地であり危険な土地なのである、でもそこに住まざるを得ない事情がある
日本は特に山が多く平地が少ないからそうなる、平という地名が多いというとき山間でも平な場所があるとそこに家も建てられるし農地にもなりやすいからである

日本で野というときは斜面のことだったのである、入野というとき山間の斜面の奥に入ることである、それで入野の歌が万葉の歌が残されたのである
そういう地形が日本の典型的な地形となっていたからである
そもそも平氏というとき山間の平な土地ということにもなる、極めて日本的な土地柄から生まれた姓だとなる

農民だとどうしても土地が一番大事になる、それで相馬地域では越中とか富山県から相馬藩が飢饉の時命がけで移住してきた、江戸時代は自由に移住できなかったからだ
それまでして移住したのは相馬藩が飢饉になり三分の一の人口が減ったからである
そこで欠け地が増えてその土地を与えるということで移住して来た、そこは余り土地としてはいい場所ではなかったのである
だいたい前田とあるところはその村の草分けでありそこが中心となって発展した
原町区の大原村だと前田という所がありその人がそこに住んでいて古い家だったらしい
その人と南相馬市の市立病院で入院して一緒だったので話を聞いた
そしてそこから遠田という地名があるがそれは前田から離れて山の方の遠い所で森の中に田畑があった、まさに前田からは遠い場所なのである

ともかく家と土地は切り離されずある、農民の場合は一体なのである、ただ商業とか工業が発達すると土地はそれほど重要でなくなったのである
だから浪江の人は回りの田んぼが草ぼうぼうになっていても無関心だった、かえって補償金もらって良かったとか言っていたのである
今は農業でも地方でも一割くらいしか生産量としてない、経済的に第一次産業のウエイトは減退したのである、それで意外と田舎に住んでいても農業のことがわからない人が多くなったのである、現実に農業していなければそうなる
給料もらえるのは会社だからである、それで藤倉ゴムとかではゴルフ用品を作っていた
それもグロ−バルに展開していたのである、そういうこともわからないことがある
農業だと一応見えるからわかるが商業とか工業になるとわかりにくいのである

家の物語もあるがそれと一体化して土地の物語がある、なぜなら土地無くして人間は住めないからである、そもそも争いが土地争いが必ずある、狭い地域でも必ず土地争いがあり領土争いがありそれが大きな戦争となってきたからである
なぜ土地とか家が人間にとって身近であり基本になるのかとなると農家だったら土地があって生活が成り立っていたからである
例えば一軒の農家があるとするとその農家がその土地の草分けとかなるとやがて城にもなる、掘りをめぐらして自衛するからそれが城の基ともなっていたのである

結局土地にしても家にしても先祖が苦労して得て作ってきたことに価値がある
そういう人間の苦労を偲ぶことが歴史にもなる、何の苦労もしないて得たものには価値がないとなる、私はこうして苦労して土地を手に入れ家を建て蔵を建ててきた
だからここを大事にしなさいとなる、田は売る奴は田分け(たわけ)となる
それは戦後の引揚者も仕事がなく不便な場所を開墾して住んだ
街の近くでも開墾して住んでいた、小池とかでもそういう場所があった

また飯館村とかでも木戸木などは本当に山にふさがれて不便な場所であったが開墾して住んだ人がいた、そこに共栄橋とかあるのはそのためである
共に栄えるとなるが今残っているのは二軒くらいである、もともと十軒くらいだったからそうなった
引揚者の数が多く仕事がなく不便な地域に開墾して住んだのである
浪江町の津島などは相当に山奥でありそこでも引揚者が開墾して住んだ
だから結束が強いというのもわかる、共に苦労した仲間だから結束が強い
でも原発事故で住めなくなったのである
そしてその土地は荒地となり放置されることになった

先祖代々の土地を売って引っ越すと、先祖の祟りがあるというのだ
https://ameblo.jp/hirosu/entry-12281454084.html

こんなこと関係ないとなるがそれだけ土地がもっている重みが農民社会では強かったからそうなったのである、日本は国土が狭いから土地の持つ価値が大きい
また山が多くて平な土地が少ないから余計にいい土地を求める、でもそういういい土地に住む人は草分けであり後は悪い土地に住んだのである、そういきう場所は災害にも会い
安いともなる、それが自分の家の土地だったのである
土地にまつわる歴史は家単位でもあるし藩単位でも国単位でもある
それが歴史だったともなる、ただ遊牧民だと土地にこだわらないから移動するから違っている、血族が強力な結束がある、日本の姓がどこかの土地の村に由来しているのとは違っているのである、日本では村かアイディンティティになっているからだ

そして満州に日本が進出したのは土地を得るためだった、広大な土地があり農民社会だったら土地が第一だから満州に移住したのである、そして寒い地域でも米作りしていたのである、農業だったら土地がないと成り立たない
だから農業だと土地の争そい土地の奪い合いになる、戦国時代でもそうである領土の拡大が第一になる
ロシアがなぜウクライナに侵略したのかとなるとロシアは広大な土地があるのにと思うがロシアは依然として農業社会の面があってそうなったのかと見る、ウクライナには広大な土地があり麦がとれる、それも輸出できるからだ
やはり食料とかエネルギーが石油やガスや石炭でも資源を持つ国は強い、金の裏付けとなるのものだったのである

ともかく原発事故で先祖が苦労して得た土地を捨てて他に移った人には祟りがあるのか?これも今はないとしてもやはり原発をこの土地に作らせたことが呪いになったことは確かである、そのためにその先祖代々の土地を捨てなければならなくなったからである
そして他の土地に移っても成功しなかったというのは祟りだったのかとなる
でも別に補償金をもらって仙台市の方に移った人でも成功していた人はいる
これはやはり土地と一体であった農民社会だから伝えられた
むしろ現代では成功者というとき篤農家ではなく工業であれ商業であれ農業以外で成功した人達だとなっているからだ
土地に執着した農民社会とは違っている、ただ放射線被害を受けたのは漁業であれ農業あれ林業であれ第一次産業の土地と一体化して生活する人達だったのである
でもそれらは現代では衰退産業になっていて跡継ぎがいなとか問題になっていた
そこに原発事故が起り壊滅的になってしまったのである

でも人間は親であれ先祖の苦労を偲ぶことが歴史でもあるというときそれを無視することはいいことがないともなる、それで先祖の祟りがあると言われたとなる
私の家でも水害で低い土地だから一番大きな台風被害の時、二階がなく逃げる場所がなかった、近くの二階のある家に逃れたのだがそれも水が押し寄せて危険だったのである
それでどうしても二階を持ちたいとなり二階のある家を早い時期に作ったのである
そこに苦労があったのである、それは地元の木を利用して作った
ハウス会社などまだない時代である、すると家とは土地を得て土着してその上に家を建てる、その家の材料が地元のものだとするときまさに土着したとなる
それがハウス会社になると地元とも関係なくなり一二週間で組み立てて建てる
そういうことで何か重みもなくなる、でも部品は工場で精巧に作られていて昔の家よりはいいものなのである

近くの人の石垣を積んだような庭が重みがある、それは20代ですでにそんな庭と立派な家を作ったのである、トラック運転手もしていて人の二倍の荷物を運んだ
その頃高度成長時代であり給料も高いから働けば働くほど金が入ったためである
つまりそうして自ら苦労して建てた家にいることで充実感がある
病院に半年くらい入院してかえって病気が悪化した、それは精神的な面もある
家にいれば自分で建てた家として重みがあり安住するとなるからだ
ただそこも街に近くても津波の被害があった、あそこまで床上まで津波が来たことには驚いた、それもまた家と土地の歴史となった
でも根こそぎ家も土地も消失した漁村よりは良かったとなる
でもあそこまで津波が来るとは誰も予想できなかった

こうして土地と家の物語があり家族の物語がありそこに苦労があり価値が生まれ
もし苦労がなかったら必ずしも価値は生まれないともなる
親でも子供を苦労して育てないとありがたみがなくなる、それで金持ちの子供が親自体が苦労しないとなり親のありがたみを感じないとなり放蕩息子が生れたりする
商家ではそうした放蕩息子がドラマになる、これは家だけではない、地域でも国単位でも歴史を忘れるということは先祖が苦労して築いた物を忘れるということである
それが先祖の祟りとなる、まず原発事故の悲劇は営々として築いてきた故郷に住めなくなったということである、それで放棄されて先祖代々の農地でも草ぼうぼうになり捨てられて神社でも捨てられてそこを幽鬼となった先祖が彷徨っている感じの荒寥としたものになったのである
それは限界集落とかでもそうである、村自体に人が住まなくなり村自体が山間に埋もれ原野化してしまったとことである、そこに神社にお参りする人もなく墓参りもなく捨てられて先祖は幽鬼となって彷徨うようになる、それがこの辺では原発事故で広範囲に起きた
だから原発事故の罪は余りにも深かったのである
でもそれをあまり深く考えない、誰も死んでないのだからたいしたことがないという人もいる、でも現実を見ればそうではない、原発の避難区域にはもう戻らない人が多く土地も家も捨てられて先祖も捨てられたのである、そこで先祖の祟りがあるということもありえる、だからなぜそうなったのか?これは深く考えるべきものだったのである





2022年06月10日

自分の家の歴史ー地震の後片付けで生前整理にもなった


家から考える理系と文系

(文系的なものも家に深くかかわる―土着的なものの必要性)

家は物理的存在でもある、物としてもある、だから私の家は前に店をしていてそこが広いのである、柱もなく広い、それで危険だと指摘された、それで怖いと思ったのはその上に自分が寝ているからである
だから今回の地震は本当に怖かった、ゆれが激しく身動きもできなかった
崩れるのかと思ったから怖かった、構造をみれば地震に弱いことがわかった
柱がなく壁もなくそこはただ広い空間になっている、それで支柱もないので危険である
そして50年とかすぎて古くなり痛んでいることもある
それで一部の壁がくずれ中にシロアリがいたのである、これもショックだった
床下を一時シロアリ駆除してもらった、それも結構な金がかかった
何か家は金がかかる代物なのである、増築したりもするし金がかかる
近くで新しい家でも壊したのはなぜか、やはり住んでいる内に子供などができたりして
新しく建て直したともみる、家は確実に家族でも子供が成長したりして変化して家も変えざるをえないのである

そして家というのは確かに物でありでもそれは構造物として物理的なものとしてみる
だから地震で耐震設計するときは物理的に揺れに強い強度をもつらようにする
でもまた湿気により家が地震に弱くなるというのも意外である
それは化学的作用だとなる、つまり耐震設計は構造物として物理であり湿気とかは科学なのである
そして家はそれでけではない、文系にかかわるものがまたある
それは家の物語を語る時それが歴史なのである、そこに家族の生活があり継続された生活がありそれは歴史になる、歴史となると何か大きなもの国の歴史とかみるが実際は家自体一番わかりやすい歴史なのである
それぞれの家に必ずその家の歴史がある、そこで生活した物語があるからだ
そして故郷というときその家は深く郷土と結びついているのである

それで現代は何でもチェーン店として商売を展開するが何か生前整理はそうした全国的なものになじまないと思った、なぜなら生前整理するにはその家族のことをある程度知らないとできないと思った、遺品を整理するにしてもつまらないものでも人生の思い出がそこにあり簡単に捨てられないからである
ところが地元の人でも簡単に邪魔だ価値ないとして捨てようとする
その人にとってはそれはゴミにすぎないのである、ここに大きな問題があった
もし宝石類とかであれば金になるとして投げたりしない、その整理をまかされた人もこれは金になるとして捨てないだろう、でも粗末なバッグとかあったらこんなもの捨てろとなる、でも私の姉は従軍看護婦で戦友だった女性が手作りした粗末な布のバッグを大事にしていたのである、それは戦地で生死を共にしたからこそであった

また自分の家の歴史を語ったがやはりそれぞれの家に思い入れが生まれる、だから原発事故でも老人は愛着があるから残ったのである
家とか土地に愛着ができていたからそうなる、そして人間が生きる時、貴重なのは時間なのである、誰とともにして生きるかということは誰とともに空間と時間を共有するかとなり故郷がそういう場所だから老人になると他所に移りにくいのである
本当に時間は消失する、空間は死んでも億年でも残る、でもそこに人間が生きる時間は短い、終わってみればあっという間だともなるからである
それで熟年離婚というのは損だとみる、なぜならもう新しく共に生きるという時間がないからである、時間はとりもどせないからである

ともかく家というのは物としてある、物理的化学的存在としてもある、でも物と心は一体となる、色心不二である、色は物であるでも人間の場合は物と心は一体化するのである
それが東洋的思想だともなる、この物を探求するのが理系であり科学者である
でも物と心を一体化するのが文系だともなる、だから確かに家は物として見れる、でもそこで家族が生活して歳月を重ねる、そのうちに家という物は構造物は心と一体化するのである
現代文明はあるゆるものが物化して心と分離しているのである、大都会のビルを見てもそれはもう人間の心とは何の関係もない、人間の心と一体化できないのである

たとえばフィレンツのアテネの学堂とかの絵でもそれは人間の精神と一体化したものなのである、大聖堂でもそうである、そこには精神性があり荘厳な森をかたどったものでありそこに深い祈りの場ともなったのである
現代ではそうした心が精神性が喪失しているのである、物と心は一体化しない分離してしまったのである、つまり理系的なもの科学的ものがおおってしまい心はないがしろにされた、それはあらゆる場所でそうなのである
もう人間は心のこもらない物に建築物に囲まれて病院でもそこで機械に囲まれて遂にロボットにでも看てもらうとまでなる、患者は番号で呼ばれてもうナチスのようにガス室にでも送られるという無機質な空間なのである、それで病院に入院して恐怖になったのである
私が家にこだわるのはそこが人間的な空間なのである、そこには物としてだけあるのではない、家族の生活がありそこでまた家族は生きているのである、祖先が家にはまだ存在しつづけるのである、例えば空家になり廃墟のようになってもそこには何か幽霊になっても家が離れないとも感じる、でも壊されてしまえば何も感じなくなるのである
家にはだから死んでも家に死者は生き続けてるとかなる
借りる部屋にしてもそこで自殺したりした人がいるとそこにその人が怨霊のようにすみつくなり怖いのである、家に霊がとりつくともなるのである

そして大きな問題は家はそもそも土着的な存在である、土地をもつことは土着的になる
これは借りている家だと相当に感覚的に違う、一時的にいる場所だとなるからだ
でも土地をもって家を持つと土着したことになる、その土地と結びつくのである
それで人間の仕事が土着的であるべきというとき果たして現代のようにあるゆるものが広域化してグロ−バル化することはこれも物と心の分離になる
第一地球の裏側から食料が入ってきてもそこで生産する人たちのことなど考えないだろうただ物にも作った人の心が入っているとしてそれを感じない、ただ値段だけ見ているだけである、物と心は完全に分離しているのである、そこでマルクスは人間疎外を言ったのである
だから何でもチェーン店化しているのがいいと思えないのである、ただそれも車社会とかなってそうなったともなるかもしれない、コンビニがそうだからである
それはもう土着的なものではない地元とは分離しているのである
なぜなら別に地元の人が買わなくても成り立つ商売だからである
でもそこには本当にコンビニでありコンビニーエントなものであり土着的なものはないのである、商売にはそういうことがあるにしても極端だとなる
物がない時代を物を求めて来たが今になると心を精神的なものを求める
家(もの)と心はは一体化しているから家は単なる物と見れないのである
そして家は土着的なものがあり土地とも一体化することがある

そして意外とこの土着的な志向というのが大事である、原発事故でもそもそも土着的ではない、その土地の生態系とかなど無視して建てられる、その土地の風土とか無視して建てられる、その時自然がしっぺ返しがある、そのために地震があり津浪があったとなる
また知床の観光船の事故でも同じだったのである、そこで風とか潮流とか自然とその土地の風土を熟知していないと観光でもできないものだったのである
つまり土着的でないとできないものだった、でも土地の漁師が観光船を操作していない
外から来た人が操作していて事故になったのである、土着的なものとして仕事していなかったからである
だからなんでも全国展開するチェーン店でできるのかとなるとできない、確かに有利な
面があるにしても生前整理となるとその土地であれ家族であれ深くかかわるからただ整理だけすればいいとかならないからである
ただ経営的には土着的なものとしては不利になりできなくなった、でもそこに大きなものが欠けることになった、それは土着的なものではないと補いないものだったのである




天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

右は、聞かく「左大臣長屋王(ながやのおほきみ)の佐保の宅(いへ)に御在(いでま)せる肆宴(とよのあかり)の御製(おほみうた)なり」といへり。

奈良の山なる黒木もちということは土着的なことなのである、ただこの家は左大臣とかの家だからこそ立派だったともなる、おそらく庶民はこうではなかった、小屋のような家に住んでいたとなる、その後農民でもこのような家をもてるようになったのである

自分の家の歴史ー地震の後片付けで生前整理にもなった

2022年05月08日

ヤングケアラーの悲惨 (貴重な時間が奪われることが最大の損失)


ヤングケアラーの悲惨

(貴重な時間が奪われることが最大の損失)

NHKでヤングケアラーのことを放送していた、それも小学生とか30年も介護していたとか驚く、そんな人がいるのかと見てこれは悲劇だと思った
これこそ親ガチャだと思った、親のために一省台無しにされたとも見た
そうは言わなくても自分の人生なんだったのだと必ず後悔する
親のために尽くして親のために生きたとなる

ただそういうことは戦前とかだと親のために子供が働かせられていた、貧乏な国では子供が働き手として産んでいた、そういう社会だったのである
子供が親のために働く犠牲になるともなる、貧乏だとそうなりやすい
別に私の子供時代でも何か変なのだけど店の配達とか店の手伝いとか卵買いとかさせられていた、親が酒屋の丁稚だったので私も丁稚のようにされたともなる

そういうことは農家でもあり子供が親の仕事を手伝うのが普通だったのである
そういう社会だと親でも子供を産んだ方がいいともなる
今の社会は子供のために親が犠牲になるとなるから子供を産み育てるのも嫌だとなる
だから今度はそういう時代になると子供は親のために働き孝行するのが普通だったのに
子供のために働かせられ尽くすだけだとなり不満になり子供いらないとなり少子化にもなったのかとみる

でもそもそも生物としては親は子をうむために犠牲になる、鮭でも子を産むために必死で川を上り子を産むと死んでゆく、それは生物を維持するための本能である
子供のために犠牲になるのが生物の本能なのである
そうしなければ子孫を残せないからである

だから親のためにまた老人のために若者が犠牲になる社会は生物としては異常だとなる
これだけの高齢化社会と人類史でも経験していないのである
それでどう見るかは初めてのことなので何とも言えないのである
これまでの人間の歴史ではみんな平均寿命が長いのであんまり介護とかもなかったもしれない、ただあったとしても介護期間でもあまり手厚い治療をしないから早く死んでいたと思う、ただ若くても病気になり介護していた人はいた
老人をこんなに介護する時代はなかったと思う

小学生から40年間親の介護していたとかなると信じられないとなる、もう人生が親の介護だったというのも悲劇である、その人は自らも病気になったことがわかる
私も認知症の家族を介護士てうつ病になったからである、なんらか精神的にもおかしくなるだろう、それで普通に暮らしている人達をみてこういう暮らしがあるんだというのもわかる、何か介護というのは狭い所で人間関係もなく介護する人とされる人が閉ざされた空間で過ごすことになるからだ
それは牢獄のように感じたのである、私のように旅ばかりして自由に過ごした人には特にそうである、ただそんなに若い時から介護していた人はそういうのが人生だとなるほかなかったのかもしれない、とにかくこうして親ガチャとか親のために人生を失うということが結構多いのである、なぜなら素直であればあるほど親に尽くすことが当然のように思えるからである、また他にする人がいないからそうなってしまった

とにかく人間にとって一番大事なのは時間である、それも若い時貴重な時間を奪われることは悲劇である、そうしたら老人になって親を恨むことがある、親のために自分の人生が犠牲にされたとふりかえるからである、ただ他でも親のために自分の人生を奪われることがある、親がカルト宗教団体に入っている人は素直だと全く洗脳されて染まり一生をそのために終わる人がいた、その人はそれ以外の人生など考えることもできなかった
だから親の影響は本当に大きいのである
親によって人生をだいなしにされることは悲劇である

私が特別親に感謝しているのやりたいことをやらせてくれたからである
大学出ても就職もしないで自由に生かしてくれた、やりたいことをやらせてくれた
その後も30年間引きこもりでも自由にやりたいことをふらせてくれたのである
だから介護になっても必死で介護したのである
でもヤングケアラーは自分のやりたいこもやれない、介護の牢獄のようにな状態で40年間も過ごしたとなるのは異常である、そして自分自身も病気に成っているというのも悲劇である、なぜそうなのか、それは時間は取り戻せない、青春時代も取りもどせいないからだ

人間というのはその時その場でやるべきことをしないとあとはできない、時間は取り戻せないのである、もう一回やり直すこともできないのである
これが人生にとってショックだとなる、親がどうのこうのと言っても結局お前の人生はお前の責任であったとしかならないのである
でもそうならざるをえなかったというのは悲劇である、もちろんその経験が無駄とはならない、なぜなら人間は何でも経験が大事だから経験しかから本当のことは学べないからである、そしてそれぞれの経験することもごくわずかなのである
あらゆる経験など人間にはできないのである
だからどんな経験貴重なのである、介護であれ引きこもりでもそうなのである
それも一つの経験だからである

ただ人間の時間は極限られている、たちまち時間は消失する、また体力でもなくなる
そうすると体力あるうちに山登りでも自転車旅行でもなんでもきついことはしていた方がいいとなる、後はできなくなるからだ
それびヒマラヤに一回だけ行ってみたが曇って見えなかったのでもう一回見たいとなるが見ることができないのである、体力的にできなくなったからである
だからそうした貴重な時間が消失してゆく、ヒマラヤを見ることは本当に感動だからである、他のことでもそうである、それで私は50歳からバックパッカーになって世界旅行したことが良かったとつくづく思う
もう海外旅行もできないと思ったからである、それだけの気力もなくなったとなる
特に介護は体力だけではない、精神力も消耗するなと思った
牢獄に閉ざされた中で極めて狭い世界で生きることになる、常に介護は介護する人から離れられないからである、だから牢獄に閉ざれた感覚になったのである

ヤングケアラーが相談する人がいない相談しないというとき誰も親身になってかかわる人はいないからである、そういう人とはかかわりたくないのである
かかわるとしたらやはりその人も犠牲になるからだ、そして金だけは欲しいとなるのであるお前を助けるけどその前に金をくれとかなっていたのである
つまり介護では親身になる人はいない、それは自分の場合はカルマだった
だから自業自得だと思ってしていた、それはもう60歳にもなっていたのだから不満も言えなかったのである
私にとって介護は最後は親に感謝されたから報われたとなる
それでもともと特別良くされたから今でも手厚く供養しているのである
でも他の人はヤングケアラ―などは全く違っている、あまりにも過酷であり親を恨んでもしょうがいなとなる

ただこういうことも高齢化社会とか介護社会で産まれたのかともみる、ただ放送では
若い母親が病気になったのであり老人の親の介護とはまた違っていた
でも介護する人は今は家族でも核家族とか少人数だからできる人がなくそうなった
とにかく現代はなんらかで介護の問題をかかえる、それは親が長生きでありまた簡単には病気になっても死なないからである、そこで孝行したい時は親はなしとはならない
必ず親に孝行を強いられる、最後に介護させられるのが運命だとなる
それから逃れることはできないのである、でもまた今は戦前のように親のために子供が犠牲になる訳てはない、親が犠牲になるような時代である
でも最後に親に孝行が強いられる時代だとなる

私は叔父にあたる人が病気になり輸血してくれと30頃言われた、でも断った、なぜなら私はその時登山して死ぬほど疲れていたからである
それで断った、でもそうして登山して良かったと思う、体力がないのですぐに登山はできなくなったからである、ただそのことでその娘にも恨まれてもいいものとなり叔父も私を恨んで死んだとなる介護の時冷たくされても当然だとも思った、でもその娘は異常であり育ての親を捨てた
突然病気になった死んだ育ての親が私に「ひどい娘だわ」と私に言い残して死んだのである、だから自分だったらしょうがないがなぜそうなったのか異常であり非情だとなる

高齢化社会と介護は切り離せない、でもその負担が大きすぎる、それを若い人がするのはあまりにも過酷だとなる、どうしてもそういう人は親を恨むようになからこれも悲惨である、親にとっても子供にとってもいいことはない、時間が貴重であり若い時は束の間であり二度と戻ってこないからである
でも祖を強いられるから悲劇だとなる、それを償うものがあるのか?
確かに早い時期に何か介護して他の人より大人びるかもしれない、でも若い時期は短いしあの時こういうことができていたのになと痛恨の悔悟になるかもしれない
なぜなら人生は二度とないからである、あの時こうしていれば良かったといっても
二度とその時は帰ってこないからである、それは報われないとなるから悲劇である

2022年01月26日

過去は美化されのはなぜか? (死者は美化されるのはなぜか―利害関係がなくなるのから)


過去は美化されのはなぜか?

(死者は美化されるのはなぜか―利害関係がなくなるのから)


なぜ過去が美化されるのか、過去はいいように見やすいのか?
過去は別にそこに今生きている人が生きる訳ではない、結局過去にいろいろなことがあったとしてもそれが今生きている自分に直接影響することはない
そこがどんなに恐ろしい過酷な世界でも過去のことであり今生きている人間には影響しないから過去はいいものだとなる
過去に残酷な戦争があったとしてもドラマを見て楽しんでいるだけだともなる
でもそこに生きていたらか無惨に殺されたりするのだから過酷なのである

何かただ過去が美化されるとき実際のことはわからなくなっている
不思議なのは過去の残酷なことや汚いことは見えなくなりいいようにイメージするのである、昔は人情に厚かったから良かった、今の人間は義理人情もないとかなる
人間関係が金だけの関係となり索漠としているとかなる
それは確かにそういうことがあってもその時代を生きていた人はそういうことを意識されない、当たり前のこととなっている
でも時代が変わるとそういう時代には日本人は金だけではない、助け合っていたとか見直されるのである、でもその時代に生きれば必ずしもそうとはなっていないかもしれない
ただそういう日本人がいたということは平均的にみればそうなっている

なぜ時代が違うと人間まで違った来るのか、それでアメリカ人でもそうだった、クラークの時代のアメリカ人はただ金を追求しているだけの人ではなかったとはいうときそうである、ホイットマンが讃美したような開拓者像があった
腕一本に生きるとか江戸時代の職人気質とかと通じたものがあった
つまり外国でも時代が違うと人間が違ってくるということである
それは戦前の人間と戦後の人間はまるで違った人間となったことと同じである
そして昔は人間はこんなでなかったと嘆くのである

例えばその人は眼が悪いから手術した、それも仙台市まで行って手術した
それで直った、眼科の医療は進歩しているから白内障とかだと治り安い
それで江戸時代は眼が悪い人が多かったのは栄養が悪いからだったとしている
また医療も進歩していないからからだった
そしてその女性は金もないのになぜそれだけの手術とかできたのか、福祉の世話になっているからできたとなる、でも江戸時代になるとにかく金がないから治療もできなかった
それで眼が悪い女性は遠くの優秀な医者に診てもらうために関所を越えたとか記録が残っている、遠くに行かなければ直せない、でもそこまで行くのが大変になる
交通も発達していないから行けないともなる、でも今ならこの辺では優秀なまた設備を整えた医者がいなくても仙台市なら高度な手術もできるのである

ではなぜ医は仁術になったのか?

そもそも江戸時代では病気は直せないものと一般人は見ていた、するとどうなるのか?
医者は別に病気を直せなくてもしかたないとみる
医者で大事なのは医は仁術であり情をかける、愛情を与えることが先決になる
だかち仁術にとなる、するとそれは宗教家の役目をしていたともなる
でも現代では病気は直せるものと思っているからただ情をかけられただけでは患者は満足しない、治ることを望むのである、直せない医者はそもそも相手にしないのである

ここで何が問題なのか、つまり過去はこうしていいものではない、でも確かにいいものが逆にあった、直せないから患者に情をかける、医者に情がありこ医は仁術となったいたのである
ところが今医者は仁術では通用しない、とにかく病気を直せない医者はそもそも相手にされないのである、病気は直せるものとして患者も望んでいるからである
やさしくされたり情をかけるだけなら誰でもできるとなるからだ
そして金のないものは見ないというときもそうである
医は算術となるとき病気を直す代価として報酬を金を要求するのは当然だとなる
なぜなら設備費でも金がかかっているから当然だとなる
ただ金のない人は福祉の援助を受けてしているとなる

つまり江戸時代にあたっ医は仁術は情をかけることはそういう事情があって生まれたとなる、だからその時代を見る時、そういう時代背景があってそうなったことを見ないと誤解するのである
でも逆に今医療とかでも欠けているのは情がない、医者は人間を物のように機械のように人間を診ていると不満にもなる
人間は確かに何かを得ると何かを失っている、科学技術が進歩していいことなのだが情的な面では索漠としている、非情を感じる
人間はただ金としか見ないというのそうである、まさに人間砂漠のような状態になっている、そうなると江戸時代の人情篤い社会を見直すとなる

それは死者にも言えるのだ、死者は何かとなると本当に謎である
要するに死者は今生きている人によってどうにでも解釈できる、家族が死んで残された遺族が家族をどうみるのか、それだ不思議なのである
まず死者は別に今生きている人に何も望まない、何かしてくれとも言わない、何か要求しないのである
でも生きている時はとにかく親子でも子供は親に何かしてくれと金をくれとかでも欲求することが多い、それで嫌になることがある
でも死んでしまえば何も親に要求できないのである

そして親自体も今度は子供に何も要求しない、生きている時は逆に親は子供に要求する
何か自分の子供自慢したいとかいろいろ実際は子供に要求する
それで子供は親野ために利用されるともなる、ただ奇妙なのは障害児となるかと何も自慢するものもない、ただ一方的な親の愛を与える存在なのである
それも苦労が多いのである、そこに何ら報いがないのである
そうして50とまで世話している親が普通に多くいるのである
その愛は報われない愛である、一方は貧乏な家でも医者になった息子がいる、一方は50まで障害者のままで今も世話しているとなる、その差も大きいと見た

いづれにしろ死者は美化され安いのは過去が美化されやすいのと似ているのである
何かもう過去は人を害することはない、過去の人は人を害を与えないからいい人が多かったとかなるのである、親でも実際生きている時は嫌な面があった
でも死んでみるとそうした嫌な面は消失する
ただ何か今残され生きている人はやさしく見ているだけだとなる
それは何も生者に対して要求しないからである、また何かを与えてくれとも要求しないのである、するとそういう存在はあるとしたら美化されやすい、観音様のようだとかなる
これも不思議なの現象なのである

つまり死者と生者の関係には利害関係はなくなる、何らか人間は利害関係で生きている
利害なしの関係はない、今なら金の関係しかないとなり嘆く
つまり人間は生きている限り利害関係から離れられないのである

地獄の沙汰 (さた) も金次第 (かねしだい) [=銭次第 (ぜにしだい) ]. 地獄で受ける裁判も金を出せば有利になるというくらいだから、ましてこの世では、金さえあれば何事も思うがままだというたとえ

こういうことは昔からあった、今でも同じである、人間の問題は利害関係とか金勘定から離れられないのである、金によっていかに人間が冷酷になるか
そういうことを親の介護で自分の病気でも経験して来た、人間が弱くなるとその弱みをみて責められてきた、金をくれればめんどうみるとかなる
その女性は世話になったとか言って最初は世話していたが実際は金にならないとなると
突き放す、冷酷になる、氷のように冷たくなる
そういう人が自分の病気の時来たから自分は悲惨だった、そのことを忘れられないのである人間の非情さを嫌というほど味わった
でも必ずしも金を与えても人は何かをしたとしてもいつか本心が現れてくるのが怖い
相手を突き放して捨てるとまでなる、それが親でも子を捨てる子でも今度は親を捨てるとなっている家族遺棄社会になる
現代はこうして非情化している、金だけの人間関係になることで怖いのである
それは昔からあったにしろ現代はもう極端化しているのである

人間の理想はつくづく利害関係を離れた世界である、だから友情は学生時代にあるが社会に出るとないとしている、社会は利害関係で結ばれているからである
利害関係ない世界でしか真の友情とか愛情などありえなからである
だから不思議なのは死者と生者の関係にはもう利害関係がないのである
死者が何かを生者に要求することもない、また生者が死者に要求できない、要求しても答えもないからである、そこでかえって純粋な愛の関係がありうるともなる
それで死者が美化され遺影でもやさしく生者を見ていると感じるのである
ただもはや死者は親でも何もししてくれないし答えもないのである

ここに苦しんて助けを求める人がいる、通りがかりの人はこの人を言う、金をよこしたら助ける、まず有り金全部よこせ、そしたら助ける
金をもらったら今度はお前はもう用はないからそのまま見捨てる
こんなふうになっているのが現代の金だけの関係になった社会である

そういう非情を経験してきたから現代を嫌悪して江戸時代の義理人情に篤い社会が良かったとなかる、現代はいろいろ便利になったとしても情なき社会となり殺伐としているとなるから江戸時代を今度は美化しているのである

2022年01月23日

82歳男性強盗殺人 逮捕の24歳女さん「パパ活をしていた」 「カッとなって刺した」と話す (老人の欲は消えず小人閑居して不善を成すになる)


82歳男性強盗殺人 逮捕の24歳女さん「パパ活をしていた」
「カッとなって刺した」と話す

(老人の欲は消えず小人閑居して不善を成すになる)


この事件も何なのか?何か現代社会を象徴した事件だともなる
高齢化社会で82才でもまだいろいろ元気だとなる
人間の欲は消えないのである、かえって老人になって人間の最後の欲が出てくる
それだけ人間の欲は強いものなのである、人間が枯れるとか簡単にならないのである
人間のいろいろな欲望が死ななければなくならいとも見る
死んで欲は消滅する、でも欲はそれだけ強いものである

ある女性は最後に

スシもってこいと言って死んだという

食い意地があってそう言ったのだろう、それも餓鬼のように食うことも欲だから消えないとなる、その欲があるからこそまた人間は生き続けているとなる
人間は死なない限り欲から解放されないのである
欲を断とうとすればするほど欲がでてくる、そのジレンマに苦しむ
人間はそれだけ欲をたてない、消えないのである
それは男性だけではない女性でも同じなのである、男性とは違っていてもやはり欲がありそれが生きている限り消えないのである
死ぬまで男は男であり女は女だとなる

人間は引きこもりとかの時代だけど実際は引きこもりになることは相当にむずかしい
何かおかしくなってくる、引きこもりで正常を保つことはむずかしい
引きこもりを隠者とすると隠者になれような人間は相当に優れた特別な人である
それを自分自身の経験でわかった

小人閑居して不善をなす

このことは高齢化社会で老人がなりやすい、暇をもてあます老人が増える
普通だったら隠居とかなり悠々自適だとなるが実際は違う
隠者のようになることは相当に難易度が高いのである
かなりの教養とかないとそうした高等遊民みたいなものになれないのである
だから必ず不善を成すになる
それは自分自身が小人だけどたまたま家族に恵まれてそういう境遇になって理解したのである、現実に不善を成しているからである
すると高齢化社会で不善を成す人は増えるのである、大方は小人だからである

そしてこれと似たものとして

君子危うきに近寄らず

これも似たものである、この世にいかに危険なことがあるかそれはいろいろあるが人間そのもの最も危険なのである、まず若い女性に近づいたことが危険だった
女性でも危険な人はいくらでもいる、そこに人間の欲がからんで事件になった
とにかくこの世で生きる時必ずヤバイ人間がいる
そういう人と交わると危険になる、そして人間の欲がそういうヤバイ人間と交わるように仕向けるのである

つまり隠居して大人しくししているとういことができないのである
それをできる人は優れた人だともなる
だから高齢化社会でこうして老人がいろいろと迷惑をかける人が増える
近くでもは猫を十匹飼っているカルト教団に入っている老女とか何かきらきらするものをぶら下げて迷惑をかけている老女とかがいる
その人達は底辺である、その女性は全然口もきかないのである、そして回りの人を警官を呼んでとりしまってくれとか言っているのである
この女性は相当に異常化している、そういう老人は回りに増えて来るのが高齢化社会である

こうした問題は高齢化社会で起きるというとき今は老人でも元気な人は元気なのである
だから欲もありまた何かするにこともできるが暇を持て余ししている老人も多いのであるだから人生百年となると金も必要だが老後をどうして過ごすのかが問題になる
それに備えることも必要だとなる、ただこれは金の問題ではなく精神的な問題になるからむずかしい面があるのだ
だからもう若い時から老後にそなえて趣味をもつライフワークを持つことも必要になる
そのライフワークを60以上から持つことはかなりむずかしいからである
普通の人間は積み重ねであり突然何かを理解できたりしないからである
ともかく人間は何か理解することに時間がかかるのである

60の手習いとかあるがその前に継続して探求するものがないとそれも身につかないともなる、ただ60の手習いとは高齢化社会では普通になる
60からでも遅いとういことはないがやはりその前に継続して知識でも積み重ねることが大事になる、それは必ず活きて来る、読書でも読んでも理解しなかったのが理解できるようになる、そして自分なりに消化できるようになる
本を山ほど買ったが理解できなかった今は理解でき自分なりに引用したりできている
それが自分には本当に不思議だと思う
だから読書にしてもその時は理解しなくても後からこうして理解できることがある

人間の心は実際は解明されていない神秘的なものである、心は汚れないようにすることが大事である、心は浄化されてゆく、そして老人になって美しいビジョンを見るようになる人間の心は浄化されると天に通じてそうした天国のビジョンでも見えるようになる
だから修行することも必要になる
ただ人間は常に雑念とか欲念とかが消えないのである
老人になると枯れるとかなくますます最後の欲が出て来る
それでこうした事件がこれからも起きる、男女間で起きて来る
それだからこそ君子危うきに近寄らずとなるのだ
でもそれが老人でも隠居して引きこもっていて平穏に暮らすことができないのである
高齢社会を生きることは実際人間にとってハードルが高いのである
それは肉体的な面だけではない精神的な心の面でそうなのである

なんかどっちにしろ若い時は無謀だし老人になっても欲が消えずにこうした事件が起きる自分でもこういうことを経験している、若い時も本当に危険である
では老人になったらみんな悟ったようになり大人しくなるのかとなるとそうではない
人間の欲はいろいろ怖いものだということである
ヤバイ人間に近づくなといっても自ら欲のために近づくこともあるし向こうから近づいていることもある、隠者のように生きられないのである



2022年01月15日

高齢者の貧困の深刻化―物騒な時代に (生活保護もまともにもらえない、息子娘も援助できない・・・老人は捨てられる)


高齢者の貧困の深刻化―物騒な時代に

(生活保護もまともにもらえない、息子娘も援助できない・・・老人は捨てられる)

 今は、生活保護は高齢世帯の代名詞だ。生活保護受給世帯の半数以上(21年10月時点で55.5%)は、65歳以上の高齢者世帯となっている。

 高齢者の貧困については、21年5月19日の『「70歳定年」のウラで、じつは日本中で「貧しい高齢者」がめちゃ増えていた…! でも取り上げた。

 当たり前のことだが、2人の高齢者世帯はやがて単身世帯になる。高齢者受給世帯のうち51.2%(21年10月)は単身世帯となっており、これが受給人数の減少にも関わらず、受給世帯数が増加している主な要因だ。
 
貧乏というのはその人に直接接しないと実感しない、そして現代では貧困が見えない
汚いボロを来ているわけでもない、明治時代頃に残った写真を見ているとにかく来ているものが貧弱なのである、ボロのようにも見える
だから着るもので今と比べると貧乏が一目でわかる、また戦前とか戦後まもなくはまだ
乞食もいたからわかりやすい、でも今の貧困は一目見てもわからない

ただはっきりわかることは

必ず電気、ガス、水道代が払えず止められる、それを訴えることでこの人は貧乏だと知るそれを止められるともう生活できないし飢え死ににもなりかねないからである
現実に凍死したり暑い時はエアコンない死んだりするからだ

そして今は息子にも娘にも頼れない、生活が苦しいから援助できないのである
それより息子娘でも親を捨てる時代である、食べ物を買う金がないからくれろと言ってももらえないとかなっている、でもその息子はいい暮らしていてもそうなのである
だから事情があるにしろ親子関係でも冷たいものとなっているのだ
だから親は飢え死にしてもかまわないとまでなる

death11.jpg
こういうことにもなる

大坂放火殺人事件の犯人は生活保護を断られていた

大阪市北区の雑居ビル内のクリニックで25人が犠牲になった放火殺人事件で、谷本盛雄容疑者(61)=事件後に死亡=が昨年春、生活保護の申請について区役所に相談していたが、受給は実現しなかったことが捜査関係者らへの取材でわかった。
谷本容疑者の金融機関の口座の残高はわずかだったことも判明。大阪府警は事件前の容疑者の生活について調べている。

底辺放置すると社会が不安定になるっていい例だわな

時々役所がナマポ申請ことわってる事件が記事になってるがもう今の国民は昔ほど大人しくないって気づいた方がいいよな。
死ぬくらいなら巻き込んでやる!って連中で溢れてる。役所で働く人達は今後いつ放火されるか緊張と命の危機と隣り合わせだって状況にきてる。高度経済成長の時代は失業者がそう多くなかった
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1642090650/

ここで役所が生活保護を断った、それが問題にされる、この人は追い詰められていたのだ金もなくなり追い詰められていた

追い詰められている人間ほど怖い者はない⇒犯罪を怖がらない

もうやけになっているからどうでもいいとなる、その後のことは考えないのだ
その追い詰められた人間を役所で断った結果大惨事になった
ただもう生活保護は受けられなくなる、もらったとしても10万なんかもらえない
国民年金四万もらってもあとは5000円とかもらえないとかまた医療費でも無料ではない、必ず二三割はとられるのである
もう生活保護は最後のセーフティネットではない、するとどうなるのか?

凶悪犯罪者が野に放たれる!

これが大阪放火事件となった、最後だけ目立ちたいとか道連れにしてやるとかなる
これは別に都会だから起きているのではない、自分自身にも起きたからである
もう金がないとして自分が介護で病気で苦しんでいる時、家探しされたとかある
また外部からも泥棒が入ってきて金庫を開けられた、金庫は別にダイヤル式でもプロは空けられるから注意である、ただ中に金は入っていなかった、現金は置かないようにしたからだ

日本の貧困化は深刻である、そのことでいろいろ予想する人がいる
もう戦後の焼け野原から立ち直った時のような貧乏になる、その時は電気でも水道でもガスもない、電気があったとしても裸電球一つだからないとも同じである
電機製品は高度成長時代になってから普及したからである

でもなぜ今の時代がその焼野原になった後より暗い感じがするのか?

それは人間は金持ちであるとか贅沢な暮らしをしているとそれが貧乏になることが最も辛いことになるからである、もともと貧乏よりその方が苦しいのでありみじめなのである
一旦裕福な暮らしをしている人が没落することが最も辛いのである
戦後の焼け野原ではみんな平等に貧乏だった、でも不思議と子供が多く上昇気運があった要するに最悪になるとその最悪からは良くなることしかないからである
どん底を経験している人は強い、また危機を脱して生きる人も強い

戦後は戦争に負けても戦争に参加して地獄を経験した人が多かった
でもそういう人は命が助かったということで生きているだけで得だったと思う
あの時どうせ死んでいた、戦友も死んでいた、自分は生き残ったから生きているだけで得だと考えるのである、それは人間の心理なのである
別に戦争に行かなくても必ずあの時死んでいたのではないかという経験を人間はしているするとこれまで生きたのは運が良かったもうけものだったとなる、生きているだけで得したとかなる、そういう考えになると楽なのである

そして不思議なのは老人になると今なら70以上とかなるとまた考え方が若い時は相当に変わってくる、あき何年か生きるだけだということが実感する
これだけは若い時は感じない、どうせこの世に生きるのもわずかだとなるときこの世のことにあまり執着しなくなることがある
いろいろあったがしたいこともあったが何か起きるにしろこの世から去るだけだ死ぬだけだとなってしまうからである、この世のことなどどうなっていいとにもなる
どうせ死ぬんだからこの世とはおさらばするのだから関係ないともなってしまうのであるそれで若者は深刻な顔しているが老人はにこやかになり悟ったようになりあきらめがあり楽だともなる、生きることより死ぬことが常に頭にある

ただ老人でも日々の生活に事欠くとなると苦しい、やはり最低限でも電気ガス水道がないと暮らしていけない、それが止められるとなると生きていけないとなり絶望する
ただ老人は最低限の生活でもがまんできることはある
ところが日本が今貧困化が深刻だからその最低限が得られるなのである
すると老人でも絶望して犯罪になることがある

この辺は原発事故周辺は補償金をもらいそれで暮らしている人が多い
補償金で暮らして働かない人も多い、それより老人が多いから働けないという人も多い
だから後は生活保護だという人もいる、それで東電に年金を十万払いと小高では交渉したのである
だから補償金が尽きるとどうしても生活保護を申請する人が増える
それも被害者特権で受け入れやすいかもしれない、でも市の財政も苦しくなっているからわからない、国からの援助も打ち切らたからである
そして市の人口構成を見るとこの図のようになるから異常だと思う
将来は人口は半分になり公務員の給料も払えなくなってゴミ投げるにも金を払うとなるしその負担が増えるのである、だから生活保護でも極力抑えるようになる
もう震災から十一年も過ぎているからだ

minamisomapp1.jpg
南相馬市の将来の人口


人口の半分が65才以上になる
こういう自治体が維持できるのか?
こうなると福祉と医療費がかかるしそういうサービスも受けられなくなる

とにかく新年早々物騒でもある、現実に物騒な時代になっているのだ
東京とかでは将来一部の富裕層とエッセンシャルワーカだけになりスラム街が生れと予想する人もいる、それもありだなと思う、要するに一部の富裕層と最底辺の人たちに分化する、それはアメリカと同じともなる、ただアメリカの生活保護者は車ももっていて大きな家に住んでいるというから違っている
日本は中間層がいなくなりそうするとどうなるのか?
凶悪犯罪であり犯罪都市になると予言している人がいる、アメリカと同じようになる
アメリカに戦後習った日本は当然アメリカのようになるのだ
そういう犯罪都市になるとうかうかと街ものんびり行くこともてきなくなる
その辺を犯罪者がうろうろしているからだ、田舎でもそうなっているのだから都会だったら空恐ろしいものともなる

つまりもう日本は末世なのである、生活困窮者であふれ犯罪者でけあふれ物騒になる
日本が安全だというのは昔のことになる、背に腹は変えられないとなるからだ
何か日蓮の時代のように今なっている、その時は路上で人がばたばた死んでその屍で道ができていたとかなっていた、地獄たったのである

新年からなんだが今年は虎年は物騒な歳でありそれがもっとひどくなる
この窮地を打開するものは何なのか?それが見えるようになるのは時間がかかる
もしかしたらここ十年はこんな状態がつづくのか、その頃死んでいればいいとなる
どうせいくら長寿社会でも85くらいまで生きれば十分だからである
こういう暗い時代には長生きしたくないともなるからだ
せいぜい十年ものびのびと生きて終わりたいとなる





2022年01月13日

一人っ子は社会に適応しにくい、結婚をしにくい (一人っ子の男性の34パーセントは独身で死んでゆく)


一人っ子は社会に適応しにくい、結婚をしにくい

(一人っ子の男性の34パーセントは独身で死んでゆく)


ひろゆき氏は、「日本人の一人っ子男性の34%は、独身で死んできます。10万年の人類の歴史で代々橋渡しされてきた遺伝子を引モテ独身の人が断絶させるわけです」と記した。

 さらに、「年収300万円以下の家庭の7割は一人っ子。

これは予想できる、一人っ子なぜこうなるのか?
結婚でもしにくいのか?それは両親がかわいがる、両親が尽くしてくれる、また兄弟でも姉妹でもいるとコミニュケーション能力がある、また一人っ子は両親がなんでもしてくれる、与えてくれる、すると何でも与えられるものとなってしまう
自分でとりにゆくという感覚がなくなる、要するに殿様のようになり何でも与えてくれるとなる、そうなると社会は厳しいから落後者になりやすい、出世競争とか様々な競争に弱いのである、かえって相手に対して命令するとかが苦手でありゆずるとなる
兄弟がいるとおやつとか食事でもとりあいになるがそういうこともない
ただ何もしないでのんびりしていれば両親が与えてくれるのである

そういうふうに育てば競争力もなくなる、結婚できないというとき女性のことが両親しかわからない、女性とは何かわからない、だからコミニュケーションもできないのである
だから結婚もしにくいのである
結局自分自身が複雑な家族環境で一人っ子になり母親が二人いるような状態になりその通りになった

ただ人間というのは必ずプラスとマイナスに何でも働くのである
一人っ子がすべて悪く作用するともならない、社会とうまくおりあいがつかないで引きこもりになりやすいのは一人っ子ともなるが別に兄弟がいても姉妹がいてもなる人はなる
平均的に見ればそうなる、ただ一人っ子は相当に社会で不利になる、不適応になりやすいのである、だからこういうい結果が出たともなる
ただこれは中国でもそうだがそもそも兄弟姉妹のいない少子化になってこうなったこともある、それで中国は一人っ子が多いから戦争になったらそれに耐えられるのかというのが疑問なのである、また日本でも何か一人っ子が多くなればとてもそういう厳しい世界で戦うことができるのかとなる、戦争になったら最高に過酷だからである

でも一人っ子だからとすべては決められない、一人っ子でも性格が外交的な人もいて陽気な人もいるからだ、自分の場合は内向的だからそれで引きこもりにもなった
一人っ子だからどうだというように人間社会は数学の公式のようにはならない
ただ統計はやはり社会をわかりやすくなるのである、だからこれは真実を語っているとなる
ただこうして一人っ子とか引きこもりでもプラスに働く面があるのだ
これは人間が簡単に一人っ子だからどうなるとか決められないものを持っている
内向的だからだめだということでもない、でも内向的人間はそもそも社会では良く見られないのである
でも内向的な人は何か内面的なもの宗教でも哲学でも芸術でも追及するのが向いている

私はそういうことで自由に内面的なものでも自分のしたいことを追求してきたのである
そういう環境が与えられていたのである、ただ自分のように特殊な環境に60歳まである人はまれである、だから私は親に特別感謝しているのである
親がいなかったら自分は社会の脱落者、落後者で終わっていたからである
今でも遺産を残してくれたら大きな家で一人悠々と暮らしているからである
ただ介護の時一人になり親二人だったから兄弟もいないから自分も病気になり最悪だった
だから何でもいい面と悪い面がでてくるのである
楽した分、こうして最悪の苦しみになったのである

それでも一人っ子は一旦親から切り離されて生活することが不可欠である
それが東京の大学に入りできたのである、そこで過ちがあったにしろできたのである
また故郷を離れるということも良かったのである
別に勉強がてきなくても三流大学でも家族を離れ故郷を離れた経験が大きかったのであるその後も20代は放浪して仕事するにしろ建築現場とか悪条件の肉体労働だった
それで四階のビルの建築現場の足場から落ちる危険があった
あの時は危機一髪だった、命拾いしたとなる
ただそういうことは人生でみんな経験している、交通事故だってそうだからである
海外旅行でも50代でしたから危険だった、だから何らか危険が人生にはみんなある

おそらく一人っ子は実業界とか政治とか組織的に集団の中でリーダーになるのはむずかしい、ただ性格的なものもある、何か自分は誰かの命令に従い仕えるのが向いている
上に立って命令するのはできないのである
キリストの言う下僕になりなさいというのが向いているのである
それで手伝いの人がいても実際は自分の方が仕えているともなっているのだ
実際に手伝いと言っても何もしないからである
だから人間にはいろいろ向き不向きがあり不向きなことをすることは苦痛となる
社畜とか自ら言っている人は相当に不満がたまるから健康的にも良くないとなる
仕えるというときでも強制的ではなく自ら仕えることに喜びを見出す人もいる
それは女性に多いとなる、夫に仕えるということで喜びを見出すからである

ともかく一人っ子とは異常な環境にある、だから加治将一氏のyoutubeを見ていると兄弟八人いて父親に何かというとぶんなぐられていたというのに驚くのである
そういう家父長制が長く続いていた、だから地震、雷、火事、親父になっていたのである子供にとって親父は近づきがたいものだったのである
だから何か言えばぶんなぐられたとなる、黙って言うことを聞けしかなかったのである
特に戦後の焼け野原からの団塊の世代などは子供が多い、兄弟が多いから一人っ子のように手をかけられないからそうなった
自分の父親も明治生まれだったからそうだった、でも中学生の時死んだからそういうことを経験していないのである

人間はどんな家族環境で育つか相当に影響する、カルト教団に育った人はかえって素直だと全く疑うこともなく染まってしまい一生を終えるから怖いとなる
なぜなら家族のために尽くすとかカルト教団に尽くすことにもなるからだ
村落共同体では家族より村落共同体で協同労働で村落を維持することが第一であり家族ではなかったとしている
その後村落という共同体が外延化したのが国家とかになっていった
国家のためにすべて捧げるとまでなり3百万人が死んだのである

戦後は家族が核家族化して外延的なものとして社会は会社に帰属することだったのであるだから今でも社畜と自ら言うのである
つまり村落共同体がなくなったとき会社とかカルト教団でも共同体となったのである
それで創価は団地の宗教とかなり勢力を拡大したのである
それは本来の宗教とは関係ないのである
人間は家族だけではない、村落共同体にしろ何らか共同体なくしてありえないのである
それがあって正常に機能するということがあるからだ

そして現代で家族自体が崩壊している、外延的な社会の会社でも終身雇用が守れないとかなり不安定になり帰属するべき所がなくなる、個になり拠り所となる家族すら崩壊して
孤独死になってゆく、それは一人っ子だけではないのである
その女性は息子がいたとしても一人はいい暮らししても食べるものがないとして援助してくれといっても全くの他人と化している、事情があるにしろ家族って何なのだろうとみる本当に今起きていることは「家族遺棄社会」である

親は子に捨てられる時代なのだ、そういうことは回りで普通に起きているのだ
その理由が経済的に息子でも娘でも苦しいからである、親のめんどうをみれないとなっているからだ、また介護となると今は医療でも手厚いし介護も長くつづくから負担になるからである、自分自身も介護で十年して疲弊した、私は特別良くされたから自ずと強制されるまでもなく介護に懸命になっていたのである
そういうのはあまりない、兄弟八人で親に逆らうとぶん殴られるだけだったとなればとても親の介護もする気になれないだろう
だから現代では親を介護できる人は特別な人だとなってしまうのである

いづれにしろ家族も時代によって変わってくる、後進国では親に仕送りするために働く
私の母親もそうだった、親のために働いていたのである、それが普通だったから今になると子供のために働くとか犠牲になるのは嫌だとなる
親のために働いたのだから子供も親のために働くべきだとなるのが古いとなるからだ
ただ一人っ子は特別良くされたから親思いになっているだろう
ただそのために社会に出て苦しむとなる
ただ自分にとっては親は本当にいいものだったのである、親があって自分があったとさえなる、親がいなかったら最悪であり職にもつけず食べることもできず最底辺で苦しんでいるだけだったともなる
どうしても一人っ子は社会に適応しにくいからである
こうして自分は自分のしたいことをして人生も終わりに近づいたとなるのである
それは親の影響が恩恵が大きかったからだとなる
でも他はみんなそうではない、だから家族遺棄社会にもなるのである







2021年11月25日

家を継ぐことの意味 (家が継がれずに失われるものー代を重ねて豊かになる)


家を継ぐことの意味

(家が継がれずに失われるものー代を重ねて豊かになる)

継いでほしいと思う具体物(不動産、家業)については、以前より廃れていっているかもしれないが、抽象物つまり家名や想いというものは、決して廃れてはいない。むしろ、以前よりも比重が置かれ、重要になってきていると考えられる。不動産や家業といった具体物が継ぎにくくなる中で、唯一先祖からの「つながり」を感じられるものだからではないだろうか。また、何も継いでもらえなかった人びとも、最期を迎える場所を故郷に選ぶということで、子に「気持ち」を託し、「継いでもらった」実感を得ようとしているのではないかとも考えられる。

人びとが「継ぐべき」と考える対象が変化しても、子に「継いでほしい」という気持ち
「見えないもの」は「ないもの」ではない。「家」の継承が法律で規定されなくなっても自分の育ってきたイエに対する「気持ち」は、なくなるわけではないのである。「イエ」を継ぐということは即ち、イエを代々継いできた人々の連なりを後世にも伝えていこうとすることであり、その想いを投影する手段として家屋や土地、家業を継続させようとしているのではないだろうか
file:///C:/Users/yuichi/Downloads/091224010.pdf

家族が全部死んで死者のことを思うようになり毎日家に向かって見ている
でも死後十年とかなると抽象的なものになる
あれほど親しく毎日食事てもしていたのにそれも何か遠いものになってしまうことに驚く自分の場合特殊な家族環境でそうなった
60歳までも親二人と一緒に生活していたからである
そして親には自由に生かされたので感謝している、30年引きこもりでも何も言われなかった、自由に生きなさいとなっていただけであったからだ
引きこもりだと親に殺されることも事件としてあったからだ

家に対して強い思いを持っているのは長男であり長女になる、特に長男は家の跡継ぎとして特別待遇されていた、それは農業だと土地を受け継ぐことや生業を受け継ぐことでそうなっていた、誰かがその土地を受け継ぎ生業を受け継ぐ生活をしていたからである
江戸時代なら侍は家を継がないと生活できなかった
跡継ぎがいないと禄をもらえなかったからである
すると長男が大事になる、ただ家を継ぐことは生活を維持することだから養子をもらって受け継ぐことでも良かったのである
だから侍でも養子になっている人が結構いるのである、かえって養子が優秀な人がいて
商家でもそう優秀な人と娘がいたら結婚させたり養子をもらっていたのである

ただ天皇家となると養子はもらえない万世一系となり今でもそれにこだわっている
でもそんなに血縁としてつづくとは思えないのである
だから明治天皇は血縁と関係なく作られたものだというのも信じられるのである
別に天皇の血が継続されることではせない、天皇というのは日本を家としたとき必要だからつづいているのである、養子でもいいともなる
これには反対する人がいるけど侍でも養子をもらって家を継続していたのだからかまわないとも考える
ユダヤ人でなければ信仰を受け継げないというのはキリストが生まれてから万民のものとなった、天皇というのは何かというとき二千年とか皇統がつづいたことであり血縁がつづいたということではないと思う

そもそも歴史とは何かというとき家の歴史なのである
聖書でも家の歴史でありその家を通じて神のことがエホバのことが伝えられたのである
代々の家の歴史なのである、祖先から受け継がれた歴史なのである
だから人間が歴史を意識するのは家なのである
それが古い家だと歴史を意識しやすいとなる、ヨ−ロッパを支配したのがハウスブルク家というときもそうである、ハウス(家)と城だからである
城という時具体的なものでありそこで家を受け継ぐ城を受け継ぐといことで歴史を意識するのである
私の家でも再三言っているが父親と姉と母が作った家が残っているからその具体的なものから歴史を意識する
父親は酒屋の丁稚であり双葉の新山で酒屋に勤めて暖簾分けしてここに住んだ
その土地はいい土地ではなかった、それで二回も洪水にあり被害が大きかったのである
この街で一番低い土地だったのである、でも苦労してやっとこの土地を手に入れたとなるつまりそういう苦労の上に家が建てられ自分が住んでいるということなのである
今でも低い土地だから道路から水があふれて家の中に二回も入ってきたのである

歴史を実感する時、まず家のことなのである、だから古い家は何代も続いている家は歴史を意識しやすいのである、天皇家に生まれたらその家そのものが日本の歴史になっているからだ
家が代々続くことはやはり何かその家に家運がありとか継がれるべきものがあり残っているともなる
母親の実家がなぜあのように墓があってももう墓参りしている人は一人しかいない
その人も異常な人であり常識すらもない人間なのかと思う人になっていた
ただその家を継ぐ人が3百万もらって墓参りしているだけなのである
母親の実家のことをいろいろ書いたがそれは後妻が入ってきて乱れてしまった
母は継母が来ていじめられたとか家自体が乱れ一人は別に墓を作った
何か墓自体が分離するように生前から争い分離していた不和分裂の家でありそれが子孫にも受け継がれていたのである

だからその子孫でもばらばらになったともなる
だから家もなくなったし墓だけが残ったがそれも一人だけでありその一人もここに住んでいない、だからいづれは墓は捨てられる、無縁化することは見えている
そもそも受け継いだ人が普通の人ではないからである
それもやはり母親の実家は様々に乱れた結果だと思う
私の家は一見確かに普通ではないし乱れているように見えてもそうではなかった
女性二人でも父が死んだあと二人は協力して家を守って来たからである
確かに常に争っていたにしろ家を守るということで争いながらも協力していたのである
母親の実家は家は守れずばらばらになってしまったのである

とにかく一軒一軒の家に歴史がある、でも現代は家を継ぐことがむずかしくなっている
いろいろ事情で江戸時代のように土地を受け継いだり生業を受け継いだりできない
でもそうなると何か代々伝わるものが伝えられないということがある
人間は歴史が大事だというとき長い年月で積み重ねられたものがありそれは知識でも知恵でもそうであり徳でもそうであり目に見えないものも精神的なものも受け継がれている
それが家訓だったりする、信仰でもそうである
受け継ぐべきものがありそれがなくなると人間は軽薄なものとなってしまうだろう
歴史に重みがあるのはそうして代々受け継がれたものがありそれが文化ともなっているからだ

先祖が今も生きるというとき何か受け継ぐものがあって生きるとなる
ただ人間は家族であっても死んで十年もすぎると何か抽象的存在となり忘れる
でも具体的に家でも残っているとそこで家を意識しやすいのである
歴史でもヨ−ロッパなどは石として残っているから二千年前のローマ帝国でも何か具体的なものとして歴史を意識して継承しやすいのである
でも日本では木の家だから歴史を意識しにくい、木だともう30年とかで古くなり使えなくなるとかなり30年ごとに伊勢神宮では神の社を建て替えるからである

人間はとても一代では栄えない、また一代では何か重みあるものは作れない、知恵も生れない、何か常に歴史から学び継承するものがあって人間は生きる
その具体的なものとして家があり家を継ぐということで先祖でも意識するのである
ただそういうことができたのはやはり江戸時代とか戦前でも農業中心だったからだともなる、農業は代々土地を受け継ぐ生業があったからである
それで原発事故では生業を奪ったということで返せとなり裁判になったのである
でも現代では農業中心の社会ではないからそれも何かぴんと来なくなっていたのである

今や家を継ぐ人がいない、墓も継ぐ人がいない、結婚するにしても遠くの人と結婚して娘が出て行く、田舎でも外国人と結婚していた人が二人いたとか地元に残る人は少ない
少子高齢化でますます跡を継ぐ人がいなくなっているのだ
だから空家が膨大に増えるのである、将来は二千万軒になるというのもそうである
すると家を継ぐということはめずらしいことにもなる
そこで失われるものも大きいとなる、現実に原発事故では故郷自体住めなくなる空家だらけでありゴーストタウンになったからである
町や村自体は受け継ぐ人がなく廃墟と化したのである
一軒の家のことではない町や村自体が受け継ぐ者がなく廃墟化したのである
このことは本当に大損失だったとなる、何か伝えられた貴重なものが失われたということである

自分の場合特殊な家庭環境で家にひきこもりで30年間いた、だから奇妙になるが家に就職して郷土に就職したともなる、それで家のことを語り郷土のことを語り歴史を語るとなる、ただ家の重みは三代以上くらいつづかないとないかもしれない
というのは農家では三代つづかないと農家として認められないとかなるのもそうである
農家は江戸時代からつづいている家もあるからだ、農業中心の時代だったらそうなるのである、今は農業中心ではないからそういうこともなくなったのである
何か一代くらいで家業でも終わり継続しないからである
そうなると家の重みもなくなる、歴史も感じにくくなる、それも問題となる

SDGs(持続可能な開発目標)というのもそうである、継続することが重んじられる社会となるとやはり家でも代々つづくことが望まれるとなる
これはストックを重んじる社会である、ストックというと農業的第一次産業の社会である大地があり自然があり実りがあり継続されてストックされる、一方フローになる社会がある、現代はフローになる社会だとなる、グロ−バル化で世界的フロー物流でも情報でもフローになったからである
ただこれからはストック的社会になる、もちろんフローにもなるがストックを基本とした社会に変化する、なるべく地域的にストックしてゆく社会である
人間とは常に何かをストックしてゆく、それが次の代に受け継がれてゆくのである
だから家でも代々つづかないとストックされない、そこで何か積み重なられたものがないから豊かになりにくいのである、そのストックする最小の基本の単位が家なのである
そのストックしたものを活かして次代が豊になるということである


家を継ぐ者

人生七〇数余年
家を継ぎて二代目や
何か受け継ぐ我が一人
遺影に向かいて今日もあり
代を重ねて栄あれ
受け継ぐもののあるべし
陸奥に死になむ命かな
故郷の土ともならむ命かな
菊を挿しし墓を守りぬ
庭の石に散りにし木の葉や
石こそ重く礎なりしも
冬の日静穏に我が家に籠もり
死者を想いて代を継ぐなれ
そもただ一人なりしも

2021年11月21日

増大する老人の医療費に介護費用 (その負担が下の世代の社会全体の重圧に・・・・)


 増大する老人の医療費に介護費用

 (その負担が下の世代の社会全体の重圧に・・・・)

 高齢者(70歳以上)の医療費は医療保険分で6852億円と前年度比806億円(13.3%)増、国民健康保険分で3兆3159億円と同1779億円(5.7%)増となっている。

   財源別でみると、公費が16兆9807億円で全体の38.3%を占める。このうち国庫は11兆2963億円で25.4%、地方自治体の負担は5兆6844億円で12.8%となっている。
   
   
近くで知っている人は糖尿病であり介護士がきてしょっちゅう医者に行っていてそれも検査費とかで結構な金がかかる、保険でもそんなに金がかかるのとなる
85歳くらいにてっているからだんだん弱って死んでゆくにしてもその期間が結構長いのである、ただ不思議なのは一年前は普通にしていたのに死んだ人もいる
一か月くらい前に元気な姿を見たのに入院したら死んだ人もいる
死ぬ人は簡単に死ぬが死なない人はなかなか死なないと見る
ガンになってから十年でも仕事している人がいる、そんなに長くガンでも仕事できるのかとなる

ただ点滴してしている、首辺りに点滴の跡を見たから点滴する場所がなくてそうなったらしい、自分も点滴していたからそうなるのがわかる
でも今は老人でも病気になってもなかなか死なない人が多い、手厚い治療をするからそうなるし医療でも進んでいるからである
まずガンだったらそんなに長く生きないと思うし糖尿病はわからないにしてもこれもなかなか死なない病気なのかもしれない、そして時々世話している女性も70過ぎていていつも腰が痛いとかとても介護などできない、軽い世話などはできる
でもその人からはわずかの金しかもらえない、医者にかかるから払えないと言っている
その世話する人も息子一人を頼っても金はもらえない、というのは親が施設に入っていて備品とかで金がかかっているからだ、またそれほど収入が多くないからである

そもそも生活保護になればみんないいとかいうが生活保護自体もう成り立たなくなるかもしれない、その女性にしても4万とか国民年金もらっているがあとは5000円とか医療費とか住宅代は無料にしても暮らしていいけないから必ず電気、ガス、水道、携帯代が払えないとなる、その負担がこっちに回ってきたりする

ますます老人の医療費、福祉費が増大して負担しきれなくなる!

こういう近未来が見えてきている、生活保護になればいいというが二万くらいしかもらえないとか試算が就職氷河期の人達に対して言われている
生活保護がすべての解決にはならない、老人の医療費と福祉費は増大する一方であり
2025問題は深刻になる、団塊の世代が75歳以上になるとどうしても介護状態になる人も増えて来る、それでなくてもやはり医療費は増大する
氷河期世代は人口が多い、でも収入は少ない、それで親の負担がかかってくる
それからすぐに自分たちの老後の金が問題になる、老後をまかなう金がないのである

それで老人の老々介護が問題になる

11月17日、大阪市平野区の住宅型老人ホームで、この施設で夜勤中だった職員の榊真希子さん(68)が受付で頭から血を流して亡くなっているのが見つかり、駐車場では入居者の男性(72)が死亡していました

職員が68歳で介護された人が72歳である、何らか68歳で働かざるを得ない状態にありこの事件が起きた、老々介護になる人も増えて来る、家族でも子供たちでもめんどうみきれないとなり老夫婦で老々介護になる、それも現代を象徴している
そして共倒れにもなる、それだけ少子高齢化は様々な問題を引き起こし事件になるしなっている、これからも増大するばかりである
もう国がこうして高齢化で財政ももたなくなる、限界に来る、今の氷河期世代は老後になっても年金二万とかなり生活保護も受けられない!
そしたらどうなるのか?その恐怖はもう目の前に迫っているのだ
誰かに頼れればいいのだが頼れない人はどうなるのか?
犯罪でも増えて来る、すでに老人の犯罪は十倍にもなっているし自分も被害者になった
何か将来にいい展望は見えないのである

それでアフガニスタンで家賃が払えないで洞窟に住んでいる人を見た
燃料もなく枯草を拾い、水がないのでやっと水を遠くから運びそれを煮て飲む
干ばつがつづいて食料がとれない、子供で餓死するとかその数も多いのに驚く
ただ戦後焼野原からの日本もこれと似ていた
水がないので近くの井戸水をもらっていた、それで自分もバケツで運んでいた
燃料は炭であり風呂はバタで残った木材の切れ端とかである
それは無料でもらっていた、洗濯は裏の堀の水でしていた
だからその暮らしをイメージはできる、人間の原始的な生活なのである
乾燥地帯はゴミとかでもなげても乾燥するからいい、日本だと湿気が多いからゴミを簡単に投げられないのである、乾かないからである

ともかく日本に明るい未来を描けない、その原因が高齢化社会にある
戦後は子供が多かった、食べ物すらないのにどうして子供があんなに多かったのか不思議だとなる、脱脂粉乳とかアメリカからもらってしのいでいた
でも子供が多いということは実は明るい未来があったとなる
そしてちょうどうまい具合に高度成長時代になりその団塊の世代などの子どもたちが成長しても吸収できたのである
その団塊の世代が75以上になる、2025問題が生まれる、それが社会全体の重圧となり
日本が経済的に衰退しているときと重なり相当に苦しいものとなる
その解決方法がない、確実に医療費はますます増大するし介護費用も増大する
そういものに金をかけていたら他の物に金をかけられない、何か世界で競争することに投資もできないとなる
結局団塊の世代が高度成長では数が多くても力となったが逆に人口が多いので負担になってきた、それが社会全体の重圧となる、一人一人の問題ではない、社会全体がその重圧に苦しむ、それは氷河期世代が老後になるとさらに苦しくなる
それは十年とかに二十年でなるから目前の問題なのである

2021年10月18日

実は日本人が「他人を助けない不親切な国民」になっていた… (日本は村社会が規範を作ったーまた余裕がないと人は助けられない)


実は日本人が「他人を助けない不親切な国民」になっていた…

(日本は村社会が規範を作ったーまた余裕がないと人は助けられない)

https://news.yahoo.co.jp/articles/3a40db6f45418461163b63127a2fa48e7656aec0?page=2

(パート4)ここが読みやすい
https://chururinews.blog.jp/archives/11121407.html

●日本人が不親切になったとみんな思っている(5ch)

近くの人の忘れ物に気づき係員に届けようとしたら窃盗の疑いでブラリ入り
どの店に行ってもマークされてる
それ以来落とし物を見つけても素通り
親切で誤認されるくらいなら自衛最優先

今の日本は、親切心で何かすると勘違いやでっち上げで公務員が一般国民を逮捕する国になっているから無理です

要は自分の事でいっぱいいっぱいの奴が激増したって事だろ、俺は生き残る、俺だけ生き残るみたいな
人になりふり構ってらんねえっていうか、景気も関係あるんだけど

それは国民性と関係無いよ
民族に関係なく、金に余裕がある人は他者を助ける余裕もあるというだけ
今は経済的に貧しい国民が多くなってしまった
それだけこの国が大衆からむしり取ってきたことの証左だし

お客さんに愛想良くするだけで昔から親切でも何でもないぞ
田舎に住んでる連中なんて他人に嫌がらせして喜ぶのばっかだし
2chが出来た頃から何かの被害者が国から賠償金貰うなんて
ニュースが出たら烈火のごとく怒って叩きまくってきるし
基本他人が得する事は阻止するように動く奴ばっかやん

日本人の世間体からくる善意のポーズを真に受けてる奴の多いこと
本質はめちゃくちゃ醜い民族だよ

だからルールをガチガチに固めたり、同調圧力やらで身動きできないように抑え込むのよ
集団行動に支障が出るレベルに醜いから

財布届けても職質されるからな
落とし物は二度と届けない

東京はみんな忙しいし通勤時間帯などだと、
時間がなくて手を貸したくても貸せない人は多いと思う
だから見て見ぬふりをしてそそくさと通りすぎる

今の日本は善良な人間ほど損をするように出来てるからな
一人また一人と自分の善意が誰かの金儲けに利用されてると気づいて
他人を助ける人がいなくなり現状に至る

昔なら近所のおばちゃんに子守りお願いしたり、旅行するときにペット預けたりとかできたけど、今そんなん絶対無理だしな。

落とし物を拾ってあげて声かけたら通報されそうだもんな

日本人は親切にされる事も嫌うよね
席を譲られたり話しかけられるだけで嫌がるんだから

宗教団体が政治を牛耳ると信者獲得のために人の弱みに付け込むからな

近くの人の忘れ物に気づき係員に届けようとしたら窃盗の疑いでブラリ入り
どの店に行ってもマークされてる
それ以来落とし物を見つけても素通り
親切で誤認されるくらいなら自衛最優先

助けようと声掛けたら通報される時代だもんな

下手に声掛けると、ヘンな人として警察呼ぶ親とか、子どもにも知らない人に声掛けられても、
相手にしないことなど言われた居るんです。
他人に不親切では無く、そうしないと疑われる事も有るんですが?
それでも声掛けたりして、リスクを背負うと言う事でしょうか。

人々の助け合いを強めたいなら、
社会保険料や社会保障を撤廃することだよ。
あれで可処分所得を奪われ、寄付がやりづらくなっている。
おまけに寄付をもらう側も、国が暮れる者と勘違いして、感謝を忘れる。
社会保障を撤廃して、福祉は人々の寄付のみとやるべきだね。

少し前の中国に似てきたな
関わると面倒だから人が倒れてても無視

幸福をわけあうのが嫌い
(血縁主義、身内贔屓、福は内鬼は外)
苦しみは平等じゃないと許せず、幸運を掴んだ人の足を引っ張る

政府は貧しい人々の面倒を見るべき」という項目に「同意する」と答えた日本人は
調査対象の47ヵ国中、最低の59%だった。

総中流層だらけの時代は余裕があったから他人に親切に出来た
今は奴隷層が増えたせいで他人なんて構う余裕がない

小学生が下校後に歩いていると
一定距離を保って成人男性が後ろを歩いてきた
小学生が立ち止まるとその人も立ち止まった
小学生は怖くなって走って帰宅しました
親は通報しましたとさ
犯人扱いされまくりだろ
自意識過剰です

泣いてる子供が座り込んでいていかにも助けてほしいって感じだったけど
不審者に間違われる危険性もあるからガン無視して
颯爽と立ち去ったよ
心は痛んだけど警察さえいなければ

中国で道端で倒れてる子供を周りの人がみんなスルーしてるニュースがあってコメンテーターや5chでも中国は異常みたいに言ってたんだけど今や日本も変わらんよ
みんなトラブルに巻き込まれれたくないのさ

新宿で道に倒れてる人がいてもみんな無視していく。
それが普通なのね〜。

人助けようとすると逮捕されるよね

貧困増えて余裕無くなったからだろ?外国人だっておなじだ。心にゆとりが無いとギスギスして荒んでくるんだよ。

なんかこの対話を知ると悲しくなる、日本人ってもうかつての日本人ではない
まるで違った日本人になっている、互いに信頼もないし疑心暗鬼で生きている
社会の変化もありへたに他人とはかかわるなとなる
ただやっかいだとなる、だからボランティアなどすることは相当に危険になる
これも暗い話になる、自分もそれを経験したからそういう社会になった、日本人変わったことを意識していなかったためである
これらがすべてではないにしろどうしてもネガティブな意見が多くそれが真実と見る

●日本はもともとよそ者に不親切だった

現代の日本はこれだよ、いちいち納得する、知っている底辺層が何度もここで倒れても誰も助けないというのはもう一部の人ではない全員がそう思っているともなる
日本人が親切だとか落とした財布は必ずもどってくるとかは確かにある
でも様々なことで日本人は人に対して親切ではない、江戸時代の人間が何か貧乏でも親切であったとかいい顔していたとか言われるがそういうものはもうとっくにない
そういう社会があり時代の影響でそうなったからである

江戸時代だったら村社会であり狭い村社会で日本人のアイディンティティは作られてきたそこで村八分とかがありよそ者と内部の者と区別してきた
村の外から来た人は村人全員で監視していた、それで与那国島に行ったら木陰で休んでいただけで怪しい奴として警察に通報された
与那国島は簡単に島を一周できる小さな村である、そういう場所だからよそ者はすぐわかるからである、もともとそうした島で人と交わらないよせつけないことがあったからだ
そういう感覚が日本全国で江戸時代だったし明治になっても全国の人が交わるようになった、そこで大きな変化が起きた、汽車でもそこの中で見知らぬ人が一緒に同席することが何かなじめない、異様なことに感じていたのである
つまり見知らぬ人と一緒にいることはなかったからそうなった

日本人はこうしてもともと国自体が島国であり300年も外国人と交わらない世界で唯一鎖国した国である、その歴史は日本人の血ともなっている
戦前だって地方の田舎では外国人と直接接することはまれだった、今のように外国人が田舎でもどこでも普通にいる時代ではなかった
外国人と田舎でも普通の人でも接するようになったのは高度成長時代が終わりグロ−バル化した時代だからその歴史が浅いのである

今だって外国人と付き合うことは抵抗がありなかなかできないのが日本人である
ただ一部の者は外国人と接することが抵抗がなくなったのである
学生だったら外国人の学生はどこにでもいる、でも私の大学時代でも外国人に逢うということはまれだったのである
それで日本人は英語を習ってもほとんどしゃべることでは活用できなかったのである
私は50過ぎて外国旅行してはじめて英語を使ったともなる、英語を実際に使う機会がないのが日本人だったのである

日本人はそもそも村人間であり外部の者には冷たい社会だったのである
例えば遊牧民だと客人を大切にする、そうしたのは情報を得るためである、通信技術がない時代は人が情報を伝える担い手だからそうなっていた
ただ親切にするのではない、情報を知るために不可欠でありそれで親切にしたのである
人自体が情報伝達者になっていたからである
農民だと定着しているから近間のことを知っていることだけで足りることがある
でも遊牧民になると定着しないんで移動するからそのために情報が必ず必要である
それを知らないと生命の危険にもなる

●定着する農民と移動する遊牧民の相違

定着する農民だったら近間のことを知れば足りるのである
だから外部から来る人間は受け入れないのが基本になる、怪しいとなり警戒するのが普通である、つまり定着する農民社会ではそうなりやすいのである
ただ中国とかは巨大だから遊牧している人もいるし定着した農民もいるし入り交ざっているのである、そして中国人が商売上手だというとき遊牧民は移動する商人でもあるから
そういう人達が入り交ざっているから文化も遊牧民的なものがある
そこが日本とは相当に違っているのである、あれだけ広ければ人種が混交するし文化でも混交する、大陸的文化と島国の村社会の日本とはそこが根本的に違っている

日本人が財布を落としたら帰ってくるとか親切だとか言うが日本人はもともと狭い村社会で生きてきたから村内だと何か子細なことでもわかってしまう、村内で竈の中までわかるとかなり村内では悪いことができないことが犯罪の歯止になっていたのである
今でも田舎では周りから監視されているのである、外部の人ならさらにその監視が厳しくなる、それが犯罪の防止ともなる、江戸時代の村だったら余計にそうなる
よそ者だとはっきりわかるからだ、それも歩いていると余計にわかる
今たと車で通るから誰が通るかもわからないということで犯罪が増える
村内に入ってもそこから車で出て行けば遠くに行ってしまうからわからないとなる
江戸時代は歩いているのだから逃げるにも時間がかかる、だから犯罪になりにくいのである、また関所もありそこで調べられるから犯罪することは簡単にできないのである

日本人がそもそも他者に親切でなかったのである、犯罪が少なく安全だというのはそういう村社会内でそうだったのである、日本ではそうした犯罪者は目立つし村内で犯罪者になると何代もそのことが言われつづけるのである
この辺で起きた500年前の主君殺しの家臣の子孫はまだ生きているのである
だからその主君殺し、幼児まで殺したことの残虐さは語られれば嫌だとなるのである
500年前の話でもまたそれは生々しいものにもなっているのである
だから日本では犯罪を犯しにくいのである

大陸的文化と日本的島国文化との相違は大きい、大勢は大陸文化である、中央アジアの砂漠地帯から世界史が始まっているからである、誤解しているのはイスラエルは半分は砂漠の国なのである、だから今でもエジプトまで広がる広大な地域が砂漠でありそこは一神教の世界になっている、そこで形成された遊牧民の文化が世界の常識でありスタンダードだともなる
でも日本の島国的閉鎖村社会文化は異質だったのである
日本人には見知らぬ他人に親切にする文化がそもそもなかったのである
だから他者には冷たいとなる、でも内輪のものでは助け合うとなる
またそうした狭い村が世界になると陰湿になり村八分とかなる
日本人が村八分の制裁が生まれたのは村から出れないからである
村から出ることは死ぬことにもなったからである、だから陰湿ないじめとかになる
大陸だと遊牧民だと定着しないから別な場所に移ればいいとなるからである

そういう歴史的文化的背景はともかく日本人は親切ではないし冷たいというのは本当である、それはどうしてそうなったのか?
こういう歴史的文化的背景もあるが人間はまず余裕がないと親切にできない、人を助けることができないのである
また忙しくてもできない、東京のような人が混雑している所ではいちいち人がどうなっているか見ていられないからである

●マスコミ通信の発達で事件は隣村で起きた感じる

今の時代はそのちょっとした親切も危険になる、何か子供に近づいたりすると性犯罪者とかにも見られるからだ
そしてすぐに警察に連絡されるからだ、そういうことを駅のボランティアで自分も経験した、外部から来た人に道案内しているだけで怪しいとして誰かが警察に通報してみんなの前で職務質問されたからである
こういうことがあるからはここで議論されているようにみんなもそうだったのかと今の社会を理解するようになる、それでネットは役ににたつ、自分だけのことではないとなるからだ

それからテレビとかのマスコミの影響も大きい、毎日事件のことが放送される
するとその事件が必ず隣の村で起きたように感じるのである
地球の裏側で起きたことすら隣の村で起きたように感じる
それをマクルハーンが指摘していたのである、すると何か犯罪があるとすぐ身近に起きると感じる、それが人間の心理だとなる
それによってもうこの世は犯罪者だらけだと感じる、現実に確かに犯罪は日常的に起きている、でも遠い所のことは今までわからなかった、それが外国まで事件が毎日のように放送されるとみんな危険人物に見られてしまうのである

つまり通信の発達が外国でも隣村で起きたように感じるのである
通信の発達も大きな影響をもたらしたのである
日本の戦争も朝日新聞があおったためだとかナチスはラジオから生まれたとか通信の発達が社会を変えたのであく
もし遠くの犯罪でも報道されなければ感じないからだ、情報の過剰はかえって人間を不安にする、余計な心配が増えるだけだともなる、それも問題にしても情報過剰により人間同士が身近でも信じられなくなるののは問題なのである

こうして日本人が親切ではないというときその背景がある、日本人はもともと外部の者には親切でとなかった、そういう国柄である、大陸文化と島国村社会文化は根本的に違っているからである、同調圧力が強いとういのも村社会がアイディンティティだからそうなった、何か独創的発明が出ないのも同調圧力が強くみんな同じでないと許せないという村社会が基本になっているからだともなる
新しいものを受け入れにくいということがある
一方で日本人は新しいものを受け入れることに機敏だったということもある
だから明治維新でもありえた、江戸時代からの明治の変化は驚くべきものだったからである、だから日本人は新しいものを外部のものを受け入れないということはない
ただ基本的には島国の閉鎖的な村社会の歴史と文化が日本人のエートス(雰囲気)を作って来たとなる

●戦後アメリカをまねて金第一になった(日本のモラル消失した―銃社会のアメリカになる)

明治に来た外国人がいい顔していたとか日本人をほめているがそれもそうした社会背景がありそうなった、だから社会が変われば時代が変われば人間も変わる
広域化グロ−バル化社会も日本人を相当に変えてしまったし戦後のアメリカ化とか過度な資本主主義社会や情報化社会もそうである
その変化は余りにも大きかったからである、日本がアメリカ化することはアメリカと似た国になることである、日本の文化とか日本人的な良さも失われたということである
内村鑑三はアメリカに留学してアメリカはすべて金の国である、金なしでは何もありえない国だと言っていた、でも日本は違っていたという時まだ日本人的なものが残されていたからそうなったのである

現代ではそういう日本人的良さというものはなくなってきた
戦後はただ物質的繁栄のみを望んで高度成長時代があったからである
そこで日本の文化としてあった精神的なものは失われたとなる
日本の太平洋戦争が悪いものとばかりみているがその時挙国一致であり日本人は協力して戦ったともなる、その時は日本人同士では助け合うということがあった
これも問題があるにしろそういう時代に生きていたということで評価しいる人もいたからである、ただ人間は過去の時代を生きることは経験できないから誤解するようになる

日本が不親切な国民だというのは本当だと思う、これだけ自分だけではない、みんなが感じいたことなのである
それはやはり社会全体であり戦後からアメリかを習った結果だともなる
アメリカに負けてからアメリカがすべていいものとして受け入れた結果だからとなる
日本の良い面が結果的に失われたためだとなる、すべて金で計られるのもそうである
何か親切にすることはかえって怪しいとされ犯罪者とも見られる
それはもう互いに信じられない疑心暗鬼の世界になったのは通信の発達でマスコミの影響もあった
それから日本が貧困化して自分のことで精一杯であり他者のことなどかまっていられないというのもある、余裕がない人達が増えたのである
でも別に日本はそもそも貧しい国だったから貧しくても親切な人はいる
インドで乞食とかに与えるのは貧乏な人だというとき貧乏を経験している人はかえって同情心があるからいくばくの金でも与えるとなる

貧困な人は余裕が無いから人に頼まれても助けることができない、自分自身のことで精一杯だからである、金銭的にもそうなのである、金銭的に余裕がない人は人を助けることはできない、それで自分自身が両親の介護になったとき来たのは事業に失敗して借金している人とがぎりぎりの生活をしているとか何か問題をかかえていたからもともと助けることなどできない、相手が弱っていたからチャンスとなり金を得ようと盗んだり金を得ようとするだけだったのである
何でも余裕のない人は助けることがてきない、自分自身のことで精一杯だからである
もし人を助けようとすると負担がかかる場合がある、それも避けようとする
ただちょっとした親切ならいいのである

親切というときそれは軽い親切であり負担が大きくなれば簡単にはできない
ただ問題は軽い親切でもこうしたもろもろの事情でできなくなったことである
それは駅の道案内とかのボランティアで感じたのである
人は人を信じられなくなった、そういうことがこれまでもあったがその度合い強くなったそれで日本人が世界で他者に親切でない国として統計でわかったとなる
日本人のモラルは戦前よりも相当に低下していることは確かである
戦前まではまだ日本人のモラルがあり義理人情とかもあった
でも今はそれすらない、モラルがない、ただ金だけがすべてであり物質的な繁栄のみがすべてとなったからである

それはカルト教団とか宗教でもすべて御利益しかないから同じだった
日本人の宗教はみんな御利益宗教であり本来の宗教はない、つまり日本人はモラルなき民族になったのである、ただ金をすべてでありモラルはなくなったのである
資本主義も強欲資本主義でありモラルは喪失した
もはや日本であれモラルなき道徳無き経済であり獣化したのが今の世界であり日本だけのことではないだろう、特に日本がそうだというき日本にはもともとキリスト教とか根付かなかったし宗教でも仏教でも御利益宗教だからそうなったともなる
弱肉強食のモラルなき道徳なき社会経済というのは人間が食うか食われるのか社会にしているともなる、他人に親切にするとかどころではない、相手を食わなければ生きていけない社会だともなる、それはまさに地獄だとなる
ただ地獄というとき常にこの世は江戸時代でも地獄だった、だから「世の中は地獄の上の花見かなー一茶」になっていたし地獄が一定の住処(すみか)なりという親鸞の言葉が今でも生きているのである、地獄の無い時代はなかったのである
むしろ戦後は戦争が無かったのだからましだともなる、戦争は殺し合うのだから最悪の地獄だったからである
日本にはかつての安心はなくアメリカのように銃をいつももっていて殺すか殺される中で生きるようになるかもしれない、
他者は信じられくなっているからである


2021年10月10日

社会の異常性、集団の異常性、家族の異常性、個人の異常性 (人間は異常性に気づかない―家族もエゴである)


社会の異常性、集団の異常性、家族の異常性、個人の異常性

(人間は異常性に気づかない―家族もエゴである)

●個々の家族でも比較するとその異常性に気づく

「家族」であるかぎり、あるいは「夫婦」であるかぎり、それが自然と何らかの抑止力となって問題はその中で自己解決されることを期待されてきた。家族だからというただそれだけで、何か不思議な「自己治癒力」や「自浄作用」があると信じて。

私たちは「家族」を過信しすぎていないか
https://president.jp/articles/-/29907?page=2


人間はそもそも自分自身のことがわからない、自分自身のことを知りたいなら他人と比較することである、他人を鏡として自分がわかる
異常性も同じなのである、何が異常かわからないからである
家族でもそうである、家族の異常性に気づかないのである、そういう自分自身がそうだった、本当に自分の家族は異常だった、そして自分も異常だったがその異常性に気づかなかった
それはなぜか?違った家族と交流しなかったからである
違った家族と交流するとき自分の家族の異常性に気づくからである
例えば白い花に意識があればその白い花は赤い花とかと比べると意識するのである
白い花として咲いていると意識できないのである
自分の家族は異常だったけどその異常なことも日常化すると異常でなくなるのだ
憎しみ合う家族でもそれが日常化すると異常でなくなる、そういうものが家族だと思ってしまうのである、それは夫婦にも言えるのだ

夫婦の異常性も別な夫婦と付き合うと随分夫婦でも違うことあると気づくのである
子供で別な家庭に接してこんな家族があるのかと気づくのである
だから貧乏人は金持ちの家族と付き合ってみることだともなる
それができないから互いに理解しえないことことになる
毎月電気ガス水道を止められてそれが憤りになっている人がいる
でもそんなことは普通無いからその人の気持ちもわからないとなる
そういう人は底辺層であり底辺層は底辺層と付き合うからわからなくなる
たいがい共産党と創価はこうした底辺層でありだから思想的は反対でも同じ気持なのである

社会に対して大きな不満を持っていて憤りをもっている、だから社会に対して憎悪をもっていてそういう人達が同じ不満と憤りを共有しているのだ
それが一面怖いものなのである、マルクス主義が実は憎悪の宗教でもあるときそうなのである、階級制を打破しようとするときそれは恵まれない人達が恵まれた人達を恨み憎悪する気持が強いからである、だからそういう人を集めることが革命に通じる
その憎悪と憤りが非常に強いからである、それが強力なエネルギーとなり社会転覆するものとなる
本来の宗教だったらそういうことはない、出家する人とか修道院で信仰に励む人は社会を恨んだりしないのである、貧しくても清貧として修行しているとなる
ただカトリックなどは贅沢したからまた別だとなる

まずこの世に理想的な家族がいるのか?何かしら必ず問題をかかえているのも家族なのである、その矛盾というか隠されていたものがいつか表面化したのが様々な家族の事件なのである、個々にはわからないにしても自分自身の家族がそうだった
引きこもりとして30年家族と一緒にいたのも異常だった
ただそれに気づかなかったのである、介護になって気づいたのである
ただ自分にとっていいものでありそれで家族の異常性に気づかなかったのである
そこで死ぬほどの苦しみを味わったのである、要するに最後に家族だけでは問題を解決しない事態になる、また家族遺棄社会とかなっているように家族を過信することはできない普通に子供でも家族を捨てるからである、親でも捨てる時代になっている
だから家族だけで問題を解決することはできないのである

●家族もエゴである

ともかく人間の異常性は様々である、例えば創価とかエホバとかカルト宗教団体は異常である、そういう人達身近で見ているからみんなわかるだろう
でもその内部ではその異常性に気づかない、異常が正常になり批判すると今度はかえってその人が異常だとして集団で攻撃してくる、それがナチスでもあったのだ
個人も狂っているが集団も狂っているとしてニーチェは死んだ
ただ集団の異常性は正常とされるのである、大多数がナチスになればそれからはずれた人が異常となり攻撃されるのである

現代文明は様々な異常性を抱えている、その異常性が集団として狂気化したのがナチスである、また日本の戦争の現人神(あらひとかみ)戦争も似た面はあった
集団的狂気となり誰も止めることができなくなっていた
ナチスは選挙で選ばれたのであり民主主義から生まれたのである
暴力で政権をとったのではない、選挙の手続きを踏んで政権をとったのである
だから創価とかなると24時間365日選挙運動である、すべて選挙に勝つことにエネルギーをそそぐのである、信仰も選挙に勝つことで仏法の勝利となる
日蓮の教義ではそれが矛盾しないからである、ただ現代では政教分離の法律があっても無視されるのである

家族とは一見いいものであり家族がいないものは悲惨だとなることもわかる
弱肉強食の世界で家族がいないということは誰も守る人がいないともなるからだ
それがわかるにしても家族もいろいろであり家族に問題を抱える人はいくらでもいるのだとにかく私の母親の実家は後妻が入ってきて家族がずたずたにされたのである
継母に私の母親はいじめられたりもう家族ともなっていなかったのである
そして不和分裂の家族だったのである、そのカルマは死んでから自分にふりかかってきて苦しんだのである、結局分裂していさかいは全部親戚の縁は切れたのである
そもそもそれくらいの縁しかなかったのである
むしろ他人でも世話になったからと助けている人がいるがその人の方が家族になっているのだ、家族がすべていいものとならないのである

そもそもキリストでもシャカでも出家した、家族を持たないというとき結婚しないというとき肉で結ばれるものを否定したのである
本当の家族は天国にしかないのである、確かに家族は天国の疑似とはなっていても常に家族にも争いがあり矛盾がありそれが必ず現れて来る
家族だけでも問題が解決されなくなるのだ
だから家族で何でも問題を解決できない、家族を過信するなというときそうなる
そもそも家族というときそれは家族だけは愛すが他人はどうでもいいとなっている
そのためにキリスト教でも仏教でも肉による結婚を否定したのである
それは本能的な肉欲の結びつきでありそこから問題が生まれるようになっていたからである,愛とは恋愛とかの愛ではないのである
肉欲で結ばれる愛ではないのである、そこが混同するのである
神の愛とは肉欲とは関係ないし血縁とも関係ないのが本来の愛である
それが神の愛なのである

家族もエゴなのである、だから一つの家が中心となって権力を形成して支配する
それがヨ−ロッパでも中国でも日本でも同じなのである
ハウスブルグ家とかなるとハウスは家でありブルグは城のことだからである
まさに家とは城のことにもなる、中国でも李氏とかなると一つの国家を形成するほどの集団になる、李氏朝鮮とは李氏一族の朝鮮となっていたのである
日本でも徳川家となるとそうである、御家大事となり家を守ることで結束したとなるからだ
現代になるとロックフェラー家とかロスチャイルド家が世界を支配している、陰の支配者だという陰謀論でもそうである
家族とはこうしてエゴであり権力化することでもエゴなのである
ただ家族は必要なものであり家族なしで子供も育てられないのである
でも家族もエゴとなるからそのために様々な問題が生まれているのである

●家族でも村とかコミニュティがあって機能していた

先日、エッセイストの犬山紙子さんの夫でミュージシャンの劔樹人さんが新幹線のデッキで大泣きする娘をあやしていたところ、他の乗客に誘拐を疑われ、警察に通報されて取り調べを受けたとの一件があった。

誰かがなにかを疑問に思ったのなら、警察に通報する前にたった一声かければよかったのに、と思う。「どうしたの、大丈夫?」と。そして一緒にあやしてあげればよかったのに、と思うのだ。

監視して通報して当局に対応させる、のじゃない。困っている人を見て、手を貸す。そんな小さなことが、つまり社会で子どもを育てるということなのじゃないか。

私たちは「家族」を過信しすぎていないか
https://president.jp/articles/-/29907?page=2

これが現代社会である、もう子供にかかわれないのだ、常に性犯罪が報道されるとそれが隣村で起きたことと感じるのである
世界の果てでもそうなのである、情報というのはそういうものだということである
何かテレビでも報道されると実際ありえないことでも身近に隣村で起きたように感じる
それが現代の情報社会なのである
人を見たら泥棒と思へとなるし性犯罪者だと思へとなる
それも実際そういう面はあるにしてもみんながそう思われるのが現代なのである
だから他人の子供にはかかわれないのである、話しかけることもできないのである
それが情報社会が作りだした負の面なのである
確かに犯罪は常に存在している、世界中で毎日のように犯罪が起きているのだからそれをいちいち報道していたらそれか隣村で起きたように見るとなるともう何もできないのである、そういう社会を作りだしたのも情報社会なのである

人間は何らかコミニュティが必要なのである、過去の村のようなものでもなく何か信頼し合える共同体とかコミ二ティが必要なのだけどそれが失ったのである
グロ−バル社会はまたグロ−バル広域社会は別にコミニュティではない
そこではただ物をやりとりしているだけなのである
心でつながることなどないのである、今は物と心が分離しているのである
物という言葉はモノが憑くとか心と一体のものとしてモノという言葉があった
物心がつくとは物を通して心が一体化してゆくことである
つまり物と心はかけ離れることはない、今は物と心は分離しているのである
地球の果てから物が入ってきてもそれで心が通じることはないのである


象徴的なのが、さまざまな「仮親(擬制的親子関係)」。仮親とは、血縁関係によらず、子どもの成長のさまざまな場面で関わってくる“機能別の親子関係”。以下のようなものがあった。

取上親 (産婆とはべつに、出産時にへその緒を切る人)
抱き親(出産直後に赤ちゃんを抱く人)
行き会い親(赤ちゃんを抱いて家の外に出て最初に出会う人)
乳親(生後数日間、乳を与えた女性)
拾い親(丈夫な子どものいる家の前に形式的に捨てた赤ちゃんを、一時的に拾って預かった人)
名付け親(名前をつけた人。たいていは自分の名前から一字あるいは複数の字を与えた)
守親(幼児になるまで子守をした人)
烏帽子親(武家の元服に立ち会う)

これだけ子供に村でかかわっていたのである、だから村の子どもは家族の子供ではなく村の一員としての子供であり大事に育てられたのである
そういうコミュ二ティが喪失したときもう子育てでも家族が孤立してする
また家族でも夫婦だけとかおじいちゃんおばあちゃんもいないとか孤立しているから虐待とか起きてくる、核家族でもそうであり孤立した家族となりまた個々人でも孤立しているそして孤独死にもなる、そういう家族でも個々人でもばらばらになったのが現代なのである

つまり現代の社会は何かもうこうして常に本来の人間的あり方から離れて異常化しやすいのである、それは子育てとかいろいろそうなのである
だから他人の子供でも接することはできなくなったのである
そして家族は孤立して虐待か閉じ込められた孤立した家族の中で起きやすいのである
つまり家族と言っても過信するな家族だけ処理できなものがあるのにすべて家族にまかせられる、そして外部でもかかわることができない
かかわるときはかえって弱体化したとき他人がチャンスとして金があれば金をとろうとするし攻めてくる、つまり家族は自分の家族を守ろうとして他の家族を攻めてくる
家族と家族もエゴとなり敵対関係になっているのだ
だから文明化した社会でも何か恐ろしいと思った、そういうことを両親の介護で嫌というほど経験したからである、これも自分のカルマだとしても今はそういう社会に生きているだから今の社会が便利だと恵まれているとか言われても逆に人間は非情になり家族もばらばらになりコミニュティも喪失している

いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

ただこの世の中いつも地獄があった、親鸞の言うように地獄が一定の世界だったのである地獄を生きることがこの世を生きることなのである
結局人間の業(カルマ)は消えない、いくら科学技術が進歩しても同じなのである
だから時代によって幸福は計れない、現代社会でもそうしてかえって過去より人間的な面を失って退化しているともなるからである
そうなるとこの世から去ることが救いだともなる、liveはlieveなあり去ることなのである、それで老人はこの世から去るだけだから気楽だともなるのである
この世にいろいろあるにしても終わり去るだけになるからである
それで意外と老人はいろいろあっても誰でも悟ったようになり気楽な顔をしているともなる


2021年10月01日

医原病とは (医者も病院も病気を治せない、かえって悪くする?)


医原病とは

(医者も病院も病気を治せない、かえって悪くする?)

yamai11.jpg

【武田邦彦】病院に行くと病気になります
https://www.youtube.com/watch?v=ZpHoR-JKyoM

医原病
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%BB%E5%8E%9F%E7%97%85


知っている人は病院に半年くらい入院してかえって悪くなった
その原因が食事にあった、毎日同じオカズであり食べたくなかった
そのために栄養不足になり体力がなくなった
確かに糖尿病だから食事の制限があるにしても栄養不足してはまずいとなる
その人はかえって家に帰ったら運動したり食事も自分の好きなものを食べて回復したという、これも医原病なのかもしれない、もうその人は病院に行きたくないと言っている
ただ娘は離れて暮らしているので病院に入れたいのである
病院に入れて世話する人は楽になるのである
私も介護していて入院したとき楽になった、そしてそのまま病院で死んだのである
また施設に入れると金はかかっても楽なのである
在宅介護は患者にとってはいいものでも介護する家族にとって負担になるのである
在宅介護がいいとしてもそれを負担させられる人は苦しいのである

ただ家族に何人かいてそういう体制があれば別にいいのである
私の場合は一人で二人の介護とかにもなりその時自分自身も病気になり二回も入院したのである
だから一人は一時介護施設にあずけて病院で自分は手術したのである
そこで孤立無援になり死ぬほど苦しみを味わった
そこで大金を盗まれるとか脅迫じみたこともされた
相手が事業に失敗したりとても助けられる人ではなかったからだ
苦しい時来た人は何かこっちが苦しいという時、チャンスとなり金をとることしか思わなかったのである
ただそれは自分自身のカルマだったのである
助けてもらえるような関係になかったということである

ここで問題にしているのは病院とか医者のことである
病院でも医者でも病気をすべて直せる訳ではないことである
ただその判断は素人ではむずかしい、だから医者でも病院でもまかせるほかないとなるでもすべてを医者や病院にまかせることも危険だとなる
この辺の兼ね合いがむずかしいのである

日本の医療が金だけも目的にするようになったというとき、過剰な医療で金をとるというときそれは問題である
だから医者とかは本当は公務員にした方がいいようにも思う
開業医の組合が医師会でここは力をもつのは開業医だからとなる
そこで医療でも強力な利権団体となり歪められる
また開業医は開業するにも金がかかり機械とか用意するのに金がかかる
何かと金がかかるから過剰な医療でもする、金儲け第一になる
中国でもヨ−ロッパでも医者は公務員なのである
開業医がこんなに多いのは日本だけだとなる

公務員になれというときそもそも警察であれ消防であれ自衛隊であれ何か国家公務員としての仕事となる
安全を守る者が国家公務員となる、すると医者でも看護師でも健康を守る者として国家公務員がふさわしいとなる
なぜなら今回のコロナウィルスでも開業医の団体がこの機会に金儲けをたくらみうまく機能しなかった、ベッド数は十分にあったとしても国家では何もできなかった
それだけ日本では私立の開業医が多いからそうなった
つまり公務員だったらそうはならなかった、政治家が命令できたとなるからだ
中国とかでは強力にトップダウンで決めたからである
それは医者や病院でも公務員となっていたからである
日本では開業医中心であり政治家が命令できなかったのである
医師会とは私的な営利団体であり開業医の利益を守るものだからそうなっていた
公務員だったら命令できたのである

ともかく医は算術になった、それは金がかかりすぎるからである
高価な機械を買えば金がかかる、その元をとるために金がかかる、だから開業医だけでは今や患者に対応できない、最近ではAIが医療にかかわるというときむしろそうしてコンピュターを操作して医療にかかわる人が求められる
それは開業医では無理になっている、それだけ医療も変化している

要するに今回のコロナウィルスでも国自体でもその体制を見なおすことが強いられた
だから医者でも病院でも公立化して公務員にするのがいいとなる
給料はそれなりに高くする、そして開業医の問題は必ずその子供を医者にしようとなる
その子供に受け継がせようとする、するともともと医者に向いていない人も相続するために金をかける、だからまた金が必要となる
医者になる人とか教育とか安全を守る警察とか消防とか自衛隊とかは公的な役割があり
それを私的なものとしにくいことがある
私的な営利事業にするとうまくちいかないものがある
仕事の性質が利益を離れて行うものだからである
今苦しんでいる人がいて「金をいちら払うなら診てやる」そんなはした金では診ることはできないとかなったら困るのである
でも現実には今や医は算術でそうもなっている
コロナウィルス騒動では病院にも入れず自宅療養で死んだ人がいるからだ
コロナウィルスは国家的戦略で対処しないとうまくいかなかったのである

国家の役割は安全を担うことだった、原発事故でもそうだった
これはせ国家的なものであり安全を担うのは一私営の東電ではなかったのである
でもその国家の役割を果たせなかった、保安院は不安員であり飾りに過ぎなかったのである、そうして大事故になりその責任は誰もとらなかった
東電でもとらてかったし国でもとらなかった、それは国家的犯罪でもあったがそれを罰することはできなかった、司法でも検事でも東電に天下りしていたからである
高級官吏でも天下りしていたから追求できなかったのである
国家的犯罪になると誰も罰することができない、日本の東京裁判があったが外国人によって罰せられたからである、そのアメリカにしてもまた犯罪者であり犯罪者が犯罪者を罰することなどできないものだった
だから巨悪は誰も罰することがてきなくなる

いづれにしろ自民党にしろ地域の有力者である開業医の医師会に逆らうことはできない
選挙でも重要な役割を果たしているからである、だから医師会自体が問題であり解体して国家運営にするということも考える必要がある
そもそも医療は警察とか自衛隊とか消防とか安全を受け持つものであり仕事として私的にするより公務員になるのがいいとなる
現実に公立の病院がどこにでもありそれは市町村で運営していて看護師でも給料を払っているからである、つまり一部は公営化しているからである

ともかく医原病というのはある、医者にかかり入院するとかえって病気が悪化する
それはいらない薬とかを飲まされたり治療してかえって悪化する
それは全部ではないにしろそういうことは結構あることでありみんな経験しているのである、病気をかえって悪化させるのが医者であり病院だとなると怖いとなる
でも実際は全部がそうではない、そこで素人は判断しにくいのである
医は算術となったことが問題なのである

教育でも算術となるとき問題になる、何かこうして私的利益を追求することが特に問題な分野がある、そうして常に人間は歪められるのである
常にどこでも金に支配されて本来の役割を果たせなくなる、尾身会長の病院が工作してコロナウィルスで巨額の国家の金をせしめたというときもそうである
つまりその先頭に立つ医者でも自分の経営する病院をコロナウィルスがチャンスだとなりもうけることを優先するのである
原発も巨大な利権となりコロナウィルスでもこれも巨大な利権となる
製薬会社では莫大な利益を得たからである、それでこれも陰謀論になったりするのであるその使われる金が得られる金が莫大なものになるからである

確かなことはウィルスに対応できる国家体制を作らねばならないことは今回のコロナウィルスで判明したのである、医師会とかは対応しないことがわかったのである
そこに政治で変革しなければならないと見た
ただ今度の新しい政権が実行するのかわからない、でもまたウィルスが周期的に襲ってくるとすると国家的体制を作っておかないと対応できなとなる
要するに日本は医療だけではない、様々なことで制度疲労とか起きていて経済は衰退するのもそうである、大きな変革が必要なのである
そうしないと日本は経済的にも凋落して貧困国家になりあらゆることで後進国となり世界での存在感もなくなる

でも変革する力が生まれない、おそらく明治維新のような変革が望まれるとなるかそれができない、自民党議員は既得権者でありそういう人達は現状を守ろうとする
明治維新では下級武士が革命を担ったことでもわかる
既得権者が変革したり革命になると損するから自らはしないからである
また野党も力なく日本は政治的にも衰退を進める、何か新しい力が起きることを期待するのだが高齢化ということが足かせになる
簡単に政治体制でも変えられないということである
老人はどうしても保守的になってしまうからである、既得権者もまた現状維持がいいからである、ただそうしているうちに日本全体が衰退して沈没してゆくともなる
そういう時に中国が攻めてきたりして支配されることも考えられるのである

2021年09月13日

家族遺棄社会 (親が子を捨てる、子が親を捨てる)


家族遺棄社会

(親が子を捨てる、子が親を捨てる)

孤独死の現場が凄惨なら、子に捨てられた親の末期も残酷だ。業者は姥捨ての尻拭いだと言う。子の薄情さを責めたくなる。だが菅野氏の筆は親を捨てた子たちの告白に及ぶ。読めば多くの読者は子に同情する。自分であってもそうすると思うだろう。親の末期も悲惨なら、生前の親との生活は増して凄惨だ。

 暴力的虐待は少ない。単に孤独死しかねない親なのだ。借金で蒸発した父と、身を持ち崩した恥晒しの母。子には親の愛の記憶はない。家出した母と、帰宅しない父。幼稚園から弁当を自分で作った。子には親の愛の記憶はない。そんな親でも死にかけたり孤独死すると行政や世間から何とかしろと責められる。

家族遺棄社会というとき老人が遺棄されるのが増えることは確実である
その女性は実の子どもでそれなりの生活をしていても同じ町内に住んでも顔を合わせてもあいさつもしないという、なぜそうなったのかわからない
その母親は常に金に困っているしまた体も悪い、でもかかわらなのである
どういう事情でそうなったのかわからない

もう一人は近くで最近妻が死んだ、夫婦で息子夫婦と同居していても食事でも何でも別々に暮らしていた、だから同居していてもかかわらなかったのである
それで妻が死んだ時、夫は病気持ちであり家の人が何もしてくれないという
ゴミなげをしてくれないという、心臓に機械をつけている、だから何するにも苦しい面はある、でも家の人が何もしてくれない、私が介護などしない方がいいと言ったのは重い介護で寝たきりとかなったらのことである
そういう重い介護は本当に他のことが何もできなくなる、介護が仕事になる
すると若い時すべきこともできなくなるのである

もちろん介護でも学ぶべきことはある、だからなんてすべて悪いようには働かない、でも何か青春の貴重な時間を奪われるとみるからだ
ヤングケアラーは過酷だと見た
叔父にあたる人がガンになり手術するとき輸血を頼まれた、その時自分は断った
なぜなか、その時登山をして体力がないから死ぬほど疲れていたからである
ただふりかえると登山したことは貴重な経験だった、登山は自分には体力がないので厳しくてできなくなったからである
何でも常にできるとはならない、過酷なことは若い時しかできないからだ

とにかく自分は今になると自転車でも自由に行けない、疲れるのと熱中症になりやすいから夏は行けない、でも夏だと本当は運動に向いている、でもできなくなった
つまり何でもいつでもできるとはならない、海外旅行もできなくなった
それは相当に疲れるからである、精神的にも言葉がわからないのだから疲れる
それで50からバックパッカーをしたのが良かったのである
その後60から介護になり十年すぎたから海外旅行もできなくなったからだ
これだけ時間が与えられた自分でもやれることはわずかだったからである
何かをやろうとしてもやれなくなる、退職したらいろいろやろうとしてもできなくなることがある
そういうことでた若い時から介護したりすることが何か有益になるかという疑問になるのだ
まずそうさせられた人は後で親でも祖父母でも恨むとなるかもしれない、貴重な若い時の時間を奪われたとか気づくからである

家族遺棄社会というとき特に老人は捨てられる、ただ老人でもみんな違っている
家族での立場もみんな違っているから一様ではない
でもどうしても親とか祖父母の介護とかなると過重になり捨てるともなる
もともと親でもありきたりの飯を食わせるだけとかのことをしても子供でも感謝はしないからだ
よほど特別のことをしないかぎり親も思わないのである
かえって親に苦しめられたと恨まれるのも多いのである
私の場合は本当に特殊な家族で特別良くされたから親に感謝しているのである
二人親がいたとして60まで食事の用意とか何でもしてくれたからである
あなたは何でもしたいことをしなさいということだったのである
それは特殊な事情でそうなっていたのである
だからそれくらいのことをしたら親に自ずと感謝する
そのために認知症になっても必死になって介護したのである

近くの人は一人は遊び人のようなことしかしていない人生だった、だから老人になると何をしてきたかが問われるカルマになる
家族にどれだけ貢献したかとか問われる、毒親とかなっていたら介護などそもそも子供でもしないとなるからだ、そして捨てられるともなる
ただ金持ちの親でも実は子供は自分で介護したり世話しない、金があるから介護施設に入れるだけだともなる、だからなかなか親を介護したりる動機がある子供が少ないから
親は恨み節になる、もともとそういう人が多いのである
要するに当たり前の育て方とか子供にしても子供は感謝などしないとなる
でも親にしてもなかなかそうして子供に尽くすことができないのである
自分は特別親に恵まれたのである、ただその負の面もあった、死んでしまうと独りぼっちになってしまったからである、それも問題だった
でも自分は親を特別今でも感謝して思っているのである
ただこういうふうになるは少ないと思う

ただこれだけ老人が増えると家族遺棄社会になりそれが当たり前になるかもしれない
なにしろ老人だらけの社会になるからだ、その老人のために国がつぶれるという感覚にもなるからだ、若い人からみれば老人は負担になるだけだともみる
実際に経済的にも労力もかかるから捨てるというのが普通になる
そのために家族遺棄社会になる、これも老人のカルマだからどうしようもないともなる
でも問題は家族が親を遺棄しても誰かがめんどうみざるをえないともなる
それが福祉でめんとうみたりするほかないとなる、すると家族遺棄するのはいい
では誰かがそのめんどうをみる、そのことを家族遺棄する人は考えないのである

老人でも様々でありその生きざまも様々である、別に社会的に貢献しなくても家族に貢献して大事にされる人もいる、家族内の価値はまた別だからである
でも親のために苦労させらればかりいたとかなるととても親に感謝できないし介護となると苦しいから負担が大きすぎるからしないとなる、でも放っておくわけにもいかないから誰かが他人がめんどうみることになる、でもそのことを親を捨てる人は思わないのである不思議なのは今日食い物がないから何か食べ物をくれとか子供に頼んでもできないとなるのも非情だとなる、そして他人に恵んでもらうのもおかしいとなる
そうなると家族とは一体何なのだろうとなる
ただ現実にこれから親は捨てられ介護されないということが相当に多くなる
それも自業自得としてカルマとしてとらえるかその判断はむずかしい

ただ子供にしてもそれだけの金銭的余裕も労力もないとなる
生物は子孫のために親が犠牲となるのが普通である、それが親のために祖父母のために犠牲となるのは自然の原理に反しているともなる
そきんなことしていたら人間の社会でも歪んで衰退してしまうとなる
子供をもつこは子供の犠牲になることも強いられる
ただそういう親はまれである、何か親にはエゴがあり自分が子供を自慢したいとか自分の見栄とかエゴのために利用する、そのことで親に反発する人も多いのである
自分の場合母親が二人いてそういうことにならなかったのである
だから奇妙なことだったのである、もし一人だったらもう自分は何もできなくなっていたただ親のために働かされるだけだったとなる、実際に一人の親は親のために働かされて一生働き詰めだったからである
おそらく自分も中卒で働かされて大学なども行けなかったことは確かである
そうならなかったのは二人の母親がいて自分に尽くしてくれたからだつくづく思い感謝しているし介護も非力でもしたのである、そういう動機があったからできたのである

ともかく老人の価値というときそれぞれがどう生きたか問われる、ただ子供に苦労させただけであり親に苦しめられただけだったらとても介護などできないのだろう、どこまで迷惑かけるのだともなるからだ
ただ家族の事情はみんな違っているからわかりにくいから一様には言えないのである
やはり何かまともに生きないと老人になると必ずカルマとなり苦しむ
たいがいどうんな人でも人生でカルマを積んでいる、それが老人になると苦しみとなって現れるのである

その老人は妻に世話になり何もしない、遊び人のような人生だった、そうなるとその子でもめんどうみたくないとなる
だから自業自得だとしても放っておくにはいないのである
ただそういう老人が膨大に増えてくることは確かである、だから老人はいらない死ねとかなる、そういう気持ちは必ず行為となってこれかられ出て来る、すると大量の老人は捨てられるという事態になる
ここに高齢化社会の暗黒がある、中国でも高齢化社会になり老人は子供に捨てられて自殺している人が増えたとかあるからだ
この高齢化社会は世界的な問題にもなっている、認知症でも世界的な問題になっている
それだけ世界でも老人が増えるからそうなっているのである

2021年09月03日

生活保護「月の生活費たったの7万」これに嫉妬している層とは一体なんなのか?


生活保護「月の生活費たったの7万」これに嫉妬している層とは一体なんなのか?



5ちゃんみたいな底辺多いところほどそういうのが多いけど
まあ7万に嫉妬するような惨めな人生だとナマポや無職叩くぐらいしか優越感感じる手段がないんだろ

高齢だろうが障害者だろうがとにかく死ぬまで働け。なんとしても仕事を見つけろ。働かずに金をもらうなど死刑より重い大罪。

昼間の派遣って手取り15〜16万くらいよ
そりゃナマポ死ね穀潰し!てなるわな

医療費無料、バス電車無料、消費税以外税金なしだろ
手取り15万くらいが何もしないでで貰えて何が不満やねん

7万円で嫉妬てどんだけ貧しい生活してるんだよ

ジジババは年金貰ってんじゃねえのかよ
年金貰ってないやつは自業自得だろうが

家賃も医療費も無料で丸々7万だろ?
国民年金とか40年フルに収めて月6.5万くらいじゃね?ここから全部払わないいけない


生活保護というのは実際は人によって自治体によってその支給額も様々なのである
ただなぜ生活保護への風当たりが強くなったのか?
日本が底辺層が増えてぎりぎりで生活している人が多くなったためである
日本の貧困化のためなのである

7万円で嫉妬てどんだけ貧しい生活してるんだよ

こういうことである、生活保護がうらやましくなっているのは低賃金で働かせられている人達の不満が生活保護に向けられる度合いは強くなったからである
貧困化してくると不満がつのり何かに対して不満をぶつける対象が必要になる
それで生活保護者がその標的になる
ところが今は生活保護といっても様々であり自治体によって相当な支給額の差がある
みんな一様ではないのである、ただ東京とかは恵まれているとみる、財源が豊かだからである

この七万というのは竹中平蔵が提案したベーシックインカムの額である

ともかく七万もらって生活できるのか?また生活保護は年金をわずかでももらうと4万もらっているとそれにプラスして一万とかももらえないとかある
医療費も全部無料ではないのである、だからそういう人はどうして生活するのか?
この辺でそういう人がいる、だから自治体によって相当に差がある、ただ全般的に福祉関係全体で減らされている、日本が貧困化しているからだ

私の母親は60歳で3万年金を支給された、でも5年延ばすともっともらいたので損したと言っていた、その時は全然年金のために払っていなくても国からもらっていたのである
それは国に財政的余裕があったからそういうことかできたのである
今は全くその余裕がないのである
だから最低限の生活も保証されない、国民年金にプラス一万で五万でどうして生活できるのか、確かに家賃は無料だが電気,ガス、水道費と連絡用の携帯料金とかも払えないのである、だからどうしてこれが生活保護なのか、恵まれているのかわからない
もう最低限の生活ができないのである
また生活保護で高齢者が増えているのはぎりぎりの生活をしているからである

万引きについては、15年から24年までの間に、他の全ての年齢層が減少する中、高齢者だけが増加し、24年中には、高齢者の検挙人員が最も多くなり、全年齢層に対する割合でも約3割を占めた。

もう日々の生活に事欠いているから犯罪になる、ただ一人暮らしが増えてただ注目されたくて万引きする老人もいる、これもまた現代的である
孤独な老人が増えたことである、そして現代では老人がこれだけ多いのだからその医療でも老人の負担が大きくなりすぎたのである、それが若い世代の負担になるから老人でも生活保護でも風当りが強くなる
つまりみんな余裕がないから余計に生活保護とかに怨嗟になる
豊かであり余裕があったときはそうはならないのである
そのくらいしょうがないかと余裕で見られるからである
金持ち喧嘩せずというのはそのためである

でも手取り15万とかで働かせられている人は不満になる、全く余裕がないからである
だから余裕がない社会はますますぎすぎすして暮らしにくくなる
貧困者同士で生活保護への不満がつのりそうなる
それで60歳で3万とか65歳でさらに年金を積み立てていなくても国から支給されていたときは余裕があった時代だと思った
余裕がない社会は別に生活保護だけではない金持ちへの怨嗟も強くなる
底辺層が増大してくるとそういう社会は不満が大きくそういう人があふれているとギスギスした社会になる、それは全体に影響してくるからである
犯罪者も多くなり安心して暮らせなくなるのである

老人に冷たいっていうより、若い人が老人より疲れてるんですよね。だから思いやる余裕なんてない。不親切なんじゃなくて、自分のことで精一杯なんです。

ヨ−ロッパの老人は社会保障が充実しているから余裕がある、日本はそれがない、つまり若い人が老人に不満なのである、増えすぎた老人になけなしの金が税金として奪われる
老人が早く死んでくれと内心思っているからそういう心は必ず表に行動となって現れる
要するに老人など何かあっても困っても助けないという行動になる
だから老人ホームでも病院でも虐待される、自分も身寄りがないから病院で虐待された
余裕がないということは恐ろしいことになるのである

毎日仕事に生活に追われている人は余裕がない、それで生活保護であれ老人であれ何か攻撃の対象になる、貧困化したりするとドイツではユダヤ人が不正に金もうけているとか差別され迫害されうになる
それが生活保護者にもなっている、結局貧困化するわずかの差でも敏感になる
貧乏だとわずかのものでも奪い合いになり殺し合いにすらなる
そういう社会風潮は実際怖い、それでナチスが生まれたとなる
経済的困窮がひどくなり失業者があふれ戦争になった、その膨張した不満を外部に外国に向けたのである
中国でも内部の不満を反日に向ける、すると日本が悪いんだとなり攻撃してくる、戦争をしかけるともなる

だから日本が貧困化することは相当に怖いことである、金持ちもうかうかしていると狙われ金持ちは不正に金を得ているんだとなり襲われる、奪ってもいいんだともなる
超格差社会になるとそうなりやすいのである
そういう不穏な状態になっている、誰かに不満がぶつけられる、それが正当化される
現実にそういう人は貧乏なのは自分が悪いのではない、たとえなまけていてもそうは思わない、金持ちに搾取されているんだとしか思わない、現実そういうことはある
資本主義社会は一部の者が総取りする仕組みでもある、だから陰謀論が盛んに言われる
そこには確かに真実も含まれているのだ

2021年08月23日

死者を愛することは無償の愛 (墓は死者と生者を結ぶ物ー墓の短歌十首)


死者を愛することは無償の愛

(墓は死者と生者を結ぶ物ー墓の短歌十首)


名もしれず草に覆われ墓一つ悲しくもあわれここに眠りぬ

正直な女(ひと)にしあれや人知れずここに眠るを我は知るかな

街中の墓地にしあれや常に行き死者を想うや秋の蝉鳴く

正直なる女(ひと)にしあれや人知れずここに眠るを我は知るかな

秋の蝉一つひびきて墓あれや逝きにし人は遠くなるかな

人はみな死すれば忘らるあわれかな誰か問うなれ時はめぐりぬ

我が兄とここに一基の墓建てぬ参るはあわれ我のみなるかな

この町に生きて死す人あわれかな死者は語らず我は語りぬ

人は死し何を残さむ財なしもその心しも良ければ残らむ

この町にあわれ涙し生きる女(ひと)安らかに今ここにし眠りけるかな

雨しとと石の濡れにき街の墓地秋の蝉鳴き夕暮るるかも

虫一つ夜更けて鳴きぬ雨しとと我は思いぬ死者にしあるかも


わたしたちが愛において死者を想うことは最も無私な愛の行為である
もし人が愛が全く無私であるということを確信しようとするなら報いについてのあらゆる可能性を遠ざけなければならない、しかしこの可能性は死者とのかかわりにおいては完全に脱落する、にもかかわらず愛が持続するならば、その愛は真実に無私なのである
(わたしたちは愛においていかに死者を想うかーキケルゴール)

私は何か墓に興味を持ちそこから郷土史に興味をもった、郷土史というとき歴史でもただ本とか文書とかから学ぶとそこに活きた人間がいないという感覚になる
でも墓には人が埋まっているとういことで違っている、例えそうでなくても墓は江戸時代でも人が死んでうまっているという感覚になる
ただ江戸時代になるとそれはただ記録したものともなってしまう、でも江戸時代となる
そこが古い場所であり貴重だとみる
明治以降になると私の父親が明治生まれのようにおじいさんとかにもなっている人が多く知らない人の遠い過去ではないから依然として情が通じるともなる

墓などいらないというのもら昨今の時代感覚でわかる、灰を海に流せとかそういう感覚は私にもある

でも人間は墓がなっかたらをどうして死者を意識するのだろうか?

人間は死ぬともう姿形もないから意識しにくくなる、死んだ時点で人間は極端に変わる
どんなにしてもたちまち見えなくなるのだから忘れやすくなる
そして日々の生活に忘却されるのである、10年くらい過ぎると一昔になり遠い過去の人ともなってしまう、そのスピードが早いのである
だからそもそも死者を愛しつづけるということが相当に困難がともなう
そして死者は存在ししているのかしていないのかもわからない
供物をあげても応答は全くない、すると供養することとか対象がないものを愛し続けるということもむずかしくなるからだ

それでも死者を愛することができるのか?そういう疑問にもなる
死者を愛するように生者を愛しなさいということも言うのは死者は愛することは無償の愛である、でも生きている人を愛することはなかなか無償になりえない、だから死者を愛するように生きている人も無償で愛しなさいとキケルゴールが言う
つまり見返りを要求しないのが愛だとなる、生きている人を相手にするとき必ず見返りを要求して来る、もうまず金をいくばくもらわなければ何もしないとなっているからだ
苦しんでいる時もそうなのである、まず金を払い後からではない、今払ったら助けてやるとかしかないのである、無償で助けるとか愛することはおそらく親子関係でも恋人関係でも夫婦でもない、何か見返りを要求しているからである
親子関係でも幼児の時は別として親のエゴが必ず入ってきて無償とはならないのである
成長するにつれて子供に必ず見返りを要求してくるのである

とにかく死者を愛することは本当にむずかしいと思う
だから彼岸の入りとかお盆とかに定期的に死者を想う時を作る、それで義務のようにして死者を忘れないようにする、その時だけは死者を思うようにするというのがお盆なのである
つまり墓がいらないというときこうして常になぜ人間は墓を作ったのか?
それを歴史的にふりかえらなければならない、でも家族とかの墓が作られたのは明治以降であり新しいの手ある、それまでは個人墓であり家族墓などなかったのである
これもだから不思議だとなる、家族墓が当たり前と思っていても実際は違っていたのである、江戸時代まで家族墓はないし庶民の墓もないのである
…家とあるがそもそもそうした一家の墓は江戸時代にない、侍でも個人墓であり家族墓ではなかったのである
では庶民は死んだらどうなったのか、それは仏方、ホトケッポとか村の共同墓地に埋められていたのである、だからそこには家族墓とか個々人の墓はないのである

人間はとにかく忘れやすい、死ぬとすぐに人は忘れられる、だからこそ死者を意識するために墓という具体的な物体を作りそこを通じて死者をあらしてめ死者と交流しつづける
そのために墓を作ったとなる、そうしなければ死者はどこにいるのかわからなくなるからだ、海に流したとか灰をどこかにばらまいたとかなるとわからなくなる
祈る対象がなくなるからこれも困るしまたそうなると死者は余計に忘れられる

ここでは小さな街の中に墓地がありそこをいつも私は通っている、すると必ず墓を意識して死者を意識する、つまり墓が身近にあるとまた死者を意識しやすいとなる
家だと遺影がありそれで意識するがやがて家はなくなるとしても墓はその後も残る
それで死者を意識する場所として墓地があるとなる
墓地も街と一体となり生活がつづいているともなる
それで墓町とかの地名もある、

それにしても雨がつづくから秋雨なのだろうか、これも感覚的におかしいともなる
ただ何か石がしとしと雨に濡れて蝉が鳴き、虫もなく、それが墓地にふさわしいともなる雨に濡れているという時庭の石のことである
ただ私の墓の側には私が置いた石くれの墓があり草に埋もれている、それは世話になった正直な女性の墓なのである、その女は死んだ、その不肖の息子も最近死んだ
奇妙なのは息子はその家の墓に名前も記されていないのである
息子は金もないので墓に母親の名前も記さなかったのである、6万くらいの金もなかったのである、そして自分が死んでも墓に埋まっている、そこに自分の名まえか記されているのか?それも疑問だとなる

人間にとって墓は人間だから必然的に墓を作るようになった、だから一概に墓はいらないとはならない、ただ寺に管理されてそれで金を払うとかはもう時代に合わないとなる
宗教では仏教ではそもそも死者をそんなに祭り上げることはなかった
出家があるときまさに家を出ることであり家を重んじないということがあったからだ
いづれにしろ墓がないと死者と通じる媒介するものがなくなり死者と生者が結ばれないともなる、それでも墓を維持することが今や核家族化とか家族の希薄化でむずかしくなり
墓じまいが多くなるのもわかる、これまで長男が重んじられ長男が家を代々継いできたがそれもなくなると墓を維持できなくなっているのである

2021年07月28日

家と死者(死者は家に生き続ける)

家と死者(死者は家に生き続ける)

fullmoon111.jpg

weeklygendai1.jpg

週刊現代7月27日号


のうぜんの花が火炎のように
蔦は伸びて這い我が家を飾りぬ
二階の広間より空遠く星はきらめき
姉の眠りし広間に我も眠る
夏の月が明るく輝き姉はおおらかに笑いぬ
姉と母と我はこの家に60年は住みぬ
なほ二人はここにあるごとし
この家を離れず我とともにありぬれ
姉の眠りし処我は悠々と眠りぬ
死すともこの家を離れざるかも
重々しく父の遺影は家にあり我を見つめり
兄はこの家にあれど受け入れらず
早死にして我が墓地に供養する
家はつつまれおおわれ安心する場
猫も箱に入りて安心するごとく
そして家は死者も住みつづける場所
愛し合う家族は今も家をみて住み続ける
その共にする歳月の長くあればなり


人間はそこで自然の空間の中に根をおろし空間の中の自分のすべての関係がそこへと関連づけられている、そのような中心を必要とするのである

家屋に住むのには一人の人間では不十分なのである、ひとは何人かの人と住まうのであるつまり家族の中で、「自分に属する者たち」といっしょに、しかし(他の人々と)と見知らぬ人々とから離れて、住まうのである

人間の生活の中で家屋は諸々の偶然の出来事をしめだしている」落ちつくこともなくあてもなくさまよう逃亡者の生活と違って、家屋は生活の中でのより深遠な恒常性を可能にする持続的要素なのである

「家屋は夢見ることを守護し、家屋は夢見る者のまわりに囲いをめぐらし、家屋はわれわれが平安の内に夢みることを許す」

生は快くはじまる、生は包まれ囲まれ家屋の懐の中で本当に暖かくはじまる
(人間と空間ーオットーフリードリッヒ・ポルノフ)


家というものを語るにしろ尽きないものがある、この本はそれを語っている
家とはそれだけ人間に影響するし精神にも影響するからそうなる
家とは単なる建物ではない、だから何か一人で大きな家にいるとがらんとして家が活きないのである、家とは何人かで住むのが家だからである、それが家族となる
そして家の不思議は一緒に住んだ家族が死んでも家に住んでいる、または家を外から見ているのである、死者は家から離れないのである、それは家が人間の生の根源的なものもっているからである

家で愛が育ぐくまれ、家は安心する場となる、ただ別に家が理想とはならない
何か家族でもそれぞさ複雑なのである、私の家も複雑であり他人には理解不可能な家族だった、ある意味で憎しみ合う家族でもあったからだ
ただなぜ自分がこれほど家にこだわるのか家族にこだわるのかというとやはり60年とか長く一緒にいたからである、姉にしても子供の時から一緒にいたからである
その長い歳月が家族を作ることになったのである

それで肉親でも母親でも一緒に住まない人はその期間でも短い人は家族の感情をもてないのである、特に子供の時一緒に母親と生活しないと家族の感情をもてないのである
そのために5歳まで実の親と一緒にいてもその後は分れた母を子供は母親と思っていないのである、他人に過ぎないのである、だから母親の金を欲しいしかない、その母親がそうして別れた娘を頼ってことが悲劇である、その娘は第一全く母と思っていないからであるでもその母親に頼らざるをえなくなったからだ

つまり一緒に住んでいいなからそうなったのである、だから実の母親でも子供の時一緒に住んでいなければ母とならないのである
そして親でも若い時に嫁いだり別れて暮らすとまた家族という感覚から離れてゆく
その理由は一緒に生活を共にしないからそうなる
変なのだけど例え憎しみ合っても長く一緒に生活していると家族になるのである
憎しみ合っても家族だとなるのである、自分の家族にはそういうことがあったからだ
それでわからないのは長年一緒に生活をともにした夫婦の熟年離婚なのである

なぜそう思うかとなると人間にとって時間が一番大事だからである
共に生活する時間は短いからである、一人の女性と結婚して生活を共にする時間でも限られている、だから結婚する相手を変えることは簡単にできない
生活をともにして時間の中で愛も育まれるからである
だからこそ長年一緒に生活をともにして熟年離婚は大きな損失だと見る
なぜならもう他の女性と一緒に生活する時間がなくなっているからである
人生をともにするということは実際は限られた人生の時間をともにするということになるそんなに何人もの人と時間をともにできない、使えないからである

ともかく人間はかえって家族が死んでから家族を意識する、私自身がなぜこんなに死者を意識し家を意識するようになったのか不思議だからである
父は早く死んだけどやはり重々しく遺影があり存在する意識するようになった
姉が死んでその広間に私が寝ているがそこで姉を意識する
外には夏の月がかがやいている、姉は大らかな女性でありその性格でいやされていたからである、母は脇役であったが母もやはり一体となり生活していたのである
つまりその時自分は恵まれていたのである、食事の用意でもなんでもしてくれたからである、今や全部自分でしなければならない、それで時間がとられるのである
ただ人間はつくづく死んでも死者は依然として生きている、残された人の中に生きている家の中に外からまた家を見て生きているとなる
人間は死んだからといって簡単に消えるわけではないのである
ただそれはやはり長く生活をともにしたということからそうなっていたのである

人間の生きる時間は限られている、それは何をするにしてもそうである
人との出会いであれ何をするにしても時間が限られている、何かする時間はたちまち失うのである、そのことが一番みんな後悔している、時間は永遠につづくと思っているからである、時間とは極めて限られた時間しか与えられていないのである
でも人生でその貴重な時間のことを思わないのである
だから膨大な時間の無駄をしているのが人間だとなる
そしてもう体験する共に生活して分かち合う時間がなくなるのである

死んでも遺された人に死者が現れるのはやはり双方に愛があるからだともなる
死んでも愛が通じあっているから現れる
でももし何か恨んだりしていたら死者は生者に現れない、それで介護の時冷たくしたりするとあなたは私に冷たくしましたね、私はあなたを恨んでいますとかなると現れないとなる、現れたとしても恨みとして幽霊のように現れるともなるから怖いのである
私の場合介護でいろいろあったけど死者は恨んだりしないからまだ愛しているから現れるとなる
ただ生前でも肉親でも子供親を恨んだりしている人は普通にいる、ひどい目にあったから恨んでいるとかして墓参りすらしないとかある
だから生前のことが相当に死後も影響しているのである
だから人間は死で断絶しているようでしていない、継続しているとなる








2021年07月26日

アートとは医療用語だった (語源をたどるとわかる原義ー医者は病気を診ても人間を診ない)


アートとは医療用語だった

(語源をたどるとわかる原義ー医者は病気を診ても人間を診ない)




アーツのもとになったアルスは「人の手でなすこと」であり、サイエンスのもとになったスキエンティアは「知ること」である。前者は「学問」という意味もあり、後者は「学識」という意味もある。ではアーツ・サイエンスとは何を指すのだろうか。最も一般的な解釈は、アーツは人文系、サイエンスは自然科学系を指している、というものだ

多くの人文科学および自然科学の支えがあることを私たちは忘れてはなりませ
ん。哲学,宗教学,心理学,生物学,免疫学あるいは物理学,化学,数学さらに工学というように,多くの科学に支えられて医学・歯学は発展して参りました。

「アートとしての医(学)」という題で書いておられるわけであります。その論
説のはじめの数行を紹介いたします。 「医(学)は単一のサイエンス(科学)ではな
い。いくつかの科学に深く根差した学問である。かつその科学の手だてを人間の幸せのために適用する義務を課せられた知的専門職(a learned profession)である」,こう書いておられるのであります。


英語 architect(建築家)+-ure(もの)→arkhi-(大〜)+tekton(建築者)→tekhne(技術)→tek-(作り出す)が語源。「建築家の製作物」がもともとの語源。archangel(大天使)と同じ語源をもつ。

技術(tekhne)の知識体系(-logia)、体系的な技術」がこの単語のコアの語源。

tekhnologia(文法の体系的な扱い)→tekhne(技術)+-logia(知識体系、研究)→tek-(織る)が語源。

ideology(信念体系)と同じ語源をもつ。




artという言葉が気になった、芸術家となるとアーティストとなるからだ、でもその語源をたどるとアーティストとは「人の手でなすこと」であり医学から発して建築へと意味が拡大化した、その基本に「人の手ですなすこと」にあった
tecでも織るということは織物を手で織ることでありやはり手を使うことである
つまり人間は必ず何かを作ることは手を使うことであり仕事することでもそうである
だから建築でも手を使うことでありartに通じている、ただarchはアーチでありそれが建築の要となるのでそうなったから違っている
でも人の手を使うことでは似ているのである

そもそも大工とか見ればわかる、必ず手を使うのであり手の仕事なのである、機械がない時代は人間の手で作り上げていたからである、それがなぜ医療でもそうだったのか?
やはり人間を病気でも見る場合は手を使って触ったりして診たからだとなる
問診とか今でもある

会社によってはテクニカルディレクターとよぶ場合もある。テクニカル(技術)関連の仕事を担うプログラマやエンジニアと、アート(芸術)関連の仕事を担うアーティストとの橋渡しを担当する役割のこと。プログラマやエンジニアの思考と、アーティストの思考のちがいを理解し、両者が抱える問題を解決するための方法を提案する。機械的な作業を自動化・効率化するためのツールを開発することもある

私の抽象画はまさにこれである、絵の才能が全くないのにテクニカルなものとしてインタ−ネットにあるも画像をまた雑誌の画像などをコンピュターで処理してテクニカルに作り上げているだけだからである、それはテクニカルなものでありそこに私自身の才能はないのである、ただコンピュターのテクニカルに処理したものを選んでいるとはなる
それで大量生産できるのは全く自分の才能ではなくテクニカルににコンピュターで自動的に作り上げているからだとなる
artが技術だというときまさにそれを実感したのである

ただ医療が医学がアートだとは思わなかった、アートというときどうしても芸術家となり画家とか作家と音楽家とかをイメージするからである
アーティストがまさか医者もそうなのかと意外だったのである
要するに人間の歴史をたどると職業でも学問でも様々なものに分化してその成立ちがわからなくなった、それで言葉でもその意味するところが不明になったのである
だからその語源を探るとかそのオリジナルなものが何かから知ることが大事なのである

またしきりに医者が病気を診るより人間を診ることだしているがそれは宗教とかとも通じている、病気ではなく人間を全体を診ることに通じるからである
糖尿病の人は半年も入院したとかしてもう病院には入院しないというのもわかる
病院は牢獄なのである、医者や看護師は監視員なのであり服役者は絶対服従になる
でも嫌になり入院しろと言っても入院しないという、家の方がいいとして在宅医療をししている、それでかえって回復したとしている
このようなことが老人にはあり病院ではかえって悪くなるのである
そういうことを自分も嫌というほど経験した、看護師に虐待までされたから病院は刑務所と同じだと思った、そこでは人間は診ないのである
病院にいるのも嫌だとして病院から脱走した人もいる、その気持ちもわかる
私自身も脱走したかったができなかった、そこは刑務所だから簡単にできないからである

とにかく医療でもその歴史をたどるとわかるものがある、その成り立ちをたどるとオリジンをたどるとわかるものがある、まずは人間を診ていたのである
病気だけではなん人間を診ていた、だからもともとは医療は宗教と深く関係していた
なぜ宗教の信者が過去にあれほど増えたのかというとほとんど病気になったとき神仏に祈る他方法がなかったからだ、それで村の中心には必ず薬師堂がある
あとは地蔵がありその地蔵も眼が悪いの直すとか腰が痛いのを治すとか様々な人間の悪い所を担当していたのである、だから信仰といっても実は病気を治すものとして大衆化したのである、キリストでも奇跡で病気を治したことで大衆化したのである

会津でも仏教が早くから広まったのは医療のためだった、病気を治すものとして広まったのである、それが明治以降は医者が病気を治すものとなったのである
でも今でもカルト教団でもやはり病気を治すために入る人が多いのである
それだけ病気は深刻なものだからまだ直らない病気があるからそうなる
江戸時代の医療が医は仁術というときやはり人間を診ていた、それは科学技術が発達しないから直せないとういこともあった、ただ貧乏で医療費が払えない時、免除するとかあった、医は仁術だからそうなったのである
逆に明治以降は西洋医学が入ってきて科学技術が全面に出てきてかえって人間を診るということが減少したのである、病気そのものを診て直すことが医療の目的と化したからである、だから高価な機械でも欠かせない、患者でもそうした機械があれば直るともみるからである

いづれにしろ人間は様々なパーツに分化してその基が不明になった、その元がなんであったのか不明になった、それで語源を知るとそういうことから発していたのかと理解する
医学にしてもこれは総合的なものであり体の一つの部位だけを治すとかではない、人間そのものを診るということが基本にあった
ただ医は仁術とかだから金がなくても診てやるとかその人のことにかかわる悩みや問題を相談されると医者も大変だとなる、それは切りなくなるからだ
人間はそれぞれ様々な問題をかかえていてそれをいちいち聞いていたら聞く方でもたない限界があるからだ、だから医は算術ともなったのである

医者も金になるとして割り切り他のことにはかかわらないとなったのである
そして医療関係は何か非情な世界になった、医療技術は発達しても人間は診ないのである
養老孟司氏によると本人が来ているのに本人を証明するものをもってきてくださいと言われた、これはおかしいと言っている、本人がそこにいるのに本人を認める証明書を運転免許証でも持ってきてくださいと普通に言われる
それを普通には疑問にもたない、もう本人を本人がそこにいても認めない、何か証明するものがあって本人と確認する、データーがあって本人と確認する
データーの方が重要なのである、現代とはデーター社会なのである
すべてがデーターとして管理して数字として管理する社会である、肝心の本人がそこにいても本人を認める書類がないと認めないとなっているのだ

そして議員の人でも病院で番号で呼ばれて怒っていたというのもわかる
まして普通の人は番号と数字にすぎないのである、一人の人間とはみられないのである
数字として処理される、データーとして処理されるのである
だからこそナチスが生まれたとなる、ただ人間は数字としてデーターとして処理される
そこに生身の人間がいてもそうなのである、一人一人の生身の人間は診ない、、データーとして数字として診るだけなのである、それで医は算術ともなる、金の計算もデーターとして人間を診るからそうなる、だから人間は数字としてデーターとして処理されるだけだとなる、病院の死でもそうである、生身の人間が死んだより一つの数字として処理される機械的にに処分されるともなる、それが家族に家で死ぬのとは相当に違うのである
だからみんな病院で死にたくないとなっている、医者は病気を診ても人間を診ないからである

2021年07月03日

人間の最期は尊厳をもて死ぬ方が大事 (体より心を重んじるべき―威厳ある死(詩)


人間の最期は尊厳をもて死ぬ方が大事

(体より心を重んじるべき―威厳ある死(詩)


我が家に命を惜しみなほ生きむ重々しくある庭の石かな

苦労して作りし庭の積まる石重々しかな我が家にて死なむ


近くの人が糖尿病で入院しているのが長かった、半年くらいいた、そしてやっと退院したその退院もつかの間また入院して治療した
それでかえって体が悪くなったという、だから家に帰りたいというのもわかる
84歳くらいになっている、そのくらいの年になればみんなどこが悪くなり病気になる
でも何か若い人が病気になるのと老人が病気になるのは違っている
若い人は切実に生きたいと思う、だから若くして死んだ人には無念が残る
でも老人になると70以上とかになると確かに同じようにまだ生きたいから病気を治したいとはなる、でもその病気もなかなか治りにくくなる
でも死ぬ時期なんだからと考え方が違ってくる
とはいえ人間は一日でも生きたいというのが現実なのである
生物であればみんなそうである

「命を惜しみ・・・」となるのが普通なのでありそれを無理やり否定はできない
ただ昔だと命を惜しむというときそんなに長生きしないからそれは回りでもそうなっていた
でも今やこれだけ高齢者が多く百才とかまで生きるとなると事情が違って来た
もう医者でも看護師でも介護士でもそもそも老人を嫌っている
なんで迷惑かけて生きていんるんだとなってしまう
それで私も病院で付き添いもいないから看護師に虐待されたのである
その女性は相当に老人嫌い病人嫌いになっていたのである
だからこれからも老人の虐待はますます増える、それは数が多すぎるからである
また認知症も増えると介護でも嫌になるからである

そして老人にとって何が大事なのか?
それは体より心の方が大事になる、ところが医者とか看護師とかは体は見ている、だから体を活かそうとするがその病人の心は診ないのである
この人はまだ生きられるとして治療する、でももう生きることは苦痛であり延命治療しても苦しむだけだとなると生かしていいのかとなる
また寝たきりとかなり意識もなくなっているのに生かしていいのかという問題もある
老人ならばもう死んだ方がいいともみるからである

ただ正直この問題のむずかしさは他人がもう死んだ方がいいとか決められないことである本人の問題もあり家族の問題もある、もっと生かしたいという家族もありまた死んだ方がいいという家族もある、すでにもう家族でも今は親を捨てている子も多いからである
それで家族遺棄社会という本も出たことでもわかる
もう諸々の事情で親でも負担になり見切れないということである
それが介護の経験をした人ならそういうことをみんな思っているからそれが非情だともならないのである

高齢化社会の死の問題は体だけを見ても解決しない、心を見ることが優先されるようになる、なぜなら体が若い人と違い直らないからである
高齢者の病気は死に通じている、この死から人間は逃れられないからだ
すると生に固執することはいいとはならない、ただどうしても生物だから生きるだけ生きるとなる
ただ象でも死ぬ前に象の墓場に行き姿を消すとか猫は死ぬ前にどこに消えるとか言われる生物でも何か死期が近づくと身を隠したりするのはやはり何か動物でも尊厳を重んじるからかともなる
人間ならやはり死ぬというとき心の方が大事になる
尊厳死の方が大事になる、そしてもう生に執着しないことである
その生に執拗に執着することは醜いとなる
そして大事なのことは人間は死んでも死んでからの方が存在感が大きくなる場合がある
人間は死んでは終わらないのである、普通の人でもそうなのである

とにかく人間が尊厳をもてるのは病院ではない、病院では病気の人であり何か価値ある人とされない、体だけを見ているからである
でも家にいれば依然として家とともに価値ある威厳あるものとなる
私の姉はこの家を作った人でありだからいつも近くの森が切って作った柱のことを自慢していたのである
だから家にいればその人の存在感がある
近くの人は立派な大きな石を組んだ庭がある、その石は大きいものだから金もかかった
相当に苦労して若い時にすでに作った庭なのである
そうするとその庭をながめているとき他の人にも自慢できるし家や石とともにその人間の存在感も増すのである
病院だともう病人としか見ないからである、何かほかに積極的価値あるものとして見ないからである

だから病院とか施設とかは人間の心を見ない、見れないということで大きな問題がある
人間は70過ぎると人によるがすでにこの世を去り幽冥界のような所にいるとなる
半分は死んでいるともなる、この世の執着から離れてもう現世とはかかわらないともなるただ尊厳ある死を望み死んでもさらに存在感のある人になりたいとも思う
死ぬと普通の人でもそうなるからである
人間は死で終わらない、確かに肉体は消える、でもその人の精神は生き続ける
そして死んで一層重いものになる、死者には偽れないという時がそうである
死者は消えたわけではない、物は言わないにしろ冷徹に生者を見つめているからだ
それで墓参りしたしてもあなたは私を冷たく扱いましたね、偽っても私は偽ることはできませんよとなりまともに死者と向き合えなくなる
それが介護とかが苦しくても後で後悔することになる

いづれにしろその人は苦労しして作った庭の石をみてまた苦労して作った家で最期を迎えるのがいいとなる、だから再三言っているが家というのは単なる箱ではない
何か人間の存在感を示すものである、家の方が大きな存在があるようにさえ見える
なぜなら過去の遺物でも二千年前でも建築物は残ってそれで歴史をふりかえることができるからである
人間は百年くらいで跡形もなくなり消える、家は人間が死んだ後も残っているとなるからだ、だから市営住宅とか借りている人は何か存在感がないのである
ただ自分の家は自分が苦労して作ったものではない、親が作ったものでありただ受け継いだものである、それで自分で苦労して作った家とは感覚的に違っている
ただ最後に自分一人が残り家を継いで存在感を持つということである



威厳ある死

重々しく威厳もて岩は大地に沈む
大地の中に岩は長くもあるだろう
人の死もまたかくあるべきかな
威厳をもて死ぬことを望む
それが獣との違いだ
体をもはやいたわるな
肉体は崩れ死すとも
人の心は死なぬ
もはや体に固執するなかれ
そは静かに威厳もて死ぬ
その亡骸に執着するな
人は体を超越することを望む
威厳ある死を望む
しかし死者の声はひびくだろう
重々しくも岩のごとくに
死者は静かに眠る
千歳の眠りにつく・・・・

私は石に興味がある、だから他人の庭でも石をしげしげとみないるのである
この庭にはいい石があるなとか見ているのである


2021年06月11日

脳卒中,糖尿病、ガン や介護で苦しむ人 (その負担は大きくみんなが苦しむ高齢化社会)


脳卒中,糖尿病、ガン や介護で苦しむ人 

(その負担は大きくみんなが苦しむ高齢化社会)


年齢階級別自殺者数は、「60歳代」が4,325人で最も多くなっています。次に「40歳代」が4,234人、「50歳代」が4,181人、「70歳代」が3,508人、「80歳代」が2,457人。中高年齢層(40歳代〜50歳代)と高年齢層(60歳代〜80歳代)で二分しているのが現状です。

自殺の原因・動機に限定すると、約7割が健康問題。国立精神・神経センター精神保健研究所の資料によると、高齢自殺者の90%以上がなんらかの身体的不調を訴え、約85%が入通院による治療を受けていたと言われています。

高齢者虐待の問題は見て見ぬ振り?「地域包括ケアシステム」の大義名分で在宅介護が増えれば、虐待も増えかねない!?  

虐待者の約6割が息子or夫。特に男性にとって、介護は大きなストレスに!?


私の家族も死にたいといい本当に死ぬところだったが危機一髪でまねがれた
それだけ病気の問題は老人の大きな問題なのである、病院で虐待されたからこれも経験ずみである
これだけ老人とか病人増えればもう世話する人も嫌になる、老人嫌いになるのもわかる
老人と病人に使われる社会、時代となってしまうからである
これが高齢社会の最大の暗黒なのである、自殺したくなる気持ちもわかるとなる

糖尿病の人が半年も入院していた、最近また入院した、薬代に10万かかるとか聞いた
それは保険がきかない特殊な薬だからである
糖尿病は結構金がかかる病気である、百万くらいまたかかるとかも聞いた
糖尿病も日本では5倍とか増大した、食習慣が変わって欧米型になったからだとされる
太る人が多いからである、ただやせた人もなるから一概に言えない
まず半年も入院していたらうんざりする、私は一か月入院してもう限界だったからだ
ただ糖尿病とかでもなかなか経験しない病気は理解しにくい
そもそもあらゆることで他人のことは理解しにくいのである
職業が違うと理解しにくい、住んでいる場所が違うと理解しにくい、男女になると根本的に理解しにくいとかなる

ただ病気の場合は家族が病気になるとその病気を治してやりたいとかで詳しくなる
それは家族の一人が認知症になったことでその病気に自分が詳しくなったことでもわかるこれは介護してみないとわかりにくいのである、何か医者すらわからないものだった
そのために四苦八苦したが病気について理解が深まった

とにかく病気になっている人が身近でも多い、脳卒中、ガン、糖尿病が目立つ病気であるあと心臓病になっている人もいる、肝臓が悪くて死んだ人もいる
それが不思議に78歳の歳で4人死んだ、狭い範囲でそうだったのである
だから78歳になると急激に老いるというのもわかる
この年は鬼門なのである

現代では脳卒中でも糖尿病でもガンでも簡単に死なないということはある
でも実際は隣の女性は何か急に死んだ感じになる、その人はガンだった、もう一人の人はガンでも依然として仕事をしている、だからガンでも簡単に死ぬ人と死なない人がいる
最近やはり78歳で死んだ人は病名はわからないが一か月前くらいまでスーパーとかで見かけたがみかけなくなって一か月もしないで死んでいたのである
だから簡単に死ぬ人は死ぬ、死なない人はなかなか死なない

高齢化社会の暗黒面はやはり病気になる人がどうしても多くなることである
その負担が大きいのである、治療費でもかかる、介護になるとさらに金だけではない人の労力がかかり金だけでみれないことがある、それで自分は四苦八苦して苦しんだ
遂に近くで認知症になった母親を殺した事件があった
それはオムツをとりかえることで暴れたから殺したとしている、だからそれも同情する
もう限界になっていたのである
また施設に入れたとしてもその後金を要求されている、その人は収入が少ないのに仕送りしているのである、これも負担だと思った

とにかく老後の問題で金の問題も大きいが健康が一番の問題になる
病気になったらもし寝ているだけになったらいくら金があってもどうにもならない
確かに治療費とかで必要でも根本的に健康が回復しないとすると何もならない
そして老人の病気は治りにくいし死につながっている
人間は必ず病気で死ぬ、老衰は病気ではなく自然死だとなるがほとんどは病気で人間は死ぬ、だから最後に死ぬ前に病気でみんな苦しむのである

ただ簡単に死ぬ人もいるがなかなか死なない人もいる、ガンでも簡単に死ぬ人が二人知っている、でもなかなか十年くらいでも死なない人がいる
だからガンでもいろいろな癌があってそうなる
治療が手厚くなり医療が発達するとやはりなかなか人は簡単には死なない
でもその負担がまた大きくなる、それがなにしろ今度は団塊の世代が75以上になると病気とか介護になる人が増大する、それが若い世代の負担になる
それは国民的負担にもなる、これが高齢化社会の最大の闇黒である
ただ病気をしなければ長生きは悪いとはならない、何か成せる時間が増えるからである
ともかく何か一つのことでも理解するのに時間がかかるからだ
特に自分などは何かを理解するのは遅かった、でも時間をかければたいして能力がなくても理解できることが増えてくるのである

私の母親は百歳まで生きて老衰のようにして死んだ、ただそれでも五年間は寝たきりで介護しなければならなかった、でも比較的楽だったとふりかえる
なぜならポータブルトイレに死ぬ一か月前とかまで自力で行っていたからである
これがオムツとかなったら耐えられないとまでなり殺してしまった息子のことを同情するヤングケアラーのことが問題になったがこれも残酷だとなる
老人のために自分の人生が犠牲にされるとまでなる、若い時に成すべきことができないとなる損失は大きいとなる
そういう人が近くにまたいたのである、だから病気と介護は常に誰かしら関係しているのである
ただ自分は特殊な事情で特別良くされたからできたともなる
他の人はそういうことがない、すると介護もしにくいとなる

老人の問題はこれから何を生きるのかというより何を生きたのかともなる
これから何かしようにもできない、ただこれまで何をしてきたかが問われる
何か木を庭に新しく植えたがこれも成長するには時間がかかるとなる
でも若い時なら十分に時間があるから庭作りが好きなら時間をかけてできるとなる
ただその時金がないとできないとなる
その人が立派な庭を作ったのは若い時でありその時金もかせいだから500万かけて作った、その石作りの庭が立派なのである
もしかしたらそれが人生の一つの成果なのかもしれない
私の家でもそうである、家族が働いて苦労して残した物だからである
それをただ自分は享受しているだけだとなる、そういうことは常にある
死んでから何を残したのかということがある、家とか庭が死後も残されたものだとなるからだ

でも老人になると何か時間をかけることができなくなる
小さな畑で野菜作りした人も遅かった、体がついていかず放棄したからである
体が丈夫な時にしていればそうはならなかったのである
要するにこれまでしていたことをするとなる、だから津波でも原発事故でも老人は復興の力となりにくいとはなっていたのである
木を植えるにしても育つのに十年とかかかるからである、それで何かを新しくするより
今でしてきたことを回想するとかになる
確かに60の手習いとかもあるから一概には言えないが基本的にはこれまでしてきたことの延長しかできないとなる


2021年05月07日

家族と同居しても孤独死 (妻が死んで弱っても家族と同居しても何もしてくれない)


家族と同居しても孤独死

(妻が死んで弱っても家族と同居しても何もしてくれない)

同居している親の死に気づかず子どもが放置するケースが各地で相次いでいる。一つ一つを詳しく調べたところ、仕事を持ち外からは「普通」の生活をしていると思われていた子どもが放置するケースが少なくないことが分かってきた。私たちは遺体を放置した人々を独自に取材。「早く気づくべきだった」「親に申し訳ない」。一つ屋根の下でも、生活は別々。互いに干渉しないようにして暮らしている親子。同居する親子にいま何が?

隣の人は突然妻が死んだ、残された夫は病気持ちである
今日ゴミのことで聞かれた、突然妻死ぬと家のことがわからないからゴミ投げるのにも困るのである
でもその人は家族と同居している、この前は孫と買い物しているのを見た
だから家族が世話しているのかとも見ていた
でも実際は息子夫婦と同居していても前から一つ屋根の下にいても別々に生活していたのである

それで妻が今まではなんでもしてくれた、それをしてくれる人がいなくなった結果
自分自身でするほかなくなった、これは自分自身が経験しているその辛さがわかる
でも家族がいるからいいと見ていたのである
その人は見た感じが相当に弱っている、痩せている、筋肉も弱ってまともに歩けないとも言っている、もう介護一歩手前なのである
でも息子夫婦はかまわないのである

何か今は家族でも家族だからと助け合うということもない場合が増えているのかばせしれない、だから家族遺棄社会とかの本も出ている
それは介護となるとその負担が大きすぎるからそうなる
子供には子供の暮らしがありとても負担しきれないとなる
その70歳の女性には息子がいる、でも全くかかわらないのである
親が困窮していてもなんら関係しない、絶縁になっている
それで何か息子が贅沢していたとかいい車とか買ったとか母親が言っていた
その母親は毎日食うためにかけずりまわっているのである
これもなんなのだろうとなる

もしかしたら家族崩壊現象が起きているのかもしれない
ただ家族は様々であり理解しにくくい、事情がありわかりにくい
だから一概に数式のようには家族は人間でも見れないのである
でも家族が何かおかしくなっている、家族の絆も消失している
それで家族と同居していても放置されて親が死んでいたとなる
そんなこと一緒に住んでいればありえないことだがそういうことが起きている

ただ隣の人の事情を見ればそれもカルマだったのかともなる
なぜならその人は妻に頼りきりで自分自身は働くこともなかったからである
だから妻がいて生活が成り立っていたとなる
だからこそ妻が先になって妻のありがたみを思い知らされたともなる
カルマとして苦しむことになったのかとも見る
何か個々人でも家族でもカルマが必ず苦しみとなって現れてくる
それはもう逃れようがないのだ

例えば若い時の不品業とかあまり若さまかせてその時何も思わない
でも老人になって後悔する、その若い時の若さに任せた不品業も今度は苦しみとなって
年老いて現れて来る、近くの人でもそうである
もう一人の人も今になって誰もめんどうみるものがいない
なぜなら息子が自殺したからである、その責任は親にもあったからである
その事情は良くわからないにしてもそういうカルマをつんで最後に苦しみとしてそのカルマを自覚させられるのである
因果応報が必ず人生にはあるのだ、それは自分自身でも家族でもそうでありそのことを書いてきた

母の継母は母をいじめたが最後に目がみえなくなり母に頼った
そして大学で解剖されて母が遺骨をひきとったのである
最後にその継母は悪かったなと母に言ったのである
何かそうして本当に頼れない人に頼る、普通だったら遺骨も引き取りたくないのである
親でも実際親に苦しめられた人は墓参りもしない、ただ苦しめられたということで親とも思わないとなる
そういう親子も相当に多いことは確かである

そして何か理由がわからないが非情化した残酷な人となった実家の兄弟の娘は育ての親も捨てた
病気になったときもめんどうみない、幸いすぐに死んだから介護もせずに死んだから良かったのである
そして最後に自分にその育ての親は「ひどい娘だわ」と恨みを残して死んだ
そもそもそう言われ相手として自分の家族はなかったのである
ただ自分に最期にそう言って死んだのである
そしてその娘が本当にひどい娘だ、非情な残酷な娘だということが私自身の家でもわかったのである
それは本当にどうしてそんな非情な人に残酷な人になったのか理由がわからない
三人母親が変わっても一番かわいがられたからである
もう施設に入って育った人もいるしそういう人ではないからだ
金に困ったこともないからそれもわからないのである 

ともかくその娘は外面はつくろっている、葬儀もしたとか言っていた
でもその人は誰も愛していない、三人の母親も愛していない、はたしてそういう女性が墓を受け継ぐとかできるのか?
墓参りはしても別に愛情があるからではない、おそらく誰も見ていないとしたらやがて
墓も捨てるだろう、体面的にそうしていただけだからである
私は家族に愛されたし死んでも愛しているから供養している
死んだ人は供養しても何の返答もないしありがとうもないからいづれは供養もしなくなるでも死者を愛している人は供養しづづけるのである、愛しつづけるのである

ただ家族の事情はここに違うから理解しにくい、表面だけ見ても体面をつくろうとういことがありわかりにくいのである
家族が同居していても別居していると同じような状態の人が結構いるのかもしれない
すると同居する意味もなくなるとなる
そして放置されて死んでいるのもわからなかったとなるのはありえないことだからであるでもそういう家族になっているときすでに家族自体が崩壊しているとなる

私の家族は最後はばらばらになり悲劇だったけどやはり家族だった
一つの家族だったことを自覚できた、それは60年以上とか一緒に生活を共にしていたということにもあった、そこで争そっていてもそこに愛が生まれていたのである
複雑にしろ一つの家族としてありえたのである
ただこれも特殊だから外部から理解できないとなっている
そういうことが家族には多いのである

人間を理解するときその人がどうして育ったとかどうしてそんな人間になったとかある
その女性がもともと非情で残酷な人間だったとは思えないからである
誰でも継母にいじめられたとか貧乏で苦しんだとか何か過酷な運命の下で育ったら性格でも歪んでくるとなるからだ
ただ現代の家族は何かそのつながりが希薄化している、だから同居しても別居していると同じだとなっている人もいる

でも不思議なのは家族遺棄社会だとして遺棄した人を放っておくわけにはいかない
すると誰かがめんどうみなければならないとなる
それで家族は家族を捨てる、それで家族は楽だとなる、でもその捨てた家族を誰かがめんどうみる、そのことが理不尽となる
そんな勝手なことが許されるのかとなる、みんな福祉で自治体で国でめんどうみれるのかとなるからだ
またそういう人ばかり増えるとその負担が大きくなりできないともなっているからだ

高齢化社会の問題は深刻である、とうしても老いる人がこれだけ増えることは病気になる人が増える、すでに同級生でも脳出血になった人が近くに二人とか死んだ人もいる
自分自身でも弱っていく、だから恐怖なのである
そして家族遺棄社会というとき家族が同居しても遺棄されているのだからそうなる
また介護の負担が大きく負いきれないとなる
ヤングケアラーが問題になるのもそのためである
隣の人は孫と買い物に来ていたからもしかしたら動けなくなったらそうなるともみる
でもその負担は若い人になるのは大問題である
若い人が介護で貴重な時間を奪われるのは酷だとなる







2021年03月14日

現代老人の不幸 (隠居もできない、一生働かされこきつかわれる)


現代老人の不幸

(隠居もできない、一生働かされこきつかわれる)

長生きすることは悪いことではない、なぜならこれまでの人生は短い
長く生きられないから長寿が願いだった、それで延命地蔵とか各地にある
ともかく病気もあり過酷な労働とか栄養不足とかで長く生きられなかったからである
戦前だと結核で若く死んだ人は本当に多い、正岡子規も36歳で結核で死んだとか
啄木でもそうであり身近でも前の親戚の人の親は若い時20代で結核になり半分の肺を切ったとかある、それは戦後まもなくのことだった
そして一生が病気に意気て終ったとなる、ただ70まで生きたから他の人とは違っていた母の実家の墓には25才で結核で死んだ、その墓を見ると心をしめつけられるようになるそこにどれだけの無念が籠っているか、その25才という年齢が語っているからだ

ただ今度は長生きになっても人間はいい面と悪い面が必ずでてくる
悠々自適の老人もいる、老人と言っても今は小老人(60代)中老人(70代)大老人
(80代)に分かれる、60代はまだ現役であり老人とはいえなくなった
70代から一応老人となるかもしれない、70過ぎると何か本当にいきていたことがもうけものであると感じる、生きているだけで得したとなる
だからこの年代になると生きているだけで存在しているだけでも喜びとなってしまうのである、なぜならもうすぐこの世から消えるからである
だからこの世にあることただ存在していることが貴重であり喜びとなってしまうのであるでも病気とか生活苦があるとそうはならない、健康であればのことである

現代の老人の問題はいろいろある、まず数が多いから敬われることはない、ただ若い人が老人のために税金を負担させられるとかなる
だから早く死んでくれとかなる、老人のために自分の人生が奪われるとまでなる
特にヤングケアラーとかはそうである、20代で祖父母の介護になるのは最も貴重な時間を奪われるともなるからだ、青春は二度とないからである
それもあっという間に過ぎ去るからである
ただそれも経験であり得るものはある、なにしろ人間で大事なことは本を読むことだけではない、経験で知ることが多いからである
何かを経験しない限り理解することができないのが人間なのである

江戸時代後期には,

成人した者の平均死亡年齢は男61歳,女60歳だった
例えば45歳でリタイアすると死ぬまでに1
5年間程度の期間はあった

江戸時代の中でも特に後期は,
「世界最初の大衆リタイア後社会」であった

都市のゆとりのある商人や
武士階級の中では40歳半ばごろには
リタイアして「隠居」する者もかなりいたようである。 

「江戸時代」に学ぶリタイア後の生き方


こうして隠居するのは農民とか商人が多かったというのは意外である
農民だと「隠居田」とかありその質が用意されていた
つまり不思議なのは江戸時代の方が老人にとっては生きやすいものとなっていたのだ
ただこれも格差があり恵まれた人とそうでない人がいた
ただ引退ししても隠居しても何か教えること伝えることがあり重宝になり敬われていたともなる、それは今のように社会が余り変わらないから年長の言うことを若い世代でも聞いていたのである  

今はまずこれだけ変化が激しいと老人は何も知らないできない人となってしまう
現実に技術的にも老人は現代の最先端のITとかについていけなくなる
自分の場合は40代からワープロとかしていたしそのワープロに通信機能がついていて
パソコン通信までしてしいた、それができたのは引きこもりであり時間があったからできたことである、そこで親指シフトを覚えたことが大きかった
これだとスムーズに文章を打てるからである
ローマ字入力だとめんどうでありここでつまづくからである

老後にも人によって違う、多様な人生があるからそれぞれの過ごし方が違ってくる
ただ現代の老人の不幸は金銭的に恵まれない人が多いことである
だから70才でも働くほかないとなり働く場所が警備員とかないとなる
これは工事現場で一応働くから苦しいとなる
老人になってからそういう仕事は辛いのである
でも近くでもスーパーで3時間ほどでも働いている60代の老人がいるしコンビニで働いている人もいる、都会になるともう老人が普通に働いている、70代でも普通に働いているとなる、それが自分の好きだとか生きがいでしているのならいいが金のために働くとなると重圧になる

そして人生も終わりとなる時、そんなふうにして働くの不幸である
もともと自分は若い時流れ作業のようなことばかりしたから働くことに異常なほど嫌悪感を覚えるようになりそれが引きこもりになる原因となり一生旅したりして遊んで終わったとなる
ただ学問とか芸術が好きでありそれを追求してきたのである
それを今成果としてプログに出しているのである
最後は人間はその人のやりたいことをやるべきである
その女性は農家の生まれであり農業をやりたい、それで小さな畑を借りて野菜作りをはじめたのである、その人にとってその仕事は苦痛とは言えないのである
その人は農業に向いている人だと見たからである、でも実際は金がないとかで種から肥料から道具から金を使うだけで収穫ほとんどゼロだったのである
でもその女性は農業が好きだから金があれば最後は好きなことをすればいいとなる
それでも腰がいたいとかなんとか体が弱りできなくなったのである

遊行聖(ひじり)とも。諸国を遍歴遊行し仏道修行する僧侶。なかでも時宗の開祖一遍は,諸国を遊行しながら遊行札とよばれる念仏札を配り,民衆の念仏教化を行ったので遊行上人とよばれた。2祖真教は遊行派という時宗の根幹をなす一派を築いた。時宗の総本山である神奈川県藤沢市の清浄光(しょうじょうこう)寺は遊行寺の名で知られ,歴代住職も一遍同様諸国を遊行したので遊行上人とよばれた

遊行であり遊戯三昧とか雲水とか座禅とか沈黙行とかがある
何か禅宗が自分の性質と合うのである、キリスト教でも宗教がいろんな宗派に分かれるのは人の性質がみんな違ってるからである
自分の一生はまさにこれだったともなる、その原因が流れ作業ばかりとかしか仕事したことがないからである、だからもし自分に合った仕事があればその仕事に没頭したとなる
ただそういう仕事は社会になかなかないのである
不本意な仕事を押し付けられるの、金のためにそうさせられる
だから老後はせめて自分なりのものを追求して終わるべきだとなる
それができないから現代の老後は不幸になる、最後は何か上司や世間に気をつかったりしないで自由に生きるのがいいとなる

だから自分はこれから百才までも生きたいと思う、つまり老後は生きているだけでもその存在を楽しむ喜ぶことができる、なぜならまもなくこの世から消えるからである
そうしたらやりたいことをやらないで依然として奴隷のように働かされて終わるのは苦しいとなるからだ、ただ働くにしてもそれがその人の生きがいとなったりすればいいのである、そうでないと老後まで不本意に生きるとなり生きるのも嫌だとなってしまう
たた現実には経済的なことでそうなっている老後が多いから現代の老人は老後は不幸だとなるのである

とにかく老後は本当は金にかかわらない生き方が理想である、なぜなら現役だと利益から離れられないのである、利権から離れられない、そこで歪められるのである
自由に言いたいことを言いたいとしてもしたいとしてもできない
様々な制約があり金になることが優先される
だからインタ−ネットだと自由な発言の場になるがここも利益のために商売の場ともなった、youtubeでも一億かせいだとかなりそれが話題になる
つまりテレビのように視聴率をとりそれが広告で稼ぐとかなる
つまり社会と同じ場になっている、広告の場になったとき歪められるのである

だからテレビのように何百万見ているというyoutubeは実際は大衆向きのものでありテレビ番組が面白くないと言うが同じようにつまらないものでもし刺激になるものを店て広告費を稼ぐことは同じなのである
だから何でも利益がかかわると金がかかわると本来の趣旨とは違ったものになってしまうのである、そういうものから脱して発言できるのはインタ−ネットの強みだったのである発言するにしても金がかからないからである、手間はかかるにしても金はかからないからそういう場としてあったのがここも営利主義に汚染されてしまったのである
だからむしろ向いているのは金銭的に余裕のある江戸時代なら隠居のような人が発言することなのである
そして老人はそれぞれ経験しているからその経験を語るべきだとなる
ともかく長寿は長年の人類の願いだった、それが実現している現代であるがそれに反して金銭的に余裕がないということでいやいやながら働かされるのは不幸なのである




2021年03月05日

まず困ったら市民課の相談へ (弁護士に直接頼まない―相談だけで百万とられたことがある


まず困ったら市民課の相談へ

(弁護士に直接頼まない―相談だけで百万とられたことがある

5年前にかかわった通信会社のTOPPAとかから何故か一万だけど請求書がハガキでくる
それを払わないと延滞金が月ごとに増えてゆく
だから少なくても恐怖になる
それでこまって消費者相談にインタ−ネットで相談した
その政府の消費者相談は南相馬市の市民課で相談しろと言われそうした
要求されているハガキをもっていって相談した
そしたら後日弁護士が電話で相談すると言われた

それで事情を話しした、まずネットで契約が成り立つのかと聞いたら成り立つという
文書ではその時契約しなかったからだ、それで契約は成り立たないと思っていた
でもネットでも売買しているから契約は成り立つ、口約束でも契約は成り立つ
ただすでに時効になっているから払わなくてもいいとしても請求されて裁判になるかもしれないと言われた

それで払いますから待ってくださいとか言うと相手は録音してそれを証拠とするから気を付けろと言われた、確かに借金でも請求されたとき一回でもわずかでも払えばそれは借金を認めたことになるからしない方がいいとは聞いていた
相手は悪徳会社でも弁護士でも雇っているからなかなか素人だと勝てない
それで大きな会社とかを訴えて裁判で勝つことは不可能だという人もいるのもわかる
個人になると裁判では相当に不利になるのである

ただ一万くらいだからめんどうだから払っていいとも考えた
相手が通信会社であり怖いということもありそうしようかと思った
でもそのままにして一応聞いてみたのである

そもそもがその相談が市の市民課で相談できると思っていなかった

インタ−ネットの消費者相談は国で運営しているものと思ったからである
何か市民課ならすぐ近くで直接行けるし相談できるから安心だと思った
ただハガキを直接もっていったが相談を受けたのは電話である
でもその弁護士は的確に答えてくれた

それも相談は無料だった

でも兄の交通事故の時は仙台市の方へ親戚の人が相談に行っただけで百万もとられたのである
その親戚の人がまず何もできない知らない人だったのである
何か弁護士を知っているからといったので頼んだ
本当に何もしないのに裁判にもならないのに相談に行っただけで百万とられたのである
普通だったらそんな金を払わないのである
頼んだ人は本当に世間のことも何も知らない人だったのである
ただ金は交通事故で賠償金が払われるからそこから出したとなる
このことは私自身の家の落ち度でもあった、私の家の者がかかわったからである
ただその時は何か理解できないものだった

でも今ふりかえると何かおかしいと気づいたのである

何もしないの相談するだけで百万要求し払った!

今回は一万の要求だけど市民課では無料で弁護士を通じて相談にのった
何か困った時、まず市民課に相談する、すると安心だと思った

直接弁護士には相談するな!

南相馬市の市役所が仲介して弁護士に相談すると安心だとなる

とにかく意外と社会の仕組みとかわからないとかで人間は失敗する
何か自分自身が学者肌であり実際は社会のことがわからないのである
現実社会と理論は違うからである
それが家のことで家族が全部死んで様々なことを一人で処理するようになり責任をもたされて社会とかかわるようになって困りそうなった

ただ家族が認知症になったり介護になったりしたがそういうことは相談しても実際引き受けるのは家族しかない、誰に相談しても認知症などわからないからだ
だから四苦八苦して介護したのである

人間は何か困っても相談には限界がある、金で解決するとしてもそれを自腹で払えるかとなるとねずかしい、だから相談されるのも困るとなるからだ
だから市民課に相談しても解決するとはならない、でもその窓口がありそれすら知らなこともある
意外と市で行政サービスがどういうものがあるか知らない場合がある
コロナウィルスの支援金のことでもわからないということがある
ただ最初市民課に相談してみることである



着手金の問題(弁護士費用について)                                    


依頼者と弁護士との契約は「委任契約」です。

委任契約は家を建てることを大工さんに依頼する「請負契約」と異なり、依頼内容の実現を目的とはしません。

大工さんは家を完成させなければ契約内容を実現したことになりませんが、弁護士との委任契約は依頼内容の実現に向けて働くことそのものが契約内容なのです。

つまり、着手金には活動の対価としての意味も含まれているのです。


見極めるポイントはずばり「見積書」です。

これまで弁護士が見積書を出すことは少なかったのですが、最近では多くの弁護士が見積書を作成します。

私も昔に比べて見積もり提示する割合が大分高くなりました。(基本的には提示します。)

また、見積もり提示のタイミングも以前より早くなりました。依頼者がそれを求めるようになったと感じているからです。


兄は交通事故で死んだ、そこでもめたのがそこに勤めていた会社だったのである
会社の人が賠償金を得ようとして画策したのである
その弁護士は仙台市の人であり見積もり書など出していない
相談を引き受けるとしても最初から百万必要だとしたのである

でも実際に交渉したのは保険会社でありその弁護士は何もしないないのである
だから何か着手金として払うことはわかるにしてもこの場合は成り立たない
法外な金をとられたとしか思えないのである

見積書というとき家のリホームでも家を建てるにも見積書を出すのが常識である
そうしないと後で金を多く要求される
ユニットバスは仙台市の会社で見積書を示してくれた、そこは本当に良心的だったとなる実際は百万ではできない仕事だった、他だと二百万以上はかかるものだったからだ
とにかく見積書を示さないと仕事は頼めない
なぜなら後から法外な請求をされてもそれが言えなくなるからだ
そういう大工さんがいたからそういう人には頼めないとなる





2021年02月17日

生活保護の女性死亡で検証求める(関西 NEWS WEB) 菅首相「最終的には生活保護がある」


生活保護の女性死亡で検証求める(関西 NEWS WEB)

菅首相「最終的には生活保護がある」

去年2月、八尾市のアパートで、生活保護を受けていた57歳の女性が24歳の長男とともに死亡しているのが見つかりました。
警察によりますと、女性の死因は不詳で死後1か月が経過し、長男は栄養失調などで死亡したとみられています。

生活保護が必ずしも保障しない、最低限の生活の保障もしない、医療費しか払わないとかありまた医療費でも全額払わないとかある
自治体でも国でも生活保護は許可したくないから申請しても受け付けないようにする
これから財政が厳しくなればますます生活保護が厳しくなる
生活保護がみんな働かなくてもいいからとかうらやましがる人もいるがその内訳は一律ではない、最低限の生活が保証されていないのである
交渉力があっても受け付けないとかあり受けてもその後も最低限暮らせる支給がされていないのである
だから生活保護が最後のセーフティネットとなっていない、これからますますそうなる
菅首相がコロナウィルスで困ったら生活保護があるじゃないかと言ったが生活保護の実情を知らないからそういったのである

何か良くわからないけどアメリカだと意外と貧富の差があっても老後が保障されていたり生活保護でも手厚いと暮らした人が言っている
車も持っていて大きな家に住んでいるという、だからとても貧乏には見えないと言っていた、老後でも保証があり日本よりいいとされている
ただこれはアメリカ国籍を持っている人であり他は日本より少ない
でもアメリカでは比較的生活保護は簡単に受けられるのか、その数が多いのに驚く

現在アメリカの生活保護者は3,500万人で掛かる費用は50兆円に及びます。 日本の3.8兆円とは比較にならないほどの膨大な額です。 アメリカの黒人の中には、155年前の奴隷解放以来、3代4代に亘って仕事をせずに生活保護だけで生活してきた連中がごろごろいます

フードスタンプの受給者は増え、13年3月で4767万人。
総人口約3億1400万人のうちの約15%になる。
09年の3300万人から約4年で1300万人も増えた

アメリカはこのように超格差社会である、湖の数には驚くからである
5パーセントくらいの金持ちがアメリカの富の50%もっているとか
そんな社会がまともはずがない、それでいづれ破綻するとされている

それで車をもち大きな家に住んでいるということもありうるのか?
そもそもアメリカでは大きな家に住んでいるのが普通だからである
ただ黒人というとき差別されているとかあるが逆に手厚く優先的に保障されていることもある、つまりメキシコなどからの移民とは違っているからである
その辺は複雑だからイメージできない
日本とアメリカを比べてもその背景が違うから理解しにくいのである
ただ黒人暴動があったが黒人そのものにも問題がある
ただ単に差別されているというより自助がたりない面もあるのだろう
それでごろごろ生活保護で生活している人がいるとなる

「アメリカでは、債権者からの保護を求めて、破産を申し立てる高齢者がこれまでになく増えている。1991年以来、破産を申請した人の割合は世代によっては200〜300%増加している」調査報告書は指摘した。

これは日本と同じ状態にあるのか、その背景はわかりにくい、

生活保護というとその本人に問題があることも確かである、でもどうにもならない人もいる、アメリカのように老後が保障されないのは日本ではこれだけ高齢化になっているのに厳しいとなる、それだけの財政負担ができなくなっている
だからますます厳しくなる、支出を減らそうとしているからだ
だから一概に自治体が役所の人が悪いとも言いきれない、なぜなら常に生活保護を断り
支出も減らそうとしているからだ
現実にもう飢え死にする人がいても支払わないのである
それで実際は生活保護だけに頼ることは危険だとなる、そんなにんどう見ない、これからはますます見ない、見捨てるとなる

おかしなのは親でも子供がいてもその子供が親を世話しない、完全に縁が切れている
そうなると親でも子でもないとなる、でも誰かがめんどうみさせられる
それが福祉であり社会でめんどうみるとなる、だから家族とは何なのだろうとなる
家族遺棄社会というのもわかる、でもそうして捨てられた人は他人がめんどうみるのである、そうすると手間もかからない、金も払う必要がないから楽だとなる
でも誰か他人がその負担を引き受けざるをえないのである
もちろんすべてを家族が負担するのは苦しいとなる
でも家族がいても子供がいても一切何もしない、あとは誰かがしてくれとなるのもまた無責任だとなる、それなら楽である、でも誰かがその負担を強いられるのである

この親子は頼る人がいないから生活保護に頼ったけど援助してもらえなかった
そういうことは結構これから増えてくる、それはもともと生活保護は政府でも自治体でも減らそうとしている、したくないからそうなる
私は食べるものがないんですと訴えてもわずかなものしか支払われない
そうして他に家族でも頼るが家族も頼れないとなると飢え死になる
この家族はそういう家族だったとなる

日本では財政が苦しくなると福祉の支出は減らされる、でも老人が増えるし病人も増えるから余計に支出をおさえるようになる、そこで生活保護でも支払われないとなる
そして餓死する人もでてくる、そして高齢化で働けない人が増大するのだからますます深刻になる、そこで最後は餓死になる
日本が豊かなのに餓死する人がんのかとなるとそれは最後の頼りだ生活保護しかなくなっている、近隣の人が助ける訳てもない、すると生活保護に頼るがそこでも最低も保障されないから餓死するとなる

ただ昔の不作で飢饉になり餓死するということはありえない、食料も余っている
だから餓死者がでるといのうは社会の仕組みに問題があるともなる
そういう人を出さない仕組みを作れば餓死までにはならていとなる
でも生活保護はこれから意外と支給されない、すると他に頼ることができなければ餓死になる、おにぎり一個食べたいと死んだ人がいた、それは近隣でも無関心社会であり助けてないからである、いくらなんでもおにぎり一個くらいなら与えていた
昔はオカズをりとりしたとかありそういうことはできたのである
孤独死もあるが社会から孤立して死ぬ人も増えている

ただ自分の隣の人は本当に餓死したのである、家を貸していたが戦後まもなく餓死した
その人には子供がいたが子供が助けなかったのである、そして餓死したのである
その家を貸していた自分の家でどうみていたかわからない、汚れた手でわずかの銭をもってきたりした、ただ幼児の時なので事情がわからない、戦後は今と違い相当に貧乏な人が多い時代である、また生活保護も整備されていなかったのである
おにぎり一個くらいならやることができるが貧乏人とかかわるとかなり損になるからしないともなる

ただこれから飢え死にするとか何か貧困な人が日本で増えてくる、老人でも今や保証できない、そして家族からも捨てられる頼る人がいないとか餓死とかが増えてくるかもしれない、でもまだ豊かな社会だから餓死者が出るということは人間が非情になっているからだともなる、だからそれをすべて役所が悪いともならない
近隣でも完全に無関心だとなるからだ
ではそれが自分の問題になったときそういう人にかかわりたくないのは負担が大きくなるからである、おにぎり一個くらいなら与えてもいいがもし同情して助けるとなると相当な負担になる、金銭でもそうである、自分の財産でもそういう人に与えると見返りはないからてある、利益を産まない投資になるからである

今の社会は他者に無関心である、それで孤独死も増える、家族遺棄社会にもなる
家族から捨てられて餓死する人がいる、私の隣の人がそうだった、そういう人に金を貸しても返してもらえないからである
だから今は家族とは何なのだろうという根本的な疑問が生じる
それだけ負担を負いたくないのもわかるがそうして家族を捨てるとしたら家族でありえないとなる
なぜなら全く親のことに関心もなくなっているのも理解できないからである
その代りに他人が世話しているともなるからだ、生活保護は他人の世話になるということだからである
ただ正直かかわらないのは負担が大きすぎるからである
自分の時間とか金とかその負担のために奪われるともなるからである
だから近くでそういう人がいて知っていても助けないのである、無関心なのである
一旦かかわるとその負担が大きく耐えられなくなるともなるかである
それもおにぎり一個を与えるのではない、継続的に支援をせざるをえなくなる
その負担が大きいのでかかわらないのである

2021年02月11日

埼玉県では25人に1人が「ヤングケアラー」 (自分優先か家族優先か-自分の人生が奪われる)


埼玉県では25人に1人が「ヤングケアラー」

(自分優先か家族優先か-自分の人生が奪われる)


家事や母親の世話で自分の自由な時間がもてなくなり、「何で私が?」と、よぎる瞬間もあった。思いが行き違い、母親と何度もけんかした。


ひとり親家庭 増加が背景に
 若年介護者が増えている背景には核家族化の進展、ひとり親家庭の増加があるとされる。群馬県人口は減る一方で、世帯数は右肩上がり。1950年代まで5人台だった1世帯当たりの人数は2019年に2.40人まで減った

「限界だった」たった1人の介護の果て なぜ22歳の孫は祖母を手にかけたのか

これは残酷である、10代から介護になるとすると自分の人生が介護で消失する
精神疾患が多いとすると親か若いうちに介護状態になっている
ただこれから祖父母が介護になったとき家に人手がないから孫が介護する家が増えてくるかもしれない、どうしても介護はつききりになるからだ
すると誰かが働かないと収入もなくなるからだ
その年でまず介護がどういうものか理解する人はいない
だから相談相手もいないし介護サービスのことも知らないとなる、手続きもめんどうで受けていないというのもわかる

家族が優先か自分が優先で悩むというのもわかる、何か親のためにしなければならないというになる、家族のためにやらなければならないとなる
でもそもそもそんな子供の時は家族にしてもらうのが普通である
家族が与えてくれるのが普通である
それで進学も大学にも入れないとか結婚もできなかったとか様々な障害が生まれる

これは悲劇だ!

私自身は介護は苦しかったけど介護して良かったと今では思っている
というのは60まですべて何でも身の回りのことをしてくれたからである
これもまた普通ではありえないのである、引きこもりでも世話してくれたのである
そこで一切働けとか言われなかったのである
引きこもりで親に殺されている人もいるからそれだけ恵まれていた、親が世話してくれたただそれがマイナスに働いたことはある
人生には何でもプラスに働くのとマイナスに働くことがある
だからそんな若い時から介護になっているということでも何かプラスになることはある
でもこれは余りにも過酷だとなる

そしてこの人たちが成長した時どうなるのか?

親が死んだりして親をどう思うのか?

親を怨むとなる、そういう人が自分の親戚にもいた、親を介護したわけではないが親に苦しめられた結果、死んでも親のことを想わない、墓参りもしないとなっている
おそらく親を恨んでいるとなる
これは双方にとって不幸である

自分が優先か、親が優先か

この年なら確実に自分が優先である、それは責められない、親のために人生を捧げるというのは生物的にもありえない、親は子供のために命までささげるからだ
でも戦前とかまでは後進国などでは今でも子供は親の犠牲になることが強いられている
子供は労働力として見られているし外国人労働者も親に仕送りしているからである
私の母なども親のために早い時期から働かされて稼ぎを親に出していたのである
それは戦前とかでは普通にあったことである、親孝行が優先されていたのである

何か母の実家では母親が病気にもなり若い時それで苦労したとは聞いた
大正生まれだから今との価値観は違う、でも結果として母は働きづめであり何か余裕ある生活もできなかった、それで花にすら興味を示さなかった
庭に花より野菜を豆を植えていたのである、食べることを優先されたとなる
それで遊んでいた自分とは合わなかったのである
母にって働かないで遊んでいる人生など考えられなかったのである
ただそういうことができたのは母だけではない姉がいて私は自由な人生を送ることができた、母だけったら若いころから働きづめであり大学などにも行けなかったのである

若い時やりたいことをやらないとあとはやれない、時間ほど人生にとって貴重なものはない、それもあっというまに過ぎる、だから青春時代を介護になるということはあまりにも過酷だとなる、ただそれだけ苦労するということはプラスの面はある
でもやはり人生でやりたいことをやれなかったという後悔になる
これはみんな老人になれば後悔しているのだがこの場合は

親の介護で自分の人生は犠牲にされた!

必ずあとでこう思うようになる、それは親と子供にとって不幸なことである
親を恨むようになるからである、やがては親の供養もしないとなる
ただ苦しめられたという思い出しかなくなるからだ

私は介護では苦しかったけどそれも当然だという感覚になっていた
それは普通の人より良くされたからである、だから苦しくても当然となっていた
それは無理やりでもない、自然にそうなっていたのである
60年間一方的に世話になるだけだったからである
だからこんな若い時から介護になることは余りにも残酷であり理不尽だとみたのである
ただ家族に人手がなくさらに介護者が増える、2025年問題がある
団塊の世代が介護状態になる、認知症になる数もすごい、そうなると孫とかに介護が強いられる時代にもなる、それは本当に孫を不幸にするのである
そして祖父母でも恨むことになる、それは双方にとって不幸なのである

私は何か30頃なのか登山した、体力かないので死ぬように疲れた、その時親戚の人が病気で輸血してくれと言われた、でもしなかった、その時確かに罪悪感を感じた
10代から20代でも家族のためにしないことで罪悪感を感じているのもわかる
それは家族だから余計にそうなっている
ただ正直自分の人生まで犠牲にして親の介護に貴重な時間を消費していいのか?
これは本当に疑問である、強いられてしょうがいなともなるが過酷である
結果としてあとでふりかえり親のためにやりたいこもやれず親のために犠牲にされたと思うよりなり親を恨むようになる
私はふりかえれば介護して良かったと思っている、恩返しできて良かったと思う
それだけ世話になったのだから当然だと思っていたし感謝して死んでくれたから心も安らかである、それで死後も供養して思っているのである

いづれにしろ2025年になると介護者が膨大に増える、そこで孫もその介護者になり犠牲者になることも増える、それだけ介護問題は深刻なのである
個々の家族で事情が違っていてもそれは大きな社会問題になるしすでになっている
金銭的にも日本が貧困になり援助できないからとなり家族に押し付けられる
それで孫まで犠牲になりそして祖父母でも恨むとなる
これも悲劇なのである、ただ確かに介護のことを同世代で理解することはむずかしい
介護自体もまた経験して見ないとわからないからである

まず親に良くしてもらわてかった子供は親にも良くしない、これは確かである
だからただ親に苦しめられた子供は親に良くしないし介護だってできないのである
それで兄弟でもお前は一番親にかわいがられたから良くされたからお前が親の介護をしろというのもわかるのである
それだけ介護は誰もしたくないのである、でも誰かに押し付けられるのである
これからそうして介護殺人も日常的になる、それだけ介護問題は深刻なのである

2021年01月19日

息子の介護殺人が増える (男は家事ができない相談する人がいない)


息子の介護殺人が増える

(男は家事ができない相談する人がいない)

carekill1.jpg

2020年4月、福島・南相馬市で、自宅で介護をしていた70歳の母親の顔に、折りたたんだ布団をかぶせ窒息死させるという事件が起きた。

逮捕されたのは、47歳の息子。犯行後、自ら消防に通報し、事件が発覚した。

「担当弁護士によると、介護を優先してアルバイトの勤務を調整していたという。状況を聞き取りに来た市役所の職員にも支援を求めることはなく、少なくとも10年以上1人で介護を続けていたとみられる。」

2020年11月16日、判決が言い渡されると、息子は静かに前を向き、裁判長の話に耳を傾けていた。

「おむつ交換の時に泣き叫ぶ母の声を聞きたくなかった」、「母に申し訳ない気持ちでいっぱいです」と、被告人質問で反省の言葉を繰り返した息子

熊本県警宇城署は2021年19日、自宅で同居する母親(90)の首を絞め殺害したとして殺人の疑いで同県宇城市不知火町御領、長男で無職の内山正光容疑者(67)を逮捕した。容疑を認め「親に対するうっぷんがたまっていた」と話している。


2019年10月、郡山市・63歳の夫が、長年1人で介護していた25歳年上の88歳の妻の首を絞めて殺害。

2019年11月、川俣町・68歳の息子が92歳の認知症の母殺害後、自殺。

熊本県で起きた介護殺人は親が90以上で二人を介護しなければならないことで起きた
二人というのは辛い、一人でも辛いのに二人となるとさらに辛くなる
自分自身も二人の親ともなるのでそのことに恐怖していた

私の場合一人がまずひどい認知症になっていた、その介護で二年半が費やされた
二人の親がいて一緒に住めなくなり自分一人で一人の親を介護していた
認知症だから肉体的介護はしていない、認知症は精神的介護なのでそれでまいってしまうのである
そのことを延々とプログで書いてきた
もしこれが十年もつづいたら確実に自分も殺人までにもなる可能性があった
すでにうつ病にもなっていたからである
ただ救われたのは脳卒中になり入院して死んだことである
二年間は苦しかったが意外と早く死んだので助かった
次にもう一人の親の介護になった、これは主に身体的介護であり寝たきりにもなり認知症になったが精神的には楽だった

そしておむつの交換などはしていない、というのは母は入院して死ぬ一週間前までポータブルトイレに立って行っていたのである
だからおむつ交換となるのと自力でトイレに行けるのとでは相当な差がある
介護する者にとってその差は大きい
だからおむつ交換のとき騒がれて殺すまでになった
市職員の支援を求めるというが認知症の場合はない、私は最初民間の認知症の相談にのる所にいったが何の援助にもならなかった
そもそも認知症に関しては相談するにしてもその場すらない
たいがい身体的介護であり認知症の介護はその中に入ってないないのである
市役所の職員に支援を求めて対応してくれない、認知症は普通の身体的介護とは別だからである

そもそも認知症とは何かを知っている人は少ない、医者すらわからない人がいる
なぜなら直接認知症の人を介護しなかぎりわからないからである
私は介護していてこれがどういう病気か理解するようになって楽になったのである
一時は狂気になったと思い自分自身も恐怖した
でもこの病気は狂気とも違うときづくようになった
確かに物忘れでそれが狂気化するのだが人間として何かわかっていることがある
そして認知症の不思議は正気にもどることがある
だから愛情もって世話すればそれが通じる、でもそれをしないと恨まれる
最後は私が世話してきたことをわかってくれて死んだから救われた
それは自分自身は特別良くされたからできたことである
特に男は介護することが向いていない、家事とかができないし相談する人もなく孤立しやすいのである

熊本の人は二人の90を越えた親でも介護するようになったみたいだ
それで両親を殺す悲惨な結果になった
二人を一人の息子が介護することはあまりにも負担が大きすぎる、それと同じことが自分に起きるところだったし現実にそうなる寸前であった
一人が早く死んでくれて助かったのである 

いづれにしろ介護殺人はこれからも増えてくる、その加害者になるのが息子が多いのである、男は相談する人もなく孤立するからだ
女性だと相談する人がいる、そういうコミニケーションができるのが女性だからである
男性の場合はしにくい、そして孤立する結果としてどうにもならなくり親を殺す悲劇になる
私の場合は自分自身が病気になったことでも苦しかった
そして自分の所に来た人たちは金を無心しようとする人たちだけだった
自分の窮状を察してくれる人はいなかった、むしろ田舎だとそうして人が苦しんでいるのを楽しく見ているのである、それはおそらくそういう目に田舎であっているから他者が苦しんでもそれが楽しみともなっているのである
ただ傍観しているだけでありそれより楽しみともなるのである
ただこれも自分が楽したことによるカルマでもあった
カルマは必ず60以降に苦しみとなって現れるからだ 

これからこうして介護殺人が増える、90以上の親など普通であり当たり前にいる時代である、そして介護になる、だから親二人を一人の息子が介護することもある
その負担に耐えられなくなる、裁判でも情状酌量になっているのもわかる
もう限界になりやむをえずそうなったとなるからだ
だから介護で死んでくれないかなと思うのは普通のことである
自分自身もそう思っていたからである、でも私の場合は一人が早く死んでそのあともう一人介護になったから助かったのである

二人同時に介護することになったらどうにもならなくなった
そういう恐怖があった、そして最後は介護したことで感謝して死んでくれたので心やすらかだった、死んだあとも心安らかに供養できている
もしこれが苦しい介護でも恨んで死ぬようなことがあるとあとあとまで悔やむことにもなる、認知症でもそういうことがわかるからだ
いくら苦しくても恨んで死なれると後味が悪くなるし後悔になるから苦しいのである
ただ自分の場合は他の人と違って特別良くされたことでできる
みんながそうではないからそういう人は本当に介護することができなくなる
男の場合は家事にもなれていないし女性のように援助を求めににくいしと不利なのであるそれで男が介護で親を殺しているのが多いのである





2021年01月17日

死者は家に住み続ける (家の価値は建物だけではない、精神的価値が大きい)


死者は家に住み続ける

(家の価値は建物だけではない、精神的価値が大きい)

houseman111.jpg

テレビで東京の空家問題をとりあげていた、東京でも空家が増えている、ますます空家800万軒にもなるという時代である
ある人は都会の人は家を買うべきではない、飲み食いして寝るだけのものに大きな金を払うべきではないというのもわかる
ただこの人は独身でありおそらく家で家族と過ごした時間がなかったのである

最近自分が家のことを考えるようになったのは家族がみんな死んだからである
そして一緒に暮らした時間が60年とか長かったからである
それで家族がみんな死んでから何か家を前より意識するようになった
それまでは大きな家でも一室を与えられるだけであり家のことをそれほど意識しなかったのである

でも死んでからここに母が百才まで生きて座っていたとか姉がも座っていたとか死んでから依然としている感覚になる、死者の存在は簡単に消えない、それも家の中にいる感覚になる、そこに思い出があり記憶があり暮らした歳月がある
今やそういうものは家とともに記憶として残されているだけである

建物という時、その機能とかに注目する、でも家には家族共に暮らした記憶の場所なのである、そして老人になるとその生きた記憶の方が大事になり価値あるものとなる
それは見えないものである、記憶とは心の中にあり具体的な形として見えないものにもなる、ただ家があると建物があるとそこで営まれた歴史があり歴史的建造物として残される家も小規模であるが私的なものでも歴史的建造物なのである
家々には必ず歴史があるからだ
ただ家々となると公共的なものではないから私的なものだから歴史的建造物になるのはわずかだとなる

ただ本当に不思議なのは人間が家であれ60年もそこにいれば一緒にいればその存在は簡単には消えないものだと思った
母が座った場所に自分が今座っている、するとそこに母がいる感じにもなる
それで嫁は女+家だということを実感する
そして嫁になった女性でも賃貸とか住宅に住んでいる人は嫁になっていないと見た
一人暮らしでも家に住んでいない人は賃貸だと思い入れがないのである

家の価値は最初は家という建物にある、快適に過ごせるかとかの機能にある
でも時間がたつにつれて家は一緒に暮らした記憶の場所となる
つまり建物に付加されたもの、精神的価値が大きくなる
ただまた不思議なのは家には依然として死者がいてその死者がなお家を支えているという感覚にもなる、そしてその死者とともに残された跡を継いだ人が一緒に家を支えているという感じにもなる
家を通じて死者を背負っているという感覚にもなる、だから家には遺影がどゃでも飾っていてそれで家は継続しているのである

何か人間と家は一体化する、時々家の方が大きく偉大なのかとすら思える
家があるからこそ自分が支えられているとかまで思う
家という建物の方が偉大にも感じるのも不思議である
家というのはそれだけ人間にとって単なる建物ではないのである
日本人にとっては特に家は単なる建物ではない
江戸時代でも侍でも御家中と言っていたのはそのためである、家来でも家のものとなっていたのである

ただ家の価値は外から見たら機能的なものとしか見ない、それは別にそこに家族として暮らした思い出もないからである、その思い出を歴史を受け継ぐこともないからである
都会だと田舎と違って機能的な価値が大きくなる、でも何代も住んでいる家とかなると違ったものになる
いづれちしろ家のことを間借りしているようではその価値がわからない
これまで自分自身も大きな家に間借りしていた感じだったのである
まさに間を借りていたとなる、でも家族がみんな死んだ結果家全体を受け継ぐことになりまるで違ったものになったのである

家族が死んでも家があるからそこに家族もなおいて家を支えまた生きている人とともにいるという感覚になる、墓には死者はいない、家にはなお死者が生き続ける場所だとなる
それで嫁が女に家となるなのである
つまり家を受け継がない女性には何か存在感がないのである
家にはその時々で使い捨てる消費するものではない、家は継続してゆくものである
それは二代くらいでもそうなのである、もう何でも買って消費するとなっているが家はそういうものではない、一時的にそこで食事して寝る空間ではないのである

それは間借りした部屋であり家に住むという感覚にはならない
だから家がない女性は間借りしている感じになる、存在感が薄いのである
嫁に家と一体化した女になっていないのである、その人は夫もいないから余計にそうなる
それで原発事故とかで住む場所がなくなり家に住めなくなったというときみんな家をただの建物だとみている、別に他に補償金をもらったのだから建てたからいいじゃないかとなる、現実に家を建てられない人もいるからだ

でもそこで失ったのは家という建物だけではない、そこで暮らした思い出とか記憶が奪われたのである、だから老人は帰りたいとなるし残っているのは老人なのである
親が施設に入っても家に帰りたいとういとき家で暮らした思い出の場所に帰りたいのである、施設はそういう場所ではない、機能的なものだけであり一時的に老人を世話する場所だからである、家とは性質が違っている、そこに精神的価値はないのである

人間は精神的価値を軽く見るしまた見えないのである
そもそも思い出とか記憶は何か金になるとかない、建物とか土地なら価値になる、金になる、ところがこの世には金にならない価値がありそれが逆に大きな価値となることがある老人になると確かに金の価値は依然として大きい、でも精神的価値も重要になってくる
それが老人は誰でも自覚する、なぜならもう生きる時間がないというとき時間が最も価値ある者ともなるからだ
これまで生きた記憶が思い出が何より価値あるものとして自覚されるようになるからだ

空家の問題はそれが建物として不要になったということにあるがそれだけではない
家にはモノとは違った精神的価値がありそこに思い出があり記憶かある
銭湯屋だったというときそこでくつろいだ人や何か思い出がその建物にあるともなる
それは飲み屋でもなんでもそこに人の営みがありそこに思い出が生まれ価値あるものとなる、人間はただ飲み食いして寝るというだけではない、それに付加して精神的価値が生じる、付加価値が生じる、それは金にはならないものなのである
でも人間として生きることはこの付加価値、金に替えられらないものがある
それが最後に老人になると思い出とか記憶になる
それはもう二度と作れない、経験できないからそうなっているのである
だからつくづくそこに一時でも過ごすことは貴重な時間だったと老人になり意識する
でもはその時間は永遠に帰ってこないのである

2021年01月03日

日本なのに「餓死」が増えている? データが語る「ヤバすぎる未来」 (生活保護もセーフティネットにならない)


日本なのに「餓死」が増えている? データが語る「ヤバすぎる未来」

(生活保護もセーフティネットにならない)

saftynet111.jpg

失業者が増えても生活保護が受ける人が増えない


 大阪府高石市では、9月に高齢女性が餓死し、同居の息子も衰弱して入院したことが明らかになった。大阪市港区ではマンションの一室で女性2人の遺体が見つかり、司法解剖したところ、2人とも餓死したとみられることが判明した。

 厚生労働省の人口動態調査には、さまざまな死因による死者数が報告されているが、その中で餓死の理由に相当する死因として考えられそうなのが、“栄養失調”と“食糧の不足”である。

こういうことがなぜ起きるのか?食料自体が余っている、ただ金がないから買えないとなり飢え死にまでする
その前に助けを求められないのかというとその頼りとなるのが生活保護である
でも実際は生活保護は簡単に受けられないし最低限の保証もされていないのである
年金4万もらってあとは医療費が無料くらいしか受けられない人もいる
つまりそうなると最低限の生活の保証はされないとなる
もう生活保護も最後のセーフティネットにもなっていない
するとどうなるのか、食べ物を買えない、まともに栄養がとれない、そして衰弱してゆく最悪は餓死してゆくともなる

そして今はもう隣近所でも助け合わない、日常的に貧乏な時はオカズでもやりとりしていたが今はない、するとおにぎり食べたいと言って死んだ人がいたがその人は隣近所に腹減ったから食べ物下さいとは言えないのである
もちろん乞食もいない、物乞いもできない、すると生活保護でも最後のセーフティネットにならないとしたら餓死するのである
それが日本が貧困化すると政府でも自治体でも生活保護を受けさせない、受けさせても最低限の生活を保証しないとなる

おそらく生活保護はこれからもっと厳しくなる、そして国民年金でも6万くらいでありそれでは食費をまかなうのがやっとだとなる、その前に必ず電気、ガス、水道代を払わざるを得ない、そこで毎月必ず止められるのである
そのためにその代金をとりにくる人が委託されたものでありやめたということがある
嫌になってやめたのである、取り立てるのが嫌でやめたというときそういう人が相当数いるからそうなる

生活保護といってももう憲法で保証されたものはもらえないとなる
これからはそういう人が増えてゆく、だから安易に生活保護になればいいやということにはならない、それは期待できない時代になっている
福祉でも高度成長のような時代の時は成り立っていた
私の母親は年金を全く払っていなかった、でも60才から3万くらいもらっていたのである、それであと5年延ばすともっともらえたと悔しがっていたのである
そうして百才まで生きたからである、40年間でも3万はもらっていると大きな金になった、それも全然年金として払っていなかったからである

そういうことができたのは日本が豊かになっていたからである
その差が大きいのである、高度成長時代は貯金でも利子が7パーセントとかであり貯金をしていると倍にすらなったともなる
それが今は全く利子もつかない、それより預金封鎖だとかなんとか金をもっていても紙切れになるとかという不安がある、それは日本の経済がますます落ち目になっているからである、だから老人ばかりふえて福祉にばかり金をかけられなくなったのである

生活保護でも年金でも医療でもそれが成り立っていたのは豊かな時代があったからである第一福祉というときみんなが貧乏になったらできない
だから貧乏な時代は福祉はないのである、乞食になったり餓死したりした人もいた
要するに生活保護ない時代があったのはそれだけの金を出す余裕がない社会だったからである
それと同じようなことがこれから起きて来る、国でも自治体でも金を出さないのである
無い袖はふれないとなるからだ

袖の無い着物では、どうしたって袖を振ることはできないということから、持ち合わせの無いものはどうすることもできないということ。
着物の袖は財布を入れておくところなので、袖が無いのは金が無いということで、金銭的な援助を申し込まれたときや、返済を迫られた場合などに使う。

まさにこうなる、今やなっている

新年から暗い話になるがこれも現実である、生活保護になればいいということをしきりに言うがもうそれもできない、最低限の保証すらない時代になるしなっている
ではどうするのかとなると昔の様な隣近所がオカズでも出し合うとか助け合うしかないとなるかもしれない、それも今はなくなったのだからむずかしいとなるがそうしないと悲惨な人が餓死者が止められなくなるかもしれない、こんなに食料があるのに餓死者が増えて来る、これもおかしいが社会がそういう仕組みになったとき生活保護地なればいいとなっていたときそれがなくなったときそうなるということである

私の年金でも一万くら月に減ったとか厚生年金の人も減らされている、これからも減らされる、年金頼りの人は苦しくなる、年金の仕組みは下の世代が税金をおさめてもらえる仕組みになっている、すると少子高齢化で老人ばかり増えたらその負担が大きくなりどうしても減らすようになる、医療費もすでに減らしている
福祉でも崩壊しかねないのである
ともかく電気、ガス、水道をとめられると生活できなくなる、だから食料を減らしてもそこに金を払わざる得ないのである 

団塊の世代の子供の時は電気代でも裸電球くらいであり水道もない、近くの井戸の水をもらっていた、風呂焚きは仕事だったけど木材屋のあまったいらなくなった木の切れ端、バタなどを新聞紙で燃やしていたのである
洗濯は裏に堀がありそこでしていた、そうしていると確かに金はかからなかった
だから自給自足の農家の方が豊かだったのである、農家では卵も食べられたし納豆でも自家生産していたとか食料があったからである
でも今は電気、ガス、水道がないと生活できない、それで必ず払えなくなり苦しくなるのである 

昔は燃料は薪とか炭であった、だから囲炉裏があった、電気、ガスはなかったのである
その生活は江戸時代のつづきだったのである、江戸時代とほとんど変わらなかったのである、御飯は良く麦御飯だったりした、その時自転車すらまともなものがなかった
それで一台の旧式の自転車をていねいに掃除して使っていたのである
なんでももの大事にしていたのである、家には本は一冊もなかった、勉強する場は学校しかなっかのである
家にあったのは本当に飯台一つだったのである、それは戦後は焼野原になりみんなそうだったのである、物がないのだから農家は自給自足していたから一番豊かだったとなっていたのである

その時金で食料と交換したのではない、金には価値がなかった、着物とかなにか物と交換して農家から食料を得ていたのである
つまりこれからそうなるかもしれない、金は紙切れになる、もともとの価値は物にあるからそうなる、それで金銀でも価値があるとなる、紙幣は紙切れだから価値がなくなる
だから物で貯えていた方がいいともなる、ただ物だと限度がある、でもそういう時代になるかもしれない、物に価値があり一番価値があるのは食料だともなる
いくら金があってもそれは紙切れになるとか言われる、それで都会の金持ちは心配している
そこで農業するのがいいと言っているのである

私の母は戦前に前の夫が事故でなくなり一生食べていける金をもらった
でも戦争になり戦後預金封鎖があり紙切れになった
でも土地を買ったものだけ残ったのである、預金封鎖になれば土地であれ物であれ実物が価値になる、紙幣は本当に紙切れなるだけである

ともかく今になるとそういう経験したのは団塊の世代の上くらいまででありあとは豊かな生活を経験した人たちである、その世代の差も大きい、本当の貧乏を知らない
実は私でも知らない、子供の時は別に食べることはできたから苦しいとも思わなかったからである、それはみんなが貧乏だったから誰かうらやましがるということもないとなる
ただ農家に食料があるからとうらやましがられていたのである
その農家の人を今貧乏である、でもまた逆転するかもしれない、ただ正直農業は簡単にできない、だからこそ耕作放棄地が膨大なのである

今年は経済的にはどうなるのか?コロナウィルスは解消しないだろう
ただすべてが悪くなるとはならない、何でも悪い面といい面が起きてくる
コロナウィルスでも全部が悪く作用していないからである
東京一極集中が終わるいうのもそうである、何かいい方向に変わるのもある
ただどうしてもいい予測はできない、ただ自分自身のバイオリズムとしてはいいようである、最後の人生のまとめとして創作に励む、それが膨大になっているのだ
整理するだけで大変なのである

では良いお年を・・・・


2020年12月28日

子が親を捨てる時代 (老人は病人でも捨てられる、その覚悟も必要な時代?)


子が親を捨てる時代

(老人は病人でも捨てられる、その覚悟も必要な時代?)

団塊の世代は、定年後に10年以上も親の面倒を見なければならない、最初の世代となるでしょう。だからこそ何を選び、何を捨てていくかを真剣に考えなければならない。我々は今、まったく新しい問題に直面しているのです」

定年が60だとするとそれから十年ある、また65だとすると75になる
この時間は長い、つまり十年の時間が親の介護に奪われるということになる
それがなぜ問題なのか?それを自分自身の介護で理解した

会社員として働いた人と自分のように気ままに旅ばかりしていた人の相違だったのである会社員として60まででも長く働いた人は会社を退職したということは一つの大きな人生の区切りなのである、そして何か今までしていなかったことをしたい
自由な時間を得てしたいとなる
それを親の介護でその時間を奪われることが苦痛になる
その時間は貴重な最後の人生の時間ともなるからだ   

ただ事情はそれぞれ違っている、私の場合は親は自由にさせてくれた、もともと集団生活とか規則とかになじめなかった、だから自分は会社員としても勤めることができない
でも親に恵まれて引きこもりであれ束縛がない状態で引きこもりでも30年過ごしていたのである、普通だったら働けとか言われ親に殺された人までいる
自分に関してはそういうことはなかったのである

だから親の介護になったとき自然と懸命にした、それは当然のことだったのである
もちろん嫌でもあったがしたくないということもあったがそれは自分をこれほど自由に生きさせてくれたのだから恩返しと自ずとなったのである
でも会社員とか夫婦とかなると妻に親の介護させるとかなると簡単にできない
姑としていじめられたとかなれば余計にそうである
やはり介護となると本根が必ずでる、隠せないのである
人間は絶対に本根を隠せない、どこかで現れる
その時、人間の本性に本当に驚く、そこに愛がない人は露骨に行為として現れる
子でも親は介護となったとき苦しいから捨てる

いづれにしろ高齢化社会では本当にもう子が親を捨てるなど当たり前になる
それが非情でもなんでもない、もう老親のめんどうを金銭的にもまた労力がかかるから見れない、医療でももう延命治療などしない、病院では老人を生かさない、死なせるのが普通になっているという、もう老人に労力を注げないのである
数も多いし経済的負担ももう増えるばかりで今までのような治療はできない
つまり子は親を捨てる、それが非情でもない、世間でもそれを責めない社会になる
その苦労が並大抵でないことを知るようになったからである

ただそれぞれ家族には事情がありそれで違ってくる
近くの夫婦の妻は最近突然死んだ、78才であった、夫は83才くらいである
でも心臓病であり機械を入れていたり脚も悪いという
これまでは妻がなんでもしてくれた、今はしてくれないからゴミなげをしたり買い物するのも大変だと言っていた
そもそもその妻は看護師だったのである、すると夫の病気の世話もできていたのである
でも息子夫婦と一緒に生活していても食事でも何でも別々にしていた
だからまともな体でないのに家事を一人でするのは大変になったのである
つまり家族と一緒に生活していてもみんな一緒ともならない、孤立している場合がある
同じ屋根の下にいてもそうなのである

ただこうしてそういう老人が本当に増えてゆく、家族があっても同じ屋根の下にいても孤立する老人でありやがて子供に捨てられる老人ともなる
また社会的にも老人がふえすぎる、そして何かしら病気をもつのが老人である
仙台市に行きそれも市内からさらに一時間とか離れた場所に行くとかいうのも贅沢である腰が悪いとしてもそうである、金もないのに行こうとしている
その女性は医者通いが仕事のようになっている、こういう人も老人には本当に多いのである、ある人は病気の治療に毎月3万かかっているとかいう
回りをみても脳卒中で足を悪くなったとか一人暮らしの同年代の人もいる
何かしら病気をもつようになる、これから団塊の世代が2025年に介護が増えて来る
これももう増えすぎて限界になるからもう介護したり病院でも診ないととなるかもしれない、それでコロナウィルスで老人は病院に行かないという時相当に国では保険料など財政負担が減ったのである
つまり病院に医者に行きすぎたということがあった、サロンのように利用しているとかの批判もあったからだ

もしかしたらこれから老人のサバイバルゲームになくかもしれない、金だけでなく、病気になったらもうめんどうをみない、死んでくださいとまでなるかもしれない
介護できなくなっているからだ、その負担を子供でも社会でも負いきれないとなる
だから子が親を捨ててもそれで親不孝とか責められない社会にもなる
それだけ老人が増えすぎてもうめんどうみきれないということになる
そうはいっても自分自身が病気になったら手厚い介護をしてくれとか病気を治してくれとかなる、でも一方で捨てられても恨まず死んでゆくという覚悟も必要になっているのかもしれない、ただサバイバルゲームであり健康であれば百才でも生きてくださいとなる
でも病気になって介護状態になったらめんどうみきれないから死んでくださいとまでなるかもれない、金のない人も死んでくださいとなるかもしれない
ただ最低限自分のことはできて健康であれば生きることが許されるとなる時代になるかもしれない、それは非情のようでもやはり社会がそうなってしまったらどうにもならないのである  

社会全体が老人の病気とか介護に費やされたらどうなるのか?

そういう社会が維持できるのか?

人間が生きることが病人の世話と介護になっていいのか?

こういうことにもなる    

それは世界的な問題であり孝行を説く中国でも老人が増えすぎると子供にも捨てられるとなっている、これまでの大家族とか一緒に暮らすとかでなくなっている
そういう社会でもう老人のめんどうはみれないとなる 
愛情は大切である、でもその愛情にしても老人が病人がこれだけ増えるともうその愛情のために疲労して介護する方が倒れてしまう状態になってゆく
つまり老人に病人に生き血を吸われるとまでなる、そういう社会はやはり理に合わない
そうなると社会自体が老化して死滅ししてゆくともなるからだ
これはやはりバランスの問題だった、若い人が多く子供が多い社会が健全だったのであるそれは戦後焼野原になり子供が大量に生まれ団塊の世代が生まれた
その時は社会に希望があり健全な社会だったのである、今は逆になっている
団塊の世代がみな老いて病気になったり介護状態になる、その数が問題なのである
それが社会を歪めてしまうのである
日本自体が衰亡してゆくのもそのためだとなるからである