2017年08月16日

死者の不可解 (死者が残すものは何なのか?ヒストリーはストリーのこと)


死者の不可解

(死者が残すものは何なのか?ヒストリーはストリーのこと)

人間の最大の謎は生きていることから死者になることである。その変化があまりに大きいから愕然とする,死者となると残るの骨だけでからである。その骨すらなくなっているのだ,一人の身内の骨は土になってなくなっていたのである。
それで娘にその骨をもっていって供養してくれということができなくなった
骨もなくなるのである。
最後に残ったものとして骨にこだわるけどその骨すらなくなっているのだ。
すると人間が残すものは何なのか?

最後に墓だとなるがその墓すら跡継ぎがなければやがて捨てられ今ではそうして捨てられた墓が山と積まれているのである。
ある島ではその墓の墓場になっているのである。
墓は簡単に捨てられないからそうなっている
だから墓を残すことはやっかいなものになる

そもそもそうして焼かれた骨がそんなに大事にされるものなのか?
第一そこに生前の人間が宿っているものなのか?
いづれは土に還り土となってしまうのである
死者がどこにいるのか?何か遺影を見ていると死者がいる感じになる
位牌にいるのかとなるより遺影に死者でも生前のままにいるという感じになる

人間が死ぬと急速に忘れられる,あれほど存在を主張したものが消える
そしてもう何も語らないのである。
要するに生と死の落差が大きすぎるから人間は死の前に茫然としているのである。

墓参りしたとしても骨をうめた墓に死者がいるのか?それも疑問である。
一人の骨は土になりそこには何人か一緒に埋まっている
となるともう個人として識別はできない,一家の墓のなかに骨も一緒になったのである。ただ名前は記されているからかえって墓にその名前が残りそこに埋められたことを示している,最後の記録となっている

でもそういう人がいたということは戸籍を見ればわかるのである。
そしたら戸籍がその人が存在した最後の証拠なのかともなる
戸籍は死後も長い間残るからである。
その戸籍とは系譜のようなのもかもしれない,系譜だと何百年も残っている
そしてわずかにその系譜から名前が残りそういう人がいたことを知る
でも名前だけでありそれ以上のことは何もわからないのである。
天皇だって名前だけしか知らない天皇が古代にはつづいているのである。
その諡号からその人となりを探っていたりする
それは戒名とにている,戒名しか残らないものがいるからだ

歴史上の有名人,偉人の墓でもいくつもあちらこちらにある場合がある,ではそこにその人が実際に埋まっているのかといとそれすらわからなくなったいる
骨がない場合もありそこに埋まっている証拠がないのである。
ただ伝説化してこれがその人の墓だと後世の人が勝手に言って墓を作っている場合もある
だから何が死者なのか不可解なのである。
死者というとき骨のことではない,その肉体が消えても残るのは何か?
歴史でもストリーというとき物語のことである。
すると個々人の物語(individual story)のことかとなる
そういうものを人間は必ずもっている,それは家族でもそうなのである。
兄弟でも全く異なった運命を生きることも普通にある
人間が生きたというときその物語にあるとなる
でも墓に興味をもってもそこから個々人の物語は探れないのである。
個々人の物語でも人間は複雑だからその物語を知ることはできない

老人が昔を延々とかたるときそれはなんのためなのか?
自分がこう生きたと知ってもらいたいからである。
それぞれの一生が語ることによって伝えられる
だから認知症になると遂に同じことを千回も聞かされることになる
それは自分はこう生きたんだと伝えたいからである。
一生とはその伝えたいことにあったからである。
死んだ途端に骨となったときそこに読み取るのは何なのか?
化学物質としての分析なのかとなるがそうではない
ストリーにこそその人の一生があったとなるとその物語を知るべきだとなる

自分の家族は五人いたがみんな死んだ,残ったのは自分一人だけである。
それぞれが家族で全く違ったストリーをもっていて死んだのである。
それは同じ家族でもこれほど違った物語をもっているのかということである。
でもその物語を全部知るのは自分しかいないのである。
だから最後は墓守ではない,その物語を伝える語り部となるのである。
老人はみんな語り部になる,そこに老人の生きる意義がある

その語ることがうまい人が伝説とか昔話を作り後世に残ったのである。
小高の老人から聞いた話は面白かった,その人は話がうまいのである。
話がうまい人とそうでない人がいる,その人を別に知識人でもなんでもなかった
でも自分が経験したことを語ることがうまかったのである。
だからそのことをプログに書いてのである。
今なら小説家とかなる,最後に残るのは骨はなく墓でもない物語だともなる
それは代々伝えられるからである。
歴史とはヒストリーだというときストリーのことだからである。
それぞれの人生は一つの個々の物語として残されるとういことである。

いづれにしろ自分の家族の一生をふりかえると不思議になる
それぞれが全く違った運命を生きたからである。
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2017年08月15日

人間の評価は生前の評価である (死後に変わることはない,生前の評価で決められる)


人間の評価は生前の評価である

(死後に変わることはない,生前の評価で決められる)


親を看取ったが人間の評価は生きている内はわかりにくい,でも人間の評価は死後にもつづいている,死後にかえって冷静に判断できる
それは肉親でもそうである。親子でも他人でもそうである。
親子だと介護から看取りから葬式からその後の供養とつづく,そして死後何年かして冷静に死者をみる,人間は死んで終わりではない,ここで言うのは死後の世界がどうのこうのというのではない,生前その人がどうあったのか生きたのかという問題である。


そもそも死後のことを考えてもわからない,スピリチャルでも勝手に死後の世界を想像して言っているのである。聖書だとあくまでも約束のことであり様々なことをイメージしてはいない,その天国も実際はこの世の延長としての天国なのである。
全くこの世と違った世界を人間が想像できるのか?それはできない

例えば花園の中にあるのは天国である。その花園を別にこの世でもあるから花に囲まれた神の庭園をイメージできる,そこが天国なのである。
この世と全く違った世界を人間はイメージできないのである。
もちろん地獄も同じなのなのである。この世でまさに人間がみんな地獄を経験しているから地獄がどういうところかイメージできるのである。

人間が死後に裁かれと聖書で言われているがすでに生前に裁かれてはいないか?
人間の死にざまをみればわかる,たいがい断末魔の様相を帯びて死ぬのである。
成仏するとかしないとかこだわるけどカルト宗教団体などでもその死にざまは同じである

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
(マタイ7)

常に日本は悪者としてアメリカでも裁いているけどアメリカも原爆など落としたことで裁かれる,神によって裁かれる国なのである。
個々人でも国でも人間には裁く力がないのである。
人間は他者評価するとき必ず自分も評価される運命にある
お前はそんなこと良く言えるなとなる,自らの不正を正さないで他者をとがめているのである。


死ぬ前に何か後悔してとりもどせない恐怖におののいている姿を見た
ある人はママ母でいじめていたので死ぬ前に悪かったとして悔いていたのである。
その人は目が見えなくなりいじめた子供に看取られて死んだ
すでに生前に裁かれていたのである。

ただ人は人を裁くことは不可能である。裁く力は人間にはない,だから裁くなと神は言ったのである。それは国と国の争いでもそうなのである。
どちらが悪いかなど裁く力は国にない,アメリカにもない,裁く力は神にしかないのである。

果たして人間は死後に特別評価されることがあるのか?
すでに生前に評価されてはいないか?夭逝する天才は別にして一般的にはそうである。
自分が言っているのは特別に功績がある人のことではない
ノーベル賞などをもらうような人のことではない

普通の家族のなかでも功績がある人はない人がいる
普通にふしだらな親というのがいてそういう人は肉親でも子供がどう評価するかである。そうなると子供すら供養の心もなくなっているのである。
さんざん親にひどい目にあったからそうなってしまったのである。
だから肉親だからといって必ずしも親だからとして何でも是認されることはないし尊ぶこともないのである。
ふしだらな一生を送った人を肉親すら敬うことはないのである。

人間が死んだからといって死者を見るとき常に生前のことを見ているのである。
死後のことはわからないからである。ふしだらな一生を送った人が死んで特別な人に変わるわけがないのである。
人間を作るのは死後ではないということである。
生きているときに作られる,人間の評価は生きている時にすでに成されているのである。すでに老人になっていればもうすでにあらゆる面で評価されているのである。

自分にとっては家族は自分が正当に評価している,結局自分に尽くしてくれたということで評価して感謝している,最後は一人は確かに悲惨な死だったが生きているときは家に尽くした人だから功績があったのである。
自分が自由に生きられたのは家族があったからだとなる
過酷な社会に放り出されたら自分は何の才能も伸ばせず終わりだった
それだけ生き抜く力がないからである。
何か家族に守られて自由に生きていたのである。
その結果として代償として介護と自分の病気で十年間塗炭の苦しみを味わったのである。
だから必ず苦あれば楽がありであり楽なだけの人生などこの世にないのである。
どんな裕福な家に生れてもどこかで苦しむことになる
それが人間の定めなのである。
ともかく人間の死後というけど実際は生前の延長として死後がある
生前と死後は切り離せないのである。
死後全く別な世界に生きることなどありえないのである。

だから実際は死後のことより今生きていることそのことが大事なのである。
死後のことをとやかく言ってわからない,今を生きることこそが大事なのである。
その今の時間を人間は常に無駄にしているのである。
そして老人になりみんな後悔しているのである。
死後は生前の延長であり生前に刻印されたものが死後にも刻印されているのである。
人間の一生を見る場合必ずそうなるからである。
人間の評価は生前の評価であり死後になると冷静に判断できるというだけなのである。
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2017年08月14日

お盆もすたれる? (何でも時代の影響を受ける)


お盆もすたれる?

(何でも時代の影響を受ける)


そもそもお盆に先祖の霊が帰ってくるということそのこと自体が維持できないものになってきたのかもしれない,その感覚がのみこめなくなった
ただ慣習としてお盆があるから墓参りするとかとなる
それが若い人に顕著になったというときお盆自体がすたれてゆくのか?

墓の跡継ぎもなく,墓を維持できないとかある,墓とは何かというとき江戸時代あたりだと庶民に墓はない,この辺だとホトケッポというのがあり共同墓地であり村の人を埋めていた場所である。そこには墓はなかったのである。
そして今そうした墓をもたない共同墓地を志向しているのも昔に回帰しているとなる
ただそれは昔と同じではない,墓友達とかいっても村のコミニュティは根本的に違う。

家制度ができたのは明治以降である。・・・家の墓というのは江戸時代にはない,武家でも個人墓である。墓とは特定の個人を思い出すものとして作られた
だから一家の墓とかでも知らない人がいると供養するにもしにくいのでてある。
自分の場合は父親と姉と母と兄は知っているから供養しやすい
一番かかわったのは姉と母であり終生忘れることができない生々しいものしとてある
一家の墓でもやはりその人を知らないと供養しにくいのである。

現代の社会は広域化している,昨日駅に来た人は宮城県の主審で大阪の会社に勤めているという,ここに来たのは営業のためだという,墓参りに来る人もいる
前に来た人は小高の出身で鹿島にきて新地にも墓参りしていた,その人は仙台に住んでいる,駅にいると仙台に住んでいる人が本当に多い
自分の墓地でも実家の原町の墓地でも仙台から来る人が多いのである。

故郷に代々生活する人が少なくなっている,だから家でも墓でも跡継ぎがなくなる
ただ江戸時代辺りは家は代々つづくものとしてあった
あまり変化がない農業社会だからそうなっていた
でも別に一家の墓はないのである。
墓を作るだけの富がなかったともいえる

現代人が墓に執着しなくなったのはなぜかと問えばもともと墓に執着していない
その昔にもどったのかともなる,お盆に墓参りというけどこれも江戸時代なら墓がないのだから墓参りはしていないとなる,ホトケッポという村の共同墓地に墓参りしたともなるのか?それは村人が埋まっているのであり個々人や家族の墓ではないのである。


ただ墓というのは家がなくなっても墓地にある,ここに生きていた証のように墓だけが残っていることがある,近くで事業に失敗して一家離散になった人の家の墓も残っていた
それでその人のことを思い出した,その人のことを知っているひとはもう若い人にはいないのである。
人間は死ぬとすぐに忘れられる,それより生きていても退職したりしてなにもしないと会社からも忘れられ地域でも活動しないといるのかいないのかさえわからなくなる
退職して何もしないで20年くらいたつといることすら忘れられる
それが実際は怖いことだった,それは一つの死だったのである。

今の時代高齢化社会そういう生きながら死んでいる人を大量に産み出しているのである。
家制度の上にお盆が成り立つというときそれもすたれるのかもしれない,社会が変わったからである。それとともに風習とか慣習も維持できなくなる
あらゆるものが変わることをまねがれない,ただ死んだ人を偲ぶということは変わることがない,人間であるかぎりそうなる,ただ先祖とか一家とかなると偲ぶとしても抽象的になるからすたれる
妻をなくした人が毎日あたたかいご飯をあげているというのには感心する
自分はずぼらだからそんなことはしていないからだ

ただ自分は姉と母のことは終生忘れないのである。
争いがあったにしても何か自分にとってはいいものだったのである。
姉と母がいなかったらこんな自由な生活などできなかったからである。
自分にとってはいいものだったから死んでも思っているとなる
でも親子でも必ずしも親を思うとは限らないのである。
親にひどい目にあった人は供養すらする気がないのである。
だから親だからといって親を思うとは限らないのである。
つまり親にもいろいろあるからである。毒親も普通にいるからその子は親を思わないのである。。

人間の心は偽れない,供養するにしてもそうである。死んだからみんなかわいそうだともならないのである。墓参りをしても実際は何もえられないから死んでも墓参りもしたくないというときその人は死んだ人に対して何の思い入れもないからである。
別に墓がなくても死んだ人を思っている人は思っている
それが墓参りとなり供養となっているだけなのである。
そもそもその心がない人は供養する心ももてないのである。
一番大事なのは墓があるとないとかではない,心があれば墓が無くても供養するのである
だから別にお盆がなくなっても死者を偲ぶということはなくなることはない,個々人でもそうであり供養するからである。ただ集団で国の行事のように供養するということがなくなるだけである,故人を偲ぶということはなくならないのである。

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こうして捨てられる墓が全国的無数に増えている


タグ: お盆
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2017年07月31日

ボランティアにも動機がいる (介護でも犯罪でも動機が必要)


ボランティアにも動機がいる

(介護でも犯罪でも動機が必要)


仙台の松島の人が今回の九州の水害にあった所にボランティアに行っていた,そんな遠くまで行ったのかとなるがこの辺でも福岡市から来た人がいた
交通費だけでも大変だろうなと思っているがそれはどうなっているのかわからない
その人が言うには津浪で世話になったから恩返しだという
それが動機になっていることが災害の時など多くなった
もちろんこうした動機がなくてもボランティアしている人はいる
でもそうした明確な動機があるときボランティアも報酬無くてもできる

何か人間は動機がモチベーションが何するにも必要なのである。
働くにしてもそうである。ただ金をもらいたいというだけで働いているのはまさに奴隷なのである。何かしら動機があって働く意欲が生れる,その時人間は本当に働いているとなる
そういうことは介護では本当に動機がないとできない,肉親でもなんても介護は辛いから動機がないとできないものだろう。
自分がやれたのは動機があったからである。一番自分は親であれ家族に良くされたのである。だから恩返しだったから必死にした,介護のとき兄弟でもお前は一番かわいがられたからお前が介護しろとか言われる,それもそうだと思った
兄弟でも動機がないとできないからである。
遺産目当てが動機となるだけではなかなか介護もできない

動機というとき推理ドラマでは常に動機が重要なものとして追及している,人を殺すくらいだと恨みだとか何か強烈な動機があるはずだとなる,だからまず動機をさぐる
関係者を探して動機を探るのである。犯罪でも動機があって成り立つとなるから動機を探す

ボランティアは自由意志でするから報酬もない無償の労働だというとき動機がないとなかなかやれないだろう。水害の後片付けなど結構重労働になるからボランティアでも辛いとなるからだ,何のためにしているのかとなるからだ

ではなぜ自分が無人駅のボランティアをしているのか?
それはたいしたことではないし誰も別に自分が働いているとも認めていない
ではなぜそんなことをしているのだろうか?
暇だから生きがいを求めてというのもボランティアにある,それが60代以上が多いことでもわかる,生きがいを求めてするとういのも動機なのである。

自分の場合は鉄道旅行が長い,すると今になると鉄道会社には世話になったということを思うようになった,すると鉄道会社に対しての恩返しなのかと思うようになった
もう一つは駅は鉄道とだけ関係しているわけではない
その街とも関係している,そこに住む人々とも関係しているのである。
だから地元の人のためにするということが動機になる,地元に生きるならなにかしら世話になるから働くという動機になる
自分が駅でたいしたことでなくてもボランティアしていることは動機があった

要するになにかしら動機がないとボランティアもやれない,つづかない
ボランティアをしても報酬がないからそうなる,余計に報酬のある労働より動機が大事になる,趣味の畑をしている女性もボランティアである。
毎日嫌だ嫌だと言っているけど農業が好きだから自由意志でしているのである。
金銭的には損失になっているからそれはボランティアなのである。
でも農業が好きだからこそしている,それでとても生活の足しになるわけでもないからだ野菜でも何でも買っているからだ

いづれにしろ人間が60とかまで生きればなんらか世の中に世話になったことを自覚する
一番自覚するのは親には世話になったということを自覚する
それは人によりけりだか一般的にはそうなる,恩を感じるのである。
その恩は実は死んでからも感じる,意外と死んでからそういうことをその人のありがたみを感じる,その人がいるときはそういうことを感じないのである。
だから妻でも死んだときそういうことを感じる夫が多いのである。
それでいつまでも何回忌だとか毎日仏壇に祈っている男性がいる
それはやはり妻をなくしたショックがあり妻のありがたみを知ったからである。
それは宗教でも信仰でもないがそうなるのは死んではじめて妻のありがたみを知ったからである。

自分の場合もそうだった,60年間食事でもなんでもしてくれる人がいて自分はなにもしなかったのである。これほど恵まれたことはなかった
それが一転して介護となり自分が今度は世話する番になった
そして毎日今でも台所にたち料理して自分のことは一切自分でしなければならなくなったそのことは悲しいことであり自分を世話してくれた親に感謝したのである。
死んでからもその感謝の念が強まっているのも不思議である。
人間は死んでもやはりすぐに忘れるわけではない,自分を愛してくれた世話してくれた人のことは忘れない,かえって強まってくることがあるのだ

痛切に思ったことは自分のことを思う人が一人もいなくなったことである。
自分を思うとしても他人は金しかないのである。
それは本当に悲しいことである。皿二三枚あらうことさえ他人はしない,そのためになぜこんなに金を払わねばならないのか
と今も思う,人は他人を思うときもう金しかないのである
ただ今になるとそれも自業自得だったとなる
そういう非情を十年間経験したことで親のことをさらに思うようになったのである。 

ただ親を供養する気がない人もいる,それはあまりにも親のために苦しんだためである
それは親子でも恨みしかなくなっていたのである。
だから別に親子で恩を感じるとかみんなならないのである。
親でもよほどのことをしないかぎり感謝するとか恩を感じることはないかもしれない
自分の場合は特殊な事情で親に恩を感じて死んでも供養しているのである。
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2017年07月17日

ちょっとした親切はしやすい (でもタイミングが大事)


ちょっとした親切はしやすい

(でもタイミングが大事)


自分が駅でしていることはちょっとした親切である。道案内したり無人駅だから乗車証明のとり方とか教えるのはそうである。
それから中学生が仙台の方から試験に来てちょうど昼間に腹が減っていた、その時近くのお菓子やで柏餅をくれた、そういう時は腹が減っているのだからタイミングが良かった
例えば砂漠のような所で水がないとき水がある場所があったら救われたとなる
乾いた土に雨がしみこむような感覚になる

今回は冷しタオルというのがアマゾンで売っていた、今暑い時期だから買ってみた
これが意外といい、ただ汗をふくだけではない、水にひたすと冷えたままになっている
だからそれでふくと汗をとるだけではない、ひんやりとして気持ちいいのである。
それを太っていて汗かきの女性にくれた、千円くらいだかやれた
その人は畑で仕事するのですごく汗をかくからだ
これは今の時期にいいものだった、相手も喜ぶものである。

こうしたちょっとした親切はしやすいのである。負担も少ないからだ
でも一方でなぜ人は病気になったり介護状態になったり借金とかしているとか重いものをもった人に近づきたくない、それはなぜなのか?。
自分も重い負担を強いられるからである。
例えは駅で盲人を電車にのせるのはちょっとした親切であり楽である
でも障害者の世話をするとなると特に重度となると負担が重いからしたくない
それで大量殺人までになった、その負担を負うことが重すぎるからそうなる

外にも金持ちでも貧乏人とつきあうことは負担を負うことになる
常に金がないという状態の人は相手に負担をかける、お前は金があるのだから金をよこせということを言わないまでもその人がいるだけで要求しているのである。
実際そういうことを経験しているからお手伝いさんとか家政婦とか家で働いてももらうことは負担になる
だから普通は金持ちは貧乏人とはつきあわない、アメリカとは極端であり富裕層と貧乏人は一緒に住まない、住む場所が分かれている、そしてその富裕層が住む所は門があり警護していて入れない、アメリカのような広い所だとそういう棲み分けができているという。つまり貧乏にとは極力接しないのである。そういう社会なのである。
日本では狭いし富裕層でも貧乏人でも混在して住んでいる
田舎だとまず徹底して平等を追及してくるから特別な富裕層は住めない
田舎だとそういう人は目立つからである。

良く親切にしなさい、愛をもちなさいというけどそれを実践すると簡単にはできない
ただちょっとした親切はしやすいのである。
それでもその機会はそんなにないのである。タイミングが大事なのである。
冷しタオルは今の時期に最適の贈り物だった、贈り物でもその人にあったものその時期にあったものだと喜ばれる
物でもこのタオルを発明した会社がありそしてその物を活かす人がいて物も活きる
物に愛が加わってその冷しタオルが活きたとなる
これはスーバーなどではただ買うだけでありそういうことを感じない
また通販という便利なインターネットが生まれてできこことでもある
その人はパソコンなどしていない年寄りだからである。

ともかくちょっとした親切はしやすい、負担も少ないからしやすい、ただ問題はそうした機会があまりない、タイミング良くできないことである。
一方で病人の世話とか介護とかなるとこれはちょっとした親切ではとてもできない
負担が大きいから誰でも敬遠するのである。そういう家にはみんな近づかなくなる
それは重い負担を背負っていからその負担を強いられることを嫌があるからである。
借金している人もにも近づきたくない、その借金はやはり大きな重荷を背負っているからそういう人とつきあうことはその借金を背負わされるからである。
ただ借金している人はわからないから知らないで近づく人は相当いる
病人とか老人の介護とかなると見てわかるから近づかないが借金の場合は隠しているからわからない、それが実際は怖いことなのである。
なぜなら借金の標的にいつされるかもしれない、その機会をねらってもいるからだ
そして何かの機会に借金を要求してくる、それは断りづらいときだといいわけである。
そういう経験をしたから借金ある人は危険なのである。

つくづく人間はこうしてちょっと親切くらいですむならいい、後腐れもないし負担もないそれが福祉でも病人とか老人介護とか障害者の世話とかその他でも負担が重すぎるから誰もしたくないのである。
医者とか看護師は給料が高いし地位も高いからいい、介護士とかなると給料も安いし負担ばかり多いから人が集まらないとういのもわかる
福祉でも認知症の話し相手くらいならしていいが下の世話となるとしたくない
そういう仕事は誰もしたくない、家族だったらしかたなくしているし動機もある
でも他人だったらそうした動機もないからだ
いくら愛だとか言ってもそれだけではもうすまされない、負担が大きいからもう耐えられないとなる、そして相手を殺したりまでするようになる
その人が愛がないとか責めることもできないことである。
それだけ負担が大きすぎるからそうなっているのだ。

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タグ:親切心
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2017年07月13日

姉の死はいいものではなかった(死ぬ前の形相の恐怖) 10年間書いたプログをふりかえる


姉の死はいいものではなかった(死ぬ前の形相の恐怖)

10年間書いたプログをふりかえる


@ 集まった自分の身内に対しても、険しく猛々しい目つきで睨む。
A 手で空をつかんで、もがき苦しむ。
B 筋道の通った思考を失う。
C 恐怖のあまり、涙を流して泣き叫ぶ。
D 大小便が垂れ流しとなる。
E 苦しみのあまり、目を固く閉じてしまう。
F 苦しみのあまり、手で顔面を覆って悶絶する。
G 異常な食欲が出て、狂ったように飲み食らう。
H 身体や口から腐敗臭が漂い出る。
I 恐怖のあまり、手足を震わせて怖れおののく。
J 鼻筋が曲がって、凄まじい形相となる。
K 白目を剥きだしてしまう。
L 目が血走って真っ赤に変色する。
M 顔面を伏せて、苦しみ、うめく。
N 苦しみのあまり、身体を屈めて悶絶する。
(守護国界主陀羅尼経)

そもそも認知症になるとB筋道の通った思考を失う、ただ認知症でも時々正気になる、姉は意識不明になったときこのような状態になったとしても自分では意識がなくなりわからなくなっていた
とても正直なところいい死に方ではなかった
でも意識不明になる前は普通のように見えたし正気にももどった、普通に陽気な性格だから笑っていたという、それも不思議なことだった
ただ意識不明になった一月はこんな状態だった
でも本人は意識がないのだから苦しいというのがわからなかったかもしれない

この項目で10くらいあてはまっている、とても成仏の相ではない

ある人は死ぬとき恐ろしい形相で

スシもってこい

こういったという、これも餓鬼の状態になった、何か死ぬとき以上に食欲とか性欲でもでてくることがある、最後の欲がその体の奥から噴出するのである。
つまり人間の欲というのはそれだけ強いものである。食と性の欲は死ぬまでもあるとなるこれは個人差が大きいが一般的にみんなそうなっているのだ
欲を断つことは一番むずかしいのである。

ともかく姉は悶絶して目が赤くなったりこれと同じ状態だった、でも意識不明なのだから苦しいとしても自分で意識していたかどうかわからないのである。
そして一カ月で死んだからである。
姉は業が深かったのか?普通の人間であり家には貢献した人だった
自分には一番良くしてくれたのである。

ただ確率的に一般的にこういう状態で死ぬ人が多いはずである。死とはこの世との欲とか一切のものを断ち切ることだから容易なことではないのだ
肉体が消失すること骨と灰となること自体がそうである。
だから生から死への変化は最も人間にとって恐怖なのである。
だからこういう変化があっても不思議ではないし一般的に死者を見ていればこうなっているだろう。

母の場合は2時間くらい留守にしているとき死んでいた、どういうふうに死んだかもわからないが第一2時間前は普通だったのだからそんなに苦しむこともなかったろう
もともとおとなしい性格であり穏やかに死んだとなる
姉は気性はものすごく激しいからその死に方も普通ではなかったともなる
母はいつも眠るように死にたいということを言っていた
それだけはかなえられたとなる、百歳まで生きた人は老衰で死ぬのであり枯れるように死んでゆく、その他の人はやはりこうした状態で死ぬのが多いだろう。
医者や看護師は死を見ているから確率的にもこういう状態で死ぬのが多いだろう
これはカルト宗教団体に入ってもいても同じである。
むしろこういう死に方の方が多い、祈っても無駄である。
そもそも根本的に誤った信仰であり根本的に欲は断ち切れないからである。
要するに宗教は人に恐怖を与えるものとしてある
その恐怖が故にカルト宗教団体から離脱できないのである。
宗教に呪縛されてしまうのである。それは幹部でも同じだからである。

母は別に信仰もなにもないし性格がおとなしいからそれが極端になると異常にもなる、
その人の性格は老いると極端化する、それが死のときも継続している
母の死に顔は安らかであった、でも姉の死に顔死んだときは安らかである
死んだときはやはり人間から肉の欲望が消えるから安らかになるのではないか?
死ぬ前の一カ月とかが苦しいのである、肉体が生きていれば苦しむからである。

いづれにしろ前に書いたものをまた再検討して考察を深めるのがいい
ただプログは記録しにくい、だからプログはもう一度再検討してまとめる必要がある。
ともかくインターネットは記録が消えることが最大の恐怖であり
今回のように書き込みが一つのバソコンでできなくなるとかそういう外部からの操作もされるから怖い、安心がないのである。

臨終の相にこだわる疑問

統計では70パーセントが安らかだったという、それは死後のことであ死ぬ前には苦しんでいるのではないか?
死ねば肉の欲が消えるから安らかなのである。死人は何か欲望することがないからだ
死人はだから害がないのである。
死ぬまでが問題でありその時は一般的に誰しもこのような状態になるのが多いのではないか?
肉体が消失して骨と灰になるとことはあまりにも変化が大きい
だからこそこれだけ苦しみやっと死んで安らかになる

posted by 老鶯 at 22:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 老人福祉医療問題

2017年07月09日

認知症の最大の謎 (プライドが消えない)


認知症の最大の謎

(プライドが消えない)


認知症に接して最も不思議だったのは死ぬまでプライドが消えないことだった

なぜ認知症の人は怒りとなり暴力となるのか?

それはプライドが消えない、人間としてのプライドが最後まで残っている
だから「馬鹿にされた」ということに敏感に反応する

でも日常生活にも支障をきたすし現実に直前のことを忘れるなどまた痴呆の傾向もでてくる、とすると馬鹿にされてもしかたない状態になる
銀行に行って自分の金をおろせない、それで笑われた
それが笑い話ですまされているのならいい、当人はそれではすまない

馬鹿にされた

そのことが感情的なものとして残りそれがやがて怒りとなり暴力となる

自分が認知症になるまえは社会的にも家族的にも指導的な役にあった人はとくに不満が大きくなる、自分の姉は優秀であり一家の長の役割を果たしてきた、社会的にも活躍していた、それが一転して認知症になるとと馬鹿扱いになる、そうでなくても実際に普通の人のように生活できないのだからそう見られてもしょうがいなとなる

その不満が大きい、自分は社会的にも家族でも役割をもち働いてきたという自負がある。それが根こそぎ認知症になり無視され否定されることに耐えられなくなる
その不満が怒りとなり暴力となる

だから認知症の人を扱う時、このプライドが一番問題になる
プライドをそこねるような扱いをすると危険になる

あなたは社会にも家族に尽くしてきました、立派な人です

そういうふうに接しないと相手は満足しない、不満が爆発する
普通の知的障害者はこんなプライドをもたないだろう。
ただ盲人と聴覚障害者とか精神の病気でない人はそれなりにプライドをもっている
人間は誰でもプライドをもっているのである。
だからこれが認知症特有の問題ではない

でも認知症になるとそうしたプライドが根こそぎ否定される
最初親戚の所に行ってまだらぼけになったと言われたことを異常に気にして怒っていた
実際まだらぼけになっていたのである。でもそこでプライドが傷つけられたから怒ったのである。そうなると感情的にしこりができてしまう
それで演技でも元社長だった人は部下としてふるまうと喜ぶとなる

認知症を扱うのに一番の問題がここにあった、だからどう扱うは家族によっても違ってくる、自分の場合は姉は一家の長であり家を支えてきたのだから認知症になってももちあげていたのである。だからあとからは穏やかになったのである。
でもみんなそうできるかとなると家族の事情により違ってくるのである

認知症はそもそせ謎である。精神的狂気になって人間として通じなくなったのかと言えばそうでもない、確かに直前のことは忘れる、ただ忘れるという病気ならいいが痴呆になったのかということもある
ただ二人介護して認知症は時々正気にもどることを体験した
とすると人間として全くわからなくなったとも言えないのである。
その辺は生まれつきの知的障害者とは違うし扱いも違ったものとなる

認知症の最大の謎は人間としてのプライドが消えない、だからそのプライドを尊重しないといい介護はできない、でもそれが他人がするとなるとむずかしくなる
この人は痴呆となって馬鹿になっている人とだけ見られるといい介護はできないのであるでもそこまで介護するとなると介護する方も苦しくなり犠牲となる
現実に自分も鬱状態になっていたのである。

ただ認知症の症状は人によって違っている、激情的な人は激情的になるから介護しにくくなる、暴力にもなるからだ
ともかく認知症で一番気をつけねばならないのはフライドをそこねるようなことをしないことなのである。でもそれは非常にむずかしいのである。

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2017年07月02日

危険な老人の熱中症


危険な老人の熱中症



外出時は、体への負荷が高まることに加え、汗で水分が失われたり、日差しや熱の影響を受けやすくなったりします。服装を工夫する他、水分や休憩を十分とって体を守りましょう。


年齢別では 65歳以上の高齢者がもっとも多く
2013年では 27,828人で全体の47%を
占めています。

 熱射病など入院して治療が必要な重症 

 けいれん 意識障害 高体温 手足の運動障害など

 熱中症を疑った時には、死に直面した緊急事態であることをまず認識しなければなりません。重症の場合は救急隊を呼ぶことはもとより、現場ですぐに体を冷やし始めることが必要です。



今回は救急車を呼ぶような状態だった、痙攣があり吐き気があり全体の体の痛みがあった対処方法として体を冷やすことが大事とあったからクーラーの部屋に寝ていれば良かったのかもしれない、緊急の場合どうしていいかわからないで失敗する
その時インターネットが役に立つ、前もそうして病気の対処方法を見て助かったことがある
人間は緊急事態に弱いのである。緊急のときかえって間違った対処方法をすることも多いのである。
前にも何度か熱中症になったがこれほどひどくはなかった
体が高温になっていたことは確かである。

それにしても曇った日でも危険である。特に10時から2時は危険だある、その時曇っていたので外出していた、自分はしょっちゅう自転車で外出している
動くないでいられないからだ。
ただ今回の熱中症で自分も老人になったと思った
老化現象としての熱中症だったからだ

ただ自分は筋肉は弱っていない、それだけ運動しつづけているからだ。
なんかこれで老人の仲間入りしたという感覚になる
暑いときはまず外出ができないからだ
健康年齢が70才というときそれが当たっている
個人差はあってもそれが平均的に割り出されているからだ

ただ夏は老人は家にいても熱中症になる、だから相当に気をつけないといけない
家のなかでも暑い所がありそこが危険になる、クーラーとかなくて老人が死ぬというのはそのためである。

こうなると秋になるのがいい、秋だったら外出しても熱中症にはならないからだ
老人にとって夏は危険であり外出もできない状態になる
老人は今日本中どこでも暑くなっている、自分の住んでいる所は涼しい方である
だからそれほど気にしていなかったのである。
こう考えると老後は気候がいいところが向いている
ここは気候的に向いていたのである。
北海道がいいとしても冬があるから厳しすぎるからだ

熱中症の怖いのは死ぬこともあり後遺症でパーキンソン病になっている人もいるという
自分は胃が直らずに吐き気がする、だから結構危険なのが熱中症だったのである。



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2017年06月30日

日射病で痙攣 (すでに5、6回日射病になっている)


日射病で痙攣


(すでに5、6回日射病になっている)

今回の日射病はひどかった、痙攣したからである。体全体も痛くなった
ただ曇っているからたいしたことがないと出歩いていた
自分は一日自転車で相当に走る、近くでも何度も走っている
だから筋肉は弱っていないのである。

ただ体が弱くなったことはわかった、なぜ日射病になったのか?
汗が出なくなくなっているだ、それで汗をかいたら直ったのである。
老人は汗が出なくなる、代謝機能が弱ってくる
汗が出れば日射病になりにくいだろう
汗が出ない代謝機能が弱ることで老人は日射病になりやすいのである。

こういうふうになったのは二年前からくらいである。
それまではこんなふうにならなかったからである。
曇っていても紫外線が出ているし結構強いのである。
それで昼間は外を自転車で走っていて日射病になった

でも自分の場合は動きたいとなる、それが徒になった
なんらかの老化現象かもしれない、ただ若い人もなるから体質的なものかもしれない
自分はもともと暑さに弱かったからである。

ともかく以前としていろな難がつづく、老化するというとき体の難が起きてくるのが辛い自分は筋肉はそれほど弱っていない、絶えず自転車で動いていたからである。
ただ日ざしを受けると弱くなっている
そうなると日中は出れなくなる、すると運動不足にもなる

特に、乳幼児と高齢者は熱中症になりやすいとされています。汗腺が少なく汗が出にくいということに加え、体温調節機能が低下しているため体温が上昇しやすいからです。

こういうことはある、老人は熱中症になりやすいのである。
だから暑いときは危険になる、注意が必要である。

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2017年06月15日

認知症のリスクも増加!? お酒を飲み続けると脳が萎縮って本当? 「アルコールが脳に悪いことはまちがいない」


認知症のリスクも増加!? お酒を飲み続けると脳が萎縮って本当?

「アルコールが脳に悪いことはまちがいない」


20〜30代は浴びるほど飲んでいたそうです。過去に飲んでいた経歴が40〜50代になって出てしまうこともあります。

毎日の飲酒は認知症の原因に?脳の萎縮を防ぐアルコール適量とは


 認知症の原因は本当のところはわからない、最近気になったのが認知症はすでに20年前からはじまっているという記事である。
80才でなるとしたら60才から認知症になる原因が作られていたとなる
さらに40代からも20代からも認知症になる原因が作られているという。
そんなに前から認知症になる原因が作られているのか?
それはどういうことなのか?

これを認知症ではなく一般的なこととして60代の老後のことを今は盛んに話題にされる高齢化社会だからである。
ところが60代から人間が変えられるのかというとむずかしい、人生はそれぞれ継続であり積み重ねたものである。特に老人は何でも経験したものとして結果が現れるのである。
金の問題も老後には大きいがこうして積み重ねてきた人生が60すぎて新たに変えられることはできない、継続であり結果でありもう変えられないというのが老人なのである。

それは人間の体にも影響している、酒を飲みつづけると何らか体にも特に酒は脳に影響している、なぜなら素人でも脳を麻痺させることはわかるからである。
脳が麻痺するということは一時的に正常な状態を失うことである。
それは明らかに脳が正常に働かないのだから脳が損傷しているのである。
酒を飲み続けることは脳を損傷させるということは理屈的にわかりやすいのである。
もちろん肝臓とかも酒を飲み続けると弱ってくる
習慣が人間を作るというときそうした悪い習慣も人間を作っているのである。
それは心身共にそうである、だから病気というのは生活習慣病とか日頃の積み重ねの結果として現れる、ただ遺伝病がありすべてではない、でも明らかに心身ともに60以降にその人の人生の結果が心身ともに現れやすいのである。

ただ別に酒を飲んでいなくても認知症になる人はなるから酒がすべての原因ではない
でもそもそもなぜ20年前とか40代とかに認知症になる原因があるというのだろうか?
生活習慣病からすると実際に公務員とか先生とか裁判官とかは認知症になる率が大きいのである。とするとここにも因果関係があるのかとなる
こういう仕事は何か創造性がないからだという、決まりきったことをしているからだという、それが脳の働きに影響しているから認知症になるとなる
生活習慣病として認知症になるということを統計的に見たのである。

例えばデスクワークしている人は猫背になりやすいというときそういう姿勢で長年仕事してきたからだという、それも生活習慣病なのかとなる
そもそも日本人の姿勢は体型は良くない、短足であるので何かそこが日本人の特徴であるそれは長年正座するとか無理な姿勢で暮らしてきたからそれが日本人の足を短くしてきたとか米を穀物を食べるために腸が長くなりそれが体全体に影響して短足になったという説もある、それはそういう生活習慣が民族的習慣でありそれが受け継がれて短足になったともなる、風土とかにも適応して人間も作られるというのはある

自分の姉が認知症になった原因は明らかに20年前にその原因を作っていた。
退職してから家事もなにもしない、自分にあったこともしない、看護婦をしていても退職して以来そういう関係も何もしていない、いつも食事も用意する人がいたから何もする必要がなかったのである。料理も何もしないのである。
なまけものになっていたのである。知的な活動もしない人だから頭も鈍化したのかもしれない。だから生活習慣病として認知症になるというのはある。
ただ退職する前は公務員であり結構頭を使っていたのである。
たから公務員だから認知症になるとも限らない,ただなりやすい傾向はある

いづれにしろ人間は後天的に作られるものである。先天的なものも大きいが人間の特徴は長く生きるから後天的な影響とか環境因子が大きく作用するのである。
才能がないにしても何か60以降になり華開くということがある。
自分はそうだった、第一本を読んでも理解できないことが多かった。
それが即座に理解できる、本を全部読まなくても拾い読みして深く理解できるのである。それだけ理解力がついたとからだともなる

いづれにしろ酒を飲むことは明らかに脳にとってはダメージである。それが積み重なれば余計にそうなる、脳の働きが悪くなり鈍化してゆくことはさけられない
酒は少量でも影響が大きいかもしれない、自分は今はビールでもコップ一杯でも酔うからである。酒を飲まなければそうなるのである。

人間は生まれつきの差も大きい、でも人間の特徴は心身ともに後天的に作られる度合いが大きいということである。経験でも恐るべき危機を脱出したとか何か大きな経験した人はその後の人生にも影響する、何かのきっかけで人間は大きくなる
それはその人の先天的なものではない、後天的なものとして心身を作っているからだ。
だから才能ある人でも体の丈夫な人でも酒を飲んだり不摂生したり努力を怠ればそれが心身に影響して自分を活かせないのである。
天才は例外でありそれはまねできないから参考にはできないのである。

だから教育というのは本当は相当に影響するし人間を作るともなる、なぜ侍が優れていたか?それは知識だけではない文武両道であり江戸時代の社会なのかでエリートとして作られていたからである。それで明治維新を成したのが侍がいたからだとされる
今は教育はない、教育はその社会全体で成すものであり学校だけでは成し得ないからである。結局自分を教育するのは自分しかなくなっているのが現代である。
他人の人生はいくらその人が優れていても他人の人生なのである。
自分の人生は自分で作り上げる他ないのである。

ただ大学でも個性があるのか?慶応ボーイと早稲田のバンカラとかそこに学べば校風に染まるということも環境因子なのである。朱に染まれば赤くなるということは常にある。
だから本でもくだらない本を読んでいたりテレビとかの漫談とかばかり見ていたりそういうことも難でもないようでも積もり重なって人間の心に影響してくるのである。
テレビは洗脳のメデアだから自分で考えることができなくなる
だから極力テレビを見ないとか自分に課さなければ酒と同じようになるのである。
それも麻薬なのである。酒なのである。人間の心を麻痺させているのである。
それが認知症にも通じるとまでなるから怖いのである。

でもなぜこれほど認知症が増えてくるのは解せないということもある
何が原因なのか?生活習慣病もあるが何か他の原因があるのか?
薬で治せるようになるのか?脳の損傷があり薬で直せるならやはり遺伝的なものもあるのか?
認知症は本当になんといっていいかわからない不可解な病気なのである。
自分が経験したことでは正常心をもつことがあり我にかえる時がありそれが一番不思議なことだったのである。
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2017年06月06日

延命治療の中止の判断のむずかしさ (人間は意識があるうちは生きている)


延命治療の中止の判断のむずかしさ


(人間は意識があるうちは生きている)


それでは機械の「認識」と人間の「認識」との違いは何かと問われると、それは正に「意識」を定義できるかどうかという問題に帰着するのではないでしょうか。

コンピュターではどうしても意識をもたせることができないという、そこが人間と機械との根本的相違である。意識があることが人間であり機械はその意識をもつことができないそもそもでもこの意識と何なのかというときまたむずかしい。

私の意識が大宇宙を感じ、地球を感じ、妻や子を感じ、親兄弟を感じればこそ、それらのものは存在できたのです。その意識が無くなれば、その瞬間すべてのものは消え去ってしまうはず・・・!?

意識のなぞは死んだら意識がなくなる、死者は意識をもっていない、灰となり原子となり消えたとなる、死者が生者を見守っているというとき生者がそうして死者に意識をもたせているともなる、死者が果たして意識をもって見守っているのかとなる

自分の肉親の死で感じたことは認知症の不思議は以前として意識をもっている
時々正気にもどる、正気の意識をとりもどすということである。
誰か息子でも娘でも意識できないこともあるが意識することもある
記憶障害になっても意識は存在して誰かを認識する、それが死ぬ前に正気になることがあるのが不思議なのである。

身内を二人を看取ったが一人は典型的なアルツハイマー型認知症だった、激情的な人だったから暴力的にもなった、そういう人でもその人が意識を失った訳ではない、ずっと自分が誰かを意識していた、ただいろいろなことがわからなくなっていた。
そして最後に意識不明になる前に何かこれまでの事情を察してうなづいたのである。
いろいろ暴力的になったりして身内でも不信感をもっていたが敵対的な感情がなくなり
しゃべらなかったが何かを察してうなづいた
そしてすぐに一カ月間意識不明となり死んだ
意識不明となったときもう何も通じない、完全に死んでいたと同じであった
ということは意識があるうちは人間は生きているのだ
意識がなくなったとき人間は何であれ死んでいるのである。
だから植物人間は意識がない、体が生きていても意識がないから死んでいる状態なのである。
もちろん植物人間から生き返ったというとき意識を取り戻したということである。
植物人間の状態ときは死んでいるのである

もう一人は百歳まで生きたけどひどい認知症ではなかった、だいたい90以上になると半分は認知症になる、認知症の症状も様々ななのである。
そして死ぬ一カ月前とかに孫が一人いてその人に金をやれと自分に大声で言ったのであるそれには驚いた、離れているから自分は関心がなかった。
でもそれが遺言であり孫には言われた金は払ったのである。
最後の言葉は重いものとなるからだ、払わないとしたら死者に恨まれるともなるからだ

ともかく人間の最後をどうするかとなると家族でも死ぬ人自身も苦しむ
死の側面は社会関係とか家族関係とかの中の死がある
それと同時に死そのものがある、人間が死ぬということは社会関係とも家族関係とも関係ない絶対的死がある、これはまねがれないのである。
もう一つは社会関係としての死がある。社会的に一個の人間が消滅するということである家族関係の中で親兄弟と息子娘と孫とかと永遠に別れることである。

不思議なのは社会関係とか家族関係とかの中での死というときすでにそういう人が生きながらいる、天涯孤独の人はすでに家族関係がないのだから家族関係の中の死はないのである。社会関係でもすでに社会から見捨てられた人はもう社会関係の中で見捨てられて死んでいる、そして孤独死となる、だから何々の関係、人間関係の中ですでに生きながら死んでいる人はいる、それとまた絶対的死は別なのである。
この世の人間関係が切れることが死なら生きながらそうなっている人は結構いるからだ

だから死とは何なのかとなる、それは明らかに意識の消滅なのである。何かを意識することがなくなる、それが死なのである。人間関係でも親兄弟があり娘息子がいて孫がいて友達がいて意識できなくなる、何か花を見ても意識できない、自然を見ても物を見ても意識できない状態が死なのである。だから逆に意識がある限りは生きているとなる
つまり社会関係や家族関係がない仙人のような人がいたとしてその人は以前として生きているのである。自然でも意識をもって見ているからである。ただそういう人も意識がなくなれば死んでいるのである。

この人もう生きていても苦しむだけだから死なせた方がいいという判断をするときむずかしいのは苦しんでいても意識があるうちは生きているからだ
だから意識がなくなったら死なせても何の問題もないのである。
自分の身内の一人はうなづいた時は言葉を発しなくても意識があり生きていたのである。でもそのあとは目は死んで意識不明になったのである。何にも意識もできない状態になったのである、この時は死んでいたから延命治療しても無駄であり死なせても良かったのである。

いづれにしろ人間の最後をどう迎えるかはむずかしい、ただ全体的死から救われるとしたら信仰しかないのである。人間は死なないという永遠の命のあることを信じる
それがキリスト教だったら根本にあるからだ、肉体は死んでも必ず蘇るという信仰である絶対的死はまねがれえない、ただ社会関係家族関係の中での死は死そのもの絶対的死とはまた別なのなのである。
結局死は社会関係家族関係からの離脱でもある、いくらこの世の関係に執着しても遂に死をもって断たれるのである。

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2017年06月04日

破獄」のドラマを見て・・犠牲となる看守と介護殺人 (子供の貧困は高齢化社会の問題でもある)


破獄」のドラマを見て・・犠牲となる看守と介護殺人

子供の貧困は高齢化社会の問題でもある


「破獄」というドラマだけどそれはまさに現実に起きていた「昭和の脱獄王」をドラマ化したものだった、たからリアリティがある
ドラマでもそれを見る目は一部でもいいからリアリティを経験から感じることである。
このドラマでリアリティを感じたのは看守だった若い人がこの脱獄王を見張るために
労力を費やしていた、それで家族ともゆっくりできないとかなにか大きな不満があり
その脱獄王に襲い殺そうともした
「お前のために犠牲になっているんだよ」とか叫んでいた
この看守は戦争になり死んだがこの脱獄王は戦後も生き延びたのである。

お前のために犠牲になっているんだよ」

このことが他でもある、それは介護でもそうである。介護殺人が起きるのは親でも子が犠牲になるからである。何かしたいことがあってもできなくなる
脱獄王を殺そうとした看守もそうだった、お前みたいもののために俺の人生は犠牲になっていると殺そうとしたことは介護殺人でも起きているからである。

こういうことは障害者をもった親にもある、その負担はあまりにも大きいからその家族はお前のために犠牲になっていると殺したくなる
そうしして実際に障害者を家族でなくても世話する若者が大量殺人にいたった
それはあまりにも凄惨なものである。

何かそこには俺の人生がこんなもののために犠牲になっていいのかということがある
こんな何も役立たないもののために労力が費やされることに耐えられなくなった
看守でもこんなろくでもない犯罪者を看守するだけの仕事が嫌気がさしていたのである。
こういうこもNHKで放送していたけど子供の貧困とかでもある
なぜ老人のために子供に金が回らない、すると老人は早く死ねと若者は叫んでいるからだ子供の貧困とか教育費に金がかかるとかは実は高齢化社会がもたらしている側面がある
団塊の世代でも今までは生産する側であったからよかった
それが今度は大量に非生産的なものとして社会の負担になるからだ

だから今度は老人のために俺たちの人生が犠牲にされる、老人は死ね

こうなっているのだ。もし60代くらいで老人が死んでいれば新陳代謝が行われこういうことはなかったかもしれない、その分年金をはらわなくてもいいからだ。
すると若者の負担もないわけである。
それは結局高齢化社会がもたらした負の面なのである。
中国ではすでに親は子に捨てられて自殺している人も多い、社会保障もないからだ。
その息子娘でもその子の教育に金がかかると親には手がまわらないのである。
それで親が捨てられてゆくから高齢化社会の問題は世界共通なのである。

正直自分も10年間介護して時間がたちまちすぎてしまった
ただ自分は親を恨んでいない、やりたいことをやらせてくれたし恩返しでできて良かったと思っている、でも若いときに介護させられていたらこうはならなかった
親戚の人が病気になったとき自分は輸血を頼まれたりしたが断った
その時登山に行って異常に疲れていたからである。その人は自分を恨んで死んでいった。でもその時激しい運動である登山をして良かったと思う
そのあとなかなか登山でもできなくなることがあったからだ
介護とか看病であれ何かしたいことができないということは若いときだったらその時にしかできないことがあるからその機会を逃してしまのである。
介護の問題は最低でも五年かかるし二人だと十年になる、もし一年くらいの看病とかだったら耐えられるかもしれない、その時間の長さの犠牲が大きいのである。

まず普通の社会だったら子供優先である。若い世代が優先になる、なぜなら未来を作るのは若い世代だからである。老人はもう死んでゆくだけだとなるからだ。
その老人に国の予算で費やしていたら国自体が衰退してゆくのである。
それは生物の理にかなっていないのである。
ただ高齢化社会は人類で今はじめて直面した問題なのである
だからその解決方法は今模索されているのである。
それが今子供の貧困とか若者の負担となっているが高齢化社会はこれからも続くし人類的課題なのである。
人類はどこの国でも高齢化する、そのことを否定はできない、それで高齢者は死ねということはその課題の解決ではない、なぜなら今の若い世代も同じ課題に直面するからである

だから高齢者は高齢者でどうして子供の貧困をなくすか、若い者の負担を減らすかを考えねばならないのである。そういうことが高齢者世代にもないことも問題なのである。
いづれにしろ医療でも進歩するしますます人間は高齢化するからこれをとめることはできないしこれも進歩だとなる、高齢者を抹殺しろと言ってもそれでは人類はその進歩をとめることになる、これからもずっとやはり長生きする時代だからどうしても高齢化社会が常態になるとしか思えないからである。
90くらいが女性で平均寿命になるが男性もやがてそうなる
だから人生90年として生きる心構えをもつことが必要なのなのである。
それは若いときからそうである。自分は60で死ぬと良く若い人が言うけど今の若い人は確実に90まで平均的に生きる、癌でも病気も治すことができくようになるというからそうなるのである。それは悪いことではない、ただ社会全体の歪みをもたらしていることでその課題を解決する必要がある。それがどういうものか模索される時代なのである。



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2017年05月29日

高齢化社会で買物難民が深刻になる (移り住んだ小高の老人が買物に困っていた)


高齢化社会で買物難民が深刻になる


移り住んだ小高の老人が買物に困っていた

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ここは空家ではなかった

買い物弱者、全国で高齢者700万人と増加。栄養状態の悪化も・・



街中の空き地が多いなかにあった家はてっきり空家だと思ったが空家ではなかった
手押し車に座ってばあちゃんがその前で二人話していたのである。
それで聞いてみてわかった、寺内の方に一時的移り住んでいるだけでありここにもどってくるという、だから庭の手入れに来ていた
それでも6年すぎたとか本当に空家の感じになっている
ただ庭は手入れしていたから荒れなかったのだ
こういうふうに空家でも時々帰ってみている家が近くにもある、だから荒れた感じではない、他にもまだそういう空家を知っているからだ。
でもこの家はいかにも外の壁がはげ落ちたり空家だと思った

そのばあちゃんが二人で話していた。一人は最近この辺に新しい家を建てて移り住んだ人だった、小高の人だった、家族で移り住んだ、だから家が狭いというとき曾孫とかいて五人いるからである。でも庭はもう一軒家が建つくらい広いのである。
その人が言うには買物に困っているという
近くに店もなく困る、シシドスーパーまで手押し車でも行ったという
そうなるとかなり遠いのである。それで買物に困っている
近くの食堂でオカズだけ売っているというのも意外だった
回りには買物する場がない、魚など売りに来るんだよとかも言っていたしキクチスーパーで頼めばもってきてくれるよとか言っていた

小高の人の話を聞くと七回転々として移ったという、そういう人は多い。
そうなると老人にとっては負担になっていて体を壊した人もいるかもしれない
関連死というものがかなりあったからだ
小高のばあちゃんは何か風呂に入るときなど気をつかって嫌だという、そのことをしきりに言っていた。家族と一緒にいるからいいとういものでもないらしい。
何か家族でも外孫だとかなんか気を使う事情があるみたいだ
家族と一緒に暮らしていても今は老人は暮らしにくい事情がある
そうなると家族のなかでも孤独だともなる

あそこにいたばあちゃんは土地の人だからくわしい、駅の掃除をしているんだよとも言っていた。商工会関係でしているんだよと言っていた。駅とかかわる人がいる
この前は花を植えていた人がいるから地区として駅にかかわっているのである。

あそこの空家と思った地域は五六軒家がなくなり空地化したけど実際は土地を求める人が多いから家がまた建つらしい、つまり鹿島区では外に流出した人はそれほどない
鹿島区内を移っているならそうなる、それより小高とか他から移り家を建てた人もいるし今は浪江などの人たちが復興住宅に移っている
だから人口は減っていないだろう、むしろ多少は増えている

小高のばあちゃんは携帯電話を持っているのだが使いにくいとか台所でも電化しているので使いにくいと言っていた、それもわかる、年寄りは機械の操作が苦手になるのだ。
でも携帯などないと今の生活はできなくなる、それで自分の母親も九二歳で携帯を覚えたのである。もう一人の地元の人は九二歳の人だった、郵便局に勤めていたとか言うことがまだはっきりしている、頭の回転が早い、ただ今は九〇歳などざらにいる
その二人は十分に話できる、近くのことでも自分も老人だから話して通じていた
お互いに古いことを知っているからである。

いづれにしろ買物難民が意外とこれから深刻になる、街内に住んでいても近くに店がないすると手押し車で行くとなると例えスーパーがあっても遠いのである。
だからその人は小高にいたとき九人乗りのタクシーとか予約して買物などしていた
何かそういうものが明らかに必要になってくる、配達してくれるのもいいがそれではたりないからである。
これは全国的な問題である。老人が増えてくるからそうなる
都会ですら東京のようなところですら近くに買物する店がないのである。
高齢化社会というのはだからかえって昔のように近くに店があるのが暮らし安かったのである
結局度々書いているように車社会になった結果として近くに店がなくなりそれが高齢化社会になり不便なものとなって老人にしわ寄せがきている

買い物弱者から栄養事情の悪化

生鮮食料品店までの距離が500m以上 かつ自動車を持たない人を買物困難者としている。
(METI/経済産業省参照)

さらに75歳になると、多くの場合、体力がより低下し始める。団塊世代は、10年後、75歳以上となり、自ら運転できない人口が一気に増え、先に述べた行動範囲が狭くなってしまうのだ。

コンビニがその代わりになるとしても五〇〇メートル以内にはない、その付近にはコンビニはない、パンなど売っているところがあるにしても生鮮食料品となるとつまり野菜とか果物とか魚類がない、魚屋がなくなっているからだ
ここには一軒魚屋があるが遠いのである。
要するにこれも車社会の歪みが生れてこうなってきたのである。

何か高齢化社会でかえって重要になってくるのが近隣なのである
近隣に買物ができて用をたせれば暮らし安い、昔はそうなっていた
そして隣近所で助け合うとういこともあった
一人暮らしとかでも隣近所がみていてくれると助かるとかある
介護でも隣近所が少しでも気づかってくれるとかだと助かる
特に認知症の人のいる家族はそうである。何かと迷惑になるが近くで見ていてもらうと助かるとなる

結局高齢化社会で今までも車社会の構造がかえって不便なものとする、老人には生きにくいものとなる、それは車社会というのはもともと高度成長で若者向きの社会だからであるバイクでも何でも吹っ飛ばし快感を得るのは若者なのである。
それが老人になると全く違った感覚になる、歩いて行ける範囲が便利だといいとなる
第一手押し車なのだから500メートル範囲内でも遠いとなるからだ
自分は十年間介護したから老人を世話したからそういうことを身にもって感じていた
車社会は車をもっているものでもそれが使えなくなったとき社会的弱者に転落するのである。
だから老人に住みやすいとなるとき車を使う社会ではなく歩くと近くで暮らしやすいことなのである。それはまた昔は不便だというけど昔にもどるということにもなる
それは江戸時代のことを書いてきたがここでも同じなのある。

タグ:買物難民
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2017年05月26日

南相馬市の10年後2030年の恐怖 すでに南相馬市では65歳以上が33パーセント


南相馬市の10年後2030年の恐怖


すでに南相馬市では65歳以上が33パーセント

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2030年には約1.8人で1人を扶養することになることを意味している。

首都圏以外の地方経済はますます地盤沈下が続き、行政サービスを維持できない限界集落が急速に増加。車を運転できなくなった高齢者世帯は、買い物難民・通院難民と化している。地方自治体は、経済特区による企業誘致やサービス効率化のためのコンパクトシティなどを推進しているが、税収不足もあって思うように進まない

日本の大企業は年間1200社ペースで減っている。このまま進むと、あと15年程度で大企業はなくなる。これは大企業の税率が高いためで、先日1200億円の資本金を1億円にしようとしたシャープも、税金を何とかやすくしたかったからの奇策だった。


南相馬市の65歳以上人口は29.4%(19072人/64941人)、実人口ベースで33.2% (16485人/49664人)となった。

介護負担が大きい郷里に戻ることを躊躇する若年世代が増えることが予想される。



インターネットで調べたら何か2030年の未来像がイメージできた。

日本の大企業は年間1200社ペースで減っている

10年後にそうなのとなるが現実に東芝やシャープとか電器関係でそうなっている
あんな大企業だったのが消滅するなど考えられなかった
大企業が安泰ではない終身雇用などもうなくなっている
大企業から革新的技術革命がないというのもそれに呼応している
でも今でも大企業信仰があり受験でもそのために勉強している
するとそうした旧来の勉強方法とか安全志向とういうかそういものを目指していても
無駄だとなる、darkness duoでは盛んにそのことを言っている。
ただそれが10年後というのは早いと感じるが現実に大企業が没落しているのを見ているからそうなのかとなる
そもそも年間1200社の大企業が減っている?こうなったら日本社会自体が崩壊してゆくような恐怖になる、統計だけからはわかりにくいものがある。
数字だけが先行して内容がよくつかめないからである。
ただ大企業が日本の屋台骨であったからその影響は計り知れないとなる

南相馬市とか原発事故周辺は何かそうした日本の衰退を先取りした極端化した地域であるただ奇妙なことは補償金で例えば飯館村とか葛尾村でも一般的に倍の所得増加に今はなっているのである。この辺は補償金バブルになっている
それがいつまでつづくのか、5年なのか10年なのか?その頃に補償金の貯えもなくなってくる。すると仕事がこの辺になるのかとなる
浪江町から復興住宅に南相馬市で2000人くらい移住しているかもしれない
南相馬市ではそういう人たちを人口に入れていないから実際は南相馬市の現在住んでいる人は外部の工事関係者も入ってきているので減っていないのである。
鹿島区の人口はそうした浪江とかの移住者がいて増えている、ただ戸籍がないから人口に数えられないだけなのである。

高齢化でもこの辺は極端である、33パーセントとはすでに2030年の日本と同じなのである
車を運転できなくなった高齢者世帯は、買い物難民・通院難民と化している。

今でも80くらいの人が運転している、これも運転するのが危険になる、90歳でも運転しているのが田舎の実情なのである。これもだから危険になる
車社会は高齢化社会に向いていないのである。そこで何らかの対策が必要になる
高齢化社会向きのインフラ整備が必要になる、鉄道などやバスの利用が必要になる
仮設住宅から小型のバスが出ていたり9人乗りのタクシーとかそうしたものの利用を促進する必要がでてくる

介護負担が大きい郷里に戻ることを躊躇する若年世代が増えることが予想される。

若い世代の流出というとき何か姑と一緒にいるのが嫁が嫌だから出る、それに文句は言えない、放射能のことをもちだせば何も老人は言えないからだ
すでに若い世代との生活は別になっているのだ
原町の復興団地に入った人は子供世代は東京に出た、多摩地区だとか言っていた
すでに孫は六年がすぎて中学高校をそこで学んでその土地に就職した
妻もそこで暮らしているという、その人たちは帰ってこないのである。
そこは川崎市であり川崎市は人口が増えている
ボランティアで来た人がいたけどこの辺とは全然違った都会である。

武蔵小杉が住みたい街に選ばれるのは訪れた人がみんな街の雰囲気の良さに圧倒されるんだよ。 
住民が若い!! 
日本中で見かける手押し車の婆が武蔵小杉では全部ベビーカーの若い女に変わる。

川崎市とか横浜市は人口が増えるが埼玉とか千葉は減少してゆくことはやはり距離の関係だろう。川崎市は東京に40分とかそれより近いからである。

この辺で乳母車を押している人より手押し車押している老婆が多い
65歳以上が3割ということは三人に一人が65歳以上なのである。
老人と会う確率がそれだけ多いのである。若い人がみかけるのは駅で高校生であり
通学の中学生と小学生が駅前を通る時くらいである。
あとは老人が多いのである。
その相違は大きい、団塊の世代が子供時代は子供であふれていたし若い人の熱気で満ちていたのである。

この辺は何か何でも極端な現象として現れている、ただ東京でも高齢化の増加率を見ると一番高いのである。東京ではだから伊豆に杉並区が老人ホームを作ったようにそこにうば捨て山のようにして入れる、都内だと土地が高いとかで作れないからである。
この東京の高齢化も大きな問題となる。その数が多いからとても東京だけで解決しなくなっているのだ。
でもそうした過疎地域に老人ホームができても活性化するかとなると問題がある。
そもそも老人の介護を若い人がするのが向いていないのである。
なんか死んでゆく人間を若い人が見ているのはそぐわないのである。
もっと別なものにそのエネルギーを費やすべきだと思うからである。

いづれにしろ2030年というとまだ自分も生きている可能性が確率的に大きい、その時のことをこの辺の実情から見ると恐怖になる
今は震災バブルのように補償金とか工事関係者とかで活気がある。でもそれも減ってきているし2030年になったらどうなるのか?
相当にさびれてしまうだろう。
そして今でもそうなように病院でも看護師不足とか介護士不足とかが深刻なのである。
すると救急車も来ないとか病院に入院できない、施設にも入れないとかなる
それは全国的に起きてくるがこの辺は極端でありさらに深刻になる
そして流出した若い世代はもう生活が別になり介護したくないとなり余計に帰ってこなくなる
つまりうば捨て山のようにこの辺がなるかもしれない、それだけ取り残された老人が多いからである。

ただ自分は都会には性格的に向いていない、田舎で精神が安定する、だから別に都会のような便利な生活を特にしたいとは思わない、今は通販などあるから文化的な面でも本でもそれから映画でもアマゾンで安く見れるのには驚いた。一回の視聴だけど安く見れる
こうしてインターネットは東京との文化格差を縮小したのである。
むしろ文化というとき何度も言っているけど地方からしか起こらない、自然から離れて文化はないからである。
ただ又同時に田舎でも都会的なものが必要なのである、活気をもたらすためにはやはりまた老人がこれだけ多いとなるとアンパランスになるのである。

年金30パーセント減額

消費税20パーセント

預金封鎖?

何か経済的にも老人には厳しくなる、物価が上がることは年金とか貯金の人は苦しくなるからだ。
何かいい未来は見えてこない、とういうより老人は未来より過去に生きているのでまた別である。
ただこうした10年後でも予測はどうなるかわからない
もっと深刻になるかもしれないしまた何か別なことが起きて違った未来になっているかもしれない
ただ人口的な面から見る未来はやはり現実をリアルに反映する
避難区域で二割にくらいの人口しかもどっていない、それも半分以上は老人である。
それは町や村が存続できるかどうかの瀬戸際になっているからだ。
だから10年後も生きるとしてその時生きているのはこの辺では相当に厳しいとイメージする
個々人でも肉体的に厳しくなる、それに追い打ちをかけて回りでも老人には厳しい環境になっているからだ
posted by 老鶯 at 17:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 老人福祉医療問題

2017年05月24日

老人の「救世主症候群」で詐欺にあう (老人の生きがい、社会的役割喪失がそうさせる)


老人の「救世主症候群」で詐欺にあう


老人の生きがい、社会的役割喪失がそうさせる


羽鳥慎一モーニングショーで老人か「救世主症候群」になっていることを放送した
老人が話し相手もなく社会的役割もなく孤立している、そこで相手のために何かをしてやりたいとなりだまされる、そこに会話があり何か頼られているとなり感謝されるから
だまされる、その老人の心理を功名につくのがだます方である。

これも現代老人の問題を象徴している、老人は暇で金ある人もいる、金もなく困窮している人もいるし様々である。一般的には暇であり健康であるが家族でも社会でも用なき人となりただ無駄飯食べているだけの人に見られる
老人はただ若者の負担なんだよなとなり早く死ねとかなる
それで若者を困っているのを見て同情するのが人のいい老人だという
その老人もある程度金に余裕があるからそうなる
金があってもどう使っていいかわからないとも言っている

確かに家族から社会から役割がなくなるとき自分が家族で経験したことはそういう人が認知症になりやすくなるから恐怖なのである。
人間はやはり役割がなくなる家族のなかでも社会のなかでも役割が仕事がなくなるということは無用の人となることである。
無用には無用の意味があるが人間は生きがいが必要なのである。
だから家族の中で90すぎても家事をしていた人はボケないで何でもしてもらっていた家事もしない、退職して社会的役割がなくなった女性はぼけたのである。

認知症の原因はわからないにしてもそうして家族でも役割がなく社会でも役割がなくなると頭も働かないし生きがいもなくなりボケやすくなるのだ
だからこれから認知症が増えてくるかもしれない、すでに何百万人が認知症になるという時代である。それも社会の負担が増大するのである。

そもそも高齢化社会というのはみんな経験していないのである。高齢なにることも未知の世界なのである。
小高の人は75歳くらいなのか話して面白い、何か気があう人である。
体も73歳くらいまでは60代の延長である。60代はまだ青年だとか言っていた
体の面からすると73くらいが限界らしい、その人はやはりふけていて足と首が痛くなっている、自分もだからそろそろ苦しくなってきている、ただ後2、3年は60代の延長であり
60代は今は老人ではないのである。本当の老人は後期高齢者の75歳だなと言っていた。
でも80までは生きることはイメージできる、90までもなんとかできるが100まではできない、確かに100までとなると本当に未知の領域になる、90まででもそうだろう
つまり人間はそうなってみないとわからないからそうなるのである。
高齢化社会はそれぞれがその年齢を生きることが未知の世界なのである。

「救世主症候群」とはボランティアをしたいということにも通じている、何か社会の役にたちたいということである。何か自分が存在している意味を見いだしたいということである。そのことが老人になると強くなってくる、一人暮らしとかなると余計にそうなる
話し相手もなくなるし淋しいとなるからだ
それは自分も家族をみんななくしてから感じている、それで今までは人と話しなかったが話するようになった、家に誰いずガランとした家にいることが淋しいのである。
ただ二世代所帯でいたという82歳の女性は息子がかまってくれないとかで淋しいから携帯のメールに答えて詐欺にあっていたのである。
だから家族と暮らしているからといってそれでたりるとはならないし満たされないものがあった

無人駅のボランティアをして自分で実際にこれは奇妙にいつも思っているのだ
こんなことをしている自分が何なのだという奇妙さである。
盲人が一人が通勤しているのかなにかわからない、その人を導いてやる
遠くから来た人の道案内をしてやる、意外とあそこでわからないのがタクシーの番号なのである。入り口に番号を書いたのが張ってあるのだが気づかないのである。
それで前の自転車屋とお菓子やに行って聞いていた
そしてそこからタクシーに乗った人がいる
自分はそのタクシーの番号を教えるときがある
それから近くの食道も駅からわからない、看板があるが見えないのである。
それを教えたら行きと帰りにありがとうと言われたのである。

意外と駅ではちょっとした案内をするとありがとうと言われる
こんなにちょとしたことでありがとうと言われることを自分は経験していない
人にありがとうと言われたことを経験していないのが自分である。
おそらく消費者は王様だというときいつもありがとうと言われる立場にあったからかもしれない、そんなちょっとしたことでありがとうと言われるのか意外だったのである。
ただ今はスマホでそういう情報を見ている、でもそれだけではたりないことがある
やはりどこでもすべて機械ではすまされないのないのである。
何かかにか用がある、例えば今は田植えでも機械でしている、ところが機械でできない縁(へり)は人間でしているのである。
また中国でコンバインで麦刈りをして出稼ぎ者の仕事がなくなったがコンバインが麦刈りできない平坦な土地でない所は人間がしていたのである。
つまり人間の仕事は必ず中にあり機械だげではできないのである。

ともかく老人はありがとうと言われたことがない、感謝されることに飢えているというのもわかる、そのことは用がないということである。
そこで救世主症候群が生れる、助けてやりたいという感情である。
その感情にだまされてもそれがだまささたとも思っていないというからそれだけ自分が他人に何かしてやったという感覚になってるしそうしたいということである。
だから老人のボランティアが多いけどその人たちは何か助けてほしいという要望よりボランティアをしたいという老人の数が膨大になっているのだ
それがないそれがた見つけられないということでそうなっている
ただあらゆる仕事は誰でもいいということはない、適性が必ずあるからだ
そこがボランティアのむずかしさである、いくらボランティアしたとしても仕事している人にとっては迷惑になる場合だってあるからだ
だから意外とボランティアでもそういう仕事が見つけにくいとなる

つくづく何で道路の側の何か金属片のようなものを探していたボランティアがいた
その人は道路公団を退職した人であり道路のことをいろいろ言うのもそのためだった
そんなことしているのもそのためだった、つまり退職した結果仕事がなくなり
道路公団の仕事をしていたから今はボランティアで道路の掃除のようなことをしていたとなる、人間は人生で今までしてきたことにこだわるからそうなる
道路公団で勤めていたからその延長として道路に関心があり掃除のようなことをしていたのである。

いづれにしろ高齢化社会というとき社会全体でもそうだが高齢になること、90までも生きるということが未知の世界なのである。それが優れた人が90まで生きるというのではない一般の人が普通にそうなってゆくのが高齢化社会なのである。
未知の領域だから社会的にも個々人にも問題が起きる
でも老人になったからといって何か急に変わるわけではない、人生は継続であるから老人の生も今までの継続としてあるから何か急にボランティアしろと言っても簡単には見つからないだろう。

つまり人生設計をすでに老人になる前に準備しておく、それは金銭的な面もあるが精神的な面でもそうである。でもそんな設計をすること自体がむずかしいとなる
結局人間は日々のことに追われているのが現実だからである。
でも90まで生きるとしたら60から人生の成果を出せばいいとなるとあせる必要がなくなる
長い目で長い人生設計ができるということは確かである。60くらいで死ぬとなると何もできずに成果を出せずに死ぬということがある、遊んでいてもあっというまに時間はすぎるからである。
つまり人間の経験が限られていてそれで知見も広がらないし深められないからだ

ただ老人というとき

「90歳になって老後が心配とか、わけの分かんないこと言っている人がこないだテレビに出てた。オイいつまで生きてるつもりだよと思いながら見てました」と麻生大臣が語った。

こういう時代だということである。



posted by 老鶯 at 10:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 老人福祉医療問題

2017年05月16日

政治家も医者も弁護士も金か (庶民のことは眼中にない)


政治家も医者も弁護士も金か


(庶民のことは眼中にない)


 「心臓手術のスーパードクター」としてマスコミにたびたび取り上げられている埼玉医科大の心臓外科医、新浪博士(本名新浪博)教授に手術を依頼したのに別の医師が執刀したとして、手術から半月後の2014年5月に死亡した埼玉県の女性=当時(64)=の遺族が16日、大学と新浪教授らに総額1億円の損害賠償を求め、さいたま地裁川越支部に提訴することが15日、分かった。 

医者のほとんどは拝金主義で人の命なんてなんとも思ってない。 
自分だけ名医にかかりたい奴が大勢いる以上、裏金渡す奴が大勢出てくる。 

身内に有力者が居ればね…。 
向こうから変わって来るよ。 
うちの母親の膵ガン手術も父が市の要職とバレた途端外科部長に執刀医変わった。 
市立病院長からそこの院長へのホットライン。

結局、弁護士が金儲けの為に 
遺族の悲しい悔しい気持ちに付け入ったって事かな…

3000万も包めば執刀してもらえただろうに 
医者も人間だから包む額でやる気が違ってくる

金が少ないとか払わなかったんだろ 
私大は裏金や謝礼なんか当たり前 
親の場合は大学病院ではないが300万包んだよ 

医者にしてみりゃ、小遣い程度だろうけど


事業に失敗した山梨の人は言っていることはまともである。政治家の運転手をしたことがあるという。その人たちは一万もする料理屋にゆく、寿司店でもそうである。
そういう人たちが庶民のことを考えるかという、回転寿司に何回行ったとかそうした庶民のこを考えるかとか言うのももっともである
つまり政治家が気を配っているのは自分たちの利益になることだけでありその取り巻きに利益を配分することで支援を受ける
政治家と金持ちのことの方が金になるので富裕層につき貧乏人の庶民のことなど考えないというのもわかる。

こういうことは一見たいしたことがないようでも一万の料理を普通に食べている感覚がすでに庶民と感覚的に離れているのである。
田舎では自分も外食しているけど千円くらいのしかない、まず一万の料理などどういうものなのかイメージもできない、そういう料亭は東京だと普通にあるから違っている
そういう金持ちは別に政治家でなくても東京にはいる。
ただ自分は食べることにそれほどこだわらないそれなりの料理を食べれればいいとなる
だから別にうらやましいとも思わない。

弁護士にしても庶民の味方ではないという、そもそも庶民の相談にのっても金にならないからだ、ただ何か遺産相続と会社経営とかでも何かもめごとがあると仲裁で大きな金になる、自分の親族で交通事故があり死んだがその時結局弁護士は何もしなかった。
でも漁夫の利で百万が弁護士に支払われた、実際に請求したのは保険会社の人だったのである。弁護士は何にもしないのである。何の役にもたたなかった
でも百万を手にしたのである。わからないから頼んだのだが結果的にそうなった
つまり弁護士は漁夫の利を得ただけである。

この世の中何かそうして富裕層に地位をるものに権力あるものが得するようにできているそして医者でも弁護しでも政治家でもそういう富裕層とか地位あり権力あるものを優先する。庶民はなるべく相手にしない、選挙の時はただ口だけいいことを言うだけなのであるこの世とはそういう場であり「悲しむものは幸いである」というとき庶民は損するのがこの世である。
医者にしても自分の場合は地位もなにもないし付け届けもしない、家族もいないからそこまで気がまわらなかった。金はあっても身寄りがないとかなると弱者なのである。
弱者に冷たいのがこの世である。

スーパードクターに頼むならそれ相応の金を払わないとしてもらえないというのもそうだろう。64才ではまだ若い、今は老人は80才以上である。
だから若い人の感覚では60以上が老人と思っているがそうでもない、60代はまだ現役である。60代が小老人、70代中老人、80代が大老人となる、この区分けが必要なのが現代である。60代は死んでもいいとかはならないのが時世である。
これからの若い人もこういう考えをもってもらわないと困るのである。
60代の婆が死んでもしょうがないとはならないのである。

いづれにしろ人間は本当にこうして命を大事にすることもわかる、でも本当に死ぬときはみんな平等である、あっけなくころりんと死ぬ、どんなに苦しんでも死んでみればあっけないとなる、それはどんな金持ちでも地位あるものでも同じなのだ。
老人になるとなにかあきらめがつくことがある。
だから飯館村の老人が全く放射能を気にしていない、水も飲んでいるし山菜も食べているそれだけあきらめがついている、どうせ長いことないなとなってあきらめがついているから住めるのである。

自分も入院二回して手術もしてひどいめにあった。研修医の実験台となって手術された。それでも医者は手術するにしても最初からうまくなるはずがないから誰かが実験台になるのである。
だからスーパードクターにしもらいたければ金払いとなるのもわかる
ただ人間の幸不幸などわからない、徳州会の徳田虎雄氏をみればわかる、病院をもっていてあれだけの治療を受けていても身動きもとれないしゃべることもできないからそれが幸福だとはならない、最高の治療を受けても直らないからだ。
結局人間の幸不幸はわからない、最後までわからないのである。

別に孤独死でも野垂れ死にでもそれがすべて不幸なのかもわからない、病院で延命治療されている方が残酷である。
結局人間はみんな死ぬということでは平等なのである。
そしてそのことであきらめることも肝要だとなる
いつまでもこの世に生きる命にこだわっているのも見苦しいともなる
金がなければないで別に‎スーパードクターにかからなくてもいいとかあきらめることも必要なのである。
ただ70以下では今はこういう心境にはならないかもしれない、今は60代はまだ老人ではないのである。女性でも若い人がいる、個人差も大きいからである。

ともかくこれからは老人の命は軽くなる、数も多いしこれ以上金をかけられないからだ。すると金をかけないで死んでくださいとなる。そういう時代である。
だからあまり命に執着するのは良くない、いづれみんな死ぬ
あっけなく死ぬ、だから老人の命は軽くなる、もう治療もしないから死んで下さいという時代が来ているのである。数が多いから老人の価値が低下しているからだ
昔だったら90とか100才まで生きれば貴重な存在になるが今はありふれているとなるとただ重荷だとなってしまう。

そして自分も10年介護をしたがこの介護の労力が並大抵のものではない、正常心も奪うのである。それで介護殺人になるのも増えているのだ。
つまり若者の将来さえ犠牲にしていることがある。それは生命の法則に反しているから
もう老人は健康でとないなら淘汰されてもしかたがないともなる時代である。
お前はそれでいいのかとなるとわからないが自分は介護も終わり健康も回復したから言えるのかもしれない、人間はやはり最後まで生きたいというのが本音だからである。
ただそうはいっても本当に死んでみると人間の命はあっけないのである。
それはどんな人でも金持ちも地位ある人も貧乏人も同じなのである。
死んでみるとあっけないなころりんと死んで終わりだなとつくづく思うからである。
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2017年05月15日

鹿島区のの独居老人死亡 ( 増える独居老人)

鹿島区のの独居老人死亡

( 増える独居老人)


コンビニにきていた這って買い物していた老人が死んだ
這っていたがコンビニの人は助けないし何もしない
それで自分が車まで助けて乗せた
車に乗れるから買い物に来れた
そして家は荒れて住めなくなって車で寝起きしていたという
その家は蔦が這って伸び放題だった

もう買い物もできない、するとどうなるのか、誰か助けなければ生きていけない
姉か妹かが東京にいたらしいが遠くて援助できない
そしてその後どうなったのか?

それはわからないが車の中で死んだのか?どうして死んだのか?
これが独居老人の恐怖である。
誰も助けない、隣近所も助けない、福祉関係が来てめんどうみたのか?
それも今はこの辺は特に人手不足だから施設に収容できたのかどうかわからない
遠くの親戚はあてにならない、そして最期は孤独死になったのか?

孤独死でも近くに親戚とか子供と兄弟がいるといい、東京辺りではどうにもならない。
ともかく独居老人は増大している時世である。
特に原発事故周辺で避難区域になったところでは若い人たちが流出して復興団地に取り残されたのは老人が多い、一人暮らしが多い
この辺では全国平均より10パーセント65才以上が多いのである。
そして介護関係とか看護師不足だから余計にめんどうみきれないとなる

そこで老人は独居老人は野垂れ死にのように死んでゆくほかない時代になる
這って歩いて買い物にしても誰も助けもしないし関心もないのである。
そういう時代になったとき放置されて孤独死が増えてくる
田舎でも隣近所などあてにならないのである。

同級の人は脳梗塞になり脚をひきづって歩いて買い物していた
あの人も車は運転できるから車できて買い物している
となると車があれば脚が悪くても買い物はできるのか?
自分のように自転車だとのれなくなったりする
歩けなくなったら買い物すらできないから一人で生活できなくなる
一人暮らしにはそういう恐怖がある。

今はとにかくそういう人を見ても田舎でも無関心である。
それで自分はひどいめにあったことを書いた。
病気になり介護になったら来たのは強盗と変わりない女性だった
そこで大金を盗られた、次は事業に失敗した人であり自分が弱ったときチャンスと借金を要求するだけだった
ただ相手も金で苦しんでいたからそうなった

こういう時代に買い物もできないような状態になったらどうなるのか?
同級の人は兄弟が近くにいて見ているからまだいい
身寄りもなにもない人はこの人のように放置される
あと来るのは金にならないかと金を求めて来る人だけだとなる

いづれにしろ死ぬ人が多くなる、十年介護していた知り合いの人もあっけなく死んだ
十年は長いなと言っていたが死んだ、それでやっと重荷から解放されたとなる
その女性も相当に疲れた感じだったからである。
自分も介護から解放されて最近余裕が出たので駅で案内などのボランティアをするようになった、それは余裕ができたからである。
介護となるとひどいのは認知症とかの介護となると24時間拘束される
何か絶えず介護している人に気を集中しなければならないから他のことができない、関心を向けられないのである。
そのことを介護が終わって気づいた
いろろいな方面に関心をもてるようになったからである。

いづれにしろ人間はあっけなく死ぬのもである。ころりんと死ぬ、そのころりんと死ぬというとき何か死というのが奇妙になる
ころりんと死んだら人間は楽になる、つまりあっけなく死ぬということはこの世の苦から解放されることなのである。
この世は苦海でありその苦海から逃れる道は死しかないともなる
それで死んでみるとなんだ、人間なんってあっけなく死ぬもんだと思う
それで気が楽になることがある、若い人が苦しいと思うのはエネルギーがあるし生きたいと思う念が身体ともに強いからである。老人は死が身近になる
なぜなら同年代でも世代的に次々に死んでゆくからである。

人間はあっけなくころりんと死ぬな

人間なんか生きているとき悶え苦しんでいるけど結局はあっけなくみんな死ぬんだなと悟りみたいものもが生まれてくる
だからこの世のことにいろいろ拘泥しなくなるのである。
孤独死でもいいや、野垂れ死でもいいや、どうせころりんとあっけなく死ぬのが人間なんだよとかなる、それで苦海から解放されるんだとなるからである。
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2017年05月09日

高齢化社会の課題 健康、金、暇、介護やボランティアの問題など?


高齢化社会の課題


健康、金、暇、介護やボランティアの問題など?


高齢化社会というのはそれは世界的に起きている、中国でも起きている、中国は最も高齢化で影響を受ける、世界で一番の高齢化社会になるからだ、その用意もされていない、年金もなくてもう子供も援助しないなど自殺までしていることが問題になっている
人類は高齢化社会を経験していない、60くらいまで死んでいれば高齢化の問題は起きていない、80以上になると起きてくる

高齢化で問題になるのが金であり暇であり健康である。何か異常なほどの健康ブームになっているのは老人は健康を気づかうからである。
健康だけが関心の人もいるだろう。何か自分も病気になったせいもあるが健康を気にするだから食べ物とかも気にしている、今までは食べ物など気にしていなかった
もちろんその時は与えられたものを食べているだけだったこともある
自分で買って料理するとなれば食べ物を気にかけるようになる
とにかく買うものでも料理するとき種類が多すぎて困るのである。
だからなるべく買ってすませるようになる

高齢化の課題で一番の問題は健康である。まず60代以降健康がそこなわれたら高齢化社会の脱落者になる、でも60代以降病気になる人が多い、重篤なものになるともう急速に老いて普通の生活すらできなくなる、そういう人も近くにいる
そして死ぬ人も次々にでてくる、高齢化社会をのりきることは健康の面でも容易ではないなんらかどうしても体が弱ってくるからだ
ただ高齢化に備えるといってもむずかしいものがある。
人生そのものの積み重ねたものが結果として現れるのが健康面である程度そうであり精神面でもそうである。
だから老人になってから何かできるとか変わることができないのである。

老人にとって金があることも大事である。でも金だけではない意外と暇の問題がある。
高齢化社会とは暇が時間が増えるということである。
それは予測されていないしそれに備えることも簡単にできない
なぜなら趣味でも何でも人間はこれまで生きた延長としてしか生きられないからである。知識だって凡人は積み重ねであり何かを積み重ねて行けば詳しくなれる
それをしてないものはすぐに何か年取ったから理解するようにはならない
ただそうして積み重ねてきたものがあると老人になると理解が深まる
なんか自分は詩でも理解できないが今になると深く理解できる
芸術そのものが何でも理解する、鑑賞すること自体がむずかしいのである。

退職すると暇になりその暇になることが意外と苦しむ、それがボケに通じることもあるかもしれない、駅に毎日行っていると近くの人が自動販売機のジュースを飲みにくる、その人は80近いのか年齢はわからない、目がとろんとして反応が悪い、目が死んでいるのだ。こういう人はボケてくのかという不安がある
そして今なぜシニアのボランティアが人気になるかというとシニアは暇であり生きがいを探しているのである。そういう人が本当に多いのである。
でもボランティアも簡単に誰にでもできるものではない、その人の向いたものではないと長続きしないだろう。
でも何か生きがいがないと老人は目も死んでだんだん生きながら廃人のようになる恐怖がある。だから老後は生きがいが意外と大事である。
それは金でも得られないものである。生きがいを簡単に金では買いないからである。

金にならなくても何か生きがいをもつ必要がある。知り合いの女性は農業が好きだから小さな畑でしている、それは農家の出でありその人は農業が好きだからしている
金にもならないしかえって金がかかっているのである。
でもそれでも生きがいとしてはいい、自分が駅に行ってボランティアしているのもそうである。これは別に無人駅でも困らないがでも何か用がありしている
駅は実際にかかわると本当に不思議な場所であり様々な人が人生が交差する場であることを発見したのである。
つまり老後になっても新しく発見することがある、それはボランティアでもそうである。ボランティアを通じて発見するものがある、人との交わりから得られるものがある
老後は利益を追求するより生きがいを追求することになるからだ

自分も介護しているとき関心が介護する人に向く、ひどいのになると24時間も介護する人につききりになる、それは肉体的なものだけではなく、精神的に常に介護する人に向けられていたことにきづいた、今は関心がいろいろな方向に向くようになることになってわかった、だから介護というのは社会からも隔絶されるし社会との関わりもなくなってしまう危険がある。介護はだから相当な労力の無駄にもなる
自分の場合は介護することがカルマだと自覚していたからしていた
それにしても十年となると長かったなとなる、十年一昔になるからだ
この介護の問題も高齢化社会の大きな課題である、介護殺人が次々に起きていることでもわかる、老後が介護になったときその介護でエネルギーを消耗してしまうことにもなる
すると老後の時間を有効に活かせないのである。

生きがいがないというときそれがボケに通じることが怖いのである。
自分の家族の一人は退職してから何もしていない、食事すら用意するものがいてしていない、そのうちボケたのはそういう原因もあったことは確かである。
一人は100歳まで生きたが確かに寝たきりになってからはボケていたがそれまではボケなかったのである。
それは火事を93才頃までしていたからである。趣味もなにもない女性だったけど家事をしていたからボケなかったのかとなる
一方食事を用意されていた何もしない女性はボケたのである。
田から一見働いている人がひどいな苦しいなと見るが何もしないで与えられた人が実はボケたから見方が変わる
つまり生きがいがないという今年後とがなくなることそれがボケに通じるから怖いのである。

駅で目が死んでいる、ぼやーとしている老人はもう死んでいるのかもしれない、そういう老人も多くなっているかもしれない、暇だから南相馬市のパークゴルフ場に百人もいたのには驚いた、この辺は他より10パーセント老人が多いからである。
ただ若い人は駅では会う、子供にも会う、駅は世代間でもそうだがいろいろな人が出入りして会う場所なことに気づいたのである。
今は病院だったらほとんど老人である、子供は学校であり、仕事している人は会社でありみんなばらばらでありそうした人たちとは会わないでも駅ではそういう様々な人が交差しているのである。
だから駅は意外と面白い場所だなと気づいたのである。
だから介護が終わったから駅のボランティアは面白いことに気づいてしている

自分は他にいろいろしているがパソコンの抽象画も発見したことである。これもありえないようなことである。これが芸術なのかともなるがやはりパソコンから生れた芸術なのである。絵が描けなくても絵を楽しめるからだ、これもパソコンをしていたからできたことである。
つまり人間は年をとっても新しいものを発見することができる、また発見することが大事なのである。それは人によって違うものになる
なんか自分は鉄道の旅が長いから鉄道に思い入れがある。

でも鉄道を利用してただ乗客になっているのと駅でボランティアしているのとは全く違ったものだった、だからこれも不思議だった、人間は何でもそうだけどサービスを提供するものと受けるものとは違う、サービスを与えるものは奴隷だとなるがでも与える方でも学ぶものがある、与えられているだけでは社会のことも何もわからないのてある。
いづれにしろ老後の問題はすでに若いときからはじまっているから備えることがむずかしい、金は備えても今度は老後をどうすごすかとなると用意はできないからだ
ただ健康などもある程度備えることができる
自分の場合は学校にも社会にも適合できない、でもそうして自由にしていたから運動をかなりしていてそれが良かったのかとなる、デスクワークなどばかりしていたら体に悪い
からだ

いづれにし老後に備えるとしても金だけではない、今50代でも未婚率が異常に高くなっているとかありこういう人は自分と同じように老後に備えていないのである。
自分がそのことを書いたけど本当に家族がないことがいかに悲惨なことになるか
それを予測していないからのんびりしているのである。
病気なにったらもう地獄である。介護になってもそうである。
頼るものがない、頼るのは誰もいない、そして自分が書いたように頼った人は金しか求めない、病気の時もそうであり介護でもそうである。その時どういうことになるのか?
それは本当にそら恐ろしいことなのである。

ただ人間はとてもあらゆることに老後に備えることはできない、何かしら欠けてくる
だから高齢化社会をのりきることはいかに大変なことかわかる
しかしそれがみんなに課せられている時代なのである。
高齢化社会は確かに負の面も大きいのだけどもし人類がこの課題をのりきれば大きな進歩なことは確かである、それがプラスに作用すれば人類の大きな進歩になる
なぜならそれは何か技術的なものではなく精神的な面が大きいからである。
生きがいを求めるということもそうである。それは金だげではない、精神的な要素が大きいからである。

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2017年04月18日

老化は防ぐには筋力が大事 (自転車は効果的だったのかも)


老化は防ぐには筋力が大事


(自転車は効果的だったのかも)


 体の中には発汗の際に働く汗線周囲の筋肉や、視力を調節するレンズ周囲の筋肉など小さな筋肉も含めると650種類もの筋肉があり、その全てが連動して生命活動を支えています。これら全ての筋肉には共通点があります。それは、筋肉は神経を介して脳とつながっているということです。

 特に鍛えたいのは、「大腰筋」

鍛えたい太もも周辺部の筋肉のうち、特に重要なのが「大腰筋」です。大腰筋は股関節と骨盤をつなぐ大事な筋肉。歩行時に足を引き上げたり、階段の上り下りをしたり・・と日常動作で大きな役割を果たしている筋肉です。

自転車をこぐ時に、競輪選手のように頑張って自転車をこぐのではなく、あまり急な坂道ではない位の平坦な道で、頑張らない程度にこぐと、大腰筋が良く使われます。

大腰筋が重要なのは、大腰筋が、背骨と骨盤をつなぐ姿勢を保つ要の筋肉だからです。
大腰筋が衰えると、骨盤も歪みやすくなります。


人生の結果が老人にでる、しかしそれは予測できないものなのである。老人になってはじめてそきことを知り愕然とするのである。
それはあらゆる面でそうでありカルマの総決算が現れるのが60代以降である。
なぜなら人間はどんな人でもカルマを積んでいるからである。
カルマとは行為のことでありそき行為が結果として老人になり現れる

だからその人生は行為の積み重ねであり想き結果が老人に現れる、それが自転車と何の関係があるのかとなるとやはり自分の場合はあったのかと思う。
自分はサイクリング旅行したりしたのは40代でも車がないのだから自転車にのっていたからである。
ただ最初は20代でも電車でずっと旅行していた。そして自転車で旅行している人をうらやましくみていた、あんなことできないと思っていたのである。
それが電車の旅行がものたりなくなり40代からするようになった。
海外旅行もできないと思っていた、それを50代ではじめたのである。
人間は何か最初から思い込みがある、自分にはできないと思ってしまうのである。

新地駅であった老人は体は小さいのだけど何か言うことはわからなかったが盛んに自分の体の自慢をしていたのだと思う。そして俺は体は丈夫なんだ、見ろこの筋肉をと言って触らせた、それが本当に筋肉が盛り上がって堅いのである。ボディビルダーのような筋肉をしていた。自分の筋肉はさわると柔らかいのである。
あの人は肉体労働をしていた。そういう生活の積み重ねで筋力が鍛えられたのかもしれない、そういう人は他にもいる、体が大きいから体力があるとは限らない
船乗りだった人は体が小さいのである、あんな体で船乗りに漁師になれるのかと思った。でもその人は体が機敏なのである。だからゆれる船ではかえっていいのかと思った。
それから鳶をしている人も体が細いのだけど機敏なのだろう。高い所で細い鉄骨のような所を歩くの怖くないしかえってあっているというから驚きである。

いづれにしろ人間は生まれつきの資質は一生を左右するのも確かである。そういう資質は変えられないし作れないからである。
だから人間は本当に学歴ではない、資質が左右して仕事ができるかできないかで決まる、収入も決まる、鳶の人はやはり収入がいいし仕事ができる人は収入がいいのである。
大工だって何だって仕事には資質が作用している、東大でようが資質がなければ仕事ができないとなる、だから学歴で人間は評価できない、ただ理系となるとそういう素質が資質が関係しているからある程度は見れるのである。
文系となると東大と三流でもほとんど関係ないのである。
ただやはり学問でもなんでも積み重ねだからそれが影響してくるのである。
得手不得手があったとしても長年積み重ねがあれば詳しくなれる、第一あらゆることに精通などできないからである。

だから老化という問題もそうした人生の結果として現れるともなる、60代すぎると10年くらいの差ができる、特に病気したりしたらもう急激に老化しているのである。
だから老後は60代以降は病気が一番怖いのである。でもなんらかの資質でまた素質で病気になるのである。
自分は自転車にのりつづけていて悪い結果としても現れたかもしれない、自分の病気は自転車にのっていたためだっかもしれない、ただいい面として「大腰筋」が自転車だと鍛えられていたのかもしれない、何か若く見えるというのもそうかもしれない
自分は20代で60に見えていたのである。老成していたのである。
だから奇妙だけど今になると自分はその20代と変わりないともなる、顔でも変わらないとなるのである。
自分は母と同じように体力がない、だから激しい運動はできないのである。
自転車は登山のような激しい運動ではないからできたのである。

そして結果的に「大腰筋」が鍛えられていて筋肉が強化されていたのかもしれない、姿勢がまだいいからだ、ただ別に自分だけではない一般的に今は老人はそうなっている
病気になったりするのはまだ少ないからである。だから比較はできない。
ただ人間の体では筋肉が一見腕の力こぶとか目だった所をみるが全身が筋力でそれが脳にも影響しているというとき筋肉が神経とも連携している、となると筋肉は体にとって大事だから老化をふせぐためには筋肉を鍛えろとなっている
筋肉が大事だというとき寝たきりになると筋肉が急激に衰えて立つことも歩くこともできなくる、そのことによって介護する人は過重な負担を強いられるのである。

自分の母親は死ぬ一週間前までホータブルトイレにベットから起きてしていた。
それまでも這ってトイレにまで行っていた。なぜ寝たきりで動けなくならなかったのか?
それはやはり細身だったけけど筋力がまだあったからだったのともなる
筋力が弱ると起き上がることも立つこともできなくなるからだ。
こういうことで自分は介護してもなんとかできたのである
オムツもしてなかったからである。
だから介護されるにしてもこうして楽だと迷惑をかけないことがある。それには筋肉が働く必要があったのだ。

長寿社会というのは先が長いとなるとき金の問題も大きいがまた健康の問題も大きい、
どうしたら健康に長生きできるとか、どうしたら楽に死ねるとかなる
自分の母親はその点百歳まで生きたけどさほど迷惑をかけないで死んだなと思う。
ただ母の人生は何の面白味もない人生だったからそれがいいかどうかはわからない。
ただ健康面から見れば良かったとなるだけである。

ともかく老人になれば60代以上はやはり何でも日頃の生活の積み重ねが現れる、それはカルマでありそれが結果として現れる、それは肉体面でもそうだし精神的面でもそうなのである、それは刑法で罰せられるか罰せられないとかではない、その内面に刻印されるものがあるから怖いとなる、顔に責任をもてとかなるのもそうだろう。
人間はなんらかカルマを積むしそれは精神面でも体の面でもそれが結果として老人になり現れる、自分が十年間の自分の病気とか介護とか他者から苦しめられたのもカルマだったのである。
このカルマは誰でも相当に厳しいものとなる、ただ自分はそのカルマを十年間で清算したのかもしれない,それはまだわからないにしても何かそういう感じはする

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2017年04月14日

人間は70才まで老化しない? (百歳生きた母の例では・・・)


人間は70才まで老化しない?


(百歳生きた母の例では・・・)



本当は70才まで老化しない(武田邦彦)


これはまちがいないだろう、現代では栄養が十分であり70才までは老化しない、ただ60才以上は病気になる、なにかしら病気をかかえた人が多いのである。
それはいくら健康に注意してもその人の素質で病気になる
老化するというときスポーツ選手などが若いときのように体が動かないということであり普通の人はそんな激しい運動をしないから筋肉も衰えていないのである。
だから現代では70までは老化はしないというのは本当である。
ただ病気になるからそこで体が衰えるのは老化とは違うのである。

病気と老化は違う、老化は病気しなくても体が衰えることである。
例えば認知症は何なのかわからないけど脳の病気である。
それは老化ではないのである、老化による脳の衰えは記憶が悪くなることなどがある
腰が曲がったりすることもある、それは老化であり病気とも違うのである。
病気と老化は分けねばならない、認知症は最近発見された病気なのである。
認知症はこれまで病気とは認定されていない老化現象だとされていたのである。

老化と病気の相違は何なのか?それは老化は直らないが病気は直るということである。
だから認知症も病気だからいろいろ治療をためしているし薬も発明されている
病気だから直るとして研究されているのである。
もし老化だったら直らないのだから治療しても無駄なのである。

自分の母親は百歳まで生きたけど例えば血管に異常がなかった、病気がなかったのであるだから脳梗塞であり脳出血になっていない、それは病気なのである。
ただ腰が曲がった、90度に曲がった、それも病気とは言えずそれでも普通に生活していたからである。腰が曲がるとき苦しんだからそれは病気とも言えるが老化して曲がったのである。

老化とは脳だったら記憶が悪くなるとか誰でも起きてくる、耳も遠くなるとかもある
でも老化と病気は違う、病気は直るものとしてみる、だから研究しているのである。
老化は直らないから治療しても無駄なのである。
人間はたいがいは病気で死ぬ、病気で死なないものが老衰で死ぬのである。
それは正に寿命が来たから死ぬのである。動物でも何でもそうだが普通は病気で死ぬのである。老衰は病気で死ぬのとは違う、老化で死ぬから枯れるように死ぬのである。
だからさほど痛みも苦しみもないのである。
老衰の死に方が一番いい死に方である。百歳まで生きればたいがい老衰で死ぬ
その他はみんな病気で死ぬのである。

自分の母親が百歳まで生きたのはなぜか?体は細く重いものをもてるような女性でもなかった、まず激しい運動などできないのである。
ただ細く長く生きた女性だった、大正生まれで粗食であり苦労はしたが戦後から十年すぎて高度成長期になるとみんなと同じくいいものを食べていた
栄養は良くなったことも影響している
若いときは粗食だったということはそもそも細いのだけど体力がないのだけど基礎的に細くても生きる力があったとなる

ともかく何か過度に運動はしない、家事であり店などしていたが過重なことは無理はしていない、そもそもできないのである。体に負担をかけないことは確かだった
スホーツ選手が早死にするのは過度に体に負担をかけるからである。
母は平均的に毎日同じような生活をしていたのである。それも面白くない人生だったとけどそれが百歳まで生きた原因になる

大事なことは病気にならなかったことなのである。老化はしても病気にはならない
なぜならほとんどの人は病気で死ぬからである。
病気にならなければ老化してゆくが最期は老衰であり枯れるように死ぬ、痛みもなく自然な死になる、だからいつも眠るように死にたいと言っていたけどその願いはかなったのである。
老衰は仏教でいえば成仏することかもしれない、なぜなら苦悶も苦痛もないからである。
人間は自分でもそうだが60代で病気になったがその病気はたいしたことはなかった
だから自分は病気ではないし筋肉も衰えていない、ただ今は筋肉が衰えている、疲れるからだ。でも普通に生活できるから老化したともいえないのである。
忘れッぽくなっているのは確かであり人の名前などが覚えられない、でもそれで脳が退化したのか老化したのかとも思えない、なぜならあらゆることに理解力が深まっているからである。人間は脳が老化するということはなかなかないのだろう。
老人になってますます脳が働くということもありうるのである。

人間はこれからは70才ではない80才まで老化しなくなると思う
そういう環境に生きているからである。
60代で病気になってもならない人も多いし軽い人も多いから80才までは普通の人とたいして変わらずに生きられるかもしれない、ただ一番怖いのは病気なのである。
病気がなければ百歳まで生きて老衰で死ぬとなる、ただ百歳まで生きるとなるととうなるのかイメージできないのである。あと30年かとなるとその年齢がイメージできないのである。
ただ百歳もめずらしくなくなり人間は長寿になるから人生を長い目で見られるといういい面が生まれる、人間は仕事を完成しようとするとき百歳くらいまで生きないとできない
それで天才の北斎は

70歳までに描いたものには、ろくな絵はない。73歳になってどうやら、鳥やけだものや、虫や魚の本当の形とか、草木の生きている姿とかが分かってきた。だから80歳になるとずっと進歩し、90歳になったらいっそう奥まで見極めることができ、100歳になれば思い通りに描けるだろうし

江戸時代の平均寿命となると人生50年だろう、そういう時代に90まで生きたとなると例外的な存在である。
このことは平凡な人でも現代だったら言えるのである。
自分は天才ではないけど時間をかければそれなりのものになるということである。
まちがいなく年を重ねれば理解力は深まるのである。
何か自分は若いときは詩でも何でもたいしたものが書けないというよりは若いとき詩でも何でも文学的作品を書いている人が多いがそういうものが書けなかったのである。
そういうものが書けることがありまた理解力が深まってるからたいだいのものは理解できる、鑑賞できる、若いときは鑑賞もできなかったのである。

脳とは何か?それは人生の中で積み重ねで経験で作ってゆくものである。
脳に回路を人工的に作ってゆくのである。脳とは誰の脳も完成されたものはないのである資質はあるにしても未完のものとして与えられているのである。
それを生かすも殺すも本人次第だとなる
ただ天才はそうした積み重ねで成すのではない、すでに作られているのが天才だともなってしまう。
だから北斎は天才だからこういうことを言うのは何なのか?
やはり天才でも年を重ねてしか自然でも絵の上達はないということなのである。
要するに何かを理解するにはそれだけ人間は時間が必要なのである。
認知症のことなども経験して書いてきたがあれはこういうことだったのかとかあとで理解するようになる。その時は夢中であり理解できないのである。
だから何でも理解するのには時間がかかる、人間でも死んでからその人のことを理解することがある、それだけ理解すること自体がむずかしいということなのである。



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2017年03月26日

私たちのこれから認知症社会 (NHKの番組では厳しい現実を示さない)


私たちのこれから認知症社会

 (NHKの番組では厳しい現実を示さない)


 今回のNHKの認知症社会はあまりにも現実からかけはなれていた、統計的には数としてはその厳しさを示していたがその内容は甘いものとして見ているしそういうものしか示していない、家族が認知症になったら社会でどうみるのか?
それがあまりにも甘いものであり現実を見ない無視したものだった
認知症になったらその人は人として見られないし馬鹿になったと差別されるし家族すらそうである。それは知的障害者をもつものと同じになる
社会がそんなにそういう人に配慮したりやさしく接したりしない

この世の現実を自分は介護十年で自ら病気にもなり嫌というほど味わった
むしろ人間は弱者化すると食い物にされる、相手の弱みにつけこみやりたい放題になる
人間のその恐ろしさを味わった、人間はそうした残酷さをそうして弱者になるときむきだしになるのだ、それは戦争とか異常な状態でも起きてくる
シリア難民は女性が食い物にされるとか弱者につけこまれるのと同じである。

この世が認知症になったからといって回りが社会が親切にするなどありえないのである。特に現代社会はもうそうした義理人情とか隣近所とか助け合うとか全くない。
相手が弱者化したら財産を奪ってやろうとかそんなことを考える人はいる、自分は現実にそういうことを嫌というほど味わってきた
相手はこいつから金をとってやろうとしかなかった。弱者は最もやりやすくなる
それが人間の実体でありどうして認知症の人に親切にするのか?


行方不明者が一万になったとか誰もそんな人のことをかまわない
そしていつも若者は叫んでいる、老人は早く死ねと安楽死させろとか言っている
それが本音であり認知症の人にやさしくする心など全くない、介護士などでもただ安月給でしかたなくやっているだけである。
それは看護師だって老人にはやさしくない、病院でそれは経験した。
病院は体を物体のように見るが心はみない、無機質な冷たい空間である。

認知症の人が安心して暮らせる社会などありえないのである。その厳しい現実を見ていないのである。そんな社会があるとしたらその社会は天国かもしれない
実際はこの世は弱肉強食の地獄である。そんなことみんな実際の生活体験しているのだから今回のNHKの番組はなんら認知症についての将来の危惧に答えるものでもない何の役にも立たない番組だった
現実を見据えない番組はただ絵空事でしかないのである。
NHKには現実を見据えた番組もあるが今回のように現実とまるでかけはなれた番組もある

認知症に家族なった人や本当に認知症になった人の現実は厳しく過酷である。
人間は弱者になることは何でも厳しい、シリア難民とかもそうでありそういう人たちは食い物にされるのである。
人間とはそうして本来そうした悪質なものなのである。
それが相手が弱者化したりする露骨に現れるのである。
人間の本性が現れる、戦争のときとか異常な事態の時、その獣の本性が現れる
それで沖縄で日本兵が怖いというより地元の人、隣の人にでもレイプされるのが怖かったとかいうのは本当かもしれない、一番身近な人が最も質が悪いのである。
そういう人間社会が認知症のような弱者になった人に親切にするのか?

認知症の悲劇は社会的に優秀な人、貢献した人でも馬鹿になってしまうという恐怖なのである。そのことをプログで書いてきた。
こんなに優秀な強い人がこんなになってしまうのか?これが人間なのかという恐怖だった
そしてあえなく死んでしまった。人間ははかないなとつくづくなってしまう。
ただ認知症になったからといって人間でなくなってしまうわけではない
記憶障害だとしても人間としての何か基本的なものは失わない、そして不思議なのは時々正気にもどることだったのである。
特に死ぬとき正気にもどる、だから馬鹿として扱えないむずかしさがあった。
正気となると介護している人でもその人をみているからである。
特に家族だとおろそかにできないことがあるから苦しいとなる
全然わからなくなった人ならそうはならないからだ。
良く世話してくれたなとかわかる場合があるからだ、何かそういうことはわかるのだ
この人はいい人だとかもわかる、ただ記憶障害がありそれでわからなくなったのかと錯覚する。

いづれにしろ認知症の人が安心して暮らせる社会などこないし作れない、そんな親切な社会があるとしたら現実が弱肉強食の社会になっていない天国になっているだろう。
つまり別に認知症がふえるからといって老人が増えるからといって親切な社会なとこないからである。
弱肉強食の社会の延長として老人社会もあり認知症社会もある、ただ違うのは人間は必ず年取るから弱者と化す、今は強者でもなんでもそうである。
例え大金持ちであっても認知症になったら金の管理も銀行からおろすこともできないのだから何にも役に立たないのである。その驚きを経験したからである。
最後にいかに強者でも弱者になるのが人間の運命なのである。
弱者化した老人をいためつけるのもいいがその痛めつけるものも最後は弱者化していためつけられるのである。それがカルマなのだ。
人間はそういうカルマを生きる運命にある。そのカルマから逃れることができないのである。

いづれにしろ認知症の人か安心して暮らせる社会はありえない、ではどうするのかというと自分にもわからない、ただ何らか孤独死でも覚悟しておく必要がある。
介護状態にならないようにして死ぬとういことである。一番いいのは働いているうちに死んでいたいうのがいい、そういう死に方をしている人もいる
仕事していたが一週間くらいして入院して死んだとかである。
そういう死に方は弱者化して死ぬとも違っているのである。仕事しながらたちまち死んだともなるからだ。弱者化するとは長い間病気になるとか介護状態になるとか認知症でいつまでも生きているとかになることである。
だからそういう死に方が理想的なのである。認知症になって差別されて馬鹿にされて生き恥をさらして生きるのは恐怖なだけなのである。


農民なら農作業中に死んだとか、画家は絵を描いている内に死んでいたとか、作家は文章を書きつつ死んだとか、普通の人でも自転車屋は修理していたがそのあと急に病気になり一週間後に死んだとか、医者でも90歳まで患者を診ていて一週間くらいで死んだとかあった。平凡な女性でも料理を作っていて死んだとかなればそうである
人間はだから仕事する、仕事を持つということが大事である。
仕事がなくなると認知症になる傾向が強くなるのである。
社会から無用化して廃用化してゆくことが危険なのである。

体を動かすための神経系の調整能力などもそうであり、考える力、などという能力にも廃用萎縮があると思う。

私が行っているのは、その萎縮している機能に気づかせて活性化させているにすぎない。http://blog.sakura.ne.jp/cms/article/edit/input?id=179217012

知的な面でもこういうことがある、それはパソコンのソフトを使うことでもわかる、パソコンのソフトは使いこなすこと、その機能を十分に引き出せないことなのである。
抽象画をしてみてそれがわかる、ソフトを使いこなすのむずかしいのである。
それは絵の才能が全くないとしてもソフトを使いこなせば抽象画ができるからである。

だから認知症の予防の幼稚な運動とかバズルとか計算とかは役に立たない、むしろ料理をしづづけるとか仕事をすることが大事になるのである。
死ぬ間際まで仕事をもつことが大事になる、それが現代だと会社をやめると社会的役割まで終わりにされてしまうことが危険でありそれが認知症にもつながる
それで老後は仕事を持つ人ともたない人では大きな差がでてくる、一見遊んで暮らせるからいいと見えてもそうではない、金のない差も大きいがその人が仕事をもつかもたないかの差も大きい、それは老後はもう金になる仕事というのではなく仕事そのものをもつということである。金にならなくても芸術家のように作品の完成のために生涯精を出すということである。それは平凡な仕事でもそうなのである。

そういう仕事をもつということがやはり老後の課題なのである。
なぜなら退職してからも老後が20年とか長くなっているからである。
その仕事がどういうものになるかはその人によって違うからどんな仕事をしなさいとかは言えない、仕事は他人の仕事の価値もわからない人も多いからである。
老後は金で計れないものにも価値がでてくる場合があるからだ
ともかくWORKというとき作用しているとか機能しているとかの意味がありそれは脳を活性化しているということにもなる、それがなくなると廃用萎縮してくるらか認知症になりやすくなるのである。







タグ:認知症社会
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2017年02月08日

自殺の怖さ(後世に重いカルマを残す)



自殺の怖さ(後世に重いカルマを残す)


自殺することがなぜいけないのか?別に自分で自分を始末するのだからいいんじゃないかともなる、ここでは宗教的問題としてでなく自殺が怖いのはその子供とか後世に残す影響が大きいからである。
身内で自殺者を出すということはその家系に重いカルマを残しているのである。
その家系に家族に暗いものを残しそれがカルマとなる。
だから自殺した家から自殺者がまた出るとかなる

最初は彼の母親であった。彼女はホテルで38口径のピストルで自殺した。彼の兄弟の一人は散弾銃で地下室で自殺した。彼のもう一人の兄弟は下宿で服毒自殺した。彼の一人の姉妹は寝室で自殺した。そして3年前には父が銃口を自分に向けて自殺した。アレン・ボイド・ジュニアにはボイド家の暗い歴史が付きまとっている。

20世紀にアーミッシュ部落で起きた自殺の半分(僅か26人)が2つの家族とその親戚で起きていたのを発見している。その内の73%が4つの家族に集中していた。アーミッシュの部落は小さいから、4つの家族の人数は部落全体の16%を占める。

人間はどんな人であれその一生で残すものがある。それがいい見本ともなり悪い見本ともなる、そして教訓を残すから庶民の間でも諺が生れた、その諺(ことわざ)が廃れないのは人間は同じ業(カルマ)を繰り返すからである。
「金の切れ目が縁の切れ目」だとかこれをどれほど経験しているか?
人間の関係なんてみんなそんなものかということを嫌というほど経験しているし変わらないから諺も普遍的不変の真理なのである。

百歳の間のことを書いたが自分の母親も実際は自殺の危険があった。それは腰が曲がるとき苦しみ自殺未遂になった。それは自分にとって恐怖だった
自殺したいということは自分だってあったし誰にでもある、でもなんとかしないですんだとなるのが人間の実情なのだろう。

自殺の怖さは何か?。それが本人が自殺することだけではない,その後の回りへの影響が大きいからである。自分が死ねばそれでかたづくというものではない、だから自殺した家系とかあり家族は苦しむのである。
そのカルマが暗雲のように後世の子供たちに影響するから怖いのである。

例えは自分の母親が百歳を生きたことで「百歳の間」ということで書いた。
親が百歳を生きることはどういうことなのか?
自分も百歳を生きるのか、生きられるのかとなるのだ
これは理屈ではなくそういう目標を親から与えられたともなるのだ。
別に長生きすることはすべて悪いことではない、ただ負担になるから嫌われるだけである介護の負担も大きいからである。

自分も家族二人を看取ってその後また考えることがある。
人間は死んだからといってすべてが終わるわけではないということである。
必ずいい悪いにしろ後世に残すものがありその影響が大きいのである。
人間の生は一代だけで終わるものではないのである。
子供に後世にも責任を課せられているのが人間である。
何も一代だけで今の代だけよければいいとかならないのである。

そして人間は死んでみるとそのあともその人のことを考える
その人が残すものがいい悪いにしても必ずあり死んだからすべて終わるわけではない
もし自分の母親が自殺していたらものすごく後味悪いものとなり自分に影響した。
また自分が介護しないで恨まれたりしてもそうである。
そこに介護は苦しいのだけどむずかいしものがあった。
そうして子供を恨んで死んでいった親を知っているからである。
それは必ずその子供に悪い影響を残すことはまちがいないのである。

百歳を母が生きたということはやはり後世への子供へ長寿の目標を与えたことなのである自殺したりしたらそれと全く反対のものとなりただ親は呪われて自分も呪われたともなるからその相違が大き過ぎるのである。
単純に今は母が百歳生きたな自分も生きるのかなとか思うのも不思議である。
それは理屈ではない、何かそういう感覚になるのだ。

もちろん超高齢化社会になるとき様々な問題がある、そんなに長生きされても困るということも現実にある。ただ自殺のことを問題にするときそれが後世に子供にさらに孫にも残す影響が大きすぎるのである。
今自分が母を介護した「百歳の間」に安らかにいれるのも母が自殺しなかったからであり自分もそれなりに介護したからである。
母は問題もあったが祝福を与えて死んだともなる、姉は姉なりに自分は尽くしたから最後に正気にもどって死んだから救われたとなり自分は苦しかったけど今になると良かったなとなり心が安らかなのである。

ともかく人間はどんな人でもカルマを残し教訓を残す、本当に母は自殺しなくて良かったとか思ったり認知症でも苦しんだが最後は姉も正気にもどってわかってくれたとかなり自分自身が救われたとかなる
認知症の問題もこれも介護してみると本当に複雑であり簡単に何もわからなくなったとは言えない病気だったのである。これは明らかに病気である、でも認知症の人が正気にもどるということがある、それは二人を介護して自分は経験したのである。
だから認知症という病気は本当に不思議なものでありわけわからないものなのである。

人間はどんな人でも何かをその一生で残す、それがいい面と悪い面があり後世に影響するカルマの怖さはこの辺での放射能被害がありプルトニウムが二万年消えないというカルマを残したことでもわかる。それだけ恐ろしいものが人間が作り出したカルマなのである。そのカルマにこの辺では苦しまねばならなくなったのである。
それは人類的カルマですらあったのである。

ただ先祖霊がどうのこうのとかかかわるものは金もうけだから危険である。徐霊などもカルトであり危険である。今の宗教はほとんど金儲けしかない、利権しかない、カルト教団だからである。そういうところに入るとまた後世に子供に悪影響残すのである。
結局地獄に落ちるとかなんとか恐怖だけ残される、与えられるだけなのがカルト教団である。それでもそんなに入る人がいるというとき宗教に対して安易なためだろう。
何か多少でも援助してくれる、相談にのってくれるとか軽い気持ちで入るから後で怖いことになる。触らぬ神にたたりなしである。軽く触った結果祟りだけをもらうのがカルト教団なのである。

ともかく自分はこの十年介護とかいろいろなことで苦しんできた。
でも今は何か心が安らかになっている、介護した甲斐があったともなる
自分の苦労が報われたという感覚にもなる
それは自分が特別に良くされたのでありそのことで恩を返そうとしていたこともある
子供でも兄弟でも親に良くされなかったら介護でもしない、お前が親にかわねいがられたから介護しろとなっているのを聞くからである。
金持ちの親だと子供はみんな施設に入れる、子供は何もしないのである。
それが幸福ともいえいないのである。だから人間の幸不幸は最後までわからないのである最後の最後に不幸に死んでゆく人もいるからだ。
そして死んですべてが終わるわけでもない、延々とやはり死んでもやはり残された人に末代にも影響しているのが人間なのである。


  家と死者

 窓の外に蝋梅が咲いている
 母は百歳生きた
 今介護した部屋に自分がいる
 「百歳の間」となづけている
 母は窓からこの部屋を見て
 笑っているように見える
 姉もこの家に育って良かったと思っている
 それで自分も心安らかである
 この家になお死者は生きているかもしれない
 この家に嫁いで来て良かったとか
 この家で暮らして良かったとか
 それで我が家には死者がなお住みたいと思う
 我が家には死者が見守り祝福があるかもしれない
 ただどんな家族でもそこに影の部分がある
 自分の家族にもある
 それがまた人間の業(カルマ)であり
 そのカルマは消えることなく
 どこでもつづいているのが現実である
 でも何か自分は恩を返したとかなり
 心安らかになっている



蝋梅(百歳の間)

タグ:自殺
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2017年01月23日

納得いかない死 (生者と死者のつながり)

納得いかない死

(生者と死者のつながり)


死とは個人的な死であれ家族としての死であれ国家的な死であれ戦争で死んだような死であれ死そのものが納得できないもの了解できないものとしてある
死んだ時、燃やされて骨と灰になりなにもなくなる、この変化があまりにも大きいので納得することも了解することもできなくなる
死はみんなこういうものだとしても納得いかないのである。
そもそも人間が死ぬということそれ自体が不自然でありあってはならないと思うのが普通である。死とは本当に理不尽なものなのである。
こなことがっていいのか、死を前にすべては無だとなりただ死の前には人間は無力だとなる、生あるものは死ぬものだとか言ってもそれに納得している人はいないのである。

今になると自分の家族の死は何なのかと問いつづける、それは自分の場合は特殊であり60年間三人が一緒にいたということがそうしている。
そして自分のために二人は無条件で尽くしていくれたのである。
それは実際は母と子だったなっていなかった、特殊な関係でそうなったから他の家族とは比べることができないのである。
だから自分は家族に対しての思いが他の人より強いのである。
だから余計に死にたいして納得がいかないのである。

人間はそうして愛するものが死んだときその人が以前として死んだとは思えない、それは時間によってだんだん忘れてゆくとはいえ60年一緒にいたものが生者から消えることがない、人にもよる、すぐに肉親でも忘れる人はいる、だからその人の事情にもよる
20年すぎて死者を偲んでいる人はそれだけ愛情があったということにもなる
だから個々に違うものとしても死ぬということは人間は納得しないしあきらめることも本質的にはできない、だから死後も死者のことを永遠にいないというよりいるものとてし扱うということがあり供養がつづいている、ただ親子でもその関係はまちまちだから忘れる人も関心もなくなる人もいるのである。

死ということは哲学では解決できない、宗教でしか解決できない、もちろん弁証法でも解決できない、そこに哲学の限界がある。死ななかったのは主、キリストしかいないとなる、お釈迦様死んだからである。
だから死を克服できる宗教はキリスト教しかないともなる
仏教では死を克服できない、ただ仏教には深いものがあり哲学とは違うものがある
無神論者が日本では多いけど無神論者でも立派な人はいる、むしろカルト宗教団体とか戒名仏教とか死者とばかりかかわる宗教は問題である。
日本人が仏教徒とかいうのは嘘である。ただ葬式するためにそうなっているだけなのである。葬式のための仏教なのである。

哲学にしても死者をどうみるかとなると死をどう解決するかとなると解決しようがない、生あるものはみんな死ぬとしかならないだろう。
ただそもそもそうした宗教とは関係なく人間は個々人でも家族でも共同体でも死というものをどう扱っていいのか?また生者と死者の関係はどうなのかということに悩む
死者が死者であることであることに納得しないのである。
墓があるときそこに実際は骨が土となり何もなくなっていた、ではそこに死者がいるのかどうかもわからないのである。でも墓には死者がいるとしてお参りしているのである。
つまり生者と死者は以前として墓を通じて結びついている、切り離されていないともなる死者でも全くないものとしたくないのである。、でもやがてその墓すらお参りするものがなくなるときもうその墓は捨てられ生者との結びつきが断たれるのである。

例えば死者というとき戦争で死んだ300百万人と生者の結びつきはどうなるのだろうか?
つまりこれもいくら死んだとしても死んだものとして生者と切り離して考えられないからどう扱っていいかわからないからそうなっている。
国に尽くした英霊として祀るというときもそうである。
戦争を経験した人は90以上でまだ生きている、その人たちは死んだ戦友のことを今でも思っているのである。戦艦武蔵が最近海の中から発見された。その無残な悲劇がNHKで放送された。生き残った者がそこで死んだ戦友のことを思い涙を流していたのである。
自分の姉も従軍看護婦で4年間シンガポールに今のマレーシアのジョホールバルにいたから死ぬときまで戦争のことを語り死んだのである。認知症になってもそのことだけは忘れずに死ぬまで語っていたのである。
そのことを叫びつつ死んだともなる、それだけ戦争のことは忘れられない記憶として残っていた。
そういう人は戦友が死んではいない、心の中で生き続けているのである。
ただそうした戦争経験者も死ぬと戦死者をその後の世代をどうあつかうかということはさらにむずかしい問題になる

自分の家族だったら母はまだ一年すぎたばかりであり生々しいとういことがある。
そして不思議なのは死者との結びつきがありその関係は強固になった感じもある
自分は家族が死んでから家族のありがたみを知ったのである。
そのことを書いてきた、誰も自分のことを思うものもなく病気でも他者は親戚でも責められるだけだった、それほど他者が非情なのかということでますます家族のことを思うようになった。
それから他者は金しか求めていないこともわかりそのことでも家族を思うようになった。母は自分が60までも食事の用意をしてくれたからである。
今になると全部自分でしなければならない、そしてがっかりするのは皿二三枚洗ってもらうのに金が10万近く払わなければないことである。これも自分が一人だということでしょうがないとしている
それは自分が介護しているときもそうだし病気になったときもそうである。
家に来た人は金を要求するだけで何もしてくれなかったのである。
それだけ自分のことを思ってしてくれる人は一人もいなくなったことで余計に家族のことを思うようになったのである。
今になると母に食事を作ってもらったら涙を流して感謝して食べるだろう。
今年も雑煮も食べられなかった、コンビニのインスタントの雑煮だったからである。

だから奇妙だけど死んでから死者に感謝しているし結びつきが強くなったというのも不思議だとなる
家族がいたありがたみが骨身にしみてわかったからである。
病院では見舞いもなく看護婦から虐待されたし何か自分に対して情をかけてくれたという人はいないのである。これほど他人が非情なのかということで家族への思いが感謝が深まったのである。
だから人間は家族でも死んでみてそのありがたみがわかるのである
それは妻でもそうだったり死んでみないといなくなってみないとありがたみわからない
それは人間はそもそも空気のようにあるものに感謝などしないのである。
それはこの辺が原発事故で故郷に住めなくなったことでずっと書いてきたことである。
失ってみてその価値がわかる、死んでますます家族で結びつき強くなるということもありうる、なぜなら今までは感謝もしなかったが感謝してその本当の価値を知って結びつきが強くなるということである。

原発事故で避難してもし避難した先でユダヤ人のように苦しめられたら差別されたりしたら故郷のことがどれだけなつかしく思うかもしれない、そして故郷あることがどれだけ幸せかと思うかもしれない、それは故郷に普通に暮らしていてもわからないことなのである失ってみて本当の価値がわかる、国だってもしシリアのようになって難民化したら国があることがどれだけ幸せなのかとなる
いづれにしろ生者と死者の問題は人間にとって深刻なるが故になかなか簡単には解決できない、ただ死者が全く無きものとはできないことは確かである


生者と死者は
生前より強く結びつく
その真の価値を知りしがゆえに
寒夜の星のように
星座のように結びつき
永久に輝く

タグ:生者と死者
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2016年12月05日

デンデラ野の現代的意味 (そこが不幸だったのかどうかわからない)


デンデラ野の現代的意味


(そこが不幸だったのかどうかわからない)


「六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野に追い遣るの習ありき」。つまり、口減らしのため高齢者を追放した場所だった。「いたずらに死んで了うこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊したり」。お年寄りたちは身を寄せ合い、わずかな耕地で自給自足しながら死期を待ったのだ。

デンデラ野といいうときなぜかうば捨て山のイメージになる。
ただこれも昔のことになると常に誤解が生じる、現代からイメージするからそうなる。
飽食の時代に昔のことがイメージできなくなる、食料も満足に得られない時代に、口減らしは別に間引きとか生れる子供にも行われていた。
食料が限られていればそうならざるをえない。だからそれが残酷だとはならない
そうする方でもぎりぎりでそうなっているからである。

ここでの老人はそういう生活が厳しいためにそうなったのでありそれが子供が残酷だとはならない、それをわきまえてそういう風習が自然と生れたのである。
ではこのことが全く不幸であり残酷だったのかというと現代からイメージするからそうなる
現代の延命治療の方が残酷だともみる、生き地獄を経験させられているからだ。
豊かさの中でかえって人は地獄を経験する、そういうことも人間社会にはある
だから常に人の幸不幸は計れないのである。

お年寄りたちは身を寄せ合い、わずかな耕地で自給自足しながら死期を待ったのだ

こういうことができたのはそういう共同体の中で暮らしていたからである。
日々暮らしをともにしたから自然と最後も仲間と一緒に暮らしたのである。
そうした人のつながりは簡単にはできない
農家が三代で農家と認められるというときそれだけの時間がかかって仲間としで受け入れられるということである。
自分の家のことでも二代目にしろ店をやっていたとき良くきていた人が大正生れの人が自分の母親をふくめ三人死んだ。その親の代からの人のつながりが生れる
ただこれもみんながうまくいくとはならない、人にもいろいろいるからだ。
ただ人のつながりは一代くらいではなかなかできないということもある
街内は農家と違って代々住んでいる人は少ないから余計にそうなる

このことで示唆しているのは老人自体が何を思ったかというと
子供たちに迷惑をかけてはいけないということがあった。
それは生活が厳しいからそうなった。食い扶持を確保できないから自ら自給自足しようとしていた。子供たちに頼らないようにして最後を迎えようとしていたのである。
これを現代と比べるといかに今は老人があらゆる面で医療であり介護であり若い世代に負担させているので老人は早く死ねと若い人たちに言われるのである。
それはまた現代が豊かになっここともあるがそれでも若い世代の負担に老人がなっている

でんでら野では医療も介護サービスもなにもない、食料さえ援助がない、自分たちでまかない仲間とともにあって死期を迎えたとなる
ただそれが不幸かとなるとまたわからない、そこには仲間がいたということが慰めになるそういうことができたのはその村での暮らしの継続がありできたのである。
だから都会から老人を田舎に移すということを批判する人がいるものわかる。
全然知らない老人が田舎に押し寄せてもとまどうし第一それだけの世話する人材もいないのである。
田舎に都会の老人をまかせる、捨てるともなるのかとなる。でもその人たちはもともと田舎に暮らしをともにした人たちではないのである。
だからこれも何か不自然でありやっかいものを田舎にまかせて捨てるという感覚になる
これはいくら都会の人たちが金があってもやってくれるわけではないのである。

何か原発事故でも補償金でもめたけどなぜ船主などが漁業権などを東電に売り渡して多額の補償金を事故前も事故後もさらに手厚くもら立派な家を建てていることに回りのものが不満になる、避難区域の人たちもいわきではいやがらせまでになった。
それは世の中なんでもすべて金になっても金では解決できないからそうなっている
まず人間のつながりは時間がかかり一代だけではできないとかなる
デンデラ野でともに老人が身を寄せないとか助け合い暮らしたのはそういう暮らしの継続としてあったからできた

ともかく何か老人問題というとき人間は結婚して子供をもち家族をもつ、ところが子育ても終わり夫婦だけになるとか夫婦でも夫が妻が死ぬと一人になる
自分も親が死んで一人になりまた切実に一人暮らしで求めているのは実はまた新しい共同なのである。
家族がいないということはそれに代わるものを求めることになる
それが村とかの共同体にはあったが現代ではないからそこに孤独死とかの問題が起きる
デンデラ野では医療も介護もないが仲間がいて看取るということがあった。
孤独死はなかったともなる、だから時代によって幸不幸はわからないのである。
そしてなぜ葛尾村とかではあんな不便な所なのに帰るという人が多いという。
そこはやはり飯館村と同じように人とのつながりが濃いからかもしれない、小高は別に放射線量など高くないのに帰る人が少ないというのはなぜなのか?
人とのつながりがそれほどなかったからなのか?何かこれも考えさせられる

意外と老人とか一人暮らしでもそうだが金も大事だが人とのつながりが大事になる。
なんか夫婦でいて妻が死んで何か事件を起こした老人がいた。
ゴミ屋敷とか猫屋敷とかなるのも一人暮らしもそうである。
何か一人暮らしには問題が起きやすいのである。
一人暮らしというのは親が死んでわかったが何か新たな共同性を求めるのである。
それは家族でもない、夫婦でもない、つまりデンデラ野のように老人だけが集まりそこでともに暮らすというのは今は老人ホームになっているがそれとにている
そこが家族ではないにしろそういう機能をもっているし期待されている
デンデラ野というとき何か今からするとマイナスイメージになるが現代にも通じるものがある。
ただ老人ホームとかのその形態が変わったのである。何でも今あったことは昔もあった。ただ形態とかが変わっただけなのである。
老人ホームで若い人の世話になることは何か本当は後ろめたいこことなのかもしれない
デンデラ野では生活条件の厳しさからそうさせられたがそれが現代でも何か老人問題で示唆するものがある。
だから何でも現代的な問題でも歴史的に考察する必要がある
人間そのものは変わらないということがあるからだ。

タグ:デンデラ野
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2016年12月03日

団塊の世代が介護難民化する深刻 (誰も負担しきれない介護の重圧)



団塊の世代が介護難民化する深刻


(誰も負担しきれない介護の重圧)


近くの自分の家で店をしていたとき良く来ていた女性が95歳で死んだ。
その人は90歳までまっすぐ立っていた。自分の母は90度に腰が曲がっていた。
腰が曲がるとき苦しんで死にたいと言っていた、相当に腰が曲がる時痛いし苦しむのである。でもその後も20年くらいか腰が曲がったまま普通に生活していたのである。

今回死んだ老人は腰が曲がることがなかった。それで89歳でこの辺が原発事故で避難したとき一緒に避難したという、その時は丈夫だった。
しかし90歳からか91歳なのか介護状態になり95歳で死んだ。

そして驚いたのはその同級の息子が脳梗塞がひどくなりやっと歩く状態だったのである。筋肉が柔らかくなり弱くなって歩けないという、それでも車をなんとか運転している
運転しないと一人暗しだから買物もできないという、今は買物できないともう生きていけない、買物できる内は弁当でも食べてなんとか生きることはできるからだ。

その人の状態を見たらこの前コンビニまで車できて這って歩いて買物していた人を思い出した。その人はヘンスに車をぶつけて事故を起こした。
その家は蔦がはい二階は住めないような状態だった。
その人も一人暮らしだった。

ともかくあんな状態で母親も介護していたのは驚いた。ただ救われたのは弟がいて隣の街から来ていた、今も来ている、自分の場合は誰も助けるものがいなかった。
ただ弱みにつけこまれて責められただけだったのである。
その弟にしろ一週間に一回しかきていないという,あの状態で自分で買物から料理までできるのかというように見た。歩くのやっとだし起き上がるのも辛いのである。
もう実際は介護状態なのである。でも誰も支えるもものがいない一人暮らしなのである。いづれは誰かが介護せざるをえない、おそらく簡単に福祉で世話する訳にはいかないから弟がめんどうみさせられるかもしれない、農協で見に来ているがもう介護状態なのであるでも介護する人がいない、何かそういう人が増えてくる

問題は団塊の世代がすでに病気とか介護状態の人が増えてくることで75歳以上になると深刻になることが憂慮されている、たいがい60以上になると何かしら病気がでてくるのである。自分も病気になったし同級でもすでに死んだり脳出血になった人もいる。
だから75歳になると急速にそういう人が増えてくる,そしてもう介護する余裕が国にも家族にもどこでもなくなっているのだ。
金でなんとかしろというけど施設に入ると20万以上かかる
隣の人は買物を頼んでいたができなくなりいわきの施設に入った。
それはそれだけの金を息子とかが出したからである。
それだけの年金とか金をもっている人は今はわずかなのである。

自分がその人を心配していたのはその人の親と自分の親が店をしていたとき良くきていたしいい人だったからである。もう一人も前に書いたが姉が認知症になったとき世話になったこの人もいい人だった。
だから死んだ三人のことを思い出すのである。
それは親の代からのつながりでありそうなった。
人間のつながりはなかなか簡単にはできない、やはり親の代からのようにつながりが今になると大事だったなと思う

地域のつながりもそいうことがあるからユニットバスでも仙台の業者には本当は頼むべきではなかった。今回はいろいろ事情がありできなかった
なぜなら畳屋がいてその人も病気になりすでに十年介護しているとかなるとその人のことを思うからである。
自分の家の畳を作ってくれた人として今になってもつながりを感じていたのである。
それは自分の家で店をしていたときのことを今思い出しているのと同じである。
そういう地域のつながりがありそれが何かこういうふうに苦しい介護とかなると隣近所で助け合うともなる

ただ実際問題として介護はこれは助けるにしても重度になったら無理である。買物手伝うにしても手間になる、だから隣の人は施設に入ったのである。
では施設に入らない人はどうなるのか?特養などとても入れないとなるとどうなるのか
結局コンビニに車で買物に来て這って歩いていた人のようになり事故を起こした人のようになる
そのあとはどうなったかしらないがもう一人では生活できないのである。
そういう恐怖が一人暮らしにはある、自分も経験しているからわかるのだ。

これはここだけの問題ではない、全国的に起きてくるしすでに起きている問題である。
介護は平均的には五年はかかる十年だってざらにいる
その重圧は大きいのである。

それを誰が負担するのか?

本当は家族でも地域でも国でも協力しないとできない問題である。でももう団塊の世代はそうなると数も多いから放置される、野垂れ死にしろとなる、そういう兆候がすでに出ているのである。
なぜこの辺で原発事故で避難区域になったところが復興できないかというと公務員でも人手たりない、公務員が激務になってやめたいともなっているしもうつづけられないとなっているからだ。若い人も流出して老人だけが取り残されているのである。
そんなところで復興はできないとなる

いづれにしろこの介護の問題は自分だけではない、みんなにふりかかってくる問題だったのである。自分は病気も直ったし元気であるがいづれどうなるかわからないから自分のことでもある。一人暮らしは本当に現代のような時代が生き地獄になる。
ただ金しか求めなない時代である。金がないなら野垂れ死にしろともなる時代である。
また金があっても介護する人が金目あてでくれば盗られてしまう、そのことが自分も経験している

ともかく団塊の世代が七五歳以上になると本当にあちらこちらで放置されて死んでゆく老人が目立って増えるかもしれない,助けようがないとなる。
車で買物に這ってゆきついには買物もできなくなり食べることもできなくなり野垂れ死にのうよになる。それがどこでも起きる、介護難民というよりもう介護できない、それだけの負担を負えない状態になっているのだ。
だからこの世代は病気になることが最大の不安になるのである。
一人暮らしは特に病気になったらどうにもならなくる恐怖かある。
それを自分は経験しているから恐怖なのである。

タグ:団塊の介護
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2016年11月12日

昨日のローソンのヘンスに車で突っ込んだ老人(2) (その家は廃屋化していて住めなくなっていた)


昨日のローソンのヘンスに車で突っ込んだ老人(2)

(その家は廃屋化していて住めなくなっていた)


昨日ローソンのヘンスに突っ込んだ車の老人は近くに住んでいた。
今日見たら蔦が絡まり廃屋化していた。
その人は車の中で寝起きしていたという、つまりもう家が廃屋化して住めなくなり
車に寝ていたとなる、車になにかいろいろ積んであったのはそのためか?

これは何を示しているのか?
ゴミ屋敷ではないが家に住んでいても家に住めなくなった
その原因がその人がもう這って歩くのがやっとでありそれで自分で食事とるのに
ローソンにきていた。
這って歩くとなるとまず料理も掃除でもできない、するとどうなるのか?
家に住むこともできなくなり廃屋化する

これも高齢化で取り残された老人である。
全国で空家が800万軒とか増えるとき何かそういう象徴的である。
街中でも空家が何軒かあるのを知った。
そこは500万で売り出していた、でも今は新しい家は街中より外に新住宅街に建てている
だから街中は住まないで放置されるかもしれない、ただ借りて住む人もいる

その人の家は二階建てでありそれなりの家である。
でも家を維持することが意外とめんどうであり金もかかるのである。
そして体が弱りついに自分の家にすら住めなくなった悲劇である。
回りの人は無関心であり車で寝起きしていたが事故を起こした
家があっても家に住めないというのも悲惨である。
家はかえって年取ると重荷になる場合があるのだ。
一人暮らしでゴミ屋敷になるのは家を維持することができない
その力すらなくなってきてそうなる場合もある

その人は這って歩くことしかできないのだからそうなった。
一人暮らしで体が弱ると悲惨な結果になる
それは自分も経験してきたからである。
今の時代回りで近所でも助けない、かえって人が弱ると楽しんでいるとかそれよりその弱みにつけこまれて犯罪にもあう、そういうことを自分は経験していたからである。
だから老人は一人暮らしの人などはどうしても施設に入るとなるがここも安住の地ではないが一応助ける体制はあるあ、あんなふうに這って歩くまで放ってはおかない
今の社会では放っておかれるのである。
だからテレビでも放送していたがぎりぎりになり救急車で運ばれたとき助ける
それまでは放置されていると放送していた。

あの人もぎりぎりになり事故を起こして警察が来てなんかまた他に市役所の福祉関係がかかわるかもしれない、ともかくあれは高齢化社会の象徴的なものかもしれない。
自分の家があっても自分の家にすら住めなくなりついに車に寝起きして辛うじて食料をコンビニに買い這ってゆき、また車にのったが事故になった。
高齢化社会はそういう人が増えてくる、一人暮らしが増えてくるし増えている
近くに息子や娘がいない場合も多い、すると放置されたままになるのである。
福祉といってもそれが簡単にかかわるということもないのである。
福祉にたすけてもらへと言ってもではすぐに特養に入れるかとなるとこの辺は原発事故とかで以前として人手不足とかで入れない
それであのように這って歩き車に寝泊まりして家に住めなくなるまで放置される

結局家は必要でも家は人を助けてくれない、かえって重荷になることがある。
人を助けるのは人である。ただその人が今は無関心なのである。
だから金がないとかになると施設にも入れないで放置される
近くの人は買物ができなくなり息子がいわきの施設に入れた
それだけの金があったからできたともなる、施設に普通に入れたら20万は月かかるらしいそのくらいの金がある人がどれくらいいるのか?
その負担も大きいのである。するともうこの人のようにぎりぎりになるまで放置されてしまう。

あの人のことはみんな知っていたのである。でも誰も助けないのである。
福祉の人も回っていなかったのだろう。
とにかく高齢化社会ではこういう人が膨大に増えてくる、それが高齢化社会の現実なのである。野垂れ死にのようになって死ぬ人が増えるかもしれない。
近所だって助けないし助ける余力もないとか無関心であり放置される
最後は金がある人は金に頼むしかないという冷たい社会になっているのである。
つまり老人は死んだ方がいいとか若い人もいつも言っているのだからそうなる
障害者の大量殺人の次はこうして増える老人の大量殺人とはならないまでも見殺し放置になる、そういう覚悟も必要なのが高齢化社会だともなる

タグ:廃屋と老人
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2016年11月11日

鹿島区のローソンで車がヘンスにつっこむ事故 (高齢者の一人暮らしの危険)


鹿島区のローソンで車がヘンスにつっこむ事故

(高齢者の一人暮らしの危険)

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この事故を起こした人はみんな知っていた。ローソンにきて這って動けないとき助けて車にのせたことがあるからだ。
その人はいつもそうしてローソンに買いものに来ていた。
それでみん知っていたのである。まず動けないで這ってやっと車に乗っていたのである。這ったまま動けなくても車に乗れば運転できると言っていた。
でもなんか店の人もそういう状態でもなにもしていない、でもみんなその人がそうしていつも買物にしていたのである。
そして今日ローソンに行ったらヘンスにつっこむ事故になり警察が来ていた。

その人のことはどこに住んでいるかもわかっていた。
やはり一人暮らしでやっと買物をしていた人だった。
あんなふうにしてまで買物するということは誰も助ける人もいないからそうしている
隣の女性は買物ができなくなり頼んで買物してもらっていた。
でもついに一人で暮らせなくなりいわきの方に息子が連れていって施設に入れた。
結構高いけどそれだけの金があったから入れたともなる

最近良く高齢者の交通事故が話題になる、事故が起きるのが増えている、その人はとてもすでに運転できる状態ではなかった。
でも一人で助ける人がいないから這って買物していたのである。
これは福祉関係の人が見回りしてなんとかするべきものだったのだろう
なんかこういう人が高齢化社会でこれからも増えてくる
そういうことが自分にもあてはまるしだから一人暮らしは恐怖なのである。

この人はそもそも運転できないのに運転せざるをえなかった

高齢者でも簡単に車をやめるわけにはいかない、一人暮らしだから這って店に入りでてゆく、車がないと買物ができないとしたら死ぬほかない、買物は意外と重要なのである。
買うことができれば別に今は料理することもない、弁当だけでも食べて生きていけるのである。
だから隣の女性は買物ができなくなり施設に入るほかなくなったのである。
警察が来るというよりこれは福祉関係の人が来る必要もあった。
もう一人では生活できないからである。

何か高齢化社会ではこうしたことが頻繁に起きてくる
高齢者の車の事故が増えたのはそのためなのである。
車をやめさせるといってももしこの人のように買物もできなくなったら死ぬことにもな
だからやめることもできな人もいる。誰か助ける人がいればいいがいなかったらそうなるそういう人も増えてくるのである。
這って歩いていても無関心だという時代でもある。福祉関係に連絡するとか必要だったのだろう。
自分は一回だけ助けたが他の人も店の人もそのことを知っていたけど無関心だったのである。コンビニとかなると店の人は客に無関心ということもある
今の社会は何かそうして無関心なのである。そういう社会になっている
だから一人暮らしとか身寄りがないとうなる本当に恐怖である。
誰も助けてくれないという時代である。
ただその人の名前を知っていたということはどこに住んでいるかもわかっていた人もいたのである。

とにかく高齢者の交通事故は社会問題になっている、この人もヘンスにたまたまつっこんだだけですんだけど大きな交通事故を起すこともあったから危険である。
でも免許をとりあげたらどうなるのか、買物もできないとなる。
そういう一人暮らしなどの高齢者は増えているのである。
一人暮らしでもいろいろあっても別に近くに息子や娘もいる人も多い
でも誰も助ける人もいない高齢者も増えてくる、その人は車で這ってまで買物して事故を起こした、回りの人は無関心だったとなる
最後は買物できなくなり力尽きて死ぬとまでなる
これが高齢化社会の現実だともなる、ただ回りで見ていたのだから知っていたのだから何か福祉とか何か対策をとる必要があった。
その人は近くに住んでいる人だと思わなかったのである。
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2016年11月01日

介護の重圧は正常心が保てなくなる (介護で国力も衰退するので捨てるという決断も迫られる)



介護の重圧は正常心が保てなくなる


(介護で国力も衰退するので捨てるという決断も迫られる)


介護十年もしていると自分の精神状態が異常化していことを終わって気づいた。
30年間は自分はあまりにも恵まれていたからということもあった。
何不自由のない生活を30年間してきたからである。
だからこのことを相当に恵まれていたのである。

介護は何か常に重い石を背負わされていると同じである。それが不思議に介護する人がいなくなっても以前としてその重い石を背負わされているという感じになっていた。
でもその重い石がとりはらわれて何か自由だな楽だなと感じるようになった。
それは別に今までは30年間はそうだったのだけどそういうことが普通のだが介護していたらその普通の状態から離れて異常化した状態になっていたのである。

それは障害者とにているかもしれない、どこかに障害があり足が悪ければひきづって歩いている、それが障害者としての生活だからではもしあなたの足はもう良くなったから歩きなさいと言っても歩けなくなるとういうことがある。
そんな状態が介護の重圧が作りだしていたのである。

介護は介護一や二でも実際は食事でもそうだし何もできないから絶えず見ているということ、目が離せないのである。それより眼を話しても心配になるから四六時中頭から離れられないという重圧なのである。
何か常に重たい石をかかえていると同じなのである。
その介護の時間も最低で五年と十年なども普通にある、長いことがさらに重圧を感じる
一二年では終わらないことが重圧になる

だから妻とか親をある会社に勤めている働き盛りの人が介護して仕事していたけど仕事に集中することはむずかしい、自分は別に仕事しなくても何か重しのようにいつものしかかっているから正常な思考からも離れてしまっていた。
それは何か景色を今までのんびり見ていることもできなかったことに終わってみて気づいたのである。
それほど介護は自分は介護度一二くらいでも感じた、三食用意することも手間なのであるトイレは自分で行っていたしオムツをすることもなかった、それでも重圧だったのであるそれれくらいだから自分のようなずぼらな者でもなんとかやれたとなる。

介護は肉体的なものだけではない、精神的消耗が大きいものだと思った。
だから会社の技術職の人など仕事に集中できなくなる、すると日本の経済にとって損失だともなる、つまり介護は今や金の問題にしても国力を衰退するほどになっているのだ。
その数も増えてくれば当然そうなる

自分はやりたいことをやらせてもらったあとだからできた。それが50代とかなると働き盛りの人もいる、自分の場合は旅が仕事ともなっていたが海外旅行したのは50以降だからもう海外旅行もできないとなっていた。すると何かプログのようなものでも書くにしても変なことを言うことになり笑われていたとなる。
実際それまではそうだったのである。海外旅行の経験がなかったからである。
それから十年くらい海外旅行してきたからそれなりの識見をもてるようになったのである旅するにしてもそれだけの時間が必要になるのである。

だから介護は仕事として若い力を消失させるのはもったいない、というより国力の衰退につながる。それでナチスが障害者を抹殺するという暴挙になった。
障害者の問題は深刻なのである。知っている人でも軽い障害者でも今は40になっても60歳になってもめんどうをみることを親が強いられるのである。それも介護とにているのだ。そしてそういう障害者をめんどうみても誰もそのことでほめる人もいない、親だから当然だとなるだけである。介護してもほめてくれる人などいないし社会的評価してくれる人もいないのである。

だから自分は30歳の頃、叔父にあたる人が癌になり手術するとき輸血を頼まれたが断ったその人は60歳で死んだ。でも自分はその時登山をして体力がないから死ぬほど疲れていたのである。登山はものすごく体力を消耗する、自転車より消耗する
それで輸血を断った、その人は自分を恨んで死んだかもしれない、でもそれより自分はその時登山して良かったなと思う、なぜなら登山は体力あるときでないとできなかったからである。
そんなとき身内の介護でもしたくない、自分の人生が犠牲になる、では何が犠牲になるのか?お前にそんな犠牲になるものがあったのかともなる

でもあったのである。詩を作る、芸術を創造するというとき登山であれ旅であれそういうことは必須なのである。学問でもそうである。現実にこの地球を体感することがまず先にある。そのためには体力ある若い内に登山であれ厳しいことをしていた方がいいのであるなぜなら年取ったらもうできなくなるからである。
それで退職した人が一人旅しているのには最近良くあう、今日も函館から新幹線で来た老人にあったのである。

いづれにしろ介護報酬の問題などあるが介護の問題はどうするかとなるとむずかしい。
それがなぜかというと国力を衰退させるとまでなっているからである。
数が膨大になってゆく高齢化社会だからである。
たいがい介護した人は長いからもう介護にかかわりたくないとなる、自分もそうである。介護の重圧は借金ともにていて借金を返さない限り晴れた気分にならなかったというのとも同じである。
借金している人も確実に正常心を失っているのである。だから頭の中が借金のことしかない、その人が自分が介護しているとき病気になっている時来たのだから最悪だったのである。
第一他人の苦しみなど介護であれなんであれ無関心なのが人間である。
自分が苦しくなれば別だが何もなければ何にも感じないのである。

これから介護をどうするかは国民的課題である。金の面でもそうだし個々人に家族に課せられることでもそうであり世代間の問題でもある。
でもこれを解決することは簡単にはできない、親を捨てていいのかとかいろいろな問題があるからである。
た国でも市町村でももう財政的にも労力でももたないんということが現実に現れている
つまりもう老人は捨てるほかないという決断すら迫られる、特に介護ではそうである。
それは情がないとか愛がないとかの問題ではない、それだけの重圧にもう個々人でも社会でも耐えられないとなるからである。













タグ:介護の重圧
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2016年10月31日

介護は死から供養へと通じている (納得してくれる介護をしないと供養もできなくなる)


介護は死から供養へと通じている


(納得してくれる介護をしないと供養もできなくなる)


老人の介護となるときそれがふりかえると死ぬことに通じてその後の死者の供養にも通じている
死んでゆくことわかっている、だから介護と死者の供養は一体ともなっていた。
介護はみんな嫌だとなるが介護しないとまた死んでから後味悪いものとなる。
それで介護のときは嫌だとなりしたくないとなる、それもわかるが死んでみるとなぜもっと介護してやらなかったのか、親切にできなかったのかとみんな言う。
介護は人によって家族によってもみんな事情が違うから色々なのである。

自分の場合は特に良くしてもらったから必死になって介護した。
認知症になっても介護した。それで最後にわかってくれたこともあり介護して良かったなとつくづく思う。
そうしなければ相当に悔やんだことになる

なぜなら死んだらもう何もできない

この厳粛な事実を知る、死んだ人にはもう何もできない

こうしてしいれば良かったとかなんとか言ってももう死んだ人には何もできない、生きているときしかできない、そこに介護でも苦しいのだがないがしろにもできない事情があるただこう思うのは家族くらいであり家族でもそう思わない人はいる
親に苦しめられただけの人もいるからだ。
だから介護にはそうした家族の事情がありみんな違ったものになる
ただ施設の介護士などはそうした動機がもてないのである。
ただいくら金をもらってやるしかないとしたらそうなる
なぜいくらの金で安月給でこの人を介護しなければならないのかとなるからだ。

介護と死と供養は一連のものとしてつながっている、いくら良く介護したとしても死に向かっているのが介護だからである。
そして死んでみるともう何もできない、そこで供養するとなるのだがこれも実は介護と関係していたのである。
介護でも何か苦しいけど介護しないと何もしてくれなかったとか親切にしてくれなかったとか恨みを残すかもしれない、それは人によって個々の事情があり違ったものになる。
親戚の人は複雑な事情があるにしろ実の親でとないにしろずっと長く世話したのである。問題はあるにしろそうだった。後でもめたにしろそういう人を全く世話しなかった。
それで「ひどい娘だわ」と恨みを残して死んでいったのである。
その女性にも問題があり自分の家でも良く思っていなかったがその娘が自分の家にきて
「おばちゃんは金あるんだから金でめんをとみてもらへ」と血相変えて去って行った
その人は何も別に自分の家に来て何もする必要がなかったのである。
何もこちらで要求したこともない、要求できないことはわかっていたからである。
あの人はやはり苦労がたりなかったのかとも思う
今はどう思っているかわからない。

考えてみると人間が老いるということ死ぬということそれはもう若いときは二度ともどってこない、時間はもどってこない、あの時こうすれば良かったとかいくら後悔しても時間はもどらないのである。
何かそれと介護とかもにている、死んでからいくらもっと親切にすれば良かったと言っても相手は死んでいるのだから何もできないのである。
ではその後供養するとき、恨みを残したような人に供養できるのかとなる
墓参りしたとしても外からはあの人は供養していると見えても死んだ人はどう思っているのか、あなたはひどい娘だったと言って死んだ人に供養できるのかとなる

自分は苦しかったけどなんとか介護してわかってもらった、だから死んだ家族はそのことをわかってくれると思う
特別良くしたもらった自分だから当然ではあった。
死んだ家族でもそういうことを納得してくれれば供養しても死者と心が通じるとなる
だから介護の問題のむずかしさは介護から死から供養と一連のものとしてあることなのだそこに介護のむずかしさがあったのである。
意外とこのことが後で深刻なものになるかもしれない、なぜならもっと良くしてやりたかったとか親切にしてやりたかったと思ってもできないからである。
だから介護は苦しいのだけどないがしろにもできないことが死んでみてわかる

一期一会とか人間は死ぬからこそ生きている時間を大切にしなければならない、そのことが自覚できない、いつまでも生きているように思っているのである。
ともかく自分はなんとか介護したから心から手をあわせて供養できる
死者もそのことをわかってくれると思うとき心が休まる
何かこれは良心的な問題でもあった。死んでからもっと親切にすれば良かったとか思ってもできない、すると良心がいたむのである。
その良心は外面をいくら装っても偽ることができないのである。
死者はできなくてもなにもに語らなくても見ているという怖さがあるのだ。
死者には偽ることができないのである。

良い介護といってもそんなにはできない、自分はしなかったけど相手は介護してくれたなと見て死んでいったと思う。別に自分だけが介護するということでもない、問題は介護されている方がそれなりに納得してくれるることである。
介護でもきりがなくなる、別に胃ろうなどしなくてもそこで死んでも良くやってくれと思われることである。
恨みを残すようだったらあとで供養もできなくなる怖さが介護にはある。
自分は納得してもらったから死者に供養ができる、死者もわかってくれるということが偽りではなく死んでも心が通じていると思い供養できるのである。
人間は極限られた時間に生きるということを自覚できないのである。
そのことが人間の生をおろそかにする一番の原因だったのである。



タグ:介護と供養
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高齢化社会に合わない車社会 (認知症の事故もこれから増える)


高齢化社会に合わない車社会

(認知症の事故もこれから増える)

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しかし認知症高齢者の自動車運転による事故は後を絶たず、認知症と診断されながら車の運転を続けている人は、予想以上に多いとみられている。とくにそれは、ほかに交通手段のない地方で顕著であるということだ。

車社会というのが高齢化社会に向かないものになった。それでも田舎でも車なしでは生活できない、街から離れて暮らす人が多いし田舎では一人一台車をもっている
だから80歳以上でも車を運転している人が多い、農業するにも軽トラックが必要になる
田舎の方がエネルギーを消費する量が多く省エネではないというのもわかる
つまり車のエネルギー消費は膨大なのである。

車はまた人間の精神にも相当に影響した、車を歩くことと自転車とか電車と比べてもその影響するものが大きかった。
キレルというとき老人が切れやすいとか言われるようになったがそもそもそれは老人だけではない、車社会が切れやすい人間を大量生産したのである。
自転車は車にとって目障りである、突然横切ったりするからである。
だから何回もどなられた、「馬鹿野郎」とかどなり走りさってゆく
それは自転車にも非があるのだが車優先社会だからそうなっている
車は人間が中にいるということも外から認識しにくいのである。
ただ車という物体が高速で突っ走る、その中に人間がいるということも認識しにくい
切れやすい人間を作るというとき車という道具がそうしたのである。

例えば人間は牛馬を使っていきときは牛馬は生き物であり牛馬のリズムがありそれに人間が従う、時間も牛馬のリズムになり急がせることができない、そして牛馬は生き物だから人間の情が通じ合う、それで馬と娘が結婚したとういう民話が生れる、曲屋で家族のように暮らしていれば当然そうなる。
つまり車社会とは全然違ったものとして構成された社会だったのである。
その時動物と交わるから動物も生き物だから人間も情が豊かになる、今はこれほどペットブームになるのはそうした情が育まれるものがなくなったからである。
車を相手にしては便利でも情が育まれないからである。

旅をするにしても歩く旅と車の旅とか電車の旅とか船の旅でも相当に感覚的に違っている一番記憶に残るのは歩くたびである。でも現代はそれができない、車社会にのみこまれてしうまからである。
外から見ていても歩いて旅している人がいればあの人は旅人なのだなと見る。
するとそこで旅人があるいてゆくということで俳句になったりする
つまり歩くことは今や何か特殊な絵になる光景にもなっているのだ。
なぜなら道路に見るのは接するのは車だけだからである
江戸時代の浮世絵を見ればみんな歩いている姿でありそれが絵になっている
歩く旅が一番人間にとって自然な姿なのである。

これまでは自然のリズムと人間のリズムがかけはなれたものではないものだった。
乗り物でも船になると海でも川でもゆっくりすすむ、早くすすめないのである。
船でも帆船だったら風の影響があり風に左右されることは自然の影響を受けることになる何か自分が旅をしてきたが船旅が好きになったのはゆっくりしているからである。
たた船旅は時間がかかるからよほど暇な人でないとできないのである。
電車の旅でもずいぶんしたけど早すぎるのである。それで車窓から見た景色は記憶に残りにくい、それでなぜか駅名だけが記憶に残ったりしているのである。
電車の旅では意外と記憶に残るのが駅で待つ時間なのである。
昔の駅舎はなにか郷愁がある。そこは出会いと別れの場であり人間臭い場所だったのである。

ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく 啄木

上野駅すらこういう場所だったのである。これが新幹線の時代になると出会いと別れといっても何か待つ時間がないからそういう人間的なものがなくなる。効率を追求すると人間的なものがなくなるのである。経済的効率、時間の効率を極限まで計ってきたのが人間である。結果として人間がそこで奪われたものが多い、切れやすいというとき出会い分かれる人間的場も失われたのである。
街道に分去(わかれさり)という地名が残るときそこで人と人は分かれもう永遠に合わないということがあるから印象的な場となっていたのである。
そういう場は今はなくなった。ただ車は人間を無視して突っ走ってゆくだけである。
人間関係はキレルのである。

楽だ楽だと言ってエスカレターを利用していると子供もそれに右ならへしていると最後に石油がなくなってすでに脚が弱っていて使えず石油がないから電気も不足する事態が予想されるーエコロジー幻想(武田邦彦)

この本では著者が座っているとカルシムが消失してゆくとか便利なものに頼ることがかえって人間の力は消失してゆくと言っている
そういう文明の矛盾は科学者でも思想家でも常に指摘されてきたことである。
文明はともかく莫大なエネルギーの消費でありまた原発事故でもわかったようにそうして便利なエネルギーを追求することは自然破壊になった。
ソーラーパネルでもその光を電気にするためにはシリコンなど有害物質を作り出すことによって二酸化炭素を増やしているという。

原発事故では人間の生活そのものもを見直すことが強いられたのである。つまり原発も効率的にエネルギーを得るのにいいものとされていた。それもまた非常に危険なものだったからそうはならなかった。
肝心の土も水も汚染されたら住めなくなったからである。
いづれにしろ高齢化社会に車社会は合っていないのである。もう80過ぎたら運転は危険になる。でも車を手放すことができない、現代で車をもたないとか運転できないということはその能力さえないものとさされる
結婚するにしても車の運転もできないのそんな人とはねとかなる
車をもたないものは変わりものなのである。現実車をもたない人は能力的劣っている人も確かに多いから何か変な奴だともなっているのである。

自分が自転車にのっているのは何か自分は実際に車でもバイクでも運転すると危険だからである。いつも考えことしているからである。
自転車だと走りながら考えることができる、でも車だと何か外の景色を見て鑑賞することもできない、常に運転することに集中しなければならないからである。
何か考えことするようだと即事故になってしまうからである。
高齢化社会というとき負の面だけが強調されるがいい面として高齢者にあった生活は人間的なのである。スロー社会とかいろんな所で高齢者向きのものになるとそれは若者にとっても住みいいものになる、人間的な情でも人間関係でもそうである。
そうなると鬱病なども減るということになる。
車社会を全面的に否定はできないが何か減らすことが必要なことは確かなのである。
現代は物でもなんでも増やすことではない減らすこが望まれているのである。
効率的でなくても減らすことでもかえって人間的になり豊かになるという逆説の社会になっている、それで経済成長しないから困る、消費が増えないから困るというのは今までの企業優先の社会であり売る方の論理でありそれを変えねばならないのである。












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2016年10月19日

南相馬市の65歳以上35バーセント (看護師不足などー地域で育ったものは地域に貢献する時代)


南相馬市の65歳以上35バーセント


(看護師不足などー地域で育ったものは地域に貢献する時代)


高齢者人口は3384万人、総人口に占める割合は26.7%と共に過去最高
80歳以上人口が初めて1000万人を超える

南相馬市は35バーセント 相馬市も30パーセント

福島県では25パーセント

百歳以上も増えつづける

平成22年68744,449
平成23年76247,756
平成24年80751,376
平成25年81354,397
平成26年86258,820
平成27年97061,568
平成28年1,04665,692

高齢化社会というとき南相馬市は原発事故などで急速にすすんだ。35パーセントが65歳以上なのである。10人いるとすると3,5人となるこれは全国平均で26パーセントとするとき
かなりの多さである。何か街を歩いても目立つのは老人なのである。
この辺では人口が流動した。だから今でも除染であり工事関係者であれ5000人くらいまだ入ってきているという、だから実質の人口は増えているのである。
そして小高は住民票があり南相馬市に入っていても浪江であれ大熊であれ飯館であれそういう所から入ってきた人は南相馬市の人口になっていない、住民票が以前として前の町にあるからである。それでいわきでは税金を納めないとか問題になった。
家を建てても税金を納めないとすると住民でもないとなるからだ。
でもジレンマは住民票を移せば原発事故の補償金がもらえなくなる、だから移った先に住民票を移さないのである

だから南相馬市でも相馬市でも他でも原発事故の関係で福島県は実際そこに生活している人が増えても増えていない、住民票を移していないので移った先の住民になっていないのである。
だから例えば鹿島区の復興住宅に80所帯が買い上げで入るとしてその人たちは南相馬市の住人になるのだろうか?
補償金がもらえなくなれば打ち切られればそうなるのかもしれない、ただ以前として前の町や村に住民票を置くということも行政などでまた何かあるかもしれない。
この辺はそういうことでも混乱しているし原発事故は福島県全体をまきこんだものだったのである。

高齢化というとき百歳以上を毎年3000人から5000人規模で増えているのも驚きである。
この調子で増えてゆくとするとどうなるのかとなる
自分の母親も百歳で死んだ、百歳で死ぬことはどういうことなのか?
楽に死ねることは確かだろう。自分の母親は老衰でありほとんど苦しまずに死んだ。
約一週間前に水も飲まなくなっていたがホータブルトイレには行っていたし手がかからなかったのである。それで自分のような不器用な人間でも介護できたとなる
百歳まで生きることで得なことは楽に死ねることなのである。
その他は病気で死ぬから苦しむことになる

高齢化社会は日本全国でも影響が大きい、この辺は特に35パーセントになっているから先取りして高齢化になった。
復興といっても高齢化の影響でできないというのが現実なのである。
小高は避難解除しても帰ったのは90パーセントは65歳以上だろう。
老人だけが帰って町が成り立つのかという深刻な問題になっている
もともとこういうことは予測されていたのである。
たから高倉の老人は時期が早まっただけだとも言っていた。
子供は外に出て跡を継がないし老夫婦だけが取り残されたのである。

それにしても金山町とかは50パーセントが65歳以上である。二人に一人が65歳なのであるこうなるともう町でも村でも成り立つのかとなる、会津の高齢化は深刻である。
浜通りはそうではなかったが原発事故後急速に高齢化したのである。

それから南相馬市では看護師不足が以前としてつづている。それで市では奨学金制度で生活費まで援助するが南相馬市の病院に勤めればその資金は払わなくてもいいということでいくらかの看護師を確保した。それでも20パーセントがたりないとかなっている
というのは中通りでは200人とか看護師が増えた、双葉や浪江など相馬地域から原発事故で放射能を怖がって看護師が流出したのである。
子供をもっている看護婦も多いからそうなる。
何かだからこれからはそれぞれの市町村では今までのような考え方ではやっていけなくる今までは地元からどこにでも就職してもいいということがあった。
東京で人手不足なら東京に就職してもしかたないとなる

でも時代が変わった、別に東京と地方を比べるとき生活の水準が今はそれほど変わらない、通販やインターネットとかで情報的にも遅れるということもない社会である。
ただ就職先がないということで東京に大都会に出るという若者が多かった。
でも時代が変わり地元で育てたものは地元に貢献するというのが筋になる。
だからなぜ放射能汚染があっても子供が親を捨てて出て行くのか?
苦労して育てたのに何にもならないとなる、それは看護師の流出や不足に象徴されていたのである。放射能は低い所もありそれが即子供に影響するとはならないのである。
その影響はまだわからないからである。


これも広域社会だから起きたことである。看護師となるとどこでも就職できるからであるかえって給料がいいからと東京の方でもひっぱりだこになって移っている人もいる。
でも何かこういう広域社会グローバル経済社会の矛盾がでてきている
放射能汚染があった、何か困難が生じると他に移ればいいとなるとそれでいいのか?
家族すら離散していく、そんなに頼りないのか?何かそこに疑問が生れている
他で移り親がいるのに親のめんどうを見ないで他の病院で他の親のめんどうをみている。子供を育てた親は馬鹿らしい、なんのために育てたのかともなるだろう。
地域にしてもそうである。地域でその子供を世話しても外にでていくだけだとなれば
世話しても何にもならないということにもなる

「遠くの親戚より近くの他人」となる、それは隣の村でも歩いてきたら遠いから看病などでもできないのである。車でも通うとなるとめんどうになるのである。
だから娘がいたとか東京だとかなるといくら親孝行したくてもできないのである。
一方で血縁だらか遺産があれば遺産だけはもらうとなるとそんなら自分を助けてくれる近くの人にやっ他方がいいとなる。
何か老人になると近くが大事になるのである。若いときは健康だし人に頼る必要があまりないからそういうことを考えないのである。
ただ近くだから助けてくれるとは限らない、自分は全く助けてもらえなかったからであ
る、かえって弱者化したときこれ幸いと火事場泥棒とか脅迫されたりしたからである。
それでも近くの人を助ければ近いのだから助けられることはありうる
その確率の方がずっと高いのである。遠くになれば助けようにも助けられないからである。

高齢化社会というときマイナス面が強調されるがそれだけではない、社会に影響するというとき高齢化はスロー社会になるからなにか急がないゆったりとした社会にもなる
どうしても団塊の世代が活躍した時代は高度成長時代でありがつがつしていた、欲望でぎらぎらしていた時代である。
それが今はない、何か全体的に活力というものがないのだがスロー社会であり落ち着いた生活をよしとするようにもなる
高度成長時代の企業戦士とかなると獰猛な肉食系の人が活躍した。
今は草食系とかいわれるのもそのためである。老人になればどうしてもその土地に根ざした生き方になる。植物的に根を張る生活であり農業的なものになってゆく

自分でも若いときは世界へ羽ばたくというか拡大化してゆく旅である。新しいものを貪欲に吸収する、それで旅ばかりしていたとなる。
でも旅したことでも今度はその意味を深化させる、旅だけではなくこれまで経験したことをその意味を深化させるのが老人に向いているのである。
ただ新しいことはもう吸収できない、これまで吸収したもので花咲かすのである。

何か老人だと誰でもその人の経験した話が面白い、札幌から来た自転車旅行の67歳の人は冬山にも上り一緒に登った人が死んだというときそこに驚きがある。
そんな経験はなかなかできないからだ。山は自分も登ったが一番疲れるし危険でもある。自転車旅行では交通事故があっても遭難などはないのである。
何かそういう人の体験しない話を聞くのが面白いのである。
そうなると平々凡々の生活をしてきた人の話は面白くないとなるかもしれない、公務員とかはそうなるかもしれない、冒険がないからである。
一般の社会人でも企業でも冒険があると話も興味深いものになるかもしれない
漁師とか農民の話も実際は興味深い、それは自然と深く結びついたものだからである。
札幌で暮らしているとかなるとそれは大都会であり都会人だから興味ないともなる
本当の北海道人だったらやはり牛を飼っているとか農業をしている人とかになる。
他に漁師もいるからそういう仕事の人の話を興味深いものとなる

老人の価値を若い人は金だけだと思っている、金だけを求めているがその人の経験があり特別な経験をした人の話は面白いのである。
要するに老人は経験したことから芸術でも学問でも何でも創作しているのである。
若い人はそういう経験がないから書くものでも浅薄になる。
若い時は何か芸術でも深く見れない、鑑賞できない、思想でも哲学でも深く本でも読めないのである。理解できないのである。
老人になると理解力であれ鑑賞力であれ何かを深くみる創作するということに向いているのである。
創作する人にとっては芸術とかなると長生きした方がいいのである。
長生きすればするほどその芸術が深いものとなるからだ。
ただ人間の価値はいろいろであり芸術だけではない、何かしら老人でも価値をもとめればある。

しかしただ長生きしただけで人間の価値が生れるかとなるとそうはならないだろう。
人間は何かの価値に生きる、それがただ長生きだったら価値あるとははならないのであるこの人に何の価値があるのか?それはそれぞれに違っているからなかなかわかりにくい。
それはこの人は長く生きたから価値あるとも言えない、百歳生きた人が価値あるかどうかはわからない、みんなが果たして価値あるものになるかどうかわからない。
自分の母親は家族のなかでは価値があった、自分も支えられたから価値があったが家族外では価値があるものなのかどうかはわからなかった。
社会的に価値ある存在というときそれがどういうものなのか見極めるのはむずかしいとなる。
社会的にはこれだけ高齢者が多いというときただ社会にとって重荷であり迷惑であるということも高齢化社会では顕著になるからである。

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2016年09月27日

障害者の大量殺人の次はに老人の大量殺人?ー看護師による殺人 (思いは必ず実行されるから怖い)


障害者の大量殺人の次はに老人の大量殺人?ー看護師による殺人

思いは必ず実行されるから怖い

9月20日、横浜市神奈川区で死亡した八巻信雄さん(88)の体内からは、消毒液の成分が検出されているが、18日に亡くなった別の入院患者、西川惣蔵さん(88)の体内からも、八巻さんと同様、界面活性剤の成分が検出され、死因も中毒死だった。 
一方、この病院で勤務する看護師が、FNNの取材に応じた。 
病院に勤務する看護師は「結構、立て続けに亡くなっているので、珍しいですね。(病院の)4階はおかしいという話が。呪われているんじゃないかとか」と話した。 
看護師によると、病院では、7月から9月に、およそ50人の高齢者が、同じ4階で死亡しているという。 



みんなが「障害者はお荷物」「障害者を長生きさせることはない」「障害者は産まれなくても良い」と障害者を罵り続ければ、 
障害者を殺しまわる人が出てきた 

みんなが「老人はお荷物」「老人を長生きさせることはない」と老人を罵り続けていたら 
老人を殺しまわる人が出てきた 

犯人はみんなの意見に感化されたのか、みんなの意見は世間の代弁だったのか… 

とにかくみんなの意見が犯罪者の考えと連動している…ということは明らかだと思う 

犯罪者は2ちゃんねるに集まるということなのか?


人間の思いは念は怖い、一見ただ思っているだけだから害がないとみんな思っているし別に思っただけで犯罪にもならない、すでに心で殺意でもわけば犯罪だと宗教だとなる

思ったことは必ず行為となる

そして思いの怖いのはその本人が思った時、それが関係ない他者に影響するというのだ。誰かが殺したい、殺したいと思っていると誰かが意志の弱い人間に伝播してその人が代わって実行されるという。だから思いは現実のエネルギーとして他者に伝播されるから怖いのである。
思いが思いとしてととまることなくなんらかエネルギーが伝播して行為として現れる

障害者なんか生きているだけで負担だ、家族も負担だ、死んだらどれだけ楽になるか
何であんなのが生きているんだ、死ぬのが一番本人にとっても家族にとって社会にとってもいいことだ

老人はなんで国民の税金をあんなに使っていきているんだ、なんでそんなに活かそうとしているんだ、延命治療なんか無駄なんだよ、税金の無駄使いなんだよ
安楽死させろよ、それが当人にもいいし家族も楽になるし社会にもいいんだよ
もう老人のために金は使うな、若い者の未来が老人によって奪われているんだよ

老人は死ね、早く死ね、死ね、死ね、なぜこんなに老人ばかりなんだ、早く死ね、死ね・・・・・・・


こんな声があふれている、特にインターネットになるとそうした本音がいたるところに出てくる、それが意外とまた相乗効果になって思いが増幅されて社会に拡散して誰かが本当に行動する
そこに確かにネットの危険性があった、インターネットによって憎悪もグローバルに拡大したというのもそうである。ネットだと発言が自由だから必ず何事でも対立がある。
その対立が日常的になるのである。たいがいは今まではそうした対立があってもおさえられていたのである。ネットがなければなかなか拡散することはできなかったのである。
その反面マスコミによって一方的情報で洗脳されていたのである。
今やマスコミさえマスゴミとしてこきおろされているし絶えず批判の対象になっている

ともかく人間の思いは必ず行動として実行されるから怖いのである。
借金している人はもう頭の中が借金を返すことしかない、ともかく何であれ金が欲しいとなるだけである、こういう人は本当に怖い、そういう人が自分の病気の時苦しいときに来たから最悪だったのである。
もう殺人者が来たと同じだった、最初は事情がのみこめなかったがあとは家族ぐるみで自分に借金の要求、金の要求になったのである。
だから借金自体が大罪でありもう犯罪者なのである。殺人犯が自分の病気のとき苦しいとき来たと同じだったのである。
もう自分が死ねば金が入るとまで思うようにもなっていた。そういうことは遺産争いで普通にある。金をめぐってはそれだけ人間が恐ろしいものとなる
何十万の金でも人は殺されているからである。

現代社会は豊かになっても人の思いが乱れている、欲はかえって豊かな生活でも増大している。金があれば欲望をかなえるものがある社会だからである。
そうなると常に金が欲しい金が欲しいという思いにみんな占領されているのである。
金持ちすら金があってももっと金が欲しいとなっているのが今の社会である。
要するに人間の欲はきりないということである。

今世の中に満ちている思いは異常な状態かもしれない、そうした思いが世界をおおうようになったらとをなるのか?それは目に見えないにしても地球を宇宙を作った神にも伝わり影響する、それで地震や津波や大災害が起きてくる
ノワの洪水も起きてくる、そういう末世に今や来ている

国際問題でも中国でも韓国でも日本を憎悪することをあおる、それが一三億人の中国人の思いとなったとき怖い、日本なんか滅びてしまいから滅ぼしてしまいとなる
そういう思いが怖いのである。だから反日というのは簡単に見過ごせないだろう。
一方でアメリカはどうなのか?アメリカ人の思いは何なのか?
別にアメリカ人は日本を恨んではいない、中国や韓国のような反日はない、それはアメリカが日本を支配しているから手下になっているからだともなる
だから今度は日本が中国の属国に手下になれば反日はなくなるのである。

いづれにしろこの思いは怖いということをみんなが自覚すべきである。
自分が半年間、金が奪われたことである人を恨み呪いつづけた。
その半年後に地震が来て津波が来たことも不思議だった
その念が影響したのかとも思った。自然に人間のなんらかの思いや念も影響するのである
いづれにしろ老人は死ねとかネットでの若い人の思いがこうした老人の大量殺人につながった、障害者の大量殺人もそうである。それを大規模にしたのがナチスかもしれない、つまり思いが念が現実化するから恐怖なのである。
動物には何か人間のような悪い念はもてないようである。人間の思いとか念は特別強いのである。
動物は人間に殺されて死んで食われてゆくから恨んでいるともみる、それで供養したりもしている、でも動物自体がそれほど恨むという思いがあるのかどうかわからない
ただ動物となるとやはり哺乳類とかなると人間とにているからそういう感情をもっているともなる、猫でもそうだけで飼っていると人間化してゆく,何か人間のことを察するようになる、人間の心をみるようになる、その心に反応するようにもなるからである。

こうした障害者や老人の大量殺人は結局起こるべくした起きたのである。それは世界的に共通である。そういう思いが世界中にあるということである。
それだけ社会に深刻な影響を負担を与えるからそうなる
認知症の介護でもそれを自分は経験している、でも二年半くらいで認知症の介護は終わった、でも障害者となると一生なのである。その長さもあまりにも負担だとなる
認知症の場合、人によって違うが何か介護する動機をもてるのである。
自分の場合、家に尽くした人だから恩返ししなければならないと懸命に介護したのであるでは生まれつきの障害者に知的障害者でも世話するとなるとその動機がもてるのかとなるただ自分が生んだというだけでその負担を一生負わなければならないからだ。
それもあまりにも過酷だとなるのである。

ともかく病院は一番簡単に人を殺せる場所なのである。外国で大量殺人があったしそれでも立証するのがむずかしいという、病院は医療ミスが常にあってもなかなかわからない、高齢者などが死んでもただ寿命で死んだというだけで問われないし家族も問わない人が多いのである。身寄りがない人だと余計に殺しても実験台にされてもわからないのである。家族が何か言うこともないからである。
病院は密室化して非情な場所になりやすい面がある
それと看護師でも医者でも高齢者はこれから故意に殺すということがありうる
それを許す社会状況もあるからそうなる、だから障害者や高齢者の大量殺人はこれからも起きてくる、自分は病院に二回一人で入院したから恐怖を覚えた
南相馬市立病院ではそれほどでもなかったが相馬総合病院では看護師の扱いがひどかったからいい印象をもたなかった。
一人の看護師でもそういう人がいるとその人にとっては悪い評価になる
親切にされた人はまた違った印象をもつのである。
医者は一日二回も回診していたのだから南相馬市立病院よりは良かったのである。
ただ看護師でももうそういう病人とか高齢者にばかり接していると嫌になる
何かストレスがたまり親切にできなくなってくる、そういう過酷な現場でもある。
自分の場合は別に重病でもなかったのだから嫌になるという患者ではない
だから不親切にされたのが今でも心に残っている

そして病院に対しては何か嫌だなという気持ちが大きくなっている
要するに病院という場でも弱者と強者となる場だからそうなるのである。
患者に対して医者や看護師は逆らえない強者になる、すると従わざるを得ないのである。それは自分が病気になり苦しんで介護しているとき借金を要求してきた親戚の人もそうだった、自分が身寄りがないとなんとか弱点をついて責めてきたのである。
相手も金をとるために必死だったからそうなった。
弱者になるとわかるけど弱者とは逆らえないのである。医者や看護師には逆らえない、従わざるを得ないのである。、だから殺されるとしても簡単に殺されてしまう
そうなっても結局殺人なのかどうかも立証するのがむずかしいとなる

それは弱者が相手だからそうなっているのである。
人間はいかに弱者に対して非情になれるかということがある。
弱者になったときその人間の本性が現れるから怖いのである。
そして強者は弱者を支配するようになる、弱者は何も抵抗できないという立場に置かれるそれが患者とか医師、特に病院内ではなりやすいのである。
ただつくづく人間はいつも強者でありえないのだ、必ず一生の間で弱者になる、特に最後に弱者になる、その時弱者となって弱者の気持ちがわかるとなるのである。つまり看護師だって看護される身になるし医者も患者になる、その時弱者になった痛みを理解できるのである。
そうなるのはすでに時遅しともなっているのが人間である。孝行したいときは親はなしとか言われたのもそうである。
親が死んでみないと親のありがたみもわからないのである。

やはりこの事件の解明はなぜ殺したかという動機だろう。何か看護師同士でもめていて恨みがあった形跡もある、とすると動機は何であったのか、殺人の動機というとき犯罪の動機というとき、一つだけではない、いろいろなものが重なって犯罪になる
なんらかそうして犯罪になる動機がかさなっていった。
この動機の解明は大事だろう、それは病院ではまた同じようなことが起こりうる高齢化社会だからである。看護師がそういう状態になる、患者を殺すような状態にある、そういう動機をもつというとき他の人にとって危険になるからである。
犯罪の焦点は動機にある、動機がなければなかなか犯罪者を特定しにくいのである。




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2016年08月19日

認知症は記憶できない病気 (料理することが認知症の予防になる)


認知症は記憶できない病気


(料理することが認知症の予防になる)

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文字がどこにあるか一旦見せて隠すと認知症の人は記憶できないからわからない
普通の人でも一文字ならわかるがこれが二文字ABとかなるとわかりにくくなる
そしてABCはなるともう普通の人でも覚えることができない




認知症も本当に何なのかわからない謎である。一番驚いたのは銀行から金をおせなくなったことである。これほど衝撃的なことはなかった。
いつも頭がいいと自慢していたしそういう面はあった。
それが金が下ろせないとなれば完全に無力化したことになる
なぜなら金がどうのうこうのというが金はやはり力をもっている
金があれば人も動かせるのである。人は金に従うのである。すべてではないにしろ金をもっていれば老人になっても無力化はしない、その金をもっていても自由にできない
これほどショックなことがあるだろうか?
一億円もっていも銀行から金を下ろせない、みんな金にこだわり金、金、金で生きているのに金があっても自分で使えないということが一番のショックである。
それが認知症になると起こるのである。

だからこのことから見れば何なのだ、全く馬鹿になってしまったのかというふうに見るし外からも見られる
そして不思議なのはその金を下ろせないということで自分の頭をたたいてく悔しがっていたのである。とをしてもわかろうとしてもわからないからそうなって不満になり自分の頭をたたいていた。
これを考えると自分が銀行から金を下ろせないことを意識している
金を下ろせればいいと思っているができないので不満なのである。
それが怒りにもなる。ではこうなると認知症の人は全面的に馬鹿になったのだろうか?
そうとうもいえないのが不思議なのである。

図のように認知症は記憶できない病気である。
実験として図の中にAを見せる、次に隠してどこにあったか指摘させる、たいがい一つの文字ならわかるだろう。でも認知症の人はなかなかこういうことが相当に苦手になる
まず文字が二つAとBになったらほとんどどこにあったか記憶できない、直前の記憶ができないことが認知症の特徴なのである。
普通の正常の人でもまずもじがABCとなると図の中に配置したらわからなくなる
このことから料理することは認知症の予防になる
なぜなら料理することは十種類くらいのものを使うからそれを覚えていないとできない
特に冷蔵庫の中にどこに何があるかを知っていないとできない
料理は明らかに頭脳を働かせて整理する訓練に向いているのだ
種類が多いから冷蔵庫でも中にどこに入っているか自分は忘れるのである。
もし料理することだけを専門にしていればそういうことはない、いろいろやることがあるから必ず自分は忘れるのである。
人間は一つのことにAという文字には注意して覚えるがそれがABとなると覚えにくくなる
二つ三つとなると覚えにくくなるのである。

認知症が記憶できない病気というとき良く財布とか大事なものを隠すが隠したところが記憶から消えるのでパニックになる、それで泣いて訴えたり探せと狂気のようになるのである、何かその時感情が高ぶり狂気的になるのが認知症の特徴である。
だから側にいる人は常にその隠した場所を知っていてないというときここにあるよと安心させるのがいい、だから狭い部屋で管理しやすいのがいいのである。
なぜなら二階に自分の着るものを置いたりする余計に自分でかたつげていてもないとなりパニックになり狂気的になるからである。盗まれたとか異常に感情的になり激怒したりするからである。良く入れ歯をなくすので苦労したのである。
認知症はまた整理できない病気である。同じ種類のものとか同系統のものとかを区別して整理できないのである。

認知症の人がなぜ暴力的になるのか?それは今までできたことができなくなる不満が大きいためである。それから今までつきあっていた人ともつきあうことが断られたりいろいろな不満が大きくなる、するとその不満が一番身近な家族にぶつけられるのである。
施設だと介護士とかの暴力になる、そういう簡単なことができなくなっても以前としてプライドをもっている、自分はこの家で何々してきたとかやはり自慢している、自分は頭が良かったとかも言いプライドはなくならないのである。
確かに簡単なことができないわからないにしても人間としてその人は馬鹿になり人間でなくなったのかと思ったこともあった。
それが最初の驚愕だった。でも人間としてわかっていることもある、人生経験から何か諭すようなことも言うのである。

ともかく認知症の人を扱うのが大変なのは家族だったら自分の家族だったらこの家を作った人だとなると馬鹿として扱えない、自分はいろいろやってきたというときプライドをもつとき否定できない、施設だったらそういうことはないからそんなプライドをいちいち取り上げないだろう。頭から馬鹿にしたりするだろう、する不満になりそれが怒りとなり暴力ともなる、ここが一番やっかいなのである。
功罪はあるにしても功績があるからそのプライドを否定することはできないのである。

いづれにしろ認知症の予防というとき記憶できない病気だというとき料理などしていないと認知症になりやすいだろう。一人は全く料理もなにもしなくなっていた。
一人は93さいころまで料理していたのである。趣味もなにもないが料理していたので認知症にならなっかったのかもしれない、ただ95歳頃から寝たきりになり認知症になっていたこのころになるとみんな認知症になるからこれはとやかく言えないのである。

認知症の症状には脳のメカニズムが関係しているのだろう、直前のものが記憶できないということは海馬が障害を起こしている、でも昔のことは鮮明に覚えているので千回も話しつづけて聞いているのが嫌になる。
過去に生きているというとき自分は過去に何々をしたとそのしたことを認めてもらえたいのである。戦争で苦労したらその戦争で苦労したことを認めてもらいたいのである。
そこにプライドがあるからである。だからその人が迷惑ばかりかけていたりしたら認知症になったら介護するのもいやになるだろう。何もしてくれない何も残さなかったとか世話しなかったとかなればそうなる。
迷惑をかけつづけて最後にまた大迷惑をかけただけだとなってしまう。
自分の場合は特別良くしてもらったから介護したし今になると恩返しできて良かったなと思う、そうでないと何も恩返しができなくて後悔したからである。

介護というとき個々の家族の事情が深くかかわっている、兄弟でも良くされたものが介護しろとなるのはそのためである。ただ介護は家族だけでは負担になる。
自分も十年間して疲れたのである。何か相当に介護は精神的にも肉体的にも消耗するのである。ただ自分はやりたいことをやらせてもらったから不満はないのである。
親子関係でも家族でもいろいろだから介護の事情は違ってくるからいちがいに言えないのである。
ただつくづく人間は日頃の行いが大事だなと本当に思う
自分の所に来た親戚の人は事業に失敗していたのだから何も助けることはできない、多少はしてもただ頭が借金のことで一杯なのだから何もできないというより脅迫されたから怖い、これも日頃の行いが悪かったから肝心な時に何もできない、かえって苦しめる結果になったのである。

原発事故でも仮設で何もすることがなくギャンブル、パチンコばかりしている人もいたし何か会津で家具の修理の仕事とか他にも農業しているとか日頃していることをしていた人もいる。大工なども仕事としてどこでもできる
何かこうした緊急事態のときでも日頃していたことが役にたち復興になる
何かあったからといって人は何か特別なことができるわけでもない
日頃していたことしかできないと思う、そのことが役にたつのである。
だから日頃の生活が大事なのだけどそれがあまりもに平凡だから大事だとも思わない
人間の一生でも何か特別なことは人生に一回とか二回くらいしかない、あとは平凡なのである。青春時代は特別なことが起こるがあとは何か人間は平凡なのである。
家庭生活でもそうだし何か特別なことはないのである。

ともかく認知症の対処も家族で違ってくるが認知症特有の症状は共通しているところがある。直前のものが記憶できない病気ということで共通している
その他はいろいろあっても全部が異常をきたしているものでもないようにも見える
これも個々に違っているからわからない、でも馬鹿になっか、痴呆になった、もう人間として扱えないとまではならないと思う。
ただ症状があまりに悪化するとそうなるかもしれない、なんか最後に正常にもどるということを書いたけど時々認知症の人が正常にもどる正気にもどるというのもこれは経験しているから本当である。これも不思議なことだったなとつくづく思うのである。

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2016年07月26日

認知症とは何なのか?その介護のむずかしさ (プライドが最後まで消えないのと人格は崩壊しない)


認知症とは何なのか?その介護のむずかしさ


(プライドが最後まで消えないのと人格は崩壊しない)


●自分のしてきたことについてプライドを持っている

●時々正気にもどる、最後は特に正気になる

●人格は崩壊しない


認知症は何かとなると謎である。医者がいろいろ判定しようとしているが何か実際はわからない。
本当にこの人は馬鹿になったのか?痴呆になったのか?何もわからないのか?
こう問うてゆくとそれが良くわからないのである。
確かに銀行で金もおろせないとなると知能指数は極端に低下して白痴化したのかと思ったでも奇妙なのは人間は計算などできなくても人間でありうる
そもそも人間であることはどういうことなのか?
これもまたわからないけど生まれつきの知的障害者と違っているのは老人の認知症は長い間正常に生きてきて実際に自分のしたことに誇りをもっている。
そこが根本的に生まれつきの知的障害者とは違っている
生まれつきのちて知的障害者はプライドをもっていないだろう。
だからこそ馬鹿にされると怒るのである。激情的な人だと暴力になる
計算できないとか忘れるとかあるのだけどそれを指摘して馬鹿になったとすると怒るのである。

それはどうしてかというとプライドは消えないからである。
自分が人生でしてきたことに対してプライドをもっている
だからこそ過去のことは覚えていて自分がこうしてきたんだよと何回も言うのである。
自分のしてきたことについて誇りをもっているから何回も言うのである。
姉の場合は従軍看護婦とてし四年間シンガポールで辛酸をなめたから死ぬ間際までそのことを語りつづけたのである。
そのことが人生で一番印象に残っていたからである。
そして家に尽くしてきたことも事実であるから語りつづける
それは自分ともかかわるからそのことを否定できないのである。
つまりそのことを自慢したら持ち上げるほかない、そうだと認める
そうすればプライドを満足させられ気分も良くなるのである。
これが施設だと家のことは関係なくなるからプライドももてない
家から離れると施設は家でしたこととは関係ないから
家のことを語ってもプライドを満足させられないのである。

要するに認知症の介護のむずかしさは人間として最後までプライドをもっている
それを家族の一員は本当だから否定できない、持ち上げることで同調するしかない
施設だとそれがないから症状が悪化するともなる
だから社長だったような人は嘘でも社長の部下のようにふるまうと気分が良くなるとなる家庭の場合は演技ではない、現実そうなのだからそれを認めねばならないのである。
自分はそうしてきたのは家にも尽くしてくれたからそうならざるをえないのである。
それは他でも母親として苦労して育ててもらったらそうなるのである。

最初は何かわからなくて人間でなくなったのか?そう思い恐怖した。
でもだんだん介護しているうちこれはそうでもないのかと思ったりした。
ただ実際はいろいろあって良く理解できなかった。
認知症になっても人格は崩壊しないし人間として生き続ける
ただ自分は一人しか見ていないから他はわからない
認知症の人は多様であり定型化できないからである。

そして認知症の人は時々なぜか正気にもどる
これも不思議な現象だと思う
二人介護して二人ともそうだった。
時々正気にもどったのでびっくりしたのである。
特に死ぬ間際にはたいがい正気にもどる
生まれつきの知的障害者は正気になることはないだろう
認知症は必ず正気にもどる時があるからこの人は馬鹿になったとはならない
最後まで正気の人として接することが要求される
これもいろいろあって家族ならある程度できるが施設などではむずかくなるだろう。
だからどうしても介護は家族がやるのが理想なのである。
認知症になるとどうしてもその人のことが理解できないからそうなる。

自分の場合は二年間くらいが認知症の介護であり次に寝たきりになった母の介護だった。だから認知症の介護は短いから救われたとなる、長くなったら疲れ果てて嫌になったろう正直早く死んでくれて助かった。なぜならそのあとまた介護がつづ0いたからである。
認知症の介護は放蕩にむずかしい、それは身体の介護というのでなく心の介護になっているかかもしれない、第一その人が人生で何をしたかなどと普通はかかわれないだろう。
家族だったらかかわれるけど他人はかかわれないだろう。
医者でも看護師でも体はみても心まで人生まではかかわれない
それは認知症とか終末ケアの大きな問題なのである。

結局なんであれ人間は最後に生きてきた自分のしてきたことを認めてもらいたいのであるそれもそうである、自分の一生がなんであれ無益だったとされたら耐えられないだろう
人間は貧乏なのは貧乏それ自体ではなく貧乏として金持ちに見下げられる、下等な人間とてしさげすまされることなのである。
別に貧乏でも誇りをプライドを持つものがあればそうはならない、俺は貧乏だけど画家としては一流だとか何かプライトをもっいれば貧乏でもプライドがもてるのである。
なぜイスラムのテロが起きるのか?それは差別されるとか何かさげすまされるとかプライドが傷つけられるからである。
人間は誰でもプライドを持つ、そのプライドの戦いが人類史だとも言う人がいる。
イスラムはもともとヨーロッパより先進国だった。科学や数学はイスラムからヨーロッパから学んだのである。それは中国に言える、中国は日本なんかより先進国だったし学んだ国だからそこで中国人はプライドがあり反日になる。
戦争でふみにじられたことがプライドを傷つけられて許せないとなるのである。

認知症の人も最後までプライドは消えないし人格が崩壊するわけでもなかった。
ただ数など計算できないから痴呆になったと思ったがそうでもなかった
ただ謎が多いことは未だにあり一人しか見ていないからわからない
認知症の介護のむずかしいのはプライドをもちつづけるからそれを否定しないようにすることである。
プライドを傷つけられると激情的な人は暴力になるから気をつけろとなるのだ。
そこが介護のツボとしてあるとなる。
ただ家族ならそれに答えられるが他人だとむずかしい、
体だけみているのとは違うかむずかしいのである。
若い人は身体を介護しても心までみるとなるとさらにむずかしいだろう。
そこに介護とかターミナルケアのむずかしさがあった。  
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2016年07月16日

介護で国力も衰退する (老々介護で共倒れが増える)


介護で国力も衰退する


(老々介護で共倒れが増える)


姉と関係していた近くの人が病院に入院しているという。
その夫とあって話したらその人は83才であるが頬がこけてやせて病人のように見えた
前に書いた戦争を経験した95才の人より老けて見えるし顔全体がやせて病人のように見える
その人は別に介護といっても病院に通うくらいだからそれほど辛い介護ではない
施設には入れないというときそれはみんながそうである、それで病院に入院していられるのも助かっている
確かにあの人を見ると自宅ではできない、でもまだ自転車にのれるのだから筋肉は弱っていない、それにしても悪いけどあんな骸骨のような顔になるのも老いの辛さがある。

これから老々介護も増えてきて悲惨な事件も起きている、NHKで介護殺人のことを報道していた。自分も同じ心境だった。死んでくれたら楽になるなと思うことは異常なことではない、介護しているとそうなるのだ。
介護の問題はいろいろあるけど介護は長いということである。自分は二人で十年間であり他の人も7年だとか十年だとか長いことが答えるのである。
癌だと余命一年とかなるから苦しくてもその間我慢すればいいと割り切れるが介護は先が見えないほど長いのである。
その人は認知症の母親を十年介護している、それで脳梗塞で倒れたとき救急車を呼ばないで死んだ方がいいと思ったという心境もわかる。誰でも死んでほしいと思うことがある。それは異常なことでも非情なことでもないのである。十年も介護していたらそうなる。
その人は50才としたそれまで50前から介護しているとしたら余計に辛いとなる。
近くの腰がまがりかけた女性も十年介護しているという、老々介護になると介護する方の負担が大きくなるのだ。
自分も病気なのに介護していた。誰も助けるものがいない、助ける人が一人は犯罪者であり一人は借金を要求するような人だったからかえって負担になった。
人の弱みにつけこんでくるような人だったのである。何の助けもなかったのである。
介護は誰か一人にまかせられる傾向がある。兄弟がいてもそうである。

介護で一番苦しいのは何かという問いに自由がなくなったということを言っていたが同感である。刑務所に入り牢獄につながれたようだというのもそうである。  本当につききりになるから全く自由がなくなる、自分にとってはこのことが一番辛かった。自由気ままに生きてきたから余計にそうだった。
ただ自分の事情としては特別そうして自由に生きられたのはそれだけ家族にしてもらったからだとその時自覚したのである。
つまり自由というのは誰かによって与えられたものなのである。
まず家が金銭的にでも労働でも余裕がないと自由は与えられない、金があってももし自分の家が一人だとむずかしい面があった。二人がいたので自分は自由に旅できたのである。留守する人がいたからである。今は一人だけど何か旅するにも留守する人がいないとなると不安になるのである。
自由というときやはり旅すればホテルであり食事であれ交通であれ世話になる、誰かが働く人がいて自由な旅もできるのである。
普通はみんな働いているからである。


ただ介護自体はいくら懸命にしてもそれ自体が何か社会にとって有益にも思えない
私はこれだけ親の介護しましたよと言ってもそれは親なんだから当然でしょうとなるだけである。
でももし芸術にしても作品をみせてそれが価値あれば社会的に価値あるものとなる。
介護したからと社会的に認められることはないのである。
それで介護というのは相当な社会的損失になるし国力の衰退にもなる
ある人は技術者であり会社で開発を担当していた。50才くらいであり油がのりきっている年齢だけど妻とかの介護をさせられた。それで仕事ができなくなることは社会的損失であり国力の衰退までなる
自分ももし50才で介護させられたら海外旅行できないから何か批評するにも馬鹿なことを言っていたろ
50才で海外旅行して見識が広まったから何かを言うことができる、理解できたから言うことができる、自分の場合は介護になるまでに自由を奪われなかったから良かったのであるだから自分は親のことを責めたりしないし介護でも懸命にしたのである。
でも40とか50とかで介護させられて仕事もできなくなったとかなると後で恨みになることはまちがいない、介護のために親のために人生を奪われたと恨むようになる。
介護が十年ともなると人生の中でその時間が奪われたことになるからだ。

これからは老々介護も増えてくる、そうすると共倒れにもなり介護殺人も増えてくる
施設に入れないとか普通であり団塊の世代が介護されるときもあと十年とかでなる
そうなるともう介護ができない、施設にも入れないとか悲惨な事件が日常的になる。
身寄りがないような人はもう介護されないとか病気になったら自死を覚悟せねばならない自分がそれを経験したから恐怖である。誰も助けてはくれない、同情もされない
病院でも看護師に虐待されても施設で虐待されてもどうにもならないから恐怖である。
結婚しない方がいいと考える若者はその老後い厳しさ予測できないのである。
金があればその金目当てにくるたげである。実際に犯罪にあったからである。
つまり老人をどうみているかというと一般的に財産があればその財産に目をつけられる
それは子供ですらそうなのである。だから介護しないなら子供でも財産を与えないというのもわかる。そういう時代になったのである。
老後とは長生きとはかえって過酷なものとなってゆく
だから一番大事なのは健康だとなる、健康であればなんとかのりきれるが金があっても健康がなくなれば老後は地獄になるのである。健康の価値は何倍にも高くなるのが老後である。

では健康というのはどうして作られるのか?これも若いときからの日々の暮らし積みに長年の間に影響してくる、そして60以後必ず病気がでてくる、60以後は別に健康に注意していた人でもなんらか病気になるのである。
自分は30代で酒も飲まなくなった。そして体力がないのだけど疲れると寝ていたから楽したからこれまで生きられたのだと思う。集団的に生活することができない性格である。
学校にも会社にも適応できないが家族に恵まれたから体力がなくても生きられたとなる。60以後は何であれ人生の総決算のようなものが具体的に否が応でも現れてくるのだ。
それは正にカルマの総決算である。これはさけることができないのである。
要するに自業自得だということである。若い内はたいしたことがないことと思っていてもそれが老後には痛恨の苦いものとなる。若気の至りではすまされなくなるから怖いのである。そのカルマは必ず老後に払わされるのである。

だから「心の青雲」でも何か空手でも体を鍛えているというのには感心する
リハビリでもやはりそうして心がけで回復する人としない人がでてくる
そういう姿勢には共感する、
いづれにしろ介護というのは国力すら衰退させる大きな社会的問題である。
親の介護で人生の時間が奪われるた人は親に感謝しなくなるだろう。
これも大きな問題である。自分は若いときは親戚の人が病気になって助けを求めたとき何もしなかった。自分のしたいことをした。それで良かったと思う。
旅をして良かったと思う。今になると旅すらできないからである。
なにかやりたいことをしないということは必ず人生を後悔する
それが介護などで奪われたらあとで恨むようになるのである。そしたら親子双方でいいものとはならないのである。
でも介護は否応なく課せられることもあり悲劇となるのである。
自分の場合はカルマとして納得したことであり恨みもないしかえって恩返しできたと思っている、でもみんながそうはならない、自分は運が良かっただけだとなる
ただここ十年の苦しみはまさにそうして恵まれた結果としてのカルマを返すために苦しんだのである。
タグ:老々介護
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2016年07月14日

老人の存在感 (九五才の戦争を経験した人がいつもいる)


老人の存在感


(九五才の戦争を経験した人がいつもいる)


いつもの木蔭の道を行くと車椅子に座っている老人がいる。
その人は大内の人で九五才である。
耳が聞こえにくいがまだ頭はしっかりしている
ただ立つことができないのである。
「立つことは大変なんだよ、体の重量が全部かかるから
私は毎日筋肉が弱らないようにここを車椅子で運動しているんだ」
確かに立つということはなんでもないようで体が弱ってくればできなくなる
筋肉が弱ることは歩けなくなったり立てなくなったりする
すると骨折したりして寝たきりになったりするはもう筋肉が弱り動けなくなる
そうなると世話する人も大変になる

自分の母親は一〇〇才で死んだけど最後まで立つことができたた。
ポータブルトイレで用をたすことができた。
それでオムツもしないから楽だった、オムツは本人も相当に嫌なものであり答えるのである。
だから小便を管でとるようになったとき病院で泣いていやがっていたのである。
オムツになったりすると人間の尊厳が著しくそこなわれるのである。
だから筋肉が弱るとまず歩けないということはトイレに行くにも補助するとなるとその世話する人はつききりになり大変になる。
オムツになると本人も世話する人も大変になる、筋肉が弱るということは致命傷になる
人間は立つということは方の動物を見ればわかるが体重が腰や脚にかかるるので楽ではない、動物は四つんばいだから体重がかからない、人間が立つということは特別なことだった。他の動物は立っていないからである。
立つということは上を見上げることであり星でも見上げることになる
動物は見ていると絶えず地面を探り顔を下に向いている。動物の関心は餌を見つけることなのである。人間は立つことによって精神的存在になった。
だから立てなくなることはまた歩けなくなることは人間の尊厳が著しくそこなわれるのである。

その老人は日立製作所で飛行機の整備をしていた。ゼロ線などの整備をしていた。
それで自分は技術者だったと自慢している。
そして今の人は戦争がないから楽だと常に言っている
それは戦争を経験した人はそう言う
つまり戦争という経験は経験した人しかわからないのである。
だからその言葉には重みがある。
それをいろいろ今は伝えるものがあるけどその人が今も九五才で生きていて言うことに重みがある。
なぜならすでにもう戦争を経験した人は九〇才以上でありまもなく戦争を経験した人はいなくなる
まだ戦争を経験した人がいるということは直接語るということは重みがある。

その老人は大内の人で津波で家が流された、それで着るものがないというとき礼服がないということらしい、みんな流されたからそうなる
仮設に入っている人でも津波の被害にあった人もいるし小高のように補償金をもらった人も多い、そういう人たちの間でも不満があり対立する
ともかく良く今でも墓に大きく軍隊の位を上等兵とかなんとか記されている
その当時はその位が大きな意味をもっていた。その位が社会にとって大きな意味をもっていて自慢できるものだった。今になるとそうした軍隊の位など注目しないのである。
なぜ墓にそうした軍隊の位が記したのかというとそれが国民として重要なものとして認められていたからである。それで敬意を払いとなり軍隊の位を墓に大きく記したのである。
人間は老人になると自分のしてきたことを語る、でも語るにしても自分がこうこう生きてきたと正直に語れる人はやはり自分の人生を自分なりに精一杯生きた人だとなる

小高の工事現場で働いた人もいろいろ語る、あの人は特別話好きだから聞いていて面白いとなる
第一工事現場でそうした下の人が上の人に工事について提案する人はまれだろう。
ここは粘土で水がしみてくるから砂をまけばいいとか上司に提案して採用されたとかその人は上の人に何かと言い提案しているのである。
その人はだから工事現場で下で働いていてもそのことを語るのである。
つまりただ上の人の命令のままに働いていたというのでもない
下で働いていてもそういう積極性があった。何か働くにしてもそういう積極性がないと人間はロボットのようになってしまうだろう。
つまり仕事には何であれ常に創意工夫が必要なのである、それはあるゆる分野でそうなのである。工事現場で下で働く人もそうだったとなる
もしそういうものがないと働くことに積極的になれないだろう。

ともかく老人は今まで生きたことを語ることに存在感がある。それは何であれそうである戦争の是非はともかく戦争を経験したということ自体が今や大きな存在感をもつことになる、戦争に比べれば今の人は楽だと見えるのである。
戦争は生きるか死ぬかだからそうなってしまう。
そして人間は誰でもプライドをもっている、それは認知症になってもそうなのである。
認知症とはなにか?実際これは病気なのか何なのかわからないのである。
明らかに病気としてあるがでは人間でなくなったのか?痴呆となって人間ではないのかとなるとこれも実際介護してわからないことだった。
つまり認知症になっても今までしたことに人生を生きて来たことにプライドをもっているだから数字のことなど金のことなどわからなくなってもプライドは消えないのである。
それで馬鹿にすると敏感に反応して怒るのである。
姉も従軍看護婦として四年間シンガポールで戦争を体験したから死ぬ直前まで戦争のことを話していた。それだけ戦争というのは特別のことであり忘れられない経験だったのである。

今の世の中老人は早く死ねとかそんなことばかりである。それは経済的負担が若い者にかかるからそうなる。介護でもその負担が大きいからそうなる。
実際介護となると十年もしたからこれも無益だとなと思った、人生が奪われると思った。自分の場合は特別良くしてもらったから納得してやったが他の人は五〇代で仕事に一番油がのっているときにその時間が奪われるのは大損失であり社会的にもそうである。
ただすべてがそうかというとそうでもてい、以前として老人の存在感は社会にある。
俺はこうこう生きて来たんだよということを聞くことは次代のものにも参考になるのである。そういうことも歴史としての連続性を維持することになる
人間は一代だけで生きるものではないからである。だから農家などでは代々土地を受け継ぐからそこに他の人より故郷に愛着をもつのである。
会社とかはそんなに持続しないから愛着をもてないともなるがやはりそこで働いていたもは愛着をもち、病気になった人がもう一度工場の現場に行き仲間と働きたいというのもわかる。何であれそこで人生を費やしたのだからそうなるのが人間なのである。

だからともかくなんであれ自分の生きたことに誇りをもつ、誇りをもつように生きることが大事だとなる、それは別に地位が高いとか技術があるとか何かそういうことではない、自分が生きたことを正直に語ることができることなのである。
ただ戦争で人を殺した人はそのことを語れないということがある。
そういう人がいて何かそこに戦争の大きな問題がある。
どんな戦争でも人を殺すということは誰でも罪悪感が残る。それは勝ち負けでなくそこに戦争の大きな問題がある。

老人の話を聞きぬ木蔭かな
タグ:戦争
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2016年07月03日

朝日テレビの「世界は今は」の医者の話が現代を象徴 (医療のグローバル化でも格差が世界的に生まれる)



朝日テレビの「世界は今は」の医者の話が現代を象徴


(医療のグローバル化でも格差が世界的に生まれる)


EU内でもルーマニアでは医者が給料が安いとかで外国に流出して国内で医者不足で困っている
イギリスの医者もドバイの馬鹿高い給料でそこに移った。給料だけではない、医療技術を学べるとかでも外国に流出している、最新の機械をそろえてもらってその人の技術が活かせると言っていた。イギリスでは国営なのでそれができなかったという。
ルーマニアでは若い医者がここでは最新の医療が学べないとして外国に出る、ルーマニアで月給が高いの共産主義時代の名残で軍人とか公務員だという。軍人が給料が高い国はいい国ではない、やはり医者とかが給料が高いのは先進国ではどこでもそうだからである。
でもここでの矛盾は何でもグローバル化すると金があるところに人材が集まり金のないところにはいい医者は集まらないとなる。これも矛盾である。
日本でも田舎には医者不足なのはこの事情とにている、ただ給料は高い
若い医者が田舎に来ないのは腕が磨けないからだという
南相馬市に新しくできる、建物はほとんどできた脳出血専門の病院はもともといた副医院長が手術がうまいとか評判だったし若い人がここで学びたいと前から来ていたのである。田舎でもそういう名医がいるところに若い医者が集まる

グローバル化というとき、EUの中で人や物が自由に行き来するというのでパスポートもなく出入り自由になった、そうなれば当然人間が医者なら金になる国に移るし労働者も移るそれで不満になったのがルーマニアであり東欧から労働者が移民が入ってきたイギリスであった。双方ともに不満なものが残った、イギリスだけではないそうした医者とかが流出するとなるとルーマニアではグローバル化で損害を受ける、医者は命にもかかわるから大事である。それがないがしろにされる
要するにグローバル化の問題は金の集まるところに富裕な国にまたは日本なら東京とかに人材が集まり地方は置き去りにされるのとにている
ここにも格差が世界的に起きているのである。

医者は金と情でどちらが大事とか問うていたけどグローバル化するというときはルーマニアのように給料が安い所にいたくないとなる、情として国に尽くしたいとしても現実問題としてはそうなる、地方の医療に尽くしたいと思っても若い人は医療を学べないとして行きたくない、医は仁術というとき医者は今ここで病気で苦しんでいる人がいればその人が金のあるなしにかかわらずまず助けるということが先になる
それで救急車が無料で呼べるシステムになっているのである
医者には給料が高いのはいいとしてそうしたまず命を救うということが仕事なのである

事業をしていた人は自分が病気であることを全く考慮していない、ただ借金を返すことしか頭にないから借金を要求する、弱っているから好都合なのである
もし瀕死の状態にあるのにこいつは金をもっていないから医療をほどこさないとしたらどうなるのか?
そこに医療が他の仕事とは違う問題がある。教育なら金のかかる教育は受けられないとしても生死にはかかわらない、何か別な方法もありうる
医療の場合は結局金がないとかで医療を受けられないとした寿命を縮めて死んでゆくほかないとなる、もちろん過剰な医療が必要ないがそうでない場合も医療が受けられず命を縮めるから問題なのである。
日本は国民保険制度で平等に医療が受けられるからいいがアメリカでは金持ちしかいい医療が受けられない,簡単な手術でも何百万かかるとなるから手術も受けられないで死ぬ人かいる。ただ日本のような国民保険で医療を維持するのも金がかかるからいつか限界がくる、医療費が高齢化で膨大になり維持できなくなる、だから過剰な医療はやめるべきだとなる。ただその線をどこに引くかは個々に事情が違うのでむずかしい

また最近医療のAI化が盛んに言われる、一部はすでにロボットで手術するとか現実であるこれもどんどんすすんでゆくと医者も失業するとか言う人もいる。
ある面ではどこでも今やコンピューターの方が優れているからだ。
コンピューターの得意な点は膨大な情報を処理できることである。
それはとても人間の比ではないのである。その膨大な情報から診断できるから医者より優れる面がでてくる。
ただ必ず人間の仕事がありそれはなくならないのだ。
コンピューター化が進むとき人間に残る仕事は何かというとコミニケーションする力だと思う。それは情の分野になる。
この人はかわいそうだなとかコンピューターがロボットが同情することはないのである。同情するのは人間にしかできない、また何かを共感するというのも人間にしかできない、例えば家事は機械化して今や主婦の仕事はなくなるくらいに減った。
でも女性には慰めるというか優しさをもって男性に仕えるというのはなくならない
それは他でも看護師だったら患者をなぐさめるというかコミニケーションする力が必要になる、ただ点滴するとか注射するとかだけではない、患者とコミニケーションする力が必要になる、これは若い人にはない、やはり経験をつまないとできない。

一見若い人がいいようでもコミニケーションする能力には欠けている
だから年寄りを馬鹿にして子供に対するような言葉使いをしているとか批判しているプログもある。人生を経験を積んだ年寄りを子供扱いしているのである
それは年配の人と経験を積んだ人とコミニケーションできないからである。
自分が相馬市の病院に入院したとき看護婦長が「介護しているので大変ですね」と言ったときこの人は自分の事情を察してくれたと思ってうれしかったのである。
若い看護婦は師はそういうことはみないのである。
だから若い人と年配の人との仕事を分けるということもありかなと思った。
若い人はハードなことはできるがコミニケーションのようなソフトなことはできない
年配の人は人によるがコミニケーションには向いているからソフトな仕事をする
それは介護の現場でもそうである。
人とコミニケーションをとるというときその人に共感することが大事である。
自分も自分の年上の人の話を聞いてそのことを書いた、それは年が10歳くらいしか離れいないからできた。同じような経験をしているから話を合わせることができた
その人の語ることに共感できた。そうでないと話を聞くにもできないのである。

グローバル化とかAI化とかコンピューター化とかは現代的なものとしてすすんでゆくがそこに問題も生まれる
インターネットとは知のグローバル化であるからだ。人や物だけではない、知識もグローバルに流通する。そして膨大な知識が本が最終的に無料で読まれるようにするのがグーグルの目的だという。そうなれば素人でも専門家になりやいだろう。
文章を書くには何かを必ず参考にしているからである。
そして作家になるには物書きになるにはこれまでどうしても書斎がそれなりの本がないとなれない、一つの図書館をもっていないと何か引用したりすることができないからであるでも図書館にゆくのはめんどうだから家でできないと文章が書けないのである。
それで田舎でも情報や知識の点では格差がなくなった。
本でも古本でもアマゾンでボタンを押せば次の日には配達されるから便利である。
電子本だったら即座に読めるのである。
いづれにしろグローバル化による弊害もあり利点もある。
ただその矛盾が最近格差問題などで噴出した。医療というのもやはりグローバル化して問題が起きる、常にグローバル化とは金がある人は得して金のない人は損することが極端化してしまうのである。
それが象徴しているのがドバイの高級医療をほどこす病院だったのである。

タグ:医者
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2016年05月24日

戸籍は何なのか? (一旦銀行にあづけた金は国家が管理する)


戸籍は何なのか?


(一旦銀行にあづけた金は国家が管理する)


ゆうちょ銀行の相続センターでの審査が通らないので、
書類がきちんと整うまでは、永久に銀行の相続を完了できなくなります。

当センターにご依頼頂いたケースですと、凍結した銀行口座の解約手続きを自分で進めようと約6ヵ月間頑張った挙句、「戸籍等の資料収集が煩雑」・「銀行員の指示が二転三転し手続きが混乱」等の理由から自力での手続きを諦めた相続人様からご依頼を頂いたこともあります。

初回で指示された内容と違う内容を新しく指示されて、「あの書類が足りない・この書類ではダメ」等と、銀行側の指示が二転三転することも珍しくありません。

なぜこの手続きで当該戸籍が必要なのか?
なぜ当該相続人の印鑑証明書と実印が必要なのか?

この意味を銀行員自身が理解していません。

銀行員が明らか法律を無視した対応をとる場合は、間違いを正すこともできます。

銀行員に対して正しい手続きの在り方をアドバイスするとこともあります。


ゆうちょ銀行が相続では一番めんどうみたいである。
なんでこんなめんどうなのことが必要なのかと聞いたら相続人を探しているためだというでも提出した書類には相続人はすべて死んで残った一人の姪子の書類はハンコなどをおしてもらい提出している
あとの相続人は死んでいるのである。それもすでに母が結婚した前の夫は戦前の人であり死んでいる、その息子も兄になるが交通事故で死んだ、あと何を調べようとしているのかと聞いたら転籍した先での戸籍に養子などがないかどうか調べと言っていた。
それも提出した書類でわかるのである。
戸籍のつながりを見なければならないとは言っていた。

戸籍はなんのためにあるのか?

相続が発生するとき戸籍が必ず必要になるから

他にも戸籍には国民を管理する機能がありそれに異議を唱える人がいる、差別だというのもあり私生児と摘出児とか非摘出児とか他にも戸籍で差別が問題になる
明治大正になると戸籍に平民とか記されているから士族と平民に分かれていたのである。戸籍は江戸時代では寺が役所の代わりで人別帳を作り管理していた。キリシタンをとりしまるためにも管理していた。つまり国家で管理するのが戸籍にはもともとあった。
それが明治になると四民平等に建前はなったが差別が継続されていたのである。
それで戸籍の国家管理に異議を唱える人はマイナンバー制度も国家の管理を強化するからすべきでないと論述している

そもそも戸籍など普通のときは考えない、でも戸籍は相続の時一番かかわる、戸籍はやはり国家が国民を管理するためにある、そしてわかったことは

ゆうちょ銀行であれ他の銀行であれあづけた金は国家が管理する

一見自分の金のように見えるが一旦金を銀行にあづけることはそれは国家にあづけることでもあるのだ。
だから相続のとき戸籍を通して相続に関与するのである。相続に銀行が国家が関与するのでてある。銀行はつぶせないというとき国家が援助してつぶさせないことがある
国家と銀行は金を管理することで一体なのである。
それは日銀と銀行が実際は金をコントロールしていることでもわかる
銀行はつぶれない、それは国家の支配下にあるから簡単につぶせないのである。

だから預金封鎖があるというとき国家と銀行が一体となって実行する
銀行から金がおろせなくなるのだ、一旦銀行にあづけた金は必ずしも簡単におろせない
良く十万くらいならいいが額が大きくなるとおろしにくくなるなど言われるのもそのためである
例えタンス預金していても一旦預金が封鎖されれば新紙幣しか通用しなくなるから出さざるをえなくなるのである。旧紙幣は使えなくなるからである。

戸籍にもいろいろな問題があるが戸籍は国家が深くかかわるものでありそれが役所の主な仕事となっていることでもわかる
国民を国家が権力者が管理支配するために戸籍がある。
戸籍は明治時代に家中心の支配体制を作るために国家がその制度を作った
戸主を中心にして家があるというとき明治時代に家制度ができたからである。墓をみればわかる、家族墓というのが明治以降にできたことでもわかる
つまり・・・・家の墓というのは明治以降できたものである。

なぜならそれまでは江戸時代は・・・家の墓がない

個人墓か夫婦墓である。侍でも・・・家の墓はないてのである。
これは不思議なのことである。・・・・家の墓というときそれは明治時代以降に家族中心の戸主中心にして国家の強制で管理するためのものだったのである。
それは天皇を頂点にして日本人は一大家族だという国家体制を作り上げたとと批判する人もいる。それはサヨクになるがそれも問題にしろ一理ある。
一つの疑問として国家主義というのは世界的にも近代化して国家主義が世界で台頭して世界大戦になったのである。国家というのがないときもあった。国家という概念は意外と新しいのである。
国家がなくなればシリア難民のようになるとか国家主義が国家が最優先するというのもわかる、そもそも国家と民族は違っているし過度な国家主義にはナショナリズムとかには疑問がある。

いづれにしろ相続では兄弟がいれば甥姪まで関係してくる、一人いただけでもこれだけめんどうなのである。
そしてあったこともない親戚も相続に関与してくることがある
だから相続はめんどうなのである。ただ財産がなければこんなんどうなことはないのである。
そして相続の疑問は親戚でも戸籍上でつながっていても全く実生活と関係なくなっている人もいる、でも相続では戸籍を執拗にたどり相続者を探すのである。
なぜ養子がいないかなどまで探すのかとなる

だからこれは別に法律的に正しいということでしているとは限らない、それで弁護士に相談しなさいとなる、ゆうちょ銀行でも相続人の一人として権利をもっているようになっているからである。相続争いに銀行が関与しているのである。
一旦金をあづけたらそうなるのである。なぜそんな権限があるのかとなるといっても一旦金をあづけたらそうなるのである。


それで矛盾を感じたのは血縁関係がないと義理の母を介護でいくら世話しても財産を相続できないという深刻な問題が起きている、実子は血縁関係があっても何も世話しない、でも相続できるのであり介護した嫁は相続できない、これは大きな問題だけど法律上はめんどうになる、法律は常に時代の変化とともに変わる、でも旧来のままになるのも多い
すでに家族が旧来の戸主を中心とした長男を中心とした家族ではなくなっている。だから相続でも問題が起きる。
介護とかその他血縁関係がなくても世話になればその人に財産があれば残したいとあっても特別縁故者になるとまた相続がめんどうになる

銀行にあづけた金は血縁者のみを見ている

だから銀行に金をあづけることは血縁者でもあの人には残したくないというときそれができなくなる、そのためには何らか事前に手を打つほかない
銀行にあづけないとか何か事前に対策をとる必要がある、ただタンス預金も危険になり現実自分も被害があったから勧められない、ではどうするかはやはり何かあるのである
法律の抜け道とかすべて法律で決まる訳でもないし、そこに知恵を働かすべきである。
とにかく銀行に金をあづけるのは今や利子もなにもつかない、あとで相続すら自由にならないから各自このことは考えるべきである。

そしてこれは複雑だからゆうちょ銀行でも他の銀行でも良く理解していないのである。
それで弁護士に相談してくださいとなっている。法律的にめんどうだから銀行自体でも相続ではまちまちであり決まっていないのである。
なぜそこまで調べる必要があるのか、戸籍が必要なのかどうかも実は明確にわからないということである。でも一旦金を銀行にあづけたら銀行がその権利をもつようにさえなっているのである。国家と銀行は一体であり国で管理するとまでなっていることを知るべきである。

タグ:戸籍とは
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2016年05月22日

生活保護は富裕層の安全のためにある (格差社会では富裕層は危険になる)



生活保護は富裕層の安全のためにある


(格差社会では富裕層は危険になる)


入所受刑者にかかる税金からの支出額である。ニューマン氏の見積もりによると、1人当たり年間380万円かかっているという。その他にも、取り調べや訴訟、移送などにかかった分として30万円が想定されるという。さらに高齢者の場合は収容中の医療費も必要になる。合計して、高齢者受刑者1人当たり420万円、と算出しており、これは福祉制度を通じて得られる可能性のある金額よりもはるかに大きい


生活保護は何なのかわからなかった。底辺層とつきあうと生活保護と必ずかかわる、それも現代的な問題である。
生活保護は突然の病気とか何か思わぬことで失業したりしたときのセーフティネットとされる。
何かみんなもそう思っている、一方で生活保護はなまけものであり働けるのに働かないものがなっているという批判もある
生活保護の人もいろいろいるからわからない、でも老人でないならたいがい働いているのである。働いても半分くらいは引かれているし収入にならないようになっている。
つまり生活保護なのにその上働いて収入になったら他の人から批判がでる
みんな生活保護もらって働いて収入になればいいとなるからだ

生活保護がそもそも何のためにあるのか?それは確かに病気とか何か不慮の事故とかありそのために一時的に援助するためにあるとなっている。
でも本当は生活保護はそのためだけではない、今日のテレビ討論でタックスヘイブンのことを言っていたけど富裕層は安全な社会があってもうけることができる、アフリカとかソマリアとかでもうけることができるますかと問われた、治安が良くなければ富裕層にはなれないのである。なぜならそういう人は襲われて殺されたり普通にあるのが治安の悪い国である。
ブラジル辺りでは金持ちから盗むことを悪いと思っていない、当然だと思ってしている。貧富の差が激しい国ではそうなる、泥棒にも三分の理があるというとき社会格差が常にあったから江戸時代でもそうである。

要するに今のように格差社会になると富裕層は危険な状態になる、自分は別に富裕層でもない、でも犯罪にあったのは今老人は経済的に苦しい立場に置かれている、まず国民年金では暮らせない、平均して厚生年金でも15万というときそれでもぎりぎりなのである。
いろいろ引かれるからそうなる、すると老人の犯罪が増えるのも高齢化社会で増えたのだから当然だとなる
犯罪を犯して刑務所に入った方がいいとわざわざそうする人もいるというのもわかる。
それだけ追い詰められているのである。
生活保護を受けるとなるといろいろめんどうになることもある、特に男性はむずかしくなる。すると刑務所に入るのが手っとり早いとなる。

生活保護をみんな批判するけどなまけもので働かない奴などととしている。
それもあるが結構真面目に働いても生活保護の人がいる。なぜ働いているのに生活保護になっているのか?
その人はなまけものではない、でも夫に恵まれないとか障害者の子供をもったとかなんらかで生活保護になった。その人はなまけものではない、生活保護になった人はいろいろでも別になまけものだからなったとは限らない
要するに格差社会とはいくら懸命に働いても格差は縮まらないのである。だから階級化した社会とか言われる、貧乏人の子供はいつまでも貧乏人であるとか不満になる。
それを今タックスヘイブンとかで富裕層が批判される
富裕層がもうけられたのは治安がいい社会があってこそでありそのために社会的コストを支払うべきだとなる
富裕層でそれを真剣に自覚している人は意外と少ないのである。


格差社会になると富裕層が本当に危険になる、アメリカでは極端だから富裕層だけが集まり住んで治安を守る街が生れる、富裕層は常時危険にさらされるているのである。
生活保護は何のためにあるのか?基本的には病気とか不慮の事故とかのために安全を確保するためにあるとかなるが実際は違う。

富裕層の安全を守るために生活保護がある

生活保護とは
「あなたには最低限生活する金を与えますから犯罪を犯さないでください、私を襲わないでください」ということなのである。
そのことを富裕層は自覚していないのである。
自分も富裕層ではないのに襲われたから怖いと思った。
そういうふうに刑務所に入った方がいいと思う人が困窮した人たちが増えている、老人でもそうである。それで新幹線で年金で生活していけない自殺した人もいたことでもわかる国民年金くらいでは生活できないからである。
生活保護でもいろいろあり地方だと一万しかもらえないとかもある。年金をわずかでももらっていて生活保護が二万とかもらえないが
医療費とか福祉関係は無料だという人もいる、まず地方では生活保護は子供でもいない限り本当に最低である。

だから格差社会が固定化してゆくと富裕層は危険になる、太宰治の実家は大地主であり小作に襲われることを恐れて高い煉瓦の塀を作っていた。
あの時代ならそうであるが現代は何か富裕層が見えない、貧乏も見えない時代である。
でもぎりぎりに追い詰められている人が増えている
そういう人が突然牙を向き襲ってくる、老人でもそうであり恵まれている人は一割くらいだろう。あとは下流老人になる、そういう社会は富裕層は危険になる。
自分は金持ちではない、たまたま多少の遺産が入っただけである。
旅行したにしても最低の金しか使っていない、自転車旅行だったらテントだから泊まるのは無料だとなる、自分が金持ちだと思ったことは一度もないのである。
ただ自由な時間が与えられていただけなのである。

つまり生活保護とか社会保障とは現代では格差社会になると余計に治安を維持するための富裕層ならそのために税金を払わねばならない、タックスヘイブンとかで税逃れるすることは富裕層自身の安全を脅かすものとなるのだ。
そのことを富裕層が自覚しないのである。格差社会になるとその危険度はましてくる
生活保護費用は実際は刑務所とかで囚人として世話するより安くつく、
「生活保護費用ないで暮らして犯罪を犯さないでください」それが生活保護の理由なのである。
そうでないと富裕層を襲う事件が暴動さえ起きてくるかもしれない時代である。
だから富裕層が税金逃れすることなど許されない時代になっているのだ。
自分は車ももっていないし何ら贅沢をしていない、富裕層でもない、でも襲われたのである。それだけ底辺層が増えて現代は危険な時代になっているのである。
タグ:生活保護
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2016年05月12日

老化のリスク (熱中症になった怖さー死ぬので油断できない)

    

老化のリスク
  

(熱中症になった怖さー死ぬので油断できない)


死者の約8割が70歳以上で、高齢ほど重症化しやすい傾向も表れていた。

熱中症は場合によっては死に至る怖い病気のひとつです


今年は自転車で遠くに行ったとき確かに体調を壊していた。熱中症気味の症状になっていた。それは運動した結果としてなっていた。それでも体が弱ったのかなととは思っていた今回は別に遠くに行ったわけでもない、庭の手入れのための仕事をしてもらい自分もしたそのとき曇っていたしそれでそんなに熱中症になるのかという疑問だった
それはかなりの重症だったのである。体が熱く熱病のようになり吐き気があり体全体も痛んだのである
熱中症で意識朦朧となり救急車で運ばれるのを見たがそれも他人事だった
クーラーない人がいてなってるとか聞いていたからクーラーあれば大丈夫なのかと見てた今回は別に真夏に起きたことではない、家にいて庭の手入れをして起きたのである。
遠くへ出て自転車で運動したわけでもなかった。
ただ何かの調子で熱中症になりその恐怖を覚えた
熱中症が馬鹿にできないのは実際に死んでいる人が多くその大半は子供と老人なのである

老人は何かと病気のリスクが高まるのである。熱中症の恐怖は本当に突然死ぬことがありうることなのだ。
それが最大の恐怖なのである。いろいろな病気でガンであれ脳卒中であれ病気で普通死ぬのだけどまず熱中症で死ぬということは考えなかった。
でもこれも経験して現実にありうることだと思った。
自分が今回熱中症になった原因は老化があると思う。老人はなんでも病気になりやすいが熱中症にもなりやすい、老人は体温の調節がうまくいかなくなる
だから急激に温度が上がったりすると余計にそうなる
自分はもともと暑さにも寒さに敏感で感じやすい、そういう体質もあるが老人は何かと病気のリスクが高まってる、それが老化の怖さなのである。

ともかく人間の特徴は自分の身にふりかからなければ何でも他人事なのである。
一旦自分の身にふりかかると他人事でなくなる、自分のこととして見るようになる
確かにニュースで一時熱中症で死んだ人のことを報道されていた。
別にその人たちは激しい運動していたわけではない、家にいてもなっていたほとんど老人だった。クーラーがなくて死んだという人も結構いた。
死に方としてはいい悪いもないが寝たきりになり介護を十年とかなると本人もめんどうをみる人いやになるだろう。
特に一人で身寄りがないとかなると介護する人もなにもないのだからかえって熱中症でも急速に死ぬからほとんど迷惑をかけないということもあるのかと思った。
人間どんな死に方をするかはわからない、また選ぶこともできない、その人の寿命は神が決めているのではないかとすら思うからである。
だから死なない人は死ない、死ぬ人はその人の寿命で死んだとなる


それにしても人間は自分の身にふりかからないかぎり他人事である。
それで熊本地震で熊本県が批判されている。東北のガレキを受け入れないとか地震がない熊本県が企業にはいいとか宣伝していたからである。
それが地震で被害にあい自分たちの身にふりかかったときはじめて東日本大震災のことを真剣に考えるようになる、そして同じような苦しい体験するようになったからである。

介護の問題でも介護をしていない人は介護している人も気持がわからない
一人暮らしの人は二人いるからいいじゃないかと言っていた
こっちは一人だよというのも理解がないのである。
そういうことはいくらでもある、自分の身にふりかからない限り他人事である。
自分が借金したわけではないが借金した人に借金をせまられてその怖さを知った。
借金をしている人はもう頭の中自分の借金のことしかない、相手が病気であろうがなんであろうが関係ない、金さえとればいいとなり殺人にすらいたるだろう。
そういう状態に追い込まれたのが自分だった、だから借金というのは怖いのである犯罪があれは借金をしているかどうか調べるのもそのためである。

老後が平穏だということはないのかもしれない、老人には様々なリスクがあるためである特に病気のリスクが一番怖い、これは金があるにしろないにしろみんながもつリスクである。病気になりみるみるうちパタパタとはかなく死んだ身内を見ている
七転八倒して苦しんで死んだ。
老人はまた困難に対処する能力が健康面なので劣ってくる、そして現代では老老介護とかなり負担が増える
何か昔のようなのんびりとした隠居生活のイメージがなくなっている
老人は今様々な負担が強いられているのである。


最も適応する力が衰えた時期に,最も厳しい適応を要求されている

老年という未体験の状況下で自分の過去を引きづりながら,
あらたな自己を形成していく作業 

これは原発避難区域で起きている、最も厳しい適応が要求されている
荒地となったところでどう今度は老人が適応してゆくのかとなるからだ。

老人の最大の問題は金もあるが健康なのである。病気になればすべてが崩れてしまう
その病気もいろいろあるから今回のように熱中症でも死ぬことがあるんだと自覚したのである。


タグ:熱中症
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2016年05月05日

認知症になる人とならない人の相違 (社会的であれ家族であれ働いている人はならない)


認知症になる人とならない人の相違


(社会的であれ家族であれ働いている人はならない)


武田邦彦氏の今日の解説は前もしていたが納得する、赤ワインがいいのではなく認知症
にならない人活発に活動しいるからならないという。赤ワインが原因ではないと言っている、ボリフェノールがいいとなると自分も飲んでいる。
でもなぜ認知症にな人とならない人の相違は何なのかということでてある。
それは先天的なものもありいちがいには言えない

そして人間の寿命がどうして決まるのか?これは必ずしも健康によって決まらないという
人間は家族であれ社会であれ無用化するとき早く死んでしまうという。
女性の場合は家族が大事であり家族で料理であれ孫の世話であれ家族の中で役割があれば長寿になり認知症にもならないという。
この考え方は前にも書いたが納得する

というのは自分には特殊な事情で二人の母親がいたような状態だった
一人は役所に勤めていたがやりたくないとやめてから何もしていない
趣味をしていたがそれは何ら才能があるわけではなく付き合いでしていたのである。
もともと看護師とか保健婦をしていたのだからそういう方面の仕事にあっていた。
でももう嫌だといって55才くらいで早期退職してからは何もしなかったのである。

結局何もしなくてもいい状態にされていたのである。
母は毎日料理を出したりしていたし家事もしていた、92才頃まで本当に元気だったのである。
一人は姉になるが実際はもう一人の母親のような存在だった
姉は料理もしなければ掃除もしない家事もしない何もしないのである。
そのことに注意をしていなかったが認知症になったときなぜなったのかとふりかえったら姉は何もしない、怠け者になりいつしか社会からも忘れられて家族でも用なきものとなっていたのである。
家族でも何か用なきものとなっていた。それが認知症になった原因なことはまちがいない
この人間が家族であれ社会であれ用なきものとなることがいかに怖いか?
生きながらその人は社会からも忘れ去られる、姉は活発な女性であり活動的な女性だったけど退職してから何もしなくなり社会からも忘れ去られていたのである。
家族でも用なきものとなり社会でも何も用のないものとなり忘れられてしまっていたのである。
母は内向きだから家事をしていた、料理を94才頃までしていたのである。
掃除も異常にこだわりしていた。他の趣味はなにもないから花にも興味もないとか異常だった、つまり趣味がないとなると認知症になりやすいとか言うがそうでもない
それより家族のなかでも役割がないことが脳も働かなくなるから認知症にもなりやすいのである。

それで嫁に「何もしなくていいですよ、テレビを見ていてください」と嫁に言われた姑はボケやすいと言われるのである。
料理でもしてみると用意するものがいろいろあり整理するのが大変である。
でも料理は相当に頭を働かすから認知症お予防になるのである。
女性は家族の中で役割をもちつづけることが大事である。
でも現代では今の年寄りは家族でも社会でも無用のものとされやすいのである。
退職したりするともう用なきものとなる、社会的役割も終わる
奇妙だけど金持ちの奥さんがいてその人が家政婦になんてもしてもらっていたら奥さんが認知症になる
誰でも金持ちの奥さんで家事でもしてもらう人がいいとみるがうらやましとなるがのそうでもない
何でもしてもらうことは老人になると頭も働かないからボケやすくなるのである。
だから奴隷のようにこき使われていた女性がかわいそうだがと普通はみるがかえって何もしない人がボケたとなれば
見方が変わってくる、認知症になることはとにかく悲惨だからである。
だから人間は何がいいのか幸せなのかわからないということである。

人間は健康だから長生きするのではなく何か用かあれば長生きする
芸術家だったら傑作をものにしようと死ぬまで絵筆をふるうとかあるだろう。
何かそうした社会的役割をもっているとき人は死なないというのは納得する
要するに家族内で役割がないときその人はすでに死んでいるとなる
生きていても死んでいるとなる、そして認知症になり大迷惑をかける
奇妙だが認知症になったときいろいろかまう人がいるから世話されることで生きているともなる、それも世話する方からすると大変な苦労を強いられることになる


この認知症になるということは善人とか悪人とか関係ないのである。
かえって悪人でも社会的に活躍していると認知症にならないと奇妙なことになる
政治家であれそういう人はいる、70近くになってよくアメリカの大統領候補になれると思う。あういう人は認知症にならないのである。
その人がどうのこうのは関係ないのである。
ある人は口が悪い医者だったが90才まで現役だったが一週間くらいで死んだ
ある人は最後まで自転車屋をしていたがこの人も急に病気になり一週間くらいで死んだのである。
仕事しながら死んだともなる、こういう死に方が理想なのである。
だから現代の社会は会社中心だとするとき退職することは社会から消えることであり社会から用なきものとされることになるから認知症になるものも増える
そうなると社会の負担は莫大なものとなってゆくのである。

現代はみんな会社人間になっているというときその会社から離れたらその存在価値もなくなる
そういう社会は認知症を増やす社会かもしれない、人間はともかく長生きの時代になったときそれに対処する社会的条件が調っていないのである。
老人が会社にいつまでもいるからかえって若者が伸びられないというのは本当である。
人間の能力は誰もわからない、本人すらわからない、やってみてやらせてみてわかるのである。
今は長寿社会になると親から財産を引き継ぐのは60代ともなる
するとそこで財産を引き継いでも活かすことができなくなるという問題もある
高齢化社会の問題はいろいろあるけど若い人が老人が上にいて活躍できないということもある
一方で老人から見ると社会的に無用化されて老人は無駄だとされることも大問題なのである。それは若者にも認知症とか増えたら大負担になるからである。
高齢化社会はこうしていろいろな矛盾をかかえてしいるのはやはり人類がまだ経験していないものだからである。
ただ認知症になる原因は家族でも社会でも役割を失うことなことはまちがいない
それは社会的死あり家族内死出あり生きていて死んだ状態にされているのである。

康と寿命(武田邦彦)
タグ:健康と寿命
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2016年04月07日

介護十年をふりかえる(2) (愛なき世界はいくら文明が発達しても人間を幸福にはしない)


介護十年をふりかえる(2)


(愛なき世界はいくら文明が発達しても人間を幸福にはしない)


愛なき世界


ご飯を与える
その行為はただ相手の腹を満たしてやるだけなのか?
それは愛がともなっていた
母が子供に乳を与える
ご飯を与える
それは生命を維持させるためものなのか?
それは愛があってしている
ぺっトに餌をやるのもただ腹を満たしてやるだけなのか?
そこには愛があり与える
人間はパンのみに生きるにあらず
人は愛して愛されることを望む
ただ金を与え物を与え食物を与えることに満足しない
愛がないときいくら金も物を与えても相手も満たされない
病院では医者は高価な医療機器で患者をみる
看護師も体をみる
でもそこに愛が欠けているとどうなるのか?
患者はそのことに気づく
なぜ延命治療するのか?
そこに愛はなくただ人間を物ののようにみて
ただ延命を計っている
それが意味がないとはいえないにしても
その意味を見いだすのは医者や看護師ではない
愛ある家族のみがその延命に価値を与える
なぜなら家族は愛をもって接しているからである
医者や看護師の努力が無駄ではない
ただそこに愛が欠けている故に満たされない
それは母親が子供にたた食べ物を与えているのではない
乳を与えているのではない
そこに愛情がある故に子供は満たされる
もしその食事が貧しいものでも満たされるだろう
愛さえあれば・・・・・
機械が遂にはコンピュターが病気を判断する時代になる
でも機械にはコンピュターには愛がない
コンピュターには感情が生まれない
遂には医者も看護師も機械に変わる
しかし愛が人間には必要であり機械には代われない
科学技術がいくら発達しても
愛なき世界は荒野なのである。
貧しい時代には愛があったが豊かな時代には愛が欠ける
そのどちらが幸せだったのかもわからない
いくら豊になり科学技術が発達しても
愛なき世界は荒野なことは確かである。


貧しきも愛の手をもて与えらる物に価値あり思うべきかな


つくづく自分の介護の十年間の経験は何だったのか?
介護が終わったあとでそれぞれ考えることがあるだろう
介護は長い、十年といったら十年一昔になるから長い
今の時代は介護という仕事が増えたことは確かである。
家族でもそうだし介護士とかでも介護という仕事が課せられて増えたのである。
85才とか高齢化になるとどうしても最後は介護状態になる
女性だと90才頃から病気にならなくても弱り介護状態になる

ただ介護でも50代とかなると仕事の盛りのとき男性がやらせられるのは辛い
十年間も介護に時間を奪われることがいいのか、辛いとなる
自分の場合は特別親には良くしてもらったから当然だったともなる
でもふりかえると十年は長かったなと思う
だから終わってみると気がぬけたようになってしまった。
そしてこの辺ではいろいろなことがありすぎたのである。

津波だ原発事故だとかその他自分の一身上でもいろいろなことがありすぎたのである。
30年間はほぼ無事平穏であったのと比べるとあまりにも違いすぎたのである。
巨大な渦にまきこまれての渦からぬけだしたら白髪の老人になっていたとかなる
今の感覚はそんなふうになっている


今の時代は豊で便利でも何か肝心の愛が欠けている社会である。
病院でも設備は立派だし高価な機械があり医者も看護師がいたとしても何か無機質であるその病院という建物にも機械にもコンピュターにも医者にも看護師にも愛というのが感じられないのである。
結局人間はやがてロボットに看護され介護されるとかなったら嫌だろう
今だって人間は何かロボットのようになっているかもしれない
情や愛なき世界となっている、だから必ずしも豊になり便利になり長生きできてもそれが幸福になっているどうかは別問題である。

介護した体験では家族の場合だったら食べ物を出すにしてもそこには愛がありしている
それは家族でも母親が食べ物を与えるときやはりただ物を与えるだけではない、愛があるでももし子供にも金をやるから外で買っておいでとなったらどうなるのか?
そこには母親の愛情もなく育ち情なき人間になってゆくかもしれない
だから乳を子供に与えろというときこに子供と母親が愛情で結ばれるからだとなる
それは哺乳類が生まれたときからししている生命の営みなのである。
そういうものがなくなるときどうなってゆくのか?
何か子供の虐待とか動物でもありえないことが起きている
それは哺乳類という動物以下に人間がなってゆく、これだけ文明が発達してもそうした根源的なものを欠けてゆくとき文明というもの自体の疑問が生まれるのである。


いづれにしろ自分は今年の春は何か花見するのでも気乗りがしない
60年も一緒にいた家族が二人死んで気がぬけたようになってしまった。


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2016年04月02日

家事とか保育とか介護とか、、、大家族でしていた (家族が崩壊して非情化する社会の危機?)


家事とか保育とか介護とか、、、大家族でしていた


(家族が崩壊して非情化する社会の危機?)


人間社会は進歩すればするで問題が生まれる、保育士がたりない、介護士がたりない、子育とか介護とかはもともと家族してしていたものである。
家事そのものか今や外国人にしてもらい主婦には外で働いてもらうというのも歴史をふりかえり考えると対比して見えてくるものがある。
それは原発とかでもそうであり書いてきた。
江戸時代の対比で見えてくるものがある。江戸時代は戦前から戦後十年くらいまでの継続があったのだ。
大家族だったのは戦前でもうであり戦後の高度成長時代に核家族になった。
だから古い人は子供生んだら生んだ女性が育てるのが普通だと言うのもわかる
つまり家事とか保育とか介護はもともと家族の中でしていたのである。

ただ家事というのは戦前でも自分の母親が東京に女中に行ったように中産階級でも女中を雇っていた。それだけ家事自体が重労働だったのである。
洗濯機もないし洗濯だけでもゴシゴシで洗濯板で洗っていたら手間である。
近くの川で洗濯していたのを子供のときみている
家事のために女性はかかりきりになっていたから外で働くことはできない
ただ戦前でも養蚕とか仕事が家内工業というか家自体仕事場になっていたことで女性は家で働いていたのである。
戦後でも自営業が多かった。小さな店でも繁盛していたのである。
商店街が栄えていた時期があった。そういうときは家で働いているから会社で働くのと事情が違っていた。
農家でも養蚕とかの仕事は家と一体となった仕事だったのである。
家の作りまで兜作りの屋根とか養蚕向きに作られていたのである。

そもそも保育士とか介護士という職業などなかった。家事の仕事は女中としてあった。
看護師も看護婦も仕事としてあった。
家事とか保育とか看護とか介護でも家でしていたのでありそれをしていたのは女性だった、嫁だったのである。
女性が外で働くのは戦後でも高度成長期の時に専業主婦は三食昼寝つきで楽だと言われていたからそういう時代があった。

「専業主婦」が出現したのは1960年代高度経済成長時代

それまでの主婦は各地方で農・水産・林・商業のそれぞれの家業に従事していました。
また、今のような核家族ではなく、大抵が大家族であり、長男の家へ嫁いだ女性は家業に加え家事も今の時代以上に熟さなくてはなりませんでした。

要するに家族でしてきたものが外に分化して専門家に頼む、保育とか看護とか介護は家でしていたから病院に入院しても病院で死ぬより家族が看取って死んだ。
自分の父親もそうだったが近くにかかりつけの医者がいたり往診してくれたりしたが実際は家で看取ることはその時も大変な苦労だった。
でもみんな家で普通に死んでいたのである。葬式でも結婚式でも家でしていた。
だから葬儀でも専門家に頼むということもなっかたしそういう職業がなかったのである。葬式は隣組でしていたとかそれが会社に頼むことはなかった。
今はおふくろの味などなくなっているかもしれない、惣菜はスーパーで買うとかなる
第一自分で家事をやる料理をしてみると手間がかかりすぎるのである
料理するというより何か適したもを買うものを見つけるのが料理することなのである。

要するに家族がホテルのようになり寝るだけの場だかなっているというとき戦前とかの大家族とかの家族の重みがなくなってしまったのである。
外で働き男性も会社員であり女性も会社員であり外で働き保育は保育士にまかせる、それで保育士がたりないとか保育園がたりないと騒いでいる
それは介護でも同じである、介護士がたりないとか騒いでいる
その福祉にかかる金も膨大なのである。それで介護だと政府では在宅介護にしろとなる
つまり保育士とか介護士に金を払っていたらその建物でも用意するとなると金がかかるのである。
大家族の時代だったらそれらは家族でしていたから政府ではその金を負担していないのである。


そもそも保育まで子育てまで外部にまかせるとなるとそれが人間的なのかと疑問をもつ
でも主婦にも働いてもらわないと困るとなる
それで家事をしてもらうために外国人を入れるというのもまた何なのだろうとなる
様々な専門家が増えて家族さえ掃除する仕事の人がいてしてもらうとかそれはとりもなおさず家族というのは外部のもの頼りになりただホテルのように寝るだけの場所になるのだろうか?
家族は夫は外で遅くまで働き主婦はパートであれ何であれ外で働く、子供は保育園に保育士にあずけ介護は介護士にあずける、そのためには外で働いて金をためて保育士に介護士に支払う、家はホテルのように寝るだけの場所だとなる
戦前とかは家族が家が仕事の場でありそこが小さな社会にもなっていた。
そこで人は人間として育っていった。そこで基本的な人間の有り様を学んだとなる

それが家族の役割が減少して外部まかせ頼りになる、人間の社会は便利になり進歩してきたとか言われる、でも進歩したというとき退歩してもいるのではないか?
母親が自分の子供を育てられないから保育士にまかせるとか親を介護できないから介護士にまかせるとか何かそれが進歩なのだろうか?
それは人間的なことなのだろうか?基本的な人間的な営みが奪われているのではないか?
それは便利さを追及してかえって人間として肝心なものを営々とつづいてきた基本的な
営みすら奪われているのではないか?
それで子供が生まれたら虐待になるのは子供を育てるのが面倒になっているからである。だから子供が生まれたら保育園に保育士にまかせる、親が病気になったら入院させる
看護もしたくない、介護もしたくなんから施設に入れる、介護士にまかせるとかなる
そこに家族の愛情も受けられない、何でも金で頼むとなる
その金を稼ぐために女性も妻も外で働かなくてはならないとなる

何かこういうことが当たり前になっているけど本来の人間の生活なのだろうか?
日本人は子供大事にしてきたとか、家族を第一にしてきたとか言われるがこれまではそうだった。そういう家族自体が崩壊しているのだろうか?
それで子供はいらない、子供は邪魔だとか虐待する、子供を作らない方がいいとなる
江戸時代は日本人は子供を可愛がっているのに外国人が驚いたとか、みなん幸せそうな顔をしていたとか言われる
そうなると現代人はこれだけ豊かな便利な生活していても不幸せな顔をしている人が多い子供など育てるのがめんどうだとか虐待もする
これは家族が崩壊して人間的な生活が失われたからではないか?
そこで求められているのは金だけだとなる
「金をくれ」と家に来て実際に家捜しているような人がいるということも驚きである。
そこには理由があってももう人が求めているのは金しかない
事業に失敗していた人は成功を装い借金を病気の自分に要求してきて全く人間とみていない、同情もなにもない、こいつ死んだら金になるとかなくなっているのだ。
原発避難民でもみんなどれだけ補償金をもらうしか関心がない
故郷がどうのこうのとかそういう思いもなくなっているのではないか?


この文明は一見すると進歩してこんないい生活をできる時代はなかったという人もいる。しかし一面は人間的生活すらできない、退歩した社会だとも見れる。
昔はただ古いとか否定するけどそもそも家族を中心にしてある社会が古いからと否定してホテル化した家族が新しいから進歩しているのかともなる
例えどれだけ豊かな生活をしていても根本的に家族の愛情すらなくなる社会はもう人間ではない、野獣的な人間と化しているのではないか?
最後は金だけあればいいとなり愛情など必要ないから親でも金があれは施設にあづければいいとかなる,それもやむをえないとかあるけど何か根本的なことが見失っているのではないか?


異常と正常の区別すらつかなくなっているかもしれないのだ。「オメエ,,,何なのだ」と自分のプログに発言してきた人もいるが例えば普通の社会ではオメエはどうだなと初対面の人に言うだろうか?
これも異常なんだけどネットては前からそうだったのである。でもプログなどでは変わったのでありそういう発言は取り入れなくなった。前はインターネットでもニフティのパソコン通信ではそういう発言を拒否できなかったのである。
つまり異常なのか正常なのかわからなくなる世界は怖いことなのかもしれない
人間が人間でなくなるときその社会はどんなに文明的になり科学的技術として優れていてもそこに住みたいと思うだろうか?
例え原子力文明とかでふんだんに電気を使い放題の社会でも人間の情すら喪失した社会に住みたいだろうか?
日本人の義理人情など田舎でもどこでもなくなっている、馬鹿正直な女性のことを書いたけどそれは希少動物であり絶滅しているのである


江戸時代にもいろいろな矛盾があったし飢饉もあったしやはり苦しい生活でありそれと比べれば今は天国だという見方もある、一方でなぜ江戸時代に日本にきた外国人が日本人はみんな幸せそうな顔していたというのだろうか?
現代はこれだけ豊でも幸せそうな顔している人は少ないだろう。
だからこそ子供まで虐待しているのである、不満がある人は必ず誰かにやつあたりする
それが殺人までにもなるし強盗にもなるし家政婦が勤めた先の家々に火をつけて火事にしたとかやつあたりする、そういう経験を自分もしたから怖いのである
その原因が大家族の崩壊があった。今は姑よりも嫁の力が大きく姑は小さくなっていなければならないとかまず一緒に住まないとかなっている
そして一人暮らしの老人が増大しているのである。
何か今の社会は人間的な秩序すら、コワとなる核となる家族すら崩壊するとなるともう人間社会でなくなるかもしれない、家族より最後に頼りになるのは金だとなる
津波であれ原発事故であれそうした社会に対して大きな変わり目に起きた
つまり人間社会が大きく変わることを強いるものとして起きた
人間社会がそれだけ非情化しているということで自然も非情になったともとれる
だから天変地異とともに社会も大変革が迫られる時代になったともなる
さらなる大きな事件とか事故とか天変地異がこれからも起きてくるかもしれないのだ。
こういう時代は犯罪も増えてくる、それも凶悪犯罪が増えてくる、モラルが麻痺してくるからそうなる
だから人間は人間にとってオオカミだという怖い時代になってきている
保育問題でもそんな大きな問題と関係ないというけど社会はみんなつながっているのだからそうしたことも無関係ではないのである。






タグ:保育介護
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2016年03月25日

介護される方も介護されやすいように努力が必要 (介護は自力でトイレに行けるのと自力でご飯が食べられると楽)


介護される方も介護されやすいように努力が必要


(介護は自力でトイレに行けるのと自力でご飯が食べられると楽)


介護される老人の劣化がひどい様な気がする 
昔の老人は這ってでも便所に一人で行き 
這って戻って布団に入り死んで行ったもんだが。 

百歳の自分の母親がそうだった。トイレに這っても行っていたし入院して一カ月で死んだけど家にいたときは何も食べなくなっても自力でトイレに行っていた。
食べるのも自分で食べていて食べられなくなったので入院させたが一カ月で死んだ

つまり自分はオムツさせることもないしただご飯を出すだけだから他の人よりは楽なので介護できたし何か時間があってプログにも書くことができた。
自分が最も恐れていたのはオムツさせてとりかえることでありトイレに行けなくなることでありご飯を食べさせることだった。

テレビで脳出血などで三食食べさせるのを見ているしトイレでもいちいち補助して行かせているのを介護施設で見ている、そのことが介護するものにとって相当な労力であり何か自分のことは何もできなくなる
介護は自分で食べる、自分でトイレに行く、これができれば楽である。
これができるかできないかの差が大きいのである。
それでも自分は辛いと思った、拘束されるのが嫌だった。
第一自分のようなわがままな人間が家事から介護まですること自体大変だったのである。
でも一人は認知症になったけど二年半で死んだことも救われた。自分は介護する動機が十分にあった。家族に世話になったということ自覚していた。
特別自分は世話になったということで懸命に介護したのである。
だから苦しかったけどこれもカルマだということを自覚してやっていたのである。

介護するときはこうした家庭の事情がそれぞれにててくる、それは外部からはわかりにくいのである。お前は特別親に良くされたからお前がやれと兄弟でもいろいろ事情がでてくる。
介護はまた金だけではなかなかできない、施設ではそこで問題が起きてくる
なぜこの知らない老人を世話しなければならないかとなるからだ。
金持ち老人から金をもらえばいいが給料が安いとやりたくないとなる

ともかく介護される方にも問題がある、大正生まれとかはまず忍耐強いとか苦労しているから介護されるようになってもそういう性格が出るのかもしれない、ただこれには個人差がある。みんながそうとはならない
自分の母親は最後までトイレに自力で行っていたしオムツをしなっかた。ご飯も自力で食べていたのである。
オムツというのはその本人にとっても相当にショックであり嫌なのである。
入院して管を入れて小便をとることを凄く嫌がっていたことでもわかる
5年間くらい介護したけどそういうことがなかったので他の人に比べれば楽だったとなる
ただ認知症の介護は二年くらいしたけどこれは地獄だった。
でも二年間くらいですんだから救われたとなる

介護される人でも介護される人が介護する人に気を使っていた人がいた。
その人は介護されやすいようにリハビリでも懸命にしたという。
その人は介護する人に対して迷惑をかけるので楽に介護されやすいようにするために努力したのである。
だから介護する人に親切にされたという、介護はやはり介護される方もそうした配慮とか努力が必要なのだろう。
だから介護になるとわがままな人、我慢できない人などはめんどうになる。
それで贅沢になった団塊の世代などが大量に介護になると今よりひどい状態になる
もう嫌なことが我慢できないからである。

介護の問題はいろいろあるが介護される側にも相当な問題がある。
でも脳出血とかなるともう自力で食事できなくなったり寝たきりになる
自分の母親はそもそも百歳まで病気がなかったのである。
だから老衰で死んだから違っていたのである。
たいがい必ず病気で死んでいるからである。

介護するのに楽な人は介護する側からも親切にされる
自力でトイレに行ける、自力でご飯を食べる、この二つのことができれば介護もそんなに手間ではないのである。
この二つができなくなるとその手間は何倍にも増大するのが介護なのである。
這ってでもトイレに行くとかボータブルトイレでも自力でトイレに行くだけで介護する方は楽になるのである。その差が本当に大きいのである。








タグ:介護問題
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2016年03月10日

保育園落ちた日本死ね」と題した匿名のブログが波紋を広げている (介護問題と根は同じだった)


保育園落ちた日本死ね」と題した匿名のブログが波紋を広げている 


(介護問題と根は同じだった)



「予算の壁」

 待機児童の多い都市部においては保育士不足です。これによって、開園に大きくブレーキがかかります。
保育所は一人でも保育士が欠けたら、法令違反で開園できません。よって、「保育士を採用できた数」が開園数上限になります。

 保育士不足は保育士の処遇が低いことが要因です。
保育士給与は全国平均で月20.7万円。(出典: http://bit.ly/1HwTytD

全産業平均と比較して、月額10万円程度低い。


結論から言うと、保育所というハコモノ・施設でこの問題を解決することは不可能です。
ただでさえ土地がない・高い東京都で保育所を増設するのには、非常に高いコストがかかります。

また将来的には人口減少に向かっていくことが確実なので、

小規模保育や派遣型保育、ベビーシッターの活用に舵を切る

利用者のニーズに合わせて自宅で保育を行うシステムであれば、
需要次第で供給が調整できるので、今後の少子化にも機動的に対応できます。

保育・子育て関連のみに使えるバウチャー(クーポン券みたいなもの)を
子育て世帯に一律で給付すれば良いのです。


0歳時保育は1人当たり月40万円 
1歳時保育は1人当たり月20万円 
2歳時以降は1人当たり月15万円 



この問題を取り上げた理由が一つはプログがこんなに影響があるのかという疑問である。プログは何百万もあるし発言してもほとんど影響がない、読まれるのが大変なのである。だからこのこと自体に疑問があった。
それはサヨク系によって仕組まれたとか国会でデモしたものもサヨクによって仕組まれたものだとか言う人もいた。それにマスコミが便乗してあおった、それは仕組まれたものだという、それもインターネットをしているとそれもありだなと思う。
まずプログでそんなに反響があること自体今もありえないと思ったからだ。
ただ若い人はネット世代だから変わったのかとも思った。
この問題の一つはネット社会が一般化したのかということを思ったがこんなに反響があるというのはサヨクとマスコミで仕組まれたのかということもありと思った。

そもそも大衆社会というのは一人一人が考えない社会である。だから何か煽動的なものとなり感情が優先されるのだ。
保育園問題でもそれにかかわらない人は事の真相が簡単にはわからない
するとマスコミとかで何だ政治家がヤジとばして庶民の不満を封じようとしているというのがテレビの画面から判断して感情的になる
その感情が怒りが大衆に共有される、冷静に考える人は少ない
それで中国の反日とかも感情的になり日本への憎悪をかきたてる
そこに大衆は感情によって操作される、特にテレビは一方的洗脳メデアだからそうなりやすい、テレビは感情的なメデアである、一方活字メデアはクールな冷静なメデアである。それは活字だからそうなっているのだ。活字とテレビの映像が伝えるのは全く違っているのである
テレビだど人間の表情とかとぎつい映像が先に見るからそこで感情的反応になるのであるもし活字だけだったら冷静に読み判断する他ない
でも活字を読むということや冷静に考えて判断することは手間なのである。
第一大衆は考えることを一番嫌っているからである。
考えることは相当な知的労力になりそれが嫌う、特に女性はそうであり感情的になりやすいのである、女性は感情を優先するようにできている
だから活字よりテレビを見て判断するのが楽だからマスコミに洗脳されるのである。

この問題を冷静に考えると「介護問題」と根は同じだった。
つまり介護にも金がかかりそれで在宅でやるからそれを政府が応援するとかなった。
そのことと同じことを主張している議員がいたのもうなづける
保育士が不足しているとき介護士が不足しているのと同じである。
そしてその施設を作るのにも面倒であり金がかかる、つまり保育園を作ることは公になると金もかかるし保育士を雇えばまた金がかかる、それは介護問題と同じである。

保育・子育て関連のみに使えるバウチャー(クーポン券みたいなもの)を
子育て世帯に一律で給付すれば良いのです。

こういうことを介護でも言っている人がいる、介護をする人に金を払うのがいい、在宅介護をすすめるならそうなる、自治体とかですると金がかかりすぎるのである
だから根は介護問題と同じである。
子育てとか介護などはもともと家族でしていたの藻である。それが核家族化したりしして祖父母がいなとかでてきなくなった。
その分、国や自治体でやるとしたら金がかかりすぎるのである。
そして介護でも人が集まらないのである。
介護より保育園が先だと少子高齢化社会では優先するべきだという意見もあり、そうかもしれない、老人を優先していては国の未来がないとなる

いづれにしろ何でも自治体に国に頼みまかせることは限界に来ているのだ
そんなに予算はないし日本自体貧乏になってゆくのにできなくなる
それで最近看護師まで在宅に切り換えるから病院勤務の看護師は余ってくる看護師余りが時代が来るというのも意外だった。
サービスが在宅に切り換えられている、箱ものを作っても第一人材は集まらない、この辺で老人ホームを作ったが人が集まらないので開業できないのである。
それは保育園問題と同じなのである。
本来保育であれ介護であれ家でしていたものが家族が少ないとかでできなくなった。
それを国とか自治体で肩代わりすると膨大な金がかかりそれで国も潰れるとか冗談でなくなっている

この問題は介護と根は同じであり自分も介護してきたから関心をもったのともう一つはネット社会が一般化してこんなに反響があったのかということで関心をもった
そもそも何百万もあるプログがこんなに反響があるということに疑問があったからであるプロクだけでこれだけ反響があるとしたらそれは悪いとは言えないだろう。
マスコミとかを通じてしか主張できないのが一庶民のプログがこんなに反響かあるとしたらネットも社会では馬鹿にできないとなる
ネットでの存在感が高まることになる、その変化がメデアによってインターネットによってもたらされたとなるからである













タグ:保育園
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2016年03月07日

死んだ人の霊が現れ体調不良? (先祖崇拝は偶像崇拝だから危険ー軽い供養にとどめるべき)


死んだ人の霊が現れ体調不良?

(先祖崇拝は偶像崇拝だから危険ー軽い供養にとどめるべき)

おばあちゃんが亡くなってから開けていない
タンスの前で、おばあちゃんが「ここの中にある物」を、必ず叔母に渡して欲しいと伝えてくるんです。

死んだ人がこういったということありうるのか?
自分の母が死ぬ前に一カ月前くらいに孫に金をやれと大声でその金額まで言ったことは本当に驚いた。
それは遺言であり例え書類化してなくても重いものとなった。
認知症になっていたからそういうふうに意識がはっきりして大声で言ったことに驚いた。あまり声も出ないほど衰弱していたところがあったからだ
だからそれだけの声を出したことに本当に驚いた
自分は孫に金はやらないと言っていたことがありそれは自分にも非があったのですぐに連絡して言われた金を49日の納骨する日に払ったのである。
どうしてか孫が49日の日に休みがとれたから来るというのも不思議だった。
だから人間の心は距離を越えても通じ合うということがある
人間にはともかくどうしてもわからない不思議がありそれで先祖がたたったとかいろいろそれで脅し商売する人もでてくる


それから不思議なのはカルマである。これも否定できない、家系のカルマとかその人のカルマは必ずある。
これも不可解なことが多いがやはり人は必ずカルマを背負っているのだ。
自分がなぜこの十年間苦しんだことが書いてきたがこれは自業自得だった。
たいがい何か悪いことが起きてくるのは自業自得である。
例えばなぜ犯罪にあうのだろうかとなるとこれも自業自得のところがあると思った。
犯罪に合うべくして合うということがある
それは先祖の霊のたたりでもなんでもない、自分がしてきた現世のことでカルマを背負ってそうなる。
自分は60まで母親に食事を出してもらっていたから介護するのは当然であった。
カルマとして今度は5年間とか食事を出し続けねばならなかった。
その間にいろいろ苦しい目にあったのも他人のせいではない、自業自得だった
自業自得というときこれは例外なく誰でもそうなるのである。


例えば不摂生した人は必ず60以降病気になりやすい、もちろん60代になるとなんらかほとんどの人が病気がでる
酒を飲み続けたりタバコをやりつづけたり何かそういう悪い習慣がたまりたまって60以降は必ず体に現れる、遺伝的なものがあり例外もあるが一般的に確率的になる
そういうカルマは現れてはじめてわかるのである。
どんな生き方をしてもカルマを生きていれば作り積み重ねているのである。
事業に失敗して借金した人もそうである。
借金はまさにカルマを積んだということなのである。
一番わかりやすいカルマでありそれは必ず支払うことを自らしない限り清算できない
それをそのカルマと関係ない他人に背負わすことができない
それを自分に背負わせようとしたからそのカルマはその人にさらに何倍にもなっしのしかかってくる。
自分で自分のカルマは清算する他ないのである。だってそれは自分自身のカルマだからである。
もし自分が母親の介護をまかせたりしたら自分のカルマを清算できないのである。
それだけ世話になったのだから自分がしないで他人に頼むとカルマはまた自分にのしかかってくるのである。
ただ人間は意外とこのカルマを軽くみているが本当はかなり怖いものなのである。
なぜあの人は事故にあったり何かと不幸なのかとなるとなんらかカルマが関係している
ただそれは先祖の霊とかとは関係ない、自分の生き方が一番関係してカルマを積んでいるのである。


人間は死んだ人はどうなっているのかわからない、だからほとんどの宗教は先祖崇拝になる。イースター島のアモイ像とか古代の像など先祖崇拝であり像化したのは先祖崇拝が多い、それだけ死者というものが何かわからないから人間の情として崇拝するようになった

檀家仏教は先祖崇拝として異常に死者を供養、祭祀するものに変化した

現代の檀家仏教は先祖崇拝である。異常に死者をおそれ拝んでいる、月命日とかもありそんなに供養しなければならないとかなる、友引にどうかなども今も活きている
供養はなかなか否定できない、何で供養しないのか親を思わないのか?
なんかこんな叱責をするようなことがあるがそもそも生きているとき親に何かしたのか?
介護もまともにする人もいないし死んでくれとか生きている時は普通に言っている。
そんな人がどうして死んだとたんに敬い畏れというのも変なのである。
そうなら生きているときこそ何かしてやるべきであり死んでからしても遅いのである。


宗教というとき何か今でも日本では伝統的に先祖崇拝である。仏教そのものがあれほど死者にこだわり死者を供養しつづけるのはそのためである。
親でも先祖でも神ではない、生きているときは欠陥の多い普通の人だったのである。
正直自分の母親にしても書いてきたが真面目な人でも欠陥が多かった。
それは誰でもそうなる、そういう人が死んで変るわけではないのである。
ともかく人間は何を礼拝するかが大問題である。
たいがい先祖崇拝でも偶像崇拝に陥る、つまり神ならざるもの拝んでいるのが普通であるだからこそ神はそもそも目に見えないものとして偶像崇拝を禁止したのである。
偶像崇拝は本当に危険であり宗教の最大の戒めが偶像崇拝の禁止なのである。
だからあれぼど狂気的にイスラム教が偶像を拒否しているのがわかる
それだけ人間は偶像崇拝に陥るのが普通でありそれが害を及ぼすのである。
神は妬む神であり神がそのことに一番怒るから怖いのである


宗教で一番守るべきことは偶像崇拝を拒否することである

ともかく供養と礼拝はまた違っている、供養は悪いことではない、それは必要なことなのだけどそれが何か度がすぎると礼拝になり死者の偶像崇拝になるから危険なのである。
それで霊が現れたから体調不良になったから霊媒師に頼んだとか女性は何かそうなりやすい、そういうとき霊媒師に金を払い支配されることになるからまた危険なのである。
でも何か女性は霊が現れたとき霊に感じてどうなったとか言う人が多いのである。
女性はなにか迷信的になりやすいしカルト宗教にはまりやすい
それで創価などは婦人部が力をもち選挙でも宗教活動としてしている
それは混同していようがそういう見分けもつかない、それは異常に先祖崇拝になるのともにているのである。それもやはりカルトの特徴なのである。
霊というのも何か見えないからわからない、そしてその霊によって奴隷にされる
霊がどうのこうのとか霊媒師であれ宗教家であれ御布施しろとかなんとかなる


死者の問題は葬式でもそのあともめんどうである。それは死者とどう向き合うかわからないからである。それは戦死者でもそうである。
不幸に事故で死んだ人でもいろいろありそういう死者とどう向き合うのかわからないからである。供養、礼拝でも何か混同してしまう。
死者には軽い供養にとどめるべきでありそれ以上礼拝したりすることは良くない
とをしてもそれが偶像崇拝になるから注意すべきなのである。

タグ:死者の霊
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2016年02月21日

老人が消費するもの (リホームに食にヒューマンなサービスに趣味)


老人が消費するもの


(リホームに食にヒューマンなサービスに趣味)


ヤマハのロードバイクYPJ=Rは何かもう一つ欠けている、坂を上るとバッテリーはきれるとか何か買っても使えるのかとかなる、何かものたりないのである。
若い人ならロードとたいして変わらないだろう、老人だったらもう少しバッテリーの容量が多くないと坂で消耗してしまう
老人は体力がないから電動自転車は便利だけどこれは何かもう一つたりない感じだ
ただこういうのは乗ってみないとわからないだろう。
でも25万以上すると高いなと思った。


老人になると何かやはり旅行でも億劫になる、特に今は外国人で混雑しているから敬遠する、海外旅行もパスポートをとったがこれも使うかどうかもわからない
なんかいろいろなことが計画してももうできないという感じになる
老人は大きな金を使うのはリホームである。
自分の家は築45年で水道管とかも痛んでいるし地震で痛んだのでリホームが必要なのだ。でもこれをはじめたら一千万とかになるかもしれない、それで躊躇するのである。
家を維持することは金がかかるのである。
あとどのくらい住んでいるからわからないからしたくないともなる
ただリホームだけは老人は金をかけてもしている、やはり日々過ごす所だからそうなる
老人になると家が大事になるのである。


若いときは家にこだわらないが老人になると家にいる時間が長くなるからである。
そして自分好みの家にすること内装などもいろいろと自分好みにするのが楽しみとなる
だからどうしてもリホームが必要になる、平屋がいいと二階を壊したりした人もいる
二階があっても一人暮らしの人は使わないとかなる
自分も二階から夜トイレに来るのが遠くて嫌なのである。
平屋がいいのだが作りが二階が座敷で良く作られているのでそこにいる
いつも見回せる範囲の部屋がいい、二階から下りたり上ったりするのが嫌なのである。
電気をつけたり消したりするのもめんどうなのである。
今は5カ所くらいそうしているからつけっぱなしにしていることがあり二階だと管理しにくいのである。
ともかく老人はリホームの要求が多い、それは子供がいなくなったとか夫婦だけになったとか家族構成が変わってしまったりしているからである
すると無駄な部屋はいらないとなるからだ。


それからどういうわけか食とか栄養にこだわるようになる
食を味わいたいとなる、自分は食には無関心であり腹一杯になればいいというだけだった旅行でも金がないから1000円以上のものもを食べたことがない、だから地方の食について何もわからないのである。
でもこの頃食にこだわる、それも贅沢ではなく新鮮な野菜とか魚とかを食べたいということである。
食にこだわることは味にもこだわる、量ではないその質にこだわる、でもこの辺ではレストランが少ないから味わうことはそんなにできない
老人になればがつがつ食べるのではなく少量でも新鮮な味わい深いものを食べたいとなるその味わうというとき何かいろいろなものでもそうである。
芸術でもそうであり文学的なものでも深く味わえる、今までは理解できないが詩などでもほとんどわかる。深く味わえるということである。
それは人生を味わうということでもある。若いときはそうした味わうということができない、老人は食でじっくり味わうのがにあうのである。


それからヒューマンなサービスを求める、ただものを買ってそれで終わりというのではない、何かそこに人間的なものを求めている。
ヒューマンなサービスを求めている、肌のふれあいみたいなものを求めている
物を買うにしてもインターネットとかの通販だと味気ないとなる
ものを買うにしても人間的な交流を求めたりしている、人間のふれあいあたたかみを求めている
今の老人は一人暮らしが多いし孤独だから特にそうなる
一言声をかけてくれるとうれしいとかなる、それで猫ブームになっているのはそのためである。
猫が友達になるというのもそのためである。猫は癒しになっているからである。
だからペットがこれだけブームになっているのである。
子供でも今は老人に冷たいからである。


あとは趣味に金をかけるだろう、金をもっている人もいるからゴルフでもバイクでもカメラでも高いものを買う、団塊の世代は戦前のような働きづめの時代ではない
多様な趣味に生きた時代だからである。
ただバイクとなると老人にとってはちょっと危険になる。
白髪で頭が禿げてバイクでハーレダビッドソンで飛ばしているのもどうかともみる
写真などは今はデジタルカメラで一般化しているからいい
自分はフラワーアレジンメントがあっていた。もともと花が好きで北海道でも山でも良く見て回ったからである。自分のテーマに花があるからだ
花を通じて交流しあえるというか女性とつきあうのには花がいいとなる


老人が消費しないというときやはり先が長くなったからである。あと十年くらいならいいがそれ以上伸びると金も尽きてしまうから不安になるのである。
そして人間はいつ死ぬかわからない、明日かもしれないしあと二十年後かもしれない
だから予定が立てられないから困るのである
ただすでに何か先が見えて死ぬだけだとなっていることも確かである。
何か消費しようにもそのエネルギーがないのである。
生産的創造的消費することはエネルギーが必要なのである。
旅しようかと思ってももう自転車だと疲れるからしたくないとなるからだ。
現代は何か消費することは生産していることでもあるからだ。
金があっても何か消費するエネルギーがないのである
今一番向いているのは回想することである。これだけは老人に一番向いている。
今まで経験したことを回想して深化させるのである。
それで芸術的にも理解が深まってるしいいものができるということがある
自分も作品の完成のために余生があるともなっているからだ。



タグ:老人の消費
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2016年02月10日

蠟梅の詩(百歳で死んだ母を偲ぶ部屋ー介護も死ねば思い出となる)


蠟梅の詩(百歳で死んだ母を偲ぶ部屋ー介護も死ねば思い出となる)


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大輪の百合の目立ちて祭壇に見しもその後添えにし花も見る



去年はいたく寒く
蠟梅すらもその枝の
大雪に折れていたいたし
二三輪ほど咲きしのみ
今年はあまた咲いている
この部屋に我は母を介護しぬ
母は介護されてもこの部屋に
懸命に最期を百歳を生きぬく
母が死んだ今この部屋は虚しも
蠟梅がこの部屋に映える
そして我はここを百歳の間と名づく
母の労苦の一生はここで終えぬ
死してもここに母のなおいるごとし
母に母の部屋のなしも悲しむ
ここに介護の時に部屋をもつ
我が家の悲しき物語
それぞれの家の悲しき物語
家には死してなおも人がいる
今は憎しみも争いも終わりぬ
我が家に残るは我が一人
ただ在りし日を偲びつこの部屋にいる
今また北風がこの家に唸る
立春は過ぎてもまだまだ冬である

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家は何か女性の場合嫁とあるごとく家と一体化している。我が家は何か普通の家ではなかった。だから複雑である、自分にとってはいいものだったが母にとっては自分の家はいいとは言えないものだった。
母は自分の部屋をもっていなかった。いろいろ不遇でありそのことを自分は思っていた。母が最期に部屋をもったのは介護されるときだったのである。
この一部屋が母を自分が介護した時母の部屋になった。
自分はずっと母に対しては悪いと思っていたがどうにもならなかった。
母は自分の家に嫁ぐ前も不遇だった。一生が不遇だったのである。
ただ最期は自分の部屋をもち自分が介護したから不遇とは言えなかったろう
母は喜んでいたからである。

そして母はこの部屋で介護されるときも懸命に生きた、頑張り屋だった。
最期までベッドの脇のポータブルトイレに自力で行っていた。
オムツもせずに水しか飲まなくなり一週間もそうだったがポータブルトイレに行っていた食べるときも自力で食べていて自分が食べされることもなかった。
それで実際は自分にとって楽な介護だったのである。
病院に入院してオムツとか管で小便をとるとき凄くいやがっていたことでもわかる
オムツとかなるとその衝撃が大きいのである。
母はやせていてともかく頑張り屋だった。
でも母は何か世間にうといからこの家を一人で切り盛りはできなかった。
姉がいてこの家は成り立っていたのである。

それぞれの家にはなにかみんな複雑な事情があるからわかりにくいのだ。
母は前の夫も事故で死んだとかいろいろ不遇だったのである。
そういう人が大正生れとか戦前とかなると多いのである。
そしてつくづく病院という場はそうした家の事情とか関係なく無機質な空間であり
それぞれの人に対する思いがない場所である。
だからそこは長居する場所ではない、その人の特に女性の場合、家に一生があるとすると家で介護されて死ぬのがふさわしいとなる、そしてそこには死んだ後も思い出として残る場所なのである。


だから病院とか介護施設は本当は介護されるにも病院でも看取りとなるとふさわしい場所ではない、医者とか看護師とか介護士は家族とは違うからである。
体をみてもこのようにその人間そのものが生きたというその一生をみれないからである。なぜ死んだ後にもこの部屋が「百歳の間」として名付けてなおその人が生き続けるようなことはありえない、病院ではなんかもののように死ぬとかたづけられるだけである。
そこにはもう誰がいたかもわからない、ただ一人が消えてその名も覚えている人がいないだろう。
そこが病院とか介護施設と家との大きな差だった。
人間は死んでもそれで終わるわけではない、その人はその生きた家になお生きつづけているのだ。病院とか施設ではそういうたとはないのである。


もちろん介護になると認知症とかなると介護自体が嫌な思い出となる、てもやはり人は特に女性の場合は家と切り離されずにある。
それで家で介護されたい家で死にたいとなるのが情である。
ただそれに対処するのは家族が少ないから本当にむずかしい
自分がなんとかやれたのは母が介護を楽にしてくれたからだと思った。
脳出血とかなり三食食べされるようになったら本当になにもできなくなった。
それが常に自分はおそれていたのである。
とにかく人間の一生というのは死んでみないとまたわからないとも思った。
死んでからまたその人をふりかえり深く思うことがある
生きている内はそういうことが見えないことも多いのである。
嫌だ、嫌だと思っていてもそれがなつかしくなったりするのが人間なのである。
だから介護も嫌なのだかふりかえるとなつかしくさえなるということもありうるのも不思議である。
それは重荷から解放されたからそうなっているのかもしれない、それは介護だけではない、人間は苦しいことでもふりかえるとなつかしくなったりするからである。
憎しみ合い争っていてもそれすら死んでしまったりするとなつかしくなったりする
それは兄弟で昔喧嘩したことがなつかしくなったりするのと同じなのである。
人間死んだらなぜそんなに争ったのかとみんななるからである。


つまり人間は今は介護というのがその一生の間で経験する、次ぎに看取りがありその後に死者を偲ぶ場として家がある。
人間はそうして死んだからその生がそれで切断されないのである。
でも病院とか施設では死んだら切断されて何も残らないのである。
偲ぶ人もいないのである。そこはただ一時的に体をみる場所なのである。
だから人間的な場所ではないのである。
でも現代は在宅介護とかするのは本当にむずかしいからそうなった。
ただそこには人間として最期を迎えるのにはふさわしくないのである。

大きな百合の花を最初は目立つから見ていた、次ぎにしばらくたつと添えて咲く花をみるつまり人間は最初は主役をみているが脇役も長い間みていると花でも見るようになる
母はずっと脇役でありそういう性格だった。目立たない花だったのである。
でも長い間見ていると脇役も注目される、一瞬見た時はどうしても主役の大きな花に目がむくがやがて脇役の小さな添えて咲く花も見るようになるのである。



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2016年02月08日

老人は金があっても消費する力がない (消費は今は生産的なものになっている)


老人は金があっても消費する力がない

(消費は今は生産的なものになっている)


老人が金を持っていても使わないから不景気になるとか良く言われる。アイナス金利政策も貯金しても金利がマイナスになったりするからなんとか金を使わせよう、投資させようとする政策なのだろう。
ではなぜ老人は金を使わないのか?そもそも老人は何に金を使うのかとなる
自分も老人の一人だとすると最近買ったものが有効に使えないのである。
自転車からビデオで撮ろうとして最小のビデオカメラを買った。これも前していたから今度はいいカメラでしようとした。
でもビデオカメラ自体使いこなすのがめんどうなのである。
二十年から三十年前にも自分はいち早くビデオカメラを使っていた
それは今と違ってもつだけ重いものでありデジタルではなかった。
これもとってみたがビデオカメラは使いにくい、編集にしてもあまりにもめんどうなのでやめた
人間は買っても使えないのが結構多いのである。特に老人になると道具を買っても使えこなせないのが多くなってくる。

自転車のロードなどはもどんなものかと試しに買ったがたいして乗らずに終わった。
自転車旅行とかをはじめたのは40代であり遅かったこともある。
それまでは鉄道の旅だったのである。それから海外旅行は50代でありそれも遅かった。
そんなことをしているうちに時間は過ぎて今の年になった。
人間は何かをする時間がつくづく限られていてないことを痛切に感じた。
遊ぶ時間すら限られていて意外とできない、まずビデオの動画の編集など相当に時間を食う手間のかかるものだから使えこなすことは若いときでも大変な労力が必要になる


老人が消費しないというとき消費できないのである。消費というときただ消費するのではない、ビデオカメラを買ったらそれを使いこなすとなるとそれ自体もう消費ではない、遊びでも生産的消費なのである。パソコンを使いこなすこともそうである。
こういうのはもう消費とは言えない、生産的消費となっているのが現代である。
ただ金を使って浪費しているだけではないかとはならない、そうしたものビデオカメラでも自転車でもすでに使いこなすこと自体が生産的消費となっているのが現代である。
フラワーアレンジメントをするにもこれも手間であり確かに花を買うと高いがそれを利用して使いこなすことがまたむずかしいのである。
常に消費は生産的消費、創造的消費と結びついている。


旅でもこれも消費だけではない、旅は見聞を広めることであり多様な自然や文化にふれることである。だから実際は相当に集中しないと旅でもあとで何も残らないだろう。
旅もふりかえればそれなりに労力が必要であり生産的消費になる
現代は遊ぶこと自体が一つの生産的消費でありそれなりに手間と労力がかかるものであるだから旅すら年取るとめんどうになりしたくなくなるのである。
もちろん厚い本なども読めなくなる。意外は本がこんなに読めないものかと驚く
本は確かに山積みになっているがどれだけその内容を読んだかとなるわずかになってしまう。
つくづく人間のやれることは本当に限られている、そのうち時間切れで終わるのである。これしかできなかったのかとふりかえり終わる


老人は金があってもその金も使いきれない、それを何に使うのか?孫にその遺産を残して使わせるとかなってしまう。
そして最近の世界経済を見ると世界的になぜこんなに経済が低迷してきたのか?
なぜ原油安になっているのか?そもそも原油安ということはありえないことだった。
資本主義は今資金も膨大に余っている、原油も余っている。その使い道がないということで老人ともにている。
余った金がどこに流れるのか、中国のような巨大な発展する国もないからますます金もあまり石油もあまってくるのである。


だから現代の資本主義がもう発展する国もないから投資する国もないから停滞してくる。何か大きなもうけをだす国もないし発明もないのだろう。
何か飽和状態になりゆきづまっている。資本主義を維持するものがなくなってきている。そうなるとどうなるのか?資本主義は社会主義的要素が強くなるかもしれない、格差が大きいというとき全体の経済発展でもグローバル的にも無理がきているというとき金をどこに回せばいいかといったらそれは格差解消となると金のない貧乏人に回せとなる
それは福祉的政策でありそれも批判されてきて民主党では経済発展できない、不景気になるとして経団連の指示する自民党に変わりアベノミックスで株価をあげたのである。
それもゆきづまっているのは世界経済の影響がある。
世界全体が経済成長する資本主義が限界にきているからそうなる
全体の成長を先にしてそさから下々に金が回すというやり方がうまくいかなくなっている銀行だって有望な成長する投資先がないからこそ金をもっていても有効に働かないのである。

そして老人が金をもっているというときなぜ使わないかとなると生産的消費する力がないことと老後が長くなっているから将来の不安のために貯蓄していて使わないのである。
老後というときあと十年くらいで終わりだなとなれば意外と金の見通しがつく、これがあと二十年もつづき自分のように国民年金だとすると金が確実になくなり下流老人化するという恐怖になるから金を使わずに貯金するようになる
老人が金が使うのは結局病気と介護に最期は使いなくなる。
なぜこんなに薬屋が多いのか?この辺でも病院が街の中心でありその回りに薬局をとりまいているのである。
つまりそれだけ老人が医療に金を使い国でも使うからそうなっている
何か社会が歪(いびつ)になっているのである。


介護はそれなりに意味があっても生産的ではない、子供だったら若い人だったら健康な人だったら料理して出したらみんな食べるけど介護される人はうまそうにも食べない、いやいやながらやっと食べている、そういうものを見ていると料理する方もやりがいがないのである。うまいうまいと食べてくれればやりがいもあるがそれもないのである。
もう老人は介護状態になったら食べ物すら消費できないのである。
でも別に介護状態にならないなら何か自分は旅しないから最近いろんなレストランに回って食べている。
この辺ではいろいろないにしろそれなりに味も違い雰囲気も違う。
この辺ではレストランなどは外部の人が多いから結構繁盛している
老人でも意外とこうした料理には金を払う人が多いかもしれない、食べる楽しみが意外と介護状態にならない限りかえって金をかけることがある
病気とかにならないためにも料理が大事になってくる。すると食べ物に気をつけるうよになる、特に野菜はなるべく肉類などより食べるようにしているのが老人なのである。



タグ:老人の消費
posted by 老鶯 at 21:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 老人福祉医療問題

2016年02月03日

認知症の徘徊で鉄道事故 91歳の妻に約360万円の賠償命令 名古屋高裁



認知症の徘徊で鉄道事故 91歳の妻に約360万円の賠償命令 名古屋高裁


認知症になると変なのだけど知的障害者をもった家族の苦しみがわかる。
家族に監督責任が課せられて家族が責められるのである。
そして回りが同情することがほとんどないのである。
人間はつくづく弱者になると世間は冷たいなと体験でわかった。
田舎でも知っていた人でも認知症になったら相手にしないし差別される
弱者になったことでそれをいいことに責めてくるのが世間の非情だった。
もっと回りで見まもるとかなんとか言っているけどそんなことをするのはまれである。
かえってなんでちゃっと見まもっていないのだと責められるのである。
火に気をつけろとか日頃親しくしていた人でも何かと責めてきたのである。
もちろん確かにそういう心配があるからやむをえないということはある。
今回でも迷惑をかけたことで責められるのは被害が大きかったからである。
でもこれも別に鉄道会社だけではない、回りがみんなそうである。
ましてや実害があったらその責任を問い賠償金を要求する


判決に対して大会社なんだから大目にみてくれてもいいだろうと言う人も多い
個人ではないからそのくらい大目に見ろよという意見も多い
第一この家族は長男が横浜にいてその妻が名古屋まで来て介護していたのである。
そしてこの認知症の男性の妻は85で要介護状態になっていたのである。
これも想像すると苦しいだろうなとなる。
二人も長男の妻がわざわざ来て介護して二人をめんどうみる
そしてここで想像するのがその先が長いことである。
そしたら夫から離れて夫も仕事しているから苦しいとなる
うとうとしていたらその隙に家を出て徘徊したという
自分か介護で感じたことは二人だったら楽だったなということである。
なぜなら交代でめんどうみれるからである。
一人だとつききりになり何することもできない
自分が遅くなったとき姉は自分が帰らないとすごく心配して隣の人にいつも帰ってこないと騒いでいたという
でもその隣の人は姉が認知症になったことを知っていて受け入れてくれたのである。
その人は本当にいい人であり今でも感謝している
そういう人は本当にまれでありほとんどいない、田舎でもいない、たいがいは差別になったり
何かと監督責任を問う人がほとんどなのである。
そういうことが今回の判決にも具体的に出たのである。

この家族は世間は冷たいなつくづく思っているだろう。
鉄道会社も大会社なのに冷たいなと思っている
それでひどいなと見ている人も多い
でも知的障害者になるとこれが現実なのである。
監督責任が問われ家族は苦しむのである。
それで認知症になる家族を介護するとき奇妙だが知的障害者をもっている人の気持がわかるとなる
共通なことが多い、でも違っているのは年寄りの認知症になった人はこれまではいろいろと尽くした人であり自分の姉はそうだったから知的障害者になってもそう扱いなかったのである。
本人も自分はいろいろ尽くしてきたということを意識しているのだ。
だからプライドをもっていて馬鹿として扱うど怒るのである。
それが生れたときから知的障害者になっている人との大きな相違なのである。
自分はそういうことを身をもって感じていたから認知症になっても普通の人と同じように家族の一員として扱ってきた。
だから気分が良くなり改善したのである。ただそこには犠牲があった。
それでも二年半くらいで死んだので救われたのである。
介護は長くつづくと限界になってくるのだ
いつまでつづくのだろうと不安になるし知的障害者とつきあうことは必ず鬱になるのである。
自分もなっていたし普通のときのようにとても暮らせないのである。
自分の場合は二年半で終わったので救われただけである。

認知症にはもう85才とか90才以上になると半分はなるとか誰でもなるものなのである。
だからこれからはますます人ごとではなくなる
でも認知症に関してはなかなか外からまだ理解しない人も多いのである。
認知症のやっかいなのはこれまでいろいろ家のためでも社会のためでも尽くした人が多いその功績をないがしろに簡単にはできない、それぞれ違っていても自分の家ではそうだった
だから馬鹿になったという扱いは簡単にはできない
自分の家の場合は徘徊とかはなかった。ただ自分がちょとでもいなくなると不安になっていた
暴力もあったし家族もばらばらになった、そういうことをプログに書き続けてきた
つくづく在宅介護というけどそんなに今は人手が家族にいないのである。
自分も二人いれば楽だったがいない、ここでもわざわざ長男の妻が遠くから来て介護していたのである。
そのことは相当に負担だったろう。介護というのは在宅でも必ず一人にまかせられる傾向かある、誰か一人におしつけられるのである。


ここでも実際は認知症の91才と介護状態の妻の二人が介護になっていたのだ
自分も一時はそういう状態になりつつあったが一人が死んで救われたのである。
二人を一人でかかえる時に限界がくる、本当は一人をみるのに二人必要なのに二人を一人でみるのだからそうなる
在宅介護でおしつけられるとこれからもこうした事件や悲劇は毎日のように起こる
実際はすでに起きているのである。
介護で家族自体が崩壊してゆくということも起きてくる
こういう判決が出るのはまさに在宅介護をおしつける国側にも問題がある。
鉄道会社は民間だから損が出れば賠償させる、それも利益追及だからとめることはできない、慈善でやっているのではないともなる
ともかくいろいろ考えさせられる事件でありこれから認知症にとを対処するから社会が問われたとなる

posted by 老鶯 at 19:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 老人福祉医療問題