2025年10月12日

何故70才以上とか検査しても無駄なのか 【老化の病気は直せないー死に向かう自然な過程とあきらめる?】

何故70才以上とか検査しても無駄なのか
【老化の病気は直せないー死に向かう自然な過程とあきらめる?】


今回名取のガンセンターに行ってみてもらても何も治療もできません
何か症状が出たら南相馬市の市立病院で診てもらってくださいと言われた
南相馬市立病院から名取のガンセンターに紹介状を書いてもら行ったが
またガンセンターから南相馬市立病院に検査結果を報告する書類をもって
治療の時はかかるように言われた

これは何なのだろうとなる。検査しても無駄だったとなる
治療もできない、そんなら検査すること自体無駄だったとなる
だから70才以上とかなると検査自体が無駄であり病気があるとしても必ずしも治療もできないとかなる
それはなぜかというと70歳以上とかなるとそれは老化が関係しているからである
死んだ人を解剖すると老人は必ず癌が発見されると言うときそれは老化によるものであり
一つの自然現象だともなる。

老化とは体全体が衰弱して起こる、その老化は病気とも違う
人間は動物でも老化してやがて死んでゆく、それをとめることはできない
だから70歳以上とかなると検査しても無駄だという時それが老化が原因しているからだとなる
そして検査して病気とされてもかえって余計な心配をして体を悪化させるともなる
病気は気だとなり落胆させられるだけだとなる

私自身でも別に癌だと言われても普通に生活できる
何か体の異常も感じられない、ただ脳出血になり左手がしびれたというだけである
後は正常なのである、だから今まで通り普通に生活できる
だから検査してそれが癌でも何か症状もなく困ることがないのである
それで70才以上とかなると検査しても余計な心配が増えるだけだともなる

つまり老化は直せないとなる。人間は老化して最後は死んでゆく
それは避けることはできない、だから検査自体が70歳以上とかなると病気が発見されても余計な心配不安が増えるだけだとなるのもわかる
又治療にしても体に負担がかかり悪化することにもなる
検査自体でもそうである
老年医学という分野も生まれ何か老化は自然現象だからいくら医療が進歩しても直すことはできない
むしろ老化したらそれはやがて死に向かうことでありそれを止めることはできないから受け入れるしかない
要する人間はみんな老化して死んでゆく
だから老化の病気は直せない、むしろ受け入れて死んでゆくほかないともなる
だから余計な検査であれ治療でも無駄だとなる、それがかえって悪い影響を及ぼすこともあるから注意すべきだとなる








2025年10月04日

気の療法も効果的 なぜ病院がいい場所ではないのか―何でも気の影響を人間は受ける

気の療法も効果的
なぜ病院がいい場所ではないのか―何でも気の影響を人間は受ける

病院がなぜいい場所ではないのかとなると当然病人が歩まる場所だから
である。病人から発する気が満ちている場だからである
また老人ホームなどでも老人ばかりいるのだから何か陰気になる
いろいろな場がありそこに発する気がある
歓楽街とかなると色気が発して欲望が刺激される場であり何かそうした気が必ず影響する
つまり人間は常に何らかの場の雰囲気の影響を受ける

一方で自然からでも気の影響を受ける、山でも山の気を出しているし海でも海の気を出している
この辺だと飯館村は山の気を受ける場所でありなにかそこに立つと気が変わるのである
場所によって気が変わる。だから場所の効用があり癒される
病院がいい場所ではないのは癒しが欠けている
そこに優れた機械が装備されて優秀な医者がいても何か欠けている
それはそこに癒しがない。確かに病気は診るのだがそれは体も診るのであり
心と体は一体だからその心が無視されるから問題なのである

だから不思議なのは病院から家に帰った時安らぐ。それは家と病院は違う
家とはもともと家族の住む場所でありそれ自体が癒しの場だった
だから家で死にたいという時そこが家族の生活する癒しの場だったからである
無機質な病院とは違うからである

いずれにしろ気の影響は大きい、あらゆるものが何らかの気を発している
それは人間でも物でも自然でもそうである
何か性格の悪い人と接すると悪い気を受ける、悪い人が集まるところには悪い気が満ちる
そういう場に行くと必ず知らずに気の影響を受ける
カルト教団などでもそこは宗教なのだからいい人が集まる場所と思うが前年違っている
あらゆる欲望を満たそうとする人たちが集まる場であり異様な雰囲気になる
だからそこでも悪い気を受けるから危険なのである

この世ではどうしても悪い気を受けやすいのである。大都会自体人が密集して悪い気が満ちる
気とは人間の念でもありその念の影響を受ける
自然の気は人間にいい影響をもたらす、だから山で修行することは山の気に触れることであり理にかなっていたのである
だから大都会から生まれたカルト教団は異様なものとなった
ともかく人間は常にこうした気の影響を受けている
人間個々人も何らかの気を発している。だから悪い気を発する人と接するとその気の影響を受けるから危険なのである
病気という時これも気であり病の気を発するとなる

人間であれ自然であれ何らかの気を発している、それが意外と見逃されている
だから知らず知らずどこでも人でも気の影響を受けるから注意する必要がある、悪い気が受ける場でも人でも近ずくことは危険である
だから気の療法がありそれも非科学的なことではなく効果的だとなる。










2025年10月03日

今日は南相馬市立病院で検査で疲れた【老化が関係すると病気も治りにくい―それよりしたいことすることを優先する

今日は南相馬市立病院で検査で疲れた【老化が関係すると病気も治りにくい―それよりしたいことすることを優先する】

MRI検査もした。それは脳だけではなく体全体もした
脳に一部異常が見られたがそれが体全体とも関係しているということで体全体を検査した
その中で腎臓に異常が見られた
腎臓も高血圧が影響していた。だから血圧は毎日計った方がいいと言われた
十年ほど前に私は近くの胃腸科の医院で内視鏡で検査して腎不全るということで南相馬市の市立病院に緊急入院した

腎不全は基本的に慢性腎不全と呼ばれ、腎臓にダメージが蓄積して元に戻らなくなった状態です。日本では慢性腎不全の患者さんは約1,300万人と推定され、国民の成人の約8人に1人が該当します。
急激に腎不全が引き起こされる病態は、急性腎不全と呼ばれます。たとえば、尿管結石や腫瘍しゅようが生じて膀胱など尿路を塞ぎ、尿が排出されなくなって起こるような腎不全です

生物として想定された寿命は55歳ではないかと言われます。現代の日本人はそれよりもはるかに長く生きていきます。そのために必要なことは、やはり腎臓をケアする生活を心がけることです。

MRIの写真で腎臓の異常が見られた。それは血圧と関係していた
つまり脳出血も血圧が高いことが原因で起きた
それで家でも毎日血圧を測るように言われた
それから肺にも異常が見られたと言われた、でもそれは担当の医者でもわからないから仙台の専門医にみてもらうことになった、
やはり高度な医療となると仙台市の専門家でないとわからないとなる
それだけむずかしいとなう、何か緑内障でも手術するとなると仙台に眼科の専門病院がありそこでないとできないと言われる

ともかく一日検査で疲れた。何かわからないが全身が老化して出てきてのかと思う
血管でも老化して弱くなる。老化となると治療できるのかともなる
頭の脳の一部に異常があるとしても写真だけではわからずその一部を取り出して調べないとわからないという
そうなると手術になりめんどうになる
私は看病する人もいないのだからしたくない、また老化となるとそれが直るのかどうかもわからない
それでも役所の地域包括センターの女性が付き添いしてくれたので助かった
その人を中心に手配してくれたので助かった

だから一人暮らしでも支援する人があれば何とか乗り切れる
でも手術となるとその後に看護が必要でありなかなか難しくなる
だから私はしたくない、私自身は無理な治療をしてもらいたくないともなる
それは一人であり介護してくれる人がいないからである
そして年でもあり苦しんで生きるより死んだ方がいいと思っている
何か老化となると直るのかとなるからである
だから老人の病気の考え方は違ったものになる

何か老人になるとただ病気を治すというだけではない問題が生じる
それで癌に成った人でも富士登山したとかある
その人はそれだけ山に魅力を感じたから病気より自分のしたいことをするおいうことを優先したのである
いずれにしろ老人は病気になっても治らないことがある
それなら最後に自分のしたいことをして死ねば本望だともなる
病気にばかりとらわれるのも問題となる

我が家に帰りて静か月を見るかな心安らぐ一人なりしも

とにかく病院は疲れる。家に帰り月を見たら何か落ち着き安らぐ
家というのはそういう効果がある、病院では何かそいうものを感じない
体を診るが心は診ない。だから病院は嫌われるのである
家の不思議は家族がいなくても心安らぐのである、そこに家の不思議がある

月を見て心静かに我が死なむ家そ安らぐ家族の無しも




2025年09月26日

老人とデジタル社会 【連絡用にスマホでなくてもガラケーでも必須】

老人とデジタル社会
【連絡用にスマホでなくてもガラケーでも必須】

老人とデジタル社会は相性が悪い、アナログ的にじかに合ってコミニケーションする
それで安心する。でも外に出ても福祉の人とか連絡を取る必要があり不可欠になっている
スマホでなくてもガラケーでもいい、固定電話はでは外出した時連絡できない
だからデジタル社会なれば適応せざるをえない、私が脳出血になってもプログを書き続けている
するとプログを読むとその人の消息がわかる。それが便利なのである

ただ手がしびれたからキーワードを打つのがうまくいかない
でも何とか打てる。これもデジタル時代だからできる
それで緊急用にはスマホであれガラケーでも携帯は必須なのである

そうでないと連絡できないから助けてもらえないとなる
それは結構深刻な問題になる。だから老人がこうしてデジタル社会に適合できないと命にもかかわる
そんなのめんどうだから必要ないとならないのである
いろいろあるが連絡用に必須なのである。
とにかくこうしてそんなものなくても暮らしていけると老人は成るがそうではないのである
それを日ごろから訓練している必要がある。ただ簡単に覚えられないから苦しいとなる
でもデジタル社会になると適合せざるを得なくなる
難しいことではなく連絡用に必要なのである

別に老人でもガラケーならメールでも使っている。ただ何でも日ごろ使っていないと使えないのである
何かスマホは電池が切れやすい、それで携帯用の小型のバッテリーをアマゾンで注文した
デジタル機器の問題はこういうところにもあった。
ともかくこういうことも備えていないと困ることになる
つまり連絡できないからである





2025年09月23日

南相馬市の詩−福祉の支援に助けられて・・・・


南相馬市の詩−福祉の支援に助けられて・・・・

南相馬市の詩

南相馬市に生きる歳月よ
苦しくも悲しくも
ここに生き死になむ命
福祉奉仕の人よそは我が助けなり
共に手を取り合い結び合う
今我が一人家族の無しも
そは我が支えなり
我ははここに安らかに眠らむ

一つ一つの墓標は何語るあわれ
美しき過去は蘇り
新しき未来は築かれむ
若竹は真直ぐに素直に伸び
清らかに流れる水よ
美しき花々に飾られぬ

石一つここに動かず夢を見る
木は強く根を張り
大地の育む豊かな黄金の実りよ
虹はかかり神の約束の日は成らむ

かなた海は広く波は打ち寄せ轟き
鳥は広き砂浜に群れて飛び来る
そしていずこかへ飛び去り消えぬ

ああ 自由なる鳥よ
憧れは強く海の彼方へと飛び去りぬ
かくて新しき世界は啓け見む
そこにまだ見ぬ花を見てまた飛び去りぬ
ああ 旅の日々よ、蘇るかな
ただ帰るべき故郷ありて旅もあれ

南相馬市は我が故郷なり
ここも理想の地にはあらじも
その暗黒よ、しかあれ
我が家族もここに眠りぬ
我はここにいつくしまれ育ちぬ
その家族の面影はここに宿りぬ
かの時は至福の時なりしを・・・


今回は全体の体の衰弱から軽い脳梗塞のようになったのかも知れない
暑さでも栄養を取らないからそれも影響した
一人はこういう時本当に苦しい、それで福祉の支援を知り現実に助けられた時うれしかった
別に故郷がいいとはならない、そこに暗黒があることを書いた
でもここで生まれ育ち生きてきたことそれも人生だった

何か死ぬとも思ったからである。それでも支援があることで多少安心した
助けてくれるんだと安心した。これは一人だからと感じたのである

ともかくなぜこれほど災難が続くのか、津波原発事故それほど私には影響なかった
でも親の介護自分の病気は辛かった。それは十年以上続いたから苦しかった
入院も自分自身二回もしたからである。
人間は苦しい時助け合う時連帯が生まれる、その時歌が詩も生まれる
南相馬市に生きた。それもかけがえのないことかもしれない
ただ故郷嫌い旅してきたのも自分の人生だった
だから故郷が特別いいとも思えない、でもここに長く生きたのだから思いが生まれる
それは誰であれ人生でそうした思いが生まれる
そこで共に生きたという思いが生まれる故郷でなくても長く生きれば誰しもそうなる
それが何であれ人生となるからである。
























2025年09月02日

老人になり問われるものーその人なりの価値が人格が問われる 【社会でも会社でも人格形成を目的にしない】


老人になり問われるものーその人なりの価値が人格が問われる
【社会でも会社でも人格形成を目的にしない】

● 長生きしてもそれだけで価値は作れない

老人の問題は突然に老人になったから起きることではない、人生は連続している。
老人は人生の最終として誰にでもなる。でもその前の人生と切り離してありえない、
人生は連続しているからである。だから老人の問題が老人になり起きるわけではない
だから別に老人になったからとか年をとったからと老人が人格者になるとか特別な人になるわけではない。何か老人を敬いというときそういう時代は老人が長生きする老人がまれだから貴重になった。今はこの人は長生きしたから偉いとはならない。ただ百歳元気でいれば注目はされる

何か老人の問題が老人になって共通して起きてくるとみる
でも老人の問題は確かに病気になるとか体力がなくなるとかは共通している
でも老人の問題はその前に起きている。人間がただ年をとるだけで偉くなり優れた者とはならない。老人の数が少ない時はそういうことがありえた。
今はただ年をとったから価値あるとはならない。

なぜ老人が価値がなくなったのか?

これを問うべきである。老人の価値とは何なのか人間の価値は何なのかが問われる
老人は無駄だとか老人を嫌悪するとき老人の価値を認めないからである。
でもまた老人でも個々に違っているから老人全般ではなく老人の個々の価値を認めないからだとなる。
老人でも何か一芸に優れている人だったら一目を置く、何かその人の特有の価値を認めれば老人でも価値あるものとなる
でもただ年をとっているだけでは価値は認められない、それが高齢化社会で問題になっている。別に60代くらいで死んでいればそんな個々人の価値を求めることもなく家族であれ地域社会であれ会社であれその中で価値があり死んでいたとなる
あえて個々人の価値を問うこともなかったのである

だから老人が無駄だとか無価値だとかあまり言われない、ただどうしても老人は無駄だと言われていたことはあった。それは貧しい時代だから働き手になれないことでそうなった。その時老人の性格がどうだとか何かその人の人格的なことは言わなかったかもしれない。
でも今になるとそうした老人の人格的なことを言われ指摘されるのはなぜかとなる
それは長生きしているから何か老人が目立ちそれで変な老人が増えて目立つからそうなる。少なければそもそも老人のことをそんなに話題にもしないだろう
何であれ老人が多すぎるからどうしてもその中には変な老人がいて目立ち嫌悪される。ただ長生きすれば恥多しということは言われていた。だから昔でもそういうことはあった。

●老人が多すぎて負担になり価値がなくなった

ただ現代は余りにも老人が増えすぎたことで老人が目立ち老人の価値が低下したのである。そもそもいつの時代でも優れた人はまれだった
それで現代のように老人が増えれば変な老人が目立ち嫌悪されるとなる
何でも数が多ければ価値がなくなる。美人でも多ければ価値がなくなる
醜い女性がいて美人の価値があがる。でも美人ばかりっだったらその美人も価値がなくなる。老人が少ない時代は老人であるだけで価値があったとなる
現代では百歳になる人はまれだから価値ある。でも百歳が増えてありふれたものとなれば価値がなくなる。

いづれにしろ老人の問題は老人になって起きることでもない、老人だけを切り離して見れない、人生の最後の結果として老人問題がある
むしろ老人になってその人の真価が現れるとなる。何であれ人生で積み重ねてきたものがありその集大成が老人になり結実するとなる
だからなぜこれほど老人が尊敬されず嫌悪され無駄なものとされるのか、それを問うべきだとなる。それは老人になって突然現れたものではない、人生は連続していたのだからもしかしたら青年時代にも問題があり老人になりその問題が現実として現れたのかとなる。

確かにカルト教団に子供の時から家族で洗脳されてそれが遂に老人まで変わらなかったらどうなるのか、その人は異常でもいつも接する人は同じ人達だから異常でもない、むしろその中でかえって先鋭的になり認められる
別に外界で価値がない異常だとみられてもその内部では賞賛される
それは組織団体化した所ではそうなりやすい、その団体組織の中での価値観がありそれが異常で気づかないのである。
それは近くの村人間でもそうである。十数人かの村(部落)が社会でありそれ以外は通じあわなくてもいいとなり、返ってその仲間が第一であり村八分がありそれを一番恐れるとなる。

●人格形成を社会では目的にしないーでも老人になると問われる

要するに人間は常に価値を問われる存在である。老人は特に長く生きて来たのだから何らかの価値を作って来たはずだとなる。でも人格形成がどうのこうのとかそんなことを目的にして生きるわけではない、会社だったら利益を出す金儲けることが第一になる、そもそもあなたたちはこのの会社に入ったら人格形成を第一にして勤めなさいなど言わないだろう。いかに利益をあげるかが第一になる
そこで何か相手をだましてでも利益を出す者が優秀だとして会社では優遇するとなる。たとえ人格が歪んでも利益を出すことが第一になる。

それでも老人になった時何かそうして人をだましたりして利益をだして会社では褒められてもその人の人格は歪むとなる
でも別に会社ではそんなことを気にしない、それでも老人になったとき何か歪んだ人となる。ただその人は社会での成功者にもなる。
いずれにしろ社会であれ会社であれ人格形成どうのこうのとか目的にしていないのである。だからなぜ職業が業になっているのか、カルマにもなるのか、世俗の職業自体に問題がありそこで利益が第一となり心は無視されて心が歪むとなる
会社であれ社会であれ人間は二律背反になる、ジキルとハイドにもなる

ただ変な歪んだ老人が多いというときその原因は何なのか?
そもそも社会であれ会社であれ人格形成がどうのこうのとか関係しない
もちろん嘘をついて取引しろとは言わないけど利益になるなら上の人でも目をつぶるということはありえる。それは政治家ではあり批判される
政治でも別に人格がどうのこうのとか余り問題にしないだろう
要するに社会では人格形成を目的にしていない、それでも不正なことをすれば法律に触れるからと注意する。それは罰せられるからそれを恐れてしないとなる

でも老人になり変な人人格が歪んだ人が多いのか?
それは何らかで社会を生きているうちに例えばまず利益を上げることだとして
嘘をついたりだましたりすることをしてきた。それが老人にあり顔つきにも心も歪んだものになったかもしれない、なぜなら会社であれ利益第一であり社員の人格が心がどのこうのと言わない、何か寺であれ修道院なら人格形成を第一にしている
社会では利益が第一でありそんなことを問わないのである

●不本意でも社畜とならざるをえないーでも責任は問われる

ただ老人から人生でも社会を見ると違って見える、もしかしたら何で私は会社の命令を第一にして社畜になったのかとか後悔するともなる

不本意であっても金になる、利益になる

そういうことが人生には多い、カルト宗教教団も宗教を看板にするのだから人格形成を第一にする場なのかとなれば全然違っている
むしろ強欲になり御利益を狂気のように追求して仏に祈る。人格などどうでもいのである。ではその人達が老人になったときどうなるのか?
何か歪んだ人格が形成されて経済的には成功しても人格形成では失敗したとなる

ただ人格形成を目的にしている会社などない、それなら僧院に入れとなる
社会でどうしても職業に就くことは業(カルマ)を積むことになる
それで世俗社会と分離して精神修行をしたとなる
何か引きこもりとかは社会に適応できないという時純な心と内面を追求するのでそういう場が僧院でも入るのにはいいとなる。ただそういう場が現代では喪失したので家に籠るようになったのかとなる。私の場合はそうだったのである
何か嫌なことを強制されることがなかったのである。それは特別に家族に恵まれた結果だったのである。でも社会は過酷であり甘えは許されない、それが意に沿わないものでもやらざるを得ない、そこで人格形成とは関係ない場所だからである

とにかく老人は何であれ人生の結果として現れる。それは顔にもその悪しき行為でも刻印される。だからその形成された心が人格がそのまま来世にもたらされる。そこが地獄であるがすでにこの世自体が地獄なのであるり地獄に入るための場だとまでなる。
神はその人の心を見るというときいくら人格が歪んだのも会社のせいだとか社会のせいだとしてもあなたの責任でそうさせたのだとされる
40過ぎたら自分の顔に責任を持てというのはそのことだとなる

あなたの心が歪んだのはあなた自身の責任だともなる、社会であれ会社であれそこに責任はない、結果的にあなた自身の責任として問われる。確かなことはこの世に義人は一人もいないというときそれだけ義に生きることはほとんど不可能に近い
何らかこの世の不正と悪に妥協して生きるほかないことを示している
だから悪に染まっても別にみんなそうであり感じないとなる。だから自分が悪人だとか罪人だという人は返って救われるという逆説になる。何らか悪でも罪でも意識できたからである。普通は殺人を犯した人でも反省していない、たまたま運が悪かったと刑務所に入った人が言っていたからである。自分が人を殺しても悪いと思っていないのである
要するに人間はそれほど悪を意識できない、だから親鸞が千人人を殺してみろと言ったのである
そうすれば悪人と自覚するからだとなる。







2025年08月04日

老人が真面目に働いてきたのに年金も少なく若い人も尊敬もなく邪魔者扱い 【老人が報われない嘆きー惜しまれて早めに死ぬ方が良かった】

老人が真面目に働いてきたのに年金も少なく若い人も尊敬もなく邪魔者扱い
【老人が報われない嘆きー惜しまれて早めに死ぬ方が良かった】


●日本の経済悪化で年金も少なすぎる

老人は真面目に年金でも税金でも納めて来たのに報われないと嘆く、国のために社会のために尽くしてきたのに報われない
また老人は尊敬されず邪魔者扱いでしかない、何かこういうふに老人が言う時国のためにとか社会のためにとかそういうことのために働く意識があったのか、家族のためにとか会社のためにとかならわかる。何故なら働けば何か見返りがある、給料でももらえる。でも国のためとか社会のためにとかになると大きなものとなりそんな意識が持てるのか?
それは戦争で死ぬか生きるか極限状態で戦ったなら言える。
でもその人達すら報われない、私の姉は従軍看護婦で4年間過酷な労働に従事しても国からもらったのは表彰状一枚だけだった
一分は金銭的に補償があった人達もいたが何も補償もなくまた戦争自体が過ちだったとか言われる
そうしたら命を賭けて死んだ人達は報われないとなる。その方が深刻である

別に報われないと言っても年金は少なくとも払われている。それが足りないのは時代の影響である、日本の経済が成長しないからである。年金だけでは足りないとか老人は邪魔者扱いで肩身が狭いとかそれは少子高齢化とかの時代でそうなったのである。
そもそも人間は国のためとか社会のためとか大きくは世界のためとか意識できるのか、それを意識できるのは特別な人になるだろう。働くにしても今日食べるものが必要であり働くとなる。

貧困化すると国のため社会のためとか意識できない。目の前の生きることのために食べるために働いているとなる
何か国のためとか社会のためとかいうのはカルト教団とか共産主義者とかなるという。
でも実際は幹部のために働いているとかにもなる。幹部の立身出世のために働かせられているとまでなる
それで中国でも巨万の金を貯め妾を十人持つとかの大金持ちがいる。共産主義だったら平等を目指すものだからそんなことありえないのだが現実は極端な格差社会にもなっている

●老人に向かない仕事が多い

そもそも老人が働いてきたのに報われないという時、金銭的に報われないのと精神的に報われないことある。若い人は老人は邪魔者と言われるとかある。ただ負担になるだけだと言われる。それも少子高齢化でどうにもならない、老人が多すぎるからである。今の老人に稀少価値はない、百歳でも生きれば多少注目される。その他長生きしたとしてもそれだけで価値があるとはならない。要するに時代によって老人を見る目が変わり価値観が変わる。

そして長生きすれば恥多しというのがむしろ現実である。何か働くことは否定できないが店のレジとは老人がやるべきではない、近くの農協の店では78才の老人が一人店を切り盛りする。それも合わない気がする。普通は女性がするものだからである。スーパーで裏方で掃除している人がいるがレジはしないし合わないのである、何か入りずらいともなる。
そして老人は恥多しとなりやすいのである。老人はボランテアですら簡単にできない、ボランテアは20人くらい集まらないとできないのである。老人は現実の場で仕事するのが難しいのである、かえって不似合いなことして恥をかくとなる
本当は老人は隠者であること隠遁することが向いている。それが経済的に苦しいとかなり働くとなるがその場が用意されていないしかえって恥をかくとなる。

老人に向いていることはこれまで経験したことを回想録として出して若い人の参考にさせる。それはyoutubeでもプログでもできるのである。経験豊かな人ほど若い人にでも注目される。それは参考になるのである。
何か具体的に現実の社会の場で働くことはみんなできることではない、そもそも報われるということが理解できない
野菜を米を農民が苦労して作る、それが報われるというとき金銭的なものとして高く売れれば報われるとなる
別に感謝されるとではない市場価値が高くなれば収入が多くなれば報われるとなる

最近外国で抹茶が人気で高く売れる、それで茶の栽培農家がい千万と二千万とか収入になるとして抹茶の栽培面積を増やす
でも普通の煎茶は金にならないから減らすとなり店で置けないから困るとなる
でもその時誰のために働くのか外国人のために働くとなる。日本人のためでは日本人はかえって抹茶でも高くなるから困るとなる。でもグローバル化するとは常にこういうことになる。世界の市場により左右される。円安になりインバウンドで外国人観光客が増大する。金のない日本人は後回しにされる。

●何にしろ報われないのが普通

いずれにしろ報われる報われないとなるとき金に換算されて判断される。老人の年金が少なすぎるから報われないと嘆く
それは日本全体の経済が停滞してそうなった。なぜなら私の母は百歳生きたけど別に年金を積み立てなくても国から60才になったら3万もらっていた、それが65才からだと5万もらえるので失敗したと悔しがっていた
つまり年金は積み立てていなくても65才になると誰でも5万もらえたのである。それは日本経済がまだ好調な時期だったからだとなる。年金が積み立てても6万とかもらえない人が多い。それが報われないという時日本国家の経済が成長しないしグローバル経済で競争に負けたからだとなる。それが誰の責任なのかとなる。

そもそも報われるということは何なのか、例えば死んだらどうなるのか?死者はどうして報われるのかとなる
生きているとき戦争で苦しんだ人は最後まで死ぬ時まで戦争のことを語り死んだ、それは忘れられない記憶だからそうなった。だからそんなことは無駄だったと言われれば報われないとなる。
ともかくこれだけ老人が多ければ尊敬しろとか言ってもされない、また若い人は老人のために税金を使われるのは嫌だとなる
それで苦しい老人は若い人や子供に金を使うより老人に使ってくれと言っているのである
そこに世代間の対立が生まれている。ただ確かなことは老人の稀少価値はない、何か残酷だがもう長生きしても老人は無用でありかえって負担になるだけだとみられる。

何か老人は本当に長生きすれば恥多しとなりこの世から消えた方がいいとも見る、なぜならそうして邪魔者扱いされて生きるのはかえって苦しいからである。だから兼好法師のように惜しまれて死ぬことの方がいいとなる。
私自身も墓地を見て回るが子供でも若い人でも20代で死んだ人が多い、それを見るとき悔しかったろうなと見る
それが70才で今死ぬと早いとなる。

でも80才90才で死んでも惜しいとはあわれとは見ないのである
逆にこれだけ長生きする高齢化になると死んでくれた方がいいと見られるのは不幸だとなる
長寿は人間の願いだだたけどそれまたかえっていいものとはならない矛盾がある
報われる報われないの問題より老人は生きていてもらいたくないとされるのが深刻である
だからこそ惜しまれて早めに死んでいた方がいいと言ったのである。

正直いくら国のため社会のために働いても報われない、そもそも人間には報いを与える力もないのである
本当に報いを与えらるのは神しかない、神の国へ行く約束を得て報われるとなる。死んでまで日本国家に尽くしても報われることがないように人間には報える力がないのである


2024年12月20日

文系の医療のかかわり 【社会〔共同体〕から見た病気の関わり―文理融合すべき問題】


文系の医療のかかわり
【社会〔共同体〕から見た病気の関わり―文理融合すべき問題】

病気を直す加持祈祷で宗教に頼った

病気というときそれは理系であり科学技術の分野に思える
人間の体を科学的科学的に分析する、細胞とか血液の成分と尿の成分とかを調べる。何か科学実験のようにみえる
病気になり小便が白くなったのは直った思ったが実際は小便は黄色の方がいいのである。だから化学反応を見る
つまり病気は体を化学的に見て物理的にも見る理系の分野なのである

ところが時代を遡れば上るほど病気の人間への対処は違っていた
なぜなら病気と宗教の関係は密接だった。つまりそれは病気になったら頼るのは医者ではない、宗教に頼る。神仏に頼る、というより頼るものがないからそうなった。

なぜ宗教が興隆して信者が増えたのか?それは病気を治すために神仏に頼ったからである。だからこそ僧であれ山伏であれ法印であれなぜ狭い村に必ずいたのかそれは加持祈祷のためである。病気になったら神仏に祈る他ない、それしか方法がなかった。
つまりその人達は地域の医者代わりだったのである。
人間の一番の問題は病気だからそうなった。病気にどう対処するかが村全体の問題になったからである。
だからキリスト教でもイエスは奇跡で病気を治した。それがきっかけで普及したともなる。病気が治るとなればみんな苦しんでいるから頼るとなるからである。それは仏教でもそういうことがある。

今でもなぜこんなにカルト宗教団体に入る人が多いのかとなると病気を治したいと一心に祈る、題目でも狂気のようになった唱える、それは病気を治したいということがある。そして病気が治ったとか体験発表して御利益があったと宣伝する、実際は悲惨な病気になり直らない人が多数なのである。
現代ではどうしても科学に頼る、それで宗教者の存在が何か用なき無駄なものに見えて衰退したとなる。護符などとそんな紙切れとか御札とかでそもそも病気など治らないとみんな思っている

つまり宗教者の権威が失墜したのは現実に医療技術に頼る
それで科学者であれ医者が昔の僧であれ法印であれ加持祈祷する者に頼らなくなったのである。そして科学者が医者が今でも一番お医者様として尊敬される、他は学校の先生でも尊敬されなくなったが医者は尊敬っされるのである

●医療は科学技術だけでの問題ではない

でも医療の問題は必ずしも科学技術の問題だけではない、体を細胞でも血液でも見るだけではないものがある。顕微鏡で見るだけではないそれだけが医療ではない、それで医療というのは文系でも関われるものだと気づいた。

その参考になった本がのちの文化人類学波平恵美子である
これは病気を社会的問題として考察している。今なら医療は医学の問題であり社会が関係していると見ない。でも病気に対して村で病人が出ると村人全員がかかわるものとして対処した
村人が一人の病人の為に祈ったのである。だから薬師堂は村の中心に必ずある。そこは村の診療所のようにもなる。

人祈祷【ニギントウ】はこの村では次のような事を指した。村の誰かが重い病気になり危篤状態になる。病院で大きな手術を受ける人がいる。あるいは突然錯乱状態に陥り激しく暴れまわる人がでいたような場合に村の全戸から一人ずつ代表が出て神社に集まりそこで病気の回復を祈願するそれが人【ニギントウ】である

中国山地のある地方ではかつて村の人が重病になると村内の若い男が7人揃って7人参りをしたという

これらは病気に対して周囲の人々は自分の持っている生命力少しずつ分け与える意味を持つ行為である。一方重い病気に苦しむ人はその病気を病気は一人で背負ってゆくものでは泣くいくらかでも人々にわけ持ってもらえるようなものであり進んでわけ持ってくれる人がいれば軽くなるそして癒されると考えるようなものであるらしい

つまり病気は個人の身体に現れる現象であるにもかかわらず常に集団や社会全体の問題とみなされのと同じく治療行為は極めて社会的な行為として認識されやすいのはそのためである

医療技術は社会や文化の枠の中でのみ人間足りえる存在を対象に実践されるものである。感情や情緒に支配され複雑な人間関係の中に生きておりそれによって支配される人間を対象とするのである

ここに医療というのは科学技術だけの問題ではない理系だけにかかわるものではない文系も関われるものだと認識した
普通はこうした病気を社会の問題として見ることは普通は無い

感情や情緒に支配され複雑な人間関係の中に生きており

正にこういうことが人間に作用する、近くの医者は見立てが良いとかで腕がいいとかで繁盛した
でも口が悪く性格がいいとはならなかった。それで私の母親は怒鳴られたりしたから優しい医者の方にかかった
その二つに医院ははなくなった。つまり確かに腕がいい医者であることは評価できるが何かやさしさには欠けていた
だから医者というのは医が仁術というときその医者の人格とかも関係したからそういわれたとなる

実は現代にかけているのは科学技術だけに頼るのではなく医療というのは社会的な問題としてもあることに注意すべきである。むしろこの点が医療に欠けるようになったのである。
なぜなら病気になっても関わるのは医者のみであり隣近所でも社会で関わらないからである。ただ制度として福祉関係の公務員とかが関わるがほかの人は一切関わらないともなる
村の人が一人でも病気になったとき村人が全員でかかわり薬師堂にでも集まり病気の平癒を祈る。それは医者にかかれないのだからただそうなったということにもなる
でもそのことは福祉関係とか専門家だけに任すのではなく村人は一人の病人に対して村人全体の問題として病気に関わり祈っていたということである、それは外国でも原始的部落でも共通していたのである。

●人とのつながりが消失した問題が医療にも反映

何か現代というのはそうした人とのつながりが消失した。むしろ病気になったりすると隣近所であれその病気に関わる人がいないしむしろ何かそうして不幸があると隣近所でわ喜んで見ているとまでなる。これそれは自分自身の家族の病気で死んだ事でいやというほど思い知らされたのである。
何か頼むにしても隣近所など何もしてくれないそれで福祉に頼めというだけなのである。だからこういう社会というのは何なのだろうと思う。科学技術は医療は進歩しても常に医療技術の発展は語られるはこうして病気が社会的問題だということ考える人は稀である。こういうことが病気だけではない現代の社会にあり何か殺伐としているのである。

もちろん神仏に頼るほかない時代というのも全ては良いというものではない。ただ現代の社会を見るとき昔がすべて遅れたというものではなく比較すると現在の問題が見えてくるということである。まさに現代に欠けているのは病気というものでもそれが周りの人にとって自分の身のごとく考えるということはないことが問題なのである
すべてが医者であれ福祉であれ頼ればいいということが問題なのである。その人たちは制度としてその中で働くがそこに心が欠けている場合がある。ただ医者にしても人間の体を一つの物体のように見ているかもしれない。人間の心が通うということがそこにはない。だからこそ実は人間は体と心は一体であり病気で心が影響する。

周りでその病気に関わり薬師堂にでも祈るということはそれは本当にどうせ病気など治なないということにもならない心の作用はありそれはなんらか影響してくる。だから仏教でも色心不二と説いた。色とは物であり物と心は一体ということである
それは切り離せないのである、ただ西洋の科学であれ医学でも体は物体であり心と分離したものとしてみる。だから臓器移植でも体を物体機械とも見れば可能だとなる

いずれにしろ病気が社会的問題でありすべて科学技術だけで解決しない、それは医療だけでないあらゆる問題が科学技術で解決しない、社会的問題としてあり自然的問題としてもあり理系だけではない文理融合が必要になる。ただこの文系的要素が現代では無視されるのである。むしろその無視されることが医療の問題にもなっていたのである。

2024年11月25日

認知症と発達障害の共通点 【計算ができない、漢字が読めない、文章が理解できない】

認知症と発達障害の共通点
【計算ができない、漢字が読めない、文章が理解できない】


発達障害者の謎ー読み書きソロバンができない (でも他は普通に話せるしわかっている―学習障害者ともなる)

発達障がいは病気ではなく特性であり、完治させることは難しいです。しかし周囲の人がその人の発達障がいの特性を理解し、早いうちから適切な療育につなぐことで、社会に適応する力を身につけていくことができます。

発達障がいの特徴とは?種類や症状、気になる行動への対応について


発達障害とは何なのか,それに興味を持った持ったのは私が直接認知症の人を介護したからである。最初に驚いたのは字が読めない漢字が読めない漢字が書けない数字がわからない計算ができない銀行に自分の金があってもおろせない。どうしておろしていいのかも分からなくなった。ここに一番驚いたのである。
では他のことが何もかもわからなくなったのかというとそうでもない。長く生きた人生経験がありそれでわかることがある。話が通じることがある。そこが発達障害との相違かもしれない

でもまた確かに発達障害の人は漢字が読めない文章は書けない計算ができない数字のことがわからない。もっと不思議なのはアマゾンからその人は買い物していたカードがないのに買い物をしていたのであるコンビニで品物を受け取っていたのであるその人はいつもスマホとかでゲームをしたりしている。今度はタブレット型のスマホ持って操作していた。だからこの点は老人になって認知症になるのとはまた違って高度なことができているともなる

何か住宅を借りているのだがその保証人がいなくなり私に頼んできた。そこには保証人になるための契約書は市の方から送られてきたのである。ただその契約書の文面を読むことができないから私のところに来て頼みに来たのである

私は迷惑をかけません

そう言って頼みに来たのである。もともと母親を知っていていろいろ前から知っていたからその話を聞いたその発達障害の人はすでに52歳くらいになっている。でも発達障害とは子供の時からかかるのでありそれは学習障害として現れる。だから認知症とは違って子供の時からの障害なのである。だから先天的障害なのかとなる認知症の場合は老化してそうなるのでありそれは非常に優れた人でもなるのである。ただその症状が似ている面があるそれで一番思ったことは文章が読めない漢字が読めない計算ができない数字のことがわからないこのことなのである。

でもぜんぜん話が通じないことなるとその人は迷惑をかけませんとか相手に対して心遣いをしているのである。そして確かに契約書が読めないのだが話してみるとどういう状態にあるのかわかっているのである。それは認知症でも確かに漢字は読めない計算もできないとなるがこれまで経験したことがあり話が通じたのである

とにかく認知症と発達障害の共通点は何かというと計算できない特に引き算はできないというまた漢字が読めない文章が読めない漢字が書けないこのことは共通しているのである
ではなぜそうなっているなどなどだろうか?それが脳の謎があり共通した問題がある。

つまりそれは人間であることが動物と違うのは抽象化能力だということである。太陽があり月があり星がある。でも対応と書いてもそれは太陽ではないし月でもない。そうであっても太陽と書いてあれば太陽をイメージする。その人間の能力が文明を作ったとなる。なぜならエジプト文明のヒエログリフはまさに文字を発明したことで文明を作ったとなるからである

ただ一見表意文字のように見えたのだが表音文字だったのであうる。漢字は表意文字だからであるだからもともと文字というのは表音文字が先にあり音から幼児でも覚えるからである
ということは文字というのは音より高度なものとなる。だから文章を読むということ文章を書くということ高度なものとなり認知症でも発達障害でも理解できなくなる。。

その構造は似ているのである。まだ文字がなければ商業も発達しない。それは口約束では破られることがあり書類で文書で契約することによって信頼されるものとなったからである。だから発達障害の人でも認知症の人でも書類を読めないということ書類を書けない漢字を書けない文字が書けないということは社会生活を普通にできなくなる。
そこに共通した問題はあった。
ただわかることは数字にしても一人の人間を一個として数えることはむずかしいしし進歩下したことなのである。だからこそうして麦であれ米であれ収穫量を数値化する官僚が力を持ったのである。エジプトでも書記が神の如く崇められたとなる

とにかく抽象化能力は高度なものでありだからなぜ発達障害であれ認知症であれそこに障害が出てくるということはどうしてなのだろうとなる。そこに人間の脳の問題が共通してあるということである。ただ症状的に見ると発達障害より認知症の方が症状も進むし悪いとなる。
だからといって人間として話が通じないわけではないのである。発達障害の人は子供の時から障害者であり認知症の場合は80以上とかになってなるものでありそれまでの経験したものがすべて失われることではない。だからこの人は何も分からなくなったということでもないのである。ただ接し方が難しいとは言える。


2024年10月30日

貯めた金の顛末 【一人は認知症になり金が下ろせない、一人は貯めた金が盗まれた】


貯めた金の顛末
【一人は認知症になり金が下ろせない、一人は貯めた金が盗まれた】

計画通りに人間はいかない。老後のことを心配してその時何かやるべきことをしない、ではそうして貯めた金はどうなるのか?
私の家族の一人は姉はかなりの金を貯めていた。それが判明したのは認知症になって銀行から金を下ろせなくなった。それも驚きだった、銀行に行って自分の金を下ろせないのである。
何か銀行の人に笑われたとかなる。
こうなるといくら金を貯めていても自分で自由に使えなくなる
これも何なのだろうと思った、こんなことがあるのかと驚くばかりだった。ただ認知症になるとそうなる。だから他人事ではない
90以上になったら半分は認知症になる
つまりいくら金を有り余るほど持っていても自分では使えなくなる。法律的にも禁治産者のようになり資格を失うからである。

またいくら金を貯めていても病気になって寝たきりとなったらその金を自分で使うこともできない。歩くこともままならずもちろん旅行にも行けなくなる、つまり金ですべては解決しない
だから金がなくてもいいとか言うのではない、いくら金があっても病気になったら金も使えないとなる
だから病気になると自分でもそうだがもりもり旺盛な食欲があり食べている人でもまた歩いている人でもうらやましくなる
なぜなら金があっても病気になればいくらうまいものを食べられうにしても食べたくないとなり最後は死ぬだけだとなる
だから何がなくても健康である人とそうでない人の差は大きいのである。でも金で健康は買いないのである。老人になると何らか病気になり金があっても自分のしたいこともできなくなる
どうしても金が貯めたから老後は自由にやりたいことをやると計画していてもみんながそうはならないのである。

私の母親は何か楽しむということをしない女性だった。それは家庭環境が悪く働かされていたからである。働くことしかなかったのである、だから金があるようになっても一切無駄はしない、それも索漠としたものとなる。
でも60才以降その頃年金を積んでいなくても一か月三万もらっていた。65才からだと5万もらっていたのである。真だ景気がいい時代でありそういうことができた時代である
でも一か月3万でも一年で36万となり十年で360万になり
百歳まで生きたから360×40年となり一千万以上になっていたのである
その金がどうなったかというと半分以上は盗まれたのである。
だから何のために貯めていたのかわからない、盗む人に貯めていたのかとなる。
このように金にしてもそれがどうなるのかわからないのである

ただ自分にしたら家族には良くされたから不満はない、でもそうして金を貯めて一人は銀行から認知症になり下ろせなくなっとか
悲惨な結果になったのである。
だから金をもっと使えば良かった。でも貯めるばかりで何か他人が困っていても助けないとかあった。
私には良くしても他人には冷たかったとかある

こうしてみんな金金金と一瞬たりとも金のことから離れられない、でもその金がどうなったかとなるとため込んだ金が自分で自由に使いないともなったのである。
だからこれは何なのかとなる。老後が不安んで金を貯めろと言われるがそれで老後がうまくいくとは限らないとなる
必ず不測のことが起こり自分の金すら自由に使えなくなったとかなる。金の顛末も意外な結果になるともなる
また今になると円安になり日本の金の価値が下落して金の価値がなくなり物価高になりインフレで金の価値がなくなる
だから金の価値も一定ではなく安心がないのである。預金封鎖で日本円は紙切れになるとかも言われる。
要するにこの世に安心するものはない。常に金でも価値でも変動しているからである。

fortuneが財産が運だというときもそうである。金は天下のまわりものだというのもそうである。この世に一定なものはない常に変動する無常の世界である。だからいくら金を貯めて安心を得ようとしてもできないのである。
計画して貯めても不測のことが起こり無駄になったとか思わぬことで金が入って来たとか運も左右しているからである。
この世にいくら宝を積んでもこのようにはかないものになる

それで天に宝を積めとなる、

この世に宝を貯えてもそれは錆びつき盗まれて何にもならないとなる
あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。

まさにこれだった。この世の宝はこうして維持できない、この世にいくら宝を貯えても無駄になる。それは盗まれたりさび付いたりと維持できないのである。

2024年08月29日

年齢でなく見た目で判断される老人 【高齢化社会は未だ経験していないから様々な問題が生まれる】


年齢でなく見た目で判断される老人
【高齢化社会は未だ経験していないから様々な問題が生まれる】

kajiage38.jpg

15年間アメリカで暮らしたが、歳を訊かれた記憶がない。
聞いても君と関係がないと言われて終わり!すぐに年齢を聞いてくる日本人は歳に縛らすぎ

●年齢ではない見た目で判断される老人

老人はどうしても見た目で判断される。なぜ加治将一氏は見た目も若いのである。38才だと自称しているがそのようにも見えるのである。頭は剥げていないし白髪にもなっていないからである。
ともかく杖ついて歩いていたり腰が曲がったりやっと歩いている老人はやはり見た目で判断される。知っている女性は歩くこともままならない、介護度2であり3に近くなっているいる。私の母親は介護度3で寝たきりになていたのである。
でも私より3才も下なのだがその姿は85才にも見えるのである。

ある女性は85才でも肌の艶もよくとても85才に見えないのである、だからまず老人は見た目で判断される。歩き方でもスイスイと歩いていれば白髪であれ元気な老人に見える
だから老人は年齢で見れない、体が弱った人は10年くらいの差がある。だから年齢を聞くより老人は見た目で判断される
あの人は腰曲がったとか杖ついているとか歩く姿でもなにかやっと歩いているとか見た目でわかるのである。

いずれにしろ高齢化社会とはいかに長生きするにしても健康で長生きしているかが問題なのである。一旦病気になったらもう生きることも嫌になるからである。厄介者とされるからである。
つまり別に100才でも元気であれば問題ないのである。でもその前に必ず体が弱り自立もできなくなることが問題なのである。

確かに日本では年齢にこだわる。必ず年齢を聞いて話しすることになる。でも実際はその年齢より見た目こそその人の実年齢なのである。つまり杖ついて歩いているとこその歩き方も弱々しいとかすいすいと歩けないとなるとその姿を見て判断されるのである
その女性は歩くこともままならない、何かつかまったりしないと立ってもいられない、するとその人は73才で85以上にしか見えない、でも一方で85歳でも肌も艶がよく普通に歩く人は80とてもその年齢を聞いてもそんな風には見えないのである明らかに10年くらい若いのである。だから年齢を聞いてもそれで老人を判断することはできないのである

それにしても近くセムシのおうになった老女もいる。でも普通に歩けるが見た目で嫌悪感をもつ、老人でも見た目がいいと好まれる。だから腰が曲がったり何か体がまともに見えない人は年齢より見た目で判断される。やはり病気になると老人の場合急に老けこむのである。老人はある時歩けなくなるとかなり急ふけこむのである。極端なのは脳の障害の認知症とかになることである
これも病気なのである。

●長生きは悪いことではないが病気になるのが問題

高齢化社会で問題なの長生きは悪いことではないただその前に病気になったりして人の世話になるとか自ら自立できなくなり身体障害者のようになることなのである。別に死ぬ時まで自立して元気で居られれば長生きは悪いことではないのででもその前に必ず病気になったり障害が出てくるから問題なのである

老人はまだ抵抗力もなくなる免疫力も弱くなる。何かこの暑さで熱中症で死んだ人もかなりいる暑さ寒さに弱くなるので私自身も7 8キロくらい痩せたのである。ただ腹が出ていたから引っ込んでしまったのでその点は良かったかもしれない。抵抗力がなくなるから何らかで急に体が弱くなりそれが死に通じることもある

ともかく確かなことは年齢ではない。 70歳の人でもすでに80歳以上に見える人もいるし85歳でも70歳以下のように若々しく見える人もいるのである。だから60歳以上は年齢で判断はできない。その見た目で判断されるのである
ただ老人は何か暑さであれ寒さであれ弱くなるから急激に老け込みそれが死に通じることはありえるありそれだけ抵抗力が無くなっているからである。

●百歳まで生きた私の母

人間の理想的死に方としては近くの自転車屋は癌になっていたが私が行ったとき3日前までいつまで仕事ができるのかと言って現実に仕事していたのである。その3日後に死んでしまっていたのであるだから仕事しながら死んだともなるそういう死に方はいいと思う。畑で熱中症で死んだ人もいるがその人も死ぬ仕事をしながら誰にも迷惑をかけず死んだから畑で往生したのかともなる
まず歩くのもままならずそれでも生きていかなければならないとしたら苦痛でしかない。それも自立できないのだから誰かに頼らざるを得ないということでさらに生きることが嫌になってしまうのである

私の母は百歳まで生きたけど80代だったのか90代だったのか腰が曲がってそのために一か月くらい苦しんだのである。腰が曲がるときかなり苦しくなるのであるそれで2階から飛び降り自殺しようとしたのである。その時たまたま私が近くにいたからとめることが出来たのである。もし自殺したりしたら本当に後味悪いものとなったのである
でもその百歳まで生きたその死に顔は本当に安らかなものだったのである。

不思議なのは腰が90度曲がっていても手押し車で買い物とかして外を歩いていたことである。腰が曲がっても後は意外と楽になっていたのである。だから見た目では苦しいように見えるけど本人はそうでもなかったのである。ただ老人はまず見た目で判断されるのである。

●高齢化社会は未だ経験していないからいろいろ問題になる

ともかく高齢化社会というのはこれまで経験したことがない。そこでいろいろな問題が起きているのである退職してから60歳から30年物40年物人生があるとしたらそれは相当に長くなる。確かに人生はいくら生きたとしても短い、でも90歳まで生きるということになればやはり人間の一生は今までと違ったものとなる

それをうまく消化できる人とできない人がでてくる。またどうしても病気になる。70才の大工さんも病気になったとか身近でも病気になる人が多いのである。だから老人にとっていかに健康が大事かを知る。何十億の金があっても寝たきりになったら天井を見ているだけであり生きているの嫌になるからである。

そして厄介者にされ早く死んでくれと言わないまで心でそう思われることが怖いのである。だからそうなると一層死んでしまいたいとなる。いずれにしろ高齢化社会の問題は人間が初めて経験することだからいろいろ問題が生まれている。それに対処する人生設計が成されていない、60代くらいでみんな死んでいたからである。
だから私と同じ年で38才だという人もいるのが現代なのである。ただ私は白髪であり見た感じはやはり相当な老人である。たあ自転車に乗っていたせいか運動はできているのである。何か若い時のしていたことが必ず老年の現れる、カルマとなって現れる。健康でも何でもそうである。つまり人間は老人になったからといってすぐに別な人間になるわけでもない。

実際は若い時から継続したものがありその結果が必ず老人に現れるのである。だから老人になって何か新しく学ぼうとしてこれまでの蓄積がないとなかなかうまくいかないのである。一から始めることは趣味でも容易なことではないからである。だから高齢化社会では先が長いから何かライフワークとかそうしたものをもっていないと老人になってから一から始めることは難しくなるのである。

2024年08月14日

老人の価値が問われる時代 【老人の価値とは何なのかー人生最後に問われるもの】


老人の価値が問われる時代

【老人の価値とは何なのかー人生最後に問われるもの】

●子供の時からでも価値が問われる

人間とは常に価値が問われる存在である。この人にどんな価値があるのだろうかと常に問われている
子供は無邪気であるその無邪気さがあって価値あるものとなるし少年青年でそれは未来に価値あるものを作るとして価値がある。
ただすでに何かと価値の競い合いがある。あいつはかけっこが早いとかゲームに強いとか喧嘩に強いとか競う。
主な価値は現代では学校では勉強の成績で決められる。なぜなら絶えず試験があり点数をつけられて価値づけられるからである。
こういう価値ずけから逃れることはできない、一生逃れることができないのが人間である

たとえば自然であれば価値なきものはない、草であれ虫であれ石ころ一つであれ価値がある、蛇は気味悪いからいない方がいいとななるが蛇を食べる動物がいるからその動物にとっては価値があるとなる。虫一匹でも食べる鳥とかいるから鳥にとって価値あるものとなる。つまり自然界が食いつ食われつの世界であってもすべて価値ある存在なのである。森でも別にその木を木材として利用しなくても森としてる価値がある。

●なぜ今老人の価値が特別問われるのか?

そして老人もまた価値が問われているのである。では老人の価値とは何なのかそれが問題になる少子高齢化になると老人の数は増えすぎたからである。
だから老人は無駄だとして金を使うだけだとして自殺しろとまで言う若い人が出て来た。それは老人に価値がは認められないからである
この老人一体何の価値があるだろうとなるからである。でも老人は何の価値もない存在なのかそれが問われているのである

現代では何でも金で価値がはかられる。老人でも金持ちは価値あるとされて老人ホームでも優遇されるとなる。金を持っている老人は金のない老人より価値があるとなる。でも本当に老人に価値があるというとき金で測れるのかということである。

1000万持ってる人は1000万の価値がある5000万持っている人は5000万の価値がある1億持っている人は1億の価値がある10億を持っている人は10億の価値があり最高の価値があるとなるのだろうか?
老人の価値はこれまでの人生で何を体験して何をしてきて何を積み重ねてきたのかは問われる。もちろん金がなくていいということではないただ老人を見るときその人はどんな人生を送ったのかな問われて価値判断される。

だから常に老人は何であれ平凡な人である老人になれば過去にしてきたことを語るのであるそれを別に特別な人ではない普通の人でも老人になれば最後に自分のしてきたことを語るのである
その語ることによって老人のの価値が決められるところだ

その人は過去について自分が何を仕事をしてきたのか一切語らないするとこの人の価値はなんなのだろうと疑問に思った。
何か語りたくないやましいことがあってそうなったのかもしれない。ただ何も語らないのだから何をしてきたのか分からないということであるそうなればその人に価値判断はできないのである
つまりその人何はら人生において語るべき事はないというときその人の人生はなんであったのだろうとなる。

●人間は最後必死にしてきたことを語る

まず私の家で仕事した大工さん嫌というほど私はこうして仕事ができるんだと実際に目の前でそれを示して訴える。それをその人の人生で培ったものでありそれは価値あるものとして認めてもらいたいからである。人間が老人になって語るとき自分のしてきた価値を認めてもらいたいからである私の姉は戦争で従軍看護婦でシンガポールの向いのジョホールバル地獄の経験をした。

だから最後まで死ぬ間際までその経験を語りつづけたのである
それも認知症になったからそのことを忘れられず延々と世界を千回も語るとまでなった
それはそこで地獄の経験をしたからその価値を認めてもらいたいということで語ったのである。だから戦争でそれを無価値だとすれば 300万人も死んだのだからそれが価値がないとされたらどうなるのか?死者は浮かばれないとなってしまうから恐ろしいともなる。何のために地獄の苦しみを受けて死んだのかとなるからである。

ともかく何であれ老人になればその一生誰でも語るのであるだから老人の価値その一生語る。平凡な一生でも必ず語る
その語ることによってその人の価値をとなるのである
何か石の貨幣というのはあるのその石の貨幣の価値は石が海に沈んだ時それを取り出すことが苦労すればするほど価値があったとされている。そしてそれを家のー前に飾っておくのである。そしてそれは単なる飾り物でもなくがいかに苦労して海から取り出したかということが語られて価値があるのである

とにかく高齢化社会という今までと違う。みんな長生きするか老人の価値が問われる時代である。例えば退職してから30年位生きるかも知れそれは相当で長い。これまでだった退職したら十年くらいで死んでいたかもしれないすると第3の人生があるそれをどう生きるのかが問題になる。既に60歳まで生きれるその人がなにを体験してきたまあ積み重ねてきたのかそれが問われることには
なる。60才でも確かに色々なことはできる。でもやはりこれまでしてきたこと体験したことが価値になる。例えば趣味でもカメラでも最初から始めるとなかなか上達はしない。でも趣味でも積み重ねがあってできるからである
だから老人になって何か新しいことを始めることをできることはできるにしてなかなか難しくなるのである。

●石の貨幣の価値

いずれにしろ高齢化社会を老人の価値が問われる時代だということである。それはあまりにも老人が多くなったからである。
これまでなら別に会社に仕事していて価値がある何か仕事して60代くらいで死んでいたらその人の価値を特別問われるということはない。 60からさらに30年も生きるとするとそれは若い人たちの負担になり老人等は何の価値があるのか厳しく問われることになったのである。
それは障害者がなぜ存在するのか何の価値があって存在するのかということも似ている。ただ負担になるだけの存在である数が多いから余計にそうなったのである

ただ老人にしてもこうして今までより長生きするということ考慮している中それも数は多いから問題になるのである。この世の中数が多いと常に社会問題になるニートとかフリーターとか氷河期世代など問題になるのはその数の多さによって問題になっている
別働かないで遊んでいる人がいたとして団塊の世代などみんな企業戦士となって働いていたかそんな人がいたとしても気づきもしなかったのである。でも100万にとかういう人がいるとなると社会問題になったのである。今の老人問題一は社会問題になったののだがそれを簡単に解決することは不可能である。価値を作り出している老人どれだけいるかとなるとやはり少数である。

私などは別に働いていないしお金も稼いだこともないしそれで旅ばかりしていたり自由に学問を芸術追求したりしていたそれが今となって価値となっているのである。
ただ一円の金にもなったことはないしただ金を使っただけであるから金銭的な面からすると何の得ることもなかったのである
でもやはり自分が価値を創り出してきたその価値をまた認められないということがあるがやはり価値をつくりだしてきたのである。

老人になってお金を貯め何十億貯めたから価値あるのか?
老人になるとそんなことはないとなただ金をもっていればその金が欲しくて寄ってくる人はいる。でもその老人の価値を認めるというわけではないのでだから奇妙なの石の貨幣であるその石あるの貨幣は交換できないのだから何の価値があるのかとなるとも苦労して海から取り出したということでそのことを語る価値がある。
それを取り出すことが苦労すればするほど価値があったとされている。そしてそれを家のー前に飾っておくのである。そしてそれは単なる飾り物でもなくがいかに苦労して海から取り出したかということが語られて価値があるのである
それは老人が体験してきたことに価値が価値があると似ているのである。


richiworth.jpg

【金持ち!金あるだけで、中身空っぽ!】誰も知らない本当の金持ちとは何か?
自由発言!自由行動!自由思考のスーパーポジション

金持っているだけでは老人の価値とならないことを説明している
同じ年だから参考になる、金だけを価値として追及していると老人なり本当の価値を見出せない
だから金持ちが老人になって必ずしも恵まれたともなっていないのである。価値あるものともならないのである。

2024年06月04日

死んだ時点で人間の態度が変わる―近くの人の死 【死者に鞭打つことは日本人はできない】


死んだ時点で人間の態度が変わる―近くの人の死

【死者に鞭打つことは日本人はできない】

●最後まで電話でやりとりして死んだ人

その女性は付き合っていた男性と仲違いしてケチだとかなんとかいろいろとあって悪口を言っていた。でも不思議なのは死んでからはそういうことを言わない。ただ男性の娘の事は悪く言っている。その男性にしても娘に捨てられるとかなんとか言って確かにその娘はその他親その男性が親にしてもいい娘でわなかったらしい。それでもその女性は常にその男性のことを悪口を言っていたのである。

ただその男性の家には行かなくなったが電話では最後までやりとりしてたので。男性が入院しても電話でやり取りしていて死んでしまったのである。だから意外と糖尿病であったが簡単に死んだとなる。その人が死ぬ前に私の家にも来たのである。その顔を見たら青ざめていたから相当にやはり悪かったのかもしれない。私は別にその人と親しいというわけでもなかった。

だから人間は死ぬときは知人でも回って歩くということが本当だった。それはみんなが経験していることである。でもあんなに悪口を言っていた人が言わないで何かその人は鯛焼きを食べたいということをしきりに言っていた。
でも親しくしていた女性は娘に買ってもらいとか言っていたただその70以上の女性は自らは脳梗塞になり歩くこともままならないようになっていたので買いに行くこともできないということはあった。でも鯛焼きを持って墓に捧げて供養しようと言ったのである。

●死んだ時点で変わった女性の態度

とにかく人間を死んだ時点で態度はガラリと変わることはある。あんなに悪口を言ったのに供養するするというかそんな気持ちになっているのも不思議である。それは普通の人にも起こる。なぜなら介護で散々苦しんでも死んでしまえばもはや迷惑をかけることがないからである。
だから生きてる時は普通に死んだら楽になると思っているのである。私自身も一人は認知症であり一人は五年くらい介護をしてそういう気持ちになったことがある。私自身がそんなに親の世話をするとは思わなかったからである。
ただ私は特別良くされたので必死になって介護したのでそれは力足らずでもそういう気持ちがもともとあったからできたのである。

でも他の人ができるかとなるとそうはならない私は特殊な事情でそうなったからである。
そして不思議なことはその女性は生前はその男性が車を持っていていろいろなところに連れて行ってもらっていたのである。それでそのことを楽しかったとか言っている。
つまり死んだ結果その人の悪口を言うことはなく楽しかったことを思い出してその人を供養する気持ちになったのである。生きているうちはとにかくいろいろと不満があり悪口でも言うのだが一旦死んでしまえば別に迷惑をかけないし悪口を言ったいうこともなくなる。死んだ人に悪口を言ってもしょうがないからである。だから人間というのは死んだ時点でまったく別の態度になるというのも分かる。死んだ人をとやかく言ってどうにもならないとなるからである。

また死んだ人にとっても生きている人に何かしてやるということはもはやできない。だから生きている間に何かをしてやるということは大事だ。その85歳で死んだ人はやはりその女性に対して何かもっとよくしてやることが必要だったがそれもしなかったことが問題だった。でも何にもしないというわけではなくその女性を車に乗せていろいろなところに連れて行ったという事がありそれが今その女性の思い出となっているのである。

●日本人は死者に鞭打つことはできな

何か死んだ人は批判しにくい。死んだ人責めにくいのである。それはどんな人でもそうである。戦争で300万人死んだ。その死んだ人お前たちはバカだからとか無駄死にしたんだとか言えない。死者をを鞭打つということが人間はなかなかできないのである

《伍子胥ごししょが、楚その平王の死体を鞭打って父兄の恨みを晴らしたという、「史記」伍子胥伝の故事から》死んだ人の言行を非難する。屍しかばねに鞭打つ。

中国人は死んだ人を鞭打つということが普通に行われていたみたいだ。死んだ人でも恨みがあれば許され許さないということである。だから墓を暴いてもその死体に鞭打つということがあったのである。
日本人はそれができない。だから明治の時戊辰戦争の時東北で戦った西の人たちの墓がある。それは敵味方塚として敵も味方も一緒には祀るのである
それが日本の文化だので中国人は理解できないとしている。つまりいかに大陸になるとその争いが熾烈なものになるかということである。それで大陸の戦争はジェノサイド民族時代を亡ぼすような虐殺は常にあったのである。日本は島国でありたとえ戦ったとしても敵味方塚として敵でも手厚く葬ったのである。それは日本の文化でありそれは世界的に見ても無いから世界でも真似るべきものだと思う

いずれにしろ日本では死者に鞭を打つようなことはしない。一旦死んでしまうと扱い方がガラリと変わってしまうことにもなる。死んだ人なかなか悪く言えないのでそもそも死んだ人を悪く言っても既に死んでいるのだから死んだ人は反省することもないからである。私死んだ人は害を与えないということで態度が変わってくる。それでその女性生きているときはいろいろ文句言ったり悪口言ったのだ死んだ時点で何か心が変わり鯛焼きを食べたいと言っていたから鯛焼きを持って墓参りして供養したいと言ったのである。

でも生きているときは娘に買ってもらいとかなんとかそういう気持ちもなかったのである。ただその人も歩くこともままならないし鯛焼きを買いにも行けないという状態であったから責めることはできない。人間とは食い意地というのはなくならない。糖尿病になると特に食べたいものはあっても食べられないから苦しいとなったのである

●最後に残ったのは思い出だけであった

その女性は車でいろいろな場所に連れて行ってもらったことを思い出してその男性の悪口はもはや言わないのである。結局最後はそうして思い出だけが残るのである。その思い出が宝となるのである。何か息子が車を持っていても自由に乗せて連れて行ってもらえないということも言っているからである。いずれにしろ死んでからいろいろ悪口言っても死んでいる人にはしにくい。
例え言ったとしても相手が死んでいるのだから通じないともなる。そもそも死者には何か通じることはあるだろうかとなるお供え物をあげたとして返事もないし何か徒労にも見えてくる。でも意外なことは死者死んでからその人を思っている人は本当にその人を思っていた人だとわかる。
なぜなら死んだ時点で人は何かくれるとか返答もなくなってしまうからそんな死者に対して供養を続けるということは思い続けることはもはやできなくなってしまうからである。
だから死者を愛するということはなかなか難しいのである。

死んだ人に生きている人は何もできない
死んだ人は生きている人になにもできなくなる

このことを考えると後悔しないことになる。でもどうしても生きているときはそうはならないのであう。

2024年05月25日

戦死者が亡霊となる恐怖の映画【黒沢監督の夢ートンネル】 【生前に和解しなければ死後も和解できない―死後も生前の継続】


戦死者が亡霊となる恐怖の映画【黒沢監督の夢ートンネル】

【生前に和解しなければ死後も和解できない―死後も生前の継続】


sennshideath.jpg

 rikugunheichou.jpg


兵長は位が高いから墓に記したのか?別に二等兵の墓もあった。
ただこの墓地でも数が多いが戦死者の墓はまれであり忘れれるとなる
あるときポロっと日露戦争の戦死者の墓があった。珍しいと思った。

●戦死者の亡霊の行く先

黒澤監督の夢という映画の中のトンネルという場面でトンネルから骸骨とかした日本兵が隊列を組んで出てくる。そこは都会ではなく田舎のである。何かそれがリアルなのであるある。その亡霊が帰ってきたの田舎の村だったのである。故郷に帰ってきたのである。でもそれは亡霊と化した人たちであった。でも山の中でも神社には武運長久とか記されていて村の人たちが出征を万歳して戦地に送っていたのである。
でも戦死して帰らざる人となり骸骨となった亡霊がトンネルから出てくる。故郷に帰ってくる。それが何か不気味でありリアルなのである。

その人たちは亡霊となって故郷に帰ってきたとなる。では亡霊は何なのかというと浮かばれない死者になる。そしてそのような亡霊が故郷に帰ってきても受け入れることもできない。だから帰れ消えろとなる。それは戦地に送り出した人たちあれほどみんなして送り出したのに帰ってきた亡霊と化した人たちは受け入れられなかったのかとなる。

その亡霊はどこに帰るのか―帰る場所ないから亡霊として彷徨う?

「亡霊」と「幽霊」の違いですが、怒りや悲しみというマイナスの感情に捕らわれて人を襲うのが「亡霊」で「亡霊」は生きるものを亡きものにしようとしますので「幽霊」と比較した場合、「幽霊」はその場所に存在しているだけであまり危害を加えないので違いは、人を襲うかとかつ人を亡きものにしようとするかです。

亡霊は害を加えるから怖いものとなり怨霊ともなる。亡霊とは浮かばれない霊なのである。戦死者は浮かばれない霊である。その当時は国民が戦地に送り出して名誉あることであり村の誇りにもなっていた。だからこそ未だに陸軍二等兵とか軍の位を誇らしく記している。その時は戦死しても名誉の戦死となり回りでもそうみていたのである。でも今なになるとその位が何を意味しているのか誰も注意してそのことに敬意を払うことはないだろう。

ただ戦争を語ることは本当に難しい。その理由は日本人が300万人も死んだということであるそのことが理解できなくなっている。なぜ300万人も死なければならなかったのか?それを戦争を否定することは正しいことである。
とても現実に300万人も死んだ人たちをただ無駄死にだったとかとても言えないのである
それは300万人もの人が国のために死んだとかなればそれを無意味だったとか迷惑だったとか何かそういうことを言いづらいのである。

それはどうしても人間が300万人も死んだというその重さがありり簡単に何が無駄死にだったとか迷惑だったとか馬鹿だったとかなかなか言えないのである。
だからなぜ300万人も死なければならなかったのかなぜそのような戦争をしなければならなかったのかととうことになる。弔うということは問うことでありそしてその問うことその意味を知り弔うとなる。
でもその意味も明確ではなく何のために死ねばならなかったのかとなると弔うこともできないとなってしまう

なぜ亡霊化したかというとそのように国のために戦死した人たち浮かばれないということである。だから亡霊というのは怨霊にもなり人に害を加えるものとしてはある
幽霊にはそういう感覚はないのである。戦死者は仏教で言えば成仏しない霊だったとなる。何か成仏しないということはこの世に深く未練を残したよく死んだ人だともなる。また不慮の事故とか何かのことで思わぬことで死んだ人にも言える。若くして死んだ人はこの世に深い未練を残して死んだから成仏しないで亡霊ともなる。

特攻隊などにしても死にたくないとして辞世の歌に残している。まず20代で死ぬのだからそこで国家のためにとか理由を言われてもとても納得はできなかったのである。そういう人たちは成仏はせず亡霊となってしまう。ただ靖国にそうした人たちを霊を鎮めるために供養する。
ただそれにしても世界的に見ると戦争犯罪者をなぜ祭りその霊を鎮める。何か日本兵は死ぬ時靖国で会おうと言って死んだというとき靖国に祀られて国民に礼拝されるものとなることで死んでいったと言われる。何か死ぬとなればそれくらいの意味がないと死にきれ死ぬことは簡単にできないとなる。

地方(大倉村)の小さな碑が語る歴史の重い事実
(神社は国家神道となり戦勝を祈る場となった)

●今でも個々人でも亡霊となり怨霊ともなる

ただ国家的なものとなると難しくなる。個人の場合は意外と分かりやすくなる。私の親戚の人はその娘をひどい娘だわと言って電話をしてきてそのあとすぐ死んでしまったのである。その娘はその母親のことを全くいたわることもなく病気になっても捨てたような状態になっていた。でも死ぬときは簡単に死んだから良かったのである。

とてもその娘は介護などできる人ではなかったからである。ではその母親がその娘に酷いことをしたかというとそうでもない
実の母親ではなかったがかわいがられすぎたということはあった。それで娘は縛られるので嫌がっていたのである。でもそのくらいで母親にはいろいろと世話になったのにひどい娘だとなる。

私の母親は本当にひどい仕打ちをされた。本当の母親でないから私の作った弁当は食べられないのかとぶんなげっれたからである。その時の気持ちは母の気持ちはどんなものだったのだろうかとなる。その心の痛みは消えるとがなかったと思う。
でもその娘はそんな仕打ちなどされなかったのである。むしろ可愛がられすぎたということである。だから母にしてみればひどい娘だわと最後に一言私に言い残したのである。私の家ともうまくはいかなかったが私はその人と親しい訳でもなかったけどそのことを言いたくてそのまま死んでしまったのである

いずれにしろそうなればとても墓参りなどは出来ないと思う。その娘は母親お世話したとかみんなの前で言っていたがその母親はどう思っているのか。その娘のことをどう思っているのか死んだとしてもその娘は墓参りなどできるものだろうか。
もはや死者を偽ることはできない。たしかにそのとき誰も見てないし咎める人もいない。でもとても死者と向き合うことができるのかできないと思う

●生前に和解しないものは死後も和解できない

私の場合は2人の親の介護をしたが苦しかったが私を認めてくれた。家族は争う家族でも死んで和解したのである。だから死後どうなったかというとその家は一緒に暮らしたときと同じように私に向かって笑っているのである。そこで私自身も救われているのである
ところが恨みを残して死んだような親でも家族でもあれば死後その人の遺影を飾っても笑っているようには見えないだろう。何か恨んでいるような顔にもなる。
とてもその遺影でも直視できないとなる。そこに介護でも恨まれて死ぬとなると死後までその問題が続きやはりその家は笑っていないしその遺影を直視できないかもしれない。

何かその女性はその男性を助けたりしていたのだがその男性がケチだとかなんとかうまくいかず直接会うことはなくなっていた
でも電話ではやり取りしたから完全に切れたというわけではなかった。ただその女性自体が脳梗塞になり病気持ちになったので世話などすることはできなくなった。
でも死ぬまで死の間際まで女性に電話してきていたのである。そして死んだのだがやはり生前のことがありその女性はその男性のことをよく思っていないのである。
それは生前のことが影響して死後また同じように生前のことで継続してうまく行っていないのである。だから死者といっても生前の関係が継続しているからそうなるのである。

ともかく死者といってもそれは生前の続きであり死者になったからだと言って生前のことが何も関係しないということではない
死んだからと言って全く生前のことは関係なくなることはないのである。だから生前に何か仲が悪くなっていれば死後もまた依然として和解されないままに終わってしまう。だから生前と死後は断絶していないのである。

だからこそ生前に和解していなければ死後はもう和解できないのである。第一死んでしまったらもはや和解すること自体不可能になってしまうということである。生きていれば反省して和解するということもありうる。
でも死んでしまえば和解することも不可能となってしまう。だからこそ生きている時こそが大事なのであり人間は死んで変わるということもないのである。だからこそそれで生前に恨んで死んだ人は死後も恨んでいるともなるから怖いのである

matherphoto.jpg

遺影は私に向かって笑っているから救われる

2024年05月12日

近くの人が糖尿病で死ぬ 【死は病気の人でも突然来るー生前世話してもその後携帯だけ連絡していた女性のこと】


近くの人が糖尿病で死ぬ

【死は病気の人でも突然来るー生前世話してもその後携帯だけ連絡していた女性のこと】

deadlive.jpg

近くの人が糖尿病で死んだ。10年間は病気に苦しみ生きたが遂に力尽きた、でもそれほど苦しまないで死んだみたいだ。
その人の所に妻が十数年前死んで女性が世話していた。でもその女性も73才とかで脳梗塞になり世話ができなくなった
死んだ男性は85才だったという、私はその人とその女性を介して合っていて不思議なのは死ぬ前に私の家に来た。その時顔色が青ざめていたので弱ったと見た
そして確かに人間は死ぬ前に生前親しくしたとか知っている人の回っていくというのは本当だと思った。
でも人間は死ぬとは思わないのである。親しい女性は常に電話で連絡してくるので電話では応じていた。でも粗末に扱われたということで直接会うことはなくなっていたのである。

またその女性は常に金に汲々として苦しんでいてそれで助けてくれなかったケチだとか言って会う事は直接会う事はなくなっていたのである。古米をくれるとか言われたがそんなものはいらないとかその女性は言っていた。そして直接は自分自身も病気になり会わなくなり携帯ででは連絡しあっていたが死んでしまったのである。

そこには死んだ人だけでなく一人娘が居て一緒にには住んでいなかった。でもその一人娘は父親に来る人を嫌っていて私も2人で家に行ったことがあるが娘が来た時追い出されたのである
だから娘にも問題があった。他人でも親しい人がいてその人を信じなかったらしい。何か介護になるとそうして必ず家族全体が問題になるになるのである。なぜならそこに必ず他人が介入してきて他人に世話になることがあるからである。その一人娘はその他人を信用しなかったしまた家の中に入ってくる事を嫌っていた。

でも隣の市は15キロぐらいありずっと一人で住んでいたのである。だからそのすぐ近くで簡単に行けるのでその女性は何か世話していたのである。
でも粗末に扱われたということで直接会うことはなくなった。
その女性自体が脳梗塞になり今でも足が悪く杖ついてやっと歩いている。だからとても世話はできなくなったが携帯電話で相手が連絡してくるのでそれには答えていたのである。
でもそれ突然死んだということを知らせてきた。だから私も驚いた。何か死は常に突然に来る。

またその女性はお悔やみに行くから金をくれと言ったがその人も病気であり自分の治療に使いと私は言った。後で一緒に墓参りすれば良いと思った。墓は家の近くにある。死んでしまえば人は金はいらない、金が必要なのは生きている人である。でもその娘は金には困っていないから金もないのにお悔やみに行くことはない
ただ供養する気持ちがあれば墓参りして花でも献げればよい、でも貧乏だからその花も買えないから私が買うことになる
確かなことは一旦死ぬともはや金を死者は要求しないのである。

死者は生者に何を要求するのか?

その人を本当に思い供養する心があるかどうかである。それを死者は冷徹に見ているからそれを偽る事は出来ないのである。だからひどい娘だわと言って恨みを残して死んだ母親がいた。それがなぜか私に言い残して死んだのである。
だからその娘が何かあるにしろ私は世話したとか葬式で言ったが実際はかなりの恨みを残して死んだのである。そしたら墓参りしたり供養することができるだろうか?

そこにいくら死者でも生前の続きとして人は死んでも存在するからである。あなたは確かにもはや母親でも死んでいないとなるのかな偽ることはできる。
でも死者と向き合う時偽ることはできないのである。何かそれが介護とかで問題になってくる。良く介護されれば死者を恨んだりしないのである。
ただ介護は苦しいからいろいろ事情があってなかなか批判はできない。でもその娘は何の世話もせず母親は急に死んだのである。だから何か世話したことは何もないのである。その人はなぜそうなったのか私と付き合いがなくなっていたからわからない

ただ私のところに母が寝ていて叔母にあたるがおばあちゃんは金があるんだから金に面倒を見てもらいと言って去って行き永遠に会わなくなったのである。
その人何も母親に何かいじめられたというものでもない。実の母親ではないにしてもかなり可愛がられていたのである。私の母親は前にも書いたように継母にいじめられたのだから悲惨だったのである。だからその娘がなぜそのように非情になったのか理由がよくわからないのである

ともかくその死んだ男性は鯛焼きを買ってくれと頼まれたことがあったたい焼きがよほど好きだったのである人間は何か食い意地というものが死ぬまである。何か無性に食べたくなるのかもしれな。それで死ぬ時スシ持ってこいと言って死んだ人女性もいた人間食い意地というのは病気になっても消えないものだと思った。
ただたい焼きを買ってきてくれと言う時世話していた女性はそれもやらなかった。その女性はやはり何か大きな不満を持って会わなくなったのである。
ただ死んでしまえば永遠に会わなくなるのである。だから前にそうして争うことがありそれで後悔することになる。

というのは死んでからはまた生きている人に何も与えることもできない。また生きている人も死んだ人には何も与えることができない。だからこうしてやれば良かったとかもっと良くしてやれば良かった介護した人でも常に言っている。逆に死んだ人も人にもっとよくしてやればよかったとか思っているともなる。でも死んでしまったら双方とも何もできなくなるのである。

だから老人になると皆こうして死が身近となり永遠に会わなくなるからそのことを考えねばならないのである。
でも結局人間の死でも突然くるからそんな余裕もないとなる。そんなに目の前の胸に追われてそんなこと考えないのである。ただ確かなことは人間は死で終わりではない、その後も供養とか墓参りとかで続くのである。
結局生前うまくいかないと死後もうまくいかないのである。死によってすべてがこれまで生きてきたことがごわさんにはならない、生前のことが依然として継続しているのである。

第一死んだ人でもその人の生前の生きざがしてきたことから死んだ人を評価して見るからである。死は生の断絶ではないのである。死んで突然その人が聖者になり特別崇拝する対象などになにはならなないのである。死んだ人でも生前にどんな生き方をしたかを語られるからである。だからその人は世話した女性にケチだったと言われたことは死後も残るからいかに生前の行為が大事になるかである。

でも人間は自らも死ぬことが意識しにくい、いつ死ぬかもわからないのでそんなことを考えないのである。
ただ人間は死んですべては終らない、死後もまた生前の継続なのである。

ご冥福をお祈りします

2024年03月04日

家に死者は生き続ける 【死者との対話は延々と続く―語られる死者は生き続ける】


家に死者は生き続ける

【死者との対話は延々と続く―語られる死者は生き続ける】

母と姉死してもなおも
面影浮かび我が家にあれ
悲しみ深くも我が家を継ぐ
死者は物言わず重々しくあれ
なほそこに愛は通わむ
死者には死者の場が必要
その場の在りて死者は生き続ける
それぞれの土地に家に死者の場のあれ
かくて死者と共に生き続ける
死者は死なずそこに微笑む
なお共に在りしを喜ぶ

人間は死んでも消えるものではない。何か死んでからも死者との対話が続いている。姉は死んで13年母ですら八年も過ぎたとは思えない。人間はやはり親ともなればその存在は簡単には消えないせん。時々依然として2人はそこに家に居る感覚になる。
その原因はやはり子供の時から一緒に住んでいてその歳月が長かったことである。60年も一緒に居れば住んでいればその存在がなかなか消えるということはない。それも子供の時から一緒だったからそうなった。あるところで別々に暮らしたりすればやはりいくら親でも疎遠になり忘れられてゆく。

だから人間というのは必ずしも血縁というのではなく一緒に過ごし生活することがそこでおのずと親しくなり親密になりたとえ争って憎しみ合うことがあってやはり長く一緒に生活していれば愛でも通い合うようになる。
つまり情が育まれる。それは猫でも同じである。その猫はなつかないが毎日餌をやっている。そうしているとその猫に愛着が湧き愛でも通じるようになるかもしれない。ただその猫は慣れることはない。

ともかく親が死んでからずっと死者との対話が続いた。やはり人間というのは死んだとしてもその関係はすぐには終わらない。その関係は継続されるのである。でも家族であったらそうなる。他の人が死んでもその死者のことまた一人死んだかとくらいにしか思わない。家族だったら死んでも思い続ける人があればその人は死なずなお生きているとなる。

なぜ墓があるのだろうか?なぜ人間は墓を作ったのだろうか?それは人間が一旦知ると死者のことを忘れてしまう。それで家がなくなっても依然としてそこに死者がいるということで墓参りして供養して死者とつながる。人間はとにかく忘れやすい。人間は一旦死ぬと目にも見えず形もなくなるから忘れやすいのである。
だから墓でもそこに具体的に死者があるとして死者が継続される場として墓他は必要となる。

つまり死者と交感する場として墓がある。ただ不思議なのは人間は必ずしも死んでしまえば塵となり灰となり骨すら残らない。私が建てた交通事故で40歳で死んだは兄の墓には骨ははいっていない。骨は実家の墓で土になってわからなくなったのである。だから墓には別に死体が入ってなくても骨が入ってなくてもその人は生きていたという証として墓がある。

もし墓がなければ死んだ人と交感するにしてもできなくなる。骨を海に撒いたり墓がなくてもいいというのも分かる。でも具体的に物となって存在するものがないとその人と交感できなくなる。また墓というのはその人が生きていてしていた人間関係の継続する場としてもある。何か死んだ人に申し訳ないとか懺悔する時がありそのとき墓参りするのである。

とにかく何か具体的な物として指標として死者の物がなければ死者はさらに忘れられる。存在したのかどうかも分からなくなる。だから例えば古墳があるとすればそれは死者の墓でありする千数百年まえの人たちの墓でありそこに確かに人が生きていたということである。もしまた古墳でもなければそんな遠い昔のことを誰も振り返ることもないのである。そこにその土地に現実に古墳となってあればその時その時代のことそこに生きていたという人たちのことを認識する。でも何もなければその人達がそこに存在していたことすら生きていたことすら意識もできないのである。

死者にもそこに生きた存在したという標しが必要である。それは家にあるのだが家でも継続されずなくなる時がありるが墓は残りつづける。ただ墓でも後を継ぐ人もいなくなり墓じまいともなっている。
ただなぜ墓が必要なのかとなれば家がなくなっても墓は存在し続けるということがある。どうしても墓というのはその場に行けば死者を意識するからである。

だから死者を意識する場として墓代がある。古墳でもあればその土地に生きた人が葬られている。それで死者を意識する。もし墓であれ墓地であれ何もなくなれば死者を意識するということはできなくなる。そして古墳でもソーラーパネルに覆われてしまった場所はある。そうなるとその古墳も意識されにくくなる。それは景観と歴史の破壊でもある。

ともかく人間は歴史的存在いうとき代々続くものとしてある時死者でも意識する場として具体的になものとして墓が必要なのである。その場がそこに長く生きた愛着のある場でありふるさとにもなる。
だから原発事故で避難区域になったところではそこには棲まず離れ移動した。ということは長く続いた歴史が断たれたともなる。その時移動した人とともに墓も移動したのである。
なぜならその町であれ村であれ消滅するようにもなったからである。でもそれは今ここだけではない全国に起きてくることである。過疎化が深刻でありあとすぐ子供もいなくなっている。周りを見回してもかなり広い範囲でも子供が遊んでいる姿を見ないからである。だから町があったとしていくつかの区が消滅してゆく。するとそこに墓があったとしてもその墓も他に移動してその土地から離れてしまうのである

何かの本で死者にも投票権を与えようとか権利を与えようとか書いた本があった。それはやはり死者も依然として村であり街であれであるそこに生き続けているからいるからそうなった。だから古墳でもそれは死者が依然として生きていると生きている場だと思うんだ。だからそれを壊してしまう時死者の存在も消失するとなる。いずれにしろ死者は人は死んでもすべて簡単に消えるわけではない。つまり死んだ後も家族だったら家族家族との対話が続いているのである。認知症の人が死んだ人延々と語り続けていたというでもそれが異常なことでもなかった。別に普通の人でもやはり死者のことを思い語り続けるからである。その死者のことは語られる限りまたその死者も生きているのである。

偉大なる人は死んでも
彼が後に残す光は
我々のはかり知ることのできないのちの世までも
人々の道を照らすであろう

こういう文がててきた。まこれは偉大なる人のことである。でも普通の人でも家族とかなれば語り続ける生きていその家族が生きている限り語り続けるのである。つまり死者との対話は家族であったらその子供であれ孫であれ語られて残されていく。ただ普通の家族であれば語られるのは三代くらいかもしれない。
とにかく死者を思うことは不思議である。その死者を思うときやはり家というものに死者がまだいるという感覚になる。それはすでに十年とかもすぎてもっやはり家にいると感覚になる。

母は我が家に嫁ぎ30数年
苦しくも悲しくもこの家にあり
目立たぬおとなしい人だったが
その細身の姿がいつまでもある
母はこの家に耐えてきたのである

母は別に優れた人でもない。何か花に興味はないし趣味もないしただ働き詰めの蟻のような一生でもあった。だからそれがすべていいとなっていない。でもやはりここにこう自分家に30数年を生きたということが家を支えたということが依然として死んでも存在感があるものとなったのかもしれない。
ただ母は脇役の存在でありそれで今母を自分が偲んでいるのは不思議だとなる。

蠟梅の咲きてあわれや我が母の百歳生きて死ににけるかな



2024年01月22日

怪我(けが)は穢(けがれ)だった 日本では障害者を汚れとして見ていたー神社や寺では慈善活動しない

怪我(けが)は穢(けがれ)だった

日本では障害者を汚れとして見ていたー神社や寺では慈善活動しない

穢れけがという言葉の源。肉体に差し障りあるすべてを含む言葉
したがって知の遅れも心象も怪我であり穢れである
穢れを恥じるから穢れを持つ者に対して石を投げ穢れを追うのである (ラインの岸辺犬養道子)

怪我すること怪我がけがれになった。日本人の思考としてやはり言葉がそのベースにありそこから日本人の心を解き明かすということがある。前に私が書いた恵みめぐるから来ている。恵は水のように一箇所に留まらず巡ってゆくのである。金は天下の回りものという時もやはり恵みは巡っていくというのと共通している。

おそらく日本人の思考として怪我をしたときそれを穢れと感じた。それで禊(みそぎ)をするとかあるで穢れを落とすために清い水でその穢れを流れ落とす。何か悪いことが起こる時それは穢れから来ていてそのために穢れを洗い流す必要があった。

その穢れとは体の障害者だけでなく精神の障害者であれまた老人も体が弱い醜くなることも穢れた人ともなる。何か日本人の根底にはそうした心情はある。現実に日本では神道があってもそうし穢れた人弱者をあわれみいたわるということはない。なぜならそういう人たちは穢れたものでありまだその人たちの前世の悪行がカルマとなってそうなったと見る。それは仏教の教えであるがやはりそこには穢れの思想もあるとなる。ただ仏教では慈悲を説くだからそういう人たちを哀れみ思って助けるということもあった。でも神社とか寺ではそういう慈善活動はしないということでなぜなのかとう人もいる

ヨーロッパのキリスト教社会ではなぜ慈善活動が盛んになったのか。神社とか寺では慈善活動しない。特に神社では慈善活動は何もしない。キリスト教になると日本でもホームレスに炊き出ししたり慈善活動をしている。でも神社関係とか仏教関係は寺ではそうした慈善活動に積極的ではないしそういう姿も見えない。寺は死者の供養でありそこには熱心だが今現実困っている人に相談相手でも援助でもしないということがある.だから日本では福祉ということに積極的ではない。カルト教団でも慈善活動はしない、ただ会員を増やして勢力を拡大して社会の利権を得ることだけに熱心なのである。一見弱者の味方に見せても慈善活動はしないのはなぜだろうとなる。

障害者は穢れである忌むべきものだからそうなっているのかもしれない。もともと日本人の中にそうした人たちを障害者を穢れとして見ているからいくら福祉といっても積極的にならない。例えば生活保護でもそういう人たちも穢れであり心では助ける気持ちもない。ただ穢れを引き受ける者として仕方なくそれを政府で国で面倒最低の面倒は見るということである

だからヨーロッパでは福祉というとき個々人が積極的に関わる障害者を毎日のように連れて行くことを日課としていたとかまず福祉というとき周りの人が助けるということが基本にある
でも日本の場合はそういう障害者は穢れであり忌むべきもにのであり隠すべきものとなっている。それはあってはならないもの見てはならないもの穢れなのである。それは障害者だけではなく実は老人も穢れたものなのである。その姿も醜くなるしやはり障害者のようになるからである。だから日本人は実は他者に冷たいというときそういう背景があるからかもしれない。

ただもう一つの原因として現代でわはあまりにも老人と病人が増えすぎたことである。老人と病人が増えるだけの社会は維持できるのかとなってしまう。だから実際は病院であれ施設であれそれを看る人は看護師でも病人も嫌うし老人でも嫌っているから虐待もされる。つまりそのそういう人たちと接する人も穢れとして見ているからである。つまり障害者とか病人とか老人はあってはならないものとして見ているのである。穢れたものとしてこの世にあってならないものとして見ている。

特に日本ではキリスト教ではないから弱者への愛とかに欠けている。だからそこは穢れでありもともとあってはならないものであり福祉があるとしても仕方なくういう人たちを引き受けているということである。でもヨーロッパでは個々人にそういう障害者でも助けようとしている心がある。それはキリスト教の歴史が長いから社会的にもそういう心が養われたもなる

とにかくういう障害者に対して個々人で関わりたくない。だからそういう人たちは穢れでありその穢れた人たちを引き受けるのは福祉関係の人たちだとなる。個々人がその人たちを助ける気持ちはないがやむを得ずやむを仕方なく税金を払ってその穢れを引き受ける人を雇うということにもなる。
だからそこに福祉でも心が通わないということがある。ただ正直人を助けるといってもそれは相当に難しい。だからこそ人を助けるとしても福祉では制度化して仕方なく面倒みるとなっている。だからそこには心が通っていないのである。むしろ個人がそういう障害者とかかわり助けるとき心が通ったものとなる。それがヨーロッパの人たちにありそれが日本との違いだとしている

障害者の子供が柵のないどぶに落ちて死んだ
政府は市が柵なしにほっておいたからだと言えば政府とか市に一切を委ねてしまうことになる。
一切を委ねるとはそれだけ強くなってくださいと頼むことだ。

どこが大変に危ないそれを放置されずに市民の通告がなされなければならない。放置した場合は応急策は市民の側からまずなされるべきである。すなわちそのどぶのある地域社会の市民のもっと言うと個人個人の責任が主になるのである。
市民一人一人が少しでも多く権限を持てばそれだけ政府過剰になろうとする力に歯止めをかけることになるのである。
(ラインの岸辺犬養道子)

つまり何でも何か不満があっても危険があってもそれを個人の問題として変わらない。それをすべて自治体とか国家の責任にしてしまう。これは別に福祉だけではない何でも国が悪いとか政治家が悪いと言ってしまえばそれで終わりである。
何か市民としての自主的な働きとか責任を持たなければそもそもが社会も良くならないし福祉でもそれが活きた者とはならないのである。何かこれは福祉だけの問題ではない。政治家に文句を言うのは良いしかしその文句を言う本人が何か自ら社会をよくするとか何かその本人自体がしているのかとなる。何でも福祉に任せればいいとか永遠人間はそれでは問題は解決しない

奇妙なのは福祉に世話になっている人が私が困った時何と言ったかというと福祉に世話になれというだけだった。何か簡単なことでもはずだったが励ましの言葉も有ってもよかったが何もない。一番楽なのは福祉の世話になれということである自分は関わらないということである。
その人はもともと普通の人ではない。ただその親は母親は本当にいい人であり情のある人で助けてもらったことがあるからその息子にもちょっと金を貸したりしたのである。その人はあらゆる人から嫌われていて普通の人ではなかったからそうなった。でも一般的に自分自身は何もしない心にもかけないそして福祉に世話になれというだけで終わる。それは穢れを拒否して誰かに任せるということである。

だから日本人の中にはそういう心情が根強くあり障害者は穢れとして忌避するものであり隠すべきものである。もともとこの世にはあってはならないものとして見ているからそうなる。でも確かなことは人間はどこで障害者になるかわからない。交通事故になって身体障害者になる人もいるしまた障害者と言う時老人になるとどうしても障害者のようになってしまう。

それで驚いたのは健康優良児のような人が家族が認知症になってしまったことである。認知症はもう90歳以上になったら半分以上なっているのである。だから老人になれば障害者になることにもなる。そしたら自分の親がそうなったらそれを隠したり捨てるわけにも行かないのである。だから障害者の問題は実際は自分自身もまたそうして穢れとして捨てられるということにもなりそれがカルマなのである。

ただ福祉の問題は高齢化社会になるとまた別の見方が出てくる。老人は自殺しろとかいうのもそれはあまりにも老人が多くなり病人が多くなるからそうなったのであるそういう人が出て来たのである。現実その負担は大きく国自体が潰れるとまでなってしまう。そのことでますますそうした障害者とか老人とか病人は面倒見きれないとなり遺棄されるものとなる。

いくら福祉とか弱者を助けるといってもそこにあまりにも数が多くなればもう健康な人も正常な人もその負担でまともに生きることもできなくなる。ただ介護することが人生になってしまう人もいる。特にヤングケアラーとかはそうである。貴重な若い時を介護に費やしてそこに何か実りがあるのかとなってしまうからである。そこにやはり現代の高齢化社会の深刻な問題があるということである





2024年01月13日

一様でない家族ーどんな家族に育ったのかーその影響が大きい 【高齢化社会は世界的問題であり適応するしかない】

一様でない家族ーどんな家族に育たのかーその影響が大きい

【高齢化社会は世界的問題であり適応するしかない】

「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」トルストイ

●障害者を持つ家族の悲惨

家族は一様ではない,だから外から見て分かりにくいのである。例えば精神的障害者を持った家族は一人の障害者のために母親のエネルギーがその障害者に注がれ兄弟がいたとしても姉妹がいたとしてもその世話はおろそかになる。母親は絶えず障害者のことを心配しているからである。そのためにほかの兄弟姉妹はおろそかにされる。

それが成長したとき母親に対して不満になる。すでに50歳になっても依然として障害者の子供のを心配して母はそのことで精一杯になる。また兄弟姉妹にしてもその障害者の世話をしなければならずそれが嫌なのである。なぜなら子供の時から障害者の子供には母親は常に心配してそこにエネルギーを費やされて兄弟姉妹に関してはおろそかになってしまうからである

だからこそのことで母親に対して不満があり母親は体が弱っても病気になっても何か冷たいとなってしまう。子供だから一応面倒は観るにしても子供時代に障害者の子供ばかりに世話を焼いたからはい自分たちは疎かにされたとしてその不満が続いている。そしてまたその障害者の面倒を見るのは兄弟姉妹になるからそれでまた大きな不満になっているのである。

だからいかに一人の障害者をもつことは母親の負担となりまた兄弟姉妹の負担になるかということである。それで悲劇なのは親がの体が弱り病気になっても障害者の子供が面倒を見ればいいのだが見れない。それで会合の時介護の時兄弟姉妹でも一番かわいがられた人が介護しろという言われるのは理解できる。
ともかく何故私がそのことを理解したかというと直接にそのような家族と親密に接したからである。

●引きこもりの若者が500円玉にぎりしめて死んでいた

家族というときさ様々な家族がいてなかなか外から分かりにくいのである。たとえ両親がそろっていても普通の家族のように見えても違っている。結婚してからも親に干渉されて嫌気がさして父親が死んでも返って楽になったとかせいせいしたとかと思って思っている人もいる。その人は親から常に干渉されてそのために結婚してからも親が干渉してきてうつ病にまでなっていたのである。それで親が死んだとき何か悲しいということもなくなっていたのである。

またある家族では引きこもりの人がいて親がその息子を叱責して追い出しでもその息子は500円玉を握りしめて死んでいたというのも悲惨である。父親が厳しくしてそうなった。今は引きこもりとかニートとか働かない若者が多い。でも全ての親がそうして厳しく当たるわけではない。でもそういう厳しい親もいて悲惨な死があったということである。それを生々しく感じたのは自分もそういう運命になることがあったからである。

ただ私の場合明治生まれの厳しい父親は中学の時死んだそういうことがなかったのでそして父親代わりになったのは姉だったのである。姉は私には特別優しくして何か私に対して働かなくても何も言わないし自由に生きればいいと言うだけだったのである。もし父親が死んで母親と私だけになったら私は社会にも適応できない人間だから悲惨な結果になったことは確かである一時放浪していたとき現実にそういうことがあったからである。つまり私自身も500円玉を握りしめて死んでいたかもしれないということである。だからそれが生々しく感じたのである。

ともかく人間は必ず家族の影響を受ける。その影響が大きすぎるのである。だからカルト宗教にはまった家族に生まれたら宗教二世は親の言うなりになりその宗教もまともなものでないとしても子供の時からそういう家族で育てば子供は無垢なのだからそれを良いものとして洗脳されるのは普通である。それしか見えなくなっているのである。

でも家族でもみんながそうではない。でもカルト宗教の家族の場合その付き合う家族もまたそうしたカルト宗教団体の仲間なのだから純粋な人で人は特に完全にそういうカルトに染まってしまうのである。その他のことが見えなくなってしまうのである。。そして人間というのは意外と他の家族がどういうものなのか理解できないのである
トルストイ言ったように家族の不幸はみんな違っている。それは家族が様々であり一様ではないからである。

●カルト教団の親を持った宗教二世の問題

たから本当はいろいろな家族と接しているとこんな家族もあるのかと比較して自分の家族は何かおかしいということに気づくかもしれない。特にカルト教団の家族などは普通の人の家族と接すればそういうことを感じる。つまりカルト教団に入っている人はその付き合う相手も同じようなカルト教団のになっているのだからその相違が分からなくなってしまうのである

ある人を理解するときその人はどういう家族で育ったのかが見ることが大事である。兄弟がいたのか姉妹がいたのか一人っ子なのかとかで相当違っているのである。私は一人っ子だからそして父親がいたとしても早く死んだから返ってそのことでいいとは言えないにしてもその影響が大きかったのである。つまり父親がいるといれば職もなく引きこもりとかニートとかそんな生活は許されないからである。

明治生まれという時私の父親は酒屋の丁稚奉公だからそういう仕事をしないでぶらぶらしていることは許さなかった。現実に子供の時でもひどく叱られて家から追い出されたことがあったのである。だから父親が生きてたらとても仕事もしないで引きこもりのような生活は不可能だった。

だからこそ父を厳しい父親に家から出されてその息子は500円玉を握りしめて死んでいたということが自分にとって生々しいものとして感じた。つまり私自身も父親が生きていればそういう運命になったということである。だから人間というのはどういう家族に親から生まれるのかがその人生も大きく左右される。ただ父親が早く死んだ結果その代わりになったのは姉でありあれは何でも大目に見て何か私に対して要求することもなかったのである。それも特殊な家族関係でそうだったのである。ここでわかることは意外と親は子供にとって大きな圧力となりそれで歪められるのである。

それで時代劇などで商売人の親は死んでその跡継ぎの息子が放蕩していたところありでも死んだことによって息子は改心して商売に熱心に務めるようになった。それはどうしてそうなったかといえば親が死んだということにあったのである。だからそれを社会に当てはめれば今親となっているのが社会牛耳っている時その下の息子であればその活躍する場がない。頭を押さえつけられて何か重要な仕事も任せられないのである。結果的に商家の息子に生まれても現実的に仕事が任せられないということで仕事も身につかないのである。

●高齢化社会で若い人が活躍できない問題

高齢化社会で起きていることもこれと似ている。それでそれは例えば私自身が経験したことだが結構な財産があった。でもそれはしたのは60以降であり財産を受け継いだのはそれより先であり遅すぎたのである。もし早い時期に財産を受け継いでいたらもっと自分のしたいことをできたとなる。それは家族でもそうだし社会でもそうなのである。社会の重要な役職にあるのは権力を持っているのは60以上とかの老人であり若い人はそこで活躍の場が与えられないのである。その結果として何か新しいイノベーションとかも起きないのであ。

ただ老人だからといってすべて無用なものとは言えない。ただビジネスの場ではなかなか老人は向いていないかもしれない。芸術とかなると別に返って老人の方は鑑賞力もあり若い時はいいものは作れない。ただ社会全体にとってやはり老人がこれだけ多いということは何か新しい革新的なものが出てこないとな社会にしても保守的になり旧来の物を維持するというか何か新しい言ものが生まれないということは言える

そんなことは社会全体から見れば高齢化社会は個々の家族でも財産でも60以上になってからやっと受け継ぐのでそのとき何か新しいことをしようとしてもその財産を受け継いだ人がすでに老人になっているのである。明治維新が若い人たちによってなされたというときそれだけ命がけの刀の下をくぐるようなことを老人はなかなかできない。ただ別に高齢化社会でもいいものとして働くことはある。長い目で未来を見て成長してゆくのには良いとはなる。

というのはグローバル化した世界では外国のことでも理解するのに時間がかかるからである。江戸時代のように狭い一つの村の世界がで生きているならばそんなに知識も必要でない。今の時代時代なら膨大な情報がどう接してそれを理解すること自体が簡単にできないし時間がかかるのである。それで私は50歳からバックパッカーとして世界を回ったことが世界に対して目を開いた。つまり現在では長生きの時代だからいろいろな経験でも50以上でも60以上でもできるということである。ただその経験したことをさらに活かすとなると60以上70以上にもなる。私は何でも遅すぎたのである。でも高齢化社会で長生きしているから今まで経験したことを積み重ねたことを発表できるようになったのである。

●百歳生きる時代の人生設計

これから人間は百歳まで生きるというのは普通になるかもしれない。すると人生設計でも百才を生きることが目安になると先が長いのだから焦ることもないとなる。ただそこで問題も起きてくる。現場で働くような人は肉体労働者はもう70くらいになると体ががたつき仕事ができなくなる。でもさらに長生きするのだから何をしていいかわからなくなっている人もいる。 60で退職してもさらにその先が長いから暇をもて余す人も出てくる。

ただそれは全て悪いことではなくそれだけ長い人生を生きるということで実りあるものともなる。ただ高齢化社会というのは今まで経験したことがないことだからさまざまな問題が起きているのである。ただそれが全て悪いということでもない。ただ若い人から見れば新陳代謝がないから新しい革新的なことができないとなる。だからそこに不満があり老人はみんな自殺しろとかなっていう人も出てきているのである。でもそれはやはり高齢化社会というの経験してないからそうなっているのである。 60くらいで死んでいればそんな問題は起きなかったからである。

確かなことは高齢化社会というのは世界的にそういうそういうふうになってなってきている。それは栄養も良くなり医療も手厚いから当然長生きする。中国でも高齢化が進んでいて息子が農村に帰ってきたら親を見てまだ生きているのかと言われたと言う。その親は自殺したのである。それは日本だけではない世界的な問題となっているのである

だからそれが全て悪いと言うのではなくその高齢化社会でもそれに適した社会となりそれが住みやすい社会となるかもしれない。ただいまそれが過渡期でありいろいろ問題が起きているのである。つまり高齢化社会をより豊かに生きがいあるものとして生きることに適応できていないので。ただ確かにただただ高齢化社会というのは人間にとって必然的に生まれたものでありそれを全て否定することはできないむしろ適応してより豊かな社会を作るということである。


60代前半の父親が死んでこみ上げた安心感…
40代女性が就職しても結婚しても逃げられなかった毒親の支配

家を追い出された20代弟が帰らぬ姿に…「できることはもっとあった」姉の無念

障害や病気のある兄弟姉妹がいる“きょうだい”のお悩み





2024年01月03日

死者とは何なのか 【死者は語らないが生者が語り続けて生き続ける】

死者とは何なのか

【死者は語らないが生者が語り続けて生き続ける】

newyerflower.jpg


afterdeath.jpg


小林カツ

姉は兎年であり鯛はめでたいになりまた鬼は悪いものが入らないように魔除けにもなる。
だからこのお菓子は姉を現わしていたのである。


人は死ぬ。でも人は死んでもその死者との対話は続く。もう姉が死んでから13年とか母でも8年とか過ぎてしまったのである。でもなぜ依然として死者との対話が続いている。返事が無いのにしろやはり語りかけている。
そして死者と対話するというときそれは死者と生きた時のことを思い出して対話しているのである。

第一人が死んだら何が残るのかとなるとその人が生前にどういう人だったとか何をしたとか何をしてくれたとかその人はどう生きたのかを振り返る。だから何か人が死んだらその人は全く別の人になるということはない。何か死んだらその人はどんな人であれ神となるということが原始時代とかでもあった。つまりそれは死というものが何かわからないからそうなったのである。ご先祖様となり神ともなったのである。

でも人間は死んだらその死後のことなどわからない。ではあの世でどんなふうにして生きているのかもわからない。ただわかっていることはその人が生前にどのように生きたかである。だから歴史的人物でも必ずドラマになったりするのはその生前に生きたどのように生きたかが問題になる。あの世でどうしているかなどわからないのだからそれを語ることもできないからである。

私のは姉と母にこだわっているのかというとやはり60年とか子供の時から一緒に暮らしたことが影響しているのである。そして自分は一番良くされたからである。ただ2人が母親のようになっていることで複雑化した。でもそれが悪くも働かなかったのである。それは中学の時父親が死んで姉が父親代わりのようになったからである。それはどうしてかというと姉は気が強く男勝りであり母はその反対であり気弱な人だったからである

だから父親が死んでからあれは姉がいて家が支えられたのである。もちろん自分自身も支えられたのである。それが60歳頃まで支えられて一緒に暮らしたことが影響したのである。それはある意味で異常な家族でもあったが私にとってはよく作用したのである。もし母だけになっていたらかなり私は苦労し自由な人生は送れなかった。
なぜなら母はとても一人で生きられるような人でもなかったからである。性格的にも神経質でありであり私は姉のほうが良かったのである。。何か私に対しては文句を言ったりしてない。何でもしていいおおらかさがあり陽気な人だっからである。だから細かいことなどは言わないそれでなんかあまりにも自由に生きた結果社会性もなく自由放任の人間になったともなる。

でも自分にとっては学校とか会社とかは集団生活はなじめない性格だった。だから自分にとっては引きこもりである旅ばかりしていてもそれがあっていたのである。そこで自分なりの能力開発もできたとなる。ただそれがすべていいものともならなかった。そのために2人の介護になった時死ぬほどの苦しみを受けたのである。それもカルマだったとなる。でも死んでもやはり2人のことは忘れられない。だから時々夢にも見るし2人のことを回想する
それはあくまでも生前にその人とともに生きたことをかいそうするのである。

何か正月で買ったお菓子が兎であり鯛であり鬼の面であった。姉はうさぎ年だったのである。鯛ははめでたいになる。そして何故ここに鬼の面があるのか。姉は気が強く男勝りであり屈強な男でも恐れなかったのである。だから母の性格とは全く違った女性だったのである
だからつくづくこの三つのお菓子の似合っていると見たのである。姉はやはり私の家を支えて幸運をもたらした女性だったのである。ただ最後は認知症になり悲惨だった。ただ私の家を支えた人であり家の中では功績があったのである。ともかく別に社会的に功績がなくても家の中で功績があるということがある。家に尽くした人はどこでもいるからである。

とにかく人間は死んでも簡単にその存在が消えるものではない。だから死んでも歴史的人物になれば何度でも語られるのである。家族でもやはり家族で功績があれば語られるのである。
そして残された人でもやはり死者との対話は続いているのである。認知症の人が死んだ人に向かって延々としゃべり続けているというときそれが変わったことでもない、普通の人でも死者と語り続けているからである。その人のしたことや性格やその他その人となりのこと人となりが思い出して語っているのである

ただか全くは死者が忘れられるということもある。親でも全く忘れられれる。関心もないという子どももいる。だからそれは親に対する思いというのはみんな違っているのである。私の場合は特殊な事情で特別親に対する思いが強いのである。私という存在はやはり親なくしてありえなかったからである。自由放任に生かされたたことで問題だったが私にとっては良かったのである。

結局親の影響は相当に大きい。だから親と対立して反発して親と別々に暮らして後はあんまり交われないという人も結構いる。それは親から独立することでもある。カルト教団の子供に生まれ生まれた人はまるでヒトラーユーゲントとか毛沢東の紅衛兵のようになった人もいる。
そして一生ただ親の言うなりに集団組織の一員となり他は何も見えなくなった人もいる。それも親が影響があまりに大きいためにそうなったのである。子供の時からそうして育てられたのかだからそれ以外の道が見えなくなった人もいたのである。だから親の影響というのは従うにしろ反発にするにしろ大きなものなのである。

フラワーアレンジメントをしたが例えば黄色とピンクの菊の花がありでもそれでは何か足りないものを感じた。それで赤い椿の花を添えたのである。このようにおそらく家族というものでも多様性があった方が育つにはいいかもしれない。母と子だけというのは何か育つには良い環境ではない。そこにまた異質なものも必要なのである。まだ商人の家で優秀な養子をもらうというときその家が繁栄するというのもそうである。人間はやはり多様な人間に接して育つのがいいと思う。だから一人っ子というのはうまく育たないのである。

いずれにしろ人間は死んでもその残された家族でも他人であってもその人をが語られている時生き続けているのかもしれない。人間は死んでも簡単に消えることは無い。死んでもやはり死者は残された者に生き続けるのである。
歴史的人物になればその人は語られ続ける。だからこそ歴史的人物なのである。家族だけのものではない社会的にその人物はやはり死んでも生き続けるである。そもそもキリストとか釈迦とか2000年も語られる続けるということはそれだけその人が死んでも生き続けているということなのである。家族はでもその人となりをまた家族内での功績があり語られる。社会的になればそうして2000年も語り続けられる人はほとんどいない。それだけ死んでも生き続けるということは奇跡にもなる。ということはそれだけその人間は普通の人間とは違っていたということである

近くの医者でもその人は常に話題になり語られていた。でも死んでから一切誰も語っていないのである。その医者は金持ちでありその人の住んだ家は残っているが庭も立派だがその一人息子も医者だったが死んだ。東京の方で働いていたから地震で屋根が壊れていても直さないのである。ただ放置されているだけなのである。それもどういうことなのかわからない。あれだけ話題になった人がまったく誰も語ることもないのである。

だから大概の人は死んだら全く忘れられてしまうのである。今本を読んでいるとすでに死んだ人が多いのである。その人のことは本を残しただけであり忘れられているのである。だから死んでから十年であれ30年であれその人が語られるときはやはり特別の人だったとなる。他はすべて忘れられてそんな人がいたのかとまでなってしまうからである。それも文無常だとなる。覚えられる人は本当に少ない。ただこの世から忘れられてそんな人がいたのかとまでなってしまうだけである。ただ家族の場合は別でやはり残された家族は死んだ人のことを忘れることはない。だから死んだ人との対話は続いているのである。

ともかく死者の死後のことはわからないのだから生きていた時のことが語られるのである。それは延々と語られるともなる。
その人が誰になるのか人によって違っている。ただどうしても長く一緒に暮らした人が何であれ忘れられない人になる。
というのは人間に与えられた時間は限られている。すると時間がないと親密にもなれないし信頼関係も築けないからである
だから熟年離婚は相当に損ともなるだろう。なぜならまた新たに親密な関係を作る時間が人間には与えられていないからである。
つまりこの世で親密になる時間は極めて短いからである。そして老人になると過去を回想することが生きることにもなる。
それは認知症になると実の子供でも離れて暮らしていると忘れてしまうからである。

去る者は日々に疎し・・・となるからである。でも死んだ人でもやはり延々と語られる時死んだ人も依然として生き続けているのである。


2023年09月06日

失われたファミリー大家族 2025年:単身世帯が1996万世帯 加速する「ソロ社会」化


失われたファミリー大家族

2025年:単身世帯が1996万世帯 加速する「ソロ社会」化

非人口要因のひとつとして考えられるのは、老親とその子どもとの同居率の低下である。すでにこの傾向は進んでおり、妻と死別した80歳以上の男性とその子どもとの同居率は、1995年の67%が2015年には43%まで低下した


●ファミリーは大きな範囲の人の結合体

現代の社会状況を見ると例えばニートとかことおじとか40くらいでも働かない人が普通に居る。確かにそういう人はいた。でもごく少数でありそれは特殊な人として別に社会の話題になるということもなかった。でもその数が百万とかなればそれは特殊な人の問題として片付けられない。それはさまざまな社会問題を引き起こす。
また単身所帯が増えるというのもそうである。ただ明治以降に家族という言葉が生まれた。また家族の墓が生まれた。それは江戸時代にはなかったのである。何かこれが理解しにくいのである。

江戸時代の墓はホトケッポとか村のの人たちが一か所に葬られた。そこは村の共同墓地であり個々のの家族の墓というのはなかったのである。だから家族という言葉は明治以降生まれた言葉でありその前に家族というのはなかった。家族でも家族が無いにしろそれより大きな家族のようなものが大家族はありたとえ結婚しなくてもそういう大家族の中に所属して共に生活していたのかもしれない。一族郎党とかにもなる。
外国でもファミリートはその範囲が広いからやはり日本と同じように大きな範囲がファミリーなのである。ファミリーというとき親しいという意味があり日々生活する中で顔を合わせて生活する人たちがファミリーだったかもしれない。サクラダファミリーという時やはり教会を中心にしてファミリーが形成されだということでもある。その中心に教会があったとなる。

家族の変化で変化となるとそうした大家族よりもまた大きいファミリーというのは喪失して個々のの家族になった。だから家族の単位は狭い範囲になった。でもやはり今の核家族化したものよりは大きなものだったのである。だから農家は大家族で経営していて東京に働きに出て帰ってきてもそこに長男がいて家を継いでいるから養うということもできた。何か大家族ファミリーにはそうしてを広い範囲の人たちを糾合するものを持っていた。
核家族になると家族よりさらに狭い範囲のものとなりそれは家族としてすら維持できないものとなったのである。だから何かあると介護でも病気でも核家族だけではとても維持できなくなる。今人々が拠り所となるものを失い単身化して孤立化して孤独死に至るということが増える。

●所帯人数が少ないので介護とかで担いない

今所帯というのは構成人数が少ない。本当に一人だけの人とか夫婦とか子供がいても一緒に子供所帯と住む親は少ない。結果的に夫婦の所帯とか単身所帯が増えたのである。夫婦の所帯でも一人がどちらかが死ねば一人になってしまうのである。それよりもまた熟年離婚も増えていて一人暮らしの人は増えたのである。
その人はこの辺の原発事故とか特殊な事情で一人になってしまった。原発避難区域に住んでいて息子夫婦は仙台に住むようになったからである。そしてまた65歳なのか離婚熟年離婚して一人になってしまったのである。その事情は原発事故だけではない。そもそも熟年離婚もどこでも増えているからである。

そして一緒に墓に入りたくないという人も死後離婚も増えている。そういう社会的事情があり単身所帯が増えたのである。それは若い人でも結婚しない人が多いから単身所帯が増えたのである。ある意味でソロ社会になっているというのも分かる。ただ熟年離婚は男の方が衝撃がある。特に妻に支えられてきた人は熟年離婚すると精神的にもショックが大きい。でもそういう人も増えているのである。その人でも男性でも家族に尽くしてきたのだがいろいろな事情もあり本人の性格とか色々あって離婚になった。それで孤立化して不安定になり困っている。そういう人も増えたのである。
やはり人間は拠り所となるものは必要でありそれがないと不安定になるのである。ただ別に単身所帯でも特殊な人がいてそういう人はそういう人生を選びそれでその人生を全うしていた。それはアウトサイダーとか極めて特殊な人だったのである。現在の問題はそういう特殊な人ではなくどこにでもいる一般化した問題なのである。だから社会問題になるのである。

現代というのは村のような狭いところでより合い助け合い生活しているのではない。別に金さえあれば身近でもよりあい助け合うということをしなくてもなんでも物は買えるし何か近くの人と協力して生活するということもないのである。だから近くでも何をしている人なのかもその仕事も分からない人も結構いるのである。
それだけ人間は今互いに知り合うと言うこともないのである。だからこそ逆に家族が拠り所となる。夫婦でも拠り所となる。でもその範囲が狭いし家族といっても少人数であり夫婦だけとかになってしまうのである。そうなると何かある時支えられなくなるのである。ヨーロッパあたりでは介護とかは国ですることになる。そのために多くの税金を払っているからである。

日本にはそれがないから家族に負担がかかるがその家族が少ないから介護とかなると苦しくなる。ともかく70くらいになる職人の人でも家族に尽くしてきても単身所帯となって不安定となってしまったのである。何か息子娘もいても近くに居ないので頼りにならないと言っていた。なにか老人になると体も弱るので近くは見る人はいるといいのである。でも近くに住んでいないと隣の市まで15キロもあるから車で来るのも結構手間になる。それで病気になった人は一人で住んでいるが苦しいとな。いずれはとても一人では生活できなくなる。

いずれにしろ何か家族というのは夫婦とか子供とは別になり一人が倒れるとその負担が大きくなるし家族でも崩壊するのである。
それは介護で一人で悪戦苦闘して家族自体が崩壊したことを自分自身が経験している。そして私自身も単身所帯になったということである。でもそれは私の場合は特殊であったがほかの人は別に結婚して子供を持って仕事して家族に尽くしてきたという人が普通である。それでもやはり単身所帯化しているのである。それはその人自身にも問題があるにしてもやはり社会的な問題として現象化したのであり社会の問題なのである。
なぜならやはりファミリーというとき今の家族をイメージするがもともとはそういうものではなかった。その数でも今よりずっと多い人の集まりがファミリーだったのである。

それが喪失した時拠り所を失い不安定となり孤立化してまた孤独死が増えたのである。何か巨視的に見るとき社会自体が個々バラバラのアトム化社会だとかも言われる。それは経済が広域化グローバル化したということも関係している。金さえあれば別に物は買えるし一人でも生活できるからである。
おそらく江戸時代あたりだったらとてもその後でもファミリーに属していなければ生活できなかったろう。もうそこに縛られるにしてもやはり拠り所となる所がありそこでともに生活して仲間として死んでいったともなる。とにかく何らかの共同性があって暮らしていたなる。共同しなければ基本的に農民社会であれば生きていけなかったからである。
それでなぜ現代でカルト教団が増えたのか?それも大きな家族であるファミリーを喪失した。結果として疑似ファミリーに吸収され所属することで安定化を図る。ただそれはナチス的な組織になるから怖いものがあり危険なものなのである。

●人間社会は得るものがあれば必ず失うものがある

何か無縁化社会とか言われる時それは金だけが支えるものとなり金さえあれば別に孤立してても一応生活はできる。でも問題はなにか事故であり病気であり介護とかなると一人でわ支えることができなくなるから問題なのである。もちろん夫婦がいれば一人が支えることができるがそれでも負担が大きいのである。
そして介護でも家族だけが任されることが負担が大きすぎるのである。だから人間社会の不思議は江戸時代など貧乏であり食うことすらまともにできないし飢饉もあったとか現在ど比べれば地獄だとも言われる。それも事実であり現実であった。
では今の社会がまた江戸時代とか戦前とかと比べていいものなのかとなればそうともならない。それが人間社会の不思議なところである。というのは昔の江戸時代の医者などはそもそもが病気を直すということができないのでそれでもともと治せないということがわかっていて医者を責めたりしないのである。そして医は仁術とかなっていたのであるつまり今風に言えば愛を持って患者に接する同情する。でもとても現実に直す術はなかったのである。

逆に現代では病気は直されるべきものであり治せない医者は責められる。
でも医者は患者に同情を持って接するということも無くただ医は算術となったのである。まず金の計算をするからである。だから人間の社会というのは確かに医学でも進歩してそれは悪いものではない。治らない病気が治るのだからそれは江戸時代などよりずっといいものなのである。
でも何かを得ることが何かを失うということが人間にはある。そのことは人間である限り人間社会であるために変わらないとなる。何かを得ることはとにかく何かを失うことなのである。だから今いろいろ文句をいう不満をいうが過去に比べれば今の社会はいいものだとなってしまうのである。
何か家族というのでも江戸時代から考えるとそもそもは家族という言葉自体明治になって生まれた言葉のようにそれは江戸時代の大きな家族とは違ったものである。小さい単位のの少人数のことであり江戸時代にはなかった言葉なのである。だから言葉というのはそういう社会背景があって理解できるのである

とにかく人間社会は確かにいろいろと科学でも技術でも進歩する。でも必ずそこに失うものがある。家族でもやはりさまざまに変化して作られてきた。何か家族というとき人間社会から始まる出た時からあったように見られる。でもそれは狭い範囲の今の家族からイメージしているから過去の昔の家族のことが理解できなくなったのである。いずれにしろ単身所帯が増えるというときそれはやはり社会が変化してそうなった。だから個々の家族の問題ではなく社会自体の問題であり簡単に解決はできないともなる。
だからとにかく人間社会というのはいくら進歩しても何か必ず問題が起きてきて理想社会など作れないのである。そこに人間の限界があ。それを解決することが人間の力ではやはりできないとなるからである。何か一つ問題を解決してもま新たに一つ問題が生まれるのである。つまり一つの地獄が消える、で。新たな地獄が生まれる、親鸞の言うように(地獄は一定の住みかなり)なのである。時代が変わっても地獄社会なのである。


家族とは明治以降に作られた言葉
(江戸時代の家は一族郎党の広い範囲の共同体ーファミリーの語源)

2023年08月12日

少子高齢化は文明が発達すれば必然である (動物と人間の相違- 人間は成熟に時間がかかりすぎる―余暇を活かすことが課題に)

少子高齢化は文明が発達すれば必然である


(動物と人間の相違- 人間は成熟に時間がかかりすぎる―余暇を活かすことが課題に)


●人間は育つのに手間と時間がかかりすぎる


なぜ少子高齢化が起きているのか?それは日本だけの問題ではない。先進国では共通している問題である。 ただ、アメリカなどは高齢化している人が多いにしても大統領でも80歳になっているとしても子供の数が日本のようには少なくならない。その原因は移民がいてそれで補っているのである。 

だから、ほかの国とは事情が違う。そもそも人間というのは動物とは相当に違っている。人間が成長するにはとにかく手間がかかり時間もかかる。そのことが動物とはあまりにも違っているのである。動物は生まれてすぐ立つことができるし食べ物でもすぐに捕れるようになる。長くても一年であり。その一年かかるということも長すぎる。生まれてすぐ立って餌をとっていけるということもある。


つまり、動物は本能によってのみ生きるのである。人間のように様々な手をかける。教育するとかはないのでる。本能によって生きてゆくのである。 人間にも確かに本能はあるが人間は生まれて親からでも社会からでも教育されない限り生きる術も身につかない。その期間が長すぎるのである。人間の子供を育てるということは経済的にも相当に負担だし動物のようにはいかない。 

ただ、人間にも生殖本能がありだから先を見ないでセックスして子供を産むということがある。それで貧乏人の子だくさんというのも戦前からあったし戦後もあった。戦後の焼け野原から団塊の世代が生まれたのかそれは戦地から帰ってきた人たちが男たちがセックスして子供を大量に産んだともいわれる。それは本能の力が働いてそうなったとなる。


実際、焼け野原になって食べ物もないのになぜそんなに子供が生まれたということは理解できない。それはやはり本能の力だったのかともなる。貧乏な国ではアフリカなどの貧乏な国では、食い物わなくても本能の力によって子供がたくさん生まいる。 それは動物と同じよう同じように本能の力が働いてそうなっているということもある。

ところが人間というのは?そうした本能的なものを性欲でも抑制することもできる避妊とかもできる。特に文明化した社会ではそうした薬も作られて避妊できる。遅れた国ではできないから子供が増えたと思う。


つまり人間だけが本能だけはいけない本能に逆らい生きる動物である。 でもなぜ人口というのは地球の人口は急激に増えたのか?逆に人間が文明化したためだと思う。人間でもそもそもは生きるには必ず食料が必要であり。もしその食料がなければ。人間も生きていけない。だから、その食糧分だけの人間しか養えないから江戸時代までは農業でなったが限界になった。それ以上は増えなくなった。


●なぜ明治以後に人口はこれだけ増大してきたのか?


それは工業化したりして農業だけではない食料以外でもさまざまな職業が生まれてまた食糧でも江戸時代のように一反からとれる米の量が限られるという事も無かった。生産技術の発達で一反からとれる米の量が2倍3倍となった。すると。食糧でも2倍3倍となりそれだけの人口も増えても養うことができるようになった。


でもその中心が農業にあった。今は田舎でも農民は1割に満たないのである。つまり食料生産に従事する人はそれだけ少なくなりでも食料は供給されているのである。それは農業技術の進歩から来ている。 農業は主要な産業ではなくなったのである。それを象徴しているのは1000万の東京の人口があるとしてその人たちを養う食料がどこから来ているのか 東京の中に田畑はない食料は供給されている。江戸が百万都市だとしてもその周りはやはり田園地帯が広がっていたのある。


だから、その周りから食料が供給されていた。ただ米などは船で東北からでも江戸に集められた。だから食料のすべてを賄っていたとはならない。でも野菜などは東京周辺で江戸周辺でまかなっていた。それでその周りで特産物が生まれた練馬大根とかがそうである。また肥料でも糞尿を江戸まで農民が来てそれを取り出し運び肥料としていたのである。密接にその食糧を得るためにその周辺地帯と繋がり食料を供給していた

また、江戸前寿司というように東京湾で新鮮な魚をとりそれも食糧となっていた

ただ、江戸時代までは農業社会だから人口は抑制されて4000万以上にはならなかった。それで新潟県の人口は百万とかあり東京の人口も百万とかになっていた。実際は新潟県の人口の方が多かったのである。大正時代でも東京の人口は300万であり今の規模とは相当に違っていた。でも明治初期から比べれば相当にふえた。


●東京に人口が集中してきた歴史 


私の母も大正生まれでありその当時東京へ行く人が増えた。母も女中として東京に出た。また森林鉄道が網の目のように全国にはりめぐらされて木材とか石材とかが東京に運ばれた。また鉄道はもともと石炭を運ぶものとして全国に普及した。北海道でもそうであり福島県なら常磐炭礦は有名である。

東京は大正時代に300万人になるということはやはりそれだけ東京に人口が集中してきて、食糧であれ物資であれ必要となったからそうなった。その東京への人口集中は戦後でも高度成長時代があり続いていたのである。

ただ、基本的にはまだ日本は農業社会であり。農業で生活していたから人口の移動はそれほどなかった。


なぜ人口が増えるかという時その理由はやはり農業でも食料は増産する技術が生まれ食料は供給される。そしてその上に工業社会が生まれ工業社会になる時工業地帯が生まれて人々がそこに集中する。戦後の焼け野原から団塊の世代が生まれてその時中卒の集団就職があった。それは工業社会になり働く人手が地方から集められたのである。そうして東京は人口が今の1000万円に増大したのである。それは世界中で起きたのである。巨大な都市が生まれて農村から分離して人口が莫大に増えたのである。


ここが増えるというとき農村農業中心では増えない。それは縄文時代のような狩猟採集文化だったらやはり人口は極端に少ない。人口を増やすことができないのである。でもそこに農業が取り入れるとやはり人口が増大した。それはやはり食料が縄文時代より膨大に増やすことができたからである。

だから人口が増えるということは産業構造が変わり食料だけを生産することは第一とならず工業社会となり田畑がなくても都市化して人はそこに住む。 そこで都市に人口が集中するのである。 


とにかく明治江戸時代では3000万人くらいなのになぜ急激に大正時代では6000万とかなり人口は増え続けた。それは戦後の焼け野原でもそうだったのである。なぜこれほど人口が増加してきたのか?それはもともと農業から工業社会への変化があった。戦後、焼け野原から出発した団塊の世代が生まれた。その数も多くでもその就職先が中卒なら集団就職して都会の中小の工場で働いたとなる。つまり農業ではない中小の工場で働く場所があったからである。 


●人間は本能だけに生きない―少子化高齢化は文明化して起きた


なぜ今、少子高齢化がこれほど問題になっているのか?


日本国から日本人がいなくなり、日本民族は消失することまでなっている。それはなぜそうなったのか?それは日本だけではない。ヨーロッパとかでも少子高齢化になっている。だからそこに共通性がある。

そもそももし生物でもただ放置していれば自然の摂理で人口は調節される。動物の場合はその取れる餌によって特定の動物は増えるということはない。


人間の場合は本能によって生きるだけではない。本来は少子高齢化というのは生物界でわありえな。動物界では力が弱ったら?死ぬことになる。力があるものしか生きていけないのである。でも人間なら能力が弱くても老人になってもいろいろと手当をして長生きさせることができる。それは自然の摂理に反していても人間というのはそもそもは自然の摂理によって生きるわけではない。それが人間の特徴である。


だから少子高齢化というのは人間特有の問題なのである。自然では少子高齢化はありえない。だから大量に魚でも卵を産み本能的生殖で子孫を絶やさないのである。ところが人間の場合はそうした本能に従わずにも生きるのが特徴である抑制することもできる。 ただ、その本能に逆らえないということもある。


女性が子供を生む期間は短い。30歳までが出産適齢期である。その後になると出産することで子供に異常が生まれたりするからなるべくなら30歳まで子供を産んだ方がいいとなる。本能的にはやはり生殖作用が盛んになるのは30までくらいだとなる。ここにやはり人間も生物としての限界がある。それでも精子の冷凍保存とかなにか技術の発達で人間の場合は変えることができる。人間には別に本能的に生きるのではなく本能を抑制できる人間の文明とは、そもそもそうして生物的本能によって生きるわけではない。そこにやはり少子化となり、高齢化となる原因がある。


つまり本能的に生きる生物界では少子化などあり得ないし高齢化もありえない、ただ動物園とかペットになるとやはり寿命は延びるのである。

ただある種が増えすぎると食物連鎖のバランスは損なわれて生態系でも異常が起きてくる。 でも基本的には動物は生態系を壊したりはしない。 人間のみが生態系を壊す、だから人間というのはそもそもは本能というものから逃れられないにしろそれを抑制し。調節することもできる人工で敵にできる。


とにかく自然界では子孫を残すために大量の卵とか多くの子供を産むというのは普通である。それは人間も同じだったのである。なぜなら人間も昔なら生まれてもすぐ死ぬことも多かった。医療も発達してないからそうなった。子供を多く産まなければ死ぬのも多いのだから子供でも子沢山にしないとその社会でも維持できなくなる。

 戦前は若い人でも肺病で大量に死んで国民病となっていたのである。また疫病もあり大量に人が死ぬからやはり子沢山でないと社会は維持できなくなっていた。


医療技術が発達して食料生産でも一反あたりの収穫が何倍にもなるとか改良されてくると養う人口も増大する。高齢化になるということも必然なのである。栄養も良くなり医療も発達すれば当然、長生きする人が多くなるのである。つまり人間社会とは文明化するということは高齢化するということにもなる。ペットでも栄養をとらせて病気になっても手当てするから長生きするのである。


だから少子高齢化というのは人間社会にとって避けられないものであり、必然だということを知るべきである。それは悪いものとされているが高齢化というのは、実際は悪いものではない。なぜなら。人間早く死んでいたからである。そして長く生きることが人類の願いだったのであるだから延命地蔵とか長生きすることを願うことが人間の願望となっていたのである。


つまり人間というのは自然の本能のみに生きるわけではなく自然に反して生きるということにもなる。 それが人間の本質なのである。そしてそれが悪いものでもないのである。


●人間は成長するのに時間がかかる


とにかく人間というのは何であれ成長するに時間がかかる。その成長するというと動物なら別に知的活動などはしない。人間は知的なものを育むからそのことによって時間が必要なのである。何かを習得するにも時間がかかる。動物は本能によって餌でもとるし親から多少教えられるにしても本能的にできるのである。人間は何か教育されたり自ら育んだりしないとできない。そして知識になると膨大なものでありそれを理解するということは相当な時間がかかる。


それは私自身が一番感じたことである。何か知識でも自分のものにするには相当な時間がかかる。それは私自身が才能もないからだともなる。何か60過ぎてとかやっと70過ぎてから自分なりのものを表現できたということにもなるからである。というのはそれまでいろいろ体験したり、本を読んだりして理解するのに時間がかかったということである。

だから高齢化というのは悪いものではない。何か一つのことを理解するにも時間がかかるからある。それが今まではその時間が短かった。でもこれだけ時間があるというときもう70からでも学ぶ学ぶこともできるし表現することもできる。


だから高齢化というのは人間にとって悪いものではない。その長い人生の中で充実した人生を送ることができる。というのは退職してからも30年もあるとしたら第2の人生となってしまうのである。そこで何か実りのあることを達成できる。ただマイナス面として語られることが多いのはまだまだ高齢化ということに人間が適応してないからである。これからは高齢化ということは普通でありそれに適用して人間はさらに意味ある充実した人生を生きることもできる。


ただ、少子高齢化というのは最近起きた起きたことであり人間がそれにまだ備えていないし適応できていないのである。ただ自然界から見れば本能的に生きる動物などのようにそれは不自然なことなのである

でも人間っていうのは文明でも不自然なことなのである。少子高齢化というのも、そのために起きてくる。つまり人類は少子高齢化に生きるほかないともなる。 それが問題があるにしろその高齢化で人間の知的能力は確実に拡大し、成長する。それは私自身が遅すぎたが70過ぎでこうして何かを深く理解してインターネットで表現していることでもわかる。


つまり、これからは。インターネットとかが生まれて。個々人の表現の時代になるのでそのツールもできている。個人でもテレビ局となり、出版局となり新聞社にでもなれるからである。そこで何か表現するものが必要になる。それは高齢化の中で育むことができるのである。 だから高齢化というのは文明の中で必然的に起きたことなのである。ただ、まだそれに備えることが出来ないから問題が多いのである。老人は負担だけだとなるというときそれは介護とかの問題でありどうしても病人が増えるからである。でも老人は何かに対して理解力は深まり洞察力も深まりより成熟した人生を送るようになる。 


今は高齢化の負の部分だけが取り上げられるのはそれはあまりにも高齢者が多いことでそうなったので。だから自然ならば子だくさんである。もともとは長生きしてる人はそれだけで尊ばれた。どうしてもそういう老人はごく一部だとなり。後の大多数は無用の老人であり、ただ社会の負担であり、お荷物であるとされているのである。

でも社会も進化する人間も進化する文明も進化する。だから高齢化に適応した社会となりそれが悪いものともならないのである。ただ、少子化ということはこれまた別の問題でありいいものではない。社会の活気が失われやはり新しいものが生まれなくなるということもある。

それとは別にして高齢化というのは?文明が進んで必然的にそうなったのである。


だからどこでもそうなっていくのである。アフリカでもそうなってゆく。だからそれを止めることはできない。そういう社会に適応することであり、その社会が悪いということでもないのである。ただ。今はそのマイナス面だけが強調されているだけなのである。それぞれの人生は今までは60ぐらいで死んでいたのにそれからさらに20年以上とかとか生きるとなればそれぞれの人生を意味ある価値あるものとさらにできるから悪いものではない。ただ、その過渡期にありやはりマイナスの面だけが強調されるのが問題なのである。



●高齢化社会では余暇いかに過ごすかか問題になる


それだけ生きる時間が長くなれば暇も多くなる、会社で働きずめの人生でも。退職したらその後30年も生きるとしたらその暇をどう生かすのかとなる。

ただ、貧困化して働かざるを得ないということもある。でもそうして強制されて働くことはするべきではない。つまり人間にとって長生きすることもう一つは自由な時間を持つということである。それが人間の進歩にもなる。それは人間が望んできたものである。古代になると余暇を持ったものは貴族であった。あとの90パーセントは奴隷であり奴隷がいて貴族は自由な余暇をもったのである。そこで学問芸術とかに費やされるようになった。


それで学校というのは?スクールというのがスコレーでありそれは暇の意味だったのである。。なぜそうなのか?暇があったから労働から解放されて何か学校をつくり学ぶということになったのである。

それが高齢化でまた起きている。退職しても30年間も生きるとしたらその間に何かまた学ぶということが必要になる。理想的なのはライフワーク持って退職してもそのライフワークを続けることである。

そのためにはやはり老後でも金が必要になる。


でも今は日本が貧困化しているとき、老人でも働いている。それは食べるために働いている。でも、そのことがいいとはならない。 もはや金のために働くべきではない。食うため、パンのためにも働くべきではない。それぞれの自己実現というかしたいことをする。だからこそ暇の活用が大きな問題となるのである。


ただ、それはやはり人類が進化したのであり高齢化というのもまた人類がこれまで望んでいたことなのである。それが実現されていたのである。

でもその実現された長寿社会というのは有効に生かされないということである。それで社会全体から見てみると、こう高齢化社会の老人はただ負担になるばかりのマイナスのものとして見られる。

現実に病気の人も多い。介護になるとその負担もあまりにも大きすぎる。そこに大きな負の部分があり。若い人から社会全体から見ると、ただ重荷となり負担となり社会を停滞させる。マイナスのものとしてしか見られないのである。 

そして老人は技術の習得には遅れる?新しいものに?適応できないし利用できないとなる。それがパソコンとかITとかになじめないというのもそうである。それがまた社会全体に影響するから問題なのである。 子供でも、若い人は新しいものに。馴染み利用する。スマホなどはそうである。でも老人になると面倒だとなってしまうのである。


ただ、現代ではもうすでにパソコンは必須でありスマホも必須である。それなくして生活すらできなくなる。また創造の面でもパソコンなくしてはできなくなっている。

絵画するAIで作れるし音楽も作れるし小説でも作れたからである。だから意外とパソコンとかITは人間の頭脳と深く関係している。それが今までの技術とは違ったものなのである。


ただもともとアートというときそれを技術のことであり技術とアートは密接に結びついていた。写真というカメラ技術が生まれればそこで新しい芸術も生まれたし庶民もまた写真というものは欠かせないものとなったのである。それが今はデジタルカメラとか誰でも気軽に写真をとれるので写真の時代だともなったのである。 


だから高齢化社会になったとしても、やはりそうした技術を修得するべきだとなる。その技術の習得というのは、実は才能というより時間が必要なのである。

私は何か時間がなくなって家事とか毎日しているので新しいことワードプレスとか動画編集とかはできない。それは難しいことがあっても、時間をかけてやればできるものなのである。老人にはその時間がなくなっている。

私の場合は家事に追われるのでできなくなったのである。だから人間は時間に比例して知識も拡大するし、広めることもできる。若い時は相当に時間の無駄をしている。そして青春などあっという間に過ぎてしまう。そして40になると。白髪が入ったりしてしまうのである。


それが今までだったらもう60くらいでは死んでしまったのである。いまそいいうことはない、依然として時間がありその時間の多さで新しいことを習得できるのである。

そこに。高齢化のプラスの面がある。ただマイナスの面があまりに大きいので。そればかり強調されるのである。そこまでまた人間が進化してない適応できていないということにもなる。でも徐々にそういう高齢化社会にも人間は適応して長生きするということが人間にとって、より多くの豊かな実りを与えるという時代になるのである。その過渡期だから、いろいろと問題が起きてくるのである。 







2023年06月24日

家族とは明治以降に作られた言葉 (江戸時代の家は一族郎党の広い範囲の共同体ーファミリーの語源)


家族とは明治以降に作られた言葉

(江戸時代の家は一族郎党の広い範囲の共同体ーファミリーの語源)


「家人」と「御家人」の違いとは?分かりやすく解釈
「御家人」とは、鎌倉時代において鎌倉殿と呼ばれる「幕府の主権者の家と主従関係を結んだ家来」のことを表す言葉です。
「御家人」制度は鎌倉幕府の根幹となるもので、主従関係の基本は「御恩と奉公」という考え方で成り立っていました。

家人」と「御家人」の違いとは?分かりやすく解釈
onkefamily.jpg
野馬追いの御家の旗は小高区からでている。小高が相馬氏が最初に城を築いた所だから御家の旗印があるとなる

●家族は明治以降に作られた言葉

家族という言葉自体明治になって造語されたものでありもともとなかった言葉である。家族というとき当たり前でありそのことで今違和感を感じることはない、でも明らかに江戸時代にはなかった言葉なのである。日本が開国してヨーロッパの文明を受け入れた時その概念でももともと社会に存在しないものだから訳すのに困ったのである。
社会自体がそうである。社に会すが社会だとするとそれは村という極めて狭い範囲のことであり社会となればsocietyは広いのである。市民というとき日本にはそもそもいなかった。市民とはヨーロッパでは都市国家があり都市が城壁を壁をめぐらして敵から守るためでありそこで強固な一体感が生まれた。citiznshipが生まれた。だからパスポートにどこの市民なのか記すのである。

だから家族という言葉は明治になった生まれた言葉であり江戸時代にはなかったのである。江戸時代の規範は侍が作った。
家というとき家とは大きな範囲の共同体だった。平家とかなればそうであり御家あり御家人がいる。家人となればただの使用人だったなる。それでも一つの家に仕えるということがあり家とは今の家族とは違っていた。
徳川家となればと徳川家となれば国を支配するとまでなるのだから家とは大きな共同体であり家族となるとそういう感覚にならない。親がいて兄弟姉妹がいてとか狭い血縁関係である。なぜ家族という言葉が作られたのかとなると誤解しているのは一家の墓家族の墓は明治以降作られたもであり江戸時代までは家族の墓はない、・・・家の墓はないのである

侍でも個人の墓であり夫婦の墓はあったが家族の墓はなかったのである。江戸時代の末期に庶民も豊かになり姓を持ち個人墓を作った。大方は村の共同墓地に葬られた。そこを仏方(ホトケッポ)とかなり地名として残っている。
だから明治以降家族という言葉が生まれた時、家族は今までのものと違ったものなのである。血縁だけの狭い範囲のものとなったのである。家は一族郎党のことでありその範囲は血縁に限らないのである。家の子というとき家に所属する人であり血縁者ではない、だから一つの家の墓がありその前に墓標とかだけの小さな墓がいくつもあるのを見かける。ただ土を盛っただけの墓とかある。それはその家で働いた人たちでありそれでもその家の人として埋められたともなる。

●ファミリーの意味

英語のファミリーの語源はラテン語のファミリアである
このファミリアは畑、家屋、金、奴隷、であり財産のことである。
ローマ人の場合にはそれは当初決して夫婦とその子供を刺すのではなく奴隷だけを指すfamulusは家内奴隷のことでありfamiliaは一人の男に属する奴隷の総体のことである

ファミリーは財産とのその維持管理があって生きていけることをファミリーの語源は示している。一般に財産の維持管理を継続的計画的に行う組織が経営であるがファミリーにも声援の生活保障のためのファミリアの経営が必要である

ここで奴隷がファミリーの一員になっている。つまり奴隷は家で働くものでそれでファミリーの一員になり手厚く主人の家族のようにも扱われたという事実もある。そこが誤解している面がある


柳田国男に言わせるとファミリーはそれ自身労働組織であり親子という言い方ももともと血縁関係を意味するよりは労働の組織であったオヤコのコは家の子、ミヤツコ(造)などのコであり労働者を意味していた

最初の国が国造(クニノミヤツコ)としたのはそれとにている。一つの家に働く人たちでありそれが国の始めだったなるからである。
相馬藩は相馬氏から作られた、御家の旗が野馬追に出る時、御家とは相馬氏の一族だけでない広範囲な共同体があり形成されたものであり範囲が広いのである。
御家とは一つの会社でありそこで共同で働くということで連帯感を持った。人間はやはり共に働くということで連帯感をもつのである。だから村は一つの家族ともなる。取り上げ親、乳付け親、名付け親元服の際の烏帽子親とかあい村の子供は村のファミリーの一員になるからである。
家族とは子供を夫婦で育てるという本能としてある。でも人間の場合そういう動物的なものから血縁的なものからだけではない広範囲なものとしてそれが社会になったのである。

そうして家族でも社会によって規定される社会の変化によって家族の形態も変わる
江戸時代の家族と明治以降の家族は違っているさらに戦後の家族は会社中心の社会になったとき核家族と言われかえってファミリアと言われた大きな共同体が失われたのである
それでそのことからいろいろとまた問題が生まれたのである昨今の介護の問題でも大きな家族ファミリアがあれば助け合う人は広範囲にいるともなる今は家族というだけの狭い範囲で介護とかでも押し付けられるのであるそこで数々の悲劇が起きてくるのである

また孤独死の問題でも人間は拠り所とするファミリアが無くなったことにも原因しているだから家族といっても時代によって変わり今や核家族という時それはもうともにともに支え合うという余裕がなくなっている個々バラバラになってしまった社会にもなったのである。ファミリアというとき親しいという意味もある
つまり人間が親しい関係を作れるのは狭い範囲なのである
グローバル化して物が外国から入って来ても親しい関係にはなれない、グローバル経済は人間を経済からしか見ない、だから人間も外国人を労働力として入れるとしてもあくまでも奴隷的労働力としてしか見ない,情のない一時的雇用関係となってしまう、ファミリーを形成することはないのである。

要するにファミリアな親しい関係を築くのにはとてもグローバルには築けない、封建時代という時何か遅れた社会とも見るがそこで形成されたのは人間と人間の強い絆であり結びつきである
それは常に顔と顔を突き合わせる狭い範囲での親密な交わりがあったからこそあり得たのであるグローバル化してもそうした親密な人間関係は作れないものと物のやり取りでありそこで人間の心で結びつくということは無いだからその関係も1時的で壊れやすいのである人間も今やものとして扱われ経済的一単位として扱われそこにやり取りされるのは金だけだとなる

●失われたファミリーとしての共同体

それでも高度成長時代は終身雇用とか会社が一つの村のようになり福祉もになっていたそれは高度成長時代だからできたのであるでも今度は会社でも終身雇用などできないすると会社員もジョブ型雇用になりその時々の会社の方針で一時的にその才能を利用するだけだとなる
とても全人間として扱うことはできなくなったのであるいずれにしろ人間をにはファミリーが必要であるでもそのファミリーが明治以降家族になった時そこにかつての村とかの大きな範囲のファミリーは喪失したのである
家族を考えるときそれと同時に社会も考えるなぜなら明治以降は封建社会でなくなりその代わりとして天皇を親として国民を赤子として新しい国家体制を作ったからである

言えることは家族とは意外と脆弱なものであり維持すること継承することでも難しいのである
でもファミリーとなる時それは家族を超えた血縁でも超えた大きなものでありだからこそそこでは単に経済的単位というのではなく人間としての深い結びつきが育ったのである
家族遺棄社会という時家族だけではもう介護でもできない金がないということもあるが人でもないということがあり限界になる
そして家族を捨てるともなる家族という単位は実際は少ないためにも手が回らないとなっている。
とにかく人間社会というのは何かを得れば何かを失っているだから封建時代など前近代的であり遅れたものでありとかなるそれはヨーロッパでも奴隷がいて遅れていたとかなるでもその時代に時代でやはりそこには現代が社会が失ったものはあったということである
そういうことで人間は歴史を学ぶ必要がある今なくなったものが過去にあり過去にないものが今にあるそういう比較をして今を知るのである

長塚節の「土」の勘次一家の美しい家族愛が示すように貧農のファミリーでは成員のすべてが愛よりあい助け合ってお互いの肌をお互いの肌でぬくめあって生きていた
貧農のファミリーには家族の絶対専制はなく権威は一つの温かな人情的情緒的雰囲気の中にありだからそれは同時に共同体的意識を伴っている(日本社会の家族的構成(日本評論新社括弧)

つまり人間というのは奴隷であれ身近に一緒に暮らしていれば自ずとファミリー親しさを感じてくる
だからこそいくら奴隷でも家族のように扱われたという事例がある。今ではそういうことはありえないただ小さな会社だと社長が親とかなり社員がもう家族のようになるそれは狭い範囲で一緒に働いているから自ずとそうなったのである
そもそも働くことは端(はた)を楽にしたいということが働く動機となっているそれは身近に苦労して働くことを見ていたからである

でもグローバル社会になればその働く人は全く見えないのであるそれでバナナを取るにしても暑いところで汗をかき楽ではないと報告があった
でもそれを買って食べる人はそんなことを全然思わないのである思いようがないのである。外国で働いている人のことなど見えないからであるだからグローバル経済というのは非情なものになるのである。経済の原理だけが働き人間的なものは無視されるのであるただ旧来のファミリーとかがすべていいものとして見ることはできないでもそれをすべて悪いものとして否定もできないのである社会は時代は常に変化している
それと共に家族も変化してきたのであるだからファミリー的なものが共同体が再び新しく構成されることを望むのである
でも疑似共同体とかまた生まれてからそれがカルト教団でありそこを拠り所にどころとする他ないのもやはりファミリーとか何かよりどころとなる共同体の喪失がそうさせているのである

家族の文化構造―川本彰

この本を参考にした


サグラダ・ファミリア(カタルーニャ語: Sagrada Família)は、スペインのバルセロナにあるカトリック教会のバシリカである。聖家族贖罪教会(カタルーニャ語: Temple Expiatori de la Sagrada Família)という正式名称を持つ。日本語では聖家族教会と呼ばれることも多い。

このファミリアは訳すと家族になるがその訳からイメージすると違ったものになる。その家族は小さな親兄弟とかの範囲である
でもこのファミリアは相当に広い範囲のことを人間共同体を示している性家族協会ということは聖家族教会ということはキリスト教の信徒団体のことだからである
だから訳すと常に何か誤解があるそれは日本語で表すとそのから離れたものとなるからである
そこに言葉で表せないものがある

2023年05月24日

家の修復が依然として続く (水漏れしたの樋をまっすぐに下にしなかったから)


家の修復が依然として続く

(水漏れしたの樋をまっすぐに下にしなかったから)

houserepair.jpg

樋を真っすぐ下に作れば水漏れはなかった、樋を曲げて迂回したため管に落葉がたまてつまった
それで水があふれて家の下に落ちてきたとなる



家の問題は家そのもの物体としての家がある。建築物としての家がある。なぜ玄関の入り口が水漏れしたのか?
それは樋の配管に問題があった、本来はまっすぐに下に水を流す配管をするべきだったのが建物の構造でしにくくなり遠回りの配管になりそれでつまりながれなくなり逆流した
水がそこであふれて下に落ちてきた。
それを説明されたのでそうなのかとも納得した、でもそこは見ていないので明確にはわからない、そこは入りにくい場所だからである。

前の大工さんは見て水漏れた原因がわかったと言ったがそれを説明していない、でも金は払ったのである
ここで問題なのはなぜそうなったのかそしてなぜ直ったのかの説明が必要だったのである。
家というのは素人でもなんとかわかる理解できることがあるからである。
ただまだ完全にわかったはならない、落葉がたまってながれにくくなりあふれたとしてそれがどういうふうにもれたのかわからない、それはそこ見れないからである。危険な場所でもあるからだ

ともかく家との格闘はつづいているし整理も終わらない、本の整理がどうしてもできないのである。簡単に捨てられないからである。
なぜ樋で失敗したのかというと水の流れに逆らう配管をしたからだともなる。下にまっすぐに流すべきところを流す管を迂回させてめんどうな場所に配管したからである。
それが失敗だったのである。それが今になって問題が起きたとなる。でも築50年となるとなんらか家が傷み修理が必要になる
ここはなにかめんどうな場所だったのである
前は樋から水がもれても流れ出しても簡単に直した、そこは見える場所であり樋を曲げたら直ったからである
家の修復でも終活でも簡単に終わらない、人生も依然として終わらないのと同じである

ただそれぞれの家が確かに郷土の歴史を語っている、私のいえもそうである。二回も水害に合い一回目は二階がないので逃げる場所がなく二階の家を建てることが悲願になっていたからである。それで二階の家を早い時期に建てて親が自慢していたのである
今でもここは街でも一番低い場所であり下水の水があふれ二年前とかでも水が家の中に入って被害があったのである
でも父親が苦労して土地を買いそのあとに建てられた家なのである。だから家には一代だけでは何代かの人間の思いが歴史があるものだとなる。
ただ正直家でも負担になってしまう、大きいと掃除するだけで負担になる。一人だと余計にそうもなる。
この家でも築50年で傷んできたのである、でも住み続けるほかないのである。

2023年03月27日

茅葺屋根の家は冬はあたたかく夏は涼しい (コンクリートの家の問題ー自然に反するものの問題)


茅葺屋根の家は冬はあたたかく夏は涼しい

(コンクリートの家の問題ー自然に反するものの問題)

かやぶきのメリットはたくさんありますが、その中でも利点を実感しやすいのが「断熱性に優れている」ということ。多くの茅を使用するかやぶきの屋根は、分厚い空気の層ができるため、一般的な屋根に比べて外部からの熱を遮る能力が高いという特徴があります。そのため、冬は室内の温度を保って暖か。反対に、夏は屋根からくる太陽熱を遮って涼しいというメリットがあるのです。


人間は誤解が多い。茅葺屋根の家など旧式の住みにくい前時代的なものと見ていた。でもそうでもなかった。冬は暖かく夏は涼しい。雨漏りするかとみたらしない。私の家は子供の時はトタン屋根の家であり常に雨漏りしていたのである。
だから洗面器を並べていたのである、それは江戸時代でもあったことである。トタン屋根とか簡単な屋根だと雨漏りしていた。
茅葺屋根の家は意外といいものだったのである。実際に茅葺屋根に住んだ農家の人の話を聞くとわかる。
今になるとどうしても茅葺屋根の家はとても住みよい家だとは思えなかったのである。そこに昔に対して必ず誤解が生まれていたことがわかる。

もう茅葺屋根の家というのはほとんどない。だからそういう家があったとしてもその住み心地がわからなくなったのである。
私の家は前は店屋であり父親がコンクリートにしてそこに簡単な物を置くものを品物をおくものを用意してただ並べただけだった。そんな簡単なことで店を開くことが出来たのである。
そのコンクリートのは残っている。でも今になると冬になるとそのコンクリートが寒さをもたらしている。すきま風が入りコンクリートが寒くしているのである。

でも昔の農家の家の土間だと土だから夏は涼しく冬は暖かいのである。それは土の作用でそうなっているのである。
だからコンクリートの家になると熱がこもったり夏は暑く涼しくならないということがある。木は湿気を帯び乾いたりしてあたかも木が呼吸しているようになっている。コンクリートではそういうことはない。
それで気密性が高いからエアコンなどで調節するのには向いている。でもそれは自然の作用ではないのである。そこにコンクリートの問題がある。
都会だとコンクリートジャングルになっている。それが相当に影響して夏は異常に熱くなっている。エアコンで調節するにしてもエアコン自体が熱を出して熱くしているのである。

ここでわかることは人間の技術とか文明には必ず自然に反するものはある。自然に逆らうものが人間の技術であり文明なのである。
だから必ずその反作用があり問題が起きる。
自然の中に生きるものは動物でもそれは自然に適合して生きている。でも人間は文明はそもそも自然に逆らうものとして作られたのである。だからその反作用として必ず環境汚染したりして問題が起きるのである。原発事故でもそうだった。それは人間の力では操作し得ないものでもあったからである
そして原発事故以後自然再生エネルギーとしてソーラーパネルとか風力発電を増やしたがそれも実際は自然に適合したものではないのである。ソーラーパネルは山をおおってしまった。そこには木もなくなり雨が降って貯水能力もなくなり洪水になりやすくなったともなる。
つまり人間の作り出すものは文明は必ず自然を破壊し反作用があり自然を汚染して問題が起きるのである。

茅という自然素材を大量に使うため、かやぶき屋根はこまめなメンテナンスが欠かせません。江戸時代は、このメンテナンスを村に住む人たちが持ち回りで担当していました。しかし、明治時代以降はコミュニティの変化により、次第にこうした習慣がなくなり、メンテナンスができなくなってしまった

この指摘も興味深い。茅葺の屋根の家は村の人たちが総出で集まり協力して作られたものである。そこに村という共同体があっ茅葺の家を作られていたのである。そこにも大きな意味があったのである。
材料でも外材になっている。家を建てるにしてもハウス会社がまるでプラモデルのように二週間くらいでたててしまうのである。そこには地元の人も大工さんも関わらないということがある。
だからなぜか最近普請しても建前があり餅ををばらまいたり小銭をばらまいたりもしないのである。
そういう風習も消失したのである。つまり家は個人的なものであり周りの人でも隣近所でもかかわらないともなったのである。

だから茅葺の屋根というのは後のメンテナンスも必要であり常にそこに村の共同体がないと維持できないものだったのである。そういう共同体が崩壊してきた歴史が明治以降の歴史でもあったのである。それがさらに戦前から戦後でも全く変わったものとなってしまったのである。
だから原発事故でも簡単に町や村が破壊されてバラバラになり回復しない復興しないともなった。それは放射線の被害もあるがコミュニティーが共同体がすでに失われていたということもあった。それでこんな簡単に江戸時代からさらにその前からも続いていた継続されていた村や町が簡単に崩壊してしまったのかとも見た。

いずれにしろ家というのは物理的なものとして地震によって全体がゆがんでしまった。これはなかなか修復することが難しい
基礎から作り直すことができないからである。
耐震設計のにするために市の方でで資金援助するはというが全体が歪んでしまったので修復することは難しいと見た。もう50年もすぎると新しい家にした方がいいとなってしまう。
他でも50年過ぎた家はかなり傷んでいる。病気で入院した人の家も庭も荒れている。その家を孫に譲ると決めているがその孫がその家に住むとも思えない。古くなっているから問題が起きるからである。こうして空き家が多くなっているが活かすことも難しいのである。直すにしてもかえって金がかかってしまうからである。
リフォームは返って金がかかることがある。
私の家も継ぎ足したり修復したりもうかなりのお金がかかっている。だからこれ以上金をかけて直したくないとはなる。
でも年をとると古い家は断熱もないし冬は寒い、耐震設計もしていないから怖いともなる。
でも古くてももう死ぬまでこの家に住み続けるほかないと思っている。

2023年03月18日

発達障害とは何か-50歳でも大きな子供で大人になれない (親が死ぬと兄弟間で険悪になり殺人にもなる)


発達障害とは何か-50歳でも大きな子供で大人になれない

(親が死ぬと兄弟間で険悪になり殺人にもなる)

発達障害とは何か。それがよくわからなかった。
でも何回か付き合ってみて何かを知った。いろいろ症状があるにしてもその人の場合何が異常なのかわかった
その異常性は母親に対するものだった。母親には一番世話になり苦労をかけていてもその意識がないのである。
母親に対してばばだとか何か尊敬の気持ちもないのである。それが子供なら分かるがすでに53歳なのである。
その年ならみんな親にもなっているから親の気持ちもわかっている。でも発達障害の人はそれがわからない。
要するに本当に発達が普通にできなかった人なのである。子供のにままに大きなおとなになってしまった人なのである。
だから親に対して何か感謝するとかの世話になったという気持ちがないのである。そこが一番変だと見た。
年は50歳でも依然としてその点から見れば子供なのである、大きな子供なのである。

そして家でしていることはゲームなのである。たいがいゲームをしているのである。
ただ何か普通に話が出来るからどこがおかしいかわからないのである。でも私は親に対する態度がまともではないと感じた。
50歳にもなれば親に対しての感謝の気持ちとか生まれる。それは自ら親になったりして親の気持ちを理解するようになるからである。またいろいろと社会で経験して苦労するから親の気持ちも分かってくる。
発達障害の人はそれがわからない。子供のままに未熟なものに大人となったのである。
それだけ親に迷惑をかけて世話されてもそのことに対してなんら思うこともない。感謝もないのである。
それはまさに子供のままにただ年を取って大人になったということである。

ただ親でも子供から虐待されたり最悪は殺されたりもしている。だから発達障害の人がだけがそういう方になったとは考えられない。
だからこそ親孝行したい時は親はいないとなっていたのである。それは親が早く死ぬ時のことである。長生きの時代は親は必ず生きていて子供は介護を強いられる。親は必ず生きていて子供は孝行しなければならない時代なのである
それは時代の変化でそうなったのである。
ただ今私が感じているのは兄弟がいたとして弟とは折り合いが悪い。というよりは険悪であれ危険な状態にもなっている。
今はなんとか母親が生きていて収まっているが死んだら危険な状態になっているなる。親は今弟の方に脳梗塞になり世話になっている。だから弟に対して強く言うことができないのである。
でも障害者の人を兄弟であっても殺したという事件があった。

家族以外の関わりが難しい障害者とその家族をどう支援するかは、同居の親が障害者を残して亡くなる「親なき後」を見据えた場合にも大きな課題となる。

 知的障害がある人の中には、人見知りが激しかったり、家族以外に体を触られるとパニックになったりするケースもある。
知的障害の弟を支えた末に「弟の命をたちました、これから後をおいます」…自殺した兄を書類送検

 両親が他界、知的障害の弟は私が一生面倒を見なければならないのか?

知的障害を持つ74歳の兄を70歳の弟が殴打し、その後、遺体で見つかった富山県上市町での事件。その弟も精神科の受診を続けていて、裁判官は「社会の中で更生する機会を与える」として猶予付き判決を言い渡しました。
70代兄弟の2人暮らし…知的障害の74歳兄への暴行事件で判決

家族に障害者をもつと家族が悲劇的に崩壊する。それは普通の親の介護でも家族が崩壊するということがある。それを自分自身で経験したので書いてきた。
私が接した障がい者を持ったた家族でもそうである。発達障害ではあるがやはり手を焼き苦労している。
この事件では別に兄弟でも情があり世話していたがたが限界が来て殺人にもなった。そういう事件は多い。障害者をもつ親を介護するその負担が大きすぎるのである。
50過ぎてもまだ子供であり親は世話をし続けねばならない。
子供は親に対して依然として子供であり何か感謝するとか助けるという意識が薄い。
そして親が死んだとき大きな問題が生まれる。それは共通しているようだ。ニートとか引きこもりでも親が死ぬと大問題になる。

それで自分は引きこもりのような状態で60歳まで生きてきた。だから死んだとき介護になった時大変なことになったのである。誰も助ける人もなく介護して葬儀でも一人でみんなしなければならなくなったからである。
ただ私の場合は特別世話になったということで感謝していて懸命に介護して親を見送ったとなる
死んでからも感謝しているから供養続けているのである。
でも障害者の人はそうした親に対する感謝も希薄なのである
大人になっても親に依存する子供なのである。何か感謝の気持ちも希薄なのである。だからそこが異常なのかとも見た。
でも親が死ぬと相当に厳しいことになる。兄弟がいたとしても親とは違う。私が接した兄弟では情がない兄弟としての情がない。だから親が死んだらどうなるのかということである
それは殺人にもなる危険を感じた。今でも直接会うことをひどく嫌っているからである。ただそうした自分の立場も理解できない
そうなると親は死んだら困るから施設に入るのがいいともなる誰も面倒を見る人がいなくなるからである。それは私が接しした障害者の家族だけではない。共通した悩みとして障害者家族は持っている。だからいかに知的障害者をもつということが家族を家族に負担がかかるか理解したのである。

2023年03月17日

親の遺産を跡継ぐのが60過ぎては遅かった (高齢化社会は老人が金と権力を持ち社会が停滞する)


親の遺産を跡継ぐのが60過ぎては遅かった

(高齢化社会は老人が金と権力を持ち社会が停滞する)

親が死んであとに残された子供は後を後を継ぐことは結構楽なものでわなかった。家も古くなったのでそれを修繕することが苦労だった。
また家事をすることも大変だった。介護になり親二人のして苦労した。それまでは親が何でもしてくれた。親が死んでから家のことを一切するようになりそれが意外と苦労するものだった。
だから自分の場合実際は家を継ぐことが遅すぎたのである。
60過ぎて親の介護になり10年くらい続いた。それで家のことがよく解らなかったのである。
例えば重大な問題としてどのくらい財産があるのかもわからなかった。遺産相続をしたのだがその額が明確に分からなかったのである。なぜなら生きている時でも親の貯金とか金融資産がどのくらいあるかわからないのである。
それで親が何かの保険に入っていた。その保険が満期になり死んでからだいぶ経ってからその書類が送られてきた。
その保険を見た時かなり前のもので相当な利子がついていたのである。それは高度成長時代があり保険で利子がついて高くなっていたのである。
意外とこうして親の財産を把握することは難しい。

親が生きている時そういうことをしにくいからである。親も教えないからである。それも親にとってはそうした方がいいからである。なぜなら今病気になって娘の世話になっている人は娘にすべて金を預けたのである。そのことで問題が起きた。
自分の金でも自分の自由にできなくなったのである。それで世話になっている貧乏な女性に金をやるにしてもできない。
それでその女性はいろいろ話したり世話もしたが自分自身が金に困っているのでその男性とは付き合わないようになった。
それは自分自身が脳梗塞とか病気のためである。だから金を子供に預けてしまうと困ることがある。
人間はやはり金とか権力を持つとき人はそれに従うのである。
それだけではないにしろ金であれ地位であれ人は権力を持てばそれに従うのである。
そして権力を持たないと金でも自由に使えないと自分のしたいこともできないのである。
そこに大きな問題がある。それが高齢化社会の問題でもありまた

つまりこれだけ老人多くなれば長生きしていると後を継ぐにしても遺産を相続するにしても60過ぎになってしまうのである。すると後を継ぐにしても遅すぎるのである。もし私でも早い時期に家を遺産でも受け継いでいたら自分のしたいことができたとなる。
それは家でも会社でもどこでもそうである。人間は実際に金でも権力でも持って自分で経験しない限りわからないからである。
若いから経験がないからどうして何もやらせなかったら結果的にその人は何も身につかないしできないのである。
60歳になって遺産相続して後を継いだとしても遅すぎるのである。ただ人間の習性として金でも権力でも手放すと子供でも他人でも相手にしないということがある。だから老人にとって金でも権力で地位でも手放すと誰も相手にしないということにもなる。それも問題なのである。

明治時代は明治維新は20代の人がそれを成した。その激動の時代を乗り越えるには若さは必要だったからである。切りあいもしたし激しい戦いでもあったからとてもそれは若い人でないとやれないものだったからである。老人ではとてもやれないものだったのである。戦争だって老人にはとてもできない体がついていけない
だから激動の時代になれば老人はついていけない。ただ平和な時代だったらその経験を活かすことはできる。でも実業とか何か厳しい激しい体力も知力も必要とすることはできなくなる。

現代の問題は高齢化社会でありその高齢者が多すぎて社会が停滞してできないということがある進歩できないということがある。後継ぐにしても60過ぎてはもうその人も老人なのである。そうなると遺産を相続しても権力をもっても何か革新的なことができない。老人はどうしても保守的になるのである。その相続した遺産にしてもただ守るというだけで何か事業起こして社会のためになるということもしにくいのである。

あと何年生きるのだとか何か未来のためにするということができなくなる。それで庭に花の木を植えようとしたがそれが10年かかってやっと実りとなり花が咲くとなりその咲くのを見るのが10年後になるとなると植える気にもならないのである
今花が咲いているのを見たい実がなっているのを見たいとなってしまうのであある
だからこの辺の津波や原発事故の復興するにしても老人になるとむいていない。その先が長く時間がかかるからである。老人の先は短いそしてまた体力知力も驚は衰える
老人はこれまで生きたことでその経験がありその成果と実りを示すことなのである。これから経験して成果と実りを得ることではないのである。

だから老人には復興は向いていないのである。。でも若い人は流出して老人だけが避難区域に残されたのである。そのために復興が難しくなったのである。
戦後戦争に負けて焼け野原になってもなぜ復興できたのか
団塊の世代などまともに食べるものもなくても大量の子供が生まれて活気があったのである。その時子供に食べさせたのはアメリカからもらった脱脂粉乳などであった子供の時それを飲んだがまずくて吐いたことを覚えている。
そんな風に貧乏でもなぜあんなに子供が多かったのかとなる
今は確かに貧乏になっているがあの時の貧乏と比べれば比べようがないのである。実際何もなかったのである水道も天気も電気もガスもない。家にあったのは飯台一つだけだった

それはみんな同じだったのである。みんな食べるものさえなかったのである。それで豊かだったのは家に食べるものがあった農家だったのである。農家でわ納豆まで作り油も作っていたのである。栢の実とかで油も作っていたのである。
燃料は炭だから近くの山で木か炭をを作っていたのである。外国から入ってくるものはなかったのである。
そんな貧乏でも子供が多くその遊ぶ声がいたるところで聞かれたのである。今子供を見かけない。遊んでいる子供を見かけない。
ただ幼稚園とかで見かけるだけなのである
いずれにしろそもそもあらゆるところでああ跡継ぎさえいなくなっているのである。中小企業であれ町の自転車屋であれ一軒しかなかったがそれも死んで自転車屋もない街となってしまったのである。それは全国的にあらゆるところでこれから起きてくることである。

そして老人ばかりが増えてくるのである。その後を継ぐにしても60過ぎになったら若い何か新しいことをすることが難しくなる
それももし百歳まで寿命が延びたらどうなるのか。そのあとを継ぐのは70にもなってしまうのである。それも絵空事ではなく百歳まで生きるとしたらそれはあり得ることなのである。
だから少子高齢化社会というのは大きな問題であり社会が停滞してもう未来の年表で言うように国を守ることすらできなくなる
自衛隊に入る人もいなくなり消防や警官とか安全を守る人もいなくなる。なぜならそういう仕事は若い人がするものだからであるだから自衛隊でも入る人がなく60歳の人が国を守るとかになる。それも冗談ではなく未来の年表は現実化してくるのであるともかく後を継ぐ家を維持することは結構難しいものだった。

でも早い時期にしていれば経験も積むし自分のしたいことが出来たのである。やはりどうしても親とかが老人が金と権力をもっていることは若い人は何かしたいと思ってもできないのである
私は別に親に恵まれてしたいことをさせてくれたからそれで恨むことはない。それでもやはりもっと早く家を継ぐとか遺産をもらうとか金を持ち権力をを持てば自分のしたいようにできたとなる
これは私個人の問題だけではなく国全体の社会全体の問題なのである。どうしても高齢化社会は保守的になり停滞してしまうのである。

2023年03月15日

人間の性格の謎 (A型の大工さんと仕事してわかったことー日本人は40%がA型だった)


人間の性格の謎

(A型の大工さんと仕事してわかったことー日本人は40%がA型だった)

●陽と陰の性格
●長男長女次男次女一人っ子の性格
●血液型の性格

●陽と陰の性格

人間の性格は陽と陰に大別される。陽の人は社交的である人当たりが良く集団組織的に行動することが向いている。
それに比べて陰の性格の人は非社交的であり人付き合いが苦手である。そのために社会から社会にうまく適合できなくなる度合いが大きい。なぜなら社会とは反対にすれば会社のことになるからである。
今の社会は会社に就職することが生活することになる。とすると陰の性格の人は会社でもうまく行かない適合できないのである。
それは会社だけではない。そもそもが社会は常に集団行動を教えられる。それはすでに幼児からそうである。
幼稚園からでもそうであり学校でもそうである。第一学校は集団組織に適合するための訓練なのである。
そこからして陰の性格の人は実は合わないのである。私の場合は小学校はそういうことはなかった。中学になってから学校に適合できなくなった。高校でもそうだった。

そのために勉強もできず成績も悪かった。組織的集団的に画一化された教育が合わなかったのである。まあ才能もなかったが何か自主的に自分なりのペースで時間でやれば身につくものがあったと振り返る。
どうも陰のの性格の人はみんなと一緒にやるのがうまくいかないのである。でも社会は大多数は陽の性格の性格の人が作っている。だから陽の性格の人たちにとっては生きやすいのである。
陰の性格の人は性格の人は生きにくいのである。それでそういう人は引きこもりになっているのかもしれない。まあその原因はわからないにしろ集団に組織的に適応できないとそうなりやすい。
社会は陽気な性格の人に合わせて集団組織がしたかしているからである
それで陰の性格の人は生きにくいのである。そういう人は内面的なこと哲学宗教または芸術とか内面的なものを追求するのに向いている。そういうところで独自性と独創性を発揮するようにもなる。
でも社会全般は集団的組織的に形成されているからそういう人は変わり者になってしまう。
ただ一概に分類はできない。ただでも大雑把に見ると確かに陽の人と陰の人にまず二分できる。

●長男長女次男次女一人っ子の性格

それから人間を形成するものに兄弟姉妹が関係する。長男長女は次男次女がいていて何人か兄弟がいて姉妹がいてすい子がいてそれぞれの性格が形成されていることは確かである。
だからここにも性格が如実に反映されている。これはわかりやすいのである。この人はなんかおおらかでのんびりしているなと見ると長男長女が多いのである。
何かすばしこいずるいとか機転が利くとかは次男とか地上に次女二多いとなる。それは兄弟の中で長男長女は親から何でも与えられるがその下は与えられないから自ら取りに行かればならない
それでのんびりしていないのである。自ら取りに行かないと食べるものも得られないことがあるからなのだ。
長男長女はまず親から与えられるからそういう方にならない。
のんびりした大らかな性格になるのである。その中でも一人っ子特殊なのである。
一人しかいないのだから兄弟間の争いもない、でも親からなんでも与えられるのである。だから長男長女は競争するのが嫌いなのである。それより兄弟間で争うということがないから競争もできないのである。そのために結婚していない一人っ子が多いというのも分かる。兄弟もいないし姉妹もいないから女性でも親しか知らないから女性と上手く付き合えないのである。
そこに一人っ子は異常なものともなる。
こうして兄弟姉妹の中で人間の性格も作られることは確かである。この二つは分かりやすいし理解しやすい。確かにそういう性格の人がいるからである。

●血液型から見る性格

わかりにくいのは血液型から見る性格である。
これは明確に判定できないからである。でも明らかに血液型による性格があるがある。だからこれは不思議になる。
なぜ血液型の違いでそうなるのか科学的にもわからないからである。でもこれは明確に分けられない。曖昧になる。でも確かにある。
意外なのはa型は日本人で四割もいるということは日本人の性格はA型は主流だということになる。ということはA型の人を知ることが日本人を知ること知ることだともなる。
私はB型である。そこでA型の大工さんと家の仕事を一緒にしてわかった。その大工さんはA型なのである


集中力バツグンのA型。

仕事も趣味もとにかく集中的に取り組み、極めるプロフェッショナルタイプです。

その性格は几帳面そのもの。
とにかく几帳面で細かいことでも集中する長所の持ち主です。
しかし、自分への厳しさが他人にむくことが多々あります。

自分にも厳しいのですが、他人のことも気になってしまう細かさがたまにキズになってしまうんです。

「注意が細かい」「小言が多い」「そんなこと言わなくてもいいじゃん」と思われて、鬱陶しがられる上司になりがちなのもA型の人に多いですね。

きちんとしていないと気が済まない、几帳面なA型さんなんです。

真面目で中途半端が嫌いなので、手を抜くことができません。
非常に良いことなのですが、全てに全力投球しすぎてしまい、キャパシティを超えてしまうこともありそうなのがA型です。
自分の能力を過信することはないのですが、手を抜いていいところでも抜くことができないので、心身ともにいっぱいいっぱいになることが多いようです。

A型の性格の特徴はコレ!24個のあ...(続き2)


そのA型の大工さんの助手のようなことをしてつくづくそのことを感じた。とにかく几帳面でありゴミ一つでも落ちていたら厳しく指摘して掃除を命令する。
潔癖性がありそうして汚れていることを許さないのである。
そのことで随時指示されてそれを守らないと厳しく言うのである。ただリフォームの仕事でそうするのは仕事だからきちんとしなければならないからそうなったとも見る。
A型の人はこうした掃除することや整理整頓することに向いている。なぜならゴミ一つでも落ちていたらそれが気になってそのままにしておけないからである。
そしてそのことで厳しくいちいち指示するのである。

それは私がB型であり何か雑であり整理整頓ができていないそれでその反対の性格の人で特に感じたのかもしれない。
だからA型の人はこうして整理整頓とか掃除とか大工仕事でもきちんと計っていろいろ作ってゆく。その仕事に向いているのと向いていたのかと見る。
何か私はルーズでありだらしがない。 A型とは正反対なのである。あまりそうした細かいいことに拘らないのである。
おおざっぱな性格なのである性格なのである。だからA型の人とは相性が悪いことに気づいた。でも一緒に仕事をして学ぶことがあった。別に血液型に関係なく仕事を手伝えば何か学ぶことが必ずある。大工仕事でも職人の仕事でもそれができる人について見ていれば必ず何か学ぶことができる
だから職人が親方が何も教えなくてもその仕事を見ていればその技を盗むことができるということがわかる。
血液型から見ればA型とB型は相性が悪い、B型とO型は相性がいいことが直接O型の女性と付き合いわかった。

ともかく今は多くの人の仕事が理解できない。あまりに多様化してできない。ただ大工ならそれは奈良時代からもある職業である。それでその仕事はある程度は見ていれば理解できる。現在の仕事は理解できないものが多い。原発の放射線の仕事など分かりにくいし理解できないのである。そういう仕事もまた多すぎるのである。
人間というのは性格にしろ相手を理解することが難しい。そこでなかな人間関係が上手くいかず争いにもなる。だから私は人間嫌いであり人間と付き合わず引きこもりになり自然を相手にして木や石とか一体化してアイデンティティかすることをしてきたのである

そこには人間はいなかったのである。そのためにまた偏ったものとなってしまったのである。人間社会に生きる限り社会を知り人間を知ることも必要だったのである。それが失敗だったのである。そのために親の介護で死ぬほどの苦しみをしたのである。
でも人生は必ずこうして何か足りないものがあり失敗するのである。あらゆることを経験もできないし知ることもできないからである。そしてその人に合った性格に合った仕事など与えられないからである。そのために引きこもりが60万とかの数になるのも理解できるのである。それもわがままと言えばそうなのだがやはり性格的なものがあり適合できないということがある。。
その大工さんでも流れ作業のようなことを2週に2日ぐらいしていたが辞めた。やはり大工とは違って機械のようにロボットのようにされるということでやめたらしい。歳のせいもあるようだ

とにかくなんとか台所のリフォームも終わった。
風呂どうかトイレとかキッチンは毎日使うものだから直さざるを得ないのである。それでどうしても大工さんがある程度定期的に見てもらうことも必要なのである。
私の家は50年過ぎてもう限界になっていたのである。二回も大きな地震が来て歪んでしまっていたのである。もし柱でも曲がったらもう住んでいられなかった。その点まだ進むことができるので助かったのである。
結果的には50万かかった。でもキッチンは11万で安かった。その他の大工さんの手間が大変だったのである。だからあとは手間賃だったのである。その苦労を見ていたから実感していたし仕方ないと思ったのである



2023年03月14日

土地の大工さんに頼むリホームと外部の会社に頼むことの相違 (広域化グローバル化で時間軸で作られた継続するものが失われた)


土地の大工さんに頼むリホームと外部の会社に頼むことの相違

(広域化グローバル化で時間軸で作られた継続するものが失われた)



家を直すにしても家を作るにしてもリフォームするのにもユニットバスは仙台市の最近できた会社の人が100万で作った。
それは安いものだった。それからトイレはやはり郡山市の方から来た会社の人だった。震災の時は瓦屋根を直したのはいわき市の会社の人だった。
今回一部の部屋とキッチンを直したのは地元の大工だった。その人は会社の人ではない一人で仕事を請け負い仕事してる人である
ただリフォームというのは面倒なものだと思った。一からやり直すより古いもの残すのは回転面倒なのである。
そしてリフォームは何か密なコミュニケーションが必要になる
そのリフォームする大工であれ人とコミュニケーションは必要なのである。
それで思ったようなものが作られないという苦情が多いのもそのためである。。

そして現代では仕事が広域化している。だからこそいわき市の人が来たり郡山市の人が来たり仙台市の人が来たりとなったのである。
でもそうして広域化して家を部分的に直す。でも何か家全体を見ることも必要である。それがなかなか出来ない。人間にはそんな全体を見る能力はない。でも家にしても全体を見るということが必要なのである。
それは人間の体でも同じである。人間の体を部分として見て治療する。でも人間の体は互いに通じ合うものであり部品としてだけ見ることは問題が起きる
でもどうしても人間の仕事は専門家する。それがあまりにも複雑な社会となり無数の専門家が生まれ互いにその専門家同士でも互いに理解できないものになる。

そこに現代の大きな問題が潜んでいる。原発でも全体を分かる人はいなかった。
吉田所長すら復水器のことすらわからなかった。それは重要なものでも私の専門外だということで分からなかったのである。
社長でも今や全部を知ってる人はいないそれだけ複雑でありひとりの人間が知り得るものは一部分に過ぎないのである
だからその大工さんは庭作りすらできる壁塗りもできる才能ある人であったが水道のことがわからなかった。それでキッチンを入れるとき合わせることができず焦ったのである。

リフォームはとても一人ではできるものではない。建売住宅のように組み立てるプラモデルのように組み立てるものではないからである。
そこには細かい技が必要になっていた。古いものに合わせて作るとかなかなか難しいものであった。だから密なコミュニケーションが必要になった

そして大工さんの仕事でも前は地元の木材で家を作っていた。外材などを利用していないのである。するとまたたいがい地元の人の大工さんが家を作っていた
今のハウス会社などではない。ハウス会社になると地元はあまり関係ないのである。多少地元の大工さんに委託するようなことがあっても別に地元はそんなに関係しないのである。フランチャイズ店などもそうである。コンビニでもそうである。
こうして現代で広い地域かになりグローバル化して地域のつながりというのが希薄化したのである
でも地域の人に仕事をしてもらうということは例えばトイレを作ったユニットバスを作ったトイレを直した瓦屋根を直したとか地元の人と関係していない

そうして外部から来た人で仕事する人はどうしても一時的な関係になりやすい。でも地元の大工さんに頼むとその大工さんは近くに住んでいるから一時的ではなくなる。何度も家を直したりする。
何か家のかかりつけ医のようになったのである。それは近くに住んでいるからこそできたことである。だから一時的な関係ではなく継続的な関係にもなる。それはただ家のことだけでなくその他のことでも地域の中で生きてゆくことで関係してくる。同じ市内に住んでいることでもあり生活を共有するということがありそうなる。
原発事故では互いに危険でも共有するものであった。でもそのことでみんなが議論したりすることもなかったのである。今になるとやはり地域が危険になるということでみんなで一応議論すべきだったのである。
つまり地域で様々なことで問題を共有するということがある。でもそこでも対立はある。原発に賛成するか反対するかそこで地域内でも対立はする。

現実問題として原発事故以後では南相馬市でも補償金で対立したからである。
ともかく人間は空間軸と時間軸で生きている。時間軸とは継続することである。広域化グローバル化は空間の拡大である。でも継続するというときは時間軸で継続するのである。
先祖代々の地というときそれは継続してきた時間を言っているのである。そして日本だと空間軸と時間軸は狭い国土と地域で村単位で一体化した
先祖が春になると山を下りて田植えを見に来るというのはそのことである。
先祖は山に眠るからである。村ではそうして空間軸と時間軸で一体化する。
でも空間軸が広い地域してさらにグローバル化するとき時間軸で形成された継続するものが失われたのである。
原発事故でも江戸時代からでもその前からでもあった村とかが消滅したからである。その時代々継続された時間軸のものが消失したのである

ただ現代は空間軸で拡大した。でも時間軸で継続されたものが失われた。人間の関係も空間軸では拡大したとしても代々続くとかの人間関係はない。ただ一時的な関係に過ぎない。先祖代々の繋がりとか時間軸で形成されるものは失われたのである。
仕事でもだから家にしても家の一部分として仕事してその後の関係はなくなるのである。でもその当地の地域の大工さんが変わる時関わるときそれは一時的なものではなく同じ空間と時間を共有する中に関わることになる。
それが遠くから来て一時的に部分的に関わるのとは違っているのである

現代はあまりにも空間的に拡大してしまった。その代わり時間的に継続するものが消失した。それが問題なのである。
人間はそれぞれの地域で風土の中で生きる。
でもその自然にしても地域地域に違ったものがありそれが一体化するアイデンティティするにわ時間がかかるのである。その時間の中で空間軸と一体化してアイデンティティ化して文化が生まれるのである。ただ空間的に拡大しただけでわ物の交換はあったとしても文化は生まれないのである。
だからグローバル化からは文化は生まれないのである。物の交換でありそこに精神的なもの文化は生まれないのである。

これからの時代はグローバル化による物質的豊かさよりその土地土地に根付いてたがやすカルチャーお育む時代になっている。
風の時代ではない。地の時代なのである。
そして家というのは老後には大事なものになる。なぜなら老人はあまり遠くにゆかず家に居ることが増えるからである。だから家の住みやすくして家に居る時間が長くなる。それでリフォームは必ず必要なのである。
もう50年もすぎたら老化してきていい時代に住めなくなっていたのである。
大きな地震も二回来て家が歪んでしまったのである。
それで大工さんもリフォームするのに苦心したのである。
ともともかくなんとかリフォームしてキッチンも直して快適に住めるようになった。
まあと何年生きるのかわからないがやはり住み心地良い家であれば助かるとなる

2023年02月15日

高齢化社会では老人の価値が問われる (多様な価値を追及する時代-組織集団的価値から個々人の価値へ)


高齢化社会では老人の価値が問われる

(多様な価値を追及する時代-組織集団的価値から個々人の価値へ)


老人が尊敬されないとか老人が邪魔者しかならない社会、それはどうしても老人の数が多すぎることなのである
つまり老人の数が今の十分の一とかなるとその老人が別に特別の能力がなくても社会で貴重なものになる
確かに老人の語ることは人生経験から語る、そこが若い人と違っていて価値がある。でもその経験に価値があっても社会にとって価値があるかとなるとわかりにくい、単なる自慢話しにもなり聞きたくないともなる
ただ老人は必ず語り部になる、過去に経験したことを語る、そこに価値がある、だから郷土史の基本が親でも祖父母でも聞いた話が基本にあると書いてきた

結局人間は誰でも自分が価値あるものだとみとめてもらいたいのである。別にそれは科学者とか学者とか特別の人ではない、あらゆる分野で庶民でもそうなのである
知っている大工さんだと自分の技を誇る、庭作りでも壁塗りでもできたからそれは他の人にはできないから誇り私の価値を認めてもらいたいと切実に要望しているのである

私の家でもそうだった、親が橲原の同級生のキコリが柱となる木を与えてくれて大黒柱のようにしたとか認知症にもなり本当に百回でも語りつづけたのである、だから聞く方も閉口したのである
また戦争のことでも延々と語りつづけた、なぜならシンガポールの向かい側のジョホールバルで従軍看護婦として四年間も勤めたからである。その苦しみは忘れられないから語りつづけた。
遂に入院して死ぬ直前までそのことを語っていたのである
それだけその戦場での経験が忘れられないから語りつづけた。
その戦いは日本のために戦ったのでありだから命がけで国のために戦ったのだからその価値を認めてもらいたいというのは理屈なしでわかる。戦争の是非はともかくとしてそれだけ苦しんで戦ったのだからそれは無視できないのである

老人の価値はこうして過去に何をしてきたのかで決められる。
戦争を経験した人は戦争のことは忘れることができない、だからそんなこと無駄だったということはなかなかできないのである
それはただの人殺しした犯罪に過ぎないと言えないのである
そう言われることはもう人生そのものを否定してその人間自体も価値なきものともされてしうまうからである
そして三百万人も死んでいるのだから余計にそれらが無駄死にだったなど言えないのである

老人の価値は今生きている価値ではない、過去に生きた価値なのである。歴史だと長い時間の中で色あせない価値がある
ただ戦争とかなるとその価値は国民的価値であり個々人の価値ではない、国家の価値だとなる、組織や集団でもその価値は個人の価値ではない、カルト教団でもそれは組織集団の価値であり個々人の価値ではない、でもその組織集団の価値も喪失することがある。カルト教団などはいくら数が多くても数だけで権力を誇示するものだから数が減ると価値も喪失する。でももともと宗教は創始者がいてその創始者の価値は持続するのである

要するに常に人間は価値が問われる、あなたにどんな価値があるのかと個々人でも問われる。もちろん会社でも何でもどういう価値があるのか問われる、障害者でも何の価値があって生きているのかとなる。何か世話ばかりされてごくつぶしであり生きる価値があるのかとして大量殺人にもなったのである
それは重度の精神障害者だからそうなったのである
軽かったら価値以前にしかたないとして生かされていたのである
それは自分でそうなりたくてなったわけでもない、生まれつきだともなるからである、その責任は誰にあるのかとしたら親にあるとしても全部は親でも負えないからみんなで負うとなったのである

今老人に何の価値があるのかということで問われている
老人にこんなに金を使って何になるのかともなる、それは無駄だとなる。でも人間社会には無駄が多いのである
ギャンブルでもそんなの無駄だとなりスポーツでも見るスポーツは無駄だともなるし価値がないともされる
そしたらなぜそんなものに金を使っているのだともなる
こうして価値を問えばある人からみれば膨大な価値無きものに金を使い費やされているのである

そもそも老人に価値がないという時、何に価値がないかである
働かないで金を稼げないから価値がないのか、ただ病気にもなり老いて人の世話になるばかりだら価値がないのか、それは障害者が価値がないのと似ている
そこに費やされるエネルギーも膨大だからである、だから障害者も始末しろとなる、障害者と老人は似ている、優生学だとどちらも社会の負担であり抹殺しろともなる

ただ老人の場あいはいろいろな人がいるから一緒くたにはてきない、老人でも価値がある人はいるからである
別に若者より価値がある人はそれなりにいる。みんな価値がないものではないのである。若者だからすべて価値あるものとは言えない、でも若者は価値ある人間になれる、それが違っているだけである、老人になれば価値を作りだした人でありその価値が評価されるのである、若者はまだ価値を作りだしていない、未完の大器としても見られるから価値があるとなる
今は価値を作りだせなくても未来に価値を作りだすものとして価値があるとなる
そのことで一番感じたことが原発事故の復興である。60代の人が来てもすぐ70とかなる。すると未来が望めない
若人が来れば長い時間で達成できることがある、ただその時間があることで未来があるとなる
老人になると何か花の木を植えても花が咲くまで時間が十年とかかかるとなるとその前に死んでいるともなり長期的に見れない
今花が咲くの見たいとなるからだ。だから投資に向いていない、投資は長い先を見ればもうかる。
投資とは株だけではな長い先を見て投資すると成功することがあるからである。
60代の人が来てもやがて介護になったら誰が世話するのかとなりただ重荷になるだけにもなるからである。
でもそういう年の人が移住しているのが多いのである

確かなことは老人が少なければこうはならなかった、数が多いということは価値が減退するのである
長生きした人は昔ならそれだけでも価値があった、みんな長く生きないから長く生きているだけで価値があったとなる
だから価値ある老人になるためにはどうすべきかが高齢化社会では問題になる、必ずしも金を残した人が価値があるともならない
ただ金があればその金に人は寄ってくる、それはあくまでも金が目的であり金の価値でありその人自身の価値ではない
その人自身の価値とはその人が人生の中で作りだしたものである
芸術家だったら作品があり作品によって評価されるとなる

とにかく今老人の価値が問われている、国家予算でも老人に費やされる割合が多くなりすぎたからそうなる
なぜ老人福祉に金をそんなに使うのか若者に子どもにも使うべきだとなる、全部ではないにしろ無用な価値無い老人に国家の金を使っても無駄となる、そんな余裕はないともなる

老人に金を使っても無駄というとき結局将来性がないからだとなる。若者だったら例えどんな若者でも未来を嘱望されるからである
老人の価値はこれまで生きて作りだしたものに価値がある
だから意外と老人の価値は明らかになり安い、子供とか青年はこれから何になるかわからない、大物になるかもしれないし泡沫のように消えてゆくかもしれない、それは未知なものとして価値があるとなる、成長するものとして価値があるとなる

でも若者でもみんな価値ある人間になるとは限らないのである
だから老人が尊ばれるとかなるとやはり老人になってからでは遅いのである、その前に価値あるものを作り出して価値ある人間となっていなければならない、老人になっただけでは馬齢を重ねるだけであり価値ある人間にはならないのである
それで高齢化社会ではいかに価値ある人間となり老人となるかが問題になる、会社とか組織とか団体は集団しての価値でありそれはその価値は全体にある、会社員だったら全体の会社の価値を高めるために働いていた、でも退職すると大企業の社長でも一介の庶民にもなる

退職すると個々人の価値が示さないと価値ないものともなる
個々人の価値となると芸術家などはそういうことを追及してきたから老人になって継続してその価値を示せる
でも会社であれ組織であれ集団的に価値を追求してきた人は一旦退職したら価値なきものともなる
それで価値ある老人になるには若い時から準備していいかねばならないとなる。あることに詳しいとなれば素人でも学者になるとかある、集団的組織的価値ばかり追求しているとその老人は価値がないとされる

発達障害の人がスマホとかタブレットはできる、でもそれを自慢はできない、それができたからといって価値ある人間にはならないのである、もし私のようにパソコンでいろいろ創作したものを発表すれば価値あるとなる
スマホを操作できても価値ある人間にはなれない、プログラムでもできれば違うが別にスマホを操作できるから価値ある人間とは認められないのである
ただ価値が多様化するから何か価値あるものを発見したり創りだすことが要求されていることは確かなのである
ある一分野でもマイナーなものでもそこを追及して第一人者になれば価値ある人間ともされる。ただそれで金になるとはならない
趣味の世界ではそうである、老人の趣味で花に興味を持ちクリスマスローズに詳しい人がいた、その花だけでも栽培して詳しくなれば価値があると花の分野で地域でも認められるとなる価値あるものとされることはある
人間の価値と金は等しくならない、莫大な金になっても価値がないもみられるし金にならなくても価値があるとされるものもある





2023年01月15日

家族だけでは介護でも障害者でも看ることは無理 (家族遺棄社会になる背景)


家族だけでは介護でも障害者でも看ることは無理

(家族遺棄社会になる背景)

発達障害者の人は弟がいるのだがその人と合わない、私自身がじかに接してわかった
とにかく障害がある兄でも厳しいのである、母親のような愛情もない、だから自分のいいことを聞けとなり厳しく命令する、あなたは何もわからないのだから俺の命令を聞けと一点張りなのである、あなたは何もできないから命令に従い逆らうなとなる
そして厳しく叱責もする、お前は何もできないのだから俺がやってやっている
その苦労を自分にも語ったことは理解できる、やはり精神障害者で認知症の家族を介護したことがあるからわかる、でも発達障害者の兄は嫌がっている、付き合いたくないと言っている、頭がパニックになり苦しくなるから嫌だという強い拒否反応を示している
それで発達障害者がyoutubeで自ら語っているのを聞いた
それだと発達障害者が付き合っていい人と付き合っていけない人のことを言っていた
弟でもこの場合付き合っていい人ではない、付き合ってはならない人となっていることがじかに接してわかった
愛情もないしただやっかいものとして扱い強制して服従させるということになっているからである

私と接してはそういうことはない、私は厳しいことを言わないからである
弟の場合は強制的に服従させようとしている、でもできないことがあり弟が代わりにしている、弟も苦労しているそうなった、母親も脳梗塞になりそのめんどうも一手に引き受けることになったからである、だから弟でも責めることはできない、普通ならその苦労をわかってあげるとなるがそれができない、そういう余裕もないからである
確かなことはとても弟は世話するのが無理だと見た
何かわからないのだけど発達障害者と認知症でも似ている面があった
それはプライドを持っている、お前は何もできないから弟が俺が世話してやっている
だから俺に従いばいい、そういう態度が発達障害者の兄は嫌っている
自分ができないにしてもそれで責められるのに反発する

認知症の人の場合は親を介護することになり親だと人生経験も積んでいるし一方的に世話される関係ではない、親として子供に尽くしたということがあり簡単に親を馬鹿だとは扱いない、特に親でも特別良くされた人は粗末に馬鹿として扱えないのである
やはり親には親のプライドがありそれで子供に馬鹿にされると怒るのである
できないことがあっても親は親でありプライドを持っているからである
部下だったら上司はやはり上司でありまた社長だったら社長なのである
そこで社長は社長としてたてると気分良くなる、馬鹿になったから馬鹿として扱うと怒るのである、そこで演技が必要だとしている、あくまでも演技として認知症になってもたてると認知症の人も気分良くなるのである、そき気分良くなることは精神にいい影響を与えるのである、穏やかになるからである

ともかく認知症でも介護でももともと継続した人間関係がありそれを否定できない
親は親であた子供は子供である、それで兄弟姉妹関係になるとむずかしくなる
兄弟姉妹は親に良くされるために争うことがあり親の愛情を受けるの偏ることがある
それが大人になっても不満になっている、そのために親の介護になるとき一番良くされた人が兄弟でも親の介護しろとなる、つまりそうした人間関係は継続するのである
発達障害者の人は兄であり世話している人が弟である、すると何か親のように世話になった関係でもないからうまくいかない、兄弟姉妹で介護とかするのはむずかいしとなる
特に認知症でも発達障害でもそうである
発達障害者でも人間でありプライドを持っていることがわかった
実際にできないことがあってもプライドを持っているのである
それを傷つけられると不満になる、でも世話する側になればそんなブライドをもっていても実際はできないことが多いのだから認めることはできない
親だったら世話になったとういことがあり大目に見ても兄弟姉妹ではそうなりにくいのである

精神障害者の問題は発達障害者とかでもプライドを持っているということである
だからあなたは何もできない馬鹿だと扱うと怒る、そうなると介護でも世話もできないのである、それは身体が悪いならその補助をすればいい、でも精神となるとめんどうだとなる、でも盲目の人を駅で案内したが何か助けることをしたが自分で電車に乗れると嫌がっていたのである、やはり人間とは必ずしも何でも他者からしてもらうことに抵抗がある
それは無能だということありそれより自分でやれることはやる、その方がいいとなる
そこに人間のむずかしい問題がある、でもこの場合は兄弟関係であり世話になった親との関係でもないから問題が生まれた、私自身は親の介護でも認知症になっても特別世話になったし家でもそうである、家を作り支えてきたということを自覚していたから苦しいけど相手をたてて介護していたとなる、つまり親は親でありその関係は変わらないものだったのである、馬鹿としては扱いないかったのである

その弟はそういうことはない、だからその関係もうまくいかない、そこで感じることはそもそも介護とかなると家族だけ負担しきれないものがある
介護の負担は大きいので家族だけで背負いきれない問題がある
そのために介護で家族が崩壊する破綻することもでてくる
日本の場合は家族に介護の負担が全部負わされる、それが問題としている
ヨ−ロッパとかでは福祉が充実して家族だけで介護するということはないという
日本の問題は家族にすべてがまかされる、そこでその負担に耐え切れずに問題が起きる
発達障害者でもやはり家族だけではめんどうみきれないということがある
つまり弟でも合わないことがありその状態は発達障害者自身にとっても良くないのである

そこで介護になると家族がばらばらになったり崩壊したりする、もう家族だけでは見きれなくなるからである、近くで認知症の母親を介護していた息子が母親を殺してしまったということも起きている、それは息子だけに介護をまかされたからである
その負担の重圧でそうなった、私自身も一人だけであり自らも病気になり二人を介護して家族崩壊になったからである、だから介護となるともう家族だけでは無理になる
でも今外部からの助けを得られない、隣近所も疎遠であり無関心である
公的なものとして福祉があったとしてもそれも事務的なものとかにもなる
また金銭的なことも援助できない、特に今は福祉関係は厳しくなっている、日本が貧困化して福祉に金が回らない、すると介護でも家族にまかされてそこで悲劇が起きる
それは8050問題が深刻なものとなる、そこで事件が多発する、家族だけにまかせる介護は限界である、ここの問題も家族だけでは解決しない、むしろ家族が悪い方向に導いているのである、それがやっかいなのは精神障害者を扱うことのむずかしさがありそうなった
家族遺棄社会とは家族が必ずしも冷たいというのではなく家族だけで介護することが限界に来て家族を捨てるともなる、金銭的にも負担でありまた人手もかかるからそうなる
それで会社をやめて介護に専念することにもなりその負担も大きいからである

でもそういう家族に他人がかかわることはめんどうになる、負担が負わされることで敬遠して見放すともなる、かかわるにしても簡単にはできない、まず金銭的にも体力的にも時間的にも余裕がないとできない、まず事業が失敗して借金しているとかそういう人は助けることもできない、かえって負担になり介護される人でも苦しいものとなる
それは自分自身が経験してきたからである、人間はとにかく余裕がないと他者を助けることはできない、自分自身が借金に追われているとか金がないとか病気だったら他者のことを助けることなどできないのである、自分自身のことで精一杯だからである
現代は金銭的にも余裕がある人は少ない、だからみんながそういうふうに余裕がない社会は福祉の方にも手がまわならなくなる、そこで悲劇が起るのである

2022年12月16日

突然人は逢えなくなる、すぐ近くでも逢えなくなった (60以降に起きやすい、親との別れも・・・貴重な共にいる時間)


突然人は逢えなくなる、すぐ近くでも逢えなくなった

(60以降に起きやすい、親との別れも・・・貴重な共にいる時間)


その人は一人でいるからいつも親しくしていた女性が毎日通っていた、話し相手としてもまた多少治療のためにも来ていた、でもその女性は嫌がっていた
その女性はすぐ近くであり見える範囲にあり歩いて行っていたのである
でも突然脳梗塞になり入院した、すでに二カ月にもなる、別に街の病院だから近いのだから見舞いにも行ける、ところが自分自身が病気であり見舞いにも行けない、今はウィルス感染がうるさく病院でも警戒して入れないとなっているからだ

だからこんなに近くても逢えなくなるというのは驚きである
離れて暮らしていれば逢えなくなっている、それはわかる、でも同じ街内に住んでいて逢えなくなのことがあるのかとなる
その女性はまだ72歳とかであり男性は85歳とかである
でも治療していて歩くこともままならない、自分自身が病人だから逢えないしまた女性も脳卒中で歩けないとかなり逢えないのである
それで男性は相当に一人で淋しいとなっている、娘は一週間に一度しか相馬市からしか来ないのである
何か私自身でも経験したことは原町だと8キロもないくらいでも車だと近いようだがが
意外と手間になるのである、だから特別な肉親とかではないならめんどうだとなる
その娘にしても一週間に一回しか来ないのである

何か人間は老人になると別離が多くなる、親子でも兄弟でも夫婦でもどっちかが死んだりして永遠に別れる、逢えなくなるのである
それは常にそういうことが起きる、私自身も両親でも家族は全部死んだからである
回りでも知っている人が死んでゆくのを経験している
ただ別に近くでも親しくしていないのだからその人のことを余り思わない
でも別れが多くなりその分れも二度と逢わない別れなのである

だからこんなにすぐ近くなのに逢えなくなるということもある
それも信じられないとなる、歩いて逢えに行くこともままならないとなったからである
別れというとき肉親でも介護の時は早く死んでくれないかなとなる、負担が大きいからである、でも死んでみるともっと良くしてやれば良かったと後悔している
それはやはり苦しかったけど二度と逢えなくなったことにあった
もう逢いたくても逢えないからである、するともう一度逢いたいとなりそれが切実なものとなるのである

その男性にしてもその親しい女性にもっとやさしくしていれば良かったともみる
でもその男性にしても自分が病気なのだからいたわれる者としてあった
それが突然逢うこともできなくなったのである、意外と老人はこうなりやすい、突然病気になり倒れて動けなくなったりするからである
人間は老人になると死期が近くなるとなぜか必ず知っている人でも回って歩くという
最後の別れのために回っているのかと不思議になる、兄も一回私の家に来たがその後交通事故になり永遠に逢えなくなったのである
肉親でもそうして突然別れが来て永遠に逢えなくなるのである

そして死ぬとき後悔しているのがもっと人にやさしくしていれば良かったとか反省している、その男性もその女性にもっと優しくしていれば良かったともみる、ただ自分自身が病気なのだから相手を思うことそんなにできないということはあった
別に冷たい人間ではない、でも突然近くでも逢えなくなったということはショックになるだろう、それも百メートルも離れていない所に住んでいたのである

人間は最後はさよならだけが人生だとなる、身近な人でも死んでゆくからである
でも生きている時そんなに感じないのである、それで一期一会とか末期の眼とかが言われる、まさに残り少ない生きる時間を惜しむとなる
末期の眼で見る時その価値は金には代えられないものとなる
なぜならもう生きる時間は伸ばせないからである、いくら金があっても時間は買えないからそうなる
ああ、まだ生きているなということが感慨深いものとなる、なぜならもうこの世にはいなくなるからである、人ともみんな別れるからである
こうして生きていれば無駄に時間を浪費することはなかったとなる

逢うは別れの始めなりとかあるが本当にそうである、人間確かに逢うのだがそれは別れを前提としていたのである、だからこそ逢うということを大事にしろということで一期一会の思想が生まれたのである、ただ人はなんで逢うのかとなる
ただ行きずりで逢うこともありギャンブル仲間として逢うこともあり男女なら肉欲で恋愛で逢うこともあるし逢うといういってもいろいろである
何か目的が同じでないと人間は永遠に別れる、そもそも求めるものが違っているからである、社会にでればただ金儲けが目的であり会社でも目的は利益を得ることだけになる
カルト教団などだともう信心とかで逢うのではない、数を集めるために権力を得るために逢うとなる、だから権力を得られない金を得られないとなると離れる
人が出合っても目的がそういうものであるから当然そうなる
そしして金の切れ目が縁の切れ目となり永遠に逢わないのである

結局この世は出合いでも一時的であり生きるのも一時的である
永遠の住いでもない、一時の仮の宿になる
そして神が結びつけないものは離れる、家族ですら離れる、神の国でこそ永遠に生きて別れることがなくなる、ともかく人間は本当に出合いにしろ逢うにしろ一時的なので悪
だから熟年離婚も多いのに驚く、68で離婚した人はおそらく不倫なのだろう
また嫌で嫌でしょうがなかったがやっと離婚できたとか老人でもいる
同じ墓に入りたくないという人も多い、こうなると別れて当然だとなる
男女でもその出合いは一時的なのかとなる、そこにも無常がある

集団とか組織でもカルト教団などでも一時的なものである、あとは烏合離散して終わりである、そもそも信仰など求めていない、俗世と同じようにこの世のもの権力であれ地位てあれ金であれ女であれあらゆる欲を求めて集まったからそれができないとなると離散してゆく、そんな場所なのである、群衆とか大衆とかなるとそこに集まっても騒いでも一時的でありあとは烏合離散するだけだとなる
会社でも実際は長い時間を共に過ごしても退職するとその関係も終わる、継続しないのである
人間が出合いとは何なのか?毎日買い物しても物を買ってもそこに出合いはない
現代は実際は広域化してグロ−バル化しても人間が出合いということがない、出合い意味が見出されないのである、それでナチスのようになり集団化するのだかそこに出合いがあるわけではない、何かそこで偽りの一体感を持ちでも虚しく離散するのである

人間がパーツになりアトム化して真実の出合いとか結合などないのである
これだけの多くの人間がいても真の出合いは極まれにしかないのである
それより死んだ人の方が老人になると親しくなる、家族とかでも死んだ人の方が死んでもいなくなっても依然としている感じになっているのである
それは一緒に長く暮らしたということでそうなっていたのである
もしかしたら一緒にいる時間と比例して親密になっているのかもしれない
でも子供の時一緒に暮らさなければ実の親でも兄弟でもそういう感じにならないのであるだから子供の時の時間は大切だったともなる
それで熟年離婚とか損に思える、そもそも人間の時間は何でも限られている
一緒に暮らす時間でもそうである、ABCDE...とか人がいても長く暮らす人は数人でしかないからである、だから共にする時間が貴重だったのである

もう一度呼んでもらいたい
母であれ姉であれ父であれ兄であれ
私の名前を呼んでもらいたい
そこに愛が通っている
今そうして呼んでくれる人は一人もいなくなった
ただ死んだ人に呼びかけるだけになった
でも死者は答えない、でもそうする他なくなった

人の出合いは何なのか、それは一時的である、でも目的が同じならまた逢うことがある
目的が違うから逢わなくなったのである、真に神を求める人ならまた逢うのである
でもそういう人はめったにいないのである
だからこれだけの人間がいていつまでも思っている人もいない、人はただ烏合離散するだけだとなる、現代は何か広域化グロ−バル化すると余計に確かに多くの人が交わるのだが親密に交わる人はまれになる、江戸時代のような村だったらもう同じ土地に住み共に生活しているのだから自ずと親密になる、ただそういう閉鎖した村は嫌だともなる
だから現代は別に村とかの狭い窮屈な場に住む必要がない、それで人と土地でも人と人でもつながりは希薄化したのである
そこで金の切れ目は縁の切れ目となるのが顕著になったのである、ただそれで自由を得たとなる、でもそこで失われた物もあった、人間は土地とのアイディンティティも持てないとか人と人も一時的であり絆がもていないとかなった
そのためにこの辺の津浪とか震災で絆が盛んに言われたがそれは外との絆であり内部では補償金の争奪で争っていたのである、つまり金の力が余りも大きくなってそうなったのである

2022年11月14日

深刻な8050問題ー貧困化福祉の崩壊の恐怖 (家族崩壊を経験したのでわかる)


深刻な8050問題ー貧困化福祉の崩壊の恐怖

(家族崩壊を経験したのでわかる)

fukushicare1.jpg

医療崩壊のしわ寄せ】「財政面で壊れるのか、人材面で壊れるのか」 多額の損失で追い込まれる障害者事業所【大阪】
https://www.youtube.com/watch?v=vl93SJ4hW6Y&ab_channel=ABC%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%
E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9

コロナウィルスが影響してこうなった、中村喫茶店などもコロナウィルスの影響があり閉店にもなった、それだけではないにしろ原因としてはあった




72歳で脳梗塞になった女性はまだ年齢的には若いと見た
ただ脳出血とか脳梗塞は若い時でもなる、そして脳梗塞でも症状がいろいろである
つまりその脳のどの場所かで後遺症が出る
でも脳梗塞や脳出血ですぐに死ぬことない、身近で聞いた話でも十年くらい夫を介護していたという人が普通にいるし介護というとき十年くらいかかる場合がある
だから長いと思った、この長さでまいってしまうのである
私自身も介護していていつ終わるのかと恐怖だったからたいがい早く死んでくれないかなと思うようになるのである、それは冷たいことでもないのである
それだけ介護の負担が大きいからそうなる、でも死んでしまうともっと良くしてやれば良かったとまた後悔する人も多いのである

これは人間としてやむをえないということである
なぜかというとこの介護のむずかしさは死んだ後まで影響していることである
介護が苦しくても冷たく扱われたとかなるとか恨んで死なれると困るのである
実際親戚にそういう人がいたのである、全く病気になっても放置して何もしない非情な娘がいた
その親は相当に悔しかったのか恨んだのかもともと自分の家とはうまくいっていなかったし自分とは余り関係がないのに「ひどい娘だわ」と言って死んだのである
それで救われたのは介護もされずにすぐに白血病で死んだことである
そもそも介護する人もいないのだからそういう死に方は良かったのである
そしてその娘は葬式では世話したとか言っていたそうである
そんなこと全くなかったのである

これは極端な例にしても恨まれて死ぬことは怖いと思った、介護は苦しいとしても恨まれて死ぬのは後味が悪いし成仏しないとかなる
私は認知症の姉とあとで母を介護したがわかってくれて死んだから良かった
私はその後でも毎日遺影に向かい供養している、それは私は特別良くされたからできたことである、他の人はこんなに良くされないから介護したくないとなる
それはそれぞれの家族が違っているからなかなかわかりにくいのである

確かなことは8050問題は始まっている、50歳の人が80歳の人を介護することである、団塊の世代が80歳になるときその数が多いからその子供が50歳になっているからである、これは非常に深刻である
72歳であれ早めにしてもその子供は50歳である、でも障害者なのである
ただ軽いから会話できるし意思疎通はできる、だから誰かが側にいて援助すれば介護ができる、でも一人だと負担になる、でも介護度からするとどれくらいになるのか?
それを見て判断するのは福祉関係である
寝た切りとかではないしリハビリすると回復もするからその先が長いのである
そして金もない、でも福祉では金は本当に出さないのである

福祉関係のyoutubeで介護士などがボーナスを出してくれとか要求している、コロナウィルスで経営が苦しくなったからである、重度の障害者を世話することは見ているだけで苦しくなる、そこで思うのは障害者が生きる価値があるのかとまでなる
世話する方からするとそうなってしまう、愛がどうのうこうのという前にその介護が過酷だからである、障害者でもいろいろある、でも私が接した障害者は会話もできるしどこが障害者が見分けがつとにくいのである、その人はただうまく会話ができないようである
でも別に話してみると会話ができる、ただ口籠るとかスムーズに会話できないようである何か子供のころに父親に殴られたとか言っていた
だから重度の障害者とは別物である、重度の障害者となったら過酷である
そうしたら介護する方でもボーナスを出してくれというのは当然だとなる
ただ引きこもりが多いからそれは障害者問題とも共通している

ともかく8050問題はすでに始まっている、そこで家族崩壊と福祉崩壊が起きて来る
自分自身でも家族崩壊が起きた、認知症になったとき起きた、家族が別々に住むようになり起きた、助ける人はなく一人孤軍奮闘しなければならなかった
その時自分自身も病気だったのである、手術もしたのである、それを一人で切り抜けるほかなかったのである、ただこれも特別親に良くされたから私自身のカルマとして起きたのである、何か必ず悪いことが起きるのはカルマが関係しているのである

おそらくこれから8050問題では悲惨なことが起きて来る、今でも起きて来るが日常的になる、すでに貧困化して困窮化もするし介護の人出もないとなる
そこでは二人正常な息子がいるとして働くことをやめるわけにはいかない、収入がなくなるからである、だから会社をやめて介護した人は後で苦しみやめなければ良かったとかなる、それだけ介護の負担は大きいのである

そして介護となると意外と遠くの親戚とか遠くがあてにならないのである、例えばこの辺だと相馬市とか原町市だと近いとしても車で10分くらいにしてもいちいち来るのが手間なのである、だから相馬市から娘が一週間に一回くるがそれも手間なのである
介護なるとき日常的に接する必要があり近くがいいのである
その人は歩いて5分もかからない距離にあり介護するというのではなく話し相手として毎日のようにもともと親しい人の家に行っていた、その人は糖尿病なのである
ただ自分のことができる、でも一人だから淋しいので話し相手として毎日呼ばれて行っていたのである、でもその人が脳梗塞で倒れたからもう行けないのである
とにかく何か人間は突然人間関係でも変化する
その人は私の家に五年間くらい来ていたけどもう来ることもできないと言っている
これも驚くともなる、先日まで来た人が逢いに来ることもできないともなったのである

金がない、人手がない、・・・・・

それで追い詰められてゆき家族崩壊福祉崩壊医療崩壊とかになってゆく
福祉だってそんなに金を出せない、日本自体が貧困化しているからである
予算を削られるからである、だから南相馬市長選挙などあるが議員など減らせば良いとなる、もうそれだけの予算が金がないのである
すると優先して金を使うのは何になるのかとなる、どうしてもまず命が大事だとなるとなかなか医療福祉は削りにくい、だから議員はせいぜい5人くらいでいいとなる
無駄な金はもう使いない時代になっている


いづれにしろ何か市町村でもこうして苦しむ人がいると誰かに負担がカルマが回ってくるのである、それが自分にも回ってきたとなる、ただ人間は障害者は無駄だとなるが老人になるとどうしても病気になるし体が弱ってくるから障害者になるのである
だから驚いたことは看護婦としてばりばりに活躍していた姉が認知症になり馬鹿になったということには驚いた、つまり知的障害者になってしまったのである
つまり障害者の問題は老人になると身近なものとなる、認知症も知的障害者だからであるただ生まれつきではなから社会でも親としてもありそれで対処の仕方が違ってくる
親であり功績ある人だから馬鹿にはできないのである
そして馬鹿にすると怒るのである、だから依然として生前のように扱うようにしないといけない、でも人間は結局弱者化するのだとつくづく思った

どんな強い優秀な人でも最後は弱者化する、だから障害者というのが全く関係ない存在だとはならないのである、ただ正直重度となるとその負担は重すぎるのである
そして障害者とは何のために生きているのか?ただ一生世話されるために生きているのかとなる、だから親にもう50歳まで尽くされた人は親に恩返ししろとなるがそれもできないとなると悲劇だとなる、ただその人は軽度だから別に親の世話はある程度はできるのであるそれは救いであるがやはりもう介護問題はこれからますます深刻化する
日本でも貧困化しているしその余裕がない人が多いからである
そして介護というのは何か不毛なのである、生産的なことがないのである
ただ私のように特別親に良くされたとなるとそれは不毛でなはない、親孝行できて良かったとなるからである、それで親もある程度は報われたとなるからである
ただヤングケアラーとか自分の人生を犠牲にされたら親を恨むとまでなる
私の場合は60歳から介護だったから良かったとはなる、それまで何でもしたいことをさせてくれたから特別だったから介護でもできたとなる
他の人はそうはいかないからそこで悲劇が生まれる、家族崩壊が生まれるし社会全体でも福祉崩壊医療崩壊とかになるから地獄だともなる


2022年11月05日

精神障害者とは何なのか (そもそも人間とは何なのかー知情意の問題)


精神障害者とは何なのか

(そもそも人間とは何なのかー知情意の問題)

精神障害者といっても千差万別なのかもしれない、直接接してみないとわからない
そもそも精神障害というとき何が精神障害なのかもわからない、例えばその人は100×100を計算できないという、では何もできないかというとそうでもない
知人の家で納屋にいろいろなものがありそこに米が入っていて取り出せなかった
自分も取りだせなかった、でもその人はとりだせたのである
するとそのことを見れば自分より優秀だとも見たのである

では何が精神障害なのか?

これがわからないのである、計算できないということは知的障害者なのか?
何か精神障害者とか発達障害とかは小学生くらいで発達が止まっているという
要するに子供だとしている、では子供と大人の相違は何なのか
例えば子供は親に世話されものだと思っている、何でも与えてくれるものだと思っているその障害者は何かそういうことがある、親がその人に対しては他に兄弟がいてもどれだけ尽くしたか理解していない、いつも心配していたのである
ても50歳になってもそのことがわかっていないから依然として子供なのかとも見る
だから母親が脳出血で倒れて介護状態になっても世話することができない
それだけの能力もないとなる、負担がかかるからできないとなる
でも軽いことならできるのである、父親の時でも何か足りないもなのを持っていたりしたからである
ただそれはあくまでも軽い作業であり負担にならないことである
だからとても自宅で介護するということは負担になってできないようにも見えた

ともかく人間は何かということが実はわからないのである、この人は人間ではない!
こういう時その人は非情な人であり残酷でありとても人間ではないとみる
でもその人は別に精神障害者にならない、かえって社会で重要な役割をもっていたり金持ちでもあったりする、社会的地位も高いということがある
何かわからないにしてもサイコパスとかもいる
非情でもそれが人間ではないなど言っても別にそういう人は普通に社会で暮らしているのである

その人が何が精神障害なのかよくわからない、ただ確かなことは50歳まで母親に世話になったか、その苦労を見たら母親に対して依然として小学生のようだというときただ世話になることしか頭にない、また介護でもできないとなるとそれが精神障害者であり普通の人間ではないとなるのか、それは言えるかもしれない、だから母親にしてみれば世話をしても何の報いもないとなる、でも何もできないことはない、病院に行って頼まれたことをしているのである、でも自宅で介護することは無理だと見たのであく

不思議なのはこの人は人間ではないというときもう残酷な非情な人をさしていう、そういう人は現実にいる、かえって戦争とかなるとそういう人の方が適任であり優れた人ともされるのである、人を殺すことが仕事にもなるからである
そこで相手をかわいそうだとか言っていたら戦争などできないからである
そこで非情な人間が英雄ともなる、プーチンとかでもそうなのかもしれない、ヒットラーでもそうだった、戦争ではジェノサイドとかありむしろ残酷なことが平然と行われるのである、そしたらその人たちは人間なのかともってしまうのである

例えば認知症とかでもそうである、これも精神障害だからである、ただ認知症で違っているのは病気になる前までは社会的地位もあり優秀な人でもなるのである
だからこれは何なのだろうと衝撃だったのである、もう人間でなくなったのかと疑った
でも物忘れとかは誰でもする、でも何かとわからないことがでてくる
計算もできない、漢字も読めない書けないとか銀行から金を下ろせないとかもある
知的障害がある、でもこれまた人間でなくなったのかとなるとわからない
なぜならこれまで生きた人生の中で培ったものがあり何もわからなくなったわけではないだから親切にすれば喜ぶし何か対話でもできる、人間としてわかることはある
良く世話してくれた人に感謝しているのである
そういう感情はありこれは生まれつき小学生から発達が止まった人とは違うのであく
またこれまで苦労して生きたというプライドもあるから違っている
だから馬鹿にすると怒るのである

それでこの人は人間ではないとして20人以上精神障害者を殺した原因は何だったのか
何か精神障害だったのかその辺がわからない、ただ小学生で発達が止まったというとき
いつもまでも母親は世話してくれる、では母親が病気になり世話する方になったときそれができないとなる、となると精神障害者は一人前の大人として扱えないとなる
50歳になっても子供だとなってしまう、でも何もできないことはない、でも普通の人ができることでも負担になるからできないとなる
だから親は一番世話した人に世話になれないとなり悲劇だとなる
何か親が世話される状態になったことを良く理解できていないからである

とにかくこの人は人間ではないというとき知的なことではなく、非情であり冷酷であり残酷な人を言っている、それは人間ではないというとき獣だともなる
ところが獣でも人間より優れていることがあるのだ、10年以上とか世話していた動物、ライオンでも虎でもその飼い主を忘れずに本当に再会を全身で喜んでいたのである
それは感動的である、猛獣でも恩とか忘れない、情は持っているとなる
でも人間は恩でも忘れるしあんなに体全体で世話になった人に喜びを表現することもないのである、恩を仇で返すこともある
すると人間とは何なのかとなる、動物より劣っているのかともなる
人間の知的能力は動物より格段に優れている、でも情的な面では恩を忘れるとか動物より劣っているともなるのである
精神障害者も千差万別であるが何か小学生で子供の状態のままで大人になっていないのかとなる、親にいつまでも甘えている、だから親が病気になり苦しんでいても軽いことはできても負担になることはできないとなる、世話する方になったことがわかっていないのである
だから精神障害者は親でも世話できなくなったらかなり厳しいことになる
親のように思う人も世話する人もいないからである、これは引きこもりとかでもそうである、介護のようになると厳しくなる、急激に関係が変わり世話する尽くす方になるからである、親はもう何もできない、ただ頼るだけの存在になってしまうからである

精神障害者の問題はいろいろある、そもそも精神障害者のことが理解できないのである
だからどう対処していいかもわからないのである

皿を1枚割っただけですぐ警察が入って逮捕する。一方で障害者が被害を受けた時は、殴られても被害者になれない。こういった障害者への不均等な差別は実際にあります。

精神障害者は罪を犯しても罪にならない、ということは罪の意識がないからだとなる
でも人間は罪を犯しても罪の意識などない人はなどいくらでもいる
刑務所に入って殺人を犯した人もそうだった、たまたま運が悪くて捕まっただけであると言っていた、つまり人を殺しても罪の意識がないのである
でもそもそもこうして罪の意識を持たない人は犯罪者でも相当いる
でも何も罪を具体的に犯していないのに罪の意識をもっている宗教家もいる
俺は悪人だとしているのである、だからそもそも罪の意識を持てる人は相当に優れた人だとなる

人間にはいろいろな面を持っている、例えば全然は何に興味を持たない人がいる
私の母親はただ働くばかりでそうだった、花などいらないとして庭に豆を植えろと言っていたのである、これも異常だったがびんぼうて苦労してきたからそうなっていたのであるまたそうした教育もされていないからそうなったのである
でも花を美しいと思わないとしたらその人は人間なのかとなる
でもそういう人は女性でも別にいる、その女性は花に興味がない、美人なのだけど花に興味もがない、性格的には陽気であり悪いことはない、でも花に興味がないのである
するとその女性は人間なのかとなる、美的なものに興味がない、美しいものを美しいものと見ないとなるからだ、それは動物なのかとなる
でもそういう人もいる、別に花に興味をもたない、美しいと見ない人は結構いるからだ
それぞれの趣味とか関心は違っているからである、でもそこに人間として大きく欠けたものがあるとなる

精神障害者でも画家がいたようにあることに能力がある人はいた、だから何か精神障害なのかわからない、むしろ最も残酷非情な人が英雄のようになる場合もある
政治家とかはそうなりやすい、プーチンとか習近平とか前はヒットラーなどがそうだったからである、政治の世界ではマキャベリズムになる、官前首相の愛読書がマキャベリの君主論であったとでもわかる、政治の世界は非情になりやすいことがあるからだ
だから精神障害者だけではない、普通に生きる人にも何かそれは人間ではない障害者なのかとなってしまうのである
ただ根本的に人間として生き物として情が通じないことが人間ではないとなっているのか?精神障害者と意思疎通できないというとき知的な面もあるが情的な面もある
認知症の場合は知的な面で通じなくなっているが別に情的な面では通じ合うことができるのである、親切にしてくれる人のことはわかるのである、またこれまでの人間関係がありそこで培ったものが継続するのである、つまり愛というものは通じるのである
ただ愛は動物にも通じるということである、植物にも通じるという人もいる
愛情をもって植物でも育てれば育つとなる、心が作用してそうなる
宗教だと知的なことより情的なもの愛情が大事だと説いたのである

だから人間ではないというとき情的な面から人間ではないとなる、でもそういう情がない人も実際この世に普通にいるのである、としたらどうなるのか、この世そのものが人間の住む所ではないとなってしまうのである、地獄とはそのことにもなる
確かに知的な面では人間は優れている、でも情的な面では愛情では動物より劣っているともなるからである、だから人間とは何なのかわからないのである
要するに知、情、意のバランスがとれた人間がいない、科学技術とか理系で機械とか物の分析している人は頭が冷たくなるという、それは人間相手ではとないからである
でも家畜でも動物を相手にしていると情が育まれるのである
そのために馬でも牛でも人間のように見て一つ屋根の下で暮らすと家族のようになっていたのである、今は動物と接する機会が少ない、でもペットを飼うのはやはり動物でも情が通じるからだとなる、現代文明社会といっても情の面ではかえって昔より後退しているのである、だから人間の進歩とは何かというのもわからないのである
人間が非情化する社会がいいものなのかとなるからである

2022年11月02日

愛は死んでも消えない (家には愛が残り通っている−心は見えないが通い合う)


愛は死んでも消えない

 (家には愛が残り通っている−心は見えないが通い合う)

FAMILYPHOTO1.jpg

DARUMA111.jpg

遺影にそ花を献げて姉と母なお家にそ生きつづけなむ

地震にも落ちずにあれや達磨かな姉なお家を支えてそあれ

愛はなお我が家に通い姉と母我を見守り心安らぐ


不思議なのは今年の地震でダルマが落ちなかったことである
あれだけの揺れだから落ちてもいいが落ちなかった
姉はダルマと似ているところがあった、それで家を守ったのかと見た
父親が死んでから姉がこの家を支えたともなるからだ



 
人間には謎が多い、科学的に解明できないことがある、愛というのでも何が愛なのか良くわからないのである、母の愛もあるし父の愛もあるし兄弟愛もある
また祖父母の愛もある、これらはそれぞれ違ったものなのである
家族でもそれぞれ違ったものでありなかなか理解しにくい、でも母の愛といっても必ずしもその愛が良く働くとは限らない、何か母に反発する人が多いのは母のエゴの愛だからだろう、純粋に子供を思う愛ではない、母のエゴの愛がありそれで反発する
何か条件付きの母のために子供を利用する愛ともなる
そこに母のエゴがあり肯定できないものがあり反発して母を良く思わない人も多いのである、なぜ祖母がばあちゃんがいいかというと孫にはいろいろなことを要求しないからである、ただかわいいとなりかわいがるというだけだからである
母の場合はいろいろ子供に要求することが多いから反発される

人間は常に愛が大事だと言われるけど母と子供でも本当の愛がないのである
また兄弟が多いとどうしてもみんな平等に愛せない、かたよるのである
だから介護になったとき一番良くされた者が介護しろとなるのである
兄弟を平等に愛さなかったからそうなる、それもむずかしいからである
だから必ずしも親を子が良く思わないことがある、ただいろいろ家族のことはあり外からわかりにくいのである

ただ愛の不思議はそれが意外死んでからわかることがある
私の家族はすでにみんな死んだ、姉の場合は十年も過ぎた、だから人間は日々去る者は疎しとなり忘れられてゆく、でも人間は肉体は消えても愛は消えない
これは合理的には説明できない、人間には何か目に見えないものが働く
愛といっても目に見えないものだからである
では目に見えてないから何もないのかとなると違っている
私は家族が死んでも依然として家にいると感じることがある

何か今姉の寝ていた部屋に寝ている、するとぽかぽかとそこに愛のぬくもりを感じた
姉は特に自分に良くしたからである、それは自分に全く要求するものがなかった
肯定することしかなかったのである、だからいつも肯定することしかなくとがめることもなかった、それはまた特殊な家族環境でそうなった
でも本当の愛は相手に何かと要求したりしないのである、ただ肯定することなのである
こうして肯定されず愛されない人は心も歪んでくるのである
実の母親でもどうしても子供に要求することがありまたあからさまに否定されることもありそれで歪められる
8人兄弟とかで父親は何か言うと怒り黙っていろとかなり反抗的態度をとると殴られたという、それが明治から戦前の戦後十数年の父親像だった

だからその女性は常に厳しく育てた方がいいと言っていた、学校では体罰でもあった方がいい、厳しく育てた方がいいと言っていた
でも結果的にはそうして育てられた子は親を良く思っていないのである
それで学校で体罰を受けた人は今でも近くの先生を恨んでいたのである、その人は死んだにしろそういうことがある、でもそういう時代だったのである
子供は厳しく育ててしつけた方がいいとなっていたのである
兄弟が8人とか11人いたとかなるとどうしてもそうなる
でもそこに問題があった、そこには本当の愛がなかったともなる
だからこそ大人になっても親を良く思っていないのである

そしてこうしたことは長く尾を引くのである、一方で本当に愛された人はその親でも兄弟でも死んだ後まで親のことを想っている、そのことを自分はわからなかった
それは親が死んでからわかったことである
複雑でも二人の親がいて特に姉は私を良くしたから親でもあったからその愛が不思議に家に通っている、それは姉の寝ていた部屋で自分が今寝ているかそこに愛を感じた
愛につつまれていることを感じた不思議がある
ぽかぽかと愛につつまれた感じになった、ただ死んでから十年も過ぎたのだから忘れるがそうではなく愛はやはり消えずに通っていたのである
だから家は単なる箱ものではなく精神的なものとしてもある、つまり愛が通い合う場所なのである、それで家にいると安らぐのである

その人は病院に半年くらい入院していたがかえって悪くなった、でも家に帰ったら回復した、その人は死んだ妻のことを死んでからも思っていたのである
余程妻を愛していたのかもしれない、それで親しい女性が手伝いに行っていたがその女性は死んだ妻のことを良く思っていなかった、妬んでいたともなる
死者を妬んでもしょうがいないが死んだ妻のことをそれだけ思って愛していたからそうなったともみる
人間は死んでも肉体は消失してもすべてが消えるわけではない
やはり愛が消えずに残っているのである

自分の場あいは特にそうだった、生まれた時から60年間一緒に生活していた
そのことの影響も大きかった、もし結婚したりして別々に暮らしていたらそうはならなかった、だから外孫には愛情が通わないということは離れるとそうなってしまうのが人間だからである、そもそも人間は一緒に暮らさないと愛を持てないからである
それで例え憎しみ合っても一緒に暮らしていると実際は愛していたともなる
いくら争っていても60年とか一緒に暮らしていると実は愛していたともなるのである

ともかく家に自分はこだわっている、家を否定する人もいるが何か家とか家族は人間の根源的な場所だからどうしてもこだわる、家にはやはり愛がある愛が通っているということで違っている、他の場所では愛は感じない、建物にしても愛は感じない
病院でも公共的な場所でも愛を感じない、家では例え家族が死んでも愛が通い合っているだからそれは説明できない不思議なものなのである

愛は人の肉体は消えても残っている

愛は消えないということなのである、目に見えないけど愛は残っている、家には残っているとなる
ただその愛にしても私の家族でも他者には冷たかったしまた兄には事情があり冷たかったこれも兄弟がみんな愛されるとはないと同じであり差別があった
それが心の痛みとして残ったのである

愛とういとき目に見えないが常に働いている、だから愛がない人がそばにいることはその影響が大きいのである、なぜなら私が病気になって手術したときその女性はそこにいることすら嫌がっていた、つまり愛が全くないからそうなっていた
それも怖いことである、何もしなくてただいることで見守ることでも愛がないということは恐ろしいことなのである、ただ病院では体は診ているが愛をもって接する医者か看護師は家族でないからできないとしているのもわかる
愛といってもそれが何か大きな負担になることをするということではない、ただ見守ることすらできないのである
また荷物の箱一つを持つのも嫌がっていたのである

要するになにもしたくなかった⇒金だけが欲しかった

私の来た人達そういう何ら愛をもたない人だったのである、それも余りにも恵まれた自分だからこそ起きたカルマだったともなる
ただ確かなことは愛は死んでも肉体が消失しても残り続ける、これは重要なことではないか?
なぜなら肉体が消えて灰になって見えなくなったら何もなくなるのかとなるとならないとなるからだ
人間は死んでその人の肉体は消える、でも愛は残りつづける、これは救いでもある
人間死んだら何もなくなる終わりだよとはならないということである
死者はせ依然として生者の中に愛があれば生き続けるのである
だから愛が一番大事なものとしてシャカでもキリストでも説いたのである
ただその愛とか慈悲は家族の愛というものでもない、高度な愛である
そうでなくても愛が大事だというときそれは肉体を越えて働くものだからである

人間は死ねばすべて終わりだと思っている、確かに肉体は消えるのだからその人は完全に消失してないとなる、でも愛が消えずに残っている
このことは重大なのことである、人間など死ねば終わりだと思っている
肉体は灰となり塵となり消える、要するに何も残らないと思っている
それで絶望して虚無的になる、でも愛は消えない残るとしたらそこに希望がある
この世にいくら宝を積んでも無駄というのも確かである
でも愛は消えないとすれば人間の最大の宝は愛だともなる

その他のものは消えてしまうからである、そもそも肉体自体消えてしまうからである
でも死んでも愛が消えずに通っているとなればその愛こそ最も大事なものだとなる
それは生きている時はわからない、でも死んでも肉体は消えても愛は消えずに残りその人が生きているとも感じるのである
これは理屈ではないから説明しようがないということである
ただそういうことを感じている人も多いことは確かだからやはり人間は眼に見えるものだけを価値あるものとすることはできない、天に宝を積めということは目に見える物ではない、愛とかを持てということにもなる
そうすれば愛は消えずに残り活きつづけるとなるからである
ただ愛というとき血のつながった親子すら愛がもてない、なにやかやと要求する愛なのである、愛は無条件に肯定することであり何やかにやと要求するものではないからである
私の場合は60歳までそうされてきたのである、これは例外的なことでもあった
だからこそ愛というのはなかなかありえないとなる、何か常に要求する愛はある
でも純粋な何も要求しない相手を肯定する愛というのはなかなか持ちえないのである

ただこの世の生ははかない、もうあっという間に人生は終わるとなる、そういうとき何か永続的なものなのか、それを見る必要がある、その重要なものが愛だとなる
肉体は消失しても愛が消えず残るというときそれを重要なものとして価値として生きればはかない人生も死後でも活き続けることができるとなる
でもこの世では欲がありエゴがあり様々なものに魅惑されて肝心なものが見失うのである愛より金だとなるのが普通である、他人ならそうだし家族でも本当の愛を持つ人は親でもなかなけかないとなる、自分の場合、特殊な家族のためにそうなったのである
愛というとき何か人に特別尽くすということでもない、ただ病人を見守るというだけでもそこに愛がないと怖いことになる、それを自分は病気になって経験したからである
愛がなければただ座っていて見守ることすらできないのである
その心が病人に通じて来るからである、すると病気でも悪化することになる
だから何か愛というとき苦しいことをするということではないのである
心の中で愛を持つことでありただそれだけのことでも人間はできないのである




2022年10月20日

老人医療は総合診療が必要 (体の部分ではなく心まで全体を診る医者が必要)


老人医療は総合診療が必要

(体の部分ではなく心まで全体を診る医者が必要)

agecare22.jpg

agecare11.jpg
週刊新潮10月27日号

これは確かにそうだった、この人は老人医療の専門家にもなっいてた
老人医療は60代以下とかと同じにできない
老人は体の部分を見るより全体を心まで見る必要がでてくる
体の一部を部品を見てその数値とか見ているだけでぱわからない
特に老人医療の場合はそうなのである

その女性は72歳だけど体の不調を絶えず訴えていた、でも医者には行って訴えて相談していた、何か所もの開業医とか病院にも行ってみてもらっていた
だから片方の手がきかない、食器でももちにくいとか訴えていた
他にも目まいがしたとかして実際目の前で自転車で転んだ
明らかに脳梗塞の前兆の症状が出ていたのである

ではなぜ医者が脳梗塞と気づかなかったのか?

それが理解できないのである、ただ脳の写真をMRIで遠くにも近くにも行って撮っていた
それも何ら脳梗塞のことを疑う人はいなかったのである
あちこち不調を訴えてもそれぞれ一部分として診ていたのかもしれない
ここで書いている総合診療をしていない、またそういう医者がこの辺ではいなかったのかとなる
つまり仙台市の上手の眼科に行ってもその人は眼しか見ていない
でも片手がきかないとか目まいするとか脳梗塞の症状が出ていた
眼だけ見ないで全体を診ていればわかったかもしれない

その人の行くべき病院は南相馬市だったら脳出血をみる新しいセンターができているし
そこに優秀な医者がいる、なぜ開業医でもそこで診てもらわないかとすすめなかったのだろうか?それも不可解なのである
老人に必要なのは総合診療であり心のケアまで必要なことである
体の一部分の専門家ではない、心までふくめた総合診療なのである

でもそれをやれとなれば一人の医者では重荷になる、ただ精神的ケアになると別に医者でなくてもできる、何か医者だけが医療にたずさわることではない
病気には必ず精神的ケアが必要なのである
むしろもしただ人間を機械のようにみて臓器でも機械の部品のように診ている人がいたら怖いとなる、でも実際はそうもなっているのである

まず一人の人間でそんなにいろいろできる人が気が回る人はいないだろう
数をこなさなければならないから一人にそれだけ気を遣うことはできない
だから病院で議員でも番号で呼ばれて怒ったというのもわかる
つまり病院では数をこなすから数として処理されるのである
だから看護師でも家族の役はできないというとき精神的ケアは必ず病人には必要なのである、そこに心の働きが必要なのである

要するに医者とか看護師でも病人を機械のように数として診たりしていることは怖い
でも数をこなすとなればそうなりやすい、だから私は二回病院に入院して虐待もされたし親戚でもその人は全く愛情がない人だったから手術の時何もしなくてもいるのが嫌だったのである、また箱一つ入院するとき持つのも嫌がっていた
私のために何もしたくない人だったのである、そういうことは必ず行為となって現れる
それが病人に影響する、もうそういう人がいるだけで体は悪くなる
私はこうして病気になり介護になり人とかかわって恐ろしい目にあった
ただこれも楽をしてきた自分のカルマとなってこういう恐怖を味わったのである

心のケアとなると宗教家の役割なのかもしれない、医者は体をみるが心までみれない、
ただそれにしてもそんなに一人の人のために気を配る人はいない
前にも書いたけど

「もっと栄養をとりなさい」
「私は金がないので果物を食べろと言って買いません」

そうは医者には言えない、では金をあげますから果物を買って食べなさいとはしてくれない、むしろ医者は常に金をのことだけは心配しているのである
だからいらない薬でも飲ませるとかなる、そのために病気でも悪化するとここで書いている、医者は家族と違うのだから金のことや心まで診れないのである
そこに限界がありそこまで要求もてきないのである
でも医療は心が相当に影響する分野である、もともと心と体は一体である
それを分離するのが西洋式だともなる、漢方とかなると体と心を一体のものとして見ているからである、色心不二とかそうである、色とは肉体のことだからである

いづれにしろ現代の問題はあらゆるものが専門化して部分化することである
教育自体もそうだし学問でもなんでもそうなのである
全体としてみれないのである、職業でも無数に部分化して田舎でも近くでも何をしているのかわからないのである、これもだから不思議だと思う
何で生活しているのだろうとなる、昔だったら農業に従事している人が六割とかなれば自ずとどういう人なのかわかる、今は本当に職業自体が部分化してわからないのである

だからとても総合診療というけどできない、総合的に見れないのである
それは原発事故でもそうだった、原発もエネルギーを作る全体の一部分だったがそれが生態系を空気でも水でも森の木でも土でも放射性物質で汚染された
つまり生態系とは全体のことである、その全体にどういう影響があるのか見れなかったのである、つまり現代の問題は総合的に見れない、もし事故になったらどうなるのか生態系が汚染されたらどうなるのかを見ていないのである
ねの全体を壊すということを見ていないのである
人間はまず本当は全体を総合的に知り仕事でもするべきなのだけどそれが理解不可能になっている

第一原発事故でも吉田所長すら復水器のことがその方の専門家でないから知らなかったのである、他の社長でも会社のことを全部知っている人などいないのである
何かそういうことから破綻してゆく、社会が大きく文明も崩壊してゆく
それは科学技術の分野だけではない、経済の分野でもそうである
誰もグロ−バル経済のことなど知りうる人はいない、だから当然ある時株が暴落したり
世界中で破綻して混乱してコントロールできなくなる
経済政策してももう物価高がとめられないとか円安がとめられないとか世界恐慌になるとかなる、全体のシステムが崩壊してゆくのである
それはバベルの塔と同じなのである
要するに誰も全体を知りうるものはいない、そこでカタストロフィが起きてくる
そうして文明は崩壊するのである


2022年10月16日

愛とか慈悲が一番実行されにくい (宗教団体でもそんなものはない)


愛とか慈悲が一番実行されにくい

(宗教団体でもそんなものはない)

宗教というと愛と慈悲を説く、でもこのことを実行している宗教団体でも宗教家でもいるのかとなる
カルト教団で共通していることは会員を数としてしか見ていない、数として増やして勢力化する、創価なら一票とみて政治化して権力を得ることしか考えていない
そもそも政治家にしろその人達は自分のために働くのであり選挙の時は頭を下げても選挙の時だけだと言っている
選挙自体が利権を得るために議員に成りたい人がいてまた利権を得たいために投票する方もある、それが基本的に政治である
第一党派になるとき我が党のためということは実際は我が家族のためとかになる
我が家族のためが我が党のためにもなる、創価でも議員に成っていた人はそうだった
我が家族の御利益が我が党のためになっていたのである
そもそも党派とはそういうものである、宗教でも党派化するとそうなる
宗教でもそうして党派争いになり戦争にもなる

人間は基本として家族愛がありその延長として集団の愛がある、党派愛がある
だから宗教で説く愛とか慈悲とかはない、愛でもいろいろある、家族でも親子の愛があり夫婦の愛があり兄弟愛がありまた男女の恋愛もある
だから愛というときキリストが説いた愛とかシャカが説いた慈悲とかはない
それがどういうものかもわからないだろう
それは家族を越えたものでありまた男女の恋愛とかでもないし党派愛で仲間愛でもない
だからこの世にある愛とかはそういうものではない
それが宗教団体でもそこにあるのは家族愛であり党派愛とか団体愛とかなりその仲間にならないものは排斥される、ではなぜそれが宗教なのかとなる
そういう根本的なことが理解できないし当然実行もされていないのである

家族愛とかは基本にあり否定できない、それが悪いともならない、でもそれが本当のキリストが説いた愛なのかシャカの説いた慈悲なのかとなるとそうではない
家族愛は団体愛、党派愛へと拡大する、侍が御家とかあり有力な家が拡大したものが一つの集団となり他の団体と戦うことになるからだ
それはヨ−ロッパでも外国でも同じだった、ハウスブルク家がヨ−ロッパを支配したというときそうである、これも御家だったのである

例えばキリスト教だと当時ユダヤ人がいてユダヤ民族主義がやはりあった、でもそれにキリストは組みしなかった、民族を越えた愛を説いたのである
良きサマリア人の例えでもそうである、多民族でも平等の愛を説いたのである
なぜ民族と民族の争そいが熾烈になるのか、そこに平和がないのか、今起きているウクライナ人とロシア人の争そいは民族争いでもある、でももともとウクライナ人は日本だと沖縄のようなものだという言う人がいた、沖縄人は日本人であるが沖縄人はまた別だともなる、ロシア人と沖縄人はおそらく言葉にしてその顔にしてもたいして変わりなく見分けがつかないとなるからだ
大陸ではとにかく多様な民族がいてその民族争いが熾烈なのである
だからジェノサイドがある、互いに容赦なく殺し合う、もう相手が人間でもないとなる
中国では敵の墓を暴いてもまで罰するというときそうである
日本のように敵味方塚などないのである、日本は大陸と違って民族がすでに古代で融合していたのである、同じ日本人になっていたのである

ともかく宗教の要に愛とか慈悲がある、でもこれが何なのか誤解しているし実行できない
そもそもなぜ宗教団体であってもそれはキリストが説いた愛とかシャカの説いた愛とは違っている、誰もそんなことを実行している人はないないのである
確かにそこに党派愛はある、仲間にあれば愛すことがある、でも仲間に入らなければ敵ともなり徹底的に戦い殺し合いとまでなる、そのことで疑問も感じないのである
地獄に落ちろとか罰当たるとして大集団で仲間にならないのも攻撃してくるのである
それが宗教の名のもとに正しいとして行われるのである
こうして国と国でも民族と民族でも争いが絶えることがなく最後はハルマゲドンの争そいとなり人類滅亡するともなる

では一体愛とか慈悲がどこにあるのか、誰かそんなこと実行できなるのかとなる
人間の日々の活動が愛と慈悲など関係ない、利益を得るために働ているのでありそこに愛とか慈悲など関係ないのである、むしろ利益を得るためには何でもするとなる
相手を騙してもでも利益を得るというのが人間社会である
損して相手に尽くすなどありえないのである、別にそれでとがめる人もない、だますとなればまた別だが働いて利益をあげるのは正当な活動なのである

ただ愛というときどこでも必要なことは確かである、私の母は継母に育てられていじめられた、その継母はなぜ愛がもてなかったのか?
自分の血のつながらない子供だったからである、それで弁当を作って与えられたがそれを残した時、俺の作ったものを実の母親でないから食べられないのかとその弁当を投げて怒った、その女性は余りにも気が強いということでそうなった
これも別に愛を持てば良かっただけのことだが実の子ではないから愛を持てなかったのである、ただ最後に死ぬときになり悪かったなと言って死んだのである

愛と言う時何かむずかしい負担になることでもない、別に血のつながらない子供でも愛したら実の親子と同じになる、むしろその子供は実の親子でないのに愛しててくれたからと感謝するのである、かえって実の親子でも何も感謝しない子もいるからである
だから家族愛でもいろいろある、家族でさえ愛し合わない人も普通にいる
その親は一人娘をかわいがったが親が病気になり介護になったとき冷たい仕打ちをしている、何か金をあづけたのだが出したくないのである
別に介護にもなっていない、一週間に一回くらい世話に来ているだけである
つまり愛というときまた家族では当然だとしてもなかなかそれすら実行されないことがあるのだ
何か血のつながらないということで父親でも母親でも愛さないということがある
私の家族でもそうだったのである、そこは複雑であり簡単には言えない事情がある
ただそういうことは家族でもある、だから必ずしも特殊なことではないのである


そもそも愛とは何かなのかということがわかりにくいのである、ただキリストとかシャカの慈悲とかを実行している人がいるのかとなる
それは別に血縁とか党派愛とか民族愛とも違ったものである、それは人類的な愛だとなる慈悲だとなる、だからキリストの愛はユダヤ人の中で民族愛の集団では受けいれられなかったとなる、シャカでも仏教を受けいれたのはインドではなくその周辺国だったとなる
それは民族宗教ではないからである、ナショナリズムとは違っていたからである
人類への普遍的な愛であり慈悲である、だからかえって人道というのが愛になる
人道だと宗派とは関係ない、イスラム教だから親切にしない助けないともならないからである、でも宗教でも違うと血で血を争うものとなっていたのである
かえって宗教戦争は熾烈なり神の名の下に敵を残酷に殺したとなる、それも神の名のもとにそうなったのである、宗派とか団体だとそうなりやすい、仲間にならないものは人としても扱わないとなっているのだ

だからこの世の中宗教自体が不可解だとなる、これだけの人がキリスト教徒であり仏教徒でありイスラム教徒になっていもそこで愛とか慈悲とか何かそうしたものが実行されているのかとなるとされないない、そんな人がいるのかとなるからだ
そこで実行されいてるのは民族愛であり集団愛であり仲間愛であり党派愛である
それは本来の愛とは違ったものだけど実際は集団化して組織化したものがそうなっているそれは世界中で共通しているのである、これはエゴの延長なのである
でもこの世の中は何らかの集団に属さない人はいない、その人は人間でもないとなってしまうのである、だからキリストはどの団体に属さないからユダヤ民族からも排斥されて十字架で死んだともなる、党派を否定したからである

いづれにしろ人間は愛は不可欠である、でもその愛が実行されない、医者などでも愛が必要である、今回どうしてその女性が脳梗塞になったのか、その兆候があっても医者でもわからなかったのか?それはその女性を親身になって診ていなかった
いろいろな症状を総合すれば医者ならこれは脳梗塞の兆候ではないかとか気がついたかもしれない、そこに愛が欠けていたのかもしれない
私自身もその人を親身にみていないからただいつもの愚痴を言っているのだとしてただうざいとまでなっていたのである
家族だったら親身になり相手をみる、どこが悪いかとか別に専門知識がなくても心配するその愛には利害は関係していない、だからなぜ一人暮らしの人が早死にするかとなると身近に家族がない、妻がないとなるとその体でも心配する人がいないからである
何か体でも悪くなっても心配する人もいないのである


それは自分自身のことだった、家族が死んで誰も心配する者がいなくなった結果さんざんな目にあったのである、自分の所に来たのは金目当ての人しかいなかったからである
相手にとって自分の病気などどうでもいい、金をとればいいとしかなかったからである
これは医者でも患者をそうみるだろう、いらない薬でものませたりいらない治療をして金稼ぐこともある、どうしても医者でも利益をあげることが第一になるからだ
人間社会はそれから逃れることができないのである
だから一概にそれがすべて悪いとはならない、でも医者となるとそこに愛が必要になる
それで医は仁術だというときそういうことだった、つまり医は算術ではなく仁術ということは何かしらそこに愛の作用が必要とすることだとなる

でも医者にしても相手は家族でもない、多数の一人にしかすぎないのである
とにかく数を多くみるというとき愛など実行されないのである
だから議員ですら病院で番号で呼ばれて怒ったということにもなる
大勢の一人にすぎない、家族でもない人に親身になり多数を診ることなどてきないのである、それはどこでもそうである、多数を相手にするところでは愛はありえないと思う
だから大衆を愛するなどありえないと思う、大衆というのはもう人間ではない、ただ数としてあるだけだとなる、そして数として処理されるだけだとなる

2022年10月06日

金だけで解決しない人間の問題 (特に介護とか病気とかになると愛がないとできない)


金だけで解決しない人間の問題

(特に介護とか病気とかになると愛がないとできない)

●家族の限界

私が親の介護と自らの病気で苦しんできたことを書いてきた
その時来た人は一人は借金で苦しんでいる人でありもう一人泥棒だったとかまたその後に来た人も借金で苦しんでいたとか貧困で苦しんでいたか金に苦しんでいる人達だった
だからこういう人達そもそも人を助けること自体できない人達だったのである
自分が苦しんでいる、金がないと苦しんでいる
その時私の家族でも自分自身が苦しんでいても金が欲しいということで来たとなるからだそれはふりかえれば恐ろしいことである
相手が弱っているからこの際金をとるのにはチャンスだなっていたのである
それも自分自身のカルマであれ人間の恐ろしさを身をもって知った

どうしても介護とか病気とか弱者になったときその時相手の心が露骨現れるのかもしれない、強い時はそういうことはない、相手も恐れてそんなことできないからである
相手が弱った時チャンスなのである、人間の社会は食うか食われるでもある
動物でも子供とか弱ったものが狙われて食われるからである
人間にもそういうことがある、相手が困ったらと助けたりしない
助けるとしてもそこには魂胆がある、この際弱ったから金をとってやろうとなる

まず人間をみれば確かに家族はいいものである、でも家族優先であり家族さえ助かればいいとなる、他の者はしょせん他人でありどうでもいいともなる
家族内では愛があっても他者にはないとなる
そういうことはどこの家族にもあるし自分の家族でもそうだった
確かに家族愛というのは人間の基本的なものとして不可欠である
でも本来の宗教だと仏教でもキリスト教でも家族を否定したのか?
シャカは王様の家に生まれて出家したりキリストでも親を否定したりしたのはなぜか?
それは家族は必要でも家族だけの愛はエゴになるからである

●病人とか弱者の虐待の恐怖

でも家族は必要である、そこが人間の基本的な生活の場でありそこが人間として学ぶ場になるからだ、とても養護施設などでは家族の代わりになれないからである
ただその家族が基本的なものとして必要でもすべてをまかなえるとはならない
だから介護とか病気とか他でも他者の助けが必要になる
でもその時問題なのはまた家族のように接することができないことである
愛をもって接することができないのである、そこに大きな問題が生まれる
なぜならそもそも愛がもていないと必ずそれが行動に現れる、それで虐待ともなる
それは弱者相手の世界で起きやすい、病気になると弱者となる

すると医者とか看護師でも弱者化しているから権力をふるうことは容易になる
そもそもそういう立場の人は愛がないとできない
直接体にふれたりただ身体を診ているだけではない、心も関係している
愛の心がないとみれないのである、愛でももって接することがなければできないのであるでも現実は患者を機械のように見ている、ただ注射して薬を与えどこから悪ければそこを切除すればいい機械のようにどこが不具合があれば部品を交換すればいいくらいにみる
そこに愛はなくてもいいとなる、それより患者は金になるものでありいらない薬でも手術でもするとなる、つまり医は算術になる
でも患者の方でも優秀な医者となれば体をみる技術者であり腕のいい技術者を選ぶのが
普通である、愛があるかどうかなど見ないということもある

近くの開業医の医者は見立てがいいと評判だった、腕は良かったのである
でも私の母はその医者の所に行かなかった、口が悪くずけずけと言い冷たい医者だったのである、でも腕がいいから繁盛していたのである
私の母はそれで別の医者に行っていた、そこは優しい医者だと行っていたのである
でも矛盾は優しい医者が医者として優秀ともならないことである
優しい医者より腕がいい医者の方を選ぶともなるからだ

これが大工とかなると他でも技術であれば腕のいい大工さんを選ぶ、でも別にその人が優しいとか必ずしも愛があるとかあまり関係ないからである
でも実際はある人に愛をもって家を建てるということは必要である
でも大工の場合はそういうことはあまり関係ないのである
でも医者とか福祉関係はかなりこの愛とかは関係してくる
人間の体は機械ではない、心をもっているからである
そもそも愛をもって体に接するのとそうでないのでは影響するだろう
人間はとてもいくらAIで診断するとかなってもそれで全部できることはない
病気になればやはり人間には愛がないと診れないと思う

ただそういうことより医者は腕がいい医者がいいとなる、また機械とかでも設備が持っている病院がいいとかなる、優しい医者だとかその性格みたいなものを見る人はいない
第一医者にしてみても大勢を診るのだから愛とか言っていられない、何でも大勢になると愛は消失する、だから議員ですら病院で番号で呼ばれたとなり怒ったとなる
病院は数をこなさなければならないからいちいち愛だとか言っていられないのである
どこでも数が多ければそうなる、政治家などでもとにかく票を集めなければならない、数を集めなければならない、個々に対応などできない、愛など全くなく民衆と接しているのである、ただ選挙の時愛想良くしている、実際自分のことしか考えない
議員自体がそう言っているからである、学校でも生徒でも一人一人見れない、だから先生が生徒に愛をもつことはむずかしいのである
結局人間は数が問題になる、数をこなすとなるととても愛など持てないのである
家族が一応愛をもてるのは数が少ないからなのである

●金だけでは解決しない問題ー病気と介護には愛は必要

ただ愛がないとできないことがあることは確かである
それは自分自身が介護で自分の病気で経験した、その人は愛はなかった、借金して金を欲しいというだけであり愛がなかった、愛を持てる状態ではなかった
だからそういう人が来たことは恐ろしいと思った、その人は特別何もすることはなくてもたいしたことをすることでも愛がそもそもないのだから箱一つもちあげる気持もなかったいやいやながらしていたのである、そのことはその表情とか気持に現れていた
自分のために何もしてやる気持がなかった、金が欲しいから仕方なくしていたのである
そういう気持で病人や弱者にかかわることは怖いことである
その人への影響が大きいからである、病気すら悪くなるだろう
別に病気が治ってほしいということでもないからである、ただ金が欲しいというだけだからである

でも金はもっていても困っている時まず金を出せとういうことは強迫にもなっていたのである、借金していたからそうなったのである、だから借金とか負い目も持った人は弱者を助けることができない、自分のことで精一杯であり他者を見る余裕がないからである
その人はただ患者を座って見ているのも嫌だったのである、何もしないとしても嫌だったのである、そういう人が苦しい時来たことは怖いことである
その人はただ何もしなくても見守ることすら嫌だったからである
でも金で苦しんでいるとしても後で金をやることはある、でもまるで金をくれたら助ける今くれとなる、でも苦しんでいる人はそういう余裕すらないのである

とにかく人間はそもそも家族であれ個々人であれ何か足りないのである
金だけの問題ではない、特に介護とか病気の人をみるとき心が深く関係してくるのである介護とかは気持がないとできないのである、病気の看護でもそうである
それは家族でもそうなのである、その親の娘は一人っ子であり親に特別良くされたのである、でも親は冷たいとして怒って来るなと言ったという、病気で苦しんでいるのに冷たいのである、そこに知っている70くらいの女性が何かと世話を焼いている
その女性は金に困っている、でも親はその一人娘に金を預けている、それで金が欲しいとしてもその娘はケチで金をくれないといい怒ったのである

だからこうして家族ですら愛がないと介護などできないのである
兄弟でも親に良くされたのだからお前がやれとなる、そして遺産では必ず争うのである
また意外なのは60パーセントなのかまたそれより兄弟でも付き合わなくなったということが50代で多いのである、結婚して家族が別々になってそうなったともなる
だから兄弟は他人の始まりだというのは本当である
私が特別親を愛しているのは死んでも愛しているのは60代まで一緒に生活していたからなのである、それで特別良くされたからそうなった、これは他ではないことだから特別だとなる

●愛とか慈悲とか最高にむずかしい

いづれにしろ愛を言うがそれはこの世でほとんど実行されていないのではないか?
それは家族であっても実行されない、だから宗教でも愛を慈悲を説いても実行されていない、カルト教団の人に愛があるのか?多少団体内で助け合うことはあるかもしれない
でも実情はやはりエゴであり自らの欲望を追及しているのである
議員になりたいから信者を票とみて接する、その内心は他の議員と同じである
選挙の時だけ愛想良く接することである、その本心は自分のことしか考えないのである
それは数を集めなければならないからそうなる
百万とか集めるとなるといちいち愛がどうだごうだなどと関係なくなるからである

結局愛が実行されている場とかあるのか人がいるのかとなる
愛といっても恋愛もあり家族愛とかもありシャカの慈悲とかキリストの愛とかは別物である、そもそも愛、愛、といっても本当の愛が実行できるのか、そんな人がこの世にいるのかとまでなる
愛とは愛さ愛を一般的に要求している、でも自分ではなく他者を愛することが愛だとするときそれが実行している人がいるのかとなる、ただみんな愛と言う時愛してもらいたい愛なのである、それも都合いいエゴなのである
もしかしたら本当の愛を実行できる人は一人もいないとかにもなる
愛はそれだけ実行することは困難を極めているからだ

わかりやすいのはとにかく人は愛というとき愛してもらいたい愛であり見返りのある愛であり家族だけの愛であり本当の愛はほとんど実行されないのである
そこに人間の絶望があり人間も動物界とたいして変わらない弱肉強食の世界だともなる
ただ表面上は愛を装うのがこの世である、カルト宗教団体でもそうである
そういう場所は他者を弱者でも食い物にもする場なのである
それが統一教会で極端なものとして現れたのである、他のカルト教団でも同じなのである愛と慈悲を看板にしてそんな人がいるのか一人もいないとなる不思議なのである
だからこの世と何なのだろうとなる
この世こそがこうして地獄そものもなのである、動物の弱肉強食の世界と変わりないのである、つまりそういう場に生きていることこそが地獄なのである
いくら科学技術が発達してもやはり人間が地獄を生きている、そのことに変わりなかったのである

●何の返答も見返りもない死者を愛せとういことはどういうことなのか ?

死者を愛しなさいとキケルゴールの本で書いてあった、死者を愛するとはどういうことなのか?死者を愛することができるのか?
死者はそもそも何も答えない、死者が本当に存在しているのか?
そういう死者を愛することができるのか、死者を愛するとはどういうことなのか
これがわかりにくい、でも私は家族がみんな死んでしまったからそのことが気にかかった死者を愛することがわからない、でも私は特別二人の母親に良くされたから今でも二人を思っている、それは特殊な事情でそうなった

何も答えないのだけど語りかけている、何か認知症になった人が延々と死者と語っていたという、その人にとって死者は死んではいないのである
だから認知症は必ずしも人間の異常でも狂気でもない、死者が死んでも生きてると思うことは人間にとってはむしろ正常だともなる
それより死者を全く思わない人がいる、親でも思わない、そういう人こそ異常なのである人間ではないともなる、その人は生前も愛することもなかったからそうなった
ただ遺産がもらいたくて親とかかわるという人も相当数いる
そして今は経済的にも苦しいから子が親を捨てるという時代にもなっている
もしかしたら江戸時代のことではない、現代こそ姥捨て山の時代なのかともなる
老人が増えすぎたこともありそうなることもありうる、現実に若い世代は老人は早く死んでくれというときそういう心情に若い人がなっているときまさに実際に捨てないにしても心では捨てているからそれが現実化するのである

愛と言う時、愛がないというとき、何か愛が介護でも重い負担なことではない
簡単なことでも愛がないということがある
介護するにも別に重い負担のことを言っているのではない、ただ何もしないで一時見守ってくれるということを頼んでもその人にはそういう気持ちがないからその人はが側にいること自体怖いことになる、その人はいやいやながらそこにいるからだ
何もその人に愛もないどころか全くそういう心を持っていない、そんな人がいること自体怖いことである、私はそういうことを家族の介護と自分の病気で経験して来た
そうなったのも自分自身のカルマだったとなる
それは余りにも自分は家族でも良くされた結果としてそうなった

他では親に虐待されたとか親ガチャの人が多いからである、私にはそういうことは全くなかったのである、それは60歳までもそうだったのである
そのために死んでも供養して語りかけている、死んでも愛しているとはなる
死者を愛することは介護のような重い負担はない、死者は何も要求しないのである
でも死者を愛し続けることはむずかしい、なぜなら返答がないからである
また報酬もないのである、そういう死者を愛し続けられるのかとなる
ただ家族が全部死んで今になると思い出が宝になったことは言える
家族として暮らした日々がなつかしくそのことを思い出しているとき家族がまだいるようにも思える
最後は人間は記憶に生きるのである、家族がみんな死んでも記憶としては消えていない
それで思い出しては生きているように感じるのである
でも嫌なことは思い出したくない、そういう記憶もありそういう記憶は消したいのである家族でも親に虐待することはむしろ心の傷となっているからそんな親を思い出したくないとなる、その時親は親ではない、死んだ人を想ってくれない人はやはり何かそこに問題があったとなる、ただ個々の事情は複雑でわかりにくいのである




2022年10月02日

大学がかかわり久山町の健康増進運動はなぜ失敗したのか? (集団的平均的に人間をみたため?ー人間は個々に体でも違っている)


大学がかかわり久山町の健康増進運動はなぜ失敗したのか?

(集団的平均的に人間をみたため?ー人間は個々に体でも違っている)

illness1.jpg



久山町でかえって大学がかかわり健康増進とかしたら病気が増えた、くも膜下出血
で死ぬ人が増えたという

それはなぜなのか?

糖尿病および予備軍発症予防
は失敗し、著明な増加が認められた 8。実際 14 年間の努力にも関わらず、糖尿病の確定診断がついた人が男性で 15.0 から 23.6%、女性で 9.9 から 13.4%と著明に増加した。
また男性では、40 歳以上の久山町住人の約 6 割が、予備軍を含めた耐糖能異常という、数字に増えていた。研究責任者の九州大学・清原裕教授も 2007 年 7 月 27 日(金)の毎日新聞朝刊 で「1988 年以後、運動や食事指導など手を尽くしたのに糖尿病は増える一方。どうすれば減るのか、最初からやり直したい」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jln/26/1/26_47/_pdf/-char/ja


なぜ大学で健康指導してかえって病気が増えたのか?
武田先生の言うには人間を平均として見ることはできない、血管でも様々であり人によって違う、だから血圧でも130でも150でもそれを平均としてみることはできない
別に平均より高くても健康である状態の人がいる
降圧剤とか飲んでもかえって悪くなるという、確かに人間の体はいろいろである
体重でも体形でも体質でもそれぞれ違っている
もしかしたら人間が多様な個性があるように違っているのかもしれない
私の母親は百才まで生きたけど細い体であり重いものも持てない女性だった
でもどうも血管が丈夫でそれで病気にならずに百才まで生きたようだ
ただその人の体質によっていろいろな病気にかかることは確かである

私の母親は丈夫な体ではない、そして私の母親はそもそも無理をできないから激しいことはできない、日々家の中で同じようなことをして過ごしていたのである
一方姉の方は太っていて力があり男優りだったが認知症になり85歳で死んだのである
だから何か体力がないと細い体とか繊細な体でも長生きはできる
でも以外は体力ある人でも何か急な病気で死ぬことがある
スポーツ選手が意外と早く死ぬのはやはり体を丈夫だから無理もできるから過酷な運動で体を消耗して早く死ぬのかとも見る
私自身も体は丈夫ではない、体力がない、でも別に長生きするかどうかは関係ないから
もしかしたら長生きするのかとも思う、体力があるとかないとか長生きには関係ないようだからである
ただ体力がない人は激しい運動ができないから冒険などしにくい、それで私自身が登山をして死ぬほど疲れた、それで早めにやめたのである

人間の問題は平均的に何でも分類してとか見るのは危険である、人間の体にも個性があり多様性がある、でも大学では人間を平均的にみて健康増進を計った
糖尿病には減塩食でこういうものがいいと提供した
でも減塩するとかえってエネルギーがでなくなるという
だから人間を一様に平均的に見るのは良くないのである
それは人間の体だけではない、人間そのものもみんな違っている、それはその育った環境もみんな違っている、育った場所でも家庭でも環境でもみんな違っているからだ
教育でも問題なのは人間を平均的に一様に見る、それは明治から学校教育が始まりそうなったのである、なんでも点数をつけ平均化してみる
現代文明自体が常に数字化して平均でみる、でも人間は個々に様々であり違っている
でも個々に対応できない、それでかえってヨ−ロッパの貴族は家庭教師を雇ってそれぞれの個性にあった教育をしたから天才が生まれたのかとなる

また薬でも製薬会社のもうけのために過剰にのまさせる、これも確かにある
日本人は特に薬に頼りすぎる、すると必ず薬に副作用がありかえって悪くなったりする
糖尿病が増えているというときある人は病院に半年とか入院してかえって悪くなった
まともな食事もとれないことや精神的負担も大きくそうなった
そして家に帰ってその人なりの生活をしたらかえって良くなったのである
それは家に癒す効果があったからだと思う、その人は妻はいないが家に精神的に癒す効果がある、だからみんな家で死にたいというときそれは体の問題ではなく心の問題になっているからである

ともかく人間の問題は病気でもそうだし教育でもそうだしあらゆる面でそれぞれの個性にあったように対処できない、集団的に平均的に見てしまうのである
そして病院では番号で呼ばれたとか議員でも怒っていたのである
人間は数が多くなると当然そうなるのである、一人一人をなかなか診れないのである
一人一人の体が違っていても対処できないのである
それは病気だけではないあらゆることに一人一人に対処できない
だからこそ政党があっても政党では一人一人の言うことを訴えることを聞けない
あくまでも票として数を集めることが優先するからである
人間一人一人をみるのではなく人間を数として見ている
だからそれがカルト教団でも何でもいいとなりやすいのである
まとまった票になるからカルト教団でも頼りになるとなる、でもそうして集団だけを見ていると個々のことは見ないから問題が起きる
久山町で起きたことはやはり集団的平均的に見て個々の対応がなかったからなのかとなるでも久山町は小さい町なのだからそれができなかったのかとはなる

こうして現代ではみんな集団的になり個々人は見ない、それはカルト教団でも創価でも
共産党でもどこの政党でもそうなりやすいのである
第一何百万人のものも個々に対応することが不可能だからである
いくら相談になるのとしても無理である、でも個々に対応しないと問題が解決しないことがある
前にも述べたが人間の問題はカルマが関係している、そのカルマも個々に違っていて複雑だから一様に対応できない、貧乏な人はみんな苦しいから金の面だけからみる
それはわかりやすいからである、年収いくらだとか貯金がいくらもっているとか常に平均でみる、そういうのはわかりやすいから政策として反映しやすい

でも個々人の問題はそれだけではない、それぞれのカルマがありそれが他者からわかりにくいのである、それは別に金持ちの家でもカルマをかかえているのである
それがいつか必ず苦しみとなって現象化するのである
それは個々に違っているのだから集団で平均化して解決できないのである
そのことを私は家族の介護のことなどで書いてきた
カルマの解消はそれぞれが苦しまないと解消できないのである、金だけで解決するとは限らないのである
創価とか共産党でも組織団体では平均化して一様にみる、それは票になる数を集めることが優先されるからである
そこでは問題は解決しない、何百万に何が起きているのか、そこには不可解なことが常に起きている、罰当たるなど脅しているが信じられない不幸になっている人達が無数にいるのである、人間はそれぞれカルマを持っているからいくら集団化しても個々のカルマは解消できないのである

ただそもそも人間は個々に対応ができない、せいぜい数人しかできない、わずかの給付金を配ることなどはできる、根本的には解決できないのである
そこに政治の限界がある、政治家とは別に自分の利益を追及しているのであり身銭を切って困った人を助けることなどない、創価でも共産党でも他の党でも金に困っているから助けて下さいとか言っても党として政府に要求しますとなるだけである
それは国民の税金を分配することなのである
つまり集団的には問題は解決しないのであく、だから運がめぐると言っていたけど運が関係しているのである、その運が謎なのである、それはもしかしたら神の采配かもしれないからだ、だから人為的には解決しないのかとまでなる

ともかく人間は体でも個々に違っている、その違いをみないから久山町でも集団的に平均的に見て大学が健康増進運動でも失敗したとなる
現代は何でも集団的に平均的にすべてをみる、だから人を同じように見て平均的に対処したから久山町では失敗したのかとなる
でも個々に対応することはむずかしい、だから医者とかは体だけを見ていてもわからないその家族とかどんな暮らしをしているのかとまで診ないと本当は診れないとなる
様々なことは実際は関係しているからである
それで礼文町とかは島で二千人とかの人口でありそこの医者はたいがい一人一人のことがどんな生活化しているまでわかっている、すると体だけではないそれぞれの生活を知っているから個々に対応しやすいのである
それは小さな島だからできることである、ただそこにも専門医がいないとかで問題が生まれる
結局人間の問題は余りにも複雑な要素があり一面だけを診ては解決しないのである
集団化して平均化して見ては解決しないのである

例えばスリランカでは村の人が病気になると村の人みんなで祈っていた
そういうことは医者がいない時代に日本の村とかでもあったかもしれない
薬師堂が村の中心に常にありそこで祈るほかなかったからである
でも今のような医療がないから直しようがないことはあった
でも精神的にはみんなで祈ってくれるのだからそれが効果がないとは言えない
逆に現代では地域の人がそんなことするかとなるとしない
むしろ無関心でありかえって冷たい、田舎でも助け合うなど今はない、かえって人が苦しむことが楽しいとかまでなる、何か話題がないからそういうことで害にならなければ娯楽のようになっているのである
だから田舎でも相当に人間は変わってしまった、もともとそういうことが人間にあったにしろやはり時代の影響でそうなったのである




2022年09月14日

なぜ医療費が増えるのか、病院、医者に頼りすぎる (生活保護は上客になる理由ー病院経営が苦しいから)


なぜ医療費が増えるのか、病院、医者に頼りすぎる

(生活保護は上客になる理由ー病院経営が苦しいから)

生活保護の総支給費は10年前の2004年度には2.5兆円だったのと比べると、10年間で1兆円以上も増えています。

内訳は2011年の例で見ると、医療費が全体の47%(1兆6000億円)

立行政法人福祉医療機構の調査「平成28年度 病院の経営状況について」によると、平成28年では一般病院の41.2%が赤字経営であることが報告されました。同データは平成24年に28.1%、平成25年に35.3%、平成26年に40.7%、平成27年に39.6%と推移しており、全体的に年々増加しています。

赤字経営!?今だからこそ病院経営の見直しを始めよう

この数字を見れば明確である、生活保護でも医療費の額が大きいのである
それは無料だから気軽に医者にかかる、まるで医者が友達のようにもなっている
それは生活保護者だけではない、普通の人でも病院が老人のサロン化しているとかある
老人の話の話題は病気になることが多いからである
何かしら病気を持っていてそれを通じて話しが合うのである
日本がは国民保険があるので気軽に医者でも病院でも行けるということでもそうなる
アメリカなら国民保険がないので民間だから病院に簡単に行けない、保険に入っていない人は診てもらえないのである

その女性は確かに生活保護であっても国民年金が四万とかもらっているから生活保護とも言えない、その金で暮らしていきなさいとなっているのである
でも医療費は無料となるとしているがならない、必ず足りない金を要求される
それが一万とか二万とか高いのである
だから本当はそんなに医者にかかれない、目まいが治るとか医者に薬を飲めとして
二万を要求されたとか言う、他でも脳の機械での検査では2万要求されたとかなる
その金は生活保護でも市では払わないのである
だからすべてが医療費無料だとかならないし何か生活保護でもとても10万などもらえない人がいる、その人は国民年金に加えて5000円しかもらっていない
医療費でも必ず数万の金を要求される
そして医者にそういわれると断ることもできない、でも金がないのだからと言って断ればいいのである、それでも医者に言われると直したいとなり金を工面する
その金を自分に要求されるのも困るのである
この前も埼玉の方まで行って特別の検査をして治療したとかなる
それは医者に紹介されて行ったとなる

「先生私は金がありませんので治療費を払いないのでできません」

こういっても医者はすすめる、これは医者の方で金が欲しいということも確実にある
なぜなら今の治療は高価な機械が必要でありそれを供えていないと患者でも来ない
するとその高価な機械代の元とるだけで多額の金が必要になる、するとどうにかしてその機械を使う患者が欲しいとなる
現実に近くの病院で認知症になった家族を連れて行って脳の写真を撮ったが実際は認知症は診れない、福島県だと郡山市とか大きな病院二台しか精密に見れる機械はない
でもあえて何もわからないのに機械で写真をとったのかというと金になるからである
医療にはこうして金が無駄にかかりとられることがある

それは病院でも経営の面から見れば苦しいからそうなっているのである
相当に無駄な治療があることは確かである、そもそも薬でも治療でも医者に診てもらったからみんな良くなるとは限らないのである
でも人間は病気に一番弱いから医者に頼り機械に頼りあらゆるものに頼る
宗教でもカルトでも頼る、それは病院もない江戸時代からそうたった
現代では科学技術に神のように頼る、お医者様となり神のようにもなる
今でも一番尊敬されているのは医者だからである
森喜朗元首相が一千万とかの癌の薬をオプジープを使用して寿命が延びたとされる
それだけ高価なものでも病気になれば服用するのである

病院の経営が4割で赤字経営だというときやはり設備費とかにかかるし医者の給料代とかも高いからかかる、おそらく医療というのは金をかければいくらでもかかるものなのかもしれない、治療でも切りがないからである
でも本当にその治療で治るのかはわからない、特に老人の病気は治らないのが多い
するといくら金をか治療しても無駄な金を使うともなる
そのことが医療費が増大してもう国を圧迫している、そしてその保険料を払う世代が若い世代だから不満がつのるとなり老人は早く死んでくれとなっているのだ

ともかくこの世は無駄がどこでもある、もしかしたら膨大な無駄に費やされるのが人間社会かもしれない、なぜカルト教団に一千万とか寄付するのかそこに何百億もの金が集まるのかともなる、それも無駄だとなる、無駄を言えばきりがなくなる
最大の無駄は戦争だとなる、何百万人も死ぬ、それも無駄なのか徒労だったのかともなるからだ
医療の問題は必ずしも治療しても高価な機械でも薬を使っても治らないことがある
それで糖尿病の人は病院に半年入院してかえって悪化した
でも家に帰って療養したら良くなったのである
家の方が回復力を持つものがあったとなる、それは肉体だけではない精神的なものが影響していたからである

だから病院経営でも在宅医療とかコミニュケーション重視とか介護との連携とかで病院経営を立て直したことでもわかる、高齢化社会の医療は今までも医療とは違ってくる
介護の人が増えるし需要が高まるからそうなる
つまり肉体の治療も必要なのだが精神的なもの心が大事になる
それに対応することが肉体の治療と同時に必要になっている
高齢化社会の医療はやはり今までのただ肉体を診ているだけではな成り立たない
心も診る必要がある、でもそれを医者にみんなできるかとなるとなかなかできない
だから礼文島の医者のように少ない人口の村とかではその土地のことでも人でもわかるからコミニュケーションを取り安い、全体の中に医者も医療もあるとなる
医療と福祉は不可分なものとしてある
それでスリランカでは誰か病気になったらみんな集まり治ることを祈る
そういう社会だと高価な機械とかなくても何か福祉がありそれが補完するともなる
医療の問題は体だけにはとどまらない、何でも実際は全体と関係しているのである

高齢化社会の問題はこれから深刻化する、知っている人は一人娘に金をあずけて自分で
自分の金を自由に使えない、それでもめた、その娘は一人娘であり良くされたのけど
親のことを思わない、それで怒って来なくてもいいと言ったという
こうして親子の間でももめる、親子でも近くにいても挨拶しない人もいる
それぞれ家庭の事情が違うからそうなる、なかなか他の家族のことが理解しにくいからである
もう子供でもあてにならない時代でもある、それで家族遺棄社会にもなる
それは非情になったというより介護の負担が金銭的にも精神的にも肉体的にもも大きいからそうなる、それを担える余裕がなくなった、貧困化でもそうである
だからこれから介護とかで悲惨な事件が日常化する、孤独死も日常化する
老人が多すぎて病人社会にもなるからだ、まず百才まで生きるとしてもほとんど病気になり健康には生きられないからである
高齢化社会はどうしてもプラスにはならない、一部ではなったとしても全体的にはなりにくいのである

2022年09月13日

全体的俯瞰的思考ができない現代文明社会 (部分化してアトム化した文明ー医療でも教育でも仕事でもなんでも)


全体的俯瞰的思考ができない現代文明社会

(部分化してアトム化した文明ー医療でも教育でも仕事でもなんでも)

tunagal11.jpg


unitedone1.jpg

病気になるといろいろな科があり専門の医者がいる、ところが江戸時代とかなると専門の医者はいない、何でも見ていたのが医者である、様々な体の部分の専門家ではない、全部を見ていたのが医者でありさらに医は仁術というとき相手の心まで見ていた
生活状態まで見ていた、それは江戸時代とかなると専門家とかは限られているからかえって全体的に考える、村という小さな社会が社に中心にしてあった
でもそこでも困ったことが常にある、病気が一番困ったことなことは同じである
だから村の中心には必ず薬師堂があった、病気が治ることを祈るのである
でも地蔵でも腰が悪いと祈る地蔵とか目が悪いとか祈る地蔵とか今の病院の科のようになっていた、だからどうしてもこうして専門家してゆくのが人間社会てある

その人は常に金がない、頭がふらふらして目まいしてこまるとなり隣の市に脳をみる機械があるからそこでみてもらいと言われた、でも金が必要になるがない、そんなこと医者に言って金もめんどうまで見ないのである
でも江戸時代だったらその人が困っていたら後で金をはらってもいいとか安くするとかあったろう、それはその人全体を見ているからである
医は仁術にもなっていたからである、医者にみてもらう金がないというときそれを相談するのは役所の福祉に相談するとなる
不思議なのはスリランカなのか村の一人が病気になるとみんなで集まり病気が治ることを祈っていた、それは迷信的にもなるがそれにも効果があると見た
みんな治ってもらいたいというときそういう気が全体に働くからである
ただそれは医者もいないし病院もないからそうなったのである

でも今はそんなことはない、個々に人は分裂して金が唯一の頼りになっている
金がなければ医者にもかかれないし診てもらえないとなる、地獄の沙汰も金次第となる
森喜朗元首相が癌になりオプージプという薬を一千万とかかけて服用して寿命が延びたとか報道があった、そんな大金を払って普通は飲まない、でも金がある人はそこまでする
それで東京五輪で賄賂をもらっていたのかともなる
金で病気でも直すことができるが金がないものはできないともなる
ただ日本は国民保険があり公平である、アメリカは本当に医療費が馬鹿高いからその差がはっきりと現れる、医療費が高くて医者に貧乏人はかかれないのである、結果的に早く死ぬとなっている、日本はその点いいのだがもうこれだけ老人が増えて病人が増えるとそんなに医療費に回す金もなくなる、特に日本は貧困化しているから余計にそうなる

どうも医者というのは医は仁術というとき人間を患者を機械のように見れないだろう
機械の部品が悪くなったからその部品を交換するように患者を見れない
でも実際は人間の体でも部分化して見ている、専門家とはそうである、人間の体全体を診る人はいない、でも老人になると体だけで診るのではない、心まで診る必要がでてくる
それは老人はいづれまもなく死ぬということが避けられないからである
だから糖尿病で半年も入院した人が栄養がたりなくなりかえって病気が悪化したのであるでも家に帰ったら回復したのである、つまり医者でも病院でも体だけを診ている
その心を診ていない、そして老人になるとなかなか病気でも治らないから、心の問題が割合で大きくなる、だから延命治療はいらないとか自宅で死にたいとなる
それはもう体を看るだけではない、心の方が大事になるからである
家というのは何か安心する場所であり威厳を持てる場所でもある
その人は20代で一人倍以上働いて稼いだ金で立派な庭を作り家も建てたからである
それが自慢になりそれが人生の証しだまでなる
病院に入院したらその人はただ病気の人となるだけでありその人の人生とは関係ない無機質な病院に隔離されるだけなのである

人間というのはやはり体だけでを診てもわからない、心の問題があり老人になると特にそうなる、近いうちに死ぬのだから体より心の問題の方が重要になる
そしたら延命治療して廃人のように生きるより家で威厳をもって死んだ方が幸福だとなるどうして死ぬのかが重要になる
でも医者はそこまでは診ないのである
ただ礼文島の医者のことをNHKで放送したけど2000人とかの人口となるとその一人一人を知っている、何をしているのかどういう人なのかまでわかる
すると医者は体だけを診ているだけではない、その人間を全体を診るとなる
ただむずかしい病気になると稚内の病院と連絡して診てもらうようにしている
小さな島だったらその人の体だけではない、その生活や人なりを知っていて治療するとなる
礼文島は花の島であり花に癒されて死にたいとなる、稚内の病院とかで死にたくないとなるかもしれない、それは小さい島だともう全体につながりが明確に見えているからそうなる

とにかく現代は医療でもそうであるが何にしろ全体が見えない、部分化してアトム化している、一万の田舎町でもそうなのである、ただ大工さんを見たらその人は大工もできるし庭作りもできる、壁塗りまでできていた、それはその人の特別の才能からできたとなるがやはり田舎だと何でも屋になる、そういうことが強いられるからである
百姓とは百の仕事をできる人だとなる、それだけ農家でも多様な仕事があるからそうなった、また時代がさかのぼればのぼるほど人間は全体を生きていたのである
なんでも屋にならざるをえなかったのである、第一ケガするとしてそれでその傷に効く薬草などを知らなければならない、医者がいないのだから普通の人でも知って治療するほかないとなっていた、そういうことは農家とかでも薬草とかを知って備えていたとなる

村に鍛冶屋があるとする、するとその鍛冶屋は農民一人一人にあう農具を注文に合わせて作っていた、それは村で生きるとなるとそうして農民一人一人の要望に応えるためにそうなった、今のように規格品を買うことにはならない、道具でも職人でも様々なものが必要になるからである、その鍛冶屋にしても村全体の中で生きていたのである
ただ個々人に道具を売るというだけではない村全体のために働いていたとなる
現代はその全体のコミニュティが喪失したのである
田植えでも稲刈りでも人力だったら村全体でする、それで早乙女が田植えする、みんなでする、それが祭りになっていたのである、つまり祭りとは村全体でするものだからであるそれはみんなで協力しないとできないからそうなっていたのである
祭りがなくなるというときそうした共同性がコミニュティが喪失したことを示しているのである、今や農民が戦後まもなくでも6割とか戦前とかだと8割りの社会ではないからである

御民我れ 生ける験あり 天地の 栄ゆる時にあへらく思へば  犬養岡麻呂

こういうことで自然と人間が一体化していた、天地(あめつち)が栄えることが生活の基本である、でも今は科学技術とかがで栄えることであり天地とかは言わない
でも持続可能社会でそういうことが再び言われるようになった
天地がなければ人間の栄は基本的にないからである、天皇とはその栄を祈るものであり日本の祭司だったのである、だから皇居で田植えしたり蚕を飼っているのである
でも工業科学技術社会になればそれも現実と離れたものとなってしまった
日本がの高度成長は科学技術力で栄えたとなるからである

いづれにしろ人間は全体を見ないし見れないのである、無数に部分化してアトム化して分裂しているのである、原発でも吉田所長は復水器のことがわからなかったのである
それは肝心なものでもわからなかった、私は資材の専門家だからわからなかったと言っていた、原発でも余りにも複雑だから全部知っている人はいなかった
その前に原発が地域社会で生態系でどのように作用するかなど考えなかった
もし事故になったら生態系が汚染されて空気すら吸えなくなる恐怖になったからである
つまりこれも全体を生態系でも考えない全体を見れないということから起きたともなる
科学技術は巨大化して生態系すらも破壊してしまうのが現代である
気候変動も起きるとか全体に影響するのである
ただ人間は全体を見るのは苦手である、ただ一部分を見ているだけである
そこに人間の弱点があり今のような複雑怪奇な文明の全体を知る人などいないのである
それを総合する人もいない、それは神しかありえないだろう
文系理系とかあってもそれを総合的に見れる人などいないのである
そこに結局原発事故のように破滅的なことが起きて来る、そして文明は滅亡するともなるバベルの塔のように崩壊する運命になる

2022年07月11日

田舎の孤独死の怪 (隣の人が死んでいても二カ月わからなかった)


田舎の孤独死の怪

(隣の人が死んでいても二カ月わからなかった)

lonlydeath.jpg
この住宅はコンクリートであり隣の物音など聞こえるかもしれない
でも二カ月も死んだのがわからなかった
二カ月も見かけなかったらおかしいと思うかもしれない
ただこの人は日ごろから付き合いがないからそうなった
回りの人が悪いわけでもなし冷たいことでもなかったのである



市営住宅の隣の人が死んでいるのに二カ月もわからなかった
その隣に住んでいる女性を知っている、良くしゃべる人である
それにしてもなぜ隣に住んでいても死んだのを知らなかったのか?
その女性は気さくに誰でも話す人なのである

その死んだ男性は変わり者でありあいさつもしなかったという
付き合いはなかった
でも知っている女性と立ち話していたらその死んだ人の兄が通って行ったのである
兄弟がいたのにそれも付き合いがなかった
これもどういうことなのかわからない
つまり近くに兄弟がいても付き合いがなかったということなのか?

それにしても隣に住んでいる人が死んでも二カ月もわからないものだろうか?
その時は冬だから匂いもしなかったという
その女性はいろいろ気を配る人である、それでも隣の人が死んでいて二カ月もわからなかったというのも謎である

もう田舎も都会と同じだよ

こう言うのもわかる、市営住宅だから特殊にしても底辺層がいるにしても田舎でそういうことが起きるのか?
というのは田舎だと誰だ出入りしているかと四六時中監視されている
近くに親戚がいて監視されている、女性が出入りしたりするのも監視されている
それが田舎である
でもここで孤独死した人は誰も関心がなかったということも謎である

ここの市営住宅には金属の塊りをぶらさげてただ毒口をつくだけの迷惑老人がいる
この人は話しかけても話すこともない、ただ毒口をついているだけだという
こうなると本人にとっても生きることがただ苦しいだけではないか
本人自体が地獄に成ってしまわないか?
何か前に他の市営住宅にいて追い出されたとか言っていた
市営住宅には何か問題な人たちがいることは言える
猫十匹飼っているエホバに入っている女性がいる
底辺層は創価が共産党に入っている
それで名古屋に行った時、そこも市営住宅地であり共産党と公明創価の宣伝があり
おそらくそういう場所ではどちらかに属していないと生活できなくなっている

とにかく〔田舎も都会と同じだ」というときこの孤独死は特殊なことではないかもしれない、田舎でも別に関心を持つとしても監視しているとか何か苦しんでいる時
他人の不幸は蜜の味となる、それがあからさまなのである
そういうことを話題にして楽しむのが田舎だともなる

その女性は農家の出である、それでも(農家は汚い)としきりに言う
そのことは戦後食料不足になったとき都会から食料を高価な着物とか骨董品とか何か食料と交換したとき嫌というほど思いしらされた
農家の人が素朴とかはない、田舎の人間が素朴とかないのである

ともかく田舎でも底辺層がいる、そこはみじめだとなる
むしろもしかしたら江戸時代の長屋のような所では人情があったとか見る
現代はむしろこうして隣に住んでいても無関心だったとなる
ただその人による、死んだ人は普通ではない、異常だったともなるからだ
でもそうして孤独に死んでゆくのも悲惨である
でもまたそうなり安いのが現代でもある、それは都会だけのことではない、田舎でもそうなのである

何か原発事故で復興住宅でも団地のような所でも孤独死があったとされる
孤立してそうなった
でも逆に仮設住宅では一軒一軒であり協力しあって一人暮らししていた人が喜んでいたというのも不思議である、そこは江戸時代のような長屋のようになったのかもしれない
年配の女性でも辺鄙な場所に住んでいたからいつも近くで逢えるからいいと言っていた
これも意外だった、田舎だと離れて住んでいるからである
女性は話し好きであり話すのが生きがいともなるからだ

現代の問題は一人暮らしが多くなることである、すると孤独死も増えて来る
最近知った大工さんも離婚して小高から原町に移り住んだ
すると一人になる、それで家事とかで困っている、でも仕事するから仲間もいる
でも家に帰ると一人なので今までは違ってくる、がらんとした家に一人でいることになるからだ、とにかく離婚する人もまた熟年離婚になる人が多いのである
死別もあるが一人暮らしが増える、すると孤独死に増えてゆくのである

とにかく近くに住んでいても何の仕事をしている人かわからないことも多い、田舎でもそうなのである、そこで人間関係が希薄化している
ここで孤独死した人は特殊な人だからそうなったのだがそれでもこうなりやすいのが現代だとなる、田舎でも都会のように他者の関係が希薄化している
ただ田舎は逆に関心を持つにしても同情するとかではない、相手の不幸を喜ぶ関心だとなるから困る
結局この世の中で住みよい場所などないのである、田舎だと自然がありその美に身近に接するとしても人間自体はいいとはならないのである

それにしても隣の人が病気になり福祉の車に乗せられていた
こうして病気になれば福祉関係の人が来る、でもそこには二カ月間死んだまま放置されていたのである、ただ突然死んだからそうなったともなる
病気になったら福祉関係の人が回るからである、それがないから突然の死で放置されたのかとなる
ともかく高齢社会ではこうして孤独死する人は増えて来る
そうなると阿部前首相が殺害されたが世界中からお悔やみがあったりするからそれが悪いものでもないとも見る、一方全く兄弟すら付き合いがなく放置されて誰も知らず死んだ人がいた、その差も大きいとなる
その人は冬に死んだけど夏だったらこうはならなかった、匂いがするからである
いづれにしろ一つの田舎の怪であった

2022年07月01日

それぞれの土地と家の物語 (歴史も家と土地の物語から始まる)


それぞれの土地と家の物語

(歴史も家と土地の物語から始まる)

familyhistory222234.jpg

歴史と言う時多岐にわたるから理解しにくい、むずかしいとなる
でも家族からみるとわかりやすいとなる、みんな家族が一番関心があるからだ
聖書にしても家族の物語からはじまり国の物語となり歴史となっている
アダムが祖となり綿々とつづいたその系譜の物語だった
何か中心となる家族がいてそれが分派する、一族となり家族が拡大する
今でも中国だと李氏が大きな一族を形成している、李氏朝鮮というときもそうである
李氏によって国が作られたとなるからだ、日本では逆に天皇に姓がないのはどこの氏族にも所属しないということで国を治めることができたとなる
たいがい力のある一族に属しているからどっちかに族していれば公平にならないからである、でも権力争いになると天皇は錦の御旗として持ち上げられて官軍と賊軍に分かれた
古代では天皇が兄弟で二つの勢力に分かれて熾烈な戦いとなる
南北朝でも天皇は二つに分かれて熾烈な争いとなりそれが国のすみずみまで争いとなり戦乱はつづいたのである、今の天皇は南朝の末裔だとしているのもそうである

家というとき土地があって家が建つのだから土地と関係している
その土地に土着するには土地が必要だからである、だから家と土地は切り離されずある
特に農家の場合は土地がなかったら生活もできないのだから土地と密着しているし
土地から離れて家も家族もありえないとなっていた
だから農家では土地を売るなとなっていたのである

先祖代々の土地を売って引っ越すと、先祖の祟りがあるというのだ
https://ameblo.jp/hirosu/entry-12281454084.html

これも土地と言うのが深く人間にかかわるものとしてあるためにそうなった
農民だと土地が命であり土地無くして生活が成り立たないのだから当然そうなる
そもそも農家の土地は代々その地域で先祖から耕して作られてきたものであるからだ
ある人は梨農家でも良い梨を作るには十年かかるとか言っていたからである
農家では跡を継ぐのが有利なのはそうして先祖が土地を苦労して作ってきたからだとなるたわけは「田分け」のことであり田を土地を分けること売る人はたわけになったのである
何が今住んている自分の土地もそうである、私の父親が双葉の新山で酒屋の丁稚であり暖簾分けしてこの地に来た、この土地はこの街で一番低い土地にあったがやはり土地を得たということで土着したとなる、土着とは土に着くことであるからだ
でも戦後二回洪水になり私の家は一番被害があった、今でも下水から水があふれ浸水しているのである、一番低いから水が集まるのである
その土地土地にはこうして悪い土地がありそこに住まざるを得ない理由がある
がけ崩れとか台風とか大雨で日本では常にある、そこはやはりもともとそういう悪い土地であり危険な土地なのである、でもそこに住まざるを得ない事情がある
日本は特に山が多く平地が少ないからそうなる、平という地名が多いというとき山間でも平な場所があるとそこに家も建てられるし農地にもなりやすいからである

日本で野というときは斜面のことだったのである、入野というとき山間の斜面の奥に入ることである、それで入野の歌が万葉の歌が残されたのである
そういう地形が日本の典型的な地形となっていたからである
そもそも平氏というとき山間の平な土地ということにもなる、極めて日本的な土地柄から生まれた姓だとなる

農民だとどうしても土地が一番大事になる、それで相馬地域では越中とか富山県から相馬藩が飢饉の時命がけで移住してきた、江戸時代は自由に移住できなかったからだ
それまでして移住したのは相馬藩が飢饉になり三分の一の人口が減ったからである
そこで欠け地が増えてその土地を与えるということで移住して来た、そこは余り土地としてはいい場所ではなかったのである
だいたい前田とあるところはその村の草分けでありそこが中心となって発展した
原町区の大原村だと前田という所がありその人がそこに住んでいて古い家だったらしい
その人と南相馬市の市立病院で入院して一緒だったので話を聞いた
そしてそこから遠田という地名があるがそれは前田から離れて山の方の遠い所で森の中に田畑があった、まさに前田からは遠い場所なのである

ともかく家と土地は切り離されずある、農民の場合は一体なのである、ただ商業とか工業が発達すると土地はそれほど重要でなくなったのである
だから浪江の人は回りの田んぼが草ぼうぼうになっていても無関心だった、かえって補償金もらって良かったとか言っていたのである
今は農業でも地方でも一割くらいしか生産量としてない、経済的に第一次産業のウエイトは減退したのである、それで意外と田舎に住んでいても農業のことがわからない人が多くなったのである、現実に農業していなければそうなる
給料もらえるのは会社だからである、それで藤倉ゴムとかではゴルフ用品を作っていた
それもグロ−バルに展開していたのである、そういうこともわからないことがある
農業だと一応見えるからわかるが商業とか工業になるとわかりにくいのである

家の物語もあるがそれと一体化して土地の物語がある、なぜなら土地無くして人間は住めないからである、そもそも争いが土地争いが必ずある、狭い地域でも必ず土地争いがあり領土争いがありそれが大きな戦争となってきたからである
なぜ土地とか家が人間にとって身近であり基本になるのかとなると農家だったら土地があって生活が成り立っていたからである
例えば一軒の農家があるとするとその農家がその土地の草分けとかなるとやがて城にもなる、掘りをめぐらして自衛するからそれが城の基ともなっていたのである

結局土地にしても家にしても先祖が苦労して得て作ってきたことに価値がある
そういう人間の苦労を偲ぶことが歴史にもなる、何の苦労もしないて得たものには価値がないとなる、私はこうして苦労して土地を手に入れ家を建て蔵を建ててきた
だからここを大事にしなさいとなる、田は売る奴は田分け(たわけ)となる
それは戦後の引揚者も仕事がなく不便な場所を開墾して住んだ
街の近くでも開墾して住んでいた、小池とかでもそういう場所があった

また飯館村とかでも木戸木などは本当に山にふさがれて不便な場所であったが開墾して住んだ人がいた、そこに共栄橋とかあるのはそのためである
共に栄えるとなるが今残っているのは二軒くらいである、もともと十軒くらいだったからそうなった
引揚者の数が多く仕事がなく不便な地域に開墾して住んだのである
浪江町の津島などは相当に山奥でありそこでも引揚者が開墾して住んだ
だから結束が強いというのもわかる、共に苦労した仲間だから結束が強い
でも原発事故で住めなくなったのである
そしてその土地は荒地となり放置されることになった

先祖代々の土地を売って引っ越すと、先祖の祟りがあるというのだ
https://ameblo.jp/hirosu/entry-12281454084.html

こんなこと関係ないとなるがそれだけ土地がもっている重みが農民社会では強かったからそうなったのである、日本は国土が狭いから土地の持つ価値が大きい
また山が多くて平な土地が少ないから余計にいい土地を求める、でもそういういい土地に住む人は草分けであり後は悪い土地に住んだのである、そういきう場所は災害にも会い
安いともなる、それが自分の家の土地だったのである
土地にまつわる歴史は家単位でもあるし藩単位でも国単位でもある
それが歴史だったともなる、ただ遊牧民だと土地にこだわらないから移動するから違っている、血族が強力な結束がある、日本の姓がどこかの土地の村に由来しているのとは違っているのである、日本では村かアイディンティティになっているからだ

そして満州に日本が進出したのは土地を得るためだった、広大な土地があり農民社会だったら土地が第一だから満州に移住したのである、そして寒い地域でも米作りしていたのである、農業だったら土地がないと成り立たない
だから農業だと土地の争そい土地の奪い合いになる、戦国時代でもそうである領土の拡大が第一になる
ロシアがなぜウクライナに侵略したのかとなるとロシアは広大な土地があるのにと思うがロシアは依然として農業社会の面があってそうなったのかと見る、ウクライナには広大な土地があり麦がとれる、それも輸出できるからだ
やはり食料とかエネルギーが石油やガスや石炭でも資源を持つ国は強い、金の裏付けとなるのものだったのである

ともかく原発事故で先祖が苦労して得た土地を捨てて他に移った人には祟りがあるのか?これも今はないとしてもやはり原発をこの土地に作らせたことが呪いになったことは確かである、そのためにその先祖代々の土地を捨てなければならなくなったからである
そして他の土地に移っても成功しなかったというのは祟りだったのかとなる
でも別に補償金をもらって仙台市の方に移った人でも成功していた人はいる
これはやはり土地と一体であった農民社会だから伝えられた
むしろ現代では成功者というとき篤農家ではなく工業であれ商業であれ農業以外で成功した人達だとなっているからだ
土地に執着した農民社会とは違っている、ただ放射線被害を受けたのは漁業であれ農業あれ林業であれ第一次産業の土地と一体化して生活する人達だったのである
でもそれらは現代では衰退産業になっていて跡継ぎがいなとか問題になっていた
そこに原発事故が起り壊滅的になってしまったのである

でも人間は親であれ先祖の苦労を偲ぶことが歴史でもあるというときそれを無視することはいいことがないともなる、それで先祖の祟りがあると言われたとなる
私の家でも水害で低い土地だから一番大きな台風被害の時、二階がなく逃げる場所がなかった、近くの二階のある家に逃れたのだがそれも水が押し寄せて危険だったのである
それでどうしても二階を持ちたいとなり二階のある家を早い時期に作ったのである
そこに苦労があったのである、それは地元の木を利用して作った
ハウス会社などまだない時代である、すると家とは土地を得て土着してその上に家を建てる、その家の材料が地元のものだとするときまさに土着したとなる
それがハウス会社になると地元とも関係なくなり一二週間で組み立てて建てる
そういうことで何か重みもなくなる、でも部品は工場で精巧に作られていて昔の家よりはいいものなのである

近くの人の石垣を積んだような庭が重みがある、それは20代ですでにそんな庭と立派な家を作ったのである、トラック運転手もしていて人の二倍の荷物を運んだ
その頃高度成長時代であり給料も高いから働けば働くほど金が入ったためである
つまりそうして自ら苦労して建てた家にいることで充実感がある
病院に半年くらい入院してかえって病気が悪化した、それは精神的な面もある
家にいれば自分で建てた家として重みがあり安住するとなるからだ
ただそこも街に近くても津波の被害があった、あそこまで床上まで津波が来たことには驚いた、それもまた家と土地の歴史となった
でも根こそぎ家も土地も消失した漁村よりは良かったとなる
でもあそこまで津波が来るとは誰も予想できなかった

こうして土地と家の物語があり家族の物語がありそこに苦労があり価値が生まれ
もし苦労がなかったら必ずしも価値は生まれないともなる
親でも子供を苦労して育てないとありがたみがなくなる、それで金持ちの子供が親自体が苦労しないとなり親のありがたみを感じないとなり放蕩息子が生れたりする
商家ではそうした放蕩息子がドラマになる、これは家だけではない、地域でも国単位でも歴史を忘れるということは先祖が苦労して築いた物を忘れるということである
それが先祖の祟りとなる、まず原発事故の悲劇は営々として築いてきた故郷に住めなくなったということである、それで放棄されて先祖代々の農地でも草ぼうぼうになり捨てられて神社でも捨てられてそこを幽鬼となった先祖が彷徨っている感じの荒寥としたものになったのである
それは限界集落とかでもそうである、村自体に人が住まなくなり村自体が山間に埋もれ原野化してしまったとことである、そこに神社にお参りする人もなく墓参りもなく捨てられて先祖は幽鬼となって彷徨うようになる、それがこの辺では原発事故で広範囲に起きた
だから原発事故の罪は余りにも深かったのである
でもそれをあまり深く考えない、誰も死んでないのだからたいしたことがないという人もいる、でも現実を見ればそうではない、原発の避難区域にはもう戻らない人が多く土地も家も捨てられて先祖も捨てられたのである、そこで先祖の祟りがあるということもありえる、だからなぜそうなったのか?これは深く考えるべきものだったのである





2022年06月10日

自分の家の歴史ー地震の後片付けで生前整理にもなった


家から考える理系と文系

(文系的なものも家に深くかかわる―土着的なものの必要性)

家は物理的存在でもある、物としてもある、だから私の家は前に店をしていてそこが広いのである、柱もなく広い、それで危険だと指摘された、それで怖いと思ったのはその上に自分が寝ているからである
だから今回の地震は本当に怖かった、ゆれが激しく身動きもできなかった
崩れるのかと思ったから怖かった、構造をみれば地震に弱いことがわかった
柱がなく壁もなくそこはただ広い空間になっている、それで支柱もないので危険である
そして50年とかすぎて古くなり痛んでいることもある
それで一部の壁がくずれ中にシロアリがいたのである、これもショックだった
床下を一時シロアリ駆除してもらった、それも結構な金がかかった
何か家は金がかかる代物なのである、増築したりもするし金がかかる
近くで新しい家でも壊したのはなぜか、やはり住んでいる内に子供などができたりして
新しく建て直したともみる、家は確実に家族でも子供が成長したりして変化して家も変えざるをえないのである

そして家というのは確かに物でありでもそれは構造物として物理的なものとしてみる
だから地震で耐震設計するときは物理的に揺れに強い強度をもつらようにする
でもまた湿気により家が地震に弱くなるというのも意外である
それは化学的作用だとなる、つまり耐震設計は構造物として物理であり湿気とかは科学なのである
そして家はそれでけではない、文系にかかわるものがまたある
それは家の物語を語る時それが歴史なのである、そこに家族の生活があり継続された生活がありそれは歴史になる、歴史となると何か大きなもの国の歴史とかみるが実際は家自体一番わかりやすい歴史なのである
それぞれの家に必ずその家の歴史がある、そこで生活した物語があるからだ
そして故郷というときその家は深く郷土と結びついているのである

それで現代は何でもチェーン店として商売を展開するが何か生前整理はそうした全国的なものになじまないと思った、なぜなら生前整理するにはその家族のことをある程度知らないとできないと思った、遺品を整理するにしてもつまらないものでも人生の思い出がそこにあり簡単に捨てられないからである
ところが地元の人でも簡単に邪魔だ価値ないとして捨てようとする
その人にとってはそれはゴミにすぎないのである、ここに大きな問題があった
もし宝石類とかであれば金になるとして投げたりしない、その整理をまかされた人もこれは金になるとして捨てないだろう、でも粗末なバッグとかあったらこんなもの捨てろとなる、でも私の姉は従軍看護婦で戦友だった女性が手作りした粗末な布のバッグを大事にしていたのである、それは戦地で生死を共にしたからこそであった

また自分の家の歴史を語ったがやはりそれぞれの家に思い入れが生まれる、だから原発事故でも老人は愛着があるから残ったのである
家とか土地に愛着ができていたからそうなる、そして人間が生きる時、貴重なのは時間なのである、誰とともにして生きるかということは誰とともに空間と時間を共有するかとなり故郷がそういう場所だから老人になると他所に移りにくいのである
本当に時間は消失する、空間は死んでも億年でも残る、でもそこに人間が生きる時間は短い、終わってみればあっという間だともなるからである
それで熟年離婚というのは損だとみる、なぜならもう新しく共に生きるという時間がないからである、時間はとりもどせないからである

ともかく家というのは物としてある、物理的化学的存在としてもある、でも物と心は一体となる、色心不二である、色は物であるでも人間の場合は物と心は一体化するのである
それが東洋的思想だともなる、この物を探求するのが理系であり科学者である
でも物と心を一体化するのが文系だともなる、だから確かに家は物として見れる、でもそこで家族が生活して歳月を重ねる、そのうちに家という物は構造物は心と一体化するのである
現代文明はあるゆるものが物化して心と分離しているのである、大都会のビルを見てもそれはもう人間の心とは何の関係もない、人間の心と一体化できないのである

たとえばフィレンツのアテネの学堂とかの絵でもそれは人間の精神と一体化したものなのである、大聖堂でもそうである、そこには精神性があり荘厳な森をかたどったものでありそこに深い祈りの場ともなったのである
現代ではそうした心が精神性が喪失しているのである、物と心は一体化しない分離してしまったのである、つまり理系的なもの科学的ものがおおってしまい心はないがしろにされた、それはあらゆる場所でそうなのである
もう人間は心のこもらない物に建築物に囲まれて病院でもそこで機械に囲まれて遂にロボットにでも看てもらうとまでなる、患者は番号で呼ばれてもうナチスのようにガス室にでも送られるという無機質な空間なのである、それで病院に入院して恐怖になったのである
私が家にこだわるのはそこが人間的な空間なのである、そこには物としてだけあるのではない、家族の生活がありそこでまた家族は生きているのである、祖先が家にはまだ存在しつづけるのである、例えば空家になり廃墟のようになってもそこには何か幽霊になっても家が離れないとも感じる、でも壊されてしまえば何も感じなくなるのである
家にはだから死んでも家に死者は生き続けてるとかなる
借りる部屋にしてもそこで自殺したりした人がいるとそこにその人が怨霊のようにすみつくなり怖いのである、家に霊がとりつくともなるのである

そして大きな問題は家はそもそも土着的な存在である、土地をもつことは土着的になる
これは借りている家だと相当に感覚的に違う、一時的にいる場所だとなるからだ
でも土地をもって家を持つと土着したことになる、その土地と結びつくのである
それで人間の仕事が土着的であるべきというとき果たして現代のようにあるゆるものが広域化してグロ−バル化することはこれも物と心の分離になる
第一地球の裏側から食料が入ってきてもそこで生産する人たちのことなど考えないだろうただ物にも作った人の心が入っているとしてそれを感じない、ただ値段だけ見ているだけである、物と心は完全に分離しているのである、そこでマルクスは人間疎外を言ったのである
だから何でもチェーン店化しているのがいいと思えないのである、ただそれも車社会とかなってそうなったともなるかもしれない、コンビニがそうだからである
それはもう土着的なものではない地元とは分離しているのである
なぜなら別に地元の人が買わなくても成り立つ商売だからである
でもそこには本当にコンビニでありコンビニーエントなものであり土着的なものはないのである、商売にはそういうことがあるにしても極端だとなる
物がない時代を物を求めて来たが今になると心を精神的なものを求める
家(もの)と心はは一体化しているから家は単なる物と見れないのである
そして家は土着的なものがあり土地とも一体化することがある

そして意外とこの土着的な志向というのが大事である、原発事故でもそもそも土着的ではない、その土地の生態系とかなど無視して建てられる、その土地の風土とか無視して建てられる、その時自然がしっぺ返しがある、そのために地震があり津浪があったとなる
また知床の観光船の事故でも同じだったのである、そこで風とか潮流とか自然とその土地の風土を熟知していないと観光でもできないものだったのである
つまり土着的でないとできないものだった、でも土地の漁師が観光船を操作していない
外から来た人が操作していて事故になったのである、土着的なものとして仕事していなかったからである
だからなんでも全国展開するチェーン店でできるのかとなるとできない、確かに有利な
面があるにしても生前整理となるとその土地であれ家族であれ深くかかわるからただ整理だけすればいいとかならないからである
ただ経営的には土着的なものとしては不利になりできなくなった、でもそこに大きなものが欠けることになった、それは土着的なものではないと補いないものだったのである




天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

右は、聞かく「左大臣長屋王(ながやのおほきみ)の佐保の宅(いへ)に御在(いでま)せる肆宴(とよのあかり)の御製(おほみうた)なり」といへり。

奈良の山なる黒木もちということは土着的なことなのである、ただこの家は左大臣とかの家だからこそ立派だったともなる、おそらく庶民はこうではなかった、小屋のような家に住んでいたとなる、その後農民でもこのような家をもてるようになったのである

自分の家の歴史ー地震の後片付けで生前整理にもなった

2022年05月08日

ヤングケアラーの悲惨 (貴重な時間が奪われることが最大の損失)


ヤングケアラーの悲惨

(貴重な時間が奪われることが最大の損失)

NHKでヤングケアラーのことを放送していた、それも小学生とか30年も介護していたとか驚く、そんな人がいるのかと見てこれは悲劇だと思った
これこそ親ガチャだと思った、親のために一省台無しにされたとも見た
そうは言わなくても自分の人生なんだったのだと必ず後悔する
親のために尽くして親のために生きたとなる

ただそういうことは戦前とかだと親のために子供が働かせられていた、貧乏な国では子供が働き手として産んでいた、そういう社会だったのである
子供が親のために働く犠牲になるともなる、貧乏だとそうなりやすい
別に私の子供時代でも何か変なのだけど店の配達とか店の手伝いとか卵買いとかさせられていた、親が酒屋の丁稚だったので私も丁稚のようにされたともなる

そういうことは農家でもあり子供が親の仕事を手伝うのが普通だったのである
そういう社会だと親でも子供を産んだ方がいいともなる
今の社会は子供のために親が犠牲になるとなるから子供を産み育てるのも嫌だとなる
だから今度はそういう時代になると子供は親のために働き孝行するのが普通だったのに
子供のために働かせられ尽くすだけだとなり不満になり子供いらないとなり少子化にもなったのかとみる

でもそもそも生物としては親は子をうむために犠牲になる、鮭でも子を産むために必死で川を上り子を産むと死んでゆく、それは生物を維持するための本能である
子供のために犠牲になるのが生物の本能なのである
そうしなければ子孫を残せないからである

だから親のためにまた老人のために若者が犠牲になる社会は生物としては異常だとなる
これだけの高齢化社会と人類史でも経験していないのである
それでどう見るかは初めてのことなので何とも言えないのである
これまでの人間の歴史ではみんな平均寿命が長いのであんまり介護とかもなかったもしれない、ただあったとしても介護期間でもあまり手厚い治療をしないから早く死んでいたと思う、ただ若くても病気になり介護していた人はいた
老人をこんなに介護する時代はなかったと思う

小学生から40年間親の介護していたとかなると信じられないとなる、もう人生が親の介護だったというのも悲劇である、その人は自らも病気になったことがわかる
私も認知症の家族を介護士てうつ病になったからである、なんらか精神的にもおかしくなるだろう、それで普通に暮らしている人達をみてこういう暮らしがあるんだというのもわかる、何か介護というのは狭い所で人間関係もなく介護する人とされる人が閉ざされた空間で過ごすことになるからだ
それは牢獄のように感じたのである、私のように旅ばかりして自由に過ごした人には特にそうである、ただそんなに若い時から介護していた人はそういうのが人生だとなるほかなかったのかもしれない、とにかくこうして親ガチャとか親のために人生を失うということが結構多いのである、なぜなら素直であればあるほど親に尽くすことが当然のように思えるからである、また他にする人がいないからそうなってしまった

とにかく人間にとって一番大事なのは時間である、それも若い時貴重な時間を奪われることは悲劇である、そうしたら老人になって親を恨むことがある、親のために自分の人生が犠牲にされたとふりかえるからである、ただ他でも親のために自分の人生を奪われることがある、親がカルト宗教団体に入っている人は素直だと全く洗脳されて染まり一生をそのために終わる人がいた、その人はそれ以外の人生など考えることもできなかった
だから親の影響は本当に大きいのである
親によって人生をだいなしにされることは悲劇である

私が特別親に感謝しているのやりたいことをやらせてくれたからである
大学出ても就職もしないで自由に生かしてくれた、やりたいことをやらせてくれた
その後も30年間引きこもりでも自由にやりたいことをふらせてくれたのである
だから介護になっても必死で介護したのである
でもヤングケアラーは自分のやりたいこもやれない、介護の牢獄のようにな状態で40年間も過ごしたとなるのは異常である、そして自分自身も病気に成っているというのも悲劇である、なぜそうなのか、それは時間は取り戻せない、青春時代も取りもどせいないからだ

人間というのはその時その場でやるべきことをしないとあとはできない、時間は取り戻せないのである、もう一回やり直すこともできないのである
これが人生にとってショックだとなる、親がどうのこうのと言っても結局お前の人生はお前の責任であったとしかならないのである
でもそうならざるをえなかったというのは悲劇である、もちろんその経験が無駄とはならない、なぜなら人間は何でも経験が大事だから経験しかから本当のことは学べないからである、そしてそれぞれの経験することもごくわずかなのである
あらゆる経験など人間にはできないのである
だからどんな経験貴重なのである、介護であれ引きこもりでもそうなのである
それも一つの経験だからである

ただ人間の時間は極限られている、たちまち時間は消失する、また体力でもなくなる
そうすると体力あるうちに山登りでも自転車旅行でもなんでもきついことはしていた方がいいとなる、後はできなくなるからだ
それびヒマラヤに一回だけ行ってみたが曇って見えなかったのでもう一回見たいとなるが見ることができないのである、体力的にできなくなったからである
だからそうした貴重な時間が消失してゆく、ヒマラヤを見ることは本当に感動だからである、他のことでもそうである、それで私は50歳からバックパッカーになって世界旅行したことが良かったとつくづく思う
もう海外旅行もできないと思ったからである、それだけの気力もなくなったとなる
特に介護は体力だけではない、精神力も消耗するなと思った
牢獄に閉ざされた中で極めて狭い世界で生きることになる、常に介護は介護する人から離れられないからである、だから牢獄に閉ざれた感覚になったのである

ヤングケアラーが相談する人がいない相談しないというとき誰も親身になってかかわる人はいないからである、そういう人とはかかわりたくないのである
かかわるとしたらやはりその人も犠牲になるからだ、そして金だけは欲しいとなるのであるお前を助けるけどその前に金をくれとかなっていたのである
つまり介護では親身になる人はいない、それは自分の場合はカルマだった
だから自業自得だと思ってしていた、それはもう60歳にもなっていたのだから不満も言えなかったのである
私にとって介護は最後は親に感謝されたから報われたとなる
それでもともと特別良くされたから今でも手厚く供養しているのである
でも他の人はヤングケアラ―などは全く違っている、あまりにも過酷であり親を恨んでもしょうがいなとなる

ただこういうことも高齢化社会とか介護社会で産まれたのかともみる、ただ放送では
若い母親が病気になったのであり老人の親の介護とはまた違っていた
でも介護する人は今は家族でも核家族とか少人数だからできる人がなくそうなった
とにかく現代はなんらかで介護の問題をかかえる、それは親が長生きでありまた簡単には病気になっても死なないからである、そこで孝行したい時は親はなしとはならない
必ず親に孝行を強いられる、最後に介護させられるのが運命だとなる
それから逃れることはできないのである、でもまた今は戦前のように親のために子供が犠牲になる訳てはない、親が犠牲になるような時代である
でも最後に親に孝行が強いられる時代だとなる

私は叔父にあたる人が病気になり輸血してくれと30頃言われた、でも断った、なぜなら私はその時登山して死ぬほど疲れていたからである
それで断った、でもそうして登山して良かったと思う、体力がないのですぐに登山はできなくなったからである、ただそのことでその娘にも恨まれてもいいものとなり叔父も私を恨んで死んだとなる介護の時冷たくされても当然だとも思った、でもその娘は異常であり育ての親を捨てた
突然病気になった死んだ育ての親が私に「ひどい娘だわ」と私に言い残して死んだのである、だから自分だったらしょうがないがなぜそうなったのか異常であり非情だとなる

高齢化社会と介護は切り離せない、でもその負担が大きすぎる、それを若い人がするのはあまりにも過酷だとなる、どうしてもそういう人は親を恨むようになからこれも悲惨である、親にとっても子供にとってもいいことはない、時間が貴重であり若い時は束の間であり二度と戻ってこないからである
でも祖を強いられるから悲劇だとなる、それを償うものがあるのか?
確かに早い時期に何か介護して他の人より大人びるかもしれない、でも若い時期は短いしあの時こういうことができていたのになと痛恨の悔悟になるかもしれない
なぜなら人生は二度とないからである、あの時こうしていれば良かったといっても
二度とその時は帰ってこないからである、それは報われないとなるから悲劇である

2022年01月26日

過去は美化されのはなぜか? (死者は美化されるのはなぜか―利害関係がなくなるのから)


過去は美化されのはなぜか?

(死者は美化されるのはなぜか―利害関係がなくなるのから)


なぜ過去が美化されるのか、過去はいいように見やすいのか?
過去は別にそこに今生きている人が生きる訳ではない、結局過去にいろいろなことがあったとしてもそれが今生きている自分に直接影響することはない
そこがどんなに恐ろしい過酷な世界でも過去のことであり今生きている人間には影響しないから過去はいいものだとなる
過去に残酷な戦争があったとしてもドラマを見て楽しんでいるだけだともなる
でもそこに生きていたらか無惨に殺されたりするのだから過酷なのである

何かただ過去が美化されるとき実際のことはわからなくなっている
不思議なのは過去の残酷なことや汚いことは見えなくなりいいようにイメージするのである、昔は人情に厚かったから良かった、今の人間は義理人情もないとかなる
人間関係が金だけの関係となり索漠としているとかなる
それは確かにそういうことがあってもその時代を生きていた人はそういうことを意識されない、当たり前のこととなっている
でも時代が変わるとそういう時代には日本人は金だけではない、助け合っていたとか見直されるのである、でもその時代に生きれば必ずしもそうとはなっていないかもしれない
ただそういう日本人がいたということは平均的にみればそうなっている

なぜ時代が違うと人間まで違った来るのか、それでアメリカ人でもそうだった、クラークの時代のアメリカ人はただ金を追求しているだけの人ではなかったとはいうときそうである、ホイットマンが讃美したような開拓者像があった
腕一本に生きるとか江戸時代の職人気質とかと通じたものがあった
つまり外国でも時代が違うと人間が違ってくるということである
それは戦前の人間と戦後の人間はまるで違った人間となったことと同じである
そして昔は人間はこんなでなかったと嘆くのである

例えばその人は眼が悪いから手術した、それも仙台市まで行って手術した
それで直った、眼科の医療は進歩しているから白内障とかだと治り安い
それで江戸時代は眼が悪い人が多かったのは栄養が悪いからだったとしている
また医療も進歩していないからからだった
そしてその女性は金もないのになぜそれだけの手術とかできたのか、福祉の世話になっているからできたとなる、でも江戸時代になるとにかく金がないから治療もできなかった
それで眼が悪い女性は遠くの優秀な医者に診てもらうために関所を越えたとか記録が残っている、遠くに行かなければ直せない、でもそこまで行くのが大変になる
交通も発達していないから行けないともなる、でも今ならこの辺では優秀なまた設備を整えた医者がいなくても仙台市なら高度な手術もできるのである

ではなぜ医は仁術になったのか?

そもそも江戸時代では病気は直せないものと一般人は見ていた、するとどうなるのか?
医者は別に病気を直せなくてもしかたないとみる
医者で大事なのは医は仁術であり情をかける、愛情を与えることが先決になる
だかち仁術にとなる、するとそれは宗教家の役目をしていたともなる
でも現代では病気は直せるものと思っているからただ情をかけられただけでは患者は満足しない、治ることを望むのである、直せない医者はそもそも相手にしないのである

ここで何が問題なのか、つまり過去はこうしていいものではない、でも確かにいいものが逆にあった、直せないから患者に情をかける、医者に情がありこ医は仁術となったいたのである
ところが今医者は仁術では通用しない、とにかく病気を直せない医者はそもそも相手にされないのである、病気は直せるものとして患者も望んでいるからである
やさしくされたり情をかけるだけなら誰でもできるとなるからだ
そして金のないものは見ないというときもそうである
医は算術となるとき病気を直す代価として報酬を金を要求するのは当然だとなる
なぜなら設備費でも金がかかっているから当然だとなる
ただ金のない人は福祉の援助を受けてしているとなる

つまり江戸時代にあたっ医は仁術は情をかけることはそういう事情があって生まれたとなる、だからその時代を見る時、そういう時代背景があってそうなったことを見ないと誤解するのである
でも逆に今医療とかでも欠けているのは情がない、医者は人間を物のように機械のように人間を診ていると不満にもなる
人間は確かに何かを得ると何かを失っている、科学技術が進歩していいことなのだが情的な面では索漠としている、非情を感じる
人間はただ金としか見ないというのそうである、まさに人間砂漠のような状態になっている、そうなると江戸時代の人情篤い社会を見直すとなる

それは死者にも言えるのだ、死者は何かとなると本当に謎である
要するに死者は今生きている人によってどうにでも解釈できる、家族が死んで残された遺族が家族をどうみるのか、それだ不思議なのである
まず死者は別に今生きている人に何も望まない、何かしてくれとも言わない、何か要求しないのである
でも生きている時はとにかく親子でも子供は親に何かしてくれと金をくれとかでも欲求することが多い、それで嫌になることがある
でも死んでしまえば何も親に要求できないのである

そして親自体も今度は子供に何も要求しない、生きている時は逆に親は子供に要求する
何か自分の子供自慢したいとかいろいろ実際は子供に要求する
それで子供は親野ために利用されるともなる、ただ奇妙なのは障害児となるかと何も自慢するものもない、ただ一方的な親の愛を与える存在なのである
それも苦労が多いのである、そこに何ら報いがないのである
そうして50とまで世話している親が普通に多くいるのである
その愛は報われない愛である、一方は貧乏な家でも医者になった息子がいる、一方は50まで障害者のままで今も世話しているとなる、その差も大きいと見た

いづれにしろ死者は美化され安いのは過去が美化されやすいのと似ているのである
何かもう過去は人を害することはない、過去の人は人を害を与えないからいい人が多かったとかなるのである、親でも実際生きている時は嫌な面があった
でも死んでみるとそうした嫌な面は消失する
ただ何か今残され生きている人はやさしく見ているだけだとなる
それは何も生者に対して要求しないからである、また何かを与えてくれとも要求しないのである、するとそういう存在はあるとしたら美化されやすい、観音様のようだとかなる
これも不思議なの現象なのである

つまり死者と生者の関係には利害関係はなくなる、何らか人間は利害関係で生きている
利害なしの関係はない、今なら金の関係しかないとなり嘆く
つまり人間は生きている限り利害関係から離れられないのである

地獄の沙汰 (さた) も金次第 (かねしだい) [=銭次第 (ぜにしだい) ]. 地獄で受ける裁判も金を出せば有利になるというくらいだから、ましてこの世では、金さえあれば何事も思うがままだというたとえ

こういうことは昔からあった、今でも同じである、人間の問題は利害関係とか金勘定から離れられないのである、金によっていかに人間が冷酷になるか
そういうことを親の介護で自分の病気でも経験して来た、人間が弱くなるとその弱みをみて責められてきた、金をくれればめんどうみるとかなる
その女性は世話になったとか言って最初は世話していたが実際は金にならないとなると
突き放す、冷酷になる、氷のように冷たくなる
そういう人が自分の病気の時来たから自分は悲惨だった、そのことを忘れられないのである人間の非情さを嫌というほど味わった
でも必ずしも金を与えても人は何かをしたとしてもいつか本心が現れてくるのが怖い
相手を突き放して捨てるとまでなる、それが親でも子を捨てる子でも今度は親を捨てるとなっている家族遺棄社会になる
現代はこうして非情化している、金だけの人間関係になることで怖いのである
それは昔からあったにしろ現代はもう極端化しているのである

人間の理想はつくづく利害関係を離れた世界である、だから友情は学生時代にあるが社会に出るとないとしている、社会は利害関係で結ばれているからである
利害関係ない世界でしか真の友情とか愛情などありえなからである
だから不思議なのは死者と生者の関係にはもう利害関係がないのである
死者が何かを生者に要求することもない、また生者が死者に要求できない、要求しても答えもないからである、そこでかえって純粋な愛の関係がありうるともなる
それで死者が美化され遺影でもやさしく生者を見ていると感じるのである
ただもはや死者は親でも何もししてくれないし答えもないのである

ここに苦しんて助けを求める人がいる、通りがかりの人はこの人を言う、金をよこしたら助ける、まず有り金全部よこせ、そしたら助ける
金をもらったら今度はお前はもう用はないからそのまま見捨てる
こんなふうになっているのが現代の金だけの関係になった社会である

そういう非情を経験してきたから現代を嫌悪して江戸時代の義理人情に篤い社会が良かったとなかる、現代はいろいろ便利になったとしても情なき社会となり殺伐としているとなるから江戸時代を今度は美化しているのである

2022年01月23日

82歳男性強盗殺人 逮捕の24歳女さん「パパ活をしていた」 「カッとなって刺した」と話す (老人の欲は消えず小人閑居して不善を成すになる)


82歳男性強盗殺人 逮捕の24歳女さん「パパ活をしていた」
「カッとなって刺した」と話す

(老人の欲は消えず小人閑居して不善を成すになる)


この事件も何なのか?何か現代社会を象徴した事件だともなる
高齢化社会で82才でもまだいろいろ元気だとなる
人間の欲は消えないのである、かえって老人になって人間の最後の欲が出てくる
それだけ人間の欲は強いものなのである、人間が枯れるとか簡単にならないのである
人間のいろいろな欲望が死ななければなくならいとも見る
死んで欲は消滅する、でも欲はそれだけ強いものである

ある女性は最後に

スシもってこいと言って死んだという

食い意地があってそう言ったのだろう、それも餓鬼のように食うことも欲だから消えないとなる、その欲があるからこそまた人間は生き続けているとなる
人間は死なない限り欲から解放されないのである
欲を断とうとすればするほど欲がでてくる、そのジレンマに苦しむ
人間はそれだけ欲をたてない、消えないのである
それは男性だけではない女性でも同じなのである、男性とは違っていてもやはり欲がありそれが生きている限り消えないのである
死ぬまで男は男であり女は女だとなる

人間は引きこもりとかの時代だけど実際は引きこもりになることは相当にむずかしい
何かおかしくなってくる、引きこもりで正常を保つことはむずかしい
引きこもりを隠者とすると隠者になれような人間は相当に優れた特別な人である
それを自分自身の経験でわかった

小人閑居して不善をなす

このことは高齢化社会で老人がなりやすい、暇をもてあます老人が増える
普通だったら隠居とかなり悠々自適だとなるが実際は違う
隠者のようになることは相当に難易度が高いのである
かなりの教養とかないとそうした高等遊民みたいなものになれないのである
だから必ず不善を成すになる
それは自分自身が小人だけどたまたま家族に恵まれてそういう境遇になって理解したのである、現実に不善を成しているからである
すると高齢化社会で不善を成す人は増えるのである、大方は小人だからである

そしてこれと似たものとして

君子危うきに近寄らず

これも似たものである、この世にいかに危険なことがあるかそれはいろいろあるが人間そのもの最も危険なのである、まず若い女性に近づいたことが危険だった
女性でも危険な人はいくらでもいる、そこに人間の欲がからんで事件になった
とにかくこの世で生きる時必ずヤバイ人間がいる
そういう人と交わると危険になる、そして人間の欲がそういうヤバイ人間と交わるように仕向けるのである

つまり隠居して大人しくししているとういことができないのである
それをできる人は優れた人だともなる
だから高齢化社会でこうして老人がいろいろと迷惑をかける人が増える
近くでもは猫を十匹飼っているカルト教団に入っている老女とか何かきらきらするものをぶら下げて迷惑をかけている老女とかがいる
その人達は底辺である、その女性は全然口もきかないのである、そして回りの人を警官を呼んでとりしまってくれとか言っているのである
この女性は相当に異常化している、そういう老人は回りに増えて来るのが高齢化社会である

こうした問題は高齢化社会で起きるというとき今は老人でも元気な人は元気なのである
だから欲もありまた何かするにこともできるが暇を持て余ししている老人も多いのであるだから人生百年となると金も必要だが老後をどうして過ごすのかが問題になる
それに備えることも必要だとなる、ただこれは金の問題ではなく精神的な問題になるからむずかしい面があるのだ
だからもう若い時から老後にそなえて趣味をもつライフワークを持つことも必要になる
そのライフワークを60以上から持つことはかなりむずかしいからである
普通の人間は積み重ねであり突然何かを理解できたりしないからである
ともかく人間は何か理解することに時間がかかるのである

60の手習いとかあるがその前に継続して探求するものがないとそれも身につかないともなる、ただ60の手習いとは高齢化社会では普通になる
60からでも遅いとういことはないがやはりその前に継続して知識でも積み重ねることが大事になる、それは必ず活きて来る、読書でも読んでも理解しなかったのが理解できるようになる、そして自分なりに消化できるようになる
本を山ほど買ったが理解できなかった今は理解でき自分なりに引用したりできている
それが自分には本当に不思議だと思う
だから読書にしてもその時は理解しなくても後からこうして理解できることがある

人間の心は実際は解明されていない神秘的なものである、心は汚れないようにすることが大事である、心は浄化されてゆく、そして老人になって美しいビジョンを見るようになる人間の心は浄化されると天に通じてそうした天国のビジョンでも見えるようになる
だから修行することも必要になる
ただ人間は常に雑念とか欲念とかが消えないのである
老人になると枯れるとかなくますます最後の欲が出て来る
それでこうした事件がこれからも起きる、男女間で起きて来る
それだからこそ君子危うきに近寄らずとなるのだ
でもそれが老人でも隠居して引きこもっていて平穏に暮らすことができないのである
高齢社会を生きることは実際人間にとってハードルが高いのである
それは肉体的な面だけではない精神的な心の面でそうなのである

なんかどっちにしろ若い時は無謀だし老人になっても欲が消えずにこうした事件が起きる自分でもこういうことを経験している、若い時も本当に危険である
では老人になったらみんな悟ったようになり大人しくなるのかとなるとそうではない
人間の欲はいろいろ怖いものだということである
ヤバイ人間に近づくなといっても自ら欲のために近づくこともあるし向こうから近づいていることもある、隠者のように生きられないのである



2022年01月15日

高齢者の貧困の深刻化―物騒な時代に (生活保護もまともにもらえない、息子娘も援助できない・・・老人は捨てられる)


高齢者の貧困の深刻化―物騒な時代に

(生活保護もまともにもらえない、息子娘も援助できない・・・老人は捨てられる)

 今は、生活保護は高齢世帯の代名詞だ。生活保護受給世帯の半数以上(21年10月時点で55.5%)は、65歳以上の高齢者世帯となっている。

 高齢者の貧困については、21年5月19日の『「70歳定年」のウラで、じつは日本中で「貧しい高齢者」がめちゃ増えていた…! でも取り上げた。

 当たり前のことだが、2人の高齢者世帯はやがて単身世帯になる。高齢者受給世帯のうち51.2%(21年10月)は単身世帯となっており、これが受給人数の減少にも関わらず、受給世帯数が増加している主な要因だ。
 
貧乏というのはその人に直接接しないと実感しない、そして現代では貧困が見えない
汚いボロを来ているわけでもない、明治時代頃に残った写真を見ているとにかく来ているものが貧弱なのである、ボロのようにも見える
だから着るもので今と比べると貧乏が一目でわかる、また戦前とか戦後まもなくはまだ
乞食もいたからわかりやすい、でも今の貧困は一目見てもわからない

ただはっきりわかることは

必ず電気、ガス、水道代が払えず止められる、それを訴えることでこの人は貧乏だと知るそれを止められるともう生活できないし飢え死ににもなりかねないからである
現実に凍死したり暑い時はエアコンない死んだりするからだ

そして今は息子にも娘にも頼れない、生活が苦しいから援助できないのである
それより息子娘でも親を捨てる時代である、食べ物を買う金がないからくれろと言ってももらえないとかなっている、でもその息子はいい暮らしていてもそうなのである
だから事情があるにしろ親子関係でも冷たいものとなっているのだ
だから親は飢え死にしてもかまわないとまでなる

death11.jpg
こういうことにもなる

大坂放火殺人事件の犯人は生活保護を断られていた

大阪市北区の雑居ビル内のクリニックで25人が犠牲になった放火殺人事件で、谷本盛雄容疑者(61)=事件後に死亡=が昨年春、生活保護の申請について区役所に相談していたが、受給は実現しなかったことが捜査関係者らへの取材でわかった。
谷本容疑者の金融機関の口座の残高はわずかだったことも判明。大阪府警は事件前の容疑者の生活について調べている。

底辺放置すると社会が不安定になるっていい例だわな

時々役所がナマポ申請ことわってる事件が記事になってるがもう今の国民は昔ほど大人しくないって気づいた方がいいよな。
死ぬくらいなら巻き込んでやる!って連中で溢れてる。役所で働く人達は今後いつ放火されるか緊張と命の危機と隣り合わせだって状況にきてる。高度経済成長の時代は失業者がそう多くなかった
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1642090650/

ここで役所が生活保護を断った、それが問題にされる、この人は追い詰められていたのだ金もなくなり追い詰められていた

追い詰められている人間ほど怖い者はない⇒犯罪を怖がらない

もうやけになっているからどうでもいいとなる、その後のことは考えないのだ
その追い詰められた人間を役所で断った結果大惨事になった
ただもう生活保護は受けられなくなる、もらったとしても10万なんかもらえない
国民年金四万もらってもあとは5000円とかもらえないとかまた医療費でも無料ではない、必ず二三割はとられるのである
もう生活保護は最後のセーフティネットではない、するとどうなるのか?

凶悪犯罪者が野に放たれる!

これが大阪放火事件となった、最後だけ目立ちたいとか道連れにしてやるとかなる
これは別に都会だから起きているのではない、自分自身にも起きたからである
もう金がないとして自分が介護で病気で苦しんでいる時、家探しされたとかある
また外部からも泥棒が入ってきて金庫を開けられた、金庫は別にダイヤル式でもプロは空けられるから注意である、ただ中に金は入っていなかった、現金は置かないようにしたからだ

日本の貧困化は深刻である、そのことでいろいろ予想する人がいる
もう戦後の焼け野原から立ち直った時のような貧乏になる、その時は電気でも水道でもガスもない、電気があったとしても裸電球一つだからないとも同じである
電機製品は高度成長時代になってから普及したからである

でもなぜ今の時代がその焼野原になった後より暗い感じがするのか?

それは人間は金持ちであるとか贅沢な暮らしをしているとそれが貧乏になることが最も辛いことになるからである、もともと貧乏よりその方が苦しいのでありみじめなのである
一旦裕福な暮らしをしている人が没落することが最も辛いのである
戦後の焼け野原ではみんな平等に貧乏だった、でも不思議と子供が多く上昇気運があった要するに最悪になるとその最悪からは良くなることしかないからである
どん底を経験している人は強い、また危機を脱して生きる人も強い

戦後は戦争に負けても戦争に参加して地獄を経験した人が多かった
でもそういう人は命が助かったということで生きているだけで得だったと思う
あの時どうせ死んでいた、戦友も死んでいた、自分は生き残ったから生きているだけで得だと考えるのである、それは人間の心理なのである
別に戦争に行かなくても必ずあの時死んでいたのではないかという経験を人間はしているするとこれまで生きたのは運が良かったもうけものだったとなる、生きているだけで得したとかなる、そういう考えになると楽なのである

そして不思議なのは老人になると今なら70以上とかなるとまた考え方が若い時は相当に変わってくる、あき何年か生きるだけだということが実感する
これだけは若い時は感じない、どうせこの世に生きるのもわずかだとなるときこの世のことにあまり執着しなくなることがある
いろいろあったがしたいこともあったが何か起きるにしろこの世から去るだけだ死ぬだけだとなってしまうからである、この世のことなどどうなっていいとにもなる
どうせ死ぬんだからこの世とはおさらばするのだから関係ないともなってしまうのであるそれで若者は深刻な顔しているが老人はにこやかになり悟ったようになりあきらめがあり楽だともなる、生きることより死ぬことが常に頭にある

ただ老人でも日々の生活に事欠くとなると苦しい、やはり最低限でも電気ガス水道がないと暮らしていけない、それが止められるとなると生きていけないとなり絶望する
ただ老人は最低限の生活でもがまんできることはある
ところが日本が今貧困化が深刻だからその最低限が得られるなのである
すると老人でも絶望して犯罪になることがある

この辺は原発事故周辺は補償金をもらいそれで暮らしている人が多い
補償金で暮らして働かない人も多い、それより老人が多いから働けないという人も多い
だから後は生活保護だという人もいる、それで東電に年金を十万払いと小高では交渉したのである
だから補償金が尽きるとどうしても生活保護を申請する人が増える
それも被害者特権で受け入れやすいかもしれない、でも市の財政も苦しくなっているからわからない、国からの援助も打ち切らたからである
そして市の人口構成を見るとこの図のようになるから異常だと思う
将来は人口は半分になり公務員の給料も払えなくなってゴミ投げるにも金を払うとなるしその負担が増えるのである、だから生活保護でも極力抑えるようになる
もう震災から十一年も過ぎているからだ

minamisomapp1.jpg
南相馬市の将来の人口


人口の半分が65才以上になる
こういう自治体が維持できるのか?
こうなると福祉と医療費がかかるしそういうサービスも受けられなくなる

とにかく新年早々物騒でもある、現実に物騒な時代になっているのだ
東京とかでは将来一部の富裕層とエッセンシャルワーカだけになりスラム街が生れと予想する人もいる、それもありだなと思う、要するに一部の富裕層と最底辺の人たちに分化する、それはアメリカと同じともなる、ただアメリカの生活保護者は車ももっていて大きな家に住んでいるというから違っている
日本は中間層がいなくなりそうするとどうなるのか?
凶悪犯罪であり犯罪都市になると予言している人がいる、アメリカと同じようになる
アメリカに戦後習った日本は当然アメリカのようになるのだ
そういう犯罪都市になるとうかうかと街ものんびり行くこともてきなくなる
その辺を犯罪者がうろうろしているからだ、田舎でもそうなっているのだから都会だったら空恐ろしいものともなる

つまりもう日本は末世なのである、生活困窮者であふれ犯罪者でけあふれ物騒になる
日本が安全だというのは昔のことになる、背に腹は変えられないとなるからだ
何か日蓮の時代のように今なっている、その時は路上で人がばたばた死んでその屍で道ができていたとかなっていた、地獄たったのである

新年からなんだが今年は虎年は物騒な歳でありそれがもっとひどくなる
この窮地を打開するものは何なのか?それが見えるようになるのは時間がかかる
もしかしたらここ十年はこんな状態がつづくのか、その頃死んでいればいいとなる
どうせいくら長寿社会でも85くらいまで生きれば十分だからである
こういう暗い時代には長生きしたくないともなるからだ
せいぜい十年ものびのびと生きて終わりたいとなる





2022年01月13日

一人っ子は社会に適応しにくい、結婚をしにくい (一人っ子の男性の34パーセントは独身で死んでゆく)


一人っ子は社会に適応しにくい、結婚をしにくい

(一人っ子の男性の34パーセントは独身で死んでゆく)


ひろゆき氏は、「日本人の一人っ子男性の34%は、独身で死んできます。10万年の人類の歴史で代々橋渡しされてきた遺伝子を引モテ独身の人が断絶させるわけです」と記した。

 さらに、「年収300万円以下の家庭の7割は一人っ子。

これは予想できる、一人っ子なぜこうなるのか?
結婚でもしにくいのか?それは両親がかわいがる、両親が尽くしてくれる、また兄弟でも姉妹でもいるとコミニュケーション能力がある、また一人っ子は両親がなんでもしてくれる、与えてくれる、すると何でも与えられるものとなってしまう
自分でとりにゆくという感覚がなくなる、要するに殿様のようになり何でも与えてくれるとなる、そうなると社会は厳しいから落後者になりやすい、出世競争とか様々な競争に弱いのである、かえって相手に対して命令するとかが苦手でありゆずるとなる
兄弟がいるとおやつとか食事でもとりあいになるがそういうこともない
ただ何もしないでのんびりしていれば両親が与えてくれるのである

そういうふうに育てば競争力もなくなる、結婚できないというとき女性のことが両親しかわからない、女性とは何かわからない、だからコミニュケーションもできないのである
だから結婚もしにくいのである
結局自分自身が複雑な家族環境で一人っ子になり母親が二人いるような状態になりその通りになった

ただ人間というのは必ずプラスとマイナスに何でも働くのである
一人っ子がすべて悪く作用するともならない、社会とうまくおりあいがつかないで引きこもりになりやすいのは一人っ子ともなるが別に兄弟がいても姉妹がいてもなる人はなる
平均的に見ればそうなる、ただ一人っ子は相当に社会で不利になる、不適応になりやすいのである、だからこういうい結果が出たともなる
ただこれは中国でもそうだがそもそも兄弟姉妹のいない少子化になってこうなったこともある、それで中国は一人っ子が多いから戦争になったらそれに耐えられるのかというのが疑問なのである、また日本でも何か一人っ子が多くなればとてもそういう厳しい世界で戦うことができるのかとなる、戦争になったら最高に過酷だからである

でも一人っ子だからとすべては決められない、一人っ子でも性格が外交的な人もいて陽気な人もいるからだ、自分の場合は内向的だからそれで引きこもりにもなった
一人っ子だからどうだというように人間社会は数学の公式のようにはならない
ただ統計はやはり社会をわかりやすくなるのである、だからこれは真実を語っているとなる
ただこうして一人っ子とか引きこもりでもプラスに働く面があるのだ
これは人間が簡単に一人っ子だからどうなるとか決められないものを持っている
内向的だからだめだということでもない、でも内向的人間はそもそも社会では良く見られないのである
でも内向的な人は何か内面的なもの宗教でも哲学でも芸術でも追及するのが向いている

私はそういうことで自由に内面的なものでも自分のしたいことを追求してきたのである
そういう環境が与えられていたのである、ただ自分のように特殊な環境に60歳まである人はまれである、だから私は親に特別感謝しているのである
親がいなかったら自分は社会の脱落者、落後者で終わっていたからである
今でも遺産を残してくれたら大きな家で一人悠々と暮らしているからである
ただ介護の時一人になり親二人だったから兄弟もいないから自分も病気になり最悪だった
だから何でもいい面と悪い面がでてくるのである
楽した分、こうして最悪の苦しみになったのである

それでも一人っ子は一旦親から切り離されて生活することが不可欠である
それが東京の大学に入りできたのである、そこで過ちがあったにしろできたのである
また故郷を離れるということも良かったのである
別に勉強がてきなくても三流大学でも家族を離れ故郷を離れた経験が大きかったのであるその後も20代は放浪して仕事するにしろ建築現場とか悪条件の肉体労働だった
それで四階のビルの建築現場の足場から落ちる危険があった
あの時は危機一髪だった、命拾いしたとなる
ただそういうことは人生でみんな経験している、交通事故だってそうだからである
海外旅行でも50代でしたから危険だった、だから何らか危険が人生にはみんなある

おそらく一人っ子は実業界とか政治とか組織的に集団の中でリーダーになるのはむずかしい、ただ性格的なものもある、何か自分は誰かの命令に従い仕えるのが向いている
上に立って命令するのはできないのである
キリストの言う下僕になりなさいというのが向いているのである
それで手伝いの人がいても実際は自分の方が仕えているともなっているのだ
実際に手伝いと言っても何もしないからである
だから人間にはいろいろ向き不向きがあり不向きなことをすることは苦痛となる
社畜とか自ら言っている人は相当に不満がたまるから健康的にも良くないとなる
仕えるというときでも強制的ではなく自ら仕えることに喜びを見出す人もいる
それは女性に多いとなる、夫に仕えるということで喜びを見出すからである

ともかく一人っ子とは異常な環境にある、だから加治将一氏のyoutubeを見ていると兄弟八人いて父親に何かというとぶんなぐられていたというのに驚くのである
そういう家父長制が長く続いていた、だから地震、雷、火事、親父になっていたのである子供にとって親父は近づきがたいものだったのである
だから何か言えばぶんなぐられたとなる、黙って言うことを聞けしかなかったのである
特に戦後の焼け野原からの団塊の世代などは子供が多い、兄弟が多いから一人っ子のように手をかけられないからそうなった
自分の父親も明治生まれだったからそうだった、でも中学生の時死んだからそういうことを経験していないのである

人間はどんな家族環境で育つか相当に影響する、カルト教団に育った人はかえって素直だと全く疑うこともなく染まってしまい一生を終えるから怖いとなる
なぜなら家族のために尽くすとかカルト教団に尽くすことにもなるからだ
村落共同体では家族より村落共同体で協同労働で村落を維持することが第一であり家族ではなかったとしている
その後村落という共同体が外延化したのが国家とかになっていった
国家のためにすべて捧げるとまでなり3百万人が死んだのである

戦後は家族が核家族化して外延的なものとして社会は会社に帰属することだったのであるだから今でも社畜と自ら言うのである
つまり村落共同体がなくなったとき会社とかカルト教団でも共同体となったのである
それで創価は団地の宗教とかなり勢力を拡大したのである
それは本来の宗教とは関係ないのである
人間は家族だけではない、村落共同体にしろ何らか共同体なくしてありえないのである
それがあって正常に機能するということがあるからだ

そして現代で家族自体が崩壊している、外延的な社会の会社でも終身雇用が守れないとかなり不安定になり帰属するべき所がなくなる、個になり拠り所となる家族すら崩壊して
孤独死になってゆく、それは一人っ子だけではないのである
その女性は息子がいたとしても一人はいい暮らししても食べるものがないとして援助してくれといっても全くの他人と化している、事情があるにしろ家族って何なのだろうとみる本当に今起きていることは「家族遺棄社会」である

親は子に捨てられる時代なのだ、そういうことは回りで普通に起きているのだ
その理由が経済的に息子でも娘でも苦しいからである、親のめんどうをみれないとなっているからだ、また介護となると今は医療でも手厚いし介護も長くつづくから負担になるからである、自分自身も介護で十年して疲弊した、私は特別良くされたから自ずと強制されるまでもなく介護に懸命になっていたのである
そういうのはあまりない、兄弟八人で親に逆らうとぶん殴られるだけだったとなればとても親の介護もする気になれないだろう
だから現代では親を介護できる人は特別な人だとなってしまうのである

いづれにしろ家族も時代によって変わってくる、後進国では親に仕送りするために働く
私の母親もそうだった、親のために働いていたのである、それが普通だったから今になると子供のために働くとか犠牲になるのは嫌だとなる
親のために働いたのだから子供も親のために働くべきだとなるのが古いとなるからだ
ただ一人っ子は特別良くされたから親思いになっているだろう
ただそのために社会に出て苦しむとなる
ただ自分にとっては親は本当にいいものだったのである、親があって自分があったとさえなる、親がいなかったら最悪であり職にもつけず食べることもできず最底辺で苦しんでいるだけだったともなる
どうしても一人っ子は社会に適応しにくいからである
こうして自分は自分のしたいことをして人生も終わりに近づいたとなるのである
それは親の影響が恩恵が大きかったからだとなる
でも他はみんなそうではない、だから家族遺棄社会にもなるのである







2021年11月25日

家を継ぐことの意味 (家が継がれずに失われるものー代を重ねて豊かになる)


家を継ぐことの意味

(家が継がれずに失われるものー代を重ねて豊かになる)

継いでほしいと思う具体物(不動産、家業)については、以前より廃れていっているかもしれないが、抽象物つまり家名や想いというものは、決して廃れてはいない。むしろ、以前よりも比重が置かれ、重要になってきていると考えられる。不動産や家業といった具体物が継ぎにくくなる中で、唯一先祖からの「つながり」を感じられるものだからではないだろうか。また、何も継いでもらえなかった人びとも、最期を迎える場所を故郷に選ぶということで、子に「気持ち」を託し、「継いでもらった」実感を得ようとしているのではないかとも考えられる。

人びとが「継ぐべき」と考える対象が変化しても、子に「継いでほしい」という気持ち
「見えないもの」は「ないもの」ではない。「家」の継承が法律で規定されなくなっても自分の育ってきたイエに対する「気持ち」は、なくなるわけではないのである。「イエ」を継ぐということは即ち、イエを代々継いできた人々の連なりを後世にも伝えていこうとすることであり、その想いを投影する手段として家屋や土地、家業を継続させようとしているのではないだろうか
file:///C:/Users/yuichi/Downloads/091224010.pdf

家族が全部死んで死者のことを思うようになり毎日家に向かって見ている
でも死後十年とかなると抽象的なものになる
あれほど親しく毎日食事てもしていたのにそれも何か遠いものになってしまうことに驚く自分の場合特殊な家族環境でそうなった
60歳までも親二人と一緒に生活していたからである
そして親には自由に生かされたので感謝している、30年引きこもりでも何も言われなかった、自由に生きなさいとなっていただけであったからだ
引きこもりだと親に殺されることも事件としてあったからだ

家に対して強い思いを持っているのは長男であり長女になる、特に長男は家の跡継ぎとして特別待遇されていた、それは農業だと土地を受け継ぐことや生業を受け継ぐことでそうなっていた、誰かがその土地を受け継ぎ生業を受け継ぐ生活をしていたからである
江戸時代なら侍は家を継がないと生活できなかった
跡継ぎがいないと禄をもらえなかったからである
すると長男が大事になる、ただ家を継ぐことは生活を維持することだから養子をもらって受け継ぐことでも良かったのである
だから侍でも養子になっている人が結構いるのである、かえって養子が優秀な人がいて
商家でもそう優秀な人と娘がいたら結婚させたり養子をもらっていたのである

ただ天皇家となると養子はもらえない万世一系となり今でもそれにこだわっている
でもそんなに血縁としてつづくとは思えないのである
だから明治天皇は血縁と関係なく作られたものだというのも信じられるのである
別に天皇の血が継続されることではせない、天皇というのは日本を家としたとき必要だからつづいているのである、養子でもいいともなる
これには反対する人がいるけど侍でも養子をもらって家を継続していたのだからかまわないとも考える
ユダヤ人でなければ信仰を受け継げないというのはキリストが生まれてから万民のものとなった、天皇というのは何かというとき二千年とか皇統がつづいたことであり血縁がつづいたということではないと思う

そもそも歴史とは何かというとき家の歴史なのである
聖書でも家の歴史でありその家を通じて神のことがエホバのことが伝えられたのである
代々の家の歴史なのである、祖先から受け継がれた歴史なのである
だから人間が歴史を意識するのは家なのである
それが古い家だと歴史を意識しやすいとなる、ヨ−ロッパを支配したのがハウスブルク家というときもそうである、ハウス(家)と城だからである
城という時具体的なものでありそこで家を受け継ぐ城を受け継ぐといことで歴史を意識するのである
私の家でも再三言っているが父親と姉と母が作った家が残っているからその具体的なものから歴史を意識する
父親は酒屋の丁稚であり双葉の新山で酒屋に勤めて暖簾分けしてここに住んだ
その土地はいい土地ではなかった、それで二回も洪水にあり被害が大きかったのである
この街で一番低い土地だったのである、でも苦労してやっとこの土地を手に入れたとなるつまりそういう苦労の上に家が建てられ自分が住んでいるということなのである
今でも低い土地だから道路から水があふれて家の中に二回も入ってきたのである

歴史を実感する時、まず家のことなのである、だから古い家は何代も続いている家は歴史を意識しやすいのである、天皇家に生まれたらその家そのものが日本の歴史になっているからだ
家が代々続くことはやはり何かその家に家運がありとか継がれるべきものがあり残っているともなる
母親の実家がなぜあのように墓があってももう墓参りしている人は一人しかいない
その人も異常な人であり常識すらもない人間なのかと思う人になっていた
ただその家を継ぐ人が3百万もらって墓参りしているだけなのである
母親の実家のことをいろいろ書いたがそれは後妻が入ってきて乱れてしまった
母は継母が来ていじめられたとか家自体が乱れ一人は別に墓を作った
何か墓自体が分離するように生前から争い分離していた不和分裂の家でありそれが子孫にも受け継がれていたのである

だからその子孫でもばらばらになったともなる
だから家もなくなったし墓だけが残ったがそれも一人だけでありその一人もここに住んでいない、だからいづれは墓は捨てられる、無縁化することは見えている
そもそも受け継いだ人が普通の人ではないからである
それもやはり母親の実家は様々に乱れた結果だと思う
私の家は一見確かに普通ではないし乱れているように見えてもそうではなかった
女性二人でも父が死んだあと二人は協力して家を守って来たからである
確かに常に争っていたにしろ家を守るということで争いながらも協力していたのである
母親の実家は家は守れずばらばらになってしまったのである

とにかく一軒一軒の家に歴史がある、でも現代は家を継ぐことがむずかしくなっている
いろいろ事情で江戸時代のように土地を受け継いだり生業を受け継いだりできない
でもそうなると何か代々伝わるものが伝えられないということがある
人間は歴史が大事だというとき長い年月で積み重ねられたものがありそれは知識でも知恵でもそうであり徳でもそうであり目に見えないものも精神的なものも受け継がれている
それが家訓だったりする、信仰でもそうである
受け継ぐべきものがありそれがなくなると人間は軽薄なものとなってしまうだろう
歴史に重みがあるのはそうして代々受け継がれたものがありそれが文化ともなっているからだ

先祖が今も生きるというとき何か受け継ぐものがあって生きるとなる
ただ人間は家族であっても死んで十年もすぎると何か抽象的存在となり忘れる
でも具体的に家でも残っているとそこで家を意識しやすいのである
歴史でもヨ−ロッパなどは石として残っているから二千年前のローマ帝国でも何か具体的なものとして歴史を意識して継承しやすいのである
でも日本では木の家だから歴史を意識しにくい、木だともう30年とかで古くなり使えなくなるとかなり30年ごとに伊勢神宮では神の社を建て替えるからである

人間はとても一代では栄えない、また一代では何か重みあるものは作れない、知恵も生れない、何か常に歴史から学び継承するものがあって人間は生きる
その具体的なものとして家があり家を継ぐということで先祖でも意識するのである
ただそういうことができたのはやはり江戸時代とか戦前でも農業中心だったからだともなる、農業は代々土地を受け継ぐ生業があったからである
それで原発事故では生業を奪ったということで返せとなり裁判になったのである
でも現代では農業中心の社会ではないからそれも何かぴんと来なくなっていたのである

今や家を継ぐ人がいない、墓も継ぐ人がいない、結婚するにしても遠くの人と結婚して娘が出て行く、田舎でも外国人と結婚していた人が二人いたとか地元に残る人は少ない
少子高齢化でますます跡を継ぐ人がいなくなっているのだ
だから空家が膨大に増えるのである、将来は二千万軒になるというのもそうである
すると家を継ぐということはめずらしいことにもなる
そこで失われるものも大きいとなる、現実に原発事故では故郷自体住めなくなる空家だらけでありゴーストタウンになったからである
町や村自体は受け継ぐ人がなく廃墟と化したのである
一軒の家のことではない町や村自体が受け継ぐ者がなく廃墟化したのである
このことは本当に大損失だったとなる、何か伝えられた貴重なものが失われたということである

自分の場合特殊な家庭環境で家にひきこもりで30年間いた、だから奇妙になるが家に就職して郷土に就職したともなる、それで家のことを語り郷土のことを語り歴史を語るとなる、ただ家の重みは三代以上くらいつづかないとないかもしれない
というのは農家では三代つづかないと農家として認められないとかなるのもそうである
農家は江戸時代からつづいている家もあるからだ、農業中心の時代だったらそうなるのである、今は農業中心ではないからそういうこともなくなったのである
何か一代くらいで家業でも終わり継続しないからである
そうなると家の重みもなくなる、歴史も感じにくくなる、それも問題となる

SDGs(持続可能な開発目標)というのもそうである、継続することが重んじられる社会となるとやはり家でも代々つづくことが望まれるとなる
これはストックを重んじる社会である、ストックというと農業的第一次産業の社会である大地があり自然があり実りがあり継続されてストックされる、一方フローになる社会がある、現代はフローになる社会だとなる、グロ−バル化で世界的フロー物流でも情報でもフローになったからである
ただこれからはストック的社会になる、もちろんフローにもなるがストックを基本とした社会に変化する、なるべく地域的にストックしてゆく社会である
人間とは常に何かをストックしてゆく、それが次の代に受け継がれてゆくのである
だから家でも代々つづかないとストックされない、そこで何か積み重なられたものがないから豊かになりにくいのである、そのストックする最小の基本の単位が家なのである
そのストックしたものを活かして次代が豊になるということである


家を継ぐ者

人生七〇数余年
家を継ぎて二代目や
何か受け継ぐ我が一人
遺影に向かいて今日もあり
代を重ねて栄あれ
受け継ぐもののあるべし
陸奥に死になむ命かな
故郷の土ともならむ命かな
菊を挿しし墓を守りぬ
庭の石に散りにし木の葉や
石こそ重く礎なりしも
冬の日静穏に我が家に籠もり
死者を想いて代を継ぐなれ
そもただ一人なりしも

2021年11月21日

増大する老人の医療費に介護費用 (その負担が下の世代の社会全体の重圧に・・・・)


 増大する老人の医療費に介護費用

 (その負担が下の世代の社会全体の重圧に・・・・)

 高齢者(70歳以上)の医療費は医療保険分で6852億円と前年度比806億円(13.3%)増、国民健康保険分で3兆3159億円と同1779億円(5.7%)増となっている。

   財源別でみると、公費が16兆9807億円で全体の38.3%を占める。このうち国庫は11兆2963億円で25.4%、地方自治体の負担は5兆6844億円で12.8%となっている。
   
   
近くで知っている人は糖尿病であり介護士がきてしょっちゅう医者に行っていてそれも検査費とかで結構な金がかかる、保険でもそんなに金がかかるのとなる
85歳くらいにてっているからだんだん弱って死んでゆくにしてもその期間が結構長いのである、ただ不思議なのは一年前は普通にしていたのに死んだ人もいる
一か月くらい前に元気な姿を見たのに入院したら死んだ人もいる
死ぬ人は簡単に死ぬが死なない人はなかなか死なないと見る
ガンになってから十年でも仕事している人がいる、そんなに長くガンでも仕事できるのかとなる

ただ点滴してしている、首辺りに点滴の跡を見たから点滴する場所がなくてそうなったらしい、自分も点滴していたからそうなるのがわかる
でも今は老人でも病気になってもなかなか死なない人が多い、手厚い治療をするからそうなるし医療でも進んでいるからである
まずガンだったらそんなに長く生きないと思うし糖尿病はわからないにしてもこれもなかなか死なない病気なのかもしれない、そして時々世話している女性も70過ぎていていつも腰が痛いとかとても介護などできない、軽い世話などはできる
でもその人からはわずかの金しかもらえない、医者にかかるから払えないと言っている
その世話する人も息子一人を頼っても金はもらえない、というのは親が施設に入っていて備品とかで金がかかっているからだ、またそれほど収入が多くないからである

そもそも生活保護になればみんないいとかいうが生活保護自体もう成り立たなくなるかもしれない、その女性にしても4万とか国民年金もらっているがあとは5000円とか医療費とか住宅代は無料にしても暮らしていいけないから必ず電気、ガス、水道、携帯代が払えないとなる、その負担がこっちに回ってきたりする

ますます老人の医療費、福祉費が増大して負担しきれなくなる!

こういう近未来が見えてきている、生活保護になればいいというが二万くらいしかもらえないとか試算が就職氷河期の人達に対して言われている
生活保護がすべての解決にはならない、老人の医療費と福祉費は増大する一方であり
2025問題は深刻になる、団塊の世代が75歳以上になるとどうしても介護状態になる人も増えて来る、それでなくてもやはり医療費は増大する
氷河期世代は人口が多い、でも収入は少ない、それで親の負担がかかってくる
それからすぐに自分たちの老後の金が問題になる、老後をまかなう金がないのである

それで老人の老々介護が問題になる

11月17日、大阪市平野区の住宅型老人ホームで、この施設で夜勤中だった職員の榊真希子さん(68)が受付で頭から血を流して亡くなっているのが見つかり、駐車場では入居者の男性(72)が死亡していました

職員が68歳で介護された人が72歳である、何らか68歳で働かざるを得ない状態にありこの事件が起きた、老々介護になる人も増えて来る、家族でも子供たちでもめんどうみきれないとなり老夫婦で老々介護になる、それも現代を象徴している
そして共倒れにもなる、それだけ少子高齢化は様々な問題を引き起こし事件になるしなっている、これからも増大するばかりである
もう国がこうして高齢化で財政ももたなくなる、限界に来る、今の氷河期世代は老後になっても年金二万とかなり生活保護も受けられない!
そしたらどうなるのか?その恐怖はもう目の前に迫っているのだ
誰かに頼れればいいのだが頼れない人はどうなるのか?
犯罪でも増えて来る、すでに老人の犯罪は十倍にもなっているし自分も被害者になった
何か将来にいい展望は見えないのである

それでアフガニスタンで家賃が払えないで洞窟に住んでいる人を見た
燃料もなく枯草を拾い、水がないのでやっと水を遠くから運びそれを煮て飲む
干ばつがつづいて食料がとれない、子供で餓死するとかその数も多いのに驚く
ただ戦後焼野原からの日本もこれと似ていた
水がないので近くの井戸水をもらっていた、それで自分もバケツで運んでいた
燃料は炭であり風呂はバタで残った木材の切れ端とかである
それは無料でもらっていた、洗濯は裏の堀の水でしていた
だからその暮らしをイメージはできる、人間の原始的な生活なのである
乾燥地帯はゴミとかでもなげても乾燥するからいい、日本だと湿気が多いからゴミを簡単に投げられないのである、乾かないからである

ともかく日本に明るい未来を描けない、その原因が高齢化社会にある
戦後は子供が多かった、食べ物すらないのにどうして子供があんなに多かったのか不思議だとなる、脱脂粉乳とかアメリカからもらってしのいでいた
でも子供が多いということは実は明るい未来があったとなる
そしてちょうどうまい具合に高度成長時代になりその団塊の世代などの子どもたちが成長しても吸収できたのである
その団塊の世代が75以上になる、2025問題が生まれる、それが社会全体の重圧となり
日本が経済的に衰退しているときと重なり相当に苦しいものとなる
その解決方法がない、確実に医療費はますます増大するし介護費用も増大する
そういものに金をかけていたら他の物に金をかけられない、何か世界で競争することに投資もできないとなる
結局団塊の世代が高度成長では数が多くても力となったが逆に人口が多いので負担になってきた、それが社会全体の重圧となる、一人一人の問題ではない、社会全体がその重圧に苦しむ、それは氷河期世代が老後になるとさらに苦しくなる
それは十年とかに二十年でなるから目前の問題なのである