2024年12月20日
文系の医療のかかわり 【社会〔共同体〕から見た病気の関わり―文理融合すべき問題】
2024年11月25日
認知症と発達障害の共通点 【計算ができない、漢字が読めない、文章が理解できない】
2024年10月30日
貯めた金の顛末 【一人は認知症になり金が下ろせない、一人は貯めた金が盗まれた】
2024年08月29日
年齢でなく見た目で判断される老人 【高齢化社会は未だ経験していないから様々な問題が生まれる】
2024年08月14日
老人の価値が問われる時代 【老人の価値とは何なのかー人生最後に問われるもの】
2024年06月04日
死んだ時点で人間の態度が変わる―近くの人の死 【死者に鞭打つことは日本人はできない】
2024年05月25日
戦死者が亡霊となる恐怖の映画【黒沢監督の夢ートンネル】 【生前に和解しなければ死後も和解できない―死後も生前の継続】
2024年05月12日
近くの人が糖尿病で死ぬ 【死は病気の人でも突然来るー生前世話してもその後携帯だけ連絡していた女性のこと】
2024年03月04日
家に死者は生き続ける 【死者との対話は延々と続く―語られる死者は生き続ける】
2024年01月22日
怪我(けが)は穢(けがれ)だった 日本では障害者を汚れとして見ていたー神社や寺では慈善活動しない
2024年01月13日
一様でない家族ーどんな家族に育ったのかーその影響が大きい 【高齢化社会は世界的問題であり適応するしかない】
2024年01月03日
死者とは何なのか 【死者は語らないが生者が語り続けて生き続ける】
2023年09月06日
失われたファミリー大家族 2025年:単身世帯が1996万世帯 加速する「ソロ社会」化
2023年08月12日
少子高齢化は文明が発達すれば必然である (動物と人間の相違- 人間は成熟に時間がかかりすぎる―余暇を活かすことが課題に)
少子高齢化は文明が発達すれば必然である
(動物と人間の相違- 人間は成熟に時間がかかりすぎる―余暇を活かすことが課題に)
●人間は育つのに手間と時間がかかりすぎる
なぜ少子高齢化が起きているのか?それは日本だけの問題ではない。先進国では共通している問題である。 ただ、アメリカなどは高齢化している人が多いにしても大統領でも80歳になっているとしても子供の数が日本のようには少なくならない。その原因は移民がいてそれで補っているのである。
だから、ほかの国とは事情が違う。そもそも人間というのは動物とは相当に違っている。人間が成長するにはとにかく手間がかかり時間もかかる。そのことが動物とはあまりにも違っているのである。動物は生まれてすぐ立つことができるし食べ物でもすぐに捕れるようになる。長くても一年であり。その一年かかるということも長すぎる。生まれてすぐ立って餌をとっていけるということもある。
つまり、動物は本能によってのみ生きるのである。人間のように様々な手をかける。教育するとかはないのでる。本能によって生きてゆくのである。 人間にも確かに本能はあるが人間は生まれて親からでも社会からでも教育されない限り生きる術も身につかない。その期間が長すぎるのである。人間の子供を育てるということは経済的にも相当に負担だし動物のようにはいかない。
ただ、人間にも生殖本能がありだから先を見ないでセックスして子供を産むということがある。それで貧乏人の子だくさんというのも戦前からあったし戦後もあった。戦後の焼け野原から団塊の世代が生まれたのかそれは戦地から帰ってきた人たちが男たちがセックスして子供を大量に産んだともいわれる。それは本能の力が働いてそうなったとなる。
実際、焼け野原になって食べ物もないのになぜそんなに子供が生まれたということは理解できない。それはやはり本能の力だったのかともなる。貧乏な国ではアフリカなどの貧乏な国では、食い物わなくても本能の力によって子供がたくさん生まいる。 それは動物と同じよう同じように本能の力が働いてそうなっているということもある。
ところが人間というのは?そうした本能的なものを性欲でも抑制することもできる避妊とかもできる。特に文明化した社会ではそうした薬も作られて避妊できる。遅れた国ではできないから子供が増えたと思う。
つまり人間だけが本能だけはいけない本能に逆らい生きる動物である。 でもなぜ人口というのは地球の人口は急激に増えたのか?逆に人間が文明化したためだと思う。人間でもそもそもは生きるには必ず食料が必要であり。もしその食料がなければ。人間も生きていけない。だから、その食糧分だけの人間しか養えないから江戸時代までは農業でなったが限界になった。それ以上は増えなくなった。
●なぜ明治以後に人口はこれだけ増大してきたのか?
それは工業化したりして農業だけではない食料以外でもさまざまな職業が生まれてまた食糧でも江戸時代のように一反からとれる米の量が限られるという事も無かった。生産技術の発達で一反からとれる米の量が2倍3倍となった。すると。食糧でも2倍3倍となりそれだけの人口も増えても養うことができるようになった。
でもその中心が農業にあった。今は田舎でも農民は1割に満たないのである。つまり食料生産に従事する人はそれだけ少なくなりでも食料は供給されているのである。それは農業技術の進歩から来ている。 農業は主要な産業ではなくなったのである。それを象徴しているのは1000万の東京の人口があるとしてその人たちを養う食料がどこから来ているのか 東京の中に田畑はない食料は供給されている。江戸が百万都市だとしてもその周りはやはり田園地帯が広がっていたのある。
だから、その周りから食料が供給されていた。ただ米などは船で東北からでも江戸に集められた。だから食料のすべてを賄っていたとはならない。でも野菜などは東京周辺で江戸周辺でまかなっていた。それでその周りで特産物が生まれた練馬大根とかがそうである。また肥料でも糞尿を江戸まで農民が来てそれを取り出し運び肥料としていたのである。密接にその食糧を得るためにその周辺地帯と繋がり食料を供給していた
また、江戸前寿司というように東京湾で新鮮な魚をとりそれも食糧となっていた
。
ただ、江戸時代までは農業社会だから人口は抑制されて4000万以上にはならなかった。それで新潟県の人口は百万とかあり東京の人口も百万とかになっていた。実際は新潟県の人口の方が多かったのである。大正時代でも東京の人口は300万であり今の規模とは相当に違っていた。でも明治初期から比べれば相当にふえた。
●東京に人口が集中してきた歴史
私の母も大正生まれでありその当時東京へ行く人が増えた。母も女中として東京に出た。また森林鉄道が網の目のように全国にはりめぐらされて木材とか石材とかが東京に運ばれた。また鉄道はもともと石炭を運ぶものとして全国に普及した。北海道でもそうであり福島県なら常磐炭礦は有名である。
東京は大正時代に300万人になるということはやはりそれだけ東京に人口が集中してきて、食糧であれ物資であれ必要となったからそうなった。その東京への人口集中は戦後でも高度成長時代があり続いていたのである。
ただ、基本的にはまだ日本は農業社会であり。農業で生活していたから人口の移動はそれほどなかった。
なぜ人口が増えるかという時その理由はやはり農業でも食料は増産する技術が生まれ食料は供給される。そしてその上に工業社会が生まれ工業社会になる時工業地帯が生まれて人々がそこに集中する。戦後の焼け野原から団塊の世代が生まれてその時中卒の集団就職があった。それは工業社会になり働く人手が地方から集められたのである。そうして東京は人口が今の1000万円に増大したのである。それは世界中で起きたのである。巨大な都市が生まれて農村から分離して人口が莫大に増えたのである。
ここが増えるというとき農村農業中心では増えない。それは縄文時代のような狩猟採集文化だったらやはり人口は極端に少ない。人口を増やすことができないのである。でもそこに農業が取り入れるとやはり人口が増大した。それはやはり食料が縄文時代より膨大に増やすことができたからである。
だから人口が増えるということは産業構造が変わり食料だけを生産することは第一とならず工業社会となり田畑がなくても都市化して人はそこに住む。 そこで都市に人口が集中するのである。
とにかく明治江戸時代では3000万人くらいなのになぜ急激に大正時代では6000万とかなり人口は増え続けた。それは戦後の焼け野原でもそうだったのである。なぜこれほど人口が増加してきたのか?それはもともと農業から工業社会への変化があった。戦後、焼け野原から出発した団塊の世代が生まれた。その数も多くでもその就職先が中卒なら集団就職して都会の中小の工場で働いたとなる。つまり農業ではない中小の工場で働く場所があったからである。
●人間は本能だけに生きない―少子化高齢化は文明化して起きた
なぜ今、少子高齢化がこれほど問題になっているのか?
日本国から日本人がいなくなり、日本民族は消失することまでなっている。それはなぜそうなったのか?それは日本だけではない。ヨーロッパとかでも少子高齢化になっている。だからそこに共通性がある。
そもそももし生物でもただ放置していれば自然の摂理で人口は調節される。動物の場合はその取れる餌によって特定の動物は増えるということはない。
人間の場合は本能によって生きるだけではない。本来は少子高齢化というのは生物界でわありえな。動物界では力が弱ったら?死ぬことになる。力があるものしか生きていけないのである。でも人間なら能力が弱くても老人になってもいろいろと手当をして長生きさせることができる。それは自然の摂理に反していても人間というのはそもそもは自然の摂理によって生きるわけではない。それが人間の特徴である。
だから少子高齢化というのは人間特有の問題なのである。自然では少子高齢化はありえない。だから大量に魚でも卵を産み本能的生殖で子孫を絶やさないのである。ところが人間の場合はそうした本能に従わずにも生きるのが特徴である抑制することもできる。 ただ、その本能に逆らえないということもある。
女性が子供を生む期間は短い。30歳までが出産適齢期である。その後になると出産することで子供に異常が生まれたりするからなるべくなら30歳まで子供を産んだ方がいいとなる。本能的にはやはり生殖作用が盛んになるのは30までくらいだとなる。ここにやはり人間も生物としての限界がある。それでも精子の冷凍保存とかなにか技術の発達で人間の場合は変えることができる。人間には別に本能的に生きるのではなく本能を抑制できる人間の文明とは、そもそもそうして生物的本能によって生きるわけではない。そこにやはり少子化となり、高齢化となる原因がある。
つまり本能的に生きる生物界では少子化などあり得ないし高齢化もありえない、ただ動物園とかペットになるとやはり寿命は延びるのである。
ただある種が増えすぎると食物連鎖のバランスは損なわれて生態系でも異常が起きてくる。 でも基本的には動物は生態系を壊したりはしない。 人間のみが生態系を壊す、だから人間というのはそもそもは本能というものから逃れられないにしろそれを抑制し。調節することもできる人工で敵にできる。
とにかく自然界では子孫を残すために大量の卵とか多くの子供を産むというのは普通である。それは人間も同じだったのである。なぜなら人間も昔なら生まれてもすぐ死ぬことも多かった。医療も発達してないからそうなった。子供を多く産まなければ死ぬのも多いのだから子供でも子沢山にしないとその社会でも維持できなくなる。
戦前は若い人でも肺病で大量に死んで国民病となっていたのである。また疫病もあり大量に人が死ぬからやはり子沢山でないと社会は維持できなくなっていた。
医療技術が発達して食料生産でも一反あたりの収穫が何倍にもなるとか改良されてくると養う人口も増大する。高齢化になるということも必然なのである。栄養も良くなり医療も発達すれば当然、長生きする人が多くなるのである。つまり人間社会とは文明化するということは高齢化するということにもなる。ペットでも栄養をとらせて病気になっても手当てするから長生きするのである。
だから少子高齢化というのは人間社会にとって避けられないものであり、必然だということを知るべきである。それは悪いものとされているが高齢化というのは、実際は悪いものではない。なぜなら。人間早く死んでいたからである。そして長く生きることが人類の願いだったのであるだから延命地蔵とか長生きすることを願うことが人間の願望となっていたのである。
つまり人間というのは自然の本能のみに生きるわけではなく自然に反して生きるということにもなる。 それが人間の本質なのである。そしてそれが悪いものでもないのである。
●人間は成長するのに時間がかかる
とにかく人間というのは何であれ成長するに時間がかかる。その成長するというと動物なら別に知的活動などはしない。人間は知的なものを育むからそのことによって時間が必要なのである。何かを習得するにも時間がかかる。動物は本能によって餌でもとるし親から多少教えられるにしても本能的にできるのである。人間は何か教育されたり自ら育んだりしないとできない。そして知識になると膨大なものでありそれを理解するということは相当な時間がかかる。
それは私自身が一番感じたことである。何か知識でも自分のものにするには相当な時間がかかる。それは私自身が才能もないからだともなる。何か60過ぎてとかやっと70過ぎてから自分なりのものを表現できたということにもなるからである。というのはそれまでいろいろ体験したり、本を読んだりして理解するのに時間がかかったということである。
だから高齢化というのは悪いものではない。何か一つのことを理解するにも時間がかかるからある。それが今まではその時間が短かった。でもこれだけ時間があるというときもう70からでも学ぶ学ぶこともできるし表現することもできる。
だから高齢化というのは人間にとって悪いものではない。その長い人生の中で充実した人生を送ることができる。というのは退職してからも30年もあるとしたら第2の人生となってしまうのである。そこで何か実りのあることを達成できる。ただマイナス面として語られることが多いのはまだまだ高齢化ということに人間が適応してないからである。これからは高齢化ということは普通でありそれに適用して人間はさらに意味ある充実した人生を生きることもできる。
ただ、少子高齢化というのは最近起きた起きたことであり人間がそれにまだ備えていないし適応できていないのである。ただ自然界から見れば本能的に生きる動物などのようにそれは不自然なことなのである
でも人間っていうのは文明でも不自然なことなのである。少子高齢化というのも、そのために起きてくる。つまり人類は少子高齢化に生きるほかないともなる。 それが問題があるにしろその高齢化で人間の知的能力は確実に拡大し、成長する。それは私自身が遅すぎたが70過ぎでこうして何かを深く理解してインターネットで表現していることでもわかる。
つまり、これからは。インターネットとかが生まれて。個々人の表現の時代になるのでそのツールもできている。個人でもテレビ局となり、出版局となり新聞社にでもなれるからである。そこで何か表現するものが必要になる。それは高齢化の中で育むことができるのである。 だから高齢化というのは文明の中で必然的に起きたことなのである。ただ、まだそれに備えることが出来ないから問題が多いのである。老人は負担だけだとなるというときそれは介護とかの問題でありどうしても病人が増えるからである。でも老人は何かに対して理解力は深まり洞察力も深まりより成熟した人生を送るようになる。
今は高齢化の負の部分だけが取り上げられるのはそれはあまりにも高齢者が多いことでそうなったので。だから自然ならば子だくさんである。もともとは長生きしてる人はそれだけで尊ばれた。どうしてもそういう老人はごく一部だとなり。後の大多数は無用の老人であり、ただ社会の負担であり、お荷物であるとされているのである。
でも社会も進化する人間も進化する文明も進化する。だから高齢化に適応した社会となりそれが悪いものともならないのである。ただ、少子化ということはこれまた別の問題でありいいものではない。社会の活気が失われやはり新しいものが生まれなくなるということもある。
それとは別にして高齢化というのは?文明が進んで必然的にそうなったのである。
だからどこでもそうなっていくのである。アフリカでもそうなってゆく。だからそれを止めることはできない。そういう社会に適応することであり、その社会が悪いということでもないのである。ただ。今はそのマイナス面だけが強調されているだけなのである。それぞれの人生は今までは60ぐらいで死んでいたのにそれからさらに20年以上とかとか生きるとなればそれぞれの人生を意味ある価値あるものとさらにできるから悪いものではない。ただ、その過渡期にありやはりマイナスの面だけが強調されるのが問題なのである。
●高齢化社会では余暇いかに過ごすかか問題になる
それだけ生きる時間が長くなれば暇も多くなる、会社で働きずめの人生でも。退職したらその後30年も生きるとしたらその暇をどう生かすのかとなる。
ただ、貧困化して働かざるを得ないということもある。でもそうして強制されて働くことはするべきではない。つまり人間にとって長生きすることもう一つは自由な時間を持つということである。それが人間の進歩にもなる。それは人間が望んできたものである。古代になると余暇を持ったものは貴族であった。あとの90パーセントは奴隷であり奴隷がいて貴族は自由な余暇をもったのである。そこで学問芸術とかに費やされるようになった。
それで学校というのは?スクールというのがスコレーでありそれは暇の意味だったのである。。なぜそうなのか?暇があったから労働から解放されて何か学校をつくり学ぶということになったのである。
それが高齢化でまた起きている。退職しても30年間も生きるとしたらその間に何かまた学ぶということが必要になる。理想的なのはライフワーク持って退職してもそのライフワークを続けることである。
そのためにはやはり老後でも金が必要になる。
でも今は日本が貧困化しているとき、老人でも働いている。それは食べるために働いている。でも、そのことがいいとはならない。 もはや金のために働くべきではない。食うため、パンのためにも働くべきではない。それぞれの自己実現というかしたいことをする。だからこそ暇の活用が大きな問題となるのである。
ただ、それはやはり人類が進化したのであり高齢化というのもまた人類がこれまで望んでいたことなのである。それが実現されていたのである。
でもその実現された長寿社会というのは有効に生かされないということである。それで社会全体から見てみると、こう高齢化社会の老人はただ負担になるばかりのマイナスのものとして見られる。
現実に病気の人も多い。介護になるとその負担もあまりにも大きすぎる。そこに大きな負の部分があり。若い人から社会全体から見ると、ただ重荷となり負担となり社会を停滞させる。マイナスのものとしてしか見られないのである。
そして老人は技術の習得には遅れる?新しいものに?適応できないし利用できないとなる。それがパソコンとかITとかになじめないというのもそうである。それがまた社会全体に影響するから問題なのである。 子供でも、若い人は新しいものに。馴染み利用する。スマホなどはそうである。でも老人になると面倒だとなってしまうのである。
ただ、現代ではもうすでにパソコンは必須でありスマホも必須である。それなくして生活すらできなくなる。また創造の面でもパソコンなくしてはできなくなっている。
絵画するAIで作れるし音楽も作れるし小説でも作れたからである。だから意外とパソコンとかITは人間の頭脳と深く関係している。それが今までの技術とは違ったものなのである。
ただもともとアートというときそれを技術のことであり技術とアートは密接に結びついていた。写真というカメラ技術が生まれればそこで新しい芸術も生まれたし庶民もまた写真というものは欠かせないものとなったのである。それが今はデジタルカメラとか誰でも気軽に写真をとれるので写真の時代だともなったのである。
だから高齢化社会になったとしても、やはりそうした技術を修得するべきだとなる。その技術の習得というのは、実は才能というより時間が必要なのである。
私は何か時間がなくなって家事とか毎日しているので新しいことワードプレスとか動画編集とかはできない。それは難しいことがあっても、時間をかけてやればできるものなのである。老人にはその時間がなくなっている。
私の場合は家事に追われるのでできなくなったのである。だから人間は時間に比例して知識も拡大するし、広めることもできる。若い時は相当に時間の無駄をしている。そして青春などあっという間に過ぎてしまう。そして40になると。白髪が入ったりしてしまうのである。
それが今までだったらもう60くらいでは死んでしまったのである。いまそいいうことはない、依然として時間がありその時間の多さで新しいことを習得できるのである。
そこに。高齢化のプラスの面がある。ただマイナスの面があまりに大きいので。そればかり強調されるのである。そこまでまた人間が進化してない適応できていないということにもなる。でも徐々にそういう高齢化社会にも人間は適応して長生きするということが人間にとって、より多くの豊かな実りを与えるという時代になるのである。その過渡期だから、いろいろと問題が起きてくるのである。
2023年06月24日
家族とは明治以降に作られた言葉 (江戸時代の家は一族郎党の広い範囲の共同体ーファミリーの語源)
2023年05月24日
家の修復が依然として続く (水漏れしたの樋をまっすぐに下にしなかったから)
2023年03月27日
茅葺屋根の家は冬はあたたかく夏は涼しい (コンクリートの家の問題ー自然に反するものの問題)
2023年03月18日
発達障害とは何か-50歳でも大きな子供で大人になれない (親が死ぬと兄弟間で険悪になり殺人にもなる)
2023年03月17日
親の遺産を跡継ぐのが60過ぎては遅かった (高齢化社会は老人が金と権力を持ち社会が停滞する)
2023年03月15日
人間の性格の謎 (A型の大工さんと仕事してわかったことー日本人は40%がA型だった)
2023年03月14日
土地の大工さんに頼むリホームと外部の会社に頼むことの相違 (広域化グローバル化で時間軸で作られた継続するものが失われた)
2023年02月15日
高齢化社会では老人の価値が問われる (多様な価値を追及する時代-組織集団的価値から個々人の価値へ)
2023年01月15日
家族だけでは介護でも障害者でも看ることは無理 (家族遺棄社会になる背景)
2022年12月16日
突然人は逢えなくなる、すぐ近くでも逢えなくなった (60以降に起きやすい、親との別れも・・・貴重な共にいる時間)
2022年11月14日
深刻な8050問題ー貧困化福祉の崩壊の恐怖 (家族崩壊を経験したのでわかる)
深刻な8050問題ー貧困化福祉の崩壊の恐怖
(家族崩壊を経験したのでわかる)
医療崩壊のしわ寄せ】「財政面で壊れるのか、人材面で壊れるのか」 多額の損失で追い込まれる障害者事業所【大阪】
https://www.youtube.com/watch?v=vl93SJ4hW6Y&ab_channel=ABC%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%
コロナウィルスが影響してこうなった、中村喫茶店などもコロナウィルスの影響があり閉店にもなった、それだけではないにしろ原因としてはあった
72歳で脳梗塞になった女性はまだ年齢的には若いと見た
ただ脳出血とか脳梗塞は若い時でもなる、そして脳梗塞でも症状がいろいろである
つまりその脳のどの場所かで後遺症が出る
でも脳梗塞や脳出血ですぐに死ぬことない、身近で聞いた話でも十年くらい夫を介護していたという人が普通にいるし介護というとき十年くらいかかる場合がある
だから長いと思った、この長さでまいってしまうのである
私自身も介護していていつ終わるのかと恐怖だったからたいがい早く死んでくれないかなと思うようになるのである、それは冷たいことでもないのである
それだけ介護の負担が大きいからそうなる、でも死んでしまうともっと良くしてやれば良かったとまた後悔する人も多いのである
これは人間としてやむをえないということである
なぜかというとこの介護のむずかしさは死んだ後まで影響していることである
介護が苦しくても冷たく扱われたとかなるとか恨んで死なれると困るのである
実際親戚にそういう人がいたのである、全く病気になっても放置して何もしない非情な娘がいた
その親は相当に悔しかったのか恨んだのかもともと自分の家とはうまくいっていなかったし自分とは余り関係がないのに「ひどい娘だわ」と言って死んだのである
それで救われたのは介護もされずにすぐに白血病で死んだことである
そもそも介護する人もいないのだからそういう死に方は良かったのである
そしてその娘は葬式では世話したとか言っていたそうである
そんなこと全くなかったのである
これは極端な例にしても恨まれて死ぬことは怖いと思った、介護は苦しいとしても恨まれて死ぬのは後味が悪いし成仏しないとかなる
私は認知症の姉とあとで母を介護したがわかってくれて死んだから良かった
私はその後でも毎日遺影に向かい供養している、それは私は特別良くされたからできたことである、他の人はこんなに良くされないから介護したくないとなる
それはそれぞれの家族が違っているからなかなかわかりにくいのである
確かなことは8050問題は始まっている、50歳の人が80歳の人を介護することである、団塊の世代が80歳になるときその数が多いからその子供が50歳になっているからである、これは非常に深刻である
72歳であれ早めにしてもその子供は50歳である、でも障害者なのである
ただ軽いから会話できるし意思疎通はできる、だから誰かが側にいて援助すれば介護ができる、でも一人だと負担になる、でも介護度からするとどれくらいになるのか?
それを見て判断するのは福祉関係である
寝た切りとかではないしリハビリすると回復もするからその先が長いのである
そして金もない、でも福祉では金は本当に出さないのである
福祉関係のyoutubeで介護士などがボーナスを出してくれとか要求している、コロナウィルスで経営が苦しくなったからである、重度の障害者を世話することは見ているだけで苦しくなる、そこで思うのは障害者が生きる価値があるのかとまでなる
世話する方からするとそうなってしまう、愛がどうのうこうのという前にその介護が過酷だからである、障害者でもいろいろある、でも私が接した障害者は会話もできるしどこが障害者が見分けがつとにくいのである、その人はただうまく会話ができないようである
でも別に話してみると会話ができる、ただ口籠るとかスムーズに会話できないようである何か子供のころに父親に殴られたとか言っていた
だから重度の障害者とは別物である、重度の障害者となったら過酷である
そうしたら介護する方でもボーナスを出してくれというのは当然だとなる
ともかく8050問題はすでに始まっている、そこで家族崩壊と福祉崩壊が起きて来る
自分自身でも家族崩壊が起きた、認知症になったとき起きた、家族が別々に住むようになり起きた、助ける人はなく一人孤軍奮闘しなければならなかった
その時自分自身も病気だったのである、手術もしたのである、それを一人で切り抜けるほかなかったのである、ただこれも特別親に良くされたから私自身のカルマとして起きたのである、何か必ず悪いことが起きるのはカルマが関係しているのである
おそらくこれから8050問題では悲惨なことが起きて来る、今でも起きて来るが日常的になる、すでに貧困化して困窮化もするし介護の人出もないとなる
そこでは二人正常な息子がいるとして働くことをやめるわけにはいかない、収入がなくなるからである、だから会社をやめて介護した人は後で苦しみやめなければ良かったとかなる、それだけ介護の負担は大きいのである
そして介護となると意外と遠くの親戚とか遠くがあてにならないのである、例えばこの辺だと相馬市とか原町市だと近いとしても車で10分くらいにしてもいちいち来るのが手間なのである、だから相馬市から娘が一週間に一回くるがそれも手間なのである
介護なるとき日常的に接する必要があり近くがいいのである
その人は歩いて5分もかからない距離にあり介護するというのではなく話し相手として毎日のようにもともと親しい人の家に行っていた、その人は糖尿病なのである
ただ自分のことができる、でも一人だから淋しいので話し相手として毎日呼ばれて行っていたのである、でもその人が脳梗塞で倒れたからもう行けないのである
とにかく何か人間は突然人間関係でも変化する
その人は私の家に五年間くらい来ていたけどもう来ることもできないと言っている
これも驚くともなる、先日まで来た人が逢いに来ることもできないともなったのである
金がない、人手がない、・・・・・
それで追い詰められてゆき家族崩壊福祉崩壊医療崩壊とかになってゆく
福祉だってそんなに金を出せない、日本自体が貧困化しているからである
予算を削られるからである、だから南相馬市長選挙などあるが議員など減らせば良いとなる、もうそれだけの予算が金がないのである
すると優先して金を使うのは何になるのかとなる、どうしてもまず命が大事だとなるとなかなか医療福祉は削りにくい、だから議員はせいぜい5人くらいでいいとなる
無駄な金はもう使いない時代になっている
いづれにしろ何か市町村でもこうして苦しむ人がいると誰かに負担がカルマが回ってくるのである、それが自分にも回ってきたとなる、ただ人間は障害者は無駄だとなるが老人になるとどうしても病気になるし体が弱ってくるから障害者になるのである
だから驚いたことは看護婦としてばりばりに活躍していた姉が認知症になり馬鹿になったということには驚いた、つまり知的障害者になってしまったのである
つまり障害者の問題は老人になると身近なものとなる、認知症も知的障害者だからであるただ生まれつきではなから社会でも親としてもありそれで対処の仕方が違ってくる
親であり功績ある人だから馬鹿にはできないのである
そして馬鹿にすると怒るのである、だから依然として生前のように扱うようにしないといけない、でも人間は結局弱者化するのだとつくづく思った
どんな強い優秀な人でも最後は弱者化する、だから障害者というのが全く関係ない存在だとはならないのである、ただ正直重度となるとその負担は重すぎるのである
そして障害者とは何のために生きているのか?ただ一生世話されるために生きているのかとなる、だから親にもう50歳まで尽くされた人は親に恩返ししろとなるがそれもできないとなると悲劇だとなる、ただその人は軽度だから別に親の世話はある程度はできるのであるそれは救いであるがやはりもう介護問題はこれからますます深刻化する
日本でも貧困化しているしその余裕がない人が多いからである
そして介護というのは何か不毛なのである、生産的なことがないのである
ただ私のように特別親に良くされたとなるとそれは不毛でなはない、親孝行できて良かったとなるからである、それで親もある程度は報われたとなるからである
ただヤングケアラーとか自分の人生を犠牲にされたら親を恨むとまでなる
私の場合は60歳から介護だったから良かったとはなる、それまで何でもしたいことをさせてくれたから特別だったから介護でもできたとなる
他の人はそうはいかないからそこで悲劇が生まれる、家族崩壊が生まれるし社会全体でも福祉崩壊医療崩壊とかになるから地獄だともなる
2022年11月05日
精神障害者とは何なのか (そもそも人間とは何なのかー知情意の問題)
2022年11月02日
愛は死んでも消えない (家には愛が残り通っている−心は見えないが通い合う)
(家には愛が残り通っている−心は見えないが通い合う)

遺影にそ花を献げて姉と母なお家にそ生きつづけなむ
地震にも落ちずにあれや達磨かな姉なお家を支えてそあれ
愛はなお我が家に通い姉と母我を見守り心安らぐ
不思議なのは今年の地震でダルマが落ちなかったことである
あれだけの揺れだから落ちてもいいが落ちなかった
姉はダルマと似ているところがあった、それで家を守ったのかと見た
父親が死んでから姉がこの家を支えたともなるからだ
人間には謎が多い、科学的に解明できないことがある、愛というのでも何が愛なのか良くわからないのである、母の愛もあるし父の愛もあるし兄弟愛もある
また祖父母の愛もある、これらはそれぞれ違ったものなのである
家族でもそれぞれ違ったものでありなかなか理解しにくい、でも母の愛といっても必ずしもその愛が良く働くとは限らない、何か母に反発する人が多いのは母のエゴの愛だからだろう、純粋に子供を思う愛ではない、母のエゴの愛がありそれで反発する
何か条件付きの母のために子供を利用する愛ともなる
そこに母のエゴがあり肯定できないものがあり反発して母を良く思わない人も多いのである、なぜ祖母がばあちゃんがいいかというと孫にはいろいろなことを要求しないからである、ただかわいいとなりかわいがるというだけだからである
母の場合はいろいろ子供に要求することが多いから反発される
人間は常に愛が大事だと言われるけど母と子供でも本当の愛がないのである
また兄弟が多いとどうしてもみんな平等に愛せない、かたよるのである
だから介護になったとき一番良くされた者が介護しろとなるのである
兄弟を平等に愛さなかったからそうなる、それもむずかしいからである
だから必ずしも親を子が良く思わないことがある、ただいろいろ家族のことはあり外からわかりにくいのである
ただ愛の不思議はそれが意外死んでからわかることがある
私の家族はすでにみんな死んだ、姉の場合は十年も過ぎた、だから人間は日々去る者は疎しとなり忘れられてゆく、でも人間は肉体は消えても愛は消えない
これは合理的には説明できない、人間には何か目に見えないものが働く
愛といっても目に見えないものだからである
では目に見えてないから何もないのかとなると違っている
私は家族が死んでも依然として家にいると感じることがある
何か今姉の寝ていた部屋に寝ている、するとぽかぽかとそこに愛のぬくもりを感じた
姉は特に自分に良くしたからである、それは自分に全く要求するものがなかった
肯定することしかなかったのである、だからいつも肯定することしかなくとがめることもなかった、それはまた特殊な家族環境でそうなった
でも本当の愛は相手に何かと要求したりしないのである、ただ肯定することなのである
こうして肯定されず愛されない人は心も歪んでくるのである
実の母親でもどうしても子供に要求することがありまたあからさまに否定されることもありそれで歪められる
8人兄弟とかで父親は何か言うと怒り黙っていろとかなり反抗的態度をとると殴られたという、それが明治から戦前の戦後十数年の父親像だった
だからその女性は常に厳しく育てた方がいいと言っていた、学校では体罰でもあった方がいい、厳しく育てた方がいいと言っていた
でも結果的にはそうして育てられた子は親を良く思っていないのである
それで学校で体罰を受けた人は今でも近くの先生を恨んでいたのである、その人は死んだにしろそういうことがある、でもそういう時代だったのである
子供は厳しく育ててしつけた方がいいとなっていたのである
兄弟が8人とか11人いたとかなるとどうしてもそうなる
でもそこに問題があった、そこには本当の愛がなかったともなる
だからこそ大人になっても親を良く思っていないのである
そしてこうしたことは長く尾を引くのである、一方で本当に愛された人はその親でも兄弟でも死んだ後まで親のことを想っている、そのことを自分はわからなかった
それは親が死んでからわかったことである
複雑でも二人の親がいて特に姉は私を良くしたから親でもあったからその愛が不思議に家に通っている、それは姉の寝ていた部屋で自分が今寝ているかそこに愛を感じた
愛につつまれていることを感じた不思議がある
ぽかぽかと愛につつまれた感じになった、ただ死んでから十年も過ぎたのだから忘れるがそうではなく愛はやはり消えずに通っていたのである
だから家は単なる箱ものではなく精神的なものとしてもある、つまり愛が通い合う場所なのである、それで家にいると安らぐのである
その人は病院に半年くらい入院していたがかえって悪くなった、でも家に帰ったら回復した、その人は死んだ妻のことを死んでからも思っていたのである
余程妻を愛していたのかもしれない、それで親しい女性が手伝いに行っていたがその女性は死んだ妻のことを良く思っていなかった、妬んでいたともなる
死者を妬んでもしょうがいないが死んだ妻のことをそれだけ思って愛していたからそうなったともみる
人間は死んでも肉体は消失してもすべてが消えるわけではない
やはり愛が消えずに残っているのである
自分の場あいは特にそうだった、生まれた時から60年間一緒に生活していた
そのことの影響も大きかった、もし結婚したりして別々に暮らしていたらそうはならなかった、だから外孫には愛情が通わないということは離れるとそうなってしまうのが人間だからである、そもそも人間は一緒に暮らさないと愛を持てないからである
それで例え憎しみ合っても一緒に暮らしていると実際は愛していたともなる
いくら争っていても60年とか一緒に暮らしていると実は愛していたともなるのである
ともかく家に自分はこだわっている、家を否定する人もいるが何か家とか家族は人間の根源的な場所だからどうしてもこだわる、家にはやはり愛がある愛が通っているということで違っている、他の場所では愛は感じない、建物にしても愛は感じない
病院でも公共的な場所でも愛を感じない、家では例え家族が死んでも愛が通い合っているだからそれは説明できない不思議なものなのである
愛は人の肉体は消えても残っている
愛は消えないということなのである、目に見えないけど愛は残っている、家には残っているとなる
ただその愛にしても私の家族でも他者には冷たかったしまた兄には事情があり冷たかったこれも兄弟がみんな愛されるとはないと同じであり差別があった
それが心の痛みとして残ったのである
愛とういとき目に見えないが常に働いている、だから愛がない人がそばにいることはその影響が大きいのである、なぜなら私が病気になって手術したときその女性はそこにいることすら嫌がっていた、つまり愛が全くないからそうなっていた
それも怖いことである、何もしなくてただいることで見守ることでも愛がないということは恐ろしいことなのである、ただ病院では体は診ているが愛をもって接する医者か看護師は家族でないからできないとしているのもわかる
愛といってもそれが何か大きな負担になることをするということではない、ただ見守ることすらできないのである
また荷物の箱一つを持つのも嫌がっていたのである
要するになにもしたくなかった⇒金だけが欲しかった
私の来た人達そういう何ら愛をもたない人だったのである、それも余りにも恵まれた自分だからこそ起きたカルマだったともなる
ただ確かなことは愛は死んでも肉体が消失しても残り続ける、これは重要なことではないか?
なぜなら肉体が消えて灰になって見えなくなったら何もなくなるのかとなるとならないとなるからだ
人間は死んでその人の肉体は消える、でも愛は残りつづける、これは救いでもある
人間死んだら何もなくなる終わりだよとはならないということである
死者はせ依然として生者の中に愛があれば生き続けるのである
だから愛が一番大事なものとしてシャカでもキリストでも説いたのである
ただその愛とか慈悲は家族の愛というものでもない、高度な愛である
そうでなくても愛が大事だというときそれは肉体を越えて働くものだからである
人間は死ねばすべて終わりだと思っている、確かに肉体は消えるのだからその人は完全に消失してないとなる、でも愛が消えずに残っている
このことは重大なのことである、人間など死ねば終わりだと思っている
肉体は灰となり塵となり消える、要するに何も残らないと思っている
それで絶望して虚無的になる、でも愛は消えない残るとしたらそこに希望がある
この世にいくら宝を積んでも無駄というのも確かである
でも愛は消えないとすれば人間の最大の宝は愛だともなる
その他のものは消えてしまうからである、そもそも肉体自体消えてしまうからである
でも死んでも愛が消えずに通っているとなればその愛こそ最も大事なものだとなる
それは生きている時はわからない、でも死んでも肉体は消えても愛は消えずに残りその人が生きているとも感じるのである
これは理屈ではないから説明しようがないということである
ただそういうことを感じている人も多いことは確かだからやはり人間は眼に見えるものだけを価値あるものとすることはできない、天に宝を積めということは目に見える物ではない、愛とかを持てということにもなる
そうすれば愛は消えずに残り活きつづけるとなるからである
ただ愛というとき血のつながった親子すら愛がもてない、なにやかやと要求する愛なのである、愛は無条件に肯定することであり何やかにやと要求するものではないからである
私の場合は60歳までそうされてきたのである、これは例外的なことでもあった
だからこそ愛というのはなかなかありえないとなる、何か常に要求する愛はある
でも純粋な何も要求しない相手を肯定する愛というのはなかなか持ちえないのである
ただこの世の生ははかない、もうあっという間に人生は終わるとなる、そういうとき何か永続的なものなのか、それを見る必要がある、その重要なものが愛だとなる
肉体は消失しても愛が消えず残るというときそれを重要なものとして価値として生きればはかない人生も死後でも活き続けることができるとなる
でもこの世では欲がありエゴがあり様々なものに魅惑されて肝心なものが見失うのである愛より金だとなるのが普通である、他人ならそうだし家族でも本当の愛を持つ人は親でもなかなけかないとなる、自分の場合、特殊な家族のためにそうなったのである
愛というとき何か人に特別尽くすということでもない、ただ病人を見守るというだけでもそこに愛がないと怖いことになる、それを自分は病気になって経験したからである
愛がなければただ座っていて見守ることすらできないのである
その心が病人に通じて来るからである、すると病気でも悪化することになる
だから何か愛というとき苦しいことをするということではないのである
心の中で愛を持つことでありただそれだけのことでも人間はできないのである
2022年10月20日
老人医療は総合診療が必要 (体の部分ではなく心まで全体を診る医者が必要)
老人医療は総合診療が必要
(体の部分ではなく心まで全体を診る医者が必要)

週刊新潮10月27日号
これは確かにそうだった、この人は老人医療の専門家にもなっいてた
老人医療は60代以下とかと同じにできない
老人は体の部分を見るより全体を心まで見る必要がでてくる
体の一部を部品を見てその数値とか見ているだけでぱわからない
特に老人医療の場合はそうなのである
その女性は72歳だけど体の不調を絶えず訴えていた、でも医者には行って訴えて相談していた、何か所もの開業医とか病院にも行ってみてもらっていた
だから片方の手がきかない、食器でももちにくいとか訴えていた
他にも目まいがしたとかして実際目の前で自転車で転んだ
明らかに脳梗塞の前兆の症状が出ていたのである
ではなぜ医者が脳梗塞と気づかなかったのか?
それが理解できないのである、ただ脳の写真をMRIで遠くにも近くにも行って撮っていた
それも何ら脳梗塞のことを疑う人はいなかったのである
あちこち不調を訴えてもそれぞれ一部分として診ていたのかもしれない
ここで書いている総合診療をしていない、またそういう医者がこの辺ではいなかったのかとなる
つまり仙台市の上手の眼科に行ってもその人は眼しか見ていない
でも片手がきかないとか目まいするとか脳梗塞の症状が出ていた
眼だけ見ないで全体を診ていればわかったかもしれない
その人の行くべき病院は南相馬市だったら脳出血をみる新しいセンターができているし
そこに優秀な医者がいる、なぜ開業医でもそこで診てもらわないかとすすめなかったのだろうか?それも不可解なのである
老人に必要なのは総合診療であり心のケアまで必要なことである
体の一部分の専門家ではない、心までふくめた総合診療なのである
でもそれをやれとなれば一人の医者では重荷になる、ただ精神的ケアになると別に医者でなくてもできる、何か医者だけが医療にたずさわることではない
病気には必ず精神的ケアが必要なのである
むしろもしただ人間を機械のようにみて臓器でも機械の部品のように診ている人がいたら怖いとなる、でも実際はそうもなっているのである
まず一人の人間でそんなにいろいろできる人が気が回る人はいないだろう
数をこなさなければならないから一人にそれだけ気を遣うことはできない
だから病院で議員でも番号で呼ばれて怒ったというのもわかる
つまり病院では数をこなすから数として処理されるのである
だから看護師でも家族の役はできないというとき精神的ケアは必ず病人には必要なのである、そこに心の働きが必要なのである
要するに医者とか看護師でも病人を機械のように数として診たりしていることは怖い
でも数をこなすとなればそうなりやすい、だから私は二回病院に入院して虐待もされたし親戚でもその人は全く愛情がない人だったから手術の時何もしなくてもいるのが嫌だったのである、また箱一つ入院するとき持つのも嫌がっていた
私のために何もしたくない人だったのである、そういうことは必ず行為となって現れる
それが病人に影響する、もうそういう人がいるだけで体は悪くなる
私はこうして病気になり介護になり人とかかわって恐ろしい目にあった
ただこれも楽をしてきた自分のカルマとなってこういう恐怖を味わったのである
心のケアとなると宗教家の役割なのかもしれない、医者は体をみるが心までみれない、
ただそれにしてもそんなに一人の人のために気を配る人はいない
前にも書いたけど
「もっと栄養をとりなさい」
「私は金がないので果物を食べろと言って買いません」
そうは医者には言えない、では金をあげますから果物を買って食べなさいとはしてくれない、むしろ医者は常に金をのことだけは心配しているのである
だからいらない薬でも飲ませるとかなる、そのために病気でも悪化するとここで書いている、医者は家族と違うのだから金のことや心まで診れないのである
そこに限界がありそこまで要求もてきないのである
でも医療は心が相当に影響する分野である、もともと心と体は一体である
それを分離するのが西洋式だともなる、漢方とかなると体と心を一体のものとして見ているからである、色心不二とかそうである、色とは肉体のことだからである
いづれにしろ現代の問題はあらゆるものが専門化して部分化することである
教育自体もそうだし学問でもなんでもそうなのである
全体としてみれないのである、職業でも無数に部分化して田舎でも近くでも何をしているのかわからないのである、これもだから不思議だと思う
何で生活しているのだろうとなる、昔だったら農業に従事している人が六割とかなれば自ずとどういう人なのかわかる、今は本当に職業自体が部分化してわからないのである
だからとても総合診療というけどできない、総合的に見れないのである
それは原発事故でもそうだった、原発もエネルギーを作る全体の一部分だったがそれが生態系を空気でも水でも森の木でも土でも放射性物質で汚染された
つまり生態系とは全体のことである、その全体にどういう影響があるのか見れなかったのである、つまり現代の問題は総合的に見れない、もし事故になったらどうなるのか生態系が汚染されたらどうなるのかを見ていないのである
ねの全体を壊すということを見ていないのである
人間はまず本当は全体を総合的に知り仕事でもするべきなのだけどそれが理解不可能になっている
第一原発事故でも吉田所長すら復水器のことがその方の専門家でないから知らなかったのである、他の社長でも会社のことを全部知っている人などいないのである
何かそういうことから破綻してゆく、社会が大きく文明も崩壊してゆく
それは科学技術の分野だけではない、経済の分野でもそうである
誰もグロ−バル経済のことなど知りうる人はいない、だから当然ある時株が暴落したり
世界中で破綻して混乱してコントロールできなくなる
経済政策してももう物価高がとめられないとか円安がとめられないとか世界恐慌になるとかなる、全体のシステムが崩壊してゆくのである
それはバベルの塔と同じなのである
要するに誰も全体を知りうるものはいない、そこでカタストロフィが起きてくる
そうして文明は崩壊するのである
2022年10月16日
愛とか慈悲が一番実行されにくい (宗教団体でもそんなものはない)
2022年10月06日
金だけで解決しない人間の問題 (特に介護とか病気とかになると愛がないとできない)
2022年10月02日
大学がかかわり久山町の健康増進運動はなぜ失敗したのか? (集団的平均的に人間をみたため?ー人間は個々に体でも違っている)
大学がかかわり久山町の健康増進運動はなぜ失敗したのか?
(集団的平均的に人間をみたため?ー人間は個々に体でも違っている)
久山町でかえって大学がかかわり健康増進とかしたら病気が増えた、くも膜下出血
で死ぬ人が増えたという
それはなぜなのか?
糖尿病および予備軍発症予防
は失敗し、著明な増加が認められた 8。実際 14 年間の努力にも関わらず、糖尿病の確定診断がついた人が男性で 15.0 から 23.6%、女性で 9.9 から 13.4%と著明に増加した。
また男性では、40 歳以上の久山町住人の約 6 割が、予備軍を含めた耐糖能異常という、数字に増えていた。研究責任者の九州大学・清原裕教授も 2007 年 7 月 27 日(金)の毎日新聞朝刊 で「1988 年以後、運動や食事指導など手を尽くしたのに糖尿病は増える一方。どうすれば減るのか、最初からやり直したい」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jln/26/1/26_47/_pdf/-char/ja
なぜ大学で健康指導してかえって病気が増えたのか?
武田先生の言うには人間を平均として見ることはできない、血管でも様々であり人によって違う、だから血圧でも130でも150でもそれを平均としてみることはできない
別に平均より高くても健康である状態の人がいる
降圧剤とか飲んでもかえって悪くなるという、確かに人間の体はいろいろである
体重でも体形でも体質でもそれぞれ違っている
もしかしたら人間が多様な個性があるように違っているのかもしれない
私の母親は百才まで生きたけど細い体であり重いものも持てない女性だった
でもどうも血管が丈夫でそれで病気にならずに百才まで生きたようだ
ただその人の体質によっていろいろな病気にかかることは確かである
私の母親は丈夫な体ではない、そして私の母親はそもそも無理をできないから激しいことはできない、日々家の中で同じようなことをして過ごしていたのである
一方姉の方は太っていて力があり男優りだったが認知症になり85歳で死んだのである
だから何か体力がないと細い体とか繊細な体でも長生きはできる
でも以外は体力ある人でも何か急な病気で死ぬことがある
スポーツ選手が意外と早く死ぬのはやはり体を丈夫だから無理もできるから過酷な運動で体を消耗して早く死ぬのかとも見る
私自身も体は丈夫ではない、体力がない、でも別に長生きするかどうかは関係ないから
もしかしたら長生きするのかとも思う、体力があるとかないとか長生きには関係ないようだからである
ただ体力がない人は激しい運動ができないから冒険などしにくい、それで私自身が登山をして死ぬほど疲れた、それで早めにやめたのである
人間の問題は平均的に何でも分類してとか見るのは危険である、人間の体にも個性があり多様性がある、でも大学では人間を平均的にみて健康増進を計った
糖尿病には減塩食でこういうものがいいと提供した
でも減塩するとかえってエネルギーがでなくなるという
だから人間を一様に平均的に見るのは良くないのである
それは人間の体だけではない、人間そのものもみんな違っている、それはその育った環境もみんな違っている、育った場所でも家庭でも環境でもみんな違っているからだ
教育でも問題なのは人間を平均的に一様に見る、それは明治から学校教育が始まりそうなったのである、なんでも点数をつけ平均化してみる
現代文明自体が常に数字化して平均でみる、でも人間は個々に様々であり違っている
でも個々に対応できない、それでかえってヨ−ロッパの貴族は家庭教師を雇ってそれぞれの個性にあった教育をしたから天才が生まれたのかとなる
また薬でも製薬会社のもうけのために過剰にのまさせる、これも確かにある
日本人は特に薬に頼りすぎる、すると必ず薬に副作用がありかえって悪くなったりする
糖尿病が増えているというときある人は病院に半年とか入院してかえって悪くなった
まともな食事もとれないことや精神的負担も大きくそうなった
そして家に帰ってその人なりの生活をしたらかえって良くなったのである
それは家に癒す効果があったからだと思う、その人は妻はいないが家に精神的に癒す効果がある、だからみんな家で死にたいというときそれは体の問題ではなく心の問題になっているからである
ともかく人間の問題は病気でもそうだし教育でもそうだしあらゆる面でそれぞれの個性にあったように対処できない、集団的に平均的に見てしまうのである
そして病院では番号で呼ばれたとか議員でも怒っていたのである
人間は数が多くなると当然そうなるのである、一人一人をなかなか診れないのである
一人一人の体が違っていても対処できないのである
それは病気だけではないあらゆることに一人一人に対処できない
だからこそ政党があっても政党では一人一人の言うことを訴えることを聞けない
あくまでも票として数を集めることが優先するからである
人間一人一人をみるのではなく人間を数として見ている
だからそれがカルト教団でも何でもいいとなりやすいのである
まとまった票になるからカルト教団でも頼りになるとなる、でもそうして集団だけを見ていると個々のことは見ないから問題が起きる
久山町で起きたことはやはり集団的平均的に見て個々の対応がなかったからなのかとなるでも久山町は小さい町なのだからそれができなかったのかとはなる
こうして現代ではみんな集団的になり個々人は見ない、それはカルト教団でも創価でも
共産党でもどこの政党でもそうなりやすいのである
第一何百万人のものも個々に対応することが不可能だからである
いくら相談になるのとしても無理である、でも個々に対応しないと問題が解決しないことがある
前にも述べたが人間の問題はカルマが関係している、そのカルマも個々に違っていて複雑だから一様に対応できない、貧乏な人はみんな苦しいから金の面だけからみる
それはわかりやすいからである、年収いくらだとか貯金がいくらもっているとか常に平均でみる、そういうのはわかりやすいから政策として反映しやすい
でも個々人の問題はそれだけではない、それぞれのカルマがありそれが他者からわかりにくいのである、それは別に金持ちの家でもカルマをかかえているのである
それがいつか必ず苦しみとなって現象化するのである
それは個々に違っているのだから集団で平均化して解決できないのである
そのことを私は家族の介護のことなどで書いてきた
カルマの解消はそれぞれが苦しまないと解消できないのである、金だけで解決するとは限らないのである
創価とか共産党でも組織団体では平均化して一様にみる、それは票になる数を集めることが優先されるからである
そこでは問題は解決しない、何百万に何が起きているのか、そこには不可解なことが常に起きている、罰当たるなど脅しているが信じられない不幸になっている人達が無数にいるのである、人間はそれぞれカルマを持っているからいくら集団化しても個々のカルマは解消できないのである
ただそもそも人間は個々に対応ができない、せいぜい数人しかできない、わずかの給付金を配ることなどはできる、根本的には解決できないのである
そこに政治の限界がある、政治家とは別に自分の利益を追及しているのであり身銭を切って困った人を助けることなどない、創価でも共産党でも他の党でも金に困っているから助けて下さいとか言っても党として政府に要求しますとなるだけである
それは国民の税金を分配することなのである
つまり集団的には問題は解決しないのであく、だから運がめぐると言っていたけど運が関係しているのである、その運が謎なのである、それはもしかしたら神の采配かもしれないからだ、だから人為的には解決しないのかとまでなる
ともかく人間は体でも個々に違っている、その違いをみないから久山町でも集団的に平均的に見て大学が健康増進運動でも失敗したとなる
現代は何でも集団的に平均的にすべてをみる、だから人を同じように見て平均的に対処したから久山町では失敗したのかとなる
でも個々に対応することはむずかしい、だから医者とかは体だけを見ていてもわからないその家族とかどんな暮らしをしているのかとまで診ないと本当は診れないとなる
様々なことは実際は関係しているからである
それで礼文町とかは島で二千人とかの人口でありそこの医者はたいがい一人一人のことがどんな生活化しているまでわかっている、すると体だけではないそれぞれの生活を知っているから個々に対応しやすいのである
それは小さな島だからできることである、ただそこにも専門医がいないとかで問題が生まれる
結局人間の問題は余りにも複雑な要素があり一面だけを診ては解決しないのである
集団化して平均化して見ては解決しないのである
そういうことは医者がいない時代に日本の村とかでもあったかもしれない
薬師堂が村の中心に常にありそこで祈るほかなかったからである
でも今のような医療がないから直しようがないことはあった
でも精神的にはみんなで祈ってくれるのだからそれが効果がないとは言えない
逆に現代では地域の人がそんなことするかとなるとしない
むしろ無関心でありかえって冷たい、田舎でも助け合うなど今はない、かえって人が苦しむことが楽しいとかまでなる、何か話題がないからそういうことで害にならなければ娯楽のようになっているのである
だから田舎でも相当に人間は変わってしまった、もともとそういうことが人間にあったにしろやはり時代の影響でそうなったのである
2022年09月14日
なぜ医療費が増えるのか、病院、医者に頼りすぎる (生活保護は上客になる理由ー病院経営が苦しいから)
2022年09月13日
全体的俯瞰的思考ができない現代文明社会 (部分化してアトム化した文明ー医療でも教育でも仕事でもなんでも)
全体的俯瞰的思考ができない現代文明社会
(部分化してアトム化した文明ー医療でも教育でも仕事でもなんでも)
病気になるといろいろな科があり専門の医者がいる、ところが江戸時代とかなると専門の医者はいない、何でも見ていたのが医者である、様々な体の部分の専門家ではない、全部を見ていたのが医者でありさらに医は仁術というとき相手の心まで見ていた
生活状態まで見ていた、それは江戸時代とかなると専門家とかは限られているからかえって全体的に考える、村という小さな社会が社に中心にしてあった
でもそこでも困ったことが常にある、病気が一番困ったことなことは同じである
だから村の中心には必ず薬師堂があった、病気が治ることを祈るのである
でも地蔵でも腰が悪いと祈る地蔵とか目が悪いとか祈る地蔵とか今の病院の科のようになっていた、だからどうしてもこうして専門家してゆくのが人間社会てある
その人は常に金がない、頭がふらふらして目まいしてこまるとなり隣の市に脳をみる機械があるからそこでみてもらいと言われた、でも金が必要になるがない、そんなこと医者に言って金もめんどうまで見ないのである
でも江戸時代だったらその人が困っていたら後で金をはらってもいいとか安くするとかあったろう、それはその人全体を見ているからである
医は仁術にもなっていたからである、医者にみてもらう金がないというときそれを相談するのは役所の福祉に相談するとなる
不思議なのはスリランカなのか村の一人が病気になるとみんなで集まり病気が治ることを祈っていた、それは迷信的にもなるがそれにも効果があると見た
みんな治ってもらいたいというときそういう気が全体に働くからである
ただそれは医者もいないし病院もないからそうなったのである
でも今はそんなことはない、個々に人は分裂して金が唯一の頼りになっている
金がなければ医者にもかかれないし診てもらえないとなる、地獄の沙汰も金次第となる
森喜朗元首相が癌になりオプージプという薬を一千万とかかけて服用して寿命が延びたとか報道があった、そんな大金を払って普通は飲まない、でも金がある人はそこまでする
それで東京五輪で賄賂をもらっていたのかともなる
金で病気でも直すことができるが金がないものはできないともなる
ただ日本は国民保険があり公平である、アメリカは本当に医療費が馬鹿高いからその差がはっきりと現れる、医療費が高くて医者に貧乏人はかかれないのである、結果的に早く死ぬとなっている、日本はその点いいのだがもうこれだけ老人が増えて病人が増えるとそんなに医療費に回す金もなくなる、特に日本は貧困化しているから余計にそうなる
どうも医者というのは医は仁術というとき人間を患者を機械のように見れないだろう
機械の部品が悪くなったからその部品を交換するように患者を見れない
でも実際は人間の体でも部分化して見ている、専門家とはそうである、人間の体全体を診る人はいない、でも老人になると体だけで診るのではない、心まで診る必要がでてくる
それは老人はいづれまもなく死ぬということが避けられないからである
だから糖尿病で半年も入院した人が栄養がたりなくなりかえって病気が悪化したのであるでも家に帰ったら回復したのである、つまり医者でも病院でも体だけを診ている
その心を診ていない、そして老人になるとなかなか病気でも治らないから、心の問題が割合で大きくなる、だから延命治療はいらないとか自宅で死にたいとなる
それはもう体を看るだけではない、心の方が大事になるからである
家というのは何か安心する場所であり威厳を持てる場所でもある
その人は20代で一人倍以上働いて稼いだ金で立派な庭を作り家も建てたからである
それが自慢になりそれが人生の証しだまでなる
病院に入院したらその人はただ病気の人となるだけでありその人の人生とは関係ない無機質な病院に隔離されるだけなのである
人間というのはやはり体だけでを診てもわからない、心の問題があり老人になると特にそうなる、近いうちに死ぬのだから体より心の問題の方が重要になる
そしたら延命治療して廃人のように生きるより家で威厳をもって死んだ方が幸福だとなるどうして死ぬのかが重要になる
でも医者はそこまでは診ないのである
ただ礼文島の医者のことをNHKで放送したけど2000人とかの人口となるとその一人一人を知っている、何をしているのかどういう人なのかまでわかる
すると医者は体だけを診ているだけではない、その人間を全体を診るとなる
ただむずかしい病気になると稚内の病院と連絡して診てもらうようにしている
小さな島だったらその人の体だけではない、その生活や人なりを知っていて治療するとなる
礼文島は花の島であり花に癒されて死にたいとなる、稚内の病院とかで死にたくないとなるかもしれない、それは小さい島だともう全体につながりが明確に見えているからそうなる
とにかく現代は医療でもそうであるが何にしろ全体が見えない、部分化してアトム化している、一万の田舎町でもそうなのである、ただ大工さんを見たらその人は大工もできるし庭作りもできる、壁塗りまでできていた、それはその人の特別の才能からできたとなるがやはり田舎だと何でも屋になる、そういうことが強いられるからである
百姓とは百の仕事をできる人だとなる、それだけ農家でも多様な仕事があるからそうなった、また時代がさかのぼればのぼるほど人間は全体を生きていたのである
なんでも屋にならざるをえなかったのである、第一ケガするとしてそれでその傷に効く薬草などを知らなければならない、医者がいないのだから普通の人でも知って治療するほかないとなっていた、そういうことは農家とかでも薬草とかを知って備えていたとなる
村に鍛冶屋があるとする、するとその鍛冶屋は農民一人一人にあう農具を注文に合わせて作っていた、それは村で生きるとなるとそうして農民一人一人の要望に応えるためにそうなった、今のように規格品を買うことにはならない、道具でも職人でも様々なものが必要になるからである、その鍛冶屋にしても村全体の中で生きていたのである
ただ個々人に道具を売るというだけではない村全体のために働いていたとなる
現代はその全体のコミニュティが喪失したのである
田植えでも稲刈りでも人力だったら村全体でする、それで早乙女が田植えする、みんなでする、それが祭りになっていたのである、つまり祭りとは村全体でするものだからであるそれはみんなで協力しないとできないからそうなっていたのである
祭りがなくなるというときそうした共同性がコミニュティが喪失したことを示しているのである、今や農民が戦後まもなくでも6割とか戦前とかだと8割りの社会ではないからである
御民我れ 生ける験あり 天地の 栄ゆる時にあへらく思へば 犬養岡麻呂
こういうことで自然と人間が一体化していた、天地(あめつち)が栄えることが生活の基本である、でも今は科学技術とかがで栄えることであり天地とかは言わない
でも持続可能社会でそういうことが再び言われるようになった
天地がなければ人間の栄は基本的にないからである、天皇とはその栄を祈るものであり日本の祭司だったのである、だから皇居で田植えしたり蚕を飼っているのである
でも工業科学技術社会になればそれも現実と離れたものとなってしまった
日本がの高度成長は科学技術力で栄えたとなるからである
いづれにしろ人間は全体を見ないし見れないのである、無数に部分化してアトム化して分裂しているのである、原発でも吉田所長は復水器のことがわからなかったのである
それは肝心なものでもわからなかった、私は資材の専門家だからわからなかったと言っていた、原発でも余りにも複雑だから全部知っている人はいなかった
その前に原発が地域社会で生態系でどのように作用するかなど考えなかった
もし事故になったら生態系が汚染されて空気すら吸えなくなる恐怖になったからである
つまりこれも全体を生態系でも考えない全体を見れないということから起きたともなる
科学技術は巨大化して生態系すらも破壊してしまうのが現代である
気候変動も起きるとか全体に影響するのである
ただ人間は全体を見るのは苦手である、ただ一部分を見ているだけである
そこに人間の弱点があり今のような複雑怪奇な文明の全体を知る人などいないのである
それを総合する人もいない、それは神しかありえないだろう
文系理系とかあってもそれを総合的に見れる人などいないのである
そこに結局原発事故のように破滅的なことが起きて来る、そして文明は滅亡するともなるバベルの塔のように崩壊する運命になる
2022年07月11日
田舎の孤独死の怪 (隣の人が死んでいても二カ月わからなかった)
田舎の孤独死の怪
(隣の人が死んでいても二カ月わからなかった)
市営住宅の隣の人が死んでいるのに二カ月もわからなかった
その隣に住んでいる女性を知っている、良くしゃべる人である
それにしてもなぜ隣に住んでいても死んだのを知らなかったのか?
その女性は気さくに誰でも話す人なのである
その死んだ男性は変わり者でありあいさつもしなかったという
付き合いはなかった
でも知っている女性と立ち話していたらその死んだ人の兄が通って行ったのである
兄弟がいたのにそれも付き合いがなかった
これもどういうことなのかわからない
つまり近くに兄弟がいても付き合いがなかったということなのか?
それにしても隣に住んでいる人が死んでも二カ月もわからないものだろうか?
その時は冬だから匂いもしなかったという
その女性はいろいろ気を配る人である、それでも隣の人が死んでいて二カ月もわからなかったというのも謎である
もう田舎も都会と同じだよ
こう言うのもわかる、市営住宅だから特殊にしても底辺層がいるにしても田舎でそういうことが起きるのか?
というのは田舎だと誰だ出入りしているかと四六時中監視されている
近くに親戚がいて監視されている、女性が出入りしたりするのも監視されている
それが田舎である
でもここで孤独死した人は誰も関心がなかったということも謎である
ここの市営住宅には金属の塊りをぶらさげてただ毒口をつくだけの迷惑老人がいる
この人は話しかけても話すこともない、ただ毒口をついているだけだという
こうなると本人にとっても生きることがただ苦しいだけではないか
本人自体が地獄に成ってしまわないか?
何か前に他の市営住宅にいて追い出されたとか言っていた
市営住宅には何か問題な人たちがいることは言える
猫十匹飼っているエホバに入っている女性がいる
底辺層は創価が共産党に入っている
それで名古屋に行った時、そこも市営住宅地であり共産党と公明創価の宣伝があり
おそらくそういう場所ではどちらかに属していないと生活できなくなっている
とにかく〔田舎も都会と同じだ」というときこの孤独死は特殊なことではないかもしれない、田舎でも別に関心を持つとしても監視しているとか何か苦しんでいる時
他人の不幸は蜜の味となる、それがあからさまなのである
そういうことを話題にして楽しむのが田舎だともなる
その女性は農家の出である、それでも(農家は汚い)としきりに言う
そのことは戦後食料不足になったとき都会から食料を高価な着物とか骨董品とか何か食料と交換したとき嫌というほど思いしらされた
農家の人が素朴とかはない、田舎の人間が素朴とかないのである
ともかく田舎でも底辺層がいる、そこはみじめだとなる
むしろもしかしたら江戸時代の長屋のような所では人情があったとか見る
現代はむしろこうして隣に住んでいても無関心だったとなる
ただその人による、死んだ人は普通ではない、異常だったともなるからだ
でもそうして孤独に死んでゆくのも悲惨である
でもまたそうなり安いのが現代でもある、それは都会だけのことではない、田舎でもそうなのである
何か原発事故で復興住宅でも団地のような所でも孤独死があったとされる
孤立してそうなった
でも逆に仮設住宅では一軒一軒であり協力しあって一人暮らししていた人が喜んでいたというのも不思議である、そこは江戸時代のような長屋のようになったのかもしれない
年配の女性でも辺鄙な場所に住んでいたからいつも近くで逢えるからいいと言っていた
これも意外だった、田舎だと離れて住んでいるからである
女性は話し好きであり話すのが生きがいともなるからだ
現代の問題は一人暮らしが多くなることである、すると孤独死も増えて来る
最近知った大工さんも離婚して小高から原町に移り住んだ
すると一人になる、それで家事とかで困っている、でも仕事するから仲間もいる
でも家に帰ると一人なので今までは違ってくる、がらんとした家に一人でいることになるからだ、とにかく離婚する人もまた熟年離婚になる人が多いのである
死別もあるが一人暮らしが増える、すると孤独死に増えてゆくのである
とにかく近くに住んでいても何の仕事をしている人かわからないことも多い、田舎でもそうなのである、そこで人間関係が希薄化している
ここで孤独死した人は特殊な人だからそうなったのだがそれでもこうなりやすいのが現代だとなる、田舎でも都会のように他者の関係が希薄化している
ただ田舎は逆に関心を持つにしても同情するとかではない、相手の不幸を喜ぶ関心だとなるから困る
結局この世の中で住みよい場所などないのである、田舎だと自然がありその美に身近に接するとしても人間自体はいいとはならないのである
それにしても隣の人が病気になり福祉の車に乗せられていた
こうして病気になれば福祉関係の人が来る、でもそこには二カ月間死んだまま放置されていたのである、ただ突然死んだからそうなったともなる
病気になったら福祉関係の人が回るからである、それがないから突然の死で放置されたのかとなる
ともかく高齢社会ではこうして孤独死する人は増えて来る
そうなると阿部前首相が殺害されたが世界中からお悔やみがあったりするからそれが悪いものでもないとも見る、一方全く兄弟すら付き合いがなく放置されて誰も知らず死んだ人がいた、その差も大きいとなる
その人は冬に死んだけど夏だったらこうはならなかった、匂いがするからである
いづれにしろ一つの田舎の怪であった
2022年07月01日
それぞれの土地と家の物語 (歴史も家と土地の物語から始まる)
それぞれの土地と家の物語
(歴史も家と土地の物語から始まる)
歴史と言う時多岐にわたるから理解しにくい、むずかしいとなる
でも家族からみるとわかりやすいとなる、みんな家族が一番関心があるからだ
聖書にしても家族の物語からはじまり国の物語となり歴史となっている
アダムが祖となり綿々とつづいたその系譜の物語だった
何か中心となる家族がいてそれが分派する、一族となり家族が拡大する
今でも中国だと李氏が大きな一族を形成している、李氏朝鮮というときもそうである
李氏によって国が作られたとなるからだ、日本では逆に天皇に姓がないのはどこの氏族にも所属しないということで国を治めることができたとなる
たいがい力のある一族に属しているからどっちかに族していれば公平にならないからである、でも権力争いになると天皇は錦の御旗として持ち上げられて官軍と賊軍に分かれた
古代では天皇が兄弟で二つの勢力に分かれて熾烈な戦いとなる
南北朝でも天皇は二つに分かれて熾烈な争いとなりそれが国のすみずみまで争いとなり戦乱はつづいたのである、今の天皇は南朝の末裔だとしているのもそうである
家というとき土地があって家が建つのだから土地と関係している
その土地に土着するには土地が必要だからである、だから家と土地は切り離されずある
特に農家の場合は土地がなかったら生活もできないのだから土地と密着しているし
土地から離れて家も家族もありえないとなっていた
だから農家では土地を売るなとなっていたのである
先祖代々の土地を売って引っ越すと、先祖の祟りがあるというのだ
https://ameblo.jp/hirosu/entry-12281454084.html
これも土地と言うのが深く人間にかかわるものとしてあるためにそうなった
農民だと土地が命であり土地無くして生活が成り立たないのだから当然そうなる
そもそも農家の土地は代々その地域で先祖から耕して作られてきたものであるからだ
ある人は梨農家でも良い梨を作るには十年かかるとか言っていたからである
農家では跡を継ぐのが有利なのはそうして先祖が土地を苦労して作ってきたからだとなるたわけは「田分け」のことであり田を土地を分けること売る人はたわけになったのである
何が今住んている自分の土地もそうである、私の父親が双葉の新山で酒屋の丁稚であり暖簾分けしてこの地に来た、この土地はこの街で一番低い土地にあったがやはり土地を得たということで土着したとなる、土着とは土に着くことであるからだ
でも戦後二回洪水になり私の家は一番被害があった、今でも下水から水があふれ浸水しているのである、一番低いから水が集まるのである
その土地土地にはこうして悪い土地がありそこに住まざるを得ない理由がある
がけ崩れとか台風とか大雨で日本では常にある、そこはやはりもともとそういう悪い土地であり危険な土地なのである、でもそこに住まざるを得ない事情がある
日本は特に山が多く平地が少ないからそうなる、平という地名が多いというとき山間でも平な場所があるとそこに家も建てられるし農地にもなりやすいからである
日本で野というときは斜面のことだったのである、入野というとき山間の斜面の奥に入ることである、それで入野の歌が万葉の歌が残されたのである
そういう地形が日本の典型的な地形となっていたからである
そもそも平氏というとき山間の平な土地ということにもなる、極めて日本的な土地柄から生まれた姓だとなる
農民だとどうしても土地が一番大事になる、それで相馬地域では越中とか富山県から相馬藩が飢饉の時命がけで移住してきた、江戸時代は自由に移住できなかったからだ
それまでして移住したのは相馬藩が飢饉になり三分の一の人口が減ったからである
そこで欠け地が増えてその土地を与えるということで移住して来た、そこは余り土地としてはいい場所ではなかったのである
だいたい前田とあるところはその村の草分けでありそこが中心となって発展した
原町区の大原村だと前田という所がありその人がそこに住んでいて古い家だったらしい
その人と南相馬市の市立病院で入院して一緒だったので話を聞いた
そしてそこから遠田という地名があるがそれは前田から離れて山の方の遠い所で森の中に田畑があった、まさに前田からは遠い場所なのである
ともかく家と土地は切り離されずある、農民の場合は一体なのである、ただ商業とか工業が発達すると土地はそれほど重要でなくなったのである
だから浪江の人は回りの田んぼが草ぼうぼうになっていても無関心だった、かえって補償金もらって良かったとか言っていたのである
今は農業でも地方でも一割くらいしか生産量としてない、経済的に第一次産業のウエイトは減退したのである、それで意外と田舎に住んでいても農業のことがわからない人が多くなったのである、現実に農業していなければそうなる
給料もらえるのは会社だからである、それで藤倉ゴムとかではゴルフ用品を作っていた
それもグロ−バルに展開していたのである、そういうこともわからないことがある
農業だと一応見えるからわかるが商業とか工業になるとわかりにくいのである
家の物語もあるがそれと一体化して土地の物語がある、なぜなら土地無くして人間は住めないからである、そもそも争いが土地争いが必ずある、狭い地域でも必ず土地争いがあり領土争いがありそれが大きな戦争となってきたからである
なぜ土地とか家が人間にとって身近であり基本になるのかとなると農家だったら土地があって生活が成り立っていたからである
例えば一軒の農家があるとするとその農家がその土地の草分けとかなるとやがて城にもなる、掘りをめぐらして自衛するからそれが城の基ともなっていたのである
結局土地にしても家にしても先祖が苦労して得て作ってきたことに価値がある
そういう人間の苦労を偲ぶことが歴史にもなる、何の苦労もしないて得たものには価値がないとなる、私はこうして苦労して土地を手に入れ家を建て蔵を建ててきた
だからここを大事にしなさいとなる、田は売る奴は田分け(たわけ)となる
それは戦後の引揚者も仕事がなく不便な場所を開墾して住んだ
街の近くでも開墾して住んでいた、小池とかでもそういう場所があった
また飯館村とかでも木戸木などは本当に山にふさがれて不便な場所であったが開墾して住んだ人がいた、そこに共栄橋とかあるのはそのためである
共に栄えるとなるが今残っているのは二軒くらいである、もともと十軒くらいだったからそうなった
引揚者の数が多く仕事がなく不便な地域に開墾して住んだのである
浪江町の津島などは相当に山奥でありそこでも引揚者が開墾して住んだ
だから結束が強いというのもわかる、共に苦労した仲間だから結束が強い
でも原発事故で住めなくなったのである
そしてその土地は荒地となり放置されることになった
先祖代々の土地を売って引っ越すと、先祖の祟りがあるというのだ
https://ameblo.jp/hirosu/entry-12281454084.html
こんなこと関係ないとなるがそれだけ土地がもっている重みが農民社会では強かったからそうなったのである、日本は国土が狭いから土地の持つ価値が大きい
また山が多くて平な土地が少ないから余計にいい土地を求める、でもそういういい土地に住む人は草分けであり後は悪い土地に住んだのである、そういきう場所は災害にも会い
安いともなる、それが自分の家の土地だったのである
土地にまつわる歴史は家単位でもあるし藩単位でも国単位でもある
それが歴史だったともなる、ただ遊牧民だと土地にこだわらないから移動するから違っている、血族が強力な結束がある、日本の姓がどこかの土地の村に由来しているのとは違っているのである、日本では村かアイディンティティになっているからだ
ともかく原発事故で先祖が苦労して得た土地を捨てて他に移った人には祟りがあるのか?これも今はないとしてもやはり原発をこの土地に作らせたことが呪いになったことは確かである、そのためにその先祖代々の土地を捨てなければならなくなったからである
そして他の土地に移っても成功しなかったというのは祟りだったのかとなる
でも別に補償金をもらって仙台市の方に移った人でも成功していた人はいる
これはやはり土地と一体であった農民社会だから伝えられた
むしろ現代では成功者というとき篤農家ではなく工業であれ商業であれ農業以外で成功した人達だとなっているからだ
土地に執着した農民社会とは違っている、ただ放射線被害を受けたのは漁業であれ農業あれ林業であれ第一次産業の土地と一体化して生活する人達だったのである
でもそれらは現代では衰退産業になっていて跡継ぎがいなとか問題になっていた
そこに原発事故が起り壊滅的になってしまったのである
でも人間は親であれ先祖の苦労を偲ぶことが歴史でもあるというときそれを無視することはいいことがないともなる、それで先祖の祟りがあると言われたとなる
私の家でも水害で低い土地だから一番大きな台風被害の時、二階がなく逃げる場所がなかった、近くの二階のある家に逃れたのだがそれも水が押し寄せて危険だったのである
それでどうしても二階を持ちたいとなり二階のある家を早い時期に作ったのである
そこに苦労があったのである、それは地元の木を利用して作った
ハウス会社などまだない時代である、すると家とは土地を得て土着してその上に家を建てる、その家の材料が地元のものだとするときまさに土着したとなる
それがハウス会社になると地元とも関係なくなり一二週間で組み立てて建てる
そういうことで何か重みもなくなる、でも部品は工場で精巧に作られていて昔の家よりはいいものなのである
近くの人の石垣を積んだような庭が重みがある、それは20代ですでにそんな庭と立派な家を作ったのである、トラック運転手もしていて人の二倍の荷物を運んだ
その頃高度成長時代であり給料も高いから働けば働くほど金が入ったためである
つまりそうして自ら苦労して建てた家にいることで充実感がある
病院に半年くらい入院してかえって病気が悪化した、それは精神的な面もある
家にいれば自分で建てた家として重みがあり安住するとなるからだ
ただそこも街に近くても津波の被害があった、あそこまで床上まで津波が来たことには驚いた、それもまた家と土地の歴史となった
でも根こそぎ家も土地も消失した漁村よりは良かったとなる
でもあそこまで津波が来るとは誰も予想できなかった
こうして土地と家の物語があり家族の物語がありそこに苦労があり価値が生まれ
もし苦労がなかったら必ずしも価値は生まれないともなる
親でも子供を苦労して育てないとありがたみがなくなる、それで金持ちの子供が親自体が苦労しないとなり親のありがたみを感じないとなり放蕩息子が生れたりする
商家ではそうした放蕩息子がドラマになる、これは家だけではない、地域でも国単位でも歴史を忘れるということは先祖が苦労して築いた物を忘れるということである
それが先祖の祟りとなる、まず原発事故の悲劇は営々として築いてきた故郷に住めなくなったということである、それで放棄されて先祖代々の農地でも草ぼうぼうになり捨てられて神社でも捨てられてそこを幽鬼となった先祖が彷徨っている感じの荒寥としたものになったのである
それは限界集落とかでもそうである、村自体に人が住まなくなり村自体が山間に埋もれ原野化してしまったとことである、そこに神社にお参りする人もなく墓参りもなく捨てられて先祖は幽鬼となって彷徨うようになる、それがこの辺では原発事故で広範囲に起きた
だから原発事故の罪は余りにも深かったのである
でもそれをあまり深く考えない、誰も死んでないのだからたいしたことがないという人もいる、でも現実を見ればそうではない、原発の避難区域にはもう戻らない人が多く土地も家も捨てられて先祖も捨てられたのである、そこで先祖の祟りがあるということもありえる、だからなぜそうなったのか?これは深く考えるべきものだったのである
2022年06月10日
自分の家の歴史ー地震の後片付けで生前整理にもなった
2022年05月08日
ヤングケアラーの悲惨 (貴重な時間が奪われることが最大の損失)
2022年01月26日
過去は美化されのはなぜか? (死者は美化されるのはなぜか―利害関係がなくなるのから)
2022年01月23日
82歳男性強盗殺人 逮捕の24歳女さん「パパ活をしていた」 「カッとなって刺した」と話す (老人の欲は消えず小人閑居して不善を成すになる)
2022年01月15日
高齢者の貧困の深刻化―物騒な時代に (生活保護もまともにもらえない、息子娘も援助できない・・・老人は捨てられる)
高齢者の貧困の深刻化―物騒な時代に
(生活保護もまともにもらえない、息子娘も援助できない・・・老人は捨てられる)
今は、生活保護は高齢世帯の代名詞だ。生活保護受給世帯の半数以上(21年10月時点で55.5%)は、65歳以上の高齢者世帯となっている。
高齢者の貧困については、21年5月19日の『「70歳定年」のウラで、じつは日本中で「貧しい高齢者」がめちゃ増えていた…! でも取り上げた。
当たり前のことだが、2人の高齢者世帯はやがて単身世帯になる。高齢者受給世帯のうち51.2%(21年10月)は単身世帯となっており、これが受給人数の減少にも関わらず、受給世帯数が増加している主な要因だ。
貧乏というのはその人に直接接しないと実感しない、そして現代では貧困が見えない
汚いボロを来ているわけでもない、明治時代頃に残った写真を見ているとにかく来ているものが貧弱なのである、ボロのようにも見える
だから着るもので今と比べると貧乏が一目でわかる、また戦前とか戦後まもなくはまだ
乞食もいたからわかりやすい、でも今の貧困は一目見てもわからない
ただはっきりわかることは
必ず電気、ガス、水道代が払えず止められる、それを訴えることでこの人は貧乏だと知るそれを止められるともう生活できないし飢え死ににもなりかねないからである
現実に凍死したり暑い時はエアコンない死んだりするからだ
そして今は息子にも娘にも頼れない、生活が苦しいから援助できないのである
それより息子娘でも親を捨てる時代である、食べ物を買う金がないからくれろと言ってももらえないとかなっている、でもその息子はいい暮らしていてもそうなのである
だから事情があるにしろ親子関係でも冷たいものとなっているのだ
だから親は飢え死にしてもかまわないとまでなる

こういうことにもなる
大阪市北区の雑居ビル内のクリニックで25人が犠牲になった放火殺人事件で、谷本盛雄容疑者(61)=事件後に死亡=が昨年春、生活保護の申請について区役所に相談していたが、受給は実現しなかったことが捜査関係者らへの取材でわかった。
谷本容疑者の金融機関の口座の残高はわずかだったことも判明。大阪府警は事件前の容疑者の生活について調べている。
底辺放置すると社会が不安定になるっていい例だわな
時々役所がナマポ申請ことわってる事件が記事になってるがもう今の国民は昔ほど大人しくないって気づいた方がいいよな。
死ぬくらいなら巻き込んでやる!って連中で溢れてる。役所で働く人達は今後いつ放火されるか緊張と命の危機と隣り合わせだって状況にきてる。高度経済成長の時代は失業者がそう多くなかった
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1642090650/
ここで役所が生活保護を断った、それが問題にされる、この人は追い詰められていたのだ金もなくなり追い詰められていた
追い詰められている人間ほど怖い者はない⇒犯罪を怖がらない
もうやけになっているからどうでもいいとなる、その後のことは考えないのだ
その追い詰められた人間を役所で断った結果大惨事になった
ただもう生活保護は受けられなくなる、もらったとしても10万なんかもらえない
国民年金四万もらってもあとは5000円とかもらえないとかまた医療費でも無料ではない、必ず二三割はとられるのである
もう生活保護は最後のセーフティネットではない、するとどうなるのか?
凶悪犯罪者が野に放たれる!
これが大阪放火事件となった、最後だけ目立ちたいとか道連れにしてやるとかなる
これは別に都会だから起きているのではない、自分自身にも起きたからである
もう金がないとして自分が介護で病気で苦しんでいる時、家探しされたとかある
また外部からも泥棒が入ってきて金庫を開けられた、金庫は別にダイヤル式でもプロは空けられるから注意である、ただ中に金は入っていなかった、現金は置かないようにしたからだ
日本の貧困化は深刻である、そのことでいろいろ予想する人がいる
もう戦後の焼け野原から立ち直った時のような貧乏になる、その時は電気でも水道でもガスもない、電気があったとしても裸電球一つだからないとも同じである
電機製品は高度成長時代になってから普及したからである
でもなぜ今の時代がその焼野原になった後より暗い感じがするのか?
それは人間は金持ちであるとか贅沢な暮らしをしているとそれが貧乏になることが最も辛いことになるからである、もともと貧乏よりその方が苦しいのでありみじめなのである
一旦裕福な暮らしをしている人が没落することが最も辛いのである
戦後の焼け野原ではみんな平等に貧乏だった、でも不思議と子供が多く上昇気運があった要するに最悪になるとその最悪からは良くなることしかないからである
どん底を経験している人は強い、また危機を脱して生きる人も強い
戦後は戦争に負けても戦争に参加して地獄を経験した人が多かった
でもそういう人は命が助かったということで生きているだけで得だったと思う
あの時どうせ死んでいた、戦友も死んでいた、自分は生き残ったから生きているだけで得だと考えるのである、それは人間の心理なのである
別に戦争に行かなくても必ずあの時死んでいたのではないかという経験を人間はしているするとこれまで生きたのは運が良かったもうけものだったとなる、生きているだけで得したとかなる、そういう考えになると楽なのである
そして不思議なのは老人になると今なら70以上とかなるとまた考え方が若い時は相当に変わってくる、あき何年か生きるだけだということが実感する
これだけは若い時は感じない、どうせこの世に生きるのもわずかだとなるときこの世のことにあまり執着しなくなることがある
いろいろあったがしたいこともあったが何か起きるにしろこの世から去るだけだ死ぬだけだとなってしまうからである、この世のことなどどうなっていいとにもなる
どうせ死ぬんだからこの世とはおさらばするのだから関係ないともなってしまうのであるそれで若者は深刻な顔しているが老人はにこやかになり悟ったようになりあきらめがあり楽だともなる、生きることより死ぬことが常に頭にある
ただ老人でも日々の生活に事欠くとなると苦しい、やはり最低限でも電気ガス水道がないと暮らしていけない、それが止められるとなると生きていけないとなり絶望する
ただ老人は最低限の生活でもがまんできることはある
ところが日本が今貧困化が深刻だからその最低限が得られるなのである
すると老人でも絶望して犯罪になることがある
補償金で暮らして働かない人も多い、それより老人が多いから働けないという人も多い
だから後は生活保護だという人もいる、それで東電に年金を十万払いと小高では交渉したのである
だから補償金が尽きるとどうしても生活保護を申請する人が増える
それも被害者特権で受け入れやすいかもしれない、でも市の財政も苦しくなっているからわからない、国からの援助も打ち切らたからである
そして市の人口構成を見るとこの図のようになるから異常だと思う
将来は人口は半分になり公務員の給料も払えなくなってゴミ投げるにも金を払うとなるしその負担が増えるのである、だから生活保護でも極力抑えるようになる
もう震災から十一年も過ぎているからだ
とにかく新年早々物騒でもある、現実に物騒な時代になっているのだ
東京とかでは将来一部の富裕層とエッセンシャルワーカだけになりスラム街が生れと予想する人もいる、それもありだなと思う、要するに一部の富裕層と最底辺の人たちに分化する、それはアメリカと同じともなる、ただアメリカの生活保護者は車ももっていて大きな家に住んでいるというから違っている
日本は中間層がいなくなりそうするとどうなるのか?
凶悪犯罪であり犯罪都市になると予言している人がいる、アメリカと同じようになる
アメリカに戦後習った日本は当然アメリカのようになるのだ
そういう犯罪都市になるとうかうかと街ものんびり行くこともてきなくなる
その辺を犯罪者がうろうろしているからだ、田舎でもそうなっているのだから都会だったら空恐ろしいものともなる
つまりもう日本は末世なのである、生活困窮者であふれ犯罪者でけあふれ物騒になる
日本が安全だというのは昔のことになる、背に腹は変えられないとなるからだ
何か日蓮の時代のように今なっている、その時は路上で人がばたばた死んでその屍で道ができていたとかなっていた、地獄たったのである
新年からなんだが今年は虎年は物騒な歳でありそれがもっとひどくなる
この窮地を打開するものは何なのか?それが見えるようになるのは時間がかかる
もしかしたらここ十年はこんな状態がつづくのか、その頃死んでいればいいとなる
どうせいくら長寿社会でも85くらいまで生きれば十分だからである
こういう暗い時代には長生きしたくないともなるからだ
2022年01月13日
一人っ子は社会に適応しにくい、結婚をしにくい (一人っ子の男性の34パーセントは独身で死んでゆく)
2021年11月25日
家を継ぐことの意味 (家が継がれずに失われるものー代を重ねて豊かになる)
2021年11月21日
増大する老人の医療費に介護費用 (その負担が下の世代の社会全体の重圧に・・・・)
2021年10月18日
実は日本人が「他人を助けない不親切な国民」になっていた… (日本は村社会が規範を作ったーまた余裕がないと人は助けられない)
実は日本人が「他人を助けない不親切な国民」になっていた…
(日本は村社会が規範を作ったーまた余裕がないと人は助けられない)
https://news.yahoo.co.jp/articles/3a40db6f45418461163b63127a2fa48e7656aec0?page=2
https://chururinews.blog.jp/archives/11121407.html
●日本人が不親切になったとみんな思っている(5ch)
近くの人の忘れ物に気づき係員に届けようとしたら窃盗の疑いでブラリ入り
どの店に行ってもマークされてる
それ以来落とし物を見つけても素通り
親切で誤認されるくらいなら自衛最優先
今の日本は、親切心で何かすると勘違いやでっち上げで公務員が一般国民を逮捕する国になっているから無理です
要は自分の事でいっぱいいっぱいの奴が激増したって事だろ、俺は生き残る、俺だけ生き残るみたいな
人になりふり構ってらんねえっていうか、景気も関係あるんだけど
それは国民性と関係無いよ
民族に関係なく、金に余裕がある人は他者を助ける余裕もあるというだけ
今は経済的に貧しい国民が多くなってしまった
それだけこの国が大衆からむしり取ってきたことの証左だし
お客さんに愛想良くするだけで昔から親切でも何でもないぞ
田舎に住んでる連中なんて他人に嫌がらせして喜ぶのばっかだし
2chが出来た頃から何かの被害者が国から賠償金貰うなんて
ニュースが出たら烈火のごとく怒って叩きまくってきるし
基本他人が得する事は阻止するように動く奴ばっかやん
日本人の世間体からくる善意のポーズを真に受けてる奴の多いこと
本質はめちゃくちゃ醜い民族だよ
だからルールをガチガチに固めたり、同調圧力やらで身動きできないように抑え込むのよ
集団行動に支障が出るレベルに醜いから
財布届けても職質されるからな
落とし物は二度と届けない
東京はみんな忙しいし通勤時間帯などだと、
時間がなくて手を貸したくても貸せない人は多いと思う
だから見て見ぬふりをしてそそくさと通りすぎる
今の日本は善良な人間ほど損をするように出来てるからな
一人また一人と自分の善意が誰かの金儲けに利用されてると気づいて
他人を助ける人がいなくなり現状に至る
昔なら近所のおばちゃんに子守りお願いしたり、旅行するときにペット預けたりとかできたけど、今そんなん絶対無理だしな。
落とし物を拾ってあげて声かけたら通報されそうだもんな
日本人は親切にされる事も嫌うよね
席を譲られたり話しかけられるだけで嫌がるんだから
宗教団体が政治を牛耳ると信者獲得のために人の弱みに付け込むからな
近くの人の忘れ物に気づき係員に届けようとしたら窃盗の疑いでブラリ入り
どの店に行ってもマークされてる
それ以来落とし物を見つけても素通り
親切で誤認されるくらいなら自衛最優先
助けようと声掛けたら通報される時代だもんな
下手に声掛けると、ヘンな人として警察呼ぶ親とか、子どもにも知らない人に声掛けられても、
他人に不親切では無く、そうしないと疑われる事も有るんですが?
それでも声掛けたりして、リスクを背負うと言う事でしょうか。
人々の助け合いを強めたいなら、
社会保険料や社会保障を撤廃することだよ。
あれで可処分所得を奪われ、寄付がやりづらくなっている。
おまけに寄付をもらう側も、国が暮れる者と勘違いして、感謝を忘れる。
社会保障を撤廃して、福祉は人々の寄付のみとやるべきだね。
少し前の中国に似てきたな
関わると面倒だから人が倒れてても無視
幸福をわけあうのが嫌い
(血縁主義、身内贔屓、福は内鬼は外)
苦しみは平等じゃないと許せず、幸運を掴んだ人の足を引っ張る
政府は貧しい人々の面倒を見るべき」という項目に「同意する」と答えた日本人は
調査対象の47ヵ国中、最低の59%だった。
総中流層だらけの時代は余裕があったから他人に親切に出来た
今は奴隷層が増えたせいで他人なんて構う余裕がない
小学生が下校後に歩いていると
一定距離を保って成人男性が後ろを歩いてきた
小学生が立ち止まるとその人も立ち止まった
小学生は怖くなって走って帰宅しました
親は通報しましたとさ
犯人扱いされまくりだろ
自意識過剰です
泣いてる子供が座り込んでいていかにも助けてほしいって感じだったけど
不審者に間違われる危険性もあるからガン無視して
颯爽と立ち去ったよ
心は痛んだけど警察さえいなければ
中国で道端で倒れてる子供を周りの人がみんなスルーしてるニュースがあってコメンテーターや5chでも中国は異常みたいに言ってたんだけど今や日本も変わらんよ
みんなトラブルに巻き込まれれたくないのさ
新宿で道に倒れてる人がいてもみんな無視していく。
それが普通なのね〜。
人助けようとすると逮捕されるよね
貧困増えて余裕無くなったからだろ?外国人だっておなじだ。心にゆとりが無いとギスギスして荒んでくるんだよ。
なんかこの対話を知ると悲しくなる、日本人ってもうかつての日本人ではない
まるで違った日本人になっている、互いに信頼もないし疑心暗鬼で生きている
社会の変化もありへたに他人とはかかわるなとなる
ただやっかいだとなる、だからボランティアなどすることは相当に危険になる
これも暗い話になる、自分もそれを経験したからそういう社会になった、日本人変わったことを意識していなかったためである
これらがすべてではないにしろどうしてもネガティブな意見が多くそれが真実と見る
●日本はもともとよそ者に不親切だった
現代の日本はこれだよ、いちいち納得する、知っている底辺層が何度もここで倒れても誰も助けないというのはもう一部の人ではない全員がそう思っているともなる
日本人が親切だとか落とした財布は必ずもどってくるとかは確かにある
でも様々なことで日本人は人に対して親切ではない、江戸時代の人間が何か貧乏でも親切であったとかいい顔していたとか言われるがそういうものはもうとっくにない
そういう社会があり時代の影響でそうなったからである
江戸時代だったら村社会であり狭い村社会で日本人のアイディンティティは作られてきたそこで村八分とかがありよそ者と内部の者と区別してきた
村の外から来た人は村人全員で監視していた、それで与那国島に行ったら木陰で休んでいただけで怪しい奴として警察に通報された
与那国島は簡単に島を一周できる小さな村である、そういう場所だからよそ者はすぐわかるからである、もともとそうした島で人と交わらないよせつけないことがあったからだ
そういう感覚が日本全国で江戸時代だったし明治になっても全国の人が交わるようになった、そこで大きな変化が起きた、汽車でもそこの中で見知らぬ人が一緒に同席することが何かなじめない、異様なことに感じていたのである
つまり見知らぬ人と一緒にいることはなかったからそうなった
日本人はこうしてもともと国自体が島国であり300年も外国人と交わらない世界で唯一鎖国した国である、その歴史は日本人の血ともなっている
戦前だって地方の田舎では外国人と直接接することはまれだった、今のように外国人が田舎でもどこでも普通にいる時代ではなかった
外国人と田舎でも普通の人でも接するようになったのは高度成長時代が終わりグロ−バル化した時代だからその歴史が浅いのである
今だって外国人と付き合うことは抵抗がありなかなかできないのが日本人である
ただ一部の者は外国人と接することが抵抗がなくなったのである
学生だったら外国人の学生はどこにでもいる、でも私の大学時代でも外国人に逢うということはまれだったのである
それで日本人は英語を習ってもほとんどしゃべることでは活用できなかったのである
私は50過ぎて外国旅行してはじめて英語を使ったともなる、英語を実際に使う機会がないのが日本人だったのである
日本人はそもそも村人間であり外部の者には冷たい社会だったのである
例えば遊牧民だと客人を大切にする、そうしたのは情報を得るためである、通信技術がない時代は人が情報を伝える担い手だからそうなっていた
ただ親切にするのではない、情報を知るために不可欠でありそれで親切にしたのである
人自体が情報伝達者になっていたからである
農民だと定着しているから近間のことを知っていることだけで足りることがある
でも遊牧民になると定着しないんで移動するからそのために情報が必ず必要である
それを知らないと生命の危険にもなる
●定着する農民と移動する遊牧民の相違
定着する農民だったら近間のことを知れば足りるのである
だから外部から来る人間は受け入れないのが基本になる、怪しいとなり警戒するのが普通である、つまり定着する農民社会ではそうなりやすいのである
ただ中国とかは巨大だから遊牧している人もいるし定着した農民もいるし入り交ざっているのである、そして中国人が商売上手だというとき遊牧民は移動する商人でもあるから
そういう人達が入り交ざっているから文化も遊牧民的なものがある
そこが日本とは相当に違っているのである、あれだけ広ければ人種が混交するし文化でも混交する、大陸的文化と島国の村社会の日本とはそこが根本的に違っている
日本人が財布を落としたら帰ってくるとか親切だとか言うが日本人はもともと狭い村社会で生きてきたから村内だと何か子細なことでもわかってしまう、村内で竈の中までわかるとかなり村内では悪いことができないことが犯罪の歯止になっていたのである
今でも田舎では周りから監視されているのである、外部の人ならさらにその監視が厳しくなる、それが犯罪の防止ともなる、江戸時代の村だったら余計にそうなる
よそ者だとはっきりわかるからだ、それも歩いていると余計にわかる
今たと車で通るから誰が通るかもわからないということで犯罪が増える
村内に入ってもそこから車で出て行けば遠くに行ってしまうからわからないとなる
江戸時代は歩いているのだから逃げるにも時間がかかる、だから犯罪になりにくいのである、また関所もありそこで調べられるから犯罪することは簡単にできないのである
日本人がそもそも他者に親切でなかったのである、犯罪が少なく安全だというのはそういう村社会内でそうだったのである、日本ではそうした犯罪者は目立つし村内で犯罪者になると何代もそのことが言われつづけるのである
この辺で起きた500年前の主君殺しの家臣の子孫はまだ生きているのである
だからその主君殺し、幼児まで殺したことの残虐さは語られれば嫌だとなるのである
500年前の話でもまたそれは生々しいものにもなっているのである
だから日本では犯罪を犯しにくいのである
大陸的文化と日本的島国文化との相違は大きい、大勢は大陸文化である、中央アジアの砂漠地帯から世界史が始まっているからである、誤解しているのはイスラエルは半分は砂漠の国なのである、だから今でもエジプトまで広がる広大な地域が砂漠でありそこは一神教の世界になっている、そこで形成された遊牧民の文化が世界の常識でありスタンダードだともなる
でも日本の島国的閉鎖村社会文化は異質だったのである
日本人には見知らぬ他人に親切にする文化がそもそもなかったのである
だから他者には冷たいとなる、でも内輪のものでは助け合うとなる
またそうした狭い村が世界になると陰湿になり村八分とかなる
日本人が村八分の制裁が生まれたのは村から出れないからである
村から出ることは死ぬことにもなったからである、だから陰湿ないじめとかになる
大陸だと遊牧民だと定着しないから別な場所に移ればいいとなるからである
そういう歴史的文化的背景はともかく日本人は親切ではないし冷たいというのは本当である、それはどうしてそうなったのか?
こういう歴史的文化的背景もあるが人間はまず余裕がないと親切にできない、人を助けることができないのである
また忙しくてもできない、東京のような人が混雑している所ではいちいち人がどうなっているか見ていられないからである
●マスコミ通信の発達で事件は隣村で起きた感じる
今の時代はそのちょっとした親切も危険になる、何か子供に近づいたりすると性犯罪者とかにも見られるからだ
そしてすぐに警察に連絡されるからだ、そういうことを駅のボランティアで自分も経験した、外部から来た人に道案内しているだけで怪しいとして誰かが警察に通報してみんなの前で職務質問されたからである
こういうことがあるからはここで議論されているようにみんなもそうだったのかと今の社会を理解するようになる、それでネットは役ににたつ、自分だけのことではないとなるからだ
それからテレビとかのマスコミの影響も大きい、毎日事件のことが放送される
するとその事件が必ず隣の村で起きたように感じるのである
地球の裏側で起きたことすら隣の村で起きたように感じる
それをマクルハーンが指摘していたのである、すると何か犯罪があるとすぐ身近に起きると感じる、それが人間の心理だとなる
それによってもうこの世は犯罪者だらけだと感じる、現実に確かに犯罪は日常的に起きている、でも遠い所のことは今までわからなかった、それが外国まで事件が毎日のように放送されるとみんな危険人物に見られてしまうのである
つまり通信の発達が外国でも隣村で起きたように感じるのである
通信の発達も大きな影響をもたらしたのである
日本の戦争も朝日新聞があおったためだとかナチスはラジオから生まれたとか通信の発達が社会を変えたのであく
もし遠くの犯罪でも報道されなければ感じないからだ、情報の過剰はかえって人間を不安にする、余計な心配が増えるだけだともなる、それも問題にしても情報過剰により人間同士が身近でも信じられなくなるののは問題なのである
こうして日本人が親切ではないというときその背景がある、日本人はもともと外部の者には親切でとなかった、そういう国柄である、大陸文化と島国村社会文化は根本的に違っているからである、同調圧力が強いとういのも村社会がアイディンティティだからそうなった、何か独創的発明が出ないのも同調圧力が強くみんな同じでないと許せないという村社会が基本になっているからだともなる
新しいものを受け入れにくいということがある
一方で日本人は新しいものを受け入れることに機敏だったということもある
だから明治維新でもありえた、江戸時代からの明治の変化は驚くべきものだったからである、だから日本人は新しいものを外部のものを受け入れないということはない
ただ基本的には島国の閉鎖的な村社会の歴史と文化が日本人のエートス(雰囲気)を作って来たとなる
●戦後アメリカをまねて金第一になった(日本のモラル消失した―銃社会のアメリカになる)
明治に来た外国人がいい顔していたとか日本人をほめているがそれもそうした社会背景がありそうなった、だから社会が変われば時代が変われば人間も変わる
広域化グロ−バル化社会も日本人を相当に変えてしまったし戦後のアメリカ化とか過度な資本主主義社会や情報化社会もそうである
その変化は余りにも大きかったからである、日本がアメリカ化することはアメリカと似た国になることである、日本の文化とか日本人的な良さも失われたということである
内村鑑三はアメリカに留学してアメリカはすべて金の国である、金なしでは何もありえない国だと言っていた、でも日本は違っていたという時まだ日本人的なものが残されていたからそうなったのである
現代ではそういう日本人的良さというものはなくなってきた
戦後はただ物質的繁栄のみを望んで高度成長時代があったからである
そこで日本の文化としてあった精神的なものは失われたとなる
日本の太平洋戦争が悪いものとばかりみているがその時挙国一致であり日本人は協力して戦ったともなる、その時は日本人同士では助け合うということがあった
これも問題があるにしろそういう時代に生きていたということで評価しいる人もいたからである、ただ人間は過去の時代を生きることは経験できないから誤解するようになる
日本が不親切な国民だというのは本当だと思う、これだけ自分だけではない、みんなが感じいたことなのである
それはやはり社会全体であり戦後からアメリかを習った結果だともなる
アメリカに負けてからアメリカがすべていいものとして受け入れた結果だからとなる
日本の良い面が結果的に失われたためだとなる、すべて金で計られるのもそうである
何か親切にすることはかえって怪しいとされ犯罪者とも見られる
それはもう互いに信じられない疑心暗鬼の世界になったのは通信の発達でマスコミの影響もあった
それから日本が貧困化して自分のことで精一杯であり他者のことなどかまっていられないというのもある、余裕がない人達が増えたのである
でも別に日本はそもそも貧しい国だったから貧しくても親切な人はいる
インドで乞食とかに与えるのは貧乏な人だというとき貧乏を経験している人はかえって同情心があるからいくばくの金でも与えるとなる
貧困な人は余裕が無いから人に頼まれても助けることができない、自分自身のことで精一杯だからである、金銭的にもそうなのである、金銭的に余裕がない人は人を助けることはできない、それで自分自身が両親の介護になったとき来たのは事業に失敗して借金している人とがぎりぎりの生活をしているとか何か問題をかかえていたからもともと助けることなどできない、相手が弱っていたからチャンスとなり金を得ようと盗んだり金を得ようとするだけだったのである
何でも余裕のない人は助けることがてきない、自分自身のことで精一杯だからである
もし人を助けようとすると負担がかかる場合がある、それも避けようとする
ただちょっとした親切ならいいのである
親切というときそれは軽い親切であり負担が大きくなれば簡単にはできない
ただ問題は軽い親切でもこうしたもろもろの事情でできなくなったことである
それは駅の道案内とかのボランティアで感じたのである
人は人を信じられなくなった、そういうことがこれまでもあったがその度合い強くなったそれで日本人が世界で他者に親切でない国として統計でわかったとなる
日本人のモラルは戦前よりも相当に低下していることは確かである
戦前まではまだ日本人のモラルがあり義理人情とかもあった
でも今はそれすらない、モラルがない、ただ金だけがすべてであり物質的な繁栄のみがすべてとなったからである
それはカルト教団とか宗教でもすべて御利益しかないから同じだった
日本人の宗教はみんな御利益宗教であり本来の宗教はない、つまり日本人はモラルなき民族になったのである、ただ金をすべてでありモラルはなくなったのである
資本主義も強欲資本主義でありモラルは喪失した
もはや日本であれモラルなき道徳無き経済であり獣化したのが今の世界であり日本だけのことではないだろう、特に日本がそうだというき日本にはもともとキリスト教とか根付かなかったし宗教でも仏教でも御利益宗教だからそうなったともなる
弱肉強食のモラルなき道徳なき社会経済というのは人間が食うか食われるのか社会にしているともなる、他人に親切にするとかどころではない、相手を食わなければ生きていけない社会だともなる、それはまさに地獄だとなる
ただ地獄というとき常にこの世は江戸時代でも地獄だった、だから「世の中は地獄の上の花見かなー一茶」になっていたし地獄が一定の住処(すみか)なりという親鸞の言葉が今でも生きているのである、地獄の無い時代はなかったのである
むしろ戦後は戦争が無かったのだからましだともなる、戦争は殺し合うのだから最悪の地獄だったからである
日本にはかつての安心はなくアメリカのように銃をいつももっていて殺すか殺される中で生きるようになるかもしれない、
他者は信じられくなっているからである
2021年10月10日
社会の異常性、集団の異常性、家族の異常性、個人の異常性 (人間は異常性に気づかない―家族もエゴである)
社会の異常性、集団の異常性、家族の異常性、個人の異常性
(人間は異常性に気づかない―家族もエゴである)
●個々の家族でも比較するとその異常性に気づく
「家族」であるかぎり、あるいは「夫婦」であるかぎり、それが自然と何らかの抑止力となって問題はその中で自己解決されることを期待されてきた。家族だからというただそれだけで、何か不思議な「自己治癒力」や「自浄作用」があると信じて。
私たちは「家族」を過信しすぎていないか
https://president.jp/articles/-/29907?page=2
人間はそもそも自分自身のことがわからない、自分自身のことを知りたいなら他人と比較することである、他人を鏡として自分がわかる
異常性も同じなのである、何が異常かわからないからである
家族でもそうである、家族の異常性に気づかないのである、そういう自分自身がそうだった、本当に自分の家族は異常だった、そして自分も異常だったがその異常性に気づかなかった
それはなぜか?違った家族と交流しなかったからである
違った家族と交流するとき自分の家族の異常性に気づくからである
例えば白い花に意識があればその白い花は赤い花とかと比べると意識するのである
白い花として咲いていると意識できないのである
自分の家族は異常だったけどその異常なことも日常化すると異常でなくなるのだ
憎しみ合う家族でもそれが日常化すると異常でなくなる、そういうものが家族だと思ってしまうのである、それは夫婦にも言えるのだ
夫婦の異常性も別な夫婦と付き合うと随分夫婦でも違うことあると気づくのである
子供で別な家庭に接してこんな家族があるのかと気づくのである
だから貧乏人は金持ちの家族と付き合ってみることだともなる
それができないから互いに理解しえないことことになる
毎月電気ガス水道を止められてそれが憤りになっている人がいる
でもそんなことは普通無いからその人の気持ちもわからないとなる
そういう人は底辺層であり底辺層は底辺層と付き合うからわからなくなる
たいがい共産党と創価はこうした底辺層でありだから思想的は反対でも同じ気持なのである
社会に対して大きな不満を持っていて憤りをもっている、だから社会に対して憎悪をもっていてそういう人達が同じ不満と憤りを共有しているのだ
それが一面怖いものなのである、マルクス主義が実は憎悪の宗教でもあるときそうなのである、階級制を打破しようとするときそれは恵まれない人達が恵まれた人達を恨み憎悪する気持が強いからである、だからそういう人を集めることが革命に通じる
その憎悪と憤りが非常に強いからである、それが強力なエネルギーとなり社会転覆するものとなる
本来の宗教だったらそういうことはない、出家する人とか修道院で信仰に励む人は社会を恨んだりしないのである、貧しくても清貧として修行しているとなる
ただカトリックなどは贅沢したからまた別だとなる
まずこの世に理想的な家族がいるのか?何かしら必ず問題をかかえているのも家族なのである、その矛盾というか隠されていたものがいつか表面化したのが様々な家族の事件なのである、個々にはわからないにしても自分自身の家族がそうだった
引きこもりとして30年家族と一緒にいたのも異常だった
ただそれに気づかなかったのである、介護になって気づいたのである
ただ自分にとっていいものでありそれで家族の異常性に気づかなかったのである
そこで死ぬほどの苦しみを味わったのである、要するに最後に家族だけでは問題を解決しない事態になる、また家族遺棄社会とかなっているように家族を過信することはできない普通に子供でも家族を捨てるからである、親でも捨てる時代になっている
だから家族だけで問題を解決することはできないのである
●家族もエゴである
ともかく人間の異常性は様々である、例えば創価とかエホバとかカルト宗教団体は異常である、そういう人達身近で見ているからみんなわかるだろう
でもその内部ではその異常性に気づかない、異常が正常になり批判すると今度はかえってその人が異常だとして集団で攻撃してくる、それがナチスでもあったのだ
個人も狂っているが集団も狂っているとしてニーチェは死んだ
ただ集団の異常性は正常とされるのである、大多数がナチスになればそれからはずれた人が異常となり攻撃されるのである
現代文明は様々な異常性を抱えている、その異常性が集団として狂気化したのがナチスである、また日本の戦争の現人神(あらひとかみ)戦争も似た面はあった
集団的狂気となり誰も止めることができなくなっていた
ナチスは選挙で選ばれたのであり民主主義から生まれたのである
暴力で政権をとったのではない、選挙の手続きを踏んで政権をとったのである
だから創価とかなると24時間365日選挙運動である、すべて選挙に勝つことにエネルギーをそそぐのである、信仰も選挙に勝つことで仏法の勝利となる
日蓮の教義ではそれが矛盾しないからである、ただ現代では政教分離の法律があっても無視されるのである
家族とは一見いいものであり家族がいないものは悲惨だとなることもわかる
弱肉強食の世界で家族がいないということは誰も守る人がいないともなるからだ
それがわかるにしても家族もいろいろであり家族に問題を抱える人はいくらでもいるのだとにかく私の母親の実家は後妻が入ってきて家族がずたずたにされたのである
継母に私の母親はいじめられたりもう家族ともなっていなかったのである
そして不和分裂の家族だったのである、そのカルマは死んでから自分にふりかかってきて苦しんだのである、結局分裂していさかいは全部親戚の縁は切れたのである
そもそもそれくらいの縁しかなかったのである
むしろ他人でも世話になったからと助けている人がいるがその人の方が家族になっているのだ、家族がすべていいものとならないのである
そもそもキリストでもシャカでも出家した、家族を持たないというとき結婚しないというとき肉で結ばれるものを否定したのである
本当の家族は天国にしかないのである、確かに家族は天国の疑似とはなっていても常に家族にも争いがあり矛盾がありそれが必ず現れて来る
家族だけでも問題が解決されなくなるのだ
だから家族で何でも問題を解決できない、家族を過信するなというときそうなる
そもそも家族というときそれは家族だけは愛すが他人はどうでもいいとなっている
そのためにキリスト教でも仏教でも肉による結婚を否定したのである
それは本能的な肉欲の結びつきでありそこから問題が生まれるようになっていたからである,愛とは恋愛とかの愛ではないのである
肉欲で結ばれる愛ではないのである、そこが混同するのである
神の愛とは肉欲とは関係ないし血縁とも関係ないのが本来の愛である
それが神の愛なのである
家族もエゴなのである、だから一つの家が中心となって権力を形成して支配する
それがヨ−ロッパでも中国でも日本でも同じなのである
ハウスブルグ家とかなるとハウスは家でありブルグは城のことだからである
まさに家とは城のことにもなる、中国でも李氏とかなると一つの国家を形成するほどの集団になる、李氏朝鮮とは李氏一族の朝鮮となっていたのである
日本でも徳川家となるとそうである、御家大事となり家を守ることで結束したとなるからだ
現代になるとロックフェラー家とかロスチャイルド家が世界を支配している、陰の支配者だという陰謀論でもそうである
家族とはこうしてエゴであり権力化することでもエゴなのである
ただ家族は必要なものであり家族なしで子供も育てられないのである
でも家族もエゴとなるからそのために様々な問題が生まれているのである
●家族でも村とかコミニュティがあって機能していた
先日、エッセイストの犬山紙子さんの夫でミュージシャンの劔樹人さんが新幹線のデッキで大泣きする娘をあやしていたところ、他の乗客に誘拐を疑われ、警察に通報されて取り調べを受けたとの一件があった。
誰かがなにかを疑問に思ったのなら、警察に通報する前にたった一声かければよかったのに、と思う。「どうしたの、大丈夫?」と。そして一緒にあやしてあげればよかったのに、と思うのだ。
監視して通報して当局に対応させる、のじゃない。困っている人を見て、手を貸す。そんな小さなことが、つまり社会で子どもを育てるということなのじゃないか。
私たちは「家族」を過信しすぎていないか
https://president.jp/articles/-/29907?page=2
これが現代社会である、もう子供にかかわれないのだ、常に性犯罪が報道されるとそれが隣村で起きたことと感じるのである
世界の果てでもそうなのである、情報というのはそういうものだということである
何かテレビでも報道されると実際ありえないことでも身近に隣村で起きたように感じる
それが現代の情報社会なのである
人を見たら泥棒と思へとなるし性犯罪者だと思へとなる
それも実際そういう面はあるにしてもみんながそう思われるのが現代なのである
だから他人の子供にはかかわれないのである、話しかけることもできないのである
それが情報社会が作りだした負の面なのである
確かに犯罪は常に存在している、世界中で毎日のように犯罪が起きているのだからそれをいちいち報道していたらそれか隣村で起きたように見るとなるともう何もできないのである、そういう社会を作りだしたのも情報社会なのである
人間は何らかコミニュティが必要なのである、過去の村のようなものでもなく何か信頼し合える共同体とかコミ二ティが必要なのだけどそれが失ったのである
グロ−バル社会はまたグロ−バル広域社会は別にコミニュティではない
そこではただ物をやりとりしているだけなのである
心でつながることなどないのである、今は物と心が分離しているのである
物という言葉はモノが憑くとか心と一体のものとしてモノという言葉があった
物心がつくとは物を通して心が一体化してゆくことである
つまり物と心はかけ離れることはない、今は物と心は分離しているのである
地球の果てから物が入ってきてもそれで心が通じることはないのである
象徴的なのが、さまざまな「仮親(擬制的親子関係)」。仮親とは、血縁関係によらず、子どもの成長のさまざまな場面で関わってくる“機能別の親子関係”。以下のようなものがあった。
取上親 (産婆とはべつに、出産時にへその緒を切る人)
抱き親(出産直後に赤ちゃんを抱く人)
行き会い親(赤ちゃんを抱いて家の外に出て最初に出会う人)
乳親(生後数日間、乳を与えた女性)
拾い親(丈夫な子どものいる家の前に形式的に捨てた赤ちゃんを、一時的に拾って預かった人)
名付け親(名前をつけた人。たいていは自分の名前から一字あるいは複数の字を与えた)
守親(幼児になるまで子守をした人)
烏帽子親(武家の元服に立ち会う)
これだけ子供に村でかかわっていたのである、だから村の子どもは家族の子供ではなく村の一員としての子供であり大事に育てられたのである
そういうコミュ二ティが喪失したときもう子育てでも家族が孤立してする
また家族でも夫婦だけとかおじいちゃんおばあちゃんもいないとか孤立しているから虐待とか起きてくる、核家族でもそうであり孤立した家族となりまた個々人でも孤立しているそして孤独死にもなる、そういう家族でも個々人でもばらばらになったのが現代なのである
つまり現代の社会は何かもうこうして常に本来の人間的あり方から離れて異常化しやすいのである、それは子育てとかいろいろそうなのである
だから他人の子供でも接することはできなくなったのである
そして家族は孤立して虐待か閉じ込められた孤立した家族の中で起きやすいのである
つまり家族と言っても過信するな家族だけ処理できなものがあるのにすべて家族にまかせられる、そして外部でもかかわることができない
かかわるときはかえって弱体化したとき他人がチャンスとして金があれば金をとろうとするし攻めてくる、つまり家族は自分の家族を守ろうとして他の家族を攻めてくる
家族と家族もエゴとなり敵対関係になっているのだ
だから文明化した社会でも何か恐ろしいと思った、そういうことを両親の介護で嫌というほど経験したからである、これも自分のカルマだとしても今はそういう社会に生きているだから今の社会が便利だと恵まれているとか言われても逆に人間は非情になり家族もばらばらになりコミニュティも喪失している
いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
ただこの世の中いつも地獄があった、親鸞の言うように地獄が一定の世界だったのである地獄を生きることがこの世を生きることなのである
結局人間の業(カルマ)は消えない、いくら科学技術が進歩しても同じなのである
だから時代によって幸福は計れない、現代社会でもそうしてかえって過去より人間的な面を失って退化しているともなるからである
そうなるとこの世から去ることが救いだともなる、liveはlieveなあり去ることなのである、それで老人はこの世から去るだけだから気楽だともなるのである
この世にいろいろあるにしても終わり去るだけになるからである
それで意外と老人はいろいろあっても誰でも悟ったようになり気楽な顔をしているともなる
2021年10月01日
医原病とは (医者も病院も病気を治せない、かえって悪くする?)
医原病とは
(医者も病院も病気を治せない、かえって悪くする?)

【武田邦彦】病院に行くと病気になります
https://www.youtube.com/watch?v=ZpHoR-JKyoM
医原病
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%BB%E5%8E%9F%E7%97%85
知っている人は病院に半年くらい入院してかえって悪くなった
その原因が食事にあった、毎日同じオカズであり食べたくなかった
そのために栄養不足になり体力がなくなった
確かに糖尿病だから食事の制限があるにしても栄養不足してはまずいとなる
その人はかえって家に帰ったら運動したり食事も自分の好きなものを食べて回復したという、これも医原病なのかもしれない、もうその人は病院に行きたくないと言っている
ただ娘は離れて暮らしているので病院に入れたいのである
病院に入れて世話する人は楽になるのである
私も介護していて入院したとき楽になった、そしてそのまま病院で死んだのである
また施設に入れると金はかかっても楽なのである
在宅介護は患者にとってはいいものでも介護する家族にとって負担になるのである
在宅介護がいいとしてもそれを負担させられる人は苦しいのである
ただ家族に何人かいてそういう体制があれば別にいいのである
私の場合は一人で二人の介護とかにもなりその時自分自身も病気になり二回も入院したのである
だから一人は一時介護施設にあずけて病院で自分は手術したのである
そこで孤立無援になり死ぬほど苦しみを味わった
そこで大金を盗まれるとか脅迫じみたこともされた
相手が事業に失敗したりとても助けられる人ではなかったからだ
苦しい時来た人は何かこっちが苦しいという時、チャンスとなり金をとることしか思わなかったのである
ただそれは自分自身のカルマだったのである
助けてもらえるような関係になかったということである
ここで問題にしているのは病院とか医者のことである
病院でも医者でも病気をすべて直せる訳ではないことである
ただその判断は素人ではむずかしい、だから医者でも病院でもまかせるほかないとなるでもすべてを医者や病院にまかせることも危険だとなる
この辺の兼ね合いがむずかしいのである
日本の医療が金だけも目的にするようになったというとき、過剰な医療で金をとるというときそれは問題である
だから医者とかは本当は公務員にした方がいいようにも思う
開業医の組合が医師会でここは力をもつのは開業医だからとなる
そこで医療でも強力な利権団体となり歪められる
また開業医は開業するにも金がかかり機械とか用意するのに金がかかる
何かと金がかかるから過剰な医療でもする、金儲け第一になる
中国でもヨ−ロッパでも医者は公務員なのである
開業医がこんなに多いのは日本だけだとなる
公務員になれというときそもそも警察であれ消防であれ自衛隊であれ何か国家公務員としての仕事となる
安全を守る者が国家公務員となる、すると医者でも看護師でも健康を守る者として国家公務員がふさわしいとなる
なぜなら今回のコロナウィルスでも開業医の団体がこの機会に金儲けをたくらみうまく機能しなかった、ベッド数は十分にあったとしても国家では何もできなかった
それだけ日本では私立の開業医が多いからそうなった
つまり公務員だったらそうはならなかった、政治家が命令できたとなるからだ
中国とかでは強力にトップダウンで決めたからである
それは医者や病院でも公務員となっていたからである
日本では開業医中心であり政治家が命令できなかったのである
医師会とは私的な営利団体であり開業医の利益を守るものだからそうなっていた
公務員だったら命令できたのである
ともかく医は算術になった、それは金がかかりすぎるからである
高価な機械を買えば金がかかる、その元をとるために金がかかる、だから開業医だけでは今や患者に対応できない、最近ではAIが医療にかかわるというときむしろそうしてコンピュターを操作して医療にかかわる人が求められる
それは開業医では無理になっている、それだけ医療も変化している
要するに今回のコロナウィルスでも国自体でもその体制を見なおすことが強いられた
だから医者でも病院でも公立化して公務員にするのがいいとなる
給料はそれなりに高くする、そして開業医の問題は必ずその子供を医者にしようとなる
その子供に受け継がせようとする、するともともと医者に向いていない人も相続するために金をかける、だからまた金が必要となる
医者になる人とか教育とか安全を守る警察とか消防とか自衛隊とかは公的な役割があり
それを私的なものとしにくいことがある
私的な営利事業にするとうまくちいかないものがある
仕事の性質が利益を離れて行うものだからである
今苦しんでいる人がいて「金をいちら払うなら診てやる」そんなはした金では診ることはできないとかなったら困るのである
でも現実には今や医は算術でそうもなっている
コロナウィルス騒動では病院にも入れず自宅療養で死んだ人がいるからだ
コロナウィルスは国家的戦略で対処しないとうまくいかなかったのである
国家の役割は安全を担うことだった、原発事故でもそうだった
これはせ国家的なものであり安全を担うのは一私営の東電ではなかったのである
でもその国家の役割を果たせなかった、保安院は不安員であり飾りに過ぎなかったのである、そうして大事故になりその責任は誰もとらなかった
東電でもとらてかったし国でもとらなかった、それは国家的犯罪でもあったがそれを罰することはできなかった、司法でも検事でも東電に天下りしていたからである
高級官吏でも天下りしていたから追求できなかったのである
国家的犯罪になると誰も罰することができない、日本の東京裁判があったが外国人によって罰せられたからである、そのアメリカにしてもまた犯罪者であり犯罪者が犯罪者を罰することなどできないものだった
だから巨悪は誰も罰することがてきなくなる
いづれにしろ自民党にしろ地域の有力者である開業医の医師会に逆らうことはできない
選挙でも重要な役割を果たしているからである、だから医師会自体が問題であり解体して国家運営にするということも考える必要がある
そもそも医療は警察とか自衛隊とか消防とか安全を受け持つものであり仕事として私的にするより公務員になるのがいいとなる
現実に公立の病院がどこにでもありそれは市町村で運営していて看護師でも給料を払っているからである、つまり一部は公営化しているからである
ともかく医原病というのはある、医者にかかり入院するとかえって病気が悪化する
それはいらない薬とかを飲まされたり治療してかえって悪化する
それは全部ではないにしろそういうことは結構あることでありみんな経験しているのである、病気をかえって悪化させるのが医者であり病院だとなると怖いとなる
でも実際は全部がそうではない、そこで素人は判断しにくいのである
医は算術となったことが問題なのである
教育でも算術となるとき問題になる、何かこうして私的利益を追求することが特に問題な分野がある、そうして常に人間は歪められるのである
常にどこでも金に支配されて本来の役割を果たせなくなる、尾身会長の病院が工作してコロナウィルスで巨額の国家の金をせしめたというときもそうである
つまりその先頭に立つ医者でも自分の経営する病院をコロナウィルスがチャンスだとなりもうけることを優先するのである
原発も巨大な利権となりコロナウィルスでもこれも巨大な利権となる
製薬会社では莫大な利益を得たからである、それでこれも陰謀論になったりするのであるその使われる金が得られる金が莫大なものになるからである
確かなことはウィルスに対応できる国家体制を作らねばならないことは今回のコロナウィルスで判明したのである、医師会とかは対応しないことがわかったのである
そこに政治で変革しなければならないと見た
ただ今度の新しい政権が実行するのかわからない、でもまたウィルスが周期的に襲ってくるとすると国家的体制を作っておかないと対応できなとなる
要するに日本は医療だけではない、様々なことで制度疲労とか起きていて経済は衰退するのもそうである、大きな変革が必要なのである
そうしないと日本は経済的にも凋落して貧困国家になりあらゆることで後進国となり世界での存在感もなくなる
でも変革する力が生まれない、おそらく明治維新のような変革が望まれるとなるかそれができない、自民党議員は既得権者でありそういう人達は現状を守ろうとする
明治維新では下級武士が革命を担ったことでもわかる
既得権者が変革したり革命になると損するから自らはしないからである
また野党も力なく日本は政治的にも衰退を進める、何か新しい力が起きることを期待するのだが高齢化ということが足かせになる
簡単に政治体制でも変えられないということである
老人はどうしても保守的になってしまうからである、既得権者もまた現状維持がいいからである、ただそうしているうちに日本全体が衰退して沈没してゆくともなる
そういう時に中国が攻めてきたりして支配されることも考えられるのである
2021年09月13日
家族遺棄社会 (親が子を捨てる、子が親を捨てる)
2021年09月03日
生活保護「月の生活費たったの7万」これに嫉妬している層とは一体なんなのか?
2021年08月23日
死者を愛することは無償の愛 (墓は死者と生者を結ぶ物ー墓の短歌十首)
2021年07月28日
家と死者(死者は家に生き続ける)
のうぜんの花が火炎のように
蔦は伸びて這い我が家を飾りぬ
二階の広間より空遠く星はきらめき
姉の眠りし広間に我も眠る
夏の月が明るく輝き姉はおおらかに笑いぬ
姉と母と我はこの家に60年は住みぬ
なほ二人はここにあるごとし
この家を離れず我とともにありぬれ
姉の眠りし処我は悠々と眠りぬ
死すともこの家を離れざるかも
重々しく父の遺影は家にあり我を見つめり
兄はこの家にあれど受け入れらず
早死にして我が墓地に供養する
家はつつまれおおわれ安心する場
猫も箱に入りて安心するごとく
そして家は死者も住みつづける場所
愛し合う家族は今も家をみて住み続ける
その共にする歳月の長くあればなり
人間はそこで自然の空間の中に根をおろし空間の中の自分のすべての関係がそこへと関連づけられている、そのような中心を必要とするのである
家屋に住むのには一人の人間では不十分なのである、ひとは何人かの人と住まうのであるつまり家族の中で、「自分に属する者たち」といっしょに、しかし(他の人々と)と見知らぬ人々とから離れて、住まうのである
人間の生活の中で家屋は諸々の偶然の出来事をしめだしている」落ちつくこともなくあてもなくさまよう逃亡者の生活と違って、家屋は生活の中でのより深遠な恒常性を可能にする持続的要素なのである
「家屋は夢見ることを守護し、家屋は夢見る者のまわりに囲いをめぐらし、家屋はわれわれが平安の内に夢みることを許す」
生は快くはじまる、生は包まれ囲まれ家屋の懐の中で本当に暖かくはじまる
(人間と空間ーオットーフリードリッヒ・ポルノフ)
家というものを語るにしろ尽きないものがある、この本はそれを語っている
家とはそれだけ人間に影響するし精神にも影響するからそうなる
家とは単なる建物ではない、だから何か一人で大きな家にいるとがらんとして家が活きないのである、家とは何人かで住むのが家だからである、それが家族となる
そして家の不思議は一緒に住んだ家族が死んでも家に住んでいる、または家を外から見ているのである、死者は家から離れないのである、それは家が人間の生の根源的なものもっているからである
家で愛が育ぐくまれ、家は安心する場となる、ただ別に家が理想とはならない
何か家族でもそれぞさ複雑なのである、私の家も複雑であり他人には理解不可能な家族だった、ある意味で憎しみ合う家族でもあったからだ
ただなぜ自分がこれほど家にこだわるのか家族にこだわるのかというとやはり60年とか長く一緒にいたからである、姉にしても子供の時から一緒にいたからである
その長い歳月が家族を作ることになったのである
それで肉親でも母親でも一緒に住まない人はその期間でも短い人は家族の感情をもてないのである、特に子供の時一緒に母親と生活しないと家族の感情をもてないのである
そのために5歳まで実の親と一緒にいてもその後は分れた母を子供は母親と思っていないのである、他人に過ぎないのである、だから母親の金を欲しいしかない、その母親がそうして別れた娘を頼ってことが悲劇である、その娘は第一全く母と思っていないからであるでもその母親に頼らざるをえなくなったからだ
つまり一緒に住んでいいなからそうなったのである、だから実の母親でも子供の時一緒に住んでいなければ母とならないのである
そして親でも若い時に嫁いだり別れて暮らすとまた家族という感覚から離れてゆく
その理由は一緒に生活を共にしないからそうなる
変なのだけど例え憎しみ合っても長く一緒に生活していると家族になるのである
憎しみ合っても家族だとなるのである、自分の家族にはそういうことがあったからだ
それでわからないのは長年一緒に生活をともにした夫婦の熟年離婚なのである
なぜそう思うかとなると人間にとって時間が一番大事だからである
共に生活する時間は短いからである、一人の女性と結婚して生活を共にする時間でも限られている、だから結婚する相手を変えることは簡単にできない
生活をともにして時間の中で愛も育まれるからである
だからこそ長年一緒に生活をともにして熟年離婚は大きな損失だと見る
なぜならもう他の女性と一緒に生活する時間がなくなっているからである
人生をともにするということは実際は限られた人生の時間をともにするということになるそんなに何人もの人と時間をともにできない、使えないからである
ともかく人間はかえって家族が死んでから家族を意識する、私自身がなぜこんなに死者を意識し家を意識するようになったのか不思議だからである
父は早く死んだけどやはり重々しく遺影があり存在する意識するようになった
姉が死んでその広間に私が寝ているがそこで姉を意識する
外には夏の月がかがやいている、姉は大らかな女性でありその性格でいやされていたからである、母は脇役であったが母もやはり一体となり生活していたのである
つまりその時自分は恵まれていたのである、食事の用意でもなんでもしてくれたからである、今や全部自分でしなければならない、それで時間がとられるのである
ただ人間はつくづく死んでも死者は依然として生きている、残された人の中に生きている家の中に外からまた家を見て生きているとなる
人間は死んだからといって簡単に消えるわけではないのである
ただそれはやはり長く生活をともにしたということからそうなっていたのである
人間の生きる時間は限られている、それは何をするにしてもそうである
人との出会いであれ何をするにしても時間が限られている、何かする時間はたちまち失うのである、そのことが一番みんな後悔している、時間は永遠につづくと思っているからである、時間とは極めて限られた時間しか与えられていないのである
でも人生でその貴重な時間のことを思わないのである
だから膨大な時間の無駄をしているのが人間だとなる
そしてもう体験する共に生活して分かち合う時間がなくなるのである
死んでも遺された人に死者が現れるのはやはり双方に愛があるからだともなる
死んでも愛が通じあっているから現れる
でももし何か恨んだりしていたら死者は生者に現れない、それで介護の時冷たくしたりするとあなたは私に冷たくしましたね、私はあなたを恨んでいますとかなると現れないとなる、現れたとしても恨みとして幽霊のように現れるともなるから怖いのである
私の場合介護でいろいろあったけど死者は恨んだりしないからまだ愛しているから現れるとなる
ただ生前でも肉親でも子供親を恨んだりしている人は普通にいる、ひどい目にあったから恨んでいるとかして墓参りすらしないとかある
だから生前のことが相当に死後も影響しているのである
だから人間は死で断絶しているようでしていない、継続しているとなる