2019年10月27日

悪い病気でも死なない人の謎 (社会的役割があることの大事ー何もしないと認知症になる)


悪い病気でも死なない人の謎

(社会的役割があることの大事ー何もしないと認知症になる)


医療が進歩しているから今やいろんな病気でも簡単には死なないのだろう
その人は病気と聞いてから5年以上それより長く普通に働いている
そして街に自転車屋が一軒しかないからもしそこがなくなると不便になる
それで古くなった自転車を無料でひきとってもらった
それは高価だったが使えなくてなんにもならなかった自転車だった

ただそれなりに商売できるからつづけいるのだろう
あまりに収入が低くかったらできない
その人は話ができる、ただ自転車の技術屋ではないのである
良く職人気質とかいうときただ物つくり一筋に励んでそれを売るということでは商売では愛想が悪いという人がいる
そこが一人で経営していることのむずかしさである
大工さんでも本当に話がうまいというか商売に向いている人がいた
その人は自ら注文をとる一人親方だったのである
そういう人はいるにしてもみんながそうはならない
自転車屋はただ自転車だけを見ていては商売にならない、客との交渉とかあるからだ

その店は時々休むにしてもなぜそんなに長くつづくのか?
それはその仕事をすることに役割がある、その仕事をする人がいなと困る
町に一つしかないとそれは貴重になる
隣市に行くと不便なにるからだ、するとそういう気持ちがその仕事をしている人に反映するのかもしれない、それで病気でも仕事が続けられるとなっているのか?
休む時は点滴しているというから結構病状はいいとはいえないのである

ここは謎ではあるが認知症の場合は確実にあてはまる
認知症も謎だけどどうしてなるのか?それを前にも書いたけど役割喪失であり仕事がなくなることなのである
一人は家事を94歳までしていた、働き詰めだったし趣味もなにもない
でも94歳まで家事の仕事をしていたのである
一人は役所を定年退職してなにもしなくなった、家事すらしない、用意されるからしない結果的に認知症になった

仕事がない、役割がないは認知症になる確率が高い

これは原因はわからないにしてもその確率が高くなる
仕事がない、役割がないということは人間にとって相当に深刻なのである
何もしなくてもいいのだから楽でいいのではないかとなるがそうではない
それは人間にとって深刻な問題を引き起こすのである
それがボケになり認知症になることに通じていたからである

たから嫁にばあちゃんは何もしなくていいですよ、テレビでも見ていてくださいと言われる老人がぼけるというのがそうである
つまり家でも家事をすることがないからである、でももし料理が上手なら料理を嫁に教えたりしていたらそういうことはない、でもそれはみんなができることではない
何故か家事をしてみると料理でもこまかいのである、いろいろ種類をそろえねばならないから手間だなとりほとんど買っているだけである
人間はいろいろなことを一人ではできないのである

だから人生百年時代の大きな問題は金もある、これも深刻だけど会社を退職したりするとそこで役割を失う、仕事を失うことが深刻なのである
そして会社を退職すると「ばあちゃんはテレビでも見ていてくださ」と男でもされるのである、ボランティアにしてもそれを受け入れる場所はない、地域でもない
すると仕事がない役割がない、生きがいがないとなることが深刻なのである
高齢化社会はそういう人が社会にあふれる時代だともなる
高齢者の役割は何か?病気になり病院に行くことであり介護されるだけだとなる

しかしそれは社会的費用が膨大にかかる、労力もかかるのである
認知症患者が800万人になるというとき空恐ろしいものとなる
社会を認知症の患者が徘徊して彷徨うとなると悪夢だとなる
人生百年時代になると会社人生だけではなんライフワークとかをもつ必要がある
雑学でもいい何か専門をもち認められるように努力することが必要になる
そうしないと会社を退職した時点で仕事もなく、役割もなく、生きがいもないとなり
認知症になりやすいから怖いのである

働くということはWORKすることであり機能することである、社会的にもその人が機能する
役割をもち社会に機能することである、そこに生きがいが生まれる
ただ社会に機能しなくてもアウトサイダーのように別個の価値を追求することもあり売るただこれはかなりむずかしい、だから簡単なことでも何か社会に機能する仕事が必要なのである
女性ならやはり家事を続けるとかでもいい、家の中でも機能する、役割を喪失させると認知症になる危険が高まる
それは今度は周りに迷惑をかけるから家族も崩壊するようになるから家族の人も認知症にならないように注意しないといけない
何か役割を与えるようにしないと危険になる

とにかく人生百年時代は人類でも経験していないことである
だからそこに様々な問題が起きて来る、経済的問題も深刻だけど社会から無用化されて
家でも無用化されて何の役割も生きがいもないとなりボケになり認知症になる
それも高齢化社会の大きな深刻な問題なのである

自分の場合は性格的に内面的な仕事に向いている、外面的な人と接する仕事には向いていない、それで社会と適合できずに社会からはずれた生活をしてきたのである
でも社会的生活も有益である、無駄ではない
結局人間が経験するのはわずかだからである、するとなんでも経験したことが貴重になる個人では限られたことしか経験できないからである
でも仕事は積み重ねである、知識でもそうである、だから退職してから何かはじめようとすると困難になる
ただ人生百年となるとそこからでも自らにあったものを仕事とか役割をもたなければならない時代になった、そうしないと認知症になるリスクが高くなるからである

もしかしたらその人が社会に役割があり家族でも役割があるとき死なないのかもしれない役割も仕事もなくなった時その人は認知症になったり病気になったりして社会的家族的死になる、その時その人はもうすでに社会から忘れられたものとなっていたのである
その人がいるかもとうかもわからない、社会から消えるのである
社会的死になっていた、そして後は大迷惑かけるだけの存在になってしまったのである
そういう認知症が800百万にになるのが高齢化社会でもあるとしたら空恐ろしいとならないか?医療費ももう限界にきている、介護も人がいない、貧乏社会になり介護費用も払えない、その負担が今のロスジェネ世代なのである
その人たちは金銭的にも余裕がないからだ
そういう悪夢の時代が現実化するのがもうすぐだという恐怖になる

ただいい面としてはそれだけ長く生きると何かをライフワークを追求するのには有利になる、急ぐ必要がないからである、成果を出すのは七十以上てもいいとかなるからだ
その後でも精進つづけられるからである、何か本当に学問とか芸術とかでも知識の分野は一代でも追求しきれないものがあるからだ
それだけ知識の分野は広いからである、それでそういう分野では才能を発揮できる人が増えてくる、インタ−ネットなどでも独学でもできる環境が整ってきたからである
それで自分自身もこんなにプログで書いているのである
文章だと書ける、しゃべるとなると私は苦手だからできない、それでこんなに書いているのである


2019年10月24日

負担になる老人が増える(介護や病気で金がかかる)


負担になる老人が増える(介護や病気で金がかかる)

青森に送られた親は最初は金がかからないとか預けるだけでいいと言っていた
実際は何か必ず必要なものがあり金がとられている
それを息子が払っている
その息子も非正規ではないから社長がいろいろとめんどうみる
怪我した時もいろいろと世話をやき母親のところまできた
人手不足だから人を大事にしている
建築土木の仕事である

それで今度は丸森が大被害になりそこに働きに行った、それも大変だと言っていた
自衛隊が入るのを規制している、断水もつづいている
そこもこれから復興には相当な労力が必要になる

そして一週間くらい来ないでどうしたのだろうと思ったらその人は目の手術をしてきたという、それも仙台まで行ってなのである
この辺で仙台まで行く人が多い、仙台の医者や病院は設備が良く優秀な医者がいるとして行っている、それで金がかかったと来る
必ず自分の所に金を要求してくる
なぜこうしう金を払わなければならないのかわからない

ただ考えてみると丸森に応援しなければならないと思ったがこうして現実に働く人がいるのだからその後押しとしてその母親のめんどうを金銭的にみるのかとなる
丸森では人手を必要としているからである
かなりの工事関係者がそこに集まっている

●介護で金がかかっている

●老人の病気で金がかかっている

こういうふうに今はそれぞれの家族でも必ずこの二つで負担になっているのだ
介護でも後はかからないといっていだが結構かかっている
そして母親の分までめんどう見れないとなっている
でもなぜ自分に要求されるのか?別に払わなくてもいいけど払っている
約束の倍以上払っているから苦しいとなる

何か今は本当にこうして必ず高齢化で負担を背負っているのだ
その数も増えてくる、福祉でも今はかなり制限されていてもらえないのである
全部病院でも福祉でまかなうことはできない、福祉といってもいろいろな段階がある
最低クラスだと本当に援助がないのである

ただ今回は丸森を応援しなければならないというときその人の息子は丸森で働くのだから間接的には丸森の人を応援しているとなる
だからやむをえないともなるが何かなぜ自分にだけ要求されるのかとも思う
友達だった人は糖尿病でもう4か月くらい入院しているから金銭的援助ができない
これもまた負担となっているのだ

いづれにしろ少子高齢化社会は団塊の世代が75以上になったらその負担で日本自体がつぶれるではないかとさえ思う
必ず介護になりその期間が長いから金銭的にも労力的にも負担になるのである
私の場合は介護も終わりすでに4年とかになる
なんか楽になったなとつくづく思う、余裕がでてきたから人のことを考えられる
余裕がなかったらとても他人のことを考えることも思うこともできない

でもそんなことをかまわす人間かは絶えず自分のことで頭が一杯であり俺たちは苦しいんだ、金がないんだ、・・・・と要求してくる
それは津波の被害とか原発避難者とかの時はもうそううい人たちが押し寄せてきたのである
でも自分自身が介護で病気で苦しんでいる時でもそうである
事業に失敗しし借金した人と金がないから盗むために家探ししていたとか人が苦しんでいることなど関係ないのである

ともかくなぜこんなに自分自身でもそうだけど災難がつづくなのだろうか?
相馬総合病院に入院していた人は津波被害者が新地と松川浦の人でありそして丸森の金山の人も入院していたのである
丸森と相馬市は近いから結びつくのである
今度は丸森町が大被害になったのである
そしてなんというか今度は郡山市まで被害になった
ここの地銀の営業に来ていた人は郡山市であり本店は郡山市にある
こうして何か福島県に災難がつづくのは何なのだろうとなる

今回の一番の被害は丸森町だった、宮城県だけど近いから隣という感覚の地域なのであるなぜか飯館村では原発で被害が大きかった
でもその代り補償金も多額であり立派な家を建てた人もいた
でも丸森町とか相馬市でも宇多川が氾濫して床上まで水につかったが補償金はもらえないのである、保険をかけていればもらう人もいるのが原発のように補償金はもらえないのである

もともと相馬市と丸森町も放射能の被害があったが補償金はもらっていない
それで相馬市の丸森のすぐ近くの玉野地区の酪農家が自殺したのである
何かこの辺ではそうして悲劇がつづくのはなぜなのだろうかとなる
津浪、原発事故、今度は洪水と三重苦になっているのだ
これも呪われているのか何なのか不可解だとなる

今日はgooglechromeのブラウザで文字入力ができくなった
これも直すことができず手間取った、それで時間がとられた
ウィルスではないみたいなのでほっとした
パソコンの問題は何か不具合があると原因が複雑になり直せなくなる
それは原発とも似ている、いろいろな原因が考えられるからもうわからなくなるのであるいろいろ試しても文字が入力できないのである
ただ別なブラウザ、インターネットエックプロラーは正常なのでそれほど困らないが
インタ−ネットは一旦なれて利用していると変えるのがめんどうになる

ここ一週間はこんなことで忙しく追われたが断水はとまった、それて楽になった

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2019年10月21日

困っていても「福祉に頼んでください」あとは関係しない社会 (ダークネスサイトの批判の試み)


困っていても「福祉に頼んでください」あとは関係しない社会

(ダークネスサイトの批判の試み) 


街に出ると、貧困に苦しんでいる「見知らぬ他人」をみかける、ホームレスを見かけることもあれば、深夜のマぐドナルドで寝ている若者も見かける、そうしたニュースに接して、あなたは見知らぬ彼らに「自分の貯金からこれを使ってください」とさしだすだろうか?おそらくそうしないはずだ、しかしそんなことしなくてもいい理由がある(鈴木傾城)    

(ダークネス(鈴木傾城)

これも一理ある、人それぞれの言い分や考えはある、だからいちいち怒ったりしてもしょうがないとなる
このサイトと武田邦彦氏のyoutubeとかを見ている
だからこの人に別に特別反感もない、何か人はそれぞれの立場で住んでいる所も違うし生い立ちも違うからそれぞれの言い分が生まれてくる

ただこういうことに反感をもつ人がいることは確かである
税金収めているから助けているし助ける必要はない、今ここに飢えているものがいる病気の人がいるとして助ける必要がない、それは福祉がすることだとなる

とにかく苦しい時今は「福祉に相談してください」で終わりなのである
私とは関係ありませんとなっているのだ
何か困った人は福祉に相談してくださいで終わりです

私自身も介護とか自分の病気とか窮地にたたされたとき全く近隣の人は見て楽しんでいるだけである、田舎では特にそういうことがかえってあるのだ
他人の苦しみは密の味とかなっているのだ
だから何か人間観が自分は自分が苦しんでから変わってしまったのである
それも自分自身がそうなるカルマを背負っていたということもある
そうして今ではあきらめている

でも自分の問題は金の問題ではない、金は別にあったからである
みんな金で困っているわけではないのである
多くは金の問題にしろそれだけではないのである
人手がいるとか何か慰めてくれとかある、自分には金があったのだからそういうことをしてもらいたいかった

しかしなぜ何もしてくれないのか?
福祉でなにもかもしてくれないのである、福祉に頼んでくださいと言うのはあなたのためには何もしたくないからそう言っているのである
またそういうのもそういう人にかかわるとめんどうになるからである
いろいろと世話するようになると負担になるからである
そして金の問題になればその数が多いのだからとても無理だとなってしまう
だから福祉に頼んでくださいとなる

たいがい人生相談しても誰か親身になって相談にのってくれる人などいないのである
それは負担になることが嫌だからである
でもこのサイトでは金のことを問題にしているけど人間は金なくても何かできることはある、またそれほど負担でなくてもできることはある
洪水の被害でもそういうボランティアは肉体労働になるから負担でできない、だから寄付をしよう、金で応援しようとかある

自分がしてもらいたかったことは金の問題ではない、金があったし金は与えていたのである
でも実際は大金を盗まれたり金を要求されるだけだった
自分の苦しみを知るものは一人もいなかったとなる
なぜなら自分の家に来た人は金に苦しんでいたから何もできなかったのである
事業に失敗して借金していたとか大金盗んだ人は年金がたりないとか何か苦しんでいた
そういう人は自分のことで精一杯なのである
だからまず金のことより相手のことを思いやるという余裕すらないのである
そういう人が何か相手のことを気遣うことはできない
自分自身のことで精一杯だからである

ただその人を思う時何か異常だとも思った、何か自分の家に来た人は異常だったと思う
全く相手のことを思いやる心がなかったということである
そういう人たちしか来なかったということは自分の家と自分自身のカルマだったともなる
でもそれ以来人間不信になったしどうせこの人と付き合っても助けられることもないと見てしまうようになった、だから人間を見る目が変わってしまったのである
それは今までそうした苦労なく何不自由なく暮らしてきた自分のカルマだったとなる
だから苦しんできて自分に常に金のことで水道とめられた電気とめられたと来る人が

あそこの道で倒れても誰も助けない

そういうのを自分自身も納得したのである、現代はそれだけ金だけを求める社会なのである
ただ不思議なのは金が欲しいことはわかる、でも事業している人が他人のために荷物一つは運ぶことを嫌がる人が事業できるのか?
だって事業は人のためになることをすることだからである
ただ社長としてふんぞりかえって威張ることではないけどその人はそういう人だったとなる、そんな人がいくら技術的に優秀でも事業ができるのかという疑問である
そんな人にいくら社長でもついてゆくだろうか?
だから人手不足になれば社員自体がやめてゆく、ブラック会社は淘汰されるのではないか?

別に事業が慈善事業ではない、利益をあげることである、でも他人のために荷物一つも持ちたくない、それは無料でもなかった、すでに私は百万単位で金を与えていたのである
その後も借金していたのをゼロにして縁を切った
だから無料でしてくれではなかったのである
でも簡単なことでもその人は他者のためにはしたくない、そんな簡単なこともできない人がどうして社長になっていられるのか?
もちろん自分は事業をしていないから会社経営のことはわからない
でもその人の人間性に大きな問題があったのではないか?
それは原発事故でも何でもそうである、その会社を運営する人間性の欠陥がありそれが事故につながる、何かそういうことは原発関係では多かったのである
モラルが欠けていたことが事故につながった原因でもあったからだ

いづれにしろ困った人は苦しんでいる人にかかわるとかえって損するということは確かである、だから人はそういう人とかかわらないかかわるのはそういう困った人たちを利用する人たちなのである
共産党でも創価でも他のカルト宗教団体でもいろいろな団体でもそうである
そういう人たちを味方にして票を増やして権力を得ようとする
数が集まれば権力になるのが民主主義だからである
そして共産党すら幹部が裕福なのである、それは今の中国を見ればわかる、幹部は王侯貴族になっているからだ、人民服きていた共産党の時代とは全く違ったものになっている
人民から富を収奪しているのが共産党だっともなっているからだ

誰か本当に困った人を苦しんでいる人を助ける人はいるのか?
それはその人たちのために税金を払っているのだから福祉がすればいいとなる
でも福祉でなんでもしてくれるのか?
「福祉に頼んでください」あとは知りませんとなる
それで本当に自分自身が苦しい時そう言われると腹正しくなる
それは私はあなたのために何もできません、それよりしたくないのです
だから福祉に頼んでくださいとなる
これも現代の資本主義なのである

でも自分の場合だけど別にそんなに負担にならないで助けていればお礼はあったのであるそれはなぜ自分がそういうことを強く思ったかというと
困っていて苦しんでいてその人から得るものはない、金にならないというけど金はあったのだからそんな負担をかけずにも何かできたことがあった
ただの励ましでも言葉でも助けることだってあった
ただそういう気持ちが全くなかったのである
それは後で大きなお礼となって金銭的に得することがあった

例えば大金持ちの人でも何かそこで多少でも助けたらお礼が大きなものとなる
ただその大金持ちでもわからないいことがある、それでたまたま何か苦しんでいたそれをちょっと助けたが後で大きな金銭としてのお礼があったとかもありうる
でもそれも最初からこの人は大金持ちだからとわかっていて助けるのはまた別である
そのとき動機はただ金が欲しいというだけになるからだ

人間は今だと毎日働いてもたいして金にならない、でも人を助けたときそこで恩を感じた人は大きな金を払うということはありうるのだ
金をもっていることがあるからだ、でも実際は大金を盗まれたというだけだったのであるまた何一つ気遣いもなくただ金が欲しいというだけあった
でもその人は他で毎日働いていた、それは苦しい労働だったのである
要するに自分が苦しんでいることに対して全く関心もなにもないし何か助けるいう気持ちもなかったのである
そういう人が他者に気づかいできない人が事業を成功できるのだろうか?

何か人を助けるというとき重い負担が課せられるから嫌だというのはわかる、自分も嫌だからである
でも簡単なことあるとき水一杯やることが助けることだったある、でもそれすら関心がない人は気づかない人はしないのである
そういう気持ちがないからしないのである

損して得をしろ!

何も介護の重労働をさせるわけではない、言葉で慰めることくらいでもいい、でもその人はそういう気遣いはゼロだったのである
そういう人たちはもう人間ではないとも思った、ただ金だけを求める社会になるとそういう人達が普通になっている
だから目の前に苦しんでいる人たちがいても何もしない、「福祉に頼んでください
それですべて終わりである、今そこで倒れても何もしないのか?
救急者も呼ばないのかともなる
だからあそこの道で倒れても誰も助けないという人の気持ちがわかったとなる

ただ助けられ人にも問題がある、そういう人たちは何か性格的にもおかしいという人がまた多いのである
貧乏しているのに金が入ったらぱっぱっと使った、そして金をねだったりギャンブルに使ったりできることをしない、何か家に来て金だけはねだる
でも何もしない、食器洗うことでも自分の家の台所仕事だったらていねいにするけどなおざりにする、何か汚くなっていたがそこをきれいにしていないとか気づいた
それは自分が食器洗っているから気づいた、自分は汚くしているけどやはり自分で食器あらってみると食べ物を扱うからきたないとまずいと思ったのである
ここでも他人の家のことだし自分とは関係ないとなり家事手伝いでもなおざりにすることがあるだろう
そういう人にまた次に頼むということがしにくくなることもある
ただ自分の場合は何もしなくてもいい、来てくれるだけでいいとか見回り役として金を払っているからいいとはなる

ともかく人間関係は複雑でありややこしいから一面だけを見てもわからないのである
ただこのサイトの人は底辺の人たちを扱っているから同情しているのかとも見ていたのである、でもそれは割り切ってこういう言い方になった
それは今の社会の一般的な見方なのである、そういう言う人が多いから特別ではないのである
福祉にたのんでください」私たちは税金を払っているから助けている、ただ個々人には対応できない、だからかかわるなとなる
でもこの人でも本当に困った立場になって「福祉に頼んでください」私には何もあなたのためにはしたくないです、そう言われるとどういう気持ちになるのだろうか?
そして逆にそういうふうに頼まれても同じよう「福祉に頼んでください」となる
あなたとは関係したくないです、あなたがどうなろうと私の責任ではないです
福祉がすることです、何かそれが現代社会なのである

おにぎり食いたいという言って餓死した人がいた
生活保護をもらっていたが打ち切られてそうなった、病気になって仕事をやめた人だった
でも昔なら隣近所でそういう人がいたら頼まれたらおにぎりくらいくれていた
現実に昔は戦後まもなくでも乞食がそうして回っていた
それで物をくれていたのである、かえって乞食がそうして豊かになっていたとか責められたこともあったのである
そういう時代と対比すると何か個々人でも情がなくなっている
言うことは福祉に頼んでくださいというだけである

でも福祉から断られたらもう行き場がなく餓死する社会だとなってしまうのである
また交渉力がない人はそうなりやすい、男性はプライドがありそうなりやすい
女性はコミ二ケーション能力がたけているし同情されやすいから生き延びるとなる
もう福祉係にしがみついても恫喝しても金をもらうとか援助を要請する人もいるからである、そして福祉係を襲う事件がある、それは切羽詰まってそうなっているのである
それは明日食べるものがないというとき人を殺して奪ったりするのとにている
だから追い詰められた人間は怖いのである
自分の所に来た人たちはそういう人達だから怖いものだったのである
ただそれも自分の場合は他者を責めるにしても自分自身のカルマだったというほかなかったのである      



  
あとがき

インターネットはもともと対話からはじまった、でも二三行の応答だった、プログとかなると長くなるから深い見方をして批判したりできる
私は二三行くらい書いてもその人のことがわからないから答えにくい
でももしプログでいいから匿名でも何かその人なりのの発言していれば答えるかとになるかもしれない、対話が成立するかもしれないただ二三行だとケチつけるだけで終わりだとなっているからだ、それで答えにくいのである
それでただこれだけ一方的に書いている、対話成立しないのである

対話が成立しているのは武田邦彦氏とここのダークネスサイトだけかもしれない、ただダークネスサイトは対話できなかった
今回は経験から批判したとなる
何かインタ−ネットとにかく応答しやすいメデアなのである、だから誰かの書いたものを引用してそこから自分なりの言説を展開しやすいのである

そしてアマゾンで本も買いやすい、千円以下の本を買っている、本は内容があるから違っている、そしてその本でも何冊でも読むと多様な見方が生まれる、何かつなぎあわせると編集するとそれが一つの論文のようになるのも不思議である
こうした知的作業がもっと前にできていたら知的な進歩があった
第一仙台まで行って本を買うこと自体が手間だったのである、仙台でも売っていない本が山ほどあったのである
それが何か関心があったときすぐに本でも読める、洪水があり川のことを知りたいと(川と国土の危機)という本を買った
今関心があるものをすぐに手に入る、また今度はプログでも利用できる、対話できる、そして編集できる
それで知的仕事ははかどるなとつくづく思った






2019年09月09日

無益な老人、無益なニートは数が多いから問題 (社会の負担となり圧迫するから問題)


無益な老人、無益なニートは数が多いから問題

(社会の負担となり圧迫するから問題)

無益な老人

その老人は何もしない
何もすることがない
体も悪いらしい
でもまだ体は普通に動いている
まだ70歳だ
何もすることがないのでパチンコ通い
病院にも通う
高齢化社会でただ病院に通うことだけの人が増える
そこで病人として認められて存在感をもつ
そして国の負担になる
その人は本一冊も読まない人
何か勉強もしない人
知的に存在感もない
毎日パチンコで勝った負けたと終わるのか
やるべきことがこの世に無数にある
でも何もしない、何もさせられない
そうしてただ飯くらいとだけになる
後は病人という特権になる
そういう老人を誰も良く見ない
そういう老人ばかり増える時
若い世代は老人に憎悪を抱く
その怖さを知るべきである
そういう老人は耕作放棄地となる
そこを耕すべきなのだが耕されない
無益に草ぼうぼうになっているだけ
社会をも荒廃させている


老人でも別に少数だったら何もしなくてもとがめたりしない
それはニートとか40くらいまででもいる、その人たちは無益な人たちとしてとがめられる、それは老人より厳しいものとなる
一応老人は体が弱っているからとか見られるからである
でもまだ若いとは何もしない無益な人であることは許されない
そして最大の問題は数が多いということなのである
ニートとか百万とかまた老人はさらに人数が多いから問題なのである

別に無職の人はいた、その人たちはアウトサイダーとかになり極わずかである
百万人に1人くらいになるとそういう人は社会にとって害でも無益でもないのである
そんな人いてもいなくても気づかないからだ
別に社会の圧力にもならない、むしろそういう人たちは何か社会の規範からはずれて独創的な人になるからいた方が良かったのである
それが高度成長時代の団塊の世代だった
みんな猛烈な企業戦士になっていた、そこから外れる人はほとんどいなかったからだ

今の問題は数が多いということで起きているのである
ロスジェネとかの数も多い、一千万単位でいる、するとそれが社会の圧力となる
老後になると生活保護になるとか国で心配する、負担が国民全体にかかるからだ
別にアウトサイダーなど数十人単位ならそんなこと社会問題にならないのである
そんな人いたのか、どうでもいいとなっているからだ

つまり膨大に増えた活用されない耕作放棄地が今のニートとかの問題なのである
こういう人は例えば農業するにも地主から土地を借りて農業するにしても信用されないという、それは農業をするという何か強い動機がないし明確な計画もない
ただ農業したいでは信用できない、また放棄されてしまう恐れがある
それは職につくにしろ信用されないから就職できないとなる
これが別に極わずかだったら全国で百人単位とかなれば関係ないのである
耕作放棄地でもこんなに増えなければ問題にならない
空家でもそうでありあまりもに増えすぎたから問題なのである

社会的に無益でも無用でも社会の求める価値とは別な価値を求める人はいる
それも価値なのである、でもそれが可能なのは極わずかなのである
そうなると無益な人とか無職の人とかは数が多いから社会問題化する
ともかく何らか農業でもいいから肥(こ)やしにでもなれとなるのだ
無用の用というとき障害者は戦争に行かなくてすんだとか反戦的思想とか政治的思想がありそういう思想が生まれた経緯があるからだ

この辺では原発事故で他より耕作放棄地が増えすぎたのである
だからそれをなんとかしなければならないとなるがここだけではない他でもできない
高齢化社会でできないのである
それでニートでもやればいいとなるがニートには農業すらできない、農地を借りるにしても信用がないからである
つまり新規に農業できる人はその人がそういう資質をもっているからできるとなる

そうして現代でニートであれ老人であれ人口の三分の一とかなる社会は異常である
それはもう国の衰退であり国力が減退して他国に攻められても戦いないとないとまでなるもうそういう国自体維持できるのかとまでなる
私が主張した無職のことは今のニートとかのかかえている問題とは違う
そこが混同されやすいのである、今のニートは数か多すぎる、そのことが社会の圧力となり社会を停滞させて衰退させるから問題なのである 
これだけ数が多いとやがて強制労働とかになるかもしれない、徴兵制とかにもなる
兵隊にされて国家の肥(こ)やしになれとまでなる
それが笑いごとではないのはそれだけ人数が多すぎるからなのである

新規就農に向けて農地を借りるときの交渉術

こういう人だったら農業できるとなるのかもしれない、農業だって誰でもできるわけではないのである




2019年09月04日

破壊された村の共同体、アイディンティティ (消える御先祖様、維持できない墓―無縁化する社会)


破壊された村の共同体、アイディンティティ

(消える御先祖様、維持できない墓―無縁化する社会)

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柳田国男ー先祖の話

日本人のアイディンティティは村で作られた、それで村の地名が姓になっているのかほとんどである、姓をたどればどこかの村に突き当たりそこが姓の発祥地なのである
相馬地方で大原の隣に大谷(おおがい)村がある
そこは土地が狭い、山があり耕作する土地が狭い、そこでなぜ栃窪村に大谷の姓があり一族を形成している、何か古い村だと都会のように外からの人が交わらない時その村を形成した一家がありその姓が分家したりして増える
例えば常磐線の末続駅をおりると墓地があり新妻の姓が八割くらい新妻の姓だったのである、ここでは明らかに新妻一族の村だとなる
他に葛尾村は松本の姓が三分の一でありこれは信州の方から今の長野県から移動してきた侍の子孫だとなる
そういうふうに辺鄙な村だと同じ姓の人がいることはわかりやすい。
井川線のローカル線の秘境駅に土本という姓の駅がある
そこにその姓となる家が三軒ほどあるからそうなった 

南相馬市に多い只野、但野という姓もそうである、これは本当に多いのである
その只野という中心となって人が同級生だった
それは南北朝時代に霊山での争いで落ち延びた侍の子孫だったのである
その基は郡山の多田野村にあった、これも落武者の系統に入る姓だった
何か落武者伝説が各地にある、葛尾村の松本姓ももともと信州の長野県の侍が落ち延びてきたともなる 

姓は血縁から生まれた、姓(かばね)のことだからである、屍(かばね)に由来しているからである、でも日本では村を中心にして社会が形成された
社(やしろ)を中心にして社会が形成された、社会とは社(やしろ)に会すからきているそれが会社ともなったのである、会社も一つの村という感覚にもなっていた
高度成長時代終身雇用制度が生まれたのはそのためだったとのかともなる
そもそも村での農業社会に定年はない、死ぬまで村に所属して死後は先祖になる
そういう長い継続のなかでアイディンティティが築かれてきた
だからこそ社会があり会社になったともなる
第一社会はソサイアティという訳語であるけどこれは仲間という意味である
この仲間がどういう意味なのかわからない、ただ血縁とか地縁とかとも違う意味があるのだろう、ヨ−ロッパでは社会の形成は広範囲なものがあり小さい村を越えて形成されているからである

日本でも最初は血縁で結ばれていた、第一天皇でも萬世一系とか今日までつづいていることでもわかる、2000年とかその血縁が変わらず続いているのは日本だけだとなる
外国ではたいがい姓は血縁であり父方の姓になる、中国でも韓国でも一つの姓で結合する李氏朝鮮とかあったのも李一族が支配するとなっていたのである
だから日本がなぜ村を中心にして共同化したアイディンティティ化したのか特殊だったとなる
そこに日本文化の特殊性が形成されたことを基本的に知らないと日本は理解できないのである、確かなことは血縁もあったのだが村という土地で共同して働き助け合いしているうちにその村で一つの共同体が形成されて一つの御先祖様になった
だから私は先祖になるということを言ったのは重みがある
その村の御先祖様になる、今ならそんなことを言うとだいそれたことになるからそれだげ時代が変わってしまったのである
つまり御先祖様になる基盤となる村が消失してしまったからである
今農業を継いでいる平均年齢は68歳だというから驚く、もう跡継ぎがいないのである

それで大原村では前田というところに草分けの農家らしいが病院で知り合ったがもともと息子が市街に出て働いていて一緒に住んでいなかったのである
それで猫のことを心配していたのである、猫と一緒に住んでいたからである
その人が死んで今は空家になっている、その墓は大原にある、何か墓に刀自とか記されているから古い家の感覚がそこにあったのかとなる
つまりこの人も御先祖様になるということに昔だらなっていた
でも今は墓はあるにしろ息子は市街に住んでいるからやがて大原とは疎遠になる
農業を受け継ぎそこで暮らすならそこに御先祖様がいることになる
それで春になると田植えの時期に御先祖様が山から下りて来るというのは農業がその土地で継続されてこそありえたのである
その基盤が失った時御先祖様は存在しえなくなったのである
だから墓を維持できないとかいろんな問題が生まれてきている
それがあまりにも戦前からでも戦後でも社会の変化が激しいからその拠り所とするものがアイディンティティが失われたからそうなったのである

要するに〈先祖になる)という場もなくなったのは農業社会から工業社会とかに移行した結果なのである、そこで共同の場は会社に移行したのである
でもそこでは御先祖様とかになることはありえない、会社を退職すれば会社の縁は切れるそれは死後もつづくようなアイディンティティの場にはなりえない
そもそも会社自体がグロ−バル化競争の中で消滅している、大企業でもそうなる
でも村の歴史は日本では長いのである、何代もつづいてきたのである
千年くらいつづいてときた村もある 

そこで日本人のアイディンティティが築かれて来たのである、だからこそそこに日本人の精神が築かれたのだからそれを失うということはアイディンティティの喪失になり実際は精神的拠り所になるものがあらゆることで失うことになるから深刻になる
それで先祖になるというときその言葉に重みがあるのはやはり死というものが共同体の中で位置づけられた重みがあったからである
それは靖国で会おうといって戦士した英霊にも言える
その人たちも日本の先祖になりたくてそう言ったのかもしれないからだ
それがなされないとき亡霊として日本を彷徨うとなるからである
それで村に帰ってきた兵士が亡霊となりそれがトンネルから出てきたのだか追い返えされた黒沢明の映画(トンネル)が何かリアルだったのである

いづれにしろ死という問題が今うまく対処できないのはこうした社会の急激な変化によってである、死というのも個人的な死と社会的に意味付けられる死があるからだ
個人的な死は世界共通であり世界宗教の問題である
でもまた共同体の中での死がありそれはまた別な問題としてある
それで同じ墓に入るために墓友達を作っているのも現代的である
でもこれも老人になってから作るからとても村のような深い強い継続的なアイディンティティは作りえないのである、ただ一時的なものとして処理される
つまり今の時代は長い時間で継続される、時間軸で生きることができないのである
そのアイディンティティとなる場が村がなくなったからだともなる
だからなぜ原発事故で簡単に町でも村でも解体したのか?
放射能汚染で住めないということもあったがそれだけではない、そもそもそうした町であれ村でれグロ−バル化広域化社会の中に貨幣経済のなかに巻き込まれてあった
どんな辺鄙な地域でも今はそうなのである
第一石油を使っていればそれは中東と関係してグロ−バル化しているからである

そうして商業というとき奇妙なのは神社が市場になりそこを村から無縁化した場所として提供されたのである
つまり村から無縁化されないかぎり自由な商売はよそものは村に入れなかったのである
今でも村となると都会の人が入りにくい、よそものとして見られるとか嫌がれるとういことでそういう継続がある
しかし資本主義となるとそうして無縁化して貨幣経済にすることで成り立つ
それがグロ−バル経済として現代文明を作ったのである
だからそこで無縁化社会になり孤独死とかが増えるのもそうした社会の変化の中でそうなったのである

それは世界的にグロ−バル化した社会でありそこで実際は様々な問題が矛盾が生まれたのである、人間が商品化する貨幣経済がすべてになり商品化するとかマルクスの思想とかがもてはやされたのである、人間とは経済的な一単位ではないからである
人間はとにかく経済的に何でも割り切れる存在ではないから様々な問題がそこに噴出している、墓の問題でもそういう矛盾となって現れる、それは全体の一部の問題にすぎないのである、他にも様々な問題が生まれたのである、原発事故もそういう社会の変化の中で起きたことなのである、そうして俟ち村も解体されていったというのもその原発事故前にもそうした日本人のアイディンティティとなるべきも基盤が失われていたためだともなる
それが原発事故で一挙に加速してそうなったのだともなるからだ

かつて日本人の間には一人一人の人間の個別性よりも、ある家やある土地に生まれ、一定期間の人生を生きて死んでゆく者は一つの大きな命のプールのようなものの中からある時間帯だけこの世に生まれ来て死ぬとまたその命のプ―ルに帰るとでも比喩される時代があった{波平恵美子)

これを政経東北8月号の「なぜ福島は分断するのか」に引用されていた
これこそまさに村というアイディンティティの場があり死後も継続していることを示している
ただこれはここでは極端なものにとして起きたが社会全般に起きていたことなのである



2019年08月24日

若い人はなぜ老人を理解できないのか? 老人の心境(安住する場所)


若い人はなぜ老人を理解できないのか?

老人の心境(安住する場所)



老人は新しいものを受け付けない
これまで形成して組み立てたものの中に生きる
空間でも時間の中でアイディンティティ化したもの
時間軸で生きるようになる
若い時は空間をどこまでも駆け巡る
マ―キューリーのように動き回る
でも老人になると鈍重な土星のようになる
老人は人でも外界でも時間の中で作られたものに生きる
それで今より過去に生きる
だから死者は死んでいない
その人の中で親しく生き続けている
むしろ新しい人を物を老人は取り込めない
今まであったものが親しくその世界を形成している
それは固陋な古い家であり神殿のようでもある
その柱は時間軸の中でともに存在した人でもある
そこに新しい人は入りこめない
時間軸で形成した固定して閉ざされた世界
時間の中でアイディンティティ化した世界
老人はその中に生きている
大きな大地に根を張った古木
時間の中で成長してきたもの
そういうもののなかに安住する
そこに昔からあった石
そこに座り見慣れた風景の中で安住する
長くともに生活した家族は死んでも生きている
だから死者に話しかけて生きつづける
死者が老人には生者より親しいもの
新しい人の名前を覚えることができない
新しい人はその時間軸で形成された空間に入れない
堅く拒んで入れない
老人は過去から今へつながっているものの中に生きている
新しく生成したものは存在しない
固陋な老人のアイディンティティ化した世界は変えられない
それは古木のように大地に根を下ろして変わらない
そこに老人は深く安住して動かない
その建物は完成したものであり新しく変えることはできない
その中に長く一緒に生活を共にした人も生きている
死者は老人の中では死んでいない
むしろ若い人を認識できない
名前も覚えることもできない
老人の中ではそうして新しいものを取り込めない
ただ古い家や神殿のようになっている
一時代に形成されたアイディンティティ化されたものに生きる
新しい時代を拒否して受け入れない
変化できないのが老人の世界
そのために世代の差が埋められないのである

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ソリドゥス金貨(ソリドゥスきんか、Solidus)は、4世紀のローマ皇帝・コンスタンティヌス1世の時代よりローマ帝国・東ローマ帝国で鋳造された金貨の総称。東ローマ帝国では「ノミスマ」(ギリシア語: νフμισμα)と称された。11世紀ころまで高純度を維持し、「中世のドル」として東ローマ帝国の内外で流通した。

中世フランスや南米などで使われた通貨のソル(Sol)、中世イタリアで使われたソルド(soldo)、中世スペインで使われたスエルド(sueldo)はソリドゥスに由来し、ペルーでは現在もヌエボ・ソルという通貨が使われている。

ドル記号$の由来ともされる。また、兵士(ソルジャー、soldier)という語は、「ソリドゥスのために戦う者」という意に由来する。

solidとはまさにこうした純度の高い金貨である
老人は純度の高い精神性を追求して表現するのに適している




人間は意思疎通ができないというとき職業が違ったり住む場所が違ったり男女間でもそうだし特に世代間で意思疎通ができなくなる
若い世代と老人のギャップは大きい、まず若いという時その心は外に向かう
だから空間的に生きる、広い世界を見たいと思う
自分自身にしてもこれだけ旅行したのはそのためである
女性でも若い時は冒険的になり遠くに出る、今なら外国にも普通に行く
そしてインドでもインド人と結婚した日本人女性がいた
それには驚いたが良く話は聞けなかった、そういう余裕もなかった
ただ女性一人で旅行していた人もいたことには驚く

若い人は空間を生きるのである、まだ見ていないものを見たいという欲求が強烈なのである、だから故郷から出たいとなるのが普通である
故郷だったらそこは常に見るものも同じでありあきるからだ
だからむしろ故郷を嫌悪して外にでる
自分自身でも故郷を嫌悪していたから東京の大学に入った
それはどうしても親元から故郷から出たいということが動機となっていたのである
勉強する気持ちもなにもなかったのである
それが自分のような一人っ子のわがままなものには良かったのである
だから東京に行くとか20代は一番冒険的だったのである
これは自分だけではない、みんなそうなのである
私の母は内気な性格であり冒険的なところのない人だった
その人さえ東京に出て女中になり東京の人と結婚したのである
それはその当時相当冒険的なことだったろう
そこで夫が工場で働いていて事故で死んだ故郷に帰ってきたのである

とにかく自分の場合、50代でバックパッカーで外国旅行したからその時も外部志向であり空間を生きていたのである、空間の拡大の中に生きていた
これは他の人にはないし異常だったと思う
50になればたいだい内向きになってくるからだ
ただ外国旅行というときもとから外国に憧れていたからそうなった
私が失敗したのは田舎に友達もいないし何か情報にうとかったからそうなった
ただ外国に対しての強い憧れがありそれで50からでも外国旅行したのである
だから本当に辛い苦しいものとなった
こうしたきついことは若い内にするべきだったのである

いづれにしろなぜ老人のことが理解できないのか?
むしろ老人になると若い人のことを理解している
それはみんな若い時を経験しているからである、ただ子供時代になるとなかなえ理解できなくなる、子供の時代は特別な時代でありその経験はもうできない
そして大人になると子供時代のことを理解できなくなる
でも若い時のこと大人になってからのことは理解できるのである
若い時は若気のいたりがあるというのもわかる
必ずエネルギーがありあまり噴出して過ちを犯すからである
それがその時で終わると思うが実は老人までその時の過ちをひきづる
それが若い時はそれで終わると思っているからそういうことをするのである

不思議なのは若い時は老人のことをなにやかにや言うにしても老人のことを理解できないそしてみんな60くらいで死ぬとか言う、でも実際は今なら百歳まで生きるようになる
若い世代は得にそうなのである、早い内に死ぬからいいとはならない
そして60過ぎても誰も早く死にたいとは思わないのである
そして60とかなると20代からするととてつもなく先のように見えるのである
でも50、60になるとあっというまに過ぎたとなる

ただ年齢をふりかえるともう40になると白髪でてきたりするから老化してくる
それで40は何か人生の分かれ目のようになる
それで結婚しないとか給料が安いとか非正規の底辺労働者が嘆いているがその心境がわかるのである、40はまだ挑戦できる時代だが50になると無理になる
50になるともう初老になってしまうのである、ところが40でも50になるのはすぐなのである
50から外国旅行でバックパッカーしていた自分は普通ではない人間だったのである

とにかく自分は本当に老人になった、体力的にはまだ体に柔軟性があり運動もできる
でも精神的には老人になっている、介護になってから十年は旅行もしない、ただ毎日同じ場所にいる、外に遠くに行くのが億劫になった
仙台にすら今年は一回行ったのかとなる
何かもともとそうだったのが人ごみの中に行くの余計に嫌になったのである
もともと自分自身の性格は山の中で一人石のようにしているのがあっていた
人と会うことや人ごみの中に人と接することが向いていないのである
その気質も異常化する、引きこもりの性格がもともと自分にはあっていたからこうなったのである

なぜ自分が老人になったということを意識したかというとこの詩のように心境がなっているからだ
そして老人の心境を理解したのである
例えば老人は新しいものを受け付けない、新しく接した人の名前を覚えられないのである特に一回切りだとかなると余計に覚えられない、それで認知症になったとき遠くの子供の名前やその人自体を忘れるというのはありうる
それが身近にいないからそうなる、でも身近に暮らしていればそういうことはない
いつも一緒にいた人は覚えているのである

そして気づいたことはいかに長く一緒にいた人がその人に影響して人間を作ったいたかということである
私は結婚もしないし子供もいない、でも親と一緒に60まで暮らしていた
姉ともそうだった、だから他人にとっては嫌かもしれないが姉と母のことをこうしていつも語っているのである、それは夫なら妻のことを妻なら夫のことを語るのと似ているのだいい年して親にこだわるというのもわかる
でも現実がそうなっていたのだからどうしようもないのである
自分にとって一番影響して親しいものは姉と母だったからである

そして死んでわかったことはそれだたけ長く一緒に生活していると死んでも生きているという感覚になるのだ
これも自分だけではない老人の心境なのである
それで認知症になった人が死んだ人と話しているということが理解できる
別に認知症でなくても死んだ人と話しているのである
その時死んだ人は死んでいないのである

今生きている人より死んだ人が老人には親しい

死んだ人の方が生きている人より身近である

こういうことが一般的になっているのが老人なのである
だから死者の方が親しいから死者にいつも話しかけるとなるのである
その時死者は死んではいないのである

そして老人の世界観はこれまでの生きた人生の中で人でも空間でもアイディンティティ化した一つのコスモスを形成している
それは変えられないのである、だから新しいものを受け入れられないのである
固陋な神さびた神殿のようなものを形成してその中に生きているのである
それでそこに若い人は入れないとなる、拒絶されているのである
老人が安住する世界はそうして一緒にともに生きた人がいて人生の中でアイディンティティ化したもののなかに生きることなのである
その時精神が安定するのである
だから原発事故とかで避難した老人が故郷に帰りたいという心境がわかるのである
それはそこで長く生きていたから環境でも人でも一体化して生きていたからそうなる
それがまるで違った環境に移住することは苦痛になるのである
ただ南相馬市だったらその内に移住したらそれほどの違和感がないかもしれない
小高の人が原町に住んでも鹿島に住んでもそれほど変わりないとはなる

老人は空間を生きるより時間軸に生きるようになる、時間軸に生きるということは空間を移動するのではない、一か所に定着して生きることである
そして物事でも深く見る、深く鑑賞するのに向いている
だから本でも深く理解できる、そして鑑賞できる、それで批評家に向いてくるのである
批評はやはり一段と高いところから心境からしかできない
若い人はどうしても人生がわからない、老人が理解できないというとき老人になる経験がないからである
老人は人生をふりかえり誰でも経験しているから若い人のことも理解できる
40の人でも自分があの時代はどうだったとかふりかえり理解できる
何か焦燥感が一番出る年代だということを経験で知っているからである

でも40代の人は60以上の人のことをまだ理解しないのである
60以上になるともう死に向かっている
この世から離脱してゆく年代になる、だから40の時のような焦燥感も何もなくなっている、あきらめにもなる、どうせまもなく死ぬんだとなるといろいろ悩まないのである
むしろこの世から消えるのだから気持ち的には楽なのである
何かを成そうともしない、あとは死ぬだけだとなれば気持ち的に楽になるのである
それも老人にならないとわからない、その老人というのは今なら70以上だと思う
老人はどんな人でもどうしても一種のあきらめになり悟ったようになる
でも別にこの世の欲がすべて消えるわけではない、簡単に欲は消えない
残り火のようにかえって性の欲でもなんでも燃え上がることがある
それだけ人間の欲が強いものであり消えないということも実感する
だから老人がそういうことで問題を起こすことも理解できるのである
ただ老人の心境は詩のようになることは確かなのである



2019年08月21日

姉の北海道旅行の写真 (姉がいて自分は自由に生きることができた)

姉の北海道旅行の写真

(姉がいて自分は自由に生きることができた)

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コロポックル

この写真がたまたまでてきた、旅行の写真はかなり残っていたが何か貴重なものにはならない、この写真は姉らしいものなので出した
姉はおおらかな陽気な女性だったのである
いつもにこにこ笑っていたのである

だから認知症になって一時自殺したいと言ったとき悲しかった
社交的な女性でも認知症になってから誰も来なくなった
話がまともにできなくなったからだ
話好きだったから本人もがっかりしていた、
話す相手は自分しかなかったからだ
そして戦争の話を千回聞かされたのである

でも時間が過ぎるのが早かった
死んでから8年とかなる、それは津波とか原発事故とかあり余計にその間にごたごたして時間がまたたくまに過ぎたのである
十年がまたたくまに過ぎてしまったのである

ともかく何か死んだら記念になるものを残すといい、それで偲ぶことができる
姉とは子供の時からずっと一緒だった
60年間一緒だった、その長さがやはり忘れられないものとしたのである
もし結婚して他の家に行っていたらこうはならなかったのである

また姉がいたから中学生の時父が死んでも家を維持できたし繁栄できた
私が勉強嫌いだったが大学に行けたのもそうである
あと何もしないで旅行とか自由な生活を送れたのもそうである
私は学校とか会社には適応できない人間だったからだ
そういうことができたのも姉がいたからだとなる

ただこれにもプラスとマイナスの面があった
そのために社会で働かないから社会性がなく介護になってから苦しむ結果となったのである
ともかく学問でも芸術でも追求できたのは姉がいたからだとなる
旅行していても何も言われなかったからである
ただ自由にしていいとなっていたのである
ひきこもりでも別に何も言われないのである
かえって旅行することをすすめられていたのである
だからこういう人生になったのも姉がいたからだとなる


2019年08月17日

親が子を捨てる、子が親を捨てるカルマ (親より今は金が大事な時代)


親が子を捨てる、子が親を捨てるカルマ

(親より今は金が大事な時代)


自宅で男性の遺体の両ひざ部分を包丁で切断しようとした疑いがある。千村容疑者は父親(90)と2人暮らし。16日午前、千村容疑者が昭和区役所に「5日ごろ(父親が)死んだ」と電話し、連絡を受けた区役所が署に通報した。

 千村容疑者は「生活保護費を受給できなくなると困るので、見つからないようにしようと思った」  
  
この事件は生活保護と親と子が関係して起きた
親が死ぬと生活保護費がもらえない、それで親が死んだので隠そうとした
でも死んだ親でも親の体を切断するとなるといくら追い詰められてもできるものなのか?ただ人間は追い詰められるとなんでもする
生活保護を打ち切られると食べていけないと包丁をもって役所に行き警察に捕まった人もいる
人間は善悪ではない、もう追い詰められた人間はなんでもする
今日食べるものがなければ人でも殺すようになるから怖い
そういう人と出会ったら怖いとなる

そして今は誰か助けてくれ、今日食べるものをくれとか他人に言えない社会である
だから役所が生活保護が命綱になっている人が多いのである
貧困化する日本ではそういう人たちがますます増えてくる
老人でも増えてくる、生活保護は医療費が無料でもその他なにももらえない人がいる
また田舎と東京とかでは違ってくる、だからみんな生活保護がいいというけど
そういうことはないのである
地方だと東京のように十何万とかもらえないのである
そして最後の頼みの綱が役所になるから命がけで交渉することにもなる

親が子を捨てることなど普通にありふれている、親が子を捨てるというとき例え親がその子に食べ物を与えても子を捨てている人もいるのだ
精神的に子を愛さないし事実上捨てている親も多いのである
親は子供を産んだから親になるわけではない、子供が生まれて愛情もって育てれば親になる、ただ飯を与えただけでも親にはならないのである
だから親としての価値を作る努力を親がしなければならないのである
子がない私も言えたことではないがそういうことが多いのを見ているから言うのである
それは昭かにカルマとなっている

親に苦労させられた子は親を親とも思わない、もうぎりぎりになったら親の死体でも切り刻むともなる、親より金だとなるのも普通だし多いのである
その人は12,3歳ころまでは一人娘で大事に育てられたがその後は両親は離婚したりして親戚にあづけられたとか親にひどい目にあっているから親を親とも思わないとなる
それで私が私の墓のとなりに墓標をたてたから墓参りしてくれと10万電車賃を渡した
でもお盆で来ると言ったが来ずにその関係もキレたのである
その人は貧乏なので10万の方が大事だったのである
親のことを供養するとか頭にない、親はすでに捨てられていた、10万の方だ大事でありそれをもらったから墓参りにも来ないとなったのである
ただ私は本当はめんどうだから関係したくなかったからかえってキレて良かったとなる
親だけではないその人自体に問題ある人だったからである
祖母の遺産を二百万やっても一年足らずで全部使ったとか金使いが荒い、性格がそうだからどうにもならないとなる

本当に親子の問題は延々と繰り返されているカルマだとつくづく思った
親が子を捨てる、子が親を捨てるというカルマは延々はつづいている
子捨てとか親を捨てる姥捨てとかは昔からあったのである
ただ間引きとかは食料がないのだから貧乏なのだからやむをえないことがあった
子供や老人の食い扶持を減らさざるをえなかったからだ
だから子捨て姥捨てにも今とは違った事情があるからそれらが非情だとも言えないのである

現代は食い扶持を減らすというより精神的に子を捨てたり親を捨てたりしているということがある、ただ貧乏になるとやはり昔のように食い扶持を減らすということでてくる
親が子を遊女にしたり丁稚奉公させたりと貧乏であればそういうことがあった
そうせざるをえなかったのである
今の時代はそういうことではなく子に愛情をもたない、精神的虐待が多いのである
それで傷つき正常な人格形成ができなくなっている
これも現代的な子捨てなのである

とにかく人間はみんな子供をもったとしても親としての価値ある親になるとはならない
そのカルマは親を簡単に捨てるとかとなって現れる
知っている人も確かに両親にひどいめにあったとしても今度は自分の子供に同じことをするようになる
とてもその女性はまともでいなからだ、すると経済的にも精神的に子供に負担をかける
親→子→孫とカルマがつづくのである
そのカルマの連鎖が切れないのである、それがカルマの怖さなのである
あなたの行為(カルマ)があなただけで終わらない、その子や孫まで受け継がれるのである、原発事故になると放射能が消えないからいつまでこの地に影響するのか?
孫の代からさらに曾孫からさらに子孫に延々と影響してゆくのが怖いのである
そのカルマを断てなくもなる、遺伝子障害がそうである

いづれにしろ親に捨てられまた結婚して妻に捨てられまた子にも捨てられとその人生は何なのだったのかとなる、それは自分も関与することだからそれは何なのだったとなる
でも特殊な例ではなく親が子を捨て子が親を捨てることなど普通にありふれている
そのカルマは消えることなくこの世ではありつづけるのである
こういう基本的なことでカルマがありまたいろいろなことでカルマがありそれが解消しないのである、人は必ずカルマで苦しむのである
何もないと思ってもいつかカルマが苦しみとなって現れ自覚させられるのである

現代は親より金が大事となり金のために簡単に捨てれる
5歳まで親として育てていてもその後に子に世話になるというのも虫のいい話である
それで施設に入ったがその子はその親の金だけが目当てなのである
愛情など微塵もないのである、ところがその親は認知症になっているから余計に悲惨だとなる
ただこういうことは必ずまたカルマとなりその親でもまた子があり子に捨てられるということが起きてくる
こうなると子がないのもカルマだが子があることもカルマでありどっちにしろカルマから逃れることはできないのである、それが人間の宿命だとなる

今や親が子を捨てる悲惨だけではない、高齢化社会で子が親を捨てることが日常的になる中国でも子が親を捨てている、世話しないのである
それも高齢化社会の暗黒であり世界的に起きているのである
だからその人の価値を作るのは親子関係でもそうであり親として価値あるものとなる努力が必要になるのである
ただ血縁だけでは親となるとはならない、いかに育てるとかで価値ある親になる
人間の価値はなんでも与えられたものではなく作り上げることが要求されているのである



2019年08月16日

墓の歴史(家制度は新しく、江戸時代に庶民に姓がなかった―夫婦別姓問題)


墓の歴史(家制度は新しく、江戸時代に庶民に姓がなかった―夫婦別姓問題)

明治期に入って、急激に離婚件数が激減した理由は、1898年(明治31年)に施行された明治民法です。明治民法の最大の特徴は、「家」制度を明確に規定したことにあります。妻は、ある意味「家」を存続させるためのひとつの機能として縛り付けられることとなりました

墓の問題は江戸時代から明治になったときこの家制度が強固に作られた、法律的にも作られた結果、家の墓が生まれた
この家制度は政府によって上から作られたものだった
なぜなら江戸時代の方が離婚も多く再婚も多かった
家に縛られていないのである、明治以降は家と家の結婚なのである
侍は家を重んじた、家を維持することが生計を立てることだったからである
ところが侍の割合は0・8パーセントとか少ないのである
野馬追いでも500騎出るとして相馬藩内の人口からしたらほんのわずかなのである
だから野馬追いに出る家のことを知らないのが多いのである
ほとんどは庶民であり農民だったのである

武家でも結婚しても墓に両家の姓が記されているように実家をひきづっていた
それを認められていた、だから女性が男性の姓に変えることに反対する

【夫婦別姓問題】半数が「夫の姓にしたくない」アンケートから見えた、妻の本音

女性から見るとこれが本音なのだろう、それで夫の墓に入りたくない人が30パーセントかいるのもそのためである
そもそも姓を考えると侍には姓があっても庶民にはなかった
苗字帯刀があり特別功績のあった人にしか姓は与えられなかった
そしたら一家の姓とかはない、ただ名前だけである
だから農民でも庶民でも墓が第一なかった、幕末に経済力がついて農民でも墓を作るようになったのである、それまでは墓は普通ない、墓地は仏方(ほとけっぽ)とかの村の共同墓地に埋められていたのである

そして姓を考える時、日本人の姓がかならずのその由来になったのが村であり村の名が地名が姓になっている、村の共同体が基本として日本にはあった
それが中国とかも違っている、中国に遊牧民系の人たちが入り最初の始皇帝の国家を築いた、遊牧民系だと土地に根ざしていないから血縁が大事になるからだ
それで中国でも今も同じ姓の人を血縁の結びつきを大事になる
それは韓国でもそうである、第一李氏朝鮮とかあると中国の李氏の支配下にある国だとなっているからだ
日本人は土地とのつながりが深いが血縁はそれほどでない、だからこれは世界から見たら特殊なのである、日本の文化は世界のスタンダードから見たら特殊なことがいろいろあるのだ

明治に作られた強固な家制度自体が時代の変化で合わなくなったから墓の問題もある
一家の墓として持続できなくなっているからだ
家の結束とか家族のつながりも薄れている、そして最大の問題は農業中心の社会でなくなったことである、農民だったら土地を資本として継続できる
だから土地こそ大事なものであり土地を受け継ぐ長男が大事にされた
でも誤解しているのは江戸時代が強固な家制度があったというわけではない
それで結婚でも離婚が多くまた再婚も多かったのである
明治になってから離婚が極端に減ったのは家制度が強固に上からおしつけられてた離婚できなくなっていたのである
ということはもともと結婚はむずかいしものであり離婚になりやすいことは変わりなかったのである

結局、家の家族のつながりの希薄化、崩壊、土地とのつながりの希薄化して崩壊

このために墓を維持できなくなってきた、原発事故でもなぜこんな簡単に一つの町自体が一挙にゴーストタウンになったのか?
それは放射能のせいだともなるが何かそれだけではないもの、土地とつながりが希薄化してどこにでも金があれば住めるという広域化社会、グローバル化社会と関係していたと私は考察したのである

ともかく家制度というのは明治以降に法制化されて上から押し付けられたものだった
そこにもともと下からの要望をではないから不自然でもある
女性の姓が結婚すると男性の姓に変わるのもそうである
そもそも第一江戸時代には姓がないのだからそういうこともなかった
ただ名前だけであり姓がないからそんなこともなかったのである
だから新たに姓が与えられてかえってその姓に縛られるようになったのである
それは武家ではそうだったが庶民までそうしたのである

それで墓に「安らかに」とか「和」とか「愛」とか記されているのは姓を記すとその姓に所属するものとしてありでも跡継ぎがいなくなると墓を維持できなくなった
天皇に姓がないのはある一族によって藤原氏となれば藤原氏が支配するとなるからないのである
いづれにしろこうしした歴史的経過があり墓を考える必要がある

村の共同の墓地→個人の墓→夫婦の墓→家の墓

家の墓は古いものではないのである、武家でも個人の墓であり家の墓はないのである
なぜなら死者を偲ぶ時は個人を偲ぶのであり家を偲ぶということはないからだ
その人生もみんな違っているからそうなる
そして不思議なのは今は墓はこの逆行にもなっている
樹木葬とか共同墓地志向が強くなっている、それはもう家の墓が維持できなくなっているからである

自分にしても村の共同墓地とかの方がいい、ただ個人墓となるときそれは特別功績のあっ人だろう、その記念碑みたいものになる
他はたいだい忘れられる、墓は増えてもそれが誰も参るものもなくり墓の墓場ができているのもそのためである、ただ記録して元禄時代のものも西の方であったりするら貴重だとはなる、私は必ず墓の時代をみて江戸時代だと貴重だと思っているからである
それもやはり歴史として貴重な活きた資料ともなっているからである
とにかく団地のような狭い部屋にとじこめられるようにして墓になっているのは嫌だとはなる、それも結局社会が時代の変化で墓の考え方が変わったためなのである


2019年08月14日

金のことで縁がみんな切れた (親も子に捨てられる、墓参りすらしない)


金のことで縁がみんな切れた

(親も子に捨てられる、墓参りすらしない)



物心がついた6歳のときから父親の再婚相手である義理の母のもとで育った。愛情は血の繋がっていない弟に向けられていたこともあり、17歳で高校を中退後、古川市(現大崎市)の親戚の家に転がり込んだ。実質的に親を捨てた瞬間だ。

「仮に今、父親の介護を負担していたとすれば、経済的にも精神的にもストレスは計り知れません」

昨年、連絡先を調べた姉が訪ねてきて父親が亡くなったことを知った。1回だけ墓参りに行ったがそれきりだ。自宅マンションには仏壇もない。

方法2. 冠婚葬祭のイベントにも顔を出さない
親族の付き合いは、結婚式や葬式・法事など、どうしても外せないものが多くなります。しかし縁を切りたいなら、徹底して参加しないという決意をしておきましょう。

縁を切ったつもりでも、親族のイベントに出席すれば、どうしても顔を合わせることになってしまいます。顔を合わせればトラブルが再燃しておかしくないのです。


兄のことでいろいろ事情があって私の家の墓の隣に墓標を建てた
それでその娘が墓参りするというので十万電車賃を払った
でも今回は来なかった、それがなぜなのかわからない
そもそも娘でも13歳ころまではかわいがられたが中学で両親が離婚してもめたとか経済的にゆきづまり家を出て住む所がなくなったとかさんざん親のために苦労したので
親といっても親への思いがなかったのだろう
ただ自分の家では兄の家族について離れていたので何をしているのか良くわからなかったのである
それで交通事故で死んだとき残された娘は妻の家族にひきとられた
でも高校生になっていたが卒業して東京に出て来た
金はあったのでそこで一人暮らしして結婚して一人娘をもうけた
でも夫は早い時期に離婚した

とにかく両親もこのように問題があり娘はひどいめにあった
ただではその後のことがすべてこうして両親が悪いからなのか?
それはそうではない、その娘にも問題があったのである
金使いが荒いとか性格的な問題だとかその本人にもいろいろ問題があった
母が認知症になり死ぬ一か月前に二百万やれという遺言を残したのには驚いた
その金を払ったがそれを一年も満たずに使った
兄も金使いが荒い、金があるとぱっぱっと使うのである
そういう性格なのである、それが娘も同じだったのである

だからなぜ父親の墓を作ったとから墓参りしてもらいたいというということで10万払ったが来なかった
向からお盆に来るからと言ったので払った、でも来なかった
つまり父親のことなどどうでも良かったし墓参りのことなどもをとでもよかった
したくなかった、ただ10万という金が欲しくてお盆に来ると言っていたのである
前も来るときは電車賃を払っていたからである
その娘には父親に対する思いがないのである
別に金もかかるわけでもないのだから墓参りくらいできるがしない
ただ十万欲しいというだけであり父親のことはどうでもいいのである
もちろん相手が死んでいるのだから死んだ人は金をくれない
ただ私が金を払うことを知っているからお盆に墓参りに行くと言ったのである
そうすれば金が入るからである

それで死んだ親との縁とも自分の家との縁もキレたと思う
もともと親密な関係でなかったから仕方がないしもうつづくのが限界だったともなる
このように相手が望んでいたのは金しかなかったからである

親族の付き合いは、結婚式や葬式・法事など、どうしても外せないものが多くなります

親戚の関係はこういうことでつづき断りにくいことがある
最後は墓参りとか死者を通じてもつながるからである
でもこうして簡単に10万もらったら後は用はないというのも親にとっては悲しいとならないか?死んでいるからどう感じているかはわからないけど親も死んでも捨てられたとなる、本当は無縁仏になっているのである
だから親でもいろいろあって兄弟でもかわいがられた人なら親を思うがそうでないと思わないのである
だから介護の時、お前は一番かわいがられたから親の介護をしろとなるのである

私の場合は親に対する思いが深いのである、親と言ってもここがわかりにくいのだが
二人いたとなるのだ、姉と母は年齢がさほどかわらないから母と同じだったのである
そうして60まで自分は二人が世話してくれたのである
だからこの歳月が自分にとっては忘れられないのである
その時は気分いいものであり何か殿様のようにして過ごしたともなる

つまりこうして特別良くされたからこそ介護も必死でしたし死んでも供養するし楽した日々が思い出となっているのである
二人がいたから安住したとなる、その後は介護となり死んでいいことがなかった、そのことをプログで書いてきた
外からはわかりにくいにしても

親に良くされた人は親を大切にする、死後も篤く供養する

兄弟でも親に良くされない人はやはり良くしない、介護もしたくないとか墓参りすらしないのである
それは生前からそうなっていたのである、墓参りでも死後でも生前に良くされない人はやはり墓参りすら親でもしないとなるのである
親でも別に血がつながっていなくても養子とかなっていても親が愛して良くしてくれれば子も親を思い良くするのである
それもカルマだとなる、カルマがどこかで返ってくる

何か60年も一緒にいると死んだ人でも依然として家にいるようにな気がするのである
その長い歳月がやはりそうさせている、例えば子供が家から育って遠くに行ったりすると肉親でそうした親密な感情が失われてゆく
それで認知症になったとき遠くに行った子供は忘れても近くで一緒に生活していれば忘れないと思う
私のことは名前でも憶えていたからである、遠くに行った人はいくら血縁でも肉親でも忘れやすいのが人間なのである
それが人間というものである

去る者は日日に疎し

死んだりしたら本当にそもそも本人が影も形もなくなるのだから日々に疎しとなる
どうしても忘れられるのである、それは死んだ時点でその人が消えるのだからすでにそうなる
だからもうこの世にいない死んだ人を延々と思っている人はその人に対しての思いが深いということなのである
だからこそ忘れるからこそ義務的にでもお盆でも一年に一回でも墓参りすることに意義があるとなる、死んだ人を振り返る意義があるとなる
記念日をもうけて何かを振り返ることに意義がある、そうしないと人間は忘れるのである

人間とは本当に忘れやすいのである
プログでも詩でも自分で書いていたものを忘れている、そして自分の作った書いたものを読んで感心しているというのも不思議なのである
それだけ人間とは忘れやすいものだから何か書いておくとかがどうしても必要なのである写真でも残しておくとか何か思い出すもの記憶になるものを記しておく必要がある
墓はそうして死者を忘れないものとしてあるものとして意味があるともなっている
具体的に物としてあるからそれを通じて過去を忘れないようにしているともなる
ただ立派な墓はいらない、なぜなら後継ぐ人がいないと後で邪魔になるからである
墓標のようなものでも十分だとなる、つまり代々墓を維持できなくなっているからだ
墓標のようなものだったら片付けるものも簡単だからである
墓が捨てられ墓の墓場になるのも無常である
結局この世は無常であり誰しも無常から逃れられないのである



人間の縁の不思議(親戚の縁はみんな切れたー遠くの親類より近くの他人)


人間の縁の不思議(親戚の縁はみんな切れたー遠くの親類より近くの他人)


縁というのは何か離れて住むとキレやすい、例えば兄の場合、静岡の方に住んだ
それだ頼りもあまりないと何が起きたかもわからなくなる
ところが何かあると急なことがあり連絡来たりする
するとなぜそうなったのか?
その事情がのみこめなくなりそこで困惑する

交通事故になりそれが離婚して電気水道をとめられて家を出た、それから運送会社に運転手として入った、そこで保険金のことでもめた
子供もいたので混乱した、一時は子供を連れて運転していたらしい
それから児童相談所に行きあづかってもらった
もしこのとき近ければ事情がわかり子供でも一時あづかることができた
ところが静岡となるともう行くだけで容易ではない
兄は静岡の方に行ったときこっちに帰らないとしていたがそれはいいとしてこうして問題が起きたとき困るのである

そのためにこっちに死んだとき連絡が来ても静岡まで行くだけで大変である
そしてその運送会社で何日かいて責められたのである
それは保険金の代理人に運送会社の社長がなりたいということだったと思う
なぜなら骨をここに置いていけとか墓を作ってやるとかいろいろ言っていたからである
ところが私の家ではまず車をもっていなかったから自賠責とか保険のことがわからなかったのである、それでその事情をのみこむことがむずかしかった
その間に連絡していてもたまにしかしていないし何しているのかもわからなくなっていたからだ 

ただ不思議なのは交通事故になる前に運送会社の人と家に寄ったのである
それも不思議な現象だった、死ぬ前に何か親戚でも知己でも友達でも回ってゆくというのは本当である
その時機嫌が良かったのである、その運送会社が悪いというのではなかった
ただ保険金が下りるとなり変わったのだと思う
なんか児童相談所とかその運送会社とか自分の家でもめた
自分の家は母親がいたからそうなった

でもこのことが何なのかのみこめなかった、ただ保険金が金がからんでおかしくなっていた
死体は運送会社に一時もちこまれそこで通夜みたくなっていた
さらに複雑なのはちょうど離婚した後であり妻がかかわってきた
何か金がないということで困っていた、子供はまだ中学生だから子供は母に頼ろうとしていたのである、母はその後病気になったり入院したりした
金がもらえると思い自分の家に来たのである
ここでも金でもめていたのである
人間のもめる一番の原因は金である、もし金が入らなかったらもめなかった
原発事故でももめたの補償金であり金だった、それで兄弟が仲たがいしたとか聞いた
「金の切れ目が縁の切れ目」というのは痛いほど経験した

今回は兄の墓標を隣に作った、でも肝心の娘は来ると言ったが来ない
十万を電車賃として送ったが来ない、だからこれもキレたのだと思う
これも何か離れて連絡をとっていないから事情がわからなくなる
そして突然何かあると連絡されるから困るのである
つまり離れていると相手のことがわからなくなる
また疎遠になって連絡しないとわからなくなる
そこで誤解が生まれたり信じられなくなる
つまり離れていることはこうして互いに疎遠にして不信にもなる
ただ離れているだけでそうなるのである

こちらから連絡しようとしたが携帯の電話番号を書いていたのだがそれが間違ってのか通じない、今自分は携帯をもっていないからだ
すると連絡しようもなくなった、相手も連絡してこないでのキレたのかとなる
ただ父親の墓を作ったので今回は墓の魂入れとかなるので来て欲しかった
でもこうして実際は前からうまくいっていないからキレたのだと思う
こちらにしてもかかわることがめんどうになるのである
それなら一層キレた方がいいともなる
とにかく親戚とかもともと自分にはない、兄弟もいないからキレてもしょうがいなとなっていたのである

でもどうして連絡が来ないのか?それが謎である、10万という金が欲しいだけで連絡して来たのか?何か謎であるのも相手の事情がわからないからである
もともとキレてもいい関係だったから意外でもないとはなる
親戚でも兄弟まででありそれ以上はあまりつづがないだろう
ただ近くの人が甥だった人が叔母を介護するために引き取りにきた人もいた
だから家族でもいろいろありそういう家族もいる
家族の事情はいろいろでありそれを理解できないのである
自分の家族も複雑でありまた親戚関係もうまくいかなっかたからこうなったともなる

それでも兄の墓を作ったしそれで供養する他ない、母の実家の墓には行かない
何かもともともめていて分裂不和の家族であり親戚だったからこうなったともなる
それもしょうがいないとなる
人間は何かこうして協力すること自体むずかしい、だからもう協力できないとしたら関係を断つということした方がいいとなる、問題が起きたとき事情もわからないのに呼ばれたりすると困るからである

いづれにしろ日ごろから協力しない関係では何かあったときも協力し合えない
原発事故の避難区域になったところでもそうである
そこでは内部的にも協力し得ないともなった、そこで外部から入った人たちがいて復興に尽くしている、すると内部で協力しえない人たちより外部の人たちが頼みになるともなるつまりどういうふうにして協力関係を築くかが問題になる
そして協力できないとなったときもうかえって関係しない方がいいとなる
それでも地域だとどうしてもそこで生活しているから関係を切ることはできない
もし切るとしたら他に移るほかないのである
でも協力できないとこうした事態でみんな困っている時はそういう人は迷惑になる
親子でも兄弟でも原発事故ではばらばらになり地域でもばらばらになった
それはなぜなのか?
かえって金をもらった結果ばらばらになった、そして金をもらったら外に出て暮らした方がいいとなり若い世代でも出て行って帰ってこないとなったのである

とにかくお盆は死者のことを先祖のことを思う時である
ただ最後は墓が残るがそれも捨てられる、親子の縁もキレる
ただ無常があるのみだとなる 

とにかく

遠くの親類より近くの他人

この諺はこんなに交通が発達しても変わりないのである、遠くになると事情がわからなくなるのである
それで原発事故でも東電と地元の福島で意思疎通ができなくなっていたのである
それはいくら電話であれインタ−ネットであれ通信でも連絡できたとしてもそうなのである、その現場の事情が伝えられなかったのである
それで吉田所長が独断で決めたとなる、そうせざるをえなかったともなる


2019年08月13日

墓は何であったのか? (もともと個人の死を悼むものであり家族墓は明治以降で新しい)

                    
墓は何であったのか?

(もともと個人の死を悼むものであり家族墓は明治以降で新しい)

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庶民がお墓を立てるようになったのは明治以降だそうです。(庶民が名字を持ったのは明治以降ですから当然かも)
また、それ以前のお墓が個人名であったのに対し、「○○家」の墓という風に「家」の墓になったのは、当時の「家制度」を普及浸透させる社会潮流と合致しています。

妻が夫の姓を名乗るのは明治時代以降のことである。それであるから、妻が死ぬとその遺骸は里方の墓地に葬られることが多かった。夫方の墓地に葬られても、その名は里方のものを記されたのである。


石のお墓を建てられるのは、武士や貴族などの有力者の話で、庶民は共同墓地に土葬されるのが一般的。盛り土をして目印となるような石を置いたり、木を立てたりといった簡単なものでした。その後、檀家制度により葬儀や供養が生活の中に浸透していったことから、庶民の間にも墓石を建てることが広がりました。

またお墓は、もともと個人や夫婦単位のものでした。家単位で作られるようになったのは、江戸時代の檀家制度の普及と、明治時代に入って庶民も名字を持つようになったためといわれています。


墓の歴史は何を語っているのか?
それも歴史だとなる、古墳が墓なのか?ピラミッドが墓なのか?
これも議論がある、中国だと巨大な権勢があり始皇帝のような山のような墓がありその地下まで墓なのである、地下帝国がありそこに王が眠り生きつづけるとまでなる
死後も権勢を誇るとなる

そもそも墓とは死者を葬り死者を記念するものとして墓が生まれた
だから個人墓が最初に生まれた、古墳にしても墓だとすると天皇の墓であり個人の墓なのである
なぜなら死者を悼むというとき個人が死んだとき個人を悼むことだからである
常識的に考えても死者をいたむというときまず個々人が死ぬのだから死んだら個人を悼むのである、その後に家族墓に埋葬されると家族を悼むとなる

そして村の共同体があるときは個々人の墓はない、まず個人が死んだら村人全員で悼み
供養して共同墓地の仏方(ほとけっぽ)に葬る
それが今でもこの辺では地名として残っている、個人の墓はないのである
有力な武士の墓は殿様の墓は残ったとしても農民の墓はないのである
ただ幕末期になると農民の個人墓が生まれた、それは財力がついたので墓を作れるようになったからである、それも個人墓なのである
その個人墓から夫婦墓になった、信士、信女の墓になった
家族墓はないのである、だから家族墓は明治以降できたものであり新しいのである

だから家族墓は実際はなじまないし変わるべきものだったともなる
それで今時代が変わりもう家族墓は維持できなくなったのである
長男とかが家を守る時代ではなくなったからである
戦前でも農業主体だと農民が8割とかなれば土地を受け継ぐということで長男が家を守ることがあった、でも農民が一割にもみたなくなったらもう長男が家を守る時代が終わったそれで兄弟で遺産を平等に分割する時代になり土地まで分割されるようになる
それは農業の時代でなくなったからである

いづれにしろ墓は何なのか?
これもわからないのである、人が死ぬと結局灰になる、私の兄は交通事故で死んで母の実家の墓に骨壺に入れて収めたがその骨壺もなくなり灰も実家の兄弟と親の骨と灰と交わりなにもない、土となっていたのである
するとどうなるのか?実家の親戚ともめたから兄の墓を私の家の墓の隣に墓標として建てた、そこに別に兄の骨も灰もないのである
ただ名前が記されているだけである
死者は骨なのか?それとも名前なのか?何なのか?
それ自体がわからないのである

ただ明確なのことはそもそも墓は人が死んで偲ぶために生まれた

形あるものとして墓を作りそれで死者を供養し偲ぶために生まれた
ここが起源でありだから死者を偲ぶというとき個人を偲ぶのであり家族ではないのであるなぜなら家族でもみんな違った人生を歩んでいるからである
兄弟でもまるで違った人生を歩む残すことになるからである
だから死者を偲ぶというとき個人を偲ぶのであり家族を偲ぶということはないのである
家族は確かに最も深い因縁で結ばれているとしても死んだときは個人を偲び個人がどういう人であったとかどいううい人生を生きたとか何を残したのかと問われる
家族が何を残したかより個人を偲ぶのである

姉はシンガポールの向かい側のジョホールバルの赤十字病院で従軍看護婦として4年間地獄の苦しみを受けて帰ってきた、そのことを死ぬ直前まで語っていた
母は原町紡績で十年間糸取りとして働いた、その後東京で女中して働いた
兄は集団就職で静岡の方に行き交通事故で死んだ
他に母の実家の墓では肺病で25歳で死んだ人がいた、何かそうした人生を個々人が語る家族でもみんなその人生は違っているのである
すると家族を偲ぶというより個人の人生を偲ぶとなるのである

兄の墓標を私の家の墓の隣に建てたときもそうである、その娘が墓参りに来るときもその親である個人を偲ぶとなるのである、それがお盆であり墓参りだとなる
その娘にとっては私の家族のことは必ずしも深い関係にないから家族にお参りするということにはならない、父親の墓参りに来るからである
母親は祖母として私の家族に墓参りすることになるにしてもそうである
だから家族は必ずしも一体というものではなく個々別々なのである
それで家族墓が現代では家族形態が変わると維持できなくなっている
そしてどうしてどこに埋葬していいかもわからなくなる

村のような親密な共同体で生きていればその場所にもアイディンティティがあり人も親しいから村の共同墓地に葬りそこで村人が代々供養できる、でもそういう共同体もないのだからどこに葬り次に誰が供養するのか問題になる
家族にしても途切れてしまうからである
現代は広域社会であり子供でも遠くに嫁ぐし分散して暮らすようになっている
すると土地との縁も関係も薄れる、それで余計に墓の維持もむずかしくなる

だから樹木葬と海に灰をばらまくとかなる、自然に還るとなる
それはもう死ぬ場所もないことの象徴なのである、一見自然に還るというが村で生活していれば本当にその土地の土に還るとなる
でも普通の人はみんな農民ではない、だから自然に還るというのも何か違うのである
そして孤独死とか孤立死が増えるのも現代である
また宗教団体に入るとその人たちが村の土地の一部を占領して自然破壊までになっているそれも死ぬ場所がないことのためにそうなる、村で暮らしていたらその村で死ぬのが自然だからである、都会人はそうして死ぬ場所がないのである

いづれにしろ人間死んでも後で偲んでくれる人はいなくなる、子供でも孫の代までくらいであり後は供養するものがなくなるのが多い
すると立派な墓を作っても維持できないのである
だから墓は簡単な墓標のようなものがいいともなる
それなら簡単に片づけられるしまたそこに死者を葬ることができる
それは村の共同墓地ともにている、永代供養ともなる
ただ今の永代供養は僧侶が金をもらい管理する、村の墓地は村の人たちが供養する永代供養だったのである
それだって時代が変わり村という共同体も変わるとすでにその共同墓地は文化財として歴史として地名として仏方(ほとけっぽ)として記されているだけだとなる

ともかくいろいろあっても人間が死者を供養するとかはならない
ただ墓という形式が変わりなくなるということはある
そして死者を供養することは死者個人を偲ぶことでありその霊を慰めることである
慰霊だともなる、何故なら不幸に死んだ人が多いからである
すると何か祟りがあるとかなり畏れがあるからだ
肺病で若くして死んだとか戦争で死んだとか交通事故で死んだとかいろいろ不幸な死が多いからである、それも墓参り供養の意義だとなる

私は常に墓に注目してきた、墓地でも江戸時代のものがあるとき注目する
ただたいがい墓地あるところは古い場所であり江戸時代からつづいているものが多い
そこは共同墓地だったところだともなる
それが東京とか大都会と違っているのである、土地と結びついているのが田舎なのである土に還るというのはまさにその生まれた土地で生活してその土地の土に還るということなのである、代々そうし農業だと土地に養われて生きてきたのだから自然とそうなったのである、それがもはや土に還るとかありえないのである
東京のような大都会では死後も団地のような狭い場所に箱のような一部屋を墓としているそれも窮屈で嫌だと思う、でもそれも今の生の継続としてそうなったのである
死後でも見晴らしのいい場所にいたいともなる、そんな窮屈な所なら海とかに骨をまいてくれともなるのである 

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これは武内と岸の両家の姓が刻まれている、明治と思うが江戸時代のつづきとしてまだあった
家族の墓とか一家の墓の形式は明治以降であり新しいのである
だから実際はなじみにくいものだったのである、それで嫁ぎ先の墓に入りたくないという嫁が多いのもわかる
もしここに実家の姓を記していればまた別である
嫁でも実家を引きづっていてこの姓から実家を知るからである
明治になって男性の家に嫁ぐということが生まれて姓も男性の姓に女性は変わる
それを今になり嫌がる女性がいるのもわかる、なぜならもともとこうして両姓が記されているからである
家族墓といっても家族は一つになりにくいのである
それで姓がない(安らかに)とか墓に記されているのは姓を記すとその姓に所属する人たちのもになってしまうからである
天皇が姓がないのもそのためである、もし藤原とかなっていれば藤原氏一族が国民を支配するとなってしまうからである


2019年08月09日

盆踊りは死者も一緒に踊る祭り (日本の心は村で培われたーでも今は失われた)


盆踊りは死者も一緒に踊る祭り

(日本の心は村で培われたーでも今は失われた)

これが死者を供養する本当の盆踊りだ、一人ひとりの踊り手の後ろには、この人たちを可愛がってくれた両親やお爺さんお婆さん、そしてそれに連なる御先祖様がお盆に帰ってきて、ここでともに踊っているのだなぁ、とそんな事を考えながら、めったに見る事の出来ない盆踊りに、独り乾杯したことが有ります。

あれから三十数年、あの時死者を供養していた踊り手の内何人かは、今はもう供養される側にいるかも知れませんがそんな事は大した事ではありません。

盆踊りでは死者の供養のために死者とともに踊るという
死者も一緒に混じり踊る
これは何なのだろう?

こういうことは何か最近わかるようになった
それは家族もみんな死んだし回りの知っている人も死んだ
それで私は葬式などしなかったがお悔みとかもらったのでお返しした
本当にその人たちは近所の子供の時から知っている身近な人たちだったのである
そういう人たちが相当に死んだ

そういう死んだ人たちはみんな小さなコミニュティでずっと生きていた人たちである
すると死んでもつながりがキレルということはないのである
そういうことが特に村社会では何か理屈ではなくあったことがわかる
村のような狭いコミニュティではみんな一人一人顔見知りであり知っているからである
すると死んでもその子供や孫とかがいて人間関係が継続する
それで寺がその中心になっていたのである
ただこれは仏教とは関係ない、仏教も日本化した祭りに変化しているからだ
第一ホトケという自体、ホトキとかであり本来の仏とは違うからである
先祖を祀るものと通じているからである

とにかく祭りは死者を祀ることからはじまったことは確かである
盆踊りもそうなのである
それは狭いコミニュティで村で始まったものである
日本人の精神形成は村なのである、だから明治時代にヨ-ロッパの文化が入ってきたとき
世間を社会と訳したがソサィティは広いものであり日本の精神形成の原型となった村とは違っているのである、だから現実に日本社会にないものを訳しようがなかったのである
市民などというのもそもそも村人がいても市民など日本にはいないのだから訳しようがないのである

現代の問題はそうして長い歴史で形成された精神の形成が文化が根こそぎ破壊されたことにある、墓の問題でもそうである、アイディンティティ化する拠り所となる場の喪失でありそれとともにみんな故郷喪失者になってしまった
グローバル化広域社会になるとそれは物質的には有益でも精神とか文化面になるとかえって破壊することになった
また工業社会とかもそうであり情報社会でもマスコミとかもテレビが茶の間に置かれるとき何か家族の会話がなくなり絶えずその目は外に向くようになった

つまり外国に向くようになって身近な所がかえって注目されない、知らないなのである
そうして長い歴史の中で培われたコミニュティが破壊されるとどうなるのか?
それが様々な問題を引き起こした、物質的には豊かになったとしてもかえって人々のつながりは喪失したとなる
何か情もなくなった索漠とした世界になったのである
それで知っている人がいつもいう、道に誰か倒れていても助けないとか言う
それもそうだと思う、何かそうして非情化無関心化した社会である

それで親戚とも言えないが「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらへ」と血相変えて去った
それ以来母親の実家には墓参りもする気がなくなった
ただこれが異常かというとそうでもない、みんなそうなったのである

「金でめんどうとみてもらへ」

これが現代社会の普通の人間である、金がないなら死ねということである
道に倒れていても誰も助けない、助けてもらいたかったら金で助けてもらへとなる
それて私が弱者化したとき要求するのは金だけであり実際に奪うものもいた
それだけもう金しかない、あらゆることでそうである
この辺で原発事故でなぜ簡単に町自体が崩壊してゴーストタウンになったのか?
これも放射能のせいとばかりも言えない、つまり補償金をもらったときいち早く土地を買って移り住んだ人が近くにいるからだ
その人はすぐに故郷に見切りをつけた、それで早く土地を買ったから賢いと言われた
なぜならその後土地が値上がりしたからである
つまり故郷でもそういうものでしかない、何かあったらもう金がもの言う
金をもらえばすぐに故郷とかでも捨てる、それが現代人なのである

だからといって江戸時代とか理想でも何でもない
ただ今の社会と比べるとこんな状態ではなかったろう
貧乏なりに何か助け合うということがあった、情がある社会だったと思う
戦前でもそうだったろう、それが戦後高度成長時代から日本はアメリカに習いすべて金になったのである
そうして長い間でつちかわれた日本人がもっていた美徳も失われた
それが墓の問題とか死者をどうするかということにも起きている
生者と死者もそうした濃密なコミニュティが失われたときその関係も断絶して失われたのである

そして親が田舎に残っていても娘息子が東京とか遠くに暮らしている人も多い
すると墓の後継ぎもいないとかの問題が起きている、墓も維持できないとなる
村のような社会だったら継続する社会だから代々家が受け継がれるからそういう問題は起きないのである
大原でも知っている人は親が一人で家と田畑を守っていたがその前に息子は市街に出て働いていて一緒に住んでいなかった、今は死んで空家になっている
そして墓だけが残されたのである、でも近いから墓参りには来るとなる
これが東京とかに住んだとしたら墓すら受け継がれないのである

人間は確かに経済とかせ利益は第一にされるのは仕方がない
ただ何か利益とか金を第一にするとき代々受け継がれた文化が破壊される
それが精神に影響する、それが深刻なのである
仏教というのは日本的文化に変容したものであり本来の仏教ではない
日本的アイディンティティを形成したものとしてあったのだ
そうはいっても時代は常に変わる、それに人々は対応できない
特に文化的なものは精神に影響する、だからこそグロ-バル化とか大きな問題をはらんでいたのである

死者をどう扱うのか?死者をどう祀るのか?死者とどうつながるのか?
それがむずかしいのは経済的問題ではなく精神的問題から文化的な問題だからむずかしいのである、それはもう昔のように回復できないのである
ただ形式的に受け継がれているだけであり実体は形骸化して中味はないとまでなる
それは日本の精神形成がアイディンティティが濃密な狭い村にあったことによる
それがグロ-バル化と広域化社会では活きてこないから形だけのものとなってしまったのである

2019年08月08日

墓をどうするのかなぜ現代人は悩むのか? (死ぬ場を失ったのは生きる場を失っていたから―万葉集の歌から)


墓をどうするのかなぜ現代人は悩むのか?

(死ぬ場を失ったのは生きる場を失っていたから―万葉集の歌から)

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事しあれば小泊瀬山の岩城にも隠らば共にな思いそわが背

万葉集をすべて恋の歌として解釈すると深いものとはならない
恋が乞うであり死んだ人とまた会いたいという説になるとそれはうわついたものにならないのである
これも岩城に隠れるともに思うということ自体今ならありえないことである
だからこの歌も何なのだろうとなる
岩城とは墓のことだからである、何かあったら墓に入るという意識も理解できない
でもこの歌の解釈は岩城にあり墓にある
ただこういうふうに古墳が石室として残っていた所に隠れたとなるのか?

つまり岩という頑丈なものである墓に入る、それは死んでも岩城の中にあるということなのである
墓の中に一緒に入ることが深い意味をもっていた
なぜなら生をともにして遂には墓の中にも入り死後も一緒にいるということである
夫婦だと偕老同穴というがそれは墓まで一緒だということである

ただなぜ夫婦でも妻は夫の墓に入りたくないとなっているのか?

「あさイチ」で既婚女性が「夫(旦那)の先祖のお墓に入りたくない」と回答した理由を見てみると、

・知らない先祖と一緒に入りたくない ・・39.3%
・お墓がゆかりのない土地にある   ・・32.3%
・夫の家族、両親が嫌い       ・・30.7%
・子どもに面倒をかけたくない    ・・20.0%
・自分の両親と入りたい       ・・20.0%
・夫が嫌い             ・・13.9%

知らない先祖というとき一度も会っていない人が先祖にはいる、そういう人と入りたくない、自分とは関係ない人だともなる 

お墓がゆかりのない土地にある  

これは「場の現象学」の本を読んで考察したようにその場とはそこで一生生活した場だから愛着がありアイディンティティ化した場所だからである
ただこういうのは田舎だったら通用するが東京とかなると通用しない
墓地自体を遠くに買って葬る、それで墓参りに残された人が行くのがめんどうだとなる
また宗教団体が土地を買いしめてそこに墓苑化する、その数が多くなり村とかの自然破壊までになっている、宗教団体にとって墓苑とは商売になるからビジネスなのである
でももともと住んでいたと土地の人からすると迷惑なになるのである

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とにかく墓をどうするのかというのは厄介なのである
それでシベリア抑留で死んだ人たちの遺骨をもってきたのだがそれが日本人ではなかったとして問題になっている
要するにそもそも誰の骨なのか70年もすぎたからわからなくなる
私の兄の骨は母の実家に事情あって埋葬したがそこに母方の実家の人たちが五六人埋まっている、その中に兄の骨がまざってわからなくなったのである
骨壺に入れていたのだがそれもなくなり誰の骨かわからなくなった
それでしょうがいないから私は自分の家の墓に小さな墓標を建てたのである
その実家の人として残っている人がいたがその人とは異常人格者だから会いたくないからである、だから母の実家の墓には墓参りしないのである
ただ兄については責任があるし子供いたので自分の家の墓の脇に墓標を建てたのである

いづれにしろ墓というのは何なのか?それ自体が不可解なのである
そもそも明治以降に家の墓が生まれたのでありそれまでは個人の墓か夫婦墓である
明治以降には夫婦墓が多いのである
江戸時代の幕末頃には経済的に豊かになり農民でも個人墓を作りまた夫婦墓を作っている戒名に信士とか信女とか記されているのでわかる
つまり家族墓は江戸時代になかった、それは明治時代になって政府の政策でそうさせられたのである、だからそれが不自然になっているのである
家族は意外とまとまりにくいのである

夫婦は三代の契りとかあり契りが深いものがある、でも家族となると姑が入ってきて姑にいじめられたとか嫁は嫌うからなかなか一つになれないのである
それで墓も同じなら嫌だとなる、それもわかるのである
やはり共に生活して協力して愛し合った人たちが一つの墓に入ることは死んでもそこで結びついている感覚になる
そこで死後まで結びついて離れない一緒だという感覚になる
それが実際は家族にはなかなかないから不自然なのである
第一先祖といっても嫁いだ先の先祖など知らない人だからである

墓というのは実はそうして一代だけのものではない、その子に子孫に受け継がれるものだからまたやっかいなのである
なぜなら跡を継ぐ人自体がいなくなるというのが多くなっているからだ
そうなると村の共同墓地に葬ってもらった方がいいとなる
江戸時代はこの辺では仏方(ほとけっぽ)として共同墓地に葬ったのである
それはその土地にゆかりがあるからそうなったのである
場としてアイディンティティをもっている場所だからそうなったから自然だったとなる

なぜ今墓が問題になるのか?
それはもともと人間が生活していた場が失われたからである
みんなその土地と深くつながる農村社会に生活していない
その土地に根ざして生活していない、グロ-バル広域社会で生活している
すると土地の縁というのも薄くなる、だから今では地域でも田舎でも農村でも強い人間のつながりはなくなっている

人間の生と死を考える時
                      
死ぬ場所をどこにするのか?
                          
これは意外と大きい問題になる、どこで死んでもいいとはならない、それで骨を海にまいてくれとか樹木葬とかがある
樹木葬だと土地と関係しているが別に農民でないのだからその土地と深く結びついて生活していた訳ではないけどそれを願うのはそもそも自分のアイディンティティとする土地をもたなくなったからなのである
そのことが生だけではなく死までそうなって死ぬ場所をどこにしていいのかもわからなくなったのである 

事しあれば小泊瀬山の岩城にも隠らば共にな思いそわが背

事しあらばを・・・死んだなら小泊瀬山の岩城に隠れてその堅い岩で閉じこもりともにありたいというのはまさに死としての理想があるかもしれない。
隠れるとは古代では死を意味しているからである
天皇でもお隠れになったという時、死んだということだからである    

いかでわれこよひの月を身にそへて死出の山路の人を照らさん』(山家集・七七四) 

七月十五夜というのはお盆です。盂蘭盆会のことです。非常に月が明るかった。そのときに船岡山
に行ったのです。船岡山は平安京に隣接した船の形をした丘です。ここは平安時代の初めくらいまで
はハイキングする場所で平安京を一望できる眺めのいい場所です。

お盆には死者というあうとうことでこの歌が作られた、死んだ人が月明りに見えるとなる

人間の死は何なのか?生者と死者は何なのか?それは断続したものではなくつながるものとしてある
死者は生者の中に生きつづける、それが人間の営みであり生の継続であり国単位になると歴史となるのである   

我が死して後もありなむこの地にそ思いは深くとどめおきなむ

何かしら死んでも必ずその生きた地に思いが残る、それが具体的に形になったのが墓なのである
ただ墓はいくら石でも消失しやすい、誰も参るものがなくなったら墓は二度死ぬことになる
なぜか墓地に倒れたままの墓がある
なぜそれを立て直す人がいないのか?それはその人を知る者もいないしかかわるものがなくなったからである
今はそういう墓がいくらでもあるのだ、結局この世あるものは墓でも無常なのである
それがいつまでも維持できないのである
なぜか私は墓に興味があるというとき江戸時代の墓があればそこに人が本当に生きて埋まっていると思うからである
書類だと実感として人が生きていたと感じないのである
それが墓の不思議だとなる





2019年08月01日

先住者と後から移り住む人たちの軋轢 (現代は老人が生きずらい社会である―江戸時代が老人が生きやすい時代だった)


先住者と後から移り住む人たちの軋轢

(現代は老人が生きずらい社会である―江戸時代が老人が生きやすい時代だった)


この辺では移り住む人たちが多い、駅でも道を歩いても元から住んでいる人たちではない第一一つの新しい街ができたくらい家が建ったからである
津波で被害を受けた人たちはこの町に元から住んだ人たちである
でも原発事故関係で避難して住んだ人が多いのである
ちょっと話してみると元から住んでいた人ではない、それから外国人もまじっているから外から人たちと混在している、それは全国的傾向であり特にここだけではない
広域社会とグロ−バル社会とはそういうものである

そこで軋轢を生んだのがいわき市である、二万人も移住して新しい家を建てたとういからそこになんらか軋轢が生じてもめた、なんであの人たちは他からきてすぐに新しい家を建てたんだろうとかうらやましがられたのである
もともと住んでいる人はそんな金がない人たちがいてうらやましがられた
そしてかわいそうだとか他から同情されたことも影響したのである
それはこの辺でもあった、ここでは津波の被害者もいて複雑になっていたのである
原発避難者は多額の補償金をもらったが津波の被害者はもらえなかったからだ

とにかく先住者と後から移住してきた人たちとうまくいかないことが普通にある
それを象徴していたのがアメリカだったのである、インディアンが先住者だったけど
その人たちは正直な人たちでありアメリカの土地に最初から根づいた人たちだったが
横暴な白人に踏みにじられて殺戮された
それは人だとアイヌでもそうだったとなる
こういうことは世界史でも民族の興亡が激しいからあった

でも先住者より他から入ってきた人たちが威張るとかなることもある
村で暮らしていた日本人だとよそ者を簡単に受け入れないことがある
おそらくそれは農業社会だったからだろう
なぜなら相馬藩では越中とかの移民を飢饉で受け入れたとしてもその人たちは先住者に草分けという農家に指導を仰いだから先住者が上になっていた
それで苦労して荒地を開墾して住みついたのである

だから農業だと先住者でもその土地についてはわからないからその土地の人に教えられないと住めないから先住者に従うとなる
でも現代の社会は何か広域社会でグロ−バル化社会であり工業社会である
すると金があればどこに住んでいいとなる金がある人がもともと住んでいない土地に来て威張るとか支配者にもなる
この辺でも立派な家を建てた人が多いのだからそうなっている
とにかく外から来た人たちは何をしているのか?
それが良く見えないのである、浪江の復興住宅に住んでいる人は仕事はしていない
ただ他に新しい家を建てた人たちは仕事しているのか?それが見えない
もともと何をしているか仕事しているから見えない時代だったから新しく来た人たちでもわからないということになる

でも何か新しい土地に来ても世話になりますとかはない、金さえあればどこに住んでもいいし金がある者が上なのだとなる
現実に土地の人で金のない人に与えればそうなるのが現代である
そんなことを言う人がいるから田舎は閉鎖的で嫌なのだとなるのも確かである
でも何か先住者というかもともとその土地に住んでいた人たちに教えてもらうことはあるだろう、すると金さえあれば関係ないということにはならない
それは自分自身も旅したとき、そんなふうにして旅していない、その土地の人に世話になるというか教えられるという気持ちがなかった、今はそういうことは確かにない
金さえあれば何も教えられなくてもいいとなる、道を聞くにしてもスマホがあればいいとかなっている、人は関係ないともなっている
でも旅をふりかえるとそれではまずかったともなる、自分の場合社会性が欠如していたからそうなったのである、この社会性が欠如するからニートとかは問題なのである

とにかく外国人をおもてなしとして日本人が迎えるのももそうである、日本人が貧乏になった時そうなったのである
本当は外国人がお世話になりますというのが順序なのである、知らない国に来るのだからそうなる
それが日本人がおもてなしとか金のために頭を下げて迎えるのである
そういうことを日本人か好景気のとき外国でそうされていたのである
今度はその逆となり貧乏になったからおもてなししろとなったのである
だからこれもつくづくカルマだとはなる
つまりグロ−バル競争社会では世界的にそうなるのである
経済力強いものがその土地に長く住んでいようが関係ない、上になり従うとなる、おもてなしされるのである
金だけ世界の共通の価値となればそうなるのである、何か金意外のことは無視される
それは観光だけではないあらゆることでグロ−バル化することで起きている
その国の文化とかも無視されて外国人が入ってくるのである

こういうことは別に田舎とか農業だけのも問題ではない
会社とかでも起きているのである、終身雇用というときそこに長くいた人に給料が多く払われ長くいる人は先住者で価値があるとなっていたのである
だから後から入る人は教えこうという立場にあった
それは職人でも徒弟制度があり厳しい上下関係があったのである
でも終身雇用がなくなると新人でも技術者は特別待遇されて給料も二倍とか三倍で優遇される、すると会社に長くいた人たちは先住者は価値がないとなるので不満になる
新旧の問題でも軋轢が生まれる

駅でも私は案内していたので今見守り役した人に盲人が来たとき導くことなど教えた
だかその人たちは何もそういうことを教えてもらわなくてもいいとしていた
そこで考えたことはどこでも必ず先住者がいてそこで経験を積み重ねた人がいる
すると何かしら教えられることがあるのだがそれを無視している
何か教えられることもないよはなっているのだ
だからとにかく農業社会だったらどうしても土地のことはわからないから先住者に教えられるのでその下で働くこともいとわないのである

今の社会の問題は例えば老人がいたとして誰も尊敬しない、教えられることもない
かえって老人は何もできない、無益な邪魔者で俺たちの金を使って遊び暮らしているだけだと見られている、それは社会が工業社会とか変わってしまったためである
それで法律の専門家が正論おじさんとか馬鹿にされたことでもわかる
情報社会だとインタ−ネットで教えられるとかともなる、老人に何かわからないから聞きに行く人などいないのである
ただその態度が問題なのである、やはり先住者に何かしら教えられることがありそれを拒否することは何か問題である
結局工業化社会というときどうしてもその土地のことは関係ないとなるからそうなった
車を作るのでもその土地のこととは関係ないからそうなった
そうなると先住者の方が肩身の狭い思いをするとかまた先住者は邪魔者だとインディアンのように滅ぼされるともまでなる

現代は本当に老人にとっては生きにくい社会なのである
老人が価値がないとされる時代なのである、それは数が多くなったせいもある
でも老人が長生きしても尊敬もされない、ただ社会の重荷になっている、早く死んで方がいいのだと若い世代に思われること自体、老人は長生きすることは苦痛になるのだ

そして認知症になっても江戸時代辺りだったら意外と生き安かった
いろいろな機械も使うことはない、非常にわかりやすい単純な社会でありいつも同じ人がいてなじみの人がいて変わらない社会である、そこで老人に教えられることもあるからだ老人はそこで尊敬されていた、老人に教えられることが何かしらあったからである
長屋とか人が常に変わって移り住んでいるようにドラマでは見るが長屋に住んでいる人はそこに長く住んでいる顔なじみの人が多かったのである
つまり江戸時代は人があまゃ移動しない時代だったのである
そういう所では認知症の人でも住みやすかったと思う
単純な社会であり人と人が直接情で結びつく社会でもあったからだ

江戸時代の日本人は明治の時外国から来た人たちが称賛しているがそれはそういう社会であったからだ、それは日本人だけではない、例えはラオスに行った人たちも同じようなことを言っていたからである、人間が素朴だと言っていたからである
つまり文明人になるとみんな同じになるのである
とにかく現代は老人には生きにくい社会である、そして老人が多くなりすぎることがさらに生きにくくしているのである
もし江戸時代のようなら老人は尊敬されていたし居心地よかったのである
ただ貧乏ということで生きにくかった、すべていいものとしては何でも働かない
ただ現代社会はかえって外から来た新来者が先住者を踏みにじることが多いのである
だからその土地に長く住んでいてもまた会社で長く勤めていても価値がないとされる
そういう社会は老人にとって本当に生きにくいと思った
老人は別に年とっているとういだけで敬われないし価値もないとされるからだ
そういうことで高齢化社会が実際は地獄化する、それは年金とか金の問題だけではないのである 

佐保過ぎて 奈良の手向けに 置く幣は 妹を目離れず 相見しめとぞ 

この歌のように峠を越えて異郷に行くことはその当時大変なことだった
だから人も変わるし妹の顔を浮かび離れたくないとなっていたのである
峠(とうげ)は手向け(たむけ)から来ていてそこ手向けして神に祈り幣を置くことでもわかる、隣の村でも見知らぬ土地に行くことは大きな変化であり畏れきもなっていたのである
この妹は親でも兄弟でも村の人でもいいのである
こういう心情は人間にはもともとあったし今のように絶えず見知らぬ人と交わっている時代はなかったのである
ただこういうことは老人にとって苦手になる、老人はいつもなじみの人と会いそこで精神の安定化を図る
認知症になると子供でも離れていると名前さえわからなくなるがずっと一緒にいた人は忘れないのである
だから認知症になる人が膨大に増える、その時老人はさらなる地獄を生きることになるのである
長生きは悪いことではないがこうなると本当に長生きは地獄だとなる

sightseeing111.JPG
週刊新潮8月8日号

これも他国でもずかずか遠慮なく入ってくることで起きている
グロ−バル化で相手の文化とか事情におかまいなく入ってくる
そういうことを日本人でも他国でしてきたから同じだとはなる
もう金さえ払えば王様だとどこでばそうなってしまっているのだ
何かお世話になりますということはないのである
それは観光だけではない、グロ−バル化するとあらゆることでこうなる
金があれば王様であり待遇される
日本だって金があれば高級旅館でおもてなしされる
金のないやつは来るなとかなる

だから私は旅したとしても高級旅館と温泉旅館には泊まらなかった
というより泊まることができなかったとなる
テント張ってとまった方がいいともなっていたのである
何でも金ある者が優遇される社会はおかしいのである
金をやれは傍若無人にふるまうことも許されるとなる
広域化社会とかグロ−バル化社会の弊害が今になると顕著になったのである
ただこれは外国人だけの問題ではない
日本人自体が外国でそうだったからである
日本国内でもそうである、金さえ払えばいいじゃないか、また受け入れる人は金のない奴は来るなとなる
金を落とす人だけ来ればいいとかなっているのも現代の矛盾なのである
江戸時代だったら殿様意外は貧乏だから同じ待遇だったと思うからである

2019年07月30日

NHKの杉本八郎氏の逆転人生「認知症治療薬の開発秘話」を見る (認知症が直る薬が生まれるのかーその謎はあまりに深い?)


NHKの杉本八郎氏の逆転人生「認知症治療薬の開発秘話」を見る

(認知症が直る薬が生まれるのかーその謎はあまりに深い?)


認知症の薬のアセリプトを開発した人の人生である、最初高校卒で研究所に入るのかと思った、その後大学に入り研究者になれた
認知症にはじめて効く薬が発明された意義は大きい
認知症の治療とか介護に苦しんでいる人が多いからである
ただ杉本氏は母親がひどい認知症になってそれに心痛めて薬を開発することに熱心だったのである、そこに強い動機があったことで成功したのかとなる
動機は大事である
そもそも官僚になっている人は志がほとんどない、東大出たらいい暮らしができるとか
自分の利益しか考えないからだめなのだと東大出の人が言っているのだからそうなのかとなる

団塊の世代でも数が多いから熾烈な受験戦争であり志など皆無である
要するに他者を蹴落としてまでも点数をあげて得する立場になれということである
そこに動機としては自分のことしかない、自分か良ければ自分がいい暮らしできればあとは関係ないという世界である
だから東大に入ればそれで官僚になり財務省にでも入ればそこでいい暮らしができる
何か国のためにはか国民のためにかはないというときそれはそういう教育しか受けていないのが戦後の団塊の世代だったからである
その前の世代、例えば小学校でも戦争の時育った人たちは団塊の世代とは違っている
国民意識国家意識が強いのである、そういう教育を戦争とともに受けたからである
それは戦後否定されたにしても何かそれが全部必ずしも悪いとはなっていないのである
それで林秀彦の本を読んで日本語を見直すということで興味をもったのである

戦後の教育というそもそも教育がなくなっていたのである
何が教育なのかわからなくなってしまったのである
日教組が極端な左寄りとかなりそれも日本人としての教育ではない
左翼が風靡したとしてもそれは教育にならなかった
つまり何ら指標となる教育はなく、知識の詰め込みと受験戦争でいい大学に入りいい暮らしをするということしかなかったのである
ただ高度成長時代になりそれがかなえられたのである

教育というのは自分自身で一人で作りだされるものではない、社会自体に道徳とか規範とかあってできるものである、そういうものがなくなったとき誰も教育できなくなったのである、まねるものがなくなったのである、でも新しいものを造りだすこともできない
そこでただ民主主義とかマルクス主義とかそうした実のないうわべだけのものを言葉だけを取り入れたのが戦後だったのである
だからいかに伝統が大事だったかともなる、なぜならそもそもそうして歴史的伝統的に作られてきた民族の文化の骨格を否定する、でもそうなると新しいものを作る時なるとき作れないのである

だから宗教でもカルト宗教団体が戦後跋扈したのである、それも御利益宗教である高度成長時代にマッチしていかに得していい暮らしをするしかなかったのである
日本から教育がなくなった、道徳すらなくなった、宗教もカルトになった
そうしたら何を見本にするのか?
ただこういうことは文明自体の問題として世界中で共通していたということはある
宗教の力がなくなり物質的欲望を追求のことで共通していたからである

ともかくアセリプトを発明した人は強い動機があったことが成功へと導いたのかもしれない、それから各人に自由に開発させた、各人の能力を引き出すように指導したとかある
でも8年とかそれ以上時間がかかった、二回も挫折して研究は停止したとかある
それだけ一つの薬を発明するのに苦労したのだなと見た
そうなればその薬はありがたいなともなる
その薬が奇跡のように生まれたわけではなかったからである

ただ正直この薬にしても認知症は直すことはできない、ただ若干症状を遅らせるだけでありまた人によっては効かない、かえって副作用が出る
だからこれで認知症が直るというのではない、ただはじめて認知症に若干でも効く薬が発明された意義は大きい
認知症というのは謎である、だから別に医者でなくても対処療法があり心理的に対応する方法がある、それは医者でなくてもできる
それをこれまで私は書いてきたのである

認知症という病気を良く理解することである、それは化学的に体をみること脳をみることではない、だから別に医者のように知識もなくてもできるのである
ただ認知症がどういう症状がでてそれにどういうふうに対処するかがある
それも個々人で対処することがむずかしい病気なのである
だから認知症の介護できる人はずっと一緒に生活している人である
例え親子でも離れて暮らしていると自分の子供すらわからなくなるのだ
それで杉本氏の母親が自分の子供なのにわからなくなったというのはなぜか、そのことがわからなかった
一緒に生活していればそうはならないはずだからである、離れて暮らしているとそうなりやすいのである

まず認知症ほど謎めいた病気はない、なぜなら正気を失った、馬鹿になったとなるが必ず正気にもどる時がある、まず死ぬ前に一か月前とかに正気にもどる
これはなぜなのか?これも不思議だった、二人の認知症を介護したけど二人とも最後に正気にもどった瞬間があった、それで私は懸命に介護したので報われたともなる
だから生まれつきの知能の障害者とも違っていたなとふりかえる
要するに本当に謎が深い病気なのである、この病気は果たして化学的にとか薬で直るとかあるのか?
それが疑問なのである、だって脳となれば精神が影響しているだろう

では認知症は海馬が損傷してそうなったのか?脳の一部の障害なのか?
ただ人間であり人間として認められる、感情もある、喜んだり悲しんだりする
それで感情があれば人間なのか?何かそうしたことを考えさせられるものだった
だからこれは精神病とか心理学とか何かそうした人間の心の分野と関係もしてくるから
ただ化学的体だけからみただけでは解決しないのではないのか?

でも認知症を直す薬が生まれのだろうか?
それが生まれたらすごい、海馬が損傷するとしてそこを直せば全体も回復したりするのかとにかく認知症だけは謎が深い、それは直接介護してみないとわからない病気だったのである
医学でも科学でも何か今は限界がないとみられる
でも本当にそうなのか?
原発事故のように限界がある、ただ限界がないように常に発見があり発明があり科学が解決すると期待されるのである
でも医学でも科学で限界が生じる、それは人間の限界なのである
もし限界がないとしたら遂に人間自体が神となり解決しないものはないとなるからだ

とにかくその人をみるときその人の成したことをみるとき動機が何かを見ることは大事である、神は人の心を見ている時、その動機が良くなければいかに成功したとしても成功したとは言えないのである
そうして成功したとして金持ちなったとしても成功したといえるのか?
俺は優秀だからその優秀さをみせるために事業を起こした、それも田舎では金をもっている人がいないから都会の人を相手にする、何かこんな動機で事業を起こした人がいる

そもそも動機がそんなふうでは成功したとしてもますますその人は増長するだけであり
人を見下すようになるだけである
自分の親が認知症になりそれをなんとかしたいというのとはあまりにも違うからである
ただ成功と失敗もか一重なのかもしれない、もうそういうぎりぎりのせめぎ合いで偶然新人が入ってきてその人が実験して成功したともなる
そしてもし成功しなかったら時間の無駄になり金の無駄になり何にも得られないとなる
そうなることだってありえたしその方が確立が高かったとなる
それだけ薬の開発がいかに容易ではないかわかった番組だったのである


エーザイ新薬治験で健康男性死亡 極めてまれ、厚労省が調査

世界大手も尻込みする認知症新薬開発

エーザイのようにアルツハイマー型認知症新薬を開発する製薬企業に対する期待は否が応にも高くなる反面、開発が不調となれば、失望も極大化してしまう。師走のエーザイの株価急落は、まさにそのことを端的に示している。


厚生労働省は9日、免疫の仕組みを利用したがん治療薬「オプジーボ」を投与された患者11人が、副作用とみられる脳の機能障害を発症し、うち1人が死亡したとして、製造元の小野薬品工業(大阪市)に、薬の添付文書に重大な副作用として追記するよう指示した。 

薬は必ず副作用がある、アセリプトにもある、エーザイは杉本氏が勤めていた会社である
やはり一連のニュースとして注目するものがある
ニュースも自分用に編集する時代なのである
でもこれだと時間がかかるのである
だから仕事している人はやはり情報がいくらっても目を通すことはむずかしい
インタ−ネットは相当暇でないとできないのである
ただいつもアクセスするところを情報源とする
それでもインタ−ネットだと情報が多すぎるから編集するにしても時間がかかりすぎるのである

2019年07月07日

日本の高齢化、世界の高齢化で戦争ができない (中国も韓国も高齢化になっている)


日本の高齢化、世界の高齢化で戦争ができない

(中国も韓国も高齢化になっている)

この高齢化は20歳代の隊員が大幅に減ったことが主因である。さりとて、わが国は社会全体で少子化である。若年層は産業界にとっても労働力として貴重であり、自衛隊員だけ若年層を増やすわけにもいかない


平均年齢は31.8歳から35.9歳に上がった。現在士の充足率は73.7%で、頭でっかちの年齢・階級構成になっているのだ。
このままいけば、前線兵士が少ないのに指揮官は多いといういびつな構造がさらに強まりそうだ


高齢化いうとき日本だけではない、中国の高齢化がより深刻になる、数が多いからだ
自衛隊の高齢化もある、若い人が入隊しない、日本も戦争の終わりころは戦地に送る兵隊がいなくなり40才くらいの人まで招集されたのである
それで相馬市の40歳の人が戦地で戦った
そこで子供がかわいそうだとして恵んだとかいうのはその人も子供をもつ親だったからである
一方で18歳くらいの人が志願兵にもなった、そこで人を殺すことを強いられたがそのことは言わなかった

戦争はどうしても過酷すぎるから若い人でしかとても勤まらない、最も体力が充実しているのは20代までである、30過ぎる相当に体力が失われる
戦争をできるのは20代までの人口が多いというときできる
日本ではこうみると戦争などできなくなっている
40でおっさんとか言われ体力がなくなって力仕事がきついという人がいるからだ
それは中国でも同じなのである

指揮官が多くて兵士が少ない

これも歪になる、若い兵士が多い方が戦争にはいいのである、それは日本の会社でも起きている
若い世代の社員が少なく役職をもった人たちが多いのである、その人たちは給料が高いからかえって負担になっている
JRでも50代以上が多いとかそれはどこでもそうなっている
それで若い外国人労働者が会社に入ってきたとき活気でてきたなとなるのはそのためである
これは世界的高齢化であり日本の高齢化が一番早いのである

今の時代はもう戦争はできなくなっているように思う
ただなぜ第二次世界大戦ということが起きたのか?
それは世界的なものとして発生した
その発端はドイツだった、ナチスが興隆してヨ−ロッパが争うようになりイギリスとドイツが争いそこにアメリカが加担してきた
そしてドイツを見て日本が同盟を結んでアメリカと戦った
その時ドイツは大きく見えたのである、アメリカが大きく見えなかったともなる
その時の時代感覚は今からではわからないからである
ドイツをみて同盟してアメリカと戦って失敗したとされる

白人が確かにアフリカ人を奴隷にした、アジアを植民地にした、南アフリカに強盗団のようなスペイン人が侵略してマヤとかインカはあっけなく滅びた
その前にアメリカのインディアンが白人に掃討されて多数が死んだ
つまり白人の世界への膨張がこうした悲劇を生んだ
その欧米の世界進出にアジアで抵抗したのは日本だったとはなる

ではこれから同じようにカルマとして世界大戦が起きるのか?
米中で戦争が起きるのか?
これは冷戦となって引き分けとなる、それがソビエトとアメリカの冷戦で証明された
ただ小国はベトナムのように犠牲になった
イラクでもそうである、その後中国が台頭してきたときまた冷戦になる
でも戦争にはならない、戦争ができない状態に世界はなっている?
ソビエトでも核兵器で対抗した、もし本当に核の戦争になったら共倒れであり人類滅亡にもなる
すると戦争は互いに威嚇しあう動物でも縄張り争いで威嚇しあう、でもそれが死ぬまでの争いには発展しない、できないのである

ともかく第二次世界大戦のような大規模な戦争は起こしにくい、明らかに第三次世界大戦になったら人類滅亡だということはわかっているからである
すると相互に牽制するようになる、直接の衝突はできるだけ避けるようになる
そこでなんとかバランスが保たれる
ただ大国の回りは中国の周辺国のチベットとかウィグル族とかは併合される
だから日本はそうした小国にならない、もちろん大国にはなれないがそれなりの規模の国として侵略されない国にになる必要があるとは言える

奇妙だけど高齢化が国際関係に影響してくる?
そういうことを考えなかった、でも一番これから高齢化になるのは中国なのである
そうなると戦争でもしにくくなる、高齢化が戦争の歯止になるのも奇妙だとなる
それはクルマ社会でも高齢化になると運転できないとかなり別な交通を望む人が増えてきてクルマが減退する社会になる

血の気の多い若い世代が多ければどうしても戦争でもイスラム国に参加するような日本人までいたようになる
高齢化した社会は国は戦争はしにくいのである
アメリカが日本から撤退しても中国が攻めてくるのか?脅威となるのか?
それが疑問になる、韓国でも日本より高齢化している
高齢化社会になると無茶なことはしにくいのである
高齢化が戦争のブレーキになるというのも奇妙だけどそれだけ高齢化というのは世界的な問題になっている
要するに人類はペストとか細菌で大量に死んだ、そこで人口が調節された
戦争でも死んで人口が調節されたということもある
でもそれがなくなるときと人口が増えるとまた様々な問題が生まれる

高齢化社会というとき深夜に外国人労働者が働いている現場で老人が働いているという
長生きするから先が心配で働いているという
そういう姿を若い外国人が見てどう思うのか?かわいそうだとなる
そういう若い人が激減している日本で戦争だって起こせるのか?
戦争になったら若い人が激減して働く人がいなくなるのである
それは原発事故の避難地域に起きている
若い世代が流出して働く人がいない、介護士もいないから青森に送られている
農業するにも復興するにも若い世代が流出したら復興もできないのである

少子高齢化は中国でも韓国でも日本でも深刻になってくるし日本ではすでになっている
老人大国で戦争はできない、世界でも高齢化するとき戦争できるだろうか?
何か戦争の時代は終わったのではないか?小規模の戦争はあっても第二次世界大戦のようなことが起きるだろうか?
むしろ人類は老人ばかりふえてエネルギーがなくな衰退してゆく
その結果として人口もこれからまだ増えるにしても減ってゆく
人口が産業革命で一世紀の間に爆発的に増えたからである
これは異常であり反動がありこれから人口が減らなければ地球が悲鳴をあげる
ただ人口が増えるという時高齢化で老人が増えるのである
高齢化というということはそれだけ様々に世界的にも影響するのである
人類は縄文時代なら30歳が寿命だったとか若くして死んでいた
それが世界的に寿命が延びることは今まで人類が経験していないことなのである

それで建築現場で働いてる40歳代の人が青森の施設に入れた親がいた、施設に入れたから終わりではなくその他にかかる費用があり困っているという
それに母親は70近くであり腰が悪いとかなんとか体がまともではない
それが介護になったらどうなるのか?
金もないし誰が世話するのか?生活保護も受けられない状態にある
高齢化で介護が大きな問題となる、もう老人は捨てられるかもしれない
それだけの人も金もないからである
団塊の世代が75歳以上になったとき危機がくる
もう世話できないと捨てられる、そんなときとても戦争はできない
ただナチスは戦争するために障害者を始末した
もし戦争になったら老人は邪魔だとかなり始末されるかもしれない
だから中国でも韓国でも高齢化であり戦争できるのかとなる

2019年06月20日

土地とつながりなくなったとき人の価値はどうなるのか? (介護とかでただ金だけでできるものなのか?)


土地とつながりなくなったとき人の価値はどうなるのか?

(介護とかでただ金だけでできるものなのか?)

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   地域を守る看護(鹿島厚生病院)


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介護のために東京でも南相馬市でも施設があっても介護士不足とかで青森に送られた
それは一人だけではないのである
何かそうして故郷から離れて家族からも離れて介護される
それはどうしてかとなると地元で介護士などがいないからである
それは東京でも数が多くなるから東京でも地方の介護施設に送り問題となる
これから東京では介護しきれないから地方に送り介護してもらうとなる

でも介護される方でも介護する方でも介護となるとまた別問題である
人間を品物のように移せるものかという問題である
それは極めて現代的な問題であることに気づいた
移動が容易だとしてもそんな簡単に人間か長く住んだ所になじんだ所から移れるものかということである
それは老人になると愛着ある場所とか家族がありそこで最後を生きて死にたいということがあるだろう
そのことが原発避難者に起きた、老人が故郷に帰りたいというのはまさそうだった
それは人間としての生物の本能みたいなものだったからそうなった

そして日本人はもともと村とか狭い範囲で生きてきた長い歴史がある
それが現代になり移動が容易になり激しくなった
そういう移動する社会では価値観も相当に変わる
人間の価値観はその場所に拘束されない、金があればどこにでも住んでいいとなる
だからこそ青森で仕事がないから介護を仕事として引き受けることになる
それは距離というものも関係なくなり金だけでめんどうみてくれとなる

でも介護となるとまたこれは他のものとはただ物をやりとりするのとは物を運ぶのとは違うのである、モノだけだったら地球の裏側から運んできても問題はない
でも人間が移動してきたら必ず様々な問題が生まれる
それが外国人労働者が日本に入ってくることでそうなった
相手は人間でありモノではないからだ
それは日本国内でも言えたことなのである

現代の価値観はその場所とか関係なくなる、移動が容易であり金があればどんなサービスでも受け入れられるともなる
それで東京の人は金をもっているから地方都市に福祉サービスがいい都市に移住する
そこなら手厚い介護が受けられるとか思うからである
でも介護となるとまたモノのやりとりとは違ったものになる
金がやるから地方で手厚く介護してくれとなりでは地元の人がそうして全く知らない人に手厚い介護ができるものだろうか?

もともと東京とかに生活して東京に貢献していたとするならそこで介護されるのがいいとなる、要するに人間の一生はやはりどこかに愛着が生まれてそこで死にたいとなるだろうまた人でもそうだろう、いろいろな人があっても一般的に長く生活を共にした人のもとで死にたいともなる、全然知らない人たちの中で介護されるとうのも何か不自然なのである別にそこに親切な人たちがいれば地元だからとしていい人ばかりではないことは知っている、だからそんなことに今はこだわる必要がないということもある
地元だから故郷だからいいとはならないからである

ただ一般的問題として現代とは広域社会でありグロ−バル化社会である
そういうことで問題が起きる、東京に原発を作れというときなぜ福島とか地方に東電は原発を作ったのか?それも広域化社会になっている問題である
福島の双葉とか大熊は出稼ぎ者が多く地元で仕事があればいいとして原発を誘致したからである、それで確かに地元に金になる働き場が生まれて潤ったとなる
それと何か介護でもにているのだ
青森は仕事がない、それで金になるために遠くてもそうして介護する人を引き受けるとなるからだ

現代はその土地土地で生きる価値を作らない社会である
その土地に長く生きてきたからと言ってその人に価値があるともならない
ただ金をどれだけ多く稼いだかで価値が決まるとなる
だから東京辺りで株でもうけたとかして億の金があるから地方で手厚い介護しろとかなるなにかすべてが金で価値が計られることがおかしいのである
すべての価値が金で決められるのか?
その人の価値がすべて金で決められるのか?

村のような所で生きてきたら何かその村の中でどういう役割を果たした人かなど狭い範囲だとみる、それでその人の価値をみる、それは金だけではない価値観が働く
でも金だけをもってきて手厚い介護しろというとき何かそれをすんなり受け入れられるだろか?
それはグロ−バル化社会でも起きていて世界がただ金だけすべての価値を計る
そういうことはできない、国々にはそれぞれの文化があり文化をすべて金で価値を計ることはできない、金で買うこともできない、その文化とはその国の風土があり長いその土地の歴史があって形成されてきたからである
だから原発避難地区ではそうした歴史を奪われたとなりアイディンティティを失った
それは金で補償できないものだったのである
そういうことは意外と意識しない、精神的なものだからであり金で買ったり売ったりするものではないからである

とにかく現代は広域社会でとかグロ−バル化で矛盾が起きる
それは人間の価値はすべて金で計れないからである
金にならないものはすべて価値ないものとはできないのである
都会だと自然がない、景観がない、索漠としている
でも景観自体に価値あるともみない、森より木材が金になるとして伐採してはげ山にするそれは地方でもグロ−バル化するとき熱帯の森でも失われたからである
そこに生きるものにとっては金が入っても森を失われることが精神的な喪失感を生む
それは原発事故でも起きたのである、自然が放射性物質に汚染されたからである

広域化社会というというとき距離は関係ないとかどこに生活しようが金さえあればすべてまかなえる、介護を受けたければ福祉サービスがいい都市でも地域でも移ればいいとなるしかしそれを受け入れる方ではどうなるのか?
別に金が入ればいいとなるのか?なぜこの人に尽くさねばならないのかという問題も起きる
もし地元だったら地元に生きて働いて貢献した人だとなればそこに介護する人の動機が生まれる、家族が介護すれば一番いいようにである
グロ−バル社会を批判して来たけど何か最後に老人になってそういう社会がいいものだったのか介護とかで問われているともなる
ただ地元にしても何かトラック運転手が多い、それは現代は運ぶ仕事が多いということなのである、それは広域社会だからそうなっているのである
だからみんな地元だけで仕事している人は少ないのである

現代は何かそうして広域社会化でもグロ−バル化社会でも矛盾がでている
それはどうして人間の価値が生まれているのか?
その土地に尽くして生きたならその土地の人に世話になり死ぬというのが自然になる
もちろん尽くすとか貢献するとかではなくても人間の心情としてその土地と一体化するということがある
金さえあればどこに住むのも勝手だとか金があればすべて解決するとかには人間にはならないのである
人間はモノではないからAからBへと簡単に移れない、住めないなのである
Aを中心に価値を作って来た人がBへ移って価値観を作ってゆくことはむずかしい
そうしして移動すれば人も環境も自然も生活も変わるからである 

ただ都会になると東京とかるなとそうした土地とは関係ない、みんなよそ者の集まりだからである、それが田舎に住む者との大きな違いである
都会では点々と都会内でも移住するからである、ただ家を建てるとやはり移住しにくくなる、そこに定着するようになるからである
でも都会の人と田舎の人の感覚はその辺が相当に違っている
何かおかしいなというとき現代はあまりにも金で割り切る、すべてを金で価値を計っているからそうなる、そこに一番の問題がある
人間は金で計れない価値が相当ありそれを無視して生きることはできないのである
もし無視するともう人間として生きていけないとまでなる
それがグロ−バル化社会の深刻な問題なのだけど金一辺倒の価値観しかなくなっている
そこに大きな歪(ひずみ)が生まれているのである

2019年06月15日

13万プラス2万くらいが一人の老後で暮らせる (それがもらえないのが現実ー百年安心などありえなかった)


13万プラス2万くらいが一人の老後で暮らせる

(それがもらえないのが現実ー百年安心などありえなかった)


老後の金の計算はむずかしい、第一人生百年といってもいつ死ぬかわからない、それでいくら金をためても貯金があってもたりなくなることもある
だからつぐつぐ年金は老後にとって大事だなともらってみてわかった
年金の強みはし死ぬまでもらえることである、百年生きてももらえるのである
だから払う方にすると額が大きくなる
そういうふうに払う方が損する仕組みなのが年金なことがわかったしだからこそ政府でそれをつづけられなくなったことがわかる
若い人が今の65歳以上の人に払うのでありそれが若い人は将来もらえなくなるから損だとなる、世代間の差が大きいからそうなる
団塊世代は逃げ切りの世代というのもそうである
そして何よりも日本の経済が衰退してゆくし少子高齢化で働き手も減ってゆくから余計に年金を維持することや医療でも維持することがむずかしくなる

ただ老後の生活費がいくらかかるか、最低限になると使ってわかたっことは13万プラス2万くらいである、すると生活保護でもらえる13万がその金になっていた
でも実際は国民年金でもそれだけはもらえないから問題なのである
だから生活保護の方がいいとなる、でも生活保護は簡単にもらえない
例えば国民年金、4,5万しかもらてっていない人も結構多いのである
そういう人は生活保護をもらえないのである
ただ医療費が無料となることがありそういうこともある
何か生活保護を簡単にもらえると思っているが地方ではもらえないし福祉では地方で差がある、老後は医療費がかかる人が多いからそこは無料になるだけで楽になる

何か2000万はたりなくなるから貯金しておけというがそれは厚生年金と国民年金では差が大すぎるのである、厚生年金で夫婦で25万くらいもらっていれば十分のような気がする、一人暮らしで13万だからである、ただ実際はその他の物はレジャーの費用とか家の修繕とか交際費とかはかからないとして13万だともなる
だから確実に貯金は必要なのである
でも2000万の貯金は若い世代では今は苦しいとなる
なぜなら団塊の世代とかその後でも退職金が貯金すると倍になっていたのである
だからこれは大きかった、今は地銀に貯金すると投資信託などをすすめられて必ず損してかえって利子をとられる、なぜなら地銀などはもう金を貸してもうける先がなくなっているからだ、投資信託は銀行にとって確実に手数料がはいる利子が得られるもので損することは絶対にない商品なのである、それは証券会社とか銀行のために作られた商品である
正直よほどの知識がなければもうからない商品である
だから2000万得るために投資しろというのは本当に政府は何を考えているのか無責任だとなる

厚生年金をもらっている人は贅沢しなければ一応生活は成り立つが国民年金の人は絶対に生活すらできない状態に追い込まれる、そういう人を知っているである
老人はみんな金をもっているというすうに見るが現実は老人にも格差がありみんながそうではない、ギリギリの人も多いのである
そして金だけでは介護でもなんでもどうにもならないことがある
もし家族に人手あればなんとかしのげるがない人は悲惨なものとなる
いくら金があっても手厚い介護は望めないからである
だからすべて老後は金でなんとかなるとはならない、老後自体の生活でも文化的な面でもそうである、金があっても豊かな老後になるとは限らないからである

ただ正直未来はわからない、計算できないのである
例えばこれから10年生きるのか20年生きるのかもわからない
10年だったら半分ですむが20年だったらその倍の費用がかかる
そして私も金の計算をしょっちゅうしているが計算しきれない
それはこれからどのくらい生きるかわからないからである
そして不思議なのは一ケ月いくらかかるとか計算する
それで節約して一か月15万とするのだがこれを5日10日とか延長するとその分が節約できる、

150000÷30日=5000円

一日の費用が5000円かかる、でも15万円内で5日延ばすと一か月で2万5千円の節約となりそれが一年になると12か月かける25000円となり30万となる
                                                      
5×5000×12=300000円

これが10日延ばすと

5000×10×12=600000となる

一か月の費用を5日分を延ばすだけで一年に二か月分の節約になる
10日分だとその倍になる
一年分で計算するとこれだけ節約することが不思議だったし本当にこうなるのかと今でも理解できないところがある

つまり金の量ではない、日にちで計算しているからわかりにくくなるのである
それが納得いかない、間違っているのかと思うのはやはりそもそも日にちで金の計算しているから納得できなくなる
それだけ未来を計算することが何かわかりくいものとなっていたのである
でも一日の費用が5000円として計算に間違いがあると思えないのである

人間はつくづく金でも近い将来でもなおさら長い未来となると計算できないようにできている
なぜなら必ず不測の自体が起きるからである、計算し得ないことが長い人生で起きる
この辺で起きた津波とか原発事故がそうだった、完全にこれで計算が狂ってしまったからである、そういうことが起きるからこれから若い人が30年後にどうなるかなど計算できないのである、実際60になっても70になっても将来は計算できない

人生はそもそも計算できない、何が将来起きるかわからないからである
一寸先は闇だというのもそうであり世界情勢だって計算できない、必ず不測の自体が起きる、いくら貯金していてもそれも価値がなくなることもある
常にあらゆる価値が変動しているからである
正直未来に備えることもできないのが人間なのである
一億円貯金しても安心はないのである
人間は生きている限り安心が得られない存在なのである
だからあらゆることに備えることは老後でも無理だとなる
だから貯金しても年金を収めても無駄だというのではない、それですべて安心とはならないということである
百年安心などありえないことだったのである

ただ逆に何か長い時間の中で逆転が起きてくるのも人間社会である
10年前ですら中国があんなふうに発展するとは思わなったろう
それがみるみる日本を技術的にもぬいて先進国化していたのである
そういう逆転現象が人生でも個々人でも日本でも起きてくるかもしれないからだ
高いものが低くされ低いものが高くされるのがこの世である
それを操っているのは人間ではない、神だとなってしまうからである
いくら金があっても老後は病気になったら終わりである
寝たきり何なったら何もできない、ただ天井を見ているだけになる
金があっても何もできないとなるからだ
そういうリスクも老後は増えるからだ

それで認知症になったら最悪である、銀行から金を下ろせないとか看護婦だったのに病院に行ってもそこが病院だとわからないとか本当に最悪だった
金は何の役にたたなくなったのである、金をもっていても銀行から金を下ろせないのだから金は何の役にもたたなかったからだ
こんなことまで老後に起きるから金があるだけでも安心などないのである
ある人5歳で子供と離れて暮らしていたが金持ちの後妻に入っていい暮らしをしていた
でも認知症になり世話する人がいずその娘に頼った
でもその娘は異常人格者でありその人を母親だとは思っていない
ただ金をもっているから施設に入れているだけである
それも悲惨だとつくづく思った、認知症になったらこうして最悪になるから怖いのであるそれもこれかち800百万人もなる恐怖である、その時金があってもどうにもならないのである

人間にはそういう極端な逆転現象も起きてくる、だから大きくは国家でもその未来は神がにぎっているともなる、神のみが未来を知っているともなる
人間は十年先でも何が起こるからわからないからである、ましてや20年とか30年とかいろいろいうけどそれだってわからないのである、あくまでも予測だからである
ましてや100年後の未来などどうなっているから誰もわからないのである
そこに人間の限界がある

2019年06月12日

松坂市の正論おじさん”看板撤去は「お年寄りのため」 (高齢化社会で生きがいが喪失する問題も深刻)


松坂市の正論おじさん”看板撤去は「お年寄りのため」

(高齢化社会で生きがいが喪失する問題も深刻)

一切妥協せず三重・松阪市の商店街ののぼりを撤去していく89歳の男性、男性は旧満州生まれの89歳、貧しい中、戦後の復興を支えた自負があるという。

我々の時代は高齢者を尊重する心を持っているが、高齢者を尊重する心がないと話す


これも看板撤去だけの問題ではない老人問題なのだろう
この人は法務省に勤めていて法律の仕事をしていたこととも関係していた
それで今までしていた法律の仕事を役立てようとした

それはなぜか?

家にこもっているだけで法律の仕事も何もない、役立てることができない
それで法律を盾にして商店街にケチつけるようになった
つまり老人が尊敬されないというとき老人の用がない、居場所がないことなのである
でもこの人は夫婦で暮らしているから一人暮らしとは違う
一人暮らしだとさらにいろいろな問題が起きてくる
とにかく老人が増えてくるからこのような問題は増えるばかりだとなる

要するに私は法律に詳しいんだということを仕事してきたから言いたいのかとなる
それも迷惑なのだけどこれは社会全般で老人が増えすぎて用亡き者となっているからである、89歳となったら用もなにもないと思うがそれだけ長生きの時代だからこれからこういうこともありうるのである
それだけ老後の時間が長く暇をもてあます老人が増えるのである
だから金の問題もあるけどそれだけ長い老後をどうすごすのかも問題なのである

そして怖いのは仕事がない社会に用がない、家族でも夫婦でも夫が退職する邪魔者扱いにされる、でも今の社会は一旦退職するとまず今までの仕事を活かすことができない
駅が無人駅になったので私はボランティアで案内とかしたけどJRの駅長からにらまれて排除されることしかなかった
お前はそこで何しているんだとかなり警察が駆けつけて職務質問したりされたし誰も認めないから案内はやめた、ただ時々駅にきて話したりしてはいる
つまりボランティアというのは他でも正規に仕事している人たちにとって邪魔者扱いされているのである
たまたま無人駅になったから私は案内をするようになったが受け入れられない
今は高校生の見守り役が朝と2時半からいるからやめた

とにかく高齢化社会で老人ばかり増える、そこで様々な問題が生じる
老人だけではない、不満な人は執拗なクレーマーにもなる
その女性は田舎の最底辺だから執拗にスーパーとか他でもクレーマーになっている
それは店に行ってももともと貧乏だからまともに相手にもされないことにもある
田舎では何か底辺だと目立つなのである、田舎ではかえって資産とかないと暮らしにくいのである、そしてその人のことを知っているから地位とか資産とか何か役割がある人は暮らしやすいとなる、序列化されやすいからである
田舎でわかるのは市営住宅に住んでいる人たちは底辺なのである
そこには生活保護者が多いのでわかる

高齢化社会の問題は社会で無用化された人が膨大にいるという社会なのである
それで怖いのはそうして家族でも社会でも用なくなった人がぼけっとしていると認知症になり安いのである、そこで生きがいもなにもなくなるからだ
私の家族の一人は公務員だったけど早い時期にやめてから何もしていない、家事もなにもしない、やる人がいたから何もしない、そのうち認知症になったのである
認知症になった原因が後からわかったが何も用がなくなったことが大きな要因だったことは間違いないのである
そして認知症が800万人もなるというときこれは恐怖である
その介護のために社会自体疲弊して国力まで減退するとまでなるからだ

老人が尊敬されるべきだと言ってもこれだけ多ければ価値がないのである
そして法務所に勤めていたからとしてその仕事を継続して活かす場がないのである
昔の村の長老のような人なら村の掟(おきて)守る人として尊重されたかもしれないが
会社というか国家公務員でも一旦退職すると用なくされるのが現代社会なのである

だから私自身も駅のボランティアで経験したのでこのことが理解できる
おそらくこの老人は善意でしているつもりなのである
そして家では夫婦でいても妻に疎んじられる、何の用もないとなる
例えば仕事でも法律の仕事しても社会で活かされることはない
街に出ても何か尊敬されるわけでもない、ただの用なきありふれた老人であり無用の人にすぎないのである
でも客になればそれなりに受け入れられる、ただそういうこともなかったのか?
商店街を利用していなかったのかもしれない、今は商店街を利用しない
それでそんなところで店が潰れたという時、もともと客が少ないからそうなったと言う人もネットにいた

そして車社会になったことが商店街をさびれさせたのである
商店街にきてケチつける老人がいるということで商店街が目立ったが普通は目立たない
シャッター通りになっているのが多い
それも時代である、老人が運転することで交通事故が話題になっているのもそうである
高齢化社会はこれだけ老人が増えると当然様々な問題が起きてくるのである
現代社会は老人には合わない社会なのである
膨大な老人が無用となるだけではない邪魔者扱いされる社会である
だから若い人は老人は始末しろとまでなる、社会の害悪だとなってしまう
ただ東京の商店街でも老人が集まる食堂で繁盛したりと老人相手の商売も生れるのも高齢化社会である
でも商品でも老人用のものが作られていない、商品化されないのである

私は老人になってかえっていい面がでてきた、何かいろいろなことを深く理解できるのである、本でも今までただ買って積読だったが読み返してみるそれを自分なり解釈できるのである、これは何か不思議である、人間は老人にならないと理解できないことが相当あると思った、これは老人の強みとしてある
本でも一読して要旨がわかり評論もできる、それでアマゾンで1000円以下の本を買い集めているのである、それは読むだけではない、評論してアウトプットするためである
それがインタ−ネットでありプログになっているのだ
何か文章を書くということは理解を深めることである
文章にすることによってそれが何か形あるものとして現れるという感じになる
私は何か書くことは文章にすることは得意である、しゃべることはだめである
それでこうしてプログで書きつづけているのである
それも無料だからまた即座に反応できるから書いているのである

2019年05月23日

施設で老人が若い介護士に殺される (介護は動機がないとできない、老人の虐待日常的に起きている)


施設で老人が若い介護士に殺される

(介護は動機がないとできない、老人の虐待日常的に起きている)


 勤務先の有料老人ホーム「サニーライフ北品川」(東京都品川区)で入所者の男性(82)を暴行して殺害したとして、警視庁は22日、元介護職員の根本智紀容疑者(28)=東京都新宿区北新宿4丁目=を殺人容疑で逮捕し、発表した


このサニーライフは月の料金が23万とかそれなりにいい施設なのかもしれない
東京だと高くなる、ただ必ずその他にもいろいろ料金がかかり要求される
だから本当は25万くらいになっているかもしれない

なぜこの介護職員が殺人までにいたったのか?

それが知りたいとなる、なにかこういう事件はこれから増えてくる
認知症の介護だったのか?何が原因でそうなったのか?

介護問題はこれからさらに深刻になる、知っている人も非正規の建築現場で働いているのに親が施設に入った
それもこの辺の近くでは立派な施設があっても介護する人がいないから青森の施設に送られた、この辺では青森に多く送られているのである
つまり介護する人がいないのである 
そして施設に入れば後はみんなやってくれるというがその非正規の息子は施設から別途に金を要求されて払っているのである
つまり施設に入れたからといってそれで終わりではないのである
その人は金持ちではないから最低辺の施設に入れた、それで青森に送られた
青森は仕事がないのでそういう人を受け入れていたのである

介護する人がいないというとき介護の仕事が過酷だからそうなっている
誰もやりたくない、家族でもやりたくない、それで金がある人は施設に入れる
でもそこが介護される人にとっていい場所とかなるとはならない

介護の問題は何かエネルギーが奪われる、肉体的にも精神的にも奪われる
そういう仕事に若い人がつくのは何の生産的なことがないともなる
自分自身10年かしてもう肉体的精神的にエネルギーが奪われた
ただ私の場合は特別親に世話になったから自然と介護を懸命にしたのである
そういう動機が特別あったからである
だから認知症になっても懸命になってしていたのである

では介護施設では若者がそんな動機などないとしたらどうなるのか?
貴重な青春時代のエネルギーを奪われるだけだともなる
ただ別に若者の仕事でも最底辺で非正規で辛い仕事をしている人はいくらでもいる
自分も最底辺の肉体労働をしていたからである
ただそれも一時的でありそれ以後一切仕事はしていない、後は旅していただけだとなる
つまりそういう仕事でも一時的なら救われるのである
それが若い時長くつづきさらにその仕事で何かスキルがつくとか生きがいになればいいがならないとしたら誰もしたくないのである

何か自分は30頃だったとか親戚の人が叔父にあたる人が手術をするので輸血してくれとか頼まれたが断った
その時山登りして非常に疲れてしなかった、つまり自分のしたいことをして老人のために病人のために何もしなかったとなる
このように今なら介護とか病人の世話より若いなら遊びたいとなる
そういう時代であり介護とかなると誰もしたくないのである
自分が家族の介護をしたのは若い時ではない、60以降だったからである
それは特別世話になったから自然と介護に懸命にれたのである
もし若い時そんなことを強いられたら親を恨んだともなるからだ

山登りでも今になると体力がないからできない、すでに40頃から自分は登山をやめた
体力がないのでやめた、それで自転車旅行に切り替えたのである
自転車旅行も若い時はできないとと思っていた、でも実際は40過ぎても自転車旅行はできた、なぜなら疲れれば休めばいいからである
そうして私は旅ばかりしていたとなる
そのプラスマイナスはあった、仕事をしない人間は会社のことを知らない人間は何か欠けたものになる、それで介護では苦労したのである
介護では社会とかかわるからである、それでニートは親に頼っていられるときはいいが親が介護状態になりそれから死ぬと地獄になる
もし金もないとしたら最悪になる、それをプログで書いてきた
誰も同情しない助けない、弱者になった結果困窮した人たちが襲ってきたからである

いづれにしろこれからこういう事件が増える、これがどうして起きたのかわからない
原因がわかないがこういう事件が起きやすくなる
たとえ金持ちが入る施設でも起こる、かえって金持ちに若者が使われているとか不満になっているかもしれないからである
つまり介護には動機が必要だが金だけだったら手厚い介護はできないからである
それで虐待になる、非正規の底辺労働者は身寄りもなくあとは施設に入れられて虐待されて死ぬだけだと恐怖を語っている
身寄りがないとそうなりやすいので恐怖になる、そういう人を自分自身も見ている
病院でも特養に入っている人が虐待されていたからである
自分も病院に入院して虐待された
虐待は日常的にある、ただ殺人までになるとなかなかないが当然殺人までなることがありうるしこれから増えるのである、だから施設とか病院は自分自身が恐怖なのである



サニーライフの評判

ここも悪徳ブラック?

サービス残業や休日返上が当たり前の社風

入社後の離職率が高い。大量採用、大量退職を繰り返している
スタッフがやる気なくして次々と辞職

社長なんかが施設みたいな豪邸に住み、ロールスロイスポルシェベンツマイバッハとかを会社の経費として乗り回して、下は薄給そのものじゃ 
当然、下の人間は(不当な搾取に)あまりにも馬鹿馬鹿しくなり、まともな神経で働かなくなる罠 

ここの支配人の月収は25万円で、土日祝祭日出勤当たり前、残業手当はなし。 
こんなんでモチベーション維持して働いていけますか? 
支配人もそうだけれど社員は消耗品で使い捨てで、潤っているのは経営者一族を 
始めとした一部の人だけなの?これじゃ何かと世界を騒がしているどこかの国と 
変わらないんじゃないか? 

贅沢は言わねえけどそろそろ休みが欲しいよ。 
ベテランはどんどん辞めてくだろ。


やはり離職率が高いからあまりいい評判ではない、働く人が働き安い環境がないと介護はむずかしいということか


2019年04月25日

「高齢ドライバー」の運転を止められないのか (老人でも今までしてきたことは簡単にやめられない)


「高齢ドライバー」の運転を止められないのか

(老人でも今までしてきたことは簡単にやめられない)
  

高齢者がなぜ車の運転をやめられないのか?
車社会だからやめられない、車社会用ように社会ができているからだ
もし車を運転できなくなると社会的弱者に転落する、社会から置き去りにされる
どういうわけか私は車を運転できないから自転車に乗っているから自転車の人とは話が合い仲間になりやすいのである
駅でトラック運転手だった人が足を怪我して運転できないので自転車に乗って遠くに行くその人は60代であり70なのかわからないが結構相馬市とか松川浦とか行っている
15キロとかなるとかなり遠くなる、それも電動自転車ではないのである
まずその人が車を運転していたら話もしないのである
自転車を通じて話をするようになったのである
その人が言うには車を運転できないのは何か問題があり能力的にも問題があり社会的劣等者に見られると言っていた
そういうことは確かにある、そして自転車は車に嫌われる、突然横切ったりするからである、自転車は車にとって特に目障りなのである

高齢者でも車を運転できないことは夫婦だと女性も今は普通に運転しているが運転できないと妻を乗せられないとかなり頼りにされなくなったりする
田舎では特にそうである、買い物でも街内に住んでいない人が多い、するとどうしても車が必要であり一人一台とかでももっているのだ
第一男が車をもっていないと女性だってついてこない、車に女性を乗せられることで一人前の男だと今はなっているからだ
そういうことが車社会なのである
それは江戸時代辺りだったら馬をもっているのが侍であり馬を持たないものが庶民階級だとなる、それで馬を飼うための専用の家来をもつのが侍である
そして徒町(かちまち)があるがこれは徒歩で歩く人の町だと区別されたともなる
御徒歩(おかちまち)とかがそうである、そこにも馬を持つものと持たない者の差があった、それが車社会になれば車をもたないものは足軽のようなものになる

現代で車をもたないことは実際に私自身経験している、モスバーガーは車専用だとばかり思っていた、それでそこで中が喫茶店のうよになっていて休める場所と思っていなかったのである、それは車を利用していないからそうなったのである
それも20年間くらいわからなかったのである
つまり車を持っていなものは社会のこともわからなくなる、なぜなら車社会だからであるそういうことはパソコンとかスマホとかでもそうである
情報社会でインタ−ネットをしていないものは時代に乗り遅れるのである
インタ−ネット社会になっているからインタ−ネットから情報を得たり発信しないものは遅れるのである、ただこれはまだ車社会とは違っている
車社会では社会全体で生活するのに不可欠になっている、だからこそシャッター商店街が生まれたとき駐車する場所がないということが要因でそうなった
車社会になっていることは駐車場がないことは致命的だからである

それで鹿島駅で案内などのボランティアをしていて自転車の駐輪場が前は広く両側に置くことができたのに狭くしたのである
それは車が八台駐車するためのスペースをとるためにそうしたのである
なぜなら駅には駐車する場がないからである
地元の人が駐車しているのは契約して場所を確保しているから外部の人は駐車できない
それから駅前は一時的にしか駐車できない
その八台分は商工会の観光協会に連絡して金を払うと長くとめられる
それは前々からわかっていた、鉄道を利用しなくても車で駅に来る人がいたからだ
道の駅がここにないので街の中心が駅と思い車で来る人がいたからである
駅でも車が遠くから来た人でも駐車できる場があれば駅周辺も活性化するとなる
鉄道だけでは今は活性化しないからである

いづれにしろ高齢化で車の運転をやめるという人に免許を返上したという人に何人かあった、それは80くらいの人である、男性もいたし女性もいた
そして鉄道を利用していたのである、そういう人は電車の乗り方さえわからなくなっているのである、でもそういう人か高齢化社会で増えているからこれから交通の問題が生まれる、田舎で老人でも車を利用できなくなったらどうするのかとなるからだ
そうなるとバスとか他の交通手段の整備が必要になってくるのである

老人の習性として今までしていたことを同じように続けようとする
それは自分でもそうだった、今までしていたことをやめられないのである
年寄りの冷や水というけど今までしていたことは依然としてできると思いやる
それで74歳でもバイクに乗っていた人がいた
ハーレーダビッドソンに乗っていたのである、それは双葉の人である
補償金で金が入ったから買ったのだろう
何か自分でも病気とか介護から解放されたら登山しようとか新しいザックを買ったりしたでもそれも利用していない、ビデオカメラもしていたから買ったが利用していない
ビデオカメラは格段に進歩していたから小型のものでもデジタルカメラでも良かった
10年くらいしたら技術が格段に進歩して買い物すらできない状態になっていたのである

とにかく老人は今までしてきたことやめられない、それはあらゆる面でそうなのである
肉体の快楽でもそうである、それも老人になると異常化している人がいたというのも納得する、性の快楽などでもやはり一旦味わった快楽をさらに追及しよとつづけようとするのである
つまり老人になったからと言って淡泊になったりしない、また車の運転が危険になってもやはり運転しようとする、また登山でも体力がなくなってもしようとする

それが年寄りの冷や水なのである、年取ったんだからそれ相応に隠居して楽しているということでもない、今までしてきたことを簡単にやめたり継続している生を断絶することはできないのである
だから車の運転もやめられない、死ぬまでセックスとか週刊誌であおる
それは個人差があっても人間は今までしてきたことを簡単にやめられないのである
90歳になってもやはり車の運転を使用とするし今までしていたからそうなる
第一車だと体力はいらないから老人にとって車に乗れないことは行動範囲が狭くなり視野も狭くなる、そして鉄道とかバスなどは不便であり利用できないから余計にそうなるのである

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駅前の自転車置場が車の駐車のスペースを作るために狭くさせられたのである
前は広かったのに車の駐車のために狭くさせられたのである
ただここには外からの人が長く駐車する場がないからこうさせられたのである


2019年04月01日

なぜ南相馬市から青森の老人施設に入れられたのか? (青森は月額利用料金が全国で最低だった)


 なぜ南相馬市から青森の老人施設に入れられたのか?

 (青森は月額利用料金が全国で最低だった)

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 週刊現代2019年4月13日号
 

福島県は一か月の入居費が13万だからそれなりに高い
東北では宮城県についで高い、13万くらいが全国平均になるのか?
東京となると20万とか格別になる、入居費用も高い
最低は宮崎県だった、ここも青森と似ているし九州は10万以下であり
東北より低いのはなぜだろうとなる
北海道は12万でそれより高いからである

この図は日本全国の経済状況を反映しているとなる
青森が下から二番目で安いから今南相馬市では青森に介護される人が送られているという福島県でも南相馬市でも人手不足であり施設という建物があっても介護士とかそこで働く人が不足しているからそうなる
ではどこでめんどうみてくれるのかとなると青森が費用が安いからとなり送られている
青森はもともと仕事がない地域だったからである
九州でも福岡を除いてそういう傾向があった、福岡市とかに人口が集中しているのである

老人になるとこういうことに興味をもつ、明日は我が身とかなるからだ
でも8万とかなると安い、何か身元保証人すらなくても入れる施設があるという
そこは劣悪でもそういうのもあるのかと知る
そこでなぜ経営破たんして倒産しているのか?
それは長生きしすぎると新しく人を入れられないのでそこで収入が減るとかのためだと書いてある、これも経営するためには金のことを考慮すればそうなるのか?
そういう施設では経営が苦しいから何を使うのにも金を要求される
細かく要求されるという  

青森の施設に入った人も貧乏でありぎりぎりしか払えない、でも入って終わりかとなるとそうではない、何かその他にかかる費用があり食費でも別に払う
その金がないので息子が働いて払うという
その息子もまた苦しいのである、建築関係で働いていて給料の高い所に行っているという飯館村でまだ除染の仕事とかしてもいた、今度は宮城県の方に行くとかしている
それで家族が青森まで呼ばれて行った
その時その人は新幹線で行くとしてその金がないとかなり援助してくれとかなる
帰りはバスで帰ってこといと言った

2025年になると団塊の世代で介護される人が増大する
その時どうなるのか?みんな安い青森に送られるのか?
青森がそうした老人の引き受け場所となるのか?

ともかく施設でもなかなかそこは終の住処にはなりにくい、家族でも世話できないとかなり介護難民があふれとか認知症になった人が日本中でうろうろする時代が来るとか言われる、認知症の介護となると自分も経験したからその労力は生半可なものではない
心身ともに衰弱してしまうのである
そういう人を介護する家族は自分もそうだったが鬱病になるのである

新元号が令和になったけど何かこれもいい面もあるが令は冷たいにも通じている
老人がこれだけ増えるということはいい時代にはならない
青森が姥捨て山になるのか?そう前にも書いたが安い料金の身元保証人もいらない所はそうなる、そういう施設でも無許可でも需要があるから増えてくる
それも老人にとっては地獄かもしれない、だてから長生きしすぎるとそれも不幸になるなと予想する、でもどうしても手当したりするから長生きするのである
長生きすると施設でも新しい人を入れられず収入が得られないというのも矛盾なのである


2019年03月29日

死者が残した物 (残された物から昔を偲ぶ詩)


死者が残した物  (残された物から昔を偲ぶ)

家には何かここに生きた者のの
記憶が隠されている
死者はもう何も語らない
その代りに残された物が語る
なぜ手鏡が二つ棚の奥から出て来たのか?
ここに住んだ女性は死んで歳月がすぎた
でもその鏡を手に取って見ていた時があった
でもその鏡にはもう顔は映らない
人は死ぬと忘れられるのが早い
死んだ後に家や物や墓が残る
なぜずいぶん死んでから月日が過ぎて
何かその人が愛用したものがひょっこり出てくる
それはなぜだろう
それは死者がその物に霊のように憑いているからなのか
だから物が憑くとなる
何か私を忘れないでねと
その物を通じて語っているのかもしれない
忘れな草は春に咲いている
その忘れな草のように忘れないでねと今は言う
でも死者を訪ねてくる人もいない
人はたちまち死ぬと忘れられる
その人がいたのかどうかすら不明にすらなる
それでも忘れないで思い出してと
家の中の奥からその人の愛用したものが出てきたりする
それでまた故人を偲ぶのである  


 

誰かの煙草入れ

山の中のなのか
どこなのか
一服して仕事を休む
この煙草入れはずいぶん使った
これをもっていた人は
ずいぶんと働いた
何かそれがこの煙草入れからにじみでている
ぷかぷかとタバコをキセルで吸う
その時一時安堵がある
一休みしたからまた働くか
そしてこの煙草入れを下げて働きはじめる
それは山の中なのか
山の中で腰をおろして吸っていたのか
何かそこに男の体臭を感じる
それはすりきれるほど使ったもの
人は死んでも何かを残す
この煙草入れでもその人の体臭が染みついている
この物に人の記憶がしみついている
だからただの物ではない
人間の残すものには心が宿る
物は物ではない、物と心は一体なのである  

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人間は何か物を残す、その物が何かを語る、この煙草入れはリサイクル店で買った、一万以上したから高かったとなる
銅製か鉄製で錆びたりして鏡として顔を映すのは結構むずかしかったとある
ここから何か江戸時代のことがイメージできる、旅するとなると明かりが必要である、火も必要である、蝋燭も必要である
そして火打石のようなものも持ち運びしていた、何かこの物から江戸時代がイメージされる
時代劇だと現実のものではない、この物は江戸時代の人が確かに使っていたものなのである
こんなふうにして旅していたのである、これらのものは結構高いもので誰ももてるものでもなかった
  
江戸時代の旅の小道具

携帯用に工夫された燭台とかもあり手鏡もあるがガラスではない、 何かこういうものを使っていたのが不思議である
真っ暗闇のなかで携帯用の蝋燭がゆらゆらと燃えてその明かりで矢立で字を書いている
その時江戸時代だから車の音もなにもしないのである、不気味なほど静かなのである
何か東京とか都会に興味がもてなくなったし人ごみの中に入るのも嫌になった
まず今は旅に向いていない、外人ばかりが多いからである、日本人がゆっくり旅できなくなったのである
それはなぜか?日本人が観光で稼ぐほかなくなった貧乏になったのである  

日本がすでに安価な旅先として選ばれているというようになった
そして日本人がのんびり旅すらできないとなったのである
それは外国の貧乏な国ではそうだったのである、観光立国などとなればそれは貧乏な国が目指すことである
カジノなどでもそうである、金持ち呼び込んで金を得る
つまり日本はすでにかなり落ちぶれた国になっているのである
そしてますますその傾向は強くなってゆく
だから観光客が何千万とか増えたからと喜んでいいものかとなる  

京都辺りでは観光客のためにバスさえ乗ることに難儀していることでもわかる
それでも観光客を来るなとは言えない、それは貧乏になったからである
白馬村でも旅館のおばちゃんが外人にまた来てくれと抱きついているのを見たらそうなる
それが嫌でも外国人観光客に媚びなければならないのである
そういう国はもう発展途上国並みになっているとも見れるのである
ともかく私は旅を60までしてきたけど何かしたくない、私はいい時代に旅したとなる
日本人がゆっくり旅できない、泊まる所もないというのはなんかがっかりする
それでも貧乏国になればそれをやめることはできないのである



家は記憶の貯蔵庫 (何か隠れたものが出てくる)


家は記憶の貯蔵庫

(何か隠れたものが出てくる)

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家の棚の奥にあったもの



家の不思議を追求してきた、家は何かというとそれはただの寝起きするとか食事するとかだけではない、そこにはその家族の記憶が貯蔵されている場所なのである
それでいろいろなものが捨てられないという時、その物には思い出が染みついている場合があるからだ
ただそれは他人にとっては何の価値もないものとなる
別にその人にとっては便利に使うだけものだからである

よく蔵に何があるとか番組があるけど古い家だと江戸時代のものでもさらに古い物でも貯蔵してある、それは忘れられていたものである
だから蔵の機能はそうして記憶の貯蔵庫ともなっていたのである
人間は死ぬとその人間自体が消えるのだから思い出すにしてもできなくなる
遺影を見たりして思い出したりするが残された物からも思い出す、記憶するのである

歴史でも考古学がありそれは人間は骨となって消えるし骨すら残っていない
古墳が墓だとするときそこにモノが残っていてそれでその歴史をたどる
それから物語が残っていてそこからも過去をたどってゆく
それは個々人でも同じなのである、家があるときはその家が継続していればそれは生きたその家の記憶の貯蔵庫となっているのだ

物には単なる物ではなく物語がある、物語がヒストリーが歴史である
ただモノにしてもいつまでもあるわけではない、モノでもいつまでも残されない
やがては埋もれ消えてゆく、人間が死ぬと去る者は日々に疎しとなる
それは家族でもどうにもならない、この世は無常なのである
常なき世の中なのであるそれは変わっていない、死んでしまうと日にちがすぎてそんな人がいたのかとすらなる

とにかく不思議なのは死んでから何かその人の思い出になるものが家から出やすいのである、それは忘れられていたがふいと家をかたづけていると掃除していると出てきたりするそれはつまらないものであってもそこにその家の記憶が家族の記憶がその人の生の思い出が残っている
認知症になると何かつまらないものを肌身離さず持ち歩いていた
それを私の家でも経験した、戦争で生死をともにした戦友が送ってくれた手作りのバッグを宝物ののように大事にしていたのである
それは映画でも放送していたから同じだった
つまり何かつまらないものでもそこには人生の思いでがしみついているからそうなったのである

だからなかなか捨てようとしても捨てられない、それも困るのだがそうなる
家には記憶の貯蔵庫なのである、だから家がなくなると個々人とかでも家族とかでもその記憶が失われるのである
例えば老人ホームに入った老人が「家に帰りたい、帰りたい」というときその家が実はなくなっているのである、ただ家族と一緒に暮らした昔にもどりたいということなのであるつまりもうその人にとって記憶の中の家であり家族になっているのである
老人は思い出と記憶の中に生きているのである
だからなかなか断捨離とかあっても老人は物を捨てきれないのである
そのモノには人生の記憶がしみついている、それを捨てることは何か人生そのものを捨てる感じにもなるからである  

手鏡の隠され残るあわれかなその面影を映すことなし

この手鏡は何なのか?何か使ったようには見えない、ただ買っただけなのか?
そういうものもある、ただ女性ということで残していたとなる

2019年03月18日

認知症は歯が原因でなる? (私の母は60代で総入れ歯になっても95歳まで認知症にならなかった)


認知症は歯が原因でなる?

(私の母は60代で総入れ歯になっても95歳まで認知症にならなかった)

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週刊新潮3月21日号

認知症に関する知見は信用できるのか?専門家でも信用できるのか?
ここでは入れ歯になって認知症になったというが
私の母親は60代総入れ歯になっていた
でも96歳くらいまで認知症になっていない
だから本当に歯が認知症になる原因なのか?
これも実際は実証されていないのである
それは例外だともなるが本当にそうなのか?
つまり認知症の原因がわからないからそうなっているのだ
いろいろなことを言う人が専門家でも多いとなる

例えば趣味も何もない人は頭の働きが悪くなって認知症になるとかもそうである
私の母親は趣味もなにもない、花を庭に植えると無駄だとか一切趣味もなにもない
ただ一生働きづめであり95歳くらいまで台所で仕事していたのである
その趣味もない人がなぜ認知症にならなかったのか?
それは台所で仕事を持ち役割があったということは影響している
そこで家の中で役割があったからである

一方もう一人は姉はひどい認知症になった、役所を退職して以降何もしない
台所仕事もしない、趣味をしたとしてもそれは何の才能もなくただ集まりに参加していたというだけである、もともとそういう方面の才能はなかった
看護婦だから別な方の仕事に向いていたけどそれもしなかった
そして結果的にひどい認知症になった

なぜ認知症になる人とならない人がいるのか?
ただもう90歳以上になると半分は認知症になる
だからこれは脳の老化と関係していることは確かである
95歳以上になると90パーセントはなると思うからだ

ただ認知症と歯の関係となるとそれが認知症の原因だだとはならない
確かに母は生真面目であり食べるのも良くかんでゆっくり食べていた
でも60代で総入れ歯だったのである
だからここで書いている記事には合わないのである
それで認知症に関しては専門家でもまだ解き明かされていないからいろいろなことを言う人がいる、でもそれをすべて鵜呑みにはできないのである
つまり認知症の原因は未だにわからないからそうなっているのだ

おそらくこうした記事をのせると歯医者に行く人が増える
それで歯医者がもうからかなのかともかんぐる
そうでないにしろ何か専門家の言うことを信じやすいからである
でも認知症に関しては原因がわからないのだから信じられないとなるのだ
それだけむずかしい病気だということである
だからまるで確信したように実証されたように言うのは問題である
それは認知症に関してはまだまだみんな仮説なのである
それで勝手にいろいろ言われてもそれを信じることはできない
もし妙薬が発見されたら誰でも信じるがそれができないのだから勝手にいろいろなことを言うと混乱するだけだとなるからだ

タグ:認知症と歯

2019年02月18日

高齢化社会の商売は芥川龍之介の羅生門の世界 (老人が食い物にされまたそれに罪悪感を感じない―変わらない人間のエゴ)


高齢化社会の商売は芥川龍之介の羅生門の世界

(老人が食い物にされまたそれに罪悪感を感じない―変わらない人間のエゴ)

芥川龍之介(羅生門)

何か最近会った人は遺品整理会社の人が福島市から来たり近くでも家事手伝いとか老人の話し相手とかの家政婦斡旋の仕事をはじめた若い人がいる
銀行では金をもっている老人に必ず手数料でももうける投資信託を売りつける
もともと介護でも老人が増えてそのサービスが増えていた
地方ではそういう仕事が増えていた、若い人がそういう所で職を見つけていた
第一私の駅前が葬儀屋になっていることでもわかる
そこはもともと農協のスーパーだったことがある、それが葬儀屋になった
そさは死ぬ人が増えてゆくから商売になるからである

それが芥川龍之介の羅生門ににていると思った
羅生門には次々に死体が運ばれる、火葬にもされない、死体が捨てられる場所になっていた、そこで死人から髪の毛をぬいている老婆がいた
それで鬘を作るためだった、それを見ていた通りがかりの人がそれを見て嫌悪した
その老婆の言い訳はこの死人たちはあくどいことをしていた人たちだからかまわないと言ってしていた
そしたら通りがかりの人にその老婆の着ているものをはがされて裸にされた
こういう人間の醜い姿を芋粥とか蜘蛛の糸とかで小説にした
それを今になりなるほどと理解した

その描写はまさに現代の高齢化社会を表現していたのである
次々に死体が運ばれるという時まさに団塊の世代がそうなってゆく
それは自分でもそうである、そこで老人向きの商売が増えるのである
つまり人間の醜さは死体からも金目になるものでも役にたつものでもはぎとるのである
そういう輩が普通であり人間は生きている時からそうなのである

自治体が運営する火葬場からでる仏さんの残骨灰を、廃棄物業者の間で奪い合いになっています。この灰のなかには、人骨などと同時に金、銀、プラチナなどの貴金属も交じっているからです。

少し前まで、これらよごれビジネスは、金にはなるけれど多くが手を出さない嫌われるビジネスでした。それが、今では脚光を浴びるビジネスへと姿を変えています。

大きな目でみますと、現在のわが国は過去にため込んだ資金や資産などを、掘り返すビジネスが脚光を浴びています。想像している以上に、この国のパイは小さくなっている気がします。


このようにまさに羅生門と同じなのである、ナチスでもガス室で殺された人たちから死体から金歯をとったということがあるから世界でも共通している
人間の欲は世界共通なのである、宗教が違っても同じである
キリスト教徒がみんな聖人でもなんでもない、欲深い人たちだからカトリックでは免罪符などを売りつけたのもそのためである
つまり死者でも金儲けになる、それは一見供養しているようでも仏教でも日本では戒名商売とかある、それは免罪符ともにているのである
そんなことで何か成仏するわけでもないからだ

そもそも人間はどう人間を見ているのか?
人間にとって他者は何なのか?
他者は金でしかないのである、またその人をどうみているかというとただその人はどうでもいい、その人のもっている金と財産だけを見ているのである
その価値はわかるがその人が芸術家だとしてもそれを理解しないものには絵でも何の価値もないからである、その人の持っている価値が万人にわかるのは金であり財産である
家とか土地でも目をつけている、そういう自分もそうだから羅生門の老婆と同じなのである 

老婆に髪の毛をぬかれた人たちもあくどい人たちでありそうされたもかまわないとかなるその老婆もまたそういっていたが身ぐるみはがれて裸にされた
「蜘蛛の糸」でも人を蹴落としてでも自分だけは助かろうと地獄から這い上がろうとしていた、つまり人間とはそういう醜いものだということを描写した作品なのである
それはシューペンハウエルの人間の醜さを哲学的に解説した生きんとする意志と認識する幸福を説いたのと同じである
人間の欲、エゴはこのように隠されているかそれを生々しく赤裸々にするときこうなる
現実そういう私も世界を経験した 

金にむらがるだけであり自分自身が介護と病気で苦しんでいても関係ないのである
それは相手もまた金に追い詰められているから余計にそうなったのである
人間は人間の真実を見るべきである
それは自らも欲があり他者とは金と財産とからしか見ていないのだ
それがまず地獄を作りだすのである
人間はハエエナともにている、死体に群がるのである、金と財産に群がるのである
その醜さを嫌というほど今になって体験したのである
それでこの小説を理解したのである
この世はまさにこうした人間の欲の醜さが現れた地獄なのである
国と国の争いでも美名があるにしてもやはり利益が関係している
食うか食われるかとなる弱肉強食の世界での闘争だったともなる

人間は仮面をかぶっている動物と変わりないのである、それも善人のように見させるから偽善になるから悪質なのである、一皮むけば欲は共通にあり否定できない
そこに地獄が生まれるのである、だから死人から金目のものもをはぐということは戦国時代でも行われていた
死人などはどうでもいい、金目のもの残された髪の毛であれ金歯とかダイヤモンドとか金目のものにこそ価値があるということを如実に表現したのである
それは今の現実社会と同じであり人間の様相は時代が変わっても変わらないのである
こんなに科学が技術が発達した社会でも変わらないのである
そもそも高齢化社会で老人は早く死ねと毎日のように若い人が叫んでいる
老人の金は欲しいが財産は欲しいが早く死んでくれということである
それはあまりにも多すぎるからそうなるのである

そして人間のはかない欲を描写したのが「芋粥」である、食い意地というのもなくならない、それもなにか母がある仙台の有名な最中を食べてみたいといったときそうだった
そういう欲は誰にでもある、それも何かはかないものとして小説にしたのである
人間の欲というのはそれだけ別に古代からでも変わらないのである
そこでこの社会でもこれだけ科学技術社会になっても変わらない
その科学技術を利用して欲を満たそうとすることに変わったともなる

人間の欲とエゴは人間である限り消えないからである
この欲とエゴが消滅したとき天国が来るともなる、現実にはそうはならないのである
だから人間社会はイデオロギーがなんであれ変わることはない
資本主義だろうが社会主義だろうが変わらないことを証明された
ただ自らの欲を達成することになり極一部の人がその富を独占するのはそのためである
もし人間にそんなに欲がないなら分けているはずだからである
そして若い人たちを見ていると同じことの繰り返しをしている
同じような犯罪を犯している、ただ手口が変わったとかにすぎない
やはり欲があるからそういう問題が同じように起きているのである


結局芥川龍之介が何か人間のこうした欲とエゴに絶望して自殺したのかとなる
このことを私も身をもって経験した、こんなに人間は醜いものなのか?
ただ人間は実は他者は死体であり何も見えない、見えているのはその人が身につけている金目のものでありそれ以外ないのである
それは普通のことである、自分だって他者は何だろうとというときそういう眼で見る
つまり人間とは動物と変わりないのである
ただ動物の欲は単純だけど腹が満たされればいいのだが人間の欲は複雑だからこのように赤裸々に見えないだけなのである
善人のようにすら見えるからである、でも善人も一皮むけば同じ欲の塊りであるという話なのである

そもそも老人は見栄えも良くないから愛しずらい、なんでこいつ生きているんだという嫌悪感を普通にもつ、小説では具体的に死体だから悪臭を放っているからそっとするものとなるが老人だってもう死にかけると死体のようにすら見えるからもしれないからだ
親なら別だがとても他人である老人を愛すことはむずかしいと思う
ただ介護する人でも金をもらえるから仕方なくしているというのが多いだろう
それを批判はできない、それはみんな同じだからである
ただ人間はみんなこうして醜いものだということを知れば体験すればこの世は地獄に生きているということもわかる、だからこの世にいたくない去ること死ぬことがかえっていいことにもなるのである 

この世の地獄にしがみついていること自体異常だともなってしまうからである
ただこの世には地獄があってもやはり天国を連想されるものがある
それは自然の美とかでありそれは天国をイメージさせるものであり救いなのである
ただ人間はその美の世界に住むのにふさわしくないとなるのである
たからこそこの世の欲は滅びるというとき世界は神によって滅ぼされるというとき欲が滅ぼされるのである、人間の欲は限りないからである
それを露骨にしたのが中国の歴史でもあった、それはあまりにも凄まじいものとしてあった、ただ世界共通として人間のは変わりないから同じことを繰り返しているのである

ただこうした商売は別に需要があるから成り立つのでありそれがこうした小説の世界のことではない、人間一般の醜さを表現したものである
だからここは誤解しないようにしてもらいたい、それはそれなりの仕事であり需要があるからである
でもなんか灰になったあとから金目の金属類を取り出すというとき気持ち悪いとはなるかもしれない
そこに死者の霊がついていたりする、何か人が身に着けていたものとか人が住んでいた家には人の霊がまたついているとかなる
だから何か気持ち悪くならないのかともなる、でせそれよりも利益が優先するということなのであるそれが人間社会なのである

2019年02月09日

精神的に体でも障害者と化す老人 (一人暮らしになって起きた悲惨な実例)


精神的に体でも障害者と化す老人

(一人暮らしになって起きた悲惨な実例)

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週刊現代2月16日号

Cさんの代わりに買い物したり、ディサ―ビスに向かう際に手助けしてくれるなど何かと身の回りを世話してくれていた知人に、お金を持ち逃げされた
Cさんはその人を信頼して、部屋の鍵を渡していたほどだったのですが全部で3000万円ほど金を盗まれてしまったのです
その結果体調を崩し入院した
(長寿大国日本と下流老人ー森太)

●精神の知的弱者化(認知症などの増加)

●体力の弱体化病気化

●絆が壊れる弱体化(一人暮らしの増加)

このように老人は弱体化する原因がある、これに金のあるなしでも弱体化する
何かしら夫婦でもどちらかが死んだりすると途端に弱者化して支えるものがなくなり弱体化する
弱体化すると非情な競争社会の中で援助がなくなる、かえってその弱者化したことにつけこまれる
そういう経験を自分がしてきた、ただそうしてつけこんできた相手もまた借金とか金のないことで追い詰められていた弱者化した人たちだったのである
そこで弱者同士のぎりぎりのせめぎ合いとなる
でも病気になったりしたらもう弱者は言いなりになってしまうしどうにもならない
だから3000万も盗まれたがその犯人もわからなくなる

なんらか寄ってくる人も困窮しているからそうなる
金に余裕がないからそうなる、そして金に余裕がある人は寄ってこないしヘルパーとか介護とか嫌な仕事はしないのである
金持ちの人がそんな仕事をしない、何か金に追い詰められて困っている人が嫌な仕事でもするのである
だから家に入ってくる人は危険になる
この人は妻が死んで家族の絆が失われて一人暮らしになってどん底に落ちたのである
夫婦でもどちらかが死ぬと介護になったり追い詰められるのである

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週刊現代2月16日号

こんなこともあったのか、ヤクルトを配達する人は定期的に来るから頼んだとなる
老人で70くらいで目が悪くなる人が多い、その人は80歳で白内障の手術を受けた
今も仙台に通ってもう片目を手術する、仙台にはいい医者がいるからだ
糖尿病の食事療法をしているので手術も危険なので仙台の医者に通っている
もう一人の女性も目が悪く視力が衰えて細かい字が見えない老眼なのである
そんな人が来ても実際は役にたたない、仕事にならないのだ
助けにもならない、こっちが助けているだけなのである
他にも緑内障の女性も知っている、何かしら60以降は病気になる人が多いのである

そして一人暮らしにてる人も多い
その一人暮らしが危険なのである、一人暮らしになると頼る人がいない
そこで非情化した社会ではそういう弱者は餌食になりやすいのである
動物でも弱ったものが襲われ食べられるのとにている
つまり弱者化すると襲い安いからである
それは人間ても同じなのである

老人になって目が見えなくなるのと元から目が見えない人には相当差がある
老人になって目が見えなくなるとそういう暮らしをしていないからもう一人でも生活はできない状態だがその人は3年も一人で生活していたのである
それは相当に過酷だったとなる

一人暮らしは金があっても一旦こうして病気になったりすると弱者化して非情化社会の餌食になりやすい、それは自分もそうだったからそのことを延々と書いてきた
一切同情はない、ただ金が欲しいというだけである
それはもう現代社会は相手を金にしか見えなくなっている
そして貧困化しているから金だけを目当てに近づいてくるだけになる
そこで弱者は食い物にされるのである

これから一人暮らしの人は増えてくる、夫婦であっても一方が病気になると介護になったりすると弱者化する、そしてどちらかが死ぬと一人暮らしになりこういう危険な状態になる
そういう人は別に子供がいても頼れないとかも増えている、子供自体が生活が楽でないからそうなる
だから高齢化社会とはとても今やぎりぎり生活している人も多い、下流老人が本当に多い第一4,5万くらいしか年金をもらえない人も結構いるからだ
それでぎりぎりになっているのだ

この高齢化は日本だけの問題ではない、中国が一番深刻化してくる、数が多いし日本のような福祉もないのに急激に膨大な数が高齢化してゆく
現実に老人の自殺が増えている、儒教の国でも子供は親を敬わないとか大家族制がなくなりめんどうみれないとなっている、これは世界で共通した問題なのである
長寿でもこうして何かのきっかけで長生きが地獄と化してゆく
それは自分が体験したことであり恐怖だとなる、特に一人暮らしで身寄りがないとかなると夫婦でも一方が死んだりするとこのように悲惨な状態になる
ただどうしても老人は病気になりやすいからそうなる確率が高くなるのだ

そして知的な面でも認知症になると銀行から金が下せないとか全くの知的障害者になり悲惨なことになる、その時いくら金あってもその金を狙われるだけでありどうにもならなくなる
その時も同情は他人はしないのである
そして認知症にならなくても何か時代についていけなくなる、知的にもいろいろ書類でも銀行のことでもわかりにくくなるのだ
投資信託などすすめられたばあちゃんが一千万損しても銀行員を信じていたように古い時代の固定観念があり支配されて時代についていけなくなる

それは自分でもそうして失敗した、地銀は昔のように信頼できるものだと思っていたからである、そういうものでも常に変わっているからついていけなくなるのだ
ただ知的な面ではこれまで学んだものが実ることはある
それはその特定の分野のことでありあらゆる分野に通じることはできない
だから銀行で投資信託などすすめられただまされやすいのである
毎月分配型は利子が毎月入るのかと錯覚していたからである
それは元金から引かれていたのである

いづれにしろ高齢化社会の問題はますます70以上とかでも増えるし75歳以上になるとまた病気になりやすい、そこで団塊の世代の数が多いから負担しきれなくなることが予想されている
なぜ78歳の人が介護状態になり青森に送られたのか?
施設があっても働く人がいないのである、青森だと仕事もないから引き受けたとなる
東京でも高齢化した団地とか問題になる、一番東京が人手不足とかになり数が多いから問題になる、悲惨な老人がこれから続出することは間違いない

だから長寿社会の暗黒面も大きいから地獄の高齢化社会に突入する恐怖になる
さらにその下の世代は年金がもらえないとか過酷になることが予想されている
何かそれに備えるにしても備えようがないのである
あらゆるものが満たされる人などいないからである、金があっても助ける家族がないとか人の絆がないとかまた金がないということでも苦しむ人が多いからである
何かで人間はたりないものがあり弱者化するのだが老人は余計にそうなりやすいのである



2019年01月28日

高齢化社会の仕事(南相馬市に家政婦紹介所開設) (家政婦を雇うのは一番むずかしい)


高齢化社会の仕事(南相馬市に火星紹介所開設)

(家政婦を雇うのは一番むずかしい)

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広告にでていたがこのクリ―ムスタッフとはなになのか?
仕事の内容は家政婦の仕事である、ただ定期的に頼むのではなく家の中の仕事を請け負う仕事である、ここに話し相手ともあるらか老人の一人暮らしア相手ともなる
対象はやはり家事などに困っている一人暮らしの老人であり
それを家政婦として常時雇うのではなく安い値段で請け負うとなる
まず家政婦を雇うとなると今では社長級とか特別な人しか雇えない
戦前の女中を雇うような訳にはいかない、時代がまるで違っているからだ
その時は中流家庭でも家事のために二人も女中を雇っていたのである
電化されていないからそれだけの人手が必要だったのである

とにかくこういう時代は女中でも雇うことが容易になる、そういう社会でありそこで働くことが普通だからである、するとそういう社会では女中でも信用して雇うことができるのである
ただ女中とか召使とかは何かそういう貴族社会のようであれば雇いやすい
江戸時代なら侍ならそうしやすい、それはそういう社会であり別に侍ならそういう人を雇うことが普通であり雇われる人も別に差別されたとか何か不満も言わないからである
そこで雇う者と雇われる者のモラルがあるから問題が起きないのである
ヨ−ロッパの貴族階級でも問題があるにしろそういう社会であり伝統があり慣習がありそれに従うのである
だからチップ制度はそうした階級社会があり貴族がいて成り立った風習なのである
日本がではそういう社会ではないからチップの制度はないのである

いづれにしろ家政婦とかの問題は家の中に入ってくる家の中がわかってしまうから一番危険なのである
信用が一番大事なのである、気軽に頼めるものでもないのである
だからヨ−ロッパではどうして信用したとなるかというとその人が働く前の家でどうだったか調べる、履歴を調べるともなる
そこで信用して雇うとなる、それは簡単に雇えるものではないのである
だかさ家に入れる人は一番危険であり信用が問題になる
自分自身はそういう経験がないから失敗した、盗難問題は常にどこでも起きているからだ
要するに家政婦など雇うには雇う側でも相当な経験が必要となる、だから代々金持ちの人は雇いやすい、そういう家であり雇う側も知っているからである
経験しているからである、でも今はそういう社会ではない、だから家に入れる人は危険になる
そしてそういう社会ではない伝統もないとなると使用人に使われるともなる
現実に自分がそうだった、その人とは相性がいいにしても話し相手にはいいとしても
決まった金以上を要求されるし様々なことで相談にのり金銭面から何から福祉係のようになってしまった、その人は福島市とか仙台市とか裁判所に行ったり後は腰が悪いとか病院通いなのでありとても家政婦の仕事するできない、簡単なこともできないのである
だから自分は使用人に使われているともなる
それでこのチラシを見て頼めば料理もしてくれるのかと関心をもったのである

とにかく高齢者向きの仕事は増えてくる、特に一人暮らしも増えてくるからその方面での仕事も増えてくる
「遺品整理士」なども一人暮らしの老人向きの仕事なのである
それだけ需要があれど供給するものもでてくるとなる

そして三春であった事件だがこれも高齢化と関係している
その詳しい内容はわからない、でも3万ばかり欲しいのに強盗に入ったのは尋常ではない強盗に入った人も追い詰められていたのである
その家は裕福な家にみえないからである
その犯人も61才であり同じ三春に住む人だった
だから今や近隣でも同じ町に住んでも危険な時代になっている
なぜなら60以上で65歳以上で年金をもともにもらっている人は少ないからだ
国民年金で4万とか5万とかしかもらえない人もいるのである
国民年金では生活できないのである

そして生活保護になるにしても簡単にもらえない、ただ医療費が無料にされたりしいるが南相馬市ではあとはもらえないとかなっている人を知っている
そしたらその人はどうして生活するのか?その人も追い詰められているから犯罪予備軍だとなる
実際に全国的に本当に老人で金があるのは一割くらいでありあとぎりぎりなのが20パーセントから30パーセントくらいいるかもしれない、そういう人は追い詰められているのである、だからこんな犯罪が起きてくるのはそうした背景があるからだと思った
3万ばかりで強盗に入るとなると相当に追い詰められているからである

これから老人の犯罪が増える、追い詰められている人が増えているからだ
そういう人はなりふりかまわない、わずかの金でも強盗でも殺人までするようになる
それは追い詰められているからである
みんな追い詰められると会社でも今や銀行でもそうなっている
投資信託とかうりつけて手数料でかせぐ、銀行も追い詰められるようになったからきれいごとを言っていられくなくなったからである
だからこれからの社会は危険度が高くなる、信用もできない社会になっている
格差社会になると影響を受けるのは貧乏な人だけではない、金持ちでもまたそんなに金持ちでない小金持ちでもその下が増えてくると襲われるのである
そういう危険な時代になっている
それも同じ村とか町の人なら安心だというが今はそうういことはない
金だけが唯一頼りになる世界では近隣でもそうであり追い詰められ人が近くにいれば襲われるのである、そういう経験を自分はしてきたからである

とにかく高齢化社会は高齢者特有の問題が起きるしそれに見合ったもの、需要があれば供給もありそういう仕事も増えてくる
でもここのクリームスタッフの対応は若い人であり何もわからない感じである
仕事をはじめたばかりで経験もないのだろう
こういう仕事は人の管理が一番むずかしいのかもしれない
そもそもそうしてその会社でもどういう動機でしているのか?
ただ金のためにしているのか?結局はそうなるけど何か仕事はそれだけではできない
この人は困っているから助けることが使命だとかはならない
まず金をもらうことが動機であり後はないだろう、でも福祉的な仕事になると何かそうした営利目的だけでも合わないのである
ただ今の世の中がすべて金出動くという時、こういう仕事でも金になるとなれば生まれるそれが悪いことではない、困っている人が自分だけでなく一人暮らしが増えるからであるそして気軽に近隣でも助けたりしないし無関心社会だからである
そういう中で一人暮らしの人は孤立しやすいとなるからだ
それはいくら金をもっていても一人暮らししてみると弱者だと思った
親身になって支えるものがない、ただ金だけを要求されることになるからだ



2019年01月26日

味覚は人間の防衛本能 (老人でも食物の味をかみしめて食べるようになった)


味覚は人間の防衛本能

(老人でも食物の味をかみしめて食べるようになった)



若い時は腹減れば腹を満たせばいいという感じだった、私の場合は食とか料理にこだわったことがない、旅行で料理が楽しみにはならない
旅行だと旅行したいというだけであり食べることではなかった
外国でもだからまともなものも食べていない、ただ外国に来て行けて良かったなとしかない、でも実際はその土地の食を味わうことも旅である
今になるとそう思う、ただそうなると金がかかりすぎるからできなかったのである

食べたいものを食べる、うまいと思うものを食べる

おいしいというものが安全でありおいしいというものが体にいい

味覚を感じやすくするには食事するにも静かな環境とかが必要

これが武田邦彦氏の推奨することである

味覚とは人間に備わった防衛本能だとしている、それもそうかもしれない、現代は調味料とか過剰に使っているし本来の食物の味が失われている
まず動物は人間のように加工したものより生のものを好むのはそこに本来の味があり栄養があるからだとなる
現代文明の逆説として老子の無味を味わうというときもそうである
水こそが一番人間にとっていいものだということである
それはジュース類の多さをみればわかる、あれにはほとんど自然の栄養物は入っていないだから運動した後ジュース類を飲むと疲れるというのはそのためである
糖分をとりすぎると砂糖などをとりすぎると疲れるのである
現代人に糖尿病が多いのは栄養をとりすぎるからである
動物はいつも空腹状態にあるというときそれが自然の状態だとなるからだ

そうはいっても人間はそもそも味覚でもそれがおいしいというとき快感を覚えるからである、そして意外なのは老人になっても快感、快楽を追求することは変わりない
性で食でも同じなのである、老人になると異常性欲者にもなる
淡泊になるということはないのである、だから私もなぜ食にこだわるようになったのか?食物の味をかみしめるようにして味わっているのか?
それは意外と老人になるとき逆になんでもデーブなものを追求する
それは食事にも現れる、知識でもそうだがデーブなものを求める
でも自分自身は料理はほとんどしない買ったものでまにあわせている
それはそんなに色椅子なことに時間をさけないからである

そして食事する時食事に集中することが必要だというのもそうかもしれない
がやがや騒いで食べるのがいいように思うしレストランではみんなそうしているしそうした方か楽しいとかうまいとかなる
一人で食べていると孤食になり食事もまづくなるとかいう
でもそうでもない、一人で誰もいないところでしんみりとして食べていると食物の味を深く味わうということがあるなと一人暮らしになって気付いた

だいたい日本人は忙しい早食いである、じっくり食物の味を味わないで食べる
ヨ−ロッパなどではレストランとなると特別の場所であり正装しないと入れない
そこは静かな場所なのである、がやがや日本のように騒々しくないのである
でも自分の場合はそういうレストランに一度も入ったことがない、そういう身分でもなかった
でもヨ−ロッパでは街でも静けさを大事にしているからレストランでもそうなる
そこにはやはり日本にはない貴族の文化が伝統が活きていてそうなっているのかとなる

老人に対する誤解は何かなんでも淡泊になると言うがそうでもない
確かにあまり油ぎったもの厚い肉などを食べたくないことはあるかもしれない
でも何でも淡泊になるわけではない、だからなぜ自分自身が今になって味にこだわるようになったのか?
それは食事でもそうだが何でも芸術でもじっくり味わいたいということになるからだ
デーブなものを求めるのである、ただそれは別に贅沢とするということではない
普通の食事でも何か味わいかみしめて食べるというふうになった
それは老人になるとおそらく何でも生きることが残り少ないということが影響している
遂に食べることもこれで終わりかとか病気になり最後に好物のものを食べて死にたいとか言って本当にそうして死んだ人もいるからだ
そういう心境は若い時にはない、結局老人の心境は老人になってみないとわからないのである


2019年01月13日

怠(なま)け者が認知症になりやすい (頭を体も働かせないと危険)


怠(なま)け者が認知症になりやすい

(頭を体も働かせないと危険)

なぜ認知症になるのか?この原因はなんでもそうだが一つではない、だからこれが原因だというのは言えない、犯罪でもなんでもその原因となるのは一つではないからだ
私の家族が認知症になった一つの大きな原因が怠け者になっていたことである
人間はそもそも本来怠けやすいのである、そういう習性がある
だから人間は怠ける環境にあると自ずと怠けるのである
それで怠けられない環境にある、強いられる環境にあることも大事になる
人間は怠けるし楽をしたいとか快楽を求めるということがあり決して自ら苦しむようなことはしたくないのである

過去に人が苦しんだのは自らそうしたのではなくそう強いられていたのである
貧乏な時代だったら嫌でも働かざるをえない
ニートのような人はまず団塊の世代ではほとんどいなかった
みんながむしゃらに働いていたのである
そういう中で働かない人は本当にまれだったのである
今はなぜ普通にニートがいるのか、それはそういう環境にあるから働くなくてもいいからそうなっているのである

ただここに危険があった、私の家族の一人公務員で働いていたが55歳くらいで早期退職した、その後何も仕事はしていない、家事も何にもしない、趣味はしていたがそれも別に才能がないからその趣味を究めるものでもなかった
それでふりかえるとその後30年くらい仕事もしない、家で何もしない、だらだらと過ごしていたのである、そこには緊張感もない、張りもない生活だったのである
ただそれを自分は気づいていなかった、認知症になってから気づいたのである

そしてわかったことは家事を自分でしてみてこれは結構大変だなと実感した
まず掃除というのは本当は毎日しなければならない、それができないから自分の家は汚れている、散らかっている、こまめにしていないとだめなのである
それから片付けるものが常にある、特に手間がかかるのが料理なのである
だから自分自身は料理は買ったものでまにあわせている
ところがその買う種類が多いので買うことが一仕事になる
何を買うかが問題になるのだ、それで時間がかかる
また何を買うべきかわからないのである

そして一番の問題は料理なのである、料理は本当に手間がかかる、そろえるものが多すぎるのである、それで冷蔵庫の中に種類が多いからいつも何が入っているからわからなくなる、なぜならいつも見てチェックしていないからである
他にやることがありプログを書いたりインタ−ネットを見たり本を読んだりしているからそんなに頭が回らなくなっているのだ
だから料理とか家事は一仕事だと思った
そして一番料理は頭を働かすから料理をしていることは頭を働かすことなのである

それで一人は店を70頃までかしていたしずっと90過ぎても料理して家事をしていた
趣味はなにもないが庭に花を植えるのも無駄だとしてそうして働くことしかなかった
大正生まれだった、でもそうして家事を90過ぎてまでしていたことが良かったのかと思う、最後に95過ぎて介護状態になって認知症になっていた
もう90過ぎる半分は認知症になるのであるからやむをえないとなる
だから姑が嫁におばあさんはなにもしなくていいですよ、テレビでも見ていてくださいと役割がなくなると呆け安くなるのである

人間は何か強いられないと仕事はしない、怠け者になりやすい、だから強いられるということも大事なのである
朝起きるにしても強いられなければ朝早くは起きないからだ
規則的生活も強いられないとできないからだ
勉強でも自主的にするものだかある程度強いられないとしないのである

何か自分は介護から今でも一人になってから常に追われている、家事することがなにかかにかあるのだ、その合間にプログを書いているから追われるのである
つまり自分は家事をしないでいられない、強いられているからしているのである
誰もしてくれる人がいないからである、今までは全部料理でもなんでもしてもらっていたのである、そこて自分は怠けものになっていたことは確かである
人間は環境によって作られるのである、時代時代で環境が違うから人間もその時代で環境で作られるのである

認知症にならないためにはどうしたらいいのか?
その一つは心身ともにWORKさせることである、働かせる、機能させることである
そこで危険なのが役割がなくなることなのである
会社を退職すると役割がなくなる、かといって家事が妻がしていたりすると何もすることがなくなる、これが危険なのである
料理はいろいろ頭を使うのである、でも夫は何もしないと危険になる
つまり人間は役割がなくなると心身ともにworkしなくなるのである
それで頭を使わないからだんだん機能が低下してくるのである
それが認知症につながってゆくことがある、それがすべてではないにしろそうなりやすいそうでなくても老化してゆくのだから認知症になりやすいのである

いづれにしろ認知症の予防ができるかぎり心身ともに働かすことである
男性と女性はまた違っているが男性の場合会社を退職すると役割がなくなるから危険なのである
女性でも障害児をかかえてそのことが心配で世話を焼いて心身を働かせていたら人は認知症にならないとか言う人もいたのも逆説である
何か自分自身の家族でもそうだった、あんなに一方は働いているのに一方ただ食事を出されているのを待っているだけだったのである
だから奇妙なのは主人がいて召使いるとき何でも召使がしていたらその主人呆ける認知症になるともなる、それも逆説である
つくづく人間は何が幸せかわからないのである
実際に経験しているだろう、不幸が幸福の原因になっていたり幸福が不幸の原因になったりしているからである

いづれにしろあまりにも怠ける状態にあることは危険になる

シーシュポスは神々を二度までも欺いた罰を受けることになった。彼はタルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられた(この岩はゼウスが姿を変えたときのものと同じ大きさといわれる)。シーシュポスがあと少しで山頂に届くというところまで岩を押し上げると、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまい、この苦行が永遠に繰り返される

怠け者の罰はこうなる、有益なことをしないから延々と無益なことを強いられるともなる
ただ人間は何もしなくても何かしても必ずカルマを積んでいる、楽をした人も金を持ちすぎた人も有効に使わない人は罰をカルマをもち何かそれが後で苦しみとなって現れるのである、要するに人間ち起きることは何かしら因果応報だともなるのだ

2018年12月04日

年寄りの冷や水 (人間はこれまでやってきたことを老人になってもやめられない)


年寄りの冷や水      

(人間はこれまでやってきたことを老人になってもやめられない)

週刊誌ではしょっちゅう死ぬまでセックスとか一面で出している
週刊誌とかテレビは老人向きの番組作りにある
老人が多く老人が読み見るからである
老人社会になっているからである

人間は老人になろうがつくづく今までしてきたことをやめられないのである
死ぬまでセックスとかもそうである
なぜそうなるのか?快楽が忘れられないのである
これも中毒のようなものである

死ぬまで登山とか死ぬまでバイクとか死ぬまで車とか死ぬまで自転車とか死ぬまで・・・・・とかなる
死ぬまで酒飲んで早死にした評論家もいる、これもやめられないのである
自分もそうだった、自転車に乗ってきたからやめられない
電動のロードバイクは合っていなかった、軽くていいのだがふらついて危険だった
だから今度は最新式のE=BIKEが欲しいとなる
それは今までより馬力があり技術進歩がある
やはりロードは危険だかこれなら安定して安全だとなるからだ
私はあまり悪路を走ることはないが歩道を走るので安定性があるのがいいとなる

年寄りの冷や水という言葉の意味は何なのか?
それは今までしていたことをやめられないということで無理をする
今までバイクに乗っていたから74歳でもバイクで飛ばしていた人がいた
登山でも70歳でしていた人が普通にいる
それで遭難したとかある、それから車でやめられない、それで事故を起こしたとか免許を返納して失敗したと80歳の人が言うのもわかる
そして何か今までしていことができると思うのである、だからそれが年寄りの冷や水になる

人間は年をとろうが今までしたことがやめられない、酒が好きな人もやめられない
そういう快感が頭にインプットされているからやめられないのである
麻薬と同じである、人間の業(カルマ)は死なない限り消えることがないのである

結局自分の場合は

死ぬまで自転車だ!

これもどうにもならないのだ、40万近くても欲しいとなる
悪路を行かないにしろこれなら乗ってみたいとかなる
ただ乗ってみてロードのように失敗するかもしれない
でも乗ってみたいとなる

やはり技術革新したものはイノベーションしたものは売れる、老人でも買う
もともとe-bikeは老人が体力がないので作られたのだから合っているのである
70代でもまだ元気な人がいる時代である
だからこういうものでも老人が買うかもしれない、金のことがあるけどどうしても快感を味わいたいとなる
そしてどうせ死も近いんだからやりたいことをやって死んだ方が得だという考えになるのだ、この年になると毎日いつ死ぬのかとなる、現実に死んでいる人も多いからだ

死ぬ前に何をすべきなのか?

それが老人にとっては切迫したものとなる
何か常に死を意識するのである、金があってもそれを使わないで残しても損だとなる
無駄には消費しないにしても何かやりたいことしないで金を使わないのは馬鹿らしいともなるのである

ただ正直老人は動的なものより静的な志向にはなる、私はもともと性質は静的なのでじっとしていることが性にあっている
それで何か深い詩が作れるようなったとも自分ながら感じる
こういうことはほとんど金はかからない、田舎で冬ごもりで風の音とかじっとしている聞いているのがいいのである、そこで沈黙するとき自分は充実感を感じるのである

2018年11月23日

死者はどこにいるのか? (母は厨に立ち続けていたー詩)


死者はどこにいるのか?

(母は厨に立ち続けていたー詩)

母は厨にいつも立っていた
60年の歳月がそこにあった
目立たずそこにあり料理を出してくれた
母は細身であり霜焼けに苦しんで
台所仕事をしていた
その時温水器がなかったからだ
私はただその時当たり前のことして
母に感謝もしなかった
その労もいとわなかった
母は家で酷使された
私はずっと楽をしてきた
母はこの家で耐えていた
悲しみ涙も流した
そうして母は百歳で死んだ
母はどこにいるのか?
母はなお厨にいる
もの言わず影のように
厨に依然としている
そうして今も家を支えている
他人は私のために何もしてくれない
要求するのは金だけである
何の関心もない
そして私は厨に一人立って食事の用意をする
そのことにより母がここに立っていた
その苦労を知りその意味と価値を知る
外には北風がうなりはじめた
寒い季節がやってくる
人は死してその意味を知る
その存在価値を知る
死してその存在価値が現れる        
そのように無視され目立たぬものが
大きな価値を帯びて現れる
不壊なるもののごとく現れる
死者はなお生きてこの世にある者を支える

死者はどこにいるのか?それも謎である、墓にはいない、死者はどこにいるかとなるとやはりその人が長くいた働いた場所だろう
なぜならそこに60年もいたとしら長いからである
私の場合は結婚していないから何か親を思うようになった
結婚していれば妻を亡くせばこのように思うだろう
それで悲しんでいる淋しいという人がいる

でも生きている時は母のことは意識しなかった、目立たない存在だった
性格でも内向きであり派手でないから目立たない存在だったのである
それが死んでから意識するようになったのも不思議である
それはなぜなのか?

それは介護はじめてから自分自身が厨に立つようになってからなのだ
自分自身が今度は食事を出したり自分の食事を用意しなければならない
そのことによってここに母がいて食事を60年間だしてくれたのだなと自覚したのであるだから母が死んでも母はここにいるのだなと自覚した

死者がどこにいるのか?それはその人が一番長くいたところではないか?
一番長く働いた所ではないか、なぜならとにかくそこにいた働いた時間が貴重だったとなるからである、人生の時間は限られている、いくら長生きしてもそうである
すると何に時間を費やしたかが人生になる
才能あるなしにしろ何に人生の時間を費やしたかが人生になってしまうのである  
それでぽっぽやという鉄道員、駅員が最後に死んで電車が棺となりあの世に送られる
鉄道と電車と人間が一体化していたのである
男の場合は仕事が命となるのである

母の場合はこの厨にその人生を費やしたのである
母はその時何かそれが報われないものとしてしていたかもしれない
それは女性の場合はみんな言える、家事に生きがいを見出せないとかなっている
それで戦後は外で働くことで生きがいを見出そうとするようになったのである
でもそもそも女性の生きがいとは男と違って本質的には子育てとか家を守るとか
家と切り離せずあったのである
つまり女性は家の中で存在感があり意味と価値をもつものだったのである
ただそれが女性自体でも価値がないものとしていた
では外で働いて価値あるものとなったかというとそうもならなかった

母刀自(あもとじ)も 玉にもがもや 戴きて みづらの中に 合へ巻かまくも
  〜津守宿祢小黒栖 『万葉集』 巻20-4377 防人歌

これは若い防人にしてもこれだけ体と一体化しているのが母だったのである
こういうことは父親にはない、父親はまた別な意味と価値がある

 真木柱(まけはしら)ほめて造れる殿のごと

  いませ母刀自(ははとじ)面(おめ)変りせず」

    巻20−4342 坂田部 首麻呂(おびとまろ) 駿河国防人   
 
   
真木柱というとき実は私の家では姉がいつも橲原の木材を使って建てたということを自慢していたのである、そして面変わりせずというのは死者のことにもなる
死んでも変わらず厨に母がいるとか感じる
つまり家というのは女性が主役であり女性の存在感を示す場所なのである
男性の存在感を示す場所は家ではなく外にある、仕事場にある
なにかそこを戦後はき違えたのである、女性はいくら外で働いても存在感をもちえなかった、なぜなら女性の役割は家にあったからである
だから嫁は女と家なのである

そもそも外で仕事をしてもそこをやめたとしたらそこに仕事していたということを記憶する人がいるだろうか?
別にレジで働いていても人が変わるだけでありその人がいたということで記憶している人がいるだろうか?
それはロボットのように見えるからである
だから女性で外で仕事して存在感をもつのは看護師とかはあってもまれである
ただいくばくかの賃金をもらうだけであり何かそこに存在感と意味と価値がもてないのである

とにかく人間は死んでからでないとわからないことがある
他人は全く皿洗ってもらうにもただ金ばかり要求されるだけである
金くれ金くれしかないのである、ただその女性でも息子のことは40とかすぎてもあれやこれやと気遣っているのである
だから家族と他人の相違はあまりにも大きいとなる
それは介護になりそういう非情を今でも続けて経験しているのである
他人がこれほど非情で冷酷なものか知らなかったのである
それは家族がいればそうなるのである、でも人間はそんな家族中心で他人は虫けらと同じだ、金しか関係ないとなるとそこは地獄だとも思った
家族がないものは地獄だとなる、身寄りのないものは地獄を生きることになる
それでいいのかとなるがそれが現実として経験したということである


2018年10月24日

認知症がアイコンタクトで劇的に改善 (NHK試してガッテン−私も最初にそうして落ち着かせた)


認知症がアイコンタクトで劇的に改善

(NHK試してガッテン−私も最初にそうして落ち着かせた)

私の姉の場合は最初に暴力になった、その前に同じものを何度も買い物していたし金を払うことができなくなっていたので近くの店屋で気づいていたのである
でも家では気づかなかった
気づいたのはなにか知らなけど激しい暴力になった
親戚の人が来た時歪んだ顔になっていた、それで病気に気づいた
意外と認知症は軽い内は気づきにくいのである

それからせん妄になり幻覚を見るようになった
何か人が来ているとか言ってそれが誰なのかと何度もしつこくたずねる
それはかなりひどいせん妄だったのである
だから何になっかのか最初とまどった、どう対処していいかもわからなかった
それでインタ−ネットで調べたら

目を見て落ち着かせろ!

そう書いてあったのでそうした、そして落ち着かせるためにお茶などを出して飲ませたのである
私は相手と視線を合わせて見て落ち着かせたのである
でも精神錯乱になっのかと怖かった、暴れたりもしたから怖かった
それで三人家族だったが一人は相手を見ることができなくなった
目を見ることができなくなった、怖くてできなかったのである
そうなったらもう一緒にいられない、相手が暴力になるからだ
性格的に姉は大の男も恐れない、大の男が怖がっていたのである
そういう人だから暴力になったりてしたら自分でも最初は怖かった
ものすごく気の強い性格の女性だったからである

ただ私は60年間も一緒に生活していたし自分は特に特別に世話になったから介護することは無理することなく自然な状態でなった
ただ最初は何になったのかわからず怖かった
精神錯乱になったのかと怖かったのである
でもそれから一人で家で介護するようになってなれてきて認知症という病気を理解するようになった、それで安心して落ち着いてきて症状が安定して騒ぐこともなくなった

認知症は誰か一番親しい人が愛する人がつききりになり世話しないと症状が安定しない
だから相当な愛情がないとできないともなる、ただ症状はみんな違っている
姉の場合は死ぬ直前まで意思疎通ができていた、ただ意識不明になって一か月間は死んだと同じだった、もう植物人間となり何の反応もなくなったからである

認知症の人の視界が狭くなっているというのはそうなのか?
ただそれだけではない、目を合わせて落ち着かせることが大事なのことは確かである
それを最初にしたから良かった
結局人間は突然に起きることに対処できないのである
津波でもそうだし何かの事件とか病気でも突然になると対処できないのである
今回のNHKの認知症対策で目を見るということは本当に大事である
目からは信頼とか愛情とかの眼に見えない光が放たれているかもしれない
何か嘘ついたりやましいことがあると目をまともに見れないことがあるし
何かその人となりが目に現れることもある、目がおかしくなっているかもしれない
だから人間にとって目は大事なのである

いづれにしろ認知症の介護している人は必ずうつ病になる
精神を病んでいる人の介護している時必ず介護する人もおかしくなるのである
正常なものが失われるのである
なぜなら正常でない人と常時一緒にいれば当然そうなってくるのである
自分自身は実際は介護することでも嫌だった、強いられてしかたなくしていたともなる
ただ自分の場合は特殊な家庭の事情で介護をするのも無理があったにしろ一番世話になったから何か自然と介護に努力したのである、恩返しのために自然とそうなったのである
でも普通は認知症の介護はそんなに手厚くできない

どんなに親しい愛情があっても嫌になるからである
私の場合は二年間であり短いからできたともなる、これがさらに長引いたらもうもたなくなっていた、なぜならもう一人も介護状態にすぐになったからである
二人の介護になることと自分が病気になったことでももうどうにもならなくなっていた
でもなんとか恩返ししてのりきったのである
でももうぎりぎりの限界だったのである
なぜなら自分も手術したり入院して病気になって介護していたからである
その時助けるものはいない、ただ責められるだけだったのである
介護は誰か一人に負わされるのである、みんなしたくないからそうなる
それは兄弟がいてもそうなりやすいのである

姉の場合は自分が留守にしていたとき不安になり近くの人のところに行っていた
そのことはあとでわかった、その人だけは親切な正直で本当に今時めずらしい人だったのである、NHKのテレビでも放送していたが少しの間でもいなくなると認知症の人は不安になる、それは捨てられたのではないかということで不安になるのである
だからもうどこにも出れない、いつも一緒にいるほかなくなる
そこでそうしていると丁度精神病院の中に一緒にいつもいて病棟から出れないという感覚になるのである、息ぬきもできないのである、それでうつ病になる
それはオウムとかカルト教団とかに仲間といつもいるような状態とにているのだ
閉鎖された空間でそこだけの世界にとじこもる、すると洗脳されて異常が異常だと気づかなくなるのである

家族の介護は病院で医者とか看護師とか介護士が介護するのと違うのは四六時中常に一緒にいなければならない、それで精神が消耗するのである
自分の場合それでも二年間だった、でもうつ病になった
だから認知症の介護はつらいと思う、NHKに出てきた人は私の姉より症状が重い人がいたから介護するのはもう自由時間もない、完全に縛れるのである
そしていつ終わるのかわからないのが辛いのである
実際十年とかもあるし自分の場合は二人で約十年だった、それで精神が消耗してしまったのである

ただ特殊な家族であり世話になったということがあり懸命に介護した
男だからうまくできなかったがそういう気持ちはあったからである
だから気持ちがない愛情がない人が認知症の介護することは至難だとなる
そんなにみんな聖人でもないし一人にの人間にそんなに付き切りにもなれない
それは施設でもそういうことはできない、でも親しくなった人がつづけて介護するのが認知症では症状を落ち着かせる効果がある
でも現実的にはそこまでしていたらとてももたないだろう

介護の負担は認知症でもそうだし普通の介護でも負担が重すぎることがある
ただ私の場合は特殊な事情で気持ちはあったのでなんとかできたとはなる
でもそういう気持ちをもつことができない施設とかではそんな手厚い介護は無理だとなるそして十年とか長い場合があるとその間は何もできない、その負担をも大きすぎるのである
ただ私の場合は介護して恩返しできて良かったと思う、だから遺影に手を合わせて供養できるとなる
介護のむずかしいのはそれは死後も影響してくることなのである
恨んで死んだりしたら何か手を合わせて供養できなくなる
お前は冷たい奴だったなとか死者に診られるからだ
そういう人を知っている、娘を恨んで死んでいったのである
その娘は信じられない非情な人になっていた

でも母親は介護されることもなくあっけなく死んだのである
もし介護状態になったら地獄だったとなる、そういう状態になっている人を知っている
その娘の実の親がそうっないたのである、認知症になっていたからである
実の親でも事情があって親とも思っていない、ただ金があるから施設に入れておくだけなのである
だから人間は本当に最後にならないとその真実もわからない
最後は親でも悲惨な状態になる人がいる、子から捨てられるのである
青森の施設にここからやられた人などはそうかもしれない、老後には最後には人間は恐怖にもなる、もうこれだけ老人になると姥捨て山に捨てるというのもしかたがないという時代にもなるからだ、中国では数が多いからすでに親をめんどうみれないと捨てる
そして自殺している人が増えていることでもわかる
一人っ子政策で親をめんどうみる人もいない、そして施設にすら入れない国でもめんどうみないとなれば死ぬほかないとなっているのだ、日本でも特養などは順番待ちでいつは入れるかわからないのである
高齢化社会の暗黒面である、認知症になる人が8百万人とういのも本当に悪夢である


世界中のどこも、経験したことがない社会「認知症800万人時代」この国に何が起きるのか 
65歳以上の4人にひとり、80歳以上は2人にひとり  

2018年10月17日

南相馬市の病院から青森の施設に移される人 (姥捨て山へやられるのか?)


南相馬市の病院から青森の施設に移される人

(姥捨て山へやられるのか?)


その人は南相馬市の病院に入っていた,知的障害者の息子がいてその人が病院に通って
頼まれたものを買って届けていた
その障害者は外見はどこが悪いのかわからない、仕事もしている
でも不思議なのは父親のことを思っている、だから病院に通っている
その父親は別に子供が3人とかいる、でも世話しない
離婚した妻が障害者の母親は常に通って息子をみている
かわいそうだと言っている、その父親は何か離婚されたり子供も世話しないとなると
問題があった

ではなぜ青森の施設に移されるのか?

これはこの辺でめんどうみる施設がない、満員だとは聞いた、それでいわき市とか中通りの施設に入った人は知っている
例えば小高では立派な施設があっても入れない、介護士とかが集まらない
若い人は流出したからである、病院でも看護師がたりないとか苦労している
それでいつまでも病院に置くわけにいかず青森が空いているからと移された

しかしそこには知っている人すらいない、いたとしても青森までは簡単に行けない
最初聞いた時青森は遠いなもう行けないな日本の果てだなとか思った
ただ新幹線があるら二時間で今は行けるとは思った
でもそこで金がかかるからなかなか行けない、そもそも金で苦労しているのだから
行けない、一瞬前の感覚だと流刑地にでも行かされるのかとも思った
青森となるとそれだけ遠いという感覚があったからだ

ともかくなぜ青森なのか?

それは南相馬市だと特に施設が空いていない、特養などは特にあいていない
だから青森であいているからと施設関係者や市の方で相談してそうなった
これはここだけの問題ではない、例えば東京は深刻である
それで東京のある区では伊豆の方に要介護者を移すとかしている
東京ではまかなえない、東京はそうした介護される老人は増える、その数が多いからである、だからこれはここだけの問題ではない
青森だとそもそもそこは職がなく出稼ぎ者が多い地域である

すると介護でも仕事になるとして引き受けるようになったのかもしれない
それにしても青森は一瞬遠すぎると思った
だってそこはなじみがない場であり知り合いとかもいない場である
ただ今の社会は広域化しているからこういうことにもなる
でもそんなに遠くに行くということは何か最後は姥捨て山にやられるのかという心境になるかもしれない,身寄りがないとなるとそうされやすい
ただその人は子供も何人かいるからそういう人でもない
障害者がいて世話できないとかなりそんな遠くに行き死ぬほかないとなるのかもしれないともかく最後になると労力も金もかかる
病院にいつまでも置けない、特養には入れないとなるとそんな遠くで世話されて死ぬほかないとなるのが現実だとなる

2018年10月11日

家族の認知症介護から学んだこと(哲学的考察) (人間とは何か−抽象化能力と感情の問題)


家族の認知症介護から学んだこと(哲学的考察)

(人間とは何か−抽象化能力と感情の問題)

「心身のリアル体験」では、幼少期から様々な遊びや運動、海や川や砂遊びなどの匂い、空気、温度などの肌や実感覚による体験や、「嬉しい」「悲しい」といった感情などを通して学ぶプロセスです。  

 ここにグラフがでているからわかりやすい、人間は具体的なものを抽象化する、これが文明を作り人間を人間たらしめたとなる、その最たるものが言葉であり文字だからであるだから文字のない文明が一段と低く見られるのはそれだけ抽象化能力が発展しなかったとなるからだ
最古の文明になると文字をもった文明である、エジプトのヒエログリフは神聖文字となり文字が神聖化された、中国でも漢字が発明されたとき神聖化されたことでもわかる
楔形文字は最古のものでありねこには法律のことも記されている
それから一番簡単なのは一つだったら一本の線を書く、二つだったら二本の線を書く
それで数量を計ることが文明となる,それがそれは時間の単位ともなる
時間も人間が抽象化したものなのである

算数と数学でもそれを上達するコツは数字は抽象化だが図形とかグラフにしたとき具象化する、方程式でも図形化するとそうなる
そして分数でも理解するには図形で理解するわかりやすい、数字からだと具象化していていなから理解しにくい、だから算数嫌いとか数学嫌いが生まれる
数学となると中学でもどんどん高度な抽象化になるからである
科学となるとさらに分子式でも抽象化になるからついていけなくなる
私も数学嫌いになったのはそれは抽象化能力の欠如だったとなる
ただそうであっても教育には工夫が必要なのである
分数だったら絶えず具象としての作業、図形化して納得する作業していると興味もわいて覚えることになるからだ
人間は常に具象⇔抽象の相互作用が学習なのである
パソコンのソフトで抽象画を作ってみたらやはりいくら抽象画でも川は川をイメージするし森は森をイメージする、全く具象画から離れることはありえない
抽象画でも具象画を見ようとしているのである

なぜエジプトで書記官が重要なものとして神官にもなったのか?
それはやはり麦などの収穫することを数量化したからである、その仕事は力仕事ではない頭脳の仕事である、それができたのは抽象化することができたからである
米の量を計ることは数字で抽象化したものだからである、つまり人間の知的能力の発達は抽象能力なのである、それは数字でもそうであり文字でもそうである
そして人間の文明は抽象能力から生まれたのである
抽象能力が高度に発達して文明が生まれた、文章を書くということはそもそも抽象能力によっている、言葉自体そうなのだが音より文字にすると抽象能力は高くなる
人間は文章を書くことによって言葉から文字から思考している
それをつくづく私自身でもこうしてインタ−ネットで他者の文章を読んで参考にして絶えず文章を書いていることでそう思った
文章を書くことでそもそもが思考を拡大して深化できるのである

文字には他にも記録するという大事な役割がある、人間はとにかく忘れやすい、自分の書いたものすら忘れている、膨大なものをインタ−ネットでプログで書いたがその書いた本人が忘れているのである、これも人間の特徴だと思った
だから人間は何でもこまめに記録していた方がいいと思った
旅のことでもそうであり忘れるからだ、いつどこにいたのかも旅したのかわからなくなるそしたらどうして記憶をよみがらすのかとなる、今は写真もいくらでもとれるからそれも記録になる、膨大な写真が映像がグローバルに残される社会である、デジタルの映像社会なのである、ところが映像は抽象化能力を高めるということが必ずしもない
具象的なものが表現が直接的に示される、すると抽象化する能力はいらないとなる
文字だと山なら山で川なら川で一応抽象化したものとしてとらえているからだ
漢字が優れているのは抽象化と具象が表現されているからだ
アルハベットになると文字があるにしても音の作用が大きい、アルハベットに具象の作用がないのである
だから漢字というのは中国文明を作ったものとまでなっているのだ

ただ人間とは何か?これを追求する時、抽象能力だけではない、人間の下部構造というか基本にるなベースとなるものに感情がある、悲しいとか淋しいとかうれしいとかある
人間は人間たらしめているのは反面に感情だともなる
動物を見ていると悲しいとか淋しいとか淋しいとか何か感情的なものが表現できない
人間は悲しい時涙を流す、動物は泣くことも笑うこともできないのである
ただうれいしという表現などはする、みぶりでするからわかる
でも動物に悲しいという表現がない、あるとしてもわからない
キリストが「悲しむ者が幸いなり」というのは本当に不思議だと語ってきた
それは心理学的にみれば悲しむことができるのは人間にはできるが動物にはできないからだともなる

そして人間はこの世を生きるとき必ず悲しむことになる
家族との死別があり様々なことで苦しみ悲しむからである
でもなぜ「悲しむ者が幸いなり」なのか?それは悲しむことで人生の深い意味を知るからである、悲しまないものは人生の深い意味を知ることがないのである
だからシェークスピアが悲劇で終わるからみんな考えさせる、ドラマでもハッピィエンドで終わるなら考えないのである、悲劇にこそ人間の深い意味を見出すともなる
それは悲しむことに通じているのである

人間とは何か?それは認知症の人と接するとわかる、家族が認知症になって介護したとき最も身近で生活してきた人がどうなったのかわからなくなる
そのことを介護して問うてきた,もう痴呆化して人間でなくなったのかという恐怖を感じた、でも接しているうちにそうでもないと思うようになった
確かに銀行から金をおろせないとか漢字でも書けない自分の名前すら書けないという抽象能力が極端に低下する、だからこれはもう人間ではないのか?
そうも思って驚愕して恐怖にもなった
でも認知症の人でも喜怒哀楽がある、感情的なものは普通なのである
だから自ら悲しむということがある、また喜ぶこともある
特にこれまで生きたことに誇りをプライドをもっているからそれを認めると喜ぶのであるそして認知症の人はなにもわからないのではない、相手が親切にしてくれる人なのか
愛をもって接してくれる人なのかわかる、だから認知症の介護は愛がないとできない
愛情に実は敏感になっているからだ、だから家族でも特に親しい人でないとできない
兄弟でも姉妹でもいろいろいいるからである
だから兄弟でも一番かわいがられた人が介護しろというのもわかる
そうでないとできないということがあるからだ

人間とは何かというときこれも不可解である、確かに抽象能力が文明を作った
でも一方で感情があって人間であるということがある
悲しむということ笑うことなど感情表現があり人間であるとなる
だから数字とか漢字が抽象化能力がなくなっても感情があれば人間だともなる
その人は愛のことはわかっている、動物でも愛は通じるのである
すると動物でも愛を感じるから人間と同じだともなる
そしてこの世で一番大事なものは愛だというとき愛が通じればいいともなる
愛が通じなくなったときそれは動物以下であり人間ではないともなる
知能がものすごく高い人がいても冷たい愛がない人も普通にいる
かえって知能が高いとかなるとそういう人が多いかもしれない、冷たい人が多いとなる

別に庶民でも知能が低いとみられる人でも正直で人情味があり愛のある人がいる
そういう人は戦前生まれの人に多いし江戸時代には多かった
それはなぜかというと現代のように知優先の社会ではない、義理人情とか情中心の社会だったからである
とにかくインタ−ネットでもグロ−バルに高度な知性が求められる社会である
江戸時代は狭い範囲で情が深い所で生活していたのである
それが村とか長屋とかであり貧しくてもそうなっていた、でも医者でも病気は治らないものとして接していた、だから医は仁術になっていた、直せないから仁が情をかけることだともなっていたのである
第一漢字の情報でも情に報えるとなっている、これは今の情報感覚とまるで違ったものなのである、どうしてこの漢字になったのかわからないがやはり何か江戸時代の感覚をひきづっていたからこの漢字をあてたのかとなる

いづれにしろ認知症というのは本当に不可解である、その介護をさせられるとなると本当に困難を極める、普通は人間とは何かなど考えないけど私は認知症の介護を通じて考えたそれはなぜなのか?それが心と関係していたからだろう
普通病気だと患部だけをみている、そこが痛いとか弱っているとかみる
でも心までは見ない、認知症の場合はどうしても脳と関係していて心をみるようになる
脳が損傷する壊れることは心にも大きく影響する、では人間の心とは何なのか?
それが最大の謎なのである、認知症の家族を介護してそのことを問うてきたのはそのためである
認知症の治療は介護は肉体だけを見てはできていからである
もし肉体的なものだったら癌であれ何であれ意識は明確であり知能も低下しないのであるただ肉体的な問題だけなのである
認知症は脳が破壊されてそれが心に大きく影響する病気なのである
すると数字がわからないとか漢字も書けないとか自分が住んでいた場所も名前もわからないというときあまりにショックになる、そんなことわからないのか馬鹿になったのかと最初は誰でもみてとまどうだろう、この人はもう人間ではないのだとまでなってしまう

でもふりかえるとそれでも人間だったと思う、人の愛はわかるし何か感情的には喜怒哀楽もあり今までしたことをほめれば喜ぶ、何か通じるものがあった、今になるとその時間が貴重なものとしてよみがえる、それは家族として長く生活してきて認知症になったとしてもふはり家族であり心を愛を通じ合わす時だったなと思う
今までは自分の場合はとにかく一方的に愛された良くされていただけだったからである
そのことで多少恩返しできたなど今では思っている
そう思うのはやはり介護でもその時は苦しいと思うのだが嫌だから死んでくれとも思うのだか死んでみるとみんなもっと良くしてやればよかったというのである
それはやはりもう一緒にいる時間がなくなった、もう二度となくなったことによるのである、もう話すこともなくなる、二度とその時間はもどってこないからである
人間は時間がすぎさる、青春だってあっというまにすぎさる

人間の生きる時間はみんな限られている、時間だけは平等であり特別長く与えられる人はいないし時間を金で買うこともできないからである
それで人間が一番無駄にしているのは時間なのである、金だったら十円得した損したとか過敏なのだけど一時間損したとかあまり考えないからである
家族でも一緒にいる時間はいつまでもつづくわけではなかった、そして介護となるときと死に向かっている時間である、もう二度と会えなくなる時間だった
その時間は貴重なものだったと自覚する
それは人生そのものがそうである、人間は永遠に生きられない、限られた時間しか生きられない、その時間の貴重さは失ってみないとわからないのである
何か貴重なものは失ってみないとわからないのである
だからみんなもっと介護でも良くしてやれば良かったというのはそのためである
家族と一緒にいる時間が全くなくなり何もできなくなったからである



ここに書いたものつづきです、読み直してまた書き続けるのがプログでありインタ−ネットである
連続したものとして継続して書けるのプログでありインタ−ネットである

2018年10月10日

時代の変化についていけない老人 (昔の感覚で社会を見ている−銀行もそうだった)


時代の変化についていけない老人

(昔の感覚で社会を見ている−銀行もそうだった)


老人はこれまで生きた感覚で世の中を見ている、それが実は社会が変わっていると違っているのだ、確かにそういうことは昔からあって老人は新しいものに適合できない
もし江戸時代んのように変化してもスピードが遅ければそれほど影響を受けない
現代は変化のスピードが速い、だからついていけなくなる

銀行は何か硬い真面目な職業だと思っていた、それが投資信託のような複雑なものを老人相手に売る、それは金をもっている老人をだますために作られた商品のように思えた
毎月配当金が入るというときそれが今まで貯金していれば利子がつくもののように老人は思うのもわかる、第一株などわからないからである
投資のこともわからないからである
それで悲しいのばあちゃんが2000万とか損しても銀行を信用していたのである
つまり銀行とはそれだけ信用されていた、それを裏切ったともなる

なぜそうなったのか?銀行は地銀などは特に地元に密着して一軒一軒回る
そうして対面的に信用を得ていたのである
その信用を利用して投資信託のような複雑なだましのような詐欺的商品を売りつけるようになった
でもその時その信用というのが一番の財産だったものが失われたのである
もう銀行員が一軒一軒回っても信用できないとなる
そうしたらそもそも銀行業というのが成り立つのだろうか?
だって銀行で一番大事なのは信用だからである
信用こそ財産だった、確かにそれは目に見えないものだがその信用なくして銀行の業務が成り立つのか?

ではなぜそうなったのか?銀行はもうもうけることができない社会になった
高度成長時代なら銀行は会社の業績でもいいし起業しても成功するとかで金を貸してももうかる、だから利子が7パーセントの時代があったのだ
それがバブル崩壊とかから20年日本経済は停滞した、もう銀行もそこで金を貸してもうけることができなくなる、金を借りて起業したりする人もへるとかで投資先がなくなったのである、それで国債とかでもうけていたがこれもできなくなりマイナス金利になった
それで銀行は追い詰められたのである

人間は追い詰められると善悪がなくなる、今日食べるものがないとなれば平気で人を殺したりする、それは追い詰められているからである
追い詰められた人間は善悪はない、だから追い詰められ人間は怖いのである
そういう人に出会ったら最悪だとなる、そうして悲惨に殺された人もいる
それは個人でもそうであり会社でもそうであり銀行だって同じである
きれいごとを言っていられない、銀行を維持するためならなんでもするとなる
そういう時代になったことを老人がわからない、意識しないのである

それはなぜか?老人は昔の感覚で世の中を見るようになる
今までこうだったからこうすればいいという昔の感覚なのである
それをひきづっているのである、銀行と付き合いがある人は昔の銀行を見ているのである銀行員でもそうである、それが急に変化してきて銀行を変貌したときだまされることにもなる、投資とか株とか昔の銀行はしないしそれが業務ではなかった
だから支店長でも株のことなど知らないと言っていたのである

そういうことは他にもいろいろある、スマホがあるとしてそれをできない老人は理解できないのである、一見それは携帯電話のようにも見えるがかなり違っている
パソコンを携帯化したようなものにもみえる、自分はパソコンを20年くらいしているから同じようにやれるとみるがまた違っているのだ
そうして技術も変化しやすい、進歩すると老人はついていけないのである
どうしても昔の感覚で見るからである
昔はこうしていたからこうすればいいとなるがそれが通じないのである
たからばあちゃんは銀行をだまされても信じていたとなる

例えば中国に旅行したのでも20年前とかなる、時間はすぐにすぎさる
20年前の中国はどうなっていたのか?物価は十分の一であり鉄道は最悪である
家畜のようにして人間がぎゅうぎゅうつめで運ばれていた
とにかく人が多いからそうなった、その時都会への出稼ぎ者が多かったからそうなった
今はどうか、日本並みに新幹線が走っている,これも信じられないし、みんなスマホで決済して現金を使わない日本より進んでいる
日本より進んだものが増えてきたのである
だからこんなに変わるものかと驚きついていけない、どうしても中国でも昔の感覚で見てしまうのである
要するにグロ−バル社会というのは世界的に常に変化のスピードが速い、遅れた国だなと思っても10年とかで変化している、いつまでも遅れた国とはならないのだ
だから今タイとか東南アジアからでも金持ちになった人が日本の観光に来ている
それも今までならありえなかったからである

世の中がもともと無常の世界であるというのは変わりない、そもそも人間自体がいつまでも若くいられない、青春などあっというまに過ぎ去る、そして白髪の老人になっている
そして死んでしまう、その変化からまねがれないから無常なのである
世の中自体もまた変わる、特に現代はそのスピードが早すぎるのである
ただそうはいっても老人だと経験したことがありその経験が活きるということはある
何かしら生きて経験しているからである
でも人間はあらゆることを経験できる人はいない、投資の経験している老人は少ないのである、それも経験だったのである、知識ではない経験しないとわからないことが世の中には多すぎるのである
人間が個人で経験するのはほんの一部である、だから老人が社会のことがわかるということはないのである

江戸時代のような村のようなところでは経験したことが活きて長老のようになることはある、でも現代では老人は膨大な数になっているが無用化しているのである
それは社会が変わりすぎているから老人はかえって邪魔になるだけだとなる  
だから現代は長生きしても老人にとっては生きにくい社会である
むしろ江戸時代なら長生きすれば老人にとってはいい社会だったかもしれない
それもわからないにしろそう見えるのである

老人は本当に浦島太郎のようになる、周りの人間も変わり誰も知っている人がなくなったと現実になる、家族で公務員だった人が役所に行っても知らない人ばかりだったとか
近所でも知らない人が多くなり取り残されたような感覚になっていた
そして認知症になって信じられないけど自分の住んでいる町の名とかすら忘れて思い出せないとなる、そして若い時のことは忘れないから延々と千回も同じことをしゃべっていたのである
それは病気もあるが老人はえてしてそうなりやすいのである
認知症は老人の症状が極端化したものなのである,周りが人間でも変わり浦島太郎のようになる、そして昔のことを延々としゃべりつづける、それだけ社会でも人間そのものの変化でも激しいからそうなる
そして残されたのは死があるだけだとなってしまうのである

2018年10月05日

長寿大国 日本と「下流老人」森亮太を読む (手厚い治療や延命治療はできない、国にもその金はない)


長寿大国 日本と「下流老人」森亮太を読む

(手厚い治療や延命治療はできない、国にもその金はない)

この本は医者が書いたものである、医者から見てもう手厚い治療が限界だとしている
老人はもうそんなに医者にかかったり介護で手厚くしたりできない
老人はもうある程度諦観する、あきらめることが必要だとしている
それは結局老人にもうこれだけ増えてくると金も使えないし労働力も使えないとか限界にきているからである
日本人は病院好きだとか薬好きだとかそれで無駄な金が使われる
老人の病気は老化もありなかなか完治はしないから無駄に検査したり治療したり薬を飲んでも治らない、だからある程度あきらめるべきだという
そういうことは感じる、金もないのに仙台の医者に行き次は東京の医院で高度なMRIで写真をとる、それが必要だったのか?

今は医者だと高度な機械を設置しないと患者が来ない
そのためにまた医者でも金がかかる、するとそのために東京だけではたりなくて全国から患者を呼ぶということも必要になるのかもしれない、大学の関係で患者を呼び込むとういこともしているのかもしれない、つまり医者の方でも金がかかる
患者の方でも金がかかるのが現代の治療なのである
先進医療となるとさらに金がかかる、でも病気になるとどうしても金を節約できないのである、それで破産した老人の例を出している
そのことは他でも良く聞くことである、癌になるとかするとたちまち一千万単位で金がなくなったりする、それで老後破産になったりする
貯金が退職金をふくめてかなりあってもそうなっている
それはなぜなのか?

どうしても60以降は思いがけないことが起きやすいのである
その一番の思いががけないことが病気なのである
なんらか60以降は病気になりやすいのである、それから親の介護に直面することが多い私の場合もその二つが同時に来たから四苦八苦してきたことをプログで書いてきた
こういうことは自分だけではない,60以降に起きやすいことがこの本を読んで納得する60以降の最大の問題が病気なのである
それで予定が狂ってしまって老後破産に陥ってしまう

そして人間は60以降とか老人になると弱者化するのである
この弱者化することで犯罪にあったり追い込まれることが多い
それは自分が経験したことであり驚いた
頭がいいとか大の男も恐れない、こわがっでいた、それが見る影もなく無能化された姿には愕然としてたのである
銀行から金もおろせないとか認知症で白痴化したことは変化がはげしすぎたのである
それで対応に右往左往することになる
夫婦でもどちらかがそうして病気になると途端に弱者化してどん底に陥る
老後のリスクは金がないというだけでない、病気になるリスクが一番大きいのである
そこで予定が狂ってしまう、だからといって治療費を節約できないことが苦しいのである

自分に起きたようてことは60代以降に起こりやすい
親が介護になったり夫婦でもどちらかが介護になったりすると途端に弱者化して
追い込まれる、その時弱肉強食の世界が老後にも容赦なくふりかかる
それで耐えられなくなり悲惨な状態に追い込まれるのである。
現代は特に情がない社会であり金だけを要求する社会である
だから一人暮らしとかは孤立して誰も助けないような状態に陥りやすいのである
それは自分だけの特殊な状況から起きたとも言えないとこの本を読んで思った

Cさんはの代わりに買い物したり、ディサービスに向かう際に手助けしたり何かと身の回りを世話してくれた知人にお金をもち逃げされた
Cさんはその人の信頼して部屋の鍵まで渡していたのです
全部で3000万円近い金が盗まれました

この人は妻と死別して一人暮らしになったときにこうなった
いかに一人暮らしが今は危険か弱者化するかわかる
これと同じ経験を自分もしてきたからである
事情は違うにしろ一人暮らしは弱者化する、信頼して頼る者がいなくなる
するとそうしてヘルパ−などを頼み家の中に引き入れることがどれだけ危険なことかわかる、この人はそれなりに相当信頼していたがこれだけの被害にあった
額は違っていても自分も同じような目にあったからだ

ではなぜこうなりやすいのか?
それはヘルパーとか今は困窮した人がなる、金に余裕ある人は手伝いさんのようなことはしないのである
それが矛盾している、金に余裕のない人はそもそも危険である
しかし金に余裕がない人しかそうして働かないのである
老人でも金に余裕ある人はパークゴルフとか趣味とか遊んでいるのである
人間はいい悪いではない、もう窮迫している人はどんなことでもする
そういう人がそうして一人暮らしとか困った人の家に入ってくるから危険なのである
金に余裕がない人とか心に余裕がない人はまず人を助けることはできない
借金しているとか金がないとかしている人は常に頭が金しかなくなる
するとそうして入ってくる家なら金を得ることしか考えない、それは人のめんどうをみる
というより自分の方が苦しいのだからそんな余裕がないからである
つまり襲う人も弱者を襲い襲われる人も弱者なのである
弱者につけこみやすいからである、襲いやすいから弱者がねらわれる、襲う人も弱者なのである


働くことも人助けなんだけどそれは余裕ある人ならできる
余裕のない人はできない,むしろ相手が弱者化したときチャンスだとなるのである
こういうことは高齢化社会で起きやすくなる
一人ではどうにもならなくなる、介護でもそうである
その時家の中に入ってくる人は余裕ある人ではない、その人も困窮している人が多いのである、余裕あって金があってボランティアする人などいないのである 

この人は本当に悲劇だった、自分も同じだったから同情した
高齢化社会は長寿社会は暗黒の面が大きい、金の問題もあるし病気になること、自分自身だけでなく夫婦でも一方が病気になると悲惨なことになるのである。
この本で言うように自分の死に方でも事前に決めておく、延命治療はしないとか何かもう治療でもそんてに手厚くしないで死に向かうことを決めておく、つまり生をある程度あきらめる、そういう覚悟が超高齢化社会には必要になる
ただ別に健康ならいいのである、それだって百歳まで金があるのかとなるなくなる、老人は稼げないのだからどうにもならないのである、人間が長生きするとき少数だったらいいがこれだけの数がそうなるともう国を圧迫して国自体を破産させるとまでなっているのだ

だから若い人たちに老人は早く死んでくれとなるのもわかるのである
それはあまりにも数は多すぎることなのである、老人にはもう希少価値はない、長生きしたからと大事にもされないし敬老精神もないそういうなかで生きるとなると地獄だともなる
病院に行ったら早く死んでくれとか、介護施設は入れないとか、金がないものも死んでくれとかなる 
それは国をつぶすほどに老人が増えるからである、駅でも見ていると本当に老人が多い、老人ばかりが目につく社会なのである
その辺に老人ばかりがうろうろしている社会なのである
その人たちは別に用あるわけでもない、ただ何もすることなくうろついているだけだとなるからだ


2018年09月23日

激務で疲弊した地方医師が、続々と都会の病院へ? 急成長する「医師エージェント」ビジネスの舞台裏


激務で疲弊した地方医師が、続々と都会の病院へ?
急成長する「医師エージェント」ビジネスの舞台裏



医局制度の崩壊で
大都市を目指す医師が増加

医師は大学を卒業後、研修医として「医局」に入った。「医局」は、教授を頂点とし、診療から研究、教育を担う機関。さらに医局は人事も握り、所属する医師を系列の病院に派遣。教授の意に沿わない医師が不当な待遇を受けたり、過酷な勤務を強要されたりするなど、弊害が指摘されてきた
いま、大都市の医療機関は、利用者からの厳しい評価にさらされている。医師の対応に少しでも不満を持たれると、すぐに悪い評判がネット上で広がる。逆に「いい医者」が来れば患者が増えると、ある病院の事務長は言う。
「いままでだったら、医者は来てあたりまえじゃないけど、でんと構えていた部分もあったけど、いまは、患者様に来ていただく、優しい先生のほうがいいですから。患者さんからしてみれば、結局、病院っていうのもサービス業なんで、各病院気にしていると思います」

仕方なく、総合病院の整形外科を受診すると、専攻医の医師が診てくださいました。
「専攻医」とは後期研修医のことだそうですが、診察は非常に丁寧でレントゲンに異常はなく「使い痛みでしょう」と診断して下さり、「一ヶ月もすれば治るでしょう」ときちんと予後も言って下さいました。
実際にそのとうりの予後になりました。
医学部を卒業して30年も経ってる医師よりも、勤務医の専攻医の方があらゆる面で上なのです、普通に考えるとこれは逆なのです。
改めて開業医のレベルの低さを実感したと同時に、開業医受診の危険性も実感しました。

ここのサイトは介護のことに詳しい、在宅介護すべきだという論には賛成する
それもむずかしいが本来はそうあるべきだというのは理解できる


その人はまず仙台の医者に行った、腰が悪いから整形外科なのか?
その医者は原町の病院で医者をしていたことがあり知っていたので仙台で診てもらった
次にその医者の紹介で東京の設備のいい病院の医者に診てもらった
大学関係で仙台の医者と東京の医者は知り合いであり連絡をとりあう仲だった
そしてわざわざその仙台の医者も東京にきてくれたという
でもその交通費はどうしたのだろうか?
その女性はさくらバスで東京まで行って安い宿泊所に医療関係なのか二日泊まることができて全身を検査した
その医者は親切だったという、あれでははやると言っていた

これでわからないことは仙台ならそれなりにいい医者がいると思う
現実に糖尿病で白内障になった人は仙台の医者で手術した、もう二か月もいる
白内障だから手術かむずかしいからだ
でも仙台から東京まで行って医者に診てもらうというのは普通はあまりないだろう
そして金もかかりすぎる、その人はいつも食べることがやっとしか金がないからだ
でもなぜ仙台の医者が親切にいろいろめんどうみてくれるのだろうか?
それはその女性がとにかくコミ二ケーションに優れているのである
何も取柄がないようでそれだけは感心する、ただ悪い方になるとクレマーになる
底辺層だから下の者にはうるさくなる、鬱憤をはらす対象になるからだ

いづれにしろ開業医は相当に医療の技術が劣っていることは間違いない
医療には医者の腕には相当な差がある、それは必ずしも出身大学では決まらない
職業には常に適性がありそれで決まる、手術がうまいというとき生まれつき器用な人がいてそうなる、一流大学でもそういう器用さがない人はうまくなれないのである
そうして医療技術の差が怖いのは命にかかわるからである
だから江戸時代でも目が悪い人が栄養の関係で多かった
それで優秀な医者を求めて遠くまで行って診てもらっていたのである

とにかく医者の技量の差は大きい、例えば認知症に家族がなったとき頭の写真をとったが三万かかった、その機械ではまず脳の写真はとれないのである
脳の写真をとれる診れる機械は福島県では郡山市とか二か所しかないのである
ではなぜ脳の写真をとれないのにとったのか?
それは金をとるためでしかなかったのである
それで保険料も入るから楽に10万以上は収入となるからである
今病院でも設備とか機械に金がかかるから薬でもいらない薬を飲まされたりしてかえって病気を悪くしたりすることがある
開業医は専門医からすると相当に劣っていることは確かである
でも田舎だとまずそんな設備の整った優れた医者のいる病院ではみてもらえないのである、まず医者自体が選ぶことができないのである
田舎で損なのは十分な医療が受けられないことなのである。

都会ではなんでも競争が激しい、だから新しいもの店でもそれがいいものなら客が入り一躍有名になり金持ちにもなれる、でもその盛衰が激しいのである
だめならもうすぐにつぶれるとなる、だから都会からいいものが生まれる
医者だって山ほどいるのだから選ばれる
それで今なら優しい医者がいいとなれば医者だって威張っていられない、優しい医者が病院でも選ぶともなる
それは田舎と違って医者でも選ぶことができるからである
自分と合わないとなれば別な医者をいくらでも選べるからである

仙台の医者でも熱心である、ドイツにも研修に行っている
前はドイツ語で診断書を書いていたが今は英語になっている
つまり医療の中心は技術はアメリカが上になったからである
開業医ではドイツまで行ったりしないだろう
そこに病院との専門医者との差が大きいのである
そもそもどうしても仙台の病院から東京の病院まで行かねばならないのかわからないからだ
仙台と東京でも医者に関してはそれだけの差があるということになる

地方だと前はもっといろいろなことで損していた、自分の場合は本を買うことができず知識の分野では相当なハンディキャップだったとことを知った
今はアマゾンでボタン一つで古本でもなんでも買えるから知識の分野では差別がなくなったのである
この前ロングパンツを買ったが千円でいいものだった、それはこの辺で売っていないものだった、だから得だったと思う、でも合わないものがあったりしたから着るものは問題がある
でも明らかに田舎では依然として売っていないものがある
衣服関係は種類が多いからそうなる

とにかく東京に医者が集まるというのは待遇でもそうだし医者にとっては地方はいいものではないことはわかる
技術をみがけないし先進医療もできないとなるからだ
でも南相馬市立病院の脳外科の脳出血関係の専門病棟ができたのは手術のうまい優れた医者がいて副医院長になっていて若い医者が習いに集まるからである
だから地方の病院でもそういうことがある
ただ断然東京に優れた医者が集まるし若い医者も集まる
それはまた医局制度が悪いものとされたがそれが廃止されて地方に優秀な医者は来ない、東京に集まるというのが問題なのである。



2018年09月19日

東京まで行って医者に診てもらう人


東京まで行って医者に診てもらう人

腰が悪いと前々から医者に行っていた、仙台の医者にも行った、そこは前に小野田病院にいた医者であった、その医者が今度は東京の医者に診てもらいという
その医者は同じ大学で弟子にあたるとかで連絡をとったという
その病院にはこの辺にはない機械があるから良くみてもらいという
それで連絡して薬をだすようにするという

それにしても東京に行くというのは大変である
良く福島医大に通っていた人はいた
それで一番近道を知っていて通っていた
今は高速ができたから早くなる
とにかく病気というのはいろいろあり難病があると仙台でも直せないのか?
わからない病気があるのかとなる
一人は白内障手術したけどもう二か月入院している
それは糖尿病であり手術のうまい医者にみてもらっているからである

その女性の息子は実は今東京の八王子で働いている、でも息子には合わない
援助もしてもらえない、そして常に自分が金を出すことになる
でもそんな人を雇うとどうなるのか?仕事してもらっているのではない
ただ援助しているだけだとなる、へたすると介護までさせられるようになるかもしれないただ仙台の医者は金がないと言ったら一万貸してくれるとまで言っているという
そこまで金の心配までしてくれのかとなる
ただその女性の性格がそうしてめんどうみてもらうようなコミ二ケーションができることには感心している、だからこそそこまでしてくれともなる
自分等は医者でもそんなコミ二ケーションができないからである
そういうコミ二ケーションできる人は助けてもらえることがあるからだ

東京まで行くとなると常磐高速でさくらバスが出ていて5時間くらいで行ける
その人はバスは気にならないらしい、自分も乗りたいと思ったが何か疲れるので東京にも行きたくなくなったのである。
とにかく現代とはもう広域社会である、ええ、金もないのに東京まで行って医者に診てもらうのかとなる
知っている人は東京の親戚を頼り人間ドックに入った
東京だと違うとなるからだ、人間は病気になれば藁をつかむ思いでなんでも頼る
だから東京までも行くとなる
福島医大に仙台の医者から行くなと言われたという、実験材料にされるから行くなと言われたという、それで東京まで行く
ただこれも一面贅沢だなとは思う

ともかく病気の人が高齢化社会では増える、それで医療費とか福祉の負担も増えるのである、何らかの病気になる人が増えてくるからだ
それで昨日のNHKで縁切り自殺のことを放送してい
その人は67歳ですい臓がんになり東京で自殺したのである
それは東京だと行方不明者となり無縁仏として始末されるから迷惑にならないからだという、その人は迷惑になることを相当に気にしていたである
治療費も一か月5万かかるとかで気にしていた
何かそういう考えるのもわかる、ただその人は身寄りがないというのではない
一応内縁の妻とかいたのである、もう一人の人はちゃんと夫もいたのに
突然行方不明となり自殺して消えたのである

人間は最後は介護とかなったら長い、普通に5年くらいはかかる
そしたら身よりがないとなったら誰が世話するのか?
他人は金にしか興味がないからだ
それなら一層死にたいとなる、猫は死ぬ時期になると行方くらますという
人間だってそうなりたい、自殺はすすめられないがあまりにも今は死ぬことが簡単ではない、助けられるのはいいが介護になったら世話する人がいないのだからかえって苦しむだけだからである
おそらく今までは介護といっても一年くらいだったろう
でも戦前でも脳梗塞だと5年生きたとか知っている
その時おむつもなく藁でしていたという、そんなでも5年生きていたとなる

人間は最後はたいがい悲惨である、金があっても直らない病気がある
もし病気が直るなら誰でも金があればいくらでも出すとなってしまう
その人はそもそも東京まで直るのかどうかわからない
ただ医者がそれほど親身になってくれるということで行くという
でも自分にも常に負担になるから困るとなる

2018年09月15日

金をめぐる結末 (認知症になり金のことがわからなくなった)


金をめぐる結末

(認知症になり金のことがわからなくなった)

家族二人はある時金で激しく争ったし金をためていた
一人は思った以上ためていた、それで驚いたということもある
今は誰でもそうだが金を第一の価値としていたことには変わりない
では結果的に最後はどうなったのか?

二人とも認知症になった
そして金のことがわからなくなった
銀行から金をおろせなくなった
通帳とハンコをもってゆけばおろせたのだがそれがわからなくなった
できなくて銀行員に笑われたのである
そのことも驚きだった

人間いくら金をためていても認知症になったから自分の金さえ銀行から下せないし
金のことがわからなくなる
金をためこんでいても金のことがわからなくなる
これは何なのだろうとなる
ただ最後まで金にはこだわっていた、金が大事なことは知っていたようだ
でも自分がためた金をどうすることもできなくなっていたのだ
金のことが証書にしても通帳にしてもその意味していることがわからなくなったからである
だからこれも信じられないことだったのである
そんなことがありえるのかという驚きだった

次にもう一人も認知症になった
こつこつと一円も無駄にせず金をためていた
大正生まれであり働くことしか関心がない、何か趣味などはない
だから家事を94歳までしていたのである
遂に寝たきりになりボケた、認知症になった

そして大金を盗まれたことを言った
その金額は実際相当な額だったのである
でもそれを言ったら笑っていたのである。
これも信じられないことである
一円にこだわり何も使わない人がそんな大金を盗まれて笑っていたのである
認知症になり金にこだわらなくなったのである

そもそも金、金、金・・とこだわってきたのにこんなことになることは何なのだろうか?これも不可解なことである
ただ金のことがわからなくなったということでもなかった
どういうわけか死ぬ一二か月前に孫にいくらやれと自分に支持したからである
それが遺言になって私はそれを実行した
その時正気にもどってそう言ったのである

人間はどれだけ金にこだわり生きているか?
金が今や生活のすべてだともなる、でもその最後に金のことがわからなくなる?
これも信じられないことである

死ぬときはもう金のことばどうでもいいとなるのか?
認知症にして金のことは忘れさせるのか?
大金を盗まれても笑っているのがそうである
あんなに一円にもこだわっていてこつこつためた金を盗まれても笑っていたのである
もし正気だったらどうなったのか?
両方とも恐ろしいことになったかもしれない

一人異常に気が強いから何か事件にもなったかもしれない
でも最後の金の結末は金のことを知るにもわからない、そしてどうでも良くなり笑っていたという不思議である
人間は最後死ぬときになると金のことなどどうでもよくなることなのか?
ただ遺産を狙う人はそうではない、その人は金のことに無頓着わからなくなっても
遺産をもっているとなるとそのために認知症になっても人はその人にまとわりついて金をとろうとするのである

そうなった人を知っている、その人の悲劇は娘でも実際には育てた言えないからである
母親という感情がない娘である、なぜならその娘は育ての親が病気になったとき
何もしない、ただ幸いにその育ての親は病気ですぐ死んだ
だから介護もなにもなかった、娘は何もしない、そして「ひどい娘だわ」と言って死んだのである
その娘は今実の母親を施設にあづけているけど何の愛情もない
ただ金があるので金が目当てなだけなのである
金があるからかかわっているだけなのである

ともかく人間は今は金をめぐって泣き笑いがあり金にまつわり事件がある
でも最後に金の結末はどうなったのか?
二人とも認知症になり金のことがわからなくなったというのも皮肉だ
それも神の計らいなのか?神からの罰なのか?
人間死ぬときになったらもう金のことは関係ないとなるのか?
いい方に見れば死ぬときは金から解放されるとなるのか?
ただ地獄の沙汰も金次第となり金から離れられないのが人間である
ようやく屍となり金から離れるとなる
金の心配はなくなるとなる 

結局人間は悲劇であり喜劇であるのもまた結末なのである 
人間にとって何が大事なのか?
それはみんな金だと思っている
だから金にこだわりつづけて生きる
でも最後に死ぬときに金は何の用もたさなくなった
なぜなら金のことがわからなくなったからである
それは認知症になってわからなくなったからである
本当はそこで金にだけ価値とすることがすべて崩れたともなる
家族なら金で結ばれているのではない、愛情で結ばれているのが家族だからである

でも人間は金にこだわる、金が親子でも家族でもかかわる
その金によって愛情で結ばれている家族が分断されるのである
金によって人間は争い分断される、それはこの辺の原発事故の補償金で分断されたことでもわかる、結局金は欲でありその欲によって争うことになる
でも認知症になると金のことがわからないのだからどうにもならない
銀行から金をためこんでいてもおろせない、これほどショックなことはない
つまり全く金にこだわっていても無力化したのである
人間死ぬときとかになると無力化されるのかもしれない
もう老化したり認知症になることは死ぬということは無力化することである
ある意味で白痴になることでもある、最後人間はどんな人でも無力化される
それが人間の最後であったともなる


2018年09月13日

岡和田から横浜に移り住んだ老人 (都会で増える “呼び寄せ高齢者)


岡和田から横浜に移り住んだ老人 

(都会で増える “呼び寄せ高齢者)

そもそも兄弟の数が減っているので、地方にすら子どもが残っていないから、都市に出ている子どもが世話をしなきゃいけなくなるという。
また一方で、遠距離介護とは違って、Uターンをして介護をするということも、これまであったと思うんですけれども、特にここ10年ぐらい、地方の経済が非常に疲弊していまして、Uターンをして介護をしようにも仕事が見つからない。


その人は電車で来たのではない、車で駅に来たのである、駅には車の人も来るのである
男が二人に老女が一人だった
その老女は私は岡和田に住んでいたんですよと言った
横浜の息子の所に移住したのである
誰もめんどうみるものがなく故郷に住んでいられないで娘や息子の住んでいる場所に引き取られる老人も増えている
逆に老親が故郷に住んでいて横浜から娘が移り住んだ人もいた
それは特別な事情があったからである

なぜこういうことが起きるのか?
知っている人で二人とも娘がいるのだが東京に住んでいる
すると老夫婦でも取り残されたり一方が死んだりすると一人になる
するとめんどうみる人がいなくなる
すると娘とか息子の住んでいる所にひきとられるのである

そうなる人も多いのである、それは結婚は広域的になっているからだ
それで息子であれ娘であれ遠くに住む、ばらばらになっているのが多いのである
昔は実家が長男が継ぐとか実家を守る人がいたが今はいない
それで跡継ぎがいなくて墓じまいしたとかなる
墓も実家があって守られるがそれがなくなると墓も守る人がいなくなるのである
この前は駅前の老女も日立市の甥子の所にひきとられた
そこは空き家になった、そういう人も増えているのだ

広域社会というのはグロ−バル社会でもそうだが物資の流通は盛んになる
でも人間の交流は離れた時点で疎遠になるのである
それは家族でも血縁でも同じなのである
では地元で故郷で誰か周りでめんどうみるかとなると田舎でもいないのである
隣近所で助け合うなど今はない、田舎でも金の世の中になればそうなる

何かこの辺で原発事故以後家族がばらばらになったというとき飯館村の人が嫁の実家の京都に移り住んだとか普通にある、結婚も広域的だからそうなる
そして住み慣れたところを離れてゆくのはつらいともなる
そして農村社会であり田舎なら人のつながりがあると思うがなくなっているのだ
盛んに絆が言われたがむしろ外部との絆は生まれたのである
内部の絆はこの辺は補償金問題とかで分断された
それは広域社会になると外部とのつながりは交通の発達で生まれた
でも内部でのつながりは希薄化したのである

ただ遠くの親戚より近くの他人という諺は今でも生きている
何か困ったことがあったら遠くになると簡単に来ることはできない
結局老親でも近くに息子娘の住んでいる場所に引き取る他ないとなるのである
遠くにいてはめんどうみれないからである
つまり広域社会であれグロ−バル社会であれ矛盾を生んでいる
田舎に住んでいた人が東京とかで暮らすのは年取ってからは嫌だしそれで精神を病むということもあるだろう
これも現代社会の矛盾なのである

2018年07月24日

高齢化社会で目が悪い人が増える (老眼鏡や補聴器は高齢化で確実に売れる商品)


高齢化社会で目が悪い人が増える

(老眼鏡や補聴器は高齢化で確実に売れる商品)


家に来る人は目が悪い、まだ70前でもそである、前に知った人は緑内障だった
今度来た生協の人も60以上であり注文することで聞いたが目が悪く教えることがすぐにできなかった、明るい所でないと見えないと言った
80の人は白内障の手術をする
生協の人は相馬市から来ていて営業に来た人も老人だった
ここでも老人社会になったということがわかる
60代で目が悪い人が多いとなと思った

自分は近視で眼鏡をかけているけど毎日パソコンしているけど目が悪くなっていないのは不思議である、パソコンは目に相当に悪いからである
スマホなども字が小さいから目に相当悪い、若い人でも悪い、何かスマホは視野狭窄になるような気がする、パソコンは画面が広いから字見るのでも違っている

今日注文したのはサングラスで透明のものである、それが2000円で頼まれたのである女性用と男性用を頼まれたのである。
畑で仕事するから日ざしを受けるから必要なのである
今年は暑いからこうした暑さ対策のものが売れるだろう
自分は6リットル入るタンクをアマゾンで注文した,冷凍機能もあるらしい
氷をいれておくとか麦茶を作るにはいいらしい
何しろ水道の水は使えないのでペットボトルを使うからめんどうになる

この辺は35度とかにはなっていないからなんとかしのげる
暑いとか寒いとかこれは住む場所に影響する
浜通りは暑からず寒からずでいいのである。気候だけは推奨できる場所である
一山越えたら福島市になると蒸し風呂である、そんな所に住みたくないのである
体力的に弱い人は気候を選ぶことが大事である
老人になって移住するにも夏の暑さとか冬の寒さを考慮しない失敗するだろう

このように高齢化社会は目が悪くなる人が増える、するとそこで消費が生まれる
眼科医とかが繁盛するようになる
眼鏡類でも老眼関係が売れるとかなる
まず老人は消費力がなくなる、自分も登山しようかとかザックを買ったが行けないので損した、自転車で遠くに行くために電動自転車の長距離用を買いたいと思ったが体力的にも家の関係でも留守にできないとかで行けない
つまり今までしていたことができなくなる
そしてつくづく今のはやりのものでも買うことがむずかしいなと思った
それが何なのかわからなくなり使いこなせないのである
パソコンしていてもスマホはまた別で使いこなせない
それで老人は不利になるのである
今回の西日本の洪水でも死んだ人は7割以上は60歳以上とかだった
津波で死んだ人たちも老人が多かった、何か機敏に老人は反応できないからである

視力が弱まることで周囲の状況が見えづらくなり、適切な判断ができなくなることです。また、反射神経も衰えるので、素早い反応ができずに慌てたことが原因で、ブレーキとアクセルを踏み間違うというケースも増えてしまうのです

高齢化社会で売れるものは何なのか?
老眼の眼鏡とかは売れる、,確実に目が悪くなる人が増えるからである
前にも5万で家族に買ったがそれは使いないで終わった
それは耳が悪くなるからと補聴器を買ったがこれもうまく合わないのである
これは高いから気をつけるべきである、高いのでも10万とかするものでも合わないものが多いからである
ただこういうものは高齢化で需要がありどうしても金がかかるとしても買わざるを得ないから売れるのである   

生協は冷凍のオカズだから何かオカズを用意できないときレンジでちんだから便利であるまずオカズを用意するのがめんどうなのである
ただたいがいスーパーに売られているものでだぶる、値段も安くない
でも冷凍食品は料理するのに簡単だからそこに利便性がある
電気も生協で売るようになった、いろいろな電源を利用するから安くなるという
ただ一年で2000円安いだけでは変えるのもめんどうだとなる
その後のサービスも心配であるが修理とかはみんな東北電力でするというからどうなっているのかわからない、生協は配達にくるからそれも相馬市の人だから何か頼めるということがあるかもしれない、やはり家に来る人は意外と一人暮らしでは頼もしく感じる
そこが家に来る人が銀行でも回って歩くと違ったものになり信頼したりする
でもそれを銀行では利用して投資信託をうりつけたのである。
だから必ずしも家に直接来る人が信頼はできない
ただ生協などは注文したものを配達するだけでありいつでもやめることができる

銀行なども信頼関係が大事である、でも投資信託などを売りつけるということで信頼できなくなった、そうなると直接来てもこの人は信用できないとか銀行でも信頼できなくなるのである。
もしかしたら生協は配達する者営業する者も老人だから老人関係に特化するものを売れば売れるかもしれないとなる、老人にサービスするものが売れる時代だともなる
老人が貧乏だとしても需要があるから売れるとなる
どうししても必要なものは買うことがあるからだ

2018年07月05日

近くの同年代の人は要支援なのだろう (金がなくて援助が頼めない)


近くの同年代の人は要支援なのだろう

(金がなくて援助が頼めない)

介護施設を利用する際にかかる居住費・食費は保険対象外の全額自己負担となり、これを理由に特養への入居をあきらめる人が増えたという。

要介護状態の利用者が、要支援状態の利用者が多すぎて、本来のサービスが受けられなくなることへの対策という部分が強いように思われます。

要支援が要介護に統合されるのではありません。
介護予防サービスが市区町村の自主サービスになり、介護保険サービスから外れるのです

その人は近くで同年代でありその親と自分の親とは親しかった、でも死んだ
その時はヘルパ−がきていた、農協関係なので来ていた
その後その人は脳梗塞になり足が悪くなった、買い物でも車が運転できるので一人で足をひきずりきている
その人も一人暮らしだが弟が隣の市にいてめんどうみている
でもうまくいかないとか言っている

そして自分のことを一人女性に手伝ってもらっているからうらやましがっている
その人はその女性の前の夫とかと仕事をして知っていたのである。
何か手伝ってもらいたいことがある、でも金がないからできないとかいう

でも自分にしても手伝ってもらうにしてもその女性は三日に一回皿を何枚か洗うだけなのである、その他は一切何もしない、でもその人自体が貧乏だから金をせびられる
あんなふうに遠慮なく金をせびる人もいるのかと思う
その人に自分は手伝ってもらう必要はない、家事は今は全部できる
でも誰も来ないよりはいいと思って金を出している
ただ外から見ているとあの人は金があるからお手伝いさんを雇えるなのだとみる
その人はそう見ている
それは足が悪くて苦しいからそう見るようになる

考えてみれば確かにもし市町村から支援を受けるとしたらその人は優先される、家事を多少手伝ってくれる人が派遣される、要支援になっている
でも要支援が廃止されたから援助が受けられない
ただその人には弟がいるとき今はその弟が支援してくれ介護してくれとこれからなる
介護は誰かに押し付けられそれがやはり兄弟となるとそうなる
現実的には誰も他人が介護したりしない
そしておそらく弟もやっかいだからもめているとなるとこれから重症になったらどうなるのか?

「金があればできるのにな」というがその金でも相当な金持ちでないとお手伝いさんすら頼めない、皿二三枚洗って…円も払わなければならないのか?
自分はやめたいと思っている、その女性も年でありいつもどこが痛いとかいい医者通いであり貧乏なのである。障害者もかかえてその世話に追われている
第一金がないのだから金のない所には行かない
その人のことは知っていても声をかけるが行かない、その負担を背負いようがないからだただ自分のしていることくらいはできる、でも金にならないから行かないのである。

こうして金がないと皿二三枚すら洗ってもらいないというが自分の所に来た親戚というものではないがその人たちは自分が苦しい時でも皿二三枚も洗わなかったのである。
なんの援助もしたくない、借金した人は金を要求して脅迫するまでになる
あとは金をとろうとして現実にそうなって大金を失った
そこに金目当てしかないのである。だから金があっても非常に家に入れることは危険極まりないとなる、へたするとその金のために殺されるともなるし現実にそうなっている
和歌山のドンファンが殺されたのもそのためである。
金の恐ろしさがそこにあった

介護保険とは金のあるなしでなく公平に援助するという制度である。つまり金のある人はある程度お手伝いさんを頼める,でもそれは今では大金持ちしかできない
そしてお手伝いさんを頼むにしても現代では危険がつきまとっているのである。
だからこの世は金だけではなんでも解決しない,一見確かに金をやればなんでもしてくれるではないかというがそうでもない,金だけならその金をねらわれるからだ
動機が金だけになるからそうなりやすいのである。
そこに何かそもそもあわれむとか助ける気持ちがないからである。
福祉とは営利だけではやれないことでありそこに問題が生じている
でも貧乏な人は金が欲しいからするのである
それが動機にならざるをえない、金にならなければ貧乏な人は生活に困っているのだから他者を援助できないのである。

つまり福祉とは確かに金ではあるが金だけでは解決しないことがある
でも金だとみんな思っている、介護士がたりないのは給料が安いからだとなる
なんにも得られないなら人はなにもしてくれないというのも現実なのである。
また介護の仕事をしてそこで得られものは何なのか?それも問題になる
仕事がいろいろあり若い内ならスキルを磨く、仕事に生きがいを見出すとかあるが介護にはないとしたら仕事そのものがつまらない得るものがないとしたらやる人もいない
では金をもらえばやるというとき福祉にはその動機だと勤まらないとなる

福祉が金の世界になるとどうなるのか?
極端な話、水一杯やるから10万出せとかにもなる、これを運んでやるから10万やれとかなる、なにかちょっとしたことでもしてもらうのにそうなる、
お前にはそれだけの金があるから払えるだろうと脅迫されるのである。
福祉が金だけが動機だったら極端でもそうなるのである。
そして逆に金の払えない奴はなにもしないとなるのである

ただ別に元気な老人はいくらでもいる、パ‐クゴルフ場ではそうした暇な老人であふれているし復興住宅に入っている避難者でも遊んでいる
仮設の時も自分も介護だったがそんなこと関心がなく毎日パチンコ通いだった
つまり人材がいないわけではない、きつい仕事ができないにしろ元気な老人はいる
でもその人たちはそうして要支援のような人を助けるかといったらしないのである。
介護は誰もしたくないのである。ただ軽い内ならちょっと手伝うことくらいはできるかもしれない、でもそれすらしない、自分の所に来た人たでもそうである
借金しているからパチンコ屋で働いていて余裕がない、自分の家に来てもなにもしない
ただ金をくれというだけである、その人も余裕がないからそうなる
第一他人の家に来て皿を洗うとかなると普通に暮らしている人はしない
特別貧乏な人がやむをえなくしているのである。
だからそういう人は問題あるにしろありがたいともなるのだ
なぜなら誰も他人の家に来て皿二三枚でも洗ってくれないからである。

これまでこんなことは考えもしなかった、なぜなら食事は三食常に用意されていたし
家事もしない、買い物はしていたが後は何もしなかったからである。
だからこれもつくづく自分のカルマだと自覚した
何か自由に旅行したが今は家に誰もいなくなるのでできない、誰も家を守るものもいないからだ、留守にできないからだ、これも何か自分のカルマだったなと思う
楽していることもやがて必ず苦となりカルマを自覚するのである。

ともかく福祉というとき本当は競争社会に生きてきたのとは違うものが要求されている、助け合いとか相互扶助とかが要求される
それを立派な施設に金をかけたりそこで今度は介護士を雇うとか金がかかる、要支援段階くらいだと相互扶助の近隣とかの助け合いでやれるかもしれない、でもそれすら今はない、共同体とかがない、するとすべて金頼みとなる
結果的に国でもそんなに金を払えないとなるのである。国の金はまた国民の税金なのである。
国民もすると税金をそんなに使わないようにするには要支援とかの軽い段階で助け合いした方が節約になる
ただそんなことを考える人はいない、そもそもみんな自分のことしか考えない、そして金の社会だから金を得ればいいとしかない、


2018年07月03日

介護で亀裂する家族 (義母の介護を嫁はできない)


介護で亀裂する家族

(義母の介護を嫁はできない)

「老親の世話や介護というのは、突き詰めれば『親をとるか、妻をとるか』という究極の選択でもあります。あらかじめ自分自身がどちらをとるべきか考えておいたほうがいいでしょう。いざ、という時になると判断が鈍ってしまうものです。

そしてもし夫が妻ではなく親を選んだ場合、妻にとって夫婦関係を続けていく理由はなくなります。だから、夫は捨てられてしまうのです。

お義母さんは絶対にイヤ。お義母さんをとるか私をとるか、きちんと答えを出して。場合によっては離婚です』、妻からこうつきつけられています


人間は家族でもつくづくうまくいかない、妻がいれば介護でも義母でも助かると思う
なぜなら自分は一人で二人を介護したからである。
その時何の助けもない,ただその弱みにつけこまれて犯罪にあい責められるだけだった
もし妻がいればそうはならなかったのである。
そのことで私は反省した、それも自分のカルマだったと自覚した
しかし一方で妻がいてもうまくいっていない、姑とは結婚してもうまくいかない
そのことが尾を引いて介護もうまくできないのである

義母さんをとるか私をとるか?

こんなことを夫に迫られる、家族なのにむごいと思う
自分の場合は二人とも大事でありそういう選択はなかった
そういうのが家族なのか?
ここに家族が血縁でも結婚しても愛あるものとはならない
人間の家族とはそういう宿命を背負っている
子にとって親であっても嫁ぎ先の親は親ではないのである。
こうなると自分の家族にも平和がなかったが家族というものにそもそも平和がありえないともなる、夫がそう思っても妻はそう思っていない
そして夫の実家の墓に入りたくないという女性が三分の一もいるのである
それは義母と一緒の墓に入りたくないからである
そういうことを自分の家族でも経験したからそれはどこの家族でもありえることなのだと実感した
自分の問題は自分の特赦な家庭問題だと思っていたが特殊ではなく普遍的な家族の問題としてあったともなる

結婚しても義母は嫁にとって母になりえないということが深刻なのである。
また義母にとって娘とはなりえないことが介護とかなると露骨に現れる
介護はやはりそれだけ負担が大きいからそうなってしまう
実の母なら介護するが義母は嫌だとなる

だから結婚とはなになのか?それも自分には結婚していないからわからないが家族にはみんな共通した問題として嫁と姑の問題がある
それとも違うがそれとにたことで60年間共に生活しても苦しんできたのが自分だったからである。

つまり人間の結婚とかそこから形成される家族とか自体に問題がある
それは肉の結合でありだからこそ宗教ではそれを否定して出家していたのである。
家族はどこでもこうした問題があり平和がない、それでは家族がないとするとどうなるのか?身寄りのないものはこの非情な世の中で最大の恐怖を生きることになる
誰も親身になり助けるものいていからだ
妻がいれば助ける、でもいなければいかに人間が非情の世界に突き落とされるか実際に経験した,、他人とは金意外何のつながりもない社会である
あいつ死んだらいくら金残しているのかそれしか関心がないのである

でもまた結婚して妻がいてもこうして何かうまくいかない、人間そもそも何かかにか問題をかかえている、一番多いのは金の問題である。
その他にもみんなそれぞれ問題をかかえている
金があっても病気があると金ですべての問題が解決されないのである。
人間は何かがたりない、あらゆるものが満たされている人は一人もいない
何かしらたりないものがありそのことで苦しんでいる
「俺はなんにも困らない」という人はありえないのだ
そう今言っていても一転してドン底に落ちることがありうるのも人間なのである。

人間は何かが足りない、だから足りないものを補い合うというた態度が必要になる
才能でもなんでもそうである、まずあらゆる能力をもっている人などいないからである。社会はそうして様々な能力を活かして補い合い機能している
男女でもそもそもそうだろう、男にたりないものを女性が補い、女性に足りないものを男性が補っている、人間はなぜそうしてたりないものなのか?
それは人間同士が協力しあうようにするためだともなる、何でも満ち足りていれば弱さもなければ協力しあう必要もないからである。

いづれにしろ介護とかでは家族の問題がどこでも噴出する
それは介護が負担が大きいからである。その負担を負わされるのが嫁でも嫌になるからである。それで私をとるのは義母をとるのとかむごい選択を強いられる
それが家族なのか?でも現実はそうなのである
自分の場合は子であるし良くされたからそうした選択はなかった
だからつくづく人間は家族でもうまくいかない、そもそも家族が何なのか?
それに疑問をもったから宗教では出家したのである。
家族が血縁でもそれが本当に愛があるのかとなるとそうではない
まず私をとるのかと義母をとるのかとなど家族だったら強いたりしないからだ
どっちも掛け替えのない家族だから大事にしますよとなるのからだ
それができないということは結婚でも家族でも本当の家族なのかという疑問になる

結局結婚しても結婚しなくても人間は問題をなにかしら問題をかかえる
子供をもっても問題をかかえる、では独り身がいいとかなるとこれもは過酷だとなる
人間はそれぞれのカルマを背負って生きるとなる
そのカルマは人間が生まれと同時に原罪のように背負わされていて解消できないのであるようやく死んでカルマ解放されるとなる

人間はいいことがあると悪いことがある

結婚はいいものであるがまた悪いものである、このように悪いことももたらす,でも独身がいいわけではない、いいことと悪いことをもたらす、人間はいいと思うことには必ず悪いことがともなっているのである
金があるのはいいことだけど反面金があると金だけをねらいよってくる人がいるし犯罪にもあったりする
それはあらゆるところでそうなのである。ではなぜそうそうなっているのか?
それが人間がいくらいいものを幸福を求めてもそれは達成されないということである
それは科学技術がいくら発展して便利になってもそうなのである。
そういうふうに神が人間を作ったとしかいいようがないのである。

だからキリストが言った、悲しむ者は幸いである 人間はいくら幸福を求めても達成できない、そして必ず悲しむ者となる
むしろ悲しむ者が幸いなのである。それは不幸が幸いだとも言っている理解しがたいものなのである
そして人間は悲劇に終わるようにできている、それは人間はこうして結婚しても親と妻である私をとるのとか選択を強いることでもわかる、家族として一つになりえないのである
それは家族だけではない、絶え間ない国と国の争いでもそうでありそこに日本だと3百万人が死んだとか犠牲になる
まさにその人たちも悲しんで死んだとなるからだ

ただこの悲しむこと人間のドラマが悲劇に終わることに深い意味が与えられている
ドラマにしてもハッピィエンドに終わるドラマは何か深い意味を与えない、それでシェークスピアの作品が悲劇をテーマにしていることもわかる、悲劇によって人間の生きる深い意味を理解する、それによって人間は考えさせられる
ハッピィエンドだったら何も考えないからである、だからこうしてなぜ家族すら和合しない、平和がないのかとなるのだ

2018年07月02日

団塊の世代の親が死に同世代も死んでゆく (一人暮らしが増えてゆく)


団塊の世代の親が死に同世代も死んでゆく

(一人暮らしが増えてゆく)

その人は子供の時から家の近くに住んでいた、その親も知っていた
ただその後は言葉も交わさない、でも自分の親が介護になったとき
その人が同じ病院で親を介護していたのである。
脳卒中だった、だからこれから介護が長いなと見ていた
でも今日スーパ−であったら親も88歳で死んで妻も68歳で死んだという
その人も一人暮らしになったのである。
そこにまたいたのが近くの一回脳梗塞で足がマヒした人だった
それは同世代でありその人も親が死んだ、その人の親とは自分の親は親しかった
その人は一人だけで原町に弟がいて一週間に一回見にきている
でもう。まくいってないとこぼししていた
何か世話するのが嫌なのかもしれない

子供の時から知っている人が死ぬとやはりあの人も死んだのかとなる
親戚も多い人は毎月お悔みが増える、それが田舎では大変なのである。
自分はほとんどつきあいがなしお悔みも断った
そのお返しとかめんどうになるのである、葬儀もしないうというとき一人でやるのがめんどうになるからだ、介護でもそうだが一人は家事でも全部やらなければならないから負担なのである。
子供の時知っているということは一応他人でも無関心とはならない
ただ今日スーパ−で会った人は役所に勤めていたことは知っている
ずっとこの地に住んでいたのである
近くの人でここに最近移ってきた人は子供の時からいないから向かいの人が死んでも知らなかった、組にも入っていなかったからだろう
ただおばさんとかいてそっちの方の組に入っていたのだろう
そういう人は死んだことも知らないのである。

ともかく68歳で妻が死ぬということもある、そして一人暮らしになる
近くの子供の時から知っている女性も夫が60代で癌で死んだ
そして大きな家に一人暮らしなのである。
このように一人暮らしが増えてくる、これはどこでもそうだろう
団塊の世代の親でも次々に死んでゆく、向かいの女性は85歳だった
その人の親は88歳だった、姉は85歳で死んだ母は百歳で死んだ、脳梗塞で足が悪い人の母親は93歳くらいで死んだ
やはり85辺りになると死ぬ人が女性でも多いと思った
やはり寿命なのだろう

とにかくこんなに次々に知っている人でも死んでゆく、死の世代だともなる
2025年問題が騒がれているけど実感した、今度は親を介護して看取った団塊の世代が大量に病気になったりする、その数が多いからもう国ではめんどうみきれない、財政的にもめんどうみれないとなる、それが2025年問題である
古い家の郷土史をやはり研究している同級生も脳卒中になったが自転車で運動している
でも一回脳卒中になるとまたなるとか見ると弱って見える
この年だとみんな弱ってくる、そして一人だと心細くなる
ただみんな兄弟とか娘とか息子がいるのとは違ってくる
でも娘が東京にいるとか聞く人が二人いた、必ずしも田舎に住んではいないのである。
それもだから介護になったりすると問題である。
妻でも60代でも死ぬ人がいる、夫でも死ぬ人がいる,するとそこで一人になる人が多いのである

このことで問題にして本を出した人がいた、コンパクトシティを作るべきだというのもわかる、介護にしても福祉にしても離れていると一軒一軒回るのでも手間になるからだ
ともかく親でも知っている人でも次々に死んでゆく
死が日常的に感じる世代になった、そして同世代でも死んでいる人もいるし大量に死んでゆく時代になるのだ、その時都会では火葬場すら満員で利用できないとかの問題も起きている、数が多いからそんなことまで起きているのである。

2018年06月30日

2004年9月30日の俳句日記を読んでふりかえる (向かいの人の死で死を考える)


2004年9月30日の俳句日記を読んでふりかえる

(向かいの人の死で死を考える)

窓開けて隣に古き柿のなる

この辺は前も書いたがまるっきり昔の面影がない町になった。唯一残ったのが隣の古い柿の木である。これは自分の子供時代からあった。ほかは何もなくなった。その隣の家の人が最近死んだ。呆気なく死んだ。時々この窓から見ていたので死ぬとは思っていなかった話すこともなかった。東京の方へでて帰ってきた人だった。おくさんは東京の人だったがそれでもすでにここに長い、でも一言も話すことなく死んでしまった。ただこの柿の木は結局人間の寿命より長い、木の命は人間より長いから人間が死んでも残るのだ。人間がいなくなっても木は昔と同じように存在して柿が今年もなった。

2014−2015年 俳句日記より

隣の家は空家になっている、今は一時的に家を建てるための人が移り住んでいる
その人には息子か娘の夫婦がいて孫がいる
でも家が建ったらまた空家になる
その人の家は夫はこの町の生まれの人だった、嫁は東京の人だった
だから子供の時から知る人ではない、でも長くその家にいて自分の窓からその庭が見えた古い柿の木があり柿が実っていた、犬もいたが最後の三日くらい吠え続けて死んだ
犬も死ぬのが嫌だったのだろう
その女性は体が弱り買い物などを頼んでいたが遂に歩けなくなりいわき市の施設に息子夫婦が入れた、一か月18万とか高いことを言っていた、施設は実際そのくらい金がないと入れないのである。

何か過去をふりかえると不思議である。俳句日記を読んでも忘れている、その時のことが思い出せなくなり日記を読んで記憶をよみがえらす、2005年までは自分の姉は認知症になっていなかった、2006年から認知症になり介護生活がはじまった
その時は自分の家は平和だったのだ
そして自分は以前として家に引きこもっていて隣の家の庭を見ていたのである。
ふりかえると自分の生活は異常だった,なぜこうした生活ができたのか、それは特殊な家の環境のためにそうなったのだ、60年も家にひきこもった生活をしているのは異常だったし普通はできない、最近ニートとかいるから今はめずらしくない
ただ自分の場合は50歳から海外旅行していたからニートとはまた違っていた

この辺は変化はあまりにも激しかった、津波や原発事故の前でも住宅整備があり裏の畑や田んぼは整地されて住宅地になったからだ、その変化も大きかった
子供の時は真野川から水をひく水路がありそこで洗濯もしていたのだから信じられないとなる
人間はこんなに変わるものなのか、特に姉が認知症になりそれからは塗炭の苦しみが延々とつづいた、そのことは今度はプログに書いてきた
そしてなぜまたここに引用して書いたかというと数日前向かいの子供の時から知っている女性が死んだ、一週間前ほどに姿を見かけたので死ぬとは思わなかった
歩ける人が死ぬと思えなかったからだ、でも肺が悪くて血を吐いて死んだのである。

何かそのことが気にかかる、最後に言葉をかければよかったなとつくづく思う
そして近隣の人の死は何なのだろうと考える
何といっていいかわからないのだが死んだ人が何か言いたかった、そしてこの辺をまだ彷徨っていとなる、ただ向かいの人の夫婦は姿も見たこともないから関係ないとなる
でも死んだ女性のことは知っていた、その死が何か気にかかるのだ
家族の死でもないのになぜ気にかかるのか?

おそらく昔の死は村で共有していた、村の中でその死は孤立したものではなく死んでも共有されるものがあった、それで村人みんなで供養したりしたのだろう
そこに寺があり長く供養していた,寺は嫌だがそうして村の共同体が成り立っていた
その村の共同体がなくなると死は個々の死であり家族内とかの死であり近隣ですら関係ないものとなる、孤独死とか無縁社会というのも死者でもそれは近隣でも無縁化した死となる、死には個々の死がある、死ぬということは別に共同体とか社会と関係ないものとしてある、人間が死ぬ、そして灰になり消える,その衝撃は人間が生まれてから変わらないからである。その克服は別に共同体とも関係ないのである。
なぜならもう強固な共同体があったら死をまねがれるということでもないからである。

ただ死には共同体とかかわり社会的な死がある、人間は社会の中で死ぬのである
家族の中で死ぬのである。家族も社会とかかわりあり死がある
何か今回の向かいの人の死が自分にとって何なの考えさせられた
何か言い残したいことがあったのかなと思う、死の謎は個としての死と社会的な死があることは確かである。300万人の死は国家としての社会としての死であり個々の死ではなく社会的死としての問題なのである。

人間がそこに長く住むということは死を共有することになる、村というのは代々つづいているからだ、そこに先祖がいるといか感覚になる、先祖と結ばれるということはそこには村のような共同体があってこそそう感じる,それは理屈でなく一つの宗教にもなる
先祖崇拝がどこの民族でも起きていたからである。

でも現代のように生活が複雑化してそれぞれが孤立化したような社会になると共通の先祖を認識できるだろうか?
春になると御先祖様が山から下りてくるという思想は農業から生まれたのである。
葉(羽、端)山信仰もそうである。山から水が流れてきて春になると田植えがありそれで先祖が里におりてくるというときそれは農耕社会だから起きてきたことである
なぜなら農業社会だとみんな同じような生活をしていたからである
そこに共有するものが実際の生活でもあり精神的にある
そういう社会は死も共有していた、自然と抵抗なく共有できた
村では共同して農業をしていたからである。

だから墓友達などと今は同じ墓地に葬れられたいというけどなかなかなりにくい、つまり生の延長として死もあるからだ、社会的死というときもそうである。
だから現代は田舎でもみんなで死を共有して弔うということがない
葬儀屋にまかせるとはいうのも何か社会的死を専門化させてかたづけるとなるからだ
ただ正直村社会になると葬儀とかが本当にめんどうになるしそこに寺がかかわってきたらさらに金もかかるしめんどうになる、そもそも江戸時代のような社会とはあまりにも変化してそれもそぐほなくなったからだ
ただ死には社会的死がある、それは死というのが個としての死があっても社会的死となるのが人間だからである。動物だったら仲間が死んでも無関心だからである。

いづれにろ現代社会は死も共有できなくなった、その時先祖もなくなる、共通の先祖もなくなる、天皇が稲作の神であり大嘗祭をしていたときは共通の先祖として認識されていたのである。現代のような工業社会ではもう天皇でも共通の先祖として認識できなくなる
その時何が起きるのか?
国家や民族や街や村の解体が起きるのではないか?

津波や原発事故でこの辺が避難して町でも村でも人が住めなくなりもぬけの殻のようになったようになるのではないか?
死が共有できないことは先祖も共有できないことなのである。
つまり現代文明社会は便利さを追求してきたが様々なものを破壊してきた
それは何か目に目見えないものとして心の絆としてあったものも破壊した
金さえあればいいんだということが極端化して共同体でも破壊してきたのである。
それで死にすら意義を与えられなくなった、ただ個として孤立した死となる
孤独死とか無縁化というのは別に特殊な人ではなく社会全般の問題なのである。

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日本社会はすでに壊れているのではないか?
かえって遅れた国だと人と人のつながりが濃くなる
江戸時代がそうだった,長屋とかでもそうだった
ただメキシコが遅れた国とするとき孤立しているのか?
ヨ−ロッパでは先進国でも孤立していなのはなぜか?
宗教のためのなのか?でも宗教は否定されてきたのである。
ただ日本の状態は社会が壊れている、共同体が戦後は高度成長で経済第一主義となり金が第一主義となり破壊された、金があまりにも力をもちすぎた
社会があって金があるのではない、金があって社会があるとなってしまった

だから社会の絆もなくなり解体してゆく、金持ちが外国に貯金して何かあったら日本から出てゆくというときすでに金持ちは責任もなにも自覚していない
ただ金さえあれば世界のどこでも生活すればいいとなる
金だけの社会はそうなる,この辺でももともと一億円もらったら田舎なんか出てゆくのになと若い人が言う時そうだった、そして原発事故で避難民になって多額の補償金をもらったときいち早く出てゆき外に家を建てたのである
共同体の絆もなくなりそれが容易になっていたからではないか?
こんな簡単に村とか町が放射線が怖いとしても簡単になくなってしまうことが理解できないのである


2018年06月25日

病気や死んだ人の話が多くなる (老人が増え死ぬ人も増える)


病気や死んだ人の話が多くなる

(老人が増え死ぬ人も増える)

川の土手で自転車で走ってきたのは同級生だった、一回脳梗塞になりそれが助かったのである。体力的には弱ったがあのように自転車にのれることは回復したのである。
そして近くの知っている人がまた歩いてきた
組の人で死んだ女性は何歳だったか聞いたら84歳だったからそれなりの年だった

死因は肺血腫だった、肺の中に「血の塊」が出来る病気です。
原因は、外傷外圧・肺がん・肺結核・と色々あります

一週間前に歩いているのを見たのである。ただ血を吐いて死んだというからそういう病気だったのだろう,歩いているかと病気が治ったわかげではなかったのである
意外なのは肺炎で死ぬ人が四番目に多いのである。
老人は抵抗力がないからばい菌に弱くなっているからである

それから同級生の話をした、中学時代の話をした、双子の兄弟がいて二人とも死んだと聞いた、一人は同じクラスで慶応大学に入ったのは知っている
その後旺文社に入った、英語が得意で入ったが旺文社は倒産したという、でもまた立ち直ったとかともでている、出版社はどこも苦しくなっている
受験とか予備校とか浪人とか多かった時代は赤尾の豆単など売れたのだろう
今ならスマホで英語も勉強しているから時代が変わりすぎたのである。

田舎ではとにかく知的な仕事は会社はない、出版社だって仙台でもなかったろう
何か知的な仕事する場がない、博物館などがあるくらいだろう
そういう点で知的な仕事をしたいとなると田舎でそもそもないのである。
ただ二人とも死んだというのは信じられない,確認がとれないからである。
ただの噂かもしれないからだ

ただこの年になれば知っている人でも死ぬ人がとにかく増えてくる
親が介護になったり死ぬのも日常である、だからこの年になると病気と死んだ人の話になる、その死んだ女性のことを教えたのも74歳の男性だったのである。
その人も毎日散歩している,年は74歳だったから団塊の世代とは違う。

この年になると一生をふりかえる、それで小学でも中学でも高校でもその後どうなったのだろうとなる、同級会には行っていないからわからない
それでどういう人がいたのかもわからなくなる、ただその双子の兄弟は目立っていたから死んだよと言われたときあの人も死んだのかと驚いたのである。

その同級生は花とか園芸に興味があり庭いじりをしている、それは体に負担にならないからいいと思った、その人の庭を見て通るがバラが一杯咲いていた
その人は植木屋のように剪定する仕事が楽しいとか盆栽にも興味があるから老人にふさわしいとなる,ただ別に花に興味があるのは若いときでもある人はある
盆栽となるとなかなかないとなる、自分は高山植物でも見てあるいたし北海道には宋谷岬がありそこを自転車で旅した時ハクサンチドリが咲いていた
北海道は寒いから高山の花が咲くのである。

その人はまた郷土史とか歴史にも家が南北朝時代の争いで落ち延びた子孫だから興味をもっている
親立・・・となっていたから親がいて子がいる、その信頼される有力者が親になっていたとなる

もし信頼関係を築けないような人と頼母子講をしてしまっては自分がお金をもらう順番になる前に逃げられてしまうかもしれません

信頼関係が大事だからその金を集める親なる人は信用できる人だったとなる
その人の先祖関係でそういう人がいてその証書、証文が一枚一枚残っているという
その家は古いからそうした書類も残っていたとなる
それも郷土史とか金融関係の資料となる、つまり古い家にはそうした郷土史とかの資料になるものが残っているがその人が言うには水害があって流されたとか言っていた

それは真野川が氾濫して町全体に被害があったからである
その時自分の家は街で一番低い場所で大きな被害になったからである。
その後二回河川改修した結果水害がなくなった
でも津波の時は川をさかのぼってきてあふれるところだった
なぜならその下では水が土手を越えてあすれていたから危ない所だったのである。
だから河川改修はしておくべきなのである。

こんなことでまず資料も残りにくいのである。だから郷倉のような場所で村民の共同の意志があって資料も保存されていたのである。
それは村という強固な共同体があったからである。

他にもその人はいろいろ調べている、自分の家にそれだけ古いものがあるということはやはり歴史に興味をもつのである
その人の親も明治生まれだったというから随分年になってから生まれ人だと思った
そもそも明治生まれはもう生きていない、大正四年生まれの母も百歳で死んだ
明治生まれはもういないのである。
こういうふうに時代は急速に変わってゆくのである。
そして今やや老人となり過去をふりかえるようになるのである。  

タグ:頼母子講

2018年06月23日

近くの人の呆気ない死 (死者は生き続ける、社会的意義あるものとしての死を考える)


近くの人の呆気ない死

(死者は生き続ける、社会的意義あるものとしての死を考える)

一週間前くらいその人を家の前でみかけた、一時体が悪くて歩けなくなり姿を見なかったが歩けるようになり元気になったと喜んでいた
それから話していない、一週間前くらいに家の前に出たとき話していればよかった
なぜなら死ぬと思わなかったからだ

でも一週間前ほどに家の前歩いていた人が死ぬだろうか?
普通寝たきり何年とかで死んでゆく
どういう病気かわからないけどそういう死に方もある
その人の夫も急に体が悪くなり一週間ほど入院して死んだのである
その前まで仕事していたのである。

その女性のことは子供の時から知っている人であり世話になったこともあった
身近なのだけど体良くなって歩いているのだなと見ていた
だから別に気にもしない,死ぬなど思いもよらなかったのである。

人間の死に方はいろいろある、何年も介護されてなかなか死なない人もいる
何かこんなに呆気なく死ぬのかという人もいる
ただ何か近くで死ぬ人がいると呆気なく死ぬものだなといつも思う
80歳くらいだったのか?まだ平均寿命にはなっいないのか?

だんだん身近な人がこの年になると死んでゆくことは確かである
同級生でも60代一割が死んでゆくとか70代と二割が死んでゆくとかなる
そうなると常に死者に接する年となり死ぬのもめずらしくなくなる
その人はすぐ近くだからびっくりしたとなる

死者のことを自分も家族が全部死んで常に考えるようになった
若いとき死を毎日のように考えていた,父親を早く亡くしたのでそうなった
その時は死そのものについて考えていた
それで宗教とかに入ったがそこはカルトでありそんなこととは何の関係もない政治団体だった、宗教の最大の問題は死の問題であり死の問題の解決なくして宗教はありえないと思う、その他に無数の問題があるが死の問題を解決しなければ宗教はありえない

ただ老人になって両親とか家族を亡くして死者のことを考える思うというのはまた別である。
死の社会的意義なども考える、あの人は生きて何だったのか?何のために生きたのかとか社会的に何を残したのか?何かそんなことを死とともに考える
不思議なのことは自分の場合家族が死んでから死んだ人のことを考えるようになった
生きているときはさほど考えなかったのである。
これも不思議だなとつくづく思う
それもやはり人間の生は死んで断絶しないからである。

死者は死んで勤めを終えぬ
生者は残され死者を思う
そして生者の勤めは
供養してその死を意味あらしめること

人間の営みはねそういうものだった、一代だけで生は終わらない、継続しているのであるそれが人間の生の営みであり歴史となる
だから先祖というのを重んじない社会は浅博なものとなる
死者は生きつづける、しかし忘れることもできる、死者を活かすのは生者の勤めなのである。
原発避難区域の悲劇はもう死者は重んじられない、若い世代が去ったとき継続するものがなくなり死者は本当に捨てられる、誰も省みないとなる 
だからその時死者は行き場を失い幽鬼のようになり彷徨い成仏しないとなるのだ

ただ現代は死というのが社会的意義あるものとなりにくい,死を考えるとき共同体の中での死がなくなったからだろう、村のような共同体での死なら別である
それで日本では死んだ先祖が春には山から下りてくるという信仰にもなった
それは死者が先祖が村の中で生きているということなのである。
村全体で死を先祖とつながりをもっていたということなのである。

現代は先祖と断絶している社会である。それは共同体が喪失したからそうなった
死そのものの問題が先にあるが社会的意義としての死がその後にある
現代では社会的意義あるものとしての死が喪失した
そこに生の継続がなくなり歴史が断絶することにもなる、今死者が省みられない、社会的意義が与えられないことは結局今生きている人でも死ぬのだから省り見られないとなる
それは今生きている人の問題でもある

2018年05月19日

老人は熱中症に注意 (体力あるうちに登山でも旅でもしないとできなくなる)


老人は熱中症に注意

(体力あるうちに登山でも旅でもしないとできなくなる)

歳をとるにつれて体温調節への反応も遅くなります。暑いのに汗が出るのが遅れるため、体に熱がこもりがちです。汗腺の機能も低下傾向にあり、男性では七〇歳、女性では八〇歳を過ぎるとその傾向がはっきりしてきます。

去年もそうだが熱中症になった,一回小高の方に春に自転車で行ったときなった
これはかなり外で日にあったったからなった,春でも日ざしが強かった

それから熱中症気味になって一番ひどかったのは体がふるえたりした時だった
こんなことにはならなかった,暑さに弱くなった
特に紫外線は体に悪い,今回は浪江で三三度あったから異常に暑かった日ざしが強い
でも家の回りは歩いたが五時ころまで外に出なかった

でも熱中症のようになった,頭がもうろうとして眠気があり寝ていた
食欲もなく自分の場合は胃が悪くなる
もともと胃が弱いからである。夏はずっと食欲がない日が去年もつづいた

とにかく室内にいても熱中症になる,それは老化のせいなのである。
確かに汗をかかないのである。汗びっしょりになれば体の調節ができる
それで暑い国の人は汗を手足に出して調節しているから暑さに強いというのもうなづける暑さに強いからだが作られているのである。
日本は寒暖の差があるからそうはできない

人間は老化してゆく,これはさけられない,ただ暑い時期だけでありあとは平常である。だからなんか暑いとき北海道で過ごしたいとなる
でもまた最近北海道が暑いから困るともなる
ただオホーツク海に面したところだとそうはならないだろう
六月でストーブをたいているとかあったからだ

何か街中は暑くなる,家が隣り合って暑くなる、二階だと特に暑い,隣のトタン屋根が暑くなり二度以上暑くなっているのである。
だから夏は過ごしにくいから嫌になった,北海道は夏は前は気持ちいい所だった
一カ月くらい避暑に行きたいとも思うようになった

今になるともう暑いところには旅できないと思った,だからもっと暑いところに旅すれば良かったとなる,タイには行ってもマレーシアとかインドネシアとかフィリンピンには行かなかったからだ,台湾にも行っていない
結局人間はこうしてどんなに暇があり旅しても遂に旅に行けなくなる日が来る
老人でもまたいろいろあって丈夫な人は丈夫である。
三陸からここまで歩いて旅した六七歳の老人もいたからである。
だから個人差があるから一概には言えない

でもやはり暑いところだとか登山だとかは体力のあるうちに行くべきである。
ヒマラヤも一回しか行っていないのが失敗だった,それは海外旅行をしたのが五〇歳からだったから遅すぎたのである。
これも大失敗だったとなる,人間は若い内時間などいくらでもある
体力もあると思っているがたちまちなくなる
そしてやりたいこともやれずに終わっているのである。

だからやりたいことはきついことは若い内に体力あるうちにやるべきである
その機会を逃したら二度とできないからである。















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