2021年06月11日

脳卒中,糖尿病、ガン や介護で苦しむ人 (その負担は大きくみんなが苦しむ高齢化社会)


脳卒中,糖尿病、ガン や介護で苦しむ人 

(その負担は大きくみんなが苦しむ高齢化社会)


年齢階級別自殺者数は、「60歳代」が4,325人で最も多くなっています。次に「40歳代」が4,234人、「50歳代」が4,181人、「70歳代」が3,508人、「80歳代」が2,457人。中高年齢層(40歳代〜50歳代)と高年齢層(60歳代〜80歳代)で二分しているのが現状です。

自殺の原因・動機に限定すると、約7割が健康問題。国立精神・神経センター精神保健研究所の資料によると、高齢自殺者の90%以上がなんらかの身体的不調を訴え、約85%が入通院による治療を受けていたと言われています。

高齢者虐待の問題は見て見ぬ振り?「地域包括ケアシステム」の大義名分で在宅介護が増えれば、虐待も増えかねない!?  

虐待者の約6割が息子or夫。特に男性にとって、介護は大きなストレスに!?


私の家族も死にたいといい本当に死ぬところだったが危機一髪でまねがれた
それだけ病気の問題は老人の大きな問題なのである、病院で虐待されたからこれも経験ずみである
これだけ老人とか病人増えればもう世話する人も嫌になる、老人嫌いになるのもわかる
老人と病人に使われる社会、時代となってしまうからである
これが高齢社会の最大の暗黒なのである、自殺したくなる気持ちもわかるとなる

糖尿病の人が半年も入院していた、最近また入院した、薬代に10万かかるとか聞いた
それは保険がきかない特殊な薬だからである
糖尿病は結構金がかかる病気である、百万くらいまたかかるとかも聞いた
糖尿病も日本では5倍とか増大した、食習慣が変わって欧米型になったからだとされる
太る人が多いからである、ただやせた人もなるから一概に言えない
まず半年も入院していたらうんざりする、私は一か月入院してもう限界だったからだ
ただ糖尿病とかでもなかなか経験しない病気は理解しにくい
そもそもあらゆることで他人のことは理解しにくいのである
職業が違うと理解しにくい、住んでいる場所が違うと理解しにくい、男女になると根本的に理解しにくいとかなる

ただ病気の場合は家族が病気になるとその病気を治してやりたいとかで詳しくなる
それは家族の一人が認知症になったことでその病気に自分が詳しくなったことでもわかるこれは介護してみないとわかりにくいのである、何か医者すらわからないものだった
そのために四苦八苦したが病気について理解が深まった

とにかく病気になっている人が身近でも多い、脳卒中、ガン、糖尿病が目立つ病気であるあと心臓病になっている人もいる、肝臓が悪くて死んだ人もいる
それが不思議に78歳の歳で4人死んだ、狭い範囲でそうだったのである
だから78歳になると急激に老いるというのもわかる
この年は鬼門なのである

現代では脳卒中でも糖尿病でもガンでも簡単に死なないということはある
でも実際は隣の女性は何か急に死んだ感じになる、その人はガンだった、もう一人の人はガンでも依然として仕事をしている、だからガンでも簡単に死ぬ人と死なない人がいる
最近やはり78歳で死んだ人は病名はわからないが一か月前くらいまでスーパーとかで見かけたがみかけなくなって一か月もしないで死んでいたのである
だから簡単に死ぬ人は死ぬ、死なない人はなかなか死なない

高齢化社会の暗黒面はやはり病気になる人がどうしても多くなることである
その負担が大きいのである、治療費でもかかる、介護になるとさらに金だけではない人の労力がかかり金だけでみれないことがある、それで自分は四苦八苦して苦しんだ
遂に近くで認知症になった母親を殺した事件があった
それはオムツをとりかえることで暴れたから殺したとしている、だからそれも同情する
もう限界になっていたのである
また施設に入れたとしてもその後金を要求されている、その人は収入が少ないのに仕送りしているのである、これも負担だと思った

とにかく老後の問題で金の問題も大きいが健康が一番の問題になる
病気になったらもし寝ているだけになったらいくら金があってもどうにもならない
確かに治療費とかで必要でも根本的に健康が回復しないとすると何もならない
そして老人の病気は治りにくいし死につながっている
人間は必ず病気で死ぬ、老衰は病気ではなく自然死だとなるがほとんどは病気で人間は死ぬ、だから最後に死ぬ前に病気でみんな苦しむのである

ただ簡単に死ぬ人もいるがなかなか死なない人もいる、ガンでも簡単に死ぬ人が二人知っている、でもなかなか十年くらいでも死なない人がいる
だからガンでもいろいろな癌があってそうなる
治療が手厚くなり医療が発達するとやはりなかなか人は簡単には死なない
でもその負担がまた大きくなる、それがなにしろ今度は団塊の世代が75以上になると病気とか介護になる人が増大する、それが若い世代の負担になる
それは国民的負担にもなる、これが高齢化社会の最大の闇黒である
ただ病気をしなければ長生きは悪いとはならない、何か成せる時間が増えるからである
ともかく何か一つのことでも理解するのに時間がかかるからだ
特に自分などは何かを理解するのは遅かった、でも時間をかければたいして能力がなくても理解できることが増えてくるのである

私の母親は百歳まで生きて老衰のようにして死んだ、ただそれでも五年間は寝たきりで介護しなければならなかった、でも比較的楽だったとふりかえる
なぜならポータブルトイレに死ぬ一か月前とかまで自力で行っていたからである
これがオムツとかなったら耐えられないとまでなり殺してしまった息子のことを同情するヤングケアラーのことが問題になったがこれも残酷だとなる
老人のために自分の人生が犠牲にされるとまでなる、若い時に成すべきことができないとなる損失は大きいとなる
そういう人が近くにまたいたのである、だから病気と介護は常に誰かしら関係しているのである
ただ自分は特殊な事情で特別良くされたからできたともなる
他の人はそういうことがない、すると介護もしにくいとなる

老人の問題はこれから何を生きるのかというより何を生きたのかともなる
これから何かしようにもできない、ただこれまで何をしてきたかが問われる
何か木を庭に新しく植えたがこれも成長するには時間がかかるとなる
でも若い時なら十分に時間があるから庭作りが好きなら時間をかけてできるとなる
ただその時金がないとできないとなる
その人が立派な庭を作ったのは若い時でありその時金もかせいだから500万かけて作った、その石作りの庭が立派なのである
もしかしたらそれが人生の一つの成果なのかもしれない
私の家でもそうである、家族が働いて苦労して残した物だからである
それをただ自分は享受しているだけだとなる、そういうことは常にある
死んでから何を残したのかということがある、家とか庭が死後も残されたものだとなるからだ

でも老人になると何か時間をかけることができなくなる
小さな畑で野菜作りした人も遅かった、体がついていかず放棄したからである
体が丈夫な時にしていればそうはならなかったのである
要するにこれまでしていたことをするとなる、だから津波でも原発事故でも老人は復興の力となりにくいとはなっていたのである
木を植えるにしても育つのに十年とかかかるからである、それで何かを新しくするより
今でしてきたことを回想するとかになる
確かに60の手習いとかもあるから一概には言えないが基本的にはこれまでしてきたことの延長しかできないとなる


2021年05月07日

家族と同居しても孤独死 (妻が死んで弱っても家族と同居しても何もしてくれない)


家族と同居しても孤独死

(妻が死んで弱っても家族と同居しても何もしてくれない)

同居している親の死に気づかず子どもが放置するケースが各地で相次いでいる。一つ一つを詳しく調べたところ、仕事を持ち外からは「普通」の生活をしていると思われていた子どもが放置するケースが少なくないことが分かってきた。私たちは遺体を放置した人々を独自に取材。「早く気づくべきだった」「親に申し訳ない」。一つ屋根の下でも、生活は別々。互いに干渉しないようにして暮らしている親子。同居する親子にいま何が?

隣の人は突然妻が死んだ、残された夫は病気持ちである
今日ゴミのことで聞かれた、突然妻死ぬと家のことがわからないからゴミ投げるのにも困るのである
でもその人は家族と同居している、この前は孫と買い物しているのを見た
だから家族が世話しているのかとも見ていた
でも実際は息子夫婦と同居していても前から一つ屋根の下にいても別々に生活していたのである

それで妻が今まではなんでもしてくれた、それをしてくれる人がいなくなった結果
自分自身でするほかなくなった、これは自分自身が経験しているその辛さがわかる
でも家族がいるからいいと見ていたのである
その人は見た感じが相当に弱っている、痩せている、筋肉も弱ってまともに歩けないとも言っている、もう介護一歩手前なのである
でも息子夫婦はかまわないのである

何か今は家族でも家族だからと助け合うということもない場合が増えているのかばせしれない、だから家族遺棄社会とかの本も出ている
それは介護となるとその負担が大きすぎるからそうなる
子供には子供の暮らしがありとても負担しきれないとなる
その70歳の女性には息子がいる、でも全くかかわらないのである
親が困窮していてもなんら関係しない、絶縁になっている
それで何か息子が贅沢していたとかいい車とか買ったとか母親が言っていた
その母親は毎日食うためにかけずりまわっているのである
これもなんなのだろうとなる

もしかしたら家族崩壊現象が起きているのかもしれない
ただ家族は様々であり理解しにくくい、事情がありわかりにくい
だから一概に数式のようには家族は人間でも見れないのである
でも家族が何かおかしくなっている、家族の絆も消失している
それで家族と同居していても放置されて親が死んでいたとなる
そんなこと一緒に住んでいればありえないことだがそういうことが起きている

ただ隣の人の事情を見ればそれもカルマだったのかともなる
なぜならその人は妻に頼りきりで自分自身は働くこともなかったからである
だから妻がいて生活が成り立っていたとなる
だからこそ妻が先になって妻のありがたみを思い知らされたともなる
カルマとして苦しむことになったのかとも見る
何か個々人でも家族でもカルマが必ず苦しみとなって現れてくる
それはもう逃れようがないのだ

例えば若い時の不品業とかあまり若さまかせてその時何も思わない
でも老人になって後悔する、その若い時の若さに任せた不品業も今度は苦しみとなって
年老いて現れて来る、近くの人でもそうである
もう一人の人も今になって誰もめんどうみるものがいない
なぜなら息子が自殺したからである、その責任は親にもあったからである
その事情は良くわからないにしてもそういうカルマをつんで最後に苦しみとしてそのカルマを自覚させられるのである
因果応報が必ず人生にはあるのだ、それは自分自身でも家族でもそうでありそのことを書いてきた

母の継母は母をいじめたが最後に目がみえなくなり母に頼った
そして大学で解剖されて母が遺骨をひきとったのである
最後にその継母は悪かったなと母に言ったのである
何かそうして本当に頼れない人に頼る、普通だったら遺骨も引き取りたくないのである
親でも実際親に苦しめられた人は墓参りもしない、ただ苦しめられたということで親とも思わないとなる
そういう親子も相当に多いことは確かである

そして何か理由がわからないが非情化した残酷な人となった実家の兄弟の娘は育ての親も捨てた
病気になったときもめんどうみない、幸いすぐに死んだから介護もせずに死んだから良かったのである
そして最後に自分にその育ての親は「ひどい娘だわ」と恨みを残して死んだ
そもそもそう言われ相手として自分の家族はなかったのである
ただ自分に最期にそう言って死んだのである
そしてその娘が本当にひどい娘だ、非情な残酷な娘だということが私自身の家でもわかったのである
それは本当にどうしてそんな非情な人に残酷な人になったのか理由がわからない
三人母親が変わっても一番かわいがられたからである
もう施設に入って育った人もいるしそういう人ではないからだ
金に困ったこともないからそれもわからないのである 

ともかくその娘は外面はつくろっている、葬儀もしたとか言っていた
でもその人は誰も愛していない、三人の母親も愛していない、はたしてそういう女性が墓を受け継ぐとかできるのか?
墓参りはしても別に愛情があるからではない、おそらく誰も見ていないとしたらやがて
墓も捨てるだろう、体面的にそうしていただけだからである
私は家族に愛されたし死んでも愛しているから供養している
死んだ人は供養しても何の返答もないしありがとうもないからいづれは供養もしなくなるでも死者を愛している人は供養しづづけるのである、愛しつづけるのである

ただ家族の事情はここに違うから理解しにくい、表面だけ見ても体面をつくろうとういことがありわかりにくいのである
家族が同居していても別居していると同じような状態の人が結構いるのかもしれない
すると同居する意味もなくなるとなる
そして放置されて死んでいるのもわからなかったとなるのはありえないことだからであるでもそういう家族になっているときすでに家族自体が崩壊しているとなる

私の家族は最後はばらばらになり悲劇だったけどやはり家族だった
一つの家族だったことを自覚できた、それは60年以上とか一緒に生活を共にしていたということにもあった、そこで争そっていてもそこに愛が生まれていたのである
複雑にしろ一つの家族としてありえたのである
ただこれも特殊だから外部から理解できないとなっている
そういうことが家族には多いのである

人間を理解するときその人がどうして育ったとかどうしてそんな人間になったとかある
その女性がもともと非情で残酷な人間だったとは思えないからである
誰でも継母にいじめられたとか貧乏で苦しんだとか何か過酷な運命の下で育ったら性格でも歪んでくるとなるからだ
ただ現代の家族は何かそのつながりが希薄化している、だから同居しても別居していると同じだとなっている人もいる

でも不思議なのは家族遺棄社会だとして遺棄した人を放っておくわけにはいかない
すると誰かがめんどうみなければならないとなる
それで家族は家族を捨てる、それで家族は楽だとなる、でもその捨てた家族を誰かがめんどうみる、そのことが理不尽となる
そんな勝手なことが許されるのかとなる、みんな福祉で自治体で国でめんどうみれるのかとなるからだ
またそういう人ばかり増えるとその負担が大きくなりできないともなっているからだ

高齢化社会の問題は深刻である、とうしても老いる人がこれだけ増えることは病気になる人が増える、すでに同級生でも脳出血になった人が近くに二人とか死んだ人もいる
自分自身でも弱っていく、だから恐怖なのである
そして家族遺棄社会というとき家族が同居しても遺棄されているのだからそうなる
また介護の負担が大きく負いきれないとなる
ヤングケアラーが問題になるのもそのためである
隣の人は孫と買い物に来ていたからもしかしたら動けなくなったらそうなるともみる
でもその負担は若い人になるのは大問題である
若い人が介護で貴重な時間を奪われるのは酷だとなる







2021年03月14日

現代老人の不幸 (隠居もできない、一生働かされこきつかわれる)


現代老人の不幸

(隠居もできない、一生働かされこきつかわれる)

長生きすることは悪いことではない、なぜならこれまでの人生は短い
長く生きられないから長寿が願いだった、それで延命地蔵とか各地にある
ともかく病気もあり過酷な労働とか栄養不足とかで長く生きられなかったからである
戦前だと結核で若く死んだ人は本当に多い、正岡子規も36歳で結核で死んだとか
啄木でもそうであり身近でも前の親戚の人の親は若い時20代で結核になり半分の肺を切ったとかある、それは戦後まもなくのことだった
そして一生が病気に意気て終ったとなる、ただ70まで生きたから他の人とは違っていた母の実家の墓には25才で結核で死んだ、その墓を見ると心をしめつけられるようになるそこにどれだけの無念が籠っているか、その25才という年齢が語っているからだ

ただ今度は長生きになっても人間はいい面と悪い面が必ずでてくる
悠々自適の老人もいる、老人と言っても今は小老人(60代)中老人(70代)大老人
(80代)に分かれる、60代はまだ現役であり老人とはいえなくなった
70代から一応老人となるかもしれない、70過ぎると何か本当にいきていたことがもうけものであると感じる、生きているだけで得したとなる
だからこの年代になると生きているだけで存在しているだけでも喜びとなってしまうのである、なぜならもうすぐこの世から消えるからである
だからこの世にあることただ存在していることが貴重であり喜びとなってしまうのであるでも病気とか生活苦があるとそうはならない、健康であればのことである

現代の老人の問題はいろいろある、まず数が多いから敬われることはない、ただ若い人が老人のために税金を負担させられるとかなる
だから早く死んでくれとかなる、老人のために自分の人生が奪われるとまでなる
特にヤングケアラーとかはそうである、20代で祖父母の介護になるのは最も貴重な時間を奪われるともなるからだ、青春は二度とないからである
それもあっという間に過ぎ去るからである
ただそれも経験であり得るものはある、なにしろ人間で大事なことは本を読むことだけではない、経験で知ることが多いからである
何かを経験しない限り理解することができないのが人間なのである

江戸時代後期には,

成人した者の平均死亡年齢は男61歳,女60歳だった
例えば45歳でリタイアすると死ぬまでに1
5年間程度の期間はあった

江戸時代の中でも特に後期は,
「世界最初の大衆リタイア後社会」であった

都市のゆとりのある商人や
武士階級の中では40歳半ばごろには
リタイアして「隠居」する者もかなりいたようである。 

「江戸時代」に学ぶリタイア後の生き方


こうして隠居するのは農民とか商人が多かったというのは意外である
農民だと「隠居田」とかありその質が用意されていた
つまり不思議なのは江戸時代の方が老人にとっては生きやすいものとなっていたのだ
ただこれも格差があり恵まれた人とそうでない人がいた
ただ引退ししても隠居しても何か教えること伝えることがあり重宝になり敬われていたともなる、それは今のように社会が余り変わらないから年長の言うことを若い世代でも聞いていたのである  

今はまずこれだけ変化が激しいと老人は何も知らないできない人となってしまう
現実に技術的にも老人は現代の最先端のITとかについていけなくなる
自分の場合は40代からワープロとかしていたしそのワープロに通信機能がついていて
パソコン通信までしてしいた、それができたのは引きこもりであり時間があったからできたことである、そこで親指シフトを覚えたことが大きかった
これだとスムーズに文章を打てるからである
ローマ字入力だとめんどうでありここでつまづくからである

老後にも人によって違う、多様な人生があるからそれぞれの過ごし方が違ってくる
ただ現代の老人の不幸は金銭的に恵まれない人が多いことである
だから70才でも働くほかないとなり働く場所が警備員とかないとなる
これは工事現場で一応働くから苦しいとなる
老人になってからそういう仕事は辛いのである
でも近くでもスーパーで3時間ほどでも働いている60代の老人がいるしコンビニで働いている人もいる、都会になるともう老人が普通に働いている、70代でも普通に働いているとなる、それが自分の好きだとか生きがいでしているのならいいが金のために働くとなると重圧になる

そして人生も終わりとなる時、そんなふうにして働くの不幸である
もともと自分は若い時流れ作業のようなことばかりしたから働くことに異常なほど嫌悪感を覚えるようになりそれが引きこもりになる原因となり一生旅したりして遊んで終わったとなる
ただ学問とか芸術が好きでありそれを追求してきたのである
それを今成果としてプログに出しているのである
最後は人間はその人のやりたいことをやるべきである
その女性は農家の生まれであり農業をやりたい、それで小さな畑を借りて野菜作りをはじめたのである、その人にとってその仕事は苦痛とは言えないのである
その人は農業に向いている人だと見たからである、でも実際は金がないとかで種から肥料から道具から金を使うだけで収穫ほとんどゼロだったのである
でもその女性は農業が好きだから金があれば最後は好きなことをすればいいとなる
それでも腰がいたいとかなんとか体が弱りできなくなったのである

遊行聖(ひじり)とも。諸国を遍歴遊行し仏道修行する僧侶。なかでも時宗の開祖一遍は,諸国を遊行しながら遊行札とよばれる念仏札を配り,民衆の念仏教化を行ったので遊行上人とよばれた。2祖真教は遊行派という時宗の根幹をなす一派を築いた。時宗の総本山である神奈川県藤沢市の清浄光(しょうじょうこう)寺は遊行寺の名で知られ,歴代住職も一遍同様諸国を遊行したので遊行上人とよばれた

遊行であり遊戯三昧とか雲水とか座禅とか沈黙行とかがある
何か禅宗が自分の性質と合うのである、キリスト教でも宗教がいろんな宗派に分かれるのは人の性質がみんな違ってるからである
自分の一生はまさにこれだったともなる、その原因が流れ作業ばかりとかしか仕事したことがないからである、だからもし自分に合った仕事があればその仕事に没頭したとなる
ただそういう仕事は社会になかなかないのである
不本意な仕事を押し付けられるの、金のためにそうさせられる
だから老後はせめて自分なりのものを追求して終わるべきだとなる
それができないから現代の老後は不幸になる、最後は何か上司や世間に気をつかったりしないで自由に生きるのがいいとなる

だから自分はこれから百才までも生きたいと思う、つまり老後は生きているだけでもその存在を楽しむ喜ぶことができる、なぜならまもなくこの世から消えるからである
そうしたらやりたいことをやらないで依然として奴隷のように働かされて終わるのは苦しいとなるからだ、ただ働くにしてもそれがその人の生きがいとなったりすればいいのである、そうでないと老後まで不本意に生きるとなり生きるのも嫌だとなってしまう
たた現実には経済的なことでそうなっている老後が多いから現代の老人は老後は不幸だとなるのである

とにかく老後は本当は金にかかわらない生き方が理想である、なぜなら現役だと利益から離れられないのである、利権から離れられない、そこで歪められるのである
自由に言いたいことを言いたいとしてもしたいとしてもできない
様々な制約があり金になることが優先される
だからインタ−ネットだと自由な発言の場になるがここも利益のために商売の場ともなった、youtubeでも一億かせいだとかなりそれが話題になる
つまりテレビのように視聴率をとりそれが広告で稼ぐとかなる
つまり社会と同じ場になっている、広告の場になったとき歪められるのである

だからテレビのように何百万見ているというyoutubeは実際は大衆向きのものでありテレビ番組が面白くないと言うが同じようにつまらないものでもし刺激になるものを店て広告費を稼ぐことは同じなのである
だから何でも利益がかかわると金がかかわると本来の趣旨とは違ったものになってしまうのである、そういうものから脱して発言できるのはインタ−ネットの強みだったのである発言するにしても金がかからないからである、手間はかかるにしても金はかからないからそういう場としてあったのがここも営利主義に汚染されてしまったのである
だからむしろ向いているのは金銭的に余裕のある江戸時代なら隠居のような人が発言することなのである
そして老人はそれぞれ経験しているからその経験を語るべきだとなる
ともかく長寿は長年の人類の願いだった、それが実現している現代であるがそれに反して金銭的に余裕がないということでいやいやながら働かされるのは不幸なのである




2021年03月05日

まず困ったら市民課の相談へ (弁護士に直接頼まない―相談だけで百万とられたことがある


まず困ったら市民課の相談へ

(弁護士に直接頼まない―相談だけで百万とられたことがある

5年前にかかわった通信会社のTOPPAとかから何故か一万だけど請求書がハガキでくる
それを払わないと延滞金が月ごとに増えてゆく
だから少なくても恐怖になる
それでこまって消費者相談にインタ−ネットで相談した
その政府の消費者相談は南相馬市の市民課で相談しろと言われそうした
要求されているハガキをもっていって相談した
そしたら後日弁護士が電話で相談すると言われた

それで事情を話しした、まずネットで契約が成り立つのかと聞いたら成り立つという
文書ではその時契約しなかったからだ、それで契約は成り立たないと思っていた
でもネットでも売買しているから契約は成り立つ、口約束でも契約は成り立つ
ただすでに時効になっているから払わなくてもいいとしても請求されて裁判になるかもしれないと言われた

それで払いますから待ってくださいとか言うと相手は録音してそれを証拠とするから気を付けろと言われた、確かに借金でも請求されたとき一回でもわずかでも払えばそれは借金を認めたことになるからしない方がいいとは聞いていた
相手は悪徳会社でも弁護士でも雇っているからなかなか素人だと勝てない
それで大きな会社とかを訴えて裁判で勝つことは不可能だという人もいるのもわかる
個人になると裁判では相当に不利になるのである

ただ一万くらいだからめんどうだから払っていいとも考えた
相手が通信会社であり怖いということもありそうしようかと思った
でもそのままにして一応聞いてみたのである

そもそもがその相談が市の市民課で相談できると思っていなかった

インタ−ネットの消費者相談は国で運営しているものと思ったからである
何か市民課ならすぐ近くで直接行けるし相談できるから安心だと思った
ただハガキを直接もっていったが相談を受けたのは電話である
でもその弁護士は的確に答えてくれた

それも相談は無料だった

でも兄の交通事故の時は仙台市の方へ親戚の人が相談に行っただけで百万もとられたのである
その親戚の人がまず何もできない知らない人だったのである
何か弁護士を知っているからといったので頼んだ
本当に何もしないのに裁判にもならないのに相談に行っただけで百万とられたのである
普通だったらそんな金を払わないのである
頼んだ人は本当に世間のことも何も知らない人だったのである
ただ金は交通事故で賠償金が払われるからそこから出したとなる
このことは私自身の家の落ち度でもあった、私の家の者がかかわったからである
ただその時は何か理解できないものだった

でも今ふりかえると何かおかしいと気づいたのである

何もしないの相談するだけで百万要求し払った!

今回は一万の要求だけど市民課では無料で弁護士を通じて相談にのった
何か困った時、まず市民課に相談する、すると安心だと思った

直接弁護士には相談するな!

南相馬市の市役所が仲介して弁護士に相談すると安心だとなる

とにかく意外と社会の仕組みとかわからないとかで人間は失敗する
何か自分自身が学者肌であり実際は社会のことがわからないのである
現実社会と理論は違うからである
それが家のことで家族が全部死んで様々なことを一人で処理するようになり責任をもたされて社会とかかわるようになって困りそうなった

ただ家族が認知症になったり介護になったりしたがそういうことは相談しても実際引き受けるのは家族しかない、誰に相談しても認知症などわからないからだ
だから四苦八苦して介護したのである

人間は何か困っても相談には限界がある、金で解決するとしてもそれを自腹で払えるかとなるとねずかしい、だから相談されるのも困るとなるからだ
だから市民課に相談しても解決するとはならない、でもその窓口がありそれすら知らなこともある
意外と市で行政サービスがどういうものがあるか知らない場合がある
コロナウィルスの支援金のことでもわからないということがある
ただ最初市民課に相談してみることである



着手金の問題(弁護士費用について)                                    


依頼者と弁護士との契約は「委任契約」です。

委任契約は家を建てることを大工さんに依頼する「請負契約」と異なり、依頼内容の実現を目的とはしません。

大工さんは家を完成させなければ契約内容を実現したことになりませんが、弁護士との委任契約は依頼内容の実現に向けて働くことそのものが契約内容なのです。

つまり、着手金には活動の対価としての意味も含まれているのです。


見極めるポイントはずばり「見積書」です。

これまで弁護士が見積書を出すことは少なかったのですが、最近では多くの弁護士が見積書を作成します。

私も昔に比べて見積もり提示する割合が大分高くなりました。(基本的には提示します。)

また、見積もり提示のタイミングも以前より早くなりました。依頼者がそれを求めるようになったと感じているからです。


兄は交通事故で死んだ、そこでもめたのがそこに勤めていた会社だったのである
会社の人が賠償金を得ようとして画策したのである
その弁護士は仙台市の人であり見積もり書など出していない
相談を引き受けるとしても最初から百万必要だとしたのである

でも実際に交渉したのは保険会社でありその弁護士は何もしないないのである
だから何か着手金として払うことはわかるにしてもこの場合は成り立たない
法外な金をとられたとしか思えないのである

見積書というとき家のリホームでも家を建てるにも見積書を出すのが常識である
そうしないと後で金を多く要求される
ユニットバスは仙台市の会社で見積書を示してくれた、そこは本当に良心的だったとなる実際は百万ではできない仕事だった、他だと二百万以上はかかるものだったからだ
とにかく見積書を示さないと仕事は頼めない
なぜなら後から法外な請求をされてもそれが言えなくなるからだ
そういう大工さんがいたからそういう人には頼めないとなる





2021年02月17日

生活保護の女性死亡で検証求める(関西 NEWS WEB) 菅首相「最終的には生活保護がある」


生活保護の女性死亡で検証求める(関西 NEWS WEB)

菅首相「最終的には生活保護がある」

去年2月、八尾市のアパートで、生活保護を受けていた57歳の女性が24歳の長男とともに死亡しているのが見つかりました。
警察によりますと、女性の死因は不詳で死後1か月が経過し、長男は栄養失調などで死亡したとみられています。

生活保護が必ずしも保障しない、最低限の生活の保障もしない、医療費しか払わないとかありまた医療費でも全額払わないとかある
自治体でも国でも生活保護は許可したくないから申請しても受け付けないようにする
これから財政が厳しくなればますます生活保護が厳しくなる
生活保護がみんな働かなくてもいいからとかうらやましがる人もいるがその内訳は一律ではない、最低限の生活が保証されていないのである
交渉力があっても受け付けないとかあり受けてもその後も最低限暮らせる支給がされていないのである
だから生活保護が最後のセーフティネットとなっていない、これからますますそうなる
菅首相がコロナウィルスで困ったら生活保護があるじゃないかと言ったが生活保護の実情を知らないからそういったのである

何か良くわからないけどアメリカだと意外と貧富の差があっても老後が保障されていたり生活保護でも手厚いと暮らした人が言っている
車も持っていて大きな家に住んでいるという、だからとても貧乏には見えないと言っていた、老後でも保証があり日本よりいいとされている
ただこれはアメリカ国籍を持っている人であり他は日本より少ない
でもアメリカでは比較的生活保護は簡単に受けられるのか、その数が多いのに驚く

現在アメリカの生活保護者は3,500万人で掛かる費用は50兆円に及びます。 日本の3.8兆円とは比較にならないほどの膨大な額です。 アメリカの黒人の中には、155年前の奴隷解放以来、3代4代に亘って仕事をせずに生活保護だけで生活してきた連中がごろごろいます

フードスタンプの受給者は増え、13年3月で4767万人。
総人口約3億1400万人のうちの約15%になる。
09年の3300万人から約4年で1300万人も増えた

アメリカはこのように超格差社会である、湖の数には驚くからである
5パーセントくらいの金持ちがアメリカの富の50%もっているとか
そんな社会がまともはずがない、それでいづれ破綻するとされている

それで車をもち大きな家に住んでいるということもありうるのか?
そもそもアメリカでは大きな家に住んでいるのが普通だからである
ただ黒人というとき差別されているとかあるが逆に手厚く優先的に保障されていることもある、つまりメキシコなどからの移民とは違っているからである
その辺は複雑だからイメージできない
日本とアメリカを比べてもその背景が違うから理解しにくいのである
ただ黒人暴動があったが黒人そのものにも問題がある
ただ単に差別されているというより自助がたりない面もあるのだろう
それでごろごろ生活保護で生活している人がいるとなる

「アメリカでは、債権者からの保護を求めて、破産を申し立てる高齢者がこれまでになく増えている。1991年以来、破産を申請した人の割合は世代によっては200〜300%増加している」調査報告書は指摘した。

これは日本と同じ状態にあるのか、その背景はわかりにくい、

生活保護というとその本人に問題があることも確かである、でもどうにもならない人もいる、アメリカのように老後が保障されないのは日本ではこれだけ高齢化になっているのに厳しいとなる、それだけの財政負担ができなくなっている
だからますます厳しくなる、支出を減らそうとしているからだ
だから一概に自治体が役所の人が悪いとも言いきれない、なぜなら常に生活保護を断り
支出も減らそうとしているからだ
現実にもう飢え死にする人がいても支払わないのである
それで実際は生活保護だけに頼ることは危険だとなる、そんなにんどう見ない、これからはますます見ない、見捨てるとなる

おかしなのは親でも子供がいてもその子供が親を世話しない、完全に縁が切れている
そうなると親でも子でもないとなる、でも誰かがめんどうみさせられる
それが福祉であり社会でめんどうみるとなる、だから家族とは何なのだろうとなる
家族遺棄社会というのもわかる、でもそうして捨てられた人は他人がめんどうみるのである、そうすると手間もかからない、金も払う必要がないから楽だとなる
でも誰か他人がその負担を引き受けざるをえないのである
もちろんすべてを家族が負担するのは苦しいとなる
でも家族がいても子供がいても一切何もしない、あとは誰かがしてくれとなるのもまた無責任だとなる、それなら楽である、でも誰かがその負担を強いられるのである

この親子は頼る人がいないから生活保護に頼ったけど援助してもらえなかった
そういうことは結構これから増えてくる、それはもともと生活保護は政府でも自治体でも減らそうとしている、したくないからそうなる
私は食べるものがないんですと訴えてもわずかなものしか支払われない
そうして他に家族でも頼るが家族も頼れないとなると飢え死になる
この家族はそういう家族だったとなる

日本では財政が苦しくなると福祉の支出は減らされる、でも老人が増えるし病人も増えるから余計に支出をおさえるようになる、そこで生活保護でも支払われないとなる
そして餓死する人もでてくる、そして高齢化で働けない人が増大するのだからますます深刻になる、そこで最後は餓死になる
日本が豊かなのに餓死する人がんのかとなるとそれは最後の頼りだ生活保護しかなくなっている、近隣の人が助ける訳てもない、すると生活保護に頼るがそこでも最低も保障されないから餓死するとなる

ただ昔の不作で飢饉になり餓死するということはありえない、食料も余っている
だから餓死者がでるといのうは社会の仕組みに問題があるともなる
そういう人を出さない仕組みを作れば餓死までにはならていとなる
でも生活保護はこれから意外と支給されない、すると他に頼ることができなければ餓死になる、おにぎり一個食べたいと死んだ人がいた、それは近隣でも無関心社会であり助けてないからである、いくらなんでもおにぎり一個くらいなら与えていた
昔はオカズをりとりしたとかありそういうことはできたのである
孤独死もあるが社会から孤立して死ぬ人も増えている

ただ自分の隣の人は本当に餓死したのである、家を貸していたが戦後まもなく餓死した
その人には子供がいたが子供が助けなかったのである、そして餓死したのである
その家を貸していた自分の家でどうみていたかわからない、汚れた手でわずかの銭をもってきたりした、ただ幼児の時なので事情がわからない、戦後は今と違い相当に貧乏な人が多い時代である、また生活保護も整備されていなかったのである
おにぎり一個くらいならやることができるが貧乏人とかかわるとかなり損になるからしないともなる

ただこれから飢え死にするとか何か貧困な人が日本で増えてくる、老人でも今や保証できない、そして家族からも捨てられる頼る人がいないとか餓死とかが増えてくるかもしれない、でもまだ豊かな社会だから餓死者が出るということは人間が非情になっているからだともなる、だからそれをすべて役所が悪いともならない
近隣でも完全に無関心だとなるからだ
ではそれが自分の問題になったときそういう人にかかわりたくないのは負担が大きくなるからである、おにぎり一個くらいなら与えてもいいがもし同情して助けるとなると相当な負担になる、金銭でもそうである、自分の財産でもそういう人に与えると見返りはないからてある、利益を産まない投資になるからである

今の社会は他者に無関心である、それで孤独死も増える、家族遺棄社会にもなる
家族から捨てられて餓死する人がいる、私の隣の人がそうだった、そういう人に金を貸しても返してもらえないからである
だから今は家族とは何なのだろうという根本的な疑問が生じる
それだけ負担を負いたくないのもわかるがそうして家族を捨てるとしたら家族でありえないとなる
なぜなら全く親のことに関心もなくなっているのも理解できないからである
その代りに他人が世話しているともなるからだ、生活保護は他人の世話になるということだからである
ただ正直かかわらないのは負担が大きすぎるからである
自分の時間とか金とかその負担のために奪われるともなるからである
だから近くでそういう人がいて知っていても助けないのである、無関心なのである
一旦かかわるとその負担が大きく耐えられなくなるともなるかである
それもおにぎり一個を与えるのではない、継続的に支援をせざるをえなくなる
その負担が大きいのでかかわらないのである

2021年02月11日

埼玉県では25人に1人が「ヤングケアラー」 (自分優先か家族優先か-自分の人生が奪われる)


埼玉県では25人に1人が「ヤングケアラー」

(自分優先か家族優先か-自分の人生が奪われる)


家事や母親の世話で自分の自由な時間がもてなくなり、「何で私が?」と、よぎる瞬間もあった。思いが行き違い、母親と何度もけんかした。


ひとり親家庭 増加が背景に
 若年介護者が増えている背景には核家族化の進展、ひとり親家庭の増加があるとされる。群馬県人口は減る一方で、世帯数は右肩上がり。1950年代まで5人台だった1世帯当たりの人数は2019年に2.40人まで減った

「限界だった」たった1人の介護の果て なぜ22歳の孫は祖母を手にかけたのか

これは残酷である、10代から介護になるとすると自分の人生が介護で消失する
精神疾患が多いとすると親か若いうちに介護状態になっている
ただこれから祖父母が介護になったとき家に人手がないから孫が介護する家が増えてくるかもしれない、どうしても介護はつききりになるからだ
すると誰かが働かないと収入もなくなるからだ
その年でまず介護がどういうものか理解する人はいない
だから相談相手もいないし介護サービスのことも知らないとなる、手続きもめんどうで受けていないというのもわかる

家族が優先か自分が優先で悩むというのもわかる、何か親のためにしなければならないというになる、家族のためにやらなければならないとなる
でもそもそもそんな子供の時は家族にしてもらうのが普通である
家族が与えてくれるのが普通である
それで進学も大学にも入れないとか結婚もできなかったとか様々な障害が生まれる

これは悲劇だ!

私自身は介護は苦しかったけど介護して良かったと今では思っている
というのは60まですべて何でも身の回りのことをしてくれたからである
これもまた普通ではありえないのである、引きこもりでも世話してくれたのである
そこで一切働けとか言われなかったのである
引きこもりで親に殺されている人もいるからそれだけ恵まれていた、親が世話してくれたただそれがマイナスに働いたことはある
人生には何でもプラスに働くのとマイナスに働くことがある
だからそんな若い時から介護になっているということでも何かプラスになることはある
でもこれは余りにも過酷だとなる

そしてこの人たちが成長した時どうなるのか?

親が死んだりして親をどう思うのか?

親を怨むとなる、そういう人が自分の親戚にもいた、親を介護したわけではないが親に苦しめられた結果、死んでも親のことを想わない、墓参りもしないとなっている
おそらく親を恨んでいるとなる
これは双方にとって不幸である

自分が優先か、親が優先か

この年なら確実に自分が優先である、それは責められない、親のために人生を捧げるというのは生物的にもありえない、親は子供のために命までささげるからだ
でも戦前とかまでは後進国などでは今でも子供は親の犠牲になることが強いられている
子供は労働力として見られているし外国人労働者も親に仕送りしているからである
私の母なども親のために早い時期から働かされて稼ぎを親に出していたのである
それは戦前とかでは普通にあったことである、親孝行が優先されていたのである

何か母の実家では母親が病気にもなり若い時それで苦労したとは聞いた
大正生まれだから今との価値観は違う、でも結果として母は働きづめであり何か余裕ある生活もできなかった、それで花にすら興味を示さなかった
庭に花より野菜を豆を植えていたのである、食べることを優先されたとなる
それで遊んでいた自分とは合わなかったのである
母にって働かないで遊んでいる人生など考えられなかったのである
ただそういうことができたのは母だけではない姉がいて私は自由な人生を送ることができた、母だけったら若いころから働きづめであり大学などにも行けなかったのである

若い時やりたいことをやらないとあとはやれない、時間ほど人生にとって貴重なものはない、それもあっというまに過ぎる、だから青春時代を介護になるということはあまりにも過酷だとなる、ただそれだけ苦労するということはプラスの面はある
でもやはり人生でやりたいことをやれなかったという後悔になる
これはみんな老人になれば後悔しているのだがこの場合は

親の介護で自分の人生は犠牲にされた!

必ずあとでこう思うようになる、それは親と子供にとって不幸なことである
親を恨むようになるからである、やがては親の供養もしないとなる
ただ苦しめられたという思い出しかなくなるからだ

私は介護では苦しかったけどそれも当然だという感覚になっていた
それは普通の人より良くされたからである、だから苦しくても当然となっていた
それは無理やりでもない、自然にそうなっていたのである
60年間一方的に世話になるだけだったからである
だからこんな若い時から介護になることは余りにも残酷であり理不尽だとみたのである
ただ家族に人手がなくさらに介護者が増える、2025年問題がある
団塊の世代が介護状態になる、認知症になる数もすごい、そうなると孫とかに介護が強いられる時代にもなる、それは本当に孫を不幸にするのである
そして祖父母でも恨むことになる、それは双方にとって不幸なのである

私は何か30頃なのか登山した、体力かないので死ぬように疲れた、その時親戚の人が病気で輸血してくれと言われた、でもしなかった、その時確かに罪悪感を感じた
10代から20代でも家族のためにしないことで罪悪感を感じているのもわかる
それは家族だから余計にそうなっている
ただ正直自分の人生まで犠牲にして親の介護に貴重な時間を消費していいのか?
これは本当に疑問である、強いられてしょうがいなともなるが過酷である
結果としてあとでふりかえり親のためにやりたいこもやれず親のために犠牲にされたと思うよりなり親を恨むようになる
私はふりかえれば介護して良かったと思っている、恩返しできて良かったと思う
それだけ世話になったのだから当然だと思っていたし感謝して死んでくれたから心も安らかである、それで死後も供養して思っているのである

いづれにしろ2025年になると介護者が膨大に増える、そこで孫もその介護者になり犠牲者になることも増える、それだけ介護問題は深刻なのである
個々の家族で事情が違っていてもそれは大きな社会問題になるしすでになっている
金銭的にも日本が貧困になり援助できないからとなり家族に押し付けられる
それで孫まで犠牲になりそして祖父母でも恨むとなる
これも悲劇なのである、ただ確かに介護のことを同世代で理解することはむずかしい
介護自体もまた経験して見ないとわからないからである

まず親に良くしてもらわてかった子供は親にも良くしない、これは確かである
だからただ親に苦しめられた子供は親に良くしないし介護だってできないのである
それで兄弟でもお前は一番親にかわいがられたから良くされたからお前が親の介護をしろというのもわかるのである
それだけ介護は誰もしたくないのである、でも誰かに押し付けられるのである
これからそうして介護殺人も日常的になる、それだけ介護問題は深刻なのである

2021年01月19日

息子の介護殺人が増える (男は家事ができない相談する人がいない)


息子の介護殺人が増える

(男は家事ができない相談する人がいない)

carekill1.jpg

2020年4月、福島・南相馬市で、自宅で介護をしていた70歳の母親の顔に、折りたたんだ布団をかぶせ窒息死させるという事件が起きた。

逮捕されたのは、47歳の息子。犯行後、自ら消防に通報し、事件が発覚した。

「担当弁護士によると、介護を優先してアルバイトの勤務を調整していたという。状況を聞き取りに来た市役所の職員にも支援を求めることはなく、少なくとも10年以上1人で介護を続けていたとみられる。」

2020年11月16日、判決が言い渡されると、息子は静かに前を向き、裁判長の話に耳を傾けていた。

「おむつ交換の時に泣き叫ぶ母の声を聞きたくなかった」、「母に申し訳ない気持ちでいっぱいです」と、被告人質問で反省の言葉を繰り返した息子

熊本県警宇城署は2021年19日、自宅で同居する母親(90)の首を絞め殺害したとして殺人の疑いで同県宇城市不知火町御領、長男で無職の内山正光容疑者(67)を逮捕した。容疑を認め「親に対するうっぷんがたまっていた」と話している。


2019年10月、郡山市・63歳の夫が、長年1人で介護していた25歳年上の88歳の妻の首を絞めて殺害。

2019年11月、川俣町・68歳の息子が92歳の認知症の母殺害後、自殺。

熊本県で起きた介護殺人は親が90以上で二人を介護しなければならないことで起きた
二人というのは辛い、一人でも辛いのに二人となるとさらに辛くなる
自分自身も二人の親ともなるのでそのことに恐怖していた

私の場合一人がまずひどい認知症になっていた、その介護で二年半が費やされた
二人の親がいて一緒に住めなくなり自分一人で一人の親を介護していた
認知症だから肉体的介護はしていない、認知症は精神的介護なのでそれでまいってしまうのである
そのことを延々とプログで書いてきた
もしこれが十年もつづいたら確実に自分も殺人までにもなる可能性があった
すでにうつ病にもなっていたからである
ただ救われたのは脳卒中になり入院して死んだことである
二年間は苦しかったが意外と早く死んだので助かった
次にもう一人の親の介護になった、これは主に身体的介護であり寝たきりにもなり認知症になったが精神的には楽だった

そしておむつの交換などはしていない、というのは母は入院して死ぬ一週間前までポータブルトイレに立って行っていたのである
だからおむつ交換となるのと自力でトイレに行けるのとでは相当な差がある
介護する者にとってその差は大きい
だからおむつ交換のとき騒がれて殺すまでになった
市職員の支援を求めるというが認知症の場合はない、私は最初民間の認知症の相談にのる所にいったが何の援助にもならなかった
そもそも認知症に関しては相談するにしてもその場すらない
たいがい身体的介護であり認知症の介護はその中に入ってないないのである
市役所の職員に支援を求めて対応してくれない、認知症は普通の身体的介護とは別だからである

そもそも認知症とは何かを知っている人は少ない、医者すらわからない人がいる
なぜなら直接認知症の人を介護しなかぎりわからないからである
私は介護していてこれがどういう病気か理解するようになって楽になったのである
一時は狂気になったと思い自分自身も恐怖した
でもこの病気は狂気とも違うときづくようになった
確かに物忘れでそれが狂気化するのだが人間として何かわかっていることがある
そして認知症の不思議は正気にもどることがある
だから愛情もって世話すればそれが通じる、でもそれをしないと恨まれる
最後は私が世話してきたことをわかってくれて死んだから救われた
それは自分自身は特別良くされたからできたことである
特に男は介護することが向いていない、家事とかができないし相談する人もなく孤立しやすいのである

熊本の人は二人の90を越えた親でも介護するようになったみたいだ
それで両親を殺す悲惨な結果になった
二人を一人の息子が介護することはあまりにも負担が大きすぎる、それと同じことが自分に起きるところだったし現実にそうなる寸前であった
一人が早く死んでくれて助かったのである 

いづれにしろ介護殺人はこれからも増えてくる、その加害者になるのが息子が多いのである、男は相談する人もなく孤立するからだ
女性だと相談する人がいる、そういうコミニケーションができるのが女性だからである
男性の場合はしにくい、そして孤立する結果としてどうにもならなくり親を殺す悲劇になる
私の場合は自分自身が病気になったことでも苦しかった
そして自分の所に来た人たちは金を無心しようとする人たちだけだった
自分の窮状を察してくれる人はいなかった、むしろ田舎だとそうして人が苦しんでいるのを楽しく見ているのである、それはおそらくそういう目に田舎であっているから他者が苦しんでもそれが楽しみともなっているのである
ただ傍観しているだけでありそれより楽しみともなるのである
ただこれも自分が楽したことによるカルマでもあった
カルマは必ず60以降に苦しみとなって現れるからだ 

これからこうして介護殺人が増える、90以上の親など普通であり当たり前にいる時代である、そして介護になる、だから親二人を一人の息子が介護することもある
その負担に耐えられなくなる、裁判でも情状酌量になっているのもわかる
もう限界になりやむをえずそうなったとなるからだ
だから介護で死んでくれないかなと思うのは普通のことである
自分自身もそう思っていたからである、でも私の場合は一人が早く死んでそのあともう一人介護になったから助かったのである

二人同時に介護することになったらどうにもならなくなった
そういう恐怖があった、そして最後は介護したことで感謝して死んでくれたので心やすらかだった、死んだあとも心安らかに供養できている
もしこれが苦しい介護でも恨んで死ぬようなことがあるとあとあとまで悔やむことにもなる、認知症でもそういうことがわかるからだ
いくら苦しくても恨んで死なれると後味が悪くなるし後悔になるから苦しいのである
ただ自分の場合は他の人と違って特別良くされたことでできる
みんながそうではないからそういう人は本当に介護することができなくなる
男の場合は家事にもなれていないし女性のように援助を求めににくいしと不利なのであるそれで男が介護で親を殺しているのが多いのである





2021年01月17日

死者は家に住み続ける (家の価値は建物だけではない、精神的価値が大きい)


死者は家に住み続ける

(家の価値は建物だけではない、精神的価値が大きい)

houseman111.jpg

テレビで東京の空家問題をとりあげていた、東京でも空家が増えている、ますます空家800万軒にもなるという時代である
ある人は都会の人は家を買うべきではない、飲み食いして寝るだけのものに大きな金を払うべきではないというのもわかる
ただこの人は独身でありおそらく家で家族と過ごした時間がなかったのである

最近自分が家のことを考えるようになったのは家族がみんな死んだからである
そして一緒に暮らした時間が60年とか長かったからである
それで家族がみんな死んでから何か家を前より意識するようになった
それまでは大きな家でも一室を与えられるだけであり家のことをそれほど意識しなかったのである

でも死んでからここに母が百才まで生きて座っていたとか姉がも座っていたとか死んでから依然としている感覚になる、死者の存在は簡単に消えない、それも家の中にいる感覚になる、そこに思い出があり記憶があり暮らした歳月がある
今やそういうものは家とともに記憶として残されているだけである

建物という時、その機能とかに注目する、でも家には家族共に暮らした記憶の場所なのである、そして老人になるとその生きた記憶の方が大事になり価値あるものとなる
それは見えないものである、記憶とは心の中にあり具体的な形として見えないものにもなる、ただ家があると建物があるとそこで営まれた歴史があり歴史的建造物として残される家も小規模であるが私的なものでも歴史的建造物なのである
家々には必ず歴史があるからだ
ただ家々となると公共的なものではないから私的なものだから歴史的建造物になるのはわずかだとなる

ただ本当に不思議なのは人間が家であれ60年もそこにいれば一緒にいればその存在は簡単には消えないものだと思った
母が座った場所に自分が今座っている、するとそこに母がいる感じにもなる
それで嫁は女+家だということを実感する
そして嫁になった女性でも賃貸とか住宅に住んでいる人は嫁になっていないと見た
一人暮らしでも家に住んでいない人は賃貸だと思い入れがないのである

家の価値は最初は家という建物にある、快適に過ごせるかとかの機能にある
でも時間がたつにつれて家は一緒に暮らした記憶の場所となる
つまり建物に付加されたもの、精神的価値が大きくなる
ただまた不思議なのは家には依然として死者がいてその死者がなお家を支えているという感覚にもなる、そしてその死者とともに残された跡を継いだ人が一緒に家を支えているという感じにもなる
家を通じて死者を背負っているという感覚にもなる、だから家には遺影がどゃでも飾っていてそれで家は継続しているのである

何か人間と家は一体化する、時々家の方が大きく偉大なのかとすら思える
家があるからこそ自分が支えられているとかまで思う
家という建物の方が偉大にも感じるのも不思議である
家というのはそれだけ人間にとって単なる建物ではないのである
日本人にとっては特に家は単なる建物ではない
江戸時代でも侍でも御家中と言っていたのはそのためである、家来でも家のものとなっていたのである

ただ家の価値は外から見たら機能的なものとしか見ない、それは別にそこに家族として暮らした思い出もないからである、その思い出を歴史を受け継ぐこともないからである
都会だと田舎と違って機能的な価値が大きくなる、でも何代も住んでいる家とかなると違ったものになる
いづれちしろ家のことを間借りしているようではその価値がわからない
これまで自分自身も大きな家に間借りしていた感じだったのである
まさに間を借りていたとなる、でも家族がみんな死んだ結果家全体を受け継ぐことになりまるで違ったものになったのである

家族が死んでも家があるからそこに家族もなおいて家を支えまた生きている人とともにいるという感覚になる、墓には死者はいない、家にはなお死者が生き続ける場所だとなる
それで嫁が女に家となるなのである
つまり家を受け継がない女性には何か存在感がないのである
家にはその時々で使い捨てる消費するものではない、家は継続してゆくものである
それは二代くらいでもそうなのである、もう何でも買って消費するとなっているが家はそういうものではない、一時的にそこで食事して寝る空間ではないのである

それは間借りした部屋であり家に住むという感覚にはならない
だから家がない女性は間借りしている感じになる、存在感が薄いのである
嫁に家と一体化した女になっていないのである、その人は夫もいないから余計にそうなる
それで原発事故とかで住む場所がなくなり家に住めなくなったというときみんな家をただの建物だとみている、別に他に補償金をもらったのだから建てたからいいじゃないかとなる、現実に家を建てられない人もいるからだ

でもそこで失ったのは家という建物だけではない、そこで暮らした思い出とか記憶が奪われたのである、だから老人は帰りたいとなるし残っているのは老人なのである
親が施設に入っても家に帰りたいとういとき家で暮らした思い出の場所に帰りたいのである、施設はそういう場所ではない、機能的なものだけであり一時的に老人を世話する場所だからである、家とは性質が違っている、そこに精神的価値はないのである

人間は精神的価値を軽く見るしまた見えないのである
そもそも思い出とか記憶は何か金になるとかない、建物とか土地なら価値になる、金になる、ところがこの世には金にならない価値がありそれが逆に大きな価値となることがある老人になると確かに金の価値は依然として大きい、でも精神的価値も重要になってくる
それが老人は誰でも自覚する、なぜならもう生きる時間がないというとき時間が最も価値ある者ともなるからだ
これまで生きた記憶が思い出が何より価値あるものとして自覚されるようになるからだ

空家の問題はそれが建物として不要になったということにあるがそれだけではない
家にはモノとは違った精神的価値がありそこに思い出があり記憶かある
銭湯屋だったというときそこでくつろいだ人や何か思い出がその建物にあるともなる
それは飲み屋でもなんでもそこに人の営みがありそこに思い出が生まれ価値あるものとなる、人間はただ飲み食いして寝るというだけではない、それに付加して精神的価値が生じる、付加価値が生じる、それは金にはならないものなのである
でも人間として生きることはこの付加価値、金に替えられらないものがある
それが最後に老人になると思い出とか記憶になる
それはもう二度と作れない、経験できないからそうなっているのである
だからつくづくそこに一時でも過ごすことは貴重な時間だったと老人になり意識する
でもはその時間は永遠に帰ってこないのである

2021年01月03日

日本なのに「餓死」が増えている? データが語る「ヤバすぎる未来」 (生活保護もセーフティネットにならない)


日本なのに「餓死」が増えている? データが語る「ヤバすぎる未来」

(生活保護もセーフティネットにならない)

saftynet111.jpg

失業者が増えても生活保護が受ける人が増えない


 大阪府高石市では、9月に高齢女性が餓死し、同居の息子も衰弱して入院したことが明らかになった。大阪市港区ではマンションの一室で女性2人の遺体が見つかり、司法解剖したところ、2人とも餓死したとみられることが判明した。

 厚生労働省の人口動態調査には、さまざまな死因による死者数が報告されているが、その中で餓死の理由に相当する死因として考えられそうなのが、“栄養失調”と“食糧の不足”である。

こういうことがなぜ起きるのか?食料自体が余っている、ただ金がないから買えないとなり飢え死にまでする
その前に助けを求められないのかというとその頼りとなるのが生活保護である
でも実際は生活保護は簡単に受けられないし最低限の保証もされていないのである
年金4万もらってあとは医療費が無料くらいしか受けられない人もいる
つまりそうなると最低限の生活の保証はされないとなる
もう生活保護も最後のセーフティネットにもなっていない
するとどうなるのか、食べ物を買えない、まともに栄養がとれない、そして衰弱してゆく最悪は餓死してゆくともなる

そして今はもう隣近所でも助け合わない、日常的に貧乏な時はオカズでもやりとりしていたが今はない、するとおにぎり食べたいと言って死んだ人がいたがその人は隣近所に腹減ったから食べ物下さいとは言えないのである
もちろん乞食もいない、物乞いもできない、すると生活保護でも最後のセーフティネットにならないとしたら餓死するのである
それが日本が貧困化すると政府でも自治体でも生活保護を受けさせない、受けさせても最低限の生活を保証しないとなる

おそらく生活保護はこれからもっと厳しくなる、そして国民年金でも6万くらいでありそれでは食費をまかなうのがやっとだとなる、その前に必ず電気、ガス、水道代を払わざるを得ない、そこで毎月必ず止められるのである
そのためにその代金をとりにくる人が委託されたものでありやめたということがある
嫌になってやめたのである、取り立てるのが嫌でやめたというときそういう人が相当数いるからそうなる

生活保護といってももう憲法で保証されたものはもらえないとなる
これからはそういう人が増えてゆく、だから安易に生活保護になればいいやということにはならない、それは期待できない時代になっている
福祉でも高度成長のような時代の時は成り立っていた
私の母親は年金を全く払っていなかった、でも60才から3万くらいもらっていたのである、それであと5年延ばすともっともらえたと悔しがっていたのである
そうして百才まで生きたからである、40年間でも3万はもらっていると大きな金になった、それも全然年金として払っていなかったからである

そういうことができたのは日本が豊かになっていたからである
その差が大きいのである、高度成長時代は貯金でも利子が7パーセントとかであり貯金をしていると倍にすらなったともなる
それが今は全く利子もつかない、それより預金封鎖だとかなんとか金をもっていても紙切れになるとかという不安がある、それは日本の経済がますます落ち目になっているからである、だから老人ばかりふえて福祉にばかり金をかけられなくなったのである

生活保護でも年金でも医療でもそれが成り立っていたのは豊かな時代があったからである第一福祉というときみんなが貧乏になったらできない
だから貧乏な時代は福祉はないのである、乞食になったり餓死したりした人もいた
要するに生活保護ない時代があったのはそれだけの金を出す余裕がない社会だったからである
それと同じようなことがこれから起きて来る、国でも自治体でも金を出さないのである
無い袖はふれないとなるからだ

袖の無い着物では、どうしたって袖を振ることはできないということから、持ち合わせの無いものはどうすることもできないということ。
着物の袖は財布を入れておくところなので、袖が無いのは金が無いということで、金銭的な援助を申し込まれたときや、返済を迫られた場合などに使う。

まさにこうなる、今やなっている

新年から暗い話になるがこれも現実である、生活保護になればいいということをしきりに言うがもうそれもできない、最低限の保証すらない時代になるしなっている
ではどうするのかとなると昔の様な隣近所がオカズでも出し合うとか助け合うしかないとなるかもしれない、それも今はなくなったのだからむずかしいとなるがそうしないと悲惨な人が餓死者が止められなくなるかもしれない、こんなに食料があるのに餓死者が増えて来る、これもおかしいが社会がそういう仕組みになったとき生活保護地なればいいとなっていたときそれがなくなったときそうなるということである

私の年金でも一万くら月に減ったとか厚生年金の人も減らされている、これからも減らされる、年金頼りの人は苦しくなる、年金の仕組みは下の世代が税金をおさめてもらえる仕組みになっている、すると少子高齢化で老人ばかり増えたらその負担が大きくなりどうしても減らすようになる、医療費もすでに減らしている
福祉でも崩壊しかねないのである
ともかく電気、ガス、水道をとめられると生活できなくなる、だから食料を減らしてもそこに金を払わざる得ないのである 

団塊の世代の子供の時は電気代でも裸電球くらいであり水道もない、近くの井戸の水をもらっていた、風呂焚きは仕事だったけど木材屋のあまったいらなくなった木の切れ端、バタなどを新聞紙で燃やしていたのである
洗濯は裏に堀がありそこでしていた、そうしていると確かに金はかからなかった
だから自給自足の農家の方が豊かだったのである、農家では卵も食べられたし納豆でも自家生産していたとか食料があったからである
でも今は電気、ガス、水道がないと生活できない、それで必ず払えなくなり苦しくなるのである 

昔は燃料は薪とか炭であった、だから囲炉裏があった、電気、ガスはなかったのである
その生活は江戸時代のつづきだったのである、江戸時代とほとんど変わらなかったのである、御飯は良く麦御飯だったりした、その時自転車すらまともなものがなかった
それで一台の旧式の自転車をていねいに掃除して使っていたのである
なんでももの大事にしていたのである、家には本は一冊もなかった、勉強する場は学校しかなっかのである
家にあったのは本当に飯台一つだったのである、それは戦後は焼野原になりみんなそうだったのである、物がないのだから農家は自給自足していたから一番豊かだったとなっていたのである

その時金で食料と交換したのではない、金には価値がなかった、着物とかなにか物と交換して農家から食料を得ていたのである
つまりこれからそうなるかもしれない、金は紙切れになる、もともとの価値は物にあるからそうなる、それで金銀でも価値があるとなる、紙幣は紙切れだから価値がなくなる
だから物で貯えていた方がいいともなる、ただ物だと限度がある、でもそういう時代になるかもしれない、物に価値があり一番価値があるのは食料だともなる
いくら金があってもそれは紙切れになるとか言われる、それで都会の金持ちは心配している
そこで農業するのがいいと言っているのである

私の母は戦前に前の夫が事故でなくなり一生食べていける金をもらった
でも戦争になり戦後預金封鎖があり紙切れになった
でも土地を買ったものだけ残ったのである、預金封鎖になれば土地であれ物であれ実物が価値になる、紙幣は本当に紙切れなるだけである

ともかく今になるとそういう経験したのは団塊の世代の上くらいまででありあとは豊かな生活を経験した人たちである、その世代の差も大きい、本当の貧乏を知らない
実は私でも知らない、子供の時は別に食べることはできたから苦しいとも思わなかったからである、それはみんなが貧乏だったから誰かうらやましがるということもないとなる
ただ農家に食料があるからとうらやましがられていたのである
その農家の人を今貧乏である、でもまた逆転するかもしれない、ただ正直農業は簡単にできない、だからこそ耕作放棄地が膨大なのである

今年は経済的にはどうなるのか?コロナウィルスは解消しないだろう
ただすべてが悪くなるとはならない、何でも悪い面といい面が起きてくる
コロナウィルスでも全部が悪く作用していないからである
東京一極集中が終わるいうのもそうである、何かいい方向に変わるのもある
ただどうしてもいい予測はできない、ただ自分自身のバイオリズムとしてはいいようである、最後の人生のまとめとして創作に励む、それが膨大になっているのだ
整理するだけで大変なのである

では良いお年を・・・・


2020年12月28日

子が親を捨てる時代 (老人は病人でも捨てられる、その覚悟も必要な時代?)


子が親を捨てる時代

(老人は病人でも捨てられる、その覚悟も必要な時代?)

団塊の世代は、定年後に10年以上も親の面倒を見なければならない、最初の世代となるでしょう。だからこそ何を選び、何を捨てていくかを真剣に考えなければならない。我々は今、まったく新しい問題に直面しているのです」

定年が60だとするとそれから十年ある、また65だとすると75になる
この時間は長い、つまり十年の時間が親の介護に奪われるということになる
それがなぜ問題なのか?それを自分自身の介護で理解した

会社員として働いた人と自分のように気ままに旅ばかりしていた人の相違だったのである会社員として60まででも長く働いた人は会社を退職したということは一つの大きな人生の区切りなのである、そして何か今までしていなかったことをしたい
自由な時間を得てしたいとなる
それを親の介護でその時間を奪われることが苦痛になる
その時間は貴重な最後の人生の時間ともなるからだ   

ただ事情はそれぞれ違っている、私の場合は親は自由にさせてくれた、もともと集団生活とか規則とかになじめなかった、だから自分は会社員としても勤めることができない
でも親に恵まれて引きこもりであれ束縛がない状態で引きこもりでも30年過ごしていたのである、普通だったら働けとか言われ親に殺された人までいる
自分に関してはそういうことはなかったのである

だから親の介護になったとき自然と懸命にした、それは当然のことだったのである
もちろん嫌でもあったがしたくないということもあったがそれは自分をこれほど自由に生きさせてくれたのだから恩返しと自ずとなったのである
でも会社員とか夫婦とかなると妻に親の介護させるとかなると簡単にできない
姑としていじめられたとかなれば余計にそうである
やはり介護となると本根が必ずでる、隠せないのである
人間は絶対に本根を隠せない、どこかで現れる
その時、人間の本性に本当に驚く、そこに愛がない人は露骨に行為として現れる
子でも親は介護となったとき苦しいから捨てる

いづれにしろ高齢化社会では本当にもう子が親を捨てるなど当たり前になる
それが非情でもなんでもない、もう老親のめんどうを金銭的にもまた労力がかかるから見れない、医療でももう延命治療などしない、病院では老人を生かさない、死なせるのが普通になっているという、もう老人に労力を注げないのである
数も多いし経済的負担ももう増えるばかりで今までのような治療はできない
つまり子は親を捨てる、それが非情でもない、世間でもそれを責めない社会になる
その苦労が並大抵でないことを知るようになったからである

ただそれぞれ家族には事情がありそれで違ってくる
近くの夫婦の妻は最近突然死んだ、78才であった、夫は83才くらいである
でも心臓病であり機械を入れていたり脚も悪いという
これまでは妻がなんでもしてくれた、今はしてくれないからゴミなげをしたり買い物するのも大変だと言っていた
そもそもその妻は看護師だったのである、すると夫の病気の世話もできていたのである
でも息子夫婦と一緒に生活していても食事でも何でも別々にしていた
だからまともな体でないのに家事を一人でするのは大変になったのである
つまり家族と一緒に生活していてもみんな一緒ともならない、孤立している場合がある
同じ屋根の下にいてもそうなのである

ただこうしてそういう老人が本当に増えてゆく、家族があっても同じ屋根の下にいても孤立する老人でありやがて子供に捨てられる老人ともなる
また社会的にも老人がふえすぎる、そして何かしら病気をもつのが老人である
仙台市に行きそれも市内からさらに一時間とか離れた場所に行くとかいうのも贅沢である腰が悪いとしてもそうである、金もないのに行こうとしている
その女性は医者通いが仕事のようになっている、こういう人も老人には本当に多いのである、ある人は病気の治療に毎月3万かかっているとかいう
回りをみても脳卒中で足を悪くなったとか一人暮らしの同年代の人もいる
何かしら病気をもつようになる、これから団塊の世代が2025年に介護が増えて来る
これももう増えすぎて限界になるからもう介護したり病院でも診ないととなるかもしれない、それでコロナウィルスで老人は病院に行かないという時相当に国では保険料など財政負担が減ったのである
つまり病院に医者に行きすぎたということがあった、サロンのように利用しているとかの批判もあったからだ

もしかしたらこれから老人のサバイバルゲームになくかもしれない、金だけでなく、病気になったらもうめんどうをみない、死んでくださいとまでなるかもしれない
介護できなくなっているからだ、その負担を子供でも社会でも負いきれないとなる
だから子が親を捨ててもそれで親不孝とか責められない社会にもなる
それだけ老人が増えすぎてもうめんどうみきれないということになる
そうはいっても自分自身が病気になったら手厚い介護をしてくれとか病気を治してくれとかなる、でも一方で捨てられても恨まず死んでゆくという覚悟も必要になっているのかもしれない、ただサバイバルゲームであり健康であれば百才でも生きてくださいとなる
でも病気になって介護状態になったらめんどうみきれないから死んでくださいとまでなるかもれない、金のない人も死んでくださいとなるかもしれない
ただ最低限自分のことはできて健康であれば生きることが許されるとなる時代になるかもしれない、それは非情のようでもやはり社会がそうなってしまったらどうにもならないのである  

社会全体が老人の病気とか介護に費やされたらどうなるのか?

そういう社会が維持できるのか?

人間が生きることが病人の世話と介護になっていいのか?

こういうことにもなる    

それは世界的な問題であり孝行を説く中国でも老人が増えすぎると子供にも捨てられるとなっている、これまでの大家族とか一緒に暮らすとかでなくなっている
そういう社会でもう老人のめんどうはみれないとなる 
愛情は大切である、でもその愛情にしても老人が病人がこれだけ増えるともうその愛情のために疲労して介護する方が倒れてしまう状態になってゆく
つまり老人に病人に生き血を吸われるとまでなる、そういう社会はやはり理に合わない
そうなると社会自体が老化して死滅ししてゆくともなるからだ
これはやはりバランスの問題だった、若い人が多く子供が多い社会が健全だったのであるそれは戦後焼野原になり子供が大量に生まれ団塊の世代が生まれた
その時は社会に希望があり健全な社会だったのである、今は逆になっている
団塊の世代がみな老いて病気になったり介護状態になる、その数が問題なのである
それが社会を歪めてしまうのである
日本自体が衰亡してゆくのもそのためだとなるからである





2020年11月21日

耕作放棄地の増大ー三人の老人がやめる (高齢化社会、介護社会、病人社会)


耕作放棄地の増大ー三人の老人がやめる

(高齢化社会、介護社会、病人社会)

fieldflower1111.jpg


この時はカンナもさいて野菜もわずかとれていた
その時花も活きていたのである

wildfield1.jpg
いかにも荒れ果てものとなった

クリック拡大

wildfield2.jpg
クリック拡大

wildfield334.jpg


知っている女性がしていた畑も遂に耕作放棄地になった
まず隣の畑が娘の車できて這って畑を手入れしていた80以上の人が遂にできなくなり
耕作放棄地になった
次に前の畑は結構広いがその人も腎臓を悪くして透析になっていた
顔が黒くなると死ぬんだよと言っていた、その女性はひどくその人を嫌っていた
田舎だと畑にも隣がありいろいろと付き合いがめんどうなのである
そして隣の畑の影響がある、耕作放棄地になると種とかいろいろ飛んでくる
雑草をとなりから生えてくるとか影響がある

ともかく本当に高齢化社会とは介護社会であり病人社会なのである
同級生でも脳出血になったとかそのために足が悪くなったとかひどい人は口もきけなくなったとかある、ただ脳出血でも軽くすむと普通に生活している
その畑ができなくなったのはその女性が70くらいになりいつも腰が痛いとかなりできなくなった
またその知人も糖尿病で何回も長く二カ月以上とか入院している
何か手術したとかで長引いている、手術となると糖尿病はめんどうになる
他に一軒ある自転車屋の人も60歳以上で病気である、でも仕事は普通にしているから不思議である

自分自身も自転車で大倉の方に行っただけで体中が痛くなったのである
筋肉が弱ってきたためだと思う
こうしてとにかく高齢化社会はなんらか病気になり病人社会でもある
介護社会というとき息子が親を青森の施設に入れている、でもそこでも何か必ず金が要求される、もう一人の母親もその息子に金をもらわないと暮らせない
つまり2025年問題がすでに現実化しているのである
40代とかの人が丁度団塊の世代とかの子どもになるからである

そして超ソロ社会というのもそうである、一人暮らしの人が多いのである
一千万人いるとか多い、だから孤独死も増える、何か社会自体が異常化している
このように病人が多いと病気の治療にかかる金がまた大きいのである
60以降はなんらかで病気になりやすいのである、自分自身もそうだった
それで薬とか医者の費用がかかる、それが馬鹿にならないのである

これはまさに高齢化社会の縮図だった、畑をやろうとしたのは良かったができなかった
70以上とかなると何かしようとしてもできない、いろいろ機械を買っても使いこなせないとかなる、畑をしようとしても体がついていけないのである
農業は体を使う仕事だから体が資本だから高齢者はつづけることができずまさに放棄するのである、それをまさに身近に知った

高齢化社会はただ高齢になるのではない、みんな病気になる確率が高いのである
だから2025年問題は団塊の世代が介護状態になりその子供の負担となるのである
こういう社会が維持できるのか?こんなに高齢者が増えてそれも健康ならいい、何らか病気になりまとせに活動できなくなる
そして介護になったらその子供に負担がかかる
その子供がちょうど氷河期世代とかなり独身が多いしまた収入も少ないのである
引きこもりとかも多い、すると地獄の様な社会になるかもしれない
それを自分自身が経験した、二人の親の介護でもう家族崩壊になり死ぬような思いをしたからである

日本の経済でも弱体化するのは少子高齢化である、耕作放棄地でも若いならやることができる、しかし年になれば体がついていけないのである
つまり一人は透析となりつづけることができなかった、隣は80以上になり這ってしていたができなくなりもう一人は体が悪くなりやめた
そしてそこは耕作放棄地となったのである

こういうことは全国的にあり耕作放棄地が増大する、特にこの辺は原発事故以後田畑でもやめる人が増大した、結果的に耕作放棄地が増えた、避難区域になったところはほとんど回復していない、草ぼうぼうなのである、そこに放射性物質の土を貯蔵する場所となったでも避難区域でない所は10年過ぎて最近土は運ばれて元にもどりつつある
でも避難区域になったところは回復していないのである
膨大な土地が耕作放棄地となり放置されているだけなのである
少子高齢化社会の現実が具体的にこの耕作放棄地に現れている

でも一方で国際的に活躍していた銀行マンが農業を実際に5年くらいしていたとかある
それは銀行業というのに嫌気をさしたことと紙幣がもう価値がなくなる、金に価値がなくなることを実感したからである
食糧飢饉になることも予想して農業をはじめた、銀行員が自ら田んぼで働くということもしている、農業に投資するためである
それだけの耕作放棄地があるのだからそれを活用させるべきだとなる

しかし農地でも勝手にできない、それぞれの所有者がいて許可をとるとか簡単にできないそれも耕作放棄地が増えている理由である
土地をもっていれば宅地化したりできるとか売るために耕作放棄地でももっている
するとそこを農地として貸すとか売ることが簡単にできない
だから何かこれは自治体とか国で国策として強制的に解決する方法を見出すべきだともなる、日本の国土の利用は国の問題であり個々人にまかせていらないともなるからだ

ともかく農業をすることは容易ではない、だから農家でありそれを受け継ぐのが楽だとなる、なぜなら土地という資本を受け継ぎそのノウハウを受け継ぐことができるからであるこの辺では梨栽培が盛んだがいい梨を作るのに十年かかったという
つまりそれは野菜でもそうして時間がかかるのである
だから特産品というときその土地にあったものを時間をかけて作ってきたからそうなったそれは江戸時代からもつづいてそうできたのである
土地はみんなその土地土地によって地味を違っているしまた肥料などを工夫するとかノウハウが意外と大きなものとして農業があるからだ
だから農業は簡単にできないのである     

ただ一方で都会の人でも紙幣とかが紙切れになるとか不安になっている
貯金しても預金封鎖があるとか紙切れになるとか盛んに言う
だから農業が注目される、食料はつねに価値あるものとなるからだ
他に現物をもっている人が強いというのもそうである、また何かを生産している人も強いただ金をもっている人は弱いのである、インフレなれば紙幣は本当に紙切れになる
いくら紙幣を積んでも紙切れにすぎないともなる
その時現物をもっている生産している人が強いとなるからそうなる
そうはいっても農業は簡単にできない、まず農業法人とかに会社員のようにして入る他ないと思う、とても一人でするのは無理がある
農家の後継ぎならそれができるが素人になるとできないからだ
農業も体力も必要だし汚い仕事にもなる、蛇とかアブとかブヨとか動物とかに荒らされるまた盗まれるのも普通にある、その話を菊だけでんざりしたからである

2020年11月12日

余裕のない人は他者を省りみない (自分のことしか頭になくなる―日本は貧困化しているから)


余裕のない人は他者を省りみない

(自分のことしか頭になくなる―日本は貧困化しているから)

その女性はガスの風呂を使っている、それでずっと私自身がユニットバスの水を一旦だしてからまた入れ替えてガスでたいていた
それてユニットバスの水がその度にいれかえるので水道料が高くなったのである
それをなんとかしようとしてその女性に聞いたが良く話を聞かない
それで二年以上かそれ以上水道料を高くしていたのである
ただ私は風呂には春から秋でも一週間に一回くらいしか入らないからそんなに水道料はかかっていなかったのである、だからそんなものかと見逃していたのである
そしてオイタキ機能を使っていたのだがこれはお湯が出るとばかり思っていたのである
これはお湯が水とともに出るわけではなく水をあたためる機能だった
それに気づかなかったのである、これは長くは使わないからである

そのことを見回りにきたイワタニの人に聞いた、そしたらオイタキで使用した水を温めることができると知ったのである、それを知らずに使っていたのが大失敗だった
ただ一週間に一回くらいだったから水道料金にはそれほど影響しなかったからそのままにしていた
でも今年は早く寒くなったとか何か年で冷えやすくなったとか風呂に入る回数が倍以上にもそれ以上にもなった、それでいちいち水を全部出して新しく風呂をわかすことが金がかかると思って困っていたのである
とにかく今日見回りの人が来て聞いて助かった,風呂を利用する頻度が多くなるからだ

いづれにしろ人間は余裕がない人は相談相手にもならない、第一その人は毎月電気ガス水道料金を払えないからそのことで常に頭一杯になっている、自分のことで頭一杯になっている、そういう人は他人の話など良く聞かないのである
そして機関銃のように困ったことを訴えるのが日常なのである
でも相手が困っていてもその話を良く聞かない、聞いている余裕がないのである
自分のことで毎日精一杯だからである

こういうことは自分が介護している時や病気のときでもそうだった、相手はその苦しいとか困ったことが見えない、第一その人も事業に失敗してただ頭の中が金だけになっていただから相手が苦しんでいても自分のことで一杯であり余裕がないから他者の困っていることは関係ないとなる
なんか家族が病気になったり自分が病気になったりしてから自分の身に起きている
日本が貧乏になるときこうして余裕がない人が増えて来る、金に追われる人が増えて来る
そしてどうなっていくのか?

犯罪者が増えてゆく、犯罪者とはもともと悪い人とは限らない、人間は追い詰められると犯罪者になるのである、明日食べるものがないときわずかの金でも襲い殺すこともある
それが生物だとなる、餓えたら襲ってくるのである
日本が貧困化することの恐怖はそこにある、ともかくみんな余裕がないとなるときそうなる

統計ではかえって富裕な人が金銭的にも余裕がある人達の地域で助け合うというのもそうである、貧困者が集まる所では犯罪が増える、助け合うこともできない
みんな余裕がないからだ、だからわずかの金でも奪うということもある、物でも奪う
貧困者同士は助けあえないのである、電気水道ガス代払えないからとして金をくれと言ってもないからである

でもそういう人と付き合うことは犯罪の予防にはなる、それでも全く他人のことを思いやる余裕もないというとき一方的になり肝心の自分は何もしてくれないとなる
何もしなくてもいいがちょっとした助言でもしてもらえない、ただしてもらったことはある、でも相手のことを良く聞く余裕がないから親身になって聞いてくれないのである
だからかえっていいことがなく損が多いともなる

なんか生活保護は最低限を保証して犯罪を予防するものだとか言われる
それもそうだと思う、もうぎりぎりに追い詰められれば人間に善悪はない、食べるために襲ってくるとなるからだ
ただ日本自体が貧乏になる時そういう余裕がない人であふれる、その時どうなるのか?
いくら余裕がある人がいてもそういう人が多くなると安穏としてはいられなくなるのだ
極端の格差社会になると犯罪が増える、金持ちも誘拐されたりする
それが一番怖いから生活保護の制度がある
しかし今生活保護は本当に厳しいし簡単にもらえないしもう門前払いになる
もらっても医療費は無料とかだけになるが実際は医療費も無料ではない、二割三割負担されているのである

とにかく家族がいたときは自分はめぐまれていた、家族の介護とかなって本当に苦しくなった、それを自分を気遣ってくれる人もいなくなりこちらが気づかい世話する立場になったからである
そして家を維持するときいろいろなことがある、今回のことはその一部なのである
他でも何か自分は世事にうとくわからないことがあり失敗しているからだ
だから引きこもりとかニートとか大量にいるけど両親とか死んだら地獄になる
その例が自分自身だったのである

ともかく現代の問題として機械の操作ができなくなることがある、特に老人は機械の操作が苦手になる、だから新しく買った機械が使えなくて失敗した
ただ今までしていことはパソコンでもできる、でもスマホとなると私自身でもしにくいからしないのである、他にも機械をうまく操作できないことがある
これが現代の老人の大きなハンディキャップとなっているのだ
現代はある面では老人が高齢化社会でも生きにくい社会である
老人向きの商品も売っていないとかいうのもそうである

ただ不思議だったのはヤマハのYPJ-XCは老人向きだった、最初マウテンバイクだと見ていたが全然違っていた、普通の道路が走り安いのである、第一27・5のタイヤとなると大きい、するとマウテンバイクとしては使いにくいのである
それで一回り小さいさらに改良したマウテンバイクが発売された、これは60万もしているこれならどんな悪路でも平気だとはなる、何かプロ用だともなる
現代の問題は老人にとっていろいろな機械が操作しにくいということがある
かえって若い人に教えてもらうとなり老人が何か役立たないとされるのである

ただ老人には経験したものがありそれは活きる、私は全国を旅したからそのことで今日も国造りのことで小国の地名のことなど書いたからである
こういうことは経験しないと書けないのである、その場に行かないと書けないことなのである、だから依然として老人は経験したことで何か教えることがある
だからプログでもyoutubeでも老人が発言している、その内容は若者より心にひびくものとなる、アメリカに十五年仕事していたとかいう経験はなかなかできない
私自身は外国生活していないからそこに差が生まれたのである


とにかく自分で思いこんでいるより直接きいてみることである
これは命にかかわる、医者行かないで聞かなかったの手遅れにり死ぬところだった
つまり良く聞かないこは死ぬこともある
たた聞く相手が問題なのである、ここではそなつくたガス屋に聞くべきだった
ただユニットバスを作った会社とガス屋違っていの問題だった
でもとにかく聞かない失敗したのである

2020年10月11日

人間立てないほど苦しいことはない (立つことで人間になったから)


人間立てないほど苦しいことはない

(立つことで人間になったから)

今回はなんか一部分ではない、体全体が不調になった、最初右の足が腫れて立つことができてぐなった、その後左足に歩きやすいという靴下を買ってした、それが圧迫したのか腫れて痛くなりふんばることができず立てなくなった

立つときはどうするかというと階段のような一段高い所に座りそれから立つのである
わかったことはしゃがんで立つことは相当な力が必要だと思った
腰が重いのと腰も痛めていたかからである
だから重い腰をしゃがんだ状態から立つことは容易てはない
つまり人間の生活の基本は断つことにあった
立つことができないと何もできなくなる

そもそも人間が人間になったのは動物と違うようになったのは立つことからだというのも納得するそれを理論化したものもある、そもそも四つん這いの方が生きるのには楽である
四つ這いだと脚が悪くても歩けるのである
四つん這いだと逃げ足も速くなる、四つん這いの方が自然界で生きやすいのである
立つとは自然に反したものなのである
だから一旦立てなくなると人間は日常的行動ができなくなる
立つ⇒歩く・・となっているからである、立つことができないことは歩くこともできなくなる、すると自力で何かをすることができなくなる
介護状態になるのである

それで私の母親はベッドで寝た切りになっていても立つことができた、ベッドからりて立つことができた、そこでポータルトイレに行っていたのである
だから入院するまでそうしして手間がかからなかったから助かったのである
それは立つことがぎりぎり死ぬ直前までできていたためである
だからいかに立つことが大事か人間は知るべきである

人間はは立つことによって知性が育まれたとか食物を探すだけではない、頭を上げて天を見て星を見るというのもそうである
つまり地上に這いつくばる動物とは違って天を望むようになったのである
これはよくよく考えてみると人間が四つん這いになっていたら知性すら生まれなかったのである

言葉をもったら人間になったとか道具をもったから人間にてったかとある
その重要な一つが立つことだったのである
だから人間が立てないことは致命的になる、認識力も衰える
だから介護になっても自力で立てることは重要である
そして日本人のしゃがむとか布団を畳にすいて寝ることは良くない
ベッドの方が立ちやすいからだ
だから自分自身もベッドにきりかえるというのがいいと思った

いづれにしろなぜこんなひどい状態になったのか?
その理由が全く分からない、体の調子は最高潮くらいに良かった
これなら旅でもできるな、長い旅でもできると見ていた
体が充実していたのである、それがこんなに急激に不調になり立てなくなった理由がわからない、右足が腫れて立てなくなった、でもそれは一週間で直った、次にどうしてか左足が腫れたのである、それで痛くなり立てなくなったのである
ただ全体に体が痛んだことは確かである、すると全体がおかしくなり立てなくなった

老化は急激に来る!

それは72才が健康寿命でありその年を越えたからのためかとなる
まだまだだは思っていても急激に弱る、前は熱中症で吐いてふるいて死ぬ思いをした
それは自転車で小高まで行った時だった
春の時期でも暑かったからだ、でもそんろふうになるのもやはり老化現象なのかとなる
ただ普通に生活していたら老化を感じなかった、何かかえって体が充実していたのであるだから気力もあった、でもガクンと一気に落ちた
これが老化の怖さである、みんな同世代でもなんらか病気になりそこでガクンとおちこむそれが老人の怖さである、脳卒中で脚悪くなった人が近くにいる
それもひどいとみた、やっぱり足は生命線になる、立つこと歩くことが人間を作って来たからである

2020年10月09日

2025年問題の恐怖 (歩いた旅で体ががたがたになった)


2025年問題の恐怖

(歩いた旅で体ががたがたになった)

双葉町と久ノ浜までの旅で歩いた結果、体ががたがたになった、足は腫れ脚がつり筋肉が張り腰はいたい、全身の筋肉をいためた
こんなことは経験していない、自転車でもこんなに全身の筋肉がいたむことはない
今回は全身の筋肉がいたみ立てなくもなった、それで寝ていた
でもなんとか買い物と食事の用意はした
一人はこういうとき苦しくなる、誰も助ける者がいないからだ
これで食事の用意ができなければ衰弱してゆく、そういう恐怖が常にあるとなる

自分の経歴をふりかえると30代は登山でありこれはきついのでやめた、次に40代は自転車旅行であり50代は海外旅行でありそれで人生も終わったとなる
ただ歩いた旅はしていないのである
ただ今回歩いたとしても10数キロくらいかもしれない、久ノ浜で歩いたのが長かったかもしれない、それにしてもこんなに全身が痛むとは思わなかった、でも10キロとなると原町くらいになる、すると長かったのかともなる、距離的にはそんなに長く歩いた感覚はないのである

それでこれは老化現象かとも思った、老化も急激にやってくることがある
そういうことがあり2025年問題を身近に感じた
2025年になると団塊の世代が介護される時代になるということで数が多いので問題にされる、その2025年はすぐなのである
それは社会全体の圧力となる、介護する方もその労力が大変になる
日本が経済的に落ち込み少子高齢化になっているとき対応できなくなる

2025年問題は今から5年後だとしてもすでにはじまっている
まず60代でなんらか病気になっている人が多い、70代になったらさらに多くなる
80代になったらなんらか病気がない人がいないかもしれない
80代の人は糖尿病で苦しんでいる、手術するとかでまた入院するとか言っている
なんらか腰が痛いとかどこかが悪いとか言わない人はいないのである

つまり老後の最大の問題は健康であるかないかである
これがものすごく左右する、どこかが病気になるともう正常の活動はできなくなる
今回の経験で自分自身もわかった、歩くとこうなるのかと恐怖になる 
そうすると簡単に旅もできないとなる
ただ普通の生活をしていればそうはならない、何か無理をするとそうなるのである
今回は全身の痛みでありそれか立てないほどになったから苦しかった
ただ別に食欲とかはあり普通である、ただ体全身が痛くなり筋肉が張り立つのもやっとだったのである

金も必要だが老後の一番の問題は健康でなるかないかである
これが一番左右する、その差が大きいのである
もう寝た切りになったら終わりである、ただ天井を見ているだけだとなる
何十億の金があっても何もできないのである
歩くことさえできないからだ、すると金だけではどうにもならないとなる
そして老人でも健康な老人と病気の老人との差が大きすぎるのである
そこに一番の差がでるのであって金もそうだがその健康の差の方が老人にとっては大きい健康であれば貧乏でもなとかなるが病気になったらどうにもならなくなる

とにかく今回はなぜこうなったのか良くわからない、やはり老化現象なのだろう
こんなに痛むはずがないからである、体が老化して筋肉が痛んだ、そう考えざるをえないのである、歩いたとしてもそんなに長く歩いたという感じもしないからである
ただ日ごろ私は歩いていないことは影響している、ほとんど自転車を利用しているから歩かないからである
自転車で使う筋肉と歩くときの筋肉の使い方が違っているからこうなったのかとなる
ただそうであっても老化現象の一つでありこれだけの筋肉の痛みとなったのである

2020年09月29日

親に尽くさせられた時代と子供の犠牲になる親 (時代が変わると道徳さえ変わる)

親に尽くさせられた時代と子供の犠牲になる親

(時代が変わると道徳さえ変わる)

70歳過ぎてからの貧乏は怖い…老後の恐怖のどん底実例集!

こういう人もいる、30歳から親の病気のために仕送りしていた、それが全部で3000万円になったという、これも大変な負担だった
そして70過ぎて貧困化したのは親にもらえる遺産が兄弟にとられたためだった
それだけ親に尽くしたのに兄弟は遺産を要求してきた
金になると兄弟もなにもない、所帯が違ってくると嫁は金を要求してくる
つまり兄弟は他人のはじまりであると良く言ったものである
だから兄弟があって助かることもあるが遺産相続で骨肉の争いになり絶縁したとか良く語られる、金で人間は豹変するというのがわかる
それは原発事故で多額の補償金がもらえるということでこの辺は分断されたとのとにている、一体感はなくなったのである

もともと戦前とかは親のために働く尽くすというのは普通だったのである
それは後進国では貧乏だから親に送金するために日本でも出稼ぎにきて仕送りしているとかなる
貧しい国では子供は親のために働かされるのである
私自身が奇妙なのだけど子供の時一番働いたのである
店で働かされていた、配達もさせらたし卵買いとかもさせられた
風呂焚きとかもさせられた、つまり自分の父親は子供の時から酒屋に丁稚奉公させられていた、それと同じようなことが家族でさせられていたとなる
それは別に苦しいというのではない、他人の家ではないからだ
丁稚奉公は他人の家だから子供にしては辛いとなる

それでおしんのNHK朝ドラが人気になったのである
貧乏な時は親のために働く尽くすが普通だったのである
それで農家では男の子がいいとされていた、なぜなら農家だと働き手になるからである
つまり労働力として子供があったとなる
その時教育するという感覚はなかった、ただ読み書きそろばんくらいできればいいとかであった、母は尋常小学校であり読み書きはできたからである
明治生まれの女性で読み書きできない人がいた
そういう時代であった
母の実家は幼少の時は金持ちの家であり楽だった、でも父親が機織りの会社を始めて倒産して苦しい生活になった
母は原町紡績で糸取りとして10年間働いた、その給料は親に与えていたのである
何か自分の給料で今の人のように贅沢するようなことがなかった
だから母は花とかは贅沢であり興味がない、それで庭に豆などを植えていたのである
要するに働きづめで一生を終えたのである

それで今の70才くらいの人でも親が病気になり仕送りしていたという人もいた
こうして親に尽くして子供が犠牲になるのは辛いものだったとなる
普通は親は子供のために犠牲になる、でも戦前は子供は親のために働くというのが普通だったのである、それが戦後に変わってしまったのである
何か江戸時代からその後も親孝行が徳目としてあった、ただこの親孝行も孝行したいときは親はなしになっていたのである
今は親は必ず孝行が介護が強いられる、親はたいがい60才でも生きている時代だからである
自分は親に仕送り何かしてあげたことがない、ただ60才になって介護になったからそれは当然であり懸命にしたのである

でも30歳からとかまた50歳でもあり孫が介護されて祖父を殺したとかもあった
それは今の時代にはコクである、介護になったらもう何もしたいことはできない
自由が奪われるからである、だから私自身自由に旅をしていたが介護になってから一切していない、もう十年以上旅をしていないからだ
つききりになり世話するようになるからである

何かでもこういうことは増えて来る、近くの知り合いは50歳ちかくなのか、青森を介護施設に送りたりないものがあり仕送りしている
必ずいろいろ備品などで要求がある、それも余裕がないのだから苦しいとなる
親のために苦労するというのは何か苦しい、今は親は子供のために犠牲になるというのが普通になったからである、半分が大学に行く時代だからでもある
介護とは何か自分自身の人生を失うことにも通じている   

それで私は親戚の人が病気になり輸血をたのまれたとき断った
その時登山して異常に疲れていて弱っていたからである、でも30歳なのだから輸血してもらいたいというのはわかる、だからそういうことがありその親戚との縁は切れた
でも何か人間は若い時は自分のしたいことをする、若い人が介護によって親によって犠牲にされるのは本末転倒である、そこで親を恨むともあとでなる
私の場合はそういうことはなかった、それはすでに十分に自分のためにしてくれたからである、だから当然のこととして苦しかったけど介護したのである

だから親孝行というモラルは時代によって生まれたものでありそれは子供を親の犠牲になるのだからいいものではなかった、ただ貧乏だからうそなっていたのである
貧乏で子供が売られるということも普通にあったからである
それは貧乏でそうさせられた時代だったのである
それを今の時代に適用はできないのである
親は子供のために犠牲になる、また子供の世代は親の世代の犠牲になるのは理不尽なのである

それで高齢化社会は若い世代の負担に老人がなり税金でもとられるとかなり不自然なのである、そういう時代を人間は経験していないのである
親のために犠牲になるというのもそれは時代だったのである
こうして時代が変わると必ず価値観が変わる、そういうことで戦前生まれの親は子供の時親の犠牲になったのがら子供でも親のために尽くすべきだと経験から思う
でもその時価値観が変わってしまったから通用しないのである、それで損したとも思うのである

何か時代も変わると価値観が変わる、道徳さえも変わる、親孝行というのは誰も認める勤めのようになっていた、ただそうなったのは時代背景があってそうなったいたのである
人間は時代が違うと本当にその差にとまどうのである
戦争が終わり日本人の道徳も価値観も一変した、国のために死んでいった若者がいた
それはその時代はみんな当たり前のことだった
そうして小野田少尉のような人が戦争が終わって何十年も過ぎてジャングルから出てきて日本に帰りとまどいなじめなかったというのもわかる
まるっきり道徳も価値観も変わってしまったからである

実際は子供が親の犠牲になることは理不尽であり道徳として間違っていたが貧乏なのでしかたなくそうなっていたのである
本来の人間のありかたは親は子供のために犠牲になるのが正常な道徳になる
人間は常に次の時代のために生きるから未来に生きるからそうなる
子供は未来そのものだから大事にされる、それは生物として当然である
老人を大切にしろというのもわかるがそのために若い人の人生が犠牲になるということは生物として自然ではないのである

親のために子供が犠牲になる、それを普通とした当たり前とした道徳としたのは貧乏だったからなのである、子供が働かなければ家の生活も成り立たないからそうなっていたのである
子供はもっと別なことをすべきであったともなる、ただ子供でも働く経験は悪いことでもない、でも本来は子供はそうあるべきではないのである 

自分はしたいことをさせけくれたから親を恨んだりはしないし今でも親に感謝しているし死んでも愛している、それは親がそうさせてくれたからなのである
ただそれは私の家族が特殊なものになっていて親一人ということでもなかったからであるもしそうでないともう学校を出たら働き詰めになっていた
20代は浮浪者でありその後も旅ばかりしていたできたというのが特別だったのである
団塊の世代ではそういう人はまれな人でありアウトサイダーになっていた

いづれにしろ明治維新にしろ戦後の焼野原にしろ価値観ががらりと変わる、道徳が変わらないものではない、親孝行ということも変わる
それで世代間で理解しえなくなるのである、古い親の価値観を押し付けることはできないのである、俺はこういう仕打ちを親に受けたとかそれで親となり同じことを子供にすることは反発されるのである
人間がみんな働くものだというのもわかる、でもベーシックインカムにして各自人間はしたいことをすべきだ、みんいなアーティストになるべきだというのも本当に企業戦士として働いた人なら容認できないだろう
でも自分自身はそうして旅ばかりとかしていたのだからそういう人間として生きていたとなる
今働かない人が若い世代でもニートとか膨大にいる、それは何なのだろうとなる
労働するのが当たり前だというときそれは過去の価値観なのである
時代が変わりそういうことを以前としてあってもそれも否定されてもそれありだとなる時代である

2020年09月21日

敬老の日ー長生きではその意味が問われる (ただ長生きしても価値も意味もない―新しい老人観が必要)


敬老の日ー長生きではその意味が問われる

(ただ長生きしても価値も意味もない―新しい老人観が必要)

高齢化社会になると百歳以上も増えてくる、これまでは百歳生きたとなると凄いなとそれだけで価値が認められていた
でもこの数が多くなるとまた見方が変わってくる、百歳など普通でありいくらでもいるとなれば価値がなくなる
だから今やそういう段階に来ている
パークゴルフをしている人が多い、この辺でも広いパークゴルフ場が作られた
そこは広いから見晴しもいいからそこに老人が集まる、社交場にもなる
それをとやかくは言わないしそういう場があってもいいとなる

ただなぜ高齢化社会になって老人どうのこうのといろいろ言われるのはそれが今までの老人と違ったものになっているからである
今までの老人は人生50年とか70年でもそれで老人がとやかく言われない
その生きた人生を語れば死んでいたからである
だから長い老人の生を問われない、60まで70まで生きた人生を問われるだけである
ただ百歳となると今での人生とは違う、100歳まで生きる価値と意味を見出す、また社会に提供しなければならなくなる
ただ健康に長生きすれば価値と意味が生まれるとはならない時代になった

でも一般的にそういう価値と意味を作れるのか?

これが問題になるが会社を退職したら何をしてそれができるのか?
趣味とかもありそれで意味と価値を見出すこともありうる
ただみんな趣味に向いているわけではない、それで私の家族の一人が公務員を退職してから何もしなくなった、何か仲間で貼り絵などしていたがそれは向いていなかった
看護婦だったから人の世話に向いていた、でも一切何かそういうことをしなくなった
家事すらしてくれる人がいたのでしない
毎日何かテレビを見ているとかであり何か合ったこともしていない
ただ毎日怠けていたとなる、怠け人間になったとなる
ただ一緒にいてそのことに私は気づいていなかった

それに気づいたのは認知症になったときなのである
それでなぜそんなふうになったのか?病気でもあるがその原因が55歳くらいで役所を退職してから何もすることもなくなっていた、家事もしない、何か頭を働かせることもしない体も働かせない、怠け者になったのである
でも85才まで生きた、でも55才で退職したら30年もそうして何かやりがいもなくただ怠けていたとなる
せめて家事でもしていれば良かったがする人があったのでしなかったのである
そのうちボケて来たのかとふりかえり思うようになった
それは病気にしろボケた原因が認知症になった原因がそのように生きがいもない、家で何もすることがない、家事もしないということにあったのかもしれない
家事はしてみれば結構頭使うからである、その他趣味もなかったから余計に頭を使はないそうして認知症になったのかとふりかえり見る

認知症の原因はわからないにしてもそういうふうに退職して何もしない、趣味もない、家事もしない、ただテレビを見ているとかなると認知症になりやすいかもしれない
それが30年もつづけば相当に影響する、つまり退職してからの生活に問題があったとなるまず会社を退職するとその人の役割りは消失する、地域とかで何かボランティアなどするにもできない、地域社会自体がもうないからである
すると家族しかなく、妻の後をついてゆくだけとかになる
それで妻からもうざいとなり嫌われる
ただそれが70くらいまでならなにやかにやあってもそんなに問題にならない
百才まで生きるとなるとそうはならないのである
私はこう生きたとか語っているうちに死んでしまうからである

でも百歳になると新たなその年月の価値と意味を発見して作り出さなければならなくなるそれがパークゴルフとかで作りだせるのか?仲間とそこで楽しみまた動くことで健康にはいい、でも外部から社会全体からみる、若い世代から見てもパークゴルフに費やされる人生をどうみるだろうか?
一日遊んでいていい身分だとかともみる、でもその老人たちを養う金を年金を払っているのは若い世代だとなりそういうことをしている老人を価値ある、意味ある人と認められるのか?
これが70歳くらいで死んだら何も言わない、何かそうして見ている時間がないうちに死んでしまうからである
百歳まで生きるとしたらそうは見ないのである
そこで何のために生きているのか、ただ人の迷惑のために生きている人もででくる
切れる老人とかいろいろな問題老人が社会を歪める
ただ自分にしても百歳まで生きることがイメージできないのである
あと10年くらいは生きるだろうとはなっているが百歳となると長すぎるのである

だから高齢化社会というのは今まで経験していないことであり模範になるものもない
またその価値と意味も作りだされていない、だから金銭面だけではない、何か精神的にもそこまで生きる価値と意味を作りださなけれ社会ではただ下の世代にとって重荷とされるだけになる
私の場合は認知症になっても介護したのは特別世話になったからである
60まで食事でも用意してくれたし好きなことをさせてくれた
だから介護になったとき自分はそれが苦しくても当然だと思うようになっていてできた
完全ではないにしろ懸命に介護したのである
それで最後にわかってくれて本当に今になると良かったと思う
それだけ世話になった恩返しを少しでもできたとふりかえるからである
正直これからは親孝行したいとき親はなしにはならない
親の介護は必ずありその恩でも返さなければならない、報いなければならない
それがまた高齢化社会でもある、諺は時代を越えて通用するものだがこれは通用しない
親孝行したいとき親はなしでなく親の世話を強いられるとなる

敬老の日というときそれは今までのとは違うものになっている
敬老というときただ長く生きたものを敬うべきだとしていた
でも今までは長く生きても短い、70くらいだとまだまだ元気な人が多い
全然老人に見えない人もいる、髪も黒くふさふさしているのに驚く
個人差があるにしてもなんかあの人が老人なのかと見えないのである
私と同じ年なのにそうなのである

要するに老人観が変わってしまったのである、今までの老人観は通用しない
これだけは確かである、それでいろいろと誤解があり若い人も老人をどう見るか戸惑うとなる、それは老人がまた多すぎるからこんなに老人ばかり必要ない、税金とられるのも嫌だというのもわかる
第一そんな老人ばかりで社会が成り立つのかともある
ということは今や老人は今までのように社会から隠居するかにはなれない
社会の一員として価値と意味をもたないとただ無駄なものとして早く死んでくれと言われるだけになる
百歳まで生きてどうなるのだとか見られる、何のために生きているのだとか言われる
だからパークゴルフしてそれが社会にとって何んの意味があるんだともなる
ただ老人はそんなことで何も思っていない、当然の権利だと思っている
若い世代は老人に尽くせとしか思わないともなる

ともかくこれだけ老人が多いということは老人は長い生きしたからといって百才まで生きても敬われたりしない、今までの敬老は通用しないのである
だから敬老の日も何か時代に合わなくなっている、それはただ長生きしたから敬うという前時代の観念なのである
ただ正直高齢化時代、人生百年時代の社会がどうあるべきかを社会自体で示されていないしまた老人でも作りだしていない、それは人生百年とかの時代を経験もしいないからである、だから新しい老人像とか老人観とかを作りださねばならない時代になったのである
金銭的問題も深刻だが精神的な問題としても問われているのである

何か自分にとっては長生きすることはいいことである、今までしてきた探求追求してきたことを作品化したりもっと学問的にも芸術的にも深められるからである
まず「少年老い易く学なりがたし」とかあり

芸術は長く人生は短し

ヒポクラテスが医術について言った言葉。医術を修めるには長い年月を要するが、人生は短いから勉学に励むべきである、がもとの意〕 

何かを究める時、時間がかかるのである、その時間がたりないからこういう言葉が生まれた、人間は本当に何するにしても時間が短すぎるのである
60くらいあっという間にすぎる、遊んでいても何もしなくても過ぎる
自分の場合はただ旅していただけで過ぎてしまったのである遊戯三昧で過ぎてしまったからだ、ただそれも無駄ではなかった、それで旅を思い出して今作品化しているのである

これから会社を退職してからでも百才まで生きるとしたら人生が二つあることになる
ということは儲けものだともなるがまた重荷にもなる
ただ確かなことはいろいろと理解することが多くなることは確かである
人間はつくづくいろいろなことを知らない、経験するにしてもわずかなことしかしていない知識も膨大でありわずかなことしか知りえない、だから常に学ぶ必要がある
知識を広めるまた深めることが必要になる、すると時間がかかるから百才まで生きることはそれができるからいいとなる
でも百才の人生を有意義に他者かも若い人からも認められて生きれる人はそんなにいるのかとなる、何もすることがなくボケる、認知症になるという人も増えて来る

平成29年度高齢者白書によると、2012年は認知症患者数が約460万人、高齢者人口の15%という割合だったものが2025年には5人に1人、20%が認知症になるという推計もあります。

これも恐ろしいことである、こんな社会がどうなるのか?まさに悪夢である
認知症の人を介護することは経験したからもう地獄になるからだ
私は二年半で終わったから助かったけどそれが長引いたら地獄になる
隣の原町で認知症の母親を殺した50代の男性がいた、こういうことは頻繁に起きて来るから高齢化社会の暗黒があり悪夢になる
なんらかこの認知症を治す方法があるのか?これはコロナウィルスより怖いともなる
これはなんとか治まるとして認知症は治まらないからだ
90以上になったら半分は認知症になる、その症状はさまざまでもやっかいな病気だからそれが介護負担となり家族まで崩壊するから怖いのである
自分自身がその家族崩壊を経験したからである  

こうなると敬老どころではなくなる、老人は殺せ始末しろとかまでなる
何でもいい面と悪い面がでてくる、ただ百歳人生というのはイメージできないのである
そういう社会は何か今までの老人観とか通念では理解できないものである
だから新しい老人観を高齢化社会の見本を作りださねばならないとなる
ただそういうふうに社会でも老人でも自覚していない、パークゴルフでもしていればいいとかくらいである、でも会社退職してからでは何かそうした人生百年には備えられない
精神的にもやはり若い時から備えねばならないともなる
会社員としての人生があったとしてももう一つ60から40年の人生があるとしてそれに備えねばならないともなる
ただ人間が老人になるとわかる、それはいくら長生きでも死ぬということである
死を常に感じる、すると今生きているということが本当に貴重だとなる
なぜなら明日はもうここにいない、また明日はもう人とも永遠に別れて二度と合わないという意識になるからだ、常に死を意識するから若い時とは全然違った感覚になるのである


2020年09月14日

医療の無駄は大きい (4兆円コロナウィルスで病院の収入減るー2025年問題の深刻)


医療の無駄は大きい

(4兆円コロナウィルスで病院の収入減るー2025年問題の深刻)


福祉でも必要でも無駄が多い、とにかく検査するために東京の方に医者に行けとかまた
人間ドッグに入るとか何かと医者通いである
それも無料ではない、負担がある、でもその負担ができない、そしたら普通はそんなに医者に行けなくなる、現実にそうして金がなくて医者に行けないと薬も飲めないとかある

なぜこうなるのか?福祉だと医者がそれほど必要なくてもすすめるからかもしれない
とういうのは医者でも相手が生活保護だったり何か貧乏でも国から補助されたりしていて金がもらえとふんでいるからである、そして別に一般の人でも医者にかかると必要のない医療とかを受けさせられる

現実に近くの病院で認知症をみるCTとかを受けた、でもそれは何の役にも立たないものだった、それは病院でもわかっていた!
それで3万もとられた、3万は安いようで一割負担の後期高齢者だから実際は30万にもなっている!
その人は5万だとしている、でもその負担は大きいのである
結局福島県でCTを撮れる機械があるのは二台だけである
あとはそういう高度の機械ではないのである、それは前からわかっていて金のためにそれをすすめただけだとなる
普通だったら専門家はそのことを知っているから奨めないのである
でも金のためにすすめる、その機械自体が高価だから利用しないと病院経営もしていけないとかなる

つまり何か他でも医療は相当な無駄がある、それが保険で安くなるから気軽にかかるとなる、それが今度は国民健康保険とかのみんなの負担になるのである
なぜ医療費がこんなに莫大なものとなってもう限界だとなるのか?
それはこのように医療は無駄なものが多いのである、延命治療とか終末期医療になるとここでも相当な金がかかる、だからそうした手厚い医療はいいようでも最後は苦しめるだけだとして治療をしない方がいいともなる
ただこの判断は実際はむずかしいから議論になる

でもこれから2025年問題がありそこで団塊の世代とかが病気とか介護になる人が増大するそこで日本の手厚い保険制度がありそれはいいものでも負担しきれないとなり国がつぶれるとまでなる深刻な問題になる
とにかく介護で苦しむ人が増えて来る、この辺では原発事故で介護士がいないとか青森県に送られて介護してもらっている
でもその息子も実は生活が苦しい、でも何か小遣いとか足りない金を送っている
だから親を活かすために苦労しているとなる
これは金銭面だけではない、介護は必ず人手が必要でありそれをすべて金でまかなうことはできない、この辺で認知症の親を息子が殺したという事件でもそうである
こういう事件は日常的に起きて来る社会にもなる

そしてなぜ医療費の無駄が多いのか?
それはコロナウィルスで証明された、不必要でも医療というのは日本では保険制度があり病院にかかれる、アメリカだと金がないと保険に入っていないとかかれない
だからアメリカでは医者にかかれず死ぬ人がでてくる
日本では逆に不必要でも病院に行きみてもらいるからそこで負担が大きくなる
今日本が経済的に落ち込んで苦しくなっているときその負担に耐えられなくなる

コロナウィルスでわかったことは大病院でも軒並み病院にかかる人が減って収入が激減した、それで結果的に4兆円くらい保険の支出も減ったのである
つまり4兆円分は別に病院に行かなくてもなんとか患者が耐えられるものだった
またそうでなくても医者にかかれないから危険だからひかえてそうなったのである
医療にはそれだけ無駄が多かったしそれは言われてきたがそれがなかなか節約できないのは命にかかわることでありあなたはもう治療しても直らない死んでくださいと言えないからである、ただ介護する方になるともう死んでくれとなる

それは自分自身が思ったことでもあった、それは誰でもそうなるのである
一時は二人を同時に介護する恐怖があった、それも意外と一人は認知症でも二年半で死んだしもう一人は5年くらい介護しても一週間前までポータルブルトイレに行っていたので
なんとか介護できた、それがオムツとかなると相当な負担で耐えきれないとなっていた
私自身が何かずぼらでありそういうことに向いていなかったからである
その時自分自身も病気になり二回も入院していたのである
自分自身が病気でも介護する人がいないからそうなった
その時助ける人が自分自身しかいなかった、それでさんざんな目にあった
そのことをプログに延々と書いてきたのである
介護は金だけではできない、人手が必要になる、それも愛情をもてる人でないと本当はできない、でもそうでなくても介護自体が負担なのである
だから早く死んでくれないかなと誰でも思うのである

でも死んでみるともっと親切にしていたらと後悔する人も多いのである
そうして悩むのが介護だとなる、自分の場合は介護して良かったと思っている
最後は認知症になっても私の介護したことを認めてくれてわかってくれて死んだからである、認知症の怖いのは馬鹿になったのとも違う、人間としてわかることがある
この人は冷たくしたとかわかる、すると恨んで死ぬということがあるのだ
そのことが死んだ後に怖いとなる、私がずぼらでも介護できたのは60まで身の回りの世話をしてずっと良くされたからである
それは普通ではありえないことだった、それだけ世話になれば自ずと介護する動機があるだからできたのである、他の人はそうした動機がない、金だけでは介護とかはできない
その金すらたいしてもらえないとなると余計できないとなる

いづれにしろ高齢化社会の問題は病気であり介護であり金もかかる
その金でももう食べることもできないような人がいる、日本全体でも5パーセントが電気水道ガスがとめられる、家賃でも払えない人がいる
5パーセントというと少ないようでも多い、100人で5人であり一千万人で50万いるとなるとそれなりの数になるのだ
その人たち月末に電気、ガス、水道代が払えないのである
それでそれを取り立てる仕事の人が嫌でやめたともいうのもわかる
相手は払えない人たちだからである、そうして最後は住む所もなくなりホームレスとかなる、コロナウィルスではそういう人もでてきた

日本が今や三等国だというときもう福祉とかに金が回らない、医療にも回せない、生活保護でも最低の生活費がもらえない、医療費もただではない、必ず負担がある
そうなると人間は餓死するか、病院にもかかれず早めに死ぬことにもなる
現実そうなっているのだ、もう無駄ができないのが日本なのである
だから高齢化社会は実際は金がないとかだけではない、弱い者は生き残れない
淘汰されていくほかない、手厚い福祉とか医療とかはもう受けられない覚悟が必要になるのかもしれない、それだけ国にも余裕がくなるなからだ

ましてや氷河期などが非正規とかが60以上とか70以上になったらもう悲惨である
生活保護も受けられない、国民保険は雀の涙とかなり死ぬほかなくなる
とても手厚い医療は受けるのは無理になる、だから病気になったら医療も受けられず介護もなく死んでゆくことになる、その未来はもう見えているのである
元気な人は生きてもいいが弱ったら老人は捨てられる、だから健康には気を付けろとなるか貧乏なると栄養すらつけられないのである、だから高齢化社会は闇黒ともなる
それも2025年とするとあと5年だからすぐなのである

2020年09月05日

墓とは何なのか? (墓は人間の最後に訴えつづける場)

墓とは何なのか?

(墓は人間の最後に訴えつづける場)


墓とは何かと追求して来たけどこの年になると家族でもみんな死んだし親戚でも死んだしまた身近で知っている人でも死んでゆく、だから死が日常にもなる
でも墓とは何なのか?
それを具体的に感じたのは母の実家の25歳で肺結核で死んだ人である
母の兄になっていたのだろう、その墓の前に立つとき常に死者から聞こえて来る声がある
「俺は生きたかった、もっと生きたかった、無念だ、無念だ」という切実な声である

他にも31歳で戦死とかの墓もあった、そこからもそうした声が聞こえて来る
つまり墓というのはそこに依然として死者がいるという感覚になる
江戸時代の墓でもそうでありだから私は墓をいつも見ていたのである
江戸時代の墓があればそれは歴史的遺産にもなる、それで死んだ人の年号をみる
そこが一番大事だからである
江戸時代になると歴史的遺産であり何か聞こえるものがない、歴史の記念碑のようなものになる

でも明治から家族墓になったとき一家の墓になったとき個人もそこに埋められて 墓碑銘に記される、個人でも個人墓はなく家族墓になっているのが日本である
江戸時代でも個人墓か夫婦墓であるのに家族墓になったのは明治政府の強制があったためであり庶民が望んだわけでもないのである
つまり家族墓は歴史が浅いのである、第一侍の墓はみんな個人墓であり家族墓はないのである、ここが誤解しているのである

おそらく明治になったとき家族を日本の国の基としたためにそうなった
そして天皇を親として国民は赤子として子供として国家をまとめた
国家とは国の家になるからだ、そこで家を継ぐ長男が重んじられた、それは外国でも同じである、長子は特別な存在であるのは家を継ぐものとしてあったからだ
長男は家をまとめるものとしてあった、だから必ずしも戦後の法律が相続でも兄弟平等にしたのはいいとはならない、そういう文化の方が何か人間にとって大事なことがあるからだ、なんでも新しいものがいいとか外国のものがいいとはならない、国とか地域のアイディンティティは長い時間で作られたものだからである
それで法律の基が風習とか慣習にもなっているのもわかる

とにかく墓があると不思議なのはその人の訴えるものがある、姉は従軍看護婦としてシンガポールでその向かいのジョホールバルで働いた
そのことが忘れられないから死ぬ直前までそのことを語っていた
認知症になってもその四年間は忘れられなかったからである
生前もそうなら死んでもそうだともなる、墓には良く陸軍二等兵とかなんとか軍の階級をしるした墓がある、今になるとそんなことに何の意味があるのかとなる
でも戦前は戦争中はそれが名誉とされたからそう記されているのである

墓とは何か?墓などいらないという時代にもなった、それはとりもなおさず家族の繋がりが薄れた結果なのだろう、無縁社会とか孤独死が増えるのもそのためである
震災以後に絆、絆とか言われたけどそれはむしろ社会に絆が失われたからだろう
震災以後原発事故にしろ絆は外部の人たちに生まれたが内部では補償金でもめて分断したのである、南相馬市では特にそうなった
そして先日小高の復興住宅で孤独死した人が発見された
それはなぜなのか?避難区域になった人は本当に家族もばらばらに住むようになった
そこで取り残されたのが老人なのである、本当に老人だけが残されてシルバータウンになったのである、ここでも家族の繋がりから先祖の繋がりから分断されてそうなった
それで墓でも故郷に置けず移している人もいる

墓は家族墓だとしているとき墓とのつながりは家族のつながりであり先祖となのつながりでありもう一つ大事なのことは土地とのつながりなのである
なぜならその土地に埋められたということはその土地との因縁があって埋められたとなるからだ、でも東京とかは墓地がないから遠くに墓地を作る
するとそこは土地の因縁とかはない場所なのである
こうして現代人は土地とのつながりも失ってしまったのである
アイディンティティになるものがなくなっている、ばらばらの個人となりアトムとなったそれに拍車をかけたのがグロ−バル経済とか資本主義とかである
そこで通用するのは金だけだからである
金さえあれば国など関係ないとする社会だからである
それでこの辺では多額の補償金をもらった時、仙台市とかに移り住んでそこでアパート経営とかして成功した人がいる、資本金が入ったことでそういうことができた
そこに代々住んでいても簡単に故郷でも捨てられるという時代になった
ただ放射線の被害があると言えば許されるという特殊な事情があったとしてもどこにでも住んでいいとなると東北では仙台市に住みたい人が多いのである
だから震災以後仙台市に移り住んだ人は多いのである

人間は過去とのつながりがあって生きるものである、それが歴史である
歴史という時、国とか世界とかの大きな歴史もあるが個々人でもその人の生きた人生が歴史である、家族でも歴史がある、それは庶民で語り継がれる、それが人間の営みである
人間はそうして家族でも祖父母がいて親がいてと生はつづいてゆく
だから先祖とか歴史と切り離して人間の存在はありえないのである
動物は一代だけの生だけど人間の生は何千年もさかのぼり連綿として続いている生なのである

でも墓が今や取されるときそこに何もなくなりただ物語だけが残るのである
すると物語がhistoryがstoryが歴史だともなる
それしか残らなくなるからだ、遺品とか残っていても庶民になるとそれも価値がなくなるでも物語は語り継がれからそれが歴史だとなる
母の実家はともかく複雑であり闇黒があった、その結果として不和の家であり結局そこに残された者も異常化していた、300万円でその家の長男は「墓を守ってくれ」と言って死んだ、それを託されたのはその家族につながるものだったがその縁も耐えた
私自身も今は墓参りしていない、結局本当に不和の家でありそれが子孫にも影響したとなる、それを頼まれた家族の一員だった女性はその墓をどうするのかわからない
なぜならもう一つ墓を父親の墓もあるからだ

ただその父親の妻はその子を恨んで死んだのである、その子は普通ではない、常識すらない異常化していた、だからその人は人間なのかとも思った
いろいろあっても世話になった母親はひどい娘だわと言って最後に自分に電話してきて死んだのである、本当になぜあんなひどい娘になったのかわからない
まず生活的に貧乏したことはないからである、大事にされすぎたということがあってもなぜそんなになったのか理解できないのである
ただ私の家族ではかかわっていないしもめていたから何かと言えない
その継続として分断されて縁も切れたとなる

その実家の家族での悲しい物語は後妻に来た女性が恐ろしく気が強くて母が語ったのは
「子どもの時俺の作った弁当は食えないのか、実の母親でないからなのかとか言われその弁当をぶちまけられた」これはひどいと思った
私の母親は何かこうして不運というか不幸だったのである
でも最後養老院で目がみえなくなり何か異常化した、そして母を呼んだ
そして「悪かったな」と言って泣いていたという
それからその死体がもともと解剖を頼んだので骨となって自分の家に来た
そして母の実家の墓に埋めたのである
つまりこれがその墓の物語なのである
ただ結核になった兄を世話したのはその後妻だったのである
だからすべてを悪いとはされない、ただ継母でありそういうことがあった
こんなことをされたら一生の傷となったろう
たから母は不幸だったとなる
実家の家の物語はまだつづいている、でもやがて墓は捨てられるだろう
その時何が残るのか?こうした物語だとなる

墓とは何かというとき、そこで必ずそこに生きた人のことを思うことは確かである
そして供養するということは確かである
いろいろあっても死んだら供養することである
そして人は死者の前で厳粛ならざるをえない、死者の前で偽ることはできない
死者は今や冷徹な目で凝視しているからだ、その死者に向かって偽れることはできないのである
だから私が苦しかったけど良かったなとつくづく思うのは特別良くしていれた親に最後介護して感謝されたことである、最後は認知症になった姉もわかってくれた
認知症は正気になることがあるから怖いのである
私に冷たくしてくれたとかわかるのである、それが死んだ後も尾を引くから怖いのである
あなたは墓参りするけど私に何をしてくれた、病気の時冷たくしたことを覚えているよ、良く平気で墓参りできるな、私はあなたの心を知っているよとかなる、そうなると墓参りだってできなとなる、そこに介護の大きな問題があったのだ
介護と死はつづいたものになっているからだ
だから最後に私に感謝してくれたことで救われたのである
それは自分は特別良くしてもらい世話になったから介護もしたのである
十分ではないにしろ努力したのである、それはそれだけの動機があったからできたのである
それで墓参りでもできるし今でも遺影に向かって話しかけている

それが恨んで死んだりしたらどうなるのか?

死者とまともに向かい墓参りでも供養ができるだろうか?

死者は冷徹に見つめているからだ、その心を死者に対して偽ることができないからだ
それは怖いことでもある、墓とは何なのか?
それは死者が訴える場所であもある、死者は何かを訴えている、それはもう声にもならないが訴えているのである、それを具体的に残しているのが墓だとなる
ただ墓がなくなってもその物語はヒストリーとしてストリーとして残るのが歴史だとなる

unknowntoom1.jpg


墓地に倒れていた墓

俺にも名前がある、俺を忘れないでくれ、捨てないでくれ

最後に墓が叫んでいる

死者は最後に墓として残り訴えている

これも捨てられる墓になる、倒れたまま誰も直さないからである
こういう墓も増えてくる、墓の無縁仏になる
そういう墓を集めている場所もある


2020年09月03日

生活保護はもらえなくなる (国で予算を減らしている‐困窮する老人)


生活保護はもらえなくなる

(国で予算を減らしている‐困窮する老人)


厚生労働省の調査によると平成30年10月末時点での生活保護受給者は209万人にのぼっており、日本人口の約50人に1人は生活保護を受給していることがわかっています。

簡単に言えば、我々が汗水流して働いた税金からです。内訳について説明させていただきますと、その約75%を国が、25%を地方公共団体が負担しています。

生活保護の減額についてです。10月から1580円も減らされ77650円しか生活費が支給されません。これってひどくないですか?生存権の侵害です。

日本の生活保護受給率(総世帯÷生活保護世帯)は、3.24%(平成27年度)で、10年前(平成18年度)の2.26%に比べ約1%も上昇しています。特に65歳以上が占める割合は年々増加し、高齢者人口の2割超が生活保護を受給しており、今後の社会保障費の増加が懸念されています。(数値は、厚生労働省「被保護者調査」より引用)

2030年問題の本質は、2030年には日本人の3人に1人が65歳以上の高齢者という社会が訪れるというものです。



生活保護は最低限の生活を保証するというけど実際はそうなっていない
最低限の生活の保証としてら一か月の生活費10万は必要である、それでもたりないけど
他に医療費とか援助されるからそうなる
でも今生活保護は相当に厳しい、最低限の保証がされていない
その条件も厳しくなっている

●年金を少額でも支給されていると生活費の援助がない

●医療費も全額負担してもらえない

4万もらっていたとしても5000円とかしか生活費がもらえないとか制限されてしまう
ただこの計算は人によって違うから一概に言えない
いろいろ事情があるからそれを考慮する

ともかくもう最低限の生活保証がされていない、ただ自治体によって一級市とか格付けがありそれによって支給される額が違ってくる
県庁とかある都市や大きな都市は一級になるから額が違ってくる
福島県だと福島市は一級都市になる、何かこういう差別があるのも何なのだろうとなる

seikatuhogo111.jpg
他の県もこんなふうになっている

約75%を国が、25%を地方公共団体が負担しています。

国で負担しているとなるとなぜ自治体で差別しているのか?別に物価が安くなるとはならない、今は地方と都会では物価は同じである、この差別は家賃などを考慮したものなか?ただ自治体の割合が少なすぎる、ということは国の財政が豊かなら生活保護もそれなりにもらえるとなる、でも生活保護の予算は減らされているから実際は相当に苦しい
もう生活保護だけでは最低限の生活もできない

現実に4万の年金をもらっている人でも5000円とかしかもらかない、交渉してももらえない、77650円で生活できるだろうか?最低でも10万は必要だろう
それでもたりない、もう食べることすらできない状態になる
生活保護自体崩壊しているのかともみる
もし10万でももらえるなら生活保護として成り立つけどそれが成り立たなくなっている
そして国の財政も苦しいからこれからも減らされる
つまり生活保護は国で減らしたら75パーセント出すとしたら国で出さなければ成り立たないとなる、自治体で25パーセントではたりないからだ

総数でみると、最低生活費以下の世帯割合は、13年に15・9%だったものが、16年には14・1%と落ち込みます。母子世帯では、13年は85・5%、16年では65・5%です。(表)

この家に住む菅井敬子さん(68才、仮名)が「電気代がもったいないから」と夜間も消灯を続けているからだ。

敬子さんは毎日、夕方頃にスーパーに行き、店員が食材に5割引のシールを貼るまでじっと待つ。今年の暑い夏もクーラーはほとんど使用しなかった。

下流老人とは、生活保護を受ける生活レベルで暮らす高齢者、およびそうなる恐れのある高齢者のことです。現在も増え続けていて600万〜700万人いると推定されます。今の日本には、かつては大多数だった中流は存在しません。ひとにぎりの富裕層と、大多数の貧困層というのが実態です

浪江の人たちが入っている復興住宅で夜に電気をつけない人がいるという
浪江だと原発事故の補償金をかなりもらっているともみたがもう事故から10年もすぎると金でもなくなっている人が増えて来る
そして現代の貧乏とは必ず電気、ガス、水道が止められるのである
そういう人たちが全体の5パーセントもいるということはその人たちぎりぎりで生活している、こうなる人は最低限の生活をしている
それでその電気代とかをとりたてる委託された人がいて嫌でやめたという報告があった
こういう人たちは毎月月末に電気代、ガス代、水道代が払えないのである
そういう人たちが5パーセントいるということはかなり多い、一割にならなくてもそれだけいることはいかに目に見えないが日本人が貧困化しているかの指標なのである 

確かに現代の貧乏は見えにくい、ボロを着ているわけでもない、物乞いしている乞食がいるわけでもない、貧乏は見えにくいのである
貧乏は戦後まもなくでも戦前でも江戸時代でも見えるものとしてあった
戦後焼野原から育った団塊の世代などは本当になにもないところから始まった
水道はないから近くの井戸から水をもらっていた、電気は裸電球一つとかでありトタン屋根の家で冬は風がうなっていたことを思い出す、私の家には本は一冊もなかった
鉄腕アトムとかの漫画を読んでいた、それも買ったものではない、貸本屋から借りていたのである、つまり本でも漫画でも買う金がなかったとなる

貧乏という時さらに戦前でも子守りして学校に行けず文字を覚えらられないという女性がいた、明治生まれで手紙を書けず頼んでいた人がいた、字が書けなかったのだ
それで小説を読んで字を覚えたとか言っていた
それは後進国でも今でも学校に行ける人は恵まれた人だとなっていることでもわかる
人間はもともと戦前まで貧乏な国だったのである、私の母親は原町紡績で糸取りを十年していてその時のオカズはつけものとかであり沢庵とかであり後は味噌汁だけだったとかある、なんでも休憩時間の30分の間に御飯を早食いして死んだと聞いた
そのことが良く呑み込めなかったが遊びたくて飯を早く食べて体を壊したらしい
休憩時間が短いからそうなったのかとなる

戦前になると味噌汁とタクワンとか一汁一菜とかなる
だからそんなもので良く仕事できたと不思議になる
今の最低限の生活でもサシミなどを誰でも食べているからだ
私の父親は明治生れで最後に病気になりサシミを食べれるようになったが食べたくないと言って死んだ、その頃豊かになったのだが病気になり食べることができなくなっていたのである、バナナは田舎では売っていなくて仙台市まで買って食べさせたのである
そういう時代と比べると生活保護でもまた最低でも現代は豊かだとなる

隣の人は私で貸していたが店を出してたが売れるわけでもなく品物もろくなものがなく餓死したようである
家賃が払えないでわずかの金をもってきただけである
ただこの人には息子がいたしそこには金はあったが嫁が悪くて見捨てたとされている
その事情は子供だったのでわからないがまだ幼児だったかである、餓死した人は結構いた時代があった
でもやはりその時代とは違うから比べることができない、もう現代の標準の生活自体できなくなっている,携帯は老人でも必需品であり電気代から水道代からガス代がかかる
それをまかなうだけで今度は食料に回す金がなくなってくるのだ

ただ本当に貧乏な時代のことも忘れられた、私は子供時代のことを思い出して貧乏をイメージするが今の人はもうできない、だから子供時代の生活は不思議だった
炭が燃料であり卵を食べられなかったという時代でもあった、ただ農家の人はニワトリを飼っていたから食べていたからかえって農家は恵まれていたとなる
貧乏になると御飯に醤油をかけて食べるとかもあった、オカズがなければそうなる
こういう貧乏から比べると現代は最低限でもいいものを食べているとはなる

奇妙だけど人間は本当に貧乏になるとつまり電気、ガスとか水道を使えなるともなる
電気は石油とか石炭を燃料としているがそれは外国から入ってくる、輸入しないと買えないものである、でも日本が貧乏になれば買えなくなるのである
電気はただ生まれのではない、燃料が必要でありそれが日本にないとしたら電気を作れないのである、ソーラーパネルとか風力発電があるようになってもそれでは工業用にはならないからである

このように現代の貧乏は電気、ガス代、水道代が払えなくなる、それが貧乏として一番切実に現れている、そうして家に住めなくなったり家賃が払えなくなったりする
でも戦前とか戦後まもなくは水道もない、電気もない、ガスもない生活していた
本当に竈があり木材を燃やして米をたいていた、原始的な生活でもあった
裏には水が流れていてそこで洗濯していたというのも今ではそんなことをしていたのが思い出せなくなる
だからそういう時代は家事に時間がかかる、今なら電機製品で一人でもできる
それて東京では中産階級でも女中を二人雇っていたとかある
私の母親は原町紡績で働いた後は東京で女中で働いたからである
二人の女中が普通の家庭ですら必要だったのである、それだけ家事に労力がかかったのである、だから女性の仕事は女中にもなっていたのである

いづれにしろその時生活保護もなかったようである、だから乞食が多かったのである
そもそも生活保護とはなになのか?
市町村があったとしたら困っている人をみんなで助け合うという趣旨である
そうなるとその困った人が何でそうなったのかとかみる、ギャンブルで身をもちくずしたとかなんとか事情がいろいろありそんな人を助ける義務があるのかともなるからである
だから今でも生活保護を受けるとなると審査が厳しくなるのである
要するにみんなで困った人を助ける気持ちをもてるかとなるからだ 
そしてしこの人が本当に困っているのかとなると見分けるのもむずかしいのである
ただこの人は本当に困っている、そういうふうに同情されればみんなで助けるとなる
自然災害のときなどはそうである、原発事故でもそうだった、こういうときは同情されやすいから援助もされる
ただ国家で援助するとなると大きくなるから見えなくなる、それでも自治体から25パーセントと出ているから回りの眼が厳しくなる、田舎ではとくにそうなる
でも生活保護は国で75パーセント出していることを注意すべきである

地方自治体でも地方交付税とかあり市町村の財政は国が大きく関与している
だから国自体が貧しくなるとその影響は日本全国に及び生活保護もできなくなる
そもそもいくら福祉でも税収が入らなければできない
ただ生活保護が必要なのは犯罪者になるのを防ぐことだというのもわかる
もうこうして貧困化してくると犯罪が必然的に増える、そして治安が悪くなるから余裕がある金持ちにも影響するのである、もう枕を高くして眠れなくもなる
だから格差社会は怖いものなのである、そのことを金持ちは自覚しない、すると害が金持ちに及んでくる、ただ確かなことは国自体が貧困化することが福祉にも金を回らないということでありするといかに国を豊かにすることが問題になる
貧困は一部の人の問題ではなく国全体の問題であり国が豊かにならないと解決できないともなる

いづれにしろ生活保護はこれから氷河期世代とかが老人になったときもう成り立たなくなる、経済が停滞してゆけば余計にそうなる、そんな財源がなくなるからだ
生活保護を受ければいいというがその内容は今や最低限の生活保証はされないことを知るべきである、生活保護はもう最後のセーフティネットにはならない、
そして年金も微々たるものだとするときどうなるのか?
それは恐怖の時代になる、犯罪者が増えて治安が悪くなり暴動のようなものも起きて来る金持ちでも襲われるから貧困者だけの問題ではないのである

2020年08月14日

墓の歴史の再考 (人間は親でも忘れる、墓も継続できない、無縁化する)


墓の歴史の再考

(人間は親でも忘れる、墓も継続できない、無縁化する)

hakahistory1.jpg

お墓のゆくえ】 誰とどこに入りたい? 4000人が一緒のお墓に眠る村、抵抗のある人も
8/13(木) 16:00配信

SBC信越放送

みんなで一緒のお墓の理由


「ひとつのお墓に入るのは抵抗があります。ここは嫁いできた村なので私は別のお墓に入りたいと思います。私はこの村に溶け込めずに生きてきました。

他の土地から嫁いできた女性だとそうなることがある
でも別に本当に村で暮らしてもそういうことがあるだろう
ある女性は土地の生まれで生涯貧困であり土地の人に親切にされたわけでもない
むしろ苦しい目に嫌な目にあった人でもある
村人が必ずしも助け合うなどないのである、特に今はない
この村で共同墓地になったのは墓となる平坦な土地が山間でなかったという経済的事情があった、そもそも墓を持てる人は侍とかでありそれも個人名で記されている
家族墓というのは明治以降天皇制国家となったとき作られたものなのである
強制されたものなのである   

だから江戸時代までは家族墓はない、一家の墓はない!

ただ夫婦の墓などはあった、それは明治になっても継続された、夫婦墓は良く見かけるからである
何か私は必ずその土地に行って墓を見ていたのである
つまり墓から郷土史というのが見えてくるからである
そして墓と文書の記録とは違う、墓には人間の実物が埋まっているという感覚になるからだ、結局人間死んで残るのは普通は墓だけだとなる
最後に墓が生きていた標となる
本当に人間は家族でも肉親でも60年一緒に住んでいても死ぬとたちまち不確かな存在になる、私は特別親でも良くされたから家族に深い愛情と思いをもっている
それでも10年とかすぎるとどうしても記憶も薄れて忘れてゆくのである
それで親でも残した財産の方が大事だとかなるのもそのためである

人間の結びつきでもこの世でははかない、親戚関係でも兄弟でもないしもともと薄かったからみんな切れた、これも全くはかない関係だったのである
この世の人間関係も無常であり無情なのである
永続するものがないということである
でも人間はたちまち死んで消えるが不思議には土地は消えないのである
土地には場所には永続性があるのだ、一万年前でも一億年前でも土地は場所は消えない
同じ場所が永続している、すると人間一代などあっというまに終わる
でも土地だけは消えない、それで歴史を偲ぶ時、その土地に外国でも立つことができる
でもそこに生きた人はもう誰もいないのである
めまぐるしく人間は変わってしまうからである、次々に生まれては死んで人は変わってゆく、でも土地には永続性がある

日本がでは姓という時、血縁から起きていない、村の地名が姓となっていた
つまりその村の地名が姓となり一族となる、小林村とあれば小林姓になっていた
只野姓は郡山の多田野村から起きている、日本では姓をたどると村の地名にゆきつく
どこどこの村の出身というのが日本人のアイディンティティだったのである
そして墓も作れない時代は村の共同墓地に一緒に葬られたのである
それがこの辺ではホトケっボとか言われた、または地図では仏方として記されている

とにかく墓でも嫁いできた女性の三分の一が夫の系統の墓に入りたくないというのは驚くそれはなぜか?やはり村になじめなかった女性のように嫌なことが多かったからそうなるだから現世の続きとして墓にも一緒に入りたくないとなったのである
正直人間社会で何か助け合うとか愛し合うとかそんな甘いものはない
村だってそういうことがある、この世に理想的な世界などそもそもないからである
理想的な世界は天国にしかないのである
それはこの世だったら常に心でイメージされるしかないし現実にはない
この世では常にどこであれ醜いものと接するからである
それで私は人間嫌いであり自然と接してアイディンティティ化して人間とは極力接しない生活をしてきた、60まで引きこもりだったのである

ただ共同墓地を作りそこで墓友とかになるとかあるがそれも不自然だろう
もともと昔の村だったらいろいろあってもそこで共に生きたという歳月がありそれで一体化する、墓友となると不自然になるのである
墓とは何かそれも個人墓でないとしたら共同性としてあったとなるからだ
でも江戸時代にはかえって個人墓であり侍でも一族の墓がないのである
かえって明治以降家族墓一家の墓が生れたのは実は天皇制国家として家族が組み入れられたからである、むしろ村の共同体中心の社会だったら家族墓は不自然になる
そこに何か墓に対して相当な誤解が生まれているのである

いづれにしろ墓参りというときそこに死んだ人がなおいるという場所なのである
だから私の兄は交通事故で死んだ、だから六万で碑を家族墓の脇に作った
でも骨もなにもないのである、でも墓を作ったことでそこにいるとして墓参りしているのである
娘はいたとしてもひどい目にあったとして何の思いもない、墓参りしてくれとして10万くれたが来なかった、ただ十万欲しかっただけなのである
こうして親の関係でも金で簡単にきれる
「金の切れ目が縁の切れ目」であり無常である、死んだ人間はもう金をくれないからである、すると関係ないとなってしまうのである
この世はこういう場所であり家族でも親でも忘れられる、それで墓参りというときお盆でも義務としても墓参りすることに意義があるとなっているのである
そうしないと他に死んだ人でも忘れられる、記憶から消えてゆく
戦死した人でも関心が薄れてゆく、語る人もいなくなる、そして恐ろしいものはそんなことがなっかたとまでなる

人間は本当に忘れやすいのである、第一人間は死ぬと確実に加速して忘却されてゆく
これをまねがれないのである、だから死ぬとこういう人が生きていたのは事実なのかとなる、百年前にでもこの人が事実として生きていたということが驚きにもなるのである
たいがい名もない人は忘れられるからである、また墓が残るとしても今は跡継ぎがいないとか無縁化する、墓を集めた無縁仏もある、つまり墓は破壊して捨てにくいからそうなっている、要するに人間は最後は人間は無縁化する、そんなに長く家はつづかないからである、だから墓は立派なものにする必要はなかった
卒塔婆の様な碑だったら簡単にとりさることができる、その方が良かったとなる
むしろ共同墓地だと昔の村の墓地のように誰かが縁ある人が墓参りするとなるからいいとなる、だから永代供養などできない、その寺自体が消失してゆくからである
つまり人間は無常からまねがれえないのである

墓の種類  

先祖代々でつないでいく「継承墓」
一人で眠る「個人墓」
夫婦二人だけで眠る「夫婦墓」
二つの家系が一緒に眠る「両家墓」
管理の手間が省けて他の人と眠る「共同墓」
樹木やお花の下で眠る「樹木葬」
手元で供養をする「手元供養」
お骨をパウダー状にして海に撒く「海洋散骨」


墓でもこのように多様なのである

お墓の歴史!縄文時代から現代まで15000年を振り返る

ここで注意しなければならないのは家族墓や一家の墓は明治以降に天皇制ができて普及したものであり歴史が浅いとういことである
だから家族墓が核家族とか時代の変化で継続できなくなった
寺もその役割がなくなってゆき維持できなくなる
結局いろいろ墓にこだわってもこの世にあるものはみんな無常化をまねがれないのである

2020年08月11日

お盆でも祭りは共同体があって継続される (現代は村とか共同体は喪失したので機能しない)


お盆でも祭りは共同体があって継続される

(現代は村とか共同体は喪失したので機能しない)


仏教用語の「盂蘭盆会」の省略形として「盆」(一般に「お盆」)と呼ばれる。盆とは文字どおり、本来は霊に対する供物を置く容器を意味するため、供物を供え祀られる精霊の呼称となり、盂蘭盆と混同されて習合したともいう説もある。現在でも精霊を「ボンサマ」と呼ぶ地域がある。


盆の明確な起源は分かっていない。1年に2度、初春と初秋の満月の日に祖先の霊が子孫のもとを訪れて交流する行事があった(1年が前半年と後半年の2年になっていた名残との説がある)が、初春のものが祖霊の年神として神格を強調されて正月の祭となり、初秋のものが盂蘭盆と習合して、仏教の行事として行なわれるようになったと言われている。日本では8世紀頃には、夏に祖先供養を行う風習が確立されたと考えられている。。

祭とはナ何なのか?それは共同体があって日本だったら村があってその村の共同体を維持するためにあった、それでたいかい豊作を祈る行事が多いのはそのためである
つまり村の生活の基本は稲を米を主食としていたからそうなる
それは切実なものである、だから各地に豊作を祈る祭りがある、その豊作を祈ることが
お盆とか祖先崇拝まで一体化する
なぜなら春には御先祖様が山から下りて来るというのはその時期に田植えなどが行われるつまり稲作と深く関係して御先祖様ありえたのである
飯館村では作見の井戸がありその井戸でその歳が豊作になるのかならないのか占うのである
だからその行事は真剣なものになる、もし豊作にならないとしたら飢饉にもなるからだ
そしてお盆はもともと新年に歳神を迎えるということで行われていたものが8月になったとも言われる
豊作を祈るとしたら正月が向いているのである、正月に餅の花とかの飾りを売るのはこれも今年の豊作を祈るためである

年神様は、新しい年の幸福や恵みとともに、私たちに「魂」を分けてくださると考えられてきました。「魂ってなに?」と思うかもしれませんが、「魂」とは、私たちの生きる力、気力のようなものです。
では、どうやって年神様から「魂」を分けていただくのでしょうか。年神様の「御魂」(みたま)は、年神様が依りつく鏡餅に宿るとされ、この鏡餅の餅玉を分けていただくことで「魂」をいただいたのです。
その年の魂となる「年魂」をあらわす餅玉は、家長が家族に「御年魂」「御年玉」として分け与えました。これがお年玉のルーツで、玉には「魂」という意味があります。
そして、いただいた「魂」を体内に取り込むための料理が「雑煮」です。ですから、お雑煮には必ず餅が入っており、お雑煮を食べないと正月を迎えた気がしないというのも当然なのです

mochibana11.jpg



お盆より正月の行事の方が農家にとっては大事だったのである
だから必ず神社に奉納される碑は正月と記されているのである
正月に奉納したからである

そして盆踊りとは死者と踊ることなのである、死者が家に故郷に帰ってきて生きている人と一緒になって踊ることなのである、そういう意義があったのである
でもその村とかの共同体が喪失すればその意味もなくなるのである
第一江戸時代の村では個々人の墓がない、わずかにある農民の墓は江戸末期に豊かになった農民が建てたものである
たいがいはホトケッポとか仏方とかに葬られた、そこには墓はない共同墓地なのである
今なら樹木葬とかに似ている、だからお盆では墓参りはしていないともなる
なぜなら墓がないからである、ただ盆踊りなどして先祖を迎えたとういことである
その先祖とは村の先祖であり必ずしも個々人ではないし家の先祖でもないとなる

要するに村という強固な共同体があり稲作を中心として生活してきた結果として祭りが生れた、それがなくなると祭りは失われる、ただ形式的なものとなる
その由来さえわからなくなる、お盆といっても今は生活が離れ離れであり一つの村にずっと長く定住して生活する人は少ない、たいがい嫁ぐにしても全国であり世界にもなる
今は本当にインドでも日本人女性がインド人と結婚したとか他でも外国人と結婚しているそうなると村を基本にしてアイディンティティを築いてきた歴史も祭りの意義も失われるそれでこの辺で「田母神」とかの社が田んぼにあった、その田んぼがなくりそこにダイユーとかのホームセンターができる
他にも小池の鷺内の社があってそこに障害者の学校ができた、そこは駐車場にもなっている、こうして社だったところが街にもなる、だからそもそも神田とかあれば東京でも田んぼだったのである、そうなるともう信じられないとなる  

そこで確かに神輿をみんなで担ぐ祭りがあったとしてもそこに住んでいる人は別に農業など無縁だし何か共同するというのも希薄である、みんな会社員だからである
そして田舎でも一万の町でも本当に近くでも何をして生活しているのかわからない人が多いのである、それだけ多様化している
子供の時なら近くで何をしていたか見えていた、石屋があった、墓を作っていた、籠屋があった籠を竹で一日作っていた、漆屋があった、漆を塗っていた、豆腐屋もあった、また馬車屋もあった、精米屋があったとかありその仕事内容がわかっていたのである
みんな何で生活していたか見える社会だった
みんな狭い範囲で生活していたのである
指物大工がいて私の家は仏壇を作ってもらった、今は大工でもハウスメーカーが会社が遠くから来て一週間くらいで組み立てて家を次々に作ったのである
特にこの辺は外から入って来た人が多いから新しい街が三つくらいできた感じになった
だから余計に都会化したのである、もともと私はひきこもりだから人とかかわらないから知らないにしても本当にちょっと会って話してみると外から来た人たちなのである

ともかく戦後でも社会が凄まじく変化した、戦前から戦後十年くらいは依然として農業が中心的社会だったのが工業社会になった、すると農業社会と工業社会はまるで違ったものになったのである、機械化されると農家でも協同で田植えしたり稲刈りしたもしない
個々の農家でするようになるとかその変化が余りにも大きいものだった
それで共同性が失われた、つまりもう村とかいう共同体はない、一部何か全体から見れば取り残された島のようにあるともなる
ただ田舎は依然として回りが田んぼであり畑もあるから農業社会に見えるのである
でも現実は田舎も工業化して会社人間になっている
この辺でも東北電力の発電所とか双葉大熊の原発がむしろ町の中心的存在と化していたのである、だからこそその被害が余りにも大きいものとなったのである
でも農業でも漁業でもそれでは生活できないとなっていたからこそそうなったのである
農業でも漁業でも林業でももう生活できないからこそそうなったのである
もし農業中心の社会だったら米がとれないとなったらみんな死ぬ
でも別に米をとれなくても現金があれば外国からでもなんでも買えるとなる
そういう大きな社会の変化の中で原発も作られて大被害になった
なぜなら原発こそが栄をもたらすものでありそれで双葉町は原発とともにあるという横断幕を街にかかげていたのである

いづれにしろお盆でも社会が変わりその意義が失われる、ただ別に先祖を供養するとか思うことは悪いことではない、ただ今は個々の家族で先祖を供養することになったのであるだから本来の祭りとか意義が失われている
そしてもう墓も維持できないという人も増えている、跡継ぎがいないとかなったからである、墓というか死者を祭るというときそれは個々人だと維持しにくいのである
なぜなら個々人だと子供がいないとか離れてしまったとか維持しにくくなる
でも村全体で先祖を祭るとなるとみんなでするのだから維持しやすい、それで都会では共同墓地を作ったりしてそこに入りたいとなる、永代供養してもらいたいとかなる

でもそれも寺でもできない、寺自体もう維持できない、消失してゆく
常に社会が変わってゆくからそれに対応できなくなりその意義も失われてゆく
ただ現代は共同体というのはない、会社共同体になったりした
それだって変わる、そして人間は孤立化して孤独死が多くなる
つまり現代文明社会はアトム化したのである、原子のように無数に分化して共同体というのはない、それは世界的に同じである
グロ−バル社会とは共同体とか関係ない、ただ物と物を交換するだけで精神的なこととは関係ないのである、そこで人間はただ無数の経済的単位となるだけである
数と量だけで計られる世界である、それは国内でも同じなのである
カルト教団があって疑似共同体を作ったりしてもそれも一票として数えられるだけである、共同体は人工的には作れない
農業の場合は自然と密接につながり共同体が作られてきた,ヨ−ロッパの市民共同体もやはり城壁の中で生死をともにするということで作られてきたから違っている、それだってその場が深く関係していたのである

それだけ社会が多様化して分散して広域化してグロ−バル化して村という最小単位の共同体のアイディンティティ保てない、だからなぜ原発事故で簡単に村でも町でも家族でもばらばらになり離散してゴーストタウンに村になったかもそういう時代の影響なのである
確かに放射線が怖いからだというのもわかるが何かそれだけではない社会の変化の中で
失われたものがありそれが原発事故を契機に表面化した
多額の補償金をもらったことで一気に表面化して加速して町で村でもゴーストタウン化したともなる、それはここだけではない、他でもそういう危険をはらんでいる
絆、絆と言われたが内部では補償金で分断してかえって外部との絆が生れたことがそれを物語っていたのである、広域化社会とかグロ−バル化社会はそういうものだったからである 


白菊黄菊
清雅典雅
正月千両
霊前奉献
積善家生
長子継富
身心正者
弥栄和楽
満月皓皓
災厄無祈

今年の祈りの詩ー霊前菊花
                                             

正月がお盆と関係していてまた満月も実りをもたらすものとされていた
ただこの詩にしても家のことを祈るのであり村とか社会に及ばないのである
そもそも社会とは社(やしろ)に会すだった、そこは共同体の要としてあった
だから村とかの狭い範囲が日本人の社会だったのである
それが余りにも社会が変化して村とかの世界とは違ったものになり祭たも維持できない、先祖も維持できない、社会自体がばらばらになったのが現代だともなる


死者は生きた地に場にいる (死者とともに生きると生も豊かになる)

死者はいづこにありや
死者はその生きた家に地に山にいる
死者の霊はその地を離れず
地とともにある          
その地にその影は大きくなる
死者はその地に持続して生きる
神話となり伝説となり生きる
死者は今貶められず
汚されることなく
威厳もて生者をみつめる
その前に偽ることはできない
死者の前で人は威を正す
その霊は重く軽きにあらず
厳かにその声はひびく
死者がその地に生きて父祖の地となる
その地を受け継ぐものは誰か
正当の跡継ぎは誰か
そは父祖の地を受け継ぎぬ
神の国を御国を受け継ぐのは誰か
それは国と地にかかわらず
天なる父が決める
その契約を破ることはできぬ
天なる父はましまして決める
そのまばゆい神の国は壊すことはできない
人は地を知り天を知る
神はなきにしあらず汝の心を見
死者もまた汝の心を見る
その前に厳粛に偽ることはできない
地から神の国へと生は連続する
そは地で学び神の国へと導かれる

故人はこの地と縁を切らず、日を決めて子孫の家と往来し家の発展を見たいと思っているという心情をもっている。

柳田国男ー先祖の話

つまり先祖とのつながりは継続される、そこに死者は依然として家でもその村でも土地にでも生きつづけるというとき死者は供養されて生きているともなる
ただそれは個々人では継続しにくいのである
現実に自分自身の家族でも一人はもう死んで十年にもなる、もう一人は3年とかすぎて何かその記憶が薄れてきたのである、私は特別良くされて60年も一緒に生活していても人間は一旦死ぬとその記憶も薄れてゆき、忘れられてゆくものだと思った
家族すらそいういうものでありはかないとなる、人間は何でも継続することがむずかしいのである、だから天皇がいろいろあっても日本では継続されたことが驚きなのである
ただ天皇すらもう継続されるかどうかもわからないのである
時代の変化をまねがれないのが天皇でもそうである、ましてや他では余計に維持できない継続できないのである 

ただ死者と生者を考える時、人は死者を恐れる、怨霊となることを恐れる
自分の家族でも不遇で事故で死んだ人がいるから私は墓を建て祀った
それは簡単な六万で作った碑だった、そこには骨も埋まっていなかった
だから死者は逆に立派な墓を建てる必要はなかった、なぜなら墓はもう継続できないからである、すると立派な墓でも壊すとなると大変なにるからだ

それより死者ー生者の関係は

生きている者が死者を守る、死者を維持する!

この方が強いのである、なぜなら死者は何もしてくれないからだ
生者でも供え物したり供養しないと死者はないのである、生者が死者を思わない限り死者はないのである、それがだんだん時間がすぎるとどうしてしも忘れやすいのである
そこに死者の問題があった、死者は本当に忘れやすいのである
だから死者を思いつづけることはむずかしいともなる、現実のことに追われるからであるそれで祭りでも儀式のようなことでもしていないと死者は忘れられる
戦没者慰霊祭だって地域では継続できないとなっているのもそのためなのである
300百万人死んでも忘れられてゆく、それが人間の問題だったのである
それで常に歴史というのが大事になる、津浪でもそうだった、この辺では400年前に津波で700人溺死したと記録されていたがその記録さえ知る者がなく津波は来ないという確信までになっていたからである、それだけ人間はあらゆるものを忘却してゆく存在なのである

houzuki1111.jpg

私の二人の母親-姉と母

ほのぼのとホウヅキ赤し遺影にそ供えて祀りぬ死者も生きなむ

ホウヅキは確かに死者に供えるにあったものだった、あかあかと燈明のようでもある
そこに死者がなお生きている、死者の霊がうつってゆくともなる
死者はな何か花とかまた供え物にその霊がうつる、だかち本当は供え物に手をつけることは危険なのである、それは死者が食べるものだからである
ただ死者に許しをこうて食べるのはいいのである、なぜならそうして死者から先祖から恩恵を受けたものがあるからそうなる

shougatutuhi1.jpg

正月の碑(北泉の延命地蔵神社)

hotokekata111.jpg

(仏方の地図) 

南相馬市鹿島区寺内に見いだした共同墓地(仏方ーホトケッポ)




2020年07月06日

世界一孤独だが、健康で長生き…「日本人男性」という修行僧


世界一孤独だが、健康で長生き…「日本人男性」という修行僧


日本には「孤高」を美化する精神文化があります。孤独がストレスとなっていても、不規則な生活から飲み過ぎ、喫煙、運動不足、肥満などに陥ることもなく、そのストレスを少なからず改善させるほどに、日々の独り身の生活を前向きにとらえ、平穏な心身の状態で行動できている人が多くいるのではないでしょうか。

この記事で日本人が孤高を美化するという精神文化はうそだろう
日本人に言われるのは常に集団ですることき仕事でもなんでも効果を発する
個人になると弱い、一方中国でも個人主義であり個人になると強い、だから英雄が出るのは大陸国家である、アメリカでもトランプ大統領はマスクをしないというとき弱さを見せたくないからだという、日本だったらそんなこと言う人いないからである
日本はとにかく全体に同調して個で行動する人はほとんどいない、同調圧力が強いのである
だから孤高を美化するなどありえないと思う
そういう人は社会からはずれアウトサイダーになる、それをできるのは特殊な異常に個性が強い天才肌の人間だとなる、そういう人は日本人にはまれである

ただ退職したりすると会社とかの仲間もいないしどうしても孤立しやすくなる
地域などでも今はなく受け入れることができない、ボランティアでもそうだがかえって
そういう人は迷惑にされる、それで正論おじさんとか議員をやめた人が何か川をかってにして迷惑だとか訴えられたりする
つまり今は一旦会社でも退職すると用のない人間にされる
それで住宅の隣で何かわめいていて奇怪な行動をしている80くらいの老人に悩まされている人がいる
なんらかこうして迷惑老人になりやすい、現代は老人の居場所がないのである

ボランティアも簡単にできない、ボランティアも権力をもたないとできない
それは自分自身がたまたま無人駅でボランティアのまねごとをしたら駅長やら客からも拒否されたからである、勝手なことをするな、迷惑だとかしかならない
それがある程度役に立っていてもそうだった
誰も認めないから今度は怪しい人だと警察に通報されて職務質問されただけである
でももしNPOとかとして認められて権力をもてばそういうことはないのである
だから個人的にはボランティアをすることは不可能なのである
そして個人的なボランティアには何の保証もないとか言うのもそうである
こういうことが事件化したのが正論おじさんとか退職した議員が川を勝手に掃除したのかなにかで問題になった
奇妙なことは行政の許可なくしたことでそうなった
つまり議員であっても退職したら権力を失うのだからそうなる
つまりボランティアでも何らか権力がないとできないのである
だから退職してボランティアすることは簡単にできない、そして高齢化社会では無用な老人が膨大に増えるのである、そして変な老人として社会では問題にされ排斥されるだけだとなる

「真面目に自分と向き合う」ことは「コツコツと努力する」ことでもあります。こうした性格が、実は最も長生きできる可能性のあることがわかったのです。2011年に米国で発表された、性格と寿命についての80年にわたる男女1.5千人余りの追跡調査研究で明らかにされました(フリードマンHS、マーティンLR、『長寿と性格 なぜ、あの人は長生きなのか』清流出版2012年)

これは本当である、その具体的例が私の母親だった、まず暇なく家事でも何でもこまめに動き働いていたのである
それも93才とかまで家事をしていた、若い時から暇なく働いていた
働き詰めの人生だった、それがすべていいものではなかった、花にも何にも興味もない働き蟻の一生だった、それも本当にそうなると人間も異常化していたのである
ただそうして94までも家事をして用事があり働いていた結果認知症にもならなかった
ただ95以上になり認知症になったことはやむをえないことである
ただ長生きしたということはそういうふうな性格がありまた何より家でする仕事があったからである
嫁にお母さんは何にもしないでいいですよ、ゆっくりテレビでも見ていてくださいと言われる姑は認知症になるというのもわかる
つまり何の用事もなくなるから張り合いもなく脳までボケて来るから怖いのである
そして本当に何か変な恰好してわけのわからないことをわめいている老人のようになる
その人には用事がないからそうなるのである、何の用もない人になりそうなる

だから人生百年時代は何か退職してもその後が長いのだから何か社会にとっても用ある役に立つ人間になることが大事になる、でもそれを見出すことは相当に今はむずかしいのである、芸術家になれととかいっても簡単になれないだろう
では社会に役立つといっても簡単に受け入れられないのである
つまり会社という組織があって権力をもっているとき社会に役立つとなるからだ
それで不思議なのは近くの自転車屋である
病気でありそれも悪い病気でも5年より以上長く仕事をつづけている
今は一軒しか町にないから忙しいのである
また一軒しかないとなれば町にとって困る、隣の市に行ったらお前は来るなと言われたからだ、なにかそういうせこいのが田舎なのである
他の人も言われたからである、ただそこの自転車屋はそういうことはいわない
他で買った自転車の修理もしているのである、なにか商売できる人だからこの辺ではめずらしいとなる

ただなぜそんなに病気でも仕事できるのか? 

それが謎なのだがやはりそれが生きがいとなり周りの人からも仕事してくれという要求がある、そのために死なないともなっているのかもしれない、ボランティアだとそういうことはない、もしそれが周りの人からの要求がありそれを満たしていればいらないとはならないからだ、でも現実に会社を退職したらそういう仕事につくことは相当にむずかしい
なぜなら自転車屋でも長年仕事しているからできる、技術的にもできる
だから簡単に何でも仕事ができるとはならない、自分にしてもこうしてプログで書けるのはやはりそれなりの知識の積み重ねと経験があってできることである
まず退職して一から新しいことを始めることは容易なことではないからだ
だから人生百年時代は金でもそうだがこうして何をするかということでも問題になる
それに備えられる人はまれだともなり無用老人となり迷惑老人になる人の方が多くなるのである、孤高に生きる老人はまれだろう、孤立して無用老人になる方が圧倒的に多いのである
だからこの記事は何かおかしいと思って読んだ、ただいちいち記事の解説でもこうしてすぐにコメントしたりできるのはインタ−ネットでできたことである
新聞の記事の解説でもいちいちすぐに答えることなどできなかったからである
そこが言論でもインタ−ネットで変わったことである

ただ同感することは「修行僧」のようになりやすくなる、なぜならあまりそもそも人と接する必要がなくなるからだ、会社に勤めて入たらそうはならない、会社を退職すると接触するのは妻とかしかなくなる、それで妻の後をついてゆくだけでありそれで妻からも迷惑がられているのが現状だからである
一方で会社勤めしていないから孤独にもなり人とも付き合わないとなるとそこで誰とも話さないとなり「沈黙」していられる、普通は会社などではできないからだ
自分自身は引きこもりで30年間とかそうしてきたからそれが自分にとっては普通だったからただ延長しているだけだとなる
でも退職した人はそうして環境ががらりと変わるから戸惑うとなるのである
ただ人間関係のわずらわしさがなくなり妻がいれば別にそんなに人と付き合う必要もないそれほど孤独も感じないのである、ただ一人だけになると感じる
だから今は自分も一人でありしかたないから一人の女性とは話したりしている
あとは自分自身が「修行僧」なのである、それは前からそうだったから違和感がないとなっているのだ、でも急激な環境の変化に退職すると戸惑うことは確かである

2020年07月02日

人生百年時代の高齢化社会の暗黒 (社会に無用化された変な老人が増えるのと死ぬまで働かされる老人)


人生百年時代の高齢化社会の暗黒

(社会に無用化された変な老人が増えるのと死ぬまで働かされる老人)


その女性は来るたびにとなりに変な老人がいることを愚痴る
何か異様な恰好して笑ったり何か言うと警察を呼んだりする
そこに何か異常性を感じる、80近い年齢だろう
そして大声でわめいているときがあるという
それが狭いこの辺では住宅だから余計に気になり苦しんでいる
それで騒音でアパートで殺人まであった

何か現代は高齢化社会なのだから老人が社会で問題になる
それは経済的にもそうだしそれだけではない、老後が長くなったせいなのである
それで50歳で一区切りでそれから50年が第二の人生だという人もいる
それだけ人生が長くなるとそれに備える人は経済的にもまたそれだけではない
その長い時間を費やすものがないと変な老人になる

そういう老人は回りで相当に増えているだろう
前は正論じいさんとかがいた、法律関係の仕事をしていて法律をたてに文句を言っていたのである、他にも何か町会議員なのかやめた人が勝手に川の掃除したのかなにか市の許可なくして川を勝手に変えたことでも問題になったとかいろいろある
それは本当に一部であり社会全体では増えていることは間違えない
この人も市町村の議員なのだから議員だったらいうことを聞く人もいたのかもしれない
でも議員でなくなったらただの人となっていたから通用しない
つまり権力をもたないと実社会では何もできないともなる
だから民主主義では一人では何もできない、10人でも100人でも集めれば政治でも動くのである
だからカルト教団でも人を集めるために票するために活動している
NPOで10人集めないとできない、認められないのである
ボランティアをするのにも権力が必要であり善意だけではできないのである
議員という権力を失って何もできなくなったとも言えるのかもしれない
ただその事情はわからないがそういうことはありえる

なぜそうなるのか?

それは老後が長くなってもすることがない、会社を退職するとすることがなくなる
地域でもそうした老人を受け入れることもない、また若い人が老人に頼ったり尊敬したりもしない、ただ若い人が税金を払って生かしている邪魔者、ごくつぶし、無用のものと見ている、だから早く死んでくれという気持ちになっている
そういうふうに老人に対する風当りが強いのである
それは口に出さないにしてもそういう気持はいつか現実に出て来る
日頃からそう思っているのだからそうした念が必ず表に現れる

例えばボランティアでも自分が駅でたまたま無人駅化したので案内などしていた
そしたらそんなことするな、必要ないと地元の女性がどなりつけてきたのである
でもその時、風で遅れたから案内していた                        

でも結局無人駅のボランティアで経験したことは余計なことをするな!

これはJRからも駅長からも常にとがめられた、でも自分のしたことは多少は駅の改善になったのである、でも誰も認めるものはいなかった
それで今度はあいつは怪しい奴だと警察に地元の人が通報したのである
それでみんなの前で職務質問された、ただそれだけだったのである

だからいかにボランティアというのは個人的にはできない、前の正論おじさんでもそうだし議員をやめた人も個人で勝手に許可なくしたから問題になったのである
別にNPOのように集団化してやればそういうことはなかった
何か現代の社会は個人で何かすることを認めないのである
集団化すれば数を集めれば認める、民主主義は多数決だからである
多数がすべてなのである、集団化すれば容認される、宗教でもそうである
何百万人いるんだということで誰も何も言わなくなる、ただ恐怖になるだけである
それがいい悪いなど関係ないのである
そうしてナチスのようにファシズムになるのが現代なのである

とにかく老後が長いという時会社を退職してでは何か地域のために尽くすとかなにか役にたつことをしようとしてもできない、そういうコミニュティもなくなっているからだ
昔だったら村の長老としてその経験と知識で尊重されていた
でも今はかえって機械頼りの社会になる時、若い人に教えてもらう方にてっているからだまた知識が膨大になり教えることも不可能である、それでむしろインタ−ネットで知識を得るという社会になっている

つまり老人の出番がない!

また一方で老人が金がなくて70までも働かざる得なくなっているのも現実である
それで老人がケガする人が増えている、それで老人にとって過酷な社会だともなる
悠々自適の生活などしている老人は少ないのである
人間は金も必要だが生きがいも必要である、人間は死ぬまで仕事を持つべきなのである
それで90過ぎても医者で現役でそのまま一週間くらいで死んだ
そういう人はいい死に方だったとなる

ともかく変な老人が増えるという時これからますます増える、そういう老人を受け入れる社会ではなくなったからである
だからやたら何の役にもたたない老人がいるなと邪魔者扱いしかないのである
でも社会のために地域のために何か役たとうとしても拒否される
犯罪者扱いにされるのである
それが現代の社会であり老人にとっては高齢化社会でも過酷な現実が待っている

その老人は確かに特殊な異様なものであり肯定はできないし同情はできない、ただそういう老人が増えてくることは確かなのである、それが高齢化社会の暗黒面なのである

金のない老人は死ぬまで働け!

暇な老人は社会に用はない、早く邪魔だから死んでくれ!

これが高齢化社会の過酷な現実なのである、そのことは今の40代以上、氷河期世代になるとさらに過酷になる、年金ももらえない、生活保護も雀の涙くらいしかもらえない
現実生活保護は今は厳しい、5千円しかもらっていなとか現実にある
医療費もただではない、わずかでも年金もらうとそうなるのである
つまり老人はもう死んでくれとなっているのだ、それだけの国に余裕はないのである
ますますそれは日本が衰退してそうなる
もし日本が経済的に余裕があればそうはならないけど日本は衰退するばかりであり三等国になり貧困化しているからだ
何か貧困層ではもう十円二十円を節約する戦後まもなくの貧困にも戻っているからだ

人生百年時代は暗黒である

そのことがこれから現実化して表面化してくる、その兆候として変な老人とか死ぬまで働かねばならない老人とか毎日の食もままならない老人が現実に増えている
その対策を日本の経済自体がここ20年賃金があがらないとかで衰退しているのだから何もできないとなる、政府はもう増えるばかりの老人は見捨てる

(社会の負担となり圧迫するから問題)

2020年05月09日

還暦(60)で四分の一が貯金が百万以下 (貧困化する老後‐田舎の例)


還暦(60)で四分の一が貯金が百万以下

(貧困化する老後‐田舎の例)
povertycc1.jpg


savemoney11.jpg

100万以下が増えていて24パーセントもいる

その女性はもともと食べることもまともにできていない、70近くになる
その女性が畑で野菜を作っている
でも勝手に草取りしたから金を要求する、それも5000円とかである
また蛇が畑にどぐろを巻いていたからとってくれと頼んだら5000円要求された
また肥料が蓄えていたものが盗まれた
あとは畑をうなってもらうのに金がかかる

畑の作物が果物でも盗まれることが良くある、畑の小屋とかなると夜なら誰も見ていない盗まれやすいのである
でも知っている人が勝手に草取りして金を要求する、また蛇をとってくれと頼んで金をとるというのは何かせこいなと思った
そんなこと善意で無料で知っている人ならするだろう
第一その女性は金が貧窮している、そんな人から金を要求するだろうか?

その人はおそらく60代だろう、何か余裕がないからそうなっている
なんとか現金を得たいということでそうなっている
それだけ金に窮している人が田舎でも増えているのかもしれない
現実そのために盗難で大金を失ったことがありそれも田舎で生活に窮している人だった
今はなかなか金に窮している貧困が見えない社会である
一応みんな田舎でも車を持っているからその車を持っているということで貧困に見えないのである
私は車をもっていないから実際は貧困の部類に入る、車ももっていないのかと今の時代ならなるからだ、でも別に自分は貧困ではない

だからこんなに貯金がないことに驚く、なぜなら私の親の世代は貯金することが楽しみであり貯金した、その時はまた必ず利子が高いから貯金したのである
だから団塊の世代ならその親の遺産を受け継いだ人は貯金がそれなりにある
でもここでも格差が大きくなっている

表でみると

百万未満の人が24パーセントもいる

これは尋常ではない、もちろん年金が高いならそれでもやっていける
でも厚生年金にしても15万くらいでたりないとしている
他の人は農業している人などは国民年金になるから少なくなる
だから貯金がない人がこんなに多いということに本当に驚く
つまり還暦になり60才で貯金がないということは相当に厳しい
普通に働けなくなっているからだ、収入は会社をやめたら半分くらいにもなる

それで2000千万貯金しろと政府が言うのである
国ではめんどうみれないからそう言ったのである
そして恐ろしいのは60代より今の50代以下がまた40代が氷河期世代はもう貯金もないし年金ももらえないとされる、そうしたらどうなるのか? 

これを予想すると本当に老後の生活が成り立つのか?

みんな生活保護になる、それより生活保護でも田舎だとただ医療が無料になるとかの生活保護もあり後は何ももらえない
第一国民年金でも4,5万しかもらえない人が結構いるのだ

そんな人がどうして生活ができるのか?

コロナウィルスでもその日暮らしのような人が困窮する、若い人は貯金がない
するとたちまち困窮して暮らしていけなくなる
だから何かあるときのために貯金がある、コロナウィルスのように経済が不安定になると解雇されたりするから貯金がないとどうにもならなくなる
でも貯金がないから10万の政府からの給与でも助かるとなる
何か怖いのはこういうふうに日本人が貧困化する犯罪が増える
その被害者に自分もなったから怖いのである
コロナウィルスではすでにそうして解雇された人がわずかの金が欲しくて強盗に入ったとかある
そううい人が増えてくると本当に怖いことになる、格差社会は南米のように犯罪国家になる

なぜこんなに日本は貧困化したのだろうか?

それはコロナウィルス前からそうだった、さらに拍車をかけて貧困化する
その割には貧困が見えない社会である、都会辺りだとホームレスとか見かけると一目でわかる、コロナウィルスで仙台にホームレスが増えたという時わかる
田舎ではかえって貧困見えないのである
なぜ食べるものも事欠く人からそんな金を要求するのかとなるからだ

現代の貧困は田舎でも車が無しでやっていけないとか金がかかる、何かと金がかかる
それで金がなくても出費が抑えられないのである
その人は毎月ガス、水道、電気がとめられると騒いでいるからだ
結果的に自分が払ってやる

まず畑で野菜を作ること自体が簡単にできない、とれるものはほとんどなかった
こうしてただかえって機械が必要だとか肥料だとか鳥にネズミに食われたとか盗まれたとかなんとかかんとか苦労だけ背負ったとなる
ただ少しでも収穫があると喜んでいてその人は農業がしたい好きなのである
でも実際は腰が痛いとか体も弱っているから無理なのである
それで隣の畑は車に乗せられて這って野菜を作っていた人がやめた
向かいの畑は病気で死んでこれも草ぼうぼうになった
そうして誰もそんな零細な農業をしない、跡継ぎがいないのである

その原因は実際の農業は専業農家が8割くらい食料を生産している
その専業農家は裕福でもある、キャベツ農家が話題にもなった
ただこの辺では梨の生産が盛んでそういうものは生活が成り立つのだろう
あとはなかなかむずかしいと見る
田んぼでも15町とかもっていれば専業農家なら成り立つ

そしてなぜ荒地が増えるのかというと全国が市場なのだからいくらでも全国から食料が入ってくる、すると全国の中でもキャベツ専業農家ならやっていける
他は田舎でも食料でも買うことになるからである
もし地元だけで自給自足しろとなるとそんなに荒地にしておけないからである
どうにかして地元で食料を得なければならないからだ
それどグロ−バル―化で外国から食料が入っていてそうなったのである

いづれにしろ人生百年時代にすでに60で百万以下の人が4分の一とかは異常である
もう老後の生活が成り立たないレベルである
それほど貧困化している日本でありコロナウィルスでますます貧困化する
ではどうするのかとなると私にはわからない
ただ農業というのは8割の専業農家が食料を供給している
それも全国からだから食料が高くなっても足りなくなることはないようである
でも零細農家などはとてもやっていけないのである
それでそうした零細農家とかもう跡継ぎもいない農家は廃業するようになる
そこで荒地が耕作放棄地が全国で増えているのである

2020年03月09日

死者を思う時はその個人を思う (人は死んだ時霊が辺りを彷徨っている)


死者を思う時はその個人を思う

(人は死んだ時霊が辺りを彷徨っている)

家族墓とかは江戸時代までなかった、個人墓しかない、侍でもそうである
個人墓である、夫婦墓はあった、でも基本は個人墓である
ということは死者とは集団の死ではない、個人が死んだ時個人を偲ぶ
あの人はこうだったとかなんとか偲ぶ
家族全部を偲ぶということはない、個々人を偲ぶのである

近くの女性が死んだ時も突然でありびっくりした
その女性とは最近ちょっと話しただけである、何か大人しい人だった
でもとても死ぬとは思いもよらなかったのである
ただ猫に最近餌やっていないと見ていただけなのである

この年になると本当に知っている人でも死ぬ人が多くなる
でも死んだ時衝撃である、何か突然空虚感を感じる
そして死んでもまだ霊があたりを彷徨って離れないとなる
でもそれもまた忘れやすいのである
何か次々と人も入れ替わりするからである

とにかくその女性は病気だと思わなかった、だから突然死んだとなりびっくりした
例えば癌になり病院に通っているとかわかればまもなく死ぬのかとして心の準備ができる何年も介護していればいづれは死ぬのだと思う
でも介護していてもなかなか死ぬとは思えないのである

死は突然に来る!

死というのは何か突然なのである、急に有なものが無になるのが死なのである
その落差が大きすぎるから突然大きな穴があいたようになる
そしてその穴を埋めることができないのが死なのである
なぜなら永遠に帰ってこない逢うこともできなくなるからだ

老いも突然に来る! 徐々に老いるのではない、突然にがっくりとくる
体力的突然に弱る、病気にもなる、何かこの世のことは突然に来る
自然災害でも原発事故とか今回のコロナウィルスでもそうである
何か悪いことは突然にくる、だから対処できないのである
それで心が折れてしまうのである

ただそうして死んでも現実生活に追われて忘れてゆくのである
その女性はすぐ近くだから余計に死を感じた
親しいとはならない人でもすぐ近くだからである

不思議なのは今逢っている人でもいつか永遠に別れて逢わなくなるとして見ていない
でも年になると今逢っている人ともそうなりやすいのである
家族すらそうなってゆく、要するに無常が現実化するのが老人である
死が日常的になってしまう、それで香典とか田舎ではうるさいからその費用が馬鹿にできないのである

今や多死化の時代である、死者の数が膨大になる、それだけ老人が多いからそうなる
まるで戦場で人が次々に倒れてゆくように死んでゆくともなる
人が死ぬと必ずその人個人を偲ぶ、その人の人生は何なのだったろうとか偲ぶ
田から通夜とかあるのだろう、その時みんなで個人を偲ぶのである
ただ自分はそういうことをしなかった、まず一人なので何もできない
でも死んだ時くらい死者を偲ぶ、それは悪いことではない
でも葬式になるといろいろめんどうなのである
今は簡単にすませるから楽ではあるが死者を送ることは相当な精神的負担なのである

ただ身近だったからその突然の死に驚いた、向かいの人が死んだ時も驚いた
その女性は病気で寝ていたのが直ったんだようと言って一週間前に歩いていたのである
そして友達のところを回って歩いた、そうして死んでしまったのも不思議である
死ぬときゆかりのある人たちを回って歩くというのは本当である
でも逢っている人はそのことが自覚できない、まさか今生の別れとなるとは思いもよらないのである

今日は曇って雨もふった、春でも月は見えない

雨雲に月は隠れて春の夜

隠れるとは死のことなのである、お隠れになったということは死のことである
月は雲が晴れればまた現れるが死んだ人は永遠に現れないのである


肺癌で近くの女性死亡に驚く (何か最近まで歩いていたのを見た感じー一年くらいで悪化?)


肺癌で近くの女性死亡に驚く

(何か最近まで歩いていたのを見た感じー一年くらいで悪化?)

そのうち肺癌は、最近急速に増加している癌で、肺癌による死亡者数は、
1970年には 10,489人であったのが、2002年には5万6千人と増加し、2015年には我が国における1年間の新患者数は男性11万人、女性3万7千人になると予想されています。胃癌を抜いて第1位となり、肺癌死は全癌死亡のおよそ20%にあたります

肺がんは自覚症状が出にくい、発見された時には手遅れ

肺癌で近くの女性が死んだのにはまた驚いた
一年前くらいに歩いているのを見ていた、でも最近見ないと思っていた
猫に餌をやっていた、野良猫がその家の前に集まっていた
私も猫を飼っているからいつも見ていた
でも最近猫が集まらない、どうしたのだろと見てたい
それは最近のことでありおそらく病気になっても餌をやっていたのかもしれない
でも死んだのは余りにも急だったとなる
付き合いでも深くしていないからわからなかった
かえって旦那さんの方が病気だということを知っていた
だから意外だった

何か人間は突然思いがけなく死ぬ、この年になると知人でも死ぬ人が多くなった
あの人も死んだあの人も死んだとなる
その人は60代だろう、癌で死ぬのは60から70代である
ただ癌はなぜか増えている、その原因は何なのだろうか?煙草とも確定できていない
私の父親も肺癌で死んだから無惨だった
その死の状態を見て中学生だったからそれ以来死のことばかり考えるようになった

とにかく人は呆気なく死ぬ、家族もみんな死んだ、この年になると次々に死んでゆく人が増えて来る
病気になっている人も本当に多い、自分自身も病気になった
回りをみても同年代でも病気の人が多いのである
でもなぜ癌になってから7、8年くらいしても仕事している
その手を見たら点滴の跡だらけであり痛々しい
でも仕事ができているのが不思議なのである
おそらく肺癌でないからかもしれない、肺癌になると早く死ぬとういことがあるのかもしれない、癌によってその症状をもいろいろだからである

肺癌は症状が出ないからわかったときもう死に向かっている
その女性は病院に通っていた、でも発見したときはやはり手遅れになっていかのかもしれない
コロナウィルスも肺がやられる、インフレインザとにているから肺がやられる
老人は肺炎で死ぬ人が多い、肺気腫とかなって死んだ人も知っている

こうして妻の方が早く死ぬと夫の方は残されて淋しくなる
一人暮らしではないが近くに妻を早く亡くした人は大きな家で淋しいと言っている
そう言う人がまた増えてくるのである
夫婦でもどっちらかが死ぬと一人になるのである
多死化社会というのも現代である、高齢化社会では死ぬ人も増えて来る
それで駅前がもともとはスーパーだったが農協の葬儀屋になった
つまり葬儀屋が繁盛する時代なのである

その女(ひと)とわずかの時のともにあり死して見ざりき春になりしも

わずかの時をともにあったがもういなくなってしまった、なんともはかない、この年になるとただ別れだけが増えて来る
それでさよならだけ人生だというのは冗談ではなく厳粛な現実なのである

2020年03月01日

福祉社会の限界(病人介護社会で国も自治体も破綻)


福祉社会の限界(病人介護社会で国も自治体も破綻)

その女性は腰が悪いと東京の方までみてもらうのに行った
今度は目が悪いと仙台の病院で手術する
費用の半分は市で援助する
歯医者にもかかって治療に金がかかる
その女性の息子は独身であり40越えている
その父親は青森の介護施設に入っている
この辺では介護士がいないので青森の施設に送られる
金はかからないとか言っていたが施設は必ず何か足りないと要求される

つまりすでに5080問題ははじまっている
50くらいで親が介護状態になるのである
そして自治体も財政が苦しくなり破綻するとかも言われる
南相馬市は財政状況がいい方ではない
南相馬市は原発事故で国からの財政援助がありそれでもっていた
でも10年過ぎれば来年から打ち切られる、その時苦しくなってゆく
市長の給料を減らすとか議員を減らして対応した市もすでにある

その他福祉が限界になるのは病人介護社会になっている
回りを見ても脳卒中になった人が同年代で3人いた
一人は足が悪くなりもう一人はろれつがまわらなくなり一人は辛うじて死をまねがれた
一人は仕事しているが相当に悪い、つまり病人介護社会になっているのだ
私自身も自ら病気になり認知症の介護とか二人介護して四苦八苦した
でも経済的には余裕があった、これからは経済的に余裕がなくなる
福祉が限界になる、なぜなら病人と介護が増えてくるからだ

団塊の世代が75以上になると増えて来る、その数が大いから福祉が限界になる
80の人は糖尿病で4カ月入院したとか病院通いである
毎月医療費に3万かかるとかいう女性もいる
とにかく日本は高齢化社会になり健康な人も多いとしてもまた数に比例して病人と介護が増えてくるのだ
その圧迫は切実になり介護する人も介護される人も限界になり共倒れになる
そういう危機をここ十年の介護で自分が経験したからである
自分の場合は経済的には余裕があったが人手がなく一人で奮闘してきた
その時何の助けもなかった、それも自分のカルマだったとはなる

でもこれから自治体でも生活保護とか福祉関係は極力減らされる
もう福祉の限界なのである、日本自体の経済も衰退するだけでありアベノミックスで株とかでもたせているけどこれも限界が来て崩壊しつつある
こうして弱り目の時祟り目にもなる、3・11の東日本大震災があり原発事故があり
台風被害があり今度はコロナウィルスで日本経済は打撃を受ける
何か今は明治維新とか戦後の焼野原のような状態になる危機が近づいている
70年で大きな変化がある、明治維新から70年で敗戦になりそれからまた70年過ぎる
今がその大変化の時代に突入している
銀行が半分以上なくなるとかいうのもそうである、それはあらゆるものに及んでくる
自治体の存続すら限界状態になりサービスも受けられなくなるかもしれない
とても病人介護社会に対応できない、財政状態が自治体でも悪化して限界になっているからだ

もう病院に行けない、医者にもみてもらえないでアメリカのように貧困層は死ぬほかないとなるかもしれない。アメリカでは保険は国民保険がない、だから馬鹿高い医療費を払わなければならないからかからないのである
日本でも日本経済の全体がおちこめば税収もへるのだからそうなってゆく
そういう兆候はすでにあり現実に始まっている
生活保護だってまともに支給されなくなる、雀の涙のような金しか支給されなくなるかもしれない。
そしてこういう時代になると治安が悪くなる、経済的に追い詰められた人は犯罪者になるそういうことは南米とかで日常的に起きている、日本も安全でありえない
貧富の差が拡大することも危険になる、金持ちは必ず狙われるからである

つまり限界集落というけどあらゆるものが限界になり福祉でも維持できなくなる
もうサービスは受けられない、自治体でも国でも頼れなくなる
そしてなぜかコロナウィルスとかでも経済に打撃であり連続して災難が起きて来るのか?これも末世である、それは社会が既得権者が破壊するためなのか?
時代が変わる時、戦後でも焼野原になり地主など既得権者が消失した
明治維新でも侍が消失したとか大きな変化が起きる
銀行も既得権者でありそれも消失するとか既得権者が安泰でなくなる

でもその既得権者がその権力を失う時、社会が大きく変わる
それは情報分野でもマスコミの権力はインタ−ネットとかで失われつつある
ここも大きな既得権者だった、テレビの六局で放送を独占していた
そして実はマスコミはまた背後に既得権者と結びついていたのである
情報は操作されていて既得権者に不利な情報が流されなかったのである
原発で安全神話を作っていたのはと既得権者だったからだ
ただそこには地元の人たちもかかわっていたのである
原発は国家予算並みの金がでるからそこが利権の場となった

いづれにしろ2020年はこうして大変革が現実化してくるというのは本当だった
それがコロナウィルスで始まったということもそうである
それも世界的に影響してグロ−バル経済自体に歯止めがかかる
それも大きな世界の時代の流れとなる、グロ−バル経済は縮小してナショナルな社会にもどる、グローバル経済も限界にきてそうなってゆく   
「一難去って一難」こういう時代なのである、それは私の一身上でも経験して来た
それは日本全体でも起きて来る、それが時代が変わる時に起きて来る

2020年02月07日

迷惑老人が増える (死んでくれ死んで良かったねとか言われるのは悲惨)


迷惑老人が増える

(死んでくれ死んで良かったねとか言われるのは悲惨)


同署によると、男性は6日午後2時50分ごろ、同県秦野市内の中古品店での支払い時に「レジ袋が有料」と言われ激高し、店員の胸ぐらをつかむなどした。通報を受けた同署員が署に連れて行き保護。署内で引き続き暴れたため、署員5人が頭や両足、両腕をつかむなどして別室に移したところ容体が急変し、搬送先の病院で午後6時10分ごろに死亡した

レジ袋5円に文句言っている、最底辺の老人だったのか?
この人に同情している人はまれである、警察良くやったとか迷惑老人を始末してありがとうとか若い人に言われる

ここには実際警察の問題もあった、無理やり五人がかりでおさえつけて殺したとかも言う警察の強権がここにある、それも経験しているから怖い、問答無用で警察はそういうことをする
自分も駅で人前で職務質問されて公共の場から追放されるところだった
そこでの問題は駅は公共の場でありそこで職務質問されたらみんな見ているから怪しいとなるからだ
それ以来警察を嫌っている、ただ何かそういうことを経験すると不信になる
その時はこちらに落ち度がなかったからである
別に駅は鉄道を利用しなくても人と話したり集まる場合があるからだ

だからこれは警察のやりすぎだったのだろう
それも確かに責められるべきである、というのは他の人も必ずこういう目にあうからである、それが怖いのである

ただこの老人はそうされてもしかたがないものがあった
そういうクレーム老人を知っている、いつも5円十円でも値段を気にしている
それでここに二つのスーパーがあっても一つは嫌がって絶対にいかないのである
何か気分を害することを言われたからだろう
そういう人は不満がたまっているからクレームをつけて店員でも弱い者にうっぷんを晴らす、クレームでもそうである

ところだその人の住む市営住宅ではその人自身隣の老人に苦しめられている
何か異常な行動が多く騒いでいる、それで眠れないという
第一その老人も何か問題があり迷惑行為をしている
市営住宅にはそういう人が多い、経済的にもいろいろ不満をもっている
隣にいるとそれをさけることができないから困る

いづれにしろこうした迷惑老人が膨大に増えてくるのも高齢化社会である
第一認知症になると大迷惑老人にみんななるからである
自分も家族が認知症になって経験しているからわかる
ただ自分の場合は特別世話になったから懸命になり介護したのである
でも社会的に認知症になると家族だけではない回りに社会自体に迷惑をかけるようになるそれが問題なのである

認知症は社会で役割がなくなったときなりやすいということも書いた
家族で女性でも何もすることがなく家事もしない、ただボケーとしていると本当にボケるつまり今の老人の問題は役割喪失であり社会的に無用化されることである
それが大量に生まれる、それがこうした迷惑老人になる
それがもう日常的光景となる
ここでレジ袋の5円とかにこだわっているのは金がないとまたそういう人が増える
そういうぎりぎりで生活している人は常に不満がたまっている
そこでクレーム老人になり迷惑老人になる

だから若い人に早く死んでくれ、警察がかたづけてくれて良くやったとか言われる
このことをみると本当に高齢化社会はいいことだけではない

こんな老人は警察にでも殺されて良かったのだ!

こんなことを言われることは本当に長生きするべきではなかったとなる
一面これは怖いことではないか?
老人でこのことを深刻に自覚している人はそんなにいないかもしれない
かといってこれから高齢化がすすむと8百万人が認知症になるとか言われる
それをイメージしたら空恐ろしいともなる
つまりこうした迷惑老人が巷にあふれ回りが巻き込まれるのである

ここで警察が5人かかりでおさえつけたのはやりすぎだった
それも問題だったがそのことで何か警察のしたことをとがめる人が少ない
これからは老人はこういうふうにされるのかもしれない

迷惑老人は始末しろ

病院や施設で老人は虐待される

これが高齢化社会の現実でもある、老人でも何か社会に貢献しろと言ってもそれが今の社会では老人を受け入れない、ボランティアでも簡単にはできないめんどうなのである
正式にその仕事を認め社会で受け入れないとできない
でも老人は邪魔だとされる、それで家族でも居場所がないとかなる
老人でも最後まで人間は社会に生きる
その社会に仕事も与えられない、居場所がないということは深刻なのである

そして家族でも社会でも無用化された老人はどうなるのか?
社会全体から早く死んでくれとなる
そういう目で見られる時怖いと思う
例え迷惑をかけなくてもそういう目で見られる
そういう目で回りに見られるとき恐怖なのである
それがいつか現実問題として虐待とかこうしたことで警察に殺されるような状態になっても誰も同情しない、始末して良かったとされる

いづれにしろ何らか社会で役割をもたないとこうなることを老人は深刻に受け止めるべきである
そして本当に迷惑老人は始末され病院や介護施設でも虐待されて殺されるとまでなる
そういう事件も起きた

ただ老人になってからこれも時遅しなのである
なぜなら人間は若い時から生きる積み重ねがその人を作る
だからもう老人を変えることはできないからである
何か趣味でもこれまでの継続としてできる、老人になってはじめてやることは実りとなりにくいからだ

ただこれだけの高齢化となると

89才でライダーになった

そんな人も出てきている、その人は40頃からなのかもっと遅くなのか60頃なのか
ライダーになって89歳でライダーになり旅していたのである
だからこういう異色の老人も出てくるのが高齢化社会である
74歳のライダーにも実際あっているし70歳でもロードに乗っていた老人にもあった
だから元気な人は今までしたことを続けることに固執するのである

そういう人はそれでいい、迷惑をかけないかぎり遊んでいてもいいとなる
そういう時代でもあるからだ
でも何か社会に貢献しないと白い眼で見られるということが怖いのである
それで徒然草で吉田兼行は言っている

命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬ程にて死なむことめやすかるべけれ。

今はまさに「命長ければ辱多し」であるが40才では早すぎる
それは今でぱ非業の死である、寿命が短い時こういうことを言うのは解せない
ただ人に惜しまれて死ぬ人はいいということは確かである
早く死んでくれないからなと言われるときすでにその人は社会的死を宣告されている恐怖を知るべきである
あの人なんであんなに生きてているの、それも金でも社会の負担で生きているとか言われる、そう見られること自体生きていることが肩身の狭く生きること自体苦しいともなる
ただ老人側でそういう自覚をしない、それで迷惑老人になる
でもこういう老人は今や増えるばかりでありどうにもならないとみる
それが高齢化社会であるというのもさけられないのである  

yosanjp1.jpg
yosanfukushi23.jpg

地方交付税も問題だが公共事業費が少ない
高度成長時代は多かったが今は社会保障費が増大したのである


koureika33.jpg


予算の中で特別会計が主だがここで医療や介護や福祉の費用がこれだけ多いのである
実際知っている人は糖尿病になり病院通いなり70になる女性も腰が痛い、歯が悪い...
病院通いなのである、そして何か保険がきかない、福祉の金も出ない
薬でも風邪薬は医者では出さないとか政府でも医療関係でひきしめている
それもつくづくわかる、老人病人社会になんているからだ
これらに金をあてたらもう政府でやっていけないのである
そしてますます負担になる人が増えるだけなのである
だんだん自分自身でもそうなってゆくのが怖い
将来日本はどうなってゆくのか不安になる

それは経済的面でこれだけ老人が増えて介護とか病人社会になれば当然である
その負担が下の世代にこれからかかってくる
すでにその人は40過ぎて80くらいの施設に入った親の負担が強いられている
また母親もいてその人もどん底である
親のために介護のために仕事をやめるとか50代でも問題になっている
どう考えてもいい面はない
ただ一割くらいはいい面はある、要するにおそらく昔のように一割くらいしか長生きしない、70以上など生きていないとなれば良かったとなる
9割は不用な老人になっている、数の問題なのである



2020年02月04日

年金がもらえなくなるとみんな老後破産 (老後の年金の価値は大きい)


多様な個人が主役になる社会 

(マスコミの時代は終わった-youtubeの感想)

Diversified world Multipolarization 

   
manyside1.jpg
youtube

多様化となると個性になる、多極化となるとマスコミからyoutubeのような変化である
多元化とはmany rooted landになる
多極化はやはりシステムの変化である、六局だけのテレビ放送は終わった
今やその数が次々に増大しているからだ

最近youtubeを見て発見がある、加治将一チャンネルと今日見たつねあきチャンネルでもそうだった
年配だから人生を語り金融を語り資本主義を語る、それだけ経験があるから厚味と深さがある、やはり40代ではまだ人生を語れないからである
今価値があるのはそれぞれの人生を語ることである
それも多様化であり多極である

こんな人生送っていたのかと驚きがある、加治将一氏などは自分には理解できない
破天荒な人生だったとなる、現代の大金持ちの生活を体験しているからだ
アメリカでも実業していたから驚く、そういうことが自分にはイメージできないからである
若い人には個性がない、それは経験がないからである
人生を経験した人しか語れないからである
それは失敗したことでもそうである、ワインを飲んだ蘊蓄があったがそれも無駄だったというのもそうである、別荘をもってももしあましただけだったとかもそうである
そういうことは自分のような貧乏しか知らない人にはわからないのである

deep max 妙法の中国に関する情報は内容が濃密である、これは中国に専門化しているからマスコミより詳しい
中国の知らない面を知る、語り方もうまい、このチャンネルは明らかに今のマスコミの情報を越えている
中国で干ばつがありそのためにそこから細菌が生まれて流行するとかそしてそこで大型の動物が生き残れない
ネズミが繁殖して移動するからそこから細菌が人にも伝染してゆくという
そもそも大型動物は生存競争で不利なのである、だから恐竜が滅びたが小型の哺乳類は生き残ったのである
つまり中国の様な巨大な国家でもそれが恐竜のように滅びてしまうような弱点があるかもしれない
だから何でも巨大なものがいいとは限らないのである

武田邦彦氏チャンネルとなるととにかく科学に強い、そこから世界をみる
その支点が専門の科学にあり技術者でもあるから世界でも仕事していたからその見方が深いのである、マスコミだとコメンテ―ターとして呼ばれても話すことが短すぎるから
深く知ることができないのである
その主役はコメンテーターではない、司会者なのである
司会者が芸能人になっていることでもわかる
注目するのは司会者でありコメンテ―ターは脇役にすぎないのである

イケハヤ大学だとその住んでいる場所に興味をもった
四国の山の中であり平家落人伝説のある祖谷(いや)に近い
そこにも行ったことがあるから相当山の中だとイメージする
その他世界旅行した生々しい話についても興味をもった

とにかくて多様な人物が語る時代になった、マスコミではそうしして自らを語る場ではないテレビ局でも支持されたものをその人のほんの一部しか語れないのである
youtubeだと誰々のチャンネルであり一人の個人のチャンネルであり自分のことを制限なく語れるのである、だからその人の全体に注目する
例えば本一冊だして読んだとしてもその人の全体はわからないのである
何か推理小説一冊読んだなとかで終わるからである
だからメデアが変わるとその表現されるものがまるで変わるということがわかった
今その変わり目でありまだその全貌はわからないのである

多様化多極であり多元化である、多元化とはそれは様々な土地であり土地が場が個性を作り出している
そこに住んでいる場所の価値が再確認される時代である
それが相馬市が城下町でありそこに隣の庭を活かした煉瓦作りの喫茶店ができた
私が紹介した喫茶店は場所を活かしたことにより価値が生まれた
料理ならたいして変わりないのだがその土地の場のもっている雰囲気の価値が違う
山木屋のガーデンは海が一望にできる、隠れ家の鹿島の海老の喫茶店もそうである
ただ不思議なのは原町にはそういう喫茶店が見出されない
でも北泉とか雫〈しどけ)辺りに海が一望できるから喫茶店があればいいとなる

しかしこんなふうに膨大に多様多極多元化するとそれを追うだけで時間がとられるし理解することも大変だなと思った
でも明らかに老人の価値は人生を語ることである、これは若い人にはできない
そこに教訓を見出すことができる、例え失敗談でもそうである
そういうことが無駄だったのかと知るべきである
つまり共通しているのはいかに時間を浪費したかということなのである
金を浪費したということもあるが時間を浪費したことが一番の後悔だったことが共通しているのである

つくづく現代は百家争鳴の時代になった、これから何か紹介したように団塊の世代が人生を語る時代になった、何か遅い感じがするが人生百年時代は人生を語るのが遅くなる
60からでも70からが人生を語ることになる、それが成熟社会なのである
そういう場が与えられた時代だともなる
ただ60代以上とかなるとyoutubeに出ているのはまれである
電子空間は紙の空間のように制限されない、いくらでも語っても書いてもいいのである
それで延々と個人を語ることになる
ただこれだけ多くなると前もそうだったが読まれたり見られることが簡単ではないそれでただ放置されているだけのチャンネルもでてくる
それはインタ−ネットでは極端なのである

でも何かyoutubeという媒体(メデア)は不思議だと思う、要するにテレビに50年以上なじんでいたからそうなっているのだ
それが習慣となって何かyoutubeというのが何なのだろうと戸惑うのである
これもこれから習慣化すれば別にそれが当たり前となるのである
マスコミの時代は終わったことを告げているのである

ここで時代の変化を表にしている、今までの世界とは違っている
大事なことは今までは高度成長時代でも同じものの大量生産であった、それで日本が外国に輸出することで豊かになった
それが今は通じない、そうした製品ではなく物ではなく情報が価値をもつ時代になった

例えばニュースを語るにしても住む場所も年齢もその人の個性も違うからいろいろな解釈の仕方がある、自分だと郷土史とか調べているからその住んでいる土地と関連して説明したりする、マスコミだとみんな同じになり安いのである
そこで主役になっているのは司会者でありあとのコメンテーターは局から選ばれたものしか出さない、話すことも局の指示通りすにする、そして主役は必ず司会者になっている
そういうシステム自体が古くなったともなる
個々人がyoutubeで語るのが新鮮なのはそのためだろう
個人のテレビ局というのはありえなかったからである

そしてこうなると個々人でもいかに表現するかが勝負だとなる
表現力を磨かなければ見てくれない

つまりマスコミのように同じことを話していては誰も見ない

その人なりの解説がないと見ない、だからニュースでもその説明の仕方が個々人によってその立場によって経験によって違ってくる
そうなると必ず自分なりにそれらの情報を集めて編集することが必要になる
それが手間になる、テレビだとただ一方的でありその報道したことについて個々人は全く受け身になっていた
インタ−ネットではyoutubeでも能動的にその意をくみとろうとする
それが今までのマスコミの情報と違っている 
ニュースとかはマスコミが独占していたけどその解説となると本当は個々人によって違ってくるものだったのである

だから子供からの教育でも変えねばならない、いかに表現するか、表現力を磨くことである、今までの様な暗記ばかりしていては表現力は身につかない
そこで教育もフリースクールのように学校に行かなくてもいいように政府が応援していとかなるも時代の変化である



2020年01月07日

団塊の親の世代が介護などで子供の負担になる (高齢化社会でも価値観が変わるー老人は負担なだけ?)


団塊の親の世代が介護などで子供の負担になる

(高齢化社会でも価値観が変わるー老人は負担なだけ?)


5080問題はひきこもりが長期化して親の介護になったとき地獄になる
それは自分自身が経験して来た
親が大正生まれで会った、いまはすでに団塊の世代もまもなく介護される方になる
その人は80くちいなのだろう、その息子は40代である
別に引きこもりではない、土建業で正社員でありボーナスをもらったとか足を怪我した時社長みずから見舞いにきたりいろいろと世話をやいているからいい会社なのである

ただ問題はその父親が介護状態になり青森の施設に移された
南相馬市では介護する人手がたりないのでそうなった
たいがいここでは青森に移されている、青森は仕事がないのでそうした介護事業が仕事になりやすいからである
でもその施設に入れたからそれで終わりではなかったのである
その後に施設で使うものを負担しなければならない、おむつなどでもそうである
その負担がその一人の息子にかかってきたのである
もう一人息子がいても絶縁状態でありめんどうはみないからだ
その息子は結婚していない、結婚が嫌だというより結婚できる余裕がないのだろう
この世代には結婚したくてもできない状態の人が多かった
氷河期世代だったのである

そして70にもなる母親がいるがそれにも金を送らねばならない
その母親は年金でもわずかでありとても生活できないからだ
医療費は無料でも生活費自体が少なすぎて生活できないのである
時々わずかの金を送ってくるがそれもその息子にとっては負担である

すでに5080問題はひきこもりのことだったがそうでなくても40代から50代の親が介護状態になってくるのも怖いことである
その数が多いことが問題なのである、それで会社をやめたとか苦しい状態に追い込まれるただ金があればこの場合は問題がない、まだ親が一応体に故障があっても生活できるからである

これが介護になったらどうなるのか?

父親は介護して回復しているから帰ってくるとかとも言う
それはいいことにしても息子にその負担が長く続くことになるのだ
これも高齢化の厳しい現実である
高齢化社会とは病気になっても介護されてなかなけか死ねない社会なのである
それで介護しているとき早く死んでくれたらなと自分も思ってそのことを書いた
そしたら他の人も介護している人がそう思っている
それは別に悪い人でもないし普通の感情なのである
必ずそうなる、これは個々人だけではいない

社会でも老人は負担になるから早く死んでくれ

それが本音になる、個々人ではいろいろな人がいるから一様には言えない
元気な人は80でも90でも元気だし10歳は若くなっているのが現代である
だから本当に老人となるのは75歳以上からだろう、それまでは老人と言えない時代ともなっている、ただ老人になると個人差が大きいのである

このことはこれからでもすでに起きているのである
別にひきこもりだけではない、50代になると親の介護に入ることが多くなる
それですでに会社をやめたとか問題が起きているのである
これから数が多いのだからどうしても負担が増大してゆくのである

結局高齢化社会とは残酷なようだが

この老人にこれ以上長生きする価値があるのだろうか?

そういう疑問も生じてくるのである、命はかけがえのないものだということはわかるにしてもこれだけ老人が増えて負担になるときそう疑問になるのも当然だとなる
高齢化社会はそういうことを問う時代にもなる
いつまでもこの老人を活かして負担になって子供が苦しむのがいい社会なのだろうか?
そういう疑問をもつのはやはり老人に希少価値がなくなったためである
50から60で死んでいた時代だったらこういうことはないのである

こういうことを言うとお前こそ死んでくれとかなる
だから誰もそういうこと言いにくいのである、この人はもっと長生きするべきかしないかと判別などできないからである

正直あの人はなぜ長生きしているのか、馬齢を重ねているのか?
その子供は親のために若い時自殺したとか知っている
その親は80近くまで生きている、むしろ自殺した子供がべきだったとなる
ただ命に値踏みができないからみんなそういうことを言わないだけである
何かその人の価値がどこにあるのかわからないからである

とにかく高齢化社会の価値観もまた変わるのである
今までの価値観では対応できない、長生きしたらみんなかさ喜ばれる社会ではない
そうなると価値観が変わる、何か時代とともに人間の価値観が変わる
なにより次の世代の負担になり若い人達の足かせとなることが問題なのである
自分は親に感謝して必死になって介護した
それは60以降でありやりたいことをやらせてくれたからである
それは仕方ないと甘んじて必死に介護したのである
だからその人によって介護の事情は変わってくるのである
毒親の介護のことを言っている人もいるからである

いづれにしろ高齢化社会というのは歴史上世界でも経験ししていないのである
だからそこでいろいろな問題が生まれる、それは今までにないとことだからそうなっているのである
お年寄り大切にしてくださいということも成り立たなくなっているのもそうである
それは余りにも老人が多すぎるからそうなったのである

2019年12月17日

死者を愛しつづけることができるのか? [わたしたちは愛においていかに死者を憶(おも)うか(キケルゴ-ルを読む)]


死者を愛しつづけることができるのか?

[わたしたちは愛においていかに死者を憶(おも)うか(キケルゴ-ルを読む)]

●死んでみればどんな人もあっけない

人間は死んでみると実にあっけないことに驚く、生きているときは大騒ぎしても死ぬと全く信じられないほどあっけないことがわかる。灰となり煙となり終わりである。姿も形もなくなる。そしてあとは何もない、沈黙して終わりである。こんなに人間はあっけないのかとあきれるてしまうほどである。認知症になるとまわりに大変な迷惑をかけるが死んでみると全くそれも嘘のようにあっけない、死んでみればどんな人もあっけない、それは地位ある人もみんな同じである。人間の一生なんて大騒ぎしてもこんなにあっけないのかと唖然としてしまう。人生はこんなものなのかとむなしくなってしまうだろう。どんなに生きても人間は死ねばあっけない、この世で功績を残した人でもあっけないのである。そういう点で死は平等なのかもしれない、死はありふれているしどんな人も死ぬ、人間はどんなにがんばってもはかないものだとつくづく思った。そんなはかない人間がこの世でじたばたしてもはかない、むなしいと思う、何にしろしょせん、塵となり煙となるにすぎないではないか、つまり人間はどんなに生きてもどんな人の生も最後はあっけない死で終わりむなしいとなる。この世に受けた生ははかないものでしかすぎなかったのである。また一人死に自分も近い内死んでゆく、それは逃れられない人間の定めである。

だからこそ永遠の命を求める信仰が必要になる。この世限りの生はどんなに生きたってどんな人だってはかなくむなしいのである。死を見ればわかる、あまりにもあっけない、あまりにも無惨だった。人間はどんなにもがいても死ねばはかないもの、あっけないもの、死んだら何にもない、それだけのものにすぎない、あなたが求めていること焦燥していることは実際つまらないことである。最後はみんな塵となり煙になるだけではないか、何を成そうとしてあせるのか?この世にあせって成そうとするようなことはなにもない、結局人間の行き着く先は死なのだから、死の克服がない限りこの世をどう生きようがむなしいとなってしまうのだ。社会をどうのうこうのと言っても結局社会自体は死の問題を解決することはできないのだ。カルト宗教団体は社会改革を目指す、創価なんか特にそうである。宗教とは関係ない、カルトは社会改革を目指し傾向があるのだ。集団化するとそうである。宗教は政治で解決しない問題を追求してきたのである。

●生前と死後の継続

ただまだまだ死んで間もないとあっけない死でもその人を想いつづける日はつづく、新年もまた死者とともに明ける、いくら死があっけなくても死者との思い出はなおつづくのである。死んではじめてその人が自分にとってどうい人だったかわかる、生きているときは意外とわからないのである。60年一緒にいてもわからない、その人が死んだとき本当に痛切にわかることがあるのだ。だから人間の関係は死があっけないにしてもずっとつづいているのだ。死によってその人が自分にとってかけがえのない人だったことを気づくこともある。結局死の残酷さどんなに今や思ってもその人自体には会えないということにあったのだ。夫婦で喧嘩したり親子で喧嘩してもあとで反省して仲直りもできる、でも死んだ人とはできない、その人と永遠に会えないのだから和解もできなくなる。後悔しても相手は死んでいるのだからわかってもらえない、死んだ人と語っても返事がないのだ。だからわかってもらっているのかどうかわからないのだ。

あなたは私に対して介護で冷たかったね、だから呼びかけても返事しないんだよと死んだ人が思っていたら衝撃になる。そういうこともありうるのだ。生前冷たくした人がでは死後はどうなのか?やはりいくら死者に語りかけてもいい返事はかかってこないかもしれない、死者は何も言わないにしろそう語りかける人自体がそう感じてしまうだろう。やはり死者は語らない、返事がないにしろ真心で語りかける必要がある。死んでいる人に自分の心を偽ることはできない、死者は厳粛に見ている、死者に手を合わせることはやはり生きているときとは違う神仏に手を合わせるような気持ちになるからだ。あんたは生きているとき冷たかったね、あなたの心を私は知っているよ、しらじらしいとなる、そう思われたら見抜いているとしたら神仏に手を合わせることはできないだろう。死者は今や介護される必要もない、手をわずらわすこともない、では何を求めているのか?生前から継続する真心を求めているのだろう。あなたは生前良くしてくれたな、私はわかっているよ、ありがとうと感謝の気持ちが死んだ人から伝わるようだったらいい、でも自分にしてもそこまではしていなかった。家に帰りたいと言っても家庭事情でできなかったし病院での介護もそんなにしていないともいえた、ただそういう落ち度があってもわかってくれよなと願っている、認知症になったのだから直ったら事情をわかって感謝もしてくれよなともなる。
いづれにしろ老人の介護は死と結びつくものとしてある。それは介護している人が死んだ時わかるのだ。これは施設でも別に親族でなくても世話した人が死ぬことはやはり厳粛なものであり同じなのである。 山姥伝説は親を蓮台野に捨てたことが基になっているという、捨てた親が山姥となり恐れられた結果だという、これもわからないが人間の心性はそもそも変わらない、伝説も何らか人間の変わらない心性があるからこそ突飛なものでも理解できるのだ。あくまでも人間が作ったものだからである。死者への恐れは共通してあるからだ。

●キケルゴ-ルの死者の対処方法

死者のために声をひそめけ泣け、彼は安らぎに入ったのだから」

ひとは死者を想いつつ声をひそめて泣くべきであり、しかも長い間なくべきである

死者を憶(おも)うことは愛の仕事である。

死者はいかなる仕方でも報いるということをしない

死者はいかなる禍もこうむることがない、しかもこれほど容易にその人の遠ざかることのできる相手をもたない

死者の見開かれた眼をのぞきこんで嘲笑することはできない

私たちは愛において死者を想うことはもっとも信実な愛の行為である

死者を恐れよ、彼の狡猾さを恐れよ、彼の確固たる態度を恐れよ、彼の強さを恐れよ、彼の誇りを恐れよ

たとえ死が私たちの現に見ている人々をわたしたちから引き離すとしても彼らを愛するという義務はなくなりえない、なぜなら義務とは永遠であるからである。

人間が死んでしまうこと、これが何を意味しているのか、一体死者はどうなったのかなど理解することは簡単にできない、死者については霊媒者とかいろいろ語るけどわからない、キケルゴ-ルの言う死者についての話はわかりやすい、インタ-ネットで死別のことでいろいろ語っている人がいる。慰めている人もいる。そういうなかで10年とか20年とか想いつづけている人もいる。そんなに想いつづけられるのか、死者もそれなら幸せだと思ってしまう。たいがい死者とは死んだ時点でも忘れられてしまうことがある。肉親でも死んだら財産の方の話になり金にしか関心がない人も多いのだ。一方で逆にいつまでも死者を想いつづけている人もいる。それでは病気になってしまうという人もいる。確かに延々として死者を想い泣いていたら現在の生活に支障をきたす、もっと現実を生きろとなる。一般に死者を想い続けているのは若いとき死別した人なのである。老人の場合は少ない、天寿を全うしたんだからこの世に未練などないから想いつづけないことがある。これは個別にみんな違っているから外からは計りにくい問題である。死者でも障害者、知的障害者でもいつかは死ぬ、そして認知症になって死ぬ人もこれから多数になる。そういう人もやはり死者はかえって威厳あるものとして生者と向き合うようになるのだろうか?死者は区別がないのだろうか ?生前にノ-ベル賞をもらった人は優秀な人も多々いるし市井に極平凡に掃除婦などとして終った人も多数いる。そういう人も区別なく死者は威厳あり恐れるものとなるのか?死者はそうかもしれない、この死者は特別偉いというのではなくキケルゴ-ルの言っているのは一般的な死者のことである。

いづれにしろ死者はどうしたって忘れられる存在である。そのなかで死者を想いつづける人は相当に死者を愛している人だったとなる。でもそれは生前と関係してそうなっている場合が多い、生前に愛し合わないものが死んでからその人を愛すことがありうるのか、それはなかなかできない、生きているとき、生前愛さない人は死後も愛さないのである。認知症になったとき長年親しんだ人もよりつかなくなった。やはり死後もその人たちは死者を想わない、やはり生前と死後は連続している。認知症になったような人は死後はどうなるのか?回復して正気にもどりまた賢い威厳あるものに戻っているのか?やはり死者には変わりがない、死んでから馬鹿のようには扱えないものになる。死者はみんな厳粛なものになるからだ。死者を嘲笑したりできない、知的障害者でも認知症の人でもそうなる。この人は馬鹿だった、死んでからも馬鹿だとは言えない、死者とはみな平等なのである。

死者の見開かれた眼をのぞきこんで嘲笑することはできない

二カ月間意識失ったとき眼を開くのだがそれが魚の死んだような眼だった。それをみたときまともに見ていられない、気持ち悪いものだった。でも自分は眼を開けと開かせたのである。手も握っていた。手はまだ血が通いあたたかかった。そのあたたかい手をにぎり最後は手は冷たくなり死んでいった。そこまで生きていたし生きる交流はあったのだ。このとき死んでいなくてもその眼をのぞいたときこの言葉を確かに感じた。半場死んでいたのでありその眼を見て嘲笑はできない、半場死人になっていたからだ。死者を誰も笑うことはできないだろう。認知症だと生きていれば馬鹿を言うが死んでしまいば馬鹿なことも何も一切語らないことは他の死者と同じなのである。そこに死者の共通性がある。死者は一切語らない、しかし死者は何も見ていないのか?死者は見ている、まるで外観ではない、神は心を見ているというごとく生者を見ている。それゆえに死者は恐るべきものである。あなたの誠実と不誠実を見ているし知っているとなると偽ることができないとなるとそれは神がみていると同じになる。それゆえに死者を恐れよとなる。 そして生と死が連続したものであるときまた生者も軽んじることはできない、生者も死者になるからである。生者だけを重んじ死者を重んじないまた死者だけを重んじて生者を重んじないということもできないのである。いくら死んだからといって生と死は断絶したものとしてはないからだ
時事問題の深層からの転用です



前のホームページからプログに移した、まとめ作業をしている
それも膨大になるとまとめること自体がいつまでも終らないとまでなる
これが自分自身が書いたのを忘れていたのである
自分が書いても忘れているのが結構あるので読み返しているのである

2019年12月14日

墓とは何なのかその謎 (墓参りすれば良心がなぐさめられる?)


墓とは何なのかその謎

(墓参りすれば良心がなぐさめられる?)

墓が何なのか?これも知ることは簡単ではない、そこで墓の歴史を見る
江戸時代には侍意外は墓はなかった
村の共同墓地に埋められていた、つまり墓はなかったのである
そこはホトケっボとか言われて残っている
そこには死体が埋められたのである
でもそこには誰々の墓とかはないのである

殿様とか侍の墓は菩提寺にある、それも個人名であり家の墓がない
…家という墓はないのである、男性でも女性でも個人名の墓はある
女性でも侍の家だったら個人名である
だから墓がある人は特別な人であり一般の人は墓がなかったのである

でも経済力がついた幕末辺りになると農民でも個人名の墓が生まれた
墓を作るのは結構当時は金がかかるから作れない
でも経済力がついたとき農民でも墓を作ったのである
今でも立派な墓を作るのは裕福な人だからにている
墓はあくまでも個人であり個人を供養するものである
ただ村という共同体があるときは共同の墓地にうめていた
ただそこには何もないのである

家族墓が一家の墓が生まれたのは明治以降なのであり新しいのである
それは上からの政策でそうさせられたということがある
家を一つの単位として国をまとめる国の政策として一家の墓が奨励させられた
天皇が日本国民の親であり国民は子であり赤子であるとかなった
それは上からの押しつけだったのである
だからち歴史的にみれば家族の墓は新しく作られた制度のようなものだったとなる
家族の墓は世界的にみてもない、みんな個人の墓である
そうすると家族の墓は一家の墓は特殊だとなる

不思議なのは共同墓地に個人が埋められたとき個人は消失する
でも村の人たちがそのホトケッポにお参りしていた
だから村がある限り誰かがそこにお参りしていたということはある
でもそれは特定の個人にお参りしていとはならない、なぜなら個人はそこで消失しているからである

墓の不思議は墓は家より長く残る、家が消えても墓が残っている
家は絶える家があるからだ、今になると家が維持できないとなり墓終い(はかじまい)
する人が多くなった、墓はこのように維持することがむずかしいのである
だから誰もお参りしない墓があり捨てられるようになる
墓の墓地ができてしまうのである、特に家族のつながりが希薄化している現代ではそうである、子供でも女性なら遠くに嫁ぐとか広域化すると代々つづく家というのが少なくなる
なぜ墓が家より長く残るかというとその土地と関係している
家だと家という建物は消える、でも土地にあれば墓は例えばその家の人が死んでも墓だけが残ることがある、無縁墓になっても残ることがある
家はもし人が住まなくなったら壊されてなくなるからである
そして家族がお参りする人がなくても無縁墓でも土地の比とがわれだとして花でもたむければ墓だけはその後も残るということがある
そこに墓の意味があるともなる

ともかく墓というのはまず人間は家族でも死ぬと何もなくなってゆく
そこで死体を埋める、そうしたときそこに卒塔婆のようなものを建てることからはじまった、死者はいないのだがそれが代わりになる
でもその卒塔婆だとこれも古くなり朽ちてなくなる
それでなくならないように石にしたともなる
ただ問題は墓でも誰かがお参りしないと墓は捨てられるのである
そのように継続することがむずかしいのである
それが共同墓地になると数が多いから誰かが子孫でもお参りすると継続できるのである
一家の墓は継続しにくいのである
それは墓石会社が言うのとは違ってくる
こういうふうに死者を商売するするとき何でも歪められる
墓を売りたくてそういうからである、また戒名などもそうである
そんなもの第一仏教ではそもそもなかったからである
それも寺や僧侶の金儲けのためであり歪められるのである
人間は必ず利益がかかわると公正に見れなくなるのだ

ただ骨を海に散骨するとか木の下に埋葬するとかして墓を建てないということも選ぶ人がいる
そうするとどこに墓参りしていいかわからなくなるので困ることになる
墓というのは墓参りがあって墓の役目を果たすからだ
その人の墓があればその人を供養することになる
そして何か墓というのは良心をなぐさめるためにあるともなる
親に苦労かけたのに何もできなかったから墓参りするとかである
それで心が慰められるのである
何か本当に死者に対しては良心が問われるものである

第一死者は何を生者に求めているのか?

供え物なのか?そうでもない、死者は心から私を思ってくれますか?
そのことかもしれない、死者はもう何も与えてくれないしまた何を与えても返事もないからである
それでそういうことになると何も思っていない人は墓参りもしなくなる
現実に実の娘ですら金にならないとして墓参りしなくなった
こちらで電車賃とか10万とか払ってもそれはその金が欲しくて墓参りすると言ったが来なかった、その人は事情があるにしろその10万が欲しかっただけなのである
それで死んだにしろ親の縁もキレたとなる
それは親に責任があるにしろなにか人間の縁などあっけない無常だと思った

とにかく墓があればその個人を偲ぶことがある、それは具体的に墓というものがあり墓参りして何か良心のなぐさめとなる、墓がないとそれがなくなる
死者との縁が墓を通じて結ばれるということはある
でも立派な墓は必要ないのである、そういう死者を思う心があれば卒塔婆のようなものでもいいのである、第一石の墓だとお参りする人がいなくなれば片付けるのに困るからである、卒塔婆のようなものだったら片付けるのが簡単だからいいのである 

私が新しく兄の墓を作ったとしてもそこに骨もなにも埋まっていないのである
でもそこに兄がいるとしてお参りする、不幸にも若くして事故で死んだしいろいろ私の家族ではマイナスのものとしてあったからお参りする
それで良心のなぐさめになる、母もまた苦労したからそれでお参りして良心の慰めになる不幸という時、子供の時不幸なのは愛されない最悪だからである
母も継母に育てられたからそうだった、継母にいじめられたのである
兄も私の家では愛されなかった、だから不幸だった

それで不思議なのは母の場合は何か愛されないというカルマをもっていたのかともなる
その子もそうなったりしたからである、それは自分の家族とも関係していた
それで私は恵まれたらか良心の慰めとして兄の墓を作りお参りする
でも実の娘も不思議なのは愛されないものとなった
これもカルマなのかとなる

親ー子ー孫とありみんな愛されなかったという連鎖はカルマなのか?

こういうことがカルマとしてあるのは確かなのである

いづれにしろ母の命日を今年も忘れていた、ただ一人になるとそうしていろいろ気がまわらなくなる、家事するだけでも忙しいからである
だから命日だけでも個人を偲ぶということは必要である                               



2019年10月27日

悪い病気でも死なない人の謎 (社会的役割があることの大事ー何もしないと認知症になる)


悪い病気でも死なない人の謎

(社会的役割があることの大事ー何もしないと認知症になる)


医療が進歩しているから今やいろんな病気でも簡単には死なないのだろう
その人は病気と聞いてから5年以上それより長く普通に働いている
そして街に自転車屋が一軒しかないからもしそこがなくなると不便になる
それで古くなった自転車を無料でひきとってもらった
それは高価だったが使えなくてなんにもならなかった自転車だった

ただそれなりに商売できるからつづけいるのだろう
あまりに収入が低くかったらできない
その人は話ができる、ただ自転車の技術屋ではないのである
良く職人気質とかいうときただ物つくり一筋に励んでそれを売るということでは商売では愛想が悪いという人がいる
そこが一人で経営していることのむずかしさである
大工さんでも本当に話がうまいというか商売に向いている人がいた
その人は自ら注文をとる一人親方だったのである
そういう人はいるにしてもみんながそうはならない
自転車屋はただ自転車だけを見ていては商売にならない、客との交渉とかあるからだ

その店は時々休むにしてもなぜそんなに長くつづくのか?
それはその仕事をすることに役割がある、その仕事をする人がいなと困る
町に一つしかないとそれは貴重になる
隣市に行くと不便なにるからだ、するとそういう気持ちがその仕事をしている人に反映するのかもしれない、それで病気でも仕事が続けられるとなっているのか?
休む時は点滴しているというから結構病状はいいとはいえないのである

ここは謎ではあるが認知症の場合は確実にあてはまる
認知症も謎だけどどうしてなるのか?それを前にも書いたけど役割喪失であり仕事がなくなることなのである
一人は家事を94歳までしていた、働き詰めだったし趣味もなにもない
でも94歳まで家事の仕事をしていたのである
一人は役所を定年退職してなにもしなくなった、家事すらしない、用意されるからしない結果的に認知症になった

仕事がない、役割がないは認知症になる確率が高い

これは原因はわからないにしてもその確率が高くなる
仕事がない、役割がないということは人間にとって相当に深刻なのである
何もしなくてもいいのだから楽でいいのではないかとなるがそうではない
それは人間にとって深刻な問題を引き起こすのである
それがボケになり認知症になることに通じていたからである

たから嫁にばあちゃんは何もしなくていいですよ、テレビでも見ていてくださいと言われる老人がぼけるというのがそうである
つまり家でも家事をすることがないからである、でももし料理が上手なら料理を嫁に教えたりしていたらそういうことはない、でもそれはみんなができることではない
何故か家事をしてみると料理でもこまかいのである、いろいろ種類をそろえねばならないから手間だなとりほとんど買っているだけである
人間はいろいろなことを一人ではできないのである

だから人生百年時代の大きな問題は金もある、これも深刻だけど会社を退職したりするとそこで役割を失う、仕事を失うことが深刻なのである
そして会社を退職すると「ばあちゃんはテレビでも見ていてくださ」と男でもされるのである、ボランティアにしてもそれを受け入れる場所はない、地域でもない
すると仕事がない役割がない、生きがいがないとなることが深刻なのである
高齢化社会はそういう人が社会にあふれる時代だともなる
高齢者の役割は何か?病気になり病院に行くことであり介護されるだけだとなる

しかしそれは社会的費用が膨大にかかる、労力もかかるのである
認知症患者が800万人になるというとき空恐ろしいものとなる
社会を認知症の患者が徘徊して彷徨うとなると悪夢だとなる
人生百年時代になると会社人生だけではなんライフワークとかをもつ必要がある
雑学でもいい何か専門をもち認められるように努力することが必要になる
そうしないと会社を退職した時点で仕事もなく、役割もなく、生きがいもないとなり
認知症になりやすいから怖いのである

働くということはWORKすることであり機能することである、社会的にもその人が機能する
役割をもち社会に機能することである、そこに生きがいが生まれる
ただ社会に機能しなくてもアウトサイダーのように別個の価値を追求することもあり売るただこれはかなりむずかしい、だから簡単なことでも何か社会に機能する仕事が必要なのである
女性ならやはり家事を続けるとかでもいい、家の中でも機能する、役割を喪失させると認知症になる危険が高まる
それは今度は周りに迷惑をかけるから家族も崩壊するようになるから家族の人も認知症にならないように注意しないといけない
何か役割を与えるようにしないと危険になる

とにかく人生百年時代は人類でも経験していないことである
だからそこに様々な問題が起きて来る、経済的問題も深刻だけど社会から無用化されて
家でも無用化されて何の役割も生きがいもないとなりボケになり認知症になる
それも高齢化社会の大きな深刻な問題なのである

自分の場合は性格的に内面的な仕事に向いている、外面的な人と接する仕事には向いていない、それで社会と適合できずに社会からはずれた生活をしてきたのである
でも社会的生活も有益である、無駄ではない
結局人間が経験するのはわずかだからである、するとなんでも経験したことが貴重になる個人では限られたことしか経験できないからである
でも仕事は積み重ねである、知識でもそうである、だから退職してから何かはじめようとすると困難になる
ただ人生百年となるとそこからでも自らにあったものを仕事とか役割をもたなければならない時代になった、そうしないと認知症になるリスクが高くなるからである

もしかしたらその人が社会に役割があり家族でも役割があるとき死なないのかもしれない役割も仕事もなくなった時その人は認知症になったり病気になったりして社会的家族的死になる、その時その人はもうすでに社会から忘れられたものとなっていたのである
その人がいるかもとうかもわからない、社会から消えるのである
社会的死になっていた、そして後は大迷惑かけるだけの存在になってしまったのである
そういう認知症が800百万にになるのが高齢化社会でもあるとしたら空恐ろしいとならないか?医療費ももう限界にきている、介護も人がいない、貧乏社会になり介護費用も払えない、その負担が今のロスジェネ世代なのである
その人たちは金銭的にも余裕がないからだ
そういう悪夢の時代が現実化するのがもうすぐだという恐怖になる

ただいい面としてはそれだけ長く生きると何かをライフワークを追求するのには有利になる、急ぐ必要がないからである、成果を出すのは七十以上てもいいとかなるからだ
その後でも精進つづけられるからである、何か本当に学問とか芸術とかでも知識の分野は一代でも追求しきれないものがあるからだ
それだけ知識の分野は広いからである、それでそういう分野では才能を発揮できる人が増えてくる、インタ−ネットなどでも独学でもできる環境が整ってきたからである
それで自分自身もこんなにプログで書いているのである
文章だと書ける、しゃべるとなると私は苦手だからできない、それでこんなに書いているのである


2019年10月24日

負担になる老人が増える(介護や病気で金がかかる)


負担になる老人が増える(介護や病気で金がかかる)

青森に送られた親は最初は金がかからないとか預けるだけでいいと言っていた
実際は何か必ず必要なものがあり金がとられている
それを息子が払っている
その息子も非正規ではないから社長がいろいろとめんどうみる
怪我した時もいろいろと世話をやき母親のところまできた
人手不足だから人を大事にしている
建築土木の仕事である

それで今度は丸森が大被害になりそこに働きに行った、それも大変だと言っていた
自衛隊が入るのを規制している、断水もつづいている
そこもこれから復興には相当な労力が必要になる

そして一週間くらい来ないでどうしたのだろうと思ったらその人は目の手術をしてきたという、それも仙台まで行ってなのである
この辺で仙台まで行く人が多い、仙台の医者や病院は設備が良く優秀な医者がいるとして行っている、それで金がかかったと来る
必ず自分の所に金を要求してくる
なぜこうしう金を払わなければならないのかわからない

ただ考えてみると丸森に応援しなければならないと思ったがこうして現実に働く人がいるのだからその後押しとしてその母親のめんどうを金銭的にみるのかとなる
丸森では人手を必要としているからである
かなりの工事関係者がそこに集まっている

●介護で金がかかっている

●老人の病気で金がかかっている

こういうふうに今はそれぞれの家族でも必ずこの二つで負担になっているのだ
介護でも後はかからないといっていだが結構かかっている
そして母親の分までめんどう見れないとなっている
でもなぜ自分に要求されるのか?別に払わなくてもいいけど払っている
約束の倍以上払っているから苦しいとなる

何か今は本当にこうして必ず高齢化で負担を背負っているのだ
その数も増えてくる、福祉でも今はかなり制限されていてもらえないのである
全部病院でも福祉でまかなうことはできない、福祉といってもいろいろな段階がある
最低クラスだと本当に援助がないのである

ただ今回は丸森を応援しなければならないというときその人の息子は丸森で働くのだから間接的には丸森の人を応援しているとなる
だからやむをえないともなるが何かなぜ自分にだけ要求されるのかとも思う
友達だった人は糖尿病でもう4か月くらい入院しているから金銭的援助ができない
これもまた負担となっているのだ

いづれにしろ少子高齢化社会は団塊の世代が75以上になったらその負担で日本自体がつぶれるではないかとさえ思う
必ず介護になりその期間が長いから金銭的にも労力的にも負担になるのである
私の場合は介護も終わりすでに4年とかになる
なんか楽になったなとつくづく思う、余裕がでてきたから人のことを考えられる
余裕がなかったらとても他人のことを考えることも思うこともできない

でもそんなことをかまわす人間かは絶えず自分のことで頭が一杯であり俺たちは苦しいんだ、金がないんだ、・・・・と要求してくる
それは津波の被害とか原発避難者とかの時はもうそううい人たちが押し寄せてきたのである
でも自分自身が介護で病気で苦しんでいる時でもそうである
事業に失敗しし借金した人と金がないから盗むために家探ししていたとか人が苦しんでいることなど関係ないのである

ともかくなぜこんなに自分自身でもそうだけど災難がつづくなのだろうか?
相馬総合病院に入院していた人は津波被害者が新地と松川浦の人でありそして丸森の金山の人も入院していたのである
丸森と相馬市は近いから結びつくのである
今度は丸森町が大被害になったのである
そしてなんというか今度は郡山市まで被害になった
ここの地銀の営業に来ていた人は郡山市であり本店は郡山市にある
こうして何か福島県に災難がつづくのは何なのだろうとなる

今回の一番の被害は丸森町だった、宮城県だけど近いから隣という感覚の地域なのであるなぜか飯館村では原発で被害が大きかった
でもその代り補償金も多額であり立派な家を建てた人もいた
でも丸森町とか相馬市でも宇多川が氾濫して床上まで水につかったが補償金はもらえないのである、保険をかけていればもらう人もいるのが原発のように補償金はもらえないのである

もともと相馬市と丸森町も放射能の被害があったが補償金はもらっていない
それで相馬市の丸森のすぐ近くの玉野地区の酪農家が自殺したのである
何かこの辺ではそうして悲劇がつづくのはなぜなのだろうかとなる
津浪、原発事故、今度は洪水と三重苦になっているのだ
これも呪われているのか何なのか不可解だとなる

今日はgooglechromeのブラウザで文字入力ができくなった
これも直すことができず手間取った、それで時間がとられた
ウィルスではないみたいなのでほっとした
パソコンの問題は何か不具合があると原因が複雑になり直せなくなる
それは原発とも似ている、いろいろな原因が考えられるからもうわからなくなるのであるいろいろ試しても文字が入力できないのである
ただ別なブラウザ、インターネットエックプロラーは正常なのでそれほど困らないが
インタ−ネットは一旦なれて利用していると変えるのがめんどうになる

ここ一週間はこんなことで忙しく追われたが断水はとまった、それて楽になった

flooddamage1234.jpg

2019年10月21日

困っていても「福祉に頼んでください」あとは関係しない社会 (ダークネスサイトの批判の試み)


困っていても「福祉に頼んでください」あとは関係しない社会

(ダークネスサイトの批判の試み) 


街に出ると、貧困に苦しんでいる「見知らぬ他人」をみかける、ホームレスを見かけることもあれば、深夜のマぐドナルドで寝ている若者も見かける、そうしたニュースに接して、あなたは見知らぬ彼らに「自分の貯金からこれを使ってください」とさしだすだろうか?おそらくそうしないはずだ、しかしそんなことしなくてもいい理由がある(鈴木傾城)    

(ダークネス(鈴木傾城)

これも一理ある、人それぞれの言い分や考えはある、だからいちいち怒ったりしてもしょうがないとなる
このサイトと武田邦彦氏のyoutubeとかを見ている
だからこの人に別に特別反感もない、何か人はそれぞれの立場で住んでいる所も違うし生い立ちも違うからそれぞれの言い分が生まれてくる

ただこういうことに反感をもつ人がいることは確かである
税金収めているから助けているし助ける必要はない、今ここに飢えているものがいる病気の人がいるとして助ける必要がない、それは福祉がすることだとなる

とにかく苦しい時今は「福祉に相談してください」で終わりなのである
私とは関係ありませんとなっているのだ
何か困った人は福祉に相談してくださいで終わりです

私自身も介護とか自分の病気とか窮地にたたされたとき全く近隣の人は見て楽しんでいるだけである、田舎では特にそういうことがかえってあるのだ
他人の苦しみは密の味とかなっているのだ
だから何か人間観が自分は自分が苦しんでから変わってしまったのである
それも自分自身がそうなるカルマを背負っていたということもある
そうして今ではあきらめている

でも自分の問題は金の問題ではない、金は別にあったからである
みんな金で困っているわけではないのである
多くは金の問題にしろそれだけではないのである
人手がいるとか何か慰めてくれとかある、自分には金があったのだからそういうことをしてもらいたいかった

しかしなぜ何もしてくれないのか?
福祉でなにもかもしてくれないのである、福祉に頼んでくださいと言うのはあなたのためには何もしたくないからそう言っているのである
またそういうのもそういう人にかかわるとめんどうになるからである
いろいろと世話するようになると負担になるからである
そして金の問題になればその数が多いのだからとても無理だとなってしまう
だから福祉に頼んでくださいとなる

たいがい人生相談しても誰か親身になって相談にのってくれる人などいないのである
それは負担になることが嫌だからである
でもこのサイトでは金のことを問題にしているけど人間は金なくても何かできることはある、またそれほど負担でなくてもできることはある
洪水の被害でもそういうボランティアは肉体労働になるから負担でできない、だから寄付をしよう、金で応援しようとかある

自分がしてもらいたかったことは金の問題ではない、金があったし金は与えていたのである
でも実際は大金を盗まれたり金を要求されるだけだった
自分の苦しみを知るものは一人もいなかったとなる
なぜなら自分の家に来た人は金に苦しんでいたから何もできなかったのである
事業に失敗して借金していたとか大金盗んだ人は年金がたりないとか何か苦しんでいた
そういう人は自分のことで精一杯なのである
だからまず金のことより相手のことを思いやるという余裕すらないのである
そういう人が何か相手のことを気遣うことはできない
自分自身のことで精一杯だからである

ただその人を思う時何か異常だとも思った、何か自分の家に来た人は異常だったと思う
全く相手のことを思いやる心がなかったということである
そういう人たちしか来なかったということは自分の家と自分自身のカルマだったともなる
でもそれ以来人間不信になったしどうせこの人と付き合っても助けられることもないと見てしまうようになった、だから人間を見る目が変わってしまったのである
それは今までそうした苦労なく何不自由なく暮らしてきた自分のカルマだったとなる
だから苦しんできて自分に常に金のことで水道とめられた電気とめられたと来る人が

あそこの道で倒れても誰も助けない

そういうのを自分自身も納得したのである、現代はそれだけ金だけを求める社会なのである
ただ不思議なのは金が欲しいことはわかる、でも事業している人が他人のために荷物一つは運ぶことを嫌がる人が事業できるのか?
だって事業は人のためになることをすることだからである
ただ社長としてふんぞりかえって威張ることではないけどその人はそういう人だったとなる、そんな人がいくら技術的に優秀でも事業ができるのかという疑問である
そんな人にいくら社長でもついてゆくだろうか?
だから人手不足になれば社員自体がやめてゆく、ブラック会社は淘汰されるのではないか?

別に事業が慈善事業ではない、利益をあげることである、でも他人のために荷物一つも持ちたくない、それは無料でもなかった、すでに私は百万単位で金を与えていたのである
その後も借金していたのをゼロにして縁を切った
だから無料でしてくれではなかったのである
でも簡単なことでもその人は他者のためにはしたくない、そんな簡単なこともできない人がどうして社長になっていられるのか?
もちろん自分は事業をしていないから会社経営のことはわからない
でもその人の人間性に大きな問題があったのではないか?
それは原発事故でも何でもそうである、その会社を運営する人間性の欠陥がありそれが事故につながる、何かそういうことは原発関係では多かったのである
モラルが欠けていたことが事故につながった原因でもあったからだ

いづれにしろ困った人は苦しんでいる人にかかわるとかえって損するということは確かである、だから人はそういう人とかかわらないかかわるのはそういう困った人たちを利用する人たちなのである
共産党でも創価でも他のカルト宗教団体でもいろいろな団体でもそうである
そういう人たちを味方にして票を増やして権力を得ようとする
数が集まれば権力になるのが民主主義だからである
そして共産党すら幹部が裕福なのである、それは今の中国を見ればわかる、幹部は王侯貴族になっているからだ、人民服きていた共産党の時代とは全く違ったものになっている
人民から富を収奪しているのが共産党だっともなっているからだ

誰か本当に困った人を苦しんでいる人を助ける人はいるのか?
それはその人たちのために税金を払っているのだから福祉がすればいいとなる
でも福祉でなんでもしてくれるのか?
「福祉に頼んでください」あとは知りませんとなる
それで本当に自分自身が苦しい時そう言われると腹正しくなる
それは私はあなたのために何もできません、それよりしたくないのです
だから福祉に頼んでくださいとなる
これも現代の資本主義なのである

でも自分の場合だけど別にそんなに負担にならないで助けていればお礼はあったのであるそれはなぜ自分がそういうことを強く思ったかというと
困っていて苦しんでいてその人から得るものはない、金にならないというけど金はあったのだからそんな負担をかけずにも何かできたことがあった
ただの励ましでも言葉でも助けることだってあった
ただそういう気持ちが全くなかったのである
それは後で大きなお礼となって金銭的に得することがあった

例えば大金持ちの人でも何かそこで多少でも助けたらお礼が大きなものとなる
ただその大金持ちでもわからないいことがある、それでたまたま何か苦しんでいたそれをちょっと助けたが後で大きな金銭としてのお礼があったとかもありうる
でもそれも最初からこの人は大金持ちだからとわかっていて助けるのはまた別である
そのとき動機はただ金が欲しいというだけになるからだ

人間は今だと毎日働いてもたいして金にならない、でも人を助けたときそこで恩を感じた人は大きな金を払うということはありうるのだ
金をもっていることがあるからだ、でも実際は大金を盗まれたというだけだったのであるまた何一つ気遣いもなくただ金が欲しいというだけあった
でもその人は他で毎日働いていた、それは苦しい労働だったのである
要するに自分が苦しんでいることに対して全く関心もなにもないし何か助けるいう気持ちもなかったのである
そういう人が他者に気づかいできない人が事業を成功できるのだろうか?

何か人を助けるというとき重い負担が課せられるから嫌だというのはわかる、自分も嫌だからである
でも簡単なことあるとき水一杯やることが助けることだったある、でもそれすら関心がない人は気づかない人はしないのである
そういう気持ちがないからしないのである

損して得をしろ!

何も介護の重労働をさせるわけではない、言葉で慰めることくらいでもいい、でもその人はそういう気遣いはゼロだったのである
そういう人たちはもう人間ではないとも思った、ただ金だけを求める社会になるとそういう人達が普通になっている
だから目の前に苦しんでいる人たちがいても何もしない、「福祉に頼んでください
それですべて終わりである、今そこで倒れても何もしないのか?
救急者も呼ばないのかともなる
だからあそこの道で倒れても誰も助けないという人の気持ちがわかったとなる

ただ助けられ人にも問題がある、そういう人たちは何か性格的にもおかしいという人がまた多いのである
貧乏しているのに金が入ったらぱっぱっと使った、そして金をねだったりギャンブルに使ったりできることをしない、何か家に来て金だけはねだる
でも何もしない、食器洗うことでも自分の家の台所仕事だったらていねいにするけどなおざりにする、何か汚くなっていたがそこをきれいにしていないとか気づいた
それは自分が食器洗っているから気づいた、自分は汚くしているけどやはり自分で食器あらってみると食べ物を扱うからきたないとまずいと思ったのである
ここでも他人の家のことだし自分とは関係ないとなり家事手伝いでもなおざりにすることがあるだろう
そういう人にまた次に頼むということがしにくくなることもある
ただ自分の場合は何もしなくてもいい、来てくれるだけでいいとか見回り役として金を払っているからいいとはなる

ともかく人間関係は複雑でありややこしいから一面だけを見てもわからないのである
ただこのサイトの人は底辺の人たちを扱っているから同情しているのかとも見ていたのである、でもそれは割り切ってこういう言い方になった
それは今の社会の一般的な見方なのである、そういう言う人が多いから特別ではないのである
福祉にたのんでください」私たちは税金を払っているから助けている、ただ個々人には対応できない、だからかかわるなとなる
でもこの人でも本当に困った立場になって「福祉に頼んでください」私には何もあなたのためにはしたくないです、そう言われるとどういう気持ちになるのだろうか?
そして逆にそういうふうに頼まれても同じよう「福祉に頼んでください」となる
あなたとは関係したくないです、あなたがどうなろうと私の責任ではないです
福祉がすることです、何かそれが現代社会なのである

おにぎり食いたいという言って餓死した人がいた
生活保護をもらっていたが打ち切られてそうなった、病気になって仕事をやめた人だった
でも昔なら隣近所でそういう人がいたら頼まれたらおにぎりくらいくれていた
現実に昔は戦後まもなくでも乞食がそうして回っていた
それで物をくれていたのである、かえって乞食がそうして豊かになっていたとか責められたこともあったのである
そういう時代と対比すると何か個々人でも情がなくなっている
言うことは福祉に頼んでくださいというだけである

でも福祉から断られたらもう行き場がなく餓死する社会だとなってしまうのである
また交渉力がない人はそうなりやすい、男性はプライドがありそうなりやすい
女性はコミ二ケーション能力がたけているし同情されやすいから生き延びるとなる
もう福祉係にしがみついても恫喝しても金をもらうとか援助を要請する人もいるからである、そして福祉係を襲う事件がある、それは切羽詰まってそうなっているのである
それは明日食べるものがないというとき人を殺して奪ったりするのとにている
だから追い詰められた人間は怖いのである
自分の所に来た人たちはそういう人達だから怖いものだったのである
ただそれも自分の場合は他者を責めるにしても自分自身のカルマだったというほかなかったのである      



  
あとがき

インターネットはもともと対話からはじまった、でも二三行の応答だった、プログとかなると長くなるから深い見方をして批判したりできる
私は二三行くらい書いてもその人のことがわからないから答えにくい
でももしプログでいいから匿名でも何かその人なりのの発言していれば答えるかとになるかもしれない、対話が成立するかもしれないただ二三行だとケチつけるだけで終わりだとなっているからだ、それで答えにくいのである
それでただこれだけ一方的に書いている、対話成立しないのである

対話が成立しているのは武田邦彦氏とここのダークネスサイトだけかもしれない、ただダークネスサイトは対話できなかった
今回は経験から批判したとなる
何かインタ−ネットとにかく応答しやすいメデアなのである、だから誰かの書いたものを引用してそこから自分なりの言説を展開しやすいのである

そしてアマゾンで本も買いやすい、千円以下の本を買っている、本は内容があるから違っている、そしてその本でも何冊でも読むと多様な見方が生まれる、何かつなぎあわせると編集するとそれが一つの論文のようになるのも不思議である
こうした知的作業がもっと前にできていたら知的な進歩があった
第一仙台まで行って本を買うこと自体が手間だったのである、仙台でも売っていない本が山ほどあったのである
それが何か関心があったときすぐに本でも読める、洪水があり川のことを知りたいと(川と国土の危機)という本を買った
今関心があるものをすぐに手に入る、また今度はプログでも利用できる、対話できる、そして編集できる
それで知的仕事ははかどるなとつくづく思った






2019年09月09日

無益な老人、無益なニートは数が多いから問題 (社会の負担となり圧迫するから問題)


無益な老人、無益なニートは数が多いから問題

(社会の負担となり圧迫するから問題)

無益な老人

その老人は何もしない
何もすることがない
体も悪いらしい
でもまだ体は普通に動いている
まだ70歳だ
何もすることがないのでパチンコ通い
病院にも通う
高齢化社会でただ病院に通うことだけの人が増える
そこで病人として認められて存在感をもつ
そして国の負担になる
その人は本一冊も読まない人
何か勉強もしない人
知的に存在感もない
毎日パチンコで勝った負けたと終わるのか
やるべきことがこの世に無数にある
でも何もしない、何もさせられない
そうしてただ飯くらいとだけになる
後は病人という特権になる
そういう老人を誰も良く見ない
そういう老人ばかり増える時
若い世代は老人に憎悪を抱く
その怖さを知るべきである
そういう老人は耕作放棄地となる
そこを耕すべきなのだが耕されない
無益に草ぼうぼうになっているだけ
社会をも荒廃させている


老人でも別に少数だったら何もしなくてもとがめたりしない
それはニートとか40くらいまででもいる、その人たちは無益な人たちとしてとがめられる、それは老人より厳しいものとなる
一応老人は体が弱っているからとか見られるからである
でもまだ若いとは何もしない無益な人であることは許されない
そして最大の問題は数が多いということなのである
ニートとか百万とかまた老人はさらに人数が多いから問題なのである

別に無職の人はいた、その人たちはアウトサイダーとかになり極わずかである
百万人に1人くらいになるとそういう人は社会にとって害でも無益でもないのである
そんな人いてもいなくても気づかないからだ
別に社会の圧力にもならない、むしろそういう人たちは何か社会の規範からはずれて独創的な人になるからいた方が良かったのである
それが高度成長時代の団塊の世代だった
みんな猛烈な企業戦士になっていた、そこから外れる人はほとんどいなかったからだ

今の問題は数が多いということで起きているのである
ロスジェネとかの数も多い、一千万単位でいる、するとそれが社会の圧力となる
老後になると生活保護になるとか国で心配する、負担が国民全体にかかるからだ
別にアウトサイダーなど数十人単位ならそんなこと社会問題にならないのである
そんな人いたのか、どうでもいいとなっているからだ

つまり膨大に増えた活用されない耕作放棄地が今のニートとかの問題なのである
こういう人は例えば農業するにも地主から土地を借りて農業するにしても信用されないという、それは農業をするという何か強い動機がないし明確な計画もない
ただ農業したいでは信用できない、また放棄されてしまう恐れがある
それは職につくにしろ信用されないから就職できないとなる
これが別に極わずかだったら全国で百人単位とかなれば関係ないのである
耕作放棄地でもこんなに増えなければ問題にならない
空家でもそうでありあまりもに増えすぎたから問題なのである

社会的に無益でも無用でも社会の求める価値とは別な価値を求める人はいる
それも価値なのである、でもそれが可能なのは極わずかなのである
そうなると無益な人とか無職の人とかは数が多いから社会問題化する
ともかく何らか農業でもいいから肥(こ)やしにでもなれとなるのだ
無用の用というとき障害者は戦争に行かなくてすんだとか反戦的思想とか政治的思想がありそういう思想が生まれた経緯があるからだ

この辺では原発事故で他より耕作放棄地が増えすぎたのである
だからそれをなんとかしなければならないとなるがここだけではない他でもできない
高齢化社会でできないのである
それでニートでもやればいいとなるがニートには農業すらできない、農地を借りるにしても信用がないからである
つまり新規に農業できる人はその人がそういう資質をもっているからできるとなる

そうして現代でニートであれ老人であれ人口の三分の一とかなる社会は異常である
それはもう国の衰退であり国力が減退して他国に攻められても戦いないとないとまでなるもうそういう国自体維持できるのかとまでなる
私が主張した無職のことは今のニートとかのかかえている問題とは違う
そこが混同されやすいのである、今のニートは数か多すぎる、そのことが社会の圧力となり社会を停滞させて衰退させるから問題なのである 
これだけ数が多いとやがて強制労働とかになるかもしれない、徴兵制とかにもなる
兵隊にされて国家の肥(こ)やしになれとまでなる
それが笑いごとではないのはそれだけ人数が多すぎるからなのである

新規就農に向けて農地を借りるときの交渉術

こういう人だったら農業できるとなるのかもしれない、農業だって誰でもできるわけではないのである




2019年09月04日

破壊された村の共同体、アイディンティティ (消える御先祖様、維持できない墓―無縁化する社会)


破壊された村の共同体、アイディンティティ

(消える御先祖様、維持できない墓―無縁化する社会)

senzooo1.JPG
柳田国男ー先祖の話

日本人のアイディンティティは村で作られた、それで村の地名が姓になっているのかほとんどである、姓をたどればどこかの村に突き当たりそこが姓の発祥地なのである
相馬地方で大原の隣に大谷(おおがい)村がある
そこは土地が狭い、山があり耕作する土地が狭い、そこでなぜ栃窪村に大谷の姓があり一族を形成している、何か古い村だと都会のように外からの人が交わらない時その村を形成した一家がありその姓が分家したりして増える
例えば常磐線の末続駅をおりると墓地があり新妻の姓が八割くらい新妻の姓だったのである、ここでは明らかに新妻一族の村だとなる
他に葛尾村は松本の姓が三分の一でありこれは信州の方から今の長野県から移動してきた侍の子孫だとなる
そういうふうに辺鄙な村だと同じ姓の人がいることはわかりやすい。
井川線のローカル線の秘境駅に土本という姓の駅がある
そこにその姓となる家が三軒ほどあるからそうなった 

南相馬市に多い只野、但野という姓もそうである、これは本当に多いのである
その只野という中心となって人が同級生だった
それは南北朝時代に霊山での争いで落ち延びた侍の子孫だったのである
その基は郡山の多田野村にあった、これも落武者の系統に入る姓だった
何か落武者伝説が各地にある、葛尾村の松本姓ももともと信州の長野県の侍が落ち延びてきたともなる 

姓は血縁から生まれた、姓(かばね)のことだからである、屍(かばね)に由来しているからである、でも日本では村を中心にして社会が形成された
社(やしろ)を中心にして社会が形成された、社会とは社(やしろ)に会すからきているそれが会社ともなったのである、会社も一つの村という感覚にもなっていた
高度成長時代終身雇用制度が生まれたのはそのためだったとのかともなる
そもそも村での農業社会に定年はない、死ぬまで村に所属して死後は先祖になる
そういう長い継続のなかでアイディンティティが築かれてきた
だからこそ社会があり会社になったともなる
第一社会はソサイアティという訳語であるけどこれは仲間という意味である
この仲間がどういう意味なのかわからない、ただ血縁とか地縁とかとも違う意味があるのだろう、ヨ−ロッパでは社会の形成は広範囲なものがあり小さい村を越えて形成されているからである

日本でも最初は血縁で結ばれていた、第一天皇でも萬世一系とか今日までつづいていることでもわかる、2000年とかその血縁が変わらず続いているのは日本だけだとなる
外国ではたいがい姓は血縁であり父方の姓になる、中国でも韓国でも一つの姓で結合する李氏朝鮮とかあったのも李一族が支配するとなっていたのである
だから日本がなぜ村を中心にして共同化したアイディンティティ化したのか特殊だったとなる
そこに日本文化の特殊性が形成されたことを基本的に知らないと日本は理解できないのである、確かなことは血縁もあったのだが村という土地で共同して働き助け合いしているうちにその村で一つの共同体が形成されて一つの御先祖様になった
だから私は先祖になるということを言ったのは重みがある
その村の御先祖様になる、今ならそんなことを言うとだいそれたことになるからそれだげ時代が変わってしまったのである
つまり御先祖様になる基盤となる村が消失してしまったからである
今農業を継いでいる平均年齢は68歳だというから驚く、もう跡継ぎがいないのである

それで大原村では前田というところに草分けの農家らしいが病院で知り合ったがもともと息子が市街に出て働いていて一緒に住んでいなかったのである
それで猫のことを心配していたのである、猫と一緒に住んでいたからである
その人が死んで今は空家になっている、その墓は大原にある、何か墓に刀自とか記されているから古い家の感覚がそこにあったのかとなる
つまりこの人も御先祖様になるということに昔だらなっていた
でも今は墓はあるにしろ息子は市街に住んでいるからやがて大原とは疎遠になる
農業を受け継ぎそこで暮らすならそこに御先祖様がいることになる
それで春になると田植えの時期に御先祖様が山から下りて来るというのは農業がその土地で継続されてこそありえたのである
その基盤が失った時御先祖様は存在しえなくなったのである
だから墓を維持できないとかいろんな問題が生まれてきている
それがあまりにも戦前からでも戦後でも社会の変化が激しいからその拠り所とするものがアイディンティティが失われたからそうなったのである

要するに〈先祖になる)という場もなくなったのは農業社会から工業社会とかに移行した結果なのである、そこで共同の場は会社に移行したのである
でもそこでは御先祖様とかになることはありえない、会社を退職すれば会社の縁は切れるそれは死後もつづくようなアイディンティティの場にはなりえない
そもそも会社自体がグロ−バル化競争の中で消滅している、大企業でもそうなる
でも村の歴史は日本では長いのである、何代もつづいてきたのである
千年くらいつづいてときた村もある 

そこで日本人のアイディンティティが築かれて来たのである、だからこそそこに日本人の精神が築かれたのだからそれを失うということはアイディンティティの喪失になり実際は精神的拠り所になるものがあらゆることで失うことになるから深刻になる
それで先祖になるというときその言葉に重みがあるのはやはり死というものが共同体の中で位置づけられた重みがあったからである
それは靖国で会おうといって戦士した英霊にも言える
その人たちも日本の先祖になりたくてそう言ったのかもしれないからだ
それがなされないとき亡霊として日本を彷徨うとなるからである
それで村に帰ってきた兵士が亡霊となりそれがトンネルから出てきたのだか追い返えされた黒沢明の映画(トンネル)が何かリアルだったのである

いづれにしろ死という問題が今うまく対処できないのはこうした社会の急激な変化によってである、死というのも個人的な死と社会的に意味付けられる死があるからだ
個人的な死は世界共通であり世界宗教の問題である
でもまた共同体の中での死がありそれはまた別な問題としてある
それで同じ墓に入るために墓友達を作っているのも現代的である
でもこれも老人になってから作るからとても村のような深い強い継続的なアイディンティティは作りえないのである、ただ一時的なものとして処理される
つまり今の時代は長い時間で継続される、時間軸で生きることができないのである
そのアイディンティティとなる場が村がなくなったからだともなる
だからなぜ原発事故で簡単に町でも村でも解体したのか?
放射能汚染で住めないということもあったがそれだけではない、そもそもそうした町であれ村でれグロ−バル化広域化社会の中に貨幣経済のなかに巻き込まれてあった
どんな辺鄙な地域でも今はそうなのである
第一石油を使っていればそれは中東と関係してグロ−バル化しているからである

そうして商業というとき奇妙なのは神社が市場になりそこを村から無縁化した場所として提供されたのである
つまり村から無縁化されないかぎり自由な商売はよそものは村に入れなかったのである
今でも村となると都会の人が入りにくい、よそものとして見られるとか嫌がれるとういことでそういう継続がある
しかし資本主義となるとそうして無縁化して貨幣経済にすることで成り立つ
それがグロ−バル経済として現代文明を作ったのである
だからそこで無縁化社会になり孤独死とかが増えるのもそうした社会の変化の中でそうなったのである

それは世界的にグロ−バル化した社会でありそこで実際は様々な問題が矛盾が生まれたのである、人間が商品化する貨幣経済がすべてになり商品化するとかマルクスの思想とかがもてはやされたのである、人間とは経済的な一単位ではないからである
人間はとにかく経済的に何でも割り切れる存在ではないから様々な問題がそこに噴出している、墓の問題でもそういう矛盾となって現れる、それは全体の一部の問題にすぎないのである、他にも様々な問題が生まれたのである、原発事故もそういう社会の変化の中で起きたことなのである、そうして俟ち村も解体されていったというのもその原発事故前にもそうした日本人のアイディンティティとなるべきも基盤が失われていたためだともなる
それが原発事故で一挙に加速してそうなったのだともなるからだ

かつて日本人の間には一人一人の人間の個別性よりも、ある家やある土地に生まれ、一定期間の人生を生きて死んでゆく者は一つの大きな命のプールのようなものの中からある時間帯だけこの世に生まれ来て死ぬとまたその命のプ―ルに帰るとでも比喩される時代があった{波平恵美子)

これを政経東北8月号の「なぜ福島は分断するのか」に引用されていた
これこそまさに村というアイディンティティの場があり死後も継続していることを示している
ただこれはここでは極端なものにとして起きたが社会全般に起きていたことなのである



2019年08月24日

若い人はなぜ老人を理解できないのか? 老人の心境(安住する場所)


若い人はなぜ老人を理解できないのか?

老人の心境(安住する場所)



老人は新しいものを受け付けない
これまで形成して組み立てたものの中に生きる
空間でも時間の中でアイディンティティ化したもの
時間軸で生きるようになる
若い時は空間をどこまでも駆け巡る
マ―キューリーのように動き回る
でも老人になると鈍重な土星のようになる
老人は人でも外界でも時間の中で作られたものに生きる
それで今より過去に生きる
だから死者は死んでいない
その人の中で親しく生き続けている
むしろ新しい人を物を老人は取り込めない
今まであったものが親しくその世界を形成している
それは固陋な古い家であり神殿のようでもある
その柱は時間軸の中でともに存在した人でもある
そこに新しい人は入りこめない
時間軸で形成した固定して閉ざされた世界
時間の中でアイディンティティ化した世界
老人はその中に生きている
大きな大地に根を張った古木
時間の中で成長してきたもの
そういうもののなかに安住する
そこに昔からあった石
そこに座り見慣れた風景の中で安住する
長くともに生活した家族は死んでも生きている
だから死者に話しかけて生きつづける
死者が老人には生者より親しいもの
新しい人の名前を覚えることができない
新しい人はその時間軸で形成された空間に入れない
堅く拒んで入れない
老人は過去から今へつながっているものの中に生きている
新しく生成したものは存在しない
固陋な老人のアイディンティティ化した世界は変えられない
それは古木のように大地に根を下ろして変わらない
そこに老人は深く安住して動かない
その建物は完成したものであり新しく変えることはできない
その中に長く一緒に生活を共にした人も生きている
死者は老人の中では死んでいない
むしろ若い人を認識できない
名前も覚えることもできない
老人の中ではそうして新しいものを取り込めない
ただ古い家や神殿のようになっている
一時代に形成されたアイディンティティ化されたものに生きる
新しい時代を拒否して受け入れない
変化できないのが老人の世界
そのために世代の差が埋められないのである

solidplace.jpg



ソリドゥス金貨(ソリドゥスきんか、Solidus)は、4世紀のローマ皇帝・コンスタンティヌス1世の時代よりローマ帝国・東ローマ帝国で鋳造された金貨の総称。東ローマ帝国では「ノミスマ」(ギリシア語: νフμισμα)と称された。11世紀ころまで高純度を維持し、「中世のドル」として東ローマ帝国の内外で流通した。

中世フランスや南米などで使われた通貨のソル(Sol)、中世イタリアで使われたソルド(soldo)、中世スペインで使われたスエルド(sueldo)はソリドゥスに由来し、ペルーでは現在もヌエボ・ソルという通貨が使われている。

ドル記号$の由来ともされる。また、兵士(ソルジャー、soldier)という語は、「ソリドゥスのために戦う者」という意に由来する。

solidとはまさにこうした純度の高い金貨である
老人は純度の高い精神性を追求して表現するのに適している




人間は意思疎通ができないというとき職業が違ったり住む場所が違ったり男女間でもそうだし特に世代間で意思疎通ができなくなる
若い世代と老人のギャップは大きい、まず若いという時その心は外に向かう
だから空間的に生きる、広い世界を見たいと思う
自分自身にしてもこれだけ旅行したのはそのためである
女性でも若い時は冒険的になり遠くに出る、今なら外国にも普通に行く
そしてインドでもインド人と結婚した日本人女性がいた
それには驚いたが良く話は聞けなかった、そういう余裕もなかった
ただ女性一人で旅行していた人もいたことには驚く

若い人は空間を生きるのである、まだ見ていないものを見たいという欲求が強烈なのである、だから故郷から出たいとなるのが普通である
故郷だったらそこは常に見るものも同じでありあきるからだ
だからむしろ故郷を嫌悪して外にでる
自分自身でも故郷を嫌悪していたから東京の大学に入った
それはどうしても親元から故郷から出たいということが動機となっていたのである
勉強する気持ちもなにもなかったのである
それが自分のような一人っ子のわがままなものには良かったのである
だから東京に行くとか20代は一番冒険的だったのである
これは自分だけではない、みんなそうなのである
私の母は内気な性格であり冒険的なところのない人だった
その人さえ東京に出て女中になり東京の人と結婚したのである
それはその当時相当冒険的なことだったろう
そこで夫が工場で働いていて事故で死んだ故郷に帰ってきたのである

とにかく自分の場合、50代でバックパッカーで外国旅行したからその時も外部志向であり空間を生きていたのである、空間の拡大の中に生きていた
これは他の人にはないし異常だったと思う
50になればたいだい内向きになってくるからだ
ただ外国旅行というときもとから外国に憧れていたからそうなった
私が失敗したのは田舎に友達もいないし何か情報にうとかったからそうなった
ただ外国に対しての強い憧れがありそれで50からでも外国旅行したのである
だから本当に辛い苦しいものとなった
こうしたきついことは若い内にするべきだったのである

いづれにしろなぜ老人のことが理解できないのか?
むしろ老人になると若い人のことを理解している
それはみんな若い時を経験しているからである、ただ子供時代になるとなかなえ理解できなくなる、子供の時代は特別な時代でありその経験はもうできない
そして大人になると子供時代のことを理解できなくなる
でも若い時のこと大人になってからのことは理解できるのである
若い時は若気のいたりがあるというのもわかる
必ずエネルギーがありあまり噴出して過ちを犯すからである
それがその時で終わると思うが実は老人までその時の過ちをひきづる
それが若い時はそれで終わると思っているからそういうことをするのである

不思議なのは若い時は老人のことをなにやかにや言うにしても老人のことを理解できないそしてみんな60くらいで死ぬとか言う、でも実際は今なら百歳まで生きるようになる
若い世代は得にそうなのである、早い内に死ぬからいいとはならない
そして60過ぎても誰も早く死にたいとは思わないのである
そして60とかなると20代からするととてつもなく先のように見えるのである
でも50、60になるとあっというまに過ぎたとなる

ただ年齢をふりかえるともう40になると白髪でてきたりするから老化してくる
それで40は何か人生の分かれ目のようになる
それで結婚しないとか給料が安いとか非正規の底辺労働者が嘆いているがその心境がわかるのである、40はまだ挑戦できる時代だが50になると無理になる
50になるともう初老になってしまうのである、ところが40でも50になるのはすぐなのである
50から外国旅行でバックパッカーしていた自分は普通ではない人間だったのである

とにかく自分は本当に老人になった、体力的にはまだ体に柔軟性があり運動もできる
でも精神的には老人になっている、介護になってから十年は旅行もしない、ただ毎日同じ場所にいる、外に遠くに行くのが億劫になった
仙台にすら今年は一回行ったのかとなる
何かもともとそうだったのが人ごみの中に行くの余計に嫌になったのである
もともと自分自身の性格は山の中で一人石のようにしているのがあっていた
人と会うことや人ごみの中に人と接することが向いていないのである
その気質も異常化する、引きこもりの性格がもともと自分にはあっていたからこうなったのである

なぜ自分が老人になったということを意識したかというとこの詩のように心境がなっているからだ
そして老人の心境を理解したのである
例えば老人は新しいものを受け付けない、新しく接した人の名前を覚えられないのである特に一回切りだとかなると余計に覚えられない、それで認知症になったとき遠くの子供の名前やその人自体を忘れるというのはありうる
それが身近にいないからそうなる、でも身近に暮らしていればそういうことはない
いつも一緒にいた人は覚えているのである

そして気づいたことはいかに長く一緒にいた人がその人に影響して人間を作ったいたかということである
私は結婚もしないし子供もいない、でも親と一緒に60まで暮らしていた
姉ともそうだった、だから他人にとっては嫌かもしれないが姉と母のことをこうしていつも語っているのである、それは夫なら妻のことを妻なら夫のことを語るのと似ているのだいい年して親にこだわるというのもわかる
でも現実がそうなっていたのだからどうしようもないのである
自分にとって一番影響して親しいものは姉と母だったからである

そして死んでわかったことはそれだたけ長く一緒に生活していると死んでも生きているという感覚になるのだ
これも自分だけではない老人の心境なのである
それで認知症になった人が死んだ人と話しているということが理解できる
別に認知症でなくても死んだ人と話しているのである
その時死んだ人は死んでいないのである

今生きている人より死んだ人が老人には親しい

死んだ人の方が生きている人より身近である

こういうことが一般的になっているのが老人なのである
だから死者の方が親しいから死者にいつも話しかけるとなるのである
その時死者は死んではいないのである

そして老人の世界観はこれまでの生きた人生の中で人でも空間でもアイディンティティ化した一つのコスモスを形成している
それは変えられないのである、だから新しいものを受け入れられないのである
固陋な神さびた神殿のようなものを形成してその中に生きているのである
それでそこに若い人は入れないとなる、拒絶されているのである
老人が安住する世界はそうして一緒にともに生きた人がいて人生の中でアイディンティティ化したもののなかに生きることなのである
その時精神が安定するのである
だから原発事故とかで避難した老人が故郷に帰りたいという心境がわかるのである
それはそこで長く生きていたから環境でも人でも一体化して生きていたからそうなる
それがまるで違った環境に移住することは苦痛になるのである
ただ南相馬市だったらその内に移住したらそれほどの違和感がないかもしれない
小高の人が原町に住んでも鹿島に住んでもそれほど変わりないとはなる

老人は空間を生きるより時間軸に生きるようになる、時間軸に生きるということは空間を移動するのではない、一か所に定着して生きることである
そして物事でも深く見る、深く鑑賞するのに向いている
だから本でも深く理解できる、そして鑑賞できる、それで批評家に向いてくるのである
批評はやはり一段と高いところから心境からしかできない
若い人はどうしても人生がわからない、老人が理解できないというとき老人になる経験がないからである
老人は人生をふりかえり誰でも経験しているから若い人のことも理解できる
40の人でも自分があの時代はどうだったとかふりかえり理解できる
何か焦燥感が一番出る年代だということを経験で知っているからである

でも40代の人は60以上の人のことをまだ理解しないのである
60以上になるともう死に向かっている
この世から離脱してゆく年代になる、だから40の時のような焦燥感も何もなくなっている、あきらめにもなる、どうせまもなく死ぬんだとなるといろいろ悩まないのである
むしろこの世から消えるのだから気持ち的には楽なのである
何かを成そうともしない、あとは死ぬだけだとなれば気持ち的に楽になるのである
それも老人にならないとわからない、その老人というのは今なら70以上だと思う
老人はどんな人でもどうしても一種のあきらめになり悟ったようになる
でも別にこの世の欲がすべて消えるわけではない、簡単に欲は消えない
残り火のようにかえって性の欲でもなんでも燃え上がることがある
それだけ人間の欲が強いものであり消えないということも実感する
だから老人がそういうことで問題を起こすことも理解できるのである
ただ老人の心境は詩のようになることは確かなのである



2019年08月21日

姉の北海道旅行の写真 (姉がいて自分は自由に生きることができた)

姉の北海道旅行の写真

(姉がいて自分は自由に生きることができた)

bigsister111.jpg

koroupokuru1.jpg


コロポックル

この写真がたまたまでてきた、旅行の写真はかなり残っていたが何か貴重なものにはならない、この写真は姉らしいものなので出した
姉はおおらかな陽気な女性だったのである
いつもにこにこ笑っていたのである

だから認知症になって一時自殺したいと言ったとき悲しかった
社交的な女性でも認知症になってから誰も来なくなった
話がまともにできなくなったからだ
話好きだったから本人もがっかりしていた、
話す相手は自分しかなかったからだ
そして戦争の話を千回聞かされたのである

でも時間が過ぎるのが早かった
死んでから8年とかなる、それは津波とか原発事故とかあり余計にその間にごたごたして時間がまたたくまに過ぎたのである
十年がまたたくまに過ぎてしまったのである

ともかく何か死んだら記念になるものを残すといい、それで偲ぶことができる
姉とは子供の時からずっと一緒だった
60年間一緒だった、その長さがやはり忘れられないものとしたのである
もし結婚して他の家に行っていたらこうはならなかったのである

また姉がいたから中学生の時父が死んでも家を維持できたし繁栄できた
私が勉強嫌いだったが大学に行けたのもそうである
あと何もしないで旅行とか自由な生活を送れたのもそうである
私は学校とか会社には適応できない人間だったからだ
そういうことができたのも姉がいたからだとなる

ただこれにもプラスとマイナスの面があった
そのために社会で働かないから社会性がなく介護になってから苦しむ結果となったのである
ともかく学問でも芸術でも追求できたのは姉がいたからだとなる
旅行していても何も言われなかったからである
ただ自由にしていいとなっていたのである
ひきこもりでも別に何も言われないのである
かえって旅行することをすすめられていたのである
だからこういう人生になったのも姉がいたからだとなる


2019年08月17日

親が子を捨てる、子が親を捨てるカルマ (親より今は金が大事な時代)


親が子を捨てる、子が親を捨てるカルマ

(親より今は金が大事な時代)


自宅で男性の遺体の両ひざ部分を包丁で切断しようとした疑いがある。千村容疑者は父親(90)と2人暮らし。16日午前、千村容疑者が昭和区役所に「5日ごろ(父親が)死んだ」と電話し、連絡を受けた区役所が署に通報した。

 千村容疑者は「生活保護費を受給できなくなると困るので、見つからないようにしようと思った」  
  
この事件は生活保護と親と子が関係して起きた
親が死ぬと生活保護費がもらえない、それで親が死んだので隠そうとした
でも死んだ親でも親の体を切断するとなるといくら追い詰められてもできるものなのか?ただ人間は追い詰められるとなんでもする
生活保護を打ち切られると食べていけないと包丁をもって役所に行き警察に捕まった人もいる
人間は善悪ではない、もう追い詰められた人間はなんでもする
今日食べるものがなければ人でも殺すようになるから怖い
そういう人と出会ったら怖いとなる

そして今は誰か助けてくれ、今日食べるものをくれとか他人に言えない社会である
だから役所が生活保護が命綱になっている人が多いのである
貧困化する日本ではそういう人たちがますます増えてくる
老人でも増えてくる、生活保護は医療費が無料でもその他なにももらえない人がいる
また田舎と東京とかでは違ってくる、だからみんな生活保護がいいというけど
そういうことはないのである
地方だと東京のように十何万とかもらえないのである
そして最後の頼みの綱が役所になるから命がけで交渉することにもなる

親が子を捨てることなど普通にありふれている、親が子を捨てるというとき例え親がその子に食べ物を与えても子を捨てている人もいるのだ
精神的に子を愛さないし事実上捨てている親も多いのである
親は子供を産んだから親になるわけではない、子供が生まれて愛情もって育てれば親になる、ただ飯を与えただけでも親にはならないのである
だから親としての価値を作る努力を親がしなければならないのである
子がない私も言えたことではないがそういうことが多いのを見ているから言うのである
それは昭かにカルマとなっている

親に苦労させられた子は親を親とも思わない、もうぎりぎりになったら親の死体でも切り刻むともなる、親より金だとなるのも普通だし多いのである
その人は12,3歳ころまでは一人娘で大事に育てられたがその後は両親は離婚したりして親戚にあづけられたとか親にひどい目にあっているから親を親とも思わないとなる
それで私が私の墓のとなりに墓標をたてたから墓参りしてくれと10万電車賃を渡した
でもお盆で来ると言ったが来ずにその関係もキレたのである
その人は貧乏なので10万の方が大事だったのである
親のことを供養するとか頭にない、親はすでに捨てられていた、10万の方だ大事でありそれをもらったから墓参りにも来ないとなったのである
ただ私は本当はめんどうだから関係したくなかったからかえってキレて良かったとなる
親だけではないその人自体に問題ある人だったからである
祖母の遺産を二百万やっても一年足らずで全部使ったとか金使いが荒い、性格がそうだからどうにもならないとなる

本当に親子の問題は延々と繰り返されているカルマだとつくづく思った
親が子を捨てる、子が親を捨てるというカルマは延々はつづいている
子捨てとか親を捨てる姥捨てとかは昔からあったのである
ただ間引きとかは食料がないのだから貧乏なのだからやむをえないことがあった
子供や老人の食い扶持を減らさざるをえなかったからだ
だから子捨て姥捨てにも今とは違った事情があるからそれらが非情だとも言えないのである

現代は食い扶持を減らすというより精神的に子を捨てたり親を捨てたりしているということがある、ただ貧乏になるとやはり昔のように食い扶持を減らすということでてくる
親が子を遊女にしたり丁稚奉公させたりと貧乏であればそういうことがあった
そうせざるをえなかったのである
今の時代はそういうことではなく子に愛情をもたない、精神的虐待が多いのである
それで傷つき正常な人格形成ができなくなっている
これも現代的な子捨てなのである

とにかく人間はみんな子供をもったとしても親としての価値ある親になるとはならない
そのカルマは親を簡単に捨てるとかとなって現れる
知っている人も確かに両親にひどいめにあったとしても今度は自分の子供に同じことをするようになる
とてもその女性はまともでいなからだ、すると経済的にも精神的に子供に負担をかける
親→子→孫とカルマがつづくのである
そのカルマの連鎖が切れないのである、それがカルマの怖さなのである
あなたの行為(カルマ)があなただけで終わらない、その子や孫まで受け継がれるのである、原発事故になると放射能が消えないからいつまでこの地に影響するのか?
孫の代からさらに曾孫からさらに子孫に延々と影響してゆくのが怖いのである
そのカルマを断てなくもなる、遺伝子障害がそうである

いづれにしろ親に捨てられまた結婚して妻に捨てられまた子にも捨てられとその人生は何なのだったのかとなる、それは自分も関与することだからそれは何なのだったとなる
でも特殊な例ではなく親が子を捨て子が親を捨てることなど普通にありふれている
そのカルマは消えることなくこの世ではありつづけるのである
こういう基本的なことでカルマがありまたいろいろなことでカルマがありそれが解消しないのである、人は必ずカルマで苦しむのである
何もないと思ってもいつかカルマが苦しみとなって現れ自覚させられるのである

現代は親より金が大事となり金のために簡単に捨てれる
5歳まで親として育てていてもその後に子に世話になるというのも虫のいい話である
それで施設に入ったがその子はその親の金だけが目当てなのである
愛情など微塵もないのである、ところがその親は認知症になっているから余計に悲惨だとなる
ただこういうことは必ずまたカルマとなりその親でもまた子があり子に捨てられるということが起きてくる
こうなると子がないのもカルマだが子があることもカルマでありどっちにしろカルマから逃れることはできないのである、それが人間の宿命だとなる

今や親が子を捨てる悲惨だけではない、高齢化社会で子が親を捨てることが日常的になる中国でも子が親を捨てている、世話しないのである
それも高齢化社会の暗黒であり世界的に起きているのである
だからその人の価値を作るのは親子関係でもそうであり親として価値あるものとなる努力が必要になるのである
ただ血縁だけでは親となるとはならない、いかに育てるとかで価値ある親になる
人間の価値はなんでも与えられたものではなく作り上げることが要求されているのである



2019年08月16日

墓の歴史(家制度は新しく、江戸時代に庶民に姓がなかった―夫婦別姓問題)


墓の歴史(家制度は新しく、江戸時代に庶民に姓がなかった―夫婦別姓問題)

明治期に入って、急激に離婚件数が激減した理由は、1898年(明治31年)に施行された明治民法です。明治民法の最大の特徴は、「家」制度を明確に規定したことにあります。妻は、ある意味「家」を存続させるためのひとつの機能として縛り付けられることとなりました

墓の問題は江戸時代から明治になったときこの家制度が強固に作られた、法律的にも作られた結果、家の墓が生まれた
この家制度は政府によって上から作られたものだった
なぜなら江戸時代の方が離婚も多く再婚も多かった
家に縛られていないのである、明治以降は家と家の結婚なのである
侍は家を重んじた、家を維持することが生計を立てることだったからである
ところが侍の割合は0・8パーセントとか少ないのである
野馬追いでも500騎出るとして相馬藩内の人口からしたらほんのわずかなのである
だから野馬追いに出る家のことを知らないのが多いのである
ほとんどは庶民であり農民だったのである

武家でも結婚しても墓に両家の姓が記されているように実家をひきづっていた
それを認められていた、だから女性が男性の姓に変えることに反対する

【夫婦別姓問題】半数が「夫の姓にしたくない」アンケートから見えた、妻の本音

女性から見るとこれが本音なのだろう、それで夫の墓に入りたくない人が30パーセントかいるのもそのためである
そもそも姓を考えると侍には姓があっても庶民にはなかった
苗字帯刀があり特別功績のあった人にしか姓は与えられなかった
そしたら一家の姓とかはない、ただ名前だけである
だから農民でも庶民でも墓が第一なかった、幕末に経済力がついて農民でも墓を作るようになったのである、それまでは墓は普通ない、墓地は仏方(ほとけっぽ)とかの村の共同墓地に埋められていたのである

そして姓を考える時、日本人の姓がかならずのその由来になったのが村であり村の名が地名が姓になっている、村の共同体が基本として日本にはあった
それが中国とかも違っている、中国に遊牧民系の人たちが入り最初の始皇帝の国家を築いた、遊牧民系だと土地に根ざしていないから血縁が大事になるからだ
それで中国でも今も同じ姓の人を血縁の結びつきを大事になる
それは韓国でもそうである、第一李氏朝鮮とかあると中国の李氏の支配下にある国だとなっているからだ
日本人は土地とのつながりが深いが血縁はそれほどでない、だからこれは世界から見たら特殊なのである、日本の文化は世界のスタンダードから見たら特殊なことがいろいろあるのだ

明治に作られた強固な家制度自体が時代の変化で合わなくなったから墓の問題もある
一家の墓として持続できなくなっているからだ
家の結束とか家族のつながりも薄れている、そして最大の問題は農業中心の社会でなくなったことである、農民だったら土地を資本として継続できる
だから土地こそ大事なものであり土地を受け継ぐ長男が大事にされた
でも誤解しているのは江戸時代が強固な家制度があったというわけではない
それで結婚でも離婚が多くまた再婚も多かったのである
明治になってから離婚が極端に減ったのは家制度が強固に上からおしつけられてた離婚できなくなっていたのである
ということはもともと結婚はむずかいしものであり離婚になりやすいことは変わりなかったのである

結局、家の家族のつながりの希薄化、崩壊、土地とのつながりの希薄化して崩壊

このために墓を維持できなくなってきた、原発事故でもなぜこんな簡単に一つの町自体が一挙にゴーストタウンになったのか?
それは放射能のせいだともなるが何かそれだけではないもの、土地とつながりが希薄化してどこにでも金があれば住めるという広域化社会、グローバル化社会と関係していたと私は考察したのである

ともかく家制度というのは明治以降に法制化されて上から押し付けられたものだった
そこにもともと下からの要望をではないから不自然でもある
女性の姓が結婚すると男性の姓に変わるのもそうである
そもそも第一江戸時代には姓がないのだからそういうこともなかった
ただ名前だけであり姓がないからそんなこともなかったのである
だから新たに姓が与えられてかえってその姓に縛られるようになったのである
それは武家ではそうだったが庶民までそうしたのである

それで墓に「安らかに」とか「和」とか「愛」とか記されているのは姓を記すとその姓に所属するものとしてありでも跡継ぎがいなくなると墓を維持できなくなった
天皇に姓がないのはある一族によって藤原氏となれば藤原氏が支配するとなるからないのである
いづれにしろこうしした歴史的経過があり墓を考える必要がある

村の共同の墓地→個人の墓→夫婦の墓→家の墓

家の墓は古いものではないのである、武家でも個人の墓であり家の墓はないのである
なぜなら死者を偲ぶ時は個人を偲ぶのであり家を偲ぶということはないからだ
その人生もみんな違っているからそうなる
そして不思議なのは今は墓はこの逆行にもなっている
樹木葬とか共同墓地志向が強くなっている、それはもう家の墓が維持できなくなっているからである

自分にしても村の共同墓地とかの方がいい、ただ個人墓となるときそれは特別功績のあっ人だろう、その記念碑みたいものになる
他はたいだい忘れられる、墓は増えてもそれが誰も参るものもなくり墓の墓場ができているのもそのためである、ただ記録して元禄時代のものも西の方であったりするら貴重だとはなる、私は必ず墓の時代をみて江戸時代だと貴重だと思っているからである
それもやはり歴史として貴重な活きた資料ともなっているからである
とにかく団地のような狭い部屋にとじこめられるようにして墓になっているのは嫌だとはなる、それも結局社会が時代の変化で墓の考え方が変わったためなのである


2019年08月14日

金のことで縁がみんな切れた (親も子に捨てられる、墓参りすらしない)


金のことで縁がみんな切れた

(親も子に捨てられる、墓参りすらしない)



物心がついた6歳のときから父親の再婚相手である義理の母のもとで育った。愛情は血の繋がっていない弟に向けられていたこともあり、17歳で高校を中退後、古川市(現大崎市)の親戚の家に転がり込んだ。実質的に親を捨てた瞬間だ。

「仮に今、父親の介護を負担していたとすれば、経済的にも精神的にもストレスは計り知れません」

昨年、連絡先を調べた姉が訪ねてきて父親が亡くなったことを知った。1回だけ墓参りに行ったがそれきりだ。自宅マンションには仏壇もない。

方法2. 冠婚葬祭のイベントにも顔を出さない
親族の付き合いは、結婚式や葬式・法事など、どうしても外せないものが多くなります。しかし縁を切りたいなら、徹底して参加しないという決意をしておきましょう。

縁を切ったつもりでも、親族のイベントに出席すれば、どうしても顔を合わせることになってしまいます。顔を合わせればトラブルが再燃しておかしくないのです。


兄のことでいろいろ事情があって私の家の墓の隣に墓標を建てた
それでその娘が墓参りするというので十万電車賃を払った
でも今回は来なかった、それがなぜなのかわからない
そもそも娘でも13歳ころまではかわいがられたが中学で両親が離婚してもめたとか経済的にゆきづまり家を出て住む所がなくなったとかさんざん親のために苦労したので
親といっても親への思いがなかったのだろう
ただ自分の家では兄の家族について離れていたので何をしているのか良くわからなかったのである
それで交通事故で死んだとき残された娘は妻の家族にひきとられた
でも高校生になっていたが卒業して東京に出て来た
金はあったのでそこで一人暮らしして結婚して一人娘をもうけた
でも夫は早い時期に離婚した

とにかく両親もこのように問題があり娘はひどいめにあった
ただではその後のことがすべてこうして両親が悪いからなのか?
それはそうではない、その娘にも問題があったのである
金使いが荒いとか性格的な問題だとかその本人にもいろいろ問題があった
母が認知症になり死ぬ一か月前に二百万やれという遺言を残したのには驚いた
その金を払ったがそれを一年も満たずに使った
兄も金使いが荒い、金があるとぱっぱっと使うのである
そういう性格なのである、それが娘も同じだったのである

だからなぜ父親の墓を作ったとから墓参りしてもらいたいというということで10万払ったが来なかった
向からお盆に来るからと言ったので払った、でも来なかった
つまり父親のことなどどうでも良かったし墓参りのことなどもをとでもよかった
したくなかった、ただ10万という金が欲しくてお盆に来ると言っていたのである
前も来るときは電車賃を払っていたからである
その娘には父親に対する思いがないのである
別に金もかかるわけでもないのだから墓参りくらいできるがしない
ただ十万欲しいというだけであり父親のことはどうでもいいのである
もちろん相手が死んでいるのだから死んだ人は金をくれない
ただ私が金を払うことを知っているからお盆に墓参りに行くと言ったのである
そうすれば金が入るからである

それで死んだ親との縁とも自分の家との縁もキレたと思う
もともと親密な関係でなかったから仕方がないしもうつづくのが限界だったともなる
このように相手が望んでいたのは金しかなかったからである

親族の付き合いは、結婚式や葬式・法事など、どうしても外せないものが多くなります

親戚の関係はこういうことでつづき断りにくいことがある
最後は墓参りとか死者を通じてもつながるからである
でもこうして簡単に10万もらったら後は用はないというのも親にとっては悲しいとならないか?死んでいるからどう感じているかはわからないけど親も死んでも捨てられたとなる、本当は無縁仏になっているのである
だから親でもいろいろあって兄弟でもかわいがられた人なら親を思うがそうでないと思わないのである
だから介護の時、お前は一番かわいがられたから親の介護をしろとなるのである

私の場合は親に対する思いが深いのである、親と言ってもここがわかりにくいのだが
二人いたとなるのだ、姉と母は年齢がさほどかわらないから母と同じだったのである
そうして60まで自分は二人が世話してくれたのである
だからこの歳月が自分にとっては忘れられないのである
その時は気分いいものであり何か殿様のようにして過ごしたともなる

つまりこうして特別良くされたからこそ介護も必死でしたし死んでも供養するし楽した日々が思い出となっているのである
二人がいたから安住したとなる、その後は介護となり死んでいいことがなかった、そのことをプログで書いてきた
外からはわかりにくいにしても

親に良くされた人は親を大切にする、死後も篤く供養する

兄弟でも親に良くされない人はやはり良くしない、介護もしたくないとか墓参りすらしないのである
それは生前からそうなっていたのである、墓参りでも死後でも生前に良くされない人はやはり墓参りすら親でもしないとなるのである
親でも別に血がつながっていなくても養子とかなっていても親が愛して良くしてくれれば子も親を思い良くするのである
それもカルマだとなる、カルマがどこかで返ってくる

何か60年も一緒にいると死んだ人でも依然として家にいるようにな気がするのである
その長い歳月がやはりそうさせている、例えば子供が家から育って遠くに行ったりすると肉親でそうした親密な感情が失われてゆく
それで認知症になったとき遠くに行った子供は忘れても近くで一緒に生活していれば忘れないと思う
私のことは名前でも憶えていたからである、遠くに行った人はいくら血縁でも肉親でも忘れやすいのが人間なのである
それが人間というものである

去る者は日日に疎し

死んだりしたら本当にそもそも本人が影も形もなくなるのだから日々に疎しとなる
どうしても忘れられるのである、それは死んだ時点でその人が消えるのだからすでにそうなる
だからもうこの世にいない死んだ人を延々と思っている人はその人に対しての思いが深いということなのである
だからこそ忘れるからこそ義務的にでもお盆でも一年に一回でも墓参りすることに意義があるとなる、死んだ人を振り返る意義があるとなる
記念日をもうけて何かを振り返ることに意義がある、そうしないと人間は忘れるのである

人間とは本当に忘れやすいのである
プログでも詩でも自分で書いていたものを忘れている、そして自分の作った書いたものを読んで感心しているというのも不思議なのである
それだけ人間とは忘れやすいものだから何か書いておくとかがどうしても必要なのである写真でも残しておくとか何か思い出すもの記憶になるものを記しておく必要がある
墓はそうして死者を忘れないものとしてあるものとして意味があるともなっている
具体的に物としてあるからそれを通じて過去を忘れないようにしているともなる
ただ立派な墓はいらない、なぜなら後継ぐ人がいないと後で邪魔になるからである
墓標のようなものでも十分だとなる、つまり代々墓を維持できなくなっているからだ
墓標のようなものだったら片付けるものも簡単だからである
墓が捨てられ墓の墓場になるのも無常である
結局この世は無常であり誰しも無常から逃れられないのである



人間の縁の不思議(親戚の縁はみんな切れたー遠くの親類より近くの他人)


人間の縁の不思議(親戚の縁はみんな切れたー遠くの親類より近くの他人)


縁というのは何か離れて住むとキレやすい、例えば兄の場合、静岡の方に住んだ
それだ頼りもあまりないと何が起きたかもわからなくなる
ところが何かあると急なことがあり連絡来たりする
するとなぜそうなったのか?
その事情がのみこめなくなりそこで困惑する

交通事故になりそれが離婚して電気水道をとめられて家を出た、それから運送会社に運転手として入った、そこで保険金のことでもめた
子供もいたので混乱した、一時は子供を連れて運転していたらしい
それから児童相談所に行きあづかってもらった
もしこのとき近ければ事情がわかり子供でも一時あづかることができた
ところが静岡となるともう行くだけで容易ではない
兄は静岡の方に行ったときこっちに帰らないとしていたがそれはいいとしてこうして問題が起きたとき困るのである

そのためにこっちに死んだとき連絡が来ても静岡まで行くだけで大変である
そしてその運送会社で何日かいて責められたのである
それは保険金の代理人に運送会社の社長がなりたいということだったと思う
なぜなら骨をここに置いていけとか墓を作ってやるとかいろいろ言っていたからである
ところが私の家ではまず車をもっていなかったから自賠責とか保険のことがわからなかったのである、それでその事情をのみこむことがむずかしかった
その間に連絡していてもたまにしかしていないし何しているのかもわからなくなっていたからだ 

ただ不思議なのは交通事故になる前に運送会社の人と家に寄ったのである
それも不思議な現象だった、死ぬ前に何か親戚でも知己でも友達でも回ってゆくというのは本当である
その時機嫌が良かったのである、その運送会社が悪いというのではなかった
ただ保険金が下りるとなり変わったのだと思う
なんか児童相談所とかその運送会社とか自分の家でもめた
自分の家は母親がいたからそうなった

でもこのことが何なのかのみこめなかった、ただ保険金が金がからんでおかしくなっていた
死体は運送会社に一時もちこまれそこで通夜みたくなっていた
さらに複雑なのはちょうど離婚した後であり妻がかかわってきた
何か金がないということで困っていた、子供はまだ中学生だから子供は母に頼ろうとしていたのである、母はその後病気になったり入院したりした
金がもらえると思い自分の家に来たのである
ここでも金でもめていたのである
人間のもめる一番の原因は金である、もし金が入らなかったらもめなかった
原発事故でももめたの補償金であり金だった、それで兄弟が仲たがいしたとか聞いた
「金の切れ目が縁の切れ目」というのは痛いほど経験した

今回は兄の墓標を隣に作った、でも肝心の娘は来ると言ったが来ない
十万を電車賃として送ったが来ない、だからこれもキレたのだと思う
これも何か離れて連絡をとっていないから事情がわからなくなる
そして突然何かあると連絡されるから困るのである
つまり離れていると相手のことがわからなくなる
また疎遠になって連絡しないとわからなくなる
そこで誤解が生まれたり信じられなくなる
つまり離れていることはこうして互いに疎遠にして不信にもなる
ただ離れているだけでそうなるのである

こちらから連絡しようとしたが携帯の電話番号を書いていたのだがそれが間違ってのか通じない、今自分は携帯をもっていないからだ
すると連絡しようもなくなった、相手も連絡してこないでのキレたのかとなる
ただ父親の墓を作ったので今回は墓の魂入れとかなるので来て欲しかった
でもこうして実際は前からうまくいっていないからキレたのだと思う
こちらにしてもかかわることがめんどうになるのである
それなら一層キレた方がいいともなる
とにかく親戚とかもともと自分にはない、兄弟もいないからキレてもしょうがいなとなっていたのである

でもどうして連絡が来ないのか?それが謎である、10万という金が欲しいだけで連絡して来たのか?何か謎であるのも相手の事情がわからないからである
もともとキレてもいい関係だったから意外でもないとはなる
親戚でも兄弟まででありそれ以上はあまりつづがないだろう
ただ近くの人が甥だった人が叔母を介護するために引き取りにきた人もいた
だから家族でもいろいろありそういう家族もいる
家族の事情はいろいろでありそれを理解できないのである
自分の家族も複雑でありまた親戚関係もうまくいかなっかたからこうなったともなる

それでも兄の墓を作ったしそれで供養する他ない、母の実家の墓には行かない
何かもともともめていて分裂不和の家族であり親戚だったからこうなったともなる
それもしょうがいないとなる
人間は何かこうして協力すること自体むずかしい、だからもう協力できないとしたら関係を断つということした方がいいとなる、問題が起きたとき事情もわからないのに呼ばれたりすると困るからである

いづれにしろ日ごろから協力しない関係では何かあったときも協力し合えない
原発事故の避難区域になったところでもそうである
そこでは内部的にも協力し得ないともなった、そこで外部から入った人たちがいて復興に尽くしている、すると内部で協力しえない人たちより外部の人たちが頼みになるともなるつまりどういうふうにして協力関係を築くかが問題になる
そして協力できないとなったときもうかえって関係しない方がいいとなる
それでも地域だとどうしてもそこで生活しているから関係を切ることはできない
もし切るとしたら他に移るほかないのである
でも協力できないとこうした事態でみんな困っている時はそういう人は迷惑になる
親子でも兄弟でも原発事故ではばらばらになり地域でもばらばらになった
それはなぜなのか?
かえって金をもらった結果ばらばらになった、そして金をもらったら外に出て暮らした方がいいとなり若い世代でも出て行って帰ってこないとなったのである

とにかくお盆は死者のことを先祖のことを思う時である
ただ最後は墓が残るがそれも捨てられる、親子の縁もキレる
ただ無常があるのみだとなる 

とにかく

遠くの親類より近くの他人

この諺はこんなに交通が発達しても変わりないのである、遠くになると事情がわからなくなるのである
それで原発事故でも東電と地元の福島で意思疎通ができなくなっていたのである
それはいくら電話であれインタ−ネットであれ通信でも連絡できたとしてもそうなのである、その現場の事情が伝えられなかったのである
それで吉田所長が独断で決めたとなる、そうせざるをえなかったともなる


2019年08月13日

墓は何であったのか? (もともと個人の死を悼むものであり家族墓は明治以降で新しい)

                    
墓は何であったのか?

(もともと個人の死を悼むものであり家族墓は明治以降で新しい)

kkkktomb1111.jpg


庶民がお墓を立てるようになったのは明治以降だそうです。(庶民が名字を持ったのは明治以降ですから当然かも)
また、それ以前のお墓が個人名であったのに対し、「○○家」の墓という風に「家」の墓になったのは、当時の「家制度」を普及浸透させる社会潮流と合致しています。

妻が夫の姓を名乗るのは明治時代以降のことである。それであるから、妻が死ぬとその遺骸は里方の墓地に葬られることが多かった。夫方の墓地に葬られても、その名は里方のものを記されたのである。


石のお墓を建てられるのは、武士や貴族などの有力者の話で、庶民は共同墓地に土葬されるのが一般的。盛り土をして目印となるような石を置いたり、木を立てたりといった簡単なものでした。その後、檀家制度により葬儀や供養が生活の中に浸透していったことから、庶民の間にも墓石を建てることが広がりました。

またお墓は、もともと個人や夫婦単位のものでした。家単位で作られるようになったのは、江戸時代の檀家制度の普及と、明治時代に入って庶民も名字を持つようになったためといわれています。


墓の歴史は何を語っているのか?
それも歴史だとなる、古墳が墓なのか?ピラミッドが墓なのか?
これも議論がある、中国だと巨大な権勢があり始皇帝のような山のような墓がありその地下まで墓なのである、地下帝国がありそこに王が眠り生きつづけるとまでなる
死後も権勢を誇るとなる

そもそも墓とは死者を葬り死者を記念するものとして墓が生まれた
だから個人墓が最初に生まれた、古墳にしても墓だとすると天皇の墓であり個人の墓なのである
なぜなら死者を悼むというとき個人が死んだとき個人を悼むことだからである
常識的に考えても死者をいたむというときまず個々人が死ぬのだから死んだら個人を悼むのである、その後に家族墓に埋葬されると家族を悼むとなる

そして村の共同体があるときは個々人の墓はない、まず個人が死んだら村人全員で悼み
供養して共同墓地の仏方(ほとけっぽ)に葬る
それが今でもこの辺では地名として残っている、個人の墓はないのである
有力な武士の墓は殿様の墓は残ったとしても農民の墓はないのである
ただ幕末期になると農民の個人墓が生まれた、それは財力がついたので墓を作れるようになったからである、それも個人墓なのである
その個人墓から夫婦墓になった、信士、信女の墓になった
家族墓はないのである、だから家族墓は明治以降できたものであり新しいのである

だから家族墓は実際はなじまないし変わるべきものだったともなる
それで今時代が変わりもう家族墓は維持できなくなったのである
長男とかが家を守る時代ではなくなったからである
戦前でも農業主体だと農民が8割とかなれば土地を受け継ぐということで長男が家を守ることがあった、でも農民が一割にもみたなくなったらもう長男が家を守る時代が終わったそれで兄弟で遺産を平等に分割する時代になり土地まで分割されるようになる
それは農業の時代でなくなったからである

いづれにしろ墓は何なのか?
これもわからないのである、人が死ぬと結局灰になる、私の兄は交通事故で死んで母の実家の墓に骨壺に入れて収めたがその骨壺もなくなり灰も実家の兄弟と親の骨と灰と交わりなにもない、土となっていたのである
するとどうなるのか?実家の親戚ともめたから兄の墓を私の家の墓の隣に墓標として建てた、そこに別に兄の骨も灰もないのである
ただ名前が記されているだけである
死者は骨なのか?それとも名前なのか?何なのか?
それ自体がわからないのである

ただ明確なのことはそもそも墓は人が死んで偲ぶために生まれた

形あるものとして墓を作りそれで死者を供養し偲ぶために生まれた
ここが起源でありだから死者を偲ぶというとき個人を偲ぶのであり家族ではないのであるなぜなら家族でもみんな違った人生を歩んでいるからである
兄弟でもまるで違った人生を歩む残すことになるからである
だから死者を偲ぶというとき個人を偲ぶのであり家族を偲ぶということはないのである
家族は確かに最も深い因縁で結ばれているとしても死んだときは個人を偲び個人がどういう人であったとかどいううい人生を生きたとか何を残したのかと問われる
家族が何を残したかより個人を偲ぶのである

姉はシンガポールの向かい側のジョホールバルの赤十字病院で従軍看護婦として4年間地獄の苦しみを受けて帰ってきた、そのことを死ぬ直前まで語っていた
母は原町紡績で十年間糸取りとして働いた、その後東京で女中して働いた
兄は集団就職で静岡の方に行き交通事故で死んだ
他に母の実家の墓では肺病で25歳で死んだ人がいた、何かそうした人生を個々人が語る家族でもみんなその人生は違っているのである
すると家族を偲ぶというより個人の人生を偲ぶとなるのである

兄の墓標を私の家の墓の隣に建てたときもそうである、その娘が墓参りに来るときもその親である個人を偲ぶとなるのである、それがお盆であり墓参りだとなる
その娘にとっては私の家族のことは必ずしも深い関係にないから家族にお参りするということにはならない、父親の墓参りに来るからである
母親は祖母として私の家族に墓参りすることになるにしてもそうである
だから家族は必ずしも一体というものではなく個々別々なのである
それで家族墓が現代では家族形態が変わると維持できなくなっている
そしてどうしてどこに埋葬していいかもわからなくなる

村のような親密な共同体で生きていればその場所にもアイディンティティがあり人も親しいから村の共同墓地に葬りそこで村人が代々供養できる、でもそういう共同体もないのだからどこに葬り次に誰が供養するのか問題になる
家族にしても途切れてしまうからである
現代は広域社会であり子供でも遠くに嫁ぐし分散して暮らすようになっている
すると土地との縁も関係も薄れる、それで余計に墓の維持もむずかしくなる

だから樹木葬と海に灰をばらまくとかなる、自然に還るとなる
それはもう死ぬ場所もないことの象徴なのである、一見自然に還るというが村で生活していれば本当にその土地の土に還るとなる
でも普通の人はみんな農民ではない、だから自然に還るというのも何か違うのである
そして孤独死とか孤立死が増えるのも現代である
また宗教団体に入るとその人たちが村の土地の一部を占領して自然破壊までになっているそれも死ぬ場所がないことのためにそうなる、村で暮らしていたらその村で死ぬのが自然だからである、都会人はそうして死ぬ場所がないのである

いづれにしろ人間死んでも後で偲んでくれる人はいなくなる、子供でも孫の代までくらいであり後は供養するものがなくなるのが多い
すると立派な墓を作っても維持できないのである
だから墓は簡単な墓標のようなものがいいともなる
それなら簡単に片づけられるしまたそこに死者を葬ることができる
それは村の共同墓地ともにている、永代供養ともなる
ただ今の永代供養は僧侶が金をもらい管理する、村の墓地は村の人たちが供養する永代供養だったのである
それだって時代が変わり村という共同体も変わるとすでにその共同墓地は文化財として歴史として地名として仏方(ほとけっぽ)として記されているだけだとなる

ともかくいろいろあっても人間が死者を供養するとかはならない
ただ墓という形式が変わりなくなるということはある
そして死者を供養することは死者個人を偲ぶことでありその霊を慰めることである
慰霊だともなる、何故なら不幸に死んだ人が多いからである
すると何か祟りがあるとかなり畏れがあるからだ
肺病で若くして死んだとか戦争で死んだとか交通事故で死んだとかいろいろ不幸な死が多いからである、それも墓参り供養の意義だとなる

私は常に墓に注目してきた、墓地でも江戸時代のものがあるとき注目する
ただたいがい墓地あるところは古い場所であり江戸時代からつづいているものが多い
そこは共同墓地だったところだともなる
それが東京とか大都会と違っているのである、土地と結びついているのが田舎なのである土に還るというのはまさにその生まれた土地で生活してその土地の土に還るということなのである、代々そうし農業だと土地に養われて生きてきたのだから自然とそうなったのである、それがもはや土に還るとかありえないのである
東京のような大都会では死後も団地のような狭い場所に箱のような一部屋を墓としているそれも窮屈で嫌だと思う、でもそれも今の生の継続としてそうなったのである
死後でも見晴らしのいい場所にいたいともなる、そんな窮屈な所なら海とかに骨をまいてくれともなるのである 

takeuchittt222.jpg

これは武内と岸の両家の姓が刻まれている、明治と思うが江戸時代のつづきとしてまだあった
家族の墓とか一家の墓の形式は明治以降であり新しいのである
だから実際はなじみにくいものだったのである、それで嫁ぎ先の墓に入りたくないという嫁が多いのもわかる
もしここに実家の姓を記していればまた別である
嫁でも実家を引きづっていてこの姓から実家を知るからである
明治になって男性の家に嫁ぐということが生まれて姓も男性の姓に女性は変わる
それを今になり嫌がる女性がいるのもわかる、なぜならもともとこうして両姓が記されているからである
家族墓といっても家族は一つになりにくいのである
それで姓がない(安らかに)とか墓に記されているのは姓を記すとその姓に所属する人たちのもになってしまうからである
天皇が姓がないのもそのためである、もし藤原とかなっていれば藤原氏一族が国民を支配するとなってしまうからである


2019年08月09日

盆踊りは死者も一緒に踊る祭り (日本の心は村で培われたーでも今は失われた)


盆踊りは死者も一緒に踊る祭り

(日本の心は村で培われたーでも今は失われた)

これが死者を供養する本当の盆踊りだ、一人ひとりの踊り手の後ろには、この人たちを可愛がってくれた両親やお爺さんお婆さん、そしてそれに連なる御先祖様がお盆に帰ってきて、ここでともに踊っているのだなぁ、とそんな事を考えながら、めったに見る事の出来ない盆踊りに、独り乾杯したことが有ります。

あれから三十数年、あの時死者を供養していた踊り手の内何人かは、今はもう供養される側にいるかも知れませんがそんな事は大した事ではありません。

盆踊りでは死者の供養のために死者とともに踊るという
死者も一緒に混じり踊る
これは何なのだろう?

こういうことは何か最近わかるようになった
それは家族もみんな死んだし回りの知っている人も死んだ
それで私は葬式などしなかったがお悔みとかもらったのでお返しした
本当にその人たちは近所の子供の時から知っている身近な人たちだったのである
そういう人たちが相当に死んだ

そういう死んだ人たちはみんな小さなコミニュティでずっと生きていた人たちである
すると死んでもつながりがキレルということはないのである
そういうことが特に村社会では何か理屈ではなくあったことがわかる
村のような狭いコミニュティではみんな一人一人顔見知りであり知っているからである
すると死んでもその子供や孫とかがいて人間関係が継続する
それで寺がその中心になっていたのである
ただこれは仏教とは関係ない、仏教も日本化した祭りに変化しているからだ
第一ホトケという自体、ホトキとかであり本来の仏とは違うからである
先祖を祀るものと通じているからである

とにかく祭りは死者を祀ることからはじまったことは確かである
盆踊りもそうなのである
それは狭いコミニュティで村で始まったものである
日本人の精神形成は村なのである、だから明治時代にヨ-ロッパの文化が入ってきたとき
世間を社会と訳したがソサィティは広いものであり日本の精神形成の原型となった村とは違っているのである、だから現実に日本社会にないものを訳しようがなかったのである
市民などというのもそもそも村人がいても市民など日本にはいないのだから訳しようがないのである

現代の問題はそうして長い歴史で形成された精神の形成が文化が根こそぎ破壊されたことにある、墓の問題でもそうである、アイディンティティ化する拠り所となる場の喪失でありそれとともにみんな故郷喪失者になってしまった
グローバル化広域社会になるとそれは物質的には有益でも精神とか文化面になるとかえって破壊することになった
また工業社会とかもそうであり情報社会でもマスコミとかもテレビが茶の間に置かれるとき何か家族の会話がなくなり絶えずその目は外に向くようになった

つまり外国に向くようになって身近な所がかえって注目されない、知らないなのである
そうして長い歴史の中で培われたコミニュティが破壊されるとどうなるのか?
それが様々な問題を引き起こした、物質的には豊かになったとしてもかえって人々のつながりは喪失したとなる
何か情もなくなった索漠とした世界になったのである
それで知っている人がいつもいう、道に誰か倒れていても助けないとか言う
それもそうだと思う、何かそうして非情化無関心化した社会である

それで親戚とも言えないが「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらへ」と血相変えて去った
それ以来母親の実家には墓参りもする気がなくなった
ただこれが異常かというとそうでもない、みんなそうなったのである

「金でめんどうとみてもらへ」

これが現代社会の普通の人間である、金がないなら死ねということである
道に倒れていても誰も助けない、助けてもらいたかったら金で助けてもらへとなる
それて私が弱者化したとき要求するのは金だけであり実際に奪うものもいた
それだけもう金しかない、あらゆることでそうである
この辺で原発事故でなぜ簡単に町自体が崩壊してゴーストタウンになったのか?
これも放射能のせいとばかりも言えない、つまり補償金をもらったときいち早く土地を買って移り住んだ人が近くにいるからだ
その人はすぐに故郷に見切りをつけた、それで早く土地を買ったから賢いと言われた
なぜならその後土地が値上がりしたからである
つまり故郷でもそういうものでしかない、何かあったらもう金がもの言う
金をもらえばすぐに故郷とかでも捨てる、それが現代人なのである

だからといって江戸時代とか理想でも何でもない
ただ今の社会と比べるとこんな状態ではなかったろう
貧乏なりに何か助け合うということがあった、情がある社会だったと思う
戦前でもそうだったろう、それが戦後高度成長時代から日本はアメリカに習いすべて金になったのである
そうして長い間でつちかわれた日本人がもっていた美徳も失われた
それが墓の問題とか死者をどうするかということにも起きている
生者と死者もそうした濃密なコミニュティが失われたときその関係も断絶して失われたのである

そして親が田舎に残っていても娘息子が東京とか遠くに暮らしている人も多い
すると墓の後継ぎもいないとかの問題が起きている、墓も維持できないとなる
村のような社会だったら継続する社会だから代々家が受け継がれるからそういう問題は起きないのである
大原でも知っている人は親が一人で家と田畑を守っていたがその前に息子は市街に出て働いていて一緒に住んでいなかった、今は死んで空家になっている
そして墓だけが残されたのである、でも近いから墓参りには来るとなる
これが東京とかに住んだとしたら墓すら受け継がれないのである

人間は確かに経済とかせ利益は第一にされるのは仕方がない
ただ何か利益とか金を第一にするとき代々受け継がれた文化が破壊される
それが精神に影響する、それが深刻なのである
仏教というのは日本的文化に変容したものであり本来の仏教ではない
日本的アイディンティティを形成したものとしてあったのだ
そうはいっても時代は常に変わる、それに人々は対応できない
特に文化的なものは精神に影響する、だからこそグロ-バル化とか大きな問題をはらんでいたのである

死者をどう扱うのか?死者をどう祀るのか?死者とどうつながるのか?
それがむずかしいのは経済的問題ではなく精神的問題から文化的な問題だからむずかしいのである、それはもう昔のように回復できないのである
ただ形式的に受け継がれているだけであり実体は形骸化して中味はないとまでなる
それは日本の精神形成がアイディンティティが濃密な狭い村にあったことによる
それがグロ-バル化と広域化社会では活きてこないから形だけのものとなってしまったのである

2019年08月08日

墓をどうするのかなぜ現代人は悩むのか? (死ぬ場を失ったのは生きる場を失っていたから―万葉集の歌から)


墓をどうするのかなぜ現代人は悩むのか?

(死ぬ場を失ったのは生きる場を失っていたから―万葉集の歌から)

stonedroom111.JPG
  
事しあれば小泊瀬山の岩城にも隠らば共にな思いそわが背

万葉集をすべて恋の歌として解釈すると深いものとはならない
恋が乞うであり死んだ人とまた会いたいという説になるとそれはうわついたものにならないのである
これも岩城に隠れるともに思うということ自体今ならありえないことである
だからこの歌も何なのだろうとなる
岩城とは墓のことだからである、何かあったら墓に入るという意識も理解できない
でもこの歌の解釈は岩城にあり墓にある
ただこういうふうに古墳が石室として残っていた所に隠れたとなるのか?

つまり岩という頑丈なものである墓に入る、それは死んでも岩城の中にあるということなのである
墓の中に一緒に入ることが深い意味をもっていた
なぜなら生をともにして遂には墓の中にも入り死後も一緒にいるということである
夫婦だと偕老同穴というがそれは墓まで一緒だということである

ただなぜ夫婦でも妻は夫の墓に入りたくないとなっているのか?

「あさイチ」で既婚女性が「夫(旦那)の先祖のお墓に入りたくない」と回答した理由を見てみると、

・知らない先祖と一緒に入りたくない ・・39.3%
・お墓がゆかりのない土地にある   ・・32.3%
・夫の家族、両親が嫌い       ・・30.7%
・子どもに面倒をかけたくない    ・・20.0%
・自分の両親と入りたい       ・・20.0%
・夫が嫌い             ・・13.9%

知らない先祖というとき一度も会っていない人が先祖にはいる、そういう人と入りたくない、自分とは関係ない人だともなる 

お墓がゆかりのない土地にある  

これは「場の現象学」の本を読んで考察したようにその場とはそこで一生生活した場だから愛着がありアイディンティティ化した場所だからである
ただこういうのは田舎だったら通用するが東京とかなると通用しない
墓地自体を遠くに買って葬る、それで墓参りに残された人が行くのがめんどうだとなる
また宗教団体が土地を買いしめてそこに墓苑化する、その数が多くなり村とかの自然破壊までになっている、宗教団体にとって墓苑とは商売になるからビジネスなのである
でももともと住んでいたと土地の人からすると迷惑なになるのである

shiberiaaaa111.jpg

とにかく墓をどうするのかというのは厄介なのである
それでシベリア抑留で死んだ人たちの遺骨をもってきたのだがそれが日本人ではなかったとして問題になっている
要するにそもそも誰の骨なのか70年もすぎたからわからなくなる
私の兄の骨は母の実家に事情あって埋葬したがそこに母方の実家の人たちが五六人埋まっている、その中に兄の骨がまざってわからなくなったのである
骨壺に入れていたのだがそれもなくなり誰の骨かわからなくなった
それでしょうがいないから私は自分の家の墓に小さな墓標を建てたのである
その実家の人として残っている人がいたがその人とは異常人格者だから会いたくないからである、だから母の実家の墓には墓参りしないのである
ただ兄については責任があるし子供いたので自分の家の墓の脇に墓標を建てたのである

いづれにしろ墓というのは何なのか?それ自体が不可解なのである
そもそも明治以降に家の墓が生まれたのでありそれまでは個人の墓か夫婦墓である
明治以降には夫婦墓が多いのである
江戸時代の幕末頃には経済的に豊かになり農民でも個人墓を作りまた夫婦墓を作っている戒名に信士とか信女とか記されているのでわかる
つまり家族墓は江戸時代になかった、それは明治時代になって政府の政策でそうさせられたのである、だからそれが不自然になっているのである
家族は意外とまとまりにくいのである

夫婦は三代の契りとかあり契りが深いものがある、でも家族となると姑が入ってきて姑にいじめられたとか嫁は嫌うからなかなか一つになれないのである
それで墓も同じなら嫌だとなる、それもわかるのである
やはり共に生活して協力して愛し合った人たちが一つの墓に入ることは死んでもそこで結びついている感覚になる
そこで死後まで結びついて離れない一緒だという感覚になる
それが実際は家族にはなかなかないから不自然なのである
第一先祖といっても嫁いだ先の先祖など知らない人だからである

墓というのは実はそうして一代だけのものではない、その子に子孫に受け継がれるものだからまたやっかいなのである
なぜなら跡を継ぐ人自体がいなくなるというのが多くなっているからだ
そうなると村の共同墓地に葬ってもらった方がいいとなる
江戸時代はこの辺では仏方(ほとけっぽ)として共同墓地に葬ったのである
それはその土地にゆかりがあるからそうなったのである
場としてアイディンティティをもっている場所だからそうなったから自然だったとなる

なぜ今墓が問題になるのか?
それはもともと人間が生活していた場が失われたからである
みんなその土地と深くつながる農村社会に生活していない
その土地に根ざして生活していない、グロ-バル広域社会で生活している
すると土地の縁というのも薄くなる、だから今では地域でも田舎でも農村でも強い人間のつながりはなくなっている

人間の生と死を考える時
                      
死ぬ場所をどこにするのか?
                          
これは意外と大きい問題になる、どこで死んでもいいとはならない、それで骨を海にまいてくれとか樹木葬とかがある
樹木葬だと土地と関係しているが別に農民でないのだからその土地と深く結びついて生活していた訳ではないけどそれを願うのはそもそも自分のアイディンティティとする土地をもたなくなったからなのである
そのことが生だけではなく死までそうなって死ぬ場所をどこにしていいのかもわからなくなったのである 

事しあれば小泊瀬山の岩城にも隠らば共にな思いそわが背

事しあらばを・・・死んだなら小泊瀬山の岩城に隠れてその堅い岩で閉じこもりともにありたいというのはまさに死としての理想があるかもしれない。
隠れるとは古代では死を意味しているからである
天皇でもお隠れになったという時、死んだということだからである    

いかでわれこよひの月を身にそへて死出の山路の人を照らさん』(山家集・七七四) 

七月十五夜というのはお盆です。盂蘭盆会のことです。非常に月が明るかった。そのときに船岡山
に行ったのです。船岡山は平安京に隣接した船の形をした丘です。ここは平安時代の初めくらいまで
はハイキングする場所で平安京を一望できる眺めのいい場所です。

お盆には死者というあうとうことでこの歌が作られた、死んだ人が月明りに見えるとなる

人間の死は何なのか?生者と死者は何なのか?それは断続したものではなくつながるものとしてある
死者は生者の中に生きつづける、それが人間の営みであり生の継続であり国単位になると歴史となるのである   

我が死して後もありなむこの地にそ思いは深くとどめおきなむ

何かしら死んでも必ずその生きた地に思いが残る、それが具体的に形になったのが墓なのである
ただ墓はいくら石でも消失しやすい、誰も参るものがなくなったら墓は二度死ぬことになる
なぜか墓地に倒れたままの墓がある
なぜそれを立て直す人がいないのか?それはその人を知る者もいないしかかわるものがなくなったからである
今はそういう墓がいくらでもあるのだ、結局この世あるものは墓でも無常なのである
それがいつまでも維持できないのである
なぜか私は墓に興味があるというとき江戸時代の墓があればそこに人が本当に生きて埋まっていると思うからである
書類だと実感として人が生きていたと感じないのである
それが墓の不思議だとなる





2019年08月01日

先住者と後から移り住む人たちの軋轢 (現代は老人が生きずらい社会である―江戸時代が老人が生きやすい時代だった)


先住者と後から移り住む人たちの軋轢

(現代は老人が生きずらい社会である―江戸時代が老人が生きやすい時代だった)


この辺では移り住む人たちが多い、駅でも道を歩いても元から住んでいる人たちではない第一一つの新しい街ができたくらい家が建ったからである
津波で被害を受けた人たちはこの町に元から住んだ人たちである
でも原発事故関係で避難して住んだ人が多いのである
ちょっと話してみると元から住んでいた人ではない、それから外国人もまじっているから外から人たちと混在している、それは全国的傾向であり特にここだけではない
広域社会とグロ−バル社会とはそういうものである

そこで軋轢を生んだのがいわき市である、二万人も移住して新しい家を建てたとういからそこになんらか軋轢が生じてもめた、なんであの人たちは他からきてすぐに新しい家を建てたんだろうとかうらやましがられたのである
もともと住んでいる人はそんな金がない人たちがいてうらやましがられた
そしてかわいそうだとか他から同情されたことも影響したのである
それはこの辺でもあった、ここでは津波の被害者もいて複雑になっていたのである
原発避難者は多額の補償金をもらったが津波の被害者はもらえなかったからだ

とにかく先住者と後から移住してきた人たちとうまくいかないことが普通にある
それを象徴していたのがアメリカだったのである、インディアンが先住者だったけど
その人たちは正直な人たちでありアメリカの土地に最初から根づいた人たちだったが
横暴な白人に踏みにじられて殺戮された
それは人だとアイヌでもそうだったとなる
こういうことは世界史でも民族の興亡が激しいからあった

でも先住者より他から入ってきた人たちが威張るとかなることもある
村で暮らしていた日本人だとよそ者を簡単に受け入れないことがある
おそらくそれは農業社会だったからだろう
なぜなら相馬藩では越中とかの移民を飢饉で受け入れたとしてもその人たちは先住者に草分けという農家に指導を仰いだから先住者が上になっていた
それで苦労して荒地を開墾して住みついたのである

だから農業だと先住者でもその土地についてはわからないからその土地の人に教えられないと住めないから先住者に従うとなる
でも現代の社会は何か広域社会でグロ−バル化社会であり工業社会である
すると金があればどこに住んでいいとなる金がある人がもともと住んでいない土地に来て威張るとか支配者にもなる
この辺でも立派な家を建てた人が多いのだからそうなっている
とにかく外から来た人たちは何をしているのか?
それが良く見えないのである、浪江の復興住宅に住んでいる人は仕事はしていない
ただ他に新しい家を建てた人たちは仕事しているのか?それが見えない
もともと何をしているか仕事しているから見えない時代だったから新しく来た人たちでもわからないということになる

でも何か新しい土地に来ても世話になりますとかはない、金さえあればどこに住んでもいいし金がある者が上なのだとなる
現実に土地の人で金のない人に与えればそうなるのが現代である
そんなことを言う人がいるから田舎は閉鎖的で嫌なのだとなるのも確かである
でも何か先住者というかもともとその土地に住んでいた人たちに教えてもらうことはあるだろう、すると金さえあれば関係ないということにはならない
それは自分自身も旅したとき、そんなふうにして旅していない、その土地の人に世話になるというか教えられるという気持ちがなかった、今はそういうことは確かにない
金さえあれば何も教えられなくてもいいとなる、道を聞くにしてもスマホがあればいいとかなっている、人は関係ないともなっている
でも旅をふりかえるとそれではまずかったともなる、自分の場合社会性が欠如していたからそうなったのである、この社会性が欠如するからニートとかは問題なのである

とにかく外国人をおもてなしとして日本人が迎えるのももそうである、日本人が貧乏になった時そうなったのである
本当は外国人がお世話になりますというのが順序なのである、知らない国に来るのだからそうなる
それが日本人がおもてなしとか金のために頭を下げて迎えるのである
そういうことを日本人か好景気のとき外国でそうされていたのである
今度はその逆となり貧乏になったからおもてなししろとなったのである
だからこれもつくづくカルマだとはなる
つまりグロ−バル競争社会では世界的にそうなるのである
経済力強いものがその土地に長く住んでいようが関係ない、上になり従うとなる、おもてなしされるのである
金だけ世界の共通の価値となればそうなるのである、何か金意外のことは無視される
それは観光だけではないあらゆることでグロ−バル化することで起きている
その国の文化とかも無視されて外国人が入ってくるのである

こういうことは別に田舎とか農業だけのも問題ではない
会社とかでも起きているのである、終身雇用というときそこに長くいた人に給料が多く払われ長くいる人は先住者で価値があるとなっていたのである
だから後から入る人は教えこうという立場にあった
それは職人でも徒弟制度があり厳しい上下関係があったのである
でも終身雇用がなくなると新人でも技術者は特別待遇されて給料も二倍とか三倍で優遇される、すると会社に長くいた人たちは先住者は価値がないとなるので不満になる
新旧の問題でも軋轢が生まれる

駅でも私は案内していたので今見守り役した人に盲人が来たとき導くことなど教えた
だかその人たちは何もそういうことを教えてもらわなくてもいいとしていた
そこで考えたことはどこでも必ず先住者がいてそこで経験を積み重ねた人がいる
すると何かしら教えられることがあるのだがそれを無視している
何か教えられることもないよはなっているのだ
だからとにかく農業社会だったらどうしても土地のことはわからないから先住者に教えられるのでその下で働くこともいとわないのである

今の社会の問題は例えば老人がいたとして誰も尊敬しない、教えられることもない
かえって老人は何もできない、無益な邪魔者で俺たちの金を使って遊び暮らしているだけだと見られている、それは社会が工業社会とか変わってしまったためである
それで法律の専門家が正論おじさんとか馬鹿にされたことでもわかる
情報社会だとインタ−ネットで教えられるとかともなる、老人に何かわからないから聞きに行く人などいないのである
ただその態度が問題なのである、やはり先住者に何かしら教えられることがありそれを拒否することは何か問題である
結局工業化社会というときどうしてもその土地のことは関係ないとなるからそうなった
車を作るのでもその土地のこととは関係ないからそうなった
そうなると先住者の方が肩身の狭い思いをするとかまた先住者は邪魔者だとインディアンのように滅ぼされるともまでなる

現代は本当に老人にとっては生きにくい社会なのである
老人が価値がないとされる時代なのである、それは数が多くなったせいもある
でも老人が長生きしても尊敬もされない、ただ社会の重荷になっている、早く死んで方がいいのだと若い世代に思われること自体、老人は長生きすることは苦痛になるのだ

そして認知症になっても江戸時代辺りだったら意外と生き安かった
いろいろな機械も使うことはない、非常にわかりやすい単純な社会でありいつも同じ人がいてなじみの人がいて変わらない社会である、そこで老人に教えられることもあるからだ老人はそこで尊敬されていた、老人に教えられることが何かしらあったからである
長屋とか人が常に変わって移り住んでいるようにドラマでは見るが長屋に住んでいる人はそこに長く住んでいる顔なじみの人が多かったのである
つまり江戸時代は人があまゃ移動しない時代だったのである
そういう所では認知症の人でも住みやすかったと思う
単純な社会であり人と人が直接情で結びつく社会でもあったからだ

江戸時代の日本人は明治の時外国から来た人たちが称賛しているがそれはそういう社会であったからだ、それは日本人だけではない、例えはラオスに行った人たちも同じようなことを言っていたからである、人間が素朴だと言っていたからである
つまり文明人になるとみんな同じになるのである
とにかく現代は老人には生きにくい社会である、そして老人が多くなりすぎることがさらに生きにくくしているのである
もし江戸時代のようなら老人は尊敬されていたし居心地よかったのである
ただ貧乏ということで生きにくかった、すべていいものとしては何でも働かない
ただ現代社会はかえって外から来た新来者が先住者を踏みにじることが多いのである
だからその土地に長く住んでいてもまた会社で長く勤めていても価値がないとされる
そういう社会は老人にとって本当に生きにくいと思った
老人は別に年とっているとういだけで敬われないし価値もないとされるからだ
そういうことで高齢化社会が実際は地獄化する、それは年金とか金の問題だけではないのである 

佐保過ぎて 奈良の手向けに 置く幣は 妹を目離れず 相見しめとぞ 

この歌のように峠を越えて異郷に行くことはその当時大変なことだった
だから人も変わるし妹の顔を浮かび離れたくないとなっていたのである
峠(とうげ)は手向け(たむけ)から来ていてそこ手向けして神に祈り幣を置くことでもわかる、隣の村でも見知らぬ土地に行くことは大きな変化であり畏れきもなっていたのである
この妹は親でも兄弟でも村の人でもいいのである
こういう心情は人間にはもともとあったし今のように絶えず見知らぬ人と交わっている時代はなかったのである
ただこういうことは老人にとって苦手になる、老人はいつもなじみの人と会いそこで精神の安定化を図る
認知症になると子供でも離れていると名前さえわからなくなるがずっと一緒にいた人は忘れないのである
だから認知症になる人が膨大に増える、その時老人はさらなる地獄を生きることになるのである
長生きは悪いことではないがこうなると本当に長生きは地獄だとなる

sightseeing111.JPG
週刊新潮8月8日号

これも他国でもずかずか遠慮なく入ってくることで起きている
グロ−バル化で相手の文化とか事情におかまいなく入ってくる
そういうことを日本人でも他国でしてきたから同じだとはなる
もう金さえ払えば王様だとどこでばそうなってしまっているのだ
何かお世話になりますということはないのである
それは観光だけではない、グロ−バル化するとあらゆることでこうなる
金があれば王様であり待遇される
日本だって金があれば高級旅館でおもてなしされる
金のないやつは来るなとかなる

だから私は旅したとしても高級旅館と温泉旅館には泊まらなかった
というより泊まることができなかったとなる
テント張ってとまった方がいいともなっていたのである
何でも金ある者が優遇される社会はおかしいのである
金をやれは傍若無人にふるまうことも許されるとなる
広域化社会とかグロ−バル化社会の弊害が今になると顕著になったのである
ただこれは外国人だけの問題ではない
日本人自体が外国でそうだったからである
日本国内でもそうである、金さえ払えばいいじゃないか、また受け入れる人は金のない奴は来るなとなる
金を落とす人だけ来ればいいとかなっているのも現代の矛盾なのである
江戸時代だったら殿様意外は貧乏だから同じ待遇だったと思うからである

2019年07月30日

NHKの杉本八郎氏の逆転人生「認知症治療薬の開発秘話」を見る (認知症が直る薬が生まれるのかーその謎はあまりに深い?)


NHKの杉本八郎氏の逆転人生「認知症治療薬の開発秘話」を見る

(認知症が直る薬が生まれるのかーその謎はあまりに深い?)


認知症の薬のアセリプトを開発した人の人生である、最初高校卒で研究所に入るのかと思った、その後大学に入り研究者になれた
認知症にはじめて効く薬が発明された意義は大きい
認知症の治療とか介護に苦しんでいる人が多いからである
ただ杉本氏は母親がひどい認知症になってそれに心痛めて薬を開発することに熱心だったのである、そこに強い動機があったことで成功したのかとなる
動機は大事である
そもそも官僚になっている人は志がほとんどない、東大出たらいい暮らしができるとか
自分の利益しか考えないからだめなのだと東大出の人が言っているのだからそうなのかとなる

団塊の世代でも数が多いから熾烈な受験戦争であり志など皆無である
要するに他者を蹴落としてまでも点数をあげて得する立場になれということである
そこに動機としては自分のことしかない、自分か良ければ自分がいい暮らしできればあとは関係ないという世界である
だから東大に入ればそれで官僚になり財務省にでも入ればそこでいい暮らしができる
何か国のためにはか国民のためにかはないというときそれはそういう教育しか受けていないのが戦後の団塊の世代だったからである
その前の世代、例えば小学校でも戦争の時育った人たちは団塊の世代とは違っている
国民意識国家意識が強いのである、そういう教育を戦争とともに受けたからである
それは戦後否定されたにしても何かそれが全部必ずしも悪いとはなっていないのである
それで林秀彦の本を読んで日本語を見直すということで興味をもったのである

戦後の教育というそもそも教育がなくなっていたのである
何が教育なのかわからなくなってしまったのである
日教組が極端な左寄りとかなりそれも日本人としての教育ではない
左翼が風靡したとしてもそれは教育にならなかった
つまり何ら指標となる教育はなく、知識の詰め込みと受験戦争でいい大学に入りいい暮らしをするということしかなかったのである
ただ高度成長時代になりそれがかなえられたのである

教育というのは自分自身で一人で作りだされるものではない、社会自体に道徳とか規範とかあってできるものである、そういうものがなくなったとき誰も教育できなくなったのである、まねるものがなくなったのである、でも新しいものを造りだすこともできない
そこでただ民主主義とかマルクス主義とかそうした実のないうわべだけのものを言葉だけを取り入れたのが戦後だったのである
だからいかに伝統が大事だったかともなる、なぜならそもそもそうして歴史的伝統的に作られてきた民族の文化の骨格を否定する、でもそうなると新しいものを作る時なるとき作れないのである

だから宗教でもカルト宗教団体が戦後跋扈したのである、それも御利益宗教である高度成長時代にマッチしていかに得していい暮らしをするしかなかったのである
日本から教育がなくなった、道徳すらなくなった、宗教もカルトになった
そうしたら何を見本にするのか?
ただこういうことは文明自体の問題として世界中で共通していたということはある
宗教の力がなくなり物質的欲望を追求のことで共通していたからである

ともかくアセリプトを発明した人は強い動機があったことが成功へと導いたのかもしれない、それから各人に自由に開発させた、各人の能力を引き出すように指導したとかある
でも8年とかそれ以上時間がかかった、二回も挫折して研究は停止したとかある
それだけ一つの薬を発明するのに苦労したのだなと見た
そうなればその薬はありがたいなともなる
その薬が奇跡のように生まれたわけではなかったからである

ただ正直この薬にしても認知症は直すことはできない、ただ若干症状を遅らせるだけでありまた人によっては効かない、かえって副作用が出る
だからこれで認知症が直るというのではない、ただはじめて認知症に若干でも効く薬が発明された意義は大きい
認知症というのは謎である、だから別に医者でなくても対処療法があり心理的に対応する方法がある、それは医者でなくてもできる
それをこれまで私は書いてきたのである

認知症という病気を良く理解することである、それは化学的に体をみること脳をみることではない、だから別に医者のように知識もなくてもできるのである
ただ認知症がどういう症状がでてそれにどういうふうに対処するかがある
それも個々人で対処することがむずかしい病気なのである
だから認知症の介護できる人はずっと一緒に生活している人である
例え親子でも離れて暮らしていると自分の子供すらわからなくなるのだ
それで杉本氏の母親が自分の子供なのにわからなくなったというのはなぜか、そのことがわからなかった
一緒に生活していればそうはならないはずだからである、離れて暮らしているとそうなりやすいのである

まず認知症ほど謎めいた病気はない、なぜなら正気を失った、馬鹿になったとなるが必ず正気にもどる時がある、まず死ぬ前に一か月前とかに正気にもどる
これはなぜなのか?これも不思議だった、二人の認知症を介護したけど二人とも最後に正気にもどった瞬間があった、それで私は懸命に介護したので報われたともなる
だから生まれつきの知能の障害者とも違っていたなとふりかえる
要するに本当に謎が深い病気なのである、この病気は果たして化学的にとか薬で直るとかあるのか?
それが疑問なのである、だって脳となれば精神が影響しているだろう

では認知症は海馬が損傷してそうなったのか?脳の一部の障害なのか?
ただ人間であり人間として認められる、感情もある、喜んだり悲しんだりする
それで感情があれば人間なのか?何かそうしたことを考えさせられるものだった
だからこれは精神病とか心理学とか何かそうした人間の心の分野と関係もしてくるから
ただ化学的体だけからみただけでは解決しないのではないのか?

でも認知症を直す薬が生まれのだろうか?
それが生まれたらすごい、海馬が損傷するとしてそこを直せば全体も回復したりするのかとにかく認知症だけは謎が深い、それは直接介護してみないとわからない病気だったのである
医学でも科学でも何か今は限界がないとみられる
でも本当にそうなのか?
原発事故のように限界がある、ただ限界がないように常に発見があり発明があり科学が解決すると期待されるのである
でも医学でも科学で限界が生じる、それは人間の限界なのである
もし限界がないとしたら遂に人間自体が神となり解決しないものはないとなるからだ

とにかくその人をみるときその人の成したことをみるとき動機が何かを見ることは大事である、神は人の心を見ている時、その動機が良くなければいかに成功したとしても成功したとは言えないのである
そうして成功したとして金持ちなったとしても成功したといえるのか?
俺は優秀だからその優秀さをみせるために事業を起こした、それも田舎では金をもっている人がいないから都会の人を相手にする、何かこんな動機で事業を起こした人がいる

そもそも動機がそんなふうでは成功したとしてもますますその人は増長するだけであり
人を見下すようになるだけである
自分の親が認知症になりそれをなんとかしたいというのとはあまりにも違うからである
ただ成功と失敗もか一重なのかもしれない、もうそういうぎりぎりのせめぎ合いで偶然新人が入ってきてその人が実験して成功したともなる
そしてもし成功しなかったら時間の無駄になり金の無駄になり何にも得られないとなる
そうなることだってありえたしその方が確立が高かったとなる
それだけ薬の開発がいかに容易ではないかわかった番組だったのである


エーザイ新薬治験で健康男性死亡 極めてまれ、厚労省が調査

世界大手も尻込みする認知症新薬開発

エーザイのようにアルツハイマー型認知症新薬を開発する製薬企業に対する期待は否が応にも高くなる反面、開発が不調となれば、失望も極大化してしまう。師走のエーザイの株価急落は、まさにそのことを端的に示している。


厚生労働省は9日、免疫の仕組みを利用したがん治療薬「オプジーボ」を投与された患者11人が、副作用とみられる脳の機能障害を発症し、うち1人が死亡したとして、製造元の小野薬品工業(大阪市)に、薬の添付文書に重大な副作用として追記するよう指示した。 

薬は必ず副作用がある、アセリプトにもある、エーザイは杉本氏が勤めていた会社である
やはり一連のニュースとして注目するものがある
ニュースも自分用に編集する時代なのである
でもこれだと時間がかかるのである
だから仕事している人はやはり情報がいくらっても目を通すことはむずかしい
インタ−ネットは相当暇でないとできないのである
ただいつもアクセスするところを情報源とする
それでもインタ−ネットだと情報が多すぎるから編集するにしても時間がかかりすぎるのである

2019年07月07日

日本の高齢化、世界の高齢化で戦争ができない (中国も韓国も高齢化になっている)


日本の高齢化、世界の高齢化で戦争ができない

(中国も韓国も高齢化になっている)

この高齢化は20歳代の隊員が大幅に減ったことが主因である。さりとて、わが国は社会全体で少子化である。若年層は産業界にとっても労働力として貴重であり、自衛隊員だけ若年層を増やすわけにもいかない


平均年齢は31.8歳から35.9歳に上がった。現在士の充足率は73.7%で、頭でっかちの年齢・階級構成になっているのだ。
このままいけば、前線兵士が少ないのに指揮官は多いといういびつな構造がさらに強まりそうだ


高齢化いうとき日本だけではない、中国の高齢化がより深刻になる、数が多いからだ
自衛隊の高齢化もある、若い人が入隊しない、日本も戦争の終わりころは戦地に送る兵隊がいなくなり40才くらいの人まで招集されたのである
それで相馬市の40歳の人が戦地で戦った
そこで子供がかわいそうだとして恵んだとかいうのはその人も子供をもつ親だったからである
一方で18歳くらいの人が志願兵にもなった、そこで人を殺すことを強いられたがそのことは言わなかった

戦争はどうしても過酷すぎるから若い人でしかとても勤まらない、最も体力が充実しているのは20代までである、30過ぎる相当に体力が失われる
戦争をできるのは20代までの人口が多いというときできる
日本ではこうみると戦争などできなくなっている
40でおっさんとか言われ体力がなくなって力仕事がきついという人がいるからだ
それは中国でも同じなのである

指揮官が多くて兵士が少ない

これも歪になる、若い兵士が多い方が戦争にはいいのである、それは日本の会社でも起きている
若い世代の社員が少なく役職をもった人たちが多いのである、その人たちは給料が高いからかえって負担になっている
JRでも50代以上が多いとかそれはどこでもそうなっている
それで若い外国人労働者が会社に入ってきたとき活気でてきたなとなるのはそのためである
これは世界的高齢化であり日本の高齢化が一番早いのである

今の時代はもう戦争はできなくなっているように思う
ただなぜ第二次世界大戦ということが起きたのか?
それは世界的なものとして発生した
その発端はドイツだった、ナチスが興隆してヨ−ロッパが争うようになりイギリスとドイツが争いそこにアメリカが加担してきた
そしてドイツを見て日本が同盟を結んでアメリカと戦った
その時ドイツは大きく見えたのである、アメリカが大きく見えなかったともなる
その時の時代感覚は今からではわからないからである
ドイツをみて同盟してアメリカと戦って失敗したとされる

白人が確かにアフリカ人を奴隷にした、アジアを植民地にした、南アフリカに強盗団のようなスペイン人が侵略してマヤとかインカはあっけなく滅びた
その前にアメリカのインディアンが白人に掃討されて多数が死んだ
つまり白人の世界への膨張がこうした悲劇を生んだ
その欧米の世界進出にアジアで抵抗したのは日本だったとはなる

ではこれから同じようにカルマとして世界大戦が起きるのか?
米中で戦争が起きるのか?
これは冷戦となって引き分けとなる、それがソビエトとアメリカの冷戦で証明された
ただ小国はベトナムのように犠牲になった
イラクでもそうである、その後中国が台頭してきたときまた冷戦になる
でも戦争にはならない、戦争ができない状態に世界はなっている?
ソビエトでも核兵器で対抗した、もし本当に核の戦争になったら共倒れであり人類滅亡にもなる
すると戦争は互いに威嚇しあう動物でも縄張り争いで威嚇しあう、でもそれが死ぬまでの争いには発展しない、できないのである

ともかく第二次世界大戦のような大規模な戦争は起こしにくい、明らかに第三次世界大戦になったら人類滅亡だということはわかっているからである
すると相互に牽制するようになる、直接の衝突はできるだけ避けるようになる
そこでなんとかバランスが保たれる
ただ大国の回りは中国の周辺国のチベットとかウィグル族とかは併合される
だから日本はそうした小国にならない、もちろん大国にはなれないがそれなりの規模の国として侵略されない国にになる必要があるとは言える

奇妙だけど高齢化が国際関係に影響してくる?
そういうことを考えなかった、でも一番これから高齢化になるのは中国なのである
そうなると戦争でもしにくくなる、高齢化が戦争の歯止になるのも奇妙だとなる
それはクルマ社会でも高齢化になると運転できないとかなり別な交通を望む人が増えてきてクルマが減退する社会になる

血の気の多い若い世代が多ければどうしても戦争でもイスラム国に参加するような日本人までいたようになる
高齢化した社会は国は戦争はしにくいのである
アメリカが日本から撤退しても中国が攻めてくるのか?脅威となるのか?
それが疑問になる、韓国でも日本より高齢化している
高齢化社会になると無茶なことはしにくいのである
高齢化が戦争のブレーキになるというのも奇妙だけどそれだけ高齢化というのは世界的な問題になっている
要するに人類はペストとか細菌で大量に死んだ、そこで人口が調節された
戦争でも死んで人口が調節されたということもある
でもそれがなくなるときと人口が増えるとまた様々な問題が生まれる

高齢化社会というとき深夜に外国人労働者が働いている現場で老人が働いているという
長生きするから先が心配で働いているという
そういう姿を若い外国人が見てどう思うのか?かわいそうだとなる
そういう若い人が激減している日本で戦争だって起こせるのか?
戦争になったら若い人が激減して働く人がいなくなるのである
それは原発事故の避難地域に起きている
若い世代が流出して働く人がいない、介護士もいないから青森に送られている
農業するにも復興するにも若い世代が流出したら復興もできないのである

少子高齢化は中国でも韓国でも日本でも深刻になってくるし日本ではすでになっている
老人大国で戦争はできない、世界でも高齢化するとき戦争できるだろうか?
何か戦争の時代は終わったのではないか?小規模の戦争はあっても第二次世界大戦のようなことが起きるだろうか?
むしろ人類は老人ばかりふえてエネルギーがなくな衰退してゆく
その結果として人口もこれからまだ増えるにしても減ってゆく
人口が産業革命で一世紀の間に爆発的に増えたからである
これは異常であり反動がありこれから人口が減らなければ地球が悲鳴をあげる
ただ人口が増えるという時高齢化で老人が増えるのである
高齢化というということはそれだけ様々に世界的にも影響するのである
人類は縄文時代なら30歳が寿命だったとか若くして死んでいた
それが世界的に寿命が延びることは今まで人類が経験していないことなのである

それで建築現場で働いてる40歳代の人が青森の施設に入れた親がいた、施設に入れたから終わりではなくその他にかかる費用があり困っているという
それに母親は70近くであり腰が悪いとかなんとか体がまともではない
それが介護になったらどうなるのか?
金もないし誰が世話するのか?生活保護も受けられない状態にある
高齢化で介護が大きな問題となる、もう老人は捨てられるかもしれない
それだけの人も金もないからである
団塊の世代が75歳以上になったとき危機がくる
もう世話できないと捨てられる、そんなときとても戦争はできない
ただナチスは戦争するために障害者を始末した
もし戦争になったら老人は邪魔だとかなり始末されるかもしれない
だから中国でも韓国でも高齢化であり戦争できるのかとなる

2019年06月20日

土地とつながりなくなったとき人の価値はどうなるのか? (介護とかでただ金だけでできるものなのか?)


土地とつながりなくなったとき人の価値はどうなるのか?

(介護とかでただ金だけでできるものなのか?)

nursework.jpg

   地域を守る看護(鹿島厚生病院)


manremove11.jpg

介護のために東京でも南相馬市でも施設があっても介護士不足とかで青森に送られた
それは一人だけではないのである
何かそうして故郷から離れて家族からも離れて介護される
それはどうしてかとなると地元で介護士などがいないからである
それは東京でも数が多くなるから東京でも地方の介護施設に送り問題となる
これから東京では介護しきれないから地方に送り介護してもらうとなる

でも介護される方でも介護する方でも介護となるとまた別問題である
人間を品物のように移せるものかという問題である
それは極めて現代的な問題であることに気づいた
移動が容易だとしてもそんな簡単に人間か長く住んだ所になじんだ所から移れるものかということである
それは老人になると愛着ある場所とか家族がありそこで最後を生きて死にたいということがあるだろう
そのことが原発避難者に起きた、老人が故郷に帰りたいというのはまさそうだった
それは人間としての生物の本能みたいなものだったからそうなった

そして日本人はもともと村とか狭い範囲で生きてきた長い歴史がある
それが現代になり移動が容易になり激しくなった
そういう移動する社会では価値観も相当に変わる
人間の価値観はその場所に拘束されない、金があればどこにでも住んでいいとなる
だからこそ青森で仕事がないから介護を仕事として引き受けることになる
それは距離というものも関係なくなり金だけでめんどうみてくれとなる

でも介護となるとまたこれは他のものとはただ物をやりとりするのとは物を運ぶのとは違うのである、モノだけだったら地球の裏側から運んできても問題はない
でも人間が移動してきたら必ず様々な問題が生まれる
それが外国人労働者が日本に入ってくることでそうなった
相手は人間でありモノではないからだ
それは日本国内でも言えたことなのである

現代の価値観はその場所とか関係なくなる、移動が容易であり金があればどんなサービスでも受け入れられるともなる
それで東京の人は金をもっているから地方都市に福祉サービスがいい都市に移住する
そこなら手厚い介護が受けられるとか思うからである
でも介護となるとまたモノのやりとりとは違ったものになる
金がやるから地方で手厚く介護してくれとなりでは地元の人がそうして全く知らない人に手厚い介護ができるものだろうか?

もともと東京とかに生活して東京に貢献していたとするならそこで介護されるのがいいとなる、要するに人間の一生はやはりどこかに愛着が生まれてそこで死にたいとなるだろうまた人でもそうだろう、いろいろな人があっても一般的に長く生活を共にした人のもとで死にたいともなる、全然知らない人たちの中で介護されるとうのも何か不自然なのである別にそこに親切な人たちがいれば地元だからとしていい人ばかりではないことは知っている、だからそんなことに今はこだわる必要がないということもある
地元だから故郷だからいいとはならないからである

ただ一般的問題として現代とは広域社会でありグロ−バル化社会である
そういうことで問題が起きる、東京に原発を作れというときなぜ福島とか地方に東電は原発を作ったのか?それも広域化社会になっている問題である
福島の双葉とか大熊は出稼ぎ者が多く地元で仕事があればいいとして原発を誘致したからである、それで確かに地元に金になる働き場が生まれて潤ったとなる
それと何か介護でもにているのだ
青森は仕事がない、それで金になるために遠くてもそうして介護する人を引き受けるとなるからだ

現代はその土地土地で生きる価値を作らない社会である
その土地に長く生きてきたからと言ってその人に価値があるともならない
ただ金をどれだけ多く稼いだかで価値が決まるとなる
だから東京辺りで株でもうけたとかして億の金があるから地方で手厚い介護しろとかなるなにかすべてが金で価値が計られることがおかしいのである
すべての価値が金で決められるのか?
その人の価値がすべて金で決められるのか?

村のような所で生きてきたら何かその村の中でどういう役割を果たした人かなど狭い範囲だとみる、それでその人の価値をみる、それは金だけではない価値観が働く
でも金だけをもってきて手厚い介護しろというとき何かそれをすんなり受け入れられるだろか?
それはグロ−バル化社会でも起きていて世界がただ金だけすべての価値を計る
そういうことはできない、国々にはそれぞれの文化があり文化をすべて金で価値を計ることはできない、金で買うこともできない、その文化とはその国の風土があり長いその土地の歴史があって形成されてきたからである
だから原発避難地区ではそうした歴史を奪われたとなりアイディンティティを失った
それは金で補償できないものだったのである
そういうことは意外と意識しない、精神的なものだからであり金で買ったり売ったりするものではないからである

とにかく現代は広域社会でとかグロ−バル化で矛盾が起きる
それは人間の価値はすべて金で計れないからである
金にならないものはすべて価値ないものとはできないのである
都会だと自然がない、景観がない、索漠としている
でも景観自体に価値あるともみない、森より木材が金になるとして伐採してはげ山にするそれは地方でもグロ−バル化するとき熱帯の森でも失われたからである
そこに生きるものにとっては金が入っても森を失われることが精神的な喪失感を生む
それは原発事故でも起きたのである、自然が放射性物質に汚染されたからである

広域化社会というというとき距離は関係ないとかどこに生活しようが金さえあればすべてまかなえる、介護を受けたければ福祉サービスがいい都市でも地域でも移ればいいとなるしかしそれを受け入れる方ではどうなるのか?
別に金が入ればいいとなるのか?なぜこの人に尽くさねばならないのかという問題も起きる
もし地元だったら地元に生きて働いて貢献した人だとなればそこに介護する人の動機が生まれる、家族が介護すれば一番いいようにである
グロ−バル社会を批判して来たけど何か最後に老人になってそういう社会がいいものだったのか介護とかで問われているともなる
ただ地元にしても何かトラック運転手が多い、それは現代は運ぶ仕事が多いということなのである、それは広域社会だからそうなっているのである
だからみんな地元だけで仕事している人は少ないのである

現代は何かそうして広域社会化でもグロ−バル化社会でも矛盾がでている
それはどうして人間の価値が生まれているのか?
その土地に尽くして生きたならその土地の人に世話になり死ぬというのが自然になる
もちろん尽くすとか貢献するとかではなくても人間の心情としてその土地と一体化するということがある
金さえあればどこに住むのも勝手だとか金があればすべて解決するとかには人間にはならないのである
人間はモノではないからAからBへと簡単に移れない、住めないなのである
Aを中心に価値を作って来た人がBへ移って価値観を作ってゆくことはむずかしい
そうしして移動すれば人も環境も自然も生活も変わるからである 

ただ都会になると東京とかるなとそうした土地とは関係ない、みんなよそ者の集まりだからである、それが田舎に住む者との大きな違いである
都会では点々と都会内でも移住するからである、ただ家を建てるとやはり移住しにくくなる、そこに定着するようになるからである
でも都会の人と田舎の人の感覚はその辺が相当に違っている
何かおかしいなというとき現代はあまりにも金で割り切る、すべてを金で価値を計っているからそうなる、そこに一番の問題がある
人間は金で計れない価値が相当ありそれを無視して生きることはできないのである
もし無視するともう人間として生きていけないとまでなる
それがグロ−バル化社会の深刻な問題なのだけど金一辺倒の価値観しかなくなっている
そこに大きな歪(ひずみ)が生まれているのである