2019年07月07日

日本の高齢化、世界の高齢化で戦争ができない (中国も韓国も高齢化になっている)


日本の高齢化、世界の高齢化で戦争ができない

(中国も韓国も高齢化になっている)

この高齢化は20歳代の隊員が大幅に減ったことが主因である。さりとて、わが国は社会全体で少子化である。若年層は産業界にとっても労働力として貴重であり、自衛隊員だけ若年層を増やすわけにもいかない


平均年齢は31.8歳から35.9歳に上がった。現在士の充足率は73.7%で、頭でっかちの年齢・階級構成になっているのだ。
このままいけば、前線兵士が少ないのに指揮官は多いといういびつな構造がさらに強まりそうだ


高齢化いうとき日本だけではない、中国の高齢化がより深刻になる、数が多いからだ
自衛隊の高齢化もある、若い人が入隊しない、日本も戦争の終わりころは戦地に送る兵隊がいなくなり40才くらいの人まで招集されたのである
それで相馬市の40歳の人が戦地で戦った
そこで子供がかわいそうだとして恵んだとかいうのはその人も子供をもつ親だったからである
一方で18歳くらいの人が志願兵にもなった、そこで人を殺すことを強いられたがそのことは言わなかった

戦争はどうしても過酷すぎるから若い人でしかとても勤まらない、最も体力が充実しているのは20代までである、30過ぎる相当に体力が失われる
戦争をできるのは20代までの人口が多いというときできる
日本ではこうみると戦争などできなくなっている
40でおっさんとか言われ体力がなくなって力仕事がきついという人がいるからだ
それは中国でも同じなのである

指揮官が多くて兵士が少ない

これも歪になる、若い兵士が多い方が戦争にはいいのである、それは日本の会社でも起きている
若い世代の社員が少なく役職をもった人たちが多いのである、その人たちは給料が高いからかえって負担になっている
JRでも50代以上が多いとかそれはどこでもそうなっている
それで若い外国人労働者が会社に入ってきたとき活気でてきたなとなるのはそのためである
これは世界的高齢化であり日本の高齢化が一番早いのである

今の時代はもう戦争はできなくなっているように思う
ただなぜ第二次世界大戦ということが起きたのか?
それは世界的なものとして発生した
その発端はドイツだった、ナチスが興隆してヨ−ロッパが争うようになりイギリスとドイツが争いそこにアメリカが加担してきた
そしてドイツを見て日本が同盟を結んでアメリカと戦った
その時ドイツは大きく見えたのである、アメリカが大きく見えなかったともなる
その時の時代感覚は今からではわからないからである
ドイツをみて同盟してアメリカと戦って失敗したとされる

白人が確かにアフリカ人を奴隷にした、アジアを植民地にした、南アフリカに強盗団のようなスペイン人が侵略してマヤとかインカはあっけなく滅びた
その前にアメリカのインディアンが白人に掃討されて多数が死んだ
つまり白人の世界への膨張がこうした悲劇を生んだ
その欧米の世界進出にアジアで抵抗したのは日本だったとはなる

ではこれから同じようにカルマとして世界大戦が起きるのか?
米中で戦争が起きるのか?
これは冷戦となって引き分けとなる、それがソビエトとアメリカの冷戦で証明された
ただ小国はベトナムのように犠牲になった
イラクでもそうである、その後中国が台頭してきたときまた冷戦になる
でも戦争にはならない、戦争ができない状態に世界はなっている?
ソビエトでも核兵器で対抗した、もし本当に核の戦争になったら共倒れであり人類滅亡にもなる
すると戦争は互いに威嚇しあう動物でも縄張り争いで威嚇しあう、でもそれが死ぬまでの争いには発展しない、できないのである

ともかく第二次世界大戦のような大規模な戦争は起こしにくい、明らかに第三次世界大戦になったら人類滅亡だということはわかっているからである
すると相互に牽制するようになる、直接の衝突はできるだけ避けるようになる
そこでなんとかバランスが保たれる
ただ大国の回りは中国の周辺国のチベットとかウィグル族とかは併合される
だから日本はそうした小国にならない、もちろん大国にはなれないがそれなりの規模の国として侵略されない国にになる必要があるとは言える

奇妙だけど高齢化が国際関係に影響してくる?
そういうことを考えなかった、でも一番これから高齢化になるのは中国なのである
そうなると戦争でもしにくくなる、高齢化が戦争の歯止になるのも奇妙だとなる
それはクルマ社会でも高齢化になると運転できないとかなり別な交通を望む人が増えてきてクルマが減退する社会になる

血の気の多い若い世代が多ければどうしても戦争でもイスラム国に参加するような日本人までいたようになる
高齢化した社会は国は戦争はしにくいのである
アメリカが日本から撤退しても中国が攻めてくるのか?脅威となるのか?
それが疑問になる、韓国でも日本より高齢化している
高齢化社会になると無茶なことはしにくいのである
高齢化が戦争のブレーキになるというのも奇妙だけどそれだけ高齢化というのは世界的な問題になっている
要するに人類はペストとか細菌で大量に死んだ、そこで人口が調節された
戦争でも死んで人口が調節されたということもある
でもそれがなくなるときと人口が増えるとまた様々な問題が生まれる

高齢化社会というとき深夜に外国人労働者が働いている現場で老人が働いているという
長生きするから先が心配で働いているという
そういう姿を若い外国人が見てどう思うのか?かわいそうだとなる
そういう若い人が激減している日本で戦争だって起こせるのか?
戦争になったら若い人が激減して働く人がいなくなるのである
それは原発事故の避難地域に起きている
若い世代が流出して働く人がいない、介護士もいないから青森に送られている
農業するにも復興するにも若い世代が流出したら復興もできないのである

少子高齢化は中国でも韓国でも日本でも深刻になってくるし日本ではすでになっている
老人大国で戦争はできない、世界でも高齢化するとき戦争できるだろうか?
何か戦争の時代は終わったのではないか?小規模の戦争はあっても第二次世界大戦のようなことが起きるだろうか?
むしろ人類は老人ばかりふえてエネルギーがなくな衰退してゆく
その結果として人口もこれからまだ増えるにしても減ってゆく
人口が産業革命で一世紀の間に爆発的に増えたからである
これは異常であり反動がありこれから人口が減らなければ地球が悲鳴をあげる
ただ人口が増えるという時高齢化で老人が増えるのである
高齢化というということはそれだけ様々に世界的にも影響するのである
人類は縄文時代なら30歳が寿命だったとか若くして死んでいた
それが世界的に寿命が延びることは今まで人類が経験していないことなのである

それで建築現場で働いてる40歳代の人が青森の施設に入れた親がいた、施設に入れたから終わりではなくその他にかかる費用があり困っているという
それに母親は70近くであり腰が悪いとかなんとか体がまともではない
それが介護になったらどうなるのか?
金もないし誰が世話するのか?生活保護も受けられない状態にある
高齢化で介護が大きな問題となる、もう老人は捨てられるかもしれない
それだけの人も金もないからである
団塊の世代が75歳以上になったとき危機がくる
もう世話できないと捨てられる、そんなときとても戦争はできない
ただナチスは戦争するために障害者を始末した
もし戦争になったら老人は邪魔だとかなり始末されるかもしれない
だから中国でも韓国でも高齢化であり戦争できるのかとなる

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2019年06月20日

土地とつながりなくなったとき人の価値はどうなるのか? (介護とかでただ金だけでできるものなのか?)


土地とつながりなくなったとき人の価値はどうなるのか?

(介護とかでただ金だけでできるものなのか?)

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   地域を守る看護(鹿島厚生病院)


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介護のために東京でも南相馬市でも施設があっても介護士不足とかで青森に送られた
それは一人だけではないのである
何かそうして故郷から離れて家族からも離れて介護される
それはどうしてかとなると地元で介護士などがいないからである
それは東京でも数が多くなるから東京でも地方の介護施設に送り問題となる
これから東京では介護しきれないから地方に送り介護してもらうとなる

でも介護される方でも介護する方でも介護となるとまた別問題である
人間を品物のように移せるものかという問題である
それは極めて現代的な問題であることに気づいた
移動が容易だとしてもそんな簡単に人間か長く住んだ所になじんだ所から移れるものかということである
それは老人になると愛着ある場所とか家族がありそこで最後を生きて死にたいということがあるだろう
そのことが原発避難者に起きた、老人が故郷に帰りたいというのはまさそうだった
それは人間としての生物の本能みたいなものだったからそうなった

そして日本人はもともと村とか狭い範囲で生きてきた長い歴史がある
それが現代になり移動が容易になり激しくなった
そういう移動する社会では価値観も相当に変わる
人間の価値観はその場所に拘束されない、金があればどこにでも住んでいいとなる
だからこそ青森で仕事がないから介護を仕事として引き受けることになる
それは距離というものも関係なくなり金だけでめんどうみてくれとなる

でも介護となるとまたこれは他のものとはただ物をやりとりするのとは物を運ぶのとは違うのである、モノだけだったら地球の裏側から運んできても問題はない
でも人間が移動してきたら必ず様々な問題が生まれる
それが外国人労働者が日本に入ってくることでそうなった
相手は人間でありモノではないからだ
それは日本国内でも言えたことなのである

現代の価値観はその場所とか関係なくなる、移動が容易であり金があればどんなサービスでも受け入れられるともなる
それで東京の人は金をもっているから地方都市に福祉サービスがいい都市に移住する
そこなら手厚い介護が受けられるとか思うからである
でも介護となるとまたモノのやりとりとは違ったものになる
金がやるから地方で手厚く介護してくれとなりでは地元の人がそうして全く知らない人に手厚い介護ができるものだろうか?

もともと東京とかに生活して東京に貢献していたとするならそこで介護されるのがいいとなる、要するに人間の一生はやはりどこかに愛着が生まれてそこで死にたいとなるだろうまた人でもそうだろう、いろいろな人があっても一般的に長く生活を共にした人のもとで死にたいともなる、全然知らない人たちの中で介護されるとうのも何か不自然なのである別にそこに親切な人たちがいれば地元だからとしていい人ばかりではないことは知っている、だからそんなことに今はこだわる必要がないということもある
地元だから故郷だからいいとはならないからである

ただ一般的問題として現代とは広域社会でありグロ−バル化社会である
そういうことで問題が起きる、東京に原発を作れというときなぜ福島とか地方に東電は原発を作ったのか?それも広域化社会になっている問題である
福島の双葉とか大熊は出稼ぎ者が多く地元で仕事があればいいとして原発を誘致したからである、それで確かに地元に金になる働き場が生まれて潤ったとなる
それと何か介護でもにているのだ
青森は仕事がない、それで金になるために遠くてもそうして介護する人を引き受けるとなるからだ

現代はその土地土地で生きる価値を作らない社会である
その土地に長く生きてきたからと言ってその人に価値があるともならない
ただ金をどれだけ多く稼いだかで価値が決まるとなる
だから東京辺りで株でもうけたとかして億の金があるから地方で手厚い介護しろとかなるなにかすべてが金で価値が計られることがおかしいのである
すべての価値が金で決められるのか?
その人の価値がすべて金で決められるのか?

村のような所で生きてきたら何かその村の中でどういう役割を果たした人かなど狭い範囲だとみる、それでその人の価値をみる、それは金だけではない価値観が働く
でも金だけをもってきて手厚い介護しろというとき何かそれをすんなり受け入れられるだろか?
それはグロ−バル化社会でも起きていて世界がただ金だけすべての価値を計る
そういうことはできない、国々にはそれぞれの文化があり文化をすべて金で価値を計ることはできない、金で買うこともできない、その文化とはその国の風土があり長いその土地の歴史があって形成されてきたからである
だから原発避難地区ではそうした歴史を奪われたとなりアイディンティティを失った
それは金で補償できないものだったのである
そういうことは意外と意識しない、精神的なものだからであり金で買ったり売ったりするものではないからである

とにかく現代は広域社会でとかグロ−バル化で矛盾が起きる
それは人間の価値はすべて金で計れないからである
金にならないものはすべて価値ないものとはできないのである
都会だと自然がない、景観がない、索漠としている
でも景観自体に価値あるともみない、森より木材が金になるとして伐採してはげ山にするそれは地方でもグロ−バル化するとき熱帯の森でも失われたからである
そこに生きるものにとっては金が入っても森を失われることが精神的な喪失感を生む
それは原発事故でも起きたのである、自然が放射性物質に汚染されたからである

広域化社会というというとき距離は関係ないとかどこに生活しようが金さえあればすべてまかなえる、介護を受けたければ福祉サービスがいい都市でも地域でも移ればいいとなるしかしそれを受け入れる方ではどうなるのか?
別に金が入ればいいとなるのか?なぜこの人に尽くさねばならないのかという問題も起きる
もし地元だったら地元に生きて働いて貢献した人だとなればそこに介護する人の動機が生まれる、家族が介護すれば一番いいようにである
グロ−バル社会を批判して来たけど何か最後に老人になってそういう社会がいいものだったのか介護とかで問われているともなる
ただ地元にしても何かトラック運転手が多い、それは現代は運ぶ仕事が多いということなのである、それは広域社会だからそうなっているのである
だからみんな地元だけで仕事している人は少ないのである

現代は何かそうして広域社会化でもグロ−バル化社会でも矛盾がでている
それはどうして人間の価値が生まれているのか?
その土地に尽くして生きたならその土地の人に世話になり死ぬというのが自然になる
もちろん尽くすとか貢献するとかではなくても人間の心情としてその土地と一体化するということがある
金さえあればどこに住むのも勝手だとか金があればすべて解決するとかには人間にはならないのである
人間はモノではないからAからBへと簡単に移れない、住めないなのである
Aを中心に価値を作って来た人がBへ移って価値観を作ってゆくことはむずかしい
そうしして移動すれば人も環境も自然も生活も変わるからである 

ただ都会になると東京とかるなとそうした土地とは関係ない、みんなよそ者の集まりだからである、それが田舎に住む者との大きな違いである
都会では点々と都会内でも移住するからである、ただ家を建てるとやはり移住しにくくなる、そこに定着するようになるからである
でも都会の人と田舎の人の感覚はその辺が相当に違っている
何かおかしいなというとき現代はあまりにも金で割り切る、すべてを金で価値を計っているからそうなる、そこに一番の問題がある
人間は金で計れない価値が相当ありそれを無視して生きることはできないのである
もし無視するともう人間として生きていけないとまでなる
それがグロ−バル化社会の深刻な問題なのだけど金一辺倒の価値観しかなくなっている
そこに大きな歪(ひずみ)が生まれているのである

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2019年06月15日

13万プラス2万くらいが一人の老後で暮らせる (それがもらえないのが現実ー百年安心などありえなかった)


13万プラス2万くらいが一人の老後で暮らせる

(それがもらえないのが現実ー百年安心などありえなかった)


老後の金の計算はむずかしい、第一人生百年といってもいつ死ぬかわからない、それでいくら金をためても貯金があってもたりなくなることもある
だからつぐつぐ年金は老後にとって大事だなともらってみてわかった
年金の強みはし死ぬまでもらえることである、百年生きてももらえるのである
だから払う方にすると額が大きくなる
そういうふうに払う方が損する仕組みなのが年金なことがわかったしだからこそ政府でそれをつづけられなくなったことがわかる
若い人が今の65歳以上の人に払うのでありそれが若い人は将来もらえなくなるから損だとなる、世代間の差が大きいからそうなる
団塊世代は逃げ切りの世代というのもそうである
そして何よりも日本の経済が衰退してゆくし少子高齢化で働き手も減ってゆくから余計に年金を維持することや医療でも維持することがむずかしくなる

ただ老後の生活費がいくらかかるか、最低限になると使ってわかたっことは13万プラス2万くらいである、すると生活保護でもらえる13万がその金になっていた
でも実際は国民年金でもそれだけはもらえないから問題なのである
だから生活保護の方がいいとなる、でも生活保護は簡単にもらえない
例えば国民年金、4,5万しかもらてっていない人も結構多いのである
そういう人は生活保護をもらえないのである
ただ医療費が無料となることがありそういうこともある
何か生活保護を簡単にもらえると思っているが地方ではもらえないし福祉では地方で差がある、老後は医療費がかかる人が多いからそこは無料になるだけで楽になる

何か2000万はたりなくなるから貯金しておけというがそれは厚生年金と国民年金では差が大すぎるのである、厚生年金で夫婦で25万くらいもらっていれば十分のような気がする、一人暮らしで13万だからである、ただ実際はその他の物はレジャーの費用とか家の修繕とか交際費とかはかからないとして13万だともなる
だから確実に貯金は必要なのである
でも2000万の貯金は若い世代では今は苦しいとなる
なぜなら団塊の世代とかその後でも退職金が貯金すると倍になっていたのである
だからこれは大きかった、今は地銀に貯金すると投資信託などをすすめられて必ず損してかえって利子をとられる、なぜなら地銀などはもう金を貸してもうける先がなくなっているからだ、投資信託は銀行にとって確実に手数料がはいる利子が得られるもので損することは絶対にない商品なのである、それは証券会社とか銀行のために作られた商品である
正直よほどの知識がなければもうからない商品である
だから2000万得るために投資しろというのは本当に政府は何を考えているのか無責任だとなる

厚生年金をもらっている人は贅沢しなければ一応生活は成り立つが国民年金の人は絶対に生活すらできない状態に追い込まれる、そういう人を知っているである
老人はみんな金をもっているというすうに見るが現実は老人にも格差がありみんながそうではない、ギリギリの人も多いのである
そして金だけでは介護でもなんでもどうにもならないことがある
もし家族に人手あればなんとかしのげるがない人は悲惨なものとなる
いくら金があっても手厚い介護は望めないからである
だからすべて老後は金でなんとかなるとはならない、老後自体の生活でも文化的な面でもそうである、金があっても豊かな老後になるとは限らないからである

ただ正直未来はわからない、計算できないのである
例えばこれから10年生きるのか20年生きるのかもわからない
10年だったら半分ですむが20年だったらその倍の費用がかかる
そして私も金の計算をしょっちゅうしているが計算しきれない
それはこれからどのくらい生きるかわからないからである
そして不思議なのは一ケ月いくらかかるとか計算する
それで節約して一か月15万とするのだがこれを5日10日とか延長するとその分が節約できる、

150000÷30日=5000円

一日の費用が5000円かかる、でも15万円内で5日延ばすと一か月で2万5千円の節約となりそれが一年になると12か月かける25000円となり30万となる
                                                      
5×5000×12=300000円

これが10日延ばすと

5000×10×12=600000となる

一か月の費用を5日分を延ばすだけで一年に二か月分の節約になる
10日分だとその倍になる
一年分で計算するとこれだけ節約することが不思議だったし本当にこうなるのかと今でも理解できないところがある

つまり金の量ではない、日にちで計算しているからわかりにくくなるのである
それが納得いかない、間違っているのかと思うのはやはりそもそも日にちで金の計算しているから納得できなくなる
それだけ未来を計算することが何かわかりくいものとなっていたのである
でも一日の費用が5000円として計算に間違いがあると思えないのである

人間はつくづく金でも近い将来でもなおさら長い未来となると計算できないようにできている
なぜなら必ず不測の自体が起きるからである、計算し得ないことが長い人生で起きる
この辺で起きた津波とか原発事故がそうだった、完全にこれで計算が狂ってしまったからである、そういうことが起きるからこれから若い人が30年後にどうなるかなど計算できないのである、実際60になっても70になっても将来は計算できない

人生はそもそも計算できない、何が将来起きるかわからないからである
一寸先は闇だというのもそうであり世界情勢だって計算できない、必ず不測の自体が起きる、いくら貯金していてもそれも価値がなくなることもある
常にあらゆる価値が変動しているからである
正直未来に備えることもできないのが人間なのである
一億円貯金しても安心はないのである
人間は生きている限り安心が得られない存在なのである
だからあらゆることに備えることは老後でも無理だとなる
だから貯金しても年金を収めても無駄だというのではない、それですべて安心とはならないということである
百年安心などありえないことだったのである

ただ逆に何か長い時間の中で逆転が起きてくるのも人間社会である
10年前ですら中国があんなふうに発展するとは思わなったろう
それがみるみる日本を技術的にもぬいて先進国化していたのである
そういう逆転現象が人生でも個々人でも日本でも起きてくるかもしれないからだ
高いものが低くされ低いものが高くされるのがこの世である
それを操っているのは人間ではない、神だとなってしまうからである
いくら金があっても老後は病気になったら終わりである
寝たきり何なったら何もできない、ただ天井を見ているだけになる
金があっても何もできないとなるからだ
そういうリスクも老後は増えるからだ

それで認知症になったら最悪である、銀行から金を下ろせないとか看護婦だったのに病院に行ってもそこが病院だとわからないとか本当に最悪だった
金は何の役にたたなくなったのである、金をもっていても銀行から金を下ろせないのだから金は何の役にもたたなかったからだ
こんなことまで老後に起きるから金があるだけでも安心などないのである
ある人5歳で子供と離れて暮らしていたが金持ちの後妻に入っていい暮らしをしていた
でも認知症になり世話する人がいずその娘に頼った
でもその娘は異常人格者でありその人を母親だとは思っていない
ただ金をもっているから施設に入れているだけである
それも悲惨だとつくづく思った、認知症になったらこうして最悪になるから怖いのであるそれもこれかち800百万人もなる恐怖である、その時金があってもどうにもならないのである

人間にはそういう極端な逆転現象も起きてくる、だから大きくは国家でもその未来は神がにぎっているともなる、神のみが未来を知っているともなる
人間は十年先でも何が起こるからわからないからである、ましてや20年とか30年とかいろいろいうけどそれだってわからないのである、あくまでも予測だからである
ましてや100年後の未来などどうなっているから誰もわからないのである
そこに人間の限界がある

posted by 老鶯 at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療−老人問題

2019年06月12日

松坂市の正論おじさん”看板撤去は「お年寄りのため」 (高齢化社会で生きがいが喪失する問題も深刻)


松坂市の正論おじさん”看板撤去は「お年寄りのため」

(高齢化社会で生きがいが喪失する問題も深刻)

一切妥協せず三重・松阪市の商店街ののぼりを撤去していく89歳の男性、男性は旧満州生まれの89歳、貧しい中、戦後の復興を支えた自負があるという。

我々の時代は高齢者を尊重する心を持っているが、高齢者を尊重する心がないと話す


これも看板撤去だけの問題ではない老人問題なのだろう
この人は法務省に勤めていて法律の仕事をしていたこととも関係していた
それで今までしていた法律の仕事を役立てようとした

それはなぜか?

家にこもっているだけで法律の仕事も何もない、役立てることができない
それで法律を盾にして商店街にケチつけるようになった
つまり老人が尊敬されないというとき老人の用がない、居場所がないことなのである
でもこの人は夫婦で暮らしているから一人暮らしとは違う
一人暮らしだとさらにいろいろな問題が起きてくる
とにかく老人が増えてくるからこのような問題は増えるばかりだとなる

要するに私は法律に詳しいんだということを仕事してきたから言いたいのかとなる
それも迷惑なのだけどこれは社会全般で老人が増えすぎて用亡き者となっているからである、89歳となったら用もなにもないと思うがそれだけ長生きの時代だからこれからこういうこともありうるのである
それだけ老後の時間が長く暇をもてあます老人が増えるのである
だから金の問題もあるけどそれだけ長い老後をどうすごすのかも問題なのである

そして怖いのは仕事がない社会に用がない、家族でも夫婦でも夫が退職する邪魔者扱いにされる、でも今の社会は一旦退職するとまず今までの仕事を活かすことができない
駅が無人駅になったので私はボランティアで案内とかしたけどJRの駅長からにらまれて排除されることしかなかった
お前はそこで何しているんだとかなり警察が駆けつけて職務質問したりされたし誰も認めないから案内はやめた、ただ時々駅にきて話したりしてはいる
つまりボランティアというのは他でも正規に仕事している人たちにとって邪魔者扱いされているのである
たまたま無人駅になったから私は案内をするようになったが受け入れられない
今は高校生の見守り役が朝と2時半からいるからやめた

とにかく高齢化社会で老人ばかり増える、そこで様々な問題が生じる
老人だけではない、不満な人は執拗なクレーマーにもなる
その女性は田舎の最底辺だから執拗にスーパーとか他でもクレーマーになっている
それは店に行ってももともと貧乏だからまともに相手にもされないことにもある
田舎では何か底辺だと目立つなのである、田舎ではかえって資産とかないと暮らしにくいのである、そしてその人のことを知っているから地位とか資産とか何か役割がある人は暮らしやすいとなる、序列化されやすいからである
田舎でわかるのは市営住宅に住んでいる人たちは底辺なのである
そこには生活保護者が多いのでわかる

高齢化社会の問題は社会で無用化された人が膨大にいるという社会なのである
それで怖いのはそうして家族でも社会でも用なくなった人がぼけっとしていると認知症になり安いのである、そこで生きがいもなにもなくなるからだ
私の家族の一人は公務員だったけど早い時期にやめてから何もしていない、家事もなにもしない、やる人がいたから何もしない、そのうち認知症になったのである
認知症になった原因が後からわかったが何も用がなくなったことが大きな要因だったことは間違いないのである
そして認知症が800万人もなるというときこれは恐怖である
その介護のために社会自体疲弊して国力まで減退するとまでなるからだ

老人が尊敬されるべきだと言ってもこれだけ多ければ価値がないのである
そして法務所に勤めていたからとしてその仕事を継続して活かす場がないのである
昔の村の長老のような人なら村の掟(おきて)守る人として尊重されたかもしれないが
会社というか国家公務員でも一旦退職すると用なくされるのが現代社会なのである

だから私自身も駅のボランティアで経験したのでこのことが理解できる
おそらくこの老人は善意でしているつもりなのである
そして家では夫婦でいても妻に疎んじられる、何の用もないとなる
例えば仕事でも法律の仕事しても社会で活かされることはない
街に出ても何か尊敬されるわけでもない、ただの用なきありふれた老人であり無用の人にすぎないのである
でも客になればそれなりに受け入れられる、ただそういうこともなかったのか?
商店街を利用していなかったのかもしれない、今は商店街を利用しない
それでそんなところで店が潰れたという時、もともと客が少ないからそうなったと言う人もネットにいた

そして車社会になったことが商店街をさびれさせたのである
商店街にきてケチつける老人がいるということで商店街が目立ったが普通は目立たない
シャッター通りになっているのが多い
それも時代である、老人が運転することで交通事故が話題になっているのもそうである
高齢化社会はこれだけ老人が増えると当然様々な問題が起きてくるのである
現代社会は老人には合わない社会なのである
膨大な老人が無用となるだけではない邪魔者扱いされる社会である
だから若い人は老人は始末しろとまでなる、社会の害悪だとなってしまう
ただ東京の商店街でも老人が集まる食堂で繁盛したりと老人相手の商売も生れるのも高齢化社会である
でも商品でも老人用のものが作られていない、商品化されないのである

私は老人になってかえっていい面がでてきた、何かいろいろなことを深く理解できるのである、本でも今までただ買って積読だったが読み返してみるそれを自分なり解釈できるのである、これは何か不思議である、人間は老人にならないと理解できないことが相当あると思った、これは老人の強みとしてある
本でも一読して要旨がわかり評論もできる、それでアマゾンで1000円以下の本を買い集めているのである、それは読むだけではない、評論してアウトプットするためである
それがインタ−ネットでありプログになっているのだ
何か文章を書くということは理解を深めることである
文章にすることによってそれが何か形あるものとして現れるという感じになる
私は何か書くことは文章にすることは得意である、しゃべることはだめである
それでこうしてプログで書きつづけているのである
それも無料だからまた即座に反応できるから書いているのである
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2019年05月23日

施設で老人が若い介護士に殺される (介護は動機がないとできない、老人の虐待日常的に起きている)


施設で老人が若い介護士に殺される

(介護は動機がないとできない、老人の虐待日常的に起きている)


 勤務先の有料老人ホーム「サニーライフ北品川」(東京都品川区)で入所者の男性(82)を暴行して殺害したとして、警視庁は22日、元介護職員の根本智紀容疑者(28)=東京都新宿区北新宿4丁目=を殺人容疑で逮捕し、発表した


このサニーライフは月の料金が23万とかそれなりにいい施設なのかもしれない
東京だと高くなる、ただ必ずその他にもいろいろ料金がかかり要求される
だから本当は25万くらいになっているかもしれない

なぜこの介護職員が殺人までにいたったのか?

それが知りたいとなる、なにかこういう事件はこれから増えてくる
認知症の介護だったのか?何が原因でそうなったのか?

介護問題はこれからさらに深刻になる、知っている人も非正規の建築現場で働いているのに親が施設に入った
それもこの辺の近くでは立派な施設があっても介護する人がいないから青森の施設に送られた、この辺では青森に多く送られているのである
つまり介護する人がいないのである 
そして施設に入れば後はみんなやってくれるというがその非正規の息子は施設から別途に金を要求されて払っているのである
つまり施設に入れたからといってそれで終わりではないのである
その人は金持ちではないから最低辺の施設に入れた、それで青森に送られた
青森は仕事がないのでそういう人を受け入れていたのである

介護する人がいないというとき介護の仕事が過酷だからそうなっている
誰もやりたくない、家族でもやりたくない、それで金がある人は施設に入れる
でもそこが介護される人にとっていい場所とかなるとはならない

介護の問題は何かエネルギーが奪われる、肉体的にも精神的にも奪われる
そういう仕事に若い人がつくのは何の生産的なことがないともなる
自分自身10年かしてもう肉体的精神的にエネルギーが奪われた
ただ私の場合は特別親に世話になったから自然と介護を懸命にしたのである
そういう動機が特別あったからである
だから認知症になっても懸命になってしていたのである

では介護施設では若者がそんな動機などないとしたらどうなるのか?
貴重な青春時代のエネルギーを奪われるだけだともなる
ただ別に若者の仕事でも最底辺で非正規で辛い仕事をしている人はいくらでもいる
自分も最底辺の肉体労働をしていたからである
ただそれも一時的でありそれ以後一切仕事はしていない、後は旅していただけだとなる
つまりそういう仕事でも一時的なら救われるのである
それが若い時長くつづきさらにその仕事で何かスキルがつくとか生きがいになればいいがならないとしたら誰もしたくないのである

何か自分は30頃だったとか親戚の人が叔父にあたる人が手術をするので輸血してくれとか頼まれたが断った
その時山登りして非常に疲れてしなかった、つまり自分のしたいことをして老人のために病人のために何もしなかったとなる
このように今なら介護とか病人の世話より若いなら遊びたいとなる
そういう時代であり介護とかなると誰もしたくないのである
自分が家族の介護をしたのは若い時ではない、60以降だったからである
それは特別世話になったから自然と介護に懸命にれたのである
もし若い時そんなことを強いられたら親を恨んだともなるからだ

山登りでも今になると体力がないからできない、すでに40頃から自分は登山をやめた
体力がないのでやめた、それで自転車旅行に切り替えたのである
自転車旅行も若い時はできないとと思っていた、でも実際は40過ぎても自転車旅行はできた、なぜなら疲れれば休めばいいからである
そうして私は旅ばかりしていたとなる
そのプラスマイナスはあった、仕事をしない人間は会社のことを知らない人間は何か欠けたものになる、それで介護では苦労したのである
介護では社会とかかわるからである、それでニートは親に頼っていられるときはいいが親が介護状態になりそれから死ぬと地獄になる
もし金もないとしたら最悪になる、それをプログで書いてきた
誰も同情しない助けない、弱者になった結果困窮した人たちが襲ってきたからである

いづれにしろこれからこういう事件が増える、これがどうして起きたのかわからない
原因がわかないがこういう事件が起きやすくなる
たとえ金持ちが入る施設でも起こる、かえって金持ちに若者が使われているとか不満になっているかもしれないからである
つまり介護には動機が必要だが金だけだったら手厚い介護はできないからである
それで虐待になる、非正規の底辺労働者は身寄りもなくあとは施設に入れられて虐待されて死ぬだけだと恐怖を語っている
身寄りがないとそうなりやすいので恐怖になる、そういう人を自分自身も見ている
病院でも特養に入っている人が虐待されていたからである
自分も病院に入院して虐待された
虐待は日常的にある、ただ殺人までになるとなかなかないが当然殺人までなることがありうるしこれから増えるのである、だから施設とか病院は自分自身が恐怖なのである



サニーライフの評判

ここも悪徳ブラック?

サービス残業や休日返上が当たり前の社風

入社後の離職率が高い。大量採用、大量退職を繰り返している
スタッフがやる気なくして次々と辞職

社長なんかが施設みたいな豪邸に住み、ロールスロイスポルシェベンツマイバッハとかを会社の経費として乗り回して、下は薄給そのものじゃ 
当然、下の人間は(不当な搾取に)あまりにも馬鹿馬鹿しくなり、まともな神経で働かなくなる罠 

ここの支配人の月収は25万円で、土日祝祭日出勤当たり前、残業手当はなし。 
こんなんでモチベーション維持して働いていけますか? 
支配人もそうだけれど社員は消耗品で使い捨てで、潤っているのは経営者一族を 
始めとした一部の人だけなの?これじゃ何かと世界を騒がしているどこかの国と 
変わらないんじゃないか? 

贅沢は言わねえけどそろそろ休みが欲しいよ。 
ベテランはどんどん辞めてくだろ。


やはり離職率が高いからあまりいい評判ではない、働く人が働き安い環境がないと介護はむずかしいということか


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2019年04月25日

「高齢ドライバー」の運転を止められないのか (老人でも今までしてきたことは簡単にやめられない)


「高齢ドライバー」の運転を止められないのか

(老人でも今までしてきたことは簡単にやめられない)
  

高齢者がなぜ車の運転をやめられないのか?
車社会だからやめられない、車社会用ように社会ができているからだ
もし車を運転できなくなると社会的弱者に転落する、社会から置き去りにされる
どういうわけか私は車を運転できないから自転車に乗っているから自転車の人とは話が合い仲間になりやすいのである
駅でトラック運転手だった人が足を怪我して運転できないので自転車に乗って遠くに行くその人は60代であり70なのかわからないが結構相馬市とか松川浦とか行っている
15キロとかなるとかなり遠くなる、それも電動自転車ではないのである
まずその人が車を運転していたら話もしないのである
自転車を通じて話をするようになったのである
その人が言うには車を運転できないのは何か問題があり能力的にも問題があり社会的劣等者に見られると言っていた
そういうことは確かにある、そして自転車は車に嫌われる、突然横切ったりするからである、自転車は車にとって特に目障りなのである

高齢者でも車を運転できないことは夫婦だと女性も今は普通に運転しているが運転できないと妻を乗せられないとかなり頼りにされなくなったりする
田舎では特にそうである、買い物でも街内に住んでいない人が多い、するとどうしても車が必要であり一人一台とかでももっているのだ
第一男が車をもっていないと女性だってついてこない、車に女性を乗せられることで一人前の男だと今はなっているからだ
そういうことが車社会なのである
それは江戸時代辺りだったら馬をもっているのが侍であり馬を持たないものが庶民階級だとなる、それで馬を飼うための専用の家来をもつのが侍である
そして徒町(かちまち)があるがこれは徒歩で歩く人の町だと区別されたともなる
御徒歩(おかちまち)とかがそうである、そこにも馬を持つものと持たない者の差があった、それが車社会になれば車をもたないものは足軽のようなものになる

現代で車をもたないことは実際に私自身経験している、モスバーガーは車専用だとばかり思っていた、それでそこで中が喫茶店のうよになっていて休める場所と思っていなかったのである、それは車を利用していないからそうなったのである
それも20年間くらいわからなかったのである
つまり車を持っていなものは社会のこともわからなくなる、なぜなら車社会だからであるそういうことはパソコンとかスマホとかでもそうである
情報社会でインタ−ネットをしていないものは時代に乗り遅れるのである
インタ−ネット社会になっているからインタ−ネットから情報を得たり発信しないものは遅れるのである、ただこれはまだ車社会とは違っている
車社会では社会全体で生活するのに不可欠になっている、だからこそシャッター商店街が生まれたとき駐車する場所がないということが要因でそうなった
車社会になっていることは駐車場がないことは致命的だからである

それで鹿島駅で案内などのボランティアをしていて自転車の駐輪場が前は広く両側に置くことができたのに狭くしたのである
それは車が八台駐車するためのスペースをとるためにそうしたのである
なぜなら駅には駐車する場がないからである
地元の人が駐車しているのは契約して場所を確保しているから外部の人は駐車できない
それから駅前は一時的にしか駐車できない
その八台分は商工会の観光協会に連絡して金を払うと長くとめられる
それは前々からわかっていた、鉄道を利用しなくても車で駅に来る人がいたからだ
道の駅がここにないので街の中心が駅と思い車で来る人がいたからである
駅でも車が遠くから来た人でも駐車できる場があれば駅周辺も活性化するとなる
鉄道だけでは今は活性化しないからである

いづれにしろ高齢化で車の運転をやめるという人に免許を返上したという人に何人かあった、それは80くらいの人である、男性もいたし女性もいた
そして鉄道を利用していたのである、そういう人は電車の乗り方さえわからなくなっているのである、でもそういう人か高齢化社会で増えているからこれから交通の問題が生まれる、田舎で老人でも車を利用できなくなったらどうするのかとなるからだ
そうなるとバスとか他の交通手段の整備が必要になってくるのである

老人の習性として今までしていたことを同じように続けようとする
それは自分でもそうだった、今までしていたことをやめられないのである
年寄りの冷や水というけど今までしていたことは依然としてできると思いやる
それで74歳でもバイクに乗っていた人がいた
ハーレーダビッドソンに乗っていたのである、それは双葉の人である
補償金で金が入ったから買ったのだろう
何か自分でも病気とか介護から解放されたら登山しようとか新しいザックを買ったりしたでもそれも利用していない、ビデオカメラもしていたから買ったが利用していない
ビデオカメラは格段に進歩していたから小型のものでもデジタルカメラでも良かった
10年くらいしたら技術が格段に進歩して買い物すらできない状態になっていたのである

とにかく老人は今までしてきたことやめられない、それはあらゆる面でそうなのである
肉体の快楽でもそうである、それも老人になると異常化している人がいたというのも納得する、性の快楽などでもやはり一旦味わった快楽をさらに追及しよとつづけようとするのである
つまり老人になったからと言って淡泊になったりしない、また車の運転が危険になってもやはり運転しようとする、また登山でも体力がなくなってもしようとする

それが年寄りの冷や水なのである、年取ったんだからそれ相応に隠居して楽しているということでもない、今までしてきたことを簡単にやめたり継続している生を断絶することはできないのである
だから車の運転もやめられない、死ぬまでセックスとか週刊誌であおる
それは個人差があっても人間は今までしてきたことを簡単にやめられないのである
90歳になってもやはり車の運転を使用とするし今までしていたからそうなる
第一車だと体力はいらないから老人にとって車に乗れないことは行動範囲が狭くなり視野も狭くなる、そして鉄道とかバスなどは不便であり利用できないから余計にそうなるのである

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駅前の自転車置場が車の駐車のスペースを作るために狭くさせられたのである
前は広かったのに車の駐車のために狭くさせられたのである
ただここには外からの人が長く駐車する場がないからこうさせられたのである


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2019年04月01日

なぜ南相馬市から青森の老人施設に入れられたのか? (青森は月額利用料金が全国で最低だった)


 なぜ南相馬市から青森の老人施設に入れられたのか?

 (青森は月額利用料金が全国で最低だった)

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 週刊現代2019年4月13日号
 

福島県は一か月の入居費が13万だからそれなりに高い
東北では宮城県についで高い、13万くらいが全国平均になるのか?
東京となると20万とか格別になる、入居費用も高い
最低は宮崎県だった、ここも青森と似ているし九州は10万以下であり
東北より低いのはなぜだろうとなる
北海道は12万でそれより高いからである

この図は日本全国の経済状況を反映しているとなる
青森が下から二番目で安いから今南相馬市では青森に介護される人が送られているという福島県でも南相馬市でも人手不足であり施設という建物があっても介護士とかそこで働く人が不足しているからそうなる
ではどこでめんどうみてくれるのかとなると青森が費用が安いからとなり送られている
青森はもともと仕事がない地域だったからである
九州でも福岡を除いてそういう傾向があった、福岡市とかに人口が集中しているのである

老人になるとこういうことに興味をもつ、明日は我が身とかなるからだ
でも8万とかなると安い、何か身元保証人すらなくても入れる施設があるという
そこは劣悪でもそういうのもあるのかと知る
そこでなぜ経営破たんして倒産しているのか?
それは長生きしすぎると新しく人を入れられないのでそこで収入が減るとかのためだと書いてある、これも経営するためには金のことを考慮すればそうなるのか?
そういう施設では経営が苦しいから何を使うのにも金を要求される
細かく要求されるという  

青森の施設に入った人も貧乏でありぎりぎりしか払えない、でも入って終わりかとなるとそうではない、何かその他にかかる費用があり食費でも別に払う
その金がないので息子が働いて払うという
その息子もまた苦しいのである、建築関係で働いていて給料の高い所に行っているという飯館村でまだ除染の仕事とかしてもいた、今度は宮城県の方に行くとかしている
それで家族が青森まで呼ばれて行った
その時その人は新幹線で行くとしてその金がないとかなり援助してくれとかなる
帰りはバスで帰ってこといと言った

2025年になると団塊の世代で介護される人が増大する
その時どうなるのか?みんな安い青森に送られるのか?
青森がそうした老人の引き受け場所となるのか?

ともかく施設でもなかなかそこは終の住処にはなりにくい、家族でも世話できないとかなり介護難民があふれとか認知症になった人が日本中でうろうろする時代が来るとか言われる、認知症の介護となると自分も経験したからその労力は生半可なものではない
心身ともに衰弱してしまうのである
そういう人を介護する家族は自分もそうだったが鬱病になるのである

新元号が令和になったけど何かこれもいい面もあるが令は冷たいにも通じている
老人がこれだけ増えるということはいい時代にはならない
青森が姥捨て山になるのか?そう前にも書いたが安い料金の身元保証人もいらない所はそうなる、そういう施設でも無許可でも需要があるから増えてくる
それも老人にとっては地獄かもしれない、だてから長生きしすぎるとそれも不幸になるなと予想する、でもどうしても手当したりするから長生きするのである
長生きすると施設でも新しい人を入れられず収入が得られないというのも矛盾なのである


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2019年03月29日

死者が残した物 (残された物から昔を偲ぶ詩)


死者が残した物  (残された物から昔を偲ぶ)

家には何かここに生きた者のの
記憶が隠されている
死者はもう何も語らない
その代りに残された物が語る
なぜ手鏡が二つ棚の奥から出て来たのか?
ここに住んだ女性は死んで歳月がすぎた
でもその鏡を手に取って見ていた時があった
でもその鏡にはもう顔は映らない
人は死ぬと忘れられるのが早い
死んだ後に家や物や墓が残る
なぜずいぶん死んでから月日が過ぎて
何かその人が愛用したものがひょっこり出てくる
それはなぜだろう
それは死者がその物に霊のように憑いているからなのか
だから物が憑くとなる
何か私を忘れないでねと
その物を通じて語っているのかもしれない
忘れな草は春に咲いている
その忘れな草のように忘れないでねと今は言う
でも死者を訪ねてくる人もいない
人はたちまち死ぬと忘れられる
その人がいたのかどうかすら不明にすらなる
それでも忘れないで思い出してと
家の中の奥からその人の愛用したものが出てきたりする
それでまた故人を偲ぶのである  


 

誰かの煙草入れ

山の中のなのか
どこなのか
一服して仕事を休む
この煙草入れはずいぶん使った
これをもっていた人は
ずいぶんと働いた
何かそれがこの煙草入れからにじみでている
ぷかぷかとタバコをキセルで吸う
その時一時安堵がある
一休みしたからまた働くか
そしてこの煙草入れを下げて働きはじめる
それは山の中なのか
山の中で腰をおろして吸っていたのか
何かそこに男の体臭を感じる
それはすりきれるほど使ったもの
人は死んでも何かを残す
この煙草入れでもその人の体臭が染みついている
この物に人の記憶がしみついている
だからただの物ではない
人間の残すものには心が宿る
物は物ではない、物と心は一体なのである  

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人間は何か物を残す、その物が何かを語る、この煙草入れはリサイクル店で買った、一万以上したから高かったとなる
銅製か鉄製で錆びたりして鏡として顔を映すのは結構むずかしかったとある
ここから何か江戸時代のことがイメージできる、旅するとなると明かりが必要である、火も必要である、蝋燭も必要である
そして火打石のようなものも持ち運びしていた、何かこの物から江戸時代がイメージされる
時代劇だと現実のものではない、この物は江戸時代の人が確かに使っていたものなのである
こんなふうにして旅していたのである、これらのものは結構高いもので誰ももてるものでもなかった
  
江戸時代の旅の小道具

携帯用に工夫された燭台とかもあり手鏡もあるがガラスではない、 何かこういうものを使っていたのが不思議である
真っ暗闇のなかで携帯用の蝋燭がゆらゆらと燃えてその明かりで矢立で字を書いている
その時江戸時代だから車の音もなにもしないのである、不気味なほど静かなのである
何か東京とか都会に興味がもてなくなったし人ごみの中に入るのも嫌になった
まず今は旅に向いていない、外人ばかりが多いからである、日本人がゆっくり旅できなくなったのである
それはなぜか?日本人が観光で稼ぐほかなくなった貧乏になったのである  

日本がすでに安価な旅先として選ばれているというようになった
そして日本人がのんびり旅すらできないとなったのである
それは外国の貧乏な国ではそうだったのである、観光立国などとなればそれは貧乏な国が目指すことである
カジノなどでもそうである、金持ち呼び込んで金を得る
つまり日本はすでにかなり落ちぶれた国になっているのである
そしてますますその傾向は強くなってゆく
だから観光客が何千万とか増えたからと喜んでいいものかとなる  

京都辺りでは観光客のためにバスさえ乗ることに難儀していることでもわかる
それでも観光客を来るなとは言えない、それは貧乏になったからである
白馬村でも旅館のおばちゃんが外人にまた来てくれと抱きついているのを見たらそうなる
それが嫌でも外国人観光客に媚びなければならないのである
そういう国はもう発展途上国並みになっているとも見れるのである
ともかく私は旅を60までしてきたけど何かしたくない、私はいい時代に旅したとなる
日本人がゆっくり旅できない、泊まる所もないというのはなんかがっかりする
それでも貧乏国になればそれをやめることはできないのである



posted by 老鶯 at 20:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療−老人問題

家は記憶の貯蔵庫 (何か隠れたものが出てくる)


家は記憶の貯蔵庫

(何か隠れたものが出てくる)

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家の棚の奥にあったもの



家の不思議を追求してきた、家は何かというとそれはただの寝起きするとか食事するとかだけではない、そこにはその家族の記憶が貯蔵されている場所なのである
それでいろいろなものが捨てられないという時、その物には思い出が染みついている場合があるからだ
ただそれは他人にとっては何の価値もないものとなる
別にその人にとっては便利に使うだけものだからである

よく蔵に何があるとか番組があるけど古い家だと江戸時代のものでもさらに古い物でも貯蔵してある、それは忘れられていたものである
だから蔵の機能はそうして記憶の貯蔵庫ともなっていたのである
人間は死ぬとその人間自体が消えるのだから思い出すにしてもできなくなる
遺影を見たりして思い出したりするが残された物からも思い出す、記憶するのである

歴史でも考古学がありそれは人間は骨となって消えるし骨すら残っていない
古墳が墓だとするときそこにモノが残っていてそれでその歴史をたどる
それから物語が残っていてそこからも過去をたどってゆく
それは個々人でも同じなのである、家があるときはその家が継続していればそれは生きたその家の記憶の貯蔵庫となっているのだ

物には単なる物ではなく物語がある、物語がヒストリーが歴史である
ただモノにしてもいつまでもあるわけではない、モノでもいつまでも残されない
やがては埋もれ消えてゆく、人間が死ぬと去る者は日々に疎しとなる
それは家族でもどうにもならない、この世は無常なのである
常なき世の中なのであるそれは変わっていない、死んでしまうと日にちがすぎてそんな人がいたのかとすらなる

とにかく不思議なのは死んでから何かその人の思い出になるものが家から出やすいのである、それは忘れられていたがふいと家をかたづけていると掃除していると出てきたりするそれはつまらないものであってもそこにその家の記憶が家族の記憶がその人の生の思い出が残っている
認知症になると何かつまらないものを肌身離さず持ち歩いていた
それを私の家でも経験した、戦争で生死をともにした戦友が送ってくれた手作りのバッグを宝物ののように大事にしていたのである
それは映画でも放送していたから同じだった
つまり何かつまらないものでもそこには人生の思いでがしみついているからそうなったのである

だからなかなか捨てようとしても捨てられない、それも困るのだがそうなる
家には記憶の貯蔵庫なのである、だから家がなくなると個々人とかでも家族とかでもその記憶が失われるのである
例えば老人ホームに入った老人が「家に帰りたい、帰りたい」というときその家が実はなくなっているのである、ただ家族と一緒に暮らした昔にもどりたいということなのであるつまりもうその人にとって記憶の中の家であり家族になっているのである
老人は思い出と記憶の中に生きているのである
だからなかなか断捨離とかあっても老人は物を捨てきれないのである
そのモノには人生の記憶がしみついている、それを捨てることは何か人生そのものを捨てる感じにもなるからである  

手鏡の隠され残るあわれかなその面影を映すことなし

この手鏡は何なのか?何か使ったようには見えない、ただ買っただけなのか?
そういうものもある、ただ女性ということで残していたとなる

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2019年03月18日

認知症は歯が原因でなる? (私の母は60代で総入れ歯になっても95歳まで認知症にならなかった)


認知症は歯が原因でなる?

(私の母は60代で総入れ歯になっても95歳まで認知症にならなかった)

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週刊新潮3月21日号

認知症に関する知見は信用できるのか?専門家でも信用できるのか?
ここでは入れ歯になって認知症になったというが
私の母親は60代総入れ歯になっていた
でも96歳くらいまで認知症になっていない
だから本当に歯が認知症になる原因なのか?
これも実際は実証されていないのである
それは例外だともなるが本当にそうなのか?
つまり認知症の原因がわからないからそうなっているのだ
いろいろなことを言う人が専門家でも多いとなる

例えば趣味も何もない人は頭の働きが悪くなって認知症になるとかもそうである
私の母親は趣味もなにもない、花を庭に植えると無駄だとか一切趣味もなにもない
ただ一生働きづめであり95歳くらいまで台所で仕事していたのである
その趣味もない人がなぜ認知症にならなかったのか?
それは台所で仕事を持ち役割があったということは影響している
そこで家の中で役割があったからである

一方もう一人は姉はひどい認知症になった、役所を退職して以降何もしない
台所仕事もしない、趣味をしたとしてもそれは何の才能もなくただ集まりに参加していたというだけである、もともとそういう方面の才能はなかった
看護婦だから別な方の仕事に向いていたけどそれもしなかった
そして結果的にひどい認知症になった

なぜ認知症になる人とならない人がいるのか?
ただもう90歳以上になると半分は認知症になる
だからこれは脳の老化と関係していることは確かである
95歳以上になると90パーセントはなると思うからだ

ただ認知症と歯の関係となるとそれが認知症の原因だだとはならない
確かに母は生真面目であり食べるのも良くかんでゆっくり食べていた
でも60代で総入れ歯だったのである
だからここで書いている記事には合わないのである
それで認知症に関しては専門家でもまだ解き明かされていないからいろいろなことを言う人がいる、でもそれをすべて鵜呑みにはできないのである
つまり認知症の原因は未だにわからないからそうなっているのだ

おそらくこうした記事をのせると歯医者に行く人が増える
それで歯医者がもうからかなのかともかんぐる
そうでないにしろ何か専門家の言うことを信じやすいからである
でも認知症に関しては原因がわからないのだから信じられないとなるのだ
それだけむずかしい病気だということである
だからまるで確信したように実証されたように言うのは問題である
それは認知症に関してはまだまだみんな仮説なのである
それで勝手にいろいろ言われてもそれを信じることはできない
もし妙薬が発見されたら誰でも信じるがそれができないのだから勝手にいろいろなことを言うと混乱するだけだとなるからだ

タグ:認知症と歯
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2019年02月18日

高齢化社会の商売は芥川龍之介の羅生門の世界 (老人が食い物にされまたそれに罪悪感を感じない―変わらない人間のエゴ)


高齢化社会の商売は芥川龍之介の羅生門の世界

(老人が食い物にされまたそれに罪悪感を感じない―変わらない人間のエゴ)

芥川龍之介(羅生門)

何か最近会った人は遺品整理会社の人が福島市から来たり近くでも家事手伝いとか老人の話し相手とかの家政婦斡旋の仕事をはじめた若い人がいる
銀行では金をもっている老人に必ず手数料でももうける投資信託を売りつける
もともと介護でも老人が増えてそのサービスが増えていた
地方ではそういう仕事が増えていた、若い人がそういう所で職を見つけていた
第一私の駅前が葬儀屋になっていることでもわかる
そこはもともと農協のスーパーだったことがある、それが葬儀屋になった
そさは死ぬ人が増えてゆくから商売になるからである

それが芥川龍之介の羅生門ににていると思った
羅生門には次々に死体が運ばれる、火葬にもされない、死体が捨てられる場所になっていた、そこで死人から髪の毛をぬいている老婆がいた
それで鬘を作るためだった、それを見ていた通りがかりの人がそれを見て嫌悪した
その老婆の言い訳はこの死人たちはあくどいことをしていた人たちだからかまわないと言ってしていた
そしたら通りがかりの人にその老婆の着ているものをはがされて裸にされた
こういう人間の醜い姿を芋粥とか蜘蛛の糸とかで小説にした
それを今になりなるほどと理解した

その描写はまさに現代の高齢化社会を表現していたのである
次々に死体が運ばれるという時まさに団塊の世代がそうなってゆく
それは自分でもそうである、そこで老人向きの商売が増えるのである
つまり人間の醜さは死体からも金目になるものでも役にたつものでもはぎとるのである
そういう輩が普通であり人間は生きている時からそうなのである

自治体が運営する火葬場からでる仏さんの残骨灰を、廃棄物業者の間で奪い合いになっています。この灰のなかには、人骨などと同時に金、銀、プラチナなどの貴金属も交じっているからです。

少し前まで、これらよごれビジネスは、金にはなるけれど多くが手を出さない嫌われるビジネスでした。それが、今では脚光を浴びるビジネスへと姿を変えています。

大きな目でみますと、現在のわが国は過去にため込んだ資金や資産などを、掘り返すビジネスが脚光を浴びています。想像している以上に、この国のパイは小さくなっている気がします。


このようにまさに羅生門と同じなのである、ナチスでもガス室で殺された人たちから死体から金歯をとったということがあるから世界でも共通している
人間の欲は世界共通なのである、宗教が違っても同じである
キリスト教徒がみんな聖人でもなんでもない、欲深い人たちだからカトリックでは免罪符などを売りつけたのもそのためである
つまり死者でも金儲けになる、それは一見供養しているようでも仏教でも日本では戒名商売とかある、それは免罪符ともにているのである
そんなことで何か成仏するわけでもないからだ

そもそも人間はどう人間を見ているのか?
人間にとって他者は何なのか?
他者は金でしかないのである、またその人をどうみているかというとただその人はどうでもいい、その人のもっている金と財産だけを見ているのである
その価値はわかるがその人が芸術家だとしてもそれを理解しないものには絵でも何の価値もないからである、その人の持っている価値が万人にわかるのは金であり財産である
家とか土地でも目をつけている、そういう自分もそうだから羅生門の老婆と同じなのである 

老婆に髪の毛をぬかれた人たちもあくどい人たちでありそうされたもかまわないとかなるその老婆もまたそういっていたが身ぐるみはがれて裸にされた
「蜘蛛の糸」でも人を蹴落としてでも自分だけは助かろうと地獄から這い上がろうとしていた、つまり人間とはそういう醜いものだということを描写した作品なのである
それはシューペンハウエルの人間の醜さを哲学的に解説した生きんとする意志と認識する幸福を説いたのと同じである
人間の欲、エゴはこのように隠されているかそれを生々しく赤裸々にするときこうなる
現実そういう私も世界を経験した 

金にむらがるだけであり自分自身が介護と病気で苦しんでいても関係ないのである
それは相手もまた金に追い詰められているから余計にそうなったのである
人間は人間の真実を見るべきである
それは自らも欲があり他者とは金と財産とからしか見ていないのだ
それがまず地獄を作りだすのである
人間はハエエナともにている、死体に群がるのである、金と財産に群がるのである
その醜さを嫌というほど今になって体験したのである
それでこの小説を理解したのである
この世はまさにこうした人間の欲の醜さが現れた地獄なのである
国と国の争いでも美名があるにしてもやはり利益が関係している
食うか食われるかとなる弱肉強食の世界での闘争だったともなる

人間は仮面をかぶっている動物と変わりないのである、それも善人のように見させるから偽善になるから悪質なのである、一皮むけば欲は共通にあり否定できない
そこに地獄が生まれるのである、だから死人から金目のものもをはぐということは戦国時代でも行われていた
死人などはどうでもいい、金目のもの残された髪の毛であれ金歯とかダイヤモンドとか金目のものにこそ価値があるということを如実に表現したのである
それは今の現実社会と同じであり人間の様相は時代が変わっても変わらないのである
こんなに科学が技術が発達した社会でも変わらないのである
そもそも高齢化社会で老人は早く死ねと毎日のように若い人が叫んでいる
老人の金は欲しいが財産は欲しいが早く死んでくれということである
それはあまりにも多すぎるからそうなるのである

そして人間のはかない欲を描写したのが「芋粥」である、食い意地というのもなくならない、それもなにか母がある仙台の有名な最中を食べてみたいといったときそうだった
そういう欲は誰にでもある、それも何かはかないものとして小説にしたのである
人間の欲というのはそれだけ別に古代からでも変わらないのである
そこでこの社会でもこれだけ科学技術社会になっても変わらない
その科学技術を利用して欲を満たそうとすることに変わったともなる

人間の欲とエゴは人間である限り消えないからである
この欲とエゴが消滅したとき天国が来るともなる、現実にはそうはならないのである
だから人間社会はイデオロギーがなんであれ変わることはない
資本主義だろうが社会主義だろうが変わらないことを証明された
ただ自らの欲を達成することになり極一部の人がその富を独占するのはそのためである
もし人間にそんなに欲がないなら分けているはずだからである
そして若い人たちを見ていると同じことの繰り返しをしている
同じような犯罪を犯している、ただ手口が変わったとかにすぎない
やはり欲があるからそういう問題が同じように起きているのである


結局芥川龍之介が何か人間のこうした欲とエゴに絶望して自殺したのかとなる
このことを私も身をもって経験した、こんなに人間は醜いものなのか?
ただ人間は実は他者は死体であり何も見えない、見えているのはその人が身につけている金目のものでありそれ以外ないのである
それは普通のことである、自分だって他者は何だろうとというときそういう眼で見る
つまり人間とは動物と変わりないのである
ただ動物の欲は単純だけど腹が満たされればいいのだが人間の欲は複雑だからこのように赤裸々に見えないだけなのである
善人のようにすら見えるからである、でも善人も一皮むけば同じ欲の塊りであるという話なのである

そもそも老人は見栄えも良くないから愛しずらい、なんでこいつ生きているんだという嫌悪感を普通にもつ、小説では具体的に死体だから悪臭を放っているからそっとするものとなるが老人だってもう死にかけると死体のようにすら見えるからもしれないからだ
親なら別だがとても他人である老人を愛すことはむずかしいと思う
ただ介護する人でも金をもらえるから仕方なくしているというのが多いだろう
それを批判はできない、それはみんな同じだからである
ただ人間はみんなこうして醜いものだということを知れば体験すればこの世は地獄に生きているということもわかる、だからこの世にいたくない去ること死ぬことがかえっていいことにもなるのである 

この世の地獄にしがみついていること自体異常だともなってしまうからである
ただこの世には地獄があってもやはり天国を連想されるものがある
それは自然の美とかでありそれは天国をイメージさせるものであり救いなのである
ただ人間はその美の世界に住むのにふさわしくないとなるのである
たからこそこの世の欲は滅びるというとき世界は神によって滅ぼされるというとき欲が滅ぼされるのである、人間の欲は限りないからである
それを露骨にしたのが中国の歴史でもあった、それはあまりにも凄まじいものとしてあった、ただ世界共通として人間のは変わりないから同じことを繰り返しているのである

ただこうした商売は別に需要があるから成り立つのでありそれがこうした小説の世界のことではない、人間一般の醜さを表現したものである
だからここは誤解しないようにしてもらいたい、それはそれなりの仕事であり需要があるからである
でもなんか灰になったあとから金目の金属類を取り出すというとき気持ち悪いとはなるかもしれない
そこに死者の霊がついていたりする、何か人が身に着けていたものとか人が住んでいた家には人の霊がまたついているとかなる
だから何か気持ち悪くならないのかともなる、でせそれよりも利益が優先するということなのであるそれが人間社会なのである

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2019年02月09日

精神的に体でも障害者と化す老人 (一人暮らしになって起きた悲惨な実例)


精神的に体でも障害者と化す老人

(一人暮らしになって起きた悲惨な実例)

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週刊現代2月16日号

Cさんの代わりに買い物したり、ディサ―ビスに向かう際に手助けしてくれるなど何かと身の回りを世話してくれていた知人に、お金を持ち逃げされた
Cさんはその人を信頼して、部屋の鍵を渡していたほどだったのですが全部で3000万円ほど金を盗まれてしまったのです
その結果体調を崩し入院した
(長寿大国日本と下流老人ー森太)

●精神の知的弱者化(認知症などの増加)

●体力の弱体化病気化

●絆が壊れる弱体化(一人暮らしの増加)

このように老人は弱体化する原因がある、これに金のあるなしでも弱体化する
何かしら夫婦でもどちらかが死んだりすると途端に弱者化して支えるものがなくなり弱体化する
弱体化すると非情な競争社会の中で援助がなくなる、かえってその弱者化したことにつけこまれる
そういう経験を自分がしてきた、ただそうしてつけこんできた相手もまた借金とか金のないことで追い詰められていた弱者化した人たちだったのである
そこで弱者同士のぎりぎりのせめぎ合いとなる
でも病気になったりしたらもう弱者は言いなりになってしまうしどうにもならない
だから3000万も盗まれたがその犯人もわからなくなる

なんらか寄ってくる人も困窮しているからそうなる
金に余裕がないからそうなる、そして金に余裕がある人は寄ってこないしヘルパーとか介護とか嫌な仕事はしないのである
金持ちの人がそんな仕事をしない、何か金に追い詰められて困っている人が嫌な仕事でもするのである
だから家に入ってくる人は危険になる
この人は妻が死んで家族の絆が失われて一人暮らしになってどん底に落ちたのである
夫婦でもどちらかが死ぬと介護になったり追い詰められるのである

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週刊現代2月16日号

こんなこともあったのか、ヤクルトを配達する人は定期的に来るから頼んだとなる
老人で70くらいで目が悪くなる人が多い、その人は80歳で白内障の手術を受けた
今も仙台に通ってもう片目を手術する、仙台にはいい医者がいるからだ
糖尿病の食事療法をしているので手術も危険なので仙台の医者に通っている
もう一人の女性も目が悪く視力が衰えて細かい字が見えない老眼なのである
そんな人が来ても実際は役にたたない、仕事にならないのだ
助けにもならない、こっちが助けているだけなのである
他にも緑内障の女性も知っている、何かしら60以降は病気になる人が多いのである

そして一人暮らしにてる人も多い
その一人暮らしが危険なのである、一人暮らしになると頼る人がいない
そこで非情化した社会ではそういう弱者は餌食になりやすいのである
動物でも弱ったものが襲われ食べられるのとにている
つまり弱者化すると襲い安いからである
それは人間ても同じなのである

老人になって目が見えなくなるのと元から目が見えない人には相当差がある
老人になって目が見えなくなるとそういう暮らしをしていないからもう一人でも生活はできない状態だがその人は3年も一人で生活していたのである
それは相当に過酷だったとなる

一人暮らしは金があっても一旦こうして病気になったりすると弱者化して非情化社会の餌食になりやすい、それは自分もそうだったからそのことを延々と書いてきた
一切同情はない、ただ金が欲しいというだけである
それはもう現代社会は相手を金にしか見えなくなっている
そして貧困化しているから金だけを目当てに近づいてくるだけになる
そこで弱者は食い物にされるのである

これから一人暮らしの人は増えてくる、夫婦であっても一方が病気になると介護になったりすると弱者化する、そしてどちらかが死ぬと一人暮らしになりこういう危険な状態になる
そういう人は別に子供がいても頼れないとかも増えている、子供自体が生活が楽でないからそうなる
だから高齢化社会とはとても今やぎりぎり生活している人も多い、下流老人が本当に多い第一4,5万くらいしか年金をもらえない人も結構いるからだ
それでぎりぎりになっているのだ

この高齢化は日本だけの問題ではない、中国が一番深刻化してくる、数が多いし日本のような福祉もないのに急激に膨大な数が高齢化してゆく
現実に老人の自殺が増えている、儒教の国でも子供は親を敬わないとか大家族制がなくなりめんどうみれないとなっている、これは世界で共通した問題なのである
長寿でもこうして何かのきっかけで長生きが地獄と化してゆく
それは自分が体験したことであり恐怖だとなる、特に一人暮らしで身寄りがないとかなると夫婦でも一方が死んだりするとこのように悲惨な状態になる
ただどうしても老人は病気になりやすいからそうなる確率が高くなるのだ

そして知的な面でも認知症になると銀行から金が下せないとか全くの知的障害者になり悲惨なことになる、その時いくら金あってもその金を狙われるだけでありどうにもならなくなる
その時も同情は他人はしないのである
そして認知症にならなくても何か時代についていけなくなる、知的にもいろいろ書類でも銀行のことでもわかりにくくなるのだ
投資信託などすすめられたばあちゃんが一千万損しても銀行員を信じていたように古い時代の固定観念があり支配されて時代についていけなくなる

それは自分でもそうして失敗した、地銀は昔のように信頼できるものだと思っていたからである、そういうものでも常に変わっているからついていけなくなるのだ
ただ知的な面ではこれまで学んだものが実ることはある
それはその特定の分野のことでありあらゆる分野に通じることはできない
だから銀行で投資信託などすすめられただまされやすいのである
毎月分配型は利子が毎月入るのかと錯覚していたからである
それは元金から引かれていたのである

いづれにしろ高齢化社会の問題はますます70以上とかでも増えるし75歳以上になるとまた病気になりやすい、そこで団塊の世代の数が多いから負担しきれなくなることが予想されている
なぜ78歳の人が介護状態になり青森に送られたのか?
施設があっても働く人がいないのである、青森だと仕事もないから引き受けたとなる
東京でも高齢化した団地とか問題になる、一番東京が人手不足とかになり数が多いから問題になる、悲惨な老人がこれから続出することは間違いない

だから長寿社会の暗黒面も大きいから地獄の高齢化社会に突入する恐怖になる
さらにその下の世代は年金がもらえないとか過酷になることが予想されている
何かそれに備えるにしても備えようがないのである
あらゆるものが満たされる人などいないからである、金があっても助ける家族がないとか人の絆がないとかまた金がないということでも苦しむ人が多いからである
何かで人間はたりないものがあり弱者化するのだが老人は余計にそうなりやすいのである



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2019年01月28日

高齢化社会の仕事(南相馬市に家政婦紹介所開設) (家政婦を雇うのは一番むずかしい)


高齢化社会の仕事(南相馬市に火星紹介所開設)

(家政婦を雇うのは一番むずかしい)

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広告にでていたがこのクリ―ムスタッフとはなになのか?
仕事の内容は家政婦の仕事である、ただ定期的に頼むのではなく家の中の仕事を請け負う仕事である、ここに話し相手ともあるらか老人の一人暮らしア相手ともなる
対象はやはり家事などに困っている一人暮らしの老人であり
それを家政婦として常時雇うのではなく安い値段で請け負うとなる
まず家政婦を雇うとなると今では社長級とか特別な人しか雇えない
戦前の女中を雇うような訳にはいかない、時代がまるで違っているからだ
その時は中流家庭でも家事のために二人も女中を雇っていたのである
電化されていないからそれだけの人手が必要だったのである

とにかくこういう時代は女中でも雇うことが容易になる、そういう社会でありそこで働くことが普通だからである、するとそういう社会では女中でも信用して雇うことができるのである
ただ女中とか召使とかは何かそういう貴族社会のようであれば雇いやすい
江戸時代なら侍ならそうしやすい、それはそういう社会であり別に侍ならそういう人を雇うことが普通であり雇われる人も別に差別されたとか何か不満も言わないからである
そこで雇う者と雇われる者のモラルがあるから問題が起きないのである
ヨ−ロッパの貴族階級でも問題があるにしろそういう社会であり伝統があり慣習がありそれに従うのである
だからチップ制度はそうした階級社会があり貴族がいて成り立った風習なのである
日本がではそういう社会ではないからチップの制度はないのである

いづれにしろ家政婦とかの問題は家の中に入ってくる家の中がわかってしまうから一番危険なのである
信用が一番大事なのである、気軽に頼めるものでもないのである
だからヨ−ロッパではどうして信用したとなるかというとその人が働く前の家でどうだったか調べる、履歴を調べるともなる
そこで信用して雇うとなる、それは簡単に雇えるものではないのである
だかさ家に入れる人は一番危険であり信用が問題になる
自分自身はそういう経験がないから失敗した、盗難問題は常にどこでも起きているからだ
要するに家政婦など雇うには雇う側でも相当な経験が必要となる、だから代々金持ちの人は雇いやすい、そういう家であり雇う側も知っているからである
経験しているからである、でも今はそういう社会ではない、だから家に入れる人は危険になる
そしてそういう社会ではない伝統もないとなると使用人に使われるともなる
現実に自分がそうだった、その人とは相性がいいにしても話し相手にはいいとしても
決まった金以上を要求されるし様々なことで相談にのり金銭面から何から福祉係のようになってしまった、その人は福島市とか仙台市とか裁判所に行ったり後は腰が悪いとか病院通いなのでありとても家政婦の仕事するできない、簡単なこともできないのである
だから自分は使用人に使われているともなる
それでこのチラシを見て頼めば料理もしてくれるのかと関心をもったのである

とにかく高齢者向きの仕事は増えてくる、特に一人暮らしも増えてくるからその方面での仕事も増えてくる
「遺品整理士」なども一人暮らしの老人向きの仕事なのである
それだけ需要があれど供給するものもでてくるとなる

そして三春であった事件だがこれも高齢化と関係している
その詳しい内容はわからない、でも3万ばかり欲しいのに強盗に入ったのは尋常ではない強盗に入った人も追い詰められていたのである
その家は裕福な家にみえないからである
その犯人も61才であり同じ三春に住む人だった
だから今や近隣でも同じ町に住んでも危険な時代になっている
なぜなら60以上で65歳以上で年金をもともにもらっている人は少ないからだ
国民年金で4万とか5万とかしかもらえない人もいるのである
国民年金では生活できないのである

そして生活保護になるにしても簡単にもらえない、ただ医療費が無料にされたりしいるが南相馬市ではあとはもらえないとかなっている人を知っている
そしたらその人はどうして生活するのか?その人も追い詰められているから犯罪予備軍だとなる
実際に全国的に本当に老人で金があるのは一割くらいでありあとぎりぎりなのが20パーセントから30パーセントくらいいるかもしれない、そういう人は追い詰められているのである、だからこんな犯罪が起きてくるのはそうした背景があるからだと思った
3万ばかりで強盗に入るとなると相当に追い詰められているからである

これから老人の犯罪が増える、追い詰められている人が増えているからだ
そういう人はなりふりかまわない、わずかの金でも強盗でも殺人までするようになる
それは追い詰められているからである
みんな追い詰められると会社でも今や銀行でもそうなっている
投資信託とかうりつけて手数料でかせぐ、銀行も追い詰められるようになったからきれいごとを言っていられくなくなったからである
だからこれからの社会は危険度が高くなる、信用もできない社会になっている
格差社会になると影響を受けるのは貧乏な人だけではない、金持ちでもまたそんなに金持ちでない小金持ちでもその下が増えてくると襲われるのである
そういう危険な時代になっている
それも同じ村とか町の人なら安心だというが今はそうういことはない
金だけが唯一頼りになる世界では近隣でもそうであり追い詰められ人が近くにいれば襲われるのである、そういう経験を自分はしてきたからである

とにかく高齢化社会は高齢者特有の問題が起きるしそれに見合ったもの、需要があれば供給もありそういう仕事も増えてくる
でもここのクリームスタッフの対応は若い人であり何もわからない感じである
仕事をはじめたばかりで経験もないのだろう
こういう仕事は人の管理が一番むずかしいのかもしれない
そもそもそうしてその会社でもどういう動機でしているのか?
ただ金のためにしているのか?結局はそうなるけど何か仕事はそれだけではできない
この人は困っているから助けることが使命だとかはならない
まず金をもらうことが動機であり後はないだろう、でも福祉的な仕事になると何かそうした営利目的だけでも合わないのである
ただ今の世の中がすべて金出動くという時、こういう仕事でも金になるとなれば生まれるそれが悪いことではない、困っている人が自分だけでなく一人暮らしが増えるからであるそして気軽に近隣でも助けたりしないし無関心社会だからである
そういう中で一人暮らしの人は孤立しやすいとなるからだ
それはいくら金をもっていても一人暮らししてみると弱者だと思った
親身になって支えるものがない、ただ金だけを要求されることになるからだ



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2019年01月26日

味覚は人間の防衛本能 (老人でも食物の味をかみしめて食べるようになった)


味覚は人間の防衛本能

(老人でも食物の味をかみしめて食べるようになった)



若い時は腹減れば腹を満たせばいいという感じだった、私の場合は食とか料理にこだわったことがない、旅行で料理が楽しみにはならない
旅行だと旅行したいというだけであり食べることではなかった
外国でもだからまともなものも食べていない、ただ外国に来て行けて良かったなとしかない、でも実際はその土地の食を味わうことも旅である
今になるとそう思う、ただそうなると金がかかりすぎるからできなかったのである

食べたいものを食べる、うまいと思うものを食べる

おいしいというものが安全でありおいしいというものが体にいい

味覚を感じやすくするには食事するにも静かな環境とかが必要

これが武田邦彦氏の推奨することである

味覚とは人間に備わった防衛本能だとしている、それもそうかもしれない、現代は調味料とか過剰に使っているし本来の食物の味が失われている
まず動物は人間のように加工したものより生のものを好むのはそこに本来の味があり栄養があるからだとなる
現代文明の逆説として老子の無味を味わうというときもそうである
水こそが一番人間にとっていいものだということである
それはジュース類の多さをみればわかる、あれにはほとんど自然の栄養物は入っていないだから運動した後ジュース類を飲むと疲れるというのはそのためである
糖分をとりすぎると砂糖などをとりすぎると疲れるのである
現代人に糖尿病が多いのは栄養をとりすぎるからである
動物はいつも空腹状態にあるというときそれが自然の状態だとなるからだ

そうはいっても人間はそもそも味覚でもそれがおいしいというとき快感を覚えるからである、そして意外なのは老人になっても快感、快楽を追求することは変わりない
性で食でも同じなのである、老人になると異常性欲者にもなる
淡泊になるということはないのである、だから私もなぜ食にこだわるようになったのか?食物の味をかみしめるようにして味わっているのか?
それは意外と老人になるとき逆になんでもデーブなものを追求する
それは食事にも現れる、知識でもそうだがデーブなものを求める
でも自分自身は料理はほとんどしない買ったものでまにあわせている
それはそんなに色椅子なことに時間をさけないからである

そして食事する時食事に集中することが必要だというのもそうかもしれない
がやがや騒いで食べるのがいいように思うしレストランではみんなそうしているしそうした方か楽しいとかうまいとかなる
一人で食べていると孤食になり食事もまづくなるとかいう
でもそうでもない、一人で誰もいないところでしんみりとして食べていると食物の味を深く味わうということがあるなと一人暮らしになって気付いた

だいたい日本人は忙しい早食いである、じっくり食物の味を味わないで食べる
ヨ−ロッパなどではレストランとなると特別の場所であり正装しないと入れない
そこは静かな場所なのである、がやがや日本のように騒々しくないのである
でも自分の場合はそういうレストランに一度も入ったことがない、そういう身分でもなかった
でもヨ−ロッパでは街でも静けさを大事にしているからレストランでもそうなる
そこにはやはり日本にはない貴族の文化が伝統が活きていてそうなっているのかとなる

老人に対する誤解は何かなんでも淡泊になると言うがそうでもない
確かにあまり油ぎったもの厚い肉などを食べたくないことはあるかもしれない
でも何でも淡泊になるわけではない、だからなぜ自分自身が今になって味にこだわるようになったのか?
それは食事でもそうだが何でも芸術でもじっくり味わいたいということになるからだ
デーブなものを求めるのである、ただそれは別に贅沢とするということではない
普通の食事でも何か味わいかみしめて食べるというふうになった
それは老人になるとおそらく何でも生きることが残り少ないということが影響している
遂に食べることもこれで終わりかとか病気になり最後に好物のものを食べて死にたいとか言って本当にそうして死んだ人もいるからだ
そういう心境は若い時にはない、結局老人の心境は老人になってみないとわからないのである


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2019年01月13日

怠(なま)け者が認知症になりやすい (頭を体も働かせないと危険)


怠(なま)け者が認知症になりやすい

(頭を体も働かせないと危険)

なぜ認知症になるのか?この原因はなんでもそうだが一つではない、だからこれが原因だというのは言えない、犯罪でもなんでもその原因となるのは一つではないからだ
私の家族が認知症になった一つの大きな原因が怠け者になっていたことである
人間はそもそも本来怠けやすいのである、そういう習性がある
だから人間は怠ける環境にあると自ずと怠けるのである
それで怠けられない環境にある、強いられる環境にあることも大事になる
人間は怠けるし楽をしたいとか快楽を求めるということがあり決して自ら苦しむようなことはしたくないのである

過去に人が苦しんだのは自らそうしたのではなくそう強いられていたのである
貧乏な時代だったら嫌でも働かざるをえない
ニートのような人はまず団塊の世代ではほとんどいなかった
みんながむしゃらに働いていたのである
そういう中で働かない人は本当にまれだったのである
今はなぜ普通にニートがいるのか、それはそういう環境にあるから働くなくてもいいからそうなっているのである

ただここに危険があった、私の家族の一人公務員で働いていたが55歳くらいで早期退職した、その後何も仕事はしていない、家事も何にもしない、趣味はしていたがそれも別に才能がないからその趣味を究めるものでもなかった
それでふりかえるとその後30年くらい仕事もしない、家で何もしない、だらだらと過ごしていたのである、そこには緊張感もない、張りもない生活だったのである
ただそれを自分は気づいていなかった、認知症になってから気づいたのである

そしてわかったことは家事を自分でしてみてこれは結構大変だなと実感した
まず掃除というのは本当は毎日しなければならない、それができないから自分の家は汚れている、散らかっている、こまめにしていないとだめなのである
それから片付けるものが常にある、特に手間がかかるのが料理なのである
だから自分自身は料理は買ったものでまにあわせている
ところがその買う種類が多いので買うことが一仕事になる
何を買うかが問題になるのだ、それで時間がかかる
また何を買うべきかわからないのである

そして一番の問題は料理なのである、料理は本当に手間がかかる、そろえるものが多すぎるのである、それで冷蔵庫の中に種類が多いからいつも何が入っているからわからなくなる、なぜならいつも見てチェックしていないからである
他にやることがありプログを書いたりインタ−ネットを見たり本を読んだりしているからそんなに頭が回らなくなっているのだ
だから料理とか家事は一仕事だと思った
そして一番料理は頭を働かすから料理をしていることは頭を働かすことなのである

それで一人は店を70頃までかしていたしずっと90過ぎても料理して家事をしていた
趣味はなにもないが庭に花を植えるのも無駄だとしてそうして働くことしかなかった
大正生まれだった、でもそうして家事を90過ぎてまでしていたことが良かったのかと思う、最後に95過ぎて介護状態になって認知症になっていた
もう90過ぎる半分は認知症になるのであるからやむをえないとなる
だから姑が嫁におばあさんはなにもしなくていいですよ、テレビでも見ていてくださいと役割がなくなると呆け安くなるのである

人間は何か強いられないと仕事はしない、怠け者になりやすい、だから強いられるということも大事なのである
朝起きるにしても強いられなければ朝早くは起きないからだ
規則的生活も強いられないとできないからだ
勉強でも自主的にするものだかある程度強いられないとしないのである

何か自分は介護から今でも一人になってから常に追われている、家事することがなにかかにかあるのだ、その合間にプログを書いているから追われるのである
つまり自分は家事をしないでいられない、強いられているからしているのである
誰もしてくれる人がいないからである、今までは全部料理でもなんでもしてもらっていたのである、そこて自分は怠けものになっていたことは確かである
人間は環境によって作られるのである、時代時代で環境が違うから人間もその時代で環境で作られるのである

認知症にならないためにはどうしたらいいのか?
その一つは心身ともにWORKさせることである、働かせる、機能させることである
そこで危険なのが役割がなくなることなのである
会社を退職すると役割がなくなる、かといって家事が妻がしていたりすると何もすることがなくなる、これが危険なのである
料理はいろいろ頭を使うのである、でも夫は何もしないと危険になる
つまり人間は役割がなくなると心身ともにworkしなくなるのである
それで頭を使わないからだんだん機能が低下してくるのである
それが認知症につながってゆくことがある、それがすべてではないにしろそうなりやすいそうでなくても老化してゆくのだから認知症になりやすいのである

いづれにしろ認知症の予防ができるかぎり心身ともに働かすことである
男性と女性はまた違っているが男性の場合会社を退職すると役割がなくなるから危険なのである
女性でも障害児をかかえてそのことが心配で世話を焼いて心身を働かせていたら人は認知症にならないとか言う人もいたのも逆説である
何か自分自身の家族でもそうだった、あんなに一方は働いているのに一方ただ食事を出されているのを待っているだけだったのである
だから奇妙なのは主人がいて召使いるとき何でも召使がしていたらその主人呆ける認知症になるともなる、それも逆説である
つくづく人間は何が幸せかわからないのである
実際に経験しているだろう、不幸が幸福の原因になっていたり幸福が不幸の原因になったりしているからである

いづれにしろあまりにも怠ける状態にあることは危険になる

シーシュポスは神々を二度までも欺いた罰を受けることになった。彼はタルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられた(この岩はゼウスが姿を変えたときのものと同じ大きさといわれる)。シーシュポスがあと少しで山頂に届くというところまで岩を押し上げると、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまい、この苦行が永遠に繰り返される

怠け者の罰はこうなる、有益なことをしないから延々と無益なことを強いられるともなる
ただ人間は何もしなくても何かしても必ずカルマを積んでいる、楽をした人も金を持ちすぎた人も有効に使わない人は罰をカルマをもち何かそれが後で苦しみとなって現れるのである、要するに人間ち起きることは何かしら因果応報だともなるのだ

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2018年12月04日

年寄りの冷や水 (人間はこれまでやってきたことを老人になってもやめられない)


年寄りの冷や水      

(人間はこれまでやってきたことを老人になってもやめられない)

週刊誌ではしょっちゅう死ぬまでセックスとか一面で出している
週刊誌とかテレビは老人向きの番組作りにある
老人が多く老人が読み見るからである
老人社会になっているからである

人間は老人になろうがつくづく今までしてきたことをやめられないのである
死ぬまでセックスとかもそうである
なぜそうなるのか?快楽が忘れられないのである
これも中毒のようなものである

死ぬまで登山とか死ぬまでバイクとか死ぬまで車とか死ぬまで自転車とか死ぬまで・・・・・とかなる
死ぬまで酒飲んで早死にした評論家もいる、これもやめられないのである
自分もそうだった、自転車に乗ってきたからやめられない
電動のロードバイクは合っていなかった、軽くていいのだがふらついて危険だった
だから今度は最新式のE=BIKEが欲しいとなる
それは今までより馬力があり技術進歩がある
やはりロードは危険だかこれなら安定して安全だとなるからだ
私はあまり悪路を走ることはないが歩道を走るので安定性があるのがいいとなる

年寄りの冷や水という言葉の意味は何なのか?
それは今までしていたことをやめられないということで無理をする
今までバイクに乗っていたから74歳でもバイクで飛ばしていた人がいた
登山でも70歳でしていた人が普通にいる
それで遭難したとかある、それから車でやめられない、それで事故を起こしたとか免許を返納して失敗したと80歳の人が言うのもわかる
そして何か今までしていことができると思うのである、だからそれが年寄りの冷や水になる

人間は年をとろうが今までしたことがやめられない、酒が好きな人もやめられない
そういう快感が頭にインプットされているからやめられないのである
麻薬と同じである、人間の業(カルマ)は死なない限り消えることがないのである

結局自分の場合は

死ぬまで自転車だ!

これもどうにもならないのだ、40万近くても欲しいとなる
悪路を行かないにしろこれなら乗ってみたいとかなる
ただ乗ってみてロードのように失敗するかもしれない
でも乗ってみたいとなる

やはり技術革新したものはイノベーションしたものは売れる、老人でも買う
もともとe-bikeは老人が体力がないので作られたのだから合っているのである
70代でもまだ元気な人がいる時代である
だからこういうものでも老人が買うかもしれない、金のことがあるけどどうしても快感を味わいたいとなる
そしてどうせ死も近いんだからやりたいことをやって死んだ方が得だという考えになるのだ、この年になると毎日いつ死ぬのかとなる、現実に死んでいる人も多いからだ

死ぬ前に何をすべきなのか?

それが老人にとっては切迫したものとなる
何か常に死を意識するのである、金があってもそれを使わないで残しても損だとなる
無駄には消費しないにしても何かやりたいことしないで金を使わないのは馬鹿らしいともなるのである

ただ正直老人は動的なものより静的な志向にはなる、私はもともと性質は静的なのでじっとしていることが性にあっている
それで何か深い詩が作れるようなったとも自分ながら感じる
こういうことはほとんど金はかからない、田舎で冬ごもりで風の音とかじっとしている聞いているのがいいのである、そこで沈黙するとき自分は充実感を感じるのである

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2018年11月23日

死者はどこにいるのか? (母は厨に立ち続けていたー詩)


死者はどこにいるのか?

(母は厨に立ち続けていたー詩)

母は厨にいつも立っていた
60年の歳月がそこにあった
目立たずそこにあり料理を出してくれた
母は細身であり霜焼けに苦しんで
台所仕事をしていた
その時温水器がなかったからだ
私はただその時当たり前のことして
母に感謝もしなかった
その労もいとわなかった
母は家で酷使された
私はずっと楽をしてきた
母はこの家で耐えていた
悲しみ涙も流した
そうして母は百歳で死んだ
母はどこにいるのか?
母はなお厨にいる
もの言わず影のように
厨に依然としている
そうして今も家を支えている
他人は私のために何もしてくれない
要求するのは金だけである
何の関心もない
そして私は厨に一人立って食事の用意をする
そのことにより母がここに立っていた
その苦労を知りその意味と価値を知る
外には北風がうなりはじめた
寒い季節がやってくる
人は死してその意味を知る
その存在価値を知る
死してその存在価値が現れる        
そのように無視され目立たぬものが
大きな価値を帯びて現れる
不壊なるもののごとく現れる
死者はなお生きてこの世にある者を支える

死者はどこにいるのか?それも謎である、墓にはいない、死者はどこにいるかとなるとやはりその人が長くいた働いた場所だろう
なぜならそこに60年もいたとしら長いからである
私の場合は結婚していないから何か親を思うようになった
結婚していれば妻を亡くせばこのように思うだろう
それで悲しんでいる淋しいという人がいる

でも生きている時は母のことは意識しなかった、目立たない存在だった
性格でも内向きであり派手でないから目立たない存在だったのである
それが死んでから意識するようになったのも不思議である
それはなぜなのか?

それは介護はじめてから自分自身が厨に立つようになってからなのだ
自分自身が今度は食事を出したり自分の食事を用意しなければならない
そのことによってここに母がいて食事を60年間だしてくれたのだなと自覚したのであるだから母が死んでも母はここにいるのだなと自覚した

死者がどこにいるのか?それはその人が一番長くいたところではないか?
一番長く働いた所ではないか、なぜならとにかくそこにいた働いた時間が貴重だったとなるからである、人生の時間は限られている、いくら長生きしてもそうである
すると何に時間を費やしたかが人生になる
才能あるなしにしろ何に人生の時間を費やしたかが人生になってしまうのである  
それでぽっぽやという鉄道員、駅員が最後に死んで電車が棺となりあの世に送られる
鉄道と電車と人間が一体化していたのである
男の場合は仕事が命となるのである

母の場合はこの厨にその人生を費やしたのである
母はその時何かそれが報われないものとしてしていたかもしれない
それは女性の場合はみんな言える、家事に生きがいを見出せないとかなっている
それで戦後は外で働くことで生きがいを見出そうとするようになったのである
でもそもそも女性の生きがいとは男と違って本質的には子育てとか家を守るとか
家と切り離せずあったのである
つまり女性は家の中で存在感があり意味と価値をもつものだったのである
ただそれが女性自体でも価値がないものとしていた
では外で働いて価値あるものとなったかというとそうもならなかった

母刀自(あもとじ)も 玉にもがもや 戴きて みづらの中に 合へ巻かまくも
  〜津守宿祢小黒栖 『万葉集』 巻20-4377 防人歌

これは若い防人にしてもこれだけ体と一体化しているのが母だったのである
こういうことは父親にはない、父親はまた別な意味と価値がある

 真木柱(まけはしら)ほめて造れる殿のごと

  いませ母刀自(ははとじ)面(おめ)変りせず」

    巻20−4342 坂田部 首麻呂(おびとまろ) 駿河国防人   
 
   
真木柱というとき実は私の家では姉がいつも橲原の木材を使って建てたということを自慢していたのである、そして面変わりせずというのは死者のことにもなる
死んでも変わらず厨に母がいるとか感じる
つまり家というのは女性が主役であり女性の存在感を示す場所なのである
男性の存在感を示す場所は家ではなく外にある、仕事場にある
なにかそこを戦後はき違えたのである、女性はいくら外で働いても存在感をもちえなかった、なぜなら女性の役割は家にあったからである
だから嫁は女と家なのである

そもそも外で仕事をしてもそこをやめたとしたらそこに仕事していたということを記憶する人がいるだろうか?
別にレジで働いていても人が変わるだけでありその人がいたということで記憶している人がいるだろうか?
それはロボットのように見えるからである
だから女性で外で仕事して存在感をもつのは看護師とかはあってもまれである
ただいくばくかの賃金をもらうだけであり何かそこに存在感と意味と価値がもてないのである

とにかく人間は死んでからでないとわからないことがある
他人は全く皿洗ってもらうにもただ金ばかり要求されるだけである
金くれ金くれしかないのである、ただその女性でも息子のことは40とかすぎてもあれやこれやと気遣っているのである
だから家族と他人の相違はあまりにも大きいとなる
それは介護になりそういう非情を今でも続けて経験しているのである
他人がこれほど非情で冷酷なものか知らなかったのである
それは家族がいればそうなるのである、でも人間はそんな家族中心で他人は虫けらと同じだ、金しか関係ないとなるとそこは地獄だとも思った
家族がないものは地獄だとなる、身寄りのないものは地獄を生きることになる
それでいいのかとなるがそれが現実として経験したということである


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2018年10月24日

認知症がアイコンタクトで劇的に改善 (NHK試してガッテン−私も最初にそうして落ち着かせた)


認知症がアイコンタクトで劇的に改善

(NHK試してガッテン−私も最初にそうして落ち着かせた)

私の姉の場合は最初に暴力になった、その前に同じものを何度も買い物していたし金を払うことができなくなっていたので近くの店屋で気づいていたのである
でも家では気づかなかった
気づいたのはなにか知らなけど激しい暴力になった
親戚の人が来た時歪んだ顔になっていた、それで病気に気づいた
意外と認知症は軽い内は気づきにくいのである

それからせん妄になり幻覚を見るようになった
何か人が来ているとか言ってそれが誰なのかと何度もしつこくたずねる
それはかなりひどいせん妄だったのである
だから何になっかのか最初とまどった、どう対処していいかもわからなかった
それでインタ−ネットで調べたら

目を見て落ち着かせろ!

そう書いてあったのでそうした、そして落ち着かせるためにお茶などを出して飲ませたのである
私は相手と視線を合わせて見て落ち着かせたのである
でも精神錯乱になっのかと怖かった、暴れたりもしたから怖かった
それで三人家族だったが一人は相手を見ることができなくなった
目を見ることができなくなった、怖くてできなかったのである
そうなったらもう一緒にいられない、相手が暴力になるからだ
性格的に姉は大の男も恐れない、大の男が怖がっていたのである
そういう人だから暴力になったりてしたら自分でも最初は怖かった
ものすごく気の強い性格の女性だったからである

ただ私は60年間も一緒に生活していたし自分は特に特別に世話になったから介護することは無理することなく自然な状態でなった
ただ最初は何になったのかわからず怖かった
精神錯乱になったのかと怖かったのである
でもそれから一人で家で介護するようになってなれてきて認知症という病気を理解するようになった、それで安心して落ち着いてきて症状が安定して騒ぐこともなくなった

認知症は誰か一番親しい人が愛する人がつききりになり世話しないと症状が安定しない
だから相当な愛情がないとできないともなる、ただ症状はみんな違っている
姉の場合は死ぬ直前まで意思疎通ができていた、ただ意識不明になって一か月間は死んだと同じだった、もう植物人間となり何の反応もなくなったからである

認知症の人の視界が狭くなっているというのはそうなのか?
ただそれだけではない、目を合わせて落ち着かせることが大事なのことは確かである
それを最初にしたから良かった
結局人間は突然に起きることに対処できないのである
津波でもそうだし何かの事件とか病気でも突然になると対処できないのである
今回のNHKの認知症対策で目を見るということは本当に大事である
目からは信頼とか愛情とかの眼に見えない光が放たれているかもしれない
何か嘘ついたりやましいことがあると目をまともに見れないことがあるし
何かその人となりが目に現れることもある、目がおかしくなっているかもしれない
だから人間にとって目は大事なのである

いづれにしろ認知症の介護している人は必ずうつ病になる
精神を病んでいる人の介護している時必ず介護する人もおかしくなるのである
正常なものが失われるのである
なぜなら正常でない人と常時一緒にいれば当然そうなってくるのである
自分自身は実際は介護することでも嫌だった、強いられてしかたなくしていたともなる
ただ自分の場合は特殊な家庭の事情で介護をするのも無理があったにしろ一番世話になったから何か自然と介護に努力したのである、恩返しのために自然とそうなったのである
でも普通は認知症の介護はそんなに手厚くできない

どんなに親しい愛情があっても嫌になるからである
私の場合は二年間であり短いからできたともなる、これがさらに長引いたらもうもたなくなっていた、なぜならもう一人も介護状態にすぐになったからである
二人の介護になることと自分が病気になったことでももうどうにもならなくなっていた
でもなんとか恩返ししてのりきったのである
でももうぎりぎりの限界だったのである
なぜなら自分も手術したり入院して病気になって介護していたからである
その時助けるものはいない、ただ責められるだけだったのである
介護は誰か一人に負わされるのである、みんなしたくないからそうなる
それは兄弟がいてもそうなりやすいのである

姉の場合は自分が留守にしていたとき不安になり近くの人のところに行っていた
そのことはあとでわかった、その人だけは親切な正直で本当に今時めずらしい人だったのである、NHKのテレビでも放送していたが少しの間でもいなくなると認知症の人は不安になる、それは捨てられたのではないかということで不安になるのである
だからもうどこにも出れない、いつも一緒にいるほかなくなる
そこでそうしていると丁度精神病院の中に一緒にいつもいて病棟から出れないという感覚になるのである、息ぬきもできないのである、それでうつ病になる
それはオウムとかカルト教団とかに仲間といつもいるような状態とにているのだ
閉鎖された空間でそこだけの世界にとじこもる、すると洗脳されて異常が異常だと気づかなくなるのである

家族の介護は病院で医者とか看護師とか介護士が介護するのと違うのは四六時中常に一緒にいなければならない、それで精神が消耗するのである
自分の場合それでも二年間だった、でもうつ病になった
だから認知症の介護はつらいと思う、NHKに出てきた人は私の姉より症状が重い人がいたから介護するのはもう自由時間もない、完全に縛れるのである
そしていつ終わるのかわからないのが辛いのである
実際十年とかもあるし自分の場合は二人で約十年だった、それで精神が消耗してしまったのである

ただ特殊な家族であり世話になったということがあり懸命に介護した
男だからうまくできなかったがそういう気持ちはあったからである
だから気持ちがない愛情がない人が認知症の介護することは至難だとなる
そんなにみんな聖人でもないし一人にの人間にそんなに付き切りにもなれない
それは施設でもそういうことはできない、でも親しくなった人がつづけて介護するのが認知症では症状を落ち着かせる効果がある
でも現実的にはそこまでしていたらとてももたないだろう

介護の負担は認知症でもそうだし普通の介護でも負担が重すぎることがある
ただ私の場合は特殊な事情で気持ちはあったのでなんとかできたとはなる
でもそういう気持ちをもつことができない施設とかではそんな手厚い介護は無理だとなるそして十年とか長い場合があるとその間は何もできない、その負担をも大きすぎるのである
ただ私の場合は介護して恩返しできて良かったと思う、だから遺影に手を合わせて供養できるとなる
介護のむずかしいのはそれは死後も影響してくることなのである
恨んで死んだりしたら何か手を合わせて供養できなくなる
お前は冷たい奴だったなとか死者に診られるからだ
そういう人を知っている、娘を恨んで死んでいったのである
その娘は信じられない非情な人になっていた

でも母親は介護されることもなくあっけなく死んだのである
もし介護状態になったら地獄だったとなる、そういう状態になっている人を知っている
その娘の実の親がそうっないたのである、認知症になっていたからである
実の親でも事情があって親とも思っていない、ただ金があるから施設に入れておくだけなのである
だから人間は本当に最後にならないとその真実もわからない
最後は親でも悲惨な状態になる人がいる、子から捨てられるのである
青森の施設にここからやられた人などはそうかもしれない、老後には最後には人間は恐怖にもなる、もうこれだけ老人になると姥捨て山に捨てるというのもしかたがないという時代にもなるからだ、中国では数が多いからすでに親をめんどうみれないと捨てる
そして自殺している人が増えていることでもわかる
一人っ子政策で親をめんどうみる人もいない、そして施設にすら入れない国でもめんどうみないとなれば死ぬほかないとなっているのだ、日本でも特養などは順番待ちでいつは入れるかわからないのである
高齢化社会の暗黒面である、認知症になる人が8百万人とういのも本当に悪夢である


世界中のどこも、経験したことがない社会「認知症800万人時代」この国に何が起きるのか 
65歳以上の4人にひとり、80歳以上は2人にひとり  

posted by 老鶯 at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療−老人問題

2018年10月17日

南相馬市の病院から青森の施設に移される人 (姥捨て山へやられるのか?)


南相馬市の病院から青森の施設に移される人

(姥捨て山へやられるのか?)


その人は南相馬市の病院に入っていた,知的障害者の息子がいてその人が病院に通って
頼まれたものを買って届けていた
その障害者は外見はどこが悪いのかわからない、仕事もしている
でも不思議なのは父親のことを思っている、だから病院に通っている
その父親は別に子供が3人とかいる、でも世話しない
離婚した妻が障害者の母親は常に通って息子をみている
かわいそうだと言っている、その父親は何か離婚されたり子供も世話しないとなると
問題があった

ではなぜ青森の施設に移されるのか?

これはこの辺でめんどうみる施設がない、満員だとは聞いた、それでいわき市とか中通りの施設に入った人は知っている
例えば小高では立派な施設があっても入れない、介護士とかが集まらない
若い人は流出したからである、病院でも看護師がたりないとか苦労している
それでいつまでも病院に置くわけにいかず青森が空いているからと移された

しかしそこには知っている人すらいない、いたとしても青森までは簡単に行けない
最初聞いた時青森は遠いなもう行けないな日本の果てだなとか思った
ただ新幹線があるら二時間で今は行けるとは思った
でもそこで金がかかるからなかなか行けない、そもそも金で苦労しているのだから
行けない、一瞬前の感覚だと流刑地にでも行かされるのかとも思った
青森となるとそれだけ遠いという感覚があったからだ

ともかくなぜ青森なのか?

それは南相馬市だと特に施設が空いていない、特養などは特にあいていない
だから青森であいているからと施設関係者や市の方で相談してそうなった
これはここだけの問題ではない、例えば東京は深刻である
それで東京のある区では伊豆の方に要介護者を移すとかしている
東京ではまかなえない、東京はそうした介護される老人は増える、その数が多いからである、だからこれはここだけの問題ではない
青森だとそもそもそこは職がなく出稼ぎ者が多い地域である

すると介護でも仕事になるとして引き受けるようになったのかもしれない
それにしても青森は一瞬遠すぎると思った
だってそこはなじみがない場であり知り合いとかもいない場である
ただ今の社会は広域化しているからこういうことにもなる
でもそんなに遠くに行くということは何か最後は姥捨て山にやられるのかという心境になるかもしれない,身寄りがないとなるとそうされやすい
ただその人は子供も何人かいるからそういう人でもない
障害者がいて世話できないとかなりそんな遠くに行き死ぬほかないとなるのかもしれないともかく最後になると労力も金もかかる
病院にいつまでも置けない、特養には入れないとなるとそんな遠くで世話されて死ぬほかないとなるのが現実だとなる

posted by 老鶯 at 11:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療−老人問題

2018年10月11日

家族の認知症介護から学んだこと(哲学的考察) (人間とは何か−抽象化能力と感情の問題)


家族の認知症介護から学んだこと(哲学的考察)

(人間とは何か−抽象化能力と感情の問題)

「心身のリアル体験」では、幼少期から様々な遊びや運動、海や川や砂遊びなどの匂い、空気、温度などの肌や実感覚による体験や、「嬉しい」「悲しい」といった感情などを通して学ぶプロセスです。  

 ここにグラフがでているからわかりやすい、人間は具体的なものを抽象化する、これが文明を作り人間を人間たらしめたとなる、その最たるものが言葉であり文字だからであるだから文字のない文明が一段と低く見られるのはそれだけ抽象化能力が発展しなかったとなるからだ
最古の文明になると文字をもった文明である、エジプトのヒエログリフは神聖文字となり文字が神聖化された、中国でも漢字が発明されたとき神聖化されたことでもわかる
楔形文字は最古のものでありねこには法律のことも記されている
それから一番簡単なのは一つだったら一本の線を書く、二つだったら二本の線を書く
それで数量を計ることが文明となる,それがそれは時間の単位ともなる
時間も人間が抽象化したものなのである

算数と数学でもそれを上達するコツは数字は抽象化だが図形とかグラフにしたとき具象化する、方程式でも図形化するとそうなる
そして分数でも理解するには図形で理解するわかりやすい、数字からだと具象化していていなから理解しにくい、だから算数嫌いとか数学嫌いが生まれる
数学となると中学でもどんどん高度な抽象化になるからである
科学となるとさらに分子式でも抽象化になるからついていけなくなる
私も数学嫌いになったのはそれは抽象化能力の欠如だったとなる
ただそうであっても教育には工夫が必要なのである
分数だったら絶えず具象としての作業、図形化して納得する作業していると興味もわいて覚えることになるからだ
人間は常に具象⇔抽象の相互作用が学習なのである
パソコンのソフトで抽象画を作ってみたらやはりいくら抽象画でも川は川をイメージするし森は森をイメージする、全く具象画から離れることはありえない
抽象画でも具象画を見ようとしているのである

なぜエジプトで書記官が重要なものとして神官にもなったのか?
それはやはり麦などの収穫することを数量化したからである、その仕事は力仕事ではない頭脳の仕事である、それができたのは抽象化することができたからである
米の量を計ることは数字で抽象化したものだからである、つまり人間の知的能力の発達は抽象能力なのである、それは数字でもそうであり文字でもそうである
そして人間の文明は抽象能力から生まれたのである
抽象能力が高度に発達して文明が生まれた、文章を書くということはそもそも抽象能力によっている、言葉自体そうなのだが音より文字にすると抽象能力は高くなる
人間は文章を書くことによって言葉から文字から思考している
それをつくづく私自身でもこうしてインタ−ネットで他者の文章を読んで参考にして絶えず文章を書いていることでそう思った
文章を書くことでそもそもが思考を拡大して深化できるのである

文字には他にも記録するという大事な役割がある、人間はとにかく忘れやすい、自分の書いたものすら忘れている、膨大なものをインタ−ネットでプログで書いたがその書いた本人が忘れているのである、これも人間の特徴だと思った
だから人間は何でもこまめに記録していた方がいいと思った
旅のことでもそうであり忘れるからだ、いつどこにいたのかも旅したのかわからなくなるそしたらどうして記憶をよみがらすのかとなる、今は写真もいくらでもとれるからそれも記録になる、膨大な写真が映像がグローバルに残される社会である、デジタルの映像社会なのである、ところが映像は抽象化能力を高めるということが必ずしもない
具象的なものが表現が直接的に示される、すると抽象化する能力はいらないとなる
文字だと山なら山で川なら川で一応抽象化したものとしてとらえているからだ
漢字が優れているのは抽象化と具象が表現されているからだ
アルハベットになると文字があるにしても音の作用が大きい、アルハベットに具象の作用がないのである
だから漢字というのは中国文明を作ったものとまでなっているのだ

ただ人間とは何か?これを追求する時、抽象能力だけではない、人間の下部構造というか基本にるなベースとなるものに感情がある、悲しいとか淋しいとかうれしいとかある
人間は人間たらしめているのは反面に感情だともなる
動物を見ていると悲しいとか淋しいとか淋しいとか何か感情的なものが表現できない
人間は悲しい時涙を流す、動物は泣くことも笑うこともできないのである
ただうれいしという表現などはする、みぶりでするからわかる
でも動物に悲しいという表現がない、あるとしてもわからない
キリストが「悲しむ者が幸いなり」というのは本当に不思議だと語ってきた
それは心理学的にみれば悲しむことができるのは人間にはできるが動物にはできないからだともなる

そして人間はこの世を生きるとき必ず悲しむことになる
家族との死別があり様々なことで苦しみ悲しむからである
でもなぜ「悲しむ者が幸いなり」なのか?それは悲しむことで人生の深い意味を知るからである、悲しまないものは人生の深い意味を知ることがないのである
だからシェークスピアが悲劇で終わるからみんな考えさせる、ドラマでもハッピィエンドで終わるなら考えないのである、悲劇にこそ人間の深い意味を見出すともなる
それは悲しむことに通じているのである

人間とは何か?それは認知症の人と接するとわかる、家族が認知症になって介護したとき最も身近で生活してきた人がどうなったのかわからなくなる
そのことを介護して問うてきた,もう痴呆化して人間でなくなったのかという恐怖を感じた、でも接しているうちにそうでもないと思うようになった
確かに銀行から金をおろせないとか漢字でも書けない自分の名前すら書けないという抽象能力が極端に低下する、だからこれはもう人間ではないのか?
そうも思って驚愕して恐怖にもなった
でも認知症の人でも喜怒哀楽がある、感情的なものは普通なのである
だから自ら悲しむということがある、また喜ぶこともある
特にこれまで生きたことに誇りをプライドをもっているからそれを認めると喜ぶのであるそして認知症の人はなにもわからないのではない、相手が親切にしてくれる人なのか
愛をもって接してくれる人なのかわかる、だから認知症の介護は愛がないとできない
愛情に実は敏感になっているからだ、だから家族でも特に親しい人でないとできない
兄弟でも姉妹でもいろいろいいるからである
だから兄弟でも一番かわいがられた人が介護しろというのもわかる
そうでないとできないということがあるからだ

人間とは何かというときこれも不可解である、確かに抽象能力が文明を作った
でも一方で感情があって人間であるということがある
悲しむということ笑うことなど感情表現があり人間であるとなる
だから数字とか漢字が抽象化能力がなくなっても感情があれば人間だともなる
その人は愛のことはわかっている、動物でも愛は通じるのである
すると動物でも愛を感じるから人間と同じだともなる
そしてこの世で一番大事なものは愛だというとき愛が通じればいいともなる
愛が通じなくなったときそれは動物以下であり人間ではないともなる
知能がものすごく高い人がいても冷たい愛がない人も普通にいる
かえって知能が高いとかなるとそういう人が多いかもしれない、冷たい人が多いとなる

別に庶民でも知能が低いとみられる人でも正直で人情味があり愛のある人がいる
そういう人は戦前生まれの人に多いし江戸時代には多かった
それはなぜかというと現代のように知優先の社会ではない、義理人情とか情中心の社会だったからである
とにかくインタ−ネットでもグロ−バルに高度な知性が求められる社会である
江戸時代は狭い範囲で情が深い所で生活していたのである
それが村とか長屋とかであり貧しくてもそうなっていた、でも医者でも病気は治らないものとして接していた、だから医は仁術になっていた、直せないから仁が情をかけることだともなっていたのである
第一漢字の情報でも情に報えるとなっている、これは今の情報感覚とまるで違ったものなのである、どうしてこの漢字になったのかわからないがやはり何か江戸時代の感覚をひきづっていたからこの漢字をあてたのかとなる

いづれにしろ認知症というのは本当に不可解である、その介護をさせられるとなると本当に困難を極める、普通は人間とは何かなど考えないけど私は認知症の介護を通じて考えたそれはなぜなのか?それが心と関係していたからだろう
普通病気だと患部だけをみている、そこが痛いとか弱っているとかみる
でも心までは見ない、認知症の場合はどうしても脳と関係していて心をみるようになる
脳が損傷する壊れることは心にも大きく影響する、では人間の心とは何なのか?
それが最大の謎なのである、認知症の家族を介護してそのことを問うてきたのはそのためである
認知症の治療は介護は肉体だけを見てはできていからである
もし肉体的なものだったら癌であれ何であれ意識は明確であり知能も低下しないのであるただ肉体的な問題だけなのである
認知症は脳が破壊されてそれが心に大きく影響する病気なのである
すると数字がわからないとか漢字も書けないとか自分が住んでいた場所も名前もわからないというときあまりにショックになる、そんなことわからないのか馬鹿になったのかと最初は誰でもみてとまどうだろう、この人はもう人間ではないのだとまでなってしまう

でもふりかえるとそれでも人間だったと思う、人の愛はわかるし何か感情的には喜怒哀楽もあり今までしたことをほめれば喜ぶ、何か通じるものがあった、今になるとその時間が貴重なものとしてよみがえる、それは家族として長く生活してきて認知症になったとしてもふはり家族であり心を愛を通じ合わす時だったなと思う
今までは自分の場合はとにかく一方的に愛された良くされていただけだったからである
そのことで多少恩返しできたなど今では思っている
そう思うのはやはり介護でもその時は苦しいと思うのだが嫌だから死んでくれとも思うのだか死んでみるとみんなもっと良くしてやればよかったというのである
それはやはりもう一緒にいる時間がなくなった、もう二度となくなったことによるのである、もう話すこともなくなる、二度とその時間はもどってこないからである
人間は時間がすぎさる、青春だってあっというまにすぎさる

人間の生きる時間はみんな限られている、時間だけは平等であり特別長く与えられる人はいないし時間を金で買うこともできないからである
それで人間が一番無駄にしているのは時間なのである、金だったら十円得した損したとか過敏なのだけど一時間損したとかあまり考えないからである
家族でも一緒にいる時間はいつまでもつづくわけではなかった、そして介護となるときと死に向かっている時間である、もう二度と会えなくなる時間だった
その時間は貴重なものだったと自覚する
それは人生そのものがそうである、人間は永遠に生きられない、限られた時間しか生きられない、その時間の貴重さは失ってみないとわからないのである
何か貴重なものは失ってみないとわからないのである
だからみんなもっと介護でも良くしてやれば良かったというのはそのためである
家族と一緒にいる時間が全くなくなり何もできなくなったからである



ここに書いたものつづきです、読み直してまた書き続けるのがプログでありインタ−ネットである
連続したものとして継続して書けるのプログでありインタ−ネットである
posted by 老鶯 at 15:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療−老人問題

2018年10月10日

時代の変化についていけない老人 (昔の感覚で社会を見ている−銀行もそうだった)


時代の変化についていけない老人

(昔の感覚で社会を見ている−銀行もそうだった)


老人はこれまで生きた感覚で世の中を見ている、それが実は社会が変わっていると違っているのだ、確かにそういうことは昔からあって老人は新しいものに適合できない
もし江戸時代んのように変化してもスピードが遅ければそれほど影響を受けない
現代は変化のスピードが速い、だからついていけなくなる

銀行は何か硬い真面目な職業だと思っていた、それが投資信託のような複雑なものを老人相手に売る、それは金をもっている老人をだますために作られた商品のように思えた
毎月配当金が入るというときそれが今まで貯金していれば利子がつくもののように老人は思うのもわかる、第一株などわからないからである
投資のこともわからないからである
それで悲しいのばあちゃんが2000万とか損しても銀行を信用していたのである
つまり銀行とはそれだけ信用されていた、それを裏切ったともなる

なぜそうなったのか?銀行は地銀などは特に地元に密着して一軒一軒回る
そうして対面的に信用を得ていたのである
その信用を利用して投資信託のような複雑なだましのような詐欺的商品を売りつけるようになった
でもその時その信用というのが一番の財産だったものが失われたのである
もう銀行員が一軒一軒回っても信用できないとなる
そうしたらそもそも銀行業というのが成り立つのだろうか?
だって銀行で一番大事なのは信用だからである
信用こそ財産だった、確かにそれは目に見えないものだがその信用なくして銀行の業務が成り立つのか?

ではなぜそうなったのか?銀行はもうもうけることができない社会になった
高度成長時代なら銀行は会社の業績でもいいし起業しても成功するとかで金を貸してももうかる、だから利子が7パーセントの時代があったのだ
それがバブル崩壊とかから20年日本経済は停滞した、もう銀行もそこで金を貸してもうけることができなくなる、金を借りて起業したりする人もへるとかで投資先がなくなったのである、それで国債とかでもうけていたがこれもできなくなりマイナス金利になった
それで銀行は追い詰められたのである

人間は追い詰められると善悪がなくなる、今日食べるものがないとなれば平気で人を殺したりする、それは追い詰められているからである
追い詰められた人間は善悪はない、だから追い詰められ人間は怖いのである
そういう人に出会ったら最悪だとなる、そうして悲惨に殺された人もいる
それは個人でもそうであり会社でもそうであり銀行だって同じである
きれいごとを言っていられない、銀行を維持するためならなんでもするとなる
そういう時代になったことを老人がわからない、意識しないのである

それはなぜか?老人は昔の感覚で世の中を見るようになる
今までこうだったからこうすればいいという昔の感覚なのである
それをひきづっているのである、銀行と付き合いがある人は昔の銀行を見ているのである銀行員でもそうである、それが急に変化してきて銀行を変貌したときだまされることにもなる、投資とか株とか昔の銀行はしないしそれが業務ではなかった
だから支店長でも株のことなど知らないと言っていたのである

そういうことは他にもいろいろある、スマホがあるとしてそれをできない老人は理解できないのである、一見それは携帯電話のようにも見えるがかなり違っている
パソコンを携帯化したようなものにもみえる、自分はパソコンを20年くらいしているから同じようにやれるとみるがまた違っているのだ
そうして技術も変化しやすい、進歩すると老人はついていけないのである
どうしても昔の感覚で見るからである
昔はこうしていたからこうすればいいとなるがそれが通じないのである
たからばあちゃんは銀行をだまされても信じていたとなる

例えば中国に旅行したのでも20年前とかなる、時間はすぐにすぎさる
20年前の中国はどうなっていたのか?物価は十分の一であり鉄道は最悪である
家畜のようにして人間がぎゅうぎゅうつめで運ばれていた
とにかく人が多いからそうなった、その時都会への出稼ぎ者が多かったからそうなった
今はどうか、日本並みに新幹線が走っている,これも信じられないし、みんなスマホで決済して現金を使わない日本より進んでいる
日本より進んだものが増えてきたのである
だからこんなに変わるものかと驚きついていけない、どうしても中国でも昔の感覚で見てしまうのである
要するにグロ−バル社会というのは世界的に常に変化のスピードが速い、遅れた国だなと思っても10年とかで変化している、いつまでも遅れた国とはならないのだ
だから今タイとか東南アジアからでも金持ちになった人が日本の観光に来ている
それも今までならありえなかったからである

世の中がもともと無常の世界であるというのは変わりない、そもそも人間自体がいつまでも若くいられない、青春などあっというまに過ぎ去る、そして白髪の老人になっている
そして死んでしまう、その変化からまねがれないから無常なのである
世の中自体もまた変わる、特に現代はそのスピードが早すぎるのである
ただそうはいっても老人だと経験したことがありその経験が活きるということはある
何かしら生きて経験しているからである
でも人間はあらゆることを経験できる人はいない、投資の経験している老人は少ないのである、それも経験だったのである、知識ではない経験しないとわからないことが世の中には多すぎるのである
人間が個人で経験するのはほんの一部である、だから老人が社会のことがわかるということはないのである

江戸時代のような村のようなところでは経験したことが活きて長老のようになることはある、でも現代では老人は膨大な数になっているが無用化しているのである
それは社会が変わりすぎているから老人はかえって邪魔になるだけだとなる  
だから現代は長生きしても老人にとっては生きにくい社会である
むしろ江戸時代なら長生きすれば老人にとってはいい社会だったかもしれない
それもわからないにしろそう見えるのである

老人は本当に浦島太郎のようになる、周りの人間も変わり誰も知っている人がなくなったと現実になる、家族で公務員だった人が役所に行っても知らない人ばかりだったとか
近所でも知らない人が多くなり取り残されたような感覚になっていた
そして認知症になって信じられないけど自分の住んでいる町の名とかすら忘れて思い出せないとなる、そして若い時のことは忘れないから延々と千回も同じことをしゃべっていたのである
それは病気もあるが老人はえてしてそうなりやすいのである
認知症は老人の症状が極端化したものなのである,周りが人間でも変わり浦島太郎のようになる、そして昔のことを延々としゃべりつづける、それだけ社会でも人間そのものの変化でも激しいからそうなる
そして残されたのは死があるだけだとなってしまうのである

posted by 老鶯 at 08:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療−老人問題

2018年10月05日

長寿大国 日本と「下流老人」森亮太を読む (手厚い治療や延命治療はできない、国にもその金はない)


長寿大国 日本と「下流老人」森亮太を読む

(手厚い治療や延命治療はできない、国にもその金はない)

この本は医者が書いたものである、医者から見てもう手厚い治療が限界だとしている
老人はもうそんなに医者にかかったり介護で手厚くしたりできない
老人はもうある程度諦観する、あきらめることが必要だとしている
それは結局老人にもうこれだけ増えてくると金も使えないし労働力も使えないとか限界にきているからである
日本人は病院好きだとか薬好きだとかそれで無駄な金が使われる
老人の病気は老化もありなかなか完治はしないから無駄に検査したり治療したり薬を飲んでも治らない、だからある程度あきらめるべきだという
そういうことは感じる、金もないのに仙台の医者に行き次は東京の医院で高度なMRIで写真をとる、それが必要だったのか?

今は医者だと高度な機械を設置しないと患者が来ない
そのためにまた医者でも金がかかる、するとそのために東京だけではたりなくて全国から患者を呼ぶということも必要になるのかもしれない、大学の関係で患者を呼び込むとういこともしているのかもしれない、つまり医者の方でも金がかかる
患者の方でも金がかかるのが現代の治療なのである
先進医療となるとさらに金がかかる、でも病気になるとどうしても金を節約できないのである、それで破産した老人の例を出している
そのことは他でも良く聞くことである、癌になるとかするとたちまち一千万単位で金がなくなったりする、それで老後破産になったりする
貯金が退職金をふくめてかなりあってもそうなっている
それはなぜなのか?

どうしても60以降は思いがけないことが起きやすいのである
その一番の思いががけないことが病気なのである
なんらか60以降は病気になりやすいのである、それから親の介護に直面することが多い私の場合もその二つが同時に来たから四苦八苦してきたことをプログで書いてきた
こういうことは自分だけではない,60以降に起きやすいことがこの本を読んで納得する60以降の最大の問題が病気なのである
それで予定が狂ってしまって老後破産に陥ってしまう

そして人間は60以降とか老人になると弱者化するのである
この弱者化することで犯罪にあったり追い込まれることが多い
それは自分が経験したことであり驚いた
頭がいいとか大の男も恐れない、こわがっでいた、それが見る影もなく無能化された姿には愕然としてたのである
銀行から金もおろせないとか認知症で白痴化したことは変化がはげしすぎたのである
それで対応に右往左往することになる
夫婦でもどちらかがそうして病気になると途端に弱者化してどん底に陥る
老後のリスクは金がないというだけでない、病気になるリスクが一番大きいのである
そこで予定が狂ってしまう、だからといって治療費を節約できないことが苦しいのである

自分に起きたようてことは60代以降に起こりやすい
親が介護になったり夫婦でもどちらかが介護になったりすると途端に弱者化して
追い込まれる、その時弱肉強食の世界が老後にも容赦なくふりかかる
それで耐えられなくなり悲惨な状態に追い込まれるのである。
現代は特に情がない社会であり金だけを要求する社会である
だから一人暮らしとかは孤立して誰も助けないような状態に陥りやすいのである
それは自分だけの特殊な状況から起きたとも言えないとこの本を読んで思った

Cさんはの代わりに買い物したり、ディサービスに向かう際に手助けしたり何かと身の回りを世話してくれた知人にお金をもち逃げされた
Cさんはその人の信頼して部屋の鍵まで渡していたのです
全部で3000万円近い金が盗まれました

この人は妻と死別して一人暮らしになったときにこうなった
いかに一人暮らしが今は危険か弱者化するかわかる
これと同じ経験を自分もしてきたからである
事情は違うにしろ一人暮らしは弱者化する、信頼して頼る者がいなくなる
するとそうしてヘルパ−などを頼み家の中に引き入れることがどれだけ危険なことかわかる、この人はそれなりに相当信頼していたがこれだけの被害にあった
額は違っていても自分も同じような目にあったからだ

ではなぜこうなりやすいのか?
それはヘルパーとか今は困窮した人がなる、金に余裕ある人は手伝いさんのようなことはしないのである
それが矛盾している、金に余裕のない人はそもそも危険である
しかし金に余裕がない人しかそうして働かないのである
老人でも金に余裕ある人はパークゴルフとか趣味とか遊んでいるのである
人間はいい悪いではない、もう窮迫している人はどんなことでもする
そういう人がそうして一人暮らしとか困った人の家に入ってくるから危険なのである
金に余裕がない人とか心に余裕がない人はまず人を助けることはできない
借金しているとか金がないとかしている人は常に頭が金しかなくなる
するとそうして入ってくる家なら金を得ることしか考えない、それは人のめんどうをみる
というより自分の方が苦しいのだからそんな余裕がないからである
つまり襲う人も弱者を襲い襲われる人も弱者なのである
弱者につけこみやすいからである、襲いやすいから弱者がねらわれる、襲う人も弱者なのである


働くことも人助けなんだけどそれは余裕ある人ならできる
余裕のない人はできない,むしろ相手が弱者化したときチャンスだとなるのである
こういうことは高齢化社会で起きやすくなる
一人ではどうにもならなくなる、介護でもそうである
その時家の中に入ってくる人は余裕ある人ではない、その人も困窮している人が多いのである、余裕あって金があってボランティアする人などいないのである 

この人は本当に悲劇だった、自分も同じだったから同情した
高齢化社会は長寿社会は暗黒の面が大きい、金の問題もあるし病気になること、自分自身だけでなく夫婦でも一方が病気になると悲惨なことになるのである。
この本で言うように自分の死に方でも事前に決めておく、延命治療はしないとか何かもう治療でもそんてに手厚くしないで死に向かうことを決めておく、つまり生をある程度あきらめる、そういう覚悟が超高齢化社会には必要になる
ただ別に健康ならいいのである、それだって百歳まで金があるのかとなるなくなる、老人は稼げないのだからどうにもならないのである、人間が長生きするとき少数だったらいいがこれだけの数がそうなるともう国を圧迫して国自体を破産させるとまでなっているのだ

だから若い人たちに老人は早く死んでくれとなるのもわかるのである
それはあまりにも数は多すぎることなのである、老人にはもう希少価値はない、長生きしたからと大事にもされないし敬老精神もないそういうなかで生きるとなると地獄だともなる
病院に行ったら早く死んでくれとか、介護施設は入れないとか、金がないものも死んでくれとかなる 
それは国をつぶすほどに老人が増えるからである、駅でも見ていると本当に老人が多い、老人ばかりが目につく社会なのである
その辺に老人ばかりがうろうろしている社会なのである
その人たちは別に用あるわけでもない、ただ何もすることなくうろついているだけだとなるからだ


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2018年09月23日

激務で疲弊した地方医師が、続々と都会の病院へ? 急成長する「医師エージェント」ビジネスの舞台裏


激務で疲弊した地方医師が、続々と都会の病院へ?
急成長する「医師エージェント」ビジネスの舞台裏



医局制度の崩壊で
大都市を目指す医師が増加

医師は大学を卒業後、研修医として「医局」に入った。「医局」は、教授を頂点とし、診療から研究、教育を担う機関。さらに医局は人事も握り、所属する医師を系列の病院に派遣。教授の意に沿わない医師が不当な待遇を受けたり、過酷な勤務を強要されたりするなど、弊害が指摘されてきた
いま、大都市の医療機関は、利用者からの厳しい評価にさらされている。医師の対応に少しでも不満を持たれると、すぐに悪い評判がネット上で広がる。逆に「いい医者」が来れば患者が増えると、ある病院の事務長は言う。
「いままでだったら、医者は来てあたりまえじゃないけど、でんと構えていた部分もあったけど、いまは、患者様に来ていただく、優しい先生のほうがいいですから。患者さんからしてみれば、結局、病院っていうのもサービス業なんで、各病院気にしていると思います」

仕方なく、総合病院の整形外科を受診すると、専攻医の医師が診てくださいました。
「専攻医」とは後期研修医のことだそうですが、診察は非常に丁寧でレントゲンに異常はなく「使い痛みでしょう」と診断して下さり、「一ヶ月もすれば治るでしょう」ときちんと予後も言って下さいました。
実際にそのとうりの予後になりました。
医学部を卒業して30年も経ってる医師よりも、勤務医の専攻医の方があらゆる面で上なのです、普通に考えるとこれは逆なのです。
改めて開業医のレベルの低さを実感したと同時に、開業医受診の危険性も実感しました。

ここのサイトは介護のことに詳しい、在宅介護すべきだという論には賛成する
それもむずかしいが本来はそうあるべきだというのは理解できる


その人はまず仙台の医者に行った、腰が悪いから整形外科なのか?
その医者は原町の病院で医者をしていたことがあり知っていたので仙台で診てもらった
次にその医者の紹介で東京の設備のいい病院の医者に診てもらった
大学関係で仙台の医者と東京の医者は知り合いであり連絡をとりあう仲だった
そしてわざわざその仙台の医者も東京にきてくれたという
でもその交通費はどうしたのだろうか?
その女性はさくらバスで東京まで行って安い宿泊所に医療関係なのか二日泊まることができて全身を検査した
その医者は親切だったという、あれでははやると言っていた

これでわからないことは仙台ならそれなりにいい医者がいると思う
現実に糖尿病で白内障になった人は仙台の医者で手術した、もう二か月もいる
白内障だから手術かむずかしいからだ
でも仙台から東京まで行って医者に診てもらうというのは普通はあまりないだろう
そして金もかかりすぎる、その人はいつも食べることがやっとしか金がないからだ
でもなぜ仙台の医者が親切にいろいろめんどうみてくれるのだろうか?
それはその女性がとにかくコミ二ケーションに優れているのである
何も取柄がないようでそれだけは感心する、ただ悪い方になるとクレマーになる
底辺層だから下の者にはうるさくなる、鬱憤をはらす対象になるからだ

いづれにしろ開業医は相当に医療の技術が劣っていることは間違いない
医療には医者の腕には相当な差がある、それは必ずしも出身大学では決まらない
職業には常に適性がありそれで決まる、手術がうまいというとき生まれつき器用な人がいてそうなる、一流大学でもそういう器用さがない人はうまくなれないのである
そうして医療技術の差が怖いのは命にかかわるからである
だから江戸時代でも目が悪い人が栄養の関係で多かった
それで優秀な医者を求めて遠くまで行って診てもらっていたのである

とにかく医者の技量の差は大きい、例えば認知症に家族がなったとき頭の写真をとったが三万かかった、その機械ではまず脳の写真はとれないのである
脳の写真をとれる診れる機械は福島県では郡山市とか二か所しかないのである
ではなぜ脳の写真をとれないのにとったのか?
それは金をとるためでしかなかったのである
それで保険料も入るから楽に10万以上は収入となるからである
今病院でも設備とか機械に金がかかるから薬でもいらない薬を飲まされたりしてかえって病気を悪くしたりすることがある
開業医は専門医からすると相当に劣っていることは確かである
でも田舎だとまずそんな設備の整った優れた医者のいる病院ではみてもらえないのである、まず医者自体が選ぶことができないのである
田舎で損なのは十分な医療が受けられないことなのである。

都会ではなんでも競争が激しい、だから新しいもの店でもそれがいいものなら客が入り一躍有名になり金持ちにもなれる、でもその盛衰が激しいのである
だめならもうすぐにつぶれるとなる、だから都会からいいものが生まれる
医者だって山ほどいるのだから選ばれる
それで今なら優しい医者がいいとなれば医者だって威張っていられない、優しい医者が病院でも選ぶともなる
それは田舎と違って医者でも選ぶことができるからである
自分と合わないとなれば別な医者をいくらでも選べるからである

仙台の医者でも熱心である、ドイツにも研修に行っている
前はドイツ語で診断書を書いていたが今は英語になっている
つまり医療の中心は技術はアメリカが上になったからである
開業医ではドイツまで行ったりしないだろう
そこに病院との専門医者との差が大きいのである
そもそもどうしても仙台の病院から東京の病院まで行かねばならないのかわからないからだ
仙台と東京でも医者に関してはそれだけの差があるということになる

地方だと前はもっといろいろなことで損していた、自分の場合は本を買うことができず知識の分野では相当なハンディキャップだったとことを知った
今はアマゾンでボタン一つで古本でもなんでも買えるから知識の分野では差別がなくなったのである
この前ロングパンツを買ったが千円でいいものだった、それはこの辺で売っていないものだった、だから得だったと思う、でも合わないものがあったりしたから着るものは問題がある
でも明らかに田舎では依然として売っていないものがある
衣服関係は種類が多いからそうなる

とにかく東京に医者が集まるというのは待遇でもそうだし医者にとっては地方はいいものではないことはわかる
技術をみがけないし先進医療もできないとなるからだ
でも南相馬市立病院の脳外科の脳出血関係の専門病棟ができたのは手術のうまい優れた医者がいて副医院長になっていて若い医者が習いに集まるからである
だから地方の病院でもそういうことがある
ただ断然東京に優れた医者が集まるし若い医者も集まる
それはまた医局制度が悪いものとされたがそれが廃止されて地方に優秀な医者は来ない、東京に集まるというのが問題なのである。



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2018年09月19日

東京まで行って医者に診てもらう人


東京まで行って医者に診てもらう人

腰が悪いと前々から医者に行っていた、仙台の医者にも行った、そこは前に小野田病院にいた医者であった、その医者が今度は東京の医者に診てもらいという
その医者は同じ大学で弟子にあたるとかで連絡をとったという
その病院にはこの辺にはない機械があるから良くみてもらいという
それで連絡して薬をだすようにするという

それにしても東京に行くというのは大変である
良く福島医大に通っていた人はいた
それで一番近道を知っていて通っていた
今は高速ができたから早くなる
とにかく病気というのはいろいろあり難病があると仙台でも直せないのか?
わからない病気があるのかとなる
一人は白内障手術したけどもう二か月入院している
それは糖尿病であり手術のうまい医者にみてもらっているからである

その女性の息子は実は今東京の八王子で働いている、でも息子には合わない
援助もしてもらえない、そして常に自分が金を出すことになる
でもそんな人を雇うとどうなるのか?仕事してもらっているのではない
ただ援助しているだけだとなる、へたすると介護までさせられるようになるかもしれないただ仙台の医者は金がないと言ったら一万貸してくれるとまで言っているという
そこまで金の心配までしてくれのかとなる
ただその女性の性格がそうしてめんどうみてもらうようなコミ二ケーションができることには感心している、だからこそそこまでしてくれともなる
自分等は医者でもそんなコミ二ケーションができないからである
そういうコミ二ケーションできる人は助けてもらえることがあるからだ

東京まで行くとなると常磐高速でさくらバスが出ていて5時間くらいで行ける
その人はバスは気にならないらしい、自分も乗りたいと思ったが何か疲れるので東京にも行きたくなくなったのである。
とにかく現代とはもう広域社会である、ええ、金もないのに東京まで行って医者に診てもらうのかとなる
知っている人は東京の親戚を頼り人間ドックに入った
東京だと違うとなるからだ、人間は病気になれば藁をつかむ思いでなんでも頼る
だから東京までも行くとなる
福島医大に仙台の医者から行くなと言われたという、実験材料にされるから行くなと言われたという、それで東京まで行く
ただこれも一面贅沢だなとは思う

ともかく病気の人が高齢化社会では増える、それで医療費とか福祉の負担も増えるのである、何らかの病気になる人が増えてくるからだ
それで昨日のNHKで縁切り自殺のことを放送してい
その人は67歳ですい臓がんになり東京で自殺したのである
それは東京だと行方不明者となり無縁仏として始末されるから迷惑にならないからだという、その人は迷惑になることを相当に気にしていたである
治療費も一か月5万かかるとかで気にしていた
何かそういう考えるのもわかる、ただその人は身寄りがないというのではない
一応内縁の妻とかいたのである、もう一人の人はちゃんと夫もいたのに
突然行方不明となり自殺して消えたのである

人間は最後は介護とかなったら長い、普通に5年くらいはかかる
そしたら身よりがないとなったら誰が世話するのか?
他人は金にしか興味がないからだ
それなら一層死にたいとなる、猫は死ぬ時期になると行方くらますという
人間だってそうなりたい、自殺はすすめられないがあまりにも今は死ぬことが簡単ではない、助けられるのはいいが介護になったら世話する人がいないのだからかえって苦しむだけだからである
おそらく今までは介護といっても一年くらいだったろう
でも戦前でも脳梗塞だと5年生きたとか知っている
その時おむつもなく藁でしていたという、そんなでも5年生きていたとなる

人間は最後はたいがい悲惨である、金があっても直らない病気がある
もし病気が直るなら誰でも金があればいくらでも出すとなってしまう
その人はそもそも東京まで直るのかどうかわからない
ただ医者がそれほど親身になってくれるということで行くという
でも自分にも常に負担になるから困るとなる
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2018年09月15日

金をめぐる結末 (認知症になり金のことがわからなくなった)


金をめぐる結末

(認知症になり金のことがわからなくなった)

家族二人はある時金で激しく争ったし金をためていた
一人は思った以上ためていた、それで驚いたということもある
今は誰でもそうだが金を第一の価値としていたことには変わりない
では結果的に最後はどうなったのか?

二人とも認知症になった
そして金のことがわからなくなった
銀行から金をおろせなくなった
通帳とハンコをもってゆけばおろせたのだがそれがわからなくなった
できなくて銀行員に笑われたのである
そのことも驚きだった

人間いくら金をためていても認知症になったから自分の金さえ銀行から下せないし
金のことがわからなくなる
金をためこんでいても金のことがわからなくなる
これは何なのだろうとなる
ただ最後まで金にはこだわっていた、金が大事なことは知っていたようだ
でも自分がためた金をどうすることもできなくなっていたのだ
金のことが証書にしても通帳にしてもその意味していることがわからなくなったからである
だからこれも信じられないことだったのである
そんなことがありえるのかという驚きだった

次にもう一人も認知症になった
こつこつと一円も無駄にせず金をためていた
大正生まれであり働くことしか関心がない、何か趣味などはない
だから家事を94歳までしていたのである
遂に寝たきりになりボケた、認知症になった

そして大金を盗まれたことを言った
その金額は実際相当な額だったのである
でもそれを言ったら笑っていたのである。
これも信じられないことである
一円にこだわり何も使わない人がそんな大金を盗まれて笑っていたのである
認知症になり金にこだわらなくなったのである

そもそも金、金、金・・とこだわってきたのにこんなことになることは何なのだろうか?これも不可解なことである
ただ金のことがわからなくなったということでもなかった
どういうわけか死ぬ一二か月前に孫にいくらやれと自分に支持したからである
それが遺言になって私はそれを実行した
その時正気にもどってそう言ったのである

人間はどれだけ金にこだわり生きているか?
金が今や生活のすべてだともなる、でもその最後に金のことがわからなくなる?
これも信じられないことである

死ぬときはもう金のことばどうでもいいとなるのか?
認知症にして金のことは忘れさせるのか?
大金を盗まれても笑っているのがそうである
あんなに一円にもこだわっていてこつこつためた金を盗まれても笑っていたのである
もし正気だったらどうなったのか?
両方とも恐ろしいことになったかもしれない

一人異常に気が強いから何か事件にもなったかもしれない
でも最後の金の結末は金のことを知るにもわからない、そしてどうでも良くなり笑っていたという不思議である
人間は最後死ぬときになると金のことなどどうでもよくなることなのか?
ただ遺産を狙う人はそうではない、その人は金のことに無頓着わからなくなっても
遺産をもっているとなるとそのために認知症になっても人はその人にまとわりついて金をとろうとするのである

そうなった人を知っている、その人の悲劇は娘でも実際には育てた言えないからである
母親という感情がない娘である、なぜならその娘は育ての親が病気になったとき
何もしない、ただ幸いにその育ての親は病気ですぐ死んだ
だから介護もなにもなかった、娘は何もしない、そして「ひどい娘だわ」と言って死んだのである
その娘は今実の母親を施設にあづけているけど何の愛情もない
ただ金があるので金が目当てなだけなのである
金があるからかかわっているだけなのである

ともかく人間は今は金をめぐって泣き笑いがあり金にまつわり事件がある
でも最後に金の結末はどうなったのか?
二人とも認知症になり金のことがわからなくなったというのも皮肉だ
それも神の計らいなのか?神からの罰なのか?
人間死ぬときになったらもう金のことは関係ないとなるのか?
いい方に見れば死ぬときは金から解放されるとなるのか?
ただ地獄の沙汰も金次第となり金から離れられないのが人間である
ようやく屍となり金から離れるとなる
金の心配はなくなるとなる 

結局人間は悲劇であり喜劇であるのもまた結末なのである 
人間にとって何が大事なのか?
それはみんな金だと思っている
だから金にこだわりつづけて生きる
でも最後に死ぬときに金は何の用もたさなくなった
なぜなら金のことがわからなくなったからである
それは認知症になってわからなくなったからである
本当はそこで金にだけ価値とすることがすべて崩れたともなる
家族なら金で結ばれているのではない、愛情で結ばれているのが家族だからである

でも人間は金にこだわる、金が親子でも家族でもかかわる
その金によって愛情で結ばれている家族が分断されるのである
金によって人間は争い分断される、それはこの辺の原発事故の補償金で分断されたことでもわかる、結局金は欲でありその欲によって争うことになる
でも認知症になると金のことがわからないのだからどうにもならない
銀行から金をためこんでいてもおろせない、これほどショックなことはない
つまり全く金にこだわっていても無力化したのである
人間死ぬときとかになると無力化されるのかもしれない
もう老化したり認知症になることは死ぬということは無力化することである
ある意味で白痴になることでもある、最後人間はどんな人でも無力化される
それが人間の最後であったともなる


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2018年09月13日

岡和田から横浜に移り住んだ老人 (都会で増える “呼び寄せ高齢者)


岡和田から横浜に移り住んだ老人 

(都会で増える “呼び寄せ高齢者)

そもそも兄弟の数が減っているので、地方にすら子どもが残っていないから、都市に出ている子どもが世話をしなきゃいけなくなるという。
また一方で、遠距離介護とは違って、Uターンをして介護をするということも、これまであったと思うんですけれども、特にここ10年ぐらい、地方の経済が非常に疲弊していまして、Uターンをして介護をしようにも仕事が見つからない。


その人は電車で来たのではない、車で駅に来たのである、駅には車の人も来るのである
男が二人に老女が一人だった
その老女は私は岡和田に住んでいたんですよと言った
横浜の息子の所に移住したのである
誰もめんどうみるものがなく故郷に住んでいられないで娘や息子の住んでいる場所に引き取られる老人も増えている
逆に老親が故郷に住んでいて横浜から娘が移り住んだ人もいた
それは特別な事情があったからである

なぜこういうことが起きるのか?
知っている人で二人とも娘がいるのだが東京に住んでいる
すると老夫婦でも取り残されたり一方が死んだりすると一人になる
するとめんどうみる人がいなくなる
すると娘とか息子の住んでいる所にひきとられるのである

そうなる人も多いのである、それは結婚は広域的になっているからだ
それで息子であれ娘であれ遠くに住む、ばらばらになっているのが多いのである
昔は実家が長男が継ぐとか実家を守る人がいたが今はいない
それで跡継ぎがいなくて墓じまいしたとかなる
墓も実家があって守られるがそれがなくなると墓も守る人がいなくなるのである
この前は駅前の老女も日立市の甥子の所にひきとられた
そこは空き家になった、そういう人も増えているのだ

広域社会というのはグロ−バル社会でもそうだが物資の流通は盛んになる
でも人間の交流は離れた時点で疎遠になるのである
それは家族でも血縁でも同じなのである
では地元で故郷で誰か周りでめんどうみるかとなると田舎でもいないのである
隣近所で助け合うなど今はない、田舎でも金の世の中になればそうなる

何かこの辺で原発事故以後家族がばらばらになったというとき飯館村の人が嫁の実家の京都に移り住んだとか普通にある、結婚も広域的だからそうなる
そして住み慣れたところを離れてゆくのはつらいともなる
そして農村社会であり田舎なら人のつながりがあると思うがなくなっているのだ
盛んに絆が言われたがむしろ外部との絆は生まれたのである
内部の絆はこの辺は補償金問題とかで分断された
それは広域社会になると外部とのつながりは交通の発達で生まれた
でも内部でのつながりは希薄化したのである

ただ遠くの親戚より近くの他人という諺は今でも生きている
何か困ったことがあったら遠くになると簡単に来ることはできない
結局老親でも近くに息子娘の住んでいる場所に引き取る他ないとなるのである
遠くにいてはめんどうみれないからである
つまり広域社会であれグロ−バル社会であれ矛盾を生んでいる
田舎に住んでいた人が東京とかで暮らすのは年取ってからは嫌だしそれで精神を病むということもあるだろう
これも現代社会の矛盾なのである

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2018年07月24日

高齢化社会で目が悪い人が増える (老眼鏡や補聴器は高齢化で確実に売れる商品)


高齢化社会で目が悪い人が増える

(老眼鏡や補聴器は高齢化で確実に売れる商品)


家に来る人は目が悪い、まだ70前でもそである、前に知った人は緑内障だった
今度来た生協の人も60以上であり注文することで聞いたが目が悪く教えることがすぐにできなかった、明るい所でないと見えないと言った
80の人は白内障の手術をする
生協の人は相馬市から来ていて営業に来た人も老人だった
ここでも老人社会になったということがわかる
60代で目が悪い人が多いとなと思った

自分は近視で眼鏡をかけているけど毎日パソコンしているけど目が悪くなっていないのは不思議である、パソコンは目に相当に悪いからである
スマホなども字が小さいから目に相当悪い、若い人でも悪い、何かスマホは視野狭窄になるような気がする、パソコンは画面が広いから字見るのでも違っている

今日注文したのはサングラスで透明のものである、それが2000円で頼まれたのである女性用と男性用を頼まれたのである。
畑で仕事するから日ざしを受けるから必要なのである
今年は暑いからこうした暑さ対策のものが売れるだろう
自分は6リットル入るタンクをアマゾンで注文した,冷凍機能もあるらしい
氷をいれておくとか麦茶を作るにはいいらしい
何しろ水道の水は使えないのでペットボトルを使うからめんどうになる

この辺は35度とかにはなっていないからなんとかしのげる
暑いとか寒いとかこれは住む場所に影響する
浜通りは暑からず寒からずでいいのである。気候だけは推奨できる場所である
一山越えたら福島市になると蒸し風呂である、そんな所に住みたくないのである
体力的に弱い人は気候を選ぶことが大事である
老人になって移住するにも夏の暑さとか冬の寒さを考慮しない失敗するだろう

このように高齢化社会は目が悪くなる人が増える、するとそこで消費が生まれる
眼科医とかが繁盛するようになる
眼鏡類でも老眼関係が売れるとかなる
まず老人は消費力がなくなる、自分も登山しようかとかザックを買ったが行けないので損した、自転車で遠くに行くために電動自転車の長距離用を買いたいと思ったが体力的にも家の関係でも留守にできないとかで行けない
つまり今までしていたことができなくなる
そしてつくづく今のはやりのものでも買うことがむずかしいなと思った
それが何なのかわからなくなり使いこなせないのである
パソコンしていてもスマホはまた別で使いこなせない
それで老人は不利になるのである
今回の西日本の洪水でも死んだ人は7割以上は60歳以上とかだった
津波で死んだ人たちも老人が多かった、何か機敏に老人は反応できないからである

視力が弱まることで周囲の状況が見えづらくなり、適切な判断ができなくなることです。また、反射神経も衰えるので、素早い反応ができずに慌てたことが原因で、ブレーキとアクセルを踏み間違うというケースも増えてしまうのです

高齢化社会で売れるものは何なのか?
老眼の眼鏡とかは売れる、,確実に目が悪くなる人が増えるからである
前にも5万で家族に買ったがそれは使いないで終わった
それは耳が悪くなるからと補聴器を買ったがこれもうまく合わないのである
これは高いから気をつけるべきである、高いのでも10万とかするものでも合わないものが多いからである
ただこういうものは高齢化で需要がありどうしても金がかかるとしても買わざるを得ないから売れるのである   

生協は冷凍のオカズだから何かオカズを用意できないときレンジでちんだから便利であるまずオカズを用意するのがめんどうなのである
ただたいがいスーパーに売られているものでだぶる、値段も安くない
でも冷凍食品は料理するのに簡単だからそこに利便性がある
電気も生協で売るようになった、いろいろな電源を利用するから安くなるという
ただ一年で2000円安いだけでは変えるのもめんどうだとなる
その後のサービスも心配であるが修理とかはみんな東北電力でするというからどうなっているのかわからない、生協は配達にくるからそれも相馬市の人だから何か頼めるということがあるかもしれない、やはり家に来る人は意外と一人暮らしでは頼もしく感じる
そこが家に来る人が銀行でも回って歩くと違ったものになり信頼したりする
でもそれを銀行では利用して投資信託をうりつけたのである。
だから必ずしも家に直接来る人が信頼はできない
ただ生協などは注文したものを配達するだけでありいつでもやめることができる

銀行なども信頼関係が大事である、でも投資信託などを売りつけるということで信頼できなくなった、そうなると直接来てもこの人は信用できないとか銀行でも信頼できなくなるのである。
もしかしたら生協は配達する者営業する者も老人だから老人関係に特化するものを売れば売れるかもしれないとなる、老人にサービスするものが売れる時代だともなる
老人が貧乏だとしても需要があるから売れるとなる
どうししても必要なものは買うことがあるからだ

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2018年07月05日

近くの同年代の人は要支援なのだろう (金がなくて援助が頼めない)


近くの同年代の人は要支援なのだろう

(金がなくて援助が頼めない)

介護施設を利用する際にかかる居住費・食費は保険対象外の全額自己負担となり、これを理由に特養への入居をあきらめる人が増えたという。

要介護状態の利用者が、要支援状態の利用者が多すぎて、本来のサービスが受けられなくなることへの対策という部分が強いように思われます。

要支援が要介護に統合されるのではありません。
介護予防サービスが市区町村の自主サービスになり、介護保険サービスから外れるのです

その人は近くで同年代でありその親と自分の親とは親しかった、でも死んだ
その時はヘルパ−がきていた、農協関係なので来ていた
その後その人は脳梗塞になり足が悪くなった、買い物でも車が運転できるので一人で足をひきずりきている
その人も一人暮らしだが弟が隣の市にいてめんどうみている
でもうまくいかないとか言っている

そして自分のことを一人女性に手伝ってもらっているからうらやましがっている
その人はその女性の前の夫とかと仕事をして知っていたのである。
何か手伝ってもらいたいことがある、でも金がないからできないとかいう

でも自分にしても手伝ってもらうにしてもその女性は三日に一回皿を何枚か洗うだけなのである、その他は一切何もしない、でもその人自体が貧乏だから金をせびられる
あんなふうに遠慮なく金をせびる人もいるのかと思う
その人に自分は手伝ってもらう必要はない、家事は今は全部できる
でも誰も来ないよりはいいと思って金を出している
ただ外から見ているとあの人は金があるからお手伝いさんを雇えるなのだとみる
その人はそう見ている
それは足が悪くて苦しいからそう見るようになる

考えてみれば確かにもし市町村から支援を受けるとしたらその人は優先される、家事を多少手伝ってくれる人が派遣される、要支援になっている
でも要支援が廃止されたから援助が受けられない
ただその人には弟がいるとき今はその弟が支援してくれ介護してくれとこれからなる
介護は誰かに押し付けられそれがやはり兄弟となるとそうなる
現実的には誰も他人が介護したりしない
そしておそらく弟もやっかいだからもめているとなるとこれから重症になったらどうなるのか?

「金があればできるのにな」というがその金でも相当な金持ちでないとお手伝いさんすら頼めない、皿二三枚洗って…円も払わなければならないのか?
自分はやめたいと思っている、その女性も年でありいつもどこが痛いとかいい医者通いであり貧乏なのである。障害者もかかえてその世話に追われている
第一金がないのだから金のない所には行かない
その人のことは知っていても声をかけるが行かない、その負担を背負いようがないからだただ自分のしていることくらいはできる、でも金にならないから行かないのである。

こうして金がないと皿二三枚すら洗ってもらいないというが自分の所に来た親戚というものではないがその人たちは自分が苦しい時でも皿二三枚も洗わなかったのである。
なんの援助もしたくない、借金した人は金を要求して脅迫するまでになる
あとは金をとろうとして現実にそうなって大金を失った
そこに金目当てしかないのである。だから金があっても非常に家に入れることは危険極まりないとなる、へたするとその金のために殺されるともなるし現実にそうなっている
和歌山のドンファンが殺されたのもそのためである。
金の恐ろしさがそこにあった

介護保険とは金のあるなしでなく公平に援助するという制度である。つまり金のある人はある程度お手伝いさんを頼める,でもそれは今では大金持ちしかできない
そしてお手伝いさんを頼むにしても現代では危険がつきまとっているのである。
だからこの世は金だけではなんでも解決しない,一見確かに金をやればなんでもしてくれるではないかというがそうでもない,金だけならその金をねらわれるからだ
動機が金だけになるからそうなりやすいのである。
そこに何かそもそもあわれむとか助ける気持ちがないからである。
福祉とは営利だけではやれないことでありそこに問題が生じている
でも貧乏な人は金が欲しいからするのである
それが動機にならざるをえない、金にならなければ貧乏な人は生活に困っているのだから他者を援助できないのである。

つまり福祉とは確かに金ではあるが金だけでは解決しないことがある
でも金だとみんな思っている、介護士がたりないのは給料が安いからだとなる
なんにも得られないなら人はなにもしてくれないというのも現実なのである。
また介護の仕事をしてそこで得られものは何なのか?それも問題になる
仕事がいろいろあり若い内ならスキルを磨く、仕事に生きがいを見出すとかあるが介護にはないとしたら仕事そのものがつまらない得るものがないとしたらやる人もいない
では金をもらえばやるというとき福祉にはその動機だと勤まらないとなる

福祉が金の世界になるとどうなるのか?
極端な話、水一杯やるから10万出せとかにもなる、これを運んでやるから10万やれとかなる、なにかちょっとしたことでもしてもらうのにそうなる、
お前にはそれだけの金があるから払えるだろうと脅迫されるのである。
福祉が金だけが動機だったら極端でもそうなるのである。
そして逆に金の払えない奴はなにもしないとなるのである

ただ別に元気な老人はいくらでもいる、パ‐クゴルフ場ではそうした暇な老人であふれているし復興住宅に入っている避難者でも遊んでいる
仮設の時も自分も介護だったがそんなこと関心がなく毎日パチンコ通いだった
つまり人材がいないわけではない、きつい仕事ができないにしろ元気な老人はいる
でもその人たちはそうして要支援のような人を助けるかといったらしないのである。
介護は誰もしたくないのである。ただ軽い内ならちょっと手伝うことくらいはできるかもしれない、でもそれすらしない、自分の所に来た人たでもそうである
借金しているからパチンコ屋で働いていて余裕がない、自分の家に来てもなにもしない
ただ金をくれというだけである、その人も余裕がないからそうなる
第一他人の家に来て皿を洗うとかなると普通に暮らしている人はしない
特別貧乏な人がやむをえなくしているのである。
だからそういう人は問題あるにしろありがたいともなるのだ
なぜなら誰も他人の家に来て皿二三枚でも洗ってくれないからである。

これまでこんなことは考えもしなかった、なぜなら食事は三食常に用意されていたし
家事もしない、買い物はしていたが後は何もしなかったからである。
だからこれもつくづく自分のカルマだと自覚した
何か自由に旅行したが今は家に誰もいなくなるのでできない、誰も家を守るものもいないからだ、留守にできないからだ、これも何か自分のカルマだったなと思う
楽していることもやがて必ず苦となりカルマを自覚するのである。

ともかく福祉というとき本当は競争社会に生きてきたのとは違うものが要求されている、助け合いとか相互扶助とかが要求される
それを立派な施設に金をかけたりそこで今度は介護士を雇うとか金がかかる、要支援段階くらいだと相互扶助の近隣とかの助け合いでやれるかもしれない、でもそれすら今はない、共同体とかがない、するとすべて金頼みとなる
結果的に国でもそんなに金を払えないとなるのである。国の金はまた国民の税金なのである。
国民もすると税金をそんなに使わないようにするには要支援とかの軽い段階で助け合いした方が節約になる
ただそんなことを考える人はいない、そもそもみんな自分のことしか考えない、そして金の社会だから金を得ればいいとしかない、


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2018年07月03日

介護で亀裂する家族 (義母の介護を嫁はできない)


介護で亀裂する家族

(義母の介護を嫁はできない)

「老親の世話や介護というのは、突き詰めれば『親をとるか、妻をとるか』という究極の選択でもあります。あらかじめ自分自身がどちらをとるべきか考えておいたほうがいいでしょう。いざ、という時になると判断が鈍ってしまうものです。

そしてもし夫が妻ではなく親を選んだ場合、妻にとって夫婦関係を続けていく理由はなくなります。だから、夫は捨てられてしまうのです。

お義母さんは絶対にイヤ。お義母さんをとるか私をとるか、きちんと答えを出して。場合によっては離婚です』、妻からこうつきつけられています


人間は家族でもつくづくうまくいかない、妻がいれば介護でも義母でも助かると思う
なぜなら自分は一人で二人を介護したからである。
その時何の助けもない,ただその弱みにつけこまれて犯罪にあい責められるだけだった
もし妻がいればそうはならなかったのである。
そのことで私は反省した、それも自分のカルマだったと自覚した
しかし一方で妻がいてもうまくいっていない、姑とは結婚してもうまくいかない
そのことが尾を引いて介護もうまくできないのである

義母さんをとるか私をとるか?

こんなことを夫に迫られる、家族なのにむごいと思う
自分の場合は二人とも大事でありそういう選択はなかった
そういうのが家族なのか?
ここに家族が血縁でも結婚しても愛あるものとはならない
人間の家族とはそういう宿命を背負っている
子にとって親であっても嫁ぎ先の親は親ではないのである。
こうなると自分の家族にも平和がなかったが家族というものにそもそも平和がありえないともなる、夫がそう思っても妻はそう思っていない
そして夫の実家の墓に入りたくないという女性が三分の一もいるのである
それは義母と一緒の墓に入りたくないからである
そういうことを自分の家族でも経験したからそれはどこの家族でもありえることなのだと実感した
自分の問題は自分の特赦な家庭問題だと思っていたが特殊ではなく普遍的な家族の問題としてあったともなる

結婚しても義母は嫁にとって母になりえないということが深刻なのである。
また義母にとって娘とはなりえないことが介護とかなると露骨に現れる
介護はやはりそれだけ負担が大きいからそうなってしまう
実の母なら介護するが義母は嫌だとなる

だから結婚とはなになのか?それも自分には結婚していないからわからないが家族にはみんな共通した問題として嫁と姑の問題がある
それとも違うがそれとにたことで60年間共に生活しても苦しんできたのが自分だったからである。

つまり人間の結婚とかそこから形成される家族とか自体に問題がある
それは肉の結合でありだからこそ宗教ではそれを否定して出家していたのである。
家族はどこでもこうした問題があり平和がない、それでは家族がないとするとどうなるのか?身寄りのないものはこの非情な世の中で最大の恐怖を生きることになる
誰も親身になり助けるものいていからだ
妻がいれば助ける、でもいなければいかに人間が非情の世界に突き落とされるか実際に経験した,、他人とは金意外何のつながりもない社会である
あいつ死んだらいくら金残しているのかそれしか関心がないのである

でもまた結婚して妻がいてもこうして何かうまくいかない、人間そもそも何かかにか問題をかかえている、一番多いのは金の問題である。
その他にもみんなそれぞれ問題をかかえている
金があっても病気があると金ですべての問題が解決されないのである。
人間は何かがたりない、あらゆるものが満たされている人は一人もいない
何かしらたりないものがありそのことで苦しんでいる
「俺はなんにも困らない」という人はありえないのだ
そう今言っていても一転してドン底に落ちることがありうるのも人間なのである。

人間は何かが足りない、だから足りないものを補い合うというた態度が必要になる
才能でもなんでもそうである、まずあらゆる能力をもっている人などいないからである。社会はそうして様々な能力を活かして補い合い機能している
男女でもそもそもそうだろう、男にたりないものを女性が補い、女性に足りないものを男性が補っている、人間はなぜそうしてたりないものなのか?
それは人間同士が協力しあうようにするためだともなる、何でも満ち足りていれば弱さもなければ協力しあう必要もないからである。

いづれにしろ介護とかでは家族の問題がどこでも噴出する
それは介護が負担が大きいからである。その負担を負わされるのが嫁でも嫌になるからである。それで私をとるのは義母をとるのとかむごい選択を強いられる
それが家族なのか?でも現実はそうなのである
自分の場合は子であるし良くされたからそうした選択はなかった
だからつくづく人間は家族でもうまくいかない、そもそも家族が何なのか?
それに疑問をもったから宗教では出家したのである。
家族が血縁でもそれが本当に愛があるのかとなるとそうではない
まず私をとるのかと義母をとるのかとなど家族だったら強いたりしないからだ
どっちも掛け替えのない家族だから大事にしますよとなるのからだ
それができないということは結婚でも家族でも本当の家族なのかという疑問になる

結局結婚しても結婚しなくても人間は問題をなにかしら問題をかかえる
子供をもっても問題をかかえる、では独り身がいいとかなるとこれもは過酷だとなる
人間はそれぞれのカルマを背負って生きるとなる
そのカルマは人間が生まれと同時に原罪のように背負わされていて解消できないのであるようやく死んでカルマ解放されるとなる

人間はいいことがあると悪いことがある

結婚はいいものであるがまた悪いものである、このように悪いことももたらす,でも独身がいいわけではない、いいことと悪いことをもたらす、人間はいいと思うことには必ず悪いことがともなっているのである
金があるのはいいことだけど反面金があると金だけをねらいよってくる人がいるし犯罪にもあったりする
それはあらゆるところでそうなのである。ではなぜそうそうなっているのか?
それが人間がいくらいいものを幸福を求めてもそれは達成されないということである
それは科学技術がいくら発展して便利になってもそうなのである。
そういうふうに神が人間を作ったとしかいいようがないのである。

だからキリストが言った、悲しむ者は幸いである 人間はいくら幸福を求めても達成できない、そして必ず悲しむ者となる
むしろ悲しむ者が幸いなのである。それは不幸が幸いだとも言っている理解しがたいものなのである
そして人間は悲劇に終わるようにできている、それは人間はこうして結婚しても親と妻である私をとるのとか選択を強いることでもわかる、家族として一つになりえないのである
それは家族だけではない、絶え間ない国と国の争いでもそうでありそこに日本だと3百万人が死んだとか犠牲になる
まさにその人たちも悲しんで死んだとなるからだ

ただこの悲しむこと人間のドラマが悲劇に終わることに深い意味が与えられている
ドラマにしてもハッピィエンドに終わるドラマは何か深い意味を与えない、それでシェークスピアの作品が悲劇をテーマにしていることもわかる、悲劇によって人間の生きる深い意味を理解する、それによって人間は考えさせられる
ハッピィエンドだったら何も考えないからである、だからこうしてなぜ家族すら和合しない、平和がないのかとなるのだ
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2018年07月02日

団塊の世代の親が死に同世代も死んでゆく (一人暮らしが増えてゆく)


団塊の世代の親が死に同世代も死んでゆく

(一人暮らしが増えてゆく)

その人は子供の時から家の近くに住んでいた、その親も知っていた
ただその後は言葉も交わさない、でも自分の親が介護になったとき
その人が同じ病院で親を介護していたのである。
脳卒中だった、だからこれから介護が長いなと見ていた
でも今日スーパ−であったら親も88歳で死んで妻も68歳で死んだという
その人も一人暮らしになったのである。
そこにまたいたのが近くの一回脳梗塞で足がマヒした人だった
それは同世代でありその人も親が死んだ、その人の親とは自分の親は親しかった
その人は一人だけで原町に弟がいて一週間に一回見にきている
でもう。まくいってないとこぼししていた
何か世話するのが嫌なのかもしれない

子供の時から知っている人が死ぬとやはりあの人も死んだのかとなる
親戚も多い人は毎月お悔みが増える、それが田舎では大変なのである。
自分はほとんどつきあいがなしお悔みも断った
そのお返しとかめんどうになるのである、葬儀もしないうというとき一人でやるのがめんどうになるからだ、介護でもそうだが一人は家事でも全部やらなければならないから負担なのである。
子供の時知っているということは一応他人でも無関心とはならない
ただ今日スーパ−で会った人は役所に勤めていたことは知っている
ずっとこの地に住んでいたのである
近くの人でここに最近移ってきた人は子供の時からいないから向かいの人が死んでも知らなかった、組にも入っていなかったからだろう
ただおばさんとかいてそっちの方の組に入っていたのだろう
そういう人は死んだことも知らないのである。

ともかく68歳で妻が死ぬということもある、そして一人暮らしになる
近くの子供の時から知っている女性も夫が60代で癌で死んだ
そして大きな家に一人暮らしなのである。
このように一人暮らしが増えてくる、これはどこでもそうだろう
団塊の世代の親でも次々に死んでゆく、向かいの女性は85歳だった
その人の親は88歳だった、姉は85歳で死んだ母は百歳で死んだ、脳梗塞で足が悪い人の母親は93歳くらいで死んだ
やはり85辺りになると死ぬ人が女性でも多いと思った
やはり寿命なのだろう

とにかくこんなに次々に知っている人でも死んでゆく、死の世代だともなる
2025年問題が騒がれているけど実感した、今度は親を介護して看取った団塊の世代が大量に病気になったりする、その数が多いからもう国ではめんどうみきれない、財政的にもめんどうみれないとなる、それが2025年問題である
古い家の郷土史をやはり研究している同級生も脳卒中になったが自転車で運動している
でも一回脳卒中になるとまたなるとか見ると弱って見える
この年だとみんな弱ってくる、そして一人だと心細くなる
ただみんな兄弟とか娘とか息子がいるのとは違ってくる
でも娘が東京にいるとか聞く人が二人いた、必ずしも田舎に住んではいないのである。
それもだから介護になったりすると問題である。
妻でも60代でも死ぬ人がいる、夫でも死ぬ人がいる,するとそこで一人になる人が多いのである

このことで問題にして本を出した人がいた、コンパクトシティを作るべきだというのもわかる、介護にしても福祉にしても離れていると一軒一軒回るのでも手間になるからだ
ともかく親でも知っている人でも次々に死んでゆく
死が日常的に感じる世代になった、そして同世代でも死んでいる人もいるし大量に死んでゆく時代になるのだ、その時都会では火葬場すら満員で利用できないとかの問題も起きている、数が多いからそんなことまで起きているのである。
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2018年06月30日

2004年9月30日の俳句日記を読んでふりかえる (向かいの人の死で死を考える)


2004年9月30日の俳句日記を読んでふりかえる

(向かいの人の死で死を考える)

窓開けて隣に古き柿のなる

この辺は前も書いたがまるっきり昔の面影がない町になった。唯一残ったのが隣の古い柿の木である。これは自分の子供時代からあった。ほかは何もなくなった。その隣の家の人が最近死んだ。呆気なく死んだ。時々この窓から見ていたので死ぬとは思っていなかった話すこともなかった。東京の方へでて帰ってきた人だった。おくさんは東京の人だったがそれでもすでにここに長い、でも一言も話すことなく死んでしまった。ただこの柿の木は結局人間の寿命より長い、木の命は人間より長いから人間が死んでも残るのだ。人間がいなくなっても木は昔と同じように存在して柿が今年もなった。

2014−2015年 俳句日記より

隣の家は空家になっている、今は一時的に家を建てるための人が移り住んでいる
その人には息子か娘の夫婦がいて孫がいる
でも家が建ったらまた空家になる
その人の家は夫はこの町の生まれの人だった、嫁は東京の人だった
だから子供の時から知る人ではない、でも長くその家にいて自分の窓からその庭が見えた古い柿の木があり柿が実っていた、犬もいたが最後の三日くらい吠え続けて死んだ
犬も死ぬのが嫌だったのだろう
その女性は体が弱り買い物などを頼んでいたが遂に歩けなくなりいわき市の施設に息子夫婦が入れた、一か月18万とか高いことを言っていた、施設は実際そのくらい金がないと入れないのである。

何か過去をふりかえると不思議である。俳句日記を読んでも忘れている、その時のことが思い出せなくなり日記を読んで記憶をよみがえらす、2005年までは自分の姉は認知症になっていなかった、2006年から認知症になり介護生活がはじまった
その時は自分の家は平和だったのだ
そして自分は以前として家に引きこもっていて隣の家の庭を見ていたのである。
ふりかえると自分の生活は異常だった,なぜこうした生活ができたのか、それは特殊な家の環境のためにそうなったのだ、60年も家にひきこもった生活をしているのは異常だったし普通はできない、最近ニートとかいるから今はめずらしくない
ただ自分の場合は50歳から海外旅行していたからニートとはまた違っていた

この辺は変化はあまりにも激しかった、津波や原発事故の前でも住宅整備があり裏の畑や田んぼは整地されて住宅地になったからだ、その変化も大きかった
子供の時は真野川から水をひく水路がありそこで洗濯もしていたのだから信じられないとなる
人間はこんなに変わるものなのか、特に姉が認知症になりそれからは塗炭の苦しみが延々とつづいた、そのことは今度はプログに書いてきた
そしてなぜまたここに引用して書いたかというと数日前向かいの子供の時から知っている女性が死んだ、一週間前ほどに姿を見かけたので死ぬとは思わなかった
歩ける人が死ぬと思えなかったからだ、でも肺が悪くて血を吐いて死んだのである。

何かそのことが気にかかる、最後に言葉をかければよかったなとつくづく思う
そして近隣の人の死は何なのだろうと考える
何といっていいかわからないのだが死んだ人が何か言いたかった、そしてこの辺をまだ彷徨っていとなる、ただ向かいの人の夫婦は姿も見たこともないから関係ないとなる
でも死んだ女性のことは知っていた、その死が何か気にかかるのだ
家族の死でもないのになぜ気にかかるのか?

おそらく昔の死は村で共有していた、村の中でその死は孤立したものではなく死んでも共有されるものがあった、それで村人みんなで供養したりしたのだろう
そこに寺があり長く供養していた,寺は嫌だがそうして村の共同体が成り立っていた
その村の共同体がなくなると死は個々の死であり家族内とかの死であり近隣ですら関係ないものとなる、孤独死とか無縁社会というのも死者でもそれは近隣でも無縁化した死となる、死には個々の死がある、死ぬということは別に共同体とか社会と関係ないものとしてある、人間が死ぬ、そして灰になり消える,その衝撃は人間が生まれてから変わらないからである。その克服は別に共同体とも関係ないのである。
なぜならもう強固な共同体があったら死をまねがれるということでもないからである。

ただ死には共同体とかかわり社会的な死がある、人間は社会の中で死ぬのである
家族の中で死ぬのである。家族も社会とかかわりあり死がある
何か今回の向かいの人の死が自分にとって何なの考えさせられた
何か言い残したいことがあったのかなと思う、死の謎は個としての死と社会的な死があることは確かである。300万人の死は国家としての社会としての死であり個々の死ではなく社会的死としての問題なのである。

人間がそこに長く住むということは死を共有することになる、村というのは代々つづいているからだ、そこに先祖がいるといか感覚になる、先祖と結ばれるということはそこには村のような共同体があってこそそう感じる,それは理屈でなく一つの宗教にもなる
先祖崇拝がどこの民族でも起きていたからである。

でも現代のように生活が複雑化してそれぞれが孤立化したような社会になると共通の先祖を認識できるだろうか?
春になると御先祖様が山から下りてくるという思想は農業から生まれたのである。
葉(羽、端)山信仰もそうである。山から水が流れてきて春になると田植えがありそれで先祖が里におりてくるというときそれは農耕社会だから起きてきたことである
なぜなら農業社会だとみんな同じような生活をしていたからである
そこに共有するものが実際の生活でもあり精神的にある
そういう社会は死も共有していた、自然と抵抗なく共有できた
村では共同して農業をしていたからである。

だから墓友達などと今は同じ墓地に葬れられたいというけどなかなかなりにくい、つまり生の延長として死もあるからだ、社会的死というときもそうである。
だから現代は田舎でもみんなで死を共有して弔うということがない
葬儀屋にまかせるとはいうのも何か社会的死を専門化させてかたづけるとなるからだ
ただ正直村社会になると葬儀とかが本当にめんどうになるしそこに寺がかかわってきたらさらに金もかかるしめんどうになる、そもそも江戸時代のような社会とはあまりにも変化してそれもそぐほなくなったからだ
ただ死には社会的死がある、それは死というのが個としての死があっても社会的死となるのが人間だからである。動物だったら仲間が死んでも無関心だからである。

いづれにろ現代社会は死も共有できなくなった、その時先祖もなくなる、共通の先祖もなくなる、天皇が稲作の神であり大嘗祭をしていたときは共通の先祖として認識されていたのである。現代のような工業社会ではもう天皇でも共通の先祖として認識できなくなる
その時何が起きるのか?
国家や民族や街や村の解体が起きるのではないか?

津波や原発事故でこの辺が避難して町でも村でも人が住めなくなりもぬけの殻のようになったようになるのではないか?
死が共有できないことは先祖も共有できないことなのである。
つまり現代文明社会は便利さを追求してきたが様々なものを破壊してきた
それは何か目に目見えないものとして心の絆としてあったものも破壊した
金さえあればいいんだということが極端化して共同体でも破壊してきたのである。
それで死にすら意義を与えられなくなった、ただ個として孤立した死となる
孤独死とか無縁化というのは別に特殊な人ではなく社会全般の問題なのである。

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日本社会はすでに壊れているのではないか?
かえって遅れた国だと人と人のつながりが濃くなる
江戸時代がそうだった,長屋とかでもそうだった
ただメキシコが遅れた国とするとき孤立しているのか?
ヨ−ロッパでは先進国でも孤立していなのはなぜか?
宗教のためのなのか?でも宗教は否定されてきたのである。
ただ日本の状態は社会が壊れている、共同体が戦後は高度成長で経済第一主義となり金が第一主義となり破壊された、金があまりにも力をもちすぎた
社会があって金があるのではない、金があって社会があるとなってしまった

だから社会の絆もなくなり解体してゆく、金持ちが外国に貯金して何かあったら日本から出てゆくというときすでに金持ちは責任もなにも自覚していない
ただ金さえあれば世界のどこでも生活すればいいとなる
金だけの社会はそうなる,この辺でももともと一億円もらったら田舎なんか出てゆくのになと若い人が言う時そうだった、そして原発事故で避難民になって多額の補償金をもらったときいち早く出てゆき外に家を建てたのである
共同体の絆もなくなりそれが容易になっていたからではないか?
こんな簡単に村とか町が放射線が怖いとしても簡単になくなってしまうことが理解できないのである


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2018年06月25日

病気や死んだ人の話が多くなる (老人が増え死ぬ人も増える)


病気や死んだ人の話が多くなる

(老人が増え死ぬ人も増える)

川の土手で自転車で走ってきたのは同級生だった、一回脳梗塞になりそれが助かったのである。体力的には弱ったがあのように自転車にのれることは回復したのである。
そして近くの知っている人がまた歩いてきた
組の人で死んだ女性は何歳だったか聞いたら84歳だったからそれなりの年だった

死因は肺血腫だった、肺の中に「血の塊」が出来る病気です。
原因は、外傷外圧・肺がん・肺結核・と色々あります

一週間前に歩いているのを見たのである。ただ血を吐いて死んだというからそういう病気だったのだろう,歩いているかと病気が治ったわかげではなかったのである
意外なのは肺炎で死ぬ人が四番目に多いのである。
老人は抵抗力がないからばい菌に弱くなっているからである

それから同級生の話をした、中学時代の話をした、双子の兄弟がいて二人とも死んだと聞いた、一人は同じクラスで慶応大学に入ったのは知っている
その後旺文社に入った、英語が得意で入ったが旺文社は倒産したという、でもまた立ち直ったとかともでている、出版社はどこも苦しくなっている
受験とか予備校とか浪人とか多かった時代は赤尾の豆単など売れたのだろう
今ならスマホで英語も勉強しているから時代が変わりすぎたのである。

田舎ではとにかく知的な仕事は会社はない、出版社だって仙台でもなかったろう
何か知的な仕事する場がない、博物館などがあるくらいだろう
そういう点で知的な仕事をしたいとなると田舎でそもそもないのである。
ただ二人とも死んだというのは信じられない,確認がとれないからである。
ただの噂かもしれないからだ

ただこの年になれば知っている人でも死ぬ人がとにかく増えてくる
親が介護になったり死ぬのも日常である、だからこの年になると病気と死んだ人の話になる、その死んだ女性のことを教えたのも74歳の男性だったのである。
その人も毎日散歩している,年は74歳だったから団塊の世代とは違う。

この年になると一生をふりかえる、それで小学でも中学でも高校でもその後どうなったのだろうとなる、同級会には行っていないからわからない
それでどういう人がいたのかもわからなくなる、ただその双子の兄弟は目立っていたから死んだよと言われたときあの人も死んだのかと驚いたのである。

その同級生は花とか園芸に興味があり庭いじりをしている、それは体に負担にならないからいいと思った、その人の庭を見て通るがバラが一杯咲いていた
その人は植木屋のように剪定する仕事が楽しいとか盆栽にも興味があるから老人にふさわしいとなる,ただ別に花に興味があるのは若いときでもある人はある
盆栽となるとなかなかないとなる、自分は高山植物でも見てあるいたし北海道には宋谷岬がありそこを自転車で旅した時ハクサンチドリが咲いていた
北海道は寒いから高山の花が咲くのである。

その人はまた郷土史とか歴史にも家が南北朝時代の争いで落ち延びた子孫だから興味をもっている
親立・・・となっていたから親がいて子がいる、その信頼される有力者が親になっていたとなる

もし信頼関係を築けないような人と頼母子講をしてしまっては自分がお金をもらう順番になる前に逃げられてしまうかもしれません

信頼関係が大事だからその金を集める親なる人は信用できる人だったとなる
その人の先祖関係でそういう人がいてその証書、証文が一枚一枚残っているという
その家は古いからそうした書類も残っていたとなる
それも郷土史とか金融関係の資料となる、つまり古い家にはそうした郷土史とかの資料になるものが残っているがその人が言うには水害があって流されたとか言っていた

それは真野川が氾濫して町全体に被害があったからである
その時自分の家は街で一番低い場所で大きな被害になったからである。
その後二回河川改修した結果水害がなくなった
でも津波の時は川をさかのぼってきてあふれるところだった
なぜならその下では水が土手を越えてあすれていたから危ない所だったのである。
だから河川改修はしておくべきなのである。

こんなことでまず資料も残りにくいのである。だから郷倉のような場所で村民の共同の意志があって資料も保存されていたのである。
それは村という強固な共同体があったからである。

他にもその人はいろいろ調べている、自分の家にそれだけ古いものがあるということはやはり歴史に興味をもつのである
その人の親も明治生まれだったというから随分年になってから生まれ人だと思った
そもそも明治生まれはもう生きていない、大正四年生まれの母も百歳で死んだ
明治生まれはもういないのである。
こういうふうに時代は急速に変わってゆくのである。
そして今やや老人となり過去をふりかえるようになるのである。  

タグ:頼母子講
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2018年06月23日

近くの人の呆気ない死 (死者は生き続ける、社会的意義あるものとしての死を考える)


近くの人の呆気ない死

(死者は生き続ける、社会的意義あるものとしての死を考える)

一週間前くらいその人を家の前でみかけた、一時体が悪くて歩けなくなり姿を見なかったが歩けるようになり元気になったと喜んでいた
それから話していない、一週間前くらいに家の前に出たとき話していればよかった
なぜなら死ぬと思わなかったからだ

でも一週間前ほどに家の前歩いていた人が死ぬだろうか?
普通寝たきり何年とかで死んでゆく
どういう病気かわからないけどそういう死に方もある
その人の夫も急に体が悪くなり一週間ほど入院して死んだのである
その前まで仕事していたのである。

その女性のことは子供の時から知っている人であり世話になったこともあった
身近なのだけど体良くなって歩いているのだなと見ていた
だから別に気にもしない,死ぬなど思いもよらなかったのである。

人間の死に方はいろいろある、何年も介護されてなかなか死なない人もいる
何かこんなに呆気なく死ぬのかという人もいる
ただ何か近くで死ぬ人がいると呆気なく死ぬものだなといつも思う
80歳くらいだったのか?まだ平均寿命にはなっいないのか?

だんだん身近な人がこの年になると死んでゆくことは確かである
同級生でも60代一割が死んでゆくとか70代と二割が死んでゆくとかなる
そうなると常に死者に接する年となり死ぬのもめずらしくなくなる
その人はすぐ近くだからびっくりしたとなる

死者のことを自分も家族が全部死んで常に考えるようになった
若いとき死を毎日のように考えていた,父親を早く亡くしたのでそうなった
その時は死そのものについて考えていた
それで宗教とかに入ったがそこはカルトでありそんなこととは何の関係もない政治団体だった、宗教の最大の問題は死の問題であり死の問題の解決なくして宗教はありえないと思う、その他に無数の問題があるが死の問題を解決しなければ宗教はありえない

ただ老人になって両親とか家族を亡くして死者のことを考える思うというのはまた別である。
死の社会的意義なども考える、あの人は生きて何だったのか?何のために生きたのかとか社会的に何を残したのか?何かそんなことを死とともに考える
不思議なのことは自分の場合家族が死んでから死んだ人のことを考えるようになった
生きているときはさほど考えなかったのである。
これも不思議だなとつくづく思う
それもやはり人間の生は死んで断絶しないからである。

死者は死んで勤めを終えぬ
生者は残され死者を思う
そして生者の勤めは
供養してその死を意味あらしめること

人間の営みはねそういうものだった、一代だけで生は終わらない、継続しているのであるそれが人間の生の営みであり歴史となる
だから先祖というのを重んじない社会は浅博なものとなる
死者は生きつづける、しかし忘れることもできる、死者を活かすのは生者の勤めなのである。
原発避難区域の悲劇はもう死者は重んじられない、若い世代が去ったとき継続するものがなくなり死者は本当に捨てられる、誰も省みないとなる 
だからその時死者は行き場を失い幽鬼のようになり彷徨い成仏しないとなるのだ

ただ現代は死というのが社会的意義あるものとなりにくい,死を考えるとき共同体の中での死がなくなったからだろう、村のような共同体での死なら別である
それで日本では死んだ先祖が春には山から下りてくるという信仰にもなった
それは死者が先祖が村の中で生きているということなのである。
村全体で死を先祖とつながりをもっていたということなのである。

現代は先祖と断絶している社会である。それは共同体が喪失したからそうなった
死そのものの問題が先にあるが社会的意義としての死がその後にある
現代では社会的意義あるものとしての死が喪失した
そこに生の継続がなくなり歴史が断絶することにもなる、今死者が省みられない、社会的意義が与えられないことは結局今生きている人でも死ぬのだから省り見られないとなる
それは今生きている人の問題でもある

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2018年05月19日

老人は熱中症に注意 (体力あるうちに登山でも旅でもしないとできなくなる)


老人は熱中症に注意

(体力あるうちに登山でも旅でもしないとできなくなる)

歳をとるにつれて体温調節への反応も遅くなります。暑いのに汗が出るのが遅れるため、体に熱がこもりがちです。汗腺の機能も低下傾向にあり、男性では七〇歳、女性では八〇歳を過ぎるとその傾向がはっきりしてきます。

去年もそうだが熱中症になった,一回小高の方に春に自転車で行ったときなった
これはかなり外で日にあったったからなった,春でも日ざしが強かった

それから熱中症気味になって一番ひどかったのは体がふるえたりした時だった
こんなことにはならなかった,暑さに弱くなった
特に紫外線は体に悪い,今回は浪江で三三度あったから異常に暑かった日ざしが強い
でも家の回りは歩いたが五時ころまで外に出なかった

でも熱中症のようになった,頭がもうろうとして眠気があり寝ていた
食欲もなく自分の場合は胃が悪くなる
もともと胃が弱いからである。夏はずっと食欲がない日が去年もつづいた

とにかく室内にいても熱中症になる,それは老化のせいなのである。
確かに汗をかかないのである。汗びっしょりになれば体の調節ができる
それで暑い国の人は汗を手足に出して調節しているから暑さに強いというのもうなづける暑さに強いからだが作られているのである。
日本は寒暖の差があるからそうはできない

人間は老化してゆく,これはさけられない,ただ暑い時期だけでありあとは平常である。だからなんか暑いとき北海道で過ごしたいとなる
でもまた最近北海道が暑いから困るともなる
ただオホーツク海に面したところだとそうはならないだろう
六月でストーブをたいているとかあったからだ

何か街中は暑くなる,家が隣り合って暑くなる、二階だと特に暑い,隣のトタン屋根が暑くなり二度以上暑くなっているのである。
だから夏は過ごしにくいから嫌になった,北海道は夏は前は気持ちいい所だった
一カ月くらい避暑に行きたいとも思うようになった

今になるともう暑いところには旅できないと思った,だからもっと暑いところに旅すれば良かったとなる,タイには行ってもマレーシアとかインドネシアとかフィリンピンには行かなかったからだ,台湾にも行っていない
結局人間はこうしてどんなに暇があり旅しても遂に旅に行けなくなる日が来る
老人でもまたいろいろあって丈夫な人は丈夫である。
三陸からここまで歩いて旅した六七歳の老人もいたからである。
だから個人差があるから一概には言えない

でもやはり暑いところだとか登山だとかは体力のあるうちに行くべきである。
ヒマラヤも一回しか行っていないのが失敗だった,それは海外旅行をしたのが五〇歳からだったから遅すぎたのである。
これも大失敗だったとなる,人間は若い内時間などいくらでもある
体力もあると思っているがたちまちなくなる
そしてやりたいこともやれずに終わっているのである。

だからやりたいことはきついことは若い内に体力あるうちにやるべきである
その機会を逃したら二度とできないからである。















タグ:熱中症
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2018年05月09日

人生百年を生きるヒント (クリスマスローズ博士のようになるのがいい)


人生百年を生きるヒント

(クリスマスローズ博士のようになるのがいい)


人生百年となると経済的にも備えられない,年金でも国民年金ではもともとたりないからそれだけの用意している人は相当に恵まれている
人生百年となると会社一筋に生きることがすべてではなくなる
会社を退職するとたちまち役割もなくなり社会的にも無用化される
でも会社に勤めてまた趣味をもつということも時間的にむずかしい
ただ会社勤めで得るものはある,それも経験なのである。
人間は何事経験なのである。

この辺で有名な裁縫会社で働いている人がいたが機械の操作がありそれがうまくできなかったという,裁縫の仕事は自分はわからないがそういう体験を勤めれば誰でもする
それで同じものを大量生産する時代が終わり個々人のオーダーメイドとなる
その時AI化するが裁縫する技術をもっている人は失業しないという
裁縫には人間の手が必要だとなる

人間は何か経験を積まない人はいないのである。それはどこかで役にたつ
ただ人間はあらゆる経験ができないのである。
自分は株の投資の経験がないから失敗した,これも経験していればそうはならなかった
銀行の営業の人がプロだと思ったが銀行自体が素人なんら変わりなかったのである。
それも時代が急速に変わり失敗したのである。

自分は会社勤めしていないし会社で働いた経験もない,だからそこで社会性がなく親の介護で苦しんだりした,人間はあらゆることが自分の経験を基にして判断しているのであるそれは本を読んだりしてもわからないことが多いのである
まず外国で生活した人としない人の差が大きいことでもわかる
旅行したくらいでは外国のことがわからないからである。
それも経験の差として現れるのである。

では退職したとき今度はどうそうした経験が活かされるのか?
活かされない場合どうなるのか?それが人生百年では問われる
そのヒントは何か一つのものテーマにして追及すること探求ことがある
常磐高速のセディティで「私はクリスマスローズをやっているんです」というとき
クリスマスローズにはいろいろ種類があったり原種をもっていたり花を咲かせる苦労があるそのことを語る時,その人はクリスマスローズ博士なんだなとも思った
クリスマスローズの専門家であり博士なのである。

それは野草とか花に興味ある仲間がいれば一目置かれるのである。
つまり一芸に秀でることである。それが人生百年では求められているのだ
ただ天才とかになることはできない,自分も凡才であり天才は例外でありまねできないのである。
でも何か普通の人でもあることに詳しくなれるし一芸に秀でることはできる
素人的専門家とかである,それは地域とか郷土史とかの分野でもそうである。
地域といっても広いから何か一つをテーマにして探求すれば詳しくなれるのである。
何かそういう探求するものがテーマとしてもつといいとなる

ただそういことでも定年なる前から少しでもしていれば延長としてできるのである
自分がパソコンのソフトで抽象画ができたのは偶然だったのである。
全く絵を描く才能がないのに絵を描いているというのも不思議である。
第二次作品でも創作している感じになるし外国の人がアメリカの人が十数名定期的に見ている,だから単なる模造品ではなく創作品として認められているともなる

人間はすべて生まれつきの才能でもないことがこのことでもわかる
才能とは開発しないかぎりないともいえる
開発するということが人間にとっては大事なのである。
それは本当は勉強でもそうである。何か暗記ではないもの,開発してゆく創意工夫して学ぶことが大事になる,そうすれば勉強に興味をもつ
自分にはそういうことが全くなかったから勉強に興味がもてなかった
ただ大学でも卒業して旅ばかりして地名とかに興味をもって歴史に興味をもつようになったとかなる
要するに地名でも興味をもてばそこからいろいろ他のことにも興味をもつのである。

ともかく暇な老人が本当に増えているしこれもふえつづける,何かうろうろしている人が増える,図書館で暇つぶししている老人もいる
パークゴルフ場では暇な老人で盛況である。
それだけ暇な老人が問題になもなっているのだ
その人たちが社会で有益なことができない,無用化しているのである。

苔に興味をもって朽木にあしらうことに工夫している人もいる
それは金にならないにしてもそれもその人だけにできることであり創意工夫しているから一目置かれる,陶芸の方は本当の専門家だから簡単にはできないが何か素人でもできるものがある
この社会でも自然でも多様だからこそ何かテーマにして専門家になれるのである。
ただそれを退職してからはじめるとなるとかなりのハンディキャップになるのである。
それが大きな人生百年の問題なのである。
ただスクールが暇が語源なときまさに退職後にまたスクールに学ぶ時代が来たともなる
それは今までのスクールではありえない,何か創意工夫を学ぶスクールになる

郷土史じも自分の家のことには興味があるからその歴史をたどりそこから郷土史に興味をもつとういことがある
苔に興味かある人は塚部(かのべ)に住んでていそのことをしきり言っていた
相馬と伊達の境の地域でありそこから郷土史を見ることができる
でもそこに住んでいないとわからないのである。
地理的なことが近くでもわかりにくいからだ
いづれにしろその住んでいる地域の専門家にはなれるとなる
そこに一番の強みがあるからだ,そこに住んでいる人がやはり一番地理でもわかるからである
だからそこに住んでいる人から話を聞けば郷土史の発掘になるのである。
人間は灯台下暮らしであり身近なことが意外とわからないのである。
身近なことに興味をもたないのである。だから人間は常に自ら開発しないかぎり発見もできないのである。
そういうことで人生百年は様々なことが発見されるそれぞれが一つのことについてテーマで博士になることが望まれるともなる

タグ:人生百年
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2018年04月30日

いつか家族は崩壊して消える (介護などでそれは誰にでも起こる)


いつか家族は崩壊して消える

(介護などでそれは誰にでも起こる)

家族は人間にとって一番の絆である,しかしそれも無常にもいつか崩壊して消える
子供たちが育ち老夫婦となりやがて夫妻でもどっちか一方が介護状態になったり死ぬと一人になる,現代はこうして一人暮らしになるリスクが大きい
一番の絆がたたれるショックがあまりにも大きい
妻に死なれた夫は愕然とする,老後は一人なのである。大きな家に一人なのである。
そのことを嫌がっているがどうにもならない,自分もそうである。
そういう人が老後に増えてくるのである。

何かある時家族が崩壊する,それは自分の家族も崩壊したからショックだった
家族すら無常なんだなとつくづく思った,そのことは予想されていたが予想以上のショックだった,この世にただ一人となった感じになった
そうして過酷な世間に放り出された,そして食い物にされた
今頃そんなことで世間の冷たさを知ったのは遅かったとなる
他の人はそういう世界で生きていたからである。

障害者で父親が入院している家族も崩壊の危機にあるのかもしれない,父親は年金をそれなりにもらっているし障害者だから金はもらっている,だから金には困らないように見える
ただ精神障害者が父親の世話するということで苦しんでいる
それで母親が心配して援助しているがこの母親も金銭的援助は全くできない
人から金をせびりなんとか食いつないでいるだけなのである。
体も悪いし病院通いなのである。

ともかくこうしてある時家族が崩壊の危機に瀕する,障害者は福祉施設に入れとすすめられているが嫌だという,でももう父親をのめんどう見ることが苦しいとしている
ただ症状は軽いのでいろいろわかってやっているのである。
外から見てどこが悪いのかわからない人なのである。

こういう人だけではない何か介護によって家族が崩壊してゆくことが現代では多い
その時もう家族だけでも支えきれなくなる,在宅で介護できるのは極少数なのである。
すると家族だけではもう耐えられなくなり家族自体が崩壊の危機に晒される
それを自分は一人で介護したので実感している

人間は家族も無常のなかにある,家族も死別すればもういなくなる,すると家族のない人になる,障害者は施設に入れるというとき家族でめんどうみれないからそうなる
母親がいてもその母親もめんどうみれないのである。
経済的にぎりぎりでしているからである。
ただ父親は年金をそれなりにもらっているから困らないとういことはある
でも障害者が病院に入っているにしろめんどうみれるのかとなる

他でも家族が崩壊するのは介護になったりするとき多い
だから今は核家族だから余計にそうなりやすい,大家族だと誰か一人が余裕があって病人のめんどうみるとういことがある
だから家族でも今は一人がそうした介護状態になると人手がたりなくなるのだ
自分も一人で二人を介護しなければならなる恐怖を味わった
一人はひとぽ認知症になって一緒に住めなくなったからだ
その時家族は崩壊して自分一人で奮闘していたのである。
誰も助けない,ただそこで犯罪にあったり借金している人に脅迫されたりしたりひどいめにあっただけである。
よわいことにつけこんで責めてきたのである。
介護とか障害者をもつと世間は非情でありそうされやすいのである。
そんな弱みにつけこんでカルト教団なども一票とるために回って歩くのである。

老後の資金でも投資するのも分散投資するという考え方は間違っていない
家族でも本当は三つ四つが家族になっていれば一つの家族がだめになってももう一つ家族があるとか他にも家族があるとなれば介護でも心強いとなる
でも家族が核家族しているとき個々の家族では介護になったら耐えられなくなり家族崩壊するのである。
でも三つも四つも家族になりえない,一つの家族でも精一杯だとなる
でもそれでは介護になったら家族が崩壊するのである。
家族でもそれは他者を排斥する内輪のものである,家族以外は人でもない,ただ金をとる対象にすぎないという時代でもある
だから家族だけに頼るが介護になるとそれができなくなる
在宅で介護しろといっても核家族で家族に余裕ある人はいない,人手がないのである。
そうなると家族崩壊になるのだ

いづれにしろ家族が崩壊するということは老後に普通に起こる
それで老人ホームに入っている人が家に帰りたいというときその家は実はないのである。家族はすでにないのである。ただ家族があったときの時代に帰りたいということなのである。
それで家に帰りたい,帰りたいと言っているが実際はもう家はないのである。
こんなふうに最後はみんななりやすいのである。
自分の場合は特殊でも参考にしにくいにしてもそうなった
だから何か自分は楽な生活に甘んじていてこうなったとも思う
これもカルマだったのである。もっと苦労していればそれなりに助ける人もいたかもしれないからだ

ただ家族すらいづれは崩壊する消えるというのがこの世だと思った
つまり無常でないものがこの世にはないのである。
家族すらこの世で一時的なものとしてあるだけであり仮象だともなってしまう
この世とはそういう場所だともなる,永遠の都は天国にしかないのである。
家族にしてもそうである。肉でつながる家族は本当の家族ではないともなる
だから宗教では家族は否定したのである。

本当の愛ある家族は天国にしかないのである。
そこでは家族は崩壊することはない,それは肉でつながれた家族ではないからである。
ただ家族には天国のひな型としてあるのであり本当の家族ではないともなる
結局家族すら一時期のものして消えるからである。
いくら家に帰りたいと言ってもその家もなくなっているのだ
そしたら帰りようがないのである。
自分も家があっても帰る家族はなくなったからである
今までは家族が待っていたが今は待っている人は誰もいないからである。


老後になると妻に死なれた人も家族がなくなっている、一人暮らしである,普通の家族でもそうなりやすいのである。家族がなくなるということはいろんなことで困る
家族のような絆をもてないからである,他者は弱みにつけんこんで金をとりにくるような人しかいないからである。そうなるもうまわりが野獣に囲まれていると同じになるのである。
だからこの世とは恐ろしところだとなる,それを今までは矛盾していても愛し合う家族でないにしろ楽していたので感じなかったのである。
だから家族が崩壊することはショックだったのである。
ただ自分の場合それもカルマだったとなる
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2018年04月29日

障害者などや病人などをもつのは誰の責任なのか? (すべて政治が悪いではないカルマを背負っているため)


障害者などや病人などをもつのは誰の責任なのか?

(すべて政治が悪いではないカルマを背負っているため)


ある人は結婚したらすぐに夫が重篤な病気になり障害世話せざるをえなかった,
その前も貧乏で苦しんでいた,その夫は障害者として一生生きるほかなかった
世話したのは妻だったとなる
ではこれは一体誰のせいになるのか?
この人にはなんらかカルマがあったと自分が苦しめられたので推測した
自分が弱者になった時いじめられたからである。
確かに助けたこともあるが何か家が事業に失敗して借金しているから自分が苦しいとき脅迫するようにもなったのである。
それでこの人がなぜこんなに苦しん一生だったのか?
その原因は何か?

かつて前世であり人を虐待していた?

これはわからないにしろ何かそうも感じたのである。弱者を虐待したから今世で弱者をかかえて苦しんだ,カルマがあったとなる
カルマとは業でありどこかで支払わされるからである
誰でも生まれてきたら業(カルマ)をかかえて生まれてくる
つまり生まれること自体すでにカルマなのである。
そのカルマは一生の内でいつか支払わされ区,苦しみとなって現れるのである。

そもそもなぜ障害者をかかえて苦労する人がいるのか?
知っている人もそうである。今障害者の父親が入院して障害者が病院に通い世話している障害者でもできるのか?その人はなにかいろいろわかっていて軽いのである。
だからなんとか世話しようとしているのである。
でも苦しいから母親がいつも見に行っている
結局その母親も不満であり常にそのことを言う
その病院に入院した人は前の夫であり離婚したのである。

この二人ともその不満をどこにぶつけているのか?

一人は創価に入っていたとかをる,もう一人は共産党に入っているとかある
それほどそこで運動していることはない
でも常にそういう人は政治に不満なのである。
必ず自民党が悪いといい,その障害者をもっていることを政治のせいにしているのである障害者をちゃんとめんどうみないとか不満が大きいのである。
つまり何かこうして別に障害者をもつのはそうしたカルマのせいだとしたら政治のせいではないのである。

でもすべてが

アベ首相が悪い

こうなるのである。不満のぶつけようがなくてそうなっているのである。

そもそもどうして障害者をもつようになったのか?
そのこと自体政治とは関係ないのである。
ただ障害者をもつリスクはみんなもっている,身内で認知症になった人を介護したから自分も障害者をもったのである。
そしてこれから800百万人が認知症になるといわれる,つまり精神障害者になるかリスクが普通の人もこれだけある時代になったのである。

確かにそういう人達を受け入れて何か相談にのる人はいない,何かと世間の冷たい視線にさらされる,それは認知症の家族をもっている人もそうである。
あいつは馬鹿になったとか,何か隣近所でも火に気をつけろとか冷たいのである。
差別もされるのである。だから障害者をもった家族と同じ境遇に置かれるのである。

だから障害者の問題は今や特殊な問題ではない,自分が認知症の家族をもったときそれを政治のせいとかにはしない,自分のカルマだと明確に認識した
ただこれは生まれつき障害者をもつのとは違う,自分は何回も言うように特別世話になったからその恩返しでありこうなってもしょうがいなという自覚があった
そして認知症になっても生まれつきの障害者とは違う
時々正気にもどるのが認知症なのである。まず死ぬころになると正気にもどる
これも不思議な現象であるが二人とも認知症になったがそうだった
そうなるとおろそかにできない,冷たくするとそのことを覚えて恨んで死ぬことにもなる自分はそうならずわかってくれて感謝して死んでくれたからよかったのである。
そうでない人も結構多いからである。
そうなると死んでから後味悪いものとなるからだ

ともかくその苦しみはわかるが全部が政治のせいにはできない,自民党のことを批判するけどそれがすべてではない,創価でも共産党でもでは障害者をのことを一切めんどうみるかとなったらしない,ただ票になるし票としてとりこむために会員として獲得するために政治勢力化するために一応会員にはする
でもなんでもめんどうみるかとなるとしないのである。
まずできないのである。現実にめんどうみるのは病院では医者であり看護師であり介護士とかであり家族ではできない,あと生活保護とか福祉関係でありそこで口利きするにしても別に創価とか共産党とかで全部なんでもできるわけではないのである。

自分もその人には金銭的な面で相当な援助をした,何かにと金を要求してくるからだ
余裕があってので援助してきた,その額も大きいのである。
もう一人の妻が死んだ80歳の男性も援助している
その障害者と直接つきあってなぐさめてもいる
金も援助している,だからその人はここ数年はこうして二人の男性に援助されているのである。
その人は不細工なんだけどまずコミニケーション能力が高いことに驚く
いちいち頼むとき納得させける頼み方をするのである。
だから金を払うとなる,ただ必ず政治の不満,政治家の不満を言うのである。
もともと障害者をかかえたのは政治のていではない
では誰のせいなのか?それは不可解であるがその人の負った業(カルマ)だとしか考えようがないのである。

そして誰でもこのカルマを背負っているしいつか支払わされるのである
苦しみとなって現れ支払わされる,それが人間なのである。
ただ創価とか共産党でも他の野党でもそうした人達を票になるから利用して政治勢力として権力を得ようとしている,でもそれがカルマの解決になるかとなるとならないのである別に他の人でもそれ相応に援助している人はいるし負担を強いられて直接世話しているのは別に創価の人とか共産党とか野党の人でもないのである。
その人たちはただ口利きしているだけなのである
だから障害者問題をふべて政治のせいにはできない,すべてアベが悪いでかたずけられないのである。

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2018年04月21日

東京から帰って来る老人が増える (駅で会う人から見える街の変化)


東京から帰って来る老人が増える

(駅で会う人から見える街の変化)


駅で会った人は東京で働いていて故郷に帰って来た人だった
一人暮らしで困っているらしい,風呂がないので福祉の湯を利用している
あそこは前にも自分が利用した,三〇〇円で利用できる
その人はなにもすることがなく暇だと言っていた
そういう人もまた老人で増えているのだ
小高に住んでいた老人とも良くあう,あの人は小高には帰らず鹿島に住んでいる
小高に通っていると思ったら山下とか相馬市とかに行っている
何かわからないが飲み屋とかに行っているのかとなる

ともかく前にも東京にいて故郷に帰った人とあっている,東京から故郷に帰る老人が増えていることは確かである。
するとどうなるのか?この辺では若い世代が流出して老人は取り残されている
さらに今度は東京などから帰る老人がまた増えてくるのである。
そして一人暮らしも増えてくる,近くに子供がいても一人暮らしが多いのである。
そこで一人暮らしだと問題が起きるのである。

でも近くの知っている人は苦労して若いときに家を建てた,立派な庭をも作った
それで妻をなくして十年とかたってもおくさん思いでありその家を離れたくないという
娘が相馬市にいて近くに家を建ててやるとか言っているが自分の建てた妻と住んだ家から離れたくないという,家にはやはり単なる寝起きする食事する箱ではない
長く住んでいるとそこは思い出がつまったかけがいのないものともなる
だから原発避難者でも老人が故郷に帰りたいとなり帰っているのである。

いづれにしろ高齢化社会の問題はいろいろある,東京で暮らした人たちが故郷に帰るというのもそうである。そこでまた老人が増えてくるのである。
人口が増えるからいいといっても老人だ負担になってくる
すでに六〇代で病院通いの人もいる,知っている二人は脳梗塞とかで病気になった
自分も前に病気になったが今はなんとか一人でやっている
ただ体が弱っていいくことが不安になる
霊山まで自転車で行って上ったのはいいが体ががたがたになった
あとから節々が痛くなるのである。

どうしても医療費がかさみ,老人は働かないから負担が増える
生活保護も増える,自治体で四分の一費用を払うから負担になる
老人はどうしても負の部分が大きくなる,負担になるのである。
東京で若い時働いて今度は田舎に帰ってくるというのも矛盾である。
ただ東京自体も実は老人が増えて老いてくるのである。
高齢化はこれは日本全国の問題であり世界の問題でもある。

都会では老人のシエアハウスをしているということもテレビで見た
それも一人暮らしが増えると一つの方法だろう
ただ団体生活になるとなじめない人もいる
自分は団体生活ができないから困るともなる
ただ一人暮らしは一軒の家を維持するだけで大変になるのだ
外出して遠くに出かけるのもむずかしくなる
家を留守にすると不安になるからだ

駅にいるとなにか人の流れがあり街にどんな人が住んでいることがわかることもある
ただそこでも老人が増えている,どちらかというとその東京から帰ってきた人も車を運転できない,車を運転できない人が鉄道を利用する
この前は新地の八〇歳の女性が車を運転をやめた
それは年で危険になるからそうしたのである。それで電車を利用していたのである。
だから高齢化社会になると電車を利用する人が増えるということはある
交通の問題がありそれに応じる政策も必要になる
そこで車社会を見直すということも必要になる

タグ:高齢化社会
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2018年04月15日

老々相続も高齢化社会のマイナス (もうその年では消費もできない)


老々相続も高齢化社会のマイナス

(もうその年では消費もできない)

相続人の平均年齢は67歳という「老々相続」になっているので、相続による世代間の所得再分配の機能も弱い。この問題は、2012年に団塊世代が引退したあとは、さらに顕著になるだろう。

 日本の金融資産1500兆円(本当はすでに1400兆円に減ったとも言われている)のほとんどは高齢者のものだ。普通、高齢者は活動しない。よって収入に関しては不安なので自分のお金を使わずに貯め込む傾向がある。

少子高齢化の問題はいろいろある,「老々相続」もそうである。六十七歳で相続するとなるとその金を使い方が消極的になる
もし五十歳とかで相続したら50代で貯金がない人が多いかとこの世代は子供の進学とかでも金がかかる,そこで相続して遺産が入ると余裕になる
この世代なら金を使うことができる,それも有効にできる,消費できる
67歳となると何かに消費するにしても限られている,そして投資などすると失敗するし経験がないのでするべきではない,でももし若ければ経験を積むからいいとなる
67歳になるとこれまでしてきたことはできるが何か新しく経験を積むことができないのである。

自分も新しい自転車買ったけど遠くに行こうかと思ったら体弱り節々が痛くなりできなくなった,もし体力があったら新しく出る電動自転車の遠距離用を買ってまた旅したいとなるができない,消費するものは確かにある,でも金だけではできないのである。
体力が必要になるからだ,登山をしようとしてリュックを買ったがこれもできないので無駄にてったとか何か今までしてきたことをしようとしたのだができなくなる
だから何か買っても利用できないとなるのだ

もしもっと若い時に40代でも50代でも相続していればもっと自分のしたいことができたとなるが親が生きている限りは金は自由にできないのである。
自分が自由に生きたとしても旅したとしても金は最低限しか使っていない,自転車旅行はテントを張ってとまったりしたから金を使っていない
自転車でも普通の自転車しか使っていない,10万以上にはなっていないのである。
でもその時金があったら何かもっとできたことがあった

本当は海外に留学もできたと思う,それも遺産を若い内に相続していたらである。
なぜならそうなると自分の自由に使えるからである。
何かその頃海外旅行は高い飛行機代も50万とか何か高い時代だったから海外旅行は金をかかるものとして敬遠していたのである。
そういうことで円高になったときみんな海外に行っていたのに自分は行かないで失敗したとなる,50代では遅かったのである。

ただ別に金がなくてもやりたいことはしたとなるから後悔はない,そう親がさせてくれたのだから別に親を恨んだりしない,必ずしも金があるからと何でもできるわけではないからだ
でも若い内に相続しているとさらに自分のやりたいことができるということはあった
高齢化社会の問題はこうして親の代が金をもっていても相続できない
それで若い世代ができることもできなくなるということはある
まず67歳で相続したとしても遅すぎるのである。
だから投資などで無駄にするのである。

これは個々人の家でもそうだが会社などでもそうである。若い人が何かしようとしてもできない,上が老人化して権力をもっているとできないのである。
やはり若い人でも権力をもてば何かできる,したいことができるのである。
でも権力が金でもなければ新しいことに挑戦できないのである。
67歳になって金をあるから何かしようとしてももうできないのである。
これも高齢化のマイナスの点である。つまり社会の新陳代謝ができないのである。

そうなるとどうなるのか?社会自体が停滞してゆく,変化に対応できない老人では社会を変革できないからである。
65歳以上の人が金融資産をかかえていることもそうである。
その人たちは貯金して長寿のリスクに備えるだけだとなる
その原因は人間は金をいくらもっていても減らしたくないのである。
老人の金は今は利子もつかないし増えないのである。
すると減るだけになると消費に回らないのである。
だから老人に貯蓄がかたよっているのは社会自体が停滞するのである。

確かに今の時代、50代でも40代でも孫の世代でも金がない,だから金をもっている老人が下の世代に金を回すと消費されるから景気が良くなるとういことはある
ただ消費の傾向が物からべつて物に変わっている,若い人が車をほしがらないとか安いのでもいいとかなる,消費するものが時代によって変わる
消費が非生産的な言葉だが消費は資本主義社会では生産的消費になるのである。
何か価値悪ことに金を使うことでありその価値を認めるから金を払うからである。
すると作る方でもそうした価値をあるものも作ろうとする売ろうとするからである。

でも長距離用の自転車を買いたいが高いとなると若者はそれを利用できるが金なくてできないとなると問題なのである。
メーカーが売りに出しても売れないとなるからだ
老人は長距離用の自転車を買わないとなるからだ
ただ長生きのリスクのために金を貯えているだけだとなるからだ
そうなると新しい製品を作ることもなくなりイノベーションもできないとなる
社会全体が高齢化で停滞してしまうのである。
それも高齢化社会で67歳で相続しているからともなる
自分もそうだが遅すぎたとなるのだ,もうその年になると消費できないのである。

タグ:老々相続
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2018年03月24日

老人は消費能力が減退する (景気が良くならないのはそのためもある)


老人は消費能力が減退する

(景気が良くならないのはそのためもある)


何かこれまで消費してきたしてきたことの延長として老人もある
これまでしてきたことを継続してする
新しいことをはじめるのはむずかしい
それで登山したなとリュックを通販で買った,ところが登山する力がなくなった
自転車でまた遠く行こうかと思いいい長距離用の電動自転車を買おうかと思ったが
それも体力的に無理になったとか,旅行するからスマホとタブレットをもってプログで報告しようとか考えた
だけどそれもめんどうになった,金銭的問題ではない,手間だなと思うようになった
旅行するのもめんどうになった,なんか外人が多くて落ち着かないなホテルはとれるのかなとかなる
それはすでに介護十年で旅はしていないこともあった,何か気力が失われた

これをしてきたから何かしようとして買おうとしてもそれが消費できない,何か活用できないのである。それは金の問題ではない,消費するというとただ金を無駄にするというのではなく何か買っても金を使うにしても活用できないのである。
何かそれが年取ることなのかと思った
それで今度買ったのが近間を回る電動自転車だった
今の大きいのと重いからである。現実に自分は近間を回っているだけだからである。

それで昨日いいロードに乗っている若い女性をコンビニでみかけた
それはアメリカ製でspecilaizedという会社であり相当にいいものだった
カーボン制だから軽い,カーボンになると相当に高くなる,8キロだという
自転車は軽いのがいいのである。
その人は靴もペダルから離れない競走用のものを使っていた
目を防備するために眼鏡をかけていた,それは目が悪いからではない
だから本格的なのである。
そして坂がきついから自分は電動自転車にしたというと

私は坂を上るのが好きなんです

本当にロードに乗る人はそういうことで乗っている,若い人ならそうである。
その女性は二十代である、その人は近くに住んでいる女性だった
ただここに前から住んでいる人には見えない,なぜならこの辺は外から入って来た人が多くなっているからだ
ただ前にも相馬市の人がフランス製のロードに乗っていた,そんな外国製の自転車を買えるのかと思った,ここでの一軒の自転車屋では外国製は買えないからだ

この女性を見ればわかるようにろうしたいい自転車にのり坂でも上ることをかえって自転車に乗る醍醐味にしている
一方自分は若いときでも40代から自転車をはじめたが坂が嫌で嫌でしょうがなかった
だから歩いて上っていたのである。
つまり消費する活用するというとき物を買ってもできないなと思うようになった
なにかレジャーでもそれは一見遊びのようでも消費する活用するエネルギーがないとできないのである。
それで老人は消費能力がないことに気づいたのである
消費するというとき知っている人はしっょちゅう病院通いでありそういうことに一番消費されているのである。医療関係とか介護関係に老人は消費している
ではレジャーとかに暇と時間があればしているのかとなるとしている人もいるが老人が消費するのはどっちかというと定着的であり動的なものには消費しない傾向がある

意外と老人は食にはこだわる,自分は今まで食にはこだわらない,腹を満たせばいいとかなっていた,それより三色用意されていたから何を食べるかなど考えたことはない
一人でなんでもするようになって何を食べるか選択するようになり考えるようになった
でも簡単にすませるのがいいと最近は野菜でも多くて時間がたち腐らすので冷凍食品がいいと今になり気づいた,要するに一人は何を料理するのかではない,何を買うかがいろいろありわからないのである。
冷凍食品は簡単にするには便利だと今になってきづいたのである。

老人はいろいろでも比較的あまり動かない,家にいる時間が長くなる
すると家が住みやすいように環境を整えるということになる
内装とかにこる人もいるだろう
庭作りとか近くで畑で野菜を作るとかに励むのが向いている
家庭菜園などもそうである。そういう方面でも老人の消費するものは変わるなと思った
あとはテレビでも時代劇が面白いなと良く見ている
BSで今度は桃太郎とか毎日やっている,この前は暖簾分けとかいろいろ江戸時代のことを放送している,江戸時代のことをもっと知りたいと自分は思っている
長屋があるとしてそこではプライバシーがないのだが家族のようにもなっていた
部屋を空けるにしても他の人が見ているから心配ないのである。
長屋が家族のようになっていた,それは仮設暮らしがみんなひどいと思う人がいたがそこでは長屋のようになって毎日顔合わせて親しくなって女性の人は楽しいと言っていたのである。補償金ももらえるし悪いものではなかったのである。
手に入らない大金を手にした人も多いのである。

思うに現代と江戸時代を対比するとき,江戸時代にも隠居文化みたいのが盛んになった
盆栽とか花を楽しむとかあった,それは共通している,これだけ高齢化社会になると新しい隠居文化が生まれるかもしれない,パークゴルフなどはそうである。
ただ江戸時代と現代は違うからでは隠居文化とはなにになるのか?
プログでその人の人生経験を語るとかもそうかもしれない,老人は今何か語る場がないからである。会社人間から地域人間になりえないというより地域のコミニュティなど存在しなくなったからである。

何か自分と書くことは得意である。だから対話もなく延々と自分の興味あること経験したことを書いているのである。
もう一つは抽象画が新しく開発した分野である,これも本当に不思議だなと思う
これはまさに新しい芸術だなと我ながら思う,なぜなら膨大な写真とか絵がインターネット上に無限にある,するとそれを変化させることも無限にある
その写真や絵があるからこそ変化させるのも無限だとなる不思議である。
現代はとにかく写真の時代でありデジタル化して膨大な写真が簡単に見れるようになり撮れるようになった時代である。それはやはり一つの時代を象徴している
写真や絵が言葉以上に情報化した時代だとなる

とにかく何かを売ろうとするとき老人向きなものが売れることはある
電動自転車が売れているのは老人向きということもある
時代劇をもともと好む人がいたが老人向きでもある,それより江戸時代は隠居文化があったように江戸時代を知ることは何か心を豊かにするのである。
だから長屋で暮らしていたとかその当時の暮らしを知りたいとなる
それもそんなところでどうして暮らしていたのかと不思議になる
人生百年を生きるとしたら何かそういうふうに老人の消費というものがどうなるか知らなければ売れないともなる
若者向きだった消費でも老人向きの消費となると会社でもあまり考えていないからである。


隠居のつとめ 

隠居文化というとき武家の文化人のことだとここでは書いている
そういう人達はもともとそういう素養がありだからこそ隠居文化を自然と作り上げた
町人とかでも農民でも急に文化人にはなれない,武家でもそういう人達は屋敷で使用人を雇っていたのである。
だから隠居文化もそうして金銭的にも余裕がないとできない
ただ現代は老人も貧困者が多いが恵まれている人もいる
そういう中から何か隠居文化のようなものが生まれる可能性はある
ただ浪費されるういこともある,何か文化の時代になっていることは確かなのである。
物質的繁栄の後には文化の時代になる
そもそも情報化時代とは文化の時代であり物質だけを追及するものではないからである
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2018年03月04日

人生老後の誤算 (百歳の人生はイメージできない)


人生老後の誤算

(百歳の人生はイメージできない)

何故今これほど老後が問題になるのか?それは人生百歳とか言われるようになったためである。
百歳となれば60で退職してそれから40年もある,するとどうなるのか?
それをイメージもできないのである。
まず人間は若いとき老人になることをイメージできない
だから若い人はたいがい50とか60で死んでるよと死にたいとかなる
でも実際はもう現代は70で死んだら早いなとなる
ただ70は一つの区切りのような気がする
還暦が60というのは今の時代に合わない
60は普通に働ける時代である。個人差があるけど一般的にはそうである。

明かに現代では十年は若返っているしこれからも寿命は伸びる
なぜなら細胞を若返らせる研究がすすんでいるしそれは空想の世界ではなく現実となるとか投資されているからである。
すると百歳は普通に生きる時代がくる
それはいいとしてそれに備えるものがない,社会的にも個人的にもないのである。
金銭的な面でもそんなに長く生きることを想定していないからである。

だからこそ退職してから余裕ある生活をするには一億円かかるとなる
ただもし百歳生きるのが普通になれば人生設計を変えねばならない
それは金銭的な面でもそうだし精神的な面でもそうである。
会社勤めを終えて今までは人生は終わりだとなっていた
でも会社を退職してから30年40年もの人生があるとしたらどうなるのか?
精神的な面では趣味もなにもない人はその長い年月を有意義に過ごせないという問題もでてくるしでている
会社一辺倒で働いていた人達は社会で役割もなくなりただ早く死んでくれと今でも言われる
社会ではもう高齢化社会で老人に金を使っていられないからそうなる
そして年金とか保険も破綻すると真面目に言われる,それは数が多いし確実に長生きするからである。その財源も日本は少子高齢化や経済の衰退でなくなる
そういう深刻な状態が年金が破産するのが後三年だという人もいる
そういう危機的状態が迫っている

そして不思議なのはAI化で人間は働く無くてもよくなる,人間はそこで何をするのか?
それは人間にしかできないことをする,芸術とか創造的分野で才能を開発するとか言われる
それはなんのことなのか?今までは働くことが美徳とされてきたし強制もされてきた
働かない奴は無職は社会の敵であり排除されてきた
ただフリーターとかニートとか増えたのは何かそうしたことを奨励するためだった
創造的個性的生き方を奨励した結果そうなったとも言われる
結果的にその人たちは悲惨なものとなる,それは誤っていたとしている

そもそもそんな考えが堂々と言えることが理解できなくなる,価値観は絶えず変わるにしてもそうである。自分などはそれに対して別に驚きもしない
なぜなら自分は無職だったし働いていないからである
でもベーシックインカムとかがまことしやかに語られる時代が来るのも何なのだろうと思う
自分のように生きた人はアウトサイダーであり極少数だった,フリーターとかニートなどが増えた時代とは違うからである。ただ今でも無職ということは犯罪者と同じなのであるだから暴力団の方がニートより増しだと激しい憎悪をいだいている人がいる

いづれにしろ人間は人生はみんな誤算である,それは70年の人生だったとしても時代が変わり価値観が変わり思わぬことが津浪や原発事故が起こる
何かのために備えてもそれも無駄だったとかもなる
事業しても成功しているのは20人に一人であったり常に誤算がつきまとっているのである自分の身内でも最後まで優秀だったと言って死んだのは認知症になったためである。
人生の最後に認知症になるのも最大の誤算だったとなる
優秀な人でも最後は馬鹿になるのかという恐怖を介護してまざまざと見たからである。
人間は金でもなんでもそんな長い人生で計算できないのである。
思わぬ出費があったりいろいろある,それが人生百年になったら余計にそうである
社会的にも個人的にもとても備えられないのである。
ただでは個人的には金銭的に余裕があるからいいやとはならない
回りはそうして金銭的に苦しい人が増えると余裕ある人も危険になる
そういう目に自分はあったからだ,老人の犯罪も十倍以上に増えているからだ
その問題はその負担はみんなにのしかかるのである。

人間の最後はやはり生物と同じである。天命を全うして死ねばいいとなる
そして苦痛もなく死ぬのがいい,90から百歳とかなると老衰がいいとなる
95以上生きたらたいがい老衰で死ぬからあまり苦しみはない
樹が枯れるように死ぬ,欲も消失してそうなるのがいい
ただこれも個人差があり人間の欲はそう簡単には消えないのである。
いづれにしろ百歳となると本当に老後も長いしそれをどう生きるのかが課題になる,でもそれに物心共に備えることはもうできないのである。
ただその結果として何か社会が変わる,価値観が変わることは確かである。


樹齢千年の桜
そは十分に花を咲かせた
暴風に倒れたが
その命は全うされた
老木は枯れて朽ちてゆく
痛みもなく命は尽きて
逆らうことなく
天命を全うし森に還る

樹齢千年の大玉村の馬場桜が倒れる
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2018年01月25日

医療介護は負担しきれなくなる (手厚すぎるからいいようでも負担が増えてもたない)


医療介護は負担しきれなくなる

(手厚すぎるからいいようでも負担が増えてもたない)


その人は今度は78才の兄が埼玉で脳出血で手術するから電車賃を要求する
前も親戚が死んだら要求する,何かその人の親戚のために金を払わせられる
何も金をはらわなくてもいいじゃないかとなるから自分が悪いとなる
自分にも払う理由があるからだとなる
その女性は二回離婚しているし極貧であり知的障害者の子供をもっている
ただ知的障害者でも仕事しているから軽いとなる
その人自体がそもそも人の世話をできない状態なのである。

でも埼玉の福祉の人が手術に立ち会う人がいるからなってくれということで連絡がありわざわざその福祉の人が車で迎えに来るという,ただ帰りの電車賃もないから金をくれとなる,そうして常に一万と二万が出てゆく
そんなことしなくてもいいというのはわかる,その女性は会話力があるから払うことになる,その人の不孝は容姿が悪い,若いときだったら近づきたくない,でも老人になってからは違う,容姿よりその女性に会話力があるから払うとなる
容姿はだめでも今になるとその会話力で得しているとなる

ただ別に自分はその兄弟とかと何の関係もないし義理もないのである。
でも福祉の人が来るということでその人は常に金はない
それで払わざるをえなくなる,帰りは上野から普通列車でいわき市まで来るという
それも上野まで福祉の人が送ってくれという
そこまでしてくれるのか,そうなると福祉に金も手間かかるなと思った

その兄は身寄りもないから福祉の世話になることになった,また呼ばれるのではないかと聞いたら今回だけだという,普通は別に福祉の人だけが手術の立会人になることができるそれにしてもわざわざ埼玉から迎えに来ることは手間であり金もかかる
そういうことで負担になると思う
何か今や高齢化社会ではいたりつくせりの医療とか介護は限界にきている
それは数は多すぎるのと負担になるからだ

ここでも社会の負担,税金が払われる,そして手術の負担,それからまた介護の負担となる,生かすのはいいにしてもそれが自分も直接わずかでも負担したことになる
今や犬猫を自治体で殺処分しないと決めたが大量の引き取り手のない犬猫が保護されてもう対処しきれなくなっている,殺処分は残酷だからかわいそうだからとなったのだがこれもまたかわいそうだからだけでは野良の犬猫問題が解決できない
それは人間にも通じているのだ
つまり数が多くなるともう医療でも介護でも負担はできない,限界が来る
かわいそうだというだけでは犬猫でも人間でも対処しきれなくなっているのだ

ただ身寄りがない人が手術したり入院すると本当は怖い,それを自分は経験している
生活保護の人が手術しなくていいの手術されて病院の収入になっていた事件があった
つまり病院とかは無機質な非情な場でありそこにいる医者でも看護師でも実際は情はなく怖い存在なことを知った
それだけではない人間は弱者になったとき本当に怖い,そこにつけいり虐待もあるし
金をとることもある,老人は弱者化したらそうされやいのである。
情なき世界ではそうなるのである。

それで西部邁が癌になり入院したら病院から出れなくなるから自殺したという気持ちがわかる,入院することは刑務所に入ると同じなのである。最後は延命治療とかされて生き地獄になる,病院という場は怖い場所なのである。
そこに人間の情が通わない場所だからそうなっているともなる
病院でも何も病気になったら診てもらい家に帰るとか一時的入院ならいい,病院で死ぬということが怖いものがある
ただそれでも家族が通ってくる短いものならいい,自分の母親は一カ月くらいで別に苦しまずに百才で死んだからである。病院でも一カ月くらいで死ぬのはいいとなるのかもしれない。ただそれでもそこは怖い場所である

そもそも老人の場合は直らないということが多い,寿命だということが多い
それを引き延ばしても胃ろうとかしても苦しいだけだとなる
でも医者にしてみればそうせざるをえないのである。その人を生かしていいのかもうこれで終わりにしていいのか,安楽死させていいのかということがわからないからである。
だから西部邁は妻に二年前に死なれたとかあり介護されたくない,入院するのは嫌だとなったのかもしれない,でも息子もいるし他に娘もいたのかめんどうみる人はいたのであるそれでなぜ自殺したとのか理解しにくいのである。
ただ元気な内に死にたいという願望があった,そしてそのように死んだ
その死をどう考えるかはいろいろである。
都築詠一氏の死は自殺ではない,プログを死ぬ一週間前くらいまで書いていてそれですぐに死んだことには驚いた,最後のメッセージを託していたプログだったのである。
その死は自殺でもない,最後の力をふりしぼりプログを遺言として死んだともなる

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スポーツ日本


病院から出られなくなる

病院で死にたくない

こうここで書いているからそれは自分も経験しているからわかるのである。
それが自殺の原因だったということがわかる,それは本当に切実な問題なのである。

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2018年01月18日

老後の金の計算のむずかしさ (積み立てて月に年金五万でももらうと助かる)


老後の金の計算のむずかしさ

(積み立てて月に年金五万でももらうと助かる)

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これは50から積み立てて90まで5万円もらう年金保険である。

一〇年間毎月60-70の期間を4万もらう保険だった,これは十年間だが民間の年金だった,これは親にかけてもらって役にたった
老後の備えは年金が有効である。毎月もらえるから安心感がある
それが4万でもそうだった,年金がいいのは死ぬまでもらえるものがあることだ
これは十年間だったが年金は死ぬまでだし新商品では九〇まで5万もらえるのは大きい
自分の場合は五〇〇百万かけていたから毎年五〇万くらいもらっていたのである。
これは貯金として五〇〇万円あるより安心なのである。
何か貯金は額が大きくて不安なのである。
老後にいいのは年金なのである。
年金を一定額もらえないと老後は苦しくなる,別に五〇〇万貯金と月々支払われるのと同じじゃないかとなるがそうでもない
これもそういう経験して不思議に思った
考えてみると10年間だと一〇〇〇万になると9万くらい月々支払われることになる

ところが貯金には何かそうした感覚がない,確実に使いすぎたりして目減りしてゆくのだ老後の金の計算はみんなしているだろう。
でも死ぬかわからないしいつ病気になるかもわからないし必ず不測の事態が起きるから困るのである。その時出費が増えて貯金は目減りするのである。
ただ正直金は計算できない,一千万あるとしてもその金がどういうふうになるのか?
みんな20年後まで計算するけどその間に何があるかわからないとしたら不安になるのである。

金はいつも同じ価値ではないからだ,百円の価値が半分の50円に実際はなっているとかなる,金の価値は常に変動しているのである。同じ百円でも千円でも同じ価値ではないのである。
だだ年金として支給されるのはわかりやすいというか安心がある
確実に90まで5万支給されるとなるとそれに厚生年金とかもらえれば安心になるのであるだからそういう保険ができたとんうのもわかる,高齢化社会だからそうなる
自分たちの世代にはまだそういう保険はなかったのである。
でも自分がもらったのはそういう保険の一種だった
ともかく何かと自分は親に良くされたのである。だから懸命に介護するのは当たり前だったのである。

高齢化の問題は実際は様々でありその対策はまだ出ていないのだ,こういう商品が出るのも高齢化社会である。
老後に備えないとならないということが普通になる時代になる
まだ自分たちの団塊の世代はそこまでしていない人が多い,そこまで余裕ある人は少ないだから下流老人化してゆくのが多い,高齢化は日本だけではない中国でも今すでに深刻である,一人っ子政策で親のめんどうみるのが大変なことになっているからだ
その制度も介護保険も整備されていないからだ

老後の問題は高齢化社会の問題はいろいろあるが金の問題が中心になっている
本当はそうではないが金がわかりやすいからそうなっている
現代はこれだけ金の支配する社会になったのだからそれに不満をいってもどうしようもない,金を中心に老後をまず考えるのはやむをえないことである。
なぜなら子供でも金は出せないとか大家族で世話してくれるわけではないからとなる

不思議なのは1000万の貯金を10年間で計算すると月々およそ九万にもなるのかということである。
84000×12=1008000となっている,これがなかなか納得いかないのである。
年金にすると厚生年金とか国民年金を加えると結構大きな額になるからだ
だから金をどう計算するかはむずかしい,とても数式通りにはいかないからである。
一千万の価値がそんなにつづくのか維持できるのかともなるからだ
もしかしたら半分にも低下しているかもしれないからだ

死ぬまでの金の計算などしたくない,でも高齢化ではしたくなくても避けられないのである。金が尽きたら人生も終わりだともなるかもしれないからだ
だからこそ年金は老後には大事なものなのだと最近わかってきたのである。
その自覚が若い人にはない,絶対にもう60代では人は死なない
今の40代は90才が男の平均寿命になるかもしれないからだ
すると60からの生活をどうするか金をどうするかが問題になるから高齢化また金がさらに必要な時代だとなる,それは用意していない人が多いのである。
自分は親に用意されていたが金だけではたりなかった,それで一人孤軍奮闘してきたことを書いた,これからもそうである。

人生は短すぎたから長くなることは悪いことではない,ただそこに数が多いから社会の負担が増えて問題になる
ただ個々人をとってみれば長く芸術でも探求してきたことを追及できる時代だとなるのだ芸術家は特に詩人などでも早く死にすぎたからである。
そうするといい作品も残せないとなる,それより芸術はつくづく時間をかけないと理解できないものだった,それだけ深いものがあるからそうなっていたのである。
鑑賞すること自体がむずかいしものだったのである。

要する高齢化社会は日本だけではない人類の課題として与えられたのである。
高齢を生きることで人生を豊かにする社会なのである。
それが人類史上はじめてのことだから問題が起きているのである。
人間の一つの願いに長寿があったのである。
それはあまりにも人間が早く死にすぎていたからである。
だから長寿が今実現するというときそれは人類の長い間の願いがかなう時代になったということでもある,ただそれだけからこそいろいろな問題が噴出しているのである。

はっきりいって株とか投資信託とかは老人向きではなかった
老後のたしにしようとしたがかえって損したりする
つまり老後に高齢化社会に向いたものでないなと合わないということがあった
それが証券会社でも銀行でも用意していないのである。
投資は若い人向きである。知識も経験も必要だし先が長く考えるのもそうである。
ところが老人向きのはそういう商品ではなかったのである。
東京のメガバンクなどでは老人向きの商品を出していたのである。
やはりこの辺は田舎では不利だったなとつくづく思う
高齢化というとき都会では高齢者だけが集まる食堂もあり高齢者用の食事も出している
それはやはり数が集まるからそういうサービスが生まれる
田舎ではそれだけの金がある老人とかが集まらないから老人向きのサービスが生まれないのである。
ただ高齢化社会ではこうしたサービスを銀行でも証券会社でも考慮せねばならない時代になったのである。
その対応がないから自分は安心安全で冒険したくないと言ったがそういう商品を示してくれなかったのであり
また地銀ではできなかったのである。

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2018年01月11日

墓は何のためにあるのか? (記憶するためにある)


墓は何のためにあるのか?

(記憶するためにある)


墓は何なのか?墓は死んだ人を埋めたのだから死んだ人をそこで供養するということがある
供養のためにあるとなる,一方で記念碑としてあるのは記念するものとしてある
忠魂碑とかあるがあれは墓ではない,墓は死んだ人の骨などを埋めた所だからである。
一つの戦争に貢献した国のために死んだ人としての記念碑になる

墓が何かというとき墓に行けばお参りすると必ず死んだ人を思い起こすのである。
だから母の実家の墓にゆくと享年25才とかで死亡というときその人は若くして肺結核で死んだ,そのことを必ず思うのである

だから何かそこの墓にゆくとしめつけられるような圧迫感を覚える
「俺はもっと生きたかった,生きたかったが生きられなかった」という叫び声のようなものがいつも聞こえるような気がする
それで何かしめつけられるような気分になる
そのことを何回も母から聞かされていたからである。
つまりこの人はもっと生きたかったが生きられなかった,成仏しなかった
だから圧迫されるようなしめつけられるような気分になる

墓でもこの人は安らかに死んだなとなると別にそんなことはない
母は苦労し人だけで百才で死ぬときも楽に死んだからそういうことはない
姉の場合は認知症で苦しんでしんだから違っているが一応85才まで生きたからそれほどそうした圧迫感は感じない,兄は40才で交通事故で死んだから無念がそこに残った

ともかく墓はこうして必ず死んだ人を想起させる場所なのである。
もし墓がなくなればお参りする人もなくなればその人のことは全く忘れられる
確かに記録として書類ではその人が存在したことがあるとしても具体的に墓としてもないのだから墓で想起するのとは違ったものとなる
死んだ人は無数にいるのであり書類にも記されている
でも墓参りするのとは違ってくる,戦争で300百万人も死んでいるからである。
もうその一人一人のことを具体的に知ることはなくなる
だから過去に死んだ人は本当にこの世に存在したのかとなってゆく

墓はそれだけ死んだ人を記憶させる重みをもっているのだ
ただいづれ墓もお参りする人もいなくなると忘れられる
無縁化したりして忘れられる
でも記憶させるものとしての重みをもっているのが墓なのである。

いづれにしろ兄を知っている人は確かに子供のとき5年くらいここにいたけど知る人はいなくなった,そこに墓を建てたことにより毎日自分はそこを通るから記憶されるのであるだから別に骨は埋まっているわけではない,でも墓がありその人を記念するものともなる記憶するものとしてある,
「あなたはここに存在したんですよ,私はあなたの存在をここで確認します」
そういうことにもなる,それだけで死者はなおまだこの世に存在しつづけるということがある。

ただそうはいっても実家の墓には行きたくなくなっている
これまで書いてきたように不和争いの家だったこともある
そして何か圧迫されて苦しくなるのだ
だからかかわりたくないともなる
間違いないことは死者が墓とともに生きていて何かを訴えていることは確かなのである。もし墓がなくなったら墓参りもしなくなったらそんなこと感じないからである。


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2017年12月12日

母の命日に兄の墓を建てる (これも不思議なの宿縁か?-なぜ人は死者を恐れるのか)

母の命日に兄の墓を建てる

(これも不思議なの宿縁か?-なぜ人は死者を恐れるのか)

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兄の墓




これも偶然だったのか?母の命日に兄の墓を自分の隣にたてた,それなりに立派である。
原町の実家には骨が入っていたが骨壺もなにもなくなり土と化していたからもってきようがない,だからここには骨は入っていないのである。

でも墓を建てたのは母の実家の墓を守る人が確かに兄と5年間一つ屋根の下で一緒に暮らしていたのに知らないというのである。
そしたら供養にもならないだろう,知らない人を供養できない
そもそも墓の不可解はいろいろ書いてきたけど墓というものを供養しているのではない
人を供養しているのである。

その人を知らないとなれば供養もできない,知らない人でも話を聞いたりしてそういう人だったのかと知ればいいがそれすら知らないとなれば要するにその人は存在しないとなるのだ,存在しないものとして消されたのである。
時間がたてばそういう人はいくらでもいる,歴史的になるとその人が本当に存在したのかどうかもわからなくなるのだ,だからこの人が存在していたということが驚きにもなる

娘はいてもひどい目にあったから供養する気もしないし関心もないから自分が供養する他ない,自分の墓はすぐ近くで毎日その前を通っている,すると毎日手を合わすことすらできるから供養するにはいいのである。
墓も遠くになると疎遠になる,墓参りするのがめんどうになるのだ

墓が大きくしていたのは戦前頃まで焼かないで土葬だった,そういう実話として自分の家でも姉の母は自分の母と違っていたが姉がシンガポールに四年間従軍看護婦として勤めて帰ったとき母が死んでいたのである。
それで母をみたいと墓をあばいて見たら顔でもまだ形をとどめていてきれいだったという土葬だったからそういうことができた,これも戦争の悲しい物語である
その姉も死んで8年とかなる

母も死んで3年がたってしまった,時間の過ぎるのは早い,今日は母の命日であり兄の墓を建てることと命日が重なった,これも不思議といえば不思議かもしれない
自分の家は兄には悪いことをしたということがあり自分が供養した
ただその後の責任は全部自分の家にあるとはならない
なぜなら別に不遇でもそれなりに普通に生活している人は多いからだ
それは結婚してその結婚生活に失敗して経済的に破綻したからである。
そして交通事故で死んだのである。
そうしたことが全部自分の家の責任とはならない,だから娘は父親でも供養する気持ちがないのである。

なんか人間は死んでもめんどうである。墓の問題は結構めんどうなのである。
人間の最後の問題として墓がある,その墓でもなくなるとその人の存在はなくなるのか?
別に墓がなくても人間はいろいろと存在し続ける人はいる
英雄とかなると伝説としていつまでも語り続けられるのである。
人間は最後は物語にストリーになりヒ-ストリーになるのである。
必ず家族でも死んだら物語を残すのである。
だから残された人は自ずと語り部になるのである。

いづれにしろ何か宿縁というのはあるのか?母と兄とはいろいろあり兄は母を恨んでいた
でも大人になってからは恨むこともなかった
そして兄は娘を一時児童相談所にあづけることになった
何か本当に母とにているのである。何かそこにカルマがある,カルマとは同じことが運命的にくりかえされることなのである。

ともかく兄の墓を作ったことでまた母の遺言を果たしたことで楽になった
自分の勤めは果たしたとなる,今墓で母と兄も結ばれているともなる
墓は分離するのは良くない,それは実際の家族でも何でも分離していることになる
不和になって分裂していることになる
母の実家のは墓はそうである。みんな不和分裂している,実家の墓でもその墓を守ってくれと長男にあたる人に300百万で頼まれても墓は維持できなくなる
遠いし墓参りにくるだけでめんどうになるからだ
だから自分は頼まれなくて良かったと思う

つまり墓のめんどうなのは墓の因縁を墓にうめられた人たちの因縁を背負うことになるから簡単に墓など金もらったからと継げるものではない
悪い因縁があり祟るということもありうる,だから墓は墓という物を受け継ぐのではない何かそうしたその家であれ因縁を受け継ぐことになるから金だけでは簡単に受け継ぐことはできないのである。
そして心から供養する気持ちのない人も墓を受け継ぐことはできないだろう
そこに墓のむずかしさがあったのである。

墓建てぬ母の命日寒しきも息子とともに安らぐべしかな

神社には、無念の思いで死んでいった人の祟りを鎮めるために、神として祀って慰める神社があります。
怨霊信仰、御霊信仰といわれる神社です。
平将門や崇徳上皇を祀った神社などは、そういうものに該当すると思います。

確かにみんな死者が往生したわけでもないし成仏したわけでもない,そういう人はまれなのかもしれない,人間はなんらか未練を残して死ぬのが多いのである。
それはカルト教団に入っていても同じである。むしろそこの方が不孝な人達の集まりだから未練を残して怨霊になるような人が多いだろう。

自分でも死者ををどうしていいかわからない,ただ恨んでくれるなとなるのは確かであるその不孝な死は本人の責任も大きいがいろいろ事情あって墓を建てた
安いものだったから良かった,でもそれなりに立派なのである。
墓はあれで十分だと思った,あれならあとかたづけるのにも墓を守る人がいなくなったら楽だからである。

いづれにしろ人は死んでもそれで終わるわけではない,その後も墓とか具体的な問題が残る,明らかに靖国神社があるけど死んだ人の霊が靖(やす)かれということがある
死んだ人に対してそう祈る,そして悪いことが死者が祟らないようにする
でも実際に「ひどい娘だわ」と自分に最後言って恨みを残して死んだ人を知っている
そうなると何か死者の霊は休まらないともなる
自分は祈る必要もないが娘はやはり墓参りする,するとそれを偽ることはできない
だから死ぬときでもそうして恨みとか残して死ぬのはあとあとまで祟るとなるから怖いのである。それで怨霊を祭る神社が生まれたのである。

ただ今回の富岡八幡神社の宮司殺人事件のような人は怨霊にもならない,あまりにも利己的な身勝手なものであり怨霊神社となったのは何か理不尽な結果として死んだ人達のことを恐れたのである。それはなぜか?
そこに心のやましさがありそれで死者を恐れたのである。
今回の事件はそんなこと一切ない,あまりにも汚れた宮司の継承問題であり
その悪は一切事件を起こした人にあったからである。
呪われるのはその事件を起こした人達であり回りの人はなんの関係もないのである。
怨霊として祟るというとき一体誰に祟るのか?
自分自身の不徳に祟るからそれは全部その本人にかえってゆく,回りの人は関係ないのである。

ともかく自分の墓なら毎日通る道にあるからそこを通るたびに手を合わすこともできるし何か死者と一緒に暮らしているという感覚にもなる,離れていると墓だって疎遠になる
だから墓でも親の墓は子供の移った先に移動しているのである。
何か自分は責任を果たしたという感じになり楽になった,死後でも死者が安んじるようでないと祟るとはならないまでも嫌な感じになるからだ
死者とは何かわからないしやっかいな問題だったのである。
タグ: 怨霊
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2017年12月05日

墓の変転する顛末 (墓も無常をまねがれえない)


墓の変転する顛末

(墓も無常をまねがれえない)

墓は分離してあると良くない,原町でも遠いとなる,なぜ自分の家の方に兄の墓を建てるのか?それは事情があってそうなったのだ,兄は自分の家の戸籍には入っていない
意外と戸籍に入る入らないかはあとあと大事になる
財産の問題にもなる,戸籍に入れなかったということはそれだけ入れたくなかったのである。ただ五年間は一緒に子供のとき同じ家で生活していたのである。
だから覚えているのである。

ところが母の実家で暮らすようになってからは行き来していたが一緒に暮らしていない
その家で一緒に暮らした女性がいたがその女性は兄を覚えていないというから不思議なのである。ただその女性は人格的に異常化して普通の人でなくなったからそうなったのか?

ただ実家の墓はその家継ぐ長男にあたる人が墓を守ってくれと三百万はらって頼んだのである。もともと実家で育った人だから実家の墓を継ぐべき女性だったともなる
ただその女性は実家の姓とは違ったものとなって墓も別にあるのである。
そして住んでいる場所が原町でとなく遠いから困るのである。
何か墓でも遠くなると管理しずらくなるからだ
要するに墓が実家の墓,そこから別れた姓が別になった墓,そして自分の墓がある
何か生前も不和分裂の家だったのだが死んでからもそうなっているのだ

墓が分離していることはやはりその家も分離しているのである。
その女性は狂気のように自分の家に来て別れもう会うことはない
結果的に自分は兄の墓を自分の墓の隣に墓標として建てる

なぜそうしたかというと近ければいつでも供養しているとなるからだ
毎日のように墓の前を自分は通っているからだ,そしたら墓もいつも一体であり死者とも一体だと気持ち的になるのである。

墓でも遠いところから墓参りにきている人がいる,良く仙台ナンバーはみかける,この辺では仙台に移り住む人が多いかである。
広域社会になると全国に散らばりすむようになり家族もばらばらになる
すると墓を守るのは誰かとなり継ぐ人もいなくなり捨てられるようになるのが多くなる

だから墓は立派なものを建てるべきではない,墓標のようなものでいい,そしたら十万もかからないのである。あとでかたずけるのも楽である。
それは家とにているのだ,大きな家は空家になったらかたづけるのが金もかかるしやっかいなものとして負担になるのである。

そして墓は共同的な墓の方がいいとなる,なぜなら十人が一カ所に埋まっていれば誰かが墓参りしてくれるからである。一家族だと絶えてしまうのが多くなるからだ
そして個々人の墓標を建てあとは取り払えばいいのである。
墓だっていつまでも残せないからである。
実家とか長男とかが家族の中心にあったときは家は維持できたが今はできないのである。

いづれにしろ兄の墓の顛末も奇妙なものだった,交通事故で死んだとき運送会社で墓を作ってやると言って自分の家ともめたのである。
その時自分は車をもっていないから事情がわからなかった,ここでも車をもたない人は今の社会がわからないのである。
保険金をもらいたくてそんなことを言ったのである。そして骨を渡さないとかもめたのである。その時妻とは離婚していた
なんでも乞食のような恰好をしてきたのを雇ってやったととかしきりに恩きせがましくいい,墓は作ってやるから代理人にしろということだったらしい
自分は事情がわからないので帰ってきたのである。

ただ兄はその運送会社に入って喜んでいたことは確かである。
仲間ができてその仲間と死ぬ前に仕事で自分の家に寄ったのである。
その時は喜んでいたからその運送会社の社長とか仲間が別に悪い人達でなかった
それは保険金が関係ないときである
人間は保険金とか大きな金になると目がくらみ欲がでて悪魔に変身するのだ
そういうことは世の常である,だから人間の欲は本当に怖いのである。

ただ正直なぜめんどうな問題に事件にまきこまれたのか?
それは自分たちの家のせいではない,夫婦が不倫したり離婚したり経済的に困窮したのは自分たちの責任ではないのである。

とにかく兄の墓がこんな事情で静岡で死んでそして母が骨をもってきて原町の実家の墓にうめた,そして今度は自分の家の墓の隣に墓を建てて供養することにしたのである。
実家の墓はたまに墓参りするにしても将来的には自分はかかわらないかもしれない
兄の墓ともなっていたので墓参りしていた,後は墓をまかせられた女性に託すほかなくなる,その責任は自分にはないからである。
だから墓を守れと頼まれるのも実際は難儀なことだったのである。


ともかく墓の物語は死んだ人の人生の物語だともなっていたのである。
ただ兄の墓を兄を知っているひとはいなくなった,ここで子供のとき遊んだ仲間がいてもそれも年取って忘れる
人間はみんな忘れられる,墓だって遂には誰の墓なのかもわからなくなる
そして捨てられる,その人のことを知る人もいなくなる
それが人間の無常なのである。墓地とは無常の場所なのである。
近くの神社の墓地でもそうである。
子供のときその墓の上で遊んでいた,そこは人が埋まった場所だったのである。

そんなふうにもうその墓に埋まっている人は誰も知らない,江戸時代の墓も多いからだ
ただ自分は墓に関心をもって調べているから江戸時代の年号が刻まれていると貴重だなと思うくらいなのである。
結局墓も無常をまねがれないのである。いつまでも残すことは何でもできない
だから立派な墓など作るべきではない,簡単な墓標で共同的な墓がいいとなるのだ
それなら壊すのも簡単だしまたその墓地は他の人が使うこともできるからである。

tommkkk1.jpg

小池の墓地に倒れた墓だがこれも誰も参るものがなくなりこうなった,もしこの墓をお参りする者がいたら倒れたままでなく
立てておく,ということは誰もお参りするものがなくてこうなったのである。
だから無常なのである。

お墓の処分は宗教的な感情対象物として「現時点ではまだ適切な処分規定は定まっていません。」産業廃棄物として指定できる自治体(市区町村)もあれば、地域の関係団体などからは「廃棄物として適当ではない」という意見もでている県もあるようです。

産業廃棄物の品目の規定や解釈は、各地方自治体に任せられておりますので、自治体によって相違することが多いためのようです。


墓は何なのか?それがわからないからこうなる,墓と碑は違っている,墓は供養するものである。碑は記念するものである。だからデザイン墓は墓なのか記念碑なのかとなる

なにかモニュメントのようにしている現代の墓は墓なのかという疑問もある

記念碑にするときは何かに功績があった人であり生前に自分の記念碑を作るというのも変なのである。

なぜなら一旦記念碑でも墓でも捨てることがむずかしくなるからである。

ただ記念碑なら捨てやすいかもしれないが墓だと捨てにくいとなる

墓には骨がなくても霊魂が入っていて供養する対象としてあるものだからである。



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2017年12月04日

老後は減らす生活を目指す (物を買わない,新しい物を買わない)


老後は減らす生活を目指す

(物を買わない,新しい物を買わない)

●スマホはやらない
●ノートパソコンは買わない
●動画はやらない
●印刷はコンビニで
●なるべく物は減らす
●物をなるべく買わない
●新しい本もなるべく買わない
●なるべく何回も同じもの読んだり見たりする
●生活をシンプル化する
●野菜果物は買う

スマホは本当は今の生活では不可欠である。でも老人には目に悪いし疲れるからしない方がいいともなる,パソコンはずっとしていたからしてもいいがスマホは別である。
ノートパソコンもこれも旅行したりすると必要になったりするがそれもめんどうである。何かノートパソコンを三万で買ったが故障して使えなかった

動画をとろうとソニーの日ビデオカメラをアクションカメラを四万で買ったがこれも使えなかった,実際はこのカメラは不良品になっていたのだ
ASUSの三万のノートパソコンも壊れやすいものだったのである。

印刷するにしても意外とめんどうでありインクが消耗してコストがかかる,するとコンビニで10円でも二十円でも印刷した方がいいとなる
機械をもつことが意外とコストがかかりめんどうになる
つまり印刷などはかえって個人でするより自動でも装置がついている場でするのがいいとなる,それは相馬市にあるが遠いのでできないので残念なのである。

自転車でもロードを買ったがこれも早いので危険なことを知った,だから必ずしも老人には向いていない,安定しマウテンバイクの電動自転車の方が向いていた
老人にとって危険なものがかなりある,使いたなせないものがかなりあることがわかった
本でも電子本でも読める機械を買ったがこれも読みずらかった,要するに便利でも使いこなせないという問題が老人にはある
新しい本と古本を集めたがこれもみんな読めない,読む気力がつづかない
そして忘れやすい,だから買ったとしても何度も読んで脳裏に刻む,記憶するのがいい
それはテレビでもインターネットの放送でもそうである。
その点youtube は何度でも見れるからいいのである。一回限りでは頭に入らないからである。

新しいものはなるべく買わないようにした方がいい,本でも古典的なものを何度も読むのである。百回読んでもそういうものは糧になる,ヘルダリーンの詩などは最近読んでそうだった,他にいろいろな現代の詩などは読まない方がいい
ただ今まで研究してきた分野では資料とか本はそろえている必要がある
でも新しい分野のものは買わない,買っても読めないし理解できないからだ

ともかく老人は消費意欲が衰える,消費できないのである。
そして教訓として

あきらめてシンプルに生活しろ

いろいろ買って何かを身につけようにもできない,だから何でも買うというのもあきらめることである。このあきらめるということが大事になる
もういろいろなことはできないからだ
自分は家事を全部しているとそれだけで手間になるからだ
野菜とか果物は健康のために食べていた方がいい,なぜなら老人にとって健康が最も大事なものだからである。

本当は株とか投資信託とかもすべきではないのかもしれない,つまりこれも理解できないからである。基本的なことすら理解できないのである。
若いときからしていれば経験で理解するがそれができないからである。

老人にとって大事なのは本当はいくら利子がつかないにしろ理解できないものに手を出すのは危険である。つまりそうしたこともあきらめろともなる
実際は自分はしているがもうかっていないからだ

意外とこのあきらめるということは今までもしていない
それが老後にきて現実にあきらめざるをえない,しかしあきらめきれないのである。
物を集めたものが捨てられないでゴミ屋敷にもなるである。
何かそれはあきらめきれない結果としてそうなっているのだ

何か物をもっていることが老後は負担になるのである。確かに家があればいい,でも大きい家となると修繕がありまた金がかかる,それで仮設を今壊しているが建てるのも簡単だったし壊すのも簡単だなと見ている
大きな家となると壊すのにも金がかかりこの辺では事情かあって壊すのに二百万くらい市から支援されたのである。

ある人は体が動けなくなり家に住めなくなり車に住んでいた,そして這ってやっとコンビニに買い物に来ていたのである。家が負担になり住めなくなったのである。
家を放置して車に住んでいたのである。
家を維持することが負担になりそうなった,家すらあっていいようでも負担になる
あることが負担になる,九州くらいの土地が今誰の持ち主かわからなくなっているという山林などがそうなっていて困っている,利用するにも土地の所有者に了解をとらなければならい,でもその土地の所有者が無数にいて細分化して利用できないのである。
これもあまりにも明治維新後私有権を認めた結果なのである。

何かもっていること所有していることはいいことのように見えても負担になるのだ
ただ人間はあきらめきれない,いつまでも生に執着して延命してでも生きる
それが本能だからどうにもならない,でも老後はあきらざるをえない,だから生活をシンプル化することがかえって楽になるのである。
それは欲を減らすということが若い内はむずかしいが老後は欲を減らすことが強いられてもいるのだ

禅宗だと無一物だとか無欲を追及してきた,それが老後には強いられる
いろいろなものをもっていることが実際に負担になるのだ,最後は家そのものが負担になるのである。
もし簡単な仮設とかあばら家とかだったら未練なく壊すことができる
大きな家は未練が残り壊すのにも金がかかり負担になるのである。

ともかく老後はあきらめるということが強いられる,その前に自らあきらめるという生活をする,何か執着してもあきらめざるうえないからである。
そして生活をシンプルにしてこれまでやってきたこをやる,やれることはやる
写真を追及していたら継続してやる,でも動画となるとめんどうだからしないとなる
そういうふうにやれることとやれないことを明確にしてあきらめることが大事になる
これを書いたの自戒のためである。
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2017年12月01日

介護の後に燃え尽き症候群 (人間は最後まで協力して人生を全うすることが大事)


介護の後に燃え尽き症候群

(人間は最後まで協力して人生を全うすることが大事)


近所の、認知症で透析しているじいちゃんの世話を 
長期間してた娘さんが 
じいちゃが亡くなって一年後にガンで亡くなった 
自分の体は後回しになったらしい 
それ以来高齢者の透析はどこかで線引きが必要と思うようになった

脳梗塞で倒れ、幸いにも軽くて医師からは頑張ってリハビリすれば
また歩けるようになりますよ、と言われたにもかかわらず、
真面目にリハビリしないで結局は車椅子生活に。

その分、老々介護で母の負担は重くなり後に母の寿命を縮めた、
せめて周囲に感謝の一つも述べてくれたらと恨むことがありました。


介護をやりきった後の燃え尽き症候群

介護を最後までやり遂げることに全てを捧げてきた為、介護が終わった途端、人生の意味や目的など、生きる指標を見失い、燃え尽き症候群のような症状から鬱状態になってしまうのです。

燃え尽き症候群はバーンアウトともいい、やる気を高く保っていた人が突然のようにモチベーションややる気を失ってしまう心の病気です。
燃え尽きてしまうと、何もやる気が起きず虚無感を感じたり、自信がなくなったりします。


介護を十年間したけど何か消耗した,燃え尽き症候群になった,まず外に出たくない,旅もしたくないとかなった,これは別に介護のせいではない,年のせいもある
でもこれだけ旅したのにしたくない,それはやはり旅するにもエネルギーが必要だったからだとなる
旅を後押ししてくれた家族がいたことで自由に旅できたのである。

介護の後に病気になったとき寿命を縮めたとかあるのもそうである。自分は介護中に病気になったからひどかった
その時助けるものは一人もいない,ただその病気とか弱ったことをいいことに借金とかその他犯罪にあっただけである。
そういうことをプログで書いてきた

介護はそれだけエネルギーが奪われる,介護が無駄とかではない,介護でも意味があるし自分の場合は意味があり恩返ししたから良かったと書いてきた
ただ介護でエネルギーが奪われてその後に病気になったり寿命を縮めたりすることはある介護の問題は一年とかではない最低で5年でありさらに十年でも普通にあるのだ
その長さの故にまいってしまうのである。

ただ介護から死の看取りとか供養とかを経験すると自分の場合は介護が終わり死んでから感謝している,感謝の念が深まっている
介護は確かに力を奪うのだが自分は親に特別良くされたから違ったいた
そして親の一生はあとあとまで影響する
親がまともに生きず死んだら子供も親を供養しないし墓参りすらしなくなる

自分の場合は親が生きたことかは生きる励ましとなっている,苦労して良く生きたなとか自分のために尽くしてくれたなとかなって死んでから生きる力を与えているのである。
だてから供養もしている,ただもし自殺していたりしたら後味悪いものとなった
母は腰が曲がったときそういうことがあった
でもそれから別に腰が90度曲がっても10年は生きて百才で死んで往生したのである。

だから事故とかで死んだり何か人生を全うしないで死んだ者は生きる励ましとならないだろう。別に平凡な人でもそれなりの人生を全うすれば子供でも後の人にも評価される
ただ不遇に死んだ人,昔だったら肺病で死んだとかなれば同情される,供養される
それは時代だからしょうがなかったのである。

そして夫婦だったら夫婦を全うすることが後の人にとっても子供にとってもいいしそうした家がつづくのかもしれない,家というのは離婚したりして夫婦が別々になるとめんどうになる,その家に繁栄はなくなる傾向が多い,まず離婚してシングルマザーになっている人も今は多いが苦労が多くなるし豊かにはなれないのである。
夫婦が協力しない家で豊かになれるとは思えないのである。

自分の家は複雑であったが両親ではないが二人の女性が争いつも協力した結果,ある程度の財を築き豊かさをもたらした,そして最期は悲劇であり分離したがそれは認知症という病気のためだったのでしかたがなかった
ともかく自分の家は二人が協力したからたいしたことはないにしろ財を築いたのである。
離婚した人は豊かになっている人はまれだろう。一人だけでは人間は協力しない限り豊かにはなれないのである。
だから結婚の誓いで

「新郎(新婦)となる私は、新婦(新郎)となるあなたを妻(夫)とし、良いときも悪いときも、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも、死がふたりを分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることをここに誓います。」

死が二人を分かつまでとあるがここが大事なのである。それで夫婦として生を全うしたとなるからだ,それは子供にも良い影響を与えるのである。
結局今は三分の一が離婚するのだからここが一番大事なのである。
そうすると後の人にもいい影響を与えるのである。

自分の家はともかく60年間一緒に生活していたことで最期は悲劇に終わったが遂に死んで二人は結ばれ家族は一体となったのである。
普通だったら分離していたしそうならないのは特別なことだったのである。
だから自分にもいい影響を与えたのである。

母の実家はみんな分離して分裂している,後継ぐべき人が弟だったが姓が変わり墓は別になったのである。そしてまたその実家に埋葬した自分の異父の兄も今度は自分の墓の側に供養のために墓標を作る
何かこうして母の実家の墓はその後ももめているのも分裂しているのもそうした家族だったから争い分離する分裂する家族だったからそうなったとなる
墓参りは一人ではなく何人かでした方がいいというき第一そうしてその後もまとまらなくなる,不和分裂の家だからその後も墓を守るべき人もそうなったのである。
その仔細は前にも書いた

協力しないことは家だけではない地域でも国でも栄えることはない,不和になり分裂して争いになるとその団体でも組織でも地域でも国でも衰退する
それは南相馬市は原発事故の補償金でもめて争いになったことでもそうである。
そのために協力できない,その影響も大きかったのである。
そういう市は自治体は栄えることはむずかしくなる
だから争わないようにすべきだったができなかったのである。
市でもそういうことを念頭に置き対策すべきだったがしなかったのである。

明治維新でも内戦になり日本が二分したら外国が侵略してきて日本は二分されて衰退したそれをなんとかくい止めたから繁栄もあった,不和の影響は大きいのである。
だから天皇があって日本がまとまるというとき天皇の役割が日本では大きいともなる
天皇も批判されるが日本をまとめるものがなくなったら分裂して外国に侵略されるからだだから聖徳太子は「和をもって尊しとすべし」となったのである。

いづれにしろ介護から死から供養は一連のものとしてあった,供養は疲れないが介護でも死の看取りでも疲れる,消耗が大きいのである。
二人を介護して看取りしたことでエネルギーが消耗したのである。
自分の場合は病気も回復したから良かった,母の介護はオムツもしないし他より楽だった最後まで一週間前まで自宅でポータブルトイレに行っていた,オムツはしなかったのである。そして病院に入院して一カ月くらいで死んだのである。
5年間くらいは介護したが母の場合は楽だった,姉の場合はひどい認知症で介護するのも大変だったが二年半であっけなく死んだのである。
そういう点で一人で悪戦苦闘したが楽な面もあったのとふりかえるのである。
そして今では二人に感謝して供養している,恨むことも自分の場合はないのである。
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2017年11月28日

死んで人は終わらない (墓の問題は具体的なものとして残される)


死んで人は終わらない

(墓の問題は具体的なものとして残される)

人間は死んでもそれで終わりではない,別にむずかしいこと宗教などのことでもない,人が死ねば今度は死んだ人を葬る墓が具体的に必要になる
その骨とか灰をどこかに勝手に捨てるわけにはいかない,それは法律にも違反する

人間は死んでも終わっていないというとき具体的な問題として墓がある
死んだ後にも墓が人間には残るからである。
そこで現代は墓のことで悩む人が多くなる

そもそも墓とは何なのか?
これがわからないのだ,自分の異父兄弟の兄は事故で死んだ,その墓には骨壺があり骨を入れておいたがなくなっていた,何にもないのである。他の人の骨壺もなくなっていた
土になってしまったのである。
だから娘にその骨壺をもっていけといってもないのだからもっていきようがなくなったのである。

だからそもそも墓とは何なのか?死者とは何なのか?
それがわからないからそうなる
現実に近くの人は金がないので墓に母親の名前を刻んでいないのである。
墓に名前がないと一体それは何なのだとなる
その息子は評判の悪い息子であり親不孝の息子だからそうなった

その親はとてもいい人であり近隣からも慕われていたのである。
そして自分の家族が認知症になったときも受け入れてくれた唯一の人だったので感謝している,だからお礼として自分の隣に墓を造った
それはただ石に名前を刻んだだけのものである。
ただ名前が刻んであるだけなのである。そこに花を挿したりしている

そして今度は異父兄弟の兄の墓を自分の墓に作る,これもただ名前だけを記した簡単なものである。そういう墓が他にもある,卒塔婆だけがたてている墓もある
人間は墓はかえって粗末なものでもいいような気がする
なぜなら跡継ぎがいない時代には墓はかえって邪魔なものとして残るからである。
墓は簡単に捨てられないからである。それでも墓の墓場ができているのも時代である。
もし簡単なものだったら捨てるのも容易になるからいいともなる

人間はそんなにこれがけの数がいるのだから死ねばそんなに残り得ない,みんな忘れられてしまうのが普通である。江戸時代には墓が残ったのは侍くらいだけである。
庶民は墓がなかった,それは経済的な問題もあった,墓を造るには金がかかったからである。今でもそれなりに金がかかる,でも立派な墓を造っても今は跡継ぎがいない時代だから無駄だとなるのだ,かえって邪魔なものとして残りつづけるのである。

なぜ兄の墓を自分の墓の隣に空いているから作ろうとしたのか?
それは実家の墓が原町であり墓参りするにもめんどうなのである。
一人その実家で育った女性がいるが福島市に住んでいる,ただ一年二回くらいはその人は墓参りしている
その女性は実家の長男にあたる人から「墓を守ってくれ」と三百万もらい頼まれたのである。
じぶんはそんなこと頼まれなくて良かった,墓など守れないからである。
いづれ自分だって死んでしまうからである。
そんな頼みを請け負ったから大変なことになったと今では思う

自分の家の墓と兄は姓が違う,すると同じ墓には入れないのである。
江戸時代では実家の姓嫁いだ先の家の二つの姓が墓に刻まれているのもある
でも姓は一つにされたので同じ墓に入りにくいのである。
だから名前だけを刻んで供養することにした
その墓には骨もなにもない,ただ名前だけなのである。

そして墓とは何なのか?それは土地と関係して生まれていた
死んだら土になるというときまさに骨もなにもなくなり土になっていたからである。
その土地の土となった,でも今は土となるとしても広域社会になり遠くで生活して死ぬ人が多いから生まれた土地とも縁がなくなるのである。

そもそも人間は去る者は日々に疎しになる,生前から離れて暮らしているとその人のことが疎くなる,それは不思議だが墓でもそうなのである。
原町にあるのとすぐ近くにあるのとは違う,自分の墓は歩いて五分もかからないすぐ近くに墓がある,その墓の前を毎日のように通っているのである。
すると花が枯れたから淋しいなとか挿したりする
それは墓が身近にあるから墓のことを気にするのである。
墓はそうなると常時近くにあれば供養しているともなるのである。

つまり墓すら遠くにあれば疎いものとなるのである。
江戸時代あたりは農業中心だから農業中心の思想が宗教的なものでも生まれた
それが死んだ人は山に葬り田植えになると山から先祖が下りてくるとかの宗教である。
それは農業中心の社会から生まれた思想であり宗教観である。

人は死んだら土に還るとはまさにそうである。これは農業的宗教観である。
遊牧民だったら天に還るとなるからだ,その思想の相違も大きいのである。
土に還るというとき死んだ人はその土地のものとなりありつづけるということにもなる
それは近くであってこそそうした宗教観をもてるのである。
離れていたら例え隣の町でも何かそうした思想は生まれにくいのである。

近くだと死者もいつもここにいるなと感じる,それは生きていても離れていると特に東京とか離れていると疎くなるのである。それと同じように死者すら離れていると疎くなるというのも奇妙だけど感覚的にはそうなるのである。
だから毎日通る近くに墓があることは毎日死んだ人を意識するから生きている人と死者も共にあるともなる

ともかく人間は介護があるしまた死んでからも墓の問題があり供養がある,何か観念的なものでなくても具体的に墓の問題があり後始末があり死んでも簡単には終わらないのである。だから故郷に住めなくなった原発避難区域などでは墓の問題がありこれも結構むずかしい問題である,墓を移した人もいる,もう故郷に住めないとなるとその土地の土にもなれないとなってしまったのである。
それも一つの問題でありあまり話題にならないが大きな被害を与えたともなる
精神的損害だったということは言えるのである。
ただこの精神的損害を言ったらもうきりがないのである。
いくら補償金を与えても満足が得られない問題なのである。
ただそういう被害は外からは軽く見られることは確かである。
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2017年11月27日

死者への供養は愛情である (すべての死者が敬われることはありえない)


死者への供養は愛情である

(すべての死者が敬われることはありえない)

死者を弔う心

日本人は、夏にはお盆をします。先祖の霊を自宅の庭に迎えて、弔い、また家族団らんの時を持ちます。そこには先祖たちの霊も一緒にいる。生者も死者も共に家族一緒になって団らんの時を過ごすのです。あたかも日本人は、死者の霊と共に生きているようだ。また日本人は、神棚や仏壇に食べ物や水など、先祖供養のお供え物をして、死者と共に暮らしている。
 それでラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、そうした日本人の生き方にとても感銘を受けて、日本を「死者の国」と呼びました。これは、日本人は死者の霊と共に生きている人たちだ、という意味です。


死者とは何なのかこれも謎である。確かにこのように日本人は死者を大事にする,月命日とかあるのもそうである。月ごとに死んだ人を供養するというのはそれで死者に対して思い入れがあるということである。
それが仏教では死者の供養の宗教となった,このサイトではそれをキリスト教の信仰と同じだとも言っている,日本人の心は死者と密接に通じたものだというのもわかる

でもみんながそうなのか?そういう日本人の伝統があってもみんなが死者を思っているわけではない,その人は親にひどいめにあったので親が死んでも供養する気も墓も作る気もない,金もないからそうなっているがまず親に対して何の関心もないのである。
親はその子を愛さないわけではなかったがいろいろ問題起こして事故で死んだからであるそれも中学生の時死んだからである。
その人は死んだ親に何の感情ももっていないのである。
だからみんなが死者を思うということはないのである。
いくら日本人の伝統でも個々人では事情が違ってくるのである。

死者というのはまたこれ愛すべき人が死んでみないと何なのかわからないのである。
自分は家族の一人は死んで八年になるしもう一人は二年とかになる
そういうことで死者のことを考える,わかったことは人間はなんでも継続なのだとういことである。人間は死んだからといって突然なにもかも途切れことはないのである。
自分の場合は60年間一緒にいたことが影響した
自分は特別愛されていたからそのことが影響した
ではそうして親が死んだときその愛情もすべてなくなるのかというとそうではない
やはり遺影がやさしく自分を見ているのである。
そして自分も遺影に語りかけているのである。

そこでわかったことは愛されたものがやがて愛する方に回る,それは介護になったときからそうなった,愛される方から介護になり愛す方に変わったのである。
その継続としてまた死者の供養があったのである。
死者は何も答えないしいるのかいないのかもわからない,でも愛情は死んでもとぎれることはない,それは死者でも愛も継続しているからである。
死んだときすべてが無に帰することもない,人間は死んでも継続するものがある

ただそれはあくまでも生きていたときからの継続なのである。だから死んだから死者になったから特別扱して先祖崇拝になることはないのである。
それで毒親のような人は死んでも子供は何の関心もなくなるのである。
生前にひどいめにあったから死んでも愛せない,供養もしないのである。
供養とは愛情のことなのである。

愛情がないかぎり死者への供養はしないのである。死んでからはむしろ生きている人が死者への愛情がなければ供養しない,確かに死者は何も答えない,愛情があってもそれを感じないかもしれない,ただ謎は愛情の交流は死んでもありつづけるのかもしれない
愛が生きている人から死んでいる人に流れてゆく,どっちかというと生きている人から死者へ流れてゆくことが多くなる,それは介護の時からそうなっていたのである。

まず親でも子が愛情がなければ介護もしない,その時からもう親子は愛情もないのだから親子でもなくなっているのだ。だから生前の継続として何でもあり突然に途切れて何か変わることはないのである。
だから日本人の伝統として死者の文化があった,としても全部にあてはまるわけではないのである。
ただ人間が死んだからといって何もかも終わりにはならない,生前からの継続するものはありつづける,生者が死者を偲ぶということはまさにその継続なのである。
でも死んでから偲ばれない人も親もいる,それも生きている時からの継続だからそうなっているのである。
だから人間は生きているときどう生きるかが大事になる,もう俺の人生は失敗だったといってせう一度やり直そうなどできないからである。
ともかく生と死を断絶したものとしてありえないのである。
死んだからといって死者が特別なものとなり敬われることはないのである。
死者が特別扱いされるのも危険なのである。生前がどうであれ死んだ途端に特別扱いはできないのである。

墓をどうするにしろ愛情をもてないことが一番の問題であり墓相がどうのこうのと関係ないのである。

死者とか墓とかいろいろ考察してきたけど前にもこういうことを書いていた

タグ:供養 死者
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