2025年01月25日

旅が喪失した現代【価値の多様性−金にならない価値】


旅が喪失した現代【価値の多様性−金にならない価値】

価値というときあまりにも多様なのである。ただ価値は現代なら金で計られる。金になるものは何でも価値があるとなる
金にならないものは価値がないとされる。
でもすべて金で計れないし金にならなくても価値があるものはいくらでもある。例えば景観に価値がある、何か私は景観を気にする。喫茶店でも景観がいいと価値がある、そこにいるだけで気持ちいいとなる。新地のはあガーデンという所は海が全面に見えるから気持ちいし松川浦でも港が見えて船が見えていいとなる

でも磯部の喫茶店はただ道に面していて海も見えないから入る気にもなれない、道を車が通るだけではつまらないとなる。
海が見えれば価値がある。ただ価値はいろいろでありそこで料理がいいとか人がいいとかいろいろな要素で価値を作り出している
温泉でも都会の温泉より景色のいい何か秘湯とかをめぐる人がいる。ひなびた場所が人気がある。

つまり人間は場所に影響される、場所が変わると心も変わる
また人も関係する。もてなしがいいとかでいいとなる。
ただ一番の価値は立地になる。景観がいい場所は人と関係なく価値を作り出すのである

●場所〔景観〕
●歴史
●料理
●人のもてなしサービス

何か今は料理に一番価値を置く人が増えている、私は料理より場所でありまた旅をするときそこまで行く過程で見るもの感じるものがありそれで俳句や短歌を作る

草臥れて宿かる頃や藤の花 芭蕉

こういうことは歩いて旅した時代で感じたものであり今は車だからただ目的地に着き旨いものを食べることが目的になり旅は失われたのである。温泉地でもそこが高度成長時代は歓楽街のようにもなった。旅自体が現代では喪失したのである。旅は車ではできない思う、山頭火が時雨に感じたのは歩いて旅していたからである。
でも車だったら時雨でも風でも感じないのである
すると旅館でホテルで何かうまいものを食べたとかしか印象に残らなくなる、だから現代は旅がなくなりただ車で移動しているだけだとも感じる

何が価値があるかというときそれも様々であり時代によっても変わる。旅となると単なる移動ではない、歩きながら景色でもまた旅は道連れとなる。そうなるのは歩いていたから道連れになった。車は閉ざされた空間であり人と触れ合わないのである。ただ互いに通り過ぎてゆくだけである。

例えば東北〔福島自動車道〕ができたが前の道は旧道になり車が通らなくなった。でもサイクリングにはいいとなった。もし歩いたとしたらそれ以上にいいとなる。車が通らないからである
ただそのために店は人が入らずやめた。でもサイクリングするには良く途中に休む場があればいいとなる。
昔の街道のようになり茶屋があり休む。それが旅なのである

街道に秋の日さして松による道の辺あわれ草の花かな

歩いて感じるののは違っている。松でも違って見えるのである
浮世絵とかに残されている風景がそうである。何か松でも良く描かれている

松一本ここに立ちにし標かな旅人行くや秋の暮れかな

松は高くもないから人間に見えるのである。だから松に特別親しみを感じる。

とにかく街道には松が多かった。松並木があり松を絵にするのが多い。

旅人を地蔵の見るや街道を今日も行く人秋の日さしぬ

街道なら地蔵でも旅人見る、道祖伸とかもある。それは旅の安全を祈るとなる。つまり街道はこうして心を通わすものとしてあった。自転車で旅して雨が降ったとき夕立ちが来たとき御堂に雨宿りした。御堂は旅人が休む場所でもあった。雨宿するにいいし時代劇ではそこで寝ていた宿にもなっていたのである。そういう役割があったとなる。

夕立や御堂に休む燕飛ぶ

ともかく現代は旅が喪失した。車だと移動であり旅になりにくい、そこで何か移動するだけで記憶に残らないのである

冬籠り記憶の道をたどるかな

このように記憶が車だとたどれないのである。歩く旅なら記憶に残る。だから現代人はかえって失うものがあった。五感で感じるものが鳴く記憶されないのである。それが後で大きな損失だったと気づくのである

一歩一歩踏みしむ道や根ずく木の心に残る秋深むかな

2024年12月14日

雪の金沢の詩〔冬桜、雪、)


雪の金沢の詩〔冬桜、雪、)

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これは長寿の祝いにいい―金沢の菓子器

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雪の金沢

金沢にしんしんと雪はふりぬ
清らかにひびき流るる犀川
その木橋をわたる人のゆかしく
百万石の城下に伝えられるもの
しんしんと雪はふるかな
奥の一室に伝える技を磨く
漆黒の漆塗に金箔映えて
その器に老木の梅も描かれ良しも
茶菓子の味わい深くその時の貴重なれ
静かに一服の茶を所望飲むべしや
冬は長くも籠りたゆまず技を磨きぬ
しんしんと雪はふるかな・・・
心も浄められて金沢の街は暮れぬ
外は雪誰か行きしやその跡も雪に消ゆ
・・・・・・・・・・・

日本海側は冬は雪に埋もれる。会津もそうであり太平洋側では雪は一年に三回くらいしかふらない、だから雪に埋もれる長い冬がどいうものかわからないのである。

ただ長く雪に埋もれことは何かそこでまたその土地独自の文化が生まれる。金沢でも会津でもそうである。金沢は百万石だから金箔とかの技が発達した、それが金沢らしいとなる、何か冬桜というのも合う、兼六園で見たの十月桜だった。

でも冬になれば雪がふりつもる景色になる。それがその土地の文化を創り出す、ただ長い冬を行きに埋もれて暮らすのは難儀だとなる
そこに住む人の感覚はまた違ってくる、とにかく太平洋側と日本海側は正反対の風土にもなる



2024年11月07日

思い出に残る旅 【人生最後に残るのは思い出ー老人は思い出を語るのみ】


思い出に残る旅
【人生最後に残るのは思い出ー老人は思い出を語るのみ】

●共にその土地で苦労して昔を語り連帯する

人間は老人なり残るものは何なのか?そんなこと考えて生きる人はいないだろう、でもそれが後になり老人になるとわかる
何かをするというとき仕事でも実は後でそれが充実した思い出になるとき老後はそのことをもい出して語り合い共感して連帯する
だからこの辺で原発事故とかで故郷を離れて暮らすようになった人たちは他の土地でまた新たな思い出を作ることは容易ではない。でも若い人ならそれができる、それだけの生きる時間があり例え移住してもそこが故郷となる
要するに生まれた所が故郷とは限らない、長く住んだところが故郷になる。そしてその土地と切り離せず思い出が作られる

それで浪江の津島というと本当に街からは欠け離れた辺鄙な土地である、でもそこに戦後開拓に入った人たちがいて共に苦労した人達でありそこに連帯が生まれて思い出も作られた
だから辺鄙な所でも離れたくないというのが理解できる、なぜならそこには苦しくても共に生きたという思い出があるからそうなる。他の土地に移ったら確かに便利な生活はできてもそこに共に生きたという思い出は語り合えないからその土地の人との連帯は生まれないのである。だからすべてがいくら補償金を多くもらってもそうしたことが補えないのである。そういう精神的なものは補うことはできないのである。

だから熟年離婚が多くなっているがそれが損なのはもはや60過ぎてから新たな生活を始めてもなかなか思い出を作り連帯することが難しい、そのためには時間がかかるからである。何か家族であっても息子娘で一旦離れてしまうと疎遠になり他人のようにもなったしまうのである。つまり一緒にくらしていないと例え孫でも外孫になると親密にならないしおばあちゃんおじいさんという感覚も持てないとなる。遠く離れて暮らせばそこで思い出が作れないからそうなる、ただ近くであれば交流がありそうはならない、遠くになるとどうしても疎遠になってしまうのである。

●自転車の旅の思い出

思い出とはいろいろある。それは個々人によって違っている
何がいい思い出になるのかわかりにくい、でも大概どんな人でも老人になるとその過去を人生を語る。何故かとなればそれが人生だったとなってしまうからである。それで何も語らない人は何か後ろめたいことしてきて語らないのかとなる
別に特別な人でなくても必ず過去をそれぞれの人生を語るからである。つまり老人は思い出の中に生きているのである。

私の場合自転車で旅したことが思い出になった。そんなこと遊びではないかとなるがやはり自転車で旅することは車とか電車で旅するのとは違い達成感があり感じることも違ってくる。だから一見歩くことで移動して時代は不便でも江戸時代でも思い出に残ったことは確かである。何か鉄道であれ車だと印象に残りにくいし自分の力で行ったという達成感がないのである。自転車だとあの坂を苦労して上ったとか記憶に残る、それで後から思い出して詩にしたりしている。つまり思い出として残すには鉄道とか車の旅だと残りにくいのである。ただ移動しているだけだともなる

だから芭蕉の旅でも歩いて旅したからこそ深い俳句が作られあのである。つまり何でも空間軸と時間軸で作られる、空間軸でも別に飛行機なら一挙に遠い外国に行けるが途中が省かれるから体験としては本当に外国を体験するとはならないのである
其れが大航海時代のように何か月もかけて外国に行った時の感動はないのである。それでも戦前は船ででもアメリカでもヨーロッパでも行っていたのである。
だからその時代時代で印象に残るものは違ってくる
それで芭蕉が平泉まで歩いて旅して感じたことは今は感じることはできないのである。それでも私は何度も平泉に行った、そこで

旅人の平泉去る秋の蝉

これは時間軸で感じたものである。季節の変化で感じたものである。もう秋かここで栄えたみちのくの都もあったがそれも遠い昔となった。旅人は秋の蝉の声を聴いて去ってゆくとなる
芭蕉の五月雨の降り残してや光堂というのはそうした空間軸と時間軸で作られたものである。はるばるここまで旅をしてきたが五月雨に朽ちもせず黄金の光堂が残っていたとなる深い感慨を句にしたのである。それは新幹線で東京から二時間半くらいで来ても感じないのである。

そして旅に病んで夢は枯野をかけめぐるというのもやはり旅して廻ったことが脳裏をかけめぐったのである。
私自身も自転車で旅したことがやはりこの句と同じように感じた。駆け巡っているのである。これは鉄道とか車で旅しても感じられないのである。人間の五感で感じるものが思い出として脳裏に刻まれ残るのである。

坂越え坂を越えつつたどりつく矢の原湿原心にしみぬ

●桜を見るにも空間軸と時間軸で見え方が違っていた

ある場所に行くのにもその行程が大事になる、そ子が現代の旅には欠けている
それは一目千本桜でも電車で行くのと自転車で行くのは相当に感覚的に違ってくる

はるばると我がたずぬれど千本の桜はみな散りし後かな

これも自転車で行ったから遠かった。でも電車で行った時はこんなふうには感じない
苦労してやっと来たのに千本の桜はみな散っていたとなり感じ方が違ったものになる
空間軸と時間軸で感じるものが違ってくる。空間軸では自転車で行けばかなり遠い所になる、
時間軸で見れば花は咲く期間は短い、だから桜はたちまち散って桜の盛りは見れなかったのである。
そこにかえって深い感慨が生まれた。だから必ずしも桜でも盛りを見るということでもない、
二本松城に自転車できた時もそうである

遠く来て霞城なれ残る花

桜が辛うじて残り咲いていたのである、どうしても桜は咲く時期が短いから満開の時を見れないのである
何かを見て感じるとき空間軸と時間軸で感じる。それが空間軸となると交通が便利になって感じれなくなる
また空間軸と時間軸は一体でありそれを切り離すことができない、そうなると浅薄な感じ方しかできないのが問題なのである
旅とは空間軸と時間軸のなかで感じるものとならないと深い見方はできないとなる

2024年10月06日

日本は森の国‐飯館村も丸森町も森が深い 【八溝山を自転車で白河の関に来た記憶】

日本は森の国‐飯館村も丸森町も森が深い
【八溝山を自転車で白河の関に来た記憶】

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●飯館村丸森も森の国−浪江町の津島は秘境だった

何か薄暗い森に覆われていたが自転車でも行ける道があった。でも覚えているのはそこが何か暗い森に覆われて閉ざされたという感じであった。でも日本は森の国であり山の国である。今でもそうなのである。森林面積が70パーセントとかある。
ただその森を切り開いて開墾して田畑を作って暮らした。でも全体的に見れば日本は森に覆われている国である。この辺は丸森町が名のように本当に森が深いのである。それで木材資源が豊富だから上杉藩と伊達藩と相馬藩でその木材を得るために争ったのである。

この辺で飯館村でも森に覆われている。栃窪から飯館に出る塩の道でも森に覆われている。飯館の長泥から浪江町の赤宇木(あこうぎ)を通り
津島に行ったがそこも森に覆われた場所でありその森の中を清流が流れていた。そして津島となると浪江の街からは相当離れた秘境になっていた。その山間の道に雲がかかり月が出た時まるで山水画の風景だった。そこが峡谷のようになっていたからである。

峡谷に曇りて月や長々と白藤垂れて津島の暮れぬ

そこはかけ離れた場であり山は未だに放射線に汚染されて入ることができなかった。一時津島は44マイクロシーベルトとかあった。津島は廃墟の村にになってしまった。

●八溝山の森を自転車で通り抜けた記憶

旅はどうい経路で行くかが問題になる。そしていかに記憶されるかが問題になる。何十年も過ぎると忘れるからである。
最近ある人の名前を忘れた。すぐ近くに住んでいる人だが何年も逢わずに話もしなかったからである。
だから近くに住んでいても人間は忘れる。ましてや遠くにいる人は忘れやすくなる。特に老人は忘れたやすくなる。だから日ごろ接している人は認知症になっても忘れないことがある
でもその息子であれ娘であれ遠くに住んでいてあまり会わないと忘れるのである。近くでも何年も会っていないと名前でも忘れるからである。

旅というのも忘れやすい、何十年も過ぎるとその記憶も定かでなくなる。そして地図を見て思い出した。茨城県を旅して雲巌寺により八溝山に自転車で入った、そこは深い森であり記憶していたのは清流が流れそこに紅葉は木の葉が散る光景だった

森深く清流に散る紅葉かな

私の記憶に残っているのは八溝山の深い森でありそこから白河の関に出たのである。白河の関でも森の道を通る。そこで感じたのはいかに日本は森が多く森に閉ざされていた国である
縄文人はそうした深い森で生活していたのである。つまりその生活環境を知らなければ縄文時代を知ることは不可能である
その森の中で狩猟をして木の実など採集して生活していた

森というとき暗いのである。森に閉ざされた生活である。森だとなかなか道がないから遠くに行くのはむずかしい。人々は森に閉ざされて生活していた、ただ川があるときそれが道になりやすい、その川にしても日本の場合には激流とか滝とかがあり外国の大陸の運河のような川とはあまりにも違っている
外国人は日本の川は滝だと言ったのもわかる、とても交通路になりにくかった。森に覆われていて遮断されて交流ができなかった
それはヨーロッパでも広大な森がありそれで森がボーダー国境ともなったのである。やはり延々と森が続いていたのである。

●糺の森,槻木駅ことなど

糺の森の「ただす」がどういう意味なのかは諸説ありますが、一説には「日頃の誤りを正す」という意味があるそうです。
糺すという漢字を使う機会は多くの人には無いと思いますが、使い方としては正すと全く同じで意味も同じになります

日本の森の場合はそういう感じがしない、鬱蒼として覆われて一本一本の木を見ない、外国だとドイツでも樅の木の森があったとしても一本一本の木が柱のように見えるからゴッシックの石の大聖堂は森をイメージして作られた。石の柱は木を模しているし古くはエジプトの神殿ももともと森に囲まれていた時代があり木を模したものだが石の柱になった。それはヨーロッパでも同じだったのである。

天(あま)飛ぶや、軽(かる)の社(やしろ)の、斎(いは)ひ槻(つき)、幾代(いくよ)まであらむ、隠(こも)り妻(づま)ぞも
「斎(いは)ひ槻(つき)」は、神木として祀(まつ)ってある槻(つき)のことです

隠(こも)り妻(づま)」は、人目に触れないようにこもっている妻のことです。

というときいつまでも斎(いは)ひ槻(つき)、幾代(いくよ)まであらむ、隠(こも)り妻(づま)ぞも槻(つき)の木のようにあった欲しいとなる。何か隠(こもる)というとき森に閉ざされて隠るになる。なかなか森から出れないという意味にもなる。

槻(つき)の木というとき欅(けやき)のことらしい、ならばなじみがあるとなる。槻(つき)の木という駅が東北線にある、
阿武隈急行もここから乗り換える。ここはやはり槻(つき)の木(けやき)の森がありナずけられたのか?
北海道に黒松駅があるがこれは明らかに黒松の森があり名ずけられた。

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とまかく日本は森の国であり鎮守の森というときもともと社がある場所は森だったのである。社をモリというのはそのためであるただ森がこれだけ多いというとき森を意識しない、当たり前にある者は意識されないのである。
日本は森の国だというとき世界でも特殊である。森が世界が消失しているからである。







2023年09月01日

私の花紀行(ハクサンチドリ、タカネツリガネニンジン、シャリンバイ、ノボタン)


私の花紀行(ハクサンチドリ、タカネツリガネニンジン、シャリンバイ、ノボタン)

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宗谷岬のハクサンチドリ

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岩手山で見たタカネツリガネニンジン

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カンボジアで見たノボタン




ハクサンシャジン (キキョウ科ツリガネニンジン属)【白山沙参】
(学名:Adenophora triphylla var. hakusanensis)
別名:タカネツリガネニンジン

「ツリガネニンジン」の高山型とされ、ツリガネニンジンよりも丈が低く、花が密につきます。

この仲間は個体ごとの変異が多く、地域変種も多いので、厳密には分類の判りにくい花です。

本州中部地方以北の高山や北海道には高山植物的になったものがあり、ハクサンシャジン、あるいはタカネツリガネニンジン(var. hakusanensis Kitam.)という。花茎の高さ30-60cm、花冠は広鐘状で花序の小枝が短く、密集した総状花序になる。
四国の一部の蛇紋岩地帯には背丈が低く、葉が線形で花冠の長さが1cmたらずと小柄なものがあり、オトメシャジン(var. puellaris Hara)と呼ばれる。


ツリガネニンジンは平地でも咲いている。私の岩手山の高い所で見たのは高嶺釣鐘人参だと思う。それは岩場に咲いていた。その時霧がおおっていた。だから神秘的だった。それは平地のツリガネニンジンより大きなものだった。その時写真を撮っていなかったのは失敗である。なぜなら今になるとそれが貴重なチャンスだったのである。つまり写真というのは写真を撮る技術もあるかもあるがどういう場面に出会うかが大事になる。そのシャッターチャンスというのは一度しかない場合がある。

なぜなら高山植物になるとそこには簡単に行けないからである。だから記録さするだけでも大事になる。旅を振り返るときでもそうである。人間ほど忘れやすいものはない。そして回想する旅を今しているが何か全く忘れてしまっているのである。特に外国旅行はそうだった。写真を見てそれを現実に見たという記憶もなくなっていたのである。だから外国の写真というのは貴重だった。でもその頃デジタルカメラがないからあまり記録できなかったのである。

いずれにしろ花の思い出として尾瀬があったがそこもよく記憶されていない。ただ異常なほどに疲れたという記憶がある。あそこは歩いてゆくだけで相当な距離があり疲れるのである。でも30代の頃3回ぐらい行ったがその後は行ったいないのである
一番行ってっているのは北海道でありそこで花を見た。
北海道には寒いから平地に高山植物が咲いているのである。

白山千鳥(ハクサンチドリ)は、北海道〜中部地方以北の高山帯の湿り気のある場所に自生する高山植物で、赤紫色の小さな花を10輪以上咲かせます。 白山で発見され、鳥の飛ぶ姿に似ていることから白山千鳥(ハクサンチドリ)と名づけられました。

雨しとと宗谷岬や旅路来てハクサンチドリを咲くを知りにき

あれは不思議だった。北海道には高山植物がが咲く、北海道は花を見るにはいい場所なのである。大雪山の残雪の踏みしめてハクサンコザクラを見た時は感動した。
何しろ私は北海道に10回ぐらい言っている。そうなったのは梅雨の時期に必ず北海道に行っていたからである。いかに自分が贅沢な暮らしをしていたかわかる。それができたのも家族に恵まれていたからである。何もすることもなくただ自分のしたいことをしていただけなのである。別に私は旅をするとか花に興味あるなどなかった。ただ若い時底辺で流れ作業などばかりさせられて仕事自体が嫌になる結果的に引きこもりになり家族に恵まれて自分のしたいことをしてきたのである。

別にそれまでは花など興味持たなかったのでそれが旅しているうちに花に興味を持つようになったのである。北海道には原生花園などがあり一面に花が覆われたところがありそれでは何興味を持ったということはただ振り返れば花の世界植物の世界もいかに多様多種でありその世界を極めることは至難である。別に私は植物学者ではない。私はただ花の美に触れるというだけであった。それにしても花の種類も多いということをつくづく感じた。

花というのは本当は原生種はありそれがどこに咲いていたのかな大事になる。白い夾竹桃が沖縄の西表島のジャングルに咲いていた。それはもともと南国性であり南国産でありジャングルに咲いていたのである。どちらかというと花は南国産が多いのである。南相馬市区の鹿島区の海老浜に咲いていたマルハシャリンバイは奄美大島の方から種が流れてきてここに根付いて自生した。ここはその南限の地ととなっていることでも有名である。

でも津波で海老村は消失した。結果的に今その説明板もなくなっている。笠女郎の残した万葉集の有名な歌は実はそうした気候と関係していたのである。つまりこの歌は気候の境目でありまた結果的に早めに早い時期から大和朝廷に服属するようになった蝦夷の地域だったのである。そのことは私のプログで追求してきた。

みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを

真野の草原(かやはら)は萱のことではない、地名だと考察した。

花どうしても南国系統が多い、花はもともと咲いていた場所で見れば感動する。
例えばカンボジアで見たノボタンがそうである。それはの道に咲いていた。なぜボタンなのかと見たがやはボタンの原種なのだろう。チューリップの原種はトルコである。だからその花がもともとどういう気候と場所に適して咲いたかということを知るべきである。なぜならそれを育てるとなるとそういうそれに適した風土がありそれに合わせないと育てられないからである。

カンボジアの暑さ残れる夕暮れの道に野牡丹見ゆや遠く来りぬ

花と言う時飯館村の森にギンランが咲いているという。それを教えたのはあいの沢の飯館村の案内人である。でもその銀蘭は実際には見ることは出来ない。森にしても相当に深く広いしどこに咲いているか分からないからです。でもそういう花が咲いているということが飯館村がいかに深く広く神秘的な場所か分かるのである。

ともかく花についてはあまりにも種類が多く語り尽くせないものは私は植物学者でもなんでもない。でも花を探求してきたことは確かです。ただそれは花の美を見てきたのであり植物学者とは違う。花に興味を持てばやはり花の名前を覚えることが第一になそれは私が旅をして駅の名など地名に興味を持ったことでもわかる。
そしてエデンの園では人間の仕事がそうした花でも名をつけることであったという。その名前というのは大事なことになるかわかる。だからツリガネニンジンと言う時長すぎるし人参となっているのは何か美的に鑑賞するより薬草とか食料として見ていたからだとなる。。

若苗、若葉、花を食用にできる[4]。春の若い芽は、山菜のトトキとして食用にされ、あくやクセがない淡泊な味わいで素朴な風味で人気がある[トトキとは、ツリガネニンジンのことを指し、「山でうまいはオケラにトトキ…嫁に食わすは惜しうござる」と長野県の俚謡で歌われるほど、庶民のあいだで美味しいものの一つに例えられている[

根は沙参(しゃじん)または南沙参(なんしゃじん)と称し、生薬として利用される。秋(11月ごろ)の地上部が枯れたときに根を掘り出し、細根を取り除いたものを天日乾燥させたものが使われ、
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花でもまず最初は食料としてありまた薬として注目された。美としてだけ見るのはその後なのである。
ともかく意外と人生において盲点になっているのは。人間は忘れやすいということである。だから何度も言っているように旅するにも記憶に残るような旅をしろと書いた。それは人間というのは忘れやすいからである。
それで車の旅は便利なのだがその途中のことは何も記憶されないのである。また電車の旅でもそうなりやすい。ほう新幹線になったら途中は何もないのでだから飛行機の旅というのは何にも見えないからつまらないのでは何か記憶にとどめるにはやはりその場のその場に立ち歩き五感で感じる必要があるからである。
だから現代人というのはかえって五感が衰え自然でもなんでも感じ方が希薄になり自然でも深く見ることができなくなった。旅するにしても車が行き交うだけであり旅人はいなくなったのである。そこにやはり失うものはあったのである。

私は時間はいくらでもあった。金はなくても時間があった
だから最低限のもので間に合わせて旅をしたのである。だから時間というのがいかに貴重なものであったか最後に振り返れば分かるのである。あなたが何を見て何を経験したのかそれが人生の終わりに老人になって問われるのでは。
そしてその時間は戻ってこないし再び体験することもできなくなった。まず山に登るということは相当な体力が必要であり若いうちにしてないとなかなかできなくなる。ただ自転車の旅だったらもしかしたら老人でもできるかもしれないそれでもつらいものとなることは確かである。なぜなら介護になってから既に十数年もは旅していないからである。だから旅する時間というのも限られているし何でも限られている。時間は限られたものでありその中で体験したものが習得してきたものはあなたの人生だったとなるのである。

2023年07月04日

記憶をたどる旅(東菊(あずまぎく)の由来ー失われた人間の五感)


記憶をたどる旅(東菊(あずまぎく)の由来ー失われた人間の五感)


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岩と霧その名の良しや東菊


忠実な臣下や妻や東菊


霧晴れて様々の花現れぬ一時見しも霧また覆いぬ


●東菊(あずま菊)の由来


アポイ岳は花の山として有名である。様々な花が咲いている。高山植物を低山で見れるから貴重である。そこに登ったのだがその記憶も曖昧となってしまった。それでいかに記憶というものが大事なのか、これでもわかる。何を見て何が印象に残ったのかを記憶されていなければそこに行ったともならなくなる。なぜかアズマギクというのを見たのを覚えている。それがそれを覚えていたのは実は実物からだけではなく後から調べて東菊(アズマギク)というのはあるのを知ったからである。それは霧の中に紫色に咲いていた、小さな菊である。図鑑で調べてみてもそのアズマギクは色がもっと紫色で濃いものとして見ていた。


だから必ずしも写真で撮ったものと記憶が一致するということでもない。なぜならそれは名前から記憶されていたからである。だから意外と名前というのは大事なのである。名前から人でも植物でもいろいろなものが想起されるからである。エデンの園では人の仕事は様々な植物でも花でも名前を付ける事だったのである。他にも地名に興味を持ったがこれも地名という名前からその土地の状態を想起する。 そこに地名の効果がある。地名一つから様々なことが想起される場合があるからである。電車の旅だと駅名が記憶されるのである。 


最初、私は電車の旅をして地名に興味を持ってそこから地理とか地形とかに興味を持つようになったのである。 もし地名とかがなければ、その土地のことを記憶する手がかりがなくなる。 それで人間にとって名前が大事な物となる。人の名前でも名前からその人を記憶するからである。名は体を現わすなのである

それでアズマギクというときやはり東というのが印象的に残る。あずまというときそこから吾妻と言う地域を連想するからである。それは歴史的にも東というのは関ヶ原を境にして東になるからである。そこはまた古代では蝦夷の地域だったともなる。


あずまの語源は? 



この「あずま」という言葉は碓氷峠から東、群馬・関東の方を見て日本武尊が「吾嬬(あずま)はや……」と言ったのが語源だそうです。 「わが妻はもういないのか」と言う意味 日本武尊が関東を平定し、信濃に入ろうとしたとき、碓氷峠から関東平野をかえりみて愛する妻を偲んで言ったのだそうです。


東は我が妻のことなのか?それが地名化したのか?でも何か不自然なものにも思う。別な説として安曇族が東になったという説もある。あずみがあずまになった。なぜなら思った以上に安曇族の痕跡が多いからである自分の住んでいる場所にも綿津見神社と山津見神社が多い。それは安曇族の痕跡なのである。 最初、安曇族は東北地方に入り開拓したのである。それで吾妻山と言うのが福島県にあるともなる。ただここに妻をあてているからヤマトタケルの神話が影響している


とにかく、日本の歴史は西が最初に繁栄して次に東が繁栄したのである。 鎌倉時代に関東武者が鎌倉に幕府を置いた。その時から東が日本の中心になってきたのである。東を治めなければ。日本は治められなかったのである。 征夷大将軍の名は東を征服することだからである。その名は東を制服するということで家康の時代までそれは継続されていたのである。このように花の名一つでも地名でもその土地の歴史とか地形とか様々なものが想起されるのである。



●秀吉の一夜城に行った記憶



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走り来て三日月光る一夜城




長良川西岸の洲股(墨俣)[2]の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。また、1561年永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣一夜城である



旅の経験として秀吉の木下藤吉郎時代の美濃との戦い一夜城を築いたことは有名である。私はその一夜城に向かって自転車で走ったのである。実際に夕暮れになっていて一夜城に着いたときは三日月が光っていたのである。

一夜城とは夜をとうして城を作ったからそう名付けられた。まさに私自身がそこまで自転車で走ったということで一夜城と一体化したのである。それが車で行ったらそうともならないのである。藤吉郎もその時走っていたからである。

ただそこが流れ河の洲の俣ー墨俣にあるとわ思わなかった。細い小川のような水路に沿って走っていたからであるでる。長良川の岸辺の水路だったのである。このように地理というのも実際に行っても一回ぐらいでわわからないのである。でもそこを走ったということが体で記憶されていたからこうして思い出しているのである。


まずここを車で行ったりしたら、このように記憶されないのである。だから車は便利でも意外と記憶されない。旅の記憶とならないのである。要するに鉄道であれ車であれバイクであれ便利なものは旅をしても記憶されない。一番記憶されるのは歩いた旅なのである。私自身がこれほど旅をしても歩いた旅はしていないのである。つまり歩いて大地を踏みしめて人間の五感で感じる旅を今している人はいないのである。例えば西行小夜の中山の歌は歩いたからこそできた迫力ある歌だったのである。


年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山


この小夜の中山は万人に強い印象となって記憶されたのである。もう今になればそんなところ車で通り過ぎれば感じもしないのである。このように記憶されるということが大事なのか分かる。記憶されなければ後で振り返ることもないし印象に残ることもないし。何も残らないとなるからである。車のない時に歩いて。作られた歌でも俳句でも今になると作れないのである。今は車の騒音にかき消されて実際は旅しても何も残らないとなるのである。残ったのは騒音だけだったとなってしまう。つまり人間の五感が。活かされない時代になったなったのである。



2021年12月01日

温泉若おかみの殺人推理 (ホテルは料理でもてなす所ー関サバがテーマのドラマ)


温泉若おかみの殺人推理

(ホテルは料理でもてなす所ー関サバがテーマのドラマ)


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外国人でも日本に来ることの目的が日本の料理が目的だったのである

このドラマのテーマはホテルで出される料理のことである
ある時老女が一人で泊まりに来た、それで断ろうとしたが今時そういうことは時代に合わないとして受け入れさせたのがホテルのコンサルタントの女性だった
このドラマはいかに客をもてなし寂れたホテルを復活させるかがテーマである
その中心が料理なのである
ここで関サバというのが名物である、これは全国的にも知られている
ここだけでとれる特別のものである、潮流とかの関係で一本釣りでとるのである
その老女はこのホテルに結婚して夫と来たことがあった
でもその夫が死んだので一人で思い出のホテルに泊まりに来たのである
そして夫のために御膳をもう一つ用意してくれとなった、陰膳である
でも関サバは出せなかった、でも九州の旅の帰りにまた寄ってくれたら出すと料理人が約束する
そこで命がけでその関サバを出すために自ら仲間であった漁師ととりにゆく
前に関サバを無理に獲りに行って父親と兄貴が死んだ女性がいた
その女性はそのことでずっと恨んでいて殺人になったのである

このドラマで感じたことはもう涙ぐましいほど命をかけてまで魚をとりお客に出すことがドラマのテーマとなっていた、ホテルとは何度も言うけどホステル、病院から発している旅人を癒す場として病院の役割があってその言葉が生まれた
それだけヨ−ロッパでも旅することがトラベルであり苦痛だから難儀だからそうなった
言葉は何か生まれるにも歴史があって生まれて来る

もう今は旅はない、旅とは江戸時代のように歩き宿に泊まり旅をつづけることである
宿はそのためにありそこで休養をとりまた歩いて旅してゆくのである
今は目的地に直行して車でホテルや旅館に行きそこで食べることが楽しみとなる旅であるそれはあくまでも保養の旅であり旅とは言えないのである
つまり現代では旅人がいないのである、江戸時代辺りまでだとどうしても歩くことになるから自ずと旅人になっていたのである
現代か旅は喪失したのである
だから最近温泉街が廃墟化しているのに驚いた、会津の東山温泉でも飯坂温泉でもそうである、温泉街とは高度成長時代の会社の団体旅行などがあって成り立っていたのである
また団体で商売のためにそうしてホテルに泊まらせてうまいものを食べさせることで客に物を売っていたとなる
そういう商売も日本経済の衰退で成立たなくなったのである

そもそも本来の旅は喪失している、旅人ももういない、バイクで旅しているとしても早すぎるから通過して行くたげだともみる
現代では通過する旅が多い、何か目的地に早く到達してホテルでうまいものを食べるのが楽しみだとなる、別に車だから多少疲れていても歩いてきた旅人とは全く違っている
そこでもてなすとうまい料理を出すことだとなる
それが目的でホテルに泊まるということでありこれは外国人でも同じだったのである
外国人だと日本を旅したいと見たがそうではない、やはり日本で日本の料理を食べたいというのが一番大きかったのである、人間は一般的にそれだけ食べることに一番関心があることが共通していたのである

旅の思い出はホテルで食べた料理の味

これは旅とは言えない、まず旅はしていない、移動してホテルの自慢の料理を食べることだとなる
だからこそ関サバを命がけとって客を喜ばすことが第一だとなる
そこに地域の人々が漁師でもかかわって観光客をもてなすということである
ここではもう旅はないのである、旅人もいないのである

私の旅の経験では何か福島県の石川なのか鮫川なのか阿武隈高原を自転車で旅していて
万屋がありそこでご飯と味噌汁を御馳走になったことである
なぜそんなことをしてくれたのか不思議だった、今はそんなことありえないからである
そんな山の中で旅人をもてなしてくれた、それも金を出さないのにそうしてくれた
これが何か記憶に残っているのだ
他でも湯殿山ホテルに泊まったのは迷ってしまいホテルがあったので行った
普通は必ず自転車旅行者は断られる、でもそのお上は一室を用意してくれたのである
それもありえないことだった、ここに人間の情が本当のもてなしがまた活きていたことを経験したのである
でも実際はそれはもう例外的なものであり自転車旅行者など受け付けないのである
でも自転車旅行者は相当に疲れているのである、だから疲れをいやしたいのである
でも今のホテルはそういう人のために旅人のためにはないのである
つまり何か上品な老女でも来てまた見かけがいい重役のような人が来てうまい料理を出してもてなすことが目的化しているのである
そういう人を金持ちをホテルの従業員も迎えるということである

現代では旅する人は稀有である、猪苗代の湖南の福良では蔵の宿に泊まった
それは昔の白河街道の通り道だった、それも不思議だった
でもたまたまであり普通はそういうことない、でもそういう宿は記憶に残るのである
まず旅を思いだして果たしてあそこで旨いものを食べたなど記憶に残るだろうか?
それはドラマのことでありそんなにうまいものを食べたことが記憶に残るとも思えないのである
ただ一回だけ新潟の小出の魚野川の食堂でそこでとれたての鮎を焼いたものを食べた
それはうまかった、安いけどうまかった、それを特別感じたのはもう鮎がこの辺では食べれなくなったことが影響していたのである
子供の時は父親が近くの川で大きな鮎をとってきてそれを食べた記憶があったからだ
今は普通の川では鮎はとれたとしても小さいしうまくなくなったからである
確かに何かうまいものを食べたものを記憶することはある
でも何かそれが旅の記憶となるのかとなると疑問である
何か旅を記憶することはむずかしい、記憶する旅をすることはむずかしい

ただ宇多川をさかのぼり霊山の方へ行った時旅した感じになった
それは一応長い行程を行ったからである、ともかく旅に明け暮れた人生だった
だから旅とか旅館とかホテルに興味がある、でも現代では旅は喪失した
温泉街が廃墟化したというときやはり観光の仕方が悪かった、時代の変化がありそれに適応でなかったからかもしれない、今は何か旅を演出しないとできない
それは時間もかかり金もかえってかかるとなる
昔の街道を歩くようにして昔のままに茶屋をもうけて休ませるとかする、すると旅した気分にはなる
巨大なテーマパークのようなホテルがあるがそれはもう旅とはなんの関係もない
ただ巨大娯楽場であり旅と関係ないのである
交通でも便利になんでもやはりそこで失うものがある、特に便利さを求めて何か人間の豊かさを失うことがある
みんな金でなんでもできると思うができない、かえって金がなくても時間があり体力があるだけでも旅はできる、莫大な金をかけてもすべて価値あるものを作りだせなてい、
そもそも江戸時代の旅は一か月とかあり歩くのだから体力がないとできないからである

ただうまいものを食べるだけに旅はしていないのである
旅する時間をかけがえいのないものとしてするということがなくなったのである
なぜ西行であれ芭蕉であれ山頭火であれ旅人でありえたのか、旅をできたのか?
それは命がけでもあり旅をそれだけ人生で意味あるものとしたからそうなったのである
それは遊行でも命がけでありそに人生の価値を見出していたからである
今やそこまで思って旅する人はいない、気楽に旅してホテルでうまいものを食べることになった、ただそうしても金をかけても本当の旅をしたことにならない
つまり人間は何でも金だけでは得られないのである、そこが誤解している
旅は別に時間があり体力があれば金がなくてもできる
私は時間もあり一応体力がなくても中年から自転車旅行ができたからである
私の旅の目的は旅することでありうまいものを食べることではない、だから金もないから食べ物に贅沢できない、旅できればいいと思っていたからである

旅の道茶屋に休むや秋の暮

旅人の逢いて分るや秋の暮

松一本標しとあれや秋の暮

遠くへと旅人去りぬ秋の暮

こんなふうに歩く旅とは人間的になる、それで旅は道連れ世は情けなとなった
しかし道連れもいないし情けもなくなったのが現代なのである
何か情を交わすとういことがないのが現代なのである
駅でも無人化して迎えるのはロボットにもなる、そこに人間はいないなくなるのである
いろいろ進歩したとしても何かその中でも必ず失われるものがある
それが失ってみて貴重なものだったとなるのである
人間でも家族でも死んでみてその貴重さを認識する、ただ今や旅を回想して死んだ人を追憶しているだけとなったのである

つぐつぐ人生も旅である、人は出合い分れる、それは本当に貴重な時だったのである
一期一会の貴重な時だったのである、なぜならもう二度と合わない、みんな死んでゆくからである、実際に今やこの年になると家族も全部死んだし知っている人も死んでゆく

歌舞伎俳優で人間国宝の中村吉右衛門さん死去 77歳

この人は良く時代劇で見ていた、この人も死んだのかと驚く、テレビの画面でしか知らないけど77、78歳で死ぬ人が多いとみた、人間はとにかくこうして人間が出合ったとしても忘れてゆく、この年になると次々に同年代が死んでゆくからである
そしてつくづく人間がこの世で出合うとは何なのだろうとなる
出合った人でも死んでゆくからである、それもつかの間の出合いだったとなる
そして永遠に出合わないとなるのが人間なのである
人間とは本当にこの世で出合うのは束の間なのだなと思う
それでけさよならだけが人生だというのは名言になったのである、最後はみんなそうなるのである


歩く旅の喪失と保養としての宿の変化 
(福島中央道から地域を考える―車が通らなくなった道)

2021年10月28日

温泉街が廃墟化した驚き (会津の東山温泉、福島の飯坂温泉もひどい-旅の思い出)


温泉街が廃墟化した驚き

(会津の東山温泉、福島の飯坂温泉もひどい-旅の思い出)

鬼怒川温泉の黄金時代は、バブル崩壊とともに終わりを告げます。景気は冷えこみ、日光鬼怒川温泉へ社員旅行をする企業が減り、個々人も、余暇に鬼怒川温泉へ観光しようというゆとりが減ってきました。

観光の世界において、常識的に語られることはいくつかあるが、その一つに「旅館が大型化し、宿泊客を囲い込んだために、街にあった店舗が潰れ、街の魅力がなくなった」というものがある。

(旅行会社が送客する)団体客への依存が高く、増えてきた個人客への対応力が弱い
個人客は、いろいろな施設が揃った大型旅館の中で過ごすより、それぞれの地域での街歩きを楽しむ傾向にある
温泉街には、かつては飲食店や物販店はもちろん、スマートボールや射的などがあったが、温泉旅館が、それらを内包してしまったために、皆、潰れてしまった
つまり、個人客対応できない温泉街にしてしまったのは、巨大化した温泉旅館に原因がある
さらに、その遠因は、団体客を受け入れしやすいように旅館の大型化を生み出した旅行会社にある。

会津の東山温泉と福島の飯坂温泉が廃墟の街となっているのをyoutubeで見て驚いた
これはいつこうなったのか?それが良くわからない、ただこれも日本の経済衰退から起きていた、ただ救いはインパウンドなどで外国人旅行者が特に中国人が団体で訪れていたことである、それでなんとか維持できていたこともあった
ただ全般的には温泉街は高度成長時代が終わりバブルがはじけて衰退した
高度成長時代は社員旅行とか団体旅行が盛んだったからである
この辺の呉服屋でも客をしきりに団体旅行に連れて行ったのである
この辺では火力発電所ができた港の村とかではもう航空運賃が50万とかなるときヨ−ロッパ旅行に行っていた人がいたので驚いた、その頃とても外国旅行に行けるとは思っていなかった,ヨ−ロッパ旅行となると夢のまた夢のような時代だったからだ

私自身が人生を旅に費やしたから旅館とかホテルでも興味がある
でも貧乏旅行者であり自転車旅行になってからまず高いホテルとか旅館には泊まらない
温泉旅館は高いので泊まったことがないし自転車では泊まりにくいのである
ただ一回だけ湯殿山ホテルに道に迷い泊まったのである
そこのお上が泊めてくれたから例外的だった、ホテルとなるとこうした自転車旅行者など泊めない、断られる、だからまず自分は旅館とかホテルはただ体を休めるだけで贅沢など求めない、温泉旅館は保養のためであり温泉街自体を楽しむ場所である
私は一夜の旅の宿を求める場所だから違っていた

『蚤虱馬が尿する枕もと』芭蕉

こういう所でも良かったとなる、ただ現代ではこうして旅人を受け入れる農家などないから野宿なのである、たいがい自転車旅行とか一人旅でも野宿である

隠田やテントに眠る夏の星

こんなふうになる、日本の特徴は意外な所に田があることである、それは税金逃れにもなる、山の陰などになっていてわからないからである、この辺の近くでも土地の人があそこか隠田だったよと教えてくれた人がいた、そこは平地なのだけど森の様な所があってかくれていたたそである、相馬市の松川浦の近くだから山の中ではないのに隠田があったから謎である

とにかく私の旅をふりかえると福島県なら隈なく行った、それで会津の東山温泉が廃墟化していることに驚いた、あんなふうに廃墟の街となっこのはこの辺が原発事故で避難して廃墟の街や村になったことと同じように見えた、なんか気味悪くなる
往時のにぎわいがぱったりとやんで廃墟マニアが訪れる場所となったのである
東山温泉というとき私は白河街道を通り芒の山道をぬけて東山温泉に出て来た
その時は廃墟の街のようには思えなかった
途中の福良の南湖の蔵の宿に泊まった、あそこはいい場所であり蔵の宿が良かったのである、でも私は温泉街とかには魅力を感じなかった、もともと宿賃が高いし泊まりにくかったからである
私はずっと貧乏旅行が長いから常に安い宿を探していたからだ
それで海外旅行でもパリの東駅で安宿を探していたのである
あそこにはかなり安宿がありでも満員だった

安宿に落葉を踏みて東駅

海外はむしろヨ−ロッパでも安いホテルが意外に多く個人旅行がしやすかったのである
日本はそういう安い旅館がホテルが少ないから旅はしにくいのである
かえって江戸時代の方が宿場町があり安宿が多いから長旅には向いていた
宿場町ではそうした旅人をもてなした、それは保養に車とかで来る人と違って長く歩いて汚れたりしているからまず足を洗うのである、それがもてなしなのである
もともとホテルはホステルであり病院に由来するからもてなしねぎらうものだった
それは歩く旅だからそうなったのである

現代に旅はないし旅人もいなくなった、電車でも車でもバイクにしろ早いから途中が飛ばされるし途中の宿に泊まるということもないからだ
自転車とバイクが似ているようで全然違う、バイクだと車並みに早いからである
自転車旅行は疲れるからだ、特に坂を上ると体力を消耗するのである

東山温泉もそうだが飯坂温泉もあんなに寂れて廃墟化していることに驚いた
福島市から飯坂線がありその線が何か情緒があった、途中の医王寺は芭蕉が寄ったことで有名である、そこから飯坂に行った、あそこをさらに上って行くとやはり旅館があり
その時桜が咲いていて丁度暮れる頃であり雨がしととふり旅館から湯の煙がたっていた

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雨しとと湯の煙たち夕桜

雨しと灯ともる旅館夕桜

こんな感じだった、その記憶は残っているが飯坂に泊まったのは覚えていない
旅の記憶はうすれてゆくと定かでなくなる、ただ自転車で行きそこで暮れたことは覚えている

『蚤虱馬が尿する枕もと』芭蕉

こういう宿でもふりかえると旅の醍醐味であり記憶に残る貴重な体験なのである
ふかふかのベッドとかホテルに泊まるだけの旅はかえってつまらないありきたりの体験になる、旅でも記憶に残る旅をしろと語ってきたときそうなる
電車であれ車であれ旅が楽過ぎるからかえって旅にならないのである
そもそもトラベルとは苦労することだから旅は外国でも難儀だったからである
それは歩く旅だったからである、歩く旅をしていないものは本当の旅がわからないとなる今は歩く旅はかえって余裕がないとできない、その疲れ方も半端ではないからだ
これだけ旅しても私は歩く旅はしていないから本当の旅がわからないともなる

いづれにしろ温泉街は旅の宿にはならない、高度成長時代のバブルとして廃墟化した
一時の夢の跡ととなってしまったのである
こういう盛衰は人間社会につきものである、ただ原発事故で町ごとが村ごとが廃墟化したことにも驚いたが温泉街の廃墟化にも驚いた
ただ原発事故とは違って温泉街という一部であり全体はまだ残っているのは違っている
原発事故は全体が廃墟化したからひどいとなる
温泉街が廃墟化しても回りの農家などはやはり生業があり残っている
この辺では農家自体が廃墟化したからショックだった

ただ本当に空家が全国で800万軒になるということはショックである、衰退してゆく日本を象徴しているのだ、本当に空家が多い、この辺で原発事故の避難区域は廃墟の町となり村となった、それは将来の日本を先取りした風景なのかとも見てしまう
ただ一挙に廃墟化したから凄まじい荒廃となった
ただ温泉街とかは何か全体ではなく温泉街として特化したものだからブームとかさると一挙に寂れてしまう、それがコロナウィルスでもそうなったのである

2021年02月15日

旧街道の旅の思い出 (車では自然を感じないー風も雨も感じない)


旧街道の旅の思い出

(車では自然を感じないー風も雨も感じない)


街道の細道を行き梅香る


相馬市までの道は昔の道である、日立木から城跡まで行くと昔を偲べる
それにしても狭い細い曲がりくねった道である
あのように細く曲がりくねっていたのである
そこは歩く道だからそうなっていた、その道もとぎれて六号線に出ると国道になる
そこでは頻繁に車が行き来する現代の道となる

細い道を行くと梅が咲き始めそこはかとなく香りが流れた
それは細い道を行ったから感じたのである、それは街道の細い道が歩く道だったからである、そこも車が通っているが狭いのである
車にはふさわしくないのである、車は情緒を壊すものなのである

車で行くとこうして梅の香とかを感じない、鋼鉄に覆われた車が外界の自然をさえぎる
風も感じない、今の時期だと海から東風(こち)が吹く、そしてまた北風になったりする季節である、この東風が吹いて原発事故で放射性物質が飯館村から福島市まで運ばれたのが不運だった、風に影響されたからである
もし北風だったら海の方に流されたから意外被害が少なかったかもしれないからだ
実際に請戸漁港からは原発の煙突が見える、近いのである
そこで放射線量は0・5マイクロシーベルトとか低かったのである
それが不運だったのである、何でもいくら科学時代でも自然の影響をうける、それはさけられないのである

私は自転車で行くから歩くとはならないがそこで自然を感じる、風とか光とか感じる
暑さ寒さも感じる、でも車というのはそうした自然を感じないのである
中は鋼鉄に徒おおわれた空間だから暖房もあり寒さも感じないのである
だから風流がないのだ、風の流れを感じないのである
自転車に乗っていれば風で季節を感じるのである、それがないから快適な空間でも自然を感じない、すると風流がないから俳句とか短歌でも作りにくいとなるのだ
ただ車がだけではない、鉄道の旅も電車の旅も風は感じないのである
だから鉄道は好きでも自転車の旅に乗り換えたのである

バイクは風は感じるから、車よりは自然を感じる、でも車と同じく早すぎるから風景に自然にとけこむとはならない

春光や南へ飛ばすバイクかな

こんなふうになるから自然の中で走っているという感じになる
つまり車だと風を全く感じない、自然を遮断した空間なのである
それが快適でも自然を感じないから旅しても旅ともならないのである、ただ早く目的地に着くという旅になる、その目的地に行くことでは便利なのである
便利なもの科学技術は必ず自然に反するものをもっている
それでソーラーパネルでも風力発電も水力発電でも自然破壊があるというのも納得する
なんらか回りの環境に影響するのである

ともかく街道を旅するには歩くことが一番いいが自転車もその次にいい、その次がバイクになる、ただバイクは車とおなじスピードだから通りすぎてゆくだけになる

みちのくの街道行くや野菊かな

こんな風に道の辺の花に目をそそぐことができないのである
ただ今の時代は本当に旅すること自体演出しなければならないからかえって大変だともなる、何か歩く旅をする人がいるがそれが車の洪水の中を行くから広重のような絵にもならないのである

百輪の椿や往来六号線

この往来とは車であり人ではないのである

とにかく昔を偲ぶとしたら
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松一本茶屋に休むや秋の暮

この風景は秋なのだろうか、稲刈りは終わっている、海も見える、淋しい風景である
ここは二つの宿場の中間であり茶店がない、出茶屋である、道端で店がないがそこで茶屋となる、相の宿でもあるが建物はないのである
なぜこうなるかというとコンビニとか便利なものがない、でも旅人をもてなす需要がありここで店もないのに出茶屋になっている
これも歩いている旅人かいるからである、やはり休む場所が必要でありそこでお茶を飲んで一服することで疲れを癒してまた歩いて行くからである

花咲きておこん茶屋かな旅人の遠くへ去りぬ今はなしかも

庄野という東海道にあった茶屋である、ここに名前をつけいているのがいかにも江戸時代だとなる、江戸時代は何か下駄を作っても簪(かんざし)を作っても手作りであり名前がついている、作った人の名前がついているから人間的だとなる
庄野の白雨は広重の絵で有名である

私は雨の時も旅をした、その時御堂に雨宿りしたのである、御堂には旅人を休ませる機能があったのである、御堂は無料の宿にもなっていた、そこで寝れるからである
だから時代劇には良くでてくるのである

雨宿り御堂をたつや夏燕

こんなふうにして旅をしてきたのが自分だった
そして今は思い出す旅をしている、それがインタ−ネットでしやすいのである
何度も言っているけど思い出す旅、記憶に残る旅をしていないと回想の旅もできないのである、だから人間は便利なもの科学技術ばかりに頼っていると何も残らないとなる
つまり精神的に豊かになれないとなる、それで現代では旅人がいなくなったのである
現代はいかに早く移動するかになってしまったのである
それはかえって貧しいとなってしまうのである

広重の絵が秀作なのはそういう風景が江戸時代にあったからである
今はそういう風景がないから描きようがない、まず歩いて旅している人はいないからである、歩くことは特別なことになってしまったからである
そして田舎で車をもたないこと自体変人になっている
実際車もないのかとなり見下されるのである、そこで自転車に乗っている人は仲間になりやすいのである、自転車仲間になる、退職したトラック運転手は近間を自転車で回ることが仕事になっている、それで良く合うのである
人間回復するには歩くことだともなる、本当に人間は歩かなくなったからである
歩くこと自体貴重な経験になり歩く旅を企画するともなる
つまり現代には移動する人がいても旅人はいなくなったのである


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坂のぼる牛や茶屋にそ休む人旅の疲れを癒しまた行く

これはいつの季節かわからない、牛が坂を荷をつんで登る、人間もまた上ってきた
そして茶屋に休みまた歩いてゆくのである
まず坂を歩くのは疲れる、日本は山が多いからどうしても坂を上る、だから坂が多いから峠があるから峠の茶屋が生まれたのは自然である

2021年01月31日

すべて金で計算してもうまくいかない (旅でも親切にされたことで後で効果がでてくる―安宿旅行の回想)


すべて金で計算してもうまくいかない

(旅でも親切にされたことで後で効果がでてくる―安宿旅行の回想)
この世の中すべて金で計算している、金をどれだけとれるかを計算して仕事する
すると一番優遇するのは金持ちだとなる
それで旅館でもホテルでも金持ちは優遇する、特等の部屋に案内して泊まらせる
そこで収入が増えれば商売として成功したとなる
それは当たり前のことである、貧乏人はそもそも金がないのだから宿にとまるなともなる自転車で来るような奴は野宿しろとなる、それが似合っているとなる

それもそうなのだけど本当にそうなのだろうか?

すべて金で計算して商売になるのだろうか?

そこが疑問なのである、私は旅をしてもいかに安上りにするかが問題だった
それで安宿を探すのにいつも困っていた、最低でも5000円はかかっていたからだ
それで3000円の宿があったときはうれしかった

春の月安宿見つけうれしかな

こんなふうになっていたのである、私は金はいつもなかった、働きもしないからなかったでも旅はしていたのである、だから安宿を探していたのである
それが外国まで行って安宿を探すとは思わなかった
でも貧乏旅行者は安宿を探し回っていたから自分と同じだと思った
それはパリだったのである、そして東駅の方でも安宿探していた
そこには安宿があった、でも満員だった

東駅安宿探し落葉かな

意外とヨ−ロッパはホテルが多く安く泊まれる、高級なホテルもあるが安宿も多いから旅行しやすいと思った
そしてユースホステルが多い、そこでは千円とかで泊まれる
そこは別に老人でも泊まっていたのである
だからヨ−ロッパは旅行しやすい、ただ高級ホテルとなると馬鹿高くなるから泊まれないただヨ−ロッパなら城のホテルとか高級ホテルでも泊まる価値がある
つまりヨ−ロッパでは何でも歴史があるから違っているのである
そのホテルにしてもそうである、日本のホテルは新しいがヨ−ロッパは古いからである
ただそういうホテルとかに泊まったことはなかった
私はバックパッカーだったからである

でも旅となると別に貧乏旅行でもバックパッカーでもそれも旅であり価値がある
高級ホテルに泊まりグルメとなるのもいいが別に貧乏旅行でも安宿でもユースホステルでも旅の経験の価値としては平等に思える
本当は高級ホテルに泊まりまた貧乏旅行するのもいいとなる、その価値は別々であり経験の価値としては違った価値であり金持ちだから特別の経験するということはない
おそらく人生でもそうかもしれない、人間が経験することは限られている
だから貧乏の経験でも貴重だとなる、もちろん金持ちとしての経験も貴重である
でもどちららにも経験として価値がある

人間は経験するにしても結局時間が限られているから何か経験することでは平等に思えたただ金持ちだと留学とか習いものとかいろいろ金をかけてやれるので違っている
でも人間が生きる時間は限られている、金持ちでも時間だけは多く持つことができない
だから経験することでは平等の感じもした
バックパッカーでも海外旅行すれば安かったからである
ただ日本が貧乏になると海外旅行はぜいたくだとなる

私が旅で親切にされたのは覚えているのは二三回だけである
一番親切にされたのは鮫川辺りでまだ山の中に万(よろず)屋がありそこでご飯と味噌汁を御馳走になったことである、今時そんなことをどこでもしない
されたこともなかった、そういうことが今はしにくい時代である、便利だからコンビニで買いとかなるからである
もう一回は山形県の田麦俣から入った湯殿山ホテルだったと思う、そこはそれなりの大きなホテルだった
なぜそんな山の中にホテルがあるのが不思議だった、湯殿山の参拝のために利用するホテルなのか?
団体旅行用のホテルでありそれが自転車で行ったら泊めてくれたのである
それも確か無料でいいともいってきた、女将がそう言ったのである
そういう小部屋がありそこにとまっていいと言ったのである
そんなことをしてくれるホテルがあるのかとなる
それは全く例外的でありありえないことだったのである


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でも旅をするときそういうことが心に残る、そういう親切はあとでも忘れないのである
するとどうなるかというと全体に影響する、あそこの市町村は親切な人がいるなと
その市町村自体の評価が高まるのである
そういう親切を人は忘れないからである
ただ現実は貧乏な人は来るな、そんなもの来ても商売にならないというのが普通である
でもそこに何か問題がある、金持ちしか優遇されないのだとなり悪い印象をもつともなるでもそういう親切は覚えていてあそこちいい人がいるとなるとき観光でも影響するかもしれない、そういう親切を覚えているからである
あそこは冷たい場所だった、人は親切ではない、道をまともに教える人もいなかったとかなんとかなる、現代はすべて金で計算する時どうしてもそうなりやすいのである

貧乏人だけ相手にしていると豊かになれない、でもそういう親切は長く心にととまりいつかその土地に恩恵があるかもしれない、ここで親切にされたからまた行ってみようとかなるかもしれない、それはわからないにしても金だけ計算して商売してもうまくいかないことがある
実際に私が介護で苦しんでいたときでも事業をはじめた人は借金して荷物一つもつもの嫌がっていた、金にならないことは一切したくなかったのである
でも百万をやったし金がないわけではなかった
ただその人はその時金にならないことはしたくなかったのである
そういう人がはたして事業とかなると成功するものだろうか?
それで損して得しろという諺が生まれたのである

ただそういう自分も事業のようなことをして同じ失敗しているから責められないとはなるやはり利益をまず得たいとなるからどうしようもないとはなる
それで事業はじめるなら資金的にも余裕がないとうまくいかない気がする
また長い目で見ないとうまくいかない、、だから資金的にも余裕がないとうまくいかないすぐに見返りが入ると限らないからである、でもそうなるとなかなか事業でもやれないとなる、それで自分自身も駄目だったからである
現代は変化が激しいし目先のことに追われる、長い目で仕事でも事業でもできないのである、競争も激しいから追われるように仕事をしなければならない
それで現代は国家百年の計などができない、変化のスピードが早すぎるからだ
中国の変化をみればわかる、十数年であんなに発展したのは驚いたからである

いづれにしろコロナウィルスで観光業は打撃になった、するとこれから観光業はどうなるのか、どうするのかが問題になる、近間を大事にして近間の人にサービスする
近間の人のくつろぎの場とするとかなる
でも金で計算するとどうしても東京とかの大都会の人を呼ばないかぎり経営は成り立たない、だから東京からの観光客が来ないことは大打撃になったのである
ただこれも時代の変化でそれに対応しないと生き残れないともなる
観光もオーバーツーリズムになっていた、京都などもう外国人とかで混んで異常だった
それがぱったり来なくななっというのも驚きだったのである
京都のような所は貧乏な人は相手にしない、粗末に扱われる
それは観光客があふれていて来ないことがないからである
でもそうなると人を粗末にする、それで観光客来ないとなり新しい手をうたねばならなくなる、人を呼ぶために観光客に貧乏な人でも親切にするとか変わる
それは希望だがそういうふうに観光も変わることは悪いことではないのである

もともとホテルはホステルとか旅人をねぎらう病院とも関係していた、ホステルとかかがホスピタルになったからである、そういう起源があるということはそこに本来の役割を感じて商売するということにもなる、そこが原点だからである
金持ちのためにだけ優遇してサービスするのとは違っていたからである
なんでもただ金だけを計算してしていると本来の役目とかも見えなくなる
それがかえって人も離れてゆくともなりかねない、ただまず利益だとなるから本当にむずかしいのである


2021年01月29日

記憶に残る旅ー機械に頼ると記憶に残らないからあとで損になる


記憶に残る旅ー機械に頼ると記憶に残らないからあとで損になる

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週間新潮ー2月4日号

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これには共感した、現代から旅がなくなったということを書いた
それはあまりにも便利になりかえって旅か喪失した
GPSで案内されてもその土地の実感は地理は自ら手探りのようにして進むことで得られる
道とは未知のことであり未知なるがゆえに魅力がある
この道を行けば何があるかわからないということで道に魅力がある

それで私は気ままに自転車で近くでも行くとそうなる
坂を上ったり細い一日一人も行かないような道がありとか近くでも発見されない道があるそこが魅力ある場所だと感じる
そして道が分かれている時、どっちに行こうかなというとき旅になる
電車とかなるとレールが決まっているから自らその方向を選択することができない
決められたルートを行くだけになるから最初は電車の旅をしていたが飽きた自転車の旅にしたのである

日永きやいづこへ行かむ分かれ道

阿武隈高原は特別変わった風景もなかったが気ままに道を自転車でどこまでも行くのにいい、そんな記憶が残っている

にわか雨お堂に休む一人旅

なんかこの時お堂の役割りを知った、お堂は雨をよけたり旅した人ても休む場所としてもあったのだ、それは時代劇で見る光景である
その役割りがわからなくなったのは車の旅とかなったからである
歩いていた旅だったら今でもこういうふうににわか雨で雨宿りする場所が必要になる
現代では旅が便利になりすぎて経験できないのも皮肉である
近くでも自転車で行けば旅になるのだ
それで最近トラック運転手だった人が仕事をやめて自転車で近くを回っているので良く合うのである、何か足も悪くしたらしく自転車で近くでも回ることが仕事になっていたのである、他の同級生も脳卒中になったけど軽くすんで自転車に乗るようになった
ただ近くしか行かない、運転手だった人はかなり遠くまで行っている

ともかく旅をふりかえると何か最初は電車の旅だった、だから本当に全線を乗ったという感覚にもなる、だいたい十年費やして乗った、だから自分は恵まれていたのだ
要するに遊びが人生だったのである、遊戯三昧だったのである
それで鉄道に思い入れができてたまたま無人駅で車掌のような真似をしたのである
私は鉄道が好きだからそうなったのである
その後は船で旅した、日本の航路ならたいがい乗ったのである
東京から沖縄まで貨物船のようなもので一週間くらいかけて行ったことがある
その時船ならそういうものしか沖縄に出ていなかったのである

旅のことで大事なのは記憶に残る旅をしろということを書いた
でも記憶をするということは便利な機械とか利用すると記憶されないのである
だから電車でも車でも記憶する旅になりにくいのである
そして旅したなという実感も残らないのである
私は船で名古屋まで行きそれから自転車で奈良まで行ったのである
その時は本当に長い旅であり一週間以上かかっていた
その時は秋だったのである、途中で秋燕がたくさん飛んでいた

秋燕あまた飛べるや奈良へ行く

それから奈良について飛鳥に行きそこから二上山に夕日が没るのを見た
それは本当にはるばると来て見たから何とも言えないものとして心に残ったのである
その行程は遠かったからである、ただ体力がないのでこの時が一番長い旅だったかもしれない
それでも苫小牧から稚内までも自転車で行ったらこれも長かった

稚内6月に咲く桜かな

雨しとと稚内に着き桜かな

6月になっても稚内に桜が咲いていた、それだけ桜前前線はあった
そこまで行く行程も長かった

郭公のひびく北の地旅つづく

ともかく旅で意外なのは記憶に残る旅をしているかどうかなのである
機械に頼ると意外と忘れている、だから江戸時代のように歩いて旅した人は旅を記憶している

一歩一歩かみしめ歩む旅なれやいづれは死なむ人の身なれば

何か人生の最期にはみんないとおしいものとなる、なぜならもう旅もできないともなるからだ、現実に私はここ十年は介護とかに追われ旅していない、できなかった
でもこれだけ旅したのだから贅沢すぎたともなっていた
ただこんな旅をするのは普通はできない、そういう時期は普通は学生時代だけだったとかなる、会社員になるとできない、そういうことをしたら自分のように社会からはずれた人間になってしまうからだ

ともかく地理を知ることは本当に難しい、それは坂を上ったり下りたり手探りのようにして前に進む、車で飛ばして過ぎ去るのではない、歩むことは体に記憶されることなのである、その時辺りの景色とも人間は一体化するのである

草臥れて宿かるころや藤の花 芭蕉

こういうことも歩いて旅しないとできない句なのである、ただ私は歩く旅はしたことがないのである、歩くと相当に疲れるからである
だから歩く旅は新鮮な経験になるけどその労力が大変なのものになる
だから昔の旅を経験することはその時代により便利な時代になっても労苦になる
つまり演出して作りだすことになるからだ

会津にそ城は遠しも街道に虫の音聴きて夕暮るるかな

白河街道は人も車もあまり通らないから記憶に残っている、そこは旧街道になって寂れていたから余計にそう感じた
鉄道の通る表の通りだとそうは感じないのである
ただ街道というのは何か今では裏道ともなり人もあまり通らない淋しい道になっている
それがまたいいのである

旅人の昔も行くや芒かな

何かこんなふうに道でも街道には今でも魅力を感じる、それで相馬なら陸前浜街道の日立木からの松並木の道が旧街道でありここを歩いて行くべきだとなる
でも実際は六号線の国道を行っている、そこはまるでベルトコンベアーのようにトラックなどが行き来する道であり情緒がないのである
でも便利だからどうしてもその道を行くことになる、遠くなるとやはり早く行ける道を選ぶからである
そして後でふりかえると何か記憶として残らないのである
そうなるとこうしてふりかえり記憶したものを書けないともなるのである
どこを行ったかも記憶しないことは行ったことににもならないとなる

それは意外と人生にとって損失だったことを知る
なぜなら老人になると記憶に生きることになるからだ
それは旅だけではない、自分はこういうことを経験したと常に老人は語るからである
仕事のことでも語る、するとそうして記憶して語ることが人生だったとなるからだ
この老人の人生はどういうものだったかというときそれはその人の語ることによってわかるのである
だから戦争の経験をした人などはその経験があまりにも強烈であり忘れられないものだから語る、私の姉は従軍看護婦だったので死ぬ直前までシンガポールのジョホールバルのことを語りつづけて死んだのである
認知症でもそうして若い時の記憶に刻まれたことは忘れないのである
それで千回も聞かされたのでうんざりしたのである

とにかく老人になるともう何も行動ができなくなる、体力的にもそうだし精神的にもそうである、するとこれまでししてきたことを語ることになる
だから老人が意外とプログとかyoutubeですら向いていることもある
若い世代はまだ人生を語ることができない、でも40代くらいになると結構語ることができる、それで面白いとなる
そういう場としてもインタ−ネットは有益なのである、ただそれもまだ一部であり利用されていないがこれからはネットの世代になるから老人になり語ることになる
そこで大事なのは記憶されたことなのである
もし記憶されないなら語ることもできないからである、旅のことでもそうである
記憶されなかったら語ることもできないのである
だから記憶される旅をしろとなるのである、それにはあまりに便利な旅は機械を頼った旅は記憶されないということである、そうなると老後は行動できなくなるから豊かなものにならないともなるのである
なぜなら自分自身が今でも旅したことをたどっている、それは自転車で旅したことが記憶に残っている
でも電車となると記憶に残っていない、それは電車でも景色が流れて行くだけで記憶に残らなかったからである
第一A地点からB地点へ電車で行ってもその風景が記憶しにくいのである
それは早すぎるから脳に記憶されず消えてしまうからだともなる
でも電車でも駅のことを覚えているのはそこで停止しているから記憶に残る

逢隈(おおくま)に電車止まりて蝉の声

ここは阿武隈川を渡る手前の駅である、新しい駅である、でもここで三分くらい電車が交換で待つからその三分間が記憶に残る
それは前の新地駅でもそうである、ここで六分くらん交換のために待つから記憶に残っていた

新地駅六分待ちて虫の声

新地駅は津波の後は高架橋の高い場所になり虫の声は聞こえなくなったのである
新幹線とかなるとまず自然とから遊離するし早すぎで途中の景色すら記憶に残らないのであるそれで何も残らなかったとなってしまう

タンポポや新幹線に次の駅

途中が過ぎて次の駅にしても遠いのである、途中はとばされてまっていたのである

インタ−ネットになるとあらゆる記事でもその感想を書くことができる
これまでは一方的に読まされるだけだった、こうして感想とか答えることができる
それがメデアとして変わったことである
メデアを自ら持ったということなのである
ただインタ−ネットだと数が多すぎて読まれないのが多いのである
津波とか原発事故では相当に読まれた、でもそれも十年も過ぎると関心がなくなり読まれなくなったのである
その時々読まれるもの関心が変わるからである
でもこうしてあらゆる記事でもその感想を書くことができる
対話的になる、様々な記事でも意見でも知識でも相互に深化できるからいいことである
ただ著作権の問題が出て来ることも確かである






2021年01月05日

地理で基本になるのは方角である (地図でで方角を知る方法)


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地理で基本になるのは方角である

(地図でで方角を知る方法)

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地図上で方角がわかる

●東と西の方向

日の沈む国。日本の西にある国の意で、中国をさす。推古天皇15年(607)遣隋使小野妹子の携えた国書にある「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」による

「東北」という方角の表し方は東洋風(漢字圏)の表し方で、「北東」という方角の表し方は西洋風の表し方です。

そもそも東北というとき北東のことである、北海道は北である
韓国から見て日本海は東海である、東であり日本海から太陽が昇る
日本だと日本海であり太陽は日本海に沈む、この差は本当に大きい
そこで韓国では東海だとして争うことになる
日本と対抗しているから余計にそうなる、日本の海だというのが気にくわないのである
だからこの方角は地理にとって基本である
旅をして一番感じるのが太陽が昇り太陽が沈む方向なのである
それは海を航海するときも太陽が昇り沈む方向で方角を知る

それで旅をして一番不思議に思ったのは太陽が沈む方向だった
それを感じたのは琵琶湖の湖西という地域である、そこは西であり太陽が沈む方向であるでも太陽が昇る方向が東になりそれが関ケ原でありそこを境に東西に分かれるのが日本である
それは歴史的にもそうである、壬申の乱でも東西が分れて争った
その境目が関ケ原にもなる、それで東(あづま)というときそこから東の地域に入るということになる、琵琶湖の滋賀県までは西であり関ケ原を越えると東である
戦国時代だと信長の名古屋城がある、そして琵琶湖の岸に安土城を築いた
それは東(あづま)から西へと京都へとし支配するためである

世界史でも世界の地理でも肝心なのは方角である、なぜなら東西文明に分かれるからである、西洋文明と東洋文明というときそうである、それは基本に方角があり世界史でも分かれる
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」とか小野妹子が国書に記したのはまず方角でもって世界の地理を意識して示したのである
それだけ方角が地理の基本だからそうなった、方角でその国の位置を確認していたのである

玉骨はたとえ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ (後醍醐天皇)

太平記の世界から、後醍醐天皇の遺言です。南北朝の戦いで足利尊氏に敗れ、京都から奈良県の吉野へ撤退した後醍醐天皇は、吉野で失意のうちに崩御します。その時の遺言がこれです。「私の身体は南の吉野で白骨になるけど、魂は常に北の京都奪還の執念を持ち続ける」といった大意です

それで南北朝の争いでも方角が意識される、北闕に北に京都があり御所があるからであるそしてイスラム教ではメッカのある地点に向かって礼拝する、方角が大事なのである
偶像を否定しても方角は否定していない、世界のどこにいてもメッカの方角に向かって礼拝している、方角が大事なのは砂漠とか草原の民の遊牧民である
そこでは方向は星で決める、だから三日月と星の旗になる
北斗七星が信仰にもなる、北極星が目印となるからだ
相馬氏の妙見信仰はこの北斗七星なのである、だからこの信仰は大陸から伝わったものである 

●太陽の沈む方向の地名

ともかくこの方角から地理を知ることである、それは実際にその場に立って太陽が昇る方向とまた沈む方向を知ることである、実感することである
それを知るにはいつも住んでいる同じ場所では実感できないのである
だから大坂でも不思議なのは日下とあるとき太陽の沈む方向だとしている
大坂に太陽が沈むというとき普通は山に沈むからイメージできない
でもそこは太陽の沈む方向になっていた  

「長谷(ながたに)の泊瀬(はつせ)」……「春日(はるひ)の滓鹿(かすが)」……「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」……の如く、枕詞的に用ひられた修辞句……「日下(ひのした)の草香(くさか)」……があつて、それが地名の訓を獲得してしまったと見るのである。……当地からすれば太陽の出を山麓から仰ぐのであり、大和からすれば……太陽の下る所に当るのである
大坂の日下は大和から見て太陽の沈む方向にあったからその地名がついた
どこを基点にしているかが重要なのである、それで方角が変わってくるからである
だから韓国から見た時、日本海は東海なのである
東の海であり太陽の昇る方向なのである、それで争いにもなる
日本海だと日本の海なのかとなってしまうからである
でもこれは歴史的に日本海なのでありその呼称を変えることはできないのである
ただ世界を知ることでも方角が重要なのである  

明石城があるところに春の太陽が沈み城を赤く染めたのは忘れられない光景であった

明石城夕日に染まり行き来する船の絶えじも難波の栄ゆ(自作)

天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ 柿本人麻呂

あそこから淡路島も見えるから淡路島が古事記の神話の国造りの中心になったのも地理的に感じる 

二上山に秋の夕日の映えつ没る姉と弟の山と並びぬ

これもやはり方角が太陽の没る方向に映えた、それは飛鳥の方向から見えたのである

●相馬市の日下石(にっけし)の地名の不思議   

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地理と歴史は一体化している、それで地歴となった、この地理を知ることは容易ではない地図を見てもたとえ旅しても電車とか車だと必ずしもわからない、坂があっても簡単に越えるしただ早く早く通り過ぎることが多いから印象に残らないのである
本当は歩けば地理を実感できる、でも歩くとなると労力がかかりすぎる
だから私自身は歩く旅はしていない、自転車の旅だったのである

太陽(日)が昇る方向だからということだそうです。
沖縄のほうはもっとダイレクトですよね。太陽が上がる方向だから「アガリ」

日向かしが東(ひがし)の由来だとすれば、
同じ字の地名「日向(ひゅうが)」も同様ですよね。 

日本語のニシは、「去方」(イニシ)の約であろうという。イニが去(イ)
ヌという動詞の名詞形で、シは方向を示すので「日没の方向」の意で西を捉え
た語というわけである。

そして津波で判明したことは日下石が西の方向のことだった
なぜならそれは海から見た時西になっていたのである
私は津浪になったとき海になった所を見た、確かに日下石は海から見れば西なのである
それは海洋民族の感覚である、どうしてもそこが西にはならないからである
船で海を渡ってきた渡来人が名付けた地名だともなる
なぜなら相馬地域に綿津見神社が本当に多いからである、飯館村の山中にもある
それが主な社でありそれは先住民が入ってきた証拠なのである
それは安曇族などの海洋民族なのである、それがこの辺の基礎にある

でも海から見れば海の岸に太陽が沈んでいたから不思議だった
東とは確かに日に向かうということから来ている、でも日の岸ともなり海の岸辺に太陽が昇るともなる、ただそれは今度は山側とか西から見た時そうなる
だから方角地名はどこを基点にするか問題になる
北京から見て南だから南京となり南京から見れば北京なのかとなる
東京は東の京だからである  






2020年12月07日

富士山が見える範囲 (四街道市に住む半杭氏へのコメントの一つ)


富士山が見える範囲

(四街道市に住む半杭氏へのコメントの一つ)


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富士山と筑波山

富士山の見える範囲



半杭氏のプログを見た、四街道市から富士山が見える写真がのっていた
茨城県から富士山が見える、冬だと空気が澄んでいるから見えやすい
他でも同じ写真がでていた、茨城県からなら見える
でも四街道市は千葉県なのである、千葉県からも冨士山が見える

富士山が見える範囲は実際は茨城県までである、福島県からも一部見えるがかなり小さくはっきりしない、茨城県だと写真で見るようにはっきり見える
ただ千葉県の四街道市からも見えるのか?茨城県から見えるとなると見える
富士見市とか富士見野市は埼玉県である
だから富士山の見える範囲は広いのである、東京からももちろん見える

第一埼玉県の富士見市とか富士見野市から富士山が見える、それもはっきり見えるからその名がついた、でも実際はかなり距離的に遠く感じる
ただ富士山が見える範囲は浜名湖辺りまであり静岡県は富士山が中心に常にある県だとなる   

千葉県から見える富士山

東京湾沿いに富津市とからも見える、この写真をみるとこんなに富士山が大きく見えるのかと驚く、遠くになると相当に空が住んで晴れていないと見えない

この辺では相馬地域になると蔵王が結構大きく見える、でも原町とかになると見えないのである、蔵王が見えるのは南相馬市だと鹿島区までだとなる
富士山の見える範囲は高いのだから相当に広いのである

それで筑波山と富士山にまつわる伝説が残っている、そういう伝説が残っても不思議ではない距離なのである、茨城県から富士山が見えるからだ

ただどうしても地理だけはわかりにくい、富士山を見た記憶としては伊豆半島を旅した時だった、それは本当にもう30年前とかそれ以上にもなっていた
その時西伊豆から富士山を見た、その時菜の花畑がありそこから富士山を見た
伊豆からは大きく富士山が見えた、距離的に近くなっているからだ

西伊豆や菜の花畑に富士の山

この伊豆は西伊豆であり西となるとまた趣が違っている、富士山は駿河湾から三保の松原から見るのは絵になっている

駿河湾魚打ち上げ春の富士

駿河湾で魚が波に打ち上げられたのを見た、何か富士山を見えてふさわしかった
ただ富士山はまだ良く見ていない、富士山を見るスポットがある
富士山が見えるのは冬である、空気が澄んでいる遠くからでも見える
この辺では阿武隈山脈と言ってもそれは阿武隈高原であり山という感じにもならない
やはり高い山があると心もひきしまる、それがここの物足りなさなのである

とにかく人間の住んでいる場所は多様である、ただその地理を理解することが本当にむずかしい、福島県を理解するにも第一会津とかなる全く違った山国でありハマ、ナカ、アイヅとなりその地勢が違っている
ただ茨城県だと山が少なく平野が多い、関東平野になっている
でも千葉県は結構山が多い、埼玉県になるとここも地理的にわかりにくい、何か東京の延長のようになっている、だから埼玉県に富士見市とか富士見野市があったのかとなる

いづれにしろ関東といっても広い、ただ富士山が見えるということが関東の特徴かともなる、千葉県でも茨城県でも埼玉県でも見えるからである
ただ四街道市とかにしてもその地理が良くわからないのである  

ただ今年の新年に富士山が見えた、写真が出ていた、そしてまた冬になり見えた
晴れた日に冬だと見えやすいとなる

富士見ゆる関東に住み冬日没る

富士を見て新年迎ゆ関東圏

こんなふうになるかもしれない、富士山には一回上っただけだった、失敗したのはヒマラヤにまた上って8000メートルの山を見たかった、フ富士山は見る場所で印象が違ってくる、それで良く見いない
ヒマラヤは一回だけ見てで終わった、結局人間は遂に旅もできなくなりその場に立つこともできなくなる、だからいかに旅でも一回限りでありそこにいたことが貴重だったかを知った
飛行機からヒマラヤの峰々を見た、まさに天空に聳える山だったのである
特に海外旅行は一回とかで終わることが多いたら今になると貴重な時間だった
これも結局後から気付くのである
早めに行っていればこうはならなかったのである


2020年06月23日

トンネルの話 (トンネルは国境ともなり闇をぬけることで人生の象徴にもなる)


トンネルの話

(トンネルは国境ともなり闇をぬけることで人生の象徴にもなる)

旅の思い出として残るのが境として意識するのが山国の日本だと峠になりそれは国字である、峠を上るきるとそこに視界が開け別世界になる
もう一つ境とか意識するのは山国ではトンネルなのである
日本は山国だから本当にトンネルが多い、トンネルは電車の旅で意識する

仙台市から山形県へ向かう面白山のトンネルが宮城県と山形県の境界である
それは地理的にも意識しやすい、また季節的にもその境界辺りは寒く雪が春でも残っている、つまり面白山を境に気候も違っているのである
そして福島市に向かう電車が峠駅でとまる、そこは無人駅だけどそこから盆地の福島市に向かう境界なのである、だから峠駅なのである

トンネルの不思議は真っ暗な闇の中をゆく、そして闇をぬけたときほっとする
やはりトンネルをぬけると新しい視界が開ける、別世界に来たような感覚になる
自転車でトンネルをぬけるのは怖い、とても長くなると車道を走れない、それで脇の歩道を行くにしても怖いし長いと早く出たいというだけになる
そしてトンネルをぬけたときほっとするのである

とにかく日本にはいたるところにトンネルがある、それは山が多いからそうなる
それで日本がではトンネル技術が進歩したというのもわかる
技術も風土によってその土地に見合ったものが開発されるからだ
砂漠地帯だと中東から風車が生れたというのは絶えず風が吹く場所だから適していたとなる

トンネルは何か神秘的である、それは暗いからである、その暗い所をぬけると解放された気分になるのである、だからトンネルは国と国の境になる
そして村と村でも道がないときトンネルをほって道を作る、そこで村と村が道で結ばれる何らか日本では山とかでさえぎられどうしてもトンネルをほって道を作ることになりやすいからである
日本ではやまのあなたに幸いありという地形なのである 

人間の一生でも暗いトンネルに入ることがある、それは抜け出せないという恐怖に通じている、でもトンネルには出口がありそこに光りがさして新しい世界に向かっている
ただ苦しい時はどうしてしもその暗いトンネルから抜け出せないような感覚になり重苦しいものになる、病気とかになったりするとそうである
介護ではそういう苦労を自分はしてきた、介護はいつ終わるかわからない暗い長いトンネルだったのである、そういうことをみんな人生で経験する   

不思議なのはトンネルでも電車でぬけるトンネルと歩いたり自転車で行くトンネルは違った感覚になる、自転車を引っ張り歩いたりしてぬけるトンネルは電車とは違う
電車はあくまでもレールの上を走るから必ず抜け出られるという前提があり安心である
歩いたりしてぬけるトンネルはぬけだせるにしても遠く感じるのである
そしてかなたに出口があり一筋の光明がみある、光りがさしてかなた明るくなっているからだ、

その感覚は電車にはない、つまりなんでも機械に頼ると人間的感覚が失われるのである、だから本当に旅したいなら歩くほかないのである
そこに人間の感覚でとらえられるものが生れるからである
でも自分自身がこれほど旅しても歩いた旅はしたことがない
例えば陸前浜街道にしても10キロの道も歩いたことがないのである
それだけ今は歩くということをしない時代なのである
それで車であれバイクであれ自転車でさえ何か人間的感覚を感性を失ったのである

人間はこれだけ電気社会になると暗いという場所がめずらしくなる、暗さを体験しない
時代をさかのぼれのぼるほど人間は暗い世界に住んでいた
それでかえって人間の感覚が鋭敏になり感性が磨かれた、それで谷崎潤一郎の 「陰窮 礼讃」などが生れた
人間は今や本当に暗い世界を体験しない、都会だと不夜城になり暗さを追放している

ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く 山部赤人

これも闇が深くまた騒音もない古代の景色がありその清涼感がでている
ここには久木とあるがこれは何かわからないにしろ植物としてありその他に人気もない
原子のままの状態をイメージさせる、つまり人間がいない原初の自然の清涼さがある
その河原には人の足跡はなくただ千鳥の足跡だけがある世界である
それは闇が深いとういことでもそういう手つかず自然の中で歌われたのである

トンネルというときこの闇と深く関係している、闇の世界がトンネルである
そこを抜け出すということでトンネルがある
いづれにしろ日本にはトンネルが多い、トンネルで村と村も結ばれたということがある
そのトンネルほるために大変な労力をはらったことが伝説ともなっている
それは中国でもあった、その時機械もないから人力だからトンネルをほることは大事業になったのである

九州の大分県の耶馬渓(やばけい)にある“青の洞門”でしょう。
 今からおよそ250年ばかり前のこと、耶馬渓をおとずれた一人の僧がいました。
 名を禅海(ぜんかい)といい、 耶馬渓は山国川にそう険しい台地で、そそり立つ岩の間を何本も川が流れています。
 昔から交通の難所として知られていましたが、中でも険しい崖をつたう鎖渡しとよばれる桟道は、命がけで渡らなければならない難所でした。
 この難所で多くの命がうばわれることを聞いた禅海は、ここにトンネルを掘ろうと決心しました。
 洞門を切り開くことに手をつけたのは、1720(享保5)年で、禅海は50歳くらいでした。
 ツチとノミを使ってただ一人で、禅海はトンネルを掘り進めました。
  こうして30年、1750(寛延3)年に、トンネルはついに完成しました。

 トンネルの歴史

トンネルを作ることは大事業だった、30年かかって完成した粘り強さには驚く、つまり今は機械でするけど人力の時代になるとこれだけの労力と歳月が必要だったとなる 
ヨ−ロッパだと運河のトンネルがあるのも川が道になっていたからである
だから運河のトンネルというのもやはりトンネルでありそこをぬけると別世界に出るという感覚になる





2020年01月13日

鎌倉時代に東国の武士の時代になる(1) (鎌倉と隠岐島の後鳥羽院上皇の短歌十首)


 鎌倉時代に東国の武士の時代になる(1)

(鎌倉と隠岐島の後鳥羽院上皇の短歌十首) 



遠き世のすめらぎあわれ歌残し波の音ひびく隠岐の島かな

荒れ狂う波のひびきて上皇の都に帰れず島に死すかも

宍戸湖に秋の柳や常夜塔隠岐は遠しも旅人去りぬ 

浪荒れぬ誰か別れとたたずむや常夜灯古り秋の日入りぬ

世は移るその時争う鎌倉や武士の歌心にひびきぬ

武士(もののふ)の世にうつりける華やかな都はなしも五山の寺かな  

禅寺の門の重くも古りにけり落葉を踏みて五山をしのびぬ  

庭の石苔むしあわれ五輪塔戦いに敗れ冬の日さしぬ

武士の契りのかたし鎌倉に大仏まして冬の浪音

韓国の旅路を終えて鎌倉に伊豆の島々秋の海かな

浪音に実朝の無念こもりしや鎌倉暮れぬ冬の海かな 

無念かな宋へわたるとその船の砕けて沈むかなわざるかも      


NHKの番組で後鳥羽上皇と藤原定家のことをドラマ風に放送していた
百人一首とかのなりたち、新古今和歌集とか鎌倉の実朝などがかかわる時代だった
ただ実朝は写生として正岡子規とかが称賛していた
でも藤原定家とかなると古今集以後は作りすぎて評価していない
万葉集は写実主義であり平安時代になると何かイメージで詩のように作る
だから技巧になり真実が表現されていないとして評価ししていない
私はもともとアララギ派であり俳句も写生から出発した

この時代は平安時代から東国の武士の時代へ鎌倉時代に移る変わり目であった
それでしょうきゅうの乱があり後鳥羽上皇は隠岐島に流された
そしてそこで死んだのである
その時実朝生きていて定家が歌の師匠となっていた
でもその歌風は定家とは違っていた
定家は平安貴族の延長にあり武士とは違う、でも時代の変わり目にあって歌風も変わる
それを一番良く示したのが実朝だったのである

その定家の時代に後鳥羽上皇も実朝も死んだのである、それは同時代の人だったとなる
ここでは短歌の評価だが古今和歌集でも新古今和歌集でも評価できない
それは正岡子規の評価と同じである
ただ実朝の歌は評価できるのである

いづれにしろ何か海が関係している、鎌倉にも海に面して波がよせてくるし港もあった
一時中国から禅宗を伝えた僧が中国に渡る船を作るとか実朝がもくろんだ
それも挫折した、そして実朝の兄弟とかも権力争いで死んだ
ここで源氏の系統は切れて北条氏が支配する世となった

おほ海の磯もとどろによする浪 われてくだけてさけてちるかも  実朝

鎌倉時代というとき、みちのくと関係が深い、現実に私の住んでいる所にも鎌倉に住んでいた岩松氏が来て最初に支配した
東北では関東から最初は鎌倉から所領を与えられ先祖となった武士が多いのである
平泉の藤原氏を亡ぼされたがその頼朝がいてその後も鎌倉から関東から所領を与えられ武士が移り住んだ、相馬氏は千葉県とかから出た一族である
でも岩松氏は家臣に殺されて滅びた、それで相馬市内に岩松氏という姓が残っていないのである
これも厳粛な歴史の事実なのである、だから姓をたどる歴史も重要なのである

隠岐島には行かなかった、それは秋の日だった、宍道湖の岸辺に立っていてそこに常夜灯があった、柳がしだれて風に吹かれていた
その時、宍道湖が海に通じていると見ていたのである
だからここから隠岐島に行ったと思った、ただ宍道湖はもともと海に通じている潟湖だった、それがさえぎられて淡水湖になりシジミがとれるようになったのである  

承久3(1221)年、後鳥羽上皇の船は出雲国大浜湊(現在の美保関)を順風で出発し、隠岐国海士郡苅田の郷に向かいましたが、隠岐の島近くになると波風が荒くなり、大時化(おおしけ)となりました。その時化も次第におさまり、船をすすめていくと、一点の灯りが見え、その灯りをたよりにたどり着いた場所が崎だと言われています。

宍道湖と中海とは通じていてやはり海に通じていた、ただ方向が間違っていた
後鳥羽上皇が隠岐に渡ったのは美保関である  

浪間よりおきの湊に入る舟の我ぞこがるる絶えぬ思ひに

この湊に入る舟への思いは今では考えられないだろう、都も陸地も遠いとなる
だからこそその舟に乗れば帰れるのに帰れないとなったらその気持ちは計れないとなる
何か離れ孤島に波の音ばかりを聞いていたのかとなる

浪の音崖にひびきて上皇の都の思いたちきれぬかな

何かこんな感覚になったかもしれない、ただイメージして歌を作るといいものはできない現実その身になることができないからである
印象的だったのは韓国の旅をして吸収の宮崎から船で伊豆七島に来た時だった、それは秋だったのである
秋の海に伊豆七島が船から見えたのである

とにかく旅の記憶も消えてゆく、それでホームページに書いたものが貴重だった
そこに全国を旅して詩にしたものが未完成のまま残っていた
その時春だと思っていた、茶町とあるときそこは花街であり遊女の町だったとなる
それで春だと思ったが読み返したら秋だったのである
ただあそこが港となって隠岐島に渡ったのかと思って去ったのである


秋の松江

芒なびく日本海浪荒れて
松江に我は着きにき
街を歩みて茶町とあわれ
昔の賑わい思うかな
宍道湖に強風や波立ちて
大きなる常夜灯一つ古りて
柳しだれてそよぎけり
京橋に江戸町と偲ぶ都や
船のここに寄りて栄えし昔
今日は秋祭りや太鼓ひびきぬ 

この時宍道湖でも湖でも風が強く波が荒かったのである、ここに船は寄らないが船は寄る所だった
ともかくあの辺は情緒ある場所だったが思い出としては記憶が薄れてしまった
でもは日本の場合また行けるからその場所に立った時記憶が蘇るのである
またインタ−ネットとかでも写真を見たりして記憶が甦ってくるからこうして書けるのである、外国だと記憶は本当に消えてしまいどこにいたのかも定かでなくなっているのだ

松江と常夜灯
                           


2019年12月01日

記憶に残る境の旅の短歌十首


記憶に残る境の旅の短歌十首


面白山ぬければ山形春なれど残れる雪の心にしみぬ

区堺に電車とまりぬ雪厚くなほも残れり境なるかな

関ケ原なお雪残るここ越えて近江の春の山々望む


上野去り平野開けてみちのくに我が帰るかな秋の陽没りぬ

いわき駅(平駅)北の方へと鉄路見ゆ仙台近く秋の夕ぐれ

飯館の峠を越えむその手前常に休みぬ秋の蝉鳴く


国分けるライン河やオランダへ荷船の行くや秋の夕暮

ケルンの塔高く望みてオランダもイギリスも見むラインも流れて

ヒマラヤの峰々空より望むかなインド中国分けて聳え立つ

大陸や大河さえぎり向い岸望みて帰る秋のくれかな


旅をすると境が記憶に残る、関所がある時代はそこで止められるから必ず記憶に残る
今は関所がないから何か通り過ぎるだけになる
でも境は節目であり記憶に残り安いのである

だから旅を思い出すとき界が記憶になりこうして思い出して短歌にしたり詩にしたりできる
でも記憶していないと後だ思い出すことがないから書けないのである
だから旅というのは意外といかに記憶に残る旅をするかが問題になる
それで余りにも便利な車だとただ通り過ぎて記憶に残らないのである

第一旅という時どういう経路で行ったかが問題になる
ただ目的地につけばいいとなぱビジネスライクな旅でありそれは旅ではない、用事を果たすためだけだとなるからだ

だから新幹線で三時間くらいで平泉についたというだけでは何の感懐もないから芭蕉のような俳句は作れないのである

とにかく人間はその場所によって心も変わる、いわき駅というとき同じ福島県でも相馬も遠いし仙台もさらに遠いと感じた
でも相馬から仙台までは遠く感じられないのである
そのことでもいかに相馬地域が仙台に近いか宮城県に属しているようにもなる
なぜなら福島市は阿武隈高原に遮られて見えないからである 

常に何か旅をしても印象的なものが心に残る
上野からみちのくに向かう時、東京のビルの街から離れて平野が広がり秋の夕日が輝き落ちてゆく、その光景がいつも心に残り思い出すのである
その光景が心に刻まれている、だから忘れられないものとして何度でも心に浮かんでくるそういう場所が確かにある、ただ旅をした後にその場所が思い出すのである
でもいくら旅をしても忘れてしまうものがある

この差は何なのか?

やはり景観とかが印象に残り安いのと残りにくいのがあるのか?
それはいろいろな要素でそうなっている、それは旅の仕方によって決まる
だから思い出す旅も不思議なのである、全然記憶に残らない場所もある
本当に思い出せなくなるということはそこに行ったのかとまでなる
外国だと特に変わっているからそうなりやすいのである
日本だと何度も行けるし記憶がそこで蘇るからいい、外国だと一回行って終わりとなるのが多いから思い出せなくなるのである

外国でも川は長大だからそこが境界となる、父なるライン川がそうである
ケルンの塔に上った時、その川はオランダに流れさらにイギリスも見えるように思った
イギリスに海峡があっても30キロくらいだからである
今は海底トンネルが通っているから遠いというものでもないからだ
イメージのなかでイギリスはヨ−ロッパ大陸とつながっているという感じになる

スケールが大きくなるとヒマラヤ山脈はインドと中国を分ける
それは空からその頂上が見えた、ヒマラヤは空からしかその全貌は見えない高さである

2019年09月22日

観光と旅の相違 (今は旅人も旅も喪失した観光の時代-地元の観光をどうする)


観光と旅の相違

(今は旅人も旅も喪失した観光の時代−地元の観光をどうする)

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観光資源の活用は、既存のものの掘り起こしと新しいものの創造によって、観光のあり方を激変させる可能性がある

現代は観光の時代である、世界的にそうである、交通の発達で旅もグロ−バル化した
観光が一大産業にもなる、ギリシャなどでは観光が主な収入源でありヨ−ロッパの保養地となっていた、だからのんびりと暮らしていたがギリシャ危機でそうもいかなくなった
観光だけに頼ることも危険である、なぜなら観光も浮き沈みがあるからだ
ある時はある場所が人気になりある時は別な場所になる
今は日本が人気になっているのは日本は旅しにくい場所だったからである
物価が高いとかでしにくくかった、でも今になると中国をはじめ豊かになるとやはり外国を知りたいとなり日本が貧しくなったので観光立国とかまでなった
京都辺りでは観光公害にまでなっている
日本人が日本をゆっくり旅できないというのも異常である

観光という時、旅とは違う、現代では旧来の旅とか旅人はいない、江戸時代辺りなら普通の人でも街道を歩くほかないのだから旅人になり旅をしていたのである
今は交通機関が発達したから旅はなくなった
旅と旅人だと宿場があり必ずそこによる、今は別に途中の宿場による必要はないのである新幹線で一気に目的地に来る、その目的地で温泉とかにひたるとか御馳走を食べるとかが目的となる、途中がないから旅ではないのである
つまり歩いて感じる感覚とはかけ離れたものとなる

街道を行く人あれや秋薊

日立木から松並木があり相馬市の城跡までは昔の街道である
でもそこは細い道だから車が行き来する、そこで情緒がなくなる
自転車だとなんとか歩いたものに近くなる、でも車だと道の辺の花など見ないのである
車はひたすらスピードを出して目的地に向かう乗り物なのである
それは電車にも言える、途中がないのである
それで旅の情緒がなくなったのである
だから旅人はもういない、西行ー芭蕉ー山頭火まで旅人であったが今はいない
旅人になりかない環境になったのである
六号線とか国道を歩いていてもそこは車の通り道であり歩く道とはならないのである
草臥れて宿かるころや藤の花 芭蕉」こういう感覚はないのである 
自転車で亘理から相馬市の方へ来たときそこは街道であったから旅になっていた
そのことをプログで俳句にしたりして書いた
そこには古い歴史があった、歴史の道としてあったがどうしても六号線を通るから昔の街道がどこかもわからなかったのである

東海道五十三の浮世絵を見るとそこは歩く人しか描かれていない、みんな歩いていたのである、一日30キロとか歩いていたのである、それだけ歩く時代だったのである
それで朝早く旅立ったというのもわかる、朝早くなければそれだけ歩けないからである

私も自転車で旅したが自転車は歩くよりやはりかなり早くなる、それでも一日私の場合体力がないから50キロから60キロくらいしか行けない、疲れて行かなかった
だから30キロ歩いたら相当に疲れる旅だとなる
いづれにしろこれだけ交通が発達すると旅自体ができないのである
歩いている人がいても必ず電車を利用したりしているからである
ずっと歩きとおすことはできないのである

現代は観光の時代である、観光というときそれは一つの目的地まで電車なり車なり飛行機なりを利用して目的地に早く着きそこでその場を観光するということになる
でもこの観光というのは初めての場所を知るということは意外とむずかしい
それは老人になっても地元のことがわからないとういことがあるからだ
それだけある土地について知るには時間がかかるのである
とすると一日来てその土地のことを知るのはほとんど不可能である
ただ何回も来ているうちにその土地のことを知るということがある

観光資源の活用は、既存のものの掘り起こしと新しいものの創造によって、観光のあり方を激変させる可能性がある。

そしてその土地に住んでいる人が地元のことがわからないのである
この辺だと日立木から相馬市の城跡までは旧街道であり歴史の道である
そこはわかり安くても他はわかりにくいのである
松川浦もわかりやすい、でも実は田舎の魅力は地元の人が当たり前と思っている何気ない場所にあった、そういう場所は土地の人もわからないのである

●歴史の道(相馬市の城跡までの旧街道)
●田舎の小径
●田舎の秘境

この辺だと城跡までの街道はわかりやすい、でも故郷の小径となるとわかりにくい
なぜなそらその小径を最近私が発見したからである、そこは隠されたようにあったからわからなかったのである、自転車で毎日行っていて発見したのである
それはすぐ近くだったのである、つまりありふれた場所が実は魅力ある場所として発見されていないのである
そういう場所があるのだが発見されていないのである
田舎の秘境というのもそうである、それは橲原の奥の水無河川の上流だった
そこには道もない、道を整備しようとしたができていない
だからそこに行くことは難儀する、でもそこは秘境となっていたのである
田舎自体そうした秘境を知らないのである

飯館村の木戸木には森におおわれた清流があったが道ができて失われた
あそこは本当に秘境だった、ただそういう場所は田舎だと必ずある
でも地元の人すらわからない、注目していないのである
でも観光の問題は観光だと秘境が秘境でなくなる
人が入らない所だから秘境になっている、それががやがや観光客が入ってくると秘境でなくなるのである
ダムができる前の大倉の集落も秘境だったのである

相馬地域でも野馬追いだけではない、自然でも観光資源はある、身近な所にある
ただそこが地元の人すらわからないということである
観光はだからその地域をしるというときどうしても案内人が必要になる
それが金がなくてできないから外国のことがわからなかったのである
ただ外国に行けばいいというだけであったから自分の場合はせっかく外国まで行ったのにわからずしまいになったともなる
それは日本国内でも言えるのである、誰か案内人がいなと始めてくる場所のことはわからないのである

ただある地域を知ることはこのように地元に老人になってもわからないというときはじめて来る人は余計にわからない、少なくても三日くらい滞在しないとわからない
その時間が日本にはない、移動するにも便利でも時間がかかる、金もかかる
ではまた滞在するのでも三日となれば時間がとれないとか観光でも時間がかかる
旅だったらそれ以上に時間がかかる
そして地域の魅力は四季にある、四季の変化で魅力が変わる
だからある地域を知るには四季に行くといいとなる、でもその時間がないのである
それでヨ−ロッパではバカンスがあり一か月くらい自由に旅する保養するというのが文化になったのである

人間は何するにも時間がかかる、そしてその時間がないのである
まず勤め人になればもう一か月とか旅はできない、一か月も旅できる人間は異常なアウトサイダーだとなってしまうのである
正規のルートからはずれた人間になってしまうのである
結局旅の問題は金もあるにしても時間の問題が大きいのである
私は別に金があったわけではないか十分に時間だけがあったので旅できたのである
一番困ったのは泊まる宿だったのである、日本の宿は高いのである
ヨ−ロッパでは安宿が多いから旅しやすいのである

観光をどうするかというとき日立木の松並木から相馬市までの旧街道を歩行者天国にするそこは歩くから自転車にする、あそこは曲がりくねって細い道であり歩くと昔の道になるからだ、後は自転車とかで小径の散策である
秘境となるとそこは道を整備しなければならない、でもこれだけ観光するだけで相当に疲れる、三日は十分にかかるのである
そういう案内が自分はできるがその労力も相当なものになる
自分一人ではできない、私は他にやることがありできない
毎日こうしてプログを書いているだけでまた家事にも追われているからできないのであるただ観光のヒントを与えることはできるとなる



2018年11月01日

なぜ名所観光はつまらないのか? (交通の便がよすぎてとぎれとぎれにしか旅ができないそして記憶されない)


なぜ名所観光はつまらないのか?

(交通の便がよすぎてとぎれとぎれにしか旅ができないそして記憶されない)

まず現代の旅はどうしも便利だから乗り物に頼る、例えば歩く旅している人はみかける
でも必ず帰りは電車を利用したり途中で乗ったりバスを利用したりとかなる
本当に歩き通す旅はできない、そして実際は現代では旅人は消えた
観光している人は旅人ではない、旅人はたいだい一人だと旅人のように見える
そういう人は若い人だと全国一周の自転車旅行などがある
ただそれは体力のある若い人だからできる
何か体力あるときしかできないものが人生にはある、まず登山はきついから普通は年とったらできない、でも今は70くらいでも登山している人はいる
山は老人に占拠されている、それはなぜなのか?
やはり登山でも旅でも本当は時間がかかるからである
勤めていると登山になると相当に時間もかかるし疲れる
すると勤めに出ることもできなくなる、現実に登山の後に疲れて帰りの電車で死んでいたとかいう人もいたようだ、私も体力がないから登山したときそうなったことがあった
登山とか海外旅行とかはきついことは若い内にしておかないとあとはできなくなる

そしてなぜ観光でも旅でも今は印象深いものとならないのか?
そしてみんな名所がつまらないというのはなぜなのか?
それはあまりにも便利すぎて旅がなくなったからである
平泉に行くか、新幹線で二時間ちょっとだなとなるとその間の行程がない
するとその印象も本当に記憶にさえ残らない浅薄な経験しかできないのである
芭蕉の奥の細道ができたのは今とは全然違った未知の世界の旅だったからである
それで平泉にようやく到着したとき感懐深いものになった

五月雨やふりのこしてや光堂 芭蕉

このような句を残したのはその距離と時代の相違だった、はるばる日本の果てのような所にきて五月雨にもふりこめられて栄華の平泉の名残として光堂が残っているということでこの句ができた
ではどうして平泉まで行ったのか?それは仙台までは今と同じである
でもそこから石巻をまわり北上川をさかのぼり柳津に行き登米を通って平泉に行ったのである、この行程を行くことは電車がないから自分の場合は行っていない
北上川は登米から米を船で運ぶ道となっていた、その米は石巻から江戸に船で運ばれたのである

その歴史を知るには北上川を知らねばならない、でも今北上川を知ること一本の道として知ることはむずかしい、川を知るという時それはとぎれとぎれに知るのではなく一本につながったものとして知る必要がある
何かそうして現代の旅はとぎれとぎれになる、新幹線でだ北上川がときどきちらっと見えてすぎてゆく、そういうふうに旅でもその土地のことを断片的にしか見ていないのである名所がつまらないというときそのアプローチに問題がある
旅はある目的地があってもその行程とアプローチによって相当印象が違ったものになるのだつまり福島県だったら浜通りから阿武隈高原を越えて行くのと逆に会津からとか阿武隈高原を越えて海側に出る感覚はまるで違ったものになる
それは飯館村の八木沢峠を越えたとき太平洋が見えるからである

何か東北に住んでいても本当にその土地のことを知らない、それはあまりに便利になりすぎた結果なのである、それで自分もこれだけ旅してもそうだった
俳句を作っているのだから芭蕉の奥の細道に興味がある
でもその芭蕉がどうして平泉まで行ったのか?その道のりをたどっていなかったのである電車とかで行っただけでありそれで失敗したとなる
石巻からは北上川をさかのぼり登米の方向へ行かねばならない、その道が芭蕉がたどった道だったからである
福島県は自転車で旅したが東北となるとしていないのである
そのように電車だけに頼る旅もその土地を理解することにはならない、電車が通らない所は行かないからである
つまり電車が行かないと所は抜け落ちることになる、車の旅は便利だがこれも早く通り過ぎるということで問題があるが車で旅した経験がないので語れない

いづれにしろ人間の土地を知るとういことで皮肉もあまりにも便利すぎてただ通り過ぎる旅になったのである、歩く旅なら印象に残りやすい、でもバイクでも早いなと思った
それはただスピードの快感を味わっているのであり旅しているのとは違う
車でもバイクでも早すぎるのである
ただ旅という時それはなにか?旅をつきつめれば旅が人生になると芭蕉が言った
人生は旅であるというとき旅が人生になった西行とか芭蕉とか山頭火がいる
私自身もそれに近いものになっていた

それで川に鴎が一羽飛んできて橋にとまっていた、そして去って行った
その時その鴎に旅人をイメージしたのである

秋鴎一羽去りゆく旅の人

これをイメージした、秋鴎が旅人に見えたのである、それは結局自分がまさに秋鴎であり旅人だったからだともなる
そこに旅人がいたわけではない,自分のことだったのである

いづれにしろ北上川を知るにはやはり北上川に沿って平泉まで行く必要がある
それが歴史をたどることでもある、北上川でも最上川でもとぎれとぎれにしか見ていない本当は船で行けば一番いいのである、最上川は一部できるにしても最上川にしてもきれぎれにしか見えないしわからないのである
ライン川でも長いから一部しかわからない、それでも船で運行しているから今もドイツの父なる川として理解できる、なぜならドイツを知るにはライン河を知らないと理解できない、その歴史も文化も理解できないのである
インドならガンジス河を知らなけれ理解できない、ガンジス河がインドの歴史と文化の源になっているからである、日本ではそうした長い広い川がないから川について理解できないのである、それはナイル川でも揚子江でも黄河でも同じなのである

だから北上川をさかのぼり登米から平泉まで行きたくなったのである
そうするには折り畳み自転車で電車で行く、途中柳津でおりて一部でもその川を知ることが必要になると思った、ただ正直体力的に苦しいとなった、腰が痛むとかある
介護十年して精神が消耗したのと体力的にも限界が来たのである
だからつくづく海外旅行とか登山は体力あるうちにすべきであり後はできなくなる
結局いつまでも人間は若くはない、たちまち時間がすぎて何もできなるなるのである
後は回想するだけだとなる、その回想するにもそうした記憶に残る印象深い旅をしていなと記憶にすら残らないから忘れるから何の成果もなくなるとなる
それが現代の旅でも観光でも多すぎるから名所はつまらないとなるのだ
みんなきれぎれの旅しかしていないからである

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2018年05月23日

城の俳句二十句(九州中国関西東海道)


城の俳句二十句(九州中国関西東海道)


(九州)

晩秋や古木に日さし熊本城

晩秋に古木数本熊本城

湾の望み春の松原唐津城

春光や海の近きに福岡城

(山陰)

芒枯れ萩の城跡大ならじ

茶をたてぬ柳あわれや松江城

(山陽)

隠れ咲く椿や山城岩国城

花見客天守に上る福山城

春爛漫天守望むや白鷺城

春夕日船の往来明石城

(四国)

(洲本城)

花に月淡路の城の一夜かな

春の暮伊達氏の治む宇和島城

花めぐり城下に三日松山城

春の川遍路と歩み大洲城

(滋賀県)

秋の暮関が原近く彦根城


(和歌山県)

朝日さし白壁映えて菊花かな

秋日和和歌山城をたずねけり

秋の朝石段上る和歌山城

(大阪)

千本の桜咲き散る大坂城

燃え落ちる春の夕日や大坂城


(長野県)

晩秋や黒々として松本城

(東海道)

優艷に枝垂桜や吉田城

金の鯱夏の日射しや名古屋城

一夜城鋭く光る月をみる

海望み小田原城や花盛り

門多し江戸城跡や秋の暮


正岡子規の「春や昔十五万石の城下町」は有名である。でもこれは明治になって城を偲んだものとして作られている,なぜなら昔すでになっているからだ
城というのは意外と城があるとき城を俳句でも短歌でも漢詩にしても触れられない
ただこれも調べればあるのかもしれない,それを調べるにも大変だが俳句に関しても城の俳句でも城についての俳句は極まれなのである。

絶頂の城たのもしき若葉かな(蕪村)

これくらいしか目立ったものとしてわからない,ただほかにあるにしても目立ったものがない,ただこれは一つの研究テーマなのである。
城をいろいろふりかえるようになったのは明治以降なのである。
城があるときは城のことはあまり語られなかった?
ただ不思議なのは城は一番目立つものだから城に関するものを残してもいいように今では思う

國破れて 山河在り 城春にして 草木深し 杜甫

城は中国などでは庶民と一体化してあった,日本ではこれだけ城があるのになぜ城について俳句にも短歌にもなっていないのか?何かそこが謎なのである。
城の謎は江戸城というとき確かにその跡は残っているが日本の中心の城が何か何もない,石垣だけだというのも淋しい,江戸城は日本の政治を担った中心だったのかと疑問になるだろう,外国の人が来てもそうである。
外国では城というとき城壁からしてローマ帝国時代のものでも残っているからだ
石造りだから残ったともなる,日本の城は戦後新しく再建されたものがほとんどなのである。実際江戸時代から残っている城は松江城くらいでありあと三つくらいしかないという明治になったとき城は廃墟化したのである。

春高楼の 花の宴(えん) 巡る盃(さかづき) 影さして千代の松が枝(え) 分け出でし昔の光 今いずこ(土井晩翆)

城が廃墟化したからこの詩と歌が作られた,でも城があるときは城について何か目立って俳句でも短歌でも漢詩にもしていないとみる,ただこれは研究テーマだから他にあるのかもしれない。

江戸時代とか明治時代でも過去の俳句や短歌は当時の生活を知るものとして自分は見ている,貴重な当時の生活の資料なのである。

池田より炭くれし春の寒さかな 蕪村

ここでも池田とあるときその炭を作る場所を意識していたのである。それが江戸時代である,なぜなら狭い範囲で生活しているから生活で使用しているものはみなその産地が明確だからである。地球の裏側から来るのとは違うからである。
そして池田よりというとき池田に住んで炭を作っている人を意識しているのである。
その暮らしもイメージしているのである。

ここで俳句にした城には自分は実際に全部行っている,ふりかえると良く旅して回ったなとなる、ただその記憶があいまいとなっている
城の印象はいろいろある,萩の城はもっと大きいのかと思った、

関ヶ原で西軍総大将に担ぎ上げられ敗北、周防・長門の2国に減封される。その後、居城としてここ萩の地に新たに萩城を築城した

ここで苦しい生活を強いられてあとで徳川幕府に恨みをもつ明治維新で長州がその先導役となったとも言われる,ここを訪れたときの第一印象が芒の中に石垣だけがあるという何か無常を感じた,明治維新の中心となったと藩だと思っているから城も立派だと思うが
意外と小さいとか萩自体が田舎町だという印象になる
常に時代は錯覚しているのである。特に現代はドラマ化しているから時代をリアルに見ない,歴史の現実をドラマから小説家ら見ると歴史を見間違うのである。
それで司馬遼太郎が竜馬を小説化して英雄にしたてたと今では見直されている

やはり歴史はとにかくいろぽすわからなくても現場を踏むことである。
そこで感じるものがまず大事だとなる,秀吉の一夜城まで自分は自転車で寄ったことがあった,その距離は結構あってここがそうなのかと実感する
その時三日月が出て光ったとなる

城でいい城だと思ったのは和歌山城である。その時は秋であり朝に長い石段を上った
それが記憶として残っている,白壁が美しい城だなと感じた,その下で菊花展を開かれていたので菊がにあう城だと印象に残り思い出すのである。
人間は城があるとして昔をたどるとしても今はむずかしい
例えば吉田城は東海道にあるがここには市電で行った,そこは何か淋しい城であり城内に枝垂桜が咲いていた、でもここは東海道であり浮世絵にもあるように橋が有名であり
大名行列も通り庶民をその橋をわたるにぎやかな所だったのである。
市電で行ったときその当時のにぎわう姿を全く感じなかった
それはやはり東海道を旅していれば歩いてでもしていれば感じるものがある
東海道は混んでいるからもうその往時を偲ぶことはできないのである。

城は明治以降廃墟化して無常を示していた,城が江戸時代の象徴としてあったからだ
ただそれも明治になったとき逆に城を回顧するようになり桜を植えたりして公園化したのである,江戸時代が300年あり明治からすでに150年の歳月が過ぎたのである。
ただ観光するというとき城があり城を中心に今でも見ている
城がないとそさには歴史がないと感じる,ただ城は石垣だけが残っているのも多い
木造建築だから残しにくい,だからたいがい城は新しく再建されたものである。
でもその再建された城を見るとき博物館のように見えてしまうのである。
石垣だけになっているとただ無常を感じるのである。
だから石垣だけ残ってるとかえって歴史を人間の無常を感じるともなる
会津の城でも新しく再建されたが何かかえってそれが作り物のように見えてしまう
石垣だけだったら薩摩長州に滅ぼされた無常を感じるともなる
つまり現代は余りにもドラマの影響が大きすぎるのである。
ドラマとして歴史を見ているから本当の歴史のリアルなものとして見ることができなくなっているのだ。

城について語ることは尽きない,この俳句でも前に同じものを出している
ただ俳句は一句だけでは鑑賞できない,連作になると一つの文学として鑑賞できるようになる
観光にしても城めぐりをして全国の城を制覇するということが現代ではできる
自分は鉄道なら私鉄をのぞいてほとんど全線を乗った
城にしてもふりかえればもう90パーセントは回ったとなる
ただ旅でも歴史を深く感じることはつくづくむずかしいなと思った

彦根城が琵琶湖に近いということがわからなかった,なかなかこうして旅というのは見ないで終わるものが多い,後でそうだったのかと見る,それがインターネットで旅をふりかえるのには便利になった
彦根城は関が原の合戦で井伊家の赤備えで有名になり井伊家が築いた城である
ここの升形の旗印は野馬追いの旗にもある,ただそのルーツは定かではない
はっきりしているのは石田三成の旗印がかつて江戸時代にあった
それは万万とかでありわかりやすい,石田三成は鹿島の田中城に来ていた
相馬藩で親交があり三成の一字をもらって名前にしている藩主もいた
それで徳川家康からは相馬藩は敵対視されたが取りつぶしにはならなかった歴史がある。

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タグ:城の俳句

2018年05月14日

中山道の旅初夏十句 (歩く旅は記憶している)


中山道の旅初夏十句

(歩く旅は記憶している)


奈良井宿奥にあわれや藤の花

山吹や中山道に分け入りぬ

武者幟山中行くやひびく川

山吹やしとどにぬれぬ山の道

山吹やしとどにぬれて山伏の碑

初夏や雨に煙りぬ木曽の森

山中に分け入る道や木下闇

岩の渕浦島伝説藤の花

(福島関所)

止められず関所越ゆるや夏燕

妻籠宿ひびき落つ水涼しかな

古りにける妻籠の宿や菖蒲かな

上り行く馬籠の宿や夏の山

確かに旅したのは山吹の咲いているときである。この時は電車の旅だったが途中歩いたりした,その歩いたところが記憶に残る
ただ記憶というのは不思議である。中山道は夏と秋に旅している
それが記憶の中で混乱する,秋に旅したのは自転車だったからである。
記憶たどるたびの不思議は時間的に順序が不明になる
それは例えば江戸時代の年号があってもその年号に何があったか不明であり
年号の順序を間違える,ただ元禄というとき何か目立っている時だからわかるがその他いろいろ年号があってどっちが先なのか後なのかわからなくなる
なにかそれとにていていつ旅したのかその時間の順序がわからなくなる
それは30年とかすぎてみるとわかるのである。

奈良井の宿に泊まったことは覚えている,その部屋の奥に庭があり藤の花が咲いていたことを覚えている,それから奈良井の宿から鳥居峠を上ったとき雨だった
それで深い木曽の杉林が森に煙る景色を覚えている,その時森が深いなと感じた
鳥居峠はさらに奥であり歩いていない
鳥居峠の入り口に山伏の碑があった,山伏の関するものはいろいろ残されている
山伏も旅する人でありその伝説が残されている

電車の旅だからとぎれとぎれに歩いた,最初は山吹が印象に残った
次に妻籠ではここも結構長い道を歩いた,それでその道に菖蒲が咲いていたことを思い出した,その紫の色が心に沁みた,それはなぜか、歩いていたからなのである。
このように歩くことは心に記憶されるのである。
だから旅はまず車だとかバイクだとか自転車ですら記憶に残りにくいのである。
歩くことで記憶に刻まれるのである。
現代の旅は何か電車だとか車だとかバイクだとを利用した旅である
すると記憶に残らないのである。何十年と過ぎたときさらに記憶に残らないのである。
だから旅すらなら歩くべきだと反省する,中山道は歩くにはいい道だからである。
まず東海道などは昔の面影がない,中山道だけは昔の面影が残っているからである。

歩くときはこの辺だと街道を歩くのはいいが六号線を歩いても記憶に残らない
それはどこでもそうである。街道を歩まないと記憶に残らない
何か車の洪水にまぎれ記憶に残らないのである。
現代はまず便利だからその便利な乗り物でも利用すると旅として記憶にも残らないのである。
一区間だけでも昔の旅人のように街道を歩くことである
その効果は意外と大きいのである。旅は計画することと旅を実行しているときとそして意外と後でふりかえる回想することが大事になる
でも記憶するには歩くかしていないと記憶に残らないのである。
芭蕉でもみちのくを歩いて旅したからこそ「奥の細道」ができたのである。

都会とかはほとんど記憶に残らないのはなぜか?
喧騒と雑踏にまぎれて人も景色も記憶に残らないのである。
何か大都会になると蜃気楼のように見えてしまうのである。
それは日々の生活でもそうである。都会の生活はあとでふりかえると記憶に残らないのである。回りの景色でもそうである。
そこに生の充実がありえようがないのである。
でも経済的観点から都会の方が便利でいいとしているのである。
ただ最近若い人が田舎で暮らしたいと移住しているのもわかる
人生を充実させるには田舎であり都会ではないからである。
もちろん田舎にもいろいろな問題がある,嫌なところも多い
ただ何か人生を生きるというとき都会に生きて何が記憶されるのか?
それを思うと都会だと車や雑踏や騒音の中に人生も記憶に残るものがなく消えてしまうともなる

いづれにしろ人間の基本は歩くことにある,武道でも空手でも歩くことを基本にして訓練していた人がいた,歩くことを文明人は奪われたのである。
それは実に脳に相当に影響している,外界を体で感じることができない
人工的空間で五感が衰退したのである。だから文明がいかに発達しても何か失われものは必ずある,ただ時代によって得るものも必ずあるとなるのが人間社会なのである。

俳句というとき一句だけではものたりないから自分は短歌でもそうだか十句十首として連作として作る,すると一句一首ではものたりないものが連作として読むと違ったものになる
奈良井宿辺りでは山吹が目についたが妻籠辺りでは紫の菖蒲が目にしみたとなる
その対象で一連の俳句を鑑賞できるともなる

2017年05月30日

豪華列車「四季島」に乗りたいか? (旅がなくなった現代-何でも金では買えない)


豪華列車「四季島」に乗りたいか?


(旅がなくなった現代-何でも金では買えない)


人間は何か常に金で計られるのが資本主義社会である。金がすべての価値基準になる
例えば最近「四季島」という豪華な列車で旅する、三日間くらいで百万くらいする
それが人気だという、たいがい金持ちで老人が多い。
自分はそれに乗りたいともうらやましいとも思わない
普通はやっぱり金持ちだからあんなぜいたくできるからうらやましとなる

そもそも旅というものを今の人はわからなくなった、今旅するとしたら移動と保養なのである。旅するというとき金がなくてもできる
旅は時間と体力があればできる、こっちの方が大事なのである。
自分が旅の俳句とか短歌を今になって思い出して書くとき鉄道の旅はなかなか思い出せない、景色でも早く過ぎ去ってしまうからだろう。
人間が記憶に残すには時間が大きく関係している
そこに長くいれば記憶に残る、だから敷島で三日間くらい旅して記憶に残るだろうかとなる、そんな豪華な旅をしても旅したことになるだろうかとなる

旅は楽する旅はこれも車のことで批判しているがいい旅とはならない、例えば峠を越えるときそこを苦労して歩いて越えればその峠を越えて新しい世界へ入る、視界が開けるという感動を得られる、でもあまりにも楽に簡単に峠を越えると感動が得られない
だからあまりにも便利になったとき旅はなくなりただ目的地にどれだけ早く着くかが旅になってしまった。そしてうまいものを食べるとかが目的になる
それは旅ではない、ただ早く早くと移動しているだけなのである。

結局人間は今の世の中金からのみみる、金さえあれば何でもできるとなる
でも旅に関してはむしろ金より時間と体力なのである。
ただ金が全くなくていいということではない、金はそんなになくても旅はできる、時間と体力があればできる、そっちの方が大事だということである。
本当に旅するとなると時間がかかるしかけないと本当の旅はできない
旅をしても今や何か感動しないというとき決められた観光コースを行く、でも旅とは本来何か未知の世界へ行き発見することである。道は未知なのである。

だから近くでも旅はある、気ままに近くでも自転車でも歩いて行くとする道が別れているするとこの道はどこに行くのだろうとなる、春の日にそうした気ままな散歩でもいい
それが旅にもなる、ただ車だと早すぎてそういう感覚がなくなる
バイクでも早すぎるのである。ただスピードを出す快感だけになる
だから車とかバイクは旅にならない、ただ目的地に早く着くということだけである。

日永きや道の分かれていづこへと

こんなふうになる、鉄道の旅とかではこういうことはありえない、決まったレールを走るだけだからである。
現代の人間の経験は何か機械を道具を通して媒介として経験することが多い、そのことがまた老子の言うように本来の人間の持っているものを奪っているのである。
自分も鉄道は好きだけど鉄道の旅も記憶に残りにくかった
鉄道の旅も早すぎることが問題なのである。
各駅停車でゆっくり走っていれば記憶に残るかもしれない、人間が記憶に残るのは不思議に閑散とした所である。だから混雑した都会は記憶に残らない、どこに何があったかもわからなくなる、でもそれは別に旅をしなくても人間が記憶に残るのはそうした閑散とした場所なのである。

するとビジネスと旅や観光は違ったものである。ビジネスは早く目的地に着くことだから新幹線のようなものがいい、でも観光とか旅となるとむしろ普通列車でゆっくり行った方がいいとなる、でも実用から考えると鉄道も観光のためにだけあるのではない
もともと貨物列車で石炭を運ぶために鉄道が作られたというのが多い、それは世界的にそうなのである。観光とか旅はそのあとに生れてくる
まず観光用にだけ作られる輸送機関はないからである

でも旅とか観光面からすると実用とビジネスとその目的が根本的に違ってくる、実用とかビジネスになれば早く目的地につくことがいいのである。
だから何か観光もビジネス的に考えるとそれが思い出とはならない
つまり観光と旅は実際は別ものだということである。
旅にはだから金より時間と体力だとなる、峠を越える体力と時間である。
それが老人になると体力がなくなるからできなくなる、時間があっても楽な方を選ぶ、
それで豪華列車の旅になったりクルーズになるのである

人間が贅沢というとき金があるだけではできない、そこに時間や体力があってできる
なんかここ十年が介護で遠くに旅もできなかったし今は体力がなくなり遠くに行く気力もなくなる、そんなふうにして金があっても人間は何でもできるわけでもないしうらやましいともならないのである。
老人になってみんな後悔している、そうして体力があるとき自転車でも歩いてでも旅していたらなとかふりかえる後悔する、その穴埋めが豪華な列車でしてもできないのである。そんな豪華なものに乗るなら豪華なホテルに泊まっていい景色を眺めていた方が記憶にも残るからそっちの方が老人にはいいと思う。
自分は一万以上のホテルに泊まったことがないからそういう贅沢はしてみたいとはなる


2015年08月30日

世界情勢と旅行 (ホテルがとれない、日本国内も旅行しにくい)


世界情勢と旅行

(ホテルがとれない、日本国内も旅行しにくい)


団塊の世代は幸運だったのだろう。例えば30代頃、1970年代は貯金の利子が高かった。退職金一千万でも10年くらいおくと倍になっていたかもしれない。
それで今の老人は金をもっている、その頃貯金しない人はもっていない
家などローンで買っていても金は残らず老後難民が話題になる
高度成長時代は自営業でも金を残したから貯金をしているから金をもっている。
その高度成長時代が終わると非正規で働く人が増大して若者は金がない
だから時代的にみると今の若者は損だとなる
もちろん時代的にどの時代に生まれればいいのかとかはわからない
結局人間はその時代時代を懸命に生きる他ないからである。
戦争の時代は戦争を生きざるを得ない、嫌だといってもどうにもならないことがある。

ふりかえれば団塊の世代は幸運だったとなる。個々人によっても違うが平均的にはそうだろう。
旅行するにしてもそうである。金がなかったけど全国隈なく旅行した。
今になると日本の国内すら旅行しにくくなった。外人の旅行者がふえすぎたのである。
ホテルの空き室が都会ではなく部屋代が三倍くらいになっている
こうなると本当に旅行しにくいだろう。カプセルホテルすら外人が泊まっているという。何かゆったりと国内旅行すら楽しめない時代である。
京都にしろそこに外人があふれていると観光をゆっくり楽しめないだろう。
修学旅行生がうるさいので自分は京都で嫌だった。
今はそれ以上に外人がふえているからそれで日本人にとってはいいとはならない。

自分も旅行で苦労したのは安宿にとまることだった。これがなかなかできない
探すのがめんどうなのである。なんとか旅の経費を減らすのがホテルしかなかったからである。
自分はつくづく貧乏旅行者であり金持ちでもなんでもない、何か贅沢などしたことがなかった。
外からそんなふうに見られていないが自由な時間が与えられただけであり何か贅沢したことなどない
前にも書いたけど旅をすることは遊びでいいなと思われるがそうでもない
本当に旅人になるには旅に集中する必要がある
なにかうまいものか食べると旅で女性などに気をとられるとまず気が散るから自然や
観光にさしさわるのである。
観光というのもいろいろありやはり時間が限られているから見ることに集中することが意外とむずかしい
そこにいる時間が短いから良く見れないのである。
だから旅が遊びのようにみられるが何か集中しないと良くみれないし心の残るものとならない
するとあとで旅した所がどういう所だったか思い出せなくなる
旅は意外と何かを記憶していることが大事だったのである。
現代の旅は何かせわしい、そして電車とか車とかを利用するがそういう旅もなかなか記憶に残らないのである。

人間はその時その時することをしないとできなくなる。
最初は電車の旅を20年間くらいしていた。次ぎに40代から自転車の旅をした。
次ぎに50代から海外旅行をした。そしたら人生の終わりになってきた。
でもこの旅もふりかえると幸運だったとなる
今になると国内旅行すらホテルがとれないとかなるとゆっくりできない
海外旅行も円安でしにくい、一時円高で70円とかの時代があったのである。
そういうとき若者が外国で安宿で「沈没」とかい言って一年とか何もせず暮らしていたのである。それも今はないだろう。
今は中国の物価が日本より高く日本の買い物が安いと言っている時代である。
中国の爆買いはそのために起きている
あの頃の中国は十分の一とか馬鹿安の時代だったのである。
それも十年もたたないのにこんなに変わるものかと思う。

だから今や中国を旅行するのにも金がかかり簡単にできないとなる
旅行には向いていないとなる
自分としては今はバックハッカーのような旅行はしたくない
金持ちの旅行がしてみたいとなる。特に外国だったらそうである。
逆に一流ホテルに泊まってみたいとなる
つまりそれも経験であり今になと冥土の土産なると考えるようになった。
老人になると考えが変わるのである。
でも貧乏性は変わらないからそういう場所にとまることが不似合いになっている
まず服装からしてそうである。そういう場所になっていないのである。
ただ貧乏人ばかりに合っていると何か社会の見方が偏る
ハイクラスの人間も知らないと社会のことはわからないのである。

いづれにしろ今の時代は外人でこむ場所には行くのはあっていない
北海道すら外人が多くて泊まれないという
北海道は外人にとって人気の場所になっているからである。
ともかく今になると何か旅行すら国内でもしにくい時代になった。
一回だけネバールに言ってヒマラヤを見たけどあそこも地震で行きずらくなった。
当分はあそこも観光になるとむずかしいだろう。
中東でも危険でありいつテロの巻き添えになるかもしれない
こう考えると海外旅行も今は何か向いていない
でも人生は短いからその時々にやることをやっていないとあとは二度とできなくなる
これだけは肝に命じていた方がいい
いくら金がかかるとか言っても人間の時間は限られているからだ。
その限られた時間にやるべきことをやらないとあとは二度とできないのである

それは読書でもそうである。厚い本だとそうである。
まず厚い本を読む時間がなくなる、今は本はアマゾンで買っていても触りしか読まないからである。
結局人生は短いから時間との勝負だったのである。
何事すぐに時間切れになる、雑学すら物にできないのが人生だった
これだけ時間だけが与えられた自分が言うのだからまちがいない
一時楽器をやろとしていたがその時間もたちまち過ぎた
楽器の演奏でも直接するのとただ受け身で聞くのでは理解度が違ってくる
でも人間はつくづく何でもできない
その中に勉強でもロスが大きすぎたのである。
もちろん才能がないせいもあったが才能というのも実は開発しなければ生まれない
最近自分はパソコンで抽象画をはじめたのがまさにそれだった

自分でもこれだけは不思議だということを何度も書いてきた。
全く絵の才能がないものが抽象画なら描けるのかという不思議である。
それはパソコンのソフトの操作で開発されたものなのである。
つまり才能ではなく何かを開発してゆくということである。
educationがそもそもeducate(引き出す)というように引き出す能力が才能なのである。
そして個々人には何かしら開発されない能力が眠っているのである。
そして人間は天才でない限り日々の積み重ねたものがあとが必ず実る
それは雑学のレベルでもそうであり何かしら必ず実る
人生経験でもやはり老人は何かしら経験を積んでいるからその話が面白いとなる
人間の実際に経験する範囲はあまりにも狭すぎるからである。
だから他人が経験したことはやはり知らないことであり新鮮なものになるのである。

ともかく今になると富士山でも外人で混んでいるとかなんか嫌である。
今は自分には山をもっと見たいということがある
山についての詩を相当書いているからだ。
山は別に登ればいいが登らなくても遠くから見るだけでも荘厳である。
でも富士山でもきれいに見える場所がなかなかわからないし見れない
自分が山を見たいというとき自分の住んでいる場所に高い山がないからである。
福島県でも中通りになると1000メートルを越えた山がある。
会津には1000メートルを越えた山がひしめいているから福島県でも高い山が見れるのである。
ただ日常的には見れないから山を見たいとなるのだ。

自分の失敗はまず世界旅行とか自転車旅行が先でありあとで電車の旅行だったのである。
なぜならきついものは若い内にして楽なものは年取ってからするのが順序だからである。
50になって一人の海外旅行は辛いからである。
自転車旅行でもそうだった。あれは若い内にやれば良かったのである。
まず辛いこととか激しいことは若い内にやらないとあとはできない
若いとき楽なことはやるべきではないとなる
最も苦しいことをやるのに向いていたのである。
ともかく人間は必ず人生の終わりには後悔する
あうするべきだったこうするべきだったとか必ずなる
それはなかなか忠告しても聞かれない
そして結局最後になってわかるのである。
そのときは遅かったとなっているのが人生なのである。
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2015年03月02日

何に時間を費やしたかが人生である (旅の時間も今行けなくなると貴重だった)


何に時間を費やしたかが人生である

(旅の時間も今行けなくなると貴重だった)


かりそめに通りすぎて
十分に愛さなかった かずかずの場所への郷愁よ
それらの場所へ 遠方から 何と私は与えたいことか
しわすれていた身振りを つぐないの行いをもう一度ー今度は独りでーあの旅を
静かにやり直したい
あの泉のところにもっと永くとどまっていたい
あの樹にさわりたい あのベンチを愛撫したい
(リルケ)

つくづくこのことを旅ができなくなって思う。まさか遂に6キロくらいのしか往き来できなくなると思わなかった。
すでに一年は仙台にも行っていない、やっと原町とか相馬市に行くだけである。
それは外国まで自由に旅していた自分にしたら考えることもできないことだった。
そしてつくづく自分はこれだけ自由に旅できたから恵まれていたなとそのことに感謝した人間はいつしか旅すらできなくなる時が誰にでも来る
病気になったり老人になり体が弱くなるとできない
それから人間の時間は何するにしても限られているのだ
旅しているだけでも時間はたちまち過ぎてしまうのだ。

人間の一生をふりかえるときある人がガンになった。
その人は工場でフォークリフトで荷物を運ぶ仕事をしていた。
その人は余命何カ月とか言われた。その時何をしたいかと思ったらもう一度工場で働きたいと思った。仲間と一緒に仕事したいと思い実際にしたのである。
つまり何にその人が時間を費やしたのかが人生なのである。
その人はともかく何であれ工場で働いたの一生だからそこが人生であり一番愛着ある場所だった。それは理屈ではない、そこに人生の時間が費やされたからこそガンになっても
そこでもう一度働きたいとなったのである。
原発事故で避難した人が田植えをしたとき収穫したとき喜びがあった。
漁師だった人が津浪の後に仲間と漁をしたとき喜びに溢れていた。
つまりそこにその人の人生があった。
もちろん金のために生活の糧を得るためにも仕事はある
しかし人生の時間をそこに費やしたら単に金だけではなくなる
だからガンになった人がもう一度働きたいというとき金だけの問題でなくなっいたのである。
外から見るとそんな仕事がそれだけの意味があるのかとみる
でもその人にとってともかく人生の時間がそこに費やされたのだから
そこでもう一度働き死にたいとまでなっていたのである。

そういうことはなかなか若い内は理解できない、仕事なんかただ金のために働かせられているだけだというのが奴隷にされているだけだとしか不満しかないのが普通である。
漁業でも農業でも金にならないからやらないとかしかなかった。
でもあなたの人生とは何だったの?
補償金もらって遊んで暮らしていればいいの、それが人生でいいのともなる。
だから漁師が原発事故で確かに補償金をもらっているから暮らせる
でも何で自分はこの港にいるんだろうと言っていた。
もう漁師でもなんでもない、その人生はただ遊ぶだけなのかとなる。
遊び人の人生になってしまうのである
工場で働き生きた、漁師として農民として職人として生きた
何かそこに人間の人生の価値があったのである。

現代はすべて金をいくらもうけたかどれだけの収入を得るかですべてが決まる
では人生の最後に何が価値があるかとなるとどれだけ金を残したかで
人生が決まるともなる。もちろんそういう価値観も現代にはある。
金をすべて否定したりは現代はできないのである。
ただすべて金だけ計れるかというとそうはならない
老人になるともう金があっても使いこなせないのである。
自転車も何代かいいの買ったが乗る時間がないと利用できないとかなる
もう長い旅もできなくなったからである
他の自転車にとりつける動画をとるカメラも買ったがこれも利用できていない
何かをやろうとして物を買ってもできないことに気づいたのである。

老人になると何が残るかというとその人が何に時間を費やしたかなのである。
それが何であれその人の人生だったのである。
だから旅というのもあそこにいた時間がいかに貴重な時間だったか理解した。
自分が旅したのは故郷にいたくないということがあった。
故郷がいいというけど故郷はあまりにも見慣れていて感動しなくなっている。
それから田舎だと人間関係でも狭いから監視されているようでそこから解放されたいということがある。
四六時中ある老人の男性は女性が入って来たりするのを見張られている。
だから簡単に人を家に入れることもできないと言っていた。
だから故郷とか田舎はみんないいものではない、そこから解放されたいというのがある。ただ都会ではなく、旅は自然の美があるところに行きたいとなる
その時はそうした狭い嫌な人間から解放され、自然の美だけにひたっていられるということである。

ただふりかえるとこれだけ旅してもそこにいる時間が短すぎるのである。
だからなぜもっとそこに長くいなかったのかということが後悔になる
もっとその美にふれていなかったのかとなる。
今になるともっと富士山を堪能しておけばよかったとなる。
つまり旅でもその場にいる時間が貴重だった。
旅ではいつでもその景色が見られないからである。
日本の自然は今でも美しい所がいたるところにある。
それはいかに文明化してもそうである。
その美にふれる時間があまりにも短かかったのである。
それでも自分の場合はこれだけ旅したのだから旅の蓄積がある
それが記憶として蘇ってくるから俳句にしたり短歌にしたり詩にしりたする
現代は忙しいからかえって何か記憶に残ることが少ないのである。
だから浅薄な時間を人生を生きていることが後でわかるようになる

菜の花に長くもあれな春の冨士

菜の花に埋もれて長く春の冨士

そこに長くとどまっていたかった。しかしその日はもう帰らない、それは旅だけではない、人生の時間はすぎさる、その時あらゆるものがなつかしくなり価値を帯びてくる。
平凡な日常生活すらそうである。なぜなら家庭ですら喪失する。
老人ホームで家に帰りたいというとき今の家族ではなく昔あった自分が母親とかであったときの昔の家族に帰りたいということなのである。
この辺ではそもそも故郷すら消失してしまったから故郷自体がなくなったのだから
故郷にあったときのことを思うようになった。
普通は故郷など当たり前にあるものだから特別思ったりしない
でも今は故郷は特別なものになってしまったのである。
つまり人生とはあらゆることが過ぎ去ってゆく一こま一こまである。
その一こま一こまには実は意味があったがそういうふうにはその時は思わないのである。

人生で何を一番後悔しているかとなるとその喪失した帰らない人生の時間なのである。
それは巨万の金があっても取り返すことかできないのでてある。
自分は金があったから旅行していたのではない
時間があったから旅ができていたのである。
まず食べるものも宿泊代も節約していた。どうしてもそこしか節約できないからそうなっていた。
温泉宿に泊まったことはない、何か料理を楽しむ旅などしていない、それは外国でもそうだった。
自分は旅したいということが目的だったからそうなった。
だから旅を目的にすればさほど金がなくてもできるのである。
問題は時間だとなる、それで上に立つ人なのか収入があっても時間がない
時間に追われているというとき人間はつくづく二つ物を得られないようにできている
金があっても時間がない、時間があっても金がないとかなる

あの樹にさわりたい あのベンチを愛撫したい

何か原発事故で故郷を離れた人もこういうことを思っているかもしれない
人間はもう死ぬんだとなると何か平凡なものでもいとおしくなる
旅をしている何か急いでいると旅では見逃すことが多すぎたのである。



タグ:旅の時間

春の伊豆ー俳句十句


 
春の伊豆ー俳句十句

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春風や下田に望む沖の船
崖を打つ波や伊豆の寒緋桜
崖に波ひびきて伊豆や春の冨士
西伊豆や菜の花よそおい冨士望む
菜の花に長くもあれな春の冨士
西伊豆や水仙にさす夕日かな
春の星伊豆を巡るや波の音
大島や海の碧さに椿かな
大島や東京離れ春の月
春潮に魚(うお)打ち上げて冨士望む
駿河湾波打ちひびき春の冨士
羽衣の松や砂浜春の冨士
静岡や茶畑つづき春の冨士


伊豆の海に 立つ白波のありつつも 継ぎなむものを乱れしめめや(万葉集 東歌 )

伊豆を旅したのはこれも30年前以上とかそれ以上である。
これだけ時間がたつと思い出すのもむずかしくなる
でも何度も言うけど自分の場合、ゆっくり旅していたから記憶に残っているものがある。伊豆で印象的だったのは思い出しているのは菜の花が一面に咲き冨士が見えていたことである。
その菜の花がとにかく印象に残っている。
それでインターネットで写真を調べたらやはり西伊豆に菜の花の写真がでていた。
西伊豆から見た富士と菜の花が印象に残っていた。
西伊豆からの富士山はきれいだし絵のようである。
富士山は見る場所によって相当違った印象を与える。
だ。から富士山はまだ良く見ていないのである。
伊豆というとやはり波が切り立つ崖に打ち寄せる地形である。
だから万葉集にもその波のことが歌われている。

日本では海に囲まれているけどその海も場所によって印象が違ってくる。
大島から見た海の碧さは東北の海とも違う色である。
椿がその海に映える。東京から近くても大島は淋しい場所なのも不思議である。
あそこには東京の混雑したものはなにもないのである。

西伊豆から駿河湾に出た時、波がうちよせ魚がうちあげられていた。
あの辺は清水港とか何か豪快な感じがする所である。
いつも背後に富士山が見えるから富士と一体となっている
羽衣の松のある前は広々として砂浜があるから昔の日本の風景が残っている
静岡というとき茶畑があり冨士が望める
静岡とはまさに静かな岡であり茶畑をイメージする

下田は黒船が来た所だから歴史的な場所でもある。
下田まで電車が通じているが西伊豆になるとバスになる。
春にはあの辺が旅するにはいいかもしれない、富士山が見えることがいいのである。
あそこから見える富士山は遠景の冨士でありどこでも絵になっている
西伊豆は夕日でも有名である。写真とか絵もでている。
太平洋岸で夕日がさして見えるのは東北ではないからである
だから伊豆は西伊豆まで一周しないとその良さがわからないのである。


タグ:西伊豆

2013年07月11日

夏富士二十句 (見る場所によって山はまるで違って見える)


夏富士二十句

(見る場所によって山はまるで違って見える)


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青富士_クリック拡大


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北斎-赤富士

夏富士や青春の意気登山かな
富士登山崩れては湧く雲の峰
夕日さし富士の斜面や雲の峰
雲の峰富士の斜面や人の列
夏富士の大斜面かな雲の湧く
晴れ渡り夏富士高し天までも
夏富士の乱れざるかな仰ぎけり
麓より天を衝く夏の富士仰ぐ
夏富士や裾野の広く優美かな
ひまわりに映えるは富士の峰にあれ
影富士の夏の日ざしに伸びにけり
夕富士の染まりて赤き夏の月
七色に夕焼け変化富士の峰
夏富士や北斎の筆特に冴ゆ
涼しさや河口湖畔に浮かぶ富士
下山して姫百合咲きぬ富士麓
下山して河口湖畔の青田かな
夏の夕優美に暮れぬ富士の峰
登り来て富士の山頂夏の星


富士山には一回だけ上ったけどなかなか思い出せなくなった。その時雲の峰を
富士山頂で仰いでいた。それも30年前とかなると思い出せなくなる。
ここに出した俳句は写生ではない、他の人の写真を参考にしたからいいとはならない。
そもそも富士山は見る場所によってみんな違ってくる。山はたいがいそうである。見る場所によって見え方がまるで違ったものとなるのだ。富士山はいろんなところから見えるから特にそうである。
自分は一回感動して見たのは河口湖畔から見た夏の富士だった。青富士だった。やはり山は大きく見えるとき映える。だから見る場所に左右される。ヒマラヤでも3000メ-トル級まで上ると天まで達するように高く見える。山は登る山と見る山は違っている。見る山は場所に左右される。
その場所にゆくのが大変になる。写真をとるために半年くらいテント張って暮らしていた人が紹介されていた。あれくらいしないと富士山を見ることにはならないだろう。山の姿は刻々と変わってゆくからだ。富士山は特にそうである。

今になると旅行することは相当な贅沢だった。なぜならまず富士を見るにしてもちょっと出かけるにしても一週間くらい最低必要になる。すると勤めていてはできないのである。富士山見るだけだってそれだけ時間がかかるのだ。新幹線から富士山見ても感動しない、富士を見るということはそれなりの努力をしないと見れない、それには相当な時間が必要なのである。ただ富士を見える場所に暮らしている人は恵まれているなとつくづく思う。ただそれも日常化すると平凡なものになってしまうこととある。

富士は夏なら青富士とか赤富士とかいろいろある。しかしそれを見るのは離れていれば結構手間になる。富士山はすでに日本人の心だとすると日本人の心として見ることにもなる。ただやはり山は何度も見ていないと感動が薄れる。その迫真力はやはりまじかで見ていないとやがて記憶は薄れてゆく。
確かに影富士も見たし下山したとき林がでてきてその中に姫百合が咲いていたのを記憶している。
やっと麓に下りてきたなと安心したとき姫百合が咲いていたのである。河口湖畔から見る夏富士は青々として雄大だった。もう一回見てみたいけどなかなかできない、まず山は天候に左右されやすい、夏は見えにくい、ヒマラヤではがっかりした。春だったから雲に隠れて見えなかったのである。
外国まで行って山かみえなかったら何もならない、10月ころは山が見えやすいからその季節に行くのがいい。

山に魅せられるて60代の女性が二人ヒマラヤで死んだ。あれほど過酷な登山をその年でできたことに感心する。ただ山はそれだけ魅力があるのだ。クロ-ズアップ現代で放送していたのは50代半ばから登山をはじめたというから驚きである。女性でもやはり家事だけではない生きがいも求める時代なのである。家事にしても子育てにしても40くらいで終わりやすいけどそれからの人生が女性でも長くなるからなんらか生きがいを見つけることが必要になってきた時代である。つまり人生が長いということはまた様々な可能性も開けるという見本だった。これだけのことをやれる女性はやはり能力的にも人格的にも優れている、しっかりしている、一人は管理職でありもう一人は医者だったのである。社会的にも有能だからそれだけのことができたのである。みんながとてもできるとは思えないのだ。
ともかく世間の日常の小さな悩みが山に登ると吹っ飛んでしまうのがいいというのはわかる。あまりにも小さなことに汲々としているのが人間の日常だからである。

富士山が世界遺産に登録されたのは当然だろう。日本に来て一番感動するのは富士山を見たときだというのは共通しているからだ。あれだけの形の独立峰は世界にもない、その形の美しさがぬきんでているからだ。ただ山にはそれぞれみんな個性がある。岩手山はすごく筋肉質なのである。筋肉隆々とした感じになる。富士山は優美なのである。形がいいからそうなる。ただ山というのはなかなかその姿をとらえることがむずかしい。詩にしようとしてもなかなかできない、それだけ奥深いし雄大な美だからそうなる。
写真から加工していたら富士の切り絵のようなものができた。写真家ら結構加工できる。でもその元の写真のことはイメ-ジもできなくなる。だからそれが著作権違反とはならないだろう。一部なるものがあるかもしれない、でも明かに加工しても創作という面が大きいのである。これは構図的には写真によっていた。でもその後の加工は創作なのである。

2013年02月23日

日本橋-春の江戸俳句十句 (日本橋は江戸時代の基点の橋)


日本橋-春の江戸俳句十句

(日本橋は江戸時代の基点の橋)

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寒暁や大名たちぬ毛槍かな

季節がいつなのかわからないが冬の感じがする

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日本橋諸国の大名上る橋

日本橋渡りて誰も江戸の春
大名の紋あざやかに江戸の春
足軽も日本橋渡り江戸の春
日本橋毛槍をかざし江戸の春
日本橋馬も渡りて江戸の春
百艘の舟入り乱れ花の江戸
伊達藩の米も積まれぬ江戸の春
日本橋踊る魚や春の岸
江戸っ子の活魚を売るや日本橋
春富士や諸国の基点日本橋
寒暁や大名たちぬ毛槍かな


日本橋というと広重の浮世絵がまず思い浮かぶ。あの絵は江戸に到達した絵だと思っていた。逆だった。江戸を出立する絵だった。お江戸日本橋七つたちの七つは朝四時だから早い。この絵は冬なのだろうか?何か冬の寒い感じがする。その頃魚屋も買い出しにきていた。今でも魚屋は早い、日本橋には魚河岸があり一体となっていた。だから日本橋を魚屋が天秤棒かついだ通るのが日常的だから絵にもなっていた。生きた魚を扱うからそこから威勢のいい江戸っ子気質が生まれたのか?江戸は今の東京も同じであり生き馬の目を抜く繁華な場所であり他の浮世絵を見ても人でごったかえしている。それは今の東京にも通じている。一里塚とは、江戸日本橋を起点に一里(36町=3.9km)ごとに街道の左右に築いた塚である。日本橋は江戸時代はまさに諸国の中心点でありそこに大きな意味があった。日本橋に到達してはじめて江戸に入ったと感じた。
それはロ-マと同じだった。ロ-マを基点にマイルスト-ンがありロ-マの道は諸国に通じていた。
東京では今は歴史的なものを感じることはむずかしい。ビルと車の騒音と道路に埋もれている。
東京都中央区日本橋小舟町とか地名にわずかに当時の名残がある。中央であり小舟がそれを示している。

京都なら歴史を偲べるが東京はできない、それが観光しても面白くないとなる。ただ江戸時代は江戸は魅力ある都市だった。水路があり舟が行き来してまさに花のお江戸であった。その基点となったのが日本橋だった。観光は昔を偲べないと歴史を知らないと今だけだとどこでもつまらないものとなる。東京に来たら江戸を知らないと何の魅力も感じない、ただ文明の騒音のみしか残らなくなる。今だと東京駅が基点になるのかあれは昔のままに再現したからあそこを中心にして皇居もあるから日本橋の役割をになうのか?ただ東京はあまりにも雑然としすぎるのである。

江戸時代でも今でも生きることは必死であり詩的に鑑賞するようなことがないのが人間である。のんびりと観光気分の人は当時でもないだろう。長い旅であれ日本橋にきてやっと江戸についたなとなりその感懐は長い旅路であったからこそひとしおのものがあった。新幹線であれついたよとはならない、その行程が宿場に泊まり長いのである。だからこそ日本橋のもっている意味も大きかった。今はどんなところでもあっというまに飛行機でもついてしまうからどこが基点というふうにならないしああやっとついたなということもなかなかない、旅は目的につく時間が長ければ長いほど旅を感じるのである。ただ早くついて通りすぎるのは旅ではないのだ。だから江戸時代の人はなかなか遠くに行けなくても歩いているから旅をしていたのである。

浮世絵を見ると日本橋からあんなにはっきりと富士が見えたのか?想像で描いたのか?ただ当時は高いビルがないからあのように富士も見えたかもしれない、


その北詰側に朝だけで千両の金が落ちる魚河岸があり、今の人形町付近には夜千両が落ちる遊郭・元吉原があった。また現在の日本銀行本店は、江戸時代の金座跡である。
http://www.tokyo-rekisi.com/chuoku/nihonbashi/nihonbashi.html


日本橋付近のにぎわいは江戸時代ならとても田舎では味わいないものだった。田舎と江戸の差は今では考えられないほど大きかった。江戸は政治経済文化の中心地だった。伊達藩が石巻から米を船で江戸に送った。その米を作るために今回の津波にあった仙台平野が開拓されたのである。米はみちのくでは商品作物だった。川岸には蔵が密集していてそこに米は貯蔵された。全国から物資が集まりあの蔵に納められたのである。江戸はその当時の人は住んでいてそれほど感じなかったかもしれないが今になり江戸を偲ぶあういう江戸なら行ってみたいとなる。タイムマシンがあったら行って見たいとなる。今の東京には見るべきものがない、スカイツリ-なんかもつまらない。昔も偲べないからつまらないとなる。では何か目新しいものに接して買い物があるかとなるとほとんどない、通販でほとんどのものは今は買える、東京でなければ買えないものは今はほとんどないのだ。だからただ今になると混雑して嫌だなとなり今の時代は田舎の方がずっといい、文化的差も今はほとんどないのだ。情報的にもそうである。インタ-ネットが普及しているしこうして即座に調べて書いてプログにのせられるのである。東京にいようが田舎でも情報格差はないのである。


キンドルを買ったことを書いたがこれも実際は最新の技術がつまったものだった。クラウドとかWI=FI通信とかipadと同じくこの小さな文庫本のようなものに意外と最新の技術の集積があったのだ。
パソコンで文字を読むと何か疲れる。文庫本のようにどこでも気軽に読めることが必要だった。そうすると頭に入り安いのである。パソコンで調べるのはいいが本のように文を読むのは向いていない、横文字でありまた体がリラックスして読めないから頭にも入りにくいのである。この点キンドルは本当に読みやすい、紙より読みやすいのである。こういうものでも東京が別に文化の中心地でもない、通信が発達すると中心地がなくなるのだ。クラウドというように雲の上が中心地になってしまっているのだ。


これで青空文庫の夏目漱石の「草枕」を


「わしが小坊主のとき、先代がよう云われた。人間は日本橋の真中に臓腑(ぞうふ)
をさらけ出して、恥ずかしくないようにしなければ修業を積んだとは云われんてな。


日本橋を通る人の数は、一分に何百か知らぬ。もし橋畔に立って、行く人の心に蟠まる葛藤
を一々に聞き得たならば、浮世は目眩ぐるしくて生きづらかろう。ただ知らぬ人で逢い、知らぬ人でわかれるから結句日本橋に立って、電車の旗を振る志願者も出て来る


臓腑(ぞうふ)をさらけ出して、恥ずかしくないように・・・・・というのは日本橋が日本橋の中心でありその中心だからこそ自分の臓腑までさらだしても恥じないようにせよという意味なのだろう。
つまり漱石の時代、明治時代は日本橋が日本の中心だという感覚が残っていたのである。もちろん明治時代には鉄道馬車などが通っていたから日本橋は今とは余りにも違う何かのどかなものになっていた。でも日本橋はそれだけ人が混雑するところだから草枕という小説では日本橋をこのように表現した。でも今になると江戸時代の日本橋の混雑もなつかしいとなる。それで日本橋を再興しようとか観光にしようとかになる。でももうできない、余りにも変わりすぎてしまったのである。人間は昔を歴史を偲べないということは心を貧しくする。現代だけだと人間の重みは失われる。過去とつながって現代がありそうするとき人間の意味もでてくるのである。


外国人が見た「日本橋」
http://www.tanken.com/nihonbasi.html


日本橋魚河岸
http://wako226.exblog.jp/16111505/


浮世絵で見る江戸の橋
http://hix05.com/rivers/ukiyoe/nihonbasi.html

2012年11月10日

山頭火の時雨の句の意味 (旅人になれない現代)


山頭火の時雨の句の意味

(旅人になれない現代)

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大樟も私も犬もしぐれつゝ 山頭火


老いて死す一年一年時雨かな

旅人も貧しや時雨石の屋根
旅人や小家をぬうて時雨かな
街道の細道あわれ時雨かな
山頭火時雨に気づき歩をとめる


これは大樟(おおくす)も大きいものもしぐれ犬もしぐれる。この犬は野良犬なのだろうか?その頃野良犬が多かったし野良犬をテ-マ二したものもあった。つまり山頭火は自分を野良犬のように見ていたところがあった。この犬もしぐれつつ・・というのはまず普通に暮らしている人には出てこない句である。そういうものが山頭火にはちりばめられているのだが駄句のうよなものが大量にあるからその見分け方がむずかしい。芭蕉とか蕪村はほとんど秀句になっているわかりやすいのだ。この犬という時何か山頭火を象徴していたのだ。昔の道はまず舗装されていないから埃りがたつ、子供のときも埃がたっていた。かなりの土埃に悩まされていたのである。だからそういう道を歩むと野良犬が歩むのとあっていた。今は道でもきれいすぎるのだ。土の道はほとんどなくなっているからだ。本当の旅は実際は一万とかするきれいな旅館に泊まってすることではない、山頭火のように木賃宿があっていたのであり場所でもばりするとか野趣があって良かったのである。旅は何か不如意なとき旅らしいはいうこともあった。「どしゃぶりの雨ぬれ泊まる中山道」夏だったけど中山道を自転車で旅したときどしゃぶりの雨にぬれた。
馬の尿する枕もと..こういうときすら旅には旅情が生まれる「このときまあに馬と共に暮らす農民の生活と一体化したのである。


そして宿にとまったりしたが実際は嫌われたことはまちがいない、泊めたくなかったのだろうけど金払うからしかたなく泊めたのである。これは昔だったら木賃宿であり汚れても安宿であり不自然でもなかったのである。現代は宿にすら気楽に泊まれるところがない、安宿の方が旅の情緒があった。豪華なホテルに泊まったらすでに旅ではない、自転車で旅したらそういう宿にとまりにくい。でも泊まる場所がない場合があるから野宿の用意が必要となりそうなるとゆっくり休めないということもあった。若い人ならいいが中年になると辛いということもあった。中年くらいになるとそんな旅している人は世間からはずれた人である。今はニ-トみたいなのが無職がいくらでもいるから不自然でないのかもしれない、外国に沈没している人などもいたからである。40、50でそんなことをしている人はまともでない。旅館に泊まるとき無職だというとそれは大地主とかで金持ちであり一番いい部屋に通されたという。旅館と木賃宿は違っていたのである。旅館は当時も贅沢なものであり温泉宿のように金がかかるところがあった。当時で無職とわざわざ言うとなると仕事しないでも暮らしていける人は特別の金持ちだったのである。だからずいぶん今の無職とは違っている。資産家がいてそういう人は別に仕事しなくても良かったのである。今は職業でその人を判断しているのだ。旅はそもそもそうして安宿を長く泊まり歩くことが旅なのである。江戸時代でもお伊勢参りなどでもそうである。そういう安宿がなければ一か月もの旅はつづかないのである。

自分はこの安宿を探すのに苦労していたのである。それが外国旅行までつづくとは思っていなかった。パリでも安宿を探したが断られた。外国では早く泊まらないと落ち着かないから日本のように探して歩いていられない、でも若い人はパリでも少しでも安い宿を探していたのである。50からの海外自由旅行は辛かったしうまくいかなかった。「パリに来て安宿探し落葉かな」「東駅安宿多し落葉かな」東駅は確かに安宿が多いところだったがうまく泊まれなかった。でもどこにも日本人がいたのには驚いたのである。今はどこにも日本人がいる。カンボジアではアンコ-ルワットで自転車旅行していた中高年の人がいたのには驚いた。カンボジアでは道は舗装されていない、土埃がたつし暑いからひどいのである。あんなところをあの年で良く自転車で走っていたこと自体驚きである。あそこに中高年の人はかなりたむろしていた。いかがわしい女が側にいたり嫌になった。


山頭火の旅はまさに犬もしぐれつつの旅だったのである。そういう旅ができたのは時代だったのである。今は遍路だってこぎれいだし楽な旅をしている。観光の一種にもなっている。山頭火のような野良犬のような旅はできないししている人はいないのである。戦前から戦後十年くらいまで非常に乞食が多かったからそういう人がいても特別変わったというものでもなかった。山頭火も乞食の一種であり見分けがつかなかったろう。今は乞食がいないからそういう旅もできない、もしかしたら警察に職務質問されて刑務所にさえ入れるからかもしれない、無職というだけ実際に捕まった人がいたからである。犬もしぐれつつというとき犬は野良犬であり野良犬も多い時代だったのである。乞食も野良犬とにていたのである。今は何かみんなこぎれいにして型にはまっていないといけない時代なのである。

ある一面今の時代は豊だけど窮屈だなとなる。自由もあるんだけど何か昔のような自由は失われている。車時代だから車に席巻される。車が相当贅沢なものであり動く家でもあるから土埃にまみれて乞食のように旅できた時代とは余りにも違っているのだ。歩いて旅する人がいても全部歩き通すことはない、途中で必ず電車なりバスなりを利用しているのである。ともかく人間が旅する風景はもうなくなった。ただ車だけが行き来する風景でありそこに歩く旅人などが入る余地はない、道は車が通るものであり人間が歩いて通る道ではない、辛うじて自転車が現代の旅らしい旅になるのかもしれない、バイクでも早すぎる。バイクの速さは車と変わりないのである。自転車で旅している人は若い人が多い、体力的にそうなる。


山頭火が時雨にこだわったとき時雨的日本的風景があったためである。それは石置き屋根とか貧しい家並みがありそういう風景に時雨があっていたのである。高層ビルとかそんなところに時雨も自然は合わない、高速道路とか国道とか車で埋めつくされた所にもあわない、辛うじて裏街道みたいなところだと時雨もあうのである。つまり今は相当に自ら旅を演出しないかぎり旅にならないのだ。ただ便利に移動するだけになるのだ。だから自分は自転車旅行した行程はある程度覚えている。坂が苦しかったとかあそこは遠かったなとか体に記憶が記されているのだ。これが便利な乗り物を利用したら残らない、ただ通りすぎて残らないのである。現代は旅人になることはできない、旅人を見ることもできない、団体などの観光客は旅人ではない、芭蕉の奥の細道のように旅人は本当に人生すら旅としている人なのだ。最も硬骨漢の旅人は西行だった。西行は武士の出であり相当に体力もあった。その点が芭蕉などと違っていた。芭蕉は自分のように体が弱かったし一般的に詩人などは体が弱い、西行は別だったのである。山頭火も体が強かったが無理をしたので60才くらいで死んだのである。やはり人間はどんなに丈夫でも無理をすれば早死になるし病気にもなるのである。


 

2012年10月23日

鎌倉-俳句(秋から冬の連句) (大仏殿は津波で流されていた)


鎌倉-俳句(秋から冬の連句)

(大仏殿は津波で流されていた)


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波にゆれ伊豆七島や秋の海

鎌倉に五山の門や秋深む
杉古りぬ八幡神社や秋深む
鎌倉や虫の音繁く五輪塔
また一つやぐらに散りぬ木の葉かな

五輪塔名だたるものや秋深む
・・・・・・
江ノ電に修道女乗る冬の暮

大仏は忍辱(にんにく)の相や冬深む
冬の雨打たれて大仏黙すかな
内に秘め大仏剛く冬の月
大仏の沈黙深し冬日没る
鎌倉に武士(もののふ)眠る冬の星
宋へ行く船の沈みぬ冬の海
鎌倉や血で血を争う冬の海
冬の灯や鎌倉彫の店屋かな
野ざらしに大仏残り冬の空
度々の災害にあう大仏や日本の国の柱ともなる
耐えてこそ喜びのあれ大仏のひたすら黙して秋深まりぬ


鎌倉というときどうしても歴史を知らないと俳句にも短歌にも詩にできない。鎌倉に残っているのもは意外と少ない、一番目立つのは大仏である。他にも五山の禅寺があり重厚な威厳のある門がその歴史の重みを伝えている。


鎌倉大仏の津波被害を忘れるな
http://www.slownet.ne.jp/note/detail/201104132353-3000000


日本における曹洞宗の開祖、道元が中国から帰朝して二六年目、建長寺が建って四年目、いよいよ禅宗が広まった。のちの高徳院は極楽寺に属してその寺の忍性菩薩によって供養されていた。


鎌倉の災害史
http://blog.livedoor.jp/kikurotakagi/archives/3046972.html


鎌倉は海に面しているから大きな津波の被害がありもともと屋内にあったものが露仏になってしまった。そのあとも度々地震や災害に見舞われた。日本はいかに災害の多い国なのか今回の津波でも再認識された。鎌倉は特に地形的に災害にあいやすい場所だったのである。日蓮が布教した時も日本は元寇があり国内では災害があり立正安国論が説かれた。それが今の時代とにていたのである。中国からは攻められる国内では津波の大災害で苦しむ、原発事故で苦しむとかにているのである。日本はともかく地震や津波の災害が絶え間なく襲ってくる国であった。このことが意外と見逃されていたのである。もし日本のこの災害史を歴史をふりかえればとても原発などつくりえようがないのである。大陸では地盤が安定してし地震が少ない、韓半島でも大陸とつながっていて地震が少ないのである。日本は世界でもいちばんの地震国であり海に囲まれているから津波国でもあった。そういう歴史が忘れていたのというのも日本人は忘れやすい民族だともなる。


鎌倉というとき生々しい歴史の舞台であり凄惨な権力争いの場所だった。熾烈な権力争いで死んだ武将が数限りない、その名前も氏も明確
である。和田一族などは有名であり他にも名だたる武将が五輪塔として残っている。だから歴史を探ればその名前も明らかになりたどれる。平泉は三代でその栄華も終わり何度訪ねてもどんな武将が生きていたのか明確に浮かんでこないのである。東北の子孫をたどれば鎌倉時代に陸奥に移住した鎌倉の武士が明確な氏として名前として残っている。南相馬市鹿島区の岩松氏の伝説は有名である。家来に一家惨殺されたので伝説として語り伝えられたのである。
その岩松氏も鎌倉の出なのである。その時の信仰もここにもたらされた。古代にはどんな人が住んだかわからないが鎌倉時代になると明確にその先祖の氏が歴史に記されているのである。


鎌倉で象徴的なのが大仏なのだけどこれはやはり奈良の鎮護国家の大仏とは違う、武士のスピリットから作られたものである。鎌倉時代は武士のスピリットから革命が起こり宗教でも質実剛健な文化が生まれた時代である。それは京都の平安仏教とは性格を異にしていた。丁度ゲルマン民族のゴシック聖堂を作った新たな宗教が起きたのである。武士の質実剛健な文化なのである。禅宗が座禅を重んじるときやはりこの大仏は座禅しているのであり沈黙している。これは阿弥陀如来とかいうがやはり禅宗系統の仏である。忍性菩薩の具現したものともいえる。鎌倉というと今や観光地であり何か騒々しいのが嫌である。浮ついた感じの場になってしまった。これはどこでもそうだが本来観光地ではない、厳しい修行の場所だった。それがどこでも失われて僧侶はただ観光のために見学料をとる人となりさがった。誰も厳しい修行などしていない、京都でも観光の場であり信仰の場所などではない、いくらでも金は入ってくるから堕落したのである。もともと江戸時代には武家の菩提寺となり武家に所属するものとなり戒名をさずけるだけのものとして堕落していたのである。寺でテラセンなどと博打場になっていたのだから押して知るべしである。観光となると遊興の場と化したとにている。


ただ時代的な文化遺産と大仏の姿は厳しく威厳を残している。露仏となった結果かえって自然を反映するようになったから不思議である。より自然を反映するものとしてふさわしい。それでこういう俳句なども作れたのである。大仏は正に忍辱(にんにく)の相であり忍性菩薩にふさわしい、そこには深い沈黙がある。だから冬にふさわしいのである。現代の雑音が観光という名目で押し寄せてくるが以前としてやはり鎌倉時代に作られた今にはない厳しさ、沈黙が大仏にはある。鎌倉の中心はまさにこの大仏であることには変わりがない、ただ鎌倉の歴史をふりかえるとき本当に権力争いの典型的な修羅場であり陰惨な暗さに満ちていたのだ。その象徴が実朝の若き死だったのである。まさに血を血で洗う、争う場所だった。歴史をたどればそこには生々したそうした凄惨な争い、殺戮の場所だった。だから鎌倉は暗い場所であり冬に訪ねるのにふさわしいのかもしれない、冬の海に象徴される場所でもあった。宋の国へ実朝が船で行こうとしたのも打ち砕かれた。港だった和賀江嶋は海に沈んだ。ただ跡形もなく冬の海が広がっている。鎌倉は海に面しているのだから海でも象徴される場所だったのである。自分は韓国の旅を終えて九州から鎌倉の海に帰り伊豆七島を望んだ。その時の海も荒れていたのである。


大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも


この歌に鎌倉が象徴されていたのだ。さけてちるかも・・・一族が引き裂かれる、家族が引き裂かれて北条氏に源氏の裔は断たれたのである。常に海に面していたからこの歌ができた。これは冬の海なのである。その後の争いも冬の海として象徴される。

やはり鎌倉となるとより東北でも歴史が身近になる。関西になるとどうしても遠すぎるのである。だからなかなか歴史をさぐるのがむずかしいのだ。歴史を知るには何度も訪ねないとわからないからだ。今や遂にどこにも行けない身になった。これも自分の人生の結果なのかもしれない、なぜなら自分ほど旅行しつづけたものもなかったからである。今や狭い郷里の牢獄に閉ざされたと同じである。
電車も二輌の電車であり交通も閉ざされてしまった。ただ思い出す旅があるだけなのである。


いづれにしろ津波で大仏殿が流されていたということをあの大仏を見て意識する人はあまりいなかった。多賀城市の末の松山の歌も今回のような巨大津波から生まれたものとして東北でも深く思っていなかった。今回の津波でつくづく津波のことを記念したものだったことを思い知らされたのである。

再びの大津波にみちのくの末の松山秋めぐりきぬ

2012年06月15日

関所の俳句十句 (旅には関所も記憶する目印となっていた)


関所の俳句十句

(旅には関所も記憶する目印となっていた)

上り来て箱根の関所春の暮


関が原こえて春野の近江かな


伊吹山関が原にそ残る雪


関が原越えて近江や春の山


(中山道)

宿探す関所辺りや夏燕


秋の湖姫街道の関所かな


(市振)

秋日没る関所の跡や沖に船


月の出て関所の跡や松一本


旅人を関所に知れや秋の夜

白河の関やみちのく草の花


間道を幕末の武士月光る




関守の宿を水鶏にとはふもの


秋風や薮も畠も不破の関 芭蕉



旅がなぜ旅でなくなったのか?観光と旅は違っている。旅は車で行っても旅にはならない、旅人にもならない、通過するものになってしまう。旅は江戸時代のように歩いて旅したとき旅だった。旅人にもなれた。皮肉なことに不便であれば不便なほど旅になった。旅では関所は不便でもやはり今になるとその関所があってまた旅だったということがある。これは国境にこだわる人が今いまことでもわかる。国境を越えるということが一つの旅の難関でありビザもとらないとなると余計むずかしいからそこで情報交換をする。外国では国境があり国境を越えると別な国になる。貨幣も変わりりょうがいする。国境を越えることはかなり緊張することなのである。それが江戸時代では関所でありあとでは番所になった。江戸時代の方が土地土地で個性があったから旅は今の旅とは全然違う。次々に未知の世界を旅することだったのである。その未知への入り口が関所や番所であった。だから関所でも白河の関や勿来の関はすでに過去のものでありなくなっいるから関守がいたらな水鶏のように問うものにとなった。関守がいたころがなつかしいとなった。白河の関でも誰もいない関守もいない、ここが関所なのかとなる。そこは藪になり畑になっている。ただ秋風が吹いているだけである。


自分が旅してやはり記憶に残る関所となるとやはりそこに関所が再現された所だった。姫街道で有名な浜名湖の気賀関所や中山道の福島関所などがある。そこは再現されているから記憶されていた。
もう一つ関所があったがどこの関所かわからなくなった。日本海回りで江戸に通じる関所だから加賀百万石の大名行列が通ったということで有名だった。関所があれば文書としても通った人が記録される。逆に今の時代は旅しても余りにも簡単に行けるし関所がないから要所として記憶されないのである。旅が何度も記憶が大事だというときやはり記憶される要所となるポイントとなる場が必要だったのだ。それが現代にはいない、もちろん新幹線で日本を横断しても何も記憶に残らない。自分の場合、結構自転車で旅したことで記憶して思い出して書いている。もちろん電車で行ったのもそれなりに記憶されている。でも自転車の旅だと雨にぬれたとか風に吹かれたとかを覚えているのだ。北海道でやたら風の吹く所がある。そういう難儀なことが実は旅の記憶に残っているのだ。芭蕉の旅でもあれだけ難儀したから記憶として残り奥の細道を脚色して名文にしたのである。旅は記憶されること思い出されることがあとで大事になるのだ。ところが現代の旅はあまりにも便利すぎて思い出として残らない皮肉があるのだ。


旅人を関所に知れや秋の夜


ここは日本海を回り江戸の方にゆく所の関所だった。ここを通るときはもう日も暮れようとしていた。ここで通った人を記録される。それは一つの旅の記憶である。関守が誰が通ったか記憶してくれとか芭蕉の水鶏の句のようになる。なにもなくて通りすぎるのが淋しいともなるのだ。現代は余りにも人と人も悠長に接していられないからかえって旅の出会いもないのである。芭蕉の時代はそもそも純粋に旅だけしている人は芭蕉くらいだったろう。僧がいても本当に数があまりにも少ないのである。今はどこにいっても観光者だらけだけど旅人はいないのである。旅人は今や苦労して演技して自ら作らねば旅人になれない、自転車で一か月も旅すればなんとか旅人らしくはなる。それでも江戸時代の旅人にはなりえない。山尾三省のことを書いたけどこんなに豊かな時代に貧乏に生きることはかえって演技者のようになっているのと同じなのである。あえてそういうふうに無理して演出しないと昔に帰れないのである。

関が原は関があるからでありそこはちょうど東と西の分かれ目だった。伊吹山でヤマトタケルが死んだのは象徴的だった。山の上だから雪が残っているがそこを越えると近江の春の平野が広がっているのだ。ここからは近江であり西であり京都も近いとなる。そういう境目は意識され記憶に残る。
「トンネルをぬけると雪国だった・・・」というのもそうである。それは宮城県から山形県に入る
山寺に入る所が国境のトンネルである。そこは春でも雪が残っている。市振なども厳しい関所があった。でも沖を見ると船が通っていて関所がないとなる。あそこは平らだから境目として意識しにくい。何もそれらしいものもなくわからなかった。


関所というとき江戸時代の後半はかなりル-ズになっていたらしい。だから間道を金で案内する人もでてきた。間道をぬけても関所を番所を通ったという判子を記しをもっていないとまずい面があった。あとで取り締まられたら危険である。でも幕末の頃になるとかなりル-ズになり志士でも新撰組でも間道を通り抜けた。そういう変化のときは規制のものが破られやすい。関所なんかどうでもいい、命をかけて奔走しているからそうなる。旅には特に外国になると融通性が必要になる。言葉もわからないで自由に旅する若い人がいる。それは融通性があり臨機応変さがあるからつまり勘が働くからできるのである。言葉はそれほど関係ないのである。自分は融通性もないし勘も働かず外国ではひどいめにあったから行きたくないということがある。日本のように旅できないから嫌になった。


元治元年10月16日、前日に江戸を発って京都に向った伊東甲子太郎ら一行のうち、過去の横浜での攘夷活動が原因で幕府に追われていたという相馬藩出身の大村安宅は、神奈川の関所で、嫌疑を避けるために間道に入りました。
http://bakumatu.727.net/kyou/11/111464-oomuraataka.htm


相馬藩士に新撰組がいたのは意外だった。水戸系の天狗党は知られていた。新撰組に入ったというのはどういう経過だったのか?会津は新撰組と一体だったからわかるけどどうして新撰組に入った相馬藩士がいたのか?そういうのもまた一つの相馬藩の歴史だけどこれも誰か解明しないとわからない。


「相馬藩士と新徴組」
http://red.ap.teacup.com/hangui/1935.html


ここに詳しい、坂本龍馬も間道を通ったとかあるけどそういう浪人組とか志士とか新撰組はもう関所を無視して活動していたのかもしれない、それが時代の変わり目だったのである。




俳句と短歌は連作として読むとき一つのつながりを感じる、一句一首ではその背景などがわかりにくいから一連のものとして読みにくいのである。だから十句十首で連作として新たに創作しているのである。

関所について
http://musubu.sblo.jp/article/3506731.html

2011年10月12日

山中節の情緒(旅の思い出)

   
山中節の情緒(旅の思い出)




山が高うて山中見えぬ 山中恋し山にくや


谷にゃ水音峰には嵐 あいの山中湯のにおい


「山が赤なる木の葉が落ちるやがて船頭衆がござるやら」にもある通り春から秋にかけて北海道附近に出稼ぎしていた船頭さん達は冬が近づくと家に帰り一年の苦労を癒すためこの山中に来てゆっくり湯治をしたのである。


山中や菊は手折らじ湯の匂ひ 芭蕉


「山中温泉はまことに効験あらたかな温泉である。かの不老長寿の霊薬と伝える山路の菊を手折るまでもなく、湧き出る湯の匂いは菊に劣らず香しく、浴するほどに命の延びる心地がする。



太平洋と日本海の情緒は正反対である。情緒的には日本海側の方がいい。あの情緒は他ではなかなかない情緒である。日本海には何か古い家並みがあり昔のものさびた感じがあった。一方で太平洋な明るさはなく陰気な感じになる。雪国だから余計にそうなる。

山中温泉には行っていないから地理的なことがわかりにくい。そんなに山の中なのかとうことが実感としてわからない。やはり一回行ったところならイメ-ジしやすいし関心をもつ、ただこの辺りの白山郷がありそこには行っているし近くだった。そこは閉ざされた本当に山深い平家落人の里にふさわしい所だった。山中温泉はそんな山奥とも地図で見た限りでは違っている。ただかなり山間を奥に入った場所である。こおろぎ橋などがあり名前としてはいい。でもそこが山中節のように山が高くさえぎっている場所のようにも見えない。ただ日本は山にさえぎられている所が実に多い。山国である。こういう俗謡でもそういうふうになるのが日本の風土である。北前船の船頭がここで湯治した。長く滞在するからそこに恋も生まれた。そういう歴史を感じて泊まるのとただ泊まるのでは違っている。歴史がある場所とない場所では違っている。北前船にまつわる話しはいろいろある。太平洋側にはそうした情緒が不足している。何か人間的なもの情が深いものを感じる。日本海とか越前越中越後はそういう土地柄でもある。
今回原発事故などで新潟県にも浜通りから相当数の避難者を受け入れてくれた。新潟県はそういう情が厚いという面があった。ただ現代は旅の情緒がない、山中温泉に行ったことがない、たまたまテレビで見て知った。ここに芭蕉が長く滞在したのも知った。ここの湯にいやされたのである。でも温泉ホテルが今は意外と情緒がない、そもそも豪華なホテルは保養にはいいが情緒がない、旅人は木賃宿のようなものがにあっている。今はやたらホテルが多い、それで旅の情緒がそがれるのである。旅が自由になりどこでも行ける時代だがかえって本当の旅がなくなったというのも皮肉である。貧しいときの方が旅の情緒があり旅があったし旅人になれたのである。自分は旅がしたかったから豪華なホテルには泊まりたくない、もちろん金もなかったから安宿を探して歩いていた。長く旅しているとやっぱり安宿なのである。その点ヨ-ロッパは旅しやすい、安宿やユ-スホステルで安く泊まれる。年配の人も泊まっている。一方で外人用のホテルは高く豪華なのである。ヨ-ロッパは長旅する人が多いからそうなった。やはり旅にいい時代は戦前であり江戸時代だったのである。豊になりすぎて便利になりすぎて旅が自由になって旅がなくなったというのも皮肉である。豪華ホテルには泊まりたくない、また高すぎるということもある。ふらりと旅して気ままに泊まるホテルではない、だからどうしても今はビジネスホテルに泊まることになった。

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天正8年(1580年)山中温泉の上流真砂の地に、滋賀・福井方面より山づたいに良材を求め移住した工人たちの「ろくろ挽き」が始まりとされております。
 その後、技術・製品ともに川を下り、手工芸品として山中温泉の浴客への土産品として広く生産されるように、1700〜1800年代にかけて工人たちのたゆまぬ努力と創意工夫や全国の名工を招いての技術導


江戸時代後期天保年間(1830〜1844)の蒔絵師 会津屋由蔵(あいづや よしぞう) 弘化年間(1844〜1848)の糸目挽き(いとめびき)名工 蓑屋平兵衛(みのや へいべい) ました。

1830年から1844年(天保年間から弘化年間)には会津の板物師桜田門兵衛が当地へ赴き会津の塗法を伝え、1848年嘉永)には会津の蒔絵師角田東斉によって会津蒔絵法が伝わり、川連漆器に見られる沈金、蒔絵といった装飾の、基盤も大きく築かれていった。



山中漆器で面白いのは会津の漆器が技術指導に最初に来ていたことである。すると会津の漆器は技術的に古く優れていたとなる。相馬焼きも技術指導のために益子焼きには相馬焼きの技術も入っていた。益子焼は笠間焼きからはじまった。焼き物の歴史を調べるとやはり興味深いものがある。浪江の大堀焼きは一体どうなってしまうのだろうか?焼き物は土が大事だとするとその土地に根ざしたものとして生まれた。ただ今は土も他からもってくるものが多いから青ヒビとかの技術は移住先でも残すことはできるのだろう。



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新蕎麦やむぐらの宿の根来椀


根来塗の名称は紀州(和歌山県)の根来寺から来ており、当時僧徒が自分の寺で使うものを作りました。根来塗の歴史は古く、正応元年(1288年)に遡ります。お寺で、僧が日常的に使う為、きれいに塗るというより、使いやすさ、丈夫さに 主眼をおき、黒漆で何回も塗り重ね、最後に一回 朱漆を塗り、仕上がりとしました。


この根来碗で新蕎麦を食べた。その味わいはなんともいえぬものだった。蕪村は食べることにかなり風流を感じて食べていた。江戸時代はともかく土地柄がにじみでるようなものが多かったのである。今はそういう土地柄の産物が喪失した。どこでも何でも手に入るということはみんな規格化した製品になったのである。おみやげが今は一番つまらない、まずいものが多い。名前だけになってしまった。そういう土地の情緒が喪失したのが現代でありそれと同時に旅の情緒も喪失したのである。江戸時代は旅に一番向いた時代であったが旅がしにくい時代でもあった。人間はだから時代によって恵まれたといっても必ず失われたものがありその失われたものは取り戻すことがもはやできないのである。

山が高うて山中見えぬ 山中恋し山にくや


日本はどこでもこういう風土なのである。隣の村も山にさえぎられて閉ざされている。隣の村に行くには峠を越えねばならない、そういう風土である。だから隣の村さえ神秘的になる。一旦去れば山にさえぎられて見えなくなるからだ。そしてし互いに閉ざされた中で暮らしていたのである。それで飯館村だったら大倉村と佐須村は民情が一致しないから合併できないということにもなった。狭い村々で民情が違っていたのである。それは山があるから今のような大きな市はできないのである。


あしひきの 山きへなりて 遠けども 心し行けば 夢に見えけり 大伴家持


山に隔てられている。その山の向こうを常に思っているのが日本の風土である。山がにくいとなるのもそのためである。山さえなければ会えるのになとなる。それで日本はトンネルが多くトンネルの技術も発達したことがつくづくわかるのである。

 

2008年04月10日

福山城の桜(瀬戸内海の船運と結びついていた城)


福山城の桜(瀬戸内海の船運と結びついていた城)


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福山城天守に人や花盛り

鞆ノ浦船の通い路春の星

(倉敷)
万能倉長者御門や春の街


曙町御船新涯春の旅

天女浜潮見東御所春の海

駅おりて福山城の桜かな瀬戸内海と通ず栄いなれ

ひた走る電車の窓に桜かな南の栄いこの一時に

海開け春山つづき桜咲き船も行き交い電車も走りぬ

(尾道)
船行きて三重塔や尾道に瀬戸内海の春の夕暮  


   福山城から南東に流れる運河「入川」は瀬戸内海まで通じる運河で明治時代に山陽鉄道が建設されるまで物流の中心となっていた。城下にはこの運河に接して藩の船を泊める「舟入」があり、城下を出た場所にも係留場があった
 

ここに詳しい地図
http://yagumo2.hp.infoseek.co.jp/fukuyamasiro.htm

 
伊沢蘭軒(森鴎外)
 

此辺堤上より福山城を松山の間に望む。城楼は林標に突兀たり。四里今津駅なり。高洲をへて示嶺(ばうしれい)にいたる。(一に坊寺(ばうじ)といひ一に牡牛といふ。)一本榎より此に至て我藩知に属す。土地清灑田野開闢溝渠相達して今年の旱(ひでり)に逢ふといへども田水乏きことなし。嶺を下て二里尾道駅なり。此駅海に浜して商賈富有諸州の船舸来て輻湊する地。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2084_17397.html

 

福山にとって鞆とは
http://pub.ne.jp/ANKO/?entry_id=1157975


福山城が印象に残ったのは新幹線の駅であり駅をおりてすぐ福山城を見れるからである。立派な石垣に沿って新幹線が走るのはめずらしい。現代の旅はまず汽車→電車からはじまる。だから駅が重要な旅の出口であり入口になる。江戸時代なら関所になるが現代は駅なのである。最近は車時代だから道の駅が旅の駅として重要になってきているのも交通で旅は変わる。そこで旅が昔と違い表面的な点な旅になってしまった。電車の駅から駅の旅であり新幹線になったらそれこそ普通車の駅から駅の旅もなくなっているのだ。福山城は立派な城であり桜が満開のとき見たから印象深い、大阪から南は大きな城が多い、その代表が姫路城でありこれも車窓から眺めたときは感激だった。瀬戸内海沿岸で盲点となっているのは電車の旅だといつも瀬戸内海が見えるわけではない。海が見えない場合も多い、福山城では海のことが全くわからなかった。城に上って海が見えれば海を視野にした感想があるのだが海が見えないと海と関係ないように思ってしまう。瀬戸内海や四国だとじかに海とつながっている城がかなりある。明石城や今治城や高松城は海がすぐ前であり実際に海から船が入る施設を備えていたのである。
 
東北にはこういう城がないから直観的ににわかりにくい、瀬戸内海の船運がバックボ−ンとなって城を支えていたことがわかりにくいのだ。尾道の三重塔も船を使いもうけた商人によって寄進されり船と関係することが多いのだ。これが船の旅だったらわかりやい。福山城には城に通じる運河があり城にじかに船が入るようになっていた。船町、船入町、御船町とかあるのもそのためである。船入寺もあり寺町に船で入っていたのである。そのあと運河は埋め立てられてわからなくなった。江戸城も運河で結ばれていたから船運は交通の主役だった。それが現代では実感としてわからないから歴史がわかりにくくなっているのだ。鞆ノ浦も福山と関係あることが旅してわからなかった。電車だと線と点の旅になり面の旅ができなくなるのだ。だから面の旅はあとから想像して旅する他ないのだ。インタ−ネットがその想像の旅をするのにいいのである。ただその前に実地に一回くらい現場に行っていないとこの想像の旅もむずかしいのである。旅とは旅する前−旅している時−旅をふりかえる−この三つがあって旅は完成する。その最後の完成をしている。それでインタ−ネットの情報が役に立つのである。

 
海よりの風に吹かれて満開の桜に人や福山城かな
 

海に出て瀬戸内海を見て海の風に吹かれて福山城を見れば感慨は違ったものとなっていたのだ。電車で来ておりたら海の視点がないからである。電車の旅は点(駅)と線(線路)だけになりやすいのである。だから面を理解することがぬけてしまうのだ。
 
地名的にも倉敷も船運で栄い運河の街なように「万能倉長者御門や春の街」その繁栄が地名からも想像できるのだ。他に入野とか海田駅とかあるのも瀬戸内海らしい、というのは海があり田があり入野も山を分け入る日本的な風景だからだ。だから万葉集にも入野の歌が残っている。ともかくみちのくから大阪であれ瀬戸内海となると実に遠いのだ。西とみちのくではこれも相当な経済力の差がある。豪商は西に集中している。みちのくではまれなのはやはり船運の交通の要衝にならなかったからである。

 


 

2008年03月09日

伊豆の旅(春−短歌) 


伊豆の旅(春−短歌) 

 
春の波打ちひびきつかもめ飛び旅人の行く早春の伊豆

寄する波白く砕けて丘の上に朝咲き開く椿の花かも

山頂に春風吹きて開国の下田の港真下に見ゆ

汽笛なり船の入り来ぬ下田港夕雲赤し春の日の暮る

山頂に花吹き散りて風強し開国の港に春日落ち行く

潮風に椿は赤く咲き揺れて真近に望める白き富士の嶺

今日もまた富士を望みて船い出る伊豆の港に椿の赤しも

伊豆の海に花吹きちらふかなたには富士を望みてひびく波かも
 
椿を歌っているけど椿自体が記憶にない、その時作ったものであり俳句のようにあとから作っていない、椿のことは記憶に残されていない、下田に強い春風が吹き、ケ−ブルカ−で高い山から下田の港を見下ろしたことは覚えている。変わった地形だったからだ。今ならデジカメがあるから次々にとっていれば思い出したかもしれない、デジカメは数をとることなのだ。そしてあとで思い出すために加工するためにとっておくのだ。その時はできなかったから残っていないのである。


 

2008年03月08日

春の富士十句


波ひびき駿河に望む春の富士


春富士や波に踊れる魚かな

白砂に天女の松や春の富士

駿河湾向こうは伊豆や春の富士

早春の伊豆やまじかに春の富士

我が寄らじ雲見や遠く春の富士

ゆくらかに場所を変えつつ春の富士

静岡や新幹線に春の富士

旅長しその日は遠く春の富士

恵まれし旅の日長し春の富士

晴れやかに富士を見ゆかな春の日に
         なお生きてあれ日(ひ)の本(もと)の国に


松静か我がよりにつつ長々と春の富士見ゆ心おきなく


 


初富士へ荒濤船を押しあぐる
石田波郷


陸の富士海の富士見て年新た
太田嗟


  伊豆から駿河湾とかへ旅したのは相当前である。20年以上は前である。その時のことを思いだししてまた俳句を作った。その時は作っていない、作ったとしても記録のような俳句だった。その時作った俳句であまりいいものはないが記録としてはいい、旅とは何回も言ったように記録が大事なのである。ほんのちょっとしたことでも記録してあるとそこから旅の記憶が蘇るからだ。そしてこうしてまた俳句を作ったりしている。駿河湾に出たとき鮮明に記憶しているのは魚が波によって打ち上げられていたのだ。生きているような魚だったのだ。
 

相模国に至ったとき、倭建命たちは相模国造の放った火に取り囲まれてしまいました。そのとき、倭建命は、叔母の倭比売命から与えられていた草那藝剱で草を薙(な)ぎ、袋を開いて中の火打石で火をつけ相手側の火を押し返して野火から脱出し、逆に敵を焼き殺しました。
それゆえ、この地を焼遺というようになりました。
(日本書紀では駿河国の焼津とされます)
「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」

 
この歌も有名である。ここは劇的に海からのドラマが展開された場所なのだ。弟橘比売命が、これは海神の怒りを静め倭建命を救うために身を投げたというのも実際にただならぬことがおきて伝説化したのである。地形的に船で上陸するのに駿河湾は適していたからこそ焼津に上陸したのである。
 
この時撮った写真はない、でもその時の伊豆と駿河湾のことは脳裏に刻まれているインタ−ネットで写真を見るとその時の光景が蘇ってくる。西伊豆を回って駿河湾に出た。そして何度も雪の残る春の富士を十分に見たのである。その時時間は十分にあった。その時間こそ旅には最も必要なものだった。旅はまず勤め人のように時間が制限されたらできないのである。今になって介護で勤め人のようになったから実感としてわかった。一カ月くらい時間を気にせず旅ができないならまず旅はできないのだ。だからつくづく勤め人には保養はあっても休養の旅はあっても旅そのものはできないことがわかった。
雲見という地名は変わっていたので記憶していた。ここからの眺めは確かにいい、ここは地名だけが記憶された。雲を見ていて富士が見えるという何か浮世離れした感じでいい。早春というと伊豆がいい、海と山と富士が見えるからだ。新幹線だと静岡に入るとくっきりと富士が見える、でもたちまち去って見えなくなる。
短歌で日本(にほん)というと何かぴんとこない、やはり日(ひ)の本(もと)、日本(大和)−ヤマトとした方が大和言葉でしまってくる。ただ日の本と大和はまた感覚的に歴史的に違うのである。もともと日高見の国が日の本のくにとなったとか大和の前に日高見の国がありそこには蝦夷も含まれていた。大和は奈良の大和という一地域の名前でありその地域が日本の国の起こりとなるから大和となると奈良を強く意識するのだ。大和言葉があってこそ詩も生きるのであり漢字では日本は日本でありえないというのも真実である。
富士山に関するものは膨大である。富士の俳句だけでも膨大であり富士を常時ながめる場所に住んでいる人は幸せだとなる。
 

富士山の辞書
http://bungaku.fuji3776.net/cat7/

 

(雲見温泉)
http://www.d2.dion.ne.jp/~kumomi/
 

2007年10月10日

間宿(あいのしゅく)について


間宿(あいのしゅく)について

新酒くむ村と村の間(あい)の宿(蕪村)

虫の音や昔を偲ぶ間(あい)の宿(老鴬)

一山越えるに遠し虫の声

ようやくに飯館村をい出ゆくや虫かそか鳴き食事とりにき
間宿(あいのしゅく) 宿場と宿場の間が長い場合,その途中の街道沿いに休憩所として茶屋や立場が設けられたが,その立場が発達して大きな集落となったもの。多くの施設が立ち並んだが,宿場町を保護するため,宿泊は幕府によって厳しく制限された。
新酒の季節なのだ。冬から春にかけ、蔵人たちによって造られた酒は、樽に詰められ酒蔵の中で秋まで貯蔵される。

 ◆茂田井宿の入口に立つ道標。そばの立て札には、こう書いてある。
「江戸時代、茂田井は望月宿と芦田宿の中間に設けられた間の宿で、文久元年(1861)和宮御下向の際は、十二軒が御弁当宿となった。現在も豪壮な構えの家が立ち並ぶ古色豊かな集落である」
 
諏訪高島藩初代殿様『頼水』は上諏訪宿と金沢宿の間が長いため、
茅野村に宿場を造る(諸役免許)を作成しました。

半日の旅でも自転車や歩きだと旅になる。なぜ間(あい)の宿というのに興味をもったかというと一山越えると飯館から川俣に入るしもう一坂越えれば山木屋に出てそこにコンビニがありおにぎりも売っているからそこまで行けばいいのだがここでかなり疲れるから休む、いい具合に店があるのだ。前もここで休みパンやジュ−スを買って休んだのだ。ここは歩きとか自転車だったら必ず休息する場所になる。車だったらこういうことはない、必ず便利なところに行けるし距離も関係ないからだ。自転車は一山越えるのが大変なのである。私の場合は坂は歩いているからさらに遠くなるのだ。でもこれが旅なのである。不便なこと難儀なことが旅なのである。それがないから今は旅はない、半日でも歩いたり自転車なら旅になるのだ。
間(あい)の宿は十二軒が御弁当宿となったというように弁当を食う場所だった。私と同じ経験を昔もしていたのである。どうしても宿場と宿場の間は遠くなるからそこで弁当を食うことになる。だから御弁当宿となったのだ。これは今でも自転車で行けば同じ感覚であることが実感できる。つまり昔の人も同じことをしていたことが体でわかるのだ。車だと全く旅のことはわからなくなる。

2007年01月15日

白河城(春)

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白河城春の夕日のさしにつつ電車の窓辺に見つつ過ぎゆく

電車から見れる城はあまりない、城が駅になっているところもあった、福山城の福山駅は駅を降りたら城であり大きな城である。近畿には城が多いし大きな城が多い。白河城は小さい城である。ここが白河の関があるところだからみちのくの玄関口として印象に残るし東北では駅から電車から城が見えるのはほとんどない、そもそも残っている城が少ないからだ。亘理駅の城は作られたものであそこにはなかった。だから歴史的意味がない、城はやはり現実にあった場所に意味があるからだ。この城を見たのは韓国まで行く青春18切符に乗った時だった。ここから下関から韓国まで行ったのだからあの旅は思い出に残った。インタ−ネットでネットサ−フィンしていたら近江にオンドルの跡が発見されたとあった。いかに近畿が韓国と密接な関係があったかわかる。これは装飾品などではない生活レベルでも韓国の影響があったのだ。古代は韓国は技術の先進国だったからすべてそうなったのである。明治維新後欧米に習ったと同じであったのだ。
駅降りて花満開の福山城

駅と直結した城はここだけであり新幹線も通っているからこの城は印象的であった。

2006年10月08日

柳田國男 「勢至堂峠から白河へ」

馬を育て馬と別るるあわれかな馬頭観世音に秋風の吹く

此辺の若駒は凡て婦人の手で育てられるので、優しい別離の場がこの日何回も演ぜられた

勢至菩薩は馬の守護神かと思はれる。奥州では処々にその石塔がある


http://www.kurikomanosato.jp/00x-10-44yk-kikou-05.htm

勢至堂峠は馬の守護神の勢至菩薩からきていたのか?猪苗代の方に汽車が通ってから白河から勢至峠−福良−会津への江戸時代からの街道はすたれてしまった。でもこちらの方が旅するのにはいい。取り残されたような鄙びた世界が残っている。この道を会津若松まで自転車で行ったがやはり遠かった。勢至峠には昔の面影はない、ここで書いたある馬のことを知って昔を偲ぶことができる。馬というものが昔は人間と一体となりまるで家族のようにして暮らしていたかを知る必要がある。曲屋では馬と一緒に住んでいたからだ。馬への思い入れが強いのである。だから育てた馬との別れは人間と同じように情を感じていたのだ。馬が交通の時代は人間的な情が通う時代だった。自動車の時代は無惨な交通事故の非情な時代である。

家族で交通事故の被害にあわない人はいない、鞭打ち症の重いのになった人は大変である。脊髄がやられてその治療のために保険がきかないので大学病院で200万以上かかるとか車は便利な物でもその代償も大きいのだ。そして自動車は人間の情を殺してしまうから人間の心を荒廃させてしまう面もあるからこれは文明の問題である。自動車文明でありそこから生まれる問題は教育でも解決しない、現代の文明から様々な問題が生まれるのだから教育もその一環としてあるとき教育だけを良くしようとすることはできないのだ。だから結局教育改革も徒労に終わりやすいのである。

2006年09月12日

飯館の秋のあわれ

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飯館の秋のあわれ

飯館の奥こそあわれ
三叉の松の立ちけり
稲架たてて夫婦のまた
そこにありしな
昔冷害で苦しむ高原の寒さ
飢餓で死すと碑もあれ
虫の音かそか我は去りしも


三叉の松や古りにき飯樋に稲架(はざ)をたてにし夫婦見ゆるも

飯館は山中郷で相馬に属していたが山中郷はなくなった。飯館はかなり標高が高い高原地帯なのだ。だからここで米を作ることは容易でなかったし冷害もあって飢餓で死んだ人もいてその供養の碑が建てられている。なかなか住むには厳しいところだった。ここの風景でこの稲架(はざ)を立っているところは山中でも広々としていた。山でもこんなに広いところがあるのかと思った。日本人はとにかくいたるところを田にしてしいる。山でもそうであり思わぬところが田になっている。阿武隈山中でも小川が流れていて板橋がありそこに細道が山の中に通じている。その道をたどると何があると思うと普通畑と思うがあるのは田なのである。日本人は田を作り米を糧にして生きてきた民族なことがわかる。またそういうところは隠田(かくした)にふさわしいのだ。だから平家の落人が逃れてきて住んだとか伝説が生まれる。自転車で山形の方を旅したとき案内板があってここは何だろうと上って行ったらそこは小さな城の跡だった。土手だけが残っていた出城のようなものがあった。その山の上も平であり田になっていたのだ。こんな山の上に田があるというのが意外なのだ。田はこうして山の中に隠されているのが多いのである。平(たいら)という地名が多いがこれは山国の日本で平なところが特別貴重でありそこは畑としてより田にすることで貴重な場所だから平とつく地名が多かったのである。

飯館のこの場所は飯館の奥深さを感じた。飯館は山でもその土地はかなり広い、山国の広さというのは山にさえぎられているからわからないのだ。平坦な土地なら広いとすぐわかるけど山国はそうした広さがわかりにくい、でも阿武隈山高原でもかなり広い土地なのである。ただ阿武隈山高原には特別注目すべきものがないから特徴がないから観光的には目立たないのである。ただこれも常磐高速道ができればそれなりにドライブなどで注目されるかもしれない、会津はいろいろ注目されるのはやはり登山とかに高い鋭い山があることなのだ。阿武隈山には高い鋭い山が欠けている、登山する山がないことが魅力ないものにしている。だから特徴がなく注目されないのである。

名所はいたるところにあり実際は発見されていないだけなのだ。どこでも身近にいくらでもある。最近デジカメで写真がとれるからええ、こんないい景色あったのかと発見する場所が地方から紹介されるようになっている。ここの場所はどこなんだと行きたい人もでてくるかもしれない、地元の人さえ発見していないことがかなりあるのだ。


飯館の秋
http://www.musubu.jp/iidateakikikouhaiku.htm