2023年02月14日
感銘した漢詩ー天華が入っていた (人間は死んだ後からこの世を見ると見えるものがある)
2023年01月22日
俳句の英訳の試み (外国語でもその言葉を深く理解しないと詩は訳せない)
2021年04月30日
菜の花の俳句(外国でも菜の花が咲いていた)
菜の花の俳句(外国でも菜の花が咲いていた)
菜の花や油乏しき小家がち 安永2(1773)
なの花や昼一しきり海の音 安永3(1774)
なのはなや筍見ゆる小風呂敷
蕪村
菜の花に かこち顔なる 蛙哉
菜の花の 向ふに見ゆる 都かな
菜の花の 盛りに一夜 啼く田螺(たにし)
菜の花に かこち顔なる 蛙哉
(一茶)
寺ありて 菜種咲くなり 西の京
菜の花の 野末に低し 天王寺
寺ありて 菜種咲くなり 西の京
菜の花の 向ふに見ゆる 都かな
(正岡子規)
中には「油成金」のような人も居たかもしれない。その人たちにとって菜の花は単にその景観ばかりでなく、実質的にも富をもたらす特別な存在として意識されていたはずであるhttp://www.asahi-net.or.jp/~jc1y-ishr/buson/NanohanaBuson3.html
郷土史家若林泰氏はその著書の中で、
……紀州出身の田林勝右衛門が享保15年(1730年)に油水車12輌の取立てを許され、同享保20年(1735年)に菟原郡五毛村・治助、原田村・善十郎によって油水車5輌の完成をみたのが、「水車稼一業の村方」水車新田の始まりである……
と記述している。つまり水車専業の稼ぎをした農民のことである
https://ameblo.jp/motoyamakitamachi/entry-12550326894.html
菜の花に遺跡うもれてギリシャかな
菜の花やギリシャの島にロバ休む
菜の花や小舟に豚運ぶ運河かな
菜の花や運河の長く尽きじかな
船行くや菜の花うもる島一つ(瀬戸内海)
菜の花のイメージは何か庶民的なことではないか?
ただ菜の花の種が菜種油として利用されて大阪の方で財を成した人がいてそれで蕪村は
その成金に受けるように菜の花の俳句を作ったというのは違うだろう
菜の花でうもれていて油がとれてもそこに住む農民は油が不足していたからである
当時の油は相当に貴重だったからである、爪に火を点すとかもそうである
パトロンが金持ちになっても蕪村は小家に注目していた、商人の邸宅とは違う貧しい小家である、それもそれだけ菜の花に囲まれていてもそこに住む農民は大方貧しかった,筍を大事に小風呂敷につつんでもってゆく姿もそうである
ただ菜の花は今のように無用のものではない、暮らしの中で金になるし生活があった
ただ鑑賞しているのとは違っていた
人間の生活が生業として菜の花でも実用となっているとき見方が違ってくる
菜の花という時、何か庶民的な花なのである、なぜなら一面に黄色にそめるからである
一つ一つではない、薔薇だと高貴な花とかなるが菜の花は庶民のように平民のように大地をそめる、そこに一つ一つの花として見ないからである
この菜の花は外国でも咲いている
それをギリシャで見たのは意外だった、ドルフィの遺跡とかでも菜の花にうまっていた平地でも菜の花に埋まっていた、それは何かギリシャだと文明発祥の地として見ていたから意外だった、それだけ自分は外国には疎かったのである
学問の発祥地でもあるギリシャが本当に田舎だったことの不思議である
羊とかロバがいてあとは遺跡だけでありそこに先進的な文明はなくなっていた
ギリシャでは工業製品など作れない、売り物となっているのは遺跡であり観光だけなのである、現代の発展からは取り残された国でありそれがかえって牧歌的ともなっていたのである
菜の花の思い出では中国に行った時、運河を豚をのせた小舟が行く、農民がのっていた、それも奇妙な光景だった、そしてもう大地一面が菜の花だったのであるそれはスケールが違っていたとなる
それで阿武隈川の岸辺に菜の花が咲いていたのでその中国の光景を思い出したのである
足立惣蔵作、漢詩「野沢菜の花(のざわなのはな)」
。
(書き下し文)
長江の沿岸 漸く春装 ちょうこうのえんがん ようやくしゅんそう
忽ち菜花開いて 純黄に輝く たちまちさいかひらいて じゅんこうにかがやく
美を競う花中 異彩を呈す びをきそふかちゅう いさいをていす
鮮なり 色沢の 斜陽に映ずるは せんなり しきたくの しゃようにえいずるは
ここの長江は千曲川である、私が出した阿武隈川の岸辺の写真のような風景である
ただもっと菜の花でうめられいたのだろう
今は菜の花は実用ではないから一面に菜の花の風景は見ない
謂れある古き桜に菜の花の段々畑や筆甫の里
菜の花はどこでも咲いているが一部である、それは実用ではなくなったからである
寺ありて 菜種咲くなり 西の京
菜の花の 向ふに見ゆる 都かな
正岡子規
菜の花にタニシとか蛙が鳴くとか西の京とか都を離れた土地に菜の花が映える、そういうのが菜の花である、庶民的であうり平民の花だとなる
つまり平民の花であり人間は大方貴族でもない、平民であり菜の花に埋もれるというとき平民の世界なのである、ただ平民でも庶民でも群衆とは違う、群衆とか大衆は何か人間ではない、異様な集団であり今までにない集団の表象なのである
何か異様なものであり異常なものでありそれがナチスとかイメージするようになった
それは現代文明から生まれた異様な異常な集団である
江戸時代とかなると菜の花があっていた時代である、侍の時代でも周りは庶民と平民と農民の社会だったからである
ただほんの一部が財を成した商人だったともなる
菜の花にうまり小家の中に人は住んでいたからである
いづれにしろ時代が変わるとその風景でも見方が感じ方が違ってくる
だから時代を読むことが必要なのだがそれが一番むずかしいのである
同じ風景を見ても時代により感じ方が違ってくるからだ
でも江戸時代でその時代を知ることは容易ではない、やはりそこに明治のような大きな変化がないからである、だから江戸時代は何か時代の変化もなく同じように見えるのである
菜の花に変化少なき江戸時代
やはり菜の花の光景がありそれは変わらなかった
現代はもう変わりすぎる、津波や原発事故で風景まで変わった
松原は消失したり村自体がいくつも消失したり変わりすぎたのである
だから菜の花といっても江戸時代に見ていた菜の花とは余りにも違うのである
まず車社会になると菜の花でもあわない、馬車でも行けば菜の花がにおいあっているとなる
つまり現代は自然の風景にとけこむような生活をしていないからそうなる
それで人は疲れているのである、何かなごむ風景がないのである
菜の花の 向ふに見ゆる 都かな
都の都会の喧騒を離れて群衆を離れて菜の花を見る、まさにこれは現代に通じている
ただ当時の都は今とは全然違う、むしろ都の方にあこがれる
都こそ必要なものだったともなる、ともかく菜の花は何か心いやすものがある
心をやわらげるものがある、大河がゆうゆうと流れその広い岸辺に咲いているのがふさわしかったとなる
インタ−ネットではこうして編集して自分なりに読む必要がある
編集は今まで出版社でしていた
これから個々人の個性でインタ−ネットを読む、編集して読むことになる
検索するとそれなりのものが出て来るからアレンジしやすいのである
「菜の花」というキーワードで探せるからである
菜の花や蔵王の映えて川広し
菜の花や阿武隈川のとうとうと流れてその岸広く映えしも
あの光景が印象に残る、電車からいつも見ていたがやはり川の側に来て見るべきだった
電車からでも車からでも見る感じが違ってくるからだ
川の広さをその流れを感じるには川の側に立たないとわからないのである
川と一体化するにはやはりその川岸を歩いたりしないとわからないのである
いづれにしろ人間の最後は記憶したものが生きたことになる
だから旅でもいかに記憶に残る旅をができるかが問題になる
ただ記憶と記録は違っている、記憶は部分ではなく全体の雰囲気とかを記憶することである、写真をとったとしてもそれは部分なのである
こうして私が書けるのも記憶をたどり書いている、インタ−ネットで調べて自分の記憶とつなぐ、そういう回想する旅になる、でも記憶していないと書けないのである
見渡す限りの菜の花のじゅうたんと上海・蘇州・無錫 の旅
https://4travel.jp/travelogue/10662020
2020年06月14日
神の園の鷺(詩) (人間はなぜ自然と調和しないのかー原発事故以後鷺は消えた)
2019年11月21日
心(こころ)の詩 (心はここのことー故郷喪失者となった現代人)
2019年09月09日
平家伝説殺人事件ー故郷とは何かを問う (人の話を直接聞くのと本とかで読んだり間接的に知ることの相違)
2019年09月08日
老人は記憶に生きる(記憶の宮殿)
2019年06月30日
先人の知的遺産を活かす (古典になるものは熟読すべし)
2019年02月15日
死者は生きた地に場にいる (死者とともに生きると生も豊かになる)
2019年02月13日
キリコの絵と万葉集の比較 (場所の喪失が空虚さを生んだ、場所と密接に結びついていた万葉集の歌)
2019年02月12日
小さな畑に何のために投資するのか? (場所を作るため場所のための投資だった―死者も場所に生きる―場所を喪失した現代人)
2019年02月11日
場所の現象学を読む(場を無視した工業化情報化グローバル社会) (キップリングの詩の訳の解説)
2019年02月08日
代悲白頭翁(劉希夷を読むーその激しい変化の無常に共感)
2019年01月20日
冬の詩と漢詩の鑑賞 (現代文明は自然と調和しないから醜い)
2018年12月10日
アメリカの国の成り立ちをホイットマンから読む(短歌十首) (日本は時間軸に生き外国は空間に生きる)
2018年09月27日
現代の旅では風景も記憶に残らない (浮世絵から見た江戸時代の風景を俳句にする)
2018年08月10日
河の俳句から歴史をたどる (淀川から外国の河など)
2018年08月09日
芭蕉と蕪村の五月雨の俳句の鑑賞
2017年12月13日
死者は面影となり生きる(古典の短歌を読む)
2017年06月07日
メールで質問がありました (高村光太郎の詩について)
2017年02月21日
自然から離れた現代人は記憶が消失する (万葉集の石の橋からなど考察)
2017年02月09日
戦争とは何であったのか? (レールモントフの詩より考察ー続編)
2017年02月02日
戦友は特別なものだったー三陸会の記録より) (戦争しないものにはわからないことが多い)
2016年06月03日
啄木の文と自作の詩 (漢文とか漢詩の素養が詩語を豊にしていた)
2016年04月28日
心に青雲のフログの趣旨は何なのか? (キーワードは「相互浸透」「像で認識しろ」など)
2016年04月08日
インターネットの検索で共通項目を探す (詩にもその手法が通じるー燃える樹という詩と自分の詩の共通性)
2015年12月29日
呉歴 「秋景山水図巻」の鑑賞ー自作の詩を添える
2015年10月29日
秋の日(石二つの俳句を英語にして鑑賞)
2014年05月18日
八月の石にすがりて 伊東静雄の詩を読む (夏の日の蝶と石ー自作の詩をここから作った)
八月の石にすがりて 伊東静雄の詩を読む
(夏の日の蝶と石ー自作の詩をここから作った)
有料のものを加工したからまずいがだした
八月の石にすがりて
さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
わが運命(さだめ)を知りしのち、
たれかよくこの烈しき
夏の陽光のなかに生きむ。
運命? さなり、
あゝわれら自ら孤寂(こせき)なる発光体なり!
白き外部世界なり。
見よや、太陽はかしこに
わづかにおのれがためにこそ
深く、美しき木蔭をつくれ。
われも亦、
雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて
青みし狼の目を、
しばし夢みむ。
詩を解説することはできない、この詩も不思議な詩である。
石と蝶に興味をもって自分も詩にしてきた。
石にとまっているアゲハチョウを見たことがある
これは石をテーマにはしていない
この意味はわかる。蝶は夏の明るい日ざしのなかで花々を求めて飛んで死んだ
よく蝶が道端で死んでいるのを見ている。
蝶は美しい羽だけを見せて残して死んでゆく、まず蝶ほど不思議なものはないだろう
なぜあのように優雅に飛んでいるのか?
夏の日の蝶と石
夏の明るい日ざしを一杯に身に受けて
蝶は花々を求めて優雅に舞い飛んだ
そして蝶は道端にその美しい羽を残して死んだ
その羽を旅人は見つけて拾った
旅人もまた旅していた
夏の日に道は別れて遠く誘う道よ
蝶は常に舞うことを宿命づけられている
鳥は翼を与えられ飛ぶことを宿命づけられている
蝶も鳥もとどまってはいけないのだ
風を受け光を受けて飛び舞わねばならない
留まった時に死が訪れる
旅人は旅しつづけねばならない
例え旅しなくても心の中で旅はつづいている
回想の旅はつづいている・・・・
ただ働くばかりの蟻の死は無残だ
ああ 百の千の万の花を見て飛んだ
その彩りは尽きることがない
美しき地球の花園を飛んだ
そこに悔いはなく充たされる
ああ 汝はそのような時を与えられた
まばゆく朝の光を一杯に浴びて散った牡丹のように
汝の生も夏の光の中になおある
汝は醜いもの残してはならぬ
詩人は蝶のように美しい羽を残して死ぬ
舞い飛び歌い笑いつつ神の庭園を逍遙する
石にも夏のまぶしい光がさして
その自然の中で石は夏を感じている
その石は夏の日ざしを受けて光沢をます
石にも夏があり冬の厳しさに生きている
春のあたたかい陽光も受けてなごむ
石は今木陰に影なして涼しく休む
石も雨に打たれ風に吹かれ生きている
ああ 悲しきかなすでに春に生れし蝶の
野辺の道に死にてありしを・・・
かくして夏も来ずに死ぬものもありしを
・・・・・・・・・・・・
これにヒントを受けてこの詩を今作った。
それができたのもインターネットのおかげである。
この詩を知らなかったからである。詩というのは読む人が本当に少ないから知らない詩というのが無数にあるのだ。
それは詩集としても出ない、なぜなら売れないからなのだ。
そこに詩の問題があったのである。
現代ではインターネットなどでいくらでも詩でも何でもだせる、ただ評価はされない。
くだらない詩でも無数にインターネットにだせるものも現代なのである。
ええ、こんな詩があったのかというのが本当に多いのである。
これまで出版された詩集も無数にあるが読まれていないし知られないのである。
雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて
青みし狼の目を、
しばし夢みむ。
これも一転して真冬になっているのも不思議である。
ただ飢えているというとき、飢えながら雪原という自然の美の中で死ぬ狼をイメージしている。
それも詩人の死にふさわしいのだろう。
詩人とかは社会では排斥されて認められないのである。
社会とは無残な蟻の集団という側面が常にあった。
働くことがすべて肯定されるものではないのだ
俺は働いてきた、働いているというのは何かと主張する人がいる
それは蟻としで働かされた働くことを強いられたという側面もあったのだ
確かに毎日ダンプで請け負い一台分いくらともらって収入を増やして家を建てたというのもわかる
でもそれは一面蟻のように働かされたという面もあったのだ。
ただそ人は別に遊びもしていたから全く楽しみもなっか人とは違う。
ともかく蟻とキリギリスの話しは今では逆転しているだろう。
キリギリスの面がない人はこれからは豊かな時代は嫌われるだろう。
その点団塊の世代は遊び上手であり苦労しかない働くことしかない戦前の人とは違っているのだ。
いづれにしろ自分も結局蟻とキリギリスでありキリギリスだったから今になると
ただプログに書いてきたようにこの七年間は悲惨な状態になった。
それまでは自分ほど恵まれていた人はいなかったのである。
30年間は旅をしつづけ働くこともなかったのである。
それゆえにこの七年間の苦しみを受けねばならなかった。
でも今になると自分は会社勤めもできない性格だったし人と交際もできな性格だった
だからそういうわずらしいことからまねがれて自然の陽光の中に風に吹かれ
自由に飛んでいたということになる。
学校とか自分にはあわない場所だった
ただ今になると学問とか芸術分野も好きだし理系的な分野でも興味をもって学びたいということがあった
だからこそ自分は工場とか会社で事務などすることもなく野外に常にあったのである。
その期間が長いからそのことが体にも心にも影響している
自分の母親などは若いとき十年間紡績工場で働いていた
そういう環境はいいものではない、それでも百才も生きようとしているがまさに蟻そのものだった。
だから巨大な蟻となって迫ってくる恐怖もあった。
花にも何にも興味がない、ただ働くだけの人間はそれは異常な存在と化していたのだ
巨大な蟻の化け物になっていたのである。
それもそう強いられたのだから批判はできない。これも無残である。
だからたまたま自分が家庭環境でそういう人生になっていたのである。
一カ月とかぶらりとどこへとなく旅ししていてとがめられることもない
食事はいつも用意してあるし何もすることもなかった
これは今になるとよほど恵まれたものだった。
今や食事を用意して自分だけではない介護しなければならないし
近くでも自由に行けなくなったことでわかったのである。
今や自分は蟻にされていることがわかったのである。
ただ自分の人生はそのように恵まれたものだから今は蟻でも全然違っている。
人間とはその一生の時間を何に費やしたかで決まるというときまさそそうだった。
いくら働いていても毎日工場で流れ作業していたり自然とかけ離れたデスクワークをしていたりとしていると
姿勢すら猫背のようになったりしないか?
心の中にも長い間でそうした自然から離れた生活が鬱積されてこないか?
そうしたものは実は知らない間に人間をゆがめていることが還暦すぎるとわかるのである
それは樹とか石とか自然のものとは違ったものとなっている。
自然を感じない人工物になっているかもしれないのである。
もちろん普通に社会人としして働いてそうでない人もいる。
だからいちがいには言えないがそうなりやすいことは言えるのである。
上野霄里(しょうり)氏やニーチェの超人になれる人はいないだろう
世間の価値観にとらわれて本来の原生人間は失われる
社会というのがそんなに大事であり価値あるものかという根本的疑問がある
いづれにしろ最後に人は馬鹿でもわかる
何を失ったかわかる、本当に生きる時間を失ったことが最大の後悔となるのだ。
2013年09月16日
月光に照らされた鴨(写生が俳句の基本は変わらない)
月光に照らされた鴨

月光に照らされ浮きぬ鴨三羽
月光や闇にも泳ぐ鴨三羽
これはいかにも写生俳句らしい。季語としては月は秋であり鴨は冬だけど秋の鴨とした。深い田舎の闇の中に川の水面に鴨が月光に照らされて明らかに三羽見えた。
三羽にこだわるのはまさに「鶏頭の一四五本もありぬべし 子規」の写生俳句の問題となった俳句があるからだ。月光に照らされて鴨が明らかに見える。それは電気の光ではない、月光という月の光に鴨が明らかに浮かんでいる。電気の光がてくても鴨はまた月の光に照らされてスイスイ泳いでいる。夜も意外と動くものだと思った。
しかしこの夜の鴨を注意して見ているものもいない、月だけが光をさして明らかに見ていたともなる。
現代は電気の光が氾濫している。だから闇の世界のことがわからなくなった。都会では一日中そうであり電気の光は消えることがない、江戸時代は蝋燭とか行灯き光だから全く違っていた。真っ暗闇の世界である。ぬばたま・・は闇にかかる枕詞だがぬばとはなちなのか?ねばねばしたとか何かそうした語感があるのか?深い闇の世界を感覚的に現した言葉なのだろう。
ぬばたまのその夜の月夜今日までに我れは忘れず間なくし思へば
ぬばたまの夜渡る月にあらませば家なる妹に逢ひて来ましを
ぬばたまの夜は更けぬらし玉櫛笥二上山に月かたぶきぬ
万葉集の世界は江戸時代よりさらに闇が深い、それは想像し得ない闇の世界である。だから鴨が月光に照らされていると同じく人間も月光に照らされて見える。その姿が印象に残るのである。現代の電気の光が氾濫した世界とはあまりにも違うのである。
現代はだから月の光でもそうだが自然のものに無感覚になっている。五感が衰退している。セミの声でも芭蕉のように聞いていない、音も車の騒音などが氾濫しているからだ。
そういう騒音の世界で人間の感覚は衰退して感じなくなっているのだ。メデアでもそうである。激動的な刺激的な映像が音とともに氾濫するとき耳の感覚も目の感覚も鈍感になってしまうのである。だから現代は自然きものを良く見ていないのだ。感じてもいないのだ。
沈黙、闇の深さなどは自然を感じるためにはなくてはならないものだった。万葉集はそうした人間が原自然で感じていたものが残されていたから貴重なのである。
季語でも春の闇とか夏の闇とかあるがやはり闇の世界が元からあったから季語になった。現代に作られた季語もあるが季語はもともと江戸時代に作られた。万葉集も基になっている。闇が深ければ光もまた映える。特に月光は闇が深いと映える。だから月の光に導かれて万葉時代は女性のももとに通った。そして日本人の女性に対する感覚はその闇に浮かぶ白い肌だったというのもわかる。白い肌のみうが浮かび顔などは定かでなかったというきも本当なのだろう。一方西洋では女性でも彫刻的であり形や姿勢を見ていた。そういう感覚的相違は世界的にある。日本人き感覚も独特なのである。たとえば肌ざわりとかあるがこれも触って感じる感覚がある。これも和紙などはそうである。肌触りの感覚である。
まず肌触りという言葉自体日本的なものなのだろう。
大都会ではこうした自然の中での感覚はもてなくなっている。機械に頼る生活もそうである。車に乗っていれば風を感じなくなる。すると旅にはならない、それでは歩いて旅するとかなるとその労力は今では背負い切れない重圧を感じる。自転車でもそうである。自転車は風とか坂に弱いのである。だから自転車旅行は遊びとも違う、旅を演出して自然ととけこむ労働なのである。旅は見たこともない景色に出会うのだからかなりの集中力が必要になる。気が散るとそうした新しい景色に接しても記憶できない、感動もしない。
あの女性が美人だななどと見ほれていると雄大な山に感動することもできなくなる。
だから旅は禅僧のように禁欲でするものなのである。温泉でどんちゃん騒ぎするのは旅ではない、憂さ晴らしなのである。現代は旅行に泊まるにしても保養であり旅ではない、現代で旅することは容易ではない、だから旅することは余計に価値あることになっている。一見旅があまりにも容易になったけど旅は喪失した。ただの機械による移動になってしまったからだ。
「小主観のムードよりも物の実体を把握しなければいけないと思っているうちに俳句のいさぎよい直截さに魅力を感じるようになった。
「昨今の俳句界では写生を古くさい、忌むべきものとする傾向が一般的なようだが、とんでもない話で、今ほど写生が見直されなければならない時期はない」
写生はやはり絵画である。絵画の基本は写生だからである。それで子規は蕪村を見習ったのである。ただ絵画でもどうしても主観が入るから絵画でも純粋な写生とは違う。
写真がまさに写生そのものなのである。写真は主観が入らないからだ。写真も実際は主観的なものが入る。構図とかがあるが一番大事なのは自然の多様な瞬間をとらえることである。絵画のように一つの場面をじっくりと見て描いているのとも違う。特に生き物とかをとらえる場合にはそうなる。そもそも自然は生々発展しているのもであり瞬間瞬間命の変化があり美がある。それをとらえるのが写真なのである。生け花でもフラワーアレンジメントでも花が一輪二輪と咲いてゆく変化がある。造花をさしているのとは違う。
そして自然界の生き物は二度と同じ表情を見せない場合がある。自然界の生き物は植物でも刻々変化しているのである。だから写生といっても死んだものを写生しているのではない、生きた物を写生しているのだから写真でもその一枚限りの生き物の姿を写し取る。
それはまさに写生なのである。ただ写真ですべてがとらえられるわけではない、闇といってもそれが春夏秋冬があるからいつの闇かわからない場合がある。風も匂いも感じられないのも写真である。写真にも瞬時を全部とらえることはできないのである。
あとがき
月光となるとやはり秋の季語なのか?月はそうにしても月光は春でもあるし季語もわかりにくい。ただ秋だとすると秋の鴨としたが月光が秋の季語だとする秋を入れる必要はない、鴨は冬の季語である。雁は秋の季語である。冬の雁となるのもそのためである。
あとから直した「鴨浮きぬ」としたのが良かった。あたかも月光に浮かぶ感じがでた。
ただこの写真は闇が深いのでとれなかった。こうした瞬時を写真でとらえるのはむずかしい。毎日買い物で橋を通るので鴨を見るから前にも鴨のことを俳句にした。
俳句も鴨だったら鴨の連作になると一つの作品として読みごたえがあるようになる。
一句だけだと俳句は短いから何か言い表せないものがある。
俳句はその人の読み方によって価値が決まるものだというのも本当だろう。
読みを深くすればいい俳句だとされるだろう。そうでないと何が価値あるかわからないのが俳句なのである。だから無数の膨大な駄句のオンパレードが俳句芸術の現実なのである。結局何が価値ある俳句なのか決めにくいからそうなるのだ。
2013年07月10日
浪江の皺石(詩) (一つの石の存在感についての考察)
その石は存在し続けようとしている
その場その空間に定められて深く
その石は風を感じる
春の日に山の奥へ遠くへ道は通じている
春の風、夏に影なし涼しい風、秋の風、冬の風
あたたかな春の光、秋の光、冬の光を感じる
その風の色合いはそれぞれ違う
雨も雪もその石にふり動かざる
その石は苔むし皺が刻まれている
その深い皺は老人のようにも見える
その石はそこに存在しようとする意志
その場、その空間に歳月を経て深化させる
石はそこに重しのように意味をもつものとなる
この石を見たのは春の日であり一回しかない、浪江辺りは実際は良く見ていない、相馬藩内でも地形が複雑であり海あり山ありで見れないのである。だからこの道を通ったのは一回だけであった。今は警戒区域になり通れなくなった。この石に注目している人も名前をつけている人もいない。でもすでにこの石はここにあったのは長い。この石はまだ人間によってアイデインティティ化されていない、人間化されていない石だった。歴史が長いにしろまだまだ人間化されていない自然がある。
それだけ自然は長い時間の中でしか意識されないのである。石はある場所と空間で長い時間の中で存在感をもつ。その石の存在感はその石を抽出した石だけで存在感はもてない、その場と空間があって存在感をもち人に記憶されるのである。石の個性はアイデインティティはその場所と空間があってこそ成り立つ、それは歴史的なものでもそうであり博物館に納めて陳列したときそのもともとあった場所と空間から切り離されるから存在感を失うのである。
人間はなぜ今抽象化されて数字のようになり存在感を失っているのか?それは場所と空間をもたないからである。場所と空間をもたないからまた記憶もされない、次々に変化して今日あったことは明日は全く忘れられてゆく、すべてが一過性であり持続しない、そこにただ消失感だけが残る。
この「皺石」のように持続して存続することができない、他の石でもそこに動かないことによって存在感をもっている。現代ほど変わりやすい社会はない、人間も常に変わり記録されない、人間はただ群集となって流れさる流砂のようになっている。人間はこの石一つのような存在感をもてない。
記憶はある場所と空間をもっていると記憶しやすい、それで奇妙なのは認知症でも狭い一部屋だとものをなくしてもすぐ見つけられるから安心だとなる。部屋がいくつもあるともう記憶しにくい、記憶しやすいのは一定の変わらない場所と空間をもっていると記憶しやすいのである。現代は千とか万とか部屋がありすぎるから記憶しにくいのである。必ず迷路となってそうした無数に分化された迷路化した部屋を巡り回っている。記憶はその空間と場所の作用で持続されやすい。現代は都会化してその生活範囲が無限大に広がったというとき一定の固定した場所と空間をもたないから記憶も消失されやすいのである。墓というのは問題が多いにしても一つの記憶の固定化なのである。エジブト文明もピラミッドも記憶するということに執念を燃やしていた。記憶が消えれば人間の存在も失われるからだ。歴史そのものが基本的には記録である。記録がなければ過去も探り得ようがないからだ。
ベルグソンの『哲学的直観』のなかの時間論を好む。少し抽出してみよう。
時間とは、区切られた一定の空間に群らがるありとあらゆる事物と事象を交通整理して、その空間に収まる分だけの事物を、少しずつ小出しにその空間へ流してゆく力に外ならない。
これはあるプログで紹介されていた一文である。これは自分の詩を哲学化して言ったものである。
一定の区切られた空間がありその中に置かれた事物が時間の中で存在感をもつ、人間によるアイデインティティ化(自己同一化)が計られる。
つまり人間の記憶は図で示すと次のようになる。一つの区切られ空間の中で時間を経て記憶が定着してゆくのである。そのわかりやすい例が石なのである。だから石を知るにはアイデインティティ化するにはその石の置かれた空間があり時間を経てできることである。現代のめまぐるしく変わる世界はあらゆることが記憶されなないことにあるのだ。そこに存在感もないしただ消失感だけが残る。
現代の情報空間は膨大なもの無限大になっても記憶されものが極めて少ないのである。テレビでも次から次へと現れては消えてゆくだけの情報空間である。一回切りしかテレビに出ない人がいる。でもその人がこの世から消えているわけではない、やはり存在し続けているがテレビ空間から消えるときそれは存在しないと同じであり死なのである。テレビというのは記憶するメデアではなくただ次から次と現れては消えてゆく情報空間である。生きているものはそんな簡単に一回限りで消えるものではないのだ。そこには区切られた空間と場所がないからそうなっている。故郷とはそうした区切られた場所と空間で記憶されたものがありその継続として生きる場なのである。なぜならこの辺では原発事故で警戒区域は故郷から離れるときその記憶も失われてゆく、新たに移り生活するにしても一からまたはじめなければならないとしたら容易ではないからだ。だから老人は過去の記憶に生きるというとき故郷を離れにくいのである。
there is the fixed stone
on the solid place
deeply rooted one
現代は継続されるもの、記憶が保存される場所と空間が欠如しているのだ。それで存在感ももてないしただ消失感だけが大きくなっているのだ。皺石であれ一つの石はそこの区切られた空間で時間とともに存在感をまして成長さえしているのかもしれない、そこに動かないことで充足感をましている。そこで感じるものを凝縮している。風でも光でもその回りの自然と同調して存在している。
その場所と空間に存在しようとしている意志をもってきいるというとき実はまだその場所と空間に存在しているのは存在が発見されたのは最近だともなる。そういう石も自然の事物も多いのである。
自分がこの石を見たのは最近であり一回だけでありその後は見れなくなったからである。
2013年06月14日
「古池や蛙飛び込む水の音」の意味するもの(続編)
「古池や蛙飛び込む水の音」の意味するもの(続編)
An old quiet pond‥
A frog junps into the pond, Splash! Silence again.
この英訳は雰囲気を現すのに成功している。俳句を英語化してももつまらないものになる。
これが何が詩になっているのかもわからなくなる。あまりにも短いせいもある。
ただA frog ではない、one frogだということが実感としてわかった。
今日例の溜池を通ると睡蓮の葉にのっていた蛙が逃げて飛び込んだ。その時その音だけが辺りにして静まり返った。この音は「古池や蛙飛び込む水の音-芭蕉」なのかと思った。これは一匹の蛙だった。蛙は睡蓮の葉にのり誰も見ていない、ただ睡蓮の花の開くのをみていた。
その池には藤の花がさわに咲きその影を写していた。今は睡蓮が咲いている。
藤の花影を写して古池に睡蓮開く季(とき)は移りぬ
睡蓮と蛙と菖蒲(梅雨の俳句)
http://musubu.sblo.jp/article/69078752.html
つまり芭蕉は耳の詩人ともいわれ音にこだわった。なぜこれほど音にこだわったのか?それはとりもなおさず江戸時代の沈黙の世界だったからこそ音が深い意味をもっていたのである。「静けさや岩にしみいる蝉の声」こういう俳句もなかなか今では作れないだろう。何か常に騒がしい気分になっているのが現代である。なんらか音をシャットアウトする空間を作り出さないとそうした深い沈黙に反響する音は聞こえなくなったのである。
落葉してとおくなりけり臼の音(蕪村)
これは芭蕉ではないが江戸時代は物音することでそこに生活するもののを感じた。そういう微妙な音だけで生活を感じた。それはとりもなおさず辺りが沈黙の世界だったからである。現代のような絶えざる車の騒音洪水にさらされたらこうした感覚は消失する。現代はどこかで工事していて騒音がたえない世界である。どうしても機械は音がでるし機械の時代は騒音の世界になる。
それでも戦前でも山頭火が
などで音にこだわっていた時代がまだあった。日本人の感覚は虫の声に聞き入るように音に敏感だった。
元々、去来が作った俳句は、
『 山吹(やまぶき)や 蛙飛び込む 水の音 』 というものです。
古池や蛙飛びこむ水の音
とか自作でもできる。蛙消えて音だけが残っていることが余韻を深めているのだ。それは人が死んだということにも通じる。人が死んではじめてその人のことがわかり余韻を深めるともなる。俳句はその人の観賞しだいで価値が決まるというのも本当である。作る人よりどれだけ読みを深くするか観賞できるかで俳句の価値は決まる。その作った本人にもわからない価値を見いだすこともある。
それだけ短いからそうなっているのだ。
この句がなぜこれほど関心があるのか?自分の観賞の文がこれほど読まれるのか?それはこの句が俳句を象徴した句であるからだ。この短い句に天地の静寂をよみとったのである。天地の静寂に蛙という一つの命の音の波紋が深い余韻となって心に残される。そういう深い沖の余韻は江戸時代には普通にあったからこそ読まれた句でもあった。
鐘の音や千年の都春の暮
鐘の音で千年の都を象徴することもある。そもそも京都は寺が多いし歴史的にも僧侶の勢力によって支配されていた。それで信長が僧侶を敵と見なし殺したのはやはりそれだけ権力化していたからである。僧侶はすでに権力集団だったからである。権力集団であることはあらゆる権力が僧侶に寺に集中していたとなる。職人でも寺に雇われて繁栄していた。だから信長の安土城の瓦を作るのに観音寺を滅ぼしてその瓦を使った。観音寺は寺であっても立派な城だったのである。その城をまねて安土城を建てたという。 だからこそ京都を集約すると鐘の音にもなる。京都の鐘の音には千年の都の歴史の音になるから他で聴くのとは違ったものとなる。音にも歴史的にもそうだし自然的にも何か深い意味がこめられている。ただ蛙とびこむ水の音は極めて俳句的であり斬新であり新しい音の意味の発見だったのである。
2012年06月01日
樹への思索 (長い時間で育まれたものを失った現代)
樹への思索
(長い時間で育まれたものを失った現代)
根をどこに持つのか?
日々生活する場が根である
それぞれに住む場が根である
それが故郷でありまた他の場もそうである
その根になる基に大地がある
樹を育てるのは大地の養分である
大地の力はなかなか意識されない
でも大地の実りの成果が
樹となり果実となって形となり実となる
大地は親であり樹は子である
樹は成長するのに時間がかかる
深く根を張るのに時間がかかる
縄文杉は一千年の寿命があるとすると
それは大地の主のようになっている
息が長いものでないと大木には育たない
人よ、大木になることを目指すべし
一本の樹は樹のみを語るものではない
大地を森を語り万物の命を語る
百年で消えるものに真実はない
千年語るものに真実がある
千歳の重みある石に真実がある
真実や愛は時間で育まれる
短い時間ではどんな人も本物になれない
長い時間で知らず成長するものがある
樹は深い木蔭をなして人を憩わす
樹は哲学者であり瞑想している
実存の深さと重みを備えている
だから何物にもたじろがない
大地と血脈を通じ一体化している
樹は大地の霊であり霊樹となる
それは神秘的な命の精なのである
成長を欲するものはまず根を確かにおろさなくてはならぬ。
上にのびる事をのみ欲するな。まず下に食い入ることを努めよ。
早年にして成長のとまる人がある。根をおろそかにしたからである。
四十に近づいて急に美しい花を開き豊かな果実を結ぶ人がある。下に食い入る事に没頭していたからである。
私の知人にも理解のいい頭と、感激の強い心臓と、よく立つ筆とを持ちながら、まるで労作を発表しようとしない人がある。彼は今生きることの苦しさに圧倒せられて自分のようなものは生きる値打ちもないとさえ思っている。しかしそれは彼の根が一つの地殻に突き当たってそれを突破する努力に悩んでいるからである。やがてその突破が実現せられた時に、どのような飛躍が彼の上に起こるか。――私は彼の前途を信じている。根の確かな人から貧弱な果実が生まれるはずはない。
樹の根(和辻哲郎)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49886_42648.html
和辻哲郎というと「風土」で有名でありこれは最初から読んだ。だから風土とか地理に興味をもち旅行して地名に興味をもち地形に興味をもった。風土から文明を論じるのはわかりやすいのである。
風土の影響で顕著なのはドイツとフランスである。やはりドイツにはゲルマンの深い森があったからその文化も違うものとなっていた。今はその森がないが寒い所なのである。北方の深い森がゴシックの大聖堂を作ったというのがわかる。文化と風土は一体なのである。 明治維新以後変わりすぎたのが日本だった。江戸時代まで育まれた長い時間で育まれたものを根こそぎ変えてしまったのである。一見それこそが革命であり日本を救ったと思っている。しかし日本の長い時間で育まれたものが根こそぎ失われた影響は余りにも大きかったのである。戦後も敗戦でアメリカ化したのもそうである。つまり日本人はすでに日本人たる根っこをもたないのである。何が日本人の根っこなのかもわからない、日本的モラルでも義理人情でも江戸時代にはあった。そういうもの最低限のモラルさえなくなった。そしてむきだしの欲望民主主義であり金になるものだけが価値あるものとしてがむしゃらに追求してきた。つくづく一旦モラルなど伝統的なものを失うと回復できないのが深刻なのである。何が義理人情だよ、馬鹿げている、金だよ、金だよと言ってはばからない、伝統的なものを失うとそうなってしまう。そうしてもはや取り返せないのである。かといって新しいモラルが生まれるわけでもないし作られるわけでもなかった。だから金だけを頼りにしたモラルなき社会に今はみんな生きているのである。それはとりもなおさず弱肉強食である。金さえもらえばいい、あとは関係ない、遂に相手をだまして盗んでもいいんだとなる。モラルがなくなればみんなそうなるのだ。ただ法律にふれると罰せられるから露骨に言わないだけで心の中でそう思うようになっているのだ。
明治維新後の教育なども根本的に間違ったものだった。教育に関しては江戸時代の方が良かった。
藩の教育などの方が良かった。寺子屋の教育すら今より良かった。人間と人間の信頼関係の上に成り立っていた。シンプルな世界だからそうなったともいえる。人を蹴落としてまで立身出世主義だとか欲望を充たせるとかなるのは教育ではない、人間を野獣化する教育であった。でも現実はそうなってしまっていたのである。そして土地から切り離されて都会化した人間となっていた。みんな土着的な生活をしていたから土地と結びついて生活していたからそうなった。一つの藩が狭いとしてもそこが基本となり世界観になっても全体的になっていたのだ。今はグロ-バルになったとしてもその基本の所で全体的思考が身につかないのである。都会だったら自然と遊離しているから自然と人間が一体のものとして考えられない、つまりミクロコスモスがないとマクロコスモスもないのである。自然の上に思想が形成される。
ところが都会では自然が大地ぬきの世界観になってしまう。そこではユダヤ人の金融だけが頼りの世界観とか批判されるものになる。紙幣に価値があるのではない、その紙幣として価値づけられるものに価値がある。いくら紙幣をためてもそれは紙でしかないからある時紙屑になる恐怖が常にあるのだ。江戸時代にはそれほど金が価値をもっていなかった。グロ-バル化とはそういう江戸時代のミクロコスモスの破壊の上に成り立っていたのである。
和辻哲郎でも七十歳しか生きていない、今だと平均寿命にもなっていないが長生きした方となるのだろう。今だと十年、二十年、寿命が伸びているから四十歳より五十才とか六十才以上でその人の貯えたものが花開くことがある。どんな平凡人でも何をかを貯えているのだ。知識でも経験でもそうである。それが花開くのが五十以上になっている。四十では若すぎるだろう。ただ自分を例にとれば才能があるからではなく凡才でも年になるとわかるものがあったということである。詩などもいいものが書けなかったし理解もできなかった。詩など書けなくても他者の書いたものも理解もできないのである。特に中味のある古典的なものはなかなか理解できないのである。この文章からなるほどなと思い付け足しのように書いてみた。インタ-ネットだと古典の引用がしやすくなるのだ。こんな文章があったのかと本では読んでいてもこれは読んでいなかった。ただたまたまにしか発見できないのも困るのである。樹のことを書いていたので調べていてたまたま出てきたのである。
要するに樹を知るだけで樹自体どれだけ語り尽くせない奥深いものをもっているか理解するだけで時間がかかるのだ。時間をかけないと真実はわからない、人間関係でも今は江戸時代のような長い時間で育むものになっていない、相馬藩は三百年つづいたとすると代々勤めているのでありそういう長い時間で培われたものがある。信頼とか愛情なども一年とかで育まれることはない、手伝いさんやヘルパ-などが今の時代、即製に一時間とか家に入ってくる人は本当に危険である。昔の金持ちのように十年間とか勤めていれば信頼できるが全く信用できないからだ。今はまず金だけを求める信じられない人が普通になっているからだ。人間関係自体金しかなくなっているからだ。江戸時代だったら長い時間で人間関係が築かれていた。もちろんそれがかえって縛られるとかでそこから脱したいということも働いた。でも現代は何事、長い時間で考えられない、ただ今を享楽して今を贅沢して今さえ良ければいいとなる。刹那的快楽主義になっている。だから原発でも日本のような地震国にどれだけ危険なことか百年後のことなど考えなかったのである。原発は百年後に事故が起きたら日本が滅亡するという危険なものだった。そういう時間の長さで考えることがなくなっていたのである。
今この辺で故郷を失ったらどうなるのか?つまり根っこが失ったらどうなるのか?そいうことが問題になっている。故郷がなくなるなどとういことを想像もしなかった。それが現実となっている。根本的に根っことなる場所を剥奪されたのである。根無し草にされてしまった悲劇がある。他で根をはるにしても時間がかかる、老人はもう根を張ることができない、すると絶望して自殺する人がでてきているのだ。故郷そのものがなくなるなどとは想像もしなかった。それは存在の全基盤を失ったことではないか?もちろん金さえあればいいとなるが金で埋められないものがある。それは金に代えられないものであった。そのことをしみじみ故郷を離れた人は思っているかもしれない、原発事故はだから戦争よりひどいと言っていた人もいた。それもわかるのである。
2012年05月24日
読めない読まれない詩の問題 (生きている樹の詩-自作から)
読めない読まれない詩の問題
(生きている樹の詩-自作から)
生きている樹の詩
樹のように偽りなき真を生きる
その芯は固く梢は鋭く天をさす
枝々はしなやかに伸びて鳥がとまる
新緑の若葉が風にそよぎ鳴り
かなたに残雪の嶺が高々と光る
誇らしく堂々と迫ってくる
峠を越え木蔭の道に休む
この荒木の幹の太さ、枝振りの良さ
真実に生きよ、自然は汝に呼応する
信頼の熱い血が脈々と樹に流れている
樹はものではない、生きている命
樹は根から幹から枝と血が通っている
鳥は甲高く鳴き樹々を喜々と移り飛ぶ
樹には初夏の眩しい光がさす
赤々とツツジはそちこちに燃え咲き
黒々とした岩に清水が轟き落ちる
樹は大地に深く根を張り生きている
樹は信頼と真に生きる
その樹に触れよ、その樹と握手せよ
その樹と触れて大きな力が湧いてくる
この世の人はみな偽りに生きる
それ故にその目は濁り体まで歪んでいる
汝は樹を友として天地に通ぜよ
樹は自然の中の一つの弦なり
天来の楽が汝にひびきわたるだろう
今風はそうそうと吹きわたりなお樹は伸びている
子供のように若人のように希望に燃えて伸びている
樹は若々しく四方に枝をのばす
ぴんと張りしなやかに枝を伸ばす
そこに鳥はとまりゆれ飛びうつる
樹は鳥とともに生きている
若葉は風にそよぎ初夏の光がふりそそぐ
かなたに残雪の嶺が光り迫る
樹は生きる歓喜にふるえている
樹の力は大地からわき上がる
大地と血脈を通じているゆえ喜びが深い
大地を離れると人の命は弱る
大都会はいくら繁栄しても不毛である
汝は樹とともに生きよ
樹の力を五体に感じよ
汝もまた樹とならむ
仁徳天皇の時代に、大きな木がありました。その木がどこにあったか、正確な位置はわかっていませんが、朝日があたれば淡路島に影をおとし、夕日があたれば大阪に影を落とすほど大きな木だったということです。
この木を切りたおして船をつくることになりました。その船は枯野という名前で、帝がお飲みになる水を淡路島の泉から運ぶのにつかわれていました。
その船が古くなりつかえなくなると、浜辺で焼いて塩をとることにしました。船に火をかけると、炎が天たかく立ちのぼり、ごうごうと音をたてて船は塩をふくんだ灰になっていきました。
ところが、どうしても焼けずにのこってしまった部分がありました。その部分をよくみがいてみると、小さな舟のかたちをしていました。そこで、その舟に弦をはって琴にしてみたところ、七つの里をこえて音がひびく、すばらしい楽器になったということです。
大阪辺りでももともとこうした鬱蒼とした森があった。仁徳天皇陵などもあんなに街の中にない、広々とした野か森の中にあったのだろう。レバノン杉の森がなくなったと同じである。今や文明は滅亡して新たな自然が復活する必要がある。そのために今回のように巨大な災害が来て文明を一掃してしまう。かもしれない、そして新たな自然が回復するのである。人間はあまりにも天地からかけ離れてしまったのである。それが原発事故を生んだ原因でもあった。森とか山の影ではない、巨大な文明という人工物におおわれている。そこでは自然を感じるということがなくなっている。自然に感応する心がなくなるとき人間は未来を見失う。原子力を神と崇め原子力とともに滅んでゆく、それがこの辺では現実となっているのだ。ただ放射能でも美は失われていない不思議がある。緑も花々も同じ様にきれいである。ただ樹で家をたてると放射能汚染される。樹そのものは森にあっても枯れたりしないしそのままなのである。ただそこに住む生物がこれからどうなってゆくのかはわからない、鳥が住めなくなったりしたらやはり絶望的である。人が住まなくなったらそこが自然の原初の状態に帰ってしまう。それも不思議な光景である。この神話の樹は屋久島の縄文杉を見ればイメ-ジできるかもしれない、千年二千年も樹は生きるから驚異である。
詩を書くものにとって詩が読めないということがつくづくある。詩集など書店にも置いていない、だから他の詩を参考にして書くことがむずかしいのだ。過去の詩も読めない、詩は実際は数が多いしその中にはいいのがある。無名の人にもいいのがあったりする。詩は読む人は少ないからいい詩でも読めない、この前、アマゾンで3000円で詩集を買った。その一篇の詩だけが良かった。木蓮の詩である。木蓮は漢詩にもでていた。高原にあっているというのは本当である。高原からふきわたってくる風にそよぐときあっているのだ。それもたまたまインタ-ネットで読んだ漢詩でわかった。
詩は読めないというときインタ-ネットにもほとんど出ていない、書店でも買えない、古本屋で買えるが馬鹿高かったりするからなかなか買えない、井上康文という人のこの詩集は名古屋辺りで旅でよった古書店で何十年も前に買った。そんなふうにしてしかこの本には接することができない、そういう詩集が日本でも外国でも多い、アマゾンでも古本の詩集となると高い、だから読めない詩というのが実に多い、例えいい詩があっても読めないのである。書店は売れる本を置かないと商売にならない、しょせん書店は今や文化をになうにはあまりにも弱小になってしまった。書店はもはやほとんど知的なものとしての役割から遠くなった。仙台辺りの大書店ならまだ違っているけど小さな書店はもはや役に立たない、そもそも知的なものは本は情報は多様であり詩となると読む人も本当に少ない、でも明かにそれは文化であり一般大衆が読む本は文化を作っていない、文化とコマ-シャリズムとかはまるであわないのである。だから売れるとか売れないを基準にしている文化事業そのものが文化を育むことはない、書店は誰でもできる、何の努力も才もいらない、職人などよりも苦労もいらないのである。ただ本を置くというだけの倉庫にすぎないしその番をしているのが書店主だとなる。
出版している人は編集者はそれなりにその本を読むから違っている。というのは作家の書いたものを理解しなければ編集はできない、するとかなりの努力が必要になってくるのだ。書店で置いてある本を理解している人はまれである。それは物を売っている人より劣っている。商品に通じていないなら売ることもできないことがあるからだ。だからいづれ書店は消失する。本という媒体はなくならない。どうしても本の方が読みやすいということがあるからだ。
自分が必要としているのは例えば樹ということで詩を書いたら他の人の樹について書いたものを知りたいとなる。そこから知の探索がはじまっている。それを小さな書店で探しようがない、インタ-ネットで探してもめったにない、ただ漢詩でいいものを紹介していた。それははじめて接する漢詩だった。こんな漢詩もあったのかときうものが紹介されている。その他は見つけられなかった。
知の探索はなにも詩だけではない、科学的なことでも他の学問でも個々にさえ違っている。
そういう知の探索に答えられるものがないのだ。インタ-ネットでほんのわずかそれに答えるものが出るようになった。ただ膨大な詩は見つけられない、雑誌に出ていたものや無名の詩はいくらでもありそのなかにいいのがあった。しかしそれらを見いだすことはむずかしい。
樫の樹
樫の木は燃える炎天に葉を光らせ
ぐっと太い根を張って黙っていた
新しい力を烈しく枝々に波うたせながら
大きく高く生きてゆくことを考えていた
ここのところが自分の「生きている樹」と連関して読める所だったのである。そういう連関したものを探そうとしているのがインタ-ネットなのである。ただ詩については過去の詩でもいい詩がないから連関して探せない利用できないのである。だから詩のデ-タ-ベ-スをインタ-ネット上に作れば役に立つ、著作権の問題があるにしろ著作権が切れたのでも膨大にあるからそこから選んだものを評価してゆく、ただそのためにはまず埋もれたものを集めねばならない、その詩集は今も高い、探しきれないこともある。それでも最近結構そうした日本でも外国のでも集めている。アマゾンで意外なものが買えるから多少読めるようになったのである。
初夏の若い女性の姿
胸を張り颯爽として歩む
大きな胸に初夏の風を受けて
前を向いて颯爽と歩む
悪びれるところは何もない
未来に向かって若い女性は歩いている
背はぴんと張り水々しくにこやかにほほえむ
まだ人生の悪に染まっていない
もう年取ると体が歪んでいるだけではない
心も歪んでいて体まで曲がっている
体だけではない心も曲がっている
笑いはシニカルになりうちひしがれている
話すことにいちいち毒があり
人生に対するマイナスの言葉しかでてこない
悪にそまり悪をいとわず汚れきっている
見えない悪臭を放っている
その人が通るだけでしゅべるだけで
辺りの空気も汚れてしまう
あまりにもその違いに唖然とする
若い女性は希望に燃えて歩いている
そこから発せられる気は清々しい
溌剌としてすらりとして胸を張って歩いている
やがて健やかな赤子を産むのだろう
腰も大きくその体は若さがあふれている
何か媚びるものもない
爽やかな初夏の風を全身に受けて歩いている
若葉が風にそよぎ夏の青空のように
若い女性は希望に燃えて歩いている
つくづく老人と若い人とはこれほど違うものかと思った。何も語らなくてもその姿はすべてを表現していた。そこにはエロッチックというのではない、健康的な一人の若い女性の姿に感嘆したのである。女性そのものが体が芸術品だった。それが健康的なすがすがしい姿だったのである。彫刻にしたいような体つきだった。何かのスポ-ツでもしていたのか均整のとれた体である。それがエロチックというのではなく、健康的なのである。自然な姿の美がそこにあった。あまりにも老人はすべてではないにしろゆがんでいる。体がゆがむだけならいいが心がゆがみすぎている。犯罪者でもあったからそうなのだがその違いは天と地とも違っている。この肉体の若さはとりもどせない、でも老人でも心は若く
清らかにありえるのだ。だから樹とも感応できるのである。
柳宗元詩―その永州の花木詩について―
http://chinese.art.coocan.jp/liuhuamu.html
漢詩についてはかなり豊富にインタ-ネットにでている。これは明かに茶の世界だった。茶道にしても元は中国にあったともなる。木を植えたり竹を植えたりと明かに日本の庭作りににている。
より深山幽谷の世界になっているのが中国だった。中国の自然は広すぎてわからなかった。あまりにも人口が多くなり自然が見えなくなっているからだろう。中国は本当はアメリカよりわからない世界である。江戸時代は文献で接していただけであり最近直接知るようになったからである。広すぎるからわかりにくいのである。
2012年01月18日
新年のあらたまの歌の再考 (失われた悠長な時間感覚)
新年のあらたまの歌の再考
(失われた悠長な時間感覚)
正月も終わりだけどこの歌はなにか昔の生活が如実に歌われている。玉梓(たまづさ)の、使(つかひ)の来(こ)ねば・・・というとき現代は使ひが多すぎる。たまに来るから使ひも貴重になるけど今は情報過多であり絶えず暇なく使いがニュ-スが耳に入ってくる。考えてみると殺人事件にしても全国レベルとか世界レベルになればめずらしものではない。人間社会では常に起きてきたことである。
万葉時代辺りはそうしたニュ-スが聞こえない、聞きようがないのだ。使(つかひ)はめったに来ないから玉づさのとして貴重なものとして枕詞になった。使ひにしてしも歩いて来たりして伝えるとなると貴重だとなる。万葉人の満足は天地(あめつち)に、思ひ足(た)らはし・・であり常に天地に思いはせて天地の中にあった。繭(まよ)隠(こも)りというのも養蚕は万葉時代から戦後10年くらいまでも養蚕は盛んだった。養蚕のために二階で繭を飼うための作りの家が今でも残っている。随分古い歴史があったけど養蚕もすたれてしまった。どこの山の中でも養蚕があった。だからこの歌は時代的に別にかけ離れたものではないし最近まで日本人がつづけていた生活だった。確かにそういう二階が養蚕をするために作られた家々はまだ阿武隈高原辺りに今でも残っている。
心のうちを、人に言ふ、ものにしあらねば、松が根(ね)の 待つこと遠(とほ)み・・・ここにも何か悠長な時の流を感じる。性急に思いを果たすというようなものはない、松が根というのは待つにかけている。ここに時間の悠長さがあった。繭(まよ)隠(こも)りというとき外界との交渉があまりない生活だった。霞立つ長き春日を・・・これも山深く隠されているような感覚になる。万葉時代は時間の感覚が今とは違いすぎる。江戸時代でもそうだからそれ以前の万葉時代の時間感覚はそれ以上に悠長である。明治維新以後生活のリズムがあまりに変わりすぎた。天地を思うようなことはほとんどない、時計に追われ車に追われ情報に追われ金に追われ何かに追われつづけている。こうした天地のリズムにあわせた時間感覚からあまりにも離れすぎた生活になった。古代文明でもエジプト文明でもマヤ文明でも常に思っていたのは天地のことだった。そのためのピラミッドであり神殿であった。
現代では天地より石油であり原発とか科学や機械が天地より大事になった。そして天地すら操ることができるとして原発が作られた。天地より人間が作ったものが機械の方が技の方に関心がある。毎日株に一喜一哀している。そういう生活はやはり何か人間を天地から離れさせて人工的な世界がすべてのようになってしまった。そこに落とし穴があった。津波なども天地の成せる業でありそれは人間の思いを越えていた。
【通釈】岡崎に月を見にいらっしゃい。都の人よ、門の畑で採れた芋を煮てご馳走しましょう。
京都市でも広いからこういう場所がまだあった。江戸時代から明治でもあった。こういうもてなしが本当のもてなしになる。前の畑でとれた新鮮なものを出される。それこそなんともいえぬ安らぎを与える。現代生活はいろいろ便利なんだけど失われたものも多い。人間が営々と変わらない天地との生活が喪失した。
鶉ふす門田(かどだ)のなるこ引きなれてかへりうきにや秋の山里(建礼門院右京太夫集)
かへりうきにや・・・都へ帰るのも憂(う)し・・ということなのか、大原の生活も慣れたからなのか?大原は一回行ったけど本当にここは京都からはかなり遠い、当時だったら都ははるかに遠い雲の彼方になる。バスで行っても二時間とかかかるから遠いのだ。門田とは家の前の田で重要な田であった。前田もそうである。家を中心にして生活があったからだ。都の暮らしを思いつつ大原の生活も慣れたということがあったのか?人間はどんなものでも慣れるというのは本当である。不便な生活でも不便なりになれるということもある。ただ一旦便利な生活をしたら不便な生活にもどれないことも人間の性(さが)である。昔がいいというとき現実としてはわからない、昔の現実を今も生きている人がアフリカや後進国に現実にいるからだ。その人達の仕事は薪を集めることや水をくむことが仕事でありインドでの嫁の仕事は遠くから水をくんでくることだったりする。それが重労働で長生きできないとなると労働に追われて体力を消耗している悲惨な生活だったとなる。もちろんまともに医者などにもかかれない生活である。ただこれだけ便利になっても天地から離れて失ったものがある。だから現代からは過剰に過去への郷愁が募ってくる。飯館村でもそうだがこの辺はまだ素朴な田舎でもあった。変わったにしろそれなりに素朴な田園風景が残っていたところである。それが原発事故で失われたから余計にそう思う。
母が飼(か)ふ蚕(こ)の、繭(まよ)隠(こも)り・・というとき母が中心としての家があった。母の重みが家と共にあった。それは家で仕事していたからである。会社に勤めているのではないからそうなった。いづれにしろこの万葉の歌は心なごむ歌である。何かそうした当たり前の人間的なものをうしなったから余計に現代からなつかしいものとなっているのだ。心のうちを、人に言ふ、ものにしあらねば・・・というとき今はあまりにも言いすぎる。語りすぎるということがある。すべてを人は他者に語りようがない、いくら思いがあってもただ黙って待つほかないというのがいいのである。
2011年11月12日
相馬六万石の城下町(フランスの詩と自分の詩の比較)
相馬六万石の城下町
城も見えずに残る濁る堀
狭き門一ついづこが城や
その名残も知れじ
街中に菊畑映えて
塀の内に柿のなる
昔の武士の屋敷にあらじ
通りをゆく人あわれ秋の暮
街のはし橋一つものさび古りて
塩地蔵常にしありしも
我がここを行き来して
病院に枯木三本堅く立ちしも
田町は昔栄えし所
柳長々と垂れしかも
相馬駒焼き代々の主
無愛想にいぶせく棲みぬ
城下町曲がれる路次の多しも
残る虫の音なお聞こゆ
晩菊の静かに日のあたり
古本屋により書を読みぬ
誰が眠る街中の墓所の静けく
相馬藩代々つづきぬ菩提かな
野馬追いに受け継ぐ
武士の勲し誉れ蘇りぬれ
相馬六万石の城下町
日頃知られぬ街なりき
この街訪ねる人もまれなりき
駅前に落葉してひそまりぬ
街を離れて昔の街道行けば
松並木に昔を偲びぬ
刈田の道も静かに農家かな
昔郷士や伝来の旗を蔵しぬ
城下町誰か棲みぬれ
畳屋の灯ともり仕事かな
野馬追いの今もつづけば
鎧師のなお技伝えぬ
月曇り六万石の城下町
鈍き銀色の雲の棚引き
華やかな栄のなしも
月影のもれし屋並かな
墨絵の色の地味な街
質素なる暮らしの昔かな
四方に田野の広がりて
城はつつましく暮れにけり
仏蘭西の小都会
アンリイ・ド・レニエェ
起き出て我朝に街を出ずれば
道の敷石に足音高くひびきて
太陽の若き光は古びたる甍を暖め
Lirasの花は家々の狭き庭に咲く
人の歩みに先(さきだ)ちて足音の反響は
梢にそびるゆる苔の土塀の長きに伝わり
磨り減りし敷石は白き砂道に連なり
場末の町より野辺に走れり
やがて険しく上る山道より
日に照らされて丘のふもとに
悄然として狭く貧しく静かなる我が生まれし街の
見慣たる懐かしき屋根の見ゆるかな
長々と彼処に我が街は横たわる。流るる河ありて
その水は二度居眠りて二つの橋の下を過ぎ
散歩の道に茂りし木立は街にそびゆる
鐘撞堂の石と共に古びたり
うららうに澄み渡りて狭霧なき空気に
我が街は太き響きを我に送りくる
洗濯屋の杵と鍛冶屋の槌の音
打ち騒ぐ幼子の甲高くやさしき声
変わりなきわが街の浮世に思い出もあらず
繁華光栄の美麗もなくて
わが街はいつの世までも
今見るごとく小さき都にあらむ
我が街は耕せし野辺,高原、荒れし野に
又は牧場の間に立つ数ある街の一つなれば
何れとわかぬ小さきフランスの街の名に
旅する人はわが街の名さへ知らで過ぎぬべし
しかれども朝より夕べに移る徒然歩きの
長き思ひの一日は過ぎて
麦の畠のかなたに日はかくれ
林に通う細道暮れそめて
物のあいろもわかぬ夜
歩む足音険しき道にとどろきて
堰越す水音はるかに聞こえ
吹く風運河の木立に騒ぐ時
つかれて我は帰りくる街近く
ふと仰ぐ辺りの家の窓
帳さへなきガラス越し、ランプの壺に
石油の黄金色なす燈火の燃ゆるを見れば
杖にて探る夜の道、自ずと足も急がれて
われ思ひしる、我が墳墓の国土
懐かしき眼に闇の内よりいとも優しく
我が手をとりて引くがごとしと
外国は日本と全く違ったものと思う人もいる。でも外国を旅していると人間の住んでいる所は必ず共通性がある。ギリシャでもあそこは特に風土が地形が日本とにていたから親しみがあった。菜の花が一面に咲いていたのを見たとき、これは日本と同じじゃないかとつくづく思った。ギリシャは日本の地形と本当ににていたのである。ヨ-ロッパはフランスやドイツは山がほとんどないから地形的にはにていない、でも歴史的にはにていたのである。特に封建時代があり中世は城の時代でありにている。各地に領主がいて支配していたし騎士は日本の侍とにている。封建時代があるのはヨ-ロッパと日本だけである。中国にはない、巨大な帝国はあっても地方に領主がいて城で支配していたという歴史がない。今でも廃墟になった小さい城の跡が多いから日本とにているのだ。そして中世の時代は長かった。日本の城下町と中世の街もにているところがある。いかに古い石畳の路次がありそこを踏み歩むと歴史を感じるのである。そこはまさに日本の城下町でもあった。ただ石造りということが違っていた。石畳の道は中世からつづいている道である。その路次には聖人の像などが祭られていたりするが日本では地蔵になったりする。
磨り減りし敷石・・・というのはまさにそうである。流るる河ありてその水は二度居眠りて二つの橋の下を過ぎ・・・ここは日本とは違っている。河が大陸では運河のうよになっている。流れているか流れていないのかわからない、自然の河のようには見えないのである。だからその水は二度居眠りて二つの橋の下を過ぎ・・・というのはうまい表現である。日本の河は絶えず流れて滝だと外国人が言ったが外国の河はまさに眠っているという表現がぴったりである。そして橋はいかにも古い石の橋でありそれは街と連結していて街の一部のうようになっている。この辺は違っていてもこの詩は全体的に自分の作った詩とにていると思った。ランプの壺に石油の黄金色なす燈火の燃ゆるを見れば・・・これは日本では江戸時代なら行灯だった。江戸時代の風情は城下町に多少残っている。相馬市がなぜいつも行くとしんみりするのかというと高い建物が街の中にほとんどないからである。それは昔の江戸時代の街並みと同じである。江戸時代に高いビルはない、だからこそ「月天心貧しき街を通りけり-蕪村」これが現代のように高層ビルだったら月も映えないのである。江戸時代の江戸でも高いビルはないのだから自然が太陽でも月でも映えるのである。そこが昔を錯覚する。高いビルは情緒を壊すのである。外国でも旧市街と新市街は分かれている。旧市街は歴史地区であり歴史を偲べるのである。
いづれにしろ相馬市をたずねても何もないと旅人は感じる。それはこの詩と同じである。しかし城下町だからそれなりに歴史がある。相馬市はまだ野馬追いがあるから他よりはいい、ここが野馬追い発祥の地として自覚するからだ。ただ城もないしここが一体どこが城下町なのかとなる、武家屋敷もない、最近堀の跡が発見されたとか残っているのはあの濁った堀くらいなのである。そうすると他からここにきて昔を偲ぶということはなかなかむずかしい。一般的に昔を偲ぶということはむずかしいのである。現代のものだけが目に入りやすいからだ。でも相馬六万石でも城下町の歴史はあったのだから他とは違っている。原町とは違っている。細い路次が多いのもそのためである。田町は昔繁栄して馬屋などが並び漢詩にも残された。そういう残されたものからも昔を偲ぶことはできる。風景は変わっても回りは田んぼだからそんなに変わってもいないからだ。ともかく自分の作った詩とこの詩はにている。やはり人間はどこに住んでも人間である限り共通性が必ずでてくるものだと思った。エジプトなんかはなかなか現代からすでに理解しにくい、でもギリシャなどは理解しやすいのである。
江戸時代は墨絵の世界だった。着ているもの地味だったというし侍でも質素であり派手な暮らしをしてしいない、今ほど派手な暮らしをしている時はないのだ。現代は余りにも社会が変わりすぎてしまった。車社会というのも情緒を破壊した。TPPにしても車社会と関係している。車社会になったとき街の商店街は消失したし様々な古いものが破壊されたのである。そして財界がTPPを押し進めるのは自動車を売りたいとかのためでありその圧力が大きいのである。農家の人でも名古屋辺りでは車の生産に関係しているのだ。下請けになっていたりする。車の方が売りたいから農業は二の次にされる。車を売らなければ豊かな生活はできない、農業ではできないということでそうなっているのであり
車社会がそうしていることが根底にあることを見ないと事の深層はわからないのである。車社会が必然的に街の通りと商店街を破壊して農業も破壊してゆくということがあるのだ。車を売ってその税金で国が農家に補償しているということもある。そういうジレンマが常に現代にはあるのだ。
ともかくヨ-ロッパは日本と意外とにている。中国辺りだと大きすぎてとらえどころがない、封建社会もなかったから歴史的にもにていないのである。確かに漢字は共通でも社会自体はにていないのである。スケ-ルが大きすぎるとわかりにくくなるのだ。距離の感覚でも何でも日本とはかなり違っているのだ。ヨ-ロッパの中世は感覚的にわかりやすいのである。教会もカトリックだと日本の寺とにている。役所の一部でもあった。日本でも戸籍係のような役目を寺が果たしていたのである。寺の権力も結構大きかった。ヨ-ロッパの方が大きかったにしろにている。ただ外国でも昔を知ることはむずかしい。外国人でも日本に来たら東京辺りだとほとんど昔を偲べない、偲ぶものがない、皇居だって城がないのだから偲べないのである。やはり何か遺跡として残っていないと外国は特に昔を偲ぶことはむずかしいのである。
2011年10月25日
戦前の短歌より昔を偲ぶ (記憶に印象に残らない現代の生活)
古泉千樫の短歌-明治40年-昭和2年
隣家に風呂によばれてかへるみち薄月ながら雪ちらつきぬ
今の時代、隣の風呂によばれることはない、これはやはり相当親しくなっていないとできない。今は風呂のない家はない、みんなそれなりに豊になっているからこういうことをしない、それで隣近所が助け合うこともなくなった。縁側だって隣近所の人がしょっちゅう来るからできたものである。今は縁側を作っている家もなくなっている。家は開放されていないそれぞれ閉ざされている。またそうした付き合いを嫌がるのが多くなった。家の中に入ってくるのを嫌がる。都会の人が田舎だと家の中に人を入れるから嫌だという人がいた。都会だと玄関くらいで話しして返す、普通はそうだから嫌だとなる。
この時代はまだ草鞋(わらじ)だった。底がしめってくるというときまさに実感なのである。草鞋は雨に弱いことは確かである。
冬の光りおだやかにして吾児が歩む下駄の音軽くこまやかにひびけり
下駄屋などが近くにあった。下駄を直す人が戦後まもなく子供時代にいたのである。下駄の音に風情を感じた時代である。
もの問へばことば少なき村の娘(こ)の長橋わたりけるかも
この長い橋は木の橋だろう。これは今の橋とは違っている。歩いてわたる橋なのである。だから印象に残るのだ。そういう悠長な時間を感じる必要があるのだ。
荷車に吾児(わこ)のせくれし山人もここの小みちに別れむとすも
荷車は荷物を運ぶものとして常にあった。これは車にのせるのとは違う。つまり昔はそういうことがいちいち心に残りやすい、記憶に残りやすいのだ。車だと記憶に残りにくい、早いから残りにくいのだ。そこに人間的なものが欠けてくる。車だとなにか人間のありがたみを感じない、便利な機械があり人間が存在しなくなるのである。
こういうことがいつまでも心に残るのだ。そして父と子の絆も深められていたのである。これが車だとそうはならない、人間はこうした日々の生活の中で心も作られてくる。だから現代という環境で人も作られてくる。車洪水の中ではそれに応じたせわしげな忍耐のない人間が作られてくるのだ。
吾が村の午鐘(ひるがね)のおときこゆなり一人庭にいて聴きにけるかも
山がひの二つの村のひる鐘の時の遅速もなつかしきかも
この午鐘とは寺の鐘なのか、江戸時代は土地によって時間が違っていた。
花の雲鐘は上野か浅草か 松尾芭蕉 ・・・・これは別々に聞こえてきた。今のように全部の時間が統一されていないのだ。全国一斉に同じ時間ではない、だからこそ同じ時間でもどっちの鐘の音なのかとなる。そういう現代と違った時間感覚なのである。
老いませる父によりそいあかねさす昼の厩(うまや)に牛を見てをり
老いませる・・・というとき牛を飼っている、牛とともに老いた父を見ているのだ。その歳月の長さを見ている。牛の存在感とともに父もあったのである。ただこの牛は今の牛とは違った牛だろう。
今の牛は主に肉牛になっている。昔の牛はまた別な役目があった。牛を食べていても何か違っていた。ただ家畜は家族の一員となっていた
ことは確かである。飯館村でも牛と別れることを悲しんでいたからである。
さ庭辺につなげる牛の寝たる音おほどかにひびく昼ふけにけり
牛がいるということは牛と一緒に生活していることは牛というものと一体化してくる。すると牛のリズムが人間のリズムになるから悠長な時間の中で生きることになる。現代は車時代だから車のリズムで生活している。すると切れやすい人間ができる。牛馬と一緒に生活することは動物を愛おしむ人間を作っていた。今はその代わりをペットがしてしいる。でも牛馬は生活と一体化してあったからペッとも違っていたのである。
相つぎて肺やむ人の出にけりこれの布団のかづき寝しもの
この頃国民病と言われたのが肺病である。実家の墓にも27才で肺病で死んだ人が埋まっているし肺病で死んだ若い人が多かったのだ。
素足にて井戸のそこひの水踏めり清水冷たく湧きてくるかも
昔は水道水ではないみんな井戸でありこれも実感である。
村の長みちというときやはりこれも歩くから長いのである。車だったら今は短い道になってしまう。こういう情緒は生まれないし嫁入りなどという言葉も死語になっているのだ。
(東京)
コ-ヒ-をすでに飲んでいたのは意外だった。東京だったらコ-ヒ-飲んでいた。コ-ヒ-だげの店はなく食堂だった。
このコ-ヒ-を飲めるのは東京でも少なかった。
カフェから溢れる大正ロマン
http://www.y-21gp.com/coffee/STORY/storyAG.htm
アパ-トでなくて長屋と言っていたから江戸時代の延長であった。江戸時代の長屋は人は移動していない、明治以降は人が東京のなかでも移動するようになったのである。この違いは結構大きかったのである。都会では知らない人々が集まり住むようになったのである。
異国米たべむとはすれ病みあとのからだかよわき児らを思へり
ふるさとの父がおくれる白き米に朝鮮米をまぜてを焚くくも
異国米とはタイとかの米ではありえない、朝鮮米のことなのか?朝鮮では日本人が米作りしていた。その米が入ってきたのか?東京だからこういうことがあった。田舎ではありえないからだ。
江戸時代にもどろうとしてももどれない、江戸時代はわかりにくい、江戸時代を知るには大正時代とか明治時代を知る必要がある。しかし今や明治時代を生きた人はもう生きていない、大正時代を生きた人はまだ生きている。90以上でも生きている人は結構いるからだ。ただ明治時代と江戸時代は実際は全然違ったものとなっていた。継続はあったにししても違っていた。なぜなら母は製紙工場で働いたがそうした工場というのは江戸時代にないからだ。機織りをしていてもそれは工場ではない、個々人の家でしていたのである。ただ個々人の家でも大正時代辺りは機織り機がありしていた。そういう点で江戸時代からの継続があった。戦後十年くらいでも子供のときは江戸時代と通じる生活だった。燃料は炭とか薪であり本当に電気製品も何もない貧しい生活だったからである。それは江戸時代からの継続だったのである。高度成長時代から急速に社会は変わってしまった。
車時代になったとき人は歩かなくなった。この変化は大きい。歩かないということが人間の基本的なものを失う、ここにあげた歌のように親と子の絆も失ったりする。人間の生活はあわただしく通りすぎて記憶に残らなくなっている。それは人と人の関係もそうだしすべてについて記憶に残りにくくなっている。記憶に残るということは悠長な時間の中で記憶に残されるのである。新幹線で旅しても記憶に残るものが少ない。ただ通りすぎてゆくだけである。旅も記憶に残らないし生活そのものが記憶に残りにくくなっている。そういうことが人間喪失になっているのだ。豊になり便利になっても人間の生活の質は低下しているのだ。老人になると記憶だけになる。あなたの一生で記憶されたものは何ですかとなると意外とないことに気づく,それは現代の生活が機械中心であり人間中心でないからである。また人間は集団化組織化されると数として非人間化される。統計の数であり一人一人の人間の生活の質は計れない、そこに統計の欺瞞がある。人間の生活の質は何なのかというとき,かえって江戸時代が質的にはまさっていた。いくら豊に便利な生活しても人間の生活の質が向上するとは限らない、低下する場合もあった。人間はこの世に生きるのが一回限りとしたら人の出会いでも生活でも印象深いもの意義あるものとしたい、そういうことが現代生活では消失した。車でぶっとばすとすっきりするとかなるがそういうのはあとでふりかえると何も残らない、記憶に残らないのである。記憶に残る生活はやはり自然と共に悠長な時間を過ごしているときなのである。万葉集などはそうした人間の生活の記憶として残っているのだ。
鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも
これも何でもないような歌なのだけど印象深いものがある。鶉は素朴なものであり古い里でありそこに長く住んでいる親しい人がいる。その人は互いに何も言わないでもわかりあう仲かもしれない、村の中でともに長く暮らした友である。それは村という全体の中で育まれた仲である。変わらぬ仲間である。相見つるかもというとき万葉集には常に相という言葉が出てくるのも人と他者が常に一体関係にあったから相がでてくる。今の言葉では相はでてこない、他人は突き放したモノののような対象物になっている。そして人間が一体化する背景の自然や村がなくなっている。人間の一体感はただ団体とか組織で作られる。宗教であれ組合であれ会社であれ何であれ組織団体として分類されて数化されるのである。人間が一対一で向き合うことはいない、人間は一つの経済単位消費単位一票とか物化されている。宗教団体でも一票として数として統計化される。その数をふやすことが権力化するからだ。だから人間が会うということは現代ではない、ただ貨幣を通じて物を媒介するものになる。人間を金として計算するのが普通である。だから人間の生活の質は低下している。
2011年09月01日
万葉集の萩の歌の鑑賞
万葉集の萩の歌の鑑賞
萩の素材はここより拝借
http://www.hagaki.skr.jp/hana/modules/tinyd3/index.php?id=7
娘女らに行相(ゆきあい)の早稲(わせ)を刈る時になりにけらしも萩の花咲く
宮人の 袖つけ衣 秋萩に匂ひよろしき 高円(たかまど)の宮
大伴家持
秋萩を散らす長雨の降るころはひとり起き居て恋ふる夜ぞ多き
鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも
秋萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ぬれば風をいたみかも
高円の地は、風流人の逍遥の地であるとともに、人々にとって忘れ得ない土地でもあった。高円の宮、あるいは峰上の宮などと呼ばれた聖武天皇の離宮が置かれたところでもあるからだ。
http://t-isamu.web.infoseek.co.jp/kosyaji-4.htm
行相(ゆきあい)行合道とかあるときそれは大和言葉だから地名は古いものとなる。早稲は今も作っているけど今は機械だからそうした風景は消えた。人の手で田植えしたり稲刈りしている姿は絵になっているがもはやない。万葉時代の風景は失われた。娘女らに行相(ゆきあい)という情緒もない、娘(おとめ)が農作業している姿も見かけない,そもそも農民自体が嫌われているしそういう野良仕事は醜いものとして今は見ているのだ。ホパ-ル辺りで娘が畑で仕事している姿が万葉の時代かと思った。着ているものは野良着だけど若いから美しいと感じる。若い人が農業にたずさわっている姿が今は見えない、この辺は放射能で今年は稲の実りはない。
ここでは早稲が実るとき萩も咲きだすという季節感が絶妙なのである。
次の高円の宮というのは天皇の宮だった。それで大伴家持が歌にした。宮人の 袖つけ衣 秋萩に匂ひよろしき・・・・とぇさに宮廷人らしい歌になる。萩は袖にふれやすいのである。昔の着物の袖は野を歩いているとふれやすい、高円の宮では聖武天皇の離宮が置かれたからその時世を偲んで歌にしている。匂ひよろしき・・・というのは萩の匂いと故人の聖武天皇の匂いよろしきにもなっている。みちのくではそうした古い歴史をたどることができない、聖武天皇の時代がありそのゆかりの場所に行けば歴史は身近になるのだ。それがみちのくではできない。東北の歴史は古代はない、蝦夷の時代だから歴史が抹殺されているからだ。
秋萩を散らす長雨の降るころは・・・・こういう歌は当時の時間感覚にならないと鑑賞できない、江戸時代の時間感覚でもある。また言葉の感覚大事である。長雨という時、秋の雨でも長くふっている雨の感じになる。言葉の感覚が大和言葉を万葉集では味わうことが大切になる。
珠洲の郡より舟を発し、治布に還る時に、長浜の湾に泊り、月に光を仰ぎ見て作る歌一首
珠洲の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり 大伴家持
長浜というとき長い浜でありこれによって悠長の感じを出している。何かのびのびした感覚になる。かなりの距離を船をこいだことは確かである。漕ぎ来ればというとき人の手で漕ぐのだから実際は遅いのである。能登と月は今もあっている。長浜の浦というのが要点としてこの歌で生きているのだ。月が照って清涼感を出している。ここに見えるのは海と月と長々とした浦しかなかったのである。今はいろいろありすぎて原初の自然の美が損なわれているのだ。 ここは月の光だけに欲している気持ち良さがあるし万葉時代はみんなそうである。全体が自然の美の中につつまれているのだ。
次の鶉鳴くというのも鶉自体が今はいない、何かこの鳥によって素朴な感覚になる。
鶉鳴く里というか村というかそこはのどかな村であり村人は互いに知り合って気心が知れている。何でもないといえば何でもないがそういうのどかな村の風景が喪失したのが日本なのである。
秋萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ぬれば風をいたみかも
こういう歌も今は作れない、秋萩は見ていても下葉が紅葉する、紅葉色に変わるという細かいところまで見ていない、そういう変化を見ていたのはやはり自然と一体化して暮らしていたからそうなった。あらたまの・・・というときまた季節が変わってくる、荒い風が吹いてくる゛秋が深まってゆく、そういう日本の季節の移り変わりを絶妙に歌っている。そういう日本独特の季節感を喪失している。ただそうした日本人独特の細やかな感覚がもの作りに活かされているといとき伝統は活きているとなる。万葉集でも江戸時代でも時間感覚が違うから、鑑賞するには現代のせわしい時間感覚では鑑賞できないのである。
2011年02月15日
素心、素朴な人が失われ時代(漢詩よりふりかえる)
素心、素朴な人が失われ時代(漢詩よりふりかえる)
杜甫
舎南舎北皆春水 舎南(しゃなん) 舎北(しゃほく) 皆 春水(しゅんすい)
但見群?日日来 但(た)だ見る 群?(ぐんおう)の日日(にちにち)来たるを
花径不曾縁客掃 花径(かけい) 曾(かつ)て客に縁(よ)って掃(はら)わず
蓬門今始為君開 蓬門(ほうもん) 今 始めて君が為に開く
盤?市遠無兼味 盤?(ばんそん) 市 遠くして兼味(けんみ)無く
樽酒家貧只旧? 樽酒(そんしゅ) 家 貧にして只だ旧?(きゅうばい)あり
肯与隣翁相対飲 肯(あえ)て隣翁(りんおう)と相(あい)対して飲まんや
隔籬呼取尽余杯 籬(まがき)を隔てて呼び取りて 余杯(よはい)を尽さしめん
⊂訳⊃
草堂の南も北も 豊かな春の水
目に入るものは 日ごとにやってくる?たち
花散る小径も 客が来るからといっても掃除せず
粗末な蓬門も あなたのために初めて開く
大皿の料理は 市場が遠いのでありきたりの品
家が貧しくて 樽には古い酒があるだけです
隣家の老人と いっしょに飲んでみませんか
垣根越しに呼び寄せて 残りの酒を平らげてもらう
陶淵明
登高賦新詩 高きに登りて新詩を賦す
過門更相呼 門を過ぐれば更ごも相呼び
有酒斟酌之 酒有らば之を斟酌す
農務各自歸 農務には各自歸り
閑暇輒相思 閑暇には輒ち相思ふ
相思則披衣 相思へば則ち衣を披き
言笑無厭時 言笑厭く時無し
此理將不勝 此の理 將た勝らざらんや
無爲忽去茲 忽ち茲を去るを爲す無かれ
衣食當須紀 衣食 當に須く紀むべし
力耕不吾欺 力耕 吾を欺かず
陶淵明「飲酒二十首」
結盧在人境。 盧を人里に結んで住んでいるが
而無車馬喧。 貴人の車馬の来訪する喧しい音はない
問君何能爾。 どうしてこんなに静かに暮すことが出来るかと言うと
心遠地自偏。 心が遠く世俗を離れていれば住む地も僻遠の地になる
采菊東籬下。 家の東の籬の下に咲いている菊を採って立上ると
悠然見南山。 ゆったりと南方の山を見るともなく眺めるのである
山気日夕佳。 山に湧く気は、日中でも夕方でもそれぞれ美しく
飛鳥相與還。 朝出た鳥が夕方に飛び連れて山に帰って行くのである
此中有真意。 その中に万象の奥の真理、自然の道理の意味を感じる
欲辨已忘言。 語ろうとすると言葉を忘れ、真実は言葉では語れない
昔欲居南村(昔、南村に住みたいと欲したのは)
非為ト其宅(占いによるものではない)
聞多素心人(ここには素心の人が多いと聞き)
楽輿数晨夕(ともに楽しく暮らしたいと思ったからだ)
懐比頗有年(長い間、考えてきたが)
今日従茲役(今日、それがかなった。以下、詩を省略)
素心とは
「人間の心はもともと純真なものですが、
名利を追うに連れて汚れに染まり、
欲望や野心からさまざまに色がついてきます。
そんな汚染や着色を去って
本来の純真に返った心のことを
中国の詩人の陶淵明は「素心」と呼んでいます」
樽酒(そんしゅ)は濁酒でありどぶろくだった。高価な酒は飲めなかった。これも今のように豊ではないが心の満足があったことはまちがいない、隣翁というのは素朴な人だった。素心なる人の集る場所を求めてというのもあるから素朴な人がいる所に住みたい詩も書いている。今の時代まず素朴な人はいなくなっている。農家の人でも素朴な人はまれになっている。なぜならすべてが金の時代になったときそうなったのである。貨幣経済ではないこれは自給自足的な生活を理想としているのは金の時代になると素朴な心を失うからである。これは老子の時代から二千年前から言われてきた文明否定の思想である。鍬でも道具を使うと人間の素朴さは失われると言っていた。文明とは人間本来の素朴さを失うものとして生まれ2千年前からそのことは警告されていた。
現代はまさにその頂点に達した時代である。人間の素心とか素朴さは全く失われた。グロ-バルに貨幣が流通して金の力が世界的な力となった。人が求めるのは金だけとなった。貨幣の発生は謎にしろ贅沢品が貨幣になったことはいえる。貨幣にかかわる漢字が貝になっているとき財が貝になっているのは南方の珍しい貝が貨幣になっていることが如実にそのことを示しているのだ。貨幣はもともと装飾品でもあるから金銀や宝石も貨幣になりやすい、日常の生活必需品より贅沢な余剰のものとして貨幣が生まれたのである。だから貨幣はこんなに何でも交換できるものではなかった。南の島では貨幣は威信財であり巨大な石の貨幣であった。それは使われることもなかったのである。貨幣で何でも交換できるものではなかったのである。その交換もあいまいであり塩と黄金が平等に交換されていた。塩は黄金と同じ価値があったのである。現代の貨幣の価値とは違っていた。
今や人間は金に使われている、人間より金がどこでも大事なのである。どんな人間でも今や金、金、金であり金なしでは呼吸さえできなくなっている、水を得るにも金だし基本的生活が自給的生活からかけ離れているかそうなった。今までは自給的生活がありその基礎を成していたものも金が必要になった。だから毎日金なしでは生活できない、人と接することはすべて金を通じてしかありえない、だから人と接するにしてもこの人と接して利益になるのか、金になるのかしか頭にないのである。これは世界中でそうなっているのだ。ラオスの山奥にテレビが入ってきたときテレビが欲しくて母親が娘でまだ少女なのに都会の売春宿で働かせていたのである。テレビ一台でもそうなるしまだ遅れている国ではバイクが足となっている。ベトナムでもバイクが車と同じ役割を果たしていて道路はバイクの洪水となっている。バイクなどたいしたことはないと思っているが日本で車がないと生活できないとなっているごとく価値あるものなのである。文明化するとどこでも人間は同じである。バイクの価値は実に大きい、一旦その力を知れば手放せなくなる。娘を売春宿に売ってまで文明の利器が欲しくなるのである。そこで人間の素朴さは失われるのだ。
而無車馬喧。 貴人の車馬の来訪する喧しい音はない
馬車の音すら嫌っていた時代があった。今やどこでも車の騒音がある。山奥でも道のある所ではさけられない、つまり文明から逃れる場所はないのである。もちろん文明の中で接する人間は素朴な人はめったにない、特に団塊の世代、60代から70くらいまでは高度成長の物欲中心に生きてきた世代だから素朴な人などほとんどいない、金しか眼中にない人たちである。それは自分もふくめてそうなっているのだ。ただ75才辺りから上の人は貧乏に育っても素朴な人がまだいる。日本的義理人情に固い人がいる。でも義理人情などというとすでに死語化しているのだ。ということはそういう人すら今やいないということである。だから都会はもちろん田舎だって殺伐としている。病院であった大原の農家の人は素朴な人でありそういう人と接していると心がなごむ。75以上の人にまだ素朴な人がいるがそれ以下はいなくなってたのである。人間は文明により豊になったとしても本当に満足かとなると心が充たされたかとなると幸福になったかというとこれは別問題である。その時代時代の幸不幸があり幸福そのものは数量的に計ったりできないからそうなっている。人間は文明によって幸福になったとはいえないのだ。まず素心のある人がいないことは心を許せる人がいないということは自然もないことも殺伐とするが回りにそういうなごむ人がいないということは幸福だとはいえない、近くでも田舎でも心を許してなごむ人がいないことは殺伐としたものとなる。現実にそうなっているから現代は幸福な時代とは言えないのだ。
濁酒を飲むも心充たされ
美酒を飲むも心充たされじ
いづれがよしや
人の幸不幸は計られじ
天は二物を与えざるかも
人間は今豊になっても心は充たされていない、かえって樽酒や濁酒を飲んでも素朴な人がいて心充たされていた時代をなつかしむ。美酒をあびるほど飲んでも心を充たされない、それは心が充たされないやけ酒になっている。美酒でも心が充たされない、金持ちになっても心が充たされるとは限らない、豊になり富を得て心を充たされるとはならないのが人間なのである。だから昔は貧乏だから全部が不幸だったとはいえないだろ。つまり幸不幸は計れないのである。
人間は一方が充たされれば一方が充たされないようにできているのだ。現代は物質的に豊でも精神的に充たされていない、介護時代になって必要なのはいたわりあう心だがその心がない人が多いのである。頭の中が金しかないし現代は素朴な素心の人が少ないのだからかえって介護とか一番向いていな時代になっていたのは皮肉である。清い心の人は神を見るだろうというとき今清い心の人、素心なる人をみることは本当にまれだろう。だから宗教にしてもカルト教団でありそこに集る人は清い心の人でも素心なる人でもない、この世の欲望が充たされない人が不満をかこつ場がカルト教団であり世俗的欲望をかえって強い人が集る場なのである。もはや素心なる人が集る場所などない、そういう人はアウトサイダ-になるほかないだろう。現代はそういう点では不幸な時代だったともなるのだ。
類似類想俳句
根岸郊外二句
竹たてて冬菜を囲む畠かな 子規
この道や竹に冬菜に何もなし
俳句は分類すると類似俳句が結構あるだろう。これもかなりにている。根岸郊外で上野の近くにこんな光景があること自体今では信じられない、「汽車過ぐるあとを根岸の夜ぞ長き-子規」これもそうした淋しい静かな上野だからこそできた。上野がそんなに淋しい所だったのかとなる。子規の住んだ家が保存されていても今はラブホテルの中にあり全然風情がない、興ざめした。第一冬菜を題材にしていること自体想像できない、そんな畠があったこと自体が東京からは想像できない、松山辺りならまだ想像できる。城の近くを牛が歩いていた。そういう江戸時代でも想像できるが東京は想像できない、子規の句も写生でありとりたててめずらしくもないがやはり竹がここに出てきたのは一致している。自分が何もなしとしたのは写生になっていないがこの道は何度も通っている道である。上野で冬菜が俳句にできる時代があった。その変わり方はあまりにも激しすぎたのである。子規庵で風流を感じることはありえない、回りがラブホテル街でありそんなところにあること自体そぐわないからだ。冬菜はやはり田舎でこそふさわしいものだろう。ともかく俳句は類似俳句がありそれを分類して鑑賞すると面白い。これも同じ発想で作っていると共感するからだ。
春風や道標元禄四年なり 碧梧桐
葛尾(かつろうに)夏草埋もる元禄の碑
http://musubu.sblo.jp/article/15958029.html
これは元禄ということ類似俳句である。元禄というと華やかな感じがする。ちょうど芭蕉の時代だった。奥の細道も元禄時代に来ている。一方で山深い葛尾(かつろう)村の落合にきて夏草に埋もれる碑を発見した。それが元禄だった。碑や墓をずいぶん見たが元禄時代は見ていなかった。それが葛尾(かつろう)村にあったから不思議だった。明暦はもっと前でありこの時代検地があってその記念にしるされたものか知れない、江戸時代にもいろいろ年号があり時代の雰囲気があったのだろう。明治以降は「降る雪や明治は遠くなりにけり・・・」で一時代を作ったがその後大正生まれとかなると短いし一時代をみることがむずかしくなる。さらに昭和になると戦前と戦後に別れ時代はまるっきり違っているからこうした年号は無理になっているのかもしれない、やはり西暦の方が世界がどうなっていたかとかグロ-バルになっているから日本だけの年号はあわなくなってしまったのかもしれない、元禄は確かに特別なものがあった。元禄時代は明治時代のようなものだったかもしれない、戦乱も収まり華やかな江戸の文化が開花した時代だった。でも東北ではそんな文化は花開かない、伊達政宗が伊達ものとして華やかに装ったのはかえって貧乏だから背伸び死して無理していたというのは納得がいく、本当に江戸のように栄えたからそうなったのではなかったのである。東北は元禄でも夏草に元禄の碑が埋もれていた感覚である。
類似俳句は他にも相当ありそこから見えてくるものが面白い。これは俳句が季語を通じて分類されるように類似俳句が多くなる文学だからで
ある。
寒さ(芭蕉と類想俳句)
http://musubu2.sblo.jp/article/35125995.html
2010年09月23日
蕎麦の花の句
そばの花山かたむけて白かりき 青邨
蕎麦の花は確かに咲いたのを見たけど山全体に咲いているのを見てはいない、平地に咲いているのは見ている。昔は蕎麦の栽培が盛んだからこういうことがあったのだろう。尾瀬への入り口の檜枝岐辺りは相当な奥地だから米がとれないから主食は蕎麦だった。そういう山間地があったから蕎麦の花も山全体に咲いていた。会津辺りにはそういう所が多い地域である。
日本では野というとき傾斜地のことであり平らな所ではない、日本は山が多いから傾斜地が多いのだ。その野に一面に咲いているのが蕎麦の花だった。これは極めて日本的風景だった。
でも日本人はとをしても米を食べたかったからどんな山奥までも田を作っていった。傾斜地でも棚田を作った。蕎麦は山間の寒い地域でもとれるから主食代わりになるから食料として欠かせなかったのである。
蕎麦の花の句
http://saruhiko.humaniste.net/nightcap/11.html
どこかにこうした句でもでているのがインタ-ネットである。
「蕎麦はまだ 花でもてなす 山路哉 芭蕉」
蕎麦は花の方が目立つ場合が多い。芭蕉は生活的実感より美的に見ているのだ。自分もそうである。実際に蕎麦を栽培して食料として欠かせないものとして見ていたらそうはならないだろう。花より実の方が大事になるからだ。花より実を丹念にみるようになるからだ。花でもてなす比重が大きくなったのが現代であるがやはり実を求めてるのも確かである。檜枝岐でも蕎麦が食べたくて行くのではない、尾瀬に花をみたくて行くのである。「夏になると思い出す、遠い尾瀬、水芭蕉が夢見て咲いている・・・・」花を求めてゆくのだが一方で味を求めて行くグルメ旅もある。忘れられないのは新潟の小出で鮎の塩焼きをたまたま食堂で食べたことだった。魚野川でとれたものだろう。新鮮であり本当にうまかった。天然の鮎だった。あと鮎を食べたが養殖の鮎であり大きいのだがうまくなかった。今になると鮎は食べることはできない、川でとれていても小さくてほとんど鮎の味がしない、ここ二十年くらいそうした天然の鮎を食べたことがない、だから天然の鮎を食べてみたいなということはある。
自分の場合は旅して食べることにはあまり興味なかった。金がないから食べるより旅することが第一であった。旅はどうしても安上がりにしようとししても金がかかるのだ。自分はこれまで百万単位の金を使ったことがないからなんか貧乏性であった。たまたまちょっと遺産が入ったから金が使えるなと庭作りに使ったのである。旅行でも百万で旅行したことないからだ。海外旅行でも五〇万以下でありそれより安宿に泊まるから高くても三〇万くらいだった。貧乏旅行だったのである。旅行はでも相当に贅沢なものだった。暇と金と体力とかそろわないとできないものだった。今になるともう長い旅はできない、金があるが暇とか体力とか喪失してきたからだ。つくづく退職してから鹿児島から青森まで歩く人がいたがその気持ちはわかる。「自由になった、金も暇もある、旅をするぞ・・・」となりあんな過酷な旅に出かけたのである。それまで勤めていたらそんな旅できようがないからだ。そういう人が海外でもいた。退職した人でありやっと自由に旅できるようになったとバックパッカ-になっていたのだ。
でもなんか若い人に交じりにあわない、そぐわない、ジジイになっているからだ。ギブミ-チョコレ-トの時代の人だから団塊の世代より5、6年前に生まれた人だろう。子供のとき進駐軍にギブミ-チョコレ-トとしてたかっていたのである。5、6年違っても世代の違いはある。団塊の世代は誤解しやすいがギブミ-チョコレ-トの時代ではない、でも都会ではアメリカの進駐軍関係していたかもしれない、アメリカの脱脂粉乳とかを給食に飲まされた時代だからまだ敗戦の後遺症が深く残っていた時代なのである。
今年は初秋とか仲秋の名月とか秋深まるとか季節感がなくなっている。やっと猛烈な暑さが終わって涼しくなった、秋が短くすぐに冬になる感覚である。こうなると四季の感覚が薄れ俳句の文化すら破壊されることを感じた。俳句は日本の四季と密接に結びついてできた文化だからである。今年は春と秋が短い、北海道は冬と夏が主であり大陸でも寒い地域だとそうなるがそれとにてきたのかもしれない、いづれにしろこんな四季になったら日本の文化自体が破壊されることを感じた猛烈な暑さだった。これが地球温暖化のせいだとすると大きな問題だと意識される。こんな猛烈な暑さの中で生活するとなるともう嫌だとなってしまうからだ。地球温暖化は自然現象だと思っている人が多い。今回も百年に一度の異常気象だとしているからやはり地球温暖化のせいだとは一般的にはまだまだ思っていない、その辺の見極めがつかないから困るのだ。
2010年03月10日
管 茶山「冬夜読書」の漢詩を読んで・・・
管 茶山「冬夜読書」の漢詩を読んで・・
石川忠久著「日本人の漢詩」(大修館書店'03年2月20日発行)から抜粋
管 茶山(かんちゃざん)の七言絶句「冬夜読書」
雪擁山堂樹影深 (雪は山堂を擁して樹影深し)
檐鈴不動夜沈沈 (檐鈴動かず 夜沈沈)
閑収乱帙思疑義 (閑(しず)かに乱帙(らんちつ)を収めて疑義を思う)
雪が山中の庵を囲み、外の木々の影もこんもりと見える
軒端(のきば)の鈴もひっそりと音を立てず、冬の夜はしんしんとふけゆく
取り散らかした書物をしずかに片付けつつ、疑問の点を考えると
この漢詩が福島県の県立高校の入試に出ていた。 高校入試にしてはむずかしいだろう。なぜならこの内容を自分は老人になって理解できるものである。これが今の季節にぴったりなのだ。今年は寒い、昨夜も雪であり今日も外の風は冷たい、現実に雪がとけずに残っている。
これと同じことを昨夜は夜遅くまで起きて経験した。どういうわけか自分が一番読んだ本は聖書ではない、ショ-ペンハウエルの本を一番愛読した。おそらく気質的にあっていたのだろう。他にも確かに古典を読んだが若いときは理解できないことが多かった。でもわからなくても古典を読むことには価値があるし家に良書をおくこと自体、価値あることなのだ。何かの折りに手にとることがあるからだ。「じっと燃える青い燈火を通して、先哲の心が伝わってくる」夜の暗闇の中の灯火に先哲の言葉が伝わってくるというのは今でもそうである。江戸時代の闇はさらに深いから余計そうなる。「取り散らかした書物をしずかに片付けつつ、疑問の点を考えると」というのも部屋に本を重ね散らかしている、その一冊一冊をランダムに読んでみる、すると記憶が蘇りこんなことが書いてあったのかと見直すことがよくある。本の読み方としてランダムにペ-ジを読むことも読書の方法なのである。これは相当読書して老人になったとき特にそうなのである。やはり読書も積み重ねであり努力なのである。いい本を古典をある程度若い内読んでいないとあとで読めなくなる。
そして人間はいかに本を読むにしてもその本が限られているかわかる。今や知識は江戸時代の億倍になっている。だからつまらない情報、本に映像に浪費されること多い。もう映像が主流となるとき読書はしない、本は読まない時代ともなっている。映像を見て本を読んで音楽を聴いて・・・・そんなに人間いろいろなことを消化できないのだ。情報過剰化の世界で何を読んでいいか誰に習うべきなのかさえわからない、本も無数に出てくるし情報も毎日のようにあふれだしてくる。そういう時代に的をしぼって読むということも大事になる。ただその的をしぼることがむずかしい。結局老年になって読書の総決算が生じてくる。あなたが何を読んだのか?それが問われる。漫画ばかり読んでいたらあなたが老年で゛ふりかえるのは漫画である。老人になるとあらゆることの総決算が起きてくるのだ。読書というけど人間が吸収できる知識はほんのわずかである。青年時代はそんなことは思わない、時間はたっぷりあるし本なんていくらでも読めると思っている。実際は遂には本すらわずかしか読めないし印象に残るものもわずかなのである。そしていかに人間は多くのことを知らないか理解していないか老人になっても知るだろう。
この漢詩にしても有名だから普通文学をたしなむ人なら知っているはずである。ところが自分は知らなかった。基本的に知っているべきものを知らないことが多い、それは教養がないということなのだ。江戸時代の人間は現代のような膨大な知識とか技術とかの世界ではない、極めて人間的世界に生きていた。例えば春の雪の俳句で書いたけど歩くということが江戸時代では普通である。今は歩くことがない、だから歩道を雪がふりぬれて消えてゆく、歩道だからそう感じる。雪の中を歩く姿に情緒があふれている。今は車が走るだけであり人の歩く姿が見えないし歩いていても車が絶え間なく行き来しているから情緒が消されるのである。こうして人間の情が破壊されるているのだ。キレル人間になるのも車社会が影響しているのだ。人間と人間が相対することがないからである。歩くということなくなったということ自体そのことを物語っている。もはや商店街を歩くということがないのである。シャッ-タ-通りとなり歩く姿がないのだ。
今本の時代からインタ-ネットの時代となったとき昔からの読書という感覚も消えてゆく、キ-ワ-ドで調べることが 「取り散らかした書物をしずかに片付けつつ、疑問の点を考えると」はと通じている。キ-ワ-ドから共通なものがクロ-ズアップされるからだ。
管茶山という人も知らなかったけど結構有名な人だった。江戸時代の漢詩界では有名だった。江戸時代の方が情操的な面の教育では恵まれていた。先生でもそれほどの知識は必要がない、塾の先生でも人柄がいい人が選ばれていたということでもわかる。今は知識優先であり英語なら英語を外国人を相手にしゃべれるくらいだと最高の先生とされるし他でも同じである。人格など関係ないのである。学校自体受験勉強が主であり情操的な教育が最初から全くない、志の教育もない、江戸時代は最初に志の教育、武士とはいかにあるべきとか人間とはいかにあるべきとかを知識ではなく日頃の生活から教えたのである。これは戦前までもそういうところがあった。国家主義的教育でもそういうところがあった。今は全くない、団塊の世代からでも受験勉強であり知識の競争で勝つことだけを他者をだしぬくことだけを教えられた。一点でも点数を稼ぎいい大学に入りいい会社に入ることこれしか何も勉強の目標などないのだ。知識が膨大となり知識優先となったのである。
人間はやはり天才でない限り教育は大事である。凡才でもそれなりの教育するとそれなりのものになることはある。自分はいい教育はされなかったけどその後自己教育したとなる。現代では学校とかその他社会でまともに教育されるところなどない、結局自己教育しか方法がないのだ。でもどうしたって若いときは自己教育はむずかしい、回りの影響を過度に受けやすいのだ。それでカルト宗教団体に入ったりして青春を浪費する、そもそもそういう場所しか教育の場がなくなったということもいかに今の社会が異常か示しているのだ。だから受験が人生のすべてだと思わされて暗記とかの勉強に追いまくられ勉強嫌いになる。でも教育は知識の前に人間とはどうあるべきかとが問題になる。それが全くない一点の点数を稼ぐことしかないのだ。それが将来のすべてを決めると思わされている。日本にはすでに団塊の世代から教育はない、団塊の世代を今の若者は責めるけどそうしたのは団塊の世代ではない、受験勉強を強いたのはその前の戦争に負けて全く方向転換した戦前戦中世代であり団塊の世代はその方針に従っただけなのである。
江戸時代の魅力(江馬細香の漢詩から)
http://www.musubu.jp/hyouronedokanshi.htm
2009年10月01日
母刀自(とじ)の意味(尊敬されていた母)
かくれ里高尾山路の日だまりに古媼いてころ柿を売る(吉井勇)
果物と言えば昔は柿なれや干し柿好きな母なお生きぬ (自作)
あも刀自(トジ)も 玉にもがもや。戴きて、みづらの中に、あへ巻かまくも(四三七七)
刀自(とじ)という言葉自体万葉時代からあるのだから古い、ただその意味は失われた。母を老母を尊敬する言葉だった。台所をとりしきる女性だった。家族も万葉時代だったら今とは相当違っている。大家族でありその中で家事をとりしきる女性が刀自(とじ)だったのだろう。それだけ家族が多いとそういう中心になる人が必要だったのである。今とは違い家事は機械化もされていないし外部に委託されない、だから家事は一軒の家の中でまかなわれることが多い、外食などもないしその用意だけで大変なことであった。女性の労力は家事に費やされていたのだ。
だから家事をとりしきる刀自(とじ)は重要な役目をにない家をとりしきるまでになる。刀自(とじ)をまだ戦前は言葉として使っていた。それなりに使われていたし女性もまだ家の中の仕事が主だったからである。これだけ母刀自(とじ)が慕われ尊敬されることはある意味で幸福な時代だったともなる。今は母でも父でも存在感が希薄なのである。核家族などと家族も一体感が失われた。これは家族のせいではない、社会の変化の結果であり女性差別とかを声高に言うのも実は女性は別に過去に差別されていない、かえって近代になり差別が叫ばれるようになったのも皮肉である。女性が女性の役目をになっていたとき差別はなかったのだ。これだけ尊敬されることでもわかる。
かくれ里高尾山路の日だまりに古媼(ふるおうな)いてころ柿を売る
今はモノと人が結びつかない、世界の果てから食料が集められるけどそれを生産する人は見えない、物質的に豊でも心では貧しくなっている。直接老婆から渡された干し柿は特別温かさがある。 現代はス-パ-に行けばありとあらゆるものを食べられるがその食料を作る人が見えないのである。魔法のように置かれている。ただ金さえあれば食料も手に入る、だから地球の裏側から来る食料に感謝するということもない、人が見えないからだ。
老人の価値が低下したというとき老人のもっている役割の喪失である。女性の場合は大家族の家の中にあった。それが家事が機械化して社会化したとき失われた。その代わりに女性も社会的な役割として仕事の能力で評価される、男と同じ様に競走するようになった。だからかえって女性は苦しいと嘆いているのもわかる。男と伍して仕事はできない、やはり女性の役割は家庭にあったからだ。フェミニズムも社会の変化の中ででてきた思想であり男と戦わねばならないとはまさに社会の変化で女性が男と伍して仕事させられることから起こった運動だったのである。これはかえって女性を不幸にしたのかもしれない、男と女の役割は本来違っていたからである。
母刀自(とじ)の意味
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/2468.html
2009年08月21日
これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺(小林一茶)の解釈
是(これ)がまあつひの栖(すみか)か雪五尺
小林 一茶
人間のついのすみかはどこになるのか、自分の行く末を考えたら最近は身内が一人死んだしそれで墓のことなど何か自らの奥津城を意識した。自分の最後となるべき墓のことをこれほど意識させられたことはない。自分の家の墓のこともそうだが母の実家の墓も荒れているので直す必要がでてきた。隣の墓が持ち主がないと思っていたら実際はあった。墓は一旦使用権を買えばあとは一年間500円とかで維持できるのだからなかなか無縁化はしないことがわかった。誰でもそれくらいの金は払えるから墓を維持することは楽である。家を維持することは老朽化してリホ-ムなどすると大きな金がかかる。財産がないと維持できなくなる。人間は俳句でもその人生経験から解釈する。小林一茶も放浪の俳人である。貧乏のどん底でも日本を旅して放浪していた。結局、自分も同じだった。30年間放浪していたのだ。そして今やジモシティ(地元主義)になった、というよりは地元に閉じ込められたというのが現実である。つまり自分の一生はそもそも故郷から地元から脱出することだった。東京の大学に出たのも地元を脱出することだった。若いときジモシティ(地元主義)にはならない、絶えず遠くへ遠くへと心は向き現実に今や若者は世界を放浪している時代になった。でも最後に老人になったらつひの栖(すみか)に落ち着かざるをえない、そのついのすみかがいいとは限らない、一茶にとっても故郷はいいところではなかった。でも故郷に帰らざるをえなかった。
故郷だと田舎だと狭い地域の思考になってしまう。視野がかなり狭くなるのだ。そして過去からの継続も大事になり意識化される。墓を作ったとき百万したとか聞いた。でも今他の業者に聞いたら高いという、実際に何十万も高いようだった。するとなぜそんなに高くとったのだろう、高くとりすぎていると思った。こんなこと都会だったら業者自体すでに誰かわからず関係していないのである。そうした昔のことまで今にとりざたされるのも田舎なのである。つまり都会なら法外値段をふっかけたりしてだますことができる。田舎だと今になってそんなことがわかると取りすぎだったとかごまかしだったとかなるから信用を失うこともありうる。つまりあまり高い値段では信用を失うことにもなる。地域で信用を獲得することは昔からの継続も関係しているのだ。グロ-バル化の世界は今や庶民でもそうである。視野が世界的になった。その反面やはり老人になればついの栖(すみか)が意識化される。つまりそこは墓なのである。もはや墓に入るだけのend(ゆきづまり、終着点)なのである。田舎は一面牢獄である。今年は曇って憂鬱なのも影響している。一茶がこの句を作った気持ちがわかった。
陰鬱な雪国の空がのしかかるようにおおい、ただ雪ばかりがふり土蔵に閉じ込められるついのすみかの暮らしである。最後にその重い陰気な信濃の雪の下に閉ざされる。雪国の冬は長い、江戸時代ならさらち長い、交通機関もない、ただ毎日雪がふり雪に閉ざされた世界なのである。ここで雪五尺という具体的な雪の量と重さを意識化したこともわかる。自分にのしかかる具体的な重圧感を表現したのが雪五尺だったのである。自分も介護とかでその重圧感を身に帯びたからわかった。身動きとれない感覚が雪五尺なのである。雪五尺のなかに埋もれる、払いきれない雪五尺の重みがのしかかる。もはや年だからさらにその重圧感は死へとつながっている。若いときは故郷が嫌で放浪したが今やここで雪五尺の下で死ぬ他ないという陰鬱な最後なのである。
2009年02月16日
岩手県の自然のバックグランドから人物も生れる秘境岩手県に育まれたもの(原生人間-山人-賢治)-詩
岩手県の自然のバックグランドから人物も生れる(東洋、国風文化の回帰)
秘境岩手県に育まれたもの(原生人間-山人-賢治)-詩
http://www.musubu.jp/hyoronmorioka.htm#back
文化が生まれるバックグランドは自然である。なぜ岩手県から賢治とか啄木とか上野霄里氏が生まれたのか、それはやはり岩手県という広大な原始的自然が残されていたからである。人間はいくらその人が天才であっても自然のバックに映えるものであり広大な自然の作用があって映えてくる。ドイツの文化とフランスの文化の違いも隣り合っているのにこれほど違うのかやはり北方的風土と南方的風土の相違があったからだ。上野霄里氏の原生人間の思想も岩手県にふさわしいし岩手県という広大なチベットのような自然をバックにすると了解しやすくなる。そもそも東京の大都会をバックにしたら何が生まれるのか?そこには奇怪なカルト宗教であり異様なものしか生まれない、全くの人工的空間になってしまっているからだ。巨大なビルの谷間で人間は蟻のようになってしまっているからだ。そこで人間が巨大だと言っても誰も実感しない、でも岩手県のような大自然をバックにするとき人間は巨大だとか神話的だとか言っても違和感がなくなる。魔法だとか秘薬が生まれると言っても何か実感を帯びてくる不思議がある。山伏などは山野を駆けめぐり自然の中で何か会得したものがあるから今のカルト宗教団体より秘術的なものを身につけていたかもしれない、これを今の現代科学の時代からするとかえってカルトだとか非科学的でまやかしだとかなる。でもなぜ現代がカルト宗教がこれほど社会をおおっているのか?それもやはり奇妙なパラドックスである。自然から全く離れてしまった、人工的空間に異様なカルトが生まれ繁茂している不思議があるのだ。それは明らかに過度の文明化から生まれた病理的現象なのである。だから過去を今の科学からすべて否定するとき実は現代の文明こそ異様な怪物を生み出している。人間も自然の一部だから自然から離れると人間も異様なもの人間ならざるもになっていたのである。アウトサイダ-が異様化されてみるが文明人こそ実は異様な存在だということにも気づくべきなのである。
2008年10月28日
秋にふさわしい詩(鉛筆が語る昔)
秋にふさわしい詩(鉛筆が語る昔)
タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行って
あの黄色い外国製の鉛筆を買った
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずった木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ
明日はもう秋だ
ー西脇順三郎「秋」U、詩集『近代の寓話』(1953)所収。
この鉛筆はドイツ製だという、鉛筆も昔はいいのは輸入ものだった。昔から勉強はノ−トに鉛筆を削り書いていた。鉛筆をナイフで削ることが子供の頃いつもしていたのだ。鉛筆も結構高価でありノ−ト(帳面)も高価である。帳面という言葉は死語になった。親戚の叔父は鉛筆が最小限に短くなるまで使っていた話をした。もう指でつかむことができないくらいまで鉛筆を使っていた。ノ−トも隙間なくびっしりと書いていた。それほど鉛筆もノ−トも貴重だったのだ。鉛筆をナイフで削ることは手を器用にしたりする効用があった。鉛筆削りという機械もでてきたが鉛筆をナイフで良く削っていた。
学校で学べない貧乏の無念
叔父は優秀だったらしい
鉛筆を手にもてなくなるほど使い
帳面にも隙間なく文章で埋めた
貧乏で学校で学ぶことができなかった
女学校に入りたかった姉もしきり言っていた
父は酒屋の丁稚奉公でどうして字を覚えたのか不思議だ
通帳にも筆で書きよく筆を使っていた
明治生れの人で最後にさしみ食えるのにさしみ食えない
病気で食欲がないから食えないと言って死んでいった
その後も貧乏な時代は続いていた
金の卵で中卒で集団就職した同教生も多数
中卒が当たり前の時代から大学出が当たり前の時代
留学すらそれほどめずらしくない時代
私は三流大学でも大学出たんだから恵まれていた
父は上の学校にあげろよと遺言して死んだ
上の学校で学ぶこと自体が貧乏な時代は容易でなかった
明治時代から上の学校で学ぶことが日本人の願望だった
それは立身出世やら偉くなるということに通じていた
大学など出ることは最高のエリ−トの時代があった
字が読めない明治生まれの祖母が墓に埋まっている
ハガキなど書けないので人に頼んでいた
字を書いたり読めることがすべての人にできない時代があった
なんだか昔の人を今想うと悲しくなる
母方の墓には20代で結核で死んだ人が埋まっている
人間は望みをかなえられず死んだ人が多い
貧乏の犠牲となって死んだ人が多いのが歴史だ
叔父の写真は飾っている場所がない
実家が喪失してしまったから跡継ぎもいないから
墓だけは残っているのもあわれ
その一生は貧乏であり何ら残すべきものもなかった
そういう人が昔は多かった−無念がそこにあった西脇順三郎の詩にはこうした貧乏の記憶はない、むしろ鉛筆というのが知的刺激を与えるマジック的なものとして詩にしている。バラモンはカ−ストの一番上の知識階級である。下々のことは念頭にないのだ。これは鉛筆を削り鉛筆で書くことにより知的な生活が道具とともにあった時代を詩にしている。田舎的ではない、極めて都会的なのだ。賢治の詩に通じる所がある。賢治は田舎的なものと都会的なものが同居していた希有なる天才だった。あれだけの知的宇宙を作り出したことに驚嘆するのだ。それも東北という岩手県で孤立していてできたのだから不思議だとなる。今とは相当環境も違う、海外旅行とか留学すら一般化した時代とは違うのだ。知的作業は前は筆で書いていたし鉛筆で書いていたときでも鉛筆を削ったりしているのなかで知的なものが育まれた。これは万年筆などにも言える。それは今や郷愁となっているのだ。バソコン時代になったらこうしたものから電子文字を読むようになったから郷愁の世界となってしまった。パソコンの文字はみんな同じだから個性がない、書くことはやはり文字にも個性を記すことだった。それが筆なら特別そうだし鉛筆でも万年筆でもそうである。書体はその人の個性を示すものだから外国ではサインが判子の代わりになっているのだ。今でも遺言書などは自筆で書かねばならない、実際死んで残した姉のノ−トの「私の一生」というのは遺言のようになっていた。字がうまい人だったから記念として残されるものとなった。これがパソコンで書いて印刷した電子文字だったら味気ないものとなっていたし証拠とならないことが問題になる。その人の書体がないからだ。ただパソコンは気楽に文章が書けるのでこんなに書いてきたのである。これだけのものを原稿に鉛筆であれ万年筆であれ書いていたらとても書けない、書くことは相当な労力なのである。私はあまりにも悪筆だから自分の書いたものを残したくないこともある。うまい字を書ける人も少ないことがありこれも問題なのである。インタ−ネットで書くとき便利なのはすぐに引用できることなのだ。この詩すら知ってはいたが良く読んでいなかったが紹介する人があるとこういう詩とか俳句とか短歌あったなとその一つのものを深く鑑賞することになる。普通なら本を読んでそうなるのだがプログなどで誰かが紹介したものを読むのがインタ−ネットなのである。その方が新しい発見があるのだ。こういう読み方自体今まではありえなかったのである。一つの詩とか一句一首を読むことが多いのである。この詩は高級な知的なものを刺激するものとしての鉛筆だがその底辺には貧乏な時代の知識を獲得できない、学校で学ぶこともできない人々がいた。そういうことをふりかえることも必要なのだ。この詩はとにかく秋にふさわしい詩だった。
2008年03月15日
「とけて寝ぬ 寝ざめ寂しき 冬の夜に むすぼほれつる 夢の短かさ」の意味
源氏物語歌集 319
巻二十 朝顔 12 源氏
とけて寝ぬ 寝ざめ寂しき 冬の夜に
むすぼほれつる 夢の短かさ
むすぼほれつつ―「むすぼほれ」は「(水分が)凝固する」「(心が)鬱屈する」などの意の下二段動詞連用形。夜床で涙を流し、朝までにそれが凍りつく――という状況が継続している、ということ。
溶けて(溶けて−解けて)は寝ているとむずかしい難問が解けたとかの話を聞く、いろいろな複雑な問題でも晩年には自然と解けてゆくことがある。ここでむずかしいのが・・・むすぶ−結ぶ−ほれつる・・・である。水が氷となって結ぶということだが涙が凍りつくというのも本当にそういう切ない悲しみが凝固して氷となるという深刻な表現なのか?源氏物語は宮廷内のことで庶民の喜怒哀楽とは離れているからわかりにくいしみんな読める人はいない、ただインタ−ネットでは誰か紹介しているものを読むことが多くなるのだ。この歌になぜ注目したかというと
介護して老いのあわれや冬の虹
夢に見し結ぶ心や冬の虹
http://musubu.sblo.jp/article/6902874.html (冬の虹)
私が作った冬の虹と意味が通じ合うのではないかと一瞬思った。晩年、老年は本当に心が結び合うことがあるのではないか?同じ病室の妻を介護するため毎日来ている。食事の世話もするし車椅子にものせるしこまやかに介護している。はたから見たらうらやましくなるだろう。家族でも介護にまれにしか来ない人は自分でも向かいの人からうらやましがられた。結ぶは心が結び合うものとは違う、別なものだがこの歌を解釈すると多少イメ−ジ的には似ている。短い夢であったが冬の虹が一瞬たってはかなく消えた。
虹を見ゆ 寝ざめ寂しき 冬の夜に むすびて消えぬ 夢の短かさ
私の冬の虹の俳句を歌にすればこうなるのかもしれない、これだと意味は違うがやはりにている面はある。夢の短さは共通している。この世の契りも短い夢だったかもしれないからだ。インタ−ネットは一句−一首を通じてその人なりの読みを深めるのに向いているのだ。ある人がなぜある句に歌に興味をもつのか、それはその人の人生体験からそうなるのだ。老人になると特に様々な経験をするから読みが深くなるのである。様々な別離、死別も経験するから読みも深くなるのである。
2007年12月28日
草に埋もれた奥州街道 (街道てくてく旅−日光、奥州街道−NHKハイビジョン)

(街道てくてく旅−日光、奥州街道−NHKハイビジョン)
埋もれたる奥州街道草いきれ
テレビで奥州街道をゆくを放映していた。卓球選手の女性が歩くものだった。栃木県の氏家辺りにその道があったのだ。昔の街道がいかに淋しいものだったかこれでわかる。街道というと何か大きな広い道をイメ−ジしてしまうのだ。奥の細道だから道は細いのである。杉並木の道でも暗い道だった。その暗い道を日光までゆくことで東照宮は神秘で豪華なものとして映えた。杉並木の道のかなたに東照宮の荘厳が浮かんでくるのである。このハイビジョンの街道の放送にでていた卓球選手の女性は一句だけいい句を作っていた。それは「初紅葉」の句だった。はるばる日光まで歩いて初紅葉に迎えられたことを俳句にした。若くても一応俳句のセンスがあるから自分の若いときより優れている。私の場合ふりかえっても30頃までいいものがほとんどない、その後もあまりいいものがなかった。つくづく私の場合は60になって開花したともなる。これもやはり旅の蓄積があったからなのだ。その時はいいものを作らなくてもつまり旅をしたということ自体が貴重なことだった。その時間は今やなくなったからだ。この初紅葉の句も電車とか車で行ったならこの句の感慨は薄れる。はるばる歩いて行ったからこそ初紅葉が一際美しいものとして映った。旅人になっていたからである。今や旅人になることはそれだけむずかしいのである。あとの卓球とかは無駄なことだった。ビデオには無駄が多すぎるから情報としては切り捨てねばならない、今や情報の取り入れ方は各自が編集することが必要なのである。
埋もれたる奥州街道草いきれ
草いきれというときこれは−夏草やつわものどもが夢のあと−に通じるものだった。なぜなら夏草がむんむんと辺りに生い茂っていたのが芭蕉が見たときの奥州街道だった。夏草の道を踏み分けてゆくような道が「奥の細道」だったのである。しつこいほど言っているが昔はこうして途切れた記憶の道を再構築する作業が必要になっているのだ。想像力で現地を踏んでよみがえらせない限り過去は浮かんでこない、これは奥の細道だけではない、過去の戦争体験でもその人の過去は途切れた記憶をつなぎあわせるような作業が必要になっているのだ。
白河関跡、堙没(いんぼつ)シテソノ處所ヲ知ラザルコト久シ。旗宿村ノ西ニ叢祠(草木に埋もれた祠)アリ
芭蕉らは鬱蒼とした草木に埋もれた古い明神祠を見ても、そこが白河関の跡であるとは判らなかったようだ。また、曽良の随行日記には追分の明神の記載も見られるが、そこへは立ち寄らず、関山を経て白河城下へと向かっている。
実際は白河の関がどこかは不明になっていたのだ。ここにもかえって現地を旅した時の意外性があった。旅とは常にそうである。想像したものとは違ったものとして現れる。過去もまた今や自分自身すら経験したものとは違ったものとなっているのだ。
生い茂った草に埋もれた途切れた道
草いきれがする道を踏み分ける道
そこに古人の旅する吐息がもれる
遠い記憶のなかの道が脳裏に通じる
歩いて行く古人の姿が見える
そこに出合いがあり別れがある
しかしたちまち現代の喧騒の道にかき消される
それでもその途切れた道を記憶のなかでつなぎあわせると
昔が一連の物語として一本の古木のように根を下ろす
2007年06月15日
暗い穴(常磐炭鉱の跡)
暗い穴(常磐炭鉱の跡)
父は暗い穴に入り
石炭を掘り出す
父が残した古ぼけた手帳
それは私の父が残した
酒屋の通帳とにていた
父は暗い穴に入り
石炭を掘り出すために
地下で格闘した
その石炭を小名浜港へ
常磐線で東京へ
一時エネルギ−として
日本を支えていた
鉄道は石炭を木材を運ぶためのもの
森林鉄道もそのため各地にあった
モクモクと煙をはき蒸気機関車が走った
父は暗い穴に入り
黙々と石炭を掘り出した
石炭の時代は終わった
しかしときにその暗い深い地下の穴に
声がして人をひきこむ
その暗い穴の底、落盤で死んだものもいる
塵肺で病気になったものもいる
暗い穴の中で人は格闘した
暗い穴にはまだ人の声がする
ひょっこりその暗い穴から
父がでてくる姿があった
夢のなかでも生々しい
確かに子にその歴史は受け継がれた
その暗い穴は歴史の証拠として生きている
浅野は石炭商でしたから石炭には詳しい。遠い筑豊から運ぶより、東京に近い炭鉱の開発が急務であることを力説し、当時立ち遅れていた常磐炭鉱開発に積極的に取り組みます。常磐炭鉱近代史の父は渋沢そして浅野と断言しても過言ではありません。石炭を運ぶために常磐線敷設計画を最初に打ち出すのも渋沢と浅野です。ここで面白いのは、現場をよく知る浅野が年長者である渋沢に積極的に具体案を出していった点だと思います。石炭を産地から運ぶには鉄道敷設の前は船で、当時の三菱汽船と火の出るような激戦をしたのが共同運輸でした。
http://www32.ocn.ne.jp/~iizukahotline/syoukai/clip-041.htm
鉄道の敷設は物産を資材を運ぶためにはじまったのである。その最たるものが石炭だったのだ。燃料は当時、蒸気機関車だから石炭だったしスト−ブも石炭だったし石油がないのだから石炭が主な燃料となった。今でも中国ではそうである。常磐炭鉱のような石炭の街が今でもある。磐城は今でもそうだが東京に近いということが強みだったのだ。磐城までは複線であり東京までの電車が磐城をかなり往復している。途中で東京への通勤電車になるのだから東京が身近なのである。前は泉と小名浜を結ぶ電車もあった。
磐城−小名浜−泉は結ばれていたのだ。遠距離輸送は鉄道しかなかったから鉄道社会となっていた。磐城から原町−岩沼までは単線でありこれは今も変わっていないのだ。磐城は明治になって炭鉱で大きな地場産業を作り発展したのだ。東京に近いことが地の利で経済的に発展したのである。磐城は実際はみちのくというよりは古代の常陸(ひたち)であり今では東京圏内に近いのである。そして相馬からは磐城も遠い、会津もさらに遠いから何か一体感がないのである。これは交通とも関係している。今磐城市でもそれほど街としては大きくない、広域化して大きくなったのであり昔の平市となると大きくはない、電車で1時間半かかるとなると遠いから買い物でも行くことがない。ただ海を見に折り畳み自転車で行くくらいである。
酒屋の通帳(1)
http://www.musubu.sblo.jp/article/1836589.html
近代産業遺産を求めて〈八茎鉱山〉
http://loveiwaki.cocolog-nifty.com/duketogo/2007/02/post_f57a.html
関東近辺には日立鉱山以外にも素晴らしい廃虚が。
場所は茨城県北茨城市。
同市日棚地区には、旧常磐炭鉱中郷鉱業所跡地がある。
そこには、巨大なボタ山と共に、選炭場などの跡が多数残存。
本当に凄い!一部の建物には、ベルトコンベアや配電盤がそのまま
残っている。あと、ヘルメットも転がっていた。
あと、ここの敷地は一部工場になっているので要注意。
同地区北方の木皿地区には、重内炭鉱跡が。
こっちは常磐炭鉱と比べると小規模だけど、選炭場跡や廃線跡、
炭鉱町がほとんどそのまま残っている
2007年02月09日
桑の葉と汽車(斎藤茂吉の歌を読む)
母にちかづく汽車はしるなり
桑の香の青くただよう朝明けに
堪えがたければ母呼びにけり
蚕の時代がまだつづいていた。桑畑がいたるところにあったのだ。阿武隈急行ができたのは遅い、あの辺は阿武隈高原は川俣、保原など蚕の産地であり蒸気機関車が来るとその煙で桑の葉がだいなしになると通さなかったのだ。それだけ蚕で生活していたから起きた問題だった。桑の葉は今はほとんどなくなってしまった。茂吉の生きた時代も明治から大正−昭和と今の大正生まれと通じたものがあった。新幹線とかで来てはこういう旅情もなくなるだろう。汽車という言葉自体すでに過去のものなのである。電車であり山形新幹線になっているからだ。文学は時代を読むのに適していることがわかった。
小説は苦手でもインタ−ネットで一部をとりだして読むというのもありえなかったがインタ−ネットではキ-ワ-ドから読むからそうなる。インタ−ネットの特徴は今までの読書とは違う、山形を旅したから山形にかかわるものを調べて出てきたものを読む、茂吉の短歌でも膨大だから全部は読めない、自分の興味ある関連したものを読むのがインタ−ネットなのである。だから今までなら読まないものの一部を常に読んでいる。インタ−ネットの読書は今までにない読み方をしている。本の世界だったら読まないものを読んでいる。それは自分の関心とキ-ワ-ドから読んでいるからなのだ。
山形のあがたよりくる人のあり三年味噌を手にたずさえて
ここにあがたという言葉がでてくる、他にもあがたがでてくるのもあがたがまだ生きている。あがたについては書いてきた。あがたは(県)だからもともと日本の国が起こった地域である。アガタ(上田)から田が作られてきたからである。山形とは山のあがたなのかもしれない、上山は上の山形だった。
古代の部落は丘にあった。低地部に臨んだ高地である。田は一般にその部落を上に控えた低地(田居)にあった。秋の収穫期になると特殊な信仰に関係して一部の貴い女性などが降って低地部に滞在する。そこで小屋などのある所を田居といい、そういう所で一時的集団的住居ができるのをいなか(いなか)と言った。 (折口信夫)
これでわかるように古代では田のあるところには普通は暮らしていなかったのである。生活の根拠は高い場所にあったのだ。
他に山形県の地名の特徴として山形市には三日、五日、六日市 七日市、八日・・・と市のつくのがやたら多いのだ。旅籠町もあり紅花商人などが泊まったという司馬遼太郎の推測である。つまり毎日のように市がたっていたのである。
雪溶けて市立つ日こそ待ち遠し(自作)
こうした待ち遠しいという感覚もなくなってきている。それも交通の発達ですぐ行けるからである。汽車と新幹線の時代はあまりにも速さが違っているから感覚的にも宇宙時代になったような気さえしたのである。飛行機かロケットのような速さだったからだ。
ゆけむり紀行
http://www.yamagatakun.org/kyoushu/mokichi03.html
念珠集 斎藤茂吉
http://www.aozora.gr.jp/cards/001059/files/43501_17416.html