2025年01月01日
【2025新年東北讃歌の詩−松島など】 北上川は盛岡から岩手山を経て石巻に流れる
2024年04月02日
幸いを求め春の日遠くの見知らぬ街へ【詩】 (左沢までの春の小旅行)
2022年11月06日
宮城県山元町の地名ーかすべ田ー犬塚古墳の由来
2022年09月23日
秋の松島ー俳句短歌−写真 (半年ぶりに行った松島)
秋の松島ー俳句短歌−写真
(松島は浄土、修行の場)
走り行く電車に映える秋桜
山鳩飛ぶ実り広がる仙台へ
(瑞巌寺)
禅寺の門や松島初秋か
金地にそ紅白の牡丹大広間
殿の座に金地に梅や匂うかな
中庭に石の配置や秋に入る
(観瀾亭)
秋涼し観瀾亭に茶一服
太き根の露に見ゆや秋に入る
(五大堂)
波静か五大堂古る秋鴎
秋涼し松に囲まれ五大堂
波静か洞の仏や秋に入る
瞑目す石仏いくつ秋に入る
地に根付き太き根っ子や里の秋
(瑞巌寺)
青苔に秋の日さして石仏の瑞巌寺にそ古りにけるかな
一匹の虫の音聴くや石仏の瑞巌寺にそ古りにけるかな
門の外海の碧くも島見えて秋の日あわれ歩む人かな
(五大堂)
銀色に水面きらめき五大堂松古り囲み秋の日暮れぬ
常盤木の松の緑に五大堂秋の日さして島々暮れぬ
(観瀾亭)
秋の日や石に根を張る木の太し茶一服飲む観瀾亭かな
・・・・・・・
石仏の重なりここに祈りかな秋の日さして跡そあわれ
松の影濁らぬ海に映しつつ石の仏に秋の日さしぬ
雲晴れて島々見えるうれしかな秋の鴎も一羽飛びくる
松島の緑うるわし島の間の波に浮きゆる鴨の群れかな
名も知れぬ小島一つ松島の奥にそあれや秋の日
老夫婦たずねてあわれ松島に秋の日さしてはや暮れにけり
松島に芭蕉泊まると千金の値にあれや秋の日暮れぬ
久々に仙台に来て花を買う五色の花や我が家に映えぬ
みちのくに住みて長しも点々と秋の灯ともり電車に帰りぬ
久々に晴れたので松島に行ってきた、ちょうど松島に来て晴れた、天気予報は午後から晴れるとあったが曇っていたのでどうなるか心配だった
天気予報はあたっていた、午後から3時ころから晴れてきたからだ
松島だったらいつでも行ける日帰りコースである
これも他から見たら贅沢だとなる、ところが名所でもあまりに近くにあるとその感覚がなくなる、いつも見れるし当たり前だとかなる
松島は遠くでは常に憧れの地だった、だから芭蕉も期待して来た、でも俳句が作れなかった、その理由はわからない、場所の泊まったという宿がレストランになっていた
その三階からのながめが良かった
松島はもともと修行の場だった、修行者が僧がここに集まったのである
瑞巌寺とか寺がありその領域は広かった、他にはひなびた漁村であり漁師くらいしか住んでいなかった、でもそういう場所でも相当数の修行者が僧が集まった
それで不思議なのはどうしてそういう人達は洞にこもり修行できたのか?
必ず食べなければならない、誰かがその食事を用意しなければならない、
9年坐禅を続けたとされている達磨大師でも食事を運び人がいたのである
その食事を一人のために運ぶことも容易ではない、ここが何か見逃されている
近くの霊山でも山で修行した人達が相当数いた、でもそんなに多い僧が山の上でどうして食を得たのか?やはりあの山は岩山でありそこで食べるものがない、とすると山に誰かが食料をもっていかねばならない、それも大変な労力になる
ただ山を修行の場としてきたのが天台宗でありそれが寺の起りである
比叡山でも山に寺があり修行する場としてあったからだ、それを民間では山伏とかなり受け継いだのである、山形県の山寺でもそうである、山を聖なる場として修行したのであるだから今の都会化した完全に俗より俗化したカルト宗教団体などはまずそういうふうに
心を山で浄めるとかの志向が全くないのである
完全に政治化経済化した俗なる世界にひたり俗世界よりぎらぎらした欲望を追求しているだからこそ数もあれだけ集まる、欲をおさえよとか心を浄めるなどない
ただ煩悩即菩提であり煩悩があればあるほど救われるとまでなっている
だからそこにもう宗教が求めたものはなにもないのである
山には仙人が住んでいたとか老子が始祖の道教がもともとあってそれが仏教と混合して
修験道が生まれた、ただなぜ仏教が興隆したのかとなると山伏でも民間で山からおりて様々な人間の悩み苦しみに対して何らかの効用があり頼むものとなった
だから薬草を山でとり薬を処方したり病気には祈っていたとなる
つまりなぜ仏教が栄えたとなれば病気を直すために祈ったことによる
会津で8世紀にすでに仏教伽藍があったとか僧侶が相当数来たのは病気が治ることで祈ることからそうなったのである
ではなぜ松島が修行の場となったのか?、それもやはり山が聖なる場所であるように松島は風光明媚な浄土に見えたのである、ここで心を浄めるということで修行者が集まったのである、まず今のように大都会に人が集まりそこで生まれる宗教はたいがいカルトになる異様なものとなるのはやはり清浄な自然から遊離してしまったからそうなる
おそらく松島は海に面していて魚介類がとれるから貝とか他に魚でも食べたのかもしれない、海でとれるものがありそれを食べた、魚を食べないといっても魚もとれるのだから食べたかもしれない、どうしても今になると何を食べていたのだろうと疑問になるからだ
そもそも一般人でも食べることができなくなり乞食になったりした、そして乞食では布施されないとしてにわか僧にもなった、それは四国の遍路になったホームレスもそうだった乞食なのだが僧だとして経文を唱えて金をもらうになった、その人は全く宗教とは関係ないが食べるためにそうなったにわか僧でありペテン僧だとなる
それは昔もあったのである、ただ昔は食べることが切実だからそれを必ずしもとがめることはできないともなる、つまり乞食と僧の見分けがつかないのである
今でも僧は働く人からすると修行もしないし楽だとみられる、ただお経を唱えていればいいとなるからだ
鎌倉時代に東北にも天台宗から分かれた禅宗でも広まった、特に瑞巌寺は禅宗であり伊達政宗が禅宗だから重んじられた、武者の間とかもあり僧だけの寺ではなかった
伊達政宗の寺ともなっていたのである、禅宗と武士は相性が良かった、一方で真宗と日蓮宗は民衆化した宗教として普及した
豪華絢爛な安土桃山文化を象徴するのが黄金の襖の障壁画である
観瀾亭の障壁画模造品である、本物は瑞巌寺にある、秀吉が黄金の茶室を作ったように
黄金の時代にもなる、瑞巌寺の障壁画も見事である
東北だとやはり歴史的にも文化的にも仙台が中心になる、そこまで日帰りできることは
恵まれているともなる、福島市とかには歴史とか文化を感じないのである
二本松の城には感じる、景色もいい、東北だと私の住んでいる浜通りでも波が荒く打ちつける、荒寥としたものともなる
でも松島は入江であり島々があり穏やかなのである、こういう光景は東北にはあまりないのである、だからこそ修行する場としてはいいとなる
松島で古人となる歟(か)年の暮
松島で死ぬ人もあり冬籠(ふゆごもり)
「風流行脚の途次、松島で死の本懐をとげる人もある。そんなうらやましい人のことを心に思いながら、自分はぐうたらと火燵行脚の冬ごもりを極め込んでいる」とある
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_28.html
松島で死ぬ人もありというときここで修行して死んだ僧たちのことを思っていた
古人となるかもやはり死ぬことである、松島は風光明媚でありそこは死ぬにふさわしいともなる、浄土でもあり死に場所としてふさわしいとなる
江戸時代だったら松島でも一回としか来れないから余計にそうなる
いつでも行けるとなると何かえりがたみがなくなる
私はここ十年以上旅していない、今になると東京でも京都でも奈良でも大阪でも遠いとなる、別に行けるのだが何か行けないのである
家を留守にすることもあり行けることは行けても行けないのである
これだけ旅行したのだからもう悔いはないとなる
近間だけでもいいともなる、近くだと四季に行けるから別に遠くに行かなくても深化できる、松島でも春から夏でも冬でも行っていた、ただ秋には行っていなかったのである
古代における山林修行の資糧ー乞食ー蘇軾
http://renbutsuken.org/wp/wp-content/uploads/2011/04/Kobayashi3.pdf
2022年09月05日
冬の松島十句(冬の日、冬鴎、冬深む、冬の暮)
冬の松島十句(冬の日、冬鴎、冬深む、冬の暮)
冬の海障壁画古り古木かな
冬の日や古木根を張る観瀾亭
観瀾亭古木根を張り冬深む
金箔の障壁画古り冬の海
桃山を偲ぶや松島冬鴎
冬の日や観瀾亭に抹茶飲む
松島や波に浮きゆれ鴨百羽
五大堂松島に古り冬の海
松島や曲げ松により冬の暮
冬の日に松島たずね蜑(あま)の船
松島に碑の古りうもれ冬の暮
冬日さし仏苔生す瑞巌寺
冬の海鐘鳴り暮れぬ瑞巌寺
雄島にそ洞に仏や冬深む
忍辱の衣の仏冬深む
中秋賞月於松島
今宵待月倚吟
滄海茫茫一氣濃
思見C光佳興荐
道人緩打五更鐘
訓読
中秋 月を松島に賞す
今宵 月を待ちて に倚れば
滄海 茫茫として一氣 濃やかなり
清光 佳興の荐を思ひ見て
道人 緩やかに打つ 五更の鐘
今宵、杖を手に月が出るのを待っているが
大海原はぼんやりとかすんで、一面に広がる霧が濃くたちこめている
清らかな月光のもとでの趣深い宴を思ってくれてのことか
寺の僧は夜明けの鐘をいつもよりゆっくりと打ってくれている
鐘の音が重々しくひびきわたる、この鐘の音がいいのである、鐘の音は大地にでも海にも山にひびきわたる、何か重々しいのである、それがヨ−ロッパとかの鐘の音とは違う
騒がしくないし重々しいのである、君が代の歌でも他の国家とは違って重々しい
重厚な調べになっている、日本だけが独特なのである
中国が何千の歴史があっても国家となると共産主義国家であり現代的になり歴史を感じさせないのである、国家は近代になって生まれたから新しいのである
でももともとあった王国とかは歴史があり違っている、でもそういう国家は日本の他に感じないのである
観瀾亭は大坂の秀吉の茶室を移転したものであり当時の桃山時代の金箔の障壁画が残っている、これはみちのくで作ったものではないとなる
安土桃山時代は華やかな文化が開いた時代である、秀吉だと黄金の茶室が有名であり
黄金好みであった、だから障壁画も黄金なのである
「風流行脚の途次、松島で死の本懐をとげる人もある。そんなうらやましい人のことを心に思いながら、自分はぐうたらと火燵行脚の冬ごもりを極め込んでいる」とある
松島で古人となる歟(か)年の暮
松島で死ぬ人もあり冬籠(ふゆごもり)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_28.html
松島は霊地でもあった、だからそこで死にたいともなった修行の場でもあり確かそこで修行していたし霊場にもなっていたのである、古い碑もある
ただ現在は観光となっていてそういう感覚がなくなった
修行の場がどこでも観光化したのである、そのために汚されたともなるのである
人間はどういう場所で死にたいかとなるとやはり風光明媚な場所で死にたいとなる
大都会の騒音のゴミゴミした所では死にたくないとなる
それが人間として当然だとなる、でもごみごみした都会だとかえって汚れた人でもいいとなる、清浄な場所にいられないということもある
ネオン街のぎらぎらした欲望の世界がいいともなる
いづれにしろ観瀾亭に入る前に門があり古い松がある、古木がある
そして前に海を見る、その海は穏やかな海である、絵のような荒波の海ではないのである不思議なのは私が松島に行ってプログに書いたのは2011年1月になっていた
ということは3月に津波が来たのだから津波から二カ月前だったのである
でも松島は意外と被害が少なかった、なぜなら津波は島が防波堤のようになりさえぎり
海水でも徐々に高くなったという、だから家が壊れたとかなかったのである
恐ろしいの海岸沿いの港がある家であった
家が津波で持ち上げられて上に上がったとか聞いた、それは空恐ろしい光景だったのである
津浪は前に何かさえぎるものがあると波の勢いがそがれてあんな恐ろしいものとはならないのである、別に徐々に海水があがるとしたら被害があっても死ぬとういことはない
それで松島は被害がさほどなく回復したのである
ともかく松島でも修行の場であり京都の寺でも寺は修行の場であり観光の場ではなかった今はただ物見遊山でありするとそこにあったものが何なのかもわからなくなる
何かそこは学ぶ修行する場だったのである、それを知ることも必要だとなる
ただ昔は常に忘れられてそれがどういう場所であるかもわからなくなる
松島でも雄島というときそういう昔が残っている場だとなる
最近松島海岸駅が新たに生まれて観光の施設が作られた、写真でみるといい場所である
だからそこに行ってみたいとなった、でも昔の松島も忘れずに知る、歴史を知ることは大事である
ともかく秋らしくなった、今外を見たら月が夕べでていた、虫も鳴いている
やはり秋らしくなってきたのである、今年は暑かった、ぐったりして夏バテになった
でもようやく秋となる、頭も冴えてくるとはなる

仲秋の我が居所や窓に月
今は仲秋なのか、この期間は長い、でも秋の草花でも咲いている、女郎花でもはぎても咲きはじめたからやはり仲秋になっているのだろう、初秋もあるが季節的には仲秋となる
でも暑かったから初秋の感覚にもなる、ただ初秋がなく仲秋となったともなる
我が居所というときこれがないと落ち着かない、家族はいなくなったにしろ家が残り我が居所になっている、my based place とかなる、基地が必要なのである
特に老人になったら家が大事になる、遠くに行くのがなかなかできなくなる
もう十年以上遠くへ旅に行っていない、近間を回っているだけである
でも松島くらいなら行けるとなる、ただ松島で朝日が昇るのとか月を見たことがない
やはり日帰りとなるとなかなか見れない、確かに月見にはいい、観瀾亭は月見の場として利用されたからである、それで正宗の中秋賞月於松島・・が作られたとなる
雪の松島-俳句短歌-政宗のこと
http://musubu.sblo.jp/article/35083956.html
松島-多賀城の春の俳句短歌と写真
http://musubu2.sblo.jp/article/54410159.html
2022年04月18日
飯館村の佐須から石戸村ー石田村を回り霊山神社へ(2) (桜の短歌連作の説明)
(桜の短歌連作の説明)
これはつながっている、だから春でも写真では青色でも夕方でそう見えたのだ残雪の峰が見えて雪が大きくすると見えるのである
この連邦は圧巻であった
大霊山線に見晴台がありそこからの眺めがいいのである
平安時代初期、859年に「慈覚大師」によって開山された霊山は、東北における天台宗の拠点として栄えていました。山中では3,000もの堂や塔が築かれ、最盛期には3,600人もの僧が修行していたとされています
霊山の山頂には、かつては巨大な山岳寺院が存在しました。それが慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって開かれた霊山寺です。円仁は比叡山延暦寺で最澄に師事したのち、遣唐使として唐代の中国に渡り、本邦への密教移入に貢献した「入唐八家(にっとうはっけ)」のひとりに数えられています。帰国後には中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町)や浅草寺(東京都台東区浅草)など数多くの寺の開基に携わり、859(貞観元)年に霊山寺が開山されました。
山伏は、山岳修行により宗教的な能力を身につける。「山に伏す」ことから山伏(山臥)といわれた。特定の霊場寺社に拠点をもちつつも、各地の霊山を渡り歩いて修行する「旅の宗教者」でもあった。
https://museum.bunmori.tokushima.jp/hasegawa/exhibition/shugen.htm?msclkid=fbf69c4cbedf11ec84549bdc6bc5d2af
僧の住居。僧房。房。転じて、僧侶。「師の坊」
寺社が信者のために設けた宿泊所。宿坊。
2 幼い男の子に対する愛称。また、その自称。「坊をつれて散歩に行く」
3 奈良・平安時代の都城の行政区画の一単位。平安京では、東西南北の大路に囲まれた区域。1坊は4保で4町四方。また、その大路をいう
かつて、霊山と丸森の筆甫とは山道を通して交流がありました。古の修験者は不動明王堂前を通って霊山寺を往復したといわれています。その証拠に、筆甫の七坊というのがあり「延元二年(1337年)北畠顕家が義良親王を伴って霊山城に立てこもった時、霊山の学習坊として、漆坊(うるしぼう)・請願坊(じょうがんぼう)・向坊(むかいぼう)・中坊(なかぼう)・若狭坊(わかさぼう)・松ヶ坊(まつがぼう)・欄坊(らんぼう)の七坊が置かれた。現在も残っている地名はその坊跡である」(ふるさとの伝説より抜粋)ちなみに筆甫の七坊のうち松ヶ坊は現在ダムの名前、漆坊は地名として残っています。
https://www.zuiunzi.net/igu/bsrisuto.g2/7.html?msclkid=194ea726beec11ec8ec43c2c518c7c55
霊山はもともと天台宗であり山を根拠とした宗教であり中国から入ってきた
中国にも山岳宗教があり必ず高い塔が山に鋭く立っている
道元禅師が座禅組んで修行した天童寺も山の上にある、そこから高い塔がいくつか見えた日本では有名なのは山形県の山寺である
ただ福島県の霊山に関しては3600人の僧侶が修行していたということが実感できないのである、第一そんな人数を食べさせるのにどうしていたのか、誰が食料を提供していたのかとなるからだ、ただそうした修験者何か能力を持っていて加持祈祷して庶民とつながっていた、薬草なども山でとっていたのである
古代でもそれ以後でも人間の一番苦しんでいたのは今と変わりなく病気だったからである病気の加持祈祷のためにそれだけの寺が作られたともなる
今でも一番大きな立派なビルは病院なのである、南相馬でも市立病院がそうである
ともかく山岳宗教というとき六根清浄を唱え修行したのは清浄な山の気にふれて心を浄めることなのである、だから今のカルト宗教団体とかなんとか様々な団体には宗教を感じるものはない、むしろ経済団体でありただ御利益を追求する経済人であり会社員と同じである、または政治に深くかかわり御利益を追求する、選挙のために24時間365日選挙運動している創価などがそうでり他でも似たりよったりなのである
だから何か山伏などが異様なものと現代でぱ見ているがむしろ今のカルト宗教団体が異常なのである、都会から生まれているからそういうものはみんな異常なのである
宗教とは何の縁もないのである、なぜそうなったかというと東京とか大都会から生まれことに由来している、創価が団地の宗教が由来になっていることでもわかる
地方から出て来た人達が仲間を作り拠り所にしたのである
それはそれで悪いものではないがもともと心を浄めることは大都会では不可能である
それで心とは全く関係ないカルト宗教団体になったのである
宗教というときお釈迦様でもどうして岩窟で座禅をしていたのか?
それはそもそも心を浄めるためにそうしていたのである
それでこうして山と結びついている自然と結びついている宗教の方が自分にとっては本来の宗教として再発見する、そのために自分もそうしてきた、山とか森とか木とか石とかとアイディンティティ化して詩にしてきたのである
ただそこには人間がいないので自分自身また異常化していたとなる
ただ今の大都会からそもそも宗教は生まれえようがないのである
そこは迷路でありどんなことしてももその迷路から脱することはできない、そしてその
迷宮に怪獣が住んでいて餌食になり食べられるのである
その迷宮は古代にもあったからやはり今あることは昔もあったというカルマ論になる
ともかく霊山神社と霊山寺があり修験道を基にして次に霊山城が南朝の城として作られたのである、もともとそこには寺であり僧院があった、そこで学問岩とかあるのはそのためである、ただどうしてもそれが実感しにくいのである
歴史を知る時、大事なのなんらか実感することなのである、それがないと興味も湧かないのである
それで自分自身はこの霊山神社に確かに訪れた、でも霊山神社どうして行ったのか忘れてしまっていた、顕家の像があったなとは覚えていたが今回行ってあんなに高い所に霊山神社があるとは全く忘却していた
20年から30年前になると人間は忘れる、こうして忘れることは今回たずねも始めて訪ねたと同じだったのである、霊山神社のことを覚えていないからである
本当に不思議なのは人間は一回合ったり訪ねた場所でも忘れると始めて来たとなる
人間でも出合っても忘れると始めて出合ったともる、もしかして前世にあっていた人なのかもしれないがそのことが意識できないと同じになる
実際に飯館村の佐須から峠を越えると吾妻山が見える、その時気持がいいのである
その場所は忘れないのである、それは何度も行っているからである
でもそこを下り坂を下って行った石戸村というのは本当に初めて行った場所としか思えない、何か記憶していることがないからだ、でもそこを通っていたことは確かなのである
ただそこには行かず霊山神社に行く石田村の方に行ったことは覚えている
ただ霊山神社のことはを覚えていない、どうしして行ったのかも覚えていない
回りの風景も初めて見るものだった、あんなに山間高く家があるとは思わなかった
この辺ではあういう風景は見ないのである、だから見慣れぬ風景だから魅かれたともなる
落ち延びた武者の末裔が子孫になっているからだ、南相馬市の鹿島区の真野がそうであるまたその旗印に菊の紋の侍の家が二軒くらいあるからだ
また只野という姓が50人くらいいるからこの辺は只野氏一族だともなる
この只野氏は郡山市の多田野村が発祥の地なのである
そして天皇に由来する菊の紋は南朝なのである、南朝こ天皇の本筋であり明治天皇は南朝を引き継いだとしているからだ
それだけ南北朝の戦いは日本全土をまきこみ禍根を残したのである
こういう戦いの血なまぐさい歴史があるのだが霊山神社は別のもののように思えた
それは修験道の寺のようにも見えた、そこで聞こえたの四十雀なのか夕べ一羽はさえづる声がひびいていた、夕暮れであり巫女が一人戸締りしていた
なんとも静謐な感じがしたのである
ただここを自転車で登るのには苦労した、登山と同じだった、こんな高い所にあることが意外だった、その記憶が全くなくなっていたからである
石田村の方には来ていた、湧き水の里とあり清流が霊山から流れ高い所に家があり大きな岩がありこんなところにも家があったのかと驚き記憶していた
でも今回はそこまで夕暮れになり行けなかった
ともかくこの桜さく時期は変わり安い、今日は曇って今は雨が降ってきた
桜はもう散るだけであり、明日は残る花にもなる、桜の咲く時期は短いのである
だから日本中いくらでも桜が咲いても見れる桜が期間が短いからとても見れないのである
2021年11月23日
相馬市から霊山町までの地名の旅 (簡単な案内と説明)
相馬市から霊山町までの地名の旅
(簡単な案内と説明)
宇多川をさかのぼると川は丸森の方へ行くのと玉野村の方へ行くのとに分かれる
玉野村は昔の伊達藩と相馬藩の境である
それで次のような歌が残されている
伊達は伊達政宗の領地であり
伊達と相馬の境の桜 花は相馬に実は伊達に
伊達藩と相馬藩は戦国時代に争っていたが江戸時代になると戦争をやめて仲良くしたからこういう歌が生まれた、互いに繁栄しようとなったのである
玉野村には「若木神社」がある、これは疫病の神であり疫病は恐れられていた
玉野村は境なので特にここで疫病をもってくる人がいると怖いから神社に祈っていたとなる、とにかく昨今のコロナウィルスのことで疫病の怖さを経験した
昔から人間は疫病で苦しんでいた、だから各地に疫病を防ぐための神社がある
その頃は神様に祈る他なかったからである
そして疫病を防ぐ唯一の方法は他の藩からでも人が入って来ないようにすることだったのだ、疫病は人から人へとうつるからである
ここから伊達藩だけど相馬藩はもともと中村藩でありここと中村街道でもありこの細い道がそうなのだ、ここを行けば古い碑が残っていて元禄時代のもある
中村街道はもともと保原の方に行っていた
玉野村を過ぎると八木平とかありこれは姓名なのである、八木氏でありこれは海洋民の安曇氏と同じ系統のものであり飯館村へ行く八木沢峠の八木も八木氏なのである
この道筋にも山津見神社が残されていて飯館村の佐須の山津見神社がその本元になる
それから霊山町に入ると犬飼(いぬかい)というバス停が残っている
犬飼は古いものであり次に犬養となった、これも安曇氏系統の海洋民の一族なのである
海を渡ってきた外国人だとなる、その人たちがここに住みついたので八木平という地名になった、犬養も同じである
霊山の上り口に行合道とありここで人が行き逢った、出合うことからこの名がある
それは飯館村の佐須峠がありそこをおりてこの道で出ると出合うとなる
佐須村の人に聞いたら霊山町の方が親しいというのも近いからそうなる
昔は車もないので歩くのでなかなか山で暮らしていてもそこから遠くへ行くことが簡単にできない、それでそうした閉ざされた山の村から出て人と出合うことは喜びだったとなるなかなか他村のものと出合いなかいからである
霊山町へ出ると石戸という村がある、地名として見入り石とかある、この石の由来は良く分からないが特別な石でみんなが見入ったからこの名がついたらしい、石戸村というのはこの石から生まれたのかもしれない
地名には何かいわれがあり名付けられたからだ
福島中央道のトンネルの所に庄司淵はあるのはこれは佐藤庄司から来ているのだろう
奥州路で最初の義経ゆかりの地です。佐藤庄司とは、
源頼朝の平泉攻めの際、それを防いで戦った藤原秀衡の郎党です。
これは有名な話である、佐藤氏とはこの辺で多いがこの佐藤氏系統の一族が相馬地方に広がった、庄司と姓の人もいるからだ、佐藤氏は有力な氏族としてこの辺で支配していたからである、相馬市の磯部村に佐藤氏の館があり相馬の道の駅の鬼越館は佐藤氏の館であるあと中村街道を相馬市の方に下ると塩手山の麓の二軒も佐藤氏であり佐藤氏一族が中村街道を通って広がっていたのである
佐藤氏⇒庄司淵⇒塩手山の二軒の家⇒磯部の佐藤氏
それから霊山町に入ると力持ちとかの地名がある、力持ちとはなぜついたのか?
各土に比べ石とかあり昔の人は機械がないから力仕事が多いから力持ちの人は村にとって大事な人でありなくてはならない人になっていたのだ
そこで力持ちという地名にもなった
それから小国という地名があるがこれは日本全国にある地名である
ここに小国町があり小国城があり小国川があった
小国とはそこが人の住む小さな国ということである
ここに春の日にバスできて一時下りたことがあった
その時は春だった、春の日がさしてスミレなどが咲いていた
ただ一時ではあるがその小国という地名を覚えていたのだ
こうして地名をたどれば何かそこに謂れがありその地名の謂れは古い、古代にさかのぼるのである、地名から遠い昔を知ることができるのだ
この道は今は福島中央道ができて車が通らない、まるで旧道になり車も通らなくなって
サイクリング道路のようになってしまった
道が変わるとその道沿いも変わる、何か廃屋が空家が増えた、車も通らないとやはりさびれる、ただ自転車で行くのにはいい、車が通らないだ
すいすいと行けるからだ、でもここの旧道は他の旧道とは違う、車が一日数台くらいしか通らない、だから不思議になる
交通によってこんなふうに変わってしまうのも驚きである
他にも相馬市から山上に入ると紙漉沢とかありまた霊山町に楮という地名がありこれは紙漉きの材料となるから紙漉きが行われていたので地名化した
その頃紙漉きはきれいな水が必要なので山から流れるきれいな水を使って紙を作っていたのである、それで地名化した
ただ地名は古代にもさかのぼり古いのである
2021年06月18日
坂元ー山下の浜街道と鉄道の短歌 (街道と鉄道を偲ぶ)

磯山に正宗休み椿散る松に寄りにつ海を見るかな
坂元宿夕べ来たりて春の月海より昇り光りけるかな
相馬より海沿い来たり磯山に地元の人と語る春の朝
坂元の名の古しかな古代よりその名のありて春の日暮れぬ
浜吉田駅の前にそ津波来ぬその名のごとく秋のくれかな
仙台より帰る電車の窓に見ゆ山元町の秋のともしび
仙台に電車に通ふ月日かな山下駅に菖蒲咲くかも
新しき逢熊駅や蝉の鳴き三分止まり待ちにけるかな
新しき新地駅かな春の日に牡鹿半島と金華山見ゆ
新地駅6分とまりて虫の音を我が聞きにつつ月も光りぬ
夜のふけて津波の前の新地駅虫の音聴きて六分とま
鹿島駅八重桜咲き我を待つ人もなくして木もなくなりぬ
陸前浜街道というとき伊達藩の領域として新地からあった
新地は伊達藩なのである、それで新地の人でだっちゃ、だっちゃという女性がいた
このだっちゃは仙台弁なのである
新地のなまりは方言が伊達藩だからこそあり仙台弁なのである
だっちゃだっちゃと相馬弁とか福島の方だとんだんだとなる
この感じがかなり違ったものなのである
それで丸森の人が相馬市の病院に入院していてんだっちゃと言った時、んだーだっちゃが結合してそうなったと聞いた
丸森とか新地は相馬藩との境になっていたからである
丸森でも最初に金山に城を築き城主となったのが相馬藩の武士だったからである
岩沼宿−亘理宿−山下宿−坂本宿−新地宿−駒ヶ嶺宿−黒木宿−中村宿−鹿島宿−原町宿−小高宿−高野宿−長塚宿−新山宿−熊川宿−富岡宿−木戸宿−広野宿−久之浜宿−四倉宿−平宿−
黒木宿となると相馬の城跡から離れているが昔の道がそっちの方にあった
あとはそんなに変わっていない、双葉には長塚宿と、新山宿があった、二つの宿場があり経済的負担から二の村が代わる代わるに担当したとなる
要するに参勤交代とかあり接待するのにも負担になったからである
長塚宿は昔は常磐線でも長塚駅があった、双葉駅の前は長塚駅だったのである
高野宿は浪江である、後は常磐線の駅名と同じになっている
山元町内遺跡 発掘調査情報
https://www.town.yamamoto.miyagi.jp/soshiki/20/3693.html
坂本願という土器に残された文字は古代のものでありもともと坂本であった
坂本は各地ありそこが宿場となる地形にある、坂を上るということでその手前で休むということにもなる、区切りの場所ともみる
陸前浜街道では渡来人などが来て製鉄が行われていた、山元町の海岸沿いにある犬塚遺跡は銅の鐙が発見されている、これはめずらしい、鉄だけではない銅も作っていたのである津神社とは渡来人が祭った伽耶国の王子のツノガノアラシトのことである
八重垣神社が海岸沿いにあるがこれも出雲系であり渡来人とも関係しているのである
国引き伝説ののように渡来人と出雲は密接な関係があるためである
出雲とは蝦夷のことでもあったからである
その静鉄族の跡は石巻から北上川をさかのぼる登米に残っている
そこに真野氏とかの印された木簡が残されていた、この真野氏一族は渡来人系統であり
南相馬市の鹿島の真野郷はそこに由来している
その跡は明確にたどれるのである
磯山では正宗が休み唐番所とかあり外国船を来るのを見守っていた
私が印象に残ったのは仙台市まで電車で通うにして行っていたことである
だから街道の方は一回くらい自転車で行っただけなのである
それでいつも仙台からの帰りで車窓から夜になると山元町の山の方に灯る灯を見ていたのである
そして津波で山下駅とか新地駅が流れて新しい駅になったのである
ても私が記憶しているのは古い駅である、なぜか新地駅では交換の電車を待つ、それが六分だったのである、その時電車の外に出て息抜きをする
海岸には屋並が見えた、そして虫く声が聞こえていたのである
でも今は高い所にあるからそういう虫の声は聞こえない、でも高い場所にあるからその駅から牡鹿半島とか金華山がはっきり見えるようになったのである
ただ昔の駅を知らない人はそれをイメージできなくなった
何か鉄道は駅で止まったりするときそこに人間的なものが生まれる
何か時間の無駄なようでもそこに人間的なものが生まれる
今は逢熊駅で三分くらい交換列車を待つ、そこで蝉が鳴く声がひびく
それがまた人間的なのである、たったの三分くらいでも何かそこに人間的なものが生まれる、電車には待つ時間がある、駅でも電車を待ち人を待つ時間がある
それで駅なら人間的なものを情を育む場所となっていたのである
新幹線とかなるともう待つ時間もないのである
そこに何かもう余裕がない社会になる、、駅は半分以上無人駅になる
効率的でないものは省かれる、車社会になったとき余計にそうなったのである
車は何か私的なものであるが駅だとみんなして待つとかまた電車に乗り合わせることは共通の空間を共有する公共的な場なのである
車は個々人とか人を分離させるものなのである、そこに人間の情は養われないのである
それで鉄道の歴史は長いから人生を演出する場ともなっていたのである
ともかく陸前浜街道は今や六号線でひっきりなしに車の通る場所でありまるでベルトコンベアーのように車を運ぶ道路となる
昔の街道を偲ぶということもしにくいのである、ただ自転車だとある程度昔に還り旅の気分を味わうことができる
浜街道の特徴として海が近いから夕べに坂元に春の満月が出ていた、それは海から登ってきたもののである
ただ私は仙台から家に帰るにしても家では誰も待っていない、待っている家族はみんな死んだからである、前は鹿島駅に八重桜が咲いていたがそれもなくなった
それも淋しいのである、八重桜ほのぼのとして咲く、そこに家族の愛があったなるからである
駅にはとにかく何か人間的なもの情が生まれるのである
ただそれも無人化したり機械化すると失われてゆく、その駅に出入りするのを監視カメラが見ているのである、人間がじかに接するものがなくなる、そこに人間喪失の時代になったのである、どこでも機械になり人間がいなくなっていくのである
何か無機的な索漠とした世界になってゆく、今やロボットが駅員となり迎えるのも送るのもロボットがするともなる、それも味気ないとなる
私は何か鉄道の旅が長いから鉄道に思い入れが生まれたのである
それで無人駅でボランティアのまねをしたのはそういう経過があったからである
ただそこでは排斥されるだけだったのである
つまり何か人間的なものが社会から喪失しているから邪魔だとなる
人間がもう邪魔な社会にもなっているのだ、ロボットがいればいいとまでなっているしなってゆく、そういう社会は索漠としたものになる
そういう社会に住みたいと思うだろうか?
でも人はただ便利さをもとめそういうことを感じることもなくなる
車社会に恩恵を受けても自分はなじめない、でもとうにもならない
今日駅に来ていた人は新地に車を置いて鹿島でおりた
つまり車と電車の併用だったのである、それが現代社会である
ただ車というのは人間の情をはぐくまないのである、それは鋼鉄の部屋に閉ざされで外部との人の接触を拒むのである
そうは言っても田舎だと車無しでは暮らせないからとやかくは言えないとなる
2021年06月17日
山元町の地名の解説 (合成地名は本来の意味を失うから問題 )
山元町の地名の解説
(合成地名は本来の意味を失うから問題 )
【「祖先」のルーツ】名字の8割は「地名」に由来!《47都道府県「地名の謎」》
https://www.excite.co.jp/news/article/BestTimes_00699240/image/1/
このサイトの地名の絵地図がわかりやすい、日本の地形から苗字が生まれている
山下から山元とか山口は山と関係している
昭和 30年2月1日 - 山下村と坂元村が合併し、 山元町 が発足
実際は地形と関係なかったのである、こうして合成地名は本来の地名の成り立つ意味を失わせるかから問題なのである
飯館村でも飯樋と大舘村が合併してそうなった、こういうのが明治以降多いのである
それでなぜ山元町と山下町があるのか、常磐線で行けばそこはどっちかというと広い海の方を意識する、でも駅名は山元町であり山下町もある
その町名からは山を意識するが海を意識しないのである
その感覚はどうして生まれたのかとなれば海より山の方に村落や町が生まれたためではないか?本来は山元町ではなく山下町であるべきだったともなる
なぜなら山下村という地名はもともとあった地名だからである
山の方から水が流れて来て田が作られるということがあるからだ
上山は(うわやまーわやま)は地区にとって欠かすことのできない山で用材の刈りだし
はもちろん薪山としても農家の草刈り山としても人々を入れまた水源涵養の山として地区をうるおした山である
(山元町ーふるさと地名考)
これは端山ー葉山であり里山であり入会の山であり生活に密着した山である
羽山―葉山信仰は有名である、草刈場としてあるとき鹿島の右田の農家の人に聞いたが
馬車で橲原(じこさばら)まで草刈りに行ってそれを肥やしにした
そこに入会権として右田の人たちが所有していた、それで津波で家を流されたので家をそこに建てたという、その土地は右田の人の所有になっていたのである
山というのは実際は深く平地とか海の方まで結びついていたのである
その橋は上平のただ一つの橋であったことから一つ橋の名がついた
橋はなかなかない、だからその一つ橋が目立ち地名化した
坂元神社は妙見社として蓑首城跡にあったが明治元年に北辰社と改称した
妙見神社とか日吉神社とか山王神社は相馬藩内に多い、それが亘理の方まで移動したともなる
かすべ田
土地の人が少しづつ開いて小さな田んぼにした、田んぼがちいさいので魚のかすべくらいの田んぼということからかすべの名がついた
カスべ田というのは変わった名だがやはり海があり漁師が暮らしていたからその魚と田の形をイメージした、それはまた日本にはとにかく小さな田が多いのである
わずかの平地でも田にして米をとることをしてきたのである
だからどこにでもとにかく小さな田が多いのである
でも津波とか原発事故とか小農が成り立たなくなり耕地整理して田んぼを広くした
小さな田んぼは耕作放棄地となって草ぼうぼうになっているがそこはソーラーパネルとかなるのも多いのである
山元町の津波の被害は大きかった、海岸沿いの家は流されて山の方に新しい住宅が建った海の方は壊滅状態だった
ともかく山下とか山元町は相馬から連続したものとしてみる、常磐線でいつも通った場所だからである
ただ仙台市まで通勤地帯でもあるが電車で行くと何かやはり街道筋の歴史とかが見えないのである、だから街道筋を浜街道を一回自転車で山下まで行ったことは貴重だった
そこで郷土館がありこの本を手に入れたからである
こうして少しでも歴史を知らないとただ通り過ぎて何も感じないとなってしまうのである
ただ正直近くでも山元町でもわかりにくいのである、いつも山を見ていると低いのであるだからあまり景観的に魅力を感じていなかった
でもそこにも歴史がありそれをふ知れば興味を覚えるのである
それでも地形とかは実際にそこを行き来していないとわかりにくいのである
飯館村とかなると標高が600メートルとかなり高いのである
山元町の山脈は低くいのである、それで魅力が感じられないのである
こうして私の場合は地名から地理とか歴史に興味をもつようになった
その興味は尽きないのである、なぜなら地理だけはその地を自ら踏んで踏査しないと実感できないからである
2021年05月30日
分去や追分の地名を偲ぶ(丸森ー大張村の詩) (機械化すると人間の情が失われる)
2021年05月03日
川は道となり海も道となり歴史を作る (阿武隈川から太平洋に出て塩釜から江戸へ船で荷を運ぶ道)
2021年04月28日
角田から丸森へ阿武隈川を行き大張村から梁川へ (新緑と残雪の蔵王と阿武隈川―短歌連作)
角田から丸森へ阿武隈川を行き大張村から梁川へ
(新緑と残雪の蔵王と阿武隈川―短歌連作)
八重桜電車に映し通うかな
普通車や各駅とまり八重桜
通学や夕べ電車や八重桜
赤味帯び春の満月山に出る
(岩沼)
阿武隈川流れゆるやか残雪の蔵王堂々とゆるがざるかも
春日さし水面光りぬ大河かな岸辺広々と菜の花咲きぬ
阿武隈川広々と流れ春の朝鴎一羽の飛びきたれるかも
残雪の蔵王の映えて電車来る音のひびくや新緑の朝
阿武隈川岸辺広々菜の花や朝の光りに水面きらめく
阿武隈川流れは遠く広々と海にそそぐや春野拓けぬ
(角田市)
阿武隈川岸辺の広くうぐいすの鳴く声ひびき水面光りぬ
残雪の蔵王の迫り悠々と阿武隈川や朝雲雀鳴く
雲雀鳴く声のひびきて川広く蔵王の威厳ここにますかな
阿武隈川その土手長く広々とつばめ飛びかい走り行くかな
渡り鳥調べる人や北へにとつくつぐみ帰ると教えられるかな
(迷った山の道)
春の日や分るる道のいくつかな八重桜咲き案内(あない)されけり
延々と坂を上りてさえづりのひびき閉ざさる山の家かな
一本の細道つなぐ山中の家々や我がたどり春の日たずぬ
山中に深く分け入り家一軒石のかたえにシャガの花咲く
名もしれぬ人の墓かなたずぬもあわれ山に閉ざさる
先みえず迫れる山や家数軒ここに閉ざされ畑耕しぬ
山間のわずかなる畑春なれば耕す人ありさえづりひびく
(大張村)
一本の山間ぬいし道たどりたどりつく大張村や春のくれかな
一本の八重桜咲き山の径一軒の家になごみけるかな
山中に我が奥深く分け入りて木の根元に石二つかな
石二つここに並びて離れじと木の根元や大張村かな
迷いしも春の夕暮れ大張村道をたずねて帰りけるかな
大張に古き碑ありぬ小学校ありて春の日我がたずねけり
大張の皮張り石とその昔暮らしのあれや春にたずねぬ
(梁川町)
広々と阿武隈川のたぎちつつ新緑映えて吾妻峰も見ゆ
吾妻嶺見えて梁川春の日や拓けし平野我は望みぬ
丸森の山間いでて梁川や春野拓けて街のにぎあう
阿武隈川水面きらめき春の陽の山に没り梁川に来る
梁川に柳青々と夕べかな街のともしび桜咲き暮る
梁川に城の跡かな桜散る相馬の方へ我は去り行く
丸森へ電車に帰る学生の吾とのりあわす春の夕暮れ
丸森へ電車に帰る夕暮れや八重桜のほのぼのと咲く
折り畳み自転車で今回は岩沼から阿武隈川沿いを丸森までそして梁川まで行った
途中道が途絶えて大張村の方に迷ってついた
かえってそれが良かった、思わぬ出会いがあったからだ
山は地理がわかりにくくなる、方向もわからなくなる、それでいつも難儀する
最初で出会ったのは阿武隈川沿いで大きな望遠鏡を設置して観察している人だった
土浦ナンバーであり遠くから来て何しているのか思った
渡り鳥を観察しているという、ツグミを見ているという、ツグミは近くでも良く見かけるツグミも渡り鳥であり渡り鳥を観察しているという
ツグミは北へ帰る渡り鳥だという、これは別に街の郊外で普通に見られる鳥である
でもわざわざ阿武隈川で見ているのか、渡り鳥だからどこにでもいる
そんな仕事をしているのが不思議だった
民間会社が政府から委託して調査させているという、大学もそういう関係の学部を出ているから自分にあった仕事をしているからいいと思った
なかなか自分にあった仕事につけない、私は大学を卒業してから職についていない
なぜこんなに旅するようになったのか?
それは20代の仕事が関係していた、流れ作業ばかりさせられて仕事が嫌になったのだ
だから仕事にひどく嫌悪感をいだくようになり仕事しなくなった
仕事しなくても自由になんでもできる家庭環境にありそれで旅が面白いからそればかりするようになったのである
ただ面白い自分にあった仕事が与えられれば仕事に没頭したともなる
そういうことはなかなかできないのが現実社会である
その阿武隈川沿いを行くとトンネルとかあり一回通った
トンネルは自転車にとって鬼門である、車の音がすごく怖いのである
そして脇の狭い歩道を行くのがめんどうなのである
だからトンネルをさけて脇の道を行ったらゆきどまりになった
すると一軒の家がありその家の人だろう、その家の前に道がありそこを上ってゆくといいと教えてくれた
その道が延々と坂だったのである、それもかなり急な坂がつづいていた
そこは歩くほかなかった、今回の折り畳み自転車はBD1はいい自転車である
でも電動でないから坂は上れないから歩くほかなかった
自転車は坂には弱い、だから電動自転車は坂も上れるからいいがこの坂は急であり電動
自転車でもきつい坂だった
こんな所に住んでいた人がいたのも不思議だったとなる
丸森は相当に奥深く山中に人が住んでいる
そうして迷って出た場所が大張村だったのである、そこはそれなりに家があり一部落を形成している、小学校もあった、子供数人みかけた、でも小学校に何人いるかはわからないそこで暮らすにしてもおそらく梁川とか白石の方に勤めに出でいるかもしれない
みんな今は車をもっているからだ
阿武隈急行に夕方乗っていたのは高校生である
それは自分の住んでいる常磐線の沿線でもそうである
そこで鹿島駅が無人駅になりそきあと高校生の見守りとして南相馬市でNPOの人を配置した、最近は障害者の学校もできたから利用している
特に阿武隈急行の駅はさびれていた、梁川希望の公園から乗ったがそこは猫の巣になっていた、がらんとした駅があってもほとんど人がのらない
だからそもそもそうした民間の鉄道を維持すること自体むずかしいと見た
とにかく自転車だと丸森に行くには山を越えてゆく、でも今回は途中電車であり楽ではあった、でも峠を越えて行く、それが旅になる
この先に何がある未知の世界が開ける、そのためには車とか電車でもそういう感覚がもてない、自転車だとなんとかもてる、つまり道は未知であり未知を旅する人となることができる、それで旅に魅せられて遂にはもう人生も尽きるとなってしまったのである
今回は桃の花を見よとしたが終わっていた、意外と早いと思った、今年は春がはやかったせいだったろう、それが残念だった
電車と自転車の旅もいい、両方を楽しむことができるからだ
これなら一日でも結構旅した感じになった、ただこういう旅は遠くなると無理だろう
その場所まで電車に行くにしても遠いからだ
ここ十年とか介護で旅をしなかったから旅を思い出してまた旅したのである
ドイツ製のBD1は作りがしっかりしているから乗り安い、15万したがそれだけの価値はあったとなる
ただ坂は上れない、歩くほかなかったからこれだけでは本当の旅はできないと思った
日本は山が多い、四国の祖谷(いや)を旅したとき相当な山奥から平地に下ってきたときほっとした
そこからは春野が拓けて城もあった、それと丸森の大張とか耕野から出て来たときも同じ感じになった
祖谷(いや)をいで春野拓けて城もあり電車に見てそ過ぎ去りにけり
こんな感じでありとにかく日本は山が多いから平地に出てきたとき何かほっとするともなる、外国だったらどこまでも平坦な土地だからこういう感覚はもてない
日本は山国だから山国特有の感覚になるのである
国のまほろばでも山々の間に隠された地域になる、そういう村も多いということである
それは小国ともなる、そういう地形が多いからそういう地名も多いとなる
小さな閉鎖された一つの国だともなる
2021年04月09日
丸森の春の金山城ー人間と山が一体化する山城の魅力
丸森の春の金山城ー人間と山が一体化する山城の魅力
金山城上り来たりて侍の茶を飲み絆強めにしかも
我が上る金山城へと上る道延齢草とカタクリの咲ぬ
金山城絆の強く守りかな岩に根を張る木のごとしかも
金山城すみれあまたに巌かなここの守りの堅くもあるかな
人と人ここに面して金山城契りを交わして戦いいどむ
夕風に花は散りにき藪椿赤くも映えて金山城かな
重々し蔵王迫りて威厳かな金山城にそ春に望みぬ
藪椿蔵王に向きて赤々と咲きて暮るるや金山城かな
伊達の領望む山々広々と平野拓けぬ春に望めり
侍の厳つき面や金山城ここを守るとその構えかな
金山城刀に兜武具そろえ侍の意地ここに残りぬ
もののふの城は命や石垣の残りて堅く桜散るかな
鶯の警戒音のみひびきつつ山深く入り他に聞こえじ
伊達政宗が初陣を飾った城として知られ、江戸時代には伊達21要害の一つとなった城。
戦国時代、陸奥伊具郡は伊達氏と相馬氏との激しい争奪戦の舞台となり、陸奥金山城は相馬氏の境目の城として永禄9年(1566年)頃に相馬家臣・井戸川将監と藤橋紀伊によって築かれたとされる。
天正9年(1581年)からの伊達輝宗による侵攻の際には伊達政宗が陸奥金山城攻めで初陣を飾り、輝宗は天正11年(1583年)に丸森城を攻略、その翌年に陸奥金山城を落として伊具郡は伊達氏の領有となった。
輝宗は陸奥金山城攻めで功のあった中島宗求を2,000石で城主に任じ、以後陸奥金山城は代々中島氏が城主を務めることとなる。
中島宗求
https://michinoku-ja.blogspot.com/2014/08/blog-post_14.html
最初に城を築いたのは相馬氏でありその後伊達市が城主となった
ここで城をめぐってせめぎあいがあり後で和睦した
ただとういう戦いがここで成されたのかわからないがここで確かに戦闘があった
山城の魅力は山自体が一つの城となっていたことである
私は何か自然と一体化することで詩で追求してきた
山でもそうである、樹とか石でもそうである、人間の精神と一体化するアイディンティティ化することである
それが山城に惹かれる所以である、ただ山城はなかなか見れない、隠されてあるし目立たないからである、山城を実際に見ても当時のことをイメージしにくい、というのは本当は全体としても防御の体制が山全体に及んでいた、でも見るのは一部だけになる
何か歴史という時、本当は全体を見なければわからないのに部分化して見るからその全容がつかめない、歴史的に残された遺物もそれも一部分のものでありそれからでもわからない、つまり時代が変わると過去の歴史とか遺物でも部分化して断片化するのである
だから山城があったというときそれはその時代の全体の中にあり庶民が暮らした人々とも深く関係している、だからその周りに住んでいた人たちもその山城に安全を求めて逃れたとかある、ヨ−ロッパの中世の都市とかなると城壁で囲まれていて市民と一体化していた日本のように城と庶民の住居が分離していることはなかったのである
そもそも侍の国の日本がという時、一体どうして侍が日本で生まれたのか?
どうして武士道と侍スピリットが作られたのか、これが今になると謎となる
それは歴史とは常に時代を反映して作られるからその時代全体が一時代が過ぎるとわからなくなるからである
ヨ−ロッパでも建築とか絵画と音楽がバッハのオルガンの教会音楽がある
それは実は一体化したものであり分離していない、でも現代だと絵画は絵画でみる
音楽も分離して聞いている、中世ではすべて教会があり祈りとしてささげられていたのである
戦国時代でもどうして強固な侍の強い絆が主従関係まれたのか、...その絆は戦乱の中で命がけで戦う中で醸成されたのである、命をかけて共に戦ったということで一体化したのである山城となるとその地形とか山とも一体化したのである
日本はもともと山の国であり大和(やまと)となったのだから山城が歴史の中で作られてきたことは自然の理に従ってそうなったとなる
そういう厳しい歴史的実践経験の中から武士道が生まれた、そういう時代背景があり生まれたのである
ただ日本は山が多いから当然山と一体化することが実際の生活でもそうだし精神形成でもそうなる
でも福島県でも浜通りには山城はないので欠けている、むしろ相馬胤は瀬戸内海辺りの海と直結した城を見て歩きそれを参考にしたというから山城という視点はなかったのである
山の精神とは安定と防御である、defence and stabilityになる
海は安定しない、だから津波の様な恐ろしいことが起きる、そういうことは山にはない
山が確かに山崩れとかあっても全体が壊れるなどありえないからである
山は安定であり持続なのである、それは木でも石でもそうなのである
海とか水は流動であり変化の象徴なのである
ただ山については浜通りになると高い山がないのでそういう精神性が備わられないのである
会津辺りだったら2000メートル級の山がひしめいているから山と自ずとアイディンティティ化されてくる
金山城は何かこんな小さい城とかに見える、でも山城であり本丸に行くのには結構きつい坂を上るのである、つまり登山にもなるである、それでその細い旧坂の道の脇にカタクリと延齢草が咲いていたのはまさに山城にふさわしいとなる、延齢草は山の中に咲くからだそしてここの金山城がいいのは眺望が最高なのである
蔵王が見えて連峰が見えて広々と春の野が開けて阿武隈川がくねりゆうゆうと流れているここは最高のビューポイントなのである
丸森はもう一つの絶景をみれる場がある、そこからは海が見えるし平野も山も一望できるのである、ただ問題はそこがソーラーパネルが敷き詰められているということで景観が乱されてはいる
丸森はあのように広大な平野が開けまた筆甫のような山に閉ざされた奥深い地域があり
地形的に魅力がある
飯館村にはこうした地形の変化はないからだ、それで魅了されるのである
ただそういう場所でどいう人物が生きていたのか人物の物語がわからない
それは自分は作家ではないから小説家ではないからイメージできないともなる
地形とか景観とか自然と一体化してものとして山城を見るがそこに生きた人物像が浮かばないのである
ただ当時の人間となるとface to faceの濃密な人間関係があり主従関係がありそれがどうして築かれたのか?それはやはり山とか自然とも関係していた、山とは信頼を象徴している
不動であり不変であり信義に篤いとかなる、それは石や木でもそうなのである
山と山が向き合う、石と石が向き合う、木は大地に深く根を張り動かない、そういうことが人間の生活にも反映してくる、またそういう人間の濃密な関係があり精神が形成されたそれが侍スピリットであっり武士道ともなった
そういうことはその時代を生きてみないかぎりわからないと思う
そこで一番大事なのは金だけになってしまったからである
そこに当時のような主従関係などありえないし理解できないのである
原発事故で多額の補償金もらったら故郷でもすぐに捨てて便利な所に移住した
人間の絆を言われたがそれは外部から言われたのであり内部では絆は消失していたのである
平氏が何故に源氏に先んじて政権を得たかということは平氏が源氏よりも公卿に近かった平氏は武士的な主従関係を形成する点において源氏より劣っていた
しかし庄園の経営と富の蓄積には優っていたらしい
その原因は源氏が東国より富裕な武士団体、特に海上に威をふるう武士団体と結合したことである
なぜ平氏が源氏に倒されたのか?強固な主従関係の方が勝ったのである
平氏はその時に全国に家人をもったがその主従関係は源氏ほど緊密ではなかった
東国においての武士団体と艱難をともにしつつ作ったのであるが
平氏の武将にはそういう機会は少なくむしろ公卿たちと同様な仕方で家人を支配する場合が多かった(日本倫理思想史ー和辻哲郎)
なにこれが侍とは何であったのか?侍とは西と東では関東武者とではこのように違っていたのだ、このことはかなり示唆的なことである
平氏は瀬戸内海を通じて中国の宋と貿易していたことでもわかる、その時大量の宋銭が日本に入ってきたのである、つまり平氏は商人的性格を帯びた武士だったということであるこの相違は興味深い、なぜなら現代社会はグロ−バル化してみんな商人国家になっているし人間も商人化している、そこに介在するのは金しかないからだ
主君のために親をかえりみず命を捨てるなどありえない、常に金の計算をして得になるか損になるかしか考えない社会だからである
それはグロ−バル化して日本でもアメリカでも中国でも同じなのである
ただここで注意しなければならないのは主従関係が強い方が勝ったということである
日本人は古来人の和を重んじてきた、戦争でも一億総火の玉とかなる国である
ただそれも太平洋戦争では実際は上官と下士官は対立して対立していた
でもアメリカの方が上官と下士官は一致して協力していたとされているのである
日本の上官は質が悪くアメリカの方が優れていたのである
つまり指揮官はアメリカの方が優れていた、日本は上下関係が厳しく下士官は上官を恨んでいたのである、つまり実際は日本の方に人の和がなかったのである
それはどうして侍が形成されたかわからなくなったからである
ただ現代はどこの国でも経済優先であり商人国家になっている
だからそれは日本だけに言えることではない、でも戦争でも必ずしも武器の優位とかだけでは計れないものがある
秀吉が家康に負けたのはも西軍が負けたのも東軍には家康の徳川の主従関係の強固さがあったからかもしれないとなる
ともかく山城から見えてくるものはこうした信頼を象徴する山と人間が一体化して形成されたのかともなる、武田信玄だとそうである、ただ信長でも家康の城でも東海側にあり海側にあったのだ、山国の武田信玄は海側に出てきて敗れたともなる
ただその時まだ海を自由に往き来する船がそれほど発達していない、だから山側の山城を根城にした武士が力をもったともいえる
山城というとき二本松城はそういう山城としての古い形態を残した城なので興味がある
やはり大と一体化しているからだ、井戸も多く山の城で籠城できるともなる
確かに山城は多いのだが規模が小さいし何かそういう場所に行くこと自体わかりにくいのである
それでも山城には平地の城より魅力を感じるのは自然と一体化しているからである
その自然と一体化して人間の精神も形成されたということがある
平城となるとあまり魅力を感じない、会津の城はあれだけ歴史があっても何か新しくして博物館のように見えるのである、歴史をあまり感じないのである
ただもし会津が山が多いのだから山城があれば魅力を感じるのである
そこでその山城の物語として次のようなものが津川に残っている
その昔、津川城主が病になった時、治療のために、山の麓にある温泉をくんで、城内で湯治をすることとなった。
この温泉の運搬を命じられたのは蔦丸という小姓だった。
蔦丸は毎日、城主のために麓から城まで、湯を運んだ。そのおかげか、城主の身体はよくなっていった。
ある日蔦丸が湯をくんでいると、同じように湯をくむ美しい娘がいることに気づいた。 娘の名前はお鶴。母の病気を直すために、毎日お湯をくみにくるのだった。
二人は、毎日顔を合わせ話しているうちに恋仲となった。それが理由で蔦丸の帰りが遅れがちになった。
このことが城内に知られ、起こった城主は蔦丸を、頂上近くの石牢に監禁した。
それを知らぬお鶴は、湯をくみにきては蔦丸を待っていたが、蔦丸の姿は見えない。湯をくみに城からやってきた武士に、そのことを聞くと、蔦丸が石牢に監禁されているということを知った。
それを知らぬお鶴は、湯をくみにきては蔦丸を待っていたが、蔦丸の姿は見えない。湯をくみに城からやってきた武士に、そのことを聞くと、蔦丸が石牢に監禁されているということを知った。
その悲しみに不幸はさらに重なり、お鶴の母親が看病の甲斐なく亡くなった。
お鶴は母を失い、恋人が監禁されていることを悲しんでいたが、ある日、蔦丸を助けようと、断崖をよじ登り、蔦丸のいる石牢を目指した。
しかし、願いは叶わず、落石とともに転落して命を落とした。
石牢で、この悲鳴をきいた蔦丸は、絶望し、お鶴の後を追って死んだ。
この二人の死に、神様も悲しんだのか、大洪水が起こった。
このため、常浪川の流れが変わり、わずかに川底が沼になって残った。人々は、その沼を「お鶴ヶ沼」と呼ぶようになり、今に残っている。
湯を運ぶというとき山城だから坂をのぼる、食料でも運ぶのに上る
それが苦しい労働にもなる、温泉の湯は薬ともなるからわざわざ運んだとなる
これは伝説でも事実があり語られた、何かしら事実があって伝説がある
これは山城だから起きた伝説だともなる、平城だったら起きないだろう
侍同士の主従関係の絆はあったがこうしてその下々の者を手荒く扱うの一面としてあっただから会津では明治維新で会津の城が燃えていても関与せずかえってこれまでの不満が爆発してヤーヤー一揆が起きた
ただ山城でも城に積極的に食糧を運んで庶民でも危険な時城に逃げたとかあり一様ではない
この金山城は戦国時代が終わっても一国一城になっても残っていて住んでいた侍がいた
それで庶民と侍はここで一体化して協力していたからだという人もいる
何か人間的つながりがありそうなったとみている
金山城には何かこうした伝説でも残っているのか?その辺がものたりないとなるが相馬氏が最初に作った城であり次に伊達藩の城となった、それが境の城だからそうなったのである
2021年04月08日
丸森の筆甫(ひっぼ)の桜 (宇多川をさかのぼり丸森町の筆甫を回る)
丸森の筆甫(ひっぼ)の桜
朝静かこの道一人花の影
花また花において遠くへ走るかな
山桜高きに映えて朝の滝
朝桜映えてとどろく滝の音
(丸森の橋の台石)
散る花を台石とめて鎮まりぬ
台石に椿の赤く花の散る
塩手にそ佐藤氏の由来我が聴きて霊山の方へ春に行くかも
(筆甫)
南朝のいわれを語る桜かな丸森の奥隠され咲きぬ
筆甫なれ坂上り下り山桜高きに映えて家々のあり
あざやかに枝垂れ桜や五十年すぐと語りけるかな
古材を活かして建てぬ家なれや黒くもあれば古しと見しも
分け入りぬ古田口の一軒の家に桜やなお住みにけり
山深く誰か住みにし隠されて空家に咲きぬ枝垂桜かな
筆甫なに墓所をたずねてその姓やここの歴史の謂れを知らむ
山深く碑は何語る伊達の領春の日たずね由来しるべし
塩釜の碑の多しは伊達の領春の日めぐる丸森町を
筆甫なる道の高きに山桜映えて時にし風のゆすりぬ
山々に閉ざれ筆甫住む人や暮らしを思い春の日たずぬ
(橋のたもとの台石)
重々し台石ここに丸森や川はゆうゆうと春の日暮れぬ
阿武隈川流れゆるやかその岸に桜の映えて丸森暮れぬ
春の日や阿武隈川のかなたへと道はつづくや我は行きなむ
丸森町南西部、内川支流の流域にあたる。北で字不動・字石倉・字薄平・字四重麦五・字四重麦四・字四重麦三・字四重麦二・字四重踏石・字峠橋元・字峠野上・字峠向・字峠革踏石、東で字上滝西・字上滝東・大字大内および福島県相馬市山上、南で相馬市東玉野・玉野、西で福島県伊達市霊山町大石・梁川町白根・梁川町山舟生と接する
丸森に宇多川をさかのぼって松が房ダムから入った
途中工事していて自転車で行けないと思ったが工事している人が通したくれて助かった
今でも去年の台風の被害がありいたるところで被害があり道が壊れて通れないのである
まず車だともう通れない、自転車だとなんとか通れる場合がある
それでこういうときは自転車が便利だか前が突然陥没していたりして危険でもある
この工事は長くつづくから困るのである
松が房ダムを出て古田口とりパス停の表示がある、でもバスは通っていない、でもこのバス停の表示は地名がわかるので貴重なのである
古田とあれば新田ができて古田となる、古町も新町ができて古町ができる
だからそれなりに古いともなるがこの辺には家も見当たらないのである
その一軒だけが目立つ、なぜここに家が残っているのか感心したのは山村は過疎化になり空家化しているからだ、ここも山に閉ざされているから空家が目立ったのである
最初に逢ったのは道で何かしている、そこの枝垂れ桜がきれいだったので聞いてみた
「この桜は古いですね」
「これは50年前に植えたものですよ」
「そうですか、50年でこんなふうになりますか」
「私は古い家からその土地のことを調べているんです」
「それでこの家が古いかどうか聞いたんです」
「そうですか、私の家は古くありませんよ」
「でも家の柱とか何か黒くて古く見えます」
「これは古い家の木材をとりよせて使ってからです」
「そうですか2、もともと古いものだから余計に古く見えるですね」
「こちらは後から継ぎ足したんです」
何かこの家が建ってこの枝垂れ桜を植えたのは50年前というとき私の家と同じころである、オリンピックのことを言っていたから東京オリッピックの頃である
それも昔になってしまった、ここの家は別に古い家ではない、農家でもない、だから新しいのである、新しいと言っても50年過ぎるとやはりそれでも古くなるのである
50年過ぎればこのように枝垂れ桜でもきれいに咲くということである
ただこの家は古くないので歴史を知るのはむずかしい、すぐ近くに寺がありそこに行ってみた、というのは私は必ず墓地によりその土地の歴史を探っているからである
こういう辺鄙な所が姓が限られていて一族が住んでいることが多い
引地とかはそうである、なぜなら金山城にも引地館とかあったからだ
引地一族がかなり力をもった地域である
宮城県白石市沢端町では福島県の会津の塩ノ松にあった引地舘に戦国時代に居住して称したと伝える。福島県二本松市上長折・下長折付近(旧:塩松)が比定地。塩松はシオノマツ。南北朝時代に記録のある地名。地名は「四本松」とも呼称した。宮城県仙台市青葉区川内が藩庁の仙台藩士に江戸時代にあった。
丸森でもそうだが中通り方面とつながる歴史がある、第一霊山は中通りの豪族が集まった地域である、郡山の多田野村は有名である、それが只野氏の由来なのである
南朝が炎上したとき落ち延びた武士の一団が南相馬市の鹿島区の真野に逃れた
それで只野氏は鹿島区に只野という姓が50人くらいもいるのである
それから相馬市の山上の方の塩手山のあるところは実は古い家があった
佐藤一族が南北争いで逃れてここに住みついたらしい
その佐藤氏の由来は医王寺にある佐藤一族らしい、義経と深く関係した佐藤氏である
それから磯部館の佐藤氏であり今の相馬市の道の駅の鬼越館に移った佐藤氏である
この佐藤氏は伊達市が先に支配していた昔の中村、今の相馬市にも勢力があり相馬氏が進出したとき争ったのである
ただ佐藤氏はこれは多すぎるからまぎらわしいのである、ただ医王寺と関係していてそこの佐藤氏一族系統である
それでうばひがん桜の由来がその霊山の南北朝の争そいにも由来していたのだ
高さ約30m、根元の幹周り10mの古木で、樹齢500年以上と推定され、4月の下旬にはひがんざくら特有の淡く小さな花をひっそりと咲かせます。
丸森町指定文化財(天然記念物)。
近くには南北朝時代、北畠顕家が霊山城を築いた際、鬼門であるとして薬師如来を祀ったといわれている薬師堂の小祠があります。
これは親王桜とも言われているからだ、つまりこの筆甫の地名由来自体、筆のはじめというとき伊達政宗と関係して名付けられた、ここは伊達と相馬の境の玉野村に近い
そこに境の桜がある、
伊達と相馬の境の桜
花は相馬にみは伊達に
筆甫は相馬氏との境目でありそこで筆の始めというときここが伊達藩の領地と記したことになる、現実に金山城は相馬氏の井戸川将監が最初に城主となっていたからだ
何かその土地のことを知るにはその土地の人と他愛のないことでもちょっとでも話すとわかることがある、でも古い家だからといって訪ねて聞くわけにもいかない
ただそこに住んでいる人はその土地のことをどんな人でも外から来た人よりは知っているのだ、第一道自体がわからないからである
たまたま塩手では旧家の人とあって話しできたから良かったのである
そういう人とはなかなか出会いないからである
それから四重麦(よえむぎ)という方向へ向かう案内板があった
この地名は気にかかっていた、ここから入るとそこに行くのかと見た
ただこの由来が良くわからない、麦と関係していることは確かである
麦を作っていたのかとみる、ただ麦といってもいろいろあるからむずかしい
それで子供の時麦御飯を食べていたから思い出す、その麦御飯がうまくなかったのであるでも麦には栄養があり江戸患い(えどわずらい)という脚気にかからない効用があったのだ、白米はうまいにしても栄養がかたより脚気になった
ビタミンB1欠乏症です。 胚芽部分に含まれるビタミンB1をそぎ落としてしまう白米中心の食事が原因だったからである
食べ物は何か偏ると良くないのである、いろいろなものをまぜるといいのである
ただここでどうして四重麦となっているのがわからない、南相馬市の片倉村の坂をおりる所に八重米坂とある、この米は長野県の八重米原と関係あるのかもしれない、なぜなら
そこに初発神社がありそれが長野県と由来しているみたいだからだ
ただこの地名の由来がわからない、こういうことはなぜわからなくなったのか?
それは山村であれ農村であれ何か昔からの暮らしが生活が消失しているからである
今山村でも昔の様な山の暮らしをしている人はいないからである
だから不思議に思うことはどうしてこんな山に閉ざされた所で生活できたのかということである
丸森で有名なのは木材資源を相馬藩と米沢藩と伊達藩で争ったことである
それだけ木材が今の石油のように大事なものだったからである
電気もガスもない時代だと燃料は炭であり炭すら高価なものでありそんなに使いなかったただ山村は炭を売っていたから豊かになった家もあった
丸森はそれだけ木材が豊富だから争いの地になったのである
それで迷って森を抜け出れない恐怖を経験したのである、それだけ森が深いのである
ただその山がソーラーパネルの山になっていたことには驚いた
結局森の木材が外材になったりして利用されないからソーラーパネルになってしまう
電気が昔の炭の燃料に変わったからである、それか景観を壊すしまた台風などきたら住民にも被害がでてくる、そして十年くらいしかもたないとか廃棄物が公害になるとかいろいろ負の部分がある、でも山の木材を利用できないことがそうする
収入がなければ暮らしていけていからである
だから狭い田畑はこの辺でも原発事故以後利用する人がいなくなりソーラーパネルにもなっている、土地を活かせない、小規模の田畑でも労力が相当にかかり老人がふえて跡継ぎもなく耕作放棄地が膨大になっているからだ
だからどうして山村で暮らしが成り立ち過疎化してきたかを知るべしだとなる
私の子どもの頃は水は近くの井戸水をもらっていたし燃料は炭でありまた風呂は外風呂であり鉄砲風呂で木材の端材をもらって新聞紙と一緒にして燃やしていたのである
それが自分の仕事だった
つまり今日本が貧困化しているとき必ず電気水道ガスを止められて困る人が多いのであるそこに具体的に貧困化が見えるものとなっているのだ
今着ているものを見ても貧乏なことはわからないからである
だからなぜそんな辺鄙な場所で生活できたのかという時、人間最低限その住んでいる場で食糧があり燃料がありとかして生活できていたのである
それがわからないということはイメージできないのはそういう生活があったことを経験していないからである
ただ空家が多いというのはまたそういう最低限の生活もしにくいということで住まなくなる
現実になぜ飯館村とかでも原発事故で多額の補償金をもらったときみんな一斉に流出したのか?それはもうそうした山村生活より便利な街へ移った方がいいとなったからである
それで筆甫とかでももし補償金をもらった飯館村のようになったとみる
なぜならやはり空家が多くなっているからだ、それは全国でそうなのである
山村とか過疎地域は暮らしにくくなったからだ
そういう場所で電気水道ガス代を払うことは負担になるからである
麦に関してはいろいろあり私の裏の畑は麦畑があり桑畑があった、桑は養蚕のために必要だった、麦畑もどこにでもあった、ただどういうわけか麦という地名はあまりにも少ないのは何故だろうかともなる、米が主食であり田の地名が多いのはそのためである
『会津農書』にみる麦の栽培と民俗 PDF 佐 々 木 長 生
https://kanagawa-u.repo.nii.ac.jp : ...
この人は同じ町の出身だった、麦についてこれだけ調べるというとき学者だとなる
米については素人でも研究するが麦についてはわからない、ただ麦は米と同じく重要なものである、大陸では米より麦を生産してきたからである
それでエジプトは今でも麦畑でありビールを作っていたのである、ピラミッドの時代から麦を作りビールを作って飲んでいたのだ、だから米よりも歴史が古いともなる
でも麦の歴史については日本では麦御飯でも食べなくなりわからなくなったのである
丸森は多様な石がある、丸森の阿武隈川をわたる橋のたもとの石は大きい
うば石ではなく台石となっている、台となる石である、そこに盛んに桜が散っていた
そして帰る時は必ず丸森だと夕暮れになっているのだ
朝に出発して夕暮れになる、それで夕桜が心にしみるとなる
ともかく私が興味を持っているのは歴史もあるが自然景観なのである
その点丸森は自然景観が山もあり平地もあり阿武隈川もあり蔵王も身近に見えるから魅力がある
ただ自転車だと紫外線とかを受けたり暑くなると春でも熱中症になるようになったから
前のようには行けない、でも今回とそれほど暑くもないから行けた
筆甫に行ったのは初めてだったのである
それだけ山深いところだった、高い所の道を上り下りしたから疲れる、でも電動自転車だからとか行けたのである、何度も行っているけどヤマハのYPJ-XCは優れものだからである
次は「金山城」について書くのでご期待!
2020年06月21日
2020年06月19日
青葉の季節に仙台散策ー錦町から勾当台公園から定禅寺通りへ (大都会は歴史がわかりにくいー錦町の公園の木はヒマラヤスギ!)
2020年04月13日
新地の海の公園から山元町まで自転車で行く (桜咲く六号線を行く)
2019年05月17日
荘厳な森の詩(丸森町の森からイメージされたもの)
2019年05月14日
丸森町から蔵王と海が見える絶景ポイント (初夏の藤の花と丸森町の俳句と短歌)
あとがき
2018年11月04日
常磐高速の鹿島のSAで丸森の人の手作り展 (丸森の猫神のお守りなど売る)
2018年08月18日
丸森短歌十首(森の国で地理がわかりにくい)
2018年06月22日
丸森町の地名と歴史
2017年12月20日
丸森の春(詩と俳句)
2017年02月13日
阿武隈川と蔵王(春の短歌十首)
2017年02月12日
一つの地点から360度の視界を得るのはむずかしい (山下駅から山形、宮城、福島の三県を見る)
2016年11月22日
秋から冬(短歌十首)-山寺から磐司岩ー二口渓谷ー秋保大滝 (紀行文ー記憶は面と線と点でする)

2016年08月26日
民主主義には言論や報道の自由が不可欠 (でも権力との癒着で成されていない)
2016年08月22日
推理ドラマで写された昔の仙石線の陸前大塚駅 (春の日の思い出の短歌十首)
2015年07月10日
青葉風(仙台の青葉通りの俳句十句ー都会と田舎が融合すると文化が育まれる)
青葉風
夏菊の雨ぬれバスに六号線
仙台は青葉である。今頃が一番青葉映えて青葉通りになる。
青葉風が通りをふきぬける、バスを待っているとふきぬける
いろんな人が歩いている、外人も歩いていたし杖ついた老人も歩いていたし
昨今の事情なのかホームレスも歩いていた。
外人も今どきはどこにでも歩いているが仙台はやはり多い。
仙台は東北では一番の都会であり交通の要所である。
だから東北仙石ラインが新しくできて石巻まで50分だった。
青森までも二時間かからないのである。それは今は南相馬市と同じ時間である。
人間の距離の感覚は交通の便で変わってしまう。
石巻が50分か、青森が二時間もかからないのかとなる
文化も生まれない、田舎的なものと都会的なものが融合すると文化を育む
田舎的なものだけだと何か精神も沈滞してくる。
都会での刺激が必要なのである。それは歓楽街とかではない
青葉通りの道路に面した喫茶店で歩いてゆく人を見ているだけで何か活気を感じる
それはなぜか、人が歩いていることを車社会になって見ないからである。
道路を人を歩いていないのである。
その象徴として駅前がシャッター通りになったことである
人は全然あるいていない、車が素通りしてゆくだけである。
人間が仙台のように歩いている姿が見れないのである。
それは結局車社会になったとき駅前通りでも歩かないからである。
今日ひさしぶりで原町の駅前の大きな病院でみてもらった。採血して糖尿病の検査をした糖尿病ではなかった。
そこに若い女性が多い、田舎で一番にぎわっているというと変だけでそこは病院であり
介護施設なのである。他では若い女性はいても少ないしだから病院だけで若い女性に接することができるとなる。
あとはイオンとかスーパーに人が集まるくらいである。
一番若い女性が多いのは病院なのである。
仙台では青葉通りを若い人も老人も歩いている、病院はどうしても老人が多い
そこに若い女性が看護師だけではない、事務員でも多いのである。
田舎の勤め先は病院と老人の施設が一番多いのである。
仙台の特徴は東北の中心都市でありそこにが学都でもあり森の都であり学生も多い。
若い人が働く場でもある。だから青森の津軽鉄道の終点の中里のタクシー運転手の息子は仙台で働いているとか仙台は東京のように若い人が集まっているのである。
震災後は余計に避難者などが仙台に集まり人口が増えたのである。
本でも大きな本屋がありそこで立ち読みするとなにか頭に入るのも不思議である。
書店の効用はなぜか本を買うというのではなく立ち読みすることにある。
ある意味で図書館的な役割を果たしている。そのためにある量がないとできない
そういう書店はもう東北では仙台くらいしかないのである。
通販だとどうしても中味が読めない、立ち読みがうまくできない、一部紹介されていはいる。
でも書店での立ち読みのようなことはできないから困る
それで石巻のことを知りたくて古本屋に入った。
その書店でめずらしく経営している人が郷土史に詳しかった。
郡山の安積疎水とかで明治以降開拓に入った人が親戚にいて良く・・・バイとか九州弁をしゃべっていたという、・・・バイとかはオイドンとかはテレビなどで聞く
明治から百年以上たってそれだけまだ九州弁をしゃっべっているということはそれだけの人数が開拓に入ったということである。
相馬藩でも越中などの移民が天明の飢饉以降入っているからその風習、真宗の火葬などが入ってきた。
ただノバとか裸というのは真宗の方の方言だったらしい、それを子供の頃使っていた。
他の土地の言葉が入り伝えられることは相当な歳月が必要である。
百年過ぎてもやはり九州の方言をしゃべっていた人がいたというのもそれだけの人数がいたということだろう。
そうでなければ数人単位だったら方言も残らないだろう。
アメリカなどはメキシコ辺りから移民が多いから英語とスペイン語が半々くらいになっている。だから英語だけでは通じないからスペイン語も習っている人がいるのである。
新地が伊達藩だったということを言ってその方面の本が郷土史研究であったので買った。戊辰戦争のことが駒ヶ峰の攻防戦のことが出ていたので買った。
郷土史研究はまず資料をそろえないとできない、その時は必要でなくてもあとで必要になったりするからである。
その人はしきりに郷土史研究でも売れないと言っていた。
ネットでも販売している、まずそうしたものは興味ある人でないと売れない
仙台市は大きくなりすぎて歴史を調べるのも容易ではない
かえって今は小さな範囲だと郷土史というのもにも興味をもつ
範囲が広くなると興味あるものをしぼれないのである。
だから石巻市とか女川とかは興味をもったのである。
仙台の人が言っているが仙台では観光する場所がない、案内する場所がないと言っている仙台は何か目立つものがない、青葉城だって石垣だけだし何か60万石となるものが残っていない
あそこは一回上ればあきるのである。
ただ青葉通りというのが都会では気持いいのである。
その青葉には何か都会的なものを感じる、青葉風というとき仙台のイメージにぴったりのなのである。
新幹線がその青葉から仙台駅に到着したときあっていたのである。
仙台ではなにすることなく喫茶店でコーヒーをのみ通りの人を見ていると何か都会的な雰囲気にひたれるのである。
自分はともかく喫茶店が好きだったのである。そこで瞑想して書き物をしたりする。
何かそれが気分転換になる。食べ物も仙台はいろいろある。
ナンとかもありインドの旅行を思い出す、今回と中華料理店で焼き飯を食べたけどそれはチャーハンと違っていた。
中国人が経営している店だから中国的な焼き飯だったのである。
最近は遠くに旅できないからなにかそうした料理にも注意を向けるようになったのである本を買わなくなったので仙台には行くのはまれになったがやはり都会的雰囲気を味わうことも必要である。
田舎的なものと都会的なものが交わるとき文化が生まれるのである。
ただ盲点は文化というのが都会的なものであり都会だけの志向の人が多いのである。
田舎的なものがあり都会的なものがあるとき文化なのである。
欅の並木は自然でありその自然を活かして通りがあるから文化の街となるのである。
2015年07月09日
高速で仙台へ仙石線と女川線にのる (夏の俳句と短歌)
高速で仙台へ仙石線と女川線にのる
(高速道路)
高速に夏の海見ゆ鴎飛ぶ
ふるさとの山に青田や風そよぎ海を望みてバス走りさる
復興した仙石線で変わったのは東名駅と野蒜駅であり全く前と違っていた。
野蒜駅は高台に移り海が見えたから海を意識するが東名駅は山の陰になり
全く海が見えないから淋しい
仙台から仙石線は都会的であり頻繁に通る通勤の電車だから違っている。
一時間に一回とかでは本当は鉄道では少ないのである。
仙石線は東北ではだから珍しい線だと思う。
こういう線は関東とか関西には多いが東北ではほとんどないのである。
頻繁に通っているのは今では新幹線なのである。
松島から奥松島と景色もいいから気持いいのである。
松島までは家が密集しているから景色は良くない、でも福田町までの区間に青田が見えたりするからその名のごとくなっているからやはり田舎的なのである。
多賀城は都会化して海も何も見えないからつまらない、ただ鴎が飛んだりするのは海が近いことを意識する。
実際に駅まで津波が来ていたのである。
女川駅は高台に移りそこはかなり高いしあの駅まで津波が来たとなると相当に高い津波だった。
まず復興するには女川であれ石巻であれ十年でもできないように思った。
今でも石巻でも店が閉まっているのが多いし復興するのは容易ではない
ただ仙石線と女川線がつながり新しく仙石東北ラインができたので石巻まで50分というのは早いから便利である。
通勤するにしても便利だなと思った。
常々思っていたことはなぜ常磐線はもっと便利にならないのか高速にならないのかと思うことである。
直通で急行で50分となれば確実に仙台の通勤圏になるからだ。
今は交通で遠い所も近くなるからである。
2014年05月05日
奥松島から鳴瀬川、浜市、牛綱村(春から夏の短歌十首)
奥松島から鳴瀬川、浜市、牛綱村(春から夏の短歌十首)
この線路はなくなる
線路があった所から写す
線路はかなた高くなる
風そよぎ海に面して山桜ゆれつつ散らむ朝に映えにき
奥松島その静けさや島一つ心に残る夏の夕暮
奥松島菜の花映えて島影や津浪の跡をバスに行くかな
夏の日に牡鹿半島望みつつ野蒜の沖に船を行くを見ゆ
鳴瀬川河口に浪の打ち寄せぬ夏の日明るく鴎飛び来ぬ
津浪跡耕す女や牛綱村浜市の名夏の日さしぬ
津浪跡形見と残る社なれ古木の一つに我はよりにき
白萩の通りの消えて松一つ形見と残りあわれなるかな
菜の花や陸前小野駅終点に電車とまり津浪の後かな
鳴瀬川の河口
残った社の古木
一本だけ残った松
松島を旅行する時、松島だけを見ると印象が薄いものになる。
松島という領域は実際は相当に広いのである。
塩釜から松島に行っただけではわからない
これは一般的にどこの観光地でも言えることなのだ
点だけではなく線としての旅こそ旅になる。
今は交通が便利だから途中を飛ばしてしまうから名所がつまらないとなる
芭蕉の旅もみちのくの未知への長い旅の行程の中で生れたのである。
もし今のように新幹線で東京から二時間で来たら「奥の細道」は生れなかったのである。
仙石線で印象に残る場所が東名駅とかある海沿いをすれすれに走る線路であった。
その車窓がいつも見えるのがあの島だったのである。
あの線路はなくなり高い所に線路が作られる。
だからこういう低い所から写真はとることはできなくなる。
それでこの写真も貴重なものとなっているのかもしれない。
とにかくあの島はいつも見えるから印象に残る。
つまり樹でも石でも人間が長く見ているものは人間化するのである
あの島は何か母とか姉とかでも人間的になるのだ。
名前がつけること自体人間化している。
ペットに名前で呼ぶのは人間と同じになっているからだ。
菜の花が咲いていたのも何か奥松島らしい。津浪の跡に菜の花畑にしたのだろう。
桜もまだ咲いていてそれは山桜だった。
海に面して咲く桜だから山桜でも違った感じになる。
そしてし野蒜から鳴瀬川に出る。
あの鳴瀬川はまさに鳴る瀬であ名前がいい、あの河口に注いでゆくときが何とも気持ちがいい
東松島の白萩の通りだったのか、浜市だったのかわかりにくいがあそこに一本の松が残っていた。
あれだけが形見のように残っていたし社にも古木が一本残っていた。
牛綱村とか浜市とかの名前も良かったし白萩文書とか天保時代のものが残っているから
古い場所なのである。野蒜村というのも江戸時代にあった。
一般的に伊達藩は相馬藩より古いものが残っているのだ。
ただ仙石線は仙台からの延長であり通勤圏であり漁業とか農業で暮らしているという感じはないから
何か外から見て新しい町に見えてしまうのである。
ただ今は別に漁業とか農業で暮らしているいるわけでいなから仕事を失っているわけではないないから
津浪の被害から立ち直りやすいということがあるかもしれない。
それは相馬などでもみんな農業でも漁業でも一部が専業なのであり
ほとんどが会社員になっているから昔とは事情が違っているのだ。
松島海岸や高城から陸前小野駅までは代行バスがでている。
ただ陸前小野駅からは電車が通じていたのである。
あれは相馬市から原町駅まで通じている線とにていた。
短い距離になるからにていたのである。
次はあそこから石巻から女川を見てみたい、石巻はすでにみている。
津浪の被害はやはり宮城県が一番大きかった。
だから津浪が何かを知るには宮城県を見ないとわからないのだ。
2014年05月04日
春から夏(松島俳句十句)
落椿散りて一つに赤きかな
初夏や金華山望み鴎飛ぶ
鴎飛ぶ夏の日ざしに白しかな
レストラン活魚の泳ぎ夏の海
島に眠る鴎あまたや夏の夕
幻の島も浮きなむ夏の海
五大堂陽翳り涼し夕べかな
夏の陽の海面に写り五大堂
政宗の京の行き来や夏つばめ
春日さしアベック行くや赤き橋
初夏や松の緑も麗しく金華山見え鴎飛び交ふ
赤き橋渡り飛びかふ鴎かな夏の日ざしにまばゆく映えぬ
人入らめぬ島の渚やまばゆくも波の光りて鴎飛ぶかも
残る花延齢草の葉に散りて名残りを留む小径行くかな



この上の三つはクリック拡大



ここはクリック拡大すると大画面になり鴎が生き生きと見える

松島の松が津浪でも残ったので観光には影響がなかったのは救われた。
他のように松がなぎたおされたら松島の景観も喪失したからあまりにも衝撃的だったろう。
松島では島にさえぎられて水が徐々に高さを増しただけだったという。
だから波の衝撃がないから松も倒れなかったのである。
高さも低いし写真にとった島の上までは波は来なかった。
松島は前は椿に雪が残っていてきれいだった。
今回は季節が進んで初夏になっていた。
椿はもともと南国産であり沖縄のような南国にふさわしい花である。
今回は椿がいたるところで散っていた。
椿は一つ一つ が咲いているときと散った時は落椿となり
一つになった感じになる。一つの赤さに染められる。
赤はやはり誠を示しているのである。
鴎が夏の日ざしを受けて奔放に飛んでいた。
その光を受けて白さを増していた。
そして島にあれほど鴎が集まって寝床にしているのははじめて見た。
いかにも夏らしい風景だった
福浦橋からは必ず金華山見える。
あの赤い橋は印象的である。
アベックが多かったからあの橋も一段と赤いともなる
夏には前にも書いたけど松島は島が多いから
幻の島でも浮かんでいるような錯覚に陥る。
蜃気楼のようにありもしない島まで浮かんでいる錯覚である。
それだけ島が多いということである。
その島は奥松島まで広がっているのだ。
伊達政宗は京都の秀吉の伏見城にいることが多かった。
当時では江戸であったからそこから日本や世界を見ていたのだ。
だからグローバルな視野をもちえたのである。
その妻の愛姫もし伏見にいて伏見で死んだ。
レストランで貝の料理食べたけど貝がわずかでこまかくした氷の上にのっていたのだけど
それでその氷を食べるのかと思うほど貝が少なかったのである。
一興と思って入ったけど期待外れだった
そもそも貝とか高いし津浪のあとで魚介類はそんなにとれていないだろう
どうも牡蠣にしても小さく今までとは違っている
一般的には観光地の料理は高いだけで中味がないのが普通である
仙台の方がうまいものが食べられる
松島には快速で行くと近いなと思った。
直通になるから近くに感じる
松島は相馬からでも一番行きやすいのである
ただバスになったから出るには億劫になったのだ
それから介護しているから余裕がないのだ
それでも4、5月は一番旅にも外出にも向いている。
この月を逃すとあとは梅雨になのから出かけられない
だから無理をしても出かけたいのである
どうしても今は津浪の被害にあったところに足がむく
福島県の浜通りから宮城県の沿岸部は津浪の被害地域であり
連続したものとして見るようになったのである。
だから次は陸前小野駅から石巻から女川の方に行ってみたい
陸前小野駅までは電車が通っていた。
あれも常磐線と同じで途中が途絶えているから不思議になる
やはり観光として景観としては松島から奥松島から鳴瀬川から
石巻から牡鹿半島から気仙沼は魅力があるところなのだ。
2014年02月15日
仙台に約一年ぶりに来る (浮世絵展を見てバスで帰る-阿武隈川の短歌)
仙台に約一年ぶりに来る
(浮世絵展を見てバスで帰る-阿武隈川の短歌)
クリック拡大
阿武隈の川面に写る冬の雲
冬の雲津波の爪痕消えぬかも
冬の浪荒く打ちつけ津波跡駅舎いくつか消えてなしかも
街の灯の連なりともり仙台に久しく来じも今日我が歩みぬ
仙台の街の灯ともりなお冬やコートを着つつ歩む人かな
これは縮小したものです
これを拡大して見てください
やはり大きい写真でないと見栄えしないものがあります
クリック拡大
直通のバスで仙台に行く、途中新地とかは駅舎が津波で消えて荒い浪かしぶきをあげて打ちつけている。東部高速道路に出ると高いので眺めがいい、必ず阿武隈川などが見える。河口になるので広くゆったりと流れているのは外国の川を見るようである。
こういうふうに大きな川を見れないのが日本である。
阿武隈川というときそこには歌枕となった川でもあり阿武隈川についての古歌を知ると
また見方が違ってくるだろう。
阿武隈に霧立ちくもり明けぬとも君をばやらじ待てばすべなし(「古今集」)
よとともに阿武隈川の遠ければ底なる影を見ぬぞわびしき(「後撰集」)
行末に阿武隈川のなかりせばいかにかせまし今日の別れを(高階経重「新古今集」)
秋の夜の月はのどかに宿るとも阿武隈川に心とまるな(藤原実清)
思ひかねつまどふ千鳥風さむみ阿武隈川の名をやたづぬる(定家)
阿武隈川せやはり地理的に一つの境である。川は境にもなる。だから阿武隈川はみちのくの一つの境になる。特に亘理から岩沼にわたるところは境である。
底なる影とはなにか?確かに河口の方になると広いからそうした影が写しやすい、
冬の雲が今回は写っていた。つまり阿武隈川は大きいし底が深いということで影も写りやすいからこれはもしかしたら想像でもないかもしれな、ただ京都の人が歌ったのは実際に訪れたより想像で歌ったのが多いからわからない。
ただこれは想像にしても阿武隈川の特徴をとらえているのだ。
古歌を鑑賞するには相当な歴史的背景がありまた深いものがあるからなかなか鑑賞するのがねずかしい。
ただ阿武隈川にしても長い川だからどの辺を歌ったのかもわかりにくい。
みちのくに住んでいるものとしては相馬からだと必ず亘理で阿武隈川を渡るから一つの境意識がつちかわれる。
現在の「あぶくま」の地名は、平安時代の文献に「あふくま」と呼ばれていました。『三代実録』貞観5年(865年)の項で「阿福麻水神(あふくまかわのかみ)」が出てきます。この神は『延喜式』(912年)の陸奥国亘理(わたり)郡に出てくる、あぶくま川河口の「安福河伯(あふくかはく)」神社と考えられています。『延喜式』の「安福(あふく)」は、本来は「安福麻(あふくま)」であったろうと『大日本地名辞典』を編集した吉田東伍は言います。また「河伯」は『和名抄』に「かわのかみ」と記されいます。したがって「安福麻河伯」神社は9世紀には「あふくまかわのかみ」と呼ばれたと考えられます。仙台藩の『封内風土記』によれば地方民がこの神を「阿武隈河大明神」と呼び、昔は「阿武隈川神社」と呼んだと記しています。
逢隈(あふくま→おおくま)となっていて駅もできた。そこに実際に逢隈という地名が残っている。やはりここが名前の発祥地だとすると川を渡る場所としての名だったのか?
大きい川はわたるのに難儀したから逢うと別れるとかがテーマになりやすいのだ。
仙台で浮世絵展をやっていた。北斎の浮世絵を現代的手法でよりきれいしにした。
赤富士が暁に染まるのがリアルな絵があった。普通は何かくすんでいるのだ。
ただ富士の迫力は自分の眼で実際に見ない限り感動しない。
ソニーのRX200は夕方とか夜景がきれいにとれる。写真の魅力がこれでました。
こんなふうにきれいにプロ級にとれていることに感動した。
仙台にはやはり一カ月一回くらいは来る必要がある。
やはり展覧会でも文化であり得るものがある。
インターネットやテレビの画面だけからは得られないものがあるのだ。
音楽でも生演奏を聞かないと音楽はわからないというのは確かである。
ただ最近7年間は介護に追われそうした時間の余裕がなくなっていたのである。
現実に水道管が壊れ大量の水漏れがしていたと連絡があった。
子供を家に置いて火事になったとかハチンコして遊んでいて車の中で子供が死んだとか
何か家族でも家を留守にして留守番がいないと問題が起きる。
そういうことかつづいたのがこの7年間でありまたつづいているのである。
2013年11月28日
平泉の金色堂と京都の金閣の相違 (金色堂は意外とつまらないと感じるのか)
平泉の金色堂と京都の金閣の相違
(金色堂は意外とつまらないと感じるのか)
クリック拡大
金閣の朝日に映えてまばゆしや
常磐木の松の緑の添えにつつ
水面に写るその影の夢ならじかな
朝の冷えしも千年の都に
塵はらいその姿永遠に保たむ
三代の栄耀(えいよう)一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。まづ高館(たかだち)に登れば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。さても義臣をすぐつてこの城にこもり、巧名一時の草むらとなる。「国破れて山河あり、城(じやう)春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍(はべ)りぬ。
夏草やつはものどもが 夢の跡 卯の花に 兼房見ゆる 白毛(しらげ)かな 曾良
かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺(ひつぎ)を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠(たま)のとびら風に破れ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽ちて、すでに頽廃空虚の草むらとなるべきを、四面新たに囲みて、甍(いらか)を覆うて風雨をしのぐ。しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。
五月雨の 降りのこしてや 光堂
光堂を奥州の雨露から守るためには、膨大な財政的負担がいる。ほぼ10年か20年に一度は、金箔の張り替えを繰り返さなければいけない。結局、政子死後、50年ほど過ぎてから、光堂を守るためには、これをすっぽりと覆うことが一番経済的という判断が下された。そして正応元年(1288)、現在の鞘堂が建立されたのである。本来であれば、金色堂は、金箔を張り替えながら、金色に輝く姿で、関山の中央に黄金の蓮のごとく、光り輝いているべきものかもしれない。
http://www.st.rim.or.jp/~success/sayadou02_ye.html
金閣と平泉の金色堂は同じ金色でも相当に違っている。平泉の金色堂は鞘堂が残っているが覆堂というものに隠されていたのである。雨風にさらされていたら金色には保てない、いちいち金箔も張り替えるものもいなくなっていた。千年の都今日とではそういうことができた。金色堂が残ったのは覆堂や鞘堂があったからである。隠されて残っていたというのに魅力が生れた。だから芭蕉も良くのこっていたなとふりのこしてやの句ができた。
でも芭蕉が見たのも鞘堂に入っていたものだったのである。
だから平泉の金色堂は荘厳な内陣の装飾に魅力を感じるという人もいることはわかる。
そこにアフリカの象の牙まで使い贅をこらして作りあげた最高の工芸品だったということである。平泉の金色堂はやはり奥の細道のみちのくのわび、さびの風情なのである。
それは何か孤立しているそこだけが華麗な美を極めて残ったという感じがする。
一方京都の金閣は趣を異にしているのはそれがいつもあからさまに何も覆われず金色が映えていることにあった。だから日の光に映えるし前の池にも写っているし雪の金閣もすばらいし美を現している。四季の移りで金閣が美を極めて映えているのだ。
だからこの美に魅せられる人がいても当然である。
京都には金閣があれば銀閣があり秀吉の黄金の茶室があれば利休のわびさびの茶室がある。秀吉の黄金の茶室をいちがいに否定はできない、それもまた美でありそれと対象的に金閣の美がある。そこに千年の都の豊かさがある。平泉の金色堂にはそういうものがない、単体であり孤立している、金色でもそれが京都の金閣とは全く違ったものなのである。
やはり美というのは自然が根本的に作るのであり自然の背景がないと本当の美は生れない、金閣は自然に映えるということで魅了されているのだ。朝日にまばゆく輝く金色は鞘堂に覆われた中で輝く黄金の輝きとは違っている。
金の魅力はやはり色あせないものをもっている。ヨーロッパなどでは黄金は富の象徴であり美の象徴というものでもない、日本は黄金を美の象徴としたともいえる。
平泉が意外とつまらない、見るべきものがないという時、金色堂にしても単体であり七堂伽藍も消失したしただ柱の礎石のみか残っていた以前として廃墟の跡なのである。廃墟の魅力が平泉なのである。だから金色堂の輝きは確かに華やかさがあっても金閣とは違っている。確かに金閣のように自然の中に映えるようにしてあればまた違っていた。
朝日に輝く金色の色が見えることになるからだ。その相違は大きいということである。
だから金閣にしても自分でも訪ねたとしても一回くらいであり一日の時間の変化で季節の変化で見ていない、他の人たちも地元でない限り関西近辺でないとそんなに見れない、だから本当の美がわからない、自分はただ想像で今は詩を書いている。
また旅というのは旅する行程で違って見える。芭蕉は繁華な石巻を見て淋しい平泉に向かって行った。
十二日*、平和泉*と心ざし、あねはの松・緒だえの橋*など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘*の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出。「こがね花咲」*とよみて奉たる金花山*、海上に見わたし*、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つヾけたり。思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし*。漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はら*などよそめにみて、 遙なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩*と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。
不思議にこの行程は今でも一致している。石巻から石巻線は面白い、その駅の名前も・・・何かものさびている。
冬田の中の石巻線、短歌十首と詩
http://musubu2.sblo.jp/article/35518385.html
石巻線枯野のあわれ城あれや小牛田につきて平泉へゆく
湧谷には伊達藩の城があった。あの辺は何かもの淋し地帯である。
奈良時代に黄金がとれた地帯としても知られていた。
長沼というのは大きな沼だったのだろう、品井沼とか干拓した場所もある。・・もある。干拓される前だから日本では湿地帯が多く沼が多かったのである。海岸沿いでも沼とつく地名が多いのである。平泉までいたるにはそこに大きな野が原が田んぼが広がっていたのである。ただまだ田んぼではなく沼や野や原が多かったのだ。
そういう荒寥とした風景の中を平泉の金色堂にいたりその輝きを見たのである。
それはこのみちのくにこれほどの輝きを見た驚きがあった。
芭蕉が見たみちのくは荒野の風景だったからである。だから旅は新幹線で東京から二時間ちょっとだと来ても旅にはならないし金色堂の感動もないのである。
− 中尊寺の金色堂と鞘(さや)堂 −
http://www.el-saito.co.jp/cafe/cafe.cgi?mode=res&one=1&no=2972
2013年05月06日
丸森の秘境へ (夏の旅-新地からのつづき)
丸森の秘境へ
(夏の旅-新地からのつづき)
戦死塚訪ねてみればスミレかな
丸森や山路の深く落椿
丸森に海を望むや桜散る
イノシシの左右に駆けぬ夏の闇
丸森ゆ相馬へ飛ぶや夏の蝶
丸森の奥に家あり夏の星
峠越え蔵王の見えて丸森やなほ雪厚く新緑映えぬ
丸森の森の深きに黒揚羽舞い出て消ゆる山路ひそけし
大内の部落やあわれ天明の碑のあり夏に我が来る
分け入りて二筋の滝岩伝い流れし奥や新緑に映ゆ
二輪草木洩れ日さしてあまた咲く人に知られずここに映えにき
丸森の森の深きに鳥の声かすかにひびく夏の夕暮
丸森に蛙の鳴く声ひびきあう山間深く数軒の家
二筋滝
クリック拡大!
樅の原生林
忘れられた石
鹿狼山から丸森へ峠を越えてゆく、山吹が咲き桜がまだ咲いていた。ここの坂は帰りの方が辛い。ただ今回は電動自転車だから楽である。庭に三色桜というのが咲いていた。蔵王はまだ雪が厚い。
丸森の景観は変化に富んでいる。阿武隈川があり山が深い。蔵王も見える。金山城など歴史もある。戊辰戦争の戦死塚もある。大内部落に子安観音があり天明の碑があるのも相馬藩の飢饉の影響があるかもしれない、天明山というのも飢饉のとき名づけられたのかもしれない、ただ当時は飢饉だからといって伊達藩で援助することがなかったのである。
今回は手倉山の方に入って行った。そこに流れがありでこぼこの悪路がつづいた。電動自転車だからなんとか上れた。マウテンバイクのオフロ-ドのみちだった。そこは誰も入ってゆかない、車が一台通ったので道が通じていると思ってどこまでも進んだ。あそこは本当に秘境なのだろう。二筋の滝が岩を伝い流れていた。「二筋滝」という命名がいいみたいだ。誰も知らない奥深い谷間に二輪草が一杯咲いていた。あの二輪草を見る人もまれである。何か神秘的であり秘境に入る感じがした。
実際に樅の原生林というのがありそこに十数本の樅の林が確かにあった。樅は一本か二本しか森でも見られないからここは樅の原生林だったのだろう。原生林など今はない、丸森も名の通り森の町であり森が思った以上に深い、ただ杉の森である。もともとここは森林資源で米沢と伊達と相馬が争った境界の地帯でもあった。江戸時代から森林資源が豊富だった。その森に迷ってここの森がどれだけ深いか豊であるか知った。わずかに道のようなものをたどって下って行ったら道が尽きていた。
その時電動自転車をおして前の道にもどるのに大変な労力がかかった。そして森から出れなくなる恐怖を感じた。樹海にまぎれこんだみたくなってしまった。5時過ぎてくらくなりつつあったから余計に恐怖だった。こんな近くでこんな恐怖を味わうとは思ってもいなかった。必死で自転車をおして元の道にもどった。そしたら運良く下る道がありそこを一路下った。この道を下れば前の道に出れると思い安心した。誰も見ないようなコブシの花がひっそりと夕べの闇がつつむなかに咲いていた。
6時ころになりすでに暗くなっていたときまた相馬へゆく道をまちがいた。別れ道があり大きな道の方を行ったらそこは坂になっていてどんどん進んで相馬へ出れるのかと思ったらあの道は相馬に出れない、車の人に聞いてわかった。丸森の奥は深い、あんなところに家があった。それから引き返してやっとこの道をゆけば相馬だと聞いて一路帰った。星が光り蛙の声だけが山間に高くひびいていた。丸森はまだまだわかりにくい場所である。地形に変化があり魅力ある場所だと思った。
相馬に出たの8時過ぎで帰ったの9時ころだった。これだけの運動をしたからぐったり疲れた。
でも自分は身体障害者でなくなったからこれだけの無理ができるし結構無理ができると思った。
登山もできる。今まではこういうことは絶対できない、身体障害者であり小便でなくなったら死にいたるからだ。そういうことはないから安心した。やはり今は手術して正常に戻ったことで体に自身がついた。ヒマラヤ登山すら苦しいけどでるかもしれない、3000メ-トルまで上れば9000メ-トル級の山を見れるのだ。もう一度見てみたいと思った。
こうして家に帰ったら母が足を悪くして動けなくなっていた。トイレにも行けなくなっていた。
食事もほとんどとらないからもう寿命なのかもしれない、90以上になると突然弱るとパタパタと死ぬ人が多いらしい。だから死ぬ時期がきたのかもしれない、明日は入院とかの相談でありちょっと忙しくなるからプログの方は休みになるかもしれない、ただ自分は体が正常にもとったのでその点これら一人でものりきれるなと安心した。やはり介護は第一に健康であり健康がなくてはとても介護はできない、自分も介護されるような状態では介護はできないのだ。
新地から丸森へ夏の旅(新地編)
新地から丸森へ夏の旅(新地編)
クリック拡大!
クリック拡大!
利休梅
相馬より新地に来れば燕飛ぶ
臥牛城夏草埋もれ何語る
リキュウバイ手入れの人や開園す
新地なる高台に水張りぬ海を望みつ夏の朝かな
新緑に風のそよぎて望む海牡鹿半島連なり見ゆも
新地より金華山見えにしや船も行くなり夏の朝かな
山路来てなお残れる花あれや風に吹きちりあわれ深まる
新地から丸森まで電動自転車で行った。新地で火力発電所の近くで田に水張る人がいた。この辺は津浪の被害があったはずたと聞いてみたらここは高いし塩分は気にしないという、新地火力発電所は地形の関係で原町火力発電所より被害が少なかった。あういう大きな建物があると津浪を弱めるのにはいいだろう。ただ見晴らしよくなくなるから問題なのだ。一見田はみんな同じ高さに見えるが違っている。鹿島区では烏崎や小島田の方が低いから塩崎まで六号線を越えておしよせたのである。あの辺は万葉集にも歌われた地だからやはり低くかったのかなと思う。真野の入江が津浪で再現したのである。
新地にくるとここは伊達領と相馬藩の領地にもなった境で争いがあった。臥牛城ともう一つの新地城もそうである。新地はもともと谷地小屋が中心で谷地小屋要害とかいものが残っていた。新地城から臥牛城へ相馬藩をおさえるために城を造った。でも臥牛城はあまりにもその跡も小さいのでこんなところに城があったのか、ちょっとした砦のようなものだったのか?それでも城下があったとか新地についても良くわからない、新地にくると確かに宮城県に半場入ったような気分になるのだ。
相馬市までは相馬藩だけど新地はまた違っている。今でも伊達藩の武士の子孫で相馬市との合併を拒んでいたという人が駅の近くに家があった。それが津浪で流された。
実際に鹿狼山から太平洋を眺めると牡鹿半島が見えた。写真でははっきりしないが金華山も確認できる。高い山の上だからあれだけ見える。しかし新地の海岸からも牡鹿半島は見えたのである。あれくらい見えれば航海があの山を目印にするのだから意外とここは方向は間違うことがない海である。
船乗りが山を目印にするというとき牡鹿半島は一番わかりやすい目印になる。あれだけ見えれば方向は間違うことがない、だからここの海は鎌倉時代辺りから船で行き来があったとしている。
古代でも石巻の真野の萱原が港だという説もやはりこの海も見ればわかるのだ。波は荒いにしても方向を間違うことのない海なのである。
新地の街道から少しそれた上の町というところに社があり文禄の碑があった。これは今まで見た碑では一番古い。なぜここに?というときここが伊達領だったから古い碑があるのだ。松島にはすでに鎌倉時代の碑があった。伊達領には相馬藩より古いものがある。相馬氏は伊達氏よりは新興の勢力だった。だから伊達領よりは新しいから古い碑も少ない、文禄となると豊臣秀吉による朝鮮出兵=文禄の役があった朝鮮出兵である。そして文禄の後にすぐ慶長の津浪に襲われたのである。
戦争もあり津浪もありと動乱の時代だったのである。
新地の地形の特徴は貝塚が写真の海が見える辺りの高台にあったように海が近く海と山の間が狭いのが特徴なのである。これだけ海が見える場所は浜通りでもない、手の長い神がかい貝をとって食べていたというのはこの高台に貝塚があったからである。まさに地形の特徴がありここは山の幸海の幸に恵まれた所であり縄文人が住むには最適の場所だったのである。
菜の花が植えているのはここも放射能汚染でそうしているのか?別に相馬市から普通に田畑も作っている。あの茅葺きの家は特別残しているのか?まるで写真とるためにある。ただいくら茅葺きの家でも今は昔の生活がないのだから何か生活感ない、結局昔はどんなことしたって再現できないということである。なにかこれみたら写真をとらせるために人工的に作った、映画のセットのような感じすらするからだ。そういう場所は中山道の妻籠宿、馬籠宿にも感じた。まるで映画のセットになっていて生活感覚がなくなる。だから昔を再現すふることは容易ではない、観光化するとどこもかえって昔が偲ばれなくなることすらある。観光客ににぎわっているからここがいつもそんなににぎわっていたと錯覚するのである。だから最近名所観光はつまらないと言う人が多くなっている。歴史はかえって何か忘れられてしまった道の辺の古い碑のようなものに感じるのだ。仰々しく観光客用に再現してもそれが作られすぎてかえって歴史をそこなうということもある
鹿狼山に作った花木山の花園ではリキュウバイの手入れをしていた。利休梅だというのもめずらしい。堺辺りでは外国のものがいろいろ入ってきたのである。
壺でも茶碗でも外国製の高価なものが入ってきた。利休はそうした外国製の高価なものを嫌いわび、さびの茶道を確立した。みちのくあたりだったらそんなことはない、そもそも堺のように高価な陶磁器などすら入ってこない、平泉にあったにしろ普通は見ることもできないものだった。
利休梅は明治以入ってきたのだから利休が生きたときにはその名はないしこの花自体見ていない、
この名は相当新しい名でありそれだけなじみのない花だった。花の名前は万葉時代からあり古いのが多いからだ。
2013年04月12日
船岡の一目千本桜と蔵王の短歌20首 (山は場所によってまるで見え方が違う)
船岡の一目千本桜と蔵王の短歌20首
(山は場所によってまるで見え方が違う)
クリック拡大!
クリック拡大!
クリック拡大!
クリック拡大!
クリック拡大!
春の日やキジが見送る逢隈駅
ぽかぽかと春の雲浮き電車待つ
伊達領の船岡城跡花に雲
途中下車北白川や蛙鳴く
一本の椿の木や北白川
北白川待つ人一人春の昼
花に雲ゆうたり歩み花尽きじ
歩む道千本桜尽きず咲く大枝ゆれて長き道かな
城跡に登りて高き花に雲さえづり高く山にひびきぬ
蔵王映え吹き下ろす風なお寒し千本桜八分咲きかな
蔵王なお雪打ち煙り年輪を重ねし桜咲きつづくかも
みちのくの千本桜やなお寒し蔵王は雪に打ち煙ぶるかな
みちのくに千本桜咲きにしも畑耕す人のありしも
雄大に蔵王の映えてみちのくの千本桜咲きにけるかも
雄大に蔵王の映えてみちのくの千本桜春なお寒しも
蔵王映え雄大にして新幹線走り去るかな樹々の芽吹きぬ
雄大なる心をもてや蔵王映ゆさえづり高く山にひびきぬ
雄大な蔵王の映えて何か言う千本桜の咲きてこそあれ
瑣末なる生活に痛む我が心蔵王を望み明日をたくさむ
雄大な蔵王を望み人の世の悩みそいかに心晴れにき
みちのくの心とあれや蔵王映え春にしなおも雪打ちふぶきぬ
何故に人の心のいやしきを花と咲き蔵王を仰ぎ忘るべきかな
貧しくも蔵王を仰ぎみちのくに住みし幸い春のおとずれ
美しき心となならむ花に映え蔵王を仰ぐみちのくの春
人の世の心はただに金のみやみちのくの宝蔵王にそあり
人生きるこの世の闇の深きかな蔵王を仰ぎ忘るべきかな
今更に蔵王ありしと我が仰ぐ近くにありし宝なるかな
ゆうたりと桜の大枝ゆれにつつ千本桜にたんぽほの映ゆ
みちのくに大いなる詩(うた)の起こらむや千本桜に蔵王を仰ぐ
啄木の歌碑一つあり船岡に蔵王を歌わず死する悲しさ
この世の々誰か背負わむみちのくの花の盛りやしばし忘れむ
みちのくに桜前線電車のり追いて旅せし時のしあわせ
蔵王映え雄大にして新幹線走り去るかな樹々の芽吹きぬ
仙台の人と語りぬバスを待ち桜はまだと夕暮れにけり
仙台に来しも長きや時流れ世の移るかな花また咲かむ
岩沼から船岡へは近かった。前にも千本桜を見ていたけど実際は良くみていなかった。意外と近くを良くみていないのだ。こんな近くに蔵王あれほど雄大に美を極めて聳えているとは思わなかった。
船岡城跡から見た蔵王は最も映えていた。山は富士山でもそうだが見る地点によって全く違ったように見えるのだ。山は大きく見える所が一番いい、蔵王は確かに電車で阿武隈川を渡るとき見えるのだがその山はいつも見ているのだが感動しなかった。今回はあんなに雄大に見えることに感動した。
ヒマラヤでもそうだが3000メ-トルまで上らないとヒマラヤの山の雄大さはわからない、3000メ-トルまで上ったときまるで天に到達するようにヒマラヤ見えるのだ。見る場所によって全く違ったように山は見えるのだ。富士山にしても日本橋から見える富士山を浮世絵に描いているが富士山がぼつんとでているふうにしか見えない、蔵王にしてもぽつんと出てるのしか見えない場が多い、肝心な山形県側から見るとあそこはまるで蔵王の雄大さ美が全く見えないのだ。蔵王の裏側になって全く映えない。
今回見た船岡と穴場として北白川駅をおりて見た蔵王は本当に荘厳だった。北白川はたまたま乗り違い下りてしまったのである。それがかえって良かった。そこから新幹線が通っていたし最近でたはやぶさも走っていた。緑色の車体が新鮮だった。あそこは仙台に近いのに鄙びた場所だった。駅も無人駅だった。あの辺なども電車では通っていたがあそこに下りたことはなかった。あそこで新幹線と東北線が交わっていた。人間はつくづく近くのことを良くみていないのだ。船岡はあれだけ蔵王が雄大に見えるのだからあういう所に住みにはいい、浜通りの最大の弱点はこうした大きな高い山が見えないことなのだ。あういう雄大な山を毎日みていれば心に必ず影響する。そこから雄大な詩でも絵でも芸術が生まれてくる。
この六年間世間のことでせめさいなまされてきた。今も継続中である。人間の世の中はあまりにもささいなことで悩まされる苦しめられるから嫌になる。つまり蔵王のような雄大な山とはにてもにつかなささいないことで責められる場所なのである。人間である限り死ぬまでそうなのだろう。ささないことも無視はできないものにしろ最近は嫌になってしまう。だから30年間この世と交わらず生きていたときは本当に幸せだったことがわかった。桜前線を追って電車できままに悩むこともなく旅した時が自分の最高の幸せだった。その気分が今回の小旅行でよみがえったのである。春の雲が浮いて途中下車して思わぬ景色に遭遇したのもそうである。やっぱりこの世のわずらいから離れて自由に旅しているときは最も幸せだったのである。それが一日でも近くでも電車にのってよみがえったのである。人間はつくづく幸福が何かわからないのだ。
そんなに自由に旅していたときそんなに幸福なことか思わなかった。それが全くできなくなったとき何と幸福だったろうとかなる。それは別に
自分だけでなく今回の津浪や原発事故で避難者になった人たちもそうである。故郷を追われ狭い部屋におしこめられている。すると故郷で大きな家に家族一緒に暮らして庭いじりもできた。そんな家族と家と故郷を失ってはじめてあの時は幸せだったなとなるのである。それが当たり前のときそんなことを思いもよらないのだ。そういうことはこの世で長く生きれば経験しているだろう。突然境遇が変わることがあるからだ。人間は一生恵まれたままでは終わらない、どこかで必ず災難があり苦しめられるのである。苦しみのない人生などなかったのである。今や自分もなにやかやと詰問される身になったのである。それも自業自得といえはそうなのかもしれない、ただ人間は雄大なもの大きくなりたいというのがある。ささいなことにぐじぐじ生きたくない、蔵王のように雄大なものになりたい、そこに自然の意味がある。
船岡には啄木の歌碑が一つホ-ムにあった。あれは何なのか?啄木は別に東北でも故郷の渋民村と盛岡とかを短歌にしたけどあとはしていない、松島であれ蔵王を歌っていない、それだけの時間がなく死んでしまったのである。なぜ東北では啄木と賢治がぬきんでているのか?それはやはり天才の独創性があったからだ。それはまねできないものでありあれだけの若さで生み出した独創性があった。
芸術は独創性がなければ何の価値もない、その独創性は簡単に出せるものではないのだ。
斎藤茂吉などは「.陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ.」などの短歌があるがこれも確かにいいとしても何かしっくりこない、蔵王はみちのくを二つに分けるほど大きな山だというが分けるというより山形県と宮城県から見えるという山である。だからそれほどこの短歌から雄大なものを感じるというものではない、つまり斎藤茂吉にはどうしても正岡子規の写生の継承者であり地味だということがある。それは自分も写生からはじめたから同じである。茂吉には啄木や賢治の独創性はない。詩人というものでもない、短歌の専門家のうよなになっていた。だから意外と芸術的評価は低くなるかもしれない、芸術の評価は相当にむずかしい。ただ時代的にやはり変化する。かえって評価があがるものもあるし全くかえりみられなくなるのもある。啄木と賢治はこれほどなお文学的生命をもっているのは天才の独創性がありそれがまねのできないものだからである。それもあの若さで成し得たということが驚きなのである。もちろんその批判もある。でもやはりその独創性がまねできないということである。
宮城県美術館で「高橋英吉展」見てきた。やっぱり実物を見ないとわからないことがあった。芸術にしろ自然でも実物を見ないかぎり本当の感動はない、彫刻とか建築は特にそうである。
「潮音」は潮風を深く吸い込んでいる感じが良く出ていた。あの像からは潮風がふきつけ潮風と一体となっているものを感じた。もう一つの漁夫像は体が丸み帯びて豊かな肉体の安らぎを感じた。
潮風を深く吸いつつかなた見ゆ海の広さや春は来にけり
高橋英吉もこれだけの独創性と才能があった。それも若くてそうだった。もし長生きしていたら世界的彫刻家になったかもしれない、その才能も戦争で奪われたのである。戦争では相当の才能ある人の命が奪われた。生き残った人たちはずるい人たちだったかと言われ、その人たちが本当は日本をだめにしたのだとかも言われる。実際に戦犯の人もいて読売新聞社の原子力発電の父と言われた正力松太郎がそうだった。その時も裁かれるべき人間が裁かれなかったのである。今度の原発事故でも誰も裁かれないのとにている。
ともかく一目千本桜は八分咲きであり昨日は寒かった。もう今日明日は満開である。ただ仙台は一分咲きにもなっていなかったのは不思議だった。たいして距離もないのになぜ咲かないのかと思った。やはり桜前線は寒暖の影響が距離で起きているためである。だから桜前線を追って旅することが日本の春でもある。この辺は交通の便悪くなった。帰りは直通のバスだった。これは便利であるからいい、やはり電車は楽である。バスは何か疲れるのである。
逢隈駅ではキジがでてきて電車を見送った。あそこは山になっているから野鳥がさえづったり蝉がなく、やはり自然があると違っている。電車の旅は駅にとまり駅を楽しむことが旅でもある。
でも今は通りすぎるのが多いから旅にならない、やはり時間をかけて途中下車するのが楽しいのだがそれだけの時間がない、そして今はロ-カル線は一旦途中下車したたら次の電車がいつまでも来ないとなるから簡単におりられないとなる。東北線は本数が多いから途中下車しても白石-仙台間は困らないからいいのだ。まあ、春は旅したい季節なのである。一日でも近くで楽しむことができたので良かった。
2013年03月06日
高速通り仙台へ-(春の俳句十句) (フェルメ-ル展を見る)
広々と河口の光る春の朝
田起こしや仙台平野を一望に
復興や仙台平野に春の雲
通り行く少女の髪に春の風
ハイヒ-ル高く少女や春の街
大通り吹き抜けにけり春の風
春日さし鳩一列にフェルメ-ル展
喫茶店外国人や春の街
北へ行く新幹線や春の夕
仙台まで直通のバスで仙台へ行った。このバスは東部高速道路を行くので見える景色が違うようになった。鳥の海とか阿武隈川の河口が見えるのだ。それがまた違って気持ちがいい、同じ景色だとあきるのだ。東部高速道路は高いから見晴らしがいいのである。これで津浪がさえぎられたというのもわかる。かなり高いからである。もしこういう道路がもっと買い海岸線近くにあったら津浪をさえぎった。それだけ高いのである。これを作った時は津浪のことなど考えもしなかったろう。
仙台平野は本当にバスで行くと広いことを実感する。ここの米が江戸に船で送られたのである。
この広い稲作地帯が実は江戸と結ばれていた。江戸の庶民でもその腹を支えていたのである。
昔も田起こししていたらそれは江戸へ米を生産していたとなる。江戸時代でも江戸の食糧は遠くの人たちが作り支えていたのである。その食糧を供給する人を実際に見ることは労働を実感するからいい。実際はそうした労働を見ることを実感することもできないのが現代である。外国から食糧が入ってきてもそれを作る労働の現場を知り得ないのである。 宮城県は一番津浪の被害が大きかった。
一万人近く死んでいた。その復興はまだほとんど進んでいない。仙台の津浪の被害は今回は仙台の郊外の新住宅地に大きかった。山元町すら実際は仙台に通う人が多かった。仙台に勤める会社があって通っていたのである。だから仕事をなくしたわけではないというのは救われているのは本当なのだろう。三陸とか気仙沼とはまた事情が違っていた。
仙台市は東北では唯一街らしい街である。東北では仙台のように街らしい街はない、この辺では原町とか相馬市でも街らしい感覚はない、
人さえ通り歩いていない、仙台は若い人が大勢歩いている。
若い熱気が感じられるのは東北では仙台くらいかもしれない、あとは何か都会でもいなかじみているだろう。通りに春の風が吹いて少女の黒髪をなびかせたように何か若さを感じるのである。
喫茶店に外国人が日本人と英語でしゃべっていた。でもあの外国人はイタリア人なのだろう、カプチ-ノを飲んでいたからだ。ヨ-ロッパでは英語をしゃべる人は普通にいる。ただあの人はいかがわしい外国人かもしれない、今や外国人も普通にいるからいかがわしいのも多くなったのである。
ただ仙台辺りだと外国人と交流する機会は多くなる。田舎では英語教師くらいだろう。なかなか交流できないのだ。東北では仙台に住みたいという人は多い。ただ大きなマンションとか見るとあんなところにつめこまれるのは嫌だないつもみている。やはり一軒家の方がいいのだ。
住んでみるのと一時的によるのとはまるで違ったものとなるのだ。仙台あたでは住環境がいいとはならない。でも仙台のデハ-トの地下では食べものが豊富だからオカズには困らないだろう。ただ高いから金はかかる。一人暮らしは明かに都会の方が暮らしやすいのだ。原町とか相馬市だったら簡単に外食できるからいいのだ。
「孤独が一流の男を作る-川北義則」とかを書店で買った。何かお一人様とかそういうのが普通になる時代だというのは本当だろう。一人暮らしが膨大にふえてくるからだ。今は一人暮らしでも食事でも困らないようにできているのだ。ただ野菜不足になるから新鮮な野菜をとるように心がける必要はある。一人暮らしは特殊な変わり者ではなく普通の状態になってしまったのである。ただ老後は共同生活しというのはそうかもしれない、一人暮らしはいろいろと困る。そういうことを身をもって経験したから人ごとではない。高齢化というのはなぜ老後をいろいろ問題にされるのか、それだけ数が多いからである。そしてこれだけの人が長生きする時代を経験していないからである。過去は参考にならないからである。60代辺りでは男女とも健康な人が多いのだ。回りを見回すとそういう人がいくらでもいる。何をしていいのかわからないような一人暮らしの男女がいる。女性なんか60代でも若いから処置に困る。だから男を求める欲望の強い人もいる。枯れていないのが今の時代なのである。まだぎらぎらはした欲望に満ちているのだ。
ともかく仙台には最低一か月に一回は行く必要がある。ただ留守もいない、連絡もとれないから不安なのである。春になったからどうしてもでかけるようになる。自分は手術してから普通にもどっている。旅行だって前と同じくできる。体に支障がないのだ。もちろん病気ではあるが普通の人と同じく行動できるのだ。このことは自分にとって大きかった。前は身体障害者でありこのままどうなるのか不安でしょうがなかった。今はそういうことがない、自転車でも別に疲れるとしても前のように走れるのだ。体そのものがそんなに弱っていない、健康だから人に頼らなくても、一人暮らしは病気になったら最悪になる。人に頼ることは前に書いてように誰かいじわるな人の奴隷にされてしまう。そして病気だからさからえなくなるのだ。そうして脅されたから本当に恐いことだった。人間は弱みをもったらその弱みにつけこまれ非情なものであることを知った。そういうことで人間は恨み犯罪が生まれている。
老後で一番大事なのは健康なのである。健康をなくしたらすべてを失いかねない、例えば病気になったら高額なうまいものすら味がなくなりうまいとはならない、何でも食欲がそもそもないのだから食べたくないのである。性欲だってそもそも肉体が弱体化すればなくなる。人間の欲望は実はその体にあり体が弱ればもういくら金があり欲望の対象がいくらあっても何の意味もなくなる。
人間は実は外部のものを感じるのは美でもすでに内部で心で感じることがそなわっているからともいえる。もし心に備わっていないなら外部の美に反応することもいなだろう。それは食欲でも性欲でもあらゆる欲がそうである。内部で反応する力を失いば外部がいくら豊でも意味がなくなるのである。
仙台にいるのも今は束の間である。何か追われるように束の間の時間を過ごすだけである。ほとんどが買い物の時間である。でもその一時だからこそ街灯がともりそれがなんとも貴重な時間だともなる。一種の短い旅なのである。
2013年01月05日
新年に仙台に行く (仙台平野の津浪の範囲は広かった-高速道路を行き実感した)
新年に仙台に行く
(仙台平野の津浪の範囲は広かった-高速道路を行き実感した)
名取川の河口
新年や青葉通りに鳩飛びぬ
仙台に古本また買い新知識
故郷に巣ありて帰る寒烏
新年やバスの眺めに変わるかな
泉が岳蔵王と見えて津浪跡仙台平野に冬日没るかな
新年に蔵王の山影名取より夕陽眩しく見えつつ暮れぬ
蔵王が見える-名取辺り
クリック拡大!
今日は直通のバスで仙台まで行った。あれは途中で乗り換えないから便利である。本数も一日十本くらいでているから便利になったのだ。正月もあるが乗客が一杯だった。2時間近くかかるにしても直通だから便利である。あれだと仙台に行きやすいからまた軽い気持ちで行ける。ただ今日も電気をつけっぱなしで怖かった。一つのもち焼くのがコンセントをはずさないときれないのだ。それを忘れるとものすごく熱くなる。あれが熱くなっていたら火事になると気がもめてしょうがなかった。
前は携帯で連絡できたけど今は耳も聞こえないから連絡できない、その連絡できないことで犯罪にもあった。いかに家族がいないことが困るからかぞくがある人は考えないのである。困ったことがない人は困った人がいることを知らないのである。消防署に連絡したがどうにもならなかった。
帰ってみたらやはり電気がついていたがモチ焼くのはゼロに回していたから助かった。携帯で連絡つけば簡単に電源を切れで事がすんだ。介護は本当に一人だとつききりになり離れられなくなるのだ。認知症の時も一人でいると不安になるので離れられなくなった。どうしても気晴らしに近くすら行けなくなっていたのである。一人暮らしとかこうして留守にする時一番恐いのか火事なのである。
仙台では古本をまた買った。前は一か月に何度も行って本を買いに行っていた。専門的な本は仙台で買うほかないからだ。詩の本が相当にあったけど新しい本は高かった。詩を作ることでわかったことは詩をかなりの数を集める必要がある。詩はなかなか読めないのが多いのである。有名なのは読めても他は読めない、最近アマゾンで集めた。ただ高いから金がかかる。他に絵本とか安いので買った。古本の世界も広いから何があるかわからない、本の世界はそれほど広いものだったのである。
本ははすでに天文学的なものが出版されているからとてもそれらを利用することすらできない。
本は今は素人でもオンデマンドなどで簡単に作れるみたいだ。だから自分もそうしして本を作ってみたい。ただ書店には並ばない、書店では無名の人の本など置かない、出版社ル-トでしか本は置かない、ただ地方の小さな町の本屋など消えてしまうだろう。
海側の高速道路を仙台まで通ったけどかなり海に近い、亘理の鳥の海も見えたし阿武隈川の河口や名取川の河口も見えた。あの東部高速道路を越えて津浪が来たのだからあの辺の被害も大きかった。
バスから見てその被害の広さを実感した。結構海に近い場所だったのが亘理であり名取りだった。
そしてわかったことは昔の街道が山際に作られたことは偶然ではなかった。その前は昔は湿地帯とか海だったのである。だから道を作らなかった。開拓して田んぼになったのは政宗の開拓奨励の結果だったのである。でも現代は海に対する危険な感覚を失っていた。どんどん宅地開発であの広い仙台平野に家が建っていったのだ。それで地震学者が津浪が千年前にきているとか400年前に来ていたと警告したら土地開発業者にそんな危険なことを言うなと脅迫されたという。自分たちがもうからないからそう言ったのである。これは東電の体質と同じだった。ただただみんな頭にもうける金のことしかなくなっていたのである。そしてあれだけ広範囲な地域が津浪にのまれてしまったのである。
津浪の被害では宮城県が本当に大きかったのである。
みちのくを ふた分けざまに聳えたもう 蔵王の山の雲の中に立つ 齋藤茂吉
これはみちのくではない、宮城県と山形県を分けるものとして蔵王があった。
今日は高速道路からの眺めが気持ちよかった。あそこは一段高いから見晴らしがいいのだ。だから津浪も防ぐことができた。津浪の防波堤になっていたのだ。津浪の被害の傷はなかなか消えない、ただ津浪の後でも米作りはしていたから塩害でも米は作れるらしい。放射能被害とは違っていたのである。
烏が巣に帰るというのは当たり前だけどこの辺では故郷を失い故郷の家に巣に帰れないというのも悲劇だった。自分にはまだ家があり辛うじて家族も残っている。それでまだ故郷にいる。
故郷を喪失することの傷は相当に深いだろう。だから福島市とか他でも都会の団地に避難して住んでいる人はどう思っているのだろうか?大内村の人たちは郡山市などにすんだから便利で帰りたくないというのもわかる。仙台でインド料理のパンのナン料理を食べた。カレ-にひたして食べた。
チェ-ン店になっていた味が洗練されていた。あのパンがインドで好きになったので食べたかった。
外国旅行ではそういうことがある。でも外国旅行で料理通にはよほどなれた人でないとなれない、
レストランに入りにくいし金がかかりすぎるからだ。外国のレストランは簡単に入れない場所だったのである。
2012年11月30日
冬に訪ねる多賀城跡(俳句、短歌) (1)
冬に訪ねる多賀城跡(俳句、短歌) (1)
クリック拡大!
壺の碑
たずぬべし廃寺の跡や冬の暮
街道に二本の松や冬の暮
街道に二本の松や雪の嶺
いしぶみや街道の松に冬紅葉
古き碑のここに並びて刈田かな
冬の暮多賀城にも仮設かな
(旧今野家住宅)



薪積みて母屋の古りぬ落葉かな
中門や馬の名を呼び親しかな薪積む家の冬のくれかな
岩切と陸前山王多賀城と歴史の道や冬のくれかな
多賀城の跡をたづねて冬のくれ末の松山都に知られぬ
冬の山遠く望みてはるけきや都を離れ多賀城に来ぬ
多賀城を訪ねたのもひさしぶりだった。多賀城の正殿跡に立ったのは何十年ぶりかであった。近くでもこうして一回限りで寄っていなかった。近くが意外と見逃されているのだ。曇っていて写真でははっきりしないけど遠くに山が望まれて雪も見えた。蔵王や泉が岳などが見えたようだ。
多賀城跡から平城宮(ならのみやこ)や京都を望んだらずいぶん遠い感覚になる。ひさしぶりで行ったからみちのくは奈良からはどれだけ遠かったか?その感覚は古代では今の十倍くらいの距離感があった。世界の果てに来たような感覚にもなっていた。その遠さがみちのくだったのである。
人間はやはり年よっても感じ方が相当に違っている。若いときは何かこうした歴史的な場所でもあまり感動しないし良くみていないのだ。人間はどんなに美しい場所でも歴史的な場所でも感じないものは感じない、外国旅行でも同じである。感じることはやはりその人のもっている力量である。
芭蕉はあれだけみちのくの旅で感じたのはやはりそれだけのものをもっていたからである。
旅しても感じないものは感じないからである。
今回印象に残ったのは街道の二本の松であった。二本松という地名があるがなるほどなとこの松を見て思った。ここの道は細いから奥の細道がまだ偲ばれる。実際はかなたの山に雪が見えたのである。写真ではやはりとりきれないものがある。遠くのものが見えない感じられないのである。山が遠くに連なり見えた。それがみちのくの遠さを感じたのである。今は冬紅葉の季節であり壺の碑がにあっていた。これの解釈もいろいろあり謎である。
。
今回は移築した今野家が興味深いものがあった。蕪木門があり中門があり母屋がある、中門は馬小屋になっていた。その馬小屋には今にも馬が出てきそうな感じだった。名前を呼べば馬が顔を出す、いかに馬と人とが一体化していたかこの家から感じた。本当に馬は家族の一員だったのである。
薪が積んであって冬支度でありいかにも今の季節にふさわしい、冬紅葉も映えていた。
母屋がどっしりとあり中に土間をあがるとおかみの部屋になりそこで家族が集まり食事をする。
旅館のおかみはここからきていたのである。母屋の中心がまさに母でありおかみだったのである。
日本では女性の力が結構大きかったのである。おかみにはさからえないとなっていたのだ。
2012年11月29日
冬に訪ねる-見逃していた岩切(俳句連作) (岩切の歴史は古い-古代から鎌倉時代の要所)
冬に訪ねる-見逃していた岩切(俳句連作)
(岩切の歴史は古い-古代から鎌倉時代の要所)
360度パノラマ-クリック
あまたの碑ここに集めて落葉かな
岩切の石の仏や木の葉散る
瞑目す石の仏に冬日かな
なお残る冬の薄日に仏かな
結跏趺坐二体の仏冬日射す
東光寺石仏古りぬ冬紅葉
みちのくの塩釜街道冬の暮
今市橋海よりの風冬鴎
今市橋朝に渡るや冬鴎
今市橋朝に渡るや雪の嶺
岩切に中世語る枯芒
岩切の川沿い歩み葱畑
街道に三所と残る冬の暮
元禄2年(1689年)5月8日(新暦6月24日)、芭蕉は仙台を立ち、十符の菅・壺碑を見ている。 かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に、十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は「十符の菅」のことを書いている。
仙台より今市村へかゝり、冠川土橋を渡り、東光寺の脇を三丁行テ、岩切新田と云村、百姓の裏に、十符の菅アリ。又同所道端の田の脇にもあり。両所ながら垣結廻らし、菅は彼百姓が守となん。
元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、奥の細道、十符の井を訪ねている。
『蝶之遊』
http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/iwakiri.html
岩切は仙台から近くても歴史があるところであり見逃していた。それはなぜかというと鎌倉時代から江戸時代になって急速に変化した。仙台市は伊達政宗が戦国時代を経て青葉城を築城して仙台市が繁華な街として発展した。鎌倉時代は原野だったのである。これは鎌倉市もそうである。江戸城は鎌倉に幕府があったとき原野であった。そのあと徳川家康が幕府の城を作り百万都市になった。その前は原野だったことがわからなくなっている。大阪だってそうである。あそこも湿地帯であり埋め立てて秀吉によって作られた都市である。秀吉の城は本拠地は京都の伏見城だった。そこに最上氏や伊達氏が屋敷を隣り合って構えていたのである。愛姫(めごひめ)もそこに長く住んでいた。つまり大阪であれ江戸であれ仙台であれあれだけ人口が増えると過去というのがその人口の多さによってかき消されてしまうのである。現代から過去をさかのぼり歴史をみるというとき常にこうした錯覚が生まれる。もう鎌倉時代の様相は時代がたって全くその環境が変わってしまったからそこから過去を偲ぶことは容易ではないのだ。岩切という所もそういう鎌倉時代の要所でありそれが仙台や塩釜が発展して過去が忘れ去られたのである。
鎌倉時代は今の七北田川と湊浜が結びついていて船で物資を運び河原市場や冠屋市場が栄えた。七北田川は前は冠川(かむり)であった。川を遡ると泉の方に冠橋というのがあるから地名が残っていることでもわかる。岩切が要所となったのは一つは川を通じて海と結びついていたことである。そこで物資が集まり安かったのである。鎌倉時代になると海の交通も開け始めていたからである。そこで川も重要な交通路になった。もう一つは奥大道とか秀衡街道とかがあり平泉まで通じていた。
社殿。この場所は秀衡街道(ひでひらかいどう)が通っていた場所で、街道に塚を築くために測量に用いた縄を納めて祀った、と言い伝えられています
http://sendai-jinjya.jugem.jp/?page=1&month=201008
こういう社があるのもやはりここは今と同じく道が交差する幹線道路だった。だからいくつもの道ができて交差していた。もともとここに多賀城の国府があったとか言われているから古代からもみちのくの道があった。十符の菅菰を調て国守に献じたというのもそのためである。地理的にも平泉や塩釜や松島やさらに湊浜にも通じている要所であることが地理的に納得がいくのだ。ここは福島県だと郡山ににている。郡山は福島県の入り口でありイワキにも会津にも福島市にも通じている要所だからこそ発展したのである。地理的要因がいかにその地の性格を決めるかわかる。
みし人も十府の浦風音せぬにつれなく澄る秋の夜の月
ここで浦風というとき海を意識しているのだ。ただ今は住宅が密集しているから意識できない、でも冬鴎が飛んできて自分は海から吹いてくる風を感じた。浦風だったのである。風から海が近いことを意識したのだ。冬になれば北風だがあの風は海から吹いてきたから東風(こち)だったかもしれない、この風は春になると吹き始める風である。でも七北田川の海の方角から吹いてきた。今回の津波で海が奥深くまで入り込んでいたことが証明された。多賀城駅の砂押川を津波がさかのぼり潮水があふれて被害にあったことには驚いた。古代から鎌倉時代は冠川と砂押川が一つであり結びついて湊浜に流れでていた。砂押川でも高砂でも砂を押すだから海の波によって砂が押されるという地名である。そこに津波が押し寄せたというのもつながっている。高砂というのも砂が高く積もっている地域だからこの辺は海岸地帯の砂原だったのである。津波が来た地点に貝場という地名があるがこれも縄文人が貝をとっていた所かもしれない、丁度津波が来た境目だったからである。八幡地区には「塩入り」「塩窪」「塩留」笠神地区には船塚がある。これは南相馬市の鹿島区の真野の草原とにている。なぜなら津波で塩崎まで津波がおしよせてそこには船着とか市庭という地名が残っていたからである。ここもそれとにているのだ。船塚は船着と同じであり船がそこまで入ってきていたのである。そしてこの川は多賀城とも結ばれていたのである。だから末ノ松山が多賀城に近いしそこで津波にも流されず残ったから都にもみちのくの歌枕の地として知られたのである。あそこの前がかつては海だったし沖の石が残っているのもそのためである。
ともかく歴史というのは常に変わりやすい無常の世界を示している。かつて繁栄したところは早々と忘れられてしまい何なのか不明になる。一つは交通が変わるということである。宮城県は交通に恵まれていた。特に松島や塩釜など入江や島が多く海からの交通が早くから開けた。石巻が繁栄したのもそのためである。それは鎌倉時代から始まっていたのだ。古代の多賀城にはすでに大道が作られていたというのもそのためである。岩切には古い道から新しい道も作られて幾重にも道が重なっていた。紙屋道とあるのは紙も生産していて重要な産物となっていた。金売吉次の屋敷跡もありここを本拠地として活躍していたらしい。当時のいろいろな産物が岩切に集ったのである。そこで一遍などもここにより浄土なる松島を目指した。信仰者、巡礼者の一団が松島に向かいそこで命を終えることを願ったのである。だから松島は中世の修行場であり死に場所でもあった。
ただすでに江戸時代になると中世の市場は河原などに埋もれてしまって不明になった。古市とか古町になった。今市とは新しいようで江戸時代にできたのだから新しいのである。今の市場だから新しい。そういうことでも錯覚する。今市が古いと思っているけどそうではない、すでに中世の繁栄はここにはなく移動している。古町というのは全国でどこにでもある。古町と新しい町は距離が離れていない、隣り合っていることもある。狭い場所で繁栄の場所が移っているのだ。古町温泉とかあったけど山の方にもそういうふうに常に古くなってしまう町があった。小さな町でも村でも古町になりやすいのだ。今でもシャッタ-通りができたようにス-パ-や巨大ス-パ-に買い物が移って町自体が古町になるのと同じである。交通が変わるとまた都市はたちまち衰退するのである。江戸時代船運で栄えた湊はみんな廃れている。そこで遊女が増えて船乗りを引き留めようとしていたとかのいろいろな伝説が残っている。人間の社会は交通によって栄枯盛衰があるのだ。それは世界的にも同じである。シルクロ-ドは海の交通が開かれると衰退して砂に埋もれてしまったのとにている。世界的に見ても交通が変わると急速に衰退してしまうのである。原発事故の被害にあった相馬地方なども常磐線から六号線から交通が断たれたから物資の流通が断たれたからそれが回復しない限り衰退してしまうというのとにている。古代からでも現代でも交通は重要であり都市の栄枯盛衰をになっていたのである。


塩釜街道
三所は細所であり細工場であった。中世の地名だった。川沿いに葱畠があり今市橋から泉岳とか雪の嶺が望まれた。ここが住宅が密集していて昔を偲べないと思った。多賀城の方には密集している。ところどころ畑があり今の季節は葱があっている。葱は冬の季語だった。葱は魚の臭みを消すとかいろいろ使い方があった。塩釜街道沿いには何か昔のものが残っているのか?神社などがあれば偲べる。
ここを仙台の方に歩けば昔が偲べる、多賀城跡の方がまだみちのくの道が偲べる。
俳句作るにしてもこうして歴史を知らないと作れない、「十符の菅菰」というものも何か良くわからないけどこれも相当に古い由来があることは察せられる。枯芒が冠川になびいていてこの辺はまだ昔の面影が残っていたのである。多賀城の方に行くと砂押川があっても住宅が密集してとても昔の風景は市街に埋没した。でも津波で砂押川があふれたからここが海が近いとあらためてわかったのである。末ノ松山もそれで再び脚光をあびたのである。他にも東光寺にはあかぎれ地蔵とか愛馬の碑が忘れられるようにあった。あかぎれはしもやけのことかなぜあかぎれとしたのか何かあかぎれと碑がにていたからだろう。かぎれとかしもやけは良く母が洗い物してなっていた。昔の洗い物は冷たくあかぎれとかしもやけになりやすかった。今は温水でありならないから死語になった。まずあかぎれと名づけられたのはあかぎれに悩まされたから連想したことはまちがいない、他にも地蔵には青麻・・というのは眼病にきくとかで祈られたり下の病気は地蔵に小便すると直るとか何か必ず病気と関係しているのだ。東光寺と相馬は古くから関係していた。東光とういう刻まれた碑が台田中になった。中世から関係していたのかもしれない、その伝説も残っている。明かに僧侶が来ていたのである。青麻という碑も相馬にあり伊達と相馬は関係が深いのである。
岩切の古城
http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/miyaginoku/09/09-12-01.htm
冠川は昔はいづこ石仏の冬日さし眠り枯芒かな
いづれにしろ岩切は中世からの霊場でもあり市場でもあり歴史が交差する場所だった。明治以降では愛馬の碑というのもめずらしい。太平洋戦争では馬が必需品でありそれで当然馬も死んだのだから碑があっても不思議ではない、でも愛馬の碑とか戦争にまつわる話はあっても碑はここではじめて見た。そもそも馬頭観音碑が全国に無数にあるとき戦争で死んだ愛馬の碑がまれだというのもかわいそうだとなる。戦争というのは馬まで意味なく死んだともなる。実際に馬頭観音碑は平和なときに人間と共に働いたから助けてくれたから碑がある。戦争というのは動物にとっても無惨だったとなるのだ。人間は本当に忘れやすいのである。中世ともなると本当に遠い過去だが確かにそこに生きていた人々がいたのである。それを偲ぶことが容易でなくなる。現代だってたちまち人はわすれさられてゆく、一見そう見えないにしろ同世代の人がすでに一割五分死んでいることでもわかる。次々に死んで忘れられてゆくのである。そして何が残るのか?わずかなものしか残らないのである。
2012年11月28日
二両の電車の不思議(続編) (久々に仙台まで電車で行った)
冬薔薇蕾五六輪開かざり
黄葉や電車のとまる悠里館
黄葉や郷土を語る品々や
朝散歩冬菜畑や野の広し
前畑に朝映えにける冬の菊
晩菊やみちのくの線路つづくかな
仙台や欅の黄葉夜に映ゆ
雲に月にじみ光りて時雨かな
淋しさや母は寝て待つ時雨かな
冠雪の朝の蔵王を我が望みその厳しさや胸に迫りぬ
今日は半年ぶりくらいで仙台から岩切から多賀城に行った。手術して自転車に乗るな、乗り物に乗るなと言われたときはショックだった。一瞬自転車にも乗れない、乗り物にも乗れないとしたら自分がしてきたことが何もできなくなると思った。手足がもがれるように一瞬思った。確かに脳卒中とかで倒れたらショックである。動けなくなるし脳もやられるからその衝撃は恐ろしい。特に介護する人もないとしたら悲惨極まりなくなる。介護する人がいない身寄りがないということはこういうとき最も悲惨な状態になる。なぜなら介護する人がいたとしてもその病気になったら自分自身も介護する人もその負担が大きすぎるからだ。元気で生きて10日くらい寝込んで死ぬのが一番いいというのは本当だろう。そういうふうに死んだ人を近くで二人くらい知っている。その人は10日前まで仕事していたのだがぽっくりとあとは逝ったのだから理想的死に方だったのである。
二両の電車の不思議は電車があわれと感じるとき機械でも人間化しているのだ。八両のときは全くそういうことを感じなかった。現代はそれだけ機械に圧倒されて機械と人間は全く分離したものとなっていたのである。二両の電車は人間的だし自然の風景にとけこむのである。八両でもたいして変わりないように見えてもそうではなかった。だからこの経験も不思議なものだったのである。
亘理の悠里館というのには入ったことがない、なかなか亘理ではみている暇がない、今日は夜に快速で帰れてから早かった。介護していると留守番がいないから困るのだ。なんとか仙台近辺は日帰りで行ける。岩切は仙台駅-東仙台-岩切になるから近かった。そして岩切は中世からの歴史がある場所だったのである。ここを見逃していたのだ。意外と近くを人間は見逃している。灯台下暮らしなのが人間だった。そこから多賀城にも行ってみて新しい発見があった。あそこの道は街道であり歩いてみるとみちのくの旅が芭蕉の旅でも実感できる。旅は歩かないと旅にならないのである。だから冬菜畑の道を散歩している人がいたがその歩いていることが絵になっているのだ。車だったらもう絵にはならない、車は二両の電車より何か人間的なものを感じないのである。車があわれだなどと感じたことがない、車に乗っている人はまた別に感じているのかもしれないが自分は車には何か情を感じない、もともと電車が好きで旅ばかりしていたから電車には思い入れがある。それで岩切駅の前の喫茶店から新幹線と普通車と貨物列車が行くのをながめていてああ、ここは平和だなとつくづく感じた。
常磐線は津波で寸断されて何かまだ津波や原発事故は宮城県でも影響している。宮城県は津波の被害は一番大きかったのである。だから多賀城の博物館の前にも仮設住宅が建っていたのである。長町にも建っていたがあんなところにも建っていた。結構あの辺は被害が大きかった。多賀城の近くに末の松山があるから貞観の津波は奈良や京都まで知られたのである。末の松山はそれで歌枕になった。そのことが再現したことに驚いたのである。
蔵王はすでに雪だった。ひさしぶりに見てその姿が胸に迫った。短くても結構な旅だった。仙台から岩切から多賀城は歴史の道だったのである。そのことは次に書く・・・
冬の岩切駅
新幹線普通列車も行き
長々と貨物列車もごとごとと
交わり通り過ぎ行く
岩切の駅前の喫茶店
冬の日さしてしばし休みぬ
駅前に菊の映えて
ここは平和なるかな
その営みの変わらずに・・・
クリック拡大!
なんか自分は電車の旅が長いから相当に電車に愛着をもっている。電車を見ているだけで心がなごむし気持ちいいのである。車を見ていてそういう気分になったことはないのである。新幹線だってやはり乗ってもみていても気持ちいいものがあるのだ。だからやはり鉄道の写真をとるということが鉄道ファンの第一歩なのかもしれない、デジカメだと写真をとりやすい、ただ動いているものはとりにくいからとっていない、そこまでのめりこんではいなかった。電車を待って写真とるようなことはしていなかった。電車の旅でもバスでも自転車でも車でも歩きでもそれぞれ違った旅になる。ただ車では旅したことはないからわからない、車だと何か自然を感じないから好きになれない、雨風を感じて自然と一体化する、今日も帰りに夜に雲ににじみ月が光って満月だった。そしてぱらぱらは雨がふった。これは時雨だったのか?そうかもしれない、これも車だったら時雨も感じないのである。だから車だと風流を感じないから旅にもならないのである。
2012年07月31日
松島の円通寺の枯山水の庭 (夏の俳句十句)
石橋や夏の日さして枯山水
石橋に木蔭の深く枯山水
御仏や睡蓮菖蒲池の前
池写る菖蒲一本奥の庭
蕗の葉に孟宗竹や夏日射す
青色の涼しき花に岩屋かな
苔の道木蔭の深く待屋かな
御霊屋に薔薇の絵残り青葉かな
クリック拡大!
円通寺の庭は枯山水である。松島を模したというが川が流れているように見える。海とは見えにくい。枯山水は自然をそのまま模したのとは違う、抽象画的側面がある。川にも見えるし海にも見えるとかなる。石橋がポイントとなっている。あの石橋をわたった向こう側が何か別な世界がある感じになる。そういう場面があった。奥深く川が流れ丸木橋を籠を背負い渡ってくる人がいた。それは隠されるようにあった。キクザキイチゲの花が咲き春だった。川せみが飛んできたりしていた。それは宮城県であり仙台の近くでもあった。石橋にはそうした日本的風景をイメ−ジする。日本の橋は短い、小さい橋が多いからだ。
この円通寺にはいろいろ見るものがある。
19歳で早世した伊達光宗の菩提寺であり、光宗の霊廟である三慧殿が「圓通院霊屋」の名で国の重要文化財に指定されている。光宗は仙台藩第2代藩主・伊達忠宗の次男であり、仙台藩祖・伊達政宗からみると孫にあたる。
三慧殿の厨子には、慶長遣欧使節を率いた支倉常長が西洋から持ち帰ったバラと、フィレンツェを象徴する水仙が描かれている。
それでバラ園が作られている。和風の庭にバラ園があるのはそのためである。ただ伊達政宗の霊廟であり政宗にお参りしているような気分になる。瑞巌寺もそうであり寺と僧は政宗に付属した存在だった。武家に付属したのが寺と僧になっていたのだ。結局歴史的には武士道が社会のモラルとなり寺や僧は武士の菩提寺となり脇役となったことは松島の瑞巌寺一帯は示している。戒名でも院とか名づけられたのは武士であり武士の墓は立派であり庶民は墓も建てられなかった。ただ豊になったとき俺も墓を作ってみようかと姓と名前の記した墓がわずかに残っている。それは個人墓なのである。次に夫婦墓となり家族墓となった。戒名もなかった庶民が戒名をつけるようになったのは武士に習ったのである。日本人のモラルは江戸時代は武士道であり寺や僧にはない、戸籍の管理の役所みたくなっていたのである。江戸時代はそういう時代であり中世とは違い宗教は武家に管理された役所化したのである。あそこに政宗が死んで七人の殉死の五輪塔が苔むしているのもやはり政宗が神格化していたのである。
2012年07月07日
夏の日の松島の旅(俳句-短歌-詩) (松島の歴史は奥深い-中世に3000人の僧が修行していた聖地?)
夏の日の松島の旅(俳句-短歌-詩)
(松島の歴史は奥深い-中世に3000人の僧が修行していた聖地?)
クリック拡大!
夏菊や波光りよす朝の海
草原のかなたに光る夏の海
夏鶯松島湾の光るかな
苔むして岩屋の涼し松の影
夏の日に修行の僧の雄島かな
夏日さし杉木立の道苔映えぬ
松島の木蔭の深く板碑かな
四つの洞風の通りて涼しかな
外洋の風に夏日さし仁王島
船を追う夏の光に鴎かな
目印の山の遠きも夏の海
砂浜に波よせひびき夏の日や雄島によりて遠き島見ゆ
早世の若君惜しみ建てにける青葉に映える御霊屋に来ぬ
月光りたゆとう波に松島の島影浮かぶ夏の夜の夢
夏日松島
松島湾巡船
波揺光海鴎
瑞巌寺門入
杉木立影深
青苔夏日射
岩屋洞古墓
穢土厭離欣求浄土 生死無常自証悟得
松島の岩窟に老僧一人
瞑目深く岩により
松風鳴りて煩悩を払わむ
身を浄めつつ祈りける
松清くして波静かなり
浄土夢見てここに朽ちなむ
松島に人は死なむと
遠き世の人の思いの
ここにこもりて深し
我の齢も尽きなむや
身を清くして仏を待たむ
来迎の島にして聖なりや
一場の夢の世は離るべしかな
波に静かにゆられにつ
鴨はよりあふ友なれや
月さし明るし松影に
眠れる魂の安からむ
津浪にも残れる松や
苔むしにつつ石の仏は古りぬ
クリック拡大!
昨日は仙台から松島に行った。電車で相馬まで行きここで15分くらいまって亘理まで行きまた電車にのりかえてと前よりは一時間以上時間がかかるからめんどうになったことと一日しか出かけられないから宮城県が行くのにはいい。仙台で買い物するのも楽しみである。松島に最近歴史的に興味をもった。そもそも松島のはじまりは古く中世であり鎌倉時代前から天台宗の寺があり3000人の衆徒が集ったという、供養の板碑も実に古い中世のものである。それが頼朝が平泉をせめてきたときここも滅ぼされたという、ここまで頼朝の影響があったのかと思った。つまり松島というと伊達政宗しか思いつかないのが普通である。ところがこれだけで松島を語ることは本当の松島を知ることにはならない、松島は相当に奥深い歴史がありそれを知らないと松島は知り得ない、自然的に風光明媚というだけではない、そこにはもっと奥深いもの霊場としての松島がありその証拠が岩窟で修行した天台宗の僧とかこの聖地で死にたいと集まって来た僧たちだったのである。ここにはだから雄島でも死体が骨となってたくさん散らばっていたというときまた発掘されるというときそれを物語っている。
見仏聖人とか言う人もいたことでもわかる。松島というのも今という時間しか見ていない、そして観光というだけで来ている。ところがここはもともと聖地であり祈りの場所でありあまたの僧がここで浄土を願い死んだのである。松島は特に中世からそういう場所として選ばれた。それだけ美しい場所だったためである。なぜ今そういうことが閑却されるか見えてこないかというと仙台の市街から近く住宅街が迫っていてそういう霊場とかの感覚にならない、気楽に観光に息抜きにアベックが行く所でもある。そういうふうに今はすべてが観光地化してしまったからそこが歴史的にどういう意味をもっていたかわからなくなっているのだ。そして観光地で浮かれて遊んで終わるだけになってしまう。それはそれでいいとしてやはり自然と歴史の奥義を究めることがそこに長く住んでいれば必要になってくる。
近くであればそれかできるがまた近くであるが故に見逃すこともありうる。灯台下暗しになるのだ。松島は今回の津浪で被害をまねがれたのは幸運だった。松もほとんど倒れていない、そして福島県から浜通りまで一つの海岸地帯で津浪の被害を受けて海沿いは一つの文化圏を共有している地帯だとも思った。福島県から宮城県から岩手県の津浪に被害にあった所が一つの地理的一体感を感じたのである。福島県では会津とは地理的一体感が感じられない、宮城県の海沿いの方が地理的一体感を感じる場所だったのである。仙台に頻繁に行くし通勤圏にさえなっているから余計にそうだった。
だから宮城県と福島県の歴史はクロスするし重複して見ることができる。これは山形県も岩手県もそうである。この辺を詳しく調べれば遠くに旅に行かなくても一つの世界としてみることができる。
この三つの県でも全体を歴史的地理的にみることはむずかしいのだ。これは地理に精通して全体的俯瞰的にみることがむずかしいのである。歴史になると古代から中世から江戸時代とさらに通観することはむずかしくなる。だから松島が聖地だということも鎌倉時代前から3千人もの僧が集まっていたなど知らなかったのである。その跡に瑞巌寺が建てられた。それは禅宗の寺だった。ただ伊達政宗の時代になると伊達政宗の菩提寺の性格が強くなり見張塔やら墓でも華やかな墓が御霊屋があり伊達政宗をお参りしている感覚になる。とてもここが寺なのかと思ってしまう。伊達政宗にお参りしている感覚になるのだ。江戸時代までは寺は武家に所属する菩提寺だったからそうなる。でも本来の宗教の場ではなくなっている。そういう矛盾も内包している複雑な場なのだ。そういうふうに歴史が積み重なっている場なのである。これはヨ-ロッパのロ-マとかどこの都市でもそうだがにている。ロ-マ時代からの歴史が重層的になっているのがヨ-ロッパである。20歳で急逝した期待された若君が死んだ御霊屋は実に立派であった。そこにはフィレンツの花の水仙とロ-マの花の薔薇が描かれていたのも
ヨ-ロッパ的である。これは支倉常長の影響だったとかヨ-ロッパ式になっているのだ。それでバラの園を裏の方に作っていた。これも寺としては変わっている。それなりに歴史があって作ったのである。
伊達政宗は京都の伏見で愛姫が暮らしていたし伏見城がある所で秀吉に仕えていた。政宗は仙台より京都の秀吉の伏見城で伊達屋敷をもち長くそこにも住んでいた。最上氏も伊達と並んで屋敷をもく地名として残っている。そういう歴史も興味深い、政宗はそうして全国的に活躍して世界的にも視野をもちヨ-ロッパのロ-マにも使者を派遣した世界的視野をもった英傑だったのである。ただ政宗が死んで殉死者が七人いて円通寺にその墓がある。こういうことでも政宗は信長と同じく神のごとくなっていた。信長は部下に殺されたけど政宗はそうではなかった。70歳とか生きたのである。ただ瑞巌寺でも円通寺でもそこは伊達政宗にお参りするのであり仏教の寺とは感じられなくなる。中世は霊場であり聖地であったから歴史を知れば違和感を感じるのだ。伊達政宗をお参りして成仏するということはないだろう。でも政宗が寺の御本尊のようにありその妻の愛姫も子の御霊屋もそうなのである。
ここはもともと霊場であり聖地だったとするとき
この蕪村(六十七歳の時の作)の句は、「松島で古人となる歟(か)年の暮」
と同一時の作とされている。『蕪村全集一』の解によれば、「風流行脚の途
次、松島で死の本懐をとげる人もある。そんなうらやましい人のことを心に
思いながら、自分はぐうたらと火燵行脚の冬ごもりを極め込んでいる」とあ
る。
これは蕪村が松島の歴史を中世までさかのぼる霊場として僧が修行して死んだことを知っているからこの句を作った。もし知らなければ何の意味かもわからない。松島は死に場所としてもいい霊場として知られていたのである。松島で死ぬということは幸せなことだった。風光明媚な地で成仏することだった。でも芭蕉も蕪村も一回しかこれなかったのである。そこに現代との差があった。
ともかく歴史を知らなければこの句の意味もわからないのである。俳句短歌でも歴史を知らないと深く鑑賞できないのである。
次は円通寺の庭の俳句です
2012年05月29日
仙台へ行く (名取から仙台空港へ-津浪の跡)
仙台へ行く
(名取から仙台空港へ-津浪の跡)
空港に海風吹くや夏着かな
夏の海飛行機飛びたつ外国へ
涼しさや中庭の花風にゆる
中庭の夏菊ゆれて喫茶店
ルピナスの中庭に咲く都会かな
仙台や木蔭に鳩や青葉かな
仙台の若葉や長く影なして風にそよぎて我が歩みけり
新しき本三冊ほど我が買いて青葉の影の通りゆくかな
今日仙台に行く途中、名取から仙台空港に津浪の跡を見に行った。空港線にのるのは初めてだった。仙台空港は海がすぐ近くで見えていた。あんなに近いと思わなかった。結構離れていたと思っていた。すぐ海が近くであり松林があり貞山堀が見える。そこはみな津浪で流された。大量の松も流された。松林になっていると海はみえにくくなる。でもあそこは高いから海が見える。
ともかくテレビだけごと必ず錯覚を生んでいるのだ。だから実地にその現場に立たないと見えないのである。津浪も現場に立ってみることである。そこで人間の五感が働き納得する。テレビの画面からだと何か錯覚を生んでいる。あれだけ海が近いとするともっと被害が大きくても不思議ではない、
自動車とか飛行機が流されたけど空港の建物自体は大きいから二階に逃げれば助かった。
それにしてもあんなに近いとは思わなかった。
仙台の駅前の中庭のあるところはいい、いかにも都会らしいくつろぎの空間を演出している。
やはり仙台には一か月に一回くらいは来るべきである。ただバスで二回のりかえたり今は二時間以上かかる。何か不便になってしまったのである。青葉の季節であり本を買ったりと買い物をした。
2012年05月18日
丸森から梁川へ 春の短歌十首 (金山城、小浜城、梁川城を訪ねる)
丸森から梁川へ 春の短歌十首
(金山城、小浜城、梁川城を訪ねる)
幾代の城主や梁川花の散る
丸森へ我が入りゆくや山の間に鳥なきひびき山桜咲く
丸森に入りて知られじ梅林の馥郁とにおい家そひそけき
丸森の夕べの桜あわれかな我が坂越えて相馬へ帰る
丸森の金山城に残雪の蔵王の光り新緑に映ゆ
一時は相馬の城や金山城夏草踏みて跡をたずねき
丸森に山越えてこそ東風(こち)吹きぬ政宗の初陣相馬を望む
丸森の坂越え相馬へ還り来て何を伝えむ夏の日暮れぬ
一時は政宗が居城山城や花咲きそめて我が訪ねけり
丸森の我が坂越えて梁川や城跡古りて桜散るかな
一時は会津の治む梁川やせめぎ合いにつ夏の日暮れぬ
残雪の吾妻蔵王を望みつつ桜は桃の伊達の春かな
梁川や柳青める城跡を訪ねてあわれ夕ぐるるかも
春のサイクリング-丸森-梁川-阿武隈川-丸森(短歌の部)
写真
http://musubu2.sblo.jp/article/37411301.html
丸森(金山城)
金山城は、永禄年間に相馬氏の家臣井戸川将監、藤橋紀伊が築城したと言われる。
その後伊達氏と相馬氏の争奪戦が展開された。
天正9年(1581年)には伊達政宗が初陣を飾り、同12年(1584年)に伊達氏の領有となった。
そして、金山城は政宗の家臣中島宗求が2千石で拝領した。
小浜城
永禄11年(1568年)小浜城主・大内義綱は田村氏に通じて主家の石橋尚義を追放し、塩松地方一帯を支配下に置いた。大内氏はその後、田村氏からの独立を目論んで伊達氏・蘆名氏の側に転じた。
天正12年(1584年)伊達政宗が家督を継ぎ、当主・大内定綱は引き続き伊達氏への従属を誓ったが、翌年には離反し、蘆名氏に属する。この後政宗は小浜城を二本松氏攻撃の拠点とし、
天正14年(1586年)8月までの約1年間滞在した。
天正19年(1591年)、奥州仕置によって塩松が蒲生氏郷領となると、家臣の蒲生忠右衛門が2万5千石を与えられて小浜城代となった。現在、本丸跡に残されている石垣はこの時築造されたものである。その後、上杉氏時代は山浦景国、再蒲生時代は玉井貞右が城代となり、寛永4年(1627年)廃城となった。
梁川城
伊達義広 粟野大館(梁川城?)
伊達政依 梁川城?
伊達宗綱 梁川城?
伊達基宗 梁川城?
伊達行宗 梁川城?→霊山城→伊佐城→梁川城?
伊達宗遠 梁川城?
伊達政宗 高畠城→赤館
伊達氏宗 赤館
伊達持宗 大仏城(後の福島城)→梁川城
伊達成宗 梁川城
伊達尚宗 梁川城
伊達稙宗 梁川城→桑折西山城→丸森城(隠居)
伊達晴宗 西山城→米沢城→杉目城(隠居)
伊達輝宗 米沢城→舘山城(隠居)
伊達政宗 米沢城→黒川城(後の会津若松城)→米沢城→岩出山城→仙台城→若林城(隠居)
http://musubu2.sblo.jp/article/33335304.html
梁川の川の岸辺に桜咲き柳も青みて夕暮れせまる
梁川はこの川と柳が印象的な場所だった。街からはずれたところに阿武隈川が大きく蛇行しているのも見物である。阿武隈川は意外と魅力に欠けているがあそこは蛇行して激流となり流れるから魅力がある。桜も桃も映えて川は丸森の方へ流れてゆきやがて亘理の方へ流れ海に出る。
やはらかに柳あおめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに 石川啄木
川柳(せんりゅう)」という歌は、江戸時代に実在した柄井八右衛門という人の俳号「川柳」に由来するもの。川に柳はつきものだったのだ。
柳橋とかもあるし柳と川は一体としてあった。
ただ桜だったわかるけど柳をそれほど泣けとごとくに心の目でイメ-ジしたことがわからない、
春の息吹を感じるのは梅であり桜であり柳というわけではない、ただ川にあっているから川を思い出して柳が目に浮かんできたのである。梁川には旅してやはりこの柳があっていた。
ただ一時いただけであり急ぎ去ったからそれほど印象に残ったとはいえない。ただ梁川はこの柳の方があっていたことは確かである。旅も印象が薄れるとどういう場所だったかわからなくなる。
それで写真を見たりして思い出すのである。近くだと思い出しやすい、梁川は歴史的にも伊達氏の拠点となって城であり地理的にもそうだったのだろう。
丸森の金山城とか小浜城の魅力は小さいけど城の最初の形を維持していることである。山城であり山が防御のために利用されている。小浜城は小さいようだけど山を利用したもので頂上まで上り攻めるのには地形的に難儀する。地形を利用した要害である。南相馬市の江垂(エタリ)の中館も山を要害とした砦でであった。それが中世から起こった城であり最初は山のような要害を利用した山城だった。あとに平城になった。鹿島区の駅の近くの田中城が石田三成の戦国時代に最期の興亡の城となったのは地理的なもの地形が影響していた。平地の城で戦うことになったからだ。その城は回りが湿地帯であり今回の津浪でその近くまで津浪が押し寄せて今は湿地帯化していることでもわかる。
中世の城は館(タテ)と呼ばれていて地名化している。飯館村でももともとは大館村などがあり合併した。大きな館(たて)があり地名化した。館は山を要塞として不便な地域にあった。山自体を要害としていたからである。
その地域を見る場合、こうした山城の跡でもあれば古いとわかる。それから古墳などもあれば古代からつづいている地域だとわかる。梁川は城跡があってもこれも城があったのかどうかもわかりにくい、でも古い要の場所だから伊達政宗が抑えていた。ただ今は街を改造したので新住宅地にして古い町並みもなくなっているのでここは新しい街なのかと錯覚する。でも城跡があったから古いとわかる。そこからその町を見る必要がある。どんな所に行っても旅しても最低の歴史認識は必要である。
梁川などは城跡見ないと新しくできた町かと錯覚する。でもそこでは代々つづいていたのであり興亡があった。この辺では相馬市の玉野の領地争いで象徴されているように会津、米沢、伊達、相馬で争っていたのである。だから交互に城主にもなったりしていた。金山城はそうだった。
この三つの城あるところは景観が優れている。小浜城から安達太良山が大きく見える。丸森に入ると小高い丘に金山城がある。そこから見た蔵王は近くに見えるから威容がある。それから丸森から坂を越えると残雪の吾妻嶺がかなたに望まれ蔵王すら見えてくる。そして阿武隈川が梁川で合流していたり蛇行してその景観が雄大だった。伊達には桜と桃が一時に咲くのも見物である。桜咲く時期が一番見物である。日本はどこでも地形が複雑であり地形的に魅力がある。ただ平坦な地ばかりつづいていたら満州のように嫌になる。日本はだから旅してあきることがないのだ。日本ではどこでも桜咲く時期が一番美しくなる。放射能騒ぎでもこうした景観には影響していない、桜も桃も実は食べられなくても花は咲いて鑑賞できる。でも桃などは実が食べられないとしたらやめる人も出てくるだろう。
花だけでは売り物にはならないからだ。とにかく山の美しさは中通りから会津にあり浜通りにはない。でも高い山は阿武隈高原からも望まれる。景観的には福島県は中通りまでは望まれるが会津になると視界に入らない、そこには2000メ-トル級の山がひしめきあっている。だから福島県でも別世界になってしまうのである。それだけ福島県は広いのである。日本の地理のわかりにくいのは山が縦横に重なっていて視界をさえぎるからである。山の中にまぎりいると方向も地理もわからなくなるからだ。
俳句とか短歌とか詩の鑑賞でもこうした地形をよまないと鑑賞できない、最低限の歴史的認識は必要なのである。だから小さな山城でもその跡でも訪ねる必要がある。何度も丸森に行ったけどちょうど相馬との境が坂を上った所にある。金山城は相馬領に最も近い所にあった。日本は坂が境になりやすいことがわかる。自転車でその坂を越えたり下ったりしたことが体に刻まれているから記録が蘇るのである。丸森は相馬から遠いようで近い。海の風が春吹く東風(こち)が山を越えて吹いてきたのがわかった。政宗の初陣の地として有名であり政宗は相馬との戦いで海をはじめて意識したという、海は丸森から確かに近いし山から見えるのである。
丸森を去るときいつも夕暮れが迫っていてそこで夕桜をいつも見て相馬の方に帰ってきていたのである。つまりそういう難儀な過程があって旅になっている。車だとそういう記録が残りにくいのである。坂という感覚すらなくなってしまうのである。地形と一体化できない、つくづく車がいかに便利でも自然との一体感とか人情の世界を破壊してしまったかわかる。浮世絵とか見れば自然であれ街であれ江戸であれ明治であれまだ人間は外界との一体感があった。情緒的に人間と外界は分断されていないのである。人間と外界は自然であれ街であれ現代は分断されている。でも自然の景観自体は大きくは変わっていないのである。丸森から梁川から阿武隈川を下ってまた丸森に帰る道は景観が雄大である。ここは観光コ-スとしてお勧めである。
2012年03月12日
松島-多賀城の春の俳句短歌と写真
松島-多賀城の春の俳句短歌と写真
クリック拡大!
クリック拡大!
冬の海波うちしぶき沖に船
磐根付く古木くねりて残る雪
松島の松の残りて春の風
春日さし松風鳴りて五大堂
鴎浮き春日穏やか双子島
春の昼金華山見ゆ赤い橋
赤い橋鴎のとまり春の島
松島や島陰の渚残る雪
島陰に雪を残して暮るるかな
瑞巌寺竹の清しく残る雪
瑞巌寺鐘楼鳴らず冬の暮
見張塔瑞巌寺守る冬の暮
瑞巌寺去るや杉の間残る雪
瑞巌寺海よりそよぐ春の風
島々の松の緑や春の鴨
多賀城跡浮島神社や春の暮
多賀城の正殿跡や春浅し
枯葦に昔の面影砂押川
早春の多賀城駅や鴎飛ぶ
太き松その間に見える小町島春の日おだやかまたたずねけり
松島の春やしきりにかもめなきむれつつ飛びて島のうるわし
松島の海穏やかに春の日に照り映えにつつ津浪まねがる
太しくも末の松山二本の残りし松に春の風吹く
太しくも末の松山二本の松の契りや椿赤しも
2011年01月20日
2011年 冬の仙台へ
家の前大根あらわに頼もしき
新幹線枯蔦這いぬ高架橋
風花や喫茶店に入る通りかな
喫茶店向かいに一人枯木見ゆ
仙台に消防車出る寒さかな
古本をまた買い集め冬籠もり
冬満月海より昇り新地駅
阿武隈川広々として鴨の群れゆうゆうとして冬の日暮れむ
打ち曇り蔵王の見えず雪の中みちのくの冬農家古りにき
油絵に教会の塔や仙台の喫茶店に入り冬のくれかな
今日はひさしぶりで仙台に行ってきた。9月ころ行ったがあとは行っていない、黒々と百羽くらい日本の枯木に烏がとまっていたのを見た。あんな光景もめずらしい、いかにも冬らしい風景だった。冬のイメ-ジは黒なのである。駅近くの喫茶店に入った。そこに油絵が飾ってあってすいていた。二階があり休むのにいい、前は隣のチェ-ン店に入っていたが休みだった。そこでこの喫茶店に入った。280円くらいでコ-ヒ-が飲めたから高くはなかった。喫茶店はやはり芸術的な場でもあったのだ。絵を飾ってそれを鑑賞するに向いている。雰囲気を楽しむのにいいのだ。個性ある雰囲気作りだせばそれだけでも入る人がいるだろう。また場所も大事である。定禅寺通りはいいが遠くて行けなかった。窓から景色が見えないと閉鎖された気分になるからいやなのである。仙台と喫茶店を回る楽しみがある。寒いのと時間がないので駅前だけで終わった。仙台の街はそれなりに情緒ある場所である。古本をデパ-トで出していたのでまた買った。変わった本があるから面白い。でも今や本は読みきれないのだ。本を読む限界がきた。もう老人になると本を読んで消化することがむずかしいのだ。だからつくづく何回も言っているけどくだらない本を読んでいたら本当に時間の浪費である。本も読めなくなるときが意外と早くくるからだ。人間の時間は限られている。時間の浪費が最大の浪費なことを老人になったらいやがおうでもきずかされる。
今日はまだ病院にいるからかえって夜遅くなってもいいからでかけられる。今度家に帰ってきたら夜になったら帰ってこないといけないから仙台までも出かけられない、介護で一番困ったのは自由を奪われることなのだ。それも何日も旅行に行くとかではない、ちょっと出かけることすらできなくなるのだ。介護度3になったからショ-トスティのサ-ビスは受けられる。それにしても障害者をかかえることは本当にやっかいであり辛いことなのである。老人が障害者かというけど実際は頭も半分ぼけていたりしたら障害者と同じなのである。自分で食事の用意もいろいろなことができなくなるからだ。すでに五年間くらいつづいているのだ。老人の介護には家でも社会でも限界がやがてくる。高齢化社会はやはり社会的な整備ができなければどうにもならなくなる。在宅になればその負担が大きすぎるのだ。軽いといったって家族が少ない時代には大変なのである。一人に二人めんどうみる人が必要なのである。それがいないと一人だとちょっと出かけることすらできなくなるのだ。
2011年01月13日
冬深む(松島俳句十句)


冬深む(松島俳句十句)
赤き橋渡りて島や松に雪
曲松に風の鳴りつつ冬深む
曲松に午後の冬日や牡蠣を食う
島二つ対なし静か冬深む
瑞巌寺洞に仏や冬の苔
瑞巌寺禅寺の門や冬の暮
観欄亭古木の影や冬深む
誰かおる奥松島や冬の暮
松島で古人となる歟(か)年の暮
松島で死ぬ人もあり冬籠(ふゆごもり) 蕪村
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_28.html
この句は謎めいた句である。「世人が俗塵の中で悪戦苦闘する年の暮れに、風流のメッカ松島で故人となるのは、何ともうらやましい」というのが一般的解説である。こう思うのは江戸時代は松島なら遠いからなかなかたずねることができないから憧れの地で死にたいとなる。今のように新幹線で二時間とかなるとそうはならないのである。松島などいつでも行けるじゃないかとなるからだ。これはどこでもそうであるが人間はしかし遂にいくら交通が発達しても旅もできなくなるときがくる。病気になったりして老いると遂にある場所は今ならすぐ手の届くような所にあり行けるのだが行けなくなるということがある。自分も最近病気になったり介護でもう旅もできない、すると最後に死ぬ前に見ておきたいものは何かとなるのだ。やはり富士山などはもう一度日本人なら見て死にたいとかなる。現実に癌になっても富士登山とした人がいた。最後の見納めとして富士山に登山したのである。ここでなぜ松島がそれほどいい場所として憧れたのか、何度も行けない景勝の地だったからである。今なら別に松島で死ぬからとうらやましいがる人はいない、松島が特別な場所ではない、見慣れてしまいばとこでもそうなるのだ。
冬の松島もなかなかいい、あの曲がった松は下から支えて辛うじてもっている。あそこでは何度か食事した。あの松がなんとも風情がある。曲松という地名は各地にある。曲松はやはり目立つから目印になりやすいのだ。
曲松(まげまつ)の地名
http://magarimatu.web.fc2.com/about.html
福島県福島市泉曲松という所には一度寄っている。
瑞巌寺は禅宗の寺だから宮城県には禅宗の寺が多いし墓も多い。○が墓に刻まれているからわかりやすい、相馬藩とかでは禅宗系は少ないように思う。○の墓はあまり見かけないからだ。やはり東北では伊達政宗は唯一の英傑だからその影響が大きいのである。
2010年05月17日
亘理から阿武隈川を下り海へ(夏の短歌)

阿武隈川大橋わたる夏雲雀
夏の日や大川二つ渡るかな
郭公や大川二つ渡るかな
名取より飛行機雲や夏の空
山下の駅にはおりず朝静か菖蒲咲きにき電車過ぎさる
夏の朝阿武隈川の広々と太平洋に注ぎ入るかも
夏の朝まばやく光る太平洋阿武隈川のここに尽きにき
阿武隈川流れは尽きて海見えぬ蔵王を仰ぎ船はいでゆく
松原の影長々と涼しかな白波のよす仙台までも
松原の朝の緑の清しかな蔵王を仰ぎ波のひびけり
夏の日や海岸線に波白し仙台までもつづきけるかも
阿武隈川河畔の広し競い鳴く雲雀の声や朝に行くかな
阿武隈川河畔の広し郭公の声のひびきて大橋渡る
阿武隈川土手の袂に社古り夏の日よりぬ日影涼しき
荒浜や河口に浪のひびくかな夏の海より鴎とびくる
阿武隈川河口広がる郭公の鳴く声遠くひびきけるかな
(二木の松)
岩沼の女しあわれも日傘さし二木の松の下を行くかな
二木の松謂われも深き岩沼に夏の真昼や旅人よりぬ
岩沼に藤の花咲くあわれかな二木の松より旅人去りぬ
二木の松芭蕉のよりしと夏の日や汗をぬぐいて我が寄り去りぬ
二木の松我が立ち寄りぬ岩沼の相馬に近き夏の日暮れぬ
阿武隈川くらい大きいとやはり川のドラマがある。人の一生にもにている。遂に最後に太平洋が開けて大河は海にそそぐ、荒浜からは船が江戸まで出ていた。仙台藩で米を運んでいたのだ。大河が海にそそぎ海は江戸に通じていたのである。阿武隈川の土手はサイクリング道路として整備している。平らなところはサイクリングに向いているのだ。そして必ずビュ-ポイントがある。阿武隈川では梁川で写真を出したけどあそこの大きく蛇行して急流となるところがビュ-ポイントだった。最後は海にそそぐ阿武隈川もビュ-ポイントである。ただ鳥ノ海は大きい自然の海かと錯覚していたが小さい漁港の湾だから景色的には良くない、蔵王は見えるが景色的にはそんなに良くない、むしろ岩沼に行く一面の松原の海岸線が見物だった。その松原から残雪の蔵王が美しかった。あそこがビュ-ポイントだった。あそこは車からは見れない、車が通れない所になっていた。ビュ-ポイントは実際に地元の人でないとわからない点があるのだ。鳥ノ海より松原から蔵王を見ると美しいし海岸線もどこまでもつづいているので夏らしかった。
阿武隈川の土手を上って行ったらいつのまにかに岩沼についていた。そこで二木の松というのがありあれこれが二木の松かと思った。確かにそれらしい松になっていた。阿武隈川に出て河口から岩沼に来て二木の松を見るのも不思議だった。あれもやはりみちのくの歌枕だったのだ。この時期確かに芭蕉が寄ったのだ。
名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて四五日逗留す。
あやめ草足に結ばん草鞋の緒
今日は朝六時の電車で行った。やはり朝は気持ちいいし蔵王がどこからも見えた。亘理から見える蔵王はきれいである。でも松原の上に見えた蔵王の写真は蔵王そのものが写っていない、今回は景色はそれなりに良かったがいい写真がとれなかった。遠景はなかなかいい写真がとれないことがある。