2017年02月13日

阿武隈川と蔵王(春の短歌十首)



阿武隈川と蔵王(春の短歌十首)


春の日に阿武隈川の広々と海に注ぐや蔵王を仰ぐ

雪厚く仁王のごとく蔵王かな噴煙吐きて怒りともならむ

荒々し蔵王にふぶき積もる雪磐(いわほ)も埋もれ樹氷映えにき

雪厚く蔵王光りぬ春の日に丸森町に坂越え来たる

阿武隈川蛇行し流るたぎりつつ吾妻嶺も仰ぎ桜咲くかな

阿武隈の川面に夕日光るかな春の日あわれ丸森暮れぬ

梁川の城跡古きあわれかな丸森越えて春にしのびぬ

桃桜阿武隈川の岸に咲き流れたぎちて吾妻嶺仰ぎ桜咲くかな

国境玉野に古き碑の並び春の日さして旧き道行く

我が町ゆ蔵王は見ゆるみちのくの重しとあれななお雪おおふ

春の日にさそわれ遠く行きにけむ道は分かれていづこに行かむ


旅だと遠くゆくことが旅だと思っている、でも近くでも旅なのである。
その旅は自由でないとできない、また車とか鉄道の旅となると違ったものとなる
本来は旅は道を行く、道は未知なのである。
だから歩くのが最もいいのだが次に自転車だといいとなる

自分は本当にそういう旅をしてきた。ふらりと出て行って道をたどり旅していた。
この道は分かれてどこに行くのだろうと誘われるように旅をする
その道は尽きずあったのである。阿武隈高原にはそういう道がある。
丸森を越えて梁川に出る、梁川に古い中世以来の城跡がある。ただそこには古い庭があったというだけでほとんど何も残っていないが歴史がある。
あそこは福島県と宮城県など伊達藩と相馬藩とか会津藩でも米沢でも代々の城主となっていた。そういうせめぎあう所に城があった
玉野でも森林資源で伊達藩と米沢藩と相馬藩が三つ巴で争っていたことでもわかる
そういう位置に梁川があった、それはやはり地理を知らねばわからない
それも自転車だと峠でも越えてゆく下ってゆくとかでその地理が記憶されるのである。

この辺には高い山がない、阿武隈山脈は高原であり山というものでもない、ただ蔵王は自分の町からも見える、だから蔵王は意外と身近なのである。
福島県の吾妻山は相馬からは見えないからだ。
阿武隈川とか蔵王は景観を作っている、阿武隈川でも船運があったから暮らしも川とともにあったとなるがもう一つその実感がない、それは最上川のようにはなっていなかったからである。ただ福島市辺りから米が運ばれて荒浜から江戸に船で運ばれたことは確かなのである。そこで丸森が港としてあったとなる

玉野は伊達と相馬の境である

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に

この玉野というのはもともとの地名ではない、笹町とかなっていた。もともとの地名を新しくすると歴史が喪失することがある。美里などが多いがこれもただ地名の歴史的由来はなくつけられているのである。

ともかく自分は春の日に阿武隈高原などこうして自由にさまよっていた。
それができたのも家族に恵まれたからである。今になるとみんな死んだから何か自由にまたなったとしても帰っても待っている人もいないから安心しして旅できない
誰もいない家でもその家が何か不安になるのである。火事になるのではないかとか盗難とか現実にあったし不安になる
つまり自由とは実際は誰かが自由にしてくれるから自由なのである。
その誰かが人がいなければ全部自分でやるから自由がなくなる、家事も全部自分でやる他ないし自由がなくなるのである。

蔵王は春になっても分厚く雪が残っている、それがやはり蔵王がいかに大きな山であり長く雪に閉ざされた山なのかを示しているのである。


旅をふりかえり詠む桜の短歌 (白石千本桜-阿武隈川の桜-梁川-丸森)

相馬藩玉野村の境界争いはなぜ起こった?

2017年02月12日

一つの地点から360度の視界を得るのはむずかしい (山下駅から山形、宮城、福島の三県を見る)


一つの地点から360度の視界を得るのはむずかしい

(山下駅から山形、宮城、福島の三県を見る)

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旅と保養は違う、現代の旅は保養なのである。旅館でうまいものを食べて温泉に入りゆったりしたいとかなる、旅とはそうしたものではなく延々と江戸時代のように道を歩きたどってゆく旅である。
現代はそうした旅人となることはむずかしい、車であり電車であれバスでもある場所にゆく、到達することが目的になっている
それは実際は旅ではない、その途中がぬけているからである。
それでも途中下車の旅というとき旅らしくなるのはそこに土地土地の何かを感じるからである。景色でも何か違ってくる、江戸時代だと土地土地で食べ物でも言葉でも何でも違ったものを感じたのである。
現代は便利だけどなんでも一様化しているから旅も平凡なものになりやすいのである。
ただいくら現代でも旅に出れば景色も変わるから新鮮なのである。

旅は道が未知であるとき江戸時代なら交通が発達していないから未知の世界にゆくことになっていた。隣の村さえ未知の領域になっていた。
今はどこにでもいつでも行けるとなるとそうした未知への期待が消失した
でも逆に何度でも行けるからその中で体験を深めることはできる
岩沼駅などは何もない平凡な工業地帯であり観光するものはなにもない
でも線路が二つに分かれて貨物列車がいつも止まっている
そこでそれも冬景色となり情緒があるとなる、それも岩沼駅の特質を知っていればそうなる

長々と貨物列車の過ぎ行きぬ病院の窓に枯野広がる

やはり亘理駅でもあの城は新しく作られた観光用でも立派であり見応えがある。
つまり何か目玉商品がないと外からの人を引きつけられないのが普通である。
鉄道の旅だったら城が駅から見えることは観光しやすい
福山駅などは実際に昔の城が駅につながっている、それは昔からあった城なのである。
城はやはり観光の目玉になる、目安になりやすい、わかりやすいからだ
外から来た人にはその土地の歴史などを理解するのがむずかしいのである。
なぜなら鉄道だと駅が玄関口になりそこからその街をイメージするからである。
ただ福山城というのは海に近く荷が海から運ばれていた。
そのことが鉄道の旅ではわからなかった、鉄道の旅はそうした盲点もある。
線路というのは固定していて変わらない、その視野も限られているからだ。
海からの視点が欠けていたことはその地理も歴史もわからないということだったのである仙台藩の船も入っていたとか記録にも残っていたみたいだ。
なぜこんな遠くまで仙台から船が来ていたのか、それは良く調べないとわからない

現代の旅は線の旅である、鉄道も線であり面を知ることはできない、面の旅はどこでもその地点から円をえがけば三六〇度の視点から見れば複雑であり広いのである。
線として横切ればそうした円の視点は得られないのである。


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山下駅


冬の朝泉が岳見ゆ山下駅

山下駅からは泉が岳が見えた、あの山は結構高いから見える、蔵王は山の陰になっているから蔵王ではない、山下駅になるとさらに宮城県の中に入った感覚になる
ただこうして360度の視点と視界が得られるのはもう百回とか日常的に行き来しているからである。
そして自分の住んでいる鹿島まで蔵王は見えるからである。蔵王というき二つの蔵王町がある山形県と宮城県側にもある、みちのくを二わけざまにという茂吉の短歌は山形県と宮城県だとあてはまる、福島県も見えるからかかわっている、でも秋田とか岩手県は関係ないのである。
宮城県と山形県の境界は面白山にさえぎられているから明確である。
あのトンネルをぬけると山形県であり雪が春でも残っている
宮城県と福島県の境はわかりにくい、相馬と宮城県の伊達とは地理的なものではなく歴史的境界になっている、でも文化的には伊達藩との交流が深い、小牛田とか山神系統でも
館腰という駅があるが館腰という碑もあったり金華山の碑もあったり交流が深く江戸時代の碑が残っているのでわかる。

いづれにしろ現代の旅は点と線の旅であり面の旅はなかなかできないし地理を理解することは一番むずかしい。日本は山が多いので余計にわかりにくくなる。
峠を越えると異界になってしまうのである。
旅というのはやはり距離感覚も大事である。
自分が柴田の千本桜を見に行った時自転車だったから遠かった、そしてやっとついたときあの千本桜はみんな散っていたのである。そこに深い感懐がありまた自転車で去って行った
せっかく自転車でやっときたのにみんな桜は散ってしまったということが心に残る
それは距離感覚から生れた感懐なのである。もし車をもっていたらこうはならないし現代は距離感覚が希薄になるから旅もまた軽いものになる、かえって印象に残らないのである

はるばると千本桜を見むときて散りにしあとや虚しく帰る

平泉まで新幹線で二時間だとなったらとても芭蕉のような深い感懐をいだくことはできない、平泉についたな、なんだ金色堂かこんなものかつまんねえなとかなってしまう。
それは距離が短く途中がはぶかれてしまっているからそうなるのである。
だから不便なときは不便なときのように得るものがあった。それはその時代でしか感じられないものだったのである。だから芭蕉の「奥の細道」は古典になったのである。
江戸時代まで距離感覚がまるで違ったものだったからである。






タグ:山下駅

2016年11月22日

秋から冬(短歌十首)-山寺から磐司岩ー二口渓谷ー秋保大滝 (紀行文ー記憶は面と線と点でする)


秋から冬(短歌十首)-山寺から磐司岩ー二口渓谷ー秋保大滝

(紀行文ー記憶は面と線と点でする)

大師が山寺に住んでいた磐司(ばんじ)という狩人と遇って色々と土地の状況を問われたという所がある。そこを対面石といって山寺一の名石とされている。

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(二口渓谷)

岩風呂や奥山の月我がながむ


トンネルをぬけて山形に春なお白く雪の山見ゆ

山寺に冬や籠もりぬ杉木立岩に御堂や千歳経ぬらむ

山寺に北畠神社の社かな落葉しあわれ掃き清む人

大輪の菊の映えにき磐を打ちひびく流れや朝日さすかな

雪残る対面石や清らかに流れのひびき朝の清しき

山寺に大岩古りて御堂かな杉木立暗く冬に入るかな

山寺に雪そふるなり仰ぎ見るそそりし磐に御堂隠りぬ

雪うもる馬形部落たずねけり雪に踏み入り蔵ある家かな

磐司岩そそり迫りぬ紅葉映え流れうずまき隠さる道かな

道あれや落葉を踏みて月の出る山間深く下り来ぬかも

倒れ木を踏みて下りぬ道あれや山陰に隠る月誰か見む

ひびき落つ大滝にあれその下の水澄み流れ木の葉沈みぬ



記憶は人間にとって重要なものである。認知症になるとそれがわかる。今が記憶できなくなって過去に記憶したことが生きることになっていたのである。
そもそも人間が記憶を失われたらどうなるのか?
これが相当に重いテーマであり人間そのものを問うことにもなる
歴史はいろいろあっても基本的には記憶されたものである。
だからエジフトでもヒエログリフで執拗に記録したのである。エジプトがもしヒエログリフで記録されなかったらただ謎に終わっていたろう。

その記憶というとき一人の人間でも記録されたこと記憶されたことが人生になる。
そして記憶がどうして記憶されるのか?
旅をしても今では電車であれ車であれ通りすぎるのが多い、すると何か記憶されないのである。
そのことは前にもいろいろ書いてきた。旅がいかに記憶されるのかが重要なのである。

そして記憶は面と線と点で記憶することが残ることなのである。
地理を知ることはまず地図を見てもできない、実地にそこを歩まない限りできない
特に電車とか車だと高低差がわからなくなる、これも便利なるが故に記憶からぬけおちるのである。地理は立体だからである。
坂でも峠でも苦労して上れば体で覚えていることがある。車だとバイクすら簡単に上れるから覚えていないとなる。

地理をいかにして知るか、それは近くでもなかなかできない、福島県でも広いから地理を知ることは容易ではない、自転車で会津の方に行ってもわけわからなくなった。
会津は山が多いからわかりにくいしその地理を知ることが容易ではない
宮城県になると仙台は相馬からは身近である。だから地理の連続性としてとらえやすい、仙山線があり面白山をぬけると山形県なのである。
それで春になっても宮城県側は雪が消えても山形県の山々は面白山のトンネルをぬけても雪の山なのである。面白山のトンネルが国境になる。
トンネルをぬけると雪国だったというのは日本的な新しい境を越えることになった。

グーグルの地図で大東岳とか雪になっていた。これはいつ更新したかわからないが最近のことだろう。自分のユニットバスを作った人の一人が作並でありそれも山の方だというとき土地が安いから仙台の方からそんな山奥に土地を買ったのである。
仙台は高いからである。そして愛子とかあの辺は仙台から都市が膨張している、家が密集してきているからだ
今回ユニットバスを仙台の人に作ってもらったように高速もできて仙台から福島県に拡張してくる、仙台の影響が仕事の面でも大きくなってくるのか、買い物などでは福島市から今度は新幹線で影響があった。
交通が便利になると広域的になる、青森まで新幹線で行った時も近いなと思った。

でも旅をするとなるとその間は途中はとばされて記憶されない、点すら記憶されない、電車の旅は点の記憶であり残ったのは駅名だったとかなる
線とは道ではあるがその道が電車でも車でも早いから記憶に残らないのである。

今回はなぜ記憶に残っていたかというと面と線と点として記憶された旅をしていたからである。でも実際はこれも30年前とかなるとあいまいな記憶になる。
道をたどっても途中でとぎれたりしている、記憶はそうなりやすいが思い出すと面と線と点で結ばれていた。途中はあいまいでもなんとか一つの記憶として構成できたのである。それは宮城県は相馬からだと地理的一体感が会津よりあるからなのだ。

ともかく現代は山寺でもそうだがあまりにも観光化しすぎるようになった。
山寺などでも修行の場であり観光する場ではなかった、それは京都でもどこでもそうである。本来修行の場として選ばれたところが観光になってしまったのである。
松島だってあそこが一遍聖人などの念仏宗の修行の場でありあのような美しい場所を死に場所に選んで各地から集まったという。
何か山寺でも松島でもそういう神聖な自然の場所だったのである。
それが観光化したことがその本来のもの自然と融合した宗教が失われたのである。
あの辺でもどうしても仙台の市街が近いように思うからである。
鎌倉でもそうである。密集して家並みが山に登ると埋めつくされて迫ってきているのである。東京から鎌倉まで家で埋めつくされる、それで神聖な修行の場とかがそこなわれてゆくのである。あのユニットバスを作った一人も作並のさらに山の方の土地を買ったと言っていたから仙台はそうした所まで拡張しているのである。そこではすでに雪がふっていたからである

そして秋保温泉でも何かそこはもう観光であり俗的な世界であり深山幽谷があっても何かその近くまでそうした俗世間が迫っている感じになる。
自分はその時大東岳や磐司岩を歩いたから記憶に残っている、ただどうしても時間がすぎると記憶がとぎれとぎさになりあいまいになるのである。
ただふりかえり思い出して短歌にしたりすると何かかえって深いものとなる。
旅しているときは集中できないがふりえると深化できるのである。
ここはまだ地理的連続性があり記憶をつなぐことができたとなる

山寺の北畠神社は新しいものだった。南朝に由来するとしても明治以降に建てられたものだからそれほど価値あるものとはならない、霊山とは違っていた。
ただ明治以降も南朝と北朝のことをひきづっていたのである。
それだけその争いは根が深いものだったのである。
南朝とか北朝も山寺と関係あったらしい、あそこの歴史は相当に古いからである。



タグ:二口渓谷

2016年08月26日

民主主義には言論や報道の自由が不可欠 (でも権力との癒着で成されていない)


民主主義には言論や報道の自由が不可欠


(でも権力との癒着で成されていない)


民主主義の基本として言論の自由とか報道の自由とかがある。でも実際はあるようでない第一報道するのにしても今までならマスコミに頼らざるをえない、そのマスコミでも自由な報道があるかといったらない、それができないのはマスコミは企業のスボンサーとか組織の金で運営しているからできない、組織というときカルト宗教団体が必ずかかわっている、週刊誌でもそうである。そこに宣伝されていれば宣伝費をもらっているからである。創価などは福島民報などでも聖教新聞をすっている、毎日新聞でもそうである。
そうなると巨大な組織に従うし逆らえない、だからマスコミに何か真実を暴くことなど期待できないのである。
そしてどうししても視聴率第一になるから視聴率で企業も金を出すから大衆路線になり芸能人路線になる。大衆向きの低俗化路線になる。
何か硬いものは人物でも拒否される、もちろん文化の育成などもない、大衆向きになれば視聴率第一になればどうしてもパンとサーカスになる。

言論の自由とか報道の自由というとき日本であるようでない、報道というときどうしても官僚であれ警察であれ情報を仕入れるにはそういう権力の組織とかかわる

本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ

記者クラブが仲良しクラブになり権力と癒着して権力の悪を暴くことはしなくなる。
ただ権力側の情報を権力側にとって都合のいい情報だけを報道するようになる
御用報道、御用学者とかになってゆく

情報が権力によって操作されるというときそれは社会に必ずあった。権力には権力で対抗する意外ない、権力をもっていれば情報も手に入れられる
地元で川で放射能や水質検査をしているが何をしているのか、どういうことなのかとか地元に住んでいて聞いてみてもあなたは誰ですかとなり答えないのである。ここの住民で心配だから聞いているのですと言っても聞かないのである。
このフリーの記者でも記者クラブに入っていないと追い出されたのである。
言論の自由などと言っても一個人は権力がないから相手にされないのである。

宮崎 新聞社は販売と広告で成り立っている。道新広告局に関するスキャンダルは、広告という命綱に手をかけられたようなものだ。道新の広告収入のうち、約1割の数十億円は怪しげな金だとも聞いている。年単位で契約している広告代理店からの金の流れが不透明だという話もある。

大谷 新聞社の販売局と広告局は伏魔殿だ。押し紙などで販売経費は不透明だし、広告においてもキックバックなどがある。ちゃんと身ぎれいにしておかないと、権力追及は難しい。警察は家宅捜索ができる。家宅捜索の令状なんて、今の裁判所は簡単に出す。日本シリーズの入場券をとるよりも簡単だ。

マスコミは権力を正すものではない、権力と癒着して甘い汁を吸う側になるのがマスコミである。ただそれはマスコミだけではない、みんなそうである。
権力はあまりにも大きな魅力でありそれゆえに人は権力を欲して権力側にとりこまれる
普通は人間は権力あるものに従う、つまり権力によって情報も操作されている
権力側につけばいろいろ利益を得るし便宜を計ってもらえる、だから官僚が警察でも天下り先に東電になっていた。
政治家でも官僚でも検察でも権力をもっている、権力をもっているから東電でも待遇する政治家に官僚に便宜を図ってもらえるから天下り先として待遇する
東京都知事の選挙で敗れた増田は東電の幹部だったのである。
東電があれほど大きな会社だと思わなかったし知らなかった。
これほどの賠償ができるということにも驚いた。国が半分しているにしろ東電が国なみの大きな会社だったのである。そこから莫大な金が生れるし引き出されるとなる
だから原発でもマスコミは追求しない、事故が起きたとき朝日新聞社の幹部までが中国に招待されていたのである。マスコミと阿部首相でも絶えず会食している、その報告がインターネットにのっている
阿部首相のことをあまりマスコミで批判しないのはそのためなのである。

民主主義は言論の自由とか報道の自由がないと成り立たない、情報開示するというのもそうである。そうでないと東京都のように一人の闇のドンが牛耳るとなる
東京都の税金はここでオリンピックであれ勝手に使われる、その悪を暴くのがマスコミだったが週刊誌が意外のマスコミは新聞でもテレビでも暴かなかったのである。
権力と権力は癒着して結びつきそこで互いに甘い汁を吸い税金を納める東京都民は怒り小池氏が当選したのである。
時代劇だと悪徳商人と役人が癒着して結びつく構図はわかりやすいがとにかく現代社会は複雑でありそうした悪はわかりにくいのである。

第一人間は一番利権とか利益には弱い、どんな人でも金には弱いのである。だから権力と癒着しないで独立して放送することは最高にむずかしい、テレビとか新聞とか雑誌とか本でも金がかかるから独立してやることはむずかしい。
インターネットはそれができるとしてもでは何か真実を追求できるかとなるとできない
それは放射能が気になるから県とか環境省の人に聞いてもあなたは誰ですかとなり教えないのである。それを聞き出す方法もないのである。

権力と権力は癒着して結びつくのは利益を得やすいからである。だから真実を追求するにはそうした権力にとりこまれないようにしなければならない、でも実際情報得るにしても権力がないと得られないから情報を得られないからできないとなる
こうして権力の分散のために三権分立ができたり独占禁止法ができたりした。
それは権力が一極集中すると独裁になってしまうからである。
巨大な権力は危険なものである。東電であれあれだけ巨大な会社だからこそ情報を操作できたのである。政府も一体となり癒着したからできた。
でもそれは民主主義には反したものでありその結果として原発事故の惨事が起きた。
情報が権力によって隠蔽され操作されるときそれはそのままではすまず戦争や大事故になってゆくことが怖いのである。

権力は悪魔的なところがあり人は悪魔に仕える、弁護士がいろいろなもめ事にかかわるがどうしても金になる方を選ぶ、金持ちが側に権力ある側につくと得するからそうなる
弁護士が何かブラックだというときそうした遺産相続とか大きな金にかかわるからであるそこで金のために悪魔に魂を売り渡す、自分も身内の交通事故で死んだとき賠償金でもめた。そして弁護士はほとんど何もしないのに百万を得たのである。
実際に働いたのは保険会社の人だったのである。何かわからなくて弁護士を頼んだのだが裁判にもなににもらない、何もしないのに百万を得た、そんなことが仲裁では起きてくるだから労せずして何かそうしたもめごとの時は金が入ってきたりする、それは弁護士でなくてもそういうことがある。なにか金ある家でもめたりすると誰かに漁夫の利のように金が入ったりするのである、それは自分が病気になり介護になり家がもめててんてこまいしたときそうだった。その混乱した中で大金はとられたりなくなった。
暴力団がそうしたもめ事にかかわり示談金とかで金を得るのとにている、会社でも何かもめごとがあったり弱みをもつとつけいられて金をとられるのである。

おそらく議員でも何か税金で莫大な金を使うからそこから巨利を得ることになる、権力をもっていると何かとうまみがあるとなる、だからこそ官僚は犯罪者であるとか言う人もいる。政治家とか官僚とか弁護士でも利権に利益にかかわるからそうなりやすい。
人間は金のためには血眼になるし犯罪も起きる、権力の魔力から逃れられないのである。だからカルト宗教団体でも創価でも共産主義でも中国のように幹部になれば巨利を得る、そういう立場になりたいと運動しているだけなのである。
そこに宗教とイデオロギーでカムフラージしているだけだとなる
本性は権力を得て上にたち支配したいということでは共通しているのである。
誰も権力の魔力から脱することはできない、要するに人の上に立ちたいものは仕える者になりなさいというけどキリストが言ったとしても現実の世の中は今もみんな人の上に立って支配して甘い汁を吸いたいとなっているからこの世に天国など実現しない
それはいくら宗教を装ってもイデオロギーで装ってもそうした人間の本性は変えられないのである。

いづれにしろ民主主義は一つの理想としてある。理想の追求である。その一つに報道は重要である。知らされなければ何もわからないからである
原発でも何か小さな事故があっても常に隠蔽されてきた、権力をもっているから隠蔽できる、政府と一体になり東電はそれができた、それが大事故につながったのである。
何かプログというものを10年くらいしてみるとこれも報道なのだと自分で思った。
マスコミは視聴者がけたはずれに多い、インターネットは非常に少ないにしてもやはり報道機関なのである。
だから報道するというとき知らせるというときそこに命までかかることにもなる
なぜなら不正を知り知らせることは権力者にとって都合が悪ければその人は殺されたりするかもしれない、権力をもつものは組織ならそれができる、実際権力は恐ろしいものである。時代劇でも役人が悪にかかわり口封じるするがそこに権力をもつものの恐ろしさがある。それは今でも同じなのである。検察でも警察でもそういうことはしているからである権力をもっていれば暴かれないからである。
だから社会というのはそうした悪の誘惑が多いのは権力をもつ立場にある人だとなる

そして人間社会がブラックだというとき権力の魔力にひかれているのが多数だからである
不思議なのは底辺で生きているものはそうした権力と無縁である。日々汗して働きかつかつの暮らしで生きている、不満も常にあるけど権力をもっているもののような悪に染まることはない、だから天国では卑い者は高くされるというのはそのためである。
高い地位に就いていたものは権力をもっている者は何かしら悪にかかわりやすい
でもいつもそうした権力のないものは給料が安いとかなんとか不満なのである。
誰でももっと金を得たいとなっている、カルト宗教団体もそのために毎日祈っているのである。そのためにあれだけの数がいるのである。
本当に宗教をシャカのように実践を強いられたりしたら数人しかとても耐えられないからである。本当の宗教を実践できる人間は数人しかいないとなるのだ。

ともかく報道の自由は実際はない、権力と癒着した報道であり大本営発表しかマスコミにはない、あとはパンとサーカスであり大衆操作のために芸能人が利用されるだけだとなるただそういうことしているとそのことで大きな災いが起きてくる。
戦争に導かれても報道されないとか原発でも中で何が起きているか危険があっても報道されないとかいろいろなことで必ず大衆にもその災いを受けるのである。


タグ:報道の自由

2016年08月22日

推理ドラマで写された昔の仙石線の陸前大塚駅 (春の日の思い出の短歌十首)


推理ドラマで写された昔の仙石線の陸前大塚駅


(春の日の思い出の短歌十首)


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堤防で島が見えにくくなった

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この辺の家は津波で流されないだろう

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消えた東名駅



奥松島湾の水面の穏やかに春の光にきらめきにけり

島一つ車窓に見えて奥松島春の日静か乗り合わす人

奥松島植田に湾や島一つなごみけるかな電車の行きぬ

我が一人陸前大塚おりたちて島一つ見え桐の花咲く

島一つ車窓に見えて落ち着きぬ奥松島や通う人かな

東名駅今はなしかも春の日に望みし海と遠き山かな

春の日の野蒜駅や松原をぬけ海広し鴎飛ぶかな

野蒜浜波音ひびく砂浜を歩めば貝あり心地良しかな

鳴瀬川電車わたりぬ春の日に海にそそぐや鴎飛び来る

奥松島海沿い走りひびく音心になおもひびきけるかな


仙石線の旅情は奥松島にある。湾になっていて島々が穏やかにある。
特に真ん中にある一つの比較的大きな島がポイントになる。
それが陸前大塚を通るとき車窓から見える
海沿いの低い所を行くから海が余計にまじかに見える
なかなか鉄道でも海をまじうかに見る所は少ない、ここの海は穏やかであり
湖のようにも見えるから春の光がまばゆく水面にはねかえる
そしてここから仙台に通う人が多い線である。

今日見た推理ドラマではここが舞台になっていたので興味深かった
最近昔の推理ドラマを見ていると昔の光景がでてくるのでなつかしい
すでに30年前とかの映像なのである。
その時の俳優は若いし死んだ人もいるから不思議だとなる
この年になると何か回顧すること記憶をたどることが仕事になる

それにしてもあまりにも変わってしまった。陸前大塚駅が残っているが次の東名駅はなくなり高い山陰になってしまった。あの辺の家はねこそぎ津波にやられた。
だからあんな高台に駅を作りその前にまた新しい街を作る
でも山陰で海が見えないから嫌だなと思った。

野蒜駅も駅をおりるとすぐに松原がありそこをぬけると広々と海が広がり砂浜がある。
あそこもいい場所だった。松原は根こそぎ流され今は山のような堤防を作り昔の面影はなにもない、駅も高台であり全く前の光景とは違う。あの辺は仙台の憩いの場所だった。
野蒜から鳴瀬川にでると川が海にそそぐ、瀬が鳴るというのは川の名としてあっている。外から見れば松島だけが注目しているが奥松島の方が何か情緒がある
松島は観光だが奥松島になると日々の生活の場としてもあり違ってる
仙台に仕事で通う人が多いからそうなる

自分は最初は鉄道の旅でありだから何か鉄道に愛着がある。鉄道マニアになると電車の音にも魅力を感じる、何か電車の音を聞くと記憶がよみがえりその場所を走っている気分になるのだ。車だと音にまで愛着を覚えるとはならない。
人間は生きるということはこうして最後は記憶となる、そこでそこを走っていた電車の音までなつかしいとなる、そこを通り生きた記憶がよみがえるからである。
だから昔のテレビドラマは特に推理ドラマは映像的に貴重になっているのだ。

奥松島から鳴瀬川、浜市、牛綱村(春から夏の短歌十首)






2015年07月10日

青葉風(仙台の青葉通りの俳句十句ー都会と田舎が融合すると文化が育まれる)



青葉風

(仙台の青葉通りの俳句十句ー都会と田舎が融合すると文化が育まれる)

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夏菊の雨ぬれバスに六号線
高速を一路走るや夏燕
駅よりや通り吹き抜け青葉風
仙台に外人交じり青葉風
若き等の街を闊歩す青葉風
鳩歩む通りや青葉の影涼し
影なして青葉通りや学都かな
雨しとと青葉の濡れて喫茶店
新幹線仙台に着く青葉かな
夏日射し人々あまた熱気かな
夏の陽の雲に映えるや街の朝
新幹線仙台に着く青葉かな
仙台や青葉の日影朝歩む
仙台や朝サイクル車青葉かな



仙台は青葉である。今頃が一番青葉映えて青葉通りになる。
青葉風が通りをふきぬける、バスを待っているとふきぬける
いろんな人が歩いている、外人も歩いていたし杖ついた老人も歩いていたし
昨今の事情なのかホームレスも歩いていた。
外人も今どきはどこにでも歩いているが仙台はやはり多い。
仙台は東北では一番の都会であり交通の要所である。
だから東北仙石ラインが新しくできて石巻まで50分だった。
青森までも二時間かからないのである。それは今は南相馬市と同じ時間である。
人間の距離の感覚は交通の便で変わってしまう。
石巻が50分か、青森が二時間もかからないのかとなる

仙台にと来たのもひさしぶりだった。やはり人間は田舎だけでは生活が豊かにならない
文化も生まれない、田舎的なものと都会的なものが融合すると文化を育む
田舎的なものだけだと何か精神も沈滞してくる。
都会での刺激が必要なのである。それは歓楽街とかではない
青葉通りの道路に面した喫茶店で歩いてゆく人を見ているだけで何か活気を感じる
それはなぜか、人が歩いていることを車社会になって見ないからである。
道路を人を歩いていないのである。
その象徴として駅前がシャッター通りになったことである
人は全然あるいていない、車が素通りしてゆくだけである。
人間が仙台のように歩いている姿が見れないのである。
それは結局車社会になったとき駅前通りでも歩かないからである。

今日ひさしぶりで原町の駅前の大きな病院でみてもらった。採血して糖尿病の検査をした糖尿病ではなかった。
そこに若い女性が多い、田舎で一番にぎわっているというと変だけでそこは病院であり
介護施設なのである。他では若い女性はいても少ないしだから病院だけで若い女性に接することができるとなる。
あとはイオンとかスーパーに人が集まるくらいである。
一番若い女性が多いのは病院なのである。
仙台では青葉通りを若い人も老人も歩いている、病院はどうしても老人が多い
そこに若い女性が看護師だけではない、事務員でも多いのである。
田舎の勤め先は病院と老人の施設が一番多いのである。

仙台の特徴は東北の中心都市でありそこにが学都でもあり森の都であり学生も多い。
若い人が働く場でもある。だから青森の津軽鉄道の終点の中里のタクシー運転手の息子は仙台で働いているとか仙台は東京のように若い人が集まっているのである。
震災後は余計に避難者などが仙台に集まり人口が増えたのである。
本でも大きな本屋がありそこで立ち読みするとなにか頭に入るのも不思議である。
書店の効用はなぜか本を買うというのではなく立ち読みすることにある。
ある意味で図書館的な役割を果たしている。そのためにある量がないとできない
そういう書店はもう東北では仙台くらいしかないのである。
通販だとどうしても中味が読めない、立ち読みがうまくできない、一部紹介されていはいる。
でも書店での立ち読みのようなことはできないから困る

それで石巻のことを知りたくて古本屋に入った。
その書店でめずらしく経営している人が郷土史に詳しかった。
郡山の安積疎水とかで明治以降開拓に入った人が親戚にいて良く・・・バイとか九州弁をしゃべっていたという、・・・バイとかはオイドンとかはテレビなどで聞く
明治から百年以上たってそれだけまだ九州弁をしゃっべっているということはそれだけの人数が開拓に入ったということである。
相馬藩でも越中などの移民が天明の飢饉以降入っているからその風習、真宗の火葬などが入ってきた。
ただノバとか裸というのは真宗の方の方言だったらしい、それを子供の頃使っていた。
他の土地の言葉が入り伝えられることは相当な歳月が必要である。
百年過ぎてもやはり九州の方言をしゃべっていた人がいたというのもそれだけの人数がいたということだろう。
そうでなければ数人単位だったら方言も残らないだろう。
アメリカなどはメキシコ辺りから移民が多いから英語とスペイン語が半々くらいになっている。だから英語だけでは通じないからスペイン語も習っている人がいるのである。

新地が伊達藩だったということを言ってその方面の本が郷土史研究であったので買った。戊辰戦争のことが駒ヶ峰の攻防戦のことが出ていたので買った。
郷土史研究はまず資料をそろえないとできない、その時は必要でなくてもあとで必要になったりするからである。
その人はしきりに郷土史研究でも売れないと言っていた。
ネットでも販売している、まずそうしたものは興味ある人でないと売れない
仙台市は大きくなりすぎて歴史を調べるのも容易ではない
かえって今は小さな範囲だと郷土史というのもにも興味をもつ
範囲が広くなると興味あるものをしぼれないのである。
だから石巻市とか女川とかは興味をもったのである。
仙台の人が言っているが仙台では観光する場所がない、案内する場所がないと言っている仙台は何か目立つものがない、青葉城だって石垣だけだし何か60万石となるものが残っていない
あそこは一回上ればあきるのである。
ただ青葉通りというのが都会では気持いいのである。
その青葉には何か都会的なものを感じる、青葉風というとき仙台のイメージにぴったりのなのである。
新幹線がその青葉から仙台駅に到着したときあっていたのである。

仙台ではなにすることなく喫茶店でコーヒーをのみ通りの人を見ていると何か都会的な雰囲気にひたれるのである。
自分はともかく喫茶店が好きだったのである。そこで瞑想して書き物をしたりする。
何かそれが気分転換になる。食べ物も仙台はいろいろある。
ナンとかもありインドの旅行を思い出す、今回と中華料理店で焼き飯を食べたけどそれはチャーハンと違っていた。
中国人が経営している店だから中国的な焼き飯だったのである。
最近は遠くに旅できないからなにかそうした料理にも注意を向けるようになったのである本を買わなくなったので仙台には行くのはまれになったがやはり都会的雰囲気を味わうことも必要である。
田舎的なものと都会的なものが交わるとき文化が生まれるのである。
ただ盲点は文化というのが都会的なものであり都会だけの志向の人が多いのである。
田舎的なものがあり都会的なものがあるとき文化なのである。
欅の並木は自然でありその自然を活かして通りがあるから文化の街となるのである。
タグ:仙台 青葉

2015年07月09日

高速で仙台へ仙石線と女川線にのる (夏の俳句と短歌)


高速で仙台へ仙石線と女川線にのる

(夏の俳句と短歌)

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奥松島


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女川線駅にカモメや夏の夕

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浦宿を過ぎてカモメや夏の夕

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万石浦


(高速道路)
バスに行く朝の十字路立葵

高速に夏の海見ゆ鴎飛ぶ
大川の二つそそぎて夏の海

(仙石線)
青田見え福田町や仙石線
若竹や仙石線に夏の海
老鶯や島々親し松の影
奥松島島影重なり合歓の花
奥松島島影一つ合歓の花
鳴瀬川河口に白波夏の海

(石巻)
千石町穀町海の風涼し
夏の日や石巻駅夕鴎
女川線駅に鴎や夏の夕
涼しきや万石浦夕鴎
合歓の花万石浦の夕べかな
浦宿を過ぎて鴎や夏の夕


ふるさとの山に青田や風そよぎ海を望みてバス走りさる
夏の朝風のそよぎて高速に海を望みて仙台に着きぬ
亘理駅電車とまりて鴎とぶ一羽やあわれ晩秋の野かな
故郷の山に向かいて月見草青田に鷺の朝に漁りす
ときわぎの松麗しく五大堂夏の日さして朝海光りぬ
ときわぎの松の緑に五大堂影の涼しく夏の午後かな
野蒜駅高台に移り白波よする夏の海見ゆ
石巻の人と語りぬ鴎飛び海風涼し残る松かな
石巻煉瓦造りの建物や日傘をさして歩む女かな
風涼し袖の渡しや石巻の人と語りて女川に行く
数十羽女川の駅に鴎とび復興の工事夏の夕暮
女川の湾にい出にし船入りて鴎あまたや夏の夕暮


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石巻煉瓦造りの建物や日傘をさして歩む女かな

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復興した仙石線で変わったのは東名駅と野蒜駅であり全く前と違っていた。
野蒜駅は高台に移り海が見えたから海を意識するが東名駅は山の陰になり
全く海が見えないから淋しい
仙台から仙石線は都会的であり頻繁に通る通勤の電車だから違っている。
一時間に一回とかでは本当は鉄道では少ないのである。
仙石線は東北ではだから珍しい線だと思う。
こういう線は関東とか関西には多いが東北ではほとんどないのである。
頻繁に通っているのは今では新幹線なのである。

鉄道の路線にも個性がある。それはみんな違った感じをもつ、仙石線は東北では特別なのである。
松島から奥松島と景色もいいから気持いいのである。
松島までは家が密集しているから景色は良くない、でも福田町までの区間に青田が見えたりするからその名のごとくなっているからやはり田舎的なのである。
多賀城は都会化して海も何も見えないからつまらない、ただ鴎が飛んだりするのは海が近いことを意識する。
実際に駅まで津波が来ていたのである。
石巻から女川線にははじめて乗った。途中の駅に鴎がとまっているのもいかにも海が近いからそうなる、万石浦も広いし牡蠣の殻が積まれていた。
女川駅は高台に移りそこはかなり高いしあの駅まで津波が来たとなると相当に高い津波だった。
まず復興するには女川であれ石巻であれ十年でもできないように思った。
今でも石巻でも店が閉まっているのが多いし復興するのは容易ではない
ただ仙石線と女川線がつながり新しく仙石東北ラインができたので石巻まで50分というのは早いから便利である。
通勤するにしても便利だなと思った。
常々思っていたことはなぜ常磐線はもっと便利にならないのか高速にならないのかと思うことである。
直通で急行で50分となれば確実に仙台の通勤圏になるからだ。
今は交通で遠い所も近くなるからである。

2014年05月05日

奥松島から鳴瀬川、浜市、牛綱村(春から夏の短歌十首)

 

奥松島から鳴瀬川、浜市、牛綱村(春から夏の短歌十首)

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この線路はなくなる

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線路があった所から写す

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線路はかなた高くなる


風そよぎ海に面して山桜ゆれつつ散らむ朝に映えにき

夏の日や奥松島の島影の変わらず見ゆやここに住みなむ
奥松島その静けさや島一つ心に残る夏の夕暮
奥松島菜の花映えて島影や津浪の跡をバスに行くかな
夏の日に牡鹿半島望みつつ野蒜の沖に船を行くを見ゆ
鳴瀬川河口に浪の打ち寄せぬ夏の日明るく鴎飛び来ぬ
津浪跡耕す女や牛綱村浜市の名夏の日さしぬ
津浪跡形見と残る社なれ古木の一つに我はよりにき
白萩の通りの消えて松一つ形見と残りあわれなるかな

菜の花や陸前小野駅終点に電車とまり津浪の後かな

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鳴瀬川の河口

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残った社の古木

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一本だけ残った松


松島を旅行する時、松島だけを見ると印象が薄いものになる。
松島という領域は実際は相当に広いのである。
塩釜から松島に行っただけではわからない
これは一般的にどこの観光地でも言えることなのだ
点だけではなく線としての旅こそ旅になる。
今は交通が便利だから途中を飛ばしてしまうから名所がつまらないとなる
芭蕉の旅もみちのくの未知への長い旅の行程の中で生れたのである。
もし今のように新幹線で東京から二時間で来たら「奥の細道」は生れなかったのである。

仙石線で印象に残る場所が東名駅とかある海沿いをすれすれに走る線路であった。
その車窓がいつも見えるのがあの島だったのである。
あの線路はなくなり高い所に線路が作られる。
だからこういう低い所から写真はとることはできなくなる。
それでこの写真も貴重なものとなっているのかもしれない。


とにかくあの島はいつも見えるから印象に残る。
つまり樹でも石でも人間が長く見ているものは人間化するのである
あの島は何か母とか姉とかでも人間的になるのだ。
名前がつけること自体人間化している。
ペットに名前で呼ぶのは人間と同じになっているからだ。


菜の花が咲いていたのも何か奥松島らしい。津浪の跡に菜の花畑にしたのだろう。
桜もまだ咲いていてそれは山桜だった。
海に面して咲く桜だから山桜でも違った感じになる。

そしてし野蒜から鳴瀬川に出る。

あの鳴瀬川はまさに鳴る瀬であ名前がいい、あの河口に注いでゆくときが何とも気持ちがいい

東松島の白萩の通りだったのか、浜市だったのかわかりにくいがあそこに一本の松が残っていた。
あれだけが形見のように残っていたし社にも古木が一本残っていた。
牛綱村とか浜市とかの名前も良かったし白萩文書とか天保時代のものが残っているから
古い場所なのである。野蒜村というのも江戸時代にあった。
一般的に伊達藩は相馬藩より古いものが残っているのだ。


ただ仙石線は仙台からの延長であり通勤圏であり漁業とか農業で暮らしているという感じはないから
何か外から見て新しい町に見えてしまうのである。
ただ今は別に漁業とか農業で暮らしているいるわけでいなから仕事を失っているわけではないないから
津浪の被害から立ち直りやすいということがあるかもしれない。
それは相馬などでもみんな農業でも漁業でも一部が専業なのであり
ほとんどが会社員になっているから昔とは事情が違っているのだ。


松島海岸や高城から陸前小野駅までは代行バスがでている。
ただ陸前小野駅からは電車が通じていたのである。
あれは相馬市から原町駅まで通じている線とにていた。
短い距離になるからにていたのである。

次はあそこから石巻から女川を見てみたい、石巻はすでにみている。
津浪の被害はやはり宮城県が一番大きかった。
だから津浪が何かを知るには宮城県を見ないとわからないのだ。

 
 

2014年05月04日

春から夏(松島俳句十句)


春から夏(松島俳句十句)

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この上の二つはクリック拡大

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落椿散りて一つに赤きかな

椿散り赤き誠にスミレ咲く
初夏や金華山望み鴎飛ぶ
鴎飛ぶ夏の日ざしに白しかな
レストラン活魚の泳ぎ夏の海
島に眠る鴎あまたや夏の夕
幻の島も浮きなむ夏の海
五大堂陽翳り涼し夕べかな
夏の陽の海面に写り五大堂
政宗の京の行き来や夏つばめ
春日さしアベック行くや赤き橋


初夏や松の緑も麗しく金華山見え鴎飛び交ふ
赤き橋渡り飛びかふ鴎かな夏の日ざしにまばゆく映えぬ

波光り松風鳴りて椿咲き南し思ふその赤さかな
人入らめぬ島の渚やまばゆくも波の光りて鴎飛ぶかも
残る花延齢草の葉に散りて名残りを留む小径行くかな

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この上の三つはクリック拡大

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ここはクリック拡大すると大画面になり鴎が生き生きと見える

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松島の松が津浪でも残ったので観光には影響がなかったのは救われた。
他のように松がなぎたおされたら松島の景観も喪失したからあまりにも衝撃的だったろう。
松島では島にさえぎられて水が徐々に高さを増しただけだったという。
だから波の衝撃がないから松も倒れなかったのである。
高さも低いし写真にとった島の上までは波は来なかった。


松島は前は椿に雪が残っていてきれいだった。
今回は季節が進んで初夏になっていた。
椿はもともと南国産であり沖縄のような南国にふさわしい花である。
今回は椿がいたるところで散っていた。
椿は一つ一つ が咲いているときと散った時は落椿となり
一つになった感じになる。一つの赤さに染められる。
赤はやはり誠を示しているのである。


鴎が夏の日ざしを受けて奔放に飛んでいた。
その光を受けて白さを増していた。
そして島にあれほど鴎が集まって寝床にしているのははじめて見た。
いかにも夏らしい風景だった


福浦橋からは必ず金華山見える。
あの赤い橋は印象的である。
アベックが多かったからあの橋も一段と赤いともなる

夏には前にも書いたけど松島は島が多いから
幻の島でも浮かんでいるような錯覚に陥る。
蜃気楼のようにありもしない島まで浮かんでいる錯覚である。
それだけ島が多いということである。
その島は奥松島まで広がっているのだ。


伊達政宗は京都の秀吉の伏見城にいることが多かった。
当時では江戸であったからそこから日本や世界を見ていたのだ。
だからグローバルな視野をもちえたのである。
その妻の愛姫もし伏見にいて伏見で死んだ。


レストランで貝の料理食べたけど貝がわずかでこまかくした氷の上にのっていたのだけど
それでその氷を食べるのかと思うほど貝が少なかったのである。
一興と思って入ったけど期待外れだった
そもそも貝とか高いし津浪のあとで魚介類はそんなにとれていないだろう
どうも牡蠣にしても小さく今までとは違っている
一般的には観光地の料理は高いだけで中味がないのが普通である
仙台の方がうまいものが食べられる


松島には快速で行くと近いなと思った。
直通になるから近くに感じる
松島は相馬からでも一番行きやすいのである
ただバスになったから出るには億劫になったのだ
それから介護しているから余裕がないのだ
それでも4、5月は一番旅にも外出にも向いている。
この月を逃すとあとは梅雨になのから出かけられない
だから無理をしても出かけたいのである

どうしても今は津浪の被害にあったところに足がむく

福島県の浜通りから宮城県の沿岸部は津浪の被害地域であり
連続したものとして見るようになったのである。
だから次は陸前小野駅から石巻から女川の方に行ってみたい
陸前小野駅までは電車が通っていた。
あれも常磐線と同じで途中が途絶えているから不思議になる

やはり観光として景観としては松島から奥松島から鳴瀬川から
石巻から牡鹿半島から気仙沼は魅力があるところなのだ。

次は奥松島の短歌などを出す・・・

2014年02月15日

仙台に約一年ぶりに来る (浮世絵展を見てバスで帰る-阿武隈川の短歌)


仙台に約一年ぶりに来る

(浮世絵展を見てバスで帰る-阿武隈川の短歌)

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津波跡駅舎もなしや冬の海
阿武隈の川面に写る冬の雲
冬の雲津波の爪痕消えぬかも


冬の浪荒く打ちつけ津波跡駅舎いくつか消えてなしかも

阿武隈の川面に写る冬の雲なかなか消えじ春はまだしも
街の灯の連なりともり仙台に久しく来じも今日我が歩みぬ

仙台の街の灯ともりなお冬やコートを着つつ歩む人かな

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これは縮小したものです

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これを拡大して見てください

やはり大きい写真でないと見栄えしないものがあります


クリック拡大


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直通のバスで仙台に行く、途中新地とかは駅舎が津波で消えて荒い浪かしぶきをあげて打ちつけている。東部高速道路に出ると高いので眺めがいい、必ず阿武隈川などが見える。河口になるので広くゆったりと流れているのは外国の川を見るようである。
こういうふうに大きな川を見れないのが日本である。

阿武隈川というときそこには歌枕となった川でもあり阿武隈川についての古歌を知ると
また見方が違ってくるだろう。


 阿武隈に霧立ちくもり明けぬとも君をばやらじ待てばすべなし(「古今集」)
 よとともに阿武隈川の遠ければ底なる影を見ぬぞわびしき(「後撰集」)
 行末に阿武隈川のなかりせばいかにかせまし今日の別れを(高階経重「新古今集」)
 秋の夜の月はのどかに宿るとも阿武隈川に心とまるな(藤原実清)
 思ひかねつまどふ千鳥風さむみ阿武隈川の名をやたづぬる(定家)


阿武隈川せやはり地理的に一つの境である。川は境にもなる。だから阿武隈川はみちのくの一つの境になる。特に亘理から岩沼にわたるところは境である。
底なる影とはなにか?確かに河口の方になると広いからそうした影が写しやすい、
冬の雲が今回は写っていた。つまり阿武隈川は大きいし底が深いということで影も写りやすいからこれはもしかしたら想像でもないかもしれな、ただ京都の人が歌ったのは実際に訪れたより想像で歌ったのが多いからわからない。
ただこれは想像にしても阿武隈川の特徴をとらえているのだ。

古歌を鑑賞するには相当な歴史的背景がありまた深いものがあるからなかなか鑑賞するのがねずかしい。
ただ阿武隈川にしても長い川だからどの辺を歌ったのかもわかりにくい。
みちのくに住んでいるものとしては相馬からだと必ず亘理で阿武隈川を渡るから一つの境意識がつちかわれる。


現在の「あぶくま」の地名は、平安時代の文献に「あふくま」と呼ばれていました。『三代実録』貞観5年(865年)の項で「阿福麻水神(あふくまかわのかみ)」が出てきます。この神は『延喜式』(912年)の陸奥国亘理(わたり)郡に出てくる、あぶくま川河口の「安福河伯(あふくかはく)」神社と考えられています。『延喜式』の「安福(あふく)」は、本来は「安福麻(あふくま)」であったろうと『大日本地名辞典』を編集した吉田東伍は言います。また「河伯」は『和名抄』に「かわのかみ」と記されいます。したがって「安福麻河伯」神社は9世紀には「あふくまかわのかみ」と呼ばれたと考えられます。仙台藩の『封内風土記』によれば地方民がこの神を「阿武隈河大明神」と呼び、昔は「阿武隈川神社」と呼んだと記しています。

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逢隈(あふくま→おおくま)となっていて駅もできた。そこに実際に逢隈という地名が残っている。やはりここが名前の発祥地だとすると川を渡る場所としての名だったのか?
大きい川はわたるのに難儀したから逢うと別れるとかがテーマになりやすいのだ。


仙台で浮世絵展をやっていた。北斎の浮世絵を現代的手法でよりきれいしにした。
赤富士が暁に染まるのがリアルな絵があった。普通は何かくすんでいるのだ。
ただ富士の迫力は自分の眼で実際に見ない限り感動しない。

ソニーのRX200は夕方とか夜景がきれいにとれる。写真の魅力がこれでました。
こんなふうにきれいにプロ級にとれていることに感動した。

仙台にはやはり一カ月一回くらいは来る必要がある。
やはり展覧会でも文化であり得るものがある。
インターネットやテレビの画面だけからは得られないものがあるのだ。
音楽でも生演奏を聞かないと音楽はわからないというのは確かである。
ただ最近7年間は介護に追われそうした時間の余裕がなくなっていたのである。
現実に水道管が壊れ大量の水漏れがしていたと連絡があった。
子供を家に置いて火事になったとかハチンコして遊んでいて車の中で子供が死んだとか
何か家族でも家を留守にして留守番がいないと問題が起きる。
そういうことかつづいたのがこの7年間でありまたつづいているのである。

2013年11月28日

平泉の金色堂と京都の金閣の相違 (金色堂は意外とつまらないと感じるのか)


平泉の金色堂と京都の金閣の相違

(金色堂は意外とつまらないと感じるのか)

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永久の金閣の美


金閣の朝日に映えてまばゆしや
常磐木の松の緑の添えにつつ
水面に写るその影の夢ならじかな
朝の冷えしも千年の都に
塵はらいその姿永遠に保たむ

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三代の栄耀(えいよう)一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。まづ高館(たかだち)に登れば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。さても義臣をすぐつてこの城にこもり、巧名一時の草むらとなる。「国破れて山河あり、城(じやう)春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍(はべ)りぬ。

 
 夏草やつはものどもが 夢の跡 卯の花に 兼房見ゆる 白毛(しらげ)かな    曾良

 
 かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺(ひつぎ)を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠(たま)のとびら風に破れ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽ちて、すでに頽廃空虚の草むらとなるべきを、四面新たに囲みて、甍(いらか)を覆うて風雨をしのぐ。しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり
 
  五月雨の 降りのこしてや 光堂

光堂を奥州の雨露から守るためには、膨大な財政的負担がいる。ほぼ10年か20年に一度は、金箔の張り替えを繰り返さなければいけない。結局、政子死後、50年ほど過ぎてから、光堂を守るためには、これをすっぽりと覆うことが一番経済的という判断が下された。そして正応元年(1288)、現在の鞘堂が建立されたのである。本来であれば、金色堂は、金箔を張り替えながら、金色に輝く姿で、関山の中央に黄金の蓮のごとく、光り輝いているべきものかもしれない
http://www.st.rim.or.jp/~success/sayadou02_ye.html


金閣と平泉の金色堂は同じ金色でも相当に違っている。平泉の金色堂は鞘堂が残っているが覆堂というものに隠されていたのである。雨風にさらされていたら金色には保てない、いちいち金箔も張り替えるものもいなくなっていた。千年の都今日とではそういうことができた。金色堂が残ったのは覆堂や鞘堂があったからである。隠されて残っていたというのに魅力が生れた。だから芭蕉も良くのこっていたなとふりのこしてやの句ができた。
でも芭蕉が見たのも鞘堂に入っていたものだったのである。
だから平泉の金色堂は荘厳な内陣の装飾に魅力を感じるという人もいることはわかる。
そこにアフリカの象の牙まで使い贅をこらして作りあげた最高の工芸品だったということである。平泉の金色堂はやはり奥の細道のみちのくのわび、さびの風情なのである。
それは何か孤立しているそこだけが華麗な美を極めて残ったという感じがする。

一方京都の金閣は趣を異にしているのはそれがいつもあからさまに何も覆われず金色が映えていることにあった。だから日の光に映えるし前の池にも写っているし雪の金閣もすばらいし美を現している。四季の移りで金閣が美を極めて映えているのだ。
だからこの美に魅せられる人がいても当然である。

京都には金閣があれば銀閣があり秀吉の黄金の茶室があれば利休のわびさびの茶室がある。秀吉の黄金の茶室をいちがいに否定はできない、それもまた美でありそれと対象的に金閣の美がある。そこに千年の都の豊かさがある。平泉の金色堂にはそういうものがない、単体であり孤立している、金色でもそれが京都の金閣とは全く違ったものなのである。
やはり美というのは自然が根本的に作るのであり自然の背景がないと本当の美は生れない、金閣は自然に映えるということで魅了されているのだ。朝日にまばゆく輝く金色は鞘堂に覆われた中で輝く黄金の輝きとは違っている。
金の魅力はやはり色あせないものをもっている。ヨーロッパなどでは黄金は富の象徴であり美の象徴というものでもない、日本は黄金を美の象徴としたともいえる。


平泉が意外とつまらない、見るべきものがないという時、金色堂にしても単体であり七堂伽藍も消失したしただ柱の礎石のみか残っていた以前として廃墟の跡なのである。廃墟の魅力が平泉なのである。だから金色堂の輝きは確かに華やかさがあっても金閣とは違っている。確かに金閣のように自然の中に映えるようにしてあればまた違っていた。
朝日に輝く金色の色が見えることになるからだ。その相違は大きいということである。

だから金閣にしても自分でも訪ねたとしても一回くらいであり一日の時間の変化で季節の変化で見ていない、他の人たちも地元でない限り関西近辺でないとそんなに見れない、だから本当の美がわからない、自分はただ想像で今は詩を書いている。

また旅というのは旅する行程で違って見える。芭蕉は繁華な石巻を見て淋しい平泉に向かって行った。


十二日*、平和泉*と心ざし、あねはの松・緒だえの橋*など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘*の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出。「こがね花咲」*とよみて奉たる金花山*、海上に見わたし*、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つヾけたり。思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし*。漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はら*などよそめにみて、 遙なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩*と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。


不思議にこの行程は今でも一致している。石巻から石巻線は面白い、その駅の名前も・・・何かものさびている。


冬田の中の石巻線、短歌十首と詩
http://musubu2.sblo.jp/article/35518385.html


石巻線枯野のあわれ城あれや小牛田につきて平泉へゆく


湧谷には伊達藩の城があった。あの辺は何かもの淋し地帯である。
奈良時代に黄金がとれた地帯としても知られていた。

遙なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩*と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ

長沼というのは大きな沼だったのだろう、品井沼とか干拓した場所もある。・・もある。干拓される前だから日本では湿地帯が多く沼が多かったのである。海岸沿いでも沼とつく地名が多いのである。平泉までいたるにはそこに大きな野が原が田んぼが広がっていたのである。ただまだ田んぼではなく沼や野や原が多かったのだ。
そういう荒寥とした風景の中を平泉の金色堂にいたりその輝きを見たのである。
それはこのみちのくにこれほどの輝きを見た驚きがあった。
芭蕉が見たみちのくは荒野の風景だったからである。だから旅は新幹線で東京から二時間ちょっとだと来ても旅にはならないし金色堂の感動もないのである。


− 中尊寺の金色堂と鞘(さや)堂 −
http://www.el-saito.co.jp/cafe/cafe.cgi?mode=res&one=1&no=2972

2013年05月06日

丸森の秘境へ (夏の旅-新地からのつづき)


丸森の秘境へ

(夏の旅-新地からのつづき)


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山吹や峠を越えて丸森へ

丸森へ峠越えるや朝桜
戦死塚訪ねてみればスミレかな
丸森や山路の深く落椿
丸森に海を望むや桜散る
イノシシの左右に駆けぬ夏の闇
丸森ゆ相馬へ飛ぶや夏の蝶
丸森の奥に家あり夏の星


峠越え蔵王の見えて丸森やなほ雪厚く新緑映えぬ

昼暗き旗巻峠相馬へと下りゆくかな椿散りにき
丸森の森の深きに黒揚羽舞い出て消ゆる山路ひそけし
大内の部落やあわれ天明の碑のあり夏に我が来る
分け入りて二筋の滝岩伝い流れし奥や新緑に映ゆ
二輪草木洩れ日さしてあまた咲く人に知られずここに映えにき
丸森の森の深きに鳥の声かすかにひびく夏の夕暮

丸森に蛙の鳴く声ひびきあう山間深く数軒の家

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二筋滝

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樅の原生林

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忘れられた石

鹿狼山から丸森へ峠を越えてゆく、山吹が咲き桜がまだ咲いていた。ここの坂は帰りの方が辛い。ただ今回は電動自転車だから楽である。庭に三色桜というのが咲いていた。蔵王はまだ雪が厚い。
丸森の景観は変化に富んでいる。阿武隈川があり山が深い。蔵王も見える。金山城など歴史もある。戊辰戦争の戦死塚もある。大内部落に子安観音があり天明の碑があるのも相馬藩の飢饉の影響があるかもしれない、天明山というのも飢饉のとき名づけられたのかもしれない、ただ当時は飢饉だからといって伊達藩で援助することがなかったのである。


今回は手倉山の方に入って行った。そこに流れがありでこぼこの悪路がつづいた。電動自転車だからなんとか上れた。マウテンバイクのオフロ-ドのみちだった。そこは誰も入ってゆかない、車が一台通ったので道が通じていると思ってどこまでも進んだ。あそこは本当に秘境なのだろう。二筋の滝が岩を伝い流れていた。「二筋滝」という命名がいいみたいだ。誰も知らない奥深い谷間に二輪草が一杯咲いていた。あの二輪草を見る人もまれである。何か神秘的であり秘境に入る感じがした。

実際に樅の原生林というのがありそこに十数本の樅の林が確かにあった。樅は一本か二本しか森でも見られないからここは樅の原生林だったのだろう。原生林など今はない、丸森も名の通り森の町であり森が思った以上に深い、ただ杉の森である。もともとここは森林資源で米沢と伊達と相馬が争った境界の地帯でもあった。江戸時代から森林資源が豊富だった。その森に迷ってここの森がどれだけ深いか豊であるか知った。わずかに道のようなものをたどって下って行ったら道が尽きていた。
その時電動自転車をおして前の道にもどるのに大変な労力がかかった。そして森から出れなくなる恐怖を感じた。樹海にまぎれこんだみたくなってしまった。5時過ぎてくらくなりつつあったから余計に恐怖だった。こんな近くでこんな恐怖を味わうとは思ってもいなかった。必死で自転車をおして元の道にもどった。そしたら運良く下る道がありそこを一路下った。この道を下れば前の道に出れると思い安心した。誰も見ないようなコブシの花がひっそりと夕べの闇がつつむなかに咲いていた。


6時ころになりすでに暗くなっていたときまた相馬へゆく道をまちがいた。別れ道があり大きな道の方を行ったらそこは坂になっていてどんどん進んで相馬へ出れるのかと思ったらあの道は相馬に出れない、車の人に聞いてわかった。丸森の奥は深い、あんなところに家があった。それから引き返してやっとこの道をゆけば相馬だと聞いて一路帰った。星が光り蛙の声だけが山間に高くひびいていた。丸森はまだまだわかりにくい場所である。地形に変化があり魅力ある場所だと思った。

相馬に出たの8時過ぎで帰ったの9時ころだった。これだけの運動をしたからぐったり疲れた。
でも自分は身体障害者でなくなったからこれだけの無理ができるし結構無理ができると思った。
登山もできる。今まではこういうことは絶対できない、身体障害者であり小便でなくなったら死にいたるからだ。そういうことはないから安心した。やはり今は手術して正常に戻ったことで体に自身がついた。ヒマラヤ登山すら苦しいけどでるかもしれない、3000メ-トルまで上れば9000メ-トル級の山を見れるのだ。もう一度見てみたいと思った。


こうして家に帰ったら母が足を悪くして動けなくなっていた。トイレにも行けなくなっていた。
食事もほとんどとらないからもう寿命なのかもしれない、90以上になると突然弱るとパタパタと死ぬ人が多いらしい。だから死ぬ時期がきたのかもしれない、明日は入院とかの相談でありちょっと忙しくなるからプログの方は休みになるかもしれない、ただ自分は体が正常にもとったのでその点これら一人でものりきれるなと安心した。やはり介護は第一に健康であり健康がなくてはとても介護はできない、自分も介護されるような状態では介護はできないのだ。

こんなわけでこれからしばらくまた母のことで追われるかもしれない、人間はともかく死ぬまで手間がかかるものでありそれが大変なのである。


新地から丸森へ夏の旅(新地編)


新地から丸森へ夏の旅(新地編)

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利休梅

松影の街道行くや夏の朝
相馬より新地に来れば燕飛ぶ
臥牛城夏草埋もれ何語る
リキュウバイ手入れの人や開園す


新地なる高台に水張りぬ海を望みつ夏の朝かな

文禄の碑こそ古りぬれ新地なる社訪ねて燕飛ぶかも
新緑に風のそよぎて望む海牡鹿半島連なり見ゆも
新地より金華山見えにしや船も行くなり夏の朝かな
山路来てなお残れる花あれや風に吹きちりあわれ深まる


新地から丸森まで電動自転車で行った。新地で火力発電所の近くで田に水張る人がいた。この辺は津浪の被害があったはずたと聞いてみたらここは高いし塩分は気にしないという、新地火力発電所は地形の関係で原町火力発電所より被害が少なかった。あういう大きな建物があると津浪を弱めるのにはいいだろう。ただ見晴らしよくなくなるから問題なのだ。一見田はみんな同じ高さに見えるが違っている。鹿島区では烏崎や小島田の方が低いから塩崎まで六号線を越えておしよせたのである。あの辺は万葉集にも歌われた地だからやはり低くかったのかなと思う。真野の入江が津浪で再現したのである。


新地にくるとここは伊達領と相馬藩の領地にもなった境で争いがあった。臥牛城ともう一つの新地城もそうである。新地はもともと谷地小屋が中心で谷地小屋要害とかいものが残っていた。新地城から臥牛城へ相馬藩をおさえるために城を造った。でも臥牛城はあまりにもその跡も小さいのでこんなところに城があったのか、ちょっとした砦のようなものだったのか?それでも城下があったとか新地についても良くわからない、新地にくると確かに宮城県に半場入ったような気分になるのだ。
相馬市までは相馬藩だけど新地はまた違っている。今でも伊達藩の武士の子孫で相馬市との合併を拒んでいたという人が駅の近くに家があった。それが津浪で流された。


実際に鹿狼山から太平洋を眺めると牡鹿半島が見えた。写真でははっきりしないが金華山も確認できる。高い山の上だからあれだけ見える。しかし新地の海岸からも牡鹿半島は見えたのである。あれくらい見えれば航海があの山を目印にするのだから意外とここは方向は間違うことがない海である。
船乗りが山を目印にするというとき牡鹿半島は一番わかりやすい目印になる。あれだけ見えれば方向は間違うことがない、だからここの海は鎌倉時代辺りから船で行き来があったとしている。

古代でも石巻の真野の萱原が港だという説もやはりこの海も見ればわかるのだ。波は荒いにしても方向を間違うことのない海なのである。

新地の街道から少しそれた上の町というところに社があり文禄の碑があった。これは今まで見た碑では一番古い。なぜここに?というときここが伊達領だったから古い碑があるのだ。松島にはすでに鎌倉時代の碑があった。伊達領には相馬藩より古いものがある。相馬氏は伊達氏よりは新興の勢力だった。だから伊達領よりは新しいから古い碑も少ない、文禄となると豊臣秀吉による朝鮮出兵=文禄の役があった朝鮮出兵である。そして文禄の後にすぐ慶長の津浪に襲われたのである。
戦争もあり津浪もありと動乱の時代だったのである。


新地の地形の特徴は貝塚が写真の海が見える辺りの高台にあったように海が近く海と山の間が狭いのが特徴なのである。これだけ海が見える場所は浜通りでもない、手の長い神がかい貝をとって食べていたというのはこの高台に貝塚があったからである。まさに地形の特徴がありここは山の幸海の幸に恵まれた所であり縄文人が住むには最適の場所だったのである。


菜の花が植えているのはここも放射能汚染でそうしているのか?別に相馬市から普通に田畑も作っている。あの茅葺きの家は特別残しているのか?まるで写真とるためにある。ただいくら茅葺きの家でも今は昔の生活がないのだから何か生活感ない、結局昔はどんなことしたって再現できないということである。なにかこれみたら写真をとらせるために人工的に作った、映画のセットのような感じすらするからだ。そういう場所は中山道の妻籠宿、馬籠宿にも感じた。まるで映画のセットになっていて生活感覚がなくなる。だから昔を再現すふることは容易ではない、観光化するとどこもかえって昔が偲ばれなくなることすらある。観光客ににぎわっているからここがいつもそんなににぎわっていたと錯覚するのである。だから最近名所観光はつまらないと言う人が多くなっている。歴史はかえって何か忘れられてしまった道の辺の古い碑のようなものに感じるのだ。仰々しく観光客用に再現してもそれが作られすぎてかえって歴史をそこなうということもある


鹿狼山に作った花木山の花園ではリキュウバイの手入れをしていた。利休梅だというのもめずらしい。堺辺りでは外国のものがいろいろ入ってきたのである。
壺でも茶碗でも外国製の高価なものが入ってきた。利休はそうした外国製の高価なものを嫌いわび、さびの茶道を確立した。みちのくあたりだったらそんなことはない、そもそも堺のように高価な陶磁器などすら入ってこない、平泉にあったにしろ普通は見ることもできないものだった。
利休梅は明治以入ってきたのだから利休が生きたときにはその名はないしこの花自体見ていない、
この名は相当新しい名でありそれだけなじみのない花だった。花の名前は万葉時代からあり古いのが多いからだ。

新地から峠を越えて丸森に向かった。丸森では森に迷い出れなくなる恐怖を味わった。だからそのために体が今も痛い。新地は福島県だけと宮城県の部に入れた。丸森まで旅がつづいたからだ。

2013年04月12日

船岡の一目千本桜と蔵王の短歌20首 (山は場所によってまるで見え方が違う)


船岡の一目千本桜と蔵王の短歌20首

(山は場所によってまるで見え方が違う)


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春の日やキジが見送る逢隈駅

岩沼や線路交わり燕来る
ぽかぽかと春の雲浮き電車待つ
伊達領の船岡城跡花に雲
途中下車北白川や蛙鳴く
一本の椿の木や北白川
北白川待つ人一人春の昼
花に雲ゆうたり歩み花尽きじ


歩む道千本桜尽きず咲く大枝ゆれて長き道かな

延々と千本桜咲きつづき尽きることなく日々移るかな
城跡に登りて高き花に雲さえづり高く山にひびきぬ
蔵王映え吹き下ろす風なお寒し千本桜八分咲きかな
蔵王なお雪打ち煙り年輪を重ねし桜咲きつづくかも
みちのくの千本桜やなお寒し蔵王は雪に打ち煙ぶるかな
みちのくに千本桜咲きにしも畑耕す人のありしも
雄大に蔵王の映えてみちのくの千本桜咲きにけるかも
雄大に蔵王の映えてみちのくの千本桜春なお寒しも
蔵王映え雄大にして新幹線走り去るかな樹々の芽吹きぬ
雄大なる心をもてや蔵王映ゆさえづり高く山にひびきぬ
雄大な蔵王の映えて何か言う千本桜の咲きてこそあれ
瑣末なる生活に痛む我が心蔵王を望み明日をたくさむ
雄大な蔵王を望み人の世の悩みそいかに心晴れにき
みちのくの心とあれや蔵王映え春にしなおも雪打ちふぶきぬ
何故に人の心のいやしきを花と咲き蔵王を仰ぎ忘るべきかな
貧しくも蔵王を仰ぎみちのくに住みし幸い春のおとずれ
美しき心となならむ花に映え蔵王を仰ぐみちのくの春
人の世の心はただに金のみやみちのくの宝蔵王にそあり
人生きるこの世の闇の深きかな蔵王を仰ぎ忘るべきかな
今更に蔵王ありしと我が仰ぐ近くにありし宝なるかな
ゆうたりと桜の大枝ゆれにつつ千本桜にたんぽほの映ゆ
みちのくに大いなる詩(うた)の起こらむや千本桜に蔵王を仰ぐ
啄木の歌碑一つあり船岡に蔵王を歌わず死する悲しさ
この世の々誰か背負わむみちのくの花の盛りやしばし忘れむ
みちのくに桜前線電車のり追いて旅せし時のしあわせ
蔵王映え雄大にして新幹線走り去るかな樹々の芽吹きぬ
仙台の人と語りぬバスを待ち桜はまだと夕暮れにけり
仙台に来しも長きや時流れ世の移るかな花また咲かむ


岩沼から船岡へは近かった。前にも千本桜を見ていたけど実際は良くみていなかった。意外と近くを良くみていないのだ。こんな近くに蔵王あれほど雄大に美を極めて聳えているとは思わなかった。
船岡城跡から見た蔵王は最も映えていた。山は富士山でもそうだが見る地点によって全く違ったように見えるのだ。山は大きく見える所が一番いい、蔵王は確かに電車で阿武隈川を渡るとき見えるのだがその山はいつも見ているのだが感動しなかった。今回はあんなに雄大に見えることに感動した。
ヒマラヤでもそうだが3000メ-トルまで上らないとヒマラヤの山の雄大さはわからない、3000メ-トルまで上ったときまるで天に到達するようにヒマラヤ見えるのだ。見る場所によって全く違ったように山は見えるのだ。富士山にしても日本橋から見える富士山を浮世絵に描いているが富士山がぼつんとでているふうにしか見えない、蔵王にしてもぽつんと出てるのしか見えない場が多い、肝心な山形県側から見るとあそこはまるで蔵王の雄大さ美が全く見えないのだ。蔵王の裏側になって全く映えない。

今回見た船岡と穴場として北白川駅をおりて見た蔵王は本当に荘厳だった。北白川はたまたま乗り違い下りてしまったのである。それがかえって良かった。そこから新幹線が通っていたし最近でたはやぶさも走っていた。緑色の車体が新鮮だった。あそこは仙台に近いのに鄙びた場所だった。駅も無人駅だった。あの辺なども電車では通っていたがあそこに下りたことはなかった。あそこで新幹線と東北線が交わっていた。人間はつくづく近くのことを良くみていないのだ。船岡はあれだけ蔵王が雄大に見えるのだからあういう所に住みにはいい、浜通りの最大の弱点はこうした大きな高い山が見えないことなのだ。あういう雄大な山を毎日みていれば心に必ず影響する。そこから雄大な詩でも絵でも芸術が生まれてくる。


この六年間世間のことでせめさいなまされてきた。今も継続中である。人間の世の中はあまりにもささいなことで悩まされる苦しめられるから嫌になる。つまり蔵王のような雄大な山とはにてもにつかなささいないことで責められる場所なのである。人間である限り死ぬまでそうなのだろう。ささないことも無視はできないものにしろ最近は嫌になってしまう。だから30年間この世と交わらず生きていたときは本当に幸せだったことがわかった。桜前線を追って電車できままに悩むこともなく旅した時が自分の最高の幸せだった。その気分が今回の小旅行でよみがえったのである。春の雲が浮いて途中下車して思わぬ景色に遭遇したのもそうである。やっぱりこの世のわずらいから離れて自由に旅しているときは最も幸せだったのである。それが一日でも近くでも電車にのってよみがえったのである。人間はつくづく幸福が何かわからないのだ。

そんなに自由に旅していたときそんなに幸福なことか思わなかった。それが全くできなくなったとき何と幸福だったろうとかなる。それは別に

自分だけでなく今回の津浪や原発事故で避難者になった人たちもそうである。故郷を追われ狭い部屋におしこめられている。すると故郷で大きな家に家族一緒に暮らして庭いじりもできた。そんな家族と家と故郷を失ってはじめてあの時は幸せだったなとなるのである。それが当たり前のときそんなことを思いもよらないのだ。そういうことはこの世で長く生きれば経験しているだろう。突然境遇が変わることがあるからだ。人間は一生恵まれたままでは終わらない、どこかで必ず災難があり苦しめられるのである。苦しみのない人生などなかったのである。今や自分もなにやかやと詰問される身になったのである。それも自業自得といえはそうなのかもしれない、ただ人間は雄大なもの大きくなりたいというのがある。ささいなことにぐじぐじ生きたくない、蔵王のように雄大なものになりたい、そこに自然の意味がある。


船岡には啄木の歌碑が一つホ-ムにあった。あれは何なのか?啄木は別に東北でも故郷の渋民村と盛岡とかを短歌にしたけどあとはしていない、松島であれ蔵王を歌っていない、それだけの時間がなく死んでしまったのである。なぜ東北では啄木と賢治がぬきんでているのか?それはやはり天才の独創性があったからだ。それはまねできないものでありあれだけの若さで生み出した独創性があった。
芸術は独創性がなければ何の価値もない、その独創性は簡単に出せるものではないのだ。


斎藤茂吉などは「.陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ.」などの短歌があるがこれも確かにいいとしても何かしっくりこない、蔵王はみちのくを二つに分けるほど大きな山だというが分けるというより山形県と宮城県から見えるという山である。だからそれほどこの短歌から雄大なものを感じるというものではない、つまり斎藤茂吉にはどうしても正岡子規の写生の継承者であり地味だということがある。それは自分も写生からはじめたから同じである。茂吉には啄木や賢治の独創性はない。詩人というものでもない、短歌の専門家のうよなになっていた。だから意外と芸術的評価は低くなるかもしれない、芸術の評価は相当にむずかしい。ただ時代的にやはり変化する。かえって評価があがるものもあるし全くかえりみられなくなるのもある。啄木と賢治はこれほどなお文学的生命をもっているのは天才の独創性がありそれがまねのできないものだからである。それもあの若さで成し得たということが驚きなのである。もちろんその批判もある。でもやはりその独創性がまねできないということである。


宮城県美術館で「高橋英吉展」見てきた。やっぱり実物を見ないとわからないことがあった。芸術にしろ自然でも実物を見ないかぎり本当の感動はない、彫刻とか建築は特にそうである。
「潮音」は潮風を深く吸い込んでいる感じが良く出ていた。あの像からは潮風がふきつけ潮風と一体となっているものを感じた。もう一つの漁夫像は体が丸み帯びて豊かな肉体の安らぎを感じた。


潮風を深く吸いつつかなた見ゆ海の広さや春は来にけり

漁夫像の肉のまるみや働けるものの喜び充足のあり


高橋英吉もこれだけの独創性と才能があった。それも若くてそうだった。もし長生きしていたら世界的彫刻家になったかもしれない、その才能も戦争で奪われたのである。戦争では相当の才能ある人の命が奪われた。生き残った人たちはずるい人たちだったかと言われ、その人たちが本当は日本をだめにしたのだとかも言われる。実際に戦犯の人もいて読売新聞社の原子力発電の父と言われた正力松太郎がそうだった。その時も裁かれるべき人間が裁かれなかったのである。今度の原発事故でも誰も裁かれないのとにている。


ともかく一目千本桜は八分咲きであり昨日は寒かった。もう今日明日は満開である。ただ仙台は一分咲きにもなっていなかったのは不思議だった。たいして距離もないのになぜ咲かないのかと思った。やはり桜前線は寒暖の影響が距離で起きているためである。だから桜前線を追って旅することが日本の春でもある。この辺は交通の便悪くなった。帰りは直通のバスだった。これは便利であるからいい、やはり電車は楽である。バスは何か疲れるのである。
逢隈駅ではキジがでてきて電車を見送った。あそこは山になっているから野鳥がさえづったり蝉がなく、やはり自然があると違っている。電車の旅は駅にとまり駅を楽しむことが旅でもある。
でも今は通りすぎるのが多いから旅にならない、やはり時間をかけて途中下車するのが楽しいのだがそれだけの時間がない、そして今はロ-カル線は一旦途中下車したたら次の電車がいつまでも来ないとなるから簡単におりられないとなる。東北線は本数が多いから途中下車しても白石-仙台間は困らないからいいのだ。まあ、春は旅したい季節なのである。一日でも近くで楽しむことができたので良かった。

2013年03月06日

高速通り仙台へ-(春の俳句十句) (フェルメ-ル展を見る)


高速通り仙台へ-(春の俳句十句)

(フェルメ-ル展を見る)


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広々と海に注ぎ入る春の河
広々と河口の光る春の朝
田起こしや仙台平野を一望に
復興や仙台平野に春の雲
通り行く少女の髪に春の風
ハイヒ-ル高く少女や春の街
大通り吹き抜けにけり春の風
春日さし鳩一列にフェルメ-ル展
喫茶店外国人や春の街
北へ行く新幹線や春の夕

一時や街灯ともる春の街

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仙台まで直通のバスで仙台へ行った。このバスは東部高速道路を行くので見える景色が違うようになった。鳥の海とか阿武隈川の河口が見えるのだ。それがまた違って気持ちがいい、同じ景色だとあきるのだ。東部高速道路は高いから見晴らしがいいのである。これで津浪がさえぎられたというのもわかる。かなり高いからである。もしこういう道路がもっと買い海岸線近くにあったら津浪をさえぎった。それだけ高いのである。これを作った時は津浪のことなど考えもしなかったろう。
仙台平野は本当にバスで行くと広いことを実感する。ここの米が江戸に船で送られたのである。

この広い稲作地帯が実は江戸と結ばれていた。江戸の庶民でもその腹を支えていたのである。
昔も田起こししていたらそれは江戸へ米を生産していたとなる。江戸時代でも江戸の食糧は遠くの人たちが作り支えていたのである。その食糧を供給する人を実際に見ることは労働を実感するからいい。実際はそうした労働を見ることを実感することもできないのが現代である。外国から食糧が入ってきてもそれを作る労働の現場を知り得ないのである。 宮城県は一番津浪の被害が大きかった。
一万人近く死んでいた。その復興はまだほとんど進んでいない。仙台の津浪の被害は今回は仙台の郊外の新住宅地に大きかった。山元町すら実際は仙台に通う人が多かった。仙台に勤める会社があって通っていたのである。だから仕事をなくしたわけではないというのは救われているのは本当なのだろう。三陸とか気仙沼とはまた事情が違っていた。


仙台市は東北では唯一街らしい街である。東北では仙台のように街らしい街はない、この辺では原町とか相馬市でも街らしい感覚はない、
人さえ通り歩いていない、仙台は若い人が大勢歩いている。
若い熱気が感じられるのは東北では仙台くらいかもしれない、あとは何か都会でもいなかじみているだろう。通りに春の風が吹いて少女の黒髪をなびかせたように何か若さを感じるのである。
喫茶店に外国人が日本人と英語でしゃべっていた。でもあの外国人はイタリア人なのだろう、カプチ-ノを飲んでいたからだ。ヨ-ロッパでは英語をしゃべる人は普通にいる。ただあの人はいかがわしい外国人かもしれない、今や外国人も普通にいるからいかがわしいのも多くなったのである。

ただ仙台辺りだと外国人と交流する機会は多くなる。田舎では英語教師くらいだろう。なかなか交流できないのだ。東北では仙台に住みたいという人は多い。ただ大きなマンションとか見るとあんなところにつめこまれるのは嫌だないつもみている。やはり一軒家の方がいいのだ。

住んでみるのと一時的によるのとはまるで違ったものとなるのだ。仙台あたでは住環境がいいとはならない。でも仙台のデハ-トの地下では食べものが豊富だからオカズには困らないだろう。ただ高いから金はかかる。一人暮らしは明かに都会の方が暮らしやすいのだ。原町とか相馬市だったら簡単に外食できるからいいのだ。

「孤独が一流の男を作る-川北義則」とかを書店で買った。何かお一人様とかそういうのが普通になる時代だというのは本当だろう。一人暮らしが膨大にふえてくるからだ。今は一人暮らしでも食事でも困らないようにできているのだ。ただ野菜不足になるから新鮮な野菜をとるように心がける必要はある。一人暮らしは特殊な変わり者ではなく普通の状態になってしまったのである。ただ老後は共同生活しというのはそうかもしれない、一人暮らしはいろいろと困る。そういうことを身をもって経験したから人ごとではない。高齢化というのはなぜ老後をいろいろ問題にされるのか、それだけ数が多いからである。そしてこれだけの人が長生きする時代を経験していないからである。過去は参考にならないからである。60代辺りでは男女とも健康な人が多いのだ。回りを見回すとそういう人がいくらでもいる。何をしていいのかわからないような一人暮らしの男女がいる。女性なんか60代でも若いから処置に困る。だから男を求める欲望の強い人もいる。枯れていないのが今の時代なのである。まだぎらぎらはした欲望に満ちているのだ。


ともかく仙台には最低一か月に一回は行く必要がある。ただ留守もいない、連絡もとれないから不安なのである。春になったからどうしてもでかけるようになる。自分は手術してから普通にもどっている。旅行だって前と同じくできる。体に支障がないのだ。もちろん病気ではあるが普通の人と同じく行動できるのだ。このことは自分にとって大きかった。前は身体障害者でありこのままどうなるのか不安でしょうがなかった。今はそういうことがない、自転車でも別に疲れるとしても前のように走れるのだ。体そのものがそんなに弱っていない、健康だから人に頼らなくても、一人暮らしは病気になったら最悪になる。人に頼ることは前に書いてように誰かいじわるな人の奴隷にされてしまう。そして病気だからさからえなくなるのだ。そうして脅されたから本当に恐いことだった。人間は弱みをもったらその弱みにつけこまれ非情なものであることを知った。そういうことで人間は恨み犯罪が生まれている。

老後で一番大事なのは健康なのである。健康をなくしたらすべてを失いかねない、例えば病気になったら高額なうまいものすら味がなくなりうまいとはならない、何でも食欲がそもそもないのだから食べたくないのである。性欲だってそもそも肉体が弱体化すればなくなる。人間の欲望は実はその体にあり体が弱ればもういくら金があり欲望の対象がいくらあっても何の意味もなくなる。
人間は実は外部のものを感じるのは美でもすでに内部で心で感じることがそなわっているからともいえる。もし心に備わっていないなら外部の美に反応することもいなだろう。それは食欲でも性欲でもあらゆる欲がそうである。内部で反応する力を失いば外部がいくら豊でも意味がなくなるのである。

仙台にいるのも今は束の間である。何か追われるように束の間の時間を過ごすだけである。ほとんどが買い物の時間である。でもその一時だからこそ街灯がともりそれがなんとも貴重な時間だともなる。一種の短い旅なのである。

2013年01月05日

新年に仙台に行く (仙台平野の津浪の範囲は広かった-高速道路を行き実感した)


新年に仙台に行く

(仙台平野の津浪の範囲は広かった-高速道路を行き実感した)

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名取川の河口

仙台や欅を仰ぎ冬の空
新年や青葉通りに鳩飛びぬ
仙台に古本また買い新知識
故郷に巣ありて帰る寒烏
新年やバスの眺めに変わるかな


泉が岳蔵王と見えて津浪跡仙台平野に冬日没るかな

新幹線駅にとまりて新年に仙台に来て人と交わる
新年に蔵王の山影名取より夕陽眩しく見えつつ暮れぬ

冬の日や蔵王の山影さえぎつつ宮城よりし山形思ふ

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蔵王が見える-名取辺り

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今日は直通のバスで仙台まで行った。あれは途中で乗り換えないから便利である。本数も一日十本くらいでているから便利になったのだ。正月もあるが乗客が一杯だった。2時間近くかかるにしても直通だから便利である。あれだと仙台に行きやすいからまた軽い気持ちで行ける。ただ今日も電気をつけっぱなしで怖かった。一つのもち焼くのがコンセントをはずさないときれないのだ。それを忘れるとものすごく熱くなる。あれが熱くなっていたら火事になると気がもめてしょうがなかった。
前は携帯で連絡できたけど今は耳も聞こえないから連絡できない、その連絡できないことで犯罪にもあった。いかに家族がいないことが困るからかぞくがある人は考えないのである。困ったことがない人は困った人がいることを知らないのである。消防署に連絡したがどうにもならなかった。
帰ってみたらやはり電気がついていたがモチ焼くのはゼロに回していたから助かった。携帯で連絡つけば簡単に電源を切れで事がすんだ。介護は本当に一人だとつききりになり離れられなくなるのだ。認知症の時も一人でいると不安になるので離れられなくなった。どうしても気晴らしに近くすら行けなくなっていたのである。一人暮らしとかこうして留守にする時一番恐いのか火事なのである。


仙台では古本をまた買った。前は一か月に何度も行って本を買いに行っていた。専門的な本は仙台で買うほかないからだ。詩の本が相当にあったけど新しい本は高かった。詩を作ることでわかったことは詩をかなりの数を集める必要がある。詩はなかなか読めないのが多いのである。有名なのは読めても他は読めない、最近アマゾンで集めた。ただ高いから金がかかる。他に絵本とか安いので買った。古本の世界も広いから何があるかわからない、本の世界はそれほど広いものだったのである。
本ははすでに天文学的なものが出版されているからとてもそれらを利用することすらできない。
本は今は素人でもオンデマンドなどで簡単に作れるみたいだ。だから自分もそうしして本を作ってみたい。ただ書店には並ばない、書店では無名の人の本など置かない、出版社ル-トでしか本は置かない、ただ地方の小さな町の本屋など消えてしまうだろう。

海側の高速道路を仙台まで通ったけどかなり海に近い、亘理の鳥の海も見えたし阿武隈川の河口や名取川の河口も見えた。あの東部高速道路を越えて津浪が来たのだからあの辺の被害も大きかった。
バスから見てその被害の広さを実感した。結構海に近い場所だったのが亘理であり名取りだった。
そしてわかったことは昔の街道が山際に作られたことは偶然ではなかった。その前は昔は湿地帯とか海だったのである。だから道を作らなかった。開拓して田んぼになったのは政宗の開拓奨励の結果だったのである。でも現代は海に対する危険な感覚を失っていた。どんどん宅地開発であの広い仙台平野に家が建っていったのだ。それで地震学者が津浪が千年前にきているとか400年前に来ていたと警告したら土地開発業者にそんな危険なことを言うなと脅迫されたという。自分たちがもうからないからそう言ったのである。これは東電の体質と同じだった。ただただみんな頭にもうける金のことしかなくなっていたのである。そしてあれだけ広範囲な地域が津浪にのまれてしまったのである。
津浪の被害では宮城県が本当に大きかったのである。


みちのくを ふた分けざまに聳えたもう 蔵王の山の雲の中に立つ 齋藤茂吉


これはみちのくではない、宮城県と山形県を分けるものとして蔵王があった。

今日は高速道路からの眺めが気持ちよかった。あそこは一段高いから見晴らしがいいのだ。だから津浪も防ぐことができた。津浪の防波堤になっていたのだ。津浪の被害の傷はなかなか消えない、ただ津浪の後でも米作りはしていたから塩害でも米は作れるらしい。放射能被害とは違っていたのである。

烏が巣に帰るというのは当たり前だけどこの辺では故郷を失い故郷の家に巣に帰れないというのも悲劇だった。自分にはまだ家があり辛うじて家族も残っている。それでまだ故郷にいる。
故郷を喪失することの傷は相当に深いだろう。だから福島市とか他でも都会の団地に避難して住んでいる人はどう思っているのだろうか?大内村の人たちは郡山市などにすんだから便利で帰りたくないというのもわかる。仙台でインド料理のパンのナン料理を食べた。カレ-にひたして食べた。
チェ-ン店になっていた味が洗練されていた。あのパンがインドで好きになったので食べたかった。
外国旅行ではそういうことがある。でも外国旅行で料理通にはよほどなれた人でないとなれない、
レストランに入りにくいし金がかかりすぎるからだ。外国のレストランは簡単に入れない場所だったのである。

2012年11月30日

冬に訪ねる多賀城跡(俳句、短歌) (1)


冬に訪ねる多賀城跡(俳句、短歌) (1)

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壺の碑
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我が踏みぬ南門跡や冬の暮
たずぬべし廃寺の跡や冬の暮
街道に二本の松や冬の暮
街道に二本の松や雪の嶺
いしぶみや街道の松に冬紅葉
古き碑のここに並びて刈田かな
冬の暮多賀城にも仮設かな

(旧今野家住宅)

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薪積みて母屋の古りぬ落葉かな


中門や馬の名を呼び親しかな薪積む家の冬のくれかな



岩切と陸前山王多賀城と歴史の道や冬のくれかな
多賀城の跡をたづねて冬のくれ末の松山都に知られぬ

冬の山遠く望みてはるけきや都を離れ多賀城に来ぬ



多賀城を訪ねたのもひさしぶりだった。多賀城の正殿跡に立ったのは何十年ぶりかであった。近くでもこうして一回限りで寄っていなかった。近くが意外と見逃されているのだ。曇っていて写真でははっきりしないけど遠くに山が望まれて雪も見えた。蔵王や泉が岳などが見えたようだ。
多賀城跡から平城宮(ならのみやこ)や京都を望んだらずいぶん遠い感覚になる。ひさしぶりで行ったからみちのくは奈良からはどれだけ遠かったか?その感覚は古代では今の十倍くらいの距離感があった。世界の果てに来たような感覚にもなっていた。その遠さがみちのくだったのである。
人間はやはり年よっても感じ方が相当に違っている。若いときは何かこうした歴史的な場所でもあまり感動しないし良くみていないのだ。人間はどんなに美しい場所でも歴史的な場所でも感じないものは感じない、外国旅行でも同じである。感じることはやはりその人のもっている力量である。
芭蕉はあれだけみちのくの旅で感じたのはやはりそれだけのものをもっていたからである。
旅しても感じないものは感じないからである。


今回印象に残ったのは街道の二本の松であった。二本松という地名があるがなるほどなとこの松を見て思った。ここの道は細いから奥の細道がまだ偲ばれる。実際はかなたの山に雪が見えたのである。写真ではやはりとりきれないものがある。遠くのものが見えない感じられないのである。山が遠くに連なり見えた。それがみちのくの遠さを感じたのである。今は冬紅葉の季節であり壺の碑がにあっていた。これの解釈もいろいろあり謎である。

今回は移築した今野家が興味深いものがあった。蕪木門があり中門があり母屋がある、中門は馬小屋になっていた。その馬小屋には今にも馬が出てきそうな感じだった。名前を呼べば馬が顔を出す、いかに馬と人とが一体化していたかこの家から感じた。本当に馬は家族の一員だったのである。
薪が積んであって冬支度でありいかにも今の季節にふさわしい、冬紅葉も映えていた。
母屋がどっしりとあり中に土間をあがるとおかみの部屋になりそこで家族が集まり食事をする。
旅館のおかみはここからきていたのである。母屋の中心がまさに母でありおかみだったのである。
日本では女性の力が結構大きかったのである。おかみにはさからえないとなっていたのだ。

多賀城についてはこれまで自分が地元で調べたものなどを合わせて次に書いてみよう

2012年11月29日

冬に訪ねる-見逃していた岩切(俳句連作) (岩切の歴史は古い-古代から鎌倉時代の要所)


冬に訪ねる-見逃していた岩切(俳句連作)

(岩切の歴史は古い-古代から鎌倉時代の要所)

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360度パノラマ-クリック
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干し柿や昔をたずね岩切に
あまたの碑ここに集めて落葉かな
岩切の石の仏や木の葉散る
瞑目す石の仏に冬日かな
なお残る冬の薄日に仏かな
結跏趺坐二体の仏冬日射す
東光寺石仏古りぬ冬紅葉
みちのくの塩釜街道冬の暮
今市橋海よりの風冬鴎
今市橋朝に渡るや冬鴎
今市橋朝に渡るや雪の嶺
岩切に中世語る枯芒
岩切の川沿い歩み葱畑
街道に三所と残る冬の暮


忘れらるや愛馬をまつる碑の一つここに残りて落葉たまりぬ

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元禄2年(1689年)5月8日(新暦6月24日)、芭蕉は仙台を立ち、十符の菅・壺碑を見ている。  かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に、十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は「十符の菅」のことを書いている。


 仙台より今市村へかゝり、冠川土橋を渡り、東光寺の脇を三丁行テ、岩切新田と云村、百姓の裏に、十符の菅アリ。又同所道端の田の脇にもあり。両所ながら垣結廻らし、菅は彼百姓が守となん。

[無都遅登理 五]


 元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、奥の細道、十符の井を訪ねている。

是より奥の細道。十符の井を尋ねて。沖の井に行く。三間四方程の岩なり。周は池なり。里人は沖の石といふ。千曳(ちびき)の石も此あたりと雖も。里人は知らず。末の松山は此所より遙に海原に見ゆ。


『蝶之遊』
http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/iwakiri.html




岩切は仙台から近くても歴史があるところであり見逃していた。それはなぜかというと鎌倉時代から江戸時代になって急速に変化した。仙台市は伊達政宗が戦国時代を経て青葉城を築城して仙台市が繁華な街として発展した。鎌倉時代は原野だったのである。これは鎌倉市もそうである。江戸城は鎌倉に幕府があったとき原野であった。そのあと徳川家康が幕府の城を作り百万都市になった。その前は原野だったことがわからなくなっている。大阪だってそうである。あそこも湿地帯であり埋め立てて秀吉によって作られた都市である。秀吉の城は本拠地は京都の伏見城だった。そこに最上氏や伊達氏が屋敷を隣り合って構えていたのである。愛姫(めごひめ)もそこに長く住んでいた。つまり大阪であれ江戸であれ仙台であれあれだけ人口が増えると過去というのがその人口の多さによってかき消されてしまうのである。現代から過去をさかのぼり歴史をみるというとき常にこうした錯覚が生まれる。もう鎌倉時代の様相は時代がたって全くその環境が変わってしまったからそこから過去を偲ぶことは容易ではないのだ。岩切という所もそういう鎌倉時代の要所でありそれが仙台や塩釜が発展して過去が忘れ去られたのである。


鎌倉時代は今の七北田川と湊浜が結びついていて船で物資を運び河原市場や冠屋市場が栄えた。七北田川は前は冠川(かむり)であった。川を遡ると泉の方に冠橋というのがあるから地名が残っていることでもわかる。岩切が要所となったのは一つは川を通じて海と結びついていたことである。そこで物資が集まり安かったのである。鎌倉時代になると海の交通も開け始めていたからである。そこで川も重要な交通路になった。もう一つは奥大道とか秀衡街道とかがあり平泉まで通じていた。


社殿。この場所は秀衡街道(ひでひらかいどう)が通っていた場所で、街道に塚を築くために測量に用いた縄を納めて祀った、と言い伝えられています
http://sendai-jinjya.jugem.jp/?page=1&month=201008


こういう社があるのもやはりここは今と同じく道が交差する幹線道路だった。だからいくつもの道ができて交差していた。もともとここに多賀城の国府があったとか言われているから古代からもみちのくの道があった。十符の菅菰を調て国守に献じたというのもそのためである。地理的にも平泉や塩釜や松島やさらに湊浜にも通じている要所であることが地理的に納得がいくのだ。ここは福島県だと郡山ににている。郡山は福島県の入り口でありイワキにも会津にも福島市にも通じている要所だからこそ発展したのである。地理的要因がいかにその地の性格を決めるかわかる。


みし人も十府の浦風音せぬにつれなく澄る秋の夜の月


ここで浦風というとき海を意識しているのだ。ただ今は住宅が密集しているから意識できない、でも冬鴎が飛んできて自分は海から吹いてくる風を感じた。浦風だったのである。風から海が近いことを意識したのだ。冬になれば北風だがあの風は海から吹いてきたから東風(こち)だったかもしれない、この風は春になると吹き始める風である。でも七北田川の海の方角から吹いてきた。今回の津波で海が奥深くまで入り込んでいたことが証明された。多賀城駅の砂押川を津波がさかのぼり潮水があふれて被害にあったことには驚いた。古代から鎌倉時代は冠川と砂押川が一つであり結びついて湊浜に流れでていた。砂押川でも高砂でも砂を押すだから海の波によって砂が押されるという地名である。そこに津波が押し寄せたというのもつながっている。高砂というのも砂が高く積もっている地域だからこの辺は海岸地帯の砂原だったのである。津波が来た地点に貝場という地名があるがこれも縄文人が貝をとっていた所かもしれない、丁度津波が来た境目だったからである。八幡地区には「塩入り」「塩窪」「塩留」笠神地区には船塚がある。これは南相馬市の鹿島区の真野の草原とにている。なぜなら津波で塩崎まで津波がおしよせてそこには船着とか市庭という地名が残っていたからである。ここもそれとにているのだ。船塚は船着と同じであり船がそこまで入ってきていたのである。そしてこの川は多賀城とも結ばれていたのである。だから末ノ松山が多賀城に近いしそこで津波にも流されず残ったから都にもみちのくの歌枕の地として知られたのである。あそこの前がかつては海だったし沖の石が残っているのもそのためである。


ともかく歴史というのは常に変わりやすい無常の世界を示している。かつて繁栄したところは早々と忘れられてしまい何なのか不明になる。一つは交通が変わるということである。宮城県は交通に恵まれていた。特に松島や塩釜など入江や島が多く海からの交通が早くから開けた。石巻が繁栄したのもそのためである。それは鎌倉時代から始まっていたのだ。古代の多賀城にはすでに大道が作られていたというのもそのためである。岩切には古い道から新しい道も作られて幾重にも道が重なっていた。紙屋道とあるのは紙も生産していて重要な産物となっていた。金売吉次の屋敷跡もありここを本拠地として活躍していたらしい。当時のいろいろな産物が岩切に集ったのである。そこで一遍などもここにより浄土なる松島を目指した。信仰者、巡礼者の一団が松島に向かいそこで命を終えることを願ったのである。だから松島は中世の修行場であり死に場所でもあった。


ただすでに江戸時代になると中世の市場は河原などに埋もれてしまって不明になった。古市とか古町になった。今市とは新しいようで江戸時代にできたのだから新しいのである。今の市場だから新しい。そういうことでも錯覚する。今市が古いと思っているけどそうではない、すでに中世の繁栄はここにはなく移動している。古町というのは全国でどこにでもある。古町と新しい町は距離が離れていない、隣り合っていることもある。狭い場所で繁栄の場所が移っているのだ。古町温泉とかあったけど山の方にもそういうふうに常に古くなってしまう町があった。小さな町でも村でも古町になりやすいのだ。今でもシャッタ-通りができたようにス-パ-や巨大ス-パ-に買い物が移って町自体が古町になるのと同じである。交通が変わるとまた都市はたちまち衰退するのである。江戸時代船運で栄えた湊はみんな廃れている。そこで遊女が増えて船乗りを引き留めようとしていたとかのいろいろな伝説が残っている。人間の社会は交通によって栄枯盛衰があるのだ。それは世界的にも同じである。シルクロ-ドは海の交通が開かれると衰退して砂に埋もれてしまったのとにている。世界的に見ても交通が変わると急速に衰退してしまうのである。原発事故の被害にあった相馬地方なども常磐線から六号線から交通が断たれたから物資の流通が断たれたからそれが回復しない限り衰退してしまうというのとにている。古代からでも現代でも交通は重要であり都市の栄枯盛衰をになっていたのである。



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塩釜街道

三所は細所であり細工場であった。中世の地名だった。川沿いに葱畠があり今市橋から泉岳とか雪の嶺が望まれた。ここが住宅が密集していて昔を偲べないと思った。多賀城の方には密集している。ところどころ畑があり今の季節は葱があっている。葱は冬の季語だった。葱は魚の臭みを消すとかいろいろ使い方があった。塩釜街道沿いには何か昔のものが残っているのか?神社などがあれば偲べる。
ここを仙台の方に歩けば昔が偲べる、多賀城跡の方がまだみちのくの道が偲べる。

俳句作るにしてもこうして歴史を知らないと作れない、「十符の菅菰」というものも何か良くわからないけどこれも相当に古い由来があることは察せられる。枯芒が冠川になびいていてこの辺はまだ昔の面影が残っていたのである。多賀城の方に行くと砂押川があっても住宅が密集してとても昔の風景は市街に埋没した。でも津波で砂押川があふれたからここが海が近いとあらためてわかったのである。末ノ松山もそれで再び脚光をあびたのである。他にも東光寺にはあかぎれ地蔵とか愛馬の碑が忘れられるようにあった。あかぎれはしもやけのことかなぜあかぎれとしたのか何かあかぎれと碑がにていたからだろう。かぎれとかしもやけは良く母が洗い物してなっていた。昔の洗い物は冷たくあかぎれとかしもやけになりやすかった。今は温水でありならないから死語になった。まずあかぎれと名づけられたのはあかぎれに悩まされたから連想したことはまちがいない、他にも地蔵には青麻・・というのは眼病にきくとかで祈られたり下の病気は地蔵に小便すると直るとか何か必ず病気と関係しているのだ。東光寺と相馬は古くから関係していた。東光とういう刻まれた碑が台田中になった。中世から関係していたのかもしれない、その伝説も残っている。明かに僧侶が来ていたのである。青麻という碑も相馬にあり伊達と相馬は関係が深いのである。


岩切の古城
http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/miyaginoku/09/09-12-01.htm


冠川は昔はいづこ石仏の冬日さし眠り枯芒かな


いづれにしろ岩切は中世からの霊場でもあり市場でもあり歴史が交差する場所だった。明治以降では愛馬の碑というのもめずらしい。太平洋戦争では馬が必需品でありそれで当然馬も死んだのだから碑があっても不思議ではない、でも愛馬の碑とか戦争にまつわる話はあっても碑はここではじめて見た。そもそも馬頭観音碑が全国に無数にあるとき戦争で死んだ愛馬の碑がまれだというのもかわいそうだとなる。戦争というのは馬まで意味なく死んだともなる。実際に馬頭観音碑は平和なときに人間と共に働いたから助けてくれたから碑がある。戦争というのは動物にとっても無惨だったとなるのだ。人間は本当に忘れやすいのである。中世ともなると本当に遠い過去だが確かにそこに生きていた人々がいたのである。それを偲ぶことが容易でなくなる。現代だってたちまち人はわすれさられてゆく、一見そう見えないにしろ同世代の人がすでに一割五分死んでいることでもわかる。次々に死んで忘れられてゆくのである。そして何が残るのか?わずかなものしか残らないのである。
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2012年11月28日

二両の電車の不思議(続編) (久々に仙台まで電車で行った)


二両の電車の不思議(続編)

(久々に仙台まで電車で行った)


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枯草や二両の電車あわわかな
冬薔薇蕾五六輪開かざり
黄葉や電車のとまる悠里館
黄葉や郷土を語る品々や
朝散歩冬菜畑や野の広し
前畑に朝映えにける冬の菊
晩菊やみちのくの線路つづくかな
仙台や欅の黄葉夜に映ゆ
雲に月にじみ光りて時雨かな
淋しさや母は寝て待つ時雨かな


冠雪の朝の蔵王を我が望みその厳しさや胸に迫りぬ


今日は半年ぶりくらいで仙台から岩切から多賀城に行った。手術して自転車に乗るな、乗り物に乗るなと言われたときはショックだった。一瞬自転車にも乗れない、乗り物にも乗れないとしたら自分がしてきたことが何もできなくなると思った。手足がもがれるように一瞬思った。確かに脳卒中とかで倒れたらショックである。動けなくなるし脳もやられるからその衝撃は恐ろしい。特に介護する人もないとしたら悲惨極まりなくなる。介護する人がいない身寄りがないということはこういうとき最も悲惨な状態になる。なぜなら介護する人がいたとしてもその病気になったら自分自身も介護する人もその負担が大きすぎるからだ。元気で生きて10日くらい寝込んで死ぬのが一番いいというのは本当だろう。そういうふうに死んだ人を近くで二人くらい知っている。その人は10日前まで仕事していたのだがぽっくりとあとは逝ったのだから理想的死に方だったのである。


二両の電車の不思議は電車があわれと感じるとき機械でも人間化しているのだ。八両のときは全くそういうことを感じなかった。現代はそれだけ機械に圧倒されて機械と人間は全く分離したものとなっていたのである。二両の電車は人間的だし自然の風景にとけこむのである。八両でもたいして変わりないように見えてもそうではなかった。だからこの経験も不思議なものだったのである。


亘理の悠里館というのには入ったことがない、なかなか亘理ではみている暇がない、今日は夜に快速で帰れてから早かった。介護していると留守番がいないから困るのだ。なんとか仙台近辺は日帰りで行ける。岩切は仙台駅-東仙台-岩切になるから近かった。そして岩切は中世からの歴史がある場所だったのである。ここを見逃していたのだ。意外と近くを人間は見逃している。灯台下暮らしなのが人間だった。そこから多賀城にも行ってみて新しい発見があった。あそこの道は街道であり歩いてみるとみちのくの旅が芭蕉の旅でも実感できる。旅は歩かないと旅にならないのである。だから冬菜畑の道を散歩している人がいたがその歩いていることが絵になっているのだ。車だったらもう絵にはならない、車は二両の電車より何か人間的なものを感じないのである。車があわれだなどと感じたことがない、車に乗っている人はまた別に感じているのかもしれないが自分は車には何か情を感じない、もともと電車が好きで旅ばかりしていたから電車には思い入れがある。それで岩切駅の前の喫茶店から新幹線と普通車と貨物列車が行くのをながめていてああ、ここは平和だなとつくづく感じた。


常磐線は津波で寸断されて何かまだ津波や原発事故は宮城県でも影響している。宮城県は津波の被害は一番大きかったのである。だから多賀城の博物館の前にも仮設住宅が建っていたのである。長町にも建っていたがあんなところにも建っていた。結構あの辺は被害が大きかった。多賀城の近くに末の松山があるから貞観の津波は奈良や京都まで知られたのである。末の松山はそれで歌枕になった。そのことが再現したことに驚いたのである。


蔵王はすでに雪だった。ひさしぶりに見てその姿が胸に迫った。短くても結構な旅だった。仙台から岩切から多賀城は歴史の道だったのである。そのことは次に書く・・・


冬の岩切駅


新幹線普通列車も行き
長々と貨物列車もごとごとと
交わり通り過ぎ行く
岩切の駅前の喫茶店
冬の日さしてしばし休みぬ
駅前に菊の映えて
ここは平和なるかな
その営みの変わらずに・・・

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なんか自分は電車の旅が長いから相当に電車に愛着をもっている。電車を見ているだけで心がなごむし気持ちいいのである。車を見ていてそういう気分になったことはないのである。新幹線だってやはり乗ってもみていても気持ちいいものがあるのだ。だからやはり鉄道の写真をとるということが鉄道ファンの第一歩なのかもしれない、デジカメだと写真をとりやすい、ただ動いているものはとりにくいからとっていない、そこまでのめりこんではいなかった。電車を待って写真とるようなことはしていなかった。電車の旅でもバスでも自転車でも車でも歩きでもそれぞれ違った旅になる。ただ車では旅したことはないからわからない、車だと何か自然を感じないから好きになれない、雨風を感じて自然と一体化する、今日も帰りに夜に雲ににじみ月が光って満月だった。そしてぱらぱらは雨がふった。これは時雨だったのか?そうかもしれない、これも車だったら時雨も感じないのである。だから車だと風流を感じないから旅にもならないのである。

2012年07月31日

松島の円通寺の枯山水の庭 (夏の俳句十句)


松島の円通寺の枯山水の庭
(夏の俳句十句)

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(円通寺)


石橋や夏の日さして枯山水
石橋に木蔭の深く枯山水

石一つ日陰の覆い枯山水
御仏や睡蓮菖蒲池の前
池写る菖蒲一本奥の庭
蕗の葉に孟宗竹や夏日射す
青色の涼しき花に岩屋かな

苔の道木蔭の深く待屋かな

影なして色合い深む種々の薔薇
御霊屋に薔薇の絵残り青葉かな


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円通寺の庭は枯山水である。松島を模したというが川が流れているように見える。海とは見えにくい。枯山水は自然をそのまま模したのとは違う、抽象画的側面がある。川にも見えるし海にも見えるとかなる。石橋がポイントとなっている。あの石橋をわたった向こう側が何か別な世界がある感じになる。そういう場面があった。奥深く川が流れ丸木橋を籠を背負い渡ってくる人がいた。それは隠されるようにあった。キクザキイチゲの花が咲き春だった。川せみが飛んできたりしていた。それは宮城県であり仙台の近くでもあった。石橋にはそうした日本的風景をイメ−ジする。日本の橋は短い、小さい橋が多いからだ。


この円通寺にはいろいろ見るものがある。


19歳で早世した伊達光宗の菩提寺であり、光宗の霊廟である三慧殿が「圓通院霊屋」の名で国の重要文化財に指定されている。光宗は仙台藩第2代藩主・伊達忠宗の次男であり、仙台藩祖・伊達政宗からみると孫にあたる。
三慧殿の厨子には、慶長遣欧使節を率いた支倉常長が西洋から持ち帰ったバラと、フィレンツェを象徴する水仙が描かれている。


それでバラ園が作られている。和風の庭にバラ園があるのはそのためである。ただ伊達政宗の霊廟であり政宗にお参りしているような気分になる。瑞巌寺もそうであり寺と僧は政宗に付属した存在だった。武家に付属したのが寺と僧になっていたのだ。結局歴史的には武士道が社会のモラルとなり寺や僧は武士の菩提寺となり脇役となったことは松島の瑞巌寺一帯は示している。戒名でも院とか名づけられたのは武士であり武士の墓は立派であり庶民は墓も建てられなかった。ただ豊になったとき俺も墓を作ってみようかと姓と名前の記した墓がわずかに残っている。それは個人墓なのである。次に夫婦墓となり家族墓となった。戒名もなかった庶民が戒名をつけるようになったのは武士に習ったのである。日本人のモラルは江戸時代は武士道であり寺や僧にはない、戸籍の管理の役所みたくなっていたのである。江戸時代はそういう時代であり中世とは違い宗教は武家に管理された役所化したのである。あそこに政宗が死んで七人の殉死の五輪塔が苔むしているのもやはり政宗が神格化していたのである。

岩屋に青い花が咲いていたけどなんという花なのか神秘的で見慣れぬ花だった。なんとも涼しげな花だった。

2012年07月07日

夏の日の松島の旅(俳句-短歌-詩) (松島の歴史は奥深い-中世に3000人の僧が修行していた聖地?)


夏の日の松島の旅(俳句-短歌-詩)

(松島の歴史は奥深い-中世に3000人の僧が修行していた聖地?)

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夏菊の窓一杯やバスの旅
夏菊や波光りよす朝の海
草原のかなたに光る夏の海
夏鶯松島湾の光るかな
苔むして岩屋の涼し松の影
夏の日に修行の僧の雄島かな
夏日さし杉木立の道苔映えぬ
松島の木蔭の深く板碑かな
四つの洞風の通りて涼しかな
外洋の風に夏日さし仁王島
船を追う夏の光に鴎かな
目印の山の遠きも夏の海

島いくつ浮かびし影や夏の月

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砂浜に波よせひびき夏の日や雄島によりて遠き島見ゆ

亀島と鯨島かなのびやかに夏の波光り双子島見ゆ
早世の若君惜しみ建てにける青葉に映える御霊屋に来ぬ
月光りたゆとう波に松島の島影浮かぶ夏の夜の夢

仙台の青葉にそよぐ夕風や若き等ととも歩み帰りぬ

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夏日松島


松島湾巡船
波揺光海鴎
瑞巌寺門入
杉木立影深
青苔夏日射
岩屋洞古墓


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雄島の松陰


穢土厭離欣求浄土 生死無常自証悟得


松島の岩窟に老僧一人
瞑目深く岩により
松風鳴りて煩悩を払わむ
身を浄めつつ祈りける
松清くして波静かなり
浄土夢見てここに朽ちなむ
松島に人は死なむと
遠き世の人の思いの
ここにこもりて深し
我の齢も尽きなむや
身を清くして仏を待たむ
来迎の島にして聖なりや
一場の夢の世は離るべしかな
波に静かにゆられにつ
鴨はよりあふ友なれや
月さし明るし松影に
眠れる魂の安からむ
津浪にも残れる松や
苔むしにつつ石の仏は古りぬ

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昨日は仙台から松島に行った。電車で相馬まで行きここで15分くらいまって亘理まで行きまた電車にのりかえてと前よりは一時間以上時間がかかるからめんどうになったことと一日しか出かけられないから宮城県が行くのにはいい。仙台で買い物するのも楽しみである。松島に最近歴史的に興味をもった。そもそも松島のはじまりは古く中世であり鎌倉時代前から天台宗の寺があり3000人の衆徒が集ったという、供養の板碑も実に古い中世のものである。それが頼朝が平泉をせめてきたときここも滅ぼされたという、ここまで頼朝の影響があったのかと思った。つまり松島というと伊達政宗しか思いつかないのが普通である。ところがこれだけで松島を語ることは本当の松島を知ることにはならない、松島は相当に奥深い歴史がありそれを知らないと松島は知り得ない、自然的に風光明媚というだけではない、そこにはもっと奥深いもの霊場としての松島がありその証拠が岩窟で修行した天台宗の僧とかこの聖地で死にたいと集まって来た僧たちだったのである。ここにはだから雄島でも死体が骨となってたくさん散らばっていたというときまた発掘されるというときそれを物語っている。


見仏聖人とか言う人もいたことでもわかる。松島というのも今という時間しか見ていない、そして観光というだけで来ている。ところがここはもともと聖地であり祈りの場所でありあまたの僧がここで浄土を願い死んだのである。松島は特に中世からそういう場所として選ばれた。それだけ美しい場所だったためである。なぜ今そういうことが閑却されるか見えてこないかというと仙台の市街から近く住宅街が迫っていてそういう霊場とかの感覚にならない、気楽に観光に息抜きにアベックが行く所でもある。そういうふうに今はすべてが観光地化してしまったからそこが歴史的にどういう意味をもっていたかわからなくなっているのだ。そして観光地で浮かれて遊んで終わるだけになってしまう。それはそれでいいとしてやはり自然と歴史の奥義を究めることがそこに長く住んでいれば必要になってくる。

近くであればそれかできるがまた近くであるが故に見逃すこともありうる。灯台下暗しになるのだ。松島は今回の津浪で被害をまねがれたのは幸運だった。松もほとんど倒れていない、そして福島県から浜通りまで一つの海岸地帯で津浪の被害を受けて海沿いは一つの文化圏を共有している地帯だとも思った。福島県から宮城県から岩手県の津浪に被害にあった所が一つの地理的一体感を感じたのである。福島県では会津とは地理的一体感が感じられない、宮城県の海沿いの方が地理的一体感を感じる場所だったのである。仙台に頻繁に行くし通勤圏にさえなっているから余計にそうだった。
だから宮城県と福島県の歴史はクロスするし重複して見ることができる。これは山形県も岩手県もそうである。この辺を詳しく調べれば遠くに旅に行かなくても一つの世界としてみることができる。


この三つの県でも全体を歴史的地理的にみることはむずかしいのだ。これは地理に精通して全体的俯瞰的にみることがむずかしいのである。歴史になると古代から中世から江戸時代とさらに通観することはむずかしくなる。だから松島が聖地だということも鎌倉時代前から3千人もの僧が集まっていたなど知らなかったのである。その跡に瑞巌寺が建てられた。それは禅宗の寺だった。ただ伊達政宗の時代になると伊達政宗の菩提寺の性格が強くなり見張塔やら墓でも華やかな墓が御霊屋があり伊達政宗をお参りしている感覚になる。とてもここが寺なのかと思ってしまう。伊達政宗にお参りしている感覚になるのだ。江戸時代までは寺は武家に所属する菩提寺だったからそうなる。でも本来の宗教の場ではなくなっている。そういう矛盾も内包している複雑な場なのだ。そういうふうに歴史が積み重なっている場なのである。これはヨ-ロッパのロ-マとかどこの都市でもそうだがにている。ロ-マ時代からの歴史が重層的になっているのがヨ-ロッパである。20歳で急逝した期待された若君が死んだ御霊屋は実に立派であった。そこにはフィレンツの花の水仙とロ-マの花の薔薇が描かれていたのも
ヨ-ロッパ的である。これは支倉常長の影響だったとかヨ-ロッパ式になっているのだ。それでバラの園を裏の方に作っていた。これも寺としては変わっている。それなりに歴史があって作ったのである。

伊達政宗は京都の伏見で愛姫が暮らしていたし伏見城がある所で秀吉に仕えていた。政宗は仙台より京都の秀吉の伏見城で伊達屋敷をもち長くそこにも住んでいた。最上氏も伊達と並んで屋敷をもく地名として残っている。そういう歴史も興味深い、政宗はそうして全国的に活躍して世界的にも視野をもちヨ-ロッパのロ-マにも使者を派遣した世界的視野をもった英傑だったのである。ただ政宗が死んで殉死者が七人いて円通寺にその墓がある。こういうことでも政宗は信長と同じく神のごとくなっていた。信長は部下に殺されたけど政宗はそうではなかった。70歳とか生きたのである。ただ瑞巌寺でも円通寺でもそこは伊達政宗にお参りするのであり仏教の寺とは感じられなくなる。中世は霊場であり聖地であったから歴史を知れば違和感を感じるのだ。伊達政宗をお参りして成仏するということはないだろう。でも政宗が寺の御本尊のようにありその妻の愛姫も子の御霊屋もそうなのである。
ここはもともと霊場であり聖地だったとするとき


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 松島で死ぬ人もあり冬籠(ふゆごもり)


この蕪村(六十七歳の時の作)の句は、「松島で古人となる歟(か)年の暮」
と同一時の作とされている。『蕪村全集一』の解によれば、「風流行脚の途
次、松島で死の本懐をとげる人もある。そんなうらやましい人のことを心に
思いながら、自分はぐうたらと火燵行脚の冬ごもりを極め込んでいる」とあ
る。


これは蕪村が松島の歴史を中世までさかのぼる霊場として僧が修行して死んだことを知っているからこの句を作った。もし知らなければ何の意味かもわからない。松島は死に場所としてもいい霊場として知られていたのである。松島で死ぬということは幸せなことだった。風光明媚な地で成仏することだった。でも芭蕉も蕪村も一回しかこれなかったのである。そこに現代との差があった。
ともかく歴史を知らなければこの句の意味もわからないのである。俳句短歌でも歴史を知らないと深く鑑賞できないのである。


次は円通寺の庭の俳句です

 

2012年05月29日

仙台へ行く (名取から仙台空港へ-津浪の跡)


仙台へ行く

(名取から仙台空港へ-津浪の跡)

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夏菊や六号線を走りぬく


空港に海風吹くや夏着かな


夏の海飛行機飛びたつ外国へ


涼しさや中庭の花風にゆる


中庭の夏菊ゆれて喫茶店


ルピナスの中庭に咲く都会かな


仙台や木蔭に鳩や青葉かな


仙台の若葉や長く影なして風にそよぎて我が歩みけり


新しき本三冊ほど我が買いて青葉の影の通りゆくかな


仙台の喫茶店に休み鳩あゆみ青葉の写る窓の広しも

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今日仙台に行く途中、名取から仙台空港に津浪の跡を見に行った。空港線にのるのは初めてだった。仙台空港は海がすぐ近くで見えていた。あんなに近いと思わなかった。結構離れていたと思っていた。すぐ海が近くであり松林があり貞山堀が見える。そこはみな津浪で流された。大量の松も流された。松林になっていると海はみえにくくなる。でもあそこは高いから海が見える。
ともかくテレビだけごと必ず錯覚を生んでいるのだ。だから実地にその現場に立たないと見えないのである。津浪も現場に立ってみることである。そこで人間の五感が働き納得する。テレビの画面からだと何か錯覚を生んでいる。あれだけ海が近いとするともっと被害が大きくても不思議ではない、
自動車とか飛行機が流されたけど空港の建物自体は大きいから二階に逃げれば助かった。
それにしてもあんなに近いとは思わなかった。

仙台の空港からは沖縄に行っただけである。外国には行っていない、二三万高くつく、でも電車のことを入れればほぼ同じだったのである。名取の市街から仙台の方を見たら名取と仙台はつながっていた。もう完全に仙台圏内でありびっしりと家がたてこんでいる。あれを見たらあそこには住みたくないと思った。家がふえすぎたのである。仙台はさらに家が集中してくる。

仙台の駅前の中庭のあるところはいい、いかにも都会らしいくつろぎの空間を演出している。
やはり仙台には一か月に一回くらいは来るべきである。ただバスで二回のりかえたり今は二時間以上かかる。何か不便になってしまったのである。青葉の季節であり本を買ったりと買い物をした。

2012年05月18日

丸森から梁川へ 春の短歌十首 (金山城、小浜城、梁川城を訪ねる)


丸森から梁川へ 春の短歌十首

(金山城、小浜城、梁川城を訪ねる)

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幾代の城主や梁川花の散る


丸森へ我が入りゆくや山の間に鳥なきひびき山桜咲く


丸森に入りて知られじ梅林の馥郁とにおい家そひそけき


丸森の夕べの桜あわれかな我が坂越えて相馬へ帰る


丸森の金山城に残雪の蔵王の光り新緑に映ゆ


一時は相馬の城や金山城夏草踏みて跡をたずねき


丸森に山越えてこそ東風(こち)吹きぬ政宗の初陣相馬を望む


丸森の坂越え相馬へ還り来て何を伝えむ夏の日暮れぬ


一時は政宗が居城山城や花咲きそめて我が訪ねけり


丸森の我が坂越えて梁川や城跡古りて桜散るかな


一時は会津の治む梁川やせめぎ合いにつ夏の日暮れぬ


残雪の吾妻蔵王を望みつつ桜は桃の伊達の春かな


梁川や柳青める城跡を訪ねてあわれ夕ぐるるかも



春のサイクリング-丸森-梁川-阿武隈川-丸森(短歌の部)
写真
http://musubu2.sblo.jp/article/37411301.html



丸森(金山城)

金山城は、永禄年間に相馬氏の家臣井戸川将監、藤橋紀伊が築城したと言われる。
その後伊達氏と相馬氏の争奪戦が展開された。
天正9年(1581年)には伊達政宗が初陣を飾り、同12年(1584年)に伊達氏の領有となった。
そして、金山城は政宗の家臣中島宗求が2千石で拝領した。


小浜城

永禄11年(1568年)小浜城主・大内義綱は田村氏に通じて主家の石橋尚義を追放し、塩松地方一帯を支配下に置いた。大内氏はその後、田村氏からの独立を目論んで伊達氏・蘆名氏の側に転じた。
天正12年(1584年)伊達政宗が家督を継ぎ、当主・大内定綱は引き続き伊達氏への従属を誓ったが、翌年には離反し、蘆名氏に属する。この後政宗は小浜城を二本松氏攻撃の拠点とし、
天正14年(1586年)8月までの約1年間滞在した。
天正19年(1591年)、奥州仕置によって塩松が蒲生氏郷領となると、家臣の蒲生忠右衛門が2万5千石を与えられて小浜城代となった。現在、本丸跡に残されている石垣はこの時築造されたものである。その後、上杉氏時代は山浦景国、再蒲生時代は玉井貞右が城代となり、寛永4年(1627年)廃城となった。


梁川城

伊達義広 粟野大館(梁川城?)
伊達政依 梁川城?
伊達宗綱 梁川城?
伊達基宗 梁川城?
伊達行宗 梁川城?→霊山城→伊佐城→梁川城?
伊達宗遠 梁川城?
伊達政宗 高畠城→赤館
伊達氏宗 赤館
伊達持宗 大仏城(後の福島城)→梁川城
伊達成宗 梁川城
伊達尚宗 梁川城
伊達稙宗 梁川城→桑折西山城→丸森城(隠居)
伊達晴宗 西山城→米沢城→杉目城(隠居)
伊達輝宗 米沢城→舘山城(隠居)
伊達政宗 米沢城→黒川城(後の会津若松城)→米沢城→岩出山城→仙台城→若林城(隠居)

http://musubu2.sblo.jp/article/33335304.html

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梁川の川の岸辺に桜咲き柳も青みて夕暮れせまる


梁川はこの川と柳が印象的な場所だった。街からはずれたところに阿武隈川が大きく蛇行しているのも見物である。阿武隈川は意外と魅力に欠けているがあそこは蛇行して激流となり流れるから魅力がある。桜も桃も映えて川は丸森の方へ流れてゆきやがて亘理の方へ流れ海に出る。


やはらかに柳あおめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに 石川啄木

柳は北上川でも一本の柳ではない、それなりに目立って何本もの柳なのだろう。この辺では川に柳を見ない、するとイメ-ジしにくいのである。他では川に柳がある。
川柳(せんりゅう)」という歌は、江戸時代に実在した柄井八右衛門という人の俳号「川柳」に由来するもの。川に柳はつきものだったのだ。


柳橋とかもあるし柳と川は一体としてあった。
ただ桜だったわかるけど柳をそれほど泣けとごとくに心の目でイメ-ジしたことがわからない、
春の息吹を感じるのは梅であり桜であり柳というわけではない、ただ川にあっているから川を思い出して柳が目に浮かんできたのである。梁川には旅してやはりこの柳があっていた。
ただ一時いただけであり急ぎ去ったからそれほど印象に残ったとはいえない。ただ梁川はこの柳の方があっていたことは確かである。旅も印象が薄れるとどういう場所だったかわからなくなる。
それで写真を見たりして思い出すのである。近くだと思い出しやすい、梁川は歴史的にも伊達氏の拠点となって城であり地理的にもそうだったのだろう。



丸森の金山城とか小浜城の魅力は小さいけど城の最初の形を維持していることである。山城であり山が防御のために利用されている。小浜城は小さいようだけど山を利用したもので頂上まで上り攻めるのには地形的に難儀する。地形を利用した要害である。南相馬市の江垂(エタリ)の中館も山を要害とした砦でであった。それが中世から起こった城であり最初は山のような要害を利用した山城だった。あとに平城になった。鹿島区の駅の近くの田中城が石田三成の戦国時代に最期の興亡の城となったのは地理的なもの地形が影響していた。平地の城で戦うことになったからだ。その城は回りが湿地帯であり今回の津浪でその近くまで津浪が押し寄せて今は湿地帯化していることでもわかる。
中世の城は館(タテ)と呼ばれていて地名化している。飯館村でももともとは大館村などがあり合併した。大きな館(たて)があり地名化した。館は山を要塞として不便な地域にあった。山自体を要害としていたからである。


その地域を見る場合、こうした山城の跡でもあれば古いとわかる。それから古墳などもあれば古代からつづいている地域だとわかる。梁川は城跡があってもこれも城があったのかどうかもわかりにくい、でも古い要の場所だから伊達政宗が抑えていた。ただ今は街を改造したので新住宅地にして古い町並みもなくなっているのでここは新しい街なのかと錯覚する。でも城跡があったから古いとわかる。そこからその町を見る必要がある。どんな所に行っても旅しても最低の歴史認識は必要である。
梁川などは城跡見ないと新しくできた町かと錯覚する。でもそこでは代々つづいていたのであり興亡があった。この辺では相馬市の玉野の領地争いで象徴されているように会津、米沢、伊達、相馬で争っていたのである。だから交互に城主にもなったりしていた。金山城はそうだった。


この三つの城あるところは景観が優れている。小浜城から安達太良山が大きく見える。丸森に入ると小高い丘に金山城がある。そこから見た蔵王は近くに見えるから威容がある。それから丸森から坂を越えると残雪の吾妻嶺がかなたに望まれ蔵王すら見えてくる。そして阿武隈川が梁川で合流していたり蛇行してその景観が雄大だった。伊達には桜と桃が一時に咲くのも見物である。桜咲く時期が一番見物である。日本はどこでも地形が複雑であり地形的に魅力がある。ただ平坦な地ばかりつづいていたら満州のように嫌になる。日本はだから旅してあきることがないのだ。日本ではどこでも桜咲く時期が一番美しくなる。放射能騒ぎでもこうした景観には影響していない、桜も桃も実は食べられなくても花は咲いて鑑賞できる。でも桃などは実が食べられないとしたらやめる人も出てくるだろう。
花だけでは売り物にはならないからだ。とにかく山の美しさは中通りから会津にあり浜通りにはない。でも高い山は阿武隈高原からも望まれる。景観的には福島県は中通りまでは望まれるが会津になると視界に入らない、そこには2000メ-トル級の山がひしめきあっている。だから福島県でも別世界になってしまうのである。それだけ福島県は広いのである。日本の地理のわかりにくいのは山が縦横に重なっていて視界をさえぎるからである。山の中にまぎりいると方向も地理もわからなくなるからだ。


俳句とか短歌とか詩の鑑賞でもこうした地形をよまないと鑑賞できない、最低限の歴史的認識は必要なのである。だから小さな山城でもその跡でも訪ねる必要がある。何度も丸森に行ったけどちょうど相馬との境が坂を上った所にある。金山城は相馬領に最も近い所にあった。日本は坂が境になりやすいことがわかる。自転車でその坂を越えたり下ったりしたことが体に刻まれているから記録が蘇るのである。丸森は相馬から遠いようで近い。海の風が春吹く東風(こち)が山を越えて吹いてきたのがわかった。政宗の初陣の地として有名であり政宗は相馬との戦いで海をはじめて意識したという、海は丸森から確かに近いし山から見えるのである。


丸森を去るときいつも夕暮れが迫っていてそこで夕桜をいつも見て相馬の方に帰ってきていたのである。つまりそういう難儀な過程があって旅になっている。車だとそういう記録が残りにくいのである。坂という感覚すらなくなってしまうのである。地形と一体化できない、つくづく車がいかに便利でも自然との一体感とか人情の世界を破壊してしまったかわかる。浮世絵とか見れば自然であれ街であれ江戸であれ明治であれまだ人間は外界との一体感があった。情緒的に人間と外界は分断されていないのである。人間と外界は自然であれ街であれ現代は分断されている。でも自然の景観自体は大きくは変わっていないのである。丸森から梁川から阿武隈川を下ってまた丸森に帰る道は景観が雄大である。ここは観光コ-スとしてお勧めである。

2012年03月12日

松島-多賀城の春の俳句短歌と写真


松島-多賀城の春の俳句短歌と写真

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冬の海波うちしぶき沖に船

荒寥と津浪の跡や冬の海


磐根付く古木くねりて残る雪


松島の松の残りて春の風


春日さし松風鳴りて五大堂


鴎浮き春日穏やか双子島


春の昼金華山見ゆ赤い橋


赤い橋鴎のとまり春の島


松島や島陰の渚残る雪


島陰に雪を残して暮るるかな


瑞巌寺竹の清しく残る雪


瑞巌寺鐘楼鳴らず冬の暮


見張塔瑞巌寺守る冬の暮


瑞巌寺去るや杉の間残る雪


瑞巌寺海よりそよぐ春の風


島々の松の緑や春の鴨


多賀城跡浮島神社や春の暮


多賀城の正殿跡や春浅し


枯葦に昔の面影砂押川


早春の多賀城駅や鴎飛ぶ



太き松その間に見える小町島春の日おだやかまたたずねけり


松島の春やしきりにかもめなきむれつつ飛びて島のうるわし


松島の海穏やかに春の日に照り映えにつつ津浪まねがる


太しくも末の松山二本の残りし松に春の風吹く


太しくも末の松山二本の松の契りや椿赤しも


多賀城に末の松山沖の石津浪の跡や春の日暮れぬ

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2011年01月20日

2011年 冬の仙台へ

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2011年 冬の仙台へ

寒烏木に黒々と百羽ほど


家の前大根あらわに頼もしき


新幹線枯蔦這いぬ高架橋


風花や喫茶店に入る通りかな


喫茶店向かいに一人枯木見ゆ


仙台に消防車出る寒さかな


古本をまた買い集め冬籠もり


冬満月海より昇り新地駅


阿武隈川広々として鴨の群れゆうゆうとして冬の日暮れむ


打ち曇り蔵王の見えず雪の中みちのくの冬農家古りにき


油絵に教会の塔や仙台の喫茶店に入り冬のくれかな



今日はひさしぶりで仙台に行ってきた。9月ころ行ったがあとは行っていない、黒々と百羽くらい日本の枯木に烏がとまっていたのを見た。あんな光景もめずらしい、いかにも冬らしい風景だった。冬のイメ-ジは黒なのである。駅近くの喫茶店に入った。そこに油絵が飾ってあってすいていた。二階があり休むのにいい、前は隣のチェ-ン店に入っていたが休みだった。そこでこの喫茶店に入った。280円くらいでコ-ヒ-が飲めたから高くはなかった。喫茶店はやはり芸術的な場でもあったのだ。絵を飾ってそれを鑑賞するに向いている。雰囲気を楽しむのにいいのだ。個性ある雰囲気作りだせばそれだけでも入る人がいるだろう。また場所も大事である。定禅寺通りはいいが遠くて行けなかった。窓から景色が見えないと閉鎖された気分になるからいやなのである。仙台と喫茶店を回る楽しみがある。寒いのと時間がないので駅前だけで終わった。仙台の街はそれなりに情緒ある場所である。古本をデパ-トで出していたのでまた買った。変わった本があるから面白い。でも今や本は読みきれないのだ。本を読む限界がきた。もう老人になると本を読んで消化することがむずかしいのだ。だからつくづく何回も言っているけどくだらない本を読んでいたら本当に時間の浪費である。本も読めなくなるときが意外と早くくるからだ。人間の時間は限られている。時間の浪費が最大の浪費なことを老人になったらいやがおうでもきずかされる。


今日はまだ病院にいるからかえって夜遅くなってもいいからでかけられる。今度家に帰ってきたら夜になったら帰ってこないといけないから仙台までも出かけられない、介護で一番困ったのは自由を奪われることなのだ。それも何日も旅行に行くとかではない、ちょっと出かけることすらできなくなるのだ。介護度3になったからショ-トスティのサ-ビスは受けられる。それにしても障害者をかかえることは本当にやっかいであり辛いことなのである。老人が障害者かというけど実際は頭も半分ぼけていたりしたら障害者と同じなのである。自分で食事の用意もいろいろなことができなくなるからだ。すでに五年間くらいつづいているのだ。老人の介護には家でも社会でも限界がやがてくる。高齢化社会はやはり社会的な整備ができなければどうにもならなくなる。在宅になればその負担が大きすぎるのだ。軽いといったって家族が少ない時代には大変なのである。一人に二人めんどうみる人が必要なのである。それがいないと一人だとちょっと出かけることすらできなくなるのだ。

2011年01月13日

冬深む(松島俳句十句)

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冬深む(松島俳句十句)

赤き橋渡りて島や松に雪

波のよせ松風鳴りて寒椿


曲松に風の鳴りつつ冬深む


曲松に午後の冬日や牡蠣を食う


島二つ対なし静か冬深む


瑞巌寺洞に仏や冬の苔


瑞巌寺禅寺の門や冬の暮


観欄亭古木の影や冬深む


誰かおる奥松島や冬の暮


蕪村の句何を語るや冬深む

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松島で古人となる歟(か)年の暮

松島で死ぬ人もあり冬籠(ふゆごもり) 蕪村

http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_28.html


この句は謎めいた句である。「世人が俗塵の中で悪戦苦闘する年の暮れに、風流のメッカ松島で故人となるのは、何ともうらやましい」というのが一般的解説である。こう思うのは江戸時代は松島なら遠いからなかなかたずねることができないから憧れの地で死にたいとなる。今のように新幹線で二時間とかなるとそうはならないのである。松島などいつでも行けるじゃないかとなるからだ。これはどこでもそうであるが人間はしかし遂にいくら交通が発達しても旅もできなくなるときがくる。病気になったりして老いると遂にある場所は今ならすぐ手の届くような所にあり行けるのだが行けなくなるということがある。自分も最近病気になったり介護でもう旅もできない、すると最後に死ぬ前に見ておきたいものは何かとなるのだ。やはり富士山などはもう一度日本人なら見て死にたいとかなる。現実に癌になっても富士登山とした人がいた。最後の見納めとして富士山に登山したのである。ここでなぜ松島がそれほどいい場所として憧れたのか、何度も行けない景勝の地だったからである。今なら別に松島で死ぬからとうらやましいがる人はいない、松島が特別な場所ではない、見慣れてしまいばとこでもそうなるのだ。


冬の松島もなかなかいい、あの曲がった松は下から支えて辛うじてもっている。あそこでは何度か食事した。あの松がなんとも風情がある。曲松という地名は各地にある。曲松はやはり目立つから目印になりやすいのだ。


曲松(まげまつ)の地名
http://magarimatu.web.fc2.com/about.html


福島県福島市泉曲松という所には一度寄っている。


瑞巌寺は禅宗の寺だから宮城県には禅宗の寺が多いし墓も多い。○が墓に刻まれているからわかりやすい、相馬藩とかでは禅宗系は少ないように思う。○の墓はあまり見かけないからだ。やはり東北では伊達政宗は唯一の英傑だからその影響が大きいのである。


みちのくに英傑生まる青葉城石垣そりて朔風唸る

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2010年05月17日

亘理から阿武隈川を下り海へ(夏の短歌)

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阿武隈川大橋わたる夏雲雀


夏の日や大川二つ渡るかな

郭公や大川二つ渡るかな

名取より飛行機雲や夏の空

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山下の駅にはおりず朝静か菖蒲咲きにき電車過ぎさる

夏の朝阿武隈川の広々と太平洋に注ぎ入るかも

夏の朝まばやく光る太平洋阿武隈川のここに尽きにき

阿武隈川流れは尽きて海見えぬ蔵王を仰ぎ船はいでゆく

松原の影長々と涼しかな白波のよす仙台までも

松原の朝の緑の清しかな蔵王を仰ぎ波のひびけり

夏の日や海岸線に波白し仙台までもつづきけるかも

阿武隈川河畔の広し競い鳴く雲雀の声や朝に行くかな

阿武隈川河畔の広し郭公の声のひびきて大橋渡る

阿武隈川土手の袂に社古り夏の日よりぬ日影涼しき

荒浜や河口に浪のひびくかな夏の海より鴎とびくる

阿武隈川河口広がる郭公の鳴く声遠くひびきけるかな



(二木の松)

岩沼の女しあわれも日傘さし二木の松の下を行くかな

二木の松謂われも深き岩沼に夏の真昼や旅人よりぬ

岩沼に藤の花咲くあわれかな二木の松より旅人去りぬ

二木の松芭蕉のよりしと夏の日や汗をぬぐいて我が寄り去りぬ

二木の松我が立ち寄りぬ岩沼の相馬に近き夏の日暮れぬ


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阿武隈川くらい大きいとやはり川のドラマがある。人の一生にもにている。遂に最後に太平洋が開けて大河は海にそそぐ、荒浜からは船が江戸まで出ていた。仙台藩で米を運んでいたのだ。大河が海にそそぎ海は江戸に通じていたのである。阿武隈川の土手はサイクリング道路として整備している。平らなところはサイクリングに向いているのだ。そして必ずビュ-ポイントがある。阿武隈川では梁川で写真を出したけどあそこの大きく蛇行して急流となるところがビュ-ポイントだった。最後は海にそそぐ阿武隈川もビュ-ポイントである。ただ鳥ノ海は大きい自然の海かと錯覚していたが小さい漁港の湾だから景色的には良くない、蔵王は見えるが景色的にはそんなに良くない、むしろ岩沼に行く一面の松原の海岸線が見物だった。その松原から残雪の蔵王が美しかった。あそこがビュ-ポイントだった。あそこは車からは見れない、車が通れない所になっていた。ビュ-ポイントは実際に地元の人でないとわからない点があるのだ。鳥ノ海より松原から蔵王を見ると美しいし海岸線もどこまでもつづいているので夏らしかった。


阿武隈川の土手を上って行ったらいつのまにかに岩沼についていた。そこで二木の松というのがありあれこれが二木の松かと思った。確かにそれらしい松になっていた。阿武隈川に出て河口から岩沼に来て二木の松を見るのも不思議だった。あれもやはりみちのくの歌枕だったのだ。この時期確かに芭蕉が寄ったのだ。

名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて四五日逗留す。

あやめ草足に結ばん草鞋の緒

菖蒲が咲いているとき確かにここを通ったのだから今の時期だったのである。その二木の松の下を日傘をさした女性が歩いてゆくのが絵になっていた。今日は本当に夏らしい夏がもどってきた。こういうふうに電車だけでは旅にはならない、電車からおりて二木の松を見るのとはるばる歩いてきて二木の松にたどりつくのとは大きな感興の違いがでてくる。旅は過程でありアプロ-チの仕方で同じものを見ても違って見えるのだ。今の時代は旅をするには自ら回りくどく演出しないとできくなっているのだ。余りにも簡単に行くことができるし通りすぎることも多いからである。
今日は朝六時の電車で行った。やはり朝は気持ちいいし蔵王がどこからも見えた。亘理から見える蔵王はきれいである。でも松原の上に見えた蔵王の写真は蔵王そのものが写っていない、今回は景色はそれなりに良かったがいい写真がとれなかった。遠景はなかなかいい写真がとれないことがある。

2010年02月27日

伊達政宗の紋章

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伊達政宗の紋章

伊達政宗は海と縁が深い、海を望み最後はスペインにまで使者を派遣た。だから海の色がにあうのである。東北であの時代にヨ-ロッパまで目を向けたこと自体例外的だった。その後も東北は海外に視野をもったことがないからだ。だから伊達政宗は海と結びつくのである。

 

2010年02月23日

冬田の中の石巻線、短歌十首と詩


冬田の中の石巻線、短歌十首と詩

石巻平泉の間に登米ありぬまだ我行かじ冬の日暮れぬ

石巻線佳景山駅や冬の日にとまるもあわれ乗る人まれに

曽波神駅何を意味するまだ知らじ石巻線に冬田広がる

誰が訪ぬ涌谷の城跡冬の日や我が下りずして過ぎにけるかな

小牛田に冬の日つきぬあわれかな栗原電鉄の今はなきかな

相馬には小牛田の碑山神の碑あまたあり冬の日暮れぬ

我が旅の尽きざるけるかな晩年を石巻線や冬の日暮れぬ

みちのくの平泉なお遠しかも冬田広がり我が帰りけるかな

品井沼その名に偲ぶここに来て冬田広がり淋しかりけり

みちのくは広しや冬に束稲山京に知らるを想いて暮れぬ


石巻平泉の間に登米があるがここは行っていない、電車が通っていないと行けない地は相当ある。
ここもだからこの年まで行っていないし行けないのだ。でも芭蕉が石巻から登米を通って平泉に行ったから一度は通ってみたい町でもある。近くでも行けない場所はいくらでもある。車がないとやはりかなり行けない場所が出てくるのだ。石巻線はこれも乗る人が少ないし良く残っていると想う線である。途中の涌谷町は初めて黄金を出したことで奈良に知られた所だから歴史的に古い。でもここを注目している人は少ないしよる人もすくないだろう。涌谷城がありその城跡の石垣が残っている。ここにも城があったのかと改めて想う。石垣が残っているのだからやはり城があったとなる。石垣だけでも残っていればそれなりに昔を偲べるのだ。でもここにも寄ってはいない、めんどうだから通りすぎてしまうだけになる。この石巻線だと一旦下りたらいつまた来るかわからないような線であるからだ。ここの駅も曽波神駅(そばのかみのえき)とかこれも何なのかわからない、佳景山(かけやま)駅はもともと欠け山であり山が欠けている、実際にそういう山があるが名前として良くないので佳景山(かけやま)にしたという。いづれにしろこの線は閑散としている。特に冬だから余計にそう感じた。でもここもみちのくでありみちのくの広さが意識される場所である。みちのくはやはり広大な地域なのである。小牛田は相馬でも小牛田の碑があり山神の碑はここの神様に由来してお参りしていた。宮城県の神様が相馬には碑となってかなり残っている。近いから実際にお参りに来ていたのである。江戸時代から地理的には伊達藩の方に近かったのである。


冬田の中の石巻線

曽波神とは何の神様だ

これも未だわからんな

佳景山とは欠けた山だったと

そんな山しかこの辺にはねえのか

涌谷では黄金がとれていた

奈良の都に知られていた有名な場所だ

それも遠い昔だな

ちょっとでも砂金がでてきたんだってな

ここには涌谷城の石垣が残っている

こんなところにも城あったのか

まだ訪ねたことはねえな

今はただ冬田が広がっているだけだ

小牛田についたな

小牛田は相馬にも碑があるし

山神様でなじみの場所だけどな

ここからでていた栗原電鉄は廃線になった

最後に記念に乗ったのが良かったな

石巻線も廃線になるのか・・・

平泉と言えばまだ遠いな

束稲山は都に知られた山だ

品井沼は大きな沼だった

この辺も昔は広い湿地帯だったな

ここも伊達領になったんだよ

なんだかオレも旅ばかりしていたけど

年とってしまったな

近くでも知らない所がまだまだあるんだよ

一生かかっても行ききれない

そのうち死んでしまう

遂には近くでも見納めになる

石巻線はその頃廃線になっているかもな

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

廃線となった栗原電鉄
http://www.musubu.jp/jijirailway.htm#kuriharahaisen


2010年02月02日

雪の松島-俳句短歌-政宗のこと

雪の松島-俳句短歌-政宗のこと

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走り去る電車や雪に椿かな

みちのくに金の障壁画冬鴎

抹茶飲む観欄亭や冬障子

鴨群れて観欄亭や冬障子

秀吉の威勢及ぶむ冬障子

政宗の伊達も威勢や冬障子

松に雪観欄亭に藩主の座

さしだせし名器の茶碗松に雪

みちのくに島の少なし冬鴎

松島や雪に散り赤し椿かな

尋ねざる奥松島や雪となる

松島や雪また雪や夜の更けぬ

塩釜に海見つ墓所や冬深む

雪となり夕べ遠しや石巻

北上川上の遠きや冬の月


松に雪かもめ飛びつつ松島や瑞巌寺の門古りて暮るるも

松に雪鴨の群れつつ波にゆれ松島暮れて旅人の去る

小松島小さく見えぬ幾度も松島たずね冬のくれかな


ねんごろに茶碗を手にし島望む観欄亭の冬のくれかな


老木の枯木の磐に根づきつつ雪の積るや松島の海

文永の碑のあり遠き松島は祈りの島や雪のふるかな

大いなる港ととならむその跡やみちのくの海に雪のふるなり

夏の日に一度はたずぬ鳴瀬町松に家古り冬となるかも

石巻冬に遠きや葛西氏の城跡古りぬ河口の島に

葛西氏は滅びけるかな石巻その跡たずぬ冬のくれかな

勝つものの陰に滅びしもののあり政宗たずぬ冬のくれかな

さらに遠し石巻より平泉北上川 に雪のふるかな

小牛田の碑相馬にあれや山神を祈り祀るや冬深むかも



歴史を知るというとき例えば伊達(だて)は派手好みとして中央に秀吉などに見せて有名になったけど実際は東北は貧しい農民がほとんどであり財力はなかった。それでも政宗は財力あるように装うために伊達者を演出した。そういう歴史的背景を知らないと歴史は全く違ったものとして解釈してしまう。また逆に秀吉の時代でもみちのくのことは情報が入りにくいからわからない、すると派手な格好した伊達者がいるので陸奥は裕福なのかと思うこともある。一方で葛西氏などは秀吉を見くびり秀吉を甘くみて滅ぼされた。その当時社会情勢を理解すること自体むずかしいことを物語っているのだ。地理的に隔絶された世界であり時代の情勢を読むことはむずかしいからそうなる。葛西氏は相当な有力な氏族でも滅びた。石巻を中心にして領地をもっていたが滅びてしまった。政宗は常に脚光をあびるが葛西氏はその陰に歴史の地層の下に埋もれてしまったのである。こういうことは歴史には常にある。政宗は余りにも華やかであり常にスポットライトをあびる存在である。でもその陰に必ず滅びて埋もれた人々がいた。観欄亭にしても冬だと冬障子であり確かに金の障壁画が残っているが秀吉の豪勢な安土桃山文化からすればとるにたらないものとなる。だからむしろ冬障子というものがにあいだとなる。みちのくには豪勢な城も文化も残らなかったのである。平泉にしても金色堂だけが辛うじて残ったように関西や京都と比べるとの規模は余りにも小さいのである。ただ政宗の時代に世界まで羽ばたこうとしたことは政宗だけだった。それだけの世界的視野を陸奥でもち得た人だったのである。

今回、雪ふってきたので奥松島から石巻に行かなかった。この頃何か近くでも遠くなっている。一日泊まることさえ容易でないから近くでも遠くなってしまった。奥松島から鳴瀬町から石巻まで自転車で行った。石巻からは必ず北上川をさかのぼる、すると石巻から平泉までイメ-ジする。それは北上川を通じてイメ-ジされるのだ。石巻からは平泉は北上川を通じて結ばれている。そうでなくても石巻からは平泉をイメ-ジする。芭蕉も石巻から平泉に行ったからである。石巻は地理的に特殊なのだ。その港は江戸まで通じていた。仙台平野の米が運ばれていた。

川上とこの川下や月の友 芭蕉


これは隅田川でありここでは船の行き来が多かった。北上川はそんなに多くはない、でも川が道として結ばれていた。 でも平泉となるとやはり相当奥なのである。それで「北上川上の遠きや冬の月」とかイメ-ジして作った。陸奥は奥深いのだ。平泉よりさらに奥に広がっていたのが陸奥である。芭蕉の奥の細道でみちのくの地理的感覚の基礎が作られた。だから石巻は重要な地点だったのである。宮城県関係の神の碑が相馬には多い、館腰宮やその他いろいろある。それだけ宮城県とは密接な関係が江戸時代からあった。相馬藩は伊達藩との関係が深いのである。地理的にも一体化しているのだ。いづれにしろ冬になると近くも寒いとか雪がふるとかさらに私的な事情で家から離れられないとかなり遠く感じてしまった。冬はやはり近くでもこれだけ交通が発達しても遠い感覚になる。新幹線で近いじゃないかともなるがやはり冬は遠出しにくいから遠くなる。いづれにしろ宮城県の神社が江戸時代では相馬藩の人がお参りしたとしてもやはり遠いのである。ともかく今日は夕方から松島が雪になり奥松島も雪になり石巻も雪となり平泉はかなたであり遠く感じた。でも相馬の方は夜は晴れていたのである。東北でも広いから遠いなと感じることがある。それが普通の感覚なのである。

2009年11月09日

石巻-田代−網地島-牡鹿-短歌十首(冬に入る)


石巻袖の渡りや冬鴎


船来るを待つこと長し島暮らしあわれや江戸の古き碑ありぬ

金華山ながめつ島に老いにける相馬より訪ぬ冬となるかな

荻浜に啄木寄りしは昔かな鯨もとれず冬に入るかな

鮎川に鯨もとれず何をとる訪ねて淋し冬に入るかな

点々と牡鹿の湊あわれかな牡蠣殻の山 冬に入るかな

石巻袖の渡りの冬に入る都よりはるか思う人かな

石巻袖の渡りに一本の松も古りにき冬に入るかも

石巻葛西氏の城その跡や滅びしものや冬に入るかも

北上川流れし遠く平泉石巻に思う冬に入るかも

相馬にも金華山の碑古りにける誰か詣でし冬に入るかな


相馬藩には宮城県関係、伊達藩との関係が深い、信仰も金華山でも青麻権現とか小牛田の山神関係の碑とか館腰の碑などもあり多い、実際に相馬からお参りに行っていたのだろう。最初は出羽三山とかが多い、湯殿の碑が多いからだ。その後宮城県の伊達藩への信仰が広まった。金華山は比較的新しいものである。幕末から明治にかけて金華山信仰が広まった。金比羅信仰も実は幕末から明治にかけて盛んになったのだ。明治に盛んになったということは鉄道と関係しているかもしれない、交通が便利になって遠くまで行けたということもある。そして幕末から明治にかけて農民でも豊になったから遠くまでお参りできるようになった。当時は観光がお参りでもあったのだ。それから病気の快癒を祈る人が多かったのである。医療が発達していないから祈るしか方法がなかったからである。歴史的にこのように宮城県と相馬は深いかかわりがある。名取に妙見が祀られているのが多いというのもそのためである。それから石巻から平泉とこれは一体化している。北上
川を通じて平泉とは結ばれていたからだ。石巻の袖の渡りはやはり由緒ある歴史的地点なのだろう。

知るらめや袖の渡りは時雨して道の奥まで深き思ひを(寂然「夫木」)


この歌のよう道の奥はこの辺まで知られていた。しかしみちのくの真野の草原からは相馬からはさらに遠い地域である。今は近くてもみちのくでも奥がある。今は交通の便がよすぎるから奥の感覚がなくなったのである。歩くたびなら常に奥へ奥へと誘われる旅になるのである。石巻にある葛西氏の城の跡は伊達氏が勢力を持つ前に葛西氏が治めていたからである。葛西氏は南北朝から勢力をもって陸奥に進出していた。だから霊山にも勢力をもち玉野辺りまで勢力を広げたかもしれない、その一族の笹町という名を地名に残したかもしれない、この辺はまだ考証が必要である。
いづれにしろ牡鹿半島から田代島-網地島は景観的にも魅力がある。東北で島というとき松島となるがここには人は住んでいない、塩釜から奥松島の島々には人が住んでいる。寒風島とかある。でもここは島という感じがしないのだ。明確に島として海のなかにあるのではない、陸地のようにつながっているようにしか見えないのである。田代島-網地島は本当に海に浮かぶ島である。金華山もそうだけど東北ではこうした本当に海に浮かんでいる島は少ないのである。鮎川では鯨がとれていたし、荻浜は汽船の航路の港であり啄木もここで泊まり歌を残した。かえってその頃の方が活気があった。今は牡蠣の養殖がすべてである。

陸奥の袖の渡りは石巻の説
http://www.musubu.jp/hyoronsodenowatashi1.html

2009年05月27日

奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)

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奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)


---奥松島-----


波たたぬ松島暮れぬ桐の花

夏の山かなたやいづこ旅の駅

小鳥の音朝ひびきて桐の花奥松島の道をゆくかな

桐の花ひそかに暮れて奥松島心に残る島一つかな

島一つ常にし見えて安らぎぬ奥松島や桐の花暮る

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---野蒜---

広々と野蒜海岸朝開けハマヒルガオの風そよぎ咲く

広々と野蒜海岸開けたり朝の光に鴎飛びかふ

---鳴瀬町---

水濁り築港跡や暑しかな

老鶯や旧家二軒の門古りぬ

石巻河口開けて夏雲雀

石巻へ野の広々と夏雲雀

夏雲雀縄張り広くとりにけり

夏の海そそげる川の五つほど

松影の運河の道や黒揚羽

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鳴瀬川海にそそげる夏の日や鴎しきりに飛び交い暮れぬ


大きなる八大龍王の碑に祈る海上安全夏の日の朝

松二本古りて影なしこの通り古碑のいくつか夏草うもる

松一本古りて影なし道さえぐ夏の真昼に行く人もなし

この村の旧家二軒の門古りぬ松二本(まつふたもと)の影も涼しき

道さえぐ曲がりし松の残るかな夏の午後下がり人影もなし

北上川そい下り来て住吉の袖の渡りや夏の日暮れぬ

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仙石線では松島より地元の人にとっては奥松島がより松島的になる。ちょうど大塚駅からいつも見える島-松が島がポイントととなる。あの島が見えるところ景色が落ち着くのだ。今日はそこでおりて折り畳み自転車で石巻まで向かった。藤の花は散ったが桐の花は途中咲いていた。
この辺は落ち着く道だった。次に東名の駅に出た。そこからの眺めが良かった。泉が岳と不忘山も見えるとか泉が岳はわかるが不忘山はわかりにくい、少し離れて並んで見えるのがそうなのか、泉が岳は松島湾の海上から常に見える。5月だとまだ雪が残っている。一日でも旅である。一カ月くらい平気でどことなくふらふら旅していたことが今では考えられない、一日しか旅できない、でもやはり旅は旅なのである。これだけ旅してきたとなると常時旅に何ていたのだ。夏はやはり一番旅に向いているのだ。特に今の時期は一番向いている。

ここか野蒜海岸に出た。ここは広々として気持ちがいい、すでに砂浜にハマヒルガオが咲いていた。ここから鳴瀬川と吉田川の合流する河口にでた。しきり鴎が飛び交う河口だった。釣りする人がいた。「〜だっちゃ」という言葉を良く使う、だよね・・・という意味、最近仙台近くから家に手伝いにたまにきている人も・・・だっちゃ・・・という、おそらくこれは岩沼辺りまで使う方言かもしれない、阿武隈川を越えるとそうでもないかもしれない、でも白石でも使うとなると宮城県は一般的に・・だっちゃなのかな・・・相馬弁ではだべえ・・となるんだろう。
ここの河口で八大龍王の大きな碑があった。嘉永(1850)とあるから江戸後期である。この鳴瀬町からも鳴瀬川で船が利用されここに港があり米などが運ばれていた。だから海上安全の大きな碑が立っていた。八大龍王というのは海の守り神だったのか、これは目立つ碑だった。川を渡る向かい側は鳴瀬町でありここの河口には築港跡で有名である。

貞山運河
http://teizanunga.com/nobiruchikkouato.aspx
野蒜築港(絵)
http://0313.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_03b7.html

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この港は壮大なものだった。鳴瀬川や北上川や阿武隈川まで運河で東北を結ぶ物流の拠点となる港だった。いかに鉄道ができるまえは川を交通路として考えていたかわかる。川を交通路としてどう活かすかが交通を発達させる基本だった。川は海と通じて海外までも通じることができるからである。その拠点がここだったのだ。

鳴瀬町は鳴瀬川から名づけられた。川の方が重要であるから川のそばにあるから鳴瀬町になった。もともと村や町の名があり川の名前となるのが普通である。吉田川はそうだろう。ここの河口には浜市村とかもあり浜で市が開かれていた。もともとそういう人が集る場所だったのだ。今回注目したのが白萩とか平岡、牛綱村とかである。ここは人もほとんど通らない閑散とした村だった。確かに家が密集しているが往還などとある幹線道路からはずれている。車もほとんど通らない静かな村だった。そこで目立ったのは松だった。それも古くなり大きな松だった。老松町とかあるがここがその名にふさわしい村、町だと思った。曲がった松が道をさえぎったままになっている。あれではトラックは通れない、トラックは通らないのだろう。松が主人公になっいる村だった。普通だったら車の通行に邪魔だから今ならあの松は切っているのが普通である。
それがあのように曲がったままのこしているのだ。曲松町とか曲がった松の名を地名としている所もある。その古い松の下に古い碑が夏草にいくつか埋もれてあった。文政(1820)くらいのもあった。

ただここが静でいいなと思ったが実際はそうではなかった。このすぐ近くに自衛隊の航空基地があって飛行訓練の爆音がすさまじい。そこでがっくりした。こんなところに忘れられたように村があったなと思ったけど突如飛行機の爆音が空をつんざくようにひびいて平和は乱されてがっかりした。夏雲雀の石巻までの野にさえづっていたがそれも飛行機の爆音でかき消された。沖縄でも風光明媚でも基地があり騒音で悩まされている。松島も風光明媚でも自衛隊の基地があった。これは戦前からありつづいている。これでは風流も破壊された。
芭蕉が「人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。」ここは実際そういう場所だった。松島を出て奥松島になると淋しくなる。石巻で突然繁華な港になる地域だったのだ。今もその感じがあったが飛行機の爆音でかき消された。あんな所に住みたくないと思うようになったのが残念だった。

その後は北上運河沿いを延々と走った。ここも松が延々と影なす道で気持ちよかった。そして住吉公園の袖の渡りにでたが藤の花はすでに散っていた。北上川を下りこの川が平泉まで通じている交通路であることを再認識した。やはりある程度自転車など実地に見聞しないと地理の感覚は身につかない、今回は一日の旅でも内容が濃い旅になった。一日でもこれだけの旅ができるし相馬⇒仙台⇒石巻は交通の便もいいし奥松島でおりても石巻まではかなり近いことがわかり一日の行程として結ばれていることを実地に走り納得した。福島県は地理的一体感がない、阿武隈山脈にさえぎられ、会津は交通の便が悪く日帰りでは行きにくい、宮城県は日帰りコ-スであり特に海岸の石巻まで交通で一体化していることがわかる。
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2009年05月26日

仙台から小鶴新田で途中下車(仙石線の旅)

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仙台から小鶴新田で途中下車(仙石線の旅)

新緑や小鶴新田に若き母

躑躅映え若き母押す乳母車

鳩の来て空地にクロ-バ-朝の駅

夏の朝小鶴新田途中下車

夏の朝小鶴新田に雪残る泉が岳を我が望むかも

母思ふ小鶴新田に残る古歌我が心にしみて家に帰りぬ

90過ぐ母を思ふ日知るべしやここより帰る夏の夕暮

宮城野その涯(はて)広く知らざりき小鶴新田夏の陽没りぬ

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小鶴新田駅へ仙台から乗った。小鶴新田駅までの電車が結構でている。この駅は最近できたのか、
2007年度の1日平均乗車人員は4,698人である。2003年度、開業直後の1日平均乗車人員は、1,166人だった。宮城県仙台市宮城野区新田東三丁目にあり「新田東駅」から名前を変えた。ここは住宅地として発展した地域だった。仙台はやはり発展する地域、拡大化する地域があり若い街なのである。だから若い母が目立つ、郊外にも若い人が目立つ、一方小さな町には若さを感じない、老人化、高齢化で若い母は少ないのだ。宮城野というともともと淋しい地域だったが宮城野には全くその面影はない、でもそこから小鶴新田まで来るとまだ野が広がっている。宮城野延長としての野の感じがまだ残っているのだ。ここからは雪の残る泉が岳も見えて気持ちよかったここで意外な発見は古歌が残っていた不思議である。


千歳ふる 小鶴の池も かわらねばおやの齢(よわい)を 思いこそやれ (源重之集)

こんなところに新興地にこんな古い歌が残っていたのが不思議である。小鶴の池は変わらないけど親の齢はたちまち変わり老いるものだという意味だろう。しかし今や小鶴の池はないしその自然こそまるで変わってしまった。古代では自然の変化はすくないからこの歌ができたのである。つまり自然は変わらないものだが人間は変わるものだというのが古代の常識である。今は自然の方が先に変わる。
宮城野は古いから残っているがここには残っているとは思っていなかった。宮城野からはやはり湿地帯や沼地が多かった。新田は湿地帯を埋め立てて田を作った。そもそも小鶴とは鶴とつく地名はいたるところにある。小鶴明神というのは南相馬市にもある。鶴と関係して伝説を残しているがこじつけなのだ。鶴とは関係ない、ツルは湿地帯のことである。ツルツルするというのにその名残がある。古代郷名で「小鶴郷」が南相馬市にあるから古い地名の名づけ方なのである。とにかくここには新しいものばかりと思ったが古い歴史があることもわかり興味深かった。老いた母が確かに待っているがまさか90過ぎまで生きた母を思うということは想像すらできなかったろう。せいぜい50か60であり90過ぎてるよと知ったらそんなことありえるのかと古代の人は驚くだろう。やはり旅は途中下車が面白いことがこれでもわかる。何かしら必ず謂われや見るべきものがあるからだ。


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仙石線の旅は次は奥松島⇒野蒜⇒石巻まで折り畳み自転車でつづくので御期待!


2009年05月24日

陸奥の袖の渡りは石巻の説



陸奥の袖の渡りは石巻の説
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これは長文になったのでホ-ムペ-ジにのせた。

石巻(袖の渡り)

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(石巻)

夏の朝海見え鴎一羽飛ぶ

みちのくの川もそそぎぬ夏の海

川と海交わる夏の石巻

石巻かもめあまたや夏の海

古の袖の渡りや松に藤

釣り人や袖の渡りに松と藤

夕藤や袖の渡りの松古りぬ

夕焼けや海風そよぎ石巻

女川へ線路伸びにき夏の夕

海よりの夜風涼しき石巻


石巻海より朝の風そよぎ船の泊まりて藤の花垂る

藤棚の下に休める人や松古りて釣り糸たるる石巻の人

夏の日に袖の渡りに我がよりぬ芭蕉もよりし社の古りぬ

藤垂れて袖の渡りの松古りぬ旅路よる袖の渡しに夕風涼し

海よりの夜風涼しき石巻ギタ-をひきて若者歌う


石巻の袖の渡しに実際に立った。風光明媚ないい場所だった。それで今でもその場所の雰囲気が残っているからここが袖の渡しと理屈ではなく直感した。千年たっても場所自体は変わっていない、芭蕉が立った場所自体は変わっていないのだ。そこに立ち寄る人間が変わっただけである。だから以前として旅するとき歴史を知るとき場所の意味は大きいから一度でも歴史の場所に立つことは大きな意味があるのだ。石巻には夕方も袖の渡しに行くつもりだったが道に迷い行けなくなった。暗くなり二時間くらい自転車でさまよっていた。それで考えたことは昔の人は一回限りしか歌枕の名所には立てない、人もは場所も一期一会であり二回来ることは本当にまれである。西行だけは平泉に二回来たが江戸時代になると芭蕉でも他の俳人でも一回は来ているが二回は来ていない、だからこそ千載の記念(かたみ)としての奥の細道が成ったのである。今のようにまた来るからいいやとかそうした軽い気持ちではない今生の別れとしての人であり場であったことは違っている。今でも遂に人は別れ旅してもその場に二度と立つことができなくなる。ここ四年間遠くに旅できない、今からもまだ旅できないことを自ら経験して痛切に感じたのだ。老人になると人が逢うことこそ不思議である。何故なら死ねば永遠に会えなくなる、人間がこの世で逢うことこそ不思議であり普通ではない、そもそも別れこそ常であり永遠に会えなくなることこそ普通であり今生で会っていることこそ不思議だとなる。六〇年一緒にいようがそれは同じだった。この世で人と人が逢うことこそ不思議である。なぜなら永遠に会えなくなる、そのことこそ常である。

陸奥の袖の渡りは石巻の説
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2009年05月21日

網地島創生(詩)

網地島創生(詩)

外海の波はげしく打ちつけぬ岩場かな

島一つ神の手に打ち固められぬ

力強くも海に抗い成りにけり

ここも神の住む場と斎き祀れ

島にひびける波の音やまじ

波うつ岩場鴎の群れの一心に飛ぶ

夏の日真近に金華山を仰ぎ見て

今し牡鹿半島の緑うるわし

神の御意にし固くその場を占めぬ網地島

田代島と相並びつつ友誼を深む

時に鯨の潮吹きあげ通る海

そは神の恵みとかしこくも祭られけるかな

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2009年05月20日

奥松島⇒石巻⇒田代島⇒網地島⇒鮎川(夏)

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奥松島⇒石巻⇒田代島⇒網地島⇒鮎川(夏の日)





朝光る海や桐咲く奥松島

島一つ奥松島や藤の花

夏の海荒れてゆるるや小型船

初夏の海にい出るや島二つ


静けさや石に落ちなむ桐の花

老鶯や茅葺き二軒船泊まる

老鶯や年金暮らしの島の人

老鶯や船待つ島の暮らしかな

老鶯や船の巡りぬ島二つ

金華山鮎川に仰ぎ夏つばめ

三陸へかもめ飛び行く夏の夕

夕暮るる小網倉小積藤の花

夕暮れや牡鹿の浦々藤の花

浦々に夏の夕日や牡鹿かな


灯台に老人寄りて語るかな小舟さしつつ夏の海荒る

網地島灯台一つ老人の昔を語る夏の海荒る

文化の碑もあり古りぬ網地島細き路地行き老鶯鳴きぬ

網地島細き路地行きその辻に菖蒲の咲きて一人逢うのみ

大きなるかたつむり二つ殻拾ふ夏の昼下がり網地島の道


わずかなる土地を耕す島の人波のひびきて夏の海見ゆ

島の中やはり空家や夏の日に草むし淋し誰か住みなむ

住む人の変わらざるかな網地島阿部氏の墓地や夏の日暮れぬ

夏の夕牡鹿の浦々波静か藤の花垂れバスの行くかな


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(網地島にて)

石巻から船で田代島から網地島に向かった。途中田代島の大泊に船が泊まったがそこに二軒の茅葺きの家があった。前はみんな茅葺きの家だったのだろう。田代島も網地島も江戸時代から人が住んでいた。網地島には文化時代の金比羅の碑があったからだ。網地島におりて一時間くらい折り畳み自転車で走った。というよりは島特有の細い道なので歩いた。一すじの道を行くと灯台があり激しく波打ち寄せる岩場に出た。その灯台により一人の老人がいた。しきり小舟をさして漁のことを言っていた。

「私は昔は海で働いた、外国にも行った、今は年金暮らしだよ、妻と二人」
「島には若い人は今は住まないでしょう、老人が多い」
「あの舟見ろ、網で魚とるんだよ、あんな舟でも三百万くらいするんだよ」
「ええ、そんなに、大変だ、今は魚とれなくなってますから」

この老人はなぜかその小舟をさして話する。相当気になっいる。おそらく知り合いの人がのっているのだろう。この島ではたいがい知り合いである。墓地はみんな阿部一族だった。こういう島では他から入る人はいなかったからだ。ここからは金華山がまじかに見えるし鮎川も対岸であり船ですぐつく。

「この辺では昔鯨とれたでしょう」
「鯨は今日のような波が荒いと来ないんだ」
「波が荒いと来ない」
「波が荒いと魚もとれない」
「波が荒いとだめなんだ」


確かに小型船で来たからかなり波にゆれた。相馬の松川浦でも魚がとれて売りに来るの買っているけどしょっちゅう海が荒れてとれないというから海の漁は天候に左右される。それでシケているという言葉は海で漁をする人からもたらされた言葉だった。シケる荒れるだからである。
ここの昔を考えるとやはり魚がとれないと畑もわずかに耕している人がいるけど米もとれないから米を買う必要がある。島の暮らしはなかなかわかりにくい、でもここには文化や文久の碑があったから江戸時代から人が住み暮らしがあったのだ。鮎川は鯨で有名だからそれで人が集ったことはあるし遠洋漁業で稼ぎ年金暮らしになった老人が島に住み着いているのもわかる。

「廻船業をいとなむほどの者ならば豪放闊達でおそれ知らぬ持ち主でなければならなっかった。その気宇を失ったときはどのうように栄えてもたちまちにして滅びるものであり廻船業の栄枯盛衰はじつにはげしいものだった。」海に生きる人々-宮本常一

海で暮らす人は平地で山で暮らす人は気質的にも相当違ってくる。波のゆれるなかで常時生活している人、安定した平地や山で暮らすのはそもそもそこから違っているからだ。これは文学的に外部から推測しても実感は出ない世界である。日本人の気質として山が遠いからヤマトが国名になったけど回りが海に囲まれているのだから海人の性格も深く混入されている。海彦山彦であるが海彦の国でもあったのだ。
いづれにしろ島の暮らしは陸地の暮らしとはかなり違っている。そこが一つの小宇宙となってしまう。だから人の存在感はその小宇宙のなかで限定され存在感をもつのである。でも病気になったりしたら困るだろう。ここにも医者はいるらしい、・・・医院とかの車が走っていたからだ。外からたまに訪ねるにはいいが島は一種の牢獄みたいになってしまうのだ。これは島だけではない、どこに住んでいたってそうなってしまう。「町は極めて狭く大男一人ふさがれば犬も通れぬような気がする古風な家がわずか五六十軒ばかりある」荻浜を啄木がよったときの感じをうまく表現している。古風な家とは田代島の大泊の茅葺きの家が港にあったのだ。荻浜だけでなく島はみんなこんな感じになる。何しろ狭いからそうなる。つまり島では人はみな大男になってしまうのだ。人があふれているところでは人はみんな小人になっている。人は人の中に埋もれて存在感がないのである。
今回もやっと一日だけここに来れた。ここに来たの始めてだった。東北では島はまれである。こうして外海に接してある島は田代島と網地島くらいである。奥松島の島は島という感じがしなかったからだ。つまり内海にある島であり島という感覚がもてない、陸地の延長のように見えたからである。この二つの島は島らしい島なのである。

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網地島から船で鮎川に渡るとすでに夕暮れであったが燕がしきり飛んでいた。鴎も牡鹿半島から三陸の方へ飛んで行った。気仙沼まで一回自転車で行ったことを思い出したからだ。ここからバスが出ていたので助かった。金華山は東北では江戸時代の碑があり明治にも東北の人が相当来ていたのだう。なじみのある参拝する島だった。鮎川からバスに乗った人は一人である。ずっと一人しか乗らなかった。でもあそこでバスがないと泊まる他なく不便になる。バスはやはり必要なのである。、土日はのる人があるのだろう。第一バスで5時ころ石巻に出ても帰れなくなるのだから乗らないことはわかる。旅にでも行くならいいが普通は往復できないのだから乗らない、途中小網倉はか小積とかにとまる。まるでただバス停は地名を記憶させるようにとまる。それでもこの辺は浦々がつづき波静で景色がいい、荻浜には明治時代、北海道からの定期船が通っていた。そこで啄木が荻浜により短歌を残した。明治時代はまだえと時代の延長で結構船を使っていたのかもしれない、北海道まで汽車で行き青函連絡船の時代もつづいたから船は重要な役目を果たしていたのだ。支倉常長の航海などが松島とか牡鹿半島の入江から出たことは納得がいく、必ず外洋への航海には内海が必要でありそこから外洋へ船を出して行く、船を作る技術も気仙大工とかに培われてあった。宮城県の松島と牡鹿半島、三陸には入江が多いのだ。だから海の文化が東北で太平洋側であった地域だった。ただ海は今も危険であり江戸時代でも遭難した船のことがいたるところで記録されている。不思議なのは伊達藩で仙台から福山まで船が出ていたことが記録されている。伊達藩は大きいから瀬戸内海まで交流があった。

次は石巻の袖の渡しについて


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2008年05月21日

宮城県-丸森の金山城跡へ

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宮城県-丸森の金山城跡へ 


残雪の蔵王を仰ぎ農作業


新緑や蔵王の見える地宏し

金山城我が上りゆく落椿

夏草に切り株埋もれ城の跡

遠き日の屋敷の跡やシャガの花

草分けて城跡の道シャガの花

草深し日影ににあうシャガの花

老鶯や道のり遠し相馬まで

山越えて他国の空や夏雲雀

夏山のかなたは相馬金山城

新地駅海風涼し夕べかな

丸森を我がさりゆくや桜咲き夕べあわれや相馬近しも

金山城伊達と相馬の攻防の城や古木の青葉に風鳴る

夏の日に蔵王を望み相馬へと我が帰るかな時鳥鳴く

金山城その跡淋し何語る夏草埋もれシャガの咲くかな

雄々し蔵王を望み相馬へ我が帰るかな夏の夕暮

桐の花一輪道に散りひそか新地にゆく人まれに事なし

丸森は相馬から近いと言っても相馬市からは結構遠い、台風の風がまだ吹いていたので電車で岩沼から東北線で槻木(つきのき)まで行き乗り換えて阿武隈急行で丸森まで行った。こういう行き方は実際は昔はありえないので昔を偲ぶことができなくなる。電車は前にも述べたけど瀬戸内海の福山城は駅のすぐそばにある。というより福山城が駅のようになっている。電車でのりつけるようになっているが実際は瀬戸内海から船で行った人も多い、船の交通があり船が便利だったからだ。電車は歴史的過程を無視するから昔を偲べなくなる。相馬の城から峠を越えて丸森の金山城と行ったときそれは歴史の道なのだ。一時は金山城は相馬藩に属してあとで伊達の城となり伊達政宗初陣の地ともあり相馬と境をなす要衝の地となった。相馬の本城があるとすると出城なのである。だから密接な関係があったのだ。相馬からしょっちゅう行き来してしていた城だったのだ。距離的にも相馬から近く行き来しやすい場所だった。それでも昔は歩きでも馬でも遠いとなる。自転車でも遠いという記憶があった。それで電車にしたのだが実際は新地駅に回ると意外と近かった。折り畳み自転車で新地から帰ってきた。
 
金山城はこの年まで何回も丸森に行って見なかったというのは失敗だった。遠くの方ばかり旅していて注目していなかった。ここの城も石垣が残っているから何もないよりはいい。そして錯覚していたのがインタ-ネットの写真で見た石垣は立派に見えた、こんな立派な石垣残っているのかと不思議に思った。なぜなら小さい城だからである。実際に見たらこの石垣はかなり小さく粗末な石組みであった。写真と実際で見たものとは違っている。写真の方が良く見える、きれいに見えたり大きく見えたり立派に見えたりするのだ。これは人物でもそうだろう。写真は錯覚を作り出す場合がある。テレビもメデアも実物を見ているわけではないから錯覚を作り出しているのだ。どんなにテレビや写真の映像を見ても実物とは違うのである。でも錯覚してしまうのである。これは石垣が残っていても相当貧弱な粗末なものでありこの城にかえってふさわしいものだった。立派な石垣を作りえようがないからだ。それでも石垣が残っているだけで他とは違っている。ほとんどこの辺の小さな城は残っていないからだ。
 
どんな町にも個性がある。新地には何もない、どういうわけか前にもここで桐の花の咲く時期に行き桐の花のことを書いた。不思議に今回も桐の花が一輪ひっそりと道に落ちていた。ただそれだけしかない、新地駅の特徴は海がすぐ近くであり海からの風が吹いてくる。常磐線が浜通りを通るにしても海の近いのは富岡と新地駅くらいである。新地の特徴は駅をおりるとすぐに海にでられることなのだ。
 
幽邃やシャガに古木の日影かな

夏の海新地から見える島の影

桐の花日影にひそか咲きて散る新地の町にしばしたちよる
 
前に書いた新地の句と歌である。
 

新地から牡鹿半島が見えた
http://musubu.sblo.jp/article/15012668.html.

 
今回は金山城から遠望した写真をデジカメのバッテリ-がきれてとれなかった。次は新地駅からゆくと丸森はすぐに峠を越えるだけだから近いのでまた行ってみよう。丸森はいろいろとまだ魅力ある場所である。今回は疲れていろいろ書けなかったが次にまた回想して書いてみよう。
 

2007年01月13日

ノスタルジックな仙台の長町

橋姫の祠を知るや冬の暮

長町を新幹線の過ぎ行くに昔偲びて冬の暮かな


橋姫明神の裏側には長町橋(旧名で永町橋)の礎石がおかれております。この二つが昔の長町橋の面影を残すものになりました。橋姫の他にも広瀬川には人柱の話が残されております。現在では穏やかな川の姿が印象的ですが、昔は色々と氾濫があったりしたのでしょうね。

長町は名取郡に属していて代官所が置かれ宿場町だった。広瀬橋ではなく長町橋だったことは長町の延長としてこの橋があり仙台橋は仙台の青葉城への橋として名づけられた。橋姫伝説があり今も祠があるのだがこれは何回か通ってもわかっていても良くみていなかった。こうした細かいものは見逃してしまうのが現代なのである。現代は車で電車で早く早く通りすぎるから歴史の跡を見逃してしまうし忙しくて関心がないのだ。今なぜこの長町に関心をもったかというとここを仙台に行くたびに歩くようになったからである。いかに歩くことがその場に親しむことになるからわかる。

仙台というと相馬辺りでは通勤圏内でありかなり働く場所にもなり買い物の街にもなっている。仙台は福島県でも岩手県でも生活圏内になっている人が多いのだ。だから旅で一回限り通りすぎるのとは違うからそこの歴史について知りたくなるのである。過去を知るということは自ずとそこで生活していれば徐々に知りたくなるものである。ただ旅できた人はこうした歴史的小さなものは見落としがちなのである。現代の騒々しい仕事に忙しく追われて生活している人は過去のものを意識することなく忘れている。過去のものにも意味がある。何かを現代に伝いようとしているのだがそれが伝わらない、橋姫明神の祠に注目する人はまれだとなる。それだけではない様々な過去のものが埋もれてしまっている。過去は誰かが注意して喚起しないと忘れられるものなのである。しかし過去と現在を結びつけることによりはじめてその街のことを知ったことになるのだ。

とにかく長町の過去は実にノスタルジックなの場所である。仙台の市電の終点であり秋保電鉄があった。石を運ぶために作られた。秋保というと温泉で有名だしここから鉄道にのって行けたらまた何か情緒的に違った旅ができたのである。長町は歴史とかいろいろな面からノスタルジックな街だったのだ。

これは歴史的の読み物があるから興味深い、それも連続して書いているから長町の歴史を知るにはいい。

長 町  ゆ と り 〜 と
http://www.mazarain.com/yuto.html

枯木の並木道(長町から仙台へ)

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南天に菊を飾れる着物(和服)店

長町に魚の匂い冬の暮

長町の通りを歩みシクラメン三種類ほど飾る店かな

広瀬川の岸辺の道や人会うも枯木つづきて黙し去るかな

仙台の枯木の並木歩みつつまた行くべしや我が帰り来ぬ


長町は昔は仙台の市場だった。長町は相当にぎわっていた。いろいろな店もあった。仙台があるから市場として活気があった。今は必ず長町を歩いて仙台に入る、広瀬川の橋を渡り仙台に入ると仙台駅から入るのと違った感じになるのだ。本当は歩く感覚で道を行くと必ず何か感じるものがあるのだ。それは同じ道でもそうなのだ。今はデパ−トとかス−パ−とかで通りが消失した。通りを歩む楽しさが消失してしまった。買い物だけになってしまったのである。

店とは見せるからはじまったように街を歩くことはまず見ることだったのである。長町には魚屋があったりするとそれだけが昔からあったような店である。魚の匂いというのが何か人間臭いとなる。今はその隣が花屋だったりパソコンの修理屋だったりと変わっている。呉服店など昔はあったがこれも今はない、でも南天に菊というのは合っていた。着物は日本的情緒をかもしだすからやはり日本にはあうものなのだがこれも失われた。

仙台という街はやはり並木が生きている、街の中に自然があるということはやはり街を潤いあるものにする。広瀬川も街の中を流れている。まだ沈黙が街の中にもある。枯木の並木を歩き黙して去りまた来て歩むのである。仙台には確かに通りがあるが他の街ではなくなっている。通りはシャッタ−通りになってしまった。仙台くらいの規模だとやっと通りが維持できるのかもしれない、東京だと大きすぎて騒音通りになってだめなのである。

やはり通りを歩むのが都会に行く楽しみとするときそれがないと都会もつまらないとなる。旅で行く街が寂れているので残念だった。旅ではデパ−トとかス−パ−には行きたくないからだ。街の通りは一つの文化であり街の通りがなくなることは文化の破壊だったのだ。文化について語ってきたが文化は人間の血肉であり文化が失われることは影響が大きいのである。でも便利さや経済の効率追求で容易に破壊されたのが文化だったのだ。

2006年11月29日

仙台の冬の銀杏並木

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若者に初老のまじり街時雨

街歩み人ごみのなか初時雨

盲人に車椅子通る冬ぬくし

冬の街乳母車入る喫茶店

金色に銀杏輝き街に来る

仙台の裏の通りや冬柳

書店一つ銀杏並木や灯のともる

郊外の家にともる灯冬菜かな

仙台や道行く人に銀杏散る外人も交じる並木道かな

日に映えて銀杏輝きつ散りにける並木つづきぬ仙台の街


仙台くらいになると街の情緒があるのかもしれない、銀杏の並木はきれいである。銀杏の葉は舗装の道に散るから土に帰らない、掃いてすてるのも大変である。普通土に帰るのが自然だがコンクリ−トの都会では土に帰らないのだ。でも銀杏の木は自然なのである。都会というとそこにいろいろな人間模様がある。今どきどこでも外人が多いのも特徴である。どこでも国際化しているしグロ−バル化している。仙台の裏の通りを歩けばそこには大きな街なりの古いものがあるかもしれない。古い店があるかもしれない、ただよくわからないが冬柳がたれて古い老舗のようなものがあっている。

自分の家で障害者をかかえるようになってから障害者を見る目が変わってしまった。より身近になってしまったのだ。普通無関心なのだが家で障害者をかかると他人事でなくなるのだ。車椅子を押す人がいたが家族なのだろう、大変だろうなとか盲人の女性が歩いてくる、どんな感じで歩いているのだろうかとか考えてしまう。障害というのは家族とか自ら障害者にならないと実感しえない世界なのである。同情するにも他人事になってしまうのだ。

今年は暖冬なのだろうか、冬の感じが今日はしなかった、そして街中で初時雨だった。村時雨とかあるから街時雨もあって不思議ではないので街時雨にした。明日は寒くなるというから本格的な冬はこれからだろう。それでも暖冬気味だということは障害者とか介護者には気分的に楽にする。寒いのはやはり弱者には辛いとなる。やはり仙台くらいになると街としての魅力、面白さがでてくる。5万くらいでは街とはいえないのかもしれない、つまり5万とか10万の街でも今は商店街もさびれているから街の魅力が喪失している。50万くらいでやっと街の魅力がでてくる。街の魅力はやはり歩いてみて気分よくなる刺激を受けることなのだ。そこに並木道とか公園とか自然があると街にきても楽しいとなる。

2006年10月10日

仙台の秋

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広瀬川の河畔を歩み秋の蝶

掃除婦に朝の秋日や親し道

秋日さす生を惜しみて公園に

秋日さすベンチ二つや公園に

噴水に鳩水浴びや秋暑し

古本二冊仙台に買い秋深む

秋日さし来なれし道の公園の乙女の像に鳩のよるかな

久々に仙台に来て植木市とりどり映える秋の薔薇かな

久々に仙台の通り歩みきて惜しむ時かな秋の日さしぬ


春行ったきり仙台に行っていなかった。5カ月くらい行かないというのは長い、それだけ行けなくなったのだ。病人をかかえるとちょっと出るのがむずかしくなる。特にアルツハイマ−のショックは24時間夜まで離れられなくなることを書いている人がいる。これでは鬱病になってしまうのが当然である。今では簡単に外出できないから外出する時間が特別貴重な時間になってしまった。
生を惜しみてというとなんか癌を宣告された病人のようだがだんだん先の短い時間になっているからおおげさではない、余りにつくりすぎるとリアリティがなくなりいい作品でなくなるが秋の日のさす通りを歩いて何かそれだけでいとおしいものに感じてしまった。