2010年02月02日

雪の松島-俳句短歌-政宗のこと

雪の松島-俳句短歌-政宗のこと

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走り去る電車や雪に椿かな

みちのくに金の障壁画冬鴎

抹茶飲む観欄亭や冬障子

鴨群れて観欄亭や冬障子

秀吉の威勢及ぶむ冬障子

政宗の伊達も威勢や冬障子

松に雪観欄亭に藩主の座

さしだせし名器の茶碗松に雪

みちのくに島の少なし冬鴎

松島や雪に散り赤し椿かな

尋ねざる奥松島や雪となる

松島や雪また雪や夜の更けぬ

塩釜に海見つ墓所や冬深む

雪となり夕べ遠しや石巻

北上川上の遠きや冬の月


松に雪かもめ飛びつつ松島や瑞巌寺の門古りて暮るるも

松に雪鴨の群れつつ波にゆれ松島暮れて旅人の去る

小松島小さく見えぬ幾度も松島たずね冬のくれかな


ねんごろに茶碗を手にし島望む観欄亭の冬のくれかな


老木の枯木の磐に根づきつつ雪の積るや松島の海

文永の碑のあり遠き松島は祈りの島や雪のふるかな

大いなる港ととならむその跡やみちのくの海に雪のふるなり

夏の日に一度はたずぬ鳴瀬町松に家古り冬となるかも

石巻冬に遠きや葛西氏の城跡古りぬ河口の島に

葛西氏は滅びけるかな石巻その跡たずぬ冬のくれかな

勝つものの陰に滅びしもののあり政宗たずぬ冬のくれかな

さらに遠し石巻より平泉北上川 に雪のふるかな

小牛田の碑相馬にあれや山神を祈り祀るや冬深むかも



歴史を知るというとき例えば伊達(だて)は派手好みとして中央に秀吉などに見せて有名になったけど実際は東北は貧しい農民がほとんどであり財力はなかった。それでも政宗は財力あるように装うために伊達者を演出した。そういう歴史的背景を知らないと歴史は全く違ったものとして解釈してしまう。また逆に秀吉の時代でもみちのくのことは情報が入りにくいからわからない、すると派手な格好した伊達者がいるので陸奥は裕福なのかと思うこともある。一方で葛西氏などは秀吉を見くびり秀吉を甘くみて滅ぼされた。その当時社会情勢を理解すること自体むずかしいことを物語っているのだ。地理的に隔絶された世界であり時代の情勢を読むことはむずかしいからそうなる。葛西氏は相当な有力な氏族でも滅びた。石巻を中心にして領地をもっていたが滅びてしまった。政宗は常に脚光をあびるが葛西氏はその陰に歴史の地層の下に埋もれてしまったのである。こういうことは歴史には常にある。政宗は余りにも華やかであり常にスポットライトをあびる存在である。でもその陰に必ず滅びて埋もれた人々がいた。観欄亭にしても冬だと冬障子であり確かに金の障壁画が残っているが秀吉の豪勢な安土桃山文化からすればとるにたらないものとなる。だからむしろ冬障子というものがにあいだとなる。みちのくには豪勢な城も文化も残らなかったのである。平泉にしても金色堂だけが辛うじて残ったように関西や京都と比べるとの規模は余りにも小さいのである。ただ政宗の時代に世界まで羽ばたこうとしたことは政宗だけだった。それだけの世界的視野を陸奥でもち得た人だったのである。

今回、雪ふってきたので奥松島から石巻に行かなかった。この頃何か近くでも遠くなっている。一日泊まることさえ容易でないから近くでも遠くなってしまった。奥松島から鳴瀬町から石巻まで自転車で行った。石巻からは必ず北上川をさかのぼる、すると石巻から平泉までイメ-ジする。それは北上川を通じてイメ-ジされるのだ。石巻からは平泉は北上川を通じて結ばれている。そうでなくても石巻からは平泉をイメ-ジする。芭蕉も石巻から平泉に行ったからである。石巻は地理的に特殊なのだ。その港は江戸まで通じていた。仙台平野の米が運ばれていた。

川上とこの川下や月の友 芭蕉


これは隅田川でありここでは船の行き来が多かった。北上川はそんなに多くはない、でも川が道として結ばれていた。 でも平泉となるとやはり相当奥なのである。それで「北上川上の遠きや冬の月」とかイメ-ジして作った。陸奥は奥深いのだ。平泉よりさらに奥に広がっていたのが陸奥である。芭蕉の奥の細道でみちのくの地理的感覚の基礎が作られた。だから石巻は重要な地点だったのである。宮城県関係の神の碑が相馬には多い、館腰宮やその他いろいろある。それだけ宮城県とは密接な関係が江戸時代からあった。相馬藩は伊達藩との関係が深いのである。地理的にも一体化しているのだ。いづれにしろ冬になると近くも寒いとか雪がふるとかさらに私的な事情で家から離れられないとかなり遠く感じてしまった。冬はやはり近くでもこれだけ交通が発達しても遠い感覚になる。新幹線で近いじゃないかともなるがやはり冬は遠出しにくいから遠くなる。いづれにしろ宮城県の神社が江戸時代では相馬藩の人がお参りしたとしてもやはり遠いのである。ともかく今日は夕方から松島が雪になり奥松島も雪になり石巻も雪となり平泉はかなたであり遠く感じた。でも相馬の方は夜は晴れていたのである。東北でも広いから遠いなと感じることがある。それが普通の感覚なのである。

2009年11月09日

石巻-田代−網地島-牡鹿-短歌十首(冬に入る)


石巻袖の渡りや冬鴎


船来るを待つこと長し島暮らしあわれや江戸の古き碑ありぬ

金華山ながめつ島に老いにける相馬より訪ぬ冬となるかな

荻浜に啄木寄りしは昔かな鯨もとれず冬に入るかな

鮎川に鯨もとれず何をとる訪ねて淋し冬に入るかな

点々と牡鹿の湊あわれかな牡蠣殻の山 冬に入るかな

石巻袖の渡りの冬に入る都よりはるか思う人かな

石巻袖の渡りに一本の松も古りにき冬に入るかも

石巻葛西氏の城その跡や滅びしものや冬に入るかも

北上川流れし遠く平泉石巻に思う冬に入るかも

相馬にも金華山の碑古りにける誰か詣でし冬に入るかな


相馬藩には宮城県関係、伊達藩との関係が深い、信仰も金華山でも青麻権現とか小牛田の山神関係の碑とか館腰の碑などもあり多い、実際に相馬からお参りに行っていたのだろう。最初は出羽三山とかが多い、湯殿の碑が多いからだ。その後宮城県の伊達藩への信仰が広まった。金華山は比較的新しいものである。幕末から明治にかけて金華山信仰が広まった。金比羅信仰も実は幕末から明治にかけて盛んになったのだ。明治に盛んになったということは鉄道と関係しているかもしれない、交通が便利になって遠くまで行けたということもある。そして幕末から明治にかけて農民でも豊になったから遠くまでお参りできるようになった。当時は観光がお参りでもあったのだ。それから病気の快癒を祈る人が多かったのである。医療が発達していないから祈るしか方法がなかったからである。歴史的にこのように宮城県と相馬は深いかかわりがある。名取に妙見が祀られているのが多いというのもそのためである。それから石巻から平泉とこれは一体化している。北上
川を通じて平泉とは結ばれていたからだ。石巻の袖の渡りはやはり由緒ある歴史的地点なのだろう。

知るらめや袖の渡りは時雨して道の奥まで深き思ひを(寂然「夫木」)


この歌のよう道の奥はこの辺まで知られていた。しかしみちのくの真野の草原からは相馬からはさらに遠い地域である。今は近くてもみちのくでも奥がある。今は交通の便がよすぎるから奥の感覚がなくなったのである。歩くたびなら常に奥へ奥へと誘われる旅になるのである。石巻にある葛西氏の城の跡は伊達氏が勢力を持つ前に葛西氏が治めていたからである。葛西氏は南北朝から勢力をもって陸奥に進出していた。だから霊山にも勢力をもち玉野辺りまで勢力を広げたかもしれない、その一族の笹町という名を地名に残したかもしれない、この辺はまだ考証が必要である。
いづれにしろ牡鹿半島から田代島-網地島は景観的にも魅力がある。東北で島というとき松島となるがここには人は住んでいない、塩釜から奥松島の島々には人が住んでいる。寒風島とかある。でもここは島という感じがしないのだ。明確に島として海のなかにあるのではない、陸地のようにつながっているようにしか見えないのである。田代島-網地島は本当に海に浮かぶ島である。金華山もそうだけど東北ではこうした本当に海に浮かんでいる島は少ないのである。鮎川では鯨がとれていたし、荻浜は汽船の航路の港であり啄木もここで泊まり歌を残した。かえってその頃の方が活気があった。今は牡蠣の養殖がすべてである。

陸奥の袖の渡りは石巻の説
http://www.musubu.jp/hyoronsodenowatashi1.html

2009年05月27日

奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)

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奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)


---奥松島-----


波たたぬ松島暮れぬ桐の花

夏の山かなたやいづこ旅の駅

小鳥の音朝ひびきて桐の花奥松島の道をゆくかな

桐の花ひそかに暮れて奥松島心に残る島一つかな

島一つ常にし見えて安らぎぬ奥松島や桐の花暮る

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---野蒜---

広々と野蒜海岸朝開けハマヒルガオの風そよぎ咲く

広々と野蒜海岸開けたり朝の光に鴎飛びかふ

---鳴瀬町---

水濁り築港跡や暑しかな

老鶯や旧家二軒の門古りぬ

石巻河口開けて夏雲雀

石巻へ野の広々と夏雲雀

夏雲雀縄張り広くとりにけり

夏の海そそげる川の五つほど

松影の運河の道や黒揚羽

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鳴瀬川海にそそげる夏の日や鴎しきりに飛び交い暮れぬ


大きなる八大龍王の碑に祈る海上安全夏の日の朝

松二本古りて影なしこの通り古碑のいくつか夏草うもる

松一本古りて影なし道さえぐ夏の真昼に行く人もなし

この村の旧家二軒の門古りぬ松二本(まつふたもと)の影も涼しき

道さえぐ曲がりし松の残るかな夏の午後下がり人影もなし

北上川そい下り来て住吉の袖の渡りや夏の日暮れぬ

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仙石線では松島より地元の人にとっては奥松島がより松島的になる。ちょうど大塚駅からいつも見える島-松が島がポイントととなる。あの島が見えるところ景色が落ち着くのだ。今日はそこでおりて折り畳み自転車で石巻まで向かった。藤の花は散ったが桐の花は途中咲いていた。
この辺は落ち着く道だった。次に東名の駅に出た。そこからの眺めが良かった。泉が岳と不忘山も見えるとか泉が岳はわかるが不忘山はわかりにくい、少し離れて並んで見えるのがそうなのか、泉が岳は松島湾の海上から常に見える。5月だとまだ雪が残っている。一日でも旅である。一カ月くらい平気でどことなくふらふら旅していたことが今では考えられない、一日しか旅できない、でもやはり旅は旅なのである。これだけ旅してきたとなると常時旅に何ていたのだ。夏はやはり一番旅に向いているのだ。特に今の時期は一番向いている。

ここか野蒜海岸に出た。ここは広々として気持ちがいい、すでに砂浜にハマヒルガオが咲いていた。ここから鳴瀬川と吉田川の合流する河口にでた。しきり鴎が飛び交う河口だった。釣りする人がいた。「〜だっちゃ」という言葉を良く使う、だよね・・・という意味、最近仙台近くから家に手伝いにたまにきている人も・・・だっちゃ・・・という、おそらくこれは岩沼辺りまで使う方言かもしれない、阿武隈川を越えるとそうでもないかもしれない、でも白石でも使うとなると宮城県は一般的に・・だっちゃなのかな・・・相馬弁ではだべえ・・となるんだろう。
ここの河口で八大龍王の大きな碑があった。嘉永(1850)とあるから江戸後期である。この鳴瀬町からも鳴瀬川で船が利用されここに港があり米などが運ばれていた。だから海上安全の大きな碑が立っていた。八大龍王というのは海の守り神だったのか、これは目立つ碑だった。川を渡る向かい側は鳴瀬町でありここの河口には築港跡で有名である。

貞山運河
http://teizanunga.com/nobiruchikkouato.aspx
野蒜築港(絵)
http://0313.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_03b7.html

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この港は壮大なものだった。鳴瀬川や北上川や阿武隈川まで運河で東北を結ぶ物流の拠点となる港だった。いかに鉄道ができるまえは川を交通路として考えていたかわかる。川を交通路としてどう活かすかが交通を発達させる基本だった。川は海と通じて海外までも通じることができるからである。その拠点がここだったのだ。

鳴瀬町は鳴瀬川から名づけられた。川の方が重要であるから川のそばにあるから鳴瀬町になった。もともと村や町の名があり川の名前となるのが普通である。吉田川はそうだろう。ここの河口には浜市村とかもあり浜で市が開かれていた。もともとそういう人が集る場所だったのだ。今回注目したのが白萩とか平岡、牛綱村とかである。ここは人もほとんど通らない閑散とした村だった。確かに家が密集しているが往還などとある幹線道路からはずれている。車もほとんど通らない静かな村だった。そこで目立ったのは松だった。それも古くなり大きな松だった。老松町とかあるがここがその名にふさわしい村、町だと思った。曲がった松が道をさえぎったままになっている。あれではトラックは通れない、トラックは通らないのだろう。松が主人公になっいる村だった。普通だったら車の通行に邪魔だから今ならあの松は切っているのが普通である。
それがあのように曲がったままのこしているのだ。曲松町とか曲がった松の名を地名としている所もある。その古い松の下に古い碑が夏草にいくつか埋もれてあった。文政(1820)くらいのもあった。

ただここが静でいいなと思ったが実際はそうではなかった。このすぐ近くに自衛隊の航空基地があって飛行訓練の爆音がすさまじい。そこでがっくりした。こんなところに忘れられたように村があったなと思ったけど突如飛行機の爆音が空をつんざくようにひびいて平和は乱されてがっかりした。夏雲雀の石巻までの野にさえづっていたがそれも飛行機の爆音でかき消された。沖縄でも風光明媚でも基地があり騒音で悩まされている。松島も風光明媚でも自衛隊の基地があった。これは戦前からありつづいている。これでは風流も破壊された。
芭蕉が「人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。」ここは実際そういう場所だった。松島を出て奥松島になると淋しくなる。石巻で突然繁華な港になる地域だったのだ。今もその感じがあったが飛行機の爆音でかき消された。あんな所に住みたくないと思うようになったのが残念だった。

その後は北上運河沿いを延々と走った。ここも松が延々と影なす道で気持ちよかった。そして住吉公園の袖の渡りにでたが藤の花はすでに散っていた。北上川を下りこの川が平泉まで通じている交通路であることを再認識した。やはりある程度自転車など実地に見聞しないと地理の感覚は身につかない、今回は一日の旅でも内容が濃い旅になった。一日でもこれだけの旅ができるし相馬⇒仙台⇒石巻は交通の便もいいし奥松島でおりても石巻まではかなり近いことがわかり一日の行程として結ばれていることを実地に走り納得した。福島県は地理的一体感がない、阿武隈山脈にさえぎられ、会津は交通の便が悪く日帰りでは行きにくい、宮城県は日帰りコ-スであり特に海岸の石巻まで交通で一体化していることがわかる。
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2009年05月26日

仙台から小鶴新田で途中下車(仙石線の旅)

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仙台から小鶴新田で途中下車(仙石線の旅)

新緑や小鶴新田に若き母

躑躅映え若き母押す乳母車

鳩の来て空地にクロ-バ-朝の駅

夏の朝小鶴新田途中下車

夏の朝小鶴新田に雪残る泉が岳を我が望むかも

母思ふ小鶴新田に残る古歌我が心にしみて家に帰りぬ

90過ぐ母を思ふ日知るべしやここより帰る夏の夕暮

宮城野その涯(はて)広く知らざりき小鶴新田夏の陽没りぬ

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小鶴新田駅へ仙台から乗った。小鶴新田駅までの電車が結構でている。この駅は最近できたのか、
2007年度の1日平均乗車人員は4,698人である。2003年度、開業直後の1日平均乗車人員は、1,166人だった。宮城県仙台市宮城野区新田東三丁目にあり「新田東駅」から名前を変えた。ここは住宅地として発展した地域だった。仙台はやはり発展する地域、拡大化する地域があり若い街なのである。だから若い母が目立つ、郊外にも若い人が目立つ、一方小さな町には若さを感じない、老人化、高齢化で若い母は少ないのだ。宮城野というともともと淋しい地域だったが宮城野には全くその面影はない、でもそこから小鶴新田まで来るとまだ野が広がっている。宮城野延長としての野の感じがまだ残っているのだ。ここからは雪の残る泉が岳も見えて気持ちよかったここで意外な発見は古歌が残っていた不思議である。


千歳ふる 小鶴の池も かわらねばおやの齢(よわい)を 思いこそやれ (源重之集)

こんなところに新興地にこんな古い歌が残っていたのが不思議である。小鶴の池は変わらないけど親の齢はたちまち変わり老いるものだという意味だろう。しかし今や小鶴の池はないしその自然こそまるで変わってしまった。古代では自然の変化はすくないからこの歌ができたのである。つまり自然は変わらないものだが人間は変わるものだというのが古代の常識である。今は自然の方が先に変わる。
宮城野は古いから残っているがここには残っているとは思っていなかった。宮城野からはやはり湿地帯や沼地が多かった。新田は湿地帯を埋め立てて田を作った。そもそも小鶴とは鶴とつく地名はいたるところにある。小鶴明神というのは南相馬市にもある。鶴と関係して伝説を残しているがこじつけなのだ。鶴とは関係ない、ツルは湿地帯のことである。ツルツルするというのにその名残がある。古代郷名で「小鶴郷」が南相馬市にあるから古い地名の名づけ方なのである。とにかくここには新しいものばかりと思ったが古い歴史があることもわかり興味深かった。老いた母が確かに待っているがまさか90過ぎまで生きた母を思うということは想像すらできなかったろう。せいぜい50か60であり90過ぎてるよと知ったらそんなことありえるのかと古代の人は驚くだろう。やはり旅は途中下車が面白いことがこれでもわかる。何かしら必ず謂われや見るべきものがあるからだ。


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仙石線の旅は次は奥松島⇒野蒜⇒石巻まで折り畳み自転車でつづくので御期待!


2009年05月24日

陸奥の袖の渡りは石巻の説



陸奥の袖の渡りは石巻の説
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これは長文になったのでホ-ムペ-ジにのせた。

石巻(袖の渡り)

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(石巻)

夏の朝海見え鴎一羽飛ぶ

みちのくの川もそそぎぬ夏の海

川と海交わる夏の石巻

石巻かもめあまたや夏の海

古の袖の渡りや松に藤

釣り人や袖の渡りに松と藤

夕藤や袖の渡りの松古りぬ

夕焼けや海風そよぎ石巻

女川へ線路伸びにき夏の夕

海よりの夜風涼しき石巻


石巻海より朝の風そよぎ船の泊まりて藤の花垂る

藤棚の下に休める人や松古りて釣り糸たるる石巻の人

夏の日に袖の渡りに我がよりぬ芭蕉もよりし社の古りぬ

藤垂れて袖の渡りの松古りぬ旅路よる袖の渡しに夕風涼し

海よりの夜風涼しき石巻ギタ-をひきて若者歌う


石巻の袖の渡しに実際に立った。風光明媚ないい場所だった。それで今でもその場所の雰囲気が残っているからここが袖の渡しと理屈ではなく直感した。千年たっても場所自体は変わっていない、芭蕉が立った場所自体は変わっていないのだ。そこに立ち寄る人間が変わっただけである。だから以前として旅するとき歴史を知るとき場所の意味は大きいから一度でも歴史の場所に立つことは大きな意味があるのだ。石巻には夕方も袖の渡しに行くつもりだったが道に迷い行けなくなった。暗くなり二時間くらい自転車でさまよっていた。それで考えたことは昔の人は一回限りしか歌枕の名所には立てない、人もは場所も一期一会であり二回来ることは本当にまれである。西行だけは平泉に二回来たが江戸時代になると芭蕉でも他の俳人でも一回は来ているが二回は来ていない、だからこそ千載の記念(かたみ)としての奥の細道が成ったのである。今のようにまた来るからいいやとかそうした軽い気持ちではない今生の別れとしての人であり場であったことは違っている。今でも遂に人は別れ旅してもその場に二度と立つことができなくなる。ここ四年間遠くに旅できない、今からもまだ旅できないことを自ら経験して痛切に感じたのだ。老人になると人が逢うことこそ不思議である。何故なら死ねば永遠に会えなくなる、人間がこの世で逢うことこそ不思議であり普通ではない、そもそも別れこそ常であり永遠に会えなくなることこそ普通であり今生で会っていることこそ不思議だとなる。六〇年一緒にいようがそれは同じだった。この世で人と人が逢うことこそ不思議である。なぜなら永遠に会えなくなる、そのことこそ常である。

陸奥の袖の渡りは石巻の説
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2009年05月21日

網地島創生(詩)

網地島創生(詩)

外海の波はげしく打ちつけぬ岩場かな

島一つ神の手に打ち固められぬ

力強くも海に抗い成りにけり

ここも神の住む場と斎き祀れ

島にひびける波の音やまじ

波うつ岩場鴎の群れの一心に飛ぶ

夏の日真近に金華山を仰ぎ見て

今し牡鹿半島の緑うるわし

神の御意にし固くその場を占めぬ網地島

田代島と相並びつつ友誼を深む

時に鯨の潮吹きあげ通る海

そは神の恵みとかしこくも祭られけるかな

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2009年05月20日

奥松島⇒石巻⇒田代島⇒網地島⇒鮎川(夏)

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奥松島⇒石巻⇒田代島⇒網地島⇒鮎川(夏の日)





朝光る海や桐咲く奥松島

島一つ奥松島や藤の花

夏の海荒れてゆるるや小型船

初夏の海にい出るや島二つ


静けさや石に落ちなむ桐の花

老鶯や茅葺き二軒船泊まる

老鶯や年金暮らしの島の人

老鶯や船待つ島の暮らしかな

老鶯や船の巡りぬ島二つ

金華山鮎川に仰ぎ夏つばめ

三陸へかもめ飛び行く夏の夕

夕暮るる小網倉小積藤の花

夕暮れや牡鹿の浦々藤の花

浦々に夏の夕日や牡鹿かな


灯台に老人寄りて語るかな小舟さしつつ夏の海荒る

網地島灯台一つ老人の昔を語る夏の海荒る

文化の碑もあり古りぬ網地島細き路地行き老鶯鳴きぬ

網地島細き路地行きその辻に菖蒲の咲きて一人逢うのみ

大きなるかたつむり二つ殻拾ふ夏の昼下がり網地島の道


わずかなる土地を耕す島の人波のひびきて夏の海見ゆ

島の中やはり空家や夏の日に草むし淋し誰か住みなむ

住む人の変わらざるかな網地島阿部氏の墓地や夏の日暮れぬ

夏の夕牡鹿の浦々波静か藤の花垂れバスの行くかな


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(網地島にて)

石巻から船で田代島から網地島に向かった。途中田代島の大泊に船が泊まったがそこに二軒の茅葺きの家があった。前はみんな茅葺きの家だったのだろう。田代島も網地島も江戸時代から人が住んでいた。網地島には文化時代の金比羅の碑があったからだ。網地島におりて一時間くらい折り畳み自転車で走った。というよりは島特有の細い道なので歩いた。一すじの道を行くと灯台があり激しく波打ち寄せる岩場に出た。その灯台により一人の老人がいた。しきり小舟をさして漁のことを言っていた。

「私は昔は海で働いた、外国にも行った、今は年金暮らしだよ、妻と二人」
「島には若い人は今は住まないでしょう、老人が多い」
「あの舟見ろ、網で魚とるんだよ、あんな舟でも三百万くらいするんだよ」
「ええ、そんなに、大変だ、今は魚とれなくなってますから」

この老人はなぜかその小舟をさして話する。相当気になっいる。おそらく知り合いの人がのっているのだろう。この島ではたいがい知り合いである。墓地はみんな阿部一族だった。こういう島では他から入る人はいなかったからだ。ここからは金華山がまじかに見えるし鮎川も対岸であり船ですぐつく。

「この辺では昔鯨とれたでしょう」
「鯨は今日のような波が荒いと来ないんだ」
「波が荒いと来ない」
「波が荒いと魚もとれない」
「波が荒いとだめなんだ」


確かに小型船で来たからかなり波にゆれた。相馬の松川浦でも魚がとれて売りに来るの買っているけどしょっちゅう海が荒れてとれないというから海の漁は天候に左右される。それでシケているという言葉は海で漁をする人からもたらされた言葉だった。シケる荒れるだからである。
ここの昔を考えるとやはり魚がとれないと畑もわずかに耕している人がいるけど米もとれないから米を買う必要がある。島の暮らしはなかなかわかりにくい、でもここには文化や文久の碑があったから江戸時代から人が住み暮らしがあったのだ。鮎川は鯨で有名だからそれで人が集ったことはあるし遠洋漁業で稼ぎ年金暮らしになった老人が島に住み着いているのもわかる。

「廻船業をいとなむほどの者ならば豪放闊達でおそれ知らぬ持ち主でなければならなっかった。その気宇を失ったときはどのうように栄えてもたちまちにして滅びるものであり廻船業の栄枯盛衰はじつにはげしいものだった。」海に生きる人々-宮本常一

海で暮らす人は平地で山で暮らす人は気質的にも相当違ってくる。波のゆれるなかで常時生活している人、安定した平地や山で暮らすのはそもそもそこから違っているからだ。これは文学的に外部から推測しても実感は出ない世界である。日本人の気質として山が遠いからヤマトが国名になったけど回りが海に囲まれているのだから海人の性格も深く混入されている。海彦山彦であるが海彦の国でもあったのだ。
いづれにしろ島の暮らしは陸地の暮らしとはかなり違っている。そこが一つの小宇宙となってしまう。だから人の存在感はその小宇宙のなかで限定され存在感をもつのである。でも病気になったりしたら困るだろう。ここにも医者はいるらしい、・・・医院とかの車が走っていたからだ。外からたまに訪ねるにはいいが島は一種の牢獄みたいになってしまうのだ。これは島だけではない、どこに住んでいたってそうなってしまう。「町は極めて狭く大男一人ふさがれば犬も通れぬような気がする古風な家がわずか五六十軒ばかりある」荻浜を啄木がよったときの感じをうまく表現している。古風な家とは田代島の大泊の茅葺きの家が港にあったのだ。荻浜だけでなく島はみんなこんな感じになる。何しろ狭いからそうなる。つまり島では人はみな大男になってしまうのだ。人があふれているところでは人はみんな小人になっている。人は人の中に埋もれて存在感がないのである。
今回もやっと一日だけここに来れた。ここに来たの始めてだった。東北では島はまれである。こうして外海に接してある島は田代島と網地島くらいである。奥松島の島は島という感じがしなかったからだ。つまり内海にある島であり島という感覚がもてない、陸地の延長のように見えたからである。この二つの島は島らしい島なのである。

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網地島から船で鮎川に渡るとすでに夕暮れであったが燕がしきり飛んでいた。鴎も牡鹿半島から三陸の方へ飛んで行った。気仙沼まで一回自転車で行ったことを思い出したからだ。ここからバスが出ていたので助かった。金華山は東北では江戸時代の碑があり明治にも東北の人が相当来ていたのだう。なじみのある参拝する島だった。鮎川からバスに乗った人は一人である。ずっと一人しか乗らなかった。でもあそこでバスがないと泊まる他なく不便になる。バスはやはり必要なのである。、土日はのる人があるのだろう。第一バスで5時ころ石巻に出ても帰れなくなるのだから乗らないことはわかる。旅にでも行くならいいが普通は往復できないのだから乗らない、途中小網倉はか小積とかにとまる。まるでただバス停は地名を記憶させるようにとまる。それでもこの辺は浦々がつづき波静で景色がいい、荻浜には明治時代、北海道からの定期船が通っていた。そこで啄木が荻浜により短歌を残した。明治時代はまだえと時代の延長で結構船を使っていたのかもしれない、北海道まで汽車で行き青函連絡船の時代もつづいたから船は重要な役目を果たしていたのだ。支倉常長の航海などが松島とか牡鹿半島の入江から出たことは納得がいく、必ず外洋への航海には内海が必要でありそこから外洋へ船を出して行く、船を作る技術も気仙大工とかに培われてあった。宮城県の松島と牡鹿半島、三陸には入江が多いのだ。だから海の文化が東北で太平洋側であった地域だった。ただ海は今も危険であり江戸時代でも遭難した船のことがいたるところで記録されている。不思議なのは伊達藩で仙台から福山まで船が出ていたことが記録されている。伊達藩は大きいから瀬戸内海まで交流があった。

次は石巻の袖の渡しについて


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2008年05月21日

宮城県-丸森の金山城跡へ

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宮城県-丸森の金山城跡へ 


残雪の蔵王を仰ぎ農作業


新緑や蔵王の見える地宏し

金山城我が上りゆく落椿

夏草に切り株埋もれ城の跡

遠き日の屋敷の跡やシャガの花

草分けて城跡の道シャガの花

草深し日影ににあうシャガの花

老鶯や道のり遠し相馬まで

山越えて他国の空や夏雲雀

夏山のかなたは相馬金山城

新地駅海風涼し夕べかな

丸森を我がさりゆくや桜咲き夕べあわれや相馬近しも

金山城伊達と相馬の攻防の城や古木の青葉に風鳴る

夏の日に蔵王を望み相馬へと我が帰るかな時鳥鳴く

金山城その跡淋し何語る夏草埋もれシャガの咲くかな

雄々し蔵王を望み相馬へ我が帰るかな夏の夕暮

桐の花一輪道に散りひそか新地にゆく人まれに事なし

丸森は相馬から近いと言っても相馬市からは結構遠い、台風の風がまだ吹いていたので電車で岩沼から東北線で槻木(つきのき)まで行き乗り換えて阿武隈急行で丸森まで行った。こういう行き方は実際は昔はありえないので昔を偲ぶことができなくなる。電車は前にも述べたけど瀬戸内海の福山城は駅のすぐそばにある。というより福山城が駅のようになっている。電車でのりつけるようになっているが実際は瀬戸内海から船で行った人も多い、船の交通があり船が便利だったからだ。電車は歴史的過程を無視するから昔を偲べなくなる。相馬の城から峠を越えて丸森の金山城と行ったときそれは歴史の道なのだ。一時は金山城は相馬藩に属してあとで伊達の城となり伊達政宗初陣の地ともあり相馬と境をなす要衝の地となった。相馬の本城があるとすると出城なのである。だから密接な関係があったのだ。相馬からしょっちゅう行き来してしていた城だったのだ。距離的にも相馬から近く行き来しやすい場所だった。それでも昔は歩きでも馬でも遠いとなる。自転車でも遠いという記憶があった。それで電車にしたのだが実際は新地駅に回ると意外と近かった。折り畳み自転車で新地から帰ってきた。
 
金山城はこの年まで何回も丸森に行って見なかったというのは失敗だった。遠くの方ばかり旅していて注目していなかった。ここの城も石垣が残っているから何もないよりはいい。そして錯覚していたのがインタ-ネットの写真で見た石垣は立派に見えた、こんな立派な石垣残っているのかと不思議に思った。なぜなら小さい城だからである。実際に見たらこの石垣はかなり小さく粗末な石組みであった。写真と実際で見たものとは違っている。写真の方が良く見える、きれいに見えたり大きく見えたり立派に見えたりするのだ。これは人物でもそうだろう。写真は錯覚を作り出す場合がある。テレビもメデアも実物を見ているわけではないから錯覚を作り出しているのだ。どんなにテレビや写真の映像を見ても実物とは違うのである。でも錯覚してしまうのである。これは石垣が残っていても相当貧弱な粗末なものでありこの城にかえってふさわしいものだった。立派な石垣を作りえようがないからだ。それでも石垣が残っているだけで他とは違っている。ほとんどこの辺の小さな城は残っていないからだ。
 
どんな町にも個性がある。新地には何もない、どういうわけか前にもここで桐の花の咲く時期に行き桐の花のことを書いた。不思議に今回も桐の花が一輪ひっそりと道に落ちていた。ただそれだけしかない、新地駅の特徴は海がすぐ近くであり海からの風が吹いてくる。常磐線が浜通りを通るにしても海の近いのは富岡と新地駅くらいである。新地の特徴は駅をおりるとすぐに海にでられることなのだ。
 
幽邃やシャガに古木の日影かな

夏の海新地から見える島の影

桐の花日影にひそか咲きて散る新地の町にしばしたちよる
 
前に書いた新地の句と歌である。
 

新地から牡鹿半島が見えた
http://musubu.sblo.jp/article/15012668.html.

 
今回は金山城から遠望した写真をデジカメのバッテリ-がきれてとれなかった。次は新地駅からゆくと丸森はすぐに峠を越えるだけだから近いのでまた行ってみよう。丸森はいろいろとまだ魅力ある場所である。今回は疲れていろいろ書けなかったが次にまた回想して書いてみよう。
 

2007年01月13日

ノスタルジックな仙台の長町

橋姫の祠を知るや冬の暮

長町を新幹線の過ぎ行くに昔偲びて冬の暮かな


橋姫明神の裏側には長町橋(旧名で永町橋)の礎石がおかれております。この二つが昔の長町橋の面影を残すものになりました。橋姫の他にも広瀬川には人柱の話が残されております。現在では穏やかな川の姿が印象的ですが、昔は色々と氾濫があったりしたのでしょうね。

長町は名取郡に属していて代官所が置かれ宿場町だった。広瀬橋ではなく長町橋だったことは長町の延長としてこの橋があり仙台橋は仙台の青葉城への橋として名づけられた。橋姫伝説があり今も祠があるのだがこれは何回か通ってもわかっていても良くみていなかった。こうした細かいものは見逃してしまうのが現代なのである。現代は車で電車で早く早く通りすぎるから歴史の跡を見逃してしまうし忙しくて関心がないのだ。今なぜこの長町に関心をもったかというとここを仙台に行くたびに歩くようになったからである。いかに歩くことがその場に親しむことになるからわかる。

仙台というと相馬辺りでは通勤圏内でありかなり働く場所にもなり買い物の街にもなっている。仙台は福島県でも岩手県でも生活圏内になっている人が多いのだ。だから旅で一回限り通りすぎるのとは違うからそこの歴史について知りたくなるのである。過去を知るということは自ずとそこで生活していれば徐々に知りたくなるものである。ただ旅できた人はこうした歴史的小さなものは見落としがちなのである。現代の騒々しい仕事に忙しく追われて生活している人は過去のものを意識することなく忘れている。過去のものにも意味がある。何かを現代に伝いようとしているのだがそれが伝わらない、橋姫明神の祠に注目する人はまれだとなる。それだけではない様々な過去のものが埋もれてしまっている。過去は誰かが注意して喚起しないと忘れられるものなのである。しかし過去と現在を結びつけることによりはじめてその街のことを知ったことになるのだ。

とにかく長町の過去は実にノスタルジックなの場所である。仙台の市電の終点であり秋保電鉄があった。石を運ぶために作られた。秋保というと温泉で有名だしここから鉄道にのって行けたらまた何か情緒的に違った旅ができたのである。長町は歴史とかいろいろな面からノスタルジックな街だったのだ。

これは歴史的の読み物があるから興味深い、それも連続して書いているから長町の歴史を知るにはいい。

長 町  ゆ と り 〜 と
http://www.mazarain.com/yuto.html

枯木の並木道(長町から仙台へ)

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南天に菊を飾れる着物(和服)店

長町に魚の匂い冬の暮

長町の通りを歩みシクラメン三種類ほど飾る店かな

広瀬川の岸辺の道や人会うも枯木つづきて黙し去るかな

仙台の枯木の並木歩みつつまた行くべしや我が帰り来ぬ


長町は昔は仙台の市場だった。長町は相当にぎわっていた。いろいろな店もあった。仙台があるから市場として活気があった。今は必ず長町を歩いて仙台に入る、広瀬川の橋を渡り仙台に入ると仙台駅から入るのと違った感じになるのだ。本当は歩く感覚で道を行くと必ず何か感じるものがあるのだ。それは同じ道でもそうなのだ。今はデパ−トとかス−パ−とかで通りが消失した。通りを歩む楽しさが消失してしまった。買い物だけになってしまったのである。

店とは見せるからはじまったように街を歩くことはまず見ることだったのである。長町には魚屋があったりするとそれだけが昔からあったような店である。魚の匂いというのが何か人間臭いとなる。今はその隣が花屋だったりパソコンの修理屋だったりと変わっている。呉服店など昔はあったがこれも今はない、でも南天に菊というのは合っていた。着物は日本的情緒をかもしだすからやはり日本にはあうものなのだがこれも失われた。

仙台という街はやはり並木が生きている、街の中に自然があるということはやはり街を潤いあるものにする。広瀬川も街の中を流れている。まだ沈黙が街の中にもある。枯木の並木を歩き黙して去りまた来て歩むのである。仙台には確かに通りがあるが他の街ではなくなっている。通りはシャッタ−通りになってしまった。仙台くらいの規模だとやっと通りが維持できるのかもしれない、東京だと大きすぎて騒音通りになってだめなのである。

やはり通りを歩むのが都会に行く楽しみとするときそれがないと都会もつまらないとなる。旅で行く街が寂れているので残念だった。旅ではデパ−トとかス−パ−には行きたくないからだ。街の通りは一つの文化であり街の通りがなくなることは文化の破壊だったのだ。文化について語ってきたが文化は人間の血肉であり文化が失われることは影響が大きいのである。でも便利さや経済の効率追求で容易に破壊されたのが文化だったのだ。

2006年11月29日

仙台の冬の銀杏並木

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若者に初老のまじり街時雨

街歩み人ごみのなか初時雨

盲人に車椅子通る冬ぬくし

冬の街乳母車入る喫茶店

金色に銀杏輝き街に来る

仙台の裏の通りや冬柳

書店一つ銀杏並木や灯のともる

郊外の家にともる灯冬菜かな

仙台や道行く人に銀杏散る外人も交じる並木道かな

日に映えて銀杏輝きつ散りにける並木つづきぬ仙台の街


仙台くらいになると街の情緒があるのかもしれない、銀杏の並木はきれいである。銀杏の葉は舗装の道に散るから土に帰らない、掃いてすてるのも大変である。普通土に帰るのが自然だがコンクリ−トの都会では土に帰らないのだ。でも銀杏の木は自然なのである。都会というとそこにいろいろな人間模様がある。今どきどこでも外人が多いのも特徴である。どこでも国際化しているしグロ−バル化している。仙台の裏の通りを歩けばそこには大きな街なりの古いものがあるかもしれない。古い店があるかもしれない、ただよくわからないが冬柳がたれて古い老舗のようなものがあっている。

自分の家で障害者をかかえるようになってから障害者を見る目が変わってしまった。より身近になってしまったのだ。普通無関心なのだが家で障害者をかかると他人事でなくなるのだ。車椅子を押す人がいたが家族なのだろう、大変だろうなとか盲人の女性が歩いてくる、どんな感じで歩いているのだろうかとか考えてしまう。障害というのは家族とか自ら障害者にならないと実感しえない世界なのである。同情するにも他人事になってしまうのだ。

今年は暖冬なのだろうか、冬の感じが今日はしなかった、そして街中で初時雨だった。村時雨とかあるから街時雨もあって不思議ではないので街時雨にした。明日は寒くなるというから本格的な冬はこれからだろう。それでも暖冬気味だということは障害者とか介護者には気分的に楽にする。寒いのはやはり弱者には辛いとなる。やはり仙台くらいになると街としての魅力、面白さがでてくる。5万くらいでは街とはいえないのかもしれない、つまり5万とか10万の街でも今は商店街もさびれているから街の魅力が喪失している。50万くらいでやっと街の魅力がでてくる。街の魅力はやはり歩いてみて気分よくなる刺激を受けることなのだ。そこに並木道とか公園とか自然があると街にきても楽しいとなる。

2006年10月10日

仙台の秋

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広瀬川の河畔を歩み秋の蝶

掃除婦に朝の秋日や親し道

秋日さす生を惜しみて公園に

秋日さすベンチ二つや公園に

噴水に鳩水浴びや秋暑し

古本二冊仙台に買い秋深む

秋日さし来なれし道の公園の乙女の像に鳩のよるかな

久々に仙台に来て植木市とりどり映える秋の薔薇かな

久々に仙台の通り歩みきて惜しむ時かな秋の日さしぬ


春行ったきり仙台に行っていなかった。5カ月くらい行かないというのは長い、それだけ行けなくなったのだ。病人をかかえるとちょっと出るのがむずかしくなる。特にアルツハイマ−のショックは24時間夜まで離れられなくなることを書いている人がいる。これでは鬱病になってしまうのが当然である。今では簡単に外出できないから外出する時間が特別貴重な時間になってしまった。
生を惜しみてというとなんか癌を宣告された病人のようだがだんだん先の短い時間になっているからおおげさではない、余りにつくりすぎるとリアリティがなくなりいい作品でなくなるが秋の日のさす通りを歩いて何かそれだけでいとおしいものに感じてしまった。