2023年04月12日

桜満開仙山線で山寺へ (山形城は桜満開−短歌十首)」

桜満開仙山線で山寺へ

(山形城は桜満開−短歌十首)」

((山寺)


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トンネルを抜けた所に滝がある

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対面石の坂を下ると茶屋がありそこの庭がいいのである、だから穴場だとなる。


(山形城)

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桜映え対面石に向き合いぬ
山寺や石に桜や蕎麦の店
岩に寄り椿や隠れ茶屋一軒
山寺や桜の古木二本かな
トンネル出て山形市内春霞
作並や温泉に浸り夕桜

一すじの滝のひびくや山深く桜の映えて人踏み入らじ
残雪の峰々遠く霞むかな桜の映えて山寺に来ぬ
残雪の峰々遠く望むかなトンネルぬけて山形に入る
渓谷の絶壁に咲く山桜山間深く人踏み入れじ

(山寺)
さえずりの駅にひびきて電車来る山寺の駅山桜咲く
磐を打つ流れのひびき桜咲き対面石に我は向き合ふ
山高み桜の映えて山寺や大岩重く清流ひびく
桜の木節くれだちて山寺に根ずき電車の通り過ぎゆく

(桜満開山形城)
トンネルの長きを出でて山形や花の盛りや山は霞みぬ
大手門我が入りにけり数本の花の影の下通りて行きぬ
山形城桜満開その堀に春の光の眩く反射す
山形城城内広く満開の桜の囲み散るも良しかな
霞城満開の桜かなたにそ月山望みなお雪厚しも
紅花に山形栄ゆ市のたち花の盛りやにぎわいにけり
みちのくの伊達と最上や春なれや伏見城見て屋敷構えぬ
金箔の瓦掘り出さる城の跡往時の栄忘れれ久し


仙山線で山寺から山形城を訪ねた、桜が満開だった、愛子(あやしまでは仙台の延長になる。そこにも村があったとしても仙台市の住宅地となったのである。
ユニットバスを作った仙台の創優建とかの人は愛子い住んでいた雪が残っていて寒いとか言っていた
宮城県と山形県の境界は明確である。面白山トンネルを抜けると山寺であり山形県になるからである。このトンネルは結構長いのである。
そして遠くに山形の山々が見える、春でも4月でも雪が覆っている。蔵王でもそうだはその雪はなかなか溶けない雪のように見える、この辺では高い山がないことがものたりないのである。
山形はまさに山が多いともなる。
仙山線は渓谷を行くからめずらしいし魅力がある。深い谷間があり若いころこの山々を上ったことがある。大東岳に登った、結構長い距離を歩いして今までできたことが意外と早くできなくなるのである。

今回月山が丸い形をして目立っていた、月山には上ったことがある。頂上に着くと回りでも下からでも山突き出していた、遠くから見るのよは違っていた。その時は夏であり山が多い地帯である
月山はこの辺ではなじみがない、でも蔵王は南相馬市の鹿島区まできれいに見えるのである。それで山形県と地理的に一体感を感じる。なぜなら福島県でも福島市の吾妻山でも浜通りから見えないし会津の山となると全く見ないからである。そこで同じ福島県でもなにか一体感を感じないのである、地理的には仙台市とか太平洋に一体感を感じる、それは津波で被害を受けたので余計にそうなったのである。
大きな岩が露出して奇岩が処々にあるのがいい、石とか岩に興味があるので見ほれるのである。
山寺から見たら残雪の連峰が見えた、それがどうもはっきり見えないのは霞がかかっていたためらしい、でもそんなに山形で霞がかかるのか?
なかなか土地土地の気候はわかりにくい、それで山形城が霞城としている、霞が城にかかって見えずに攻められなかったからだという、でもそれほど霞がかかるのかとなる。二本松の山城も霞城と別名言っていたのである
ただ今回は霞がかかっていたようである、はっきり山も見えなかったからである。
私は山形城を訪れたのは初めだったのである、それは線路から車窓からいつも見えていたけど訪れたの初めてなのであり、それも失敗したとなる、
その城内は広くこんなに広いのかと驚いた。それも最上藩とは56万石だったのである。そして伏見城に秀吉が住んでいた時
最上藩と伊達藩が並んで屋敷を構えいたことでもわかる。
それだけの大藩だったから秀吉の時代から屋敷がおかれていたのである。たた跡は跡目争いで分裂して小藩になったのである。
やはり国でも家族でもまとまらないと弱体化するのである

日帰りの旅は山形市とか盛岡市までできる。今回歩いて足をいためた。前も痛めた、自転車では足は痛めないのである。
その理由がわからない、やはり年であり無理なことが出来なくなったのである、気分転換としては日帰りで行く旅がいいとなる





















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2023年02月03日

秋の七ヶ宿街道の旅


秋の七ヶ宿街道


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七ヶ宿ものさびしかも
数匹の虫の音幽か
我が休みて聞き入りぬ
昔の街道芒なびきて暮れんとす
鏡清水姫の面影映すかな
しばし留まり夕闇に
行く人もなし
ここを去り上山へ
街の灯あわれ
その一夜の宿や
旅の思い出に残るかな

(覆う鏡清水や姫の顔)


七ヶ宿はものさびしい場所だった、今の道からはずれたところであり車もあまり通っていなかった、自転車で通って鏡清水で休む頃暮れようとしていた。
旅は車だと旅にならない、通り過ぎてゆくことになり時間的にも記憶に残らないのである。
何度も言うが記憶に残る旅をしていないと後で思い出せないので旅をしたことにもならなくなる。
旅は旅をする前の準備から始まっている、そして意外と旅は旅をした後も続いているのである。
だから車の旅だとその行程が記憶に残らないから旅になりにくいのである。ただある場所で写真撮るとかの目的があるときはいいのである。

ともかくなぜここが記憶に残っていたかというとそこがあまりにも淋しい場所になっていたからである。
車で混雑しているような場所でわ記憶に残りにくいのである
だから大都会というのは記憶に残りにくいのである
本当に七ヶ宿は寂しい場所だった何か人気もない虫の音だけが響くところだったのである。だからこそ虫の音が心に残ったのである

上山藩に蒲生氏郷の子が藩主となる
慶長9年(1604年)、陸奥会津藩主・蒲生秀行の次男として生まれ、家臣・蒲生郷治によって養育される[2]。異父弟に浅野光晟がいる。
慶長17年(1612年)、松平姓を与えられる[3]。
慶長18年(1613年)頃に元服する[注釈 1]。三春城に置かれた(『氏郷記』)[注釈 2]とも、津川城に置かれた(『会津旧事雑考』)とも伝えられている[5][注釈 3]。元和9年(1623年)7月、従四位下に叙される(『氏郷記』・『御当家紀年録』)h[7]。
寛永3年(1626年)、出羽上山藩4万石の藩主となる。この時、守役であった蒲生郷治は上山について行くことが出来ない自分の代わりに一緒に忠知を見守ってきた自分の家臣団を忠知に差し出したという(『氏郷記』)[8]

蒲生氏郷の子が上山藩の殿になった、三春と津川城とも関係していた。津川は冬の日に行った。川湊があり栄えた場所である
そこは厚い根雪に閉ざされていた。
そこに城があったというのも意外だった、こうしてたいがいの場所に実地にその場を踏んでいることで思い出してこうして紀行文でも書けるのである。

馬場址といはるここは杉ばやし時くしげりてしゃが群れ咲けり


この歌はシャガの花を歌っているがこのシャガの花は城跡に群生して他でも咲いていた。城はもともと山城から始まった、自然が要害となり守ったからである。そのあと暮らしに便利な平城になったのである。
丸森の金山城にも咲いていた。相馬の城跡にも咲いていた。
山城には咲きやすいとなる。この花は独得であり城跡に咲いているのが似合っているともなる、それも山城だといいとなる

2021年12月16日

金沢の冬の俳句十句(冬桜、冬の水)


金沢の冬の俳句十句(冬桜、冬の水)

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金沢や街中に散る薄紅葉

金沢や松の間に咲く冬桜

日も暮れむ兼六園や冬桜

百万石金箔の技冬桜

冬の日や職人育てる城下町

斎川の木橋渡るや冬の川

金沢に茶碗の店や冬の暮

金沢に一杯の茶や冬に入る

石橋や流れめぐりぬ冬の水

茶室の障子映してて冬の水

金沢に我が泊まるかな冬の星

金沢や金箔の技雪ふりぬ


金沢には仙台市から夜行バスで行った、電車だと遠回りになるし高くもなる
この仙台市から出るバスはめずらしと思った
金沢には行きにくいからだ、金沢は二回くらい行ったのか?
それもかなり前だから忘れている、冬桜としても十月桜だったのである
十月頃に兼六園を見て回ったのである、ただ冬に入る時期だったのだろう
何か冬の感じだったのである、それで今冬桜として俳句にした
十月桜と冬桜はまた違っている、確かなことは冬桜は12月まで咲く桜なのだろう
なかなか冬桜みかけない、だから原町の農家の庭に咲いていたのはめずらしいと見た

金沢はやはり百万石の城下町でありそれで文化都市にもなっている
伝統工芸とか金箔の技とかを残している、兼六園は見物である
何かこうして城下町には独特の雰囲気が残っている、京都とか奈良でもそうである
ただあれだけの大きな庭園があるのが違っている、それで百万石だから作れたのかともなる

都市でいいのは東北だと盛岡市であり弘前市などもいい、仙台市は意外と何か伝統的なものを歴史を感じるとならない、60万石でも城下町のように感じないのである
街中を盛岡市は二つの川が流れているし詩の都市である
城跡も街中にありとけこんでいる、なんといっても岩手山がまじかに常に見えるから心も必ずひきしまるのである
都市でいいのは日本ではそんなにない、一番が京都であり奈良であり次に東北だと盛岡市と弘前市である、北陸では金沢市である
函館市も記憶される都市である、明治を偲べる場所なのである
その他日本ではいい都市はあまりゅい、東京には江戸百万都市があったとしてもそれが今感じられないのである、それだけ変わりすぎてしまったのである
何か歴史を感じるものがあってもいいと思うがないのである
江戸城でも将軍の城でも何か感じるものがないのである

いづれにしろ人生の最後になって旅した場所をふりかえる、冬には追憶の旅が似合っている、ただ忘れるのである、だから旅でも記憶する旅をしないと損である
今は団体旅行とか騒がしいと心に残らない、人のことに注意を払うと辺りの景色でも心に残らないのである、だから旅は一人旅がいいとなる
そうすれば最後に旅でも収穫があるとなる
そうして回想して今俳句とか短歌でも詩でも作っているのである
老人は記憶に生きるのである、でもその記憶が残らないと思い出しようがないのである
私の場合は一人でいてその辺りの景色が浮かんでくるのである
ただ金沢と行ったとしても何十年前にもなる、でも一応覚えている
俳句が写生だというときどうしてもそうなるとイメージで作るようになる
実写できないからである、そこで十月桜が冬桜ともなってしまったのである

確かに薄紅葉というとき早目に紅葉が散っていた、それが薄紅葉だったことを覚えている詩にも書いたのである、だから季節的には晩秋だったのだろう
金沢でわからなかったのは百万石にしては大きな城がなかった、城自体がわからなかった天主閣もない、だから城下町だとういことが認識できなかった
兼六園だけが目立だったのである、犀川などがあるからやはり情緒ある
金沢でも冬に行ったらかえって感じるものがあるかもしれない
ただ雪に埋もれてしまうからイメージとは違ってくる、実写の写生を基本とする俳句とは違ってくるのだ
ただ一回でも現場を踏むことは大事である、そこで記憶されて蘇る時があるからだ
しかし外国となると何か思い出せなくなる、日本だと一回でも行った場所は記憶されるのである

ともかく自分の人生をふりかえれば幸福だったとなる
私は別に旅が好きなわけではなかったのである、ただ大学を出て就職もしないで放浪していた結果旅をするようになった
私はまず集団生活ができないのだ、だから中学とか高校生活は本当に嫌だった
椅子に座り50人とか詰め込まれた教室とかが嫌でしょうがなかった
そうした場所にいられないのである、内向的でありそういう場所が嫌なのである
何か圧迫感があり緊張して勉強などできなかったのである
だから今でも結局学校を嫌悪しているしまた会社とも勤まらない性格だったのである

ただ私にとって幸運だったのは大学出てからでも就職しなくても家族は何も言わなかったのである、これが幸運だったのである、それは特殊な家庭環境でそうなったのである
そこから旅ばかりしていたとか引きこもりになったのである
でもそういう生活は自分の性分にあっていたのである
そこで社会性が欠如したにしろ何か自分にあっていたのである
それは家族に恵まれた結果としそうなったのである

人間とにかく自分にあったことをする、追求することである
そうでないと人生を無駄にする、でも人間は親でもなんでも自分に合ったことをさせないのである、親の言う通りにしろとかなんとかなる
そうして人生を失った人も相当にいる、親ガチャというけど別に毒親でもない医者の家とかに生まれて恵まれていてもやはり親と子は違っている
子供には子供の人生がある、その道を行かせないと親を恨むようになるのである
なぜ私は別な道を行きたかったのに行かせなかったのかとなるのである
まず自分は親に家族に恵まれた結果として自由に生きることができたのでけ感謝しているのである
もし家族がいなかったら相当に悲惨な結果になったし才能なども開発できなくて終わったのである
才能でも芸術とか学問でも結局積み重ねなのである、天才は別である
でも天才の真似などできないから普通の人は積み重ねでやるほかないのである
啄木とか宮沢賢治とかは天才である、なぜあんなに20代とか30代で才能が開花したのか不思議だとなる

ただどちらも肺病で結核で若くして死んでいる、とにかく結核で若くして死んでいる人が多いのである、母親の実家の兄も25才くらいで結核で死んでいる
その墓の前にたつとその人の無念が墓からこ
みあげてくるのである
また戦争で若くして死んだ人もそうである
つまり才能があったとしても開発できず開花せず死んだ人はいくらでもいるのである
自分でも家族に恵まれなかったらそうなっていたのである
それは時代の影響もある、豊かな時代になったからそういう引きこもり生活が可能となったからである

現代は何かその人なりやりたいことがやれる環境ができているのかもしれない
これが大事なのは最後に人生を後悔するからである、やりたくないことをやらされたとか犠牲にされたとかなるからだ
現実自分の場合は親が自分のために犠牲になったともなる、兄とカモそうである
人間は誰かの犠牲があり生きられなかった人が多数なのである
実際これからの時代は今までのようにいかない過酷な時代になるのかもしれない
日本でも高度成長は特別恵まれた時代だったとかふりかえることになるかもしれない
そうは言っても人間は時代を選ぶことはできない、だからどうにもならないとなる
時代の犠牲にされてもどうにもならないということである
それが戦争で三百万人死んだことなのである

2021年11月18日

みちのく考ー枯野のみちのく、わび、さびの世界 (金閣寺との相違ー枯野の俳句−20句)


みちのく考ー枯野のみちのく、わび、さびの世界

(金閣寺との相違ー枯野の俳句−20句)

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みちのくや枯野の心に染みにけり

みちのくや口籠る人冬の雲

みちのくや朴訥にして冬の雲

みちのくや枯野に残る標かな

みちのくや都に遠く冬の星

みちのくや老いてあわれや枯芒

みちのくや寄り合いなごむ冬の鴨

みちのくや枯野の中に都跡

たずぬれば平城宮(ならのみやこ)跡枯野かな

みちのくや枯野に消えぬ人の影

みちのくや栄の跡も枯野かな

みちのくや二三きらめく冬の星

みちのくや一転枯野夢の跡

みちのくに何を残さむ枯野かな

一時の出会い別れや枯野かな

散り散りに人の別れて枯野かな

みちのくに老木生きむ枯野かな

みちのくに枯野に何か昼の月

みちのくの枯野の果てや金色堂

北上の流れの尽きじ枯野かな

みちのくや冬菜に雪や駅に待つ


この道は中村街道元禄の碑の残りて秋のくれかな


陸奥の 真野の萱原 遠けども 面影にして 見ゆといふものを   笠女郎

みちのくという範囲は奈良時代だと南相馬市の鹿島区の真野郷辺りまでだった
なぜなら車輪梅が南限の地として指定されていたからである
つまり気候的にここまでは南国の花でも根付く場所だったのである
あたたかい場所でありここが境だったのである
奈良の人々にとってだから境というのは地理の目安となるから知られていたとなる
そしてなぜここに綿津見神社と山津見神社が本当に多いのである
それは海人族が安曇族などが入植して入ってきて住みついた場所だったのである
そういう基盤があり次に大和朝廷の勢力が正式に支配したとなる
その前進として安曇族などの海人族の一団がここに移住してきたのである
それは飯館村の佐須に山津見神社がありそこは焼畑の地名であり焼畑の技術は渡来人がもたらしたものである
その他にこの地には鉄の生産とかで深く渡来人とかかわっていたのである

真野の草原の草原は萱が茂っているとかではない、第一奈良時代を想像したら人口が二百万とかなっていたら回りはどこでも萱原であり平城宮の回りでもそうなのである
いたるところ原野のような状態が広がっていたのである
そうしたら萱原などめずらしくもない、日常の光景なのである
だから特別萱原を思うことなどないのである

この草原は地名でありみちのくの遠い場所として奈良の人達に知られていたのである
そしてこれが誤解しやすいのは

陸奥の 真野の萱原 遠けども 面影にして 見ゆといふものを

みちのくの真野の草原(かやはら)は遠いけれど奈良の都の人達は知られている場所である、そういう遠くに私の恋する大伴家持様は面影にして見えますよという意味である
つまりそんなに遠い場所でも大伴家持様のことは面影に見えますよということである
どんなに遠くに離れてもあなたのことは面影に見えますよということである
実際大伴家持は多賀城に赴任したという説がありとなるとまさに陸奥の辺境に行った大伴家持を偲んだ歌だともなるのである
とにかくこの歌は本当に誤解しやすい歌なのである

みちのくというのは古代から辺境の地であった、そこで白河の関がみちのくの入り口として知られていた、でも古代ではみちのくの範囲は狭い、平泉辺りまでがみちのくであり
江戸時代になっても芭蕉が旅したのは平泉までありその奥はみちのくの範囲ともならないみちのくと言っても平泉までありそこから青森まではさらに広い地域だからまた別なのである
ただみちのくというとき芭蕉の奥の細道によってみちのくという感覚が一般化したのである

みちのくというとき荒野というイメージになる、古代から人家も少ない荒野的な感覚である、荒野といっても奈良時代などはもう日本全国が荒野という感覚である
そこが錯覚しやすいのである、それは常に歴史をふりかえる時現代からイメージするから必ず誤解するのである
江戸時代でもやはり日本全国の感覚は今とは違って全体が田畑があっても荒野だという感覚にもなるからだ、みちのくはさらに荒野という感覚になる

そういう荒野の中に平泉が都として栄えて金色堂を残した
それでもその金色堂は五月雨が降る中で辛うじて朽ちずに残っていたとなる
つまり自然の猛威の中で朽ちずに残っていたというのが「五月雨の降り残してや光堂」なのである
それは蕪村の俳句でも「五月雨や大河を前に家二軒 与謝蕪村」などもそうである
自然の猛威でもう家でも流されるような感覚になるがなんとか残っているともなる
つまり現代の便利な文明生活とは違って自然の猛威の中に人々は生きていたのである
その感覚がわからなくなったのである
でも依然としてみちのくは荒野という感覚になる、大都会とかが少ないからである
仙台市にしてもちょっとはずれると田畑があるからである

それでこの辺でも枯野になり冬となったと感じた、しみじみと冬を感じたのである
みちのくには枯野がふさわしいともなる、枯野にかえって心が癒される
特にこれだけ人口が増えて都会化すると枯野に癒される、ただ車の洪水はここでも同じである
車というのは一台走っていても全体に相当に影響していた
というのは相馬市街から霊山の玉野村まで行った時、途中に相馬市の郊外となり家が点々とあった、でも福島中央道ができたので車は玉野を出るとほとんど一日通らない
でも相馬市郊外の山上とかそこから上に行っても人家があり車が通っていたのである
それは家があるから車を使うから通っていたのである
だから例え家が少ないにしても車を持っているから車が通る、すると一台通っても車が通るという感覚になる、玉野から霊山までは本当に車がゼロともなっているからだ
それで不思議な感覚になったのである
現代はどれだけ車の影響が心身ともに影響しているこれでわかるのである

ただみちのくはまだ枯野の荒野の感覚は残っている、その荒野の中で老いてゆく、ゆっくり茶を飲んでくつろぐのがいいとなる、まさにわび、さびの茶室がみちのくに似合っているのである、もう東京とか西でも大阪とか繁華な所に茶は似合わないのである
もうわび、さびの感覚がないからである
そのみちのくの荒野に枯野に残されたの光堂、金色堂の黄金(くがね)の夢だったのである、それが京都の金閣寺とは違っていたのである
 

2021年02月24日

会津から新津駅ー地名を知り旅を回想する (古町があり新町がある)


会津から新津駅ー地名を知り旅を回想する

(古町があり新町がある)

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古津に対する新津で、船着き場として発生、鎌倉時代には豪族新津氏の存在が知られる。近世は新発田(しばた)藩の新津組の大庄屋(おおじょうや)町として六斎市(ろくさいいち)でにぎわった

その名の通り船着き場として発生した新津は江戸時代は新発田藩領の在郷町・大庄屋町として六斎市で賑わい、街道が分岐する交通の要衝の町として発展していた[1][2]。その後明治・大正期に入り、新津油田を中心とした石油の町、新津駅を中心とした鉄道のまちとして栄える

大正中期には羽越本線(うえつほんせん)、磐越西線(ばんえつさいせん)と信越本線の交差する交通の要衝として、機関庫、鉄道工場などが立地し、交通都市として繁栄した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B4%A5%E5%B8%82


新津にて線路交わるここよりし雪の覆いし会津の山見ゆ

電車の旅となると全国を行っている、その記憶をたどる、旅しているときはその地理がわからない、それで記憶をたどり地図を見てふりかえる
会津から磐越西線を来て阿賀野川の船運の港があった津川により新津駅により
そこから会津の雪の山が見えた、その時は冬だった

新津駅は

大正中期には羽越本線(うえつほんせん)、磐越西線(ばんえつさいせん)と信越本線の交差する交通の要衝として、機関庫、鉄道工場などが立地し、交通都市として繁栄した

もともとここは最初は川が交通路になり最初は古津があり新津に移動した
必ず古町があり新町ができる、それは意外と狭い地域でも古町と新町がある
繁華な町でも交通が変わると変化するのだ
それは原町が原町機関区として発展した、駅前通りができた、そして浜街道の宿場町が古町ともなり次に自動車時代になり六号線ができて駅の東側に新しい町ができた
そこはもともと原町であり原っぱであり江戸時代までは雲雀が原で野馬追い祭りが行われていた、つまり人家はなかったのである
それが駅ができて駅前通りになったのである、そういうことが日本には多い

新津駅は鉄道の要所となり路線が交わる、ただ海が見えないから新潟市でも広いからなかなか地理がわからない、新潟市というとその名でも新しい潟(かた)のことである
湿地帯だった、日本海側も最初は湿地帯でありそこから日本海を通じて交通があり江戸時代でも北前船があり阿賀野川があり船運があった
津川には川の港があり一時期栄えたのである

津川にそ川の港や雪深くつもり我が踏み帰りけるかな

「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」そのB津川の河港から出航し阿賀野川の船旅へ
https://aganogawa.info/archives/18398

会津がなぜ古代から大きな国だったかというと日本海側からの交通があり吉備とかと交流があった、なぜなら大塚山古墳の三角神獣鏡は吉備のと同はんのものだったからである
日本は最初出雲でも日本海側から発展した
それは韓半島と近いから国引き神話が生まれた、それも交通の便からそうなったのである地理が影響してそうなった、出雲が大きな勢力となり日本海を通じて東北地方に進出したそれで出雲が蝦夷だったというのもわかる
大和朝廷に出雲でも国譲りがありふがて長野県の諏訪とかに逃れて蝦夷地へ逃れたのである、それでとにかく諏訪神社が多いのである

地理と歴史は一体であり地歴となる、そして地理を知る時、地名も一体のものとして知るべきだとなる、なぜなら新旧を知るには古津があり古町があり古田とかあるからだ
それで新旧を知ることになる、まず地域でも新旧を知ることが大事たというのはそのためである

『新潟古町 隠れ家居酒屋【月ひかり】

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こういう地名もありそこに居酒屋の月ひかりがあるのは名前からして詩的だともなる
古町ー隠れ家ー月ひかりが詩的にもなる
だからこの命名が良かったとなる

それは相馬市の田町通りの居酒屋でもそうだった、何か詩的なイメージになる
そこではなじみの客がいて集まる人は年配の人なのかともなる
ただそれはあくまでもイメージであり現実は違っている
場末のごちゃごちゃした飲み屋とかともなる

とにかく旅をしても地理は本当にわかりにくい、例えば阿賀野川でも実際にその川を会津若松まで船で来れば地理が実感できるのである、それが電車だとわかりにくくなる
川で下ったり上ったりして知る地理と電車で知る地理は違っているからだ
日本が山が多くて地理がわりにくいのである、大陸だと長大な河がありその河かち地理をしるからわかたやすいともなる、一本の長大な川を中心にして地理をしる
そこが文明の発祥地だというのもわかりやすいのである
ナイル河とかガンジス川とか揚子江とか黄河とかなる
とにかくガンジス河でも上流でもその幅が広いことに驚くのである
それでインドではガンジス河中心の神話が生まれたことも理解できるのである

新潟県から会津へ阿賀野川を通じて交通があった、それで北前船が交通があったとき
江戸時代末期にコレラも伝染したのである、つまり交通があれば必ずウィルスは伝染するのである、これはもう避けられないのである
伝染しなかったのは交通がなかった秘境の桧枝岐(ひのえまた)だったとなるからだ
歴史は地歴であり空間軸と時間軸から成り立つ、空間軸は地理である
その地理がわかりにくいのである、時間軸でもこれも過去のことだから想像力が地理より必要になるから理解するのがさらにむずかしくなる
地理だと古代でもその前の古生代からも地理は変わらない、でも空間軸でもと広いし複雑だからわかりにくいのである


2019年11月24日

青森の詩(青森の地歴の探求)

青森の詩(青森の地歴の探求)


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青森の詩

青森のその名のよしも
縄文の村、三内丸山の栄
海近く海産物豊かに土地の実り
栗も栽培すると菓子も作る
漆の業もすでに起こり優れる
鹿を追い猪を追い射止めて食す
土器をこねりその造形にこる
その数千年の長き営み
その長き日に争うはわずか
平和の村のそこにありぬ
ヒスイは糸魚川より運ばれぬ
交易は日本海を通じてあり
青森よ、野辺地、下北、最果ての竜飛岬
ここに本州の陸は尽きぬみちのくの外三郡
幻の日高見国、アラハバキ国を語るも
平泉の黄金の栄華もなしも
米のとれぬはと粟や稗を食す
粟在家、稗在家とその名を遺す
太宰治の屋敷に小作の米は積まれぬ
小作は苦しみ恨み呵責になる
高い煉瓦の塀に警察が守る
その貧しさは今は変わらず職なき最果ての地
しかし陸奥湾に一三湊に外部に開け交易ありぬ
しかしその一三湊は砂に埋もれ消えぬ
宋銭のそこよりあまり掘り出される
津浪に壊滅せしとはまことか
津浪は人のものをすべて持ち去る
命も物も根こそぎ奪い何も残さぬ恐ろしさ
標榜として日本海の風はうなり吹雪く
青森の弘前城は古き城
その門の質実に飾り気なく古風に残りぬ
古武士のように何か威厳あり
一時桜に覆われしも
津軽の冬は厳しき
地吹雪き閉ざされ長き冬に耐える
津軽鉄道の終点の中里
その地吹雪きを遮る柵をさして運転手は語る
津軽弁重く濁り聞きとれぬ 
陸奥(むつ)はむっつりのことか
出雲弁との共通がありしとか・・
ここに北前船の来たりて関西の文化伝える
その前より古語もここに残されぬ
この辺境の地にアイヌ語地名も残さるると
アイヌとの交流のここにありしも
青森もみちのくなれどそこは果てなる地
芭蕉もそこには行けず去りにき


東北という時、みちのくなのだけどこれは平泉辺りまでであり岩手県からさらに青森までは入っていなかった
そこは本州の果てでありみちのくでもないのである
歴史的にはそうなっているが青森の地理的特徴は日本海を通じて船が通り交易があった
それが太平洋岸とは違っている、江戸時代でも北前船が通っていたからである
そして青森にも辺境に日本の古語が残ってそれがそのまま使われている
それは沖縄でもそうなのである、だからすでに古代から大和国が津軽まで及んでいた
それはその後の平安時代であっても古いとなる
三内丸山の縄文遺跡はやはり北がそれも本州の果てがかえって西より栄えていた
縄文時代は東が栄えて西はそうでもなかった
それは実証されている、漆でも縄文時代からあり青森でも見事な漆の器は残される
縄文時代は青森であれ北が優位だった

青森はその位置とか地理が魅力的なのである、日本は最果ての地に憧れる
海に囲まれているからそこで陸が尽きて日本は海に閉ざされた国になるからだ
大陸に住んでいたらどこまでも陸を行こうとする、それがモンゴルの帝国形成につながる日本では海に囲まれていてその陸が尽きる国なのである
大陸でぱ鎖国などできない、絶えず異民族が移動して襲ってくるからである

縄文時代は謎である、なぜそんなに長くつづいたかというのも謎である
それもあまり争いがなかった、大きな強い権力をもちえなかった
人口も制限されていた、すると大きな権力は形成されない、邪馬台国ができたときはすでに大きな権力が形成されたのである
だから縄文時代は国があってもその国はクニは小さなものである
国家というのは形成されていない、だから争う必要がなかったともなる
何か小競り合いはあったが大きな争いには発展しなかった
それだけ戦うもの奪いとるものもなかったのである
何かしら富があればそれを奪うために争いになる
ただ何もないと戦争で人を奴隷にする、それで富を形成しようとする
大陸ではこうして絶え間なく奴隷獲得の戦争が行われてきたのである

県名で青森というと青は墓のことらしい、すると最果ての墓の地が青森になるのか
死者を呼びたすイタコなどがいるからそういう風土でもあるのか?
県名としてはあっていた、岩手県でも宮城県でも一応県名は歴史とか風土とあっている
宮城県は古代から多賀城があったからだ
岩手県はいかにもみちのくの奥にふさわしい、そして何か秋田県という名には特徴がない何を現ししているのかわからない、田とも関係ないからである
そして福島県でもそうである、福島市福島城があったからだとかなるがでは会津藩とか相馬藩とかいろいろあってもそういう歴史とも関係ない、風土とも地理とも関係ない
だから福島県の名は何なのだろうとなる
新潟県でもこれも潟が多かったからであり土地の状態を示していたのである
広範囲に潟が多かった
茨城は古代の故事に由来するとかある、福島県はそういう歴史も何も現すわけでもないのである、そもそもなぜこういう名がついたのかわからないのである

いづれにしろ東北という時みちのくというとき一つのアイディンティティとする場である茨城県は関東でありみちのくはやはり歴史風土でもみちのくになる
みちのくで不思議なのはそこは青森になるとそうだが文明と離れた辺境だともなる
何か枯野にあっている、また雪に埋もれた世界だともなる
でも太平洋岸には雪はほとんど降らないのである
でも岩手県だと区堺には深く雪が積もる、まさに区堺なのである、春でも相当まだ雪が残っていたからである

岩手なれ区界(くざかい)になお残る雪

こんなふうになる、ここは岩手県を分ける境なのである
また山形県もその名にふさわしい、その境は仙山線で面白山をぬけて山寺に出るとそこが山形県なのである、ここも春になると雪が長く残っている
そこで天候も変わり雪国になっているのだ、あとは境というときわかりにくい
浜通りは阿武隈高原でさえぎられている、だから福島市とか中通りが見えないから地理的一体感が感じられないのである
ただ蔵王は南相馬市の鹿島区の右田浜からまで見える
そして南相馬市の高台の片倉のフラワーランドが牡鹿半島と金華山が見えた
つまりこのくらいの範囲が見えるから身近になる  
                                                                            
とにかく青森はみちのくでもない、最果てである、みちのくというときまだ平泉辺りまででありそれは文化的領域でもある
つまり芭蕉の奥の細道なのである、ここから奥の細道をイメージするのである
  

その日は野辺地泊。当時南部藩港であった野辺地は、この地 方の経済や文化の中心地として栄えた港町だった。
 翌8日宿を出て七戸へ行く道は荒漠とした原野が続き、道傍に樹木が植えられていた。途中、4人のマタギ(猟師)に出会う。犬を連れ、獣の毛皮で作った外 套を身につけ、それぞれが鉄砲や鉾を手にしている。彼らは「これから熊撃ちに行くところだ。今年はまだ1頭も捕っていないが、去年は5、6頭捕った。熊撃 ちは毎年春の彼岸から始まる」と話してくれた。
 やがて松陰らは七戸を経て五戸に入り、郷士(郷村に住む武士)の藤田武吉を訪ねた。藤田は、五戸に住む60名ほどの郷士は皆禄高が低いために、ほとんど が農業で暮らしを立てていることや、この辺りで多く採れる大豆は馬の背に乗せて野辺地へ運び大阪へ移出すること、近辺に牧場が数カ所あることなどを語っ た。

これは青森を旅した吉田松陰のことである、野辺地は冬にたずねた、駅に雪が積もり野辺地の港が見えた、大阪までもそこから豆を送っていたというのは意外である、つまり大阪まで北前船が運行していたからである

 こんな詩がインタ−ネットに出ていた、まさに雪に氷に閉ざされるのが青森だとなる 

いつの日にか
故郷が冬にとざされたやうに
私の心もみんなとざされてしまった
結氷の下で
魚たちが夢みるであらうあの空を

村次郎 詩集『忘魚の歌』

こういう詩もあり青森は冬は雪に閉ざされた辺境なのである

インタ−ネットは編集するとそれで創作になる、ただ詩とかほとんど出ていない、それで批評ができないのである  

青森に初雪

青森に初雪がふった、このプログに写真がある、こうして青森のことがインタ−ネットでわかる面がある
ただこれも一面である、ただ今の情報が入るのはインタ−ネットでないとできない
毎日の変化を知ることはできない、ただ地方局でもインタ−ネットで放送していることもあり役に立つ
まずこうした地域の情報はマスコミからテレビなどでは得られない
その地域の情報を得るのにインタ−ネットは便利なのである、ただ詩などでも詳しいものはわからないのが残念だとなる

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今昼食のおかずにスーパーで買った

2019年10月04日

山形紀行(地理的境を知ること-俳句十句)


山形紀行(地理的境を知ること-俳句十句)


       (春)
山形やトンネルぬけて残る雪

水清し対面石に残る雪 

     (夏)
     
影深く苔むす磐や蝉の声

  (秋)     
    
山寺に清流ひびく朝の菊

山寺や巌に菊や流れかな

山寺や清流ひびき秋の星 

水清し対面石に朝の菊  


鈍きかな山形城に秋の雲

城一つ境の山越え秋深む

踏み入りぬ落葉の厚く磐司巌

みちのくの記憶の行跡落葉踏む

山小屋の岩風呂浸り窓に月 

  (冬)
  
馬形や新雪清し朝に踏む  


東北の風土でも福島県自体がわかりにくい、ハマ、ナカ、アイヅと三つに分かれている
そこで風土が違う、浜通りは雪はほとんど降らない、会津は冬は雪に埋もれている
中通りは雪はそれなりにふる、でも夏は蒸し風呂のようになり福島市は暑い
そしてその阿武隈高原を自転車で越える時、海から涼しい風が吹いてきた、その時ほっとした、浜通りに向かっていたのである
冬は底冷えするように寒い、それで阿武隈高原が境となり分かれる
飯館村は高原であり夏は涼しい、冬は寒い、そこも伊達藩との境目である
境とはなんらか季候も風土も変わる、会津はもともと別の国だった
一つの風土と歴史をもつ別の一国だった  

この境を注目すべきなのだが現代は交通が発達した結果、境の意識が薄れる
感じなくなる、峠を歩いて上ったから峠を越えたら別な世界に入るという感覚になる
飯館村の八木沢峠は高いからそうである
それは福島市の方からくれば峠から海が見えるから感覚に違ってくる
峠を境にして景色と風土が一変するのである
ただ今は県単位で境を意識することがむずかしい
県は明治以降作られた人工的な区割りである、福島県は広すぎる、会津は別な一国として風土でも歴史でもあるから不自然だったのである

境でわかりやすいのは山形県と宮城県の境である、面白山のトンネルは長くそこをぬけると山寺になり山形なのである、それで春でもいつも雪が残っている
それは関ケ原を越えると近江に入りそこで春になると風土と景色が一変する
そして不思議なのは近江の湖西から東を見るとそこから太陽が昇るのである
関ケ原は東西の境なのである

関ケ原越ゆるやいつも残る雪

湖西より東(あづま)を見れば陽の昇り秋の日あわれ高島にをり

このように国境を意識する、東から西国に入る境目が関ケ原でありここで関ケ原の東西の雌雄を決する場所になったのも地理からわかる
歴史も地理から作られるからそうなる

東北も住んでいてもなかなか風土となると地理がわかりにくいのである
それは県単位ではわかりにくい、ただ宮城県と山形県はわかりやすい方だろう

陸奥みちのくをふたわけざまに聳そびえたまふ蔵王の山の雲の中に立つ(斎藤茂吉)

これは宮城県と山形県を分ける山である、福島県となると広いからそうはならない
あくまでも宮城県と山形県を分ける山だとなる
ただ福島県でも私の住んでいる浜通り、相馬地域から蔵王が見えるのである
だから蔵王の見える範囲がありそれが成り立つともなる
ただ浜通りだと阿武隈高原によって分かれている

山形県というとここも風土として歴史も形成されてきた、山形県は大学時代、アパートの上に住んでいた人が山形県だった、何か訛りが強い、東北弁は共通している訛りがある
でも何か濁音が強く濁っている、それは津軽弁がそうである
東北弁でもみんな違っている、第一仙台弁が語尾にだっちゃだっちゃというのが本当に変わっている、普通はこの辺でもんだんだになるからだ
だから宮城県は東北ではないというのもわかるのである

とにかく面白山が宮城県と仙台の境である、そのトンネルを抜けると雪国だったとなる
山形も雪が深い場所である、日本海側になるからそうなる
山形県でも広いから日本海にも面しているから全体的に知ることはむずかしい
ただ山形県は一つの風土と歴史をとして見やすい、わからないのは秋田県である
ここは何か一つの特徴が感じられないのである
岩手県でも青森県でも一つの風土歴史として感じるものがあるが秋田県には感じないのである

なぜ風土がわかりにくいのか?それは宮城県とか福島県側の浜通りは大平洋に面しているそれは同じ海でも日本海とは相当に感覚的に違うからである
第一毎日海から太陽を昇るのを見ているのと海に沈む太陽を見ているのは正反対だからである
山形県でも山形市に入ると城がある、最上藩の城がある
それはいつも鉄道の脇にあるから意識されやすい、この最上藩で面白いのは京都の秀吉の伏見城に隣り合って最上藩があり伊達藩の屋敷があった
そして最上町が町名として残ったのである、これも山形県と宮城県の伊達藩が隣り合っているからこうなった、だからこの時相馬藩とかないのだから最上藩は古いとなるのだ
ただ秀吉の時代に相馬藩は石田三成が相馬地域に来ている
それで三成の旗印が野馬追に出ているのである
だから秀吉時代から関係はあった、名前も三成の名前をもらっているのである

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相馬藩初代となる利胤は、天正9年に相馬氏十五代相馬義胤の長男として陸奥国行方郡小高城で生まれる。慶長元年(1596年)元服の際に父義胤は石田三成に烏帽子親を頼み、三成の一字を得て三胤と名乗る。
これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され以来三成と昵懇であったためであった。

こういう歴史がある、風土と地理と歴史は一体だから総合的に見る
でも風土とかはわかりにくいのである、東北に住んでいてもそうである
山寺があるとする、でも馬形部落がありそこもいい場所である
新雪を踏んでそこに行ったことを覚えている
その奥を行くと磐次郎磐三郎伝説がある奥深い山に分け入ることになる
そこも上ったことがあった、何かそうして記憶の旅を続けているのが自分である
東北に住んでいれば四季を通じて行けるから風土でもなんとかわかる
遠くなると風土とか地理がわかりにくくなる、一回くらい行ってもからないのである
ただふりかえると私はどれだけ旅したかわからない、旅に明け暮れていたとなる
だから今でも旅している感覚になるのである
ただそこで問題なのは詩とか紀行文を書くにしても記憶をたどるからいかに記憶されているのかが問題になる
今になって山寺の馬形部落の新雪が心に残っていた、それは心を浄める雪だった
浜通りとか宮城県では雪のことがわからない、会津とかだとわかる
その雪が心の中に降っている、その記憶が大事なのである

山形の雪

心の中に雪がある
新しく雪がふる
この世の穢れを浄める
新しく雪がふる
それは原初の清浄の世界に戻る雪
その雪に浄められ浄土を想う
新しく雪がふる
心の中に雪がふる
その時心は浄められる
その雪は神の心である
神がこの穢土を浄める雪
もはやそこに雪しか見ない
一切は雪に隠される浄土となる

こんなふうになる、とにかく山形の風土も魅力がある
山形とか岩手県から詩人がでているが宮城県からは出ない、それは風土と関係している
福島県でも会津は一つの別の国であるが何か詩人が出ていない
まず中通りだと詩人は出ないかもしれない、会津は出てもいい名だたる詩人が出ていないのが不思議である
岩手県からは賢治とか出ているし山形県でもでている、斎藤茂吉は歌人だけで何か山形的なものを風土を具現化した人でもあった、でも宮城県となるとそういうものはないし出ないとなる
つまり人も風土と関係して生まれてくるのである
福島県だと会津であり山形県と岩手県と青森県は一つの風土と歴史を形成している
茨城県とかなると何か山が少ないし平坦であり魅力がないのである

私が探求してきたのは風土と歴史である、場所の魅力である
それにしても何か私は旅をした、その跡をたどり紀行文を書く、旅には事前に用意する旅→実行する旅→回想する旅がある
そして意外と回想する旅が最後に重要になる、なぜなら回想できなかったら旅しても行ったことにもならないからである
現実に団体旅行した人がどこに行ったかも覚えていないということがあったからだ
だからいかに記憶が最後に大事になるかである
記憶というのは別に旅だけではない、人生は最後に記憶になる
記憶したものが人生になる、そして人生が記憶されたものを天にもってゆくともなる
それも怖いものになる
だから青春時代を放蕩していたようなものは老人になって痛切に後悔する
その時はいいとしてももう清純な青春時代は返ってこないからである
その時ただ後悔と罪の意識に苦しめられるだけだとなる
それで金持ちがいいようでも放蕩したりするからこれも危険だと思った
貧乏だったら放蕩などできないからである

人間はなにしかしら必ず心に刻印されて残されるものがある、経験するものが心に残されそれがトラウマともなる、戦争を経験したものはそこで人を殺したりしら絶対に忘れることはできない、それがトラウマとなる
それで昨日風が唸り吹いた、その時思い出した
姉が認知症になり狂いが起きたことを思い出した
それから自分の家はガタガタになった、恐怖の連続だった、それを思い出したのである

我が家に風唸り吹き思い出す姉の病や秋となりしも

その時実際は12月だった、寒くなる時だった、そうなったとき冬であり風が家に唸り吹いたのである、だからそのことがトラウマになっていてその時を思い出したのである
このように人の苦しい経験とかも自然に反映される
本当にその時以来プログに書いたように苦しみの連続になったからである

とにかく山形県は魅力がある、ただ山形県全体となると最上川とかあり日本海がありわかりにくいとなる、ただ東北に住んでいる強みは何度もその場を踏めることなのである

われおもう ふるさとの水
ことごとく汝のふところに湧きけるを
そは生命の泉なりき
そそぎてものを稔らしめき
蔵王よ 蔵王よ
母のごといつくしみの頬を濡らす山

真壁仁

故国山水多清暉
日帰日帰尚未帰
一夜夢乗皓鶴背
遠向明月峰頭飛 

(斎藤野) 
 
         
これなどでも風土の影響のもとに作られた、水清しであり山国だからである
会津でも水清しになるからだ、どうしても水が清いのは山国なのである
それで米もうまいとなる、水と米が深く関係していて酒でもうまいのは山国だとなる   

参照ーやまがた文学風土記ー松坂俊夫













2019年01月31日

雪深し(俳句十句) (会津と東北などの雪に関するエッセイ)


雪深し(俳句十句)

(会津と東北などの雪に関するエッセイ)

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会津なる大木一本雪深し

雪深く踏みて知るべし会津かな

雪深く代々の家重しかな

手仕事の技を伝えて雪深し

雪深く竹細工して長野かな

蔵の梁太しく籠る外は雪

雪深く黒ずむ柱年を経ぬ

雪深く巌の堅く譲らざる

雪深く黙しがちなる人の顔

雪ふるやマントの人や北の駅

雪深し訛りの強く北の国

雪深し烏の黒のなお黒し

(津軽焼)

土の色黒の素朴や雪深し

弘前や煉瓦の銀行朝の雪

区界に電車とまるや雪厚し

区界(くざかい)の雪の厚さやなお消えじ


立春もら近いけど東北は会津とか日本海側とか岩手でも青森でも山形でも雪である
福島県では会津が雪国だけど中通りでもそれほど雪はふらない、浜通りは二三回ふるだけである
それでどうしても雪国のことが実感として理解できないのである
ただ前にも書いたけど雪と言っても「心から信濃の雪に降られけり」という一茶は信濃の長野県の雪であり会津の雪もあり山形県の雪もあり岩手県の雪もあり青森県の雪もある
これらはみんな違っているのである、同じ雪でも土地によって違って感じるのである
弘前では朝の雪がきれいだった、それは雪に浄められるという感じの雪だった
そこに明治以来の古い煉瓦の銀行があるのもあっていた

そして雪というときテレビで長野県の戸隠(とがくし)のことを映していたがそこで竹細工をしていた、何かそれが雪国にあっている感じになる
なぜなら外は雪に閉ざされているとなると外で働くことができないからである
すると家に籠って仕事をするとなるとそうした手仕事になる
それは会津でも同じである、それで絵蝋燭と漆塗りの木工細工とかが発達した
雪国だとそういう家で籠って仕事することに向いているからである
こういうことは雪を知らないと実感できないのである

雪国から形成される性格もある、何か人間も開放的なくこもりがちになり口が重くなる
東北弁とか東北人の性格は雪国で寒いということで作られてきた
関西とかの言葉とあまりにも違いすぎるからだ、抑揚が違う、ズーズー弁である
それはやはり気候の影響が大きいのである
でも東北がどこでも雪がふるというものでもないし寒いとも限らない
宮城県とかは海に面している地帯は別に寒くないのである
それで方言で語尾がだっちゃだっちゃというのである
これはんだんだという口ごもるような言葉とは違う感じになる
何か相手に押し付けるような感じになる
宮城県は東北ではないというときそうなる、伊達政宗のような人は東北人ではないとなってしまうのである、

会津で良くいうならぬものはならぬということでもそうである
これはやはり雪国で頑固になり譲らない性格が形成されたのである
何か風土に影響される、だから津軽焼は土の色と黒になっている
この黒が何か冬に合う、家でも中に黒の煉瓦のようなものをあしらって落ち着く空間を作り出している映像を見た
黒がかもしだすものは何か重厚で落ち着くとなるからそういう作りにした

私は「家」といふものが子供の時から怖しかつた。それは雪国の旧家といふものが特別陰鬱な建築で、どの部屋も薄暗く、部屋と部屋の区劃が不明確で、迷園の如く陰気でだだつ広く、冷めたさと空虚と未来への絶望と呪咀の如きものが漂つてゐるやうに感じられる。住む人間は代々の家の虫で、その家で冠婚葬祭を完了し、死んでなほ霊気と化してその家に在るかのやうに形式づけられて、その家づきの虫の形に次第に育つて行くのであつた。 
「石の思ひ」坂口安吾

雪国の家となるとやはりこんな感じになるのだろう

岩手県の区界(くざかい)は標高が高く雪が厚く積もっていた、それは春になってもなかなか消えないのである、その区界とはまさに字のごとく境なのである

浜通りだともう梅が咲いた、意外に早いなとも見た、でもまだまだ東北の半分以上は冬である、浜通りでも二月に雪がふりやすい、東京が降るとここも雪がふりやすいのである
とにかく雪の感覚がここではわかりにくい、いつでも曇って雪がふりつもるというのも嫌になるだろう、そういう所に住んでいれば自ずと性格も陰気になって不思議ではないのである、浜通りの人間は比較的明るく開放的なのは海に面して気候がいいからである
雪はほとんど降らないからである





2019年01月27日

秋の日本海に沿って自転車の旅をたどる(俳句と短歌) (記憶をたどる旅の不思議)


秋の日本海に沿って自転車の旅をたどる(俳句と短歌)

(記憶をたどる旅の不思議)
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市振に来たるやあわれ秋鴎

出雲崎沖に佐渡島遠きかな旅人よりて秋の日暮れぬ
良寛の行きし杣道我が歩み五合庵なれ生きにしものかも
良寛の五合庵より野積かな秋の夕日の海に映え没る
良寛の五合庵より一本の松によりさり月のあわれも
寺泊出雲崎すぎ日ば暮れむ月のあわれも松によりさる
秋雨のしととふりにき旅人や瞽女(ごぜ)の碑ありてあわれ深まる
直江津に一夜の宿や旅人のはや去りにけり秋のふけゆく
市振に着きしや遠く我が来る秋の陽没りぬ日本海かな
市振の漁港小さくあわれかな烏とまりて秋の日暮れぬ
いづこなれ山間の刈田にテント張り泊まりて去りぬ何を記さむ
雨しとと関所のありて夕べ越ゆ江戸の道のりここより思ふ
この世に生きるは謎や一夜の宿出会いし遊女も記憶なるかな

黒に映ゆ松本城や藤の花
黒に映ゆ松本城や雪の嶺

旅の記憶も30年くらいすぎるとあやふやになる、なぜ日本海を自転車で旅したとてしどうして日本海まで行って帰ってきたのかわからなくなった
第一そこまで自転車で行くとしたら相当に遠い
覚えているのは良寛の五合庵により野積(のづみ)の民宿に泊まり寺泊に来て出雲崎に来て日本海にそい行った
その時秋であり満月がでていた、それは確かに前に記録して短歌にしていたがどこに記録したか不明になった、おそらくワープロに記録していたのだろう
それでワープロから呼び出されなくなり古いワープロを東京まで行って買うほかないとなった
人間はともかく忘れやすいのである、まず旅しても十年などすぐすぎる
すると記憶はあいまいになる


出雲崎側に「お春瞽女之碑」がある
車で走ると気づかず通り過ぎてしまう

昭和22年の冬
出雲崎の門付けの帰り
盲目のお春さんは吹雪に埋もれ帰らぬ人となった


瞽女宿では、そろそろ瞽女の来る頃、布団を干したりして準備をします。暖かい布団や風呂、心づくしの食事、気兼ねなく過ごせる部屋などが用意されます。もちろん、皆無料です。瞽女宿の人だけでなく、村の人も手伝いにきます。村中で瞽女を暖かく迎えてくれるんです。

杉本家の初代親方マセは江戸時代の生まれで幼い時に天然痘にかかって片目が潰れ、顔中にあばたが残り、「お前はその顔ではいいとこへ嫁に行かれん。いっそ瞽女になるか」と父親に諭されて丸山という親方の弟子になりました。




瞽女(ごぜ)というのも目が見えない女性である、とにかく江戸時代は眼病を患う人が多くそういう人がなった仕事である、それは栄養不足でそうなっていたのである
座頭などもそうである、0・8パーセントが眼病を患っていたとかなる
そもそも病気は江戸時代には直せないのである
天然痘もそうである、そうした伝染病も多いから病気を直せずに死ぬ人が多かったのである
でもそういう人に江戸時代の人は情がありなさけをかけていたのである
瞽女(ごぜ)宿まで用意して歓待していたのである
それは芸を楽しむということがあったにしろやはり福祉的なものもあったとなる
ただ座頭などは金貸しで特権が幕府から与えられて大金持ちになっていた人もいた
これも現代でも福祉の名で施設とかもうけている人もいるから同じだと思った
人間のやることは時代が変わっても似ているのである
とにかく瞽女(ごぜ)の碑を見たのは記憶している

それから直江津に一夜泊まったことも記憶している
そしてわからないのは糸魚川まで行って親不知に行って市振に行ったことは記憶しているただ糸魚川を越えて市振に着いたということは地図をみてふりかえりそうだったのかとなる、市振は越後と越中の境であった、そこで関所があった
市振とは振り出すという意味であり境を越えて振り出す振り出しの地としてつけられた
江戸時代は境を越えることは外国に行くとにていたのである

それで芭蕉の句の「一家に遊女もねたり萩と月」は市振で詠まれたのである

今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返し*など云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ*。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し*。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて*、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ*」と、泪を落す

これは遊女だが瞽女ともにているのである
そこに漁港があり船が泊まっていることは覚えていたがそこに松があったことは記憶していない、松は何か人間に見えるのである、松によるというとき人間に寄るという感じになるのだ、だから日本人にとっては松は一番親しいものなのである、松は友にも見えるのである

旅路行く北陸道の松あわれ名残り惜しむや秋の陽没りぬ

こんなふうになる、日本海側の松はまた何か独特の風情があった

自転車の旅だと宿に泊まりにくい、そこでテントは不可欠だった、何か山の方に分け入って刈田の畔のような所でテントを張り寝たことを覚えている
そこがどこかは不明になった、何かを記すにももう記憶をたどるしかない、それもとぎれとぎれになって不明になった

そして市振から富山の方に行ったのか?山の方に向かいそこに関所があった
加賀藩などがその関所を越えたとかある、あそこから江戸へは遠いと思った
ただその関所のことが不明になった、でも記録したものが見つかればまたこの文は編集しなおす

そしてなぜか松本城のことを今日テレビで見て思い出した
松本城からアルプスの雪の嶺が朝に映えていた
あそこには春に行った、秋にも行った、それで思い出して俳句を作った

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黒に映ゆ松本城や藤の花

黒に映ゆ松本城や雪の嶺

あの黒色が独特なのである、山国の城として黒があっているとなる

会津の城ももともと蒲生氏郷が作った七層の黒川城があった、この城は圧巻だった
まさに松本城ににたものだったのである
今の会津城にはあまり魅力を感じない、中は博物館のようにもなっている
それは新しく再建されたから歴史を感じないのである
新しく再建されるとそれは博物館のように見えるからだ
ただ松本城は当時の面影を残している、立地もいいのである

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七層の会津の黒川城

いづれにしろ思い出す旅というのも不思議である、それがインタ−ネットだとしやすいのである、情報がありそれをたどって記憶の旅ができるからだ
ただこれも実地にその場に行っていないかぎり活きたものとならない
そして地図を見ると何か記憶と一致しない、だから地理をわかるのは容易ではないのだ
冬は冬ごもりであり思い出す旅には向いている
じっとしていてストーブにあたたまり思い出す旅をするのである
だから私自身はもう旅に出たくないのである、これだけ旅をすればそうなる
もう飽きるほど旅したからである














2018年11月03日

青森の青からイメージされるもの (青森は姥捨て山ではないとコメントがあったが・・・)


青森の青からイメージされるもの

(青森は姥捨て山ではないとコメントがあったが・・・)

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東京都港区にある「青山霊園」の「青山」とは、美濃国郡上藩主の青山家の下屋敷に由来するもので、霊園はその屋敷跡に造営されたものだ。偶然ではあるが、「青山」はまさに墓地にふさわしい地名であった。福島県会津坂下町の青津には、亀ヶ森古墳と鎮守森古墳があり、隣接して青木もあり、墓地の意味の「青」だ。

ところで「青」の地名が日本海側に集中していることは早くから注目されてきた。谷川氏は、「青」地名は埋葬場所との関連とともに、古代海人族の居住地でもあることを示唆し、日本海側に集中しているのは、彼らが対馬海流に乗って移動した結果だという。

青というのは墓を意味している、そして日本海側に青とつく地名が多いという時青森は日本海を通じて交流がありその影響があったとなる
恐山とかの霊場とかイタコもいるのもそうかもしれない
何か青森とは神秘的にもなる、福島県というとき名前が良くなかった
なぜ福島県なのか皆目その由来もわからない、だから地域性がない
人間は地名が問題になるのは地名から人間はイメージする、言葉からその場でもイメージするからである、青森県は何なのだろうとなるとまず青森に注目する
岩手県だと岩手という言葉に注目してイメージする
言葉の喚起力が意外と印象を決めることがあるからなのだ
それで名は体を表すともなる

青旗(あをはた)の木幡(こはた)の上をかよふとは目には見れども直(ただ)に逢はぬかも

天智天皇が崩御の前後に倭大后(やまとのおほきさき)が詠んだ三首の歌のうちのひとつ

人魂の さ青《を》なる君が ただひとり 逢へりし雨夜の 葉非左(???)し思ほゆ

  〜作者未詳 『万葉集』 巻16-3889 雑歌
 
 
 青は森をイメージもしているが人魂のさ青・・・となるとこれは死者をイメージしている、青には何かそうしたし死をイメージするものがある
つまり青森からイメージするのはこうしたものであり神秘的になるのだ

青森は日本海と縄文時代から関係している、丸山三内遺跡でもヒスイが発見された
それは約600km離れた新潟県糸魚川周辺から運ばれた。
青森はもともと日本海沿岸と交流があり青という地名がついたのはそうした由来があってだとなる

いづれにしろ青森は最果ての地にふさわしい名である、だから姥捨て山なのかとなるとき恐山とか霊場としてあるのもわかる
日本は実際は東北でも多様な地域性がある、日本の列島の端となると長崎とかなるが青森とは全く正反対の地域である、そこは出島があったごとく江戸時代に外国との貿易があり先進地域だったからである
人間は何か最果ての地にひかれる、それが青森なのである
でも北海道の函館となると全く明治以降のいち早く近代化された港であり都市だから違っている、アイヌがいたとして全く違った都市なのである

2018年08月09日

菖蒲と金色堂 (芭蕉の俳句について)


菖蒲と金色堂

(芭蕉の俳句について)

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夢の跡金色堂に菖蒲かな

雨しとと菖蒲の池をそめにつつみちのくの都の跡をしのびけるかな

芭蕉の奥の細道の俳句は不思議である、「五月雨やふりのこしてや光堂」というのは
雨の時期に来たからである、観光に来たら普通雨だと嫌だとなる
でも日本は雨の国なのである、外国では本当に雨がふらない地域が中東とかである
日本はいつも湿っている、だから湿気で余計に暑く感じる
今年が異常に暑いのは都市砂漠化して暑いということもある
まず平泉を訪れたフランス人とかいたけどこれを理解するのはむずかしい
フランスでも乾いた風土だからである
日本のような雨の情緒にはなりにくい、「夏草やつわものどもが夢の跡」でもそうであるとにかく日本は雑草がすぐに伸びるのである、農家の仕事は毎日草刈りなのである

平泉というとここからは今だと近い,新幹線で近くなった
でもなぜ芭蕉の句が生まれたのか?それは時代背景があった
平泉は江戸から遠い僻地となっていた、そこまで行く過程がありそれがこの句が作られた背景である、はるばる江戸から来てようやくたどりついた昔の都の跡には何もなくかろうじて金色堂だけが五月雨のふりこめられるなかにあったとなる
それはやはりその遠さの感覚からも生まれたのである

平泉は近いから春秋冬に行っているが夏には行っていなかった
今回菖蒲祭りを見に行こうとしたがこれも行けなかった
何か介護が終わっても遠くに行けなくなった、家を留守にすらから行きにくいとなる
ただ平泉となると近いから時々想像でその場を回想したり想像したりする
俳句でも写生だというとき想像する俳句は良くないのである。
どうしても実感がこもらないからである

俳句でも文学でもなんでもそうだがやはり継続したものとしてある
芭蕉の俳句はやはりそれがい300年すぎても深みをましている
それは確かに時代背景もありその時代が作ったものだとはなる
今なら東京から二時間で平泉に来たとなっても何の感懐もなくなるだろう
現代の旅は何か浅薄になっている、どこにでも楽に早く行けるのだが旅になっていない
ただ宿でうまいものを食べるとか温泉にひたるとか保養の旅なのである
ただ現代で有利なのは歴史的な場所に何回も行くことができるからそこでその場のことを深く追及して知ることができる、ある場所でも知るには四季に訪れる必要があるからだ
それで平泉についてもわかるとなる

自分の俳句も『夏草やつわものどもが夢の跡』の夢の跡とをとり作ったとなる
800年過ぎても平泉が鎌倉幕府によって滅ぼされて堂塔伽藍が焼失した記憶は残っている、とにかく芭蕉の俳句は色あせない、普通は時間がたてば色あせてくる
その色あせないことが古典になる、千年でも色あせない深みがあるからそうなる
だから「芸術は長く人生は短し」となっているのである

2018年03月19日

盛岡短歌十首(秋から冬) (盛岡は芸術都市:詩人の街(続2)


盛岡短歌十首(秋から冬)

(盛岡は芸術都市:詩人の街(続2)

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中津川の瀬音を聞きつ岸歩む秋の日の石にさして休みぬ

長々と柳しだれて白壁の商家も古りて秋の日暮れぬ

上の橋わたりてあわれ芒かな晩菊映えて夕暮れにけり

擬宝珠の古きやあわれ芒かなその色錆つ秋の夕暮

上の橋わたりてあわれ夕ぐれや盛岡の街の青きともしび

啄木に賢治歩むや盛岡のともしびあわれ秋の夕暮

盛岡の銀行古りて秋の薔薇咲きつつあわれ心にしみぬ

盛岡に三色の秋の薔薇咲くや煉瓦の銀行古りて残りぬ

盛岡の城跡歩みて紅葉映え散りて美し流れの音聞く

盛岡の川の岸辺にコスモスのゆれて歩むも街のにぎわい

長々と柳しだれて白壁の商家の古りて秋の日さし暮る


盛岡は詩の街であり浮世絵のような版画のような絵になりやすい街である。
二つの川が流れていて中津川は浅い川であり瀬音がする、一方北上川になると
流れが速く深いからまた別である。
一番情緒があるの東北では盛岡市である。あとは東北で盛岡市のように感じる街がない,全体的にみて乱雑ではないし一応自然が街の中にあるたかもしれない
街が仙台のように拡大化すると情緒が失われるのである。

古い煉瓦の銀行が未だに残っているのもいい,あの銀行は貫祿がある
銀行というのはそれだけ文明の象徴だったともなる
何かそこでは質実な感じになるし銀行は今とは違っていた

ともかく盛岡市は啄木が住んでいたり賢治が来たりしていた街である
東北では仙台と並んで都会だったのである。
相馬市となるとそういう都会になっていない,仙台市は大きすぎるが盛岡はちょうど30万とかで大きいしまたそれほど大きくないということで情緒がある
岩手山とかもまじかに見えるし川が二つあるしそれがいいのである。
散歩するにもいいのである。

そして今は自分は介護を十年するようになってから遠くへ出かけない
ついに去年から春まで一回仙台に行ったきりで行っていない
ほとんど近間を回っているだけなのである。
ただこうして思い出す旅をしているのも不思議だとなる
盛岡はもう新幹線で50分でありここから仙台へゆくより近い
だからいつでも行けるのだけど回想の旅をしているのである。
ただ春の桜は盛岡では見ていないのである。

タグ:盛岡の短歌

2018年02月28日

最上川、日本海沿いの旅情の秋の短歌連作


最上川、日本海沿いの旅情の秋の短歌連作




最上川流るる水に春日かな

松江にて茶町とあわれ秋柳


石の橋かかりてあわれ遠きかな左沢(あてらさわ)の町春の灯ともりぬ

最上川流れくねりて滔々と春日輝き写りけるかな


最上川流れくねりて滔々と流れゆくかな春の日写りぬ

虫の音や旅人の影ここにあれはるか流るる最上川かな

幽遠に白糸の滝下る川紅葉に映えて夕べ淋しも

最上川船着場かな大石田実り豊かに昔栄いぬ

最上川下りて酒田や秋のくれ栄し昔しのび泊まりぬ

酒田なれ灯ともりあわれ旅の宿木の灯台や秋の夕暮

佐渡島遠くもあわれ岩あらわ雨に打たるる野菊の花かな

波の音の心にしみぬ古き岩月のいでにつあわれ深まる

月まるく海にい出にき夕日没る湊々のもの寂びあわれ

船とまる小さき漁港日本海家々あわれ秋の陽没りぬ

佐渡島遠くもあわれ岩あらわ雨に打たるる野菊の花かな

佐渡島流される人の跡とあれ枯野に海やあわれ深まる

船泊まる小さき漁港日本海家々あわれ秋の陽没りぬ

旅人の遠く来たりぬ秋の雨山越え暮れぬ関所をあとに

旅人のいづこさまよふ山越えて関所のあれや秋の夕ぐれ

隠岐の島ここより遠き松江かな我は行かじも秋の夕ぐれ

旅終えて我が影なおもさまようや今宵いづこに泊まる宿かな

陽炎のゆらめく中に山頭火埃の道を歩む影見ゆ

松江と常夜塔

また最近旅をふりかえる,印象に残るのはやはり自転車で旅したことである。電車で旅したさともありそれも思い出してこの短歌連作になった
思い出す旅も不思議なのである。
この思い出す旅をするにはやはり歩くとか自転車とかでないとできない
電車の旅ではできない,峠を越えたとか何かそうした体に記憶できないのである。
風でも雨でも感じないとまず旅にはならないからだ,車は風でも雨でも自然をシャットアウトするから旅にならないのである。
だから現代から旅は消えたし旅人もいないのである。
旅人が存在したのは山頭火までだったのである。

最上川は水量が日本で一番豊かだろう,だから船運があった,日本ではあれだけの水が豊かに流れている川はない,必ず浅瀬になり船でゆくことはむずかしい
でも最上川でもそういう場所があり船を曳くところがありそれを仕事にしていた村があった,最上川で気持ちがいいのはあれだけの水が流れていることなのである。
中国でもヨーロッパでも大河があり船の運行があったし今でもある
日本にはあっても短い距離である,最上川は長い距離だから日本ではそういう川はほとんどないのである。

最上川から日本海に出る,日本海は太平洋側とは全然違った趣になる
海から太陽が出て海に沈むからまるで変わった感覚になる

初めに生んだのが淡路島、
次に生んだのが四国、
三番目に生んだのが隠岐。
そして九州、壱岐、対馬、佐渡と生み、
ついに本州を生みました。
この八つの島を大八島国といいます

なぜ島がこれほど入っているのか?隠岐も入り佐渡島も入っている,ということ海人族が日本本土に島伝いに渡ってきたことを示唆している
佐渡島まで入っているのは日本海は航海しやすいからである。日本海側の歴史が古いのである。そうでなければこれだけの島を神話に記さないだろう。
本州が一番最後に生んだというのもそうである。

いづれにしろ旅をふりかえると不思議である。何かまださまよっている感覚になる
それだけ旅をしたということもある,記憶に残るのは自転車の旅だった
さまよっている感覚になるというときやはりそれは歩くか自転車の旅である
電車の旅ではさまよっているとはならないからである。
そして記憶が定かでないからそのさまよった場所があいまいとなるのである。

現代はいろいろなものを得たのだが旅はなくなり旅人はいない
それで皮肉なのは今ほど旅をしている時代はないとなっている
でもその旅は観光旅行とかグルメ旅行とかなっていて本当の旅ではない
旅人はいないのである。時々確かに国道を歩いて旅している人がいても
それが外から見て旅人に見えないのである
その姿は車の喧騒に消されて旅人は旅人でありえないのである。
江戸時代は庶民でも普通に旅人にもなっていたのである。
それは歩いていたから自ずと旅人となっていたのである。

ともかくずいぶん自分も旅したけどそれも10年間はしていない,つまり旅は終わったともなる,それだけの気力もなくなったとなる
でも自分の人生をふりかえると旅だったともなる
仕事もしていないし残ったのは旅の記憶だとなる

人生というものは60以降になり必ずふりかえりその人生が何であったのかわかる
会社に一生勤めた人はそれが人生だったのである。
それが何であれそうである。だからもう一度病気になった人は仲間と一緒に働きたいと思ったのはわかる,その人は倉庫係とかで働いていたのである。
たから常々に言っているけど何であれそれが外から見た無益であれ無駄であれ何に時間を費やしたかが人生だったとなる
人生も最後になればただ記憶をたどることが生きることにもなるからだ
そして最後に人間は最も印象に残ったことを記憶を語りつづける
戦争を経験した人は認知症になって千回もそのことを語りつづけた
それで嫌になったがそれが人生で一番印象に残っていたからそうなったのである。

あしなたは最後に何を語るのか?

その語ったことが人生だったともなる

陽炎のゆらめく中に山頭火埃の道を歩む影見ゆ

山頭火は最後の旅人だった,あそこまで旅できるエネルギーがあったことは驚きである。旅に憑かれた人だったのである。ただ作品的には俳句でも深いものがない
その時々のものを簡単に俳句にしたという感じである。
でもあれだけの旅をした旅人であった最後の人だったとなる
芭蕉は旅を深い哲学的な人生論にまで昇華した,それと比べると山頭火はそうはなっていないが最後の旅人だったのてある。なぜならまだ歩いて旅していたからである。

ある時社会の光景から消えてゆくものがある,江戸時代から明治時代になったときそうである。鉄道ができればどうしても歩く旅自体が消えてゆく,でも明治から戦前までは歩いて旅していた人が結構いる,文人でもいる
戦後はその旅人が消えたのである。車時代になったらもう旅人である余地もなくなったのである。
観光旅行している人は無数にいる,でも旅人ではない,旅人はいないのである。
バイクでも車でも旅していてもその人たちが旅人には見えないのである。
何か通過してゆく物体ののように見えてしまうのである。
だから一見文明化して便利になったとしても実際はいろいろな今まであったものを失っているのである。
それは人間として生きることをつまらなくしているのである。
旅人など無用のものでありそんなものいなくてもいいともいえる
でも何かそれが社会でも人間としてつまらないものにしている
ただ現代で旅しようとする時,かなりの演出をしなければならない,労力もかかるのである。江戸時代なら歩いているのだから何も演出しなくても旅していたのである。

ふりかえると自分は以前として旅していて全国をさまよっているという感覚になる
でも十年とか二十年とか三十年とか過ぎる記憶も定かでなくなっくる
でも何かまださまよい旅しているのである。
人間は様々な場所に住んでいる,旅をしてその様々な場所を思い出す
左沢(あてらさわ)というのは印象に残っている
あの石の橋とか何か遠い場所に思えた,それが記憶の中に浮かんでくる
山形県ではあそこが印象に残っている、あそこには電車で行ったのである。
そこは秋ではなく春だったのである。
でも前に書いていたからその記録から記憶をたどる旅をしているのである。


東北-新潟県(旅の思い出)

2018年01月24日

小国の地名が多いのはなぜか? (山形県ー福島県(伊達市)→青森県の旅)


小国の地名が多いのはなぜか?

(山形県ー福島県(伊達市)→青森県の旅)

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小国町雪に埋もれて遠きかな電車に乗るも数人のみ

バスをおり小国とあれや梨の花一時おりて我が歩むかな

青森のトンネルぬけて遠きかな小国通るや雪に埋もれぬ

二里三里の険阻な山を越えなければ入っていかれない川内(こうち)が日本には多かった、それを住む人の側ではあるいは小国と読んでいた

 隠口(こもりくの) 泊瀬小国に 妻しあれば 石は履ふめども なほし来きにけり

 大和の国の初瀬(はつせ)の地は、四方から山が迫っていて隠れているように見える場所であることから、地名の「初(=泊)瀬」にかかる。

万葉集時代から小国という地名があった,なぜ小国が多いかというと日本は山国でありそうして隔絶された場が多いからである。
そこで自給自足的生活をしていたことが長いのである。

この万葉集の歌などそうである。隠口は隠国でもある,初瀬というとき川であるから川の上流が泊瀬小国になる,初瀬川が流れて長谷寺がある奥が隠国なのである。
そういう地形の地が日本には多いのである。

小国茶畑(バス停)とかがあってそこにおりたのか?福島市にバスでゆくとき一時おりた
そこは山間の中の平坦な地である。ただここでは小国の領域が広いのはなぜなのか?
どこか一カ所が小国という地域でそれが全体に広がったのか?
ただここは山を越えて平坦な地であり福島市に向かうとまた山でありそうした小盆地は日本に多いから小国は地形に由来している

山形県の小国町は町の何しているが実際は一地域の名でありその小国を姓にした武士がいる,土着した武士である。そこまで米坂線で行った,この電車は閑散として数人しか乗っていなかった,その時雪に埋もれた時だった,別にその時は山を越えることはなかった
小国町に入ると山がありその山を越えた地域に隠された小国があり小国町となった
一小地域が字地名が広い地名になる,第一大和(ヤマト)という地名は奈良の小地域字地名のようなものが日本を現すようになったことでもわかる
地名の基は村でありそれも字地名のようなものが村の名となる

市町村合併するとこうした歴史が消失することがある,この辺でも

双葉郡に属するが、1896年以前は標葉郡に属していた地域である。元々は新山町(しんざんまち)と長塚村(ながつかむら)であったが、これら2つが1951年に合併して標葉町(しねはまち)となり、その標葉町が1956年に改名して双葉町となった。

この新山町は自分の父親の勤めていた酒屋があった所である。
長塚駅もあった,双葉駅はなかった,何か合併するとこうして昔のことがわからなくなる原町は原町村があり一騎だけ野馬追いに一応でているが小さな村だった
そこが雲雀が原があり家はなく原っぱだったのである。それが原町市となり合併して南相馬市になった
相馬市ももともとは中村だったのである。いわき市ももともと平駅があった
いわき市というと広すぎる地域になる
だから請戸の篤農の農家が野菜を平に売って財を築いたというとき平は街になっているところであり今のいわき市のように広大な地域ではなかったからまぎらわしくなったのである。

青森県の小国も遠かった,黒石市からトンネルをぬけると小国であり閉ざされた所である。そこから温川温泉の山荘が奥にありそこには一軒しか家がない,その山荘だけである
ただそこから十和田湖に道が通じていたのである。十和田湖が近かったのである。
そこは隠された秘境だともなる,そこに二日泊まった
黒石の街なかには古い小店通りがありおもむきがあり街中に温泉もあった
青森は独特の情緒ある県である。

隠口(こもりくの) 泊瀬小国に 妻しあれば・・・

これが万葉集時代になるとどういう感覚になるのか?そこはまさに隠(こも)る国である
今の感覚で読むことは全くできない,その妻は本当に奥地に隠されて滅多に会えない所に住んでいたのである。山を越えて分け入り歩いて行くほかないからである。
道も悪いし苦労して行かねばならない道だったのである。

今何かみちのくというか東北的なものがどこに残っているかというと青森県かもしれない奥地の秘境という感覚になる,本州の最果てということでも魅力がある。
福島県は東京に近すぎるからそうなりにくいし平泉でも東京から近すぎるのである。

冬の旅は雪に埋もれているから心に残りやすいということかあるかもしれない,雪が積もっているからそこにも人が住み暮らしがあるということで感慨深いものになる






タグ:小国の地名

2017年12月09日

盛岡短歌十首(秋から冬) (盛岡は芸術都市:詩人の街(続)


盛岡短歌十首(秋から冬)

(盛岡は芸術都市:詩人の街(続)


盛岡は芸術都市:詩人の街


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盛岡の城跡歩み静かかな紅葉に映えぬ岩手山見ゆ

盛岡の城跡に来て寒しかな散れる紅葉を踏みて帰りぬ

中津川岸辺のベンチ石により秋の日さして流れの音聞く

中津川は流れ静かに木の葉散り岸辺をそぞろ歩む人かな

盛岡の中津川の岸老木や秋の日のさしてそぞろ歩みぬ

盛岡に銀行古りぬ秋の薔薇咲きてあわれや街を歩みぬ

盛岡や朝の光りに紅葉映え流れ二筋街中流れぬ

盛岡の公園の池凍りけり城跡静か昔の跡かな

真向かいに迫り望みぬ岩手山雪にし寒し朝の盛岡

雪埋もる小岩井の森聞こゆるはしきりにたたく啄木の音


盛岡は街として東北では魅力がある,東北では街自体に魅力がある市は少ない,
盛岡は街としての魅力もあるし自然環境としてもいいのである。
岩手山があり北上川が流れ中津川が街中を流れている
それで落ち着くのである。城跡もありと城下町の雰囲気もある
そこに啄木と宮沢賢治が詩人が育ったのである。
それは盛岡という街があったからだともなる
田舎だけではそうした文化とかははぐくまれない
ヨーロッパでも中都市にフィレンツとか他でも文化が栄えたのである。

盛岡の雰囲気と仙台の雰囲気はかなり違う,盛岡はなにか鄙びたものとハイカラなものが混合している,それは戦前から明治からでもそうだったのである。
だから賢治みたいな詩人が生まれたのである。
鄙びたものとモダンなハイカラな文学を創造したからである。
それはやはり盛岡という街があったことも影響しているのである。

平泉は古都だとしてもそこにあるのは金色堂だけであり跡は大泉が池とかあるが街はない周りは田んぼだけなのである。だからみちのくの古都として偲ぶといっても金色堂だけだから淋しいとなる,後は北上川と田んぼを見るだけだともなるからだ
仙台も森の都といっても何か盛岡と比べると城下町としてもそうした雰囲気を感じないのである。

街には明かにそれぞれの雰囲気があり個性がある,だから何回も原町市だった,南相馬市の原町区と城があった相馬市が雰囲気が違うと書いてきた
それは外から来た人にはわかりにくいのである。
原町はいち早く明治以降原町機関区としていち早くモダンな近代化した街だったからである。
小岩井農場も牧場も近代的な農業として作られたのである。
それで賢治の「注文の多い料理店」という童話が作られたのである。

他でも街には個性があるが一回くらい行ってもわかりにくいのである。
仙台とか盛岡は近いからわかりやすいとなる,会津若松市は有名だけどあそこに城下町の雰囲気がそんなに感じない,なにか城から離れた所が田んぼになっていて虫が鳴いていたのが印象に残ったのも不思議である。
城下町として感じるものがそれぼとない,ただこれは人によって感じ方が違うから感じる人は感じる,自分が東北で一番魅力を感じるのは盛岡である。
あとは弘前市だけどそこは遠いからわかりにくいとなる

みちのくは平泉までだったというとき盛岡まで芭蕉も行っていないというときみちのくと言っても広いからそうなる,青森はみちのくとしても果てになるからだ
盛岡は仙台からも近いから身近なのである。
新幹線で今や仙台から五十分でありここから仙台へ行くより本当に早いのである。
だから新幹線で盛岡に行くと不思議になる,岩手山でもすぐ近くにあるように見えるから不思議である。新幹線は距離の感覚を変えるのである。

岩手県に盛岡がありそこに啄木とか賢治が生まれたのも育ったのもやはり環境が影響していたのである。詩人をはぐくむ街として盛岡があったともなる
仙台からだと詩人は生まれにくいだろう。ヨーロッパでもフィレンツにルネサンスが生まれたのはそれだけ文化を育む都市だったとなる
ただ一回くらい行ってもわからなかった

盛岡の城跡は石垣でも端正に感じる,平地にあり平城であり落ち着いた感じになる
城跡の雰囲気でも違っている,ただ盛岡の歴史となるとわからないことがある
仙台の青葉城とはまるで違った感じである。山城と平城の相違が大きいのである。
そして何か落ち着く平静の感覚になるのは城の石垣が幾何学的に整然として配置されているからである。ピラミッドを見ると落ち着くというときとにている感覚である。
東北では小高い丘とか山城系統が多い,白河城でも二本松城でもそうである。
会津は平城である。盛岡は城跡と街が調和している,北上川と中津川が街中を流れているのも情緒がある。心洗われる感覚になる

タグ:盛岡

2017年06月08日

尽きる線路、消滅した村 (山形鉄道フラワー長井線の終点まで)


尽きる線路、消滅した村


(山形鉄道フラワー長井線の終点まで)

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記憶の中の線路

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終点の荒砥駅をおりて菖蒲という地名が二つもあるのもいかにも
山の奥という感じになる

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線路尽きてその奥なれや住む人のありしも消えて夏草うもる

蚕桑駅おりる人あれさみしきや線路はつづく終点までに

織機駅その名に思ふ昔かな機を織る音そ聞こえて石の鎮まる

夏菊の駅に映えにつ高校生おりるときのみはなぎにけり

一度のみ乗りし線路の尽きにけりその果てゆけば村の消えにき

終点の荒砥駅におり夏の日や菖蒲の地名残りあわれも

かつて住む貧しくあれどともる灯や消えにし村を惜しみけるかな


日本でこういうローカル線がまだ残ってるのが不思議だとなる、ここには確かに夏に一回乗った。すぐに終点になってそのあとは線路がない、調べると機織駅とか蚕桑駅とかある機織駅の名は機織川があったからだという。蚕桑駅は養蚕でありそれはどこでもそうだったからわかる
手で機織りしていた人は戦前までいた。その女性は明治生まれであり母の実家で機織りしていたのである。家の中に機織り機があったとなる、そういうことはつづいていたし珍しいことではない、大量生産する前はそうだったのである。

古事記によりますと、天孫ニニギノミコトが笠沙の浜を歩いていたとき、海辺に八尋殿を建てて中で機を織る美しい機織女を見つけました。衣は魂を包むものとして神聖なもので、霊魂のシンボルとされていました

河内女(かはちめ)の 手染めの糸を 絡(く)り反し片糸にあれど 絶えむとも思へや
  〜作者未詳 『万葉集』 巻7-1316


機織り石(はたおりいし)の伝説
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これは日本だけではない世界的に機織りの歴史があり古い、人類がはじまって以来この業はしている。
その後自分の母親が原町の紡績工場で働いたけどその時は大量生産になっていた。

まずその線は乗り降りが少ない、一日駅でも50人以下だから良く維持できると思う
常磐線は減っても何百人駅で乗り降りがまだある、原町とか相馬市は4,5万の人口があるからだ。スーパーヒタチが急行が走っていた路線でもあった
それに比べるとこうした線が残っているのが日本である。

自分は車をもっていないから車で旅していないから車で旅する感覚がわからないのである一方鉄道を利用しなくなった人は車だけ利用する人は鉄道の乗り方さえわからない人が多くなっているのだ。これも時代である。
この線に乗った記憶も薄れている、それで記録したものを読み記憶をだどる
この線を思い出したのは限界集落で消滅したという村があるとインターネットで発見したからである。それは終点の荒砥駅からさらに山に分け入って所である。
平田村でありそこはすでに人は住んでいないと報告がある。

こういう限界集落が消滅してゆくのがすでに増えてきているのだろう。
山形というのもやはり奥深い知られない場所がある、そして線路が尽きると自分には車がないのだから行くことができなくなる、すると何か道が尽きたという感じになり遠い感覚になる、鉄道で旅しているとそうなるのである。それは車で旅していてはわからない心境である。

当時、村では、水田耕作、青苧( あおそ) 栽培と麻布作り、養蚕業が盛んで
あり、冬は炭焼き、女子は機織で生計を立てていた。その後、出稼ぎが盛んに
なっていった。大瀬集落と平田集落を結ぶ道路は、1962 年度に車が通れるよう
に改良され、1966 年から林業構造改善事業が導入され改修が行われた

農山村集落の消滅メカニズムと再生可能性

ここは二十数戸あり200人くらい住んでいたが2000年くらいに消滅した。
山形市の方に教育も便利だとか道路ができて移るようになったのも皮肉である。
交通が便利になるとかえってこうなるのである。
他にも白鷹町では消滅した村がある。

何かこういうふうに消滅する村というときこの辺でも浪江駅までは常磐線が開通したがそこが終点でありつながらない、するとその先がやけに遠く感じられるのである。
別に道路は通じているから車だったらそうは感じないのである。
終点で線路が尽きることは何か特別の感情をいだかせるのである。

飯館村とかでもこうして蕨平の人と鹿島駅であったが40軒があったのが一軒しか残らなかったというときもそうである。
すると草野で小宮とかへ分かれ道がありそこから蕨平でも通じていた。
それは人が住んでいる家があるという感覚で別れ道があった
もしそこはこのように消滅するとここの先には家がない人が住んでいないとなり感覚的何か自分の書いた童話のようにはならない、地名とは人が住んでいて活きているからである蕨平となると草野の中心地域から相当に離れているから余計にそうなる
もうそこは原野化して森になってしまうかもしれない、飯館の中心地域は避難区域になっても頻繁に川俣や福島市に通じる道路は車が通っていたから違っていたのである。
飯館村はそれだけ広いからそうなった。

いづれにしろ何度も言うように旅でも記憶が大事である。記憶が消えるとそこは存在しなかったと同じなのである。だからホームページで20年前から自分は記録しとて書いてきたのである。それを参考にしてまた書き直しているのである。
何か自分の書いたものも忘れている、こんなこと書いていたのかと自分が読んで新鮮に感じているのである。人間はこれほど忘れやすいのである。
旅をしても忘れやすい、どこを行ったのか近くすらわからなくなるときがあるのだ。
そして老人になるとみんな記憶をたどる旅になってゆくのである。

廃村を旅している人もいる、インターネットに写真も出している、これからさらに日本では増えてくる、それはこの辺が飯館村でも小高でもそれとにたようになったから関心をもったのである。ここは特殊な事情でなったのけど全国的なものとしてもそうなる場所が増えてくるということである。

白鷹町(フラワー長井線の旅)

2017年02月17日

奥の細道をだとる(秋の短歌十首)


奥の細道をだとる(秋の短歌十首)

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       山寺に対面石や朝の菊


八溝山奥に分け入り紅葉見ゆ清き流に散りて流れる

日光の華やかさを見て関所跡卯の花かざしみちのくに入る

草の花たどりて細道やみちのくに入る関所跡かな

白河の関所の跡や虫の音をここに聞きつつみちのくに入る

あわれかなしのぶもちずりこの辺り木槿の咲きて村もありなむ

平泉金色堂や秋のくれみちのくに住みまた来るかな

平泉見て帰るかなみちのくに秋の夕映え美しきかな

山寺や流れのひびき菊に石朝日のさしして清しかりけり

山寺や磐にひびける流れかな秋の夕日のさして暮れにき

山寺に清流ひびき秋の星きらめきにけり御堂見上げぬ

湯殿の碑みちのくに多しあわれかな晩菊の碑によりそい咲きぬ

最上川船着場に虫の音やここに待ちにし人のありしも

最上川旅行く人や一時を船着場かな虫の音を聞く




地理感覚がどうして養われるのか?地理がむずかしいのはその大きさを認識することができないことにある。確かに今なら車でどこまでも行けるということはある。
それで地理がわかったかというとわからない、車で行く感覚と電車で行く感覚は違う。
車だとゆっくり景色が見れないので記憶に残らないということがある。
ある地点に行くには便利でもその途中の感覚がぬけてしまう。
地理は一回くらいその地を踏んでもわからない、東北だと何回も行っているしなんとか実感としてわかる、それでも日本は山が多いからわかりにくいのである。

芭蕉の「奥の細道」は東北の空間認識と歴史的認識が合体して古典になった。それがなぜできたのか?それはやはりみちのくを歩いて旅したからである。
時代というのはもどることができない、しかし空間は今も変わらないものがある。
山がなくなったり海がなくなったりしないからである。
奥の細道をたどると自分は自転車で八溝山を分け入りぬけてきて白河に来た。
そして白河の関所のあった所が暗い森の道がありみちのくに入るという感覚が残っている白河市になると何もない都会化している、中通りは都会化しているから奥の細道をたどる旅がしにくい、それでもそれなりにまだその感覚が残っている所はある

しのぶもちずり石は市街から離れている所にあるから芭蕉の句も生きている。飯坂辺りも奥になり山間になるから奥の細道の感じが残っている
ただ飯坂から仙台までは何か奥の細道を感じるものがともしい、感覚的に変化を感じるのは宮城県から山形県に入る所である。
面白山のトンネルをぬけると山寺になりそこが山形県になるからだ。そこは国境のトンネルをぬけると雪国だったとなる、春でも雪が残っているからである。
宮城県と山形県の境界は明確であり山を越えたときトンネルをぬけたとき感覚的に風土も違ったものとなる
福島県と宮城県の境界はそうしたものを感じない、浜通りだったら海岸線を行くのだから全く別な国に来たとは感じないのである。平野だったら地理的に区切るものがないから別な国に来たとは感じないのである。

芭蕉の不思議はみちのくのことを風土的にも歴史的にも感じていたことである。歴史と一体となったみちのくを感じていたのである。
それは平泉でも三代の栄華ということで名文を書いたのでもわかる。
それから「語られぬ 湯殿に濡らす 袂(たもと)かな」とあるとき東北には湯殿の碑が多いしそれが古いのである。湯殿には湯治に東北の民が行っていたからである。
この句はそうした農民の苦労を語っている、いろいろ苦労があるが語りきれないとかなる湯殿の碑を見るとき何か古いからそこに東北の農民の苦労がにじんでいるという感じにもなる、だからこういう句を作ったことが不思議だとなる
普通旅しているとその土地のことを深く知り得ないからである。

山形県というとき最上川であり日本海に夕日が沈むのが印象的になる。最上川には途中に何もない所にも船着場があった、その方が情緒があった。山形県は太平洋側とは感覚的に違っている、宮城県と岩手県の境も明確ではない、むしろ地理的には今回の津波でわかったように福島県と宮城県と岩手県の海岸線は一体の地域だったのである。
岩手県でも区界(くざかい)となると雪が厚く積もり盛岡とは分断しているのだ。
むしろ海での交流があった。宮古から鉄の素材が浪江の請戸まで運ばれていたからであるそれが葛尾村に運ばれて製鉄されていたのである。そして葛尾大臣という人がいて栄えた跡が残っている

芭蕉が旅したときまだ東北がどういう所か知られていない、でもみちのくを一回の旅でこれほど共感しえたことが不思議だとなる
ただいかに芭蕉とはいえみちのくを旅してもそれは線の旅だった。とても全体の空間を認識はできない、それは何度も旅してようやく認識される、東北から茨城県とか関東になるとすでに地理がわからなくなる、空間をアイディンティティ化できなくなるのである。
東北でも空間をアイディンティティ化することはむずかしい。
福島県と宮城県と山形県がなんとかできるとなるがこれでも広いからむずかしい。
いづれにしろ自分はこうして旅した行程を記憶の中でたどっているのである。
電車でもしたがやはり自転車で行ったことが記憶として残っているのである。
ただ今になると自転車は無理になったのである。

旅というときやはり距離感がなくてったことが旅がなくなったことの一番大きな要因である。やっと歩いて坂を峠を越えて来たなとかいう感覚が達成感がなくなったのである。
芭蕉が平泉に到達したとき「五月雨やふりのこしてや光堂」と句を作ったのはやはりはるばるここまできて金色堂が残っていたなという感懐があった。
そのはるばる来たという距離があってこの句ができたのである。
新幹線で二時間ではこの句はできないし味わうこともできないのである。

だから自分は柴田の千本桜を自転車で見に行ったときみんな散っていた。そしてはるばるまた自転車で帰った、その道のりは遠かった。そのことが忘れられないのである。
せっかくこんな遠くまで苦労して来たのに桜は散ってしまった、見ることができなかったそしてまた遠い道のりを帰らねばならなかったとなったからである。
でもそこにも何か深い感懐をいだくものがあったのである。
それはそれだけの距離がそうさせた、今はその距離感覚が喪失したから深い感懐も抱くことができなくなったのである。

タグ:奥の細道

2016年11月26日

最上川(春秋短歌二〇首) (最上川は唯一外国の河をイメージさせる)


最上川(春秋短歌二〇首)

(最上川は唯一外国の河をイメージさせる)
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左沢(あてらさわ)

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  (春)

最上川水豊にも流れつつ岸辺の港春の夕ぐれ

左沢(あてらさわ)石橋古りて最上川岸辺になおも雪の残りぬ

終点におりたちあわれ左沢春の日さしてそぞろ歩みぬ

最上川時に浮かびぬ舟の影流れはつづき春の日暮れぬ

山形に市つく名の多し紅花に栄ゆ春の日たずぬ

ゆるやかに曲がりくねりつ水豊か春の夕日の山に没るかな

 (秋)

最上川岸辺の泊まり舟も来じかすか虫鳴き旅人さりぬ

最上川岸辺の家々港かな我がたずねつつ秋深まりぬ

最上川岸辺に紅葉映えにつつ流れ豊に舟は下りぬ

舟を曳く村人あれや河岸あり昔偲びぬ秋の夕暮

最上川大石田かな実りの季塀の長くも番所ありにし

紅花をここにはぐくみはるけくも京に運びぬ秋の河かな

ゆるやかに流れる河の滔々と岸辺広がる実りの田畑

紅花の生業ありて最上川京とつながり栄いけるかな

山に沿い奥深くも流れゆく最上川の秋の夕暮

舟よれる港の番所秋の灯のともりてあわれ旅人とまる

鮭川の鉄橋わたり雪ふぶく羽前前波雪にうもれぬ

 (酒田)
  
酒田なれ荒浪越えてここに来ぬ北前船や倉庫の古りぬ

影をなし欅の並木倉庫かな米を守ると酒田の栄ゆ 

木造りの灯台ありて酒田かなきめらきにけり秋の星々

飛島にわずかの畑耕しつ住む人のあれ冬に入るかな

白鳥のあまた群れにき酒田にそ来たりて思ふシベリアなるかな


最上河 上れば下る 稲舟の 否にはあらず この月ばかり
『古今和歌集』巻20  東歌(詠み人知らず)

最上河 つな手引くとも 稲舟の 暫しがほどは いかり下ろさむ
『夫木和歌集』 崇徳院

広き野を ながれゆけども 最上川 うみに入るまで にごらざりけり
(昭和天皇)

一番古いのが古今集の歌である。これは稲舟が見えず月ばかりというとき稲舟が相当に通っていたからこの歌になった。それとも期待したほど稲舟が見えなかったのか?
平安時代だから最上川がすでに舟運があり知られたとしてもまだまだだったということは言える。でもすでに稲舟が都にも聞こえていたから期待したから稲舟が見えないとなったのである。

昭和天皇はいろいろあったが歌はうまかった。天皇とはもともと日本文化を体現していた人だったのである。

最上川 いまだ濁りて ながれたり 本合海に 舟帆をあげつ 斎藤茂吉

こういう歌もあるとすると濁っている場所もある、ヨーロッパでも大きな河はにごっている、ライン河を大きな貨物船が行くがその河は中国よりはきれいでも黒ずんでいた。
河はまず荷を運ぶものとしてあった。次ぎに人を運んだのである。

ローヌ河がゾルグ河と合流した下流で洗われる
そのローヌ河の左岸の一帯の地方では
その頃そこの君主としてわしは望まれていたのだ
それはトロント河とヴェルデ河を海へそそぐあたりから
ハーリ、ガエタ、カトーネの府々をふくめた
あのアウソニア(イタリア)の角笛(ナポリ王国)でのことだ
すでにわしの額にはドナウ河が
ドイツの岸辺を離れて流れている
(ダンテ−天国編)

河というのがいかにヨーロッパではもう人間の血肉と化している。だから河を理解しないかぎりヨーロッパでも他でも理解できないのである。

最上川は日本では唯一大陸の川を思わせるのである。水量が豊であり川も長く大河であり運河のように荷が運ばれたからである。
ともかく日本の川は水運に向いていない、世界の文明がナイル川とかチグリスユーフラテス川とかインダス川とか黄河とかによって作られたというとき日本にはそういう大河がないのである。
その大河がないということが地理でも歴史でも理解しにくくしているのである。
日本にないものがこの大河とか砂漠とか平原なのである。そもそもないからイメージしにくいのである。
でも根本的にこの河のことを知らないと世界史でも歴史でもわからないのである。
文学でもわからない、いろいろなことがわからないのである。

こういうふうに河と街とか外国ではヨーロッパでもそうだしインドでも中国でもそうである。大河によって文明が作られたのである。ライン河が父なる河としてドイツを作ったのもそうである。
日本でそれをイメージされるのは唯一最上川だけなのである。
川とんうときそれが交通路としてあったということが文明を作った。
「すべての道はローマに通ず」道がローマを作ったように川が道として文明を作った。
そこでこの河を知るときどうしても河を舟で行くということができないことが河を理解できないのである。一部分は行けるのだが全体の河を行くことができない、ヨーロッパでも中国でも河の旅がありそれは延々として河は船で行けるのである。
途中に運河とかでも結ばれている。河は交通路であり道だったのである。

その河を通して行けないというとき河をしりえないとなる。今なら鉄道の旅であり最上川を横切っても河を下るということがない、上るということもない、河の一断面を見ているだけなのである。河は上から下と一つのものとしてつながったものとして見ない限りわからないのである。

それで自分も思い出して短歌にしたが鉄道で横切った最上河なのである。
わからなくなったのは羽前前波という駅だったのだろうか、そこには五六軒の家があり雪に埋もれていた。こんな小さな村の駅に電車がとまるのかと思った。
しかし鉄橋をわたり蛇行する河が最上川と見ていた。その時は雪がふぶいていた雪景色だった。それは最上川だと思って見ていた、でも地図を見ると何か違っている、なぜなら鉄橋をわたってトンネルをくぐりすぐに羽前前波にとまったと思っていたからである。
これは今になるとわからない、大きな河だったから最上河だったのかもしれない。
こういうふうに何か記憶があいまいになってくるのである。

酒田に行ったのも自転車で行ったのだがどうをどう行ったのか良く覚えていない、でも酒田についたとき白鳥の群れが刈田に一杯いたのが印象的だったのである。
その時シベリアを思ったというのは日本にはシベリア季節風が吹きそれが朝日連峰などに豪雪となり複雑な地形を造ったという、日本海側になると大陸の影響が気候的にも大きいとなる。シベリアが近いのかなと思った。
面白いのはアムール河である。その河口から流氷が作られて流れてくるとかも言われる。
またアムール河から淡水魚が日本に太古移動した、その時まだ日本列島はできていなかった。一方にてけは黄河と揚子江系の淡水魚が移動してきた。
それで西と東では別な種類の淡水魚が棲息することになった。
海でも親潮と寒流と黒潮の境が福島県沖とかな漁場となっている
東と西はこのようにもともと地球の歴史でも別々のものとしてあった。
ただこれだけ河の影響が意外と大きいことは知っておくべきである。

最上川は米を運んでいた、紅花もそうだが他にもいろいろ運んだ。
酒田の山居倉庫は米を貯蔵していたが欅並木があるがあれは夏に影を作って涼しくして米を保存するためだった、米は夏だったら痛みやすいからだ。
それで冷凍庫つきの貯蔵庫が必要になる、保存することも文明ができる条件だった。
食糧を保存しないと人間は生活できないからである。

蕪村の句は生活に根ざしたものに着目しているのが多い。

新米の坂田は早し もがみ河

毛見の衆の 舟さし下せ最上川

新米とか毛見衆とかに注目しているのは農民の生活がじかに伝わってくる
米を調べられるのが嫌で早く舟で下らせろとなる

川上とこの川下や月の友 芭蕉

これは江戸から利根川に通じていたのでできた。実際に上には俳句の友がいたのである。このことはヨーロッパの川とか中国でも常にあり川で友と別れる漢詩が多いのである。
中国の漢詩になぜ別離の詩が多いかというとあれだけ広いから一度別れたら会えないからである、日本だって交通の便が悪いときはそうである。それで会うことは貴重なことになる。

山形市に五日市とか六日市とか市のつく地名の多いのは紅花などの市がたったからだろう紅花で栄えたものとして地名が残った。曳舟とかの地名も残った。

苗植えていつしか五二日めにはや白わせの花そ咲きける

細葉もちうえて六三日めに花は咲き一〇日あまり栄ゆる

会津農書で残された歌である。農業は何でも実るまで時間がかかるのである。

大根の芽のいでけるも収穫は来年とならむ待つ時間かな

大根でも三カ月くらいかかるとか収穫までは長いのである。それまで手入れしているから農業はなかなか効率的になりにくいのである。

現代でも野菜でも何でも農作物がスーパ−にあ、でもどうしてその農作物ができるのかわ・からないのである。そうなると野菜でもなんでも食べ物を粗末にするということがあるただ今は高いから粗末にできないともなる、ということは食糧はあまりにも安いとまた困るともなるのか?

川の詩というとき日本ではいいもの少ないだろう。


おきき
河がささやいている
その肌を汚す乙女
流れを血で染めるな と
河がうたっている
家畜をはなす若者
ふるさとの土を守れと
わかものは合唱する
黒い虹のかわりに
白い翼の鳩がふるさとの空に帰る日の歌を
河は夕映えを写す
河は星を写す
歴史をいろどる

真壁仁詩集

これはなかなかいい詩である。これをよみこむと流れを血で争うなというときこでも河の利権をめぐって藩が争ったことがあった。木材の利権でも入会権でも争いそれが戦国時代ともなった。それで河を血でそめるなということにもなる
ただ日本では河をめぐってはそんなに争わない、外国ではriverがライバルからきているのだから河を挟んで人は争っていたのである。河が国境になりやすかったのである。
ライン河もヨーロッパを区切る河となったことでもわかる。
つまり歴史も地理であり河は大きな役割を果たしていたのである。
家畜を放すというとき馬や牛だろう、それは農耕にも使われていたからでてある。

それから黒い虹とは何か?これは原発事故の放射能をイメージする、この辺の情況を暗示的に比喩的に示している、黒い虹は津波でもある。
ともかく河というのは湖とか海の感じにもなる、大きい河はそうなる。
だからこの詩は最上川をイメージするとできる、他の河ではこうしたイメージが生まれないのである。

山形県というとき福島県からすると周辺地域だか地理的連続性と一体感がある。
でも最上河とか日本海とか異質な風景なのである。
山形は風土的には魅力がある。日本海があり最上川があり月山があり山と海と河があるからだ。文化的に湯殿の碑とか東北地方に多いのである。
湯治とかに農民が行っていたこともある。山形は何か言葉でも濁音が強いのかもしれない学生時代にあった人はそうだった。

山形弁なまりの強しその人の二階に住みし学生時代

これも遠い話だけと津軽弁でもまたなまえが強いとここも何を話しているかわらない、宮城県は仙台でもだっちゃとか解放感がある、明るさがある
新地の女性がだっちゃど言っていたのは相馬弁では違う、だべと相馬ではなるからだ。
新地は伊達藩でありそこがまぎらわしいのである。
一時相馬郡になっていたから相馬藩と勘違いしていたのである。
なまえは国の手形というときこれはなかなか変えられないからそうなる。
東北弁でも一様ではないからだ。
地域性風土性文化性とかそういう相違は今でもありそれがあってこそ旅は面白いとなる
ただこれを深く知るにはやはりむずかしい、関東辺りになるともう地理的一体感がもてないからだ。すると面としての記憶が形成されにくい、点だけになりなんとか線としてつなぐとなる。なんとか福島県だとその周辺は地理的一体感がもてる
でも会津は山国だし新潟でも日本海となり風景は異質になる
日本の旅は福島県でもそうだが太平洋から日本海に向かって旅すると変化して興味深いとなるしそうでないと地理はわからないとなる、風土性もわからないのである。


最上川は日本で唯一川の文明を想起させる (最上川紀行-左沢線の旅などの追加)

フラワ-長井線で白鷹町へ


母なる川-最上川

2016年11月23日

七ヶ宿街道を行く(秋の短歌十首) (一本の線につなぐ記憶の不思議)


七ヶ宿街道を行く(秋の短歌十首)


(一本の線につなぐ記憶の不思議)

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秋の灯や四万石の上山

数匹の虫の音聞き入る七ヶ宿


七ヶ宿虫の音ともしあわれかな我が聞き入りて去りにけるかな

七ヶ宿何かあらむや広々とダム湖に写る秋の雲かな

街道に畑を耕す人ありて旅人一人秋深まりぬ

鏡清水写せし姫の面影やしばし我がよる秋の夕暮

上山街道来たり秋の夜ともしびあわれ一夜泊まりぬ

七が宿本陣宿秋のくれもてなす村人貧しき思ふ

上山江戸には遠し何伝ゆ街道行くや秋深まりぬ

街道は芒の原や上山なお遠しかも夕暮れ迫る

七ヶ宿街道淋し上戸沢下戸沢と来て木の葉散るかな

坂道の急なるかな難儀して一すじ見ゆる山の街道

ようやくに坂をし下りいでにける桑折やさらに江戸は遠しも


記憶のことを書いてきたけど本当にこれがわかるのは老人になってからである。
記憶したものが人生ともなることは何度も書いた。
だから何が記憶されるのか?それが問題だとなる
旅をしても何を記憶されているのか?記録と記憶はまた違っている、記録というのは無数にある、ところが記憶はその人の内面化したものであり単なる記録とは違う。
そこが記録が何か無味乾燥になるが記憶は人間の存在そのものにさえなる

歴史でも記録は無限大でありとても知り得ようがないのである。
でもその歴史でもある人の経験とかかから語ると何か血の通ったものとなる
今回の記憶はなぜか七ヶ宿町で虫の音に聞き入っていたことである。
そこで自転車で疲れて長く休んでいたのである。
その時虫の声を聞いていた、あそこは淋しい所である。家もまばらである。
その虫も数匹であった。

寂けさや岩にしみいる蝉の声  芭蕉

何かこの句と通じるものがあった。そこでじっと耳を凝らして聞いていたのである。
その時はただ疲れて休んでいただけだが今になりそのことが記憶として蘇ることが不思議なのである。
それはなぜか?そこに長くいたことと辺りが静寂につつまれていたためである。
それが記憶として蘇った要因である。
都会だと人ごみの中にまぎれいったりすまとそういう場所は記憶されない、家だってごちゃごちゃして人ごみの中だと記憶されないのである。

つまり現代は何か深く感じない、記憶されないことが多すぎるのである。
それは静寂がないとか人が多すぎるとか交通が便利だとか機械や道具に頼り記録したとしても記憶にはならない、記憶とは必ずしもメモしたりデジカメでとったりしても残らないことがある。それはあくまでも記録なのである。
記憶とは心の内面に感じたものなのである。それは人間のみができることなのである。
芭蕉の奥の細道は心の内面で深く感じた旅だからこそ生れた。
それは江戸時代という環境から生れた芸術だから今になると作れないとなる。

でもにたものとして虫の声を聞いたのが通じるものがあったなと今ではふりかえる
旅するときはこうして国道とか行くとそこは車だけが行く騒音の道と化している
だから旅しても心に残りにくいのである。
七ヶ宿街道などは何か淋しいのである。忘れられた道である。白河街道でもそうである。でも昔はここが江戸に通じる本道だったのである。

この旅も白石の方から来たのだから歴史をたどる道ではない、そして羽州街道として桑折から小坂を上ったときはその坂の急なことに難儀した。山の中をおりてくる道も急だったこんな急な道を来たのかと驚いた。
自転車で歩いて上るほかない急峻な峠道だったのである。
これもまた下る道だったら別だろう。
何かここを一つの昔の街道として行ったのではなく白石の方から入り桑折から上った
二回に分けて七ヶ宿街道を旅したとなる。
現代は何か部分的に歴史をたどる道でも行くことになる
本当は街道だったら一つづきとして旅するのがいいがそうしにくいのが現代なのである。そうすると昔をたどる、歴史をたどる旅になるのである。
ただこれも本当は一番いいのは歩く旅であるがそうなると時間が何倍も車だったら十倍とかもかかるからできなくなる、今一番ぜいたくな旅は歩く旅になったことは皮肉である。歩くことは人間を回復することになったのである。

上山藩は四万石だった、相馬藩六万石である。野馬追いがあるからもっと大きい藩のように見えてもそうではない、上山はそれよりも小さかった。あの城はそんな感じである。
でも城があるから昔を偲べるということにはなる。
やはり城は街の中心にあり要なのである。城がないと何か見るべきものがないとなる
常に人間は何か中心がないと景観でもひきしまらないのである。



山形県の旅の回想の短歌 (秋から冬-七ヶ宿街道など)
タグ:七ヶ宿街道

2016年03月05日

北上川の春の短歌十首


北上川の春の短歌十首


義経堂満開の桜風にゆれ心騒ぎぬ夕べなるかも

みちのくに栄いの証し金色堂北上の流れ春の夕ぐる

北上の流れや夕べみちのくに都の跡や花の吹きちる

長々と北上の流れ尽きじかも岸辺に柳芽吹きけるかな

長々と蛇行し流る北上の岸辺波立つ春なりしかも

北上の岸辺の広く砂州歩む鳥はなになれ樹々の芽吹きぬ

盛岡の岸辺の狭く北上の流れて早し草萌ゆるかも

北上の流れやここいづこ蛇行しつつも砂州の広しも

北上の流れたどり春の風吹くも遠きや都の跡かな

はるけくもたなばし山の桜見て西行帰り都に伝えむ

北上の流れ下りて石巻東風吹きそよぎ海にいでるも

北上の流れそ遠く何運ぶ都の跡や春の夕ぐれ

北上の流れや春の月影の都の跡にさして遠しも




日本では長い川があってもその川のことを意識しにくい
外国だと川は運河であり船が運行しているから川を交通路として意識する
北上川は長い、これだけ長いとこの川全体を見ることができない
とぎれとぎれに見ているだけなのである。
たいがい川はそうなる、一つの川として知るには船で往き来すればできる
それができないから日本の川は長い川があっても川はただ水が流れているだけだとなる

タグ:北上川

2016年02月29日

東北新幹線ー春の俳句十句


東北新幹線ー春の俳句十句


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春光の窓にまぶしや新幹線

タンポポや新しき駅に新幹線

みちのくの春の大地新幹線

新幹線北上川の芽吹きかな

北上の春の流れや新幹線

雪の残るみちのくの奥や新幹線

春の街新幹線の通るかな

新幹線結ぶ速さや春の来る

新幹線きらめきあいぬ春の星

新幹線青森近く花見かな


北上の川の岸辺に風そよぎぎ柳青みて芽吹きけるかな

北上の流れはつづきその岸に柳青める新幹線行く

北上の流れの長く広きかな春の日さして新幹線行く




自分は日本の鉄道はほとんど乗った。乗っていないのは関西の私鉄と新幹線である。
新幹線は乗れたけどわがわざ乗らずに普通車で旅した。
新幹線の速さだと景色もゆっくり見ていられないし旅にならない
でもビジネスとか勤め人にとっては遠くに行くのは新幹線が便利である
でも途中がほとんど省かれるから旅として記憶には残りにくい。
駅でもとまるのがわずかだから駅の名を覚えて記憶に残る旅はしにくい
意外と今になると旅は記憶される旅が大事だった。
記憶に残らない旅は失敗だったからだ

それで「駅一つ名を覚えすぐ春の雲」とかなる、駅にとまることによりそこに旅情が生れるのが鉄道の旅だった。ただその旅には時間がかかった、何か今になると10年間も旅はしていないのでそういう旅をした自分が不思議に思う
自分の人生は駅を電車で待っていたのが人生だとなってしまう。
それは相当に恵まれたことだった。


結局ふりかえれば人生は何に時間を費やすかで決まる、それぞれの時間は限られているし何でもできない、何であれ時間を費やしたものが人生である。
金を費やすのではなく時間を費やすことが人生だということがあとでわかる
いくら金があっても費やす時間は限られているからである。
だからいくら金を費やしたかではなく何にどれだけの時間を費やしたかが人生だということがわかる

東北新幹線で見えるのは北上川である、これは長い川だから新幹線でもその一部が見える連続しては見えないが部分的に見える、こういう長い川だったら新幹線が早くても見える春に乗ったときその岸辺が見えて柳が青くなり芽吹きの季節で風にゆれていた
北上川は長いからその長さを認識しにくい、でも新幹線から早いから北上川をみるにはいいとなる
でも早すぎるから俳句でも短歌でも旅情がない、でも技術が進歩すると人間もそれと同時に感覚も変わる、自転車からみる景色と歩いて見る景色が違っているし電車から見る景色も違っている。電車でも普通車と急行とか特急とか新幹線ではまた違ってくる
自動車からは見る景色は自分にはわからない、車も景色を見るには適していないだろう。

新幹線も函館まで通じるから函館が相当に近くなる、距離の感覚は変わってくる
青森も二時間以内となる東京より近いなとか函館も東京くらいの距離かと変わってしまうでも青函連絡船とかの時代とはまた随分違ったものとなる
結局ヘ便利になりすぎると旅情は喪失する、一番記憶に残った旅は自転車の旅だったからである。
それが記憶に残っていることが宝となる、なぜなら自分が今自転車で北海道を旅しようにもできない、体力は落ちているしできないだろう。
人間はこのように何でもできると思っても時間が限られているし体力もなくなり病気になったりしてできなくなる、だからしたいことを早めにしないと後は一生できない
海外旅行にも今になるときつい、50代が限界だった。
その時しなければできないものとなった。人生の時間の過ぎるのは早い
遊んでいても何もしなくても時間はたちまち過ぎるのである


タグ:東北新幹線

2015年10月01日

盛岡は芸術都市(秋日盛岡-詩と絵)


盛岡は芸術都市(秋日盛岡-詩と絵)

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秋日盛岡

盛岡の街をそぞろ歩みぬ
煉瓦作りの堅固な銀行に
上の橋擬宝珠の古りあわれ
秋の日にさして渡る橋
袂に野菊の塊り咲きぬ
長々と柳は垂れてそよゆる
昔の商家の白壁に移る日影
城跡に残る石垣の精緻に組まれ
老松もあれや忠臣もあれ
中津川に沿いそぞろ歩めば
さらさらと清らかな瀬音
コスモスの花々もここに映え
岸辺の石に老木に秋の日はさしぬ
かたや北上川の流れ滔々と
岸の狭しと流れはやしも
岩手山の輪郭際立ち迫り聳ゆも
一貫として揺るがざる厳しい姿
静かなる秋の日にここを歩まむ
歌心詩心のここに湧きなむ
煉瓦作りの銀行によりて
秋の薔薇の三色咲きて心にしみぬ
盛岡の街の通りを歩むもよしも
喫茶店によりてもの思ふもよしも
みちのくの都市盛岡は今も
古風とハイカラの交じる都市かな

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東北は都市は少ないし都市的な魅力に欠けている。都市でいいのは西である。歴史もあり自然もある。
東北で文化都市と言えるのは盛岡と弘前だけのように思える。
仙台は何かもう一つ文化都市としては大きいのだけど欠けている
商業都市で学都というのにはふさわしい。
なぜ盛岡が芸術都市で文化都市なのかというと賢治と啄木という詩人が生まれたことなのである。
なぜあのような詩人が生まれたということが東北になると不思議である。
何か東北的なものがあっても都会的なのである。

それは盛岡という都市がその時近くにあったからである。
花巻とか渋民とかは東北の貧しい村落である。
そうしたらあんな都会的なものは生まれないのである。
要するに文化というのは都会だけからは生まれない、また田舎だけから生まれないのである。
東京があんな巨大都市でも文化は生まれない、田舎がないからである。
田舎とは自然のことであり都会は文化でもある。田舎が基なのだが都会的なものも文化なのである。
田舎的なものと都会的なものが融合するとき文化が生まれる
田舎だけでも文化は生まれないのである。

盛岡は川が二つ街中を流れているし何か都会でも田舎的な所がある。
北上川と中津川がなんともいいのである。
その川べりを散歩すると気持いいのである。
それは仙台の広瀬川とは違う気持ちよさがある。
そして岩手山が映えるのであの山によって身がひきしまるのである。
それから城跡もあるし城下町なのもいい
まず文化都市となると城下町でないと歴史がないのでなれない
青森市は城下町ではない、弘前は古風の城があり城下町だから文化都市になる

常に自分が相馬について書いているが日立木から松並木を通り相馬の城跡に行く浜街道の道は何度行ってもあきないのである。
やはり歴史の道だからそうなっている。
歴史にはそうした何か人をひきつけるものが必ずある。
仙台にも歴史があるのだけどそれが何か感じない、青葉城があるのだが感じない
仙台は大きくなりすぎたとこともある。
今回の詩は前に俳句とか短歌にしたものからまた回想して作った。
自分の場合は俳句とか短歌から詩にしている
それは晩秋だったがこれは初秋であり秋の日である。
まず盛岡というときあの煉瓦作りの銀行が印象に残る
建築の影響が大きいなとつくづく思う。
ヨーロッパの魅力は建築にある。それもローマ時代からあり古いのである。
ただその魅力もそれに接する度合いが多ければいいが外国旅行は何か余裕がないので良く見れなかった。そこが一番の問題だった
盛岡は近いから何度も行っているから思い出すのである。

東北はやはり何度も行けるというのがいい
それでも会津は福島県内だが今になる遠いなとつくづく思った。
もう介護で行けなくなってから十年は行っていないのである。
会津は福島県でも別世界だとなる
この詩を作ったときとにかくまず煉瓦作りの銀行だった
あれは貫祿があるというか質実な感じがする
建築が精神に影響するということがある。もちろん岩手山なども心に影響する。
一方でも建築も心に影響する、だからヨーロッパでは精神形成が建築になっている
それが今は高層ビルでもビジネスだけであり何か精神に影響するものがない
ただ高いなというだけである。高いと大きいだけで心に影響することはない
だからこれだけの建築物にあふれていても何か精神に影響するものがない
ホテルでも一流ホテルになると確かに大理石などを使うと何か心に影響する
一流ホテルには泊まったことがないのでその辺はわからない


前に書いたり絵にしたりしたものをまた作り直すといいものができる
自分の書いたものは相当な量である。
ただ絵のようなもの、抽象画はまた変えやすいのである。
完成したものとしての芸術ではない、常に変化してやまない芸術だった
まあ、芸術の秋であり盛岡はそれにふさわしいとなる



 上の橋は南部藩主利直公が盛岡城を築くと同時に中津川に架けた橋。欄干を飾る青銅製の擬宝珠のうち、慶長14年(1609)の銘が刻まれているものが8個、慶長16年(1611)の銘が刻まれているものが10個ある。これほど多数残っているのは大変珍しく

 慶長16年は慶長津波の起きた時である。この時からあるとしたらずいぶん古い
 それだけここが歴史ある場所だった
 墓などは残っているが公共物で慶長時代となると東北ではかなり古い
 それも橋にあったというときそれは公共のものだから城とは違うからである。
 京都辺りでは珍しくないが東北ではこれだけ古いものはまれなのである。


タグ:盛岡の詩

2015年08月23日

青森へ新幹線で行った不思議(詩) (津軽鉄道の終点、中里駅の旅情)


 
青森へ新幹線で行った不思議(詩)

(津軽鉄道の終点、中里駅の旅情)

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新幹線ではじめて新青森についた
途中二戸とか八戸と三戸とか五戸
その辺境の地名のみが心に残る
そこははじめて下りた駅
そこから普通車に乗り換えて
山間をぬって弘前に行く
今年の5月は暑いが雪が残っていた
その山間をぬけると開けた地が浪岡
弘前の五層の城は古武士のような風格
北の果てなる地に古の威厳を保つ
いくつかの古風な門をくぐりぬける
桜は今一斉に咲き誇る
優美な岩木山はその城より望み映える
弘前は喫茶店の街だという
ここではじめてコーヒが薬として飲まれた
その謂われもまた歴史を語る
弘前から津軽鉄道に乗る
高い煉瓦作りの塀を巡らした斜陽館
それはまるで城であった
地主として富を独占した
いつ小作に襲われるかもしれないと
高い塀を巡らした
そこに冬は津軽平野の西風が吹きつけた
終点の中里駅におりると
一軒のタクシーが待っていた
その運転手が一三湖に案内した
その道すがら地吹雪をふせぐ柵を説明した
ここの地吹雪はすさまじい
ここはその地吹雪を経験しないと
ここで暮らすものの厳しさを実感できない
一三湖はにごり波立ち西風が吹きつける
春なれどなお西風が吹きつける
一三湖は思い出した
砂に埋もれて栄し港は消えたと
運転手は津波で港は消失したと
それが生々しく思えたのは
今回の津波でいくつもの私の故郷の村が消えた
そのことを語ったのもまた時の巡り
十三湖の砂に埋もれた宋の銭
ここに船は巡り栄えたのは幻や
今はただ荒寥と西風が濁る湖にふきつける
私の住む所は太平洋からは春になれば
東風(こち)が吹くと言った
ここは春になっても西風が吹きつける
一十三湊は私の心に残る
そしてなぜか中里駅のそのタクシー運転手
その人が心に残る
その息子は仙台にいるというのもわかる
そこに働く場もないのだろう
青森県は常にそういう場だった
不思議なのは新幹線で二時間もかからず
青森についてしまったことだ
それほど近いのかという驚きである
最果ての地にそれほど近いのか?
すると中里駅でも近いとなる
新幹線は何か距離を短縮する不思議をもたらした
遠くが近くなり青森の津軽平野の最果ての地につく
だから中里駅も隣のようにさえ思えた
私は旅をしているうちに人生の終点を感じた
そこが旅の終わりのようにさえ感じた
人間は何をしても終わりが来る
人生は短く旅も尽きる日が来る
みちのくの最果ての地で終わりくるというのも
それも旅をしてきた私にふさわしい
その人がその場所が印象に残る
今なお忘れられた知られざる村がある
黒石市から雪に埋もれた小国
バスでトンネルをくぐると小国があった
あそこもまた奥深い場所である
あそこにも村があり人が住んでいる
冬はしんしんと雪に埋もれて青森は遠い
しかし新幹線でまた近いという不思議
旅も終わり人生も終わる
中里駅の一台のタクシー運転手
なかなかここまでは訪ねて来ないんですよ
新幹線でよる人増えたんじゃないですか
そうでもないです
終点はどこでも印象に残る

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新幹線で新青森から弘前市から津軽平野の津軽鉄道に乗ったのは不思議だった。
その不思議さは二時間ほどで新青森につき弘前とか中里となると辺境の辺境、最果ての地であった。みちのくでもそこは最果ての地である。
だから遠いと思っていたが新幹線で近いなとつくづく感じてしまった。
実際は自分は一カ月くらいふらり旅にでて帰らなかった。
今や二三日旅するのに難儀なのである。だから介護や自分の病気やらで七年間旅していない、旅ができないということが信じられないことだった。
それも近くですら出かけられないというのもショックだった
今回青森に行けたのは新幹線があったからである。でなければ日にちがかかるからできない、新幹線が時間と距離う縮小したから青森まで行けたのである。
青森は何か最果ての地で印象に残る地だった
それも自分の人生の旅の終わりにふさわしい場所に思えた。

津軽鉄道の終点の中里駅は何かこれも不思議だった。
一台のタクシーが待っていた、そのタクシー運転手も印象に残った。
あそこに一台のタクシーがあったことが印象に残った。
自分はこれまでタクシーをほとんど利用していない
高いから利用していない、でもあそこにタクシーを乗ったのは利用価値があった
タクシーで土地の人と交わるということにも価値があった
普通なかなか土地の人とは交わりにくい、タクシーは一応商売だから案内もしたりする
それは全部でないにしろ何か印象的だった
タクシーは外部から人の窓口になっていたのである。
青森の黒石もその名から黒をイメージするのも不思議である。もの寂びた街をイメージするが本当にそういう街だった。こみせ通りとか雁木の通りがあったりするからだ。
そこからバスにのって温川(ぬるかわ)温泉に行ったことがある。
その途中にトンネルをくぐると小国という村があった。
小国というのは日本のいたるところにある。まさに遠く離れた辺鄙な所で自給自足して暮らしていた所で小国となった。これも極めて日本的な地名なのである。
津軽鉄道はまた旅情があった、これは次ぎに書いてみよう。

ただ津軽鉄道でも斜陽館のあるところまつでは行くが終点の中里駅まで行く人は少ないみたいだ
でも中里駅からタクシーで十三湖に行くと津軽平野の荒寥とした景色が身にしみるのである。
だからあそこのタクシー運転手は何か津軽の旅には欠かせないものだと思った。
車の旅だというこういうことがないが電車の旅ではやはり旅情がある。
自分は最初の二〇年間は電車の旅であり次ぎに四〇才過ぎて自転車の旅であり50になったら海外旅行だった、そうしているうち人生の終わりに近づいたのである。
人間はなにをするにしろいづれは終わる
そして必ず過去をふりかえるのだ
旅というの蓄積である。旅でも忘れやすいから記憶として蓄積しないと忘れる
もう思い出せない所がかなりあるだろう。
だから思い出せる旅を心に残る旅をいかにするかが旅の秘訣にもなる
たいがい思い出せなくなるのはその五感に感じたものを記憶に残さないためである。
旅でであった女性がいたとしてその人に気をとられていると自然に対する印象は消えて
その女性の印象だけがのこり妄想にとらわれて記憶が消失するのである。
人間のエネルギーは女性に費やされるのが多すぎる、そこで貴重な時間が奪われていたのである。
それだけではない、人間というのはいろいろなものに雑なものに時間を奪われすぎているのである。
自然に集中できない、様々な雑なものが雑音が入り自然を記憶に残せないのである。

寂けさや岩にしみいる蝉の声 芭蕉

これは雑音ではない、一心に蝉の声に耳を傾ける静寂が沈黙が江戸時代にあったから残った句である。
その時観光客もまれだろうし車の騒音もないからこそこの句ができたのである。
今だとそうした句を作ることはむずかしいのである。
とにかく旅というのは一回限りのこともある
その場にはもう一回しかいることがない、海外だとそうなりやすかった
人間は旅でも一期一会になるがそれより自然との出会いも一期一会なのである。
自分は人間の出会いより自然との出会いに重点を置いた。
人との出会いとなると今はその場かぎりで合う浅薄なものになっているからだ
だから旅では人と出会ってもそこに時間がとられると自然と一体となる時間が奪われるのである。

結局人間は才能ではない、五感というのもこのように絶えず磨いていかなとその機能も低下してゆくのである。それは何でもそうである。
人間は常に何かを蓄積しているのである。自分が蓄積したのは旅だった
その旅も何か人間の欲望を刺激するようなものだとそっちのことばかり記憶に残り肝心のものが何も記憶に残っていないということがある。
だから青春の奔放な欲望を解放したような生活はあとで怖いことになる。
心に美しいものが残っていないという恐怖である。
欲望の残滓だけしかないという人も結構いるのである。
それを自分でも青春の時も考えられないのである。
青春時代の汚点が老年になりかえって鮮やかによみがえり苦しめることになる。
そして青春は過ぎるのが早いのである。
心の中に珠玉のように美しいものを残すような時間をもたねばならない
それがのちのちの宝となるからだ。金だけか宝ではない、老人になると記憶が宝となっているのだ。
そしてもういくら金を積んでもその記憶を作れないしその時間をとりもどせないのであるこれは本当に厳粛なことである。

時間などいくらでもある、暇で暇でしょうがない、暇をつぶすのが一苦労だ
自分もそう思っていたのである。暇をもてあましていたのである。
それが暇はない、絶えず家事であれ介護であれ追われる生活なのである。
ああ、暇だなと思っているとその暇も消失している。
50で海外旅行しなかったらもう海外旅行に行けなかった、そうしたら今どき外国に行かないなど笑い物になっていたのである。
実際に自分の識見は海外旅行しなかったときはそうだった。
だから人間というのは経験すべきことは経験しておくべきである。
山登りも今は体力がなくなり時間がないからできない
でも何度も登っている山があるからそこから思い出して山の詩を書いている
これも実際に山を登らない限り詩も書けないのである。
山は登ってみて実感するものがあるからだ

次回津軽鉄道の旅に御期待!



タグ:津軽鉄道

2015年07月08日

仙台駅の中で青森ヒバの製品を売っていた人 (復興した仙石線で石巻から女川までゆく)


 
仙台駅の中で青森ヒバの製品を売っていた人

(復興した仙石線で石巻から女川までゆく)

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リンゴの形をした青森ヒバ



本県を中心とするヒノキアスナロは北方型、木曽地方を中心とするアスナロは南方型の二つに区分される。青森ヒバは、特にヒノキアスナロと呼ばれている。
「青森ひば」は、ヒノキ科アスナロ属の針葉樹で和名をヒノキアスナロといい、日本固有の樹種として、その約8割が青森県内(主に下北半島・津軽半島)に集中しています。
雪の多い地方でなければ育たないと言われる「青森ひば」は、北の厳しい風雪に耐えながらゆっくり年輪を重ねます。長い年月をかけてじっくりと成長した「青森ひば」だからこそ、緻密で狂いが少なく、木目も細やかで美しい木材になるのです。


仙台の駅の中で青森ヒバのまな板とか売っていた。
青森ヒバは始めて聞く、調べてみるとヒノキとにているからヒノキアスナロとか名づけられていた。
ただ青森特産であり青森地方に8割とかあるから青森という寒い気候にあっている樹なのだろう。
シロアリとかに荒らされないのもいい、ヒノキとにていて良質の木材である。
木の種類も多い、日本では特に多い、北海道のアイヌ村では槐(エンジュ)の樹というのがありこれは固く灰皿にも使える樹だった。
それとにて青森ヒバも特別な良質の木材なのである。
青森はやはり森の国なのか、青森ヒバというのもその一つなのか?
た青森は北海道に近くやはりそういう特殊の樹を気候が育てるとなる。
寒い国の樹は成長が遅い、南国の樹は成長は早く植物でなんでも伸びる
それは何か人間的にも南国の人は植物でも成長が早いし果物も多く食料を苦労せずに得られることから人間はのんびりしてくる。

ギリシャなどはオレンジがとれたり地中海に面した南国なのである。
デオゲネスが樽で裸で暮らすことができたのはあたたかい気候だったからだろう。
とてもドイツなどは寒いからできない、ゲルマンの森は青森の森と北海道の森と通うじている。
そういう場所からゴシック建築とか哲学とベートベンの音楽が生まれたのである。
南と北の文化の相違が生まれたのである。
宗教的にはプロテスタントであり勤勉のエートスが生まれ資本主義が生まれた。
そもそも資本主義とは勤勉に働き神に奉仕して仕えるということからはじまった。
だからギリシャとは遊んでいて怠け者であるから何かドイツとは正反対の国なのである。それは風土に影響されてそうなった。

日本の特性としては風土としては小さい島国でも一つの島国で南と北の風土がありそれで文化の相違も生まれた。
沖縄までが日本とすると沖縄は南国であり北海道は北国であり日本海そいや東北も北の風土の文化を育む。
青森はどちらうかというと北海道的なものと日本海的なものと本州のみちのく的なものの混交となる特殊な地域なのである。
丸山山内の縄文遺跡が縄文都市だというとき海に囲まれて交易の場所でありまた大きな柱の跡があったということは青森特産のヒバの木材を活かしているとかなにか森の国でもあった。
縄文土器が湿った森から生まれたというのもまた日本的である。
日本は森が今でも多いから樹の文化の国である。


ただ今はヒノキであれヒバであれ高価だから家の材料には使われないから意識しなくなったのである。
やはりいかに良質なものでもあったとしてもそれが日常的に使われないと何でも廃れてゆくのである。
あらゆるものは使われてこそ活きてくる。だから廃屋は活かされていないから大問題なのである。
今回はまず仙台駅前で青森ヒバの製品売っている青森県の人と出会い、次に石巻でも津波の被害にあった人に出会い結構話した。
最後は仙台の古本屋の人と郷土史のことなどを話した。
それで資料なども買った、ネットでも販売しているというがなかなか中味は専門的になるとわかりにくい、相馬藩のことは伊達藩のことも調べないとわからないのである。
それで宮城県の郷土史研究などの冊子があり参考になった。

次は石巻で津波の被害にあった人の話を書く・・・
タグ:青森ヒバ

2015年06月23日

青森県の地形の詩 (青森県は最果ての海に囲まれた小宇宙の魅力)


青森県の地形の詩

(青森県は最果ての海に囲まれた小宇宙の魅力)


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一戸、二戸、三戸、八戸・・
辺境の蝦夷の柵
黒石のこみせ通り
雁木造り通り薄暗し
トンネルをくぐり
雪に埋もれる小国
弘前は開けし都会
青森は青い森
津軽鉄道あわれ
終点の中里駅
砂に埋もれぬ十三湖の湊
龍飛崎は本州の果て
西風は十三湖に吹きつけ
津軽平野に吹き渡る
西風はロシアよりも吹くや
外ヶ浜、日本の果て
寥々として暮れぬ
深浦は日本海の湊
野辺地は陸奥湾に望み
北前線の寄港地
下北半島に古風の習わし
丸山山内遺跡は縄文のまほろば
ヒスイは日本海を巡り来る
アイヌのここに痕跡を残し
粛慎、北の大陸と通ず
何故に日本中央の碑
そこは日本の果てにして中央
陽は太平洋より昇り
日本海に赤々と沈む
海に囲まれた一つの青森県
本州はここに尽きて
北海道は新たなフロンティア
函館と青森の対称的明治の日本
青森は一つの県にて海が巡り
大阪京都と通じてアイヌとも
船が巡り湊が点々と栄えぬ


青森県は意外と地形的にわかりやすい、太平洋と日本海とがある県はまれである。
青森県は太平洋と日本海がある。県としても岩手県とか福島県に比べると小さいから地形的に複雑に見えても一つのものとして地形を把握しやすい。
そうはいっても地形だけはどこでも狭い範囲でもわかりにくいのだ。
確かに丸山山内遺跡は縄文の都市とかされて青森市の港に近く青森県の中央に位置していた。古代の中央が今の中央となったので古代からの連続性がある。
県の中心がどこにあるかはわかりにくい、廃藩置県になったとき無理して藩をまとめて一つにしたのが無理だった。
江戸時代の藩は自然条件を基にして作られていたから地形とマッチしていた。
どうしても福島県だと浜通りと会津は遠すぎるから一つの県としてまとめることに無理があった。
これは他でも同じであり歴史と地形を無視して大きな県にしたからその弊害が今日にも及んでいる。

確かに青森県も複雑なのだが地図を見るとそんなに広くないからわかりやすい
津軽平野は縄文時代とかは深く十三湖が入り込んでいた。
だから太古になると藤崎が淵崎であり十三湖が入りこんでいたからその名がついたのか?
弘前もやはり前は崎である。広い崎が十三湖に突き出ていたのか、そういう地形にあることも見える。
弘前)崎)とあり藤崎とあるのはやはり十三湖につきでた岬のような地形だったからなのかでもそんな古い時代に地名がつけられたのか?
ただ崎とつけばたいがい海に突き出た台地であり岬だからそういう所に早くから人は住んでいた。
この辺でも今回の津波で柏崎など高台の崎は津波の被害がなかったのである。
縄文人は今回の津波の被害にあった地域には住んでいなかった。

青森県の魅力は本州の最果てになるからである。最南端とか最北端とかそういう場所に人はひかれる。日本は何か海に囲まれているから世界が尽きるという感覚になる。
こういう感覚は大陸ではもたない、どこまで行っても陸地は果てることなくつづくからである。日本の特色は意外と狭く世界が尽きてしまい日本という島国に閉ざされる宿命として地理的にあった。
だから海を越えて世界と交流するという感覚がともしいのである。
江戸時代の鎖国は地理的必然性としてそうなったのでありいろいろ原因はあっても地理的制約の結果だった。
他の国では大陸などではまず鎖国などできない、絶えず異民族が侵入してくるからであるそれで万里長城が築かれたのてある。
ともかく人間の不思議は簡単に地理はどこでもわかりにくい、でもまずその土地を知るときイメージ化するとき地名があるということも確かである。青森だと最初は八戸だとか二戸だとかその地名から辺境をイメージするのである。
青森では青森という青が森のイメージであり黒石は黒い北国のイメージであり雪国らしくかんきのこみせ通りなどがあり黒いイメージがその名とともに心象化されるのである。
黒というと何か黒のイメージを最初からもつから不思議である。
弘前だと広く開けた土地の感覚をもつから対称的である。
何か弘前は明るく先進的な地であり黒石は雪国の暗さをイメージするが実際に街もそういうふうに感じるのである。

黒石からバスで小国を通り十和田湖近くの温川(ぬるかわ)温泉に二日泊まったことがあった。
トンネルをぬけると雪国だった・・・とあるがあそこは最果ての雪に埋もれて小国だったあんなところにも村があるのが日本である。
日本は山が多いからトンネルも多いのである。そのトンネルは短いにしろトンネルをぬけたら小さな村落が隠れ里があっとなるのが日本である。
小国という地名は日本全国にあり山里に多い。そこで時給自足の生活をしていたのである一つの小さな自給自足の国だったのである。
岩手県とか秋田県とか山形県は地形的にわかりにくい、青森県は地形的に比較的わかりやすい、それは太平洋と日本海が一つの県にあり一つの最果ての小宇宙になっているかかもしれない。県としての全体のイメージが浮かぶとその県を知ったことになる。
福島県は会津は会津であり中通りでも浜通りでも地形的には別な世界なのである。
青森県の最大の特徴は一県が海に囲まれた最果ての小宇宙になっている魅力なのである。


2015年06月06日

青森県の地名の謎 (鉄道の旅は地名が気になり記憶に残る)


青森県の地名の謎

(鉄道の旅は地名が気になり記憶に残る)

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今回久しぶりで青森の弘前まで旅した。それは新幹線でありあとは鉄道の旅である。
電車の旅だとどうしも駅名が心に記憶される。
それで自分は全国を旅して地名に興味をもつようになった。
今回もひさしぶりだったのでやはり地名が気になった。
何気ない地名でも鉄を旅はただ駅名だけが気になり風景が過ぎてゆきあとは記憶されないということもある。
地名とは一つの歌枕のようになっているのだろう。
その土地を地名を手がかりに知るというのは古代からあった
万葉集でも地名が基本にある。
日本を知るには地図もないのだからその地名をてがかりにしていたのである。

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎(かさのいらつめ)

これも陸奥ー真野ー草原(かやはら)も地名だと自分は推測した。
そしたら歌の中に三つも地名があるのだからいかに古代は地名が大事かわかる

浪岡

健保年間(1213〜1218)には行丘、鎌倉中期には波岡、慶長(1596)以降の徳川時代を通じて浪岡と改めたとされる。
地名の由来について詳細は分らず。

この町の名が気になったのは新幹線から乗り換えて弘前に行くとき山の中をぬけでた所にあったからである。
行丘(なめおか)とするとこの辺の行方(なめかた)郡と呼ばれていたからそれとにている。ナメという地名は滑らか(なめらか)から来ていて一字で滑(なめ)という地名もこのへんにある。
なめらかな丘で行丘となり波岡となった。そういう地形的なものが一番多い。
ここの地形は果たしてそうなっているのかわかりにくい。
ただ山をぬけたところであり行丘だと地形的にはあっているかもしれない。
なめらかな地帯に出てきてそこは人が生活しやすいということからついたのか?
新青森からは山深いなと感じた、今年は早めに春と夏がきていた。
青森も暑いくらいだったが新青森から浪岡にでるまでの山は深く雪がまだ残っていたのである。
やはり地名は地形的なものから名付けられるのが多いから地形を知らないとわかりにくいとなる。
弘前市について一晩とりま川部からのりかえて藤崎という駅があり町があった。
この藤崎もなになのか?

古くは淵先または淵岬と呼ばれていたという。
十三湖が内陸部まで深く入り込んでいたころの名残と見られる

藤崎

五所川原付近まで十三湖だった。丸山三内の縄文遺跡からヒスイが発見された、そこは青森の湾の方に近いからそっちの方からもたらされたのか?
藤崎というと藤とかかわりがあるとなれるが地形的なものだろう。
地名はあとからその名前からいろいろ別な風に語られるのが多すぎるからだ。
藤崎氏由来の説もありこさは安倍氏とかかわっているから嘘とも言えない
安倍氏が藤崎城を築城した時期には、既にこの土地に「藤崎」の地名が
存在していました。
現・南津軽郡にある、この「藤崎」の地名の由来は――
平安時代初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂が奥州の蝦夷征伐の際、
この地を訪れ、生えていた藤の大木から枝を切り、鞭として使用した。
使用した後の鞭を自然に帰そうと地に突き刺した所は、
「旧跡・藤巻森」と呼ばれました。
鹿島神社の北にある沼州川にちなんで、「沼州」と称された地に
「藤巻森」はありました。

藤崎は坂上田村麻呂にまで由来していて古い、でもこれも後から地名を元にして伝説を作り上げたのだろう。
ただ鹿島神社があることころは蝦夷征服と関係して建てられたことが多いことは確かである。
ここは十三湖の説が地形的にはなる。ただ安倍氏も津軽では蝦夷とかかわりその子孫説がある
青森では良くアイヌ語説の地名が多いと言われる、内(ない)は川であり平内とかそうである。川部とかもそうである。ただこれも別に他でもあるからわからない。
そもそもアイヌ自体が謎の民族だからである。
藤崎で忘れてならないのはここが藤リンゴの発祥地だった。
リンゴは好きで毎日食べているからこっちの方で親しみか沸いた。

板柳町

古くからこの地方に「いたや」「えぞいたや」「おのえやなぎ」などが繁茂していたことから、板屋野木村という地名となった。
後に板柳に改められた。

蝦夷いたやとなっていたのも津軽らしい。

田舎館村

(1)蝦夷が住む中心であったことから、蝦中(えなか)と称されそれが転化した。
(2)稲作の生活から生まれた大和言葉の「稲家」が転化した。
(3)平安時代に「田舎の郡」と言われ、鎌倉時代になって田舎館と称される。
ここで興味深いのは蝦中(えなか)から田舎館になったということである。
エという言葉蝦夷語に由来していることを前に書いた
それは地形的に高台のものにつけられたののかもしれない

「漬ず」というのを見つけた。「水に浸(ひた)す」とあり、水に浸すと物は水圧で変形するので風貌が明らかに異なる人々に、接頭語の「え」を付け、「え-ひし」「え-みし」「え-びす」などと呼んだのではないかとした


ここから前にコメントあったがこちらの方が地名は専門的だから読んでください



北海道では「江別」「江差」「江刺」「枝幸」「恵庭」「襟裳」「遠軽」「遠別」などをあげることができるし、関東では「江戸」「恵比寿」「江ノ島」「荏原」「海老野」、中部地方では「恵那」、滋賀県では「愛知川」、大阪では「江口」「江坂」「餌差」「海老江」「恵我の里」、中国地方では「江田島」、九州では「海老野」をあげることができる。
「えびす」の語源は、「エミシ(蝦夷)」が「エミス」になり、「エビス」になったとされている。また、「えびす」は蛭子の神さまでもあり、水に関わりがあるから、兵庫県の西宮戎神社や大阪の今宮戎神社のように海に近いところにあるのが多いのである。
http://asahi.co.jp/call3/diary/yamaken/chimei_05.html

エ・エトコ(頭,水源,山頂)
エサシ(山の頭を浜につけているもの,岬)
十三湖の小湾入のある「前潟」のことで,ie (尖った)rum (矢の根)ma (澗)J (尖った矢の根のような澗)
津軽にはほかに恵神崎(えがみざき)と
いう岬もあり,これは西津軽郡の岩崎村の岬である(図3)。この岬角名の語頭の「恵」
の部分にエンルムの「エ」が残存しているかもしれず,あるいは北海道の恵山(えさ
ん)のようにエサン(頭が浜に出ている岬)かも知れない




海老という地名もこの辺にある、それはえひであり海老とは関係なかった。
蝦夷はエミシでありそのエが何なのか、入江とか水と関係していることは確かかもしれない、蝦夷(エミシ)とは水辺に生活していた人たちのなのか
ヤマトはヤマを根拠地にしていたのかともなるがこれもわからない。
地名は何か確証がないのが問題であり勝手に想像で各人が言うから科学的でもないし
想像で作られた地名由来が多すぎるのである。
ただこれでもわかるようにエとは北海道にも広範囲にあるとなると蝦夷とはアイヌなのか?エとは北海道だげではない、日本全国の地名の基になっている。

相馬村

鎌倉幕府の落人でこの地方に土着した一族に相馬氏がおり、その人物に由来するとされる
相馬藩も相馬氏が移住してその名となった。でも相馬市というのは戦後名付けられのであり新しい名である。相馬市と中村市だったからである。
だから意外と相馬市は地元でも実際はなじみかないのである。
地名でも姓名を基にしているのはまれである。
鎌倉時代に相馬氏の移住はここにもあったし津軽までもあったのかとなる。
タグ:青森地名

2015年05月08日

青森県の地名の謎 (ツガルとはツノガノアラシトか?)


青森県の地名の謎

(ツガルとはツノガノアラシトか?)

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新幹線で行くと地名でも極限られたものしか頭に残らない、二戸(にのへ)というのが何か心に残った。八戸の前に二戸があった。
一戸二戸三戸・・・・・九戸がある。
これは必ずしも青森の最先端へ行く順序ではない、ただ何か順番がありそれに意味がある古代からのものなのか蝦夷征服の柵を意味しているのか不明である。
ただヘとつくのは日本語である。へは辺でありヘリとかへるのへなのである。
へっぴりごしとか言うのもそうである。屁(へ)もそうである。あまり感じのいい言葉ではない

「山川を中にへなりて遠くとも心を近く思ほせ我妹(わぎも)」〈万・三七六四〉

へなるはへだたるである。

辺野古や野辺路もへがついている。場所でも辺野古は山原のジャングルをぬけた所にある町であり沖縄でも縁(へり)の場所である。その先は山原でありジャングルである。
野辺路も何か冬に行って沖に一艘の貨物船を見た。江戸時代は港として栄えていたか今は雪に埋もれてさびれていた。
青森は蝦夷との関係で地名もアイヌ語由来が多いとか言われる。ナイとかベツは川の意味でありそういう地名が多いというがそれも明確ではない、地名からそうした歴史を解きあかすことは危険なのである。地名はとにかく自分でもそうだが勝手に解釈しやすいからである。
むしろ大和言葉の古語が青森県と沖縄に化石のように残っていることの不思議である。
古いものがかえって辺境に保存されるということがある。
青森は海から森が望まれたから名づけられたというとき海からの視点で名付けられていた。
それは航海の民が名付けたとなる。青森というのはわからないにしても海からの視点で港として全体がある。
青森県の地理的特異性は周りを日本海であり津軽海峡であり下北は太平洋に接しいてる。
県全体が海に接しているからめずらしい県だと思った。
東北では青森だけが日本海と太平洋に接しているから特別なのである。
そこで日本海貿易があり北海道の繫ぎの場所であり太平洋にも接しいるから貿易で栄えるという地理的特性が古代からも縄文時代からもあった所なのである。


津軽鉄道の深野田という駅の名もフコウダと言っていたから南相馬市の原町区の深野もフコウノであり同じ地名の名付け方なのである。大阪にその元がありそこから地名が伝播した。それが青森の津軽に伝播しているのもなんらか共通の文化をもった人たちが移動したからそうした名付け方をしている。

蝦夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを熟蝦夷ニギエゾ、次を麁蝦夷アラエゾ、遠きを都加留ツガルと

ツガルとは何なのか?これはツノガノアラシトがなまったものではないか?ツガルはツノガである。これを言うのは津波で神社のことが話題になったけど津波に関する神社はほとんどない、津神社となっていたのはツノ神社でありその元をたどればツノガノアラシトなのである。渡来人の製鉄の神なのである。
蝦夷とは何かとなると未だに不明である。それはただ大和王権に逆らって者達のことでありそれ以上のことがわからないのである。
一般的に言われるのは物部氏が仏教移入派に敗れて東北の方に逃れてきて渡来人と一体となり抵抗したという説である。物部氏と渡来人と蝦夷が一体化したのが大和王権に逆らったのである。
その中にツノガノアラシトの一団がいた。逃れてきたかや国の一団もいた。
それは日本の国造りの初期に産鉄族として技術者集団として日本の国造りにかかわった。
そこにはすでに渡来人が日本に根づいて生活して日本人化して日本原住民の蝦夷と一体化していた。そのツノガノアラシトの一団がこの最果てのツガルのに逃れてきて住んだのである。真野の草原(かやはら)の万葉の歌も真野の伽耶(かや)であり伽耶国の人が住んだからそうなった。
それが後に隠されて不明になったのである。
秋田にしろ物部一族の痕跡の強い場所であり物部と渡来人が古代には一体化していたのである。

敦賀郡津守郷

外からの渡来人や文化に関しては、ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等、またの名は于斯岐阿利叱智干岐)の渡来説話がある。かれは、意富加羅国の王子で、初め穴門(長門国西南部)に至り、そこから北つ海から廻って出雲国を経て、角鹿(敦賀)に着いたという


ここの津軽はツガルは日本海回りでツノガノアラシトの一団が来ていたのである。
敦賀からはここは近いからこれは間違いないだろう。
ツガルというとき何か違和感を覚える、一体何を意味しているのだろとうなる。
ツガルはツノガノアラシトのツノガがツルガになったである
実際に敦賀(ツルガ)がツノガに由来しているのだから有力な証拠になるのである。
十三湖は日本海や対岸のツングース族とか住んでいて北の広範囲な貿易拠点だった。
越(こし)も古志神社とかありコシとつくのは中国から移動してきた国の名とかあり
日本海側は渤海でもそうだが入りやすい場所である。
今でも北朝鮮から船で脱出して流れ着いたりしているからである。
それだけ近い距離にあるためである。
最初は日本海から安倍氏などが船で来ていたのだから今は辺境でもツガルの方が古代では開けていたということもある。
そこは蝦夷はまだ大和王権にとっては物部氏などがいたとしたらまだ通じるものがあったツガルは大和王権も通じない北方系の渡来人達が住んでいたのだろう。
蝦夷といってもツガルが別個にありそれは蝦夷であっても独立国のようになっていた。
それは早くから貿易が行われていたからだろう。


三内丸山遺跡からは「交易品」の、ヒスイ製の玉類、黒曜石製の矢じり、コハク原石、アスファルトが付着した矢じり、イモガイをまねた土製品などが発見されています。これらの貴石や貴重品はそれぞれの地域の特産品であり、はるばる日本海を丸木舟でわたってこの地に運ばれてきたものです。
http://www14.plala.or.jp/bunarinn/plala/daieryAA/daiery/encarta/harukanarutabi/sannai/sannai.html

渤海の使節を乗せた船は、ロシアの沿海地方を出発し、冬の季節風にのって日本海を一気に横断、今の秋田県から山口県にいたる日本海側の各地の岸に着きました

太平洋は荒い海だけど日本海は早くから交易の海だった。北前船も日本海回りであった。歴史はとにかく地理の理解が不可欠なのである。
それが青森についてもわかりにくい、福島県も広いからわかりにくいのである。
地理は何回も直接にその地を踏まないとわからないのである。
弘前は一回行ったにしろその他は津軽は行っていないから津軽平野は広いと思った。
そこには日本海から十三湖に西風が吹いていた。だから太平洋から吹く東風とは反対の風だったのである。あの風が吹きつけたので津軽の荒寥さを地の果てなる地を感じたのである。

2015年04月29日

情緒ある弘南鉄道(黒石のこみせ通り) (春と冬をたずねてその土地のことがわかる)


 
情緒ある弘南鉄道(黒石のこみせ通り)

 
(春と冬をたずねてその土地のことがわかる)


 
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黒石弘南鉄道こぶし咲く
境松弘南鉄道夕桜

青森の山間の里知らじかななほ雪残り電車行くかも
春なれど雪の厚きや青森の山々車窓に写りてすぎぬ
駅の名を一つ覚えぬ浪岡や電車過ぎゆく春の朝かな
黒石のこみせを歩みあわれかな弘南鉄道に帰る春かな
松の湯と確かに松あり古りにけるこみせ通りや春の暮かな
黒石のこみせに昔を偲ぶかな買い物をして春となるかな
雪の日に温川(ぬるかわ)温泉に泊まるかなここより遠し春になたしも
黒石より小国は遠き雪うもれトンネルくぐり一度通りぬ
弘前城の雪を踏みにつ古き門入りて桜の根を見て帰るかな
弘前城古木のごとく三つの門雪を踏みしめ帰りし日かな
大館に泊まりしことあり冬の日や汽笛の鳴りて寒き日なりし

城下町時代、秋田から蝦夷・松前へ抜ける街道の中間にあったため、物資の交流など商業が大いに栄えた。豪壮な構えの商家・造り酒屋の妻入りや平入りの屋根のラインが、雪国独特の木のアーケード“こみせ”の上に姿を見せ、独特の景観を見せる。
http://www.jalan.net/kankou/spt_02204ad2150016774/

青森は東北では最果ての国となり情緒がある。青森県は湖があり海があり歴史もありいろいろ変化に富んでいる。鉄道も変化に富んでいる。
そして新青森で乗り換えて弘前に行ったのだがここだけが山間に入り雪が凍り残っていたのである。
やっぱりここは寒いのかとそこだけは最果ての国でまだ寒いからなのかと思った。
その山間をめけると雪はなく春であり今年は暑く夏にもなっていて気候は福島県とか東京とも変わりなかった。気候の変化を感じないから余計に距離感を感じなかった。
ただ十三湖で西風が強く吹いていたときだけ荒涼としたものを感じた。
そこは一四度くらいで寒かった。

黒石は前も一度行ったがこみせ通りには行っていなかった。
それでタクシーを頼んで行ったら松の湯があるところの古い通りとか言ったらすぐわかった。
松の湯のところはそこは工事中だったが松があるから松の湯になっていたのである。
これも地名と場所がぴったりとあいそれがこみせ通りに通じていたから情緒あると思ったこういう情緒はスーパーなどでは作れないのである。
そこには人間の営みとしての歴史があるためである。
歴史は現代では作り出せないものである。長い年月で作られたものだからである。
だから観光するとなると新しい通りはつまらないとなるしスーパーはただ買い物するだけだとなるからつまらない。
あそこを歩いて何か買ったりすると昔の情緒が味わえるのである。
だからあそこで松の湯に入ると癒される、いろいろ温泉をたずねあるいていた人がいた。温泉が熱いのかとしきりに聞いていた。
あれは相当な暇な人でありこれも退職した人であり温泉をたずね歩いているのである。
秘湯をたずねあるいている人もいる。退職した団塊の世代が今は相当に旅しているのである。
金と暇ができたからそうなる。

弘南鉄道もローカル線でありあれで黒石まで行くのも情緒がある。
「境松」とかありそうした駅名と地名がどういうわけか旅では心に残る
黒石という地名も何か青森では黒のイメージになるからあっているのだ。
あそこから冬には温川(ぬるかわ)温泉に行き二日泊まった
途中「小国」という所をトンネルをくぐり一軒宿の温川温泉に着いたのである。
小国という地名はどこにでもある、日本特有の地名である。
それは山深い所に多いのである。
小国というのは一つの国であり昔は自給自足していたからそうした地名が作られたのかもしれない。
福島県でも飯館村へ峠を越えて下がった平坦な盆地のような所が小国となっている。

バス泊まる梨の花咲く小国かな

そこてバスが泊まりしばらく待っていたことがあった。小国町というのもあるから小国という地名は日本全国で多いのである。
雪に埋もれた小国をバスが通ったときこんな奥深い所に人が住んでいて村があったのかと思う。今はどこでも行けるから秘境もなにもなにもない,実際に車でどこでも行けるから秘境などないのである。
秘境と思ったら観光地化していたというのが普通である。
ただ現代の交通の便がいいと何回も行ける、そしてその土地を知るには最低でも春と冬にたずねるべきである。
特に青森のような雪国は冬にたずねて春にたずねるとその風土が実感しやすいのである。冬に行くと全然違った感じになる。
弘前城でも冬に行った時、城内の雪を踏みしめて桜の根っこをみてきた。
そして春に訪れて桜が満開になっていたのを見た。
冬に耐えて一斉に一時桜は咲き散ってしまうのである。
そしてあの古い門が雪で埋まって通れないために高くしたというのも雪国らしいとなる。
弘前城に現存する門は、間口の高さが他の地域の城門に比べて高く作られています。これは、積雪時にも槍を掲げながら門を通過できるようにしているためだと言われています
これも風土であり何かそうした風土によって形成されたものが趣深いものが自ずから生まれる。都会は一様化するからつまらないのである。
どこにいってもビジネスのビルや観光用のものしかなかったらつまらないのである。
弘南鉄道とかあういうローカル線は情緒がある。
でも経営的には苦しい、津軽鉄道もそうである。
ただバスは情緒がない、車窓から見える景色も違ってくる
自分は電車の旅が好きである。バスでは移動したくないのである。
ただそういう恵まれた時は終わった。

今は思い出す旅である。
思い出を編むというかつないで一つの模様にするという作業である。
だからインターネットはそういう思い出す旅の役に立つ
検索できるからちょっとした知識でも役に立つのである。
弘前でコーヒーが薬としてはじめられたというのもそうだった。
旅というのはそうしたちょっとした知識を知っているのと知らないのではまた鑑賞の度合いも違ってくるのである。
だから芭蕉は平泉をその歴史ある場所として事前に調べていてあれだけの紀行文と俳句を残したとなる。
一面知りすぎても旅はつまらなくなるかもしれない、何か知らない意外のものとの出会い、未知(道)との出会いも旅だからである。
必ず旅にはそういうことが起きてくるのである。
決まったルートを行くだけではそうしたことは起きない、たから現代は交通が便利なのだけど観光地をただ回って終わるだけでつまらないとなる。
旅はその過程にあり目的にあるとはなちない、奥の細道は平泉が目的としてもその長い過程にあったからである。






タグ:黒石市

2015年04月27日

弘前市は喫茶店の街 (コーヒーは薬だったー何でも歴史があると違ってくる)


弘前市は喫茶店の街


(コーヒーは薬だったー何でも歴史があると違ってくる)

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弘前の喫茶店かな城の側夕べ灯ともり花の夕暮

幕府の命を受け、北方警備のため蝦夷地に赴いた勇敢な弘前藩士。厳冬下、浮腫病の予防薬として飲んだ「蘭療法」に基づく珈琲を再現したのが「藩士の珈琲」です。安政4年(1857)、蝦夷地勤務の幕臣に配られた仕様書(蝦夷地御用留「二」)によると、「黒くなるまでよく煎り、こまかくたらりと成迄つきくだき弐さじ程麻袋に入、熱き湯にて番茶の如き色にふり出し、土びんに入置、さめ候得ばよくあたため、砂糖を入用るべし」と記されています。これはドリップ方式の原形ともいえる淹れ方。色や味は番茶に似た薄味の珈琲で、とろりとした舌ざわりが特徴です。珈琲の街弘前で、今の味と飲み比べてみませんか
http://www.hirosaki-kanko.or.jp/web/edit.html?id=pamphlet#coffee

弘前市はやはり城もあり歴史がある。青森市は新しいから歴史がない、その相違は観光であれ大きいのである。城跡があるだけでも歴史があるということで魅力がでてくるのである。歴史とは何かというと過去との対話である。
過去との対話というとき城とか目立つものではなく墓でもそうである。
墓を通じて故人と対話する。それが人間の営みである。
だから街の魅力として城があるのとないのとでは相当に違ってくる。
相馬藩たと城があったのは相馬市であり南相馬市になったが原町は明治以降に発展した新しい街である。街の中心部が江戸時代は野馬追いのための広大な牧になっていたことでもわかる。
原町は城下町ではない、いち早く近代化した新興の街でありそのシンブルが大正時代に建てられた巨大な無線塔であった。それは関東大地震の時、アメリカに無線で伝えたということでも有名である。
この新旧の市町村の歴史は常にみておく必要がある。
村でも必ず新旧がある。古町とあるときそこはもともと栄えた町であった。それが山の中の村にもあるし町には必ず古町がある。どこが古いのか新しいのか知る必要がある。
会津でも会津は城がありそこが古いのは誰でもわかる。でも明治以降発展したの商業の街の喜多方なのである。会津の北にあるから喜多方になった。
外国でも歴史のある街と新しい街は明確に別れていて観光するのは古い街なのである。
そこでは歴史があり昔を知ることができるからである。
これは外国でもそうだし日本でも同じなのである。

弘前市でコーヒーを薬として飲んでいたことが面白い。もともとお茶も薬だった。その原産は中国の雲南であった。そこに山茶花などの原木がある。山茶花は茶とあるごとく茶の原木なのである。ただコーヒーが薬だったことは意外だった。
また弘前藩が北方警備のために蝦夷地に赴いたというのも本州の最果てだから北海道がすぐ先なのだから地理的に蝦夷とは深い関係があった。
それで良くアイヌ語地名が青森の地名の基だと言われる。青森の地名は確かに別とかつく地名が多い。今別とかもそうでありそういう傾向があることは確かである。
ただそれがアイヌ語由来なのかどうかはまた不明なのである。
青森県の面白さは北海道と蝦夷との関係がもともとあったことは確かである。そういう地理的位置にある。
だから青森市が青森県が明治以降函館が大きな港として機能して青森が繁栄しなかったとか恨みを言うのもわかる。
明治以降は北海道が発展して函館が中心になっていたからである。
明治以降は函館の方がめざましく発展したのである。
青森県が青森が中心ではない、弘前城がある所が中心だったのである。
ともかく城がある所が古いということはわかりやすいのである。
福島市には城がないが二本松には城があり二本松県となるところだった。
会津にも城があり会津県になるところだった。
それはわかりやすいのだがなぜ福島県になったのかはわかりにくいのである。
福島市には城がないしどうして福島県になったのか謎になっているし青森県も青森という小高い森があって青森県になったというけどそれも納得いかないのである。
弘前県だったらわかりやすいとなる。ただ合併するのとにていて弘前市が中心でない広域になると別な名前が必要になり必ず合併した市町村の一字をとり名前にするのとにている会津県となったら会津以外は入らないとなってしまうからである。

いづれにしろ歴史は別にむずかしいものではなくコーヒーのこと一つとってもここではこんな歴史があったのかと興味深いものとなる。
会津藩でも藩士が北方の警備にあたっていた。


会津藩でも藩士が北方の警備にあたっていた。それで明治維新で薩摩長州と対立したとき会津藩・庄内藩が、蝦夷地をプロイセンに売却しようとしている文書が最近発見された。会津・庄内藩は、軍事支援の見返りに、北海道を売り渡す計画していたのでしょうか
http://blog.livedoor.jp/chachachiako/archives/28769788.html

ここのプログの中に北海道を管理していた地域の藩の図がでている。北海道は東北列藩が管理支配していたのである。津軽藩も一部をまかせられていた。会津はオホーツクの方で領域が広いことがわかる。
つまり薩摩長州連合軍と幕府軍が榎本長けようお函館に星型の城郭を築いて北海道共和国を作ろうとしたことに呼応している。
東北列藩と幕府軍と北海道とプロイセン連合が成り立てば薩摩長州に対抗できたのである。
それがまとまらなかったのはやはりそれをまとめるだけのものがなかった。
だから薩摩長州連合軍に敗れたのである。

青森県について津軽について弘前の城下町についての知識は自分は不足している。
函館には五六回行っているから函館は知っているのである。
青森とか弘前市については良く知らないのである。
弘前市に冬に行ったとき雪が朝に明るくきれいな雪だなと見た。
会津とか新潟などの雪はなにか暗く感じる。その雪は朝明るく本当に白く降っていた。
それほど寒いとも感じなかったことを覚えている。
ただ津軽の方の雪になると地吹雪であり全く違ったものになっている。
弘前市は都会であり城下町であり文化の街でもあるから喫茶店の街だとなる

自分は旅をして良く喫茶店によったし喫茶店が好きだった。そこでなにか休んで旅のイメージをふくらませる瞑想的な空間としてある。
でも今はそういう喫茶店は極端に減った。飲み食いするだけの場所が経済的に多くなったのである。純粋の喫茶店というのは全国でかなり少なくなったのである。
喫茶店というのは場所が大事である。
東京とか大阪とか混雑した大都会では喫茶店は入ってもリラックスしない。
京都辺りだと歴史があるから喫茶店でも違ったものとなる。
何でも自然と歴史が魅力を作り出しているのである。
南相馬市の鹿島区の農家の納屋を喫茶店にした所も北海老のニコニコ堂も場所としてはいい。
でも幹線道路からはずれた山陰にあるので場所としてはいいのだが利便性がないので外の人は知らないと入らないだろう。
あの場所は隠されているからいいともなるけど知っている人しか行けないのが問題である弘前が喫茶店の街だといとき場所としてはあの城のお掘りの側がいいと思い一度は入りたいなと思った。
人間は田舎的なものと都会的なものを常に求めている。
それはわび、さびと秀吉の黄金の茶室に通じている、都会的なものがないと文化も育たないのである。
盛岡という都会があり賢治も啄木も生まれたのである。
仙台市は都会としては今は大きくなりすぎた。盛岡市とか弘前市くらいの地方都市が文化的な香りがするし城下町ならなおさらである。
仙台市は何か商業都市であり歴史があっても歴史が感じられないのである。

自分は北海道に十回くらい行っているから北海道と結びついている青森県に興味をもった一つの県だけを見ても一地域だけを見てもその地域性はわからない、常に他県とか他のかかわりがあるからつながりを常にみないとわからない。
ただ歴史的地点として城があるところからその土地をみるのはわかりやすいのである。
だからある土地を旅したとしても旅も積み重ねであり前にあそこに行って今度別な方向に行こうとなりその土地の空間認識が広がる。
そして時間認識として歴史認識も必ず必要なのである。
今回はコーヒーの歴史を知った。インターネットはこういう点で便利である。
「津軽学」という本があってもそれをそろえるのも難儀だし調べることが本ではめんどうなのである。
知識もまた蓄積であり旅も蓄積だった。記憶して思い出してその土地のイメージをふくらませるのである。
青森まで行ったら北海道は近くなるから行きたいとなるのが旅である。
北海道には十回とか行っている、函館も何回も行っている。
ただトラピスト修道院まで行って松前に行っていなかったのが失敗だった。
北海道で江戸時代からあったのは松前藩だからそこに行くべきだった。
北海道の日本の歴史は松前からはじまっていたからである。

松前に我は行かじも春なれや弘前よりや松前に行かむ

旅は終わることはない、季節によっても春夏秋冬があり旅はしきれるものではない、旅は今や一度だけではない何回か行って過去の記憶をつないでゆく旅になる。
人間ほど忘れやすいものはないのである。
旅でもすぐに何十年前とかなり記憶が朧になってしまうのである。
とにかく一日泊まっただけでもこれだけの旅ができた。
やはり旅が一番である。そこに住めば人間は誰しも鬼となる
ただ通りすぎて行くなら旅人なら花を見て去るだけだとなるからいいのである。

弘前の桜に染まり帰りける旅人にあれまた来たらむかな

まず弘前であれどこであれそこに住むということはどうしてもどんなところでもいいものではない、悪い面が露骨に見えてくるのである。旅だったらいいころだけ見てされるからいいのである。
それにしても一日泊まるだけで大変なことだった。それでも二日泊まれば北海道まで行けるとなる。こんなに旅ができないということも信じられないことだったのである。
勤め人だったりすれば自由な旅ができないのだから自分のようには感じない、それで退職した人が今は相当に旅している。
たまたまレストランで待っていて会った人もそうだった。高速バスで気ままな旅をしていたのである。
そして自分が気ままな旅ができないのもまた人生だとなる。
自由な旅をしているのは勤めをやめた退職した人たちだったとなる。

タグ:弘前市

fotoskecherで加工した弘前城の桜の写真


fotoskecherで加工した弘前城の桜の写真


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クリック拡大して鮮明に見える

写真は今や絵画化する、写真は今や膨大になっている
デジカメの場合は記録してとる場合がある
芸術としてとり加工することもある
この両方がデジカメにはある。
写真と絵の見分けがつかなくなったのも現代である。
タグ:弘前城の桜

2015年04月26日

弘前城の桜満開 (城にひかれのは現代に失われたものが城にあるから)


弘前城の桜満開


(城にひかれのは現代に失われたものが城にあるから)

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天守閣より

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パノラマ写真

(弘前城天守閣十句)

花また花花に染まりし天守閣
花の色重なり濃しや天守閣
花風に吹き舞い散るや天守閣
天守閣装う花の尽きぬかな
松風の鳴りて花散る天守閣
岩木山春の日映えて天守閣
石垣にくねれる松や枝垂桜
天守閣ものさび古りて松に花
松影に夜散る花や天守閣
花に月弘前城の天守閣
弘前城門の古しや花に月
堀写る月に桜や夜もふけむ

門古く枝垂桜の色濃くも城の内にしくねる松かな
二本の枝垂桜や城の内色を深めて天守望みぬ
樅の樹の直ぐに立ちしも城の内岩木山映え花盛りなり
花の影長々とつづく弘前城枝垂桜の石垣による
花に明け花にそまりて花に暮る弘前城に尽きぬ花かも
弘前城北の守りと古りにけり枝垂桜の色を深めぬ
岩木山天守に望む花盛りや我も望みてみちのくの春
門いくつ堅固に古りて北の国守りのかたく松と花かな


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月が出ていた

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クリック拡大しないと鮮明に見えません


●城にひかれる理由

大名や藩主の政治上の拠点であり、居住の場所であり、攻守の要であり、城下や近隣の人々の命や生活を左右する、まさに命運が決せられる場所であった

城を守ることは国を守ることと同義であり、それはすなわち、戦国時代には藩内の各人の命が城の存続と共にあったということを意味するのである。そのようなわけで有事の際には武将はおろか、一兵卒、農民や町民に至るまで、城内に暮らし、敵の襲来に備えたのだhttp://japan-web-magazine.com/japanese/castle/index.html


城の美学

徹底的に無駄を省いた造型
簡素簡潔の極みの美
潔白の四面の白壁
忠誠の主君の天主閣
質実の土台の石垣
貧しさの中の無駄のない美
武士道の結晶の美
身を律して静粛なり
冬樹のように張りつめて
ここに自ずと人格は陶冶され
一本筋の通りぬ
城下町の細い道
身を引き締めて
侍の威を正し歩む

建築はただの建物ではない。物質ではない。確かにそこには精神が外に現れた具象化であり建築を見るとその時代が凝集して現れている。日本の城もそれは美を意図して作られたものではない。あくまでもその時代の実用のために戦いに備えるために効率を第一に造られたのである。美を意識して作られたわけではない。後の世にそれが美として認識することになった。日本の城は本当に寸分の無駄もない。貧しかったので無駄ができなかったのだ。それは茶室にも通じるものである。日本という狭い国土ではすべて無駄ができないのだ。ヨーロッパには無駄と思える贅沢な建築がある。装飾過剰と思えるバロック建築などである。ヨーロッパには日本にはない贅沢な建築がある。それはとりもなおさずヨーロッパには日本にない富の蓄積があったからだ。日本にはそうした富の蓄積がない故無駄を徹底的に省く建築が志向された。日本の城は大きい城より小さい城に本来の姿があるのかもしれない。地方の多くの城は小さい城だったからだ。とにかく侍はいなくなっても城は侍の精神の結晶として残り確かにその城から侍が出てくるのだ。

 一方現代の建築の貧困は大きいばかりでそこに精神の表象化したものが感じられない。単に効率化でありビジネスと事務のための箱に過ぎず精神がない、ただ利益を追求するためのもので精神を感じられないのだ。建築からみると現代は貧困である。これほどの建物がひしめきあっているのにどれも個性もなく一様である。
現代をみるとき常に過去にもどり現代をみるから歴史が重要になる。
復古の精神が明治維新でもそうだったように革命になっているのが世界でも同じである。フィレンツのルネサンスがローマなどの復活だったようにローマももともとは武士道と通じるものをもっていたのである。それは建築にも現れていたのである。
ローマの兵士と侍は似ているのもやはり共通している。
今にないものが失われたものが昔にあったから歴史が見直されるしそれはくりかえされてきた人間の営みである。
城に魅力を感じるのは現代が失われたものがそこにあるからである。
高層ビルを見て何か不満がある。ただ高いというだけで何かが欠けている。
おそらくこうした現代のビルははたして後世の歴史的遺産となるのかと考えたらならないだろう。そこには何か人間の営みとして大きく欠落したものがあるからである。
一方城には小さくても単純でも根本的に違ったものがある。
それは何か?歴史的遺産とか物はただの物ではないのだ

●当時を生きた人々の思いがこもっている城

物にはすでにその城とともに生きた人たちの思いが残されているから単なるものではなくなっている。
だから何かもともと城もないのに観光用に城を作っても感動しないのである。
雲雀が原に野馬追城など作ってもそこにはもともと城がなかったから観光用であり感動しない、今なら城は秀吉とか名乗る人が個人で城を造ったように作れるのである。
今なら豪邸は城である。でもそこに何かが大きく欠落している。
城は小さくても単なる物ではない、その時代に生きた人たちの思いが集積して残っているから違っているのである。
そういうものが本当の歴史的遺産であり後世に残るものである。

城にはそういう人々の思いが共同性の象徴としてあったから違っている。
建物は共同性の象徴としてあった。
村の共同のために神社があり武士の時代になると城になり明治以降は家が共同性の象徴となり天皇家と家意識が結びついたのである。
なぜなら一家の墓が生れたのは明治以降だからである。
それまでは個人墓と夫婦墓が多いのである。それは明治になっても受け継がれているから夫婦墓は明治になっても多かったのである。それは・・・家という家の墓ではないのである。明治以降はこのように共同が村から城から変わっていったのである。
今なら会社が共同性の要だから城と同じになる。企業戦士と呼ばれたのもそのためであるでも会社が高度成長の時は会社に家族もまるごと従属したが今はそうではなくなった。
武士の社会では身も心も城と一体化して従属していたし家臣は君主に忠誠を誓っていた。そこに強いモラルが形成されて命をともにしたから違っていたのである。
そういうものを城にはあり単なるものではないからひかれるのである。

●弘前城の天守は当時のままのもの

弘前城は天守でも江戸時代から現存しているまれなものなのである。
だから余計にそこにこもっている思いがその城に感じるのである。
城でもきれいに改装されると何か違ってくる。たいがい城は改装されて新しくなっているすると何か作られた観光用のものと感じてしまうのである。

ともかく弘前城に残っているものは少なくても往時のままに現存していたから貴重である桜は別に江戸時代は咲いていなかった。枝垂桜のことは信長に滅ぼされた朝倉氏の城で歌われたからあった。糸桜として歌われている。
桜はそもそも山桜であり城には咲かない、染井吉野はあとから作られた品種である。
明治以降に城が公園化して桜で飾られるようになったのである。
弘前公園の桜もそうである。

春高樓の花の宴
めぐる盃かげさして
千代の松が枝わけいでし
昔の光今何處

これもだから明治以降に桜が植えられて咲いたからできた歌だった。
それでもなぜこれほど城には桜が映えるのか、それは城と桜が一体化する日本的文化のためである。当時も桜が咲いていたように錯覚するのである。
第一桜そのものが日本人の心でありもう単なる花ではないからそうなっている。
弘前城の桜はやはり一番見応えがある。岩木山を見えるし自然と調和することでさらに引き立つのある。それは二本松の城と同じである。
街中にある城はビルに埋もれたりしたら映えないのである。
自然と調和しないものはどんなことしても美を作り出せないのである。



弘前城に現存する門は、間口の高さが他の地域の城門に比べて高く作られています。これは、積雪時にも槍を掲げながら門を通過できるようにしているためだと言われています
http://tamutamu2011.kuronowish.com/hirosakijyouootemonn.htm

ここの写真を見ればわかる、これだけ雪がつもっている

この写真は4月24日のものです
今年は風が強いし早く咲いたので散るのも早いらしいです

偶然ホテルのキャンセルが一室あってとまれた

新幹線も盛岡まで立っていた

この時期はこむが桜の時期は短いから無理をしても見るべきである
タグ:弘前城

春の日の新幹線の旅の不思議 (仙台から青森まで二時間だったことの驚き)


春の日の新幹線の旅の不思議

 
(仙台から青森まで二時間だったことの驚き)


東北新幹線と夕日
http://sakana114.exblog.jp/16757926/

新幹線盛岡とまり春の月
春の灯や盛岡すぎぬ新幹線
春星や新幹線に乗れる人
きらめきぬ旅路帰るや春の星

逢隈駅とまりてしばし残る花車窓に見つつ過ぎ行きにけり
とうとうと北上川の蛇行して岸辺の広く芽吹く樹々かな
みちのくの奥の深きも春の朝連なる山の霞けるかな
新幹線二戸にとまるタンポポの明るく映えてはや走り去る
新幹線樹々の芽吹きや風ゆれてひた走るかな青森までを
八戸に新幹線のとまるかな春田の見えてしばしのどけき
みちのくの春の山々残る雪新幹線の車窓に見ゆかな
みちのくの春や夕日のきらめきて新幹線の車体に反射す
仙台と青森結ぶ新幹線二時間なりし春の夜かな
十三湖西風強し春なれど新幹線にはや帰り来ぬ

新幹線は自分はあまり乗らなかった。旅する時間がなくなり最近東北新幹線でも乗った。青森まで開通して三年たったというけど行っていなかった。八戸までは行っていた。
ただ錯覚していたのは新青森まで三時間以上かかると思っていたことがである。
このことが大きな錯覚だった。
鉄道で三時間となると遠く感じるのである。暇な時間があるときはそうして電車で旅をしていた。それはぜいたくな時間だった。
急行にもあまり乗らず普通車で旅していたのである。

だから今回新幹線で青森まで二時間で到達したことに驚いた。
二時間ということはほぼ原町から仙台に行く感覚である。
それは前は相馬市からも通勤していたように通勤できる時間でもある。
それは一時間20分くらいである
それにしても二時間は本当に早い、距離として遠いという感覚が全くもてなかった。
それは今まで経験しない不思議な旅になった。

新幹線だと見えるのは山だけなのである。
だから新幹線から見える山を紹介するサイトがあったことでもわかる。
不思議なのはその山が連なってるように見えることなのである。
それは山と山の距離は相当にあっても新幹線は早いのだからその距離を短縮してしまうのである。
だから山の間が遠くても連なっているよように見えるのだ。
それで仙台から岩手山が見えるという詩を書いたりした。
今回は青森から仙台まで夜に来たが街の灯でもその間の間隔がないように感じる。
一つの街にきんきてもすぐまた街に来ているから街の間隔がない
街の灯が次々に見えてくる感じ蜷のも不思議な経験であった。
つまり盛岡の街の灯や一関の街の灯でも連続して見えるのである。
新幹線は空間の間隔を変えてしまった。

というのは津軽鉄道で終点の中里町から十三湖をタクシーで見に行った。
十三湖には西風が強く吹いていた。
ここに今ころこんなに強い西風が日本海より吹いてくるのかと意外だった。
ただ太平洋も春になると東風が吹くから海からは風が吹きやすいのである。
その西風をに見に受けて今日のうちに帰ってきたことも不思議である。
あそこは本州の最果ての地だけでも仙台からだって前はそうだった。
新幹線でゆくとそういう感覚がない、距離の感覚がもていなのである。
それでこの感覚はなんなのだろうとなる

技術はやはり人間に新しい感覚をもたらす、パソコンでもインターネットでもそうだった
ただ前から乗り物は車であれバイクであれ自転車であれ乗った感覚は違ったものとなる。見える景色もそれで体験するものは違ったものとなることはわかっていた。
新幹線も乗り物だからやはり同じだったのである。
いづれにしろ電車の旅が長いから新幹線にも鉄道ファンなら愛着を覚えるようになる。
その流線型の車体に春の日がさして反射する、何かその車体も愛おしとなる。
こういう感覚は自分は車にはもてないのである。
でも車をもっている人はそういう感覚をもつことは同じなのである。

ともかくこれだけ早いと青森が一段と身近に感じた。
青森は日帰りもできる距離にあるのかと驚いたのである。
一日泊まったがかなりの所を回ることができたのである。
そして7年間旅から遠ざかっていたからまた旅ができたことはうれしかった。
旅した感覚を忘れていたがよみがえった。
一時は身体障害者になりは旅もできないと悲観していたからうれしかった。
旅はまだまだできる、ほとんど休むこともできなかったがかなりの所を今回は効率的に回った。
こういうのは旅ではないにしろ青森までこんなに近いとすると青森が身近になったのである。
それが新幹線の効果なのかもしれない、青森の一日旅行でもかなり効率的に回れるということである。
今までなら行くだけで半日以上かかり一日かかっていたら長すぎたからである。
行きに一日帰り一日となると長すぎたのである。
新幹線は遠くを近くさせて一体感をもたせる効果があるのかもしれない。
だからまた青森には一日の旅をしたいと思ったのである。

新幹線にケンジが乗っている
このつづきだった、青森まで乗ってやはりこういう感じになる
空間感覚を新幹線は変えたのである。

タグ:新幹線

2012年06月12日

最上川は日本で唯一川の文明を想起させる (最上川紀行-左沢線の旅などの追加)


最上川は日本で唯一川の文明を想起させる

(最上川紀行-左沢線の旅などの追加)
http://www.musubu.jp/haikutripatera.htm

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(最上川短歌十首)


稲刈られ米を運ぶや最上川


渡し舟昔の暮らし虫の声


紅葉して最上川や舟下り


舟のよる蔵に秋日や大石田


最上川は昔ここに人の待つ船着場かな虫の鳴くかも


最上川水の勢い酒田へと荷を積む舟や実りの秋に


滔々と流れ変わらじ最上川荷を運ぶ舟のなきが淋しも


豊けくも流れる水や最上川その勢いに春を呼ぶかな


蔵にしまう京のお雛様紅花に栄えし町や秋の夕暮


最上川酒田にいでて日本海船を待つかな蔵の並びぬ


酒田には木の灯台や栄えたる家の塀長く秋の夕暮


酒田に来飛島によりあわれかな畑耕すや秋の夕暮


飛島に鳥海山を望むかな鴎のとびぬ秋の朝かな


米俵担ぐ女の語られぬ力自慢や実りの秋に


●山形県は最上川を知ればわかる


現代は川はわかりにくい、日本では特に川の文化が希薄である。川が文明の最古の発祥地であることをみればわかる。四大文明はナイル川、ユ-フラテス川のメソポタミア、インダス文明、黄河文明と川から生まれている。インドのガンジス川はインド文明の源でありガンジス川なくしてインドはありえなかたった。それは物質精神ともに川によっていたのである。なぜなら水の供給地でありもう一つ重要なものとして川は交通路であったことが文明を作ったのである。外国の長大な川は流れが人工の運河なのである。ドイツでもラインが父なる川というときまさに川によって生まれた国だとなる。
ナイル川の川の物語は地球的スケ-ルによって作られていた。エチピアの高原の黒い土が泥となって流れて洪水となりその泥が栄養分を運んで肥沃な土地を形成したのである。その黒い土は岩石から生まれたというからその地球的地質史から生まれていたのである。福島県が放射性物質のセシウムに汚染されたというとき泥に付着して川に流れてそうなった。泥が一番の原因だったのである。泥はそれだけ川によって流れていたのである。だから新潟県の阿賀野川の下流まで影響していたのである。
日本が川のことがわからないから基本的に外国の文明を理解できないということがある。
ただ一つ最上川はその川の文明ににていたのである。最上川の流域は広大な米の産地であり紅花の産地となっていたからそれが近江商人と結びつき京都に運ばれて加工されたのである。


また最上川の流域には荒地が多かったというのは水を利用することが技術的にむずかしかったからである。水があっても水を利用することは灌漑などすることは技術が必要であり文明を作るのである。稲作と水利用は密接に結びついている。日本に水分神社が多いのは水を分けることが稲作には不可欠でありそのために村の共同体が作られていたのである。
http://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/river/enc/genre/06-sou/sou0302/html/01reki/01reki_03.html


仙台・奥州三春・西国肥後・尾張・遠江・相模などで生産されていましたので、気候・土壌が決定的な要因だったというわけではなさそうです。
 むしろ、最上川の舟運で山形と京都や大阪が深く結びつき、紅花商人たちが活躍したことが、産地の拡大に繋がったと考えたほうがいいかもしれません。


最上川 いまだ濁りて ながれたり 本合海に 舟帆をあげつ 斎藤茂吉


山形が有利だったのは最上川があったからである。他でも紅花は作られていたが運ぶ手段にことかいていた。いかに文明というのは交通と関係しているかわかる。川が交通路になっているから文明が作られたのである。だから最上川流域の米でも紅花でも川を通じて運ばれるから活かされたのである。そして日本海も冬をのぞいては穏やかであり北前船で京都まで運ばれた交通路になったから酒田が栄えた。

本間様は大地主として栄えた。


「金銀財貨は積んで山の如く、伊呂波四十八蔵の倉庫には累々たる米俵、金銀、銅貨、紙幣、古銭など数算することあたわず」


と言われたた。今でも山居倉庫がその名残である。そこで米俵を五俵も担いだ力持ちの女性が話題になったとか?男でも米俵を担ぐことが仕事だった。だから力をある男が称賛された。江戸時代あたりはそもそも機械がないのだから人力だから力あることが一人前とされた。田から村々にくらべ石(尺石)というのが必ずある。そこにある神社などにある石をもちあげれば一人前とされたのである。
力がなければ一人前としても認められなかったのである。今は力なくてもそれなりの仕事があるからひ弱でも生きていける。自分の庭作りした人には驚いた。機械ででしかもちあげられない石を動かしたのである。機械がないときは人間の力が頼りだったから力ある男は称賛されたのである。南相馬市鹿島区の江垂の一石坂というのも力持ちの女が一石の米を運んだから名がついたとか各地で男であれ女であれ力自慢の伝説がある。女でも力があることが称賛されたのである。美人であるより農業には力があることが望まれた。今でも農業などは力が必要なので力のない人はやりたくない、ただ機械化したので機械の操作の方に関心が移ったのである。


●最上川の俳句と短歌


最上川の全体を長い川の全体をみることはむずかしい。そのためには川を舟で下る必要がある。川に沿って下って行った時、途中なみなみと水量豊に流れる川は気持ちがいい、日本ではこのように水量豊に流れる川は最上川くらいしかないのだ。必ず川床が見えている。


五月雨を集めて早し最上川 芭蕉


これは水量の豊かさを俳句にしている。つまりこれだけの水量のある川は他に日本ではないのである

最上川秋風簗(やな)に吹きつどふ 水原秋櫻子


これは最上川というのは広いし大きいから秋風が広い川面を吹きわたり梁に集まっているというのを句にした最上川の大きさを示したものである。自然の情景の大きさを句にした。

五月雨や大河を前に家二軒 蕪村


これは最上川だったのか?水量豊かな河であることは確かである。これはこんな大きな川が決壊したらヤハな家二軒など流されるという危うい情景を見た。最上川でも堤防もまともにない状態では常に洪水の危険にさらされている。水には常に危険があった。海に面して住んでいると海の水がおしよせてくる夢をみる。水があふれる夢を見る。川もやはり海とにていた。こんなに五月雨がふったら家二軒などあっというまに流されるという感覚をもった俳句だったのだろう。そういう危険を海の側に住んでいた人が感じなかった。津浪はめったに来ないから感じなかった。人間は特に日本人は危ない場所に住んでいる。ただそういう危険感覚が消失していたのである。

一方蕪村の句は生活に根ざしたものに着目しているのが多い。


新米の坂田は早し もがみ河


毛見の衆の 舟さし下せ最上川

―――――――――――――――――
秋の季語である「毛見」は「閲・検見」で、
「けみのしゅう」は米の収穫前に出来高を検分する役人たちのこと。
当時は今のような自己申告ではなくて、
お役人が査定して年貢の額を決めていました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やっかいな役人を舟で早く流してくれということになる。新米が阪田(酒田)に早くつくのは最上川が交通路となっていたからである。




草枕夢路かさねて最上川 行くへも知らず秋立ちにけり」(正岡子規『はて知らずの記』より)


正岡子規が来たのは秋だった。自転車でどこなのか?船着場が川岸にあった。そこには説明の看板だけがあり何もなかった。虫が鳴いていただけである。渡し場なども昔はどこにでもあった。交通路として川はあった。今の旅はゆくえもしらずとかならない、行方は必ずわかっているのである。この川は流れてどこに出るんだろうという何かそういうわくわくした気分がここにはあった。いつれにしろ稲田と水量豊かな最上川は生活的にも一体となってあった。引き舟もあり川岸の村から労力が提供された。川の文明が最上川にはあった。


最上川の岸辺の道はさびしけれすすきは枯れて風さむきかも(結城哀草果)


この頃すでに舟は通っていないのか、ただ最上川は大きいかからこうした寂寞もあった。今もある。

山形の方言で、
お値段を聞くときは
「なんぼ?」
お金のことを
「じぇに」
というのは上方商人の影響だと聞いたことがあります。


京都の雛人形ももたらされ商人の蔵の奥深く眠っていた。大阪や近江商人の言葉が入ってくるのもわかる。「じぇに」というのは面白い、商人の言葉で「じぇに」が一番聞く言葉だからである。
山形市にはやたら市のつく名が多いのは紅花商人が多く出入りしたからだともいう。
五日町六日町七日町八日町旅籠町などが商人と関係している。


●左沢(あてらざわ)は辺鄙な地域?


最上川は意外と曲がりくねっているから全容を知るのはむずかしい。左沢はかなり上流の方である。ここに左沢線が通っていて行ったことがあった。あそこの車が通れない古い橋が印象的である。

柳田国男の「地名考」によると愛宕神社が鎮座するアテラ、アタゴの地名は風光明媚ながら稲作に適さない僻地を意味するという、左沢(あてらざわ)はこういう観点から「左」の字がつけられた。
そうだとするとあの古い橋を渡った先はそういう辺鄙な所だったと意識する。あの古い橋は車も通らない橋は余計にそういう僻地に入る橋のように見えてくる。浪江の標葉郷も何か風光明媚でも人の住めない、開拓しにくい場所だった。禁断の場所であり共通性があった。そこに原発が作られたのである。


春はまだ左沢


左沢(あてらざわ)その名のいかに
最上川にかかりて古りしや
橋一つ車の通らざりしも
岸辺になお雪の残りて
左沢なお春はまだしも
なみなみと水は流れぬ
何か秘境めきし名や
途中にして柴橋とかの駅名も
心に残り束の間の旅路かな

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旅というのはいかに記憶されるかが問題になる。人間は忘れやすい動物である。こうして書いているのも記憶された部分を思い出してつなぎあわせて書いているのだ。日本だとあとから思い出してもいろいろとふりかえることができる。でも外国はできない、それで外国について詳しく書くことはむずかしいのである。


山形県と宮城県の境が山寺に入る所であり春でも山寺に入ると雪が残っている。その境が明確にわかるのである。国境のトンネルをぬける
と雪国だった・・・まさにこれである。そして最上川にでるときこの川を通じてすでに日本海を意識するのである。川が交通路だったからそうなる。北上川はこういう交通路にはなっていなかった。確かにあったにしろ石巻港と酒田では違っている。石巻の米は北上川流域のものではない、今回津浪にあった海側に開拓された所だった。そこにだから米を運ぶ貞山堀などの運河が作られていたのである。山形県を知るのには最上川を知らねばならない、滋賀県を知るには琵琶湖を知らねばならない、なぜなら琵琶湖は万葉集の時代から交通路だったからである。
交通路をみることは歴史では肝心なのである。交通路を知ることによって見えてくるものがかなりあるのだ。


最上川文学散歩
http://www3.ic-net.or.jp/~shibaraku/bunngakunosannpomiti.htm





紀行文などでも編集すると一つの新たな創造となる。本に書いてあるものでもインタ-ネットでも編集すると新たなものとして活きてくるのだ。この文からもさらに発展するものがある。書き加えるものがある。つまり文章は常に新たな様相を帯びて生成発展しているのである。本とは完結して出されているけど本も完結していない、それも編集されて生成発展するものである。インタ-ネットだと無限に生成発展するものとして提示できる。これも前に書いたものを生成発展させたものだからである。本はなかなか完結しているから利用しにくいけどインタ-ネットの中だと生成発展しやすいのである。膨大な知識はこういうふうにインタ-ネットの中で生成発展してゆく、著作権の問題があるがこれまでは出版社とかに知識が独占されていた、情報でもそうである。マスコミによって独占されていたから原発事故などを防げなかったのである。

2012年03月13日

旅の思い出-俳句十句(松島から宮古まで)


旅の思い出-俳句十句(松島から宮古まで)

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松島を神の残すや春暮れぬ


荻浜に昔の航路冬の暮


涼しさや海にそそげる北上川


ひぐらしや唐桑めぐる湊かな


隠されし湊々や合歓の花


轟きぬ神割崎や夏の海


鬼百合に白波寄する気仙沼


(大船渡)


曙光の湾にまぶしや霜の朝


釜石に海の見えじも冬の暮


宮古より盛岡遠し冬の暮


亀島に咲きそむ桜海の風なお寒しかも白波よせる


荻浜の裏山の社桜散り我がたずねしは昔なるかな



津波のあとにふりかえるとこの辺は旅をしたけど被害が大きい所だった。海に面して風光明媚な所だったからショックだった。なぜかといえばこの辺は被害が大きいから今は観光というわけにはいかない、当分そうだろう。内陸部はそういうことはない、観光しても悪いという感じではない、しかしこの海岸沿いは本当に凄惨な津波の被害にあった。街ごとなくなったところもあるから悲惨である。
そういうところには観光には行けない、つくづく普通なり海は実に穏やかであった。というのは湾がある所だから海が穏やかに見えたのだ。福島県は湾がないからいつも荒波が打ちつけていた。一方陸前高田市でも広田湾などは実に穏やかに見えたのである。松原もいい松原だった。
南三陸の志津川も湾になっているから穏やかだと見えていた。あんなところにこんな津波の被害があったことはショックだった。ただ三陸は前から津波の被害が何度もあった地域であるから名取りから南の福島県とは違っていた。それでも逆にあの辺の湾は穏やかだなとうらやましかったのである。


一回は松島から牡鹿半島から唐桑半島から気仙沼まで自転車で旅した。あの辺の地形は複雑だった。後ろが結構急峻な山となっていてひぐらしが鳴いていた。そして隠されたように小さな湊があり魚をとっていた。港にはもともと適した地域である。宮城県の漁獲量は水産だかは800億であり福島県は100億だった。福島県の水産業は盛んではない、宮城県は港が多いから盛んだった。それにしても松島でもそうだが地理がわかりにくい、複雑である。地形的には福島県などよりずっと魅力があった。
変化があり湾があるからである。その港がどこも津波の被害にあった。津波には弱かった。

この辺は福島県の浜通りから海の領域として共通性があったのだ。だから津波の被害を同じ様に受けたのである。ただ一つの救いは松島が神に守られたようにほとんど無傷で残ったことである。
神が残してくれたとさえ思う。あそこの松などが海岸線のようになぎたおされたら絶望だった。
松島は今でも観光を普通にできる。他は被害が大きいから観光とはいかないだろう。鉄道も一部破壊されている。今になると行けないとなるとああ、あそこに行ったなと思い出は余計に貴重になる。

ただ旅は忘れやすい、だから記憶が大事だった。デジカメなどで詳細にとっていれば思い出すことがある。プログに書いたことでも自分で忘れている。それで読み返して思い出してまた書いた。


旅はデジカメでなるべく記録させておくべき・・

2012年01月21日

雪の俳句十句-(会津→新潟) (凌雲閣)(フランス-リヨンのことなど)


雪の俳句十句-(会津→新潟)

(凌雲閣)(フランス-リヨンのことなど)



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クリック拡大!

会津なれ墓所も深くも雪埋もる


雪ふぶき城は要や会津かな


喜多方の蔵の梁黒く積る雪


檜枝岐雪に閉ざさるかなたかな


線交じる小出を発つや雪の朝


機織れる昔やあわれ雪埋もる


足軽の長屋残るや屋根に雪


雪埋もる石垣もなき高田城


雪埋もる凌雲閣の一間かな


皓々と月に氷柱や凌雲閣


雪埋もる駅舎やあわれ飯山線


雪降らぬ街に住めども心にし雪はふるかなみちのくに棲む


雪の嶺に夕日の映えてみちのくの奥に入りにき電車のすすむ

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魚野川


凌雲閣のプログ
http://blog.ryounkaku.net/page/3



会津から只見線で小出に出てそれから飯山線で十日町に出た。十日町は通りすぎただけだからわからない。今日テレビで見て十日町のことを写していた。十日町絣とかがあった。東北でも海に面した所は雪深く埋もれる冬の長い時期を過ごす感覚が肌で感じにくい。雪かきで人が死んでいる。仮設住宅で浜通りの人が雪かきしている姿も不思議である。雪とも一つの戦いである。海も実際は海との戦いであり漁師は楽なものじゃない、自然との戦いが人間の暮らしであり歴史でもあった。しんしんと雪がふりつもる世界はただ詩的にイメ-ジすると美しいとなるが現実そこで暮らすとなると日々雪との戦いの暮らしになる。特に高齢者にとっては厳しい生活環境となる。限界集落では雪かきする若い人がいないとか生死にかかわる。十日市の近くの新潟の栄村では地震でかなりの家が崩壊して仮設住宅に入ったがその雪かきで四十代の人が死んでいる。雪深い中で昔はどういう暮らしがあったのか興味深い。囲炉裏に薪を燃やして暖をとりそこで寝ていた。雪の中に野菜を貯蔵していた。機織りもしていた。一方でそういう豪雪地帯では江戸時代は江戸に出稼ぎに出た人も多かった。そういう雪国の暮らしに思いをはせるのだがもう一つ現代は便利になりイメ-ジできなくなった。雪の季節も旅は趣深いものとなる。旅もその土地のことを良くしらないとただ通りすぎるだけになる。


外国の旅などは特にそうだった。日本のように建物一つをとっても何を意味しているのかわからなかった。あとでいろいろ情報に接すると見えてくるものがあった。フランスのカレ-は石炭の産地で有名であそこにゴッホが牧師として赴任して炭鉱夫と一緒になり働いたこともあると知ったとき興味を覚えた。フランスでは余り石炭はとれずイギリスの方がとれていた。ということは蒸気機関車がイギリスで発明され発展したのも燃料があったためなのかとも思う。


モンス・シャールロワ間のソントウル運河とブラッセル・シャールロワ運河を使って船でブラッセルに運ばれていました。船といっても現在のようにエンジン付の船ではありません。運河の両側に設けられた小道で、人や馬が石炭や貨物を満載した船にロープを付けて引っ張って行ったのです。そしてブラッセルの運河には、この作業道に沿って様々な工場や会社が並び、多くの労働者が肉体労働に従事していました。
http://blogs.yahoo.co.jp/prof_japonais/3946797.html


こんな時代だったということも想像しないだろう。船を引いていたのは日本でも引き船があったからにている。ただ外国の川はそもそも運河になっているから違っている。石炭はその頃貴重な燃料となっていたことは日本と同じである。

またフランスのリヨンは絹織物で栄えた。そのためにその刺繍のデザインをする人がたりずそういう仕事をする人が必要だった。リヨンは京都の着倒れの街だというのもにている。リヨンも立ち寄ったけどそうした歴史を全く知らなかった。そういう所から画家が生まれたりするのも必然だった。それは西陣織りとかでもデザインする人が必要になる。そういう素地があって画家も生まれてくる。芸術も日常的な生活のあるところから生まれてくる。
ミケランジェロのような彫刻家にしてもあれだけ石の教会とか石の加工技術、職人がいたからこそ生まれたのである。織物とデザインは絵画的なセンスが不可欠に結びついている。そしてその土地土地の織物があった、それは八丈島とか与那国島にもあったからその土地から育まれたものが江戸時代にはあった。

雪というときyoutubeでハイデルベルグの塔に雪が降って積もっているのを見た時は感動的だった。ドイツは相当に寒い地域であるから雪がふるのは当たり前だが現実として実感できないのが外国だった。実際雪質は日本でも違っているように外国だったらまた違っている。


心から 信濃の雪に 降られけり


外は雪内は煤ふる栖かな 


これがまあこれがまあついの栖(すみか)か雪五尺


一茶


信濃の雪は暗い感じだった。煤(すす)けるというときいかにも一茶らしい。黒い梁があり蔵の棲家で一茶は最後に死んだ。喜多方では蔵が喫茶店になっていて外には雪が積もっていた。蔵に冬籠もりしている雪国の姿がある。


ともかく現代は世界が同時間でリアルタイムで一体化している。日本だったら確かに時間的一体感はあった。でも雪の時に旅することはできない、だから芭蕉でも雪の俳句にいいものはないのは当然である。雪のときでも旅できることが現代の幸福になるといえばなる。雪で苦しめられる人にとっては旅をするのは贅沢だとなるが観光地だったら客として来てもらいたいとなる。凌雲閣は一回泊まってみたい宿である。自分は安宿しか泊まっていないし駅から離れると泊まりにくいから泊まっていない。でも旅館でも歴史的なもの謂われがあるところはそれでけで価値がでてくる。あの建築は相当に価値がある。やっぱり時間をかけて職人の技術をいかしたものは違っている。職人も言っていたが最近は金持ちが庄屋などがいなくなり時間をかけてゆっくり技を磨けないといっていた。最近の住宅は建て売りでありこれも安いから一様化して昔のような重厚な建物が建てられないのである。


そのことは文化の衰退につながっている。金持ちも実際は文化的な面などで必要なのである。しかし現代はあまりにも平等化を推進した結果、大衆化した結果、文化すら喪失した。不思議に貧乏でも江戸時代には各地に織物が発達したように郷土料理も貧しい所から工夫して作っていたように文化を作っていたのである。いづれにしろこれから中世的江戸時代への回帰が起こるからそうした新しい地方の文化、隠居文化も生まれかもしれない、それは大衆的マスメデアからは生まれない、インタ-ネットのような個々のメデアから生まれかもしれないしそういう過渡期になっている。隠居文化というとき茶道が見直されるということがありうる。茶道は茶室とか茶道具とか茶碗とか四季を感じるセンスとか日本の総合的文化として作られた日本独自の奥深い文化なのである。だから凌雲閣の一間一間がみな違っていて茶室になっていた。そういう旅館はまれであるから一回泊まる価値があるだろう。ただ料金が高いから泊まりにくい、でも写真でも見てイメ-ジして泊まるということもできる。そういう感覚でここに書いたのである。

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同時間の世界


今人は極東の日本にあれど

パリの灯を思いパリは身近なり

今ハイデルベルグに雪はふり

その雪の我が心にも積もりぬ

今人は同じ時を共有して

世界の一体感をますます深めぬ



パリの冬路次行く人の交じりつつセ-ヌ河畔に我もありしも


ノ-トルダム嵐のあとに月さやかパリの街行くその一人かな



このペ-ジに関連したリンク

リヨン刺繍博物館について
http://www.museesdefrance.org/museum/serialize/backnumber/0409/museum_0409.html


雪国のトンネル
http://www.musubu.jp/jijimondai21.htm#saigai


虞美人草から地方の産物を読む
http://www.musubu.jp/jijimondai13.htm#gu

 

2012年01月04日

山形県の旅の回想の短歌 (秋から冬-七ヶ宿街道など)


山形県の旅の回想の短歌

(秋から冬-七ヶ宿街道など)




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上山近くや姫の面影の鏡清水に秋の夕暮

上山秋の灯ともりあわれかな七ヶ宿より我は来たりぬ


上山一夜泊まりぬあわれかな秋の夜ふけぬ安宿に寝る


上山残れる雪に城見えて電車の去りぬ春はまだしも


峠駅下れば見ゆる福島や江戸への道のなお遠しかも


仙台ゆ山寺に入り山形や雪踏み入りぬ馬形部落


山寺の対面石に雪残り流れの清く我の向き合ふ


何故にここにありしや山寺に北畠神社秋深まりぬ


南朝の形見と残る神社かなみちのくの奥戦いの跡


深々と雪に埋もれて山形やなまりの強く冬深まりぬ


山形に雪はふりつむしんしんと小国は遠く旅の日思ふ


数県の雪に埋もれて家淋し羽前南駅一時とまりぬ


最上川船は通らじ雪埋もれ春を待つかな冬は長しも


最上川虫なきかすか船着場ここにそ昔舟は寄るかな


最上川流れゆるやかに秋の日や我がたどりて酒田にいでぬ

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●旅の楽しみ方


【第一段階:計画立案する楽しみ】
【第二段階:実体験する楽しみ】
【第三段階:写真を楽しむ楽しみ】
【第四段階:旅行記を書く楽しみ】
http://www.gulf.or.jp/~houki/essay/zatugaku/whytravel/whytravel2.html

ここで現代の旅で大事なのが3と4である。ここは実際は一つのものである。旅行記を書くというときそれは旅を思い出して書く、回想の旅である。回想するためには記憶をたどらねばならない、すると人間は忘れやすいから記憶をたどれなくなるのだ。特に外国などは変わっているから記憶しにくいから写真は本当に大事だったし貴重な宝物になっている。そしてそれがどこでとったかさえ不明になる場合も多い。日本の場合はあとで回想することが何度もできる。それでも忘れ安いのである。ただ東北だったらだいだいの地形が頭に入っているからわかりやすい。それでも電車で行っただけではわからない。上山(かみのやま)に行くのに自転車で小坂峠を越えたけどとんでもない坂だった。嫌になって上りたくなくなった。たいがい坂は歩いて上っていた。あの坂はどんな人でも急なので歩いて上るほかない。小坂峠どころではない大阪峠だった。その坂を越えると上戸沢から下戸沢となりなにか名前もひなびているし何か淋しい道のりとなっていた。それは白河街道を通って会津に出たときと同じだった。あの道も今はさびれた道になっている。昔の街道はさびれた裏道のようになっている所が多いのだ。道は変わってしまった。街道で不思議なのはなぜ急峻な山道を越えたのかということである。あのような道を駕籠でゆくとしたら大変な労力がかかる。それは陸前浜街道の鹿島区の一石坂もそうなように坂がきついのに回り道していない、結局昔は急な坂道があっても山があっても最短距離を選んだのである。その感覚は歩いてみないとわからない、少しの距離でも遠回りすると歩いた場合かえって遠くなり目的地に遅くつく、早くつくためには坂があっても最短距離を行った方がいいのである。自転車だって二三キロ分かれてそこで休むかと思ったら往復5キロとかなり時間がかかるのである。先を急ぐとすると回り道は時間がかかるのだ。歩くことは常に先を急ぐということがあったのだ。まずこれは車の旅とは余りにも違いすぎるから感覚的に実感できなくなったのだ。峠駅は電車でも昔の峠だから名前がついた。力餅とか売っているのも面白い。峠を越えるのは大変だったのである。

旅を充実させるには現代はでは確かに外国までも広く旅はできる。でも中味のある旅がしにくい、それで大事になるのが回想の旅であることがわかった。東北辺りだったら回想の旅もしやすい、まず地理をしること地形をしることだがそれが感覚的にわかりやすい、それでも今の旅は車がないと電車の旅が主流になるから昔の街道のことは閑却されやすいのである。自転車で行けるところはそれなりに行っても限られていた。だから上山というとき上山は車窓から見た上山城しか記憶していないしそういう所が多いのである。一回だけ七ヶ宿を通ったのでこうしたし短歌もできたのである。秋の夕暮れに鏡清水に姫が顔を写したとかあり上山の近いので現実味を帯びて想像した。そこから上山についたのはすでにとっぷりと日も暮れて街の灯がともっていた。そしてやっと安宿に泊まることができた。旅情は安宿にあるが現代はホテルは高すぎる。ビジネスホテルでも高い。温泉旅館は高すぎるから数えるくらいしか泊まっていないし泊まらなかった。安く旅するならヨ-ロッパでも外国の方が向いている。日本は交通費でも何でも高すぎる。上山城は2万五千石だけど城が小さくても残っているのがいい。それなりにここが城下町だったことが外からみてわかるからだ。相馬藩は六万石でも城がないから城下町だということすら意識されないのだ。


七ヶ宿街道は日本海側や山形秋田から参勤交代に来るときは福島市に出て奥州街道にでたときここからまっすぐ江戸へ通じると意識しただろう。でも今のように福島市に出たら新幹線で二時間だとはならない、まだまだ遠い感覚である。その遠い感覚が旅だったのである。今でも地形は変わっていないから想像はできる。福島市に出る奥州街道はみちのくの幹線道路だったことは昔も今も変わらない。小坂峠を越えると広々とした平野が開ける。山形は山に閉ざされた地域でありかえって最上川を通じて酒田に結ばれ日本海から北前線で大阪や京都に結ばれていたのだ。紅花で栄えたというのも最上川の交通があったからである。日本では河の役割はあまりない、最上川だけは交通路となっていた。人間の社会は交通によって繁栄したりしなかったりすることがはっきりしている。参勤交代の道でも昔の街道はそれなりに人が行き来するからその街道沿いは栄えるということがある。ところが鉄道ができたとき交通路が変わったから昔の街道はさびれたのである。最上川の舟運も北前船もなくなった。そうすると最上川沿いもさびれることになったのである。人間は遠くても不便でも交通が発達すると便利な所が要所となる。


東北でも福島県でも広い、会津は一つの大きな国であり雪国でもある。山形も雪深い所だから一般的に東北には雪国が多い。ただ浜通りから太平洋沿いの石巻辺りまでは海側であり海の風土でにかよっている。今回津波にあった地域は風土的に共通していた。むしろ会津と山形とか新潟は風土的に雪国で共通している。雪に閉ざされる感覚は浜通りの方では理解し得ないのである。それで今回浜通りで原発事故で会津の仮設住宅に住んでいる人がいる。その人たちが会津の雪に埋もれ雪かきしてい姿がある。はじめて身をもって会津の雪を雪国の体験をしているのだ。そこで冬を越すのだから本当に会津の人の気持ちがわかる、雪国の人の気持ちがわかる。東北でもこうして風土の違いがあるからなかなか一つのものとして理解しにくいのだ。

山形も深く雪に埋もれる県である。宮城県との境が山寺に出る辺りにありその境がはっきりししているからここから山形だと意識しやすい。必ず面白山とかが深い雪に閉ざされるし雪国に入ったということが意識される。春になっても雪が長く残っているから宮城県と山形県の境は一番境として意識しやすいのである。山形県で面白かったのは郷土料理として納豆汁があった。それがなんともこってりとして雪国風である。土地のとれたもので工夫して作ったのが郷土料理である。仙台のハゼの雑煮も石巻の長面で焼いたもので栄養があるようだ。今回の津波で被害を受けたがハゼをとりはじめた。海水と淡水が交じるところでハゼがとれる。北上河の河口でものんびりと釣りしていた人がいたがあの被害は凄まじい。テレビで見てもそうなのだからそこに行ったら茫然としてしまうだろう。あれだけ人家が密集していたのだから被害も大きかった。

ともかく冬は冬籠もりでり今日もちょっとだけ雪がふった。冬籠もりして旅の回想にふけりこうして旅行記のようなものを書いているのがあっている。「山形の納豆汁や冬深む」となればさらにいいだろう。これは浜通りの感覚ではない、山形の感覚なのである。雪国の冬籠もりと太平洋側の冬籠もりは感覚的に相当違っているのだ。旅行記を書くにはやはりまた調べたり本を読んだりしないとできない。それかインタ-ネットととかアマゾンで本が安くても送料が無料となっているので買いやすくなったので助かる。ものを書くということは必ず何かを参考にして書いているのである。本にはやはりプロ的な人が書いているので詳しいのである。ドイツについて書くとしたら最低十冊とか本を読まないと書けないだろう。ある程度本を集めないと書けないのである。そのコストが安くなり便利になったから素人でもある程度のものが書ける。ただ外国はかなりむずかしい。ただ外国も近くなったから日本と外国が重なり合う物語やら歴史をつづれるようになったのである。


七ヶ宿街道

http://www42.tok2.com/home/kaidoumiyagi/sitigasyukukaidou..html

ここは相当に専門的である。こういうのがサイトにあると助かる。インタ-ネットをたどって旅を深められるのだ。
本ではなかなかこういうふうに読めないのである。一つの相互的関連として検索し読みまた創作するとき
知識は創造は無限に広がってゆくのだ。

 

2011年12月25日

雪の俳句(弘前-長野)


雪の俳句(弘前-長野)

snowhaiku10.jpg
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青森や雪に埋もれし駅舎かな


(弘前城)


雪深し弘前城に踏み入りぬ


弘前や朝の光に舞いし雪


弘前城門三つ古り根雪かな


堀凍り溶けざる日々や弘前城


朝の雪心洗いて五重塔


雪の中一人乗りにき境松


常夜灯雪に埋もれて野辺地かな


湯沢なれ夜行列車は雪の中


区界の雪に埋もれて久しかな


曲屋や雪に埋もれて奥会津


貧しさや信濃の雪に一茶かな


山々のさえぎり長野の雪深し


雪国や何をついばむ烏かな


夜行列車雪国あとにひびくかな


雪国の灯(ともしび)あわれ人生は遠き記憶や雪ふりつもる


弘前に煉瓦の銀行古りにけり朝雪踏みつ街を歩みぬ


明治なる形見と残る銀行や誰が勤めたる根雪に暮れぬ




雪の弘前城
http://4travel.jp/domestic/area/tohoku/aomori/hirosaki/
hirosaki/travelogue/10533201/

弘南鉄道 境松-田舎館 黒石駅発
http://www.youtube.com/watch?v=3CZMW9TS7Vw


みちのく冬の旅の記録(小林)
http://www.musubu.jp/fuyutabikiroku1.htm



雪の時も電車で延々と旅していた。ここは雪降らないけどしんしんと冷える。雪降るにふさわしい。それで雪ふる景色が浮かんでくる。みちのくは雪に埋もれる所が多い。日本は半分は山国であり雪国なのだ。「心から 信濃の雪に 降られけり-一茶」雪は場所によって違っている。一様ではない、ただこの雪の感覚はわかりにくい、弘前の雪は明るい感じだった。朝の雪の景色は本当に美しかった。きらきら明るい雪が朝ふっていた。弘前で見た雪は一番美しかった。その他は雪というとき何かどんよりして重苦しいのである。会津でも何かいつも曇っていてどんよりしている。明るさがないからあまりいい印象はない。雪は一般的に暗い空からふってくるからそうなる。ただ弘前で見た雪は違っている。明るい雪だったのである。雪はこの醜い人間世界を清めるものである。雪の中に埋もれて人間は消える。灯だけがともっている景色はいい、人間の世界は一旦氷河期が来て人間が消えた方がいいのかもしれない、そしたらそのあとまた自然が復活するかもしれない、現実に放射能汚染された地帯は三十年は住めないとか嫌になってしまった。


一層氷河期がきて埋もれてしまいばいいとさえ思う。人間の世界はあまりにも汚い。それは結局人間の欲のためなのだ。犯罪も結局人間の限りない欲から起きてくる。原発事故だって元を正せば豊かな暮らしをしたいという欲だったのである。人間の欲は絶対に抑えることができないのである。女性への性的欲だって男性へのだってどっちにしろ抑えられない、あらゆる欲望は抑えられない、その欲望は限りなく広がったのがグロ-バル化社会の一面だったのである。世界的に欲が制限されない社会は実際恐ろしいものだったのである。戦争にしても正義などどっちにしろない、欲と欲の争いである。それが大量の死者を生んだ。個々にしても欲であり全体にしても欲である。カルト宗教団体も巨大な欲の固まりである。最も欲望がぎらぎらした場所がカルト宗教団体である。そこで欲望が満たされない不満が絶えざる祈りとなっているのだ。


この世のこうした限りない欲望に対して神が怒ったのが今回の津浪だったかもしれない、文明への警告だった。あくことなき人間の欲望が文明を作った。だから神から見るともうがまんがならないとなり津浪で原発も破壊した。文明を破壊する巨大な災害がまた来るかもしれない、いづれまた氷河期が来て人が住めなくなるかもしれない、人は氷河の下に埋もれる。温暖化というけど氷河期も自然のスケ-ルではまた来ることもありえる。それも自然のサイクルでありその時これだけ汚染された文明社会は消され再びそのあとに原生の森や海や大地が復活するともなる。もう人間社会は汚れきってしまった。再生は不可能である。新たな原生の自然の復活なくしてもう清められることはない、それが大津波として現れたのかもしれない、これからも巨大な災害がおそってくる。文明を滅亡させる災害がおそってくる。それも神の御意だとするとき
あきらめるほかない、それほど神聖な地を人間は汚しすぎたのである。


弘南鉄道は旅情ある路線である。青森の鉄道は旅情がある。北の果ての旅情がある。冬は青森がおすすめである。新幹線で今度は行けるけど早すぎると旅情も消える。旅ができなくなったけど心の中で旅はつづいている。いつも旅している。それでインタ-ネットの中で旅ができる。写真とかビデオがでているので便利である。記憶をたどりよみがえる旅ができる。人間は忘れ安い、自分で前に書いた俳句でも忘れているから意外と写真は貴重になる。特に外国の写真は貴重だった。なぜなら二度と行けない場所が多かったからだ。人間はとにかく何事忘れやすいのだ。津浪でも四百年前にこの辺であってもそんなことを話題にする人もいなかった。人間は次々に目の前のことに心を奪われ忘れてゆくのである。だから俳句とか短歌は一つの記録としてもあとで役に立つ、何か記憶しないことには忘れてゆく、弘前城は写真に出ていたので思いだしたのである。



 

2011年07月27日

名所観光がつまらないのはなぜ?(もののあわれを感じないから)(2)


名所観光がつまらないのはなぜ?(もののあわれを感じないから)(2)

芭蕉の時代には、中尊寺には金色堂とこの経蔵の二つの建物しかなかったのだ。
また、その近くに旧鞘堂が移築されて残されている。これは鎌倉時代に建てられたもので、芭蕉はこの鞘堂に納められた金色堂をみている。芭蕉はここでの感慨をつぎの句であらわしている。

三代の栄耀(えいよう)一睡の中(うち)にして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡(ひでひら)が跡は田野になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。


           五月雨の降(ふり)のこしてや光堂


奥州藤原氏の滅亡が1189年のことですから、鞘堂の建設は、それから数えて約100年後。金色堂の完成から数えて、164年後のことになります。

それでは金色堂は、164年間も野ざらしであったのかというと、どうもそうでもなさそうです。鞘堂というほど完全な覆いではありませんが、もっと簡単な保護施設は、奥州藤原氏の時代からあったようです。
http://www.iwatabi.net/morioka/tyuusonji/10syasin.html


芭蕉が訪ねたときは今のように観光地化していない,西行が来たときは繁栄していた平泉である。

三代の栄耀(えいよう)一睡の中(うち)にして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡(ひでひら)が跡は田野になりて・・・・

荒寥としたみちのくの風景でありその繁栄の形見となるものは金色堂しかなかったのである。
浄土が池には訪ねていないらしい、何かその当時眼をひくものでなかった。大門の跡というのは今も柱の跡の礎石が残っているからそれなのかもしれない、そこは荒寥とした栄華の跡であり何もない、光堂のみが風雪に耐えて残っていた。それで五月雨の句ができた


今になると平泉は観光客でいつもにぎわっているからにぎわっている場所だと錯覚する。それとともに芭蕉のような旅情を感じない、荒寥とした廃墟になった平泉を感じないのである。これは他の観光地でもそうであり城などでも新しく建てるとそうした歴史の跡が消されて何か博物館のようにきれいになりそれが歴史のなかで消失した無常観を感じない、会津の城でもそうである。戊辰戦争で敗れた城は無惨な姿だった。でも新しくするとそこに歴史の無常観は感じなくなる。そして続々観光客がおしかけるとにぎわった場所だと錯覚する。観光地化するともののあわれは消失する場合が多いのだ。それは京都でも起こっている。あまりにも人がおしかけて本当は歴史のもののあわれを示す地が観光客がひっきりなしに訪れる騒がしい場所となる。

歴史の場所が博物館になってしまう。それとともに観光地が陳腐化してゆく矛盾がある。
まずぞろぞす修学旅行生でも騒がしく訪れること自体が旅情や詩情をなくす、それでも観光客を呼ばねば繁盛しないからやむをえない、寺ももともとは観光客のためにあるのではないがそうなって繁盛してもうけている矛盾がある。そもそも寺は修行する場だが今は何でも観光地化して金儲けの場となってしまう。観光地化することで稀少的な価値が喪失してゆく矛盾があるのだ。世界遺産に登録されたりするとますます観光地化するからち稀少性がうすれ価値が減少してゆく矛盾がある。


かえって誰も注目しないような所にもののあわれが残っている。相馬藩などは小藩だから城の跡もほとんど残っていないけどかえってそこに前に書いたようにもののあわれや昔を偲ぶことにもなる。かえって宣伝されすぎて観光地化して旅情が失われる所が今は多すぎる。金儲け主義が露骨に出るともののあわれは失われる。でも今は商業主義があまりにも前面に出るからそうした価値は見失われやすいのである。何気なくさりげなくあるということがなかなかできないのである。これでもかこれでもかと宣伝するともうそれ自体に嫌悪を感じてしまう。その薬ももう効かないものかとさえ思う。みんな金欲しくて芸能人やらが出て宣伝しているのだからあまりにも見えすぎている。


もちろん名所には名所の意義がありその歴史的価値は変わらないが観光地化しすぎるとそうした本当の歴史的価値を見失われやすいのだ。だから平泉では金色堂しか見ないがその裏方にも人の暮らしがあり営みがあるがそれは誰もみない、あまりにも日常的なことは注目しない、でもそこにこそもののあわれや旅情が生まれてくる矛盾がある。今の時代は旅情を感じることはそれだけむずかしくなっている。旅情は観光会社によって作られるものではない、偶然に感じることがある。思わぬ驚きこそ旅の醍醐味である。金色堂を見るだけで良しとするのは旅ではない、芭蕉はその旅の長い過程で平泉を訪ねて無常観を句にしたのである。現代人はがつがつして名所に来たから感動せねばならないとか脅迫感に強いられている。そういうものも旅ではない、だから現代からは観光はあっても旅は消えたのである。


旅人に金色堂や秋の蝉


山寺に地元の人や秋の蝉

秋になると観光客もへりかすかに秋の蝉が鳴いている。みちのくの淋しい風景にもどる。夏は観光客でそうした旅情も失われる。山寺でも夏が過ぎたら秋の蝉の声を聞く、それは地元の人がふさわしいともなる。地元というときどの辺まで地元になるのか?今なら仙台は辺りは地元であり福島県でも近いところ地元になる。秋の蝉の声を静に聞くの地元にはあっている。

冬の平泉に旅情を感じたように京都などでも観光客の少ない冬に訪ねた方が旅情を味わえる。いづれにしろ何か工夫しない限りどこも観光地化して観光客にのまれもののあわれは失うのである。現代は宣伝の時代というとき何でも見せ物になる時代である。津浪の被害者も格好の見せ物になるしマスコミの餌食にもなる。また現代は演技の時代であり絶えず演技者としてあり真実を見分けられない、泣いてたとしても演技して泣いてテレビで見せていることもある。だからマスコミで紹介されるものは演技であり真実ではない場合が多い。演技して作られたものを本当に思わされることが多いのである。江戸時代あたりだとこんなに情報化されていないから人と直接あって確かめたりとか情報の摂取の仕方が今とは余りにも違っていた。これだけ世界的情報化時代になるともう真意を見分けることも情報も処理する能力も限界なのである。

名所観光がつまらないのはなぜ?(もののあわれを感じないから)


名所観光がつまらないのはなぜ?(もののあわれを感じないから)


有名な観光名所って人が多くてじっくりと見れないし、きっちり整備されてるから自然じゃない。だからなんか面白くないんだよなー。だから旅行ってあんまり好きじゃないんだ。
でもたぶんだけど、観光名所を回るんじゃなくて田舎の町を歩いたり野宿したりするのって楽しそう。やってみたい。沖縄か北海道でやってみたい。

名所のみ人のあわれのあるべしやその身近にこそあわれあるべし


いづこにももののあわれのあるべしを遠くに求め得ることなしも



名所を求めても名所は歴史の中で変わっているのかもしれない、京都とか平泉とかは変わらない古都として名所なんだけどそれでもなぜそれほど感動しないのだろうか?


平泉冬にたずねて雪うもる里人の家心に残りぬ


雪埋もる平泉かな裏方の里にしこそあわれありしも


古の堂塔消えて礎石のみ残れるあとに雪のふるかな


平泉を冬にたずねて心に残ったのが金色堂よりその裏の方の雪に埋もれた農家だったりする。金色堂は目立つがその裏方に里人の暮らしがある。今や平泉と言っても七堂伽藍もなにもないから昔の古都として偲ぶのがむずかしい。


とりわきて心も しみてさえぞわたる衣河みにきたるけふしも 西行


この歌は金色堂を見るだけでは感じない、裏方の雪に埋もれた里に踏み入った時に寒々とした昔を感じる。みちのくに奥に来たことを感じるのである。その時はまだ平泉には七堂伽藍があった。でも一歩その外に出れば寒々しいみちのくの荒野が広がっていたのである。
つまり金色堂だけを見て終わりにするから昔を偲べないことがある。もっと広範囲ななかに昔を知るべきなのだがそうはならない、金色堂を見れば終わりとするから印象に残らないのである。現代の観光は博物館に並べられたように文化財を見ているのだ。文化はその土地に根ざしてありその土地も広範囲な土地から作られたものである。その土地の文化とはなかなかわかりにくいのはそのためなのである。


そもそもなぜ今は名所がどこも陳腐化しているのか?あまりにも観光化されて大衆化されたこともある。そもそも観光地は観光化されていないときこそ役目を果たしていた。観光化したときは実際は過去の遺物と化して死んだものとなる。往事のことは想像でしか見えてこない、残されたものはわずかである。平泉でも実際は金色堂と浄土が池しかない、七堂伽藍はない、だからこそ芭蕉は金色堂が残っていたことに感嘆して句を作った。「五月雨の降りのこしてや光堂」である。

そのような名所ばかりが歌枕の地ばかりが価値あるものかとなるとそうでもない、何でもない身近な所にも見るべきものがある。ただ人は感じないだけなのである。もののあわれを感じないから名所に行っても何も感じない、日立木の街道の細道で書いたようにあそこにあれだけのことを書いたことを我ながら感心している。あそこに注目している人はほとんどいない、でも松並木があり昔の街道の道だった。城も近いからあそこは相馬藩を偲ぶことができる地帯だった。

地元の人も関心がないとすると外から来た人はなおさら何か見るべきものがあるかとなる。
城マニアみたいな人は見ている。でも他から来て日立木に注目する人はまれだろう。たいがい六号線を行くから街道の昔を全く感じないのである。昔は死者と同じようにひっそりと埋もれている。小さな碑や墓のように埋もれている。そこにもののあわれがあるのだが感じないのである。死んだら人は一切語らない、語るのその死者を見出す生者しかないのである。そして生者が語ることにより死者も生きてくる。結局もののあわれを感じないのは死者と語れないからである。現在のみにすべての心が奪われ死者と語ることはあまりにもむずかしいから印象に残らない旅となるのだ。死者と語ることは時間が必要である。一カ所何日も滞在して印象に残さないと残らない、今は余りにも便利すぎて印象に残る旅ができないのである。


嵯峨の山みゆき絶えにし芹川の千代の古道跡はありけり
                  (中納言行平 後撰集)


その古道がどこにあるのか、旅をして知ることはむずかしい、その古道は日立木村の街道にあったがそれを知ることは外からも地元からもむずかしいのだ。現代は車洪水であり車の騒音の中に過去は消されてしまう。現代は昔を偲ぶのには最もふさわしくない時代になった。芭蕉の江戸時代なら昔を偲ぶのには適していたのである。だからこそ歌枕をたずねて奥の細道ができたのである。


自分の場合,全国を旅したから今になるとインタ-ネットで旅することもできる。その土地がどんなところだったか思い浮かべる。インタ-ネットで紹介している短歌とかが役に立つ、今はインタ-ネットで名所をどこでも紹介している。そこに出ている短い紹介文でも全国となると多くなる。
それをたどっても旅している不思議がある。こういうことは本ではなかなかできない、何かキ-ワ-ドからつないで連想しているのだ。万葉集でも他の古歌でも誰かが引用しているからそういう点では便利である。こうした書き方はインタ-ネットでしかありえない、新しい文化の創造になっているのだ。絶えず編集して読むのがインタ-ネットでありそうでないとインタ-ネットの情報洪水に埋もれてしまうのである。

2010年05月14日

岩手山短歌十首


岩手山十首

 

岩手山常に迫りて北上の流れ早しも夏は来たりぬ

夏の日や岩手山に我が登り火口に立ちぬ若き時かな

岩手山濃霧の覆う岩盤にタカネツリガネの青き花咲く

岩手山荒々しくも聳ゆかも神の手になる彫塑のごとしも

岩手山轟くごとく聳えけり一つの峰の荒々しかも

岩手山隙もなきしに張りつめて造形されぬ厳美の極み

小岩井や枯木に風の唸りつつ岩手山の聳え厳しき

岩手山荒々しくもよせつけぬ急峻にしてはや冬に入る

岩手山雪の覆いて小岩井も雪に埋もれて朝望むかな

一面はただみな雪に埋もれけり岩手山の純白に映ゆ



山は見て登れば一番いい、岩手山には確かに二回くらい登ったから登った山として記憶している。山は本当に早く冬がくる、紅葉だと思ったら厳しい広い斜面が雪におおわれてしまった。その時山の厳しさと美を体感した。山岳の美は体感しないと実感できない、その時確かに実感したのだ。実際に登ったのだから体で実感したのだ。登山の魅力は山の本当の姿を体感することである。遠くからながめても山の美は際立つのだが実際に上るとまたさらに山の厳しさを実感する。ただ体力なくて山登りはやめた。山は上るのも厳しい、山はそんなに登ったとはいえない、アルプスにも登っていないし、富士山には一回登っただけであり富士山というのは良くみていないのだ。山はやはり身近にいつも常に見ていると山と人間が一体化する。岩手山のいい点は盛岡のような街からでも見えて常に迫ってくることなのだ。そして山は連峰より独立の峰がいい、岩手山は彫塑的であり厳しい山容がいつも迫ってくるからそれが何らか精神にも影響する。この辺ではそうした独立の高い山がないから平凡なのである。阿武隈山地は山ではない、阿武隈高原なのである。会津には2000メ-トル級の山があるが阿武隈山地にはない、蔵王は確かに高いにしろ独立峰ではない、やはり富士山とか岩手山とかは山らしい山なのである。


尾瀬の燧山も若々しい溶岩色の迫真的に迫る山である。あの山をまた見るには結構大変である。高い山はそんなに見れるものではない、上るとなるさらに今や大変である。ヒマラヤを見て残念だったのは3000メ-トルまで登って曇って見えなかったのである。あんなところにもう行けないのだからがっかりした。10月ころ行かないとなかなか見れないらしい。こんなに旅をしたにしろ人間はいろいろ見れるものではないと思った。

山でもそうだが写真を見ただけで感動するということはないだろう。その大きさと立体感を感じることはむずかしい。山は遠くから見て実際に登ればその山のことを実感する。しかしこの両方をすることはむずかしい。山はともかく厳しい、厳美渓などとあるが正に厳美の世界なのだ。隙間だらけの軟弱な人間とは余りにも違っている。全然隙がない、厳しさでこりかたまっている。岩手山を登った時もさらに厳しさを感じた。 自然の美は厳しい、近くにある樹だって一つの石であれ樹であれ実際に隙がないのだ。ぴっちりと完全に治まっている。人間はだらだらと無駄が多くしまりがない、何かさも働いているものが有用な人間だと誇るが自然から比べると人間は働くことだって無駄が多すぎるのだ。人間が毎日こんなに働いているのに美が作り出せないのか?ただ醜悪なものしか作り出せないのか?そこに労働の意義はあるのかと疑問になる。


自然はそれらは労苦もせず、紡ぎもしないのに美がある。人間の労働はそんなに賛歌すべきものなのか常に疑問である。それほどに苦労して働いているのに現実世界は醜悪なものとなっている。もしその労苦の故に美が創造されるなら報われるだろう。それがないとしたら労働は報われない、東京は日本の労働の集結している所でも醜悪な場所となっていることがそれを示しているのだ。

 

短歌の連作で岩手山を現そうとしたが言葉だけでも自然の美は現しきれない、何か常に不満が残る。それだけ岩手山一つとっても人間が現す力を越えているからそうなっているのだ。

 

 

2009年09月07日

山形の小国町(雪に埋もれた遠い町)

小国町雪に埋もれて遠きかな乗る人少なく路線残りぬ

山形の小国は遠きもう一度我は行きなむ老いにけるかな

山形の小国町です。

坪3万で住宅地が買えます。
パチンコ屋が一軒しかありません。
過疎化が進んでます。
大都市の米沢まで、電車で1時間以上かかります。(しかも電車も1時間に1本です。)
冬は1メートル以上の雪が積もります。


小国から米沢まで10時の次は14時になりあとは17時となっている。一時間に一本などここはでていない、常磐線は原町から仙台まで一時間に一本でている。常磐線とは相当ちがっている、乗り降り少ない線である。ここまで雪の深いとき行ったし自転車でも行った記憶がある。自転車で行った時の記憶は消えているが電車で行った時の記憶は残っている。なぜなら深い雪の中でその電車はなかなか小国まで遠かったのである。それが記憶に残っていたのである。記憶に残るのは長く待っているとかなかなかつかないとかそういう時間なのである。だから新幹線に乗った記憶は残らない、そこに無駄な時間がないからだ。旅には無駄な時間が必要なのだ。だからあまりにも計画された旅は記憶に残らない、旅を記憶に残すのは意外とむずかしい、本当にすっかり忘れて記憶に残らないのが多すぎるのだ。
日本の鉄道は今や不思議である。なぜ乗る人があれだけ少ないのに残っているのか、相当な赤字でも残っているのかとなる。これも誰も乗らないバスを走らせているのとにているのかもしれない、でもかえってそうした路線の旅は記憶に残るのだ。最近4年遠い旅に出ていない、ただ回想しているだけである。そしてもうその路線も乗ることないのかなと思ったとき簡単に旅できていたのにそれもできなくなる。そしてただそれは遠い日の思い出となる。老人とは何か、思い出に生きているのだ。なぜなら思い出したとき過去をもう一度生きているからだ。ただ思い出せなければ活きてこない、生きていないのである。だから思い出す旅をいかにするか問題なのだ。実際はそうした旅をしている人は非常に少ない、便利になりすぎて旅はただ移動でありあとで思い出すことが少ない旅になっているのだ。それであとで老人になって後悔することになる。思い出す旅をしていなかった,何も思い出せないというショックに襲われるのである。



遠く雪に埋もれた町

今までどこでも自由に行けた

ひょいと電車に乗りきままな旅

それが今はできない

そんなこともあるのか

介護やら体力の衰えで行けない

外国に行けないことならあるだろう

でも近くにも行けない

いろんな街に行った

いろんな街を通った

でもそんな街にも行けなくなる

人はいつまでも生きていない

やがてこの世と別れるときが来る

旅の日も終わる

様々の訪ねた街も思い出のみに活きる

旅であった人とも会わない

いや人は二度と会わなくなる

死別となればそうである

同級生でも鬼籍に入った人が墓に眠っている

そんな日が必ずやってくる

そして旅して訪ねた街々がさらに愛しくなる

なぜなら二度とその街を村を訪ねることができない

ただ記憶の中で訪ねるだけになるから

しんしんとしんしんと雪はふりつもり

遠い記憶の中に山形の小国町は埋もれる

そんな町が確かにあった

そんな町が確かにあった

彼は心の中で何度もくりかえす

今記憶は宝であり生きた証だから


2008年12月20日

盛岡(冬の詩)

iwatehida.jpg 

  
    (冬の盛岡)


盛岡の城跡古りぬ冬紅葉

盛岡を幾度たずぬ冬柳

盛岡の紺屋町かな冬柳

冬晴れや山襞深む岩手山

橋わたり煉瓦の銀行冬樹かな

城跡に冬の古木の影あらわ行く人静か盛岡の街

盛岡の城跡の池凍るかな冬のまたここにめぐりぬ

盛岡の街を歩みて冬の日や柳の枯れて古書店ありぬ

プラタナスの並木の葉散りにしも喫茶店あり我がまた歩む

中津川の岸辺を歩み老木に我がまたよりて冬の日暮れぬ

川原に深く根づける老木や冬の日さして我がより帰りぬ

中津川冬や岸辺の喫茶店ホットユズ飲み心あたたむ

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 城跡と中津川
日本の城というと実際は石垣しか残っていない、外国なら石作りだから城の本体が残っている。城が今あったとしても当時からあった城はほとんどない、新しく再建した城だから当時のままに残った城はないのだ。だから実際残っているのは石垣だけだとなる。だから一段と日本の城跡は淋しいものとなっているのかもしれない、江戸時代が終わったとき残ったのはほとんど城の石垣だけだったのである。だから昔を偲べるのは石垣だけだとなる。盛岡城の石垣は何か一番心に残る。青葉城の石垣とは相当違って平地にありそれでも高台なのだが整然としていることが特徴である。青葉城は急峻な城壁でありいかにも戦国武将の伊達政宗の築城したものとなる。戦国時代のは要塞的な山城とかまだ多かった。信長の安土桃山城もそうである。要塞的な城で自然を要害とすることが多かった。その後城は平地に建てられるようになった。盛岡城はいかにも整然として城らしい城なのである。新幹線で何回も来るようになったら余計にこの城になじむようになった。青葉城はかなりの坂を上るからあまり行かない、盛岡城は街の通りを普通に歩いていて城跡につき日常的散策の行程になっているのだ。盛岡はそれでも仙台よりは寒いからすでに城の中の池は凍っていたのである。東北でもやはり天候の差はあり北に行くほど寒くなる。
城跡の古石垣の日だまりにきくとしもなき瀬の遠音かな  若山牧水

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盛岡というと賢治と啄木が有名だがこの二人は対象的である。賢治は金持ちであり啄木は貧乏に苦しみ死んだ。どちらも肺病で死んだのが共通点である。批評はいろいろあるがこれだけ若くてあれだけの文学を生んだのだから記念すべきものとなった。人間的には多々批判されることがあった。どちらも理想化される面があったが賢治にしても農民のためとはいえ金持ちの遊びだたとか批判がある。でもあれだけいろいろ多方面に才能があり実践もしたということが普通にはできない、そんな能力が普通ないからである。啄木はあまりにも悲惨だった。一家を背負うようになったことが最悪のものとなった。そして自ら肺病になったことで最悪となったのだ。それでも26歳くらいであれだけのことを書けるのだからその才能はぬきんでいたし常人からすると不思議だとなる。賢治のような境遇の若者は今ならいくらでもいる。でも当時は啄木のような境遇の人が多かった。だから才能を実らすことができない若者の方が多かったのであ。妻と住んだ家とか案内板があり路地の奥に入る道がある。そこに一時住んでいたのかと思うとあわれである。いづれにしろ盛岡に来れば必ず賢治と啄木を思うことにもなるのだ。
中津川の水音涼しくも終夜枕にひびく新居に移りぬ 啄木
この新居に住んだの三週間しかなかったのだ。この近くに妻の実家あった。若山牧水の歌はよく中津川の特徴をとらえている。川が二つある、その二つが街の中心を流れていることが情緒をもたらしている。中津川というのはなんともいえず落ち着く川なのである。旅でもある名所に何回も行くと印象が深まる。京都、奈良などは二三回行ってもわからない、季節ごとに何回も訪れれば印象が深まるのである。とくに歴史的なことはわかりにくいから何回も実地を踏むと何かしら発見があるのだ。今どきパリに通うようにして行っている人もいる。外国も一回くらい行っても深い印象はもてないのが旅しても何か書けないものとなっているのだ。
 


       盛岡の冬の詩


盛岡にまた来たりて城跡の石段上る

冬の午後の日さしてその寂けさや

古の人のここにありしもひそけかれ

ただ整然と石垣のみ残り往時を語りぬ

昔の人の我が歩むその足音を聞くや

我はまた中津川の岸辺の老木により休みぬ

鳩むれよりて事なき日のここにあれ

古き商家の白壁や柳は枯れて長々と垂れぬ

煉瓦の銀行の質実にまた昔の質実な営み語り

擬宝珠の錆びて上の橋わたりゆくかな

啄木のここに棲みしとその妻の歌の碑あわれ

賢治も歩みここに昔あり未来は育まれぬ

中津川の岸辺の喫茶店にホットユズを飲み

冬の日やプラタナスの葉も散りし通りや

喫茶店ありてここに老いも若きも語るは良きかな

北上の流れは滔々とみちのくをつらぬき海にいたりぬ

我はまた新幹線に颯爽と帰途に着くかな

 


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2008年12月19日

岩手冬の旅(宮古から盛岡へ)

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(宮古→盛岡)

閉伊川宮古に流る冬の川

岩の間に水晶の流れ冬の川

冬の川水底の透きて岩手かな

白樺に流れの透きて雪の朝

冬晴れや山々厳し岩手かな

冬の日や朝にも暗き日蔭かな

岩手なる曲家一軒朝の霜

犬駈けて湯気たつ家や朝の霜

薪を積み曲屋一軒冬支度

冬の日や老木三本上米内




宮古より雪の早池峰朝清し我が望みて電車にのりぬ

山の家枯木の影の露なり薪を積みにつ冬籠もるかも

昔より暮らしありにし地図見れば夏屋とありし山深きかな

伝えたる夏屋に残る鹿踊り山の奥処にひびく楽の音

山深み小国とありて支流なれそそぎし川や冬深まりぬ

早池峰や山の深きや宮古より船はいずるも相馬にまでも

塩運ぶ道のり遠く盛岡や宮古と結ぶ山の宿かな

日本国小国とあるは山深き閉ざされし地や冬深まりぬ

区界(くざかい)に電車泊まりぬ高原に白樺ふえて朝雪積もりぬ

区界は着くは遠しも宮古側盛岡側とここに別れぬ

山深み清流ひびき雪の峰や連なり映ゆる岩手の朝かな

みちのくは広しも帰りて我が思ふ岩手の山奥冬籠もる家

「閉伊川宮古に流る冬の川」この句で閉伊川宮古で二つの地名が入っている。それだけで多くのことを語っているのだ。閉伊郡という地域は広いし歴史的にどういうところか今わからない、でもこの漢字からイメ-ジする。閉ざされた地域でありそこに一すじ北上山地の高地から冷たい澄んだ水が流れている。北上山地は広大な領域である。阿武隈高原ともにているが山が高いしさらに広いからこの地域はチベットだというのもわかる。だから山人をテ-マにした遠野物語が生まれたのである。ネパ-ルでも万年雪が溶けて流れる川の水は手をひたすとしびれるほど冷たいのだ。二千メ-トル級の高地に村があるのだから驚く、この北上山地も多少にているのだ。


日本は地名からイメ-ジされることが多い国である。外国でも地名はそれなりの共通性があるが日本ほど地名が豊かな国はないだろう。変化に富んだ地形がそうしたともいえる。ここでも日蔭という地名があり朝からすでに日蔭になっいる場所が山深いから多いのだ。日影山とかも多いのが山国の日本なのである。それから小国川という支流が閉伊川に流れ注いでいる。この小国という地名は閉ざされた山奥にあるのが多い。阿武隈の中央にもあるし山形県の小国も大きい町となっているがここも電車で行くと相当奥に入った所になる。青森県では一軒宿の温川(ぬるかわ)温泉に行った時もそうだった。その時は雪に埋もれていてトンネルをくぐるとそこが小国という地名なのである。だから小国とはこうした山の奥に入った村につけられた名前なのだ。これは全国的に共通している。そこは閉ざされた一つの小さな国ともなるから名付けられた。

曲屋でも薪を積んで冬支度をしているのをみると冬は自給自足の備えをして本当に冬籠もりしていたのだ。外とは交流することがむずかしいからだ。そして必ず曲屋では馬を飼っていた。これは全国的に必ず馬を飼う農家があった。これも今から考えるとうなづくことがある。今は田舎では一軒に一台ではない、一人一台車を持つ時代である。そうしなければ生活できなくなっている。昔も馬は一軒で何頭も飼っていたのである。特に岩手は馬の産地であり戦時中も軍馬の供給地であり馬を飼うに適していたのである。夏屋という地名があるがこれも出小屋であり夏に利用したからだろう。夏川とかつく地名は夏に利用するから夏がついたのかもしれない、夏に利用して小屋を建てて住んだ。そのうちそこに永住するようになった。古い鹿踊りが伝わっているのもすでにそこが古い村になっているからだ。
地形的に区界(くざかい)は本当に境界である。盛岡側と宮古側に別れる地形的境界であり相当な高原でありすでに雪が積もっているのもわかる。釜石まで行って作った賢治の詩はこの辺りの景色を見事に表現している。この当時はまだ区界を越える鉄道は開通していない、相当な高原で難所だったからだろう。

あんまり眩ゆく山がまはりをうねるので
ここらはまるで何か光機の焦点のやう
蒼穹(あをぞら)ばかり、
いよいよ暗く陥ち込んでゐる、
  (鉄鉱床のダイナマイトだ
   いまのあやしい呟きは!)
冷たい風が、
せはしく西から襲ふので
白樺はみな、
ねぢれた枝を東のそらの海の光へ伸ばし
雪と露岩のけはしい二色の起伏のはてで
二十世紀の太平洋が、
青くなまめきけむってゐる
黒い岬のこっちには
釜石湾の一つぶ華奢なエメラルド
   ……そこでは叔父のこどもらが
     みなすくすくと育ってゐた……
あたらしい風が翔ければ
白樺の木は鋼のやうにりんりん鳴らす


       平成二年三月   釜石市


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これは釜石で碑になっている。 「鉄鉱床のダイナマイトだ   いまのあやしい呟きは!」賢治は鉱石関係の会社でも働いたから鉱物資源に興味があった。現実に北上山地は鉱物資源があった。気仙沼近くでは金もとれていた。「二十世紀の太平洋が、青くなまめきけむってゐる 黒い岬のこっちには 釜石湾の一つぶ華奢なエメラルド・・」鉱物のことがしきりと語られる。
東北は古代から黄金がとれる場所として注目されその後も鉱物資源で注目されたのである。その他この広大な山地では他からは無用のものとなってしまう。ただ現代の喧騒文明ではこうした無用の広大な山地が癒しとなるのだ。賢治の文学もこうした広大な原始的山域が残っていなかったら創造できなかったろう。これは福島県とも相当違っている。会津はそうした山域があるにている。

二十世紀の太平洋が、青くなまめきけむってゐる 黒い岬・・・これも三陸の港を象徴している。
四国とか瀬戸内海とか九州でも外国まで通じる明るい港ではない、唯一気仙大工が造船にたづさわったという伊達政宗の支倉常長をスペインに派遣した船は快挙だった。その他は外洋に出ることはなかなかできていない三陸の港であり陸に閉ざされた地域である。だから閉伊川なのである。宮古は都でありこの地域では後ろは北上山地で遮られ前は海でさえぎられている。都というと宮古しかないのだ。それでも北上山地を越えて盛岡に塩が運ばれたり宮古から南部の鉄が船で相馬まで運ばれていた。つまり宮古はそれなりに海から外に開ける唯一の都だったのである。

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ロ-カル線の危機(旅情が消える)-青春18切符の旅(区界の雪)
http://musubu.jp/jijirailway.htm

2008年12月18日

大船渡線(室根山を通り・・)


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岩一つ岩ノ下駅冬の暮

陸中の駅の一つや冬の雲

(猊鼻渓)

我が向かふ鏡明岩冬の水

鴨群れて流れ静かや老の旅

舟下り鴨の群れよる猊鼻渓

冬静か面やさしくも少婦岩

・・・・・・・・・・・・・・・・

過ぎ去りぬ柴宿駅や冬の旅

村の辻古木一本冬の暮

室根山麓に村や冬の暮

室根山見渡す村や冬の暮

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猊鼻渓流れ静かに冬の朝岩の顔見ゆ観音のごとし


岩壁の冬の渓谷流れ澄み朝さえづる鳥の音ひびく

白髪の翁となりみちのくの冬の旅路や老いと語りぬ

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陸中というと陸の中であり陸前浜街道というと陸の前となる。陸前高田とあり海に近い所が陸前となる。三陸となると三つの陸となる。陸中はまだ海からまだ離れている。岩ノ下駅とあれば何か岩一つくらいしかない駅となり実際そうだった。駅舎は無人駅が多い。猊鼻渓の特徴はほとんど流れがないことである。だから舟を操作するのは楽である。鴨が群れより老人の旅人にあっている。他にも東京辺りからきた老人がいた。中高年は今は山を占領している。まだまだ体力あると感心する。山は一番疲れるからだ。少婦岩は確かに女性の顔をしている。面長でありむしろ観音岩なのかもしれない、あの静かな水の流れにふさわしいやさしい顔になっている。ここには二つの顔があったのだ調べたら確かに壮夫岩ともあり二つの顔が密着してあったのだ。柴宿駅は柴と関係あるのか宿なのか良くわからない気仙沼まで地図を見たら途中に七日市とありここしかその名がないからここで七日に市があり名前が残ったのだろう。大きな街は千厩(せんまや)くらいであり千の厩(うまや)があった、ここにも源義家の伝説がある。矢越(やごし)もそうである。義経についで多いのが義家伝説なのである。なぜこんなに多いのか、義経はわかるが義家がそれほど当時は東北各地に影響したことが理解しにくいのだ
この線も昔通ったが完全に忘れていた。忘れたということは記憶にないことは存在しなかったと同じである。旅では良くそういうことがある。記憶から消え去れば行ったとはならない、老人になるとわかるが記憶は最も大事なものである。記憶が消え去ればその人のことも何もわからない、こうしてもう一回来てプログに書けばその人はここに来たという記憶が残る。他の人も記録していなければその人がここに来たとわからないのである。岩手県は本当に広いから地理がわかりにくい、一回くらいきてもわからない、日本のチベットだというのもわかる。ともかく介護で苦しみ三年ぶりに遠くまで旅行して一日ホテルで泊まることができた。本当にあのままつづけば一日も泊まる旅ができないというショックがあった。交代して介護する人がいなかったからだ。30年間自由に旅して旅ができないことは最大のショックだったのだ。旅はやはり何十年前だと忘れるから同じ場所に最低でも二回行かないと記憶にも残らないことがわかった。岩手辺りだと何回も来れるからいいし詳しくなれる。春にもまた来れるからだ。つづきは明日になる。
奥深き岩手の山路その奥に知られざる里年も暮れなむ

少婦岩
http://4travel.jp/traveler/kiyoyuri/album/10185931/

2008年12月17日

新幹線にケンジ(賢治)が乗っている!(仙台-盛岡が一体化する)

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新幹線にケンジが乗っている!


新幹線は雲海の上を走っているのか
山の頂上のみが顔を出し
街々は雲海の下にあるのだろうか
冬の銀河が近く白鳥が翼を広げている
高架橋のながめは地面をゆくロ-カル線とは様変わり
一面の街の灯が下に見える
仙台から盛岡はすぐだ
岩手山がすぐ視界に入り仙台から見える
みちのくは一気にせばまり暮れる
白銀の北上川がところどころ見える
大蛇のようにうねうねと鱗が光りあやしい
みちのくをつらぬく大河は空よりみると一望できる
北上に一時とまり水沢江刺につく
ここは今まで鉄道は通らずとまらない街
夕暮れ冬の灯がともり記憶にとどまる
新幹線のとまる駅、沿線の景色は新しい視界に入る
高架橋の脇に小さな御堂が一つこれも奇妙だ
新幹線は古の都、平泉にとまらないので寄らず帰る
新幹線は歴史の名勝をぬかし変えてしまうのか
盛岡から仙台もあっという間、みちのくの冬夕焼けが美しい
また中津川の岸辺の喫茶店でホットユズを飲み
仙台と盛岡を行き来して二つの街は合体する
空間は距離は圧縮されて新たなみちのくの世界観が形成される
やがて青森へも新幹線は通じて函館は近くなる
その時またみちのくと北海道は一体化するのだろう
やはり未来は日本でもグロ-バル化して世界は縮小化される
大きな点はさらに大きな点と発展するが
小さなロ-カルな点はさらに縮小して見逃される
ああ、それでも新幹線の流線型の車体は美しい
ケンジが乗るにふさわしい未来の乗り物だ
パソコンを操るビジネスマンはみな英語だ
ケンジならエスペラントを駆使して世界と交流しコスモポリタンとなる
日本のレオナルド・ダビンチや天才は忽然と一人時代を越えた
ケンジの頭からとめどなく未来のイメ-ジが流失した
だから新幹線にケンジがのっている

 


賢治の多様な才能には驚く、これこそ天才だとなる。あの時代にすでに百年後のイメ-ジを詩にしているしそれはなお今の時代でも未来に通じている文学を作り出していた。では天才でなければまねできないのかというとそうでもない時代になったのだ。つまり高齢化長生きの時代は天才でなくても多様な才能が開花しやすい、そういうお膳建てもできているしレオナルド・ダビンチが賢治がイメ-ジした世界はすでに現実のものとなっているのだ。長生きの暗黒面だけを認知症中心に書いてきたが高齢化には明るい面もあった。それが多様な才能を開花しやすいということであった。

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多様な才能が開花しやすい高齢化社会

 http://musubu.sblo.jp/article/24461576.html

2008年12月16日

新幹線にまた盛岡へ(冬の三陸めぐり・・・)


新幹線朝北に向かふ冬の雁


新幹線高架橋行く冬の空

前畑や冬菜に農家や松一本



白鳥の朝翔けゆくや新幹線北に向かいて一路進みぬ

新幹線乗り移りたるロ-カル線汽笛のひびき朝の霜かな

御堂一つ冬の夕暮みちのくに新幹線の高架橋に見ゆ

雪に映ゆ岩手山さりみちのくを新幹線や冬の夕焼け

岩手山望みて去りぬ新幹線はや仙台に冬の夕暮

新幹線北上とまり灯のともる水沢江刺の冬の夕暮

白銀(しろがね)の北上の流れ滔々と見え隠れして冬の夕焼け

新幹線は距離の感覚を根本的に変えた。まず遠くに行くなら新幹線を利用して目的地の近くに早くつく、それから時間をかけた旅をする。一関から大船渡線で三陸を回り釜石に一夜とまりさらに三陸を行き宮古から盛岡に出た。ここはかなり距離が亜たが朝一番くらいの電車で来たので時間的には余裕があった。帰りも新幹線であったがせめて各駅停車できたのでそれなりに思うことがあり短歌と俳句にした。新幹線からはまだ見える景色がある。ただ霜がふっているとかそういうことはわからない、雪ならわかるが霜は良くわからない、ロ-カル線だと地面だから白いから霜だとわかる。岩手はやはり福島よりはかなり寒いから霜が一面におりていた。新幹線の高架橋から見える景色はまた違っている。街も見下ろすように見えるし高いから遠くの山々を望むのも違って見えるのだ。北上川も高いからところどころに流れるのを上から見えるのだ。見える角度が違っているから空から見るとは違うが広く俯瞰して見えるのだ。だから北上川は上から空から見ないその全容が見えないのである。一日泊まっただけど随分長い旅をした感じになった。何十年前にのったし何年か前に区堺は真冬に通った。雪がかなり積もっていてホ-ムペ-ジに書いた。すでに雪は積もっていた。岩手県も変化にとんで広い、新幹線往復は早いから余裕ある旅路ができた。あとは徐々に区間ごとに書いてみよう。今日は疲れたので寝る。


新幹線は今まではわざわ乗らなかったがもはや盛岡からのりつぎ4時間もかかるとなると利用しなくなる。それで困ったのが平泉がぬけてしまうことなのだ。ここは止まらない困る。新幹線の止まらない駅は人の出入りも少なくなる。東北線も本数が少なく地元の利用者には困ったことになる。新幹線はやはり料金が高いから頻繁に利用するとなると大変だし乗り継ぎに困るのだ。遠くを結ぶにはいいのだが近くは不便になるのだ。でも盛岡をまた散策したから本当に盛岡は仙台のように身近になってしまった不思議があった。

水沢江刺は新幹線がとまることでみじかになった。今までは東北線も通らないから関心がなかったしそんて市があったのもわからなかった。車がないと鉄道の通らない市町村はなじみがなくなる。あることさえわからなくなる。ここは奥州市とかともなり未知の領域である。新幹線とまれば今は注目されるのだ。

 

「仙台から岩手山が見えるよ」
「ええ、見えるわけないよ」
「新幹線で見えるんだよ、新幹線50分だからすぐに岩手山は見える、それだけ近くなったんだよ」
 「そう言われればそうだ、盛岡は新幹線ですぐそこだ、あっと言う間に盛岡だ」
「距離は新幹線で短縮されたんだよ、だから岩手山が仙台から見えるんだよ 」

新幹線の不思議はまさにこういうことになる。距離が短縮されるて遠くのものが近くに本当に見えるようにならから不思議だったのである。これは4時間もかかれば相当遠いから延々と電車に乗るから盛岡はみちのくの奥の奥でありそうたやすく行けないから岩手山は仙台からなどみえるけがない、そこに行くにははるかな道のりがあった。普通電車と新幹線の時間の開きは大きすぎたのである。
 

2008年11月11日

盛岡晩秋の短歌

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盛岡晩秋の短歌
 
川中に根づく樹太し秋日さし岩手山を我が仰ぐかな

盛岡に古きと新しき交じりつつ並木道歩み秋の日暮れぬ

盛岡や銀杏まぶしく錦なす紅葉の映えて街のにぎわう

長々と柳しだれて中津川秋の日さして歩む人かな

晩秋に長々しだる柳かな商家の塀に秋の日さして

老木の岸辺に残り盛岡の城跡古りて秋深まりぬ

落葉せし盛岡に我一日いて岸辺に根づく老木になずむ

啄木の妻の残せし歌一つあわれ木の葉の散りて暮れにき

岩手山雲の隠して城跡の落葉を踏みて夕暮るるかな

盛岡の夕暮れあわれ城跡の落葉を踏みて我が帰るかな

大通り落葉を踏みて内丸の堀りの跡かな盛岡暮れぬ

盛岡は平泉より奥にあれ紅葉の錦城の跡かな

盛岡に煉瓦の建物古りにける黄落静か通り夕暮る

北上の流れゆるやかつづきけりみちのく広く秋深まりぬ

宮古より岩泉にきてさえぐ山盛岡遠し秋深まりぬ

盛岡は平泉もよりかなり奥である。芭蕉の奥の細道はさらに奥があった。平泉まではまだみちのくの一部だったのである。本当のみちのくは東北は岩手県にある。だからここから東北の本当の詩人が生れたのだ。盛岡を歩いていると樹が多い、老木もそちらこちらに見かける。街が城跡と川と樹で作られている。街がこれだけ自然と融合して作られているところは少ない、やはり川が街中を二つ流れていることがなごむのである。中津川が情緒を作っている。北上川だけでは盛岡の独特の雰囲気は作られなかった。
 
いろいろあって盛岡について書くのが中断された。あとでここはホ−ムペ−ジでまとめて書く必要がある。
 
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2008年11月07日

盛岡−晩秋散策の俳句集

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盛岡−晩秋散策の俳句集

 
盛岡やプラタナスの並木秋の風

川べりの喫茶店に入り蔦紅葉

盛岡や橋わたる人秋柳

老木にせせらぐ川や秋深む

老木やベンチにともに秋深む

晩菊に擬宝珠(ぎぼし)の橋や夕暮れぬ

菊の紋擬宝珠(ぎぼし)に古りぬ枯芒

中津川石に木の葉やベンチかな

みちのくの旅やいくたび秋深む

晩菊や橋を渡りて紺屋町
 
盛岡は川の街であり橋の街である。二つの川が街中を流れているから季節ごとに風情がある。まるで一つ一つのシ−ンが絵ハガキのようになっているのだ。特に橋の情緒がここには残っている。仙台でも何か車で騒々しいがここは人が歩むのがあっているのだ。人が歩いている姿が橋の情緒にマッチしているのだ。日本には木の橋が多い、その木の橋によって日本的情緒が育まれた。橋についてはまた一つの作品としてまとめてみよう。
 
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明日は納骨だから忙しい、これが終わればまた一つの区切りだ。死後の整理はあとは大きなものはないだろう。なんとか最後の落着である。
 
 

2008年11月06日

秋の薔薇−盛岡の街中で

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盛岡の街中三色秋の薔薇

街中に数十輪の秋の薔薇

盛岡や街にとりどりの秋の薔薇

盛岡や柳枝垂れて秋の薔薇

すぎさりぬ芒に薔薇や日立木駅

一輪の薔薇は散りにき一輪の薔薇は残りて晩秋の道
 

one rose has scattered
one another rose is blooming still
by the lonesome street in the latest autumn
 


盛岡は詩的な街である。街中や公園に秋の薔薇が咲いていて心にしみるものがあった。盛岡の街は独特の雰囲気がある。これは仙台とは違う、極めて詩情豊かなのである。
街としてはやはり東北では一番美しい、川が二つ流れていることも詩情豊かにしている。花は回りの雰囲気によって違った様相を帯びてくる。ヨ−ロッパの古い都市を訪ねてなんともいえず心にしみたのが秋の薔薇だった。石の城や石の建物が多いなかで晩秋の日に赤い薔薇が咲いていたのは心に残った。盛岡は何度行っても季節が変われば違ったものとなっている。仙台から新幹線で50分であり1万2千で往復だと安い、仙台には飽きたので盛岡に行こうかとなった。今回は薔薇をテ−マにした。短歌は地元の淋しい道に咲いていた。

 
抽象画は薔薇と言えばこれが薔薇かと見るが他に題は自由につけられる。一つのイメ−ジにしばられることがないのだ。この抽象画の制作は先に三色のバラをイメ−ジして加工して抽象画にしたのである。
ただソフトを目的もなく操作して抽象画を作る場合と先にイメ−ジがあって抽象画を作る場合がある。
でも結果として抽象画に題をつけても別な見方もでてくるのが抽象画の面白さである。
 
 

2008年11月05日

晩秋−盛岡まで(新幹線の俳句、短歌)


 一直線新幹線のはやつきて岩手山見ゆ秋の朝かな

街々を思うまもなく新幹線仙台に着く秋の夜なれど


新幹線盛岡去りぬ街の灯の親しき秋やまた来なんかな

東京へ新幹線も遠しかなみちのくの時秋の夜の月

平泉すぐるを知らじ仙台や秋の夜の月しばしながめむ

みちのくへ新幹線や秋の空

秋晴れや新幹線に岩手山

秋の夜や新幹線に仕事かな


みちのくや新幹線に夜長かな


 
新幹線で指定席のみの早いのだと仙台から盛岡まで50分だった。今までは新幹線は時間があったので利用していなかった。これだけ近いと仙台の隣の街が盛岡になっていた。距離の感覚がなくなる。一関にもとまらない、盛岡に直通だからだ。確実に日帰り圏内だった。今は山中、今は浜、今は鉄橋渡るぞと、思うまもなくトンネルの・・・とあるけど新幹線こそ思うまもなくである。この鉄道唱歌も当時の時間感覚では相当早いと感じていたのだ。でも新幹線のような早いものができるとは思いもよらなかっただろう。新幹線の速さ今までの特急でも比べ物にならない、感覚的には飛行機とかロケットのような速さである。夜だとただ街の灯がどこまでつながっている感覚である。日帰り圏内はコマチに乗れば田沢湖へんまで行ける。ただこうして距離の感覚がなくなると歴史を偲ぶことがむずかしくなる。途中の平泉がぬけることは昔のみちのくの都を思わないことになるからだ。ここで肝心なものが抜け落ちてしまう。人間は距離の感覚で思うことが多い、それがなくなるとみちのくは遠いという感覚がなくなると昔の人のことも昔残したものも理解できなくなる。それでも東京までは遠い、三時間でも遠く感じる。盛岡から郡山まではみちのくの時間なのだ。仙台まで50分あと郡山まで30分くらいだろう。その間だけみちのくの時になってしまったのである。
 
義経の京を逃れて平泉はてにし跡や秋深まりぬ
 
京都から日本海を回り逃れてきた義経の道は遠い、その遠さの感覚がわからなくなる。物思う時間すらなくなるからだ。歩く旅立ったらどうしても平泉をぬかすことはない、途中をぬうすことはないのだ。ただ新幹線は遠くを近くするから仙台の隣が盛岡なのかと本当に錯覚してしまう不思議な感覚になる。盛岡はいい街だから詩的な街だから新幹線で仙台の延長のように何度も行けることになる。料金も一万2千円で往復だとすると高いとは言えない、普通車では今や遅すぎる、急行があればいいのだがなくなったから困る。旅情を味わうのには急行くらいでないとだめだ。新幹線は早すぎる。でも時間がない人には便利なのだ。今もやっと九時に心配なく帰ることができて余裕があった。介護になったら特に認知症の介護だったからつききりであり一人にしておけなかったから9時までも帰ることができないしゆっくりとしてもいられない、早く帰らねばと思っていたからゆっくりできない、常にせきたてられていた。なんとか夜遅く帰り前に一日だけ泊まっただけでもああ、良かったと幸せを感じた。一日でも泊まれれば新幹線なら相当遠くへ行けるのだ。

 

新幹線ではノ−トパソコンで仕事している人が必ずいる。新幹線はビジネスで使う。その人は全部英語で使っていた。英語でないと仕事にならないのだろう。
 
盛岡市の晩秋の散策は長くなるのでまた別に書く、今日は疲れたので寝る・・・