2023年03月24日
春の阿武隈川を下る(詩) (川張の地名伝説ー船運もあった)
2023年02月19日
晩秋霊山ー漢詩もどきー(相馬藩の姓の系統)
晩秋霊山ー漢詩もどきー(相馬藩の姓の系統)
晩秋霊山
晩秋古跡訪
南朝滅霊山
木葉風吹舞
巌黒々根露
只野一族住
落武者末裔
歴程語共老
相馬氏藩では主に三つの姓の系統がある、めれは鎌倉時代から始まっている
古いのは義経に従った佐藤氏であり福島市の医王寺にその墓がある
塩手山に二軒隣り合ってある、それは明らかに佐藤氏系統でありその一族が中村に勢力を持った。それで相馬氏はその佐藤氏と争うことになった。
磯部に佐藤館があり後に今ある道の駅の所に鬼越館がありそこに住んだのである
佐藤氏系統と次にやはり鎌倉から来た岩松氏は鹿島区を中心にして治めた
でも四天王という一緒に鎌倉から来た臣下の侍に無惨に殺されたのである
稚児まで殺されたのでそのことは語りつづけられることになったのである
実際にその殺した臣下の末裔は生きているからである
岩松という姓は相馬藩にはないのである、それが歴史の事実を示している
伝説には架空のこともあるが事実に基づいている、
その後相馬氏が進出して支配した、その姓は多様だからなかなかわかりにくいのである
ただ野馬追いに出る武者の家は相馬氏の系統が大半である
姓と言う時昔は一族意識が強い、だからある村の姓が同じだということがある
葛尾村は松本姓が大半でありこれは信州から移って来た人達であり葛尾村の名自体がそこにもある
また常磐線の末続駅を下りたら墓地は8割が新妻姓だったのである
だから新妻一族が住んだ場所だと明確にわかるのである
ともかく南相馬氏鹿島区となると只野の姓が50軒くらいある、それは郡山の多田野村から出た姓であり霊山で南朝が北朝と争い落ち延びた侍が先祖なのである
どういう訳か郡山市は福島県の経済の中心である、東京にも近く会津にも通じているからである。だからトイレを直したのは郡山市の会社だったとかなる
今は仕事も広域化している、いわき市の人が瓦を直してユニットバスは仙台市の会社だったのである、常磐高速道や福島中央道もできたので遠くから仕事で来るとなったのである
桧枝岐だと秘境になっていた、そこの姓は三つくらいしかない、そこに星がある
橘などもあり後から一族を受けいれた、ということは個々人が移動しているのではない
一族が住む場所を求めて移住してきたのである
ただ相馬氏の場合は一族といっても大きな氏族だから相馬藩自体を支配するようになったのである
2022年12月22日
土地土地のものが活きていた江戸時代 (人間の豊かさは風土と歴史から作られたものにある-旅の思い出)
土地土地のものが活きていた江戸時代
(人間の豊かさは風土と歴史から作られたものにある-旅の思い出)
●旅の思い出と料理の話
私が興味持ったのは地理と風土である、それはなぜかとなれば大学卒業してから底辺労働者となりその後は30歳以降は仕事にもつかず旅ばかりしていたからである
何もすることがないのでそうなったのである
仕事は底辺労働だから何かそれは日銭稼ぎでありつまらないとなった
流れ作業していたのが辛かった、これはロボットになることでありこんなことが仕事なのかとなり仕事をしたくなくなった
私の場合は何度も言うように家族に特別恵まれた結果としてそうなった
職につけとか言われなかった、むしろ旅でも何でも自由にしていなさいと言われていたのである、何かそうしてもとがめられることもなかった
ただ金はなかっけど自由時間があったからホテル代を最低にして旅していたのである
ただ旅館とホテル代は節約できなかった、食事は千円以上となると食べていない
何か食事で贅沢をしたことはない、だから旅の思い出としてこれがうまかったなという思いではない、ただ一回只見線で新潟県の小出の魚野川の流れている岸辺の食堂で鮎の塩焼きを食べた、それは安いものだったのである、その川でとれたものだからうまかったのである、それくらいしかこれはうまかったとかの記憶がないのである
鮎は私の住んでいる川でも父親が釣りとかか趣味でありその釣ったものが御馳走だった
その時鮎は大きなものがとれていたのである、今小さくなり食べてもおいしくないのである、そして原発事故で放射線に汚染されたので食べることはできなくなった
その前から鮎は食べるものではなくなっていた
鮎はまた意外と大きな川を船で昇った所で鮎を焼いて売っていた
観光客はみんなそれを買って食べていたがおいしくなかった
なぜならそれは養殖の鮎だったからである、天然の鮎は意外と少ないのである
それは岩魚でも養殖が多いとなる、なぜなら天然ものは量がとれないからである
私にとって旅とはうまいものを食べることではなかった、今は車で旅館にホテルにつき何かうまいものを食べることが旅になっている、だから料理が大事になりその土地の物を食べたいとなる、でも実際はその土地の料理は特別な所ではないと出ない、なぜならその料理になる素材は外国からでも外から運ばれてきて買ったものだからである
江戸時代の旅をしたらそんな遠くから素材は入ってこない、だから土地にあるものの料理になる、でもそれが粗末なものとしてもその土地でとれたもので工夫したものでありそれが郷土料理になっていた、だから土地土地で味の違うものを食べたとなる
だから江戸時代の方がかえって貧しくてもその土地のものが食べられたとなる
そして鮎でも岩魚でも鰻でも天然のものなのである、だからうまいのである
私の父親は鰻をとることもしていた、それが田圃の畔の穴にミミズをつけた棒を入れてとっていたのである、これも不思議に見えた、そんなふうにして鰻がとれるのかと思ったからである、その鰻を家族みんなで料理した、その鰻はうまいものだった
それは天然ものだからであり中国産の養殖とは違っていたからである
今になるとそうした純粋に天然の物は食べられないのである、それは高価なものとなっている、今は豊かでも昔は昔なりに豊かなものはあったとなる
現代とはそうしてその土地土地にとれるものが実際はスーパーで買うことができる
味噌でも醤油でも米でもそうである、でも江戸時代ならその土地に行かないと食べれないのである、だからこそ旅することに意義があった、そこでその土地の味を実感できるからである
今は遠くに行かなくてもいくらでもその土地のものが入ってくる、でも実際はその土地でとれものがあって人間は豊かになる、外からばかり仕入れてその土地土地に住んでいてとれるものがなかったら貧しいとなる、いくら金があってもそれが富にはならないのである確かに外国から何でも入ってくるからバナナでもパイナップルでもオレンジでも食べられる、でもやはり日本には日本のミカンがあっているし土地でとれたものがいいとなる
東北でぱ気候的にミカンはとれないにしろ国内産であるからいい、日本では今では葡萄でもとれるしいろいろとれる、リンゴだと種類が多く日本産でありうまいとなる
相馬地域でも結構リンゴはとれている、結構うまいのである、梨は前からもとれていた
リンゴはこの辺でもとれる、新地のリンゴなどはうまいのである
農家で成立つのは梨農家とかリンゴ農家とか花卉栽培、花農家である、これは現金収入としてそれなりに収入が大きいからである、米でもブランド米となれば売れるが競争が激しいからなかなか売れにくいだろう
●グロ−バル経済の終わり
いづれにしろグロ−バル経済で外国から輸入してその土地土地でとれるものは利用されなくなった、これはかえって日本として貧しくしていたのである
木材でも外材だけになり森は放置されて無用化した結果としてそこがソーラーパネルになった、丸森は森が深く木材資源の宝庫だった、だから米沢藩と伊達藩と相馬藩でその木材資源の取り合いになり争ったのである
今は山ごとそーらーパネル化しているのである、そこで景観は壊される、景観というのも自然だけで作るものではない、人間の暮らしがあって生業があって作られる
里というときそうである、それは全く自然だけの世界ではない、自然が人間化したのが里なのである、奥深い原自然がありそして人間が住む里がある、里とはそこにある者か石でも木でも人間化する庭のような場所なのである
里というときそこに人間的なあたたかみのある場所なのである
里の小径で一匹の赤とんぼが死んでいるのを見る、その時その赤とんぼは人間に看取られて死んでゆくとなる、全く荒寥とした自然ではなく人間がかかわり人間の情が通っているのが里なのである
女性でも古代に里刀自とかなるとその里を知り抜いた家事をとりしきる女性だともなる
私がなぜこうして地理とか風土を基本にしてみるのかとなるとやはりグロ−バル経済とか広域経済とかが交通の発達で極端化したからであろう
そこに土地土地の個性が喪失した、それだけではないそもそもその土地から成り立っていたものが歴史でも伝統でも失われた、そしてグロ−バル化することは一様化することなのである、土地にはいろいろな個性があってもグロ−バル化することはそうした土地土地の風土とかを歴史を無視して単一化する、多様な色があっても一つの色にしてしまう
料理でも日本料理があり中国料理がありフランス料理がある、それは風土と歴史から作られてきたのである、だから料理は多様なのである、また言葉でも方言なとるなと地域性があり標準語と違ってあたたかみを感じるのである
方言は国の訛りとなるからである、標準語と英語が共通語になったときそうした文化は失われるのである、確かに標準となるものは世界で共通なものは必要である
でも同時に世界は多様であることが豊かなことなのである
どこに行っても料理でも同じだ変わりないとなるときつまらないとなる
そして食べ物だとその土地土地の風土の影響が大きいのである、米でも野菜でも果物でもその土地の影響が大きい、それはどうしてもその土地と風土から作られるからである
それは土だけではない、天候もあり寒暖もあり雨と風とか様々な影響を受けて農作物は育つからである、特産物があるときそれはその土地に根付いてその土地にあったものとして開発されたものであり外の土地で作れないものとなる
そこに価値がある、なぜならその土地でしか作れない味になるからである
ワインにしてもその土地土地で味が違っている
葡萄でも微妙に光の影響を受ける、湖があるとするとその光の反射をうけていい葡萄ができるとかなり土地土地の名がついた葡萄がとれる、そこに他ではまねのできない価値が生まれる
それこそが文化なのである、cultureはその土地土地でcultivate(耕す)されたものだからである
つまり料理もそれぞれの土地から歴史から伝統から生まれたものでありそこに価値がある郷土料理とかなるとそうである、でも今は料理としても一様化されている
その土地独特の料理を味わうことはかえって至難である、旅行してその土地の郷土料理など食べられない、みんな定食にしてもトンカツ定食とかハンバーグとか同じものである
外国で私が食べたのは金がないからまたレストランなど入りにくいからハンバーグだけだったのである、これは簡単に食べられるからである
だから何かその土地のものを食べていない、ということはその土地の文化でも知ることができなかったとなる、それは私はバックパッカーでありしょうがいなとなる
意外と土地の料理を食べるということはと相当に贅沢になっている
みんなハンバーグとかなる、それは安いし入り安いからである
でもそこで土地の文化を知ることはできないとなる
●大量規格製品の生産から土地土地の風土に根ざした物の生産に
これからの世界はグロ−バル経済でありそれは量の世界でもあった、大量生産して外国に売る経済だった、でもこれからは質の経済になる、それぞれの土地土地の味を追求したものが価値があり世界に売れるとなる
テレビドラマで温泉宿の女将とか放送していたが酒でもいろいろ味があり違っている
ただこの酒の味をわかるのは本当に通である、その酒の味はその土地土地の土から水から天候から関係して生まれている、米でもそうである、スーパーで売っている米の味が違っているからである
だから今なら土地土地の味をいながらにしてどこでも味わえるとういことはある
でももともとその味はその土地土地でじかに行って味わっていたのである
それが江戸時代の旅だったら歩いて旅するのだから一挙に新幹線で東京とか青森とかに行かない、順々に土地土地を歩いてゆくのだから自ずとその土地土地のことが記憶として刻まれていたのである
人間はだからかえって便利になりすぎるとまたそこで失うものがある、現代文明は土地から遊離しているのである
だからこそ生態系を無視しして原発を作り生態系を破壊して住めなくなったとかある
生態系とは土地土地の文化を育んだ基だからである
またウィルスというのも何か不明にしてもやはり土地土地から生まれた風土病だった
それは不可侵の領域にありそこに人間がづかづかと侵入した結果としてウィルスに感染したとなる、それがグロ−バル化した交通が発達した世界ではたちまちに拡散されたとなる
これからの経済がどうあるべきかなとなるともう規格化された大量生産の時代と終わった日本が経済成長を遂げたのはこの規格化された大量生産の結果だった、一見電器製品は日本で発明したものであり独自のものと見ていたがそれはどこの国でも作れるものであり
ただ先んじて規格化したものが大量生産できたことで売れたのである
それも韓国であれ中国であれまねて今度は中国が安価な規格化したこものを大量生産できるようになった、そして日本は衰退したのである
日本は世界と比べると知的好奇心が希薄だとか世界と比べても学生が本を読まないとか
何か今までも日本礼賛とはまるで違った評価になっている
今まで評価されていたものがジャパンアズナンバーワンとは何だったのかとなる
科学論文でも日本はもうアメリカにも韓国にも抜かれているとかいう
でもノーベル賞をとっているではないかとなるがそれは今のことではない、それはずっと前の業績が評価されたのでありこれからは日本ではノーベル賞はとれない、つまり日本ではあるゆる面で衰退しているのである
ただそうはいっても食糧とかなると料理とかなるとその土地土地からとれるものであり独特の味はその風土と地理から作られるから日本酒が人気になったり日本の米でも果物でも高価なものとして売れるとなったのである、それは他の国では作れないからそうなったのである
私の父はもともと酒屋で働いたから酒屋と縁がある、でも私はずんと酒は飲んでいない
だから酒については語れないし酒はいいものではないと思っている
でも時代によって価値が違う、酒を日本人が飲んでいたのは栄養が足りなかったからかもしれない、とういうのは戦国時代のスペインとかの宣教師が日本に来て布教したがその時食料がなく酒を飲んでいたという、つまり酒は米からできているから栄養があったとなるビールでも麦なのだから栄養になる、そういうことがあり酒を飲んでいたともなったのかともみる、今はいくらでも他のものでも栄養がとれるからいいとなる
そして酒でも料理に合う酒があるという、北陸の酒とかは京都に近く京料理にあった酒が造られたはいうのも地理が関係していたのである
酒と料理は密接に関係していたのである、それぞれの料理に合う酒があったとなる
東北の方が淡麗な味でありかえって西の方が濃い味だという、でも味噌汁などでも西は淡泊であり東北は濃いから塩分が多いから脳卒中が多いともなっていた
その辺がなぜそうなったのかとかなるがやはり風土と歴史で作られた料理がありそれに合ったものが作られてきたとなる
ともかく大量規格製品の経済は終わった、それぞれの土地に根ざした風土に根ざしたもの文化を伝統を歴史を再構築することである、それは国風文化の再興にもなる
原発事故はそうした文化を育む生態系と伝統とか歴史を破壊したので罪が重いのである
それはもういくら金をつぎ込んでも復興できなくなった
自然の中から生まれた生業は喪失した、この損失は金で代えられない、文化とは精神を形成するものである、アイディンティティを形成するものであるとするときその影響は余りにも大きすぎたのである、人間はただがつがつ食べるだけのものではない、文化を精神世界を生きるからである、それができなくなったときその損失は金で補いないのである
ただそのことを土地の人達も意識していない、金だを得ればいいとかしかないのが現代なのである、それは田舎でも同じなのである、何か文化を育むのだということなど意識しない、金になればいいとういだけである、だからこそ原発が金になるということで積極的に誘致されたのである、人間はなんらか矛盾してくる、だから一概には責められない
でも何が大事なものを見失っていた、それが自覚できなかったことは確かである
2022年10月28日
飯館村から川俣町へ(秋の暮の短歌俳句) (伊達藩との相馬藩の境の地名)
飯館村から川俣町へ(秋の暮の短歌俳句)
秋深むキツネ二匹や大倉に
秋日さし石あたたかや山の村
菊映えて柿なる家の蔵古りぬ
川俣へ葉山神社と秋の暮
境木とバス停一つ秋の暮
峠越え安達太良望む秋の暮
参りける御霊神社や秋の暮
川俣や小手姫の里黄菊かな
川俣は絹の里かな薄紅葉
川俣に猫神神社や秋の暮
木戸木にそ昔の苦労語りしも跡継ぐ人なし秋のくれゆく
木戸木なる半鐘古り秋の暮鐘盗まれしと語るもあわれ
飯館にまた花買いて帰り来ぬ我が家にさして映えにけるかな
(水境神社)
からまりて離れざるかな夫婦松峠越え行く秋のくれかな
安達太良の大いなるかも秋の陽の輝き没りて雲を染めにき
川俣の通りに古き蔵の家昔栄しいくつかありぬ
(御霊神社)
川俣の御霊神社のその前に老女の語るや秋の暮かな
川俣の神社の由来京奈良や小手姫もまた絹の里かな
川俣の絹を作りて栄いけり古き蔵あり秋のくれかな
川俣に神社二つに参りけり木の葉色づき由緒をたずぬ
それぞれの土地の歴史をたずぬるや我がめぐりて秋深まりぬ
深々と山は黙して秋の星きらめきましぬ人は眠らむ
飯館村から川俣へ行った、飯館村から川俣へは10キロあったから結構遠かった
途中「境木」とかのバス停があり境だったのだろう、本当の境は水境神社の所だろう
妙見様を祀っているからである、そこはもともと伊達の相馬の境であった
玉野村がそうなっているがここに植えていた桜の木を玉野村に遷したということでそうだったのか?
臼石とあるとき臼石とは水車に使うものだったのか?その話を木戸木で聞いたからである川俣町は絹で栄えた街であり古い黒い蔵が通りにいくつかあった
それから御霊神社がありその前に老女は座っていた、前の家の人だった
謂れを聞いたがわからない、ただ鹿島神社があると言っていた
ここにも鹿島神社があるのかと思った、鹿島町から来たと言ったが良くわからないようだった、鹿島神社はそもそも全国にある、ここにもあったとなる
小手姫の里となっているから絹織物で栄えた、猫神社があるのは養蚕で猫がネズミを追い払うからいいとなり祀ったとある
丸森にも猫を祀っている猫の町になっているのもそういうことかなとなる
川俣町にも歴史はある、これは次に書くことにしよう
旅という時どうしても車だと旅にならないし地理がわからなくなる
峠にしても車だと越える感覚がなくなるだろう
自転車だと川俣への道を下る所で安達太良山を望んだ時は感動的である
車で来たらそういう感動がなくなる
それで福島市とか二本松市とか中通りに行くとき電車で行くと地理につながりがなくなる相馬藩から川俣へ行くときはやはり地理のつながりがあり地歴を知るのである
つまり相馬藩の境も感覚的に理解する、岩沼から電車で来たらその境を感じないのであるそうすると地歴を理解できないのである
ただ日帰りで行くのは川俣くらいまでである、後は帰るだけで時間がかかりすぎる
また自転車だと宿をとれないことがある、それも大きな問題なのである
2022年10月09日
会津の曲がり屋の写真 (まだそこで生活している)
2022年09月09日
福島県の歴史と地理 (福島県の境界の歴史-境界から見る歴史) (戦国時代から白河の関は境界だった―地理は境界から見る)
福島県の歴史と地理
(福島県の境界の歴史-境界から見る歴史)
戦国時代を見ても明らかに白河の関が変わらず境界になっていた、伊達政宗が会津を支配していても次に秀吉の仕置きで伊達正宗の会津が蒲生氏郷の所領になってもその境界は変わっていない、そして相馬藩とか岩城藩は変わっていない
その原因は阿武隈山脈がありさえぎられていたことである、地理的障害になっていた
それで玉野村には伊達と会津の境の桜がある
伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に
こういう言い伝えがある、そして玉野村では丸森の木材をめぐって熾烈な資源争いがあった、伊達藩と米沢藩と相馬藩で木材資源の奪い合いがあった
それが藩の支配地図を見るとわかりやすい、米沢藩は新潟であり一時は勢力が拡大した
でも不思議なのは伊達との境が新地にあり新地は伊達藩の領地だった
だからその墓地を見ると相馬藩にはない姓がある、伊達藩は相馬藩と隣り合わせであり
そこで争いもあったが戦国時代が終わると協力もしたのである
でもなぜ新地となると平坦な地であり強力な伊達藩が一気に攻めて支配しなかったかである
それはやはり相馬藩が野馬追いがあるように相馬氏騎馬軍団が強力であり攻め入れることができなかったのかとなる
勢力争いとしては会津を支配した蒲生氏郷が意外と相馬藩と境を接していたのである
白河の小峰城の石垣に十字架が彫られていると地元の人に聞いた
氏郷は洗礼を受けてキリスト教徒になっていたからである
そして白河から三春から相馬の境まで一時領地があった、それは伊達政宗が欧州仕置きで秀吉によって叱責されて奪われた、蒲生氏郷に会津は与えられたからである
ここで境界を見る時、みちのくというき白河の関が古代からありそこが変わらず境界になっていた、ここの境界は福島県の今の境界としてつづいている
ここからみちのくに入る場所として継続していたのである
それはどうしてそうだったのか、地理的境界だったからか?確かに茨城県となると平坦な土地になっている、それで白河に入ると山がさえぎっていたとなる

山頂は福島県東白川郡棚倉町と茨城県久慈郡大子町との境にあり、栃木県との境界から東へ1km未満の距離にある。八溝山地の主峰で北麓には久慈川の源流がある
八溝山は一部一キロくらい福島県に入っている、この山は結構深い、なぜかここを通って
白河の関跡に出た、その地理がわかりにくかった
もともとは久慈川の源流が八溝山になって久慈川をさかのぼって棚倉がありここの方が古い場所である、ヤマトタケルの伝説が残っていて水戸街道にも通じている
ここで蝦夷と戦った記録があるからだ、その時なぜか津軽の蝦夷まで応援して大和軍と戦っている、地理から見れば那須の原がありそこから白河の関所に入る、その平野は茨城県になるのである、那須の原だからである、ただ上野の領域にもなる
とにかくこの地理を知るのが意外とむずかしい、地図を見ただけでもわからない、私は
八溝山を自転車でぬけて白河の関跡に出てきたのである、そういう場所は古代なら通れない、久慈川の川をさかのぼる、川は道にもなっていたからである
森が覆っていたら道がないのだから古代では通れない、でも不思議なのは八溝山は奥深い森におおわれていて暗かった、だから閉ざされた感覚になった
そこから抜け出したいともなった、その山をぬけて白河の関跡に出てきたのである
でも大田原とから行けば平坦な地を行くことになる、芭蕉は日光からこの道をたどり白河の関所跡に出たのである
でも旅する時何かこうして山を越え森を抜け川をたどりとかしてゆくと本当に旅したことになる、その行程が何とも言えぬ不思議な感覚になる
もし古代とかだったら余計にそうである、深い森をぬけると開けた地があるとか未知との遭遇がある、そもそも古代となると旅することは命がけの冒険にもなっていたのである
山を越えて深い森をぬけて川をたどりその向こうに何があるかわからない世界がある
今のように何かすべてわかったような世界ではないのである
現代はもう旅する前かは行く先でも何でも情報があふれてわかっている、未知な世界がなくなったのである、道は未知だったのである
地理を知るということは鉄道の旅でもわからない、一番わかるのは歩く旅になる
なぜなら戦前でも江戸時代でも歩いて旅していたからである、するとその当時の人の心を知るには歩く旅をしなければわからないのである、私は自転車で旅したから歩く旅には通じていても歩く旅はしていないのである
深々と小暗き森を抜け出でて白河の関や秋になるかな
草の花道の辺に咲きあわれかな関所の跡やみちのくに入る
いづれにしろ伊達政宗であれ蒲生氏郷であれその物語に人間を見る
蒲生氏郷も伊達政宗も歌がうまかったのである、詩人でもあった
何か昔の武将は武だけではない、文にもたけていた、今の政治家にそういう人はいない
とういうことは現代人はかえって人間的にも劣化したのかともなる
侍というのはそれを育てる環境がありエリートととして育てる環境があり優れた人が育ったとなる、明治維新でも依然として侍がエリートとして指導者となり国造りしていたのである、それが明治の後半とか大正時代から戦争になるころは侍は存在しなくなった
国民は存在しても指導者になる侍はいなくなった、それは全世界的に言える
国民国家であり大衆社会となったのである、そこで人間を教育する環境は喪失した
ただ学校などで一様化規格化された人間を生み出すだけである
知識には優れていても人格的教育などないのである
侍とは武だけではない全人間として人格的に優れていたと人達だともなる
だから江戸時代までは侍を模範にしていたのである
現代は教育するというとき膨大な知識を教えられる、その知識の量が多すぎるのである
江戸時代なら限られているからその分人格教育とかが主になる
現代ではかえって教育となるともうAIとかが教えるとなる、知識の量が多すぎるからそうなった、ただそこではモラルとか人格教育はない、そしてなぜカルト宗教がこれほど増えたのか、それはもう教育する場がない、侍のようなエリート育む場もない
大学などでもそうである、大衆化して教育自体がなくなっていたのである
だから学生運動とかカルトにはまる人もでてくる、そこには教育する場所でもないのである、かえって藩校などが全人格的な教育をしていたとなる
氏郷の会津転封は、伊達政宗を牽制する意味と、秀吉が氏郷を都から遠ざけようとしたためだと思われます。氏郷の夢と激しい野心は、秀吉の側から見れば、ひどく危険だったのです。
会津黒川城を居城としてからわずか五年後、氏郷は京都にて病死します。
文禄の役の時、氏郷も兵を率いて、会津を出発、京都を経て、秀吉が朝鮮出兵の本営を置いた肥前名護屋(佐賀県鎮西町)に参じました。その道中の歌があります。
世の中にわれは何をか那須の原なすわざもなく年やへぬべき
(我は何をなすためにこの世に生まれたのか。那須を通過しつつふと思われる。不本意なままに時間だけが過ぎて行っていいものか)
思ひきや人のゆくへぞ定めなき我がふるさとをよそに見むとは
(思いもよらなかった。人間の運命は不可解なものだ。生まれ故郷を旅しながら、無縁な場所のようにただ通り過ぎてゆくだけとは)
蒲生氏郷は朝鮮出兵のために九州の名古屋城に行ったがそこで病気になり京都で死んだ
40才だった、でも優れた人だったのである
かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風
ただ会津を治めたとしてもその期間は短かった、40才で死んだとなればそうなる
その息子も20代で次々に死んで受け継ぐことができなかった
一代で終わった不運の人だともなる、病気で早死にすることはその当時相当にあった
それにしてもこうして福島県の会津を治めたのでありその領地が実は相馬藩の境まであったというのも相馬とは無縁でもない、どうしても会津というと地理的に一体感を感じないのである、でも福島県としてすでに古代からその境界はみちのくに入る境界であり歴史的境界ともなっていて福島県というのが必ずしも歴史で作られた地理を無視しているわけではない、地歴を無視して福島県になったのではない、古代の歴史からさかのぼることができる、また伊達藩とか最上藩とか米沢藩との境もありそれもわかりにくい、境というとき実際にその場に立って実感することが必要なのである
それで宮城県と山形県の境はわかりやい、面白山でさえぎられトンネルを抜けると山寺になり山形県になるからである、トンネルをぬけると雪国だったともなる
山形県は春でも山が残雪で雪におおわれていたからである
そこが気候の境目にもなっていたからである
ともかく歴史を知るには地理を知らねばならない、時間軸になると歴だが空間となると地理になる、その両方をしらなければ歴史もわかほらない、でも地理となるとこれは福島県ずら広いからわかりにくいのである
どうしても会津は山国であり氏郷が治めていた時でも42万だったから広いのである
そこを自転車で旅しても本当に地理がわからなかったのである
福島県の地理はハマ、ナカ、アイヅがあり気候も違っている
まず浜通りは中通りでも高い山があり会津ださらに山国であり広いのである
会津が一番歴史が古く唯一三角縁神獣鏡が東北で発見されている
会津が福島県では一番古い地域であり国があったとなる
会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね
この歌のようにすでに最初に国として意識されていた地域なのである
もう一つ南相馬市の鹿島区の万葉の歌も境界を示した歌だった
陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを
笠女郎(かさのいらつめ)
この歌も境界の歌だった、それは地理的歴史的境界として真野の草原があった
浜通りから海沿いを大和の勢力が進出するには地理的に良かった
そして真野の草原の地点はこれまで考察したように気候的にも地層的にもシャリンバイが南限の地として鹿島区の海老が自生する地域であり温暖だからそこまで奄美大島から種が流れ着いて自生したともなる、しだ神社もありそれは南国産の樹なのである
みちのくの境界として白河の関があるとしてむしろ真野の草原が最初の境界ともなっていたのである、境界として意識されていたのである、つまり境界とは自然の境界があり歴史としての境界がある、新地などはさえぎる山などないのだから歴史的境界なのである
でも古くなればなるほど地理的境界が自然的境界にもなっていた
外国は川が長大で大きいからライン河がローマ帝国が侵入できない境界となっていた
ゲルマン人がそこに住んでいたのである
そしてウクライナの戦争でも川が依然として戦争で防衛線になっていたのである
だから橋を壊して渡れないようにするとなかなか川を渡れずに攻め入ることができないとなっていた、現代の戦争でも地理が依然として影響していたのである
現代でも戦争でもやはり地理が地勢が影響していた、これはなかなか克服できないものだったのである
2022年08月15日
奥会津の旅(鬼百合十句‐記憶の旅―写真四枚)
奥会津の旅(鬼百合十句‐記憶の旅―写真四枚)

激流に鬼百合映えて奥会津
夏草に碑の古りあわれ奥会津
鬼百合や我が力だし来たりけり
鬼百合や五六軒の家奥会津
鬼百合や遠く来たりぬ旅の人
鬼百合や激流轟き崖そそる
蒲生岳はるばる来たり夏燕
旅人の休む木陰や奥会津
墓倒れ鬼百合咲くや奥会津
小出にそ鮎釣る人や魚野川
月見草河原に咲いて小出かな
会津の激流
巌はきびしく反り直立しぬ
激流はひびきほとばしる
燕飛びはるか来たりぬ会津の奥
鬼百合の咲き燃ゆるかな
会津の奥処が知らじも
重量に山々閉ざし千古経ぬ
その秀麗なる山岳を望みて
会津の心は養われぬ
鬼百合のここに燃えよ
その命激しくここに燃えなむ
会津の激流はひびき我はさらに
遠くへと山々を分け入りぬ
人間はとにかく忘れやすい、20年前30年前となると記憶していることがあいまいになる
だから思い出して俳句とかにするにしてもそこがどこかわからなくなる
確かに只見線を通って小出に出た、小出駅前に魚野川がありそこで釣りしていた人がいたその川の前に食堂があり鮎料理を食べたことを記憶している
そこはかなり鮎がとれる場所なのである
でもわからないのは伊南川にも行った、でも伊南川は只見町から入り桧枝岐の方に行く
地図ではそうなっている、自転車で桧枝岐まで行ったことがあるから伊南川に沿って
行ったようだ、つまり只見線で小出に行ったの伊南川に沿って行ったのは別々の旅だったのである、これが混同している
会津は川が長いし激流がありこの辺の短い川とは違う、そこに川の魅力があり山の魅力がある、浜通りは海があり海の魅力があるとなる
ただ会津は本当に広いから地理がわからない、でも自転車で三回くらい行っている
会津はもともと福島県でも別個の大きな地域であり国である
それは古代からそうであった、唯一国として認識されていた
会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結びさね
だから会津は古代から大きな国としてあり歴史があり文化があったとなる
そこが中通りとも浜通りとも違うのである
それで大塚山古墳には三角神獣鏡が唯一発見されている、その歴史が古いのである
それは地理的に阿賀野川を通じて日本海から近畿地方から人が入ってきていたからである日本海の方が交通路として最初に開けていたからである
古代とかなると道が整備されていないから海でも川でも道になっていたのである
福島県で一番古い地域は会津だともなる
会津というと白虎隊とか注目されているが実際は古代から独立した大きな国だったのである
旅でも準備して旅を実行して後は回想する旅になる、そして意外と注目されていないのが回想する旅なのである、でも20年30年とかさらに過ぎると記憶もあいまいになるのである、だから写真とかとっているのは後で思い出すのにいい
ただその時はデジタルカメラの時代でないから写真が簡単にとれなかった
でも残った写真を見たら思い出すことがある
ともかく自転車で行ったことは貴重だった、今になると行けなくなった
体力的にも行けない、するとどうしても思い出す旅になる
でもその時思い出せないとするともう旅したことでもしてなかったとまでなる
現実その人は確かに子供の時五年間一緒に生活していた
でも実の兄とかではないので五年間いてもその人を知らないと言っていた
その女性は異常な人だったからそうなったかもしれない、非情な女性になっていたからである、でも50年過ぎたらどうなるのか?
大学時代でも東京で逢った人はそんな人がいたのかとまでなる
人間とはこうして何でも忘れる、そして最後に認知症になり子供まで家族まであなた誰ですかとなってしまうのである、つまり人間は忘れ安いのである
そしてそんな人と逢ったこともないし知らないとまである
それは家族ですら十年に十年と過ぎてゆくとあいまいな記憶になってしまうからである
そして死んでしまうとさらにその人が実在したのかどうかすらわからなくなる
百年前に生きていたとかでもその人が実在したかどうかもわからなくなる
それはもう名前さえ残らない、名前が残っている人はましだとなる
膨大な人間が実際は消えてしまったのである、消えてしまったということはその人は実在しなかったともなるのである
墓が残っていれば誰かがここに埋められて眠っているとか思う
墓は最後の人間存在の証明だとまでなる
ところが庶民は姓もなく墓もなかった、村の共同墓地に埋められていたのである
だから個人はなくただ共同としての墓地があった、それがホトケッポなのである
会津は広くて地理がわからない、ただ山国として魅力がある
でも今は記憶してありそれも定かではない、あいまいになってしまったのである
2022年04月18日
飯館村を回り霊山神社へ(佐須から石戸村ー石田村ー桜の短歌)
里の道山鳩歩み花の影
山吹きや磐打つ流れひびくかな
山桜高きより散り触れられず
山の村十軒ほどや花に雲
地震にて落ちし石一つ変化かな
記録として残されていたもの
顕家の像に朝散る桜かな
祭られて神社を覆う桜かな
夕べ散る花のあわれや霊山城
山陰の霊山町や夕桜
隠里滝のひびきに夕桜
ここに記録として残っている、でも思い出せないものがあった
http://www.musubu.jp/ryouzankikouhaiku.htm
(大倉から佐須へ)
清流の巌にひびき山桜見上げて高く朝に咲くかも
鶯の声のみ高くひびきけり人気なき村我が通りゆく
人住まぬ家にそあわれ水の出て春に来たりてしのびけるかな
冬ごもりながくもあれな峠越え高く連なる春の峰々
春光や峠を越えて吾妻嶺を我が仰ぎ見て伊達市に入りぬ
(石戸村)
古き碑に春の日さして山の道上りてたずぬ人のありしも
古き碑の並びし山路桜咲き夕暮れあわれたずぬ人あり
山により家の古りぬも夕暮れや桜色にそ染まりひそまる
墓一つたずねてあわれ石田村我が去りゆくや春の夕暮れ
(霊山神社へ)
花おおふ石段高く椿散り霊山神社に登る道かな
登り行く石段高く桜咲き椿も散りぬ霊山神社へ
花冷えにみちのくの桜散りはかなき命偲び惜しみぬ
山の奥霊山神社をもうで帰る滝のひびきて花の夕暮れ
顕家の像に花散るなお残る花や夕暮れ我が去りにけり
あわれかな花散る跡の霊山城南朝の夢ここにつええぬ
登り来て霊山神社に四十雀鳴く声ひびきて春の夕暮れ
手水鉢白椿そえ水いでぬ霊山神社に巫女一人かな
(大霊山線)
吾妻峰に蔵王連なり夕陽没る青々として春の夕暮れ
赤々と春の夕陽の映え没りぬ高くも連なる峰々望む
一時や昨日は晴れるもたちまちに雨ふりて変わりやすしも花は散りゆく
2022年01月21日
古殿からいわきへ自転車の旅の詩(新年の詩) (フタバスズキ竜と浜通り)
古殿からいわきへ自転車の旅の詩(新年の詩)
(フタバスズキ竜と浜通り)
古殿から御斎所峠を下る
一心に自転車で走り下る
鶏頭が赤く燃え咲く
我が心も赤く燃える
下りきって川に出た
水は透明に澄んでいる
そんな所で石を探す人がいた
十万にもなる石があるとか・・
その眼は卑しい、豚の眼にもなる
常に人は金を求める
清浄な自然にも金を求める
その清流を鮎が上り死ぬ
落鮎はここで短い命を終える
その清らかな水に命を終える
さらに遠野を回り農夫がいた
そして太平洋に出た
広い広い大平洋よ
フタバスズキリュウが波を切って泳ぐ
魚が群れて泳ぎ海竜が首を伸ばして
ぐいぐい力強く泳ぐ
その姿は神の業の快挙だ
悠々と波を切って泳ぐ
それは太古の夢だったのか
その姿は消えて化石となり億年眠る
大きなアンモナイトも積み重なり眠る
ああ 卑しい人間よ
その目は何を見るのか
その目は濁りもう美を見ない
大いなる自然の美を見ない
時に大いなる自然はノワの箱舟のように
世の穢れを洪水で押し流すのか
そして再び太古の自然が蘇る
雄大な自然の中にありあまる幸を得て生きる
人間の業の原発は万年の災いを残した
プルトニウムは二万年消えない
億年の地史の中にそれは残る
人間の技は災(わざ)いを残す
そこに人間を住めなくした
私は海岸にテントを張り
朝に海に太陽を輝き昇るのを見る
撫子が咲いていわきの浜を去る
その海岸線を軽快に走り去って行く
かなたに鴎が飛んでゆく
白波が寄せてひびき広々として
海岸線はどこまでもつづいている
庚平7(1064)年御冷泉天皇の御代、東北の地に阿部一族が乱を起した時、源頼義が一子八幡太郎義家を供に討伐の兵を進めた。戦い利あらず一時この地にあって再挙の機をうかがいはるかに石清水八幡宮に戦勝を祈願した。ほどなくみごと勝利をおさめたがこれを記念し、部下の福田次郎(石川氏の祖)に命じて石清水八幡をこの地に遷座しまいらせたといわれる。代々の領主が隠居入道し、修験となって八幡を守護、古記殿を館としていたのでこの地を古殿と呼ぶようになったという。このゆかりの名にあやかって古殿町と名づけられた。
古殿八幡に古くから伝わる「流鏑馬(やぶさめ)」の行事がある。狩り装束に身を固め鏑矢を背に弓を左手に持った三人の武士が疾走すろ馬上から一の矢、二の矢、三の矢をはなつ、この行事は無形文化財として保護され秋たけなわの十月の第二日曜日に毎年行なわれる。
https://www.town.furudono.fukushima.jp/kanko-dentou-bunka/see/shiseki/furudonochoushi/rekishibunka/110
元応(げんおう、(旧字体:元應)は、日本の元号の一つ。文保の後、元亨の前。1319年から1321年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時
市神の碑といわれる12号塔は、碑面を詳細に検すると、「市神」等の現文字は新しく、中央上部に種子、「市神」の字として重複して「元応元大才己未□月□日」とかすかに旧銘が見える。中世の古い板碑に、後世市神等を追刻したことがわかる。荷市場(にいちば)という
鎌倉岳は標高669mあり、古殿町の松川地区に高くそびえる山です。
その名前の歴史は古く、遠い昔、鎌倉より嫁いできた姫が故郷恋しさに、「私の慕わしい鎌倉はどちらの方にあるのだろう」と聞いたので、村人たちが「この 山に登れば鎌倉が見える」と、姫と一緒にこの山に登ったことが由来とも言われています。
市神を秋にたずぬやいわきへと
古殿に鎌倉岳や姫あわれ山間深く秋となるかな
古殿というと鎌倉と関係していたのか、市神とかあったがこれも古いものだった
鎌倉時代となると東北地方に鎌倉から移住した武士が多い、南相馬市の鹿島区の岩松氏は有名である、最初に南相馬市を支配したのは岩松氏だったからである
ただその一族が幼児まで皆殺しとなったので伝説として残っている
だからこの伝説も信憑性があるとなる
鎌倉という名をつけたのだからそうなる
ただ地名はいろいろあり鎌倉が必ずしも鎌倉時代の鎌倉とは違うことがある
なぜなら宮城県でも丸森にも鎌倉があったからだ、他にもある、
神の御座所である「神座(かみくら)」が転じたものとする説などが有力らしい。しかし日本語の性質からして、「かまどくら」が「かまくら」になったり、「かみくら」が「かまくら」になることは難しいのではないか。「かまどくら」はなかなか変容することが難しいし、「かみくら」なら、「かんくら」から「かぐら」と変容するのが普通だろう。
○おそらく、「かまくら」の民俗行事と鎌倉地名とは同じ語源ではないだろうか。かまくら・鎌倉の語は極めて古い。鎌倉時代に唐突に鎌倉の語が成立したわけではない
薪樵る鎌倉山の木垂る木をまつと汝が言はば恋ひつつやあらむ(譬喩歌:3433)
https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519941371.html
この流鏑馬とかは鎌倉から武士が伝えたものとするとなんらか関係あるのか、地名の問題は鎌倉とあれば鎌倉時代とか連想する、そして鎌倉の地名があって伝説がこじつけられる地名伝説にはそういうのが多いのである、実際は無味乾燥な地形とかに由来しているのが多いのである
だからすでに万葉時代にカマクラの地名が歌われている、それは地形的なものと関係している、つまり注意すべきは鎌倉という地名は鎌倉時代より古くからあったということである、だから鎌倉岳がいつそう名付けられたのか問題になる、地名は古代からのものがあり古いのが多いからである
ここから一路いわき市の方へ自転車で下った、下り坂だから気持ち良かった
その時電動自転車ではなかった、これが坂だったら上るのが大変なことになる
ただあの辺を確かに行ったのだが記憶が薄れている
でも石川郡とかであり山の中に万屋(よろずや)がありそこでご飯と味噌汁を御馳走になったのである、今時そんなことをする人はいない、そこは山の中でまた万屋が残っていたのである、それが記憶として残っている
自転車で旅して親切にされたことはない、胡散臭い奴だとなって宿にも泊まりにくいのである
何か江戸時代辺りでも旅は簡単にできない、殺された人もいるというのも伝えられているそれはよそ者を殺しても犯人がとがめられないという村社会だからそうなった
江戸時代のことを回想して美化しているが実際はそんなものではないとなる
ともかく市神の碑のある場所から一心に御斎所街道を下った
現在はトンネルを通って峠を越えるが、かつては山腹の崖に近い斜面を上り下りし、屈曲した狭い道を行き来したようだ。「七曲」「大曲」。一度踏み外すと、約100メートル下の谷底まで転げ落ちるほどの難所に苦慮した人が、畏敬の念を抱き名付けた峠の呼称が今も残る。
御斎所街道・全3回(3)】 難所続いた古道の名残
https://www.minyu-net.com/serial/kaidou/FM20160221-051701.php
この辺では飯館村の大倉から草野の方に行く古い道は本当に七曲の細い道だった
どこでも山の道はくねくね曲がっていたのである、そもそも直線の道を作ることは日本では山が多いからむずかしかったのである
今は曲がった道ではなく新しい真っすぐな道ができているから車でも行きやすい
古い道はもう誰も通らない道となった、古い道がここでもありそれはわからない
そうして下りきった所で遠野に出て鮫川が流れている、その水は清らかである
そこで落鮎が食べれる場所があった、落鮎が清い水に死んでいた
そこで合ったのは変わった石を探していた人だった、何十万になるとか言っていた
そんな高い石があるのかと思った、その人の眼は癒しと見た
人間はともかく金になることだけを追求していると卑しくなる
自然の景観は無料で鑑賞できる、でも金になることを追及していると自然の美も見えなくなる
秋の水流れて清し遠野かな
遠野という地名の由来は何なのか
「トオ」は「峠」の詰まったもの。【JR・第三セクター 全駅ルーツ事典 村石利夫 東京堂出版】
「遠閉伊(とほのへい)」の下略。又は、「タヲ(撓んだ地形)」+「ノ(野)」の転か。アイヌ語説は付会。【市町村名語源辞典 溝手理太郎 東京堂出版】
以下のような様々な説があると言われる。【岩手県庁のサイトより】
(1) 閉伊の先、閉伊の奥の意味で呼んだ汎称「遠閉伊」の野原という意味
(2) 山間の遠い野
(3) アイヌ語のト(沼)ヌプ(野)
(4) 「東野」の意味で東方の野
(5) 「撓野(タワノ)」の転訛で、たわんだ地形の盆地
遠い野とか奥の野というときいわき市街からは相当遠いから合っている
ただこれも何か遠いということで感じからイメージするが地名は無味乾燥な地形とかに由来しているのが多い、でも何か地形的にもあっている
でもどうして遠野と名付けられたのか?そこに住んだ人がわざわざ遠い野とは言わない
ただ遠野という地名はその辺りの小字地名でありそれが大きな地名となったことはありうる
その遠野からいわきの浜に出た、そこでテントを張り一夜寝た、起きたら海から朝日が昇る、その浜に撫子が咲いていた、それが何かいわき市にふさわしかった
やはり山より海に出るのがふさわしい、浜通りの道は常に海に通じいる
山にも通じているがどうしても海に向かっているのである
そうしてその海は黒潮と親潮の交わる地点であり波立海岸には小さな熱帯魚が泳いでいたそれを追って千葉県から来た人がいたのである
さらに太古になるとフタバスズキ竜がいた、これを見たら驚嘆する
浜通りは太古には深く海が入り込んでいた、だから南相馬市の鹿島区の真野川上流から
サンゴの化石が発見されたりする
またアンモナイトの化石が集積している所が博物館にもなっている
それは海からかなり離れて遠いのである、だから太古は山の方まで海になっていたのである、だから化石が山の方に埋もれていたとなる
このヒマラヤ山脈最高峰のエベレスト山では、アンモナイトなどの貝の化石が見つかります。”海の生物”の化石が、地球上で最も海から遠く離れた場所で見つかるのです。
これも信じられないとなる、それだけ地球自体が動き隆起して変動しているのである
だからトンガで海底火山が爆発したように地球常に変動しているのである
津浪でも元の入江が再現されたことに驚いた、田んぼだったところは湿地帯になったのである、釧路湿原のように一部なったのである
地球が変動するということは日本列島が沈没するというのも嘘ではないのである
沈没しなくても日本列島は変化する、陸地が海になり海に新しい島ができて陸地が広がるそういう信じられないドラマが地球規模では起きるのである
とにかく自分の旅をふりかえっていかに記憶する旅が大事かわかる
だから自転車の旅は記憶に残る、あそこを懸命に長い坂を上ったとか下ったとか覚えている、蘇るのである、そうして今俳句や短歌や詩にしている
もし車とかバイクだと記憶されないから記憶が蘇らないのである、するとその労力も無駄だったとなってしまうのである、つまり時間の無駄だったということに気づくのである
旅でもその収穫を得るにはやはり記憶する旅をしないと大損だったと気づく
なぜなら老人になるときつい旅はできなくなるからだ
老人は記憶に生きるようになるからだ、とにかく人間は記憶することが大事なのである
ただ記録と記憶はまた違っている、記録しても記憶されないこともある
その時の実感は記録して記憶とならず忘れることがある
ただ記録したもで記憶が蘇ることはある、だから記録も大事なのである
30年とすぎれば何かあいまいとなりどこを通って行ったのかもわからなくなる
だからこそ記憶する旅をしないと旅したことにもならないとなり大損だったとなるのである
2021年11月16日
新井白石の霊山鎮の漢詩ー相馬の義兄を訪ねて霊山に寄った
新井白石の霊山鎮の漢詩ー相馬の義兄を訪ねて霊山に寄った
霊山鎮 (「新井白石全集」所収)
霊山開巨鎮、郷月照雄藩、
鐘鼓千峯動、貔貅萬竈屯、
出師資上略、刻日復中原、
一夕長星堕、年年哭嶺猿、
(読み下し)
霊山、巨鎮を開き、郷月、雄藩を照らす
鐘鼓、千峯を動かし、貔貅、萬竈に屯す ※貔貅(ヒキュウ)=猛獣
出師、上洛を資り、刻日、中原を復す
一夕、長星、堕ち、年年、哭す、嶺の猿
(意訳)
霊山に聳える巨大な山城、霊山鎮。月が南朝方の伊達郡の地を照らしている。
鐘や鼓の音が千の嶺々に響き、屈強な兵たちが万の家々に屯している。
奥羽の大軍勢を率いて上洛した北畠顕家公は一旦京都を平定した。
しかし、ある日の夕方、長大な彗星が墜落した。それを悲しんで 霊山の嶺々の猿が 今でも毎年泣いている。
「顕家生ては、奥羽を以て根拠と為し、身は泉州に死すといえども、魂魄反(帰)りて常に此の山に在るが如し」
●享保6年(1721)8月9日新井白石書状 水戸彰考館総裁安積澹泊宛(抄)
「 一、奥州に家兄の事、『白石詩草』にて御覧に及ばれ、御尋にて候。某事は亡父の時より
故土屋民部少輔家人にて、民部少輔第二子相馬の家へ養子に罷成り候時に、某兄にて候
者をも附属し、つかはし候に付、相馬の城下中村に居住し候。是は三十年許以前に死去
し候て、子供も両人迄候ひしも打続き死し、今は孫の代に罷成り候。
さて某事は民部少輔子伊予守代に浪人仕り、堀田筑前守(正俊)家へ罷出、下総守(正仲)
代まで彼家に罷在り候。その時に福島へ一度、山県(山形)へ一度、罷越し候事に候ひ
き。信夫郡は即ち福島を申し候。
兄の名は弥一右衛門正信と申し候ひき。『白石詩草』の中の人名の事、いかにもいかにも
忘れ申さず候。追て書付進呈致すべく候。彼福島より中村迄は僅に六里に候。中路に顕家中納言(北畠顕家)の遺跡霊山鎮是あり候て、今も昔の庭の跡に牡丹など春を忘れず候。礎石等も元のままにて、焦穀時々あなたこなたより出候と申す事に候。」
(「新井白石全集〕所収)
http://datenokaori.web.fc2.com/sub154.html
晩秋悲風霊山
峨峨たる岩峰迫り
一転雲覆い暗黒
一時に木の葉共に散る
風雪帯ぶ巌に木の根づき
霊山に僧の籠もり修行
南朝の砦となり一〇年
戦い滅び武士の落ち延ぶ
若くして戦士の顕家の魂
ここに宿りて無念を語る
寥々として悲風吹く晩秋
木の葉風に舞い散り
その麓石戸に土蔵古り柿なりぬ
時雨の我が老いの身を濡らす
落武者は相馬の方にあわれ
身をやつして落ちにけり
短日の暮れ安く我も急ぎ帰らむ
その末裔の今に祭りとして
我が里に只野一族の数多
基は郡山の多田野村より来る
その謂れを語り残りけるかな
霊山の巌は黒々と夕暮れや花散りあわれ南朝亡ぶ
新井白石が福島城により霊山により養子となった相馬の義兄をたずねた
これも奇縁だとなる、中村街道を通り相馬の城下まで来たとなる
六里というのは過ちである、というのは旅していると距離の感覚がわからなくなる
ましてや江戸時代となると余計にそうなる、何か時間でも正確に計れないからである
霊山の魅力は玄武岩の黒々とした岩峰でありその黒さが印象的になる
それと南朝の城としての歴史があり歴史と自然が一体となって魅力をかもしだしている
顕家は二一歳で戦死した、あまりにも早い死でありまさに彗星のように消えたとなる
その霊山から落ち延びた落武者の末裔か相馬につづいているのである
南相馬市の日吉神社とか山王神社とかはもともと北畠家が守護神とするものである
それで山王神社とかの旗が野馬追いに出るのである
あとは南朝の菊の紋の旗が出る、霊山の歴史と相馬藩の歴史が重なっているのだ
そもそも霊山では北畠顕家が城とする前に山岳仏教の天台宗の修行の場だった、それは山形県の山寺でも同じである、天台宗なのである
天台宗の本山寺院である比叡山・延暦寺は平安仏教の中心地となり栄えました。
天台宗を基として鎌倉仏教の交流を迎えた、その基礎に天台宗があった
天台とはまさに高い所で天に通じる所で修行するということである
六根清浄の地として山岳仏教が基礎となっていたのである
ただ日蓮とか親鸞とかははなじみがあるが天台宗というとなじみがない、それは中国に留学生として習い伝えたのである
仏教でも空海でも中国に遣唐使に交じり実際に行っている、それから仏教は中国から学んだのである、鎌倉時代に道元は禅の寺を開いたが中国の寧波に渡り天童寺で修行したのである、そこで実際に私は天童寺に行って道元が座禅した部屋を見たのである
古松の道を上ってゆくとその場所がある、春の日に高い塔がいくつか見えた
中国では塔が多いのである、中国が仏教の興隆期があった、それで今でもその遺跡が残っている、でも何か日本では中国でそんなに仏教が普及したのかわからなくなった
仏教は中国経由で学んだのである、それが日蓮とか親鸞とかで日本化した仏教になったのである、宗教でも必ず別な国に普及するとその国の風土とか文化と一体化するのである
日本では神仏習合になったことでもそうである
ただ江戸時代になると仏教は官製のものとなり寺は役所のようになったのである
幕府で仏教は保護したからである、だから仏教の歴史でも江戸時代はむしろ論語を学んだ時代でもあった
ただ現代になると仏教でも論語でも親しみがないし何か伝わらない、教えが継続されていないのである
おそらく明治維新でそうした伝統が途切れてしまったともなる、神道が廃仏希釈などで神道が国家に保護されて天皇が現人神(あらひとかみ)となり国家神道になった
そして戦後はまた国家神道になったことで否定されたので神道というのも何かわからなくなったのである
中国でも仏教は文化革命で破壊された、共産主義思想によって統一されたからである
ただ仏教の遺跡は残っている、でもそれが人民に継続されているかどうかとなるとなっていない、共産主義と相いれないこともあり政府では宗教を警戒しているからである
反政府として宗教をが人をまとめることがありそれを恐れているのであるだからキリスト教も弾圧するとなる
2021年11月10日
霊山町の方に行ったが全く記憶が消えていた (人間ほど忘れやすいものはない)
霊山町の方に行ったが全く記憶が消えていた
(人間ほど忘れやすいものはない)
霊山を越えて霊山町の方に行ったのは20年から30年ぶりくらいかもしれない
それで不思議だったのは霊山神社があるところが道から奥の方にありこんなところにあったのかと不安になり行かなかった、そこまで行った記憶が全くなくなっていたのである
他にも別な方向に行ったこともあった、そこにも行こうとしたが行けなかった
前はゆっくりといろいろ回っていたのである
人間はまずいくらそこを訪れたとしても20年とか30年過ぎると記憶が消失してゆく
だからそこは初めて行った場所にもなっていた
第一霊山が霊山町の方向から見たら違って見えたからである
一つの山でも方向が違うと違って見える、だから何でも印象は一つとはならないのである霊山だったら何度も見ているけど同じ方向から見ていると印象的には同じになる
山を知るという時、実際は山を登らないとまたわからないのである
霊山は前と上っていた、その頃バスが通っていたから行けた
それでバス停があったのをみて昔はバスが通っていたと見た
霊山には古霊山とかあり裏の方にある
古霊山落葉の深く踏み帰る
あそこも神秘的な場所である、それだって一回だけと行ったのでは記憶が薄れる
ただ霊山にしても低いにしても霊山全体を知ることはなかなかできない
岩手山は三回登った、下山したときまだ秋なのに紅葉の盛りでありそれが一瞬にして雪化粧したのである、そういうことはやはり山を上らないとその山の厳しさ感じられないのである
ただこうして山を実感として知ることはむずかしいとなる
頂上に紅葉の燃えて雪化粧一瞬に変わる岩手山かな
岩手山は独立峰であり印象に残る山である、山はそれぞれに違った個性を持っている
霊山はもともと僧の修行の場だった、山岳宗教の場だった、そこで修行していたというけどそれで不思議なのはどうして食べていたのかということである
食料をどうしていたのか不思議なのである、でも山城などでは食料を下から運ぶ人達がいたのである、そういうことで伝説も残っている
第一修行するにしても誰かが食料を運ばねばならないからである
その食料をどうして調達したのだろうと不思議なにる、冬でも寒いから暖房をどうしたのかともなる、霊山は歴史の山であるから他の山とはまた違っている
霊山や巌に木の根秋深かむ
ともかく山は本当に必ず見方によって違って見えるのである、ただ山を知ることは容易ではない、まず山を登ること登山となると体力が必要だからそんなに登れないからだ
とにかく人間は忘れやすい、不思議になるのは50年前とか大学で逢った人がいたとしてそんな人がいたのかとまでなる、本当に実在したのかとまでなる
50年もすぎれば本当にその人が今実在しているのかとなる、実際に死んでいる人もいるからそうなる
霊山などはまだ近いのだからまた行けばやはり思い出すことがある
でも遠くになると思い出すことも容易でなくなるのだ
外国となると余計に思い出すことがさらにむずかしくなる、なぜなら一回しか行けないことが多いからそうなるのだ、ただ一回でも記憶する旅をしていれば思い出す
団体旅行で騒がしく旅していると辺りの景色などが心に記憶されないのである
辺りの雰囲気を記憶するには一人旅がいいとなる、二人くらいでもいいとなる
それでもその場の雰囲気を記憶するには一人の方がいいとなる
ともかく今回霊山町の方に行ったのは本当に不思議な経験だった、全く前に行ったとしてその記憶が消えて始めて行った気分になったからである
ただ体が異常に疲れた、五日寝ていても疲れがとれないのである
筋肉の疲れがとれないのである、ただ写真をとれなかったのでもう一回とるために行くほかない、寒くなると行けないからである
2021年05月28日
福島県の奥の細道の俳句(自作)―芭蕉の跡をたどる
2020年06月22日
地理で大事なのは境である (宮城県と福島県内の境)
2020年03月15日
人間は国(くに)に生きる (国とは何か福島県(会津)の万葉集より考察)
2020年03月14日
会津の旅の短歌30首
2019年12月29日
会津の舘岩村への旅-短歌十首(NHK―小さな旅を見て)
2019年02月10日
会津(旅の思い出俳句十句ー秋から冬―会津の雪の詩) {会津の風土と歴史の独自性)
2018年07月04日
佐須から霊山から相馬の城下へ(短歌十首) (春の日にたどる,自然の道,歴史の道)
2018年06月01日
いわきまで御斎所街道を下る旅(旅の思い出の短歌)
2018年04月14日
白河、二本松の城の桜の短歌 (歴史がある所に桜が一段と映える)
2018年02月13日
雪の俳句と短歌(会津の風土から生まれるもの)
2017年11月09日
白河街道の旅 (勢至堂峠を越えて湖南町(福良)から会津へ)
2017年10月25日
古殿からいわきの浜へ(俳句連作) (御斎所街道を行く)
2017年10月13日
只見線の旅 (会津柳津町の人口減少がひどい)
2017年10月12日
福島県会津昭和村の地名 (昭和村晩秋の詩)
2017年08月05日
阿武隈山地の影(詩) (行政区域としての廃藩置県には無理があった)
福島県は地理的に隔絶されて一体感がもてない
2017年02月16日
みちのくの枯野の風景 (常磐線のいわき市から仙台まで)
2016年11月03日
古殿からいわきへの旅(秋の俳句十句) (塩の道をインターネットでふりかえる)
2016年08月21日
葛尾村から三春から田村市(都路村)へー秋の短歌 (地理は地図を見てもわからない)
2016年07月08日
福島県の歴史の道の旅の回想 (棚倉→白河→会津ー(白河街道)
2015年10月17日
常磐線の思い出短歌30首 (津波原発事故からふりかえる)
AUKUMA station
新しき駅にしあれや逢隈(あふくま)駅乗り降り多し蝉の音ひびけり
1898年(明治31年)8月23日 - 日本鉄道磐城線の長塚駅(ながつかえき)として開業。
1901年(明治34年) - 土浦線・水戸線友部駅 - 水戸駅間・磐城線を統合し海岸線と改
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定により常磐線の所属となる。
1959年(昭和34年)10月1日 - 双葉駅に改称となる。
双葉駅が浪江が標葉郷であり楢葉があり双葉となった。標葉は浪江は相馬藩に入り野馬追いにもでている。双葉はもともと長塚駅だった。だから双葉というとその駅名が新しいと感じるが昭和34年に改称したとなる実際は古い
相馬駅も中村駅でありこれは中村というとき
1961年(昭和36年)3月20日 - 相馬駅に改称。
人間は地名でも駅名でもなじむに時間が必要だった。
地名はまず百年くらい継続しないとなじまない、地名は百年は短い、それだけ地名というのはなじむのに時間が必要なのである。
だから駅名でも相馬でも双葉でも最近のことのように思えるのである。
合併して市町村の名前が変わってもそれがなじむには相当な時間が必要になる。
でもその話を聞いていたからなつかしいとなる
何か銀行があって遊んでいたとか銀行自体がその時めずらしいものだったのである。
それも遠い日の話になってしまった。
他の線は駅名を覚えているのも少ない、だから何か思い出す作業というのが不思議なのである。
ともかく双葉駅辺りが相馬藩と磐城藩の境目である。
古代では磐城国だったから磐城太田という駅が原町の隣にあるし磐城とつく地名が今でも多い、それは白河も磐城と接していたから同じだった。
常磐線で今回津波で意識されたのは海が近いということだった。
浜吉田とかがなぜ浜になっているのかわからなかった。浜など全く見えないし遠いと思っていたのである。そしたらあの駅前まで津波が来ていたことには驚いた。
新地駅は一番海に近いことは知っていた。海が見える駅だった
山下駅でもあとは海が見えないのである。
だから浜吉田まで昔は海だったということを意識させられたのである。
それは亘理駅でもそうである。あそこに鴎が飛んでくるのを見た
鴎が飛んでくるということは海を意識するし海が近かったのである。
岩沼でも海は近かった。それは多賀城とか宮城の海岸線でもそうだった。
建物がたて込んだりビルが建ったり松原でも海が見えなくなっていた。
だから海が遠いと思っていたのが津波で海が近いと意識させられたのである。
小高駅までも津波がきたから小高は海が近かったことを意識させられた。
そして小高の城があるところまでかなり海が迫っていたのである。
中世には小高は規模の大きい湊でありすると小高城に近く湊だったとなる
常磐線は今のいわき駅は平駅だった。平駅というのがなじみがある。平機関区があり原町機関区がある。それは東京への物流の二大基点であった。
戦後十年か二十年か木材とか石とか運ばれた。平は常磐炭鉱があり石炭を運んだ。
日本の鉄道は北海道でもそうだが旅客を運ぶより物を運ぶものであり特に石炭を運ぶものとしてはじまった。小樽などもそうである。北海道には炭鉱が多かったからである。
とにかく自分は電車の旅行の時間が長い、自転車旅行はそれほどしていない、電車で一番旅しているから鉄道に興味をもったのである。
北海道には十回くらい行っているから一番親しい場所である。
電車の旅も人家が多い工業地帯など走ると印象に残らない
だから西は混んでいるから何か印象に残りにくい、ただ印象に残るというとき記憶されるというときやはり一度くらい行っては記憶しにくいのである。
英語の単語でもそうだが何度もその言葉を使っているうちに読んでいる内に記憶に定着するのとにている。
人間にとって意外と盲点なのは記憶することが大事だということである。
人間は人生でもその人が記憶したことか人生になりやすい
だから認知症になると昔の記憶は残っているのでそのことを何度も嫌になるほど話すのである。
それで戦争のことを千回も聞かされたので嫌になったがそれが人生だったからそうなったのである。
そして記憶というのは漠然としたものより地名とか駅名から記憶がよみがえってくる。
だから電車の旅は駅名が歌枕のような役割を果たしていたのである。
ただ正直遠くは必ずあいまいになり定かでなくなる
車窓からの景色でもあいまいになる、でも常磐線のようにいわきから岩沼までは人家が少ない、野原が多いからそういう場所だと記憶に残る。
その間に無人駅もかなり多い、日立木駅など人一人くらしかおりないことが普通にあるのだ。
そういうときその一人がおりたということを見ていて記憶するのである。
もう何十人もおりたりすると記憶しにくいのである。
いづれにしろ新地駅はなくなった。あそこでは相馬駅につくまえ交換列車を待つので6分くらいとまっていた。それは夜だった。月が海から出て光り虫がないていた。
そういうことが今や津波で流されて経験できないということも不思議だとなる
新しい常磐線は二年後に開通するがそれはまた全く違ったものになる
別な場所になるから今とはまるで違ったものとなる
それは仙石線でも新しくなりそうなった。遠名駅は高台に移り景色が悪い所になった。
常磐線ではそれぼとの変化はなしいにしてももう前の駅とは違うものとなる
だからもう経験できないとなると記憶されたものが貴重だとなってしまう。
新地駅などは特にそうである。
それが人生だったともなる。そんなことが人生だったのかとなるが現代では結構普通の人でも作家でなくてもそうなる人がいるだろう。
働かない人が普通に若い人でも多いからである。
するどこんなふうにして過ごした人も多くなる
ただ団塊の世代は企業戦士だから働いていた人が多かったから自分のような人はまれである。ニートなとはあの当時は極まれなアウトサイダーである。
今はどこにでも働かないニートが日常的にいる、これも時代である。
今になると自由に旅できたことが不思議である。ここ十年介護などで全く旅できなくなったことでその自由に旅できたことが不思議に思え恵まれていたなとつくづく思う。
自由に旅することなど自分にとって当たり前だったのである。
特別なことではない、当たり前のことであった。でも勤め人だったらできないのだから自由に旅できることはよほど恵まれていたとなる。
阿武隈川は逢隈からでている,他にも郡山にも逢隈橋があったからだ。
常磐線でこれだけ駅からイメージできたのはそれだけ回数をのっているからである。
それは自分の死んだ家族との思い出も重なる
駅は鉄道が盛んな時はこれ以上に生活に密着してて思い出の場所になっていた。
何か人間が記憶するというとき思い出すというとき漠然として何もない、野原だけとかなるとそこに地名が一つあることでその地名からイメージする
だから旅で記憶されるのが駅名だったのである。
そんな時代があったのかと鉄道が盛んなときは戦後十年以上でもつづいていたのである。つくづく津波があり原発事故がありそのことで何か大きくこの辺は変化しすぎた
その変化に五年すぎようとしてもとまどっているのである。
それだけの大きな被害だった。常磐線も双葉とか大熊とかの線がいつ開通するかわからない、仙台までは二年後だからそれまでは生きていて乗れるだろう
電車の旅はつくづく自分の人生だったとなとまで思う
ただ思い出すとなるとなかなかできない、駅でも前後が逆になったりはっきりしなくなるのだ。
ただ常磐線は生活路線でもあったから記憶されていたのである。
1907年(明治40年)12月1日 - 小名浜馬車軌道(馬車鉄道・後の小名浜臨港鉄道→福島臨海鉄道)が駅前に乗り入れ。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定により常磐線の所属となる。
1941年(昭和16年)6月 - 小名浜臨港鉄道線が経路変更。同時に当駅に乗り入れ。
http://6.fan-site.net/~haasan55/OnahamaRinko.htm8(映像あり)
前に書いたものもまた書き加えられて延々と創作は連続してゆく
そういうことがネットではしやすいのである。
同じことでも多少色を変えると別なものになる、すると読む方でもその人が何を強調しているから記憶に残りやすいとはなる
一冊の本は完成したものだがプロクとかは特に完成しないで延々とつづくのである。
そしてそこで前に書いたものもまた新たにされる、更新されてよみがえるのである。
それが本とネットの違いである。
そういうことでも常磐線は旅するだけの路線ではない他の人でもそうである。
母は原町の原町紡績(原紡)に十年糸取りして働いていたがその原紡に鉄道の引き込み線が門から通じていたことは驚いた。
この引き込み線は今でも岩沼の製紙工場にある、鉄道で物資や製品を運んでいたからそうなる
またどこの駅にも引き込み線があり貨物車が荷物を運んでいた、それで駅前に自転車屋があるのは鉄道で運ばれるからそこで下ろすのに立地がいいからそうなった。
おそらく病気になった駅前の自転車屋はそういう古い自転車屋なのだろう
駅前が栄えた、相馬市の駅前通りは鉄道とは関係していない、もともと城下町でありそのまま変えなかった、原町は駅前通りとなり陸前浜街道の通りはすたれて駅前通りが繁盛した。
今はシャッター通りになっているのも淋しいとなり時代の変化が常にある。
2015年10月10日
白河の秋の翠楽苑
借景成す松山の緑濃く
広き池に写す深緑の影
二段の滝に四阿屋あり
茶亭の小径の石により
竜胆の咲きて径は分る
蜻蛉一匹静かにとまり
清流絶えず池を満たし
その水の濁らず保ちぬ
秋の午後の日のさして
一服の茶をたまわりぬ
床の間に清楚白菊一輪
水は石に絶えずひびき
松の翠の苑に鎮座する
石と石に日さし暮れぬ
「作られていから何年ですか」
「二十年です」
「何か新しいものと思いました、やはりこれだけの庭を造るのには時間がかかりますね」
自然のものは松でも石でもやはり根付くには時間がかかる。
二十年でも真新しい感じである。京都の庭は古いからやはり違っている。
庭というのはなかなか近くで何度も行かないと鑑賞できない
だから京都に行っても庭のことは良くわからないのである。
まず京都自体を知ることはかなりむずかしい、歴史があっても鑑賞することがむずかしいのである。
だから庭は近くにあって四季おりおりに楽しむのがいい、そういう庭は仙台にもないし東北には意外とない、それだけ庭を造るのは苦労なのである。
ここの庭は場所が良かった。借景としてすでに松山がありそこから川のように水が流れるようにした。それが自然の川のように見えるのである。
ここは春は桜で夏は木陰が多いから涼しい感じになり秋は紅葉と楽しめる
花も咲いていて石により竜胆がそちこち咲いていた。
自然を人工化したものだが日本の庭はなるべく自然のままに作る、流れが縦横にあり石橋があり四阿屋があり滝もあり気持がいい、「秋水庵」というのもあり今の季節にぴったりだった。
秋水が石にひびき流れていて気持が良かった。
翠楽苑とは松の翠(みどり)を楽しむ苑のことだった。
確かに松が多く翠が多いのである。
自分でもやりたいのには庭作りだった。これはしかし相当に金がかかるし大財閥でないとできない、この翠楽苑で感じたことはものたりなかったことは大きな石がない、石がそちこちあっても大きな石がない、これだけの庭だったら大きな石があってもいいと思った。そしたら庭に重みをもつ、大きい石といっても隣の家でも大きな石があるし旅館に庭でもあったり結構ある。
ということは別に大きな石は贅沢ではない、立石というかそそりたつ石もない、点々と石はあっても何かポイントになる石がない、それがものたりない感じになった。
ただこの庭もそれなりの庭のイメージがあって設計されて作られた
だから庭にはどんな小さな庭でも個性があるのが不思議なのである。
近くに広い庭をもっている家がある。その庭には何にもない、更地にしている、前は畑にしたりしていたが今は更地であり何にもない、小石だけでもしけばいいと思うがそういう趣味もない、だからいくら土地をもっていても家をもっていても活かされないことがこの世には多いのである
そういうことができる、したい人は土地がない、金がないとかでできないのである。
津波の跡でも更地になったからそこを公園にして大きな庭でも作れば復興にもなる
ただこれもなかなか堤防工事とか先にあるからむずかしいとなる
新幹線だと仙台から白河まで一時間であるが仙台までゆくのに二時間かかるからそこが遠く感じる、それからバスは電車より疲れるのが嫌なのである。
浜通りには城がないから歴史の観光としては魅力がかける、福島県では観光というと会津であり中通りが中心になる。
小峰城ができたのも十年くらいでありあれは小さいけど効果あったなと思う。
前は何もないとき訪ねたことがっあった。その時のことは印象に残っていない、だから城もやはり石垣だけではものたりないとなる。
もし戊辰戦争の銃弾の跡とか残っていたら歴史を生々しく感じる。
新しくなると博物館なのかと思う、ただ会津でも七層の黒川城があったら見物だった。
その城は壮観であり会津九〇万石の時代もあったのだから見物だった。
その黒川城が地震で崩れて今の五層の城になったのである。
秋の白河の南湖を訪ねる(俳句と短歌)
松古りて野菊に虫の音南湖暮る
湖岸の松の太しも古りにける秋の日さして南湖暮れにき
南湖の名は李白の詩句「南湖秋水夜無煙」からとも、白河小峰城の南に位置していたことから名付けられたともいわれている。現在の南湖公園のあたりは元々大沼と呼ばれた湿地帯で、松平家が藩主になるまえの本多家のころから多目的に利用するための湖沼を施工してはいた。
つまり白河でも寒く南湖でもそれほど凍っていた、今はやはりあたたかくなった。
特に最近は温暖化していることは確かである。今日も朝から暑い、今頃こんなに暑いのかと思うからだ。
松平定信が名君と言われるのは天明の飢饉のとき死者を出さなかったからだという。
馬とか白河だるまとか何か他の産業を育成した。天明の飢饉は全国的なものであり
相馬藩では三分の一の人口が減った。なぜここではその被害がなかったのか?
それは名君があってそうなったのか?それだけでは天明の飢饉の被害はまねがれないだろう。
その辺の詳しいことはわかないが「士民共楽」という思想で治めた。
その象徴が土民も楽しむ日本最古の南湖となる。だからこの南湖は単なる自然の湖ではない、ただここはもともと湿地帯だったから湖にするのは容易だった。
岸の松はいい松であり桜も見物だという、那須連山が見えるのも白河らしい。
松というとき津波では松川浦の松も南相馬市の右田の松原も失われた。
だからなかなか松というのものが見れなくなったのが残念である。
確かにここの松は太いし古いしいい松である。
ここが単なる自然の湖ではないからまた違ったもの歴史的なものとして自然を見る
意知が旗本・佐野政言に江戸城内で刺されて死亡、
また浅間山噴火から天明の大飢饉、
そして、田沼を最も頼りにしていた家治が亡くなると失脚、
蟄居のうえ、彼が城主の遠州相良城は打ち壊しとなります。
田沼意次に代わって実権を握ったのが、
老中首座となる松平定信でした。
評価としては白河では良かったが中央の政治ではそうでもなかった。
天明の飢饉のときに幕府の政治を動かした、天明の飢饉の時代の人だった
それは中央の政治ではうまくいかず白河の藩主になって名君になった。
たそがれというのは中央の政治から引いたことも関係しているのか?
心をあてにした夕顔が散っていてその居所もわからなくなったということか、思いをよせる女性のことか?
2015年10月09日
秋に訪ねる白河の小峰城 (秋雲棚引く小峰城ー詩)
(秋雲棚引く小峰城ー詩)
みちのくに駅の名一つ秋の雲
みちのくの城をたずぬと大阪の女(ヒト)と出会い別る秋かな
白河に城の二つやその一つ埋もれ忘れらる秋風の吹く
秋雲棚引き小峰城
白河の小峰城の三層の櫓かな
秋雲棚引き翳りけるかも
映える天守に蜻蛉群れ飛び
石垣に薊のなおも残れり
大阪の旅人もたずねて
阿武隈川に芒なびき
かなた那須の連山を見ゆ
城内に乙女桜とあわれ
我は秋にしたずねけるかな
その石垣の反りの厳しく
堅固に組まれて構えたり
ここにかつて会津の門あり
会津町ありて歴史を残す
会津に通ず白河街道
我は勢至峠を越えて
猪苗代湖の波音ひびき
境の松の枝垂れる道をすぎ
福良に着きて一夜泊まりぬ
石碑は古りて並びありぬ
はや日も暮れむと急ぐかな
ここよりなおも会津は遠しも
今は忘れられる裏の道となり
かすかに虫の道の辺に鳴く
白河に二つの城あり
本家分家と争い衰退す
これも人の世の常なり
分家の小峰城は今に残りぬ
常陸、那須と通ぜし所
秋風ここに吹き歴史を語る
ここに集結して攻防激し
東北列藩のまとまらじかも
戦いの後や両軍の戦死者のともに
墓の向かいあいて残りけるかな
この時遊女一人戦いに巻き込まれ
会津の兵に裏切りものと殺される
何も罪なき一庶民も巻き込む
ここに恨みを残して時は過ぐ
古来より白河は陸奥の入り口
秋雲棚引き小峰城暮る
福島県の白河はその境目にあるからだ。
白河から那須連峰が見えたし会津の舘岩からも見える。
もう一つは白川城である。もともと白河ではなく白川だった。
本家は分家と争いその後は衰退したという。
こういうことは常にある。だからめずらしいことではない。
それが歴史の跡として二つの城跡があることが明確なものとして残っているからわかりやすい。
家が二つに分かれるというとき別に普通の家でもそういうことはどこでもある。
家は何かまとまるのはめずらしく二つに分かれやすいものだとなる。
もともと平家とか源氏とか二つに分かれたけど元をたどれば人間は一つなのである。
要するに人間の家は安住の場ではない、分裂する場である。
なぜこれほど離婚が多いのかというのもそうである。
男女でも一つになることはむずかしく分離してゆく
天皇が二つになり分かれた南北朝の争いもそうである。
その影響は全国に及んでいてこの白河でもその歴史を残している。
国単位でも二つの勢力に分断される、東西の争い、関が原の戦いもそうだった。
何か自分の家もそうだったからこの二つに分かれた本家分家の歴史が身近なものに感じられる。
人間の宿命として家は大きくなればまた分家してそれが争いの元になる。
大阪の六〇代の女性が歴史に詳しく城めぐりしていた。歴女というのが話題になったが若い人ではなく六〇代くらいになるとかえって歴女としてふさわしい。
城内に薊が咲いていてそれを指さした。蜻蛉(あきつ)も群れて飛んでいた。
最近赤とんぼをあまりみないがここでは多くはないが群飛んでいたのでなつかしかった。ここでは半円に積む石垣が全部崩れた。それを直すのに七〇〇〇個の石を組み直したというから大変な作業を強いられた。
この半円の石垣は現代風に作り直したのかと思った。
それほど他には見ない石垣だからである。
もしそうしたら歴史は失われる、もともと半円状の石垣だったことがめずらしいのである
ただこれはどこにでもある伝説だから事実かどうかはわからない。
城の普請は一大事業であり常に城が普請されるときは江戸城でも全国の藩で刈りだされたその労役や費用が負担させられていた。
城を造ることはその地を支配することである。
最近コンクリートより人とという民主党の政策が鬼怒川の堤防決壊で見直された。
コンクリートつまり土木事業を無視して国土は成り立たない、特に日本は災害が多いからそう言われた。
この関係は家が第一なのかそれともそこに住む人が大事なのかという問題にもなる。
原発避難区域では人が住まなくなった、人が住まない家とか故郷はなになのかとなった。
まず人が住まない家は死んでゆくし故郷でもそうである。
支える人がいなくなればどうにもならない、先に人があって人の心と意志があって建物もある。
建物があって人があるとはならないが歴史の跡はまた建物が城でも残ることによって人の心を意志を伝えるということはある。
家でもやはりそこにはその家を作った人の意志とその家で暮らした家族の思い出がつまっている。
それは単なる箱ではない、人間の心がそこに宿っているとなる。
白河街道というときこの道は昔を偲ぶにはいいし風景がいい、勢至峠を越えてゆくと猪苗代湖が見える。福良はなにかひなびた湖畔の町である。
この道はさびれているが歴史を感じる道である。この道は深く会津と歴史的に結びついていたのである。
たいがい交通の便がいい、鉄道が通っている方をゆくがこの白河街道が歴史の道なのである。
歴史を知るにはやはりこうした歴史の道を実際に通らないとわからない。
今は車で簡単に行けるのだがそのあまりにも簡単な結果、昔が偲べないのである。
白河から会津まで実際はどのくらいかかったのか途中泊まったのかとかその距離感覚がわからない
自分は自転車で一夜福良の蔵の宿に泊まったのである。
それが何か思い出となっている。福良は前は茅葺きの家が通りにあったが今はなくなった十年とか二十年とかたつと変わる、昔のものはどんどん失われる
そして新幹線の時代になっていた。東北新幹線はすでに古いけど自分はわざわざゆんくりとした旅をするために乗らなかったのである。
でも今は暇がないから新幹線が便利だなと思った。
白河まで日帰りで行けたからである。白河から仙台まで一時間ほどであり早いなつくづく思う。
それから仙台から亘理まで鉄道で行き今度は相馬駅から電車に乗り換え帰ってきた。
電車とバスと新幹線を乗り換えて日帰りの旅だった。
その日帰りでも結構旅をして観光できたとなる。
2015年10月08日
常磐線でイワキへ磐越道で郡山市へ (旅ではやはり地名が記憶に残る)
秋の日や長橋すぎぬイワキかな
秋の日や逢隈橋を渡るかな
郡山へ逢隈橋や芒かな
水郡線ここに別れて芒かな
竜田駅金木犀の匂いしも鉄路閉ざして五年はすぎぬ
久ノ浜駅に浜菊咲きし見ゆ津波の後にあわれなるかな
津波にも残る社は奇しきかな久ノ浜去る秋の旅人
四倉にセメント工場ありにしと語りてあわれ秋の風吹く
阿武隈の山々深く家ともし秋の雲の影朝に落としぬ
阿武隈合戸トンネルぬけいでて山々深く秋の雲かな
阿武隈の流れゆるか秋の日や岸に実りや郡山に入る
久ノ浜の駅には浜菊が咲いていたから海の駅らしい、ここは海が見える線であり海に最も近い場所だった。
それにしても久ノ浜に残った稲荷神社は良く残ったと思う。
烏崎村でも八竜神社は残ったがそれは後ろの山の高い所にありその社は津波がすれすれにきて残った。あれももう少し津波が高かったら残らなかった。
あれも不思議だけどこの久ノ浜の社は人家なみに低いし海の堤防のすぐそばだったからこれで良く残ったと思う、回りには一軒の家もなくなっていたからである。
この社は今回の津波で最も不思議なものかもしれない。
波立薬師も残っていたというのも不思議である。
久ノ浜は原発から三〇キロ地点でありここは津波の被害が大きかった。家が密集していたからである。
四倉では駅の前に錆びて朽ち果てたセメント工場の残骸があった。
土地の人が教えてくれた。あれは相当に大きな工場だったのだろう。
イワキでは通り秋柳が見えてバスは長橋町という所をすぎたのを地名で覚えた。
イワキについて電車に乗ろうとしたら磐越東線は何時間もあとでありバスで磐越道にのり郡山市に向かった。一時間半である。
イワキから郡山の磐越東線は結構時間がかかる、それよりもう一日5、6便くらいしか出ていない、これでは乗り継ぎができないからこうい線はのりにくくなった。
よほど鉄道マニアで暇でないと乗れない、今は暇がないから乗れない
何かすでに一〇年は長い旅をしていない、この線に乗ったのも今になるとずいぶんまえになったと思う。だからこの線のことは思い出せなくなった。
やはり思い出せなければ何か書くこともできなくなる。
磐越道は途中合戸トンネルに入る、その名が目についた記憶に残る,こうした地名が意外と記憶に残る、途中の小野とか三春は見ることもできなかった。
郡山に入ると逢隈橋に出た。阿武隈はもともと逢隈だったのである。それは亘理に逢隈駅があることでもわかる。逢隈は福島市にもあり他にもある。
郡山から水郡線が出ていて棚倉町にゆく、棚倉には城がある。
この水郡線も一回だけ乗ったけどかなりの距離がある。その駅の名前も忘れた。
ここを別れて水郡戦線路が見えた、そして遠い旅の日を思い出していた。
すでに十年以上もいや二十年なのかこれだけ歳月が過ぎると何かなつかしいとなる。
だいたい自分は日本の線路はほとんど乗った、乗っていないのは関西の私鉄くらいであるただ最近は新幹線が走るが新幹線には前から乗らないでゆっくり旅していた。
今になると暇がないから新幹線が便利である。
今回も何か地名の旅だった。地名は記憶に残る、特に電車の旅では駅名が記憶に残る。
バスでも早いから地名だけが何か心に記憶される、だから旅には地名が心に記憶され
地名が歌枕の役目を現代でも果たしているのである。
そうでいなとただ通りすぎるだけの旅になってしまうからである。
高速道路もやはり旅であり電車とはまた違った風景になる。
高速道路も今は縦横に走っているから旅するのには便利だけどあまり心に残らないということは言える。
2015年06月06日
ソフトパンクなどのモバイルの通信領域が現代を反映 (地図から読み解く福島県など)
自分は全国を旅したから地図から読み解く作業をしたがわかりにくい
地図だと高低差とか全体像が把握しにくい
それはインターネットでも同じである。
地図を見るには多様な視点が必要になる。
グーグルマップでもわかりにくい,それだけで四次元とかの空間認識はむずかしい
まずいくら地図をみても世界はわからない
地図から世界の十干か得られないからである。
まず歩いて旅するのと自転車で旅するのと電車で旅するのとは感覚的に相当に違っている
そこは城下町だから古い町である。
でも東北本線からはずれると何か目立たなくなる。
だから江戸時代の地理認識と明治時代の地理認識は変わってしまったのである。
確かに奥の細道は今の東北本線の通っている所である。
そこも江戸時代は俳句でもわかるように淋しい場所だったのである。
須賀川がとても隠者のような人が住むような場所には思えない
むしろかえって隠者は市井に住んでいたとなる
隠者と言っても知識人だからである。
現代になるとこれだけ交通が盛んで情報が流通すると知識人はかえって田舎の方に住んでいるともなる
東京と田舎の情報の差がなくなっているからだ。
ともかく棚倉町について詩を書いたようにそこは何か福島県でははずれた町で目立たないのである。
東京からは六号線でも水戸街道と東京からは呼ばれている
棚倉街道の宿場町・八槻宿があったと思しき八槻地区には、八槻都々古別神社があります
棚倉町には神社仏閣が多い街として有名です。
118号線沿線には、八槻都々古別神社だけでなく馬場都都古和氣神社や宇迦神社、そして山本不動尊があります。
国道118号線は、神社仏閣めぐり街道でもあるのです。
白河の関よりここが福島県では古代の通り道だった。
これは一回だけしか乗っていない、ローカル線である。
ただここが記憶に残ったのは会津からここまで自転車で来てテントで秋にテントでとまったからである。
ここは茨城県に日立に近いからここも福島県になり福島県はつぐづく広いなと思う
それから猪苗代湖の福良とか湖南町なども通信領域からはずれている
あの辺もも白河街道で江戸時代は会津に通じる道であり秀吉もこの道を会津に向かった。鉄道がここを通らないのですたれて淋しい町になった。
でも情緒はこうした江戸時代の旧街道だったところに感じるのである。
この道も自転車で会津に向かった。
それから昭和村とかあるがここも町の中心部は通信領域になっているが孤立している。
ここも確かに自転車で行ったとき遠いし離れていて孤立した村に感じた。
これは自転車で行った実感なのである。
山が多い所は通信領域になっていない、そこには人家も少ないからである。
檜枝岐に行く道で古町温泉とかに入ったのも思い出であり
なんとも今になると夢のようであり不思議になる。
旅はこうして気まぐれでないと旅にならない
ここでちっっとよってみようか別れ道を行くこうかとなる
あそこの温泉は地元の人が入る温泉である。
ここに時間の余裕があった。
日が長くなり春の日にきままに自転車にのり阿武隈の道をたどっている
そこに制限されない時間の余裕がこの句から感じられた。
こんな句を作ったのも忘れていたのである。
俳句でも短歌でもそこからどれらだけよみとれるからである。
自分が作った俳句だからもちろんその時を思い出す
つくづくその時制限されな自由な時間があったんだなとふりかえる
そんな時間があたりまえだと思っていたがそういう時間さえなくなる。
人生の時間はいづれ誰でもつきるのである。
今になるとその時そこにあったということ自体が不思議になる
それで面白いのは丸森町である。宮城県は仙台を中心にして通信領域で赤になっている
でも丸森の地域は通信はできるが薄い赤でありやはり正式の通信はできない
丸森は秘境があるということを書いたし詩にした
丸森は伊達藩でも相馬藩と接して仙台からははずれている。
ただ丸森からも角田からも蔵王が大きく身近に見えるのである。
蔵王が見え領域としての地理もある。蔵王はみな南相馬市の鹿島まで見えるのである。
だから高い山から地理を把握するのも一つの地理の見方なのである。
通信領域からはずれているのは阿武隈の高原地帯である。
そこは広いのだが葛尾村とか今では過疎地域になる。
旅をして魅力があったのはこうした通信領域からはずれている過疎になっている地域であった。
そこは江戸時代はかえって街道が通じていたが裏道になってしまったのである。
記憶をたどる旅になるとどうしても地図をみる、その地図を見てもわからない
インターネットで旅した道の紹介があったたするから便利である。
つまり何度も言うが地理は実感の世界でありまさに像で把握する世界なのである。
それが四次元にもなっているから地図を見ても立体地図を見てもわからないのである。
このソフトバンクの通信領域の地図は全国的に見ても興味深い
なぜなら通信領域からはずれいるところは過疎化している地域と一致しているからである白くなっていて空白地域になり穴があいたような地域になっているのである。
なぜなら通販はインターネットでしているからである。モバイルでもしているからである
これを知らないと何か実感として何も理解できない
歴史も文学もそうだし地質学でも地震学でもそうだろう
これは世界の歴史でも同じなのである。
だから最近アマゾンで「逆さ地図で読み解く世界情勢の本質」
これなど南砂諸島になぜ中国がこだわるからわかりやすくなる。
政治は基本的に地勢学、地政学だからである。
このソフトバンクの地図からまた全国を見直してみよう。
どこの街でも古町があるのはそこがもとは栄えていたからである。
南会津でも古町温泉とかあり地元の人が入っていた。
ここが古町だったのかと山奥だから不思議に思った。
福島県南会津郡南会津町古町 字太子堂186-2
古町温泉赤岩荘
http://www.sayurinosato.co.jp/akaiwa/access.php
2015年05月19日
県単位ではほとんどイメージするものがでてこない (地方創生でも文化は地方からしか生まれない)
(地方創生でも文化は地方からしか生まれない)
だから三春藩があり城があったが三春県になっていた。
相馬藩の中村に城があったから中村県になっていた。
県の規模はもともとも大きなものではなかった。
江戸時代の藩を基にしていたのである。
それが拡大解釈して今の県になった。
県というのはイメージがわかない
福岡県といっても佐賀県といってもどんな地域かイメージわかない
福岡というと玄界灘があり韓国に近いということはイメージする
それ以外わかりにくい、佐賀県などとなると余計にわからない
長崎県なら長崎があるから長崎からイメージする
鹿児島県は先端だから薩摩としてイメージしやすい
開門岳があり桜島があるので比較的わかりやすい
阿蘇山は宮崎県だとなる
港とか山が先にあり県をイメージする
安達太良山が万葉集に三つものっていることはいかに注目されていたかわかる
蔵王は相馬地方でも見える、南相馬市の鹿島区からも大きく見えた。
ただ原町になると見えない、ただ意外と広い範囲で見えてる
蔵王は福島県と宮城県と山形県の三県から見えているからこういう歌ができた。
ただ蔵王と言えば山形県である。
県の象徴として山がある、岩手県は岩手山であり青森県は岩木山である
秋田県は鳥海山である。
富士山といえば静岡県なのかもしれないが富士山は山梨県からも他からも見える。
まず静岡県とあってもどのくらいの範囲であり地理的にイメージできない
それは県単位だとどこでも同じなのである。
そして相馬藩内に金華山の碑がある。
これは古くはなく明治時代以降のが多いから比較的新しい
湯殿の碑などは古い方だろう。明治まで金比羅参りなどもつづいていた。
新地は海から貝をとっていた手長の巨人伝説があるように山と海が接近している地形である。
蔵王でも亘理の鳥の海からはっきりと見える。それは船の当て山になっていたから海と結びついていたとなる。
新地では牡鹿半島が見えるからその見えることでつながりが感じられる。
会津の山などは全く見えないから一体感が感じられないのである。
海沿いに今回の津波の被害を受けた所が一体感を感じたのである。
日本では山国だから山からその土地をイメージすることが多い。
そもそも奈良県は大和ととして日本発祥の地だとするとき
やまとはくにのまはろばたたなづく 青がき山ごもれる大和しうるわし
この歌があるように奈良県は山に囲まれた中の盆地だからわかりやすい。
滋賀県だと琵琶湖中心に見るからここもわかりやすい。
結局あとはほとんど県単位ではわかりにくい、それだけ県単位だと広いから地理的なもの地形もわかりにくくなるのが日本である。
日本では県単位でイメージできるのはまれである。
市単位だとわかりやすくるなる。横浜市とか鎌倉市とかなるとわかりやすい。
ただそこが神奈川県だということはイメージできない
神奈川県となると広いからどこでも県単位ではイメージできないのである。
それから日本は海にそってみてゆくとイメージしやすい、瀬戸内海というとい瀬戸内海領域として見るとわかりやすい、それが山口県だ広島県だ岡山県だとかなると山の領域が入ってくるからわかりにくくなる。
京都府なども宮津まで入っているとなるとわかりにくい、宮津が京都府に入ると思う人は外からわからない、それでも方言だとにかよっていることも不思議である。
方言でなまりでみると大阪から近江から奈良から京都は共通性がある。
だからなまりで国がわかると言われたのは変わりない
方言はやはり一つの文化圏の形成として生まれ受け継がれたからである。
でも大阪弁と京都弁とか奈良の方言とか外から見てわかる人はいない
地元だったら似通っていてもわかるとなる
福島県でんだという語尾につけるとき宮城県ではだっちゃになるから明確に別れる
それで丸森ではんだべっちゃになっていたのも面白いのである。
丸森には相馬藩か一時城主であった金山城があったからそこで伊達藩の宮城県と相馬藩の方言が一緒になったというのも歴史だったのである。
こういうことは関西の人たちも知っている
近江商人というと有名だけど大阪商人の基は近江商人だったというのも知らなかった。
近江商人が大阪商人になっていたのである。
日本ではまず全国の地域をイメージするとき県単位ではほとんどできない
山とか川とか市とか城がある所とかからイメージする。
それは県より局所的になりイメージしやすいのである。
だから長崎市となると長崎県になるからわかりやすいのである。
横浜市とあったら横浜県になればわかりやすい、それが神奈川県になると範囲が広くなりわからなくなる。地元に住んでも福島県と同じようにわからないのである。
地理的一体感も歴史的一体感ももてない
鎌倉市だったら歴史的地理的一体化感をもてるし外から見てもわかりやすいのである。
あなたはどこから来たんですかと言っても神奈川県です福島県です、岩手県ですといってもわかりにくいのである。
だから富士山の車のナンバーがあったときわかりやすかったのである。
この人は富士山が見える所に住んでいるとわかるからである。
市にしても日本には藩があっても市はなかった
堺市などは例外だった。市民というのも存在しなかった。
外国に行くときパスポートにどこの市民かと記される
外国では日本国に所属しているのとどこかの市に所属した市民としてみる。
でも日本では村があり町があり市があるからどこの市民なのかとはみんなならないのである。
観光でも県単位で外部にアピールするとき外から見ると福島県でもハマ、ナカ、アイヅになるからわかりにくくなる。
会津なら会津をアピールするとわかりやすい、だから会津県の方が地域創生としては良かったとなる。
岩手県でも盛岡市なら盛岡県となればわかりやすいのである。
県はもとも藩の代わりに使われていたのである。
名古屋市だったら名古屋城があり金の鯱がありそこを中心に考える
でも名古屋市が愛知県というときイメージができないのである。
外国でも一つの行政単位はギリシャだったらポリスでありその後もヨーロッパ
では市が一つの独立国となっていた。
それで市同士が敵対して戦争もしていた。
フィレンツとかも市として独立国だった。そういう歴史が日本ではないのでわかりにくいただ市単位でみると日本でもイメージしやすくなるのである。
県単位になると県歌など作るにも作れないだろう。
ハマ、ナカ、アイヅでは地理も歴史も自然も相当に違っているである。
そういう風土とか歴史を無視して線引きした廃藩置県が今になると文化の破壊だったとなる
要するに県単位になるとアイディンティティが見いだせないし県に愛郷心ももてないのである。
廃藩置県というのはそうした日本の風土と歴史を無視して強行された。
そこには自然の理に反した無理があった。
明治維新から130ねんとかたてばまたそのことが問われる
明治維新の影響がその後の日本を決めたことで影響が大きかったからである。
地租改正などもありかえって江戸時代の日本より農民は苦しむことになったこともそうである。
それは明治維新で強力な中央集権体制で政府に官に権力を集中させたことによっていたのである。
江戸時代にあった村々は解体されて村の共同の入会の山は私有地化された
だから原発が双葉や大熊に建てられ時漁業権が強力なものであり原発御殿が建つほどの補償金をもらった。
そして家の前の砂浜や海まで私有地でると主張されたことでも象徴されている。
それだけ私有意識が強くなり日本人私的なものとして個々に分断された原因ともなる。
ただその私有地を許すということは資本主義に欠かせないということから国ではそうした要するに江戸時代から明治維新のことがわからないと今の日本もわからないのである。
それは行政面でもあり文化面でもある。行政単位としても様々な障害が生まれる
福島一区の選挙区も福島市と相馬の浜通りがふくまれていることに違和感があるのは
地理的阿武隈高原で隔絶されているからそう感じる
地理的に一体感がもてないのである。
地域的特徴地方再生となると相馬藩だったら相馬藩として江戸時代の継続から作り直すとアイディンティティも見いだしやすいのである。
身の丈の感覚でとらえられるのは相馬藩のような六万石くらいになるのか?
この範囲は自転車でも一日で行ける範囲だからである。
その中に海もあり川も山も一応あるから多様な地形を織りなす文化が育まれるのである。これからは明治維新の中央集権体制から地方分権体制に行政的にも移るべきである。
一方で東京に過度に集中する弊害もかえってつづいている。
ただ東京からは文化は育まれないし生まれない
そのバックグランドの自然がないから文化も生まれようがないのである。
文化的側面からだったら本当は原発は東京に作るべきだった。
東京湾の方が津波に対して安全だったからである。
そして貧しくても相馬地方が独自の国造りをするべきだったとなる。
廃藩置県で失われた地域の一体感 (県は広くて郷土愛などが育まれないー行政にも障害が)
明治維新を迎え、大政奉還をすると天皇が江戸に移りました―――といってみたところで、地方にはまだたくさんの大名がいます。権力は各地に分散していました。明治新政府が権力を持つためには、地方の権力を全部取り上げてしまわなければならない。そこで大名の持っていた武力をすべて召し上げて、藩をなくして全部県にしたいわけですが、それを実施するには中央に武力がなければならない。中央に権力と武力があって初めて中央集権が成立する。それが廃藩置県の意義でした。
明治の冒頭で、菊池寛がまず廃藩置県に注目したのはじつにみごとだと思います。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/?tag=%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A&page=1
神奈川って海あり山あり都会ありで
多様過ぎて一体感ないんだよね
県民性も地域によって大分違う
これはどこの県でもあてはまるだろう。
福島県でも広すぎる、ハマ、ナカ、アイヅで気候も風土も違っている
むしろ気候とか風土だと海岸線ということで今回の津波の被害にあった所が一体感がある世界だった。
相馬藩は江戸時代から伊達藩と関係が深かった
それは地形が影響していたのである。
阿武隈高原が障害となり隔てられていたのである。
こういう地形の影響はすでに古代からあったから変わらなかったのである。
まずその国は地形から地勢から地理から作られるのである。
自然村であり自然国である。自然から風土から一つの国が形成される。
これは世界的にみても自然から地形から風土から国が作られてゆく
だからその国を知るにはその国の自然と地理を地形を地勢をよむのが先である。
ところがこの地形をよむ地形を知るのが一番むずかしいのである。
これは地図をみてもグーグルアースを見てもわからない
例えば阿武隈高原でもそこを実際に越えてみて中通りに行ってみないとわからない
飯館村は阿武隈高原の村だが相当に標高差があり寒冷な地帯になる。
福島市になると冬は寒く夏は蒸し暑くなる。
それで阿武隈高原を越えた時海の方から風が吹いた時涼しくなりほっとした。
はっきりとそこに温度の差が生まれていたことを実感したのである。
つまり風土とはまさに風であり風を感じないとわからない
その風も今は感じにくくなっいてる
電車でも車でも風は感じないからである。
津軽平野に出て津軽鉄道の中里駅から十三湖に出たとき西風が吹いて
十三湖が波立っていたことであそこの風土を感じた。春でも日本海から西風が吹く、
そして冬はあの辺は地吹雪になる地帯である。
そういう厳しい風土なことを実感したのである。
そして青森県の車のナンバーの人がいてどこかと聞いたら大間だという
大間はどこかとすぐにわからなかった。
それは下北半島の先であり函館が原発があるのでもめている所だった
これも地理がわからないと理解できないのである。
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014031000166/
青森県で日本海と太平洋側では風土も違ってくるし下北となるとまたわかりにくいのである。
結局自然的にその地形とか風土に準じて作られた藩が一番わかりやすかったのである。
その藩があり城を中心に見ればわかりやすいからである。
その江戸時代の前に古代からそうした地理や風土によってすでに国はつくられてきていたのである。
会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲びにせもと 紐結ばさね (万葉集 14−3426)
陸奥の 安達太良真弓 弦著けて 引かばか人の 吾を言ひなさむ
陸奥の 安達太良真弓 はじきおきて 反らしめ置なば 弦著かめやも
ただ古代で奈良に知られたのは福島県では会津であり安達太良がある二本松であり
安積香(あさか)山がある郡山であり真野の草原がある南相馬市である。
これがその後も変わらない基となっている。
会津の国をさ遠み・・・というとき会津の国と記されていることが大事である。
すでに会津では国として認められるのものがあったから国がでてくる。
会津の名の起こりも古事記に記されほど古いからである。
つまり福島県には最初会津国があった。
安達太良というのは山でありそこには国ではなかった。
ただなぜ三つも安達太良の歌が残っているのか?
それは安達太良山が福島県の中心として位置づけられていたからである。
安達ヶ原の鬼婆とかもすでに都に知られていたのもそうである。
そしてその継続として二本松に霞城が築かれた、そのことは詩にもした。
二本松城が福島県の中心として地理的にあって城が築かれた。
会津はまた別な国だった。それで廃藩置県で二本松県があり会津県があり浜通りは
磐城県になっていた。
それが今のハマ、ナカ、アイヅになったのである。
郡山は古代も交通の要所であり都の郡が置かれて接待する女性がいた。
郡山はその後もそういう位置にあり東京に近く繁華な市を形成していたのである。
みちのくの真野の草原は港であると書いてきた。
ただ石巻なのか南相馬市の鹿島区の真野なのかはわからないが考古学的発見からは南相馬市の真野が有力になっている。
藩を中心にしてその国の風土なり歴史をみるとわかりやすいのである。
だから廃藩置県は何か無理して線引きして作ったものだからなじめないのである。
地理的一体感がどこでも感じられないというときそうなのである。
県はどこでも広すぎるからそうなるのである。
だから神奈川県がどうなっているのとなると地理的にわかりにくい、それはどこでも県からはわかりににくいのである。
どこの県でも即座に地理がわかる人はいないのである。
地理的一体感がないというとき何かいろいろと問題が起きてくる。
原発のような科学的なものにも問題が起きた。
中通りの福島市とか二本松とか郡山まで放射能で汚染されるとは思わなかった。
それは阿武隈高原が障壁となって原発の影響はないと思っていたのである。
ただその時東風が吹いて放射性物質が運ばれたのである。
日本の地理が複雑なのは海と山があり接近しているし山となるとわかりにくい、だから日本列島を横断してみるとわかりにくい
でも海に沿ってみるとわかりやすくなる。
今回の津波では津波の被害にあったところが一体感があったのである。
一方で安達太良山が万葉集で三つ歌われているように山を中心にみるのも日本である。
ヤマトというと山なのである。それは山に囲まれた山の国だからである。
ともかく廃藩置県後の県で日本をみることはむずかしい
それで地方活性化とかの国の方針もうまくいかないことがあるだろう。
なぜなら県単位になると地域の一体化が広くて一体感がもてないからである。
県単位の行政すら今回の原発事故でもわかったようにむずかしいのである。
福島市にまで被害があるなど考えなかったろう。
それは地理的な要因でそうなっていたのである。
そもそも明治維新は様々な面で無理があった。だから今になると明治維新が必要だったのかとか見直される。
西欧化というけどそれは日本的なのもを排斥する無理があった。
そういうふにう西欧から迫られたというのもあるけどその無理が後々まで影響したのである。
明治維新かなかったら太平洋戦争がなかったといわれるのもそうである。
廃藩置県もそうした日本を中央に武力と権力を集めることであった。
それは文化的にもそうであり標準語に無理やりしたのもそうである。
その時地方の文化的なものもかなり失われたのである。
そういうことまで考慮する余裕がない状態だった。
別に幕府でも開国を目指ししていたのだから廃藩置県がなくても開国はできたということは言えた。
明治維新は日本的な文化の破壊もあり今日まで甚大な影響をしていたのである。
だから明治維新が今になって見直される結果になったのである。
2015年04月18日
春爛漫二本松城 (二本松城から考える現代文明の荒廃)
春爛漫二本松城(詩)
天守台高くも見晴らす峰々
残雪の安達太良、吾妻山
遠くは蔵王も浮かぶ
春の日や十万石の城にあれ
天然の要害にして
家臣は曲輪に配して
守りは堅き山城なり
二本松城の天守台上りて高き
滝の朝ひびき落ちて清し
椿の一段と赤く高峰映えぬ
こぶしは風に咲きゆれる
洗心亭炎上まねかれ残るかな
春の日や一服の抹茶を所望す
曲松の古りて茅葺きの茶屋
キクザキイチゲの咲くもにあわし
城内の日影の井戸の深しかも
赤々とそちこち落椿
城を守る水のここより汲む
その水に茶を飲めば癒されむ
二本松城の残る石垣によれ
千代の松によりて昔を偲べ
難攻不落の山城なれや
そちこち椿の赤しも
今し桜の霞とおおい
残雪の安達太良光り
見晴らす陸奥の春の山々
その麓の里に桜は映えぬ
陸奥の都より遠しも
安達ヶ原に名を知らる
その岩屋の伝説や
知られざる陸奥の国
二本松城のここにあり
城代は変わりしも
その山城に歳月重ぬ
陸奥の攻防の城なり
伊達政宗の攻めて
会津の名将蒲生氏郷や
相馬義胤もかかわり
ここは陸奥の要と争いぬ
ああ、時は移り急変する時
攻め来る官軍に抗して
あわれ少年隊の犠牲かな
その菩提に花は散るかな
城こそ命とここに果つ
城を離れて武士はなし
ここに切腹して果てし将二人
城と共に心も命もあり
悔いなきものとここに眠りぬ
春なれや城をおおいぬ桜花
散れる椿もまた赤しも
霞ととおおいこの城に眠りぬ
敗者に無情の仕打ちは世の習い
その記録をも消さむとす
会津も二本松も敗れて非情
官軍への怒りはなおも残りなむ
しかし誇りもて二本松城
高きに守りも堅く今もあれ
椿は一段と山頂に赤く
山の蝶もここに飛び来る
戒石銘戒に刻まる教え
奢りを戒め民とともに
この地を治めよと
その石に春の日さしぬ
守りも堅くその石垣によれ
常磐木の松によれ
雄大に安達太良は映えて
ここは陸奥の要の城なれ
万葉にも歌われし安達太良や
古の陸奥にはや知られし山
その山の大きく城に影なして
要の城と今もありなむ
つまり城は単なる建物ではない、城は武士が身も心も一体となるものとなっていた。
だからこそ白虎隊や二本松少年隊の悲劇が生れたのである。
白虎隊は城が燃えているだけで落胆して絶望して自刃した。
城のもっているそれだけその当時は大きかったのである。
二本松少年隊もの同じだったのである。
城と共に身も心もあったのでありだからこそ少年でも城とともに死んだのである。
会津と二本松だけが徹底抗戦したのだからすべてにはあてはまらない。
その理由がなぜなのかというとまた考察が必要になる。
もともと二本松城は伊達政宗から会津から白河から北上するときも要の場所にあったのだ歴史は地理であり地勢が必ず影響しているのである。
だから地理がわかれば歴史もわかる。
福島県を理解するには二本松が一番地理的にわかる場所である。
それは理屈ではない、直観してわかるのである。
あの天守台に立って四方を見回すとあそこが福島県の中心だということを実感する
二本松県になるということもあったから中心的な場所であった。
二本松城が自分が一番気にいった城になったかというとそこ山城であり自然がそのままに残っているからである。
城でもあういう城はめずらしい、会津城でも街中にある平城であり自然というものはない、青葉城でも仙台市街を見下ろすとなにかそこがあまりにも変わりすぎて都会化して嫌なのである。
姫路城は有名で最高の城でもそこに自然がない、街中にあるから何か映えないのである。大阪城でもビルの谷間になるから何か映えないのである。
都会化すると城がビルの方が高くなるから映えないのである。
城が活きていたときは城が高く見えたのであり天守閣に上れば遠くを見渡せる見張りの塔のような役目もしていたのである。
だから意外と城で感動するものが少ないのである。
自然そのものに映える城というのは少ないのである。
二本松城は山城であり自然そのものの中にあるからめずらしいのである。
明治維新のときもやはり白河城を落とし二本松城に入るとそこが陸奥の要の城となって立ちはだかった。
それで薩長軍に踏みにじられたのである。それは伊達政宗のときもそこで陸奥の覇権を争う攻防の城となった。
その時、相馬義もかかわっていたのである。会津と相馬とか三春が伊達政宗軍と戦っていたのである。
要するにそういう要の場所にあったからである。
そのことは二本松城の天守台に立てば一目瞭然なのである。
だから歴史は地理がいかに大事かわかる。地理によって歴史はあらかじめ決定されているともいえる。
イスラエルが世界の要であるというとき神が定めたからだというのもわかる。
地理によって世界史が決められるからである。
二本松はそういう陸奥の要の場所にあった。
ただ城の意味は時代が変わったとき意味も変わった。
第一桜が城には咲いていなかった。桜は明治以降城が公園化したとき咲くようになった。枝垂桜のことを糸桜として朝倉氏の城で歌われている。
枝垂桜も散るから今の桜とにてはいる。でも山桜とか染井吉野の散り方とはまた違っている。
このように歌をかわして朝倉氏に従う武将は城と共に信長に滅ぼされて死んだのである。でも今の桜とは違っていた、城を染めるような桜ではなかったのである。
枝垂桜と山桜とか染井吉野は同じ桜でも相当に違ったものだからである。
松も残っているしか松は城には欠かせないものだった。
石垣は石であり変わらぬ象徴としてあり城の礎であり城を今も支えるものとしてある
だから石垣だけ残っていても城があることをイメージできる。
二本松の石垣は立派なのである。
トロイの城でも建物は消えても土台となった石垣は残っている。
二本松城には松があり椿も咲きそれも自生したような椿であり天守台に登ると陸奥の山が安達太良や吾妻山や蔵王まで見渡せるから違っている。
城と共に死すというとき自然とともに死す、自然の美があってそこが死ぬ場所としてふさわしいとなる。
まず東京のような場所は自然がないから美もないのである。
するとモラルもないのでてある。
山は精神的な象徴としてもある。不動であり誠実であり威厳がありとか何か人間の徳を人格を象徴するものともなる。聖なる山になる。
海にはなにかそうした人間の人格的なものがない、それでどうしても浜通りではその高い山がないから根本的に欠けたものとなっている。
中通りや会津や東北でも岩手山とかがあり山が中心的精神的支柱となる。
高い山を望んでいると心もその山に反映されるのである。心が山によって養われる。
自分は石をテーマにして詩を書いてきたが石も人間化したものとなる。樹でもそうであるだからそもそも自然がないところには美も真も善も育まれない
東京のよな所では経済しかないし人間に自然が反映されないのである。
そこでは人間と一つのロボットのようにされる。自然が反映されない機械ロボットになってしまう。
ロボットは自然とは関係なくありうるからである。
人間は自然とアイディンティティ化するとき人間となる。
例えは虹がかかったときそれは契約の虹であた約束の虹だと聖書に書かれているとき自然とモラルが一致して見るからそう見る。
虹は単なる虹ではない,神との約束を果すことを示している。
虹でもビルの谷間にかかったら美がそもそも喪失しているから美もモラルも喪失する
人間の心が高層ビルとかと一体化できるのかとなる
だから自分は工業とか商業とか経済一辺倒の世界になじめないのである。
でも世間ではそういうことに無関心でありただ便利な生活ができればいいとなる
田舎はどうししても第一次産業を基本にしてあるべきだというとき
それは経済的効率とか経済一辺倒の論理ではなく自然を反映したものとしてのアイディンティティ化した人間としての世界の構築なのである。
ヨーロッパのルネサンスは地方都市が起こっている。
そこにはまだ自然があったと同時に建築とか絵画とかでも古典の世界、ローマの世界とかイスラム文化とがが融合して華開いたのである。
あの壮大な石の聖堂でもゲルマンの森がありゴシックの建築が生れた。
文化が興隆するには人工的なものと自然の融合があって成される。
現代の文明は科学機械文明であり自然破壊文明でもあった。
もちろん科学がいちがいに否定できないものである。
ただそれが暴力的に自然を収奪したり破壊するものとして働きすぎたのである。
魚がとりすぎて魚が高騰している、それは今はとりすぎるからそうなる。
そのブレーキがないから法律的にもないから魚はとりすぎて資源が減少する。
そのブレーキになるものは魚だけではない,科学の暴走が止められないのである。
それが原子力でもあり世界核戦争の恐怖にもなった。
放射能汚染でこの辺は住めなくなったのである。
そこにヨーロッパ文明の限界が生れたのでありこれからは東洋文明が起こるというのも自然破壊があまりにも進んでしまったからである。
でも東洋文明とは何かとなると実際は不明である。
過去の文明とは違うものになるからである。
つまり城が当時がもっていた意味と違ってみているのとにているのだ。
そもそも桜が咲いていない城を染める桜などないのに桜と城は一体化されている
城は今は違った美的なものとして人間の精神的な意味としても違った意味をもつようになっている。
世界的に自然破壊が進行し拡大化がやめないとき果たして東洋文明が再び起こるのかとなるとき疑問なのである。
森が中国でもインドでもインドネシアでも大規模に喪失しているのである。
むしろ日本は森は外材に頼った結果残っている不思議がある
外国でははげ山が多い、それは木をとりつくしたからはげ山になった。
山が森でおおわれているのは日本くらいなのである。
ともかく経済のことばかり言うけどそれが本当に人間の栄えなのか疑問なのである。
自然がない自然の美もない所に新しい文明が怒りうるのかとなる。
いくら反映しても東京のようになったら人間砂漠になってしまうだろう。
自然の復活復興が新しい文明を生む基となる
でも科学とか経済の発展とかばかりが言われるのがそれが人間の繁栄になるのかとなるとそれは東京でありニュヨークであり上海でありそれが人間を人間たらしめるものとはならない、自然の美が自然が人間の精神を作るからである。
人間の栄華が野の花より飾られていないというときそのことを言っている
東京はただ人間が巨大な胃袋と化した怪物的都市なのである。
その東京に電気を供給するためにこの辺は人も住めなくなったのである。
原発が未来を作ると双葉町とか大熊町がかかげていたのはまさに東京化した地方の姿だった。
つまり電気文明を否定できない、車文明も石油文明も否定できない、ただ人間の繁栄を電気や石油や車や機械にすべて頼るとき今回の原発事故のように住めなくなったら終わりだとなる。
だからなんらか第三の文明を志向せざるをえなくなっているのである。
2015年04月14日
二本松城の桜の短歌二十首 (船岡の一目千本桜と二本松城の写真ー朝桜)
二本松城の桜短歌二十首
城遠く見えて亘理や朝桜
残雪の蔵王の映えて田起こしの土黒々と草萌ゆるかな
(二本松城)
亘理にも駅が城になっいる。あれでも城があると何か街が歴史があくように見えるから不思議である。
あれは別に城があったわけではないが伊達藩がありやはり歴史があったから城を作った。城は遠くから見えるとき映える、目印になる。江戸時代は平屋しかないから城が今は低いようでも高く見えるのである。
一目千本桜は写真が相当でているから同じようなものがある。
でも朝桜として今回はデジカメが前よりはいいものなのできれいに写っていた。
写真で見るとまた違ったものとして見えるから不思議である。
人間の脳だけでは記憶が定着できないのである。
二本松城は切り通しの坂を上り下りてまた曲がるとある。あれも防衛のためにあそこに作った。要害の地にもともと中世の山城が作られそれが山城と平城の中間として作られたのが二本松城である。
江戸時代に桜は咲いていないが椿は咲いていたろう。
洗心亭の前にキクザキイチゲが一杯さいていたのもあっていた。
滝が自然の滝のようになっているのもいい、あそこは全体が絵になる風景になっている。山城だから自然が活かしているからそのまま絵になっている。
今回は新幹線で郡山から引き返して仙台につきバスで帰った、常磐高速が全線開通して原町から直通のがでている。九〇分だから早くなった。各駅止まりでも一時間三〇分だったから早くなった。これは便利だと思った。今までは二時間かかっていた。
新幹線から見えるのは山だけである。
郡山から磐梯山が見えた。郡山から会津に行く、それにしても会津の方にも十年くらい行っていない。
だから仙台に行ったのも一年ぶりくらいだったのだ。
そしたら何か残雪の蔵王も新鮮に見えたから不思議である。
自分はほど旅したものはいない、だから最初はどういう経験をしていたかというと
まず京都とか大阪とか西の方の桜を何回も見ていた。
それから東のみちのくに帰るとど。うなっていたかというと西の桜が散った時、東の桜が咲き始める。桜前線で面白いのは時間差があることがその土地の風土を感じるから桜咲く時期は日本独特のものが生れる。
実際に六月まで桜は日本では咲く、雨がふって稚内では六月に桜が咲いていたのである。その時間差が日本ではその土地の風土を感じるのである。
だから郡山で磐梯山を見た時、夕桜が見えたがかなたは会津に想いをはせた。
なんか会津も遠いなとつくづく思った。
ただ福島県だと会津も福島県だからテレビで会津のことは報道されることが違っている
「会津でも桜が咲き始めました」とアナンサーが咲き始めた城の前の桜を写すとき
会津も咲き始めたのか、やはり寒いから浜通りとか中通りとかより遅くなる。
そこにかえって奥深い寒い会津を感じる、ようやく雪国の会津も春なのかと感じる。
自分の場合全国を旅しているから桜の時期も旅しているからみちのくから京都や大阪をこの時期に想いをはせる。ただみちのくから都は遠くなったなとつくづく思う。
その遠さは距離ではなくそこに行く時間が与えられないということなのだ。
今ならでも新幹線で相当な距離を行けるが新幹線ではどうしても旅になりにくい
旅は途中下車がいいのである。気ままにゆっくり見て旅しない旅にならないのである。
それはしかし贅沢なことだったのである。
新幹線から見えるのは山だけである。
それで新幹線から見える山をインターネットに出ていたのは面白い
新幹線から見えるものはある、それが山だったのである。
それで盛岡に新幹線で行ったとき岩手山が近く感じた、仙台から見えるように感じた。
五〇分で行くとなると何か岩手山が仙台から近いように錯覚した。
これも新幹線の不思議だとなる。
ともかく日本は桜によって象徴される。それも桜もともに栄えることがないと映えない
アベノミックスなどは格差を拡大しているからいいものではない
日本の文化の特徴は仁徳天皇の時代から民の煙を天皇が歌ったように上も下も平等の感覚があった。
江戸時代でも武士と庶民階級がそれほど差がない生活をしていた。
というよりは日本自体が平等に貧乏だったともなる。
日本はいい面として平等を追及する、それが悪い面になると何か突出したものは嫌われるヨーロッパとか中国とかアメリカとは大陸との相違は格差が激しくならない
日本自体が平等を志向する国土になっていた。
それが悪くなればどんぐりの背比べになる
いい方面としては分け隔てなく共に栄えるという平等を志向するうよになる。
だからなんとかまだ見ていない弘前の桜を新幹線で次に見にゆこうと思った。
2015年02月09日
白河街道を会津へ (会津の歴史を白河から偲ぶ)
白河街道を会津へ
(会津の歴史を白河から偲ぶ)
小峰城の西側に広がる会津町。白河も領地としていた会津の蒲生家が改易となり、多くの浪人が出た。棚倉から白河に移ってきた丹羽長重が、これらの家臣を召し抱え住まわせたため、「会津町」と名付けられたとのこと。白河には、今でも会津にゆかりのある方が少なからず住み、「あいづ」の名で商いをしている店もある。
http://www.city.shirakawa.fukushima.jp/view.rbz?cd=3704
相馬市の病院に入院していた人は丸森の人であり丸森の人は相馬市が近いから往き来する丸森から相馬地方に働く人達もいる。
だから一時金山城は相馬氏が城主となっていたのである。
ただ丸森から梁川はかなり遠い、山を下って行ったが地理的には不便である。
阿武隈川があるにしてもそこには急流があったりするから船を利用できないだろう。
この辺の事情はわからないが梁川は会津と伊達と米沢藩が城主となっていたからそういう場所にあった。
あそこに盗賊が出たという伝説が残るのもわかる。
勢至峠は今でも昔の面影を残している。道が細く両側に宿場町の名残りとして家並がある
此辺の若駒は凡て婦人の手で育てられるので、優しい別離の場がこの日何回も演ぜられた
勢至菩薩は馬の守護神かと思はれる。奥州では処々にその石塔がある。
福良で蔵の宿に一回泊まったのも一興だった。福良は宿場町であり奥まった場所であり趣がある。
ただどうしても記憶はうすれてゆく、あそこから歴代の会津藩士の墓のある
苔むして墓も古りなむたずぬれば今ひとしきり秋の蝉鳴く
あそこの松平家の墓所はまさに墓山だった。立派な墓があるのだがそれがすでに過去の栄光を語るだけであり今は苔むして無常を語るだけだった。
結局墓を立派にしてもその墓も苔むして無常を語るだけである。
三人の女性の戒名の墓があったのはそこには側室もいたのか、それはわからない。
どういうわけか女性個人の墓が相馬藩でも何人も残されている墓地があった。
なぜこんなに女性の墓があるのか不思議だった。やはり武家では女性個人でも重んじられていたということなのか?最後に人間残るのは墓である。ただ墓も無常なのである。
無縁墓として元禄時代の墓まで捨てられて墓の墓場になっていたことが放送されていた。墓の運命も遂には捨てられことにある。
自分も墓に金かけて新しくしたのが失敗だった。
どんなに立派な墓にしてもその墓も時代や時の流れに忘れられ無常を語るだけになる。
すでに明治からは武士の墓はそれほど意味ないものになっていたのである。
むしろ民俗学的には路傍の馬頭観音の碑とかは文化財として見直されているのである。
会津若松の中心から五つの街道がのびる。白河・二本松・越後・下野・米沢街道。白河街道は奥州街道を経て江戸につながる重要な道。今の国道294号がこれにあたる。
晩年白河を越える折二人はこう詠んだ。
八重 老いぬれど又も超えなん白河の関のとざしはよし難くとも。
頼母 旅にねしむかしの夢のあととへばうらみを知るや白河の関
会津藩は明治維新では激しい興亡があり無常を語る場所になったのである。
その恨みが未だに残っていることでもわかる。
白河と棚倉が関係していたことはわかる。距離的に近いからである。
棚倉藩は水戸への街道が通じているように水戸に近い、白河はみちのくの境である。
水戸に近いから水戸学の水戸天狗党に尊皇の攘夷思想に相馬藩士がいち早く洗脳されていたことがわかる。
そしていち早く皇軍の薩摩長州軍に帰順して丸森で仙台藩と相馬藩士は戦ったのである。その時船で磐城の方まで行った、やはり船の方が便利ということがあった。
福島県の歴史もこのように複雑に交差している。
だからそもそも福島県を一体のものとしてみることが歴史的にも地理的にもむずかしいのである。
歴史的には会津の人は会津の歴史から考えているからである。会津はそれだけの歴史の厚みがあるし広いからである。
2015年02月08日
会津の方角地名 (方角地名がその土地を知る基本)
塔寺の駅におりたちあわれかな秋の日さして豆たたく人
地名の基本は方角地名である。南相馬市では合併して南相馬市になったのは相馬市から南だったからという、相馬郡はもともと相馬氏が小高に最初の城を築き在地の豪族を支配して行った、小高より北の北郷はみて南相馬市の鹿島区と相馬市の領域である。
相馬市はもともと伊達の支配地域であった。
だから北郷というときそれは歴史的地名としての北がある。
小高が中心として北郷がある。本郷というときもそこが中心の郷になるからである。
東とつくと陽の昇る地域であり明るい感じがする。
だから会津の東山温泉となると京都の東山に通じるのかとなるとこれもどうしてあそこが東山なのかわかりにくい。
喜多方は北であるが北会津となるとまた違っている、どこから北会津なのだろうとなる
つまり方角地名はどこが中心なのかが問題なのである。
相馬地方だったら歴史的小高が中心だったからそこで北郷というのが歴史的方角地名として残っている。
histrical centered place がどこになるのかが問題である。
会津では西会津というのはわかりやすい、それは越後へ新潟へ通じているからである。
西会津は会津市街から離れた辺鄙な淋しい場所に感じられる。
秋に旅したときは芒がなびきそうだった。西会津の奥にも温泉があり新潟に出た。
バスだったので地理的にわかりにくかった。
白河街道は自転車で旅しているから地理的にわかる。
ただ白河街道が会津に出る場所が東山温泉だったことかわかりにくい。
いづれにしろ地名は方角地名が基本である。そもそも世界でも西と東(オリエント)に別れる、西はヨーロッパ
であり東はアジアであり中東となるとその中間とかなる。
日本でも西と東があり東はアヅマであり福島市には吾妻山がある。
遊牧民とか海洋民にとっては方角が一番大事である。
方角を知ることが生死を決する。砂漠で日本人の一団がラクダを率いて旅したが水のある方向がどっちかで苦慮した。幸い経験者がいて水のある方向に導いて助かった。
砂漠や平原とか大陸とか広いところを旅するには方角が一番大事なのである。
それで北斗七星と北極星が目印となり相馬藩でもそうだが野馬追いでも妙見信仰は北斗七星信仰が中国から伝わったのである。
海からみて船にのって日本列島を見る、海から方角地名が生まれる
ニシとはイニシであり太陽が去ってゆく方向にある。それは海から見てそうなのである。陸地ではない、だから日下石(にっけし)とはニシの方向にある海岸地帯だったのである。今回の津波で本当に日下石(にっけし)まで海なったことに驚いた。
あの辺は縄文時代は海だったであり海岸地帯だった。
鬼腰館という中世の砦があるがあれも鬼とは北の方角でありあそこは北風を受ける小高い山だった。
いづれにしろ方角地名からその地域をイメージさされることが多いのである。
奈良の西の京というとき何か西でありさびれた感じになる。
ここは別にさびれた場所ではない、右京が西になっただけである。
赤々と椿の散りぬ西の京築地塀古り古(いにしえ)偲ぶ
2015年02月07日
会津の雪の詩 (会津は一つの国の文化圏ー福島県は広い)
会津の雪の詩
会津の雪の詩
雪の深さに樹々の静まり
寥々と風は鳴るかな
樹々に吹雪て引き締まる
今日も霏々と雪は雪はつもりぬ
その林の奥処の知らじも
会津の雪の白さや会津の心
会津の武士道こここに育ちぬ
火を噴きし磐梯山を望み
その厳しく凛々しき姿よ
猪苗代の湖畔に雪はふりにつ
湖は凍り純白の白鳥こそそこにあれ
城下町技を磨きぬ会津塗り
蝋燭の灯は雪に映えにき
雪埋もれ木地師の裔の山に棲み
曲家の雪に埋もれて奥会津
長き夜や囲炉裏を囲み物語せむ
しんしんと雪はふりつつ
会津の城下や無念を秘めて雪に埋もれぬ
福島県はそもそも広すぎる、ハマ、ナカ、アイヅに別れていて気候が違う。だから福島県を一つとして語りにくい、歴史も違っている。
明治維新のときなぜ相馬藩が尊皇の水戸天狗党にいち早く属したのか?
それは浜通りであり水戸に近いからである
棚倉からは水戸街道であり水戸に通じている。
東京からも今でも浜通りの六号線は水戸街道と言っている。
会津は水戸より遠い感覚であり交流も少ない、ただ福島県内でも会津藩は大きいから中通りとか相馬藩にも影響はしている。
それでも会津藩は一つの大きな国であり文化圏なのである
会津は風土と歴史とが一体化した一つの大きな国である。
だから歴史の厚みがあり文化の厚みがあり福島県の文化の中心ともなる
会津は雪国でありその雪から会津の心も作られたのである。
だから雪を知らずして会津や日本海などのことがわからないのである。
「心から信濃の雪に降られけり 一茶」というとき信濃の雪はまた違ってる。
青森で朝降った雪は何か明るかった。これもしめった雪とか新潟辺りはそうなるのか、
何か違っている。会津の雪も会津らしい雪のなである。
ともかく会津は本当に広い、そして2000メートル級の山がひしめいている。
その山もわからないのである。それは尾瀬まで通じている
山を知らなければまた会津をしりえないのである。
山の心が会津の心にもなる。
会津はまた会津若松の城下町があり明治以降は喜多方が商人街として発展した。
この二つの街は対称的である。歴代の会津藩士の殿様の墓地があるのも特徴的である。
そして会津城下町は本当に城下町らしい体裁を調えている。
職人の街でもあったからである。会津塗りとか会津蝋燭とかか産業としてあった。
これも山が多いのだから会津塗りは木地師が碗を提供する必要があった。
その材料を求めて近江の方から蒲生氏郷が職人を連れてきたのである。
面白いのは浄法寺碗、秀衡碗(岩手県)の影響を強く受けたらしく仙台市が市場としてありそこを通じて技術が伝播されたという
仙台が江戸時代でも市場としてそこを中心にして東北のつながりがあったことは今に通じている。
村紅葉會津商人なつかしき 蕪村
http://www.musubu.jp/jijikyodoshi.htm#aizu
東京とか江戸城があったとしても大阪でも大都会化して風土ときりはなされているから魅力がない、ただ高層ビルを見るだけになっているからそこに精神性もつちかわれない。
徳性すらつちかわれない。ただ金儲けのビジネスがあるだけだとなる。
江戸時代の魅力は風土と歴史とかが生活そのものと一体化していたから魅力があった。
ただ時代か変わると価値あるものもの価値がなくなる。結局一つの物でも碗一つとってもその当時人々が使っていたから価値がでてくる。
今になるとあまり碗など使わないし規格化された大量生産のもので使い捨てにしている。昔だったら碗一つが高いし貴重でありていねいに一生も使っていたかもしれない、
だからこそ当時の使っていたものは当時の人にとって今の人の感覚では計り知れない価値があっんたのである。
今はそれを土産とかで買ってもその価値は喪失しているのである。
江戸時代は簪一つにしても今の価値とは全然違っている。
珊瑚の簪とか価値があった。それは美的なものとして使われていたから価値かあったのである。
江戸時代のものは一つ一つが職人の手作りであり価値があった。
下駄一つ一つに職人の名前すらついていたのである。
そういう価値観の時代と今の価値観は違いすぎるから価値あるものも価値ないものとされる。
ただそうした物の価値でも時代が作っているのである。
その時代に生きた人達がいて使っていて価値が生まれたのである。
だから使わなければ何の価値もでてこない、例えば自分の母が百歳になり百がモモであり桃色のちゃんちゃこを買って着せた。
これは一回だけ使ったのである。だから無駄だとも思えた。
しかし百歳まで生きることはまだまれだから記念に買った
そして一回だけ着ても使用しもそれに価値が生まれる
なぜならそのものか使われたことによって精神性が付与されたのである。
百歳生きた人が着てそこに百歳の魂がのりうつったとも大げさだがなる
つまり江戸時代の物でもそういうことがある。
使われたことによって価値が生まれそこにその当時の人の魂がのりうつっている物なるから貴重だとなる。
ただ現代になると骨董品のように飾っていても価値は生まれないのである。
時代時代に価値あるものがあるがその時代でしかその物の価値がしりえない、今では碗にはそれほど価値がない、でも漆器は近くに塗り屋がいたから漆塗りは塗るだけで相当な手間であり労働なのである。
そういう手間と労働を考えても碗一つの価値がどれだけ高かった偲ばれるのである。
2014年11月07日
春の短歌二十首 (平和な日の浪江ー葛尾村→三春を偲ぶ)
津島より道は分かれて三つかな店も出しにつ春の日つきぬ
今になると何かこの辺はいろいろとありえないことが現実になりなんと言っていいかわからない。
浪江の高瀬川はちょうど水墨画のような岩がそそりたち名勝の地だった。
その高瀬川の平地に流れ出る所に大堀の相馬焼きの里があった。
あそこも場所が良かった。高瀬川が流か急だしダムもないから自然のままであり水墨画のように見えた。
請戸にしても江戸時代は盛岡の宮古から鉄の素材を運んで葛尾大臣がいて栄えた。
そこには近江八景の庭を江州から滋賀県から妻を娶ってすまわせたからである。
あれだけの山の中だと退屈したということもあったろう。
葛尾村から三春のほうが近く昔はバスも小出屋を通って通っていたのである。
つまりあの辺になると三春のほうが近いから葛尾大臣が三春の殿様を招待したというのも津島に行く塩浸しという小さな川があるところに店がありあそこで休んでパンなどを買った。塩浸しとは塩を運んでいた馬が塩を落として塩浸しとなったという伝えがある。
あの辺も何回も行った記憶がある。
品種に関連しますが、ヒエダは「稗田」とも呼ばれます。稗は、米に比べれば雑穀とされますが、環境条件の悪い場所でも収穫できます。暖まりにくい水田は冷めたい田であり、水稲の成育には適していない
http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/dokusyo/timei/hieda.htm
同じ地名が全国にある。やはり冷えるというのは水が冷える温まらないということかあった。あそこは何かそんな山奥の坂でありそういう場所だったからふさわしい感じがした何か地名は心に残り安いのである。何か日当たりが悪い暗い感じの場所にも思えたからだ
相馬藩の山中郷である。小出屋は自分の父親が出た所である。
双葉の新山に酒屋の丁稚になった。そのことも何か謎が深い、戸籍を見れば祖父に当たる人は柏原であった。そこは津島から近い。
戦国時代でも江戸時代でも常に政略結婚でそうなっていた。
めご姫はただ大阪の秀吉の伏見城のあった伊達家にあり人質としてそこで一生を終えた。それで不思議だったのは飯館からなぜか京都に移り住んだ若い夫婦をテレビで紹介していた。あんな遠くに行ったのかと不思議だった。
今は結婚は全国が相手だから不思議ではなくなっている。
だから避難した人は全国に広がったのである。
それにしても今になると平和だった日を偲んでいる人がいるだろう。
請戸には一回しか行っていない、春の日であり穏やかに日がさして船が並んでいた。
それは何でもない風景でありとりたてて珍しいものではない、でも津波で壊滅した結果その風景は失われて何も残っていないから不思議である。
一転してあまりにも荒涼とした風景になってしまった。
南相馬市立病院に入院していたときあったのが請戸の人であり農家で手広く畑を作りそれを今のイワキの平に売って財をきずいた。その人は優秀な農家で表彰もされているし若手を指導していたのである。でも重病になり妻が浪江から毎日通っていた。
そして手をにぎるとわずかに反応するのだが何かわかっているのかわからないのかただ手をにぎられ何かを感じていたのかもしれない。
反応といえばそれだけだったのである。だから悲惨だった。
その人は娘三人を大学に出しているからそれだけ優秀だったとなる。
それは畑作をして商品として野菜を平に出していたからなのだ。
請戸というと港のように思うが広い土地が広がっていたのである。
だからそれだけのもうけを出す野菜を作ることができたのである。
大堀でも相馬焼きを作っていたが消失した。野馬追いで店を出していた人は白河で二軒ばかりが窯をもって定着するという。もうあそこて相馬焼きが継がれることはないのだ。
浪江はやはり避難して復興することはむずかしい。
小高でさえ聞いてみると年寄りはめんどうだから帰らないというし若い人ももちろん帰る人は少ないのである。
一億円もらって他で新しく始めたほうがいいとなるのが現代的になるからだ。
人間は今は苦しいことをあえて選ばない、楽な方が用意されていればそこに行くようになる。
飯館村では除染した一軒の家に一億円かかっているという。なぜそんなにかかるのかというと後ろの山林などを木を切って除染したからそうなる。
なぜこんな金をかけて除染しているのかもわからない。
まず小高浪江でももう今は街があのようになると復興はずかしくなる。
小高などは放射線量はこの辺と変わりない所が多いのに帰らないのだから余計にそうなる
http://musubu.sblo.jp/article/28874706.html
2014年10月30日
霊山まで秋の俳句十句 (鹿島→栃窪→大倉→佐須→霊山→玉野)
秋日さし老木保つ齢かな
今日は風もなく晴れたのでひさしぶりに大倉から佐須を通り霊山まで行ってきた。
最初に見たのがこの生きているのか死んでいるのかわからない老木である。
そこに晩菊が咲いているのもあっている。
この木はまるで百歳生きた老人にも見える。自分の母親にも見える。
晩菊はまさに自分のことであり介護しているのである。
今親を介護している人も老人になっているのだ。
ただ看護するものもなく辛いものとなったのである。
それでも時々異常に筋肉痛になって自転車に乗れないのではないかと心配だった。
今日はそさほど疲れていないかもしれない
この辺は田舎の暮らしが途絶えてことで風景も殺伐としている。
ただ畑を羽しめた人は多くなっている。
ただ風景でそこに暮らしが野に働く人がいないと活きてこないのである。
大倉からは除染の人が一杯いた。あそこは道が良くなりドライブコースになっていた。
でも人は住んでいないから淋しいとなる。
猿が出てきた、小猿もかなりいて親の背にのっている。器用に木の枝を伝う。
まず小猿でも子猫で親より機敏なのである。子猫は親より柔軟性がある。
野生の子供でも適応力があるものだと思った。
そうでないと生きていけないということだろう。
動物を観察していると本当は面白い、でも動物の写真は一瞬をとらえるのがむずかしい。動いているからその一瞬がとれないのである。
あそこも人が住んでいていから淋しい、でも除染して人が住むようになるのか?
空屋とも違っている一時留守にしているという感じである。
ただ除染してもどれだけ効果あるのかは疑問なのである。
あれは秋霞なのだろう。山は遠くから見る方が感動的である。
山がきれいに見える場所は高い山から見るときれいに見えるのである。
それはヒマラヤでもそうであり3000メートル登ると天をつくような8000メートルの山が見える。
山の魅力が本当に大きいから山で死ぬという人がある。山に魅せられるのである。
そさでもやはり見る場所が問題になる。富士山でもそうなのである。
富士山も何か見る場所によってこれが富士山かとがっかりする。
それは見る場所によっているからなのである。
自分は山はそんなに登っていないし山もあまり見ていない
山をもっと知りたいなと思っているが今はせいぜい霊山まで行って吾妻連邦を望むことはできる。
春に行った時の方が残雪の吾妻連邦を見たからきれいだった。
その時のことは写真もとったが報告していない。
毎日書き切れないのである。
福島市から相馬市まで高速道路を作っている。高速道路ができると三つの道になる。一番古い旧道と今の道路と高速道路になるのである。
だから古道という地名があるのは昔も新しい道が常に生まれていたからそうなったのである。古町もそうである。
玉野から相馬市は意外と遠い、玉野は相馬藩内で伊達との境だけどずいぶん城からは遠い所だと思う。
あそこで米沢藩と伊達藩と相馬藩の森林資源をめぐって争いがあったことは有名である。玉野が相馬藩になっていたのは森林資源を得るために相馬藩の領内になっていたのであるそこに境目付が配置されたのである。それは森林資源を確保するためだったのである。
2014年10月15日
福島県の観光の魅力 (旅する経路が問題ー浜通り→中通り→会津の横断でわかる)
福島県は今振り返ると広大であり地形の風土の魅力が大きい。海があり山があり川がありと変化に富んでいる。旅をするときよく自転車でも六号線を東京から青森とか旅する人はいる。つまり日本列島縦断が多い。どうしても日本列島を旅するとなると縦断が多くなるそれが最短距離だから遠くに旅する場合はそうなる。
そこに旅の盲点があり旅をつまらないものにしていることがある。
福島県を理解するにはこれは相当な時間と労力が必要である。
これは福島県に住んでいてもそうである。福島県全域を旅しても福島県は広いなとつくづく思う。特に会津は山国でありここはわかりにくい、山の領域が広いからわかりにくい。どれだけの山があるのかと思う。阿武隈山脈は山ではない、高原であり山の醍醐味がないのが残念なのである。
福島県ははま、ハマ、ナカ、アイヅに分かれている。ここでは気候も相当違っている。
浜通りは海に面しているから風土も違う、会津は全く山に囲まれている。
この相違も相当に大きい。
もともと福島県ができるとき磐城県と二本松県と会津県とに分かれていたのは歴史的にもそうだし風土地理的にもそうだったのである。
前にも書いたけど二本松の城にたつとあそこが福島県の中心のように感じる。
天守閣が高く一望できるからである。
中通りはもともと江戸時代から大動脈でありそれは平泉に通じていたのは鎌倉時代からだった。だから頼朝が国見町の圧樫山で藤原氏の軍勢と戦ったのがわかる。
芭蕉が来たのもこの道である。江戸からだとどうしても最短距離になるからである。
今は旅が便利すぎて旅にならない、旅はもともと不便であり不便だからこそ旅になっていた。新幹線で三時間で平泉に着いたとなると何の感懐もなくなる。だから名所がつまらないとみんな言っている。そもそも旅は過程にあるからだ。その過程がぬけおちたら旅にならないわけである。芭蕉の奥の細道がまさに徒歩のリズムで過程にあったから書けたのである。ただ芭蕉でもみちのくは一回しか旅していない、旅は実際はその過程にあるのだから旅の経路か違えば旅はまた違ってくる。
自分の人生がほとんど旅に費やしたというときそれでも福島県を知るのは容易ではないことがわかった。それだけ福島県は変化に富んで広いからである。
旅は福島県を中通りだけを通過したらつまらない、浜通りから中通り会津からさらに日本海へ横断すると日本がいかに変化に富んだ地形であるかわかくだろう。
そして会津から浜通りへ出て太平洋を望んだときの感激も大きいのである。
日本海から会津から浜通りへ太平洋へ出るとそれも同じ横断でも方向が違っていても全く違った感懐を抱くのである。
結局旅の経路はきりがないから一人の人間の旅する時間が限られているから知ることも限られているとなる。
旅をするときどうしても東京からとか大阪からでも縦断が多くなる、福島県を横断するとなるとまた時間がかかりすぎるからそうなる。今は車だからそれがしやすいか車だとまた早すぎて印象に残らない場合が多い。例えば車だと風を感じないのも致命的になる。
夏の盛りに阿武隈高原を越えて太平洋の方に向かうと涼しい風が吹いてきて救われた感じになった。福島市は暑く蒸し風呂のようになるからだ。
その風を感じるのは自転車だといい。自転車はまたきつい坂を上ることを記憶している。あそこを息咳って苦労して登ったと体に記憶されるのである。
まず風土とか地形を知るにはいくら立体地図をみてもわからないのである。
峠があったとしてもそこを登る体験をしないと実感しないのである。
バイクだって早すぎる楽なのである。自転車とは全然違っている。
だから40すぎてから自転車旅行しているとき若い者がバイクで飛ばしているのも変だった何だ若いのに楽だなと見ていたのである。
福島県を旅するとき会津に入るのにも郡山市から入るが旧街道の白河街道を昔の福良とかを回り旅すると興味深いし情緒がある。あそこはあまり車も通らないからいい。昔の街道の感じが残っていたのである。
湖南出身の民俗学者・橋本武氏が、安積から湖西に嫁にきた<おたかばあさん>(当時75歳)に聞き取りをしたときの記録です。
http://eigaku.blog.ocn.ne.jp/test/2011/08/post_72af.html
これは知られてはいるが東北でもあまり見かけない神社なのである。大和王権に滅ぼされた蝦夷だという説がある。阿部氏と関係しているのも東北では多い。
この辺は何かまだ知られていない秘密的な場所である。白河街道の方を来る人は少ないからである。
本で探していたら容易ではないしできない、本はまず一冊は厚くて読めないから触りだけでも読むのがいいのである。それだけでも全国となると広いから助かるのである。
次回はまた旅のご案内を御期待!
2014年08月13日
桃を南相馬市原町区のコンビニの脇で売っていた伊達市の桑折町の農家の人 (その人が語ることには歴史が詰まっていた不思議)
●半田銀山は日本の三代銀山だった
http://www.town.koori.fukushima.jp/site/kankou/handa-ginzan.html
http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/201008300000/
半田山山麓にある半田沼は、伝説の沼としても知られている。
源義経が平泉の藤原秀衡を頼り、この沼を通った時、
金銀を背にした牛が暴れて沼に落ち、以来この沼の主になったという。
その牛は人を襲うので、沼に近づかないようにと伝承されていたようだ。
藤田宿は代官のいる桑折宿と違い、旅人や付近の人にとって気楽な宿場であったらしい。
嘉永5年(1852年)で、旅籠は14軒もあった。
●にぐらや(荷鞍屋)だった農家
コンビニの隣で桃の安売りしていた人がいた。78個で一箱500円で二箱で1000円にしていた。これは安いと思った。次から次と売れてなくなった。
なんか桃の投げ売りのようになっている。放射能汚染で売れないのか多少痛んでいるのかわからない、味はいいしこぶりではあるがとってきたばかりで新鮮である。
その人は伊達市の元の桑折町の人だった。
その人は田畑も作っているし馬も競走馬も十頭くらいもっていて福島競馬なのだろう、競馬新聞で自分の馬が勝って賞金を獲得したと自慢していた。
そして自分の先祖は江戸時代から馬商人だったという、15代つづいていて正五郎とか正がついていたという。五代将軍からであり馬を徳川家に献上していた家柄であり葵の紋の提灯も家にあるとか言っていた。
その馬は盛岡から買って江戸に送っていたという。盛岡では確かに大規模な馬市が開かれたところであり福島県からも馬を買いに行っている。それは江戸時代からであり古い歴史がある。
その理由は江戸時代になり街道が整備されたからだろう。
でもこれほどの古い旧家だったということも驚きである。
「にぐらや」という家で天皇家に献上桃を出しているのだから由緒ある古い家なのである
江戸時代末期の安政七年(1860)、村の商売を記した「松崎家名
書」には旅籠屋 荷鞍屋 ・馬喰(ばくろう)のほかに20種類もの食料品を
商う店が書かれています。成田詣の旅人が増え、さまざ
まな農閑商いを営む村人が現れ松崎は町化した村に変わ
りました。
http://www.city.narita.chiba.jp/DAT/05_1015p16.pdf#search=
'%E8%8D%B7%E9%9E%8D%E5%B1%8B'
「在りし日のこの国の文明」は「生態学のニッチという概念を採用するなら..棲み分けるニッチの多様豊富さという点で際立った文明であった。」「鬢を結うためのかたい詰めものを売る店、下駄屋、紙傘の店、日笠雨笠の店、紙の雨合羽や包み紙の店、人馬のためのわらじを売る店、蓑や蓑笠の店、馬の荷鞍を売る店。そして表通りには漆器店と仏具屋がある。古着屋、扇屋、掛け物を売る店、屏風屋、羽織の紐を売る店、ちりめんを売る店、手拭いの店、煙草道具の店、筆だけ売る店、墨だけ売る店、硯箱しか売らない店、
((渡辺京二『逝きし世の面影』)
「桑名よりくはで来ぬれば」と伝日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ちぬ。
「桑名よりくはで来ぬれば」という日永の里から、馬を借りて杖つき坂を上る時、荷物を載せる鞍がひっくり返って落馬してしまった。
(笈の小文 芭蕉)
今やこの人の家の屋号はにぐらや(荷鞍屋)である。この話でリアルなのはそれは江戸時代ではなく父親が荷鞍を作る職人でもありその作り方が他の人と違って工夫したところがあり作るのが早かったという。なぜ早くしなければならないかというと手作りだから多く作れないから早く作ったというのはなるほどそれは生々しい話しだと思った。
売るにしても売れるにしても手作りだから量が限られている。そうなると夜なべまでして作らねばならなくなる、残業である。
「人馬のためのわらじを売る店」というとき人だけではない馬のわらじも売っていたのである。馬もわらじをはいていたのである。
野馬追いでもそうだがそもそも馬のことがリアルにイメージできなくなってしまった。
自分は子供のとき馬車屋があってその馬車の後ろに乗って遊んだことを覚えているから
荷馬車のことがそれほど昔とは思えない、荷鞍屋は馬車ではない、馬そのものに荷物をのせて運ぶためのものである。荷馬車になるともっと大量に荷物が運べたのである。
荷鞍橋とか荷鞍が地名になっているところが福島県に二つもあることはそれなりに福島県でも荷鞍作りも盛んだったのだろう。
●半田銀山の裏話は本当なの?
もう一つ半田銀山のことで代官が賢くて本当は金がとれたのに徳川家には銀を送っていたという。これはごまかしていて代官の名前には銀がついているが本当は金がとれていた。その金は飾り職人によって細工されていた。確かに伝説には金銀の山ともあるから金もとれていたがそれは報告しないで隠していたのかとなる。
こんな話までしているのはそういう話しが伝えられてきたからだろうか?
もちろん半田銀山にはそれだけの日本を代表する銀山だった。
だからいろいろな話しが伝説がまとわりついてくる。
ただこの話は自分ははじめてきいた。この辺の歴史も調べていないし桑折町にはよっていない。というのは福島市に何度も行っても駅だけの名しか覚えていない
越河ー貝田ー藤田とかの駅である。ここはもともと街道の宿場町だったのである。
だからここは自転車でたどらないとわからない所だった。
電車の旅はこうして歴史の跡をたどることができずぬけてしまうのである。
ただその頃自転車の旅はしていない時期であった。
それでもあとで羽州街道は自転車で旅した。あの小坂峠を自転車で登るのは最高にきつかったのである。
桑折町は羽州街道へ出るまた江戸へ出る分岐点の町でもあった。
だからここはもともと人の出入りがある繁華な町だったのである。
まず奥の細道は新幹線でも普通電車でも通り過ぎたら何の感懐もないだろう。
最近インターネットで詳しくその行程を紹介している人がいて何かそれをたどると旅した気分になるのである。
旅にはこうした知識も必要でありただ通り抜けてゆくだけでは跡に何も残らないだろう。だから旧街道をたどることは必ず本当は必要なのである。
ただ遠くからくるとわかりにくくめんどうになるのである。
もう一回ここを通って旅したいがそれができない
旅するとなると自由な時間がかなり必要なのである。車だとできるがやはり旅するのとは違う。旅とは現代では最も贅沢なものになってしまったのである。
それでも福島県内でも自転車で自分は相当に旅している。
だから思い出して文を書くのだがここの桑折町についてはほとんどわからなかった。
でもここは奥州街道の要所であり歴史ある町だったのである。
いづれにしろ桃を売っていた人はこんな話できるのだから何か商売も上手なのだろう。
話がうまいということである。競馬はギャンブルだけど競馬は馬が疾走するのが見れからパチンコとは多少違っている。自分は動物に興味がある。馬が草原を疾走するのを見たら気持いいだろう。そこに馬本来の姿がある。競馬はそうではないが今や馬が見れるのは競馬場しかないということである。馬については野馬追いでもそうだが馬そのものについてイメージできなくなっている。馬が身近に接していないから馬が何であったのかイメージできなくなるのだ。
あそこでは毎日桃を売っているわげではない、不定期であり今回はお盆で特別安くしていたのである。今回限りと書いてあったからそうである。でもまた来るというからまだ桃の時期であり売り来る。桃は期間が短いし外国産も入らないから競争相手がないからいいとは言っていた。献上桃の家にしては安く売っているのもわからなかった。
何らか桃も早いうちに売る必要があって安くなっていたのだろう。
福島市は暑いから桃の産地になったのである。
ともかくこうして一人で売る人は今や一人で市を開いていると同じである。
昔の市を思い起こす、市には物を売るだけではない、こうした情報が集まることなのだ。物を媒介として情報が集まりそれで見聞を広めていたのである。
情報通信が発達していないとそうして人が集まる場所で情報交換していたから
昔の市はただ物を買うというだけではなかったのである。
物を通じて人と人が交流する場所だった。現代はただ物がどうして作られてどうして運ばれてきたか皆目わからない、ただ物があり買うとういことしかない、その物が作られた経過もわからない。だから地球の裏側で作られた人のことなど関心がないのである。
つまり人と人の交流がないことが問題なのである。
バナナをとるにしても重労働だったという若者が言っていたがそういう話をバナナを売る人から直接聞けないことが問題なのである。
そういうグローバルな経済は非人間的にもなる。物だけが流通して人の顔は見えないのである。それは金融でもそうであり人の顔が見えない巨大化した結果、雲をつかむような金融の世界になっている。だからコンピューターが操作しているのか悪魔が操作しているのかユダヤ人陰謀論とかになってくる。それはとても世界化した経済が見えない世界になっているからそうなる。金だけ神のようになってしったとかマルクスが言うのもわかるのである。だから人間的経済を復興させろということがしきりに言われるようになってきたのである。
2013年12月08日
人間は自分の住んでいる場所を基点に思考する (福島県は地理的一体感がもてない広さがある-相馬より見た視点)
人間は自分の住んでいる場所を基点に思考する
(福島県は地理的一体感がもてない広さがある-相馬より見た視点)
地理的感覚というのは一番わかりにくものだろう。地図見ても立体地図を見てもわからない、高低差とかいろいろな面で地理はわからない、やはり一番わかるのは徒歩感覚だろう。車感覚でもわからないだろう。ただ現代の地理感覚は交通に左右されている。
東京から飛行機で何時間と計れば中国が三時間となると中国が国内より近くなる。
日本より外国を身近に感じる人も多いのが現代である。
中国人の距離感覚は日本人の十倍くらいの感覚になるとか遠い所に行くのが抵抗がない、大陸の距離感覚は日本の島国の距離感覚とは違っている。
日本は中国と戦争になった時その広大な大陸感覚に適合できなかったろう。
もう戦略もたてられないほど途方もない広さだった。
広大な大陸にのみこまれるような感覚になっただろう。
まず世界は一二回旅行したくらいで地理はわからない、それだけ地球は広い。
結局人間の地理感覚は自分の住んでいる場所か基点となり思考しているのだ。
これたけは変えることはできない、地理の制約を越えることはできない、
そこに人間が理解しえない壁が生れる。
そして地球だけではない、自分の住んでいる狭い場所でもまた地理感覚が違っている。
南相馬市でもここは地理感覚では国見山からみると確かに鹿島区原町区小高区が視界に入り原町句か中心になる。もともと原町市が中心だった。
相馬市ははずれている。飯館村が南相馬市に合併しなかったの地理的要因が大きかった。飯館村は山国であり南相馬市と通じていても別個の地域だった。
そして福島県となると大きな県であり地理的感覚として一体感をもつことがむずかしいと書いてきた。江戸時代から相馬藩は伊達と争ってきたけどまた伊達藩と接しているから伊達藩と交流が深かった。今でも福島市より仙台に通勤している人さえいたから仙台が身近である。常磐線が通じているから交通的にも身近である。
交通に左右されるという時、山形県は仙台の延長として仙山線で通じるという距離感覚になるから意外と会津より近いともなる。また蔵王が見えるから山形県の方が近く感じる。交通の影響でそうなる。会津は交通でも岩沼でのりかえ郡山でのりかえと遠いのである。ただもし新幹線が会津まで通ったりすると近いとなる。
いわき方面は前の平駅から仙台の方を望むと結構遠いと感じる。いわきからは茨城県や
東京が近くなる。現実にいわきとまで常磐線の東京までの通勤電車が八両編成ででる。
その電車に乗って東京まで行ったことがある。
この感覚は勿来の関が東北のもう一つの入り口だったから古代から変わっていないのかもしれない、
吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山ざくらかな 源義家
この歌は何か白河関とは趣が違っている。海に面しているからなのか?
桜前線ではいわきが一番早く咲くだろう。中通りや会津は山が関係して遅くなるだろう。いわきが咲けばすぐに相馬でも咲く、白河関は
「卯の花を かざしに関の 晴着かな (曽良)」とは対象的である。海の感覚ではない山の感覚である。
実際に白河関は山道であった。心細い山の細道だった。今の感覚とはあまりにも違っていた。
相馬では磐城太田(いわきおおた)駅とか磐城落合とか葛尾(かつろう)村のバス停にあった。古代では磐城の国だったことも地理的にわかる。福島県が磐城県があり二本松県があり会津県があった。これが福島県のハマ、ナカ、アイヅの区分けであり地理的要件と一致していたのである。福島県になったとき大きくなりすぎたのである。
だから会津となると今でも遠くわかりにくいし文化的一体感がもてない、相馬藩が水戸の天狗党に入ったりした藩士がいていち早く尊皇になったのは地理的に水戸が近いからである。会津とは阿武隈高原など山に阻まれて交流しにくい場所だった。
郡山で相馬藩士と会津藩士が争ったというのも郡山がそうした人が合流する場所だったことは江戸時代からそうたったからである。
人間の世界観には地理か影響している。人間は自分の住んでいる場所が基点となりいつも思考しているのだ。相馬藩内でもさらにその住んだ場所によって地理的感覚は違ってくる。鹿島区だと原町区に一番近いか相馬市にも近いからその中間点にあり経済的にも左右される。大原とか栃窪とか大原などは山側であり僻地になる。
原発のあった地域はちょうど磐城藩と相馬藩が争った地域だった。夜の森とは余の森と相馬の殿様が言って領有権を主張した地域だったのである。
はま側通ると浪江に入る所に「境の松」があったのも浪江は標葉郷で相馬氏と争い相馬藩に編入された地域であった。野馬追いに標葉郷の子孫のものが出ている。
人間の感覚は思想でも地理的感覚に制約を受ける。地政学的な視点から離れられないだろう。会津には会津の中心感覚が生れる。特に山国の文化はわかりにくい、京都のように山に囲まれた感覚は日本ではどこでもあま。海側に住んでいると海から太陽でも月でも昇ってくる。しかし山国では山から昇り山に沈んでゆく、この感覚がわかりにくいのだ。
日本海側では山から太陽が昇り日本海に沈んでゆく感覚はまたさらに違っているのだ。
夕日のなかに海岸線がある情景は太平洋側とまるで違った感覚になる。
2013年11月22日
阿武隈高原の回想の旅の短歌 (阿武隈高原の魅力は幾重にも分かれた道にある)
阿武隈高原の回想の旅の短歌
(阿武隈高原の魅力は幾重にも分かれた道にある)
(飯館)
月館へ行く道遠し夏の日のなお明るしもまた行かむかな
(三春)
三春なれしだれ桜の長々と夕日のさして古き家かな
三春なる城の跡かな四方の山ここに映えつつ春の夕暮
五万石三春の城や栄えなれ愛姫(めごひめ)嫁ぐ政宗のもとへ
なお夕べ優艷にして滝桜匂いのつきじしだれけるかな
目に見ぬも我が心にそ離れても花の明るく映えて輝く
(二本松)
二本松道のり遠く相馬よりなお花残り夕ぐるるかも
二本松安達太良まじか椿映え残れる雪の清しかりけり
安達太良の影の大きく川俣を我が去りゆくや秋の夕暮
(小浜城跡)
小浜城夕べあわれも遠く来て花咲きそめて闇のつつみぬ
小浜城興亡ありぬ一時は政宗棲みぬ秋の夕暮
小浜城滅びてのちの久しかも雲に隠りて月の光りぬ
小浜城落ち延び遠く会津へと逃れる武士や曇る月かな
(梁川城跡)
丸森ゆ峠を越えて梁川の城跡に来れば花は散りにき
阿武隈高原は広い、高い山もないし温泉もないけど広い、だから自転車で行けば旅になる。どこまでも道をたどることが旅なのである。だから旅では別れ道が一番印象に残るのである。分去(わかれさり)という地名が全国に残るのはそのためである。つまり別れ道に来たとき道を一番意識するのである。これは車だとそうした旅の感覚はなくなる。
道をたどるというよりただ早く移動するという感覚になるからだ。車の旅はある地点に行くのにはいい、例えば富士山が一番良く映える場所に行くのは車がいいが車では旅にはならないのだ。旅をするということは現代では特殊なことなのである。
バイクでも旅にはならない、バイクも早すぎるからだ。どっちの道へ行こうかとか旅の感覚はなくなる。車とバイクの速さは同じだからである。自転車は旅になっている。
ただ自転車でも早すぎるということはある。ただ別れ道などでは道を意識するから旅になる。実際に分かれ道があったとしてそこから5キロで温泉があるとして行きたくても行けなかった。なぜなら5キロとして往復10キロになるとかなり遠くなるし疲れるからだ。
車だったらこういうことはないから秘湯めぐりなどには向いている。
旅する時はやはり歴史的な知識も必要である。小浜城についてはわからなかった。勘違いしていたのはこれが江戸時代もあったと思っていたのだ。この城は江戸時代前に廃城になっていた。だから城の跡としてだけこれまで残っていたのだ。その期間は400年とかにもなる。だから良く残っていて今も訪れる人があると思う。城跡でも土塁だけとか堀とかでわからないのがあるからだ。相馬藩の城でも堀とわずかな石垣しかないのである。
だからあそこの城が江戸時代もあると思っていたのである。これは小さな城でもそれなりの城だった。なぜここにあったのかも謎である。地理的な要衝としてあったともある。
この頃会津までもこの城にかかわったりしている。だから伊達に攻め落とされた時、会津に逃れた武将がいる。梁川城も伊達領の城だが一時は会津の城にもなっていた。それから上杉もかかわっていた。戦国時代はどうしてか遠くも関係してくる。まだ領地が確定していないからせめぎあいが各地で大規模にあった。入会地で山林資源の争いのことを飯館村の飯樋のことで書いたが丸森の玉野村は大規模だった。その時合力が行われて上杉や伊達や相馬と三つ巴の争いとなった。
ともかく小浜城は何か神秘的な場所にあった。あのうよな出城とか小さな城でも江戸時代前は各地にありそれが戦国時代だったのである。
1627年(寛永4)に、一国一城令に基づき廃城となった。現在、本丸跡など城域の一郭は下館山児童公園として整備され、郭、石垣、帯郭、堀切、土橋跡などが残っている。かつての本丸南側の虎口である同公園の入り口に残る石垣は、蒲生氏郷の属城となっていた時期につくられたものである
阿武隈高原でもふりかえると自分は自転車で相当に回っている。今になると回想するとき不思議である。回想する旅になるとこれまた現実旅しているのとは違う、それは何か内面化した旅ともなっているのだ。だから旅というのは何度も言っているけどあとで記憶されている旅をしていないとほとんど忘れる。どこをどう行ったのかさえ忘れる。
自分も回想して短歌を作ったりしてもそれが春だったのか秋だったのかわからなくなる時がある。ただ回想しやすいのは近間だからである。これが阿武隈高原から離れて会津の方になるとわかりにくくなる。人間は自分の住んでいる場所から離れれば離れるほど忘れやすい、だから外国のことはさらに忘れてしまう。福島県でも会津はかなり遠い。そして山国だから余計にわからなくなる。
阿武隈高原だと二本松とか梁川とか福島市とかまではつづいて記憶されやすい、でも会津になるとすでに地理的にも記憶しにくくなるのだ。
阿武隈の魅力は道にある
http://www.musubu.jp/abukumichimiryoku.htm