2023年07月11日

会津紀行ー昭和村から矢の原湿原へ (姓が語る福島県の歴史ー新妻、松本、只野)


会津紀行ー昭和村から矢の原湿原へ

(姓が語る福島県の歴史ー新妻、松本、只野)

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男のみ城を守るやさにあらじ手弱女なれど抗い果てぬ

雨しとと桐の花咲く会津なる菩提参りて相馬に帰りぬ

桐多く嫁入り道具に桐箪笥会津の暮らし偲びけるかな

激しくも流れ岩打ち奥会津草深くも鬼百合咲きぬ

会津なる伊佐須美神社に我がよるも雨降りとどまる秋のくれかな

雨降りてテントに一夜泊まりしは木地小屋なりし秋の夜ふけぬ

木地小屋は磐梯山を上る中腹にある

会津藩士 野村 新平
       朱雀3番寄合組隊鈴木隊半隊頭
       町奉行、200石、25歳
       明治元年旧9月24日大芦村矢ノ原にて戦死

会津の山々深く矢の原に死すも若きや秋のくれかな

新津駅線路交差しかなたにそ雪に真白く会津の山かな




伊佐須美神社から昭和村を通り矢の原湿原に来た、この湿原は日本で二番目に古いとありその雰囲気がそうだった。湿原としては広くないにしろ直観で古層の湿原と見た。

ここに咲く花こそひそか誰が見む今は花なき秋のくれかな

何か荒涼として原始の沼であり湿原だった、そんな所でもぼっしん戦争の血なまぐさい戦があり若くして死んだ会津藩士がいたのである
自転車で伊佐須美神社から昭和村から矢の原湿原に行った。ただその記憶があいまいとなった。

一面の萱の原の山を行ったことを覚えている。伊佐須美神社で雨がふりとどまったことを覚えている。伊佐須美神社は相当に古い
ここで佐須となっているのは飯館村の佐須と同類なのか、というのは飯館村の佐須には山津見神社がありそれは安曇氏系統のものである、

ここで佐須となっているのは飯館村の佐須と同類なのか、というのは飯館村の佐須には山津見神社がありそれは安曇氏系統のものである、会津にも大山祇神(おおやまつみのかみの神社がありこれは海洋民の安曇氏系統だからである。会津は山国だから焼畑がやはり行われた。佐須とは焼畑のことだからである。それは安曇氏系統が入り始めたとなる。

おおやまつみのかみ)とはやまつみであり飯館村の山津見神社と同じなのである。つまりいかに日本というのは海洋民の安曇氏が広範囲に入り拓いた地かを証明しているのである。


会津の系統が武田氏にあるというのも意外である。武田というと遠いようだが信州は遠いという感覚ではないかもしれない、また葛尾村(かつろう)は信州から移動したものであり

治承四年、宇治川の戦に敗れ命からくも逃れた高倉宮以仁王は越後に落ち延びることになり、中仙道から上州沼田を経て尾瀬から下郷・大内宿に入った

山を伝う道があり逃れたのである。戦乱がありそこから逃れた武士が先祖になている所がある。平家の落武者伝説が多いのはそのためである。南相馬市の鹿島区の只野氏も南北朝の戦いで霊山城が炎上して落城して逃れた一族だったのである

この地が「葛尾」と名付けられたのは、信州・長野県が発祥です。長野県の坂城町にある山の上にある城跡の名前が「葛尾城」といって、戦国時代の武将、村上義清の居城でした。この城をめぐって武田信玄と激闘が繰り広げられ、義清は2度勝利しましたが、3度目に敗れました。その際、家来だった松本勘解由介が相馬に落ち延び、相馬当主から三春領と相馬領の国境警備を頼まれて住み着いたこの地を「葛尾」と名付けたといわれています

ここでは松本の姓が三分の一いる、こういう山の村だと外部からの人の出入りが少ないから松本という一族が継続して住んだとなる。常磐線の末次駅をおりて墓地を見たら八割くらい新妻の姓だった、また南相馬市の鹿島区は南北朝の争いで北畠氏が守っていたが霊山城が炎上して落ち伸びた武者の一族の町である
だから只野の姓の家が50軒くらいある。戦乱があり勝者と敗者がありその歴史が姓に残されていたとなる。

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末次駅降り墓地たずぬ大方は新妻の姓や畑に菖蒲咲く

昭和村となると歴史が感じられない、長い歴史から見れば昭和は新しいからである。
ともかく、福島県といっても広いのでは?会津というときそこが東北ではないという作家もいたし。会津は一つの大きな国であり別の国なのである。その成り立ちは古く日本海から阿賀野川を通じて四道将軍が会ったいうことになる。そこに東北で一番古い古墳大塚山古墳があり三角縁神獣鏡が埋もれてあった
それは東北ではここにしか発見されなかったのである。だからすでに早い時期から日本海を通じて交流があり吉備氏と結びついていたのである。。

三角縁神獣鏡は岡山県備前市の鶴山丸山古墳のものと同じ鋳型である
副葬品の多くは優品で、畿内から移入されたもの、畿内文化の強い影響を受けたものが多いことから被葬者と大和朝廷との関係が注目される。
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だからなぜ会津が信州とかと結びついていたのかというと 山伝いに来たのかとなる。吉備と関係したということは?どういう経路でそうなったのか?吉備はは瀬戸内海であり、瀬戸を根拠としており。そこからどういう経路で会津まで達したのか?日本海から阿賀野川を使って会津に入ったということもある。 



  • 毛野氏族の分布 毛野は吉備の分流であることが分かってきている。毛野氏族の姓氏・分布など・・・

  1. 茅渟(ちぬ)地方・・・起源地である。和泉(いずみ)国の沿岸の古称。現在の大阪湾の東部、堺市から岸和田市を経て泉南郡に至る一帯。

  2. 摂津・河内 (磯城・葛城)→近江→北陸道(能登)→信濃→毛野地方(上野・下野)に到る経路をとって、畿内から東国へ勢力広げた。

https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E3%81%AE%

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南相馬市鹿島区の浮田国造があり。それは毛野氏系統なのである。原町の泉かんが跡は海側にある。最初は山側が古くそれで毛野氏の勢力が伸びてきた、真野という地名は浮田より新しい。浮田神社が常磐高速の鹿島のSAに祀られた

だから浮田の範囲は山側に広いのである。また縄文中期の遺跡が飯館村に発見されたから山の方が古いのである

海側はあとから発展した、それは太平洋は波も荒く交通路になりにくかったからである。



とにかく会津でもわかりにくいのは山が多いからである。山がひしめている。それも2000メートル級の山なのである。この辺で一番高いのは鹿狼山であり400メートルなのである。だからこの辺で物足りないのは高い山がないことなのである。
高い山があると引き締まるからである、それが心にも影響するのである


 昭和村の地名

昭和村は会津でもかなり奥深い処だった。昭和村への道を入ると温泉が旅館がありそこで温泉にひたり疲れをいやした。それから村の食堂で食事をしてそれからかなりうねうねと山を上っていった。そこは一面の芒、萱原であった。その山の上に矢の原湿原があった。この湿原は日本でも二番目に古いとか道の脇にあるにしては古い沼だったのだ。ここで会津藩士が討ち死にししている。壮烈な戦いがこんな奥まで持ち込まれたのだ。こんな静謐な沼のそばにそんな案内板があるのもにあわない、反面そのことはあの会津の落城は壮烈なものだった。戦いは熾烈だったことを示している。なぜこんなところまで来て戦っているのかわからないからだ。確かにそこまでは覚えているのだがそこからはどこに出たのか覚えていない、自転車で行ってもこのように地理とかがわからなくなったり忘れるのだ。だから記録が大事になる。一面になびいていた萱原と沼とは覚えていたので思い出して詩も書けた。

それで昭和村の地図を見たら面白い地名を発見した。昭和村は大芦村と野尻村が昭和に合併してできたのだ。合併してできた名前はその村の歴史を消す場合がある。この合併地名はかなり多いのだ。大芦村の処は確かに芦が繁る処であり野尻というのも野の尻という意味でそれなりに地形として合っている。ここでは野は山間の平らな所でその尻となる。その他に日落沢とか転石峠とか木地小屋とかあった。これも山深い処の地名に合っている。日影山とか日落沢というのは山で日が落ちて陰るのが早いのだ。そういう地形が多い。転石峠というのは石が転げてくる危ない峠のことだしそういう処も多い。今でも落石注意とか案内板がある。それから駒止峠とは駒が止めるほどの峠道のことでこれは檜枝岐につづいていた。針生部落から檜枝岐は駒止峠でありこの峠は私は20年前くらいにバスで行ったがくねくねくねくねと曲がってやっと越えられる舗装もされていない、埃がたつ凄い峠だったのだ。ここを越えて檜枝岐まで行くのだから檜枝岐は秘境だった。今は観光化されて秘境というのはないのだ。

つまり秘境とは交通でも閉ざされていて外界との交流が少ない処である。交通が発達しない戦後まもなくや戦前はこうした地域は非常に多かった。そこでは自給自足の生活をしていたのだ。だから秘境は多かったのだ。まるでみんな仙人のような生活をしていたのだ。ソバが常食となるのは米がとれないためだし米を食えないという僻地でもあった。旅するならいくらでもその頃秘境があったのだ。今は秘境はない、自動車や交通の発達でどんな奥地にも気軽に行けるから秘境はないのだ。

ただ昭和村というと今では観光化した檜枝岐より秘境の感じがある。あまりに観光化するとかえって魅力を失う、昭和村はその点まだそういう秘境的なものがある。インターネットで探したらそこにキャンプ場があり木のバンガロ−があり4000円で泊まれるとあった。ここに行きたいなと電話したら今年は終わったらしい。雪はふらないが紅葉も終わった。パスの便も終わり自動車がないと行きにくい、でもあんな所で3日くらいのんびりすごしたら気持ちいいだろう。この昭和村についてはからむし織りとかで良く宣伝しているがそれよりも何もなくてもわずかに残された秘境として価値あるんじゃないか、つまり秘境とはとにかく鉄道が通らず街からず−と離れた孤立したような山の中であればいいのだ。檜枝岐のように頻繁に人が入るようになると秘境ではもはやないのだ。伝説として次のようなものがあった。

治承四年、宇治川の戦に敗れ命からくも逃れた高倉宮以仁王は越後に落ち延びることになり、中仙道から上州沼田を経て尾瀬から下郷・大内宿に入った。橘諸安公の娘・桜木姫と高野大納言俊成公の娘・紅梅御前は数少ない家来を共に京から王を迫ってこの地に辿りついたものの、恋しい人はすでに越後へと向かってしまったあとだった。身のおきどころなく畑小屋集落にしばし滞在したがどちらも間もなく亡くなり、御前は下郷町戸赤の渓流沿いにまつられ、桜木姫の墓は大内集落のはずれに今もひつそりと残っている。そこから畑小屋の山は御前ヶ岳と呼ばれるようになったが、畑小屋の鎮守は以仁王の父・後白河法王を祀ったものという。

大内部落には都落ちした高倉宮以仁王の一行に同行したある従者の君「桜木姫」長旅の疲れから18歳の若さで亡くなり、この地に眠っているといわれています。このお墓の周辺を御側原(おそばはら)といいます。源氏と平家の争いがこんな僻地まで尾をひいたのか祭りがあるからこれは本当なのだろう。ただ平家落人部落というのはかなり嘘が多い。義経伝説も北海道まであるのだからこれもどこまで本当なのかわからない、それでも奥地まで戦いがあり落人狩りなどが戦争では行われたのかもしれない、執拗な追手というものがあって身を隠さざるをえないこともあった。

会津というと何回も行っているがやはりあそこが良かったなとかもう一回行く処はまた調べ直してその土地に詳しくなり今度は別な処を探査してしみようとかするのがいい、あそこはただ通りすぎただけだったから今度はまわりをよく見ようとなる。でも何日か滞在しないとやはり自然はわからないのである。だから旅は小臆する旅をしろとなるのである。











2023年03月24日

春の阿武隈川を下る(詩) (川張の地名伝説ー船運もあった)


春の阿武隈川を下る(詩)

(川張の地名伝説ー船運もあった)

残雪の吾妻嶺光り
囀る鳥の山に響き
広がる信達平野を進み行く
梁川の要とあるや
その中世の館の跡の古しも
阿武隈川の悠々と
蛇行し滾ちうねり流れ下る
川張の伝説や山の民の住む
その棚田の奥深く営みのあり
水運の港あり物資運ばれる
荒浜へ物資は江戸へ運ばれぬ
伊達政宗の領地拡大
若き日に初陣を飾る丸森や
山元町の磯山に座る石
正宗の雄想は太平洋を渡り
欧州までもその視界は大なり
赤々と椿映えて波の打ち寄す
山と平野と海をつなぐ阿武隈川
滔々と泡立ち激して流れぬ
草の萌え再び大地は耕されぬ


「川張石と砥石 弘仁元年(810年)、背に苔がむし松や杉の木が生えている3メートルもある大猪がすんでいた。この大猪は村内はおろか近隣の村々の田畑を荒らして人々は困っていた。これを退治しようと京より小野篁が番二、番三という二人の猟師を引き連れて下向し、虚空蔵様のお力を借りて退治した。このとき使用した鏃(やじり)を砥いだ石が砥石であり、大猪の皮をはいで張り付けた石が皮張石である。それゆえ、皮張村と称したが、いつのころからか「皮」が「川」になった。」(丸森町文化財辞典より)

この伝説は興味深い。狩猟を生活にしていた時代のことは彷彿とさせる伝説である。
なぜか私の父親はイタチ取りをしていたのであるそれで家の小屋にその罠となる道具が置いてあった
戦後日本は戦争に負けて仕事がなくなりそんな原始的な仕事でもしたとなる。近くの堀で洗濯して水道もなく井戸がある家から水をもらい父親の手つくりの風呂に入りその鉄砲風呂の焚き付け近くの材木屋のバタで新聞紙を燃やしてしていたそれが自分の仕事だったのである。
またイタチを捉えて捕まえて飼っていたのである。
そのイタチをは母親が餌をやっても絶対になれなかったのである。今餌やっている猫も慣れないから似ている。
またイタチの皮をはいで干していた。獣の皮を剥ぎそれを干して利用していたのである。それは襟巻とかにもしていたのである。
だから獣を捕まえてその皮を剥ぎ衣服のように利用することは長い間なされてきた生業なのである・。

特に山で暮らす山の民はイノシシの肉でもほかの動物の皮でも川でも着るものとして利用していたのである。イノシシの肉などはクジラ肉と言われ山くじらと言われ言われたのは肉食が禁じられていたからである。それで山くじらといい実際は食べていたのである。

ともかく丸森は森の国であり棚田でも奥深いところに隠れるようにしてあり隠れ里にもなる。日本の地形は入り組み複雑でありそういう暮らしも山国でもあるからあった。
丸森は地形的に魅力ある場所である

阿武隈川には船運もあり川張とかに港もあった、そして荒浜に出て江戸に船で物資が運ばれたのである。
ただ日本の川は外国の川と違って急流になるのが多い
外国の川はまるで運河のようになっている。だからこれが船が荷物を運ぶには向いていたのである
阿武隈川でも途中に流れを止める難所があり苦労したのである。
それでも日本でも川を見てその地歴を知ることはやはり必要である。
梁川には中世の館があり池が作られていたのは地理的にそこが要の場所だったからである。
会津藩の蒲生氏郷が一時梁川を支配していた。
そして米沢藩とか伊達藩とかは勢力争いした場所なのである。

だからそこは地歴から見れば要の場所なのである。
だから歴史は地理から見る視点が必ず必要そうなのである。
その地理を知るにわ本当は歩くのは一番いいのである。でもそれは今は難しい。自転車だとやはり峠を越えるとかの感覚が生まれる。やっと峠を越えて吾妻連峰が望まれる時相馬藩から伊達藩に市に入ることを体感するのである。
だから地理を知るということは地図を見てもできない。実際は踏査しない限りわからないのである。土地の高低などは地図を見てもわからないからである。山にしても本当は遠くから望むだけでなく実際に頂上まで登った時山を実感するのである。
ただ登山はしていたが苦しくて40頃にやめたのである。自転車は老人になってもまだ遠くまでいけるからいいのである。





2023年02月19日

晩秋霊山ー漢詩もどきー(相馬藩の姓の系統)


晩秋霊山ー漢詩もどきー(相馬藩の姓の系統)

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晩秋霊山

晩秋古跡訪
南朝滅霊山
木葉風吹舞
巌黒々根露
只野一族住
落武者末裔
歴程語共老




相馬氏藩では主に三つの姓の系統がある、めれは鎌倉時代から始まっている
古いのは義経に従った佐藤氏であり福島市の医王寺にその墓がある
塩手山に二軒隣り合ってある、それは明らかに佐藤氏系統でありその一族が中村に勢力を持った。それで相馬氏はその佐藤氏と争うことになった。
磯部に佐藤館があり後に今ある道の駅の所に鬼越館がありそこに住んだのである

佐藤氏系統と次にやはり鎌倉から来た岩松氏は鹿島区を中心にして治めた
でも四天王という一緒に鎌倉から来た臣下の侍に無惨に殺されたのである
稚児まで殺されたのでそのことは語りつづけられることになったのである
実際にその殺した臣下の末裔は生きているからである
岩松という姓は相馬藩にはないのである、それが歴史の事実を示している
伝説には架空のこともあるが事実に基づいている、

その後相馬氏が進出して支配した、その姓は多様だからなかなかわかりにくいのである
ただ野馬追いに出る武者の家は相馬氏の系統が大半である
姓と言う時昔は一族意識が強い、だからある村の姓が同じだということがある
葛尾村は松本姓が大半でありこれは信州から移って来た人達であり葛尾村の名自体がそこにもある
また常磐線の末続駅を下りたら墓地は8割が新妻姓だったのである
だから新妻一族が住んだ場所だと明確にわかるのである

ともかく南相馬氏鹿島区となると只野の姓が50軒くらいある、それは郡山の多田野村から出た姓であり霊山で南朝が北朝と争い落ち延びた侍が先祖なのである
どういう訳か郡山市は福島県の経済の中心である、東京にも近く会津にも通じているからである。だからトイレを直したのは郡山市の会社だったとかなる
今は仕事も広域化している、いわき市の人が瓦を直してユニットバスは仙台市の会社だったのである、常磐高速道や福島中央道もできたので遠くから仕事で来るとなったのである
桧枝岐だと秘境になっていた、そこの姓は三つくらいしかない、そこに星がある
橘などもあり後から一族を受けいれた、ということは個々人が移動しているのではない
一族が住む場所を求めて移住してきたのである
ただ相馬氏の場合は一族といっても大きな氏族だから相馬藩自体を支配するようになったのである







2022年12月22日

土地土地のものが活きていた江戸時代 (人間の豊かさは風土と歴史から作られたものにある-旅の思い出)


土地土地のものが活きていた江戸時代

(人間の豊かさは風土と歴史から作られたものにある-旅の思い出)

●旅の思い出と料理の話

私が興味持ったのは地理と風土である、それはなぜかとなれば大学卒業してから底辺労働者となりその後は30歳以降は仕事にもつかず旅ばかりしていたからである
何もすることがないのでそうなったのである
仕事は底辺労働だから何かそれは日銭稼ぎでありつまらないとなった
流れ作業していたのが辛かった、これはロボットになることでありこんなことが仕事なのかとなり仕事をしたくなくなった
私の場合は何度も言うように家族に特別恵まれた結果としてそうなった
職につけとか言われなかった、むしろ旅でも何でも自由にしていなさいと言われていたのである、何かそうしてもとがめられることもなかった
ただ金はなかっけど自由時間があったからホテル代を最低にして旅していたのである
ただ旅館とホテル代は節約できなかった、食事は千円以上となると食べていない

何か食事で贅沢をしたことはない、だから旅の思い出としてこれがうまかったなという思いではない、ただ一回只見線で新潟県の小出の魚野川の流れている岸辺の食堂で鮎の塩焼きを食べた、それは安いものだったのである、その川でとれたものだからうまかったのである、それくらいしかこれはうまかったとかの記憶がないのである
鮎は私の住んでいる川でも父親が釣りとかか趣味でありその釣ったものが御馳走だった
その時鮎は大きなものがとれていたのである、今小さくなり食べてもおいしくないのである、そして原発事故で放射線に汚染されたので食べることはできなくなった
その前から鮎は食べるものではなくなっていた
鮎はまた意外と大きな川を船で昇った所で鮎を焼いて売っていた
観光客はみんなそれを買って食べていたがおいしくなかった
なぜならそれは養殖の鮎だったからである、天然の鮎は意外と少ないのである
それは岩魚でも養殖が多いとなる、なぜなら天然ものは量がとれないからである

私にとって旅とはうまいものを食べることではなかった、今は車で旅館にホテルにつき何かうまいものを食べることが旅になっている、だから料理が大事になりその土地の物を食べたいとなる、でも実際はその土地の料理は特別な所ではないと出ない、なぜならその料理になる素材は外国からでも外から運ばれてきて買ったものだからである
江戸時代の旅をしたらそんな遠くから素材は入ってこない、だから土地にあるものの料理になる、でもそれが粗末なものとしてもその土地でとれたもので工夫したものでありそれが郷土料理になっていた、だから土地土地で味の違うものを食べたとなる
だから江戸時代の方がかえって貧しくてもその土地のものが食べられたとなる
そして鮎でも岩魚でも鰻でも天然のものなのである、だからうまいのである
私の父親は鰻をとることもしていた、それが田圃の畔の穴にミミズをつけた棒を入れてとっていたのである、これも不思議に見えた、そんなふうにして鰻がとれるのかと思ったからである、その鰻を家族みんなで料理した、その鰻はうまいものだった
それは天然ものだからであり中国産の養殖とは違っていたからである
今になるとそうした純粋に天然の物は食べられないのである、それは高価なものとなっている、今は豊かでも昔は昔なりに豊かなものはあったとなる

現代とはそうしてその土地土地にとれるものが実際はスーパーで買うことができる
味噌でも醤油でも米でもそうである、でも江戸時代ならその土地に行かないと食べれないのである、だからこそ旅することに意義があった、そこでその土地の味を実感できるからである
今は遠くに行かなくてもいくらでもその土地のものが入ってくる、でも実際はその土地でとれものがあって人間は豊かになる、外からばかり仕入れてその土地土地に住んでいてとれるものがなかったら貧しいとなる、いくら金があってもそれが富にはならないのである確かに外国から何でも入ってくるからバナナでもパイナップルでもオレンジでも食べられる、でもやはり日本には日本のミカンがあっているし土地でとれたものがいいとなる
東北でぱ気候的にミカンはとれないにしろ国内産であるからいい、日本では今では葡萄でもとれるしいろいろとれる、リンゴだと種類が多く日本産でありうまいとなる
相馬地域でも結構リンゴはとれている、結構うまいのである、梨は前からもとれていた
リンゴはこの辺でもとれる、新地のリンゴなどはうまいのである
農家で成立つのは梨農家とかリンゴ農家とか花卉栽培、花農家である、これは現金収入としてそれなりに収入が大きいからである、米でもブランド米となれば売れるが競争が激しいからなかなか売れにくいだろう

●グロ−バル経済の終わり

いづれにしろグロ−バル経済で外国から輸入してその土地土地でとれるものは利用されなくなった、これはかえって日本として貧しくしていたのである
木材でも外材だけになり森は放置されて無用化した結果としてそこがソーラーパネルになった、丸森は森が深く木材資源の宝庫だった、だから米沢藩と伊達藩と相馬藩でその木材資源の取り合いになり争ったのである
今は山ごとそーらーパネル化しているのである、そこで景観は壊される、景観というのも自然だけで作るものではない、人間の暮らしがあって生業があって作られる
里というときそうである、それは全く自然だけの世界ではない、自然が人間化したのが里なのである、奥深い原自然がありそして人間が住む里がある、里とはそこにある者か石でも木でも人間化する庭のような場所なのである
里というときそこに人間的なあたたかみのある場所なのである
里の小径で一匹の赤とんぼが死んでいるのを見る、その時その赤とんぼは人間に看取られて死んでゆくとなる、全く荒寥とした自然ではなく人間がかかわり人間の情が通っているのが里なのである
女性でも古代に里刀自とかなるとその里を知り抜いた家事をとりしきる女性だともなる

私がなぜこうして地理とか風土を基本にしてみるのかとなるとやはりグロ−バル経済とか広域経済とかが交通の発達で極端化したからであろう
そこに土地土地の個性が喪失した、それだけではないそもそもその土地から成り立っていたものが歴史でも伝統でも失われた、そしてグロ−バル化することは一様化することなのである、土地にはいろいろな個性があってもグロ−バル化することはそうした土地土地の風土とかを歴史を無視して単一化する、多様な色があっても一つの色にしてしまう
料理でも日本料理があり中国料理がありフランス料理がある、それは風土と歴史から作られてきたのである、だから料理は多様なのである、また言葉でも方言なとるなと地域性があり標準語と違ってあたたかみを感じるのである
方言は国の訛りとなるからである、標準語と英語が共通語になったときそうした文化は失われるのである、確かに標準となるものは世界で共通なものは必要である
でも同時に世界は多様であることが豊かなことなのである
どこに行っても料理でも同じだ変わりないとなるときつまらないとなる

そして食べ物だとその土地土地の風土の影響が大きいのである、米でも野菜でも果物でもその土地の影響が大きい、それはどうしてもその土地と風土から作られるからである
それは土だけではない、天候もあり寒暖もあり雨と風とか様々な影響を受けて農作物は育つからである、特産物があるときそれはその土地に根付いてその土地にあったものとして開発されたものであり外の土地で作れないものとなる
そこに価値がある、なぜならその土地でしか作れない味になるからである
ワインにしてもその土地土地で味が違っている
葡萄でも微妙に光の影響を受ける、湖があるとするとその光の反射をうけていい葡萄ができるとかなり土地土地の名がついた葡萄がとれる、そこに他ではまねのできない価値が生まれる
それこそが文化なのである、cultureはその土地土地でcultivate(耕す)されたものだからである

つまり料理もそれぞれの土地から歴史から伝統から生まれたものでありそこに価値がある郷土料理とかなるとそうである、でも今は料理としても一様化されている
その土地独特の料理を味わうことはかえって至難である、旅行してその土地の郷土料理など食べられない、みんな定食にしてもトンカツ定食とかハンバーグとか同じものである
外国で私が食べたのは金がないからまたレストランなど入りにくいからハンバーグだけだったのである、これは簡単に食べられるからである
だから何かその土地のものを食べていない、ということはその土地の文化でも知ることができなかったとなる、それは私はバックパッカーでありしょうがいなとなる
意外と土地の料理を食べるということはと相当に贅沢になっている
みんなハンバーグとかなる、それは安いし入り安いからである
でもそこで土地の文化を知ることはできないとなる

●大量規格製品の生産から土地土地の風土に根ざした物の生産に

これからの世界はグロ−バル経済でありそれは量の世界でもあった、大量生産して外国に売る経済だった、でもこれからは質の経済になる、それぞれの土地土地の味を追求したものが価値があり世界に売れるとなる
テレビドラマで温泉宿の女将とか放送していたが酒でもいろいろ味があり違っている
ただこの酒の味をわかるのは本当に通である、その酒の味はその土地土地の土から水から天候から関係して生まれている、米でもそうである、スーパーで売っている米の味が違っているからである

だから今なら土地土地の味をいながらにしてどこでも味わえるとういことはある
でももともとその味はその土地土地でじかに行って味わっていたのである
それが江戸時代の旅だったら歩いて旅するのだから一挙に新幹線で東京とか青森とかに行かない、順々に土地土地を歩いてゆくのだから自ずとその土地土地のことが記憶として刻まれていたのである
人間はだからかえって便利になりすぎるとまたそこで失うものがある、現代文明は土地から遊離しているのである
だからこそ生態系を無視しして原発を作り生態系を破壊して住めなくなったとかある
生態系とは土地土地の文化を育んだ基だからである

またウィルスというのも何か不明にしてもやはり土地土地から生まれた風土病だった
それは不可侵の領域にありそこに人間がづかづかと侵入した結果としてウィルスに感染したとなる、それがグロ−バル化した交通が発達した世界ではたちまちに拡散されたとなる
これからの経済がどうあるべきかなとなるともう規格化された大量生産の時代と終わった日本が経済成長を遂げたのはこの規格化された大量生産の結果だった、一見電器製品は日本で発明したものであり独自のものと見ていたがそれはどこの国でも作れるものであり
ただ先んじて規格化したものが大量生産できたことで売れたのである
それも韓国であれ中国であれまねて今度は中国が安価な規格化したこものを大量生産できるようになった、そして日本は衰退したのである
日本は世界と比べると知的好奇心が希薄だとか世界と比べても学生が本を読まないとか
何か今までも日本礼賛とはまるで違った評価になっている
今まで評価されていたものがジャパンアズナンバーワンとは何だったのかとなる
科学論文でも日本はもうアメリカにも韓国にも抜かれているとかいう
でもノーベル賞をとっているではないかとなるがそれは今のことではない、それはずっと前の業績が評価されたのでありこれからは日本ではノーベル賞はとれない、つまり日本ではあるゆる面で衰退しているのである

ただそうはいっても食糧とかなると料理とかなるとその土地土地からとれるものであり独特の味はその風土と地理から作られるから日本酒が人気になったり日本の米でも果物でも高価なものとして売れるとなったのである、それは他の国では作れないからそうなったのである
私の父はもともと酒屋で働いたから酒屋と縁がある、でも私はずんと酒は飲んでいない
だから酒については語れないし酒はいいものではないと思っている
でも時代によって価値が違う、酒を日本人が飲んでいたのは栄養が足りなかったからかもしれない、とういうのは戦国時代のスペインとかの宣教師が日本に来て布教したがその時食料がなく酒を飲んでいたという、つまり酒は米からできているから栄養があったとなるビールでも麦なのだから栄養になる、そういうことがあり酒を飲んでいたともなったのかともみる、今はいくらでも他のものでも栄養がとれるからいいとなる
そして酒でも料理に合う酒があるという、北陸の酒とかは京都に近く京料理にあった酒が造られたはいうのも地理が関係していたのである
酒と料理は密接に関係していたのである、それぞれの料理に合う酒があったとなる
東北の方が淡麗な味でありかえって西の方が濃い味だという、でも味噌汁などでも西は淡泊であり東北は濃いから塩分が多いから脳卒中が多いともなっていた
その辺がなぜそうなったのかとかなるがやはり風土と歴史で作られた料理がありそれに合ったものが作られてきたとなる

ともかく大量規格製品の経済は終わった、それぞれの土地に根ざした風土に根ざしたもの文化を伝統を歴史を再構築することである、それは国風文化の再興にもなる
原発事故はそうした文化を育む生態系と伝統とか歴史を破壊したので罪が重いのである
それはもういくら金をつぎ込んでも復興できなくなった
自然の中から生まれた生業は喪失した、この損失は金で代えられない、文化とは精神を形成するものである、アイディンティティを形成するものであるとするときその影響は余りにも大きすぎたのである、人間はただがつがつ食べるだけのものではない、文化を精神世界を生きるからである、それができなくなったときその損失は金で補いないのである
ただそのことを土地の人達も意識していない、金だを得ればいいとかしかないのが現代なのである、それは田舎でも同じなのである、何か文化を育むのだということなど意識しない、金になればいいとういだけである、だからこそ原発が金になるということで積極的に誘致されたのである、人間はなんらか矛盾してくる、だから一概には責められない
でも何が大事なものを見失っていた、それが自覚できなかったことは確かである

●心を買いに・・・(農民真壁仁の詩から)

小さな町に実直な菓子屋さんがいる
そこで作る栗羊羹、塩小倉
その味を買いに行く
道具が人の手のあたたかみを伝えるように
手漉きの紙に楮{こうぞ)漉いたかあちゃんの
心が宿るように
菓子にも作りての心がこもる
その心を買いにゆく
日のあたる庭先で莢(さや)はたいたばあさんの
丹精の小豆(あずき)
・・・
土と太陽の光で育ったもの
野の香りをとじこめた菓子
それよりも何よりも
店の主の竹の割ったような
きれいさっぱりとした性格
それに惚れずにいられようか
昔は栗や胡桃や干し柿が菓子だった
その始原につながってる心
心を買いにゆく・・・・

真壁仁はやはり生粋農民だったから菓子でも作るものの心がわかる
それは理論ではなく実際の生活に養われた感性なのである

手漉きの紙に楮{こうぞ)漉いたかあちゃんの
心が宿るように
菓子にも作りての心がこもる
その心を買いにゆく
日のあたる庭先で莢(さや)はたいたばあさんの
丹精の小豆(あずき)

昭和でも原町区の石神辺りで紙漉きをしていた農家の女性を知っている
その紙漉きを教えたのは越中の移民だった、なぜなら越中とかなると越前紙とか有名であり越前からでも相馬藩が飢饉で三分の一に人口が減った時移住してきたからである

そして庭先でないが私が会津を旅した時、道で豆の莢をたたいていた老人がいた
むしろをしいて豆の莢をたたいていた、豆を莢からとりだすためである、これも結構めんどうになる、それは秋の日であり秋の日がさしていた
塔寺駅をおりて立木観音のことを聞いたのである

会津なれ立木観音の古りにしや秋日さし莢をたたく老人

会津には寺院が多い、それはどうしてかとなると病気治癒のために僧が8世紀とか古い時代に来ていたのである

徳一は会津での布教の拠点となる慧日寺(えにちじ)を 磐梯山(ばんだいさん)の麓に開きました。磐梯明神を守護神とし、古来の磐梯山信仰と仏教が深く融合した独自の信仰を築き、会津仏教文化発祥の地とされます。

仏教がこんなに広まったのは病気治癒のためだった、山伏が法印が小さな村でも一地域でも必ずいたのは病気治癒の加持祈祷のためだったのである
医者代わりだったからいたのである
だから医療が科学の分野になるとどうしても宗教は衰退するとなる、ただ宗教は病を治すだけのものではないがそれを志すのは少数者しかないてのである

とにかくこの詩では物と心は分離していない、だからこそお菓子でも物を作った人の性格まで言っている、どんな人が作ったことまで言っている
それがもし外国から入ったものなら誰が作ったとかわからないのである
どういう土地で作ったというのもわかりにくいのである
ただ土地と物が人と物が分離した商品として入ってくるし食べているとなる
心を買いに行く・・・・まさに物には人の造った心がこもっている

物と心は一体なのである、ものはもの憑くとか物には何らか人間であれば心がこもっている、それを生みだして作ったものの心がこもっている、それが地元であれば土地の物であれば磯部の梨とか新地のリンゴでも味が良かったからこんなものがとれているのかとなり味わうとなる、そのとれた場所も知ることができるからその土地の味を味わうともなる
地元だと土地と物と心は一体化して分離していないのである、だから地元でとれたものは価値があるとなる、ただ米等でも味噌でも選んで買っている、地元のものを買うとういことでもない時代である、でも遠くからになると輸送代とかかかり高くつく場合が起きる

第一地元で何かとれないとしたらどうしても豊かになれないのである
外からばかり買っていては豊かになれないことが問題なのである
外国からでも何でも買えるとしても円安とかなったら高くて買えなくなるとか戦争で食料で入ってこないとかなる、そこに安心感もないことが問題なのである
鉄道でも戦争の時とかの安全のため輸送として線路でも残すべきだというもある
だから経済をただ市場原理とか安いからとかだけで決められないのである
また物と心を分離すればそこに何か人間として豊かな生活にはならないのである


途中下車の旅、会津の塔寺


2022年10月28日

飯館村から川俣町へ(秋の暮の短歌俳句) (伊達藩との相馬藩の境の地名)


飯館村から川俣町へ(秋の暮の短歌俳句)

(伊達藩との相馬藩の境の地名)

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石臼は水車でも使っていた

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水境神社の夫婦松ー妙見神社で伊達と相馬藩の境

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養蚕していた家、二階でしていた




秋深むキツネ二匹や大倉に

秋日さし石あたたかや山の村

菊映えて柿なる家の蔵古りぬ

川俣へ葉山神社と秋の暮

境木とバス停一つ秋の暮

峠越え安達太良望む秋の暮

参りける御霊神社や秋の暮

川俣や小手姫の里黄菊かな

川俣は絹の里かな薄紅葉

川俣に猫神神社や秋の暮


木戸木にそ昔の苦労語りしも跡継ぐ人なし秋のくれゆく

木戸木なる半鐘古り秋の暮鐘盗まれしと語るもあわれ

飯館にまた花買いて帰り来ぬ我が家にさして映えにけるかな

(水境神社)

からまりて離れざるかな夫婦松峠越え行く秋のくれかな


安達太良の大いなるかも秋の陽の輝き没りて雲を染めにき

川俣の通りに古き蔵の家昔栄しいくつかありぬ

(御霊神社)

川俣の御霊神社のその前に老女の語るや秋の暮かな

川俣の神社の由来京奈良や小手姫もまた絹の里かな

川俣の絹を作りて栄いけり古き蔵あり秋のくれかな

川俣に神社二つに参りけり木の葉色づき由緒をたずぬ

それぞれの土地の歴史をたずぬるや我がめぐりて秋深まりぬ

深々と山は黙して秋の星きらめきましぬ人は眠らむ


飯館村から川俣へ行った、飯館村から川俣へは10キロあったから結構遠かった
途中「境木」とかのバス停があり境だったのだろう、本当の境は水境神社の所だろう
妙見様を祀っているからである、そこはもともと伊達の相馬の境であった
玉野村がそうなっているがここに植えていた桜の木を玉野村に遷したということでそうだったのか?

臼石とあるとき臼石とは水車に使うものだったのか?その話を木戸木で聞いたからである川俣町は絹で栄えた街であり古い黒い蔵が通りにいくつかあった
それから御霊神社がありその前に老女は座っていた、前の家の人だった
謂れを聞いたがわからない、ただ鹿島神社があると言っていた
ここにも鹿島神社があるのかと思った、鹿島町から来たと言ったが良くわからないようだった、鹿島神社はそもそも全国にある、ここにもあったとなる

小手姫の里となっているから絹織物で栄えた、猫神社があるのは養蚕で猫がネズミを追い払うからいいとなり祀ったとある
丸森にも猫を祀っている猫の町になっているのもそういうことかなとなる

川俣町にも歴史はある、これは次に書くことにしよう

旅という時どうしても車だと旅にならないし地理がわからなくなる
峠にしても車だと越える感覚がなくなるだろう
自転車だと川俣への道を下る所で安達太良山を望んだ時は感動的である
車で来たらそういう感動がなくなる
それで福島市とか二本松市とか中通りに行くとき電車で行くと地理につながりがなくなる相馬藩から川俣へ行くときはやはり地理のつながりがあり地歴を知るのである
つまり相馬藩の境も感覚的に理解する、岩沼から電車で来たらその境を感じないのであるそうすると地歴を理解できないのである

ただ日帰りで行くのは川俣くらいまでである、後は帰るだけで時間がかかりすぎる
また自転車だと宿をとれないことがある、それも大きな問題なのである


2022年10月09日

会津の曲がり屋の写真 (まだそこで生活している)


会津の曲がり屋の写真

(まだそこで生活している)

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薪を積み曲屋に生く冬支度

干し大根曲屋(まがりや)古りて会津かな

曲がり屋に日のさしあわれ干し大根

この写真は会津で撮った、今写真の整理をしている、その時デジカメがまだ出ていない時代であり写真が貴重だと思った
なぜなら人間はとにかく忘れやすいのである、それで写真を見てこんなところあったのかとふりかえる、人間は記憶が大事なのである、でも旅したとしても忘れ安いのである
ここが会津だとしてもどこだったのか思い出せないのである
その時は秋から冬に入る時だったろう、大根を干すのは秋から冬だろう
季語としては冬である、いかにも冬らしいとなる、ただ大根は別に今でも農家では大根を干している、そういう風景はある、凍み大根とかは飯館村では有名である

飯館村で古い兜屋根の養蚕農家があった、そこは原発事故で空家になっている
それがなんとも淋しいものだった
でも相馬藩内で曲がり屋は見たことがない、各地に残っている曲がり屋は馬を飼っていて人間とともに暮らしていた
その曲がり屋の馬を飼っている上で養蚕をしている兜屋根がある写真を見た
いかにも当時の暮らしが感じられる

〈蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと〉芭蕉

馬の尿(ばり)が聞こえた、馬の尿あ出す時相当な量であり音も大きかったのである
実際はそんなところで眠れたのかとなる
私は自転車で旅して隠れるようにある田んぼにテントを張って寝た
日本は田んぼが隠れたような場所にある、気付かないのである
それで隠した田が各地にありそれで税としてとられないようにしたということもわかる

隠し田の刈田に一夜テントかな

尿前の関はこけしの産地、鳴子温泉の近くにある。尿前(しとまえ)とは前が湿地の意味らしい、アイヌ語としているがこれが実際は曲者なのである
しとしとという語があるから日本語なのである、しとしとと雨がふるとなる、しっとりするとかもあるから日本語から来ている、アイヌ語由来は意外と少ないと思う
青森辺りにはあるみたいだがアイヌ語由来にするのは近年否定されているだろう

ともかくこの一枚の写真のいいのは生活感がにじみでていることである
薪を積んでいるから冬支度している、何か花も咲いている、でもこの家の茅葺の屋根は相当に傷んでいるからここに住めるのかとなる
でもなぜ曲がり屋とかが人が住まなくなり観光のために展示されるようになるとそれに
違和感を覚える、それはもうそこに人が住んで暮らしがなくなったためである
人間の暮らしがなくなるとき何か神社でも誰も参るものがなく原発事故の避難区域では死んでいるのである、暮らしがあることで家でも土地でも村でも町でも活きている
それが喪失したとき死の村や町になる、人が住まない限り死の世界になってしまうのである

もう一枚の写真は蕎麦の花である、この季語が初秋になっている、これも会津でとったものである、ただ場所がわからなくなったのである

蕎麦の花会津の暮らし小屋一つ

会津は山国だか蕎麦がふさわしいとなる、桧枝岐などでは米は食べられなかった、蕎麦を米代わりに食べていた、米を食べることは贅沢であった時代がある
山の村では稗とか粟を食べていた、また大根飯とかありかて飯があった

かて飯は、米の消費を抑える目的で、雑穀や野菜など他の廉価な食品を炊きこんで増量した飯である。米に加える食品を「かて」と呼び、その種類によって大根飯、蕪飯、芋飯、南瓜飯、小豆飯、山菜飯、海藻飯と呼び分ける。農業技術や輸送、貨幣経済が未発達時代だった近世以前は、全国的に広く食されていた。米が貴重な離島や寒冷地の山村では、粟や稗など雑穀の飯に野菜類を混ぜ炊きする例も見られた

米が貴重だから米にこうしたものまぜて食べていたのである
90年前に東北飢饉があった、それが悲惨だった、その写真を見たら着る物も粗末であり
もう貧困のどん底に見えた、娘でも売られたとかある、でも東京では西の方ではそんな飢饉はなかった、東北はやはり貧しい地域となっていたのである
それで何か戦争があり飯を食べられるからと兵隊になったとかある
人間はもう食べられないとなるとそうまでなる、食べなければ死ぬのだからそうなる

とにかくこの一枚の写真の語るものはかなりある、写真の時代だからこの写真から読み取るものが相当にある、この写真は貴重だった、こうして一時代が過ぎると写真でも貴重なものとなる
要するに歴史をふりかえると米の御飯でも食べられることは恵まれていたとなる
今なら全国のうまい米を食べられる、これも贅沢なことなのである
でもそのありがたみは感じなくなる、当たり前となり贅沢になれてそうなるのである
でも何か最近食料不足になるとかやはり必ずカルマがめぐってくる
同じ苦しみがやはりめぐってくる、カルマがめぐってくるから怖いのである

曲がり屋の養蚕と馬小屋がある写真

2022年09月09日

福島県の歴史と地理 (福島県の境界の歴史-境界から見る歴史) (戦国時代から白河の関は境界だった―地理は境界から見る)


福島県の歴史と地理

(福島県の境界の歴史-境界から見る歴史)

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歴史人から地図を抜粋したが著作権の問題があるのか
引用として許可されるのか、こういうことはネットが普及して普通の人でも利用することがある
それはインタ−ネットは誰でも参加できるメデアだからである
それは共同作業にもっながるのである


戦国時代を見ても明らかに白河の関が変わらず境界になっていた、伊達政宗が会津を支配していても次に秀吉の仕置きで伊達正宗の会津が蒲生氏郷の所領になってもその境界は変わっていない、そして相馬藩とか岩城藩は変わっていない
その原因は阿武隈山脈がありさえぎられていたことである、地理的障害になっていた
それで玉野村には伊達と会津の境の桜がある

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に

こういう言い伝えがある、そして玉野村では丸森の木材をめぐって熾烈な資源争いがあった、伊達藩と米沢藩と相馬藩で木材資源の奪い合いがあった
それが藩の支配地図を見るとわかりやすい、米沢藩は新潟であり一時は勢力が拡大した
でも不思議なのは伊達との境が新地にあり新地は伊達藩の領地だった
だからその墓地を見ると相馬藩にはない姓がある、伊達藩は相馬藩と隣り合わせであり
そこで争いもあったが戦国時代が終わると協力もしたのである
でもなぜ新地となると平坦な地であり強力な伊達藩が一気に攻めて支配しなかったかである
それはやはり相馬藩が野馬追いがあるように相馬氏騎馬軍団が強力であり攻め入れることができなかったのかとなる

勢力争いとしては会津を支配した蒲生氏郷が意外と相馬藩と境を接していたのである
白河の小峰城の石垣に十字架が彫られていると地元の人に聞いた
氏郷は洗礼を受けてキリスト教徒になっていたからである
そして白河から三春から相馬の境まで一時領地があった、それは伊達政宗が欧州仕置きで秀吉によって叱責されて奪われた、蒲生氏郷に会津は与えられたからである

ここで境界を見る時、みちのくというき白河の関が古代からありそこが変わらず境界になっていた、ここの境界は福島県の今の境界としてつづいている
ここからみちのくに入る場所として継続していたのである
それはどうしてそうだったのか、地理的境界だったからか?確かに茨城県となると平坦な土地になっている、それで白河に入ると山がさえぎっていたとなる

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山頂は福島県東白川郡棚倉町と茨城県久慈郡大子町との境にあり、栃木県との境界から東へ1km未満の距離にある。八溝山地の主峰で北麓には久慈川の源流がある

八溝山は一部一キロくらい福島県に入っている、この山は結構深い、なぜかここを通って
白河の関跡に出た、その地理がわかりにくかった
もともとは久慈川の源流が八溝山になって久慈川をさかのぼって棚倉がありここの方が古い場所である、ヤマトタケルの伝説が残っていて水戸街道にも通じている
ここで蝦夷と戦った記録があるからだ、その時なぜか津軽の蝦夷まで応援して大和軍と戦っている、地理から見れば那須の原がありそこから白河の関所に入る、その平野は茨城県になるのである、那須の原だからである、ただ上野の領域にもなる

とにかくこの地理を知るのが意外とむずかしい、地図を見ただけでもわからない、私は
八溝山を自転車でぬけて白河の関跡に出てきたのである、そういう場所は古代なら通れない、久慈川の川をさかのぼる、川は道にもなっていたからである
森が覆っていたら道がないのだから古代では通れない、でも不思議なのは八溝山は奥深い森におおわれていて暗かった、だから閉ざされた感覚になった
そこから抜け出したいともなった、その山をぬけて白河の関跡に出てきたのである
でも大田原とから行けば平坦な地を行くことになる、芭蕉は日光からこの道をたどり白河の関所跡に出たのである

でも旅する時何かこうして山を越え森を抜け川をたどりとかしてゆくと本当に旅したことになる、その行程が何とも言えぬ不思議な感覚になる
もし古代とかだったら余計にそうである、深い森をぬけると開けた地があるとか未知との遭遇がある、そもそも古代となると旅することは命がけの冒険にもなっていたのである
山を越えて深い森をぬけて川をたどりその向こうに何があるかわからない世界がある
今のように何かすべてわかったような世界ではないのである
現代はもう旅する前かは行く先でも何でも情報があふれてわかっている、未知な世界がなくなったのである、道は未知だったのである
地理を知るということは鉄道の旅でもわからない、一番わかるのは歩く旅になる
なぜなら戦前でも江戸時代でも歩いて旅していたからである、するとその当時の人の心を知るには歩く旅をしなければわからないのである、私は自転車で旅したから歩く旅には通じていても歩く旅はしていないのである

深々と小暗き森を抜け出でて白河の関や秋になるかな

草の花道の辺に咲きあわれかな関所の跡やみちのくに入る

いづれにしろ伊達政宗であれ蒲生氏郷であれその物語に人間を見る
蒲生氏郷も伊達政宗も歌がうまかったのである、詩人でもあった
何か昔の武将は武だけではない、文にもたけていた、今の政治家にそういう人はいない
とういうことは現代人はかえって人間的にも劣化したのかともなる
侍というのはそれを育てる環境がありエリートととして育てる環境があり優れた人が育ったとなる、明治維新でも依然として侍がエリートとして指導者となり国造りしていたのである、それが明治の後半とか大正時代から戦争になるころは侍は存在しなくなった
国民は存在しても指導者になる侍はいなくなった、それは全世界的に言える
国民国家であり大衆社会となったのである、そこで人間を教育する環境は喪失した
ただ学校などで一様化規格化された人間を生み出すだけである
知識には優れていても人格的教育などないのである

侍とは武だけではない全人間として人格的に優れていたと人達だともなる
だから江戸時代までは侍を模範にしていたのである
現代は教育するというとき膨大な知識を教えられる、その知識の量が多すぎるのである
江戸時代なら限られているからその分人格教育とかが主になる
現代ではかえって教育となるともうAIとかが教えるとなる、知識の量が多すぎるからそうなった、ただそこではモラルとか人格教育はない、そしてなぜカルト宗教がこれほど増えたのか、それはもう教育する場がない、侍のようなエリート育む場もない
大学などでもそうである、大衆化して教育自体がなくなっていたのである
だから学生運動とかカルトにはまる人もでてくる、そこには教育する場所でもないのである、かえって藩校などが全人格的な教育をしていたとなる

氏郷の会津転封は、伊達政宗を牽制する意味と、秀吉が氏郷を都から遠ざけようとしたためだと思われます。氏郷の夢と激しい野心は、秀吉の側から見れば、ひどく危険だったのです。
 会津黒川城を居城としてからわずか五年後、氏郷は京都にて病死します。

 文禄の役の時、氏郷も兵を率いて、会津を出発、京都を経て、秀吉が朝鮮出兵の本営を置いた肥前名護屋(佐賀県鎮西町)に参じました。その道中の歌があります。

世の中にわれは何をか那須の原なすわざもなく年やへぬべき
 (我は何をなすためにこの世に生まれたのか。那須を通過しつつふと思われる。不本意なままに時間だけが過ぎて行っていいものか)

思ひきや人のゆくへぞ定めなき我がふるさとをよそに見むとは
(思いもよらなかった。人間の運命は不可解なものだ。生まれ故郷を旅しながら、無縁な場所のようにただ通り過ぎてゆくだけとは)

蒲生氏郷は朝鮮出兵のために九州の名古屋城に行ったがそこで病気になり京都で死んだ
40才だった、でも優れた人だったのである

かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風

ただ会津を治めたとしてもその期間は短かった、40才で死んだとなればそうなる
その息子も20代で次々に死んで受け継ぐことができなかった
一代で終わった不運の人だともなる、病気で早死にすることはその当時相当にあった
それにしてもこうして福島県の会津を治めたのでありその領地が実は相馬藩の境まであったというのも相馬とは無縁でもない、どうしても会津というと地理的に一体感を感じないのである、でも福島県としてすでに古代からその境界はみちのくに入る境界であり歴史的境界ともなっていて福島県というのが必ずしも歴史で作られた地理を無視しているわけではない、地歴を無視して福島県になったのではない、古代の歴史からさかのぼることができる、また伊達藩とか最上藩とか米沢藩との境もありそれもわかりにくい、境というとき実際にその場に立って実感することが必要なのである
それで宮城県と山形県の境はわかりやい、面白山でさえぎられトンネルを抜けると山寺になり山形県になるからである、トンネルをぬけると雪国だったともなる
山形県は春でも山が残雪で雪におおわれていたからである
そこが気候の境目にもなっていたからである

ともかく歴史を知るには地理を知らねばならない、時間軸になると歴だが空間となると地理になる、その両方をしらなければ歴史もわかほらない、でも地理となるとこれは福島県ずら広いからわかりにくいのである
どうしても会津は山国であり氏郷が治めていた時でも42万だったから広いのである
そこを自転車で旅しても本当に地理がわからなかったのである
福島県の地理はハマ、ナカ、アイヅがあり気候も違っている
だから二本松城に立ったときそこが福島県の中心をにも思えた
なぜなら二本松県となる構想もあったし磐城県となることも会津県ともなることがあったからだ
ただやはり地理があり歴史があり福島県になったのである、それは地理と歴史を基してそうなった
そこに多少無理してもやはり福島県は地歴として古代から形成されていたともなる
まず浜通りは中通りでも高い山があり会津ださらに山国であり広いのである
会津が一番歴史が古く唯一三角縁神獣鏡が東北で発見されている
会津が福島県では一番古い地域であり国があったとなる

会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね

この歌のようにすでに最初に国として意識されていた地域なのである
もう一つ南相馬市の鹿島区の万葉の歌も境界を示した歌だった

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを

笠女郎(かさのいらつめ)

この歌も境界の歌だった、それは地理的歴史的境界として真野の草原があった
浜通りから海沿いを大和の勢力が進出するには地理的に良かった
そして真野の草原の地点はこれまで考察したように気候的にも地層的にもシャリンバイが南限の地として鹿島区の海老が自生する地域であり温暖だからそこまで奄美大島から種が流れ着いて自生したともなる、しだ神社もありそれは南国産の樹なのである
みちのくの境界として白河の関があるとしてむしろ真野の草原が最初の境界ともなっていたのである、境界として意識されていたのである、つまり境界とは自然の境界があり歴史としての境界がある、新地などはさえぎる山などないのだから歴史的境界なのである
でも古くなればなるほど地理的境界が自然的境界にもなっていた
外国は川が長大で大きいからライン河がローマ帝国が侵入できない境界となっていた
ゲルマン人がそこに住んでいたのである
そしてウクライナの戦争でも川が依然として戦争で防衛線になっていたのである
だから橋を壊して渡れないようにするとなかなか川を渡れずに攻め入ることができないとなっていた、現代の戦争でも地理が依然として影響していたのである
現代でも戦争でもやはり地理が地勢が影響していた、これはなかなか克服できないものだったのである




2022年08月15日

奥会津の旅(鬼百合十句‐記憶の旅―写真四枚)


奥会津の旅(鬼百合十句‐記憶の旅―写真四枚)

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この辺に小林村というのがあった記憶

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蒲生岳
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伊南川

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激流に鬼百合映えて奥会津

夏草に碑の古りあわれ奥会津

鬼百合や我が力だし来たりけり

鬼百合や五六軒の家奥会津

鬼百合や遠く来たりぬ旅の人

鬼百合や激流轟き崖そそる

蒲生岳はるばる来たり夏燕

旅人の休む木陰や奥会津

墓倒れ鬼百合咲くや奥会津

小出にそ鮎釣る人や魚野川

月見草河原に咲いて小出かな



会津の激流

巌はきびしく反り直立しぬ
激流はひびきほとばしる
燕飛びはるか来たりぬ会津の奥
鬼百合の咲き燃ゆるかな
会津の奥処が知らじも
重量に山々閉ざし千古経ぬ
その秀麗なる山岳を望みて
会津の心は養われぬ
鬼百合のここに燃えよ
その命激しくここに燃えなむ
会津の激流はひびき我はさらに
遠くへと山々を分け入りぬ




人間はとにかく忘れやすい、20年前30年前となると記憶していることがあいまいになる
だから思い出して俳句とかにするにしてもそこがどこかわからなくなる
確かに只見線を通って小出に出た、小出駅前に魚野川がありそこで釣りしていた人がいたその川の前に食堂があり鮎料理を食べたことを記憶している
そこはかなり鮎がとれる場所なのである

でもわからないのは伊南川にも行った、でも伊南川は只見町から入り桧枝岐の方に行く
地図ではそうなっている、自転車で桧枝岐まで行ったことがあるから伊南川に沿って
行ったようだ、つまり只見線で小出に行ったの伊南川に沿って行ったのは別々の旅だったのである、これが混同している

会津は川が長いし激流がありこの辺の短い川とは違う、そこに川の魅力があり山の魅力がある、浜通りは海があり海の魅力があるとなる
ただ会津は本当に広いから地理がわからない、でも自転車で三回くらい行っている
会津はもともと福島県でも別個の大きな地域であり国である
それは古代からそうであった、唯一国として認識されていた

会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結びさね

だから会津は古代から大きな国としてあり歴史があり文化があったとなる
そこが中通りとも浜通りとも違うのである
それで大塚山古墳には三角神獣鏡が唯一発見されている、その歴史が古いのである
それは地理的に阿賀野川を通じて日本海から近畿地方から人が入ってきていたからである日本海の方が交通路として最初に開けていたからである
古代とかなると道が整備されていないから海でも川でも道になっていたのである
福島県で一番古い地域は会津だともなる
会津というと白虎隊とか注目されているが実際は古代から独立した大きな国だったのである

旅でも準備して旅を実行して後は回想する旅になる、そして意外と注目されていないのが回想する旅なのである、でも20年30年とかさらに過ぎると記憶もあいまいになるのである、だから写真とかとっているのは後で思い出すのにいい
ただその時はデジタルカメラの時代でないから写真が簡単にとれなかった
でも残った写真を見たら思い出すことがある

ともかく自転車で行ったことは貴重だった、今になると行けなくなった
体力的にも行けない、するとどうしても思い出す旅になる
でもその時思い出せないとするともう旅したことでもしてなかったとまでなる
現実その人は確かに子供の時五年間一緒に生活していた
でも実の兄とかではないので五年間いてもその人を知らないと言っていた
その女性は異常な人だったからそうなったかもしれない、非情な女性になっていたからである、でも50年過ぎたらどうなるのか?

大学時代でも東京で逢った人はそんな人がいたのかとまでなる
人間とはこうして何でも忘れる、そして最後に認知症になり子供まで家族まであなた誰ですかとなってしまうのである、つまり人間は忘れ安いのである
そしてそんな人と逢ったこともないし知らないとまである
それは家族ですら十年に十年と過ぎてゆくとあいまいな記憶になってしまうからである
そして死んでしまうとさらにその人が実在したのかどうかすらわからなくなる
百年前に生きていたとかでもその人が実在したかどうかもわからなくなる
それはもう名前さえ残らない、名前が残っている人はましだとなる
膨大な人間が実際は消えてしまったのである、消えてしまったということはその人は実在しなかったともなるのである
墓が残っていれば誰かがここに埋められて眠っているとか思う
墓は最後の人間存在の証明だとまでなる
ところが庶民は姓もなく墓もなかった、村の共同墓地に埋められていたのである
だから個人はなくただ共同としての墓地があった、それがホトケッポなのである

会津は広くて地理がわからない、ただ山国として魅力がある
でも今は記憶してありそれも定かではない、あいまいになってしまったのである




2022年04月18日

飯館村を回り霊山神社へ(佐須から石戸村ー石田村ー桜の短歌)

飯館村を回り霊山神社へ(佐須から石戸村ー石田村ー桜の短歌)

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大倉からへ佐須へ行く道は一昨年から通じていない
今回の地震でも壊れたからさらに長引く

この石は地震で落ちてきた、でもそう見えないだろう
何か座石とかなづけられる、座るにいい石だからである
でも不思議なのは地震で落ちたということはあとから見たらわからないのである
だから年代としていつ落ちたかを記録していればわかるのである



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ただブラウザによって見えないものがあります、一度コピーして別なソフトで見るといいです


里の道山鳩歩み花の影

山吹きや磐打つ流れひびくかな

山桜高きより散り触れられず

山の村十軒ほどや花に雲

地震にて落ちし石一つ変化かな




記録として残されていたもの

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大岩に桜の咲きて石田村

これは桜の樹なのか?確かにこういう光景だったが今回は
ここを通っていない

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この滝がどこにあるのかわからなくなった、霊山神社にもうでた帰りの道だった



顕家の像に朝散る桜かな

祭られて神社を覆う桜かな

夕べ散る花のあわれや霊山城

山陰の霊山町や夕桜

隠里滝のひびきに夕桜

ここに記録として残っている、でも思い出せないものがあった
http://www.musubu.jp/ryouzankikouhaiku.htm





(大倉から佐須へ)

清流の巌にひびき山桜見上げて高く朝に咲くかも

鶯の声のみ高くひびきけり人気なき村我が通りゆく

人住まぬ家にそあわれ水の出て春に来たりてしのびけるかな

冬ごもりながくもあれな峠越え高く連なる春の峰々

春光や峠を越えて吾妻嶺を我が仰ぎ見て伊達市に入りぬ

(石戸村)

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風そよぎ花の散るかな旅人休む石戸村かも

白壁の蔵の大きも霊山や枝垂桜の石戸村かな

(石田村)



古き碑に春の日さして山の道上りてたずぬ人のありしも

古き碑の並びし山路桜咲き夕暮れあわれたずぬ人あり

山により家の古りぬも夕暮れや桜色にそ染まりひそまる

墓一つたずねてあわれ石田村我が去りゆくや春の夕暮れ

(霊山神社へ)


この石段を上り霊山神社に行ける、でも草に埋もれた道となっている
もともとはこの道を行っていたのだろう、でも高いのである



石田村枯木に墓地や春来るも

ここの墓地には江戸時代の墓がある、でも幕末でありそれほど古いものではないだろう

霊山神社への道


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ここから霊山神社に行けるが道は荒れている
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春なれも枯木に墓地や石田村


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分け入りて古木の桜石田村


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霊山神社の手水鉢


花おおふ石段高く椿散り霊山神社に登る道かな

登り行く石段高く桜咲き椿も散りぬ霊山神社へ

花冷えにみちのくの桜散りはかなき命偲び惜しみぬ

山の奥霊山神社をもうで帰る滝のひびきて花の夕暮れ

顕家の像に花散るなお残る花や夕暮れ我が去りにけり

あわれかな花散る跡の霊山城南朝の夢ここにつええぬ

登り来て霊山神社に四十雀鳴く声ひびきて春の夕暮れ

手水鉢白椿そえ水いでぬ霊山神社に巫女一人かな


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みちのくの春の連峰春夕焼け

安達太良ー吾妻嶺ー後ろに飯豊山ー蔵王ー大東岳が見える
この連邦は圧巻である
(大霊山線)

吾妻峰に蔵王連なり夕陽没る青々として春の夕暮れ

赤々と春の夕陽の映え没りぬ高くも連なる峰々望む

一時や昨日は晴れるもたちまちに雨ふりて変わりやすしも花は散りゆく



これがわかりやすい


2022年01月21日

古殿からいわきへ自転車の旅の詩(新年の詩) (フタバスズキ竜と浜通り)


古殿からいわきへ自転車の旅の詩(新年の詩)

(フタバスズキ竜と浜通り)

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古殿からいわきの浜へ

古殿から御斎所峠を下る
一心に自転車で走り下る
鶏頭が赤く燃え咲く
我が心も赤く燃える
下りきって川に出た
水は透明に澄んでいる
そんな所で石を探す人がいた
十万にもなる石があるとか・・
その眼は卑しい、豚の眼にもなる
常に人は金を求める
清浄な自然にも金を求める
その清流を鮎が上り死ぬ
落鮎はここで短い命を終える
その清らかな水に命を終える
さらに遠野を回り農夫がいた
そして太平洋に出た
広い広い大平洋よ
フタバスズキリュウが波を切って泳ぐ
魚が群れて泳ぎ海竜が首を伸ばして
ぐいぐい力強く泳ぐ
その姿は神の業の快挙だ
悠々と波を切って泳ぐ
それは太古の夢だったのか
その姿は消えて化石となり億年眠る
大きなアンモナイトも積み重なり眠る
ああ 卑しい人間よ
その目は何を見るのか
その目は濁りもう美を見ない
大いなる自然の美を見ない
時に大いなる自然はノワの箱舟のように
世の穢れを洪水で押し流すのか
そして再び太古の自然が蘇る
雄大な自然の中にありあまる幸を得て生きる
人間の業の原発は万年の災いを残した
プルトニウムは二万年消えない
億年の地史の中にそれは残る
人間の技は災(わざ)いを残す
そこに人間を住めなくした
私は海岸にテントを張り
朝に海に太陽を輝き昇るのを見る
撫子が咲いていわきの浜を去る
その海岸線を軽快に走り去って行く
かなたに鴎が飛んでゆく
白波が寄せてひびき広々として
海岸線はどこまでもつづいている

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庚平7(1064)年御冷泉天皇の御代、東北の地に阿部一族が乱を起した時、源頼義が一子八幡太郎義家を供に討伐の兵を進めた。戦い利あらず一時この地にあって再挙の機をうかがいはるかに石清水八幡宮に戦勝を祈願した。ほどなくみごと勝利をおさめたがこれを記念し、部下の福田次郎(石川氏の祖)に命じて石清水八幡をこの地に遷座しまいらせたといわれる。代々の領主が隠居入道し、修験となって八幡を守護、古記殿を館としていたのでこの地を古殿と呼ぶようになったという。このゆかりの名にあやかって古殿町と名づけられた。

古殿八幡に古くから伝わる「流鏑馬(やぶさめ)」の行事がある。狩り装束に身を固め鏑矢を背に弓を左手に持った三人の武士が疾走すろ馬上から一の矢、二の矢、三の矢をはなつ、この行事は無形文化財として保護され秋たけなわの十月の第二日曜日に毎年行なわれる。
https://www.town.furudono.fukushima.jp/kanko-dentou-bunka/see/shiseki/furudonochoushi/rekishibunka/110

元応(げんおう、(旧字体:元應)は、日本の元号の一つ。文保の後、元亨の前。1319年から1321年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時

市神の碑といわれる12号塔は、碑面を詳細に検すると、「市神」等の現文字は新しく、中央上部に種子、「市神」の字として重複して「元応元大才己未□月□日」とかすかに旧銘が見える。中世の古い板碑に、後世市神等を追刻したことがわかる。荷市場(にいちば)という
鎌倉岳は標高669mあり、古殿町の松川地区に高くそびえる山です。
その名前の歴史は古く、遠い昔、鎌倉より嫁いできた姫が故郷恋しさに、「私の慕わしい鎌倉はどちらの方にあるのだろう」と聞いたので、村人たちが「この 山に登れば鎌倉が見える」と、姫と一緒にこの山に登ったことが由来とも言われています。


市神を秋にたずぬやいわきへと

古殿に鎌倉岳や姫あわれ山間深く秋となるかな

古殿というと鎌倉と関係していたのか、市神とかあったがこれも古いものだった
鎌倉時代となると東北地方に鎌倉から移住した武士が多い、南相馬市の鹿島区の岩松氏は有名である、最初に南相馬市を支配したのは岩松氏だったからである
ただその一族が幼児まで皆殺しとなったので伝説として残っている
だからこの伝説も信憑性があるとなる
鎌倉という名をつけたのだからそうなる
ただ地名はいろいろあり鎌倉が必ずしも鎌倉時代の鎌倉とは違うことがある
なぜなら宮城県でも丸森にも鎌倉があったからだ、他にもある、

神の御座所である「神座(かみくら)」が転じたものとする説などが有力らしい。しかし日本語の性質からして、「かまどくら」が「かまくら」になったり、「かみくら」が「かまくら」になることは難しいのではないか。「かまどくら」はなかなか変容することが難しいし、「かみくら」なら、「かんくら」から「かぐら」と変容するのが普通だろう。
○おそらく、「かまくら」の民俗行事と鎌倉地名とは同じ語源ではないだろうか。かまくら・鎌倉の語は極めて古い。鎌倉時代に唐突に鎌倉の語が成立したわけではない

薪樵る鎌倉山の木垂る木をまつと汝が言はば恋ひつつやあらむ(譬喩歌:3433)

https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519941371.html

この流鏑馬とかは鎌倉から武士が伝えたものとするとなんらか関係あるのか、地名の問題は鎌倉とあれば鎌倉時代とか連想する、そして鎌倉の地名があって伝説がこじつけられる地名伝説にはそういうのが多いのである、実際は無味乾燥な地形とかに由来しているのが多いのである
だからすでに万葉時代にカマクラの地名が歌われている、それは地形的なものと関係している、つまり注意すべきは鎌倉という地名は鎌倉時代より古くからあったということである、だから鎌倉岳がいつそう名付けられたのか問題になる、地名は古代からのものがあり古いのが多いからである

ここから一路いわき市の方へ自転車で下った、下り坂だから気持ち良かった
その時電動自転車ではなかった、これが坂だったら上るのが大変なことになる
ただあの辺を確かに行ったのだが記憶が薄れている
でも石川郡とかであり山の中に万屋(よろずや)がありそこでご飯と味噌汁を御馳走になったのである、今時そんなことをする人はいない、そこは山の中でまた万屋が残っていたのである、それが記憶として残っている
自転車で旅して親切にされたことはない、胡散臭い奴だとなって宿にも泊まりにくいのである
何か江戸時代辺りでも旅は簡単にできない、殺された人もいるというのも伝えられているそれはよそ者を殺しても犯人がとがめられないという村社会だからそうなった
江戸時代のことを回想して美化しているが実際はそんなものではないとなる

ともかく市神の碑のある場所から一心に御斎所街道を下った

現在はトンネルを通って峠を越えるが、かつては山腹の崖に近い斜面を上り下りし、屈曲した狭い道を行き来したようだ。「七曲」「大曲」。一度踏み外すと、約100メートル下の谷底まで転げ落ちるほどの難所に苦慮した人が、畏敬の念を抱き名付けた峠の呼称が今も残る。

御斎所街道・全3回(3)】 難所続いた古道の名残
https://www.minyu-net.com/serial/kaidou/FM20160221-051701.php

この辺では飯館村の大倉から草野の方に行く古い道は本当に七曲の細い道だった
どこでも山の道はくねくね曲がっていたのである、そもそも直線の道を作ることは日本では山が多いからむずかしかったのである
今は曲がった道ではなく新しい真っすぐな道ができているから車でも行きやすい
古い道はもう誰も通らない道となった、古い道がここでもありそれはわからない

そうして下りきった所で遠野に出て鮫川が流れている、その水は清らかである
そこで落鮎が食べれる場所があった、落鮎が清い水に死んでいた
そこで合ったのは変わった石を探していた人だった、何十万になるとか言っていた
そんな高い石があるのかと思った、その人の眼は癒しと見た
人間はともかく金になることだけを追求していると卑しくなる
自然の景観は無料で鑑賞できる、でも金になることを追及していると自然の美も見えなくなる

秋の水流れて清し遠野かな

遠野という地名の由来は何なのか

「トオ」は「峠」の詰まったもの。【JR・第三セクター 全駅ルーツ事典 村石利夫 東京堂出版】

 「遠閉伊(とほのへい)」の下略。又は、「タヲ(撓んだ地形)」+「ノ(野)」の転か。アイヌ語説は付会。【市町村名語源辞典 溝手理太郎 東京堂出版】

 以下のような様々な説があると言われる。【岩手県庁のサイトより】

(1) 閉伊の先、閉伊の奥の意味で呼んだ汎称「遠閉伊」の野原という意味
(2) 山間の遠い野
(3) アイヌ語のト(沼)ヌプ(野)
(4) 「東野」の意味で東方の野
(5) 「撓野(タワノ)」の転訛で、たわんだ地形の盆地 

遠い野とか奥の野というときいわき市街からは相当遠いから合っている
ただこれも何か遠いということで感じからイメージするが地名は無味乾燥な地形とかに由来しているのが多い、でも何か地形的にもあっている
でもどうして遠野と名付けられたのか?そこに住んだ人がわざわざ遠い野とは言わない
ただ遠野という地名はその辺りの小字地名でありそれが大きな地名となったことはありうる

その遠野からいわきの浜に出た、そこでテントを張り一夜寝た、起きたら海から朝日が昇る、その浜に撫子が咲いていた、それが何かいわき市にふさわしかった
やはり山より海に出るのがふさわしい、浜通りの道は常に海に通じいる
山にも通じているがどうしても海に向かっているのである

そうしてその海は黒潮と親潮の交わる地点であり波立海岸には小さな熱帯魚が泳いでいたそれを追って千葉県から来た人がいたのである
さらに太古になるとフタバスズキ竜がいた、これを見たら驚嘆する
浜通りは太古には深く海が入り込んでいた、だから南相馬市の鹿島区の真野川上流から
サンゴの化石が発見されたりする
またアンモナイトの化石が集積している所が博物館にもなっている
それは海からかなり離れて遠いのである、だから太古は山の方まで海になっていたのである、だから化石が山の方に埋もれていたとなる

このヒマラヤ山脈最高峰のエベレスト山では、アンモナイトなどの貝の化石が見つかります。”海の生物”の化石が、地球上で最も海から遠く離れた場所で見つかるのです。

これも信じられないとなる、それだけ地球自体が動き隆起して変動しているのである
だからトンガで海底火山が爆発したように地球常に変動しているのである
津浪でも元の入江が再現されたことに驚いた、田んぼだったところは湿地帯になったのである、釧路湿原のように一部なったのである
地球が変動するということは日本列島が沈没するというのも嘘ではないのである
沈没しなくても日本列島は変化する、陸地が海になり海に新しい島ができて陸地が広がるそういう信じられないドラマが地球規模では起きるのである

とにかく自分の旅をふりかえっていかに記憶する旅が大事かわかる
だから自転車の旅は記憶に残る、あそこを懸命に長い坂を上ったとか下ったとか覚えている、蘇るのである、そうして今俳句や短歌や詩にしている
もし車とかバイクだと記憶されないから記憶が蘇らないのである、するとその労力も無駄だったとなってしまうのである、つまり時間の無駄だったということに気づくのである
旅でもその収穫を得るにはやはり記憶する旅をしないと大損だったと気づく
なぜなら老人になるときつい旅はできなくなるからだ
老人は記憶に生きるようになるからだ、とにかく人間は記憶することが大事なのである
ただ記録と記憶はまた違っている、記録しても記憶されないこともある
その時の実感は記録して記憶とならず忘れることがある
ただ記録したもで記憶が蘇ることはある、だから記録も大事なのである
30年とすぎれば何かあいまいとなりどこを通って行ったのかもわからなくなる
だからこそ記憶する旅をしないと旅したことにもならないとなり大損だったとなるのである










2021年11月16日

新井白石の霊山鎮の漢詩ー相馬の義兄を訪ねて霊山に寄った


新井白石の霊山鎮の漢詩ー相馬の義兄を訪ねて霊山に寄った

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霊山鎮  (「新井白石全集」所収)
  
  霊山開巨鎮、郷月照雄藩、
  鐘鼓千峯動、貔貅萬竈屯、
  出師資上略、刻日復中原、
  一夕長星堕、年年哭嶺猿、


   (読み下し) 
  霊山、巨鎮を開き、郷月、雄藩を照らす
  鐘鼓、千峯を動かし、貔貅、萬竈に屯す        ※貔貅(ヒキュウ)=猛獣
  出師、上洛を資り、刻日、中原を復す
  一夕、長星、堕ち、年年、哭す、嶺の猿
   (意訳)
  霊山に聳える巨大な山城、霊山鎮。月が南朝方の伊達郡の地を照らしている。
  鐘や鼓の音が千の嶺々に響き、屈強な兵たちが万の家々に屯している。
  奥羽の大軍勢を率いて上洛した北畠顕家公は一旦京都を平定した。
  しかし、ある日の夕方、長大な彗星が墜落した。それを悲しんで 霊山の嶺々の猿が 今でも毎年泣いている。
  

  「顕家生ては、奥羽を以て根拠と為し、身は泉州に死すといえども、魂魄反(帰)りて常に此の山に在るが如し」
  
  ●享保6年(1721)8月9日新井白石書状 水戸彰考館総裁安積澹泊宛(抄)
「 一、奥州に家兄の事、『白石詩草』にて御覧に及ばれ、御尋にて候。某事は亡父の時より
故土屋民部少輔家人にて、民部少輔第二子相馬の家へ養子に罷成り候時に、某兄にて候
者をも附属し、つかはし候に付、相馬の城下中村に居住し候。是は三十年許以前に死去
し候て、子供も両人迄候ひしも打続き死し、今は孫の代に罷成り候。
さて某事は民部少輔子伊予守代に浪人仕り、堀田筑前守(正俊)家へ罷出、下総守(正仲)
代まで彼家に罷在り候。その時に福島へ一度、山県(山形)へ一度、罷越し候事に候ひ
き。信夫郡は即ち福島を申し候。
 兄の名は弥一右衛門正信と申し候ひき。『白石詩草』の中の人名の事、いかにもいかにも
忘れ申さず候。追て書付進呈致すべく候。彼福島より中村迄は僅に六里に候。中路に顕家中納言(北畠顕家)の遺跡霊山鎮是あり候て、今も昔の庭の跡に牡丹など春を忘れず候。礎石等も元のままにて、焦穀時々あなたこなたより出候と申す事に候。」
(「新井白石全集〕所収)
http://datenokaori.web.fc2.com/sub154.html


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晩秋悲風霊山

峨峨たる岩峰迫り
一転雲覆い暗黒
一時に木の葉共に散る
風雪帯ぶ巌に木の根づき
霊山に僧の籠もり修行
南朝の砦となり一〇年
戦い滅び武士の落ち延ぶ
若くして戦士の顕家の魂
ここに宿りて無念を語る
寥々として悲風吹く晩秋
木の葉風に舞い散り
その麓石戸に土蔵古り柿なりぬ
時雨の我が老いの身を濡らす
落武者は相馬の方にあわれ
身をやつして落ちにけり
短日の暮れ安く我も急ぎ帰らむ
その末裔の今に祭りとして
我が里に只野一族の数多
基は郡山の多田野村より来る
その謂れを語り残りけるかな

霊山の巌は黒々と夕暮れや花散りあわれ南朝亡ぶ



新井白石が福島城により霊山により養子となった相馬の義兄をたずねた
これも奇縁だとなる、中村街道を通り相馬の城下まで来たとなる
六里というのは過ちである、というのは旅していると距離の感覚がわからなくなる
ましてや江戸時代となると余計にそうなる、何か時間でも正確に計れないからである

霊山の魅力は玄武岩の黒々とした岩峰でありその黒さが印象的になる
それと南朝の城としての歴史があり歴史と自然が一体となって魅力をかもしだしている
顕家は二一歳で戦死した、あまりにも早い死でありまさに彗星のように消えたとなる
その霊山から落ち延びた落武者の末裔か相馬につづいているのである
南相馬市の日吉神社とか山王神社とかはもともと北畠家が守護神とするものである
それで山王神社とかの旗が野馬追いに出るのである
あとは南朝の菊の紋の旗が出る、霊山の歴史と相馬藩の歴史が重なっているのだ

そもそも霊山では北畠顕家が城とする前に山岳仏教の天台宗の修行の場だった、それは山形県の山寺でも同じである、天台宗なのである
天台宗の本山寺院である比叡山・延暦寺は平安仏教の中心地となり栄えました。
天台宗を基として鎌倉仏教の交流を迎えた、その基礎に天台宗があった
天台とはまさに高い所で天に通じる所で修行するということである
六根清浄の地として山岳仏教が基礎となっていたのである
ただ日蓮とか親鸞とかははなじみがあるが天台宗というとなじみがない、それは中国に留学生として習い伝えたのである

仏教でも空海でも中国に遣唐使に交じり実際に行っている、それから仏教は中国から学んだのである、鎌倉時代に道元は禅の寺を開いたが中国の寧波に渡り天童寺で修行したのである、そこで実際に私は天童寺に行って道元が座禅した部屋を見たのである
古松の道を上ってゆくとその場所がある、春の日に高い塔がいくつか見えた
中国では塔が多いのである、中国が仏教の興隆期があった、それで今でもその遺跡が残っている、でも何か日本では中国でそんなに仏教が普及したのかわからなくなった
仏教は中国経由で学んだのである、それが日蓮とか親鸞とかで日本化した仏教になったのである、宗教でも必ず別な国に普及するとその国の風土とか文化と一体化するのである
日本では神仏習合になったことでもそうである

ただ江戸時代になると仏教は官製のものとなり寺は役所のようになったのである
幕府で仏教は保護したからである、だから仏教の歴史でも江戸時代はむしろ論語を学んだ時代でもあった
ただ現代になると仏教でも論語でも親しみがないし何か伝わらない、教えが継続されていないのである
おそらく明治維新でそうした伝統が途切れてしまったともなる、神道が廃仏希釈などで神道が国家に保護されて天皇が現人神(あらひとかみ)となり国家神道になった
そして戦後はまた国家神道になったことで否定されたので神道というのも何かわからなくなったのである
中国でも仏教は文化革命で破壊された、共産主義思想によって統一されたからである
ただ仏教の遺跡は残っている、でもそれが人民に継続されているかどうかとなるとなっていない、共産主義と相いれないこともあり政府では宗教を警戒しているからである
反政府として宗教をが人をまとめることがありそれを恐れているのであるだからキリスト教も弾圧するとなる









2021年11月10日

霊山町の方に行ったが全く記憶が消えていた (人間ほど忘れやすいものはない)


霊山町の方に行ったが全く記憶が消えていた

(人間ほど忘れやすいものはない)

霊山を越えて霊山町の方に行ったのは20年から30年ぶりくらいかもしれない
それで不思議だったのは霊山神社があるところが道から奥の方にありこんなところにあったのかと不安になり行かなかった、そこまで行った記憶が全くなくなっていたのである
他にも別な方向に行ったこともあった、そこにも行こうとしたが行けなかった
前はゆっくりといろいろ回っていたのである
人間はまずいくらそこを訪れたとしても20年とか30年過ぎると記憶が消失してゆく
だからそこは初めて行った場所にもなっていた
第一霊山が霊山町の方向から見たら違って見えたからである

一つの山でも方向が違うと違って見える、だから何でも印象は一つとはならないのである霊山だったら何度も見ているけど同じ方向から見ていると印象的には同じになる
山を知るという時、実際は山を登らないとまたわからないのである
霊山は前と上っていた、その頃バスが通っていたから行けた
それでバス停があったのをみて昔はバスが通っていたと見た
霊山には古霊山とかあり裏の方にある

古霊山落葉の深く踏み帰る

あそこも神秘的な場所である、それだって一回だけと行ったのでは記憶が薄れる
ただ霊山にしても低いにしても霊山全体を知ることはなかなかできない
岩手山は三回登った、下山したときまだ秋なのに紅葉の盛りでありそれが一瞬にして雪化粧したのである、そういうことはやはり山を上らないとその山の厳しさ感じられないのである
ただこうして山を実感として知ることはむずかしいとなる

頂上に紅葉の燃えて雪化粧一瞬に変わる岩手山かな

岩手山は独立峰であり印象に残る山である、山はそれぞれに違った個性を持っている
霊山はもともと僧の修行の場だった、山岳宗教の場だった、そこで修行していたというけどそれで不思議なのはどうして食べていたのかということである
食料をどうしていたのか不思議なのである、でも山城などでは食料を下から運ぶ人達がいたのである、そういうことで伝説も残っている
第一修行するにしても誰かが食料を運ばねばならないからである
その食料をどうして調達したのだろうと不思議なにる、冬でも寒いから暖房をどうしたのかともなる、霊山は歴史の山であるから他の山とはまた違っている

霊山や巌に木の根秋深かむ

ともかく山は本当に必ず見方によって違って見えるのである、ただ山を知ることは容易ではない、まず山を登ること登山となると体力が必要だからそんなに登れないからだ

とにかく人間は忘れやすい、不思議になるのは50年前とか大学で逢った人がいたとしてそんな人がいたのかとまでなる、本当に実在したのかとまでなる
50年もすぎれば本当にその人が今実在しているのかとなる、実際に死んでいる人もいるからそうなる
霊山などはまだ近いのだからまた行けばやはり思い出すことがある
でも遠くになると思い出すことも容易でなくなるのだ
外国となると余計に思い出すことがさらにむずかしくなる、なぜなら一回しか行けないことが多いからそうなるのだ、ただ一回でも記憶する旅をしていれば思い出す
団体旅行で騒がしく旅していると辺りの景色などが心に記憶されないのである
辺りの雰囲気を記憶するには一人旅がいいとなる、二人くらいでもいいとなる
それでもその場の雰囲気を記憶するには一人の方がいいとなる

ともかく今回霊山町の方に行ったのは本当に不思議な経験だった、全く前に行ったとしてその記憶が消えて始めて行った気分になったからである
ただ体が異常に疲れた、五日寝ていても疲れがとれないのである
筋肉の疲れがとれないのである、ただ写真をとれなかったのでもう一回とるために行くほかない、寒くなると行けないからである



2021年05月28日

福島県の奥の細道の俳句(自作)―芭蕉の跡をたどる

                    
福島県の奥の細道の俳句(自作)―芭蕉の跡をたどる

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(白河の関所跡)

みちのくの細道たどる草の花

関所跡昔行き交ふ虫の声

いわれ聞くしのぶもちずり木槿かな

幻やいづこに咲くや花かつみ

(医王寺)

医王寺に着物の女人落椿

医王寺の白壁に春の日影かな

夕月に藤の花かな鐘なりぬ  

(飯坂)

飯坂の夕ぐれあわれ花に雨

雨しとと桜に橋や湯の煙  

飯坂へ電車通うや菖蒲かな

国見町弁慶松や秋の暮  

春日さす下紐の石ここに暮る

甲冑堂忠臣の嫁菖蒲かな



場所の記憶として俳句を作った、これも錯綜した記憶となった、草の花というとき秋である、その時は八溝山を自転車でぬけて白河の関所に来た
ともかくその行路の記憶も定かでなくなった
ただ延々と草の花が野菊の花が咲き続いていたのである
そうして白河の関所跡に来たのである
多少は「 卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良. 」みちのくというときまだ拓けていない地としてありそれで野の花をかざしてみちのくに入ったというのがそうである

奥の細道といっても何か記憶に残ったのは白河の関所と白河の小峰城である
ただ前にも書いたがどうしてか芭蕉は城のことを書いていないし俳句にしていないのが不思議なのである、城というと一番目立つからである
二本松でも城のことは書いていないのである、だから忍者説がでてくる
城は隠密のように探るところであり風流の場所でなかったからだとなる
そもそも芭蕉の俳句に城の俳句がないことが謎だからである

 等窮が宅を出て五里計*、檜皮の宿*を離れてあさか山*有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ*刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松*より右にきれて、黒塚の岩屋*一見し、福島に宿る。
 あくれば、しのぶもぢ摺りの石*を尋て、忍ぶのさと*に行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり*。里の童部の来りて教ける、「昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と云。さもあるべき事にや*。

芭蕉が求めた花かつみはヒメシャガのことだという、シャガの花の紋様があるからその名がある、何か神秘的な花となりそれを求めたとなる、みちのくだとそういう花があってふさわしいともその頃見ていた   

とかくして越行まゝに*、あぶくま川*を渡る。左に会津根*高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる*。かげ沼*と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川*の駅に等窮*といふものを尋て、四、五日とヾめらる*。先「白河の関いかにこえつるや」と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず*。

 風流の初やおくの田植うた 

 此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有*。橡ひろふ太山もかくやと閧ノ覚られて*、ものに書付侍る。其詞、
栗といふ文字は西の木と書て、
西方 浄土に便ありと*、行基菩薩*の一生
杖にも柱にも此木を用給ふとかや 。

 世の人の見付ぬ花や軒の栗 

 
 栗の花が花と言えるのか?
何か花かつみはヒメシャガであり卯の花とかまた私の俳句では草の花とかそして栗の花とか何か変わっているとはなる
あまりばっとした花でないからみちのくにふさわしいのかとなる

しのぶもちずり石は有名である、私が訪ねたときは秋であり回りの村の家に木槿が咲いていた、それも似合わっていた、この辺は福島の市街からかなり離れているから家が点々としかないから今でも往時を偲べる

医王寺というと場所が寄ったのは五月であり

月の輪の渡しを越えて、瀬の上という宿に出る。佐藤庄司の旧跡は、左の山際一里半ばかりにある。飯塚の里鯖野と聞いて、尋ねたづね行くのに、丸山というのに尋ねあたる。これが庄司の旧館である。麓に大手門の跡など、人が教えてくれるのにまかせて、涙を落とす。
 またかたわらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、ふたりの嫁の墓標が、まずあわれである。女なのにかいがいしい名の世に聞こえたものであるわと、袂をぬらした。堕涙の石碑とさほど差はない。
 寺に入って茶を乞うと、ここに義経の太刀・弁慶の笈をとどめて寺宝としている。

笈も太刀も五月に飾れ紙幟
   (おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり)
   
この佐藤氏は相馬藩の前に磯部中心にして支配していた館もあった佐藤氏である
磯部館から後で相馬の道の駅の鬼越館に移動したのである
高潮で被害にあったからだという、それは慶長津波の前なのである
でもその鬼越館のかなり前まで津波が来たのには驚いたのである
佐藤氏は塩手山の下に二軒ほど佐藤氏の家があった、そこはやはり福島市の方から来た佐藤氏が祖先なのだろう、ただ佐藤氏はとにかく普通にあり多いからまぎらわしくなる
佐藤氏は福島市から医王寺の義経の家来でありその子孫が相馬の方に移り磯部館に住んだとなる
佐藤庄司というとき相馬藩内に庄司建設がありそれが由来となる、姓からたどるとそうなる  

佐藤庄司と義経伝説

治承の昔(1178年)信夫の荘司、或いは湯の荘司といわれた佐藤基治公が当地の大鳥城を居城とし、奥州南部の広域を収めていました。
 源義経公が旗揚げをした折、基治公はその子継信公・忠信公を側臣として遣わしましたが、兄継信公は屋島の合戦において義経公の盾となって能登守教経の矢を受け亡くなり、弟忠信公は頼朝公に追われた義経公を京都堀川の館から脱出させるため、義経公の身代わりとなって討ち死にしました。
 その後奥州に入った義経公一行は醫王寺に参籠し遺髪を埋めて二人の法要を営みました。また、兄弟の奥方「若桜」「楓」の二人は、息子二人を失い悲しみに暮れる老婆「乙和御前」を慰めるため、甲冑を身につけ兄弟の凱旋の勇姿を装い姑の心を癒したといいます

 嫁の墓標とはこのことである、医王寺はそれだけ古く謂れある古寺とはなる
何か白壁がありそこに着物を着た女人が静々と歩むのが絵になっていた
それから藤の花が咲いていたとき行ったと思う

そして飯坂に行った時、雨しととぬれていた、飯館からさらに山の方に道がつづいていたただそこから街道の方に回った、その道は今の道路になっている
下紐の石があったからそこは古い道である
飯坂には電車が通じている、それはいかにローカルのローカル線になっている

「湯に入りて宿かるに土座に筵(むしろ)を敷てあやしき貧家也」(温泉に入った後、宿を探したものの粗末な家しかなかった)
どうやら散々な滞在となったようですが、それには理由がありました。当時の飯坂には「農業や商業に関係のない旅人に宿を貸してはならない」とのお触れがあったのです。一介の旅人にすぎない芭蕉らに土間を貸し、筵を敷いてやったのは、飯坂の人の精一杯のおもてなしだったのかもしれません。

このことは自分は何度も経験している、自転車旅行だと嫌われる、汚いこともある
何か遊び人だとも見られる、だから嫌われるのである
待遇されるのは保養に来る金持ちである、そして今は旅人はいないである
それで江戸時代でも仕事でない人は断れたというのわかる
江戸時代はそういうことは今より相当に厳しいからである
何かただ旅する人は理解できない人だったかもしれない、でも僧になると恰好をしているとそういうふうには見れないことはあった
芭蕉自体有名な僧に習っているからである

飯坂に着いたのは桜が咲いている時だった、その時雨がしととふり濡れていた、
そこに湯の煙があった、いかにも飯坂らしいとなる
国見町には弁慶松があった、この弁慶とか義経にまつわるものは多すぎる
北海道まで義経伝説化ありモンゴルに渡ってジンギスカンになったとか言われる
福島県内での芭蕉の寄った先はこのくらいである
ただ須賀川とかのことは良くわからない、奥の細道といっても今は車の道でありなかなか往時を偲べないからである                               
それなりに春とか秋に行っているから記憶をたどり俳句を作ったのである

この下紐の石は用明天皇の皇妃玉世姫がこの石の上でお産の紐を解かれたという伝説が、乳神様と共に伝わっている。

立ち返り 又やへだてん 今宵さえ 心も解けぬ 下紐の関橘 為仲

元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、甲冑堂を訪れている。

ここから先に甲冑堂がある、それは「佐藤次信忠信が二人の妻の姿なりとて。各甲冑を帶したり」である、ここから白石にいたる

鐙坂。鎧碎(よろひこわし)。鐙摺。の石は。さい川の入口なり。道細く右は山にして。左に大石あり。一騎打の難所。實に鐙も摺る程なり。此所右の方に一宇有り。よりて見れば。佐藤次信忠信が二人の妻の姿なりとて。各甲冑を帶したり。如何なる故に此所に在るにや。殊に女の甲冑を帶したる姿。いと珍らし。古き像にて。彩色の剥げて。下地なる胡粉の白く見えたるは。 

甲冑堂忠臣の嫁菖蒲かな

この先は白石城下となる、結局こうして旅をたどるとき記憶の旅になるが旅は車とか電車だと何か連続性もなくなる、歩いてでもじっくりと昔の道の行程を歩む
そうすると脳にも記憶が残るのである
そこで私は自転車の旅をつづけたのである
その記憶はかなり年月がたっても残ることがある
それゆえにこうして記憶をたどる旅をして俳句を作ったりしているのである

医王寺の写真

福島県の奥の細道 (芭蕉は城をさけていた-忍者説の由来)

2020年06月22日

地理で大事なのは境である (宮城県と福島県内の境)


地理で大事なのは境である

(宮城県と福島県内の境)


境というとき地形的境がある、山でさえぎられ日本に峠が多いという時、この峠は漢字にはなかった、国字だというとき日本では山の国であり峠が多いからである
峠を越えると別世界に入るというのが日本なのである

その峠というとき相馬藩内だったら飯館村は標高400メートルであり高地である
だから夏は高原地帯であり涼しいのである、でも冬は寒いから冷害があり米に被害があった、稲作には適していないともなっていた

飯館村に行くときどうしても峠がありそれが七曲りであり真っすぐな新しい道路ができる前は車でも難所だった、大倉回りではそうなっていた
そこで私が自転車で行くとき坂を上れずに自転車を押して上ったのである
大倉をすぎて坂を越える手前で休んでいた
その時とをしてか秋であり秋の蝉の声をそこで聴いていた
何かそれが心に残っていて不思議だった  

飯館の峠を越えんと常にして休みて聞きぬ秋の蝉の声

この歌は何かそれだけ峠を越えるのに苦しんだものとしてできた歌だとなる
つまり飯館に行くのだがもう秋になってしまったということである
そこに深い感懐がある、ただ今は飯館村は村として成立していないから残念だとなる
やはり人が住まなければそこはまた別なものとなる
人が住んでいてこそ秋の蝉というのも深く感じる
秋の蝉というときたそがれる、何か老いてゆくとかの感覚になるからだ

峠はこうして地理的に地勢的に地形的に山でさえぎられて分ける
そして山とかなくならないから人間はこの地理とか地形に制約されてありつづけるとなるいくら交通が発達しても山自体がなくならないからである
それで福島県というとき阿武隈山脈、高原にさえぎられて福島市の中通りが見えない
いつも山脈で閉ざされて見えないのである
そうなるとそこと地理的一体感をもてないのである
選挙だと福島一区は福島市と相馬地域が一区なのだけど何か違和感を感じてしまうのである、それは山でさえぎられているからなのである

福島県がハマ、ナカ、アイヅとあるとき中通りは見えない、アイヅはもっと見えないのである、だから浜通りは福島県からすると特殊な地域になるかもしれない
むしろ仙台方面に海を通じて地理的にはつながっているという感覚になる
それは津波の被害でも地理的一体感をもったことでわかる、相馬地域には津波は来ないと油断していたが地理からみればそういうことはなかった、現実に仙台に浪分け神社とかあり津浪が来ていた
それで若林区などは仙台の延長として住宅地化していた、それで被害が大きくなった
そうして不動産屋がそこに津波が来ると学者が警告したとき地価が下がるからそんなこと言うなと脅されたという
これも地理と歴史を無視して被害が拡大したのである

地形的にはそうなる、新地が伊達藩と相馬藩の境となっていてもそれは平坦でありただ政治的境界としてあったからむしろ仙台方面と一体感をもつのである
今でも常磐線で通勤圏ともなる、仙台まで1時間10分で行くからである
それで不思議だったのは震災以後原町から竜田まで電車が通らなくなった
でも仙台まで通っていた、そして仙台が下りだということに違和感を感じた
東京行きが上りとなっていたから仙台が下りになったとしても東京に直接通じなくなったから仙台がむしろ上りの感覚になったのである

とにかく人間は地形的に地理的に境を意識してそこで分ける、するとかえって人間はその制約されたことでその中でアイディンティティを作り安いのである
境がないというときそこでは人間の心が安定しないのである
日本でも広いからとても全国を地理的にアイディンティティ化することは不可能なのである、なぜなら北海道だと大陸的であり全く別な地理と地形でありそこでアイディンティティ化されるものは本土とは全く違ってものとなるからだ
それで北海道とかは俳句にしにくいなともなった、俳句のうよな感覚でとらえられない
ものがある、それはアメリカのような大陸でも何か俳句など作れないともなるのと似ている、グランドキャニオンなど見たらまるで異星に来たような感覚になったからである

ただ地理とか文化とかなるとこの境が大事である、なぜならライン川があるとする
それは父なる川でありこの川が地理的境だけではない文化的な境でありローマ帝国がこの川を越えることができなかった、ゲルマンの世界であり深いゲルマンの森がありその進出を阻んだからである
大陸はどこまでも平坦な地がつづく、それを遮るのは大河だとなる
そこを境として国も形成されたとなるからだ、ただスペインなどはピレネー山脈があり
それが境となっている、だから境となるのは山であり川が主なものとなる
海は広すぎるから国境がないのである、陸を行けば必ず国境があり国境によって国も言葉も文化を違ってくるのである

いづれにしろ世界を見る時、地理からみる、それは学問の基礎である
だから学問するならどうしても世界の地理をしる必要がある、それで実地に世界を旅することが不可欠なのである、それが遅くなったが50以後にできたので良かった
国内は隅々まで旅したが外国はしていなかったからである、ただ世界は広いからどうしても全部はできない、一部になったのである
そして今になるともう世界を旅する気力もない、国内すらできないともなったのである

2020年03月15日

人間は国(くに)に生きる (国とは何か福島県(会津)の万葉集より考察)


人間は国(くに)に生きる

(国とは何か福島県(会津)の万葉集より考察)

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国という時何なのか?それは自然村のような自然に生じたものが国である
人為的なものではなくそこに風土があり自ずと一つの国が形成される
それでシンガポールとか香港とかは国ではない、商業単位の貿易都市である
そこには国はない、だから証券取引をする経済に特化された場所である
そこはイギリスとかによって便宜的に作られた場所なのである

国という時、そこに独自の風土があり土地があり自然がある場所でありそこに生きる時
国がある、だからまた東京とか文明の大都会にも国はないのである
そこは商業都市であり工業都市であり経済都市に特化したものである
または東京となると政治都市になる、でも自然がないのである
一千万人が住んでいてもそこは国とはなりえないのである

また行政単位として県があったとしてもそれも国ではない、自然から国が自ずと作られるとき行政単位としての国として廃藩置県で作られたから不自然になる
伊達藩と相馬藩がありその境が新地だとしてもそこが藩の境であり国の境と思えないのである、なぜなら平坦な太平洋岸の海岸線として仙台まで続いているからである
実際の生活でも仙台が身近なのである
むずかしい病気だと仙台に行っている、すでに二人は眼の手術で行っていたし近くで最近死んだ女性も仙台の病院に入院していたらしい

どうしても日本は山が多いから山でさえぎられる、すると自然の境界になりそれで実際の生活でも心でも心理でも形成される
阿武隈高原にさえぎられて中通りは遠く感じられる、第一中通りの山が見えないのであるでも蔵王が南相馬市の鹿島区からも見えるのである

陸奥みちのくをふたわけざまに聳そびえたまふ蔵王ざわうの山の雲の中に立つ
(斎藤茂吉)

この歌もそういう地形を歌っていたのである、でもそれより宮城県と山形県を分けるのは面白山がある所である、そのトンネルをぬけると山形になりそこは雪国だったとなるからだ、春でも雪が残っている、でも宮城県側はほとんど雪は降らないからである
だから面白山で国が分かたれていると感じるのである

福島県の成り立ちは会津が最も古い、この歌でもわかる

会津嶺《あいづね》の 国をさ遠《どお》み 逢はなはば 
偲《しの》ひにせもと 紐結ばさね 万葉集

ここに国がすでにあった、国が形成されていたのである
その時浜通りにはまだ国はなかった、浜通りはなにか渡来人の跡が古くあり鉄を求めて資源を求めて来て早く開かれた
そして「黄金花咲く」で宮城県が奈良に知られていた
それを象徴しているのが

みちのくの真野の草原(かやはら)遠けども面影にして見ゆといふものを」 (万葉集巻3)

つまり真野の草原は奈良からみて知られた場所でありみちのくの辺境だったのである
その先はまだ知られていない地だったとなる
ただそこで国というのは形成されていなかった
万葉集の歌で

安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに  万葉集  巻16 

があるとしてこれは今と通じている、交通の要所でありそこに官人を接待した采女の歌がこれだとするとそういう場所だったのである

そして中通りは

安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)の ありつつも
   我(あ)れは至らむ 寝処(ねど)な去りそね 」 
          巻14−3428 作者未詳
          
陸奥(みちのく)の安達太良真弓 弦(つら)着(は)けて
       引かばか人の 我を言(こと)なさむ 」
                 
これは縄文人の狩猟時代を彷彿とさせる歌である、原始性がある歌である、鹿と猪が身近なのである、陸奥(みちのく)の安達太良真弓とはこれはみちのくで特別なものである
安達太良真弓と固有名詞化しているから知られた弓だったのである

エミシは、「弓で矢を射る強者」の意のユミシが訛ってエミシとなったという説がある

弓は日本の縄文弓もあるが、中国で発展したらしく、中国東部の民族を東夷と呼ぶのも、ばかでかい弓を使う人たちだったので、大の字と弓の字を一体化して「夷」としたと言うもののようである

日本人はなぜ長弓に固執したのか
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「えび」の古い日本語「えみ」が「えみし」に通じるとして付けたとする説を唱えた[13][注 2]。夷の字を分解すると「弓人」になり、これが蝦夷の特徴なのだという説もある[15]

弓にたけていたのが蝦夷だったとなる、それは狩猟時代を生きていたから動物を射ることが得意だったとなる

この歌のようにこれはまさに開かれない狩猟していた人たちが蝦夷が住んでいたとなる
熊の穴とかイノシシが寝ていた場所だとか見るのは狩猟する人たちでありマタギの人たちだとなるからだ
だから万葉集の歌で福島県が特徴づけられたし今でも継続している
それは地形とか地理はかわらないからである

いづれにしろ人間が生きる時その場所が大事になる、その場に人は生きる、場と一体となり生きる、アイディンティティ化して生きる
そういう場がないとき人間の生は浅薄になる意味をもていないのである
でも現代社会は文明社会とはもうそういう場がなくなった
東京を見ればわかるそこに場となるべき自然がない、ただ政治経済商業都市として肥大化したのである、そこに国として生きる場ではないのである

ただ現代は全体的にただ経済人間として生きているのである
だからこそこの辺で金になる原発が誘致されたのである、農業とか漁業とか林業は衰退していた、跡継ぎもない、木材が外材だとか国を形成する基盤が失われていたのである
それで国に故郷に愛着がなく原発事故で簡単にゴーストタウンとなり捨てられたとなる
つまり金があればどこにでも住んでいいという時、その国の愛着はない
金さえあればどこに住んでもいい、国より金であり金で買えないものがないとまでなっている
だから金の切れ目が縁の切れ目であり土地とか風土から歴史から形成された国に愛着はないのである
その国に生きるより金にならなればその国との縁は簡単に切れるのである
原発事故でそのことが証明された、補償金が大事であり金さえあれば簡単に故郷は捨てられるのである
一億円もらったら田舎をでてやるとか事故前から若い世代でも言っていたから当然そうなる

ただ人間は経済人間だけでいいものなのか?それが極端化したのがグロ−バル経済である世界が経済の単位となり経済ですべてが計られるのである
そんなふうに人間を経済化することができるのか?
人間とはただただ経済に金にのみ生きるものなのか?
それが問われた、結局グロ−バル経済とは何か?それはアメリカの一局の経済支配でありまた中国の一帯一路の中華帝国支配になるところだった
それがコロナウィルスでブレーキがかかったのである

人間は何に生きるかと問いばそれぞれの国に生きる、そこが生き死にの場なのである
日本国家に生きるのではない、国に生きる、国家は行政単位である
国は自然に形成されたアイディンティティとなるものである
ただ会津を例にすると国と言っても城のある城を守る武士が会津のアイディンティティを形成したとなるが農民は別だった
農民は明治になって一揆を起こしたということは同じ同胞としての国を形成していたのではない、侍には堅い同胞として結ばれていたが農民は別だったのである
年貢をとられるものとしてそれに反抗して一揆を起こしたのである
だから会津を国として意識していたのは武士だけであったともなる
ただ万葉集の時は農民でも庶民でも国としてやはり意識していたのである
そこに同胞がいて妻がいてまた仲間がいてそういう意識をもっていた
そこに会津嶺という山々が常に心に映じていたのである 
なぜならその時会津藩はない、侍はいなかったからである
それでも農民でも庶民でも国として意識していたのである、国の感覚があった

自然から形成された国かあって人間も心も形成される、東京のような大都会から国が形成されるだろうか?
そこは物量の世界であり経済都市でありそこがいかに豊かになっても人間の精神は形成されない、ただ何か貪欲に世界から物とか食料でも食うだけの物欲人間になっている
だから何か精神的に象徴するものはない、皇居があるとしてもそれはもともと京都にあるべきものであり江戸城のあったところにあるのがそぐわないのである
そして江戸があった時そこにはまだ自然があった、縦横に水路がめぐらされて自然の美があった、でも明治以降はそういう美は常に破壊されて喪失してきたのである
つまり国には美がある時国になりえる
美がない時、そこに国はない、美は自然からしかから形成されないのである
経済都市とか工業都市とかからだけでは美は形成されない、美がないことは致命的なのである  

いくらそこで繁栄したとしてもそこに美がなく殺伐としてビジネスマンとは自ら言っているように社畜であり奴隷なのである
人間が生きる場所に値しないのである、たた現代はすべて金で経済力で計られる物量で計られるだけなのである
そして原発事故でわかったように肝心の風土を国を形成するもの、土や水や森や空気まで汚染されて住めなくなったことでもわかる
その時国に住めなくなった、生きる場所としての国が喪失したのである
ただその前に田舎でもどこでも金を追い求めるだけであり国を生きるなどなかったのである
「神の国を求めなさい」というときまず金を求めなさいしかなかったのである
だからこそ原発でも何でも金になるものなら国に作る
美とかも関係ないのである、田舎の人間の方が強欲にもなっていたのである
だから国という時日本の国として自然の風土と一体化した国にこそ人間は生きる価値と意味があるとなる

御民我れ生ける験あり天地の栄ゆる時にあへらく思へば  海犬養岡麻呂

栄とは物質的なものだけではない、実りとは自然とアイディンティティ化した美がある
または国に真善美がある世界である、そこに生きる価値があるとなる

国というとき国魂神社がある、相馬市に都玉神社(くにたま)神社がある
これは相馬氏の子息が若くして死んで祀られたのである
ただ国の魂(たましい)というとき何なのだろうとなる
国家と国(くに)は別物なのである、国家とは行政の単位としてある
例えば廃藩置県の後は福島県となってもそれが国とはなりえないのである
他でもそれは行政単位として分けたのである、だから不自然なのである
江戸時代の藩でも実際は本来の国とは違うものになっていた
第一相馬藩というけど千葉県などから来た相馬氏に支配されたから相馬藩となった
それは本来の国とも違っていたのである
だから伊達藩と相馬藩の境が新地になっているけどそこは山でさえぎられることもない
浜通りの延長として海岸線を通じて仙台まで直線的につながっているのである

ところが地理から見ると福島県でもハマ、ナカ、アイヅとあるが浜通りは阿武隈高原でさえぎられているから中通りと地理的一体感を感じないしまた会津になるともともと地理的に別世界なのである
この地理だけは変えることができないのである、いつも阿武隈山脈を見ていると向こう側は見えないのである、でも飯館村まで来るとかえって中通りでも近く感じる
地理的一体感を感じるようになる
この差が大きいのである、だから人間は地理からその場からアイディンティティ化される地理は変わらない、山が平地になどにならないからである

第一いつも太平洋側から太陽が昇るのと山から太陽が昇るを毎日見ているとき相当に感覚的に違ってくる、その感覚がどうしても理解できなくなる
例えば韓国から日本海を見ると東海と呼んでいるけど日本海側から見るとそこは常に太陽が沈む場所なのである、つまりそれだけ場所によって見る感覚が違ってくるのである

とにかく会津は古代から大きな国だった、他に福島県でも東北でも国として意識されていない、その国とは今の県とか江戸時代の藩でも伊達藩のように地理とは関係なくなる場合がある、人工的なものとしての国が形成される、ただ古代から国(くに)として継続したのは日本でも少ないだろう
国こそ国体という観念なのかもしれない、それは日本国家というのではない、その土地と一体化したものでありアイディンティティ化したものである
それが本当は愛国心に通じている、ただこの国と国家はまぎらわしいのである
国とは血脈を通じたものがあり国家は行政的機関とかなり人間の温かい血が通っていないのである、だからお国訛りとかなると何か親しみを感じるのはそのためなのである




2020年03月14日

会津の旅の短歌30首


 会津の旅の短歌30首

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(湖南)

街道の湖南の蔵の宿泊まる菖蒲の咲きて心にしみぬ

風鳴るや木立騒ぎて夏の日に荒巾木(あらはばき)神社あるかな

街道の芒に暮れむなお遠く虫の音あわれ会津に向かふ

(猪苗代湖)

猪苗代湖その色碧く心しむ火を噴く後の磐梯山見ゆ

猪苗代湖その岸辺の松幾本や家居ともしく虫の音聞きぬ

猪苗代雪のふりけりその岸に秀夫は育つ雪の清しも

猪苗代湖その岸にふる雪清し心に雪の映りて去りぬ

(会津市街)

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雨しとと桐の花咲き誰が眠る会津の墓地を我が尋ぬかな

松静か桐の花咲き磐梯山形優美に聳えけるかも

氏郷の会津に死にぬ近江よりその歳月や花は散りにき

歴代の会津の殿も眠りける墓地を訪ねて秋の蝉鳴く

三人の女(おみな)の墓の並びけり城に仕えてここに死すかな

大川の流れひびきて広ろらかに会津の国や秋となるかな

会津なる謂れの古く大古墳鏡とともに冬深むかも

みちのくに会津のあれや山深く暮らせる人や冬深むかも

(西会津)

ここよりし西会津なり別れ道立木観音に秋の夕ぐれ

山の上会津の奥や戦いし藩士のしるし秋深まりぬ

阿賀野川新潟にそ流れつつ日本海にそ秋の陽没りぬ

新津駅会津の方に雪の嶺見えて朝たつ電車なかるかも

阿賀野川船運に栄ゆ津川かな雪に埋もれて我が踏み帰る

(喜多方の喫茶店)

喜多方の積もれる雪に蔵の中梁の太くも黒光りしぬ

(伊南)

そそり立つ巌に轟く流れかな心一つに戦い果てぬ

千の山競い聳えてひしめきぬなお奥に山会津の夏かな

鬼百合の咲きし会津やたおやめももののふの心戦いに死す

桧枝岐遠くにあれや米食えず蕎麦にヤモリを食いてしのぎぬ

古りにけるいさすみ神社の老木に我がよりあわれ秋深まりぬ

会津の奥の深しも秀麗に聳えし山や秋の夕ぐれ

会津なる奥の山路を分け入りて萱に埋もれし農家ありしも

雪のふり雪踏みてこそ会津にそ住みし心を知らるべしかな 


沼一つ奥にしあれや何ひそむ散りし木の葉の浮きて静まる

昭和村秋に来たれる鳥の鳴く声のすみにつ畑に人あり

舘岩の奥にしあれや境なるさえぎる山や秋となるかな

自刀せし親子のありぬ雪深く薩長の恨み残りけるかな

会津にそ灯ともりあわれなおしも雪のふりにけるかな

雪うもれ会津の墓や誰が眠る代々住みし家にしあるかな

しんしんと冷える夜なり会津にそ住みてその心知らるべしかな

(会津嶺)

会津嶺の国に生きなむ命かな同胞(はらから)友の絆強しも

会津嶺の国に生きなむ水清し母父ここに我をはぐぐむ

山々の重なり高くひしめきぬ守りの堅く国を守らむ

奥にある秀でし山の隠されて志操の堅く国をし思ふ  


次は国とは何かについて万葉者を例にして書いています

2019年12月29日

会津の舘岩村への旅-短歌十首(NHK―小さな旅を見て)


会津の舘岩村への旅-短歌十首(NHK―小さな旅を見て)  

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栃餅の味かみしめよ奥会津

蕎麦の花霜ふり会津の暮らしかな
                                                
清水飲み舘岩に入る夏の暮                          

合歓の花山々閉ざし村一つ                                                      


舘岩の奥の流れの清らかに夏の日に来ぬ山の奥かな

一すじの奥の流れの清きかな隠されありぬ舘岩の村

萱刈りて肥やしとするや舘岩に暮らして長く老いにけるかな

夏の日や舘岩に来て栃木の山のそそり迫りぬ村は隠さる

萱ととも暮らしの長く舘岩の集落あわれ冬に入るかな

しんしんと雪にうもれて舘岩の村は閉ざさる冬の長しも

茅葺の家や村人の身を寄せあい暮らしあわれも雪にうもれぬ          

舘岩に暮らして老いぬその月日ここを離れじ刻みし時かな

冬長く囲炉裏を囲み閉ざされぬ薪をくべて外は雪なり

舘岩を去りて栃木やトンネルの長きを覚ゆ那須の原にそ我がい出にけり   
            

会津という時、

伊佐須美神社の社伝では、紀元前88年(崇神天皇10年)、四道将軍大毘古命と建沼河別命の親子が蝦夷を平定するため北陸道と東海道に派遣された折、出会った土地を「会津」と名付けた

大塚山古墳からは三角縁神獣鏡が発見された、これは東北ではここからしか発見されていない、これは吉備系統のものであり大和王権が確立するまでは吉備系統の支配があった
みちのくの真野の草原(かやはら)も笠女郎(かさのいらつめ)も吉備出身だったとも推測される
吉備は大和王権が成立する前大きな国でありそれで会津とか東北にもその跡を残している

会津嶺の歌」『万葉集』巻十四、3426番、東歌に会津の歌が収められています。

「会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね」

ここでまず会津嶺とでている、この嶺は複数なのである、会津は山国である、千メートル以上の山が密集しているのだ、ひしめいている、だからどうしても地理がわからなくなる、これだけ山があると方角もわからなくなる
それで舘岩から太田原に出てきたのだけどその辺の地理がわからなくなった
何か長いトンネルを出て太田原に出たことは覚えているのである

会津嶺とはこのように千メートルから二千メートルまで山がひしめきあっている嶺のことである、一つの山のことではない
そして唯一東北で国と出ているのは会津だけである、その国の古さは古代から始まっていたのである
なぜならみちのくの真野の草原(かやはら)はみちのくの境界線のことでありここが国とはなっていなかったのである
ここに東北での会津の古さがあり会津こそ東北で国として意識された場所だとなる
それは明治まで継続されていた地域なのである、このことは会津を知る場合は重要である
その国への思いが今日まで続いているからである
例えば相馬藩とかになるとそれが成立したのは江戸時代でありその前の国となると明確なものがないからである

会津の特徴はこうして古代からすでに国として意識された場所でありそれが明治維新まで継続されていたのである
会津とは風土と一体化して継続されてアイディンティティの場所だったのである
その風土と歴史の重みが一体化した場所なのである
福島県の地図をみると半分が会津なのである、だから福島県がハマ、ナカ、アイヅとなっているけど実際は会津は別の大きな一地域としてある、国としてあったから福島県として一つにしたことが無理だったのである、それは廃藩置県で全国的に起きたことである
廃藩置県は風土とか地理と歴史から生まれたのではない、行政的区割りとして人為的に生まれたのである、政治的なものであり風土歴史を無視しているから不自然なのである

ただ私は会津に自転車で二回くらいまわっている、夏と秋だった
その時昭和村の方まで行ったが一面に萱の原だったのである
いかに萱が多い地域なのかわかる、だからこそ昔は茅葺の家が曲がり屋が作られた
それには大量の萱が必要だったのである
それでNHKの小さな旅でその屋根裏に大量の萱をためていたのである
そして萱はまた畑の肥やしにしていたのである、それだけ萱が多いからそれをなんとか利用しようとする、とにかく農業は肥料が最大の問題だからである
だから貝殻まで肥料にしている

今日後半だけ見たNHKの小さな旅で舘岩の曲がり屋集落の前沢部落を写していた
そこにおばあちゃがいて萱を刈ったりしていた、ただ息子とは市に出て行っていないという、息子は世話するから市に移れというが嫌だとして残っている
これも今や日本全国で過疎化する村の姿である

ただ老人はわかるけどそれが簡単に移住できないのはそこで生きたことが人生そのものでありそこがアイディンティティの場所であり深い愛着のある場所というより
自分の人生の証しがその土地と家と暮らしにあったからである
それをつくづく自分の家のことについて延々として語ったが同じである
家はただの物ではない、その家族のまたは代々の歴史を刻んだものであり単なる家という箱ではないからである
その家はまた周りの自然と風土と歴史と一体化して形成されたものでありそこに価値がある
飯館村でも原発事故で若い人が帰ってこない、そこに山菜をとり山村の独特の暮らしがあった、それが消失したら飯館村に生きる意味がないというのもわかるのである
放射能汚染で山菜がとれないということはだから飯館村で致命的だったのである
そこに暮らしがなくなったとき何が残るのか?
森とかその自然は残っても人々の暮らしは失われてただ元の自然に戻ったともなる

でもそこに失われたものはそうしたそこで継続した暮らしでありそこに価値があった
それは金で換えられない価値だった、人間の価値は必ずしも金だけからは作りだせない
だから一旦失われた暮らしはもう戻らない、再現できないことにその価値の重みがある
芸術にしてもなぜ芭蕉の「奥の細道」が廃れないのか?
価値が継続してまたこその価値が衰えないのか?価値がさらに増しているともなる
その不思議はやはりその時代がありもうその時代を再現できないということにあった
それが故にその価値が長く時間がたっても廃れないし価値を継続してさらに価値を増している、それはそういう時代が再現できないからだったのである

何か茅葺の家でも城でも新しく再現しても博物館とかになると見世物になりかつてあった暮らしもなくなると価値がなくなるのである、でも時代の流れでそういう暮らしが成り立たなくなる
例えば栃餅はこれはいつも食べていたものではない、非常食として作られていた
第一栃餅は簡単に作れないのである、栃の実を拾いそれを餅にするまで相当な手間なのである、だからこそ貴重である
ただそういう暮らしがなくなるときもし栃餅が簡単に機械で造れるとかなるとありがたみがなくなってくる
つまりそういうものは風土と歴史と一体化して生まれたものでありそこに暮らしがなくなると価値がなくなるのである  

だからそうした価値は一旦失われたら再現できくななる
ただ茅葺の家があったとしてもそこに暮らしがなくなれば茅葺の家は博物館のようになるのである、日本の城でもそうである、再現されても新しくてそれが実際に博物館になっているからだ、会津の鶴ヶ城でも新しいからそれが博物館のように見えるしそうなる
かえって廃墟となって石垣だけが残っているかえって歴史を偲べるともなる
それで荒城の月の歌ができたとなる、それは廃墟化した城を見て作られたからである

とにかく会津の地理はわかりにくい、それは山国であり山に入ると方角もわからなくなるそれは近くの飯館村でもそうだったのである、方角がわからなくなり太平洋側の相馬の
方に帰るのに逆の方向に行っていたのである 
浜通りだと海が見えれば東だとしてわかる、山国になるとまわりが山だらけなのだから方角がわからなくなるのである

いづれにしろ思い出す旅をしている、それは冬ごもりの季節に向いている
ただ思い出す旅は記憶がとぎれとぎれになるしいかに再現するかが問題になる
だからいかに記憶させる旅をするかが問題なのである
それでた車とか便利だかいいとはならない、帰って苦労して峠を越えた記憶とかは残るのである、なぜか舘岩村から栃木の方に太田原の方に那須の方に行くとき長いトンネルがあったことを記憶していたのである
そういう記憶がなかなか車だと残らないかもしれない、自転車だと苦労してやっとトンネルをぬけたという記憶が体に残る、そして広々とした那須野に出たいうことが記憶に残っていたのである

ただ何かその記憶もとぎれとぎれになりあいまいとなり思い出すのもむずかしくなる
でも今日のNHKの小さな旅で後半だけ見て思い出したのである
舘岩村は本当に奥地であり秘境の感じがする場所だった
桧枝岐もそうだがあそこは尾瀬観光の拠点の村となってしまった
だから秘境という感覚がイマイチなくなったのである
観光化というのは本当の価値を失うのである、そこに暮らしがあってこそ価値がある
ただ現代ではどうしてもそこに暮らしていくには金が必要であり観光化はさけられないのである、現実に何で暮らすちとなれば昔のような暮らしができない
薪をくべて囲炉裏で暮らせない、そうしたとても電気を使わずに暮らせないのである

会津はこれからますます雪に埋もれてゆく、雪の時会津を訪ねれば会津に理解が深まる
それは山形でもそうである、でも実際にそこに生活するとなると楽ではない
ただそうして雪に埋もれて春が来て夏が来て秋が来てと暮らしてこそその土地と一体化するのである
舘岩村は本当に山々に閉ざされた奥地の村だった、だからまだ秘境の名残りがある場所だったとことを記憶の旅でたどったのである

舘岩村の情報

ここで紹介している

2019年02月10日

会津(旅の思い出俳句十句ー秋から冬―会津の雪の詩) {会津の風土と歴史の独自性)

  
会津(旅の思い出俳句十句ー秋から冬―会津の雪の詩)

{会津の風土と歴史の独自性)


晩秋や古町温泉に我がひたる                    

奥会津山を萱覆い暮らしかな

我が踏みぬ落葉の深く会津かな

木も古りて落葉を踏みて社かな

城離れ刈田に残る虫の声

曲屋になお暮らしや蕎麦の花

曲屋に洗濯物や秋深む

雪深く我が踏む後に雪のふる

誰が眠る墓所に雪積む会津かな

                
(喜多方)

蔵の梁太しも雪や蔵古りぬ


大川の清流広くひびきつつ秋のすがしも会津の朝かな  

夜に雪明けても夕べ雪ふりぬ家にこもりて太し柱かな  

凍てる雪また雪ふりて閉ざされぬ会津の冬の長くもあるかな

会津なれ山間深く積もる雪家々ここに暮らしつづきぬ 

  

会津の雪

会津にふる雪や
おやみなくしんしんと
会津の雪を我がふみ
会津の雪の深しも
聳ゆる峰の黙しつつ
雪に埋もれし会津かも
会津の酒、会津塗り、
会津の心の鶴ガ城
会津の焼き物、会津の土産
どっしりとした蔵の家々
薪を積んだ曲屋
その歴史を刻む城下町 
なべて会津の色にそまりぬ
広らかに清く川の流れひびき
会津の水の清らかさ
道の辺の古き碑に墓
会津の雪に埋もれ眠りぬ
ひそまる奥の一部落
何か語らむただ雪に埋もれぬ
深々と雪に埋もれぬ
さらにしんしんと心に深く
雪にまた雪はふり積もりぬ
女の白き肌、情深きも
餅のようなねばりも
会津の雪のごとしかも
雪の暮らしの奥会津
人はそれぞれに土地の手形を持つ
その土地土地の色に染まる
はるかな嶺に雪は残りて
黄金色の花は咲くかも
まことの美しき花はここに咲くかも
それ故に深々と神の庭は雪に閉ざしぬ
会津の峰々高く吹雪うなり
不浄の人の入るを拒みぬ
その吹雪く猛威の中に
神は棲みたまいぬ
おやみなく会津の雪はふりにけり
心浄める会津の雪かも
しんしんとしんしんと・・・
ああ 会津の人の心にいつも
その雪のふり積もり
静かな眠りにつく・・・・
敗れしも無念もまた美しく
会津の雪に埋もれぬ
その会津に入る猪苗代湖
その心鎮める湖の碧い色
たちまちここも一面の雪
ま白し雪に染められぬ
不浄のものの来るを拒むがごとく
しかり会津を踏みにじるものの
その醜き血に飢えたる無謀よ
その心はこの浄よらかな雪に消され
今また邪なる者の来るをはばみぬ
波は静かに打ちひびきつつ
松は昔の国の境の街道に枝を垂れぬ
かなたその節操厳しく会津の城は
昔を偲び雪に映えつつ暮れぬ
その山間の民の暮らしもあわれ
朝美しく紅葉は清き流れに散り
今ひっそりと一部落雪に埋もれぬ
時にごうごうと吹雪くや
一部落身を寄せ合うごとく
会津の長き冬にひそみ耐ゆるも
そして春はまだしも
なお浄らかに残さる雪
その残さる雪に城内の松
城の白い壁に松は映え
忠節の証しと松は古りて立ち
会津の山々の囲み閉ざす
崇高なる峻厳なる独立の峰を仰ぎ
志操を高く山国の城そ守りぬ
女とてその心は変らじも
節は曲げぬ節は曲げぬ
「なよたけの風にまかする身ながらも
たわまぬ節はありとこそ聞け」
その心意気城とともにありぬ
君主とともに城に仕えて果てぬ
ああ 会津の春はまだしも
浄らかに雪は残されぬ
会津の人の心に常にその雪がある
純白の雪の覆っている
心の中に雪がふる
心の中に雪がふる
罪を浄めるごとに
しんしんとしんしんと
その中に醜きものはさらに醜く
一時浮かびては消える
悪はそこに耐えがたく退散する
会津の春はまだしも
浄らかに雪は残されぬ
雪解けてその峰高く
純潔の花の咲きなむ  
会津の風土に昇華される心
雪の結晶のごとくに美を極め
生き死にの場として潔く
その風土の中に命を献げる
・・・・・・・・・




今日は朝は雪はやんでいたが午後からふった、また寒いから降るのかと思ったらすぐにやんでしまった
この辺はやはりそんなに雪がふりつづかいのである
まず会津とか新潟とか東北でも雪がふりつづく所がある
そういうふうに毎日雪がふっていたらどんな気持ちになるのだろうか?
何か暗くなってしまうだろう、だから風土が心に影響するのである
この辺は浜通りでありいつも海が見えるということで心に影響する、開かれた明るい感じになる
ただ津波の甚大な被害ありそれもまた心に影響してくる、津波の恐ろしさを心底知ったからである
だから今回の津波で海がすべていいとはならい、恐ろしいものがあると知ったのである

会津という時、東北の万葉の歌で唯一国(くに)として歌われている
つまり会津だけが一国であり国だったのである
他の歌にはそういうものはない、みちのくの真野の草原(かやはら)の歌にしてもおそらく地名であり大和王権が早くから支配した一地点であり拠点だった、それはあくまでも点としての存在である
でも会津は違っていたのである  

会津 嶺の国をさ遠み逢わなはば偲びにせもと紐結ばさね」

国をさとあり明確に国(くに)だったのである、それは広い国だったのである、第一会津の地名の起こりからして古いのである

第10代天皇である崇神天皇の時代に、大和朝廷の支配領域を拡大するために全国に4人の将軍(四道将軍)が派遣されました。
その中で北陸に派遣されたのがオホビコノ命、関東・東北方面に派遣されたのがタケヌナカハワケでした。二人は親子でもあったのですが、二人が各地方の平定後に落ち合った場所が会津だったそうです

こういう古い由来がある、そして大塚山古墳から三角縁神獣鏡である、これは東北でもここにしか発見されていない
それはここが大和王権とも西の有力な豪族と関係していた証拠である、それは吉備と同型だから吉備と関係していた
それは大和王権が成立する前は吉備は大きな国だったからである
そして真野の草原(かやはら)は笠女郎(かさのいらつめ)が歌ったものだがこの女性は吉備の沙弥万世を父親としていたのである
だから双方が吉備国とは関係していたとなる
つまり古代から会津は大きな国として西の有力豪族にも認められていた、それは大和王権が成立する前からでもそうなっていたのである

そして会津というのがなぜ一つの国として意識するのか?それはその国が風土と一体化しているからである
典型的日本の山国なのである、千メートル以上の山々がひしめきあっているからだ
だからこれだけ山があるということをこの前登った国見山でも520メートルでありこの辺にはそれ以上高い山がないから山についてわからないのである、そもそも千メートル以上の山ひしめきあいそして本当にその山々が奥深いのである
山国の風土がありそこに長い年月で育まれた歴史がある
福島県とあるとしても会津は別格なのである、そこには会津のアイディンティティが形成された
そういうふうにアイディンティティが風土と一体となり形成される場所はなかなかない
中通りだとそういうものを感じない、会津は広いし山国ということでそこは大きな国として古代からあるのはその地理と地勢とかにある、だから会津で感じるものは他とは違ったものになる
深い落葉を踏みまた深い雪を踏むとき会津は奥深い山国でありそれを感じるのである
他ではそういうことを感じないからだ
国とは人工的な国家ではない、風土と歴史が一体化したのが国なのである、私はここで生きて死ぬのだ、ここの会津の土となるのだという感覚は会津だったら生まれるとなる
会津には福島県でも東北でも感じない、一つの国として生きて死ぬというものをもっているのである
それは長野県とかにもあるがそれがわかりにくい、会津は福島県内にあるから実感できるのである

ともかく雪の世界はわかりにくい、でも昨日今日は雪国的になっていた、ただすでに雪は溶けていた
でも寒々として凍った雪にまた雪が一時でもふったからである
ただここではそうした雪国の感じはすぐにおわる、雪という時風花の雪なのである
会津の詩は前に書いたものだがそうしてふりかえるとまたこれは良かったなと我ながら思う
これも忘れていたことがあったからだ
そうして今まで創作したり手直ししたり付け加えたりまた新たに作ったりと作業をしている
それは終わりなきものとなっているのだ

それにしてもどうして古町温泉に来て湯に入ったのか?その方角もわからなくなった
もともと会津は方角がわからなくなる、それは山がひしめいて山々に閉ざされているからわかりずらいのである
どうして古町温泉に行ったのかも思い出せないのである
それが茨城県と那須方面に通じてそこまで自転車でいった覚えがあるが定かではない
どういう経路を通じて行ったのかからなくなったのである

ともかく会津の雪の詩のようにまさに会津とはこういう場所であり場の力がありそれは理屈ではない
それがいいとか悪いとかではない、そういう場の力風土の中でそういう精神が育まれたのである
だから会津は一つの国として独自のものを持ちそれが外からでもそう認識される
でも中通りとか浜通りでは何かそうした風土と一体化したものは明確ではないのである
やはり30万石という大きさにもあった、それだけの大藩だったからこそ明治維新で薩摩長州が敵として征伐するとなったのである
会津の感覚はだから伊達政宗とか伊達藩とかとも違ったものであり何か東北的なものを象徴していたともなる







2018年07月04日

佐須から霊山から相馬の城下へ(短歌十首) (春の日にたどる,自然の道,歴史の道)

                                                
佐須から霊山から相馬の城下へ(短歌十首)

(春の日にたどる,自然の道,歴史の道)


山の上に桜映えにき朝日さし流れのひびき巌に真向かふ
                                              
山間の磐を伝いて流れかな桜も咲きてさかのぼるかも

佐須により墓地をたずねぬあわれかな住む人なしや春となれども

春の日に佐須によりにきあわれかな人もなしかも花は咲けども

霊山に向かいし道の山間の陰にしなもお雪残るかな

霊山に大岩座してスミレ咲き鳥の鳴く声通りひびきぬ

霊山にこもれる僧や岩固く骨となららむ春となれども

霊山を下りてあわれ村一つ寺の跡かな春の夕ぐれ

碑の古りて文字定かならじ一時を足をとどめて春の日暮れぬ

相馬なる城下へおりてあわれかな老舗の灯し桜の映えぬ


霊山は貞観元(859)年に慈覚大師によって開山された。東北における天台宗布教の拠点となり、3,000以上もの堂塔(勤行の場)や僧坊(生活の場)が山中に造られ、「北の比叡山」とも言われていたそうだ。その後、南北朝時代に寺院の建築物が城として利用されることになり......

ここでも信じられないと書いているけど3000以上の堂塔があったという証拠もなにもないのである。その疎石すらないとしたら史実とは思えないのである。
ただここがもともと僧坊がありそこに南朝の拠点とした,国司館などが作られた
その疎石は残っているのである。

地名として岩が多いから学問岩とあるときそれは僧坊があったとき学問していた僧がいたからだとなる、山岳宗教が古くからあるし日本はもともと三輪山を御神体としてたように山そのものを神とする信仰があった
そういう日本人の自然信仰が仏教と合体したことは理解できる
ただ3000もの僧坊はありえないと思う
そしたら僧坊で山が埋め尽くされるしそんな大きな山でもないからだ
その言い伝えもはっきりしないのである。
何か伝説でも残っていればいいがそういうものも良くわからないし伝えられていないからだ

真野川をさかのぼり飯館村の大倉から佐須に行く道は歴史の道でもある
佐須という地域は奥深いのである。佐須とは焼き畑の地名でありそれで山津見神社がありそこでオオカミを祭っていた、オオカミは畑を荒らすイノシシやシカを食べるから大神とされていた、とにかく農業は畑をもっている人に聞くとキジに食われたとか、モグラに食われたとか虫に食われたとか野生の動物の被害が深刻なのである。
それは万葉集時代からはじまり鹿垣(ししがき)や猪垣を作って防いでいたのである。
今は電流を流して線で囲み防ぐとかその歴史は継続しているのである。
飯館村でも避難区域になったところはイノシシに畑でも何でも掘り起こされて荒れ果てたのである。

飯館村の佐須は霊山に行くとき必ず通るから印象に残る、そこに乳神と畑に碑があったのも記憶している、その時牛乳はない、牛が飼われたのは戦後なのである。
そういう奥深い所に暮らしがあったということが不思議だともなる
ただ今は人は住んでいる気配がなかった、時々帰って家をみていることは確かであるが住んでいる人は一二軒なのかもしれない、あそこで墓地をまた見た
菅野という姓が多い、村長も佐須の出身だったのである。

南朝が滅びたとき今の玉野で二手に分かれた、一つは卒塔婆峠を通って鹿島の真野に逃れた、そこは中館と言われていた、その時只野氏なども逃れておつづら馬というお浜下りで重要な役をになっていた、もう一方は山上に逃れた、そこに山王神社がある
野馬追いの旗印でも南朝の時の逃れた末裔の旗印は明確である。
杉の紋が只野氏だからである、あとは天皇の菊の紋が菊池氏とかなっている
他に桑折氏もそうである、その人たちの先祖は明確にたどれるのである
ただ卒塔婆峠は森に埋もれて消失してしまった 

まぎらわしいのは霊山神社とか山寺の近くにある北畠神社などは明治以降の神社である
明治維新は廃棄物希釈などがあり仏像などが破壊された、それに代わって国家神道が国のイデオロギーとした、それで明治に建てられた神社がある、そもそも靖国神社がそうだったのである。国家神道として明治維新で戦い死んだ人が祭られている
でも西南戦争で死んだ人たちは西郷隆盛でも朝敵となり祭られていなのである。
国家神道と地域の社はもともと成り立ちが違う、国家神道とは関係ないのである。
産土神(うぶなす)神であり土地土地の神なのである。
エジプトでも無数の神は土地の神なのである。何かそういうことでエジプトというのも日本と共通性がありギリシャの神々でもそうである。
それは人間の普遍的なものとしても宗教があったからそうなる

山上で不思議なのは金谷原といのがありそこに寺の跡があり墓地がある、江戸時代のものである。山上の奥でありあそこがどういう謂れなのかわからない、でも霊山から下ると
そこによるから記憶する、相馬市から高速が福島市へと通じたから今までの道は車が通らなくなった、そしたら何か古道となり観光するにはいいと思った
車が通りすぎると景色を良くみれないとかあるからだ
たから真野川からさかのぼり佐須を通り峠を越えて霊山に上ると残雪の吾妻嶺が望まれるからここはやはり景観もいいし歴史の道でもありサイクリングするにはいい所である
それから霊山から下る時もサイクリングに適している、ほとんど車が通らなくなったから安全でもあり静かになったからである。


春の日短歌十首(飯館村の佐須から霊山から山上へ-南朝滅ぶ歴史の道)

この続編です

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2018年06月01日

いわきまで御斎所街道を下る旅(旅の思い出の短歌)


いわきまで御斎所街道を下る旅(旅の思い出の短歌)


御斎所街道を行く(福島民友)


そはいづこ山中にあり万屋に味噌汁ご飯馳走になりぬ

古殿に市神の碑あり秋の朝我も来たりて街道下る

雷鳴りて雨の打ちふり旅人のしばし休みてまた走りさる

水澄みぬここに死なむや落鮎の今ひとしきり泳ぎけるかも

市街へと我はいぞぎぬ刈田なる遠野を行きて心に残りぬ

旅人のはるか来たりぬ秋の朝海を望みて鴎飛びさる

目覚むればいわきの海や撫子の咲きてひびける波の音かも


元応(げんおう)は、日本の元号の一つ。文保の後、元亨の前。1319年から1320年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。

古殿の市神の碑がこんなに古いのには驚く,この辺ではこれだけ古いのはめずらしい
古殿の前に鮫川とありその山中に万屋(よろずや)がありそこで味噌汁とご飯をご馳走になった、石川とかいうと何か阿武隈高原を行ってもなじみがない,竹貫とかもあったがなじみがない,そんなところに万屋があった
そんなことがなぜできたのか?今ではありえないことだとふりかえる
そこにはコンビニなどないから万屋(よろずや)があった

万屋とは何でも屋であり田舎でも辺鄙な所にあった店である。
それはどこにでもあった,しかし今はなくなった
そういうところにはまだ人情が残っていたとなる
今は外部の人はみんな警戒しているからそんなことしないだろう
ただ旅をするとき昔だったら歩いてしているからどうしても食料がないと困ることがあるするとおにぎりとかもらった人がいるかもしれない
そうしないと旅自体できないからだ,なぜなら乞食がいたし物乞いして歩いているのを子度のとき普通に見ているからである。
そして意外とそうした乞食に物をあげる習慣があった
みんなではないにしろ物をあげていたのである
ただ頻繁に乞食がきて嫌われたという記憶もある,それだけ乞食が多かったのである。

小高い新地山が見えた。歌枕の「人忘れずの山」として知られ、定信も歌を詠んだ。

 世々へても 心の奥に通(かよ)ふらし 人忘れずの山の嵐は

これは西白河の方である

定信に愛された新地山

この歌はいい歌である。人忘れずの山というのはやはり人が忘れてしまうような山だからこそこの名がついた,そういう奥にも人の心は通うとうなるのか?
人も忘れてくれるなという意味ともなるのか?
そこは秘境のような所だとなる,江戸時代ならどこでも秘境になりうるのである。

街道を下りた所に川が流れていてそこに落ち鮎をとる梁があり落ち鮎を料理する小屋ができていた
その川の水は澄んでいて鮎が死んでいた,最後にそこで泳ぎ死んでゆく

ただそこから遠野に出るが遠野は稲も刈られて淋しい所だった,いわき市街から見て遠野だったのだろうか?遠野というのはいくらでもある地名だからそうともならないだろう
第一地名はそんな広範囲な感覚ではつけられていないだろう。
原町の大原に遠田とあるが大原からはさほど遠くないからである。
でもそこで遠野は何かいわき市街から遠いという感覚になっていた

そして海に出た時,秋の海でさわやかであり気持ちよかった,そこでテントを張り一日泊まった
目覚めると撫子が咲いていた,その撫子がなにかいわきとあっていた
それは山から街道を下りてきて海を見たから感覚的に違ったものとなる
もし海沿いを旅したなら感覚的にこうはならない
山から海に出たということで新鮮な感覚が生まれたのである。
だから旅はその過程で違ったものとなる,海から山へ入るとなるときもそうである。

ここも塩を運び山から薪を運びとか飯館への塩の道とにている,塩の道は全国にあった
そこで山と海との交流が生まれた

塩を運ぶ人を待ちけり山の人その塩貴重に市に求めぬ

要するに物の貴重さはそうして苦労して運ばれたとかにあった,今は物の貴重さがないのは簡単に手に入るからである。いくらでも塩でも砂糖でもあるとなると貴重なものとはならない,だから塩でもなんでもありがたさがなくなったのである。

ともかく何度も言うように旅は意外と記憶されることが大事である。
なぜなら旅は忘れやすいのである。まず車だったら記憶されない
自転車で街道をひたすら下り遠野通りいわきの海に出たということで記憶に残っていた
本当に現代の旅は記憶に残らないことが多いのである
記憶に残る旅がしにくいのである,それはあまりにも便利になってただ通りすぎて遠くに行くというだけになっているからだ
その途中が省かれるのである。記憶から消えるのである。
旅でも人生でも記憶されないことは何も残らないということになる
そしたら旅という経験は無駄ともなりかねないのである。 



2018年04月14日

白河、二本松の城の桜の短歌 (歴史がある所に桜が一段と映える)

白河、二本松の城の桜の短歌

(歴史がある所に桜が一段と映える)

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shirakawaaaa123_FotoSketcher.jpg
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(白河)

松の間を殿の歩みつ草萌ゆる白河藩の栄えなりなむ

人柱城を守るとあわれかな乙女桜の咲きてなぐさむ

小峰城春の夕日のさして映ゆ車窓に見つつ電車すぎさる

小峰城電車に見つつみちのくをいずるや春の夕日さしぬ

(二本松)

城内に残れる花のあわれかなはるばる来る相馬よりしも

天守跡望みて遠くみちのくの山々映えぬ春の来たりぬ

城内に井戸の深しも散る椿守り城の古りにけるかな



根を張りて枝垂桜の三春かな織りなす錦桜に染まる

小浜城夕べ桜の咲きにけりたずねて遠く街のともしび

はや散らむ会津の桜我は見じ城を守りて少年死にぬ



日本は桜の咲く季節が一番いい,それは桜がきれいだとういこともあるが桜はなぜか城に映えるのである。
自然でも桜というときそこには歴史がありその歴史によって桜がより深いものとして見るただの桜だったらそれほど魅力がないかもしれないからだ
だからなぜ大坂城の夕日に映えて散った桜が他より美しかったのか?
それはやはりそこに歴史がありそこで織りなした人間のドラマを偲んでいるから違って見えるのである。
そうでなければそんなに桜に日本人がひかれることはないからだ
それで戦争のとき桜のようにいさぎよく散れとかの美学が生まれた,ただそれは戦争に利用されただけだという批判にもなる
桜はそれだけ日本人にとって生死を託すような花になっていたのである。

今日テレビで人柱伝説の乙女桜を見た,これは伝説というのではなく史実だった
人柱になりたくなくて逃げてそこを追廻しという地名として残っているというから人柱になりたくなくて必死に逃げたのである。
この物語が語るのは必死に城を守るということが侍では第一にされていたのである。
それは白虎隊でもわかる,城があってこそ生きることができる,そこから出て生きるという感覚をもつことすらできないのである。
そういう狭い社会で生きていたのが江戸時代だであり価値観だとなる
白虎隊が城をが燃えたとして自刀したのもそのためである。
城がなくななれば終わりだという価値観の中に生きていたのである。

桜咲く時期はやはり城を偲ぶ,でも江戸時代に城には桜が咲いていたのではない,それは明治になったとき城がある所が公園化して桜を植えられたのである。
だから今見ている桜は明治時代のものであり江戸時代のものではないのである。
その辺が不思議なのだけど桜に城は映えるのである。

花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしの」、かの一休宗純師、若い頃はとんちの一休さんで知られたお偉い坊さんが残したお言葉である。

室町時代からこの言葉があったとすると桜は愛でられていた,ただこの時も山桜だったと思う,今見ている染井吉野の桜は江戸後期なのである。その頃から花見が行われていたのである。
まず城で桜を愛でることはなかった,ただ糸桜の歌は残されている
でもそれは今の桜とは別物である。

春高楼(こうろう)の 花の宴(えん) 巡る盃(さかづき) 影さして千代の松が枝(え) 分け出でし昔の光 今いずこ.

この詩も明治以降に作られたものであり江戸時代は城で花見の宴などしていないのである。

テレビで見た乙女桜で南湖の松の間を歩いている姿はいい,あの松が貫祿があるのだ
あういう松は相当年月がたたないとあんなに太くならないだろう。
その間を殿が歩むことをイメージすると江戸時代にもどるのである。
江戸時代をイメージすると何かその景色に街道でもとけこむからなごむのである。
車ばかりの道路を歩いていてもうそこには人間も旅人もいないのである。
車の道であり何かベルトコンベアーを車が流れているという感じになるからだ

白河藩は松平定信が一時殿様となり治めていた,それで民のために尽くしたとか言われるが失政もあったからその評価が分かれる,この辺は詳しくわからない
ただ何か情緒的になるとあの松の間を殿が歩む姿は絵になっている
あのテレビの構図は絵になっている,写真でもあの構図でとればいい写真になっていた
白河はやはり白河の関所がありみちのくに入り出る場所を意識する
それで電車から城が見えるのは貴重なのである。

二本松城は古い中世の山城から発展した,だから古い城の形があり山城なのである。
その頂上に上ると安達太良とか蔵王とかが見えた,高いから見晴らしがいいのである。
あういう山城はめずらしいと思う,青葉城があるが仙台市街が大きくなりすぎて城下町という雰囲気がなくなっないる
二本松城は城内に入ると深い井戸がいくつかあり椿が散っていた
そこで暮らした人を思う,ここでも城を守るということがありその城を感じる
会津の城は平城だから何かもう一つ歴史を感じないのである。
ただ会津で桜を見たことはない,会津は浜通りから遠すぎるのである。
二本松までは相馬から自転車で行ったとき,花は散っていたのも感慨深いとなった
そのことは詩にした,二本松までは相馬藩で松川浦から塩を運んでいた
その塩の道がある、だから二本松とは交流が江戸時代からあったとなる

とにかく桜もここでは散った,昨日は風が強く散った,ただ残る花となりこれも味わい深いとなる
自分は会津でも二十年くらいも行っていない,今年も近くを見るだけだった
風が強く風が冷たいから自転車でも行けなかった
そして何か体が弱くなくり変調をきたしたこともある
でも以前として回想の旅をしている不思議がある,ぐるぐる電車であれ自転車であれ走馬灯のようにあちらこちら巡り歩いているのである
それだけ旅していたということである。

我が里や遠くに行かじ残る花

我が街や花散る後の静けさやここに住みにつあわれ深まる



2018年02月13日

雪の俳句と短歌(会津の風土から生まれるもの)


雪の俳句と短歌(会津の風土から生まれるもの)

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津川

ふりやまぬ雪や会津の悲劇かな

ふる雪や時の流れに埋もる墓

曲屋に雪の深さや奥会津

墓雪に埋もれて家や奥会津

一時や会津の雪に染まるかな

西会津芒に暮るや家一軒

(喜多方)

喜多方や積もれる雪に蔵の中

蔵の梁黒く太しも積もる雪

喜多方の蔵の梁太く冬籠もる

(西会津)

西会津芒に暮るや家一軒

西会津分かるる道や秋の暮

(津川)

川岸の凍てつく雪を踏みにけり


会津に入り雪をし踏めば深しかな雪なお霏霏(ひひ)と積りけるかな

清らかな雪に埋もれてもののふのここに死すかな時の移りぬ

会津にそ伝ゆ御仏の心かな立木観音冬深むかな

河岸に港の跡や津川かな昔栄えしも雪に埋もれぬ

西会津へ道は分かれぬ秋の暮会津は広く知らぬ奥かな

津川なれ昔栄ゆも雪埋もれともしびあわれ川面に写りぬ

みちのくの冬長しも都より遠しもここに培(つち)ふものあり

たちよりぬ塔寺の駅豆たたく人道にあり秋の朝かな




 会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね

会津というとここから始まっている,古い歴史をがある。
会津はその時から国として一国として意識されていたのである。
それは歴史的明治までも変わっていない
会津藩というとき大きな藩であり明治維新の時会津の旗印が鳥羽伏見とかの戦いでも絵に残されている,会津はそして北海道に領地をもっていてそれプロイセンに売り新政府軍、薩摩長州軍と戦おうとしていたのである。
それは批判されるがそれだけ大きな藩だから外国とも組んで戦おうとしていた
会津はだから情報が山国で入ってこないということで遅れたともなるが外国をも取り込んで戦おうとしていたから当時都から離れているから遅れていたとはならなかったのである
会津は今でも福島県となったとしても別な国であり歴史的にも地理的にも別な一つの大きな国なのである。
だから福島県というのは無理して作られたものであり地理的歴史的に統一感がないのである。会津となると電車で行くと東京より遠いのである。
相馬からだと岩沼で乗り換え福島市から郡山に行きそこでまた乗り換えるから不便なのである。
自分は郡山から磐越西線で途中中山宿駅で電車がスイチバック式なので待っていたことを覚えている

中山宿駅

ここに詳しい説明がある。何かそこで待っていることを覚えている
つまりそこは待つ時間がありそれが記憶に残っていたのである。
電車は駅でもそうだが待つ時間がありそれが記憶となり残されるのである。
駅でも絶えず見送り迎える場であり人間的な場になっている
それが車とかバスとかではなりにくいのである。
駅はそういう人間的な別れと出会いの場を演出する所でもあった
とにかく自分は本当に暇だったからそうしていつも旅していた
最初は電車の旅だった,だから全国の路線はほとんど乗っているのである。

会津というとき雪国である,浜通りはほとんど雪は降らない,だから雪国のことが実感としてわからない,旅して情緒的に雪を見るだけであり雪の苦労とかわからない
現実に今回福井とか大雪になり除雪や雪かきで人が死んでいるのである。
現代だと雪国にも交通が発達しているから昔とは違う,昔だと雪に閉ざされた世界になってしまう。それもイメージしにくいのである。
だから浜通りと会津の感覚は相当に違うのである。
そこに形成される心も違ってくる,いつも海を見ているのと山を見て雪を見ているのは気持ちが相当に変わったものになる、だから雪国のことは理解しにくいのである。

心からしなのの雪に降られけり 一茶

この信濃(しなの)の雪いうときまた会津の雪は違うのである。津軽の方でふった雪も違っていた,何か明るい感じがしたのである。この感覚はそこに住んだ人でないとわからない会津の雪はやはりそこに歴史があり明治の悲劇がありその歴史とともにその雪を見る
その雪を踏むときまさに歴史を肌で知るのである。

会津はまた古くから仏教が伝わった所である,徳一とか有名である。
その理由は病気祈願のためだったという,なぜ仏教が広まったかというと病気祈願が多かった,それは法印とか山伏が江戸時代に本当に多いのも病気祈願のためであった
その病気が一番深刻な問題だったからである。
カルト宗教団体に入るのも直らない病気のためとかある
でも今はみんな医者に科学に頼っているから宗教は衰退したのである。

塔寺は江戸期を通じて会津藩領で、寛文5年(1665)の万改帳で家数89軒・人数445人。主な産物は米・麦・豆・芋・栗・稗・タバコ・麻・ゴマ等だった。村民の多くは旅籠屋や駄賃稼ぎをしていた

粟と稗は山国らしいさ作物である。タバコはこの辺は阿武隈山地で栽培して有名だった
どこでもタバコは作られていてそれで財を成した所がある、貞光町などがそうである。
貞光の「二層卯建の町並み」は有名でありウダツは財力があるから作られたし喜多方の蔵でもそうである。喜多方は会津より北にあるから喜多方になり明治以降商業で栄えた街である。
会津は侍の街旧弊なものが残ったから明治維新後発達できなかった
相馬藩だと相馬市は城下町でありそのままの町割りになっている
元の原町市は原町駅が平駅のように機関区となり木材とか石材とか物資を東京に運び繁栄したのである。駅前通りが繁栄して人口も相馬市より増えたのである。
もともと原町は雲雀が原は野馬土手で囲まれていて馬の広大な放牧場だった
そこは今の街に変わったのである。

阿賀野川沿いに津川に冬に行ったことがある,そこは雪に凍っていた
そこが昔舟運で栄えた所だとは思えなかった

江戸時代、津川は会津藩の西の玄関口でした。会津藩は物資を会津若松から津川までは会津街道で陸路輸送し、津川から新潟までは阿賀野川の水運を利用していました。つまり津川は水陸輸送の中継地であり、運上金や塩の専売による収益金が得られることから藩にとっては経済上重要な港でした。

  会津からの廻米、会津塗、煙草、薪炭、木材などは津川で船積みして新潟へ運び、新潟からの塩、海産物、綿布などは陸揚げして会津に街道輸送しました。
  船着場は「大船戸(大船場)」と呼ばれて150隻もの帆掛け船が発着し、船荷を積み下ろしする丁持衆が100人も働いていました。その近辺には船番所、藩の米蔵、塩蔵、蝋蔵、物産問屋などが立ち並んでおり、活気に満ちたこうした状況から「日本三大河港」と称されていました。

ここはもともと会津藩であった,後に新潟県に属するようになった
会津は阿賀野川で新潟と結ばれていた,会津はむしろ新潟に近く中通りとか相馬藩となると地理的にも隔絶しているのである。交通は今でも不便だからである。
会津というとき本当に広い,東西南北があり東会津とか西会津とか南会津とか北会津とかあり奥会津とかある,西会津は何か淋しい感じになる,萱が一面に繁っていた中を自転車で走ったことは記憶していて前にも書いた
萱があんなに繁っていてそれを利用されていたのだ,茅葺きの家として曲屋(まがりや)とかがまだ残っていた
会津の茅葺き職人が相馬藩に来ているのもわかる,あれだけ萱が繁っていればそれも生業となったのである。
会津は山国でも会津塗りとか絵蝋燭とか特産物が生まれ伝播した
ともかく会津には木地師とかいたりして碗を作ったりしていた
それは山国特有のものとしてあった,ただ現代になるとそうした特徴がどこでも失われやすい,ただそれでも今でも同じように雪が冬中ふるからそこは変わっていないのである。その風土から歴史と一体となったものが産物でも文化でも生まれるのである。


会津の雪の詩(会津は一つの国の文化圏ー福島県は広い)

 福島県会津昭和村の地名  (昭和村晩秋の詩)

雪の俳句(雪国に住まなければ雪のことはわからない)

2017年11月09日

白河街道の旅 (勢至堂峠を越えて湖南町(福良)から会津へ)


白河街道の旅

(勢至堂峠を越えて湖南町(福良)から会津へ)

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同年、会津6郡・仙道5郡を与えられた蒲生氏郷が会津に入部すると、白川の地も氏郷の支配下に入り、氏郷は小峰城に城代として4万8千石で関右衛門一政、次いで町野長門守吉高を置いた。

漆器に目をつけ,会津から職人をうつして藩の産物とした
紙も会津人牧本善右衛門をまねいて様々な紙をすかせ一産業とした.

白河に会津町があるのはこういう歴史があるためである。会津町が城の近くにあるのもそのためだろう。

地図を見ると丹羽長重の墓がある

長重は毎日2,000人を動員して約4年の年月を経て小峰城と城下町の大改築を施し、白河城と呼ばれるようになった。

白河城を築いた人だった,聞いた話だと白河城の石垣には十字が彫られているという,それは掘られているという蒲生氏郷がキリシタンだったからとなる
そうした隠れた歴史がある,それは地元の人しか知らないということもある

白河街道というとき白河を意識するが会津街道にもなる。今でも六号線は東京からだと水戸街道と言われている
ここで白河に馬町があるが馬市が行われていたのだ

三代村の川をだんだんに登れば勢至峠である,分外に広い山野があって木地屋などの小屋掛けしているのが見える
峠になった勢至堂は下りの中腹にあって荒れた宿場である。会津へ帰る武士はここで酒を飲んだ,ここはまだ会津領ではなかった
勢至堂は馬の守り神かと思われる,奥州では所々にその石塔がある
この山中の村でも家々に駒を育てている,昨日買われた二才駒が五六匹一繋ぎになって見知らぬ親父にひかれてゆく,いづれも小さな木札が下げられている
香川県綾歌郡などと書いてあった
左側が片岨(そば)になっていて江花の古駅は坂道の両側に村を成している
この辺はみな熱心な馬飼いで一等賞を得るために泥鰌を食わせたり卵を飲ませたりしているう(柳田国男全集-勢至峠)

白河では馬市が行われていた,これは戦前のことでありそれで香川県からも馬が売られたのか?ただ江戸時代からも馬市があったのだろう。馬町という名がつけばそうである。
その辺の由来はわかりにくい,ただ白河は十万石くらいあるとしてやはり大きな藩だったのである。相馬藩は六万石だからである。白河は白河の関で有名なように要所だったので明治維新の時はそこが争いの場となったのである。
東北の藩が集結したのである。相馬藩の武士も戦いに参加した

馬というときなぜこれほと馬頭観音が多いのかとなる,それは馬が死んだときその供養のためだった,すると馬は二〇才くらいで死ぬからその数も多いのである。
だからそれだけ馬頭観世音の碑が多いのである。

勢至峠は車の道からはずれた所に家並みもそのつまに残っている,それは旧道になっているのだ。
この峠を越えて福良にでる,今は湖南町である。ここは郡山市なのである。
勢至堂も会津領ではなく白河領になっていた,境目になる場だった

この街道は二回か三回通った,春とか夏とか秋である。
普通はみんな鉄道が通っている方を通るがこっちの方がものさびて歴史を偲ぶのにはいいのである。福良では湖南町では一回蔵の宿に泊まったのも趣があった
あの辺はかえって猪苗代湖でも景観的にいいのである。奥まった所にあるからだ
福良は自分が行った時でも街の通りに茅葺きの家が何軒かあった,今はないだろう。
焼き物でも有名だった,あそこは魅力ある場所である。

清水湧き野菊の咲くや旧街道

山間は芒に暮れぬ旧き道

会津へと街は遠きも山間は芒に暮れぬてかすか虫鳴く

会津というと萱が芒が茂る山が多い,昭和村の方に行ったときも山が萱に覆われていたのである。この辺ではこんなに萱が繁っている風景を見ない,それだけ大量の萱が産出する場だったとなる,それは大内宿のよ茅葺きの家のように萱が大量に必要としていたからその需要があった,会津から萱葺き職人が相馬藩辺りに来たとういのもそういう技術に優れていたためである。
ともかく白河街道は魅力ある街道である。

白河はまた南湖公園とか翠楽苑(すいらくえん)とかある,翠楽苑は十年くらいして整備された,借景として自然の松林を利用している,いい庭園である。



白河街道を会津へ (会津の歴史を白河から偲ぶ)

福島県の歴史の道の旅の回想 (棚倉→白河→会津ー(白河街道)

白河の秋の翠楽苑

秋の白河の南湖を訪ねる(俳句と短歌)

福島県の旅の部に白河について連作として書いています
キーワードで白河と入れてあとはそのタイトルをグーグルで調べると全文読めます

タグ:白河街道

2017年10月25日

古殿からいわきの浜へ(俳句連作) (御斎所街道を行く)


 古殿からいわきの浜へ(俳句連作)


御斎所街道を行く

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(夏)      

小名浜に鰹一本朝の市

熱帯魚黒潮にのり波立に

朝つばめテントをたたみ旅たちぬ

テント張り明日も旅路や夏の星

六号線ハマヒルガオや朝走る

潮風や夏の旅路の六号線

風となり夏のライダ−すれ違う

(秋)

市の立つ古殿遠く秋の暮

鶏頭や一路下りぬいわきへと

街道の一路遠きも秋の朝  

秋の峯古殿去りていわきへと 

秋日さし馬頭観世音山の道

落鮎のここに死ねるや水清し

旅人の遠野を去るや刈田かな

街離れ遠野の里や稲架の立つ

なでしこやいわきの海の朝明けぬ

旅たつや波の音ひびく秋の朝



御斎所街道


いわきまでは夏にもで行った、小さな熱帯魚が波立海岸の岩礁に来ていた、それを見に千葉県から来ていた人がいた
熱帯魚が来るということはいわきは暖かい海であり黒潮の海だとなる

今回は秋に古殿からいわきの浜に御斎所街道を下ったときを俳句にした
記憶が何か消えてゆく、でもあの御斎所街道は急な坂であり下ってくるだけだから気持ちよかった
かなりの距離があったと思う、ここはいわきからは塩とか魚を馬で運び古殿からは木材とか炭とかを運んだ道である。

日本ではこうして海と山はつながっているのだ,いわきの浜から古殿を通り白河まで通じていた
塩が運ばれたとなる、それは相馬市の松川浦からはるばる飯館村まで運ばれた塩の道と同じである。
二本松までも運ばれたかから同じである

何回も言っているが旅は記憶に残らない旅をしないと後で思い出せなくなる
ここは地形的に記憶に残っている、坂が急だったことと坂をおりたところで川がありその水が澄んでいて落鮎が食べられる場があったその水は澄んでいて鮎が死んでいたのである。

そこから遠野にでた、農村風景でありそのとき稲架を立てていた、今は稲架をたてているのが見えない、機械ですぐに刈り取ってしまうからだろう。遠野の地名はどこから来たのか、いわきの市街から遠いからと今ならイメージする、でもそんなに遠くから遠野など地名をつけない,原町の大原に遠田とあるときそれは大原の前田から中心地からそれほど離れていないからである。
遠野とはそうした村の中心地から離れたところであり意外と近い場所になる
ただ今の感覚だといわきの市街から遠いので遠野とかイメージするのである。それだけ人間の距離感覚は広くなってしてまっいたのである。遠野市とかもあるがこれも別に遠くにある野ではない、村近くある野のことだろう。

いづれにしろ古殿の山からいわきの海へ行く途中に川があり遠野を通り海に出たことは記憶している
阿武隈高原になるとまだこうして海と結びつくのである。
そしていわきの浜でテントをはり寝た
朝明けたら撫子が咲いていていわきらしいともなった

ともかく旅はもしここを車で行ったら記憶されないだろう、急な坂を一心に秋の朝を自転車で下ることを体で覚えている
そして海に出た時の解放感も覚えている、それが旅なのである。
自分の体で地形を感じて覚えるのである。
人間は今車などで体験が浅薄なものになっている、だから一見広域的に動いても記憶されないのである。

現代では旅人はいなくなった、ホテルで豪華な食事するのは旅ではない、旅はかえって泊まるだけの粗末なものでいいのである。
長く旅するとなるとそうした宿が必要だからである。今は旅はただ移動するだけであり旅人もいないのである。
時々国道を歩いている人がみかけるけどそれも車の洪水の中を歩いているから旅人のように見えないのである。
とても江戸時代のような絵になる旅人にはならないのが現代なのである。

便利になるのはいいとしても必ず人間は何かを失う宿命にある、旅というのもなくなっいたのがそうである。
石川の竹貫とかの山の中の万屋(よやずや)で味噌汁とかご飯をごちそうになった、あんなことは今時ありえないのである。
江戸時代だったらそういうことがあっただろう、なぜなら山の中だと今のように何もはないから農家で何か食べさせてくれとかなる
そういうことができた時代だったかもしれない。
今はとにかく人間味がない社会なのである。

自転車だとあの時走っていたなとか体で感じて思い出すことがある。それが後で心を豊かなものにしているのである。
車だったらそういうことがない、ある地点にいった記憶だけになる、ある地点からある地点の間がぬけてしまうのである。
地理を知るには体で知らないと実感できない、グーグルの地図をみても坂のことはわからないのである。
坂とう峠をしるにはやはり体で経験しないと実感できない、車でも実感できないのである。
タグ:いわき 古殿

2017年10月13日

只見線の旅 (会津柳津町の人口減少がひどい)


只見線の旅

(会津柳津町の人口減少がひどい)

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柳津町の2008年〜2012年における赤ちゃんの出生数は、年平均で23人。人口千人当たりでは5.8人(全国平均8.4人)となり、全国の1,741市区町村中1349番目。同期間の1人の女性が生涯に産む平均子供数を推計した合計特殊出生率では1.48で836番目。

テレビで柳津町が人口が減ってさびれていると報道があった,柳津町は福満虚空蔵尊圓蔵寺で有名である。だから最盛期で4500人でありここ15年で1000人減った
この減少は町全体に相当に影響する,次の世代も子供もわずかしか生まれていない
若者は流出してゆく,40パーセンとの高齢化率である。
この辺は原発事故で35パーセントとかの高齢化率になったのは小高が避難区域になり若い人が流出したからである。
会津は原発事故の影響はほとんどなかった,ただ福島県ということで風評被害はあった

それにしてもこの数字から見ると危機的状態にある,もともと人口が少ない,それにさらに減少してゆく,すると町を維持できるのか?
深刻な状態である。やがて限界集落化してゆく,町自体を維持できなくなる
これが深刻なのは次の世代の子供も生まれないから跡継ぎがいなくなる
老人だけの村になり跡を継ぐ子供も生まれないのである。
限界集落に向かっているという恐怖である。
やがては町自体が消滅してゆくという近未来が見えることなのである。

山間参観地域は会津はほとんど過疎地域になっている,阿武隈高原地域も過疎地域になっている,原発事故でそれに拍車をかけた,飯館村では蕨平に40軒あった農家が一軒しか帰らないとかもう村が維持できるのかともなる
浪江でもこれから帰ってくる人がいるのかというと疑問である。
もう町として維持できない状態になっている
この辺は原発事故のためだったが会津は関係なく過疎化していたのである。
それは全国的に起きてくるこれからの日本の未来なのである。

怖いのは減り始めた人口がさらに減ってゆく,負のスパイラルに入ってゆく,若い人はますます流出するし子供を産む世代も極端に減っているのである。
最後に残るのは老人だけでありまさに限界集落となり町時代が消失してゆく
そうなったのが原発事故の避難区域である。
そこには老人だけが帰り若い人は帰らず流出したからである。

これからの恐怖はこうして人口減少して負のスパイラルに全国の市町村が陥ってゆくことである。それに先駆けてこの辺が原発事故でそうなった,津浪の被害地域でもそういう現象が起きている,若い人が流出して復興できないのである。
浜通り地域は仙台が近いから仙台とつながり高速もできたし鉄道も廃止されることはない工事関係者が増えて前の三倍に増えたというときまだそういう効果がある

只見線に乗ったけど比較するとあまりにも違う,一両の電車であり常磐線は一時間おきには出ているが

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豪雨災害で不通に それから約6年

 JR東日本は2017年6月19日(月)、福島県と「只見線(会津川口〜只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」を締結。同県が鉄道施設や土地を保有し、JR東日本が列車の運行を担う「上下分離方式」で、復旧させる方針であることを発表しました。

 只見線は、磐越西線の会津若松駅(福島県会津若松市)と上越線の小出駅(新潟県魚沼市)を結ぶ135.2kmの路線です。このうち会津川口〜只見間27.6kmは、2011(平成23)年7月の豪雨被害により橋梁が流出するなどして不通になっており、バスによる代行輸送が続けられています。

JR東日本が会津川口〜只見間を鉄道で復旧します。工事費総額約81億円の負担割合は、福島県が3分の2、JR東日本が3分の1です

それにしても工事費が81億円というのは驚く,この辺で津浪で流された常磐線が5年過ぎて復旧したが400億円だった,鉄道はこのように金がかかるのである。
復旧しても保線とかにも金がかかる,駅にいるとしょっちゅう駅や線路や電気関係など点検しているからである。
県で三分の二とか金をだすから復旧できる,でもバスだったら金がかからない,もう鉄道を維持することはそれだけ大変なのである。
ただ鉄道がないと観光面とかでもさらに町でもさびれてゆくのが問題なのである。

只見町には雪祭のとき一泊した,柳津町には粟泡饅頭をもらって食べた
粟とかは山国らしい食料である。檜枝岐などでは米は食べられず蕎麦が主食になっていたあそこは前は本当に秘境だったからである。今はかえって尾瀬に来る人がいるからにぎわっているのである。

只見町雪に埋もれて遠きかな一夜泊まりて雪踏み去りぬ

只見町には雪祭りの時,一夜泊まった,秋にも泊まったことがある
その只見町から小出に行く車両は一両だったのである。
あれでは鉄道を維持すること自体が容易ではない
会津から小出まで自転車で行ったこともある,そして小出町の前を流れている魚野川でとれた鮎を食堂で食べたことを覚えている,とれたてなのでうまかった,それも安かったのである。鮎はもう新鮮なものを食べられない,久慈川では鮎がとれるがそこから鮎を買ってきてもらったがやはり冷蔵庫などに保存しておくのでうまくなかったのでがっかりした

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魚野川釣りする人の映えにけり一両の電車来たりて去りぬ

魚野川夕べ岸辺に待宵草一両の電車只見より来る


只見線は生活路線としては維持しにくいが観光路線としては魅力がある。
ともかく旅というのは旅がはじまる前に計画を練るときから次に実際に旅しているときと意外と見逃されているのが旅の後に回想する旅があることなのである。
その回想する旅をするには記憶する旅をしないとできないのである。
団体旅行した人はどこに行ったかもわからないと言っていた
旅というのは意外と記憶することが大事なのである。

豪華客船の旅のことをテレビで写していたがあれは旅ではない,贅沢なホテルに泊まると同じである。
旅というのは今はそうしてなくなった,だから旅人も現代ではいないのである。
旅とは江戸時代のように歩いて旅するときあった,電車より自転車がそして歩くことが旅になるのだ。車とかバイクでも早すぎるのである。通りすぎる旅になってしまうのである
そうなると相当に時間をかけないとできない,勤め人はできないとなるのだ
今自分がしている旅はこうして旅をふりかえり書くことである。
そうして紀行文をでも書くとなるといかに旅が記憶されているかが大事になるのだ
だから不思議なのは旅でも自分が本当にそこに行っていたのか?
そういうことが今になると不思議になる,そこに行ったという記憶さえ消失している人がいるからだ,30,40年前にあそこに行った,そこで泊まったということが本当なのかとまでなる,そこで泊まったとしてもその民宿の人でももう30年,40年たつと老人になっているのである。そしてもう死んだかもしれないということにもなる




2017年10月12日

福島県会津昭和村の地名  (昭和村晩秋の詩)


 福島県会津昭和村の地名

 昭和村晩秋

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野尻村と大芦村過ぎて淋しき
はるか山の上に茫々と芒なびけり
矢の原湿原の沼のひそけし
その幽邃なる沼の水辺
しんとして千古の静謐
沼の精やここにひそむや
かそかに月こそ映し静まれ
晩秋の陽はここに薄れぬ
はるか旅人のここによりしを
その影の留めるなきや陽は没りぬ
誰か知る旅人遠く去りにき

会津藩士ここにも戦う沼ひそかはるか山の上秋の日没りぬ

誰かあれ秋の陽没りて日落沢



昭和村は会津でもかなり奥深い処だった。昭和村への道を入ると温泉が旅館がありそこで温泉にひたり疲れをいやした。それから村の食堂で食事をしてそれからかなりうねうねと山を上っていった。そこは一面の芒、萱原であった。その山の上に矢の原湿原があった。この湿原は日本でも二番目に古いとか道の脇にあるにしては古い沼だったのだ。ここで会津藩士が討ち死にししている。壮烈な戦いがこんな奥まで持ち込まれたのだ。こんな静謐な沼のそばにそんな案内板があるのもにあわない、反面そのことはあの会津の落城は壮烈なものだった。戦いは熾烈だったことを示している。なぜこんなところまで来て戦っているのかわからないからだ。確かにそこまでは覚えているのだがそこからはどこに出たのか覚えていない、自転車で行ってもこのように地理とかがわからなくなったり忘れるのだ。だから記録が大事になる。一面になびいていた萱原と沼とは覚えていたので思い出して詩も書けた。

それで昭和村の地図を見たら面白い地名を発見した。昭和村は大芦村と野尻村が昭和に合併してできたのだ。合併してできた名前はその村の歴史を消す場合がある。この合併地名はかなり多いのだ。大芦村の処は確かに芦が繁る処であり野尻というのも野の尻という意味でそれなりに地形として合っている。ここでは野は山間の平らな所でその尻となる。その他に日落沢とか転石峠とか木地小屋とかあった。これも山深い処の地名に合っている。日影山とか日落沢というのは山で日が落ちて陰るのが早いのだ。そういう地形が多い。転石峠というのは石が転げてくる危ない峠のことだしそういう処も多い。今でも落石注意とか案内板がある。それから駒止峠とは駒が止めるほどの峠道のことでこれは檜枝岐につづいていた。針生部落から檜枝岐は駒止峠でありこの峠は私は20年前くらいにバスで行ったがくねくねくねくねと曲がってやっと越えられる舗装もされていない、埃がたつ凄い峠だったのだ。ここを越えて檜枝岐まで行くのだから檜枝岐は秘境だった。今は観光化されて秘境というのはないのだ。

つまり秘境とは交通でも閉ざされていて外界との交流が少ない処である。交通が発達しない戦後まもなくや戦前はこうした地域は非常に多かった。そこでは自給自足の生活をしていたのだ。だから秘境は多かったのだ。まるでみんな仙人のような生活をしていたのだ。ソバが常食となるのは米がとれないためだし米を食えないという僻地でもあった。旅するならいくらでもその頃秘境があったのだ。今は秘境はない、自動車や交通の発達でどんな奥地にも気軽に行けるから秘境はないのだ。ただ昭和村というと今では観光化した檜枝岐より秘境の感じがある。あまりに観光化するとかえって魅力を失う、昭和村はその点まだそういう秘境的なものがある。インターネットで探したらそこにキャンプ場があり木のバンガロ−があり4000円で泊まれるとあった。ここに行きたいなと電話したら今年は終わったらしい。雪はふらないが紅葉も終わった。パスの便も終わり自動車がないと行きにくい、でもあんな所で3日くらいのんびりすごしたら気持ちいいだろう。この昭和村についてはからむし織りとかで良く宣伝しているがそれよりも何もなくてもわずかに残された秘境として価値あるんじゃないか、つまり秘境とはとにかく鉄道が通らず街からず−と離れた孤立したような山の中であればいいのだ。檜枝岐のように頻繁に人が入るようになると秘境ではもはやないのだ。伝説として次のようなものがあった。

治承四年、宇治川の戦に敗れ命からくも逃れた高倉宮以仁王は越後に落ち延びることになり、中仙道から上州沼田を経て尾瀬から下郷・大内宿に入った。橘諸安公の娘・桜木姫と高野大納言俊成公の娘・紅梅御前は数少ない家来を共に京から王を迫ってこの地に辿りついたものの、恋しい人はすでに越後へと向かってしまったあとだった。身のおきどころなく畑小屋集落にしばし滞在したがどちらも間もなく亡くなり、御前は下郷町戸赤の渓流沿いにまつられ、桜木姫の墓は大内集落のはずれに今もひつそりと残っている。そこから畑小屋の山は御前ヶ岳と呼ばれるようになったが、畑小屋の鎮守は以仁王の父・後白河法王を祀ったものという。

大内部落には都落ちした高倉宮以仁王の一行に同行したある従者の君「桜木姫」長旅の疲れから18歳の若さで亡くなり、この地に眠っているといわれています。このお墓の周辺を御側原(おそばはら)といいます。源氏と平家の争いがこんな僻地まで尾をひいたのか祭りがあるからこれは本当なのだろう。ただ平家落人部落というのはかなり嘘が多い。義経伝説も北海道まであるのだからこれもどこまで本当なのかわからない、それでも奥地まで戦いがあり落人狩りなどが戦争では行われたのかもしれない、執拗な追手というものがあって身を隠さざるをえないこともあった。会津というと何回も行っているがやはりあそこが良かったなとかもう一回行く処はまた調べ直してその土地に詳しくなり今度は別な処を探査してしみようとかするのがいい、あそこはただ通りすぎただけだったから今度はまわりをよく見ようとなる。でも何日か滞在しないとやはり自然はわからない、だから滞在する旅にはそれにふさわしいもの、山小屋のパンガロ−見たいのがいいのだ。今年は自転車で行くのは無理だろう。でも今年の最後はどこかに出かける必要がある。

福島県会津昭和村の地名




これは前にホームページで書いた紀行文である。今回プログの方にも転載した,プログだとキーワードで検索しやすいことがある。
膨大な量だからそこから検索される必要がある,人間は本当に忘れやすい
こういうことを書いたの忘れていた,昭和村に行ったことは覚えている
その時は結構坂があって楽ではなかった,自転車は坂で疲れてしまう
この時は一面に萱に埋もれていた

それで思い出して一句作った

奥会津萱に埋もれて日の暮れむ

本当に日が暮れようとしていたのである。その時どこに泊まったのか覚えていない
なかなか旅をしても時間がたつと思い出せなくなる
特にこの辺は一身上でも回りでも変化が激しかったから旅したことが思い出せなくなった今のことに心も身を奪われてしまったのである。
過去が忘れやすいというとき今が常に変化しているからである。
それも激しい変化に見舞われると今にエネルギーが奪い取られることがわかった
だから自分は旅するエネルギーも消失してできないともなったのである



タグ:会津昭和村

2017年08月05日

阿武隈山地の影(詩) (行政区域としての廃藩置県には無理があった)


阿武隈山地の影(詩)

(行政区域としての廃藩置県には無理があった)
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海があり森があり飯館の阿武隈高原がありかなたに
吾妻連邦が見える




阿武隈山地の影が覆っている
常に阿武隈高原がさえぎる
水鏡の峠を越えれば
安達太良山を望む
川俣はまた別な世界
いわきは東京に近い
通勤列車が東京へ出ている
いわきから複線になっている
相馬地域は仙台圏なのか
常に阿武隈高原地帯がさえぎる
その影が覆っている
中通りは遠い
その地理的障壁は消えることがない
人の心はその地理の中に閉ざされる
浜通りは常に海からの風が吹く
その風が開放的にする
しかし海は津浪のように恐怖をもたらした
阿武隈山地に閉ざされて
海は恐怖をもたらし閉ざされる
人間の運命は自然によって
あらかじめこ定められている
その定めを越えることはできない
その地の宿命の中に生きる

地理というのがいかに人間に影響するかである。人間は地理によって作られるのである。その地理の定めを越えることはできない
福島県は阿武隈山地で浜通りと中通りが分断されて中通りと会津も分断されている
そういう地理的宿命は帰ることができないのである。

人間の心もそうした地理や風土によって作られてゆくのである。
阿武隈川山地の不思議は日本列島が大陸から分離して形成される途上で古くから存在していた,古い山脈なのである。地層が相当に古いのである。
だから地盤が安定しているから飯館村に核廃棄物をの貯蔵庫を地下深く作るとかの意見も出たのである。

浜通りにとってこの阿武隈山脈の影響は相当に大きい
物心両面でさえぎられてしまう,その影が大きくのしかかってくるのである。
なぜ地理がこれほど影響するかというとやはりそこに住み生活していれば地理の影響を一番受けるからである。

日本は結局山国だからどうしても山にさえぎられる,その山の中に閉ざされる傾向が強いそういう地理である。どこまでも広がる大陸的平地はない,必ず山でさえぎられるのである。だから日本という国は本来は意思疎通がむかしい国である。
父なるラインとかドイツのように国土を象徴してまとめるようなものがないのである。

福島県でも広いから新潟県がどこなのかという話題になった
越の国の範囲となるが東北だという意見もある
どうもその新潟が相馬地域ににているのだ

東北開発促進法の中では東北地方の定義として「青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県及び新潟県の区域」と記されている。

福島県と新潟県が一体化してとらえている,相馬地域も福島県でもあり仙台圏の中にも現代では入っているから中途半端な地域だともなる
新潟県は会津地域にも入る,すると東北なのかともなる
結局は北陸となると富山県が中心でありその富山県は越の国であり大伴家持が古代に赴任してたように奈良か京都を向いている,さらに大阪を向いている
新潟県が向いているのは関東でり東京だとなる,それは福島県ににているのだ
つまりどっちつかずの地域になっているのである。

ただ米沢市は上杉家の藩であり上杉謙信の領地としてあった
それで今の玉野村で丸森の森の木材資源をめぐって伊達藩と上杉藩と相馬藩が三つ巴で争ったのである。だから上杉謙信から歴史的に越の国の影響も及んでいたともなる

ともかく廃藩置県は地理を無視したものであり歴史も無視したからそこで何か一体感をもてないものにしたのである。
会津と新潟は一体の県とした方がわかりやすかったかもしれないのである。
そういうことはいくらでもあるのだ
相馬地域が福島県になるのも何か不似合いだった,そういうことは全国でいくらでもありそれでいろいろもめてもいるのである。
行政区域と地理とか歴史とか風土の区分けは別物なのである。
行政区域としての廃藩置県が地理的歴史的文化的風土的区域化したものとは別物である。明治維新からの廃藩置県はそこで無理があったのである。
それは行政区域としての県という単位であったからである。

福島県は地理的に隔絶されて一体感がもてない


福島県は地理的に隔絶されて一体感がもてない


昨日は仕事できた郡山市の人が駅にいた,車を運んできたらしい,帰りは電車で岩沼を回り帰るという,そうなると結構遠い,直通だから途中乗り継ぎがないからいい
あとは墓参りにきた福島市のばあちゃんだった,墓参りに来る人は増える
お盆だから増える

駅には人の流れがある,郡山市は30万都市で福島県では一番大きい,だからここから仕事に来る人は多い,福島市はそれほどでもないのは県庁があり公務員の市だからとなる
経済活動を一番しているのは郡山市である。
だから郡山市を県庁にするということでもめている

福島県は大きすぎる,だから実際はいわき地域と郡山地域とか福島市地域とか会津とか相馬地域とかに別れいてる,郡山市と福島市は交通の便がいいからつながる
でも福島市は仙台福島区とか言われるのは新幹線で20分くらいで行き来できるからである交通の便がいいからそうなった。

相馬地方は仙台とのつながり深い,高速でもつながったからますますつながりが深くなる電車でも仙台を行き来する人が一番多いのである。
仙台の方の人と結婚する人も多いのである。仙台市相馬区のようにもなる

ただもし福島市と鉄道ができて30分くらいで結ばれれば福島市も近くなるのである。
会津でもそうである,交通の便が悪いから交流がないのである。
新幹線のようなもので結ばれたらそうした地理的障壁はなくなるのである。

郡山市が発展したのは原野であり何もないところから発展した,安積疎水で猪苗代湖の水を利用した結果として発展した,三春の方が城があるから古いのである。
でも三春は山の中であり発展しなかった。二本松は中世の山城から発展した。
ただ平地があるのは福島市と郡山市と会津若松市である。
やは明治以降は平地があると発展しやすいとなる

福島県は地理的に統一感がない,地理的一体感がないのである。
浜通りと中通りは阿武隈高原でさえぎられていて障壁となり遠い感覚になる
中通りと会津はやはり遠い感じになる
前にも書いたけど廃藩置県は地理とか歴史とかを無視して無理やり作られたことでそうなったのである。

だからそもそも福島県のアイディンティティなど作り得ようがないのである。
会津なら会津のアイディンティティは地理的歴史的に作りやすい
福島県になると作りえようがないのである。

福島県の地理は本当に複雑である,会津などで山が多くて深いからそこを知るだけで容易ではないとなる,そこに魅力もあるのだが福島県は地理的歴史的に一体化することは無理になる,福島県の特徴は地理的に断絶された県だとなる
例えば山形県だと最上川で一体感をもてるかもしれない,ドイツのライン川が父なる川としたように地理的に川で結ばれて歴史も作られてきたからそうなる

福島県に阿武隈川があったとしても確かに郡山市から福島市から宮城県の亘理まで流れている,その川から一体感を感じるということもない,相馬地方とは関係ないからである。会津磐梯山が福島県の象徴的山のように見えても相馬地方からは全く見えない
むしろ霊山からは吾妻山が見えるから吾妻山の方が親しいとはなる

会津県とか二本松県とか磐城県とかになる構想があったがその方がわかりやかったとなるでもそうなると磐城太田駅があるように磐城として相馬地方は組み入れられる
相馬だけでは小さいからそうなる
相馬地域は独自性を保てないとなる,何か仙台市相馬区であり磐城相馬区とかなってしまう,相馬地域が何かそうした中途半端な地域なのである。
ただ相馬藩としてあるときそれはそれで独自性を保っていた歴史があったのである。

ただ原発事故で相馬藩だった所が一番被害を受けたから全体的に縮小した。
そして衝撃的なのは少子高齢化で将来を見ると阿武隈高原地帯には人がいなくなる
今も飯館村などでも原発事故で極端に人口減少が起きているが別に原発事故がなくても
将来的に阿武隈高原地帯には人が住めなくなるような状態になることが予想されていたのである。

津浪とか原発事故はここだけではない,何か日本の将来を先取りした地域になったのである。三陸でも高齢化であり漁業だけではやっていけないとかなっていたのである。
後継者もいないとかなっていた,だからそんなところに今さら金をつぎこんでも無駄だと官僚が本音を言ったのである。じじばばしかいなところに金をつぎこんでも無駄だと本音を言ったのである。それはこの辺でも原発避難区域になった所に言える
じじばばしか残らない地域で復興できるのかとなったからだ
そこはうば捨て山になってしまう

自分としては村々が広範囲にありその地域独自の生活をしているとき魅力を感じる
でも今やインフラの維持に都市部の180倍もかかるとかなると無理になる
昔の自給自足だったらいいがそれだけ金がかかるから税金がかかるからその税金が地方交付税とかで東京都民でも払うから不満になってくるのである。
炭焼きしていたような時は違っていた,自分の生活を自分の村でまかなっていたから都会とは関係なかったからである。

そうなるとコンパクトシウティとかコンパクトタウンとかコンパクトビレッジにするほかないとなる,もう原発避難区域になった所はそうなっている
街から離れた周辺部には住めない,それは小高でも浪江でもそうである。
飯館村でもそうである。蕨平などは40軒あっても一軒しか帰らないとか周辺部にはもう人が住めないのである。

福祉でも医療でそういう広い地域は一軒一軒回るだけでも手間なのである。
人が集まり住んでいると回るのも楽だから医療でも福祉でもサービスをする側にとってはその方が手間も金もかからない,少ない人員でやれる
そして人手不足になっているからコンパクト化が必要になっているのである。

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20150年には阿武隈山地には人が住まなくなる
元の森林にもどってしまう

日本ではこの辺でもそうだが原野化するとそこに木が生えて森林化する


2017年02月16日

みちのくの枯野の風景 (常磐線のいわき市から仙台まで)


みちのくの枯野の風景


(常磐線のいわき市から仙台まで)

いわき市辺りあ出ると車窓には枯野が広がる。大野、広野とかの地名がありこの辺はもともと広々とした野原だった。相馬藩の殿様がこの辺を余の森とした所である
今の双葉とか大熊とかは磐城藩との境で争いがあった。
余の森とは相馬藩の領地だという宣言である。「小良が浜」おらがはまというのも俺の浜だということで領有の宣言である。何か土地争いは常に古代からもあった
この辺は森におおわれていて明治に入って開墾された地域である。
ただ江戸時代でも人は住んでいたので野馬追いに出る古い家がある
浪江町は相馬藩に組み入れられたがあとからである。相馬藩の最初の城は小高にあり小高、原町、北郷(鹿島)相馬市が中心だった、そこに飯館村も入ってきた。

原町は神旗争奪戦が行われる雲雀が原がある、もともとここには家はなく広大な野原であり土手が囲んでいて馬が放牧されていた。原町とはまさに原っぱしかなかったのである。原町から深野とか大原も野であり原が広がっていた。最初はみんな原や野が広がっていたのだ。だから日本では野とか原とつく地名が多いのである。
森は杜でありそこは別な領域であり鎮守の森として杜として残された。

この枯野がつづくの亘理までである。ここまでは家が少なく刈田が枯野が広がっている。それは陸奥らしい風景である。この枯野の風景も阿武隈川をわたると岩沼になりここは大きな煙突があり煙をいつももうもうとだしている工業地帯になる。引き込み線もあるからしだからいつも貨物列車が駅にとまっている、そして冬芒が心に残る


岩沼の次は館腰(たてこし)の駅だが館腰神社があり館腰の碑が相馬にもある。相馬藩内には伊達藩にあった神の碑が多いのである。小牛田の碑とかもそうであてる。山神の碑は小牛田に由来している。お参りしたためにそうなった。
なぜ磯部には寄木神社がある。

「寄木神社の由来
  合祀稲荷神社 寄木神社
平氏没落後志摩国磯部に身を隠した落武者辰
之丞一行は間もなく陸奥国石巻に下り寺島氏
を称して世を忍ぶ辰之丞を船頭として漁師とな
つたが 海面を混濁する北上川の氾濫に度々漁撈
を妨げられ 遂に適地を求めて宇多郡大竹荘磯部
の里に移つたと伝えられる

永享の末頃寺島家は元の漁師に復し神官は絶
えたが後 佐藤好信が相馬氏に仕えて磯部城に拠
り祈願所として開山した海蔵寺が別当を勤めた
と伝えられる 天正十三年(一五八五)の建立を伝え
られた

海蔵寺は浜吉田にありそこに慶長津浪の縁起が記されていた、言い伝えがあった。この寄木神社は慶長津浪(1611)年の前のことである
このように伊達藩とのつながりが相馬藩には多いのである。それは地理的に接しているからそうなった。

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に

という民謡が残された。これは駒ヶ峰が境となり残されとか山の方の玉野なのか不明である。ただ駒ヶ峰とか新地には中世の城があったり境になっていた。

今回の津浪では宮城県から岩手県に被害がありそこが一つの地理として結ばれた地域だったことを知らしめられたのである。今回の津浪は東北の海岸線を一つとして見なければわからないのである。

新地から山下までの駅は高くなり金華山とか牡鹿半島が見えるようになった。
そして相馬藩内に金華山の碑がある。これは丸森にもあった。金華山参りが行われていたでもそれは明治になってから盛んになったから新しいのである。
古いのは湯殿の碑なのである。これは東北の農民が湯治に行った場所だからである。

海というのは常磐線でも仙台まで意識しにくくかった。なぜなら海が見えたのは常磐線からだと新地でありわずかに見えただけだったからである。
それで浜吉田の駅まで津浪がきていたことに驚いたのである。それは小高でもそうである小高は駅を越えたのではなく街に下水道から津浪があふれたのである。

現代の交通は鉄道と車となったとき海の視点が欠けるようになった。それは全国的にそうである。日本は海に囲まれているのだから海の視点があってもいいはずなのだがそれが喪失した。
でも新地駅でも山下駅でも海が広々と見えたとき金華山でも牡鹿半島でも身近に感じたのである。あれだけ見えれば海をわたっても迷うことなく行ける、目標がはっきり見えるからである。
それで古代にも石巻まで相馬の海からわたったという人もいる
なぜ石巻に萱原という地名がありそこが万葉集の真野の草原とされていたのである。
それが定説とされていた。石巻には真野公という木簡も発見されているからだ。
だから南相馬市の鹿島区の真野郷は発掘がありこっちが有力になったのである。
ただどうしても実感としてあれだけ牡鹿半島や金華山が見えるということで地理的一体感がましたのである。
やはり海が見えるのと見えないのでは全く違った感覚になる

ともかく陸奥は枯野の風景でありそれがふさわしいとなる
上野を電車で出るとやがて30分くらいなのかビルもなくなり太陽が地平に沈んでゆく
そしてそこからみちのくの枯野が広がってゆく、その時電車の音が高鳴りひびき故郷に向かうということになる。
ただもう常磐線で十年以上東京には行っていない、介護で行けなかった。東京にはすでに10年以上行っていない、何か本当に歳月がすぎるのは早い、十年介護で一昔となってしまった。その間に津浪や原発事後がありあわただしくすぎてしまったのである。

みちのくは以前として芭蕉の「奥の細道」の雰囲気が残っている地域である。
でも芭蕉が歩いた中通りとかは都会化しているから感じられない、浜通りはいわきから枯野となる、大野とか広野とかになりそこが原発事故で人が住まなくなり本当に枯野となり原初の状態に戻ったとなるのも驚きである、家が街が草茫々の中に埋もれてしまったのである。
だからこれは風流として見ることもできない、そもそも風流があるのは貧乏ではかえって風流はない、もう生活に追われるだけであり自然を風流として見ることができないのである。そもそもそんな風流より原発が建てられたのは出稼ぎしないように地元で働く場をもつために誘致したのである。原発は高給になるから働いたのである。
原発の経済効果は本当に大きかったのである。それがみんな裏目に出て悲惨な結果になったのである。

風流ならば

みちのくに枯野に何か昼の月

こんなことにもなる、そういうふうに自分もあったのはやはり経済的にとか恵まれていたからである。それで介護で十年苦しんだのもそのためである。
今のこの辺はこんなのんびりな状態にはない、未だに復興は先である。
津浪の被害地でも広範囲でありこれが復興するのはまだまだ時間がかかるのである
その被害があまりにも広範囲だったからこうなったのである。

2016年11月03日

古殿からいわきへの旅(秋の俳句十句) (塩の道をインターネットでふりかえる)


古殿からいわきへの旅(秋の俳句十句)

(塩の道をインターネットでふりかえる)

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古殿に市たつ昔秋の暮

鶏頭や御斎所街道下り来ぬ

水清し落鮎あわれここに死す

旅路来て鮫川に出会い水澄みぬ

磐城なる遠野をすぐや刈田かな

いわきなる稲刈り終えし遠野かな

はるばると山よ海へ秋の空

なでしこやいわきに目覚め朝の海

秋の海常陸に通ずいわきかな

みちのくの勿来の関や秋の暮


古殿に荷市場ありて市たつと杉の木古りぬ秋のくれかな

貝泊(かいどまり)その名残して塩の道牛も休ませ秋の日暮れむ


塩の生産地だった磐城の浜と、平潟九面両港に荷上げされた瀬戸内の移入塩は、荷駄に積まれ海産物と共に中通りに、会津方面に運ばれていた。

貝泊の地名は貝(峡)山と山との間の狭いところ、そして泊は止るを意味するものという。
 又、現在も「牛屋」と呼ばれる家もある。荷駄を積んだ牛の休憩所即ち立場であろう。 県道黒田−浅川線を西に進む。しばらくして右に折れる道は戸草を経て才鉢に通じる道である。

鎌倉岳山裾の荷市場の地名は「市神碑」(1319年建立)が語源であり、塩の道の重要な点でもある。

柳の若葉が眼にしみる頃肩荷で棒手振で御斉所街道を運んで来た初鰹の売り声が聞える・・・柳の根元に繋がれて餌を食べながら尻屋 で蝿を追払う馬車馬・・・繋石の脇で口を動かしながら休んでいる木炭を運んで来た赤牛・・
udono.fukushima.jp/kanko-dentou-bunka/see/shiseki/sionomichi/nisijyou1/159


ここのサイトに塩の道のことが書かれていた。

古殿に荷市場とありそこに古い杉の木があり古跡となっている。
ここには阿武隈高原に沿って自転車で行ったことがある。その記憶が明確ではない、鮫川とか石川郡とかなじみがない、ただ山の中に万屋(よろずや)があり味噌汁とご飯とかご馳走になったのを覚えている、今どきそんなことする所はない、まず万屋というのは昔あったが今はない、山の中だから残っていたのである。
記憶をたどる旅はインターネットが役にたつ、土地のことを書いているサイトが必ずあるからだ。

御斉所街道をはかなりの距離だった。ここを一気に下った、結構急な坂だった。
途中に貝泊とかあり塩の道で泊まる場所が記憶として残されているのもわかる。
相馬市の松川浦から塩を飯館村を通って二本松まで運んだ塩の道は有名である。
ただここは馬で運んだ、いわきの塩の道は牛で運んだ。
一番有名な長野県の信州の塩の道は日本海から松本まで運んだ、その道のりは長い、山中の細い道であり急な所もありそこで牛が転んだというのは実感できた。
牛つなぎ石とかもあり牛を休ませた牛小屋は今でも残っている、いわきにもこれと同じであったが小規模である。
塩はいわきでは作られず瀬戸内海の方から運ばれたから相馬藩とは違っていた。

この御斉所街道を下ったところに鮫川が広く流れていて落鮎をとる簗場があり臨時の食堂もあった。清らかな水に鮎が死んでいた。
そこから遠野に出た、上遠野があり下遠野がある、上は奥である。遠野というとき磐城の市街から遠いということで遠野なのか?そういう位置にあったことはわかる。

遠野から市街に出て磐城の浜に出てテントを張り目覚めたら撫子が咲いていた。それは覚えているのだかあとはどうなったのか覚えていない、旅でもなんか忘れることが多いのである。
自転車の旅でも忘れるのである。ただ懸命に御斉所街道を自転車で下って行ったことは覚えている
旅は計画して実行してあとでふりかえる、このふりかえることが意外と大事だった、なぜなら記憶していなければ行ったことにもならなくなくからだ。
記憶していればあとで地図でもインターネットでも見てそ記憶を蘇らせることができるからだ。

いわきは浜通りで近くても広いからわかりにくい、地理的にも歴史でもわかりにくい、特に石川郡とかなるとなじみがない、古殿でもなじみがない。
勿来の関でも白河の関所とは違いなじみがないし行ったこともない、福島県は本当に広すぎるのである。
いわきというと古代の常陸に近い、棚倉でも水戸街道へ通じる、水戸が近くなる、それが地理的特色である。そこで勿来の関と白河の関所があったとなりみちのくに入る場所なのである。
ただいわきには城がないから城跡すら平にあったとしても何か石垣すら残っていないとか歴史が偲べない、三春藩だと城跡が残っている、やはり歴史を偲ぶとき城がないと偲びにくいのである。

塩の道で貝泊というのがあったというのはあれだけの長い道だし坂だから当然だとなる。相馬市から飯館村への塩の道でも途中山中に助之観音堂(たすけのかんのんどう)がありここで泊まったとある。
とても松川浦から一日では飯館村までは行けない、途中沢沿いに細い危険な道がありそこは通れなくなっている、一歩ふみはずと沢に落ちる、だから牛転がしとか各地に地名化した。

旅というのもこうして歴史をたどらないと印象に残らなくなる、ただ旅も空間的移動だけになってしまう。現代の旅は交通が便利だから空間的旅はどこまでも地球でもできる。
ただそこに時間軸としての歴史を偲ぶ旅ができないのである。
空間の移動はできても歴史となると想像力と知識も必要なのである。
それを今回はインターネットとかでたどりした。こういう作業を今はしている。

2016年08月21日

葛尾村から三春から田村市(都路村)へー秋の短歌 (地理は地図を見てもわからない)


葛尾村から三春から田村市(都路村)へー秋の短歌


(地理は地図を見てもわからない)

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葛尾村あわれ遠くも古き碑の並びて語る秋の夕暮

三春へと葛尾村より我が行くやその道遠く秋の日暮れぬ

この辺りいづれや遠く山の道月見草咲き夕暮れ迫る

三春への道のり遠し道の辺の花もあわれや旅人去りぬ

葛尾村我が父の暮らしはいかに丁稚奉公に新山に出る

葛尾村三春浪江も遠しかな生活もあわれ秋の日暮れぬ

高瀬川上りて遠く落合や秋深まりぬ葛尾村かな

双葉より都路遠し坂のぼり我が着きにしも何かありなむ

五万石三春の城跡我が立てば四方の山々かなた相馬かな

葛尾村古き屋ありぬ養蚕に暮らしをたつや代々の墓

行司滝相馬と三春の境かなその謂れ知り秋深まりぬ

山中に様々な碑の古りにけり昔の暮らし秋の日暮れぬ

隣村都路村やその名にそ華やぐも古道とあり秋深まりぬ

船引と昔の町の名の消えぬ田村市となる知らざりしかな

船引に一夜泊まれる電車行く音のひびきし秋の夕暮

飯館村芒なびきて誰か住むその土地広く知られざるかな




地図見ると実際の感覚とは違う、葛尾村は何か広い感じがしたのである。でも実際はかなり狭い領域だった。飯館村はもともと広い感じだった。
川俣村も意外と狭い、でも人口が多いのは絹織物の里として栄えたからである。
福島市から電車まで通っていた。
双葉とか大熊も土地としては狭い、でも町として維持できたのは原発があったからである浪江町は土地が山奥の津島まで伸びているから変則的なのである。
津島は開墾に入った地域であり戦後のことである、だからあそこで中国人の嫁が都会に出たいと鉈で夫を襲ったということがあった。今は避難してどうなったのか不思議だとなる海側は何か狭い感じである。南相馬市は広いのは原町市がもともと入っていたからであるここに雲雀が原がありもともと広い土地だったのである。
田村市は船引町まで合併していたのである。船引は鉄道も通っていて大きな街がある。
だからそこも合併したので4万くらいになっている
都路村には双葉から自転車で行ったが坂がありようやく越えてつく
ただ都路村は葛尾村の隣である。境を成しているのは高瀬川なのである。
行司滝というのはその境の謂れが伝えている
ただここには行ったことがない、かなり川でも奥になるのだろう。

葛尾村というとき広いと思っていた。父親の出身地は葛尾村の小出屋であり
あそこも相当不便な所であり場所としては広い場所がないので窮屈なのである。
その実家のような家は今はない、そこにも一つの物語となってしまった。
あそこはでも三春までバスが通っていたから浪江の街中に行くより三春の方が近かった
江戸時代でも三春が近かったので葛尾大尽と呼ばれた製鉄で財を成した人が三春藩の殿様を呼んだとか言うのはそのためだろう。
要するに葛尾村が狭いというとき平地も少ない、平地があれば田にしていたが他は山の暮らしであり馬を飼っていたり炭焼きしたり木材とかを売り生活していた。
相馬野馬追いでの騎馬武者の草鞋を作っていたというのもそのためである。

この草鞋作りは金を稼ぐには良かった、栃窪村の上萱(うえがや)でも草鞋作りしていたのである。靴がない時代は草鞋だから草鞋は一日くらいでも履き替えるから売れるとなる、その草鞋は必要なくても義理で生活の足しにと買っていた人もいる
福島市の草鞋祭りもそういうものに由来している。
上萱も意外と古い、明治時代から家があったとか古いのである。茅葺きの家が何軒が残っていたとき何回も行っている、つまり大原村から八木沢へは辺鄙な不便な場所だけど開墾して入植した人がいた。バラ坂とは何なのだろうと思ったらそこが原発事故で家が避難して茨の原になっていた。バラ坂とは茨(いばら)のことだったのである。
それからたいがい古い農家は戦前まで養蚕しているからそれは兜作りであり二階が独特の形をしている、通気孔をもうけていたりとわかる。山の中でも養蚕していればそれなりに暮らしが成り立ったということはある。

ともかくこの辺が原発事故の被害にあり避難区域になった。
この辺は何回も自転車で行った所だがそれでも地理はわかりにくい
実際の感覚とは相当に違うのである。だから地図見ただけでは地理はわからない
遠さの感覚とか地形とか広さの感覚でも実感しにくいのである。
相馬藩は大熊とか葛尾村までありつくづく狭いようで六万石でも広いのである。
だからわからない領域がまだある、行司滝などまだ行っていないのである。

行 司 ヶ 滝

このプログの説明だと都路村の古道村まで相馬藩であり境争いがあった。三春藩の侍が切腹までしていたのである。境になっている所は必ず何か争いがありそうした歴史が残されている、ここのプログは面白いようだ。

ともかく人間の暮らしというときこうした山の村でもそこに暮らしている重みが違う。
こういうところにも人が代々暮らしているということが感慨深いのである。
確かに不便なのだけど都会だったら一軒一軒の暮らしの重みがないのである。
つまり今になると良くこんな山の中で暮らして来たなと思うのである。
だから東京などの家とかと比べると一軒の家の重みは百倍もあるだろう
それで浪江の赤生木にはもう人が住まないと一軒一軒の家を記録に残そうとしているのである。ただあそこは開墾に入った人が多いようである。

自分にとってこういう村が失われることが今になると大損失である。そんな限界集落のようなものは金がかかるからいらないと都会の人が言う時、それはあまりにも偏った見方なのである。人間の暮らしが本来どういうものなのか都会の人は経済的なもの、効率として見ないからである。ただそれも一理ある、なぜならもともとそういう村は自給自足であり都会の人に頼っていなかったからである。そこに誇りがあった。
今は原発でわかるように便利な生活のためにインフラでも何でも税金でまかなっているからそうなる。
結局もし田舎だけで都会の人に頼らずに暮らしていたらもっと生活の重みがあったともなる、もちろんそうなると貧乏で嫌だとなっていて街に出てきた人もいるし自分の父親のように酒屋に丁稚奉公に出された人もいるからそこで暮らすことは厳しいのである。
ただ貧しい,厳しい生活ということがその生活にさらに重みを加えていたともなる
田舎でも街中より離れた農家などには生活の重みを感じるけど街中だと感じない
家が密集していると一軒一軒の家の重みかなくなる、まして都会となると余計にそうなる農家だとそこが旧家だったりする城のようにさえ見えるからである。

いづれにしろ地理の感覚は地図を見てもわからない、実地に歩いてみないとわからないのである。だから葛尾村が狭い領域だということが意外だったのである。葛尾村には古い碑がある。落合には明歴と元禄の碑があったことを紹介したが明暦となると相馬藩内では本当に少ないのである。
また秋になったら涼しいからロードで行ってみたい、ロードだと倍速になるからだ。
葛尾村も避難解除にはなっているがあそこは辺鄙だからもどるとなると他より苦しいとなる。
この辺が都会の人には感じないがそういう代々の生活が奪われたとかその被害は深刻だったのである。そういうふうには都会の人は見ない、この際限界集落は消えた方がいいとかみる、それは経済的効率だけから見るからである。

生活の重みとか人間の暮らしが本来どういうものかとか見ればその見方は違ってくるのである。ただそういうことはそこに住んでいる人も感じないということもある
かえって補償金もらって都会で便利な生活したいとなる、そういうふうに田舎でも暮らしていたら当然この際補償金で都会で暮らそうと若い人は特になってしまったのである。
要するにその人の生きる価値観の問題がある、でもそんなことより普通は便利な生活がしたいとなるのである。自分でもどうしても小さい町でも街中でしか暮らせないのが現実なのである。車がないから近くにスーパーがないと暮らせないからである。
自分はまだ一万くらいの町でも我慢できる、それでも贅沢は今でもできるのである。
通販とかインターネットが発達したから補えるということである。
それもまた矛盾であり便利だからこそ田舎に暮らせるともなる
とにかく原発事故ではいろいろなことが問われたのである。むずかしく言えば実存的問題というか哲学的問題としても問われたのである。

高瀬川から葛尾村まで春の短歌二十首

葛尾(かつろう)村から三春へ(秋の暮)
(残された一つの物語)








タグ:葛尾村

2016年07月08日

福島県の歴史の道の旅の回想 (棚倉→白河→会津ー(白河街道)


福島県の歴史の道の旅の回想


(棚倉→白河→会津ー(白河街道)


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青松浜には確かに森があった、ここでヅクが鳴いていた。

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人は道を通じてつながる、道は川が最初は道となった。

古代では川は道であった。アイヌでも川は道であり身体になぞらえて川口は頭であり川上は尻になる。その名づけ方は川を上流から下るのではなく下流から上ってゆくからそうなった。久慈川が長い川であり常陸からつづく道だった。この川沿いは黄金の道、鉄の道でもあった。

南相馬市の真野川でも源流に佐須の山津見神社がある。その神社は古代にさかのぼり古く伝説が残っている。川は道がないとき道になりやすかった。アイヌではまさに川が道だったのである。

久慈川は幸くあり待て潮船にま楫しじ貫き我は帰り来む

久慈川が棚倉まで上流になっている。久慈川は茨城県と福島県にまたがる長い川なのである。矢祭→棚倉→白河→泉崎は古代の東山道だった

茨城県の名の由来は

『常陸国風土記』の茨城郡条には、「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。また、『万葉集』にも「みちのへの茨(うまら)の末(うれ)に延(ほ)ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」という歌があり、この故事にちなむ茨城(うばらき)という地名がみられる。

東山道には蝦夷が住んでいて大和朝廷の侵入を阻んだ。久慈川に沿って福島県に入ってきた。
ただ福島県に入る道は三つもあった。一つは白河関が有名だけどこの棚倉の道の方が古い、それから浜通りの勿来の関である。これも古代の道であり来る勿れであり蝦夷の抵抗にあった場所で来る勿れとなった。
つまり福島県とは古代から見ると大和朝廷にとっても侵入を阻んだ東北のみちのくの境界線だった。それは茨城県でも大和朝廷が侵入して土地の賊を無惨に殺した伝説が残っている、茨城県から棚倉辺りで強力な蝦夷が住んでいて抵抗した。

棚倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という 

これも大和朝廷とかと闘った生々しい記録なのである。カヤ族がいて真野の草原(カヤ族)がいてその名が地名化した。カヤは伽耶国のことである。

歴史はまず地理から地勢から解明してゆく、だから実地にその地を踏む必要がある。
それも久慈川沿いをたどり棚倉に到達すると実感が湧く、どういう訳か自分は自転車で会津からこの棚倉に来たのである。そしてこの棚倉で一夜のテントを張り泊まったのである
「入り野の種蔵」と呼ばれ種籾をツトコに入れて分けた。都々古別(ツツコワケ)神社があった、種というのは農業するものにとっては大事なものである。いい種をいかに手にいれるかで決まるのが農業である。もちろんその土地が肥沃かどうかとか他にも自然条件にさゆうされるのも農業である。

棚倉にテントを張りし一夜かな古代しのびて秋のともしび

都々古別(ツツコワケ)神社から一すじの道が水戸に通じる街道である。その道は東山道でる。ただ水戸は古代には知られていない、茨城県の由来となった地域ではない、それは江戸時代から水戸に通じる道となった。
水戸街道というとき東京からは今でも水戸街道と言っている、それは六号線になる。
江戸からは古代は東山道であり日光街道があった。
芭蕉は日光街道を通り白河の関所に出たのである。

この棚倉とか白河は江戸時代から明治維新の時もやはり境界線であり棚倉では薩摩長州軍と官軍と戦った。その中に相馬藩も入っていた。相馬藩は最初は官軍に抵抗していたのである。あとで天狗党に参加したりして官軍に組み入れられた。
だからここは福島県の地理的境界線だったのである。

旅をするとき鉄道の旅でも車の旅でも歴史を偲ぶことはむずかしい、新幹線などで来たら全く歴史を偲ぶこともできないだろう。
久慈川沿いを遡って棚倉につくとき歴史を感じるしまた都々古別(ツツコワケ)神社から水戸への道を見るとき歴史を感じる、自分はその時会津から棚倉に来ていたのである。
会津というと遠いのだけどやはり福島県ではないが白河藩とか関係していた。
蒲生氏郷の時代に白河藩を治めて会津町という名を残しているのである。
蒲生氏郷というときキリシタンでありそれで石垣に十字架が彫られいると土地の人が話していたのも興味深い。

白河から会津へは白河街道を行くのである

(札の辻) → 金堀 → 赤井 → 原 → 赤津 → 福良 → 三代 → 勢至堂 → 長沼・惣五郎内 → 江花 → 牧の内 → 上小屋 → 飯土用 → (白河)
 滝沢峠、沓掛峠、黒森峠、勢至堂峠と峠が多いため、宿駅間の距離は比較的短い。

 菜の花や街道行きて猪苗代湖

勢至堂はその面影が残っている。道幅が狭く両側に家があるが昔はみんな茅葺きの家だった。道が狭いということが昔の街道のままなのである。
勢至道から福良にでる。ここは町としては大きい、両側にやはり茅葺きの家が点在していた。今はもうない。街道の宿駅というとき大内宿のようにみんなってっていたのである。あそこの蔵の宿に泊まったのは奇しきことだった。



勢至道道幅狭く家並ぶ昔をしのぶ秋の夕ぐれ

磐梯山威を正しつつ湖(うみ)碧し松なおしく秋深むかも

猪苗代湖畔のあわれ虫の音のかすかにひびき稲の刈られぬ

街道の宿駅なれど忘れらる蔵の宿壁に菖蒲の映えて暮る

砂浜に波の静かに青松浜木菟(ズク)鳴く声や夏の夕暮

雨しとと田植えする人あわれかな昔の街道猪苗代湖畔

会津への道の遠しも行き暮れむ萱におおわる山間の道

街道に清水の湧きて野菊かな忘れられしや日も暮れむとす

東山へようやくいずる歴代の会津藩士の墓秋の日暮れぬ


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脇にそれた道が白河街道であり古屋敷とかの地名があるのもわかる

旧道は外からはわかりにくくなっている  


会津まで相当に遠かった。ここは春と秋にも行った。会津は別に電車でも行っている。
福島県を旅をするときたいがい今はこの道は通らない、鉄道の通る道で会津に入る、すると歴史が実感できない、棚倉の場合も今だと東北線とか新幹線からはずれているから何か本道からはずれたような忘れられた場所と錯覚する。水郡線はあまり乗らないけど一回乗ったけどこれは時間がかかる。水戸まではかなり遠さである。ここはあまりなじみがないのである。
白河の関だって白河から相当に離れた森を出た道なのである。
ただあの小暗い森をぬけた所に白河の関があり芭蕉の奥の細道を感じる場所である。
あとは奥の細道を感じる場所は福島県ではない、あまりにも繁華な通りとなってしまったからである。

草の花たどりてつきぬみちのくへ白河の関所の跡はここかな

とにかくどこをどう通ってきたのがふりかえると不思議である。
なぜ会津から棚倉に来ていたのか、その行程もわからなくなった。
その前には八溝山をぬけて福島県に出てきた。その行程がわからなくなった。
会津というときそこは一つの山国であり一つの世界観も形成される場でもあった。
そういう地理であり風土であり歴史的に厚みがある場所である。

会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結ばさね

会津嶺のというときこの嶺は複数なのである、会津の特徴は山々が無数に重なっているのである。そして古代からそこは一つの大きな国として存在していたのである。
こうして古代から江戸時代の道をふりかえるとき確かに福島県はつながりがある地域だということはある。
福島県の特徴は古代の境界でありみちのくとして江戸時代までつづいていたのである。


この辺に松から磐梯山が見えた、舟津とか月形らしい

ここにも松が見えて磐梯山が見える
タグ:白河街道

2015年10月17日

常磐線の思い出短歌30首 (津波原発事故からふりかえる)


常磐線の思い出短歌30首


(津波原発事故からふりかえる)


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逢隈駅乗り降り多し蝉の声

AUKUMA station
the new one
many passengers
voices of cicadas

新しき駅にしあれや逢隈(あふくま)駅乗り降り多し蝉の音ひびけり
交換に逢隈駅にとまるかな蝉鳴く声のここにひびけり
亘理駅鴎の一羽飛びゆきぬ秋の野広がりしばしとまりぬ
浜吉田海の近きと知らざりき津波の後に電車通りぬ
山下駅勤めの人や菖蒲咲き仙台までを乗り合わすかな
坂本駅一人おりにき冬の夜やともしびあわれ我は見てをり
新地駅夜の静かに着き月光りホームにおりて虫の音を聞く

駒ヶ峰はやすぎにけり相馬と伊達の境の駅かな
相馬駅松一本立ち駅前の通り城跡へゆく秋の夕暮
日立木駅鉄路に咲きぬハマヒルガオ海に近きを磯部は消えぬ
日立木駅一人おりにき誰なれや刈田広がり電車すぎさる
鹿島駅幾人のるや秋の薔薇四五輪咲きて今日も暮れにき
駅前の自転車屋古りあわれかな病と聞くや秋となりしも
原町の駅に大輪のひまわりの咲きて行き交う電車見ゆかな
原町にスーパーヒタチのとまるまま五年も過ぎむ秋のくれかな
磐城太田神社の古く相馬藩歴史を語る秋となるかも
磐城太田次は原町ようやくに帰る故郷に電車ひびきぬ
小高駅ここまで津波来たりしと人住まぬ街電車通ぜじ
桃内の駅の淋しもつぎ浪江なにかあれかし冬田広がる

川二つよぎるや浪江の駅すぎて請戸の港思ふ秋かな
夜ノ森の駅につつじの映えにつつ電車すぎさる今は通らじ
双葉駅昔は長塚我が父と姉との思い出ここにあるかな
我が姉の死して悲しも語りたる双葉のことを思いだすかな
竜田駅金木犀の匂いけり線路閉ざすもまた通じなむ
木戸川をすぎて秋なれや木戸駅すぎて広野につきぬ
末次の駅におりたち畑に人菖蒲の咲きて墓地の暮れゆく
大野駅広野駅冬の野の広がり駅の名心に残りぬ
久ノ浜駅に浜菊咲きし見ゆ津波の後にあわれなるかな
四倉の駅の秋なれ廃墟ありセメント工場跡と電車すぎゆく
草野駅まもなくいわき秋の日のさして稲穂も刈られる季(とき)かな
平駅おりたち線路仙台へ伸びしも遠き春の夕暮
いわき駅東京へゆくカラフルな電車並びて春の日に来る
勿来より春にたどりぬ泉駅昔の路線夕焼け美し

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1898年(明治31年)8月23日 - 日本鉄道磐城線の長塚駅(ながつかえき)として開業。
1901年(明治34年) - 土浦線・水戸線友部駅 - 水戸駅間・磐城線を統合し海岸線と改
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定により常磐線の所属となる。
1959年(昭和34年)10月1日 - 双葉駅に改称となる。

双葉駅が浪江が標葉郷であり楢葉があり双葉となった。標葉は浪江は相馬藩に入り野馬追いにもでている。双葉はもともと長塚駅だった。だから双葉というとその駅名が新しいと感じるが昭和34年に改称したとなる実際は古い
相馬駅も中村駅でありこれは中村というとき

1897年(明治30年)11月10日 - 日本鉄道の中村駅(なかむらえき)として開業。
1961年(昭和36年)3月20日 - 相馬駅に改称。

相馬駅に改称されたのは昭和36年であった。でもなにか中村というのが子供の頃から親しんでいたのでこれもそれなりに古くなったと思う。
人間は地名でも駅名でもなじむに時間が必要だった。
地名はまず百年くらい継続しないとなじまない、地名は百年は短い、それだけ地名というのはなじむのに時間が必要なのである。
だから駅名でも相馬でも双葉でも最近のことのように思えるのである。
合併して市町村の名前が変わってもそれがなじむには相当な時間が必要になる。
双葉は元の長塚は自分の父親と姉の思い出の地だった。父が丁稚奉公した酒屋があったからである。それは富沢酒店の隣だったのである。それは戦前につぶれなくなった。
でもその話を聞いていたからなつかしいとなる
何か銀行があって遊んでいたとか銀行自体がその時めずらしいものだったのである。
それも遠い日の話になってしまった。
人間は最後は思い出だけになってしまう。それが常磐線は何度も乗っているから駅名とか思い出すのだがその思い出すことは正確ではない、例えば駅でも大野駅とあるがその順序がわからなくなったりする、ただ駅名は何度も乗っているから覚えている。
他の線は駅名を覚えているのも少ない、だから何か思い出す作業というのが不思議なのである。
ともかく双葉駅辺りが相馬藩と磐城藩の境目である。
古代では磐城国だったから磐城太田という駅が原町の隣にあるし磐城とつく地名が今でも多い、それは白河も磐城と接していたから同じだった。

常磐線で今回津波で意識されたのは海が近いということだった。
浜吉田とかがなぜ浜になっているのかわからなかった。浜など全く見えないし遠いと思っていたのである。そしたらあの駅前まで津波が来ていたことには驚いた。
新地駅は一番海に近いことは知っていた。海が見える駅だった
山下駅でもあとは海が見えないのである。
だから浜吉田まで昔は海だったということを意識させられたのである。
それは亘理駅でもそうである。あそこに鴎が飛んでくるのを見た
鴎が飛んでくるということは海を意識するし海が近かったのである。
岩沼でも海は近かった。それは多賀城とか宮城の海岸線でもそうだった。
建物がたて込んだりビルが建ったり松原でも海が見えなくなっていた。
だから海が遠いと思っていたのが津波で海が近いと意識させられたのである。
小高駅までも津波がきたから小高は海が近かったことを意識させられた。
そして小高の城があるところまでかなり海が迫っていたのである。
中世には小高は規模の大きい湊でありすると小高城に近く湊だったとなる

常磐線は今のいわき駅は平駅だった。平駅というのがなじみがある。平機関区があり原町機関区がある。それは東京への物流の二大基点であった。
戦後十年か二十年か木材とか石とか運ばれた。平は常磐炭鉱があり石炭を運んだ。
日本の鉄道は北海道でもそうだが旅客を運ぶより物を運ぶものであり特に石炭を運ぶものとしてはじまった。小樽などもそうである。北海道には炭鉱が多かったからである。
とにかく自分は電車の旅行の時間が長い、自転車旅行はそれほどしていない、電車で一番旅しているから鉄道に興味をもったのである。
北海道には十回くらい行っているから一番親しい場所である。
電車の旅も人家が多い工業地帯など走ると印象に残らない
だから西は混んでいるから何か印象に残りにくい、ただ印象に残るというとき記憶されるというときやはり一度くらい行っては記憶しにくいのである。
英語の単語でもそうだが何度もその言葉を使っているうちに読んでいる内に記憶に定着するのとにている。

人間にとって意外と盲点なのは記憶することが大事だということである。
人間は人生でもその人が記憶したことか人生になりやすい
だから認知症になると昔の記憶は残っているのでそのことを何度も嫌になるほど話すのである。
それで戦争のことを千回も聞かされたので嫌になったがそれが人生だったからそうなったのである。
そして記憶というのは漠然としたものより地名とか駅名から記憶がよみがえってくる。
だから電車の旅は駅名が歌枕のような役割を果たしていたのである。
ただ正直遠くは必ずあいまいになり定かでなくなる
車窓からの景色でもあいまいになる、でも常磐線のようにいわきから岩沼までは人家が少ない、野原が多いからそういう場所だと記憶に残る。
その間に無人駅もかなり多い、日立木駅など人一人くらしかおりないことが普通にあるのだ。
そういうときその一人がおりたということを見ていて記憶するのである。
もう何十人もおりたりすると記憶しにくいのである。

いづれにしろ新地駅はなくなった。あそこでは相馬駅につくまえ交換列車を待つので6分くらいとまっていた。それは夜だった。月が海から出て光り虫がないていた。
そういうことが今や津波で流されて経験できないということも不思議だとなる
新しい常磐線は二年後に開通するがそれはまた全く違ったものになる
別な場所になるから今とはまるで違ったものとなる
それは仙石線でも新しくなりそうなった。遠名駅は高台に移り景色が悪い所になった。
常磐線ではそれぼとの変化はなしいにしてももう前の駅とは違うものとなる
だからもう経験できないとなると記憶されたものが貴重だとなってしまう。
新地駅などは特にそうである。

それにしても自分はいつでも電車にのっている気分になる、旅している気分になる。
それが人生だったともなる。そんなことが人生だったのかとなるが現代では結構普通の人でも作家でなくてもそうなる人がいるだろう。
働かない人が普通に若い人でも多いからである。
するどこんなふうにして過ごした人も多くなる
ただ団塊の世代は企業戦士だから働いていた人が多かったから自分のような人はまれである。ニートなとはあの当時は極まれなアウトサイダーである。
今はどこにでも働かないニートが日常的にいる、これも時代である。
今になると自由に旅できたことが不思議である。ここ十年介護などで全く旅できなくなったことでその自由に旅できたことが不思議に思え恵まれていたなとつくづく思う。
自由に旅することなど自分にとって当たり前だったのである。
特別なことではない、当たり前のことであった。でも勤め人だったらできないのだから自由に旅できることはよほど恵まれていたとなる。

印象に残る駅はある、逢隈駅は新しいがあの駅は丁度交換の電車を待つ、するとそこで蝉の声がひびく、山間にっているしトンネルをぬけると阿武隈川に出る、蔵王も見えるから一つの地理的境目になる。
阿武隈川は逢隈からでている,他にも郡山にも逢隈橋があったからだ。
常磐線でこれだけ駅からイメージできたのはそれだけ回数をのっているからである。
それは自分の死んだ家族との思い出も重なる
駅は鉄道が盛んな時はこれ以上に生活に密着してて思い出の場所になっていた。
何か人間が記憶するというとき思い出すというとき漠然として何もない、野原だけとかなるとそこに地名が一つあることでその地名からイメージする
だから旅で記憶されるのが駅名だったのである。

常磐線は昔の平から仙台までは記憶に残っているがその南となると何か福島県でいなように感じる、ただ勿来から泉駅まで春に自転車で行ったがあそこは勿来から鉄道が通っていて物資を運んでいた。その蒸気機関車の写真もネットにでていた。
そんな時代があったのかと鉄道が盛んなときは戦後十年以上でもつづいていたのである。つくづく津波があり原発事故がありそのことで何か大きくこの辺は変化しすぎた
その変化に五年すぎようとしてもとまどっているのである。
それだけの大きな被害だった。常磐線も双葉とか大熊とかの線がいつ開通するかわからない、仙台までは二年後だからそれまでは生きていて乗れるだろう
電車の旅はつくづく自分の人生だったとなとまで思う
ただ思い出すとなるとなかなかできない、駅でも前後が逆になったりはっきりしなくなるのだ。
ただ常磐線は生活路線でもあったから記憶されていたのである。


1907年(明治40年)12月1日 - 小名浜馬車軌道(馬車鉄道・後の小名浜臨港鉄道→福島臨海鉄道)が駅前に乗り入れ。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定により常磐線の所属となる。
1941年(昭和16年)6月 - 小名浜臨港鉄道線が経路変更。同時に当駅に乗り入れ。
沿線の工場や小名浜港への貨物輸送主体の鉄道で、当時は栄町〜江名間の江名鉄道もありました。貨物列車にはもっぱら国鉄から譲受した蒸気機関車が使われておりました。
http://6.fan-site.net/~haasan55/OnahamaRinko.htm8(映像あり)


これはホームページで書いていた。常磐線俳句十句もまた連作になる
前に書いたものもまた書き加えられて延々と創作は連続してゆく
そういうことがネットではしやすいのである。
同じことでも多少色を変えると別なものになる、すると読む方でもその人が何を強調しているから記憶に残りやすいとはなる
一冊の本は完成したものだがプロクとかは特に完成しないで延々とつづくのである。
そしてそこで前に書いたものもまた新たにされる、更新されてよみがえるのである。
それが本とネットの違いである。


ともかく双葉駅はいつ開通するかわからない、昔は長塚駅であり自分の父と姉との思い出の地だった。父は酒屋に丁稚奉公していたのである。姉もそこに行っていたのだ。
そういうことでも常磐線は旅するだけの路線ではない他の人でもそうである。
母は原町の原町紡績(原紡)に十年糸取りして働いていたがその原紡に鉄道の引き込み線が門から通じていたことは驚いた。
この引き込み線は今でも岩沼の製紙工場にある、鉄道で物資や製品を運んでいたからそうなる
またどこの駅にも引き込み線があり貨物車が荷物を運んでいた、それで駅前に自転車屋があるのは鉄道で運ばれるからそこで下ろすのに立地がいいからそうなった。
おそらく病気になった駅前の自転車屋はそういう古い自転車屋なのだろう
駅前が栄えた、相馬市の駅前通りは鉄道とは関係していない、もともと城下町でありそのまま変えなかった、原町は駅前通りとなり陸前浜街道の通りはすたれて駅前通りが繁盛した。
今はシャッター通りになっているのも淋しいとなり時代の変化が常にある。



2015年10月10日

白河の秋の翠楽苑

白河の秋の翠楽苑

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この石の脇に竜胆が咲いていた

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赤とんぼがとまっているのが見える


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秋の翠楽苑

秋水石にひびきて流れ
借景成す松山の緑濃く
広き池に写す深緑の影
二段の滝に四阿屋あり
茶亭の小径の石により
竜胆の咲きて径は分る
蜻蛉一匹静かにとまり
清流絶えず池を満たし
その水の濁らず保ちぬ
秋の午後の日のさして
一服の茶をたまわりぬ
床の間に清楚白菊一輪
水は石に絶えずひびき
松の翠の苑に鎮座する
石と石に日さし暮れぬ

(秋日さしここに静まる松と石)

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抽象化した翠楽苑のロゴマーク




南湖にあった翠楽苑は良く作られている。

「やっとなじんできたんですよ」
「作られていから何年ですか」
「二十年です」

「何か新しいものと思いました、やはりこれだけの庭を造るのには時間がかかりますね」
自然のものは松でも石でもやはり根付くには時間がかかる。
二十年でも真新しい感じである。京都の庭は古いからやはり違っている。
庭というのはなかなか近くで何度も行かないと鑑賞できない
だから京都に行っても庭のことは良くわからないのである。
まず京都自体を知ることはかなりむずかしい、歴史があっても鑑賞することがむずかしいのである。

だから庭は近くにあって四季おりおりに楽しむのがいい、そういう庭は仙台にもないし東北には意外とない、それだけ庭を造るのは苦労なのである。
ここの庭は場所が良かった。借景としてすでに松山がありそこから川のように水が流れるようにした。それが自然の川のように見えるのである。
ここは春は桜で夏は木陰が多いから涼しい感じになり秋は紅葉と楽しめる
花も咲いていて石により竜胆がそちこち咲いていた。

自然を人工化したものだが日本の庭はなるべく自然のままに作る、流れが縦横にあり石橋があり四阿屋があり滝もあり気持がいい、「秋水庵」というのもあり今の季節にぴったりだった。
秋水が石にひびき流れていて気持が良かった。
翠楽苑とは松の翠(みどり)を楽しむ苑のことだった。
確かに松が多く翠が多いのである。

自分でもやりたいのには庭作りだった。これはしかし相当に金がかかるし大財閥でないとできない、この翠楽苑で感じたことはものたりなかったことは大きな石がない、石がそちこちあっても大きな石がない、これだけの庭だったら大きな石があってもいいと思った。そしたら庭に重みをもつ、大きい石といっても隣の家でも大きな石があるし旅館に庭でもあったり結構ある。
ということは別に大きな石は贅沢ではない、立石というかそそりたつ石もない、点々と石はあっても何かポイントになる石がない、それがものたりない感じになった。
ただこの庭もそれなりの庭のイメージがあって設計されて作られた
だから庭にはどんな小さな庭でも個性があるのが不思議なのである。

近くに広い庭をもっている家がある。その庭には何にもない、更地にしている、前は畑にしたりしていたが今は更地であり何にもない、小石だけでもしけばいいと思うがそういう趣味もない、だからいくら土地をもっていても家をもっていても活かされないことがこの世には多いのである
そういうことができる、したい人は土地がない、金がないとかでできないのである。
津波の跡でも更地になったからそこを公園にして大きな庭でも作れば復興にもなる
ただこれもなかなか堤防工事とか先にあるからむずかしいとなる
ともかくあそこの庭にはまた行ってみたい、紅葉になるのは早い、一〇月末にはなっている、一部は写真に写っていたように紅葉になっているからだ。
新幹線だと仙台から白河まで一時間であるが仙台までゆくのに二時間かかるからそこが遠く感じる、それからバスは電車より疲れるのが嫌なのである。

福島県の観光というとやはり白河の小峰城とか二本松城とか会津の城がメインになる。
浜通りには城がないから歴史の観光としては魅力がかける、福島県では観光というと会津であり中通りが中心になる。
小峰城ができたのも十年くらいでありあれは小さいけど効果あったなと思う。
前は何もないとき訪ねたことがっあった。その時のことは印象に残っていない、だから城もやはり石垣だけではものたりないとなる。
ただ会津の城には魅力を感じない、何か平城で新しく博物館のように感じるのだ。
もし戊辰戦争の銃弾の跡とか残っていたら歴史を生々しく感じる。
新しくなると博物館なのかと思う、ただ会津でも七層の黒川城があったら見物だった。
その城は壮観であり会津九〇万石の時代もあったのだから見物だった。
その黒川城が地震で崩れて今の五層の城になったのである。

タグ:白河翠楽苑

秋の白河の南湖を訪ねる(俳句と短歌)

秋の白河の南湖を訪ねる(俳句と短歌)


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松古りて野菊に虫の音南湖暮る
秋の山名君ありて南湖かな
雁数羽音なく水脈ひく南湖かな
中島に寄りて集いぬ雁の群れ
夕暮れや南湖に聞きぬ虫の声

湖岸の松の太しも古りにける秋の日さして南湖暮れにき
秋の日や南湖の岸に松古りて我もめぐりて夕ぐるるかも
秋の日の湖面に反射し暮れゆきぬ南湖の岸の松によるかな
名君の作りし湖の松古りて今は実り季(とき)にありしも



南湖の名は李白の詩句「南湖秋水夜無煙」からとも、白河小峰城の南に位置していたことから名付けられたともいわれている。現在の南湖公園のあたりは元々大沼と呼ばれた湿地帯で、松平家が藩主になるまえの本多家のころから多目的に利用するための湖沼を施工してはいた。
福島県白河市に、白河藩主であった松平定信が1801年に造営した日本最古の庭園といわれる「南湖公園(なんここうえん)」があります。白河の小峰城の南に造られたことと李白の漢詩から「南湖」と名付けられた湖を中心とした「南湖公園」。松平定信の「士民共楽」(武士も民衆も身分の隔てなく共に楽しむ)の精神が伝わる湖畔では、4月中旬には800本の桜並木や樹齢200年のシダレザクラが楽しめますよ。

この南湖は昔は厚く全部凍って子供の頃スケートとしていたという、今は全部凍ることはないという。このことは二人の人から聞いた。
つまり白河でも寒く南湖でもそれほど凍っていた、今はやはりあたたかくなった。
特に最近は温暖化していることは確かである。今日も朝から暑い、今頃こんなに暑いのかと思うからだ。

松平定信が名君と言われるのは天明の飢饉のとき死者を出さなかったからだという。
馬とか白河だるまとか何か他の産業を育成した。天明の飢饉は全国的なものであり
相馬藩では三分の一の人口が減った。なぜここではその被害がなかったのか?
それは名君があってそうなったのか?それだけでは天明の飢饉の被害はまねがれないだろう。
その辺の詳しいことはわかないが「士民共楽」という思想で治めた。
その象徴が土民も楽しむ日本最古の南湖となる。だからこの南湖は単なる自然の湖ではない、ただここはもともと湿地帯だったから湖にするのは容易だった。

岸の松はいい松であり桜も見物だという、那須連山が見えるのも白河らしい。
松というとき津波では松川浦の松も南相馬市の右田の松原も失われた。
だからなかなか松というのものが見れなくなったのが残念である。
確かにここの松は太いし古いしいい松である。
「士民共楽」というとき松と野菊と虫の声がふさわしいとなる。
ここが単なる自然の湖ではないからまた違ったもの歴史的なものとして自然を見る


田沼派への権力集中を面白くないと考えたからか、
意知が旗本・佐野政言に江戸城内で刺されて死亡、
また浅間山噴火から天明の大飢饉、
そして、田沼を最も頼りにしていた家治が亡くなると失脚、
蟄居のうえ、彼が城主の遠州相良城は打ち壊しとなります。
家斉が十一代将軍に就任。
田沼意次に代わって実権を握ったのが、
老中首座となる松平定信でした。

田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水

白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき


松平定信の経済政策は緊縮財政であり倹約に走りすぎ失敗したとある。
評価としては白河では良かったが中央の政治ではそうでもなかった。
天明の飢饉のときに幕府の政治を動かした、天明の飢饉の時代の人だった

(心あてに見し夕顔の花散りて尋ねぞわぶるたそがれの宿)から、たそがれの少将とも呼ばれた。

これも繊細な歌だけど政治家がこんな繊細な歌を作ったのかとかたそがれの少将という名はなぜついたのか?
それは中央の政治ではうまくいかず白河の藩主になって名君になった。
たそがれというのは中央の政治から引いたことも関係しているのか?
心をあてにした夕顔が散っていてその居所もわからなくなったということか、思いをよせる女性のことか?
おそらくこれは老境の短歌だろう。
老人になるとかつて思った人もすでになくなりわからなくなったりすることが多いからだ
ともかく中央の政治を引退して白河では名君になっていたのである。



タグ:白河南湖

2015年10月09日

秋に訪ねる白河の小峰城 (秋雲棚引く小峰城ー詩)


秋に訪ねる白河の小峰城

(秋雲棚引く小峰城ー詩)

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みちのくを旅する女や秋薊

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石垣工事の石が今も置いてある




みちのくに駅の名一つ秋の雲
秋の雲棚引きあわれ小峰城
日のさして蜻蛉群れ飛ぶ小峰城
秋の日に乙女桜をたずねけり
白河に二つの城跡秋の風
小峰城石垣古りて秋薊
みちのくを旅する女や秋薊
白河に那須連峰見ゆ秋日没る

みちのくの城をたずぬと大阪の女(ヒト)と出会い別る秋かな
白河に会津町あり秋の日やここより結ぶ秋の街道
阿武隈川岸に芒や小峰城那須連峰を天守に望む
白河に攻防激し残る跡秋風吹きてみちのくに入る

白河に城の二つやその一つ埋もれ忘れらる秋風の吹く

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秋雲棚引き小峰城

古来より陸奥国の入り口
白河の小峰城の三層の櫓かな
秋雲棚引き翳りけるかも
映える天守に蜻蛉群れ飛び
石垣に薊のなおも残れり
大阪の旅人もたずねて
阿武隈川に芒なびき
かなた那須の連山を見ゆ

城内に乙女桜とあわれ
我は秋にしたずねけるかな
その石垣の反りの厳しく
堅固に組まれて構えたり
ここにかつて会津の門あり
会津町ありて歴史を残す

蒲生氏郷の一時ありて
会津に通ず白河街道
家並の古く道細し
我は勢至峠を越えて
猪苗代湖の波音ひびき
境の松の枝垂れる道をすぎ
福良に着きて一夜泊まりぬ

旅人の御堂に休むもあれ
石碑は古りて並びありぬ
会津へとつづく白河街道
その山間に芒なびきて
はや日も暮れむと急ぐかな
ここよりなおも会津は遠しも
今は忘れられる裏の道となり
かすかに虫の道の辺に鳴く

白河に二つの城あり
本家分家と争い衰退す
これも人の世の常なり
分家の小峰城は今に残りぬ
常陸、那須と通ぜし所
秋風ここに吹き歴史を語る
戊辰戦争にも陸奥の要の城
ここに集結して攻防激し
東北列藩のまとまらじかも
戦いの後や両軍の戦死者のともに
墓の向かいあいて残りけるかな

この時遊女一人戦いに巻き込まれ
会津の兵に裏切りものと殺される
何も罪なき一庶民も巻き込む
ここに恨みを残して時は過ぐ
古来より白河は陸奥の入り口
秋雲棚引き小峰城暮る


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白河と会津は白河街道を通じて結ばれていた。蒲生氏郷のときにはじまり会津領になっていた。その前は栃木とか宇都宮とか常陸と関係していたきも地理的に理解できる。
福島県の白河はその境目にあるからだ。
白河から那須連峰が見えたし会津の舘岩からも見える。
白河に二つの城があった。一つは分家した城でありそれが小峰城である。
もう一つは白川城である。もともと白河ではなく白川だった。
本家は分家と争いその後は衰退したという。
こういうことは常にある。だからめずらしいことではない。
それが歴史の跡として二つの城跡があることが明確なものとして残っているからわかりやすい。
家が二つに分かれるというとき別に普通の家でもそういうことはどこでもある。
家は何かまとまるのはめずらしく二つに分かれやすいものだとなる。

もともと平家とか源氏とか二つに分かれたけど元をたどれば人間は一つなのである。
要するに人間の家は安住の場ではない、分裂する場である。
なぜこれほど離婚が多いのかというのもそうである。
男女でも一つになることはむずかしく分離してゆく
天皇が二つになり分かれた南北朝の争いもそうである。
その影響は全国に及んでいてこの白河でもその歴史を残している。
国単位でも二つの勢力に分断される、東西の争い、関が原の戦いもそうだった。
何か自分の家もそうだったからこの二つに分かれた本家分家の歴史が身近なものに感じられる。
人間の宿命として家は大きくなればまた分家してそれが争いの元になる。

大阪の六〇代の女性が歴史に詳しく城めぐりしていた。歴女というのが話題になったが若い人ではなく六〇代くらいになるとかえって歴女としてふさわしい。
城内に薊が咲いていてそれを指さした。蜻蛉(あきつ)も群れて飛んでいた。
最近赤とんぼをあまりみないがここでは多くはないが群飛んでいたのでなつかしかった。ここでは半円に積む石垣が全部崩れた。それを直すのに七〇〇〇個の石を組み直したというから大変な作業を強いられた。
この半円の石垣は現代風に作り直したのかと思った。
それほど他には見ない石垣だからである。
もしそうしたら歴史は失われる、もともと半円状の石垣だったことがめずらしいのである
人柱伝説があるのもこれだけの石垣を作ったということで信憑性がある。
ただこれはどこにでもある伝説だから事実かどうかはわからない。
城の普請は一大事業であり常に城が普請されるときは江戸城でも全国の藩で刈りだされたその労役や費用が負担させられていた。
城を造ることはその地を支配することである。

人は石垣、人は城というけどこの逆も言える゛石垣があって城があり城があって城下町ができて人が活きる
最近コンクリートより人とという民主党の政策が鬼怒川の堤防決壊で見直された。
コンクリートつまり土木事業を無視して国土は成り立たない、特に日本は災害が多いからそう言われた。
この関係は家が第一なのかそれともそこに住む人が大事なのかという問題にもなる。
原発避難区域では人が住まなくなった、人が住まない家とか故郷はなになのかとなった。
人は石垣、人は城というのもまた真である。
まず人が住まない家は死んでゆくし故郷でもそうである。
支える人がいなくなればどうにもならない、先に人があって人の心と意志があって建物もある。
建物があって人があるとはならないが歴史の跡はまた建物が城でも残ることによって人の心を意志を伝えるということはある。
家でもやはりそこにはその家を作った人の意志とその家で暮らした家族の思い出がつまっている。
それは単なる箱ではない、人間の心がそこに宿っているとなる。

白河街道というときこの道は昔を偲ぶにはいいし風景がいい、勢至峠を越えてゆくと猪苗代湖が見える。福良はなにかひなびた湖畔の町である。
この道はさびれているが歴史を感じる道である。この道は深く会津と歴史的に結びついていたのである。
たいがい交通の便がいい、鉄道が通っている方をゆくがこの白河街道が歴史の道なのである。
歴史を知るにはやはりこうした歴史の道を実際に通らないとわからない。
今は車で簡単に行けるのだがそのあまりにも簡単な結果、昔が偲べないのである。
白河から会津まで実際はどのくらいかかったのか途中泊まったのかとかその距離感覚がわからない
自分は自転車で一夜福良の蔵の宿に泊まったのである。
それが何か思い出となっている。福良は前は茅葺きの家が通りにあったが今はなくなった十年とか二十年とかたつと変わる、昔のものはどんどん失われる
そして新幹線の時代になっていた。東北新幹線はすでに古いけど自分はわざわざゆんくりとした旅をするために乗らなかったのである。
でも今は暇がないから新幹線が便利だなと思った。
白河まで日帰りで行けたからである。白河から仙台まで一時間ほどであり早いなつくづく思う。
それから仙台から亘理まで鉄道で行き今度は相馬駅から電車に乗り換え帰ってきた。
電車とバスと新幹線を乗り換えて日帰りの旅だった。
その日帰りでも結構旅をして観光できたとなる。





タグ:白河小峰城

2015年10月08日

常磐線でイワキへ磐越道で郡山市へ (旅ではやはり地名が記憶に残る)


常磐線でイワキへ磐越道で郡山市へ


(旅ではやはり地名が記憶に残る)

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津波に残った久の浜の神社

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久の浜駅

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阿武隈山地

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しばしよるイワキの通り秋柳

秋の日や長橋すぎぬイワキかな

秋の日や逢隈橋を渡るかな

郡山へ逢隈橋や芒かな

水郡線ここに別れて芒かな


竜田駅金木犀の匂いしも鉄路閉ざして五年はすぎぬ

久ノ浜駅に浜菊咲きし見ゆ津波の後にあわれなるかな

津波にも残る社は奇しきかな久ノ浜去る秋の旅人

四倉にセメント工場ありにしと語りてあわれ秋の風吹く

阿武隈の山々深く家ともし秋の雲の影朝に落としぬ

阿武隈合戸トンネルぬけいでて山々深く秋の雲かな

阿武隈の流れゆるか秋の日や岸に実りや郡山に入る


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久ノ浜の駅には浜菊が咲いていたから海の駅らしい、ここは海が見える線であり海に最も近い場所だった。
それにしても久ノ浜に残った稲荷神社は良く残ったと思う。
烏崎村でも八竜神社は残ったがそれは後ろの山の高い所にありその社は津波がすれすれにきて残った。あれももう少し津波が高かったら残らなかった。
あれも不思議だけどこの久ノ浜の社は人家なみに低いし海の堤防のすぐそばだったからこれで良く残ったと思う、回りには一軒の家もなくなっていたからである。
この社は今回の津波で最も不思議なものかもしれない。
波立薬師も残っていたというのも不思議である。
久ノ浜は原発から三〇キロ地点でありここは津波の被害が大きかった。家が密集していたからである。
四倉では駅の前に錆びて朽ち果てたセメント工場の残骸があった。
土地の人が教えてくれた。あれは相当に大きな工場だったのだろう。



イワキでは通り秋柳が見えてバスは長橋町という所をすぎたのを地名で覚えた。
イワキについて電車に乗ろうとしたら磐越東線は何時間もあとでありバスで磐越道にのり郡山市に向かった。一時間半である。
イワキから郡山の磐越東線は結構時間がかかる、それよりもう一日5、6便くらいしか出ていない、これでは乗り継ぎができないからこうい線はのりにくくなった。
よほど鉄道マニアで暇でないと乗れない、今は暇がないから乗れない
何かすでに一〇年は長い旅をしていない、この線に乗ったのも今になるとずいぶんまえになったと思う。だからこの線のことは思い出せなくなった。
やはり思い出せなければ何か書くこともできなくなる。


磐越道は途中合戸トンネルに入る、その名が目についた記憶に残る,こうした地名が意外と記憶に残る、途中の小野とか三春は見ることもできなかった。
郡山に入ると逢隈橋に出た。阿武隈はもともと逢隈だったのである。それは亘理に逢隈駅があることでもわかる。逢隈は福島市にもあり他にもある。
郡山から水郡線が出ていて棚倉町にゆく、棚倉には城がある。
この水郡線も一回だけ乗ったけどかなりの距離がある。その駅の名前も忘れた。
ここを別れて水郡戦線路が見えた、そして遠い旅の日を思い出していた。
すでに十年以上もいや二十年なのかこれだけ歳月が過ぎると何かなつかしいとなる。
だいたい自分は日本の線路はほとんど乗った、乗っていないのは関西の私鉄くらいであるただ最近は新幹線が走るが新幹線には前から乗らないでゆっくり旅していた。
今になると暇がないから新幹線が便利である。


今回も何か地名の旅だった。地名は記憶に残る、特に電車の旅では駅名が記憶に残る。
バスでも早いから地名だけが何か心に記憶される、だから旅には地名が心に記憶され
地名が歌枕の役目を現代でも果たしているのである。
そうでいなとただ通りすぎるだけの旅になってしまうからである。
高速道路もやはり旅であり電車とはまた違った風景になる。
高速道路も今は縦横に走っているから旅するのには便利だけどあまり心に残らないということは言える。










タグ:阿武隈

2015年06月06日

ソフトパンクなどのモバイルの通信領域が現代を反映 (地図から読み解く福島県など)


ソフトパンクなどのモバイルの通信領域が現代を反映


(地図から読み解く福島県など)


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地図は実際は多様であり地図から何かを読み解くことはかなり創造的な作業である。
自分は全国を旅したから地図から読み解く作業をしたがわかりにくい
地図だと高低差とか全体像が把握しにくい
それはインターネットでも同じである。
地図を見るには多様な視点が必要になる。
グーグルマップでもわかりにくい,それだけで四次元とかの空間認識はむずかしい
まずいくら地図をみても世界はわからない
地図から世界の十干か得られないからである。
ただ自分の得意な点は福島県でせんもほとんど自転車で旅していることなのだ。
まず歩いて旅するのと自転車で旅するのと電車で旅するのとは感覚的に相当に違っている
それで棚倉町というのは東北本線からはずれてエアポケットのようになっている。
そこは城下町だから古い町である。
でも東北本線からはずれると何か目立たなくなる。
世界認識は交通手段とか交通路で時代によて違って認識されているのだ
だから江戸時代の地理認識と明治時代の地理認識は変わってしまったのである。
確かに奥の細道は今の東北本線の通っている所である。
そこも江戸時代は俳句でもわかるように淋しい場所だったのである。
須賀川がとても隠者のような人が住むような場所には思えない
むしろかえって隠者は市井に住んでいたとなる
隠者と言っても知識人だからである。
現代になるとこれだけ交通が盛んで情報が流通すると知識人はかえって田舎の方に住んでいるともなる
東京と田舎の情報の差がなくなっているからだ。

ともかく棚倉町について詩を書いたようにそこは何か福島県でははずれた町で目立たないのである。
そして棚倉町の特徴は水戸に通じていて街道が
東京からは六号線でも水戸街道と東京からは呼ばれている

国道118号線を北上して、棚倉町へと入ってきました。
棚倉街道の宿場町・八槻宿があったと思しき八槻地区には、八槻都々古別神社があります
棚倉町には神社仏閣が多い街として有名です。
118号線沿線には、八槻都々古別神社だけでなく馬場都都古和氣神社や宇迦神社、そして山本不動尊があります。
国道118号線は、神社仏閣めぐり街道でもあるのです。

ここは古代のヤマトタケルの伝説が残る古い場所である。久慈川を上ってきたのである。久慈川も万葉集に歌が残っているから古い場所である。
白河の関よりここが福島県では古代の通り道だった。
ここは水郡線がありこれは結構時間がかかる、水戸まで通じている。
これは一回だけしか乗っていない、ローカル線である。
ただここが記憶に残ったのは会津からここまで自転車で来てテントで秋にテントでとまったからである。
ここは茨城県に日立に近いからここも福島県になり福島県はつぐづく広いなと思う

それから猪苗代湖の福良とか湖南町なども通信領域からはずれている
あの辺もも白河街道で江戸時代は会津に通じる道であり秀吉もこの道を会津に向かった。鉄道がここを通らないのですたれて淋しい町になった。
でも情緒はこうした江戸時代の旧街道だったところに感じるのである。
この道も自転車で会津に向かった。
それから昭和村とかあるがここも町の中心部は通信領域になっているが孤立している。
ここも確かに自転車で行ったとき遠いし離れていて孤立した村に感じた。
これは自転車で行った実感なのである。
山が多い所は通信領域になっていない、そこには人家も少ないからである。
檜枝岐に行く道で古町温泉とかに入ったのも思い出であり
なんとも今になると夢のようであり不思議になる。
旅はこうして気まぐれでないと旅にならない
ここでちっっとよってみようか別れ道を行くこうかとなる
あそこの温泉は地元の人が入る温泉である。

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自分が作った俳句で「日永きやまた道二つに分るかな 」があったがそういう時があったときなつかしく思った。
ここに時間の余裕があった。
日が長くなり春の日にきままに自転車にのり阿武隈の道をたどっている
そこに制限されない時間の余裕がこの句から感じられた。
こんな句を作ったのも忘れていたのである。
俳句でも短歌でもそこからどれらだけよみとれるからである。
自分が作った俳句だからもちろんその時を思い出す
つくづくその時制限されな自由な時間があったんだなとふりかえる
そんな時間があたりまえだと思っていたがそういう時間さえなくなる。
人生の時間はいづれ誰でもつきるのである。
今になるとその時そこにあったということ自体が不思議になる

それで面白いのは丸森町である。宮城県は仙台を中心にして通信領域で赤になっている
でも丸森の地域は通信はできるが薄い赤でありやはり正式の通信はできない
丸森は秘境があるということを書いたし詩にした
丸森は伊達藩でも相馬藩と接して仙台からははずれている。
ただ丸森からも角田からも蔵王が大きく身近に見えるのである。
蔵王が見え領域としての地理もある。蔵王はみな南相馬市の鹿島まで見えるのである。
だから高い山から地理を把握するのも一つの地理の見方なのである。
通信領域からはずれているのは阿武隈の高原地帯である。
そこは広いのだが葛尾村とか今では過疎地域になる。

旅をして魅力があったのはこうした通信領域からはずれている過疎になっている地域であった。
そこは江戸時代はかえって街道が通じていたが裏道になってしまったのである。
記憶をたどる旅になるとどうしても地図をみる、その地図を見てもわからない
インターネットで旅した道の紹介があったたするから便利である。
つまり何度も言うが地理は実感の世界でありまさに像で把握する世界なのである。
それが四次元にもなっているから地図を見ても立体地図を見てもわからないのである。
このソフトバンクの通信領域の地図は全国的に見ても興味深い
なぜなら通信領域からはずれいるところは過疎化している地域と一致しているからである白くなっていて空白地域になり穴があいたような地域になっているのである。

現代では通信ができないことも過疎なのである。
なぜなら通販はインターネットでしているからである。モバイルでもしているからである
学問もいろいろあるが地理というのは基本にある。
これを知らないと何か実感として何も理解できない
歴史も文学もそうだし地質学でも地震学でもそうだろう
これは世界の歴史でも同じなのである。
だから最近アマゾンで「逆さ地図で読み解く世界情勢の本質」
これなど南砂諸島になぜ中国がこだわるからわかりやすくなる。
政治は基本的に地勢学、地政学だからである。
このソフトバンクの地図からまた全国を見直してみよう。



道にも古道があるが町にも必ず古町がどこにでもある。都路に古道とあるのはその道が古い道になったからである。
どこの街でも古町があるのはそこがもとは栄えていたからである。
南会津でも古町温泉とかあり地元の人が入っていた。
ここが古町だったのかと山奥だから不思議に思った。
会津田島駅発内川行き → 針生 → 山口 → 古町温泉入口下車(乗車時間約1時間) 
福島県南会津郡南会津町古町 字太子堂186-2

古町温泉赤岩荘
http://www.sayurinosato.co.jp/akaiwa/access.php

古町や会津の奥の湯秋の暮


古い道と新しい道(会津の古町温泉)

2015年05月19日

県単位ではほとんどイメージするものがでてこない (地方創生でも文化は地方からしか生まれない)


県単位ではほとんどイメージするものがでてこない


(地方創生でも文化は地方からしか生まれない)


 
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県というき最初は藩があったところが県になっていた。
だから三春藩があり城があったが三春県になっていた。
相馬藩の中村に城があったから中村県になっていた。
県の規模はもともとも大きなものではなかった。
江戸時代の藩を基にしていたのである。
それが拡大解釈して今の県になった。

県というのはイメージがわかない
福岡県といっても佐賀県といってもどんな地域かイメージわかない
福岡というと玄界灘があり韓国に近いということはイメージする
それ以外わかりにくい、佐賀県などとなると余計にわからない
長崎県なら長崎があるから長崎からイメージする
鹿児島県は先端だから薩摩としてイメージしやすい
開門岳があり桜島があるので比較的わかりやすい
阿蘇山は宮崎県だとなる
港とか山が先にあり県をイメージする
安達太良山が万葉集に三つものっていることはいかに注目されていたかわかる
それで

陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ 斎藤茂吉

蔵王は相馬地方でも見える、南相馬市の鹿島区からも大きく見えた。
ただ原町になると見えない、ただ意外と広い範囲で見えてる
蔵王は福島県と宮城県と山形県の三県から見えているからこういう歌ができた。
ただ蔵王と言えば山形県である。
県の象徴として山がある、岩手県は岩手山であり青森県は岩木山である
秋田県は鳥海山である。
富士山といえば静岡県なのかもしれないが富士山は山梨県からも他からも見える。
まず静岡県とあってもどのくらいの範囲であり地理的にイメージできない
それは県単位だとどこでも同じなのである。

山の上の桜に昇る朝日さし沖行く船に金華山見ゆ

これは新地の鹿狼山に登山口で牡鹿半島が見えて金華山も見える時がある。
そして相馬藩内に金華山の碑がある。
これは古くはなく明治時代以降のが多いから比較的新しい
湯殿の碑などは古い方だろう。明治まで金比羅参りなどもつづいていた。
新地は海から貝をとっていた手長の巨人伝説があるように山と海が接近している地形である。
蔵王でも亘理の鳥の海からはっきりと見える。それは船の当て山になっていたから海と結びついていたとなる。
新地では牡鹿半島が見えるからその見えることでつながりが感じられる。
会津の山などは全く見えないから一体感が感じられないのである。
海沿いに今回の津波の被害を受けた所が一体感を感じたのである。

日本では山国だから山からその土地をイメージすることが多い。
そもそも奈良県は大和ととして日本発祥の地だとするとき

やまとはくにのまはろばたたなづく 青がき山ごもれる大和しうるわし

この歌があるように奈良県は山に囲まれた中の盆地だからわかりやすい。
滋賀県だと琵琶湖中心に見るからここもわかりやすい。
結局あとはほとんど県単位ではわかりにくい、それだけ県単位だと広いから地理的なもの地形もわかりにくくなるのが日本である。
日本では県単位でイメージできるのはまれである。
市単位だとわかりやすくるなる。横浜市とか鎌倉市とかなるとわかりやすい。
ただそこが神奈川県だということはイメージできない
神奈川県となると広いからどこでも県単位ではイメージできないのである。

それから日本は海にそってみてゆくとイメージしやすい、瀬戸内海というとい瀬戸内海領域として見るとわかりやすい、それが山口県だ広島県だ岡山県だとかなると山の領域が入ってくるからわかりにくくなる。
京都府なども宮津まで入っているとなるとわかりにくい、宮津が京都府に入ると思う人は外からわからない、それでも方言だとにかよっていることも不思議である。
方言でなまりでみると大阪から近江から奈良から京都は共通性がある。
だからなまりで国がわかると言われたのは変わりない
方言はやはり一つの文化圏の形成として生まれ受け継がれたからである。
でも大阪弁と京都弁とか奈良の方言とか外から見てわかる人はいない
地元だったら似通っていてもわかるとなる
福島県でんだという語尾につけるとき宮城県ではだっちゃになるから明確に別れる
それで丸森ではんだべっちゃになっていたのも面白いのである。
丸森には相馬藩か一時城主であった金山城があったからそこで伊達藩の宮城県と相馬藩の方言が一緒になったというのも歴史だったのである。
こういうことは関西の人たちも知っている
近江商人というと有名だけど大阪商人の基は近江商人だったというのも知らなかった。
近江商人が大阪商人になっていたのである。

日本ではまず全国の地域をイメージするとき県単位ではほとんどできない
山とか川とか市とか城がある所とかからイメージする。
それは県より局所的になりイメージしやすいのである。
だから長崎市となると長崎県になるからわかりやすいのである。
横浜市とあったら横浜県になればわかりやすい、それが神奈川県になると範囲が広くなりわからなくなる。地元に住んでも福島県と同じようにわからないのである。
地理的一体感も歴史的一体感ももてない
鎌倉市だったら歴史的地理的一体化感をもてるし外から見てもわかりやすいのである。
あなたはどこから来たんですかと言っても神奈川県です福島県です、岩手県ですといってもわかりにくいのである。
だから富士山の車のナンバーがあったときわかりやすかったのである。
この人は富士山が見える所に住んでいるとわかるからである。
市にしても日本には藩があっても市はなかった
堺市などは例外だった。市民というのも存在しなかった。
外国に行くときパスポートにどこの市民かと記される
外国では日本国に所属しているのとどこかの市に所属した市民としてみる。
でも日本では村があり町があり市があるからどこの市民なのかとはみんなならないのである。

観光でも県単位で外部にアピールするとき外から見ると福島県でもハマ、ナカ、アイヅになるからわかりにくくなる。
会津なら会津をアピールするとわかりやすい、だから会津県の方が地域創生としては良かったとなる。
岩手県でも盛岡市なら盛岡県となればわかりやすいのである。
県はもとも藩の代わりに使われていたのである。
名古屋市だったら名古屋城があり金の鯱がありそこを中心に考える
でも名古屋市が愛知県というときイメージができないのである。
外国でも一つの行政単位はギリシャだったらポリスでありその後もヨーロッパ
では市が一つの独立国となっていた。
それで市同士が敵対して戦争もしていた。
フィレンツとかも市として独立国だった。そういう歴史が日本ではないのでわかりにくいただ市単位でみると日本でもイメージしやすくなるのである。

県単位になると県歌など作るにも作れないだろう。
ハマ、ナカ、アイヅでは地理も歴史も自然も相当に違っているである。
そういう風土とか歴史を無視して線引きした廃藩置県が今になると文化の破壊だったとなる
要するに県単位になるとアイディンティティが見いだせないし県に愛郷心ももてないのである。
廃藩置県というのはそうした日本の風土と歴史を無視して強行された。
そこには自然の理に反した無理があった。
明治維新から130ねんとかたてばまたそのことが問われる
明治維新の影響がその後の日本を決めたことで影響が大きかったからである。
地租改正などもありかえって江戸時代の日本より農民は苦しむことになったこともそうである。
それは明治維新で強力な中央集権体制で政府に官に権力を集中させたことによっていたのである。
江戸時代にあった村々は解体されて村の共同の入会の山は私有地化された
だから原発が双葉や大熊に建てられ時漁業権が強力なものであり原発御殿が建つほどの補償金をもらった。
そして家の前の砂浜や海まで私有地でると主張されたことでも象徴されている。
それだけ私有意識が強くなり日本人私的なものとして個々に分断された原因ともなる。
ただその私有地を許すということは資本主義に欠かせないということから国ではそうした要するに江戸時代から明治維新のことがわからないと今の日本もわからないのである。

それは行政面でもあり文化面でもある。行政単位としても様々な障害が生まれる
福島一区の選挙区も福島市と相馬の浜通りがふくまれていることに違和感があるのは
地理的阿武隈高原で隔絶されているからそう感じる
地理的に一体感がもてないのである。
地域的特徴地方再生となると相馬藩だったら相馬藩として江戸時代の継続から作り直すとアイディンティティも見いだしやすいのである。
身の丈の感覚でとらえられるのは相馬藩のような六万石くらいになるのか?
この範囲は自転車でも一日で行ける範囲だからである。
その中に海もあり川も山も一応あるから多様な地形を織りなす文化が育まれるのである。これからは明治維新の中央集権体制から地方分権体制に行政的にも移るべきである。
一方で東京に過度に集中する弊害もかえってつづいている。
ただ東京からは文化は育まれないし生まれない
そのバックグランドの自然がないから文化も生まれようがないのである。
文化的側面からだったら本当は原発は東京に作るべきだった。
東京湾の方が津波に対して安全だったからである。
そして貧しくても相馬地方が独自の国造りをするべきだったとなる。


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複雑な地形



廃藩置県で失われた地域の一体感 (県は広くて郷土愛などが育まれないー行政にも障害が)


 
廃藩置県で失われた地域の一体感

(県は広くて郷土愛などが育まれないー行政にも障害が)


明治維新を迎え、大政奉還をすると天皇が江戸に移りました―――といってみたところで、地方にはまだたくさんの大名がいます。権力は各地に分散していました。明治新政府が権力を持つためには、地方の権力を全部取り上げてしまわなければならない。そこで大名の持っていた武力をすべて召し上げて、藩をなくして全部県にしたいわけですが、それを実施するには中央に武力がなければならない。中央に権力と武力があって初めて中央集権が成立する。それが廃藩置県の意義でした。
明治の冒頭で、菊池寛がまず廃藩置県に注目したのはじつにみごとだと思います。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/?tag=%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A&page=1


神奈川って海あり山あり都会ありで
多様過ぎて一体感ないんだよね
県民性も地域によって大分違う


これはどこの県でもあてはまるだろう。
福島県でも広すぎる、ハマ、ナカ、アイヅで気候も風土も違っている
むしろ気候とか風土だと海岸線ということで今回の津波の被害にあった所が一体感がある世界だった。
相馬藩は江戸時代から伊達藩と関係が深かった

 伊達と相馬の境の桜 花は相馬に実は伊達に

今でも仙台に通勤している人もいたから同じである。
それは地形が影響していたのである。
阿武隈高原が障害となり隔てられていたのである。
こういう地形の影響はすでに古代からあったから変わらなかったのである。
まずその国は地形から地勢から地理から作られるのである。
自然村であり自然国である。自然から風土から一つの国が形成される。
これは世界的にみても自然から地形から風土から国が作られてゆく
だからその国を知るにはその国の自然と地理を地形を地勢をよむのが先である。

ところがこの地形をよむ地形を知るのが一番むずかしいのである。
これは地図をみてもグーグルアースを見てもわからない
例えば阿武隈高原でもそこを実際に越えてみて中通りに行ってみないとわからない
飯館村は阿武隈高原の村だが相当に標高差があり寒冷な地帯になる。
福島市になると冬は寒く夏は蒸し暑くなる。
それで阿武隈高原を越えた時海の方から風が吹いた時涼しくなりほっとした。
はっきりとそこに温度の差が生まれていたことを実感したのである。
つまり風土とはまさに風であり風を感じないとわからない
その風も今は感じにくくなっいてる
電車でも車でも風は感じないからである。

津軽平野に出て津軽鉄道の中里駅から十三湖に出たとき西風が吹いて
十三湖が波立っていたことであそこの風土を感じた。春でも日本海から西風が吹く、
そして冬はあの辺は地吹雪になる地帯である。
そういう厳しい風土なことを実感したのである。
そして青森県の車のナンバーの人がいてどこかと聞いたら大間だという
大間はどこかとすぐにわからなかった。
それは下北半島の先であり函館が原発があるのでもめている所だった
これも地理がわからないと理解できないのである。

30Km圏内に入る函館市や道南地域への説明もなく、また、同意を得ることもなく、建設が再開され、建設後には、大間原発の事故を想定した地域防災計画や避難計画を定めることを義務づけられることは、整合性を欠き、誠に理解しがたいものです。

平成24年10月、25年2月には、国や事業者に対し、函館市をはじめ道南の自治体や議会、経済界、農漁業団体、住民組織などが名を連ね、大間原発建設の無期限凍結を求めてきたところです。 
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014031000166/

30キロ圏内にあるから函館市は今回の福島の原発事故で反対になった。
青森県で日本海と太平洋側では風土も違ってくるし下北となるとまたわかりにくいのである。
結局自然的にその地形とか風土に準じて作られた藩が一番わかりやすかったのである。
その藩があり城を中心に見ればわかりやすいからである。
その江戸時代の前に古代からそうした地理や風土によってすでに国はつくられてきていたのである。

会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲びにせもと 紐結ばさね (万葉集 14−3426)
安達太良の 嶺に伏す鹿猪の 在りつつも 吾は到らむ 寝処な去りそね
陸奥の 安達太良真弓 弦著けて 引かばか人の 吾を言ひなさむ
陸奥の 安達太良真弓 はじきおきて 反らしめ置なば 弦著かめやも
安積香(あさか)山、影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を、わが思はなくに
陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎

みちのく万葉集の歌の意味するもの (福島県の古代-みちのくの大地を深まる秋に想う)

万葉集に歌われたのは福島県までである。真野の草原は石巻説があり涌谷町の黄金花咲くは宮城県である。
ただ古代で奈良に知られたのは福島県では会津であり安達太良がある二本松であり
安積香(あさか)山がある郡山であり真野の草原がある南相馬市である。
これがその後も変わらない基となっている。
会津の国をさ遠み・・・というとき会津の国と記されていることが大事である。
すでに会津では国として認められるのものがあったから国がでてくる。
会津の名の起こりも古事記に記されほど古いからである。
つまり福島県には最初会津国があった。
安達太良というのは山でありそこには国ではなかった。
ただなぜ三つも安達太良の歌が残っているのか?
それは安達太良山が福島県の中心として位置づけられていたからである。
安達ヶ原の鬼婆とかもすでに都に知られていたのもそうである。

そしてその継続として二本松に霞城が築かれた、そのことは詩にもした。
二本松城が福島県の中心として地理的にあって城が築かれた。
会津はまた別な国だった。それで廃藩置県で二本松県があり会津県があり浜通りは
磐城県になっていた。
それが今のハマ、ナカ、アイヅになったのである。
郡山は古代も交通の要所であり都の郡が置かれて接待する女性がいた。
郡山はその後もそういう位置にあり東京に近く繁華な市を形成していたのである。
みちのくの真野の草原は港であると書いてきた。
ただ石巻なのか南相馬市の鹿島区の真野なのかはわからないが考古学的発見からは南相馬市の真野が有力になっている。

いづれにしろ廃藩置県で他国を理解することがかえってむずかしくなったのである。
藩を中心にしてその国の風土なり歴史をみるとわかりやすいのである。
だから廃藩置県は何か無理して線引きして作ったものだからなじめないのである。
地理的一体感がどこでも感じられないというときそうなのである。
県はどこでも広すぎるからそうなるのである。
だから神奈川県がどうなっているのとなると地理的にわかりにくい、それはどこでも県からはわかりににくいのである。
どこの県でも即座に地理がわかる人はいないのである。
地理的一体感がないというとき何かいろいろと問題が起きてくる。
原発のような科学的なものにも問題が起きた。
中通りの福島市とか二本松とか郡山まで放射能で汚染されるとは思わなかった。
それは阿武隈高原が障壁となって原発の影響はないと思っていたのである。
ただその時東風が吹いて放射性物質が運ばれたのである。

日本の地理が複雑なのは海と山があり接近しているし山となるとわかりにくい、だから日本列島を横断してみるとわかりにくい
でも海に沿ってみるとわかりやすくなる。
今回の津波では津波の被害にあったところが一体感があったのである。
一方で安達太良山が万葉集で三つ歌われているように山を中心にみるのも日本である。
ヤマトというと山なのである。それは山に囲まれた山の国だからである。
ともかく廃藩置県後の県で日本をみることはむずかしい
それで地方活性化とかの国の方針もうまくいかないことがあるだろう。
なぜなら県単位になると地域の一体化が広くて一体感がもてないからである。
県単位の行政すら今回の原発事故でもわかったようにむずかしいのである。
福島市にまで被害があるなど考えなかったろう。
それは地理的な要因でそうなっていたのである。

そもそも明治維新は様々な面で無理があった。だから今になると明治維新が必要だったのかとか見直される。
西欧化というけどそれは日本的なのもを排斥する無理があった。
そういうふにう西欧から迫られたというのもあるけどその無理が後々まで影響したのである。
明治維新かなかったら太平洋戦争がなかったといわれるのもそうである。
廃藩置県もそうした日本を中央に武力と権力を集めることであった。
それは文化的にもそうであり標準語に無理やりしたのもそうである。
その時地方の文化的なものもかなり失われたのである。
そういうことまで考慮する余裕がない状態だった。
別に幕府でも開国を目指ししていたのだから廃藩置県がなくても開国はできたということは言えた。
明治維新は日本的な文化の破壊もあり今日まで甚大な影響をしていたのである。
だから明治維新が今になって見直される結果になったのである。


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2015年04月18日

春爛漫二本松城 (二本松城から考える現代文明の荒廃)


春爛漫二本松城(詩)


(二本松城から考える 現代文明の荒廃)

二本松城山城にこそあれ
天守台高くも見晴らす峰々
残雪の安達太良、吾妻山
遠くは蔵王も浮かぶ

春の日や十万石の城にあれ
天然の要害にして
家臣は曲輪に配して
守りは堅き山城なり

二本松城の天守台上りて高き
滝の朝ひびき落ちて清し
椿の一段と赤く高峰映えぬ
こぶしは風に咲きゆれる

洗心亭炎上まねかれ残るかな
春の日や一服の抹茶を所望す
曲松の古りて茅葺きの茶屋
キクザキイチゲの咲くもにあわし

城内の日影の井戸の深しかも
赤々とそちこち落椿
城を守る水のここより汲む
その水に茶を飲めば癒されむ

二本松城の残る石垣によれ
千代の松によりて昔を偲べ
難攻不落の山城なれや
そちこち椿の赤しも

今し桜の霞とおおい
残雪の安達太良光り
見晴らす陸奥の春の山々
その麓の里に桜は映えぬ

陸奥の都より遠しも
安達ヶ原に名を知らる
その岩屋の伝説や
知られざる陸奥の国

二本松城のここにあり
城代は変わりしも
その山城に歳月重ぬ
陸奥の攻防の城なり

伊達政宗の攻めて
会津の名将蒲生氏郷や
相馬義胤もかかわり
ここは陸奥の要と争いぬ

ああ、時は移り急変する時
攻め来る官軍に抗して
あわれ少年隊の犠牲かな
その菩提に花は散るかな

城こそ命とここに果つ
城を離れて武士はなし
ここに切腹して果てし将二人
城と共に心も命もあり

悔いなきものとここに眠りぬ
春なれや城をおおいぬ桜花
散れる椿もまた赤しも
霞ととおおいこの城に眠りぬ

敗者に無情の仕打ちは世の習い
その記録をも消さむとす
会津も二本松も敗れて非情
官軍への怒りはなおも残りなむ

しかし誇りもて二本松城
高きに守りも堅く今もあれ
椿は一段と山頂に赤く
山の蝶もここに飛び来る

戒石銘戒に刻まる教え
奢りを戒め民とともに
この地を治めよと
その石に春の日さしぬ

守りも堅くその石垣によれ
常磐木の松によれ
雄大に安達太良は映えて
ここは陸奥の要の城なれ

万葉にも歌われし安達太良や
古の陸奥にはや知られし山
その山の大きく城に影なして
要の城と今もありなむ



薩長新政府への恭順を勧める密書も届きました。しかし、最後には長国の「城を枕に倒れんのみだ」という決断で、徹底抗戦することになりました。

戦国時代から明治維新のときまで城のもっていた意義は大きかった。
つまり城は単なる建物ではない、城は武士が身も心も一体となるものとなっていた。
だからこそ白虎隊や二本松少年隊の悲劇が生れたのである。
白虎隊は城が燃えているだけで落胆して絶望して自刃した。
城のもっているそれだけその当時は大きかったのである。
二本松少年隊もの同じだったのである。
城と共に身も心もあったのでありだからこそ少年でも城とともに死んだのである。
会津と二本松だけが徹底抗戦したのだからすべてにはあてはまらない。
その理由がなぜなのかというとまた考察が必要になる。

もともと二本松城は伊達政宗から会津から白河から北上するときも要の場所にあったのだ歴史は地理であり地勢が必ず影響しているのである。
だから地理がわかれば歴史もわかる。
福島県を理解するには二本松が一番地理的にわかる場所である。
それは理屈ではない、直観してわかるのである。
あの天守台に立って四方を見回すとあそこが福島県の中心だということを実感する
二本松県になるということもあったから中心的な場所であった。

二本松城が自分が一番気にいった城になったかというとそこ山城であり自然がそのままに残っているからである。
城でもあういう城はめずらしい、会津城でも街中にある平城であり自然というものはない、青葉城でも仙台市街を見下ろすとなにかそこがあまりにも変わりすぎて都会化して嫌なのである。
姫路城は有名で最高の城でもそこに自然がない、街中にあるから何か映えないのである。大阪城でもビルの谷間になるから何か映えないのである。
都会化すると城がビルの方が高くなるから映えないのである。
城が活きていたときは城が高く見えたのであり天守閣に上れば遠くを見渡せる見張りの塔のような役目もしていたのである。
だから意外と城で感動するものが少ないのである。
自然そのものに映える城というのは少ないのである。
二本松城は山城であり自然そのものの中にあるからめずらしいのである。

明治維新のときもやはり白河城を落とし二本松城に入るとそこが陸奥の要の城となって立ちはだかった。
それで薩長軍に踏みにじられたのである。それは伊達政宗のときもそこで陸奥の覇権を争う攻防の城となった。
その時、相馬義もかかわっていたのである。会津と相馬とか三春が伊達政宗軍と戦っていたのである。
要するにそういう要の場所にあったからである。
そのことは二本松城の天守台に立てば一目瞭然なのである。
だから歴史は地理がいかに大事かわかる。地理によって歴史はあらかじめ決定されているともいえる。
イスラエルが世界の要であるというとき神が定めたからだというのもわかる。
地理によって世界史が決められるからである。
二本松はそういう陸奥の要の場所にあった。

ただ城の意味は時代が変わったとき意味も変わった。
第一桜が城には咲いていなかった。桜は明治以降城が公園化したとき咲くようになった。枝垂桜のことを糸桜として朝倉氏の城で歌われている。

折りを得てけふ咲く花は君がため今一しおの色や染めけむ 信忠

これは糸桜であり山桜でもないしもちろん染井吉野でもない、それは庭に咲くにふさわしい枝垂桜だったから城を染めるような桜は咲いていなかったのである。
枝垂桜も散るから今の桜とにてはいる。でも山桜とか染井吉野の散り方とはまた違っている。
このように歌をかわして朝倉氏に従う武将は城と共に信長に滅ぼされて死んだのである。でも今の桜とは違っていた、城を染めるような桜ではなかったのである。
枝垂桜と山桜とか染井吉野は同じ桜でも相当に違ったものだからである。
現代で城がもつ意味は変わった。城には石垣が残っている。
松も残っているしか松は城には欠かせないものだった。
石垣は石であり変わらぬ象徴としてあり城の礎であり城を今も支えるものとしてある
だから石垣だけ残っていても城があることをイメージできる。
二本松の石垣は立派なのである。
トロイの城でも建物は消えても土台となった石垣は残っている。

城のもつ現代的意義は二本松城だったら自然と一体化して美とモラルとしての城である。街中にある城は自然が欠けているから美が感じられない
二本松城には松があり椿も咲きそれも自生したような椿であり天守台に登ると陸奥の山が安達太良や吾妻山や蔵王まで見渡せるから違っている。
城と共に死すというとき自然とともに死す、自然の美があってそこが死ぬ場所としてふさわしいとなる。
まず東京のような場所は自然がないから美もないのである。
するとモラルもないのでてある。
山は精神的な象徴としてもある。不動であり誠実であり威厳がありとか何か人間の徳を人格を象徴するものともなる。聖なる山になる。
海にはなにかそうした人間の人格的なものがない、それでどうしても浜通りではその高い山がないから根本的に欠けたものとなっている。

中通りや会津や東北でも岩手山とかがあり山が中心的精神的支柱となる。
高い山を望んでいると心もその山に反映されるのである。心が山によって養われる。
自分は石をテーマにして詩を書いてきたが石も人間化したものとなる。樹でもそうであるだからそもそも自然がないところには美も真も善も育まれない
東京のよな所では経済しかないし人間に自然が反映されないのである。
そこでは人間と一つのロボットのようにされる。自然が反映されない機械ロボットになってしまう。
ロボットは自然とは関係なくありうるからである。
人間は自然とアイディンティティ化するとき人間となる。

例えは虹がかかったときそれは契約の虹であた約束の虹だと聖書に書かれているとき自然とモラルが一致して見るからそう見る。
虹は単なる虹ではない,神との約束を果すことを示している。
虹でもビルの谷間にかかったら美がそもそも喪失しているから美もモラルも喪失する
人間の心が高層ビルとかと一体化できるのかとなる
だから自分は工業とか商業とか経済一辺倒の世界になじめないのである。
でも世間ではそういうことに無関心でありただ便利な生活ができればいいとなる
田舎はどうししても第一次産業を基本にしてあるべきだというとき
それは経済的効率とか経済一辺倒の論理ではなく自然を反映したものとしてのアイディンティティ化した人間としての世界の構築なのである。
ヨーロッパのルネサンスは地方都市が起こっている。
そこにはまだ自然があったと同時に建築とか絵画とかでも古典の世界、ローマの世界とかイスラム文化とがが融合して華開いたのである。
あの壮大な石の聖堂でもゲルマンの森がありゴシックの建築が生れた。
文化が興隆するには人工的なものと自然の融合があって成される。

現代の文明は科学機械文明であり自然破壊文明でもあった。
もちろん科学がいちがいに否定できないものである。
ただそれが暴力的に自然を収奪したり破壊するものとして働きすぎたのである。
魚がとりすぎて魚が高騰している、それは今はとりすぎるからそうなる。
そのブレーキがないから法律的にもないから魚はとりすぎて資源が減少する。
そのブレーキになるものは魚だけではない,科学の暴走が止められないのである。
それが原子力でもあり世界核戦争の恐怖にもなった。
放射能汚染でこの辺は住めなくなったのである。
そこにヨーロッパ文明の限界が生れたのでありこれからは東洋文明が起こるというのも自然破壊があまりにも進んでしまったからである。
でも東洋文明とは何かとなると実際は不明である。
過去の文明とは違うものになるからである。
つまり城が当時がもっていた意味と違ってみているのとにているのだ。
そもそも桜が咲いていない城を染める桜などないのに桜と城は一体化されている
城は今は違った美的なものとして人間の精神的な意味としても違った意味をもつようになっている。
世界的に自然破壊が進行し拡大化がやめないとき果たして東洋文明が再び起こるのかとなるとき疑問なのである。

森が中国でもインドでもインドネシアでも大規模に喪失しているのである。
むしろ日本は森は外材に頼った結果残っている不思議がある
外国でははげ山が多い、それは木をとりつくしたからはげ山になった。
山が森でおおわれているのは日本くらいなのである。
ともかく経済のことばかり言うけどそれが本当に人間の栄えなのか疑問なのである。
自然がない自然の美もない所に新しい文明が怒りうるのかとなる。
いくら反映しても東京のようになったら人間砂漠になってしまうだろう。
自然の復活復興が新しい文明を生む基となる

でも科学とか経済の発展とかばかりが言われるのがそれが人間の繁栄になるのかとなるとそれは東京でありニュヨークであり上海でありそれが人間を人間たらしめるものとはならない、自然の美が自然が人間の精神を作るからである。
人間の栄華が野の花より飾られていないというときそのことを言っている
東京はただ人間が巨大な胃袋と化した怪物的都市なのである。
その東京に電気を供給するためにこの辺は人も住めなくなったのである。
原発が未来を作ると双葉町とか大熊町がかかげていたのはまさに東京化した地方の姿だった。
つまり電気文明を否定できない、車文明も石油文明も否定できない、ただ人間の繁栄を電気や石油や車や機械にすべて頼るとき今回の原発事故のように住めなくなったら終わりだとなる。
だからなんらか第三の文明を志向せざるをえなくなっているのである。










2015年04月14日

二本松城の桜の短歌二十首 (船岡の一目千本桜と二本松城の写真ー朝桜)


二本松城の桜短歌二十首

(船岡の一目千本桜と二本松城の写真ー朝桜)


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一目千本桜

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船岡城の桜

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こぶしがこれだけ咲いていたのはめずらしい

これは拡大しないとわからない

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城遠く見えて亘理や朝桜
船岡の朝の通りや花の影
滝に散る椿や赤し山の城
燕来てまた一駅途中下車
会津の方磐梯山や夕桜
みちのくに新幹線や芽吹きかな
新幹線西へ東へ桜かな
日本なれともに栄えむ桜かな



残雪の蔵王の映えて田起こしの土黒々と草萌ゆるかな
朝早み千本桜尽きず咲く我が歩みつ人の行き交ふ
長々と桜の古木枝垂れて残雪の蔵王映えにけるかな

(二本松城)
燕来る二本松街の通りかな坂を上りて城に向かいぬ
春の鳥さえづりけるや街中に切り通しの道上り下りぬ
切り通し坂を上りて隠されし二本松城花のよそおふ
大手門入りて城内に根ずきし松に桜映えにき
大手門春の日さしてよそよりもあまたの人の出入りするか
石垣の古りて添い立つ松にあれ朝の日さして枝垂桜かな
木蓮の白さに映えて桜花朝日におふ今盛りかな
城内のそちこちに散る椿かな上り下りして石垣古りぬ
洗心亭唯一残ると一服の茶を差し出して花見つ語りぬ
洗心亭残りてあわれあまた咲くキクザキイチゲ抹茶飲むかな
おおどかに安達太良山に春の日や吾妻峰を見えみちのくの春
天守台へ桜咲きにつ安達太良の残雪光り椿赤しも
車窓に花また花やみちのくの残雪光り峰々映えぬ
天守へと花咲き染めて残雪の安達太良光り椿赤しも
朝に映ゆ桜花かな残雪の峰の高くも天守台に見ゆ
山城やこぶしも咲きてこの城の山の守りて古りにけるかな
残雪の峰々朝に望むかなみちのくの春天守台に立つ
天守台残雪の峰浮かび見ゆ椿の映えて朝に立つかな
二本松少年隊の菩提かな朝咲く桜のはや散りそめぬ
安達太良の麓を染める桜花京より遠くみちのくの里

(二本松城)

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洗心亭(キクザキイチゲが咲いていた)
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天守台にのぼる道

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城の前の喫茶店は一番場所がいい

クリック拡大しないときれいに見えません



亘理にも駅が城になっいる。あれでも城があると何か街が歴史があくように見えるから不思議である。
あれは別に城があったわけではないが伊達藩がありやはり歴史があったから城を作った。城は遠くから見えるとき映える、目印になる。江戸時代は平屋しかないから城が今は低いようでも高く見えるのである。

一目千本桜は写真が相当でているから同じようなものがある。
でも朝桜として今回はデジカメが前よりはいいものなのできれいに写っていた。
写真で見るとまた違ったものとして見えるから不思議である。
人間の脳だけでは記憶が定着できないのである。

二本松城は切り通しの坂を上り下りてまた曲がるとある。あれも防衛のためにあそこに作った。要害の地にもともと中世の山城が作られそれが山城と平城の中間として作られたのが二本松城である。
江戸時代に桜は咲いていないが椿は咲いていたろう。
洗心亭の前にキクザキイチゲが一杯さいていたのもあっていた。
滝が自然の滝のようになっているのもいい、あそこは全体が絵になる風景になっている。山城だから自然が活かしているからそのまま絵になっている。

今回は新幹線で郡山から引き返して仙台につきバスで帰った、常磐高速が全線開通して原町から直通のがでている。九〇分だから早くなった。各駅止まりでも一時間三〇分だったから早くなった。これは便利だと思った。今までは二時間かかっていた。
新幹線から見えるのは山だけである。
郡山から磐梯山が見えた。郡山から会津に行く、それにしても会津の方にも十年くらい行っていない。
だから仙台に行ったのも一年ぶりくらいだったのだ。
そしたら何か残雪の蔵王も新鮮に見えたから不思議である。
自分はほど旅したものはいない、だから最初はどういう経験をしていたかというと
まず京都とか大阪とか西の方の桜を何回も見ていた。
それから東のみちのくに帰るとど。うなっていたかというと西の桜が散った時、東の桜が咲き始める。桜前線で面白いのは時間差があることがその土地の風土を感じるから桜咲く時期は日本独特のものが生れる。
実際に六月まで桜は日本では咲く、雨がふって稚内では六月に桜が咲いていたのである。その時間差が日本ではその土地の風土を感じるのである。

だから郡山で磐梯山を見た時、夕桜が見えたがかなたは会津に想いをはせた。
なんか会津も遠いなとつくづく思った。
ただ福島県だと会津も福島県だからテレビで会津のことは報道されることが違っている
「会津でも桜が咲き始めました」とアナンサーが咲き始めた城の前の桜を写すとき
会津も咲き始めたのか、やはり寒いから浜通りとか中通りとかより遅くなる。
そこにかえって奥深い寒い会津を感じる、ようやく雪国の会津も春なのかと感じる。

会津より桜の咲くと写されぬ城の前なる桜にしあれ

こうして桜の時期はいろいろ思うことが多いのである。
自分の場合全国を旅しているから桜の時期も旅しているからみちのくから京都や大阪をこの時期に想いをはせる。ただみちのくから都は遠くなったなとつくづく思う。
その遠さは距離ではなくそこに行く時間が与えられないということなのだ。
今ならでも新幹線で相当な距離を行けるが新幹線ではどうしても旅になりにくい
旅は途中下車がいいのである。気ままにゆっくり見て旅しない旅にならないのである。
それはしかし贅沢なことだったのである。
新幹線から見えるのは山だけである。
それで新幹線から見える山をインターネットに出ていたのは面白い
新幹線から見えるものはある、それが山だったのである。
それで盛岡に新幹線で行ったとき岩手山が近く感じた、仙台から見えるように感じた。
五〇分で行くとなると何か岩手山が仙台から近いように錯覚した。
これも新幹線の不思議だとなる。

ともかく日本は桜によって象徴される。それも桜もともに栄えることがないと映えない
アベノミックスなどは格差を拡大しているからいいものではない
日本の文化の特徴は仁徳天皇の時代から民の煙を天皇が歌ったように上も下も平等の感覚があった。

 高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどは賑ひにけり
 
江戸時代でも武士と庶民階級がそれほど差がない生活をしていた。
というよりは日本自体が平等に貧乏だったともなる。
日本はいい面として平等を追及する、それが悪い面になると何か突出したものは嫌われるヨーロッパとか中国とかアメリカとは大陸との相違は格差が激しくならない
日本自体が平等を志向する国土になっていた。
それが悪くなればどんぐりの背比べになる
いい方面としては分け隔てなく共に栄えるという平等を志向するうよになる。
桜を見るには一地域を見ていてはわからない、西の方から瀬戸内海でも大阪京都でも桜前線をたどるとき日本の桜は絵巻物の圧巻となる。
だからなんとかまだ見ていない弘前の桜を新幹線で次に見にゆこうと思った。



これは新幹線の視点の景色である。








2015年02月09日

白河街道を会津へ (会津の歴史を白河から偲ぶ)


白河街道を会津へ

(会津の歴史を白河から偲ぶ)

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 小峰城の西側に広がる会津町。白河も領地としていた会津の蒲生家が改易となり、多くの浪人が出た。棚倉から白河に移ってきた丹羽長重が、これらの家臣を召し抱え住まわせたため、「会津町」と名付けられたとのこと。白河には、今でも会津にゆかりのある方が少なからず住み、「あいづ」の名で商いをしている店もある。
 http://www.city.shirakawa.fukushima.jp/view.rbz?cd=3704
 
伊達政宗の初陣は伊具郡(宮城県丸森町)での相馬氏との戦いであったが、その時に伊達軍の拠点となったのが梁川城で、政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をしたといわれている
奥州仕置によって伊達氏が岩出山城へ移ると、梁川城は蒲生氏郷の領地となり、氏郷の死後は、上杉景勝の領地となって、梁川城には須田長義が置かれた。現在の梁川城の遺構は基本的にこの時代の城主…蒲生氏郷家臣の蒲生喜内か上杉景勝家臣の須田長義によるものと考えられる
会津の勢力が梁川まで伸びていた。丸森で伊達政宗が戦いたのは梁川城があったためである。丸森は地理的に相馬に近い、今でも丸森と相馬の関係は深い。
相馬市の病院に入院していた人は丸森の人であり丸森の人は相馬市が近いから往き来する丸森から相馬地方に働く人達もいる。
だから一時金山城は相馬氏が城主となっていたのである。
ただ丸森から梁川はかなり遠い、山を下って行ったが地理的には不便である。
阿武隈川があるにしてもそこには急流があったりするから船を利用できないだろう。
この辺の事情はわからないが梁川は会津と伊達と米沢藩が城主となっていたからそういう場所にあった。


白河となるとここもわかりにくい、白河の関所があるがあそこが本当に古代からの関所だったのか特定されていない、ただ今でも奥深い場所にあり暗い杉の林の森でおおわれた道をゆくからあそこがいかにもみちのくへ入るにはふさわしいし奥の細道を感じるのは福島県ではあそこだけである。
あそこに盗賊が出たという伝説が残るのもわかる。
その白河から白河街道が会津まで通じていた。猪苗代湖の湖南町を通り東山温泉辺りに出る道である。ここは自転車で旅したからわかる。
勢至峠は今でも昔の面影を残している。道が細く両側に宿場町の名残りとして家並がある

馬を育て馬と別るるあわれかな馬頭観世音に秋風の吹く

此辺の若駒は凡て婦人の手で育てられるので、優しい別離の場がこの日何回も演ぜられた
勢至菩薩は馬の守護神かと思はれる。奥州では処々にその石塔がある。

馬と人間の物語はいろいろある。今は牛と人間の物語である。飯館村では牛の村だったからそうだった。牛の名前を十頭も覚えていた。意外と羊でも飼う人は特徴があり名前をつけて覚える。名前をつければ名前を呼べば人間と等しくなる。
猪苗代湖を見渡せる高原のような所がありそこに一面に月見草が咲いていたことを思い出した。

感動するのは 峠を越えてしばらく下がったころから目の前に現れる猪苗代湖へ
続く里山の美しさである 
http://ameblo.jp/nanacuba/entry-11835922785.html

一面に月見草咲き猪苗代湖その藍色や秋となるかな

福良で蔵の宿に一回泊まったのも一興だった。福良は宿場町であり奥まった場所であり趣がある。

福良にそ磐梯山望み見る波音ひびく秋の朝かな

白河街道は春にも行った。今思い出しているのは秋である。

街道の奥にこそあれ足とめぬ野菊の咲きて清水流れぬ
街道の道のり遠し芒原山間越えて会津に出るかな

そこは車もあまり通らない、芒だけが茂っている淋しい場所である。
ただどうしても記憶はうすれてゆく、あそこから歴代の会津藩士の墓のある

苔むして墓も古りなむたずぬれば今ひとしきり秋の蝉鳴く
三人の戒名見れば女なり側室にあれ苔むしにけれ
歴代の藩主の墓の積み重ね墓山となり時は過ぎにし

あそこの松平家の墓所はまさに墓山だった。立派な墓があるのだがそれがすでに過去の栄光を語るだけであり今は苔むして無常を語るだけだった。
結局墓を立派にしてもその墓も苔むして無常を語るだけである。
三人の女性の戒名の墓があったのはそこには側室もいたのか、それはわからない。
どういうわけか女性個人の墓が相馬藩でも何人も残されている墓地があった。
なぜこんなに女性の墓があるのか不思議だった。やはり武家では女性個人でも重んじられていたということなのか?最後に人間残るのは墓である。ただ墓も無常なのである。
無縁墓として元禄時代の墓まで捨てられて墓の墓場になっていたことが放送されていた。墓の運命も遂には捨てられことにある。
自分も墓に金かけて新しくしたのが失敗だった。
どんなに立派な墓にしてもその墓も時代や時の流れに忘れられ無常を語るだけになる。
すでに明治からは武士の墓はそれほど意味ないものになっていたのである。
むしろ民俗学的には路傍の馬頭観音の碑とかは文化財として見直されているのである。

会津若松の中心から五つの街道がのびる。白河・二本松・越後・下野・米沢街道。白河街道は奥州街道を経て江戸につながる重要な道。今の国道294号がこれにあたる。 
  
晩年白河を越える折二人はこう詠んだ。
 
 八重 老いぬれど又も超えなん白河の関のとざしはよし難くとも。
 頼母 旅にねしむかしの夢のあととへばうらみを知るや白河の関

会津藩は明治維新では激しい興亡があり無常を語る場所になったのである。
その恨みが未だに残っていることでもわかる。
白河と棚倉が関係していたことはわかる。距離的に近いからである。
棚倉藩は水戸への街道が通じているように水戸に近い、白河はみちのくの境である。
水戸に近いから水戸学の水戸天狗党に尊皇の攘夷思想に相馬藩士がいち早く洗脳されていたことがわかる。
そしていち早く皇軍の薩摩長州軍に帰順して丸森で仙台藩と相馬藩士は戦ったのである。その時船で磐城の方まで行った、やはり船の方が便利ということがあった。

福島県が福島市を県庁とした理由は二本松にも会津にも置かなかったのは皇軍に抵抗したからだという。それで福島市は関係ないから置いたという、たた福島市は平坦な土地が広いからそういう地の利が影響しかのかもしれない。二本松市は山が多いから新都には向いていなかったともとれる。
福島県の歴史もこのように複雑に交差している。
だからそもそも福島県を一体のものとしてみることが歴史的にも地理的にもむずかしいのである。
歴史的には会津の人は会津の歴史から考えているからである。会津はそれだけの歴史の厚みがあるし広いからである。

白河に会津町あり城の側ここより偲ぶ会津への道

 
タグ:白河街道

2015年02月08日

会津の方角地名 (方角地名がその土地を知る基本)


会津の方角地名

(方角地名がその土地を知る基本)

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塔寺の駅におりたちあわれかな秋の日さして豆たたく人
塔寺におりたち道の別れゆく西会津かな秋の夕暮
西会津道分け入れば芒かなかなたは越後や陽の没りゆきぬ

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地名の基本は方角地名である。南相馬市では合併して南相馬市になったのは相馬市から南だったからという、相馬郡はもともと相馬氏が小高に最初の城を築き在地の豪族を支配して行った、小高より北の北郷はみて南相馬市の鹿島区と相馬市の領域である。
相馬市はもともと伊達の支配地域であった。
だから北郷というときそれは歴史的地名としての北がある。
小高が中心として北郷がある。本郷というときもそこが中心の郷になるからである。
旅をするときまず方角がわからなくなる。方角がわかればその土地の全体の姿が見えてくる。滋賀県は琵琶湖中心だからわかりやすい、湖の西がありその方向の比良の山にが没る西は陽の没る地域である。西は何か淋しい感じを受けるのである。
東とつくと陽の昇る地域であり明るい感じがする。
京都でも方角地名から全体の姿をとらえると東山は陽の昇る山であり明るい感じになる。北山とかなると何か寒い感じになる。
だから会津の東山温泉となると京都の東山に通じるのかとなるとこれもどうしてあそこが東山なのかわかりにくい。
喜多方は北であるが北会津となるとまた違っている、どこから北会津なのだろうとなる
つまり方角地名はどこが中心なのかが問題なのである。
相馬地方だったら歴史的小高が中心だったからそこで北郷というのが歴史的方角地名として残っている。
histrical centered place がどこになるのかが問題である。

会津では西会津というのはわかりやすい、それは越後へ新潟へ通じているからである。
西会津は会津市街から離れた辺鄙な淋しい場所に感じられる。
秋に旅したときは芒がなびきそうだった。西会津の奥にも温泉があり新潟に出た。
バスだったので地理的にわかりにくかった。
白河街道は自転車で旅しているから地理的にわかる。
ただ白河街道が会津に出る場所が東山温泉だったことかわかりにくい。

いづれにしろ地名は方角地名が基本である。そもそも世界でも西と東(オリエント)に別れる、西はヨーロッパ
であり東はアジアであり中東となるとその中間とかなる。
日本でも西と東があり東はアヅマであり福島市には吾妻山がある。
遊牧民とか海洋民にとっては方角が一番大事である。
方角を知ることが生死を決する。砂漠で日本人の一団がラクダを率いて旅したが水のある方向がどっちかで苦慮した。幸い経験者がいて水のある方向に導いて助かった。
砂漠や平原とか大陸とか広いところを旅するには方角が一番大事なのである。
それで北斗七星と北極星が目印となり相馬藩でもそうだが野馬追いでも妙見信仰は北斗七星信仰が中国から伝わったのである。

不思議のなのは日本は最初ポリネシアとかの海洋民がわたってきたので日本語はポリネシアに由来するという説がある
海からみて船にのって日本列島を見る、海から方角地名が生まれる
ニシとはイニシであり太陽が去ってゆく方向にある。それは海から見てそうなのである。陸地ではない、だから日下石(にっけし)とはニシの方向にある海岸地帯だったのである。今回の津波で本当に日下石(にっけし)まで海なったことに驚いた。
あの辺は縄文時代は海だったであり海岸地帯だった。
鬼腰館という中世の砦があるがあれも鬼とは北の方角でありあそこは北風を受ける小高い山だった。

いづれにしろ方角地名からその地域をイメージさされることが多いのである。
奈良の西の京というとき何か西でありさびれた感じになる。

奈良市の西の郊外で、平城京の右京を西京と称したことに由来するといわれています。秋篠(あきしの)川西岸一帯をさし、薬師寺、唐招提寺・・・

ここは別にさびれた場所ではない、右京が西になっただけである。

赤々と椿の散りぬ西の京築地塀古り古(いにしえ)偲ぶ

西の京春の夕日影塀長く古偲ぶ堂塔の跡

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タグ:塔寺

2015年02月07日

会津の雪の詩 (会津は一つの国の文化圏ー福島県は広い)


会津の雪の詩

(会津は一つの国の文化圏ー福島県は広い)

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雪深く技あ磨きぬ会津塗り
車窓より雪に埋もれぬ社かな
城により会津の武士道松に雪
城下町茶の道残り冬深む
雪埋もれ会津の武士の眠るかな
城下町蝋燭の光雪に映ゆ
曲屋の雪に埋もれてけ奥会津
雪埋もれ木地師の裔や山の中
山中に木地師の灯し雪深し
蔵の梁黒く太しも積もる雪
津南町川の港や凍る雪

深々と雪に埋もれて墓の見ゆ後ろの農家も雪におおわる
猪苗代湖畔の雪やあわれかな野口秀夫の貧しき生家
火を吐きし磐梯山の風雪を帯びて厳しく凍る湖かな



会津の雪の詩

雪の深さに樹々の静まり
寥々と風は鳴るかな
樹々に吹雪て引き締まる
今日も霏々と雪は雪はつもりぬ
その林の奥処の知らじも
会津の雪の白さや会津の心
会津の武士道こここに育ちぬ
火を噴きし磐梯山を望み
その厳しく凛々しき姿よ
猪苗代の湖畔に雪はふりにつ
貧しくも清らかに哀し
湖は凍り純白の白鳥こそそこにあれ
城下町技を磨きぬ会津塗り
蝋燭の灯は雪に映えにき
雪埋もれ木地師の裔の山に棲み
曲家の雪に埋もれて奥会津
長き夜や囲炉裏を囲み物語せむ
しんしんと雪はふりつつ
会津の城下や無念を秘めて雪に埋もれぬ



福島県はそもそも広すぎる、ハマ、ナカ、アイヅに別れていて気候が違う。だから福島県を一つとして語りにくい、歴史も違っている。
明治維新のときなぜ相馬藩が尊皇の水戸天狗党にいち早く属したのか?
それは浜通りであり水戸に近いからである
棚倉からは水戸街道であり水戸に通じている。
東京からも今でも浜通りの六号線は水戸街道と言っている。
会津は水戸より遠い感覚であり交流も少ない、ただ福島県内でも会津藩は大きいから中通りとか相馬藩にも影響はしている。
それでも会津藩は一つの大きな国であり文化圏なのである
会津は風土と歴史とが一体化した一つの大きな国である。
だから歴史の厚みがあり文化の厚みがあり福島県の文化の中心ともなる
福島県だと会津かなとなるのが外から見て会津が特別であり特徴が風土的にも歴史的にもあるからだ。
会津は雪国でありその雪から会津の心も作られたのである。
だから雪を知らずして会津や日本海などのことがわからないのである。
雪というとき全部同じ雪だと思っているけど雪質とか感覚は違っている。
「心から信濃の雪に降られけり 一茶」というとき信濃の雪はまた違ってる。
青森で朝降った雪は何か明るかった。これもしめった雪とか新潟辺りはそうなるのか、
何か違っている。会津の雪も会津らしい雪のなである。
ともかく会津は本当に広い、そして2000メートル級の山がひしめいている。
その山もわからないのである。それは尾瀬まで通じている
山を知らなければまた会津をしりえないのである。
山の心が会津の心にもなる。

会津はまた会津若松の城下町があり明治以降は喜多方が商人街として発展した。
この二つの街は対称的である。歴代の会津藩士の殿様の墓地があるのも特徴的である。
そして会津城下町は本当に城下町らしい体裁を調えている。
職人の街でもあったからである。会津塗りとか会津蝋燭とかか産業としてあった。
これも山が多いのだから会津塗りは木地師が碗を提供する必要があった。
その材料を求めて近江の方から蒲生氏郷が職人を連れてきたのである。
面白いのは浄法寺碗、秀衡碗(岩手県)の影響を強く受けたらしく仙台市が市場としてありそこを通じて技術が伝播されたという
仙台が江戸時代でも市場としてそこを中心にして東北のつながりがあったことは今に通じている。
「会津商人」というのが巣てに知られていた。

村紅葉會津商人なつかしき  蕪村

領国経営の手法は信長似ており、商業優先政策(楽市・楽座の実施)をとる。近江商人→松阪商人→会津商人と、経済政策において極めて優秀な統治を行う職人も多く招いた。漆器、ろうそく、木地、焼き物などの基礎をつくり、その産物は、日野や松阪から連れてきた近江商人によって全国に販売され、会津に大きな経済効果を生み出している。
芦名時代からの会津商人司簗田藤衛門道幸の屋敷跡でここに2500坪の屋敷を与えてその発展を期させた つまり会津は近江商人 伊勢商人の集大成の町で白虎隊だけの町ではないのです

養蚕、漆、ろう、紅花などの栽培を奨励して、価値の高い商品作物を生産することに力をいれました。特に朝鮮人参は高価な商品作物であることから藩直営の事業とするために人参奉行所を設け、人参の生産販売を専売制にしました。そして、藩の指導奨励と農民の根強い努力で、会津の朝鮮人参(会津和人参ともいわれる)は天保(1830)幕府の許可によって日本ではじめて輸出人参として清国(中華人民共和国)のむけ長崎の港を出港したのです。
http://www.musubu.jp/jijikyodoshi.htm#aizu

会津の歴史は厚みがあり会津藩は大きく明治維新で敗北したが大藩で最後まで幕府側にたち武士道を貫いた。会津の魅力は雪国であり風土と一体化しているところにある。
東京とか江戸城があったとしても大阪でも大都会化して風土ときりはなされているから魅力がない、ただ高層ビルを見るだけになっているからそこに精神性もつちかわれない。
徳性すらつちかわれない。ただ金儲けのビジネスがあるだけだとなる。
江戸時代の魅力は風土と歴史とかが生活そのものと一体化していたから魅力があった。

ただ時代か変わると価値あるものもの価値がなくなる。結局一つの物でも碗一つとってもその当時人々が使っていたから価値がでてくる。
今になるとあまり碗など使わないし規格化された大量生産のもので使い捨てにしている。昔だったら碗一つが高いし貴重でありていねいに一生も使っていたかもしれない、
だからこそ当時の使っていたものは当時の人にとって今の人の感覚では計り知れない価値があっんたのである。
今はそれを土産とかで買ってもその価値は喪失しているのである。
江戸時代は簪一つにしても今の価値とは全然違っている。
珊瑚の簪とか価値があった。それは美的なものとして使われていたから価値かあったのである。
江戸時代のものは一つ一つが職人の手作りであり価値があった。
下駄一つ一つに職人の名前すらついていたのである。
そういう価値観の時代と今の価値観は違いすぎるから価値あるものも価値ないものとされる。
ただそうした物の価値でも時代が作っているのである。
その時代に生きた人達がいて使っていて価値が生まれたのである。

だから使わなければ何の価値もでてこない、例えば自分の母が百歳になり百がモモであり桃色のちゃんちゃこを買って着せた。
これは一回だけ使ったのである。だから無駄だとも思えた。
しかし百歳まで生きることはまだまれだから記念に買った
そして一回だけ着ても使用しもそれに価値が生まれる
なぜならそのものか使われたことによって精神性が付与されたのである。
百歳生きた人が着てそこに百歳の魂がのりうつったとも大げさだがなる
つまり江戸時代の物でもそういうことがある。
使われたことによって価値が生まれそこにその当時の人の魂がのりうつっている物なるから貴重だとなる。
ただ現代になると骨董品のように飾っていても価値は生まれないのである。
時代時代に価値あるものがあるがその時代でしかその物の価値がしりえない、今では碗にはそれほど価値がない、でも漆器は近くに塗り屋がいたから漆塗りは塗るだけで相当な手間であり労働なのである。
そういう手間と労働を考えても碗一つの価値がどれだけ高かった偲ばれるのである。

タグ:会津

2014年11月07日

春の短歌二十首 (平和な日の浪江ー葛尾村→三春を偲ぶ)


春の短歌二十首

(平和な日の浪江ー葛尾村→三春を偲ぶ)

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(浪江)
高瀬川轟く流れ春の日やそそりたつ巌をまた見む鳥鳴き飛びぬ
岩を打ち轟く流れ高瀬川春日まばゆし奥へ入りゆく
流れ来る二つの川や浪江町春の大地の請戸に展けぬ
請戸港船の並びて春日さすその日も消えて荒野となりぬ
大堀を春に訪ねぬ陶工の技を磨くや大き壺買ふ
夏の日の野馬追いに来る大堀の人帰らじと陶器売るかな
白河に窯を持ちしと相馬焼技伝えつつ浪江に帰らじ
恨めしき原発近く人は消え淋しき家や秋の日没りぬ
(津島)
塩浸し春の日来たりて店により津島に向かふ遠き道かな

津島より道は分かれて三つかな店も出しにつ春の日つきぬ
飯館ゆ津島につきぬ山陰の道の長しも春の日暮れぬ
さえづりの津島にひびくここよりや二本松に向かふ道の遠しも
津島にそ古き墓あれ浪江より遠きもここに埋もる人かな
(葛尾村)
上りゆく葛尾までや落合に昔の墓や春の日暮れぬ
葛尾(かつろう)に古き農家や春田のありて営みのあり
栄えあれ葛尾大臣山深く近江八景に妻は偲びぬ
(三春)
山路きて三春につきぬ長々と枝垂桜や家そ古りしも
三春なる城跡に立ち相馬との縁(えにし)の深く春の日暮れぬ
めご姫の伊達に嫁ぎて伏見へと三春思ふや春の日あわれ



今になると何かこの辺はいろいろとありえないことが現実になりなんと言っていいかわからない。
浪江の高瀬川はちょうど水墨画のような岩がそそりたち名勝の地だった。
その高瀬川の平地に流れ出る所に大堀の相馬焼きの里があった。
あそこも場所が良かった。高瀬川が流か急だしダムもないから自然のままであり水墨画のように見えた。
請戸にしても江戸時代は盛岡の宮古から鉄の素材を運んで葛尾大臣がいて栄えた。
そこには近江八景の庭を江州から滋賀県から妻を娶ってすまわせたからである。
あれだけの山の中だと退屈したということもあったろう。
葛尾村から三春のほうが近く昔はバスも小出屋を通って通っていたのである。
つまりあの辺になると三春のほうが近いから葛尾大臣が三春の殿様を招待したというのも津島に行く塩浸しという小さな川があるところに店がありあそこで休んでパンなどを買った。塩浸しとは塩を運んでいた馬が塩を落として塩浸しとなったという伝えがある。
あの辺も何回も行った記憶がある。

下冷田越えて津島や春の日に二本松へバスにのるかな

 「冷田」の場所は、谷津の開口部に当り、台地を流下してきた水が出てくる位置でもあります。谷水が溜るような土地であったかもしれません

 品種に関連しますが、ヒエダは「稗田」とも呼ばれます。稗は、米に比べれば雑穀とされますが、環境条件の悪い場所でも収穫できます。暖まりにくい水田は冷めたい田であり、水稲の成育には適していない

 http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/dokusyo/timei/hieda.htm
 
 同じ地名が全国にある。やはり冷えるというのは水が冷える温まらないということかあった。あそこは何かそんな山奥の坂でありそういう場所だったからふさわしい感じがした何か地名は心に残り安いのである。何か日当たりが悪い暗い感じの場所にも思えたからだ
葛尾村も落合に明暦の碑があったように古いのである。
相馬藩の山中郷である。小出屋は自分の父親が出た所である。
双葉の新山に酒屋の丁稚になった。そのことも何か謎が深い、戸籍を見れば祖父に当たる人は柏原であった。そこは津島から近い。
三春は相馬藩とは歴史的に相当に縁が深い、争いがあっても殿の姫が嫁いだりして縁戚関係にあった。三春のめご姫は伊達政宗に嫁いだことで有名である。
戦国時代でも江戸時代でも常に政略結婚でそうなっていた。
めご姫はただ大阪の秀吉の伏見城のあった伊達家にあり人質としてそこで一生を終えた。それで不思議だったのは飯館からなぜか京都に移り住んだ若い夫婦をテレビで紹介していた。あんな遠くに行ったのかと不思議だった。
今は結婚は全国が相手だから不思議ではなくなっている。
だから避難した人は全国に広がったのである。

それにしても今になると平和だった日を偲んでいる人がいるだろう。
請戸には一回しか行っていない、春の日であり穏やかに日がさして船が並んでいた。
それは何でもない風景でありとりたてて珍しいものではない、でも津波で壊滅した結果その風景は失われて何も残っていないから不思議である。
一転してあまりにも荒涼とした風景になってしまった。
南相馬市立病院に入院していたときあったのが請戸の人であり農家で手広く畑を作りそれを今のイワキの平に売って財をきずいた。その人は優秀な農家で表彰もされているし若手を指導していたのである。でも重病になり妻が浪江から毎日通っていた。
そして手をにぎるとわずかに反応するのだが何かわかっているのかわからないのかただ手をにぎられ何かを感じていたのかもしれない。
反応といえばそれだけだったのである。だから悲惨だった。
その人は娘三人を大学に出しているからそれだけ優秀だったとなる。
それは畑作をして商品として野菜を平に出していたからなのだ。
請戸というと港のように思うが広い土地が広がっていたのである。
だからそれだけのもうけを出す野菜を作ることができたのである。

大堀でも相馬焼きを作っていたが消失した。野馬追いで店を出していた人は白河で二軒ばかりが窯をもって定着するという。もうあそこて相馬焼きが継がれることはないのだ。
浪江はやはり避難して復興することはむずかしい。
小高でさえ聞いてみると年寄りはめんどうだから帰らないというし若い人ももちろん帰る人は少ないのである。
一億円もらって他で新しく始めたほうがいいとなるのが現代的になるからだ。
人間は今は苦しいことをあえて選ばない、楽な方が用意されていればそこに行くようになる。
飯館村では除染した一軒の家に一億円かかっているという。なぜそんなにかかるのかというと後ろの山林などを木を切って除染したからそうなる。
なぜこんな金をかけて除染しているのかもわからない。
まず小高浪江でももう今は街があのようになると復興はずかしくなる。
小高などは放射線量はこの辺と変わりない所が多いのに帰らないのだから余計にそうなる


春の短歌十首(津島から葛尾、三春、飯館へ)
http://musubu.sblo.jp/article/28874706.html






タグ:春の短歌

2014年10月30日

霊山まで秋の俳句十句 (鹿島→栃窪→大倉→佐須→霊山→玉野)


 
霊山まで秋の俳句十句

(鹿島→栃窪→大倉→佐須→霊山→玉野)

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秋日さし老木保つ齢かな
老木に晩菊映えて介護かな
土壁の蔵や黄落に日のさしぬ
柿なりて土蔵に映えぬ畑に人
晩菊に石の動かじ門の脇
晩菊や栃窪村を過ぎにけり
碧水に紅葉写りて巌かな
この家に紅葉燃ゆるも人住まじ
空は澄みともに燃えなむ紅葉かな
峰々の連なり高く秋霞
みちのくの吾妻連邦秋霞
晩菊にコスモス映えて日のさしぬ
旧道をたどりて秋の昼の月
秋日さし玉野に古りぬ碑の四つ
三日月や夜に影なす五本松

木を叩くキツツキの音霊山の高きに重くひびきけるかな
玉野より相馬市遠き古き碑のここに残りて秋の日さしぬ

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真野側渓谷

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今日は風もなく晴れたのでひさしぶりに大倉から佐須を通り霊山まで行ってきた。
最初に見たのがこの生きているのか死んでいるのかわからない老木である。
そこに晩菊が咲いているのもあっている。
この木はまるで百歳生きた老人にも見える。自分の母親にも見える。
晩菊はまさに自分のことであり介護しているのである。
今親を介護している人も老人になっているのだ。
ただ現代では本当の老人は70以降になっているかもしれない、70まで元気な人が多いからである。自分も病気になったがもともと軽いものだった。
ただ看護するものもなく辛いものとなったのである。
それでも時々異常に筋肉痛になって自転車に乗れないのではないかと心配だった。
今日はそさほど疲れていないかもしれない
この辺は田舎の暮らしが途絶えてことで風景も殺伐としている。
ただ畑を羽しめた人は多くなっている。
ただ風景でそこに暮らしが野に働く人がいないと活きてこないのである。

大倉からは除染の人が一杯いた。あそこは道が良くなりドライブコースになっていた。
でも人は住んでいないから淋しいとなる。
猿が出てきた、小猿もかなりいて親の背にのっている。器用に木の枝を伝う。
まず小猿でも子猫で親より機敏なのである。子猫は親より柔軟性がある。
野生の子供でも適応力があるものだと思った。
そうでないと生きていけないということだろう。
動物を観察していると本当は面白い、でも動物の写真は一瞬をとらえるのがむずかしい。動いているからその一瞬がとれないのである。

紅葉は佐須辺りでとったのか一番きれいだった。あとは真っ赤になっていない、霊山も紅葉ではない、紅葉はほとんど見れないのが残念である。
あそこも人が住んでいていから淋しい、でも除染して人が住むようになるのか?
空屋とも違っている一時留守にしているという感じである。
ただ除染してもどれだけ効果あるのかは疑問なのである。
霊山の上でキツツキが木を叩いていた。それも大きなキツツキでありコゲラとかではない、その叩く音が重く響いていたのが印象的だった。クマゲラは一番大きいがそういう種類ではない。でもやはり山に来るとこうしたものに出会うからいいのである。
あそこからは吾妻連邦の峰々が浮かぶように見えた。
あれは秋霞なのだろう。山は遠くから見る方が感動的である。
山がきれいに見える場所は高い山から見るときれいに見えるのである。
それはヒマラヤでもそうであり3000メートル登ると天をつくような8000メートルの山が見える。
山の魅力が本当に大きいから山で死ぬという人がある。山に魅せられるのである。

ただ山は登らなくて見るだけで十分山を知ることができる。
そさでもやはり見る場所が問題になる。富士山でもそうなのである。
富士山も何か見る場所によってこれが富士山かとがっかりする。
それは見る場所によっているからなのである。
自分は山はそんなに登っていないし山もあまり見ていない
山をもっと知りたいなと思っているが今はせいぜい霊山まで行って吾妻連邦を望むことはできる。
春に行った時の方が残雪の吾妻連邦を見たからきれいだった。
その時のことは写真もとったが報告していない。
毎日書き切れないのである。

福島市から相馬市まで高速道路を作っている。高速道路ができると三つの道になる。一番古い旧道と今の道路と高速道路になるのである。
だから古道という地名があるのは昔も新しい道が常に生まれていたからそうなったのである。古町もそうである。
玉野から相馬市は意外と遠い、玉野は相馬藩内で伊達との境だけどずいぶん城からは遠い所だと思う。
あそこで米沢藩と伊達藩と相馬藩の森林資源をめぐって争いがあったことは有名である。玉野が相馬藩になっていたのは森林資源を得るために相馬藩の領内になっていたのであるそこに境目付が配置されたのである。それは森林資源を確保するためだったのである。

相馬市街か離れた田んぼで白鳥が群れなして飛んで行った。
今年の天気は変則的である。今日はあたたかいからまだ秋である。
昨日は冬だった。白鳥が来たということは冬になるのである。


タグ:霊山

2014年10月15日

福島県の観光の魅力 (旅する経路が問題ー浜通り→中通り→会津の横断でわかる)


福島県の観光の魅力

(旅する経路が問題ー浜通り→中通り→会津の横断でわかる)

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●福島県を横断してわかる地形

福島県は今振り返ると広大であり地形の風土の魅力が大きい。海があり山があり川がありと変化に富んでいる。旅をするときよく自転車でも六号線を東京から青森とか旅する人はいる。つまり日本列島縦断が多い。どうしても日本列島を旅するとなると縦断が多くなるそれが最短距離だから遠くに旅する場合はそうなる。
そこに旅の盲点があり旅をつまらないものにしていることがある。
福島県を理解するにはこれは相当な時間と労力が必要である。
これは福島県に住んでいてもそうである。福島県全域を旅しても福島県は広いなとつくづく思う。特に会津は山国でありここはわかりにくい、山の領域が広いからわかりにくい。どれだけの山があるのかと思う。阿武隈山脈は山ではない、高原であり山の醍醐味がないのが残念なのである。
福島県ははま、ハマ、ナカ、アイヅに分かれている。ここでは気候も相当違っている。
浜通りは海に面しているから風土も違う、会津は全く山に囲まれている。
この相違も相当に大きい。
もともと福島県ができるとき磐城県と二本松県と会津県とに分かれていたのは歴史的にもそうだし風土地理的にもそうだったのである。
前にも書いたけど二本松の城にたつとあそこが福島県の中心のように感じる。
天守閣が高く一望できるからである。
中通りはもともと江戸時代から大動脈でありそれは平泉に通じていたのは鎌倉時代からだった。だから頼朝が国見町の圧樫山で藤原氏の軍勢と戦ったのがわかる。
芭蕉が来たのもこの道である。江戸からだとどうしても最短距離になるからである。

今は旅が便利すぎて旅にならない、旅はもともと不便であり不便だからこそ旅になっていた。新幹線で三時間で平泉に着いたとなると何の感懐もなくなる。だから名所がつまらないとみんな言っている。そもそも旅は過程にあるからだ。その過程がぬけおちたら旅にならないわけである。芭蕉の奥の細道がまさに徒歩のリズムで過程にあったから書けたのである。ただ芭蕉でもみちのくは一回しか旅していない、旅は実際はその過程にあるのだから旅の経路か違えば旅はまた違ってくる。
自分の人生がほとんど旅に費やしたというときそれでも福島県を知るのは容易ではないことがわかった。それだけ福島県は変化に富んで広いからである。
旅は福島県を中通りだけを通過したらつまらない、浜通りから中通り会津からさらに日本海へ横断すると日本がいかに変化に富んだ地形であるかわかくだろう。
そして会津から浜通りへ出て太平洋を望んだときの感激も大きいのである。
日本海から会津から浜通りへ太平洋へ出るとそれも同じ横断でも方向が違っていても全く違った感懐を抱くのである。
結局旅の経路はきりがないから一人の人間の旅する時間が限られているから知ることも限られているとなる。

旅をするときどうしても東京からとか大阪からでも縦断が多くなる、福島県を横断するとなるとまた時間がかかりすぎるからそうなる。今は車だからそれがしやすいか車だとまた早すぎて印象に残らない場合が多い。例えば車だと風を感じないのも致命的になる。
夏の盛りに阿武隈高原を越えて太平洋の方に向かうと涼しい風が吹いてきて救われた感じになった。福島市は暑く蒸し風呂のようになるからだ。
その風を感じるのは自転車だといい。自転車はまたきつい坂を上ることを記憶している。あそこを息咳って苦労して登ったと体に記憶されるのである。
まず風土とか地形を知るにはいくら立体地図をみてもわからないのである。
峠があったとしてもそこを登る体験をしないと実感しないのである。
バイクだって早すぎる楽なのである。自転車とは全然違っている。
だから40すぎてから自転車旅行しているとき若い者がバイクで飛ばしているのも変だった何だ若いのに楽だなと見ていたのである。

●猪苗代湖の湖西は隠された地域

福島県を旅するとき会津に入るのにも郡山市から入るが旧街道の白河街道を昔の福良とかを回り旅すると興味深いし情緒がある。あそこはあまり車も通らないからいい。昔の街道の感じが残っていたのである。

雨しとと田植えの人や湖西かな

奥羽山脈の中にあり、北に磐梯山、南に猪苗代湖、東に郡山盆地(安積原野)、西に会津盆地がある。
湖南は郡山市の領域であり会津の方に向かう所は湖西だったのか?琵琶湖でも方角でそれぞれ違った趣をだしている。方角地名は地名の基本である。

湖南出身の民俗学者・橋本武氏が、安積から湖西に嫁にきた<おたかばあさん>(当時75歳)に聞き取りをしたときの記録です。
<おたかばあさん>、<大正のはじめごろはこの地の田んぼは1反歩3俵ぐらいしかとれず、1町3反歩耕作していたがくらしは貧しく、炭焼きをするしかなかった・・・>
http://eigaku.blog.ocn.ne.jp/test/2011/08/post_72af.html

経沢(へざわ)――福島県会津若松市――の物部守屋一族落人伝説
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/30535860.html

これらのインターネットの説明は興味深い、なぜかというとここが黄金とか鉄の生産と関係していたとなるとそこになぜかここに

荒脛巾 (アラハバキ)神社と扁額に書いてある神社がある。
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/ca6443348a2c24f9128edd076cdfe454

これは知られてはいるが東北でもあまり見かけない神社なのである。大和王権に滅ぼされた蝦夷だという説がある。阿部氏と関係しているのも東北では多い。
この辺は何かまだ知られていない秘密的な場所である。白河街道の方を来る人は少ないからである。
この辺は前にも書いたけどまたそれからいくらでも発展して書けるのかインターネットである。インターネットだと本のように固定しないのである。常に簡単に書き換えられて新たなものとして展開してゆく、それが本との相違である。本は固定しているからである。今はある地域に詳しい情報がインターネットででている。
本で探していたら容易ではないしできない、本はまず一冊は厚くて読めないから触りだけでも読むのがいいのである。それだけでも全国となると広いから助かるのである。

足とめて清水を飲むや野菊咲く

夕日さし白河街道芒かな我がたどりゆき会津に入りぬ

次回はまた旅のご案内を御期待!

タグ:福島県

2014年08月13日

桃を南相馬市原町区のコンビニの脇で売っていた伊達市の桑折町の農家の人 (その人が語ることには歴史が詰まっていた不思議)



桃を南相馬市原町区のコンビニの脇で売っていた伊達市の桑折町の農家の人

(その人が語ることには歴史が詰まっていた不思議ーにぐらや牧場の人)

●半田銀山は日本の三代銀山だった

桑折宿を出ると街道左手には半田銀山で知られた半田山(863n)の雄姿がよく見える。
かつては佐渡金山、石見銀山とともに日本三大鉱山といわれた半田銀山。慶長3年(1598)ごろから米沢藩上杉景勝の代より本格採鉱が始まり、江戸・明治期にその隆盛を極めました。  この銀山は幕府直営の御直山として佐渡金山と同組織で経営され、役人も佐渡、石見、生野から交替で派遣され産出量も大きく伸び、幕府の財政を大きく支えました。
http://www.town.koori.fukushima.jp/site/kankou/handa-ginzan.html

半田山(桑折町)は、徳川幕府時代に、通貨鋳造銀山として、佐渡相川金山、但馬生野銀山と共に日本三大鉱山といわれ、坑道の延長は十数キロメートルあり、当時は大いに賑わっていました。
「伊達はよいこと半田の銀山、末ははだかになる半田」との俗謡は日本中の坑夫が知っていたという。また、先代萩の芝居で御殿の場の一節に、政岡が「七つ八つから金山へ同じ名のつく千松は」と述懐するが、これは60余万石の重臣だった政岡が、半田銀山の一坑夫をうらやんだものと解されるくらいで、半田の当時の繁昌がわかる。
http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/201008300000/

配線の接合に使われるハンダ(づけ)の名は、桑折町にあった半田銀山に由来するとの説がある。

半田山山麓にある半田沼は、伝説の沼としても知られている。
源義経が平泉の藤原秀衡を頼り、この沼を通った時、
金銀を背にした牛が暴れて沼に落ち、以来この沼の主になったという。
その牛は人を襲うので、沼に近づかないようにと伝承されていたようだ。

藤田宿は代官のいる桑折宿と違い、旅人や付近の人にとって気楽な宿場であったらしい。
そのためか、付近の人や半田銀山の人が旅籠や湯屋に入り浸りと賑やかであったようだ。
嘉永5年(1852年)で、旅籠は14軒もあった。
なお、この藤田宿は、今は伊達郡国見町(くにみまち)藤田となっている。
http://hitosh.web.fc2.com/04osyudo15/158oiwake.html

●にぐらや(荷鞍屋)だった農家

コンビニの隣で桃の安売りしていた人がいた。78個で一箱500円で二箱で1000円にしていた。これは安いと思った。次から次と売れてなくなった。
なんか桃の投げ売りのようになっている。放射能汚染で売れないのか多少痛んでいるのかわからない、味はいいしこぶりではあるがとってきたばかりで新鮮である。
その人は伊達市の元の桑折町の人だった。

その人は田畑も作っているし馬も競走馬も十頭くらいもっていて福島競馬なのだろう、競馬新聞で自分の馬が勝って賞金を獲得したと自慢していた。
そして自分の先祖は江戸時代から馬商人だったという、15代つづいていて正五郎とか正がついていたという。五代将軍からであり馬を徳川家に献上していた家柄であり葵の紋の提灯も家にあるとか言っていた。
その馬は盛岡から買って江戸に送っていたという。盛岡では確かに大規模な馬市が開かれたところであり福島県からも馬を買いに行っている。それは江戸時代からであり古い歴史がある。
その理由は江戸時代になり街道が整備されたからだろう。
でもこれほどの古い旧家だったということも驚きである。
「にぐらや」という家で天皇家に献上桃を出しているのだから由緒ある古い家なのである

福島県伊達市霊山町掛田荷鞍廻(字)

江戸時代末期の安政七年(1860)、村の商売を記した「松崎家名
書」には旅籠屋 荷鞍屋 ・馬喰(ばくろう)のほかに20種類もの食料品を
商う店が書かれています。成田詣の旅人が増え、さまざ
まな農閑商いを営む村人が現れ松崎は町化した村に変わ
りました。
http://www.city.narita.chiba.jp/DAT/05_1015p16.pdf#search=
'%E8%8D%B7%E9%9E%8D%E5%B1%8B'


「在りし日のこの国の文明」は「生態学のニッチという概念を採用するなら..棲み分けるニッチの多様豊富さという点で際立った文明であった。」「鬢を結うためのかたい詰めものを売る店、下駄屋、紙傘の店、日笠雨笠の店、紙の雨合羽や包み紙の店、人馬のためのわらじを売る店、蓑や蓑笠の店、馬の荷鞍を売る店。そして表通りには漆器店と仏具屋がある。古着屋、扇屋、掛け物を売る店、屏風屋、羽織の紐を売る店、ちりめんを売る店、手拭いの店、煙草道具の店、筆だけ売る店、墨だけ売る店、硯箱しか売らない店、
((渡辺京二『逝きし世の面影』)

「桑名よりくはで来ぬれば」と伝日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ちぬ。
徒歩ならば杖つき坂を落馬哉
と物うさのあまり伝出侍れ共、終に季ことばいらず。

「桑名よりくはで来ぬれば」という日永の里から、馬を借りて杖つき坂を上る時、荷物を載せる鞍がひっくり返って落馬してしまった。
(笈の小文 芭蕉)

今やこの人の家の屋号はにぐらや(荷鞍屋)である。この話でリアルなのはそれは江戸時代ではなく父親が荷鞍を作る職人でもありその作り方が他の人と違って工夫したところがあり作るのが早かったという。なぜ早くしなければならないかというと手作りだから多く作れないから早く作ったというのはなるほどそれは生々しい話しだと思った。
売るにしても売れるにしても手作りだから量が限られている。そうなると夜なべまでして作らねばならなくなる、残業である。
「人馬のためのわらじを売る店」というとき人だけではない馬のわらじも売っていたのである。馬もわらじをはいていたのである。
野馬追いでもそうだがそもそも馬のことがリアルにイメージできなくなってしまった。
自分は子供のとき馬車屋があってその馬車の後ろに乗って遊んだことを覚えているから
荷馬車のことがそれほど昔とは思えない、荷鞍屋は馬車ではない、馬そのものに荷物をのせて運ぶためのものである。荷馬車になるともっと大量に荷物が運べたのである。
荷鞍橋とか荷鞍が地名になっているところが福島県に二つもあることはそれなりに福島県でも荷鞍作りも盛んだったのだろう

●半田銀山の裏話は本当なの?

もう一つ半田銀山のことで代官が賢くて本当は金がとれたのに徳川家には銀を送っていたという。これはごまかしていて代官の名前には銀がついているが本当は金がとれていた。その金は飾り職人によって細工されていた。確かに伝説には金銀の山ともあるから金もとれていたがそれは報告しないで隠していたのかとなる。
こんな話までしているのはそういう話しが伝えられてきたからだろうか?
もちろん半田銀山にはそれだけの日本を代表する銀山だった。
だからいろいろな話しが伝説がまとわりついてくる。
ただこの話は自分ははじめてきいた。この辺の歴史も調べていないし桑折町にはよっていない。というのは福島市に何度も行っても駅だけの名しか覚えていない
越河ー貝田ー藤田とかの駅である。ここはもともと街道の宿場町だったのである。
だからここは自転車でたどらないとわからない所だった。
電車の旅はこうして歴史の跡をたどることができずぬけてしまうのである。
ただその頃自転車の旅はしていない時期であった。
それでもあとで羽州街道は自転車で旅した。あの小坂峠を自転車で登るのは最高にきつかったのである。
桑折町は羽州街道へ出るまた江戸へ出る分岐点の町でもあった。
だからここはもともと人の出入りがある繁華な町だったのである。

まず奥の細道は新幹線でも普通電車でも通り過ぎたら何の感懐もないだろう。
最近インターネットで詳しくその行程を紹介している人がいて何かそれをたどると旅した気分になるのである。
旅にはこうした知識も必要でありただ通り抜けてゆくだけでは跡に何も残らないだろう。だから旧街道をたどることは必ず本当は必要なのである。
ただ遠くからくるとわかりにくくめんどうになるのである。
もう一回ここを通って旅したいがそれができない
旅するとなると自由な時間がかなり必要なのである。車だとできるがやはり旅するのとは違う。旅とは現代では最も贅沢なものになってしまったのである。
それでも福島県内でも自転車で自分は相当に旅している。
だから思い出して文を書くのだがここの桑折町についてはほとんどわからなかった。
でもここは奥州街道の要所であり歴史ある町だったのである。

いづれにしろ桃を売っていた人はこんな話できるのだから何か商売も上手なのだろう。
話がうまいということである。競馬はギャンブルだけど競馬は馬が疾走するのが見れからパチンコとは多少違っている。自分は動物に興味がある。馬が草原を疾走するのを見たら気持いいだろう。そこに馬本来の姿がある。競馬はそうではないが今や馬が見れるのは競馬場しかないということである。馬については野馬追いでもそうだが馬そのものについてイメージできなくなっている。馬が身近に接していないから馬が何であったのかイメージできなくなるのだ。

あそこでは毎日桃を売っているわげではない、不定期であり今回はお盆で特別安くしていたのである。今回限りと書いてあったからそうである。でもまた来るというからまだ桃の時期であり売り来る。桃は期間が短いし外国産も入らないから競争相手がないからいいとは言っていた。献上桃の家にしては安く売っているのもわからなかった。
何らか桃も早いうちに売る必要があって安くなっていたのだろう。
福島市は暑いから桃の産地になったのである。

ともかくこうして一人で売る人は今や一人で市を開いていると同じである。
昔の市を思い起こす、市には物を売るだけではない、こうした情報が集まることなのだ。物を媒介として情報が集まりそれで見聞を広めていたのである。
情報通信が発達していないとそうして人が集まる場所で情報交換していたから
昔の市はただ物を買うというだけではなかったのである。
物を通じて人と人が交流する場所だった。現代はただ物がどうして作られてどうして運ばれてきたか皆目わからない、ただ物があり買うとういことしかない、その物が作られた経過もわからない。だから地球の裏側で作られた人のことなど関心がないのである。
つまり人と人の交流がないことが問題なのである。
バナナをとるにしても重労働だったという若者が言っていたがそういう話をバナナを売る人から直接聞けないことが問題なのである。
そういうグローバルな経済は非人間的にもなる。物だけが流通して人の顔は見えないのである。それは金融でもそうであり人の顔が見えない巨大化した結果、雲をつかむような金融の世界になっている。だからコンピューターが操作しているのか悪魔が操作しているのかユダヤ人陰謀論とかになってくる。それはとても世界化した経済が見えない世界になっているからそうなる。金だけ神のようになってしったとかマルクスが言うのもわかるのである。だから人間的経済を復興させろということがしきりに言われるようになってきたのである。
タグ:半田銀山

2013年12月08日

人間は自分の住んでいる場所を基点に思考する (福島県は地理的一体感がもてない広さがある-相馬より見た視点)


人間は自分の住んでいる場所を基点に思考する

(福島県は地理的一体感がもてない広さがある-相馬より見た視点)

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地理的感覚というのは一番わかりにくものだろう。地図見ても立体地図を見てもわからない、高低差とかいろいろな面で地理はわからない、やはり一番わかるのは徒歩感覚だろう。車感覚でもわからないだろう。ただ現代の地理感覚は交通に左右されている。
東京から飛行機で何時間と計れば中国が三時間となると中国が国内より近くなる。
日本より外国を身近に感じる人も多いのが現代である。
中国人の距離感覚は日本人の十倍くらいの感覚になるとか遠い所に行くのが抵抗がない、大陸の距離感覚は日本の島国の距離感覚とは違っている。
日本は中国と戦争になった時その広大な大陸感覚に適合できなかったろう。
もう戦略もたてられないほど途方もない広さだった。
広大な大陸にのみこまれるような感覚になっただろう。
まず世界は一二回旅行したくらいで地理はわからない、それだけ地球は広い。


結局人間の地理感覚は自分の住んでいる場所か基点となり思考しているのだ。
これたけは変えることはできない、地理の制約を越えることはできない、
そこに人間が理解しえない壁が生れる。
そして地球だけではない、自分の住んでいる狭い場所でもまた地理感覚が違っている。
南相馬市でもここは地理感覚では国見山からみると確かに鹿島区原町区小高区が視界に入り原町句か中心になる。もともと原町市が中心だった。
相馬市ははずれている。飯館村が南相馬市に合併しなかったの地理的要因が大きかった。飯館村は山国であり南相馬市と通じていても別個の地域だった。


そして福島県となると大きな県であり地理的感覚として一体感をもつことがむずかしいと書いてきた。江戸時代から相馬藩は伊達と争ってきたけどまた伊達藩と接しているから伊達藩と交流が深かった。今でも福島市より仙台に通勤している人さえいたから仙台が身近である。常磐線が通じているから交通的にも身近である。
交通に左右されるという時、山形県は仙台の延長として仙山線で通じるという距離感覚になるから意外と会津より近いともなる。また蔵王が見えるから山形県の方が近く感じる。交通の影響でそうなる。会津は交通でも岩沼でのりかえ郡山でのりかえと遠いのである。ただもし新幹線が会津まで通ったりすると近いとなる。

いわき方面は前の平駅から仙台の方を望むと結構遠いと感じる。いわきからは茨城県や
東京が近くなる。現実にいわきとまで常磐線の東京までの通勤電車が八両編成ででる。
その電車に乗って東京まで行ったことがある。
この感覚は勿来の関が東北のもう一つの入り口だったから古代から変わっていないのかもしれない、


吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山ざくらかな 源義家


この歌は何か白河関とは趣が違っている。海に面しているからなのか?
桜前線ではいわきが一番早く咲くだろう。中通りや会津は山が関係して遅くなるだろう。いわきが咲けばすぐに相馬でも咲く、白河関は
「卯の花を かざしに関の 晴着かな (曽良)」とは対象的である。海の感覚ではない山の感覚である。
実際に白河関は山道であった。心細い山の細道だった。今の感覚とはあまりにも違っていた。

相馬では磐城太田(いわきおおた)駅とか磐城落合とか葛尾(かつろう)村のバス停にあった。古代では磐城の国だったことも地理的にわかる。福島県が磐城県があり二本松県があり会津県があった。これが福島県のハマ、ナカ、アイヅの区分けであり地理的要件と一致していたのである。福島県になったとき大きくなりすぎたのである。
だから会津となると今でも遠くわかりにくいし文化的一体感がもてない、相馬藩が水戸の天狗党に入ったりした藩士がいていち早く尊皇になったのは地理的に水戸が近いからである。会津とは阿武隈高原など山に阻まれて交流しにくい場所だった。

郡山で相馬藩士と会津藩士が争ったというのも郡山がそうした人が合流する場所だったことは江戸時代からそうたったからである。

人間の世界観には地理か影響している。人間は自分の住んでいる場所が基点となりいつも思考しているのだ。相馬藩内でもさらにその住んだ場所によって地理的感覚は違ってくる。鹿島区だと原町区に一番近いか相馬市にも近いからその中間点にあり経済的にも左右される。大原とか栃窪とか大原などは山側であり僻地になる。
原発のあった地域はちょうど磐城藩と相馬藩が争った地域だった。夜の森とは余の森と相馬の殿様が言って領有権を主張した地域だったのである。
はま側通ると浪江に入る所に「境の松」があったのも浪江は標葉郷で相馬氏と争い相馬藩に編入された地域であった。野馬追いに標葉郷の子孫のものが出ている。


人間の感覚は思想でも地理的感覚に制約を受ける。地政学的な視点から離れられないだろう。会津には会津の中心感覚が生れる。特に山国の文化はわかりにくい、京都のように山に囲まれた感覚は日本ではどこでもあま。海側に住んでいると海から太陽でも月でも昇ってくる。しかし山国では山から昇り山に沈んでゆく、この感覚がわかりにくいのだ。
日本海側では山から太陽が昇り日本海に沈んでゆく感覚はまたさらに違っているのだ。
夕日のなかに海岸線がある情景は太平洋側とまるで違った感覚になる。