2010年06月18日

四倉の詩(四倉の魅力)

四倉の詩(四倉の魅力)

四倉や磐城へと 砂浜広く
波うちよせて 浜風吹きぬ
港には大漁の旗ひるがえり
海の男の心意気、波そ高鳴る

浜街道残りし三本の松影涼し
海の近きやよする白波
草深く埋もれし墓のあわれ
四倉駅の日陰に電車待つかな

昔銅山に働く人や線路あり
ここに集まり埋もれ墓かな
江戸時代よりの人もあれ
一族ここに埋もれけるかな

浜の風さらに吹きぬれ
海広く心も広くなりぬれ
遠き海に船の見えつつ
浜風そよぎ電車は去りぬ

ある市町村がいいというとき、第一に自然条件に左右されているのだ。四倉もそうだった。あれだけの広い砂浜はなくなっている。みんな防波堤になっているからだ。そしてその広い海に接して六号線があり常磐線があり海の街となっている。海の風や波の音がひびいてくる距離にある。浜通りと言っても街から宇はまでは遠いところが多いのだ。広い砂浜もない。まさに浜街道を象徴していたのが四倉だった。昔の名残りの松並木の三本の松が残っていたのも歴史を示しているからいい。海に面していても街が巨大だと自然の良さは失われる。四倉はまだ小さな町である。騒がしくなく静かでもある。不思議だったのは夏草におおわれた墓地が駅の近くにあり墓地に興味をもっていたから何かまだ墓地が目立つような土地柄でもあった。墓などいらないというのもあるが墓はやはり街を構成するものである。先祖が街の中に一緒に生活している感じになるのが墓地である。先祖の墓が生きている人を見ているという感じになる。

四倉には八茎銅山があった。ここは江戸時代からのものであり加賀国から一族が移住して死んだ墓石が残っているとインタ-ネットで発見した。
http://loveiwaki.cocolog-nifty.com/duketogo/2007/02/post_f57a.html


墓のことを相馬藩内でいろいろ書いてきたが墓で江戸時代のものが残っていれば価値がある。明治以降だと興味が薄れるのだ。

電車待つホ-ムの近く草深く墓地のありしや四倉の駅

墓地はやはりそれなりに過去を意識させるのだ。現代だけをみるのではない過去も現代の中にあるべきである。ただ墓でも南無阿弥陀仏とかだけになるとみな同じでつまらないと感じる場合がある。家の歴史や個人の歴史が無視されるかもしれない、家の否定が宗教にあったからやむをえないという面はあった。

海の街で一番印象的なのは函館である。両側は海になっていて波がよせてくるような地形は世界でもめずらしいだろう。函館はだから特別であり地形が街を作ったのである。他にも街の中に自然が溶け込んでいる都市は魅力がある。盛岡は岩手山が常に真正面に聳え北上川と中津川が街中を流れている。街の中に川が生きている。街の脇を流れているのではない、街中を中心を川が流れて街が形成されているのだ。仙台も広瀬川があるが街中を流れているという感じがしない、盛岡は二つの川が街中を流れとけこんでいるのだ。これも自然が活きている都市だから魅力がある。やはり自然が魅力を形成するのであり人工物ではない、そして水の流れている、水辺の所は特に夏になると涼しくて気持ちいいのである。水が風を涼しくすることもあり気持ちいいのである。庭でも水がある庭は涼しくなるのだ。

いづれにしろ浜通りと言っても海と一体化した街は四倉くらいしかない、街に絶えず海の風と波の音がひびいている街はないのだ。四倉は自然条件に恵まれてそうなった。あとは太平洋岸が単調なのである。

2010年04月17日

二本松の城の桜(2)短歌十首

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二本松の城の桜(2)短歌十首

小浜城その跡に咲く桜かな夜に束の間よりて去りにき

二本松へ花咲きつぎぬ道のりの遠しも城を目指し行くかも

二本松残れる花のなお散りぬ相馬より来て夕陽さすかも

相馬より二本松に来てなお散りぬ花を惜しむやあわれなるかな

相馬より二本松遠し花のなお残り咲けるを我が惜しむかも

二本松朝の桜に残雪の安達太良映ゆる城門を入る

二本松花こそ散らめ安達太良に残雪光り風騒ぐかも

残雪の安達太良まじか百輪の椿のゆるる夕べの風に

二本松夕風吹きぬ旅人の急ぎ帰るや花も散るらむ

二本松一夜泊まりぬここに散る花に心の騒ぎけるかも

巻淵に水渦まきて桜咲く朝日のさして我がよりさりぬ


二本松の霞城には何回も行っている。あそこの城は見物である。桜の時期も自転車で二三回相馬から行ったから遠かった。一回は満開のときでありもう一回は城に着いたら桜は散っていた。でも余花でありそれが風情があった。この風情は情緒は相馬からわざわざ自転車で来た時生まれたのである。これが電車だとか車だと生まれにくい、はるかに来たとなると歩くとか自転車くらいでないと旅の感じがでないのだ。だから旅人は今になると二本松まで車で来るのは簡単だが本当に江戸時代の感覚で二本松まで来た感覚は味わえない、その喜びは大きかった。あの絶頂の城の本丸に上って四方を眺めたとき、相馬藩は山の彼方に隠れて見えない、相当に遠い感覚になるのだ。

記憶からすると着いたときが夕べであり風が吹いていた。残雪の阿武隈を仰ぎ夕風が吹いていた。それを体で覚えていた。それでまた思い出して短歌の連作を書いた。こうした短歌もやはり相馬からはるばる来たということで情緒が生まれているのだ。これも昔の相馬と二本松の街道を来るべきであり岩沼回りの鉄道だとそうした情緒が生まれないのである。
途中小浜城がありこれは暗くなり夜になってついた。そこでちょっとの間寄った。暗い道を進んで二本松にようやくついた。もう一回は夕べについた。花は大方散っていたが余花がなおわずかに散っていたのである。これも情緒あるものだった。帰りは巻淵というところが阿武隈川にあった。?ここがどこかわからない、淵が巻いている、水が確かにうづまいている大きな淵でありそこにも桜が咲いていたのである。随分桜の短歌を作ったからこれらをまとめれば連作として作品化できる。西行も桜の歌人になったのは当然だった。それほど桜は日本を象徴する花だったからである。

二本松の桜(1)
http://musubu.sblo.jp/article/28451498.html

2010年03月04日

夏の旅短歌十首(奥会津)

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夏の旅短歌十首(奥会津)

木陰なす樹影の深く奥会津杉の林に隠さる村かな

奥会津古沼にあわれ菖蒲咲き訪ねる人の心にしみなむ

奥会津倒れし墓や鬼百合の咲きて暑き陽山間に没る

十数輪鬼百合咲きていづこかな会津の村々巡り来たりぬ

断崖に激流ひびく奥会津鬼百合咲きて旅路ゆくかな

夏の日に尾瀬より流る水清し揚羽とまりて旅路つづきぬ

夏の日に聳え鋭し蒲生岳つばめの飛びて我が仰ぎさる

夏の日に会津の峰々競いつつ聳えけるかな清水手に飲む

はるけくも会津の境我が越えて越後に入りぬ夏の夕暮

小出にて只見を思う遠きかな夏の夕べの魚野川の岸

会津は尾瀬があり二三回自転車で旅しているけどどこをどういったのかもわからなくなった。山が多く坂が多いからふりかえるとその道のりがわからない、でも自転車とかで行った旅は体で記憶していることがある。それであとでどこだかわからないにしろふりかえり創作する。小出については書いたが小出からは必ず只見を思う、只見からさらに会津若松や喜多方は遠くなるのだ。実際その距離は遠いのである。ともかく本当に旅することは今は相当に演出しないとできない、無理やり不便な旅をしないと便利すぎるから旅にならないのだ。だからかえって時間もかかるし金もかかったりするのだ。何より自由な時間ないとできない、つくづく今旅ができなくなっていかに自由な旅をすることがぜいたくなことかわかった。普通の人は自由な旅はできない、わずかな暇をみて休養するだけだからだ。会社を一週間など休むことできないからだ。それだけ自由な旅をすることはぜいたくなことだったのである。でもこうした自由な旅をしないかぎり会津も広いから会津の地理もわからない、もし地理をわかろうとしたらこうした不便な旅をする、坂を越え坂を越えて旅するとある程度わかる。でも旅が終わって回想してみるとどこをどういったのかわからなくなっているのだ。車などだと余計にわからなくなる。それだけ旅したことを記憶することはむずかしいのである。

 

2010年02月17日

福島県(浜通り)の東風(こち)について

福島県(浜通り)の東風(こち)について

昨日は北風吹きて

今日は東風(こち)吹く

光明るく今日は春北風(はるきた)吹く

東風はかなた海より吹く

東風は海に誘う風

しかし山越えて東風は

丸森や阿武隈山地に吹くも

はるか会津には海よりの風は吹かじ

蒲生氏郷は会津の山に閉ざされ死す

山国の人となりて死す

東風は浜通りでは海より吹く風

広々と海に向かって春は開ける

東風で有名な歌は
東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな 菅原道真

「東風(こち)とは漁師ことばで春一番の前に「ふっ」と吹く風の事を」言うとか。
 いずれにしても、道真公が使った言葉なのだから、彼の生きた当時にはあった言葉、あるいは、彼の生きた地域(それとも宮中?)では使われていた言葉であることは間違いない。
 漁師の言葉だとして、それをも道真は知っていたのか、それとも、元来は漁師らの言葉であっても、教養ある人も使うような言葉として流通していたのか。

http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2005/03/post_9.html
この説は漁師らの言葉にするには不自然である。何故なら京都も盆地であり海から遠いのである。だから日常的に漁師と接することがないからこの説は納得できないのである。ただすでに東風をコチと呼んでいた。京都には東山があり東山となると感覚的にここでは海から吹いてくる風になる。海がないところでは東の山から吹いてくることになる。海に面した地域ではそもそも東山がないからその感覚がわかりにくいのである。ましてや風は本当にわかりにくい、風向きが常に変わっているし一度旅したくらいでは体験できないからである。)「コチ(此地)へ来よと春風を招く心から名づけたものか」という説がもっともらしい。早く春の風がこっちに吹いてきてほしいからなづけたのかもしれない、これは海が見える所でなづけたのとも違う。


「大伴家持が任地越中で、越中ではコチ(東風)の語がないことも珍しく思ったらしく「東の風越の俗の語に東の風をあゆのかぜと謂ふ」と言い、次の和歌を示してくれている

 東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の釣する小舟(おぶね)漕ぎ隠る見ゆ


越中では東風をあゆのかぜと言っていた。全く違った言葉だった。風に関しては方言がありその土地に独特に吹く風があった。南風がハエというのも全然違っている。東風(こち)は山国で吹いてくる風である。その感覚は山国に四方が山で囲まれている地域に住んでいないとわからないのだ。さらに海に面していても日本海と太平洋は表と裏でありこれも全く違っているのだ。太平洋から東から太陽が昇るのと日本海に沈むのとはあまりにも感覚的に違っているのである。あゆのかぜ、東風がどういうふうに吹いてくるのかもわかりにくいのだ。

御蔵島の風
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mabuta/progra-m/fl-wind.htm

ここでとりあげている風は島は風向きによって上陸が決められるから風は日常的に知っている必要がある。島とか漁師は風を体で知っている必要があった。
浜通りだと

東風(こち)吹くや海より奥へふきそよぐ

東風(こち)吹くや海より山へ吹きそよぐ

峠越え東風吹き来るや海に出む

東風は海より山に吹いてゆく、丸森だと峠を越えて吹いてきた東風もある。この時京都などよりこの風は太平洋から吹いてきた風だと意識した。おそらく丸森の人も海を意識するだろう。ところが京都とか会津では海を意識することはない、できないのだ。 丸森だったら「峠越え東風吹き来るや海に出む」と意識する。丸森は阿武隈川でも狭隘な谷間から流れて広々として太平洋にそそぐことをすでに意識する、海を意識するのだ。川からも海を意識する。伊達政宗の初陣の地が丸森であり自ら名づけた地が

筆甫である。相馬に出て初めて海を意識したともある。丸森では海を意識する。

京都とか会津は海を意識できない、もちろん仙台の青葉城は太平洋さえ望めるのだから海を意識する。伊達政宗がさらに要塞として瑞巌寺を海のすぐ側に配置したことでもわかる。日本は地理が複雑だから風にしても多様だしそれが簡単に肌ではわからない、地域的なものは風土はわかりにくいのだ。

限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風 蒲生氏郷

氏郷を相馬に想う冬の日にはだかる山や会津にうもれぬ


この山風も山に閉ざされた会津で生涯を終えたことから感じねばならない山風である。海に面していれば春の風は海からそよぐ東風になるが山国では違っている。日本では海に囲まれていても山彦-海彦の世界が別世界になっているから文化的にも理解することがむずかしいのである。


東風(こち)の地名

   北海道松前郡   松前町 東風泊(やませどまり)
   青森県西津軽郡  深浦町  東風股沢(ひがしかぜまたさわ)
   宮城県牡鹿郡   女川町尾浦 東風浜(こつはま)
   山形県酒田市   北俣 東風当田(だしあてだ)
   茨城県那珂市   東風谷(こぢや)
   千葉県富津市   東風谷(こちゃやつ)東風谷田(こちややつだ)
   千葉県山武郡   芝山町 東風山(こちやま)
   長野県伊那市   東風巻谷(ひがしかざまきだに)
   愛知県知多郡   南知多町内海 東風畑(とうふうばた)
   山口県下松市   東風浦(こちうら)
   山口県周南市   東風石(とうふうせき)
   香川県三豊市   詫間町粟島 東風浜(こちはま)西東風浜(にしこちはま)
   愛媛県八幡浜市  東風脇(こちわき)
   愛媛県越智郡   上島町 東風浜(こちはま)
   大分県佐伯市   東風隠(こちがくれ)
   長崎県対馬市   東風防島(こちぼうじま)東風泊(こちどまり)
  東風泊鼻(こちどまりはな)東風泊湾(こちどまりわん)
   熊本県上天草市  東風留(こちどまり)
   鹿児島県鹿児島郡 三島村 東風泊(こちとまり)
   沖縄県島尻郡   八重瀬町 東風平(こちんだ)
http://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/54348075.html

東風をヤマセとしているのは山から吹いてくるからだろう。北海道の松前だとそうなる。
 千葉県富津市   東風谷(こちゃやつ)となっているきはやはりこちゃとはこちがなまったものでありコチが基本としてある。これは漁師言葉なのか、京都でなぜこの言葉が一般化したのか?漁師言葉だとすると瀬戸内海とかで使われた言葉が京都に入り一般化したのかもしれない、ただ地名としてはここで瀬戸内海は出ていないから不明である。言葉は大和言葉は奈良京都を中心にして広がっている。沖縄とか青森に平安時代の言葉、京都の言葉の尊敬語が残っている。そんな遠い地域に古語が残されていた。こちも京都辺りから遠い地域に広がった言葉なのか?越中であゆのかぜと東風を言っていたのは東風に代わる地名もあるだろう。東風(こち)というとき京都で使っていた言葉が一番古いと考えてしまう。


2010年02月13日

相馬より会津へ (白河街道-詩と文)

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東北でも地理的感覚は平面地図のようにならない、距離感覚でも違っている。
地理の感覚は地図どおりにはならない、それは現しようがない、これも一つの
コンピュタ-ソフトでアレンジして偶然にできたがこれも地理感覚の表現である。


相馬より会津へ (白河街道-詩と文)



太平洋望む浜通り
阿武隈山地のさえぎりて
中通りに出て会津は遠しも
歴史を秘めて雪に埋もれぬ


七層の黒川城の威容かな
奥深き会津山国の城
歴史はここに積み重なり
代々の藩主はここに眠りぬ

その奔騰する川の流れや
迫る峰々隆々として険し
断崖絶壁にひびきわたれり
鬼百合こそここに熱く燃えて咲け


会津に入り福良の蔵の宿
茅葺きの家並み残り菖蒲咲き
猪苗代湖波うちひびきあわれ
境の松の枝の長々と垂れにける


関所もあれ勢至峠や秋の一部落
殿様清水にその名残や偲ぶ
一面に月見草咲き家まれに
道は郡山へつづきけるかな


遥なり残雪の飯豊連峰
桐の花咲き雨しとと墓所ぬれぬ
藍色の猪苗代湖に秀峰磐梯山
我が望みつ相馬に去りぬれ


阿武隈山地を我が越え行けば
太平洋の海の風そよぎ涼しも
船も行くかな松島牡鹿半島へ
伊達政宗は海を望み想いは外国(とつくに)へ


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蒲生氏郷が最初に築いたという黒川城は七層の黒い城だった。あとで江戸城の城をまねて白壁の城になった。最初の七層の城の方が山国、雪国ににあう威容のある城だった。七層となると今より高いからそうなるし黒いということがいかにも奥深い山国に来た感じになる。
勢至峠から福良で蔵の宿に泊まったことがある。猪苗代湖の岸辺の道を行きそこに松の枝が長々と垂れていてそれは境の松でありいかにもふさわしい松である。今は会津に行くのに福良の方をまわる人はいない、だからこちらは取り残されたようになっている。ただ昔を偲び旅をするのにはこっちがいいとなる。秋の日磐梯山の山影がここに伸びてくる。その時まだ宿場町にふさわしく茅葺きの家が通りに何軒かあったものさびた町である。昔を偲ぶにはこの街道を行かないとわからない、秀吉もこの道を行き会津若松に出た。
自転車で行ったから延々とつづく街道の記憶が残りこうして詩に書ける。福島県の地理は浜通り、中通り、会津と別れている。浜通りからすると会津はかなり遠い、それはまず阿武隈山地が障壁となってさえぎるからである。まず中通りまで出るのが容易ではない、中通りから出てまた遠い、電車で行くと岩沼から郡山に出て会津になるがこれも乗り換えがあるからめんどうになる。それより昔はどうしても阿武隈山地を越えないと会津には行けないからその行程は遠いのである。阿武隈山地と中通りでは気候もかなり違う、福島市は盆地であり冬は寒く夏は蒸し風呂のようになる。それがはっきりはわかるのは阿武隈山地を越えてゆくとき涼しい風が太平洋から吹いてきたときだった。自転車だから歩いて坂を越えるから特にその風には救われた感じがした。涼風は太平洋から吹いてくる。ここで気候が変わるのだ。
浜通りと会津はこのように隔絶されているのだ。だから地理的には宮城県までの海沿いを通じて塩釜や松島、牡鹿半島に結びつくのである。相馬藩にいかに宮城県関係の神々が勧請されていたことでもわかる。館腰という駅名があるがあれも神社であり相馬にもあった。宮城県のそうした神社に相馬からお参りに行っていた。山神も多いが小牛田神もそうである。船で塩釜の寒風沢に行き来した記録も残っている。金華山の碑もある。会津の方からそうした神々はもちこまれない、それだけ交流が少なかったのである。ただ木こりとか茅葺きの屋根葺きとか出稼ぎで来ていて住み着いた人も記録として残っている。やはり会津藩との交流は地理的に隔絶されているから少ないのである。
人間はやはり自分の住んでいる地点がコンパスの中心になる。自分の住んでいる場所から世界をみる、相馬から磐城、中通り、会津、宮城県の仙台、塩釜、松島・・・と見るのである。それでもこれだけの視野をもつこと自体、江戸時代だったらむずかしいことになる。庶民は会津などに行くこともない、宮城県にはお参りで行っても会津までは行かない、だからその地理感覚は狭いのである。もちろん伊達政宗のようにスペインまでその視野を拡大化したことはあった。東北では例外的なことだった。これだけ交通が発達しても日本は山国だからその地理がわかりにくいのだ。会津は特に山国だからわかりにくい、峠また峠である。山が障壁となり閉ざされた国が大和(やまと)の国なのである。

猪苗代湖や会津街道の御前桜などの詩
http://www.musubu.jp/sakuranewpage2.htm

2009年07月31日

塔寺(会津から新潟の小出へ)

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大川や夕蝉ひびく川向い

会津でて塔寺よりか越後へと街道行くや秋の陽没りぬ

会津なる塔寺おりてあわれなる秋の日ざしに豆を打つ人

塔寺より西会津へと向かう道さらに遠きや秋深まりぬ

魚野川の夕べ岸辺に待宵草一両の列車只見より来る

小出−魚野川
http://www6.ocn.ne.jp/~yasuei/turi.html

福島県の浜通りには大きな川は高瀬川くらいだろう。会津方面や新潟には大きな川がある。水量も豊かである。只見から新潟へでる電車には何回かのった。只見から夕べやっと一両の車両がのこのこと小出までやってくる。月見草より待宵草があっていた。川の岸辺に咲いて只見から来る電車を待っている。ここで路線は交わるからそうでもないが鉄橋をわたりやっとやってくる一両の電車は印象的なのだ。
只見は遠いし会津はさらに遠い、あの辺も相当に山深い広い地域である。日本は狭いというけど福島県だってここを歩くなり自転車でも相当広い、特に会津は奥深いからすべての道を行くことはできない、西会津は新潟まで高速バスで行った時通った。会津という土地は山におおわれているからわかりにくいのだ。結局わからずじまいになったのがかなりある。人間は近辺の地理を知るだけでも相当な時間が必要である。相馬藩内でもそうでありこれが会津になると2000メ−トル級の山がひしめいているのだからわかりにくい、電車で行っただけではわからない、一二回自転車で行ってもわかりにくい、その会津を只見から新潟の小出へでる地帯も広い、そして魚野川は印象的な川になる。ここにも二回三回行った。電車で行くとここで泊まることになるからだ。その岸辺でテントを張った記憶もある。そこで川向いから夕べ蝉の声がひびいていたのが記憶に残ったのだ。塔寺というのも情緒ある駅名である。そうした駅名は記憶される。

地形的にも広々と開けた会津盆地が終わり、これから越後や上州に向けての山間の隘路に差しかかろうかというところ、旅人の多くはこの宿で旅装を解いたであろう
http://magok.cool.ne.jp/todera.html

塔寺
http://www.pref.fukushima.jp/aizu/kensetsu/tiiki-fureai/genki/akarutouderasennwoiku/2_9_1.htm

インタ−ネットにでているものはリンクを張ると共同制作になる。そこがどういう場所だったかはあとで調べられるので便利である。

2009年04月13日

二本松の桜(霞城の桜)

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本丸を四方に望み花の昼

春暑し本丸上る人の波

夕日さし松に桜や霞城

春の山かなたは相馬洗心亭

城の内日影の井戸や落椿

安達太良の連なる山々春の夕

夕風に落椿あまた城の内

霞城松に桜に夕日かな

三三五五花見絶えじや夕日かな

十万石城に映えにし桜かな

小浜城訪ぬ人あれ夕桜



阿武隈の山中深くいでて見ゆ城に映ゆ桜安達太良望む

二本松相馬を結ぶ道ありて城に桜や春日入るかな

津島より二本松への道のり遠しバスに揺られて春の日行きぬ

合戦の枝垂桜や阿武隈の山中深く古りにけるかな

夕風に城の桜の騒ぐとも松は静かに白壁に映ゆ

春うらら二本松は遠くともその道のりに桜咲きつぐ

二本松へ桜咲きつぐ道のりやバスに揺られて遅くともよし

満開の桜に映えゆ百輪の椿は風にゆすらる夕べ

本丸の石垣の反り厳しかな春の陽眩し安達太良に没る

本丸に我が上りつつ安達太良をまじかに仰ぎ春の日の没る

夕風に桜騒ぎて二本松少年隊の急ぎ散るかな

(小浜城)

小浜城興亡ありて埋もるかな過ぎゆくしばし春の夕暮

二本松田村相馬とせめぎ合う小浜城跡春日入るかな

小浜城政宗ここに一時を城主とあれや桜咲き散る

小浜城戦乱の日々あわれかな変わる城主や花咲き散りぬ


二本松までの道のりは長かった。一時間半以上かかった。くねくねした山の道を行き、桜がどこまでも咲いていた。もっとゆっくりでも良かった。バイクとかでもただ飛ばすだけである。ゆっくりと見る時間が必要である。でも今の時代バスは遅いのだろう。バスはすでにスピ-ド時代にあわなくなっている。もしかしたら津島からのバスもなくなるのかもしれない、あそこも四五人だけではやっていけないだろう。二本松に着いたのは三時過ぎだった。まもなく夕暮れになった。安達太良山という山はない、安達太良連峰であり一つ一つの山の連なりを安達太良なのである。安達太良を背景にして二本松の城は映える。やはり桜の時期が一番映える。途中の小浜城も城であり若い政宗がここの城主となった。田村や相馬や会津まで加わりせめぎ合いの場となった。最後は会津の蒲生氏郷が治めたという、この城をめぐって興亡があった。今回の二本松は夕べになり風が吹き満開の桜をゆすった。桜は咲いたら散っている。静心なく花の散るらむ・・である。静に咲いている暇がないのが桜なのだ。そのように急ぎ散ったのが二本松少年隊であり戦争で死んだ学徒とか特攻隊であった。やはり゛桜は日本を象徴する花である。写真はいいのがとれなかった。前にとったのでいいのがあった。自分でもこれをどこからとったのか覚えていない、でも構図としては決まっている。こういうふうに一部ではない全体をとる写真はむずかしい。去年きたときはすでに桜は散っていた。桜は散る時もまたいいからう一回行ってもいい、二本松の桜はやはり福島県では一番いいような気がする。

2007年07月16日

消えた中山宿のスイッチバック駅(郡山−中山宿−会津)

 
 
消えた中山宿のスイッチバック駅(磐越西線−郡山−中山宿−会津)(鉄道の部)
http://musubu.jp/jijirailway.htm#naka
 
会津には鉄道を利用して何度も行った。そこで中山宿のことを思い出した。スイッチバックで一旦本線からそれた駅にとまりまたバックして坂を峠を越えてゆく、この遠回りな感じが旅情をかもしだしていたのだ。これから坂を上ってゆくんだぞという人間的なものが電車にもあった。そのときはいつも芒がなびいていた。今の旅はこうした旅情がない、あまりにも早く早く行ってしまう。旅はふりかえればある所に留まる時間が長ければ長いほど記憶に残る。そして何度も行ったところはやはり記憶に残る。海外が記憶に残らないのはたいがい一回くらいしか行けないからである。中山宿には少なくとも10回近く停まっている感じがするからそこが思い出の場所となったのである。そこはすでに商人とかが仕事のために行き来しているような所だった。ただ会津も福島県なのだが電車だと不便で遠回りになるから何か福島県と言っても遠い世界に感じてしまう。仙台は近いが会津は遠い世界になってしまうのだ。

2007年05月19日

飯坂線−十綱橋−医王寺

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車両古り飯坂線や菖蒲かな

十綱橋ひびく流れに夕燕

十綱橋渡りて遠きみちのくの奥や夕日に山桜かな

(医王寺)

月影に鎮まる寺や花の散る

古の墓に花散る夕べかな

途中駅医王寺ありぬ飯坂線芭蕉もよるや落椿かな

医王寺に着物の女性静々と後姿や落椿かな


飯坂には芭蕉も寄っている。

「奥の細道」の中では「飯坂」ではなく「飯塚」と記されています。これは昔「飯塚」と呼ばれていたこともあったようでそれを引用しているのかどうかは定かではないようです。

 「其夜飯塚にとまる。温泉あれば、湯に入て宿をかるに、土坐に莚を敷て、あやしき貧家也。灯もなけれバ、ゐろりの火かげに寢所をまうけて臥す。夜に入て雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、・・」

飯坂は飯塚だったのだ。塚というとき誰の塚なのか?

「月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が舊跡は左の山際一 里半斗に有。飯塚の里鯖野と聞て尋たずね行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が舊舘也。梺に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたハらの古寺に一家の石碑を殘す。中にも二人の嫁がしるし先哀也。女なれどもかひがいしき名の世に聞こえつる物かなと、袂をぬらしぬ。墜涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へバ、爰に義經の太刀・辨慶が笈をとゞめて什物とす

  ”笈も太刀も五月にかざれ帋幟”


この人の塚なのか?そうでないにしろ塚の方があっていた。飯坂のイメ−ジは鄙びた温泉とはまるで違ったイメ−ジとなってしまった。何か猥雑なものさえ感じてしまうのだ。ただ不思議なのは飯坂線は鄙びたものを感じてしまうがこれも栗原線がなくなったように風前の灯になっているのではないか?線が余りにも短いからあそこに残っているのも不思議である。みんなあのくらいの距離だったら車で行ってしまうだろ。

◎平安時代
藤づるで編んだ吊り橋がかけられていた。千載集に「みちのくの とつなの橋に くる綱の 絶やすも人に いひわたるかな」とある。
◎文治5年(1189年)
大鳥城主 佐藤元治は義経追討の鎌倉勢を迎え撃つため、自らの手で橋を切り落とし石那城合戦に赴いた。
その後は、両岸に綱を張り船をたぐる「とつなの渡し」にたよった。しかし、摺上川(すりかみがわ)はたびたび氾濫する川で、船の往還にも難渋した。
◎明治6年(1873年)
盲人伊達一、熊坂天屋惣兵衛らの努力によりアーチ式の木橋が架けられ「摺上橋」と命名されたが、一年ほどして倒壊。
◎明治8年(1875年)
宮中吹上御苑の吊り橋を模して10本の鉄線で支えられれた吊り橋が架けられ、「十綱橋」と命名された。
◎大正4年(1915年)
橋の老朽化に伴い、当時としては珍しい現在の「十綱橋」が完成された。昭和40年(1965年)に大補修が加えられ、飯坂温泉のシンボル的存在となっている。


飯坂の はりかねばしに 雫する あづまの山の 水色の風   与謝野晶子

(飯坂ライオンズクラブにより、橋の横に立てられた「十綱橋の由来」より)



十綱橋というのも昔を偲ばせるものだった。ここもそれなりに昔から知られていた。吊り橋であり渡しであり鎌倉勢がおしよせたときもこの橋を切り落として戦った。橋が倒壊したり再び10本の鉄線で橋がかけられた。雫するとは明治になっても鄙びた感じの橋だった。橋にも歴史がある。今はどこでも雫してもびくともしない橋になっている。

医王寺は風情のある寺なことは確かである。そこには着物姿の女性がにあっていた。やはり京都でもそうだが日本的な場所には着物姿がにあうのである。これは文化なのだ。しっとりと落ち着いた回りの景色にとけこむのである。こんなところに派手な今風のファッションの若い女性が入ってきてキャキャ騒ぐと興ざめになるのだ。観光地化するとそうなりやすいし全国的にそうなっているのだ。

旅は思い出す旅がかなり重要なことがわかった。30年前でも生き生きと思いだせば書ける。忘れれば書けない、ここも通ったのだが十綱橋を渡ってさらにどこに行ったのか記憶にない、飯坂線で行ったのだが良く覚えていないからだ。俳句とか短歌は残っていたからここでまた再編集した。前にも書いていたから常に再々編集もしているのがインタ−ネットなのだ。いくらでも再編集しやすいからである。だからインタ−ネットのプログでもホ−ムペ−ジでも絶えず書き加えたり再編集の連続なのである。