2012年05月05日

福島県の桜散る(短歌で綴る) (福島県の広大さ-ハマ-ナカ-アイヅの風土の影響)


福島県の桜散る(短歌で綴る)


(福島県の広大さ-ハマ-ナカ-アイヅの風土の影響)

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熊川の桜



(夜の森)
夜の森の桜を偲ぶあわれかな帰れぬ人もよその桜見ゆ

(大熊)
熊川を下り開ける桜咲き沖に船見ゆ鴎も飛びぬ

(白河)
双葉より白河に逃れ小峰城花散るあとやあわれ深まる

(三春)
優艶に時を惜しみて枝垂れたる滝桜の香りの濃しも

(二本松)
二本松散れる桜のそのあとにたずねてあわれ散り安きかな

(小高)
浮舟城荒れにしあとに桜咲き復興願う小高の人かな

(飯館)
飯館に花は咲きしも人住まず誰かよるべし花もちりゆく

(南相馬市大原-大芦)
墓一つ山の桜も散りゆきぬ誰がたずぬるやあわれ深まる


森の中隠れて花の咲きにしを花散りてしるその桜かな


来て見れば花は散りにき風うなり過ぎ行く時の今年も早きも


故郷を離れ散りじり何思ふよその桜も散りてあわれも


いずこにも桜はさきぬ日本なりそれぞれの思いあわれなるべし


小峰城に避難した双葉の人
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/11/post_2345.html




白河にも双葉の人が避難した。会津にも避難した。会津の城をながめ桜を見た。避難者は全国にちらばった。縁故をたどるときそれだけ今は遠くに嫁に行ったりする。もちろん外国まで行っている時代だから昔とは違う。ただ福島県内に避難したというときやはり地元ということがあるのか?
他の県にゆくよりは仲間意識がでる。自治体としてもサ-ビスがあるし情報も入ってくる。他県にゆくと福島県のテレビなどが見られないということがある。インタ-ネットは別である、だから全国にちらばっている人が福島県や浜通りの情報を求めていることがある。自分のプログでもそうである。
こういうときインタ-ネットは役立つ、ただもう一つ情報の活用がうまくいっていない。 福島県といっても実際は広すぎる。浜通りと中通りと会津があるけど会津は一つの別の山国である。会津自体が歴史もあるしその歴史の層も厚い。広大な森に歴代の藩主や会津藩にかかわりある武家の人の菩提がある。



会津武士桜に月や山に散る

秋日さし苔むし重なる菩提かな

歴代の墓の重なり秋の蝉


その中に三人女性の菩提かないかなる女(ひと)やあわれ深まる


奥山を藩主たずねて咲く桜会津知られじ山に月かな


会津は広すぎるのと山が多いしその山も高いから地理がわかりにくいのだ。会津というとき月にしても山に月であり山国の情緒である。この辺は海から月が昇り山に沈むけど山に月を見ることがない、谷間の月も見ることがない、2000メ-トル級の山が重なる会津で奥深い山の峰の間に月が落ちる。
その情緒はこの辺とは全然違っている。


ひんがしの 野にかぎろひの 立つ見えて返り見すれば 月かたぶきぬ 柿本人麻呂


これは山の中で歌われた。しかし海辺だったら海から日が昇る。浜通りではそうである。すると福島県全体ではひんがしは浜通りであり月かたぶきぬ・・・は会津になるのだ。無理やり福島県を一国とすればそうなる。その範囲は拡大化しすぎているけど無理すればそうなる。月は山にあう。


蕎麦 一斗打 草臥し 暮の月 蕪村
http://haikusenryu.yomibitoshirazu.com/yume_haiku/
yume_sobaudon_soba_haiku_sono4_buson.htm


蕎麦と月はあっている。山に月があっていると同じ感覚がある。檜枝岐などは相当な僻地でありだから平家の落人伝説が生まれた。そこでは蕎麦が主食であり米の飯は食べるのは贅沢であった。米は他から買っていたのだ。買うにしても駒止め峠がありあの峠は凄い峠だった。今は下にトンネルができて楽に行ける。昔は檜枝岐は交通が隔絶された陸の孤島だったのである。今は尾瀬などの観光地になったからわからなくなったのである。会津は蕎麦が主食とするような所であり食文化すら相当違っていたのである。


奥深き会津の山に没る月のあわれや主食は蕎麦なりし日かな


福島県の桜というとき他にいくらでもある。会津の桜は有名であっても訪ねることはなかなかできない。桜にも月があっているから会津武士は山をよりどころとしてある。この感覚は浜通りでは実感としてわからないのである。「会津武士桜に月や山に散る」山に咲き山に散る桜である。それは潔く高い山の清気のように清らかである。だから白虎隊の壮烈な悲劇があった。山国故の閉鎖された環境と言えばそうなる。会津という風土がそうさせたともいえる。貿易とか盛んな港があると適当な所で妥協している。そういうことができない「ならぬことはならぬ」とか頑固に拒絶して首相にならなかった政治家もいたことでわかる。海に接していると心は開けてくるが山は閉ざされるのである。山で形成される思想と海から形成される思想はまるで違ったものとなるのだ。


イサスミの杉の木立の森厳に齢を保つ薄墨桜


言い伝え残し会津の山の奥千歳桜の今だ咲かじも


京の姫幾年ここに過ごせしや御前桜の咲きて散りにき


桜前線の短歌
http://www.musubu.jp/sakuranewpage2.htm


御前桜は白河街道の福良には泊まったことがあった。あの時は風雨が激しかった。それも一興だった。自転車だからもらに雨風を受けた。


風雨なか御前桜や旅路きて我がしのべるや街道の道


福良なる土蔵の宿に我がとまる堀に菖蒲やあわれ深まる


茅葺きの家の通りや福良宿菖蒲咲きにつ曲がる細道


福良は情緒あるところだった。白河街道は昔の風情が残っている。忘れられた道として魅力がある。あそこから会津の城下に入った方が趣がある。御前桜はここにあった。この桜もあまり知られていないだろう。今また旅を思い出して書いている。前に書いていたからそれに追加して書いている。
インタ-ネットだとこういうことがしやすい、書き換えたり追加するのが簡単なのである。
だから前に書いたもののつづきかなり書いているのだ。元になるものがありそれに追加してゆく,補てんして書いてゆくのである。会津は広いから探求したらきりがない、高い山が望めるから気持ちいいのだ。会津はやはり山国であり山国の文化である。山によってたつ文化である。それは奈良ともにている。ただ奈良には山に囲まれていても広い平地があった。あの平地はもとは大阪湾から海が入り込んでいて湖になり湿地になり平地になった。琵琶湖もそうである。山国でも海が太古には関係していたのだ。(やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし うるわし」この感覚とは違っている。会津城があるところは多少にている。平地があるからだ。

福島県では夜ノ森の桜もいいが熊川の桜も見た。あそこに行ったのは貴重だった。あの一本の桜は津浪で流されたかもしれない、かなり海に近いからだ。あの道の脇には家があった。それも流された。今になるとこの写真は貴重である。今年の春では大原や橲原から行った昔の秘境である大芦の桜であった。桜一本の下に墓が一つあってあわれが深まる。墓一つだからその墓一つに注目されるのだ。
墓が多いと一つには注目されないのである。飯館村には今年は行っていない、あそこに桜並木がありその花影の下を歩いたことがある。飯館は別に自由に出入りできるからいい、浪江などは高瀬川などの景勝地があっても入れないから損なのである。あそこにも桜咲いていた。


高瀬川激つ流れや磐を打ち山桜映え芽吹きけるかな


都路は山のかなたや春なればまた行かむかな鳥鳴き飛びぬ


飯館に今年は行かじ静かにも花の影歩む日を偲ぶかな


高瀬川は流が激しい、その山のかなたは都路村であった。今は都路という名前は合併で消えたけどやはりこの名前だけでも都でもなんでもないのに山の都に行くという気分になるから不思議である。


月見れば 国は同じぞ 山へなり 愛(うつく)し妹は へなりてあるかも


山隔(へ)なりが日本の風土である。福島県は阿武隈山脈で隔てられ中通りがありさらに山国の会津がある。ここも山又山でありチベットかネパ-ルなのである。阿武隈高原でも山にさえぎられている。
会津になるとその峠は駒止め峠のようにはるかに高いものになる。山頂は湿原であり高山植物が咲いているからだ。

ともかく日本は桜の国である。桜は咲いてはかなく散ってゆく・・だから人生を投影しやすい、短い時期に一生が投影される。それで日本人のアイディンティティが桜になったのである。だから桜について語り尽くせないのである。みちのくの桜もいろいろある。ただ岩手県にしろ弘前の桜にしろかえって見なかった。西の京都、大阪は見た。


平泉夕べ桜や栄えたる昔の跡を旅人たずぬ


広瀬川流れの早し花の散る反る石垣燕飛ぶかも


海に映え桜は咲きぬ石巻正宗の心ここにあるべし


政宗は石巻の月の浦から支倉常長をヨ-ロッパに船で遣わしたように石巻に城を作る予定だったのである。より海に近く海を望んでいた
みちのくでは唯一視野の広い英傑だった。日和山には桜が咲いたがやはり今年は石巻は観光とはいかない、その前が津浪に襲われ無残すぎた。景色は変わらないしあの日和山は変わらない、みちのくといってもさらに奥深いのである。


 

2012年01月25日

福島県の奥の細道 (芭蕉は城をさけていた-忍者説の由来)


福島県の奥の細道

(芭蕉は城をさけていた-忍者説の由来)

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みちのくへ木蔭の深き
境の明神守りけり
暗き細道たどりつつ
白河の関に卯の花かざし
郡山を過ぎ須賀川へ
花かつみといかなる花や
幻の花を探しつつ
その花の見いだされじや
幽邃なる花にしあれや
隠されし花にしあれや
須賀川に世の人の見つけぬ花
栗の花やゆかしき庵の主
初に聞く奥の田植唄
信夫もちずりの謂われ
一すじ奥の細道つづきけり
曾良と二人の旅人の影
さらに奥へと移りゆくかな
芭蕉の知らじや三春城下
その奥の葛尾村に元禄の碑
時を同じくしても埋もれけり
山深く人の生業のありぬ
安達太良山に粟蒔入道の雪形
民の暮らしのあわれかな


●芭蕉は城を避けていた、忍者説の由来

芭蕉がその感動を「松島やああ松島や松島や」としか詠めなかったと言われる日本三大名所のひとつである松島を、実は芭蕉は素通りしているのです。その代わり仙台藩の重要拠点とされている石巻港などを見物に行っていたことが、河合曾良の記録には記されているのです。


芭蕉のみちのくへの旅は 62万5000石 外様大名
伊達家 仙台藩の動向を探るのが 幕府から与えられた任務であった。 仙台
伊達家は 外様大名であった。


芭蕉のみちのくの旅は 芭蕉十哲の一人 河合曾良( かわいそら)が同行した。
河合曾良( かわいそら)は 情報収集の専門家であった。
http://www.geocities.jp/general_sasaki/bashoh_ninja_ni.html


芭蕉の俳句でも謎が深い、芭蕉のような俳句はその時代が生んだものだとするとき絶対今の時代では作れないから価値が衰えないのである。だから芭蕉の存在や俳句そのものが神秘的なものとなっているのだ。蕪村は現代にも通じる俳句を作っているしわかりやすい。だからこそ子規は写生俳句として蕪村を手本にしたのである。芭蕉はある意味で誰も手本にできない特別の存在である。信長が誰もまねできない天才だったというときそれとにている。誰もまねできないのが芭蕉の芸術だったのである。だからその俳句の価値は衰えないのである。


ここで前から不思議だと思っていたのはなぜ芭蕉には城を俳句にしたものがないのかということである。今だったら常に江戸時代のことなら城に注目する。城が中心になるとして過去を振り返るしその当時も城が中心的存在としてあった。だからこそ「絶頂の城たのもしき若葉かな」ができたし蕪村は現代にも通じている。ところが奥の細道でも白河の小峰城でも二本松の城があったのに注目していないし一言も書いていない。そもそも城の俳句がない、あたかも城を避けて旅した感じなのだ。そこから芭蕉忍者説密偵説が生まれた。現実に仙台だったら伊達政宗の青葉城を意識するはずだが城のことは何も書いていないし松島にも実際は寄っていないという、松島には瑞巌寺がありここは政宗の一つの城の役割を果たしていた。何か伊達政宗を城を避けている感じで符号するのである。報告するために書かなかった、詳しい情報は伝えていたととれるのである。


元禄時代というとき何か華やかな感覚になるのだが芭蕉はそうした華やかなものとは縁がない、江戸時代でもそれなりに栄えて華やかな所はあった。だが芭蕉は隅田川の辺に住んで江戸の華やかさとは縁がない、わび住まいだった。むしろそうした華美なものを嫌ったのかもしれない、ある意味で僧のような禁欲生活をしていたのである。蕪村は花街に出入りするような粋な風流人であるが芭蕉にはそういうことはまるでない、修行者なのである。忍者だったというとき何か忍者とか密偵とかそういうのがあっているからそういう説が出てきた。人目を偲ぶ生活である。旅でも須賀川は実は郡山よりも明治20年までは栄えていたとか商人の街であり栗の花が咲く隠者を訪ねるような所でもない、そもそも隠者でありえるにはのんびり隠居するには商人のように金に余裕がないとできないのである。貧乏人の農民は日夜あくせく働いているのが江戸時代である。須賀川にそうした隠者のような人がいたことは須賀川は商人の街として栄えていたからでありみちのくの貧しい農村地帯ではそういうことはできなかったのである。風流に生きることができるのは贅沢だからという逆説もあったのだ。

いづれにしろなぜまた花かつみのような幻の花を求めるようなことをしていたのか?おそらく江戸より寒い地域には見れない花が咲いていたということがあった。みちのくはまだ未知の世界だった。
北海道には高山に咲いているハクサンチドリが平地に咲いている。檜扇菖蒲も咲いている。宗谷岬への旅ではそのハクサンイチドリが雨にぬれて咲いていた。そういう北へのまだ見ぬ地域での発見があると思っていたのかもしれない、芭蕉が求めたのは本当にわび、さびの世界である。一方蕪村は華やかな美の世界があった。元禄時代というとき奥の細道からはずれているけど三春藩の境に近い葛尾(かつろう)村の落合に元禄の碑があった。明暦と元禄と記された碑は謎である。元禄というとき何か華やかな時代を連想する。あんな山の中にも元禄の碑があったということでめずらしかったのである。


まず今は奥の細道の面影が残っているところは極めて少ない、ただ境の明神のある所は杉木立で道も細く奥の細道に入る面影を残している。あとは白河市から須賀川とかは新幹線の世界であり新幹線が山をロケットのように突き抜けて行く世界では旅情など全く感じないのである。あの辺は歩いても旅情を感じない、車の量も多いし疲れるだけである。

2012年01月24日

途中下車の旅(会津の塔寺駅)


途中下車の旅(会津の塔寺駅)

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千手観音が守っているのは子供だったのだろうか?
確かに下に子供の観音が見える。
ここは気づかない人がいるだろう。



秋の塔寺駅



塔寺に下りたちあわれ秋の暮

午後の日さして家の前の筵に座り

豆叩く人に道を聞く

一木造り千手観音も古りにしや

子供を守る観音にもありしや

柳津の道ここより通じぬ

その道標も残りけるかな

一時おりたつ塔寺の駅




電車の旅は長い。旅に費やされた人生だった。北海道でも他でも無人駅におりて夏だったら一日寝ていたりぶらりとおりてぶらぶら歩く。そういう旅が旅なのだ。現代では旅することは相当にぜいたくである。時間をかけられないから旅になっていないのだ。それにしても北海道辺りでのんびりといつ来るかわからない電車を待っていた。その電車を待つことが人生だった?ふりかえるとそういうこともありうる。人生にはいろいろある。そんな人生は無駄だと言えば無駄だった。それでも無駄な人生は山ほどあるのではないか?戦争自体無駄だったと言えば無駄になってしまう。それで四百万死んだとなれば誰も無駄だといえないだけである。カルト宗教団体で一生終わる人もいるしパチンコや賭博で一生終わる人もいる。現実そういう人が近くにいて妻が世話しているからそれも恵まれている。もう75になってもそうである。

ともかく人間はいろいろなのである。一般的には会社勤めしてそれが一生になっている。それがすべて有益かとなるとそうともいえない。有益だとか価値あるだとかはなかなか決められない、高度成長時代そんなに働いていいのかという疑問もあったのだ。エコノミックアニマルと世界から言われた時代がなつかしいという時代にさえなった。高度成長時代は終わり斜陽国家となる良く言えば成熟社会になる。成熟社会には若い人より老人が向いている。老人の知恵や経験が生きる社会なのだが一面技術的な面では老人は今や役に立たないとか社会で活かされない無用化してくるから活かせる場がないということで成熟社会になっても老人が活かされないというミスマッチの社会である。でも高齢化社会というのは六十代でも六十代以上の人を相手とする客とする商売がふえる。コンビニでも六十代くらいの人が働いていたけど話ができた。若い人とは話しにくくても同世代だと社交的でなくても話ししやすいことがあるのだ。だから客商売は六十代くらいの働く人が必要になる。ただきつい肉体労働はできない、介護でも話し相手になるとかは向いているのだ。


途中下車してしいい場所とそうでない場所がある。現代はロ-カル線では途中下車しにくい。一旦途中下車したらあとあと半日電車が来ないとか帰れないとかの恐怖がある。二時間おきくらいに電車出ていれば大丈夫だがそうでない地方の路線もある。そうするとどうしても不安になるからだ。その点今は電車で自由な旅がしにくいとなる。車の時代だからそうなってしまった。旅が成功したかどうかはあとでわかる。旅がもし回想して蘇ったら活きた旅をしていたのである。旅でも全く忘れてしまうことが多すぎるのだ。記録に残らない旅は失敗した旅である。そもそも記憶にないということは人間何も存在しないと同じになるのだ。何らかの記憶があって過去をたどることができる。歴史でも何ら記憶になるものが残らなければしりえようがないということである。だから塔寺が途中下車して記憶に残ったから詩にも書けた。塔寺の駅は変わっていた。塔寺を記憶していたのは塔寺から名所の一刀彫の木彫りの仏がある寺が駅から近いことだった。電車の旅では駅から近いところは記憶しやすいのである。駅からおりると筵をしいて家の前で豆がらをたたく人がいた。そこで道を聞いたりしてすぐ近くが木彫りの立木観音のある寺だった。


清水八幡神社は会津の五大社の一つである。
源頼義とその子八幡太郎義家が安倍氏と戦ったとき、義家は眼病を患い、ある夜夢枕に立った神が「お前の弓矢をもって巽(東南)の方に向かって矢を射よ。その矢が落ちた所に神泉があるからその清水で目を洗えば必ず治る、ゆめゆめ疑うな」とのお告げがあり、矢を放って落ちた所に行くと泉の辺りで矢を発見した。その清水で目を洗ったところ、日ましによくなったという言い伝えがある。

http://www.pref.fukushima.jp/aizu/kensetsu/tiiki-fureai/genki/
akarutouderasennwoiku/2_9_1.htm#a1


源義家の伝説は東北の各地にある。その数も実に多い。なぜこんなところにあるのかというほど山奥にもある。なぜそれほど伝説として残ったのか?義経はわかるが源義家についてはもう一つ現実味がないのだ。それでもこれだけ伝説を残したということはみちのくに多大な影響力があった人だったことはまちがいない。ここで眼が悪い人が直ったという清水のことを言っていたが昔から眼を患う人は多かった。だからなんとか眼を直したいという人が多かった。栄養不足が関係していた。いい医者にかかりたくて関所を越えてゆく人の話しとか眼を患い苦しんでいた人が多かった。だからこの伝説は眼が悪い人が直りたいという一心でそういう伝説を作ったのであり別に眼が直ったわけではない、こうした病気が治るという伝説は大半は病気が治りたいという願望が作った伝説なのである。これはヨ-ロッパでも同じだった。病気を直す泉があったり聖人にお祈りしたりしている。病気というのは今でもなんとか直したいということで切実なのである。だから癌になった人が薬がきかないのに効くと言われてだまされたりする。そういうことが今でもつづいているのだ。本当に病気になると人間は弱い、なんとか直したいと藁にもすがる思いになり宗教心ない人も神仏に祈るのである。自分もそうだった。そういう人間の心理は変わっていないのだ。


「その矢が落ちた所に神泉があるからその清水で目を洗えば必ず治る、ゆめゆめ疑うな」・・まさにこのことが如実に語っている。なんとか眼を直したい人がいてどうししてもその泉で直るのかという疑問があるのは当然である。だからこそ疑うなということになる。しかし結局昔は病気は治らない人の方が多数だった。そういう伝説が多いのは人々の切実な願望だからこそ残された。ただそれがどうして源義家伝説と結びつくのか?遠い都から来た人だから何か技術をもっているとか何か霊験をもっているとかそう思われたのだろうか?みちのくという都から遠い地域で暮らす人は当時そう思ったのかもしれない、医者でもない武家でも何か都という所は別世界であり病気も直せるものをもっているとか憧れの気持ちがありそうした伝説が残ったのかもしれない、みちのくにあまりにも源義家の伝説が多すぎるからだ。


ここから越後と柳津の方に道が別れている。柳津は西会津になる。会津は広いから方角がわからなくなる。塔寺辺りも西会津になる。柳津は電車が通っているからまだ行きやすい。でも一回仙台からバスで西会津を通り新潟に出た。その時は電車で行けない温泉地帯を通った。盤越高速道路で行くとやはり西会津町となるからその辺だったのか?その時芒の原が見えた。


西会津芒の原や日の落ちる


奥深く西会津町やその町に行くことなきや命短し


会津は本当に広いから地理を理解することは容易ではない、特に山が多いから余計山にさえぎられて地理がわかりにくいのだ。西会津町というとき相当に奥まった所である。電車で行けないとしたらそこはなかなか行けない場所である。会津は自転車の旅ではきつい、山が多い坂が多いから自転車旅行ではきつい。それでも二回くらい行った。途中でダウンして帰ってきたこともあった。その記憶もあいまいになってしまった。自転車旅行でも旅は記憶されるとは限らない、自転車旅行の弱点は疲れすぎるということだった。疲れるから余裕をもって見れない、ぐったりしてし死ぬように寝るほかない、するとただ運動しているだけの旅にもなる。そういう弱点があった。ただ車がないとしたら自転車で行く他なかったのである。


ともかく途中下車は相当したがただ記憶から消えたのが多い。旅は本当に記憶が大事なのだ。外国旅行は特に記憶から消えやすい。どこに行ったかもわからなくなる。だから写真が貴重であり写真家ら思い出す他なくなることがある。ええ、こんな所に行ったのかと今でも写真見て不思議である。全く記憶していないからである。インタ-ネットはバ-チャルな旅をするのに向いている。写真がでているから回想してこんな所だったとか思い出すのである。


カッコウやここはどこやら途中下車


結局旅は死ぬまで終わらない、途中下車の旅は今度は外国でつづくだろう。特にヨ-ロッパは電車の旅にはいい、でも日本のような途中下車の旅する余裕はなかった。今なら若い人はいくらでもできる。旅は時代ともに変わってゆく、ヨ-ロッパでもこれからはいくらでもそうした旅ができるからそれでいろいろ詩を書いたり物語を書いたりいろいろなことでコミットが深くなってゆく、現代の幸福は冬でも旅できることや外国を旅できることである。外国を旅することは本当にぜいたくである。なぜなら戦前の人や戦後でも団塊の世代でも海外を自由に旅した人は少ない、金がかかりすぎた。だから海外旅行はこれからのテ-マである。若い人が最近海外に旅しないというのは納得がいかない、外国は百聞は一見にしかずという言葉がこれほどあてはまることはなかった。一回ともかく外国の土地を踏んだものと踏まないものとの差は大きすぎるのだ。これはテレビだろうが本だろうが人の話しを直接聞いても実感がもてないから外国は一回でもその地を踏まなければ何もわからない。駆け足でも一回踏んだ所は実感として心に残るからあとで外国について理解が深まるのである。


 

2011年01月22日

海竜の謎

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海竜の謎

ぽか-んと長い首を伸ばして
海竜がはるか大洋のかなたを見ていた
それはいつの日だったのか?
何千万年前といってもな
ぽっかりと雲が浮いているように
何千年も前にぽか-んと
大洋のはるかかなたを見ていた
本当にそんな海竜いたのか?
空想で作られたもんじゃないか
でも化石が発見されたんだからいたんだ
でも化石が骨が本当にいたという証拠になるのか
実際は海竜ははるか大洋のかなたに去り消えた
海竜は竜になって大空に昇ったとか
そんな空想はいくらでも作れる
人間だった本当に存在しているのか
死んだら灰になり骨すらなくなる
生けるものは死ねば消えて空だよ
ぽか-んと長い首を伸ばして遠くを見ていた海竜
大洋は果てしなく広くその中にいつしか消えた
その跡が化石とは限らない
誰も真実はわからないんだよ
何千万年前となるとな・・・・
ぽか-んとして見ているだけで人も死んで消える
なぜあくせくして窮々しているんだろう
果てしない海、空、陸を見てぽか-んとしている
そのうち消えてなくなりどこに行ったかからなくなる
そんなのいたのか、そんな人いたのか
雲をつかむような話しになる
人間じたばたしてもどうにもならない
ぽか-んと果てしない大洋を空を見るのもいい
人間の技などたかがしれているんだよ
神の世界は広大無辺でつかまえられない
だからぽか-んとして見ているのもいい
人間の知恵は神にかなわない
そんなことでそろそろまた寝ることにするか
新年の夢は大きな方がいいぞ
人間はしょせんこの世で一時ぽか-んとしているだけ
何を成すのにも成しえない
成さずしてなるが老子様の教え
今年ものんびりしてやっていきたいけどな・・・



イワキの海竜(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/39607171.html

2011年01月07日

棚倉町を冬に思う


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棚倉町を冬に思う




棚倉のともしびあわれ秋の夜や会津より来て我は泊まりぬ


都々古別神社の古りぬ水戸へ行く街道見つつ秋の夕暮


郡山は繁華なれども棚倉は目立たざるかな秋の夕暮


都々古別神社の杉の古りにしや何を見ゆべき秋の夕暮


棚倉に城跡ありて一国や何を語らむ秋の夕暮


棚倉に旅路によりし一日かなその日も遠く冬にし思ふ


冬籠もりふりかえるかな我が旅路棚倉によるは遠き日となる


一度のみ水郡線我が乗るやその日も遠く冬深まりぬ



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棚倉町は古代から道が通っていた。だからこそ古い都々古別神社(つつこわけ)神社がある。 久慈川をさかのぼってくると山々の狭間になり棚倉の地域で広い平野にぬける。ここを突破すれば広い中通りの平野に出ていけるのだ。そこでここに蝦夷の一群が集結した。


棚倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という



でも棚倉町は福島県でもなじみがない、それはなぜなのか?白河はみちのくの入り口として記憶される。その東北の街道にそって芭蕉の奥の細道で須賀川や二本松や福島市とかは記憶されやすい、新幹線になると本当に大きな市にしかとまらないから途中は記憶されなくなる。
ただ水沢江刺.沢駅が記録されたのは新幹線が停まる駅というだけだった。それまで水沢のことは記憶しにくい、人間は明治以降は道にそって街道にそって村や町を記憶するのではない、鉄道に沿って記憶するようになった。だから鉄道が通らない停まらない町は閑却されやすいのだ。
郡山は古代から道の要所だった。それで『安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに』という国司を饗応する采女の歌が残った。この采女は饗応することに慣れた女性でありだからこの歌は特別なものではなく采女などがみんな知っていたものであり特定の人が作ったものではなかった。安積山も郡山にある安積山とは限らない、紫香楽宮からこの歌の木簡が発見されたことでもわかったようにみんな手習いとして暗唱されていたものであった。郡山宿は江戸時代でも飯盛女がいて繁華な町であり古代からのそうした延長上にあった。そういう地理にあり今もあるのだ。


古代の道は川でもあったから久慈川にそって溯り棚倉に出たということが地理的にわかる。でも現代になるとそうした川とかの自然地形ではない、人工的な鉄道が道となるから棚倉はその道からはずれてしまったから閑却される町となったのだ。そもそも福島県は北海道-岩手県-福島県であり広大な領域であり知らない市町村があって不思議でもない、全部回ることはできない、ここは自転車で会津から来てテントで一夜泊まったことがありその記憶が蘇り今書いている。人間はつくづく歴史が地理だというとき地理がもっとも理解しにくい、日本の地形は山が多くて理解しにくい、だから近くでも一山越えれば隠里のようになってしまう。棚倉は確かにそういう地域だった。


猪苗代湖でも鉄道の通るところは意識されやすいが昔の白河街道は忘れられている。そこに福良宿(湖南町)があり昔の面影が残る。地理は実際に近くでもわかりにくい、日本では山が多いからそこに例え実際に足を運んでも時間がたつとそんなところどこにあったのかとなる。それはまさに隠里を訪れたと同じである。夢のように記憶から消え去るのだ。ただ東北の幹線道路であり新幹線が通るところは日常の道となっているからその沿線は記憶されやすいがそこから一旦はずれると記憶しにくくなる。棚倉もたまたま自転車で行ったことがあるからこそ思い出すことができたのである。でも不思議なのは確かに会津から来たがそこからどの方向へ行ったか良く記憶していない、人間はともかく忘れやすいのである。ただ都々古別神社に立ちそこから水戸への街道が通じていたのでここからは水戸が常陸が近いと実感したのである。


水郡線も一度だけのって水戸まで行ったがこれもほとんど記憶していない、駅名も記憶していない、鉄道も一回くらい乗ったのでは記憶しにくいのだ。現代は便利だから意外と記憶する旅ができない、通りすぎる旅になってしまうのである。旅をふりかえると本当にそんな街を自分が通ったのかどうかも定かでなくなる。人間の記憶はいかにあいまいになり忘れややすいか、でも今や旅ができず思い出す旅を回想の旅をしている。すると思い出せないとてるともうそこは本当にそんな街があったのか村があったのかとなってしまうのだ。人間は余りにも便利になり心に残る記憶に残る旅ができない、浅薄な旅しかできない、それであとで思い出すことができない、旅は事前に計画して実行してそのあとでふりかえることで旅が完成するのだ。そのふりかえるとき記憶されない旅だと思い出せないからそこに行ったかどうかもわからなくなるのである。それが現代の旅の一番大きな問題だった。



遠い記憶の町
http://musubu.sblo.jp/article/42432023.html

2010年07月18日

四倉(抽象画)

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四倉の写真出ていたけどこれは著作権違反になるかもしれない、原画を加工するなと書いてあるサイトもあるからだ。でも二番目になるとわかりにくいだろう。この写真は一見平凡なのだが
意外と白波の感じをこのようにとれない、油絵のようにも見えた。
四倉は砂浜が広く白波が広くよせる。一つの原画からいくつもの抽象画ができるのだ。

著作権が指摘されたら消す、でもこの写真はどこにでもあるようなのだけど・・・

 

 

2010年07月13日

イワキの海竜(詩)

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イワキの海竜


大海の潮を切って進む海竜はまことか

イワキの夏の海は岩礁に飛沫をあげる

千変万化の神の姿を見よ

黒潮にのり鮮やかな熱帯魚も泳ぎ来る

珊瑚礁もここに根づきてイワキの海

照葉樹林の葉がつややかに夏の日に映える

車輪梅はさらに北上して相馬へと根づく

海竜は大海から飛沫をあげて顔を出す

泳ぐスピ-ドは驚異的にして我が物顔の海の王者

大海ありてこそ生まれしものよ

その海にふさわしき爽快なる生き物よ

雄大なる日よ、地球創生の時の大景観

その大いなる命よ、我等は今知らじ

大海と大空の中に長い海竜の首が伸びる

その回りにイルカがカツオが飛び魚が泳ぎ飛びはねる

その巨体は大海にマッチして神の業を示す

夏の日、大海に生きるものよ、風ははるか沖から吹く

自然は一つの大いなる詩、尽きざる詩なり

海と大地と森と川と織りなす詩なり

山深く堆積したアンモナイトが太古の夢を見て眠っている

深い海底の静寂がそこにある

文明は誇れるものや神の驚異の業を見よ

なお未知の大海ははるかに知れず広がっている

汝はさらに遠くへ天来の翼もて天翔るべし

この世を生きるはただ夢にしすぎじ

ならば大いなる夢を神の夢を見つつ死ぬべし

神の広大な領域を飛び駆け抜けるべし

大海の潮を切って進む海竜はまことか

そは一瞬の神の快挙として消え去りぬ


2010年06月28日

照葉樹林の波立海岸


照葉樹林の波立海岸

波立海岸の岸壁に

照葉樹林の名残り

光が燦として明るい

岩礁に白波砕け

鴎がよぎり飛び

はるか沖に白波がたち

航行する船が見える

その岩陰の日陰に休む

礒の穴には小魚が隠れ

はるか沖から涼しい風

一面に砂浜にハマヒルガオ

燦々として光が明るい

眩しい陽光は南国の光

照葉樹林に照らす光

珊瑚礁もここに根付き

黒潮にのり小さな熱帯魚も来る

磐城は古代の常陸に隣接して

いち早く開かれた地域

今も東京に一番近い

ここに南国の燦然とした光に欲して

太古の巨大な生き物の夢を見る

海は山深く入りアンモナイトが眠る

夏の日波が岩礁にしぶき洗う

若き女性のスカ-トが海風にそよぐ

磐城は福島県の湘南とか

唯一南国の海を連想する

海の幸に恵まれて古代からも

のんびりと暮らしていたのか

燦然と明るい光がそそぐ

照葉樹林の花々が咲き開く

大きな美しい蝶が飛来して休む

ここにはるか南の国を連想する

 

2010年06月22日

磐城市四倉(抽象画)

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磐城市の四倉を詩で書いたけど抽象画にしてみた。イメ-ジとして大きな砂浜と白い波が四倉の特徴だった。だからまず白い波の部分がイメ-ジとして浮かび上がる。あとは色の効果をだすだけである。いろいろいじってみた結果、グラスができた。
最近津軽ビィドロがなどガラスの花瓶を買ったけど夏はガラスの花瓶が涼しくていいと思った。

抽象画も第二芸術にしろ自分なりに絵を楽しめる、これは絵の才能がなくても技術的に規則的に加工しているだけである。それでも絵の感じになるからやっている。この抽象画には無限の変化を作り出せるから不思議である。機械的にやっているのだから同じものができても不思議ではないが同じものではない、みな違っているから創作なのである。

2010年06月18日

四倉の詩(四倉の魅力)

四倉の詩(四倉の魅力)

四倉や磐城へと 砂浜広く
波うちよせて 浜風吹きぬ
港には大漁の旗ひるがえり
海の男の心意気、波そ高鳴る

浜街道残りし三本の松影涼し
海の近きやよする白波
草深く埋もれし墓のあわれ
四倉駅の日陰に電車待つかな

昔銅山に働く人や線路あり
ここに集まり埋もれ墓かな
江戸時代よりの人もあれ
一族ここに埋もれけるかな

浜の風さらに吹きぬれ
海広く心も広くなりぬれ
遠き海に船の見えつつ
浜風そよぎ電車は去りぬ

ある市町村がいいというとき、第一に自然条件に左右されているのだ。四倉もそうだった。あれだけの広い砂浜はなくなっている。みんな防波堤になっているからだ。そしてその広い海に接して六号線があり常磐線があり海の街となっている。海の風や波の音がひびいてくる距離にある。浜通りと言っても街から宇はまでは遠いところが多いのだ。広い砂浜もない。まさに浜街道を象徴していたのが四倉だった。昔の名残りの松並木の三本の松が残っていたのも歴史を示しているからいい。海に面していても街が巨大だと自然の良さは失われる。四倉はまだ小さな町である。騒がしくなく静かでもある。不思議だったのは夏草におおわれた墓地が駅の近くにあり墓地に興味をもっていたから何かまだ墓地が目立つような土地柄でもあった。墓などいらないというのもあるが墓はやはり街を構成するものである。先祖が街の中に一緒に生活している感じになるのが墓地である。先祖の墓が生きている人を見ているという感じになる。

四倉には八茎銅山があった。ここは江戸時代からのものであり加賀国から一族が移住して死んだ墓石が残っているとインタ-ネットで発見した。
http://loveiwaki.cocolog-nifty.com/duketogo/2007/02/post_f57a.html


墓のことを相馬藩内でいろいろ書いてきたが墓で江戸時代のものが残っていれば価値がある。明治以降だと興味が薄れるのだ。

電車待つホ-ムの近く草深く墓地のありしや四倉の駅

墓地はやはりそれなりに過去を意識させるのだ。現代だけをみるのではない過去も現代の中にあるべきである。ただ墓でも南無阿弥陀仏とかだけになるとみな同じでつまらないと感じる場合がある。家の歴史や個人の歴史が無視されるかもしれない、家の否定が宗教にあったからやむをえないという面はあった。

海の街で一番印象的なのは函館である。両側は海になっていて波がよせてくるような地形は世界でもめずらしいだろう。函館はだから特別であり地形が街を作ったのである。他にも街の中に自然が溶け込んでいる都市は魅力がある。盛岡は岩手山が常に真正面に聳え北上川と中津川が街中を流れている。街の中に川が生きている。街の脇を流れているのではない、街中を中心を川が流れて街が形成されているのだ。仙台も広瀬川があるが街中を流れているという感じがしない、盛岡は二つの川が街中を流れとけこんでいるのだ。これも自然が活きている都市だから魅力がある。やはり自然が魅力を形成するのであり人工物ではない、そして水の流れている、水辺の所は特に夏になると涼しくて気持ちいいのである。水が風を涼しくすることもあり気持ちいいのである。庭でも水がある庭は涼しくなるのだ。

いづれにしろ浜通りと言っても海と一体化した街は四倉くらいしかない、街に絶えず海の風と波の音がひびいている街はないのだ。四倉は自然条件に恵まれてそうなった。あとは太平洋岸が単調なのである。

2010年04月17日

二本松の城の桜(2)短歌十首

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二本松の城の桜(2)短歌十首

小浜城その跡に咲く桜かな夜に束の間よりて去りにき

二本松へ花咲きつぎぬ道のりの遠しも城を目指し行くかも

二本松残れる花のなお散りぬ相馬より来て夕陽さすかも

相馬より二本松に来てなお散りぬ花を惜しむやあわれなるかな

相馬より二本松遠し花のなお残り咲けるを我が惜しむかも

二本松朝の桜に残雪の安達太良映ゆる城門を入る

二本松花こそ散らめ安達太良に残雪光り風騒ぐかも

残雪の安達太良まじか百輪の椿のゆるる夕べの風に

二本松夕風吹きぬ旅人の急ぎ帰るや花も散るらむ

二本松一夜泊まりぬここに散る花に心の騒ぎけるかも

巻淵に水渦まきて桜咲く朝日のさして我がよりさりぬ


二本松の霞城には何回も行っている。あそこの城は見物である。桜の時期も自転車で二三回相馬から行ったから遠かった。一回は満開のときでありもう一回は城に着いたら桜は散っていた。でも余花でありそれが風情があった。この風情は情緒は相馬からわざわざ自転車で来た時生まれたのである。これが電車だとか車だと生まれにくい、はるかに来たとなると歩くとか自転車くらいでないと旅の感じがでないのだ。だから旅人は今になると二本松まで車で来るのは簡単だが本当に江戸時代の感覚で二本松まで来た感覚は味わえない、その喜びは大きかった。あの絶頂の城の本丸に上って四方を眺めたとき、相馬藩は山の彼方に隠れて見えない、相当に遠い感覚になるのだ。

記憶からすると着いたときが夕べであり風が吹いていた。残雪の阿武隈を仰ぎ夕風が吹いていた。それを体で覚えていた。それでまた思い出して短歌の連作を書いた。こうした短歌もやはり相馬からはるばる来たということで情緒が生まれているのだ。これも昔の相馬と二本松の街道を来るべきであり岩沼回りの鉄道だとそうした情緒が生まれないのである。
途中小浜城がありこれは暗くなり夜になってついた。そこでちょっとの間寄った。暗い道を進んで二本松にようやくついた。もう一回は夕べについた。花は大方散っていたが余花がなおわずかに散っていたのである。これも情緒あるものだった。帰りは巻淵というところが阿武隈川にあった。?ここがどこかわからない、淵が巻いている、水が確かにうづまいている大きな淵でありそこにも桜が咲いていたのである。随分桜の短歌を作ったからこれらをまとめれば連作として作品化できる。西行も桜の歌人になったのは当然だった。それほど桜は日本を象徴する花だったからである。

二本松の桜(1)
http://musubu.sblo.jp/article/28451498.html

2010年03月04日

夏の旅短歌十首(奥会津)

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夏の旅短歌十首(奥会津)

木陰なす樹影の深く奥会津杉の林に隠さる村かな

奥会津古沼にあわれ菖蒲咲き訪ねる人の心にしみなむ

奥会津倒れし墓や鬼百合の咲きて暑き陽山間に没る

十数輪鬼百合咲きていづこかな会津の村々巡り来たりぬ

断崖に激流ひびく奥会津鬼百合咲きて旅路ゆくかな

夏の日に尾瀬より流る水清し揚羽とまりて旅路つづきぬ

夏の日に聳え鋭し蒲生岳つばめの飛びて我が仰ぎさる

夏の日に会津の峰々競いつつ聳えけるかな清水手に飲む

はるけくも会津の境我が越えて越後に入りぬ夏の夕暮

小出にて只見を思う遠きかな夏の夕べの魚野川の岸

会津は尾瀬があり二三回自転車で旅しているけどどこをどういったのかもわからなくなった。山が多く坂が多いからふりかえるとその道のりがわからない、でも自転車とかで行った旅は体で記憶していることがある。それであとでどこだかわからないにしろふりかえり創作する。小出については書いたが小出からは必ず只見を思う、只見からさらに会津若松や喜多方は遠くなるのだ。実際その距離は遠いのである。ともかく本当に旅することは今は相当に演出しないとできない、無理やり不便な旅をしないと便利すぎるから旅にならないのだ。だからかえって時間もかかるし金もかかったりするのだ。何より自由な時間ないとできない、つくづく今旅ができなくなっていかに自由な旅をすることがぜいたくなことかわかった。普通の人は自由な旅はできない、わずかな暇をみて休養するだけだからだ。会社を一週間など休むことできないからだ。それだけ自由な旅をすることはぜいたくなことだったのである。でもこうした自由な旅をしないかぎり会津も広いから会津の地理もわからない、もし地理をわかろうとしたらこうした不便な旅をする、坂を越え坂を越えて旅するとある程度わかる。でも旅が終わって回想してみるとどこをどういったのかわからなくなっているのだ。車などだと余計にわからなくなる。それだけ旅したことを記憶することはむずかしいのである。

 

2010年02月17日

福島県(浜通り)の東風(こち)について

福島県(浜通り)の東風(こち)について

昨日は北風吹きて

今日は東風(こち)吹く

光明るく今日は春北風(はるきた)吹く

東風はかなた海より吹く

東風は海に誘う風

しかし山越えて東風は

丸森や阿武隈山地に吹くも

はるか会津には海よりの風は吹かじ

蒲生氏郷は会津の山に閉ざされ死す

山国の人となりて死す

東風は浜通りでは海より吹く風

広々と海に向かって春は開ける

東風で有名な歌は
東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな 菅原道真

「東風(こち)とは漁師ことばで春一番の前に「ふっ」と吹く風の事を」言うとか。
 いずれにしても、道真公が使った言葉なのだから、彼の生きた当時にはあった言葉、あるいは、彼の生きた地域(それとも宮中?)では使われていた言葉であることは間違いない。
 漁師の言葉だとして、それをも道真は知っていたのか、それとも、元来は漁師らの言葉であっても、教養ある人も使うような言葉として流通していたのか。

http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2005/03/post_9.html
この説は漁師らの言葉にするには不自然である。何故なら京都も盆地であり海から遠いのである。だから日常的に漁師と接することがないからこの説は納得できないのである。ただすでに東風をコチと呼んでいた。京都には東山があり東山となると感覚的にここでは海から吹いてくる風になる。海がないところでは東の山から吹いてくることになる。海に面した地域ではそもそも東山がないからその感覚がわかりにくいのである。ましてや風は本当にわかりにくい、風向きが常に変わっているし一度旅したくらいでは体験できないからである。)「コチ(此地)へ来よと春風を招く心から名づけたものか」という説がもっともらしい。早く春の風がこっちに吹いてきてほしいからなづけたのかもしれない、これは海が見える所でなづけたのとも違う。


「大伴家持が任地越中で、越中ではコチ(東風)の語がないことも珍しく思ったらしく「東の風越の俗の語に東の風をあゆのかぜと謂ふ」と言い、次の和歌を示してくれている

 東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の釣する小舟(おぶね)漕ぎ隠る見ゆ


越中では東風をあゆのかぜと言っていた。全く違った言葉だった。風に関しては方言がありその土地に独特に吹く風があった。南風がハエというのも全然違っている。東風(こち)は山国で吹いてくる風である。その感覚は山国に四方が山で囲まれている地域に住んでいないとわからないのだ。さらに海に面していても日本海と太平洋は表と裏でありこれも全く違っているのだ。太平洋から東から太陽が昇るのと日本海に沈むのとはあまりにも感覚的に違っているのである。あゆのかぜ、東風がどういうふうに吹いてくるのかもわかりにくいのだ。

御蔵島の風
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mabuta/progra-m/fl-wind.htm

ここでとりあげている風は島は風向きによって上陸が決められるから風は日常的に知っている必要がある。島とか漁師は風を体で知っている必要があった。
浜通りだと

東風(こち)吹くや海より奥へふきそよぐ

東風(こち)吹くや海より山へ吹きそよぐ

峠越え東風吹き来るや海に出む

東風は海より山に吹いてゆく、丸森だと峠を越えて吹いてきた東風もある。この時京都などよりこの風は太平洋から吹いてきた風だと意識した。おそらく丸森の人も海を意識するだろう。ところが京都とか会津では海を意識することはない、できないのだ。 丸森だったら「峠越え東風吹き来るや海に出む」と意識する。丸森は阿武隈川でも狭隘な谷間から流れて広々として太平洋にそそぐことをすでに意識する、海を意識するのだ。川からも海を意識する。伊達政宗の初陣の地が丸森であり自ら名づけた地が

筆甫である。相馬に出て初めて海を意識したともある。丸森では海を意識する。

京都とか会津は海を意識できない、もちろん仙台の青葉城は太平洋さえ望めるのだから海を意識する。伊達政宗がさらに要塞として瑞巌寺を海のすぐ側に配置したことでもわかる。日本は地理が複雑だから風にしても多様だしそれが簡単に肌ではわからない、地域的なものは風土はわかりにくいのだ。

限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風 蒲生氏郷

氏郷を相馬に想う冬の日にはだかる山や会津にうもれぬ


この山風も山に閉ざされた会津で生涯を終えたことから感じねばならない山風である。海に面していれば春の風は海からそよぐ東風になるが山国では違っている。日本では海に囲まれていても山彦-海彦の世界が別世界になっているから文化的にも理解することがむずかしいのである。


東風(こち)の地名

   北海道松前郡   松前町 東風泊(やませどまり)
   青森県西津軽郡  深浦町  東風股沢(ひがしかぜまたさわ)
   宮城県牡鹿郡   女川町尾浦 東風浜(こつはま)
   山形県酒田市   北俣 東風当田(だしあてだ)
   茨城県那珂市   東風谷(こぢや)
   千葉県富津市   東風谷(こちゃやつ)東風谷田(こちややつだ)
   千葉県山武郡   芝山町 東風山(こちやま)
   長野県伊那市   東風巻谷(ひがしかざまきだに)
   愛知県知多郡   南知多町内海 東風畑(とうふうばた)
   山口県下松市   東風浦(こちうら)
   山口県周南市   東風石(とうふうせき)
   香川県三豊市   詫間町粟島 東風浜(こちはま)西東風浜(にしこちはま)
   愛媛県八幡浜市  東風脇(こちわき)
   愛媛県越智郡   上島町 東風浜(こちはま)
   大分県佐伯市   東風隠(こちがくれ)
   長崎県対馬市   東風防島(こちぼうじま)東風泊(こちどまり)
  東風泊鼻(こちどまりはな)東風泊湾(こちどまりわん)
   熊本県上天草市  東風留(こちどまり)
   鹿児島県鹿児島郡 三島村 東風泊(こちとまり)
   沖縄県島尻郡   八重瀬町 東風平(こちんだ)
http://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/54348075.html

東風をヤマセとしているのは山から吹いてくるからだろう。北海道の松前だとそうなる。
 千葉県富津市   東風谷(こちゃやつ)となっているきはやはりこちゃとはこちがなまったものでありコチが基本としてある。これは漁師言葉なのか、京都でなぜこの言葉が一般化したのか?漁師言葉だとすると瀬戸内海とかで使われた言葉が京都に入り一般化したのかもしれない、ただ地名としてはここで瀬戸内海は出ていないから不明である。言葉は大和言葉は奈良京都を中心にして広がっている。沖縄とか青森に平安時代の言葉、京都の言葉の尊敬語が残っている。そんな遠い地域に古語が残されていた。こちも京都辺りから遠い地域に広がった言葉なのか?越中であゆのかぜと東風を言っていたのは東風に代わる地名もあるだろう。東風(こち)というとき京都で使っていた言葉が一番古いと考えてしまう。


2010年02月13日

相馬より会津へ (白河街道-詩と文)

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東北でも地理的感覚は平面地図のようにならない、距離感覚でも違っている。
地理の感覚は地図どおりにはならない、それは現しようがない、これも一つの
コンピュタ-ソフトでアレンジして偶然にできたがこれも地理感覚の表現である。


相馬より会津へ (白河街道-詩と文)



太平洋望む浜通り
阿武隈山地のさえぎりて
中通りに出て会津は遠しも
歴史を秘めて雪に埋もれぬ


七層の黒川城の威容かな
奥深き会津山国の城
歴史はここに積み重なり
代々の藩主はここに眠りぬ

その奔騰する川の流れや
迫る峰々隆々として険し
断崖絶壁にひびきわたれり
鬼百合こそここに熱く燃えて咲け


会津に入り福良の蔵の宿
茅葺きの家並み残り菖蒲咲き
猪苗代湖波うちひびきあわれ
境の松の枝の長々と垂れにける


関所もあれ勢至峠や秋の一部落
殿様清水にその名残や偲ぶ
一面に月見草咲き家まれに
道は郡山へつづきけるかな


遥なり残雪の飯豊連峰
桐の花咲き雨しとと墓所ぬれぬ
藍色の猪苗代湖に秀峰磐梯山
我が望みつ相馬に去りぬれ


阿武隈山地を我が越え行けば
太平洋の海の風そよぎ涼しも
船も行くかな松島牡鹿半島へ
伊達政宗は海を望み想いは外国(とつくに)へ


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蒲生氏郷が最初に築いたという黒川城は七層の黒い城だった。あとで江戸城の城をまねて白壁の城になった。最初の七層の城の方が山国、雪国ににあう威容のある城だった。七層となると今より高いからそうなるし黒いということがいかにも奥深い山国に来た感じになる。
勢至峠から福良で蔵の宿に泊まったことがある。猪苗代湖の岸辺の道を行きそこに松の枝が長々と垂れていてそれは境の松でありいかにもふさわしい松である。今は会津に行くのに福良の方をまわる人はいない、だからこちらは取り残されたようになっている。ただ昔を偲び旅をするのにはこっちがいいとなる。秋の日磐梯山の山影がここに伸びてくる。その時まだ宿場町にふさわしく茅葺きの家が通りに何軒かあったものさびた町である。昔を偲ぶにはこの街道を行かないとわからない、秀吉もこの道を行き会津若松に出た。
自転車で行ったから延々とつづく街道の記憶が残りこうして詩に書ける。福島県の地理は浜通り、中通り、会津と別れている。浜通りからすると会津はかなり遠い、それはまず阿武隈山地が障壁となってさえぎるからである。まず中通りまで出るのが容易ではない、中通りから出てまた遠い、電車で行くと岩沼から郡山に出て会津になるがこれも乗り換えがあるからめんどうになる。それより昔はどうしても阿武隈山地を越えないと会津には行けないからその行程は遠いのである。阿武隈山地と中通りでは気候もかなり違う、福島市は盆地であり冬は寒く夏は蒸し風呂のようになる。それがはっきりはわかるのは阿武隈山地を越えてゆくとき涼しい風が太平洋から吹いてきたときだった。自転車だから歩いて坂を越えるから特にその風には救われた感じがした。涼風は太平洋から吹いてくる。ここで気候が変わるのだ。
浜通りと会津はこのように隔絶されているのだ。だから地理的には宮城県までの海沿いを通じて塩釜や松島、牡鹿半島に結びつくのである。相馬藩にいかに宮城県関係の神々が勧請されていたことでもわかる。館腰という駅名があるがあれも神社であり相馬にもあった。宮城県のそうした神社に相馬からお参りに行っていた。山神も多いが小牛田神もそうである。船で塩釜の寒風沢に行き来した記録も残っている。金華山の碑もある。会津の方からそうした神々はもちこまれない、それだけ交流が少なかったのである。ただ木こりとか茅葺きの屋根葺きとか出稼ぎで来ていて住み着いた人も記録として残っている。やはり会津藩との交流は地理的に隔絶されているから少ないのである。
人間はやはり自分の住んでいる地点がコンパスの中心になる。自分の住んでいる場所から世界をみる、相馬から磐城、中通り、会津、宮城県の仙台、塩釜、松島・・・と見るのである。それでもこれだけの視野をもつこと自体、江戸時代だったらむずかしいことになる。庶民は会津などに行くこともない、宮城県にはお参りで行っても会津までは行かない、だからその地理感覚は狭いのである。もちろん伊達政宗のようにスペインまでその視野を拡大化したことはあった。東北では例外的なことだった。これだけ交通が発達しても日本は山国だからその地理がわかりにくいのだ。会津は特に山国だからわかりにくい、峠また峠である。山が障壁となり閉ざされた国が大和(やまと)の国なのである。

猪苗代湖や会津街道の御前桜などの詩
http://www.musubu.jp/sakuranewpage2.htm

2009年07月31日

塔寺(会津から新潟の小出へ)

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大川や夕蝉ひびく川向い

会津でて塔寺よりか越後へと街道行くや秋の陽没りぬ

会津なる塔寺おりてあわれなる秋の日ざしに豆を打つ人

塔寺より西会津へと向かう道さらに遠きや秋深まりぬ

魚野川の夕べ岸辺に待宵草一両の列車只見より来る

小出−魚野川
http://www6.ocn.ne.jp/~yasuei/turi.html

福島県の浜通りには大きな川は高瀬川くらいだろう。会津方面や新潟には大きな川がある。水量も豊かである。只見から新潟へでる電車には何回かのった。只見から夕べやっと一両の車両がのこのこと小出までやってくる。月見草より待宵草があっていた。川の岸辺に咲いて只見から来る電車を待っている。ここで路線は交わるからそうでもないが鉄橋をわたりやっとやってくる一両の電車は印象的なのだ。
只見は遠いし会津はさらに遠い、あの辺も相当に山深い広い地域である。日本は狭いというけど福島県だってここを歩くなり自転車でも相当広い、特に会津は奥深いからすべての道を行くことはできない、西会津は新潟まで高速バスで行った時通った。会津という土地は山におおわれているからわかりにくいのだ。結局わからずじまいになったのがかなりある。人間は近辺の地理を知るだけでも相当な時間が必要である。相馬藩内でもそうでありこれが会津になると2000メ−トル級の山がひしめいているのだからわかりにくい、電車で行っただけではわからない、一二回自転車で行ってもわかりにくい、その会津を只見から新潟の小出へでる地帯も広い、そして魚野川は印象的な川になる。ここにも二回三回行った。電車で行くとここで泊まることになるからだ。その岸辺でテントを張った記憶もある。そこで川向いから夕べ蝉の声がひびいていたのが記憶に残ったのだ。塔寺というのも情緒ある駅名である。そうした駅名は記憶される。

地形的にも広々と開けた会津盆地が終わり、これから越後や上州に向けての山間の隘路に差しかかろうかというところ、旅人の多くはこの宿で旅装を解いたであろう
http://magok.cool.ne.jp/todera.html

塔寺
http://www.pref.fukushima.jp/aizu/kensetsu/tiiki-fureai/genki/akarutouderasennwoiku/2_9_1.htm

インタ−ネットにでているものはリンクを張ると共同制作になる。そこがどういう場所だったかはあとで調べられるので便利である。

2009年04月13日

二本松の桜(霞城の桜)

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本丸を四方に望み花の昼

春暑し本丸上る人の波

夕日さし松に桜や霞城

春の山かなたは相馬洗心亭

城の内日影の井戸や落椿

安達太良の連なる山々春の夕

夕風に落椿あまた城の内

霞城松に桜に夕日かな

三三五五花見絶えじや夕日かな

十万石城に映えにし桜かな

小浜城訪ぬ人あれ夕桜



阿武隈の山中深くいでて見ゆ城に映ゆ桜安達太良望む

二本松相馬を結ぶ道ありて城に桜や春日入るかな

津島より二本松への道のり遠しバスに揺られて春の日行きぬ

合戦の枝垂桜や阿武隈の山中深く古りにけるかな

夕風に城の桜の騒ぐとも松は静かに白壁に映ゆ

春うらら二本松は遠くともその道のりに桜咲きつぐ

二本松へ桜咲きつぐ道のりやバスに揺られて遅くともよし

満開の桜に映えゆ百輪の椿は風にゆすらる夕べ

本丸の石垣の反り厳しかな春の陽眩し安達太良に没る

本丸に我が上りつつ安達太良をまじかに仰ぎ春の日の没る

夕風に桜騒ぎて二本松少年隊の急ぎ散るかな

(小浜城)

小浜城興亡ありて埋もるかな過ぎゆくしばし春の夕暮

二本松田村相馬とせめぎ合う小浜城跡春日入るかな

小浜城政宗ここに一時を城主とあれや桜咲き散る

小浜城戦乱の日々あわれかな変わる城主や花咲き散りぬ


二本松までの道のりは長かった。一時間半以上かかった。くねくねした山の道を行き、桜がどこまでも咲いていた。もっとゆっくりでも良かった。バイクとかでもただ飛ばすだけである。ゆっくりと見る時間が必要である。でも今の時代バスは遅いのだろう。バスはすでにスピ-ド時代にあわなくなっている。もしかしたら津島からのバスもなくなるのかもしれない、あそこも四五人だけではやっていけないだろう。二本松に着いたのは三時過ぎだった。まもなく夕暮れになった。安達太良山という山はない、安達太良連峰であり一つ一つの山の連なりを安達太良なのである。安達太良を背景にして二本松の城は映える。やはり桜の時期が一番映える。途中の小浜城も城であり若い政宗がここの城主となった。田村や相馬や会津まで加わりせめぎ合いの場となった。最後は会津の蒲生氏郷が治めたという、この城をめぐって興亡があった。今回の二本松は夕べになり風が吹き満開の桜をゆすった。桜は咲いたら散っている。静心なく花の散るらむ・・である。静に咲いている暇がないのが桜なのだ。そのように急ぎ散ったのが二本松少年隊であり戦争で死んだ学徒とか特攻隊であった。やはり゛桜は日本を象徴する花である。写真はいいのがとれなかった。前にとったのでいいのがあった。自分でもこれをどこからとったのか覚えていない、でも構図としては決まっている。こういうふうに一部ではない全体をとる写真はむずかしい。去年きたときはすでに桜は散っていた。桜は散る時もまたいいからう一回行ってもいい、二本松の桜はやはり福島県では一番いいような気がする。

2007年07月16日

消えた中山宿のスイッチバック駅(郡山−中山宿−会津)

 
 
消えた中山宿のスイッチバック駅(磐越西線−郡山−中山宿−会津)(鉄道の部)
http://musubu.jp/jijirailway.htm#naka
 
会津には鉄道を利用して何度も行った。そこで中山宿のことを思い出した。スイッチバックで一旦本線からそれた駅にとまりまたバックして坂を峠を越えてゆく、この遠回りな感じが旅情をかもしだしていたのだ。これから坂を上ってゆくんだぞという人間的なものが電車にもあった。そのときはいつも芒がなびいていた。今の旅はこうした旅情がない、あまりにも早く早く行ってしまう。旅はふりかえればある所に留まる時間が長ければ長いほど記憶に残る。そして何度も行ったところはやはり記憶に残る。海外が記憶に残らないのはたいがい一回くらいしか行けないからである。中山宿には少なくとも10回近く停まっている感じがするからそこが思い出の場所となったのである。そこはすでに商人とかが仕事のために行き来しているような所だった。ただ会津も福島県なのだが電車だと不便で遠回りになるから何か福島県と言っても遠い世界に感じてしまう。仙台は近いが会津は遠い世界になってしまうのだ。

2007年05月19日

飯坂線−十綱橋−医王寺

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車両古り飯坂線や菖蒲かな

十綱橋ひびく流れに夕燕

十綱橋渡りて遠きみちのくの奥や夕日に山桜かな

(医王寺)

月影に鎮まる寺や花の散る

古の墓に花散る夕べかな

途中駅医王寺ありぬ飯坂線芭蕉もよるや落椿かな

医王寺に着物の女性静々と後姿や落椿かな


飯坂には芭蕉も寄っている。

「奥の細道」の中では「飯坂」ではなく「飯塚」と記されています。これは昔「飯塚」と呼ばれていたこともあったようでそれを引用しているのかどうかは定かではないようです。

 「其夜飯塚にとまる。温泉あれば、湯に入て宿をかるに、土坐に莚を敷て、あやしき貧家也。灯もなけれバ、ゐろりの火かげに寢所をまうけて臥す。夜に入て雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、・・」

飯坂は飯塚だったのだ。塚というとき誰の塚なのか?

「月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が舊跡は左の山際一 里半斗に有。飯塚の里鯖野と聞て尋たずね行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が舊舘也。梺に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたハらの古寺に一家の石碑を殘す。中にも二人の嫁がしるし先哀也。女なれどもかひがいしき名の世に聞こえつる物かなと、袂をぬらしぬ。墜涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へバ、爰に義經の太刀・辨慶が笈をとゞめて什物とす

  ”笈も太刀も五月にかざれ帋幟”


この人の塚なのか?そうでないにしろ塚の方があっていた。飯坂のイメ−ジは鄙びた温泉とはまるで違ったイメ−ジとなってしまった。何か猥雑なものさえ感じてしまうのだ。ただ不思議なのは飯坂線は鄙びたものを感じてしまうがこれも栗原線がなくなったように風前の灯になっているのではないか?線が余りにも短いからあそこに残っているのも不思議である。みんなあのくらいの距離だったら車で行ってしまうだろ。

◎平安時代
藤づるで編んだ吊り橋がかけられていた。千載集に「みちのくの とつなの橋に くる綱の 絶やすも人に いひわたるかな」とある。
◎文治5年(1189年)
大鳥城主 佐藤元治は義経追討の鎌倉勢を迎え撃つため、自らの手で橋を切り落とし石那城合戦に赴いた。
その後は、両岸に綱を張り船をたぐる「とつなの渡し」にたよった。しかし、摺上川(すりかみがわ)はたびたび氾濫する川で、船の往還にも難渋した。
◎明治6年(1873年)
盲人伊達一、熊坂天屋惣兵衛らの努力によりアーチ式の木橋が架けられ「摺上橋」と命名されたが、一年ほどして倒壊。
◎明治8年(1875年)
宮中吹上御苑の吊り橋を模して10本の鉄線で支えられれた吊り橋が架けられ、「十綱橋」と命名された。
◎大正4年(1915年)
橋の老朽化に伴い、当時としては珍しい現在の「十綱橋」が完成された。昭和40年(1965年)に大補修が加えられ、飯坂温泉のシンボル的存在となっている。


飯坂の はりかねばしに 雫する あづまの山の 水色の風   与謝野晶子

(飯坂ライオンズクラブにより、橋の横に立てられた「十綱橋の由来」より)



十綱橋というのも昔を偲ばせるものだった。ここもそれなりに昔から知られていた。吊り橋であり渡しであり鎌倉勢がおしよせたときもこの橋を切り落として戦った。橋が倒壊したり再び10本の鉄線で橋がかけられた。雫するとは明治になっても鄙びた感じの橋だった。橋にも歴史がある。今はどこでも雫してもびくともしない橋になっている。

医王寺は風情のある寺なことは確かである。そこには着物姿の女性がにあっていた。やはり京都でもそうだが日本的な場所には着物姿がにあうのである。これは文化なのだ。しっとりと落ち着いた回りの景色にとけこむのである。こんなところに派手な今風のファッションの若い女性が入ってきてキャキャ騒ぐと興ざめになるのだ。観光地化するとそうなりやすいし全国的にそうなっているのだ。

旅は思い出す旅がかなり重要なことがわかった。30年前でも生き生きと思いだせば書ける。忘れれば書けない、ここも通ったのだが十綱橋を渡ってさらにどこに行ったのか記憶にない、飯坂線で行ったのだが良く覚えていないからだ。俳句とか短歌は残っていたからここでまた再編集した。前にも書いていたから常に再々編集もしているのがインタ−ネットなのだ。いくらでも再編集しやすいからである。だからインタ−ネットのプログでもホ−ムペ−ジでも絶えず書き加えたり再編集の連続なのである。