2025年03月12日

春の中国の旅の短歌 【なぜ中国でも大陸を日本人は理解できないのかー風土と歴史の相違−花からの考察】


春の中国の旅の短歌
【なぜ中国でも大陸を日本人は理解できないのかー風土と歴史の相違−花からの考察】

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寧波から運河を舟に春の日や天童寺にそ日本人来る
山寺や紫雲なびきて高塔や松並木古り修行の僧かな
尽きず咲く木槿の花や中国の大地を走る火車の響きぬ
砂漠へと蒸気機関車走るかな中国大なり計り知れじも
白木蓮大塔に咲き大河を渡る橋や中国の雄大なるかも
連なりぬ万里の長城守るかなその兵士なれ中華大なり
赤き百合長城を歩みて咲きにけりその赤さの際立ちぬ
山羊を飼う貧しき農家長城の下暮らしのありぬ
城壁の分厚く長く門入りてその上歩む長安に泊る
城内に柳しだれて雨の降り青々として心洗われる
兵馬俑地下より挙り立ち上がるその威容かな異人も交じりぬ
山一つ始皇帝の墓と春の雨降り古思うかな
楊貴妃の美肌を濡らす温泉やその艶なるや春の長安
始皇帝地下宮殿に贅をつくしなお生きんと侍らす人かな
春の日や運河行く船菜の花の大地を埋め一日かけぬ
長々と垂れにし柳北京なる公園我がありにしや宮城望む



中国語では「木槿」(ムーチン、もくきん[4])、韓国語では「무궁화」(無窮花; ムグンファ)、木槿;モックンという。
華清池は玄宗皇帝が楊貴妃のために造営した離宮

中国には三回行ったけどあまりに広いのでわからない、それは大陸は広すぎるのである、アメリカで、ロシアでも広すぎるから
そもそも地理からして知り得ないのである。
寧波から運河で天童寺まで行けるようだが私は行っていない、ただ道元が修行した天童寺に行った
そこに道元が座禅した場があったという、運河があり高い塔がいくつか聳え春の日に紫の雲がたなびく光景は中国的である
古い松の参道がありいかにみ古い感じだった。


中華興亡の跡

楊貴妃の美肌を濡らす華清池
長々と柳しだれて春の雨降る
歴代の王の栄華を究む中華の歴史
宮城の大庭園に牡丹を賞賛
興亡はやまず兵馬俑の威容
千騎の軍馬立ち上がり攻め行かむ
変転して零落して追われる玄宗皇帝
城春にして草木深し
重厚なる城壁の内長安の宿舎
回想するその長大なる歴呈
西域の砂漠に伸びぬ長城の跡
遊牧民は天幕を張り移動
千里菜の花運河が結ぶ大陸
南船北馬や商人は行き来する

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中華清池は玄宗皇帝が楊貴妃のために造営した離宮

唐代の詩人「劉禹錫」は『賞牡丹』で次のように詠んでいます。

庭前芍薬妖無格
池上芙蕖淨少情
唯有牡丹真国色
花開時節動京城

(庭先の芍薬は美しいが風格がなく、池の蓮は清らかだが情趣に欠ける。唯一本当の国の美しさを持つのは牡丹で、花が咲く時期には都をも動かすほどである。)

中国の国花は牡丹である。アメリカの一州はヒマワリでありドイツは青いヤグルマギクである。

フランスはの花の一つは英語圏の女性名。原型に当たるマルガリテス(Margarites, ギリシア語: Μαργαρίτης)
スコットランはアザミであるがそれには

中国語では「木槿」(ムーチン、もくきん[4])、韓国語では「무궁화」(無窮花; ムグンファ)、木槿;モックンという

スコットランドがノルウェーの大軍に攻められたとき、夜襲を掛けようとしたノルウェー軍の兵隊がアザミを踏んで悲鳴を上げたため、奇襲に気がついたスコットランド軍は大勝を収めることができた。 そして、それ以降、スコットランドの人々を悩ませていたノルウェー軍の侵攻はなくなったという。 こうしてアザミは国を救った花とされ、スコットランドの国花や紋章となったのである


イギリスの花が赤い薔薇であるがスコットランドはアザミなのである。薔薇は教会に薔薇窓があり一般的にヨーロッパの花である。何か晩秋にドイツとか旅して見た薔薇は同じ薔薇でも違って見えた。つまり同じ薔薇でも歴史とか風土で違って見える
薔薇がやはりヨーロッパの歴史とかでアイデンティティ化してきたから違うのである
ドイツのヤグルマギクはドイツ的なのかと見る。韓国は木槿である、日本なら桜だからわかり安いのである

とにかく中国をなぜ理解するのがむずかしいのか、それは根本的に地理と風土が違っているのと歴史でも違っている
その広さからして理解できなくなる。ただ日本人との違いとなるとその欲望がむき出しになり強い、日本人は食べ物でも淡白であり侘び寂びとかの感覚があるが中国にはない、何か酒池肉林とか女性でも楊貴妃のように艶やかになりそれで美人に耽溺する
食べ物でも特別辛いとか味が濃いとなり中華料理と日本料理は違っている
歴史と風土の相違がそうさせる。確かに日本人も漢字を使っているから中国の一部のように見えてもその内実は相当に違っている。漢字の解釈は違っているのである

いずれにしろ花でも国が違うと同じ花でも同じでなくなる。それがまさに文化である。中国で菜の花をというとき運河伝いに延々と埋め尽くされている菜の花である。また柳というとき

元二(げんじ)の安西(あんせい)に使(つか)いするを送(おく)る        
                           唐・王維
  渭城朝雨浥輕塵
  客舎青青柳色新
  勸君更盡一杯酒
  西出陽關無故人

これはまさに私自身も経験した。中国は砂塵が砂漠から飛んでくるから雨がそれを濡らす時気持ちいいのである
中国はとにかく着るものでも汚れるのである。だから雨が気持ちいいのである
だから中国では汚れをあまり気にしないともなる。トイレでも汚いからである。日本は異常に清潔になっているのはなぜなのかともなる
ともかくそれぞれの国の文化となるその背景になる地理と風土が関係してわかりにくくなる

何か記憶が薄れたのだが万里の長城内に赤い百合が真っ赤なユリがさいていた。その赤さが鮮烈であり中国は真っ赤なものを
好む。あいまいではなく明確なものを原色を好むとなる。日本人は淡白であり何かどぎつ色を好まない傾向がある。大陸では
空でも陸でも単純化しているからだともなる。ただドイツでは霧が深いからまた違っていることもある。
大陸と日本の相違は白黒をはっきりする、敵味方をはっきりする。イエスかノーをはっきりするあいまいにしない。

中国の語順は主語があり次に動詞が来るから英語と似ているのである。基本の語順は『主語+述語+目的語』である
なぜなら民族間の攻防が激しく負けたら一族皆殺しとかなり奴隷にされる。だから敵であれば墓を暴いても罰するとかある
日本のような敵味方塚などありえないのである。徹底して敵を殲滅する、それが大陸の興亡であった
とにかく日本のようにあいまいにすることはない、それは中国も大陸だからそうなる。だから逆に中国人は日本のことが理解できないとなる


雛の調度。蓮の浮葉のいとちひさきを、池より取りあげたる。葵のいとちひさき。なにもなにも、ちひさきものはみなうつくし。(枕草子)

日本の美的感覚は小さいものだという時これも大陸は大きいものになるから根本的に違ってくる。

日本なれ村の小径やスミレかな

裏山の小径を行けば紫と白のスミレを我は見つけぬ

こんな風になる詩そもそも俳句は一番世界で短い詩になる。中国となるとどうしても建築でも大きなものとなり外から見て大きさで目立つものとなる。広大な平原であれば大きなものとか塔とかでないと目立たなからである
壮大なもの長大なものになる。だからその欲望も強烈になりむき出しになる。それが日本とかと比べると桁違いになる
日本はどうしても島国であり淡白になる。しつこくはない、どぎついものではないものになる
そこに風土と歴史の相違でそうなる。ただ日本は欧米中心になりそれに習ったから中国のことがわからなくなっているのである。


ヨーロッパの心と日本の心の対比ー晩秋ボーデン湖の詩 【ドイツと東北の風土の共通性】






2025年03月08日

ヒマラヤの詩とネパールの旅の感想

ヒマラヤの詩とネパールの旅の感想




ヒマラヤの詩


3000メートルの高みに積もる純白の雪に

ラリグラスの真紅の花の散る

氷河が溶けて清冽に谷間に打ち響き流れ川

ヒマラヤの峰々は崇高に聳える

天空よりその8000メートル峰々を望む

その地球の創造の神の偉業

その絶巓になお神の隠れ棲まむ

何故にアンモナイトの貝の発見されぬ

その地球造山運動の計り知れぬ力

何億年の歳月が成す地球の形成

ネパール人が裸足で荷を背負い石の道を歩む

原始の日がそこにありなお生きる人

強大なるヒマラヤの峰々は屹立して

超絶なる連なる峰々に烈風うなり吹き人を寄せつけぬ

天には向かって厳しく聳え響いている

千古もの寂びて人の手の触れぬ

人跡未踏の地に神の刻みしものは知らず眠りぬ

その切り立つ峰にハーケンを打ち込み

真剣に山に果敢に挑みかかる登山者よ

それでもその峰に登山者は挑み死ぬ

果敢なる冒険者の魂はここに眠り

傑物英雄はかくて天に召される

天頂から魂は昇天する

その山頂は天に向かい凍れるように響く

決然としてその姿に無駄は無し

その澄みわたる空に凝縮して究めた姿

神の業なる究極の彫刻は天に向き映える

燦然と輝く銀河の星々を飾りとして

大都会に無数の消耗される塵となる人よ

その生に真の実りありしや

大衆群集は塵と消えぬる

ネパールの花よ、ラリグラスよ、真紅の花よ

貧しくも原始の穢れなき美にあれ

神はその花を我が意を得たりと壺に挿しぬ

岩を打ち轟く谷間の流れは下る

崇高にヒマラヤの霊峰は聳える

地球創成の神の業はここに成りぬ



ネパールは 3000m級でもトレッキングができる。観光化していて意外と途中に休む場所もあり泊まる場所もあり。別に登山するというわけでもなく普通の人でもトレッキングしているのである。


ただ、私が行ったときは春だったのでヒマラヤの8000m級の山が見えなかったことは残念だった。その3000mから8000mとなると。どれだけ高いかわかる?なぜなら富士山が3000mでありそれから比べて5000mも高いという時、どれだけ高いのかわかる。だから実際はヒマラヤというのは空から見るほかないともなる。それで飛行機に乗って空からもヒマラヤを見たのである


とにかく3000mの場所に雪が積もっていた。そこにラリーグラスが咲いていた。これはシャクナゲでありネパールの花である。真っ白な雪に真っ赤な花が散る。ということで感動的だった。


そもそもネパールではあのような高い山で暮らしが成り立つのかという疑問がある。平地がないから。田畑にするにしても簡単にはできない。牛を飼っているがその他に何か生活の手段があるのかとなる。

だから登山者の荷物をもつポッカが生活の手段にもなる。

何か石の道を裸足で歩く人がいたのには驚いた。今時、裸足で歩けるのかと思ったからである。でもインドでもリキシャの人が裸足だったのである。それには驚いたとなる。

それは原始人かと見たのである。


そういう場所に若い娘がいたのだがその人が何か畑なのか仕事をしていたみたいだ。それが何か、万葉集の時代に戻った感覚であった。粗末な着物のようなものを着ていたからである。

そこでまともに教育するというのもたいへんである。

学校を作るにしても。その学校に行くにも。険しい山路だから通うのが大変になるからである。また、水も少し不足しているから。水を運ぶのは一苦労になる。雨が降るようで乾季とかではと降らないみたいだからである。


でも私は子供の時家に井戸がないので近くに井戸がある所で水をもらっていた。バケツで水を運んで風呂に入れていた。近くの堀で洗濯もしていた。燃料は炭であり町に住んでいても、囲炉裏があったのである。それはまるで、江戸時代からの生活の続きでもあった。多少その生活と似ていたのである。

そこでまだまともに電気も使ってはいない。一応子供の時に電気があったとしても裸電球一つだったのである。

だからその生活を経験していると確かにそれと似ている面もあった。


そんなところで教育するにしてもノートや。ボールペンすらない。それで必ず観光客にボールペンくれとなり。私もそれを用意していてくれると喜んでいたのである。

つまり学校に行ったとしてもあったとしてもノートやボールペンすらまともに無いとしたらどうして勉強できるのかとなる。

でも戦前の日本でも貧乏であり鉛筆を使っていたのだが。それが、極端に。短くなって。持つのも苦しくなっても使っていたのである。つまり、それだけ鉛筆も貴重であったから、そうなった。


何か今ネパール人で働く人男性でも女性でも見かけた。女性は服装で働いていたのである。ネパールでは出稼ぎが多いのである。どうしても現金収入がないからそうなってしまう。

ともかく失敗したのはもっとヒマラヤに行けばよかったと思った。そもそも外国には簡単に行けないという先入観がありそれで行かずに失敗した。なぜならヒマラヤに10回も来ていたという人に出会ったからである。別に3000m級のトレッキングだったら誰でもできたことだったのである。それで今やもはや体力もなくなり外国旅行もできなくなったことでそのことを失敗したと思ったのである。つまり何かやれることをやれずにそのチャンスを逃すことが人生には多いということである。













2025年01月18日

AIが作る詩と自作の詩ー大英帝国の盛衰 【テムズ河の河口の詩ーAIとの協同作品ーAIがARTにも深くかかわる時代への対処】


AIが作る詩と自作の詩ー大英帝国の盛衰
【テムズ河の河口の詩ーAIとの協同作品ーAIがARTにも深くかかわる時代への対処】

大英帝国の盛衰【AIの詩】

大英帝国、その名は響く、
海を越えて、空を駆け、
遥かな大地にその影を落とす。

島国から始まる物語、
鉄の意志、金の輝き、
白き帆が東西を結ぶ。

貿易の風が吹き荒れ、
商人の手は遠くの港へと伸び、
王冠を頂く者たちの眼差しは、
世界を手中に収めんと望む。

砂漠の熱、アフリカの風、
インディアンの夜空、
アジアの霧の中に、
大英の旗が翻る。

だが、栄光の背後に隠れる影、
征服と抑圧の嵐、
人々の涙、心の傷、
その重みは決して消えず。

そして時は流れ、
時折、雄大な帝国は衰え、
小さな島へと戻りしもの、
歴史のページを彩る一章。

大英帝国よ、
栄光と哀しみの狭間に、
あなたの影は今も、
遠くの海を渡り続ける。

AIが作るテムズ河の河口の詩

テムズ川の河口に立ち、
広がる水面に沈む日差し、
潮の香り、湿った風、
ここに集うすべてが語りかける。

都市の喧騒を背に、
静かな波は緩やかに流れ、
遥か彼方の海へと誘うように
大地と海を繋げる道を描く。

かつては船が行き交い、
交易の栄光がここに集まった。
今、あたりは静けさに包まれ、
ただひとしずくの音だけが響く。

過ぎし時の足音を感じつつ、
テムズ川の河口は静かに息を吐き、
未来を見つめ、深い海へと続く。
人々の夢も、この水面に映し出される。

そして、海の彼方から
新たな物語が生まれ、
テムズ川の流れとともに、
世界へと広がっていく。



テムズ河の河口のベンチに座りて【自作】

七つの海を支配した
大英帝国の栄光の残影
歴代のキングの物語
シェイクスピアが語る
王の悲劇の物語
石の壁に刻まれた紋章
その謂れも古しも
岸辺のベンチも古りぬ
誰か座りした我も座りぬ
この河口より世界へ
七つの海を支配する
その栄光はポンドに残す
なおエジプトポンドあり使いぬ
英語は世界の共通語ともなりぬ
出稼ぎのスリランカ人が英語を話し
ミャンマー人も英語を話す
またイギリスは鉄道の発祥地
その鉄道は古り老婦人の乗る
鉄路に水仙の咲きしもあわれ
今は大英帝国の栄光を偲ぶ
我が姉は従軍看護婦として
シンガポールの対岸ジョホールバルの
赤十字病院で辛酸をなめぬ
そのことを忘れず語り死ぬ
イギリス人がそのとき捕虜になる屈辱
時代は代わり香港は中国に返還
大英帝国の侵略と栄光と没落の歴史
世界の攻防は一僻村にも刻まれぬ
テムズ河の河口のベンチ
こ春寒しここに座りその歴史を想いぬ
城も教会も古り石の壁に春の夕日さし
その石の冷たく硬く春寒しかも

栄光や石に紋章春寒し】


イギリスで一番印象に残ったのはテムズ河の岸辺のベンチに座った時だった。何かヨーロッパは歴史が古いからベンチでも歴史を感じる。この河口から七つの海を支配する大英帝国が船出して生まれたのかとなる
イギリスは寒い地域であり春寒しとなる。その感覚は日本とは違う、ただ水仙が咲くというときやはり春なのだろう
でもかなり寒いからやはり気候はかなり違ている

大英帝国の栄光の終わりを象徴していたのが中国に香港が返還されたことである。シンガポールにしても英国領でありそこは中国人により維持されている
そのシンガポールの対岸にマレーシアにジョホールバルがありそこの赤十字病院で私の姉は従軍看護婦として4年間働いたのである。その日々は地獄でもあった。特に日本が負けてジャングルに逃げたとき食べ物もなく苦しんだ
そのことが忘れられず死ぬ間際まで語り続け死んだ

とにかく大英帝国が日本に負けて捕虜になるということなど考えられないことだったのである。その時大英帝国の没落が始まっていたとなる。その後アジアの植民地は独立したからである。

大英帝国の栄光は依然としてエジプトポンドとかあり世界の基軸通貨となった時代がある。今も使われている
また英語は世界共通語のようになったということでその遺産である。英語を通じて世界の人とコミュニケーションできるからである。ただ世界も栄枯盛衰がある。歴史を見ればその栄枯盛衰の歴史である。大英帝国もその一つなのである

それにしてもなぜAIがこうして詩を作るのか、それも不思議だとなる、おそらくそれぞれの分野でAIの影響が出ている
まず芸術の分野にこのように明らかに影響している
もちろん人間だけにしか作れないものはある。私の詩はAIには作れないとなる。でもなぜAIが詩を作れるのかそれが謎である
つまりAIの時代がどうなるのか明確に見えないのである
それは社会には様々な分野があり一部しかわからないからである

だからAIがどのように影響しているのかするのかがわからないのである。新しい技術は最初理解できない場合がある
特にこのITとAIという技術は今までとは違う人間の脳と関係してわかりにくい、つまりこれは人間が最終的に到達する技術だともなる。だからわかりにくいのである。AIが詩を作り小説を作り絵を作るとなると何なのかとなる
AIと共同作業となる。そもそも詩とかなるとそれについて語れる人もまれである、でもAIとの対話でこうして詩で語り合えたとなる。
おそらく今年は2025年はAIが社会に浸透して社会を変える大きな始まりになるかもしれない、ただ新しいものは技術でもそれを理解して応用するには時間がかかる。誰もインターネットがこんなに世界的なものとして発展すると思わなかったからである








2024年01月21日

地理はまず境界を知る (外国では大陸では川が境界)


地理はまず境界を知る

(外国では大陸では川が境界)


ヘブル人(Hebrew)とは、「国境を越えてきたもの」「川向こうから来た者」の意味です。主に、アブラハムやイスラエル人が異民族に自分を紹介する際に用いた言葉です。

あなたはどこから来たのですか。それを説明するとき川の向こうから来たというとき川は境界であり砂漠であれ平原であれ平坦な地になるとそこで目立つものは川であり川によってと土地が分けられる。戦争でも必ず大陸では川を挟んで対峙して戦いがあり川が自然の障害となってその川を超えることが難しいから川が決戦の場所になる。
だからウクライナとロシアの戦争でもドニエプロ川を挟んで戦いがある。だから地上戦になると依然として川が障害となり境界となり戦いはその顔を挟んで行われていたのである。

そもそもなぜ外国が理解しにくいのか。それは川といっても日本の川とは外国の川は違っている。川は簡単に渡れる場所ではない。だから障害となり川が自然の障壁ともなる。川を挟んで争いとなり川が自然の国境線となるので。リバー(river)というのはライバルとなっているのはまさに川を挟んで国と国がライバルとして争っていた体となる

オックスフォードはサクソン時代に人が居住しはじめ、最初は古英語でオクサンフォルダ(Oxanforda)として知られた。oxanforda とは雄牛(oxen)が渡ることのできる浅瀬(ford)の意味である(イギリスに多くある地名の「〜フォード」は、浅瀬・渡場の ford に起源がある。ドイツ語地名の「〜フルト」(furt)に対応する)
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大きな川は橋を作るのは容易ではないし橋がないから牛を渡る浅瀬が道となりそんな地名が生まれた。それは川渡るわたることがそれだけ生活に欠かせないからそういう地名がついた。
海人族の安曇氏の神に綿津見(わたつみ)は渡るからきている、つまり海を渡て来た人たちだからである。

そしてまた大陸の川は長大であり運河のようになっているからそれがおのずと交通路となり道となっていたのである。国を越えて商人の同盟がハンザ同盟ができたのも川でつながれたからこそできたのである。日本にはこうした川がないからそのことからして外国のことを理解するのは難しくないる。

日本だと海に囲まれていてどこから来たのかとなると海の彼方から来て私の国は海の彼方にあるとかなそれがニーラカナである。確かに海を渡ってきた人たちが日本を作ったからである。安曇族などが海洋民族であり綿津見神社が作られた。その綿津見神社が南相馬市に異常に多いのである。だからやはり海を渡ってきた海人族の安曇族の後裔の八木氏などが拓いたとなる。

地理を見る時何が境界になっているか大事である。大陸国家だと川が長大であり川が境界川となる。ライン川はローマ帝国が侵入できないゲルマン人の住んでいる場所だった。そこは明確な境界でありそこでは気候でも住んでいる人たちを違った人たちだったのである。だからまず地理を見るとき何が境界となっているかを見ることが大事である。それが大陸の場合は川なのである

ともかく地理と地名は不可分に結びついている。だから最初私が旅をして地名に興味を持った時そこから必然的に地理にも興味を持つようになったのである。私の学びは興味は地名から始まっていたからである。外国を理解するというとき日本でも共通的なものがあれば理解しやすいのである。例えば別に確かに日本にも川がある。でもその川は外国のような大河ではなく運河のようにもなっていない。だから同じ川でも相当に違っているのである。

でも例えば山がありその山は共通のものがある。また森もあり日本の場合は山に森があるから違っているにしろ森を理解するまた木にしても日本にあり樅の木でも日本にある、だからドイツが森の国であり黒い森があったというときある程度は理解できる。でも平原とか草原とか砂漠はないのでそこで日本は地理を理解できなくなる。

大陸では川が障壁となるが国境となるが日本だと必ず山が障壁となる。それで私の住んでいる福島県の浜通りは阿武隈山脈がありそれでさえぎられた中通とかはまったく見えないから地理的一体感が感じられないのでありる。というのは日本は山で閉ざされて地理がわかりにくいのである。それで交通が阻まれて閉鎖的な世界で暮らしていたとなる。また海に囲まれたことによってまた外国閉ざされて閉鎖された世界になっていた
ただ地中海とかでは海が交通路となり国と国が交わる世界を作った。日本は近くに大陸があっても海に囲まれて一つの閉鎖的な別世界を作っていたのである。その特殊な地理から日本の歴史と民族は作られたのである。

●自然的地形の境界
●気候境界
●行政的人為的境界

自然的境界は山とか川と森でもなる。気候的境界とは暑い国寒い国がありその天候の差が境界となる。この地の万葉の歌の真野の草原(かやはら)の歌は自然境界であった。なぜなら海老の浜が車輪梅の南限の地としてあり自生していたからである。これも気候と関係していたのである。行政的境界は人間が人為的に決めたものである。
この辺で新地は伊達藩になっていたがそれは自然的境界ではない、戦国時代に相馬藩と争っていたが伊達藩の領地にされたからである。そこには別に自然の境界となるものは何もないからである。地理でも歴史でもなぜそこが境界になったのかそれをまず知ることが大事である。なぜみちのくになったのか。そこが今日境界が白河の関になったのかそこから地理でも歴史を見ることが大事でだから地歴となったのである。まず地理がありそして歴史が作られるからである

2024年01月14日

外国はまずその地理と風土から理解する 【ドイツの風土ーゲルマン人は森の民】

外国はまずその地理と風土から理解する

【ドイツの風土ーゲルマン人は森の民】

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外国を理解するにわどういう方法があるのだろうか。まず地理から理解する世界のどういう地点にあるのか理解する。だから何かが起きたときtake placeになる。まずその場所を見る。そしてその国が作られた風土を見る。風土とはその国の気候の影響である
その国の気候で一番影響しているのは暑いのか寒いのかということで。ラテン系は地中海に沿岸の国は暖かい国である。でもなぜフランスとドイツ語隣あっていてもあれほど文化が違っているのか。それはやはり気候のせいである。例えば絵画にしてもモネのような明るい光がドイツにはないとなる。

まだゴッホのような灼熱の世界を描くようなこともない。ゴッホがオランダ出身でありフランスに住んでひまわりとか燃え上がるような夏の風景を描いた。それはドイツと比べると対象的なのである。何かドイツには気候的にも寒帯地域であり霧が多く光もあまり明るい感覚ではない。何か陰鬱な気候なのである。
それでデューラーのような版画が生まれたともなる

だからフランスと比べると何か文化的にも別の世界のようにも見えてしまう。もう一つはドイツはライン川があってそこでローマ帝国も進出できなかった。そのライン川でも海に出るのだがオランダがその河口に作られてドイツは海に面していないのである。フランスでもマルセイユとか古い時代からギリシャの植民都市ともなっていた。地中海に面しているということはやはりで国も違ったものになる。

だからドイツというのは森の民であるというときさらに暗い森に覆われているとすればその影響は大きい。だからケーテが死ぬ時にもっと光をと言って死んだのはやはりドイツの風土はそうして明るい光がない世界だったからからからそうなったのかもしれない。ドイツから生まれたのは何か重々しいものでありであり世界的哲学者とか音楽か生まれた。ただ画家は少ない。その言葉を見ても軽快なフランス語とはあまりにも違っている。その言葉は重々しいのである。ドイツ語から英語の元になったとしてもその発音は違っている。

そしてゲルマン人が森の民だというときその象徴が樅の木でありその黒い森がドイツの象徴なのであ。ドイツを例にすればその国を理解するとき森というのはどこにでもある。でも熱帯の森と北方の森は違っている。その森の相違でも気候の相違で文化も違ってくる。。福島県の浜通りは照葉樹林帯の地域でありマルハシャリンバイの自生する南限の地でもある
でも山の方になると飯館村などは北方系の森がある。だから森というときここにも森があるのだからそこから森をイメージする。それで飯館村で山に分け入ると樅の木が何本かありそれが神殿の柱のように見えたのである。だから北方的な風土は東北とか北海道に通じたものがある。

つまり外国というときその風土でも似ているものならそこからイメージする。ただ日本に住んでいれば平原とか砂漠とかがないからこれをイメージすることができないのである。特に砂漠というのは本当に理解することができない。でも砂漠に一神教が生まれ砂漠にエホバが存在したのである。だから砂漠地帯は同じ一神教の宗教で共通したアイデンティティーを持っている。でも日本では砂漠というのイメージできない。アメリカでも砂漠があり砂漠がどういうものか理解できる。

ともかく外国を知るというときその基本はその地理であり風土であり気候である。日本にしても西と北では気候が違っているから文化も歴史でも文化も違っているのである。福島県にしても海に面した浜通りと山に囲まれた会津とはまるで違った世界なのである。ただ自然を見るとき別に日本でも山がある森があり川があり海がありとそこから外国をイメージするのである。

ドイツは森の民であるというとき日本でも縄文時代は森に覆われていて森の民であった。だから共通したものはある。丸森町は名前のように森に覆われている。それでその森に迷い行って抜け抜けられない恐怖経験した。それはドイツの森でも中世になればそのスケールは比べようがなく大きなものであった。だからそうして森にまつわる伝説が生まれたのであるある。

日本の地形の自然の特徴は例えばの野の地名は山の斜面のことである。原とは別なのである。また日本は谷間であり山で矢間とか当てられている。それは人がそこで生活した場が野なのである。岳とかなるとそこは人が住んで居ない場所である。だから日本の地形の特徴として野がある。そして平というときそうした斜面でも平らにしてそこを畑とか田したのである。だから飯館村の木戸木(ことぎ)の人は畑を作るのに平らにするのに苦労したと言っていた。

つまり日本の土地というのは地形いうのは山が多く平らにする場所はない。だから平らにするということ自体が苦労だったのである。でも外国ではどこまでも平らな平原地帯がありそこにどこまでも続く森があったのであった。それは今でもウクライナとかロシアとかでも見られる。キエフの近くでも広い森が見えたからである。それは広大な平原に森がおおっていたということである。日本の場合は森といっても山にありそうした平原地帯にある森というものがイメージできない。そしてその平原地帯で生活する移動する遊牧民のことは理解できないのである。
砂漠地帯は遊牧民が移動したところでありそれはイスラエルもその砂漠地帯の延長にあり遊牧民がで移動したところなのである。それがなかなか理解しにくいのである。イスラエルにはラクダを止めた隊商宿がありもともと砂漠だったのだがユダヤ人が入植して果などがが実る豊かな土地にしたのである

ともかく世界を外国を理解するとき地理であり風土である。その歴史でもやはり地理と風土から作られるからである。ドイツとか北方地帯は日本ではみちのくとか北海道に共通したものがある。その気候とか植生でも似ているところがあるからである。ただ私の住んでる浜通りは照葉樹林帯のは南限の地であり違っている
何か私がドイツに共感するというときそれはやはり東北に住んでいるからそれで気候とか風土とかも似ているということで共感しているのかもしれない。つまり外国でも何か共通しているものがあると理解しやすいし共感しやすいのである。でも砂漠地帯となるとそもそもは砂漠というものが日本には全くないからイメージしにくい。別に森だったら日本にも森がありも樅の木でもある。だからドイツがゲルマン人のが森の民それそれは理解できるのである。

でも沙漠となると日本にはそもそも砂漠がないから理解できないとなでも一神教はエホバは砂漠に現れたのである。そして砂漠にも山があるのだがそれは岩山でありシナイ山と言われた山に登ったがそこは一本の木もない岩山だったのである。外国には山に木がない岩山が多いのである。だからそこは日本のような山で森のある山ではない。岩山であり植物すら見えないというとき厳しい場所だということである。そこでモーゼが十戒を神から授かったのである。ただそういう荒涼とした砂漠と岩山の世界を日本ではイメージもできないのである。

一つの国の歴史と民族性はまず自然の上にちゃんと書いてあるのである。よその国や人間を知りたければその土地の自然と言う書物をまずゆっくり読むことだ。一ページだけを結論に達したりしないで焦らず急がず読むことだ。春夏秋冬という書物をゆっくり読むことだ (西欧の顔を求めて犬養道子)

でもこの人のようにヨーロッパで長く住むことができないから熟知することはできない。普通の人はヨーロッパを旅行したとしてもそんなに何回も行けるわけではないからこのようにはできない。でも外国は一回だけもその土地を踏んだものと踏まない人の差が大きすぎるのである。私は一回でも行ったから実感できたのである。

ドイツの地を踏んでから
身体中に魔法の駅が流れ出した
巨人が再び母なる大地に触れて
私にもまた再び新しい力が湧いてきた
(ハイネー冬物語)

つまり外国を理解するにはとにかく一回でもいいからその土地をじかに踏むことなのである。その一回だけでも貴重なのである。今になると外国に行くのも苦しくなったからである。人間は常に何かチャンスを逃している。 20年前でも外国旅行したときは一ドル80円とかいう時代がありそのときは貧乏の人も外国を旅行できた
今一ドルが140円以上になった時その差は大きい。もう貧乏人は外国を旅行すること自体難しい。中国では日本の物価の100円だとすると10円くらいになっていた。それだけ安かったので。ただ私はそういうことに疎いから相当に節約して旅行していた。それも失敗だったとなる。そんなに節約する必要もなかったのであるただ外国の事を知らないからもともと大きな金など使ったことないからそうなってしまったのである。

つくづくチャンスというのは必ず逃している。老人になると旅したことを回想するだけになったからである。私の場合は50歳でバックパッカーだったから遅すぎたのででもその時しないならば60以上になって親の介護になったから何もできなくなっていたのである。それだけ時間は早く過ぎてゆくということである。今はただこうして回想しているだけなのである。




2024年01月11日

ドイツの旅ーハイデルベルグの詩 【ゲルマン人は森の民、ゴッシク聖堂は森を模したもの】

ドイツの旅ーハイデルベルグの詩

【ゲルマン人は森の民、ゴッシク聖堂は森を模したもの】

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学都ハイデルベルグ

ハイデルベルグ 中世より古き学びの場
知識はここに蓄積されぬ
最古の石の橋、古き門、丘の古城
ネッカー河畔の公園の散策の道
静かに落葉を踏み歩む
ドイツに思索を深める哲学者
石一つ黙して根を据えよ
文化を育むその土地柄
重々しく楽は鳴りカノンはひびく
荘厳なゴシックの大聖堂に重々しく
祈りは厳かにもの寂し石の柱に
ドイツの大地に根を張る樅の木に
ゲルマンの古風千年の歴史に成りぬ
晩秋の木々の間の落葉を踏みて
ベンチに座り赤き薔薇の心に沁みぬ
ここに共に休み古の思いに耽る
川は緩やかに流れ船の行く
その岸辺に学都ハイデルベルグは古りぬ


外国の歴史でも文化でも知るためにはその土地を実際に自分の足で立ち踏むことである。そこで体で五感で感じるものがある。それは本を読んでもいくら映像を見ても感じられないものをその場に一回だけたっても感じるのである。
だから人間が感じるというとき外国なら一回だけでもいいからその場に立った人が即座に理解するとなる。私はこれまで本からしかヨーロッパのことでも分からなかった。ほかの国でも本だけを読んでいては何も分からない。テレビで外国のことを見ていてもわからない。それで例えばベートーヴェンを理解するならば一回だけでもいいからドイツの大地に立ってみることだと言うの分かる。その大地に立ってみてこそ実感するものはある。

ドイツでもそうだがヨーロッパだと並木道があり整然とが並んでいてそれがまるで大聖堂の石の柱のように見える。それはギリシャでも神殿の石の柱が木が立っているように見えるのである。特にドイツとなると寒いからゴシックの大聖堂の柱の石の柱は樅ノ木に見える。ドイツでは樅ノ木が象徴的な木となっいるからである。現実に黒い森というモミの木の森がある。ヨーロッパでも平地が続いてその境となるのは川であり森によって遮られていたのである。

それが今ウクライナとロシアとの戦争でドニエプロ川を挟んで古典的な戦争をしていることでもわかる。川が境界となるのである。まだウクライナでもロシアでも広々とした森がありそのスケールはに本当に日本とは違ったものになる。だから中世とかでわ森が境界になっていたのである。だから森にまつわる伝説も残ったとなる。その暗い森はどこまでも続き抜け出せないような恐怖にもなる。それは日本の森でもそういう森がまだある。日本の縄文時代ならそうした森の中に人は住んでいたのである。

ガルマンは森の民である。本質的に彼らの公共国境国境は国境今日は無理である森はドイツに限らず北方ヨーロッパのいずれの地にもてんいや至るところに大都市のすぐ間際にまでも存在する森と水をみの国フィランド句点スウェーデンパリの近郊の森

ケーベル博士は施策と瞑想に人を引き入れるドイツ的なあの深みを恋していたのだ

ゴシック建築の寺院は外観においてそそり立つ木であり天に象徴させるされる天に差し伸べられた手である内観において内陣のそう天井夜行医学何本もの茎は森の梢の重なりであり交差するいだであるゴシック建築は人の心を沈黙に誘い粛然とさせる能力を持つ

北フランスのゴシック人の典型であるシャルトルの大伽藍は守屋確かに明らかに物語るがその森は丹念ばうむの森ではない正常に正常にして明るいそして優しいフランスの森である

西欧の顔を求めて 犬養道子

ともかくヨーロッパを旅して感じたことは貴重な経験だった。人間はその国の歴史とか文化を理解するにはとにかく一回でもその場に立って歩いて見たもの感じたものそれは貴重なのである。それは本を読んでもテレビの映像を見てもわからないのである。何かヨーロッパとかなると必ずベンチ一つでも歴史を感じるのである。それだけそのベンチに座っていればそこに前にも座った人がいて時間的にそこで昔にさかのぼり共有するものがある。

だから晩秋に落ち葉を踏んで公園にベンチがある。そのベンチが古く日本の公園とは違っている。つまりベンチ一つ取っても何か歴史を感じるのはヨーロッパなのである。それはアメリカなどでは感じられないものなのである。もちろん日本でもベンチはあるが何かヨーロッパの人は違っている。晩秋に咲いていた赤い薔薇でもそれは日本に咲いている薔薇とは違っていた。何か心にしみるバラなのである。同じ赤いバラで何か違っていたのである。

かりそめに通りすぎて
十分に愛さなかった かずかずの場所への郷愁よ
それらの場所へ 遠方から 何と私は与えたいことか
しわすれていた身振りを つぐないの行いをもう一度ー今度は独りでーあの旅を
静かにやり直したい
あの泉のところにもっと永くとどまっていたい
あの樹にさわりたい あのベンチを愛撫したい
(リルケ) 

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何かベンチ一つとってもこのように歴史があり愛着が生じているのである

とにかくハイデルベルグでも中世から大学があり学都となっていた。その雰囲気が今もある。それにしても大学にしてもその歴史が日本と比べて古いのである。日本の大学は明治以降できたものでありとてもヨーロッパの大学とは比べようがないからである。ハイデルブルグには十万くらいの都市でも3万人が学生がいるという時それは学生の街でもあるということである。
そんなところで留学して学んだら見識も相当に着いたとなる。だからこそ留学というのには相当に価値がある。異文化を学ぼうとしたらとても本だけでも映像だけでもインターネットとかでも学べないからである。

つまり文化というとき肌で感じることが大事だからである。些細な事でも日本との相違を感じてそこで文化の相違とか歴史の相違を感じるからである。例えば日本を知ろうとしたら俳句でも短歌でも知ろうとしたら日本の四季を知らないければ理解できない。それは日本の四季を経験しなければ実感できないものだからである。第一五月雨とかあってもヨーロッパとかアメリカにはそうした気候はないからである。だから異文化の理解というときその土地に一回でも立って実感することが大事なのである

それにしてもフランスとドイツがなぜ違っているのか。それはやはりドイツが寒い地域からかもしれない。常に気候の影響とは気候気候は影響するからである。なぜヨーロッパはスペインとかフランスドイツオランダイギリス北欧とありそれらがみんな違った国なのかそれが理解できない。なぜそうした国々ができたのか理解できない。とてもドイツとなると寒い地域でありそれが文化にも影響していることは確かである。そしてゴシックの石の大聖堂が作られたというのもやはりそれはもみの木の黒い森がありそれを模して作られたものだともなるからである。

北フランスのゴシックの人の典型であるシャルトルの大伽藍は森を確かに明らかに物語るがその森はタンネンバウムの森ではない。清澄にして明るいそして優しいフランスの森であるー犬養道子

ともかく外国を肌で知れば理解すれば日本の文化のとの相違がわかり日本についても理解を深めることができるのである。それは別に難しいことでわなく些細なことでも日常の生活から文化の相違を感じるのである。だから留学するとか外国で仕事を十年も以上生活したとかなるとその人は日本との比較で何が良いとか悪いとかここが違うとかこうすればいいとか提言できるのではただ自分の場合は50歳でバックパッカーで行ったから外国語を理解することが遅すぎたのである

何か私は何でも理解することが遅すぎたのである。ただ高齢化社会になると長生きするから外国でも知らなかったが旅をして理解を深めることはできたのである。何かを理解するにもまた時間がかかるのである。特に外国を理解するには時間もかかりまたどうしても実感できない分からないことがありそこで歴史でも文化でも誤ってみて誤解しているのである。ただそれだけ深く外国を考察することはできない。表面的にしか見れないのである。

2020年01月05日

外国旅行を20か国以上している人は3パーセント (私はその部類に入っていたーその回想)


外国旅行を20か国以上している人は3パーセント

(私はその部類に入っていたーその回想)

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私が旅した国


日本で最も多く旅行をしている層は55歳以上で、11%が11〜20か国、3%が21〜30か国、1%が31か国以上
また、「これまでに訪れた国はいくつありますか」という質問に対し、68%の人が最大10か国を訪問したことがあることがわかった

中国に三回も行っているから国の数だけ多くしてもそれで本当に海外をわかったかとなるとそうはならない、日本の旅でも量より質だともなる
どれだけその国について理解を深めたかである

私の場合は海外旅行したとき50歳からバックパッカーで一か月は旅行していた
だから団体旅行とは違っていた
でも外国となるわからないことが多すぎるから説明つきのツアーの方がいいとも思った
何かわからないままに終わったのが多いからである
そして海外の一人旅は辛いのである、だから我ながら良くできたと不思議に思う
何か事故とか事件とにも巻き込まれることもあっても不思議ではなかった
それは中国に旅した時、バックパッカーで汚いので中国人と見分けがつかなくなっていて襲われることもなかったともなる
それは十数年前だったからである、その頃まだ中国はあんなに発展していなかったのである、だからあんなに発展したのは信じられないとなる

中国とかロシアなら広すぎるから一回くらいで旅はできないのである
ロシアは旅したとしてもウラジオストックからシベリアの方だけである
そこで印象に残ったのはアムール川の大きさだった
それを鉄道に乗って見たのが印象的だった
そこから満州に入り中国を鉄道で帰ってきたのである

とにかく外国を知るにはまず一回でもその地を踏んだ人の方が実感として知るのである
それは地中海を船で行った時、キプロスに6時間くらい立ち寄った
それだけでもキプロスという国を実感するのである
キプロスに行ったということでその後そこで預金封鎖などがあった
その国の事情を知る、そこに一回だけでもその地を踏んだことでそうしたことに興味を持つのである
トルコの人でもキプロスにヨットをもっているとか金持ちがいたのである
ロシア人がそこに別荘をもっているというのもわかる、シリアにロシアがかかわるのもそういう地理にあるからだとなる
キプロスは十字軍時代からイギリスがかかわっていたというのも古い歴史があると思ったヨ−ロッパはそれだけどこも歴史が古いのである

まず知識人になるには今は外国旅行はもちろんだが留学しないとなれない時代である
どうしても外国を深く知るには住んでみないとわからない
でも一回その地を踏んだだけでも実感するから違ってくるのである

ただ行けない所もかなり残った、アフリカがそうである、でもナイル川の下流にヌビア人
がいて黒人だった、そこはアフリカだったのである
エジプトはアフリカだった、黒人が作ったという説もあるからそういうこきもありうる
アフリカに行きたかったが行けなかった 
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ヌビア人は何十年もの間、エジプト社会の主流からはじき出され、政治的にも野党暮らしを強いられてきた。エジプト南部とスーダン北部の境界にある歴史上の故郷に戻ることを目指し、ほとんど実りのない運動を続けてきた。

スーダンの領域にも入っていた、つまりそこはアフリカだったのである

ナイル川のヌビア人(詩)

ヌビアとは金の意味でありキプロスは銅の意味である、みちのくの辺境は黄金を出すことで大和王権に奈良に知られていた

すめろきの みよさかえむと あずまなる
        みちのくやまに くがねはなさく

みちのくも黄金をとれる地域として中央に知られていたのである、世界でも日本と共通なものがありそれを知ると人間として同じことがあると理解しやすくなる
でも砂漠が日本にないのだからそこは理解できないものとなるのだ
ピラミッドでも砂漠と切り離されず生まれたものだからである
ヌビア人のいる場所が辺境でありそのためにヌビア人が追い出されるとか迫害されるとかなる,境界地域ではそういう問題が共通して世界で起きる
私があったヨットのファルカーの案内人のヌビア人はアスワンハイダムの近くだった
私はアスワンハイダムには行かなかった

南米のマヤとかインカの遺跡も見たかったが見れなかった
今になると体力的にも気力でも外国旅行はできない、何か介護とかで消耗したからであるだから海外旅行などいつでもできる、他の事もできると思っている
実際はできくなる、50歳ころで親の介護になっている人もいるからだ
つくづく何でも人間のする時間が限られているのである
日本はほぼ旅行した、行っていないのは奄美大島くらいだった、それに今頃気づいた
外国はもう20か国以上となるとむずかしくなる  

アメリカ、ロシア、中国(三回)、韓国、タイ、ベトナム、カンボジア、インド、ネパール、エジプト、イスラエル、キプロス、トルコ、ギリシャ、イタリア、フランス、ドイツスイス、イギリス、オランダ

20か国は行っていた、3パーセントの部類に入っているとするとこれだけ行っている人は少ない、特に東北人は海外旅行している人がすくない、何か東北人はそうしたバイタリティに欠けている、引っ込み思案だとなる
関西の人は何か海外旅行でも抵抗ないということがある
外国人でも大阪の人は受け入れる、そういう土地柄なのである、大阪弁を外国人がしゃべっていることでもわかる、何か親しみ安いのである
だから海外旅行も抵抗なくしやすいのである

今や私は国内旅行すらする気がなくなった、海外旅行をましてできない、体力も衰え気力もないのである、だからつくづく若い内にハードなことをしておけとなる
いくら金があっても体力と時間がないと旅はできないからだ
海外旅行は相当に年取ってからは負担である
できるとしたらクルーズである、それなら80歳でもできる
ただ乗っていて食事もでるし楽である、ただかなり暇になることは確かである
三か月もかかるとしたら海ばかり見ていたら暇になる
そうなると人付き合いとかありうまくいかないことにもなる
とにかく海ばかり見ていたら飽きる、変化がないからである

東京から貨物船のような船で沖縄に行ったことがあった、食事は決まりきったものであきた、一週間になると船旅は変化ないのであきる
船にはかなり乗ったので船について古代史でも興味をもった
まず旅するとやはり地理はには興味をもつ、そして学問の基本が地理を知ることである
そのためには旅をしなければ海外でもんく本を読んでも実感できない、すると学問しなくても一回でも外国の地を実際に踏んだ人の方が知っているとなる
百聞一見にしかずとは本当に外国について知ることに言えるのである


2018年01月31日

中国の春の旅(2)(俳句連作ー蘇州)


中国の春の旅(2)(俳句連作ー蘇州)

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春の日に船入りゆく大河かな

六和塔大河を望み白木蓮

春の日に鉄橋火車行く六和塔

菜の花や一望千里船の行く

菜の花や船に泊まりて一夜明く

長大な中華の河や春の星

広々と大陸開け草萌ゆる

(蘇州)

奇岩の庭塔傾きて春の暮

物売りの老人あわれ蘇州かな

春の日や蘇州を巡る舟あまた

春の日蘇州に古りぬ橋あまた

春の日や河と海と船栄かな

城壁を歩み柳の芽吹くかな

城壁の長しや柳船着場

春愁や中華の美女の艶なりき

興亡や千の城壁春の乱

天馬駆け中国に来る春の夢

大海に船の尽きじや春の夢

海濁り長江尽きて船のいず


中国は広くていろいろあるけどやはり蘇州がいい,海と大河と湖とか自然もあるからだ,北京は何かそれと比べると見るものがなかった
中国に海から船で行くと海が濁ったとき中国に来たとわかる、海まで濁るのが中国の大河なのである。

中国は広大な大陸であり歴史の国である。まず歴史でも地理の感覚がわからないと理解できない,その地理が日本とスケールが違いすぎるからその出発点で理解しがたいものとなる
中国だと歴史が長いから人がいたとしてもそれは繰り返し何度もそこにいたとなる
つまりどこでも人が住まなかった所はなく人の匂いがあり人によって自然もある
アメリカ大陸のようにもう人もいなかった荒野の感覚はないのである。

大陸というとき六和塔とかは見物である。巨大な河口があり鉄橋を火車がわたる光景が絶景だとなる
そういう風景は日本では見れない,日本では河口といっても狭いから船の出入りがない
イギリスでは島国でもテムズ河口は広いからそこが港となり海外に航海に出たのである。港のスケールが日本とは違っているのだ
隅田川がにているが河口でも大陸のように広くないのである。

いづれくにろ外国とか歴史を理解するにはまずその地を踏まない限り理解できない
本で読んでも地図を見てもわからないのである。
そこに世界を理解するむずかしさがある
第一俳句というと極めて日本的なものである。島国に適したものとして最短の詩が生まれたのである。だからとても大陸となると俳句では表現しようがないのである。

ただ中国を旅して高い大きな山を見なかった,そういう場に行かなかったのが残念である自分が行ったときはすでに十五六年前であり中国は貧乏な時だった
汽車には家畜のように流民が積み込まれていたから一般庶民と一緒には乗れない時だった本当に乗客は笞で打たれていた。
それが信じられないのは新幹線のようなものも走っているし十数年くらいで中国は日本の高度成長になったのである。
だから本当に人間社会は外国でも変わりやすいからその対応に失敗するのだと思う
地銀など地元で信用されていたがそれも潰れるとかなるから変化が激しいのである

十年一昔というのは実感である

十年たったら本当に昔になる,介護とか自分の病気に追われて十年たったときこれも一昔になったのである。そこでエネルギーは消失して旅もする気力がなくなったのである。
津浪と原発事故でこの辺りは激変した,荒波にもまれてもう十年はすぎた
その間に家族もみんな死んだりとか激変した
だからあの時海外旅行して良かったなとつくづく思う
つまり退職したらやりたいことをやるとしても計画してもできないことになる
常に一身上でも激変に見舞われる,それでエネルギーが消失するのである。

中国とは漢詩を通じて文化的に深い交流があるし俳句だって漢詩が基になっている
だからそういう文化の点では中国に親しみを感じる
ただ中国の歴史と文化とかを理解するのは日本人にとってむずかしい
その地理的感覚が理解できないのである。
あのようなとてつもないでかい国に住んでいたらどんな気持ちになるのか?
それは日本にいてはまず理解不可能だからである。

タグ:蘇州 六和塔

2018年01月30日

中国の旅(春の俳句) (中国の歴史と文化の考察)


中国の旅(春の俳句)

(中国の歴史と文化の考察)

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(寧波)

城門を入りて街や春の月

寧波より運河に上り春の寺

塔いくつ高きや紫春の山

栄えたる唐の日の塔中華の春

(蘇州)

城壁の長く春の日船着場

ここにまた船着場あり春の暮

双塔の古りて曇りぬ春の月

春の日や水満々と太湖かな

春の暮塔傾きて蘇州かな

北塔の厳しくますぐ中華の春

春の日に奇岩に塔や蘇州かな

春の日や力車の老人目の悪し

菜の花千里の運河船の行く

菜の花や豚船に積み運河行く

(西安)


城門を入りて休らふ春の月

楊貴妃の肌の白きや春の雨

華清池に楊貴妃の幻春の夢

我が上る始皇帝陵中華の春

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蘇州春情

蘇州の雲岩寺塔


寧波市(ねいはし、ニンポー)

唐代の開元年間に明州と呼ばれ、南宋では慶元府、元代には慶元路と称された。2度目の元寇、1281年の弘安の役では、江南軍10万、約3500隻が日本へ向け出港したが、帰ってきた者はわずか1割から2割ほどだった。ただ古くから日本と交流のあった旧南宋人は日本で捕虜となった後も処刑されず助命され、九州などの宋人街などに住んでいた。明建国間近の1367年、再び明州の呼称に戻り、清代に寧波府と称されるようになった。この呼称が現在でも受け継がれている。

唐代から日本、新羅、東南アジアの船が往来し、宋・元の時代にも日本の仏僧が遊学した

梁甫の吟 諸葛亮孔明(りょうほのぎん しょかつりょうこうめい)


歩出齊城門
遥望蕩陰里
里中有三墳
累累正相似
問是誰家塚
田彊古冶氏
力能排南山
文能絶地紀
一朝被讒言
二桃殺三士
誰能爲此謀
國相齊晏子

斉の城門を歩み出ると、
遥か彼方に蕩陰の里が望まれる。

その里には三つの墓がある。
うずたかく盛り上がって、三つとも同じような形だ。

「これは誰の墓かね」と尋ねると、
田開彊と古冶子と公孫接の墓だという。

その力は南山を引き抜くほど。
その文才は、地紀(大地を保つ綱)を断ち切るほどであった。

ところがある朝三人は讒言を受け、
二つの桃を三人で奪い合って殺されてしまった。

誰がこんなうまい策略をなしたのだろう。
斉の宰相、晏子である。

一つの桃を巡って争うというのは今でも通じている,遺産相続のときなりやすいからだ
中国は古いから墓の国である,そもそも最後に人間が残すのは墓だからである。
それはエジプトでも文明そのものが最後は墓場になるからである。

渡荊門送別 李白

渡遠荊門外
来従楚國遊
山随平野尽
江入大荒流
月下飛天鏡
雲生結海楼
仍憐故郷水
万里送行舟

門を渡りて送別す 李白
渡ること遠し荊門の外
来りて従う楚國の遊
山は平野に随いて尽き
江(かわ)は大荒に入りて流る
月下に天鏡飛び
雲生じて海楼を結ぶ
仍(な)お憐れむ故郷の水の
万里 行舟(こうしゅう)を送るを

現代語訳
はるばると旅をして、荊門の東まで来て、
楚の国を旅するのだ。

山は平野があらわれるにしたがって無くなり、
長江は果てしない平野の中を流れていく。

満月は傾くのは、天を鏡が飛んでいくように見える。
雲が起こるのは、蜃気楼があらわれたように見える。

それでもなお、しみじみ懐かしく思うのだ。
わが故郷・蜀から流れ出した長江の水が、
万里のかなたまで、行く船を送るのを。

語句
■荊門 長江の南岸、宜都(湖北省枝城市)の西北にある山で、蜀と湖北・湖南地方との境目。 ■渡遠 故郷の蜀の国を出て、はるばる荊門の外(東)まで旅をしているという実感■大荒 果てしない空間。湖北・湖南の平野を指す。 ■天鏡 空を移動する月を鏡とたとえた。 ■海楼 蜃気楼。

中国を理解するのはむずかしい、広すぎるからである。ただ中国を理解するのには城壁で街が囲まれている,城門を入るとそこは城壁に囲まれた街で外敵から守られているという感じになり安心感がある,それはヨーロッパでも城壁に囲まれた市壁に囲まれて都市がある。そこがにている,日本の城だと城と町は別であり城は城としてあり城門もあるが街とは一体化していないのである。
中国とかヨーロッパでは戦争になれば一般市民も皆殺しにされる,日本では侍同士の戦いであり庶民はその戦争に巻き込まれなかった

イギリス史では、「シティズン citizen」と「バージェス bourgeois」(フランス語で言うブルジョワ)という言葉が必ず出てきます。字義通りには、シティズンはシティの市民権を持った住民のことで、バージェスは、そうでない都市の住民、有産者と言うことになります。ただしイギリスでは、シティというのは非常に限られた数しかありません。アメリカ英語では、大きな町のことを何でもシティと言いますが、ほんらい、シティというのは、司教座のあった町のことで、イギリスでは26しかありませんでした。シティ・オブ・ロンドンには、司教座がありましたので、シティなのです。司教座がなくて、城塞、つまりブルクから発展した城下町をブルクと言い、そこの住民がブルジョワということになります。

ブルクとは城のことである。つまり城壁の内に住む人達でありそれがブルジュアになったシティズンが司教の座があった街というのもそこにヨーロッパの歴史がある
ヨーロッパと中国の歴史の共通点は城壁の内に入ればそこで安全が確保されていたのである。城壁を城門を出れば安全は確保されない,荒野ともなっていたのだ
その感覚は万里長城にも現れている,あれだけの広大な国を城壁で囲もうとしたことからもわかる,外敵から守るためにあれだけの万里長城を壁で国を囲むことはそうした城壁都市から拡張したものとして生まれたのである。

バベルの塔とか大陸で塔は外敵から守るために監視するために必要だった
これもヨーロッパと中国は共通している
仏塔はインドから伝わったがインドもまた大陸文化を形成した国だからである。
蘇州は塔で有名である。中国では塔はいろいろある,塔にも個性がある。
日本の五重塔は優雅であり優美となるが中国とかヨーロッパの塔は監視の塔としての起源があるから厳しい姿にになっいる、八角形とかなるとひきしまる感覚になる

漢詩でも城門を入ると城門を出るというのは家を出るとか故郷を出るとかまた帰るとかの感覚になる,門がそうした感覚を作り出している,それは日本にはない
城下町でも別に門から入らないし城壁も囲んでいないからである。

自分が旅したのは寧波でありここは日本とも関係深い交流のあった港である。
そこから運河を上り道元が禅の修行した天童寺に船で行った
これも中国的である,運河がどこにも張りめぐらされているからである。
それはヨーロッパともにている,川と運河が交通路になっているからだ

蘇州とか杭州とかこの寧波辺りは中国を旅するにはいい,寧波には唐時代の塔があったとか言っていたが記憶が定かでない,何か旅で思い出すことがなかなかできなくなる
あそこはどこだったのかとか朧になる
d せなんとか記憶をつなぎあせる,前に中国の旅の俳句とか書いたのでそれを参考にまた思い出す旅をする,旅は写真でもメモもしていないと忘れてしまうのである。
外国のことは本を読んだだけではわからない、一見は百聞にしかずである。
自分は50代に旅したから苦しかった,でも中国は二回も行っている,一カ月くらいは日本を出ると旅していた,ただ中国は広すぎて理解するのはむずかしい

西安は長安は唐の都であり日本人の阿倍仲麻呂が奈良時代に留学している
その始皇帝陵とかに上る,墓が巨大な山になっているのも中国の巨大さである
楊貴妃の風呂の華清池があったりそれから観光として地下帝国巡りとかあった
地下に一大宮殿が現実に始皇帝の時代にあった
その豪奢というか享楽の世界も並外れている,そして無数の民がいて大河に藻屑に消えた兵士もいる,そのスケールが日本では想像を絶する世界なのである。
だから大陸からなみはずれた英雄が生まれる,桁違いの人物も生まれても不思議ではないとなる

要するに世界を理解するというときそのスケールの大きさが日本とあまりにも違いすぎることなのである,空時代は日本では山が多いから狭い感覚になる
大陸では空がどこまでも広がっているという感覚になる
空の感覚まで違っているのである。それはアメリカ大陸でもそうである。
ただ中国というのは共産党時代になりこうした歴史ある中国が見逃されている
共産党だから近づきにくいとなる,でも日本と中国の交流が長いのである。
そういう歴史があっても欧米先進国に習ったから中国に習うものがないとかみる
でもそういう時代も終わりつつある,中国の方が技術的にも経済的に大きくなり中国がアメリカを経済ではぬくとか技術もIT分野でぬくとかなるとそうなる
では中国の時代が再び来るのか?その時日本はどうなるのか?今度は中国の属国になるのかただ中国との交流が深まれば再び文化交流も活発になることは確かである。
中国の文化や歴史は欧米一辺倒になったとき見逃されたからである。








2017年03月30日

済州島の漢拏山 新しき地理の展望を得るのが旅


済州島の漢拏山

新しき地理の展望を得るのが旅


漢拏山力強きかも
韓国,中国、日本を望み
春の日に望み聳え立つかな
世界の地勢を知りて
新しき展望を得む

韓国はやはり歴史的だけではない、地理的に日本の中に入っている国である。
中国となると広すぎて日本とは別な世界になってしまう。
韓国は玄界灘をはさみ一衣帯水の国である。

『南史』に「陳の後主荒淫なり。我は百姓の父母為り。あに一衣帯水に限られて、これをすくわざるべけんや(君主の跡継ぎは、淫らで残酷だ。私は人民の父母である。陳と一本の帯のような細い川に隔てられているからといって、彼らを救わずにいることがどうして出来ようか)」とあるのに基づく。

一衣帯水の故事は中国をさしている、でも中国と日本の海は広い、韓国はそうではない、船で古代から行き来していた、韓国の一部が任那に日本府が置かれていた
韓国が一衣帯水の国としてふさわしい、確かに遣唐使が船で中国に渡ったとしてもそれは頻繁ではない、決死の渡航だった、そんなに行き来できる海ではなかったのである。
だから中国は地理的にも日本とは隔絶しているのである。
韓国は地理的にも一体感がもてる国なのである。
それを実感したのは済州島の漢拏山を見上げたときである。
島にこんな高い山があるのも驚きだった、それも力強いものを感じた

その山はまさに韓国と中国と日本を望んでそびえていたのである。
旅は視野を広くするというときそれは地理が地図をいくらみてもわからないからである。旅によって新しき展望を得る、世界となると広すぎる、でも韓国は地理的一体感を感じる場なのである。唯一外国で地理的一体感を感じるのは日本では韓国だけなのである。
他は海に囲まれて感じないのである。ロシアにも感じないし地理的一体感を感じない。

外国だと感覚的地続きだから地理的一体感を感じる、ただ人為的境界として国境があるだけであり日本のように海に囲まれて地理的に隔絶されたような感覚にはならない、日本にとって地の果ては海の向こうであり海に囲まれているからすぐに地の果てになってしまうのである。
だから地続きの感覚が世界の感覚であり日本は海によって隔絶された世界で特殊な国なのである。

世界を旅するとなると今やまた年とり楽ではない、もっとやはり山を見たいということがあった、それは自分の住んでいる所に大きな高い山がないためである。
海がない国は海に憧れるのとにている、山は富士山でもそうだが精神的象徴となる
山は精神をはぐくむ、一番の圧巻はヒマラヤだった、しかしこれも一回見ただけであり
その時曇っていたのではっきり見えなかったのが損したのである。
これだけ旅行しても見れなかったことを後悔する、人間にはそんなに時間がないのである富士山くらい見に行こうかと思うがこれも日本自体が旅しにくくなっている
外国人が増えてゆっくり旅できないとなると何か時代的に損である。
旅はやはり視野を広げ新たな展望を得ることなのである。



2017年03月01日

パリの旅の回想ー東駅界隈(秋の短歌十首)


パリの旅の回想ー東駅界隈(秋の短歌十首)
  
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パリの東駅
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パリの東駅のサンマルタン運河
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セーヌ川で洗濯している女
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落葉せしパリまで来てそ安宿を探す我かな年も古りしを

運河ありパリの裏町安宿は満員なりし落葉踏み去る

パリにつく東駅かな運河ありたどり歩みぬ秋の夕ぐれ  

東駅パリの下町運河にそ枯葉の木々を写しけるかな

パリの秋路地を歩みてあわれかな人種様々行き交う人かな

秋のくれセーヌの岸辺絵描きかなノートルダムの寺院も古りぬ

ルーブルの窓に枯木や石の橋歩みてあわれ偲ぶ歴史を

傍らに彫塑の像やもの思ふルーブルの秋我もめぐりぬ

かたわらに貴婦人の彫塑かなローマの女や秋の日暮れぬ

ルーブルの絵洗濯女のあまたかな橋も古りにし秋の夕ぐれ

セーヌの橋によりにつ恋人の愛を語るや秋は深まる

パリの街秋も深まるもの思ふセーヌの岸や石の橋かな 


東駅とサンマルタン運河(写真) 

  

アポリネールの「ミラボー橋」


日々は去り
去った時も
昔の恋も帰ってはこない
ミラポー橋の下 セーヌが流れる

夜よこい 鐘よ時を告げよ
日々は過ぎ 僕はとどまる  

パリには春と秋に二回行ったけど記憶が定かでなくなった、でも思い出す旅は外国までつづいている、外国はまた記憶しにくいし忘れやすいのである。
パリの東駅についた、写真を見たら確かに教会があった、ただ東駅がどうなっていたのかわからない、写真を見てこんなだったのかとなる、駅はゴシック建築のようにヨーロッパ
では威厳があり日本とは違っている、なんかヨーロッパでは建物が立派であり威厳があるそれがヨーロッパの歴史であり文明だということを一番感じたのである。
石の文明であり石が恒久性をもっているから歴史を偲べる、ローマ時代のものもそちこちに残っているからだ。ヨーロッパは石の情緒なのである。
石の橋にもたれるときそれがヨーロッパ的情緒になる、その感覚は日本では感じることはできないのである。



ネッカー川の石橋

ネッカー川の石橋古りぬ
その冷たき石の手触り
市門のありて中世の街
ゆるやかに川の流れて
落葉踏むその岸辺
城砦も古りイギリス門とあり
この城に嫁ぐ王妃の物語
晩秋のハイデルベルグ
ここは古都にして学問の府
その歴史をここに刻みぬ
その岸辺の公園を一人
そぞろ歩みてもの思ふ
もの寂びて薔薇の花の赤しも
我が旅の記憶ここにとどまる



これはパリではないがやはり石の橋ということで共通している  
もともと木の橋だったが洪水が度々あり石の橋にしたとある
石の橋はやはり木の橋のように簡単には作れない、だから石の橋があってももともと木の橋が最初にあったとなる

ハイデルベルグ 

ともかく自分は旅を外国までつづけていた、それでいつも安宿を探していた、それが外国までつづくとは思わなかった。東駅におりて安宿を探したがそこは満員だった、とても言葉が通じないからそういう安宿に泊まるのは自分には無理だった、でもヨーロッパは意外と旅行しやすい、ユースホステルも多いし年配の人も利用している。
外にも安宿が多い、でもなかなか探せないということはある、でもヨーロッパは宿が多いのである。ホテルが本当に多いので旅行しやすい。
でも日本と同じように安い宿を探し歩くとは思わなかった。

自分はハックパッカーでありヨーロッパ旅行でも安い旅行しかしていない、旅で一番かかるのは宿代でありこれは日本でも変わりない、食事はほとんどマグドナルドとかでハンハーガーだった、何かレストランはヨーロッパでは一人では入りにくい場所である。
だから最低の食事しかしていない、自分の場合は食事とか余り興味がない、旅することに重点を置いているからである。
日本でもうまいものを食べたことがない、ありきたりのものであり千円くらいしか使っていない、というのは食事に金を使うと長い旅はできなくなるからだ。
自分は貧乏旅行者でありずっとそうだった。

金がなくても実際は旅は世界でもできるものだと思った。その時は円高だから旅しやすいということもあった。一ドル80円とういいう時代があったからだ。
バックハッカーの時代は今では終わった、それでdarkness duoサイトは面白い、沈没したとかしていて経験を積んだことを書いている
そういう人がかつていてその経験を書いているのである。
自分はそういう人ではないが一応年になってハックパッカーを経験したのである。
ただこれも十年間くらい介護に追われていたら記憶がうすれてしまったのである。

でも短歌にするというときパリはつくづく芸術の都だとなる、パリにいるだけで芸術家になった気分にさせられるのである。橋にもたれているだけで歩いているだけで何かそれが絵になっているのがパリなのである。
ただ最近移民が増えすぎてその情緒が失われたと言える、やはり異国情緒があってこそ旅もいいとなるが移民が増えすぎるとそれも失われる、今は日本だって外国人だらけになると嫌な感じになり旅行したくなくなったのとにている。  

何度も言っているけと旅でも記憶が大事になる、何か記憶に残らないと行ったいうことにもならない、団体旅行ではなかなか記憶には残らないだろう
今になると海外旅行も自転車旅行もできない、肉体的にも精神的にもできない、気力もない、だからやりたいことは若い内に早めにやらないとできなくなる、登山だった自分は体力がないから今はできない、結局老人はこうして回想しているのが至福のときだということがわかったのである。
でも記憶されていないならその至福の時もないから何でも記憶するように生きるということ旅でもそうしないと後で何も残らないということになるのである。
つまりその時間は永遠に帰ってこないのがショックになるのである。
タグ:パリの東駅

2016年07月07日

ヨーロッパの旅ー春の俳句二十句



ヨーロッパの旅ー春の俳句二十句

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(イギリス)

(ロンドン)

春寒し駅舎に飲みぬビールかな

春寒しイギリスの栄昔かな

テムズ河海に注ぐや春寒し

春寒しテムズ河の岸のベンチかな

鴨の列石橋わたり柳かな

夕日さし古城の紋章石に古る


(フランス)

絵を売りぬセーヌの岸辺春の暮

石造り宮殿古りぬ春のパリ

春のパリ石にもたれて思案かな

春の星同じホテルに客となる

泊まる宿セーヌの辺り春の星

(ニース)

老人に春の陽ざしやニースかな

春光や城跡に波のひびきよす

春光に新婚旅行やマルセイユ


(イタリア)

春の暮ローマの道をたどるかな

ローマの春廃墟の松やもの寂びぬ

春の日や廃墟の石にもたるかな

ベネチアや春光に舟波止場かな

浴場跡夕日のさして蝶舞いぬ

春光やフィレンツの塔美しき

春雨や南イタリアの古城かな

(ギリシャ)

雪の峰海に望みてギリシャかな

菜の花にドルフィの神殿埋もれけり

ドルフィや竜舌蘭や石古りぬ


(アレキサンドリア)


海の風アレキサンドリアや春鴎

街中に海の風吹き百合の花

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やっぱりヨーロッパは旅するのには一番いい場所だった。あれだけ歴史があることが違っている。ヨーロッパはいろいろあるけど芸術の都なのである。
その代表がパリなのだけどそこが違っている
中国などにはそういうものがあまり感じない、ヨーロッパは国が分かれているけど多様な個性を作り出した、それで芸術が華咲いたのである。
多様性があり国が分かれることで絶え間ない紛争があったのだが反面は多様な個性を作り出したのである。
この時はまだデジカメの時代ではないので写真があまり残っていないのが残念

それにしても時間がすぎるのは早い、自分がヨーロッパに行ったのはすでに十何年前とかなっている
その時は円高で旅行しやすかった。イスラムのテロもない時代だった。
ともかく時代は急速に変わる,中国だって20年前とかになるし急激に変わってしまった。中国の物価はあの時からすれば十倍にもなっているかもしれない、
世の中の変わりようは本当に早い

そして十年間介護に追われてたちまち過ぎた、今は思い出す旅である。
何か老年になると思い出すということが仕事になる
思い出すということはそこに確かにいたということを確認することなのである。
そこにいたということすらわからなくなる
そういう記憶の確認作業なのである。俳句にしてのもそういう記憶が残っているからできる

外国を俳句にするのは一つの文化交流である。最近はインターネットで外国の俳句が結構出ている、ともかく誰でも海外旅行できる時代だからである。
インターネットではなかなか批評しにくい、雑然とありすぎるのである。
やはり選ばれたものを見るのは楽だとなる

旅というのは何か記憶に残っていないと収穫がない
つまり全く記憶に残らないことがありうるからだ
特に外国ではそうである。どこにいたのかもわからなくなる
だから何か記憶にとどめる旅をしないと何も残らない。
辺りの風景を記憶する旅である。
それはいくら写真でもとどめることはできない
その時々の風とか光とか何でも写真にはすべてとどめることはできない
人間は五感で感じているからである。

認知症になると同じことを過去に経験したこと何百回という、それは記憶が生きた証拠になっているからそうなる。
だから一番人生で印象に残ったことを語り続けるのである。
姉の場合は戦争のことでありそれを死ぬ直前まで語って死んだのである。
それほど戦争というのはとても忘れられない記憶だったとなる



ベネチア-ベニス(abstract pictures-veneziaー(Venice)


ストラトフォード・アポン・エイボン


2015年11月25日

ギリシャの春の俳句二十句 (海外旅行でもう一度行きたい場所ー海外旅行も危険でしにくくなった)


ギリシャの春の俳句二十句


(海外旅行でもう一度行きたい場所ー海外旅行も危険でしにくくなった)



ギリシャの春俳句二十句

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菜の花やスパルタの故地や一面に

スパルタや今は菜の花に羊かな

スパルタに城壁あれや残る雪

プロボネスその奥深く岩に雪

羊飼い山に上るや芽吹くかな

羊飼いギリシャの古りて春暮れぬ

ギリシャに女神現る春の花

松古りて神殿古りて春の花

神殿の跡に花々春の海

神殿にオリーブの樹や春の風

芥子の花赤く映えるや奥地まで

一本のギリシャの鉄路春の暮

春の日や雪に神々しオリンポス

ゼウス住むオリンポスかな雪閉ざす

ひびき落つ清水や春の岩の山

ドルフィに竜舌蘭や柱古る

島々を船のめぐるや春の海

島古りてギリシャの海や春暮れぬ

老人に露店や貨幣春暮れぬ

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菜の花に埋もれたドルフィの神殿

ギリシャの暮らし(ここにいい写真がある)




海外旅行してみてもう一度行きたい所はどこかとなると自分の場合は自然が美しい所だった。
それで春に行ったギリシャが良かったなと回顧する
ギリシャの良さは地形が山あり海あり島ありで日本ともにて変化に富んでいる。
そしてなによりも歴史があるから自然も古色蒼然としたものになる
自然がないところはピラミッドとかあるけど何か茫漠としてまた行きたいと思わない
ギリシャからあれだけの文化が生れたのはやはり自然が多様だということがあった
だから羊飼いがいてポリスが各地に生れ都市文明が生れ船を利用した貿易が生れ
植民都市が作られて繁栄した、そしてギリシャはヨーロッパ文明の基礎を築いたのである山の上に上ってゆく羊飼いを電車の窓から見えたのである。ギリシャの鉄道はしょぼい、日本のローカル鉄道よりしょぼい、それでも鉄道があった。

自然というときオリンボスの山々は荘厳だった。そこに最高神のゼウスが住んでいたことがうなづける。そこは本当に聖域の感じだった。おりしも春でも純白の雪におおわれていた。多々あそこでホテルがあり泊まらないのが失敗だった。
いい場所ではゆっくり見て印象に残すことが大事だった、そういう機会がなくなるからである。
海外旅行というとき一度しか見れないということがあるからだ。
それでヒマラヤでもそうである。春に行ったが曇っていて3000メートルまで苦労して上ったのに8000メートル級の高峰が見えなかった。あれも大損だった。
富士山だった実際見たのが日本にいても少なかった。富士山のきれいに見える場所ではなかったのである。山は高く見える場所がいいのである。
山は見る場所によって全然違ってみえるのである。


自分は高い山に憧れるのは自分の住んでいる所に高い山がないからである。
もう一度行きたいとなるとスイスが高い山があるから行きたいとなる
ヒマラヤも行きたいとなる、あとは自然で感動したのは大きな川である、それは日本にはなかった。
ともかくこれほど日本でもそうだが海外でもそれなりに旅した、海外は10年くらいだったから今だと旅行したとは言えないかもしれない、海外旅行の猛者がいるからである。
自分の人生は旅に費やされたとも言える、だから今になると不思議なのはいながらにしてやはり旅している、自分の魂が全国を外国をやはり旅して放浪しているというのも不思議である
だからこそこうして回想して詩や今回は俳句を作った。
今回のテーマは菜の花だった、ギリシャのプロボネス半島について鉄道に乗ったとき一面に菜の花が咲いていた。菜の花は日本のものかと思ったが外国でも咲いていたのである。これは日本と変わらないと思った。
ギリシャは春に行けば花がきれいである。日本のように湿気がなく乾燥していて雑草も少ないから花の絨毯のようになる。つくづくオリーブの樹が乾燥した所にあっているのもわかった。磐城でオリーブオイルを作るためにオリーブを植えて成長した。
磐城はそれだけ浜通りでもあたたかいからできた。ただ水はけが悪くて苦労したというのはやはり気候が影響するからむずかしい
とにかくギリシャはもう一度行きたいとなる


それにしても日本国内でも海外でも旅行しにくくなった。ギリシャでも経済難でありシリアの騒動でありヒマラヤでもネパールが地震とかで大被害でありテロが怖いとかある。
そしてここ十年は自分の住む場所も津波原発で騒乱状態になり一身上でも介護病気とかでさんざんな目にあった。そこには平和がなくなっていた
観光でも平和でないなら観光どころではなくなる、だから何か自分は幸運だった。
旅すら本当は簡単にできないものだとふりかえる
日本国内すらもうホテルがとれない中国人だらけたとかゆっくり日本の情緒すら味わえないのかとも思う時代である。
そういう時ではなく旅をしたから幸運だったとなる、旅というのも必ずしも簡単にできない、金があってもできない、社長でもできない、社長は忙しいから仕事に追われるからである。、そのうち旅する時間も鳴くなのである。


ともかく人間は時代の影響を受ける、こんなに国内でも自分の住む所でも海外でも変化すると思わなかったからである
10年一昔は本当である。この辺のめまぐるしい変わり方がそうであり外でもそうだったのである。
だから30年くらい平和がつづいたということ自体が特別なことだったのかと思う
自然災害であれ戦争であれそういうものが起きるのが特殊のことではない、平和な時間が意外と持続しないのである。それは対外的にもそうであり一身上でもそうだなとつくづく思った。
回想するたびもまた一つの旅である。これだけ旅したのだから今は回想する旅をしているのも楽しい、その回想する旅をするにはやはりいかに心の中に印象として残されるかが問題なのである。団体旅行は自然に注意するというのがなかなかできない、ぺちゃくちゃ話していると自然が印象に残らないのである。
自然を見ることに集中することが旅には必要なのである。
そうすると回想して旅が後でてきることになる。
自分は一カ月くらい平気で旅していたから回想する旅が今になるとできたともなる


外国を俳句にするのはむずかしい、でも俳句は一つ一つの場面を思い出すのにいい、ただ一句だけでは作品にならない、連作となるとき作品となる、短いから一句だけはもう俳句は成り立たないのである。


ギリシャの旅ー春の俳句十句(ここに自分のとった写真)

ヨーロッパの詩

2015年08月25日

キプロスに寄港した一時(詩) (6時間ほど船で寄港した思い出)


キプロスに寄港した一時(詩)

(6時間ほど船で寄港した思い出)

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キプロスの名と由来はどこに
CYPROUS(cyprus)糸杉と銅の国(copper)と
地中海の要衝に位置しその歴史も古りし
糸杉はレバノン杉と同じくエジプトの船の材に
ローマの劇場跡やここにもローマは語りぬ
その山中深くギリシャ正教の教会
古りたる石のごとくにありぬ
イコンを守りて民の祈りはつづく
しかしここに獅子心王と名をはせし
十字軍のイギリスのリチャード王
そのこもりし城の城壁は海を望みて古りぬ
東方に富と知識と技芸豊かなり
そを果敢に奪い取れ
十字軍の要塞は各地に作られぬ
これにイスラムの英雄起こりて駆逐せり
キリスト教とイスラムの熾烈な戦いは今もつづく
マルタにロードスにシリアにイスラエルに・・・・
十字軍の基地は聖地エレサレムを包囲する
その後大英帝国はマルタをキプロスを手中にし
エジプトのスエズ運河の利権を得る
しばし船の寄港地として立ち寄りて
地中海の明るい陽光にアーモンドの花の咲く
手にせしはイギリスのコインなり
エジプトの金はエジプトポンドなり
大英帝国の威光は砂漠に沈むピラミッドまで及ぶ
船に寄港してその一時の思い出、キプロス
船はまた次ぎなる島にたちよりぬ



世界遺産のキプロスを扱ったのが先日放送された.キプロスの悲劇は小国家の悲劇である。大国に挟まれた国はそうなりやすい、そして何故そうした小国が存在するかというと大国の思惑で権力の綱引きでそうなる。ベルギーとか朝鮮とか台湾とかベトナムとかも一時そうなった。そもそもクエートという国はアメリカなしでは存在しえない、おそらく韓国にあった任那(みまな)という国はクエートととにていた。というのはかやの国の任那は鉄の産地であり一時鉄の延べ板が貨幣と同じ役割をはたしていたのだ。つまり石油だったのだ。そもそもなぜアルジェリアのようなところまで日本人が行ってるのかわからなかったが石油がとれるということで結構日本人が行っていたのである。フランス語の通訳する日本人とかいろんな人が行っていた。キプロスもまた地中海の要衝にあり銅とか船の材の糸杉の産地だった。copperというのは地名であり銅の意味ではない、そこに銅がとれるので名ずけられた。アルゼンチンなども銀の意味だそうだから類似のものだろう。レバノン杉が船の材として切り取られたように木材の産地だった.
 それ以上にここが中東とヨ−ロッパ圏の境にあり軍事的にも重要なポイントになった。中東ににらみをきかすにはいいのでナトーや日本の自衛隊の幹部もここに派遣されていたのだ。アジアににらみをきかす沖縄と同じように位置的に重要な島であった。ここの悲劇が台湾や朝鮮と良く似ているのだ。大国の綱引きの場となる故そうなるのだ。ギリシャとトルコとの敵対するというより背後に大国がからんでいるため分断されるのである。ヨ−ロッパの十字軍の基地がマルタやロードス島やキプロスに置かれた図式が現代に反映しているから歴史と言うのは連続性の内になりったているのがわかる。十字軍の基地がシリアやイスラエルにもありイスラム圏とヨ−ロッパ圏の争いは長いのである。トルコはそのなかでEU加盟に熱心なように中間地帯になってきた。三国志の権力争いも大国が二つではうまくいかないので三国で平和保つ政策で権力を拮抗させる現実的解決方法を目指したのだ。こうした小国はかえって歴史を凝集して残しているので各国の興亡を狭い地域に残すので注目されるのである。イタリアのシチリアなどヨ−ロッパの歴史を重層的に地層のように残していることがNHKの放送でわかった。
 
これは引用が長くなったが情報の集積として興味深い
今はこうして情報の集積をしやすい、そこから見えてくるものがある。

人類が消えた世界 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)[文庫]

アラン・ワイズマン
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これは前に時事問題の深層で書いたものでてある。詩は一部書き加えた。
キプロスが印象に残ったのは船で6時間くらい寄港したことである。
その時アーモンドの花が海に向かって咲いていた。これは確かに桜の花とにていたのである。
それはアーモンドの花だった。当地の人は花よりアーモンドの実として意識している。
船旅がいいのはやはりこうして一時寄港したりするときである。
6時間だからほとんど何も見ていないがそれでも一時でも寄ったということで記憶に残る旅はともかく記憶に残ることが大事なのである。
なぜなら外国になると歴史的なものでも何でもわかりにくくなるから余計に何かを意識できず忘れるのである。
ここで自分が書いてことをテレビで専門の学者の人が同じ指摘をしていた。
キプロスはヨーロッパの国にとって要所であった。軍事的にも中世からも要所だったのである。中東は日本にとっては遠い国だけどヨーロッパでは歴史として一体化しているから関心の度合いも違うし争ったとしても兄弟が争うともにているのかもしれない
骨肉の争いともなっている、それは朝鮮半島と日本ともにている。
この分析が正しかった、自分はそれほどキプロスには詳しくないし6時間寄港しただけだったけど一回でもともかく外国でもその地を踏むことは本で読むより効果がある。
ともかく自分は外国旅行したのは50才すぎてからだから一人旅できたのは自分ながら今になると良くできたなと思う。
海外になれている人は今は抵抗がない、なれない人はやはりハードルが高くなる。

キプロスはギリシャの古代からローマから中世から現代と歴史が地層のようになって残されているから面白い国になる。
トルコであった人はキプロスに別荘をもっていた。キプロスは別荘の多い国であり保養地なのである。今はギリシャとトルコに国が分断されている。
これも朝鮮半島とにているのである。
ともかく世界を理解しようとしたらこれも旅行を欠かせない今の人はそういう点では恵まれている。
海外旅行はその頃はそれほど金はかからない、そこであった若者はイスラエルで仕事としていた。別に普通の労働者だったのでしきりに日本に帰るのが嫌だと言っていた。
戒告では働くに時間がルーズであり働きやすいと言っていた。
日本ほど過酷な労働条件の国はない、過労死があるなど外国ではないだろう。
今はどこでも外国でも日本人と合うから外国旅行はしやすいのである。
外国旅行でももちろん国内でも何かを読まれるものを書くとなるとそれなりの知識が必要になる。
まず言葉がわからないからこの遺跡は何なのだろうということがわからなかった。
一人旅だと説明してくれるものがないからである。
それでかなり損したとなるが百聞は一見にしかずでその地を踏んだという経験が大きかった。

文明の十字路ーキプロス
http://musubu2.sblo.jp/article/64110080.html

ここでも書いたがキプロスについての情報は集積されている。
今のイスラムでもシリア辺りでもいろいろな国が交代していた。
トルコもそうであり支配は変わっていた。だからイスラム国を主張するのはそうした歴史があるからである。それがわからないにしてもあの辺の歴史は常にそうして国が代わる代わるになり支配されたり支配したりしていた地域なのである。
 

2015年08月21日

丝绸之路の詩(シルクロート) (地球を詩う時代)



丝绸之路の詩

(地球を詩う時代)

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丝绸之路の詩(1)

大都長安の城壁の大門
丝绸之路へ通じ出立す
離別の情、遥か平沙万里の道
長城は沙場に尽きし残滓
風沙に一村埋もれ消失
西域の城誰か守らむ
誰か天幕に祈りを捧げ
日月星辰に導かれて
駱駝に馬に乗り羊を追ふ
隊商に兵の力尽きて
砂塵に埋もれ白骨の無情
宝物も沙に埋もて久しく虚し
地の日は短く天の日は長しも
少女のミイラと眠る楼蘭
湖も沙に埋もれて消えぬ
時に浮かぶオワシスの夢
百花香り木の実の美味にして
木陰に休らふパラダイス
遥か帝都を辞して幾歳や
西域を守りて胡人と交わり
日を重ねて情の深まる



丝绸之路の詩(2)

朝目覚む酒泉 百羽の燕
鐘鼓楼 東西南北に通ず
氷河白雪祁連山脈冷涼たり
征人通過す西域の道
中華広大にして茫漠
万里長城の端の砂漠に埋没
その外郭につづく陸土
人跡絶えて平沙に唸る風
草原を疾走する騎馬民族
英傑は生まれ遠望す
遠大なる地球の歴程
大望はここに生じる
彼方欧州に達して
帝都羅馬にも知らる
小なる日本大陸を知らず
大海を知らず大河を知らず
狭隘なる地に呻吟して
雄想は生まれず朽ちぬ
大陸の草原の風、大洋の風
今詩人は地球を詩う
その旅程は尽きざるかな



「東迎華嶽」(東に華嶽を迎え)、「西達伊吾」(西は伊吾に達し)、「南望祁連」(南は祁連を望み)、「北通砂漠」(北は砂漠に通ず

酒泉はそういう交通の要所だった。
中国は三回くらい旅した。50才ではじめて海外旅行した自分にとってあんな自由な旅ができたのは今になると不思議である。
様々な失敗であり過酷な旅でもあった。それもなんとかやれた。
今どき50才で海外旅行してない人はいない、今は貧乏人でもできる
10年前以上になると円高であり一ドル70円とかのときもあった。
その時海外旅行熱が日本にあり貧乏旅行が流行になり若者は海外の安宿で沈没とかいって一年とか過ごしているのがトレンドだった。
それも円高で物価が十分の一とかだからできたのである。
円安になると海外旅行は高くつくから今は中国すらなかなかできないだろう。

中国は漢字で共通しているから親しみ安いし歴史と文化でも日本と通じる
でも中国を理解するとなるとまた別である。
日本人が大陸を外国を旅して理解できないのはその広大さなのである。
何か空まで広く感じる、日本は山国であり空が何か狭い感じになる。
だから大陸の感覚が実感としてわかりにくいのである。
大河も砂漠も日本にはない、その広大な長大さが実感できない
あれだけ広大になるとちまちましたものがなく大きな人間でも思想でも生まれる
中国から英雄が出るというのはその壮大な国土の故である。
日本は島国でありスケールが何でも小さくなるしその小ささが文化になっている
漢詩は一応誰でも読んでいるから文化的になじみがある
世界史を理解するときいろいろなアプローチがあるが詩から理解するというのも外国の文化を理解する手段になる。
ただ詩とか芸術でも不可分にその風土と結びついて生まれる
それで漢詩を知りたかったら中国本土を旅する必要がある。
実地にその地を踏むと実感できる

今は日本でも外国でも実地に踏んだ地を回想して詩にしている
想像の世界ではなく実地にその地を踏んだということが世界を知るには不可欠なである。ただ中国でもアメリカでもロシアでもその広さを一回くらいの旅行では知り得ようがない日本とのスケールがあまりにも違いすぎるのである。
現代とはすでに庶民でも普通に海外旅行しているから地球を詩うグローバルなものと自ずとなる。
まだそういうグローバルな詩はまだ生まれていないのかもしれない
日本もすでに外国との交流をする時間をかなりもった。
それが蓄積されると世界的な詩を作る人もでてくるだろう。
それにはやはりまた時間がかかる、時間によって熟成されないと文化は生まれないのである。
現代は何でもグローバル化する時代である。地球自体はどこにでも行けるから狭くなっている。実際は歩いてとか馬でとか駱駝で行ったりしないとその広大さは日本すらわからないのである。

広いといえば相馬藩内でも徒歩で自転車で回れば結構広いのである。
まず日本のように狭い国でも変化に富んでいる国はないから旅してあきない国である。
ただ広いというだけだとあきてしまうのである。
いづれにしろ現代は地球を詩う、地球を描くとか何でもグローバルになる
シルトンクロードでも歩けば馬で駱駝で行けばその広大さ唖然としてしまうだろう。
中国では火車、汽車の中で泊まる人が多いし長くなるから車中で生活できるようになっている。三日とか乗る人も多いからである。
10年前以上になると一般の人がのる列車には外国人は乗れない
殺人的混みようであり車掌が客を笞で打っていたというから中国は何でも過酷である。
流民と化した出稼ぎ労働者が大挙して民族移動のようになっていた時代だったからであるそれせ今になると新幹線も走っているのだから中国も十年以上でかなり変わってしまったのである。

地球を詩うというとき今は地球規模で何でも見なければならない時代である。
地球には実際は国境はないのである。こういうふうに自由に往き来できる時代だからこそそうなった。
歴史でも地球史となり壮大な自然から人間の歴史を再考察する時代である。
ただまだそのスケールにあわせるほど日本人は熟成していない
それでもその交流の範囲は広いのである。
この辺ではあまり外国となると交わりがないが関西辺りだと神戸の人で中国語を自由に話すとかアルジェリアに石油関係で仕事していたとかグローバルに仕事をする人がいた。
田舎ではそういう外国と仕事するとは少ない、でも島商会は中古の車をロシアに売っているからグローバルな会社なのである。
何かしら外国と通じ合うのが現代であり田舎でもそうである。

地球を詩うとなるとその詩う人も地球大になることが望まれる
それだけの体力もまた知識も要求される、それだけ空間せかいか広がると人間は長生きしないととても世界を理解できない
50才からやっと海外旅行して60才から世界をみるとか今は長生きしなければ世界を知ることができない
空間が地球規模に広がった時、時間もまた比例して長くないと空間も理解できないのである。
日本の長所と弱点がある。弱点は広さの認識をもてないことである。
日本が外交がへただと言う時、世界規模の認識がもてないためである。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

石川啄木『一握の砂』

東海とは韓国から見れば日本海は東海なのである。小島とは北海道か日本のことである。啄木は日本という小さな島国の悲しさを歌ったとなる。
日本は島国という制約で大きくなれない悲劇がある。
日本が太平洋戦争で負けたのも大陸のように大きくなれないということにあった。
日本は海に囲まれていても海洋民族とも違う、イギリスは七つの海を制覇した海洋国になった。日本は海に囲まれていてもそれが外国に通じる海ではなかったのである。
ともかく人間の一生は短い、自分の場合、旅していたらいつのまにか人生も終わりに近づいていたのである。
今はその旅を回想する、回想して詩を書いているのである。
旅でもその時、旅している時はなかなか理解できないで書けないがあとからその場を理解して書けるということがあった。
ただ実地にその場を踏まないかぎり詩でも書けないと思う
この詩は訓讀漢詩風にもなっていない、漢詩の詩語で表現しているのが少ないからである日本的な詩だけどやはり中国は日本と通しるものがあるから漢詩があるから文化的に共通性を見いだすのである。
旅というとき何か遊びではないかということが外から見られる、旅することは実際は相当な労働なのである。もちろん外国の宿にたむろして遊んでいる人もいる。

旅することはその回りの景色と同化することである。だから旅で恋愛だと女性に気をとられると気が散るので旅の自然であれ歴史を知るのに邪魔になる
団体旅行でも社交の旅になり回りの自然に注意を払うことができない、また旅というとき当人旅人ならなければならない、現代の観光旅行は旅人ではない
だから今では旅人になることはほとんど不可能になっているのである。
自分は一人で自然と歴史でも見ることに注意していたから思い出してなんかと詩にできるただ忘れるのも多い、忘れない旅をするにはどうするかというのも旅の課題なのである。旅は本当に旅なら行にもなる、観光旅行ではなく保養でもなく行だとなる
自転車などになると体力がない自分にはきつかった。でも達成感があった。
中国も10年前だときつかった。ただなぜ危険な目にあわなかったのか?
それは自分は汚い中国人と同じ格好していたしほとんど中国人に見られていたからだと思う、金持ちの旅人にはとても見られなかったことがかえって安全だったのである。



2015年01月17日

船旅の思い出(詩) (ロ-マからギリシャのオリンピアへ)


船旅の思い出(詩)

 
(ロ-マからギリシャのオリンピアへ)


新年に異国の港に寄る船や我が旅せし日を思い出すかな

外国(とつくに)の街は古りにき教会の鐘の鳴りつつ船は去りにき

バスにのるトルコの人のキプロスにヨットを持つと金持ちなるかな


ヨットで世界一周した人のテレビ放送をみた。あんなふうにして世界を旅したらいいなとうらやましく思った。船旅でもヨットの旅は全く違っている。
地中海はヨットの旅に向いている。だからヨットをもって各地の港を回る人がいる
ただヨットは相当な金持ちしか趣味にもできないだろう。
ヨット一艘がどれくらいするのか何千万になってしまう。
だから冒険でも贅沢だなとみる。
それは貿易ではない遊びだからである。ヨットをもつ人は日本でも大金持ちだからである
ただ自分は電車でも自転車でも船旅をずいぶんしたからいつも旅しているからいつも旅している気分なのである。だからテレビをみてヨットで旅する人と一体となったということがある。
本当にあそこはアドリア海でも歴史があるから魅力がある
地中海は船旅に一番向いている海なのである。
トルコで出会った人はヨットをもっているというから相当な金持ちなのだろう
キプロスは半分はトルコの領土だからそうなっている。
キプロスには船で立ち寄って何時間で去った思いである。
一応よったので記憶にある。ヨーロッパは歴史があるからそれを調べたら尽きないものになるだろう。
地中海とにているのは瀬戸内海だが規模が小さいから大航海時代にはならなかった。
地中海は規模が適当で大西洋に出てゆく内湖のような役割を果たしたのである。

つまり歴史も常に地理なのである。地理によって制約されたり歴史が作られているのである。
ギリシャの魅力は古代の遺跡と自然が多様なことである。海あり島あり山ありと日本ともにている。変化に富んでいる。ギリシャは海に拡大して勢力をました。
植民都市を各地に作った。
ナポリはネオポリスでありギリシャ語から発している。そういうギリシャに由来するものか多い。だからギリシャのコインが発見される。
それより前はフェニキア人が商業の民として活躍した。
アルハベットと商業するのにどうしても必要だったのである。
つまり共通の言葉をしゃべり文字を書くことで商業が成り立つ
ちょうど英語のような言葉がグローバル化すると必要なのとにている。
地中海は商業の民をはぐぐみ大航海に向かったのである。
それは地中海があったからである。

イタリアのブランデシからギリシャに船で向かったとき、嵐だった。かなり船はゆれたのである。その時思い出したのは難破したギリシャの船が海底から発見されたことである。そこにギリシャの壺が大量にあった。それは貿易のために作られ運ばれたのである。
やはり船の旅は何かいい、なぜなら船は港港に寄ってまた去ってゆく、それは旅でも同じだが船の場合は到着するとき去ってゆくときそこに旅情が生まれるのである。
船の旅は時間がかかるからこれも時間がないとてきない
沖縄までぼろい船で東京から一週間かけて行った。
一週間もかかるということは今はないだろう。
結局自分はそれだけ暇でありそれが旅に費やされたのである。
これだけ旅してもまだ旅していないところは多いから世界を知るということはそれだけ時間がかかるようになった。

ヒマラヤとかはもっと見たいと思ったがこれも容易ではない、金より時間とか体力の問題になってしまったのである。
ブリンディジからギリシャのオリンピアに行ったのだがイタリアの南は北と違い相当貧乏らしい。電車で雨がふっていて中世の城も見えた。あの時も日本人が同乗していた。
外国旅行して日本人に会わないことはなかった。だから一人旅でも日本人にあう、そしてあのころはバックパッカーの時代でありどこかの安宿に長くいることになっていた。
そういう時代も終わった、ただ以前として外国は身近になってゆく
だからこれからも庶民レベルで外国の発見がある。
どっちかというとエジプトとか大陸は広いというだけでなじめない、中国もそうである。その広さが日本とあまりに違っているからなじめないのである。
あれだけ広いところに住んでいれば心も広くなるということは感じる
電車の時間でもルーズなのは大陸的などと言われるのはそのためである。


ローマからギリシャへ海を渡る

船はローマをいでぬ
地中海は荒れ船はゆれしも
かつて地中海をギリシャの船は
美しき壺を運びぬ
船は波浪にもまれ沈み
海底に破船は久しく埋もれ
そこに大量のギリシャの壺
ああ かの時波は荒れしも
かなた望むはギリシャの雪の高峰
清浄にしてゼウスの棲むや
船はギリシャに着きぬ
ドラクマを手にとり
そこよりオリンピアよ
巨木の根のようにゼウス神殿の
石柱の跡のここに残りぬ
競技場に春の野の花の彩り
そこに逞しき男等は力の限り競いぬ
その誉れはここに刻まれしかも
その観覧席の石の座席はいかにも古し
二千年の歳月はここに過ぎにし
熱き応援もここにありしや
その熱情は覚めて石のみ残りぬ
春の風はここに吹きそよぎ
悲しきやヒヤシンスの神話を語らむ



オリンピアはゼウスに捧げる宗教的行事だから今とは違っていた。なぜあんなに石の柱があるのか体育館の跡とか神殿の跡である。石だから二千年とか残っている。
それは本当に古い、石も相当古くなっている。雨風に二千年打たれて残っているのだから当然だともなる
オリンピアで競技が行われるとき戦争も中止されたのはゼウスへの宗教的行事だったからである。神聖な行事ともなっていたからである。
あの時はまたユーロではなくドラクマだった。だからリラとフランとか交換するのがめんどうだった。ユーロになってからは旅していない、ただかえって国が変わればコインも変わるというのが面白いともなる。みんな同じだと面白くないともなる。
ただ不便なことはありユーロだったら便利なことは確かである。


タグ:地中海

2012年04月16日

美しいギリシャの遺跡(詩)


美しいギリシャの遺跡

神は人の営みを隠した・・・ヘシオドス

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ギリシャの遺跡は埋もれている
山々の中にありし日のままに
威厳に満ちて埋もれている
雪におおわれた奥深い峰々
岩山から清水が流れひびき落ちてくる
オリンポスの山々は今も聖域である
雲間からさす光が神々しい
ギリシャの遺跡は春の花々の中に埋もれている
地中海からの風がそよぎわたり
ただ語るのは遠い昔のこと
ヨットが帆をふくらませ島をめぐる
遠大なオデッセの冒険が蘇る
自然と調和した神殿
その神殿も自然に還った
ここに神話はまだ息づいて
古代の人はそこに静かに眠っている
その遺跡は自然の中に埋もれた
遺跡は自然の一風景として溶け込む
ああ 現代の文明は自然を破壊して
その巨怪な姿を露にして埋もれることはない
見よ、無残なる原発のその破壊された跡
凄まじい戦争の殺戮の跡
機械に蹂躙されて一かけらの美もない
醜さが剥き出しになってさらされている
ああ ギリシャの神殿の遺跡は美しく埋もれている
高い塔もなく堅固な城の塀もなく
花々の中に埋もれている
静かに遠い過去を回想しつつ埋もれている
蝶は花々を求めて変わらず飛んでくる
明るい春の陽ざしのなかを嬉々として
遺跡も廃墟も自然と調和すれば美しい
人の労働は労苦は何なのか
自然を汚して破壊して何を建てたのか
工場の煤煙よ、放射能よ、戦禍の凄まじい跡よ
人の成したことは災いの都市を作ったこと
残されたのは巨大な迷路、逃れることのできない迷宮
ああ ソドム、ゴモラのように滅ぼされる市よ
人は自然の中に埋もれて美しい
遺跡となりて廃墟となりても美しい
人は何をせずとも神は花環をめぐらせ
村を彩り美はその中に映える
そして遺跡は埋もれて自然に還る
ギリシャの遺跡よ、美しく眠るがよい
人よ、その眠りを覚ますな
ひそかに訪れ聖地を汚すなかれ
人よ、何も残さなくてもいい
美しい自然を残して地上から消えろ
あどけなき花々は咲き満ちて
ひらひらと蝶は今日も舞っている

2012年01月05日

スイスの貴重な写真一枚


スイスの貴重な写真一枚


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雪山に映えて一羽の烏かな

背(そびら)には雪の岩山高々と樹は伸びにけりアルプスの村

この写真は絵になっていた。絵ではないにしろまさに構図としても絵にすれば立派な絵である。スイス辺りは絵になる風景が多い。ただこの写真は全く思い出すこともできない、たまたまあとから見てこんな写真あったのかと驚いた。こういうふうに見事にとれたのは少ない。観光地の写真はみんなとっているから同じ様なものになりやすい、今はインタ-ネットでかなり見れる。ハイデルベルグの雪の光景がyoutubeで写されていた。あそこは塔も印象に残ったところだった。


赤い屋根白に変わりぬ雪のふりハイデルベルグに映えし塔かも


何か塔に雪がふり寒々としているのがリアルである。一度行ったからリアルに感じるのだ。

外国の写真はやはり思い出すには不可欠である。ただ観光地のはいくらでも写真が見れる。すると同じ様なものになってしまうのが現代である。この写真は観光地でもはずれた所だった。スイスの有名な観光地でもぶらぶらしてとった写真だった。とったことも全く覚えていなかった。でもこの写真は秀作である。全く構図とか一切考えてとってはいない、偶然の産物だった。それでもいい写真をとれるときがある。だから本当はとにかく数をとればその中にいい写真が残る場合がある。デジカメだとそうしやすかったがこの時はデジカメではないのでそれほどとっていなかった。デジカメだったらもっととれたからいいのが残っていたろう。

雪のハイデルベルグ
http://www.youtube.com/watch?v=IyZQ5z2_Pmc&feature=related


あとがき

良く見たら烏が一羽高いところに止まっていた。これなども肉眼では気づかなかった。それを写生して俳句にした。
ただ写真を見ないと俳句だけでは鑑賞できないのがある。写真と一つとなって作品化しているのが現代の写生俳句なのである。

2011年11月24日

冬の日に古い楽器に偲ぶヨ-ロッパ


冬の日に古い楽器に偲ぶヨ-ロッパ



晩秋や楽器作りや古き街


石畳踏み古き楽ひびく


鐘のなる石畳の路地冬に入る


ハルダンゲル・フィドル(Hardanger fiddle)。英語ではハーディングフェーレ(Hardingfele)。飾りのついた小型のヴァイオリンのように見えます。
http://tokuhain.arukikata.co.jp/oslo/2010/02/post_18.html

ノルウェ-には行っていない、テレビで見たらノルウェ-はフィヨルドとか森だ多い。森があるところは世界で少ない、ヨ-ロッパでも少ない、ノルウェ-は北海道とにている。ギリシャは瀬戸内海辺りとにている。日本の風土は多様であり世界中のミニモデルのようなものになっている。南から北と風土が多様なのである。平原とか大陸のどこまでもつづく平地とか砂漠とかないものはある。これはなかなか理解しにくい、一番にていたと思ったのはギリシャだった。


音楽は苦手だけど一時期理解しようとして楽器をやったがうまくいいかなかった。ただ暇だからクラシックを聞いて理解しようとした。それで教会のミサ曲の古いチェンバロの音が心に残った。あういう音楽はやはり当時の街の雰囲気とともにあった。それは石畳の古い路次を歩めばその音色はしんみりととけこむのである。音楽もその当時の街と一体化してあった。現代はあらゆるものがごちゃまぜになってしまった。一つの音色はない、あらゆる音色があり統一されない、クラシックとポピュラ-が一緒にひびいてくる。現代は常に調和がない世界なのである。

このハーディングフェーレも教会側からすると俗なものとして禁止されようなことがあった。すべてが宗教で統一されていた時代が長かったからそうなった。科学もガリレオのよう認められなかったし音楽もそうだったのである。


楽器も偶像とまでは言わないけれど目に見える形あるものという点で偶像と同じと考えられていた)、人間の声による歌だけが重んじられていたのです。
http://poco-a-poco.chu.jp/lothlorien_music/03/post_66.html


ボ-カルしかなかったというのも意外である。ユダヤ教から発した一神教では偶像崇拝ほど怖いものはない、人間は宗教というときほとんど偶像崇拝に陥っている。偶像崇拝しないだけで宗教はわかる。イスラム教を見ればわかるだろう。唯一の戒めは偶像を崇拝しないことである。なぜなら人間は偶像崇拝に一番陥りやすいからである。日本なども神道でも偶像崇拝に陥っているから怖い。何か偶像を拝んでいるようで怖いのである。八百万の神も偶像になる。そもそも日蓮宗でも真宗でも紙に書いた題目を拝んでいるけどそんなものに神があるはずもない、だから当然そんなもの破る人もでてくる。それを破ったからといって何も起きない・・・・それは神ではない、ただの紙にすぎないとなる。それは自分が実証しているし他の人もそういうことはわかっている。偶像はいづれすべて破壊される運命にあるのだ。だから偶像崇拝は最大の戒めだったのである。偶像崇拝はまた強制される。戦時中の天皇もそうだったともいえる。人間が神を求めるとき偶像を神とする傾向が古代からあったのだ。

ヨ-ロッパの魅力はやはり歴史である。その歴史もヨ-ロッパ全体が重層的になっている。だからこそルネサンスが生まれた。ヨ-ロッパを歩けばどこでも歴史を感じるのである。ただその歴史を現場で理解することはむずかしかった。それで今思い出して勉強して歴史をイメ-ジする作業をする。そういうことが冬の静かな日にあっているのだ。


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冬の石畳の街



古い石畳の路地

その道を踏み歩む

古いチェンバロの音がひびく

中世の静かな街並み

人々はひっそりと暮らしていた

奥まった部屋に身をつつみ

女性は顔を出さない

教会の晩鐘が鳴り

冬の日は路次深くさし暮れる

石の壁は歳月経て重みを増している

その石にチェンバロの音が厳かにひびく

石の城、石の教会、石の市壁、石の橋

石に刻まれたヨ-ロッパの歴史

遠い昔を石に偲ぶ


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ヨ-ロッパの中世はやはり江戸時代である。江戸時代も城がありヨ-ロッパと共通していたのである。日本とヨ-ロッパの歴史は共通していた。もしかしたら明治維新が成功したのもそういう江戸時代の歴史があったからかもしれない、封建制があったのはヨ-ロッパと日本しかなかったからである。
アメリカなどは全く異質の国だった。歴史もなく突然大平原とかに現出した国なのである。その驚嘆を詩にしたのがホイットマンだったのである。何にもない所に都市が現出したのである。

写真はここがいい
http://bellano.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-3107.html

石畳の道を切り取って良く見たら確かに日がさしていた。前画面からきずかなかったのである。
部分を拡大化すると部分詳細に見るということがあった。写真の見方でもいろいろ方法がある。

2011年11月08日

ギリシャの旅-春(俳句十句と写真)



ギリシャの旅-春(俳句十句と写真)

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なんという蝶なのだろうり

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龍舌蘭-ドルフィの神殿に咲いていた


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菜の花とロバに岩に島暮れる


島々を船の行き交い春の暮


春の花神話をつづる島々に


もの寂びて松に神殿春の花


黒き蝶岩にとまりてたそがれぬ


オリンピア野の花々や春の風


ドルフィの神殿古りて龍舌蘭


残雪の山や角笛の羊飼い


路上に土産売る老人春の暮


ジプシ-にリラを与えぬ春の駅


ドラクマにリラと交じりて春の暮

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ギリシャは花がきれいだった。旅をして花がきれいだったという所はあまりない、春だったからきれいだった。一面にいろいろな花が咲いていた、花野だった。ギリシャはもともと自然も変化に富んで美しい場所だった。神話の国でもあった。ただ森は岩山になっているからあういう所はもとは森だった。そういう岩山とかになっているところが世界には多い。自然の森が残っているところは少ない。ギリシャの特徴は島々にもあった。クレタ島とか大きな島がありそこから文明がもたらされた。クレタ島の歴史はそれだけ古い。埋もれた迷宮都市もあった。そこでは様々な神話が語られている。確かに一度行ってみればそういう神話にふさわしい場所だった。フランスやドイツやイギリスなどのように近代化工業化していないことが古代がそのまま残り取り残されたような国になっていた。だから昔を偲ぶには向いていた。古代もこんなだったろうなということが想像つく、余りにも近代化都市化したら東京のようになったらもう過去を偲ぶことはできないからだ。


ギリシャにはあれだけの芸術や思想哲学を生み出したのも変化に富んだ地形が影響した。オリンポス山や海を望み島々がある。だからポリスにしても100もあってそのポリスごとに貨幣があったというのもその多様性を示しているのだ。そういう多様な地域だから多様な文化や天才が生まれたのである。なかなか海の神話とか山の神話がある世界は少ないだろう。日本も海と山の文化があるからにていた。特に瀬戸内海辺りはギリシャの地形とにているのだ。そういう地形的なことでも親近感をもったのがギリシャだった。中国とかアメリカとは大きな国には親近感をあまりもてない、ただ大きいだけでありあまりに大きいからつかみようがないとういことがあった。中国とか大きすぎて理解できないということがあった。ギリシャはその点,地形的に理解しやすかったのである。山があり海があり島があるのは日本とにているし気候もにている。地中海気候で温暖ではあるが瀬戸内海辺りともにている。ドイツとかフランスは北は寒い。あまり暑くもなく寒くもないという所にギリシャ文明が華咲いたのである。


ギリシャの鉄道にのったがあれが駅なのかと思う。一軒の小屋のようだった。利用する人も少なく日本の廃線ぎりぎりのロ-カル線と同じだった。電化していないから余計にそう見える。駅にジプシ-なのだろうか、そういう格好の男女が子供連れでいた。その子供にリラをくれたりした。イタリアから来たのでリラがあった。その時はまだユ-ロはなかった。ヨ-ロッパでは国が変わるたびにりょうがいするからめんどうだった。でもどこにでもりょうがい所があるから困ることはなかった。その度に金をとられていたのだ。めんどうだったがそういう度も地域性があり面白い。ユ-ロだけだったらどこでも貨幣も同じで地域性かないから面白くないとなる。


ギリシャにはいろいろな花が咲き花が映える所だった。海に面しているから花々も美しいとなる。自然は古代と変わっていない、だから神話の国をその土地を踏めば彷彿とする。やはりギリシャは詩の国だった。ロ-マは政治の国だというのはその建造物から直感する。別に歴史を知らなくてもその建物からそう感じる。ギリシャは神話の国であり詩の国であり美の国であった。哲学思想や科学の発祥の地でもあった。ただそれは遠い昔のことであり3000年前にもさかのぼるのだから今のギリシャ人はその末裔とは思えない、ギリシャ語を使っているからその点はそういう伝統の中で暮らしている。でもギリシャ人が残した華やかな文明は遠い過去のものである。今の人達と連続性がないのだ。日本はやはりまだ近代化しても歴史の連続性がある。社でも人々が詣でるから遺跡だけになったギリシャの神殿とは違っているのだ。まだ神々活きているのだ。


外国で俳句を作るのはむずかしかった。あまりにも変わっていたしなかなか何を意味しているものなのかわからないからである。今ふりかえり落ち着いてかえり見ると見えてくるものがあった。やはりギリシャは美の国だった。自然と調和した古代の文明が創造された国だったのである。俳句にしてみたが俳句だと短く一句一句分けて作れるから作りやすい、俳句は外国でもやはり写生である。
菜の花とロバと岩と・・・というときただ事物をもって示している。説明すると詩になってしまう。菜の花とロバと岩が示すものを事物で示して説明しないのである。


ヒュアキントスの神話

アポロンが円盤投げをして楽しんでいた時、ボレアスは意地悪く吹きまくって、円盤をとんでもない方向へと導いてしまいます。
運悪くその円盤は、アポロンの周りを駆け回っていたヒュアキントスの頭に当たり、彼は一瞬のうちに死んでしまいました。。。
(別説では、円盤投げの競技会での出来事とも言われています。)

アポロンは嘆き悲しみ、慈しみ愛したヒュアキントスを【ハデス】(黄泉の国・冥界の王)の国へ引き渡すことを許さず、彼を早春に咲く紫の美しい花『ヒアシンス』に変えたのです。
(その花は、現在のヒアシンスではなくアイリスの一種であったという説もあります。)

ギリシャ神話の中では、悲しいかなアポロンの愛は失われることが多く、彼の愛する人々は愛されるがゆえに植物に変わってしまい、現在までその生命を存続しているというエピソードがいくつかあります



これはオリンピアとかにふさわしい神話である。オリンピアも花々が美しく咲いていた。オリンピックというというとき何か競技場とか筋肉競技とか肉体だけを競うようになっている。古代のギリシャでは競技場があってもそこは意外と小さいのである。やはり人間的サイズでありギリシャでは自然の風景にマッチするように神殿が作られた。だから自然を圧倒するようなピラミッドのようなものは作っていない。こじんましたものが多いのだ。日本の祠や社とにているともいえる。だからオリンピアの周辺は丘でも花々に彩られていたのである。自然の美しさと人間の肉体の美が調和して演じられていた。現代のオリンピックは競技場とかが立派でありただ肉体だけを競う何かモデイビルの大会のように感じるのだ。肉体だけを特化して競う筋肉だけを争う動物的なものに見える。これはロ-マの闘技場とにているのかもしれない、オリンピックはロ-マの闘技場,コロッセウムににているのであり
ギリシャのオリンピックは人間的サイズの自然と調和して演じられていたのである。その相違は大きいのである。だからギリシャのオリンピックは美しい神話になったのである。円盤で死んだ若者が花に変えられたというのはギリシャを旅してみれば納得がいく、写真のように美しい花々に今も彩(いろど)られているからだ。神話もその土地を踏まないと実感できない、なぜならその土地の自然から
生まれたものだからである。

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和名:風の塔

英名:Tower of the Wind

位置:アテネ。アクロポリスの北側。古代アゴラの東側。

特徴:八角形の風の神の塔。1世紀の天文学者アンゴロニコスが建造した。日時計と水時計と風見の機能があった。8つの面は正確に東西南北に対応している。


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アケネではこの六角堂がありロ-マへのア-チ門がつづいている。ア-チはロ-マ文明になって作られた。
この先にロ-マの建築があるからだ

2011年11月05日

ギリシャの旅(菜の花とロバの国)




ギリシャの旅(菜の花とロバの国)

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なのはなとロバ

路上でおみやげを売る老人

手に握る重いドラクマ貨幣

水平線から船

島を縁どる美しい野の花々

倒れた神殿の石柱

彩られた神話の数々

オディセィの雄大な遠征と帰還

黒海に通じる狭い海峡

未知なる世界はその通路に

地中海の風が島々にそよぎ

一つ一つの石

それは人工の人の営為の跡

人の徴しの跡はそこかしこ消えじ

人の手に成らざるものなし

ただ過去があり過去を偲ぶ

迷宮のクレタの宮殿は忘れられ

栄光の日はもどらじ

ギリシャのアフリカの植民都市

キュレネは砂に久しく埋もれ忘れられる

薬草のシルフィウムに栄えし都市

そのシルフィウムも絶滅して

コインにのみかつての栄えを語る

石の船のモニュメント残し

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残される幾多の物語

語り尽くせぬ物語

人類の夜明けはここにはじまり

その知恵と技芸がここに集中して

哲学と科学の発祥の地

アテネの神殿はその象徴

常に壮健な肉体を競いし者たち

オリンポスはその聖地となりぬ

勝者にはオリ-ブの冠

その栄光は語り継がれぬ

急斜面の荒い岩石を清水が流れ落ちて

オリンポスのゼウスの聖なる白雪の山々

ドルフィの神殿は古りて

荘厳にかの高見に鎮まり暮れぬ

そこに厳かに神託の告げられし所

ギリシャの聖なるセンタ-の場

しかし今何かあれ

なのはなとロバの国

遠い過去のみが語る国

プロボネス半島の奥地かのスバルタの国

古い城壁の反り残雪の未だに寒々しく残り

今なお羊飼いの岩山に羊を追い

自然もなべて人の手になりて古りぬ

持ち帰りし一つのコイン

それはただ遠い昔の栄を語るのみ

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ドルフィの神殿

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オリンポス山




ドラクマの歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%9E


キュレネ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%8D


ギリシア人とシルフィウム
http://blog.goo.ne.jp/mosuke-log/e/ee93287add96b1a058d9897c18439eaa

シルフィウム
http://blogs.yahoo.co.jp/tyamada69/1244286.html

2010年06月14日

秋澄む(ケルンの塔)

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秋空にケルンの塔や荷船かな


塔二つ響きあいけり秋澄みぬ

オランダへ荷船下るや秋の空

秋空にケルンの塔の高きかなラインを下る貨物船見ゆ

秋のドイツの大地


秋澄みぬゲルマンの大地広きかも

悠々とラインの流れは古よりの境

ロ-マの遺跡に石の柱の残りて

その後に中世の古城は点々と

秋風の吹き歴史の重みを語る

秋空にケルンの塔の高きかも

貨物船のラインを下り行くかな

荘重なるゴシック大聖堂の鐘鳴るや

鉄路に野菊咲きにつつあわれ

赤き薔薇ももの寂びて咲きにしや

一つの貴族の館の古りにけるかも

晩秋のドイツの大地鎮まりぬ

ここにバッハやベ-トベンの生まれ

荘厳なる楽は鳴り響きわたるかも


ドイツを旅したのは晩秋だった。ドイツは寒いところだから秋とか冬の方がドイツ的になっている。ケルンの塔を電車から見たときは感激だった。中国でもヨ-ロッパでも塔が多い、その塔もツインになっているのが多い、ツインになって調和する。写真を見ると秋の空のように澄んで写っていない、ドイツやフランスは平坦な地だから空も広々としていた。大陸と日本の空も違っている。日本では山が多いから広い空を感じることがないのだ。そうした平坦な土地がつづくところでは塔は風景をひきしめるためにも実際に敵を見守るウオッチングタワ-として見張りの塔としても不可欠だった。海外旅行は印象に残すことがむずかしい。もうかなり印象が薄れたからあの時秋の空が晴れ渡っていたはずだと思って写真を見たがそうでもない、別な所だったのかもしれない、それでも一度その地を踏むとやはりそこからドイツの大地がその足元から伝わり文化や歴史を肌で感じるようになるのだ。バッハやベ-トベンの音楽もドイツの大地を踏まないと理解できないというのも本当だろう。その国から大地から自然から分離してできる芸術はない、一体として芸術も生まれているからである。他国へ文化をとり入れることのむずかしさが常にここにあったのだ。

俳句→短歌→詩として発展する。それなりに違った味わいになるし翻訳すればまた別な感じになるのが詩である。ともかく人間の記憶は時と共にどんどん薄れてあいまいになってしまう。その時の感動も消失してゆく、だから一回くらい外国に行ってもいいものができにくいのだ。やはり一年くらい住んでみないと外国というのはわかりにくいのである。ドイツやヨ-ロッパは鉄道の旅ができるからいい、鉄路に日本と同じ様に野菊が咲いていたので同じ感覚になった。ギリシャでも菜の花が一面に咲いているから日本と同じ光景を感じることはあった。ただラインのような川はない、川の文化もない、いくつもの国を川で行き来することは日本ではありえない、川はどこでも運河のうよに見えるのだ。オランダのロッテルダムまで貨物船は行く、川を通じてドイツとオランダは昔から結ばれていたのである。

2007年07月08日

満州里の灯


 満州里の灯


満州里 ともる灯遠き 夏の夕暮

茫々たる 暁の荒野を車窓に見つ 

我一度 平和の日、ロシアの国境を越えぬ

満州里 まことに遠き街なれ、鉄道は通じて

ロシアの人の ここに行き交い 買い物をする

満州里 かつて日本の国たりし 悲惨なる歴史

 

阿鼻叫喚はここに 木霊して 地獄絵図を作りしを

平和なる日 我は訪れて 何事もなしも

ただ街の灯の 心に残り 旅の回想にふけりぬ
 
満州里というと実際は相当な遠さである。こんなところまで日本人が行ったということは信じられないしまたロシアまで行ったことも信じられない、でも最近会津の酒造りの家にシベリアで死んだ父親の遺骨が帰ってきた。その遺骨をうやうやしく家族が受け取っているのをテレビでみた。40才で戦死したので子供も家業を受け継ぎ生きている。その頃若い人で戦地にゆく人がいなくなり40才くらいでも戦地に招集された。戦争のことはいろいろあるけど戦争自体まだ終わっていないことがこれでもわかるのだ。ウクライナには実際に日本兵の生き残りがいて墓参りに来たことでもわかる。
 

日本の敗戦が見え始めると満州人の反乱で放火・掠奪・銃殺、燃える家の前で満州人に惨殺された日本人が木に吊るされたり、首が曝されたりで町は騒然となった。
http://www1.odn.ne.jp/~cby36330/sakamoto%20page-1.htm

 
ここには余りにも悲惨な歴史が記された。それは現代からは想像を絶する世界である。私の家族も従軍看護婦で戦争終わると「日本人バカヤロウ」と地元の人に怒鳴られて恐怖のうちに帰ってきた。トラックにのせられて日本の旗の下をくぐらせられてそう言われたとかこれなどはまだいい方であり満州は悲惨だった。戦争が負けるということはこういうことなのだ。原爆もしょうがないという発言も物議をかもしだしているが敗戦というのは昔から悲惨なものになるのだ。戦争とは人間の一番残酷な面が露骨にでてしまうのである。歴史をふりかえるとき平和なとき国境を何事もなく越えてただ満州里の灯を見て帰ってきたことは幸福だったとなる。国境の街はどこも歴史があるから魅力ある。