東洋思想と西洋思想とは何なのか?
(宗教はもともと東洋からアジアから生まれた)
●西欧化したキリスト教ー宗教は東洋から生まれた
キリスト教でも誤解しているのはそれがヨ−ロッパから入って来たからヨ−ロッパが発祥の地のように思っている
でもアジアというときイスラエルまでアジアなのである
そもそもあらゆるものの淵源はアジアにあり東洋にあった、イスラム圏でもアジアであった、ヨ−ロッパは遅れていたのである、一時はイスラム圏内でヨ−ロッパの女性が奴隷として売買されていた、つまり今はイスラム圏内はヨ−ロッパからすると遅れた国としているがもともとはイスラムの方が優れていてヨ−ロッパは後進国でありイスラムから化学とか代数学とか学んだのである
その前にアジアがありその中心がインドだったのである、そしてインドから仏教が生まれたのである
そして宗教というときその思想はヨ−ロッパと相当に違ったものである
ヨ−ロッパの思想の形成はギリシャとかを基としている、それとローマ帝国であり政治支配が確立した、そしてカトリックがローマ帝国に公認されたとき本来のキリスト教が変質したのである、政治的になったのである
そしてヨ−ロッパとは何かとなるとその思想はキリスト教があったとしても西洋的キリスト教でありアジア的な東洋的なものとしてあったものが変質させられたのである
だからアジアで受け入れられたのはヨ−ロッパ化した西欧化したキリスト教でありそれが世界に伝えられた、特にカトリックがそうである
ただプロテスタントでもやはり西欧的価値観に基づくキリスト教なのである
そのキリスト教が資本主義を産んだというとき修道院から生まれたというときもそうである、なぜ修道院から資本主義が生まれたのか?ウェバーによると修道院だから他者に尽くす愛の集団だからそこで資本蓄積があり消費するためではない、他者への愛としての労働として資本主義が生まれたとしている
ヨ−ロッパ的思想となると必ず実用的なものとしてある、実利を追求するのである
だから瞑想とかは否定されやすい、用なるものを追求する
でももともとキリストの教えは実際は東洋的なものアジア的なものである
だからもともとあったオリジンはアジアであり東洋的なものである
それは仏教とかにもなるし中国だと老子の思想と共通しているのである
なぜなら老子の思想となると「用」なるものを否定する、無用の用というようにヨ−ロッパ的実用の思想とは違っている、ヨ−ロッパではあくまでも用を追求する
それはキリスト教でも同じである、常に慈善でも愛でも布教でも行動して強制的にもなるだから何か何もしないで禅宗のように座禅を組んで一日沈黙業をすることはキリスト教にはない、ヨ−ロッパ的キリスト教になるとそうである
●老子の無用の用の思想とキリストの教え
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった
この言葉は西洋的な思想ではない、極めて東洋的思想なのである、老子の思想に通じている、またインド人がゼロを発明したように空の思想とも通じている
自然をよくよく観察していると不思議である、それは本当に単純なことなのである
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
鳥を見ているとそうである、また自然の生き物でもどうして生きていけるのか不思議になる、まず食料を貯えることはしない、日々の糧を得て生きている、でも人間だったら明日食べるものでも何でも貯える、そうでなければ不安になっているからだ
とても鳥のようには生きられないのである、そして貯えるにしても金でも何十憶の金を貯えても不安は決して消えることがない、なぜなら金でも紙幣となるとそれはいつ紙切れになるかわからないからだ、特に日本では昨今預金封鎖とかなんとか言われて本当に紙切れになる不安がつきまとっいるのである
でもなぜ鳥は明日食糧を得る不安がないのかとなる
自然と人間を対比すると見えて来るものがある、
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった
人間は絶えず働き紡いでいる、衣服を着るにしてもそうであり絶えず労働している、
自然は働き紡いだりしない、まず衣服など着ないしまとわないからである
自然のままであり衣服はない、でも別にそれで一年中寒い時でも過ごしている
そこで石油がないとか燃料がないとか悩まないし騒ぎもしないのである
天然の衣服を着せられて野にその姿は映えて美しいのである
それは私は人とも接することもなく田舎の自然を見ていた、そこでいつも見えるのは人間ではない、白鷺である、その白鷺を見て不思議なのは決して辺りを乱すことなる静々と歩み餌をあさる、餌は何なのか、確かに餌があり日々得ている
そしてその姿は天然の純白の衣を着せられて美しく田園に映えている
それは実際はいつも見ていて当たり前のことである
でも人間と比べるとそれが当たり前ではない、特殊なことになるのである
人間の悩みは消えることなく不満でも消えることなくその愚痴も消えることがない
それは金持ちでもそうなのである、いくら貯えても食糧が得られるなくなるとか不安になる、それは紙幣は紙きれになることが実際にあったしこれからもありうるからである
ともかく人間から何か不満が消えることはない、ではなぜ自然界でも鳥でもそうした不安がないのだろうかとなる、貯えもしないのに不安がない、それを見ていると不思議なのである
●なぜ自然には美があり文明(大都会)にはないのか
そしてこれだけ労働しているのに人間社会には美がないのである
野の一輪の花ほど人間社会には美がないのである、それを象徴しているのが大都会であるそこに美があるだろうか、その光景はまるでとても自然から見たら異世界であり生き物の住める所とも見えないのである、つまり文明とは美を作り出していない
これだけ労働して日々汗して働いているのに美を作りだしていないのである
すると人間の技とは何なのかとなる、その技(わざ)は業でありわざわいになる
でも自然のままに何も手をつけない自然には本来の天然の美が備わっている
その美があるゆえに人間は醜いものとしても生きていけるとなる
つまり人間がいない方が実際は自然は本来の美の世界がありそこは天国だともなるのである
田舎でそうして自然を見ていると不思議になる、人間がいない方が自然の美は映える
人間は下手に労働して工作するより自然のありのままの方が天然の美が映えるのである
だから田舎がいいとはならない、そこに人間が顔出すと醜いものとなるのである
田舎の人間の方がせこく醜い面があるからだ、何か人間が顔出すと蛇のように見えるのである、だからなぜ人間が神の最高傑作でありキリストだったら神の子とされたのに大多数は醜いのかとなる、それで神は人を隠したというとき人が表に出ないことで自然の美は映えるのである、とういうことは人間は醜悪なものであり自然にとって不必要なのかとなるのも理解できなくなる
だからこそ老子の小国寡民とか無用の用とかの思想が生まれたのである
多すぎる人間が問題なのである、でも老子の生れた2000年前は中国でも一億人くらいであった、それでも人口を多く感じていたのである
人口が多いということはどうしても自然は汚され破壊されてゆく、本当に自然の美が映えていたのは人間がいない世界だったともなるのである
そこには災いも生れないし何か不足を言うものもいないし調和の自然の中にあり美が自ずと映えていたのである
人間は自然の中で一番の邪魔なのものともなっている、人間と自然の調和はありえないのである、職業が業というときやはりカルマであり人間の職業は自然を破壊する
破壊しないと生きていけないのである、農業でも実際は自然破壊である
焼畑農業だと森を燃やして灰として肥料を得るからである
森林の破壊なのである、農業にとって肥料が最大の問題だからである、その肥料を得るために苦労して来たからである、最近は農薬にしているがこれも毒であり害になる
何らかこうして人間の営為は害をもたらすのである
老子が無用の用を言ったとき自然と接していてそれを感じたからである
人間は無用でありえない、必ず用を追求してそれが自然を破壊して汚してゆく
反れか人間の業(カルマ)なのである
●自然と調和しない人間
例えば津波でも縄文人は海側に住んでもそもそも津波の来る場所には住んでいないのである、それは直感的に危険を察知していたからである
そして縄文海進があり津浪が来た所はもともと海であり人は住めなかったのである
でもその海を埋め立てて田んぼにしたりしたから今回の津浪でそこが海になったことに本当に驚いたのである、八沢浦とかもともと海であり入江であったがそこが元の海になったつまり元の海に戻ったのである、そこに自然の大きな作用があった
ではなぜこんな大被害になったかというと自然に調和して住めない人間側にその落ち度があったとなる、でも港でも海に接していないと不便である、魚をとるにしても不便であるだから人間の利便性故に海側に港を作り人が多く住むようになった
それが一網打尽のように津波にのまれたのである
人間は自然と調和するのではなく必ず何らかで利便性でも追及して自然と不調和になっていたのである
だから松原でも根こそぎ津波で流されたことには驚いた
これも松原は稲作していて塩害を防ぐための人工林だったからである、白砂と松原は美しい光景だったけどそれはあくまでも人口の美だったのである
でもそれに気づかなかったのである、もし自然との調和した世界だったら津波の被害はなかったともなる、第一そういう場所に住まないからである
人間はどこまでも利便性を追求してゆく、その利便性が自然を破壊して汚して調和を乱す運命にある、ダムというものがいいものとしてもやはり自然の調和を乱すものにもなる
やはり自然の流れを乱すのである、またダムが崩壊することもありそうすると甚大な被害になる、それは科学技術力で作れたものはみんなそうである
その最たるものが原発だったのである、この辺では事故で人が住めなくなったからであるつまり人が住めないということは最悪なのである
でも人間は利便性を追求してゆくからどうしてもそこに技わいが生まれるのである
人間が何かを成すことは何らか自然に反するものなのである
だからこそ老子は成さずして成るという無為自然を唱えたのである
それは東洋的思想でありヨ−ロッパの実用を追求する思想とは違っている
キリスト教とは西洋的なものではない、東洋的無の思想に通じるものであり宗教は東洋からアジアから生まれたのである、オリエントは基であり発祥なのである
●西洋文明の行き詰まりから東洋思想へ
そして世界的文明を歴史を俯瞰すると西洋文明というのが行き詰まっている
それは進歩の名ものもとに世界を席巻したがその弊害も大きくなりすぎたし限界になったのである
資本主義でも西洋からヨ−ロッパから生まれたものが基になっている、それは何か自然にそうなったように見えるが一つの主義であり原理であり思想でありそれに基づいて社会が変わったのである、それは共産主義がマルクスの思想が社会を変えたのと似ている
自然発生的なものではない、人工的に作られたものであり西洋的実利思想が社会を変えたのである、もちろん人間は利便性実利が欠かせないから文明自体がそういう業を宿命をもっていたことは確かである
でもキリストの思想でも仏教でも中国の道教となった老子の思想でももともとそうした文明否定があった、それは東洋的アジアから生まれたものである
だから世界的西洋文明化してそれが行き詰まった、その弊害が巨大化したのが現代のグロ−バル化世界だともなる
でも社会主義共産主義は西洋が作り出した思想が基になっている、それは東洋的なものではない、東洋的なものはインドから発して中国に伝わりまた日本にも伝わった、仏教とかである
ただ日本でもアジアの一国だから東洋的思想がある、間の思想がそうである
日本人は間を重んじる、間とは無用の空間にも通じる、間を置くというのはそこに無用な空虚な空間を重んじる思想である、時間の間でもそうである、西洋的なものだと一秒刻みで時間が計られて間が消失する、それは人間を機械化することであり効率化することになる、でも人間はすべて効率化すると窮屈となり人間性が奪われる
人間は有用と効率化された世界でそうした無用の用とか空虚な間とかを無くすようにしてきた、それでただすべて利便性と効率化でありそれが必ずしも人間を幸福にしなかったのである
確かに鉄道は不便で利用しなくなった、でも駅で待つ時間が何か人間的なのである
待つということは期待することに通じていた、人の出合いに待つ時間があってそれが
人間的なものとなるから駅は人間的な場になっていた、でもそれが高速のSAとかなると待つ時間がないのである、車でいつもでも次の場所に行けるから効率的なのだけど待つ時間がないからかえって人間的でなくなっている
こういうことはいくらでもある、人間はそもそも歩くことがなくなったから歩くことで得られるものがわからなくもなったのである
つまり西洋的な合理性と効率の極限の追求はかえって人間を不幸にするのである
現代とはそういう西洋的なものの思想とか文明が限界に来たのである
それを経済面ば方を見ているが資本主義とかグロ−バル化経済とかでも限界に来ている
それが西洋文明に由来するのものであり東洋的な思想への回帰復古が求められているともなる、ただそれがインドにあるとか中国にあるとか日本にあるとかなればない
世界が西洋化したのだからないのである、そして何が東洋的なのかアジア的なのかわからなくなっているのた
でも西洋的なものが限界に来ている、だから何でもヨ−ロッパに追従する時代は終わっている、アメリカに追従することも不幸になるだけである
だからといってインドとか中国が東洋的なものがあり新しい文明が生まれるのかとなればないのである、東洋的なものアジア的なものが何かを見出して再構築することなのであるだからといって宗教と言っても今はカルト教団であり大衆宗教でありそれは全体主義とナチスにもなる、それを証明したのが近代文明であり何千万人が機械のようにロボットのように使われて死んだのである、まさに文明ゆえの大量殺戮だったのである
それを象徴していたのが原爆でありまたこの辺の原発事故だったのである
●自然との合一の思想としての東洋思想
何かむずかしいことではなく、単純なものに真理がある、宗教の教理とか哲学でもむずかしくなる、特に仏教はむずかくなるので敬遠する
でもキリストが説いたことは余りにも単純なものであり学者とかではなく学のない庶民でも理解できるものだったのである
その単純なものを追求するものとして自然がある、自然を良くみていると不思議になる
例えば石があるとする木があるとする、それらは何を意味しているのか
経済的には石材になるとかまた木材になるとかなる
でもその精神的意味がある、石や木は黙している、そして最も不思議なのことは人間に比べて不思議なことは石や木は害を及ぼさないことである
そんなこと不思議なのかとなるが人間を見ればわかる、絶えず他者を害すために存在している、例え暴力をふるわなくても口で悪口とか呪いの言葉すらはいている
でも石や木には口は堅く閉ざされていてそういう精神を害する悪口など言わないのであるそんなこと当たり前じゃないかとなったとしても人間は余りにも常に害になる存在なのである、存在自体がそうなのである
無用の用というとき人間は無用ではありえない、無用でいたとしても常に害になる存在なのである
石や木は害を及ぼさない、その口は閉ざされて互いに争うこともない、平和なのである
その平和も持続的であり木は大地に根付き不動なのである
人間の害悪は凄まじいものである、その最たるものが戦争であり何千万人も近代になると死んだことである、つまりもともと人間はこの世になければそんな悲惨な戦争などなかった、確かに動物と動物は食い合いをしている、でもそれである種が滅びるということはない、自然の摂理にかなって食い合いしている、動物でももし食料を貯えようとすると大量に食べ物となる動物を殺すかもしれない、でも日々の餌を得るだけだからそういうことは起こらない、人間では常に貯えることをしているからそこでかえって貯えるために争うともなる、人間は何らかで争いがさけられないのである
だからこそ石と木が争わないという時奇跡的に見えるのである
石と木に接する時平和を感じるのである
●自然と対比でみる西洋と東洋思想ー文明の融合よりどららも滅びる
自然を観察する時、動物で草食動物と肉食動物がいる、でも草食動物は肉食ではない、草を食べているから平和に見える、それでもなぜ牙があるのか、それは他の動物を襲うものではない、身を守るものとして牙がある、敵を威嚇するものとして牙がある
それを見ると国を防衛するのには一応牙が軍備が必要なのかともなる
でも人間の場合は防衛するにしても牙が必要でも過剰になるのである
そして防衛だけではない攻撃することにもなる
老子の思想の成さずして成るとは植物的思想なのである、どうも西洋的思想はアングロサクソン的思想であり狩猟的思想であり攻撃文化思想なのである
つまり肉食的動物的思想である、それで絶えず大陸ではヨ−ロッパでは戦争が絶えなかったのである
インドでは仏教だと肉食をさける、動物でも保護する、平和的民族に見える
中国は三国志の世界であり弱肉強食の世界でヨ−ロッパと共通している
とにかく宗教はアジアを東洋を起源としている、そこに草木まで成仏するとか草食的植物的思想がある、それは平和的民族ともなる
日本でも牛馬羊がいなかったとか草食的植物的民族文化がある
ただ一方で日本人は侍がいて戦闘的動物的だということにもなる
国でも民族でもいろいろな見方がある、でも目指すべきは東洋的思想の文明でありまた植物的な文明の世界観が平和を作る、東西融合文明とかなる
それを成すのが日本だと明治維新に言われた、和魂洋才である
日本の地理がそうだからである、東西融合を果たす地理にあるからだ
科学技術的物質的なものが中国でも飽和状態になってきた、経済発展はこれ以上望めないとかなっている、でも文化的なものはこれから興隆するのかもしれない
東洋的アジア的物価の復興日本だと国風文化の復興があるかもしれない
物質的なものから精神的なものへの移行が起きる、内面的哲学的宗教的時代になる
でもカルト教団は一切そうしたものと関係ない、世俗社会より世俗的な所であり精神世界など関係ないあくことなく物質的欲望をかなえるために祈っているだけなのである
そんなところから何か東洋的文化だかと国風文化だとか一切起らない
ただ一票得るための政治団体であり利権団体であり御利益だけを目指す団体なのである
そこは一切東洋とか西洋とか関係ない、あくことなく欲望を追求する団体なのである
だからこそ宗教ではないから税金をかけろとかなる、制限しろというのもそうである
正直文明といってももう新しい文明は起こらない、どっちにしろ文明は滅びるともなる
第二次世界大戦で何千万人死んだとかなるのも文明の災禍だったのである
文明故の戦争でもあったからである
●高齢化社会はアート哲学文化の時代になる
これからの時代は世界的にも中国でも高齢化する、するとどうしても今までのように若者社会ではない、ぎらぎらした欲望を充たそうとする社会ではない、確かに日本は貧困化して食べるのが精一杯だということもある
でも高度成長時代のようにな物欲一辺倒の時代ではない
例えば老人になるとその語ることで老人を評価する、ただ物を持っていると金を持っているとかで評価しないことがある、もちろんそれだけで評価する人もいる
でも老人と語る時その人がどういう人生を歩んできたのかその経験談によって語ることによって評価する、その人なり人生を語る人は価値あるとなる
それは必ずしも金があるとか地位があったとかではない、まずカルト教団で一生終わった人は何も語ることがない、その人なりの人生を語ることがない
すべて団体組織の一員としてロボットとして終わったら何を語るかをあらかじめわかる
俺はナチス党員だったと言っても誰も今は評価しないと同じである
そして物欲一辺倒の世界から精神的豊かさを求める社会になる
中国人でも最初は物欲であり爆買いだったが今は違う、日本の文化的なものを求める
逆に中国では日本の物より菓子とかでも中国にもともとあったものを買うようになっている、中国でももともとあった国のもの文化を見直しているともなる
物欲がある程度充たされるとどこの国でもそうなる
全体的には成熟社会でありスロー社会であり内面的になり精神性を求めるのである
だから逆に文化面では興隆するともなる、つまり中味の菓子の味もあるが包装とかデザインとかが重んじられるようになる、がつがつ食べて腹を満たすだけではない、茶の湯とかなると喉が渇いたから飲むというのではない一つのアートに文化となったのと同じであるそういう文化の時代であり思想を深化したりアートの時代になる
インタ−ネットもそうしたアートとか文化の交流の面があるからだ
世界の映像がアートが見られるということでそうなる、その評価も世界で刷るとなるからだ、そういうことは映画とかだと莫大な金をかけてしてきたが別に無料で個々人でもする時代になっている、インタ−ネットは世界の展覧会場にもなっているからである
例えば鉄道が衰退しているが観光としては必要だとなる、新幹線のようにA-Bと早く着くことではない、各駅停車で途中を楽しむことがいいとなる
スローでいいとなる、もちろん早いこともビジネスとかでは必要である
でも一方で途中を楽しむことも必要でありそのために鉄道も必要だとなる
そこに鉄道の効用もあるとなる、車だけでは味わいなものが味わいるとなるからだ
車だと風とか光りでも感じない、見える景色も違っている、すると旅でも車より自転車の方がいいとなる、でも自転車の旅する人はまれである、老人になればさらにまれである
変わり者となっている、でも今自転車が見直されていることも確かである
また歩くことがなくなったから歩く旅をするとそれが新鮮な経験になり江戸時代に還ったような気分になるのである
だから福島中央道とかできたがそこはただ福島市まで早く到達するだけでありつまらないとなる、でも逆に前の道路は車も通らなくなり自転車で行くのにはいいとなった
まるでサイクリング道路となったのである
それでその道路沿いの店とか食堂とか客が来ないというとき逆にそこをサイクリングとかに利用して休むとかなるといいとなる
要するに時代は常に変わる、何が幸いするかわからないのである
だからこそ未来は常に予想外になっているのである