2014年01月01日

おせち料理は縄文時代からの日本人の食料 (今見直されるべき国風文化,日本人のルーツ)


おせち料理は縄文時代からの日本人の食料

(今見直されるべき国風文化,日本人のルーツ)


日本のお正月のおせち料理は、縄文文化そのもの。現在も、縄文時代と同じものを食している。お餅も、米は無かったがサトイモによるお餅があった。
勝ち栗、昆布巻、ごまめ、牛蒡、蓮根、人参、里芋、くわいなどが中心で、他にもこんにゃく、大根黒豆、かずの子、焼豆腐などを使っていますが、多くは日本人が四季折々に食べてきたものの


黒豆 イワシの幼魚の佃煮。 カタクチイワシを田の肥料としたところ五万俵ものコメが収穫できたとのいわれに由来している
(酢ごぼう)

伊達巻
だてまき 「伊達」の由来は華やかさや派手さを表す言葉で伊達政宗の派手好きに由来することの他、
搗ち栗
栗金団
(くりきんとん) 搗ち栗(かちぐり)は栗の実を搗いたもの。栗金団は栗餡や芋餡を練ったきんとん。 搗ち栗は「勝ち」に通じることに由来
焼き肴
鰤の焼き物 ブリも参照。照り焼きにすることが多い。 出世を祈願。出世魚であることにあやかったもの[16]。
鯛の焼き物 鯛も参照。元は神饌。 「めでたい」の語呂合わせ
海老の焼き物 伊勢海老を使うことが多かったが、高価であるため、クルマエビなどが使用されている。 長寿を祈願した縁起物
鰻の焼き物



最近和食が世界遺産として見直された。ところが現代は和食が何なのかわかっている人が少ないだろう。子供にしろハンバーグとか肉類の洋食が主流である。
日本人はもともとおせち料理が基本的な食べ物だった。魚や昆布など海産物が主流である。貝ばかり食べていたという巨人の伝説も各地にある。新地にもある。米を食べる前の食料は海産物と山の幸をミックスしたものだった。それがおせち料理にある。栗などは山の幸である。ただ米がとれるようになって米が主流になった。カタクチイワシをた田の肥料にしたということは海産物が農耕にも役立っていた。農業は肥料で苦労しているのだ。
焼き畑が盛んになったのは森を燃やして肥料にしたから手間がかからないからである。
それが自然破壊になっていた。

魚類や海老などを縄文時代から日本人は盛んに食べていた。それだけ海の恵みに頼っていたのである。海彦山彦が日本人のルーツである。海と山の世界であり平坦な地が少ないからそうなる。それぞれの民族を作るのはその土地のまず食である。食なくして人間はまず生きられないからだ。だから民族の骨格を作ったのは食である。その食はその国の風土から自然からもたらされた。だからおせち料理とは神に献げたものであり神とともに共食するという儀式であった。神にまず献げて神からいただくというのが基本にあった。
そういう儀式は一つの信仰的なものがあった。
こういうことが現代では経済効率優先で失っていった。そのことで何が起きてきたのか?

それは食べ物が基本的には神から与えられるものでありそれをありがたくいただくという自然に対する畏れとかがなくなったことである。

何かというと今は権利を言う、生きる権利がある。最低限の保証をしてもらう権利がある。生活保護は当然だとか常に権利ばかりを言う。食べ物も神からいただくのではない、人間が生きるための当然の権利だとなり神に感謝している人などいなくなった。
もっと魚をとって売りたいが魚がとれないとか嘆くだけである。

そして漁業組合では原発利権の方が巨額だから漁業権を原発に売ってしまった。
そもそも漁業権が魚をとる権利のことである。それがなぜ漁業者だけに与えられているのかがそもそも矛盾なのである。資源保護ならわかるが魚をとる権利を売ってしまうというのだから資源保護にはならない、ただ原発利権のために共同していただけだともなる。
こういうことは別に漁業だけではない、自然にかかわる職業はみんなそうなっているのだ。神に自然に感謝している人などいない、絶えず売れないとか商売にならないとかいう嘆きだけなのである。それだけ買うものが増えたから金が欲しいからそうなるのもわかる。でもそういう人間の限りない欲望が神から見た時許せないということもあった。
権利、権利と言うがこの世のものは自然は全部神が作り神のものなのである。
人間のものなど一つもないのである。土地でも食料でも何でもそうなのである。
人間のものなど一つもないのである。だから神に対して権利ばかり主張していたら傲慢だとなり罰せられるということもある。


それは何も自然とか神に対してだけではない、人間の間でも常に起こってきている。
前にも何度も書いたけど看護師でも何でも人に与えたり尽くしたり働いているのになぜ感謝しないのだろうとなる。ただ当然の権利だとかばかり言われたらその人のために働くのも嫌になるだろう。現代の人間に感謝する心が極めて少ない、ただ足りない足りないもっとくれもっともらう権利があるしかない、誰一人として自分が苦しい時働いてくれた人はいないけと絶えず金だけを要求してきたのである。
今確かに食を見直す時なのだろう。日本ならおせち料理は何だったのかと過去にさかのぼり考える必要があるのだろう。ただ自分は古い家でもないからおせち料理自体食べたことかない、一般的に高いからあまり今は食べないだろう。だからこの言に関してあまり言えないということがある。

でも何か日本人の原点にもどることを国風文化の再興の時代ということは書いてきた。
その国風文化にばいろいろあっても食も基本にある。
それがおせち料理でありそれは日本人が縄文時代から食べてきたものであったのだ。

クリとグリと一つのもであった。グリは石だけど貝などもさしていた。海の幸と山の幸が基本的な食料だったのが日本だったのである。山芋があり里芋になった。もともと山にあったものが栽培されて里芋になった。日本では山と海が接近している所が多いのである。熊野などは典型的な地勢である。この辺では新地がそうでありそれで鹿狼山(がろう)には手長明神の伝説がある。長い手を伸ばして貝をとっていた巨人がいたというのである。
新地の地勢と海と山が接近していることなのだ。だからその伝説も実際の生活から生れたものであることがわかる。相馬市とか南になると海と山は結構離れている。
だからそうした伝説は残っていないのである。伝説もただ何の根拠もなく生まれるわけではないのだ。

正月というのは日本文化を見直すのにはいい、現代は日本人とは何か、日本人のルーツさえ何かわからなくなっている。欧米化で日本人たるルーツが見失われた。だからそうした日本人の文化のルーツを求める時代になる。それは日々食べる食にもあり言葉にもある。それが意外とわからなくなっているのである。最近ネットウヨとか何とか右傾化が問題になるがそういう国家的問題ではなくその基になるのは日本人のルーツであり文化が何であったかを知らねばならない、それで本居宣長が大和と唐風の言葉を探求して日本人の心を追求したのである。そういう作業が現代は望まれているのだ。

右傾化というけど自分たちの民族のルーツを基となった文化を知らなければ日本人としての自覚をもちえないのである。それは回りの強国にたいして軍事力を強化することではない、日本人として生きてきた過程をふりかえり歴史を見直すことなのである。
もちろん正月には中国文化にルーツがある。しかしそれだけではない唐風だけではない日本独自の文化を見直したのが本居宣長だったのである。
つまり自分でもそうだが日本文化が何か知らないし外国にも説明できないのである。
それで明治維新の時、武士道を外国に紹介したことでもわかる。
明治維新以来欧米化に席巻されて日本古来の文化が見失われた。ということは日本人の骨格が失われたということなのだ。
ただ欧米化したものがすべて悪いというのではなくそういうものに一辺倒になったら日本自体がないものとなってしまう。そしたら日本の独自性もなにもなくなってしまうのである。

正月の寿春-正月は日本の文化


正月の寿春-正月は日本の文化

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正月と刻まれている-北泉の延命地蔵神社




正月の寿春


円は満願、調和、円満
紫菖蒲は清楚な妻
チューリップの大きな蕾
未来へ開く瑞々しい若さ
葉牡丹は田舎的素朴質実
若松は初々しい命の緑
黄色の蘭は無垢なる幼児の色
正月に床の間に映えて
この家を言祝がむ


広き家に初日のさして一年の穏やかにあれ老いてくつろぐ



正月という気分は失ったけど正月は明らかに日本の文化を色濃く反映されていた。
それは農耕社会だからそうなった。餅花などを飾るのは豊作を願って農家の人が手作りで作っていた。そこに意味があった。自分で作るものと買うものではそもそもその差が大きいのである。自分で作ることにより愛情がわくし作る過程でいろいろなことを学ぶ。
だから労働は商品を売るという近代的なもの貨幣経済で本来の意義を全くゆがめられてしまったのである。

なんか正月飾りを餅花を一万で売っているとかいう人がいた。買うから高くなるんだよなと言っていた。もともと農家で自家生産しているときそうした伝統的なものには意味があったのである。ただ買うだけだったら意味がない、餅花を作ることで豊作の願いをその過程でこめられていたのである。
その作り方も祖父母とかに教えられるということで伝統が受け継がれ村の暮らしが受け継がれていた。


本当に家事をしてみるとわかるけどいかに買うかが問題になる。多種多様なものがありその売っているものがわからないのである。玉子焼きに入れる具まで売っているしあらゆるものが売っている。だから買うことが生活することになっているのだ。
そういうことは何か変だと思うけど忙しい時代には便利であり家事ができなくても一人で自分はしているし介護までできるのは買ってしているからである。
これを人手でまかなっていたら専用のお手伝いさんが必要になるだろう。
それは大金持ちでないとできない、結局今どきそうしたお手伝いさんという仕事は誰もしたくない。だから機械と買うことでまかなっているのだ。

ただ人間の生活はいつも同じではない、常に変わってゆくからその変わることをいちがいに否定できない、伝統も常に新しくされるて意味あるものとなる。

今回の正月のフラワーアレンジメントに感心したように新しいものが取り入れられると
別な様相を帯びて伝統は受け継がれるのである。
昔のままがすべていいとはいえないのである。
戒名なんかいつまでつづけているんだと思う、もうそんなことに意味がないことが一般的になっているからだ。なんのありがたみもないのである。
以前として同じ題目をなど唱えつづけているのもそうである。
でも以前としてつづいているのは伝統というのは簡単に変えられないものがあるからだろう。


正月は日本の文化である。なぜなら年賀とか正月の儀式などは韓国などにはなく年賀などは日本のまねたのである。韓国には明らかに古代から日本の文化も入っていたのである。前方後円墳があったことでもわかる。それだけ古代から深い交わりがあった証拠である。日本の文化というときそれも現代では何かわからなくなっている。この正月飾りは日本文化であり生け花がそうであり茶の湯の道もそうである。それらは一体としてあった。
もちろん大和言葉も日本の根底を成す文化そのものである。民族の言葉を失ったらそもそも文化は喪失する。

ただこうした日本文化の根底を作っていた農耕社会が失われた時、日本の文化も失われた。巨大な工業社会となり一割くらいしかGDPを示していない、そうなると工業社会となり工業優先の社会となるのだから農村的文化は必然的に失われる。
原発がこの辺で作られたのはそういう時代の変化があった。

南相馬市の金沢に江戸時代の碑が二つありそこに正月と刻まれていた。正月に建てたのであり正月が一番一年で大事であり農耕社会ではそうだったから二つも正月と刻まれていたのだ。金沢の北泉の延命地蔵神社は村の中心だったのである。そこにいつもお参りしていたのである。
特に正月は大事だから正月を祝うために建てられた。そして長生きしたいということで延命地蔵を祭ったのである。
今までは注目してなかったが津波であの辺の村がなくなってしまった。そして延命地蔵神社が残ったので注目したのである。そこには江戸時代の碑が地層のようにあり村の要だったのである。


我が形見見つつしのはせ 荒珠 (あらたま) の年の緒長く我も 思 (しの) はむ(587) ... 笠女朗


この歌は物として残った形見である。それは歴史的にもそうして残ったものが無数にある。人は死んでも物は残る。だから残されたものに死んだ人の思いがこもっていて何か物が捨てられないのである。物は単なるものではない、何らか人間の心がついているのだ。
悪い念がものにはついている場合がある。するとその物をもっていると触れると悪い念にもふれることになるから怖い面がある。単なるものは物じゃないかというけどそうでもない、奇妙だけど自分の家に他人の茶箪笥が何カ月か置いてあった。それは夫が若い時苦労して買って妻に与えたものだった。それを長く使っていた。その妻は7年前くらいに死んだという、するとその死んだ妻もその茶箪笥と一緒にそこにあったような気になったのも不思議である。別にその女性のことは全く知らないけどそう感じたのである。
それは長く使っていたから余計にそうだったのである。

家というのもまたそうして長い年月人が住んでいるから単なる人が住む入れ物ではない、特に古い家はそうなる。家霊とか住み着いているともなる。

ともかく家は広い方がいい、気分も広くゆったりしてくる。最近家が大事なことがわかった。それは今までは六畳の狭い部屋に寝起きしていたが今は八畳の間でで寝ているし廊下も広いからゆったりするのである。老後は意外と家が大事である。くつろぐ家が大事になる。だから仮設に住んでいる人は嫌になっていると思う。なぜなら田舎では広い家に住んでいたからである。農家などは家と土地とか一体化していた。前田があり前畑があり生産と一体化していた。それが人間の原点の生活だった。

日本はそもそも土地も狭いし広い空間を確保できない、家も狭いから茶室が生れた。
家は相当に精神にも影響するだろう。家が狭いと思想的にもゆとりがなく偏狭なものになってゆくかもしれない、都会では窮屈な空間で汲々して暮らすほかないから嫌である。

自然を知るには田舎に住まない限りしりえないと思う。
花でも生け花でももともと自然を基にしたものである。菖蒲にしてもそれは湿地帯にもともと咲いていたものであり湿地帯に映えるのである。そこに花のエッセンスを解読する。生け花の基本は野の花にあったのだから田舎に住まない限り本当は花についてわからないということがあるのだ。高山植物は高山に咲いてこそ映えるものである。
ただ文化というのは野のままではない、そこに必ず人間的なものと変容して文化となっているのである。


とにかく今年は平穏であってほしいいうのが願いである。もう一身上のことでも回りでもいろいろなことで疲れてしまっているだろう。結局六年間はそうだった。もう生きることに必死になり追われているだけだった。これほどの激動があるとは思いもよらなかった。なぜなら自分の30年間は平穏無事だったからである。一回水害があったがそれもそれほど影響しなかったのである。まず津波で家を流された人の気持を考えるとその人たちの傷はなかなかえ癒えないだろう。これほど人間にとって家が大事だという時その家が一瞬にしてなくなった、家族も死んだとなるとその傷はなかなか癒えない、でも三年目になるからそろそろいつまでも嘆いてばかりいられないだろう。

2013年11月18日

文化は多様性 (一様になると滅びる-グローバル化で日本は自国の米さえ作れなくなる)


文化は多様性


(一様になると滅びる-グローバル化で日本は自国の米さえ作れなくなる)

この辺は津浪や原発事故以後、田んぼは荒れ地になり畑をしている人も少ない、田んぼが稲が刈られて落ち穂などが雀の食料になっていた。だから田んぼない稲田がないということで雀などが減っていると思っていたがそうでもなかった。畑を作っている人が雀が野菜の芽を食べて困るとか言っていた。雀は虫も食べるという,雑食性である。
ある時蝶を襲い食べていた。雀も結構獰猛なんだと見た。ただ不思議なのは一体鳥でも何を食べて生きているのか見えない、虫を食べているにして虫というのは見えにくいからわからない、田んぼや畑がなくても虫が減るということはなかったのかもしれない、烏も雑食性であり減った感じがしない、蛙はほとんどいないから鷺は見えない、ただ湿地帯化したところに時々来る。ネズミが原野化すると増えたというけどネズミも見えない、ただ一時台所にネズミが入ってきて恐怖だった。この頃ネズミは来ないから安心した。
そしてノスリが五羽くらい住み着いたのはネズミを餌にしているからだという。ただ原野化した草原でネズミは見えないからいるのかいないのかわからないのだ。
ただ雑食性のものは生き延びやすいように見える。熊なんか大型なのに生き残っているのは山を住処として雑食性だからだろう。雑食性ということは肉食であっても肉がなかったら植物性の木の実を食べる、この逆も成り立つ、そうすれば飢饉の時でも生き延びられる。

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これは人間も同じだった。ペルーとかでもトウモロコシもジャガイモにもいろいろ種類がある。標高差によって種類を分けて植えている。寒いのに強いものや乾燥に強いものや虫に強いものとかいろいろである。寒暖の差や雨期と乾季に分かれているから余計にそうなる。天候の変化に適応した品種を作る。これも多様な種類の食料があってその土地で生きられることを証明している。それは長年の生活の知恵で生れたのである。人間はもともとこうしてあらゆる地域で自然にその風土に適応して生きてきた。世界中の原住民の生活はだから多様なのである。それはその土地のものを食べてり利用して生きる持久自足が原則だと自然とそうなるのである。日本だって江戸時代から戦後十年くらいまでそうして暮らしていたのである。燃料は炭であり江戸時代の延長になっていた。だからこれほど世界中の食べ物を集めているということは二千年もなかったことなのである。
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地球千年紀行-原住民の知恵に学ぶーBSーTBS


グローバル化というのは別に今の国際化でなくても江戸時代の鎖国の中で起こった。東北地方は米を作ったのは江戸に売るためであり商品作物として作っていた。特に伊達政宗の時代がそうだった。石巻から大量の米が船で江戸に運ばれて売られていた。大規模な干拓が行われた仙台平野は今回も津浪で大被害を受けた。津浪の後も米作りしたのは商品として江戸に売るためだったのである。だから東北ではそもそも寒いから米作りに向いていなかった。それをあえてそうした結果、米が不作の時飢饉になったということもある。これはアフリカ辺りでも商品作物のコーヒばかり作っていたら地元での多様な食料がとれなくなり飢饉になったとかの報告もある。江戸時代にもすでに国内でそうしたグローバル化があったのである。だから一つの作物だけに依存することは何か天候の異変や想定外のことなどか起きた時対処できずに滅亡するということがある。

動物でも雑食性はいいが単一のものを食べているものは死滅するかもしれない、適応能力が低いということである。

だからグローバル化経済は危険なものをはらんでいる。TPPでも非常に危険なものがある。日本人は車とかカメラだけを作って食料は作らなくてもいいとかされたらその時日本は滅亡してしまうだろう。でも今やそういうことが現実化しているから怖いのである。
農協など既得権で都会のサラリーマンの税金をむしりとられるだけだとか言われる。

都会中心で田舎は経済的に無駄だから消滅しろとか言われる。でも一千万の東京とかは異変に対して弱いのである。地震であれ津浪であれ自然災害でも弱いし例えば他国に攻撃されたときも一たまもんりもなく破壊されて滅亡する。ベトナム人がアメリカの戦争で戦いぬいたのはタロイモなどを地下に逃れ食料にしていたことがあった。食料がなければあんなゲリラ戦争かてきないのである。逆にそうして自国でも地元での食料があればゲリラでも抵抗できるいうことである。文明というのは便利すぎて一面の便利さが大きな危険をはらんでいる。それが津浪や原発事故でわかったのである。
車があってもガソリンがないと車は何の用もなさない、水道が壊れて使えなくなる、電気もこないところもあった。それで薪や山の清水をくんでしのいだ地域もあった。
グローバル化した文明は何かの自然でも人為的なものでも異変にもろいのである。
多様的な時給自足的なものが基盤にないと危機のさいには一挙に崩壊滅亡する危険にさらされているのた。


だからこの辺では米も作らない畑も作らない、魚もとることができない・・・こんな状態になったときいくら補償金をもらってもそうした生産に従事していた人たちは不安になっている。金がいくらあっても不安なのである。なぜなら紙幣は紙切れになる可能性がある。その時外からも食料が入らないとなる時、飢饉になりそれはもう日本陣か死に絶えるというほどまでになるかもしれない、それが平然としていられるのは危機を知らないからである。津浪でも海岸に接していた村の人たちは何ら危機感もなく平然としていたと同じである。なぜあんなところに住んでいたのだど今だから盛んに言われけど東京でも大災害になったらなぜそんな危険な都市に住んでいたのだと言われるのである。高層ビルが崩壊しない保証はこにもないのである。


グローバル化経済というのは何かいい面だけを語られるかそこには地域の文化を破壊する危険なものがひそんでいた。もちろん外国の貿易とかすべて否定するとかではない、多様性を維持しつつそうした貿易も行うということである。極端にグローバル化したら日本人は車だけ作っていろとかカメラだけ作っていろとなってしまうからである。米は広大なアメリカ大陸がオーストラリア大陸が向いているとかなるからである。そんなことしたらどうなるのか?危機の時は自国に食料がなく他国に容易に支配されてしまうということである。日本は確実にさらにアメリカの本当に奴隷と化してゆくのである。アメリカのグローバル金瘡資本主義も異常である。アメリカの投資信託の会社は200兆の金を保有しているという、野村證券でさえ10兆くらいだとするとその金は桁外れてありそんな金を一体世界でどう使うのだろうとなる。それこそその金でもって世界を買うということにもなる。
日本もアメリカに買われるということになるのだ。
だからアメリカではそうした国々の文化う否定してグローバル化した多国籍企業の世界支配を企んでいるのである。多国籍企業にすれば日本人は米は作るなアメリカやオーストラリアの米を食べろということになるのだ。そして地獄の食料がないのだからアメリカの意向にはますます逆らえないものになるのである。それはアメリカの新たな日本支配の戦略なのてある。


あとがき

TBSを利用したけどこれも現代では知の応用でありある程度引用が許されないと人類の知は発展しないだろう。
映像でもそうだけど創造に発展するものは利用してもいいとならないと時代にそぐわないだろう。
テレビを見てそれがまた視聴者が反応してインターネットにアップするというのが現代のメデアなのである。

2013年10月22日

文化は多様であっても失われやすい (人間には共通の広範囲な文明も違った文化も必要)



文化は多様であっても失われやすい


(人間には共通の広範囲な文明も違った文化も必要)


●文化と文明の相違


語源はフランス語の culture か、ラテン語の cultura にあり、それは growing や cultivation を意味するとされています。そして、もともとは cultivation of the soilに由来していたが、16世紀の始め頃から cultivation of the mind, faculties, or manners という考え方に発展した、とあります。

人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体


文明:合理的/普遍的/異文明は受け入れやすい
文化:非合理的/地域的/異文化は受け入れがたい

文化という問題は実際は広範囲だし奥深いし定義てきない、文化は小さい地域単位でもあるし国単位でもあるし世界単位でも文化はある。文化の定義として一様ではないものその土地土地でcultivate(耕されたもの)となる。でもそれは一地域でもそうだし国レベルでも文化はある。

言葉を例にとれば国ごとにことばか違っているのは文化の相違である。
これが統一された言葉、エスペラント語になったらそれは文化ではない、英語を共通語とすれば世界の文化は失われる。英語も文化である。その基はゲルマンから発しているからドイツ語が基礎でありドイツのゲルマンの文化が根底にある。
ごたら英語を使うことはやはり文化の影響を必ず受けているのだ。


一方で世界共通なものをルールを人間は求める。そうした国を越えたルールを作ったのが商人だったということでもわかる。交通が発達すれば必然的にそうなるしそれまた必要なものであった。世界で起きている事件を見るとエジプトで問題になったのは政教分離の問題だったのである。イスラム原理主義者の団体が政権をとったことに反発してまた革命か起きた。これはヨーロッバで起きた政教分離の問題がエジプトでも起きたのである。
宗教が政治的権力をもつことはヨーロッバのカトリックの歴史から否定された。
そういうのはグローバルな問題であり世界共通としてルール化が望まれているのだ。
日本でもカルト宗教団体が露骨に政治に介入すればそういうことが起きる。
文化は多種多様な相違を認めることであるが一方で共通のルールが世界一体化するとき必要になる。それは一つの文明というえるかもしれない、文明は•civilizationでありcivilは市民であり世界市民として共通のルールを模索することになる。


とにかく文化は世界を例にとれば無数に多様多岐になっている。まず原始時代ならとなりの部族が犬族だとしたら隣は猿族だとかトーテムムが動物ごとに分かれている。そこですでに文化の相違が生まれ言葉も違ってくる。ポリネシアとかには無数の島があり島ごとに言葉が違いその言葉自体が文化なのである。方言は明らかに文化である。東北弁と京都弁はあまりに違っている。それは文化の相違なのである。単に言葉が違っているというのではない、その底には言葉が作られた歴史があ文化があり言葉が違っている。だから文化が違うとなかなか人間は共同しえないという問題もできてくる。
方言は文化だけど標準語は文化ではない、でも世界的にみれば日本語は文化なのである。

この辺では飯館村て大倉村と佐須村が民情が違うからと合併できなかった時があった。あのような辺鄙な村でもそうたったのである。日本全国に無数の境にまつわる歴史があるのもそのためである。時代がたつにつれて交通が発達すると人の合同性協力関係が広範囲に広がり共通のルールや世界認識をもつようになった。文明とはそうした世界的な共通のルールとか認識とかが広まることだろう。科学はそういう共通性を急速に促進したのである。数学は世界共通の言葉だからである。だから数学は文明ともいえる。科学も文明である。宗教も世界的に共通認識になれば文明となる。だから世界にはキリスト教文明、仏教文明、イスラム文明がある。文明は文化の相違を越えて共通認識が広まることである。犬族や猿族や鷲族などとトーテムで分かれて共通認識がない世界ではない。


●歴史は膨大な人間の営みの記憶が失われること文化が失われることだった


ただ一方で犬族や猿族や鷲族があるのも文化である。そんな原始的なものを遠い昔のことで今は何も問題にする必要がないとはならない、なぜなら猿であれ狼であれ鷲であれ動物を祖先とすることはまさに人間が自然の中で生きていた証拠なのである。狼が生きているということはその回りの環境も原始状態が保存されていて人間もその中に生きていたのである。狼が生きられなくなった時、明らかに自然環境の大きな一部が失われていたのだ。それと同時に人間も自然から切り離されたものとなっていった。その時古来からの文化も失われたのである。そして文化を失うということその意味が人間は良く認識していないのだ。だから文化というものが安易に破壊されやすいのである。


そして最近思うことは柳田国男の書いていた民俗、フォークロアの文化、常民の文化がほとんど失われていたことである。それは貴重な文化だったのである。昔話であさ伝説であれ様々な庶民の文化が失われていた。そこに貴重な文化の宝庫であり単に遊びではなく今にかかわる実用的なものがあった。津浪の伝承などが見直されたのはそのためだった。人間の歴史は常に膨大な忘却の世界である。この辺で400年前の津浪のことがそれを記念した神社でもほとんど語られなかったのもそのためである。歴史とは膨大な忘却の歴史なのである。例えは最近でももう300万以上戦死した戦争のことさえ忘却されてゆく、次々に新しい世代が生まれ新しいことのみ、目前にあることに生きることに現実は追われ過去はただ忘れられゆくものとなるのが人間の歴史だったのである。どれだけ貴重なものが忘却されたか計りしれないのである。


こうして歴史が忘却されてゆくことが人間にとっていかに危険な面があったか、今回の津浪が証明した。400年前に津浪を記念して建てた神社も忘れていた。伝承もされないし危険を言うせのが残っていなかったのである。これは津浪のことだけではない、300万人も死んだ戦争のことさえ本当のことは伝えられず忘れられてゆく。人間は日々忘却と風化との戦いである。人間は死んだらすぐに忘れ去られる。日ごとに忘却されついにはその人が本当にいたのか生きていたのかさえ明確でなくなるから伝説になってしまう。
この世は常に失われてゆく世界たったのである。老人になれば個人的にもそうである。
過去の記憶も定かでなくなり認知症になれば自分の子供のことさえ忘れるのだ。
一方で老人はたた記憶に生きるのである。記憶をたどることが生きることなのである。
だから旅しても記憶として蘇らないと旅したということすら不明になってしまう。


●コンパクトシティは文化を喪失させることに注意が必要


だからコンパクトシティという時、経済的効率的観点のみから追求されると地方の文化が根こそぎ失われる。小さな村には村の歴史があり文化があった。そうした地方都市でも街の中にのみ全部集約化されると地方都市のさらに地域の文化は失われる。つまり文化は一面、経済的効率とは反するものなのである。経済的効率を追求すれば特に現代は無駄なものとなってしまった。都会だとインフラにかかるのが1として地方では極端な過疎地域だと180倍かかるというからその負担は都市民にかかわってくるからコンパクトシティ化した方がいいとなる。でもそれを押し進めるとどうなるのか?それは日本が長い間に作ってきた村の風景が根こそぎ喪失する。その風景はアメリカやオーストラリアのような風景になってしまう。中心に街がありまわりは広大な耕作地となり人家はなくなる。村もなくなる。そういう風景はもう日本ではない、日本が長い間に築いてきた文化のない世界になる。経済的効率を極端におしすすめとゆくとそうなる。そうなると旅しても面白くないとなるだろう。日本の面白さは小さな村や町が多いことにあった。それがあたえたのは貧しくても自然と密接に結びついた自給自足の生活があったからである。


この辺では栃窪村でも下栃窪と上栃窪があり上栃窪にも墓があり秋の蝉が鳴いていると何か感じるのはそこに人が住んでいるからなのである。それも江戸時代の碑がありか古くから人が住んでいるから感じるものも違う。アメリカやオーストラリアの歴史は新しから経済的効率を文化を無視して作り安いのである。グローバル化して広範囲な交流は不可欠であると同時に文化が失われること自体が大きな問題なのである。それは物質的なものに重点を置いているのが経済の効率化たけど精神的な面と深くかかわるのが文化なのである。だからなかなか原発事故で放射能汚染で住めないとしても日本人はその土地から簡単に離れられないのだ。アメリカとかロシアとか広大な土地をもつものなら離れやすい。日本の文化は日本の風土はそういうふうになっていないから簡単に土地を離れられないのである。それは文化的問題が根底にあるからなのだ。

2013年09月29日

街作りを城下町の相馬市から考える (文化は多様性だから一極集中は文化の喪失になる)


街作りを城下町の相馬市から考える

(文化は多様性だから一極集中は文化の喪失になる)

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●文化は資本や金だけからも生まれない


街作りを考えるとき街自体には実際はいろいろな要素が複雑にからみあっている。おおまかに分けると自然と歴史と経済性、便利性とかが街作りの基本になる。現代は巨大スーパーでもコンビニでもそうだけで利便性と安さとか効率を極限まで追求した時代である。
だから商店街は消失した。スーパーは利便性ではダントツに優れているから集中した。
しかしそこには精神的文化的なものはない、胃袋を満たすということのみになってしまう。人間は豊かになればどうしても胃袋だけではない文化的な要望も大きくなる。
でも文化的なものはイオンのスーパーのように巨大資本でも金だけでも作れないのである。もちろん金も資本も文化的なものに投入すれば文化的な想像も興隆する。
それがフィレンツなどで起こったルネサンスだった。しかし薬で財を成したメディチ家がパトロンとなり芸術家を育てた。それでも金があったから資本があったからあれだけのルネサンスができたのではない、総合的な歴史の集積としてあれだけのものが生まれた。
それはギリシャ文明から発してローマの建築文明がありキリスト教文明がありイスラム文明と融合して一大壮観な全体的総合的なものとして芸術が結晶化したのである。


金があり資本があるからといって文化が興隆するわけでもない、確かに豊かさがなければ毎日奴隷のよう仕事に追われていたら文化は生まれない、基本的には暇がないと文化は生まれない゛スコーレがありスクールがあった。文化とはそうした余裕かあって生まれる。文化とは必ずしも実用的なもの商業主義的なものからだけでも生まれない、文化の定義はむずかしいにしろ現代がこれほど経済的には豊かでも文化が衰退して荒廃しているのはなぜなのか?アメリカがあれほど豊かなのに文化が生まれない、それはのようなヨーロッパのような歴史がないことに基因しているのだ。文化一朝一夕にはならない、二千年とかの歴史の集積して生まれてくるのである。経済は一時的に興隆する。スペインは泥棒国家と言われるようにインカなどから黄金を略奪して金ぴかの聖堂を作ったとしてもそれは本当の価値ある芸術とはならなかった。

これはグローバルにみた文化論であるが文化というのは日本などでも狭い地域でもあるのだ。原町市と相馬市がなぜこれほど違うのだろうか?そのことを度々プログで書いてきた。それはその市の成り立ちにあったのだ。原町市はいち早く近代化して駅が機関区になり常磐線で森林の木材などが運ばれた。交通の基点となり東洋一の無線塔も作られた。

もともと原町は野馬追いのために作られた馬を放す広大な牧であった。要するに原っぱだったのである。だから原町村というのがあったがそれは非常に小さな村だったのである。雲雀が原に戦後でも開拓者が入ったというのもそのためである。原町村は宿場町であり
原っぱだったのである。でも近代化して駅通り中心の街作りになり発展した。
明治維新以後は駅を中心に街作りが行われていたのである。それは全国でそうだった。駅を中心に街並が形成された。鉄道は今の車と同じ役割を果たしていたのである。
駅中心の街だというとき駅前旅館とか駅前に鉄道から荷物を下ろす引き込み線があったから駅前が拠点となる。駅前にあると何でも便利になった。それがかえって今ではイオンのように郊外に一つの街ができて駅前どおりはシャーター通りになってしまった。
ただ相馬市は城下町で古いから駅前通りがそのまま残ったのである。


●駅前の花屋から街作りを考える


今でも駅前通りはそのつまでありプラタナスの通りを作っている。秋風がその広葉にそよぎ気持ちがいい。それで駅前の花屋を中心にしてこれまで相馬市について語ってきた。花屋というのも注目されていない、ただ駅前の店というときあそこの店しかなにか目立たないのである。駅前花屋とはまさフラワーステーションになっていた。店とは見せるであり見せることがまず商売の始まりなのである。それで気づいたことが花屋の特徴はただ花見るだけでもそれで満足できるということである。あそこには外国から珍しい花が結構置いてある。大きなガーベラがあったのには驚いた。放射能で巨大化したのかとも思うように大きいのである。花も品種改良しているから膨大なものが生まれている。バラだけでもその数は増えすぎている。ただ青いバラができないというだけになっいる。

園芸というのはオランダでチューリップバブルが起きたように豊かになると園芸が盛んになる。イギリスが世界から植物を集めたようにイギリス庭園ができたようになる。

現代では一地方でも外国から花が入ってくるからいろいろな花に接することができる。
こんな花があったのかと覚えきれないくらい花が入ってきている。現代が物質の繁栄から文化の繁栄に移る時、園芸も盛んになる。江戸時代も園芸が盛んになった、趣味も多彩になり盆栽などが生まれた。庶民レベルでもそうなった。現代も一方で経済的に困窮している人が多くなっていてもやはり高度成長のような時代は終わり文化の時代に移行しつつある。その一つがやはり花の価値が高まってくることである。

ただ花といっても現代の花もグローバル化しているしデジカメ写真の時代であるから写真やパソコンのとの連携が必須となっているのだ。こうしたグローバル化とITに適合しないとあらゆるものが成功しないだろう。自分はパソコンでインターネットでキタムラでフォトブックが簡単にインターネットから注文して作れた。こんな簡単に写真の本が作れるのかと驚いた。花でもデジカメと一体化して楽しむ。なぜなら花は食べるものではない見るものだからこれはデジカメが必須になってくるのだ。そういうふうに現代の最先端の技術と融合してまた新たな文化が生まれてくる。ただその技術に追いつけないと取り残されるのがいつの時代でもあった。なかなか地方では老人が多いと若者向きにはならない、でもキタムラショップでは若い人が操作してプリントしている。プリントもデジカメ時代になり全く変わってしまったのである。それであんな商売が生まれたのだと思った。


●文化は多様性だから限界集落なくなれば文化の消滅を意味する


相馬市の魅力は歴史的遺産がある、一応城跡があり城下町だということがある。ただ外からきた人にはただ堀とわずかの石垣しかないから城下町と気づかない人がいるかもしれない、でも街割りは城下町特有のものであり碁盤の目のようになっていて細い路地が多いのだ。それでその路地に秋風が吹いてきたとき何か城下町の情緒を感じたのである。

秋風の路地に吹くかな城下町


相馬市には高いビルなどがないからそういう雰囲気をまだ感じられる。小泉川の柳を写真にとったがあれもあっているし何かいつもしんみりとするのが相馬市なのである。そしてそれなりに相馬市が規模が小さくても文化都市であることがわかった。店でも茶を売っている店でいい陶芸の壺などを売っていた。ガラス製品も売っていた。それは高いにしてもフラワーアレンジメントには必要なので何個か買った。それから高級家具店もあった。
高いものは注文しなかったがあそこでも買った。そういう店があってフラワーアレンジメントができる。フラワーアレンジメントはかりてり贅沢なものである。

ただ現代にデジカメとかそれを加工するものとかフォトブックにして記念に残すとかが必要になっている。印刷とか本にてするとか技術の進歩で安くなっている。それは出版社とか印刷会社でできるものが個人レベルでできる時代である。ただ書店には置けない、なぜなら書店は出版社の出先機関であり取次とかが流通を支配しているからである。それでも時代が変わったという時、書店だけがそうした情報の窓口になることは終わっている。情報の窓口は今やインターネットにも移行している。情報の窓口はマスコミから離れ非常に多様化しているのだ。多様化することは本当は文化にとって不可欠だった。みんな銀座通りとか東京のまねでは文化にならない、東京には実際は本当の文化は生まれないだろう。技術は生まれても文化は生まれない、なぜなら文化とは自然があり長い歴史があって生まれるものだからである。生け花にしてもこの辺では京都とと違うから伝統がないからどうしても理解できないものがあった。でも自然はあるから野の花を挿しても池花なのである。生け花は自然の花を摘んで挿したことから始まっているからだ。大都会になるとそうした自然がなくなるから文化も消失しているのだ。


医療や介護で便利にするにはコンパクトシティになるといいと書いたけど文化の面からするとそうではない、文化が多様性だというとき小さな町でも海岸側に住んでいる人と山側に住んでいる人は違う、原町の大原や鹿島区の橲原(じさばら)は山里であり山に夕日が沈むときなんとも落ち着いた気分になるのである。それは海側では感じられないものである。海側では海から太陽が昇るとき一番海側に住むことを感じる。人間は狭い地域でも住む場所によって心持ちが変わるのである。
例えば鹿島区の栃窪村にも下栃窪と上栃窪があり地域的に差がある。上栃窪まで行ってそこに墓あり秋の蝉が鳴くとまた違った感じになる。


墓静か上栃窪や秋の蝉
秋の蝉朝鳴きひびく古磯部


何か一段としんみりと秋の蝉の声がひびく、磯部でも海岸に集中していて津波で全滅した所は新しい、古磯部とあるようにもともとはあそこに最初に人は住んでいない、高台の方に住んでいた。するとそこに鳴く蝉の声は違ったものとして感じる。


これは梅田川でもそうだった。梅田とは埋めた川で実際そうなっている。そこに村の古さがあったのである。そうした狭い地域でも村の色合いは違っている。それはその土地から歴史から長い時間のなかで作られてきた。それが東京だけに人があれだけ集中して過密地獄にてっているのは人間の国土のあり方としては間違っている。でも限界集落は負担だからつぶせとかなっている。そうなると日本の地域地域の個性が失われ一様化して文化が失われる。旅してもどこも同じだなとなってしまう。グローバル化でも世界が一様化するとそうなってしまうのである。ただ文化論から歴史論から国作りを考える人は少ない、経済的合理性効率論でしか普通は考えないのである。ただ地域にしても昔なら自給自足社会だから別に都会に頼らなくてもインフラがなくても不便でも生活していたからとやせかく言われることもなかったのである。でも文化が消失するということは精神的なものも消失してゆく。確かに経済的基礎がなければ文化など語れないということもある。食うや食わずではそうなる。ただ現代のような豊かな社会ではまた違っている。街作りというとき津波とか原発事故の市町村はこれからどうして街作りしていいのだろうとなる。その課題はあまりにも大きいものとなってしまった。

ただ相馬市などは歴史地区、医療地区、文教地区として個性が保てる。文教地区というときもともと相馬女学校があったし今では相馬総合病院の近くに看護学校もあるからそうなる。これも渡辺病院が新地にできると相馬総合病院の患者が減るとなり問題が起きている。ただ相馬市は相馬市の街作りがしやすいのである。


●文化は総合的なものとして生まれる


今回なぜこれだけのものが作れたのか?たいしたことがないように見えても個人でこれだけやれるのは今までならできない、それはまず確かに技術の進歩があった。ただそれだけでもルネサンスが生まれないよう生まれない、様々なものが融合した結果生まれたのである。それは最初は自分のテーマは生け花でもフラワーアレンジメントでもなかった。
自然の花を見てきたのであり花をテーマにして詩も書いてきた。そこで病気になり相馬総合病院に通い帰りに駅前の花屋に寄った。それは車がないから電車を利用していたからである。そして自分は電車の旅も長い、だから電車に相当に愛着が生まれた。鉄道マニアにもいろいろあるが自分の場合は車両とかでもない、鉄道に乗ること自体が興奮するのである。バスにのることは興奮しない、何か今でも嫌な感じになる。だからバスでしか仙台に行けないから遠くに行くのがめんどうになり半年も仙台に行っていないのだ。

鉄道というときここは原町駅から相馬市までしか走っていない、それでもこの二両の電車もいいなとつくづく思う。二両になった結果何か前よりヒューマンサイズになり人間的になった。二両の電車があわれだとか感じるのはより人間的になっているからである。
そして二両になった結果必ず運転席の前になる。それで今回その運転席に運転手の業務用のカバンが置いてあった。それがなんとも律儀な感じでそれが古くなっていたので何か年期を感じたのである。外の景色は稲が実っている。一部がすでに刈られている。車窓から見える景色には常に情緒がある。相馬市になると原野ではなく普通の景色になっている。
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業務用の黒き鞄も古りしかな外は実りの景色となりしも


鉄道マニアになるとあらゆるものに愛着関心を覚えるのである。ただ今回は二両の電車になった結果、業務用のカバンに注目できた。何か鉄道マンの生活感覚がここに現れていたのである。二両の電車は極めて人間的になっているからこういうものに注目できた。長い電車だとそうはならないのだ。技術でも今は巨大化すると人間から離れてしまい人間的なものを感じなくなるのだ。飛行機などには感じない、今は機械と人間は離れてしまっている。二両の電車は人間が走っているようにも思えるからそうなった。


ともかく街作りを考えるときその価値は歴史から作られ自然から作られ場所からも作られる。商売でも場所の力が意外と大きい、駅前商店街が前に繁栄したのは鉄道主体の交通からだった。何か繁栄するというときとても一人の人だけでは繁栄できない、様々な複合的な総合的なものが合体して繁栄する。駅前の花屋が今は人が来ないというと来そうだった。車社会になれば駅前でも注目されないのである。ただ店屋が繁盛するというときも一つの店だけではいくらその人が優秀でがんばっても繁栄しない、その時代にあわないと繁栄しない、ただ時代といっても過去からの遺産もあり歴史は街を作っている。城下町はやはり城下町として作られたものがありそこを基礎にして街作りがある。郊外の巨大スーパーにはそれがないのだ。だから駅前の花屋によって街作りを考えるとき駅前通りがあり城下町がありと全体を視野に入れて全体の街に参画するのである。街にはそうした全体の視点があったのである。今はそういう街でも全体の視点をもつことができない、でも人間は何らか繁栄するとしたら個々ではいくら優秀でもがんばっても繁栄しない、全体が繁栄しないかぎり全体的総合的作用を受けない限り繁栄しないのである。だから一商店だけが繁栄することはむずかしいのだ。


今回もまずパソコンをしていたからキタムラショップであんなふうに簡単にきれいにプリントできることをしりフォトブックも簡単に作れることを知った。それは現代がもたらした新しい技術でありそれが花屋と結びついたのである。街全体とも結びついたのである。茶を売っている店に器を買ってフラワーアレンジしてもらったことで花についての知識も広まった。花屋は極めて文化的なものとしてあることがわかった。そして花とデジカメは密接に結びついている。なぜなら料理なら食べない限りうまいかどうかわからない、花は見ただけでそれだけでも楽しめる、まさに店屋として見せる機能が一番顕著な店だったのである。

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このフォトブックはすでに40年前に作られていた!


これは40年前に出版されたものであり定価は500円になっている。今の値段にするといくらになるのか?
当時でもカラー写真だと高くなるだろう。
ただ別に出版は常に行われていたからそういうことはプロではできた
本でもプロは別に作っていた。
でも個人レベルではとても作れないものだった。
その相違も大きいのである。
なぜなら本作りとか報道とか個人レベルでできることは出版社とかマスコミに頼まなくても文化が作れるのである。
出版社マスコミ頼みだったら独自なものはつくりにくいからだ
書店も売れなければ置かないと地元から発信できないとかで文化の発信地にはなりにくいのだ。
書店の役割は相当に今はなくなった。
つまり何かを創造できて発信しないかぎり文化の創造はありえないのである。
すでに40年でも本の場合は残る。
インターネットの弱点はそんなにもたない、消えることが弱点なのである。
だから本に残すことはまだ記録するものとして必要なのである。

2013年09月06日

芸術は何からはじまったのか? (芸術は日常の生活からはじまり建築と一体化して発展した)


芸術は何からはじまったのか?

(芸術は日常の生活からはじまり建築と一体化して発展した)

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いけばなの始まりは室町時代中頃。床の間の原型 「押板(おしいた)」 が誕生し、そこを飾る1つとして挿花(そうか)が生まれたことが、今に続く生け花の始まりだと言われています。
 

人間は最初は食料を得ること食べることで必死だったから果たして花を見てかんどうしていたかどうかわからない、縄文土器などは実用であり花を活けることはしなかったし花の絵模様なども見かけない、芸術の起源は実用でありそれ意外になにものもない、何か実用でないものから出発しないものはない、壺でも水を入れるとか実用が第一でありそのあとに壺に装飾性が加えられた。時間が経つにつれ装飾性にこるものができるのは理解できる。


日本で生け花が生まれたのは室町時代であり京都から生まれたのもわかる。奈良時代は万葉集の時代は主に野の花を歌ったものであり日本人的原始的心性が歌われていた。つまり京都になると文化の時代になったのである。そして生け花というのはまず生け花自体だけをとりあげて存在しない、最近家の整理や自分で修理していたりしてわかったことがあった。床の間というのが家に生まれたとき付随して生け花も生まれたのである。山水画も床の間に飾るようになった。絵というのは額縁にはめて孤立してあったものではない、必ず屏風絵とか襖絵とか建築に付随して絵があった。それは外国でも同じであり教会に付随して建築を装飾するものとして絵があったし

音楽も教会音楽から出発している。日本でも仏様に花を供えるということで生け花の起源がある。
額縁に入れた絵だけ鑑賞するということはなかったのである。音楽でも教会音楽だから聖堂の中で聞いていた、祈りながら聞いていたのである。そもそも芸術というのは全体的なものであり孤立したものではない、社会組織の中で生まれたものであり生活が基本にある。俳句だって座から生まれたということがそのことを示している。交際が洗練化して文化化した。あいさつでも日本では必ず気候の変化が激しいから最初は農民でも天気のことがあいさつになる。それが洗練化して文化化して季語となり俳句という芸術に発展した。

芸術はもともと生活から遊離して生まれたものではない、そもそも専門家の芸術家など存在しなかった。
宗教のはじめでも専門の僧侶やら牧師など存在しない、みんな農民であり漁師であり職人だった。
貧乏だったからそんな芸術の専門家を養うことができないから存在しえないのである。
俳句でも豊かな町人が生まれてそれがパトロンとなり俳句の専門家が生まれたが俳句で飯など食うのは容易でないから一茶のように極端な貧乏人しかいなかった。

そもそも現代はあらゆるものが職業でもパーツ化しているけど百姓は百の仕事をもっていたというように広範囲な現場の実用的知識をもっていた。時代をさかのぼればのぼるほど専門家は少なくなり全人間的なものとして人間はあった。たから芸術も絵だけが分離してあるのではなく建築と一体化して発展してきたことでもわかる。
建築と一体化して絵も生きてくるし彫刻も活きてくる。欄間なども彫刻であり職人が芸術化してできたものである。絵を絵だけ鑑賞していることは近代に起こったことでありそれは百年も満たないくらいの歴史しかない、また絵だけを買い絵だけを鑑賞するということも近代の商業主義から起きたことである。

オランダで商業で豊かになり豊かな商人が肖像画を注文したりして写実主義が発展したことでもわかる。
商人は極めて現実を写実的にとらえるからオランダの写実的な絵画が生まれたとなる。空想的にはならないから現実的な写実的絵画となった。

フェルメールの絵で最近気づいたことがある。フェルメールの絵は家の付属品、調度品として飾るのに一番向いていたのである。ただそれを単品として鑑賞してもその絵が映えないのである。自分が古い家の一角に飾ってそれを否応なく毎日見ていてわかった。この絵では家政婦が水を汲んだり壺に入れたり極めて日常的なものとしてある。でもこれを毎日見ているとまさにこの家政婦が家と一体となりリアルに存在している。この家政婦の女性は太っている方が存在感がありにあっている。何か頼もしいという感覚になる。手伝いさんを一時雇っていたからこういう女性がいたら自分の家もいいなと思った。家政婦とか女中とか手伝いさんはオランダの商人でも豊かになった家には不可欠ものだったのである。この絵を飾っているとこの家政婦が本当に家と一体化して存在しているように見えるから不思議なのである。これを博物館とか単品で見ているとそんな感覚はあまりでてこないのだ。だから絵とか彫刻でも博物館とかで鑑賞するものではない、それはもともと寺の伽藍であり教会であれ貴族の館であれ家と一体化して飾られていたものなのである。部分化したとき貧弱なものとなりその価値は減退したのである。現代はあらゆるものが全体から分離してパーツ化しているから本来の芸術の意味が失われたのである。イタリアのルネサンスは個々の芸術家の才能ではない、ギリシャからローマからイスラムから歴史的総合的なものとしてルネサンスが起こったのである。全体の中で活かされたから壮観なものとなった。


テレビで装花として世界的活躍する人を紹介していた。それができたのも大阪という国際都市があってこそであった。なぜなら大使館などで飾り付けを頼まれたことにより世界的活躍する場所が生まれた。地方では大使館などないのだからそういう人も生まれないのである。そしてこの人がなぜ花の芸術家になえたか,花栽培している農家に生まれたということも影響している。花屋も兼業していたことも有利だったのである。
正直都会からだけ現代のような大都会から花の芸術が生まれということはありえない、花はそもそもいろいろあっても深山幽谷に咲く花にこそ花が映えるということがあるからだ。茶の湯のわび、さびの心は都会人の心ではない、でも商人が勃興して豊かになって堺の商人出身の千利休によって芸術にされた。つまり文化が生まれ素地というのはもともと田舎にあった。土を離れて大地との生活と遊離して芸術もありえないのてある。

そして田舎だけでも生まれないのだ。堺であれ京都であれ都が都市があって文化が養成される。
それも巨大都市ではない、奈良も京都も今の10万規模くらいの地方都市の規模だったのである。
そこにはまだ土の匂いがあり自然に咲く花の心も理解できるところである。
花の心は本当は都会人には理解しにくい、自然に咲く花は自然と調和したものだから森があり川があり山があり草原があり海があり湖があって映えるものだから人工物だけの大都会からは自然そのものを理解できないのである。天才が生まれるのは地方都市であり大都会から生まれないというのはそうした素地がないのだから当然そうなっているのだ。人間は生れた育った環境に影響されるからそうなる。毎日高層ビルを見上げていても自然のことはわからないから当然そうなるのである。

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チューリップの花瓶は航空で買った
なかなか外国では荷物になるからお土産買えなかった。
階段を上り二階にゆくとき必ずこの絵を見ている

これも家が広いから飾る場所でまた違ったものとなる。
家というものがそもそも活きた博物館にもなっているのだ。
生活の中で芸術が活かされてこそ芸術も活きてくる。
だから廊下の壁に飾るものは広いから大きな絵が必要になってくる
コピーの絵をはめると絵が日常の生活の中で活きてくるようになる

自分の家はすでに40年以上立っているから壁が古くなっている
それがまたにあうのである。
古い家には40年でも歴史が生れるから新しい家と違ってくるのである。
外国では古い家が残るから歴史的感性が養われるのである。

2013年08月05日

月見草(湿気の国、日本の文化)


月見草(湿気の国、日本の文化)

玄関に舞い去り消えぬ黒揚羽時折人来て雨しととふる
家の前花を飾りてしわれかな誰か見なむや雨しととふる
草深く今日も咲きにき月見草何を言わむや雨しととふる
この道に今日も隠微に日影蝶舞いつつ暮れぬ草深しかも
月見草草深く咲き日影蝶今日も舞いつつ夕日さし暮る



岩にしみいる雨

しとしとと石に雨ふる
しとしとしととしと
石にしみ入る雨水
石は動かず千歳の重み
石は苔むしもの寂び
徒言を言わず古りぬ
石は隠れて重みを増しぬ
しとしとしとと雨のふり
蝉時雨のここにひびき
その声の岩にしみ入りぬ
しとしとしとと湿り気の国
日本の石は皇(すめらぎ)の巌となりぬ

 


ヨーロッパの)牧場的風土ーーー理性の光が最もよく輝き、(日本の)モンスーン的風土はーーー感情的洗練が最もよく自覚される


モソスーン域においては、暑 さと結び付いた湿気すなわち 「湿潤が 自然の恵み を意
味す るか ら」[和辻,1979,p.30]で ある。 「暑熱 と湿気 との結合」のお かげ で植物 は豊 かに茂り、動物 たち も繁 栄す る
和辻 哲郎 著 『風 土』



日本は湿気の国だから畳になり湿気に対処する文化が生まれた。畳は湿気を吸う感じがする。湿気だから湿潤だから植物も草も繁茂する。繁茂する速度が早くなる。ヨ-ロッパでは雑草がなく牧草地帯になるから自ずから牧場になっている。イギリスなどは丘陵がゴルフ場になっている。自然がゴルフ場になっていたのだ。
うちしめりあやめぞかをる時鳥鳴くや五月の雨の夕暮


うちしめる・・これがなんとも日本的なのである。菖蒲は梅雨の時期に咲き湿りを象徴している。


故郷の墓地の細道土しめり猫の歩みて吾も歩むかな

この歌は斎藤茂吉のまねたけどその本歌がわからなくなった。ただ墓地の土が湿っているということがいかにも日本的だったのである。この湿りはまさに命に通じていた。魂に通じていた。墓が乾いていたらそこに命もない、霊魂もない、花だって土が湿っていないと咲かないからだ。でも日本の湿潤の風土ではそうでも世界でそうではない、別に墓は砂漠にも乾燥地帯にもあるからだ。だから世界では日本のように感じないのだ。ただ湿っていることが外国でも同じ様な意味になっているのがある。

この単語、元々は「体液」のことを表しました。humid (湿った)とか humidity (湿度)という単語がありますが、実は humor はこの humid や humidity と語源的につながりがあるのです


湿っていることがユーモアになっている。ドライが乾いているがその反対語でありドライになるということは何か割り切ったものとして冷たいものともなる。日本には乾いたが別に英語のようにドライという意味にならない。英語はドライな風土に由来しているともなる。ただ英語の基がドイツ語だとするとドイツは霧深いからそうともいえない、英語の元がドイツ語でありドイツ語の元は印欧語とかなると乾いた土地から生まれた言葉につながっているからかもしれない、ドライということはやはり砂漠とかの乾いた風土から生まれた言葉なのである。その反対としてhumidがありhumorがありhumanがある。humanは人間湿った所から生まれたということでは共通しているのかもしれない、湿りは水であり生命の基であるからそうなる。人は湿りがなければ生きていけないのである。wetが湿っているだからやはり機知も湿りから発している。ただドライという感覚は日本人にはないのである。
割り切るというとき割れるであり乾いたではないからだ。


湿りというとき「静けさや岩にしみいる蝉の声」この芭蕉の句が生まれたのは極めて日本的風土からだった。まずしみ入るという言葉が他にはない言葉である。濡れた岩にじいじいと蝉の声がしみ入ってくる。滴ってくるというとか言葉もそうである。したたるという言葉も他の言葉にはなく訳せないのである。ただこの句ができたのは沈黙の世界の江戸時代だったからである。江戸時代の文化は鎖国により閉鎖された結果として日本的感性が特別磨かれた時代だったと解釈するのも一理ある。
純粋な日本文化が300年の間に醸成されたのである。だから江戸時代にしかこうした句は作れないから不朽のものとなっている。現代は喧噪騒音の時代だからこうした内面的深さにいたらないのである。


月見草なんかも何か雨とにあっている。日影蝶というのも何か田舎にあっている。毎日隠微に何羽か舞っているのだ。


ともかく今日も雨であり今も雨がふっている。梅雨の時期が今年は長がかった。梅雨から秋になるかとも思える。でもようやく夏らしい暑い日がやってくるらしい。夏がないのも淋しいとなるから30度くらいだったら夏もいい、ただ西のように35度になったりしたらもう住みたくなくなる。気候の変化に弱いので暑さすぎるのも寒すぎるのも嫌なのだ。だから福島県の浜通りは気候的にいい場所だったのである。

2013年06月15日

時間的思考から空間的思考(ググロ-バル化)の時代 (津浪で判明した時間的思考の無視が事故につながった)


時間的思考から空間的思考(ググロ-バル化)の時代

(津浪で判明した時間的思考の無視が事故につながった)


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●遊牧民は空間思考、農耕民は時間的思考

人間には必ず二つの思考方法がある。一つは時間的思考方法であり縦軸型の定着的思考方法である。時間をたどる思考方法である。それは自分の親からその親へと先祖をたどる思考方法であり家族の歴史が誓書のように最初の歴史である。家族によって代々伝えられた歴史が基本的時間の思考方法である。これは固定観念を作りやすい、それは大地とか石とか樹とか山とか動かないものに視点を吸えるからである。日本は海に囲まれて固定観念を作りやすいのだ。狭い土地の中で移動しないから自然とそうなってしまう。他の国は陸続きでありどうしても外国の異民族との衝突をがさけられない、そこで外国の文化が入りやすい、日本は回りを海で囲まれているから閉ざすことができて鎖国ができたのである。それはあくまでも地理がそうしたのであり地理が歴史を作るということはどこでも同じである。地理には神の配剤がありこれにはさからえないのである。
日本は海に囲まれていたということでそれが大航海時代のような海に出るより海によって閉ざされてしまったのである。海が障壁となってしまったのである。

ともかく世界史を作ったのが遊牧民だというとき壮大なユ-ラシア大陸を生活の場とする羊を飼って馬と共に移動する民族がいたから空間的に拡大して世界国家を作った。最初の国家が都市国家でも遊牧民が作ったというとき、 国家というのは空間的要素も強い。広く拡大しないと広域国家は形成されない、国家の形成にはどうしても空間的拡大が必要であり空間的思考-グロ-バル思考になる。
遊牧民が航海民になったというのは納得がいく、大航海時代はユ-ラシア大陸を生活の舞台とした遊牧民の延長としてあった。そして国家の基は遊牧民が作った。中国の最初の国家は始皇帝の国家も遊牧民の国家だった。その場所をみればわかる。歴史を見るときその場所が大事なのである。そこは遊牧民と農耕民との境を接する場所にあった。今の西安が長安が首都だった。兵馬俑の大騎馬軍団が中国という広大な領域を移動できたからこそ最初の国家が生まれたのである。国家は広域的に形成されるからどうしても移動することが必要になる。その移動の手段がないと広域国家は形成しにくい。
それか馬であり地理的には黄河や揚子江だった。四大文明が大河の辺りに生まれたというのはそのためである。交通の要所に生まれたのである。たいがい栄える場所は交通の要所にあった。日本でも大阪などがそうであるしその前は博多などがそうであった。


●空間的思考から時間的思考も見直される時代


世界のグロ-バル化は遊牧民によって行われた。世界的ネットワ-クの世界である。最初のグロ-バル化は遊牧民によって行われ次のグロ-バル化は航海民によって行われた。現代のグロ-バル化はもう日常化した庶民レベルでのグロ-バル化であり世界的ネットワ-ク社会となった。グロ-バル化社会が当たり前となりその思考も常に空間的思考に常時なっている。IT時代ともなり通信技術の飛躍的進歩も加速した。江戸時代の情報世界とは比較できない、一万倍という情報に接しねばならない、頭を使う知識社会になったのである。いたるところで膨大な知識を必要とする社会になった。一見庶民に関係ないと思っているが仕事の面でも農業だけをしている社会ではない、花屋を開くにしても相当な花の知識が必要になる。日本だけの花ではない、世界的な花の知識が必要になっているのだ。グロ-バル化したグロ-バルな知識が必要になる。遊牧民が最初の商人に羊を飼って移動していた故になった。
グロ-バル化すると商業化して商業民族化する。中国も農耕民のようでも商業民族であり商売がうまいのである。イスラム商人も有名である。空間的拡大は世界を商業化する。現代はもうすでに世界が商業で結ばれているからギリシャが破綻したら大騒ぎになりキプロスの金融危機で一喜一憂と株をするものは気が休まらないのである。


こうしてまるでグロ-バル化が頂点に達したような感がする。その極端なグロ-バルで弊害も生まれてきた。金万能社会の疑問である。グロ-バル化すれば金の力が極端に増大して世界中がマネ-ゲ-ムとなる。今やエジプトの果てまでロバにのった少年がワンド-ラくれという時代である。それはアフリカの果てまでそうなっているだろう。ドルが世界通貨になっているのだ。そこに格差や様々な問題も生まれたのである。かえってグロ-バル化の弊害が顕著になった来たのだ。グロ-バル化はどうしても地域に時間で培われた文化を破壊するのである。料理でもなにもみんな牛肉を食べる必要はない、コカコ-ラも飲む必要がない。それぞれの国には文化があるからである。その土地を耕す文化がある。
それを無視することは破壊することは非情に危険なものとなる。歴史は確かに時間軸で培われたものと空間的グロ-バル化が交わり形成される。空間的拡大というのはモンゴルの帝国を見ればわかるように意外と楽にできたという面もある。でも一過性であり簡単に消えたというのも歴史の事実である。それは一時的なものとして終焉した。一方でロ-マ帝国が持続したのはなぜなのこだろうか?
一過性ではなかった。それはモンゴルとは違いロ-マ帝国を形成したのはロ-マを中心として文化がありその文化の優位性で異民族を従えたということがあった。建築でも何でも異民族との差が大きかったからである。モンゴルにはもともとそうした文化の優位性はなかった。インドには仏教文化があったがモンゴルにはただ移動に優位な馬を駆使する文化があっただけなのである。だから一過性に消滅したのである。


●神社は時間的思考の上に建てられていた


今回の津浪ほど衝撃的なことはなかった。一体これはなになのか?未だにその解答はないし日本の歴史を変えるほどの力をもっていた。津浪で見直されたのは時間的思考だったのである。なぜなら400年前に三陸ではない、宮城県の平野部や福島県にもあったのである。相馬藩政記には700人溺死とか一行しか記されていなかった。その慶長津浪のとき津神社がこの辺で12建てられた。しかしその由来も忘れられていた。津神社が津-波に由来している言葉だと気づいていなかったのである。そして多くの神社が津浪からまねがれた位置に立っていたのは津浪をさけるように建っていたのは何かしら津浪の記録があり伝えられて高いところに建てたというのも何か信憑性を感じる。烏崎の八龍神社は高いし津浪からぎりぎりで残ったのである。それを見たら本当に奇跡的だと思った。一方で八沢浦の妙見を祀った社は海岸近くにあり流された。これは明治以降に武士が開拓したところだから新しいのである。古い神社は比較的残り新しい神社は残らなかったとかもなるかもしれない、神社の由来自体が不明なものが多いのである。もともとの由来とは違ったものとして祭りが行われていたりもする。


烏崎の津神社は鯨の祭りをしていたのである。あれが津浪を記念した神社だと思っていた人は地元ですらなかった。それは時間的思考の欠如からきていたのである。現代はグロ-バル化していても時間的思考は欠如した時代になっていた。時間的思考、歴史的思考は空間的思考のように移動すればできるというものではない、時間的思考は長く定着していないとできない、時間がかかるのである。だから歴史を理解することはその時間で培われたものがわかりにくいから簡単に理解できない、例えば狭い地域でも相馬藩のような所でも理解しにくいのである。相馬藩は国替えがなかったから歴史が継続したから相馬藩政記を外からでも参考する人が結構多い、それでも地元の人でも歴代の殿様の名前であれどういう働きをしたかなど知っている人は特別の人である。殿様の名前すら知らないから庶民のことなどもほとんど忘れられる。つまり時間的思考がむずかしいのはすでに家族でも死ぬとたちまち遠い存在となり忘れられ抽象的なものにすらなる。庶民なら名前すら残ればいいとなる。


●地名も古代からあり時間的思考の上に名づけられていた


原発事故でもこの時間的思考、歴史認識の欠如があって事故になったとも言える。東北電力の副社長が岩沼に住んでいて津浪がそこまできたと伝説を聞いて女川原発を高くして作った。それは時間的思考を地元だからしていたから助かったのである。東京電力は東京でありそうした時間的思考をしていない、例えは最近の科学的発見で貞観津浪のことが地層からわかって指摘していたが無視された。
伝説ではなく科学的に津浪がかなり奥まで達していたことがわかったのである。そういう警告も全く無視された。つまり時間的思考の欠如が事故の要因ともなっていたのだ。例えは地名に着目した人もいた。地名は古代から縄文時代からあったという人もいて古いのである。すると標葉(しねは)郷という浪江の古代地名が何を意味していたのか?それは万葉集にもある禁断の地だったのである。するとここは縁起が悪いから建てない方がいいと土地の人が言ったら笑われるだろう。でもそれは時間的思考であり一笑にふされることでもないことがわかったのである。古代からあるのだから何かの意味があると時間的思考が欠如していたのである。グロ-バル化はそうして時間的に土地土地に培われたものを無視しやすいのである。特にアメリカはそうである。時間的思考そのものが歴史が浅いからしない、ただ広大な土地を征服する、空間的思考の国なのである。


科学技術の進歩は空間をグロ-バル化に結びつけたのだけど時間的思考は欠如して文化を破壊するからそこに様々な問題が生まれているのだ。原発事故でも企業はコスト-安全性-地域性というのが問題になる。地域性というときその土地を掘り下げた時間的思考であれその土地の歴史なのである。自然史もあるし人間史もある。その時間的思考は東京電力には欠けていた。グロ-バル化というとき空間的に無防備に拡大化する。ところが石油でもアルジェリアで日本の企業の社員がテロにあい殺害されたようにその地域にも昔から人が住んでいる歴史がある。そこはなにもない無人の荒野ではないのだ。石油さえとればいいという空間的グロ-バル的思考しかない、その地域に住む時間的思考が欠如するのだ。アフリカだってそこに資源があるから資源さえもらえばいいとはならないのである。グロ-バル化すると国内でもそうした地域の歴史とか時間的に形成されたものが無視されるのである。神社が津浪がまねがれたのが多いというとき神社はそれだけ古いからその土地の歴史があった。慶長津浪の記憶がありそれだ高台に建てられたということせありうる。だから空間的思考はその土地の長い時間で培われたものを無視しやすいのである。空間的に拡大することは飛行機でも今は一気にできるからだ。そこに大きな落とし穴があり事故につながったともなる。


 

2013年03月21日

田園都市-原町-HARAMACHI(詩とエッセイ)


田園都市-原町-HARAMACHI(詩とエッセイ)

(川によって特徴づけられる街)

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春の大風にしなりゆれる樹々
風にあおられ鳥は飛び
春光に新田川きらめき流るる
川岸に老人ホ-ムや梅満開
街の中心に人の往来の盛んに
春の雲流れ風に吹かれ休みぬ
街を離れて静かに森の中に家あり
人は街を必要として森を必要とする
街は出会いの場、森は孤独の場、思索の場
新田川きらめき流れ海の風の吹く
浜通りに東風は海のかなたより吹きくる
桜井古墳は川の岸辺に海を望みぬ
陽は太平洋より昇り山に沈みゆく
大原の村、昔の生業や古老の棲む
素朴なる人の棲みて親しきや
その跡継ぎのなしを悲しむ
美しき田園の日々よ、再び蘇れ
国見山を望みてここに栄えあれや
太平洋は白波打ち寄せ波にのる
沖ゆく船影の見えて鴎飛びぬ
春の川に鴎は喜々と群れ飛び
東風は吹きそよぎ新たなる街
理想の田園都市はまた蘇り生きむ


新田川の特徴は何か、ええ、この川に何か特徴があるの?新田川は平凡な川である。でもやはりそこに住んでみると川にはそれぞれ特徴があることに気づいた。それぞれの有名な街でなくても特徴がある。一般的にはまず自然とその市町村は特徴づけられる。その中で川が目立つのである。ヨ-ロッパや外国ではほとんど長大な川があるから川で特徴づけられる。川はただの川ではない、川が運河となり四大文明を作ったことでもわかる。エデンの園に四っつの川が流れていたことでも川によって特徴づけられるものがあった。


桜井古墳はまさに原町では最も最適な場所にあったのだ。新田川の岸辺であり海にも近いということは鮭がちょうど上る場所だから鮭を食糧とするに最適の場所だった。そもそも不思議なのは古墳時代は稲作をしていない、この辺で泉官衙跡が発掘されたが米は関東地方から運ばれたらしい。その頃この辺で稲作がされていないのだ。そしたら何を食糧としていたのだろうという疑問がある。

東北地方は水辺、とくに川のほとりに遺跡が多くなっている。これは川に上ってくる、サケ、マスなどをとって生活をたてたものと推定される。
縄文晩期の土器を代表する亀が岡、是川などは川魚によって集落が形成されていたものと思われる。(宮本常一-村のなりたち)

その解答は鮭がかなりの部分食糧となっていた。その具体的な例はアイヌにある。アイヌの食糧は鮭によっていた。また鮭の靴などまであるとしたら鮭に頼る生活だったとなる。川は今のように単に流れているだけではない、重要な食糧を供給するものとしての川だった。古墳時代は稲作が行われた結果として大君なるキミが生まれた王が生まれた時代である。ヌシは地方の土着の王だった。君は後の大君になるから天皇に通じる。食糧にしてもこの辺では広範囲に稲作は行われていない、だから関東の方から運ばれたのである。縄文時代の延長として古墳時代もあった。海の幸である貝とか魚を食べ山の幸であるクリとかを食べていた。鹿とかの動物も食べていた。ただ米はそんなに食べていない、稲作はまだこの辺では普及していなかった。だから古墳は稲作が普及したとき作られたというとき
東北では平地にあるのは少ない、名取の雷神塚古墳とか遠見塚古墳とか海の近くにあり海の幸を食糧とする海と関係した古墳だった。今回の津浪でわかるように古墳時代も深く海が入りこんでいたのである。桜井古墳はその土地の最適な場所にあった。古墳があるところはそういう傾向がある。


新田川の特徴は美的には芸術的にはせせらぎが多いことである。もちろん日本の川は滝だというとき外国の運河のような川とはまるで違っている。常にせせらぐ川である。瀬音(せおと)ゆかしき 杜(もり)の都の広瀬川でもある。新田川は特にそうである。川が短いからそうなる。一方真野川は新田川とはまた違っている。流域が長く飯館村の佐須までつづく奥深い長い川である。高瀬川は激流の渓谷である。宇多川はほとんど特徴がないから何かものたりない、ただ上流が奥で二つに分かれ副霊山の方まであったことは意外であり発見だった。川はやはりその上流や源流まで見ないとわからないのだ。浪江は川の街だった。二つの川が合流する町だった。盛岡も川の街であり川が情緒を作っていた。中津川と北上川は違った音色の音楽を奏でている。あの二つの川があって心がなごむのである。
金沢も川の街であり浮世絵のような風景がかもしだされている。江戸ですら日本橋がありあそこが日本の中心点だった。川はやはり常に街を特徴づけるものとしてあったのだ。


田園都市というのは理想である。エデンの園に四つの川が流れていたから理想の都市には必要不可欠だった。もちろん森も必要である。森というときまたこの辺では深い森ではないにしろある。放射能に汚染されたにしろ別に見た感じは前と同じなのだ。放射能で森が枯れたりはしないのである。街からすぐ離れて森に囲まれて家があったりする。そういう住まいは何でもないようで理想的にも感じる。人間は何でもないような故郷の見慣れた風景が実は貴重なものだと認識していない、見いだしていないのである。それがあまりにも当たり前になると貴重なものに見えないのである。それが津浪や原発事故で故郷まで失ったことで改めてその貴重さを見直したのである。故郷に住めなくなるということ自体誰も想像もしなかったからである。街からすぐ近くの森の中に住めるとなればそれは本当は理想的な住まいなのである。都会だったら仙台でも杜の都だといってもそれは街路樹だけであり森はないのである。この辺ではまだ森が小さくてもあるのだ。


東京のような住環境は最悪でありいくら豪邸に住んでもそこでは自然がないから索漠としたものになる。確かに東京のような街はない、でもそれなりに街がある。飯館村のようになると街はなかったからだ。森があって川があって山があって街があるのが理想的な田園都市なのである。もちろんそこにはどうしても農村的漁村的山村的一次産業不可欠なのである。自分が仕事で興味をもったのは農民であり漁民で山で生活する人である。それらは生活と密着しているから話しも興味深いである。工場で働くような人はあまり関心がない、自然と深くかかわらないから興味が薄れるのである。自然の中で働く人は自然と体でも一体化しているのだ。そういうものが原発事故で喪失したとき田園都市も失われたのである。確かに海や平地や森や山はあっても生活の中で活かされていないものになってしまった。田んぼを水が流れているとき水は生きていた。まるで血流のように水が大地を潤し実りを与えていたのである。田んぼや畑がなくなることは実がない世界なのである。まるで公園のようになってしまったのである。ただ不思議なのは実がなくても花はあるのである。ひまわり畑にしたように花は咲いて放射能の害がないである。それで川内村は花の村にしようと花の栽培をはじめたのである。だからそれも現代では一つの新たな村作り街作りになる。


つくづく思うに意外と人間は長年住んでいても自分の住んでいる足元のことがわからない、その良さがわからないのだ。日本の良さも外国に行かないとわからない、水がきれいでいつも飲めるとうのはどこにもないのだ。川の水はたいがい濁っている。きれいにせせらぎ流れている川はない。ギリシャのロドス島でこの辺の橲原渓谷のようなありふれたものでもそういうものがない、それでも渓谷だなどと観光客が訪れている。日本のような自然は外国ではなかなかないのだ。そのないものが日本にはすぐ身近にありふれたものとしてあるからその良さに気づかない、この辺ではやはり高瀬川渓谷が奥深いし一番の景勝の地だった。そこはまだ長く住んでも未知の領域でもあった。そこに入れないことが理不尽なのである。


自分も新田川の近くの原町高校に通っていてもまたそのあとにしても新田川が特徴ある川だと見ていない、土地の人すら見ていない、真野川でもそうでありただありふれたものとして見ているのだ。高瀬川は変わっているから違っていた。でも他はありふれた何の特徴もない川だと思っている。それは結局見る人によっていたのである。根本的には人間は感受性がないからどんな美しい場所にいても感じないのである。ゴッホのような天才だと異常なほど自然を感じるから芸術家になっている。普通の人間は全く感じない、自然の美を感じない、どんな美しい場所に住んでも盲目なのである。その眼は美をみない、ただ様々な欲望にその眼は濁り見えないのである。それはどこの世界でも同じである。大多数はこの世にある美を見ない、見えないのである。天国に行っても天国が見えない、つまり見る眼がなければ何も見えないのである。動物には自然の美が見えないのと同じである。


ともかく田園文化都市の復興なくして復興はありえない、自分の住んでいる場所がどういう場所か見直す結果になったのが津浪や原発事故でもあった。

 

2012年07月26日

フェ-ルメ-ルの小窓(オランダも地理が作った)


フェ-ルメ-ルの小窓

(オランダも地理が作った)

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●地理的制約から海洋国へ


フェ-ルメ-ルの小窓


その小窓より海の風はそよぎ入る
船は入り船はい出ゆく
はるかなる航海の日は語られぬ
小窓より光はさしいり
貴婦人にあらじ平民の婦人
その家を知り尽くして家事を行う
そのつつましき姿に美を見いだす
少女のラグズベリ-色のタ-バンの異国趣味
異国の話は尽きざるかな
その小窓より世界の風の吹き入る
オランダの栄し日よ、日本も語られぬ
オランダに広き大地、森、山なくして
果敢にも冒険的な船は海にい出ゆく
その富のここに豊にあふれて
栄えし日の夢を見るかな

・・・・・・・・・・


彼の握る帝国の章標
彼の王権を示す宝珠と笏
望遠鏡 るつぼ はた地図なり
彼道なき海を越えて船を導くを得
それに関するあらゆる技術を心得あり
彼地球の内部を解し星辰の運行を判ず
外つ国々の政策を知り
全世界の地方の 都会 町などの名を
かげろう糸の露の玉のごとく固くつなぎ合わす力あり
・・・・・・・・・(ワ-ズワ-ス 序曲)


オランダという小国が世界をまたにかけて貿易で栄えたのはなぜか?それも基は地理だった。もともとニシンをとるだけの漁村だった。横浜のような所だった。それが外国から織物などの技術をとり入れて技術先進国となった。外国の技術者を入れて発展した。一つのコスモポリタン的都市となっていったところに栄えた原因があった。風車にしても船の技術に応用されて世界の海に乗り出すことで栄えた。国は小国であり土地もないから海に土地を作ったような所である。ここで栄えるのは貿易で栄えるほかなく商人となるほかなかった。その地理的位置が恵まれていた。ライン河の河口にありイギリスともスエ-デンやノルウェ-とも近く木材の資源とか入り物資の集散地になった。貿易で栄えた国は自然条件が悪い外洋に出るほかない地理的条件があった。ギリシャもそうだったのだ。平坦な地域が少なく今でも山の高い所に羊飼いが羊を追っていた。険しい山と海と島の国だった。だから植民都市を外部に作った。そしてドルフィがギリシャ世界の中心地というときあの山の中がどうしてかとなるがやはりゼウスの住むオリンポス山が見える地であり山が多いからそうなったのである。点々と島が多いことも航海するには適していたのである。日本でも島が多いけど対馬などでも耕地にする所が極めて少ない、すると海に出るほかない、海に出ることが強いられるのである。貿易で栄えるほかないのである。そういう地理的制約があるのが島なのである。沖縄もそうである。

ギリシャ本土は山が多くてその広大な面積は不毛の土地である。しかし肥沃な谷がたくさんあって、それらは海へ容易に出ることができるが相互の陸上交通は妨げられていた。


ヨ-ロッパ中部はライン河がその貿易の幹線だった。したがってライン河の河口に位置してバルティック海、大西洋に面しているネ-デルランドが地理的に最も適していて、トルコの進出による地中海貿易の衰退と共にヨ-ロッパの中継貿易の中心地となった。
(繁栄と衰退-オランダ史に日本が見える-岡崎久彦)

オランダは地理的条件に恵まれていたのである。ケルンの塔の上からオランダやイギリスの方が見えた。意外とオランダが近いと思った。

ヨ-ロッパはもともと氷河地帯であり湖が多いのはその氷河が後退してできた。つまりそもそもヨ-ロッパ自体が特に北は寒い地域であり住むには適していない地だった。だからこそ暑いインドのような豊かな国を求めて航海に出たのである。モンゴルは大陸から拡大化したがヨ-ロッパは海から拡大化してアメリカを作ったのである。その相違もグロ-バルな視野から見えるのである。
ドイツは広大なゲルマンの森を有しているからその成り立ちはまるで違う。フランスもそうである。そういう国は一つの民族として形成される。ナショナリズム的拡大がありナポレオンとかナチスとか領土拡大を目指し帝国主義になる。陸の大国はたいがいそうなる。その文化もそうであるからオランダは土地がないから異質だったのである。


●割り勘-Dutch treatの国


割り勘-Dutch treatというのもオランダ特有の合理主義だった。これは日本語にもあるのだから日本にもあったから日本も商人的合理主義が江戸時代からあった。


レンブラントの「夜警」だとされる。
この絵の正式な題名は
フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長の市民隊

であるが、その市民隊がレンブラントに絵画作成を依頼する時に、
市民隊のメンバー達は1人100ギルダーずつを供出して、
レンブラントに支払ったそうだ。

ところが、出来上がった絵を見ると
みんな平等の配置で描かれるものと思っていたところ、
中央の隊長と副隊長にばかりが目立つ配置だったので、
不満を抱いたともされる。

オランダでは、
レンブラントの「夜警」のように
無名人の集団肖像画がオランダで多くあったという。


オランダは平民的であり合理的であり貴族の階層社会と違っていた。宗教と政治を分離したから徳川幕府にも受け入れられた。姓にこだわらないことは出自にこだわらないことである。中国の三国志では姓が一族結束の象徴であり何の姓に属するかでその人がわかる。日本でも姓より地名が姓になっているというときどこの村に住んでいたかがアイディンティティになるのだ。


●地理が歴史を作る(日本の古代は大阪がオランダだった)


日本にしても最初に大阪とかに韓国から技術者がおしよせてきて大阪に百済国があるまでになった。それは大阪などが外国文化の取り入れる入り口となったからである。飛鳥、奈良にしても難波の港があって成り立っていたのである。分離した世界ではなかった。川でも結ばれていた。国が栄える、世界的になるにはどこでも最初は外国の技術をとり入れて国が大きくされてゆく、中国や韓国から技術が入り古代に日本の国造りが行われた。みちのくの蝦夷まで鉄や黄金を求めてきて遠征した。百済王敬福まさにそうである。仏教も外国の技術と文化だったのである。多賀城が海から遠いように見えたが津浪で海に近かったことがわかった。近くまで海が迫っていた。それで波こさじの末の松山の伝説が生まれ京の都に伝えられたし貞観地震の津浪の被害と祇園祭りは関係しているとかなる。天変地異を鎮めるための祭りだったと言われるのもそのためである。それだけ古い祭りだということにも驚く。みちのくの真野の草原(かやはら)も奈良に平城宮に知られた時代でもあった。だから草原(かやはら)が伽耶の国に由来するというのもそういう大きな歴史的背景があってのことであり突飛なことではないのである。


百済野の萩の古枝に春待つと居りし鴬鳴きにけむかも

地名のイメ-ジ力-万葉集の衣摺
http://musubu2.sblo.jp/category/1485470-1.html


こういう地名が残るのもいかにも大阪が外国文化をとり入れる入り口になっていたかわかる。
大阪ではピラミッドより大きい仁徳天皇陵があるからやはり早やくから外国と関係してそれだけのものを作る勢力を形成していたのである。

現代の情報文化は一地域が有利になることはない、インタ-ネットはどこでも情報が入手できる時代である。これが本の世界だったらなかなかできない、地方では発信することもできない、本だとまず流通させることが地方からむずかしい、でもインタ-ネットだったら日本だけではない世界へ簡単に発信する能力は備わっている。ただまだ本格的なプロフェショナルな発信が行われるシステムがないのである。

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17世紀オランダの風景画より


晩秋や風車の古りぬ二つかな

この風車の絵の発見は感動した。オランダで風車を見たけど電車の窓から通りすぎた一瞬だった。このような風車は見ていないから残念である。その風車は一見見て古いとわかった。だから風車の実物は古いのである。それが歴史的なものであることがわかった。実物を一回だけでも見ることは相当に価値がある。いくらテレビでも写真で見ても実感しないのである。


それにしても自分は本を読むというより本の蒐集家だった。これはめずらしいなとか買っていた本があった。引用したワ-ズワ-スの本にしても厚いしラッセルの本にしても持っているだけで重い、そんな本を良くだしていたし買っていたなと思う。知的仕事にはまず自分の部屋が小さくても図書館になっていないとできない、だから作家は書庫をもっていたし学者も持っていないと仕事にならないのである。インタ-ネットはそういう点で知識の世界的解放の時代なのかもしれない、まだまだそうなっていないにしろそういうものを目指している。アレキサンドリアの図書館のようなものを目指している。引用した割り勘のことでもあれはどこかに書いてあったから著作権はないだろう。何か創造されたものではないのだた。インタ-ネットには素人のそうした発言が膨大にある。本はプロフェショナル的なのである。ともかく本でもインタ-ネットでもやはり編集作業が新たな知識の見方を提示するのである。 この風車の絵の発見は感動した。オランダで風車を見たけど電車の窓から通りすぎた一瞬だった。このような風車は見ていないから残念である。その風車は一見見て古いとわかった。だから風車の実物は古いのである。それが歴史的なものであることがわかった。実物を一回だけでも見ることは相当に価値がある。いくらテレビでも写真で見ても実感しないのである。

2012年06月17日

海に囲まれて国境意識が希薄な日本人(続) (関所も今になると意味あるものだった)


海に囲まれて国境意識が希薄な日本人(続)

(関所も今になると意味あるものだった)

大陸の国境


万里の長城は延々とつづく
これは何なのだ
砂漠の果てまでつづいている
中国三千の歴史は国境作る
それは大地を区切り囲い込み
国家を作り守ろうとする執念
日本は海が国境でそれがない
大陸の国境は作られ死守されねばならぬ
国境を守るための戦いは繰り返される
国境には多大の犠牲が払われた
日本の歴史にその労苦はない
海が自然の防壁となり国境となる
それ故日本の防衛意識は薄い
国境を死守せねば国は攻められ蹂躙される
その恐怖があの万里の長城を作った


この西の果て「嘉峪関」(かよくかん)までつづいている。砂漠の中にその防塁が残っている。なぜかあそこに魏の国の遺跡があった。中国の歴史はあまりに大きすぎてわからない、あそこからは中国ではなくなるし遊牧民が攻め入った所だった。中国の歴史はモンゴルなどととの攻防の歴史だった。最初の国家自体、始皇帝自体が遊牧民の子孫とか言われるのもそのためである。つまり国家とは他国との攻防のなかに作られたのである。それが国境なのだ。


だから大陸では国境の意味は大きい、つまりその国境をめぐり多大の犠牲が払われたからだ。国境は自然が山や川があって国境になったとしても絶えず他国の侵入があるから人為的に守り作られてきたのである。日本にはこうした国境意識が希薄である。だから北方領土とか尖閣諸島など国境意識がないしそれを守ろうとする意識も薄い、大陸では国境を守ろうとする意識が歴史の中で培われてきた。島が一つの海に守られた国となると島には国境意識は醸成されない、ここがオレのシマだというときそれは動物の縄張りであり大きな国の国境を守る意識とは違う、非常に狭い範囲の縄張り意識なのだ。だから日本が大陸に侵攻するのはあまりにも無謀なことだった。中国のような大きな領土を守り国境を死守してきた歴史さえない国が大陸を支配しようとするのは無理だったのだ。

http://www.panda-style.com/dest/2002b/jiayuguan.html


日本は島国であり一般人には国内にいて漁師を除き国境を意識する人は殆ど無いと思う日本人は国外に出るには船・飛行機でしか手段が無いので「外国に来た」と感じても「国境を越えた」とは感じない。これは他の陸続きの国民と比べたら国意識がかなり違ってくると思う。

冷戦の緊張時には国境中立地帯を挟んで軍隊が睨めっこしている場所もあったのだ。現在でもそういう場所はある。朝鮮半島の板門店38度線、インド・パキスタンが良い例 国境間には地雷原があったりする。
そおいった場所には必ず政府機関の軍隊・警察が見回り警戒している国内で分かりやすい場所は大使館・米軍基地、あそこは敷地の内と外でハッキリと日本・外国と分かれている。侵犯した時点で日本の法律が効かない≪治外法権≫だ。

もし日本が陸続きであれば危機意識はかなり高かったろう、
外国に歩いていけるのだからその逆の外国から国内に侵入してくる事も可能なのだから・・・
まさに戦国時代のようにピリピリした状態が出来るのだからかなり違った
外国で普段感じない「日本人だ」という国民意識が出来たと思う。

http://www.panda-style.com/dest/2002b/jiayuguan.html


追加の文



関所のこと書いたけど関所は不便なものだけど一つの旅の記憶の目印となる。それがなくなるとどうなったか、かえって地方の個性も育てられないし文化も育てられない、文化はミクロコスモスをもつとき育てやすいのである。グロ-バルになって世界化したときかえって国もみんな同じになったら個性は育てられない。マクロコスモスとなると人間のアイディンティティはモノを通してとしか意識できない、貿易にはいいにしても文化は全体なのである。その土地土地の自然と一体化して地方の個性が作られている。江戸時代が藩ごとに違っていて個性的だから多様な世界が生まれていた。関所がなくなったときそういう境界の意識が喪失した。電車であれ車でも地方の国と国の境界があいから別な国に入るのだという意識もない、みんな同じだという意識になってしまう。もちろん関所は不便であり国境などない方がいいという意見もあるしそういう不便な面も見逃せない、国境を通じて悲劇が起きていたのも現実である。関所でもやはり関所破りは厳罰で殺された人もいる。

ただ関所がないとここからは別な国、別な文化とか意識することもない、みんな同じなんだというものになり旅もつまらなくなったのである。やはりアイディンティティを作るのに丁度相馬藩くらいの範囲が人間的に作りやすい、広くなると作りにくいのである。つまり会津には会津の山国文化があり浜通りには海の文化がありとそういうところで個性的な文化がはぐくまれる。福島県自体が一つとしてアイディンティティを形成しにくいのだ。福島県だけでも広すぎるのである。広すぎるということは政治的にも統一した感情とか施政がゆきとどかないのである。福島県はただ大きいだけでまとまりがないとなる一体感がないとなる。小さい国の方がまとまりがあり施政がゆきとどき細部までみれるということがある。

中国の万里長城がなぜ作られたのか?ただやたらと目的も意味もなくあんな長大なものが作られない。これも遊牧民に攻められるために中国が国境として意識されるために一つの国として意識されるために作られたのである。そうでなければどうしてあんな馬鹿でかい国が一つの国として意識されるだろうか?あの万里長城によって中国が一つの国として意識されていたのである。万里長城がなければ一つの中国はなく中国人もなかったかもしれない、中国の統一のシンポルとして万里長城があった。そうなれば意味もないものではない、明かな目的と意味があり建設されたとなる。


日本は四方を海に囲まれているから海に守られているから国境意識がはぐくまれない、それは一面恵まれていたのだが国防意識が育たない、だからモンゴルが責めてきたときも海で守られたから歴史的にもかえって国防意識が育たなかった。かえって神風が吹くとか神がかりになっていた。ただ海に囲まれている地の利でそうなっただけだったのに神の国とかいう意識を育てたのである。他の国では国民が国境を命をかけて守らない限り守れないのである。それで尖閣問題でもあそこが国境なのか、日本が中国に攻められてとられてしまうのかという意識が希薄なのである。人も住んでいない小さな島であり海しかないからである。大陸の国境意識と日本の国境意識は相当違っている。国境では命をなくしているし国境は生命線である。この世界は何でもプラスの面とマイナスの面がある。それはあらゆる所にあり関所も不便だが今になるとそれなりに意味があったとなるし見直される。観光で関所を再現しただけでも境界が意識されるから意味があるとなる。関所でスタンプを押してもらうだけでそれが旅の記念にもなる。ただあまりにも容易に通りすぎていくからただ通りすぎてゆくだけの旅になっているのだ。世界旅行者で国境にこだわる人がいるのはやはり国境が旅で一番記憶されるものとなっているからである。


古来、関所をめぐっては「関雲長、五関を過ぎ抜けて六将を斬る」「千里、兄長を尋ねる」など感動的な故事や伝説が多く、「楊六郎、三関口を守る」は誰もが知る物語である。関城の内外では、重要人物を祭る廟や関所に関わる有名人の祠をよく見かける
http://www.rmhb.com.cn/chpic/htdocs/rmhb/japan/200204/5-3.htm


日本とは違い城は長い城壁があり外国では関所の役割も果たしていた。関所は物語が生まれやすい場所だったのである。




これは時事問題の深層に書いたものでありそれに付け加えたのである。インタ-ネットは付け加えたりあとから直したりすることがやりやすいのである。前に書いたものを発展させることができるのだ。

日本人の国境意識の希薄さ(時事問題の深層)
http://www.musubu.jp/jijimondai21.htm#sekaku


文化が交わり育むには長い時間が必要
http://www.musubu.jp/jijimondai21.htm#bunka


ここでも書いたけど貿易で物が流通するのは交通が発達すれば簡単だけど文化が交わるとなると
時間がかかる、仏教にしてもインドから中国から朝鮮からと伝えられる内に変貌したのである。
仏教の受容でも中国の文化を通して禅宗になったり韓国だと美的になったりと違っている。
日本は日本の文化なりに仏教を受容したのである。それには時間がかかったのである。
グロ-バル化とは物の流通はしても文化となると簡単にはできない、長い時間が必要なのであり
それを性急にすると問題が起きているのだ。アメリカは何かそういう文化を無視した所があり
もともと文化がないからこそ軍事力で性急に制圧して文化を無視しているのである。

 

2012年06月13日

歴史を見る眼 (世界的には商人が世界のル-ルを作った)


歴史を見る眼

(世界的には商人が世界のル-ルを作った)

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●多様な人間との出会い


歴史をみるときこれはいろいろな側面からみられる。歴史を見る眼は多様である。宗教からみ人もいるし経済貿易史としてみる人もいるし技術者だと科学技術史としてみるし医学になると医学史からみるとかその専門分野によって多様なのである。歴史が地理だというときやはりその根底に地理を知らねば歴史をしりえない、その地理をしるのが実感としてしるのがむずかしいのである。今は簡単に外国に行けるから外国に対する理解は庶民レベルで広まっている。外国は学問と関係なく一回でもその地を踏んだ人の方が実感としてしる。本やテレビを見てもヒマラヤの壮大さは一回だけでも見た人の方が実感としてしることになる。最近はパリに八回行ったとか若い人でもめずらしくない。ヒマラヤに十回登山している人がガイドなしでいた。日本人であんな人がいるとは思わなかった。それだけ外国は身近になったのが現代である。


中国から帰る船であったのはモンゴルに一年間羊の牧畜を勉強するために暮らした人だった。モンゴルは冬が厳しく首が縮まってしまうという。零下何十度になるから冬をテントで過ごすのは相当に体力を消耗する。その人は体力ありそうな青年だった。その人が北海道で羊の牧場を開くと言っていたがその人がテレビに出ていたのは驚いた。今はヨ-ロッパやアメリカが留学先ではない、モンゴルのような地域にも日本人が入り込んでいる。日本人は世界中にどこにでもいるから日本人のたまり場あるから世界を旅しても日本人に合わないことはない、そういう時代なのである。
大阪の商人は中国で一発あてれば人口が多いから大儲けできるとか接待するのも大変だと言っていた。必ず税関とかでワイロを払う必要があるという。中国は古代からワイロの国だったのである。
ワイロは一種の貿易のリベ-トだったのである。ワイロも関税の一種だったのである。
今庶民レベルでも外国人が入ってきている。中国人などどこにでもいる。相馬市の玉野で自殺した酪農家はフィリッピン人が妻であり子供いて放射能騒ぎで国に帰ったからそれが原因となもなり絶望して自殺した。東北では多様な人間とは出会いえないがただ底辺でも外国人を妻にしたらグロ-バル的なものとなってゆく、そういう時代なのである。


●日本は島国文明で商業に通じない国


日本人はそもそも島国であり鎖国のように閉鎖的民族である。島国的文明として作られた民族である。大陸のように激しく流動化する国とは違う。世界ではヨ-ロッパでもそうだけど激しく民族が移動して戦争ともなり混交して文化を作ってきている。ユ-ラシア大陸が遊牧民の世界であり遊牧民は羊を追って暮らしているのだから移動する民である。そのことは必然的にすでに遊牧民は商人ともなっていた。イスラムが商人の国だというときまさに遊牧民の国だったからである。砂漠は海と同じく交通路になっていた。草原でもそうである。この遊牧民が航海の民となったことはうなづける。同じ様に星を北極星などを方向を目印とするのが共通としているし国の旗も星となっている。相馬藩の妙見ももともと中国の遊牧民の文化が伝えられて北斗七星を祭る妙見神社となった。遊牧民はまた馬を使うから騎馬軍団でありそれは星と関係していたのである。世界的には遊牧民の影響受けない国はなかった。日本だけが魏志倭人伝に「その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし」とあるごとく牛も馬も羊もいない世界ではめずらしい極東の島国となっていた。漁労民族であり海彦山彦の世界だった。


日本には貿易を発達させる土台がそもそもなかった。交通路となるべき砂漠や草原もない、山にさえぎられているから国のなかでも孤立する度合いが強かったのである。海に囲まれていたから海岸線で交通が発達したかというと江戸時代は日本海は海が穏やかだから北前船などでそうなったが太平洋側はそれほど発達しなかった。波が荒いからそれほど海の交通路が発達しなかった。その点大陸は砂漠があり草原があり長大な川が交通路となって商業が発達して商人的気質が養われやすかった。
結果としてそうした世界的交流がしやすいから大きな文明が作られた。外国の貿易が盛んになればどうしても共通の公平な法律で商売できなければならない、だから異民族間でも公平な法が互いの国で作られた。商業は世界的法律を作る基なのである。聖書で契約が中心になっているのは商業がすでに発達していたからである。バビロン辺りではすでに商業都市だったのである。そこではいくらでもそうした考古学的発掘がある。楔形文字からもいくらでも発掘されている。


●信長の時代が商業の時代になった


日本人が商業的なものに目覚めたのは信長が出た戦国時代からである。その時堺が栄えたことでもわかる。信長は商人的な気質をもっていた。商業を盛んにすることが国を栄えさせることとして政策でも楽市楽座とか実行した。それは秀吉に受け継がれた。戦国時代は日本が極めてグロ-バル化した時代だった。一時的でもスペインとかポルトガルとかとキリスト教を通じて交わり世界的な視野をもつようになった。これまでは京都を中心とした寺社勢力、寺院勢力が既得権者として権力をもっていた。それが戦国時代に変化した。つまり京都が権力の中心地だったときその周辺から新勢力が信長を中心にして生まれたのである。ここで僧侶集団の既得権者と争いが起こる原因であった。それをつぶすにはあれだけの戦争にまでなったのである。やはり歴史は地理的なものからまずみる必要がある。

京都の周辺の近江がなぜ次なる日本の中心地となったかわかる。京都には既得権勢力の僧侶集団にしめられている。新しい勢力はその周辺から起きる。近江商人が全国的にあれだけ活躍したのも京都の周辺にあって規制の勢力の僧侶的集団の束縛がなかったからだろう。会津の喜多方が商人の町として栄えたのも会津の北ということで武家の縛りがないところで自由な活動ができたためである。
歴史にはそういう地理的影響が必ずある。伊達政宗があれだけ世界的視野をもてたのはなぜか?
伊達政宗はほとんど地元にいない、大阪の伏見城の秀吉に仕えていた。その愛姫もそこに住んでいて仙台に住んでいなかった。とすればそこで日本のみならず世界の情報にじかにふれていたのである。辺鄙なみちのく一城主ではなかった。常に全国的に活動して世界に眼を向けていたのである。

地理からみるとなぜオランダがあれほど貿易で栄えたのか?それも地理的要因が大きい。ドイツという大国とライン川を通じて結ばれていた。イギリスとも結ばれスエ-デンとかノルウエ-とも結ばれ材木が入りとかニシン漁が盛んで売るもの前の海からとれていたとか地理に恵まれていたのである。
これは酒田とにていた。さらに恵まれていたのはもっと大きなイギリスとかスエ-デンとかノルウエ-と結ばれていたことである。オランダには地理的に富が蓄積する条件がまず調っていたのである。
その商人的文化が育まれて写実的なオランダの絵画が生まれた。オランダには音楽は発展せず写実的な絵画が発達したのも商人国家だったからである。ドイツは広大なゲルマンの森の国だから瞑想的な音楽が生まれた。絵画はもともと写真のように写実性を追求することが根底にあった。だから絵画がオランダには向いていたのである。オランダが宗教にこだわらず貿易の利だけを目指したのも商人国家だったためである。それで鎖国の日本にも長崎の出島を通じて受け入れられたのである。


●日本は侍と農民の国


日本という国の特徴は全体的には農業国家であり侍と農民の国だった。江戸時代三百年で侍的気質と農民的気質の国として作られた。ここにもう一つもの作りとして職人的気質の国として作られた。
商人的な貿易国として作られた国ではない、たいがい中国でも商人国家と言われるように商人的気質、文化が作られてきたが日本は島国として作られなかった。だから商人的割り切りが合理思想がともしいのかもしれない、何か日本はドイツとにている。ドイツも農民的であり森林の民であり神秘思想をもつようになった。日本は農民的なものとしてはドイツとにている。日本の支配階級だった侍は最も商人的なものと反対の極にある。農民もそうである。日本は大阪や近江商人のように一部をのぞいて商人的なものをはぐくまない、それは江戸時代の鎖国の三百年の中で気質的に歴史的アイディンティとして作られた。

大阪的な近江商人的なまず「じぇにだよ」という感覚にならない、銭を本能的に毛嫌いするのはそういう気質が江戸時代三百年で作られていたからである。特に東北は全く商人的気質がない、商業で栄えた時代もない、鎖国時代の侍と農民の社会の継続なのである。東北はだから未だに人間も一般的に閉鎖的であり開かれていない、進取の気質にも欠けている。商人向きではない、農民的なのである。農民から職人には向いているからもしれないが商人には向いていない、それは日本人全体の傾向としてある。近江商人の末裔のうよな人に旅で出会った。外国で実にねぎるのがうまいのである。自分もまねしたけどできなかった。そういうことは簡単にまねできないのである。
だから近江商人とか大阪商人の気質は歴史的に作られた気質だったのである。長年歴史的にそういう商人の世界が作り上げられた場所で育つからそこではそういう気質が生得のものとして作られていたのである。


戦争にしても何かヨ-ロッパのような貿易で利を得ればいいとかいう商人的融通性がなく何か合理的なものもない、犠牲ばかりふやした戦争はやはり商人的気質の欠如なのだろうか?農民的一途さがそうなったのか、兵隊はほとんど農民だったことにもよる。東北人は兵隊としては優秀だったというのはそういう面もあった。東北人は律儀であり融通性がないのだ。それはいい点でもあり悪い点にもなるただ戦線を無闇に拡大してただ無益な犠牲ばかりふやしたのは商人的気質の欠如からきていたかもしれない、もっと冷静に合理的に得か損かを考えたらあそこまで犠牲をふやしたりしないだろう。アジアの大義のためとか戦争にそういうものをもちこんだとき融通性がなくなる。適当な所で不利とみたら交渉も商談も中断するとかの判断ができなくなった。日本は神国だから負けないというのもカルト的宗教戦争にもなっていた。一億総玉砕などというものやはりカルトかかったものとして合理性を失った結果だった。これはドイツのナチスとにたところがあったのだ。

戦争はいかに戦死者を弔うにしても無駄な犠牲が余りにも多すぎた。英霊だとしてなぐさめても何か虚しいのである。農民的気質と侍的気質が合体して悪い方向に向かった。それがいい方に向かいばまた別なものとなっていた。だから日本人は魏志倭人伝に「その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし」というようにここから日本人の気質が形成されていたのでありそれが戦争にも影響したし歴史的アイディンティとして日本人を作ってきたのである。ドイツ人が森をアイディンティとしているとにているともなる。


●土星と水星(マ-キャリ-)


サターン(土星)はローマ神話の農耕神サトゥルヌスに由来。太陽から遠く運行が遅いことから年老いた神の名が付けられた。

(高齢の慎重な賢者)・(小さな事を積み重ねて大をなす)という点に優れています

水星(マーキュリー)は 流動性を示し、通信・交通、商売、旅行、兄弟に当てはまる


土星は鈍重な農民でありマ-キュリ-は商人であり旅人なのである。旅人はやはり商人と共通していたところがあった。商人は絶えず移動しているからである。江戸時代はまさに土星の時代だった。
それが明治維新以降はめまぐるしく交通が発達してマ-キュリ-の時代になったのである。
グロ-バル化時代だと世界が兄弟だというのもそうである。通信、交通の発達は余りにもめまぐるしいのである。水星のように回っている。そういう時代だから一方で土星のような農民的重厚な落ち着きも求めている時代である。

「最上川と羽州浜街道」という本がアマゾンで今日ついた。
最上川に興味をもったから注文したらついたのである。古本だから千円だった。今は何か書いて調べるときインタ-ネットではたりなくても本で調べられる。それも古本だと半額くらいになるから即座に集められるのである。本というのは何かを調べたり書くときその関連したものが必要になるのだ。それがアマゾンだと一発で即座に注文できて次の日には配達されるのである。本はいくらあってもたりない、あることに詳しい情報が常に必要になっているからだ。だから情報的には格段の進歩が生まれた。本の買い方もこのように変わった。だからそれに応じて変わらねば商売にならない、インタ-ネットでも情報のやりとりが高速ですさまじい量のものが流通しているのだ。だからもはや本という媒体自体が限界にきている。本だと金がかかりすぎるのだ。教育も変わらざるをえないものがある。

「左沢」について書いたがこの本でさらに詳しくなった。つまり「左沢」という地点についてより詳しく知りたい人がいる、それをどこで知るのかとなる。インタ-ネットでもより詳しい情報はでていない、それは今までに蓄積したものの中にある。自分でも今やそういう情報の編集者だから出版社と同じことをしているのだ。現代は新たな情報の編集の時代なのである。

2012年01月07日

世界史を地理風土から解明する 世界の地理から首都の位置から世界史を読む(1)


世界史を地理風土から解明する


世界の地理から首都の位置から世界史を読む(1)

歴史は地理であるというとき世界史でもそうであるから世界の地理がある程度わからないと世界史はわかりえようがない。地理は本だけ読んでも地図を見てもわからない、立体的地図を見てもわかりにくい。地理は地形と関係しているからある程度体で体感しなとわかりにくい、そうなると地球は馬鹿でかいからとても一生をかけてもゆく所が限られているからわからないとなる。自分の場合も50すぎてから世界旅行したから遅かった。今の人は若い時から海外旅行しているから学者でなくても海外に詳しくなれる。世界史が地理だというとき地球を作ったのは神であり神があらかじめ人間に予定していた用意していたのが地理である。カナンの地、イスラエルが地球の中心だというときそこはあらかじめ神が定めたからである。アブラハムがカナンの地にあえて移住したのもそのためだろう。神が定めた地球の中心がイスラエルだったのである。地球の首都がイスラエルだった。首都というときまず世界史で大事なの世界でそれぞれの国で首都となっている地理である。日本だったらヤマトが奈良になったのは歴史的必然だった。日本の地理的中心が奈良でありそう定められていたのである。邪馬台国論争があっても地理的に日本の地理的中心は奈良だった。なぜならそれも地形が関係していた。

大阪が難波が適地のように見えたが日本は葦原の瑞穂の国というように海に囲まれ湿地帯が多かったのである。今の港となっている所はほとんど湿地帯であった。難波も広大な湿地帯でありそこに都をつくりえよがなかった。それで最初の都が首都が奈良の奥まった飛鳥になったのである。そこもまた奈良の平地が湿地帯であり湖だったとかあり飛鳥が都になった。その後万葉集で歌われた山辺の道も平地が湿地帯だから山辺の道に沿って巨大な古墳が作られた。卑弥呼が眠っている箸塚古墳といわれるのも山辺の道沿いにある。その後も首都は難波には作られなかった。山城の山に囲まれた京都が平安京の首都になった。その後は近江の大津京が首都に一時なったり難波はなかなかなれなかった。
難波が大阪は秀吉の時代まで待たねばならなかった。次に首都になったのが江戸-東京なのも海に面していた東京湾でありここも湿地帯であり埋め立てが必要だった。


首都の位置から地理から世界史をみるとある程度理解しやすくなる。中国も馬鹿でかいから地理を知るのは用意ではない、ただ最初首都が始皇帝の秦の首都が長安であり西安となった。秦がシナとしてシルクロ-ドを通じてヨ-ロッパに知られたことでもわかる。そこは遊牧民族の騎馬民族の土地と接するところであり兵馬俑の大騎馬軍団を擁して中国の最初の統一国家を作ったのである。去年は津波の被害で「絆」が強調されたが感じの意味は動物との牛とか馬とか羊の絆が語源だという。これは遊牧民的言葉だった。遊牧民は動物との絆なしではありえない、農耕民は土地の絆なしではありえない、日本語のきづなは木綱になってしまう。日本は樹の文化だったのだろう。樹に綱を張るから新年の神社の行事でもあるし家庭でもしめ飾りかしているからである。その後も遊牧民のモンゴルと接する北京が首都になったのも遊牧民の影響が中国は強く受けているからである。遊牧民の侵入を防ぐために万里長城を作ったのである。この遊牧民は広大なユ-ラシア大陸の国家の揺籃の地となった。ただ農耕民のエジプトのような三千年とか継続する文明国家を作り得ず雲霧消散した。トルコまで遊牧民国家であり西と北の境目がイスタンブ-ルになっている。イスラエルとかも遊牧民の国だった。砂漠からユダヤ人の聖書が生まれたのである。この遊牧民がフェニキア人のように地中海の海洋民となってギリシャがそのあとを受け継いだ。そういう大きな歴史の流れが地理的にあった。その国の首都がなぜそこにあるのかまず検討する必要がある。ギリシャの首都がアテネでありロ-マの首都がロ-マだというのもその位置が大事になる。フランスでも国家がマルセイユを歌っていたというときやはりマルセイユが中心としてあり次にパリに移っていった。マルセイユはギリシャの植民都市として発展した。フランスには広大な平野が背後にありそこが耕作地帯となるからパリに首都が移った。


遊牧民の影響はヨ-ロッパにも継続された。ロシアがタタ-ルの軛としてモンゴル帝国の一国家として出発したのもそのためである。その後もフン族とかいろいろな民族が西のヨ-ロッパに移動したのである。ハンガリ-などもそうした遊牧民の国家だった。東ヨ-ロッパ地帯は遊牧民国家であった。ただドイツはゲルマンは森の民と言われるように狩猟民であり遊牧民であり農耕民にもなっていた。ゲルマンは遊牧民とは違った文化をもっていた。遊牧民は森の民とはなり得ないだろう。今でも森は草原などにわずかにしかないだろう。でもモンゴル平原にも森がありその森の民が狩猟の民は今でもシベリア辺りでは移動するから定住の農耕民とは文化が違っている。森の民というときなかなか理解しにくい、ドイツでも森がなくなったときそれかイメ-ジしにくくなった。でもその伝統が文化に受け継がれている。ゴシック聖堂が森を象ったものだというときそういうものかと理解する。その背景にあったのがゲルマンの樅の樹などの黒い森であり樅の樹はドイツの象徴的な樹となっている。森の民故にその思索も深くなり音楽もベ-トベンとか重厚なものが生まれ重々しい思索の哲学の国となった。Fundamental Germany Identityが森にあったからである。

のちのプロテスタントシズムが生まれたのも勤勉の奉仕を基にした資本主義のエトスが形成されたのもそのためである。峻厳な森と北方の厳しい風土がそのモラルを自ずとキリスト教と合体して形成された。

地理を見ればおおよそおおざっぱに世界史がわかるという利点がある。スペインとフランスをさえぎるピレネ-山脈が国を分けたしラインは自然の強固な境界となった。山も国境となり川も国境となる。それは自然の地形にそって都市や国家が形成されたからである。日本でも関が原が天下分け目の境界線だったことは地理的にわかり西を治めようとすれば信長が安土城を築いた理由もわかるしのちに大阪が首都になったこともわかる。それは地理的風土的要因があったからである。


一つの国の歴史と民族性はまず自然の植えにちゃんと書いてある。よその国や人間を知りたければ、その国の自然というものをまずゆっくりと読むことだ。一ペ-ジだけで結論に達したりしないであせらず急がず読むことだ、春夏秋冬という書物をゆっくり読むべきだ。(西欧の顔を求めて-犬養道子)


この本は含蓄がある。ほとんど外国に住んでいたら当然そうなる。ところが普通の人は一回くらいしかヨ-ロッパでもなかなか行けない、ただ最近若い人でも8回パリに行ったとかいう人も増えている。外国というのは本で読んでもわからない、地図を見てもわからない、一回でもその土地を踏んだ人は実感としてわかるのだ。ドイツの大地を踏んだ時、ドイツの文化の根源的なものを実感として体から感じる。ドイツ人のゲルマンの魂がその土地から形成されたからである。するとベ-トベンの音楽とかが肌でその土地と一体となって感じることができる。印象画がフランスから生まれたのも霧深い森深いドイツではない明るい陽光のフランスだから生まれた芸術だった。これもその土地の風土を知らなければ深く理解し得ない。日本の俳句は日本の四季を知らなければ理解しようがないのだ。一年間日本の気候四季を経験しなければ理解しえないものである。だから一度も外国の地を踏まない人と踏んだ人の差が外国の場合は大きいのである。駆け足で一回だけでも行ってもその影響は大きいのである。一回だけでも相当理解が深まる。これまでは一回すら行けないのが普通だった。今は庶民レベルで行っているから外国に対する理解は深まってくる。ただ外国に住んでいる人のようにはいかない、そこに以前として大きな差がある。何回もゆく訳に行かない無理だとなる。


この地理的世界史論は継続されて書かれる、次は川を知らなければ外国は知ることはできないとなるだろう。

 

2011年12月23日

家と土地がアイディンティティの基本であった (アメリカ支配が日本のアイディンティティを奪った)


家と土地がアイディンティティの基本であった

(アメリカ支配が日本のアイディンティティを奪った)

●人間の基本的アイディンティティは土地と家にあった


kingdom の "dom" が、ラテン語の dominus(主人)から来ています。domain(領土)は dominus(領主)の土地です。kingdom は「王の支配する土地」という意味ですね。


dome はラテン語の domus(=house [家])が語源です。dominus は「家の主人」です。dome は「家」という語源から来ていますが、本来はもっと大きな教会というイメージです。教会も大きな家ですね。

dominus の女性形が domina(女主人)です。dam は「女主人」が語源です。フランス語で ma dame はどういう意味ですか。


domestic

家事奉公人, 召使い.
(domestics))国産品.
[ラテン語domesticus(domus家+-ticus=家の)]


言葉がその土地から生まれた根源的アイディンティティというとき数学のように全く土地から遊離して抽象化したものではないためである。いかに人間はその土地と家からアイディンティティを見出してきたか、築かれてきたかを見直すべきだろう。アイディンティティにはいろいすあっても基本は土地と家にあった。天皇ももともと公(おおやけ)としたときそこは公は大家(おおやけ)であり人々が集る大きな家のことだった。社(やしろ)もまた村の人が集る家のことである。そういう場に基本的アイディンティティが作られてきたのである。歴史的にも家が拡大化したのが国家になった。平氏であれ源氏であれそれは一つの家が拡大化したものである。これは外国でも同じである。ハプスブルク家とかが国家を形成した。一つの家が国家となっていった。封建制も藩の支配も一つの家に仕える奉公することだった。それは商家でもそうであり昔の商人はやはり藩に奉公すると心理的に共通していた。もともと国家は一つの家が拡大化したものである。戦争の起源をたどれば家と家の争いになる。人間も生物だから本能的生物学的発展をする。聖書だって一つの家の歴史であった。その祖先が一番古くたどれる家の歴史だった。家が歴史の基なのである。家というのは最も原始的最強の共同体である。それは今でも変わっていない、だから今日のように人が共同体から除外されるとき家族がいないほど悲惨なことはない、無縁化社会とは最も悲惨な不幸な社会である。所属すべき共同体がなくなったことはどこにもアイディンティティを見出せなくなるからだ。


●アメリカ支配が日本のアイディンティティを奪った


こうした根源的アイディンティティであった家が奪われたときすべてが損なわれたのである。家など古いものであり人間の自由な生活を奪うものであり否定的なものとして戦後は家の否定であり個人の自由を求めた。しかし個人の自由は必要でもそのアイディンティティの基礎になるのは土地と家にあった。結婚も家と家の結婚であり恋愛結婚などまれだったろう。自由恋愛の結婚の結果かえって離婚が増大した。これも家を無視した結果だったのである。古い道徳などが由来するものはそれは長い人間の経験の結果でありそこに歴史の重みがある。民主主義などでも全く古い日本的道徳を壊すだけでそれに代わるものができたわけではない。ただ自由とは個々人のエゴ、欲望の追求になったことでもわかる。要するに技術的なものはとり入れることができても精神的な道徳などはモラルは簡単に根付かないのである。そこに現代の混乱があった。戦後は戦争に負けた結果アメリカ化が社会を変えてしまった。日本に昔からあったものが根こそぎ古いものとして否定されたのである。ただ民主主義という言葉だけが踊り欲望のほしいままなる追求が是認され金だけが価値となった。日本はアメリカと同じ社会になったのである。

明治にはアメリカ的価値観、金銭崇拝主義を批判して日本人は習ってはいけないと警告していた人がかなりいた。それは中国文化でもそうであり習っていいものと習っていけないものを見分けて外国の文化を輸入していたのである。何でも外国がいいものとしてとり入れることは国そのものが破壊されるのである。その国にはその国独自の歴史がありその上に今日がある。その最たるものが家の歴史だった。家にアイディンティティの基本があった。家に尽くすというとき古いようで確かなアイディンティティがそこにあり生き甲斐となる。人間は生物的に家であれ土地であれそういうものと一体化する宿命にあった。そこに人間の生きた血が通い強固なアイディンティティが作られてきたのである。家と土地が人間のアイディンティティを造り人間を文化を作ってきたのである。


●グロ-バル経済よりドメステック(国内、家)経済にもどる


これからの時代は会社が突出して社会の規範とった時代は終わる。グロ-バル経済というのもまた金融資本主義というのも見直される。それは人間的感覚からはずれたものである。エコノミ-が家計、家政から発したというときあまりにもはずれてしまった世界である。マネ-ゲ-ムに人は踊らされ株で一攫千金を夢見ている社会は異常だったのである。むしろこれからdomestic economyを志向するようになる。それは江戸時代から明治大正辺りまであった家の経済である。それはヨ-ロッパだったら中世社会の落ち着いた社会であり日本だったら江戸時代にもどる。ヨ-ロッパと江戸時代はいろいろな面でにている。アメリカはその風土もそうだが全く異質な世界でありその国家も全く違ったものとして成立したからにていないからかえって異質なものであった。その異質さが新しものとして錯覚した。アメリカが先進的文化ではなく今までにない異質な国家でありそれをとり入れることは世界のすべてであっているわけではない、なぜならアメリカ意外は歴史的国家だからである。人はやはりドメステックなものに安らぎを覚えるのは基本的にそういう場から育ったからである。

家の前の前田が特に重要だったというとき当然人間の生活感覚で家の前が田畑になっていること生産基盤になっていることが安定をもたらす。そこに一番血が通うのである。人間が本当に生き生きと血が通うのはそうした一番身近な場だった。そこにアイディンティティを見出していたのである。会社人間になって何か満ち足りないのもそのためである。会社は土地から遊離した存在なのである。そこにすべての血を通わすことはできない、全存在とはなりえない、それでもそこしかアイディンティティが見出せなくなったとき人は死にもいたる。それはとりもなおさず会社がそれだけ社会をおおってしまい会社なしの社会が喪失したことにあったのだ。会社=社会になってしまったのである。だからこれからはTPPという志向ではない、グロ-バル化する経済ではない、むしろドメステック志向の経済であり精神的にもそうなる。TPPよりグロ-バル化よりドメステックなものを人々は求めている。そもそもモノとしても輸入するものなどもうないだろう。輸出するにしてもアメリカから不用なものまでも買わされる。牛肉でもオレンジでも何でも日本にはある。必要でないものを買わせられることは環境破壊にもなり健康も破壊されるのである。原発なども必要かどうかわからなっかった。でもアメリカから買わされたという側面もあった。モノでも技術でもすべていいものとは限らない、取捨選択して日本にあったものをとり入れるべきだったのである。日本はもともといいものだけを日本にあったものを輸入して国造りしてきたのである。江戸時代にもどれ鎖国せよというとき鎖国にもいい面があったと見直されているからである。


●司馬遼太郎の引用(歴史と小説)


戦前の家がもっていた重厚な伝統と美意識などはなく、いかにも手軽で薄っぺらでいかにもインスタントである。そのインスタントの家庭の集まりが今日の日本社会であり日本国そのものである。
我々のこの社会やこの国をふりかえるとき、インスタンの気安さをありがたがりつつも我ながら薄っぺらで、わびしく、ありがたみがなさそうに見えるのはそれだろう。

そうなんだよな、郷土料理にしても家とかその土地の工夫から生まれたし文化でも家とかその土地から生まれたのだ。どうしても伝統を受け継ぐ家には格式がありいいものが伝えられ人物も出やすい。すべてが学校教育になったとき人物も育たない、武家はあくまでも家が基本としてアイディンティティとして子供育ててきたからである。


わたしは旧民法の「家」を復活しようとするものではない、しかし昔の家には歴史と伝統と秩序と精神美があった。そこから出てくる人間の骨髄にそれがしみこんでいる。その家に反逆するに値するがけの実容量があったが今の家や社会にはない・・・


人間の骨髄にそれがしみこんでいる・・・まさにそれは理屈ではいいない、自然と体にしみこんでくる血が通ってくるものである。土地と家とか歴史が一体化してそのアイディンティティを実在を作り上げていたのである。戦後は会社人間になりすぎたのである。戦争中は国家人間になりすぎた。日本人はそういう傾向がある。一つのものに染まりすぎてしまうのだ。会社が国家となったのが戦後だった。そして原発事故も起きたのも戦争とにている。アイディンティティを一つのものに求めすぎて他を見ない、そういうふうに一億が固まり安いのが日本人の強みであり弱みだったのである。これからは会社一辺倒の社会は見直される。その弊害は世界の環境破壊にもなった。会社とは何かが突出するのであり一つのモノを部品を生産しているのであり全体の考慮がたりないのである。技術優先科学優先になるのも回りを考慮しないで是認される。それが原発事故につながった。会社が国家になることは利益優先主義であり利益をあげるためにはモノを売るためには戦争もする。そういうことを世界的にしてきたのが欧米でもあった。会社が国家になれば必然的にそうなるのだ。原発事故のように誰も歯止めをかけることはできなくなるからだ。


アメリカの基も会社であった。なぜロックフェラ-やロスチャイルドが裏で操っているとか常に言われるのか?それは巨大な会社であり富豪である。アメリカはその会社が国家となったものだともいえる。それは日本だってそうである。今や会社が国家であり会社が生殺与奪(せいさつよだつ)をもっているのだ。法律でも会社の有利なようにすべてなっている。保険会社でもそうであり法律をてこにして保険金は少なくされる。アメリカも会社が国家の社会でありそれは世界的に共通したのもになっている。そして会社は利益追求だけを求めるとするとき世界に害を及ぼすものとなる。環境を破壊しても会社の利益のためにはしょうがないとなり是認されるのである。だからこれからは会社の力をおさえ会社一辺倒の価値観から逃れた社会作りが望まれているのだ。

なぜ働かないことに有能感を感じるのか?
http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-37.html

ここのプログでは会社アレルギ-になっているのがわかる、やはりニ-トとか派遣とか会社を拒否する人たちがでてきたのもそのためだろう。
働くということに意義が見出せないのである。団塊の世代はエコノミックアニマルとか会社人間だった。自分は会社に勤めたことないけど
当時はこんなに働かない人がいない、ほとんどいない、それがこれだけ働かない人が増えたのはその反動なのだろう。団塊の世代は異常に働きすぎた面があったのだ。

2011年12月22日

日本語を英語にしたら日本人のアイディンティティは喪失する (TPPで日本語まで英語にしようとする無謀)


日本語を英語にしたら日本人のアイディンティティは喪失する

(TPPで日本語まで英語にしようとする無謀)

●TPPの日本語の英語化はフェニキア人と同じ発想


第三に、自民党政府の「対米追従政策」が教育に反映されているからである。
アメリカの「日本語が貿易の障壁だ」という一方的な非難を受け入れ、「英語が使える日本人」を作ろうとしているのである。
http://www.prof-tsuday.com/etsusei/etsusei-1.html


言葉が何なのかそもそも謎であり解明できない、民族ごとに言葉があり地域ごとに方言があり違っている。言葉は第一のアイディンティティを作るものであり言葉が通じれば心も通じる。でも言葉というものがどうしてできたのか?それは謎である。英語を中心としたアルファベットはフェニキア人が貿易のために取引に便利なものとして作った画期的なものだった。なぜならそれまではエジプト人の神聖文字とか粘土版に刻まれた楔形文字でありこれは複雑であり簡単に理解されるものではなかった。つまりこの時からすでに広く汎用語としての共通語としてわかりやすい簡便なものとして言葉を作り出す要求があり作り出されたのがアルファベットだったのである。アルファベットにはそうした汎用語となりやすい性質をすでにもっていたのである。漢字とかはどうしてもエジプトの象形文字でありなかなか汎用語として通用しにくいものを今でももっているからアルファベットが主流となった。明かにアルファベットが数字的なものとして数学的なものとしても相性が良かったのである。それでなければコンピュタ-の言語が英語だからこそアルファベットだからこそソフトも開発されて今日のパソコンが普及したのである。アルファベットがコンピュ-タ-を作ったともいえるのだ。漢字が入っているような象形文字ではコンピュ-タ-の言語を作りえなかったのである。フランス語でもドイツ語でもコンピュ-タ-言語になりえたのではないかというと男性、女性、中性とか冠詞が違っていることでその区別がむずかしいから問題があった。英語が普及したのは英国とアメリカの世界支配があったのだけどやはり汎用語になりやすい、共通語になりやすい性質をもっていたのである。


●言葉はその土地土地の風土から生成発展した


言語の謎は深い。なぜなら言語はネティブというようにその土地の風土と密接に結びついて生まれてくる、自然に生成してくるような側面ももっているからだ。例えば日本語にしてもこれがどうして生まれたのか謎である。その起源がどこにあるのか未だにわからない、だからいろいろな起源説がある。イスラエル語も起源の一つになっている。それほど日本語は謎なのである。それでも言葉が数学とは違っている。数学は本当に世界の共通のものとして明確に認識される。そこで科学は世界的普遍的なものとなった。しかし言語はそうではない、そもそも言語は明かにその土地と密着して生まれているからだ。だから日本語の起源を外国に求めるより日本で生成発展したとみるのがいいのである。確かに外国起源のものがあっても日本の風土に密着して育まれ発展したのである。例えば「静けさや岩に沁み入る蝉の声」というときこのしみ入るというのが日本独特の言葉であり翻訳できないのである。それは感覚的に日本に住んでいないと理解できない。

しみ入る湿る-しめったとかから出た言葉なのだろう。日本では雨が多いからしめっている・・・それで雨がしみ入るとなる。それは岩でも苔でも雨がしみいる、そういう湿潤な風土から生まれた言葉なのである。外国では雨が少ない所も多い、砂漠のような所も多い、そうしたらしみ入るという言葉の感覚は理解できない、からからに乾燥しているからだ。日本の風土は常に土でも岩でも苔でも植物でも雨がしみ入るという表現になる。この感覚はモンス-ン地域で共通しているからモンス-ン地帯に起源を発していると言えるかもしれない、でも日本的風土とマッチして生成したことは明確である。外国では一般的に乾燥しているから言葉もからっとした感覚のものが多い。クリア-とかもそうであり乾燥地帯に生まれた言語なことはまちがいない。言葉もそういう風土に根ざしているのだ。

だから俳句というのを外国人は理解できない、現実に英語に俳句を訳すと実につまらないものになるのだ。実際は詩は訳すことができないのである。ホイットマンの詩でもあの広大なアメリカを詩にしたとき言葉がすでに表現できないものとなっていた。グランドキャニオンなど言葉で表現できない、表現を絶したものであった。だから言葉で表現しようにも言葉を超えてアメリカという巨大な世界があった。それに肉薄しようとした格闘としてホイットマンの詩が残ったのである。それは日本的風土感覚とはまるで違った想像を絶するものだったのである。


日本の四季は外国では経験できない独特のものである。だからこそ季語を中心とする俳句芸術が生まれた。これだけ短い芸術が生まれた。でも英語に訳すと実につまらないものとなってしまう。これのどこが詩なのかとなる。俳句を理解するには日本に少なくとも一年住んでみないと理解できない、なぜなら四季を経験しなければ風土とか天候を理解しないと理解できないのである。日本の気候はめまぐるしく変わっている。大陸はこんなに変わらないのである。北海道が多少大陸の風土ととにている、だから北海道では何か俳句がひったりしないのである。明確な四季がないから季語も適用できないのである。

つまり風土を知らなければ芸術も理解できない、何かドイツの大地を一度踏んだだけでその大地からドイツのみにあるエネルギ-が放出されているのを感じた。それがベ-トベンの音楽を理解するものであった。ゲルマンの大地からベ-トベンの音楽も生まれていたのである。だからドイツの大地を踏まない限りベ-トベンの音楽も理解できないというのは本当である。何か憂鬱だったり暗く感じたり重苦しいのは霧が多いとかそうした風土気候のためだったのである。ゴシックの建築は明かにゲルマンの森を原型にして作られた。その石の柱は樅の樹なのである。ドイツの樹は樅の樹である。タンネンバウムである。日本でも樅の樹がありそれを良くみているとドイツ人の心に通じるものがでてくる。ブナの樹や松の樹とは違っているのだ。日本では曲がった松である。ところが外国の森は樹は神殿や聖堂の柱のように規則的でありそれが合理的精神とか数学が生まれた素地だというときそういう感覚になる。熱帯の密林とは違っている。だから西洋文明が建築が基になっていることがその土地を踏むと実感するのである。システム的であり規律的であり合理的精神が育まれたということが実感としてわかるのだ。ドイツ語もそういう風土から生まれたのである。英語とはまた違っているのだ。英語はフランス語とかドイツ語の混成語であり純粋な母語というわけではなかったのはそのためである。


おお、モミの木よ、おお、モミの木よ
そなたの衣は私に何かを教えてくれる
希望と持続が
勇気と力をいつでも与えてくれる!
おお、モミの木よ、おお、モミの木よ

●言葉は始めは詩語であった


TPPでアメリカが日本語はむずかしいから英語にしてしまいばビジネスでもわかりやすくなる、効率的になるというときまさにフェニキア人の発想になる。商業語、貿易語としての英語を使用しろということになる。エジプトなどの象形文字では能率的でないとなる。このことはシュペングラ-も言っている。世界が数字化してくる。言葉も故郷喪失してくる。言葉は風土からも離れてより数学のように抽象化してくる。そうなると共通語としては理解しやすいのである。その代わり文化はculureは土を耕すから発した文化は消失する。その危機をシュペングラ-は書いていた。もちろん詩も失われる。実際に日本人の言葉の感覚はかなり喪失した。明治時代の言葉の感覚は豊だった。古語も使っていたし漢詩も明治に興隆していた。江戸時代の継続で日本人の言葉が継続して生きていたし義理人情とか日本人の古典的タイプの人が残っていたのである。だから明治は偉大な時代だったと評価されるのだ。


言葉はもともと詩語であり一つの詩として生まれた。商業語ではない、詩語であるから数字ではないそれぞれの風土に根ざして風土から生成発展したものでありその風土にマッチしたものとして生成発展したのである。言葉だけではない文化はすべてその国の風土を基にして生まれている。ただ文化的に見れば言葉というのは英語には英語のいい点であり中国語には中国語のいい点がある。その国独特の文化が言葉だから当然そうなる。日本に時制がないというのは相当な表現的には弱点だった。過去が明確に意識されないことは歴史も意識されないのである。だからといって日本は英語にしろというのは暴論である。それでも日本語を英語のように改革できない、言葉が簡単に改革できないということがまた問題なのである。どうしたら過去を明確に認識する言葉にできるのかとなるとできない。日本語と中国語は漢字を通じて混成語になったけど英語はなりにくいのである。それは言葉の性質があまりに違っているからなのである。すべてにおいて英語が優れているとならない、日本語の方があることを言うのに深い意味合いをもった言葉がある。それは日本の文化であり訳すことがむずかしいのだ。それは外国語全般に言える。外国語をいくつも知っていれば多面的に深くものごとを見ることができる。アンディンティティについて書いたけどあういう言葉自体が日本語にはない、漢字にもない、すると訳しようがない、でも何かこの言葉一つ自体が実に奥深いものだと理解した。民族の言葉自体も民族のfundamental identityであり根源的アイディンティティだからである。

2011年12月15日

失われたアイディンティティ(なぜ故郷を離れられないのか?)


失われたアイディンティティ(なぜ故郷を離れられないのか?)

identify identification


identification (with someone/something)
a strong feeling of sympathy, understanding, or support for someone or something
her emotional identification with the play's heroine
their increasing identification with the struggle for independence
5 [uncountable, countable]
identification (of someone) (with someone/something)
the process of making a close connection between one person or thing and another
the voters' identification of the Democrats with high taxes


アイディンティティという言葉は今や庶民レベルでも使っているし日常語化したのかもしれない、なぜこれをとりあげたかというと原発事故で故郷から離れる人などが多数出たことである。津浪の被害でも故郷を離れる人がでた。故郷にすめなくなった人たちが多数生まれた。個人的ならそういうことはあった。啄木でも放浪の詩人であり望郷の詩人となったことでもわかる。東京という都会で自然の中にある故郷を偲んだのである。


ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな


やわらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに


ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく


啄木は故郷を離れた時、痛切に故郷を思った。そして故郷に帰れずに死んだ。ふるさとの山や北上川の柳とかが目に浮かんできた。それは自然と同一化していた一体化していた自己を発見したのである。それは天才的詩人の感受性をもっていたからそうなった。普通の人は望郷の心はあってもこんなにならないだろう。震災で被害を受けた人が仮設住宅などで作った短歌などを紹介しているが川柳的なもので短歌とはいえない。芸術は基本的に自然と密接にコミットしたとき生まれる。自然との共感が芸術の根幹にある。啄木は自然と深くコミットできたということが不思議である。やはり天才だから十五才の頃から自然と共感できていたから不思議であり普通の人には理解しにくい、それだけ早熟といえばそうなのだが自然と深く共感するには相当な歳月が必要になるからあんなに少年の時期から自然と共感できたかことが理解できないのである。天才のことは凡人にわからないといえばそれまでであるけど自然と共感することは欲望に満ちている若いときには普通はできない。欲があると自然と共感しにくいのである。啄木も病気になって野心とか欲がそがれて自然と共感できたという側面はあった。「ふるさとの山はありがたきかな・・」ということは病気の結果謙遜になったのである。それまでは天才ということでかなり奢りがあったからである。ともかく自然と共感することにアイディンティティを見出す、アイディンティティの基本は自然にある。日本人のアイディンティティが万葉集とかにあるというときまさに大和が今の奈良がアイディンティティになっている。その土地が日本の故郷でありアイディンティティになっている。ナショナルアイディンティティになっている。


なぜ盛んにそんな放射能汚染地帯になど住めないのだから故郷を捨てて移り住めとか他の人は無責任に言うけど日本人のアイディンティティは農民であり土地にあるから簡単に故郷を捨てて移り住めない。故郷を離れて住めなくなるというときそのアイディンティティが断たれるから深刻になる。
アイディンティティという言葉の意味はわかりにくい、どういう言葉なのか訳すこともできないし多様な場面で使われる。正体とか身元とかになるけど実際はこれは深遠な言葉であり哲学的な深い意味をもっているから定義できない、けれども今や頻繁に使う日常的な言葉にもなっている。アイディンティティが失われると存在意義が失われる。


fundamental identification
deeply identified one
deeply commited identification
solid identification


根源的なアイディンティティ、深く自己同一化、共感された一つ、深くコミットされた一つのものとして故郷があった。それはすべて説明することはできない、牛を飼って生活していた人は牛とまた生活したいと訴えていた。それも牛にアイディンティティを見出している。牛と共に生活することがその人の共感であり生きる存在意義をもたらしていたのである。fundとはfindから来ているから見出すとなるとアイディンティティはまだ見出されていないものある、発見されたものもある。牛とともに生活することが俺のアイディンティティだった、存在意義だったと発見している人もいるのだ。

故郷というとき相馬藩時代からでも長い時間の中でアイディンティティが作られてきた。歴史的アイディンティティはどこにでもある。ヨ-ロッパだとロ-マ時代からつづく歴史がありアメリカ人がロ-マを訪ねるとき自分たちのル-ツをたどり自分たちのアイディンティティを見出す。常に人間はアイディンティティを探し求めている存在でもある。

ともかく故郷とはそのアイディンティティが凝縮した場でありそういう場を離れたらアイディンティティが存在意義が失われるから深刻になる。それでなぜ移住しないのかというときそうした深刻な人間のアイディンティティの問題があるからこそそのアイディンティティとなる場に故郷に帰りたいとなるのだ。普通に故郷に住んでいればそんなことは意識しないのである。当たり前のことだから意識しない、原発事故で浪江とか双葉とかの住民が消えたときその隣の市町村の影響も大きかった。なぜなら普通は意識しなくても経済的に一体化していた。金もその中で回っていた。原発からの金も実際は直接もらえなくても金は回っていた。経済効果はあったのである。実際に原町から大熊に働きに通っていた人もいた。経済は今やギリシャがどうのこうのと世界の果てまで関係しているし影響を受ける。近隣の市町村だったらなおさら大きな影響を受ける結果になったのである。


 鶉鳴く古りにし郷の秋萩を思ふ人どち相見つるかも   万葉集巻八 (1558)


鶉はどこでもいつでも、簡単に鳴く鳥ではない。鶉は長い年月を経て来た故郷でしか鳴かないし、聞けない鳥である。
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/5102080.html

鶉など鳴いたのを聞いたこともない、鶉の卵は売っているし食べている。だけど鶉を今知っている人はほとんどいないだろう。江戸時代までは普通にみかけた鳥だった。
そのあとの説明も自分がこの歌から感じたことを言いわてていた。秋萩を思ふ人どち相見つるかも・・・ここで故郷で鶉を鳴く声に秋萩を見て共感する人がいる。万葉集は常に自然と人間と共感している。だから相・・・ということが必ずつけられる。我(われ)が実は割れたということから発したというとき、まさに万葉集時代は我という孤立した概念はなく相・・・という共感した存在しかなかったのである。自然と共に人とも共感してアイディンティティが作られていたのである。

making a close connection between one person or thing

英語で説明するとこうなるのだう。

co・・という接頭語は共同という意味だから相と同じである。ただこのcoは二人というのではない、ある一定の数の共同に由来しているのが違っている。そこにアイディンティティ、共同、共感があったからである。

そこにfundamental identification があったとなる。根源的な存在意義がアイディンティティが無意識の内に作られていたのである。意識しないからこそ深いアイディンティティのうちに生きていた。アイディンティティがないとか存在意義がないとか現代人のように意識するようになったらその時アイディンティティを失ったからこそアイディンティティを求めていることになるのだ。

 

2011年12月12日

抹茶飲む冬の朝 (高齢化で茶道が見直される-新しい老人文化が作られる)


抹茶飲む冬の朝

(高齢化で茶道が見直される-新しい老人文化が作られる)


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冬の庭茶を飲みゆかし書院かな
冬紅葉散るや静かに抹茶飲む


板葺きに石の屋根かな時雨ふる


街道の細道あわれ時雨かな


街道に栄えし家や冬の暮


中山道旅の道連れ時雨ふる



手にとりし茶碗の重し冬の朝石に向きつつ抹茶飲むかな


静かなる時の流れぬ冬の庭苔に日さして書院の主


二本松城内に残る茶室かな椿の落ちて井戸の深しも


相馬藩六万石の貧しさや茶室も残らず冬の日暮れぬ


金沢に買いにし茶碗手にとりぬ冬の長きを抹茶飲むかな


珈琲に抹茶を飲みて年も古る味わい深し冬のくれかな



高齢化で新しい老人文化が作られると書いたがそれにあっていたのがやはり茶の湯だった。やはり茶の湯は日本の風土にあっていたからこそ生まれた文化だった。茶の湯の道は日常的に茶を飲んで安らぐことから生まれた。芸術でももとは日常的な生活を基本として生まれた。それがとりたてて芸術だということはなかった。ただご飯を食べて茶を飲むのと抹茶だけを飲むのとは違っている。茶碗も特別なものであり抹茶の味わいはまた別である。茶の湯の道は日本だけで発展したのである。中国では芸術の域までにはならなかった。茶の湯は少ない人数で交遊を深めるものだった。大勢の社交とは違う。それも茶室は密室であり内輪のものとしての社交だったのである。それでも濃密な人間関係の場として設定されたのである。一期一会とか出会いを大切にしたのである。何よりも茶の湯を本当に味わうには江戸時代のような悠長な時の流れにひたらないと茶の湯を知ることはできないだろう。


例えば茶の湯は生活そのものにあった。二本松の城内に茶室があるけど井戸もある。その井戸はかなり深い。その井戸水を利用して茶の湯の水が使われた。水道のような水だったから便利でも茶の湯にはふさわしくない、深い井戸から冷たい清水をくみあげることからすでに茶の湯ははじまっていた。その一連の不便な動作のなかに茶の湯もあったのである。便利になりすぎたらこうした文化的なものは理解できない、現代はまず時間がないということで時間に追われることでこうした文化的なものが生まれないのである。いくら豊になっても時間貧乏になっているから文化が生まれないのだ。料理でも素材が貧しくても郷土料理のように工夫して手間暇かけるとそれが今にも残るおいしいものとして他から来た人に喜ばれる。そういう時間がないから現代ではインスタント文化になってしまったのである。


文化創生のためには時間をもつべきである。それが高齢化社会で退職後時間がもてるようになる。それで新しい老人文化が生まれということがある。江戸時代に隠居文化が生まれと同じ様に現代にも生まれる。その象徴がコ-ヒ-も抹茶も飲む、ヨ-ロッパの文化と日本の文化のブレンドが日常化していることである。コ-ヒ-の味わいと抹茶の味わいは全く別のものだけど西洋と東洋をブレンドしたように味わっているのである。どちからがその味わいが深いかというとどうしてもやはり茶の方である。その渋い味であり何とも心落ち着けるのが抹茶の味だった。最近わざわざ茶の湯の作法で抹茶を作らなくてもインスタントで飲めるようになった。それはインスタントで茶ではないにしろ味は抹茶の味であり楽しめる。その味わいを楽しむことができる。つまりコ-ヒ-も抹茶も楽しめる時代なのである。


茶の湯となるとどうしても豊かだったところにその文化が伝えられた。金沢などがそうである。加賀百万石だから華麗な文化が残された。相馬藩は六万石であり文化的な面では豊でないので残っていない。それでも相馬焼きは発明であり残った。ただ城には茶室もないし何も残っていない。でも一応城下町だから茶の湯を味わうには適している。茶の湯も城下町にふさわしいとなる。そういう背景雰囲気は歴史は作れないから貴重なのである。

2011年12月09日

料理は文化である(郷土料理は貧しいから生まれた)


料理は文化である(郷土料理は貧しいからこそ生まれた)




昔のテレビドラマの中の、エピソードなのだが、
(題名も出演者も記憶に残っていない)
お手伝いさんが、「納豆汁」を作ったところ、そこの主人か誰かが、 「初めて食べたけど、おいしいね。○○ちゃん、君のいなかでは、よく食べるの?」と聞かれ 「秋田の湯沢では、冬にはよく食べますよ。」と答えたのを鮮明に覚えている

納豆 粒納豆でもいいが、ひき割り納豆の方が楽

味噌 やや濃い目にする
豆腐 好みで加減
山菜  上記山菜類好きなだけ
油揚げ 適当に
ねぎ  適当に
セリ 

http://kokis.client.jp/farmer/f14_nattojiru.html


納豆汁の由来は、万病防止と邪気払いのための正月行事・七草に関わります。その昔深い雪のため、春の七草が揃わないことから、代用したのがこの納豆汁だったのです。
なぜ納豆汁かというと、内陸部の人々がタンパクの摂取と、冬の日照不足を補うために考え出された料理だからと言われています。かつては冬になると各家庭で作っていた料理で、体を芯から温めてくれる冬の代表的な郷土料理として親しまれています。
http://www.yamagatabussan.com/hpgen/HPB/entries/115.html


「きりたんぽ」が出来た背景には、秋田が米どころとはいっても、県北では、毎年、安定した米の収穫量を上げる というには、地理的条件・気象条件から難しいものがあった。

そこで、一回の食事の量をふやすため、おかずと一緒にすることにした。そのため、ご飯を杉の棒に巻きつけ、 囲炉裏の火であぶることに よって、日持ちを良くした。つまり保存食の役割も持っていた。
http://kokis.client.jp/farmer/f15_kiritanpo.html


郷土料理がどうしてできたのか?それは食糧になるものが不足している。貧しいからこそできたものである。食糧が不足しているから工夫して料理を作ったことから起きている。


その昔深い雪のため、春の七草が揃わないことから、代用したのがこの納豆汁だったのです


七草がないから納豆汁が替わりになったというのも同じである。材料がないからあるもので補うほかないからできた。キリタンポも米が不足しているから工夫して作った。材料が豊にあるから郷土料理ができたのではない、不足しているからできたのである。戦後まもなく食糧不足の時、すいとんがつくられたのもそのためである。すいとんは一度食道で食べたことがある。それは今になるとなつかしい味となり郷土料理とにている。貧しい時代、江戸時代などになればさらに各地に郷土料理があり
旅したらそういう郷土料理を食べられた。地域色が強いから旅はさらに興味深いものとなった。
旅することは地域地域の特色を知ることであるがその中に料理が入っている。でも現代ではグルメ旅行というときそれは豊かな時代のグルメである。郷土料理は貧しい時代の料理だった。食材が不足しても補う工夫した料理だったのである。だからこそ価値あるものだった。


テレビで琵琶湖の隠れ里として知られる管浦のことを放送していた。そこで出した料理はソバの料理だった。米がとれないからソバの料理になった。田んぼにするような平地がない土地だったからソバ料理になった。日本ではどこでも米が食べられたわけではない、会津は山間地だからソバが多い、檜枝岐などもあれだけの奥地で秘境であったからソバが主食になっていた。米が食べられるのは贅沢という面があったのだ。江戸では米は食べられた。でも脚気が江戸患いとして有名になったのは米だけを食べていたからであった。麦とか五穀を食べていた田舎ではなりにくかったのである。旅をしたが郷土料理を食べたことはない、郷土料理は今はかえって特別なところでしか食べられないし何倍も高くなる。だから旅しても食べるのはどこでも食べられるものである。そうすると旅の味わいも得られない。江戸時代なら必ず日常的に食べられていたものが郷土料理になっていたから土地土地で郷土料理を極自然に食べていたのである。


豊になった結果そうした地域の文化にふれることがなくなったのである。豊でなければ文化が育めないということではない、貧しいから郷土料理が生まれたことでもわかる。現代は食材は豊でも郷土料理が生まれていないことでもわかるのだ。地方だと常に貧しいとか何もないとか都会と比べる。しかし文化は豊かな都会に起こるとは限らないのである。貧しいことばかり嘆いていたことがこの辺では原発誘致になり自然そのものが破壊されて住めなくさえなった。住んでも回復するのが大変なことになってしまった。もちろん戦前は貧しく貧乏からの脱出が最優先の課題だった。でもあまりにも豊かさを追求した結果、原発事故になりとりかえしのつかないことになった。この辺では地域色を出そうとしても放射能汚染になったから自然が汚染されたからそもそも地域色を出すのがむずかしくなったのだ。そのことが大損失だった。いくら貧乏でも自然の恵みに生きることに欠けていたのではないか?その土地が汚染されて食糧すら得られないとなることは最悪だった。食が文化の根本だからである。


人間はその土地土地を味わうということが生きる意味なのである。アイディンティティになるのだ。浜通りだったら新鮮な魚を食べられることが喜びとしてあった。食だけではなくその土地の自然がアイディンティティになる。もちろんそこで生産されるものもそうである。日本酒のようなものはそうだった。酒はやはり昔は栄養補うものとしてあった。酒はかなり栄養があるものだったのである。今は栄養をとりすぎるからさけられるようになったのである。今は土地土地を味わうということがなかなかできない、だから旅しても印象に残らない旅となる。江戸時代の粗末な旅籠で郷土料理を食べていたときの方が本来の旅であった。ホテルとか豪華の施設を利用した旅は旅ではない、そういう点、一番旅しやすくなった現代から旅がなくなったというのも皮肉である。土地土地の味わいのない旅になったのである。本当に土地を味わう、人生味わうのは老人になってからかもしれない、山形の納豆汁を味わうのもまさに山形という雪に埋もれた土地にふさわしいものとして生まれた。山形弁というときこれは青森弁のようにより朴訥な感じになっていた。東北弁でももともとみんな相当な相違があった。仙台の語尾にだっちょをつけるのもそうだった。そのなまりも標準語化して喪失した。みんなきれいな標準語を話す、子供まで話すようになった。その時やはり土地土地の個性も失われたのである。これから地方分権だというとき文化の面でも新たな地方色を作る時になっている。それがこの辺で土地自体が汚染されたことは致命的だったのである。


山形の納豆汁や冬深む

2011年08月29日

お盆に死者が帰ってくる?


お盆に死者が帰ってくる?




私は敗戦直後に生まれた。小学時代まで戦争の痕を社会が引きずっていた。
シベリアに抑留された弟の帰りを待ち、ついにその希望をかなえられなかった人がいた。


その墓地の奥行きは広く、以前来たときの記憶があいまいなものだから、周辺を行ったりきたりして捜した。「夢」とだけ刻まれた墓を捜すのにゆうに30分かかった。寒いのに汗が滴った
http://www.sogi.co.jp/sub/zuiso/danshou.htm#pagetop


お祭りをやったりします。墓地の上で人びとは踊り出すわけです。そうすると、死んだ人間が生きている人間の世界で一緒になって立ち上がってくるということが起こる。死人と一緒に踊るんです
http://www.kosmos-forum.org/forum/03/repo03.html




祭りはそもそも祀りだから死者を祀ることから始まったのだから死者を祀るは祭りになるのは当然だった。政(まつりごと)とは政治のことだけどそもそも死者を祀ることが政治のはじまりだった。死者におうかがいをたててまつりごとが始まった。誰が王のあとを継ぐかは死者を祀ることから始まっていたからそうなる。だから日本では祭りがお盆あたりに集中するのはそのためである。
死者を迎える祭りが起源になっているのが多いのである。祇園祭が東北で起きた貞観津浪で死んだ人を弔うことから発しているというのを知って驚いた。祇園祭も疫病で死んだ人々を祭り弔い疫病にならないように神に祈る祭りだったことは確かである。蝦夷を弔うということもあったかもしれない、それだけ古い由来があるのが京都や奈良である。
お盆は仏教とは関係ない、日本古来の習俗なのだろう。仏教が日本の習俗化したものなのだろう。祭りは縄文時代からあっただろう。死者を祀ることはそれだけ古いからである。人間が死ぬということは一番記憶に残ることでありだから死者を忘れないためにも祭りがあった。現実に祭りには何の由来かさえわからないものがある。それだけ古いからそうなった。でも祭りは継続されているのだ。祭りは極めて日本的文化なのである。だからフランス人が日本の祭りを見て歩いていたというのは日本文化を知るには一番いい方法だったとなる。でも日本人でも祭りを見るのはむずかしいから祇園祭でも何でも見ていない、見れないのだ。まず祭りの時期は混むし暑いから外に出たくいから祭りを見ていないのである。だから日本人でも祭りを知らない人が多い。祭りの中にその土地の歴史のエッセンスがつまっていることがある。でも祭りはなかなか実際に見ることがむずかしいのだ。


お盆に死者に会うというとき今日不思議な夢を見た。死んだ姉が近くの世話になった人と一緒に家に帰って部屋に上がろうとしていた。その女性は姉が認知症になってから唯一つきあってくれた正直ないい女性だった。同じ大正生まれであった。生前はそれほどつきあいがなかった、というよりは馬鹿にしていたということがあった。でもその人は正直であり金を10万借りても恩義を感じて必ず返していた。そういう馬鹿正直な人であった。戦後生まれではそういう人はいなくなった。義理人情に固い人である。義理人情など古いとなるがこれはやはり日本人が古くからもっていたモラルだった。今は義理も人情もなく金だけだとなっていることでもわかる。殺伐とした世界となったことでもわかる。そういう人々が多いということ情に厚い人間が多いということはそれだけ貧乏でも助け合いモノの足りなさを補うということができたという反面もあったのだ。
今は金しか通用しないし金でしか人との関係はなくなった殺伐とした世界だから義理人情など古いということはまさに金だけの社会になった異常性を示しているのだ。


その人には世話になったということでお盆だから墓参りしようとした。でもその墓が前も探したのだがわからなかった。同じ近くの墓所にあるのだから簡単に探し得るものだと思っていた。花でもあげようと探したが見つからないのだ。同じ姓の人の墓はいくつかあった。姓としては多いからどれなのかわかりにくいのだ。「夢」という墓を探したというのとにている。そして今日姉がその女性に連れられて自分の家に来た夢を見たのも不思議である。姉は陽気な人だからやっぱり笑っていた。死者はもしかしたら生前親しかった人と世話になった人と一緒に来るのかもしれない、生前親しい人と一緒にあの世にいるのかもしれない、だから病院で死ぬのが多いから本当は医者看護師の役割は大きい、死者を絶えず看取っているからだ。死ぬとき看取られるのが医者であり看護師になるからだ。今はそういう時代になったからだ。するとただ体だけをみるだけでいいのかともなる。そこまで配慮する人は少ない、タ-ミナルケアをする病院はまだまれである。病院はかえって死体処理場のようになり無機質な場所でもある。だから死んだら早くかたづけてくださいということになる。何かモノのようにかたづけられてしまうのである。

ともかく人間の出会いはそもそも不可思議なものではないか?誰と誰が出会うかは本当に不可解なことであり不思議なことである。親子さえそうである。親子すら一つの人間の出会いなのである。なぜなら親子すら別れて無縁化していることも結構あるからだ。血縁だけで出会いが決められるわけではない、出会いには不思議なものがある。なぜこの人と出会ったのか結婚したのかとか家族になったのかと不思議なのである。だから神の巡り合わせだとかなってしまう。そういう結論になること自体、出会いには何か人間を越えた宿命的なものが働いているからそうなる。出会いといってもただ店でモノを買ったから店員と出会うなどはない、出会いは何か深いつながりを感じる時なのだろう。でも出会いにはいい出会いばかりではない、出会っても別れて永遠に会わない人もいる。

それから例えば悪い人と出会う場合がある。さらに深刻なのは殺されるような悪い出会いもある。でもよくよく考えるとこれも不幸な出会いの一種なのだ。そういうのももしかしたら出会いなのかもしれない、あの人を殺したい思うようになったときそれは浅からぬ深い縁が生じていたからかもしれない、そういう人はこの世にいくらでもいる。それは宿命的な出会いであり因縁があり因縁が生まれたからかもしれない、人間はこの世でいい出会いと悪い出会いを経験する。いい人とばかり会うということはない、だからこの世なのである。いい人ばかりいたらこの世が天国になっているからだ。


いづれにしろ鎮魂の野馬追いというのも不思議だった。野馬追いは別に死者を弔うという謂われはない、それでも妻が死んで法螺貝を鳴らしたときそれがお経の弔いのようなものになった。それも不思議だった。津浪から原発事故とそうした不思議なことが毎日のように起こっていたのがこの辺なのである。これだけの津浪の死者となると国家的にも弔わねばならないともなった。8月も終わるにしてもやはりまだお盆の時期なのだろう。だから死者が夢の中で家に来たというのもわかる。盆踊りも死者を祀るためのものであり死者と一緒に踊るものだった。死者と踊るというと何か変だけど時間がたてば死者を悲しむばかりでなくて死者と一緒に楽しく踊るといかこともありうるのだろう。祭りは時間がたては死者を祀るものだという意識がなくなってしまうからだ。



馬鹿正直な大正生まれの女性死ぬ
http://musubu.sblo.jp/article/43544993.html

2011年07月31日

牛肉はそんなに食べる必要があるのか?(食生活は文化の根元)


牛肉はそんなに食べる必要があるのか?
(食生活は文化の根元)

魏志倭人伝には、「その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし」とありそもそも日本人は牧畜民族と違って肉食はあまりしていない民族であり文化だった。縄文時代でも貝塚で発見されるのはまさに貝であり入江や浦や干潟や遠浅の海で貝を一番とって暮らしていたのである。日本はそもそも海の恵みで暮らしていた。今回の津浪でわかったことは本当に興味深いものだった。
宮城県から福島県の海側は深く海が入り込んでいた。そして縄文時代に海だった所がわかった結果、その海沿いに貝塚があったし昔の街道もまた津浪をさけるような所に道ができていた不思議があった。そしてこの貝塚がある地点は縄文人も住みやすい場所だったというのもうなづける。宮城県の松島辺りでもそうである。貝塚が多いのも地形的にわかる。縄文時代からあの辺は住みやすかったのである。


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貝塚のあるところまで津波が来ていた

日本人の暮らしは食生活は海の恵みから成り立っていた。昆布とか若布とか海苔は外国では食べない、韓国で海苔を生産したのは日本をまねて作った。韓国は一時モンゴルに支配されたりしたから肉料理が基にしている。肉の料理がうまいのはそうした歴史的伝統があったからだ。中国と韓国に明かに遊牧民の文化が根付いていた。相馬氏の氏神の妙見信仰も北斗七星だから方向を見るものであり遊牧民にとっては移動するのに方向が一番大事だから自然とそうなった。世界最古の天文台が韓国にあるし中国にしても羅針盤を発明したのは方向を知ることが不可欠だったからである。中国の最初の国、秦の始皇帝は中国史初の皇帝であったが、その強大な力を利用し大きな陵墓を建てたる)。これが秦始皇帝陵である。1974年に地元の住民により発見された。また兵馬俑坑はこの陵を取り巻くように配置されており、その規模は2万m2余におよぶ。西安(長安)は西域と接して遊牧民の国であり遊牧民が最初の国家を作った。
これはインドでも同じでありそれでイスラム教が古来のヒンズ-教と混合してしあるのだ。 そこに文化的重層化された大国の厚みがある。

日本の国は島国でありそうした重層的文化の厚みはない、でも日本文明が独自にあったというときそれなりの世界的に独自の文明を作っていた。特に食文化は文化の基本なのである。

cultureは耕すから来ているからその土地と密接に結びついたものとして文化がある。土地によって食するもの料理が違ってくるのは当然だった。江戸時代に旅行したらそうなっていた。文化は風土によって作られるというとき最近の原発事故でもヨウ素は日本人は海草類から十分にとっているからチェルノブエリのように甲状腺ガンにはならないだろうというとき何か科学的なことに無知でも納得する。風土の影響が文化の影響がその土地の影響がこういうところにもあった。放射能汚染で救われたのは浜通りでは海に大量に放射性物資が流れて意外と汚染度が低くかったことである。チェルノブエリでは大陸だから全部の放射性物資が大地に降りつもったのである。何事文化の相違は今でもある。そういう文化の相違をないがしろにして国造りをするとき自然からのその国の神からの復讐を受ける。こんなに地震や津浪が多い国に原発を作ることもいかに危険なものかわかっていたことである。風土あったものを探求すべきだった。


食生活にしても明治維新後に奈良時代のように選別することなく何でもとり入れた。風土にあったものでなくても古来の文化にあわないものでもとり入れた。それはあらゆる面にわたっている。そうした選別なしの西欧化の弊害が今生じている。牛肉だって牛乳は必要でもそんなに食べる必要があるのか?となると疑問である。自分は食べないから牛肉に関しては困らない。飯館村で牛と別れる牛に生かされたきたとか言って泣いて村を出た人がいる。でも肉牛だったらいづれ肉にするのだからそれも矛盾していると思った。なぜこんなに日本人は何でも食うようになったのか?その貪欲さに驚く、これは日本だけではないグロ-バルに起こったことである。コカコ-ラとかが世界に普及したのはアメリカ企業のグロ-バル戦略でそうなったのであり世界の食生活を破壊してそうした一様化した食品も売れるからだ。肉食にコ-ラは向いていたことはある。日本人の食生活には向いていたとはいえない、そもそも資本主義は宣伝であれ人間の欲望を刺激して拡大化させる。資本主義にとっては会社にとっては本当に必要なものでなくても買ってもらわないと困るからそうなる。つまり牛肉でも実は牛肉を食べる必要がそれほどないにしろ売る方にとって死活問題になる。牛肉はいらない、コカコ-ラはいらないと言われることは生産者にとって死活問題になるからそうなる。


薬だってやたら宣伝して売り込もうとする、そもそも薬なんか宣伝して売り込むものではない、病気になれば誰でも求めるからだ。でも宣伝によって買わされることが多い。薬屋と医者とか病人がふえればふえれほど商売になるからわざわざ病気にしているのだという人もいるのもそのためである。病気もすべふてではないにしろ故意に作られている面もあるのだ。そういうことが現代には多すぎる。電気だって電気なくなったら脅迫される。それは電気をみんながそれほど必要しなくても電気を生産する方にとって電気を使ってもらわないと困るからそう言う。だから現代は本当に必要なものを生産するより無駄なものを生産しすぎるのである。戦前でも卵も食べられなかった時代からすると食生活は今は貧乏でもあらゆるものを食べている。だからそんなに食べる必要があるのかという疑問がある。そうして肉食というのは倫理的に罪悪感を感じるものでありさらに無駄に生命を殺すことは抵抗を感じる。だからこそ自然から神から口蹄疫とか放射能はまた別にしても牛肉が汚染されて食べられない、殺してしまうということは何か自然からの神からの警告であった。津浪と地震で原発も破壊されたのも神からの自然からの日本人への警告だった。
その風土に見合った文化を作るのがその国の神から与えられた使命なのである。それを無視するとウィルスの蔓延とか自然災害とかそういうもので国土は傷つけられ復讐を受ける。



確かにイギリス人の食糧は牛肉である

と認めなければなるまい

イギリス人は戦争愛していると

それはあらゆる享楽と同じ

彼らの大好きな気晴らしなのだ

クレタ島の人々もそうだった

牛肉と闘争、この二つとも

イギリス人から学んだのだ


バイロン(ドン、ジュアン)


日本人が中国から奈良時代に宦官の制度を入れなかった。外国のものがすべでいいものでないし風土や文化にあわないものは入れるべきではなかった。それが明治時代に無差別に入れてしまったのである。その弊害は今になってもうとりかえしつかないものとなっている。それはあらゆる所に及びもはや日本は日本なのか日本は日本人なのか?日本人とは何なのだとかまでなっている。日本人はもはや日本人ではない、日本に住んでアメリカ人や中国人やヨ-ロッパ人なってしまった。日本人が日本人たる所以が見出せなくなっているのだ。その根幹に食文化の変化があったことにまちがいないのだ。


牛肉と闘争、この二つとも

イギリス人から学んだのだ


明治時代以後の日本人が好戦的になったことや拝金主義になったことや日本人的モラルの喪失もすべてヨ-ロッパであれアメリカであれあらゆるものを無差別に無分別にとり入れたためなのである。

2011年02月17日

思考する根元にその国独自の言葉がある(言葉は民族の魂・・・)


思考する根元にその国独自の言葉がある(言葉は民族の魂・・・)

言葉から作られる思考がある。日本人は日本語で考えるから日本人的思考になる。日本語は歴史的に作られてきた。確かに万葉集時代に漢語が入ってきた混乱したが同化して日本語が成立した。まるっきり漢語化しないものとして日本人の思考が根底に残されたのである。もし漢字一色になったら日本人的思考は喪失していたかもしれない、それほど言葉の影響は大きいのである。俳句はその半分以上が季語によってできあがっている。季語なしではなりたたない、その季語があってこその文学でありその季語は日本の風土と歴史が一体となって作られてきた。だから俳句そのものより季語そのものの意味の背景が日本の文化に根ざしているから季語のもっている意味が広く大きいから短くても成り立っている。花といえば桜を意味しているのも日本的である。ヨ-ロッパだったら花とえいば薔薇であり教会の薔薇窓は有名である。花として一番イメ-ジするものは国によって違っているのだ。南国だとハイビスカスとかがイメ-ジされる。中国では牡丹が国花となっているのも中国をイメ-ジするとき牡丹が一番イメ-ジされる花になるからである。俳句の季語はそのように日本の文化に深く根ざしたものであり外国ではなかなか理解しにくいものなのだ。言葉はもともとそういうものだった。単なる数学的記号ではない、文化的精神性が自ずと付与されている。あわれ・・・というとき日本人なら人間だけではない万物へのあわれを使う、モノと人との区別はない、これは多分に仏教思想からもきている。草木も成仏するとかの思想は西欧にないだろう。中国と日本は同じ漢字を使っているから思想も似通っていると考えるが実際は中国と日本は全く違ったものである。同じ漢字を使っていてもそうなのである。


英語と自由政治の誕生
http://akizukiseijin.wordpress.com/category/%E6%94%BF%E6%B2%BB/page/2/


ここのプログでイギリスの英語とカナダの英語とアメリカの英語は違っているという指摘は面白い。これはイギリスに留学までしているのだから訴えるものがある。この人はほとんど英語で読書して思考してきたからである。アメリカの英語は浅薄だ、深みがないという、イギリスの英語は歴史的背景が常に語られ深みがあるという、クイ-ンズイングリッシュなどあるから確かにそうなのだろう。カナダの英語はそうした歴史的なものと現代的なものがミックスされて深みがあるという、アメリカ英語にはそれがないという、おそらくこの区別は英語を勉強するものにはつかない、同じ英語だと思ってしまうからである。実際に漢字でも日本人の漢字を中国の漢字と同一化しやすい、でも明治以降に作られた西欧文化を理解するために漢字化したものが数多く日本語の漢字にはある。その漢字が中国に入っていることでもわかる。中国は遅れて西欧化したからそうなっているのだ。これをみても言葉が単なる数学のような記号でないことがわかる。その中にはその国の歴史とか文化があって言葉もありうるのだ。その点韓国のハングルは数学的記号のように見えるのだ。漢字がむずかしいから庶民でもわかるようにハングルになったのはわかるが何か数学的記号のように見えてしまう。音だけだったら言葉の深みを感じなくなる。日本人も中国人も漢字を視覚的にみて頭脳が作用していることはまちがいないからだ。ハングルだと漢字のように作用しない、英語も表音文字だがそれでさえイギリスとカナダとアメリカでは違っている。アメリカは歴史もない、思想も浅薄でありプラグマテズムとかビジネス中心の思考、金儲けが第一とされた思考になっているからそうなる。ヨ-ロッパは歴史的思考に基づくからアメリカとは違っている。同じ英語でもそのように違ってくるのが言葉なのである。


このように自国の言葉を否定することは自国の歴史や文化を否定することにつながるから危険なことなのである。英語の方が国際的にはいい、グロ-バル化の競争に勝つには英語を公用語にした方がいいとまでなる。これは自国の歴史文化を否定することにつながっているのだ。
それはとりもなおさず日本人が日本人でなくなることに通じているのだ。つまり外国の文化を理解するにはその国の言葉を理解しないと深くは理解できないように言葉は単なる記号でないからそうなっている。科学の世界だと数学が万国共通のような言葉になるが文化となるとそうはいかない、その一つの例が季語を理解しないと俳句がわからないということにある。本居宣長が大和言葉と漢語を分けて日本人の根元にせまろうとしたのもそのためである。大和言葉に日本人たる所以を見いだそうとしたからである。人間は言葉があって思考している存在である。

はじめに言葉ありき・・・というごとく言葉があるからこそ思考できる。その言葉もそれぞれの国で長い時間をかけて歴史的に作られた言葉なのである。イギリス英語は深みがあるというときそれだけの歴史的背景があるからそうなっている。すでにKINGというだけで歴代の王朝を思い浮かべるだろう。アメリカでは王様はいない、リンカ-ンが初代大統領のように庶民からはじまっているからである。その時点ではじめから国の成り立ちが根本的に違っているのだ。日本で明治以降も天皇を中心に据えたのはそういう長い歴史の継続があったから善し悪しは別としてそうなったのである。アメリカのうよな国だと何もない広大な世界から一からはじめる世界だから歴史を考える必要がない利点もあった。あまりにも広大な土地に原初の人間のように置かれたのである。そこにはイギリスのような歴史的思考が働かない、荒野がありそこに原初の人間のようにほうりだされたのである。ホイットマンの詩はそうした原初の人間のような詩になっていることでもわかる。


ともかく書くということも言葉を通じて成される、言葉が自動的に思考しているのではないかとさえ思うときがあるのはその国の言葉があって思考できていることの証明である。文章を書くということはそういう点で自己の能力を越えて作用することがある。そこに言葉の不思議があるのだ。言葉は人間より人間の一能力より大きな神のような力を持っているという証拠でもあるのだ。
だからこそそれぞれの国の言葉を否定することは民族の魂をも滅ぼすことになる。アイヌ民族は言葉の喪失で滅びたし弱小民族の言葉は滅びてしまった。そしてアイヌ語が日本語としてとり入れたものは少ないように思う。それはアイヌから文化を吸収するものがなかったからだともなる。漢字や英語でも日本語化しているのは文化としてとり入れるものがあったからである。言葉は単なる記号ではない、その背後に長い歴史があり風土や文化があり言葉化しているからそうなるのだ。その一番いい例が俳句の基となる季語が如実に示しているのである。

2011年02月04日

立春の連句(日本人は大和言葉を根幹として成り立つ)


立春の連句
(日本人は大和言葉を根幹として成り立つ)

天地(あめつち)に四肢を伸ばしぬ春の風


天地の広きを望み春来る


春来る天地に湧きぬ力かな


春来る天地にひびく命かな


鳴動し日本列島年明けぬ


日本国装い新た春来る


みちのくの眠りを覚ます東風の吹く


火を噴きぬ九州の山や年明けぬ




推古天皇一五年春に詔(みことのり)を布告され・・


朕は聞く、むかし、我が皇祖(みおや)の天皇等(たち)の世を帝(おさ)めたまへる、天にせせくまり地にぬきあしして、あつく神祇を礼い、周(あまね)く山川を祠(まつ)りて、幽(はる)かに乾坤(あめつち)に通わす。是れを以て、陰陽開け和らぎて、造化(つくること)共に調(ととの)ふ。今、
朕が世に当たりて、神祇を祭祀ふこと、豈に怠りあらむや、故に群臣ともに為に心をつくして宜しく神祇を身拝(みやまいま)つるべし


日本人の日本人たる所以は何なのか?その根本に大和言葉があることはまちがいない、日本語はどこからきたのか不明である。韓国語と似ていると言ってもほんのわずかであり発音もほとんど違っている。日本語はそもそもいくら解明しようとしてもどこから来たのが謎でありそれが日本の起源を考える一番の不思議なのである。日本語は中国から漢字が入ってきたとき二つの言葉が融合した。その起源はすでに遠いから二つの言葉は本来相当に別々のものでありその観念も違っていた。そうした苦労と混乱がこうした文章に残されているのである。万葉集も漢字で記したときそうなった。今では意識せず使っている大和言葉と中国の言葉は実際は全く別々なものだった。だから漢字に大和言葉のふりがなをふっている。天地はアメツチであり乾坤もアメツチである。天地(テンチ)と乾坤(ケンコン)は中国語の発音である。アメツチが大和言葉の発音である。本居宣長が大和言葉の起源をたずね大和心と唐心を区別したことでもわかるように日本人を知るためには日本語の再吟味が必要なのである。

命(いのち)を生命と漢語で言うのとは相当違ったものでありそれをもう一度再考すると日本人の心が漢語が入る前の大和言葉にあることがわかるのだ。命はミコトともあてている。詔(みことのり)は今のような政治的政策ではない、天地からたまわる命に直結していたのである。ともかく日頃何気なく意識して使っている大和言葉は日本人を日本人たらしめているものなのだ。

春は張るであり天地に張るである。実際に体の血流が盛んになり張るとなり体自体変わってくるとも思える。体も自然のリズムに則って活動しているのだ。冬(ふゆ)がふゆるであるというのは冬の間は冬眠して英気を安なう季節、春へのふやす季節の準備だからである。これも漢語にすると春がシュンと発音するときそれは漢語であり日本語ではない外国語を使っているのである。漢語にしたとき大和言葉本来相当違った言葉でありそれを一致させようとしたとき大混乱があった。それを実際は今でも引きづっているのである。安らかが安心となるときかなり違った感覚になる。和らぐ(やわらぐ)とあるが平和だとするとまた違ったものになる。だから日本人が心が安らかになるといえばしっくりするが心が平和だとか言うとしっくりこない、安心というのも日本語とは違った感覚の漢語なのである。新年はあらたまであり魂が改(あらた)まるから来ている。魂にしても霊魂とタマシイというのは相当違った感覚になる。つまり漢語と日本語は本来英語と同じ様に別々の言葉だったのである。言葉が違うことはその言い表す観念もそもそも違っていたのである。だから大和言葉に大和心があり大和の精神があるということになる。平和というときかえって英語のpeaceがふさわしく感じられたり英語と漢語がしっくりいくものがある。ただ平和が漢語ではない、明治以降日本人が作った漢字も相当あるからまた混乱してくるのである。


俳句にしてもこれは日本人のみが本当に理解できるものであり外国人には理解しにくい、これを中国語でも英語でも翻訳すると実につまらないしこれがどうして文学になるのかと外国人は不思議に思うだろう。それは季語一つ一つに日本の風土、季節を凝縮したものがあり日本独特のものだから理解しにくいのである。これは外国でもヨ-ロッパの文化はその地を踏まないと理解しにくいのと同じである。前にもヨ-ロッパの都市を歩くだけで都市が建築そのものでありシステム的にできているということを理屈なしに実感する。日本では理解しがたいものが大陸的に養われた歴史と文化がある。そういうものは風土と歴史が一体となり時間の中で育まれ作られてきたものだからその地を踏むと理屈なしで実感するのである。だから日本の文化も季語をしるためには一年間くらい住んでみなければ理解できないのである。


御民吾(われ)生ける験(しるし)り天地(あめつち)の栄ゆる時にあへらく(巻6-996)


宇宙、天地、自然の律動とともに律動している存在であるという自覚こそが「生ける験(しるし)」である。
今や人間はどこでも文明化して機械化した人間になっている。天地のリズムから離れて生活しているロボット人間と化している。天地を感じることがないということは人間は異様となっている。自然の奇形児化してしまったのが文明人なのである。機械化して文明化が極端化した結果、二千年前の老子がすでに警告したように文明化は人間を人間ならざるものにしたのである。

天地のリズムの中に生きることこそ本当に生きることなのである。だから都会的生活は生きることにはならない、一見そこに栄があるようでない、天地から離れた栄は本当の栄ではない、日本の自然と一体となった栄こそ本当の栄である。天皇は権力者の帝王ではなかった。日本の自然の祭祀者であり日本の自然を言祝ぐものだった。詩人もまた日本の自然を言祝ぐものなのである。詩人はもともと祭祀者だったのである。ただ今やそうした詩人はいない、結局現代文明から離れないと今や真実は見えなくなっている。アウトサイダ-となり文明を見ないと今の文明が何なのか見えないのである。それは自然から離れた奇形だということである。当然人間も奇形化してしまったのである。


まあ、なんとか病気になったけど普通に動ける、健康でいられる。やはり人間は健康でないと健やかでないと詩も病的になる。そして病的なものが文明では普通のものとしてもてはやされる。そういう不健康な老人ばかりと接していたし今も寝たきりになっている人をかかえているから同じなのだが自分が病気になっても普通に動けたということそしてやはり春になって動いたら力が湧いてきたことはうれしいことである。ただ今年も本当に早めに暗くなる前に帰らねばならないとなると外出することが近くでもできない、そういうことは考えられないことだったし実際にそういうことが五年間つづいているのだ。それが今年も自分の最大の問題なのである。

2010年12月20日

移動する遊牧民的志向と定着する農耕民的志向


移動する遊牧民的志向と定着する農耕民志向

現代のグロ-バル化市場化は遊牧民的である。貨幣が世界で通用するのもそうである。貨幣は遊牧民的である。どこに移動しても世界中のどこでも貨幣が通用する。特にドルはどこでもアフリカの果てまで今は通用しいてる。エジプトでロバにのった少年がドルをくれといっている。ドルは世界的貨幣なのである。ボ-ダレスというとき砂漠の民に国境はない、国境となるべき自然的障害がないのだ。せいぜい川があるくらいである。あとは平坦だから国境は本来ない、国境は人為的に作る他ない、でもそれは本当の国境にはなりにくい、いつでも国境は越えられる。
だから砂漠の民や草原の民にとって移動が日常的に行われているのだから自ずと商人になっているのだ。イスラム系や中国系も商人的文化が栄える。商人の歴史は信じられないくらい古い。契約とかがメソポタミアやイスラム系ではじまったことでもわかる。契約の神が両方の共通した神だからである。大陸だと移動のスケ-ルが大きい、ゲルマン人の大移動とか民族の大移動がありその移動により他の民族と衝突することが戦争にもなった。今のような国と国の戦争ではない、移動するために戦争になったのである。移動するパワ-は日本人には考えられないものである。それも遊牧民は日常的に移動しているからこそそのパワ-が生まれる。定住している農民にそんな移動のパワ-は生まれない、騎馬民族であり馬を駆使する、移動の民のエネルギ-がモンゴル帝国のように世界の半分を席巻した。


日本人は中華帝国のように農耕民だから農本主義になる。遊牧民的なものは本来ないのだ。その志向も定着文明の農耕民である。農耕民はどうしてもストック文明になる。貯蓄志向になる。外部へ出て冒険がしにくい、遊牧民は移動するからそもそも貯えるという志向が育ちにくい、移動するとなるとなるべく身軽な方がいいからだ。だから持ち歩くものは軽いものがいいのである。貴金属とか宝石とかもいい、そういうものが貨幣の代わりにもなる。つまり交換しやすいものがいいのだ。量が多くがさばるものは持ち運びにくいから遊牧民には必要ではない、なるべく身軽なもので用をたせるものがいいのだ。航海でも船で行くとするとやはり身軽な方がいいとなる。移動するには旅をするにはどうしても身軽な方がいいのである。そういう遊牧民志向、ボ-ダレス志向が現代を席巻したのである。カ-ドなら貨幣よりさらに便利である。世界中どこでもカ-ド一枚で金に換えることができる。固定しているものは定着的農耕民に向いている。家をもち家具をそろえるのは定着型農耕民の志向である。持ち歩きに便利というとき食料でも米よりパンが有利である。パンは長持ちするからいいのである。インスタント食品が発達して売れるのも遊牧民的であり冷凍食品などもそうである。どこでも簡単に料理できるからだ。


つまりそうした簡単に持ち運びでき使用できるものが売れるのは遊牧民文化である。洗濯でもコインランドリ-の方が便利なのだ。各自で洗濯機や乾燥機を買うよりコインランドリ-の方が経済的なのである。なるべく家での生活を簡素化するには家にいろいろなものを置かない方がいい、本でも電子書籍化して電子空間化した書斎がいいとなる。それなら無限大に情報を置くし場所は関係ないのである。電子図書館というとき福島市に巨大な図書館があっても全く利用できない、その場所に行かなければ利用できないものは定着の農耕民的なものとして作られているからである。モバイルというときもそうである。まさに移動しながら情報をやりとりできる。極めて遊牧民的な商品なのである。そもそも車社会自体遊牧民的な商品を一番象徴していたのである。アメリカ人があれだけ広大な土地に住んでいるのだから移動を好むのがわかる。やはり遊牧民的なのである。


現代の生活の特徴は遊牧民的なのである。遊牧民的な生活になっているから遊牧民的なものが商品として開発され売れるのである。もちろん現代だけではなく人間の生活は本能的に移動と定着を志向する習性がある。自然でも山や樹や石は定着であり動物や鳥は移動する。
鳥はまさにボ-ダレスに移動するから極めて遊牧民的であり憧れの対象となる。遊牧民は自由を目指すからまさにまた現代を象徴している。自由とはなにものにも縛られないことだからである。青年はみんな遊牧民であり老人は定着の農耕民になるのが自然の摂理である。ただ世界は移動の民の遊牧民によって導かれた。国や都市も遊牧民が作ったとか中国の最初の国家が始皇帝の国家が西域地域であり砂漠や草原の民、騎馬民族と接したところから起こったことでもわかる。強力な兵馬俑の騎馬軍団を擁して広大な中国を支配したのである。日本も騎馬民族征服論があるように強力な支配力を指導者を養成するのは遊牧民、牧畜民だった。遊牧民が地中海にでて航海の民となり大航海時代を作り世界を変えたのもやはり遊牧民が基になっていたのである。農耕民は定着だから安定志向になり冒険を好まない、結果的に遊牧民に支配されることになった。ただ結果的には定着の農耕民に吸収されるのは当然だった。そもそも定着なくして人間の生活の安定はありえいからだ。だからどうしても安定を目指すから定着型文明になる。

2009年12月22日

茶の心への回帰


茶の心への回帰



茶を飲みて石に通じる冬の暮

茶を飲みて東洋の心に帰るかな

冬の日に寂けさ味わう茶の心


最近茶道に興味をもったのは庭をリホ-ムして茶室みたいなものを考案したことである。庭と茶道は密接に関係していたのだ。山居を庭に作るのが茶室だった。市中にあっても山居の趣きを作る。岡倉天心が「茶の本」を出して東洋の日本の心を伝えようとしたこともそれなりに茶道には文化の神髄のようなものがあったからこそである。最近気づいたのだけどコ-ヒ-と茶の相違は何か?その味にあった。これは根本的に違っている。これほど違っているものもない、紅茶とも違っている。紅茶もイギリスの文化となったごとくモ-ニングティ-としてイギリスの文化となったごとく飲み物も単なる飲み物ではない、文化なのである。ただ喉をうるおすなら動物である。


不思議なのは動物は人間が飲んでいるように無数の味のついたジュ-スなど飲まないという、水しか飲まないということは動物は老子のように無味を味わう、純粋な水こそ最良の自然そのもの味として飲んでいる。茶道となると抹茶だから普通の茶とはさらにその味が違っているのだ。ただ日常的に茶を飲む習慣は日本人にあり抹茶を飲むとなると普通の人にはない、茶道は意外と一般的ではない、特殊な人の趣味となっている。茶道の作法を知るには相当な年期が必要になるしそうした場も必要である。すると一般の人はなかなかなじめないとなる。自分もほとんどわからない。何か日本の文化といってもなじめない、別な世界のものに感じているのも茶道が日本の文化だというのももう一つ日本人そのものがぴんとこないのである。


『経国集』(天長四・827年)には、嵯峨天皇の宮女が「出雲臣太守の茶歌に和す」として詠んだ漢詩があります。
山中の茗、早春の枝。萌芽を摘み採って茶とする時。山傍の老は愛でて宝となし。独り金鑪に対い炙(あぶ)り燥(かわ)かしむ


827年にすでに茶について語られている。いかに茶の歴史が古いかあらためて知る。それだけ奥深いのである。茗は小さくてよく見えない芽という意味・・・山傍の老は愛でて宝となし・・とあるごとく茶はやはりこんな昔から老人にあうものとしてあった。ここで自ら茶となるものを採取して茶を作って飲んだ。その味わいは買って茶を飲むより一段と味わい深いものとなる。それにしても天皇の宮女となるとこれだけの教養があった。今天皇に仕えてこれだけの漢詩を作れる女性などいない、天皇自身も作れない、天皇自体が今や日本の文化を体現していないのである。昭和天皇は和歌がうまかったから最後に日本文化をプラスにしろマイナスにしろ体現した人だったかもしれない、天皇は権力者ではない、日本の文化の頂点に立つ人としての権威だったのである。

なつかしき冬の朝かな。
湯をのめば、
湯気がやはらかに顔にかかれり 石川啄木


お茶は冬にあっている。寒いとき湯気だたちそれがなんともいえず冬らしい。特に冬の朝にあっている。今の時代、八十才でもコ-ヒ-党の人はかなりいる。コ-ヒ-にはコ-ヒ-の良さがあり味がある。コ-ヒ-は街の中の喫茶店とかでケ-キを食べながら飲むのにあっている。ヨ-ロッパの社交となると庭でも全く日本とは違っている。庭というより大勢の人が集う場である。あまりにも広いから日本の庭の感覚とはあまりにも違いとまどってしまう。日本の茶道は対話的であり少人数向きであり庭にしても狭いから何か茶室も禅のように社交というよりは悟りを得るためのようなものと通じている。茶が薬であり僧からもたらされたことでもわかる。コ-ヒ-にはカフィンが入っていて脳を興奮させるものがあるが茶には脳を静める作用がある。その味があまりにも違っている。

炬燵入り茶を飲みつつも石を見て亡き人語る年の暮かな(自作)

茶はやはり畳の上で庭の石などを見て飲むのがつくづくあっている。故人を語るときもコ-ヒ-よりは茶の方があっている。文化は総合的なものとするとき日本の庭や畳の部屋や木の家とか障子とか和合して存在する。今は文化が混合しているから本当の純粋の文化は喪失した。今の時代東洋とか国風文化へと回帰する心がまた起きている。明治維新には西欧文化に対抗するものとして岡倉天心などが「茶の本」を書いたのだが欧米文化一辺倒になって日本人は疲れた。それでまた東洋へ国風文化へと回帰してゆく。

日本は十分に過剰に欧米の文化に服した。そのあとにまた東洋へ国風文化への回帰が起きる。特に老人になるとどうしてもコ-ヒ-党もいいが茶への回帰も起きてくる。やっぱりお茶もいいなとなる。お茶の渋さは石と通じている。日本の庭がいかに石に意味を見出そうとしているか如実に示している。竜安寺の石にしても外国人が見ても何の意味があるのかわからないだろう。有名な庭だけではない、庭にはそれぞれ必ず個性があるのだ。だから庭はわかりにくい、外から見えないしわかりにくい、鑑賞するにも時間がかかりわからない、だから庭は盲点となっている。石というのも単純なものだが個性がありこれも時間をかけないと鑑賞できない、石には明らかにそれぞれ表情があるのだ。その表情をくみとることが簡単にできないのである。お茶と石は通じるものがあるがコ-ヒ-や紅茶はあわないのだ。やはり茶碗で抹茶を飲みその渋さ苦みを味わい文化に通じる。抹茶でないにしろ茶を飲むこととコ-ヒ-を飲むことはその味の違いがそもそも相当な文化の差となっているのだ。ただどちらにしろコ-ヒ-も茶もあたためて飲むとき味わいがあるから冬にあっている。イギリスのような寒いところでスリランカとかでとれた紅茶が文化となったごとく寒いところで文化になった。それは共通しているのだ。

一服の茶をたて別る冬に入る

winter come
a cup of japanese tea
parting man


茶室に逢い飛び石踏みて帰る人我が思うかな年も暮れにき


茶道は集団的ではない、組織的ではない、個と個が対することにある。集団化組織化した現代の大衆文化とは相いれないものがある。庶民的にはただ茶を飲み安らぐものだが抹茶を飲むとなるとそれは大衆的ではない、選ばれたものが入りえる世界である。にじり口から入るとなるとそれは侍も商人も分け隔てなくするもの平等にするものとあるがそこは実際は選ばれたものしか招かれたものしか入れない狭い入り口なのである。実際に東北などでは茶室をもっていたりするのはまれであり親しむ機会も少ない、それは秘密の世界になっているのだ。ただ実際に作法など知らなくても茶の心は日本文化だから日本人なら思想的にどういうものか察知できるのである。

2009年03月06日

一つ松の話(松は日本人に最も親しい樹)


 

我がよりぬ松一本の我を知る誠実にしてその松による

そが友は誰にありしやこの道の一本松(ひともとまつ)や我を知るべし

人の世よ偽り多く嘘多き松誠実に我はよりにき

尾張に直(ただ)に向へる 尾津の前なる一つ松、吾兄(あせ)を

一つ松人に在りせば 太刀佩(は)けましを衣着せましを 一つ松、吾兄を 

日本武尊

 一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも. 市原王

岩室の 田中に立てる ひとつ松の木 今日見れば しぐれの雨に

濡れつつ立てり ひとつ松 人にありせば 傘かさましを


蓑きせましを ひとつ松あわれ・・・・良寛
 
樹にはいろいろあるけど松は日本人にとって一番親しい、松はまた一番人間的なのである。人間に近いのである。だから擬人化されるのだ。松はそんなに高くはない、杉でも他の樹は高いから友というふうにはなりえない、松は人間が立っているように見えるのだ。松はまた誠実に見える。誠実の象徴としてふさわしい。樹もいろいろ精神的に象徴化される、やはり本当に誠実を具現化している。あんまり細いとふさわしくないがそれなりの幹の太さがあると誠実とか質実とかがにあうのである。上野霄里氏流に言うと自然の中に原生質がありその原生質というのは神しか作り出せない、コンクリ-トは原生質がないから映えない、自然の美質、原生質があってこそ人間が作ったものも映える。樹であり大理石であり土であれ素材は神から提供されのだ。もちろんすべての素材は食料でも神から提供されているのでありいかにも人間が作ったようにみえてもすべて神の神秘の知恵から作り出されたのである。米一粒でもそうだしそれは神秘的なものであり科学では解明されない、なぜなら米一粒でも大地と太陽の光と水と様々なものから養分をとり実ることができるからでありそれは神の神秘の業なのである。でも今やあたかも人間が作り出したように錯覚するようになったのである。だから神に感謝することもない、ただ人間が作り出しものとしてむさぼるのである。文明は神より人間の力が大きなものとして写る、文明があって食料でも何でもあらしめられるような錯覚に陥っているのだ。だから一粒の米から神秘を感じて神に感謝するようなことはない、そこに文明の傲慢が生まれたのである。
 
岩代の浜松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む── 有間皇子
 
これも松が誠実なことを示している。松自体が信仰の対象のようになっていた。松は日本人の文化であり江戸時代でも松並木とか松が景観を作っていたから美しかったのである。昔の道は狭い、広い道路は少ない、そうした細道に松並木がある、松に導かれて歩いてゆくように広重の浮世絵でも描かれている。日本人はあまりにも景観に無頓着であり破壊しすぎたのだ。高速道路も全く景観を無視して破壊する。物流にはいいのかもしれないが松と人間が語り合うような悠長な世界は喪失したのである。そういうことが実は人間の精神にも相当な影響しているのだ。精神を荒廃させる。自然の中に美徳がありその美徳があるゆえに人間も美しくありうる。大都会がいくら豊かでもそこに美がないのは自然の背景が全くないからである。高層ビルを背景にして美は作り出せないのだ。

 
砂をふみ松の間歩み秋の日や敦賀の入江に船泊まるかな
 

青松白砂という日本独特の風景もいたるところで喪失した。気比の松原とか虹の松原はまだ残っている。砂をふむということがなかなかできない、砂浜は相当浸食されたり日本から失われた。
 
真木の葉のしなふ背の山偲はずて我が越え行けば木の葉知りけむ

天雲の棚引く山の隠(こも)りたる我が下心木の葉知りけむ
 
この万葉集の歌なども不思議である。木の葉知りけむ・・というとき自然の中に入っていくとき、自然は何の言葉も出さない、拒絶もしない、しかし自然は荘厳であり清浄の神域として感じられていた。木の葉があなたの心をしるとなると不浄な人は本来自然と接触できないことも意味している。でも実際はづかづか自然の中に入って乱しているのが人間である。でも「我が下心木の葉知りけむ」というとき下心というとき何か人間の心をみすかすものが自然にある、自然がみている、木の葉が見ているとなる。ここには自然を神とした神道の基がある。松による心は誠実でなければならない、一方で松にも心があり松の方からも人間を見ているとなる。もし自然に松に近寄る人間から毒々しいもの発していたら例え見えないにしても心が汚れていたら松は見ているかもしれない、いづれにしろそうした自然に対する畏怖は本能的に万葉人辺りでは感じていたがだんだん忘れられて単なる美的なものとして自然を見るようになってきた。だから今のように高速道路であれ何であれ大規模な自然破壊にも何の感覚もないのだ。自然に対する畏怖は喪失して文明の無謀な侵略のみがあるだけなのである。
 
 

松を友とする秋の短歌
http://musubu.sblo.jp/article/l6450384.htm

 
 
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掛川
 

2009年02月10日

日本の塔と中国やがヨ-ロッパの塔の相違 (対象的なものに文化が育まれる)


 

●金閣-銀閣の対象性が文化を育む
 
京都の金閣にしても銀閣にしても一回しか見ていないから良くわからないけどこの対象性が千年の京都の都の文化を象徴している。平泉の金色堂は一つしかない、京都には金閣もあり銀閣もある。その対象性が文化である。対象性のなかに互いに個性を示して輝きあうものがある。そういうものが必ずある。どちらがいいというのではなくどちらも輝きあうのである。利休の侘、寂もいいが豪華絢爛な金の茶室の秀吉の好みもそれなりに全部は否定できない、美はそこにもあった。京都にはそうした二つのものが対象をなして光輝を放つ、みちのくは侘、寂の美しかない、つまりみちのくにはまだ文化は華開いていないのだ。金色堂も侘、寂のなかに朽ちてゆく、五月雨の中に残されていたかつての繁栄の証としてわずかに残されていたのである。ただ文化というのはその土地により個性が歴史が違ってあるからこそ互いに映えるのだ。みちのくには侘、寂、土臭さなどがあっているのだ。ともかくこの文化は対象性のなかに映える。ラテンとゲルマンの文化の相違は明確でありライン川を境に二つの文化は成長してヨ-ロッパの魅力を形成してきたと同じである。 文化は相剋の中に光輝を発する、人間でも天才の資質が異なることにより相剋により個性を発揮する。単純に一様だと文化は生れない、異質なものが交わることにより文化が生れる。そして個性にしても人はないものに憧れる、神経質な繊細な人はどうしても大胆な豪胆なおおらかな人に憧れるのである。それはその人にない資質だからである。これは別に芸術でなくても男女の仲でもそうである。同じ性格の人より違った性格の人に憧れる。そもそも男女は性格を補いあうからこそ男女なのである。
 
●ヨ-ロッパの塔と日本の塔の相違(日本の塔は優美、ヨ-ロッパは強固)
 
塔にしても欧米の塔はwatching towerであり敵が攻めてくるのを監視する実用的塔でありだから中国の仏教の塔でも日本の塔とは違っている。高いし厳格な塔なのである。日本の塔は五重塔でもそうした歴史的性格がないから優美なのである。中国人が見たらこれが塔なのかとか同じ仏教でも違ってくるのだ。欧米の歴史は異民族の戦いの歴史だから民族みな殺しとか負けたら奴隷にされるとか厳しい戦いだから万里長城とか作ったりするからそこが日本の文化とは根本的に違う厳しい文化なのである。中国などと対照的に見ると日本の塔は優美である。日本の文化は繊細で優美なことが特徴になる。あまり荒々しいものがないのだ。
 
春日さし五重塔や鳩とまる

奈良に来て塔に雀や蓮華かな

秋日さし室生寺に休む女性かな
 
こういう感覚は日本的風景だった。中国は荒々しいし仏像でも厳格である。あまり柔和さがない、日本人好みなのは柔和なことである。大陸的なものは厳格であり日本的なものは漢字と比べたかなのように柔和な女性的なものとなる。漢詩は男性的でありかなは女性が発明したように女性的なものが日本の文化の基底を作っていてそれで優美であり柔和なのである。つまり唐心があり大和心があって対象性があって文化は育まれる。大きく世界的東西の文化でもそうである。かならず対象的な文化がありその対象性の中に文化が育つ、日本でも西の都-京都を軸として文化が生れたが東を軸として関東の武士から鎌倉文化が起こった。これは中国でも南と北は性格が違っている。南は温和であり北は異民族と接して厳しく寒い風土である。南船北馬とか稲作と麦の相違とか遊牧民文化とか違っている。 これはヨ-ロッパでも同じだった。ラインを境にして狩猟民、遊牧民の厳格な北方のゲルマン人の文化でありそれがゴシックの大聖堂として結実した。要するに北と南の文化は対象的になる。北的要素と南的要素が融合してルネサンスが生れる。それはフィレンツでルネサンスが起こった要因である。それは男女の性格にも通じている。南は女性的になりやすいし北は男性的になりやすいのである。その二つの要素があって文化は興隆するのである。
 
●塔は街全体の一部として構築された
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%94#.E5.A1.94.E3.81.AE.E5.AE.9A.E7.BE.A9
 

ここにいろいろな塔の写真があるがヨ-ロッパの塔は監視の塔が多いから教会でも要塞でありそこから敵の侵入を見守るものだから日本の塔とは性格が違う、要塞としての塔なのである。
バベルの塔は、町と塔を建てて、その頂きを天に届かせようとする試みだった。町(街)と塔は一体なのである。街から離れて塔は存在しない、日本では街から離れた寺に塔があるのとは性格が違う、中国でも寺に塔があるのだが塔は高いし厳格であり日本の塔の作りとは違っている。塔と城壁と街は一つであり敵から守るものとしてがヨ-ロッパ−ではあった。中国にもそうした性格が受け継がれている。防衛的要塞的だから塔の性格は違っている。塔はまた大陸では広い砂漠とか草原とか平野から目印になるものでもあるから高い必要があったのだ。日本では近辺から見えるだけでいいから高くない、ただ優美に作られていれば良かったのである。

 
山に上り塔の三つや春日映ゆ

春の日や山の彼方に塔映える

百輪の白木蓮や六和塔大河を望み千歳建つかな
 
中国では山に登っても高い塔がいくつもある。大河の辺にもあるしいたるところに塔があり塔の国なのである。
 

a highly centered tower in the clear sky
on the vast  ground
the building one in the city
strength and  concentration 

 
 degree of potency of effect or of concentration 
 
ヨ-ロッパの塔は建築として全体として街を構成するものとして作られている。ヨ-ロッパの都市は塔も城壁も橋も街全体が建築として設計され構築されたものとして積み上げられ作られている。それは終らない建築である。サラダファミリ-の塔などが完成しないのはそのためである。日本には建築の思想が根本的に欠けている。計画的な街作りがない、無計画的に拡大化してゆくからかえって自然破壊に通じているのだ。街が自然の枠を越えて拡大化する技術をもったとき計画的に自然と融合することを設計しなければ自然は破壊される。これまでは技術がないから日本の自然は破壊されなかっただけである。

2009年01月17日

郷土史は土の上に成る、農業が基である(陸田と水田)

●水田と陸田

農家出身でないし農業のことわからないから余り発言できないけど文化の側面からしたら郷土史と農業は一体である。土地と一体化して郷土が形成されている。郷土とは土の上に成り立つものであり故郷とは故ある場所となるがこの故とは歴史が形成された様々な因縁がある。郷土が土からなっているのだから土から離れてはありえない、文化もそもそも耕す-cultureだから土から生まれのが文化だった。土から離れて文化はありえない、ワインにも土地の名がついたのはその土地で培われプランドが長い間の蓄積で作られた。グロ-バル化した時も地方のワインも危機になったというのがわかる。郷土史とはそもそも地に根ざしたものである。だから農業とは一番結びつくのである。でも耕すとは畑を耕すものだとばかり思っていた。田かえす・・・が元になっていて田をかえす-田を耕すことだった。畑を耕すことでないことは意外だった。畑という字も火に田であり田から連想されている。水田と陸田とういのもあり陸田というのは畑のことであった。


穀物では稗は畑と並んで水田でも盛んに栽培され、特に稲の栽培に適さない冷水しか供給されない水田では重要な作物であった。また、蓮、慈姑、田芋といった栄養生殖によって増殖される芋類、根菜類も重要な水田作物であり、・・・・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/


水田というと稲だけを栽培するものとみるが違っていた。しかし焼畑は原始的農耕としてあったがのちに稲作りが主要となり田から農耕を考えるようになったから畑を陸田などと言うようになったのだ。日本の文化は古来や山にあった縄文的文化は稲作が全国に広がるとともに失われた。それで遠野物語が弥生文化とは違う山民の文化が残っている伝承として柳田国男が知らしめたのである。そもそも岩手県辺りでは寒いから稲作に向いていない、それで北上山地の閉伊郡では一揆が起きている。青森県でも江戸時代まで稲作をしていない、畑作中心だった。稲作は必ずしも全部に向いたものではなかった。特に寒いところには向いていなかったのである。相馬では急速に陸田から水田に移った、水田をふやしたとあるから稲作にはまだ向いていた方だったのだろう。岩手県辺りからそんなに簡単に稲作に移行できなかったのである。

●農業の多様性

人ですら同じ環境、同じ時間、同じ勉強をさせても結果が違う。
生物は種の個体差、環境=地域差、天候の違いがある。

輪作できない作物の場合は、また他の種の転作用のノウハウが必要になる訳で、紛れがある生物を一定の質で作るのは非常に難しい。


郷土史の本を読むとなぜ民情が違うから合併はむずかしいとか書かれてあるのか、これは相馬藩と伊達藩になると余計にそうである。新地辺りでは境だから相当な民情の相違があった。
言葉とかもかなり違っていた。江戸時代とは一つの山を越えたら民情が違っていて相いれないものがあった。今ならそんな境界はない、民情が違うなどありえない、それは外国との民情の相違になる。日本国内では広くてももはや民情の相違など問題にならないのだ。それだけ文化でも一様化ししてしまったということを逆に証明しているのである。

ともかく郷土史は土の上に成り立つから農業が基本になる、農業に通じていないと郷土史も深めることはできない、それで私の場合は欠けたものになる。農業をしたいとか派遣の人が農村に入るのはむずかしいということでこの発言があった。こういう人はやはり農業を実際している人なのかもしれない、だからこんな発言ができるのかもしれない、農業は土や自然とかかわるから工業とは相当違ったものなのである。つまり多様性、継続性、調和性・・・の世界でありそれは文化と通じている。文化とはそもそも一様化ではない多様性であるからだ。江戸時代は今では考えられないような多様性の世界だった。それは一つ山を越えてもそうなっているのだから藩を出たらさらにそうである。家の作りまで違っていたりと外国に行くようなものでもあった。だから江戸時代を旅したら今とはまるで違う、文化が村々で違っていたのである。

郷土史研究にはやはり町誌とかかなり詳しくバイブルのように読んでないとわからない面もある。資料を読む能力も必要だしそれから地理にくわしくならねばならないし農業とかに実地に経験していると詳しくなりやすいとか郷土史の分野でもこれは一人でできるものではないのだ。これは相互に協力しないとできない、全国レベルではインタ-ネットで郷土史関係の情報は無限大に増えた。だから絶えず私はその情報を編集して出しているのだ。編集するだけでも新たな郷土史を書いているのである。

2008年12月18日

日本文化の消失(古い街並みの消失-盛岡の魅力)

街の魅力というとき車社会化(モ-タ-リゼ-ション)で通りがシャッタ-通りになり消失したことである。駅前通りも鉄道の衰退でさびれた。駅前がゲ-ムセンタ-になっているのもがっかりした。街の魅力はどうして形成されるのか?一つは歴史であり、自然であり、利便性である。今突出したのは利便性なのだ。まさにコンビニ化でありス-パ-化でありさらに巨大ス-パ-、ショピングセンタ-化になる。そこでは歴史とか自然とかは関係なく利便性のみがあるのだ。でも歴史的街並とかあり街にも歴史的形成されてきた。宿場町がそうである。街として魅力があるのは東北では少ないだろう。今や街も仙台とか盛岡くらいなると街としての魅力に欠ける。相馬市なら田町通りが新しく作られたからそれなりに新しい街作りがあったがそれでも利便性が欠如しているので買い物に適していないので人が少ないのである。他に南相馬市では昔は原町駅があり駅前通りだったが今は六号線の通りが街になっている。そこには市立病院があり道の駅もできたから買い物も便利でここが本当は南相馬市原町区の中心になっているのだ。ともかくどうしても日常生活では利便性が追求される。忙しい時代だから特にそうである。買い物が仕事だがこれも一仕事であり他のことが余裕もってできなくなる。だからどうししても一カ所で買い物をすませたいのが現代なのである。
 
でも街の魅力に欠かせないものがある。歴史と自然なのである。私は内向的性格故喫茶店が好きだった。喫茶店で本を読んだり音楽を聴いて瞑想したりするのが好きだった。今は喫茶店の数が激減した。旅をして喫茶店に休もうとすると喫茶店だけやっているのはまれである。地方では喫茶店は前は安かったが今は倍以上になっている。なかなか簡単に休むわけにもいかなくなっている。喫茶店だけでは商売が成り立たなくなってしまった。でも街を歩き旅では喫茶店は必需品なのだ。盛岡には歴史があり北上川と中津川が川のアンサブルとなってクラシカルな雰囲気とモダンな雰囲気をかもしだす、それは啄木や賢治の時代からそうだったのだ。その象徴として煉瓦の明治時代の岩手銀行が残っている。また擬宝珠の橋など橋を人が歩いているのを見ているだけで絵になっているのが盛岡である。まるで浮世絵の一場面を見るようなのだ。そこでは着物姿の女性もあっている。それほど騒々しくないのだ。過去と現代が融合している街なのである。こういう街はめずらしい、新しい街は喧騒の中に在り情緒がなく利便性があってもなごみがないのだ。今回中津川の岸辺の喫茶店でホットユズなるものを飲んで休んだ。これもモダンなものなのだ。新幹線だとあそこのホットユズ飲みに行こうかともなる。仙台だと定禅寺通りの欅並木がいい、盛岡が全体が歴史と自然が融合して魅力がある。他に深草とか駅前のプラタナスの通りにも喫茶店がある。喫茶店回りも一つの街歩きの楽しみとなる。新幹線で仙台と盛岡の両方を楽しむことができるのだ。
 
車社会は利便性を追求した最たるものだったが伝統的なもの自然すら破壊した。しかし利便性のために今や車を手放すことはできないのだ。ただそれによって街の魅力は失われた。やはり現実に生活としてし活きていなければ街に活気ができないからだ。ショッピングセンタ-やコンビニでもそこにあるのは利便性だけなのである。情緒的なものはそこでは養われない、そんなもの贅沢であり必要ないものだと言えばそれまでだがやはり淋しいものがある。情緒的なものは精神にも影響するから必ずしも無視できないのだ。近頃は老人もキレやすい、怒り安いというのは今の老人で劣化したからではない、車社会はそもそキレ安い心を作るのだ。車というのは通り歩み人間が出会うのとは違う、完全に徒歩者を無視するキレてしまう乗り物だからである。さらに牛や馬を相手にしていた時代なら相手は生き物だからキレてはつきあいない、そこでは忍耐力が自然と養われた生活になっていたのだ。情緒と心は自然環境だけではない、街の環境からも作られのである。ヨ-ロッパの古い都市を歩くと古い石の建造物に囲まれ精神もそこで昔に帰る、不思議に建築の心が備わるから不思議である。人間が古代建築的に影響されて精神も堅実なものとなってゆく不思議があるのだ。それは石とか石畳の道とかに影響される。ヨ-ロッパの都市を歩いてなるほどヨ-ロッパの文化はこういうものかこうして形作られたのかと理屈なしで実感できるのだ。日本の街が雑然として魅力ないのは歴史を無視して利便性のみを追求したからだろう。ヨ-ロッパでは石の文化だから古代が土に埋もれて残っていることもその精神形成に今も影響しているのだ。日本は木の文化で過去が残らないということが精神形成に影響しているのだ。日本文化が伝統が失われたというときやはり歴史的街並みが失われたことも影響しているのである。 江戸時代の精神性は日本の伝統と歴史と自然の中で養われ作られてきた。それが明治維新で西欧化して変質を重ねていった。そしてアメリカの敗戦のあと現在にいたっている。その過程で日本的な精神を伝統を受け継ぎ精神を形成するものを失ったのである。それは本読んだからとか一人の師に教えられて受け継がれるものではない、時代の全体の環境から受け継がれるものだから日本人の良さは受け継がれず日本の文化は消失しつつあるのだ。
 
中津川冬の岸辺の喫茶店ホットユズ飲み心あたたむ
 
 


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