2010年12月20日

移動する遊牧民的志向と定着する農耕民的志向


移動する遊牧民的志向と定着する農耕民志向

現代のグロ-バル化市場化は遊牧民的である。貨幣が世界で通用するのもそうである。貨幣は遊牧民的である。どこに移動しても世界中のどこでも貨幣が通用する。特にドルはどこでもアフリカの果てまで今は通用しいてる。エジプトでロバにのった少年がドルをくれといっている。ドルは世界的貨幣なのである。ボ-ダレスというとき砂漠の民に国境はない、国境となるべき自然的障害がないのだ。せいぜい川があるくらいである。あとは平坦だから国境は本来ない、国境は人為的に作る他ない、でもそれは本当の国境にはなりにくい、いつでも国境は越えられる。
だから砂漠の民や草原の民にとって移動が日常的に行われているのだから自ずと商人になっているのだ。イスラム系や中国系も商人的文化が栄える。商人の歴史は信じられないくらい古い。契約とかがメソポタミアやイスラム系ではじまったことでもわかる。契約の神が両方の共通した神だからである。大陸だと移動のスケ-ルが大きい、ゲルマン人の大移動とか民族の大移動がありその移動により他の民族と衝突することが戦争にもなった。今のような国と国の戦争ではない、移動するために戦争になったのである。移動するパワ-は日本人には考えられないものである。それも遊牧民は日常的に移動しているからこそそのパワ-が生まれる。定住している農民にそんな移動のパワ-は生まれない、騎馬民族であり馬を駆使する、移動の民のエネルギ-がモンゴル帝国のように世界の半分を席巻した。


日本人は中華帝国のように農耕民だから農本主義になる。遊牧民的なものは本来ないのだ。その志向も定着文明の農耕民である。農耕民はどうしてもストック文明になる。貯蓄志向になる。外部へ出て冒険がしにくい、遊牧民は移動するからそもそも貯えるという志向が育ちにくい、移動するとなるとなるべく身軽な方がいいからだ。だから持ち歩くものは軽いものがいいのである。貴金属とか宝石とかもいい、そういうものが貨幣の代わりにもなる。つまり交換しやすいものがいいのだ。量が多くがさばるものは持ち運びにくいから遊牧民には必要ではない、なるべく身軽なもので用をたせるものがいいのだ。航海でも船で行くとするとやはり身軽な方がいいとなる。移動するには旅をするにはどうしても身軽な方がいいのである。そういう遊牧民志向、ボ-ダレス志向が現代を席巻したのである。カ-ドなら貨幣よりさらに便利である。世界中どこでもカ-ド一枚で金に換えることができる。固定しているものは定着的農耕民に向いている。家をもち家具をそろえるのは定着型農耕民の志向である。持ち歩きに便利というとき食料でも米よりパンが有利である。パンは長持ちするからいいのである。インスタント食品が発達して売れるのも遊牧民的であり冷凍食品などもそうである。どこでも簡単に料理できるからだ。


つまりそうした簡単に持ち運びでき使用できるものが売れるのは遊牧民文化である。洗濯でもコインランドリ-の方が便利なのだ。各自で洗濯機や乾燥機を買うよりコインランドリ-の方が経済的なのである。なるべく家での生活を簡素化するには家にいろいろなものを置かない方がいい、本でも電子書籍化して電子空間化した書斎がいいとなる。それなら無限大に情報を置くし場所は関係ないのである。電子図書館というとき福島市に巨大な図書館があっても全く利用できない、その場所に行かなければ利用できないものは定着の農耕民的なものとして作られているからである。モバイルというときもそうである。まさに移動しながら情報をやりとりできる。極めて遊牧民的な商品なのである。そもそも車社会自体遊牧民的な商品を一番象徴していたのである。アメリカ人があれだけ広大な土地に住んでいるのだから移動を好むのがわかる。やはり遊牧民的なのである。


現代の生活の特徴は遊牧民的なのである。遊牧民的な生活になっているから遊牧民的なものが商品として開発され売れるのである。もちろん現代だけではなく人間の生活は本能的に移動と定着を志向する習性がある。自然でも山や樹や石は定着であり動物や鳥は移動する。
鳥はまさにボ-ダレスに移動するから極めて遊牧民的であり憧れの対象となる。遊牧民は自由を目指すからまさにまた現代を象徴している。自由とはなにものにも縛られないことだからである。青年はみんな遊牧民であり老人は定着の農耕民になるのが自然の摂理である。ただ世界は移動の民の遊牧民によって導かれた。国や都市も遊牧民が作ったとか中国の最初の国家が始皇帝の国家が西域地域であり砂漠や草原の民、騎馬民族と接したところから起こったことでもわかる。強力な兵馬俑の騎馬軍団を擁して広大な中国を支配したのである。日本も騎馬民族征服論があるように強力な支配力を指導者を養成するのは遊牧民、牧畜民だった。遊牧民が地中海にでて航海の民となり大航海時代を作り世界を変えたのもやはり遊牧民が基になっていたのである。農耕民は定着だから安定志向になり冒険を好まない、結果的に遊牧民に支配されることになった。ただ結果的には定着の農耕民に吸収されるのは当然だった。そもそも定着なくして人間の生活の安定はありえいからだ。だからどうしても安定を目指すから定着型文明になる。

2009年12月22日

茶の心への回帰


茶の心への回帰



茶を飲みて石に通じる冬の暮

茶を飲みて東洋の心に帰るかな

冬の日に寂けさ味わう茶の心


最近茶道に興味をもったのは庭をリホ-ムして茶室みたいなものを考案したことである。庭と茶道は密接に関係していたのだ。山居を庭に作るのが茶室だった。市中にあっても山居の趣きを作る。岡倉天心が「茶の本」を出して東洋の日本の心を伝えようとしたこともそれなりに茶道には文化の神髄のようなものがあったからこそである。最近気づいたのだけどコ-ヒ-と茶の相違は何か?その味にあった。これは根本的に違っている。これほど違っているものもない、紅茶とも違っている。紅茶もイギリスの文化となったごとくモ-ニングティ-としてイギリスの文化となったごとく飲み物も単なる飲み物ではない、文化なのである。ただ喉をうるおすなら動物である。


不思議なのは動物は人間が飲んでいるように無数の味のついたジュ-スなど飲まないという、水しか飲まないということは動物は老子のように無味を味わう、純粋な水こそ最良の自然そのもの味として飲んでいる。茶道となると抹茶だから普通の茶とはさらにその味が違っているのだ。ただ日常的に茶を飲む習慣は日本人にあり抹茶を飲むとなると普通の人にはない、茶道は意外と一般的ではない、特殊な人の趣味となっている。茶道の作法を知るには相当な年期が必要になるしそうした場も必要である。すると一般の人はなかなかなじめないとなる。自分もほとんどわからない。何か日本の文化といってもなじめない、別な世界のものに感じているのも茶道が日本の文化だというのももう一つ日本人そのものがぴんとこないのである。


『経国集』(天長四・827年)には、嵯峨天皇の宮女が「出雲臣太守の茶歌に和す」として詠んだ漢詩があります。
山中の茗、早春の枝。萌芽を摘み採って茶とする時。山傍の老は愛でて宝となし。独り金鑪に対い炙(あぶ)り燥(かわ)かしむ


827年にすでに茶について語られている。いかに茶の歴史が古いかあらためて知る。それだけ奥深いのである。茗は小さくてよく見えない芽という意味・・・山傍の老は愛でて宝となし・・とあるごとく茶はやはりこんな昔から老人にあうものとしてあった。ここで自ら茶となるものを採取して茶を作って飲んだ。その味わいは買って茶を飲むより一段と味わい深いものとなる。それにしても天皇の宮女となるとこれだけの教養があった。今天皇に仕えてこれだけの漢詩を作れる女性などいない、天皇自身も作れない、天皇自体が今や日本の文化を体現していないのである。昭和天皇は和歌がうまかったから最後に日本文化をプラスにしろマイナスにしろ体現した人だったかもしれない、天皇は権力者ではない、日本の文化の頂点に立つ人としての権威だったのである。

なつかしき冬の朝かな。
湯をのめば、
湯気がやはらかに顔にかかれり 石川啄木


お茶は冬にあっている。寒いとき湯気だたちそれがなんともいえず冬らしい。特に冬の朝にあっている。今の時代、八十才でもコ-ヒ-党の人はかなりいる。コ-ヒ-にはコ-ヒ-の良さがあり味がある。コ-ヒ-は街の中の喫茶店とかでケ-キを食べながら飲むのにあっている。ヨ-ロッパの社交となると庭でも全く日本とは違っている。庭というより大勢の人が集う場である。あまりにも広いから日本の庭の感覚とはあまりにも違いとまどってしまう。日本の茶道は対話的であり少人数向きであり庭にしても狭いから何か茶室も禅のように社交というよりは悟りを得るためのようなものと通じている。茶が薬であり僧からもたらされたことでもわかる。コ-ヒ-にはカフィンが入っていて脳を興奮させるものがあるが茶には脳を静める作用がある。その味があまりにも違っている。

炬燵入り茶を飲みつつも石を見て亡き人語る年の暮かな(自作)

茶はやはり畳の上で庭の石などを見て飲むのがつくづくあっている。故人を語るときもコ-ヒ-よりは茶の方があっている。文化は総合的なものとするとき日本の庭や畳の部屋や木の家とか障子とか和合して存在する。今は文化が混合しているから本当の純粋の文化は喪失した。今の時代東洋とか国風文化へと回帰する心がまた起きている。明治維新には西欧文化に対抗するものとして岡倉天心などが「茶の本」を書いたのだが欧米文化一辺倒になって日本人は疲れた。それでまた東洋へ国風文化へと回帰してゆく。

日本は十分に過剰に欧米の文化に服した。そのあとにまた東洋へ国風文化への回帰が起きる。特に老人になるとどうしてもコ-ヒ-党もいいが茶への回帰も起きてくる。やっぱりお茶もいいなとなる。お茶の渋さは石と通じている。日本の庭がいかに石に意味を見出そうとしているか如実に示している。竜安寺の石にしても外国人が見ても何の意味があるのかわからないだろう。有名な庭だけではない、庭にはそれぞれ必ず個性があるのだ。だから庭はわかりにくい、外から見えないしわかりにくい、鑑賞するにも時間がかかりわからない、だから庭は盲点となっている。石というのも単純なものだが個性がありこれも時間をかけないと鑑賞できない、石には明らかにそれぞれ表情があるのだ。その表情をくみとることが簡単にできないのである。お茶と石は通じるものがあるがコ-ヒ-や紅茶はあわないのだ。やはり茶碗で抹茶を飲みその渋さ苦みを味わい文化に通じる。抹茶でないにしろ茶を飲むこととコ-ヒ-を飲むことはその味の違いがそもそも相当な文化の差となっているのだ。ただどちらにしろコ-ヒ-も茶もあたためて飲むとき味わいがあるから冬にあっている。イギリスのような寒いところでスリランカとかでとれた紅茶が文化となったごとく寒いところで文化になった。それは共通しているのだ。

一服の茶をたて別る冬に入る

winter come
a cup of japanese tea
parting man


茶室に逢い飛び石踏みて帰る人我が思うかな年も暮れにき


茶道は集団的ではない、組織的ではない、個と個が対することにある。集団化組織化した現代の大衆文化とは相いれないものがある。庶民的にはただ茶を飲み安らぐものだが抹茶を飲むとなるとそれは大衆的ではない、選ばれたものが入りえる世界である。にじり口から入るとなるとそれは侍も商人も分け隔てなくするもの平等にするものとあるがそこは実際は選ばれたものしか招かれたものしか入れない狭い入り口なのである。実際に東北などでは茶室をもっていたりするのはまれであり親しむ機会も少ない、それは秘密の世界になっているのだ。ただ実際に作法など知らなくても茶の心は日本文化だから日本人なら思想的にどういうものか察知できるのである。

2009年03月06日

一つ松の話(松は日本人に最も親しい樹)


 

我がよりぬ松一本の我を知る誠実にしてその松による

そが友は誰にありしやこの道の一本松(ひともとまつ)や我を知るべし

人の世よ偽り多く嘘多き松誠実に我はよりにき

尾張に直(ただ)に向へる 尾津の前なる一つ松、吾兄(あせ)を

一つ松人に在りせば 太刀佩(は)けましを衣着せましを 一つ松、吾兄を 

日本武尊

 一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも. 市原王

岩室の 田中に立てる ひとつ松の木 今日見れば しぐれの雨に

濡れつつ立てり ひとつ松 人にありせば 傘かさましを


蓑きせましを ひとつ松あわれ・・・・良寛
 
樹にはいろいろあるけど松は日本人にとって一番親しい、松はまた一番人間的なのである。人間に近いのである。だから擬人化されるのだ。松はそんなに高くはない、杉でも他の樹は高いから友というふうにはなりえない、松は人間が立っているように見えるのだ。松はまた誠実に見える。誠実の象徴としてふさわしい。樹もいろいろ精神的に象徴化される、やはり本当に誠実を具現化している。あんまり細いとふさわしくないがそれなりの幹の太さがあると誠実とか質実とかがにあうのである。上野霄里氏流に言うと自然の中に原生質がありその原生質というのは神しか作り出せない、コンクリ-トは原生質がないから映えない、自然の美質、原生質があってこそ人間が作ったものも映える。樹であり大理石であり土であれ素材は神から提供されのだ。もちろんすべての素材は食料でも神から提供されているのでありいかにも人間が作ったようにみえてもすべて神の神秘の知恵から作り出されたのである。米一粒でもそうだしそれは神秘的なものであり科学では解明されない、なぜなら米一粒でも大地と太陽の光と水と様々なものから養分をとり実ることができるからでありそれは神の神秘の業なのである。でも今やあたかも人間が作り出したように錯覚するようになったのである。だから神に感謝することもない、ただ人間が作り出しものとしてむさぼるのである。文明は神より人間の力が大きなものとして写る、文明があって食料でも何でもあらしめられるような錯覚に陥っているのだ。だから一粒の米から神秘を感じて神に感謝するようなことはない、そこに文明の傲慢が生まれたのである。
 
岩代の浜松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む── 有間皇子
 
これも松が誠実なことを示している。松自体が信仰の対象のようになっていた。松は日本人の文化であり江戸時代でも松並木とか松が景観を作っていたから美しかったのである。昔の道は狭い、広い道路は少ない、そうした細道に松並木がある、松に導かれて歩いてゆくように広重の浮世絵でも描かれている。日本人はあまりにも景観に無頓着であり破壊しすぎたのだ。高速道路も全く景観を無視して破壊する。物流にはいいのかもしれないが松と人間が語り合うような悠長な世界は喪失したのである。そういうことが実は人間の精神にも相当な影響しているのだ。精神を荒廃させる。自然の中に美徳がありその美徳があるゆえに人間も美しくありうる。大都会がいくら豊かでもそこに美がないのは自然の背景が全くないからである。高層ビルを背景にして美は作り出せないのだ。

 
砂をふみ松の間歩み秋の日や敦賀の入江に船泊まるかな
 

青松白砂という日本独特の風景もいたるところで喪失した。気比の松原とか虹の松原はまだ残っている。砂をふむということがなかなかできない、砂浜は相当浸食されたり日本から失われた。
 
真木の葉のしなふ背の山偲はずて我が越え行けば木の葉知りけむ

天雲の棚引く山の隠(こも)りたる我が下心木の葉知りけむ
 
この万葉集の歌なども不思議である。木の葉知りけむ・・というとき自然の中に入っていくとき、自然は何の言葉も出さない、拒絶もしない、しかし自然は荘厳であり清浄の神域として感じられていた。木の葉があなたの心をしるとなると不浄な人は本来自然と接触できないことも意味している。でも実際はづかづか自然の中に入って乱しているのが人間である。でも「我が下心木の葉知りけむ」というとき下心というとき何か人間の心をみすかすものが自然にある、自然がみている、木の葉が見ているとなる。ここには自然を神とした神道の基がある。松による心は誠実でなければならない、一方で松にも心があり松の方からも人間を見ているとなる。もし自然に松に近寄る人間から毒々しいもの発していたら例え見えないにしても心が汚れていたら松は見ているかもしれない、いづれにしろそうした自然に対する畏怖は本能的に万葉人辺りでは感じていたがだんだん忘れられて単なる美的なものとして自然を見るようになってきた。だから今のように高速道路であれ何であれ大規模な自然破壊にも何の感覚もないのだ。自然に対する畏怖は喪失して文明の無謀な侵略のみがあるだけなのである。
 
 

松を友とする秋の短歌
http://musubu.sblo.jp/article/l6450384.htm

 
 
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掛川
 

2009年02月10日

日本の塔と中国やがヨ-ロッパの塔の相違 (対象的なものに文化が育まれる)


 

●金閣-銀閣の対象性が文化を育む
 
京都の金閣にしても銀閣にしても一回しか見ていないから良くわからないけどこの対象性が千年の京都の都の文化を象徴している。平泉の金色堂は一つしかない、京都には金閣もあり銀閣もある。その対象性が文化である。対象性のなかに互いに個性を示して輝きあうものがある。そういうものが必ずある。どちらがいいというのではなくどちらも輝きあうのである。利休の侘、寂もいいが豪華絢爛な金の茶室の秀吉の好みもそれなりに全部は否定できない、美はそこにもあった。京都にはそうした二つのものが対象をなして光輝を放つ、みちのくは侘、寂の美しかない、つまりみちのくにはまだ文化は華開いていないのだ。金色堂も侘、寂のなかに朽ちてゆく、五月雨の中に残されていたかつての繁栄の証としてわずかに残されていたのである。ただ文化というのはその土地により個性が歴史が違ってあるからこそ互いに映えるのだ。みちのくには侘、寂、土臭さなどがあっているのだ。ともかくこの文化は対象性のなかに映える。ラテンとゲルマンの文化の相違は明確でありライン川を境に二つの文化は成長してヨ-ロッパの魅力を形成してきたと同じである。 文化は相剋の中に光輝を発する、人間でも天才の資質が異なることにより相剋により個性を発揮する。単純に一様だと文化は生れない、異質なものが交わることにより文化が生れる。そして個性にしても人はないものに憧れる、神経質な繊細な人はどうしても大胆な豪胆なおおらかな人に憧れるのである。それはその人にない資質だからである。これは別に芸術でなくても男女の仲でもそうである。同じ性格の人より違った性格の人に憧れる。そもそも男女は性格を補いあうからこそ男女なのである。
 
●ヨ-ロッパの塔と日本の塔の相違(日本の塔は優美、ヨ-ロッパは強固)
 
塔にしても欧米の塔はwatching towerであり敵が攻めてくるのを監視する実用的塔でありだから中国の仏教の塔でも日本の塔とは違っている。高いし厳格な塔なのである。日本の塔は五重塔でもそうした歴史的性格がないから優美なのである。中国人が見たらこれが塔なのかとか同じ仏教でも違ってくるのだ。欧米の歴史は異民族の戦いの歴史だから民族みな殺しとか負けたら奴隷にされるとか厳しい戦いだから万里長城とか作ったりするからそこが日本の文化とは根本的に違う厳しい文化なのである。中国などと対照的に見ると日本の塔は優美である。日本の文化は繊細で優美なことが特徴になる。あまり荒々しいものがないのだ。
 
春日さし五重塔や鳩とまる

奈良に来て塔に雀や蓮華かな

秋日さし室生寺に休む女性かな
 
こういう感覚は日本的風景だった。中国は荒々しいし仏像でも厳格である。あまり柔和さがない、日本人好みなのは柔和なことである。大陸的なものは厳格であり日本的なものは漢字と比べたかなのように柔和な女性的なものとなる。漢詩は男性的でありかなは女性が発明したように女性的なものが日本の文化の基底を作っていてそれで優美であり柔和なのである。つまり唐心があり大和心があって対象性があって文化は育まれる。大きく世界的東西の文化でもそうである。かならず対象的な文化がありその対象性の中に文化が育つ、日本でも西の都-京都を軸として文化が生れたが東を軸として関東の武士から鎌倉文化が起こった。これは中国でも南と北は性格が違っている。南は温和であり北は異民族と接して厳しく寒い風土である。南船北馬とか稲作と麦の相違とか遊牧民文化とか違っている。 これはヨ-ロッパでも同じだった。ラインを境にして狩猟民、遊牧民の厳格な北方のゲルマン人の文化でありそれがゴシックの大聖堂として結実した。要するに北と南の文化は対象的になる。北的要素と南的要素が融合してルネサンスが生れる。それはフィレンツでルネサンスが起こった要因である。それは男女の性格にも通じている。南は女性的になりやすいし北は男性的になりやすいのである。その二つの要素があって文化は興隆するのである。
 
●塔は街全体の一部として構築された
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%94#.E5.A1.94.E3.81.AE.E5.AE.9A.E7.BE.A9
 

ここにいろいろな塔の写真があるがヨ-ロッパの塔は監視の塔が多いから教会でも要塞でありそこから敵の侵入を見守るものだから日本の塔とは性格が違う、要塞としての塔なのである。
バベルの塔は、町と塔を建てて、その頂きを天に届かせようとする試みだった。町(街)と塔は一体なのである。街から離れて塔は存在しない、日本では街から離れた寺に塔があるのとは性格が違う、中国でも寺に塔があるのだが塔は高いし厳格であり日本の塔の作りとは違っている。塔と城壁と街は一つであり敵から守るものとしてがヨ-ロッパ−ではあった。中国にもそうした性格が受け継がれている。防衛的要塞的だから塔の性格は違っている。塔はまた大陸では広い砂漠とか草原とか平野から目印になるものでもあるから高い必要があったのだ。日本では近辺から見えるだけでいいから高くない、ただ優美に作られていれば良かったのである。

 
山に上り塔の三つや春日映ゆ

春の日や山の彼方に塔映える

百輪の白木蓮や六和塔大河を望み千歳建つかな
 
中国では山に登っても高い塔がいくつもある。大河の辺にもあるしいたるところに塔があり塔の国なのである。
 

a highly centered tower in the clear sky
on the vast  ground
the building one in the city
strength and  concentration 

 
 degree of potency of effect or of concentration 
 
ヨ-ロッパの塔は建築として全体として街を構成するものとして作られている。ヨ-ロッパの都市は塔も城壁も橋も街全体が建築として設計され構築されたものとして積み上げられ作られている。それは終らない建築である。サラダファミリ-の塔などが完成しないのはそのためである。日本には建築の思想が根本的に欠けている。計画的な街作りがない、無計画的に拡大化してゆくからかえって自然破壊に通じているのだ。街が自然の枠を越えて拡大化する技術をもったとき計画的に自然と融合することを設計しなければ自然は破壊される。これまでは技術がないから日本の自然は破壊されなかっただけである。

2009年01月17日

郷土史は土の上に成る、農業が基である(陸田と水田)

●水田と陸田

農家出身でないし農業のことわからないから余り発言できないけど文化の側面からしたら郷土史と農業は一体である。土地と一体化して郷土が形成されている。郷土とは土の上に成り立つものであり故郷とは故ある場所となるがこの故とは歴史が形成された様々な因縁がある。郷土が土からなっているのだから土から離れてはありえない、文化もそもそも耕す-cultureだから土から生まれのが文化だった。土から離れて文化はありえない、ワインにも土地の名がついたのはその土地で培われプランドが長い間の蓄積で作られた。グロ-バル化した時も地方のワインも危機になったというのがわかる。郷土史とはそもそも地に根ざしたものである。だから農業とは一番結びつくのである。でも耕すとは畑を耕すものだとばかり思っていた。田かえす・・・が元になっていて田をかえす-田を耕すことだった。畑を耕すことでないことは意外だった。畑という字も火に田であり田から連想されている。水田と陸田とういのもあり陸田というのは畑のことであった。


穀物では稗は畑と並んで水田でも盛んに栽培され、特に稲の栽培に適さない冷水しか供給されない水田では重要な作物であった。また、蓮、慈姑、田芋といった栄養生殖によって増殖される芋類、根菜類も重要な水田作物であり、・・・・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/


水田というと稲だけを栽培するものとみるが違っていた。しかし焼畑は原始的農耕としてあったがのちに稲作りが主要となり田から農耕を考えるようになったから畑を陸田などと言うようになったのだ。日本の文化は古来や山にあった縄文的文化は稲作が全国に広がるとともに失われた。それで遠野物語が弥生文化とは違う山民の文化が残っている伝承として柳田国男が知らしめたのである。そもそも岩手県辺りでは寒いから稲作に向いていない、それで北上山地の閉伊郡では一揆が起きている。青森県でも江戸時代まで稲作をしていない、畑作中心だった。稲作は必ずしも全部に向いたものではなかった。特に寒いところには向いていなかったのである。相馬では急速に陸田から水田に移った、水田をふやしたとあるから稲作にはまだ向いていた方だったのだろう。岩手県辺りからそんなに簡単に稲作に移行できなかったのである。

●農業の多様性

人ですら同じ環境、同じ時間、同じ勉強をさせても結果が違う。
生物は種の個体差、環境=地域差、天候の違いがある。

輪作できない作物の場合は、また他の種の転作用のノウハウが必要になる訳で、紛れがある生物を一定の質で作るのは非常に難しい。


郷土史の本を読むとなぜ民情が違うから合併はむずかしいとか書かれてあるのか、これは相馬藩と伊達藩になると余計にそうである。新地辺りでは境だから相当な民情の相違があった。
言葉とかもかなり違っていた。江戸時代とは一つの山を越えたら民情が違っていて相いれないものがあった。今ならそんな境界はない、民情が違うなどありえない、それは外国との民情の相違になる。日本国内では広くてももはや民情の相違など問題にならないのだ。それだけ文化でも一様化ししてしまったということを逆に証明しているのである。

ともかく郷土史は土の上に成り立つから農業が基本になる、農業に通じていないと郷土史も深めることはできない、それで私の場合は欠けたものになる。農業をしたいとか派遣の人が農村に入るのはむずかしいということでこの発言があった。こういう人はやはり農業を実際している人なのかもしれない、だからこんな発言ができるのかもしれない、農業は土や自然とかかわるから工業とは相当違ったものなのである。つまり多様性、継続性、調和性・・・の世界でありそれは文化と通じている。文化とはそもそも一様化ではない多様性であるからだ。江戸時代は今では考えられないような多様性の世界だった。それは一つ山を越えてもそうなっているのだから藩を出たらさらにそうである。家の作りまで違っていたりと外国に行くようなものでもあった。だから江戸時代を旅したら今とはまるで違う、文化が村々で違っていたのである。

郷土史研究にはやはり町誌とかかなり詳しくバイブルのように読んでないとわからない面もある。資料を読む能力も必要だしそれから地理にくわしくならねばならないし農業とかに実地に経験していると詳しくなりやすいとか郷土史の分野でもこれは一人でできるものではないのだ。これは相互に協力しないとできない、全国レベルではインタ-ネットで郷土史関係の情報は無限大に増えた。だから絶えず私はその情報を編集して出しているのだ。編集するだけでも新たな郷土史を書いているのである。

2008年12月18日

日本文化の消失(古い街並みの消失-盛岡の魅力)

街の魅力というとき車社会化(モ-タ-リゼ-ション)で通りがシャッタ-通りになり消失したことである。駅前通りも鉄道の衰退でさびれた。駅前がゲ-ムセンタ-になっているのもがっかりした。街の魅力はどうして形成されるのか?一つは歴史であり、自然であり、利便性である。今突出したのは利便性なのだ。まさにコンビニ化でありス-パ-化でありさらに巨大ス-パ-、ショピングセンタ-化になる。そこでは歴史とか自然とかは関係なく利便性のみがあるのだ。でも歴史的街並とかあり街にも歴史的形成されてきた。宿場町がそうである。街として魅力があるのは東北では少ないだろう。今や街も仙台とか盛岡くらいなると街としての魅力に欠ける。相馬市なら田町通りが新しく作られたからそれなりに新しい街作りがあったがそれでも利便性が欠如しているので買い物に適していないので人が少ないのである。他に南相馬市では昔は原町駅があり駅前通りだったが今は六号線の通りが街になっている。そこには市立病院があり道の駅もできたから買い物も便利でここが本当は南相馬市原町区の中心になっているのだ。ともかくどうしても日常生活では利便性が追求される。忙しい時代だから特にそうである。買い物が仕事だがこれも一仕事であり他のことが余裕もってできなくなる。だからどうししても一カ所で買い物をすませたいのが現代なのである。
 
でも街の魅力に欠かせないものがある。歴史と自然なのである。私は内向的性格故喫茶店が好きだった。喫茶店で本を読んだり音楽を聴いて瞑想したりするのが好きだった。今は喫茶店の数が激減した。旅をして喫茶店に休もうとすると喫茶店だけやっているのはまれである。地方では喫茶店は前は安かったが今は倍以上になっている。なかなか簡単に休むわけにもいかなくなっている。喫茶店だけでは商売が成り立たなくなってしまった。でも街を歩き旅では喫茶店は必需品なのだ。盛岡には歴史があり北上川と中津川が川のアンサブルとなってクラシカルな雰囲気とモダンな雰囲気をかもしだす、それは啄木や賢治の時代からそうだったのだ。その象徴として煉瓦の明治時代の岩手銀行が残っている。また擬宝珠の橋など橋を人が歩いているのを見ているだけで絵になっているのが盛岡である。まるで浮世絵の一場面を見るようなのだ。そこでは着物姿の女性もあっている。それほど騒々しくないのだ。過去と現代が融合している街なのである。こういう街はめずらしい、新しい街は喧騒の中に在り情緒がなく利便性があってもなごみがないのだ。今回中津川の岸辺の喫茶店でホットユズなるものを飲んで休んだ。これもモダンなものなのだ。新幹線だとあそこのホットユズ飲みに行こうかともなる。仙台だと定禅寺通りの欅並木がいい、盛岡が全体が歴史と自然が融合して魅力がある。他に深草とか駅前のプラタナスの通りにも喫茶店がある。喫茶店回りも一つの街歩きの楽しみとなる。新幹線で仙台と盛岡の両方を楽しむことができるのだ。
 
車社会は利便性を追求した最たるものだったが伝統的なもの自然すら破壊した。しかし利便性のために今や車を手放すことはできないのだ。ただそれによって街の魅力は失われた。やはり現実に生活としてし活きていなければ街に活気ができないからだ。ショッピングセンタ-やコンビニでもそこにあるのは利便性だけなのである。情緒的なものはそこでは養われない、そんなもの贅沢であり必要ないものだと言えばそれまでだがやはり淋しいものがある。情緒的なものは精神にも影響するから必ずしも無視できないのだ。近頃は老人もキレやすい、怒り安いというのは今の老人で劣化したからではない、車社会はそもそキレ安い心を作るのだ。車というのは通り歩み人間が出会うのとは違う、完全に徒歩者を無視するキレてしまう乗り物だからである。さらに牛や馬を相手にしていた時代なら相手は生き物だからキレてはつきあいない、そこでは忍耐力が自然と養われた生活になっていたのだ。情緒と心は自然環境だけではない、街の環境からも作られのである。ヨ-ロッパの古い都市を歩くと古い石の建造物に囲まれ精神もそこで昔に帰る、不思議に建築の心が備わるから不思議である。人間が古代建築的に影響されて精神も堅実なものとなってゆく不思議があるのだ。それは石とか石畳の道とかに影響される。ヨ-ロッパの都市を歩いてなるほどヨ-ロッパの文化はこういうものかこうして形作られたのかと理屈なしで実感できるのだ。日本の街が雑然として魅力ないのは歴史を無視して利便性のみを追求したからだろう。ヨ-ロッパでは石の文化だから古代が土に埋もれて残っていることもその精神形成に今も影響しているのだ。日本は木の文化で過去が残らないということが精神形成に影響しているのだ。日本文化が伝統が失われたというときやはり歴史的街並みが失われたことも影響しているのである。 江戸時代の精神性は日本の伝統と歴史と自然の中で養われ作られてきた。それが明治維新で西欧化して変質を重ねていった。そしてアメリカの敗戦のあと現在にいたっている。その過程で日本的な精神を伝統を受け継ぎ精神を形成するものを失ったのである。それは本読んだからとか一人の師に教えられて受け継がれるものではない、時代の全体の環境から受け継がれるものだから日本人の良さは受け継がれず日本の文化は消失しつつあるのだ。
 
中津川冬の岸辺の喫茶店ホットユズ飲み心あたたむ
 
 


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