2026年01月22日

神を愛するとは何なのか 【親子の愛でも何故もめるのかー無償の愛が無いから】

神を愛するとは何なのか
【親子の愛でも何故もめるのかー無償の愛が無いから】

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただ一人である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4−5)これがヘブル語の聞け"という最初のことばからとったシェマーとして知られていることばです。 現代のユダヤ人は、朝夕の祈りの中で、シェマ―を唱えることを最も聖なる義務の一つだと考えます 

主を求めなさい
主を恐れなさい
主に仕えなさい
主の命令と定めを守りなさい
掟を守り行いなさい

聖書メッセージ(Tヨハネ4:7〜12)『神は愛なり』
聖書箇所 Tヨハネ4:7〜12

4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

神を愛しなさいと言うけど神をどうして愛せるのか、目に見えないものを愛せるのか
神が愛であるという時神は常に人を愛する者であり与えてくれるものである
それが神を愛しなさいというとき神が愛されることを望む。神は自ら満ち足りたものであり愛されることを望むのかとなる。
人間は常に人であれ愛されることを望む、それで神は誰であれ愛してくれる与えてくれるものと見る。だから神を愛しなさいとは何なの理解できない
そもそも愛という時愛される愛であり自ら他者をすべてのものを愛せよとなると実行できない、だから教会であれ宗教団体であれそこに入るのはみんなが神が愛してくれる与えてくれる何かもらえると思って入る、それが他者愛しなさい与えなさいと指導されると期待外れだとなる

そもそもそうした高等な愛でなくても愛にはいろいろある。親子の愛と男女の愛とかいろいろある。では神の愛という時何なのか?それは親子の愛とか家族愛とかからしかイメージできない、だからキリスト教では父の愛となる。それは親子の愛なのである
でも親子の愛は血縁の愛である。父の愛はそうした血縁とは関係ない、愛という時血縁でも親子の愛がない場合がある。それで親子間で確執がありもめる
親の愛にもエゴがあり条件があり見返りを要求する。

要するに無償の愛がこの世ではない、愛にしても必ず見返りが要求される。親子でもそうである。それで嫌になり親子でも争う。神の愛となれば無償の愛である。愛する人であれ何も要求しない、それでも神は愛されることを望み要求する。神も愛されることのである。それは何か物を与えるとかではない、神を愛することは神に仕えることであり神の掟を守ることである。だから肉親などの愛とは違う。そこに厳格な父が存在してその戒めに従うとなるから母親の愛とも違うとなる、そこが誤解しやすい、何でも許され与えられ愛されるのとは違う。

でもみんな神とはそんな厳格なものとは見ない、とにかく無条件で愛され与えられるものとみる。それで宗教団体に入るのはとにかく何かを与えてくれる愛してくれる助けてくれると見て入る。だから愛しなさい、与えなさい、許しなさい・・・とかなると実行できない、愛してください与えてくださいと思って入ってくるからである。実際はカルト教団になると一人でも会員を増やして勢力を増大させてこの世で力を持つことだから受け入れる。でも何でも与えられれ助けてくれるとはならないとなり失望する。それも余りにも勝手なものだとなる。
その神の厳しい掟を守れとなれば嫌だとなる。何か騙されたともなりやめるともなる
それも余りにも勝手な一方的な要求だとなる。自分の都合のいいように解釈してそうなる。神は相当に厳格であり女性のように甘いものではない、

とにかく愛という時、愛してくれる与えてくれることであり神でも愛することであるということは理解できない、神を愛することがどういうことか理解できない

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

まず人間が神を愛するということはありえない、第一見えないし実在するのかどうかもわからないからである。だから人間は常に神ならざるものを愛して拝むのである
それで妬む神として神がその実在を示したのである。

弟子フィリポが「父(神)を見せてください」と願った時、イエスはこう答えました。
「私を見た者は父を見たのです」
これは、
「神を知りたいなら、私の生き方・言葉・行動を見なさい

紙は見ることはできない、でもキリストを見た者は神を見たとなる。神とは何なのかキリストの言動を見て知ることができたのである。抽象的ではなく目前に現存する者として認識できたのである。

神が愛であるという時、親子の愛とかからイメージする。でも親子の愛でも無償の愛はない、常に何かを要求する愛である。別に親子でなくても血縁でなくても愛はありうる
その方が本当の愛となることもある。なぜなら一緒に子供の時から生活しなければ血縁でも親と認識されない。そこで愛は育まれない、それで動物は親が違っていても乳をのませれば親と認識するが実の親でも認識できない、犬でも犬に育てられた猫は犬が親だとなる。そこに親の愛を感じて育つからである。

ともかく神の愛とは何なのかそれは親子の愛とかからしかイメージできない。親子の愛でも母親の愛と父親の愛は違っている。父の愛は厳格な愛になる、でも母親の愛をみんな求めてている。厳格な父親の愛は嫌なのである。
だから神を愛しなさいというとき父の愛は受け入れにくいのである

愛が最も大事なことはわかる。何故なら愛は体にも影響する。病気になったりすれば看病するにも愛が必要になる。でも医者でも看護師でも家族代わりになれない。家族のような愛を持てないからである。そこが致命的になる。
また独身者が早死にするのは愛する人がいないからだとなる。つまり愛は体に影響する。心と体は一体だからである。それは自分自身がそうだからわかる
いくら病院で治療するにしても高度な機械で診てもらうにしても優秀な医者に診てもらってもそこに愛が無ければやはり影響する。でもその愛は家族なら持てるが医者でも看護師でも持てない、そこに限界がある。癌でも周りに愛する人がいれば癌でも消えたり長く生きるというのはわかる。それだけ愛は影響する。でも何かそれほど重要視されない、常に医者に機械に薬に頼る。機械でもAIでも愛が持てないのが限界である
神が愛であるというとき愛が持てなければ神にはなれないからである。
だからいくら文明が高度に発達してもそこに愛が欠けているから殺伐としている
愛無き荒野と化している。

いづれにしろいくら愛を説いてもそれを実践することはむずかしい。それは親子の愛すら無償の愛でないことでもわかる。子供に何かを要求する愛だからである。そこで親子でも確執が生まれうまくいかないとなる。




2025年12月19日

時間が浪費され失うことが人生の一番の後悔 【後一年しか生きないとなるとどうなるか考えよ】

時間が浪費され失うことが人生の一番の後悔
【後一年しか生きないとなるとどうなるか考えよ】

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時間でその人なりの価値を創る、最後になるとその価値を創る時間がなくなる

人間は生きることは何らかの価値を作ってゆくことである。その価値は多様である
でも働くことはその人なりの価値を作ることである
だから老人になると何であれ職業でも自分のしてきてことを延々と語る。それが他者から見て価値無いものでもその人は語る。それは自分のしてきたことを価値あるものとして認めてもらいたいからであう。ただ現代だとその価値が金で計られる
いくら稼いだかで計れる。それでも金だけでは価値は計れない、またその人自身も金だけでは測らることに満足はしない。何であれ自分のして来たことは価値あることであり
当人も価値ある人間であり人間だったと認めてもらいたいとなる

それでは余命後一年とか宣告されて何をすればいいのかとなる。一年しか生きられないとしたらその間に価値を創る価値あることができるのかとなる
でも現実はそれが求められる。一年間しかないにしろそれが貴重な時間になる
それは誰でもそうなる。どうしても老いれば病気になりそうでなくても寿命があり死に向かっている。でも人間はそう見ない。時間は無限にあり老いて病気になることを考えない。まず後一年しか生きられないとしたら何をすべきか真剣に考える
時間を浪費できないと切実に考える。そして人それぞれにしろ価値あることをしようとする。でも現実はいくらでも時間があるとなり時間は浪費される
金の浪費は具体的に感じる。何を買って損したとか金を使って損したとかは失敗したとかなる。でも時間に関してそう思はない。だから時間は失いやすいのである
そうして最後に後一年しか生きられないと宣告されて時間の貴重さを思い知らされるのである

グラフのように年齢が増すごとに時間の価値は上がってくる。最後に後一年しか生きられないとなれば時間の価値は何倍にも上がってくる。その残された時間内に価値を創るとなると容易ではなくなる。何するにも時間がかかるからである。
そして時間はみんな平等に与えられている。金があるとかないとか才能があるなしにしろ時間は平等に与えられている。でもいかに時間を活かすかで差が生まれる
金を活かすかもあるが時間を活かすことで差ができる。ただ金を稼ぐにしろ時間が必要である。投資では十年くらい先を見て投資する。時間をかけないともうからないのである。時間をかければそれほど知識が無くても増やせる。それで老人は投資に向いていない、時間をかけられないからである。若い人は先を長く見れる。それで投資は若い時から始める。少額でも時間をかければ増える。

結局その人の価値は何に時間をかけたかで決まる。例えば普通は会社員で働き時間を費やす。するといくら社畜だとか嘆いてもその人の価値はそれぞれの会社で培い作られたものになる。それで退職したら会社の役員だっとか自慢する。それが嫌がられてもその価値を認めてもらいたいとなる。でも会社を退職したらその価値は消失する
それは狭い会社内の価値だからである。会社を退職したらその価値を言う場がなくなる
あの人は・・・・で会社に貢献した人だと言う認められるとしても会社内だけのことでありその会社を退職したらその価値を認める人はいないからである。

浪費した失った時間は取り戻せない!

あの時若い時もっとやりたいことをやっていればよかった。今その時間も体力もなくなり後何年生きるかになってしまった。こんなに早く老いてなにもできなくなるとは思はなかった。しかし時間は取り戻せない、価値でも時間があって創られる。後一年それも
病気になり何ができるのだ・・・・・こうなるのである。
それは誰しも老人になり後悔している。その時愕然としてもどうにもならないことを知るべきだとなる







2025年12月18日

はじめに言葉ありき―冬の大地の沈黙の詩 【新たなアカデミアが必要な時代−言葉が通じ合わない文明人間】


はじめに言葉ありき―冬の大地の沈黙の詩
【新たなアカデミアが必要な時代−言葉が通じ合わない文明人間】

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「はじめに言葉ありき」部分の、ギリシャ語による原文はこちらです。
Εν αρχηι ην ο Λόγος
(En arkhēi ēn ho logos、エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス)
簡単に言えば、「アルケーはロゴスなり」。

「アルケー」の意味は、万物の始源・宇宙の根源的原理。



師の言葉は確かに伝授されて
ロゴスとなり響き合う
荘厳に大地は鎮まり
その上に石と石は黙し合い
深く通じ合い言葉は活きる
喧騒と騒音の世界に言葉は響き合わない
言葉は事物と結びつかない
故に事物が盤踞して表現できない
表現する言葉がない
その前で人は何も語れない
言葉を失うのである
そこで人間は大衆群衆となり消耗される
ここで言葉が失うことは
心も通じ合わない
言葉を失う時心も死ぬ
『初めに言葉ありき』
言葉によって世界は創られた
その言葉を失う時世界も消失する
事物が無造作にのさばり占拠して
その前に人は言葉を失う
そこはカオスとなり出口無き迷路と化する
その迷路で怪獣に食われる
今冬の陽は音もなく静かに光を放つ
静寂は充ちて言葉はロゴスは自ずと成る
この静穏な冬に休息して瞑想する
冬は休息の時であり回想の時である
師の言葉は沈黙に心に深く共鳴して
大地に根を張る木々のように
神のロゴスは自ずと成る



現代の問題がいろいろある。その大きなものが人間が言葉で通じ合うことができなくなったことである【初めに言葉ありき】とあるとき言葉を持つことで人間になった。だから初めに言葉があったとなる。ただこの言葉はロゴスの意味であり言葉というだけではない
神の創造した世界を現わすロゴスのことでる。ロゴスには様々な意味がある

現代の問題の根幹に言葉が通じなくなったということがある。また世界を言葉で表現できないということで人間はその存在意義も失う。東京の大都会の風景を見れば

 言葉を失う

言葉で表現できないとなる。そしてそこは出口のない迷宮であり怪獣に食われるとなる
それは言葉で表現できない巨怪なものである。何か原始状態の様々な恐竜が跋扈した時代にも似ている。巨大ということで似ている。それはピカートとかが沈黙なき世界を語った
沈黙があって言葉が活きると説いた。それは確かである。騒音喧騒の世界では言葉は活きない。それで現代では言葉を活かそうとすると現代文明から離脱して遮断して沈黙の場を創る。それがアウトサイダーとなった。つまり現実社会では言葉を活かすことができない、その社会から離脱して言葉も活きる。それでニーチェとか社会から離脱して孤高になり超人を説いたのである。

ともかく師がいたとしてもその教えでも言葉でも通じ合わない、騒音語の中で暮らしているから通じ合わないしその言葉思想でも汲み取れないのである。
つまりその教えでも言葉を汲み取るにはやはりその人も社会から離脱したアウトサイダーとならねばならない。

「academia」の語源は、古代ギリシャの哲学者プラトンが設立した学園「アカデメイア」に由来する。アカデメイアは、アテネ郊外のアカデモスという神域に設立されたため、この名がつけられた。以降、学問や研究を行う場所を指す言葉として「academia」が使われるようになった。

こういう新たな場が必要になる。それは田園にあり自然から学べる場でもある
それは今のマンモス大学のように何千人に講義する所ではない、少人数なのである。
ギリシャは比較的温暖であり戸外で過ごすことに適していた。そこで人が集まり談話して議論した。真理を探求したのである。
インターネットでも共同研究の場であるがそこに生の自然の場はない。情報集積の場であるがアカデミアになる空間ではない、やはり生の自然の場が必要なのである。

ニーチェの沈黙は「逃避」ではなく、思索と力の蓄積です。声を上げるべき時と沈黙すべき時、その両方を見極めることが「超人」への道だと彼は示唆しています

真実の深い言葉を発するには沈黙が必要である、自然は山でも岩でも木でも沈黙している。無駄なことはしゃべらない、だから沈黙しなければ自然と通じ合うことはできない
それで禅宗はひたすら沈黙して座禅して心浄める修行をする、自分は一人引きこもりそうしてきたのである。特に冬は静寂の時であり沈黙の時である。
ともかく言葉は沈黙が合って活きて来る。現代の騒音社会では言葉通じなくなっていることは確かである







2025年12月16日

大衆社会とは何なのか【導く者を否定するから国家も維持できない】

 大衆社会とは何なのか【導く者を否定するから国家も維持できない】

日本弱体化】なぜ分断国家アメリカは強く、安定国家日本は衰退するのか?


凡庸人が凡庸たることの権利を宣言し,強行する野蛮性」「 自分が正しいと信じ込み,他人の言葉に耳を貸さない自己閉塞性と歪んだ万能感」といった性質をもつ「大衆」そのものではないか.


●議論も何かを究めるものではなく水平化するために主張する

現代の問題はいろいろあるにしてもその根底に大衆化社会がある。この上に乗っかり上部構造がある。上部構造として現代社会の支配者となる上級国民がいる。それは政治家であり官僚でありマスコミでありとかいる。でも政治家でも大衆の代表だから大衆に支持されないと選ばれないから大衆のお気に入りにならねばならない、マスコミでも大衆に合わせるのであり大衆を批判したりはしない、なぜなら視聴率が一番大事でありより多くの人達に見られることで成り立つからである。また企業がスポンサーになるから企業では大衆がお客様だから大衆に受けのいいことを放送する。
またカルト宗教団体でもとにかく一人でも会員を増やしたいから大衆に合わせる。結果的に宗教は大衆に合わせて俗化した。

 凡庸人が凡庸たることの権利を宣言し,強行する野蛮性」「 自分が正しいと信じ込み,他人の言葉に耳を貸さない自己閉塞性と歪んだ万能感

大衆にとって自分より偉いと思う人はいない、自分自身が一番偉いと思っている
だから辻褄が合わなくても自分を延々と主張する。それは戦後民主主義が作り出した人間である。人間は平等であり対等であり自由に発言できる社会である
だから誰であれそれを咎めることはできない、その発言が支離滅裂でもかまわないのである。議論でもともかく発言して俺とお前とは同じだとなる。その内容は関係ないのである

だから原発事故にあって故郷に住めなくなても多額の補償金をもらったから原発事故でも東電でも政府であれ何であれ批判しない、私が批判すると猛烈に自分をあけすけに主張する、原発はいいものだった。みんな喜んでいるとまでいうのである
これは意外だったが現代はそれだけ金の力が大きいから金に支配される
要するに金をもらえればなんでもいいとまでなる。原発事故でも補償金を貰ったから良かったとなる。そもそも原発は金になるから誘致された、地元でも一部の者ではない
みんなが積極的に誘致したものだった。その経済的効果は絶大的なものだった。
原発事故前も金を貰った原発事故後も金をもらっためでたしめでたしとなる
ただ南相馬市だと小高区は避難区域になりその補償金の額は大きかった。原町区も数が多いがそれなりに多額だった。なぜなら鹿島区の三倍はもらったからである
割を食ったのは鹿島区である、それより相馬市とか別に放射線量が同じなのに補償金がもらったにしても余りに少ないから不満になった。

●民主主義が大衆民主主義―ポピュリズムになった

これも何が人を動かすかは金であることがわかる。それは原発だけではないあらゆることで金で動くのが現代である。それはいつの時代でも同じだとなるが江戸時代とかなると身分社会であり身分によって将来も決められていた。身分がものをいう時代である
それは金だけではなかったのである。
いづれにしろ大衆社会とは大衆が力を持った社会である。大衆と民衆とはまた違う
大衆とは現代文明社会から生まれたものであり江戸時代とかなれば存在しないからである。江戸時代なら藩に属して藩民は存在しても大衆は存在しない。大衆とは不特定多数の者でありどこに所属しているかも不明の人達である
民主主義でも大衆は存在しないギリシャの一万くらいのポリスで生まれたからである
大衆という時ローマ帝国のパンとサーカスに興じた人達と似ているかもしれない
その役割がマスコミになったからである、サーカスを娯楽を提供するのがマスコミである。日々の事故事件でも自分が被害を受けなければ娯楽にもなるからである

「 自分が正しいと信じ込み,他人の言葉に耳を貸さない自己閉塞性と歪んだ万能感」

大衆にとって偉い人はいない、自分が一番偉いのである。だから他者の言うことに耳を傾けず自分の言いたいこと主張する。それは別に辻褄があわなくてもいい、とにかく自分を主張して他者を認めたくないのである。何かを言うことにより俺とお前は同じだと水平化することは目的なのである。だから自分を導くものは自分であり他者ではない
自分が一番偉いとなる。
こういう大衆社会はギリシャで生まれた民主主義とはまた違っている。その数の規模が違いすぎる、何百万人を相手にするのと一万規模のポリスではその規模があまりに違いすぎる。だから現代の民主主義は大衆民主主義となりそれがポピュリズムとなりファッシズムとなるナチスとなる。それはカルト宗教でも大衆化して俗化した。そこでも御利益が金がものいう世界である。なぜなら利益になる金になることは即座に誰でも理解するからである。

●導く者がいなくなった現代ーそれでもヒットラーにカルト教団の教祖に導かれる

現代社会が大衆が主役になった時どうなったのか?もはや誰も導くものがいなくなった
大衆は導かれるとを拒否する、自分たちが導く者となっているからである
そこに何の信条が思想が無くてもいいのである。どんなことでも主張する
議論になればどちらが正しいとかも関係ない、議論することによって水平化される
議論で何かを究めることではない。対等になることなのである。別に優劣を決めることではない。何でもいいお前と俺は同じだと言いたいのである。
現代大衆社会は導く者がいない、導く者は大衆である
だから赤信号みんなでわたれば怖くないとなり法律でもルールでも無視できる
それがナチスとなるから実際は相当に怖いことだったのである

なにか国家でも導く者が必要でありその導く者がいなければ国家は継続できない崩壊する。大衆に導かれる社会はありえない、それがファシズムとなりナチスなる
明治維新が成功したのは導く一定の人達がいたからである。
侍はモラルを持ち指導する人達でありその人たちが明治維新でも成し遂げて指導者となったからである。明治維新は庶民が成したのではないやはり侍だった下級武士が成し遂げたのである、各界の指導者となったのである。侍が教育界に入った教師になったのが一番多かったからである。

ともかく国家を維持できなくなるというとき国家を導く者がいない、その導く者は常に大衆により否定される。牧者なき羊の大群が大衆である。そしてアナーキーに無政府状態になりそれでも導かれるものを求める。それがハイルヒットラーのナチスとなりカルト教団の教祖になる。ここで導く者と支配する者は別である、支配するという時権力で支配するとなるから拒否される。でも導く者は必要である。それは牧者であり権力で従わされる者ではない安全な場所に導く人である



2025年12月13日

春の日天童寺を訪ねる【中国を模範にして学んだ日本の宗教】

春の日天童寺を訪ねる【中国を模範にして学んだ日本の宗教】

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春の日日本人寧波に着く
運河を舟に天童寺に行く
穏やかに川岸に春草
民の安居の家々
松は古り参道登り
紫山夕陽に映えて高塔いくつか
その塔の屹立して厳格に
道元の座禅修行の室に偲ぶ
そこに律して研鑽の日々
日本は遥か遠方に何想うらむ


「門外二十里松徑」
(相傳の謝康楽、すなわち杜明師に寄る7、此に客は今土を為し、何人が更に詩を解かん、
山空に黄葉落ち、歳久しく緑苔滋す、日暮て高亭に坐し、悠然と動すれば我思う)
(相傳の謝康楽、すなわち杜明師に寄る7、此に客は今土を為し、何人が更に詩を解かん、

大權洞 

山椒古洞閴無塵
雲物深藏護塔神
歲月雖長人跡少  一番花發一番春 
(山の椒は閴にして無塵の古洞、雲物は護塔神の深蔵なり、歳月は長いと雖も人跡は少な
く、一番の花は一番の春を発する) 

梵苑
C幽絕世塵  洞中風月自通神 大權
顯迹名猶在  雲合雲開幾度春 

佛跡岩 
男兒膝下有黃金  踏斷懸崖鐵石心 多少人看都不識  可憐埋沒白雲深

(男児の膝下に黄金有り、鉄石の心で懸崖を踏断する、多少の人看は何れも識ず、憐れむ
べき白雲の深くに埋没するを) 

石書傳道是仙人  雪囓霜饕色倍新 一段精神磨不滅  年年香擁百花春 
(石書を伝える道は是仙人、雪を噛み霜を貪る色はますます新し、一段の精神を磨くは滅
せず、年々香を擁く百花の春)

放光松 
光放三千尺  形奇六百年 高枝幾墜地  老 欲參天 
霽夜亭亭月  晴春曖曖煙 幽人紀妙絕  吟就占松篇 
(三千尺の光を放ち、六百年の形は奇しい、高枝は幾ど地に墜ち、老幹は参天を欲す、霽
夜に月が亭々とし、晴春に煙が曖々とす、幽人は妙絶を紀め、吟は松篇の占めるを就す

赤菫峰 
赤壤多靈草  崖根出劍精 地從山勢結  脉向海門生 
甬水春流合  蛟川夕照 蒼蒼翠微際  一路有鐘聲 
(赤壤に霊草多く、崖根に剣精出ずる、地に従い山勢に結び、脈は海門の生まれるに向か
う、甬の水春に流合し、蛟川に夕照がぎる、蒼々たる翠微の際、一路に鐘声有り)

天童寺・霊隠寺・阿育王寺はいずれも中国浙江省を中心に位置する著名な禅宗寺院で、日本仏教との深い関わりを持っています。特に道元や鑑真など、日本仏教史に重要な人物が修行・滞在したことで知られています。

禅宗寺院に於ける境致と十境詩について 

天童寺は中国的な場所だった。海から運河を舟で行き山の上の寺に行く
そこで山で修行した僧がいた。道元はここで学び修行した。修行の場にふさわしい風光明媚な霊場だった。禅宗に私が魅かれるのは心を浄めることを第一にする
そして清浄な自然と一体化する。旅をするにしても雲水となる、それも修行なのである
そこは松の長い参道があり夕暮れ山が紫色に染まる紫山となった。
そこに高い塔がいくつか屹立する。中国の塔は日本の塔のように優雅ではない
厳しく天に聳え立つ、仏像でも柔和というものでなく引き締まり厳格に見える
いずれにしろ仏教でも中国経由で入って来たという時、中国的になった
禅宗は特にそうだった。日本の禅宗は中国の禅宗なのである。
何か山岳宗教でもあり仙人とかにも通じるものだった。

室町幕府・足利義満の時代(1386年)に京都五山と鎌倉五山が正式に整えられ、さらに京都の南禅寺を「五山之上」として別格に位置づけました

天台宗(てんだいしゅう, Tiantai)は、中国を発祥とする大乗仏教の宗派のひとつである。妙法蓮華経(法華経)を根本仏典とするため[1]、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[2]。名称は、実質的開祖の智が天台山に住んでいたということに由来する[3]。

天台教学は入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。今日では中国、日本、朝鮮、ベトナムに信徒を持つ[1]。

禅宗は武士の宗教にもなった。禅宗はなぜひたすら座禅をして瞑想するのか、心を浄めるためであり雑念を払い心を大自然の中で浄化することである。
もともとは天台宗であるから山岳宗教でもあり比叡山がその中心となった
それで親鸞も日蓮も比叡山で学んだし後の山伏などもその系列に入る
宗教はそもそも心を浄めるためにある。それがカルト教団になると一切ない、政治経済を第一にして世俗の欲望を何でもかなえるためのになった。だから東京とか大都会が発祥の場になった。そこでは心を浄める場ではない、世俗的欲望をかなえる経済政治の場である

いづれにしろ中国は常にこうして仏教であれ文化であれ日本人は学ぶ模範とする国としてあった。今のような経済的政治的交流ではなかったのである。中国は日本の手本となる国だった。それが明治維新後失われたのである。でも漢字を使っているから中華文明の一翼を担っている。漢字を使うことは自ずと中華文明文化を継続して担っている
言葉は文字はそれだけ文明の文化の骨格を成すからである。
中国人は中華文明の自負があり日本はその文明の恩恵にあずかるものであり下位に見る
それで太平洋戦争で中国が日本に踏みにじられたことを許せない、親であり兄であるものを踏みにじったとなるからである。そういうルサンチマンがあり日中関係がうまくいかない。ただ日本が中国に従うべきだと思っているからである。




天童寺は中国的な場所だった。海から運河を舟で行き山の上の寺に行く
そこで山で修行した僧がいた。道元はここで学び修行した。修行の場にふさわしい風光明媚な霊場だった。禅宗に私が魅かれるのは心を浄めることを第一にする
そして正常な自然と一体化する。旅をするにしても雲水となる、それも修行なのである
そこは松の長い参道があり夕暮れ山が紫色に染まる紫山となった。
そこに高い塔がいくつか屹立する。中国の塔は日本の塔のように優雅ではない
厳しく天に聳え立つ、仏像でも柔和というものでなく引き締まり厳格に見える
いずれにしろ仏教でも中国経由で入って来たという時、中国的になった
禅宗は特にそうだった。日本の禅宗は中国の禅宗なのである。
何か山岳宗教でもあり仙人とかにも通じるものだった。

室町幕府・足利義満の時代(1386年)に京都五山と鎌倉五山が正式に整えられ、さらに京都の南禅寺を「五山之上」として別格に位置づけました

天台宗(てんだいしゅう, Tiantai)は、中国を発祥とする大乗仏教の宗派のひとつである。妙法蓮華経(法華経)を根本仏典とするため[1]、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[2]。名称は、実質的開祖の智が天台山に住んでいたということに由来する[3]。

天台教学は入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。今日では中国、日本、朝鮮、ベトナムに信徒を持つ[1]。

禅宗は武士の宗教にもなった。禅宗はなぜひたすら座禅をして瞑想するのか、心を浄めるためであり雑念を払い心を大自然の中で浄化することである。
もともとは天台宗であるから山岳宗教でもあり比叡山がその中心となった
それで親鸞も日蓮も比叡山で学んだし後の山伏などもその系列に入る
宗教はそもそも心を浄めるためにある。それがカルト教団になると一切ない、政治経済を第一にして世俗の欲望を何でもかなえるためのになった。だから東京とか大都会が発祥の場になった。そこでは心を浄める場ではない、世俗的欲望をかなえる経済政治の場である

いづれにしろ中国は常にこうして仏教であれ文化であれ日本人は学ぶ模範とする国としてあった。今のような経済的政治的交流ではなかったのである。中国は日本の手本となる国だった。それが明治維新後失われたのである。でも漢字を使っているから中華文明の一翼を担っている。漢字を使うことは自ずと中華文明文化を継続して担っている
言葉は文字はそれだけ文明の文化の骨格を成すからである。
中国人は中華文明の自負があり日本はその文明の恩恵にあずかるものであり下位に見る
それで太平洋戦争で中国が日本に踏みにじられたことを許せない、親であり兄であるものを踏みにじったとなるからである。そういうルサンチマンがあり日中関係がうまくいかない。ただ日本が中国に従うべきだと思っているからである。











2025年12月05日

社会とは何なのか―社会のために人は生きるのではない 【神から見れば人間の社会は罪の社会であり容認できない】


社会とは何なのか―社会のために人は生きるのではない
【神から見れば人間の社会は罪の社会であり容認できない】

●社会とは何なのかーsocietyは明治以降にもたらされた言葉

人間は常に社会のために生きろと教育されるがその社会とは何なのか?
実は明治になりヨーロッパから入って来た言葉でありその概念でもわからなかった
第一社に会すと感じで表せば村の小社の会すとなる。それは村の範囲でありその村の中でもさらに一地域になる。日本人が意識する社会の範囲は狭いのである
向こう三軒両隣にもなる。でもヨーロッパだと社会ーsocietyとは相当に広い範囲をさしている。

上流の人たちが集まり交際をする社会(=社交界)もsocietyです。ちなみに、社交ダンスはsocietyの関連用語である形容詞socialを使用し、social danceとします。

サイズ感をみてみるとcommunity < societyであり、ソサエティのほうがより大きく組織化されたグループです。
そして集まるための目的としては、communityは共通の関心ごとがあります。一方、societyは組織的に共通の制度であったり文化を共有しま

日本では社会というときcommunity の感覚になる。村となればcommunityであり社会となれば広いからでる。communityは日常的に常に意識される。社会は具体的に意識されない、範囲が広いからである。だから社会のために生きろと言われるけども具体的に結び付かない、それより江戸時代なら藩に所属して侍は藩のために生きていた。藩が社会であった。藩は常に具体的に生活の中で意識されるからである。
江戸時代に国家とかは意識されない。それで天皇のことでも意識されないし知らないのである。天皇を意識するようになったのは明治以降でありそこで過剰に意識されるようになった、上から強制されたとなる。第一日本国を意識できなかったからである。

ともかく社会というとき日本では何が社会なのか漠然としている。江戸時代は村が社会である。社(やしろ)に会す社会である。その社会が会社になる。会社も社に会するとなる
現代では会社が村の代わりにもなる。そこで日々顔合わせて共同して働くからである。
今は農村でも会社で働くから会社が社会にもなる。
でも会社は社会ではない、様々な会社がありそれは社会ではない、社会とは様々な会社を総合したものであり一つの会社のことではない、でも現実は会社に属して会社が社会にもなる。社会のために生きろというより会社のために生きろという方が具体的でありわかりやすい、何か社会となると抽象的になる
いづれにしろ日本に社会とは何かわからない。だから翻訳してもそれが理解できなかったとなる。それでも常に社会のために働き生きろとなったのが明治以降なのである
その社会が何なのか明確ではないのである。

●社会のために生きろではモチベーションが持てない

人間は家族のために生きるとなればわかりやすいし現実は今でもそこが基本にある
会社で働くにしても家族を養うためであり会社のために働くがすべてとはならない。
会社といってもABCDE,,,,と様々な会社がありそれは別々な存在なのである
社会となれば総合的にすべての会社も含まれるものが社会になる
とにかく社会のために働き生きろと言うのはわかりにくい。村のためとか市町村のために生きろという方がわかりやすい、その範囲は会社より広いし総合的なものになる。
会社のためにという時は一部分だからである。

人間はその一人の個人を見るときでもその属性としてどこに住んでいるか市町村を見る
また現代ではどこの会社で働いているのかを見る。会社名を見る。大企業に働いていれば一目置くとなる。また職業も見る。職業からその人を判断する
姓名でも職業が姓になる。それは外国でもそうなる。
とにかく社会というのは何かヨーロッパでもその言葉はなかった。上流階級、貴族が
societyになっていたのは社会を作る指導する人達だからだったからだとなる
奴隷は社会の一員にもなれないとなる。だから社会は貴族階級のためにあったとなる。
社会のために生きろと言えば貴族階級のために生きろ働けともなる
貴族の奴隷として働けとなる。それが社会のために生きろというときそうなってしまう

社会のために生きろというとき何かあまりモチベーションがもてないのは具体性がないし範囲が広すぎるからである。
そして人間の存在で欠落しているのが社会という前に神の存在があり神と人間の関係が最初にあった。なぜならこの世界であれ人間を造ったのは神だからである
神がなければそもそも人間は存在しないし社会も存在しない
最初存在したのは家族である。家族が社会でもあった。人間は家族のために働き存在した。社会の前にファミリアがありそれは広い範囲の共同体であり村のようなものだった。familiyとは家族であるが家族が拡大したものであった。国家自体がファミリーが拡大したものであった。ヨーロッパでもハウスブルグ家が広範囲な国家を形成したことでもわかる、江戸時代も豊臣家とか徳川家が藩が家族の拡大したものだからである

それで聖書でも家族の物語でありその系譜が常に語られる。その系譜で最も重要なのはアブラハムであった。聖書では神が存在して人間と神がじかに結びつく物語である
そこに社会は存在しない、だから社会のために生きろと言うこともなかった
神のために生きるとなっていた。なぜなら人間の作った社会は罪で穢れそれで神はノワの洪水とかバベルの塔を破壊して民族を離散させたからである
人間の作る社会は神の意にそぐわないからそうなった。

●社会のために生きろは欺瞞

だから社会のために生きろというのは悪に生きる罪に生きることにもなる。なぜなら社会であれ国家であれ罪にまみれたものであり神の意にかなうものではないからである。
だからこそ神が滅ぼすとなったのである。社会のために生きろというけど罪にまみれた社会でありそれが別に神の意にかなうとはならない。神の意にかなうとは社会とは関係ないのである。神に意にかなうことは逆に社会に反することにもなる。だから神の意にかなおうとした預言者は迫害されてきた。人間は社会のために生きることではない、神のために生きることが理想なのである。でも社会のためにとなるのが問題なのである。

なぜこれほど社会が言われるようになったのか、社会のために働けという時その社会とは誰のことなのかとなる。社会とはあいまいであり社会を意識するだろうか、むしろ
家族とかcommunityは日々の生活で意識する。だから社会のために働けというのは何か不自然なのである。反社会的となってもその反になる社会があいまいなのである
イスラム社会だとアラーの神を認めないことは許されない、社会が信仰共同体にもなっているからである。

いづれにしろ何かというと社会のためにというのはおかしいのである
社会が何か別に善を求めるわけでもない、一体社会が何を目的としているのもわからない、でも社会のためにと常に言われる。その社会という時今ならグローバル化しているから世界のために働けとなる。でも世界でグローバル化に反対する人が増えるのは誰も世界のために働くわけではない、それでアメリカファーストにな日本ファーストになる
様々な組織団体のために働き運動する。それは社会ではなくcommunityだとなる
利益共同体であり利権団体である。カルト教団もそうである。仲間内で結束して利益を利権を共同して求めている。会員ならない者はその利権に利益にあずかることはできないのである。それは社会ではなくcommunityだとなる

社会のために働けとかなると無職の人は社会にとって許されない人になる、それは反社会的になる。でも神と人間の関係から見ると神は社会を見ていない、人間の社会は神から見て罪の社会であり容認されるものでもない。だから神が直接かかわったのは個々人であり組織団体ではない。

●アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神の意味

イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」(出エジプト3:15〜16)

ここに社会とか組織団体はでてこないのである。それで別に社会が存在しなくても神と人は関係している。イノクは社会から消えたが神の下に存在した。神が取り上げたからである。つまり社会に存在しなくても神に選ばれた人は神の下にあり存在したとなる
神の国とは人間の社会ではない、神に選ばれた人達の国である。
人間は社会のために生きても理想の社会は実現しない、社会自体別に善なる理想の社会を目的にしない、便利な社会とかは目指している。でも理想の社会は作れないのである。共産主義社会でもそうである。それは理想を目指してもそうはならず暗黒社会差別社会になったことでもわかる。この世に理想社会ユートピアは作れないのである。
いくら努力しても作れない、神の国は神自らが造り治める国である

●この世で社会で無償で得られるものはない

例えばそこでは人間は労苦して働く必要はない。マナとして神の手から贈り物として無償で与えられる。人間は何か果物でも野菜でも誰かの手から買う時とにか苦労を言う
仕事としている人もその仕事が重大なこととして訴える。そしてその苦労に報えるべきだと強制される。それはマナとは違う。だから受け取る方も何か負担になる
これだけ苦労して作ったものを与えるからその報いを要求する、それは金になるが金だけではない、感謝であれ何かその見返りを要求するのである。
ただでくれる人はいない、ただより高いものがないというのはただで無料で与えられるものはこの世にはないのである。
そのために野に実る木の実を食べた時甘美だったのである。野の鳥は神から無償で与えられるものを食べているから幸福だとなる。

ともかく社会のためとか常に言われること自体負担になる。社会で得られるものに無償で得られるものはないからである。何かを得るとすれば誰かの労苦がありもたらされたものだからその見返りを要求される。だから人間の社会とは常に何か圧迫を感じる
社会のために生きるという時何かを暗黙の内に強制されているのである。そこに本当の自由はないのである。電車に乗るにも車に乗るのでもそこには人手がかかる。
何か社会で無料な物はない、水すら無料ではない、山の清水を飲むとき無料なのである。確かに文明化して便利でも無償でで与えられるものはないのである。人間は社会のために生きるという時社会から逃れられず生きるほかない、水を得るのにも代償がある
無料では得られない、だから社会のために生きろというとき無料のものはなく代償を要求される

人間は無報酬(金なしでは)では他者に何もしたくない―ただより高い物はないの意味 【神の国では神自ら無報酬で賜物として与えられる‐聖書の野の花の例え】












2025年12月01日

人間は生涯自ら自制して精進してメイクする存在 【そうしないと脳も退化して認知症になる】

人間は生涯自ら自制して精進してメイクする存在
【そうしないと脳も退化して認知症になる】



精進の意味

精進は『しょうじん』と読み、『1つのことに集中し、努力すること』『雑念を取り払い、修行すること』『肉食を断ち、心と身体を清めること』など、多くの意味を持ちます

あれこれと迷う事なく今日・今行うべき事を実行する事をいい[1、悪を断ち、善行を実践し、雑念を去って仏道修行にひたすら励む積極的な姿勢のことだが

人間は生涯精進するものをもつ必要がある。「仕事」とは、人が一定の目的や責任をもって行う行動や作業、またその結果として生み出される成果全般を指す総合的な概念です。

「仕事」は「仕(つかえる・し)」と「事(こと)」が結合し、「公的・私的に仕えるべき事柄」を示す熟語として成立しました。


人間はただ漠然と無目的に生きていては何ものかになることはできない
常に精進する必要がある、職業でも多様であり農民でも職人でも商人でも何でも精進して仕事をする、物造りでもそうである。より良いものを作り出そうとして日々努力している。何かあらゆるものが何の努力なしに生まれるものはない、人間は生涯仕事するものとしてある。もしそれがなければどうなるのか?人間は目的を失い人間として成長して人格形成もできなくなる。人間は何か仕事するために存在する
だから世界でもあなたは何の職業ですかと問われその職業から人間を見る

What is your profession?"

こう聞かれる。だから世界でも職業からその人を見る。職業をもたない人はその人間が何かを判断できないとなる。私は医者ですとなれば世界でも一目置かれる
私は日本人ですと言ってもそれでその人を判断できないのである
日本人であれアメリカ人であれそれは大勢いるからである
むしろ世界でも医者となれば医者同士で通じ合うものが生まれる。職業が同じだから通じ合うのである。それは人種とかの相違とも関係なく通じ合う

職業でなくても例えば音楽であれ絵画であれ追求していれば通じ合うのである
そこで求めているのは美でありそれは世界でも人種が違っても追求するもの目的が同じだから通じ合う。
ともかく人間は漫然として何か生まれることはない、常にメイクすることで人間は作られてゆく。それはいくら才能に恵まれた人でもやはりメイクしていかないと何者かにはなれない、つまり精進することが必要なのである。動物だと生まれてすぐ立って一人立ちできるが人間は相当に時間がかかる。訓練が必要になる。

Discipline is the key to achieving your goals. : 自制心が目標達成の秘訣です

英語で言えばこうなる。自制心というのも精進に通じる。目的がありそれを達成するためには気が散るとできない、自制心とか精進が必要になる。self-controlが必要になる
人間は欲望のままに生きたらどうなるのか?人間は必ず自制心とか精進をしなければ何者にもなれない、あらゆることでそうなのである。大工になるにも職人なるにも修行が必要である。自らをメイクしていかないとなれない、その素質が関係してもそうである。人間は確かなことは生涯メイクしてゆく、自らを作り上げてゆくのである
それは死ぬまで続くのである。それはどんな分野でもそうである

もしそれがなくなるとどうなるのか?人間は退化してゆく、そして脳すら退化して認知症にもなる、どうしても退職したりして仕事を失うとそうなりやすいのはみずからメイクすることがなくなる、またそれを強いられないからそうなる
別に何もしなくててもいいとなってもそれが危険になる。何か精進して励むものが仕事が無くなることは脳も働くなるからである。それが認知症にもなるから怖いのである
高齢化社会の問題は退職する仕事でも強いられることが無くなる。すると目的も失い自ら精進して成すものもなくなる、すると体でも脳の働きも鈍化して認知症になる危険がある、なぜ公務員とか先生でも認知症になるのか、それは仕事しているときはそれがマンネリ化しても頭を働かせる。ただ公務員とか教師とかは同じことをするパターン化する、創造性がないから脳が退化することはありえる

いづれにしろ人間は利益になる金になるから働くのではない、退職すれば金が無くてもいいとなればどうなるのか?何もしなくてもいいとはならないのである
何かやはり目的をもってメイクすることが必要でありそうしないと脳でも退化して認知症になる。勉強でも若い時から強制する必要もある。習慣化する必要がある
ともかく人間は教育されなければ人間になれないように何か自ら自制して自己開発してゆく。動物のように本能で生きるのではない。自ら自生して精進して作り上げてゆくのである。それがなくなるとき脳でも退化するのであり認知症にもなる
高齢化社会の問題は老人を無用のものとする、それが認知症にする原因にもなるから問題なのである。





2025年11月07日

考えない日本人 【理を追求しない日本人を批判した林秀彦】

考えない日本人
【理を追求しない日本人を批判した林秀彦】

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考える」の語原は、古い表現「かむがふ」に由来しています。この表現は、二つの物事を対比して思いめぐらすことから来ていると考えられています。具体的には、「か」は「すみか(住処)」や「かなた(彼方)」を示し、「むがふ」は「むかう(向かう・対)」という意味を持ちます。このように、考えることは二つの物事や概念を向き合わせ、その相互関係を深く探求するプロセスであることが示されています

林秀彦が日本人は考えない民族である。思うことはあっても考えることがない、相手を思うこと何かを思うことは考えるとは違う
思うことは恋にもなり日本人は思うことはあっても考えることをしないとしている。

考えることは二つの物事や概念を向き合わせ、その相互関係を深く探求するプロセスであることが示されています

人間が考えるというとき違った意見を言う時考える、なぜそんなことを言うのかとなり考えさせられるからである
ただ同調するだけなら考えないからである。
それで欧米でデベートが発達した。議論して勝負を決める
その公開の議論の中で納得させられれば勝ちになる。
議論して気づかなかったことに気づかさせられることがある
だから議論自体が効果がありそれが民主主義の基となった

それはギリシャのソクラテスから始まった。その伝統が欧米に受け継がれたのである。日本は考えることが拒否する民族である
理を極めるのではなく情緒的美的になる。そこに理は欠落する
理屈を言う人は嫌われる。そのことが日本人は世界的に終わっていると林秀彦は言う。海外の生活が長いからその対比で日本を深く考えるようになったからである。つまり外国と比べて些細なことでも考えさせられるからそうなった。日本の中で日本人とだけ付き合っていれば考えるということがない。日本人が考えない民族だという時島国で異質なものと交わらない歴史が長いからだとなる。

民主主義でもそのベースになるものがありすべて多数決の原理で決められるわけではない。そこに正当な理がが必要になる
rightを権利と訳したがもともとは権理だった。権は権力の権であり利は利益の追求だとなる。すると利を追求することが第一になりそれに権なのだから権力で利を得ることが正当化される。現実社会はそうなってもいる。権理となればそこに理がリーズンが必要になる
それが法律でもある。法律ができたのは人が争う時暴力ではなく理で法律で決めるためである。平和的に公正に判断して決めるためである
それは理を優先する。理でもって互いに納得するということである
それは暴力ではなく理でもって互いに納得するのである。ただその理も法律となると複雑になり問題になる。日本人は情緒的民族であり理を嫌うからである。

いづれにしろ日本で民主主義が機能しないのは理を嫌い追求しないからだとなる、腹でわかるとか理を拒否する民族である
それを林英彦は再三指摘している。日本人は確かに西欧文明を取り入れてもそのベースとなるものを理解して取り入れてなかった。
だから民主主義でも実際は機能していない、rightとでも権利となり利が強調された。だから権利ではなく権理と訳した方がよかったとなる

常に利だけが追求されることになったからっである。利は誰でも即座に理解する、それで利になればいいとなり金になればいいとなり社会になった。それはアメリカ的価値観でもあった。戦後はアメリカに従属したのだから当然そうなったことは理解できる。でもアメリカでも理は重んじる。日本は返って理を重んじない。そのことが日本が終わりだととして批判したのが林秀彦だった。






2025年11月06日

最後に持っているものが家でも負担になる 【家でも何でも持っているものが重荷と化す―無常が現実になる】


最後に持っているものが家でも負担になる
【家でも何でも持っているものが重荷と化す―無常が現実になる】

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わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ

家というのはみんな最も欲しいものでもあった。それが重荷となり負担になる。家などない方がいいとまでなる。これは何なのだろうとなる
要するに人間は何かをこの世で所有しようとする
土地でも家でもそうである。そのために働く、でもその家を持ったのはいいとして最後に老いると負担であり重荷になる

広い家がいいとなっていたが子供も育った時そんな広い家は必要なくなる掃除するだけで負担になる。何かと家を維持することが負担になる
そしてつくづく人間はそもそも何かを所有することができないものだと悟る。土地でも家でも所有しても実際は負担になる
今は家など売れないからである。古い家は冷暖房に不利である
古い大きな家は隙間風が入るしかえって住みにくいのである
また古い家は段差があったりと老人には危険にもなる

何かみんな家が負担になるとか思わなかったろう。でも今や家は跡継ぐ人もなく空家が増える。その数も余りにも多い。それで空家をどうするのかと全国で問題になる。壊すにも何百万かかるとかなり簡単にできない、とにかくこれはな何なのだろうとなる
人間は実際は何もこの世で所有できない、なぜならこの世のものは神が創り神のものだからである。
人間は神から一時的に土地であれ借りて住んでいるに過ぎない、所有できないのである。住まいでも仮の住まいであり一時的に滞在するにすぎない、それは遊牧民だと移動してテントを張り暮らす、一か所にとどまらない、そこに定着することがない。
そういう生活は一か所に留まり生活するのとは根本的に違ったものになる

要するにこうして老人になると無常が現実化する。死もまじかであり無常を切実に感じる。

人間は何かを所有できない、ただ借りるだけである

この世のものは神のものであり神から一時的に借りて利用しているのである。土地でもそうである。人間はそもそも所有できないのである
所有しようとするが所有できない、それが現実だった。
つまり一時的に神から借りているだけであり所有はできない。
だから住まいでも家でも仮の住まいになる。旅人でもあり一夜の宿とかにもなる。そして異邦人だというとき一時的に滞在するに過ぎないからである。故郷にしてもそうなのである。
何かそれが実感できなかったが老人になると否が応でもそれが現実として突きつけられる。この世に一時旅人のように滞在するに過ぎないとなる。

この世が無常だということはなかなか実感できないが老人になるとそれが家が負担になるとか何か持つことが生きがいでもあったが何か持つことはかえって負担になり重荷となる。それで裸で生まれ裸で死んでゆくとなる、何かを持つこともできないのである
赤子は何かを握るしめようとする、でも死者は手を開き何かを得ようとはしない。人間はこの世で何かを得ようして所有しようとするがそれができないのである。

若い時にそいうことを宗教でも学ぶがそれを実感できない、でも老人になると現実の問題として突きつけられる。苦労して手に入れた家が重荷になりいろいろなものを買ったがそれも捨てるだけだとかなる
(無常)が現実として突きつけられる。




最後に持っているものが家でも負担になる 【家でも何でも持っているものが重荷と化す―無常が現実になる】


最後に持っているものが家でも負担になる
【家でも何でも持っているものが重荷と化す―無常が現実になる】

わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ

家というのはみんな最も欲しいものでもあった。それが重荷となり負担になる。家などない方がいいとまでなる。これは何なのだろうとなる
要するに人間は何かをこの世で所有しようとする
土地でも家でもそうである。そのために働く、でもその家を持ったのはいいとして最後に老いると負担であり重荷になる

広い家がいいとなっていたが子供も育った時そんな広い家は必要なくなる掃除するだけで負担になる。何かと家を維持することが負担になる
そしてつくづく人間はそもそも何かを所有することができないものだと悟る。土地でも家でも所有しても実際は負担になる
今は家など売れないからである。古い家は冷暖房に不利である
古い大きな家は隙間風が入るしかえって住みにくいのである
また古い家は段差があったりと老人には危険にもなる

何かみんな家が負担になるとか思わなかったろう。でも今や家は跡継ぐ人もなく空家が増える。その数も余りにも多い。それで空家をどうするのかと全国で問題になる。壊すにも何百万かかるとかなり簡単にできない、とにかくこれはな何なのだろうとなる
人間は実際は何もこの世で所有できない、なぜならこの世のものは神が創り神のものだからである。
人間は神から一時的に土地であれ借りて住んでいるに過ぎない、所有できないのである。住まいでも仮の住まいであり一時的に滞在するにすぎない、それは遊牧民だと移動してテントを張り暮らす、一か所にとどまらない、そこに定着することがない。
そういう生活は一か所に留まり生活するのとは根本的に違ったものになる

要するにこうして老人になると無常が現実化する。死もまじかであり無常を切実に感じる。

人間は何かを所有できない、ただ借りるだけである

この世のものは神のものであり神から一時的に借りて利用しているのである。土地でもそうである。人間はそもそも所有できないのである
所有しようとするが所有できない、それが現実だった。
つまり一時的に神から借りているだけであり所有はできない。
だから住まいでも家でも仮の住まいになる。旅人でもあり一夜の宿とかにもなる。そして異邦人だというとき一時的に滞在するに過ぎないからである。故郷にしてもそうなのである。
何かそれが実感できなかったが老人になると否が応でもそれが現実として突きつけられる。この世に一時旅人のように滞在するに過ぎないとなる。

この世が無常だということはなかなか実感できないが老人になるとそれが家が負担になるとか何か持つことが生きがいでもあったが何か持つことはかえって負担になり重荷となる。それで裸で生まれ裸で死んでゆくとなる、何かを持つこともできないのである
赤子は何かを握るしめようとする、でも死者は手を開き何かを得ようとはしない。人間はこの世で何かを得ようして所有しようとするがそれができないのである。

若い時にそいうことを宗教でも学ぶがそれを実感できない、でも老人になると現実の問題として突きつけられる。苦労して手に入れた家が重荷になりいろいろなものを買ったがそれも捨てるだけだとかなる
(無常)が現実として突きつけられる。

主は与え、主は奪う

主が与えたものだから奪われるより返すとなる。借りたものは返さなければならない。
それは当然だとなる。人間はそもそも所有できないのである



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2025年10月26日

人間は死を克服できないー医学も科学も限界 【希望が無くなることが最大の問題】


人間は死を克服できないー医学も科学も限界
【希望が無くなることが最大の問題】

人間の最大の問題は死である。死によってすべてが失われ何か積み重ねてきたものでも失われる。無に帰する恐怖である。そして未来もなく希望もなくなる。生きるとは常に未来に希望があり生きてきた。
でも死ぬことは未来への希望もなくなる
そして死は余りにも無惨である。
寝たきりで死ぬかでなく天に昇る正に現実に昇天するような死があってもいい、それは聖書のなかで預言者にあった。イノクのように死体も残さず天に召された人もいた。そういう死だとみじめに見えない。
無惨に死んでゆく姿を見ればそこに救いはない。

人間は希望無くして生きられない、今は悪くても将来は良くなる
病気でも治るとかないと絶望になってしまう。
人間はそうした死に耐えらえない。
だから病気でも治るとして希望を持たせることが大事になる
また死んだら極楽に行くとかなれば安心する
キリスト教なら神の国へ行くのだからむしろ死ぬことは悪いことにはならない、神の国へ入る希望があるからである
この世の地獄を脱して天国に行くのだから死は悪いことではない
つまり科学であれ医学であれ限界がある。死を克服できないからである。


最後に天地と調和して大いなる詩を謳い死んでゆく
その魂は天に昇り神の国で再び復活する
そこは花々に覆われ真の美が映える
死は一つの門出である
神の国へ入る門出である
だから悲しむべきものにあらず
死はこの世からの解放である
肉体に呪縛された魂の解放である
苦からの解放である
神の国では老いも病もない
みな若く健やかである
すべてが光輝に充ち溢れている
一つとして無益なものはない
すべてが所を得て価値がある
そこにただ全能の神への賛美があるのみ


いづれにしろあなたの病気は治りません、余命何年です。こう医者に言われて納得する人はいない、だから医者は死を宣告する死神だともなる
人間から希望がなくなることが最大の問題である。何らか希望が無くなれば生きること自体絶望になる。
ともかく科学にも医学でも限界がある。死を克服はできないからである







2025年10月21日

余命一年とかの死の宣告−【でも日頃継続したことしかできないー 神の国でもこの世の延長でもある】


余命一年とかの死の宣告−【でも日頃継続したことしかできないー
神の国でもこの世の延長でもある】

あと一年また二年しか生きられないと言われて時どうなるのか
一体何をすればいいのかどうしていいのかわからないとなる
70才過ぎたらそのことに直面する
でもそれで私はこれをしなければならないとかならないだろう
なぜならあと一年で死ぬとしても何か特別なことはできない
それでも今までとは違ったものとして世界を見る
末期の目で見る。死んだら二度と見れないからである
また人と会うにしても永遠に合わなくなる、すると会うということが貴重なものになる

でも一年後に死ぬとしても人間は何か特別なことはできない
これまでしていたことの継続はできる
絵を描いていた人は絵を描き完成させようとする。それはその人がしていたことだからそうなる
だからあと一年で死ぬとしてもこれまでしてきたことの継続になる
あと一年で死ぬとしても何か一から新しいことを始めるのはむずかしい
要するに人間はこれまでしてきたことを継続する
後一年しか生きないとしても何か特別なことはできない
だから人間は継続されるものがあるのが大事だとなる
いくらあと一年しか生きないとしても何か新しいことはできない
つまり人間の日ごろの行いが大事であることに気ずく、それは人間はいくら年を重ねてもそれで偉くなり価値あるものとはならないと同じである。問題は何を積み重ねて来たかである。

死の恐怖は何から起きて来るのか、死によって何もできなくなる
こらまで積み重ねてきたことが無益化する、意味ないものとなる
それは人間関係でも家族でも死とともに終わりになる
家族の愛でも時間の中で憎むこともあっても愛が育まれた
だから動物でも猫でも犬に育てられると犬を親と思うのである
でもその子供の時実の猫の親でも育てられないなら親と思わないのである

死はすべての終わりなのか?人は死んでも何かやはり継続していないか
死んでも親のことを思い出すこともある。そして愛されたこと思い親は子供の中で継続して生きるともなる
死によってすべてが断絶するわけではない、何でも断絶するわけではない、歴史は継続である。何かが継続されることである
長く継続されるものに本当の価値がある。
聖書の価値が衰えないのはそれだけ継続されるべき価値があるからである

そして死とともにすべてが終わりとなり断絶するのか
この世の事でさらに神の国に継続される
この世で追求したものはやはり神の国でも継続される
だからこの世でしていたことが神の国でも継続されて反映される
むしろ本当の人間の成果は神の国で実現されるとなる
つまり死んで神の国に入ったとしても生きていた時の継続にもなる
だからこの世でいい加減に生きた人は罪深い人が神の国で天使になるわけではない、この世で生きて来た継続にもなる

農民はやはり農民として働き大工は職人は職人として働いているとなる
この世の継続として働いている。何かみんな天国となると別世界のように見ている、この世とは全く違った世界と見ている
実際はこの世の継続だったとなる。だから何か全くこの世とは違う世界ではないのに驚くかもしれない。その場ではこの世でそれぞれ追求してきたものを追及しているそういう場が継続して与えられているとなる
地獄もまた同じである。この世にも地獄がありその地獄が来世にも同じようにある。何でもこの世の延長継続としてある
悪人が天国で突然善人になったりしない、やはりこの世の延長継続として地獄もある。ということはいかにこの世ですることがその人が何者ものになるか決める。でもこの世と来世は何であれ全く別物と見る
悪行を重ねたものが天国で天使になるわけではない、何かそこを誤解している。この世の継続がやはり神の国であれ継続される

2025年10月19日

病気と死の問題 【死は解決できない、政治経済科学でも無力である】

病気と死の問題
【死は解決できない、政治経済科学でも無力である】

人間の問題はいろいろある。主に経済の問題が多い、それは日々の暮らしに直結するからである。政治でも常に話題なる、でも人間最大の問題は何か、それは病気とかありそれが死に向かうことである
老化からみんな病気になる、癌は細胞の老化現象であり直しようがないとなる。それで解剖すると必ず癌が見つかる。それは老化現象だからそうなる。

そしてこうした老化現象による病気とかは直せない、それは死に向かっている。人間は病気になるとしても老化は止められない、死に向かうか過程で病気になる。それが一時的に治ったとしてもいつかは死に向かう
問題は死であり死を克服できない、そこに人間の限界がある
それは政治でも経済でも科学技術でも解決しない
社会改良を唱えても社会を改革しても死の問題は解決しない

死の問題は宗教でしか解決できない、永遠の命を与えることができる神しか解決ができない、病気が一時的に治ってもいづれは死に向かう
病気は死の前になるが問題は死なのである。人間は癌であれ死を宣告されている死刑員なのである。病気が問題にするが病気自体より死が問題なのである。病気は死に向かう過程で起きる。

死の解決なくして病気の解決もない、病気を一時的に直したとしても死はいずれまねがれない。
その解決方法がない、それは神の国でしか解決しない、なぜなら神の国では老いも病もないみんな若いと言う、そこでしか人間の究極の問題は解決しないのである。
つまりいくら政治であれ経済であれ改革してもこうした根本的問題は人間の力では解決しない、老化を止めることはできない
いづれは人間はみんな死ぬ。病気は確かに一時的に直すことはできる
でも結局死に向かうのである。それは防ぎようがない、対処する方法がない、それを解決するのは人間にできない、いくら科学技術が医学が発達してもできない、そこに限界がある。

政治とか経済とか科学技術でも死の問題は解決しない、いくら金を貯めても大金持ちでも王様でも死はまねがれない、そこで空の空になってしまう、諸行無情になる。でもカルト教団は政治化経済化してこうした根本的問題には無縁である。目の前の経済的利益とか政治化して利権を得ることしか眼中にない、だからなぜ宗教なのかわからない、そこで莫大な金を集める。それが信仰の成果になる。宗教が経済活動ビジネスになっている。貧困ビジネスにもなる

でも人間は目の前のことに追われある。今日食べる物を確保することが優先される。死の問題は後回しにもなる。でも最後は死の問題が最も重要なものとして突きつけられる。でもその時解決しようにもできない、それは若い時に求道して求めるべきものだったからである
老人になっては時すでに遅しとなる。若き日に神を知れとそのことである。










2025年10月17日

マリアとマルタの意味するもの 【花に興味がない女性が結構多い―花より団子】


マリアとマルタの意味するもの
【花に興味がない女性が結構多い―花より団子】

姉のマルタは、イエス様を自分の「家」にお迎えしました。姉は一生懸命接待の準備をして忙しくしています。イエス様のお話どころではありません。人数分の皿を準備したり、おかずをそろえたり、飲み物は暖かいほうがいいか冷たいほうがいいか考えて、頭の中は献立と接待のことでいっぱいです。てんてこ舞いです。
一方、妹のマリアは、「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」とあります。マリアは、イエス様の足元に座って、一生懸命集中してお話に聞き入っています

人間社会はほとんどマルタではないか?女性でも花に興味がない人が多い
女性でも家事に追われ仕事に追われている人がほとんどである
意外とは花に興味がないなと見る
私の母は不幸な生い立ちで花なんか買うなと自分に言って庭に豆を植えていた
それは貧乏で育ち継母に育てられたから生け花であれ習わせることもなく働きづめの一生で終わった。それが自分には悲しかった。
そういう環境で育ったことを知るから一概に責められない、貧乏だとどうしても食うことが優先される
でも現代は比較的裕福であり花を買うのがもったないとは必ずしもならない
でも意外と女性でも花に興味を持たない女性が多いと見る

奇妙なのはその女性は庭作りの緑化の会社に勤めていた。だから花に興味があると見たがそうでもない
その女性は花そのものに関心あるのでなく花をいかに育てるのかに注意を払う
花そのものの美を見ているだけではなかった。
花を野菜を育てるように見ていた、現実に畑で野菜を作っていたからである
だから花でも野菜のように見ていたとなる
私の場合は常に花そのもの美を見ている

ともかく女性だと花に興味を持つと見るがそうでもなかった
要するに例えば蝋梅の花をヒヨドリが食べに来ていた。鳥は花でも食料としてしか見ていない
それと同じように人間でも食料がまず先である
花は食料にならない、花を見ても腹の足しにならないとなる
それが一般的である。食料が先であるのが普通である
どうしても花より団子になる
だから芸術でも絵画でもそれが優先的にはならない、だからそれを鑑賞できる人は少ない
つまり芸術について語り合う人が少ないのはそれを見ても腹の足しにならないからだとなる

ヤクルトの販売する女性も花に興味がない、ただヤクルトを売ることを第一にしている
それしか頭にない、そもそも人間社会ではまず日々の生活であり食べることが優先される
だからみんなマルタなのである。そのために忙しく立ち回る
それは金になることでもある。
人間はどうしてもマルタになりやすい、社会自体がそうなっている
とにかく花など見る余裕がない忙しいとなる。
そしてかえってマルタのような人は忙しく働いていいる人から見ると責められる

現実自分自身今や家事に追われ雑用に追われるからゆっくり花も見ていられないとなっている
でも花の美を見ないというのは動物と同じになるから悲しいとなる
現代は食べることだけに追われる時代でもない、しかし依然としてマルタのようになる社会でもある
食べることが第一であり常に仕事に追われる。それは2000年前とかでも変わらない
働くという言葉が端を楽にするというというとき常に家族でも家事で働く姿を見ているから楽させたいという気持ちが自ずとでてきて生まれたことでわかる

古代だと奴隷が働き家事でもしていた。それで余裕が生まれスコーレ(暇)が生まれスクールになった
学問でも芸術でも暇があり生まれた。ただそれができたのは奴隷が雑用でもしてくれたからだとなる
今ならそうした労働は機械がするとかロボットがするとかで人間は雑用に追われず美でも探求できるとなる

いずれにしろマリアとマルタの問題は人間の普遍的なテーマである
だから現代でも適応されれる。女性でもでもどうあるべきかのテーマである






2025年09月21日

この世は快楽や幸福を追求する場ではない 【災いをいかに避けるかを第一にせよーショーペンハウエルの人生観が正しかった】

この世は快楽や幸福を追求する場ではない
【災いをいかに避けるかを第一にせよーショーペンハウエルの人生観が正しかった】

あたしが一番読んだ本がショーペンハウエルの本だった
この世では災難が多いからその災難を避けることを第一にすべきであり幸福とはその災難ないことであり積極的に幸福を求めるべきではないと説いている
その中で健康が一番大事だと言っている
それを身をもって経験した、
親の介護から周りでで起きたことがそうである。人間最大の災難は病気である
どれだけ人間が病気で苦しんできたか、老いも一種の体が弱る病気である。
それは誰にでも老化すると病気になる。認知症も病気である。この老いによる体の問題は誰にでも起きる
避けようなく起きる。
それと災難は無数にある。自然災害であれ交通事故であれ技術でも起きる
原発事故でもそうでる。だから安易に科学技術でも頼るべきではない、その危険こそ見るべきだとなる

とにかく幸福は災いのないことであり何か積極的にもとめるべきものではないにましてや快楽など求めるべきでない
幸福とは苦痛なき事災い無き事である、本当の幸福は神の国にしかない、この世はどこであれ地獄が一定の住処であり逃れようがない
これほどの災いのあることで身をもって知った
自分だけではない、脳梗塞で歩けなく成る、糖尿病にもなり目が悪くなるとか三重の苦しみを生きる人もいる
そして同病相哀れむとなる。

とにかくこの世に幸福はありえない、この世とは災いの世であり災いを受ける地獄なのである
だから幸福を得られるとか期待すべきではない
災い無き事を祈るべきだとなる、そうなるとかえって幸福を求めて不幸にるから注意すべきである
災い無き事に感謝して幸福を求めるべきではない、そもそもこの世に幸福はない
この世は災いの国、火宅の世である、甘い幸福快楽など求める場ではない

それを戒めとしていないとかえって不幸になる、災いを受ける
つまり災いのないこと苦痛の無いことが幸福なのである

幸福とはとはきわめて消極的なものとしてしかありえないのである。それを認識していないとかえって不幸を招く
今日一日無事にすごせたことを神に感謝する。そういう心がけは必要である
それだけこの世には災いが多すぎるのである






2025年09月11日

何故宗教が堕落して俗化するのか 【天使が堕落してサタンになった理由ー煩悩即菩提の意味−堕落したカトリック】


何故宗教が堕落して俗化するのか
【天使が堕落してサタンになった理由ー煩悩即菩提の意味−堕落したカトリック】

●煩悩即菩提の勝手な都合のいい解釈

これは世界共通である。仏教でもキリスト教でも堕落して俗化する
サタンとは何かとなるともともと天使だったのである
その天使がこの世のものに魅せられて堕落してサタンになったのである
それだけこの世の魅力が大きいからそうなった。
釈迦であれキリストであれとてもその真似などできない、その差が余りにも大きい過ぎるのである。そうなれば当然本来の教えと離れて俗化する
だから創価でも煩悩即菩提と教義にある。煩悩が欲が人間にあるけどそれがあっても菩提になる

原始仏教においては、煩悩を滅することに主題がおかれ、それにより覚りが得られるとされていた
しかし、時代を経て大乗仏教の概念が発展すると、すべての衆生は何かしら欲求を持って生活せざるを得ず、したがって煩悩を完全に滅することは不可能と考えられるようになった。また煩悩があるからこそ悟りを求めようとする心、つまり菩提心も生まれると考えられるようになった

なにかこういう教えでも常にこれはいい煩悩があればいい欲があってもいい返って煩悩があればあるほど欲があればあるほど菩提になる。それは実に都合にい解釈である。それなら万人に受ける。
そしてもっと煩悩をもて欲をもっと強く持てと指導する
要するにそれが俗化することである。その解釈が歪めたものになる

●プロテスタンシズムも奉仕の労働が我欲の利益追求の労働になる

何か別に仏教だけではないキリスト教でもそうである。カトリックでも堕落したのはそのためである。免罪符など売ったのもそのためである
それで反発してルターの宗教改革が起こりプロテスタントが生まれた
そこには牧師がいない万人が牧師になる。
ところがこれまた堕落したのである。資本主義がウェーバーの言うように他者への奉仕のためとして労働することから始まった
でもそれが俗化した堕落してたただ各自の欲を飽くなく追及するものとなった
プロテスタンシズムの堕落である。だからこれも煩悩即菩提と似ているのである

つまり人間の欲がそれだけ強いからそうなる。そして煩悩を欲をいくらでも追及することが是認され促進され強欲資本主義になった。それは全く他者に奉仕する労働でもなく資本蓄積でもない、ただ歯止めのない欲の追求が是認されたのである
だからこそ何百憶とか稼ぐアメリカの大富豪がいてそれが模範ともされる

釈迦とかキリストの教えとかは余りにも高等過ぎるから実行できない。その反動として煩悩即菩提とか強欲資本主義になった。それは天使が堕落してサタンになったことなのである。この世のものに魅せられて天使が堕落してサタンになった
だから本来聖なるものが極端な俗なるものとして利用されて一般化したとなる。
煩悩即菩提はあらゆる欲望が是認されるものだから一般に受け入れられたとなる
だからもっと欲を持てと仏に祈る。それも異常だが別に教義に反しないとなる
結局いくら高等なことを言っても実行できない、一般化するに人間の欲を肯定してむしろ欲を強く持てとまでなる。それが俗化することである

●人間は欲を無くすことができないから理想は実現しない

清廉潔白な忠実がみじめにも見捨てられ
金ピカの栄誉が浅ましくも場違いな奴に授けられ
純真可憐な美徳がむごくも淫売よばわりされ
正真の完璧が理不尽にも貶められ
力が足なえの権勢に動きを阻まれ
学芸が、時の権力に口を塞がれ
愚昧な学者ずらして才能に指図を与え
素朴な誠実が馬鹿という汚名を着せられ
囚われの善が横柄な邪悪に仕えるをみるなんて
こんな事にはまったくうんざり。だから、私らおさらばしたい。

シェイクスピア(ソネット集)

何かこれがこの世の現実になる。

力が足なえの権勢に動きを阻まれ
学芸が、時の権力に口を塞がれ

これあ原発事故であった。御用学者のことである。
宗教でもその理想は余りにも高いが現実は(正真の完璧が理不尽にも貶められ)
となる。高邁な思想はただ汚されて消失する。
つまりこの世の現実は釈迦とキリストが教えたものとかけ離れたものとなり汚される。それは世俗より異常に御利益を求めることでもわかる
不思議なのは発達障害の人でも利に聡い、利益になるものは即座に理解する
数字がわからなくても利益になるものは計算しているのである

この世で高い理想をかかげてもそれが実現しない、共産主義もマルクス主義も理想であったがそれも権力を得たものが莫大な富を得るとなり理想は実現しない
宗教でもそれは最高の理想だけどそれも実現しない。俗化して欲望を飽くなく追及するものとなる。プロテスタンシズムの堕落がある。他者のための奉仕の労働が自分の我欲を満たすだけのものになった。強欲資本主義になった。キリスト教でも俗化してそうなった。結局人間は欲で滅びるという時どうしても欲を無くすことができないからそうなる。それは来世の神の国でしか実現しないのである










2025年08月19日

人間が最後に欲しいものは愛 【愛は与える愛であり与えられる愛ではない】

人間が最後に欲しいものは愛
【愛は与える愛であり与えられる愛ではない】

●地上に宝を蓄えるのはやめなさい

老人になると何でも持つことがかえって負担になる、家でもあったほうがいいが
それも跡継ぐ人がいないとなるとそれをどうするのかと負担に感じる
墓じまいでもそうである。墓でも跡継ぎがいなければ負担になる
何か持っていることが負担になる。老人は持っているものこれまで貯めていたものも負担になる。ただ金は物ではないからそれ自体は負担にならない
物として持つと負担になる。何故なら死んでもってゆくわけにはゆかない
家でも土地でも何でも持っていくわけにはいかない

要するに死ぬとき何も持っていけない、家でも土地でも様々なものでもあの世に持っていけないのである。
それで私の家族の一人は金はかなりもっていたが何もいらないといつも言っていた
そして認知症になり銀行から金も下ろせなくなったのである
金をためていても自分の金を下ろせなくなったのである。これには驚いたのである
金にはこだわる人だったからである

自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。 そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。 自分のために、天に宝を蓄えなさい。 そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。 
マタイによる福音書 6章19節〜21節

地上でいくら蓄えてもこうなる。でも天にどうして宝を貯えられるのか?
そもそも何を天にもていけるのかとなる、家でも土地でも様々な物をこの世の宝をもっていけなのである。だから認知症になり自分の貯えた金を銀行から下ろせなくなった。そんなことがあるのかとなる。その時現実にいくら金があっても自分で使えなくなったのである。

●最後に何もいらないでも愛が欲しい

何にもいらないと言っていたけど何にも持てなくなったともなる
認知症という病気は何なのか、それは金でも何を持つことができなくなる
ただ最後に家族が愛してくれることを望む。でも家族でも認知症の人を愛して介護することはむずかしいのである
要するに金も物もいらない、愛が欲しいともなる、私を見捨てないでくださいともなる。強者の人も弱者化する。親は常に強者としてあったが弱者化する

人間は最後は何もいらないという。常に何かを得るために働いてきた。金でも貯めたが最後は何もいらないとなってしまった
でも愛が欲しいとはなった。その愛とは必ずしも金でも物でもない、何か労わる心が欲しいとなる。金も物もいらない愛が欲しいとなる
人間が最後に望むものは何なのか、『愛』だとなる
それは必ずしも物を金を与えることではない『愛』が欲しいとなる
その愛とは金を物をくれるからではない、純粋に愛してくれとなる

でも介護となると介護する方が苦しくなる、いくら愛してくれといっても負担になるから家族でも家族遺棄にもなる。ただこの世は金から離れてありえない、介護でも金をもらえるからするとかある。他人だったら金しかなくなる
家族でもいろいろな事情があり親でも子が愛すとは限らない、子供でも遺産の金が欲しいとかなり純粋な愛はなくなる
とにかく金によって常に歪められてしまうのが人間である

●人間が老人になり最後に欲しいものは愛

人間は最後になると何もいらないという、でもやはり愛だけは欲しかったとなる
でも子供でも家族でも愛があるとは限らない、家族でも事情がそれぞれ違っているからである。人間は何が欲しているのかとなれば『愛』である
それが親子でも必ずしもあるとは限らないのである。そこには親のエゴもあり親の
思惑がありそれで親子でもうまくいかない、でも親自体が子供に愛してこらいたいとなる。今度は親自体が愛を子供に欲するのである
だから人間が求めているのは愛なのである。そこに金であれ媒介するとどうしてもうまくいかない、子供でも金目当てだとなる。

だからキケルゴールが死者を愛しなさいという時なかなか理解できない
何も返答もない感謝もしない人を愛せるのかとなる。供物を与えても語りかけても何の返事もないからである。だから虚しいとなる
でも死者はそうして何も与えない、生きているうちはとにかく金であれ物であれ与えらることで愛すとなる。死者はもう何も与えてくれないのである
だからそういう人を愛せるのかとなる、何か徒労だともなる。
ただ与えられるから愛すということは無くなっていることは確かである
だから死者を愛する人は純粋な愛があるとなる。ただ返事も何もなければ何か徒労だともなる。だから死者を愛し続けることなどできるのかとまでなる

人間は子供の時から何でも欲しい欲しいとしえある。赤子何かを握りしめようとする、でも人間は最後に何もいらないとして手を開き死ぬ
でも手に握るものではなく目に見えないが愛は欲しいとして死ぬのである
もはや死ぬとなれば何も持っていけないでも最後に欲するのは金や物ではなく愛だとなる、それで釈迦でもキリストでも慈悲を愛を説いたとなる
ともかくいろいろなものが欲しい欲しいとして生きてきたが最後には何もいらないとなってしまう。ただ愛は欲しいとなるのである
すると一番大事なものは愛だったともなる。神の国では本当に金や物ではなく愛し合う人達がいるとなる。何故なら愛のみが通用するのであり他は必要なくなっているからである

●不満が膨大であり解消しない

ただ愛という時愛される愛ではなく愛を与える愛である。でも現実は私を愛してください何か金でも物でも与えてくださいとなり寄ってくる
その人たちが膨大なのである。とてもそんな人たちに答えようがないのである
何か人間と接することはその人の問題不満と接することである
そのほとんどが金がないから金をくれとなる、最初から金をくれと来て大金を盗まれた。それほど庶民レベルでも日本人でも金しかなくなった
それはアメリカ人化したためだともなる。

ともかくこの世は不満がマグマのように噴き出している世界である
その不満をぶつけられたのが自分だった。何かはやらない個人商店でも私に不満をぶつけてきた。そしてお前には売らないとかいう、そういう店でも医者でもはやらない苦しいから誰かにその不満をぶつける。だから医者でも断られたとなる
ともかくこの世の不満は消えることがない、たとえ裕福になっても何かしら人間には不満がある。それに比べて不思議なのは自然界には不満がない
今日一日の糧は与えられている、それで満足している、貯えることもないのである
人間はいくら貯えてもそれで安心することがないのである

だからこの世に天国など絶対に生まれない、まず人間から不満が消えることがないからである。何が足りない何かくれとかしかないからである
だから愛しなさいというとき愛してくれ愛を与えてくれ金でも物でもくれとなる
宗教で誤解されているのは愛す愛ではなく愛される愛を要求しているのである
そのためにカルト宗教団体では何か与えてくれる場として入ってくるのである
膨大な人間の不満の集積場になる

でもその不満は解決しない、永遠に解決しないとなる。第一これだけ何らか宗教を信じる者がいても世界は変わらない
その理由は愛を与えなさいを実行できない、ただひたすら愛を与えてくださいとなているからである。その数が膨大でありその不満も際限なくあるということである、それが解消することがないからこの世には天国は生まれないし地獄に生きるとなる。




2025年07月18日

母を父を恨むカルマ 【苦しみとなって気づくカルマー親の因果が子に報い―自分だけで終わらないカルマ】

母を父を恨むカルマ
【苦しみとなって気づくカルマー親の因果が子に報い―自分だけで終わらないカルマ】

カルマとは何なのか、二つの例はわかりやすいカルマだった。私の母は後妻でありそのとき子供を連れて来た
でも私の家ではその連れ子を良くしなかった。そういうことがあって兄は常に母親を恨んでいたのである
でも兄は結婚して娘をもった。それが静岡県であり遠くて何が起きたのか事情が呑み込めなかった
何か住宅に住めなくなりトラック運転手になった。その時中学生の娘もトラックに乗せて仕事していた
でも児童相談所に入れた。それから交通事故で40才で死んだ。

そして娘は母の実家に引き取られた。でもそこを出て東京に暮らすようになった。それは高校を出てすぐそうなったらしい
その辺の事情が遠くて呑み込めなかった。またその時妻とも離婚していたのである
本当は母親に引き取られるべきだったが母親は不倫して離婚していたのである
そして悲惨な結果になった。そういうことがありその娘は父親のことを良く思っていない、私は兄の墓を作ったから来てくれと言って十万を与えたが来ることもなく消息を絶った

つまり兄は母を恨んだがその子も親を恨んだ

それはやはりカルマだとわかる。兄が母を恨んだようにその娘も父親を恨んだのである
これはわかりやすいカルマではないか、ここで自らのカルマを意識してそうならないようにすべきだった
何か借金もしたりしてそうなったらしい。父親が死んでも恨んでいて墓参りにも来ないのである

もう一人は父親が肺病になり身体障害者のようになった人である。その妻はそういう夫をもちずっと苦しんできた
まともに稼げない体だったからである。でも娘がいて育てた
その娘が結婚した相手は優秀な人で技術者だった。だから何不自由ない暮らしだったのである
ところがその夫が事業をはじめて失敗して借金になった。それで相当に苦しむことになった
その後のことはわからないにしてもこれは明らかにカルマではないか?

母親が夫で大変な苦しみにあう→娘が夫の事業の失敗で苦し

これは明らかにカルマではないか、だから別に会社に働いていれば問題はなかった。でも事業を起こして失敗して多額の借金を背負った。それで母親が苦しんだようにその娘も夫で苦しむようになった
その時いかに母親が身体障害者でもあった夫に苦しんだかを身をもって知るようになった

何かカルマは誰にでもありそれが苦しみとなった現れる。自分の場合もなぜ二人の母親の介護で塗炭の苦しみになったのか
それもカルマが関係しているのかとなる。明らかなことは苦しみとなるときカルマを意識することである
そうでなければカルマを意識できないからである。
大きくはアメリカは戦争のことを本当に理解していない、アメリカ本土が攻撃されたことがないし日本に原爆を落としても
その罪深さを意識できない、でもアメリカ本土に核戦争になり焼け野原になったら意識する
こんなにひどいことなのかとその苦しみで意識する
私の場合は戦争ではないが二人の親を和解させるために苦しんだとなる。家族でも必ず争いがあり夫婦でありそこで子供が苦しむ。和解させようとする。それもどこの家族でもありカルマだとなるからである

だからカルマは苦しむことによって意識されるさせられる。だからどうしてそうして人間が苦しむのかとなるときカルマが関係している。過去にした行為がカルマとなり自分の身にふりかかってくる。家族だと親子関係でもカルマを意識させられる
こんなに母親が夫のために苦しんだとなり同じ苦しみとなり理解するとなる

カルマを解消するには自ら相当に苦しまないと解消しないのである。でもそれで親のことでも理解するとなる
人間は他人になると無関心だけど自らが苦しむとそのことで他者について理解するとなる、同じ苦しみを受けることで理解する
ただ個々人によりカルマは違っていて他者が理解しにくいのである。
この二つの事例はわかりやすいから書いた。でも人間のことは数学の方程式のようにはならない、それが複雑でわかりにくいのである。ただ何らかどんな人でもカルマを積んでいてそれが苦しみとなって現れる、それは避けられないのである
まさに自分自身のことでなくても親の因果子に報いとなる。親のカルマが子孫に受け継がれる
逆に親によって恩恵も受けられる。それでも必ず親でも何らかの悪いカルマを受け継ぎ苦しむとなる

カルマとは繰り返すことであり人間のカルマ自体は消滅しない、だから人間がハルマゲドンで滅亡するというのはそのカルマが解消しないからである。戦争がまたなぜ起こるのか、それもカルマでありそこに苦しみが生まれる
そうして人間が戦争することは続けられてきた。それも人間の業でありカルマだとなる。
そもそもなぜ人間にこれほど不幸があるのか不可解になる。その原因は何なのか、それはカルト教団に入っても解決しない
そこには無数に苦しむ人たちがいてその原因もわからず無惨に死んでいる人もいくらでもいるからである

ただ何であれその人行為がカルマとなることは確かである。それがささいなことでもカルマとなりそれが災いを産むともなる。
カルマとは何らかの行為でありそれがカルマとなる。あなたのした行為がカルマとなりそれが苦しみの元を作る
相手を理不尽に苦しめたり相手に対する行為がカルマとなりその人自身に跳ね返ってくる
それは一代では終わらない、二代三代と続く、自分だけで自分の行為が終わりとはならない、それは自分だけではない周りにも必ず影響する、自分のカルマは自分で終わりにできないのである

誰かがまたカルマを受け継ぐのである。だから自分の行為はこうして次の代にもその次の代にも周りにも影響する
行為には何らかの責任が課せられている、自分だけのことだから自分で始末すればいいとはならないのである
自殺してもそれも周りでも次に代でも影響する、自分一人だけのこととはならないのである
だから身勝手な行為はつつしむべきだとなる。つまり人間は次の代にも責任があり周りにも責任がある
自分だけのこととして終わらないからである。
でも行為を軽いものとして意識しない、でも苦しみとなったときなぜ苦しむのかとなりそれがカルマだった気づくのである



2025年07月05日

歪んだ老人がなぜ多いのかー過酷な人生で人格形成に失敗 【個々人でも国でもプライドの戦いが人間の業】


歪んだ老人がなぜ多いのかー過酷な人生で人格形成に失敗
【個々人でも国でもプライドの戦いが人間の業】


●過酷な人生で人格が歪む人が多い

なぜ人間が歪むのか、そのことを私の家族のことで書いてきた。私の母は素直な性格であった
それが継母の育てられて歪んでしまった。いじめが過酷だったのである。子供の時弁当を作ってもらったのだが
それを残したら実の母親でないから食べないので残したのかとその弁当を投げられたのである
その継母は異常に気が強かったのである。そんな人に育てられたら歪んでしまう、それも子供の時だから余計にそうなる。
もともとはおとなしい素直な人柄だった。でもそうして家庭環境が悪いとそれも子供のときに悪いと心が歪んでしまう

何か心が歪んでいる人を見ると過酷な人生でそうなる。もともと性格が悪い人もいるが多いのは過酷な人生で歪む人が多いのである。老人を見ていると何か苦しい人生を生きて来たから酸いも甘いも噛み分ける」は、酸っぱい味と甘い味の区別ができ、良し悪しを知り尽くしていることとなるが実際は歪んだ老人が本当に多いのである
まともな老人がいるのかとなる。

確かに生まれつきもあるがそれも過酷な人生で歪められる。何かいじけた意地悪な爺になる。それは例えば別に貧乏だからでもない、金を残した人でもそうである。何かしら人格的におかしくなっている。別にその人は金を稼いだのだから成功者なのである
でも人格的に見ると何かおかしい、まともではない、他人に冷たいとかなる。
現実社会では何であれ利益を上げる金を得ることが第一にされる。でもそればかり追求していると人格的におかしくなってくる
嘘ついてだましてでも金を稼ぐのがいいともなる。またそれを会社でも要求されるからその圧力で歪んでしまう
金融関係はそういう人が多いような気がする

とにかく老人はそうして過酷な人生を生きてきて歪むとなる。だから老人でまともな人は少ない、それは例え成功したと見られていても金を残した人でも人格的に歪んでいる人になる。それはまるでダンテの地獄編に出ている人なのかともなる。
そこには異常な人がその体まで異常化して歪んでいる奇妙な怪物にもなる
でも現実社会で老人を見るとそういう人が多いのである。性格が歪められた人が多いのである
だから高齢化社会が暗黒だという時そうした老人が多すぎるからである
もし老人でも何か人格的に立派だとかなればそうはならない、そういう人は本当にまれだろう

もうひとつ老人に花咲か爺になる人がまれである。反対に意地悪爺になる。
おそらく別に高齢化社会が悪いのではない、余りにも老人が多い、でもそれが意地悪爺になり人格の歪んだダンテの地獄編に出てくるような老人が多すぎるのである。そういう老人が膨大に増えるとき地獄だとなる
地獄人間がこの世をまさに地獄にするとなる

●社会は人格形成を目的にしていない

なぜそうなるかとなれば社会では人格どうのこうのとか関係ない利益をあげれば金になれば認められるからである
人格がどうのこうのとか見ないのである。むしろサイコパスとか異常人格の人が成功するという時まさにそうである
でも社会ではそういう人が優秀で成功した人として認めるのである。
第一人格形成が大事だとかなればそれは寺で修行する僧ならわかるが一般の人はそんなことを目指していない
まず利益が第一であり何であれ利益を上げた人が認められて成功した人となる

でも人生の最後に老人になってその成果が現れる否応なく結果が出る、もはや偽ることができない、その人生の結果とは何なのか、それを普通はどれだけ金をかせいだとかいい家にすんでいるとかいい車を持っているとかで見る
それはわかりやすいからである。でもその人の人格がどうのこうのとか見ない。またわからないということもある
むしろその外見を見て判断するとなる。

でも何か人格が歪んでいることはやはり人生に失敗したともならないか?例え金を残しても人格的に歪んでいるとなるとそれは失敗したとならないか?そうなるのはそもそも人格を形成する立派な人を作るとかを会社でもどこでも目指していないからそうなる。学校でも人格がどうのこうの等関係ない、テストでいい成績を残すことしかない。それで他者との競争に勝つことしか眼中にないし人格がどうのこうのとか教えることはないのである
だからいい成績でいい学校に入ったとしてもその人が人格的にいいとはならないのである

だから人間の成功失敗とは何なのかわからなくなる。普通は金持ちになれば成功したとなる。その人の人格が悪くても世間ではそう見る。では貧乏でも人格が優れているとかなっていてもその人を成功した人とは見ないのである
そういう人はまれでもいるかもしれない、ただ貧乏人でも歪みやすい、その女性は苦労の連続の人生だった
第一頭を下げてお願いする。その女性は常にそうしてお願いする立場にある。そういう人でもプライドはある
それが同じ低所得の女性を蔑んでいる。それを知った時どうして江戸時代にエタヒニンがいたのか、江戸時代は身分制社会で厳しい差別があった。最下層の人達がエタヒニンでありその人たちよりは上だとなりそれで満足させたというのもわかる
だから人間はとにかく俺が上だお前は下だと序列を作るのが業としてある
それはカルト宗教団体でも序列があり組織はかならず上下関係で成り立つ。会社でもそうだが俺はお前より上でありお前は下だと序列を作る

それで近くの同級生は農協の店の店員になりお前は何もしてないと決めつけてお前は俺より下でありお前は社会的に下だとなりここでは売らないとなったのである。それも何かしらわからないが社会に対して不満がありその不満が弱い人にぶつけられる
それが江戸時代はエタヒニンだったのである。だからその常に他者にお願いしている女性もやがりプライドがあり自分よりまだ下の人がいるということで満足するとなる
何かそういうふうに不満な人は権力を持つ人にはへつらうがその分弱い人にはあからさまに蔑み鬱憤を晴らす対象になる
それが人間の心理だとなる

●国同士でも優劣を上下関係を競うから平和がない

そして国同士でもこの序列争いがある、それが戦争にもなる。フランシスフクヤマの歴史の終わりの本がそうである
プライドの戦いでありそれは譲れないとなる。アメリカは一番でないとすまない国だという時そうである
絶対にアメリカの上に立つ国は許せないとなるプライドが高いのである
そのためにはのし上がる国をたたく、ソ連がそうであり今になると中国がそうである。アメリカが世界で一番でありそれを譲ることができないのである。

ただ卑いものが高くなり高き者が低くされると聖書にある。また上に立ちたければ下僕になりなさいとキリストが説いた
そういうことは個々人レベルでも国レベルでもないのである。

でも神は心を見ているというときそれは何なのか?

それは人格とも関係している。そもそも心を見れるのかとなる。心の清いものは神を見るだろうというとき神は心を見れる
でも人間はいくら機械が優れていても心は見れないのである。神はその心を重視している、それは人格でもある
でも現実社会では金を第一にして人より上になるために必死に争う、それは個人単位でも国単位でもそうなのである
俺はお前より上だ、お前は下だとして争うのである。
いかに人が優劣にこだわるのかそれは命をかける戦いにもなる

私の姉は体力的にも能力的にも優秀だったことは確かである。
でも最後死ぬとき【俺は優秀だった】と言って息を引き取ったのである
女性でもそこまで優秀さにこだわっていたのである。それは認知症になり馬鹿になったとされることでその反発としてそうなったのである。最後まで自分が優秀だということにこだわっていたのである
それが人間の偽らざる姿でありそれをまざまざと示して死んだとなる。だから悲惨だったとなる。

いずれにしろ俺はお前より上だ、お前は下だ

それがこの世である。その人は何も聞かないのに自分で勝手に決めつけてお前は何もしていないからと売らないとか何かそこで俺は上だとして自己満足している。相手のことなどどうでもいのである。勝手に決めつけて喜んでいるのである
つまり常に優劣を競うのが人間である。でもその優劣が何なのかわからないのである
第一私のことを何も聞かないで自分で決めつけて喜んでいたのである
このことは人間には常にある、国同士でもありアメリカ必ず一番でなければ気がすまない、だからアメリカの上に立つとなれば叩くのである。プライドが許さないからである。要するにどんな人でも国でもプライドがあり上か下かで争うのである
そのことが人間界に争いが絶えない理由なのである

様々な色の花々は争ったりしない、それぞれの違った色で調和しているのである。つまりどの花が優秀で劣っているかなどないのである。大きな花でも小さな花でもそれぞれ調和して咲いている。そこで花が争うことなどないのである
なぜ人間が争いが絶えないのか?それは俺が上でお前は下だと序列化する。そのためなら命でもかけるというのが人間だからである。別に国でも強弱とか優劣ではなくそれぞれの文化がありその文化なら別に争うことはない、むしろそれぞれの国の色があり花々のように調和するのである。








2025年07月03日

アブラハム、イサク、ヤコブに現れた神とはーヤコブがイスラエルの祖 【集団には現れなかった神ー個々人に現れる神】

アブラハム、イサク、ヤコブに現れた神とはーヤコブがイスラエルの祖
【集団には現れなかった神ー個々人に現れる神】


「アブラハムと契約を結んでくださった神、その契約を息子イサク、そして孫ヤコブへと継承してくださった神」という意味です。アブラハム契約はヤコブの12人の息子に、そしてイスラエル民族へと継承されました。その意味において、イスラエル民族は「あの契約の子孫」(使徒3:25)なのです。契約の内容は、土地・子孫・祝福の3項目に及びます。

兄エサウとの和解を志し、会いに行く途中、ヤボク川の渡し(後に彼がペヌエルと名付けた場所)で神と格闘し、勝利したことから神の勝者を意味する「イスラエル」(「イシャラー(勝つ者)」「エル(神)」の複合名詞)の名を与えられる。これが後のイスラエルの国名の由来となった

神とは何なのか?神はアブラハムに現れその息子たちに継承された。神は集団に現れないことは確かである
個々人に現れた。その一人に現れたのが基になりイスラエルという名が生まれた。それが今イスラエル国家になっている
何かイスラエルとなれば今では一千万人住んでいる。だからそうしてもともと一人に現れた神がその全員に現れたと錯覚する
へブル人―ユダヤ人という民族はアブラハムを父祖としてその子孫が増えてへブルーユダヤ人の神となった。

その民族から子孫から神の一人子、キリストが生まれることが約束されていたのである。

契約の内容は、土地・子孫・祝福の3項目に及びます。

今のイスラエルはカナンの地は神によって与えられたものである。それでユダヤ人がそこに国を作ることは正当化される
でもカナンには別に先住民がいたのである。それでカナン語が話されたいてそれがヘブル語にも伝えられている
つまりへブル人は新来者でありというとき何か聖書に現れる人物は最も古いようで実際はそれより古い民族がいたことになる。

なぜこのことを言うのかとなると宗教という時常に集団化組織化している。信者は教会に集まり礼拝する
でももともとはそうした集団に神は現れていない、あくまでも個々人に現れたからヤコブの神となる
ヤコブに現れた神なのである。だからそもそも集団化組織した所に神が現れるだろうか?
何か民主主義だから何でも数が集めれば願いがかなうとなる。信者でも百万人一千万にでも集団化していのれば神が現れると思う、要するに神も投票して数が多ければ神を呼び出すことができるとまでなる
これはキリスト教でなくてもカルト宗教になると仏教でもそうである。
数の多さによって神仏は認められるとなる、一人が信じても何の効果もなとなる。その人など見向きもしないとなる
そしてそれだけ人数を集めるとそこに何かあるとなり注目するのである

キリスト教でも宗派があるというときなぜそうなるのか?

それは個々人に現れた神であり個々人でもそれぞれの個性があり違ったものになる。日本だと内村鑑三が無教会を唱え武士道キリスト教となりキリストの幕屋の主催者の手島郁郎は原始福音を唱えて奇跡を起こした。
その始まり内村鑑三であり手島郁郎でありその個人に聖霊が下って起きたのである
ただ個人となると性格も個性も違うから個人から起きた宗派でも違ったものになった

だから現代は何でも集団化組織化するけど宗教でもそれも集団化組織化して社会の存在感をもち圧力をかける
我々の神でありみんなの神でありアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神とならない
神の祝福は一人の人間に与えられてみんなに与えられるとなる
ところが実際はみんなに与えられて個々人に与えられるとなりともかく信者の数を集めることになる。
それはもはや神を求める団体ではなくこの世の権力を求める団体になる。
でもいくら数を集めても集団化した所に神は現れないのである。何百万人でも祈るのだから神が現れてもいいとなるが現れないのである。

そもそもイサクの子の兄のエサウから弟のヤコブがずる賢く兄をだまして長子の権利を奪うとかそんな人がなぜ神に選ばれたのかとなる。
別の神に選ばれた人は品行方正でもなく罪を犯さない人でも優秀な人でもなかった
だからそれも奇異だとなったのである。何故なら優秀な人こそ選ばれるべきとなるのが社会である
でもそういう人を選ばなかったというのが意外なのである
内村鑑三にしても手島郁郎氏で優秀もなかった。それで不思議なのは最も優秀な天才は神から選ばれないのである
むしろ天才は自ら神ともなるニーチェのように超人になる。

キリスト教でもカトリックが組織化集団化して強固なものとした。でも堕落したからプロテスタントが生まれた
プロテスタントは組織化しないから牧師も司祭もいない、個々人の信者が直接神と結びつくのである。
それはアブラハム、イサク、ヤコブの神だともなる。集団組織の神とは違うとなる
いづれにしろ集団化団体化組織化することはすでにこの世の勢力化したのであり本来の宗教とは違う
それえBODYは集まり、塊、集団、組織、機構、団体、機関、物体、実質の意味がある
一方でスプリットはそういうものではない、つまり組織化集団化したものはスプリットとは対象的なものである
つまりBODYは精神と霊とかとは対立するものである。だからそのBODYに神が現れることはない、それは物体化したものとなるからである。

キリスト教でなくても仏教でもカルト宗教団体はBODYであり集まり、塊、集団、組織、機構、団体、機関、物体、となる
それは数を集めてこの世の勢力化してこの世を支配しようとする。一人の人間に神が現れたのと違う
神すら民主主義によって数を集めて動かせるものとなる。ただその数を集めるとき精神は全く無視されてBODYとして働くのである。心の清い人は神を見るだろうというときあくまでもそうしたBODYではないのである。
そういう団体は数しか見ない、心は関係なくなるのである。

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BODY化することは俗化することでもある

ただ現実社会でこの世の勢力化したとき宗教でも認める。民主主義は数で決まるからである。何百万人の会員がいるとなればそれだけで何かあると世間の人は見る。だから時の政権でも宗教団体を票田としてまた支援団体となるとしてみるのである
それが一人だった誰も相手にしないとなる。また教会でも教会員は信者として見るがその他は見ないのである
でも宗教とは本来この世の勢力ではない、旧約聖書でも一人の予言者が現れて奇跡を起こしたりとかそこに働いたのは神であった。その神が個々人に現れ働きかけたのを記録したのが聖書なのである

ともかく現代は宗教はこの世の勢力化したものとなりそれは集団組織化でありBODYでありマスとなる
この世の勢力化したときまたそれが何かあるとして認めて利用するともなる
そうでないものは相手にしないし存在しないものにもなる。数を集め立派な会館と建てればこの宗教は凄いとなり存在感を示すのである。だからこの世の勢力化した宗教は本来の宗教ではないともなる

つまり宗教でも政治的に力を経済的にも力を科学技術的でも力を持てばそれが世間で宗教に注目するのである
そうでなければ現代では宗教に注目しない、集団化していないとまた注目しない、集団は圧力となり権力化するからである。
でも神が現れたの個々人でありその個々人に神が働いたのを記録したのが聖書だとなる
だからアブラハム、イサク、ヤコブのかみとなっていた。ヤコブの神がイスラエルの神となったのである
でも現代は集団があって支持されたものが神となる。これは人間の方で神を選びその選んだ神に帰依するとなる
人間が神を選ぶことはできない、全権は神にあり神が選ぶのである。それはもともと一民族ではなかったのである。
キリストがユダヤ民族主義者に殺されたのは万人に神が現れるのではなく選民のへブル人―ユダヤ人に現れ救うと信仰だから
キリストはユダヤ民族主義者に殺されたのである、今でも頑なにキリストを神の一人子として信じないのである。







2025年06月11日

消失した本来の宗教―大自然で心を浄化するー上野霄里(しょうり)氏の言葉


消失した本来の宗教―大自然で心を浄化するー上野霄里(しょうり)氏の言葉

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山(自然)から発するもの

山から発するものは
大いなる沈着鎮静である
山から発するものは
内なる充溢自信である
山は大地に不動にして乱れず
頂は天に向かい聳え
天の声を授受する
山は不変にして力強く持久する
人は汲汲として追われる生
それも実りあるとは限らじ

人から発するものは
この地を汚して大気も汚す
大いなる山と山は響き合う
嘆きにあらじ不平を言わじ
山から発するものは
堂々た自信に満ちた偉観
人を寄せつけぬ厳格な姿
万年億年の不変不動の姿
その肌を太陽の光が焼き
一転して氷雪に閉ざしぬ
轟々と風は唸り山は沈黙する
ひたすら沈黙して時を刻む
人の命は短く瞬時にも終わる

大自然から発するもの知れ
太陽は絶え間なく光を発する発光体
無数の星は光を発する
花々は神のイデアを美を発する
その多様な花々は調和する
神のイデアはそこに具現する
人間から発するものは何か
絶えざる不平不満を吐き出す
その解決方法はなし
大自然に没入して沈黙せよ
そこにエクスタシーがある

神の持つ宝庫は一つにあらじ
あまたの宝庫がそこにある
そこから無償に与えられる
人間に尽きることなく与えられる
まさしく神の業は奇跡なり
それを得るにはむしろ見る目が必要
その心は透明に澄まねばならぬ
俗を離れ孤高なるべし
無なる器となり神はそこに与える

大自然に深く没入せよ!
その与えられるものは無償なり
神は輝く発光体にしてそのエネルギーは尽きぬ
『光あれ』と天地創造の業は成りぬ
神の業は荘厳なる真善美の荘厳なる神殿を作る
そこに人は争わず手を結ぶ合う
熱い愛の心と信頼で結び合う
ただ人は心の清く大自然に没入せよ
そこで神の業をこぞりて讃える
そのために人が作られしを知るべし



●神は最も善きものを無償で与える

人間はどうあるべきかとなると語られることは経済のことであり人々が求めるのは金である
そのためにこの世があり人があるとなる、毎日がまず食うためであり生活することである
神が無償で与えると言うが人は日々労苦してその糧を得る
無償で与えられるものはない、金なしで与えられないからすべてが金になる
でも不思議なのはこの世の良きものは精神から見れば神は無償で与えているのである
別に花の美を見るにしても必ずしも花を花屋から買わなくても見ることができる

野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

野の花は別に買わなくても見れるし本来の花の美は無償で見れる野の花にある。また別に山でも景観でも無償で見れる
海を見たからと金を払いとか山を見たから金を払いとはならない、この世の最も良きものは無償だともなる。
つまりあくせくして苦労して与えらるものではないのである
ただ真善美を見るとき必要なことは心が清いことなのである。意外とこのことが無視されている

金を得るためなら相手を騙すし金になること利益が第一となる。それがこの世だとなる
それがカルト宗教団体でも御利益第一になる。毎日御利益を得るために集団で狂気のように祈り政治活動して権力を得ることしか眼中にない、そこには真善美など関係ない世界である。
何か組織集団化するとそうした宗教が追求したものが全くこの世の栄華を欲望を満たすものとして利用されたとなる

だから本来の宗教性はゼロである。宗教が山を聖として修行する、だから天台宗とは山岳宗教であり比叡山で修行したとなる
そこでは親鸞も日蓮も修行していたのである。つまり山の聖なる気に触れて修行したとなる
モーゼが十戒を授かったのもシナイ山だった。ただそこには岩山であり草木が無のむき出しの岩山である
それでも山を聖としてありまた砂漠でも不純物がない砂だけにしてもそこが一なる神が現れた場となった

●職業は業であり心を汚す、心を浄化する場の喪失

ともかく今宗教は全く世俗化して世俗より世俗的な場である。あらゆる欲望は肯定される。むしろどぎつい欲望を持てと指導しているから異常である。創価でもカルト教団が東京とか大都会から生まれたこと自体宗教とは縁のないものとして最初から生まれたのである。すべてが経済であり政治活動でありそれが世俗よりも拍車をかけて追及する場である
では何が本来の宗教なのかとなると大自然が聖なるものでありその大自然によって浄化されるから山で修行したのである

つまり今やそういう場が喪失した。だからなぜ禅宗がひたすら座禅を組んで沈黙するのかそれは日常の生活に持ち込めば異常となる。ビジネスでも常に口八丁手八丁で人を騙してでも金を得る、何か金融業はそういうことが多い
そもそもなぜ出家とかしたのか、それは職業というのがもともと人間の業でありいいものと見なかったのである
だから職業にたずさわらない出家して山に籠るとなったのである。ただそのことで世間でもそうした僧を認めていたことである
それはその人達が世間から離れて心を浄化することに意義を認めていたということである

それが現代では大衆宗教になった時そうした本来求めていたものが世俗が求めるものを倍加して求める
御利益を狂気のように求めて集団で祈る。それに従わない者は地獄に落ちると罰当たるとか言っているのだから信じられないとなる。だからこ現代の宗教はカルトなのである。大衆化して俗化したカルトである
そこには宗教が追求した真善美はない、そうした肝心なものがそこから生まれようがないのである
それは現代の文明の大都市からも生まれない、それは大自然に求めるべきものであり今でもその大自然は一億年前と同じように存在している。現代の宗教を標榜する場がもはやそこに本来の宗教は皆無である。

だから宗教を求めるとき大自然で心を浄化すべきだとなる。それは大都会ではできない、カルトととなり異常化する
だから奇妙なのは引きこもりが増えたというときその人達は昔のように山で修行する場を与えればいいともなる
何故なのかこの世で働くことは必ずしも心にとっていいものではない、心を汚すのである
何か金融業など見ると人を騙す職業なのかとも見る。それでそいう場で働いた人の人格は歪んでいる
それは怖いことでもある。老人になってそれが顔にも否応なく現れる。何かやましいことをしてきたことが自ずと刻印され顔に現れる。何か老人を見ていると世間的には成功しても金持ちになっても人格的には歪んでしまった人が多いかもしれない
そもそも現実社会で人格形成とか関係ない、むしろ金を得るには邪魔だとなる

●社会は人格形成など考慮しない、金儲けだけになる

職業でも人格形成するのはある。何か理系の人は堅実だというとき文系は何か人を騙す職業が多い
それは職人気質とかあり昔の職人は堅実であり人をだますようなことをしないで人格形成したとなる
農民でもそうである、そいう人達が社会の大部分を8割とか占めていた時代はかえって健全な社会だったのかとなる
トランプ大統領が株で儲ける人達を敵視して知識人を嫌うのはアメリカでもホイットマンの時代は農民とか職人とかが働く人達でありそういう人達を賛美していたのである。

ともかく心を浄化するとかなど今のカルト宗教にはない、そんなことを言っていたら人が集まらないからである
心を浄化するために山に籠り沈黙しろなどと言えば誰もついてこないからである
御利益があると執拗に言えば大衆はついてくるとなる
それも異常なことである。だからカルト宗教は本来の宗教とは何の関係もないのである
では心を浄めるというときどうするのかとなるとそういう場がなくなったのだから大自然に求めるべきだということは天台宗が山岳宗教だったようにそこに心を浄める場がある。それは変わりないのである。
自然は億年であり無傷でそのまま変わらずにある、人間の社会は変わりすぎたのである
とても一千万の東京とか大都会が何なのか理解することは不可能である
そこで精神を正常に保つことは不可能だとなるからカルト宗教が生まれたのである、それはナチスに似たものとなるから怖いものともなる。

なぜ現代の偉人がまともな人がアウトサイダー化したのかそれはカオス文明社会で本来の人間たらんとしてそうなっただけである。現代文明のカオスに非人間化に耐えられないとなりもともと優れた天才とかはそうなったのである
それは社会から見れば異常な人であり認められない、でもその独立不羈の個人が正常な人だったとなる
宗教団体であれ組織化集団化すると個々人は認められないのである。社会が認めるのはそうして集団化した団体であり個々人は認めないのである。そこではまとまった票が得られるとか金が集められるとなる。個人は百万票で当選するとなればそんなもの何の力にもならないとなるからである。

なぜ現代で世界でも引きこもりが多いのか、それはやはり心浄めるというといとき社会は人格形成とかを考慮しないからナイーブな人が適合できないからかもしれない、私自身そうだった、社会に適合できないから引きこもりになった。
だから私のふさわしい場は山で沈黙業する場だっとなる

口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。
19 というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、
20 これらのものが人を汚すのである

こうならないことは世間の中で仕事するとなるとむずかしい。第一沈黙していること自体異常な人と見られる
でも大自然と同化することは山が千年沈黙しているように沈黙せねばならないのである
とにかく芸術にしても詩を作るにしても大自然と合一するとき沈黙せねばならない、それが宗教の修行と同じだったのである

●上野霄里(しょうり)氏の言葉

詩は社会と断絶した隠者的な風格を備えていなければならない。

なぜ彼があれほど集団組織を嫌ったのだろうか、それは集団の中で個が抹殺される、集団化することは黒だったら黒一色にすることである。赤だったら赤一色にする。カルト宗教団体ではそうなる。まるで企業戦士のようになる。揃いの背広を着て同じ色になる。それはナチスと似ているのである。
それに反してあれほど苛烈に組織集団を断罪したことには驚嘆するしこれは何なのかとなる
その時一人の個人のみがクローズアップされる。そんな人間いたのかという驚きである

その堂々たる直ぐなるもの
力に充ちて威厳あり
その慧眼は神的でもある
天才のみがもつ生来のもの
一つの主張が常に貫かれている
内部が火のように熱く燃えている
直ぐなるものとして貫かれる
厳格なる巌のごとく
原生人間は本来の人間を蘇らす
その足は大地を踏みしめ
確かな足跡を大地に刻印する

組織集団を断罪してその個なるものが強力に主張される。だから稀有なる人だとなる。何故ならみんな組織の集団の一員となるべき必死になっているからである。ただ天才のことは平凡な人は理解できない、そして偶像崇拝になる
それは天才と凡人の差が大きいからである。確かなことは組織集団は雲散霧消しても強力な個人は残る
その足跡は明確なのである。

2025年04月28日

家族のカルマは苦しみとなって現れる 【事業の失敗もカルマなのか―具体的例として知る】


家族のカルマは苦しみとなって現れる
【事業の失敗もカルマなのか―具体的例として知る】


カルマの法則は確かにある。でも、それを理解することは複雑で解りにくい。なぜ、私の母の実家がさまざまな問題がのある家だったのか。警察署長にまでなった父親はいてそれがなぜ問題を抱えるようになったのか。

●事業に失敗した。
●後妻が来て家族が乱れた

何かこの後妻というのが問題が生じる。私の母親も後妻なのである、それで子供がいて連れ子がいて後妻にきて問題が起きた
私の母親自体が実家で後妻が入って来て乱れた。ただ実の母親が病気になり夫が世話できなくなりそこに後妻を迎えたことで乱れた。それでも肺病になった25才で死んだ母の兄がいて看病したのである
つまりその後妻は二人の病人を看病したのである。だからすべて悪いとはならない、でも母は継母でありいじめられてのである
弁当を作ってもらったのはいいが食べ残したらその弁当を実の母親ではないから食べられないのかtその弁当をぶんまけたのである
これもひどいことである。母は幼少時代は金持ちでもありお嬢さんだったが父親が事業に失敗してから貧乏になり苦労したのである。

この事業に失敗することもカルマなのだろうか?なぜなら。私の父親も双葉の新山の方で酒屋の丁稚をしていたが倒産したからである。親戚といっても兄弟とかではない、父親の関係でもやはり鉄工所とか経営した家が倒産した
また原町でも事業を始めた人が借金をかかえた。その人が私の家族が介護になりまた私が病気にもなり来たから苦しくなった。
またそうして私が病気になって家を留守にしたときたまたまあった大金を盗まれたとかある
そのことは間にも書いてきた。

何か事業に失敗する人は本当に多い、推理ドラマでもそれがテーマになる。事業は20人に一人くらいしか成功しないむずかしいものである。だからそれはどこにでも普通にいるとなる
親戚の人はなぜ事業を始めたのかそれが良くわからないのである。確かなことは難しい資格を持っていて優秀だったから事業を始めた。別に会社勤めしていればその家族でも妻でも楽だった

その妻の家族は夫は肺病とかになり手術して障害者にもなった。だから相当に苦労したのである
でもそのむずかしい資格をもった夫を持ったので楽だったのである
その父親の妻はだから障害者の夫をもって苦労したのである

だから夫で妻が苦労する→その娘も夫で苦労するというカルマが成り立つと見た

なぜそうなのかとなればその娘でも母親の苦労がわからない、どれだけ夫で苦労したかわからない、でも今度は自分の夫で苦労したとき身に染みてわかるとなる。

なぜこんなに夫のために苦しむのかー私の母親も夫のために苦しんだーそれで母親がどれだけ苦労したか身をもって知るとなる
それがカルマなのである。
それは自分にもあった。父親違いの兄は自分の家では良くしなかった、そのことがカルマとなり介護で苦しんだとかなる
何か家族にも負の部分がありそれが長男長女に苦しみとなって現れる。家のカルマが長男長女に現れやすいのである

つまり事業の失敗で苦しむ人が相当に多いことは確かである。それがカルマとなりその家族が子供でも苦しむとなる
カルマという時小高の人のカルマは原発事故と関係していた。小高から原町に一人移り住んだ。何か原発の補償金でいい車など買い別に東電でも批判しなかった。というのは津波の被害にもあったが東電の補償金が多額で助かったと言っていたからである
でも熟年離婚になり息子は仙台で働くようになり病気になり仙台市の病院に入院した
何かこれもカルマが複合的に重なり苦しみとなって現象化した

とにかくカルマの特徴は苦しみとなって現れる

様々なことで苦しみとなって現れる、それだけは間違いない、その原因も複雑でわかりにくいがなぜ苦しむのかとなるとやはりカルマが関係している。私自身でも若い時代は苦労したにしろその後は楽だった、でも家族の病気と介護で地獄化したのである
楽をした分苦労が重なったとなる。だから人間は楽で一生終わる人もいないし苦しみで一生終わる人もいないとも見る
私の母親はいつも眠るように楽に死にたいと言っていたが百歳まで生きて本当にそういうふうに死んだのである
その願いはかなえられたとなる。一方姉は認知症になりその死に方は悪かった、それも何らかのカルマがあった

いずれにしろこの世を生きることはカルマがある。カルマとはその人の行ったことでありまた宿命なのか、逃れられないものがある。別に金持ちの家でもカルマを持ち不幸がある。家族の不和とか何か悪いことが起きる
つまりカルマがない人はいないともなる。カルマとはまた罪を犯すことにもなる
だからこそ複雑であれカルマの法則が成り立つ、例外はあるにしても成り立つのである

それがカルト宗教団体に入ってもカルマは解消しない、なぜなら近くで創価に入ったら息子が病気になり死にその後を追ううように母親も死んだからである。でも創価に入ったからいってカルマは解消しない不幸もなくならない
ただ不幸な人は頼る者がなく必ず共産党とか創価にカルト宗教団体に頼る。でも解決しないのである
そういうことは実際に身近で見ているからわかる。つまりそいう団体自体膨大の人々のカルマを背負うことになる
そして解決はしない、幹部はその人達を利用して金をまきあげ議員になったり得することしか考えていないからである
つまりそういう団体自体巨大なカルマをもちそのために崩壊する。個々人のカルマが巨大な集団のカルマとなっただけである
そもそもカルマとは人間の業でありそれが積もり積もって人類自体が最後にハルマゲドンなのか破滅するともなる

アメリカが衰退するという時やはりしなくてもいい戦争をして莫大な犠牲者を出した、それは正義でもなかった
大国の横暴だったのである。だからそれもカルマとなり災いともなり苦しみともなったゆく、アメリカがいつまでも繁栄することはないのである。だから歴史にもカルマの法則は成り立つとなる


2025年04月02日

人間は環境の影響が大きいー他者の家族の理解の困難 【不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。トルストイ】


人間は環境の影響が大きいー他者の家族の理解の困難
【不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。トルストイ】


不幸の原因

●家族の影響
●時代の影響
●その人の資質(遺伝)

何かその人を見ていると不幸だなと感じた。50才くらいで結婚しない、ただこの世代は本当に結婚しない人が多い
その理由はこの世代は氷河期世代で恵まなかった。それもありこの世代の人は本当に不運だった
でも時代の影響はまねがれない、戦争で死んだ若い人も多数いたからである。団塊の世代は辛うじて戦争後に生まれて助かったとなる。つまりわずかに生まれた時代の差でそうなったのである。戦争中は20代で特攻隊で死んだ人がいる
それも悲惨だったのである。だからどういう時代に生まれるかで人生もかなり決められてしまう

その人を見ているとつくづく不幸だなと見る。その家族と付き合う中で分かったのである
その母親は団塊の世代であり同世代である。その母親は子供は厳しくしつけた方がいいとしてその考え方が変わらないのである
老人が頑固だという時考え方が変えられないのである。それで確かに学校で体罰が普通に行われていた
廊下にたたされたりもした。それは団塊の世代でも同じだったのである。その時は学校でも家庭でも子供は厳しくしつけるべきだとなっていたのである。だから今でもその考えは変わらないのである
でもその息子は親が介護になっても優しくしない、それで母親が嘆いている。この家族の不幸は発達障害の子供を持ったことである。それでそ長男に母親がかかりきりになってしまった。弟はないがしろにされたということがある

その人は建築土木現場で働き今は介護施設で働いているのも奇妙である。なぜなら親を介護しているからである
ただ介護といってもまともにしていないから母親が文句を言うのである
とにかくその不幸は家族の影響と時代の影響があり不幸なのである。その人の資質はわからない。でも不幸だと見る
それはその人がどうのこうのではない、環境が悪くて不幸だとなる

私の母親も幼児期は警察署長の家に生まれたから恵まれていたのである。でも事業に手を出して失敗して母も病気になりそこに後妻の人が入って来てその女性が異常なほど気が強く母親はいじめられたのである
子供の時弁当を残したら実の母親ではないから食べられないのかとその弁当を捨てられたのである
その後も紡績工場で働いたが一汁一菜でありそれで十年くらい働いていたのである。働きずめだったのである
そいうこともあり花など興味なく何か趣味もない、ただ働く働かされたのである。ともかくその時代は貧乏であり子供は家の家計のたしになるものとしてあった。今でも貧乏な国はそういうことがある。子供は働き手なのである
私自身も子供の時は店の配達で働いていたのである
つまり時代の影響でありまた家族に影響でそうなった。これらは運命的でありどうにもならないとなる

時代の影響家族の影響は逃れがたくある。その人は時代が氷河期世代であり家族環境も悪い、資質はわからないにしてもいくら資質が良くても才能があってもそんな環境では伸ばせないと見た。
だからどんな家族に生まれ育つかが相当に影響する。カルト教団の家に育った人は全く洗脳されてまるでナチスのようにもなり
紅衛兵にもなっていた。他が全く見えないのである。純粋培養されてそうなった。だから家族の影響はあまりにも影響が大きい

確かにその人の資質はある。でもその人の育つ環境をみるといかに生まれ育った環境の方が大きな影響があったとみる
人間は環境の影響の方が人間形成にしても大きいのかと見る。人間は環境が悪いと打ちのめされる。
いくら資質が良くてもそうである。だから教育でもそもそも環境の影響が大きいとなる
どういう家に育つかでその人も作られてゆく。ただ本当に他者の家族のことでもわからにものだと思った
それを理解するには結構長い時間も必要になる。そして他者の家族でもまた個人的なものでも理解するようになる

ともかくその人を作るのは生まれつきより環境の影響が大きいと見る。特にどんな家族に生まれるかが大きな影響を受ける
ただ家族でもわかりにくいのである。ヨーロッパで貴族から天才が生まれたというけどそれは家庭内で教育があり家庭教師がいて才能を伸ばしたとなる。でも労働者階級からは天才は生まれなかったとなる。
とにかく人間の幸不幸はなぜ生まれるのかこれも謎である。私の父親違いの兄は私の家では良くしなかった。その原因は東京で実の父親が工場の事故で死んだことにあった。そして今度は兄も交通事故で40才で死んだのである。そのことで私は恵まれたから心痛めている。

ただなぜこうして不幸な人がいるのか?それはいくらでもいるだろう。ただどうしてそうなっているのかわからないことがある
例え悪い環境に生まれても育っても立派な人がいる。その人はやはり本当に優れた人だとなる。悪い環境なら別に特別な人に成らなくてもそれだけで立派だともなる。人間はどうしても環境が悪いと歪められるからである
そうして悪い環境でもまともに育てば立派だとなる。

人間はその人を見るときなかなかわかりにくい、私自身の家族もまた他から見たらわかりにくいからである
だからこそ

幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。トルストイ

それぞれに不幸であるというときその不幸も様々であり違っているのである。それが簡単にわからないのである。
まず障害者を持った家族は何らかで不幸になる。その負担が大きいからである。それだけではない不幸になる原因はいろいろある。貧困はわかりやすいがそれだけではないろいろな不幸がある。それが他から見て分かりにくいのである
だから本当は家族を理解することが大事になる。でも理解すること自体簡単にできないのである

,正常なコミュニケーションのなさ家族では,各成員が担う役割に柔軟性がなく,
特定の人物に偏った役割や責任が課せられており,以下のような適切さを欠いた様々な役割が存在していることが述べられている。

これなのか、その一人の人に負担がかかるということは確かである。もし障害者を兄弟にもたなければ負担は分担できたからである。それで一人に負担がかかってしまったのである。そこに不幸があったとなる。
また家系因縁もある。先祖がかかわることもある

先祖代々呪ってやる」というセリフがあるように、強力な怨念は先祖のみならず家系全体へ影響を及ぼす

これは間違いなくある。親戚で私に最後に『ひどい娘だわ』と恨みの言葉を残し直ぐに死んだ人がいる
その娘は本当にひどい人だったのである、だからその怨念が必ず影響する
それで介護でも恨みを残し死ぬとやはり後で怨念となり影響するから困るのである
私の場合は感謝して死んでくれたから死後でも供養できる。遺影は笑っている。恨んではいないからである
これは軽く見ているが恐ろしいことかもしれない。

とにかく不幸という時様々であり理解すること自体簡単ではないのである。貧困だけなら金で解決できるかもしれないが様々な人間関係の中で不幸がありまた幸福があるのは人間なのである。ただ正直そこまで他者が家族に入ることは嫌になる

何か家族の泥沼に引き込まれる。私の家族も一人が認知症になりもう一人も介護になり自分自身も病気で入院二回したとか泥沼になった。その時かえってそうした時今度は金を盗られたとか他者から責められてさらに苦しめられたのが現実だったのである。つまりそういう泥沼に引き込まれるからかかわりたくないというのも現実なのである
カルト教団では確かに相手にするにしても一票を得るとか不幸な人を助けるふりして自分の利益を計るとなる
まともに付き合えば自分に跳ね返ってくる。泥沼に引きずり込まれる恐怖がある。

いずれにしろ問題をかかえない人も家族もいないのかもしれない。ただわかりにくいのである。だから何もできなくても理解することが必要になるがそれもまた簡単にはできないのである。










2025年03月28日

時間の大切さがわからないー何に時間を費やしたかが人生 【海外旅行は金より体力+時間が必要だった】

時間の大切さがわからないー何に時間を費やしたかが人生

【海外旅行は金より体力+時間が必要だった】

人生でもっとも大切なことは、思い出をたくさんつくることです。なぜなら、自分の人生の最後に残るものは、お金ではなく思い出だからです

●時間の貴重さが金のように意識できない

人間は人間は時間の大事さがわからない。常に金のことは十円でも意識する。金が貴重なことは生活の中で身に染みて理解する
でも金のように時間の貴重さを意識しない、時間はいくらでもあるとなりそれが30才過ぎる辺りから時間がないと意識される
なぜなら40才になると白髪が出てきたりするからである。そうなれば老いでも意識するようになる
死すらまじかだともなる。青春はあっというまに過ぎる。女性でも30過ぎるとおばさんにもなる
時間などいくらでもあると時間の貴重さを意識できない、それが盲点なのである。

それは現代だけではない昔から言われたことであり人間はやはりいろいろ変わっても老いて死ぬことは変わりないから現代でも諺でも聖賢の教えでも廃れず残り通用する。諺でも馬鹿にできないのは人間が生きて死ぬということを経験することは同じであり今いくら寿命が伸びたとしても同じなのである。寿命が20年伸びたとしてもやはり生きる時間は短いと感じる
とにかく時間の価値は意識しにくいのである。それは老人になった否応なく意識させられる
つまり何するにも時間がない、つまり最後は時間切れで死ぬということである。死ぬとは健康が失われるというだけではなく
生きる時間はなくなることである。だからいくら金があってもその金を使えないということがある

何か新しいものを機械でも操作できないということがある、それを使いこなせないということがある
老人は携帯は使える、私の母は90才でも携帯が使えたからである。ただ番号を押せばいいのだから意外とできたのである。
でもスマホとなると面倒になるから使えないとなる。それでいくら金があって買えてもその操作が難しく使えないとかなる
それには時間がかかるからである。私自身もプログをSSL化しないのは操作がめんどうになるかしていなかったのが失敗だった
何か老人になると面倒になる、それで億劫ななる、若い時は新しいものに飛びつく

私は悪筆だからワープロをしてそれに通信機能がついていたことで早い時期からパソコン通信でもしていた
面倒なものでもしていたのは私の場合引きこもりで暇だからできたのである。つまりここでも時間が関係していたのである
何か習得するにも常に時間がかかる。金もかかるとしても時間もかかる。時間がかかるというとき手間もかかる
その時間がいくらでもあると思っているがその時間も消失する。

●金より体力と時間が大事なこともあった

金+体力+時間=経験になる。確かに金がなければ何か学ぶにしてもできないことがある。本を買うにも金がかかるとかある
旅行するにも金がかかる。それで失敗したのは海外旅行が円高で金がかからない時代があった。そのとき貧乏人でもフリーターとかでも世界を旅行していたのである。その時金が無くても世界旅行できたのである
私は50才過ぎてバックパッカーになって世界旅行した。でもその時でも外国のことがわからなくて金がかかると思っていたのである。

なぜそうなったかというと私は日本国内でも旅行するので困ったのが泊る旅館とホテル代だったのである
いつも安い宿を探していたから疲れたのである。それで海外に行っても安宿を探していた
ただヨーロッパだと意外と安いホテルが多い、それはユースホステルとか千円で泊まれるとか老人でも泊っている
また個室ではないにしろ安い若者向きのホテルがある。だから金がかからないかった。でもアジアでも金がかかると思い節約していたのが失敗だった。金よりむしろ体力があれば若ければ海外旅行は意外とできたのである
それは円高時代だったからである。今になると苦しくなる。だからその時海外旅行した人は得だった、恵まれていたとなる

金+体力+時間=経験となるが若い時は金が無くても体力と時間がある。老人は金があっても体力がない時間もなくなり
何かきついことはできなくなる。でも海外旅行は金がなくてもなんとかフリーターでもできたのである。
だからその時代は恵まれていたとなる。金の問題として私の場合恵まれていたのだがやはり親は実際は金がありその金を使わしてくれればもっとできることがあった。遺産をもらったのは60以降であり遅かったからである
だから親でもやはり子供に金を使わせるべきだったなる。ただ私は十分に過分に親にあたえてもらったから文句は言えない
でも何か60過ぎて70近くになって金があればもっと金を与えてくれればよかったとなる

つまり親でも金を使うべき時に子供に与えてくれなければ時間がなくなり金を使えず何もできないとなる
第一70過ぎてから海外旅行するとなるといくら金があっても苦しくなるからしたくないとなる
だからいくら金があてもそれを有効に使わないと使えなくなる。そして日本人は死んで使わない金を膨大に残している
それは生きているうちに子供で与えれば良かったとなる。

●何であれ何に時間を費やしたかが人生

とにかく人生は誰でも失敗がある、失敗がない後悔がない人はいない、それは時間でも体力でもありつづけると思っていることである。30過ぎると体力でも落ちてくる、だからこそ鉄は熱い内に打てとなる。激しい運動はできなくなるからである
そして人生が最後に残るのが思い出だけだとなる時その思い出を作る経験が大事になる
だから会社員で30年でも過ごしたとすればそれが人生でありそこに時間が費やされたのだから社畜であれそれがあなたの人生だったとなってしまう。そんなことしたくなかった、金のために仕方なかったとしてもつまり人生とは何に時間を費やしたかが人生だとなってしまう。それが老人になり思い出になってしまうのである

その会社で共に長く働いたとなればそれが思い出となりその思い出を語ることになる
それが何であれ人生だったなってしまう。会社での30年40年であれそれだけの時間を費やしたのだからそれが人生だったとなる
だからそこで費やした時間が無駄だったとなればその人生は何になるのかとなる
カルト教団であれそこにやはり会社に尽くすように働いた人はやはりそれが間違っていてもそれが人生だったとなることは怖いとなる。でも老人になれば否定できないとなる。若い内は方向転換できたけど年を取るにつれてできなくなる
もうその時は新しく何かをする時間が消失したとなる。

だから人生とは何に時間を費やしたかである。旅に時間を費やせば芭蕉のように人生は旅だとなってしまうのである
ただ様々な人生がある、でも何に時間を費やしたかが人生であることは確かである。何か原発事故で浪江町の津島の方で
戦後引揚者が入って来て苦労して畑でも作り共に苦労した仲間いてそこで暮らしたいという時そこで時間を費やしたから
それが人生となり思い出となったから離れたくないとなったのである

それは原発事故の避難区域ではそうなった。確かに新しい土地に移り生活して便利になっても実際苦労して共に働いた場所が人生の時間を費やした場所でありそれでそこに住みたいとなった
新しい所は便利でも若い人なら新しく経験して思い出が作れるが老人にはその時間がなくなったからである
つまりそうした人生の思い出を奪ったことが大きな被害でありそれを金で穴埋めできないとなった
つまり新しい土地でやり直す経験する時間が老人には消失したからである。

ただ空間では同じ場所に暮らしても20年であれ30年であれ交流がないと理解できなくなる
空間を共有してもその空間で共に時間を費やすことがないと相手を理解できなくなる
だから空間を共有しても時間では別々なのものに費やしているから近くでも理解できなくなる
それは現代では職業でも多様でありまた移動社会だから空間を共有するとしても福島県とか仙台市の人とかでも仕事に来る
だから昔の村のような狭い土地に密着して暮らす農民社会とは違ったものになる
隣は何をする人ぞとなりやすいのである。そこから近くでも理解しにくくなるのである









2025年03月27日

人間は無報酬(金なしでは)では他者に何もしたくない―ただより高い物はないの意味 【神の国では神自ら無報酬で賜物として与えられる‐聖書の野の花の例え】


人間は無報酬(金なしでは)では他者に何もしたくない―ただより高い物はないの意味
【神の国では神自ら無報酬で賜物として与えられる‐聖書の野の花の例え】

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人を媒介して与えらるものは無償ではない、見返りが必ず要求される

●無報酬では何もしたくない、ささいなことでもしたくない、ただより高いものはない

人間の価値は金で計られる、でもそれが本当なのだろうか?労働自体も金で計られる、金の多寡で労働が決められる
でも変なんだけどその人は大金持ちだとする。でも貧乏な人が来て自らお茶を入れるとかする
単にその人のために物を運ぶというとき何か大金持ちだからそんなことしないでお手伝いさんにしてもらえばいいとか
そのために金を払って自分は何もしない、ありあまる金を払えば事が済むとなる

私自身がその人は別に金を払うわけでもない、むしろ金を与えている、その人のために物を運ぶ、寒いから小型の温風器を運ぶ
それが手間に感じたのである。その人は別に私のために何もしてくれない、それなのに金を与える
奇妙なのは金を与えるよりその人のために温風器を運ぶことが負担に思ったことである
それは直接の労働にもなっていたからである。人間社会は赤の他人に無償ではなにもやりたくないことが実感した
金がもらえるという報酬があり仕事している。単にモノを運ぶことでもそうである。金をあげますからA地点からB地点へ物を運んでくださいとなり運ぶのである。それを無償ですることはない。

それで親戚の人でも箱一つを運ぶのを嫌がっていた、そんなもの簡単でも何も報酬がないとしたくないとなる
でも報酬は与えていたのである。その人は借金していたから私からその借金を払うために金を都合してもらいたかったのである。
その額も事業していたから大きいものとなっていた。ただ確かなことは私のためには何もしたくなかったのである
だから気持ちとしては箱一つでも運ぶのを嫌がっていた、頭の中は借金のことしかなかったからである

ただそれが私が批判できるかとなるとできないとわかった。なぜなら自分自身がなぜ赤の他人に物を運ぶのに負担を感じたからである。それも金をはらっていてまた物を運んでいたからである、何か物を運ぶことが返って負担を感じたからである

人間は何か報酬がなければ何もしたくない!

これが別にいい悪いとかではなく人間だということを知る。ただより高いものはないというとき無償で何かを他人にしてやる人はいない、もしする人があるとなると何か魂胆があり後で大きな見返りを要求されるとなるから出た諺だとなる
要するに人間はなんであれただ無料で他人に尽くすことはできない、それはいい悪いとかではなく人間はそういうものだということである。福祉関係の仕事でも無料ではない、国からでも自治体からでも金をもらっているからしているのである
だからこの世でただより高いものはないというとき人間は無償では何もしない、したくないとなる

だからただですることがあれば返ってその報酬は金を払うより高くつく、だからこそこの世で他者にサービスを受けるとき
一定の価格が決めれる。ただのサービスは返って高くつくからそうなった。他人には報酬なしでは何もしてもらえないということである
カルト宗教団体であれ宗教だと無償でしてくれるのかとなるとやはり無償ではない、カルト教団なら確実にその見返りを要求している、だから献金が常に要求されるのである。要するにかえってただより高くつく場合がある。無償で助ける人はいないということである

●無報酬でもしたいことはある

ただ不思議なのは人間は報酬無くても金がもらえなくてもやりたいことがある。例えば芸術家なら画家ならいい絵を描きたいという願望が強い、それを売れば金になるからではない、絵を描きたいという動機がありそのために金が必要だとなる。だから画家は金になるより自分の納得する絵を描きたいとなる、だから絵を描くことは報酬が例えなくて描きたいのである
仕事にはそういうことがある。私は別にプログで毎日書いても報酬はないしほめられるということもない、でもなぜこんなに熱心にしているのか、それは自分なりの絵を描きたいという画家と同じなのである
それは金を払ってでもしたいことだからそうなる。単にモノを運ぶとなればしたくないのはそれが絵を描くのとは違っている
それは何か報酬がなければしたくない仕事だとなる。

要するにただ金を得るだけに強いられる労働と自らしたくてする労働は違っている、大方は金のためにしたくないけどしている
だからみんな会社員は社畜だと自ら言うのである。
ともかくただより高いものはないというとき人間は無償で他人のために働くことはしたくないそれは確かである。

なぜあなたのために物を運ばねばならないのか?
何か得があるのか

だから一つの物でも他者のためには運びたくないのである。それは冷たいともならない批判できないみんなそうだからである。
一方自然界は食料でも何でも無償で無料で与えられる。それでも人間が栽培するとそこに人の労働が加わりるから無料ではない必ず報酬が金が要求される。どうしても絶えずこれは苦労して作ったものとなり報酬が要求される
でも不思議なのは自然界では食料を得るとしてもそこに労働は加えられていない、木の実であれ何であれそれは神から直接与えられたものである。何か報酬は要求されない。だからその時その果実でも木の実でも甘美になる

それで野にある桑の実を食べたときそういう食べ物は買って食べるより甘美なものになる、別に誰かが苦労して作ったものではない、無料で無償で食べられるものだからである。それは出エジプトで与えられたマナとも似ている
誰かの労苦によって与えられたものではないからである。だからそれは一層甘美だったのである
天国とはこうして食べ物でも無償で与えられ場である。神が直接賜物として与えられる。金を払う必要はない、ただ神に感謝して食べればいいだけなのである。何か人間が手を加えるときかえって必ずそこには不純なものが生まれて来るともなる
人間の手から与えられるものは神が直接与えるものとは違う、かならず報酬が要求されるのである。それが負担に感じるのである。

そして人間でも無償では他人には何もしたくないのである。それは冷たいというのではない、神は何かを与えるにしても
無償であり何か神自身が苦労したわけでもない、それは奇跡と通じている。
聖書では何かそうして奇跡として人間い与える、キリストもパンであれ葡萄酒であれ奇跡として与えた
奇跡とは何の苦労もせず与えるということである。病気でも触れただけで癒したとかなる
人間の医療となればいろいろと苦労する。だから医者にかかれば医者への報酬は一番高いものになり医者は一番偉いものとなる
医者に対しての報酬は一番大きいものとなる。医者が神のように崇められともなる。

要するに人間を媒介として与えられるものは無償ではない、常に負担となるものである。だからただより高い物はないとなる
逆に無償でただで与えるのが神だとなる。何か見返りを要求しない、感謝するだけでいいとなる
つまり人間を媒介として与えられるものは常に報酬が期待されて負担になる、それで何か生きること自体負担になっている
純粋に喜べないのである。ただでしてもらってもそれは神が与えるものとは違ってさらなる報酬が要求されているからである

●神の国では無償で与えらる

この世で本当にいいものは自然の景観であるがそれは無償で与えられる、富士山を見たからと金を要求はしない
野の花を見たから何か報酬は要求されないのである。そして野に咲く花が最も美しいのである

なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

働きもせず、紡ぎもしません

人間が作り出す衣服は作り出すのに大変な苦労がある。野の花は働きもせず、紡ぎもしませんとなっている
それは労苦なしで咲いている。でも人間が花を栽培すると苦労して栽培したとなり報酬が金が要求されるのである
でも一番は花が美しいのは野に咲く花なのである。
人間は絶えず働き紡いでいる、それで必ずしも野の花のように美しいとはならない。だから人間の労働は膨大なものである
その労働の結果として大都会がある一千万の大都会があってもそこに一輪の野の花ほどの美がないということでその対象が極端なものと現れている。要するに膨大に働き労して紡いで作られたものでもそこに美がない、それは何なのだろうとなる
それこそ徒労だったのかとなる。

ともかく人間の労働はすべて賞賛されるものではない、絵を描くとか何かその人なりにしたいことをしていない、強制されて働く、何か与えられるにしても必ず報酬が要求される
そのことは資本主義だろうが共産主義だろうが変わらないのである。また変えようがないのである
そこにこの世の絶望がある。神が自らの業で作り治める神の国でしか理想は実現されないのである
人間がいくら労働しても努力しても理想の国は実現することがないのである、そこに人間の限界がある。

神の国では神自ら治める
神の手でじかに食料も与えられる
それ故により甘美となる
鳥は着るもので苦労しない
住む家もなく苦労しない
食べるものでも日々ある
神は労せず何でも与える
その報酬は要求はしない
ただ感謝すればいい
そこに至福があり人は満ち足りる
神の計らいは万全であり
そこに災いはない
病もなく老いもない死もない
永遠の神の都で安らぐ

野の花でも鳥でも同じである。食べるものでも与えられているけど人間とは違う。着ることもないし家もないけど生きられからである。誰か苦労して与えるわけではない、神自ら与えるもので生きる。ただ家畜とかペットになると人の手から与えられたもので生きるから違ってくる。だからいくら餌を与えても慣れない猫になぜ餌やるのだろうとなる
また餌をやっても感謝もない、だからなぜ餌をやっているのかとなる。猫でも与えるときは何らかの報酬を期待しているからだとなる。

確かなことは人間は常に何でも苦労して作り出すから報酬なくしては何も与えたくないということである
giftはドイツ語由来でありそれには毒の意味があったことことが象徴的である。人間から与えられるものには毒が含まれているともなる。何かただより高いものはないに通じている。無償の賜物としては与えられないともなる
つまり人間から与えられるものには毒があるとなる。一番いいものは神から直に賜物として与えられるものだとなる。


2025年03月21日

真面目に働いても価値を創れない問題−ひろゆきの論


真面目に働いても価値を創れない問題−ひろゆきの論
【マリアとマルタの例えー花に興味がない人は価値がない】

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【ひろゆき】真面目に働いている人には申し訳ございませんが、真面目な人ほど使えない理由を説明します

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人間は常に価値が問われる存在である。真面目であることも価値はある。ただ何か真面目に仕事をしてもその人の価値が認められるのか?例えばレジにするにしてもそのレジをする。女性でも特別な価値を認められるのか?
ただ、レジにしても男性より女性が良いとなる。女性でもまた美人がいいとかなる。美人でなくても愛想がいいとかなる。
何かそこでほかの人と違うものを示せば、価値あるとなる。
何か。近くの店でも80近い人がレジを店番しているといい感じはしない。やはり若い女性の方が良いとなる。
だから、あらゆる仕事にも適材適所なのである。老人は裏方に回り掃除などをしていれば良いとなる。

ひろゆきはただ真面目なのなら、それだけでは真面目なのならそれだけでは価値にならないとしている。
ただ、時間どうりに真面目に仕事をこなす。でも、それだけでは価値にはならない。
何か、その人は営業でも。ほかの人とは違って、成果をあげればその人の価値が認められる。その人が、必ずしも時間どうりに来なくても結果を出せば価値あると認められる。それを真面目に時間どうりに働く人は違って成果を出しているからだとなる。会社ではいくら時間どうりに来て働いても成果が出なかったらその人を評価しない。
要するに、何らかの成果を出すことが評価につながる。

それで、わかりやすいのは芸術家である。たとえ一作でも優れた作品を作れる人は創作できる人はその一つの作品で評価があり、それでその一つの作品でも絵でも売れたり評価が得られ価値ある人とされる
音楽にしても一つの作品でも優れているとそれだけで売れるし価値があるとなる
その価値は必ずしも真面目な人でなくても天才的な人は作れるのである。もちろんゴッホとか価値を認められない人もいて苦しんだが死後その価値は世界的に認められた。生前は食うこともままならなかったが何十億にもなっている
そもそもそういう価値はいくら努力しても作り出せない、天才だからこそ作り出せたものだからである
芸術関係だといくら真面目に努力してもそうした作品を創造できないからである
第一そういう天才は努力しなくても創造できる。小学生から大人の小説を読んで理解していたとかなる
天才と秀才は違う、秀才は真面目な努力家だけれど何か新しい発見と創造に寄与しないのである

何が価値を作り出すかは多様である。別に普通の人でも様々な価値がある、その価値を見い出されない人いる
その女性は何かコミュニケーション能力が高い、そして緑化会社に勤めていたからまた農家の出だから花に詳しい
他の女性でも農家の人は花に本当に詳しかった。でも全然花に興味を持たない人がいる、その人はまだ若いので美人でも花に興味をもたないのである。だから私はその花に詳しい老人に価値があるとして金を与えている
ただ病気になって庭のことなどでもできなくなったので残念だとなる
その人は最初は家事をしてくれた、それもほんの一時期のことである。その仕事より庭の手入れとか花について知っていることに価値を見出したのである
それはキリストがなぜ家事をしているマルタよりキリストの言葉に熱心に耳を傾ける人女性を評価したのかとなる

マルタは当時の常識からマリアを非難しているのです。しかし、それだけではないのです。マルタの心の中にあった思いは、不満は、「自分も本当はイエスの話を聞きたいのに、女だから仕方なく家事をしている」という不満があったことです。

 マルタは「家事なら誰にも負けない。わたしは働き者で、マリアは怠け者だ」という優越感もあったのでしょう。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」というイエスの言葉は、料理のことだけでなく、このような優越感と劣等感の狭間で悶々として、ストレスと感じているマルタの心の状態を指摘しているのではないでしょうか。

マルタとマリア

そういうことはあった。でもマリアの方を評価した。それは私の母がそうだった。結局大正生まれで働くことしかなく何かその他のことは何にも全く興味をもたなかった。それはやむえない家庭に事情でそうなった。貧乏な時代は常に働くことが優先されたからである。だから戦時中食料がなく苦しんだから庭に豆を植えていたのである。花はいらないと言っていたのである
それはなんとも悲しいというか異常なことに見えた。その時何か母が巨大な働き蟻に見えたのである

母は働くことにしか金になることにしか価値を見い出さなかったのである。それはそういう環境で育ったからであり母が全部責任があるとはならないのである。あまりに貧乏だとそうなってしまう、花より団子になってしまうのである。
何故その時キリストの言葉を聞くことが大事だったのかそれはその時をのがすともはやあうこともその話も聞くことができなくなっていたからである、だから家事が必要でもキリストの言葉を聞く方が大事だったのである

いずれにしろ真面目に働くだけでは価値が生まれない、

野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

働きもせず、紡ぎもしません・・・必ずしも真面目に働くことが価値をうまない。だから怠けていろと言うのでもない、
真面目なことがすべて価値にはつながらないのである。価値を生み出さないのである
でも私は天才でないから芸術の創作などでも学問でも真面目に追求してきたのである
そしてこの年になってその成果を出しているのである。だから何に対して真面目なのかが問題なのである
切磋琢磨して職人として真面目に技を磨くことはいいことである。何でも天才でない限り努力しない限り身に着かないのである
真面目に精進することは大事なのである。ただ真面目に決まりきったことをしても価値を生まないのである
それでみんな社畜だというときその人なりの価値を見つけ育て価値を創っていないのである
ただ価値と言っても余りに多様だから一概に言えない。

ただ様々な花を見るとき様々な形と色の花があり花はそれぞれ個性があり私を認め評価してくださいとなる
それはそれぞれに違った美があり花の楽園を作りそこがパラダイスになっているのである
つまりそれぞれに違った美があり価値があるとなる。同じだったら価値がないとなる。その美のイデアを作り出したのは神でありその様々な花を見るとき神の業に感嘆して神をほめたたえるともなる
その時もほめたたえられた神も喜ぶとなる。でも花に関心がない人はマルタのように価値を認めないとなる
神はその創造した花を見て評価する人の方を価値あるものとされるということである

とにかくこの世の価値は余りにも多様なのである。だから何に価値があるとかなると簡単に言えないのである
ただ糞真面目に働いても価値は生まれないとなる。それはロボットにやらせればいいとなる
現実にそうなりつつある。ロボットにAIでもできないことをすることがこれからのからは価値あることだとなる。
だからみんなアーテストになれというのは団塊の世代の高度成長時代と価値観が変わったのである
どうしても貧乏な時代はそうした余裕がなからそうなっていたのである。

いずれにしろ老人になり価値が問われる。どんな価値を作り出したのかその人なりの価値を作り出したのか問われる
それは死んでも問われる、なかなか人間のことはわからない、家族ですらわからない、でも死んでからいろいろと自ずとわかることがある、そういうひとだったのかとわかるのである、だから死んでからも人間の価値は問われているのである
弔うとは死者を問うことだからである、何をしてきた何の価値を残したかを問うことなのである


2025年03月14日

金だけではない人間は価値を求めその人の価値を見る 【価値は多様であり変化するー花を知る人の価値】


金だけではない人間は価値を求めその人の価値を見る
【価値は多様であり変化するー花を知る人の価値】

●金を増やすだけでは価値にならない

投資をするとき株の投資を考えるがなんとか金を増やそうとする、その動機はただ金を増やすことである
何か投資する会社のことを知りそれがわかり投資する人は稀だろう。そうなると難易度が高くなるからである
地方銀行でもそもそも投資信託を奨めたが銀行すらその会社のことがわかって投資をすすめていない
ただ適当に当たるも八卦当たらぬも八卦であり銀行は手数料をとることが目的でしかなかった
そもそも投資する会社のことがわかることは容易ではない、プロですらわからないし損を出しているからギャンブルだとなる。
何かわからずに金をつぎ込んでそれが運よければもうけがあるとなる。

またその時々の時代の情勢でも変わる
ともかくこうした株式投資は金だけが増やす言うだけでありそれが問題だった。何か仕事するにしてもただ金だけを利益だけを得るということはそれを目的とすることは問題がある。
でも現実社会ではまず利益を出すことが最優先される。利益をあげれば成果として認められる。それが不正であっても利益を上げらば認めてもらえる。でも何であれ高等なことを言っても利益をあげなけらば認められない。そこに矛盾が生まれる。

何かそういうことは社会全般にある。成果を出せ利益を出せと常に強制される。そうしなければ会社自体成り立たないとなるからである。理想はあっても利益が出さなければ会社は成り立たない。そのジレンマに悩む。
カルト宗教団体でも実際は利益が御利益が第一だという時、お布施をもらえる、また一票を得ることは具体的な成果として出てくるから目標となる。金と票は具体的成果なのである。それが信心の結果になる

ここで人間はとにかく利益を上げる、金を増やすというだけになる。でも人間が何か買ったり時間を使うという時価値を作り出すために使う、何か消費するにしても本を買うとしたら知識を広めるため深めるために買う、それはその人なりの価値を作り出すための消費である。私自身膨大な本を買った、読まないものがあったが確かなことは知識を広め私なりの追求するものがあり買ったとなる。それは明らかにただ金を増やすためではない、目的がありしてきたことである
また旅でも見分を広めることでありただ遊ぶだけではなかった。それは明らかに目的があり具体的成果がある投資だったのである、旅をして見分を広め地名とか地理に興味を持ったからである。それはただ金が増えればいいというものではない、世界を広く知り見聞を広めてたいという動機があった。

つまり人間とは何らかのその人なりの価値を見い出して作ってゆくのが人生だとなる。そのために時間が与えられているし金も必要だとなる。金だけを増やすことが目的ではない、金を得たとしてもそれだけでは価値にはならない、その金をどのように使うかが問題になる。でもそもそもそんことより食べるために働かねばならないとなる。何が自分の価値を創るのか?
それより今日一日食べるために働くとなる、強制されるのが普通だとなる
それでも人間は働くことであれ遊ぶことであれ価値を作り出す、それが最後に老人になってあなたは何の価値を作り出してきたのですかと問われる

●花に詳しい老女になぜ金を与えるのか

それは別に意識して働かなくてもとにかく人間は何かに時間を費やしている。その人は別に取り柄があるわけではない、金も残していない金で苦しんでいる、でもその人は緑化会社とか庭作りとで仕事していて花とかに詳しいのである
花の美を見るのではなくその花を手入れすることを知っているのである。
だから花を見てその手入れができるのである。私は花の美を見ているがその年配の女性は花の育ち具合とか土の状態とか見るのである。だからその人は私の家に来て何もしないけど金を与えているのである
なぜなら全く花に興味を示さない女性もいる。その人は比較的若くて美人だけど花に興味を示さないから私にとって価値ないと見る。
私の母親も継母に育てられ花に興味がなく花などいらない無駄だとしていた、食料でも苦労したから庭に豆を植えていたのである、それを見て悲しかった。それは母のせいではなく花を見るような環境に無く働かせられていたからそうなったから一概に責められないのである

やはり貧乏だとどうしても花より団子になてしまう。日々食べることで精一杯になる。私の場合はそうした仕事にも追われることもなく様々なことを暇だから追求してきたからである。だから私の場合は特別恵まれてそうなったとなる
ともかく人は人生で何か必ず価値を作り出すものがあるし本来は価値を創ることのために投資すべきであり時間を使うべきだとなる。なぜならその価値を老人になると問われる、例え相当な金を残したとしてもその金に価値があるのかとなる
その人は何の価値があるのか価値を作り出してきたのか何に時間を費やしてきたのかとなる
その人は金を残しても何をしてきた語らないしわからないとなる。ただ金は残したのである。でもその人に価値が認められるのかとなるとないとなる。だからすべて金で計られるともならない、ただ毎日食べることにも事欠く人も増えているから金がいらないととかではない、価値は金だけでは計れないということである

価値は多様だからである。その女性は貧乏でも毎日食べることに事欠くとしても花に興味があり花を育てる智慧を身に着けていたのである。その人はまた農家育ちであり健康な時は畑で野菜作りしていた。それもほとんど収穫はなかった。それでもその話が私は興味をもっていたから金を与えていたのである。つまり農業を実地にしている人は自然を血肉でもって知っているともなったのである。だからその女性に金を与えても自分自身は無駄だとは思わなかったのである
農業知る花を育てることを知っていることは価値あることと認めたからそうなる。別に利益が得られなくても損したとは思わないのである。
人間の価値は多様だから別に金にならなくても価値がある人はいる価値になるものは無数にあるとなる

●その人なりの価値を作り出すのが人生−弔うとは死者を問いその価値を問うこと

いずれにしろ人生は何らか価値を創ることが目的であり利益を金を得ることだけが目的化すると最後に自分の価値は何だったのかと他者からも自らも問われる、何故なら死んでも終わりではなくその人の生きた価値が依然として問われるからである。
弔うとは死者を問うことである。死んでもその人が生きた価値が問われれる
最近有名なアナウンサーが死んだけどな十億の金を残して死んだというがではその人の価値は何だったのかと問われる
金ではなくその価値は何だったのかとなる。戦争で死んだ人達も何で戦い死んだのかと深刻に問われる
でも目的と確かな価値を求めて死んだとしたら悔いはないとなる

確かなことは人生の価値は残した金の額だけでは計れない、その価値は多様でありその価値が老人になり最後に他者にも問われまた自らでも問われるのが人間だとなる
この価値を問うということは死んでも終わらない、なぜなら延々と死んだ人の価値を問うからである。明治維新でもやはりそこでしてきたことの価値が今でもいろいろと問われる、その価値も一定ではなく変化したりしている
死んでも依然として価値が追求され問われているのである

カルト教団でも一世を風靡した教祖でも死んで全く価値がなくなることもある。生前いくら脚光を浴びても死んだら全く語られず忘れられて無価値になる人もまた多い、だから人間の価値は生きている時だけで決まるわけではない。
死んでからも延々と価値が問われるのである。

結局人間は最後から老人になって人生を振り返ると誰でもわかることがある。それで老人で後悔しない人はいないのである
金は有り余るほど残したけど社長であり忙しくて旅もできなかったとか何か自分のしたいことができなかったとか後悔する
ともかく人生とは限られた時間を何に費やしたかが価値になる。そして人間に与えられる時間はみんな限られている
ある人が特別な長く与えられるわけでもない、ただ長く生きる人とそうでない人はいる、でも時間は大概平等に与えられている
だから公平だとはなる。ただ金は公平には与えられていない。

でも人間の生きる時間は短い、その間に経験することも限られている。いくら金があってもやはりその人の経験することは限られている、あらゆることを経験することはできないのである
その点は平等だとなるかもしれない、要するに花のことを語ったが花にしても多様だから詳しくなるのは難しくなる
ある人はクリスマスローズを育てているとか知った。その種類もいいろいろあるからやはり詳しくなるには時間がかかるのである。でもその花に詳しいということは価値を作り出しているのである。一つの種類の花に詳しくなることもまた価値を作り出しているのである。だから価値は多様なのである。そしてクリスマスローズの専門家とももなり価値ある人となる
だから価値という時金ですべては計れないのである。だから最後にこの人は何の価値を残したのかという時金では計れないのである。何億残したとしてもそれは他人には関係ないからである。それでその人の価値は計れないのである。

あなたの価値は何ですか?
私は何億の金をもうけてためた、それが私の価値だ

最後はそうはならないのである。金ですべての価値を計れないのである。価値は余りにも多様だからそうなる。
ただ金があればその金を使って価値を創ることはできる、でも死んで金を残してもそれを子供に残しても価値とはならない
つまり価値とは何かというとき多様でありそれが哲学的問題になる。哲学など一般に関係ないとなるがやはり価値は価値は必ずだれにでも問われるのである

2025年02月25日

天国の一つの楽園の詩 【この世からそれぞれの個性で天国がイメージされる】

天国の一つの楽園の詩
【この世からそれぞれの個性で天国がイメージされる】

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様々な色の花々
赤い花、黄色い花、青い花
そのコントラストに映えて
赤い花はさらに赤く
黄色い花は一段と映え
青は深みをます
天使のように蝶が舞い
馥郁と香りは流れ充たす
十分に蜜は供給される
鳥は花を食べ木の実を啄む
種々の果実は豊に実り
食べ物の不足する心労はなし
そこに老いもなく病もない
一つの美と調和の国
石と石は黙して
木は大地に強く根を張り
信頼を深めて動かじ
かたつむりはせかされることなく
石の上をのろのろと進む
山鳩はここに集い平和の楽園
時計は止まり時は日時計が知らす
事物と事物は所を得て
言葉は本来の重みを回復する
ロゴスの完成した和合の一世界
そこは神の祝福が注がれて
選ばれし者が住む
室内楽のように心地よく響き合う
そこは小人数が集うたゆまぬ研鑽の場
一人一人が役割を担う創造の国
そこに電車の駅があり
次なる楽園に人を運ぶ
駅は新たな夢の国へ運ぶ
期待と希望の場所
いくつもの多様な国々を回る
旅に終わりはない
新たな世界へ電車は運ぶ


この世とは何か?それも謎だけど何らか天国的なものがある。何故ならいくら天国があるとしてもそれをイメージするのはこの世しかない、全くこの世と違った世界をイメージすることは不可能である。何か天国で語る時もこの世から経験したことやこの世で見たことからイメージする。全くこの世から離れた世界をイメージできないのである

だからなぜここに一つの天の国に鉄道の駅があるのか?天国に鉄道の駅があるのとなってしまう。それはこの世で経験したことから天国をイメージしているのである
鉄道の旅を私自身が経験して鉄道が好きだからそれが天国にもあるとなる。要するにこの世からしか天国でもイメージできないし全くこの世と違った世界はイメージできない、それは地獄でもそうである

現実にこの世の地獄が現在でも生々しくあり毎日のように報道されている。むしろこの世は地獄と感じるのが普通である。天国はむしろイメージの世界でしかありえないとなる。
それでもやはりこの世にあるもの見たものから天国をイメージするのである。だから天国になぜ鉄道があるのかとなる
ただ私は車は必要でも好きではないから天国には車はないとなる。この世にある物でもそんなものがない方がいいとかそんな人がいない方いいとかいくらでもある。

そういうことから天国をイメージする。軍隊とか警察はない方がいいとか病気が無い方がいいとか老いるのは嫌だから老いることがない世界に行きたいとなりそこが天国だとなる
もちろん死ぬことも無い方がいいとなりそこが永遠の命が与えられて生きるとなる。つまりこの世は地獄であっても天国的なものがありその地獄を脱出して天国をそこにイメージする
第一動物でも食われつしている世界は地獄そのものである
ゆっくり寝てもいられないとなる。

正直この世は地獄を生きることである。親鸞の言う地獄が一定の住処だとなる。人間の歴史もこれも信じられない地獄を作り出した記録である。余りにも残酷な歴史である
だからこの世の地獄を脱出して天国に行きたいとなる

人間でも地獄人間に取り囲まれているともなる。愛がどうのこうのといっても実際はエゴにしか生きられなのが人間であり生物である。そしていくら科学が発達してもやはり地獄なのである
核兵器があれば核戦争になり現実日本は被害にあい原発事故でもそうである、科学技術によってパラダイスが生まれるわけでもなく別な新たな地獄が生まれる、車が便利でも交通事故がなくならない、空飛ぶ車ができても空をそんなものが飛び交っていたら落ち着かないともなる。鳥が飛ぶのとは違うからである

とにかく天国と言ってもその人によってイメージするものが違ってくる、同じ天国をイメージしないのである
何かロゴスと言っても別なふうに解釈する人もいる
天国をイメージするにも個性によって違ってくる。だから天国でも一様ではなく多種多様だとなる。
ただ確かなことはこの世で見たものから経験したものからイメージしていることは確かである、でも個性によって見え方が違っている。
電車に乗って行くと別な世界が開けて見えるのと同じでありそこに変化がありあきないとなる。いくら天国でも同じだとあきるからである。

いずれにしろ数人でも個性ある人物が集まればそれだけでも規模は小さいにしてもルネサンスが生まれるともなる
ただ大衆とかから集団組織からは生まれない、そこはナチスのように同じ制服を着て教祖と同じ顔になる
大量のロボットの生産となる。でもそれは権力化して社会を席巻するのである
何を見るにしても個性によって見え方が違うのもまたこの世を豊かにする
みんな感じ方でも同じ色しかみないとしたら多様性は喪失するからである
カルト宗教団体は個性の否定であり一人の教祖のコピーの大量生産なのである
文明を糾弾する時そうした規格化されたみんな同じにすることで批判の対象となる
















2025年02月24日

上野霄里(うえの しょうり)氏の集団組織化の激烈な否定はなぜなのかー北の大地の原生人間〔詩〕 【集団組織は国家がそうであり莫大な死者を出した歴史を知るべし】


上野霄里(うえの しょうり)氏の集団組織化の激烈な否定はなぜなのかー北の大地の原生人間〔詩〕
【集団組織は国家がそうであり莫大な死者を出した歴史を知るべし】

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なぜ上野霄里(うえの しょうり)氏のことが理解できないのか、なぜ彼は徹底して組織集団を否定したのか、それは異常にもなり理解できなくなる
でも逆になぜ一方で人間社会は組織集団化することに熱狂する。
組織集団のためなら何でもするとか組織集団に必死に同調して同化するのか、それも極端な対比だから何なのだろうとなる

その歴史的実例の怖さとしてナチスの非道がありまた共産主義の教条主義がありそのために何千万なのか粛清されて殺された
また日本でも戦争で国家のためにと300百万が死んだ。
それは国家という集団組織がありそれが成さしめたとなる
現代ではカルト教団がそうである。そこは創価でも隊長とか参謀とか軍隊組織になっている。だから国民を軍隊として組織化するからそれは戦争になれば同じように人を殺戮するともなる。
ナチスにもなる。その組織集団の命令には絶対服従が強いられるからである。宗教だから平和を追求するわけではない、そういう組織団体は権力を得て社会を支配することである
それは共産主義でも同じなのである。この人間の集団組織化による甚大な被害は何だったのかとなる

それは人間の集団化組織化でありナチスと似ている。同じ制服を着てヒットラーがいて右に習えとなる。教祖に絶対服従となる
それで死ぬとしても従うとなった。このことが理解できない
だから上野霄里氏の言うことが余りにも社会常識からはずれているとしてもなぜそうした集団組織が行ったことが膨大な死者をもたらしたのかとなる
その狂気はどこから生まれたのか?
それが不可解なのである。
それでニーチェが

個人も狂っているが集団も狂っていると言ったのである

その個人が狂うよりこうした組織集団が狂うことほど恐怖はなかった。それは歴史に記された異常な恐怖となる
だから上野霄里とかニーチェの言う原生人間とか超人とかは一般人には理解できない、でも逆に人間は異常なほどに集団組織化に熱をあげるのかとなる。それが人間の習性で集団組織化して仲間だとして気勢をあげる。そして仲間に入らない者は糾弾して異常化して無視して攻撃してくる、異常だとして排斥する
でもどちらが異常なのか歴史が証明している

でも多数が正しいとなり多数の言い分は何であれ社会を席巻するのである。なぜならナチスはヒットラーは選挙で正式に選ばれたからである。創価などでも選挙宗教になっているのは選挙は権力とじかに結び付いているからである。それは宗教でもナチスとにているのである。

でも社会は集団化組織で成り立っている。会社でもそこは集団化組織化しているのだからその集団組織の意向に従わねばならない
社会自体そうなっている。国家自体が集団化組織化したものである、それでその集団に従わざるを得なくなり膨大な死者を出したのである。だからニーチェでも国家を否定しているし上野霄里氏も否定する、でも集団組織を徹底して否定することはその集団組織の敵にもなる、だから集団組織からは認められないとなる
ただその極端な対比で見えてくるものがある。集団組織化は非常に怖いものでありそれが莫大な人間の死になったことである。
小人数ならいいが巨大な集団化組織化は危険なのは暴走しても誰ももはや止めることもできなくなったということである


北の大地に立つ原生人間

広々とした北の大地に原生人間が独り立つ
新鮮な空気を吸い込みその強健な体躯
北の果てに聳えたつ独立峰の利尻岳
北の海は唸り轟き吠える
原生の大地は花々に埋めるつくされて
野生の鳥が激しく鳴き飛ぶ
そこに雑音はなくただその鳴く声が響き渡る
そして冬は純白の雪に覆われて
北極星がきらめき方向を示す
ますます厳しく屹立する利尻岳
烈風が吹きつけ直立不動
真実の覇気ある厳格な姿
原野に雪嵐がうなり残るは獣の足跡
あわれアイヌのカムイコタンよ
熊の皮を敷いて一冬を耐える
原生人間は星となり天に輝く

何か上野霄里氏は北を目指したけどそれが東北ではなく北海道がふさわしいとなる、原生人間という時北海道が原野があり広大でありふさわしいとなる。私自身も北海道に死にたいとまでなっている
北海道は外国人でも魅せられる。何かやはり日本的景観とは異質なのである。だから北海道に立つと気持ちまで変わるのである
日本ではあのような平原とか広大な平地がないからだとなる。






2025年02月23日

何のために働くのか? 【meaning〔意味〕とmission〔使命〕を追求していない、利益第一となる問題】


何のために働くのか?
【meaning〔意味〕とmission〔使命〕を追求していない、利益第一となる問題】


●人間は何であれ利益第一―カルト宗教も御利益第一

伊藤貫氏がmeaningとmissionを追求しろというとき一体国家であれ組織であれそんなこと追求しているのか、第一は利益を上げることである
でも老人になって問われるのはそ人のmeaningとmissinoは何だったのだろうとなる、結局利益であり金儲けが第一になる
そうしなければ会社でも成り立たないからである。
そういう意識を持って働いている人などいるのかとなる。今日食べるために金が必要だから働くというのが多数だろう

meaningとmissionを意識するのは極一部ではないか?
そんなことで社会が動いているのかみんな働いているのかとなる
まず何であれ利益をあげろというのが要求される
それはカルト教団でも同じである。御利益は普通の社会より追求して仏であれ何であれ祈っているのである。
meaningとmissionを意識する人はまれである。第一そんな高等なことを言っていたら大衆はついてこないしその言葉すら理解していない。でも御利益なるとか権力を得て社会で威張れるとかなれば即座に理解する。その言葉すら理解できない。

●人生の成果とは何なのか

でも老人になるとかえってそのことが問われる、一体あなた何のために生きて来たのか、ただ金を稼ぐために生きて来たのか
ただそんなことより日々食べるために仕事して来たとなる

でも何か結果的に10億円でも残した人がいる。でもその人は必ずしも何か価値あることをしてきたのか、そうともならない、ただ人が寄ってくるのはその金のためだとなる。別にその人のしてきたことに価値を認める訳ではない、そういう人は何か語るものをもっていない、農家の人とかなると作物を育てる様々な苦労を語る。大工さんでも苦労を語る、商売の人も苦労を語る。
でも株で億の金を儲けたと言っても何かそれを語っても聞いてもわからないし価値を認められないのである
何かうしろめたいことがあ全く語らない人もいる

だから人生の成果とは何なのかとなる。今ならどれだけ金を稼いだかで見られる。でもそれが本当の価値あることなのか?
そうもならないのはなぜなのかとなる。そもそもmeaningとmissionを意識して働いてきた人が極めて少ないだろう

ただ目前の利益に追われるて働いているというのが普通だろう
個々人でもそうだし社会全体でもそうである。社会でも国家でも何が目的であるのかもわからない。国家が真善美とか追求しているのかとなればない。国家とは何のためにあるのかそれもわからない。トランプ大統領のように政治とはデールだとなる。商売の取引だとなる。得と損であり損になればやらない、他国も助けないとなる、協力しないとなる。すべて損得利益で見る
国家もやはり会社と同じだとなる。

●戦争で300万人死んだ意味が深刻に問われる

でもmeaningとmissionを意識させられるのはなぜ戦争では300万人も死んだのか、それが不可解なのである。そんなに死んだという時その人達の死の意味を問われる、なぜなら死を賭して戦い死んだのに何の意味もなかったとされたらどうなるのか
それが無意味な死であったとなればどうなるのか、では戦争をした人たちは何かmeaningとmissionを感じて持って戦争したのかとなればそれもそうでもない、国から命令されたからであり強制されたからだとなる。そうして戦地に行った人も問題があるかもしれない、ただ何のために戦争に行くのかなど考えない、赤紙一枚来て突然戦地に行かされたのである。強制されたのである。

そして戦争が終わり戦没者供養をしているがでも返ってmeaningとmissionが問われている。それも深刻なのである、それはそれだけの人間が無駄死にだった言えないからである。犬死だったと言えないからである。だからもともとmeaningとmissionがわかりそのために死んでもいいとなっていれば問題なかったとなる。
それがあいまいでありだからこそ今それが深刻に問われているのである。それが個々のの人生でも同じなのである。

老人になってそれぞれ生きたmeaningとmissiongあ問われるのである。それも厳しく問われる。そして価値判断が成される。また死んでもでもやはりその人のmeaningとmissiongが問われる
それでもmeaningとmissiongお意識して働く生きる人はどれだけいるのかとなる。ただ金のために働く働かさせられる。そういう人がほとんどではないか、そうであっても最後にはその人のmeaningとmissionggあ問われるのである。

だから最初に神の国を求めなさいというときそれがmeaningとmissiongnいなるからそうなる。様々なことがあってもそれを第一としてmeaningとmissionを持ち生きることである。
求めるものが間違っていればやはりいくら利益を得ても最後は価値ないものとされる。それが老人ななって最後にわかるというのが問題なのである。まずは利益を求めなさいとなっている
そうしなければ食べてもいけないとかなる。

でも人間は意味ある死がありそれが大事になる、なぜならみんないづれ死ぬからである。だらだらと生きてもそれが意味あるとはならない、ただ恥があるだけだとなる。それなら意味ある死を死んだら価値あるとなる。そもそも何を目的として生きているのかそれが明確ではないのである。真善美を追求している訳でもない、意味ある生を追求している訳でもない、それが問題なのである。


2025年02月22日

老人が問われる人生の価値 【不遇でも人生の時間を何に費やしたか問われる】


老人が問われる人生の価値
【不遇でも人生の時間を何に費やしたか問われる】

●不遇な人もそれが言い訳にはならない

人間の価値というとき老人になると人間の一生の価値はなんであったかとなる。その一生の価値とはいろいろ他者が批評するがみんな違ったものになる、それはその人が一般的には努力した積み重ねたものが価値となる。
だからどんな家族に生まれたとかいろいろ条件が違っている。でも人生という時そうした生まれつきのものではなくその人なり築きあげてゆくものがある。

俺は家族にもいろいろ恵まれていないからうまくいかなかったのだと嘆く、それも確かのそうなのだがそうして他者や環境のせいにしても結局その人の一生はその人は築き上げるほかないとなる
いくらいろいろ恵まれていないと文句ばかり言っていても何ら積極的なものが生まれず改善もせず終わることになる
一生がただ運が悪かったとか回りの環境が悪いためであり自分のせではないとしても結局自分のせいになっている
ただ戦争で死んだとか氷河期世代とか世代的に時代的に不運がある。それもまたどうにもならないとなる。

知っている大工さんは学校でできなくても大工として壁塗りから庭仕事からいろいろなことができる。そのことの価値は認められる。その人はそれなりに努力して他にはできないような価値を作り出したということである。
でも学校で勉強ができないから何でも俺はダメなんだと思っていしまえばどうなったのか、何もできない人になってしまったということにもなる。つまり自分の不遇を嘆いても何ら解決しないともなる。ただ恵まれた私が言えるかとなる。でもそうして身の不遇を嘆いていても何ら解決にはならないことも確かである

●老人に問われるもの―何に時間を費やしたのか

いづれにしろ老人になると問われるのはあなたの一生は何だったのかとなる。あなたが経験したことは何だったとのかとなる。
そのことを旅が人生でもあったとなり私はプログに書いたのである。それが遊びだとしてもやはりそれが一生でもあった。
私はそのことに満足している。そのように生きられたことに満足している。それは家族に恵まれたからであるがそうでなくても人間はいくら不遇でも結局老人になり問われるのはその人が何をしてきたか、努力して来たか何を積み上げてきたのかである
何かしら積み上げてきたものがる。引き籠りでもある。そこに時間がありその時間を何に費やしたかである

人生とは何に時間を費やしたではないか
それが何であれそうなってしまう

それを社会運動であれカルト宗教であれそれに時間を費やせばそうなる。それが間違ったものであってもやはりそれに時間を費やしたのだからそれがその人の人生であり価値だとなる
でもそういう組織団体に属している人の価値はその組織団体が消滅すればなくなる。その人自身の価値ではないからである。

●何かを理解するのにも時間がかかる

俳句であれ短歌であれそれを作るには四季を感じて季語を理解する。だから必ず時間がかかる。時間がかかるというとき本を家が傾くほど買ったが理解していなかった。本というのはそもそも理解することが難しいと思った。ただ読んだとしても理解したとはならないからである。自分の文脈で引用することで自分のものになる。本は本当に理解することが難しくただ積読〔つんどく〕になっていたのである。
人間はそもそも天才でない限り何かを理解することができない、時間がかかる、つまり人間は何をするにも会得するにも時間がかかる。でもその時間を常に無駄にする浪費しているのである

いくらでも時間などあるではないかと見ている。でも遂には最後は時間切れで終わる。たったこれだけで終わりなのかいろいろできると思ったができなかったとなる。そしてもう二度と人生をやり直すことはできなくなる。後悔してもどうにもならないのである。生きる時間が消失したのである。

いずれにしろ人生を後悔しない人はいない、ああすれば良かったこうすれば良かったとか何かしら後悔のまま人生は終わる
後悔しない人は一人もいない、私自身も勉強の仕方が悪かったとかもっと早く海外旅行すべきだったとかいろいろある
老人になり後悔しない人は一人もいないのである。それだけ限られた時間を有効に使うことができていないのである。
結局人生は二度はない、後悔先にたたずになる。それが人間の繰り返しだとなる。でも否応なく老人になるとそれを思い知らされるのである。

焼き捨てて日記の灰のこれだけか 山頭火

最後に人生をふりかえるとこんなものかともなる。意外と人生も終わってみれば日記も結構な量を書いたが灰になていしまったとなる







2025年02月19日

なぜ共産主義革命が失敗したのか―一挙に社会を変えることで犠牲が大きかった 【創価公明も同じであり失敗】


なぜ共産主義革命が失敗したのか―一挙に社会を変えることで犠牲が大きかった
【創価公明も同じであり失敗】

●共産主義革命の失敗の原因

なぜ共産主義が失敗したのだろうか。それは一挙に極端に平等化を目指したからではないか。それはあまりにも強引だったのである。確かに社会の不平等はある。それを是正したいということもある。
でもそれを一挙にやろうとすると暴力革命になる。フランス革命でもそれは行き過ぎたものだったのである。貴族階級を殺すということで平等を実現しようとした。
また共産主義革命でもやはり一挙に富裕層とか支配者を殺すことで暴力革命で平等を実現しようとしたのである。でもそれもあまりに強引すぎて極端になって返って何百万もの人間が殺されたとなる。何か知識人でもその人たちは楽して得をして大きな収入を得てるとか憎悪のの対象になったのである

カンボジアでは眼鏡をかけているだけで何か気に食わないとなり粛清された
みんな黒い服を着るとか何でも一様化する。外国語を話す人も粛清された。また宗教でも弾圧された。それは中国でも前のソビエト連邦でも起きた。中国でも起きた.それはなぜなのか
人間を一様化平等化することを性急に実現しようとした
また社会の底辺層の不満分子を組織化して暴力革命を実行した
そこにも多大の犠牲者を出した。それはナチスとも似ていたのだる。つまり全体主義だったのである

人間の問題は何か一挙に解決できないのではないか?
時間をかけないと解決できないのではないか
解決を急ぎすると失敗するのではないか

●人間の運命の不可解

人間の問題は様々ある。そもそも人間の運命自体が不可解なのである。金持ちの家に生まれるものがあれば貧乏な家に生まれるものもある。その差も大きいのである。
それだけではないさまざまな不平等が人間にはある。金持ちの家に生まれても何か交通事故で早く死んだりするもするしすべて恵まれている人はいない

だからなぜそうなっているのかということが不可解になりインドではカースト制が生まれた。それは生前の行為がカルマとなってそうなったと言う事である。どうしても不平等がありその不平等はの原因がその人の生前の善行とか悪行とかカルマと関係してそうなったとする思想である

そういう思想が生まれたのはやはり人間の運命というのは不可解だからである。例えばフォーチュンというのは財産が運だというのもそうである。いろいろあってたとえその人が優秀で才能があっても必ずしも成功して富を得るわけでもないからである
だか運の作用が大きいとして理解したのである

人間の不平等とか様々な問題を一挙に解決しようとする時そこに無理があり返って多大な信じられない犠牲者が出たということである。それは戦争というのもそれと似ている。戦争で問題を一挙に解決しようというとき世界でも日本でも何千万人になるのか信じられない犠牲が出たということである。

何か共産主義でマルクス主義で一挙に社会の不平等でも問題が解決できると熱狂したがその犠牲者は膨大なものだったのである
だからといって資本主義がすべていいというわけではないし推奨しているわけでもない。何か理想の社会などどんな主義であり実現することはない。それを無理して強引に実現しようとしたのがマルクス主義でありその犠牲者は膨大なものだったのである。

この世の人間の問題は一挙には解決できない!

●猫にも運命が作用していた

そこには時間が必要である。時間によっておのずと解決するかもしれない。それを個々人の運命でも人生でもそうなのである。何か一生苦労するということはないかもしれない
私が経験したことで不思議なのは猫を一匹飼っていた。その猫はなついていたのである。でも黒い猫が餌をやっているとき必ず来て奪おうとしていたのである。
私はその黒い猫を追い払っていたのである。ところが私の家で飼っていた猫は死んだ。その結果として私はその黒い猫に何か知らないが餌をやるようになったのである。でも一年なのか二年なのか餌をやり続けてもその猫は慣れることはないただそれでも餌
をやり続けているのである。

これはだからこれは何なのだろうというとき一つの運命だったともなる。何かい人間でも人が死ぬと誰かが得するというか変わるということがある。私の父親違いの兄は東京で父親が死んでその妻だった私の母親を私の家の後妻となったのである。
でも私の家はその兄を良くしなかったのである。私は特別良くされたのである。そして兄は40歳くらいで交通事故で死んでしまったのである。そもそもは本人の不幸は実の父親が事故で死んだということだったのでそしてその子供も事故で死んだのである。だからこれは何なのだろうとなる。

その人は近くの男性と親しくなったのはその男性は妻を亡くしてから親しくなりその家にも手伝いとかに行っていたのである。そうなったのはその男性の妻は死んだためそうなったのである。それで恩恵を受けたのである。
何か誰かが死ぬと誰かの運命は変わり恩恵を受けるということがある。それは何なのか良くわからない。でも何らかのことで人の運命は変わるもちろん悪い方にも変わるのだが良い方にも変るのである。

現実自分自身のことだがなぜその貧乏な人に私が応援して援助しているのかというのも不思議になる。それは私の家族が全部死んだ結果としてそうなったのである。だからそれ私は特別親切だとか何かそういうことでもない何もないのである。一つの運命としてそうなったとしか思えないのである
もしかしたらそういう風に人間というのは何かの運命に強制されている神に強制されているのかもしれない。そうした運命を無視して人間の力で強制的に運命を作る平等化するということがうまくいかないのはそういうところに原因があるかもしれない。

●一挙に社会を強引に変えることはできない

つまり何か人間というのを社会を一挙に強引に集団的に組織的に変えることは何か無理がありそれが多大な犠牲を生んだのかもしれない。例えばそれはカルト宗教団体にも言える。宗教だからマルクス主義のように平等目指すということはない。カルマだとしてその人の前世の行為だとなればそうなる

でも創価などを見ればそうした宿命論ではない何か共産主義と似ているのである。そうした底辺層の不満を政治によって権力を持って一挙に解決しようとする。それは何か共産主義と同じではないか。つまり何が共通しているのかというとそうした不満分子を集めて一挙に社会を変えようとすることである。
それが共通しているのである。

ただそうしようとするのは幹部たちがそうした不満層に訴えて政治的力を持ち自分たちの権力を得て得するという目的にもなる。だから中国でも共済党の幹部になれば莫大な金を得ることができそしてまたそこに不平等は生まれているのであるみんな共産党の幹部になれば金持ちになれるとなったなっているからである。

ともかく社会はそんなに一挙に変えられものではない
もしそれを強引に実行するとカンボジアやロシアであれ中国でも多大な犠牲者が出したのである。金持ちを血祭りにあげるということは何かやはり問題があった。それが行き過ぎたものになったのである。でもそうした不平等とか問題は時間をかけて解決するということができないからそうなった。

●時間をかけないと裕福にもなれない

何か裕福になるにはとても一代ではできないように思うからである。私の家でも父親は酒屋の丁稚である貧乏で苦労してきたしほかの人も苦労してきた。でも日本でも高度成長時代がありみんなは裕福になれたということがあった。その時戦前ならば地主と小作がいてこれも不平等だったがアメリカの支持でで地主がなくなり小作に土地が与えられて不平等はなくなったのである
でも戦前でも共産党は暴力革命を目指していたのである。そ。れで取り締まられたこともあった
ただ民主主義の社会では暴力は許されないから選挙活動で平和革命を行うようになったのである。

だから何か共産党と創価公明党は似ているのである。どちらにしろ社会を性急に変えれば不平等はなくなる。その事では一致しているからである。創価公明というのは仏教だから平和革命などと言っているが現実はその組織団体は軍隊と同じなのである参謀とか隊長とかがいて軍隊組織になっているからである

その組織団体を権力を奪取して社会を一挙に変えて不満分子に恩恵をもたらすものとするからである、御利益を与えることができるからである。宗教は個々人の心の内面を問題にするがカルト宗教は創価でも社会を改革すれば改善するとなるから共産主義と似ているのである。

確かなことは人間個人であれ社会であれ一挙に変えることはできない。裕福になるしてもまた一代でよってできない。つまり時間がなくてはそもそもは人間の問題では解決できないのである
だからまず一生不遇でも不遇に終わる人はない。どこかで好転することがある。ただみんな不満なのはそうして長い時間を待てないということである。だから一挙に解決しようとして返って大きな災いを社会であれ人間にももたらすのである

2025年02月16日

人生と記憶ー人間は環境と経験によってつくられる 【最後は経験した記憶が人生だったとなる】


人生と記憶ー人間は環境と経験によってつくられる
【最後は経験した記憶が人生だったとなる】

●経験されたことが人生となる

そもそも人生とは何かとなれば最後はその人に何が記憶されたかにもなる。何を経験したかが人生にもなる。人間の場合は遺伝の影響も大きいにしてもその人生経験が人間をつくる。
それが動物と大きなな違いである。動物ならネズミはネズミでありライオンはライオンである。その遺伝から変えることはできない。
でも人間の場合が何らかの行為で経験からネズミからライオンになったりもする。それは遺伝ではなくその人の経験からそうなったのである。
だから人間をつくるのはその人の経験でありその経験もみんな違っているから人間を見る場合どんな経験をしてきたのかを知るべきだとなる。そして最後に残るのはその人の経験してきたことだそれが体にも脳にも刻まれているのである。

何か学習するにしてもそれが学校とか本とかで読んでもわからないのである。でも外国旅行すれば実地にその場を踏めばいくら本を読んでいる人よりも実感としてわかるのである。
それで私は50歳まで外国に行っていなかった。ただ本は相当に読んでいたでも外国について肝心なことは全く理解できていなかったのである。
これでもわかるように人間は実際の体験からこそ学ぶのである。例えば英語を学ぶにしても学校でわ実際の外国人と会話することなどないから本質的なことで英語でもわからないということがある。また留学するということは実地に外国人と直接接してその場で生活するのだから実感するからその経験が大きいのである。だから外国に住んで生活した人とそういう経験をしない人の差も大きいのである。

●精神と同様細胞も記憶する力を持っている

ともかく人間をつくるのは遺伝的要素も大きいのどんな経験をしたのかで決まる。そしてその経験が人間をつくる。最後は老人になればその人は何を経験したのか何を記憶したのかは結果として現れるのである。

精神と同様細胞も記憶する力を持っているからである
人間ーこの未知なるもの‐アレキシス・カレル

人間とは脳で記録すると見ているわ実際は身体全体で経験して記憶するのである。だから体感という言葉はそれを表している体全体で感じて記憶するのである。それで何度も言っているが車の旅だと風とか光とか自然を感じないので体全体で感じないので記憶に残りにくい。坂や峠があるとしてそこを車とかで行けば体に記憶として刻まれ残らないのである。
歩くたびならまたは自転車でも坂を上ることは容易ではない。だからこそそれが体に記憶として残るのである
にわか雨御堂に休む旅の人

つまり突然雨がふり雨宿りするため御堂に休んだ。そのときの経験は御堂の役割を知ったことである。御堂は休息所であり
時代劇ではそこに確かに寝ていた人がいたからである
それもこうした経験があって体感するのである。それが車だとただ過ぎてくだけで自然を感じないからわからなくなるのである。そして記憶にも残らないから旅を経験するということもないともなる。

●何を記憶したかが人生になる

ともかく人間の最後は老人になればあなたは何を経験したのか記憶したのかが問題になる。なぜならそのことが生きたことであり人生の結果になってしまうからである。
人間はいくら金を残したとしてもそれでその人の人生が分かるわけでもないし価値あるわけでもない。現実にそういう人はかなりいる。金融関係で働いてるような人は何か人生で実りのある経験をしていないようにも見える。それは巧妙に人を騙して金を得るだけの仕事だという人もいる。そういう人は自分の経験したことを人に語らないのである。つまり後ろめたいことがあり語りたくないということがあるただそういう人でも金は残しているのである
大概私はこうしてきたこんなことで苦労してきたとか何をか老人になれば語る。でも語りたくないということはその人生は何なのだろうと見る。金を残した人もすべてそれで人間の価値は測れない。だから老人を見る時その人が何を経験したかを聞けば語ってくれれば分かるのである。

私は旅をしてきたからその旅のことを常に語っているのである。そんなの遊びじゃないかと見る人もいるが金にもならなかったがそれもやはり私自身の人生だったなる。
だから何も語ることがない人はいくら金を残してその人生に価値が無かったとなるかもしれない。つまり最後はすべてお金で測ることはできなかったということである。それで10億円を残した人でもその人生に価値があるとは限らないのである
どんな人に成るかは確かに生まれつきの素質がベースになるとしてもその後どんな経験をするかで違ってくる
経験が人間を作る。それが良く理解されていないのである。人生で経験することもそれぞれ違っているからである。
ただ簡単にお前は価値がないと言えるのか、自分のことを何も知らないでそう決めつける
ただ何に価値があるかは多様だから計ることがむずかしいのである。そもそも店であれスーパーであれそこでレジをしている人を価値あるとか見ていない、だからこそ機械化自動化する。そして別に買い物するでもそこで売る人に価値がるとか見ていないだろう。人生が経験だとすれば自らを社畜だという人は私は会社の奴隷として金のために仕方なく働いてきました。そういう人は自分の人生を老人になって語れるのか、それは実際大きな問題である。でもそういうことを思う人は少ないだろう。金を稼げればいいし仕方なかったといっても老人になり自ら奴隷なって働きましたと語っても誰もその価値を認めないとなる
それ気づいた時はすでに時遅しとなる。結局時遅しとなるのが人生に多いのである

●金ですべて計れない人生の価値

外資系銀行の“ろくでもないビジネス”
要は、彼らは次の3つをやっているに過ぎない。
1つ目は「相場操縦」だ。マーケットに介入し、自分たちが儲かるような相場を作っている。
2つ目は「M&A」。会社を買収し、転売して利益を出す。
3番目は、いろいろなデリバティブ取引を活用して、「低リスク高利回り」をうたうインチキ金融商品を販売すること。

最近死んだ森永卓郎が言っていた。それで彼自身農業してその体験を語る。農業はカラスにネズミ食われるとか野生の動物の戦いで高度な知的作業より知恵がいるとかも経験からそういったのである。
私も畑で仕事する人に聞いたそのことを知った。それだけ大変な仕事である。でもそういう仕事してきた人はその経験を語りうるとなる。
でも金融関係で仕事した人は語りたくないとなるかもしれない、何か金を右から左に流して数字だけを追っているともなる。だからデイトレダーとかでも一日パソコンの画面を見て株の数字だけを見ている。それで億の金を残しても何か生きた実感を語れないとなる。それが最後に何が残ったかというとき金は残ってもその人生は虚しかったとなる、語ることもないともなってしまうのである。

そしてあなたが価値がないというときその人の何が価値がなかったのかとなる。その人が経験した人生が価値がなかったとなる
それで戦争で苦しみ生き抜いた人が戦争のことを語り続ける
そんなこと無意味だと価値がないと言われたらどうなるのか
それはその人の生きて来た人生を無価値として否定することになる。それでは浮かばれないとなる。

●人生の実りと何なのか

とにかく人間をつくるのはその素質遺伝でもあるがその後の経験が環境が人間をつくどんな土地に生まれてどんな家族で育つとかどんな職業の家に育つかそういう環境が人間をの遺伝よりも大きな影響力を持つのである。どんなに優れた素質を持っていてもし家庭が悪ければ貧乏であったりすれば伸ばすことはできないのである。それは植生でも風土でも違っていればそれぞれ違ったものとして育つと同じである
場所が変われば気持ちも変わるということにもなる。それだけ環境の影響が大きいとなる。だから人間も生物の一種であるから環境の産物だとなる

特に日本だと北海道は大陸的風土であるその土地に船で降り立った時から何か気持ちま広々として変わってしまうのである
それだけ北海道は本州とか違った世界だからそうなる。アメリカだとグランドキャニオンとか見たときそこはあまりにも異質で別の惑星にでも来たのかと思ったそういう場所に住んでいる人の気持ちはどうなるのだろうとも見る。
また砂漠のようなところに住んでいる人のはどういう気持ちになるのかとなる。それは日本にはない光景だからそうなるのである。それに対応する言葉も見出せなかったからである。

人生とは何が記憶されたかどうかということをあまり考えない。でも最後に老人になればあなたに記憶されたものは何なのかとなってしまう。何も語ることがなければその人の人生は何だったとなってしまうからである。私は10億円を残しましたといってもその人の人生は何だったのかとなってしまう。その人の人生とは経験したことは体にまで記憶として刻まれた事だったのである。

実りある人生とは何か
米が実るそれを刈り取る
野菜を畑で直に収穫する
果物がなり手に取り収穫する
その時喜びがある
それは数でもない金でもない
それは体で喜びを感じる
それが神への感謝にもなる

農業は何が実りとなるかわかり安いのである。でも数字ばかり追っていたら何か実りを感じられないのである。
ただなぜエジプトの書記が穀物を計算する書記が神に様に崇められたのか、それは今の官僚が力を持ち崇められるとなるのと似ている。すでに文明化していて数字を操作する者が力を持つとなっていたのである。
だから官僚とは必ずしも価値ある物とはならない、ただ数字化して権力を持った人たちだとなる
でも権力を持つことと価値あることは違う。そこが勘違いされやすい。政治家は権力持つから偉いとなるが価値があるかどうかはわからない、むしろ食料を生産している人が価値があるとも言える
価値は多様だからわかりにくいのである。






2025年01月29日

継続は力なりーWORKするものを持て 【それぞれの分野で生涯追求するものを持つ】


継続は力なりーWORKするものを持て
【それぞれの分野で生涯追求するものを持つ】

●WORKする作品化する仕事を持て

人間は継続することが大事である。仕事でも何か転々として職を変えてもそれが本当の実りとならないだろう
自分がしてきた仕事を見て会社に採用されるならいい、同じような仕事になるからそれなら継続して仕事ができる
人間はworkいなる仕事となるのがいいとなる。つまりworkは作品でもある。自分なりの作品を仕上げる、それも継続して追求する
昔の職人はそうであり職人気質とか生まれた。つまり意固地であっても自分の作品を作ることにこだわりり継続して追求した
それで下駄でも何か手仕事で作ったものでも自分の名前を入れていた。近くで包丁を作る人がいてそこに名前を入れてあったとか今でもある、それは依然として大量生産ではなく個人的に昔の職人のようになり作っている

今時個人お名前をいれているとかはない、ただ規格化した大量生産でその仕事も流れ作業で作り出される。そこに個人の工夫が入る余地がなく人間はロボットになる
みんな工場で働き会社で働くから社畜だと自らが奴隷にするほかない。そこで誇りがもてないとなる
仕事というとき何か継続しないと実りとか成果がえられない、ただ時給いくらとか金のためだけに働く仕事は奴隷であり社畜だとなる。現実は大方はそうなり強いられている

自分の場合俳句短歌とか詩を作ることを追求してきた。才能がなかったけど若い時から一応五七五とか言葉を並べ作て来た
そおれは現在も続いている、この年になればやはり才能がたいしてなくてもそれなりに実るものがある。

●自然と同化するには田舎で沈黙することで学ぶ

とにかく才能の前に継続することである。詩などでも私は田舎で木とか石とか自然の事物と一体化するアイデンティティ化することをしてきた、そのために一人家に籠り禅僧のように座禅して沈黙する修行していたとなる、引きこもりになり一人修行していたとなる。
山でも木でも石でも沈黙しているからアイデンティティ化するには沈黙しないと一体化できないのである。これは社会から見れば異常になる、ただ不思議なのは僧はなぜそれが許されていたのかとなる。それも貧乏な時代であり民衆が布施して養っていたのも不思議だとなる

自然と同化するというときやはり田舎でないとできない、大都会となると自然がないのだから自然と一体化できない、高層ビルとか車の騒音の世界で自然を知ることはできない。
自然は山でも大地でも石でも岩でも沈黙しているからである。
ただそんな風に社会ではできない、それは異常な人と見られる
何か常にサービス業だと客に無理でも嫌でも歓迎する、顔でも無理に笑顔を作る。鏡を見たらその作り顔が映っていたというののもわかる。それが無理して習慣化して顔まで作り顔になっていたとなる
人間はこうして歪められる。

自然はありのままであり本然のままであり偽ることもない。それは動物でもそうである。何かこびるとかもない、餌をとるにしても人間のようにこびたりしない、食べるのも別にそれでいちいち媚びたりしない、ただ獲物を捕らえたというだけである。
人間社会では何か常に何するにも他者がいて食料でも金を媒介にして買うことになる。でもそれで何か自ら働いて得たものではないから本当に日々の食料を得るという感覚が得られない。もし自家生産していれば買うのとは全く違っ充実感が得られる
そして直接大地であれ自然と人間が結びつく体験をする

●継続は力なり

ともかく人間はそもそも継続して続けないと何でも物にならない
才能のあるなしでではなく何が一つでも継続して続けていればものになる。でもあらゆることに詳しくなることは不可能である。
そして人間に与えられた時間は短い。その短い人生にあれもこれもと手を出しても物にならない熟達することができないのである
たちまち時間は過ぎてしまうからである
たとえ大した才能がなくても継続していればそれなりに実りとなる
でもそれは限られたものでありあらゆることに通じることは不可能である

詩を作るにしても天才でない限りまず自然を知る同化することが必要である、俳句でも季語が基本にある時その季語自体を感覚的に理解するにはやはり自然を日々年々実感することが不可欠である
それは大都会だとしにくいのである。つまりまず自然と一体化することが必須なのである。それは悟りにも通じている
自然もロゴスでありやはり秩序がある法則ありそれは科学にもなるが詩でもロゴスを追求する

この世界を知ることでも何か身に着けるでも継続しないと身につかない、語学にしてもそうだし学問でも芸術でもそれぞれの分野で継続していないと成果は生まれない、陶芸作家でも何度も試行錯誤してその人なりの独自のものが作れるとなる
それは一朝一夕にはできない継続しないとできないのである
継続しなければ一芸に秀でることはできない。
そして老人になるとこれまで継続したものが結果となる、でも会社で社畜として自ら金のため奴隷化した人が何か継続するものがあるのかとなる。一貫して追求したものがないとその人なりの成果が現れないのである。

何か奇妙だけどAIが作る詩でもまず詩を作り詩を理解していなければ利用できない。それで足りないところとかを付け加えたり直したりした。それはやはり詩に通じていないとできないのである
それは他の分野でも同じなのである。だからみんがAIを効果的に利用できるわけではない、やはりその道に通じていないとAIでも利用できないのである。ただAIは人間の脳力を拡張することは確かである、人間の脳力は一個人ではたかがしれているだからこそその脳を拡張活性化するのがAIだとなる。

ともかくどんな分野でも継続してないと物にならない、そもそも人間に与えられた時間が短いからである。さから60以降とか確かにまだ学べるがどうしてもこれまで追求して来たものをさらに追及すると成果になる。とてもいろいろな分野に通じることは不可能である。だから一つの分野でも継続して探求することが大事になる
つまりworkすることその人なりの作品を仕上げることが大事なのである。

つまり最後に問われるもは何か?

あなたの継続して追求してきたものは何ですか?

それが必ず問われる。それがなければ価値がないともなる、老人になれば人生の結果が否が応でも現れるからである

2025年01月10日

時間とともにチャンス〔機会〕も失われる 【何かをする時間が失い気づくー無常迅速を知れ】


時間とともにチャンス〔機会〕も失われる
【何かをする時間が失い気づくー無常迅速を知れ】

空間軸と時間軸で考えてきたが人間の盲点は時間軸で起きることがわかりにくいと考察して来た
何かのチャンス機会は空間軸でも起きる。でも時間軸でもチャンスが関係している。それがわかるのは老人になると否が応でも思い知らされる

なぜなら別に空間軸なら老人になっても旅行でもできる、でも時間を戻すことはできない、子供時代に戻ることもできないし青春時代にも戻ることはできない、何か共にする時間も失う、家族を考えるとそれは時間を共有した人であり別に血縁関係でなくても長く一緒に暮らしていたら家族になる

動物でも子供が親がいなくなったとき犬でも猫の親になったりとか他にもある。それはそのとき子供の時親代わりになったからである。では実の猫の親がいたとしても親と認識できなくなる
子供の時一緒にいることが家族になったとなる。
ともかくその時一時期でも時間を共有したからそうなった

でも人間の時間は限られている、友達になりやすいのは若い時でありその時利害関係で結ばれるのではなく何か一つの目的とかありそれを目指して共同するということがある
ただその時利害が入ってくると不純なものになる。それで社会人になると利害で結ばれるから学生時代とは違うとなり友情とか育まれないとなる。利害と関係ない一時期がありそこで友情も育まれる
それも一時期であり短いのである。学生時代は社会人として生活するよりずっと長いからである。

人間の盲点は時間を機会をチャンスを軽く見ることである。時間などいくらでもある。それより金が欲しいとなるのが普通である。
金があればいろいろなことができる、金がなくてできない、本を買って読みたいとしても金がかかる・・・そういうことがきりなくある。でも時間のことを考えないのである
老人になると金があっても何かする時間がないとなる。そして何かする時間が無くなりそこで失われた時間に貴重さを知る

求道とかは若い内にするものでありその若い時期も短く失われる
だから若い内神を知れとなる。その時期を失うと神を知ることができなくなることは怖い、ともかく最も失いやすいのが時間だとなる
何かスキルを身に着けるのにも時間がかかる、だから前は大工になるには親方に弟子入するのに18才では遅いとなっていたのである。若い内でないとスキルも身に着かない、鉄は熱い内に打てとなる

老人になりかつての同級生とかあって話しても何か噛み合わなくなる。それは空間が同じ地域に生きても別々の時間を生きていたからそうなる。仕事も多様だからその人が何をしてきたのかも理解できなくなる。それは空間も確かに関係しているけど何かを共にするとかの時間が失われたのである。

それは結婚でも時間の作用が大きい、共に生活する時間があって夫婦になる。そして結婚というときその人が性格がどうのとか様々な見方があっても大事なのは出会う機会だったとなる。そのチャンスは若い時期でありその時期を失うと後はなかなか出会うということもなくなる。

それは空間軸で近くにいるとかが関係しているのではなく時間軸が関係している、いくら近くても若い時期に会わなければ結婚にはならない、別に遠くても今なら特に出会い外国人で結婚しているからである。むしろその時期に出会うことが大事なのである
確かに空間軸が関係しているが時間軸の方が重要だとなる

青春とか若い時期は短いからである。それで親は娘の婚期に煩いのである。たちまち美貌も失うからである。
人間に与えられた時間は短い、青春でもたちまちすぎる。あっという間でもある、それとともに何かをする時間も失う
70以上になるとスマホも操作するのも覚えるのも大変だとなる

それで時流に遅れる、情報社会になったとき新聞テレビはオールドメデアとされるからである。私自身はたまたま引きこもりで時間がありワープロ時代から通信機能がついていたのでパソコン通信していたのである、それでも40以上くらいでありその時ひろゆきは2チャネルを主催したように20代の人がはじめていたのである。

今はすでに50以上になっているから時間が過ぎるのは早いのである、。今や70以上になれば死が目の前になっている、もはや何する時間もないとなる。つまり人と出会うというよりさよならだけが人生だとなる。もはや死んでゆき永遠に会わないというのが非情な現実なのである
だからこそ無常迅速というときそれは何かをする時間が消失する

神仏であれ求めるなら若い時期だとなる。その他のことでもいかに時間が大事か老人になると思い知らされる、なぜなら時間は戻すことができないからである。不思議なのは空間なら老人でももう一度行くことができる、でもタイムマシンに乗って時間をもどすことはできない、同じ場所に行ってももうそこで時間を共有することはなくなったのである。
だから歴史がわかりにくいのは時間軸で理解できないからである

ローマ帝国が作られた場に今でも立つことができる、でも時間軸で起きたことを理解することは至難になる。2000年前に起きたことを理解することは本当に難しい、人間は十年前でも起きたことでもあいまいになり忘れるからである。そして新しい事件が次々に起きてそれに心を奪われて前のことを十年前でも十年一昔というように忘れるのである

だから私がプログであれホームページであれ始めたのは25年前とかなる。それで自分で書いたもの読み返してこんなこと書いていたのかと自分で感心しているのも不思議なのである
つまり人間はこうして文章に書き記録しているからまた自分の書いたことでも思い出して確認できる。そうでなければやはり自分自身の書いたものでも忘れるのである。




2025年01月06日

宗教は山を聖として修行から始まった―真言ロゴスを追求 【モーゼの十戒、山岳宗教の天台宗も同じ】


宗教は山を聖として修行から始まった―真言ロゴスを追求
【モーゼの十戒、山岳宗教の天台宗も同じ】


聖なる山の創成

熱いマグマが地の底から噴き出す
轟音を響かせて天地に鳴りぬ
その形成された大いなる山の力よ
天を衝きその優美な姿は形成されぬ
一本筋を通した不羈なるもの
太陽は輝き昇り山に映えぬ
烈風が山頂に唸り吹きつけ
氷河にも閉ざし人を寄せ付けぬ
しかしまたその愛らしい花々を咲かしめ
純粋無垢なる美に飾る
その強固なる硬い岩の真実
億年の風雪を帯びて山は威圧する
厳正厳粛泰然自若として不動
銀河の星々を飾りとして
強靭なる峻厳なる山は天地に映えぬ
神の奇しき業の成就
その畏怖すべき現存の迫力
厳格に山は荒肌を見せて閉ざしぬ

沈黙の大岩

沈黙の大岩は動ぜず
清流のひびき流れ
凍星はかなたに煌めく
徒事(あだごと)を言わず
真言を語れ
ロゴスを語れ
そを岩に刻め
聖なる山から
十戒を携えて
モーゼは山を下りぬ
その岩石の険しく
その厳格なる戒め
神より授かるもの
神に召されて汝は不破たれ
その言を伝えよ
愚かなる者に語るべからず
聖なるもの穢すものなれば
深く己を持して沈黙すべし
重鎮大岩不動厳正
安心立命解脱悟道
一喝覚醒雷神天鼓
正信受理貫徹信心


宗教と山は不可分である。モーゼはシナイ山で十戒を授かったのもそうである。そのシナイ山は木もない岩山であり荒寥たる山々である。
また仏教にしても中国の天台宗が基になったというとき山岳宗教である。山を聖として修行したのである。日本でも比叡山が天台宗に始まり日蓮でも親鸞でも修行したのである
宗教と山は一体なのだる。
だから都会から生まれたカルト宗教は本来の宗教を追求していない俗化したものなのである。

古代から宗教は都会から生まれない、なぜキリストが神殿を商売の場にするなと怒ったのか、それもエルサレムが都会化して堕落した場と見たからである。都会を嫌っていたのである
へブル人の宗教は商売と関係することを嫌ったのである
だからユダヤ人が離散して商売人になったことは本来はありえないことだが土地を持つことができない流浪の民となったからそうなった。

つまり宗教は山と切り離せずあった。だから大衆化した群集化したカルト教団などとはまるで違ったものとして出発していたのである。山を聖なるものとして籠り真言ロゴスを見出す。
だからとても東京であれ大都会から生まれるものではなかった
そこから生まれた宗教はカルトとなり異様なものとなったのである。本来の聖なるものは全くない。また山で身を浄める心を浄めることなどない、ただこの世の欲望がすべて是認されて御利益を権力を得る為に狂気のように祈っているから異常なのである

宗教的要素は全くないのである。山伏とか法印でも山で六根清浄とか祈り修行した。そういう身を浄めるとか心を浄めるとか一切ないのである。だからこそあれだけの人が集まったのである
山で修行しろとかなればそんなに人は集まらないからである。
つまり聖と俗を分離すべきでもあった、政教分離があるが聖なるものを追求するものと俗界の信仰を分けるべきだったのである

それで宗教は俗界と妥協して一体化して本来の宗教は失ったのである、俗界には厳しい戒律とかは要求すべきではないにしろ選ばれた人は厳しく真言ロゴスを追求すべきだったのである
すべて俗に合わせたことが宗教本来の聖なるものを消失したのである。地の塩であるべきものが塩となるものがなくなったのだる。聖と俗は分けるべきだったのである。そのために地の塩たる者が消失したのである。ただ俗なる世界があるだけとなったのである。民主主義でも数が多数がすべてとして決めるとき必ず問題が生まれる、それがファシズムともなる
地の塩となるべき者が必ず必要でありそういう人がいなくなればこの世はただ欲望を無限に追求する俗しかない世界になる。

自分の場合は引きこもりであり自然と一体化することを試みて来た。そして真言ロゴスを見出すことをしてきた
つまり一人修行していたのである。詩は真言であれロゴスなのである。

相互に影響し合った。真言は三密(身・口・意)の中の口密に相当し、極めて重要な密教の実践要素となった

ただ山でそれが人間を反映して巨人は山ともなる。すると偶像崇拝にもなる。ただ自然でも常に人間的なものが反映する
山にも人間を見るということもある。ただ山には愛とかはない、荒寥たる情もないものとなる
とにかくギリシャでもゼウスはオリンポス山に住みデルフォイの神殿も山の上にあったから人間共通のものとして山を聖なるものとみていたのである。でもそこは神の啓示を受ける場だった


2025年01月03日

老人はみんな後悔する 【貴重な時間が失われたことに気づくーそれは取り戻すことができない】


老人はみんな後悔する
【貴重な時間が失われたことに気づくーそれは取り戻すことができない】

老人になって気付くことは何かを得たということより何を失ったかということである。その失ったもので最たるものは時間だったのである。時間は限られている。その限られた時間に何をするかがその人の人生になる。また出会いのチャンスとかも本当にまれである出会うことも失われていく。

時間は貴重なものでありそこでその時間を何に費やすかが問題になる。例えば会社に勤めた人でもそこに人生の時間の主なものが費やされる。
でもそこで共に働く人がいて時間が費やされたとしても何のための共に働くのとかそういうことより利益第一主義でありそのためにともに働く。でもそこに後で振り返って共に働いたという達成感とか意味を感じられない。

何か銀行とか証券会社とかは今になればただ顧客から金を奪うものだとまでなってしまう。そうなったのは銀行でも投資先がなく利子ををつけることができないから投資信託など証券会社とともに投資信託などを売りつけて手数料を稼ぐ商売になる
ただそうしてその銀行とか会社で働いて収入を得ても何か実りとなったのか老人になって問われる。何か協働して成し遂げたという実りが得られるのか、でも利益は得たとなる

何か働くというときただ利益になればいいとなる。その目的は利益になることでありそれしかない、そうして働いて利益を得たとしても金を貯めたとしてもそれで満足するのか、共に働いたなと仲間と振り返ることができるのか、確かに金は得たけど何か虚しい後ろめたいとなる。

でも貧しくても江戸時代の村で村総出で太鼓を叩いて田植えしている映画を見た時村人はそこで強い絆をもって働いていたことを感じた
そういう村人は老人になった時ここで共に働いたととなり充足するものがあったとなる。戦後浪江町の津島とかに開拓に入った人たちはそこで苦労して働いたから協働したから強い絆が生まれたという、だからその土地を離れたくない、そこで苦労を語り合うときやはり連帯感が持つ、その土地を離れたらそいう連帯感は持てないのである。

大工になるにしても若い内でないと昔は18才では弟子に取らないとかなっていた。それでは遅すぎたとなる、スキルを身に着けるのには若い内であり鉄は熱い内に打てとなり若い時でないとできないことがありその時身に着けないともはや身に着けるこてゃできないとなる。つまり何するにも時間がかかるが時間は無情に過ぎて行く、スマホとかなると若い人には簡単でも70越えるとむずかしくなる。私はパソコンを引きこもりでたまたま早いうちにしていたのでできたとなる。だから20年とかしているのである。
ただこんなにインターネットが発達するとは思わなかったのである。

いずれにしろ何かをする共に働くことであれ時間は失われてゆく
こうすれば良かったああすれば良かったあんなことしなければ良かったとか誰でも反省する、でも無情に時間は失われあのである。もう一度生きることはできなくなった、そして何かをする出会うチャンスも失われたのである。もはや二度と会わなくなるからである。

老人になると何故話が噛み合わなくなるのか、それは10年であれ20年30年別々に生きてその人生が理解できなくなる。もし共に働く時間を共有していたらそういうことがない、その別々に生きた時間で何を生きていたのか理解することが不可能になる。
つまり何かを共にする時間が失われていたのである。それをやり直すことはできない、何かをする時間が失われて帰って来ないのである。
だから時間ほど貴重なものはなかったとなる、でも時間ほど浪費されるものあないはない、金はいつも勘定して無駄にしたくないと意識するが時間はそうして金のように意識できないのである。
そして老人になって気づくのである

成すべきことを成さなかった
様々なチャンスを逃がした
活かすことができなかった
もはや人生はやりなおすことはできないと、、、

それで後悔しない老人はいないのである。例えば今になると海外旅行が高嶺の花のようになった。でも円高の時はフリーターであれ海外旅行していたのである。その人達は金持ちでもないただ自由な時間があり円高で海外旅行できたのである。

今になると円安で簡単にできないというときやはりチャンスを逃がしたとなる、その時々にできることをしていないとできなくなる、私も50からバックぱかーになて世界を旅行したが今になると体力的にも金銭的にもできないとなる。だからチャンスを活かさないとそのチャンスが失われるのである。
ただ時間はいくらでもありチャンスはいくらでもあるとみる。

しかし振り返ると本当にチャンスもニ三回とであり何かするべきことを学ぶべきことをしないで時間は消失したのである。
今や後は死ぬだけだとなる、だから若い内神を知れというときこれがいかに大事なことだったか、青春時代などあっというまにすぎるからである。でも若い時は女性であれ様々なものに魅了されてたちまち夢のようにすぎてゆく、貴重な時間は常に失われてゆくのである。

とにかく時間が意識されにくいので一番失われやすい

なぜならもし後一年とかで死ぬとなれば時間の貴重さを意識せざるを得ない、それは老人はみな感じる、後何年生きるのだとなるからである。



2024年12月24日

なぜ人間は互いに理解できなくなるのか 【空間軸と時間軸の相互関係―時間は取り戻せない】


なぜ人間は互いに理解できなくなるのか
【空間軸と時間軸の相互関係―時間は取り戻せない】

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空間軸ならA地点からB地点に行けるが、時間軸となると戻ることができなくなる、時間は取り戻せない!

●距離が離れすぎて理解できなくなる

人間はなぜ理解し合えなくなるのか,それを空間軸と時間軸で見る時これは別々のものではなく相互作用がある
距離が離れていればやはり時間軸でも交わる機会が少なくなる。すると互いに理解するのは難しくなる。どうしても空間軸で離れてしまうと時間軸でも交わる機会が少なくなる・
するとそこに誤解が生まれる、私の父親違いの兄が交通事故で死んだとき何が何だかわからなくなった。離婚したとか中学生の娘を児童施設にあずえてと施設から連絡がありわかった。

でもそないろいろなことが一気に押し寄せてきても遠すぎて理解できなくなっていた。もし近くに住んでいたら事情がわかるから対処方法があった。静岡でありそこに行くことも大変なことに成っていたからである。
つまり空間軸で離れすぎていたことと時間軸でも空白がブランクがありわからなくなっていた。そこでいろいろなことが起きていても理解できなかったのである。

●同じ空間にいても時間軸で交わらず理解できなくなった

ただ空間軸でも狭い地域に住んでいても理解し合うかとなるとそうもならない、その中学の同級生とは何十年も没交渉であり何をしているのかもわからなかった。
たまたま地域で作った野菜など売る店にいた。でもその店にはほとんど行かずスーパーで買い物していた。だから接することもなかった。相手にしても私が何をしているのかわからなくなっていた。
それで直接会た時あなたは何をしているのですかと言われて自分は黙っていた。これまでのことを答えることが長くなり簡単にできなかったからだ。

そしたらあなたとはここに来る必要はないと断られた。何をしているかわからないとして無用の人と見てそうなったのかもしれない、ただ田舎だと客を断ることがある
それは隣の街の自転車でも修理でも断られた。何かその店の評判は他の自転車屋で悪口が言う客がいてわかった。また医者でも日ごろ日常的に行かないと断られる、特に開業医はそいうことがある。
ただ断られても何かそれで問題になることはない。そもそもその店にはほとんどいていないしその同級生とは50年とかも没交渉だったからである。これだけの時間軸で没交渉だったらそもそも互いに理解することあ不可能である。ただ狭い地域だから共有するものはある。
それをプログに書いたとしてもスマホをしていないとしたら私のことも郷土のこともわからないのである。もう一人の同級生はスマをしていて多少わたしのことがわかって郷土のことについて話できたとなる
現代はスマホでも使わない人は情報的に孤立するともなる。それは田舎の狭い範囲でもそうである

●現代社会は複雑で意志疎通ができないことが多い

そもそも現代社会で意志疎通が難しくなったのはあまりにも無数の職業に分化したためである。近くで何をしているのかわからないというのもそうである。工場で特殊な仕事をしていると聞いてわからないのである。他でも車で遠くに仕事に行くが何をしているかわからないのである。特にこの辺は原発事故で避難区域から移住した人が多いからこれおまたわからなくなった原因である。

いずれにしろ空間軸であれ時間軸であれ人間は理解しあえなくなる。そもそもこれだけ複雑な人が交わる世界で人と人が理解することが基本的に難しくなっている。都会に住む人と田舎に住む人と理解することがむずかしくなる。
それは今だけではない江戸時代であれ職業が違うとその人理解できないから神秘的な存在となった。
お椀を作る木地師でもやはり神秘化されたし鉄作りする人もこれも神秘化された・それは今の原発で働いていた人達と共通している。そこで何をしているのか理解できなかったのである。そして大事故になり様々なことが言われるようになった。
このように昔から職業が違うとその人理解することが難しくなることはあった。ただ基本は大方は農民だから職業が同じであり現代のような無数の職業もないか理解しあえたとなる。

共通に体験することが多かったからである。だから俳句となると季語があるというとき農民の仕事と関係していてきごでも言葉も生まれたとなる。冬が増えるであり野菜を作るにかえっていいからそうなった。つまり農耕と結びついて生まれた言葉が多いのである。だからcutureがcultivate〔耕す〕からきている。
農民同士は理解し合うことがあった。同じ職業だったら理解しやすい、侍は侍同士結婚して大工は大工と結婚してとか理解することができた。つまり結婚するにしても理解しやすかったとなる
今なら外国人と結婚する人もいるし無数の違った職業の人と結婚するから夫を理解することもむずかしくなる。

●様々の専門に分化して理解しあえない

つまり現代はどんな優れた人でも社会を理解できない。様々な専門家がいてどんな人でもあらゆる職業に通じる人はいないのである。必ず視野狭窄になる。いくら専門家でもそうなのである。
それで福島原発の吉田所長が復水器のこと私は材料関係専門だからしらなかったと言っていた。つまり社長でも会社のことでも全部わからないのである。肝心なこともわからなかったのである。

人間はさらに今度は一千万住む東京のような大都会であれ今度は海底に住む人とか地底に住む人とか二分離して意思疎通がさらにできなくなるというのもわかる。それだけ一万の街に住んでいても狭い範囲でも意思疎通ができなくなっている。それだけ複雑な社会であり狭いとしても物は外国から入ってくるからグローバル化もしている。そこでさらに意思疎通がむずかしくなっている。
そもそも外国など簡単に理解できないからである。結果としてどうしてもそこに誤解が生まれ衝突して最悪戦争もになる。
それが近代の戦争でありその死者の数が何千万人にもなったのである。

●空間軸は戻せても時間は戻せない

空間軸だったら別に外国でも今なら行ける、でも外国でも時間軸で見ることは理解することは最高にむずかしいのである
歴史を理解することは難し、別にその場に立つことはできてもそれを時間軸でみることは簡単にできない。ここで2000年前1000年前何があったのかを知るのはむずかしい。日本だって難しいのである。
人間は今でも空間軸でA地点からB地点に行ける。でも時間軸で10年前でももどることはむずかしくなる。
人間は同じ土地に住んで空間軸で確かに共有するものがある
でも時間軸で供することは限られている、何か家族でも一緒に暮らしていなければ家族にならないのである。別に他人でも子供のころから一緒に暮らしていれば家族のようになる

でも子供の時でも一緒に暮らす時間がなかったら家族にならないのであるつまりそれだけ時間はたちまち過ぎる、時間が貴重だというとき時間は失いやすいからである
何か一緒に協働して働くとかそうした時間が貴重だった
なぜならそうして共同する時間が消失してその時間を戻せなくなる。もっとあの時一緒にするべきことがあったとしても時間が戻せないのである。
一緒にここで苦労して働いたなとか言うときそうした共同の時間を持ったということである。でもすぐに時間が過ぎてその時間は取り戻せなくなる。

だから中学で同級生だったとしても50年以上過ぎたらそれも没交渉だったら近くに住んでいても相手を理解することは不可能である。それで近くにいてももう逢うこともなくなった。もはや互いにに理解することが不可能なった
それは実の親子関係でも起きる、距離が離れて時間軸でも交わらなければ疎遠になり理解することがむずかしくなる
でも突然遠くから電話であれスマホであれ金を貸してくれと言われてもその事情がのみこめなくなる。近くであれば常時行き来していれば事情は分かるから理解しやすいのである。

必ず距離的にも空間でも離れすぎると理解するのが難しくなる
また親子でも兄弟でも10年没交渉とかなると理解できなくなる。
同じ場所に住んでいても没交渉だとやはり時間軸で理解できなくなる。そして時間軸の空白が60以上とかなると取り戻せないのである。何か協働したり助け合ったりする時間を持たないと同じ場所に近くに住んでいても理解しあえなくなる。

時間は取り戻せない、もう一回人生をやり直したい!

それができないかことが深刻なのである。つまり時間は無情に過ぎて行く、何をするにしろ無情に過ぎて行く。
それを自覚するのが50過ぎてからであり60過ぎて否応なく自覚されるのである。



2024年12月21日

人間は本当に存在するのか―存在するとは何になのか 【近くでも互いに存在しなくなった―老人は人間関係が切れてゆくこと】


人間は本当に存在するのか―存在するとは何になのか
【近くでも互いに存在しなくなった―老人は人間関係が切れてゆくこと】

その「私」という主体にとって友人や恋人などの他者が【存在】するのは、「なんらかの体験を元に思念・思考」しつづけているからです。
ある瞬間、他者のことを「思念・思考」しなかった場合には、「私」という主体から他者は【存在】しないことになる。
同様に、「私」という主体が「私」を「思念・思考」しなくなると、「私」も【存在】しないことになります

自分以外の人間は、存在するのでしょうか?

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●近くでも互いの存在が認められなくなったこと

その人は中学の同級生だった。その人は確かに道の駅ではないが農協が経営する地元の野菜とか店にいて売る人だった。その人はそこで野菜など売る仕事をしていたということはわかる。
でも私が何をしているのかわからない。だからあなたは何をしているのですかと聞かれた。その前にその人は私に対して関係を断った。もともと関係していなかったのだがおそらく私が何をしているかわからないから私と言う人間を認められなかった

私は説明しようとしてもその人はその前に私との関係を断ったのである。それはほんのわずかの時間の出来事だった。何か私と会った時近くでも知らない人でも私を知っていた人がいたのである。それは私のプログを読んで知っていたのでは今はスマホをしているからスマホでネットの情報を得る得る人が多くなった
だから意外と地元でも自分のことを知っている人がいた。その若い女性は私の顔を見てプログに書いている人だとわかった
でも別に私はプログに自分の顔の写真を載せていないのである
だからどうして知ったのかと不思議でもあった。ただ今になると大概スマホをしているからインターネットにアクセスできる。そこから情報を得ている人も多くなった。でも70以上とかなると携帯はしているがスマホ見ている人は少ない。スマホはパソコンの延長だから結構面倒なものになる

その中学の同級生はマホなどしていない。だから私のプログをまったく読んでいないから私という人間は理解できないしそもそも私という人間が存在しないのだと思う。そこに確かに私という人間はいる私という人間はじかに会った
でもその人にとって私という人間が同じ狭い土地に生きているのに全く理解することがなかった。その人と何か語ろうとしたのだがその前にその人は私を何をしているか分からないと拒絶して会話もできなかった。

それは私が何であるかを実際は知ろうとしなかったのである。実際私が私自身を語ろうとした時それは相当に長くなる。とても簡単に語れるではない。でもその人は私が知ろうとする前に何もしてないとして拒絶したのである。
そのことは私という存在を無視して認めないということであった。私のことを知れば同じ土地に生きていてそれを知ることもできたはずである。でもその人私を何もしていないして知ることもないとして対話をは拒絶したのである

つまりその人は私自身の存在を認めず存在しないとしたと同じである
ところが私自身もその人と会話もできなかったから実はそのことは私自身にとって存在しないものとなってしまった。
そしておそらくすぐ近くに住んでいてとも合わないからその人とどちらにしても存在しなくなるのである。没交渉になり双方で関係もしないしその後に何があるかもわからないしそもそもが存在しないのである。それは存在を否定することになっている。
現実は狭い範囲で生活しているのだからそんなことはないともなるがその店で何も買わないとしたら会う事もないので没交渉になりもはや互いに存在しなくなるのである。

●牛乳配達員との関係も切れた

もう一人は私の家に牛乳などを配達していた人である。でもそれも十年前に断れたれることになった。それは親の介護とかで継続できなくなったからである。それを断りに行った時その人は私を何か蔑むように馬鹿にするようなこと直接面と向かって言ったのである。
なぜそんなことを言ったのかわからないよ何か私を馬鹿にしたいということがあったのだろう。別に私はその人と直接会ったりもしないし話したりもしなかったその人はただ牛乳配達するだけでありそこに何か会話とかはなかった。ヤクルトとかなると何らかそこに会話があったがその人は配達される箱に置くだけだったからで直接顔を合わすことはなかったからである

その人とはいつも牛乳を配達しているから自転車で行くとその車と出会うのである。でも牛乳を配達を停止してからは何も話していない。それも十年くらい過ぎてしまったのである。
つまり十年くらい没交渉だったのであるその人の販売店すぐ近くにあってすでに十年くらい牛乳配達を停止してから一言も話すこともなかったのである。その人は車で配達しているからその車と私の自転車とは合っているのである
でもその人と直接に話すすることをすでに十年もくなっていたのである。ただ私はその人に馬鹿にされたということでそのことは覚えている。

つまり何か物を買ったりするときそこに人間が介在するのだがではその人間をいちいち覚えているかというとその場限りになるのも多い。スーパーで買い物しても別にそこで売る人と必ずしも会話したり何かその人と直接語り合うこともない。ただものを買えばいいというだけである。
第一相手がどこに住んでどういう人なのかもわからないのでこの辺では原発事故で避難してきた人が多いので余計に地元の人でもないから分からなくなっている。ただ都会なら別にスーパーの人が売っていてもその人たちをいちいちどこに住んで何をしているの何を考えているのかなど思わない。
現在というのははものを売るにしても買うにしてもただそれは物の売買でありそこに何か人間関係が生まれるわけでもない。

だから物を買うにしてもそこに何らか人間関係が生まれるということはない。それが通信販売とかなるとまさに配達する人などただ物を運んでくる人でありそれ以外のことは何もわからないのであ。だから例えばその配達する人は誰でも良いし配達する人が変わっても別に気にすることもないのである。

何か現代っていうのはこうして人間の関係が持てない時代になっている。というのは向かいの人は何が特殊な技能があって工場で働いているらしい。でも何をしているのか分からないしその人の顔もめったに見ないのであだから私にとってその人は存在するのかどうかともなってしまう。他でもすぐ近くのだけどその人はこの土地で働いているのかどうかわからない。話したこともないし何の仕事をしているのかも分からないのであだから私にとってその人はすぐ近くに住んでいるのだけど存在しないとまでなってしまう。

●人間関係が持てない社会−車社会の影響

現在はこうして人間の関係がつながりが持てない時代ではないか。私の戦後まもなくの子供時代近くの人間関係が密だったように思う。近くでで何をしているのか仕事をしているのか分かったからである。農家の人がいて養蚕していたとか漆塗りをしていたとか石屋の人は石を毎日削っていたとかを見ていたまた竹で駕籠を作る人も見ていた、つまり説明するまでもなく一目でその人が何をしているか何の仕事をしているかわかったのである。大工もいたし建具屋もいたしとかそれは狭い土地で狭い中で村のような所で仕事をしていたからだろう。
また車がないから一地域の狭い場所で生活に必要な物をまかなっていた。だから隣近所で何をしているかわからないなどということがなかったと思う。

不思議なのはこの辺で原発避難区域になったところから移住してきた人が多いでもその人たちをこの土地で働いていないように見えるそもそも車があるから隣の市にとかに働きに行く。買い物でも必ず近くに4 5万の都市があるから買い物に行くのであそれとともに働く人もまた車で隣の市とかに行く人が多いのである
つまり車社会になった時その生活範囲は広くなったのである。車がない時代は本当に隣近所とかでまかなう他なかったのである。だからそこでいい面と悪い面があるが人間関係も密になっていたともなる

ともかく人間の生活が多様化したとき例えば私は自転車が欠かせないから一軒だけあった自転車屋とそれなりに関係して
でも車社会になればみんなが自転車と関わるわけではない。
そして車を持ってない人自転車に乗る人は何か別の存在ともなる。自転車に乗ってる人はよく会うはその人は障害者だったりまた引きこもりとかニートだったり何か劣ったとみられる人たちなのである
つまり現代では車を持たないということ異常でもだから常に警察のににらまれて職務質問されるのである何か自転車に乗ってるだけで不審者に見られてしまうのである

●SNS-ネット社会で起きていること

いずれにしろ今度はネット社会になる時逆にインターネットにアクセスできない人は取り残されるかもしれない。私のことはプログで読めばわかる。
でもスマホもしてないインターネットにもアクセスしない70以上の人となると私があった同級生のように私と言う人が存在しても何をしているか分からないとして関係は断った。それも10年30年なのか付き合いのブランクがありそれを語ることが簡単にはできなくなった。つまりこうしてまた付き合いのブランクがあると会話もできなくなってしまう

こうしてまた現代社会は広域化グローバル化するとき空間軸では世界まで広がっても時間軸でわ継続されるものはなくなったとも言える。昔の村だったら狭い範囲で代々続く家があり農家だからその土地に根付いて生活しているすると何か継続継続されるものがある。祭りなどでも継続されるのでで現代社会はそうした農民農業社会でないから何か代々長く継続されるということもなくなる。それで人間関係希薄化して行くのである

ともかく不思議なの人間の存在である。本当にその人間が存在すると認識するのか。またどうしてその人間が存在すると認識できるのだろうか。

ある瞬間、他者のことを「思念・思考」しなかった場合には、「私」という主体から他者は【存在】しないことになる。

確かに私はその人と会ってその人を考え思った時その人は存在したのである。でもその人は私の存在を否定したからその時点で私という存在はその人にとっては無くなった、また私のプログでも読まないのだから私については何も分からないし私のことについて知ることも拒否したのだからその人にとっても私は存在しないし私にとってもその人は存在しなくなった

別にその店に買い物に行かなければ困ることもないスーパーに行けばいくらでもものは買えるからだ。こうしてその人の存在は自分にとってもなくなり相手にとっても自分の存在はもはやなくなったのである。ただ狭い範囲に生きているのだから関係ないとは言えないが私自身のプログなども読まないのだからもはや知ることはできないということである

いずれにしろそもそもは存在するということは何なのかということになる人間に関してもそうであるが一つの石が存在するとして
その石を確かに認識したとしてももうしその石をただ一時的に見ただけなら忘れてしまう。でもその石に名前をつけてその石の存在する意味を書いたり詩にしたりすると時石に存在の意味を与えているのである。何らか名前を付けるときは石一つでも一つの存在の意味を与えているともなる。そうでなければ石は存在しても存在しなくなってしまうだろう

●人間は存在すると認められるのだろうか?

その人は確かに大学時代に頻繁に会った。でもそれから50年もすぎたらいったいその人は存在したのだろうかとなってしまう。
実際はもはや存在しなかったとなってしまう。その後その人は何をしているかもわからないし遠くに住んでいるのだからわからなくなるそもそもは東京に住んでいるのだが一体東京に1000万人いるとしてそこで人間は存在しているのだろうか?

確かに1000万人いたとしてその一人でも関係しているわけでないとしたらそこに人間は存在しないとまでなってしまうのではないか? 1000万人もいるとしたらその一人くらいと関係してもいいはずだがそれがないとしたら1000万人は本当に存在しているのだろうか?だから人間が存在しているということは何なのか不可解となってしまうのである。
現在とはまさに大衆社会でもあり大勢の人と交わる社会でもあるが実際は東京に1000万人いたとしてもそこに本当に人間が存在しているのかどうかとまでなるのも不可解だとなってしまう

関心領域という映画が話題になったが人間は隣でも関心をもたない、ナチスの収容所で人が殺されていても関心を持たない
こうしてすぐ近くの人でも関心をもたない、それが現代社会の特徴だともなる。そもそも家族のように直に接して関心を持ち続ける死んでからも関心を持ち続ける関係は何人いるのかとなる。
特にもう80歳近くになると人間の関係は切れやすい、それよりみんな死んでゆくのだからこの世から消えるのだからこの世の人間関係を切れるということである。

そして人間は別にある人との関係が切れても何も感じない、そして人間が関心を持っているのは利益になることでありそれ以外関心を持つことは少ない、だから金の切れ目が縁の切れ目でありさよならだけが人生だと最後はなってしまうのである。
買い物にしてもコンビニであれスーパーであれどこでも一人くらい来なくても関係ないのである。
特別その人が習慣的に多額の買い物するなら別である、だから何か高価なものを買ってくれる人になると特別待遇にもなる。
でも普通の買い物でそんなことにはならない、一人が来なくても何の影響もないとなるのが普通である
だから田舎の店では断られることがある、別に一人など来ても来なくても関係ないとなるからである。

でもその人は雇われた人だから一人でも客を失うようなことをしていいのかとなる
そんな事どうでもいいとなるのが普通である。何か客の対応が悪いとしてもそれで客を失っても一人などどうでもいいのである。
ともかくその人がいなくなっても別に関心をもたないということもある。この年になれば人が死んでもまた死んだかとなり次から次と死んでゆくから関心が持てなくなる。つまり余りに多くの人が死んでゆくからいちいち関心ももてなくなるのである。



2024年12月04日

山を聖なるものとした宗教は世界共通 【現代文明は大都市からはカルト宗教とか異常なものしか生まれない】


山を聖なるものとした宗教は世界共通
【現代文明は大都市からはカルト宗教とか異常なものしか生まれない】



聖なる山

山は聖なる場シナイ山に
モーゼは十戒を神より授かる
その荒寥たる厳格なる山々
山は神より啓示を授かる場
ギリシャのドルフィーの高みに
清水は山より流れ落ちて
神殿の柱はもの寂び古りぬ
ここに巫女は神より啓示を受けぬ
山は深く黙し鎮座する
崇高なる山を仰ぎ心も高なる
日本の山伏は尾根を伝い修行する
六根清浄を唱え身を浄める
山々の重なる深い奥処
神は人を拒み隠れ棲む
重なり連なり聳える山
山と山は力強く結び合いぬ
地球創成の太古の紐帯
億年の風雪に鍛えられた山
地球の歴程が刻まれた山
山は力強く威圧する
荒々しく人を寄せつけず
山唸るその底から虎のように
神は不浄を拒みその中に住み
そして未だ見ぬ神秘の花を秘めて咲く

智は、鳩摩羅什訳の『法華経』『摩訶般若波羅蜜経』『大智度論』、そして『涅槃経』に基づいて教義を組み立て、『法華経』を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観によって仏となることを説いた学僧である。

天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった

さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。

天台宗

日本の仏教は天台宗から始まっている。近江の比叡山がその本拠地となった。天台宗は天の台であり山岳宗教だった。だから山で修行した。そえは山自体を聖なるものとするものがありそうなった
奈良の三輪山は何を礼拝しているのかというと山そのものが礼拝の対象なのである。そこに礼拝すべきものがないからである
山が御神体のようになっていた。
それが世界的に共通しているものがある、シナイ山でモーゼが10戒を授かったのもそうである。シナイ山に登ったがこには1本の木もないし草もない岩石の山である。砂漠の山は大概同じである。だから荒寥としている。

またギリシャのゼウスが住んだオリンポス山も雪に覆われて高く本当に聖なる山と感じた。いかにも神が棲むにふさわしいと感じた。デルホイの神殿も山の上にありそこが中心となり巫女が神より啓示を受ける場所になった。だから人間の感覚として山に聖なるものを感じたことでは世界で共通している。共通の感覚をもっていたとなる。

だからこの辺で福島県でも霊山は僧侶が修行する場でありその後に南朝の拠点になった。学問岩とかもあり何かそこで学んでいたとなる。でもそこは戦場となり炎上した。
それから山形県の山寺でもやはり天台宗の僧が修行した場所なのである。つまり山を聖なる場として修行した。それは江戸時代でも修験者がいて山で修行した。山伏がそうであり法印の墓が小さな村でも町中でも必ずあることでもわかる。六根清浄を祈り修行したのである、山で霊力を身に着けるということがあった。
そのがの鎌倉時代になっても念仏を唱える親鸞の真宗とかがうまれたのも実は天台宗の比叡山で修行していたからこそそこでヒントを得て念仏を唱えることになった。日蓮でもそうである。
天台宗を基にしていることは共通しているのである

だから現代の宗教が東京という大都会から生まれているというときそれがカルト宗教となった。ただ創価でもオウムでも富士山にお山にお参りするとかあったかたやはり山を聖なるものとしている伝統が続いた。ただ創価は団地の宗教と言われる如くそれは地方から出てきた人たちが仲間作りして政治団体化したのである。
だから選挙宗教にもなった。権力奪取を目的とする政治団体化した。それは本来の宗教的要素がない、ただお山参りとして富士山の本山に行くというのは山で身を浄めることがありその伝統を受け継いでいたのである。

天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される

題目をあげるということとは天台宗を基にしていたのである。
それが狂気のように御利益現世利益を求めるカルトと化したのである。何ら宗教的なものがないのである。
何か身を浄めるとか教えない、毎日御利益を得るために狂気のように祈るだけなのである。山で修行することは山の清浄な気に触れて身を浄めることである。そいうことが一切ない、ただ現世利益と御利益を求め祈るだけだとなる、それが宗教として通用したということも異常であった。何かナチスとも似ていたのである

だから古代であれ人間の感覚として世界共通なものがあり聖なる山への信仰があったことはそれは正常だったのである。
人間はそうした聖なる感覚を文明化で失ってきたのである。
だから文明自体が大都会自体が何か返って異常なものを生み出すし犯罪の温床にもなる、そこは連関なき社会であり人間がアトム化した荒野なのである。そういう場所から何は生まれるのか?
異常化した世界でありオウムのような異様なものも生まれる
つまり東京自体が異常であり異常なものを必然的に生み出すのである。それは山を聖なるものとして修行した人達とはまるで違っていたのである。そこではロゴスが言葉も通用しなくなっている

混沌カオスでありだからこそハイルヒットラーのナチスが生まれたとなる。
人間の精神の修養とかはない、ただ物質的なものの追求なのである。高層ビルにしてもそれがあまりに大きいから人間的なものを逸脱して人間の精神が作用しないアイデンティティ化できないのである。
それは恐竜のようなものに感じる。巨大というだけでそこに精神は宿らないのである。建築でも古代であれギリシャの神殿であれそこに精神性を感じる。キリスト教の聖堂でもイスラム教のモスクでも精神性を感じる。だからアテネの学堂という絵は建築と人間が一体化して建築が人間に威厳を与えている。現代文明は人間と建築は分離して建築が人間を圧倒して人間を卑小化している
そして人間はただ数となり大衆化してそこに人間の威厳は失われたのである。

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建築から見る歴史(アテネの学堂-詩)

2024年10月18日

老人になると人生の総決算として問われる価値 【二人の間でも家族内での価値があり多様な価値】


老人になると人生の総決算として問われる価値
【二人の間でも家族内での価値があり多様な価値】

●身分で決められた価値【江戸時代など】

老人になると何か一番価値が問われる、常に子供の時からでも価値が問われるとしても若い時は将来が未来がある者としてあり価値は今に無く未来にあるからそれほど問われない、確かに勉強ができるとか頭いいとかまたスポーツで肉体的に優れているとかある。だから若くても常に人間の価値判断はある

でも若ければそれほど問われない、ただ老人になると何か厳しく価値が問われる。
この老人は何の価値があるのかとみる。ただ馬齢を重ねただけなのか何をしてきた人なのか問われる。
ただ人間の場合は余りにも価値が多様なのである。何が価値あるかも定かではない、ただ江戸時代なら身分で価値が生まれた時から決められれてしまう、どんな家に生まれるかで価値が決められているからである、侍の家に生まれればそれだけで価値があるとなる。この辺で野馬追いあるのでそれが昔を偲ぶだけの祭りと見えても実際は身分制社会の再現でありそれが現実社会に適応されるのである。

この辺で只野という姓が多い、南朝の末裔であり霊山が炎上して落ち延びてきた侍の子孫だとなる。だからその只野氏というだけで何かその価値を誇りにして上下関係を強制するとまでなる
現実野馬追では相馬氏の子孫が依然として殿様でありその殿様を中心にして野馬追がある。依然として殿様が活きている場なのである。でも他の祭りは京都辺りでの時代祭りとかではそれはただの昔を再現するパレードでありそこに身分制などない、なぜならその祭りに出る人は貴族の子孫でもなくただ庶民から選ばられた人だからである。
でも野馬追は侍の子孫でなければ出れないのである。だから現実に江戸時代の身分制社会の再現なのである。そこが他の祭りとは違っている。

●身分社会から能力主義社会へ

人間は常にこうして上下関係をつくるものである。侍でも明治維新を成し遂げたのは下級武士であり身分の低い侍だった
天は人の上に人は作らず人の下に作らずという福沢諭吉でもそうである。明治になった時そうした身分制社会は終った。
だから初代の総理大臣になった伊藤博文は足軽でありそれも実際は足軽の家に養子になったのかそんなものでしかなかった。でも総理大臣になったのである。このことが身分で価値を決めていた時代の終わりを知らしめたのである。

では何が価値あるものなのか?それは身分では決まらない、能力で決まる社会である。学力に秀でれば学校でも価値あるとなる
能力主義になったのが明治以降である。医者になる弁護士になるその他社会の重要な地位につくには学問が必要となり学問のすすめが福沢諭吉により書かれてベストセラーとなったのである。
それは現代でもそうであり学歴社会が依然として通用するとなればその継続だとなる。でも大学でも半分が大学に行く時代に大学が粗製乱造された。戦後の団塊の世代でも大学に行ったのは50人学級で5人くらいであり少なかった

でも大学は私立文系とかならばマスプロ大学となり千人とかを講堂につめこむとか何かそこはレジャーランドとか公園だったかなっていたのである。要するにそこはエリート養成の場でもない
戦前の旧制高校とかとはまるで違った大衆化したものでありそれで学生運動が起きたのである。戦前は大学は選ばれた者のものでありその人たちは大学を出れば重要な地位に着いたのである。
戦後の大学は別のそうしたエリート養成の場ではなくなった
ただ大衆化した大学であれ増えた生徒を詰め込む場所に過ぎなかったのである。だからゼミでも教授であれニ三回しか会っていないのである。それは三流大学の文系だからそうなっていたかもしれないが戦前の大学との相違が大きかったのである
つまり大学に入る価値が文系なら相当に低落したのである。

●技術の優劣で決まる価値

だから何か大工さんが他の大工さんと違っていて庭作りもできる
壁塗りもできる塗装もできるとかなるとその人は相当に価値あるとなる。その人の人格は関係なく技術的には優れているとなる
技術的に優れているというときそれは江戸時代の個々の職人にもありやはり医者でも物つくりでも技術が関係する、その技術で優劣が決められる、それが今や戦争でも技術の争いである。

それは昔からあったにしろ例えば中国の夜郎自大国が漢に負けたのは銅と鉄で鉄の武器を持った漢に負けたのである。技術の優劣で勝敗が決まったのである。それは信長軍と武田軍の戦いで鉄砲を主体とした信長軍が武田軍の騎馬軍団に買ったのと似ている
グローバル世界になると常に技術の優劣でその国の価値は決まる。戦争でも今や遠隔操作のドローンとかロボットが戦いその技術力で勝敗が決まるとなる。日本が最後に戦争に負けたのもアメリカに作った原子爆弾を落とされたからである。
現代は科学技術でその優劣が決まってくるのである

●誰か一人でも価値を認めても価値ある人となる

ただ一般的に価値といってもその価値があまりにも多様なのである。最近私の家で店をしていた時豆腐を下ろしに来た人と川の土手の散歩道で語る。その人は私の家の事情を知っていて母親のことを語るとき何か親しみを覚えてその人に価値見いだしたのである。その人自体は豆腐を造っていたということで誇りを見出していないことがある。でも私は母のことを語ってくれるのでその人に親しみを覚える価値を見いいだしたのである。

その人に何が価値があるかというとき別に何でもないその人が特別な技術を持っていなくても価値を見出すことはある。
だから価値はあまりにも多様だから一概には言えないのである。
このように見い出せられない価値は結構ある
例えばこのように私と2人だけでもそこに2人だけの価値が生まれたということもある、何が価値があるかというとこうして 2人だけの間でも互いに価値を認め合うことがある。それは家族内だけの価値もありそれは外から見てわからないのである。

何か価値があるというときそれがなかなか見出されないことがある。そのことが本人にとっては価値がないと思ってもつまらないと思ってほかの人にとっては価値あるものとなる場合がある
だから常に価値は変わり価値は新たに見出されてゆくのだから何か価値がない人間というのもいないのかもしれない。
価値というものもまた常に変わり新しくつくられてゆく。新美南吉のおじいさんのランプというのもランプから電気に変わったときランプは必要になり壊された。つまり価値のないものとなってしまったのである。そういうことは科学技術の分野では常に起きてきたのである。

ともかくあらゆる人は価値を認めてもらいたい無意味な無価値な人間とされたくないのでそれを障害者すら価値を認めてもらいたいとなっているからである.障害者でも何の価値もないとされたくないのである。そしてその価値判断で障害者とかは負担をかけるだけであり抹殺するべきだとなるのが怖いのである
若い人は老人は集団自殺しろというのもそうである
優生思想はそうである。民族差別もまたそうである。白人に価値があって黒人は価値がないという差別もそうである。
でも黒人でも優秀な人がいるから肌の色だけで優劣が決められるというものでもない。

ただ老人が無益なもの無用なものだという時すべてがそうではない、個々人の価値はこのように多様であり違っているからである
とにかく老人はどうしても最後の人生の総決算として価値が問われるのである。


2024年10月01日

苦しみとなって自覚させられるカルマ 【延々と続く解消できない人間のカルマ】


苦しみとなって自覚させられるカルマ
【延々と続く解消できない人間のカルマ】

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シーシュポスの神話

●自分のカルマを自覚する

〇親の遺伝的カルマ
〇家系で作られたカルマ
〇生活で作られたカルマ

何か親が死んで感じたことはカルマは必ずあり苦しむ。親の因果が子に報いとは必ずある。遺伝のカルマは逃れようなくある。
私の母の遺伝のカルマを今年の暑さで感じた
母はやはり蓄膿症でまた胃腸が悪く痩せていたのである
それで今年の酷暑で私は鼻が乾燥したのか何か悪くなったのである、もともと蓄膿症で二回手術しているから花の鼻腔が狭く何か鼻で息しずらい傾向があった。それが酷暑で何か悪くなり舌がとか渇き食欲も亡くなり8キロとか痩せた。こういうことは今までなかった。
つまり体の弱点がありそこが傷んだということである。

今年の夏の猛烈な暑さではもともと体に疾患があった人が相当に死んでいる。それは熱中症で死んだとはなっていないがそれがもとでもともと弱い所がそれが致命傷になって死んだのである
病名は熱中症でなくても病名は別なものとなっている。その数が多い、老人は特に多いのである。

●私の遺伝のカルマ

何らかで遺伝的カルマはそれぞれ逃れようなくある。それが意識されたのである。ともかく何故私が高校でも成績が悪く知能的に劣ったのは蓄膿症が原因でもあった。なぜかというと鼻腔が狭いということは脳に酸素が供給しずらいからそうなる。
また暑い時鼻から息を吸うことで脳を冷やすのでいいとあるが鼻で呼吸できないと脳が冷やされないので脳の働きが悪くなる

そしてもう一つ母からの遺伝ではないが母の生活が私へのカルマとなっていたのである。店をしている時母はお客さん来ると食事している時でもかならず立って店に出ていたのである。
そのことが自分は嫌だった。でも母が死んでから自分で食事の用意をするが必ず足りないものがあり台所に行く。つまり食事中でも立って足りないものを台所に取りにゆく、つまり母と同じように自分自身がなったことを自覚したのである。

それはまさに別に遺伝ではなく親の生活のなかでしてきたことが自分のカルマとなっていたのである。だからなぜ食事中に中断して立たねばならないのかとなり母もそうだった。だから私もそうなったと自覚したのである。カルマということはこういうことなのである。

●親が子捨てる子が親を捨てるカルマ

カルマというのは必ずある。私の父親違いの兄は後妻に来た自分の家で愛されることなく歪んだものとなっていた。
それで母親を恨んでいたのである。でも自分が親になり離婚して子供を中学の時一時児童施設にあずけたりとか子供に大迷惑をかけた。そして交通事故で40才で死んだ。
でもその兄の為に墓を建てるからと連絡したが交通費がないと10万を送ったがあとは一切連絡がないのである。つまり親は捨てられたとなる。これもやはり兄自体が親に捨てられたとして恨んでいたが自分の娘に捨てられたのである
だから別に親が子を捨てるということは普通にあった。
また子が親捨てることもありそれは親の因果が子に報いとなる。

そういうカルマは人間は延々んと繰り返していて変わらないのである。カルマは解消できな五うことである。
何か仏教で宿命転換というがそれはカルマの解消なのである
でもそれは簡単い出来ない、何故なら何代もカルマが解消しないし現実に人間自体のカルマは解消されない、それは個々人だけではない様々なカルマがあり国自体のカルマもありそれで戦争もなくならないのである。

ようするに人間が活きる限りその行為自体がカルマとなる。人間の行為がカルマとなりそれが解消されないのである。だからと言ってカルト教団とかに入ってもカルマは解消できない、そこでかえって大きなカルマを積むことになる。その組織団体が返って大きなカルマを積んでいる団体だからである。個々人でカルマは違っているし一様に解決できない。そこに集まる人達もそれぞれカルマを持っていてその団体自体が巨大なカルマとなる。団体はカルマを持った人たちの集まりでありそのカルマが集積した場所である。要するに罪の集団であり人類自体が罪の集団なのである。だからいつかカルマの清算を強いられるのである

とにかく人類自体がカルマを積んでいる、カルマとは罪でもある
その人間の罪は解消できないのである。だからこの世とは人間とはいくら科学技術が発展しても人間の苦しみは消えることがないのである。カルマとはシーシュポスの神話のように延々と石を持ち上げる苦しみである、その苦しみから解放されないのである。

●国にもカルマがある

例えば中国には中国のカルマがある。それは国土が広く人口も多いから一つにまとめることが至難になる。だから三国志のようになる。常に分裂するのである。そのカルマは解消しないのである
またアメリカでも移民の国だからそれがカルマとなり巨大な国土を国民をまとめることが難しいのである。ロシオでも領土が広くて治められないとかありそれは次代に受け継がれ解消できないのである。またヨーロッパでは絶えず争いがあったの隣国と地につながりそれで絶えず争いがあった。リバーがライバルとなっとき河が国境となったのだがそれは川を挟んで争うということにもなったのである

それでドニエプル川を挟んでロシアとウクライナが争うというときそれもカルマとして継続されているとなる。
ともかく人間個々人でもそうっだが国単位でもカルマを積み継続されるのも歴史である。だからアメリカが日本に原爆を落とした行為はカルマとなる。そのためにアメリカは世界で一番核爆弾を持ち核を一番恐れているのである。
現実にアメリカは自分の国が戦場になったことがない、だから戦争の本当の苦しみを知らない、だからこそ原爆を落とされて苦しめばその行為【カルマ】を自覚できるのである。

●余談として


これもやはり石破氏してきたことがカルマとして跳ね返って来たのである

2024年09月21日

何が神なのか―人間は足りないものがあるから神を求める 【心貧しき者は幸いであることの意味】


何が神なのか―人間は足りないものがあるから神を求める
【心貧しき者は幸いであることの意味】

なぜ巨人幻想が生まれるのか―人間の卑小さを脱するため 【巨人幻想の詩】

●巨人願望超人願望がなぜ生まれるのか

神とは何かというときまず人間自体が神とは見なかった。
人間は体にしても小さいし様々なもので欠けている。病気にもなるし老いてゆくしと人間には足りないものが多々ある
だからどうしても神というとき巨人願望幻想となり巨大な神像とかになった。それがエジプトのファラオの像である
また神話の神でありそれは人間ではない、その後でも人間は卑小なものだからその卑小さを越えるものを望んだ
それがニーチェの超人とかになる。人間はとにかく様々な弱さをがあり絶対的強さを持ちたいとなるのは当然なのである
そもそも地球に80億の人間がいる時そんなに多い人間がなものにならない、ただありふれたものでありそれに価値を見え出せないのである。
そして現代の特徴はそんなありふれた人間を特別なものとして見ない、ただ数が集まる時その集団化したものを恐れる。一人一人の人間など価値がない、でも集団化すると価値ではないがそこに存在感あり政治的経済的価値がありそれを認めるのである
人間は現代は統計として数として認識するのであり個人として一人は存在しいなのである。宗教でもそこに数集めれば何かがあるとしてその存在を意識する。でも一人なら誰も意識すらしないのである。

●卑小な弱小な人間で満足する人は一人もいない

キリストが神の子であったというときそれが認められなかったのは神が何であるか認識できなかったからである
人間が神になるのか卑小などこにでもいる人間が神になるということが認められなかったのである。特に自分などでも何か体が弱くまた知能的にも劣っているというときそんなものが神になるのかとなる。体でも生まれつき欠陥がありそれで今年の夏が酷暑でおかしくなったのである。
だからこそ巨人願望幻想が生まれる、卑小で弱小でありたくないとなりそうなる。人間は自然の壮大さと比べるとき余りにも弱小な存在である。何か吹けば飛ぶような存在である

人間が人間であることに満足している人一人もいない、それは人間には足りないものがありすぎるからである。完全無欠な人間もいないし万能な人間もいない、だから人間は誰でも劣等感をもっている。それぞれ何か足りないものがありそれで他者がそれを持っている時羨み嫉妬するともなる

●神はまず人であり神であること

でも神とは何かとなるときキリストは神の子でありまた人でもあった。人でもあり神の子でまあった。神話の巨人とかではなかった。たいがい人間として見ればそんなものありふれている
どこにでもいるしその人間が神の子だというとき何なのか理解できなかった。だから神の子として認識できなかったのである。

ただキリストの不思議は神が人であり神であったことなのである。まず人であることでありその人が神性が備わっていたのである。巨人が神である時それは人ではないのである
まず人であることが神性がそなわることになる。だからこそ大工として普通に人間として働いていたのである。神話の巨人とかはそなことしない、何をして食べて暮らしていたかもわからないのである、巨人ともなればその体をどうして維持していたのかとなるからである。

神というのは人間離れしたものではなく人としてありまた神としてある。つまり人としてあらねば神ともならないのである
ではその人とは何かとなれば人には情がありあわれみがありとなりそれが愛ともなる。それが神に通じるものとして人にある
何故なら動物にはないからである。でも人間と同じく親子の情はある、哺乳類になるとある。だから人間に通じるものがある。

でもどうしてもキリストを神の子として認めることはできなかった。人が神であることを認めることができなかった。それは今でもそうである。なぜ80億人もいる人間がありふれた人間が神なのかとなるからである。でも人としてあり神としてあったことがキリストの出現で実現したのである。

●貧しき者は幸いであるの意味

逆にまず人であらねば神ともなりえないのである。だから人ではない巨人願望が幻想にもなる。人間が完全無欠だったら神など求めない、自らが神になるからである。そしたらそもそも神は必要ないとなる。人間は欠けたものがあるからこそ神を求めるのである。心貧しき者は幸いであるというとき何か足りないものがあるからその足りないものが神によって満たされる

でも自ら神になれば別に神は必要ではなくなる、すると神の役割もなくなっていしまうともなる。だからこそ人間は常に欠けたもの意識するからこそ神を求める、もし完全無欠で神のようになっていたら神を求めないのである。だから奇妙なのは人間は常に足りないものがありそれで神を求める、そのために神と人は結ばれるとなる。完全無欠だったら神を必要としないからである

心貧しき者が幸いであるというときの貧しさ空虚さがあるかこそそこに神が働きかけることができる。でも完全無欠だったら神の働く余地がないとなってしまい神の役割がなくなるのである。
だからこそなぜ天才はあまりの恵まれているからキリストを神の子とは認めず自らがニーチェのように神となってしまうのである。そこに学ぶべきものがあるとしても天才になれるわけでもないから失望に終わるとなる。

2024年09月17日

富裕層の不安−財産が消失する不安 【人間にこの世では安心が得られない―神の国でしか得られない】

富裕層の不安−財産が消失する不安
【人間にこの世では安心が得られない―神の国でしか得られない】

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デジタル資本主義の怖さ】21世紀の大金持ちの支配者たちが考えるリアルな世界の終末
【デジタル生存競争: 誰が生き残るのか/ダグラス


何か人間は財産でも権力でも地位を持つとそれを維持して守ろうとする。だから保守はそうして既得権者であり自民党が二世議員が多いのもそのためである。
何か上流階級は上流階級同士で結び合うというのもそうである。
それは会社でも継続させるのに既得権として維持するためにそうなる。つまり大金持ちになるとその財産でも地位でもいかに維持していゆくのかと腐心する。
それで世界的富豪となるとその財産を失うことが不安になり極端なものになり別の惑星へ脱出することまで画策しているという
つまり余りにも持てる者もその富を失うことの不安がある

その富を財産をどう守るのかとなる。何か戦争でも起きると財産も失うかもしれないとかいろいろ不安がる。だからとんでもない金持ちでも不安を解消できないのである。
一方で貧乏人は最低でも食べるものがあればいいとかで別に財産をとかないのだから失う不安もないのである。今日食べていければいいとなっている。これも奇妙な対照である

とにかく人間社会は格差社会になる宿命がある、格差が解消されることがない、歴史をみればそうである。だから貴族階級があり階級が生まれたからマルクスの共産主義で平等にしようとしたが極端化して失敗した。権力争いで粛清されて殺された人たちが膨大なのである。共産主義でも平等は実現しない、やはり共産党の幹部が権力をもち格差が生まれたからである

そもそもなぜ格差が生まれるのか?なぜ富を独占する人達が生まれるのか、それはスポーツでも必ずどうしても優れた人そうでない人がいてそこに差別が上下関係ができる。優れたものがいて劣ったものが生まれる。それを解消することはできない、みんな平等だと言っても必ずあらゆる分野で優れたものがいて劣ったものがいる。そういう問題は解決できない。

でも大金持ちになったとしても人間の不安は解消しないのである。大金持ちが貧乏人の襲われる富を奪われるという不安があり何かの事件で富が失われることで不安になる。その不安をなくすにはその富を貧乏人でも分配することなのだがそれもしない。
そして大金持ちでも不安は消えることはないのである。
現実に必ずそうした金持ちでも既得権者でも安泰ではない

日本だったら明治維新がありそれは下級武士が上級武士を倒す革命だったのである。何故伊藤博文が首相までになったのか、もともと農民で足軽だった人がそこまでなれたというのはまさに革命がありそうなったのである。
だから既得権者がいつまでも安泰ということはない、戦後財閥解体とか地主の既得権が奪われたとかある
だからいつまでも既得権を維持することはできないのである

いずれにしろ莫大な財産を持っていても不安は解消しない
それが失うことがあり戦々兢々しているとなる
いずれにしろこの世は無常の世であり変転する世である
一定していないのである。だから大富豪でもいつ富が失われるか不安になる。現実に事件があれば失われるのである。
そしていくら金があってもすべていいわけではない、病気になればいくら金があっても何もできなくなる。
だからすべてを金に頼ることはできないのである。それで莫大な金を財産を持っていても安心はないのである。

この世にいくら宝を積んでも消失するしそれで満足することはないのである。だから宝は天に積めとなる、そこなら失うことがないからである。この世は常に変遷してゆく無常の世界である
人も家族ですら死んでたちまち消えた。今日ある人が明日はいなくなる。だからこの世にあるものが頼りにならないのである。
永遠の都は天にありそこでしか安心はありえないのである。
この世は火宅の世災いの世であることは変わることがなく遂に滅びてしまう神に滅ばされるとなる。この世には何であれ安定はないのである。

大金持ちはその責任も金に比例して重大である。その責任を果たせないものは呪われるし底辺層からも攻撃される
金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るより難しい
キリストが言ったのは財産を余りにも持っていて捨てることができないからそう言ったのである。財産に執着して捨てられない。貧乏人はもともと財産もないから返って天の国へ行きやすいともなる逆説だったのである。まず大富豪となればその富を有効に使うとか分配しないと返ってその富によって呪われることがあるから怖いのである

2024年09月12日

なぜ巨人幻想が生まれるのか―人間の卑小さを脱するため 【巨人幻想の詩】


なぜ巨人幻想が生まれるのか―人間の卑小さを脱するため
【巨人幻想の詩】

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巨人は広大な大地に住む
人間のおもちゃのような家ではない
広大な大地を寝床にして山が枕か
その時は一日が百年であり
その歳は計られれない
巨人は己が大地を歩む
のしのしとどっしんどっしんと歩む
その音は地下深くはるか遠くまで響く
巨人は広大な大地に眠る
山のように動かず眠る
そのい巨人を起こすな!
人は蟻のように営々と働く
しかし巨人は大地に眠る
千年深々と眠り休む
するとその大地を覆っているのは花々であり
太陽は巨人を見て微笑む
人よ、人の業を休め
そして神の業を働かしめよ
人間の営々たる労働の成果は何ぞ
そこに誠の実りはなし
人間の業は災いを生み苦しめる
巨人が千年の眠りから目覚めると
そこは花々で覆われている
誰が働いたわけでもなく
花々は無心に大地に喜び咲きぬ
神の御意は成さずして成る
そこに響くのは大きな響き
大地に山々に響く
その音は雑音ではない
妙なる心沈める調べ
その調べに山も大地も聞き入る
大いなる響きも山々に木霊する
大調和するオーケストラの響き
不協和不調和にあらず
すべてが響き和する世界
空をつんざく大地を引き裂く音ではない
そこに機械は介在せず
大自然が原初のままに響き合う
そして巨人はその音を聞き
千年の眠りにつく
山の向こうからまた一人の巨人が来る
のしのしとどっしんどっしんとやって来る
そして二人の巨人は出会う
そこで争うことなく厚い信頼の握手をする
その巨人も広大な土地に住み
土地をめぐって争うことはしない
その巨人は己が土地に去っていた
{また会おう}二人の巨人は争わない
共に広い広い土地が与えられているから

なぜ人間は巨人幻想に陥るのか、それは人間は卑小であり小さいものとして認識する、だから大きなものに憧れる、それが巨人幻想を生み超人幻想を生む。
つまり人間はそんな卑小なものとしてありたくないからそうなる
だから神像は巨大なものとなり偶像崇拝なった。
特に自分など何か常に小さいことに捕らわれるので嫌になる

その時巨人幻想を生み出す、巨人のようにありたい、社会とか世間を無視して巨人でありたいとなる。それは自分だけではなく人間全般に通じる。何か人間は蟻のようにも見えるからである。
働いているばかりの人間は蟻のように見える、一方で大自然を観るとそこに壮大なものが余りにも違った世界がある。
大地であれ山であれ海であれ宇宙であれ広大なものが広がっている、でも人間はそういう大自然から見ると蟻のように見える
その労苦は延々と続くのである、まるで奴隷と同じである

文明といいそれは讃えられるべきものなのか、東京を見たらそこは何だとなる。そこに讃歌するものがあるのかとなる。ただ無益に使役される奴隷がいるだけなのかとも見る
それが人間の労働の成果なのかとなれば絶望になる。真善美がないからである、そこから生まれたのはカルト教団とかであり異様なものが生まれてくる。つまりその母胎となるものがありそうした異様なものが必然的に生まれたのである

では巨人とは現実に存在せず幻想である。その幻想を生み出すのは人間は余りにも卑小でありそれに嫌悪してニーチェの超人とか


上野霄里原生人間が主張されたのである。ただそれはあくまでも幻想である。それを信じれば偶像崇拝になる

ただ人間の理想は大自然と調和することである、それが一千万の東京にあるかとならとない、そこは絶望的な場所ではないか、そこに自然はなく美はなく人間の作り出した荒野なのである。





2024年09月08日

家庭環境が悪く歪められた人間の例 【原因があり結果がある何故なのかを追求する人間】


家庭環境が悪く歪められた人間の例
【原因があり結果がある何故なのかを追求する人間】

善因善果(ぜんいんぜんか):善い行いをすれば必ず善い結果を得る
悪因悪果(あくいんあっか):悪い行いをすれば必ず悪い結果を招く
自因自果(じいんじか):自分がやった行いは必ず自分に返ってくる

●人間はなぜなのかを追求する

この世とは人間とは何なのかという時さまざまな謎があることになる。科学というときその謎解明するために生まれた。それは因果関係を知ることである。 原因があって結果がある。そこに必ず因果の法則がある。それは仏教で解かれたのである。
ただ科学ならばその因果の法則というのはわかりやすい。でも人生とか人間に関しての因果の法則というとそれは科学のように究明できない。余りにも複雑であり数式のように割出せないからである

でも人間というのは必ずなぜそうのだろうかと追求する。それが人間なのである。例えばなぜその人はそんな性格の人になったのかそれはただ生まれつきであり生まれつきに性格が悪いという人が確かにいる。でも人間は環境によって歪められる
家庭環境は悪ければまともな人に育たないというのはその理由が分かる。両親に愛されないとかそこにいろいろな悪条件があってその人自体が歪められるのである。

●私の母親が花はいらないと歪んだ理由はわかる

私の母親はもともとは性格的には素直でありおとなしい人だったでも継母にいじめられて歪んだものにもなった。なぜ私の母親は花などはいらないと花など買う必要ないとか私に言っていたのかというとただただ働かせられるだけであり継母は何か生け花とかを習わせたりしなかったからである。
そうした貧乏な時代がありそのために花など無駄なものだとそんなものに金を使うべきではないとなってしまったのである

ただ幼少時代は恵まれていた。でも警察署長であった父親は事業を始めて失敗してそこから全く何か花を観賞するような余裕もなくなっていたのである。そしてそこに実の母が病気になり継母が入ってきていじめられたことで性格的にもおかしくなったのである。だから母のことをなぜそんなに花などいらないとなったかというとその理由が分かるのである。

こうして何か家庭環境であれ人間はもともとの資質が良いものでも歪められるのである。でもそうした事情がわからない人はその人その女性を見て嫌になるだろう。だから人間であれ必ず何らかの理由があって性格でもゆがめられたりする。その理由がわかるとその人をあまり攻めるということも控えることになる。
ただ人間の場合は複雑でありなぜその人がそうなったかというときその背景に複雑な事情がありそれを知ることは容易ではない

●親戚の女性が非情な冷酷な歪んだ人になった理由がわからない

だから親戚の一人はなぜあのように冷酷になり非情な人間になったのか?確かに子供の時一回くらいしか会っていないからその付き合いがないから分からなくなった。
でもその人は最初の実の母と五年間くらい暮らしその後別の私の継母となった人がまた母親のようになった。それからまた別な人が母親になりその人が一番長く一緒に暮したとなる。ただその人は母親にいじめられたということはなくかわいがられたのである
でも最後の母親は干渉しすぎて嫌われた。そうは言ってもやはり可愛がられてきたのである。私の母親のように継母いじめられたということはないのである

でもなぜその最後の3人目の母親に対して冷たい仕打ちをしたのか理解できない。干渉しすぎて嫌われたとしても一番長く一緒に暮した人だからである。それでその母親は病気になりその時も全く何もしない。それでその母親を私に最後に電話をかけてきたのである
ひどい娘だわと言ってその人は死んだのである。そのことで私は別に私の家と関係していないしうまくいっていないからあまり考えもしなかった。

でも私の家に来て母親は私が介護していたのだがその娘に何も頼まなかったのに【おばあちゃんは金があるんだから金で面倒見てもらい】と言って去っていったのである。その前に母親は苦しくてその人に百万を与えたのででもいったいその人は何をしたのかといえば何をしない第一付き合いはなかったからである
だからどうして百万も与える必要があったのか何も世話もしないのにそんなものを受け取る資格も何もなかったのであるただ後で夫に言って返してもらったのでだから夫の方はまともだったのかとなる。

このことがありその一番長く一緒に暮した母親は私に最後にひどい娘だわと言うその一言が理解したのであるその人はいったいどうなっているのかということが理解できない
なぜそんなに一番長く暮らした母親と問題があって別に可愛がられたのでありそんなひどいことをする必要もなかったのである
私の家の場合はほとんど関係していないからやむを得ない事情があった。
それにしてもなぜそんなひどい娘に女性に育ったのかということはどうしても理解できないのである

●女性は環境でも家庭でも受けやすいのか

ただ女性は家庭環境とか夫とかの影響深く受けるものかもしれない。それで本来資質的には良い物があっても歪められてしまうのかもしれない
ともかくその人はなぜか金には恵まれているのである。遺産が例えば実の母は金持ちの家に五歳に入ってその遺産を受け取る資格があるただ後妻に入ったとしてもそこには息子がいたから何かそこで遺産争いをしているみたいだ
そしてその実の母親はその娘に頼頼って施設に入った。認知症になっていたのである。でもその娘は全く母親を母親と思っていない。ただ金が得られるから施設に入れただけなのである。だからその実の母親も悲惨だとなる。

とにかく私の母親の継母となった人は最後は施設で何か目が見えなくなったりして周りとも上手くいかず悲惨な状態で死んだらしい
そして大学病院で解剖されるということを頼んでいたから私の母親の元にそのお骨が来たのであるその前には何か錯乱状態みたくなり私が母が見に行っていたのである
だからこれも因果応報であり別に実の母親でなくても親切にしていればそんなことにはならなかったかもしれない。だからその因果関係ははっきりしているのである
ただその女性の場合はどうしてそんな非情な人間とな冷酷な人間となったのか理解できないのである。
その人が確かに母親が3人変わったということで何かそれが異常なものとなった。でもそれをその3人の母親には特別かわいがられたのだから私の母親のように継母にじめられたのと違っているからまた理解できないのである

私が餌をやっている猫は絶対に慣れない、その原因は野良猫であり人間にいじめられて人間を警戒してなれなくなった。
別に子猫のときから人間に慣れていればそうはならないのである。長い間餌をやっても絶対になれないのである
ただ餌が欲しいから来る、何かそのとき甘えたような声を出す、でもあとは逃げるだけなのである。
これもやはり育った環境の影響でそうなったとなる

●何故かと歴史でも追及してもわからないことがある

つまり人間の場合なぜそうなったのかというときいろいろその背景が複雑であり科学のように理解できないのである
確かに生まれた資質が良くても家庭環境が悪ければその人は歪んだものになる。何かやはり犯罪を犯す人は家庭環境に恵まれないとかある。だから犯罪者でもその背景を知れば同情するともなる
ただ人間の場合なぜかとなれば複雑でありなかな科学のように明確な答えがないのである

歴史でもなぜ日本でアメリカと戦争になったのかその理由未だに明確でないのである。だから日本人が300万人も死んだというときなぜ死なねばならなかったのかということが理解できないからスッキリしないのである。つまり人間は常になぜなのかということをその原因を追求する
そしてその理由はわかったときそういうことだったのかとして心もスッキリするのである

ともかく人間は何であれ何か事件があるにしろ何か現象として起きるにしろそこに因果の法則がありなぜなのかということを問うのがとう人間である。この世には様々な謎がありその謎を解くことは人間の仕事にもなっているのである
ただ科学の場合はなぜかということは明確に答えとして出る場合が多い。人間に関してはなぜか問うても明確な答えが出ないことがある。でも人間社会では常になぜかということが問われ追求される。でもその明確な答えが出ないこともある。そして宗教とかなるとその答えを出すのは人間ではないのである。

人間はなぜ死ぬのかなど疑問に思って科学であれなんであれ納得する答えはないただ神のみがその答えを与えるので永遠の命を人間に与えることによってその答えを出してくれるのである。
実際はこの世のことはすべて解き明かされることなどない。それは神のみぞ知るということであり人間には限界があるからである

2024年09月07日

老人は昔を語ることで意義がある 【空間軸で拡大した社会で失われた時間軸で形成されたもの】

老人は昔を語ることで意義がある

【空間軸で拡大した社会で失われた時間軸で形成されたもの】

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●老人は必ず昔を語る。その人生を語る

老人と語る時一体その老人は何をしてきたのか何を経験したのかを問う、それは何でもいいのである。ある会社に30年とか勤めればそのことを語る、仲間であった人のことを語る
そこでともに働いたのだからまたもう一度その職場で働きたいと振り返る、何故なら何であれ30年40年とか同じ職場で働いていたら当然そうなる。その仕事が何であれ愛着が生まれるからである。

たあ人間は一番印象に残ったことを語る。私の姉は従軍看護婦としてシンガポールの向かい側のジョホールバルで4年間働いた。その印象が若い時であり強烈だから忘れずに死ぬまで語り続けたのである。戦争というのは普通は経験できないから忘れることがない、それで語続ける。

老人とは過去を語ることによって老人の存在意義がある、同世代で子供時代の経験は貴重であった。なぜなら今ある便利なものはほとんどないからである。江戸時代の続きのような生活だった。
裏の堀で洗濯してトイレでも外のトイレであり近くの農家が汲み取りにきていた。何か原始的生活だったのである。まさに江戸時代の続きである。道は舗装されていないし車も通らない、物を運ぶにもリヤカーとか人力の世界だった。電器製品などもない、水道もないから近くの井戸の水をもらっていたのである。その水を運ぶのが大変だったのである。バケツで運んでいたからである。
その労力は大変なものだったなる。

老人の存在価値と意義が何にあるのかとなれば過去を語ることにある。でも過去を語るにしても戦後十年くらいは何か江戸時代の続きでもあり今とは相当違っているから語る価値がある
でもその後は便利な生活になってそうした生活はないから今の60代であれ何か興味をもてないかもしれない。
たいして今と変わりない生活ではないかとなるからである。

ともかく老人になればあなたは何をしてきた人なのか何を経験してきた人なのか否応なく問われる。例えそれが失敗したことであれそんなことがあったのかと一つの教訓にもなる。成功した人だけが語られるということでもないのである。

●老人が核家族化で昔を語り歴史が継承されない

確かなことは老人の価値はその語ることにある。そしてその話を聞いた息子娘であれその親でも祖父母でも語ったことを伝えるのである。それが人間の営みでありだからヒストリーはストリーなるのである。老人は何らかでみんな語り部になる。

ただ現代は語るにしても祖父母と同居しないときそうして過去が伝えられない何か継承されない問題がある
ある家では紙漉きをしていたがその息子に嫁いだ人は姑も死んでからであり何か江戸時代からの野馬追いに出る家でも伝えられない、直接話も聞いていないからである。世代間で何か継承されない語り伝えられない、それも問題だと思う、その語り伝えることに老人の役割があるからだ。老人はそれで無駄であり必要ないとされるからである。

昔話とかは囲炉裏を囲んで老人が語ったものである。その時テレビでもラジオでも本でもない、すると直接語ることが何かを伝えることになる。特に冬が長い、娯楽もないするとそこで昔話が語られるとそれを子供たちも興味深く聞き祖父母との繋がりが生まれていた。そこには老人の役割があった。何故なら情報とは極めて小さな村とかに限られていたからである。
村の外のことなどほとんどわからないとなる。だから時間軸で生きていたのである。グローバル化した世界など想像することもできなかったのである。おそらくだから何度も祖父母から昔話を聞くそこで伝承されたものがある。
今は余りにも空間軸が拡大して時間軸で形成されたものが失われたのである。

●時間軸で形成された歴史が失われる

ただ昔を過去を語るにしてもいろ入りあり何か会社であれば部長だったとか何だったとか自慢されても嫌になる。またこの辺で野馬追は江戸時代の身分社会の復活でありそれで上下関係を具体的に思い知らされる。野馬追に出る家は侍の家であり上だとなってしまう。ともかく上下関係を持ってくると嫌がられる

この辺では只野氏の姓が50軒ほどあり只野一族の町だともなる。それが平家にあらずば人にあらずとなるように只野にあらずば人にあらずともなる。それは江戸時代の身分制の復活になる。
江戸時代とかは生まれた家で価値が決まり身分で価値が決められた時代だからである。

今高齢化社会で老人が問題になり老人には何も価値がない厄介な無駄な物だとされるのはやはり昔の村のような濃密な共同体がなくなったからだろう。村だったら同じ土地で長く代々暮らすから老人の経験と知恵も尊ばれる。村の「生き字引」とかにもなる。
だからこそその村で死ぬと御先祖様となりその村に生き続ける

そういう時間軸で代々生活して来た世界と今は余りに違ったものとなった。つまりグローバル経済とか空間軸で拡大したが時間軸で形成されたものが失われたのである。
だから家族でも祖父母と同居しないとなればその家のことであれ何か伝えられないのである。それで世代間でも対立して老人は集団自殺しろとか公然という若い世代の人がいて問題になった。つまり家族であれ核家族であれ一代限りとか継承されない、時間軸で形成されたものは失われるのである。

●時間軸で過去を知り今を知る―今だけを見ても今もわからない

それが社会にどう影響するのか?何かただ今だけを考える、今という時間だけで考える。過去を見ないで今だけを注目するとき人間の思考でも偏ったものとなりむしろい今だけに注目したら今自体が何かわからなくなる。
水道でも電気製品でも車でもない社会があった。そいいう社会で形成されたものがあり比較して今の社会を理解するのである。なぜなら過去にあったものが失われているからである。日本人から現代人から情がなくなったというときもそうである。過去にあったものが必ず失われているからである。

ともかく老人にも価値があるものだがその価値が活かされない社会でありただ厄介者とみなされる。それは空間軸の社会が拡大して時間軸で形成された者が失われたことにもある。世代間の対立というときは時間軸で形成されるものが機能しない破壊されたということにもある。だから時間軸で形成されたものを取り戻すことが必要である。ただ村のような濃密な人間関係で何代も同じ場所でアイデンティティ化されてきた時代とはは余りにも違った社会でありむずかしいとなる。

ただグローバル経済から空間軸で拡大した経済から逆に時間軸で形成された社会の復帰が起きる。時間軸で形成された社会なら老人も排除するというのではなく全体で欠かせないものとして機能するということがある。いくら空間的に社会が拡大しても必ずしも心が通うということまなく対立してくる。
空間軸となるとグローバルリストになり時間軸となればナショナリストになる。ナショナリストはそれぞれの国で風土と一体化して形成された文化を重んじるからである。世界はグローバル経済からナショナリストに方向を転換しているのである。



2024年09月03日

老人と若者は別々の存在ではない 【今見ている老人の姿があなたの未来にもなる】


老人と若者は別々の存在ではない
【今見ている老人の姿があなたの未来にもなる】

●老人の問題は若い人の問題でもあり切り離せない

老人の問題は実は若い人の問題でもある。老人は老人であり若い人は若い人で別々であり関係ないとはならない。
なぜなら若い人も必ず老人になるからである。もし若い人でも老人にならなければ老人のことは関係ないとなる
だから若い人老人になるということはどういうことか知るべきである。若い人は老人にならないと思っている人さえいる。
若い時代がいつまでも続くような錯覚に陥っているのであるだから老人のことは関係ないと見てしまうのである。
ところが必ずたちまち若い人も老人になってしまうのであるだから老人等のことは関係ないとか老人の話など聞いてもなんにもならないとかなる。

老人になってみると意外なことが起きてくる。一番の問題は若い時からただ目的もなく金のために無我夢中で働いてきたとかなるでも老人になるといったい私は何のために生きてきたのか私の人生は何だったのか私の生きてきたかちとはなんだったのかそういうこと誰でも別に特別の知識人でなくても一般庶民でも老人になればそれが問われる

でも最初から明確な目的を持って志を持って生きている人はいないただカルト教団などはその動機でも志でも持っていたとしてもそれは純粋なものではなくただ御利益を求めてこの世の栄華を求めて運動してきたのである。

奇妙なのは一時なぜあのように熱心になっていたのかということであるそれは別に信仰のためではなく御利益を得られるということでで熱心になっていただけなのである。だからその動機も不純であるし目的も間違っているからその人生の結果はどうなるのか?私は信仰に生きたなどという人は一人もいない、ただ御利益は得たのである。その御利益は幹部になって信者からお布施を集めてそれで利益を得たのである。
つまり宗教の一種の詐欺だったとなる、幹部が御利益を得られると説いてその御利益を得るのは幹部だからである。

●人生の結果を成果をすべて金で計られるか?

たとえばそれ働いて何十億の金を残したというときその人はそれだけの価値を作り出した。でこれを残さない人は稼がなかった人は価値がないとなるのか、その人生の成果は金で測られるだろうか。問題はその金そのものではなくその金をどうして稼いでたのかということでその話を聞いて納得すれば価値あるとなる
でもただ金を残したというだけでそれがその人の価値になるとも思えないのである

私は若い時から親方について大工で修行してきて腕を磨いてきたそれから私はほかの人と違って壁塗りでも庭作りでもしてきた
そうして私は働き金も稼いでいた稼いだ。そういう話を聞けばその人がたとえそれで金持ちになってもそのことで文句を言う人もいないしその人は価値ある人間だったとなる。
でも株で儲けたとか遺産で金を得たとかなると何かその人はその人自身の才能とか努力と関係なく金を得たということで反発されるのである
だから奇妙なの石のの貨幣なのである。なぜそれを家の前に飾っておくのか?それで何か買えるわけでもないただその石は海に沈み苦労して引揚げ運んだということで価値がある。
つまりその人の価値はいかに苦労してその海に沈んだ石の貨幣を取り出して運んだということで価値がある。それを家の前に飾り物語ることにその家であれ人の価値となっている

確かにその石の貨幣で何か買えるわけではない、でもその人の人生で大事なのはその生きた物語だったとなる。つまりヒストリーはストリーなのである。その人の一生に価値があるということはそのストリーにある。身分制社会ではその人がどいう親から生まれたかでその価値も決められる。
でも今はその人がどういう人生を送ったかが問われる。それは老人になると必ず自らも自問するし他社からも問われる
私は一体何を生きたのか何が価値あることをしてきたのかそういうこと誰でも自問するのである。

ただ人生で金を稼ぐために無我夢中でありそんなことをあまり考えない。がむしゃらに金になればいい御利益になればいいしかないのが普通である。でも老人になると自分自身でも自問するし他者から何をしてきたのかが問われる。金を十億円残したしたらその金をどうして稼いだのか問われる。不正したり騙したりして稼いだとなればそれは語らないとなる。でもその語らないことが不審になる。何か悪いことをしたということで語りたくないからだとなる。

●老人になって否応なく問われるその人の価値

だから若い人はどう生きればいいのかというとき老人がどう生きたかを知るべきだとなる。老人が後悔して反省していること知りそうならないようにすべきだとなる。若い時は厳しく問われない、でも老人に成ったら否応なく厳しく問われるからである

あなたの人生は何だったのか何かあなたの人生の価値は何だったのか自らも問われ他者からも問われるからである。
でも老人のことは若い人は関係ないとみている、それより老人にならないと思っているのである。いつまでも若いと思っているのである。だから老人のことは関係ないと見ている

老人のことを知るということは若い人に必要である、なぜなら若い人も老人になるからである。
つまり今見ている老人があなたの未来の姿にもなる。
いろいろな老人がいるとしてあんな老人になりたくないというとときまさにそうならないように若い時から生きるべきだとなる。
でも若い人は老人とは関係ないと見ているのである。
今老人を嫌悪しているけど今度は逆に若い人が老人になり嫌悪されるようになる。だからこそ若い時からどう生きるかとか真剣になるべきだがただダラダラして流されて生きているうちにたちまちに老いてゆくのである。ただそれが人間のカルマであり繰り返しだったとなる。若い人も老いるし死ぬことは変わりないからである

●時間軸で形成されたものが破壊されやすい現代

とにかく人生でも社会でも世代間の対立があっても分離することは社会を歪める。家族でも本来祖父母がいて両親がいてとかになると世代が違っていても何か受け継がれるものがあり語られことになる。その女性の嫁いだ家は紙漉きをしていた。
でもそのことはすでに結婚した相手の母親が死んだ後であり何も伝えられていないのである。ただその女性は姑となる人がいないから結婚したのかとも見る。姑がいると相当な確執があり同じ墓に入りたくないともなる怨念が生まれているからである。

ただ老人が祖父母がいないということ世代間での継承がなくなるということである。何か広域社会とかグローバル社会になると時間軸で形成されたものが破壊される。
この辺の原発事故で起きたことでもそうである。時間軸で形成された歴史が失われたからである。村社会だと時間軸で形成された歴史が継承される。一つの村ん代々住む人がいるからである。それで農家では三代住んでいないと仲間と認められないというとき仲間になるにもそれだけの時間がかかるということである。

2024年08月04日

人生は予定通りにいかない―必ず不測のことがあり狂う


人生は予定通りにいかない―必ず不測のことがあり狂う


私が話したほぼ全員が、人生の少なくともひとつの側面は予定通りに運ばなかったり、進路から逸脱したり、同時発生したり、順序が狂ったりしたと語った。

 私たちはみな自分自身と、すでに存在していない理想とを突き合わせ、それが達成できなかったことで自分を責めているのだ。

「人生の転機」の法則 平凡な毎日を揺るがす「破壊的要因」との関

「夕月や 流れ残りの きりぎりす」

一茶双樹記念館から江戸川の堤沿いを歩む大人の流山散歩

波乱万丈を生きた一茶らしい句である。ただ俳句は短いからその背景を読む必要がある。何か洪水なのか水に流され死なないでキリギリスがいる。そこに夕月がでている。

これは例えばあの時一瞬死んでいたかもしれない、そいうことを必ず人は経験している、別に平凡な人でも経験するのが人生である。私の母はとてもおとなしく冒険するような女性ではなかったが父親が警察署長とかして幼児期は恵まれていたのである。
でもその父親が事業に手を出して失敗して母親が病気に成りそのとき後妻に入った女性がいて継母になり苦しめられたのである。

そしてなぜ東京に女中になるために故郷を出たのか?その辺の事情はわからない。でも結婚した相手が工場で事故で死んだのである。結果として故郷に帰り私の父と再婚したのである、その連れ子が私の兄だったが私の家を出されて実家で5年間暮らし集団就職したのである。この事故が原因で運命が狂ってしまったのである。人間は事故で運命が狂ってしまうことがある。推理ドラマで必ず交通事故で運命が狂うことがテーマになる。
結果的にに兄の一人娘は苦労することに成った。交通事故で運命が狂ってしまったのである。だから何らかの事故で運命が狂うことは結構ある。事故で死ぬ人も多いからである。

ただ人間はどんな人でも恵まれた人でも一生恵まれて終わる人はいないと思う。何か必ず不幸がありそれで運命が一転して苦しむことになる。この辺の津波原発事故で人生は狂ってしまった人は相当にいる。これは個々人に起きたものではなく町自体を廃墟にするような大災害だったのである。
そうした大災害でも人間社会には起きてくる戦争だって大災害であった300万人も日本人が死んだからである私の姉は赤紙一枚が来て従軍看護婦となる。ンガポールの向かい側のジョホールバルの病院で地獄の経験しているからである。それは何の説明もなくただ突然赤一枚が来て地獄に連れて行かれたのでは何か突然こうして人間の運命が狂ってしまうことがある。

つまり人間は誰しも順調に過ごす人はいな何かしらで病気になったりさまざまな災難が免れることはできないからである。つまりこの世とは火宅の世であり親鸞が言ったよ地獄がが一定の住処なりとなる。歴史を見ても何か災いがない時代などなかったろう
そして人間はこうして運命に翻弄されるともなる。その運命も不可抗力で起きてきて避けることができないのである。

だから聖書で常に脱出がテーマになっているのはそれだけこの世というのは災いが多い場所なのである
だから災いから逃れるためには神の導きが必要であり神に頼りこの世から脱出する以外方法がないのである。最後は人間の人類の運命は最終戦争でハルマゲドンで滅びてしまうということでもそうである。最近でもウクライナであるイスラエルである戦争は現実に勃発してだから三次世界大戦も起きてくるかもしれない。
つまり個々人でも必ず災いがあり逃れることができないのである。

禍という時人間は誰しも病気になる。年を取れば必ず病気になる人が多くなる。この病気の災いもまた大きなものであり誰でもなる。なぜなら老化すればそれも病気の一種であり体が衰えてくるからそうなるのである。それは誰も逃れることができない
いくら金持ちでも病気にならないということはあり得ないからである。こうして人間は災いから逃れることができないのである

それでカルト教団などに入り何とか災いが逃れようとするがそのカルト教団が自体が最大の災いの場所なのである。ただ宗教を利用して搾取する団体なのである。だから別にカルト教団に入って信仰したとしても災いから逃れることはできない。ただどうしても苦しくなると藁をもつかむ思いでそうなる
つまりこの世こういう場所であり災いから逃れることはできない場所なのである

人生はいくら計画しても計画通リにはならないというのもそのためである。何であれ事故である病気であれ人生はどこかで必ず狂ってしまうのでそれから逃れることができないのである。
つまりこの世を生きるということ人智で持って生きようとしても必ずその運命は狂ってしまうのである。そこにどうしても人間の限界があるとなる。

2024年08月01日

働いたら負けだろと35年間恵まれて過ごした人の末路 【働く働かないにしろ老人は人生の結果の責任をとらされる】

働いたら負けだろと35年間恵まれて過ごした人の末路
【働く働かないにしろ老人は人生の結果の責任をとらされる】

働いたら負けだろ…年金「年間160万円」の両親を頼り続ける〈57歳・無職のひとり息子〉、遊び暮らした「35年の代償」

●恵まれた人も最後に老人になり苦労する

人間はどうしても一応60以上くらいになると必ず人生の総決算のようなものは現れてくる。別に真面目に働いた人でもそうでありその人たちもやはり人生を振り返り何をしてきたのか何かにあることをしてきたのか問われるのである。
だから必ずしも別にこうして働かないとしてもこの人は何をしてきたんだろうかとなる。

何か必ず語ることがありただ遊んでたとしてその遊んでいたということは何をして遊んでいたのだろうかとなる。もしお金の余裕があって海外旅行とかしていればその人はやはり外国に詳しくなるから遊んだとしても無駄とはならない
何かよくわからないのだがその人は相当に早い時期から海外旅行していてイランとかにも言っていて詳しかったのである。

なぜそんなに海外旅行していたかというと家賃の収入で暮らせる人だったからである何かその頃まだ海外旅行とは高い時代があったその人は早い時期からそうして海外旅行していたのである。
だからそうした働かなくてもいい身分の人は常に存在したし明治時代で高等遊民とか言われたのででもまたその人たちが全く無駄なものだったかとなるとそうでもない。その人その一部であれ文学とかで功績を残した人はいるからである

確かなことはこの人は別に家は裕福であり働く必要もなかったのである。だからそのこと自体咎められるということでもない。でも問題は何をしていたのかということである。遊んでいたというけど何をして遊んでいたのだろうかとなその辺のことはよくわからないから評価もできない
ただ人生というのはいくら遊んでたとしても必ず何かを体験しているし何かに時間を費やしている。その何かがこれだけの記事では全くわからないということであるこれ

働いたら負けだろとかは2ちゃんねるの時代盛んに言われてたのである

何か働くことに帰って価値を見出されず今でも会社員だと社畜というように自らを奴隷と思っているから働いたら負けだろうというのはその人たちもそう思っていたのである。ただ働くと言ってもいろいろありその働くことがすべて価値あるとはならない
その人は私と同じ歳でも何をしてきて来た人なのかそのことを一切語らない。おそらく語りたくないのだろう。何かそうして働いてきたとしてもそのことについて語りたくないというとこういうことは何かやましいことがあってそうなったのかもしれない
大概どんな人で自分のしてきたこと働いたことでも遊んだことでも必ず語るからである私自身がそうである

●人間を作るのは何でも体験

私自身は結局20代まではいろいろとアルバイトなどで働いていたが流れ作業などばかりで働くことに嫌気がさして旅ばかりしていたとなるからである。そして結局私の人生は旅の人生だとなってしまったのである。
でもそれがすべて無駄だったとか無駄だとかはならなかった。旅をした結果地名に興味を持ちそこから歴史に興味を持ちまた元々俳句とか短歌に作ったりしていたからそれを発展させたのである。
つくづく思うことは何か地理でも芸術にしても実際の体験がないと本物の芸術でも創作できない。

まず地理を知るには本ばかり読んで全く通じることはできない。それは国内でもそうだし外国でもそうなる。だから外国に関しては別に大して知識もなくても一回その場を踏んだ人と踏まない人の差は大きなものとなるのである
それで私は50歳でバックパッカーで世界を旅行したこと外国に通じることになったのである。もしその時行かなかったら私は何ら外国について語るべき事もなくなっていたということである。

また山を知るというとき遠くから見て山を知るということがあるが実際は山を登ってみてこそ実感として知ることができる
でも登山となると結構きついから勤め人だとなかなかできないかもしれない。勤め人だと長い旅を旅ができないからそれもやはり欠落したものとなる。とにかく人間はどんな人生でも欠けたものになる。働くことがすべていいとは限らないのである

●働くことがすべていいことではない

私の母は大正生まれでもともと貧乏であり不幸な生い立ちがあり花には全く興味持たなかった。だから花に金を使うこと無駄なこととしてしなかったそして庭に豆を植えると言っていたのである。戦争中に食糧危機を経験しているからそうなった。これも何ともわびしいというかそういう人が親であり近くにいたら殺伐としたものとなったろうただ私はには特殊な事情ででもう一人母となるべき人がいてその影響をあまり受けなかったのである

ともかく別に働くということがすべて良いものではないだからもしこの人が遊んでたというその遊んでたというのはどういうことかわからないがやはり自分の趣味である何か社会役立つもの提供していたかもしれない
でも最終的に働かないことにより両親が病気になったり介護になったりしてどうにもならなくなったということであるそしてまた一人っ子だから頼る人もいなくなったのであるそれは私自身に似ていたのである

いずれにしろ人間は60過ぎればもはや人生の結果が必ず出るそれは別に働いていたとか働かないとかではない働いていた人でもやはり何か語れないと言う人もいて何をしていたかも分からないその人はなんだったのだろうとなる。
ただ別に生活には老人になっても困っていないのであるただいくら社畜としても会社で30年とか過ごしていれば何かしら語ることがそれがないということはやはりなんなんだろうとなる

●働く働かないにしろ人生の成果が問われる

そもそも人生の成果とはなんなのだろうとなる
それは別に働いているとか働かないとか会社に勤めているとか勤めていないとかですべてが決まるわけではない。またその人がいくら稼いだとかその金の量で価値が人間何の価値が決まるというわけでもない。もちろん金はあった方がいい金で全て人生の価値が測れるのかということである。そもそも人生の価値そのものが何なのかとなるからである。

もしかしたらこの人の遊んでいたとしてもその遊んでいたことが何なのかそのことに何か価値あることがあったかもしれない
ただ60すぎると否応なくその人の人生価値が問われる
そしてこの人生の価値というのは死んでからもやはり問われるのでなぜなら弔う(ともらう)ということは死んだ人を問うということである
その人が何をしてきたのかを問うことが弔うになり供養するということになるからである
つまり人間は死んでからでもその価値が問われるのは人間なのである。死んで全ては終わりにならないのである。だから歴史でも後の世でも問われ続けているのである。
だからむしろ死んでからの方がその人の人生を冷静に見られてその価値が判断されるのでその人は何10億の金を残したとしてその人に価値があるとならないからである。人生の価値は何かということを問題になるのである。

確かなことは60以上になれば容赦なくその人の価値は判断されてしまう。若ければまだ人生の価値を作るということができるわもはや60すぎると今は高齢化でもなかなかできないとなというのは病気になったり親の介護になったりして自分自身の価値を作るということ難しくなるからである

●20代で決まる人生

自分の人生は20代で決まったのかもしれない。私は一人っ子で甘やかされて育ったから家を出て東京の大学に行った時そこで変わった。体育会で一年間やれたのも不思議だった。そんな体力もないと思っていたからである。それかカルト宗教に入ったりしたのは自分は何かもともと求道心があり宗教でも求めていたのである。
そこはそんな場とはまるで違っていたからやめた。ただ私の性向として陰の性格だから集団に溶け込もうとしていたとなる。ただ私は集団に溶け込めない性格であり学校でも一番嫌だったし会社とかで嫌だったとなる。何かマイペースでやるのが向いていたのである。

だから大学出てからはマイペースで何でもしてきたから良かったとなる。

ただ若い時は相当苦労したのである。恵まれた環境にあったにせよ私は進んで20代でわ苦労してきたのである。それが一見いいことではないように見えたが自分にとってはよく作用したのである
そこで私は打ちのめされたのである。そこで何か奢ることもなくなったのである。それは一見いいものではなかったが振り返るといいものとして作用するようになった。いずれにしろ若い時からチヤホヤされて苦労もしないでもてはやされるのは非常に危険である

若い時成功することも相当に危険である。それが奢りとなってしまうからである。人間の共通性としてこの奢りというのが大きな問題である。それは一個人だけでなく国単位でもおごる時危険になっていたのである。それは日本がアメリカの戦争アメリカなど大したことがないという終わりがあり大惨事にに終わったので
とにかく人間は万事塞翁が馬でありであり何がよく作用するのか悪く作用するか分からないのが人生を振り返るときそれがわかるということである。