2021年09月09日

人生は時間切れで終わる (人生は短いから何でもできない、チャンスも一回くらいである)


人生は時間切れで終わる

(人生は短いから何でもできない、チャンスも一回くらいである)

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リストラ40代50代が転職相談で地獄を見る

ここで言っていることはリストラされて40代50代で事業をはじめる、フランチャイズ店の経営する、それは独立した経営者ではなくただ本部に金を吸い上げられる
始めるのに金がかかりそれを支払わせられるからだ
何も経験もなかったら大企業の役職をもった人でもただのおじさんに過ぎない
一から始めなければならない、アルバイトして飲食店のことを知ることが大事だとしている、一兵卒から始めねばならないとしている

今までの経験が何ら役にたたない!

こうなると40代でも結構むずかしい、結局何らか仕事は経験を積まない限りできない
自分自身も何ら仕事の経験を積んでいないから失敗した
一二年とか教師のまねごとをしたけど失敗だった、どう教えるかの経験を積んでいなかったからである
どんなことでもいかに経験が大事なのかわかる、そして経験の積み重ねで仕事ができる人になる

ところが

人間の経験する時間が限られている!

これが最大の問題だったのである、それで他の人も言っているけど35以上は人生の余禄だとかいうのもわかる、人間は30くらいまでで決まってしまうとなるからだ
20代で底辺だと一生底辺になり引きこもりだと一生引きこもりになる
これは相当に怖いことである、人生は長いのだから何があわてる必要もないとか
先はわからないとか思ってもそうではない
人生ではっきりしていることは先は確かにわからない

でも確実なのは何するにも時間が限られていることなのだ!

私の場合正規のルートからはずれた結果職にもつかず旅していたら一生が旅になってしまった、また別な道が開けるとかまだまだ人生は長いからどうにかなるとか思っていた
でも20代で人生の方向が決まり30以後は余禄だともなる、何かするものはこの世にいくらでもある、でも何かを選びする時間が限られているのである
だから40代50代でリストラされると厳しいとなる、まだ時間があるのではないかというけどジャンルの違う飲食店とかで商売始めるのは実際相当に厳しい
アルバイトで見習で一から始めろとしても厳しい、それは全く別な分野でありこれまで積み重ねたものを活かせないからである
それで失敗する人が多い、ただ起業資金を奪われただけだったともなる

ある人が経営に失敗したのは技術力があったのだが会社でも経営することがどういうことかわからなかった、確かに技術面では優秀でも小さな会社でも自営業でもするとなると
それは技術者として雇われるのとはまるで違ったものとなっていたのである
だから会社をやめて失敗だったとなる、やめなければ給料も良かったのだから困ることもなかったのである、結果的に借金を背負い込んだだけだともなった
つまり雇われる者と経営する者とは相当に違っている
でも普通は雇われる経験はしている、でも人を雇い使う経験はしていないのである
人間はまずいろいろな経験ができない、いろいろな経験する時間が与えられていないのである、だからあらゆることを知っているとか優秀な人はこの世にいないのである
もし人生が千年でもあればいろいろな経験を積むからできるともなる
でも人間の一生は短いのである
失敗したらやりなおせばいいというがそのそのやり直す時間がないのである

菅首相も官房長官では優秀だったとされる、でも総理になるのと官房長官は相当に違ったものである、官房長官を経験しても総理の経験などできない、誰もできない、それでピーターの法則のように無能化されるともなる
技術者として優秀だったから経営者としても優秀だとはならない、それでかえって出世すると無能化するという法則が成り立つのである、つまり人間は限られた時間しか与えられないからあらゆることを経験できない、もし時間があったなら千年でも生きていろいろなことを経験できたらこの仕事はこういうものだったのかと実感して知るのである
でも人間はわずかのものしか経験できないからあることで有能でも別なことでは無能化されるのである

そして最後はどうなるのか、時間切れで終わりだ

こうなる、おそらく老後に好きなことをしたいとか計画していても病気になってできないとか何か不測のことが起きてできなくなる
そして退職してやりたいことをやるとしてもできなくなる
人間のの一生はそれだけ短いのである
そのために(若い時に神を知れ)となっていたのである
それも若い時はそんなこと思わないのである、それは老人になっても時間が十分あるのだからできると思うのである

時間などいくらでもありあまっている、暇で暇でしょうがないんだよ

こういう若い時は思っている、でもこうして最も浪費しているのが時間だったのである
時間が最も消失しやすいものだったのである
40、50から一から始めることはできなる、60の手習いとかもあるからできることはできる、でもこれまで積み重ねたことが後年活きるのであり何も積み重ねのないと本当に一から始めるのだから苦しいとなる

そしてあっという間に老人となる、ただ今は60代では老人とは言えない、でも何らかそれでも病気になる人が多いのである
何か学問であれ芸術であれ詩歌であれそれを目指すならまず今なら世界旅行が欠かせないそれで失敗したのは50代から海外旅行をバックパッカーでその経験は貴重だった、何か世界のことについて書くにしてもその経験がないと何も書けなかったからである
だからたいがいヤホーニュースの記事の解説している人は留学している人なのである

この人のyoutubeがなぜ人気があるのかというといろいろな経験をしている、その経験談が面白いし役にたつのである
今まではこういうことはなかなかできなかった、テレビに出て延々と自分の経験など語れないからである、そこがインタ−ネットで変わったことである
何か実際に経験したことは訴えるのである、その人の書いていること語ることは経験したことでありそれが見る人に聞く人に訴えるのである
それがただ本を読んで語っているだけでは訴えないのである
ただyoutubeにはいろいろあって本の解説番組がありそれは
それなりに面白いとなる
youtubeは何か老人でも経験を語れるから老人でも向いているのである
若い人は経験がないから語れないのである
だから老人の経験を知って聞くことは有意義だとなる
ただ自分にしても本を読んでも理解できなかったかとなる経験がたりなかったら若い時は理解できなかったとなる
老人になると理解力だけは深まる、だから評論に向いてくるのである

ただ人間はどんな人でも時間が限られているから人生は時間切れで終る
時間の過ぎるのが早いからである、無常迅速というのもそうである
人生をふりかえればあっという間だったともなる
こんな簡単に終わるのかと唖然としてしまうのである
そして残るのは後悔だけでありその最たるものか時間を無駄にしたということなのである



2021年09月05日

人権意識というのがどこから生まれたのか? (カトリックからの宗教支配からの脱却から起きた)


人権意識というのがどこから生まれたのか?

(カトリックからの宗教支配からの脱却から起きた)



1790年8月3日、政府はユダヤ人の権利を全面的に認めた。1792年5月から1794年10月まで、キリスト教は徹底的に弾圧された。当時カトリック教会の聖職者は特権階級に属していた。革命勃発以来、聖職者追放と教会への略奪・破壊がなされ、1793年11月には全国レベルでミサの禁止と教会の閉鎖が実施され、祭具類がことごとく没収されて造幣局に集められ、溶かされた
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フランス全土に網の目のように張り巡らされた教区教会は、1667年のルイ法典(フランス語版)(民事王令)以降、教区司祭のもとで洗礼証書・婚姻証書・埋葬証書の認証という形式によって戸籍業務を一手に担い、教区内住民の生誕、結婚、死や葬送に関する一切の記録を納めていた


「恐怖政治」の時期には多くの聖職者が処刑され、追放された。教会は閉鎖され、多くの建造物は破壊されて美術品も売りに出された。こうした「非キリスト教化運動」(反キリスト教運動、キリスト教否定運動)が特に激しかったのは、1793年秋から1794年春にかけてであった。この運動は、知識人の反宗教感情と国民一般の反教権主義とが結びついたもので、宣誓を拒否する聖職者は「反革命的狂信者」と断罪された[

恐怖政治」の時期には多くの聖職者が処刑され、追放された。教会は閉鎖され、多くの建造物は破壊されて美術品も売りに出された。こうした「非キリスト教化運動」(反キリスト教運動、キリスト教否定運動)が特に激しかったのは、1793年秋から1794年春にかけてであった。この運動は、知識人の反宗教感情と国民一般の反教権主義とが結びついたもので、宣誓を拒否する聖職者は「反革命的狂信者」と断罪された


フランスの人権主義はカトリック支配の反発から生まれた、その反発は凄まじいものだったのである、聖職者が革命の標的となり多数の聖職者は追放された
そして社会は世俗化して博愛、自由、平等のフランス革命の標語になった
この博愛は宗教的なものでない、人権としての博愛である
つまりキリスト教徒だから愛すとかではない、宗教にかかわらず博愛になる、広く愛すということことである、こういうことはすでに仏教でもキリスト教でも起きていた
ヒンズー教ではカースト制があり奴隷階級もあってそこには博愛はない
宗教によって縛られ奴隷にされていたのである、それをシャカが破ってカースト制で差別せずにあらゆる人間を愛すとなりアジアに広まったのである
キリスト教でも最初はユダヤ民族のためのものでありイスラエルのためのものであり他に適用されないものだった、それで異民族の善きソマリア人の例えで万民を愛すものとして広まったのである

あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」

愛をもって接した人は隣人でありその隣人が異邦人であれ黄色人種であれ黒人であれ関係ないということである
でも現実にあなたは何教ですか?イスラム教です
では私はキリスト教だから助けません
そうなったら愛はキリスト教の人だけに限られてしまうのである
アメリカても実際は黄色人種をアジア人を差別しているし黒人はもともと差別されて今でも差別されている、アメリカには根強く人種差別がある
それでなぜ日本に原子爆弾を落としたのかというと黄色人種だから人種差別があったからヨ−ロッパには落とさなかった、また白人の先祖がヨ−ロッパ人だからドイツには落とさなかったとしている,アメリカはそもそも差別の国なのである
ヨ−ロッパ人もそうである、アジア人を黄色人種を一段低いものとして差別しているから植民地にもしたとなる、それで今度は中国人の下につくようになるときヨ−ロッパ人は下位にたたされる、イスラムが栄えていたときは白人がヨ−ロッパが奴隷として女性も売られていたのである、裸にされて市場で売られていた
オスマントトルコではそうして奴隷にされた女性がハーレム中に置かれたのである
日本では奴隷にされた歴史はない、それは日本は異民族との熾烈な争いがなかったからである、日本が一つの世界であり直接民族同士の熾烈な争いを経験していないからである
その争いをヨ−ロッパがアジアに進出した時、経験したのである

要するに宗教は民族が違うと通用しない、ある国家とか民族だけのものなら世界宗教にはならないのである、だから人権主義が生まれたのはキリスト教の宗教の否定から生まれたのは宗教によって人間の自由が奪われていたからである
仏教が日本では江戸時代に戸籍係になっていたと同じようにカトリックでもなっていた
それでプロテスタントと結婚したとも認められなかった、戸籍を作れなかったからだ
カトリックはすべて宗教で縛り権力をもったために反発された
そのために宗教からの自由を求めてフランス革命が起きたのである
宗教からの自由を求めたのである、キリスト教だけを信じることを強制されることからの解放として革命があった、思想信教の自由を求めたのである
カトリックになるとキリスト教しか許されない、でもプロテスタントは抗議するということであり今までの社会をすみずみまで支配していたカトリック社会を解放したのである
カトリックは十分の一税を強制的に徴集していた、その税金も今度は国家へ納めることになったのである、政教分離になったのである

こうしてフランス革命からみればイスラム教など政教一致だから宗教の自由はない、また無神論も認められない、アラーの神を否定することは殺されるとなっている
そこに信教の自由はない、仏教であれキリスト教であれ宗教を選ぶことはできないのである、そこにフランス革命から政教分離になった意義があった
なぜイスラム社会が停滞しているのか?その原因は宗教にもある、イスラム社会の規範がありそれを旧弊としてあってもアフガニスタンとかでは厳格にタリバンは守る
そうなるとフランス革命で起きたような自由は極端に制限される
女性の人権も無視され抑圧され弾圧される、だから女性にも職業に就く自由をと訴える時命がけになる、殺されることもあるし現実にあるからだ

ただイスラム社会は政教分離は起こらない、それが近代化できない遅れたものになっているともみる
なぜならイスラム社会はカトリックのように強力な宗教規範が世俗を支配しているからである、信教の自由もないし女性の服装の自由もない、言論の自由もない、教育の自由すらない、女性の教育すら認めていないのである
だからイスラム社会は停滞している、でも世界と接する時、グロ−バル化社会ではそういう社会がまるで取り残された社会となる、部族が日本の江戸時代のように藩のように個々に支配している、統一国家ではない、民族のモザイクのなかで反発し合っている

言えることは宗教は強制されるべきではないことである、自主的に求めて信仰すべきものである、だから何を信じるのも自由だともなる、人に危害を加えない限り自由だとなる
しかし自由には責任がともなっている、無神論でもいい、でも本当に責任を持って言えるのか?
ただ無責任に深い考えもなく言っている、もし本当にドストフェススキーのように深刻に悩んでもう神を否定すると人間でありえないとかまでなればいい、ただ軽い気持ちで神を否定することが恰好いいとかだけで主張しているのが多いのである
とにかく圧力団体となりそれが政治と一体化して創価のようになるのは政教一致であり
王仏冥合とかの中世的思想で政治権力と一体化することは現代では危険なのである
その自由の制約が社会を停滞させるのである、権力一体化することはカトリックと同じだからである

だから創価が公明党が権力を持てば危険になる、カトリックのように社会の隅々まで権力で支配することになるからだ、そこて力を持つのは聖職者でありその宗教団体で地位をもったものが社会でも地位をもつようになる
民衆を権力で操作して宗教で操作する、地獄に落ちるとか罰当たるとかで脅し権力をもてば実効力があり支配できるからである
それがイスラム社会ではタリバンのように宗教規範に反するものは即銃殺になる
だから命がけで女性の就職の権利を主張している

つまり権力と宗教が一体化することは危険なのである
なぜなら天国は心の中にあるというときこの世の権力を得ることではないからだ
でもみんな実際の生活では権力をもとめている
それを目的として創価では日々選挙運動しかないからである
つまり宗教と政治が一体化することは危険なのである、日本でも天皇が現人神(あらひとかみ)となり宗教戦争ともなったからである、日本は神国だから絶対に勝つとなってそれを信じて戦い3百万人も死んだとなるからだ
創価の初代会長は牧ロ 常三郎は天皇に反対して戦時中獄死したのである、それは政教分離されないためにそうなったから戦後はあくまでも天皇は政治権力にはタッチしない象徴天皇となったのである

とにかくフランス革命で目指したものはあらゆる自由だったのである、宗教からの自由であり貴族が支配した身分制からの自由であり人種とかでも差別されない自由であり言論の自由もある
ただ本当に自由が実現されているかとなるとされていない、報道の自由は日本では世界的に下位である、インタ−ネットが生まれてやっと言論の自由が生まれた、それもまだまだであるがマスコミにテレズなら六局に牛耳られていた時よりは弱小な個人でも一応発言できるということで進んではいる
ただ人間には全面的自由はありえない、自由といっても必ずなんから制約される
その制約が外部のものとして宗教とかの制約ではなく内面的良心的制約ならいいのであるそういう精神的なもの内面的なものからの制約は強制されたものではないから容認される権力で内面と精神的自由を制約するのが問題なのである

そしてすべてを自由にはできない、宗教団体でも政教一致の団体は制約すべきである
信教は自由である、個々人では自由である、でも団体化して政治化して権力化して社会を宗教で支配することは危険である、その歴史がカトリックの歴史だったのである
それでフランス革命では聖人像とかまで破壊され教会の中にあった宗教的な遺産も破壊されたのである、それは度を越えたものとなった
明治維新に優遇されていた寺が国家神道になったとき仏像が破壊されたのと似ている
宗教が組織化団体化すると宗教の権力争いとなる、イスラム教でもみんな統一されているかとなるスンニ派とか熾烈な争いがあり統一されていない
その憎しみは骨肉の争いと同じである、どうしてもイスラム社会が停滞しているのは政教分離ができないためだとみる

タリバン支配になったアフガニスタンは宗教の制約が厳しくて経済でも発展しにくいとなる、女性が就職もできないとなると社会の発展もない、経済の発展もありえないとなる
不思議なのはなぜ中国が経済的にあれだけ急速に発展したのか?
それはイスラム社会とは違い宗教の縛りがないためのかとも見る
中国はもともと現世主義であり宗教的なものを拒否する社会だったからである
ヨ−ロッパが発展したのはカトリック支配からプロテスタントになり現代の先進国となった、でもカトリックが支配した南米とかアジアでもフィリピンなとは近代化に遅れたのは宗教のためかともみる、宗教が社会全般に影響するからそうなるともみる

ともかくアメリカは人権人権というがそもそもアメリカが人権を言う権利があるのだろうか?人権を言うならばとても原爆なと落とせないのである、そこには人種差別があり落としたともなる、人権を言う人が戦争になればアメリカは容赦なく殺してきた
ベトナムでもイラクでもアフガニスタンでも容赦なく殺してきた
まさになんであれ相手の人権を無視するからそういうことができる
つまり何であれ人を殺すことは人権をの最大の無視なのである
人権を言うなら内政干渉をしたりしない、その国の人はその国を造るのでありその国の人を殺すようなことはしないのである
いづれにしろ何であれ相手を殺すことは最大の人権の無視なのである
だから最大の悪は戦争だとなる、戦争になれば理由は何であれ殺すことが正当化されるからである

中国もウィグルで人権が無視されている、でもアメリカもまた人権を言うが無視しているのである,アメリカ内部でも人種差別が根強くあり人権を無視しているとなる
何か人権至上主義も実際は強い者が弱い者の人権を認めないということで共通している
力があるかないかで人権も得られるとなる、弱い者には人権もないのである
アメリカでアフガニスタンで人権を無視しているからアメリカが与えるというときも無理がある、人権はそれぞれの国で自主的に獲得しないかぎり得られないともなる
でもアフガニスタンで女性の権利を主張したことはやはり外部からの刺激でそれを主張するようにはなったのである、だから外部の刺激で目覚めたということはある

いづれにしろいくら人権といってもそれが通用するのは強い国であり強い者だけである
弱い者は人権は得られないのである,貧富の差があっても得られない、貧乏な人は人権もないのである、金がなくて医者にかかれないとかありいくら医者にかかれる人権があるとしてもできないとなるからだ、そういうことは他にいくらでもある
人権を主張しても強い者はできるが弱い者はできない、自由も得られないのである



2021年09月01日

学歴にこだわるのはなぜか? (人間はなぜ優秀さにこだわるのか?あらゆることに優秀な人はいない)


学歴にこだわるのはなぜか?

(人間はなぜ優秀さにこだわるのか?あらゆることに優秀な人はいない)


学歴の前に人間はともかく優秀さに異常にこだわる、学歴はその一つの目安である
ただYAHOO ニュースが解説している人は高学歴でありそれも必ず海外でアメリカなどに留学した人が多い、その留学経験が高い見識を持つたとになる
むしろこの留学経験とかの差が大きいように見るのである
また有名大学の理系の人も発現している、となるとこういう人は優秀である

なぜ留学経験や海外経験で差がつくのか?

それはそこで学問したからというものでもない、外国を肌で知る、単なる本の知識ではない、そこで暮らして肌でしる、それが貴重なのである
その土地のことでもそこで一年も暮らしていれば肌でしる、それはちょっとした経験でもそうである、なぜこんなに日本と違うのだろうとなりその比較で日本を知る
アメリカとか中国などでもあまりに広すぎてその土地自体を知ることができない

私はアメリカに一回とか中国に三回とか旅行してもそんなことでまずその広さを理解できないのである、ここからして大きな誤解が生まれるのである
再三地理を知らなければ外国でも日本ですらわからないと書いてきたがその地理が広すぎてわからないのである
グランドキャニオンなどはまるで別な惑星に来た感じになったからである
全く異質な風土だからあんな所に住んでいる人の気持ちもわからなくなる
イギリスなら島国であり多少日本と似ているから理解しやすいとはなるかしれない

とにかく何か人間は俺はお前より優秀なんだと比較して俺はお前り上なんだと必ずマウントしようとする、学歴もその一つなのである、ただ実社会では仕事ができるかできないかで判断されるからそれほど学歴は通用しない、ただ文系とかはあまり学歴が関係しないように思う、理系で一流大学なら別である、その差が大きいのである

人間は優秀だというときあることで優秀なのでありあらゆることに優秀な人はいないのである、それはどんな優秀な人でもそうである、ある一部に優秀なだけなのである
全能なのは神しかいないからである
優秀だという時知識だけではない、江戸時代とかには農業は力仕事が多いから力あるものが優秀とされた、それで比べ石があり石をもちあげることで一人前とされたのである
その時代は知識ではない、力が優秀さの基準だったからである

今なら機械でするということで力だけでは優秀とはならない
でも依然として建築現場とかでは力仕事が多いから体力があることは優秀だとなる
私は体力がないからもっと知識を身に着ければいいと後悔している
社会がどういう所なのかわからないからそうなったのである
つまり体力がない者は必死で知識を身につけるべきだとなる、そうでないと体力仕事をさせられたりもう寿命さえ縮まるとなるからだ
設計するものと現場で働く者の差が余りにも大きいからである

なぜその大工さんは体力も見るとまるで柔道の有段者のように体力がある、それで体力がない自分はうらやましいとなる、またコミニケーションも優れている
だから一人親方かできる、また庭作りも家作りもできる、万能選手ということもある
それで常にそのことを自慢してマウントをとりにくる
それでも自分は認められないとか不満なのである、その人は十分に優秀なのである
ただ私のように知識の面ではないが庭作りだから植物のことにも詳しいし社会で現実に稼ぐ能力がありたけている、そしたら自分から見たら十分に優秀なのである
でもそれでも自分は認めらていないとか不満なのである

私の姉も看護婦であり保健婦であり優秀だった、体力があり気丈夫でありただ太っているだけではない動きも機敏なのである、頭の回転も速いのである
そして何より男でも恐れない、相手をにらんで恐れないのである、男の方が恐れていたのである、まるで女親分という感じだったのである、だからこそ父親が死んでからこの家を作り守ることができたとなる
そして死の時最後に言い残した言葉だ「私は優秀だった」という言葉だったのである
それもやっと聞き取りわかった、そのことで悲惨だったのはひどい認知症になっていたからである、その介護のことをプログで書いてきた
ただそんになまで優秀だということにこだわるのには驚いた、最後は認知症になり馬鹿になったということでそういうことを言い残して死んだのかもしれない
俺は馬鹿じゃない優秀だったのだと言いたかったのかもしれない、だから悲惨だったとなる

ただ女性でもそうであり異常に優秀さにこだわるのが人間なのである
女性の場合は美にこだわるのが異常だともなる

「鏡よ鏡、国じゅうでいちばん美しい女はだれ?」
と聞いて、鏡が、
「あなたです、お妃さま、あなたが国じゅうでいちばん美しい」

白雪姫の童話でもそうである、異常に美しさにこだわる、それが男性の場合は優秀さにこだわる、ただ女性でも今では仕事をするから仕事の優秀さにこだわる

でも人間でも向き不向きがあり医者でもいくら大学を出て資格をとっても向き不向きがあり医者の腕には相当な差がある、だから下手な医者にかかると大損になる
それはアラる場所でそうであり教師でもなんでもそうである
その差が大きいのである、だから例え有名な大学が出たから腕のいい医者となるとも限らないのである、医者とか手術するとき知識ではなく手の器用さが大事になるとかそれに向いていいなと駄目なのである

結局人間の優秀さも限定的である、万能にはなれない、そして何かを習得するには時間がかかる、もし一つの楽器でも時間をかけて訓練すれば上手になる
でもあらゆる楽器を習得することはできない、時間が限られているからだ
たからあらゆる楽器を習得する人はいないのである
そして人間の経験はあらゆることを経験できない、ほんのわずかのことしか経験できないそこでどうしても視野が狭くなるのである
またそうして何するにしても時間がかかる、その時間がなくて時間キレで人生も終わる
あの時こうしていれば良かったとかもっと勉強していれば良かったとかいろいろ反省して最後は終わりだとなる

会社に就職することは実はそこで経験を積むことがのちのち役にたつ、会社に就職した経験の人はまず会社のこと自体わからないからである
そこで引きこもりは社会のこと自体わからないとなってしまうから危険なのである
ただ引きこもりで自分のしたいことがありその能力を伸ばすということはありうる
私は自由な時間があったから旅ばかりしていたとしてもそれで地理に興味を持ったということがあるからだ、また詩の創作もしていた、それは自由な時間が与えられたからできたことなのである
つまり人生を振り返ると人生は短い、だからどんなつまらない経験でも役に立つとなる
失敗でも役に立つとなる、そもそも人間は経験でも知識の習得でも時間がないので限られたことしか知りえないしできないからそうなる
何か訓練するにもその時間がないのである、そして最後は時間切れで人生も終わるのである、人間がなぜこれほど優秀さにこだわるのか?

それは俺はお前より優秀だとということで優越感をもちたいからだとなる
でもあらゆることに優秀ではないから劣等感を持つ、十分にあることで優秀でもあらゆることに優秀だとはなりえないからである
そして神に認められないということでこの世では不満でありこの世のことの優秀さにこだわる、結局人間はみんな死ぬ、そして人間の優秀さも虚しくされる
だから永遠の命が与えられる神が最高のものでありその外の能力はたいしたことがないともなる、人間は万能の力を持つことはできない、それは神しか持つことはできない
そして人間は科学技術で優秀とかなってもそれが呪いともなる
それはプロメテウスの神話とかで言われてきた、火を盗んで過酷な罰を受けた
それが今になって原発事故でそれが現実化したのである
人間の業には技(わざ)には呪いが隠されている、技(わざ)はわざわいになる
すべていいものとして働かないのである、科学技術がパラダイスをもたらなさないのである、そこに人間の限界がある
つまり人間はいくら優秀だと言っても限界がありその優秀さも神によって砕かれるのである、それが原発事故でもあった、そういうことは他でも必ず起きて来る

聖書で不思議なのは優秀な人間が選ばれたのではないしまた優秀だから勝つともならないむしろ優秀でない人が選ばれた、ではなぜそうして戦いでも勝ったのか
それは神の働きが関与があって勝ったのである、その人の力ではない、現実にその選んだ人は優秀ではないからだ、天才という人はいる、でもそうして特別優秀な人は神に選ばれなかったのである、そういう人は自分自身の力を過信するし自分の力で行おうとする
でも神には選ばれない、そういう人は自分自身の力で成せると思うからである
すると神がかかわることができなくなる、何かこの世で大きなことはとても一個の人間ではできないと思う、何かしら神の関与があって成さる

また戦いでも

淝水の戦いひすいのたたかい)

百万の兵が八万の兵に敗れたとか大軍でも敗れる、その原因は大軍となると統率できなくなりうまく責められて大混乱になり敗れたとここのyoutubeで分析している
百万は多いにしても必ずしも数が多いから勝つとはなっていないのである
信長の桶狭間でも大軍を相手にして少数軍で勝っている
どこで勝敗が決まるかわからないということがある
それが大国のアメリカでもベトナムに負けたとかアフガニスタンでも負けた
圧倒的に武器でも物量でも優っているのに負けたのである
中国は巨大だからそれを統率することがむずかしくなり絶えず分裂してきたのが歴史である、そこに弱点があり歴史は繰り返すとなる

科学技術でも万能ではないから原発事故になったしコロナウィルスでも実際は科学者でも医者でもわからない未知なものだからである
そういう未知なものが依然として起きて来る、人間の体でも全部はわからないからであるこの世には依然として未知の領域が大きいのである
要するに神のみぞ知るという他ないのである
神が導かない限り人間は知りえようがないことがある、ただどういうふうに人間社会に神が関与するのか?それが良くわからない
でもアメリカがなぜ小国のベトナムでもアフガニスタンでも征服できなかったのか?
力の差が格段にあるのに征服できない、あんなふう無様に撤退してゆく
あれが大国のアメリカなのかと唖然とした、だからすべてこの世の中力だけでは治められないのである、そこに何らか神の関与があるともみるのである


2021年08月07日

金に追われ金に狂う社会 (他人は金からしかみない、死んでも金である―経験した実話)


金に追われ金に狂う社会

(他人は金からしかみない、死んでも金である―経験した実話)

人間の不思議は他者になると何を見ているのか?
その財産とか金しかみていない、他者は死んでも何の関心もない、近くで死んでもただ死んだのかで終わりである
ただ近くだと多少は身近だから驚きその人のことをいたむとか考える
でも遠い他者となると死んだのもわからないし何も考えない
他者になると家族でない者をどうみているかとなるとその人の財産と金しかみていない
その財産と金の分け前を得たいとしかなくなる
他者とはそんなものである、だから他者が弱ると襲ってくる
動物でも子供はが弱者であり餌食になる、子供が一番弱いから襲うのである
私がここ十年とかその前でも経験したことは人間が求めるのは金しかなくなったということである

それは一応身内の兄が交通事故で突然死んだことである、その時事情が良くのみこめなかった、何かトラック会社に勤めていた社長が盛んに世話したといい、そのことを盛んに言っていた、死体はその社長の家に一時安置したからである
でも骨を渡さないとかお前はなんなのだとか盛んに言われた、確かに兄に対しては私の家では良くしなかったしそれで負い目があり言われてもしょうがないと思った
それで自分自身はかかわったにしろすぐめんどうだから帰った
母と親戚の人は残って処理した、でも骨をもってゆくと言ったら返さないと墓を作ってやるとか何かいろいろ言うのがわからなかった

何が起きたのか突然のことで理解できなかった、その社長は保険金をとる代理人になりたい、保険金をとるためにそう言っていたのだとわかった
だから世話したとかなんとかいろいろ恩を着せる、つまり乞食のようにして来たということとか世話してやったとか言っていたのである
でもなぜ骨など置いて墓まで作るようなことをしようとしたのか?
そんな手間なことや金のかかることをしようとしたのか?
それが理解できなかった、手厚く葬るためにそうしようとしたのか、何かわからなかったのである、そんなことをしていたら金がかかるからだ
それで後でわかったことは交通事故の保険金を欲しいためにそんなことをしていたのである、つまり親戚でも親でもいないと見ていたのである
そして自分自身は引きこもりであり車もないから自賠責とか自動車保険のことがわからなかったのである,一緒に付き添った親戚の人が車をもっていたので教えられてわかったのである

ともかくこのことをふりかえると確かに兄を運転手と雇った時、同情したことがあったのかもしれない、兄も助かったとかなっていた、なぜなら市営住宅から借金で追い出されていたからである、どこにも行くあてがなく運送会社に行ったのである
ただそこでは別に無料で助けたわけではない、トラック運転手として雇ったのである
結構働くので重宝がられたと仲間から聞いた
だから雇う方でも働いてもらうのだから助かっているともなっていたのである
もし乞食のようにして来たというならそんな待遇をしないだろう
でも死んだとき何か豹変した、保険金のことを知っているからだ
その金を代理人になり得ようとして墓まで作ってやるとか骨は渡さないと頑張ったのである
ただなぜそんなことをするのか私も母も車をもっていないしわからなかったのである

そしてその後も弁護士を頼むと言ったら怒り絶対に骨を渡さないとかなって困った
なぜそんなに骨とか墓にこだわっていたのか?それが何なのかわからなかった
それは保険金を欲しいためにそういっていた、代理人となり保険金を相続するためにそう言っていたのである、ただ雇い主には法律的にはなれない、現実に母がいたからである
母にしても兄には負い目がありトラック会社の社長の言うことに逆らえないことがあったそこをつかれると弱いからである、でも法律的には社長には相続の権利はなかった
ただ社長と兄の関係がどういうものかわからなかった、結構仲良くして働いていたのだろう、でも交通事故で死んだ時、豹変した、保険金のことを知っていたからである
そして兄にはそうした親戚とか親とかいないと思っていたからである
とにかく頼んだ弁護士はなにもしなかった、

ここでもめて弁護士を頼んだのがその弁護士もまた金をとるだけの人だったのである
相談するだけで百万を払いといわれて自分の家で払ったのである
その頼んだ人も何か社会のことをわからなかったのである、仙台市で知り合いだったというが相談するだけで百万を事前にとることなどありえないのである
何万かは相談したらとる、何もしないの相談だけで百万とることはありえないのである
また払う必要もなかったのである、そこで払う方も馬鹿だったとなる
なぜなら払う必要もないしそんな金をとるなら別な弁護士に相談すればいいことにすぎなかったのである
何か休業補償とかなんとかありその書類を渡さないと苦労させられた
その交渉したのは保険金を払う会社の人であり弁護士は何もしていない
だから弁護士もこうしてただ困った人から相談を受けて金をとるだけの人もいる
弁護士は何かこうしてもめごにからんで漁夫の利を得るような商売にもなる
でも百万を何もしないで得たのだからいい商売にもなる
その親戚の人は死んだ、何かトラック運転手の社長のことを最後まで信用していたのである、そんな悪い人ではないとして信用していたのである
その人は社会のことを知らない人だったのである、もちろん自分自身もそうである
社会を知らない人はそんな悪い人がいないとみる、その人もそうだったのである

それから今度はその兄の娘がいたが交通事故で両親はその前に離婚していた、そこで死んだ時、その妻の実家に引き取られたのである、その養育費は保険金から出された
でもその娘はその妻の実家の兄の家からでて東京に住むようになった
そして父の保険金で暮らしていたのだが金使いが荒く金がなくなり生活保護になった
娘が一人生まれていたからそれで長い間暮らしていた
ただ母は死ぬ前にその孫にあたる女性に何百万やれと大声で私に言った、母は本当に孫のことを思っていたのである、でもその孫娘はただ金のことしか見ない
それがわかったのは私の家の墓に兄の墓を作ったから墓参りしてもらいたいと言って10万送った、その孫娘はいつも金がないから送ったのである
でも墓参りには来なかった、金が欲しいだけだったのである、そうして実の親の縁も切れたとなる、親の縁も金の切れ目が縁の切れ目となった
だから母が孫娘を本当に思っていたことなど関知しないのである
その孫娘も金が欲しいということしかなかったのである
ただ親からひどい目にあったのだからそうなっても仕方がないともなるが何か悲しいとなる

それから今度は私の家族の介護で苦しむようになった、それも親戚といっても兄弟とかではないから結局金を要求されるだけだった、一人は事業に失敗していて多額の借金をしていて人のことを思いやることなどできない人だった、だから何かするにも表立っては言わないが金を要求していたのである、でも百万はくれたのである
今度はその時、原発事故があり小高の人が仮設に避難してきた、そこで何もすることがなくパチンコとかギャンブルに興じていたのが小高の人たちだったのである
そして南相馬市では鹿島区は30キロはずれて補償金は一人70万で終わった
医療費は半年で打ち切られた

でも原町区と小高は十年も医療無料高速無料でありさらに期間が延びた!

これも信じられないとなる、せめて南相馬市なのだから医療費とか高速は無料にして同じにすべきだったのである、こうしてここで延々と補償金でもめて分断された
飯館村でも補償金のことでもめて分断された
また介護中に家を留守にして金を奪われたとか延々と金の問題が次々に起きたのである
それは今でもつづいている、金に困窮した人がやはりせびるとかあり払っているからである、その金は大きくはないから払っている

とにかくこうしてここ十年以上延々と金の問題が起きている、金、金、金である
親戚でも付き合いなの女性だったがその女性は母親を介護している所に来て
「ばあちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらい」と血相変えて去っていったのである、子供の時一回くらいしか合ってない人だからしょうがいなとなるがそれでも信じられないとなる、その人は金には困っていないのである、何かと金が遺産とか入る人だったのである
でも実の親ではないが長く一緒に生活した親が病気になったときやはり私の家と同じように何のめんどうもみない、それで最後に私のところに電話かけて「ひどい娘だわ」と言って白血病ですぐ死んだ、すぐ死んだから良かったとなる、とても娘は介護などできないからである

こうして延々と金にまつわる金、金、金で問題が起きていたのである
これは特殊な例かとなるとそうではない、今の世の中はこうして金、金、金しかないのである
それはあらゆる場所でそうであり金を求め金に追われ金に狂う人たちがほとんどなのである
みんな金に狂いもう人間としてのモラルも消失している、金にさえなれば何でもいいとなる、遂には金のために人を殺すとまでなる、現実に心ではそうなっている
他者など死んでも関係ないしそれより死んだ人の財産が金が心配だとなる
家族の死はいたみ悲しむが他者の死はただ一人この世から消えるだけだ、数が一人減るだけだとなる、それより金と財産があればそれが欲ししとなるだけである

もちろんここには自分の家のカルマがあり自分自身にも問題がありそれがカルマとなって苦しみとなって現れたのである
必ずカルマは家でも個人でも現れ清算を強いられる、それは苦しみとなって現れるのである
ただこうしてすべてが金になっている、金てすべてがもめている、
そして最後は肉親ですら「金の切れ目が縁の切れ目」で終わっているのごこの世だとなる

2021年07月18日

未来はわからない、人間は動機が大事 (動機で方向が決まる―未来も決まる―神は心を見ている)


未来はわからない、人間は動機が大事

(動機で方向が決まる―未来も決まる―神は心を見ている)


人間はせいぜい5年先くらいしか見えない、学生時代だと高校に入るために受験勉強るすとか大学に入るためにでもそうである
次は就職のために用意するとかなる、するとせいぜい5年先くらいしか見ていないのである
そうしたらとてもこの世の中の変化する社会では未来をがどうなるのかわからないのだからそれに備えて行動することは不可能だとなる
結局人間は何が起こるかわからなのだ
この辺で起きた津波から原発事故でもそうだった
こんなことになるなど予想できない、特にあんな大きな津波が来るなどこの辺ではイメージなどできなかった

でも未来を見るというとき確かに過去をみる、歴史をみると未来が見えることがある
なぜなら津波でもこの辺では400年前に溺死者700人という記録が発見されたからである、でもそれはたった二行であり専門の学者すら津波の後に発見したのである
でもそういう過去を知れば未来を知りえたともなるのである

人間はどんなことしたって未来のことがわからないから来年のことを言うと鬼が笑うという格言が生まれた、来年すら何か起こるかわからないのである
第一コロナウィルスを予測した人は一人もいないのである
これだっけ過去にそれも百年前とかにあったことでありその被害も大きかった
でもそのことでも忘れていて話題にもならなかったのである
何か自然災害でも人間の災害がかつて過去に経験している、ただ忘れてしまっているのである、だから災害は忘れた頃にやってくるとかカルマは繰り返すとなる
自然災害でも疫病でも周期的にやってくる、でもその間隔が長いと忘れて警戒もしないとなる

実は鬼ちゃんが笑っているのは、「来年の事を言うと鬼が笑う」ということわざからでした。このことわざの意味は、「将来のことはわからないのだから、あれこれ言っても意味がない。予測できない未来のことを言うと、鬼がバカにして笑う」というもののようです

まさにこれであり来年ですらわからないことを十年先がわかるのかとなる
コロナウィルスで今こんなふうになっているのを予測した人は一人もいないからである

だから未来を見る方法は人間にはない、不可能だとなる
それは人生でもそうである、20代とか若い時に未来を見れるのか、せいぜい5年先くらいが限度だということは納得する、60以上のこと老人になってからのことが予想だにできないのである
そして若い人は若いことが永遠につづくように思っているのである
年取らないと思っているのである
でも40になると白髪が生えてきたりしておっさんになる
つまりすでに老人の入り口になってそうなるのである
だから40才になると必ず気づく、もう時間がない、後がない、遅かったとなるのである急速に40才から老人に向かっているのである
老人に向かうということは死に向かっているのである

70代になると明日は死ぬかもしれないと死が目前になる
その心境もその年にならないとわからないのである
老人の心境とは例えば人がいろいろな人と出会う、でももう私はこの世にいないかもしれない、あなたと逢うことは永遠にないですよとなってしまうのである
だからそもそも人間がこの世で逢うということ何なのだろうとなる
現実に自分の家族は全部死んだからである
家族すら70過ぎたりすると一時の出会いだったのかともなってしまうのである
そして同期の人も死に病気になったりする人が多いのである

だから人間とは誰も未来など知りえようがないと知るべきである
では何が大事なのかとなると求道するとなれば動機が大事になる
あなたはどういう動機で宗教でも求めているのかが大事になる
私はカルト教団に入ったにしろ自分が求めていたのはどうして人間が死ぬのかということでその解決のために入ったともなる
つまり私はそういうことを解決したくて求道していたとなる
ただそんな場所は宗教とは何の関係もない場所だったのだから解答はなかったのである
そこは俗世間より俗的な場所であり不純な場所だったのである
だからなぜ宗教の看板を出しているのか不可解だとなる
ただ動機としては不純なものはなかったのである
ただ私はキリスト教とかを求めていなかった、聖書など読んでもいなかった
だからほとんど知らなかったのである
ただなぜ人間は死ぬのかということがいつも頭にあったのである
それは父親が中学に死んだことが影響していた、それ以来死のことが頭から離れなくなったのである
だからすでに中学の時から求道が始まっていたのである

ふりかえると求道というのはそうして早い時期から始めた方がいいのである

「若きうちに神を知れ」

その若きうちとは20代までなのである、実は自分自身そんなことを思ってもみなかったただそういう事情がありそうなったのである
本当にふりかえると意外だったとなる
普通は若い時は享楽にのめりこんだりするのが普通である、欲望が最大限に拡大する時期だからである、性の欲望でも何でもそうである
そういう時期でありそのために欲望にのまれてしまうのである
そして神を知る一番大事な時期を逃してしまいあとは神を知る機会がえられなくなる
何か老人になれば神を知ることがかえってできるのだと見ているができない
ただ仏教のように諦念とか悟りの境地にはなる
でも神を知るということは一番盛りの時でないと知りえないのである
だから最も大事な時期を享楽に費やしていたらあとはもう神を知ることは不可能だしその後に善きことに真善美の追求もできなくなるのである

だからそもそも人間は未来など時代の先など誰も見れない、ただ変わらないのは人間の一生の先は見ることはできる
つまり人間の一生は人間が生まれてから変わらない、必ず年をとり老いてゆく
その盛りは青春時代でもあっというまに過ぎる、それでみんな老人になる
でも老人になることがどういうことかわからない
いつまでも若いということがつづくと思っているのである
でも老人をみればわかるはずである、みんな誰でも老人になることはどこでも普通にあり現実に見ることができるからだ
でも不思議に若い時は老人にならないと思っているのである
そこに人生の最大の盲点があったと思う、そしてもう時間を元にもどすことはできなくなるのだ、もう70代になると死があるのであり人生とは命とはliveとは本当にlieveであり去ることなのである、さよならだけが人生だとなってしまうのである
だからこの世でなぜ人間が逢うのかもわからないとなる

いくら未来を見て未来に備えようとしても不可能である、想像したこととは全く違った世界になっている、今頃なぜ働かなくてもよくなる、ベーシックインカムでそうなる
人間は自分の好きなことをやれとかみんなアーティストになれというのが不思議なのである、一生会社員になりそれで何もなく一生終わるという予想していたからである
それが大会社でもつぶれるとか会社員はいらなくなるとか言って自分の好きなことをしてそれで稼げというのが不思議なのである
銀行がなくなるというのもそうである、地方では銀行は一番安定した職業と見られていたからである、そこに就職すれば一生安定した人生が送れるとなっていたからである
それで公務員と同じように見られていた
高度成長時代に育った人たちは団塊の世代でもそんなことを予想することもできなかったろう、みんな企業戦士として働いて高度成長時代を生きたからである
こういうふうに常に未来はまるで違ったものとなり計算が狂ってしまうのである
そしてみんな人生は意外だったとなっているのである
つまり予想通りに生きた人は一人もいないとなってしまうのである

だからむしろ何かするときでも若い時は動機が大事だとなる
不純な動機だったら未来も不純なものになる、例え金持になっても不純な動機から始まっているのだから結果も不純なものとなる
それがカルト教団などに多いのである、そこはまるで宗教など関係ない世界だからであるそして結局人生を虚しく費やして終わるというのが本当に多いのである
結局人間とは何か悪魔にサタンによって操られ虚しく人生も浪費して終わるとなる
だからナチスでも社会自体が狂気になり千万単位で人が死んだということもそうである
膨大な命がサタンなのか操作されて失われたのである
日本がの戦争もそう言えないにしても何か似たものがある
3百万人の人間が死ぬということがどうしても理解できないからである
そこに何か意味があったのか?膨大な人間がいたずらに無意味に死んだのかとなる

ともかく神が「人の心を見ている」というとき動機を見ているということなのである
動機が不純だったら何をしても世間的に成功したとして神から見れば成功したとならないのである
だからとんなことしても未来など見れない、知りえない、ただ人間の人生とはその一生はいつの世でも見ることができる、それは若い時はたちまちすぎて老いるというとである
仏教では生病老死でありこれは人間が存在してから変わらないのである
いくら長生きするとしても実際は120歳が限界でありそれ以上は生きられない、限界なのである
だからこのことは人間がこの世に存在した時から変わらないからこそ聖書の言葉でも
聖賢の教えでも庶民の格言でも生きているのである

ただ時代が変わるという時、科学技術の進歩がありとても未来を見れないのである
第一飛行機で外国に行けるようになることを江戸時代辺りでも誰も予想もできない
それはヨ−ロッパだってそうなのである、そんなことがありえるのかということになっているのが時代の変化だからである
だから未来は社会全体になれば知りえないとなるのである
ただ神話などで人間の未来は予測されていた、技術が災いをもたらすことは予測されていたのである、火を盗んだプロメテウスが過酷な罰を受けたように甚大な災いがもたらされることを予測していた、日本でも技(わざ)は災い(わざわい)ということで技術が災いをもたらすことら予測されていたのである
それが原発事故となって現実化したのである

この世には自然災害でも何か信じられない大きな災いが起きることが予想される
それで聖書のテーマが脱出なのである、この世を変えることではない、それが必要でもこの世から脱出がテーマになるのである
ノワの箱舟でも出エジプトでも脱出なのである
神にこの世から救出されることであり災いの世からの脱出することなのである
この世はいつか滅びることは預言されている、何かこの世に理想の社会ができると思っていてもできない、それはどんな制度でもできない、人間には不可能なのである
神の国は神自ら治めるから神の国になるのであり人間には不可能なのである
常に混乱状態になる、コロナウィルスでもそうであり様々な予期せぬことで混乱して
誰も導くことがてきないともなる


2021年07月04日

集団組織が社会であり個人は無視される (世界はすべて全体主義である)


集団組織が社会であり個人は無視される

(世界はすべて全体主義である)

人間社会というのはどうしても現実になれば一人一人が力となり、すると一人一人でも集合して組織化するものが力となり権力を持つようになる
このことから逃れられない、一人一人を大事にしろというときその集合したものが大事に白しろとなり社会はその団体を組織を優先せざるをえない

人間一人でもその人は民主主義だと一票を持っている、それを多数集めた方が力を持つそれが正しいか正しくないかなど関係ない、数は力となり数が優先される
一人など相手にしない、選挙ではいかに数を獲得するかで決まるからである
個人はむしろ排斥され社会の敵と化す、だから個人が社会を相手にするときバックに必ず団体組織が存在するのである
その個人を見るより背後の団体組織を見て文学賞なども与えるのである

ともかく人間は一人でもその人が飲んだり食ったり買ったり消費活動をする
すると経済的にそれなりの力を持つ、それが団体組織化すると経済的にも力を持つようになる、その団体組織に非買運動されたら困るとなるからだ
そういうということは国の間でも起きる、国が敵対すれば物を買ったり売らないとなるからだ、自国優先となり食料でも入らなくなるのである
つまり経済力とはこうして常に強力な力となる
だから敵対すると経済でしめあげる、それで日本はアメリカに経済封鎖されて石油など入らなくなり戦争に突入したとか言われる、経済的に追い詰められてそうなったと見る人もいる
それが国と国では敵対すると常套手段になるからだ

民主主義でも個人の自由があるとしても一票があるとしても何の力もない、民主主義とは実際は全体主義になる、ギリシャのボリスのような一万くらいの人数で行われていたものとはまるで違った社会になっているからだ
だから世界で民主主義に疑問を持つようになったのはそのためである
田中首相が政治とは金と数だと言ったのはそのためである
政治とはまず一人一人が経済活動する、それがまとまると数として統計的に力となり権力となる
その国の力もその経済活動でGDPで計られる、ただ中国が人口が多くても全体の経済活動生産と消費力がない時はいくら数が多くても弱小国家と見られていたのである
だからすべてを数で計られないことがあった
GDPでも日本の十分の一とかの時代があったからだ
インドではまだ人口が中国と同じように多いのにGDPが少ないから大国に見られないのである

ともかく人間は個人として見ている人はいない、何かの組織団体に属していることからその属性によってその人間を見る
会社自体そうである、どういう会社に属しているかでその人を見る
大企業に属していればその人は価値ある人となり一目置かれる
トヨタの社員ですとなれば一目置かれる、でもその会社の価値が下がるとその人間の価値も下がる、それは国でもそうである
今や日本が経済的に落ちぶれると中国でも物価が同じくらいでありむしろ日本の方が安いとなり日本の価値は低落した
それで今度は日本では外国人をもてなすようになる、中国人様となる
日本が高度成長になり金持ちになったとき日本人は同じようになっていたからである
日本人は上客となっていたからである
政治と経済は密接に結びついている

でも個人的価値というのは人類全体でも別にある、絵の才能とか何か文学でもその人独自の才能がありそれは別に国とも関係なくある、ただ芸術にしてもバックにその国の歴史とか風土とかから生まれるから純粋に個人のものとはならない
そもそも精神的価値となると集団組織から産みだされるのだろうか?
政治経済としては数として価値を持つが芸術とかなると価値は個人が産みだすものとなるその人独自のものとして産みだすものである
だから政治経済とは権力化するが個々人を基にしたもの、芸術でも何か精神的価値あるものはそうはならない、いくら数を集めてもそこに価値を認めないからである

宗教でもすべて組織団体でみる、私は何の団体組織にも属していませんが神を信じていますとしてもそれを認めない、ただ数を集める時社会では認めるのである
つまり宗教でも権力化するとき認めるのである
個人は認めない、排斥されてないものとされているのである
でも「神は人の心を見ている」というとき集団組織を見ているのか?
それぞれ心が違ったものでありその個々人を見る、多数の人々がいてもその個々人を見る組織団体化して信じても実際は救われることはないのである
神にこれだけの数を集めたから認めてください、救ってくださいと言っても神は認めないのである

結局集団組織は政治的経済的なもの数とかで計られる、だから民主主義とはすべて数の多寡で決まる時、全体主義に最もなり安いのである
だからナチスは民主主義から正当な手段で選挙で政党として選ばれて支配したのである
つまり膨大な数を力とする民主主義は容易に全体主義になりやすいのである
それで世界的に民主主義が行き詰まっているということがある
例えば中国では民主主義は結局敵対勢力を産むものとして危険視するのもわかる
反対勢力を容認したらたちまち崩壊してしまうからである
それがソ連でもあり中東でもあり結果的にその民主とは自由とは外国勢力に操作されたという一面があったからだ
中東で起きたことでもそうである、国自体がシリアなどでは社会主義で政治的に安定しても民主主義の自由を取り入れたとしてもアメリカとかヨ−ロッパとかソ連の勢力争いの場になり悲惨なものとてってしまった、自国がなくり国自体が難民化してしまったからだ

政治と経済と軍事力は一体化する、権力化する、そういう宿命がある
宗教もまた政治化して権力化する、だからこそ権力をいかに抑えるかが課題になる
三権分立もそうだし政教分離でもそうである、日本だって神国だとかなって宗教が権力の道具となったりしたからである
宗教となるともともと権力の否定から始まったのである、それは仏教でも老子の教えでもキリスト教でも同じである、だから誰が治めるべきかというときみどり子に治めさせろと聖書にある、幼子だったら権力を悪用することなどできないしそもそも権力などの必要性を認めないしいらないからである
そして欲もないから悪いこともしないからである
要するに人間社会を治めることは至難でありいくら制度を変えても結局失敗しているのである、民主主義とか資本主義とか社会主義とか制度としてあってもそれもまた内部から崩壊してゆく、機能しなくなる、もう資本主義も社会主義も制度疲労を起こしていて賞味期限切れになっている、そしてまた混乱状態になる
70年くらい過ぎるとか必ずどんな制度でも腐敗してまた新たなものを産みだすしかなくなるのである、そういう変革の時代に今来ているということである

人間は人間を治められない

人間は制度があってもその制度が絶対ではない、だから制度は70年くらいすると制度疲労になり機能しなくなる、資本主義も超格差社会になり極わずかの人が富を独占するようになる、それは社会主義でも同じ事が起きる
人間は人間を治められない、例えば家族でも血縁でも必ず問題が起きる
家族すら治められない、だから宗教は血縁を否定したのである
この世は結局こうして常に問題が起きて混乱して来る、宗教だって権力の道具となる
神の国というとき神が治めるかから治められるとなる、人間では治められないとなるのだ

2021年06月23日

老人の心境(人生の終わりに短歌十首) (世代ごとに変わる心境―若い人は理解できない老人の気持ち)


 老人の心境(人生の終わりに短歌十首)

 (世代ごとに変わる心境―若い人は理解できない老人の気持ち)

 人間の気持ちというのは世代ごとに変わっている、40才が一つの区切りかもしれない
その頃白髪でてきたりするし身体に変化が生まれる
だから40才でおじさんとかよばれてもう俺は終わりなのかとあせる
氷河期世代などがそうである、それを盛んにyoutubeで訴える人がいるのもわかる
40代になるとすぐに50になり60になるからだ
20代が人生の華だとなるが30過ぎるともうそれもなく女性でも男性にちやほやされなくなるとか言うのもわかる
それだけふりかえれば人間の一生は短いとなる

そして人間の最大の盲点が老人になるとどうなるのか?

これがわからないのである、20代だといつまでも青春とかがつづくと思ったり時間がいくらでもあると思っている、体力もあると思っている
でもこれもふりかえるとあっというまに過ぎる
そして若い時老人になるとどうなるのか?それは体を見れば衰えているからわかる
あんなよぼよぼになりたくないと見る、でも何か若い人は自分自身がそうなるとは見ないのである
若い人が老人を理解できないのである

ただ本当に老人の心境になるのは本当は60過ぎであり今は長生きだから70過ぎにもなる
ただみんな老人が一様ではない、もう体力的にもふけこみ見た感じでも10年くらいの差ができる、60でも70に見えたりするしその人は85歳の女性だったけど60代の人より若く見えた不思議がある、こうして老人と言っても個人差が大きくなる
その人は70才でももう80歳にも見える、眼が悪くて文字を満足に見えないからである
眼が見えないと耳が聞こえないとか常に腰が悪いとかなるとやはりもう本当に弱った老人にしか見えないのである 

老人になって一番意識するようになるのは何か?

それは明日死ぬかもしれないということを現実として見ることである
それは同じ世代の人が実際に死んでゆくことでもそうなる
同世代で一割が死んでいるとか近くで子供の時遊んだ人が死んだとかなる
だから常に死を意識することになる
そして人間のことはこうして70以上とかならないと知ることができない
天命を知ることができない、70以上になると明日死ぬということが現実化するからであるそして常に一生をふりかえる、人生とは何だったのだろうと振り返る

そししてまた意識するのがなぜ人と人は逢うのか?

これも意識する、なぜなら二度と逢えなくなるからである、するとなぜ人と人は逢うのかとふりかえる、つまり死んだら永遠に逢えなくなる
これも不思議なこととなる、人が逢うなど別にありふれたことでありそんなことを意識しないともなる、でも人間がこの世で逢うとは何なのか、それも不思議になる
なぜなら永遠に逢えなくなるからである
今や家族すら全部死んでもう二度と逢えなくなったからである
人間が出会い逢うということそれは永遠に逢えなくなるものとして逢っていたとなる
すると人と出会うことは貴重なことだったとふりかえる
それで一期一会の思想が生まれたとなる

つまり今の世に生きていて逢っていることは深い縁があったからだともなる
そのことがわかるのは70代だともなる
誰しも70過ぎると人生はこんなものだったとか知らしめられる、別に優れた人だけではない普通の人でもそうなのである、それで老人は何か悟ったような雰囲気を持つようになるのである、これはとても若い時はなりえないからである
つまり人間は悟ったり賢くなれのは老人にならないとなれないともなる

自分自身は何かいろいろ理解することが遅かった、受験勉強などで勉強嫌いにもなった
でも旅をしたりいろいろ自由に引きこもりでも学んで学問好きにもなったのである
だから60過ぎて70過ぎてこうしていろいろなことを書けるになったのである
それは理解力がついた、深く自分なりに理解できるようになったからである
本当に智慧がつくのは老人になってからである、ただ求道は若い時しないと神を知ることはできない、それも盲点だったのである
だいたい青春時代は欲が爆発して享楽する時代だからでもある
ただそうして一番大事な時期に生を消耗すると神を知る機械を逸することも怖いことだとふりかえる、ただ誰もその時そんなことを想わないのである

私がカルト教団に入ったのは選挙運動するためではない、宗教を求めていたからである
ただそこはそんなものとは全く関係ない場所だったのである
ただ自分が求めていたのは死の問題でもあった、死を意識するということは実は老人になれば否応なく現実問題として意識する
でもその時死を意識しても遅かったともなる
その解決は若い時していなければできないともなっていたからである
そこが人生の落とし穴だったともなる
宗教など老人になってからでも求めればいいやとかなっているからである

人間は死ぬ、この世から消えるのもまもなくだ

そしてこの世で人と逢っても永遠に別れる、逢わない

このことが現実化するのだ、何かと人ともめたりしても遂には永遠に逢わないのである
すると逢うだけでも貴重だったともなる、それが老人には嫌でも知らしめられるのであるそれで老人は常に後悔するのである

人間は結局最初に老人になる、それから若くなる

こうなれば失敗もないのである、そうしたら馬鹿なこともしないのである
老人になることがをどういことか知れば失敗もないのである
老人になれば誰しも悟り知恵かつき愚かなこともしないともなるからだ
ただその老人でもいろいろあるし迷惑老人も多いからいちがいには言えない
でもどうしても若い時は老人のこと老人の心境を理解できない
もしそのことを知れば若い人は失敗もしないし悔いのない人生を送れる
老人になると時間ほど貴重なものがなかったとふりかえる

ああ、時間を無駄にした、馬鹿なことに時間を浪費した

それが一番の後悔になっているのが普通だからである
その時莫大な富が金があったとしてもそうである
老人になると体力なるからきついことはできなくなる
いくら金があっても何かいろいろなことができなくなるからだ
旅でも登山でも億劫になるし体力がなくなりできなくなる
だから私は株などしたくない、これも自力で取引きをパソコンで覚えればいいがそのパソコンの画面を見ていると時間がとられるからしたくない
だから銀行の営業の人に頼んだのである、でもそうしたら株ではもうけられないことを知ったのでやめたのである
その株で何億でももうけても果たしてそれだ人生の成果となるのだろうか?

そもそも人生の成果とは何なのか?

これは財産を築いたとかあるにしても金を残したとかで計れないのである
芸術家だったら後世に残る作品を残したとかある、職人でもいい庭を作ったとかありそれが残されているということもある
何か他にもいろいろある、眼に見えないものとしても遺されるものがある
だからいくら金を残してもそれがすべて成果として評価されるとはならない
金がなくてもいいということではない、それがすべての成果とならないということである
要するに時間を何に費やしたかでその成果が計られる

これが人生だともなる、時間は限られているから例えば一つの楽器でも覚えるのに時間がかかる、時間を費やす、すると一つの楽器を覚えることが人生だったともなる
そして天才でもいくつもの楽器に習熟することはできないのである
その時間がみんな平等に与えられて限られているからである

また普通は会社員となれば会社のために尽くす、銀行員だったら銀行に所属しているのだから例え相手をだますものでも投資信託などでも売る
そういうことは別に会社に属していれば必然的にそうなる
そうなるとその会社の価値がその人の個々人の価値ともなる
それで有名な大企業に所属していればその会社名がその人の価値となる
人生全体もそうなる、でも一旦退職するとその価値も喪失する
それで人生の先が長くなると会社をやめると価値のない人間になってしまうのである
いづれにしろ人生とは何だったのか、70くらい過ぎると否応なく知らしめられるのである



人生の終わりに(短歌十首)

この世にそ生きる日短く逢うとても再び逢わじ人は逝きにし

人はみな死に別るかなその最期手を握りて心通いぬ

人はみな死にて別れぬ何気なくありにし日のなつかしきかな

老人の残れる生の短きを徒(あだ)に過ごさじ深く思わむ

この世にて生きる日短く逢うとても再び逢わじ人は逝きにし

人の世を生きるは短く徒言(あだごと)語るは許さじ明日はなきしを

人の世を生きるは短く人は逝く貫くもののあるべしかな

常に思へ明日無き身なれ時々を徒に過ごさじ実りあるべし

その人の何を生きなむ最期かな徒にすごせし月日悔いなむ

まことにそ生きにし人のその生の後に明らかに輝きあらむ 





2021年06月12日

裕がない人は人を助けることができない (余裕なき現代はみんな疲れ、人を思う余裕すらない)


余裕がない人は人を助けることができない

(余裕なき現代はみんな疲れ、人を思う余裕すらない)


人間は何か余裕がないと他人に対して親切になれないし助けることもできない
余裕はだから意外と大事なのである

●時間

●空間

●金(経済)

●健康問題

これらでも余裕がないと人間は自分のことが精一杯で他人のことを思うことすらできない
時間ないんだよ、ここは狭くて窮屈だ、金がないんだ、金が欲しいんだ
俺は病気なんだよ、他人のことを思うより自分の病気のことで精一杯だよ

こうなっているとどうしても余裕が生まれないからギスギスしているし他者に親切になれない

なぜその人は病気だけど仕事している、それでわずかの金でも後から払うとか貸してくれという、でもそれには応じない、そういうお願いする人はいつも金がないのである
だから相手が病気でもそのことを思わない、それより自分の金がないことで苦しめているのがその人だともなってしまうからである
その女性は米を買うにして自転車を直すにしてもそうして金で苦労している
そういう人は相手を思う余裕がないのである

ところが金でも余裕ある人間は病気なのに良く仕事しているなとか同情する
それで多少金がかかってもいいやとなる、奇妙なのはその金のない人に金を与える
その金は病気でも仕事している人に回ってゆく
なぜそうなるのかというと金に余裕があるからそうなるのである
相手が病人でも金のない人は同情しないともなる、なぜなら余裕がないからである
だから意外と余裕がないと相手を思ったり同情したりできないのである

それで自分が病気になり親の介護になったとき来た人は事業に失敗したり金がなくて苦しんている人だった、また原発事故で避難して来た人もいた
こういう人達そもそも余裕がないから人を助けることなどできないのである
大きな負担を背負っているのだからとても他人のことを思うことすらできない
なんとかしてくれとなっている人が他人が苦しんでいることも見えないのである

だから余裕がなければ愛とかいたわりとか同情とかもできない、それより自分をなんとかしてくれとなっているからだ
金に余裕がない人は金を与えることはできない、また苦しんでいる人は自分のことで精一杯だから他人のことに気がまわらないのである

だから助けてもらいたいというとき余裕のない人が来たり余裕のない人の所に行っても無駄だとなる
現代人は何か昔から比べればいい暮らしをしていても余裕がない、心の余裕がもてない
それが何か世の中をギスギスしたものにしている、まず時間の余裕がない人も多い
日本だと国土が狭いから空間的余裕がない、そして時は金なりと資本主義社会で時間に追われる、常に人は何かに追われている、一番は金に追われている
それば贅沢して金に追われている人も多い、借金しても家建てたり高い車を買ったりと金がないのにそうしている人も多い、するとその人たちは金に追われるのである
だから余裕がなくなる

こうしてこの世で余裕がない人がまわりで多くなると実際は住みにくい社会になる
現実になっている
ただ不思議なのは別に金がなくても余裕ある人はいた、そういう人はでも特別の人であり悟りを開いたような人とかなり例外だとなる
今は特に金がないと余裕がもていない、それだけなんでも金のかかる社会だからである
金を払わなければ水も得られない、もし井戸水だったら井戸水が枯れなければ水は得られるとなるからだ、現代は金がないと水道が止められるのである
そもそも昔はその日暮らしの人が多かった、江戸時代は宵越しの銭は持たないとなっていた、その日のうちに金は全部使ってしまうということである
そうなったのはそんなに金を貯えることができなかったからである
日銭暮らしが多かったのである、その日その日を暮らすのが精一杯だったのである
そうなると余裕がないとなるがそうでもなかったとなるのが不思議だとなる
今は一億円たくわえても安心とかにもならない、それはなぜだろうともなる

金でも贅沢しようとすると今は限りない、するといくらあっても金に余裕がない!

こうもなっているためだともなる、いい家が欲しい、車が欲しい、いいものを食べたい、・・・・きりなく欲しいというものがありそれで金に追われるともなる
ただ貧乏になるとその日の金に追われる、何か贅沢するのではない、その日の食べるものを得るために追われるとなる
貧乏暇なしにもなる、だから忙しく金に追われるというとき必ずしも本来はそうしなくてもいいのにしているから時間の余裕もないとなる、現代人は昔に比べると豊かな暮らしているが忙しいし余裕がなのである

私の母はまず一緒に遊んだこともない、暇なし働いていた、それは若い時からそうであるだから何か暇で余裕ある姿を見ていない、店もしていたから食事中でも立ったりしていたそれが嫌だった、でもしかたないということはあったし責められないことはあった
そうして一生働き詰めで終わった、そして花などいらないと自分を怒っていたのである
それはそういう事情があるにしろいい人生だとは思えないである
それはそういうふうに強いられた結果であり母だけの責任ではないにしろ何か全く余裕のない人生も嫌だとなるしそういう人といるのも嫌だともなる

その正反対として余裕のある人生を送れたのが自分だった、何か高校とかまでは勉強でも強いられて嫌いになった、でも大学は時間に追われることがなかった良かった
ただそのために大学が遊びの場になり勉強しなかったことを後悔している
自分の場合は母と反対に余裕がありすぎた人生だったのである、それも問題だとはなった私は旅するかただ家でじっとして黙想しているだけだったからである

だからそういう環境にあったことが奇妙であり不思議だったとなる
それでやはり引き籠もりとなり異常化した人間になっていたのである
ただそうして黙想していることで自然と山とか木とか石と一体化した詩を書いたりしていたのである
自然は山でも木でも石でも沈黙している、すると人間も沈黙しないと一体化できないのである、だから自分は禅宗に座禅して沈黙の業をしている僧と似ていたのである
でもこういう生活は本当に別に寺で修行僧になっていれば異常でもないが日常の社会生活では異常になるのである

ともかくそういうにしていることは余裕がないとできない、なぜなら必ず金を稼げと強いられるからである、そんなことして何になる、一銭の金にもならないとなるからだ
なぜ引きこもりとか多いのかというと親がいて一応食べていけるからそうしている
ということは親でも金に余裕があるから養えるとなっている
もし余裕がない時代だったらそんなことありえないからである
ともかく人間にとって余裕は意外と大事である、そもそも余裕があるから学問でも芸術でも生まれた、暇とはスコーレでありスクールになっているからだ
学校とは暇があって生まれた場だったのである、でも今は学校は全くそうしたものとは違う、受験に追われ膨大な知識に追われる全く余裕のない場なのである

でも余裕なくさせているのは社会がそうさせている、それが何か無駄なものののためにそうさせられる、強いられる、それで団塊の世代の猛烈企業戦士に全員がなったよりそこからはずれて別なことを余裕もって追求する人もいていいと今になると思う
それが自分自身だったのである、ただそのために親の介護とかで四苦八苦した
ただ全員が企業戦士となって猛烈に働くだけの人生は良かったのかとなるとそうでもない何か今になると仕事は遊びだとか好きなことをしろとか価値観が変わってしまったのである、だから猛烈な企業戦士とかは嫌われる時代にもなった

これも奇妙だと思う、それでおそらく団塊の世代は確かに遊び上手の世代ともされた
いろいろ趣味をもっている世代である、でも一方で猛烈企業戦士として会社員として働いた人も多い、とにかく時代によって価値観が変わってくる
それは戦争が終わった時、日本はまるで違った世界に価値観に生きることにてったからだそして戦争から70年過ぎた時、また価値観が大きく変わる
金だけに追われて忙しく生活するのが嫌だという人もでてくる、それは少数でもやはり前よりそういう傾向が大きくなっている、すると時代の価値観が変わった見るのである

2021年06月10日

最後は記憶したことが人生となる―心に印されるものの怖さ (記憶をしたものの整理に追われる)


最後は記憶したことが人生となる―心に印されるものの怖さ

(記憶をしたものの整理に追われる)


何度も言っているけど人生とは最後は何を記憶したかになる
その記憶はみんな違ったものになるからそれぞれの人生の結果は多様なのである
だからどんな人でも何かしら語るべきものがあるとなる
なぜなら違った経験をしているからである
それで老人からその経験を聞くことはどんな人でも参考になる
失敗の経験でも参考になる
つまり事の真相は経験している時はわからない、時間がたたないとわからないことがあるからだ
それで何か事件が起きてもその時に真相はわからない、時間がたって判明して来る
歴史的な事件でもそうなのである、明治維新が何だったのか、今になると否定的に見る人もでてきているのもそうである
ただ歴史的なものになるともう50年くらいすぎると遠い過去になり不明になりやすい

私が経験したことは勤めたこともないのだから限られている
ほとんど旅に費やされたということである
ただその経験でも何か歴史を見ることでも役にたっている
地歴が科目となったように歴史と地理は不可分なものとしてあったからである
そして記憶たどる旅をしているのが時分である
いくら記憶が人生だとしても人間の記憶力は本当に弱い、それで記憶するために写真でとっておくとかメモを書くとかしないとその記憶自体があいまいとなり思い出せなくなる
それでこれまで書いたものが膨大になるので整理している
毎日整理するのに追われている
プログはインタ−ネットでは何か記録するのに優れているのだ

sdメモリーとかこれだけ小さいもの記録する量が映像でも驚くほど記録できる
そのメモリーは格段に進歩したのである
人間だったら脳にこんなに記録できないのである
それで自分の書いたものすら忘れていて読み返してみてこんなことを書いていたのと感心している
おそらく歴史でも文字ができて記録できたということで歴史が生まれたといのもわかる
それだけ文字の発明は人間にとって大事なものだったのである
それでエジプトでは神聖文字が生まれたのである
文字が神聖なものにヒエログリフになったのである

とにかく人間最期は記憶したことが人生になる、それで私の姉は従軍看護婦で4年間シンガポールの向かい側のジョホールバルで苦しんだからそのことを死ぬ間際まで語り死んだその前に千回もそのことを語っていた、認知症になっても過去のことは忘れないからである、特に印象に残ったことは忘れないのである
そういう戦争ということはもう経験した人しかわからない、いくら映像で見ても残されたものを見ても読んでも実感できないからだ

そして何か経験したことでも後からその意味がわかる、経験したことを後から深く考察してその意味を知ることにもなる
それは歴史的大事件でもそれが起きた時はわかりにくいのである、でも後から解明されて真実が明るみに出される
隠されていた悪が暴かれることがある、いくらその時は隠されても遂に明るみに出される若きの至りとかで若い時に力まかせにした悪行でも暴かれて老人になってから良心の呵責とかなり苦しめられる

人の行った行為はみなカルマとなる

それが隠されたり忘れ去れることもない、神は見ているとまでなる
そうなると本当に奔放な若い時の行動も悔いるとなる
そういうドラマも多いのもそのためである
警察につかまるとか刑罰を受けるとかではない、そういうことと関係なく良心の呵責に苦しむことになる
だからどんな人でもカルマをつまない人はいないである

原発事故とかでもそうだった、それを追求してきたが「安全神話」を作った人々は共犯者であり悪人だったとまで暴きだされた、ただその責任はとっていない
東電に天下りして金を得ていた官僚とか高級国民なども責任があった
でも責任は誰もとっていないのである
でも十年過ぎ二十年過ぎとかなりその悪が暴かれる
悪が暴かれないのはその時の政権によって隠されるからである

オリンピックのJOCの経理部長が自殺したのも大事件でもその真相は何も語られないし騒ぎもしないのは上からおさえられているからだとなる
何か都合の悪いことが出てきて今の政権が追及されるからだとなる
そして人間の歴史とは何かとなれば罪の歴史だったというときそうなる
絶え間ない殺し合いの歴史だったとも見れるからである
戦争自体が罪でありどっちが正しかったということはないからである
日本とアメリカの戦争でもアメリカが正しかったとはならないからだ
それで歴史は勝者の歴史となっている、勝者が記したのが歴史だとなっているらだ

その人の一生は何なのだったのか?

それは記憶されたものともなる、何が脳に記憶されたのかとなる
それは各人か違っている、その人の経験と学習から脳も作られるからだ
人間の脳とか性格とかは遺伝子的に決められているのかとなると人間の場合はそうはならない、人間は人生の経験の中で作られていく
何か臆病とか気弱な人でも一瞬の行動で勇気ある人にも変わる
たいがい英雄とか天才は生まれつき優秀だったからそうなったともみる
天才の場合はそうである、でも一般人でも人生を経験してゆくなかで変貌することもありうる   

だから人間がすべて生まれつきで決まるわけではない、そうして人生の経験の中で神が関与することもある
それは不可解なものである、そもそも人生そのものがそれぞれか小説より奇なりともなっているのだ
聖書が理論とではない、実際に起きたことを記したものでしる、そこに必ず神の関与がありそれを記したのである、だから奇跡を信じなければ理解できないのである

では人間が死んだらそうした記憶とか記録とかも全部消えて空になるのか、もしかしたらそれば消えずにあの世にもってゆくものかもしれない、なぜならみんな消えるとしたら
それぞれの人生が無意味なってしまうだろう

神があなたは何を見て何を聞いて何を見ましたか?

そのことはあなたの心に脳に記されている、それを神の前であからさまに示されるともなる、そうなると怖いことになる
その時心に記された悪も暴かれる、それがまざまざとして可視化される
つまり死ですべてが消えるわけではないとなると怖いのである
もちろんそういうことをありありとイメージしたら本当に悪いことなどできない
だからこそ平気で生きていられるとなる
死んで裁きがあるということをありありと思う人はいないからだ
だから平気で悪を犯して罪を犯しているともなる

何か悪いことをしましたとかなっているのである、ただそれが死んだ後にあの世で暴かれるとなると怖いとなる、そういう恐怖心があれば簡単に悪は行わないし心にも思わないとなる
そうした裁きとかは個々人になる、人は神の心を見ているという時、集団の心は見れないからである、いろいろな集団に属していてもそれで罪を裁きを逃れられない
要するにそうした宗教団体とはこの世の隠れ蓑であり死後は何の効力もない、個々人の罪は消えないとなる

いづれにしろ自分は今や記憶をたどり記録をたどり整理している
それが膨大なものだから苦労している、つまり分厚い一冊の本のように整理するとなる
人間の一生はいづれにしろどんな人でもそれぞれ一冊の本にもなる
ただ表現力のない人は読者に感銘されるものを書けないとなるだけである
旅をしてもその時見たものを経験したものを回想して深化する、それができれば充実したものとなる
だから旅でも記憶されるような旅をしろと言ってきたのである
それは車では無理だと言ってきた、電車でもそうである、歩くか自転車の旅でないと旅というのを記憶してたどることはできないともなる
ただこれは外国では無理だからそうとはならない、国内の場合は記憶する旅をすらなら歩くか自転車でないと記憶に残らないともなる
ただ自分も最初は電車旅行でありそれはある目的地に行くのにはいいが旅を経験するには歩くか自転車でないとできないのである

2021年06月05日

大学で遊びギャンブル人生で終わった人 (大学で20代で方向が人生の方向が決まる怖さ)


大学で遊びギャンブル人生で終わった人

(大学で20代で方向が人生の方向が決まる怖さ)

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70代男性、老後無年金・無貯金でギャンブルまみれ人生の実態
https://www.youtube.com/watch?v=Lk0WLlUHWoc

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30までの時間は長く感じられる
30過ぎる急速に早く感じられる、時間間隔は相当に違っている
子供の一日は大人になったときより十倍も長い感覚になる
30前までも長く感じる、30過ぎると時間は過ぎるのが早くなり40で
おっさんになり白髪がはえて老人に向かっている
もう60を過ぎて70とかなるともう死ぬだけだとなる
明日は死んでいるかもしれないという感覚である



この人は地方から上京して大学に入ってもそこから人生が狂ってしまった
大学のまわりが競馬場とかパチンコ屋とかがありそれでギャンブルにのめりこんだ
学業はそっちのけになった、バーとかでアルバイトしていた人もいた
そしてそれがどっちが本業かわからなくなるからこうなったのである
何か高校から大学への変化が大きいのである、そのギャップが大きいのでこうなる人も多い、変なのは学校というと毎日学校で授業を受けるものとなっていた
でも大学になると授業を欠席しても何のとがめもないのである
ただ一年に一回単位をとる試験がある、それを受かると単位が取れる
その単位をとるにしていい加減なものだったのである
私立の文系となると何か遊びの場になっていたのである

そうなると学校に行かず授業も受けず遊んでいる人が普通にいる
そして授業に出ないことで威張っている人がいる
授業に出ないことが自慢する、だから一日中マージャンしていた人がいた
そんならマージャン教室に入った方が良かったとなる
一体大学に何しに来たかわからなくなる
そういう人が結構いたのである、特に私立の文系などはそうである
団塊の世代ではマンモス大学であり授業でも千人とか入る講堂でしていたとか
高校とは全然違ったものなのである
すると何か暇をもてあましギャンブルに興じるともなる
私もパチンコを覚えたりして遊んでいたのである
こうして何のために大学に入ったのかわからなくなる

私の場合は創価とかカルト教団に費やしたのもそうである
それも何もするこことがないのでそうなったともなる
でも私の場合もともと求道精神があってそうなった
でも創価でもカルト教団など宗教の看板をかかげても全く宗教とは関係ない
ただ毎日が選挙運動の駒として使われるだけだった
あとは御利益を得るために祈る、そしてあらゆる欲は是認される
その欲をかなえるために毎日祈っている、禁欲とか一切なくむしろ欲望を強くして
かなえるために祈るだけである
だからこそ人があれだけ集まるのである、その数は票となり圧力団体となり利権団体となる

ただ青春時代は危険な時代である、変な方向にも行きやすいのである
大学でも自由だから変な方向に行くようにもなる
ギャンブルとか女遊びとかで費やして終わる人もいる
そういう場所が大学だというのも異常だったとなる
理系の大学だったらこんなことありえないのである

とにかく20代頃から変な方向に行ったものはそのまま一生変な方向に行ってもどれなくなる、それが怖いことだったのである
現実この人は大学でギャンブルをおぼえそこにのめりこんでそれが人生になってしまったそれを自分でぱ悔いのない人生だったとしているがそれが他人に誇れるのか?
そんなことが自慢になるのか、誰もそんな人のことを感心する人はいないだろう

ただ本当に20代頃からこうして変な方向に行く人はそのまま一生変な方向へ行き一生そうなってしまう怖さである
大学ですでにギャンブラーになりそのまま一生そうなってしまったのである
まずニートなども良くみかけるけどそういう人も20代でなるとそのまま一生ニートであり無職で人生が終わる
それが自分自身もそうだったからである、一生無職で旅して終わったとなるからだ
ただ自分の場合は学問とか芸術に興味をもち追求していたのが違っていたとなる

いづれにしろ今やそれぞれの人生がなんであったのか問われる
もう団塊の世代でも75となり死んだ人も一割以上いるし身近で同年代の人が死んでいる
78歳くらいの人が近くで二人死んだ
三人の男性はみんな死んだが78だった、何か78歳は鬼門の年だともみた
78歳になると急激に体が弱っていくというからそういう年なのである

人間は20代で30までほぼ決まるというとき30過ぎて40になると白髪がでてきたりしてすでに老人にも向かっていたからである
50になるともう人生も終わりに近づくとかなる、それだけ時間が過ぎるのが早かったのである
その時間の貴重さが若い時はわからないからくだらないことに時間を費やして浪費している、そして老人になってみんな悔やんでいる
急速に時間が過ぎてゆくことが自覚できないからである
それが人生の大きな落とし穴だったのである

そして絶対に時間を元に戻すことはできない

青春時代も二度ともどってこない

右左と分かれ道があり右に行ったものは右の方向に行き左に行ったものは左に行きその方向をもう変えることができない、その方向を決めるのが20代なのである
正社員となるのも20代でありそれ以後はなりにくい、そしてニートとかなると一生ニートなのである、それで最期に親が死ぬと厳しいことになる
そのことを自分は親の介護で経験したからである

ともかく同世代の人が次々に死んでゆく、するとその人生は何だったのかと問われる
弔(とむら)うとはその人生を問うということなのもわかる
一体この人の人生は何なのだったとか問うことになる
カルト宗教団体であれ共産党であれある団体組織に属した人はその属した組織団体が人生だったとなる、でも個々の人生があり何か不思議なのは人が死んだ時は個々の人生が問われる、創価であれ共産党にであれまた他のカルト教団に入っていたということで自慢にならない、そこで評価されたのはただ一票となるとか数として数えられることだからであるでもその人の人生となると個々の人生として評価される
日本民族の一員として死んだといっても誰も世界で評価しないだろう
一例としてもし芸術作品を世界に通用するものでも残したら評価されるとなる

この人の一生は何なのだったろう?

これが問われるのである、でも死に方に成仏することにこだわるがそれはあまり関係ないようにも見える
なぜなら近くで死んだ人はその人生は本当にいい加減だったからであり罪深いともなる
でたらめな人生であったからだ、それでみんな嫌っていて葬式もなく終った
近くでも誰も惜しむ人もなかった、でも死ぬときは簡単に死んだのである
迷惑もかけず死んだのである、だから死にざまより人間はその人がどういうふうに生きたのかが問題になる、成仏するというときむしろその人の人生が有意義なものとなっていたとき成仏する、だから死にざまとは生きざまのことでありどんなふうに死ぬのかとはさほど関係ないとみるのである

それにしても人生も終わりになると本当に短い、あっという間だったとさえなる
そんなに短い時間しか人生にはなかった、そしてみんなわずかの時間この世にいるだけである、そしてこの世から消えていく、すると人はなんのために人と出会ったり別れたり
そもそもなんでこの世にいるのかもわからなくなる
一瞬の泡のように生まれて消えるともなる、人生とはそんなものかとなる
何かもっと重々しいはずであるとなるが現実はその生は何するにしろはかないとなる
有名な人もみんな消えてゆく、何か手にとる本が30年前とかなりその作者はほとんど死んでいるのである、すると死者が残した物は本でありその他その人の人生を知る術もないのである
だから死んで何が残るのだろうともなる
本でも残している人はいい方である、普通人は家族でも死ぬと急速に忘れられてゆく、何か定かでない幻のようになってしまうのである、家族でない人はそんな人いたのとなってしまう
その人の存在すら本当にこの世に存在していたのかも定かでなくなるのだ

石は千年動かない
その場に千年変わらずある
人間は百年くらいで消える
すると石の方が人間より
存在感がある
人間は百年も過ぎたら
みんな消えてしまうのだから

こんなふうになってしまう、それだけ人間の一生は短いからこうなるのであ

大学で遊びギャンブル人生で終わった人 (大学で20代で方向が人生の方向が決まる怖さ)


大学で遊びギャンブル人生で終わった人

(大学で20代で方向が人生の方向が決まる怖さ)

gamblelife1.jpg

daigaku11.jpg

70代男性、老後無年金・無貯金でギャンブルまみれ人生の実態
https://www.youtube.com/watch?v=Lk0WLlUHWoc

lofestage1.jpg

30までの時間は長く感じられる
30過ぎる急速に早く感じられる、時間間隔は相当に違っている
子供の一日は大人になったときより十倍も長い感覚になる
30前までも長く感じる、30過ぎると時間は過ぎるのが早くなり40で
おっさんになり白髪がはえて老人に向かっている
もう60を過ぎて70とかなるともう死ぬだけだとなる
明日は死んでいるかもしれないという感覚である



この人は地方から上京して大学に入ってもそこから人生が狂ってしまった
大学のまわりが競馬場とかパチンコ屋とかがありそれでギャンブルにのめりこんだ
学業はそっちのけになった、バーとかでアルバイトしていた人もいた
そしてそれがどっちが本業かわからなくなるからこうなったのである
何か高校から大学への変化が大きいのである、そのギャップが大きいのでこうなる人も多い、変なのは学校というと毎日学校で授業を受けるものとなっていた
でも大学になると授業を欠席しても何のとがめもないのである
ただ一年に一回単位をとる試験がある、それを受かると単位が取れる
その単位をとるにしていい加減なものだったのである
私立の文系となると何か遊びの場になっていたのである

そうなると学校に行かず授業も受けず遊んでいる人が普通にいる
そして授業に出ないことで威張っている人がいる
授業に出ないことが自慢する、だから一日中マージャンしていた人がいた
そんならマージャン教室に入った方が良かったとなる
一体大学に何しに来たかわからなくなる
そういう人が結構いたのである、特に私立の文系などはそうである
団塊の世代ではマンモス大学であり授業でも千人とか入る講堂でしていたとか
高校とは全然違ったものなのである
すると何か暇をもてあましギャンブルに興じるともなる
私もパチンコを覚えたりして遊んでいたのである
こうして何のために大学に入ったのかわからなくなる

私の場合は創価とかカルト教団に費やしたのもそうである
それも何もするこことがないのでそうなったともなる
でも私の場合もともと求道精神があってそうなった
でも創価でもカルト教団など宗教の看板をかかげても全く宗教とは関係ない
ただ毎日が選挙運動の駒として使われるだけだった
あとは御利益を得るために祈る、そしてあらゆる欲は是認される
その欲をかなえるために毎日祈っている、禁欲とか一切なくむしろ欲望を強くして
かなえるために祈るだけである
だからこそ人があれだけ集まるのである、その数は票となり圧力団体となり利権団体となる

ただ青春時代は危険な時代である、変な方向にも行きやすいのである
大学でも自由だから変な方向に行くようにもなる
ギャンブルとか女遊びとかで費やして終わる人もいる
そういう場所が大学だというのも異常だったとなる
理系の大学だったらこんなことありえないのである

とにかく20代頃から変な方向に行ったものはそのまま一生変な方向に行ってもどれなくなる、それが怖いことだったのである
現実この人は大学でギャンブルをおぼえそこにのめりこんでそれが人生になってしまったそれを自分でぱ悔いのない人生だったとしているがそれが他人に誇れるのか?
そんなことが自慢になるのか、誰もそんな人のことを感心する人はいないだろう

ただ本当に20代頃からこうして変な方向に行く人はそのまま一生変な方向へ行き一生そうなってしまう怖さである
大学ですでにギャンブラーになりそのまま一生そうなってしまったのである
まずニートなども良くみかけるけどそういう人も20代でなるとそのまま一生ニートであり無職で人生が終わる
それが自分自身もそうだったからである、一生無職で旅して終わったとなるからだ
ただ自分の場合は学問とか芸術に興味をもち追求していたのが違っていたとなる

いづれにしろ今やそれぞれの人生がなんであったのか問われる
もう団塊の世代でも75となり死んだ人も一割以上いるし身近で同年代の人が死んでいる
78歳くらいの人が近くで二人死んだ
三人の男性はみんな死んだが78だった、何か78歳は鬼門の年だともみた
78歳になると急激に体が弱っていくというからそういう年なのである

人間は20代で30までほぼ決まるというとき30過ぎて40になると白髪がでてきたりしてすでに老人にも向かっていたからである
50になるともう人生も終わりに近づくとかなる、それだけ時間が過ぎるのが早かったのである
その時間の貴重さが若い時はわからないからくだらないことに時間を費やして浪費している、そして老人になってみんな悔やんでいる
急速に時間が過ぎてゆくことが自覚できないからである
それが人生の大きな落とし穴だったのである

そして絶対に時間を元に戻すことはできない

青春時代も二度ともどってこない

右左と分かれ道があり右に行ったものは右の方向に行き左に行ったものは左に行きその方向をもう変えることができない、その方向を決めるのが20代なのである
正社員となるのも20代でありそれ以後はなりにくい、そしてニートとかなると一生ニートなのである、それで最期に親が死ぬと厳しいことになる
そのことを自分は親の介護で経験したからである

ともかく同世代の人が次々に死んでゆく、するとその人生は何だったのかと問われる
弔(とむら)うとはその人生を問うということなのもわかる
一体この人の人生は何なのだったとか問うことになる
カルト宗教団体であれ共産党であれある団体組織に属した人はその属した組織団体が人生だったとなる、でも個々の人生があり何か不思議なのは人が死んだ時は個々の人生が問われる、創価であれ共産党にであれまた他のカルト教団に入っていたということで自慢にならない、そこで評価されたのはただ一票となるとか数として数えられることだからであるでもその人の人生となると個々の人生として評価される
日本民族の一員として死んだといっても誰も世界で評価しないだろう
一例としてもし芸術作品を世界に通用するものでも残したら評価されるとなる

この人の一生は何なのだったろう?

これが問われるのである、でも死に方に成仏することにこだわるがそれはあまり関係ないようにも見える
なぜなら近くで死んだ人はその人生は本当にいい加減だったからであり罪深いともなる
でたらめな人生であったからだ、それでみんな嫌っていて葬式もなく終った
近くでも誰も惜しむ人もなかった、でも死ぬときは簡単に死んだのである
迷惑もかけず死んだのである、だから死にざまより人間はその人がどういうふうに生きたのかが問題になる、成仏するというときむしろその人の人生が有意義なものとなっていたとき成仏する、だから死にざまとは生きざまのことでありどんなふうに死ぬのかとはさほど関係ないとみるのである

それにしても人生も終わりになると本当に短い、あっという間だったとさえなる
そんなに短い時間しか人生にはなかった、そしてみんなわずかの時間この世にいるだけである、そしてこの世から消えていく、すると人はなんのために人と出会ったり別れたり
そもそもなんでこの世にいるのかもわからなくなる
一瞬の泡のように生まれて消えるともなる、人生とはそんなものかとなる
何かもっと重々しいはずであるとなるが現実はその生は何するにしろはかないとなる
有名な人もみんな消えてゆく、何か手にとる本が30年前とかなりその作者はほとんど死んでいるのである、すると死者が残した物は本でありその他その人の人生を知る術もないのである
だから死んで何が残るのだろうともなる
本でも残している人はいい方である、普通人は家族でも死ぬと急速に忘れられてゆく、何か定かでない幻のようになってしまうのである、家族でない人はそんな人いたのとなってしまう
その人の存在すら本当にこの世に存在していたのかも定かでなくなるのだ


2021年05月08日

人生を決める時間が短すぎる (30代でほとんど人生は決まる、婚期も30歳まで)


人生を決める時間が短すぎる

(30代でほとんど人生は決まる、婚期も30歳まで)

「結婚を急いでもうまくいくケースはあると思います。だけど私の場合はダメだった。急ぎすぎて相手をちゃんと見てなかったし、結婚したとたんに、あれ、これが目的だったんだっけと妙な気持ちにもなったし。何がしたかったんでしょう、私」

どうしても30歳までに結婚したかった女性。スピード婚から破局にいたるまで

結婚でもそうだけどその原因は何なのか?
結婚もしない自分が言うのは変だけど結婚だけではない、人生全般のこととして共通したものがあることに気づいた

人生は短い

チャンスは一回

青春はあっという間に過ぎ

婚期も短い


なぜ若い人に特に女性に婚期を言うのか、結婚を急がせるのか、それは女性の美貌でも若さでもその盛りが短いからである
30歳となるとおばさんだとか相手にしなくなるとか言われる
すると30歳までになんとか結婚しないといけないとあせる
ここで例にだしたのはそうである、30まで結婚しようとしてあせっていたのである

結局人間の一生が30までにほぼ決まるというのもそうである
そんな早い時期に決まってしまうのかとなる
人生は長いからチャンスはいくらでもあるとか思ってもチャンスは一回だけだったとかなる
結婚でも実際はそれほど出会いがないしチャンスもないのである
だから相手を良く見極めるとかの時間もないから判断を誤る
そうなるのは婚期でも短すぎる、青春は短すぎる、そういうとき未熟で判断するから失敗するとなる、それで離婚が三分の一もいるとなる
人生の速さは30過ぎるとわかる、そこからだいたい人生が決まり方向が決まってしまうからである
いくらでも人生にチャンスがあるとかやり直しができるとか言うがそうはならない

人生は一回でありやり直すことができない

これが厳粛な事実だったのである、確かに別に学ぶことは人生が終わるまでつづく
でも人生を決めるのは30までてありその後はすぐに40才になりもうおじさんだよとかなる、40才で人生が終わりに近づいたと自覚する
何かその頃白髪生えたりするし40才になるともう転職などしにくいのである
会社では若い人を採用したいからである
それで氷河期世代などは40とかなるともう正社員になることが不可能にもなってしまうその数が多いからまた社会的影響が大きいのである

つまり40才になったらもうおじさんであり老人に向かっているとさえなる
だから40代とかの氷河期世代はあせる、でももうどうにもならなくなっているのだ
これは時代の犠牲者でもありかわいそうだったとはなる
でもどうにもならない、時代の犠牲者というとき戦争で三百万人死んだ人達もそうだからである
人間は時代の子でありそれぞれの時代を生きるほかないのである 

人生を決めるのは30歳まででありそのあとは30歳までしてきた決めた道を行くことになる
つまり進む方向が30までに決まる、女性も婚期はほぼ30まであり多少は長くなっていてもそこを過ぎると結婚はできなくなる
意外とどういう方向に行くの決めることは大事である
方角でも方向を間違うと目的地につけないのである
東を目指していたのに北に行っていることが普通にありそうなると迷うことになるからだそして目的地につけないとなるからだ
赤軍派は飛行機をハイジャックして北朝鮮に亡命した
そしたらもう二度と日本にも帰れなくなったが帰りたいとして戻った人もいる
でもすでに老人になって成人した子供までいたのである
その人の一生の方向はハイジャックしたとき決まったのである
その方向をもう変えることはできなくなってしまったのである

こうして人生を決める期間が短すぎることで失敗する、結婚もそうなのである
まずその人にとって最適な人間など普通いないからである
男女ともいない、するとどこかで不具合が必ず起きてくる、そして嫌だとなり離婚する
離婚しなくても実質離婚状態の人もいるというのもわかる
たいがい女性だと子供ができて別れられないとかなり嫌でも離婚しないとかある
でも子供が成人すると熟年離婚にもなるのもわかる
もうがまんできないとなってそうなる
離婚しなくてもあの人の結婚は失敗だったとかみる、いびつな夫婦になっていたからである、結婚する相手によって女性も変わる、夫婦もそうしてともに曲がった夫婦となったのかもしれない、そういうふうに離婚しなくてもその人の結婚は失敗だったともみる

いづれにしろ30までに人生の方向が決まりそのあとは人生は簡単に変えられないとなる
自分にしてもそうだった、20代で就職せず無職であり遂に家庭環境にめぐまれて旅ばかりするようになったのである
20代で正社員とかまともに職につかないものは一生そのままになる傾向があるのだ
一旦引きこもりとかニートになるともう容易にぬけだせないということにもなる

つまり一生引きこもりになる!

そういうふうになった人たちが多いこともわかる、何か職業につけといってもできなくなっているのだ
それで小人閑居して不善を成すともなる、何か犯罪者にもなりやすいのである
そういう人は今までは極少数だった、なぜなら働かないと食べていけなかったからである今は親が援助して働かなくても暮らしていけるとかなりそういう人が増えたのである

ともかく人生を決める時間が余りにも短いということが人間の大きな問題であった
そこで何がなんだかわからず夢中に生きてるうちたちたまち青春は過ぎて30歳になり
すぐに40才になりおじさんだとかなり白髪もはえてきて人生も終わりに近づくとかなる

そしてもう二度とチャンスはない!

また引き返すこともできない、時間をもどすことはできない!

だからこそ信仰でも「若き時に神を覚えよ」「求めよ、さらば与えられむ」とは若い時のことである、いくら求めてその時期をすぎると与えられないともなるからだ
でも若い時はみなん別なことに心を奪われているのだ、女性に心奪われのが普通であり
また何かに心を奪われやすいのである
求道するとき何か若い時は関係ないと思っている、若い時求道するより女性に最大の関心がありさまざまなことに魅了するものがあり夢中になりたちまち青春は終わっている

そして二度と青春は帰ってこない!

カルト教団などでもやめないと一生狂わされてしまい人生を無駄にする
そんなところは宗教とか求める場ではないからだ
でもそれが見えないのである、そうしてオウムのように悲惨な結果として人生を浪費して終る、他でも宗教団体などはみんなそうなのである、一番宗教と無縁な場所が宗教団体だというのも現実なのである、ただ創価などは社会から公認されているから余計に道を誤るそこも巨大な宗教の詐欺集団だともなるからだ、そうした巨大なものにはだまされやすいのである、他にも保険会社とか大企業でも銀行でもゆうちょすらそうだった
経営が苦しくなりいかがわしい金融商品を売りつけていたからである
第一国家自体が国民をだますということがある、それが原発事故だったからである
権力で安全神話を作ったのは国家でもあったからだ
社会に公認されていても何かそこが正しいとは限らないのである
それはナチスをみればわかる、国民全員が認めていたものだからである

何か老人になっても70過ぎても空間はやはり移動できるから体験できる
だから一度旅した所にもう一度行けないことはない、その時本当に新たな感動を覚える
そこに同じ場所にありえたとういことで感動する
なぜなら次はその場所にいない、あの世に逝ってしまうからである
同じ場所でも年齢によってまた季節によって違ったものに感じるからである
でも時間だけは戻すことができないのである
それで江戸時代にもどることはできない、そこには想像でしか行けない
それで必ず大きな誤解が生じる、その過ぎ去った時代を経験できないからそうなる
本当にタイムマシンで江戸時代にでももどれば意外だったとなる
そこではいくら本でも映画でも見ても全く違った現実に遭遇して驚くのである



2021年04月05日

チャンスを逃す人生 (チャンスは時間は取り戻すことはできない)


チャンスを逃す人生

(チャンスは時間は取り戻すことはできない)

人間は常にチャンスがある、何かをする時間がある、でもそのチャンスも時間もたちまち消失してゆく

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、コヘレトの言葉


神を知るべき時がある
結婚するべき時がある
学ぶべき時がある 
仕事を覚える時がある 
成功するにも時がある
体を鍛える時がある
善を成すべき時がある
苦しむ時がある
楽しむ時がある
出会うべき時がある
旅をする時がある
・・・・・・

こうして様々なことするべきとか学ぶべきとかある、でもそのチャンスを逃しているのだだから老人になるとあの時こうしていれば良かった、あの時学んでいれば良かったとか後悔だけになる
それはチャンスとか時間がいくらでもあると見ているからである
でも何かをすべきチャンスが思った以上ないしまた時間もないのである
だから貴重な時間を逃しているのだ、若き時神を知れというときもそうである
神を知るのは経験を積んだ老人が知るのかと思っている
でも最も血気盛んな時神を知れと言っている
これも意外なのである、そしてその時期を過ぎるともう神を知ることが不可能だともなるのだ、これは怖いことだったとふりかえる
神を知るチャンスとか時期は極めて限られているのである

ともかく結婚でも常に親でも娘とかでも婚期を遅れないようにうるさく言うことがわかった、それは婚期もたちまち過ぎる、そうなると女性としての魅力がなくなり結婚できなくなるということを親は経験しているからそういうのである
男でもやはり婚期があり時期がありそれを逃すともう結婚するのはむずかしくなる
今は何かニートとかまた結婚しない人が氷河期世代とかあり多くなった
その人たちは40とかすぎてゆくと結婚はむずかしくなる
男性でも二十代から30代までが限度だとなるからだ
つまり時間が過ぎてゆくのが思った以上早いのである

人間は何か良いことを善を積もうとしてもその時間がなくなる、ささいなことでも何か善いことをして他者のためにしてみる、そういう時間もなくなる
結局何もせず善を積まずに終わる
何か駅で案内のボランティアをしたけどこれもたまたま駅が無人化して頼まれてしていたそれもまたできなくなった、コロナウィルスで接触しにくくなったからである
だからその時認められなくても何か駅のことで経験したから良かったとなる

つまり何かささいなことでも人はチャンスを逃している
何かすべきことをしないで終わっている
親のことでも親はいつか死ぬ、別れる、すると介護でも苦しいのだけど十分にしていたらなと死んでからふりかえる人がまた多いのである
なぜそうなるのか?それは二度と親でも死んで逢えなくなるからである
それで冷たくしたりすると後悔することになるので介護の問題は難しいのである
この世に出会うということそれは親ですら短いものとなり遂には永遠に合わないともなるすると逢っていた一緒に暮らした時間が貴重だったとなる
たたこれはあらゆることに言える、人間はチャンスも時間でも限られたものしか与えられていないのである

だからこの世で一番無駄にしているのはチャンスと時間である
誰にでもチャンスがある、ただそれを逃しているだけなのである
第一それがチャンスだともわからないことも多いのである
もしこれはかけがえのない人生には二度とないチャンスだと思ったら後悔などないからである
今勉強しなければ後は時間がなくなるとかも思わないのである
こうしてチャンスでも時間でも消失してゆく
そして老人になり誰でも後悔しているのである
それはチャンスとか時間がいくらでもあると思うからである
でも青春などはたちまち夢のように過ぎてしまうのである
そうしてみんな愕然としているのである

一番の後悔は時間を活用しなかった、チャンスを活かせなかったことなのである
そして時間は平等に与えられている、そこに差別はない、ただ貧富の差でチャンスがある人とない人がある、留学となると金がかかるから金持ちしかそのチャンスが与えられないということはある
でも留学だけが人生ではない、他にもいくらでも経験すること学ぶことがあるからその方でもチャンスは与えられている、時間も与えられている
ただなんでもそれを活かすことができないのである
何かを常に活かそうとしていればそうはならないのである
人間は必ず時間を無駄にしている、活かしていないからである

不思議なのは泥棒であれ悪を成すにもチャンスがある、悪事を働くチャンスをうかがう
それも偶然ではなく目的があってする場合、虎視眈々とねらっているとなる
また動物だと獲物を常に虎視眈々と狙っている、それは真剣そのものである
しかし人間そのように虎視眈々とチャンスをねらっていない
何か平々凡々としまりなく時間がただ無意味に過ぎてゆくのである

そこでチャンスがあってもチャンスを逃すのである、動物は獲物を得るチャンスを逃すと餓えて死ぬことがある、だから真剣だとなる
そうなるのは獲物を貯えることができないからである
日々の獲物をねらって食べるほかない、すると日々虎視眈々と獲物をねらうことになる
そこにチャンスを逃すまえという緊張感が生まれている
人間は何かそういうふうに日々生きていない、別に食べるものがすぐなくなったりしないからである、そして日々緊張感もなく生きているとなる
ただ動物のようになっていたら何かまた絶えず獲物をとるために追われて疲れるともなる
とにかく動物はこうして日々獲物をとるチャンスをうかがっている
でも人間はそんなふうにしてチャンスをとらえようとはしていない

要するに千載一遇のチャンスがあってもそのチャンスを逃す、それはチャンスと見ないからである、そして二度とそのチャンスはなくなる
つまり明日またチャンスがあるとして逃しているのである
でもその明日は遂にこなくなるのもまた早いのである
だから求道でも早い時期からしないとできない、老人になって悟るとかは別である
それで若きうち神を知れとなる、でも若いうちは飲めや歌いやとか享楽に走る
また性欲のために費やされる、そのうちたちまちに老いてしまうのである
40になったら白髪がでてきておっさんとか言われるのである
女性でもその美貌もまた衰えてゆくのが早いのである  

例えば料理でもこれが経験していれば家族が失ってもできる
でも全然経験しないとできない、第一買い物が結構むずかしいのである
十年くらい一人でしていても買い物がわからないのである
何を買っていいのかわからない、そして料理もできないとなる
それだけ料理できるようになるには時間がかかるのである
そういう経験をしていればこうはならなかったのである
ただこうしてパソコンで文章を書けるのは親指シフトを経験しているからできる
パソコンだってこれを使いこなすにはそれだけの時間が必要になる
結局何でもある程度経験していれば身につくから一から始めたらできない
老人になればもう何か新しいことができても苦しいとなるのである

世間的なことでも株などは若い時にするべきものだったのである、額は少額でも訓練していれば良かったのである、それが60以上とか70以上になってやるというのはリスクになる、株は十年単位で見れば必ず下がっていてもあがる、また上がっても必ず下がるという規則のようなものがあるからだ、すると10年くらい放っておいてもいいやとかなり様子を見ていると上がるのである、だから本当にリーマンショックの時半分に下落した株をもっていたら二倍のもうけになった
それと最近でも株が下がった時買わないかと来た時買っていればこれもこんなに高くなるとは思わなかったから失敗だった
それは自分自身で株の経験がないから銀行の営業の人にまかせたから失敗だったとなる

もし若い時株をしていたら経験しているからもうけられるということがあったからだ
ただそういう経験していないから銀行でも他人まかせになったから失敗したとなる
こうして何か経験していないことをすることはリスクになる
他人まかせでは成功しないのである、株でも経験する時があったとなる
何かする時があったが逃していたともなる、それはあらゆることに言えるのである
その最たるものが神を知ることを逃していることでわかる

こうして人間は何か成すべき時に成さない、それが後で失敗の元となる
結局何かを成すべき時が限られている、チャンスも限られている
だから様々なこと時間でも無駄にしてチャンスもものにできないのである
日々緊張感をもってチャンスでもものにしようとして時間を有益に使うという心構えがあったらこうはならなかったのである、それはただみんな最後は後悔しない人は一人もいない、そのことがわかるのは遂に死ぬときだとなる
それが否が応でも思い知らされるのである 

死ぬことを老人になってから考えて遅いのである、若き時に死は何なのか知らねばならない、人間はいくらでも親でも他人でも死に接している、すると死のことを一番恐怖するからである、もう老人になると同世代でも日常的に死んでゆく
そして永遠に逢わなくなってしまうのである
死ぬにも時があるというとき人間は死ぬべき時でもだらだらと生き続ける
それが何かいいようでかえって苦しみをもたらしている
人間は死ぬべき時に死なない、現代は長生きになりそうなりやすい、死ねない時代だとなる、それはかえって無益に生かされているから若い人に早く死ねとか言われる
ただ百才まで生きても意味ある生はある、ただ無用化して廃人のようになっても生きている人がいる、それは迷惑だとなってしまう
だから婚期を逃すと同じく死期を逃したともなる、それは本人にとっても周りの者にとってもいいものではない、それぞれの人生が立場があり一概には言えないがやはり死期というのもある、その時を逃すとまたかえって苦しむだけだとなる


2021年02月24日

人生は何に時間をかけたかで決まる (時間は限られているからーそして老人はみんな後悔している)


人生は何に時間をかけたかで決まる

(時間は限られているからーそして老人はみんな後悔している)


時間というのは意識しにくい、時間の貴重さを意識しにくい、でも確実に時間は消失してゆく、時間が消失してゆくことは金を使うのとは違う、金だったら十円で損すると損したという気分になる、でも時間はそうはならないのである
だから時間の貴重さを意識しにくいのである
でも時間は確実に日々消失して最後はなくなる、その時は死ぬ時だとなる
老人になればわかる、みんな後悔している時何かをしなかったとか時間を有効に使わなかったことの後悔なのである、時間を無駄にしたことの後悔なのである
そして人生とは何に時間を費やしたかが人生になってしまう

仕事にしてもその人の資質とかは関係してもある仕事を覚えるにしても時間がかかる
あらゆることに時間をかけることはできない、すると人間はあることに時間をかけたものがその人を作りそれが人生だったともなる
職場でもそうである、そこで時間を費やせば時間をかけたのだからその職場の仲間であれ仕事であれ人生だったともなる
ともに仕事をしたとかもあるが貴重な時間をともに過ごしたということでもある
だからあまり転職をしない方がいいというのは会社でも仕事でも覚えるのに時間がかかるそれで転々として職場が変わるとスキルも身につかないとなる
ある仕事を覚えるのにも時間がかかるからである
そのために派遣と非正規の仕事はスキルが身につかずに終わるからいい働き方ではないとなる

例えば

100=A+B+C

とある、100が時間である、すると100の時間があってもABC に時間を分散していたら何か一つにAに100を費やすのと30とかに時間を分散させるのでは相当に結果的に違ったものになる、才能とか資質があっても問題はどれだけ時間をかけるかで決まる
いくら才能があってもあらゆることに通じることはできない、時間をかけることできないでも才能がなくても一つのことに時間をかければそれなりのものになる
結局人生は何に時間を費やしたかで決まる、そして最後はみんな時間切れになっているのだ、もう何かに費やす時間がなくなるのである
そしてみんなこれぽっちで終わりなのかとショックになる
おそらく百才生きてもそうなる、時間はみんな限られているし平等にしか与えられない
ある人には200とかある人は100だとかならない、金を不平等に与えられても時間は平等に与えられている、だからいかに時間を活かすかで人生は決まるとなる

自分のように定職もなく旅ばかりしていたら旅が人生ともなる、でも現代に旅人はいないということを書いてきた、すると旅人となることは特殊なことでありみんなが経験できることではないともなる
現代の旅は移動するだけである、車で移動してうまいものを食べるとかになる
旅人とはなれないのである、それはアウトサイダーになってしまうのである
でも旅人になることは旅に時間を費やすこともその人の人生だったとなる
それで芭蕉の俳句が生まれたりしたのである

だから何十年も一緒に生活して離婚することである、晩年になって夫が退職したりして
離婚する、それが理解できないのである
では新しい人間関係とか互いに理解するにはまた時間がかかる
人間は何をするにも時間がかかる、人間でも親しくなるには信頼を築くには時間がかかるそれで使用人でも十年とか勤めていると信用されるようになる
それだけの時間がそうさせたのである、時間が限られているのだからまた別な人とやり直すのは時間がかかる、だから離婚することはもったいないとなるが現実は三人に一人とか離婚しているのである

つくづく自分は若い時から株をしていれば良かったとなる
でも団塊の世代とかその下でも別に貯金していれば利子がついたのだから投資をする必要もないし学ぶ必要もなかったのである
だから今の老人は貯金していれば安全だという意識がありしないできないのである
経験がない株に時間を費やした時間がなかったからである
株に詳しくなるにしても時間がかかるのである
だから株は長期的にみれば上がり下がりがあってももうかるとなる
でもそのスキルを会得するには時間がかかる、それで銀行の営業の人がすすめられたらまかせるとなってしまう、それで損したのである

つまり何でも習熟するには時間がかかり経験も必要であり簡単に覚えられないのである
それは個々の仕事でも簡単な仕事でもそうである、仕事を覚えるのには時間がかかるのである、それで自分には合ってないと思っていても一つの仕事に時間をかけてしていればその仕事に詳しくなる、プロになるともなる
まず家事でもこれを習熟するには時間がかかると思った、未だに料理ができないことでもわかる、それだけ習熟するには時間がかかる
そして人間はいろんなことに習熟できない、時間をかけるものは限られているから最後はこんなわずかなことしかできなかったのかと驚くのである
若い時は何かを成しうると思っていたのは無限に時間があるかと思っていたからである
また暇に感じるのもそうである、でも確実に時間は消失してゆく
最後は老人は金より時間が黄金のように価値あるものとなる
なぜならそもそも生きる時間が消えてゆくからである
日々何であれ見納めだとかなってしまう、末期の眼で見ることになるからそこにいるということだけでも貴重な時間になってゆく
その感覚が若い時はわからないのである

もし老人のような境地になっていたら時間を絶対に無駄にしなかっただろう
でも若い時は時間の貴重さがわからないのである
最後になってわかる、それでみんな後悔しているのである
そして最後はお別れだけが人生だともなる
本当にこの世で人間が逢うということは何なのか?
これ自体不思議だとなる、なぜならこの世で逢ったとしても永遠に死ねば逢わなくなる
家族もみんな死んでもう会えないとかなる、死んで逢うことの貴重さを知る
でもみんな逢うことの貴重さを自覚する人はいないし何か逢うということが何か意味を見出していない、ただ通りすぎてゆくだけだとかしかない

とにかく人生でも最後になるとあっという間に終わりだったとなる
それが否応でも自覚させられるのは老人になってからである
これぽっちで終わりなのかと驚くのである、そして信仰でも若い時汝の神を知れというときもそうである、若い時求道しなければあとは神を知ることができないというのもショックである、悟りとか信仰は老人になってからでいいとかなる
でもこれも老人になってからは時すでに遅しとなっているのである
要するに神を知る機会を失っていたのである
そしてその時間をがもう取り戻せない、失われた時間を取り戻せない

それはあらゆる面で言えるのである、こうしてみんな後悔しない人はいないとなっている
だから若い時は実は老人をみることである、老人を知ることだともなる
老人の言っていることを参考にすべきだとなる
同世代では人生がどういうものかわからないからだ
時間が貴重だとか同世代では感じないからである
人生の結果が老人に現れる、ではどうしたらいいのかとなると老人を知り老人の言うことに耳を傾けることだともなる
説教を聞くのが嫌だとかではなく、それは自分自身のために聴くのである
つまり若い人もみんな老人になるからだ、だからその時みんな後悔するけどなるべく後悔しない生き方をする、それは時間が消失してゆくことが一番の人間の問題だと知ることなのである、時間を浪費することが最大の後悔となるからである



2021年02月08日

最後は記憶が人生になる (場所と一体化して記憶されるー家と一体化して記憶されいる死んだ母ー墓の意義)


最後は記憶が人生になる

(場所と一体化して記憶されるー家と一体化して記憶されいる死んだ母ー墓の意義)

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the fixed place for memory




仙台市に行ってヨドバシカメラのカードを忘れた、でも実際は財布に入っていたのである

これが忘れた原因は何であったのか?

カードが多すぎてわからなくなったこともある、それよりヨドバシカメラのカードをいつも部屋の手の届く所に置いていたことが記憶となっていたのである
ヨドバシカメラのカードはその場所にあると記憶していた
それをいつも見ていたからである
でも実際は財布に入れていたのである

つまり記憶は場所と関係している、カード単体で記憶しているのではなくその場所が関係している、場所と一体化して記憶している
人間は何か単体では記憶しにくい、何かと関連して記憶している
ABCとあるときAだけ単体として記憶しにくい、原子でも結合して一つの物になる
人間の記憶のメカニズムは機械と違う、一つの場面でも単体では記憶しない
家を記憶するにもその周辺の情景から記憶する
田んぼの中に家があるとか線路の脇に家があるとか坂の上に家があるとビルがあって家があるとかその家の隣の家があって同時に記憶する
家一つを単体では記憶していないのである
何か記憶して思い出す時でも単体では思い出せない、その周辺の情景があってつないで思い出すのである

例えば緑がありその中に赤がある、緑として単体で記憶されないのである
赤、緑、青とかあって赤が記憶される
それは極めて人間の記憶のメカニズムとしてある
人間の特徴としてとにかく忘れやすいのである、そのためになんでも記録しておけというとき忘れるからである、そして忘れるということは何なのか?
それがあっても存在しないことになる、認知症になると子供の名前すら忘れる
すると自分の子どもなのに「あなたは誰ですか」というときその自分の子供さえ存在しないことになる、記憶されないことは存在の否定なのである

それは人間に認知症でなくても常に起きている、とにかく人間は忘れる
人間は死んだ時点でその人は肉体も消えるから忘れてしまうのである
そんな人いたのとまでなってしまう、肉体を実在しないのだからその存在さえないものとされる、忘れられるのである
それでいかに記憶することがまた歴史では記録することが大事なのかを知る
それで文字が発明された過去に起きたことを記録したことが文明を作ったともなる
その文字が神聖なのはヒエログリフとなったのはまさに記録したものが神聖だとなるからだ、もし文字で記録されていなかったら過去の文明も謎になる
エジプト文明は文字で記録されていたからなんとか解明できるとなる
マヤ文明とかは文字がないので謎になりジャングルに埋もれたとなる

そしていかに記録が大事なのかを知ったのはこの辺の津浪だった
相馬藩政記に生波で溺死者700名あったと記録されていたのである、生波(いくなみ)とは津波のことだった、その時津波という言葉はなかったのである
これはたった二行だったがこの記録ほど貴重なものはなかった
なぜならそれを知ったのは津波の後だったからである、誰も知らなかったのである
そして400年前に津波があったということを知らないからこの辺では津波が来ないとしていたのである、もしこのことを知っていたら警戒していたとなる
だからこそ天災は忘れた頃にやってくるとなる
それだけ人間は忘れやすいのである
自分自身膨大なものをプログに書いたけどその自分で書いたものを忘れているのである
そして読み返して自分自身が感心しているのも奇妙なのである

いづれにしろどうしたら記憶するかということが意外とあらゆることで旅ですらそうだった、どんなに旅しても記憶しているかいなかが大事になる、何が記憶されるか大事になるもし記憶されないならそこに行ったということなかったとまでなる
実際に行ったとしてもそうである、団体旅行した人はどこに行ったかわからないと言っていた、その場所に行ったことすら覚えていないのである

ともかく人間の記憶が単一ではなく場と結びついて記憶される
それで寝る時、広い八畳間で寝ている、そこに本を置いてある、するとき寝る時毎日その本をがそこにあり見ているからその本の内容も記憶していることに気づいた
場と一体となり記憶が定着している、でも本がいくらあってもみんな記憶できない
本がありすぎるとまたどこに何が書いてあったかもわからなくなる
それだインタ−ネットだとキーワードで検索できるから便利なのである
蔵書でもそれができれば便利になる、なぜなら前に読んだ本もたとえ赤線でも引いても忘れていたのである、本を読んでもは忘れてしまうのである

人生をあとでふりかえるときとにかく記憶したものを語る
でも旅でも記憶していなかったら存在しないと同じになる
そこに旅したともならないのである、でもいくら旅しても人間は忘れる
そうなるとせっかく旅したのにその経験も無駄だったともなる
記録と記憶は違う、記録は何かあったことでも機械的に記録することである
でも記憶はその場から全体から思い出すのが記憶なのである
ただ記録したことから記憶が蘇ることがあるから今ならデジカメでもいいから印象的な場面を記録する、フィルム時代と違うからそれは後で思い出すのに効果的だとはなる
でもそれは他人にとっては一場面であり部分であり全体ではないから記憶とはならない
だから何かテレビの旅番組を見ても旅したとはならない
それは一部分を切りとったものだからである
そこに行くまでの行程も旅でありそれが省かれているから旅を経験できないのである

人間はとにかく親しい人でも死んだりしたらただ忘却があるのみだとなる
それで死んだ人でも場所と結びついて記憶している
百才で死んだ母のことを書いてきた、その母がいた場所がありその場所に自分が座っていると不思議になる、そこに母は70年とか座っていたからである
するとそこに母がいるような感覚になる、いつまでもそこにいる感覚になる
その場所から離れずいる感覚になる、形は無いが確かにいるとなる
結局それだけ長くいたからその場と一体化したのである
それで嫁とは女と家のなのである、家と一体化して記憶されている

そして墓とは何かと言えば記憶を物体化したものである
墓に来て死んだ人を思い出す装置なのである、それは人間は死んだ人を忘れるからであるそれでいつも母の実家の墓参りしたときそこに肺病で27歳くらいで死んだ人を思い出すのである、この人はかわいそうだったなとみる
でも今は墓参りもしていない、その墓を継いだ女性が異常人格者だから怖くて行けなくなったのである、母の実家はもともと分裂不和の家だったからその後にのこされた人も分裂不和になったのである
そうなると自分自身からもその実家のことは忘れる、墓参りのときは思い出すがそれなくなったからである、とにかく墓参りとは死んだ人を記録する場であり思い出す場所だということである、場所と結びついて思い出すのである
だから墓がないとさらに死んだ人は忘れられる、全く存在しなかったともなる
そういう人も多いのである、墓の効用は記録して死んだ人を思い出すということにあったからである

2021年01月31日

親鸞の千人殺せの意味 (凶悪犯罪者でも罪の意識がないー受刑者のリアル)


親鸞の千人殺せの意味

(凶悪犯罪者でも罪の意識がないー受刑者のリアル)


刑務所で無期懲役とかなった人を取材していた、それで意外だったのは残酷な犯罪でも
その本人は罪の意識がない、たまたま運が悪かったとその場に居合わせたのが悪かったとか言っている、そして30年の刑務所に入っていても出所することを願っている
それだけの犯罪を犯したのだから何か罪の意識をもち反省しているのかと思うとしていない
でも犯罪者でもみんな罪の意識をもっていない、自分が悪いと思っていない
むしろ相手が他者が悪いと思っている

つかまったのが失敗だった!

それが余りにも残酷な犯罪を犯してもそうだったのかと意外だったのである
人間は人を殺しても罪の意識を持たない、罪の意識を持てないのである
ほとんどの人もみんな善人だと思っている、何か自分等もそうである
悪人と思っている人はほとんどいないのである
それが残酷な犯罪を犯していた人でもそうだったとすると軽犯罪になると全然罪の意識はない、盗みでも強盗犯罪でも罪の意識がないことに驚いたからである
そしたら軽犯罪で罪の意識を持っている人はいない、たまたま捕まったのが運が悪かったと思うだけである

ただそれにしても30年も刑務所に入っていたら反省するのかとみるがしない、それが理不尽だとも思っている、だから人間は必ずしも刑罰を与えても罪の意識を持たない
だから宗教で不思議なのは全然罪も犯していないのに私は罪の頭だとかいう宗教者であるパウロなどがそうだし優れた宗教者はそうである

親鸞が千人殺せ!

こういったのは人間はそれほど残酷な犯罪を犯しても罪の意識をもたないからだとなる
なぜなら一人殺してももたない、ては千人殺してみろということでとはないか?
そうすればその残酷さで罪の意識を持つともなるからそう言ったとなる

ただ人間は最後に俺は悪いことしてないと言って死ぬ人が多い
何かそういうのは後ろめたいことが誰でもあるから最後に罪の意識がでてきてまた何か悔いてそういうとなる

継母で子供を残酷にいじめた人が最後に「悪かったな」とその子供に言って死んだ
それはもうずいぶん年になってからである、でもそうなったのは眼が悪くなったりひどい状態になり助けもなくてそう言ったともなる
でもなにか人間は最後に悪いことをしたことを恐れるということはある
でも終身刑になるような人が罪の意識をもたない、むしろ運が悪かったとかなり自分の責任にしていないのである

こういうのを見ると人間で自分が悪人だと自覚している人はすでに罪の意識があり優れた人だとなる、自分が善人だとしている人は実は悪人だとなってしまう
でもほとんどの人は善人だと思っている
でも世の中で地位をもっていたり金持ちだったりする人は何か悪人であるかもしれない
でもそれだって悪人だと思わない、弁護士も意外ともめごとにかかわっているから
法外な金を得たりする、相談しただけで百万もとった弁護士がいた
これも悪人なのだけど責められない本人も罪の意識もないのである

だからなんであれ罪の意識をもっている人は人間として優れているともなる
俺は善人だとか言う人は実は悪人でありそういう人がほとんどなのである
それは自分にも言える、とにかく罪の意識をもつ人はまれなのである
だからそれだけでその人は救われているともなる
それで親鸞が千人殺せといったともなる
ただこれを理解することはむずかしい、それだけ人間は罪の意識だとか自分は悪人だと思わないのである

人間は何か苦しむ時なぜ苦しむのだろうと考える、でも苦しまないと全然考えない
何か苦しむ時、罰だとか何に原因があるのかと考える
それはカルマだと認識する、苦しむ時カルマを意識する
それは自分自身が家族の介護の苦しみで意識したからである

家には必ずなにかしらのカルマをどこの家でも背負っている、それが苦しみとなって現れると思ったのである、なぜこんな苦しみにあうのかとなる家でもカルマがありそのために苦しみを背負わされたとなる
ただ刑務所に入っている人が終身刑の人でもそうした罪の意識がない、カルマを感じないというのもわからないのである
刑務所の生活は不自由でもそんなに苦しみを感じないからなのかともみる
ただ30年刑務所に入っていてもいつか出たいというのが希望なのである
でも別に罪の意識はもっていないとなる

人間の逆説として(俺は悪人なんだ)と思っている人は実際は善人だということになる
ボランティアなどでも何か経験してみると俺は善人なんだ、だからほめられるべきだとなる、そういう意識が前面に出やすいのである,ボランティアしているから善人として認めろということである
でも人間がもし悪人だとすると俺は悪いやつなんだ、だからいいことは何もできない
ただ罪を悔いるだけだとなる
でもたいがい人間は俺は善人なんだとしかないのである
何か団体で行動するにしてもそうである、カルト教団で何か俺は悪人なんだなどと懺悔する人なと一人もいない、ただ御利益御利益しかないのである
それで何か苦しいこと損することがあると罰当たるとかしかないのである
その教祖も大善人であり悪人だなとと思いもしないのである
だからこの世の大善人は実際は大悪人であり悪人と思っている人は実は善人だという逆説になるのである

2021年01月22日

プラスがマイナスに働きマイナスがプラスに働く (コロナウィルスで引きこもりの時代になるのか?)


プラスがマイナスに働きマイナスがプラスに働く

(コロナウィルスで引きこもりの時代になるのか?)


その人は体力もあるし大工であり何でも器用でできる、やり手である、話もうまい
悪く言えば八方美人であり器用貧乏にもなる
でもなんでもそうして器用にできることは生活力もありいいことなのである
それが何かマイナスとなるとは思えないのである
でも何でもできることはやらなくてもいいことまでしている
大工で十分に稼げるのに何かしなくてもいい公にもできない仕事もしている
その人は欲のために何でもする、またできるのである

だから人間の謎はそうしていい面でも悪い面に働くこともある
そもそもやり手の人間は悪いことでもやり手になるからだ
無能な人間は悪いことすらできないのである、不器用でできないとなる
でもそれは倫理的な面から見れば悪いことでもないとなる

人間は社会では外交的な人が好かれる、私自身でも外交的でいつも笑っているような人を好む、何か陰気で内向的な人は社会では嫌われる
自分自身がそうである、内向的でありそれで一日ほとんどしゃべられない生活をつづけてきた、つまり引きこもりだったのである
ただそんな生活ができたのは家族に恵まれたからである
それで何ら叱責されることもなかったからである

ただ内向的なことがすべて悪いとはマイナスに働くとは限らないのである
自分はしゃべるのは苦手である、でも文章を書くのは好きなのである
だからこうしてプログだと文章だから書き続けている
一人内向的作業をしているとなる、それに向いているからである
それで引きこもりの時からワープロに通信機のついていたときから引きこもりはじめていた、それが今日に継続している

内向的な人間には内向的なことをする、仕事をするのが向いている、ただ社会では文系とかなると内向的な仕事は少ないのである、営業とかが多くなる
するとそれに向かいない人もでてくる、向かないことをすることはストレスになる
人間にはどうしても何でも向き不向きがある  
機械マニアのような理系の若者がいてそういう人は人との交際か苦手である
また英語など勉強しなくても機械マニアには機械マニアとして生きることで日本を導く者になるというのもそうである
人間ではなく機械相手にしている人でも社会に有益だとしているのだ
猫でも雪を嫌っていると見ていたら雪の中を押し分けて駆ける猫がいたのである
普通は雪を嫌うからである、猫でも何か内向的なものと外交的なものがいるともなる
猫の性格も一様ではないのである

ともかく人間はプラスになることとマイナスになることは表裏一体である
島国となるとそこに孤立しているとかマイナス面があるがまたプラス面がある
何か不利と見えるのがものが有利にもなる、例えば動物でも肉食の強い動物が種的には強いともならない、なぜならかえって草食の小型の哺乳類が繁栄したからである
恐竜などは滅びて小型の哺乳類が生き延びたからである
つまり強さが弱さになり弱さが強さにもなる
必ずしも大国が強いとは限らない、大国は大国の弱点がある、中国のように一つの国としてまとめることができず内紛が絶えないともなるからだ
日本は小国でもまとまりやすいからかえって強いともなっていた
何か強いと見えるものがかえって弱点となり弱いと見えるものが強いともなる

聖書でもかえって弱いと見えたものが強く勝つとかが語られている
ダビデとゴリアテとか弱者が強者に勝つ物語がある、だからどこで強くなるのか弱くなるのか定められないのである   
イスラエル自体エジプトなどと比べると小国である、でも神が選んだ国だったのである
確かに中国でもアメリカでも大国である、でも大国なりの弱点がある
その弱点の故に国がまとめられず衰退してゆくともなる

人間はそもそも何が有利に働くかわからないのである
コロナウィルスでもニューノーマルな生活が言われるがそれは三密をさけることだというのもそうである、常にこれまでは何でも集団化して集まる
でも何か不思議なのは食堂でも居酒屋でもデスタンスをとれとか黙食しろというのもそうである、しゃべらずに食べろ、密になるなデスタンスをとれというのも社会を変えてしまう、それは引きこもりして仕事しろということなのかともなる
家に引きこもり仕事しろという時代なのかとなる
そういうことは総一億引きこもりの時代になるのかともなる

時代によって価値観も変わる、グロ−バル化とは世界とも広く交わるのがいいとみていたでもコロナウィルスで内に籠もる時代になる、内向的になる
中世のような時代にもなる、明治から戦後でも高度成長時代を経て外交的な世界だった
外に向く世界だった、それが内向自体に変化する、それは江戸時代の鎖国のような時代になるのか?
鎖国だってすべてか悪いとはならない、いい面もあった、これからは何か落ち着いた内向的時代になるのかもしれない、動物的世界、激しく移動して動く世界から木や石や山のように動かないものへの移行なのかもしれない
そういう時代の変化にあり価値観も変わる、だから内向的性格がすべて悪く働くとは限らない、むしろニューノーマルの世界は内向的世界であり内向的性格の人にとっては有利に働くともなる

そしてみんなアーティストになれとかそれは内向的世界であり内向的性格の人にとってはいい時代ともなる、何か価値観が内向的なものとなる
人間の内面の追求となるのは宗教とか芸術の世界だともなる
ただカルト教団は外交的なものでありそこで全く内面的もの外交的なものは嫌われる
まず一日しゃべらず黙想しているようなことはありえない、そういうことは最も嫌われる毎日外交的に人と接して票を集めるとか会員を増やすために布教するとか常に外交的なことを強いられるのである、それが会社のノルマと同じなのである
それで会員を増やし票を獲得した人が評価される世界である
だからそれは全く本来の宗教とは違うのである、常に社会にむっかて外交的になり人と絶えず接して一票を得るために活動する、それが権力獲得に結び付くからである
だから宗教とは全く正反対の世界なのである
集団行動して大勢が集まり気勢をあげる、でもコロナウィルスでそれができないから盛り上がらないと困っている

いづれにしろ人間はマイナスとして働くように見えるのもプラスになる
プラスに働くように見えるものもマイナスに働く、だから別に引きこもりすら全部がマイナスに働くとは限らないのである
引きこもりは新時代の新しいライフスタイルだったともなりうる
ただそれが今までとはあまりにも違ったものに見えるから受け入れられないともなった
でももしかしたら引きこもりでも時代を先取りしたライフスタイルだったともなるかもしれない、コロナウィルスがそういう価値観の変化をもたらしたともなるからだ

そもそもブラック会社とかまたカルト教団であれ組織集団でも雇われて働くこと自体馬鹿らしいのである
雇う方にとってその人がどんな人でもいいのである、だからロボットの方がましだとなりAIとかロボット化する、雇う方ではその人間にどんな資質があるとか見ない
計算しているのは自分がもうけることであり雇う人間はコストでしかないのである
もう人間とも見ていない、都合よく使うロボットなのである
人間が働くことは自分の資質を活かして自分のあったことをして何かを成し遂げることである、雇う人はそんなことを考えない、自分の都合いいように働く人である

それでロボットの方がましだとなったのである
つまり人生とは何かとなればその人なりに生きることである
そしてその人なりのものもを達成すれば生きたとなる
ただ雇い主の都合でロボットのように働かせらさせるのは生きたことにはならない
人生を奪われたともなるのだ、そして最後に残るのは何もないとまでなる
多少の金が残ったとしても何かその人なりのものを達成したということがない
ただ雇い主のいいように使われて人生が終わったともなる

2021年01月19日

カルマの法則 (楽した人は後で苦しむー苦しんだ人は楽になる)


カルマの法則

(楽した人は後で苦しむー苦しんだ人は楽になる)

カルマとは実例がありそれでカルマが法則ともなっていることを知る

子供を捨てた親は子供に捨てられる

これも法則の一つである、その人は5歳まで子供を育てていた、でも子供置いて嫁ぎ先から出た、それは理由がありそこは同情する
姑があまりにもきつい人でありそれで出て行ったのである
その後に来た人も出て行った、異常なほど強気の人であり耐えられないとなっていたからだ
でも子供を置いて嫁ぎ先を出たとしても本人は金持ちの家の後妻に入った
だから生活は楽であった、苦労することもなかった
でもその楽したことが何かかえってカルマになったともなる

なぜなら認知症になり頼る人がなく5歳まで育てた娘に頼ったからである
その娘のことは信じられない非情な異常化した人間になっていたことを書いた
その娘がその親をどう思っているかというと金を得るだけのものでしかない
親とか思っていないのである
ただそれが本人にわからない、認知症になっていてわからない
金があってもその金をどうにもならない、その金を目当てに後妻に入った家の跡継ぎと争っている
これも悲惨だと見た、娘と思っていても娘は親と思っていない、ただ金が欲しいだけである、施設に入れていてもそんなふうにしか思っていないのである

なぜそうなったのか?

確かに家をでるというのはやむをえなかったかもしれない、でも子供と一緒に出れば良かったのかもしれない、それができなかった、そして楽な道を選んだのである
つまり楽なことが必ずしもいいとはならない、でも人間は楽な道を選ぶのである
これとはどうにもならない、でも苦しいことを選ぶ選択もある
それが後に楽になるということもある、苦しいけどその苦しさに耐えてのりきれば楽になる

楽は苦の種、苦は楽の種

これなのである、それで若いうちは望んで苦しんでおけとなる、なぜなら人間に生まれたことは苦から逃れられないからである、そもそも生まれたこと自体が苦しむためだともなる、業(カルマ)の故に生まれてそのカルマを解消するために生まれたともなる
だから人間は必ず苦しむようにできている

そして楽なことは苦しむことにもなる、楽なこともカルマを積んでいるのである
この女性の場合は楽な道を選らび老人になって苦しみを受けるようになったのである
意外と金持ちの親は施設にあづけられて子供はかまわないのである
でも子供が親が苦しんで育てとかなるとその親の背を見て育つから孝行するともなる
だから必ずしも金持ちの親がいいともかぎらないのである
つまり金持ちの人は子供を苦労して育てるということがないからである

他人のことをあれこれ言うが私自身も若い時は望んで苦しんだがその後は楽していたのである
その楽が苦に変わった、介護となり苦しむ結果となったからである
だから楽していることも必ずカルマになってくる、人間は何をするにしろカルマを積んでいる、それが自覚できない、でも60以降とかなると必ず自覚させられる
苦しみとなって現れるからである
だから苦しんだ人は後でかえって楽になる

人生も長いスパンで時間でみると違ったものになる、結果がわからないからである
苦しい道を選んでもそれが一生苦しいとはならない、後で楽になる
楽な道を選んだらそれが苦しみとなって後年現れる
だから何か選ぶ時はむずかしい、結婚するにも女性なら金持ちとかとしたとなりともかく楽に生活できる人を選ぶ、でも結果的にそれが楽になるとはかぎらない
女性もどこかで苦しむようになっている、だから苦しい道を選んでも後で楽になることがある

この辺でも農業をするなと親に殴られた人がいた、農業は金にならないとかなり苦労ばかり多いとなりそうなった、でも原発事故以後その子供は親になりその子供が故郷を捨てて帰らなくなった、何かこれもカルマだったとなる
農業を軽んじたせいだったともなる、それは漁業でもいえる
だから東電に漁業権を売り楽な暮らしをしていたのである、補償金で楽な暮らしをしていた、それが事故で故郷に住めなくなったのである

しかし人は長い目ではみない、今良ければいいとか今が楽で贅沢すればいいとしかならないのである
ただ結果的には長い目でみれば「楽は苦の種、苦は楽の種」になる
それは長い目で見てそうなるのである、人間は長い目で見るこがなかなかできない
今が良ければいいとしかならないからである
そして人生の選択でも楽な方を選ぶのである
ただそれがみんな楽になるとは限らないのである、だからカルマの法則がある
いろいな実例を人生で見てゆくとこれもカルマだなと気づくのである

2020年12月18日

権利と責任 (権利を得るものには責任が課せられる)


権利と責任

(権利を得るものには責任が課せられる)

権利というとき利を得るものとしての権利である、でも明治時代に翻訳したとき権理となっていたのである、なんらかのリーズンがあって権利を得るとなっていた
これの方が正しい訳だったともなる、権利はrightでもある、正しさである
でも現実はただ権利となった、利を得るためのものでありその利を得て独占するための権利となる
民主主義でも権利を主張するのは正しいことであり推奨された
とにかくあらゆる人が団体が組織が権利を社会に向かって主張する
それが庶民でもそうなのである、生活保護者でも執拗に権利を主張する、生活保護者でも権利者だからである、もちろんそれを全部は否定できない、でも何か権利ばかりを主張する社会になったのである

原発事故でもそうだった、船主のことを再三追求して来たがこれがわかりやすいからそうなった、漁業権といんう権利を漁師は漁業組合は持っていた
それが権利であり主張できる、それで事故前でも東電から多額の補償金をもらっていたのである、、漁業権を東電に売ったともなるからである
でも漁業権の権利は魚の資源保護とかが目的であり理由なのである
それならもともと原発は海を汚染することがあるから慎重になるべきだったということがある、でも権利となり利が優先されて東電に漁業権を売りわたして金を得ることになったその補償金は事故前でも大きなものだったのである、それで原発御殿が建ったとか周りからうらやましがられていたのである

ところが原発事故で責められることになった、なんで東電などに漁業権を売ったのだ許可したのだとなる、その責任はどうするのだとなった
ただそのことをあからさまに言う人はいない、地元でもいない
ただここでは確かに権利の利を得るためにそうなった、でも今になってその責任が追及された、つまり権利には責任がつきまとっていた
もし権理となっていたらその利を得るにしてもそこに理由があるとなる
その理由は魚とか海産物資源の保護だったのである
もしそうなら簡単に金になる利になるからと漁業権を売りわたすとか許可することはなかったとなる
ただその責任をまねがれるには漁業権でも漁師とかだけのものではない、自治体全体のものとして協議していればそうはならなかった、責任が分散されたのである
でもそうなるとどうしても漁師だけの権利ではなくなり利益を得られなくなるからそうしなかったのである

ただこれこはあくまでも一例でありこういうことは本当に多いのである
どんな人でもとにかく利益を得ればいいとなる、その理由を必ずしも考えない
そんな例はこの世でいくらでもある、利を得るためには不正をしているのが普通だからである
ただ何かの権利を得ることは必ず責任が課せられることになる
この責任の部分が権利からぬけおちているのである、民主主義だととにかく組織でも団体でも権利を主張する、また自由社会だととにかく自由だとなり権利を主張する
だから極端になれば暴力団でも権利があるとして団体で主張したりする
それが今の社会であり漁業権とかはその一つの例なのである

例えば自分の一身上のことだが親戚の人が母の実家の墓を300万円もらって墓を守ってくれとその家系の長男が遺言して死んだ
そうなるとどうなるのか?確かに3百万円もらったからいいと普通なら考える
だからこそ3百万もらったのである
その親戚はもう人間でもなくなっていた、情もなにもない非情な人間になっていた
だから育ての親が病気のときも放っておきその母親は「ひどい娘だわ」と私に電話をして死んだのである、私の家とは疎遠であり付き合いもなかったが自分に余程悔しかったのか電話して死んだのである

そういう人がどうして墓を守ることができるのか?
恨んで死んだ人の墓参りとかでもできるだろうか?
確かに権利として金を得た、でもそこには大きな責任があった
墓など墓参りしなくてもいいということはある、何もしなくてもいいとはなる
でも何か墓参りして供養しないと気味悪いということもある
別に墓を捨ててもいい、現実にそうなる、でも金を得たとしてもそこには責任がつきまとう、それはあらゆることでそうなのである
金を得ることはすべて無条件でいいともならないのである
金には責任が課せられているのだ、それずドラマで金をもらったからと殺人に加担したとなる、その理由は金をもらったからだとしている
金は具体的な責任なのである、だから金さえもらえればいいとはならないのである
でも現実社会では金をもらえばいい、そのためには権利を主張しろというのが民主主義になったのである

こういう例など山ほどあり日常茶判事である、弁護士すらそうだった
交通事故のことで相談に行ったら何もしないのに相談だけで百万払いとなった
それを自分の家で親戚に頼んだ、その人が弁護士を知っているから頼んだとなる
でも相談料だけで百万とることはありえない、でもその人は世間のことがわからず
私の家で払うことになったのである、でもそれは交通事故の賠償金から払ったとなる
そこに自分の家の手落ちもあったとなる
ただ相談するだけで百万をとることはありえないのである
まずそんな権利がありえない、弁護士ならそういうことがわかっていても金を得るためにそうしたのである、たから弁護士自体が利のみで動いているともなる
それがこの世だと言えばそうなる

とにかく権利を主張するのはいい、でもそこには責任が課せられている、でもその責任は無視するのである、それで後で痛い目にあうことになる
それは戦争でもいい、国民がみんな賛成して戦争するのもいい、でもその責任は国民に課せられる、実際に三百万人が死に地獄の苦しみを受けて死んだからだ
戦争するならただ勝つだけを言う、でも負けたら悲惨な結果になる、その責任は甚大なものになった、それで天皇まで責任をとれとなった、広島に行ったらそのことを追及されたのである
地位が高いということはまた責任も重大になる、東電でも事故になったらその責任を追及されたからである、でも実際は原発事故では責任を誰もとっていないのである

「安全神話」を作り安全だというのはいい、でもその責任をとれるのか?
責任問題がここにもあった、人間は必ず責任を課せられている、責任から逃れられないのが人間なのである、それで赤ん坊が泣いて生まれてくるのはその生れたことで責任が課せられているからだというのもわかる
責任がないような人でも何もしなくても責任が問われる、存在していること自体責任が問われる、原発事故ではそこの住民も責任を問われた
その責任は現実に故郷に住めなくなったことなのである、これは大きな責任を押し付けられたとなる、ただその前に原発を誘致した責任が住民にもあったからだ
それを拒否することもできたが誰一人としてしなかった、ただ利にあればいいとしていたからである

小高の大工さんが小高に原発ができると景気良くなるとしか言わなかった
その人は何か大工の腕が良くても利しか考えない人だった、金になるなら何でもする人だった、それはみんな同じである、そこに大きな責任があることは考えないのである
でも必ず責任をとらされるのである
誰かが責任をとらされる、戦争だと国民が三百万人死ぬことで責任をとらされたのである原発事故では故郷にすめなくなるということで責任をとらされた
その責任は飯館村などは関係なかったがやはりその責任は波及してそうなった
これほど広範囲に放射線の影響があると思わなかったからである

とにかく権利を主張するのはいい、でもその権利には責任が課せられている、権利を得ることによって責任が課せられる、その責任は重いものになる
もしその責任のことを権利を得る時自覚していたら簡単に権利を主張することもないとなる、でもそれが意識できない、権利を得て利権を得て得をすることしか考えないのであるつまり日本では民主主義とは各自が権利を追及してまた組織団体が権利を主張して利権を得ることなのである、そこに責任があるのだがそれを意識しないのである
ただその結果として必ず責任を課せられる、その責任から逃れられないのである
だからもしその責任を自覚するなら権利を主張するのもいいのである
でもそういうことがなくただ権利だけを主張するとあとで重い責任を課せられて責任をとらされる

戦争だ、アメリカをうちのめせ、その時誰も三百万人が死ぬことをイメージした人は一人もいなかった、原発事故でも故郷に住めなくなるということをイメージした人は一人もいなかった、でも必ず権利を主張しても責任を誰かがとらされる
東電の幹部は責任をとっていないが住民はと故郷に住めなくなる責任をとらされたのである、何かここに民主主義がただ権利を主張するものであり責任と表裏一体なことを意識していないのである
高い地位につくことはそれだけ大きな責任が課せられる、だからその責任をとれないから辞退する人もいるだろう、そんな重い責任を引き受けることができないともなる

権利を主張するのはいい、でも責任から逃れられない

権利と責任は一体なのである、権利だけを得ることはできない、必ず責任が問われる
そして現実に責任を誰かがとらされるのがこの世である
だから何を主張してもいい、また集団で何を主張していもいい、でも責任は確実にとらされる、集団でも個々人でもとらされる、ただ集団はみんなで赤信号渡ればいいとかなり無責任になる、集団は責任を自覚しにくい、みんながしているから正しいとなるからだ
でもその集団でもその中の人間でも確実に責任をとらされる
オウムがそうだった、死刑にされたことでもわかる、その時後悔したが時すでに遅しとなっていたのである

そういうことは他のカルト教団にもある、いづれは責任を問われる、そもそもこの世自体が罪の世でありその罪が暴かれて責任が問われる、罰せられるともなる
最後の審判があるというのもそのためである
ただそれを自覚している人はいないのである、でも確実に責任はとらされる、それが罰せられるともなる、そういうことが原発事故でもあったしこの社会全体が必ず罰せられるとなる、つまり行為がカルマでありその行為についての責任をとらされるのが人間なのである、そのカルマから責任から逃れることができないのである
だから赤ん坊が泣いて生まれるのはそのためだとなる、この世に生まれたこと自体すでに責任を課せられ責任をとらされるからそうなる
何もしなくても存在するだけで責任を課せられとらされるのが人間だとなるからだ
「俺には責任がない」こう言ってもなんらか必ず責任があり責任をとらされるのが人間なのである 

マスコミは報道ということで大きな責任がある、なぜなら政権の行方でも左右することがあるからだ、世論を作るのはマスコミだとしているからだ
それで最近NHKが批判される、その影響が余りにも大きいからである
NHK様の言うことなら正しいとまでなっているからだ、そして報道する権利というのはマスコミにしかなかったからだ、テレビなら六局した放送する権利かなかったからだ
それで権利を得たのだがそこには重い責任が課せられていたのである
つまり国家の運命さえ握っていたともなるからだ、報道によって国家の運命を左右するとなればその責任は余りにも重すぎだのである、それで戦前は朝日新聞は一番戦争をあおったのである、その頃テレビがないから新聞が大きな力をもち国民を戦争にあおったのである 

つまり報道をすることはそれだけの重い責任があったとなる
それだけの影響力があったからそうなった、でもインタ−ネットが生れてそうした六局支配のマスコミとかに反抗できるyoutubeが現れたとなる
それは個人でも放送局になっているからだ、プログだってほとんど無料でできる
写真をも出せるから意外とこんなメデアでも表現できる幅が大きいということに感心したのである、ただ読む人が少ないからその影響力はわずかだとなる
でも有名な人だとそれなりに影響力を持つようになったのである

ただすでに何でもいい発言することには今度は責任が課せられる、誹謗中傷するのもいいネットではしやすい、でも今度はネットの発言でもセキニンか課せられる
その発言でも責任をもち責任がとらされる時代になる
何であれ責任から逃れられないのが人間なのである

2020年12月15日

家は単なる建物ではない先祖の死者が生き続ける場 (天皇は家から発した、国家とは天皇家のことだったから)


家は単なる建物ではない先祖の死者が生き続ける場

(天皇は家から発した、国家とは天皇家のことだったから)

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野馬追いに出た御家と只野氏と天皇の菊の紋がある、これはまさに歴史の象徴としての旗なのである

家をローンで買ったり家を新しく作ることは金がかかりすぎる
もう家に不動産にも価値がないという見方もある
それは空家とか少子高齢化で家そのものが価値がなくなったからだとしている
つまり家でも消費するものであり一時的なものとしての価値がないとしてそう言っているそれは経済的にはそうである、ただ家とかには土地でも経済的価値では計れないものがある

人間はすべてを経済的価値では計れないのである、家もそうである、家は単なる箱ではない、その家で営まれる生活があり家族がいて家がある
家というのは何か家という建物だけではない、そこで家族が暮らした精神的なものも受け継がれる、家は今のように30年くらいで古くなり新しくされるから不用だというのは現代的見方である

家はそれぞれに家の家族の歴史がありそこに何か一時的に消化される、消費されるものと違っている、特に日本では家は単なる建物ではない、家にはそこで人間が長く一緒に暮らした結果として精神的なものが付与されている

そもそも家が拡大したのが一つの国なのである、公(おおやけ)とは大きな家のことだからである、大きな家とは今では公共的な建物である
そこで政治でも行われるし公共的なものに使われる共有の建物となるからである
天皇とはそうした公(おおやけ)の象徴なのである

悠紀殿と主基殿の天皇の座のすぐ近くに「寝座」があるため、「新天皇が神と寝ることにより神格を得る」など、いろいろな説が流れされてきた。

折口がこの見立てに不可欠な要素として持ち出したのが、「天皇霊」という概念だ。折口によれば、〈天子様の御身体は、魂の容れ物〉であり、天皇はその魂(「天皇霊」)を受け入れることで完全な天皇として「復活」する。すなわち折口は、天皇の権威をほかならぬ「万世一系」の「血筋」ではなく、「肉体を入れ替えて復活をとげる霊魂」という超越的存在の継承によって説明しようとしたのだ。

大嘗祭ではそうして家の中で天皇を継承する儀式が行われる、それは秘密にされている
そこには他所からせ計り知れないものがあり代々天皇を継承する儀式なのである
それは家を受け継ぐことでありその家が拡大したものがもともと国だったからである
だから選挙で大統領を選ぶとかにはなりえない、家を受け継ぐものは長男であり血縁である、それは江戸時代までつづいたのである
御家と御家中とか江戸時代に言っていたのも家が公(おおやけ)になっていてそうなっていた、家を継ぐものは血縁であり長男に定められていたのである

家を拡大したものが国家でもあったのだ、ヨ−ロッパでもハウスブルク家などが大きな国を支配したとなるのもそうである
王の座はそうした王家が代々受け継いできたとなるからである
王は多数決とかでは決められない、王の権威は代々受け継がれてきたことにある
日本では天皇になるのである

とにかく自分の家族でも全部死んだ、残ったのは自分一人である、それで遅かったが家を自分は受け継いだとなる
その座を受け継いだとなる、それで母親の座った場所に自分が座っていると不思議である母親の座がありその座に自分が座った時、母がそこにあり自分がそこに座り母を受け継ぐとなったのである、父親はすでに中学の時死んだから遠い祖(おや)になっていた
だから私の場合は家族という時、姉と母になるのである
60年から70年も一緒にいたからである

不思議なのは家は嫁である、女と家が一体化したのが嫁なのである
それは家を一緒にともにする、家と一体化するのが嫁となるのである
確かに嫁いで60年とかなれば自ずとそうなるのである
母親が死んで4年とかになるが何かその母がいた座に母がいる
自分が座った時、その母の生を受け継ぐという感覚になっていたのである
ただ複雑な家族だから一概には言えないが今になると母はこの家の嫁となった
女と家が一体化した存在となり死んでもその座にいるという感覚になる
そして家は自分に受け継がれたともなる

私の家の歴史は父から始まる、双葉の新山で酒屋に丁稚として勤めていた
それで暖簾分けしてこの町にきた、この土地はその時買ったものである
それから駄菓子屋から店をはじめた、それで繁盛したとなる
子供時代の思い出としては近くの井戸から風呂の水をバケツで運んだことがあり
それは家族総出の仕事だった、その時水道がなかったからである
その時の家はトタン屋根のヤハな家であり必ず雨漏りする家であり洗面器でその雨漏りをためていたのである

それから台風でその家は水没した、屋根まで水が来たのである、それで近くの旅館に逃げた、その時もう家は使えないほどになった、でもなんとかそれでも使えるようにした
そういうことがあり私の家では逃げるための二階を建てることが悲願になったのである
それで姉と母がこの二階の家を建てたのである、それは大きなものだったら回りで驚いたのである、うらやましがられたのである、その頃まだそうして家を建てることが簡単にできない時代だったからである
でもその後も水害にあった、床上浸水したのである、ここは街で一番低い場所であり
上から道が川のように流れてきたのである
今でも去年の大雨で水があふれて水が家に入ってきて水浸しになったのである
幸い床下で助かったのである
とにかくそれだけここが土地が低い場所だからそうなるのである

自分の家にはそういう歴史がある、それぞれの家には必ずこうした歴史がある
それが何代もつづく家だと家の歴史がある
そういう歴史があるとき家は単なる箱ではない、そこで暮らしたストリーがあり歴史がある
その歴史を受け継ぐことになる、そういう歴史があるとき家は単なる箱ではない、建物ではない、その家を通じて営まれた家族がいて歴史がある
それを受け継ぐのがその子供たちだとなる
ただその歴史もその子供たちでも受け継がない、空家化するとか他人が入ってくるとそうした歴史は受け継がれない、他人にとってはそこで暮らしたともないのだから関係ないとなるからだ
ただ他人でも嫁はその家と一体化するから受け継ぐとなる

家にはそれぞれ歴史があり単に一時的なものとして消費するものとは違うのである
都会だとまず家は一時的に消費するものとなりやすい、アパートでも転々とするとか
移動するからである、でも一旦土地を買ってそこに家を建てて住めばやはりそこは単なる箱ともならない、やはり思い出が詰まった家であり単なる箱ではないのである
だから家が失われると思い出でも失われることになる
ただその家はその家族にとっての家であり他人には関係ないとなる

ともかく津浪とか原発事故とかでは家が失われたりまた家があっても子供たちが移住して老人だけか取り残されるとかになった
老人は家に思い出があり愛着がある、それで家を離れたくないのである
だから単に家は消費するものであり一時的に建物の箱として利用しているのとは違うのである
確かに経済的には価値がなくなるとしても精神的価値はあるしそれはそもそも金に変えられないのである、すべてを金に換算することはできない
土地の価値でも一部を切り取って家を建てる土地がある
でもその土地に生きるというときその景観とか大きな自然の中で価値が生まれる
ただ経済的な価値、金にならないものは価値として認められないのである
でもそこに実際は人間として替えがたい価値があるともなる
そういう金では計れない価値が現代では無視されるのである
そこに人間として空虚なものとなり充実した生の営みが消失するのである 

住宅は所有するものではなく、「消費して、使い捨てするものだ」という感覚が当たり前になっていく

物だったらそうなる、でもこの人は(鈴木傾城)は右翼である、そしたら伝統的なものを大事にする、家にこだわることは確かに保守的な思考ではある
だから家のために一生を費やされるというのも馬鹿げていることもわかる
でもそれは単に寝起きするとか食事するとかとしての場ではなく家で営まれる生活がありそれが思い出となり家の価値が生れて来る、つまり家は人が住むことによって精神的価値が付与されるのである
だから家を受け継ぐというとき建物だけではない、何か精神的なものを受け継ぐのであるそれが自分自身が遅くなりすぎたにしろ家族が全部死んで感じたのである
家には先祖が親が生き続ける場所なのである、次の代に受け継がれ生き続けるのである
それが象徴的なのは天皇霊を受け継ぐとかに儀式化されたのである
国家とは国の家なのである、家から発したものが国家となったのが日本の国家の由来なのである、それを否定するにしろそうして国家が受けづがれてきたことを知るべきである

(人間と空間)オットーリードッヒ,ポルノウ

この本は家について深く考察している、人間の思考は家があって家から思考している
一見天皇とかなると家と関係ないようでも深く家と関係して生まれていたのである

(人間はそこで自分が空間のなかに根を下ろし、空間の中のすべての関係がそこへと関連づけらている、そのような中心を必要とするのである

体験されている空間もまた今日なお一つの中心に関連付けられて、一つの中心から構築されているそれこそ人間が住んでいる家屋である
人間の家屋は人間の世界の具体的中心になるのである

天皇が生まれた経過はこの家なのである、日本の中心となった家なのである
それは日本では江戸時代でも継続されていた、侍でも長男が家を受け継いでいた 
そういう家中心の社会がありそれは明治になっても受け継がれた
不思議なのは一家の墓が生まれたのは明治以降なのである
それまでは個人墓であり夫婦墓でもあった、一家の墓がないのである
だから強制的に一家の墓が政府の政策として強制されたともなる
それは国をまとめるものとして家を中心にして基礎にしたということである
そして天皇家が日本の家であり公(おおやけ)であり国家だとなったのである
天皇とは何なのか?家から思考するとわかりやすいのである

いづれにしろ戦後は家の重みは失った、核家族とかなりこれまでの家の感覚はなくなっただから家は一時的に消費するものだというのは戦後にそうなった感覚である
そこに家は一代で終わるということになった
そして膨大な空家が生まれたのである、これからも生れる、近くでも本当に大きな家で一人暮らしの人が多いのである、私自身もそうだがそんな大きな家に一人でいるのはもったいないとみるのである、これからも800万軒とか空家が生まれ壊されるともなる
それより原発避難区域になったところは空家だらけになり町や村自体が消失しかねないのである、それは全国でも限界集落があり村や町や市まで消滅してゆくというからその変化が大きいのである
そこで失われるものは家という建物だけではない、何か精神的なものも失われる
天皇家すらもう維持できないということにも現れている
天皇家すら維持できないということは庶民の家も維持できないのが普通だとなる
そこで失われるものも大きなものがある
歴史とは代々受け継がれるものでありそういうものが箱としての家ではない、精神的なものが失われることになるからだ

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

まさにこれなのである、これは地元の木材で作った家であり外材を使う前はみんな地元の木材で作っていたのである、それで私の家も橲原の木で柱を作ったとして自慢していたのである,グロ−バル化でそういうこともなくなったというとき故郷とかに対する意識も薄れたのである、経済的に地元より外国であれ外部と関係している時は自ずとそうなる
今は家はハウス会社が外からきて一二週間でプラモデルのように組み立てるだけである
地元の人がかかわることもないのである
だから一時的に家を建て消費するという感覚になるのである
                

2020年12月11日

引きこもり、ニート、アウトサイダー (文明社会の脱落者なのか?)


引きこもり、ニート、アウトサイダー

(文明社会の脱落者なのか?)

<レールから外れたうちの子が悪いのだけど、今の世の中、一度脱線してしまったら、もう修復は無理。私みたいな弱い人間がいたら、家族の人生まで狂ってしまう。壊れた母親は、これから、どうして生きていけばいいのだろう>


今の世の中、一度脱線してしまったら、もう修復は無理


人生は二度ない、若い時は感じない、人生はとてつも長く感じる、時間感覚が老人とまるで違う、老人になると人生はあっという間に終わる、たったこれだけかとなるのに驚く
これは老人になってみないとわからないのである
だから本当に20代で人生は決まるとなる、そこでレールをはずれたものは一生レールからはずれるのである

また逆にレールに乗ったとしてもそのレールに乗って終着駅まで運ばれることになる
一生社畜だとか言って会社人間となり終わる
どっちにしろ20代でその進路が方向が決まる
だから赤軍のメンバーは日本航空をハイジャックして北朝鮮に行ったがそのまま日本に帰ることなく北朝鮮で子供は成人していたのである
その時決断した結果として一生の方向が決まってしまったのである
それを後悔しても元に戻ることはできなくなっていたのである

カルト教団などでもオウムとかでもそうだし他のカルト教団でも創価でも・・・いろいろあるが同じなのである、そこに入ったものは一生呪縛されたものとして終わる
脱出しないと一生そこに囚われたままになる
だから20代で進路が方向が決まるから怖いのである
そして失敗したとしても方向が間違ったとしても引き返すことができないのである
それが赤軍が北朝鮮に日本航空をハイジャックしてそのまま日本に帰れなくななったことに現れている

ニートとか引きこもりは正規のルートを脱線した結果そうなった
その数が60万とかなんとか多いのはなぜなのか?
それだけ親とかに経済的余裕があり寄生できているということになる
だから経済的豊かさがもたらした現代的現象だともなる
貧乏だったらなんらか働かなければ食べていけいないからである
それで団塊の世代ではニートとか引きこもりはほとんどいなかった
ただいたとしても気づかないし問題にもならなかった
みんな企業戦士となり高度成長時代を築いたのである
だからその時、引きこもりとかニートがいたとしても例外的存在であり誰も注意もしなかったしそんな人がいるのかともなっていたのである

アウトサイダーというときそれは天才的な芸術家などで社会から脱線してもかえって凡人とは違って優れた人だったのである
ただそういう人は狂気となった人が多い、ニーチェとかヘルダーリンでも社会から離脱して狂気化した、ゴッホとかでもそうである
でも今のニートとか引きこもりはそうしたあまりに優れていたからそうなったのとは違うでも何か似ているのである、そういう人と私は逢う、同類なのか何かふてぶてしい
でも社会からはずれた人間として異常だともみる
ただその数がこれだけ多いということはそれが普通になり何らか対策しなければならないとなったのである、少なければほうっておかれだけだからである
数が多くなるとそれが社会的現象となり社会で問題視する
カルト教団も実際は異常集団なのだけど数が多いということで認められるのと同じであるその異常集団がナチスとかファシズムとなってゆくけど数が多いということで容認されるのである

ただ20代とかで脱線したら一生脱線した道を行くことになる
特に日本は集団組織の中で生きるから集団組織から離れた人間は見放す、落伍者ともされるのである
私自身が30年間引きこもったのも20代から正規のレールからはずれたからである
その後はそのままはずれた道を行くことになったのである
ただ自分の場合は家族に恵まれたから何か働けとも言わないし旅とが費やしたり自由に勉強したりしていたのである
だから自分の場合は特殊だったとなる、ただ介護になったとき本当に死ぬような苦しみを味わった、それを延々とプログに書いた
現実に引きこもりとかニートとか社会性がないから介護とかなると苦しむ
また頼りになる人もいないから一身に親の介護になり苦しむのである
それで事件になることが多くなる、それは金の問題だけではない、介護でも協力してもらえる人がいないということで苦しむ
そして親子で共倒れになる、私自身もそういう一歩手前までなっていたからである

ただ人間というのは長く生きていると時代が変わる、それが本当に解せないとなる
小野田少尉がジャングルで戦後も戦争状態にあったが日本に帰ってきたらまるで違った時代になっていた、あれほど日本国民が一眼になって戦争していたのに全く違った世界になっていたことに驚き戸惑うことになる
そういうことが戦後70年で起きている、終身雇用の会社人間の時代は終わったとかAIで人間のやることはなくなる、みんなアーチストになれというのもそうである
ベーシックインカムでやりたいことをやれとかいうのは本当に団塊の企業戦士とうし生きた人たちには理解できないとなるのだ
自分自身はそうしていたからそれに違和感を感じないのである 

いづれにしろ人間社会をみるとき人間が労力を費やしたものに価値が本当にあるのか?
それを一番感じるのは東京とか大都会を見た時である
そこに何の価値があるのか、美があるのか、ここが人間の住む場所なのかという疑問になる、そんな世界で人間が生きるのかとなると絶望になる
そこで人間はもう人間ではない、経済的単位であり数として数えられるだけでありただ消耗されていくだけだとなる
何かそうこに人間の作った荘厳なものでもあればいいがそういうものもない
巨大な高層ビルを見上げている蟻のようになっているだけである 

そもそも一千万の人間が密集して住んでいること自体生物としてありえないことである
そういう大都市があること自体が回りに影響する、東電が福島に原発を作ったのもそれだけの人口に供給する電力が必要だったから危険でも福島に作ったとういことがある
もちろん経済的効果があったとしてももうそこは人間の住む場所ではない
密集していることはコロナウィルスでも伝染しやすいとなり、東京から人が出るのを抑えられない、東京の影響が周りに波及して来る
福島県はそういう位置にもあったとなり原発事故になったのである
つまり茨城県だと東京に近すぎる、福島県だと遠からず近からずになり地理的なものから原発が作られたのである、そこに恩恵があっても災いももたらした原因があった

結局極論になるが人間はいくら働いても理想の国とか天国とか絶対に生まれない、作れないのである、人間の労働はむしろ自然破壊にもなり原発事故にもなったりいい結果をもたらすとは限らない、そこに人間の限界がある
つまり天国は人間の労働の結果としてもたらすことできない、天国は労せずして神から与えられるのである、ギフトなのである、恩寵なのである
なぜなら人間の成す業(わざ)には災い(わざわい)となるものがあり呪われているものがあり原発事故のようにもなるからである

2020年12月05日

人間の価値は歴史的価値となり消えない (死んでから人間の本当の価値がわかる)


人間の価値は歴史的価値となり消えない

(死んでから人間の本当の価値がわかる)


人間は死ぬと何も残らず消えてしまうのか?
人間が死ぬと十年くらいすぎると家族だと何か死者はどうなってゆくのか?
それで弔う(とむらう)とは問い明らかにすることだというのもわかる
死者のことを問い明らかにする

それは死んで十年くらい過ぎると人の心は死者をいたむことから冷静になりその人自身が何であったのか問うことになる、それが弔うになる
その時真にその人の価値を人間の価値を問うことになる

価値と言っても人間にはいろいろな価値があり多様である
家族で生きるとその家族の中でどういう役割を果たしたのかという価値を問う
ぐうたらで迷惑ばかりかけていたような人は死んでも血がつながっていても弔うこともできない、ただ苦しめられ迷惑ばかりかけていた親だったら弔うことすらできない
何ら価値を認めることができないのである

ただ人間の価値というときそれが様々でありだから他者からみてその価値がわからないのである、家族でどういう役割を果たしたのかとなるとそれも他のものはわかりにくいからだ、家族でも一様ではないからわかりにくいからである
人間の価値はそれだけ多様なのである
この人間は生きる価値がないとか生きた価値がないとか社会で言ったとしても家族では価値ある存在の人も普通にいるからだ

歴史的価値というとなるとそれは一家族の問題ではない、日本国家から日本の歴史から世界史での価値とまでなる
それで戦争のことをその価値を弔う(とむらう)問うことがむずかしくなる
それで自分の家族の一人が従軍看護婦だったということでその歴史的価値を問うことになる
今でも墓に二等兵だとか一等兵だとか日本軍の位を墓に刻んでいるのが普通にある
でもそれを見て日本軍の位がどれだけの価値が今認めているのか?
この人は日本軍の位で高いから価値があったと認めているだろうか?
今になると何か自分自身でもそんな位が意味あるのだろうかとなるし注意している人すらわずかだと思う、つまり価値を認めなくなったのである

ただ私の姉が従軍看護婦看護婦としてマレーシアのジョホールバルで四年間苦しみ働いてことを聞かされた、そのことが戦争に負けたからといって全く価値がないとはならない
それを感じたのは今コロナウィルスで医療崩壊するとか危険だから募集しているけどやりたくないとかなる
それを見ていて国家のために命をかけて働いた看護婦がかつていたということをふりかえる
それが価値ないこととはならない、今はただ金のために働くだけであり医者は危険をさけているしそうできるが看護師はできないという、つまり看護師の方が直接危険にさらされている、いくら50万もらっても割に合わないとなるかだ

つまり人間の価値はどうして生まれるのか?

その時々や時代によっても違ってくる、また歴史的価値となるものは百年後でも二百年後でも見直され注目されることもある、でも全く捨て去れる価値もあり人間もある
ただ長く歴史の中で生き続ける価値がありそれが本当の価値だとなる
それは死後もさらに歴史の中でその価値は衰えることなく生き続ける
その時その人は死んでも生き続けるとなる、つまり死ですべては終わらないのである
ただそれだけの価値を持ち続ける生き続けるとなると相当な功績がないとありえないとなる

今日ドラマで特攻隊のことをやっていた、その特攻隊員は出撃する前に5日間くらい恋人とあい別れた、でもそれが最後の別れではなかった、途中徳之島とに不時着して生き延びていたのである、でもその後は戸籍からも存在を消して亡霊のように生きていた
そして40年後くらいなのか恋人とあった、でもその人に何か価値があったのか?
その人は特攻隊として死んだ時価値が生まれていたのである
その後の人生は別であり身を隠して生きていてもそこに価値は生まれなかったのである
それは新たに別な価値を作りだして生きることになったからである
40年となれば長い、だから昔の恋人とかはもう価値を共有できない
その人が特攻隊として死んだ時、国家的価値として残されるともなった
ただそれを無価値だともされるがその人の価値は時代を生きることは特攻隊になり死ぬことだったのである

人間は死ぬと最初はただ悲しいとかなる、でもだんだん時間が過ぎるとその人を弔う、
その人を問うということで弔(とむら)うになる、その人の価値を問うということになるその人の一生の人生を問い弔うとなる
本当に価値ある生を送った人は死んでも生き続ける、不朽のように生きつづける
その時、その人は死なないともなる
ただそれは今を見てはわからない、今は価値のない人でも作品でも価値あるとされる
でもその人は死んでも百年後とかに価値ある人ならその人は歴史の中で生き続ける

歴史の中で不朽の価値を残す者
それは死んでも歴史の中で生き続ける
その価値は衰えることなく
純金のように輝く価値
それは色あせることなく価値を増して輝く

ともかく歴史の中で何が価値あるものなのかというときまだ見出されない価値もある
百年くらいではまだその価値が確定されないとなる
歴史的価値とは百年では短く判定されないのである
それで明治維新でも今にになるとその価値判断が変わったりするのである

2020年11月28日

未来とは何なのか? (今していることが未来を作っている)


未来とは何なのか?

(今していることが未来を作っている)

willには何かをしたい達成したい作りたいとか強い意志を示している
未来への強い願望がある、だから単なる・・・になるとかの意味はない
日本語だと何かあいまいな言葉なのである
英語だったら必ず主語がありI will make my house とかなる
それは主語があって自分の家を作るということである

willは強い意志として家を建てることを目的としてある、そこに主語もありその主語となる人物が家を建てる目的がありその目的に向かって強い意志を働かせるということである日本語だと何か未来というとき未来は何か・・・だろうとなり未来は何もしなくても人間の意志を働かせなくても棚からぼた餅のように与えられる感覚になる

未来とは何かとなれば今していることが未来なのである、家を建てたいと思えば何かしらそのために資金を集めるとか計画して実行しない限り建たないのである
それをもし自作するとしたら土地を買うとかそこに地盤を作るとかしなければならなくなる、その時家が建つという未来が生れてくるのである
ただ何もしなければ未来は生れないのである

本一冊を読むにしてもそれはその時理解できなくても理解しようとしたその人の意志があり読書もできる、その意志がなければ本でも読まないからである
何か音楽でも楽器を覚えたいとしたらすでに楽器を買い楽器を練習しているだろう
何もしなかったら一つの楽器でも覚えることは不可能である
そこに未来はないとなる、だから今なにをしているのかが未来なのである

奇妙だけど引きこもりでも未来がある、何もしていないようでもその人の好きなことをしていればそれが未来に通じているのである
芸術とかを追及しているとかでもそうである、それは認められないにしろ引きこもりその人が今していることが未来なのである
未来とは今何をしているかなのである
未来があるとか未来がないという時、すでにその人が何かをしていて芸術でも何か萌芽があれば未来があるとなる
現実に私自身は俳句とか短歌を二十代からはじめたとしてもただ五七五とか言葉でも並べていただけなのである、でもそれをつづけいたら未来がありえたのである
今になるとそれなりのものを創作できるようになっているからだ

未来は何か何もしなくてもただ幸運のようにやってこない、今何をしているのかが未来なのである、未来とは今のことなのである
例えば今作られているものはすべて最初からあったわけではない、鉄道にしても道にしても作られたものなのである、建築物でもそうである
それを作ろうとした人がいてできたものでありそれが形となったのである

だから今を無視して未来はありえないのである、時間にしても今があるが過去とか未来の時間はないともなる、それが時間の不思議である
死ぬということは今の時間がなくなることなのである、何かをするということもできなくなるからである

要するに今という時間にしてきたことが積み重ねが知識でも技術でもなんでもその人を作るということである、ある人が楽器をうまくひけるな、絵をうまく描けるなとかいい文章を書くなとかでもそれは一朝一夕にはできない、相当な訓練と積み重ねが必要になる
この人はピアノがうまいなというときそこまでうまく弾けるのはそれだけの積み重ねがあったということである
今の積み重ねによって上達したとなる

例えばこの辺の津浪とか原発事故の復興でももう被害にあった人は十年過ぎても何もしない、ただ他の人が復興してくれるとかの意識になっている
あとは補償金をもっとよこせという運動することであるとかなる
個々に何か復興するということをしていない、土地があってもそこで畑を作り実りをもたらそうとすることもない、ただ荒地になっているだけである
そこに人間の意志(will)が働かないからである、だから未来がないともなる
未来が生まれないのである、未来とは人間の意志が作るものであり誰かが作ってくれるものでもないからである

この辺には未来がない

こういうときその人たちは今何もしない、何かわずかでも努力する試みもしない
もちろんその試みをしている人たちもいる、それは外から来た人たちでもある
そこに未来が生まれるとなる、花栽培しようとかなればそこに未来が生まれているのである
未来は棚からぼた餅のようにやってこない、未来を開くというときもそうである
拓くために力をそそがねばならない、道一つにしてもそれが何もしないでは生まれないのである

だから今何をしいるのか?毎日テレビばかりとか何か無駄なことに時間を費やしていると未来はないとなる、何か勉強するわけでもない、ただ馬鹿騒ぎを見ているだけだともなるからだ、やはり本を読んだ方がいいとなるのである
そして遂にその何かをする今の時間が消失するのが老人なのである
老人は何もできなくなる、ただ今までしたことを時間を費やしたことを表現するとなるだけである
その表現するにしてもただ無駄な時間を過ごしていたら表現することすらないとなる
今の時間に経験をしなかったら将来も老人になっても何も語るものもないとなってしまう時間はたちまち飛んでゆくからである、そして人生に何も残さず死んでゆくともなる

とにかく未来とは漠然としてどこからかやってくるわけでもない、今それぞれか何をしているかが未来なのである、だからこそwillは意志なのである
何かを達成しようとする作る意志なのである、その意志があって未来がありうる

結局時間は限られている、その限られている時間を必ず無駄にしているのが人間なのである、そのことを後悔するのは老人になって痛切にわかる
残された時間がわずかになり後は死ぬだけだとなるからだ、もう何かをする時間はなくなるのである、ただその人がしてきた結果があるだけである
老人に未来がないとはそのことなのである、子供や青年に未来があるというとき何かを今にする時間が豊富にあるということなのである
でもその時間が消失しやすいのである、そして時間は戻ってこない、人生の時間はたちまち切れてしまい死ぬだけだとなってしまうのである

また未来というのは方向でもある、右に行く道があり左に行く道がある
右と左では違った風景が開ける、でもそこで選択しなければならない
それは若い時に起きる、ある会社にとどまるかとどまらないかとか決めるのもそうであるもしその会社にとどまっていればそのまま悪い方向に行くかもしれない
ただ決断して別な道を行けば未来が開けるということもある
それは時間がたってみないと人生をふりかえってみないとわからない
あの時あんな会社やめて良かったとかふりかえるのである

例えば日本航空をハイジャックして北朝鮮に渡った赤軍とかの若者たちはそれからそこで暮らして二十代の子どもいる、
(よど号ハイジャック事件)そして何か北朝鮮のスパイのようなことをしていたのである、それで日本に帰りたいとなったのである、でもそこで方向が間違っても引き返すことができなかったのである、それが人生の怖さだとなる
間違ったからと何回も引き返すこともできないからだ
その人生は北朝鮮に向かった時決定していたのである
若い時に未来を決定したのである、若い時にはこうしてその人の方向が決まるから怖いのである、間違った道を行けばそのまま間違った道を行きもどれなくなるのである
若い時に未来は決定されたともなるのである



2020年11月27日

人は経験からしか学べない (聖書でもいくら読んでもわからない-農業もわからない・・・)


人は経験からしか学べない

(聖書でもいくら読んでもわからない-農業もわからない・・・)

経験が人間を作るのであって知識とかではない、いくら知識があっても経験しないとわからない、それで失敗したのは海外旅行だった
50歳から海外旅行したので遅かった、それまで外国についての本は読んでいた
でも外国を知るには外国に実際に行ってみることである
百聞は一見にしかず...なのである
例えば日本に来た人が富士山はきれいだよと伝える時いくら伝えられてもわからないのである、写真を見てもわからない、百聞は一見にしかず・・になってしまうのである
だからこれほど海外旅行が盛んになった理由もわかる
いくらテレビで放送されても実感できないからである

経験しないとわからないことがこの世にいくらでもある、結婚していない人にとって結婚とは何かもわからない、子育てしない人でもそうである
そこに経験がないから理解できないのである
職業が違うとその職業が経験しないからわからないのである
医者の人を理解するにしても医者としての経験もないのだから理解しようがないのである患者としてみてもらうだけであり医者の人の気持ちとかその職業がどういうものか理解できないのである
農業でもそうである、農業がどれだけ大変な仕事なのかその仕事をしてみなければわからないのである、ただ農業をしていた人に経験した人に直接聞いたのでその苦労がある程度はわかった、でもこれも実際に農業してみて農業とはどういうものか知る   

こういうことは経験かしか詩にもできない、そこには語り尽くせない何かがある
それは経験者しかしらないものがあるからだ
スーパーでただジャガイモを買っていてはそれを生産する人のことなどわからない
だから食料が貴重なものだということもわからない
ただ安いか高いかうまいかうまくないかとかしか見ないからである
つまりそれを作っている人の気持ちは農業だけではない、何でもそうだとなる

それで山尾三省が東京暮らしから屋久島で極貧で農業をした、その経験を詩にしたりしたそこに農業をしている人は普通にいてもその経験が新鮮なものだったのである
何か畑に実りがある、そのことに深く感激して土地と自然と一体化する喜びを詩にした
まさにそれは経験して理解したのである
本当に自然と一体化するアイディンティティ化するには農業を実地にしてみないとわからないといことである、その時人間は自然と深くコミットして自然を理解するのである
その理解は経験から生まれたのであり経験しない限りわからないのである
つまり本当に大地とは何か自然とは何かを体で知ったとなる
ただ実際は相当な過酷なものであり妻は60前に死に本人も62才くらいで死んでいる
パンは贅沢だとなると普通の生活ではないからだ

じゃがいもを掘る
そのじゃがいもは
わたくしの最終の 悲しみと憤りであり
最終の共感と連帯である
祈りである
はだしの足を 土の中に突っ込んで
びろう葉帽子の下で一鍬一鍬 じゃがいもを掘る


経験という時奇妙なのは私がした無人駅のボランティアだった、たまたま無人駅となり人にわからないことを聞かれたから教えていたのである
それで駅長とかJRの人とかかわったのである
そしてわかったことは駅長とかは駅のことを知らない、現場を知らないということであった、そこにいつもいないからわからない
駅でわかったことは上りと下りのことが意外とわからないのである
だからそのことを良く聞かれた、それで跨線橋にその行く先を記すものを示した方がいいとJRの人に駅長に言ったらそういう表示をするものを作ってくれたのである

それが同じように線路をまたいで向かい側の待合室にも上りと下りの表示をしてくれたのである
都会だと必ずそれは何々行きとして表示してあるが田舎駅ではない場合があるのだ
それは久ノ浜で自分自身が下りて上りと下りがわからなくなった
表示するものがなかったからである、つまり意外と上りと下りがわからないのである
それで不安になる、久ノ浜では今でも誰も言わないので表示されていないのである

この現場とその現場にかかわらないことは東電のような巨体企業でも起きている
現場の電気関係者が千人とか働いていていろいろ現場のことを知っていたのである
技術者もいて配管が老朽化して危ないとか指摘して原発は危険だと警告していた
でも現場の人から言わせると何かを上の人に言えなかったという
なぜなら仕事をもらえなくなるからだと言っていた、決めるのは上の人であり現場の人ではないからである
こういうことは他にある、社長だからといって何でも知っているわけではない、かえって現場のことはわからない、駅長だから駅のことをすべて知っているわけではなかったのである、つまり社長でもすべてを経験できないからそうなっているのである

人間を作るのは経験である、例えば聖書でも隅から隅まで読んでもわからない、神学部に入ってもわからない、そして聖書は学問ではない、何か現実に起こったことを神の事績として記した書なのである、つまり経験されたことを記したのである
だから奇跡が多いという時それが現実に起きたことだからである
まず奇跡がなかったら聖書も成り立たない、つまり神が人間のことに関与して奇跡を起こした物語が聖書なのである、そして聖霊がくだらない限り理解不可能である
そのことによって全能の神がいることを理解するからである

こういうことは別に聖書だけではない、優れた作家とか何か指導者とかでもそうである
何か実地に経験したことから書いているから訴えるものがある
第一悲しむとしても本当に血の涙を流すような経験しないと悲しむということがどういうことかわからない
本当はキリストを理解するとしたら十字架で血の涙を流すほかないという厳しさが要求されるともなる
何か人生でも最も重要なことは経験しなければわからない
なぜ戦争のことがわからないものとなったのか?
それは戦争を経験していないからだとなる、戦争という異常なことはいくら聞いても理解できないのである、人を殺したり殺されたりすることが日常になる世界は理解できないのである

ただ正直人間の経験は極わずかである、職業にしても無数にあるとき経験しているのは極わずかである、すると相手のことが理解できないとなる
自分の場合は引きこもりのようになっていたから社会的経験がなく親の介護で塗炭の苦しみにあった、それは今のニートとか引きこもりが親が死んだ時自分と同じようになる
本当に誰も助けない、そて親子共倒れになる地獄になる
それはすでに予想されるものだったのである
ただこれも奇妙なのは引きこもり一つの経験だったということである
なぜなら社会から隔離して人と会わないという生活はまさに隠者の生活であり
禅僧のように寺に引きこもるとにていたのである
それは精神的修養であった、だから何であれ人間は経験なのである
引きこもりだってプラスに働くものがあるから人生のことは何がいいとか決められないのである

ただ結局人間は何かを理解するには経験しない限り理解できない
津浪でもこれも経験しないかぎりわからないものだった、それを経験した時その恐ろしさを知った、原発でも事故など起きないと安全神話を信じていた
それももろくも打ち砕かれて経験から知ったが時遅しとなっていたのである

つまり結局人間は経験からしか学べない、その経験を伝えるものが歴史なのだが津波に関しては何も伝えられなかった、相馬地域では700人溺死としか記されていなかった
その詳細は全く不明である、つまり誰もその経験した人が語り伝えられなかったのである歴史は簡単に言えば経験を人に語り伝えることなのである
何かしら人生で人は経験する、それを語り伝えることなのである
語り伝えるだけでは歴史は消失するから文書で残すということなったのである
津浪に関してその文書すら二行しか残されなかったのである
そうした経験が語られ伝えられていればこなん大被害にはならなかったのである
だからこの辺で起きた原発事故でも語り伝えなければそんなことなかったとまでなる
そして原発は安全だとまでまたなってしまうのである
やはり十年も過ぎると人間は十年一昔であり忘れやすいのである
何か地元でも関心がなくなるのである、今はコロナウィルス一色だから余計にそうなったのである


2020年11月10日

資本主義社会で商品化されて切り売りされる人間 (全人間を生きるにはアウトサイダーになるほかない)


資本主義社会で商品化されて切り売りされる人間

(全人間を生きるにはアウトサイダーになるほかない)

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材料として人間は商品化され切り売りされる

このサイトは引用もできないのか?人間が派遣されるのではなく、人材が派遣されるという、資本主義社会の冷酷な現実をこの人はいつも書いている
確かに人材というとき材は材木であり木のことなのである、木は一つの生命体であり
森の中で生きている時は全体として森の命として存在していたのである
でも一本の木が切られて材料となるとき森の全体の命から切り離された材料になったのである、商品となったのである
それで森に生活していたソーローはその森の木をただ商品として見ている商人に怒ったのである、ソーローは森の住人であり森全体の中で生きていたからである

資本主義の矛盾を冷酷さはマルクスが人間の商品化を人間疎外として指摘していた
だからめずらしいことではない、人間はみんな商品にされているのが資本主義だとなる
だからそれは社会全般でそうなっている、婚活とかも人間を商品化しているという感覚になる
商品として価値あるものが男女とも選ぶ市場を形成しているからである
それは遊郭の遊女でも商品として並べられて選ばれて金で買われていたのと同じである
一見婚活は現代的合理的なものとして見られるがやはり資本主義的現代社会の一端として現れたものである
そこでなかなかうまく選ぶことができないというのはどうしても男女とも商品化するとき商品価値が高いものを選ぼうとする、すると互いに望みが大きくなり選ぶことがむずかしくなる、そして選ばれる最高の商品はみんなが欲しい商品なのだから簡単に手に入らない競争も激化して手に入らない、でもいつまでも相応の人がいいとはならず高望みして決まらないとなる、つまり人間が商品として陳列させていることなのである
婚活を主催する人は昔なら仲人なのだがその商品をすすめる商売人となっているのだ

何かこのことに興味をもったのは私は森を詩で追求して来た
木の詩も書いてきた、それでその見方が面白いと思ったのである
このサイトではもともとユニークな見方をしていたのである
なぜ現代社会ではこうして人間が商品として能力にしても一部が切り売りされるのか?
それは資本主義社会だからというのでもない、現代文明がたどりついた結果なのである
文明そのものが非人間的なものである

人間が派遣するのではない、人材を派遣する

このことがまさに非人間的なことなのである、人間というとき森のように全体のことであり人材とはその森から切り離された木という材料にすることである
その時森という全体の命から切り離されたものとなり生命としては死んだものともなる
第一森全体を派遣したりできない、森は全体でありそれは一つの命として存在しているからである

また人間を派遣するいうとき、人間とは全体のことである、部分のことではない、なぜなら人間一人は様々な要素があるからだ、家族の一員であれば妻であったり母であったり
家族の中の一人として機能している存在である
その家族という全体から抽出して一部の能力を人材として採用するのが会社なのである
そもそも社会の仕事は人間的なものを切り離してある一部分の能力だけを見て採用する
人間全体を見る人はいない、そんなことしたら会社が成り立たない
ただ高度成長期はそういうことがあった、家族全体の福祉とかを担っていたのである
だから運動会とか社員旅行とか様々なことで家族のようにもなっていたのである
それは会社が高度成長で終身雇用ができてそうなっていたのである
人を雇うとその人の頼みとか聞いているときりなくなるのである
何で困ったとか助けてくれとか病気だから休ませてくれとかな本当に切りなくなる
でも資本主義社会では冷酷である、もう働けないからやめてくれと首にされるだけなのである、そして代わりはいくらでもいる、いないなら外国から連れて安く働かせればいいとなる

とにかく人間は資本主義社会だけではない、社会主義社会でもどんな社会でもこのようなことが起きている、奴隷がいたこともそうである、現代社会はあからさまな奴隷ではないにしろ商品化されて奴隷化されているのである
だから社畜だとか自ら言っていることでもわかる、それがわかっているからそう言っている
では資本主義社会の人間商品化から脱するにはどうすればいいのか?
それは皮肉にも株でもなんでもいい、一億円くらい稼いでこの社会から離脱してアウトサイダーになることだともなる 

なぜ引きこもりとかがこれだけ多くなるかと言えば人間の商品化とか奴隷化が嫌だからともなる、親でも援助してくれれば働かなくてもいいとなるからだ
それは問題あるにしろ商品化とか人材派遣とかそういうことからまねがれない
そうならないためには金があればできるとなるからだ
親に援助されていてもそれができればその方がいいとなる
そうなったのが自分自身だったのである、20代では底辺労働者だったけど30以降は働かず旅ばかりしていたし会社にこきつかわれこともなかった
その間は人材とされることもなく自然とアイディンティティ化する詩を書いてきたとなる森全体を生きようとしてきたのが自分だったとなる

ただこういうことはすでに2000年前から指摘されていたのである
老子とか荘子の思想がそうである      


「樗と呼ばれる大木があって、その太い根元は節くれ立って墨縄の当てようがなく、
小枝はかがまって定規にかからない。
道ばたに立っているのだが、通りかかる大工は振り向きもしない」というのです。

要するに無用の木なのです。

『荘子』では、「そんな木は無用なるが故に、用材として伐採されることがない。だから大木になる


人材にするも人材になりえない、材料になりえない人間を無用の木に例えたのである
無用の木こそ本来の木の命を生きるものであった、木という全体を生きるものだった
でもそれを人間社会から見ると無用になるのである
そうなるためには引きこもりになりアウトサイダーになるのである
そして最もあるものには値段がつけられないしまた無料なのである
景観は最も素晴らしいものでも金で計れないしそれに直接金を払う人はいない
景観のいい場所のホテルとか旅館とか温泉はその景観によって価値がでる
でもそもそも景観自体は無料なのである、最も価値があるものがこの世では実は無料なのである、富士山が見えるからといって富士山に金を払う必要はないのである

いづれにしろこの世に適合すること自体働くこと自体、人間の人材化であり部品化であるそれはどんなに優秀な人でもそうである、医者にしても人間の体を全部知る人はいない
体の一部分の専門家であり全部のことはわからないのである
これだけ複雑な文明で人間はみんな機械の部品のようになっているのである
だから職業につくこと自体部品化をまねがれない、人間存在の卑小化なのである
働くかないものは生きる価値がないとかされるが全人間的価値を志向すると社会の一員となることは社会の部品化なのである
宗教でも会員一人となるとき認められるが一人だと誰も認めないのである
それで天才的人間はアウトサイダー化したのである

一般的には天才でなくても老後は会社人間を離脱して全人間として生きるべきだともなるいろいろなしがらみを脱して大自然に融合する、それが可能になる
老後も働くというのは問題である、経済的な問題がなければそれが可能になるのである
社会のためにとかボランティアするにしても利益なしでするべきでありただそこに生きがいを見出すのである、ただボランティアには様々な問題があり簡単にはできないのであるだから荘子の無用の木になれとなる、社会の用なきところに自然の大いなる用があるとなるからだ、社会の用とは人材として一部を切り取られた用だからである
全人間としての用は社会には決して与えられない、それだけ複雑でありもう社会というのは怪物であり全体は知ることは不可能だからである

2020年11月02日

権威と権力(明治天皇は偽物?) (権力だけでは治められない、権威になる天皇とかが必要になる)


権威と権力(明治天皇は偽物?)

(権力だけでは治められない、権威になる天皇とかが必要になる)

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人間を治める時、権力だけでは力だけでは治められない、武力でもって従いといっても権力だけでは従わない、権力は必要でも何か権威が必要なのである
それが天皇であったり教祖であったりする、宗教的なものがそこにかかわり治める
そこに神とか仏を権力を得たいものは利用するとなる
神の力が働く仏の力が働く、日本がでは神国となれば神の国なのだから負けないとなる
そういうことは創価でも行われている、選挙は仏法の戦いであり信仰のための戦いになっている、だから常に勝利、勝利としつこく言うのである
つまり負けを認めないのである、神仏に負けはないからである

天皇とは何か、天皇は武力をもっているわけではない、でも天皇の歴史は日本がでは長いそれで皇国史観が生まれた、日本の歴史は天皇の歴史だともなっている
天皇は神輿として利用されたとなる、それで確かに明治維新の時、長州藩で天皇のすりかえがありそこに田布施町がかかわっていた、はすり替えられた天皇だったという説である、明治維新は天皇が極端に持ち上げられたのはどうしても権威が必要だったのである
天皇の効用としては日本がでは権威と権力を分けた支配構造を作ったことで統一して治めることができたとされる、権力だけでぱ力だけでは治められない、そこに宗教とかも利用される
神聖ローマ帝国とかキリスト教もカトリックを通じて権威として利用したという歴史がある、神の国だという思想である、それは日本でもあったのだから共通している

不思議なのは共産主義でもソビエト連邦で書記がまるで神のようにして葬られた
神格化されて葬られた、つまり人間社会を治める時、武力だけでは暴力だけは治められない、必ずすると反発があり暴力で争うことになる
でももしその上に権威があればそれに従うとなる
それで創価だと池田大作になりそのミイラ化して神格化して治めるということをその幹部たちはたくらむ、おそらく何かそうした権威が必要でそうなっている、その人間がどうでもいい、馬鹿な民衆は偽りの権威に従うとなからだ
つまり幹部にしてもそうした方が治めやすい、それで神格化する
おそらく王が神格化されるのせそういうこととして人間の歴史でつづけられてきた
エジプトの王はファラオであり神像ともなっていたからである
神の様な力をもつというときそれは武力とか暴力だけで治められないからそうういものを作りだしたともなる

預言者なら神から認められ本当に力をもったのである、それは政治とか現実の人間社会とは違った権威である、この世でいくら力をもっても本当の力をもっているのは神しかない本当の力は神から授かるのである、でも政治になるとそうしたまがい物でも権威を作りだす、聖なる権威を作り出す、それが天皇にもなる
共産主義でも唯物論でもやはりそうした聖なる権威が必要になり書記が神のようにして葬られたのである、それは中国でも起きている、毛沢東の権威は神のようにもなっていた
そして習近平もそうした権威をもちたいができない、いくら権力があっても従わせることがむずかしいからそうなる

だから天皇は血統が大事でもすりかえても不思議ではない、大村寅次郎がすり替え天皇説はそこから生まれて来る、天皇とは政治的権威であり宗教的権威とも違うのである
権力を維持するためには権威が必要でありそれはその人がどういう人とか関係なく作られることもある、池田大作でもカルト教団では何百万人の人を支配する時、そういう権威が必要になる、それがないと治められない、それでなぜ池田大作を神のようにして持ち上げるのとかなると何百万人を支配して納得させるために権威を幹部など作りあげたとなる
それは共産主義でも同じだったのである
全体主義になると選挙に勝つことが権威となることはない、何か権威が必要でありそれでそうしした権威がまがいものでも持ち上げて神輿とする

図のように権威そのものが権威を作るのではなく、強大な権力が権威作り出す、権力の上に権威が作りだされ
る、それが政治である、権力は民主主義なら一票であり数だから創価では数を集めることが仏法の戦いともなる、政教一致ならなる、とにかく権力を持ち権威を作りだして支配する
天皇の場合はまた違ってい天皇という権威が建国以来作られていて権威があってそれにのっかって権力が作れるいという構図になる、ただ権力があて権威を作れないことは確かである
だから権力の上に権威を作るのは政教一致であり危険なのである

それは人間の歴史をふりかえればそういうことを古今東西でしてきたことがわかる
人間は権威をもちたい、権力を持ちたい、でも権力だけでは権力を維持できない、それで権威が必要になり天皇が作られた、その権威の下には誰でも従わなければならない
でもその権威なるものは権力を持ちたい維持したいものが作り上げて従わせるためだとなる、それですり替え天皇説の大村寅次郎が作られたとなる

いづれにしろ明治維新の時天皇を極端に持ち上げられたのは何か権威になるものが必要だったからである、つまり権威として天皇は継続されていたからである
神からの権威というか仏からの権威というかそういうものを政治的に利用したのである
それでヨ−ロッパでは政教分離が生まれた、政治と宗教は別であり一体化してはならないという法律である、宗教的権威を政治的に利用するを禁止したのである

人間を治める時、権力と暴力だけではできない、何かしらの正当性とか聖なる権威とかが必要になる、それがまた社会を歪める、また選挙で決めるにしても多数が正義でもなんでもない、多数は権力であり数の暴力となって社会をゆがめる
だから今選挙自体が日本だったら50パーセントもないのだから機能していない
選挙でも公正に決められなくなっている、多数の横暴がありそれが正しい選択ともならない、だからアメリカ大統領選挙では選挙で決着がつかない、それでアメリカ全体で3億丁の銃があり武装して戦うとまでなっている
つまりもう選挙では多数決では決められないのである 
つまり何をもって大統領でも王でも支配する者を決めるかという問題がある

王権神授説(おうけんしんじゅせつ、英: divine right of kings, divine right, God's mandate)または神授王権とは、「王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、また王権は人民はもとよりローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた神以外の何人によっても拘束されることがなく、国王のなすことに対しては人民はなんら反抗できない」とする政治思想のことである。

カトリックが力をもったのは政治の権威となったことである、不可分に結びついたのである、でもこのことは人間の歴史の政治の普遍的な問題としてあった
どうして人民を治めるのか?それは武力や暴力だけでは治められない、だから法の支配というのも生れた、法治国家である
ただこうして歴史をふりかえると歴史は繰り返すということである
政治の歴史を見ればそこにどうしても力だけでは治められないから神仏がかかわり権威として治めるためにそうしたとなる
だから創価でもそれは共産主義ともにた全体主義であり池田大作を権威として幹部が祭り上げてその下に支配しようとする、つまり誰かを神のようにして権威をもたせてそうするそこに本来の本当の権威がないにしてもそれが治めるのに都合がいいからそうする
すり替え天皇の大村寅次郎がまさにそれだったとなる

結局人間の権威は人間が作りだしてもそこには本当の権威はない、ただ神から与えられた人が権威をもつのである、でもその人は政治的権威とはなりえない、それは政治的権威とは別物だからである、政治的権力と権威はこの世の権威なのである
絶対的権威は神にしかない、つまりこの世の権威とする者は偽りであり偽預言者である
それは常に現れている
とにかくこの世の権威とは政治の権威でありこれは世俗的権威であり神の権威ではない
この世では世俗的権威であり神聖なものになりえない
ただそれを利用する、それは方便だともなる
天皇もそういう権威でありだから偽物の天皇の大村寅次郎が田布施町に作られたともなる要するにこの世を治めるのは永遠に神ではない、神が治める場所は天国しかないのであるそこでは神に治められるから永遠の繁栄と平和がありうるのである
この世の権威となっているものはみんな偽物なのである
だからいづれ化けの皮がはがれる、何百万人が崇拝するのは実はサタンでもあったのだ
偽物を拝まされていたとなる  

【なぜ?山口県から8人もの総理大臣が誕生!その理由が凄すぎる!】
隠された歴史が明かす、日本の”真実”!明治天皇の秘密、知りたい?-masakazu kaji-


2020年10月19日

計画、計算できない人生 (何が起こるか予測できないー信仰ならただ求めることが一番大事)


計画、計算できない人生

(何が起こるか予測できないー信仰ならただ求めることが一番大事)

人間はいくら計算しても計算通りにならない、一流大学を出て大企業に入り終身雇用で安泰だとか目指してもそれも今や崩れた
終身雇用などありえなかった、それは一時の高度成長時代があってありえたがそれも30年前にバブル崩壊で終わった
日本はそれから経済は低迷したままのなのである

人生を経験して老人になった人に聞いてみるといい、計画通りに計算通りにいった人はいないだろう、何か必ず不測のことが起きて意外だったとなる
こんなしことになるとは思わなかったとなる
つまり人生そのものが有為転変なのである、無常だというときもそうである
常なるものはこの世にない、人間自体常に変わっている、同じ状態を維持できない
男性でも女性でも常に体でも変わってゆく、40才になると男でも白髪がでてくる
それで40才で先が見えた俺の人生も終わりだとみる
それが早いのである
氷河期世代は40ともなるとあせり苦しむのである、40になるともう社会的に終わりだと見るし社会も見るとなるからだ

自分の人生は特殊だから参考にはならない、ただ20代で自分の人生はほぼ確定した
あとは余禄のようになってしまった
私はまず家から田舎からの脱出願望が強かった、大学にも入れるような学力もなくても運よく三流大学に入った、ただ大学で勉強するというより家から田舎から脱出することで大学に入るとなっていたのである
でもそれが功を奏した、私はわがままであり家から家族から故郷から離れる必要があったのだ

だから引きこもりというとき家から離れない、親から離れないということが問題なのである、経済的に独立しなくてもそうである
人間は一度家とか故郷ととかから離れる必要がある、それが精神的に成長させるのであるだから現代的にしろ引きこもりとかニートとかは家から離れない、家族からその土地から離れないということが精神的に自立しないことに通じている

とにかく20代は自分にとって一番苦しかった、別にカルト教団に入ったのは私には求道心があった、でもそこは宗教とは無関係なところだった
だからやめた、でも奇妙なのは自分自身は求めていたのは何なのか?
それはなぜ人間は死ぬのかということで宗教を求めていたのである
一切の世俗的野望などなかったのである

何であれ何を求めるかが人生では大事である

つまり求めなさいさらば与えられるだろうとなる、求めない限り与えられないのである
誰も水を求めている時、水を与えられる、でも何も求めないものは与えられない
だから宗教とか信仰を強制するのは間違えでる、求めないものに水を飲みたくないものに水を与えても無駄だかである
でも求める者は砂漠のような所で水がない所で乾き求めるものは水が与えられる
まずその求めることこそが信仰なのである
ただもしその求めるものがこの世の欲だとしたら求めること自体が間違っている
だからカルト教団ではその求めるものが現世利益しかない、神社に求めるものは自分の個人的欲望を満たすことを祈る、それでいくばくかの賽銭をなげる
第一そんなことで神様がその願いを聞くことがあるのかとなる

要するに求めないものに何を言っても無駄である、求めるものは求めるものを得る
誰に教えられなくてもそうである、だから聖書も読んでいない、教会に一回も行かない自分でもキリスト信者になったというのもそうである
とにかく自分の場合は何か20代で波乱でありそうなったのである
それこは本を読んだとかではない、求めていてそれが人との出会いとか実人生の中でそうなったのである
ふりかえるとだから不思議なのである、師がいたとしてもそれも偶像化した、その偶像を否定した時神を知ったともなる

どうして神が人間に現れたのか?

それは神とは何かというとき妬む神として現れたのである

これも不思議なのだけど聖書を読めばかわる、それは偶像崇拝との戦いだったからである人間は必ず偶像を拝む、それも人間が一番偶像になりやすいのである
だから真実唯一の神が人間を見て何を拝んでいるんだ、そんな偶像は神ではないとして
妬み現れたのである
それが宗教のはじまりだったのである、それはユダヤ人に聖書に記された歴史だったとなる

そもそもなぜモーゼがエジプトを脱出せねばならなかったのか?

それはエジプトが偶像崇拝の国だったからである、あらゆるものが人間でも神像化していた、それで神はモーゼに命じて脱出させたのである
だから宗教の最大の問題は偶像崇拝だったのである、それはイスラム教でも同じだった
一神教なのである
神は見えない神であり見える神は偶像になるのである

いづれにしろどんな人生であれ計画しても計算してもその通りにならない、みんな思わぬ結果として意外に終わる
歴史を見ればわかる、なぜ戦争であれそれは全く思わぬこととして起こり世界で何千万も日本でも三百万人も死んだ、それもその当時の人は予期せぬこととして起こった
赤紙一枚きて戦場に連れ去られてしまったのである
そういう急激な運命の変化に見舞われたのである
有能な才能ある人も若くしてあえなく戦場の露と消えたのである
残酷な運命の下に生まれてそうなったのである

人間の計画は計算は無駄になる、こつこつと金をためてもそれもあえなく消えたとかにもなる、何もしないのに遺産が転がり込んだとかにもなる
何か計画して計算してもその通りにならない、無駄なのである
コロナウィルスでも誰も予測した人などいないからである
だから人生には歴史には予測し得ないことが起きるのである
それが何なのかどうなるのかわからないのである
津浪や原発事故でもそうである、故郷に住めなくなると誰が思ったか?
いくら危険でもそんなこと起こりえないと思っていたのである
だから長い人生の間では必ず予測し得ないことが起きる
だから計画して計算しても無駄だともなる
それだからといって無駄に金を使いということではない、金自体もいくら計画して計算してもその通りにならない

現実に私の家族は金をため込んでいたが認知症になり銀行から金を下せなくなった
この時ほど驚いたこともない、つまりこれまで金を唯一の頼りとしてため込んでいたものを自分自身で下せなくなったのである、これほどのショックはない
金をに頼っていてもこんなふうにもなってしまうのである
いくら金に頼んでもそれもこんなことになったら何にもならない
自分の金を自分で使えなくなったからである

ともかく予期せぬことが起きて来る、でもそれに備えることはできない、別に金をためてもいいけどそれも認知症になったりしたら何の役にもたたないともなる
何か一生安泰したものもない、会社だって今のように変わると安心ではない
でも婚活では女性はひたすら安定、安心、安全を求めているという
そんなことありえないというのが現実である
みんな有為転変なのである、だから若き時神を知れというのはこうした有為転変の人生に備えるためだったともなる、永遠の命があることを知れば安心だとなるからだ
別に死んでも人間は死なないとなれば畏れることはないとなるからだ
だから若い時に神を知れというのが大事になる
若い時が過ぎるとその機会を失うからである

ただ人間は30過ぎるともう終わったとかにもなる、なぜなら40でおっさんだとかなり白髪も生えてくる、それで氷河期世代の人があせるのもわかる
それだけ時間が過ぎるのが早いからである、夢のようにたちまち人生は過ぎて浦島太郎になっているのである
それは引きこもりでもニートでも30辺りになると一生そうなって終わる
自分自身がそうだった、竜宮城とかにいると外から言われたいたのも納得する
家族に養われて恵まれ過ぎていたらたちまち時間は過ぎて老人になっていたのである

そういう人は自分でもそうだったが親が何でもしてくれるから結婚もしたくない、なぜなら女性と付き合うにしてもいろいろ要求が多すぎるからだ、何してくれ何くれとしかないそして文句や愚痴が多い、でも親は何も言わず世話してくれたからその方がいいとなったのである、そこに大きな落とし穴があったとしても人間は楽だったら楽なままにしていたい、苦しむのは嫌なのである、苦しむのは仕方なくそうすするのでありあえて苦しむことを選ぶことはないのである

ただ結果として親の介護で四苦八苦してもう誰も助けてくれない、むしろ責められるだけだったとなる、苦しい時責められるのはさらに重圧となり苦しいのである
慰めの言葉も一つもなかった、一人苦しみ耐えているほかなかったのである



2020年09月25日

人生も歴史も無念を語る (すべての人が無念で終わるー死があるから)


人生も歴史も無念を語る

(すべての人が無念で終わるー死があるから)

歴史とは何なのだろうと思う、人間の罪の歴史だという人もいる、戦争の歴史だからそうともなる、ただわかりやすいのは歴史は無念の歴史であり無念の集積の歴史である
その無念が怨念ともなる、権力闘争に敗れたり戦争で殺された人が無数にいるからだ
それで日本がの神社は怨念を恐れて祟りを恐れて祀ったというのもわかる
それだけ非業の死とか無念に死んだ人が多いのである
日本だって太平洋戦争で三百万人死んだとかある、それら無念の死であるから靖国神社がある、やすらかに眠ってくださいとなり神社があるからだ
無念を怨念を鎮める神社だともなるからだ

無念という時第一すべての人間は無念に終る、無念というときいろいろある、貧乏で苦しんで無念に死ぬというのが継続してある
また病気とか不慮の事故とかで死ぬのは今でもある、身内でも40才で交通事故で死んだそして病気で死ぬ人も無念になる、特に若い人が死ぬのは無念である
戦前までは肺結核で若くして死んだからそういう人たちは無念を残して死んだのである
母の実家には25歳で肺結核で死んだ人がいた、何かそれでキリスト教に入ったのかもしれない、啄木も肺結核で無念の死となった
いづれにしろ無念の死は数限りなくある

いづれにしろ人間はみんな無念で死ぬ、それはどんな人でもそうである、例えば大金持ちでも地位を得た人であれ美人であれ無念に死ぬ
それはなぜなのか?結局人間はすべて死ぬということにある
人間は誰一人として死からまねがれない、つまり死にたくないのである
すると死ぬことは無念だとなる、死に関しては平等である、どんな金持ちでも地位があっても死からまねがれないからだ、また誰でも男女でも老いる
すると美人でもしわくちゃのばあちゃんになる、それを見た時まるで別人になってしまう
とにかくみんな無念だとして死んでゆく、姉は死んだ「俺は優秀だった」と言って死んだ優秀だったことはわかるが認知症になってそのために馬鹿になったということでそれが悔しくて最後にそう言ったのかもしれない、ただ個々の人生をみればみんな無念に死ぬ
病気になるも無念であり人間には何かそうして無念にさせるものがいくらでもある
かなえられなものがいくらでもあり死んでゆく
私はこうしたかったああしたかったとか後悔して死んでゆく
まず老人になって後悔しない者はいないのである
どんな人生を送っても後悔しない人はいない、何か足りないものがある

後悔しない人生を送れといってもではみんなそうできるのか?
自分を社畜だとか奴隷だとか言っていやいや会社勤めしている人は老人になり後悔する
もっとやりたいことをやっているべきだったとかなる
別に自由に自分のように生きても後悔がある、社会性を身につけるために働くべきだったとなるしまた留学すべきだとかもっと海外旅行すべきだったとかある
特にヒマラヤは一回で終わったからもっと行くべきだった
なぜなら十回も行った人がいたからである
そんなに行けたのかというのが意外だったからである、それはトレッキングコースを行っていたのだから必ずしも登頂するとかではない、ヒマラヤは見るだけでいいともなる

人間の歴史自体数限りない無念の死で埋まっている、非業の死もいくらでもある
第一戦争では日本人だけではない、何千万人とか死んだとかなる
他にも権力闘争は必ずありカンボジアとかでも骸骨が積まれた記念館がある
それも非業の死だった、歴史はそうした人間の過ちの無念の記録だともなる
自然災害の死もある、津波で死んだ人たちも非業の死だとなるし原発事故の被災者も故郷に住めなくなったのだから故郷を離れて死ぬから無念だとなる

無念だというとき一番多いのは貧乏のために願いがかなえられないことが一番多いかもしれない、そもそも学校にすら行けない国もある、ネパールなどはボールペンとかすらないつまり文房具すら用意できないのだからどうして教育ができるのかとなる
世界ではまだそうした貧困な国がある
そういう場所では学校に行くことすらかなえられない、また裕福な国では学校嫌いになり行きたくないともなる、自分自身がそうだった、それは貧困な国になれば贅沢だとはなる私の父親はさしみが食いるようになったが病気で食いたくないとして死んだ
何か食べ物に関してもまともに食べらない無念があった
食べ物の恨みは怖いということにもなる

ただこうした様々な人間の無念も豊かになったり科学技術が発展して解消することがある肺結核は伝染病とわかりかからなくなったから肺結核で無念で死ぬ人はいない
他のウィルスでもワクチンができてかからなくなったから病気で無念で死ぬことはかなり減ったのである、教育でもゆきわたるようになったからそれで無念だということもない
様々なものが改善されて無念で終わることがなくなってはきた
でも人間はどんなことをしても無念で終わる
何か無念を残さないで死ぬ人はいないのである
何か無念だとして死んでゆく、動物さえ犬さえ最後は吠え続けて死んだ、それは最後の断末魔で死にたくない死にたくないと叫んで死んだように思う
つまり人間は死ぬから無念なのである

すると死ぬかぎり無念は解消しないのである、その死から解放するのが信仰になる
死ななくならない限りそれがありえないからだ、死ぬということはみんな無念だとなるからだ、死なない命を与えられない限り無念はなくならないのだ
永遠の命が与えられない限り人間の無念はなくならないのだ
確かにキリストは十字架で無念に死んだけど蘇ったのだからそれで無念は解消されたからだ
人間の無念は結局死ぬことにある、だからどんな人も無念に死ぬのである
いろいろ無念があっても死の問題を解消しないかぎり人間から無念はなくならいのである要するに神の国に行く他、無念を解消する方法はないのである
この世に生きることは結局誰でも死ぬから無念に終わるのである
この世でどんなに恵まれても死ぬときは無念になる
ありあまるほどの富を貯えても病気になって寝た切りになったらその富は何の役にもたたなくなる、ただ天井を見ているだけになる、これも無念だとなるからだ

ただこうした人間の無念が歴史だという時、その無念を知るべきだとなる
そして今の恵まれたことに感謝すべきだとはなる
先人の努力の積み重ねで様々な無念も解消してきたからである
歴史にはいろいろな見方がある、歴史の見方として後世に何をもたらしたかを見ることも大事になる、科学技術でも伝染病を治したということは病気で死ぬ無念をなくしたとなるからわかりやすい、また貧困をなくしたということもわかりやすい
これらが一番わかりやすい、他にも無念をなくしたことがある

自分に関しては家族に恵まれて自由に生きることができたから社畜なんだとかならなかった、ただそれでも後悔は残る、別に社畜だからとそれか全部マイナスにはならないからだ、まず引きこもりとかニートとか何か欠けるようになる
また結婚しないとか子供もたないとかも何か人間的に欠けた人となる
ただ正直あらゆることをすることは人間はできない、芸術家の8割が独身だったということがそれを証明している、何か家族をもったらそれに費やすエネルギーが膨大になり何か考えることもできなくなる、今家事を全部していただけで自分は感じたからである
家事は相当な労力であり疲れることを介護でも一人になっても知ったからである

2020年08月29日

自然災害など人間社会に起きることの不思議 (神からの罰として起きることもあるのか?)


自然災害など人間社会に起きることの不思議

(神からの罰として起きることもあるのか?)
      

死⇒原罪⇒罰

認知症(難病)⇒罰

津浪⇒原発事故⇒罰

コロナウィルス⇒罰

オリンピックの中止⇒罰

人間に起きることは不可解なことがある、なぜこうしていろいろことが起きたのか自分自身の一身上でも不思議なのである
家族が認知症になったことでもそうである、なぜこんな病気に見舞われたのか?
こんな悲惨な病気に見舞われたのか? 
何かALSとかは業病であり神の罰だとか言って顰蹙を買った
カルト教団だと常にそういうことを言うがその教団でもそういう人はいくらでもいる
不運に死ぬ人などどうしても普通の人より多いからそういう場に入り不幸から逃れようとするが実際はさらに不幸になっている人も確率的には多いのである
認知症になって自分は悪いことはしていないと言っていた
でも身内だから言いにくいが傲慢なところがあったことは確かである
その傲慢さが銀行からも金を下せないという悲劇になった
金をいくらためてもそうなったら金の価値は無になってしまった驚きである

でも大概の人は老人ではそういうことを言う、むしろ悪いことをしてきたからそう言っているのだ、まず悪いことをしない人などいないからである
ただ病気がみんななるしその因果関係はわからない
別に信仰深い人でも病気になっているし死んでいるからである
会社だって団体でも悪いことしている、カルト教団自体が宗教を装い悪いことをしているこの世自体がブラックなのである
それで人々の心がみな悪いとしてノワの洪水が起きた
それは神が起こした大自然災害だったのである 
ただ人間はこの世に生まれて災いからまねがれることはできない
ヨブの苦難は神が苦難を与えたのであり信仰の試練として与えた
そして苦難を乗り越えて神に祝福されたのである

個人的にも神に守られるということはある、自分にしても何回か死んでいたようなことがあった、それが死ななかったのは神が助けたのかとなる
お前はまだ死んでいけないとして助けたのかもしれない、ただ死ぬ危険は交通事故にあった、三回くらい自転車で転んで強く打ったからそれで死ぬことがありえた
三本の前の歯が折れた、他でも頭を打って死んでもいいときがあった
でもこの交通事故で死ぬ確率は多いのである、この世では今まではイスラエル民族を神が守った、でも新約時代になると個々人を守るのが神になった

では一身上でもまた社会でもこんなに災いが連続して起きるのか?
津浪などはあまりにも恐ろしいものでありこんな災いは想像もつかないものだった
ただ津波でも三陸では明治に起きていて一万人死んでいるとかある
だから別に今だけに起きたことではない、でも余りにも大きな被害だから神からの罰なのかとまでなる
それが確かに原発事故を起こしたことでそうだったとも解釈した
核そのものが原子核を破壊して熱をだす危険な操作だったから科学者がこんなことするべきではないと言っていたからである
また遺伝子操作などもそうした危険があり何が起きて来るかわからないのである
すると予想もつかない災いがまた起きてくるかもしれない
オリンピックの中止もコロナウィルスで起きた、これも広告屋の電通とかの利権のためにあるとか言われた
オリッピックは平和の祭典ではなくなっていた、商業主義でありもうけのためにするのである
だから中止されてもいいものだったともみた、それよりまだ復興していない東北に力を注ぐべきだと思っていたからだ

人間はそもそも神のタブーを禁止したことをして災いをもたらした
それはアダムが智慧の実を食べた結果として神から罰せられた、原罪を負った
つまり何々をしてはいけないということを神が禁じたことをした結果として災いが生まれたのである
それはプロメテウスがゼウスから火を盗んで過酷な刑に処せられたとかも同じである
タブーを破った結果として過酷な刑に処せられた
それは原発事故でもそうだった、プルトニウムの毒が二万年消えないとかそのために除染しても除染してもできない、森から放射性物質は出てくるからである
それはまるでシーシュポスの神話と同じだと述べた
岩が転がり落ちてきてそれを持ち上げてもまた坂から落ちてきて延々と岩を持ち上げる罰を与えられたのである、それは何の意味もない苦行を課せられただけである
それはやはり過酷な罰だったとなる、カルマだったともなる

この世の謎というとき人間社会に起きることは何かすべて合理的に判断できない
確かにこの世に起きることには原因と結果があり、何か原因があって結果がある
事故だって何か必ず原因があり原因が追究される、そして機械が壊れてもその原因がわかれば安心する、でも原因がわからないと何なのだろうとなる
コロナウィルスなどは正体不明だから不安になっている
どうしてそれが生れてどういうものなのかわからないから不安になる
何でも原因がわかれば病気でも直せるとなり安心する
そのために人間は原因を追究している、それで人間はいつかは死ななくなるとかまで言うことになる、科学が万能になると思っているからだ

例えばレバノンに逃れたゴーンのレバノンであんな大事故が起きて悲惨なの状態になったのはなぜなのか?その原因は何なのかとなる
ゴーンに罰が当たったとかともみる、悪人に逃れる場所がないともなる
その因果関係があるとするとそうなるのか?
神が罰したとかなる、何か宗教の場合はカルト教団でも常に罰があったと批判する人を言うのである、だから政治でも批判できなくなる、レバノンでは宗教政党がいくつかモザイクのように支配していて政教分離していなから政治でも批判できないとしている
アメリカの黒人暴動でもそうである、そもそも奴隷として連れてきたことに原因があるからだ、それがアメリカのカルマとなっているのである

コロナウィルスウィルスでもウィルスとは何なのだろうとなるとこれもやはり神の自然界のタブーを破った結果として自然の復讐だともされる
人間が入ってはいけない、または触れてはいけない生物がすむ領域に侵入した結果として起きたとなる、そして風土病でありその土地土地に限定されたものだったがグロ−バル化でたちまち広がる、だからグロ−バル化とか交通の発達にも負の面があったともなる
つまり何でも原因があり結果があるともなる、それは科学的思考でもある
ただ科学と宗教がありそれは確かに一つの根で共通している
もともとは宗教であっても呪術であってもやがて効果のある薬を植物から見出して飲ませる、すると効き目があるとして薬が発展する、ただ祈ったり護符とか与えても病気は治らないからである
ただの紙切れでも与えるということは今でもどんな宗派でも行われている
でもそんなもので病気は治らないから今は宗教者は信頼されていないのである
それで宗教は衰退して科学技術の自体になり科学者が神官に聖職者になったのである

要するにこの世に起きることに神の関与があるのか?

なぜこのように様々な災いが生れて来るのかという原因がわからないからそうなる
もし科学でも何でも説明できればそうかとなるができないからこそ自然にも人間界にも神の関与があるのかとなる
旧約聖書では明らかに神の関与があり神が自然でも変えて選民であるイスラエルの民を導きだした、救い出したのである
そういう物語が基本的なものとして形成されている、それが奇跡なのである
モーゼでも脱出がテーマであり海を割り道を作ったというという奇跡でもそうである
そんなことありえないというがその奇跡を否定したら信仰自体成り立たなくなる
聖書とは神が人間でも自然でも関与したことを記したからである
ただ新約聖書からはそうした奇跡の物語はあまり記されなくなって科学の時代になったのである、なぜなら結核を治したのは科学者であり医者だったからである
それで科学者が神官になり聖職者になったのである

でもコロナウィルスでも以前として未知のものが生まれるとそれは何なのか解明できないから不安になる、そうなると科学で解決できないととなると祈るということにもなる
それしか方法がないからだ
でもなぜこれほどいろいろなことが一身上でも社会でも起きて来るのか?
末世になるとそうした災いが生まれるというのもわかる
一身上で駅でボランティアしていたがそれで何ら認められることなくかえって駅長にも
地域の人にも認めらなかった、そして怪しい人として警察に通報されたりした
要するに勝手駅に何かするなとされたて終わったのである
そしたらコロナウィルスで鉄道が利用されないという信じられないことが起きた
これも何なのだろうとなる
人と接することができないということも何なのだろうとなる
これも罰だったのかと勝手に私怨として見ることにもなる
宗教というのは何かそういうふうに相手が批判したりすると必ず罰当たるとかいうのが普通でありそれが個人でもそうなり危険なのである
原因と結果を宗教的解釈する、すると科学的思考とは違ったものになる
例え自分に非があっても罰当たったとか喜ぶのである、宗教はこうして悪人に悪用されてきたのも歴史である

ただ神が人間界に関与するというときなぜ第二次世界大戦のような悲惨なことを見逃しているのか?

原子爆弾を落とすようなことを見逃しているのか?

それが不可解なのである、例えば日本が神の国だとしたら奇跡で原子爆弾を落とす飛行機を何らかの力で墜落させてもいいとなるからだ、それもなかった
ただベトナム戦争ではなぜ圧倒的な力があったアメリカが勝てなかったのか?
そこには神の力か働いたのかとなる
聖書では力の強いものが必ずしも勝つ歴史ではない、弱い者でも神が関与すれば味方になって勝った歴史なのである、それを記したのが旧約聖書である
ともかくこの世に起きることはすべて原因結果があるとしても合理的にも説明できない
すると神が関与したのかとなる、ただ神が関与したとなるときこの世を変えることではない、神はこの世から選ばれた人を救い出す脱出させることを奇跡を通じてすることであるだからそもそもこの世を変えることは不可能である 

むしろこの世は欲でもって滅びるとされているからだ
この世が改革されて天国になることはない、滅びがあるだけだとなる
ただ改善の努力はつづける、でもそこに必ず不可抗力なものがある
それはなぜなのか?それは人間の根本的な罪が払拭できないからである
共産主義でも資本主義でも極端な格差社会になるのもそうである
人間の欲が限りなく肥大化してそんなことになる、ほんのわずかな人たちが巨額の富を得てどっちにしろ貧困者が増大していることでもわかる
平等を目指した共産党の幹部が何兆円もの金を得ている
これほど矛盾したこともないのである
つまりどんな主義であれ社会を変えることが不可能なのは人間の欲が消えないからである科学技術でも人間の欲のためにありそれで原発は金の成る木となりあらゆる人が政治家でも官僚でもマスコミでも御用学者でもその欲のために群がった
そこで危険は無視されたのである、それは地元の人たちも同じだった
原発事故の原因もいろいろあってもその中で人間の欲がありそのために事故が起きたともなるからだ


天変地異がなぜつづけて起きるのか?
(悪を暴き出す面はあった、地球を浄化するためなのか?)

2020年08月19日

社会が変わると価値観が変わる (ニートとか引きこもりとか増え遊戯三昧も追求されるネットの時代)


社会が変わると価値観が変わる

(ニートとか引きこもりとか増え遊戯三昧も追求されるネットの時代)

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安倍首相と日本人がかかっている呪い。嫌な仕事、結果が出ない仕事を辞めたくても辞めれない・・・呪いはどこから来るの?作家今一生さんと一月万冊清水有


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スーヅの時代は終わった(加治将一)


何かインタ−ネットで特にyoutubeの発言を見ていると不思議になる
今日の月一万冊での対話でもそうである
特に遊戯三昧という禅宗の言葉が面白い、何か遊びでもそれを追及して行けば悟りの境地にもなるとかなる
遊戯とか遊ぶことなど無駄であり社会人から拒否される
また禅宗は座禅するということはデスタンスをとることである、そして大声でしゃべらないことである、そうして沈黙していることが修行なのである
そうしないと棒で叩かれる、だから私はキリスト教とか聖書の神に基づいているとしても禅宗が好きなのである、向いている
それは30年間引きこもっていたから寺に入らないにしろ禅宗の修行僧のようになっていたのである
例えば遊戯三昧というとき自転車とかで旅したとするとそれは雲水となる
自由な旅を追及したとなるからだ
でもそういうことができたのは家族に恵まれたからである
あなたのしたいことをしなさいとなっていたのである
普通働かなかったら働け働けとなって親に殺されたりもしているからだ
私にはそういうことは全くなかった、だから特別な家庭環境でそうなったのである

そして今になるともう死んでもいいとう歳になってまたコロナウィルスで今までの社会常識が変わる、他でもAIの社会になるとコンピュターが仕事するからすることがないからみんなけアーティストになれとかいうのも奇妙なことだと思う
その人は歌が好きで歌手になりたいとしている、でもすでに60代なのである
加治将一氏でもスーツの時代が終わったというときまたスーツを着ているのは詐欺者に多いというときも今までの価値観とは違う、会社員がほとんどだとするときスーツなしではありえないからだ
私はスーツなど着たこともないのである
そしてスーツを着ている人は何か逆に胡散臭いということが確かにある
パリッとして正装しているからスーツを着た人は信用できるとなる
そういう人は社会人として常識あり信頼されている
その恰好を見て人は判断するからだと言われてきたのである
つまり人は何であれ見た目だとか言われているのが普通だったのである
だからこういうことを盛んにyoutubeとかネットで言われるのは何か不思議なのである
別にアウトサイダーならいい、それがまるで時代の先端を行くのがアウトサイダーだとなっている
アウトサイダーとなれば社会で天才と言われる極わずかの10人足らずとかの人間のことを言っていたのである
例えばニーチェとかゴッホとか宗教ではキケルゴールとかの単独者のことである
それは極めて少数者でありそれは歴史にも残る人として評価されている
上野霄里氏などもそうだった、それは一時師として私は仰いでいたからである

とにかくアウトサイダーとして生きることは実際は至難なことでありむしろ天才とか優れた人のことを言っていたのである
それがなぜか普通の人がそうしたアウトサイダーとかになる
まず無職だということがその条件だからである、ところが現代はニートでも引きこもりでも百万単位でどこにでもいる、田舎でもいる
良く同類なのか、そういう人と田舎でも逢う、風体からしてその人は仕事はしていない
何か髭をはやしてふてぶてしい、だからそういう人は何なのだろうとなる
またコトオジという子供部屋おじさんというのとも会う、その人は毎日ぶらぶらしているだけである、だからそういう人となぜか私は逢うのである
でもそういう人は何なのだろうとなる
でも今でもそういう人を世間はどうみているだろうか?
毎日苦労して働いているのになぜぶらぶらして働かないのだと大きな不満をもっている
そういう人は死んだ方がいいともしている
また現実にホームレスに暴力をふるった人がいてそれは会社員の人が苦しんで働いているのに何もしないでいるホームレスに不満になり暴力をふるったとしている

ただまずスーツを着ている人間を詐欺師だというのも驚きである
でも本当はスーツを着ていれば信頼されるというよりそれによってだますということがあった
なぜなら銀行でも保険の勧誘でもまた営業になればみんなスーツを着ている
それはユニホームのようなものである、それで信頼されるものとなっていた
でも実際はそういうユニホームにだまされるとういこともある
だから警官の恰好をして人をだました詐欺者がいたというのもそうである
もしよれよれの服など着ていたらなんだこいつはとなり相手にしないからだ
でも団塊の世代となるとみんな会社員でありスーツを着ないでは仕事ができないのであるただこうしてスーツを着ている人が詐欺者だということも一面あった 

カルト教団とかでは勧誘するときそうしてみなんスーツを着てまるで会社員のような恰好してくる,創価ではそういうふうにスーツを着てまるで大企業の社員のようにして勧誘していた、創価ではとにかくナチスのような雰囲気の世界でありみんな統一された服装にもなる、そこに一切の自由はない、中国の共産党とも同じである
その人たちも人民会堂ではスーツを着ている、ただ多様な世界だから民族衣装の人もいることは違っている
スーツを着ている人は詐欺者というのは本当に意外でありその人でも不動産とかの商売をしていたのだからスーツを着ていたのではないか?
この人については何か理解できないものがある
ただ比較的欧米とかでの生活経験ある人は自由な考えとか態度の人が多い
それで外国で生活経験を積んだ方がいいというのはわかる
たいがい日本を客観的に見れるのはそういう人達だからである

インタ−ネットの発言はもともとマスコミのように制限されていなかった
自由な発言の場として発展した、でもこんなことをみんな言っていいのだろうかとなる
それが今の社会にアフターコロナに必要なのだとか言うのもそれはもう昔のアウトサイダーとかではない、社会自体そういう価値観を受け入れるようになったからだともなる
そもそも百万もニーととか引きこもりがいること自体異常である
でも数が多ければ正常になる、ナチスでもそうなったからである
その時はみんなそれが正常だったのである、だから創価などもそれと似ている
みんな創価の会員になったらナチスと似たものとなるからだある
そうなるのじゃないかと一時は会員が増えたので危険があった
回りをみてもみんな創価の会員だとなっていたらそうなるのである

いづれにしやスーツでも制服とかを着るのはその時その個人の個性とか自由は奪われているのかもしれない、警察でも自衛隊でも何かユニホームを着ることは全体主義に通じている、実際にファシズムの全体主義になれば警察とか軍隊が戦争の時のように強権をもって統制してくるからだ、それは歴史で実験済みである
ただ世界的にもスーツを着ているのがスタンダードになっているからスーツを否定することは何なのだろうとなる
日本の伝統を重んじるなら和服を着ろというもの理屈である、なぜなら民族衣装こそその国の伝統文化だからだとなる
スーツは民族衣装ではないからである

ともかく今インタ−ネットでそんなことを盛んに言うのはこれまでの価値観が変わりそうなった、今までのように経済成長も望めないし一生大企業でも勤めていれば役職につき給料もあがり社会的地位を得て社会に認められるとういものでもなくなったからだという
それでダークネスで「どこの馬の骨かわからなくなる」これも大企業でも富士通でも45歳でリストラになるとかなればそうである
お父さんは一流企業で働いてる自慢もできなくなる
それは実際に厳しい社会でもある、一生安泰な世界はなくなる
職人なら腕一本という時代になるのとにている、大きな後ろ盾の会社とかはあてにならなくなるからだ
俺には一人で稼げる腕があるとなればそうなる

でも確かに遊戯三昧という禅宗の考え方は面白い、遊戯でも究めればなにものかになる
それは自分自身が流れ作業との底辺の仕事を嫌い旅ばかりしていたからわかる
旅でも追及して行けばそれは旅人として名を遺す人ともなるからだ
社会からはずれても西行や芭蕉や山頭火とかなり一つの世界を究めたとなるからだ
だから一つの世界を究めるということは人生では大事である
ただそれはスーツを着ているようなユニホームも制服を着ているような人には無理に思える、その人たちが個性を出すことは禁止されるからだ
同じ歩調で統一される、それはカルト教団でも同じである
そこには全く自由はなくなるのである、集団で必ず行動してナチス的になるからだ
共産党も中国のように同じなのである、一人一人が細胞というときもそうである
政治とかはみなそうなりやすいのである、また宗教も集団化すれば一人一人は細胞にすぎないのである、一票という頭数だけになる
中味は個性とかなんとかは一切無視されて数として数えられるだけだとなる

とにかく人生は70年も生きると価値観がまるで変ることがある
それは戦争に負けた日本で起きた、国家が最大の価値であったのがそれが全く失われたからである、その代りに企業戦士となり会社にすべてを捧げるともなった
会社に帰属していることがスーツをきて一斉に出勤することは何か軍隊の変形したものなのかもれない、今になるとそれは何なのだとなるのも不思議だとなる
スーツの時代は終わったというのは会社員の時代が終わったとういことなのか?
それも簡単には受け入れられないだろう、でも今時代が大きく変わってゆくことは確かなのである
だから私こそ遊戯三昧に生きてきた、ただそこで小人だからこそ閑居して不善を成すとなったのである
以外と今でもニートとか引きこもりとかは様々な見方があるにしろいいものと見られないそんな人間がなぜいるのだろうとまだなっている、みんな働いているのに働かない人間は許されないとなるからだ、ただ原発事故とかなり異常事態になりみんなが復興のために働くことが求められたときはやはり働かない人間は責められても仕方がないとなる
現実は外から来た人たちが仕事でもボランティアでも働いていたのである
肝心の地元の人たちは働かないからこそそう言われたのである

ともかく人生大事なことはぶれないことである、右でも左でもいい、それを貫けばその人は何者かになる、だから遊戯三昧でもいいのである
でもそれが社会からはずれたものだから貫くこと自体相当に優れた人でないとできない
私はたまたま家庭環境に恵まれたからなれただけなのである
おそらくニートとか引きこもりとかも食べさせる家族がいて成り立っている
そういう豊かな時代だからこそ生れ人たちなのである
時代でも70年も過ぎると明治維新があり70年過ぎて戦争があり戦争にまけて価値観ががらりと変わった、そしてまた70年過ぎて価値観が変わる
そういう大きな時代の変わり目となり技術でもインタ−ネットとかスマホとかが成熟してきたことでも変わったのである
だから人生はこうして変わるからこれからは遊戯三昧でもそれを追及していけば何者かになるという時代になる
その表現の場としてインタ−ネットがプログでもyoutubeでも生まれたとなる
そして規制のマスコミは古くなり衰退メデアとなる
そういう先を見越すことがこれからは大事である、だから銀行でも半分がなくなるとかなるのも時代である、公務員がいいとした時代も終わりつつある
東大の優秀な人は官僚を目指さないとかあり意外と公務員は人気がなくなっているのだ
これも時代の変化なのである






2020年08月12日

人間の運命の謎 (不平等の歴史ー人間の才能は常に活かされていなかった)


人間の運命の謎

(不平等の歴史ー人間の才能は常に活かされていなかった)


人間の謎は例えば家族でも同じ母親から生まれてもその運命は格段に差があったりする
それは自分自身の家族でもそうだった、兄がいたとしても父親は違うしそれで大きな差が生れた、兄とは5年しか一緒に家で暮らしていない
兄は集団就職で中卒だったが自分は勉強嫌いで高校でも卒業できない成績だったが
別にそんな成績でも私立文系の東京の大学に入った
この差も大きいとふりかえる、ただ集団就職は当時はクラスの3分の1がそうだったのである、大学に行けたのはクラスで50人とかいた場合があり4,5人だった
ということそれだけ恵まれていたということである
ただ今になると大学は高卒の半分は行っているしFランとか最低クラスでも一応大学に行ける、最近は親に金がなくても国が援助して借金しなくても行けるようになったという
だから大学は誰でも行ける時代になるのかもしれない
ただ大学の問題はピンからキリまであることなのだ、その差が大きいのである
特に文系となると何か大学でもみんな同じように見えてしまうのである

人間はなぜ個々人でも家族でも平等でないのか?
なぜ不平等が生れたのか?これはもう歴史がはじまってから生まれているからその要因はいろいろありそれを調べるとなると容易ではなくなる
例えば原始共産制とかの平等社会があったとしても狩りするとして狩りのうまい人と下手な人がいてそこで能力に差が生れリーダーになる人それに従う人がいてその部落が成り立つとかなる、人間には必ずそうして能力の差が生まれつきでもありそこで狩りのうまい人とか戦争で強い人とがリーダーになり王ともなり選ばれた兵士となり支配階級になる
それは日本でも侍がそうなったようにそういうことかどこの国でもある

そもそもなぜ奴隷が生れたのかというと部族同士で争い負けた方の人たちが奴隷にされる国同士で民族同士で争い負けると奴隷にされるのが大陸の歴史であった
そして不思議なのは奴隷というのは人権的に進歩した扱い方だったのである
なぜならさ戦争に負けると皆殺しにされていたからである
でも殺さないで奴隷として生かすということは人類史では進歩だったのである

要するに不平等とはこうして民と民の戦争の結果としても起きる、そこに能力の差が生れて起きる、個々人の不平等も能力の差から起きる、民族でも国家でもやはり国力とか能力の差があり戦争で負けると奴隷にされるのである
これは歴史から人間全体から見るとそうなるが個々人でもそうなのである
能力の差が常にありそれで不平等が生れる
女性の場合は容姿が大きな不平等を産む原因となる
なぜその女性が何か知的にも活発なのに不遇に貧困に一生終わっているのか?
それを考えるとどうしても容姿が悪すぎたということにあったとしか思えない
頭は別に悪いというのではない、中卒でももともと女性でも頭がいいというか活発な人がいる、それは学歴のことではない、能力にいろいろあるからだ
コミニケーション能力でもそうである

ただ個々人の能力となると才能がもともとあったとしてもそれを活かすことは至難なのである
私の母親は大正生まれで貧困だった、それで10年間紡績工場で働いた、わずかに幼少の頃だけ恵まれて生活していたがその後は働きづめの生涯だったのである
尋常小学校を出て読み書きはできたにしろ後は何も勉強していない
またそうした余裕が与えられていないのである
だから花などいらないと庭に豆を植えていたのである、花は無駄なものとして見ていたのである
それは人間として大きく欠けたものになっていた、ただ別に花に興味がない女性もいた
その人は40代であり別に貧困ではない、花に親しまない家庭環境だったのかともなる
今は生け花とかの花嫁修業はしない、姉は貧困家庭でも生け花を習っていた
だから貧困でも花嫁修業させてくれたとかありその相違も大きいものだったのである
私は母の資質を受け継いでいる、何か文学的な才能があり俳句とか短歌を20代の頃から作り出した、でもそれはただ575とか並べるだけだったのである
でもなぜその後私は才能をそれなりに伸ばすことができたのか?
それは家庭環境に恵まれたからである、仕事はしないにしろ自由な時間が与えられて旅に明け暮れて一人家にこもり自然と一体化することをして詩を作ったりしていた
本も相当に読んだ、理解はしていないが読んでいたのである

才能はそもそも天才でないかぎり努力しして開発しないかぎり活かされないものである
何かしらの才能があってもそれを伸ばす環境がないと活かされないのである
だから膨大な人が才能があっても埋もれて死んでいるのである
それは家庭環境だけではない時代の不遇でも埋もれている
日本は戦争の時、有能な人が戦死したからである、若くして死んだからである
また病気で死んでもいる、長生きしないことでも才能が活かされないのである
だから人間の才能が活かされることは稀有なことかもしれない、何かしらの才能があっても活かされない人の方が膨大なのである

例えば知的なものを育てるにはそうした環境がないとできない、普通に暮らしていても結婚して子供をもったりするとまた家が狭いとかなると書斎もないとかなるとそこで読書したり書き物したり瞑想したり創作したりしにくくなるのである
子供が騒いだり妻にしても干渉されたりして集中できなくなる
それがテレワークでも起きている、仕事にも集中できないことが問題なのである
だからテレワークには広い家が必要なのである
私は大学の時に家を新築して大きな書斎までもっていたのである、ただその時本は少なかった、ただ子供の時は高校までは家が古い家であり個室がないから勉強に集中できなかった、というより勉強嫌いだったのである
私が勉強しはじめたのはむしろ大学を出たとか相当に遅れていたのである
でもその後引きこもりになり家にこもって本を読んだり俳句や短歌を作ったり詩を作ったりしていたのである、自然と一体化することをしていた
1日誰とも話しないということが普通の引きこもりだったのである
それはまるで禅僧のような生活だったのである
でも家族からとがめられないのでそうしていたのである
一面だからこれは異常なことだったのである、それで異常化したことも確かであり失敗もしたのである

ただこういう家庭環境にありその時早い時期から通信機能つきのワープロを買ったりしてすでにパソコン通信でもしていたしITになじんでいたとはなる
それも才能を伸ばすことでもあったとふりかえる
ただまともな社会生活をしていないから異常化していたのである
人間は確かに不平等を作りだしている一番の原因は家庭環境だと思う
それで親に愛されない人はみんな底辺になるとか言う人もいる
そういうことでは自分は特別恵まれていたのである
家庭環境が不平等の原因だというとき才能でも学校ができるまえは自宅で学習するほかない、するとそこに学ぶ環境が本とかがなければ勉強しようがないとなる
それでなぜヨ−ロッパに天才が多いのかというとそうしして貴族の家には学ぶ環境があったからだとなる、第一ピアノがなければ音楽の才能を発揮することはできないしモーツアルトは幼児の時からそうした訓練をしていたことでもわかる
ここに大きな差があり不平等が生れていたのである

なぜ人間は不平等になってしまうのか?
それはいろいろな原因があり解決できない、それで財産でもある人がない人がいて
fortuneとは運命であり財産の意味もある、つまり金運がいい人と悪い人がいるというときそういう考えないのである、どうして金のある人とない人が生れるのか?
それは本人の努力とか才能だけではない、運が関係しているともなる
運がないと事業でもなんでもうまくいかないともなるからだ
ただこの運にしても自分の家族をみても兄弟でも必ず不平等が生れて差かつくのである
つまり何でも平等であることは不可能である、平等を目指した共産主義が皮肉にも中国のようにもっとも格差が激しい者かいなったからである
共産党員が富を独占することになったからである

こういうことでそもそも人間は平等な社会を作ることは不可能である
それでインドではカースト制を作った、生まれつき平等はない、不平等だなのが人間の定めだとまでなってそうてったのである
ただ時代的には現代が一番才能を伸ばしやすい時代である
なぜならなぜ必ず田舎でもニートとか子供部屋おじさんとか働かない人がいるのか?
なぜかそういう人と自分は逢うことが多いのである
同類になるからそうなるともなる、そういう人は別に嫌なことはしなくてもいい自分のしたこいことをすればいいとなると才能を伸ばすことができるのである
才能は何かそもそも開発しない限りてきない、すると自由な時間がありそれなりの環境がないとできないのである、ある程度の本を買うとかの資産も必要なのである
ただ才能といっても多様だからどういうふうに伸ばせるかは個々人で違っている
ビジネスの才能とかはまた別であり社会訓練しないとできないのが普通である

それで不思議なのは自分のしているパソコンによるり抽象画の製作なのである
まず私は全く絵の才能がない、でもなぜ抽象画を作れるのか自分自身が不思議だった
それはコンピュターが生れてできたことなのである
そのソフトが生れてできたのである、つまりartとは技術のことであることがこれでわかった、技術が発達することで芸術も生れたということである
新しい絵の具が開発されたことで絵画も新しい絵画生まれたともなる
だから抽象画を作る時全く才能がなくてもできる、ただ機械的に操作してできる
つまりAIが創作しているのと同じでありそれに手を加えているだけだとなる
翻訳でも優秀になるからそうなったのである
人間の才能もだから機械によって開発されるということでありもしそうしたものがなければできないとなっていたのだ
第一映像の時代を築いたのはカメラだった、カメラによってどれだけ人間の才能が開発されたかでもわかる
そしてカメラでもレンズの方がカメラの本体より高いのが普通にある
でもプロになるとそうしたた高額なレンズを使うからいい写真とれるとなっているのだ
それはカメラの機械の差であり必ずしも才能の差ではないともなっている
そういうふうに時代によっても活かされるものと活かされないものがあり不平等が常にあるのが人間社会なのである

2020年07月12日

この世に生まれたこと自体、カルマだった (カルマとは業(罪)であり責任でありあらゆることに責任がつきまとっている)


この世に生まれたこと自体、カルマだった

(カルマとは業(罪)であり責任でありあらゆることに責任がつきまとっている)

なんか技術者でもそうである、車の事故を起こしてエアバッグの不具合でタカタとかの会社が倒産したとかある
技術的問題があり死者もでたのでそうなった、アメリカに訴えられたからその補償金でつぶれるともなった
今回のヤマハの電動自転車は何度もすすめた、ただそれの弱点はスタンドがないことと荷台がつけられないことだった
それで近くの自転車屋がスタンドをつけてくれた、それは結構技術的にむずかしいものだったのである、だから最初はどこに置いても倒れていて困った
意外とスタンドがないことは困るのである
でもちょっと直したら倒れなくなった、これは助かった、もしスタンドでも倒れるだけならつけても無駄だった、それを進めるべきものではなかったとなる
何の役にもたたないからである、すると金を損しただけだとなる
そして責任をとれとか言う人もでてくる
でも直ったのでそこの自転車屋はそれなりに技術力があるとして評価する           

地銀のことをいろいろ言ったがこれもまた責任問題になる
投資信託のことをまかせてくださいというから営業の人にまかした
でもそれはいろいろな事情で株とにている、だから損してもその責任は営業の人でも
地銀でも一切とらない、理由はいろいろ言えるからである

結局あなたの責任です!

こうなるだけである、地銀では営業の人でも手数料はがっちりとるが損したとしても一切責任はとらない、損させたのはそれを買った客であり地銀でも営業の人でもないのである株があがると言われて買ったのだから下がったらどうしますか、何もしません
株はいろいろな事情で上がったり下がったりするものですとなるだけである
つまり地銀であれ営業であれ責任一切とらないのである

すると知識のないものはやるな!

株でも投資信託でも知っている人、自分で決められる人がやるべきだとなる
すると営業の人がすすめたとしてもその商品に対して責任をとるのは客である
だからその見極めをできないものは買うなとなる
私自身は株でも投資信託でも知らなかったけどまかせた
でも何も知らなくてまかせても責任は客にあり地銀とか営業にはないのである 

ただトータルでは運よくというか損しなかったので営業の人にでも何も言わない
でも怖かったのはJ-REITがコロナウィルスで暴落したことである
半分になったことである
私はどうして一月に売ったかというとどうしても営業の人を信じられなくなって売ってくれとなったのである
それが功を奏して損せずに済んだのである

何か営業というとき人を媒介するからその人を責めることになる
営業の人が責任をあるようになり責めるとなる
それで裁判になり営業の人が銀行が訴えられたりしたことがあった
それはどうしてもそこに人が介在するから媒介するからその人が責任を課せられる
例えば人を紹介して雇ってもらったりしても紹介した人が責められるということがある
つまり媒介した人が責任があるし紹介してもらった人はその人に責任が課せられるから
下手なことはできないともなる
連帯証人とかなったらその重い責任から逃れられなくなる

だから何か人間はあらゆるところで責任がつきまとっている、だから契約では常に責任を明確にして責任はとりませんと記しておくのである
それだけ必ず人間は責任問題になるからそれに備えるためにそうなる
だから銀行では損したのはあなたのせいであり私たちのせいではありませんとなっているこれは本当なのである、別に銀行に全部責任があるわけではない
そういうものとして売っているからである
それをふまえて客は買うのでありその責任をとれないものは買った方が悪いとなる

ただ投資信託でも保険でもなんでも説明責任はある
医者が手術するにも命にかかわるから説明する、でも患者も良くわからないから医者に従うだけだとなる、そしてそこでミスがあっても医者は責任をとらない
余程のことでないかぎり責任はとらない、その責任を重くすると手術すらできなくなるからである、それでシステム的に責任はとらない、手術してガーゼを残していたとか時々ある、でもその責任を全くとらなかったこと知人で知っている
ただ苦しめられ損になっただけだとなる

原発事故でもあれだけ安全神話まで作り安全だと言ったのに安全ではなかった
そして故郷に住めないまでになったが東電の幹部でも国でも責任はとらない
でも必ず人間社会は責任をとらされるのである
国家の指導部の過ちの責任は国民がとらされる、戦争で3百万人死んだのは国民が責任をとらされたからである、原発事故で莫大な補償金とか事故処理の除染でも何兆円の金は税金として国民にはねかえってゆく
ただそうした大きなことは何か責任として意識しにくいのである

何か買い物でもクレマーがいる、十円二十円のことで文句言うのはその人がそれだけ貧乏だからである、そういう小さいことだと責任が追及されやすいのである
小悪は罰せられやすいが大悪は罰せられずかえって称賛されるのである

(我々は小盗を捕らえるが、大盗には脱帽する)

世の中というものは、自分よりも弱い者に対しては圧迫したり高圧的な態度をとったりするが、強い者に対しては見て見ぬふりをしたり、追従したりするものだということ。
日本で似た意味をもつことわざに、「長い物には巻かれろ」があります。

これは外国の諺だった、この大盗は官僚とか政治家とか何かしらこの世で権力をもったものである、こういう人は税金を盗んでも別にとがめられることないのである
それで自分自身でも家族が公務員だったから知っている
何かこうした地位にあるものは得するのである
それで自分自身も得していたともなるからなかなか責められない
でもなぜ自分自身が介護とかなり苦しんだのはそうしたことがカルマとなっていたのかもしれない、何か金でもそこにカルマがついてまわっているのである  
家族には親族でも必ずカルマがあり親の因果が子に報えるのである
高い地位についたりまた株などでも金融でも世界の富を一人じめするような人がいること自体それが巨大なカルマとなっている、だから大金持ちとかはいい死に方をしないともなる、もの凄い業をカルマをもつようになり最後は家族でも不和となりその報いを受ける
金がないのもカルマであり金がありすぎるのもカルマになっているのだ
だからどこかでそのカルマを払うことが必要でありそうでないと必ず清算を迫られるのである、なぜなら金は具体的なカルマであり責任としてわかりやすいからである

それで夫の借金に苦しめられている女性がプログに書いている
その重圧はいくら支払っても支払い切れないのである
そもそも収入も少ないから払いきれないのである、その借金のカルマはわかりやすい
払っても払っても払いきれない、その借金はシシュポスの神話の岩のようである
もちあげても持ち上げても終わりなく持ちあげる業である
それはまさに借金を返し続けるカルマともにている、借金という重圧から解放されないのである

ともかく人間は常に責任をカルマを負わされている存在である
これから逃れようがないのである、どんな仕事でも必ず責任が課せられている
もう何もしなくても存在するだけで責任が課せられている
住むこと自体が責任を課せられている、原発事故でもそうである
そんなの関係ないよとはならなかった、その地域の責任でありみんなに課せられていたのである、ただそういう自覚がなかっただけだったのである

人間は死んでもカルマから責任から逃れられない

死後裁きにあう


「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定められている」

この世は公平ではない、地位高きものも大盗でありでもこの世では裁かれない
裁くことは人間にはできない、裁く権能があるのは神だけだとなる

たいがい死んだら罪も何もなくなる、無となると思う
でも無にならずに裁かれる、あなたがこの世でしたことでも裁かれる
そして怖いことはあなたの知らないことで裁かれることである
隠された罪が暴かれる、それを見逃すことは神がはないからである
死んでもカルマから業から罪から逃れられないのである

そして集団とかは権力のことでありその集団に属していたことでも裁かれる
宗教の集団に属することでカルマから罪から逃れられない、かえってそこで悪は隠されているのである
カルト教団などでは絶対に人の罪のことなど問わないからである
そこにはどんな人間でもいいのである、一票になるとか会員が増えればいいだけなのである

だから神は人の心をみるというときどうして集団だったら見れるのか?

集団に魂があるのか?個々人にしか魂はないし見ることもできない
まず集団が絶対にその心が清いなどということはないからである
その証拠にみんな集団化したものはこの世の利権と利益を求めているたとで一致しているからである、それはあらゆる集団でそうなのである
政教分離に反対するのは神道派でも仏教派でもあらゆる宗教集団で反対だからである
税金をとられることだから一致して反対するのである

カルマとは前世の行為の結果をこの世で支払うことである、生まれた時にすでにカルマを業をもって生れカルマを支払わされる
つまり生まれたこと自体すでに借金を負わされているのだ
だから延々と借金を払い続けねばならいカルマをもっているとなる
そして死んでもやはりカルマは清算できない、一見死ねばこの世から消えるのだから責任もカルマもなくなると思う
でも現実はこの世からあの世は連続している、あの世でカルマは罪は明確になりかえって逃れることはできなくなる、この世ではいろいろな罪であれまやかしであれ何でもあれ隠すことができるがあの世では隠せないのである
太陽より強烈な霊の光に照射されからである、そこで闇がなく逃れられないのである


多重債務の夫と見つめ合う私

延々と借金返済のために苦しんでいる、それも夫の借金である、このようにカルマから脱することはできない、払っても払っても借金が消えないのである
人間はこれとにている、カルマを消すことができないのである

2020年05月27日

なぜ人間は道を誤るのか? (先が読めないーそして二0代で方向が決まる


なぜ人間は道を誤るのか?

(先が読めないーそして二0代で方向が決まる

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同じ時間でもその重要な度合いが違っている
そんなはずがないとしても後でわかる
それで新卒一括採用が人生を決めるとされるのである

人間は道を誤る、その原因は何なのか?
オウムとかカルト宗教団体に入りそこで優秀な理系の人がテロ集団化して殺人集団になり殺人を宗教で正当化してそれで人生を棒にふる
そこか宗教を求める場ではない、なぜそんなことになったのか?
今でもカルト宗教団体は創価のように社会に宗教を看板にして大集団化して組織化している

それは何なのだろうとなる、それもカルトなのだけど別に社会では容認されている
別にオウムのようにテロ集団ではない、選挙で政権を奪うとかそうでなくても権力側につき利権を得たいとなる
それも巨大な御利益を得るための集団であり組織である
それは政教分離に違反していてもとがめられることもないのである

道を誤るという時、国家自体が道を誤る、それが戦争で3百万人死んだ
それは国家が道を誤ったからである、また原発事故でも国家が道を誤ったからである
これも故郷に住めなくなったとか甚大な被害を与えたのである
国家すら道を誤る、国家が道を誤ればその被害は3百万人死ぬとかになる
また原発事故で故郷に住めなくもなる
つまり個々人だけではない、国家自体が常に道を誤るものなのである
だから本当は政府とか国家の指導者を監視しなければならないのである
それは原発事故で証明された、安全神話を権力で国家が作って道を誤ったからである

個々人でも何かしら道を誤る、国家規模でも道を誤る、それはなぜなのかとなる
面白いのはFラン大学に入ったことで人生は失敗だったとすでに28才くらいで大後悔したとyoutubeで反面教師になっているのを見て共感した
自分もFランとさぼど変わりないからである

何か結局人間が20代で方向が決まる

これが意外というかそう自覚できる人はまれである、人生は若い時はとてつもなく長いものに感じる、でも老人になると40くらいになると白髪でてきたりしてあっというまに老人になっているのだ
老人になると人生はあっという間だとなってしまう
それでみんな後悔するようになる、すで28才でこの人は人生が終わったようになって後悔しているのだ
その歳で人生を悟ったともなるのだ

なぜ20代が大事なのかと言うとそこで人生の方向が決まってしまうからである
カルト教団に入ったものはそこから脱出しなければ一生そのままになってしまう

そしてなぜ新卒で人生が決まるとされるのか?

それは大学を出て新卒で大企業とかに入ればそれで一生が安泰となる
また公務員とかになるにもそこで人生の行路が決まるからだ
そこからはずれたものは一生底辺になってしまうのである
それを私も経験した、就職もしないで一時は底辺労働者となってうろついていた
そしたらそのまま老人になるまで無職であり社会からはずれたものになってしまった
つまり20代でまともな進路からはずれたものは一生まともになれないのである
社会からも認められないのである
Fラン大学などはまともな就職先もなくブラック会社で底辺で働き給料も少ないから結婚もできなとしている
一生底辺の人生を送る他ないとなる
私も大学出てもアルバイトであり肉体労働とか流れ作業とかしか仕事の経験がないのである、だからそういう底辺に共感するのである

正社員の経験がないと、中途採用にも応募できない。年齢的にもどんどん厳しくなり、30を過ぎると応募できる会社自体がなくなる。周りの視線も厳しくなっていきました。『落ちこぼれ』『負け組』などと、自業自得と言わんばかりのレッテルを貼られ、自己嫌悪に陥りました。

30才すぎるとこうなってしまうのである

ただまた何かこれは変なのだけど自分は宗教を求めていたのである
自分のテーマはなぜ人間は死ぬのだろうということだった
それを解決したくて宗教を求めていたのである
だからカルト宗教団体に入ったのである
そして私はキリスト教について教会に一回も行っていないし聖書などもほとんど読んでいないのである
ではなぜキリスト教徒になったのだろうとなる
それは本当に自分自身も不思議だとなるのだ

ただ言えることは「求めよ、さらば与えられむ」である
なんであれもしそこでカルト宗教団体であれ求めるものが正しければ道を誤らないだろう私が求めているのはなぜ人間が死ぬのだろうということであったとしたらなぜ毎日選挙のために運動するのか疑問になるからだ
他でもそういうことは必ずある、だから何を求めるかが大事である
そこさえはっきりしていれば道を誤ることは無いのである

だから自分の場合は別に20代で道をはずれて底辺になってしまってもかまわなかったとなる、ただ人間が社会からはずれることアウトサイダーになることは実際は過酷なことなのである、ニートとか働かなくて楽じゃないかとなるがそうではない
世間の目が厳しいしまともに扱ってもらえないこともある
それから必ずそうして社会からはずれると社会のことがわからなくなる
社会のことがわかるにはやはり社会生活をしなければわからないのである
それで芸能人であれ芸術家であれ社会からはずれたものは確かに常識もしらない異常化する、それは自分自身が何か変な方向に行ってしまったからである
必ず小人閑居して不善を成すからである
実際のアウトサイダーになった人は天才芸術家とかでありその人たち優れた作品を残した人たちである、でも社会からはずれた人だったのである
その数は百万人に1人くらいであった、でも狂気となったのも多い
それだけ社会からはずれるということは精神異常と隣り合わせにもなる

ただ人間が異常化するというときそうして公務員とか正規のルートを進んだ者でも異常化していた、まるで常識もないにも驚いた
それは東大出ても今回のマージャンしていた検事でもそうである
あれだけ地位があってもその地位の自覚もない異常だったのである
なんらか人間は異常化する、例えば学者がいるとする、これもまた象牙の塔とかにこもり社会を研究していても現実の社会を知らない人がいる
科学者でもある一部分を研究しているだけでありそこに詳しくても全部に詳しい人は今はいないのである、そうして人間は極小化された部分に通じても全体を知らないとなり何かそこで専門馬鹿とか異常化しやすいのである  
そしてナチスとかもそうであり国家自体が狂気のファシズムともなり道を誤る
国家レベルでも道を誤り悲惨な結果になったのである 
個人も狂うが集団も狂う、でも集団が狂う時正常だとされるのである
なぜならその集団に歩調を合わせない者は今度は異常とされて刑務所にも入れられたからである、これだけ複雑な社会になるともう社会全体のことなどわかりえようがない
だからこそカルト宗教にもなりナチスでもファシズムでも生れて当然だとなる

現実の社会はその現実で働いて見ないとわからない、本ばかり読んでいてもわからないからだ、経験が物言うのである
何か理解するには仕事でも職業でもちょっとでもいいから経験すると本当に理解できるのである、そして会社の人でも上の人が現場で働く人のことを知らない
現場の人が知っていたのである、原発でも配管のことなど老朽化していて危ないとか知っていたのは現場の人だったのである
幹部と現場の乖離がありまた東京の中央の幹部と福島の現場との乖離があった
そこで意思疎通ができなくなっていたのである
流れ作業ばかりしていたら自分はこんなロボットのようなことはしたくない、ではどうすればいいのか?必死で勉強すればよかったとなるのである
そういうふうに人間は経験からしか理解できないのである
だからFラン大学とは痛切に勉強しないことを後悔するようになる

ともかく20代でそうして正規の社会からはずれた結果として変な方向に行くようになったのは20代で人生の行路が決まっていたからである
例えば赤軍とかの人は日本航空機をハイジャックして北朝鮮に行った
そこで遂に一生を過ごすようになった、子供すらそこで育てていたのである
でも日本に帰りたいとなったのである
何か北朝鮮のスパイのような仕事をさせられていたのである
そこでもその時人生の方向が決まってしまったからである
だから20代で人生の行路が方向が決まる、そのことが自覚できない
別に人生は長いのだから道を誤ったらまた引き返せばいいとかなる
でも実際は引き返せない、方向がきまり誤った道でもそのまま行くほかなくなりたちまち老人になっていたのである

人間が道を誤るのはなぜなのか、それはそもそも目的とか動機が悪いからだともなる
事業に失敗した人は別に理系で優秀だったし一級の免許をもっていた
でも事業をはじめたのは自分は優秀でありその優秀さを示すために見せてやるためだったとなる、そんなことで事業をはじめたのかとなるとそれが失敗したとしても当然だとなるそれに同情もできないとなる
そんなことで事業などしたら他者の迷惑だとなる

人間の不可解なのはなぜそんな行動をするのか?

その動機は何なのか?

推理小説では動機をまず探る、なぜ殺したのか?その動機は何だったのかとなる
つまり事業でもそういう行動をしたのはなんのためだったのかとなる
もちろん金儲けしたいということはあってもその他の動機があってする
俺は億万長者になって優秀なところを見せたいから事業をする
そういう動機だとするとその時周りの人はなんとみるだろうか?
そこからして出発点からして間違っている

だから戦争でもそんな一大事を国家の運命を決めるの動機は何だったろうとなる
なぜなら3百万人も死んだら結果論してなぜそこまでしなければならなかったと問うようになっているからだ、でもなぜ戦争になったのかその戦争の原因は動機は何なのか70年過ぎてもわからないのである
ただ戦争終った後にいろいろ理由をつけているだけなのである

いづれろにしろ20代で人生が決まるとか言われるのはその方向が決まってしまうからである、そして誤っても引き返せないから怖いのである
それで「若い時神を覚えよ」となる、なぜなら神を知るのは20代とかまででありそれ以上になると知る機会がなくなるとしたらいかにその時を逃したらもう神を知るチャンスがないとしたらそうなる

つまりチャンスは二度と来ない、神を知るチャンスはその時を逃すと二度と来ない

これを知れば恐怖である
でも20代では様々な欲でも噴出する、性の欲望でも極大化してとめられない
他にも欲望があふれるように出て来る時でもある
結局そうした欲望に目がくらみ神を求めよと言ってもできない
そのうちあっというまに老人になっているのである
だからみんな人生は後悔なりとなっている
だから勉強することでもなぜしなかったとのかとあらゆることで後悔するのである
なぜ旅しなかったのかとか外国に行かなかったのかとその後悔することは老人になるといろいろある、でもみんなそうして後悔して死んでゆくだけなのである

求めよ、さらば与えられむ

そこに神を求めよとでありその外のものを求めすぎるのである、そこから人間は道を誤るのである 

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2020年05月05日

人生の経験が宝になる (老後は金だけではない過去の経験が宝となる)


人生の経験が宝になる

(老後は金だけではない過去の経験が宝となる)

人生百年時代になるとどうしても老後をどう過ごすかが問題になる
金も問題だがないのも困るが何か財産というときみんな金だと思っている
つまり金の多寡でその人をみる

でもその人の人生で経験したことが実は財産になっている
その経験が多様であり人によって違っている
だから老人は経験を語る、そこに何かしらの教訓が必ず含まれている
それですでに30近くでyoutubeでFラン大学に6年間いて底辺に落ちた人が語る
つまりそれも経験なのである
自分も何か30歳までこの人と似ていたから共感する
つまりいかに大学でも勉強しないかということで後悔している
ただどんな優秀な人でも人生を後悔しない人はいない
結局人間は時間を必ず無駄にしている、時間の貴重さがわからないのである
そして老人になるともう経験する時間が無くなっているのだ
だから老人は経験したことが宝になる

だから話で面白いのと若い人より老人だとなる、どんな経験したのかと注目する
特に外国で生活していた同世代の人には驚く、アメリカとかで良く生活できた、仕事できたと経験しない人はみる、それも15年もである
他にも外国で生活している人が日本を語る時、説得力がある
日本でしか生活していないものは視野が狭くなるからだ

みんな宝は金だと思っている、でも人生で残るものは何なのか?
それはその人が経験してきたことでありそれが宝なのである
自分の場合は旅したことが財産となっていた
そんなの遊びじゃないか何かそれで伝えるものがあるのか?
それはある、私が常に地理を語っているのは日本全国だと隈なく旅している
それも鉄道で最初はしていたが後で40頃から自転車で旅していた
それでより地理を体で知るということができた
だから今になるとあそこを旅したなとかその場面を思い出すのである

もちろん読書も有効に時間を費やすものとしてある、でも百聞は一見にしかずになる
特に外国だとそうなる、これはいくら本読んでも一回旅した人にはかなわないし
また外国に住んで生活した人の差が大きすぎるのである
外国で生活した人は肌で外国を知る、本をいくら読んでも何か外国だけはわからないからだ、地理からして全く理解できないのである
それで50過ぎてバックパッカーで外国を旅行したことが外国を知ることになり良かったとなる、その後は介護とかで全く旅行できなくなったからである

あらゆるものが経験があって理解できる、例えば教育にしても教える子供前にしてこそ
教育をどうするか、どうしたら効果的に教えられるか理解するようになる
それも実際に子供を前にして教えてみないとわからないから教育実習というのが大事になる
また医者でも研修生がいて実際に医療にたずさわらる経験をしないかぎりいくら大学で勉強していてもわからないとなる、つまりそれも経験なのである

手術がうまい人は手術をより多く経験した人である

手術は経験しない限り上達しない、だからどれくらいの手術の経験があるからでその医者の力量が図られる
それで医者は手術がしたいというとき手術を経験しないと上達しないからである
手術の回数で手術の力量が計られるのである

つまり知識をいくら貯えてもそうした経験がないといい教師にはなれないのである
そこに失敗とかもあるがその積み重ねで教えるコツがわかる
自分の場合はそれできなかった、経験を積むことができなかったから後悔しているとなる

ただ正直人間の経験することがわずかである、だからどうしても複雑多様な社会の理解に欠ける、職業でも理解できないのはそもそも経験できないからである
私にちょっとその仕事をやらせてもらいますかとはならない、仕事は危険でもあるし絶対にそんなふうにしてやることができないのである
それで駅でボランティアした経験でも駅がどういうものか鉄道がどういうものか多少知ったのである、そうしたわずかのことでも経験がいかに人間にとって大事かわかる
ただ残念なことはその経験する時間があまりにも短すぎるし極わずかのことしか経験できないことである
正直自分には会社勤めもしないから何か社会性が欠けていた、結婚もしないとなれば何か人間として根本的な経験を欠けたものとなっていた
つまり女性でも子育てしない人は母親のことを理解できないともなるからだ

人間を作るのは経験である、宗教とか信仰も経験がないとわからない、聖書を隅から隅まで読んでも経験がないと理解できない
別に聖書を読まなくても理解できるし信仰を知ることができる
第一聖書では何か起きたこと事実として起きたことを一番重視している
単なる哲学でもない、思想でもない、現実に起きたことを書き記したのである
そこに奇跡もあるがそれも事実だったから書き記したのである
単なる知識ではない、現実に起きた事実でありそれは奇跡でも事実だから記したのであるすべて事実として起きたことを記したのである
つまり経験されたことであり想像された世界ではない、そこに重みがある

本質的に人間は経験しない限り学べない、何か本当に辛い経験をしないかぎり「悲しむ者は幸いなり」とか理解することは不可能である
キリストの言葉でも現実に苦しむことがないかぎり理解できない
ただ本をだけを読んでも理解できないのである
だから聖書を全く読まなくても経験したことで理解できるのである
でも隅から隅まで読んでも理解できないのである 
それは教会に行ってもそうである、経験しないことをいくら説教されても理解できないからである

経験という時例えば宇宙旅行した人としない人の差がもう信じられないほど大きい
宇宙から地球を見る経験した人はどうなるのか?
それをしている人としない人の差がどれだけ大きいかそのことで経験がいかに人間を作るかをしる
つまり宇宙から地球を見たら世界観が変わってしまうからだ
それは外国旅行でもわかる、ヒマラヤとか一回でも見た人は魅せられてしまうだろう
私は一回しか見ていないからそれも後悔している
仕事でもそうだしあらゆることが経験することなのである
本をいくら読んでも外国のことがわからない、それがいかに経験が大事かを物語っている
そして老人はその経験をふりかえる、経験が宝になる、例えばもしヒマラヤ登山を経験した人としない人の世界観も違ってくる
つまりなぜエベレス登山で死んでいる人が多いのか、それだけ魅せられてしまったということである
3000メートルから8000メートルの山を見たとき本当に日本では経験しえない驚きだった
ただその時曇っていたのではっきり見えなかったから残念だったのである

いづれにしろ人間を作るのは経験であり老人はその経験を語るのである
その語ることが面白いということがあればその老人は価値ある経験をしたとなる
だから戦争を経験した人は死ぬ直前まで戦争のことを語っていた
それだけあまりにもありえない強烈な経験となって忘れることができなかったのである
戦争などはいくら聞いても実際に経験しないかぎり理解できないものだからである
戦争を経験した人は生涯忘れられないのである  

とにかく歴史でもそうだが今回のコロナウィルスでも時代に起きた経験でありやはりこの後そのことを語っても経験しない人はなかなか理解できなくなる
それで私は一身上でも家族の認知症とか自分の病気とか他者から責められたとか様々な経験をして理解した
津浪や原発事故でもそうである、これも避難民になったとかなれば経験である
それを批判したりしたがその人たちにとって経験したことはまた違っている
ただ津波だけは恐怖だった、村ごとすべて消失するなどイメージすらできなかったからだこういう経験はなかなかできない、でも何百年に一回とかこんな恐ろしいことが世の中には起きるのだ、その起きたことが歴史である
ウィルスでも日本でもコレラとかで大きな被害があったからかつて経験されたことなのである、ただ忘れていたというだけである
歴史はそもそもそうして人間が経験したことを書き記したものである
その物語がhi-storyになった、つまり人間個人にしても一生はhistoryなのである
つまり経験されたことでありそれを語ったものなのである


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経営でも投資でも経験しないとわからない、いくら本を読んでも話聞いても実際にしてみなければわからない
つまり自ら経験しないかぎり理解することは不可能である
あらゆるものが経験なのである、経験しない限り何か上達する身につくことはないのである





2020年03月12日

人生はみんな失敗に終わる (学歴も関係ない、文明そのものが原発事故のように終わる)


人生はみんな失敗に終わる

(学歴も関係ない、文明そのものが原発事故のように終わる)


学歴がどうのこうのとかFランのことをyoutubeで自ら話しているのも面白い
なぜ自分は底辺労働とかニートとかFランとかに興味をもつのか?
今回も長男長女は融通性がなく引きこもりになりやすいというのもなるほどと思った
次男と次女とかなる世渡り上手でうまく対応する術を身につけるとなる
それもまさに自分が長男であり一人っ子でありそうだった

自分自身はどうしても集団生活になじめない、人間関係が苦手なのである
それでどういうわけか家庭環境で引きこもりが許されたので30以降は無職であり家に引きこもっていた、ただ仕事もしないで旅ばかりしていたとなる
そのことから社会常識が欠如する人間になっていたのである

大学でもほとんど勉強していない、Fランではないけどにたようなものだった
第一私の年代ではまだFラン大学がなかった
一応大学となるとみんなエリートになっていた、でも団塊の世代だとその頃から大学という価値が数が多くなり価値がかなり下がってたいのである
だからなぜこんなに大学は人数が多く1000人とか集まる講堂とかで授業しているのだろうとなる、そんな数の人間を前に講義すること自体なじめなかったから余計に勉強もしたなくなった、高校の時も勉強は嫌いだった、だから良く卒業できたと思う
卒業すらできない状態だった

私にとって大学とは田舎から自立するために出るということ家族から離れることに意味があった、そこで甘えていたが自立できるようになったからである
それだけか最大の効果であり勉強などどうでも良かったのである
そしてなぜカルト教団に入ったのか?
これも私はもともと宗教を求めていたのである、私の最大の問題は死の解決だったからである
でもカルト教団は全く宗教とは関係ない政治団体だったのである
だから毎日一票をとるために一軒一軒回るだけだった
ただこれも人間と接するということでひきこもりにならない効用はあった
でも勉強はしていない、これも実に無駄だったとなる

その後は就職もしない、底辺労働者でありそこで散々な目にあった
工事現場ではビルの四回から落ちて死ぬ所だった、そこは一番危険であった
そこで感じたことは底辺になることはこれだけ厳しいものだということを自覚した
そのことを語っている人がいて勉強しておけということを言うのもわかる
一回就職してみるべきだというのもわかる
実社会がどういうところか学生時代はわからないからである

ただ文学に興味があり短歌と俳句は早い時期からはじめていた、それも稚拙なものだったでも何らかその方面で才能があり今日までもう死ぬ時期になり続いている
詩も書いてきたがいいものが作れなかったが今はそれなりに作れている
人間は何らかその人なりものをもっていて個性をもっていてそれを活かすことである
天職につくことである、そこにこそ生きる意味がある
金は必要でもその前にその人なりの仕事をもつことである
そのために勉強して訓練することである

それがわかるのは老人になってからである、また震災で別に補償金をもらえるから生活できたとしても毎日パチンコ通いでありギャンブルだけになるともうその精神も荒廃する
それがやがて顔に現れる、生きがいもなにもなくなるしヤクザと変わりなくなることが怖い、それより大工でも自転車屋でも職人でも農業でも仕事をもっていることがその人を価値あらしめる
確かに漁業していた人は漁業権を売り東電から事故前も事故後も補償金を特別もらっているから生活に困らない
でもそうして魚もとらないとしたなんで港にいるのか?
そういう疑問になったことでわかる、何の意味があり価値があってあなたは港にいるのかとなるからだ
避難民となってもただ補償金だけで生活している人はそうなる
でも他に避難民として移ってもそこで何か仕事をもっている技術などもっている人は他の土地でも価値を認められるのである
それは金の問題ではない、仕事をもっていることにできることに意味がある

ともかく人間の成すことは結局失敗なのである
みんな成功したと思い努力しているし勉強している、でも最後は失敗に終わる
そもそもどんな優秀な人でも最後になって失敗に終わる
それは身近な家族で見たらかショックだった
体力的にも頭脳的にも優れた人間であっても認知症になんで馬鹿になったからショックだった、つまり認知症になることは人生そのものが失敗だったという烙印をおされる
なぜなら馬鹿になったのだとなってしまうからである
そして最後に言い残した言葉が

俺は優秀だった

ここには万感の思いがあったとなる
人間は優秀だった、優秀な人間が文明は人間が作った、でもそこに今や見る影もない、廃墟となっていたともなる

人間は成功も失敗もない、みんな最後はこうして失敗なのである
それは個々人でもそうだが文明そのものが失敗なのである
それを如実に示したのが原発事故だったのである
そこに理系の優秀な選ばれた人が働いていたからである
それはまた人間の英知を集めて作られた文明を構成するそのものだったからである
それが津波とかで一挙にバベルの塔のように崩壊したのである
つまり人間の愚かさを示すだけだったのである
つまり失敗に終わったということである

人間は成功も失敗であり失敗も成功である、失敗も必要なのである
人間は失敗して謙虚になる、俺は頭がいいから成功ばかりして億万長者になった
こんなことを自慢するようになったら危険である
それで事業を起こして失敗した人がいた、もし失敗しなかったら傲慢になって手がつけられないとなった

いづれにしろ学歴が別にその人の価値を決めない、文系などみんなたいして変わりないのである、ただ理系は価値があるから区別される
一体人間の価値がどこにあるのか?それ自体がわからないのである
乞食のような人間が神に認められた人間であることが普通にある
その方が多いのである、宗教に関してはこの世に成功する人は信仰者ではありえないのである、麻生大臣のような人がキリスト者ではありえないのである
巨万の富をもっているからである、まずかえって上級国民はキリスト者とか信仰者にはなれないだろう、ただ富者でも貧者でも区別しないということはある
ただこの世の成功者にはなりにくいことは確かである


人間は成功でも失敗でもない、何か成功は奢りに通じて失敗にいたり、失敗は謙虚になり成功に通じているともなる、国単位でも必ず栄枯盛衰があり一時的に栄えてもいつまでも栄えることがないと同じである、アメリカだって衰退してゆく
それが歴史の法則だともなる
人間は成功を求めることではない、神の国を求めなさいというときそれはこの世の成功ではない、この世のことはすぎてゆく常に変化して無常なのである
つまり結局栄枯盛衰であり成功しても一時的でありたちまち衰退して見る影もなくなる
だからこの世で成功を求めても失敗なのである

人間は学歴で何か価値が決まるわけでもない、有利なことは確かでもそれで価値が決まらない、その後に長い実社会での仕事で決まってくる
仕事ができるかできないかは学歴ではないからだ
ただ勉強していることは悪いことではない、みんな学校をでてもっと勉強していれば良かったと後悔しているからである
自分自身でもそうである、勉強しないから底辺に落ちたというのは本当だからである
なぜ流れ作業のようなことばかりしなければならなかったのか?
それはつくづくもっと勉強していなからこうなったと痛切に感じるからだ
つまり勉強しなければ奴隷にされる、ロボットにされるのである

ただ自分は特別恵まれたからそうならずにすみ大学を出てからも勉強をしつづけていたのである、それが今になってようやく実っているとなる

いづれにしろ

文明自体が失敗に終わる!

ということは個々人も失敗に終わるということになる、つまりこの世での成功は何であれ失敗に通じている、それを証明したのが原発事故だったのである

結局は

成功するのは全能の神だけだ!

あとは部分的に成功したりするけど全体的にみたら失敗である
そして理想社会など人間は作れない

科学技術⇒原発事故

政治⇒治められない

法律⇒守られない

科学技術でもいい面と悪い面がある、それが社会に全部いい面として作用しないのである政治でも治められない、民主主義なども今やどうにもならない、数だけが力となっているからだ、法律も守れない、弁護士自体が不正していることもある
法律をなぜ勉強するのか?金儲けだともなる
いろいろな問題を人間は解決できない、問題は問題をうむ
一つの問題を解決してもまた次の問題が生れてくる、そして永遠に解決できない
そこに人間の限界があるから解決できない、そして遂には破綻するとなるのだ
それで成すことではない、成さないこと天地自然にまかせることが治めることだという老子の思想の逆説になる、そういうことが現実だから共感するのである

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ボッシュの絵

カオスになる人間社会、これも原発事故になったこの辺とにている
ここには人間の快楽を求めるものが露骨に現れている
それもまた人間社会の実相である
それは今でも変わりない、人間社会はいつまでもこうしたし混沌(カオス)なのである

2020年02月20日

人間を作るのは経験である (本読んでもわからない)


人間を作るのは経験である

(本読んでもわからない)

つくづく人間は経験しないとわからないのだ、それで一番わかるのが外国に住んだ人と住まない人の差が大きいことである
留学した人としない人の差が大きい、この差は埋められない
だから知識人となる人はたいがい外国に住んだ経験がありまたさらに上をゆくと外国で仕事をした人である
そうきう経験した人は深いところで外国を理解している
それは日常的に日本との差を意識するからである
そういう経験の積み重ねで外国を理解して日本を理解するからである
これは旅行したくらいではわからないからだ
だから留学というのは相当に価値があることになる

例えばその他地理でもそうである、これは地図を見てもわからない、実際に旅行して実地にその場に立たない限りわからないのである
特に驚くのは太陽が昇る方向が違ってくる
太平洋側だと海から必ず太陽が昇る、でも山側だと山から太陽が昇り山に沈むのである
この感覚は同じ日本がでもそこに住んでみない限りわからない
それで会津は山があれだけあり高い、同じ福島県でもまるで違った世界となる

人生というのも実際は経験しない限りわからない、本を読んでもわからない
それで就職のとき一番重んじられるのはキャリアである
どういう経験したかでその人が判断される
その時資格でも学歴でも採用されない、どういうキャリアを積んだかで判断される
それはどういう経験をしたかということである 
だから学生でも一流大学でも実際に社会に出ると成功するとは限らない
つまり経験して見ない限り人間の力量はわからていからだ
学問はだめでも力を発揮する人はいるからだ
例えは戦争の時とかなればそこで力を発揮する人がでてくる
そういう特殊な場では本当に命をかけて試されるからである
経験とは何かを試されることなのである

ともかく人間はなんらか必ずどんな人でも経験を積んでいる
奇妙だけどニートでも引きこもりでも経験なのである
それは会社に勤めない、働かない、人と接しない、・・・こういうことは普通の社会人になれば経験できないことなのである
それと逆に一般的には会社に勤めて社会人となり経験を積む、それで社会のことを理解するのである
それを経験しないことは大きな欠落を生むことになる
例えば結婚でも経験でありこれを経験しないものとするものにも大きな差が生まれる

ただ経験と言っても人間の経験することが極限られている
だから何でも相手を知ることがむずかしいのである
仕事だって今は無数にありそれも経験しないとわからないからである
私は車を乗らないから車のことがわからない、となると車社会では脱落者となってしまうのである、一方で自転車のことを車ばかり乗っている人はわからなくなるのだ
そしてなぜ江戸時代のことがわからないのか?
その根本は歩いて生活していたということ街道でも一日40キロ歩いて旅していたということが経験しないからわからないのである
そのことからあらゆることが理解できなくなるのだ

経験が人間を作るというときあらゆることがそうである
なぜなら仕事するにしても何かに熟達するにしても経験だからである
こうしてみたがうまくいかなかった、だからこうしたらいいとか実験して経験してゆくことで身につく、農業だって本当に一から始めたら実験である
こうして失敗したこうしてうまくいったとか肥料を与えるにしても何でもそうである
それで農業は親の跡を継ぐのが有利になる、そこで蓄積したノウハウを教えられるからである、その土地のこともそこに生活して教えられるからである
すでに農家に生まれるということは農業を経験しているとなるからだ

とにかく自分には相当に経験が欠けていた、社会的に知らないことが多すぎた
それは社会経験がなかったことによる、もし会社勤めしていればこうはならなかった
それで親が死んでからいろいろなことを経験した、それも遅きに失した
家をやりくたすることはこれ自体が基本的生活の経験だった
家事でも経験であり一人切り盛りすることが大変である
それで常に家事に追われるようになったのである

そしてお手伝いさんなどを雇うことになったがこれも経験だった
日本人は外国で必ず家政婦を雇うようになる、それが強いられる
でも日本人はそうして家政婦を雇う経験がないからうまくいかないというとき
そういう文化がないからである、だからうまく使えないのである
これだって経験なのである、あらゆることが経験なのである
会社の経営でも人を雇うことでありそれで失敗してもやはり経験を積んだとなる
まず裏切られたとか普通にあり人を雇い人と共同することがいかにむずかしいか知る
それで一人で一反の畑で農業していても共同しないというときもそうである

その人の経験したものが人生になる、もちろん本を読むことも必要である
雑学でも意外と後で役に立つ、知識も蓄えることが必要である
でも基本的には経験しないかぎり知識もみにつかない
外国のことをいくら本を読んでもわからない、それで50以降海外旅行したのか良かった
その経験は貴重だった、その前は全く本を読んでも外国のことがわからなかったからである、中国に三回行ったから中国をある程度理解したのである

宗教とかも本を読んでも座禅を組んでも人に教えられてもわからない、もちろんカルト教団に入ってもわからない、結局経験から知るのである
聖書で一番大事なのことは奇跡であり何か事が成ることである
哲学とか思想でない、事実として起きて成ることである
だから奇跡が現実にあり奇跡なくして信仰もありえないのである
奇跡を信じない限りありえないのである、だから聖書に記された奇跡は全部真実であり作り話ではない、もしそうだったら信仰自体成り立たなくなるからだ
これも結局自らの経験で知るほかないのである
その人に必ず奇跡が起きて理解できるからである
信仰でもだからいくら聖書をくまなく読んでもあらゆる本を読んでもわからない
奇跡の経験がないかぎりわからないのである

そてし人生は経験した方が勝ちだった、自分は何か不器用でうまくいかなかった、失敗が多かった、海外旅行では大失敗したがそれでも思いきって行って良かった
なぜなら60になると介護であり何もできなくなったからである
それがつくづく幸運だったとなる、それはすべて親に恵まれたからである
だからやりたいことをやらせてくれた親に感謝して懸命に介護したのである
つまり今や何も経験することちができなくなったとなるからだ
もう老人になれば経験をできない、経験したことを語ることになる
それで金持ちの老人がワインのことをやたら詳しくなったけど無駄だったという
それも経験である、何々したがこうだったとか語るようになる
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日刊現代


会社に勤めたが退職して何が残ったかわかる
でもその経験が人生だったとなる、だから退職した人は会社勤めしていた時をなつかしくふりかえる、その仲間のことでもふりかえる、なぜなら時間が貴重であり
その時間をともにしたことが実は人生をともにしたともなるからだ
それで会社のことが忘れられない愛着がそこに生まれていたのである
というのは人生というのは一回しかないからである
一回しか経験できないからふりかえると時間を費やしたこと経験したことが貴重なものとなるのである
そしてその時間がかえってこないのである、となると余計に貴重なものとして自覚するようになる

カルト教団に入ったこともそれすら経験だった、あらゆるものが経験でありそれが人生を作る、そして老人になるとその経験を語るようになるのである
若者はまだ経験を積んでいない、これから経験を積んでゆくものである
でもどういう経験をすべきかが問題になる、毎日ギャンブルなどしているだけでは何にも残らない、そこで常に時間は浪費されて後年何も残らないとなるのだ

2020年02月17日

時間の間隔の誤差が大きかった (眼鏡を買ったのが4年前だったが一年前と思っていた)


時間の間隔の誤差が大きかった

(眼鏡を買ったのが4年前だったが一年前と思っていた)

今日パリミキで眼鏡を買った
片方のレンズが落ちたからである
片方がなくてもそれなりに見えたのも不思議である

ただこのメガネは一回も踏んでいない、前のメガネは十回くらい踏んでは直してもらい使っていた、だから10年くらい使ったように思っていた
そして新しい眼鏡にしたのが一年前とかと思っていた
でも4年以上過ぎていたのが信じられない
でもパリミキでしかメガネは買っていないはずである
だから間違えないと思う

人間の時間の間隔は何かずれてくる
いつ何あったのかからなくなる
それで歴史でも前後を間違えたりするのである
江戸時代の墓の年号などを見ても間違うのである
時代を前後することが良くあるのだ

本当に今回は一年前くらいだとてっきり思っていた、でも4年前に買った眼鏡だった
なぜそう思ったかと言うと一回も踏んで直してもらっていないからだ
だから一年くらいだとてっきり思っていたいたのである
今でも何かそれが信じられないのである

例えば家族の死んだ年は間違うことはない、いつ死んだか覚えている
一二年のずれはあるかもしれないがたいがい正確に死んだ年とか覚えている
両親がいて父と母がいてどっちが先に死んだかを覚えている
その前後を間違うことはないのである

このメガネで私が覚えていたのは前のメガネは何度も踏んで曲がり十回くらい直してもらい使っていたと記憶する、そのことは良く覚えていたのである
それで見えずらくなったこともあり新しいのを買ったのである
だからそれは相当に長く使っていたと記憶する、でも5年くらいだとすると短かったのかとなる

ここで感じたことは人間の記憶は何でもって記憶するのかというとこの場合はメガネを何度も踏んで曲げて直してもらったという経験を記憶していた
その記憶が脳に刻まれていたがいつの年かという正確な時は明確でなくなっていたのである
だから人間の記憶とはそうして印象になる出来事は記憶している
でも年代とかは忘れているのである
それが十年前でも二十年前でも印象的な何か大きなことがあると記憶に残る
それは20代の時に起こる、20代は何か様々な出来事が起きて印象に残り安いのである
その後は何か体験でも残りにくい、記憶しにくくなる
でも何か大きなこと事件でも体験でもあれば心に記憶される

人間の記憶は年代では記憶されない、その正確な年号とか西暦とかでは記憶されない
何か事が起きてその人にとって忘れられない体験が記憶として残る
あの時は何々があったというときその何々が記憶に残るのでありその時の年代ではないのである
老人になるとそうした自分が経験したことを語る、でもそれが明確な西暦とか元号とか年号とかでは記憶されないのである
それが歴史でもそうである、何か大きな事件があったとき歴史的事件となり記録されるし歴史の別れ道とかとしてみんなが認識するのである
元禄時代となると元禄という年号とかではなく赤穂浪士の討ち入りがあった時代として年号も記録される、また頭の中に記憶される

だから明治は江戸時代が終わり新しく始まった時代であり昭和は太平洋戦争があった時代でありまたアメリカに負けて戦後が始まったとか記憶する
それから高度成長時代がありバブルの崩壊があったとか記憶されるのである
人間の一生も年代という数字ではなくその時々起こった出来事で記憶される
親が死んだとか結婚したとか子供が生まれたとか何か一番印象的な出来事を記憶するのである
結局その記憶が人生だったと最後にはなる

バリミキの支店長なのか?男一人と女性一人いたが若い男性は福島市から通っているというのも驚きである、車でほぼ一時間半くらいかかるのか?一時間なのか
でも遠い、そんなところから通っているというのも現代である
その人は説明がうまかった、前の人は何かあった時必ず点検に来てくださいと言っていたそれも3カ月ごとにくらい来てくださいと言っていた
レンズが前にも落ちていたのだから来るべきだった
でも一年くらいしか過ぎていないから新しいとてっきり思っていたのである
それが大失敗だったとなる
時間が過ぎるのがとにかく早いということである
老人になるとそのことが痛切にわかる、それでがっくりとくる

結局5万近くでレンズが簡単にとれないものを頼んだ、これも思わぬ出費だった
こういうことは必ずある、ただ説明する人が良かった
こうして営業とか説明する人が大事になる
ただメガネとかなるとごまかすことはできない、フレームとかわからないところがあるがレンズなどはごまかすことができない、必ずクレームがくるし事前に試しているから間違うことはないのである
銀行の投資信託など説明されてもわからないからだまされやすいのである

とにかくこれも一騒動だった、でも私の視力は落ちていないから変えなくてすんだ
毎日パソコンを見続けているが視力は落ちず度を変えることをしなくても良かったのである、これも不思議だとなる
ただ自分自身が健康ということではない、何か鼻が悪いから寝ている時呼吸ができず口でしているから口の中が乾くのである、これもまずいと思った
ただ三日つづけて遠くまで自転車で遠くに行っても疲れなかったから何かまた体力がついたのかとも思う、一応十分に寝ているということか良いということがある
夜二時間くらいしか寝れずに昼間寝ているとか言う人は体力的に落ちて来る
また老眼で書類など読めなくなっている70近い女性もいる
だからなんらか60代以降は病気になり弱ってくるのであ

2020年02月05日

余裕がない人は失敗する (追い詰められている人はすでに負けている)


余裕がない人は失敗する

(追い詰められている人はすでに負けている)

富を得ようと急いでいる者は潔白を保てない‐箴言


日本の戦争のことをふりかえるとなぜアメリカのような巨大な国と戦ったのか?
夜郎自大ということもあった、夜朗国は漢に対して漢の国の大きなことを知らない
それで見くびっていた、甘くみていた、小さく見ていた
結果として負けた、青銅器が武器であり相手は鉄器の刀だったとかある
そういうことは日本にもあった
その当時情報が限られている、庶民はアメリカのことを知らないからだ
そこで夜朗自大になっていた

そしてアメリカによる日本は経済封鎖で制裁で石油が入らないということがあった
ここでも経済的に追い詰められていた
戦争にはあらゆるものに戦車でも戦艦でも飛行機でも石油を必要としていたからである
それが動かせなければ勝てない
それを象徴していたのは最後に特攻隊がゼロ戦で戦った時、片道の石油しか燃料がなかった、ということはもう帰れないのである、そのまま燃料がきれたら死ぬほかないのであるその時石油がなかったからそうなった、だから石油がどれほど大事なものか貴重なものかわかる
今でも石油が生命線になっていることで同じなのである
だから中東に自衛隊の戦艦を派遣したともなる
石油が入らなくなったら日本経済は成り立たなくなるからである

石油がなく追い詰められた

余裕がなくなった

そして真珠湾攻撃になった

戦争の見方でもいろいろあるにしてもそういうふうにアメリカによって追い詰められた
その時点で負けていた、経済戦争で負けていたとなる

人間が余裕がないと商売すらなんでもうまくいかないかもしれない
銀行でも窮地にたたされている、すると余裕がないから詐欺まがいの投資信託でも売りつける
営業の人は分散投資だと言ってカナダの国債とアメリカのリートとに投資した
前らか株はもっていた、それはリーマンショックの時株が今のように上がっていた
ただその時の状況があったにしろその株を日本のリートの投資信託に回した

それはなぜか

その営業の人がノルマを課せられていてなんとか投資信託を売りたかった
それで今度Jーreitを買った
その時株が上がっていたのだから私はなぜそうするかとも見ていた
ただ自分は時間がないので営業の人にまかしたのである

つまり地銀は今窮地にたたされて追い詰められている
するとまず銀行の利益が優先されて顧客は二の次三の次になる
銀行が今やつぶれるとかの話ししかきかないからである

こうして追い詰められたものは危険である

とにかく追い詰められた人と出会うと危険である、今日食べるものがないとかの人がうろついていて出会ったらわずかの金でも殺されるということがある
そこまでするのは追い詰められているからである

借金している人も怖い、やはり追い詰められているから余裕がないから相手のこと客のことを考えるより自分のことしか借金のことしか考えられないからだ
そういう人は助けることができない
私が介護とか病気にのとき来た人はそうだった
借金で苦しんでいる相手のことを見るより借金をなんとか返したいとなり自分の苦境などみない、金をとりたいというだけなのである
そういう人が来たのは最悪だったのである

だから余裕がないと本当は事業でも成功しないのではないか?
まず余裕資金がないととても長期間でビジネスだって見れない
また人生でも早く成功しようとしているばかりだと何かを成すことがむずかしくなる
そこで問題なのは今利益を出すことが優先されるからだ
学校でも試験が絶えずありその試験でいい点を今とることがまるで人生を左右するのだと思ってしまう、そこでじっくり自ら勉強するというのではない
点数をとることだけに精力をそそぐことになる

ただ人間の弱点は長期的に見れないことである
何か始めたら今すぐ成功しなければならない、利益をあげねばならないとなっているからだ
ビジネスだったら利益が今上がらなければやめるほかないとなる

ではそういうことで短期的には利益があがりいいようにみえる
でも銀行でそんな詐欺まがいの投資信託を客に売りつけるだけで成り立つのかとなる
いくら窮地にたたされてもそれで地銀などが地域の人に信頼を得られるのか?
もう信頼できないとなり客も離れてゆくともなる

富を得ようと急いでいる者は潔白を保てない‐箴言

一番手っ取り早く金が入るのはギャンブルである、でも何か潔白を保てないとなる
手っ取り早く富を手に入れるには盗むとか奪うことである、そこで不正でもいいとなる
国単位でも中国がアメリカからIT関係の技術を盗むのは不法だとするのもそうである
そういう技術開発には時間と労力がかかっているからそういうようになる
他人の労力と知恵とかを奪って豊かになったとなるからだ

人間はとにかく金でもそうだが時間でもそうである
常に余裕がない、時間にも追われている、旅だったらただ早く早く目的に行くことだとなる、その過程を楽しむ見るということがなくなる
新幹線で平泉まで二時間ちょとだとなるともう旅ではない、移動しているだけである
その過程がないからみちのくの旅もただ移動しただけだとなる
とても歩いて旅した芭蕉のようにいい俳句もできないしその土地についての理解も深まらないのである
だから不便でもどれだけ時間をかけたかでその時間に比例して旅の経験が深化されるのである

ともかく人間は余裕ないと失敗しやすい

これは法則のようなものかもしれない、余裕がないということですでに追い詰められているから無謀なことをしたり何か無理をしたり客のことよりも会社とか自分の利益を優先する、すると一見一時的には利益をあげても信頼を失うとかあとになると失敗だったともなる
つまり余裕がなくてすることはすでに失敗だったとなる
余裕がない時はそうした行動はするなとまでなるのである
要するに潔白を保てないということである

ただすべてがあてはまるともならない、なぜなら信長は窮地に追い詰められていた
でも一か八かの賭けで少人数でも大軍に勝ったということもある
「九死に一生を得る」ということもある
でも余裕がないと失敗することが多い、秀吉の水責めなども秀吉軍に余裕があったからできた、徐々に追い詰めて降参させることができた
すでに城を包囲して水責めになったとき秀吉軍は勝っていたのである
攻める方にそれだけの余裕がありゆとりがあったからである 
そうすれば見方も死ぬ人も出なかったのである

なんであれ時間的余裕がない判断で失敗する
でも一方即断せねばならなと時もある、だからその兼ね合いがむずかしい
コロナウィルスの対処でも早い時期から即断する必要があったからだ
そこに待っている余裕がなかったのである
だから一律には語れない、時と場合によるからである

行動のチャンスが人生には一回しかないとかでもそうである
行動するチャンスは本当に人生では一回二回しかないともなるとするとその行動するチャンスを逃したら永遠にそのチャンスはめぐってこないのである
そういうふうにどうしていいのか悩む、でもそこで決然として行動して物事が開けて解決することもある
そういうことは若い時に起きるがその後はやはり余裕をもってしないと長期的には失敗するとなる

今成功する今金になればいいとなるがそれで長期的には失敗する
今は損でも余裕をもってできるならするとすると成功するともなる
その兼ね合いむずかしいとなる
                                   
富はそもそも一代で築くのはむずかしい、何か急速に金持ちになった人はまた急速に金を失いやすいこともある、遺産をもらうとかするとそうなりやすいのである
例えば富は金があるだけではないからだ、富になるのは土地があっただけでもならない
農業をみればわかる、土地があってもそこに費やす労働力が大きいのである
そしてその家が豊かになるというとき作物を育てるノウハウが富になる
それで農家では果物でもなんでもそのノウハウが子供に伝授されるから豊かになる
つまりそうした売れる作物を作れるノウハウがなければ豊かになれないのである
そういう家はそうして富を生み出すものをもっているから余裕があるともなる
一から富を作り出すことはむずかしい、そこに余裕ある家とない家が生まれる
そうして富がある家は何か始めるにも余裕もって始められるから継続して栄えるということがある 

ただどうして豊かになるのか、金持ちなるのか?
これは常に語られていてそれを商売にする、何々するともうかりますよというのがインタ−ネットでも無数にでている
それはみんな金持ちになりたい、何か簡単にすぐに金持ちになりたいからでありおいしい話にとびつく、そしてかえって損しているのである
富は得は徳でありそんなに簡単に楽に富が手に入るのか?
何か不正して富が手に入るのか?それが疑問なのである

富はだから一代で築けない、その家の何かが積み重ねがあってその跡を継ぎ金持ちになるとか豊かになる、だから何でも時間がかかるのである
株でもうけようとしてもそれを実際にして株の売り買いを経験して失敗でもしてみなければもうけられない、すると時間がかかる
そしてパソコンの画面を一日中株の取引きのために見ていればスキルが身につく
するとそれでもうけたとしても他のスキルは身につかなくなる
何か勉強したいことがあっても他のことができなくなるのである
そして人生が終わって富を得ても人生で何を得たのだろうとなる

結局人生とは

□×時間=実り

これだった、何に時間をかけるかでそれが後年実りとなる、旅でもそうである
旅に時間をかければ旅したことが後年実を結ぶのである
楽器を買うのに金はかかる、しかしそれよりその楽器を学ぶ時間が大事なのである
私は旅したけど確かにホテルに泊まるのに金はかかったがいつも最低の値段の宿を探していた、それで苦労した,食事も最低である、外国に行ってもそうだった
ただ腹をみたせばいいとしかなかった
その後は自転車旅行でありテントで寝たから宿代は無料だったのである
それより時間があったからから自由な旅ができた、もう会社員とかでもなるとできないからだ、とても一か月とか自由に旅行などできないからだ
そういう人は正規のルートからはずれてしまうからである

とにかく何か金持ちになるとか豊かになるというときいろいろある、ただ老人になると記憶に生きるようになるから何を体験したのか経験したのかが大事になる
金持ちでもワインにこって蘊蓄もあったが無駄だったとか言う人がいるからだ
自分もそう思う、そこに時間をと金を費やしても無駄だったということがある
そういうことが人生には本当に多い、とにかく時間を無駄にしたことがみんな後悔している
これだけは共通しているのである、そしてその時間はもうとりもどせないから深刻なのである、百億円あっても青春時代はとりもどせない、女性でも美貌はとりもどせない
これはビジネスでもあらゆることに共通しているのである

食物はお金で買えるが      食欲は買えない
薬はお金で買えるが       健康は買えない
寝台はお金で買えるが      安眠は買えない
化粧品はお金で買えるが     美しさは買えない
別荘はお金で買えるが      心地よさは買えない
快楽はお金で買えるが      喜びは買えない
友達はお金で得られても     友情は得られない
使用人はお金で得られても    忠実さは得られない
静かな日々はお金で得られても  平安は得られない

安眠はやはり大きな部屋とかで眠り安いからこれはあてはまらないかもしれない

使用人は雇えるが忠実さを買えない

これは経験したからそうである、雇われる人は金しか関係しない、だから盗まれるからとして裸にして働かせた金持ちがいるほどである、家で働く人は一番危険なのである

知識だって買えない、なぜなら本をいくら金があって買えても理解することがむずかしいからである
今は私はいくらでも本をアマゾンで買える、でも理解するとなるとわずかの本になる
知識自体が金では得られない、外国に対しての知識でも外国旅行するとか体験がないと身につかないからだ、これも時間がかかるのである

家族の愛とか忠実さを金で買うことはできない、社長がいたとして社長が社員に忠実さを求めても得ることは本当にむずかしい
結局人間は「金の切れ目が縁の切れ目」で終っている
金が必要でも金ですべては買えないのである

2020年01月13日

記録されることの大事


記録されることの大事

(犯罪の記録が消えないことの恐怖)

昨日推理ドラマでAIDの問題を追及していた

AIDとは無精子症など絶対的男性不妊の場合に適用される方法です。 ご主人以外の男性ドナーの精液を使用し人工授精にて妊娠を試みます。

ここで一番問題になったのは誰の子なのかと特定できないことだった
ただ血液型とか顔が似ている似ていないとかで決めることはあった
DNAとか遺伝子でも決め手とはなっていた
だから何か方法がないわけではない、ただそれでも証拠となるものがない

つまり記録がない→証明されない

このことが一番の問題だったのである
それで最後は殺されたその事件にかかわった医者が残したメモが証拠となるから必死で探したのである、それが出てきて証明されたとなる
つまり犯罪には必ず証拠が必要なのである
犯罪も証拠がなければ立証できとないからである
結局証拠がなくて大きな犯罪でも殺人でも見逃されているのがこの世には結構多いのである

もし今後、万引きでパクられたら名前が出る。少年院じゃ済まねえぞ。間違いなく。姓名がきちっと出て「20歳」と書かれる。それだけはぜひ頭に入れて、自分の行動にそれだけ責任が伴うということを、嫌でも世間から知らしめられることになる。それが二十歳だ

麻生大臣が成人式でこう言ったけどそうである
つまりこうして小さな犯罪でも記録されることが怖い、そしてその犯罪の記録が消えないのである
例えば島送りになった人は腕に黒い線の入れ墨を入れられた
それですぐに腕を見ればわかった、それは消すことができないのである
一つの記録なのである
これも怖いことなのである、一生それを消すことができないのである
そういう自覚がない人が多い、成人することがどういうことかわからない人が多い
ここでなんらか責任を持たされるということが成人だともなる  

インタ−ネットの記録も意外と電子だから消えるように思えるがいつまでも犯罪者の記録が消えないから消してくれと裁判にもなった
つまり電子の記録も消えないのである、そして今あらゆるものが電子時代になると記録される時代になったのである
そして人間は本当に忘れやすい、それで自分自身のプログでも自分で書いたものを忘れている
それで我ながら自分の文章を読んで感心しているのも不思議なのである

とにかくこのドラマでも数万で学生が精子を売った、それがあとでとりかえしのつかないことになった、そのために脅迫されたりして金を奪われたからである
必ず若い時でも過ちがありそれが後でカルマとなって現れて苦しむのが人間である

この記録が大事だという時、相馬藩内で今回の津波で大被害になった
過去にそういう津波があり被害がなかったとかと相馬藩政記を調べた
そしたら生波(いくなみ)で700人溺死と記されていた
それも二行だけだったがこれほど貴重な記録もなかったのである
生波とは津波のことであり慶長地震と津波の後に津波という言葉になったのである
それまでは津波という言葉はなかったのである
これほど記録が大事なことを知らしめたことはなかった
なぜなら他に伝説あるとしても一切記録がなかったからである
その記録も全く忘れられていたからである

歴史だって記録されていないければ不明になる
それでエジプトではヒエログリフで石に記した、それで歴史が解明されたのである
もし人間に文字がなかったら歴史はあっても解明できないものとなっていた
確かに柳田国男のように公式の文書の記録より言い伝えが語り継がれたことが大事だということもある、そこに真実があるというのもわかる
それで口碑が大事だとして民俗学を起こした
その功績は大きかった、しかしまた一方で記録も大事なのである
何か文書の記録は信憑性がでてくるから契約は文書になったのである
口約束は記録が残らないから破られることが多いのである

では記録がすべてかというとそうもなりえない、なぜなら犯罪でも殺人でもまた何億という金を会社でごまかしてもわからない人が結構あるからだ
そうしたら細かい金などごまかして盗んでいる人など無数なのである
ただどういうわけか小さい犯罪は万引きでもつかまりやすいのである
巨悪はつかまらない、大盗賊は英雄となり国を奪うものは正当化される
それか世界史でもあった、国を奪うなら人を殺しても罪にならないとまでなっていたのが歴史である

ただ人間の心から見る時、そうした犯罪の記録より恐ろしいのは「神は心を見ている」というときそうした記録のことではない、心に人間の一生のことが記録される、記憶されているのである
あなたが何を求めて何をしてきたのか何を思ったのかなどが記憶されている
だから老人になるとその人の結果が心に現れてくるのである
神は心を見ているというときとても現実社会では偽ることができても神に対してはできないからである
また顔にもその行状とか思いとか何か心の歪みとか罪が現れる
それは別に犯罪ではない、その人はいい人と社会ではされている
でも信じられない女性になっていた
心か曲がり異常化していた、なぜそうなったのか?
別に犯罪は犯していない、金にも恵まれていた、ではなぜそんな人格になったのか?
そういう人もまた多いのである、だから犯罪がすべて人間を歪めるものではないのである

エジプトでは死後にそうしてその人の魂を計りにかけて選別するというときもそうである魂にはその人生の行状とか思いとかが記憶されている
それこそ消えないものなのである、何か簡単に忘れて消えると思っているがそうではないだから犯罪が記録されないつかまらないとしても心に記憶されて消えず良心の呵責に耐えきれず自主した人もいるのはそのためなのである
ただ人間の犯罪は多様であり心悪いことを思っただけで罪だとなると罪を犯さない人はいない、また罪を犯したからと言ってそれで終生消えないというものでもないのである
ただ罪の軽重とか人間には計ることがでときない、裁くこともできない
なぜなら人間はみんななんらかの罪人だからである、
つまり犯罪者であり犯罪者が犯罪者を裁くことはできないからだ
第一この世を生きて嘘つかない人などいない、政治家などは特に嘘ついている、そういうささないことでも守れないのが人間なのである

国でも民族でもそうである、そこに正義があるのかとなるとない、ただ
強い国が弱い国を裁いているだけでありそこに正義などないのである
ただ国家の犯罪となると罰することもできない、アメリカの犯罪は誰もどこの国も罰することができないのである
それは長い歴史で神が裁くとなるしかないのである





2020年01月10日

道を誤ることの怖さー人生は一回限りであり引き返せない (20代で決まる人生)


道を誤ることの怖さー人生は一回限りであり引き返せない

(20代で決まる人生)

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人間の一生とは何なのか?
これもいろいろいうけど実例から見ればわかりやすい
例えば同世代で赤軍というのがいた
その若者は日本航空をハイジャックして北朝鮮に逃亡した
そしてそのまま北朝鮮でずっと暮らすことになったのである
その人たちは親になっていたのである
それで日本がに帰りたいとかなった
帰ってきた人もいるがその行動が決定的結果になった
ではその行動が誤ったとして後で判断しても遅いとなる

なぜ遅いの?

人生は引き返せないということ

人生は二度ないということ

これが恐ろしいことだった、極めて人生の厳粛さであった
若い時だったら人生は長い、暇でしょうがいなと思っている
私自身もそんなものだった、仕事もしないことがありやけに長く感じていたのである
それが老人になるとこんなに早く時間が過ぎたことに驚くのである
まるで人生は一瞬だったと最後はなる

人生で道を誤るというときそれはすでにその人生の出発点の20代で起きていたのである
なぜ会社に入る時、大企業に入ることにこだわるのか?
それはそこで一生の方向が決まるということでそうなる
なぜ一流大学とかにこだわるのか?それが人生の進路を決めるように思えるからである
確かにどこの大学を出たかでその人を見ることがある
それは人間の価値が簡単に見分けられないからである
だから一流大学だったらやはり優れていると評価する
それはぞうでなくてもあくまでも平均的に見てそう判断する他ないからである

そして頭がいい人でも道を誤る
それがオウムだった、理系の頭のいい人が最後に浅原にだまされたとして刑務所に入り死刑にされたからである
これも本当に深刻なことでありその後悔は身にしみる
震撼ともする人生の実例なのである
私自身もそうしてカルト教団で運動していたから身にしみるとなる
カルト教団で人生を奪われてしまったということである
だから道を誤ることは本当に怖いことなのである

ただ人間は何かしら道をはずす誤る、後悔する、そればどんな人でもそうである
自分自身はひきこもりになり「小人閑居して不善を成す」となったのもそうである
ひきこもりとかは今は普通になっているが隠者とかなれるのはかえって優れた人であり
そういう人はめったにいなかったのである
百万人に一人とか特別優れた人しかなれなかった
でも今は経済的に豊かだからそいうことを一般の人でもできるようになったのである

20代で青春時代で何か決まってしまうというとき
例えば結婚でも誰かと結婚する、その人と一生暮らすことになる
それもたいだい20代で決まる、それも怖いことである
たいがい女性を選ぶにしても容姿でありその心を見なかったりするからである
男性にして恰好いいとか外見だけで決めたりするからである
それで三分の一が離婚するようになっているのだ
ただ選んだ人が悪いからと簡単に変えられないということになる

歴史でもあの時こうだったらこうなっていたとか見てもどうにもならない
日本でも戦争で死んだ300万人は返ってこないからである
これも歴史の厳粛な事実である、歴史では道を誤るとそれだけの犠牲が出る恐ろしさである、そこで有為な青年が大量に死んだのである
その人たちは生きたかったが生きられなかったのである

自分自身の人生も実際は30くらいで決まっていたのである
その後は余禄のような人生になっていた、その後は実際に旅ばかりして遊びだったのが自分の人生だったのである
青春時代は激動であり冒険でありそれが大事なのは一生の方向が決まるということなのである
何かすべてが決まるというのではなく方向が決まる
その方向が決まるから間違った方向に行くとそのまま後で間違ったとしても引き返せないのである
人生なんかいくらでも失敗してもやり直せるということもいう
でも方向が間違っていなければ多少の間違えとかあってもやりなおせる
でも根本的に最初に道を誤れば方向が決まってしまうから引き返せない
もう一度もとにもどってやり直すことができないのである

神を知るというとき別に聖書を読まなくても教会に行かなくても知ることができる
聖霊を受ければわかるとなるからだ、それは青春時代しかない
老人になれば誰でも人生はこんなものだったのかと悟ることはできる
でも神を知ることは不可能である
だから若きうちに神を知れということになる
その時期を逃したら神を知るチャンスを逃したことになるからだ
悟りと神を知ることは別なことなのである

もちろん別に無神論者でも立派な人はいる、すでに死んだ都築詠一氏とか武田邦彦氏などもそうである、無神論者でも人格的にも優れている
むしろ宗教者の方がおかしな人間が多いのである、何か一番この世で無用な者が宗教者になっている、それより一番害になっているのが宗教関係者だとまでなっている
その人たちは金を得る手段としてそういう稼業をしている
だからまともなのは市井で職人でも農民でもなんでも働いている人の方がまともなのである
そういう人達が宗教者が多いというときその国は堕落したのではないか?
イスラム教だと宗教者によって政治とかも支配されている
その深いところはわからないにしてもそれで経済的にも発展しなかったのかとなる
キリスト教でもカトリックの政治支配からプロテスタンとなったときマックスウェバーの資本主義の倫理を基にして働くことが奨励されて経済的に発展したとなる

自分も何か人生をふりかえると不思議になる
みんな一生をふりかえると不思議になるのだろう
その人生にしても20代にすべてがありあとの30年は余禄であり別にどうでも良かったとでなっていたのである
とにかく求道は青年の時にしなければもう無駄だとまでなる
確かに老人はみんな悟る、でも神を信じる時期はとっくにすぎている 
あとは諦念しかないのである

2020年01月04日

内村鑑三と明治維新


内村鑑三と明治維新


明治維新が何だったのか今問われている、単なる薩摩長州のク―データーであり権力奪取だったということもあからさまに言う人がいる
吉田松陰がテロリストに過ぎず薩摩長州に何か近代化を志すものがなかったというの確かである
それは後から美化されて作りだされたのである
どうしても西洋の文明とか思想を一挙に理解できないからである

ただ彼らの行動は幕府を倒すということで一致していた
何か主義主張があったとは思えないのである
なぜならとてもその時西欧の文明であれ思想であれ消化できないからである
それでまず西洋の文明の言葉を翻訳するのに苦労した
そこで日本人が漢字に翻訳したのである
その翻訳した漢字を中国人が使っているのである

権利はもともと権理だったとかいろいろに模索しつつ翻訳したのである
未だにそうした言葉は日本語にないとうときその背景にそうした歴史がないのだから実際は訳しようがないのである
市民という言葉の背景にヨ−ロッパの歴史が凝縮されて生まれている
市壁に囲まれて共同で敵から守る場として市がありシティズンがある
それでパスポートにどこの市民かと記すようになっている
日本だったらどこの村に所属していることがアイディンティティになっているから
市民となるとそもそも歴史的にないのだから訳しようがないのである

内村鑑三が侍の出であり薩摩長州の藩閥政治を常に批判していた
また天皇に不敬だとして不敬罪に問われてそのことで国民の敵とされて排斥されて苦しんだ
これも何を物語っているのか?それは明治は天皇というのがあまりにも異常に持ち上げられらた、それは古代の天皇制の先祖帰りだった
だから国家神道になった、なぜ廃仏毀釈が起きたのか?
それもやはり異常な天皇崇拝から起きた、それは不敬罪としてキリスト教への弾圧でもあった
ただキリスト教は明治では西欧化するのに認められた、なぜなら宣教師が多数来て大学もそうしたクリスチャン系が創始者になってできているからである

●異常な天皇崇拝(国家神道)−廃仏毀釈

●廃藩置県(侍の廃止)

●薩摩長州の藩閥政治

●富国強兵(国民皆兵)

これらのことが強圧的に進められた、その結果として日清日露戦争になり太平洋戦争の悲劇と通じていた
ただ国民国家というのは日本だけではない、フランスでもドイツでも世界的に国民国家になったのである、ナポレオンは国民国家にして国民皆兵にして戦争で強くなったのであるつまり世界が国民国家となった結果、国民同士が戦争するようになったのである
それで世界大戦となりその規模が拡大して大被害になったのである
だから国民国家というのはいいようで悪い面もあった
一つの説として国民国家ではなく国民軍など持たない方が良かった
そうならば日本は第二次世界大戦で中国とかまで進出することはなかったという意見もあるのもわかる
国民国家になったら国民全員が兵士になり外国との戦争では全員死ぬということにもなるどちらも国民国家であり国民が総力戦になるから最終的に全員死ぬということもある
もし侍だけの戦争だったら負けたら殿様が切腹して戦争は終わっていたからだ

内村鑑三は日露戦争を批判した、日清戦争は賛成していた
その後非戦論者になった、キリスト者として非戦論者になった
今でも日露戦争を肯定する人は多いが彼は否定したのである
日露戦争に勝ったとはいえなくてもロシアに対等で戦ったということが日本人は評価するでもその評価が奢りが太平洋戦争に通じていたのである
太平洋戦争の原因は明治維新からすでに始まっていた
西郷の征韓論でもそうである、吉田松陰のアジア征服でもそうである
その思想は明治維新からあった、それが大東亜戦争となったのである

歴史とは何かというときいろいろものが複雑に交じり合うから評価するのがむずかしくなる、でも歴史を明治維新でもその後でも一人の人物から見るとわかりやすいとなる
内村鑑三は幕臣でありこの出自が重要な意味をもっていたのである 
都築詠一氏というプログを書いて死んだ人も幕臣だったのである
それで明治維新の偉人を批判していたのである
内村鑑三も常に薩摩長州の腐敗した藩閥政治を批判していたからである
明治維新の元勲をもちあげているのは誰なのか?
今でもやはり薩摩長州の人たちであり山口県から首相になる人が多い
今の阿部首相もそうである、つまり薩摩長州の藩閥政治は継続されているともなるのだ

なぜ日本が大東亜戦争に突入して300百万人も死んだのか?
それは内村鑑三が生きていたらその戦争にも猛烈に反対していた
日露戦争は国民的合意の戦争のようになっていた、それでも反対していたのである
ただ大東亜戦争も評価するのはむずかしい、でも歴史的に継続するものがあり突然に戦争になったのではなく明治維新の時すでに予定されていたともなる
国民国家同士の戦争はすでに世界で用意されていたともなる
国民が全部兵士になるとき国民皆兵になるとその戦争は熾烈になる
現実に日本だけではない、ドイツとロシアの戦争でもここが一番多くも死んだからである日本も大陸の民族同士の熾烈な戦争に巻き込まれたのである
その原因を作ったのは西欧のヨ−ロッパのアジア進出であり植民地化であった
もしヨ−ロッパがアジアに進出しなければアジアで争うことはなかったのである
不干渉であり日本は鎖国して他国とはかかわらなかったからである

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世界史的には国民国家同士の戦争だったからこれだけの被害が出たのである
世界がハルマゲドン最終戦争の様相を呈していたのである

とにかくなぜ明治維新が世界でも奇跡だったとして称賛されるのか?
それは薩摩長州だけの力ではないことは確かだったのである
そこだけをはでに取り上げるのは問題であり否定されつつある
結局薩摩長州の藩閥政治は腐敗したからである
ただ明治維新ではなぜ英傑がキラ星のごとく生まれたのか?
それは日本の江戸時代三百年がありそこに侍がいて幕臣も国造りの中核になり明治時代が築かれた、だから今見直される
その一人が内村鑑三でもある、これだけの強烈なキリスト者が生まれたのはなぜなのかとなる
それは内村鑑三がアメリカに留学して視野を広げたことが関係している
今でも留学したとか外国で生活した人は視野が広くなり日本を相対的に見れる
日本の良い点と悪い点が見えるのである
ただやはり留学とか外国で生活した人であり旅行したくらいではわからないのである

いづれにしろ明治にたいがい実業でも教育でも大学でもみんな創始者になっている
つまりその延長として現代がある、その基は明治に作られたのである
明治は日本では偉大な時代だったとなる
ただ薩摩長州だけの功績とするのは間違いである、庶民にしてもすでに幕末から近代化の用意ができたともしている
なぜなら墓を見ると個人墓でも幕末のものが多いのである
その頃から農民でも経済力がついて個人の墓を建てるようになったのである
それまで村の共同墓地のホトケっポとかに葬られていて個人墓はなかいからである
ただ明治維新が何だったのかはそれを知ることは容易ではない
それは日本国という総体的な力が結集して成されたともなるからだ

とにかく歴史でもミネルバのフクロウは夜に飛び立つというようにそれが百年とか過ぎないとその真実がわからない、それだけ歴史となると評価がむずかしいのである
人物にしてもそうである、ただ死んで百年の後にとりあげられるだけですでにその人は歴史上の人物である、それは歴史に生き続ける人物であり後々まで影響するのである
あとの無数の人間はただ消えてゆくだけだとなっているのだ

明治の預言者(内村鑑三

そは噴火口なり
煮えたぎる溶岩を噴出す
火の言葉、ロゴスがその底より
とめどもなく噴き出す
その熱き岩よ、言葉よ
憤怒となり世を正す
聖書一冊を手中にして
明治の新しい時代の興国の預言者
そはまた堅き岩に身を寄せて
いと細やかなる高山の花を愛ず
そしてかなた遠望す高き峰
大洋を望み世界大に視界を広げる
その湧きあがる力の源泉は
神への信仰にして成りぬ
その清冽な泉の涸れることなく
こんこんと湧きて人を癒しぬ
キリストの霊の宿りその言は強し
その言葉は末代にもひびきわたる
新しき日本に義人一人生まれる
異国の攻めの強くも独立不羈に立つ
新しき世に炎のごとく立ちにけるかも!
得がたきものや神は日本にあらしめる
侍の矜持の高くその節を曲げぬ
誇り高き者にして神の言を伝える
その顔の柔和と見ればしかあらず
憤怒のとなりて世を正す
冷徹にして氷河のように閉ざす
その上に孤高の峰がそびえ立つ 
近寄りがたき者にして俗を排しぬ
江戸幕府三百年は無為にあらじ
侍の志の高くその信の篤し
その刀は邪を切り義を高める
明治になぜかく英傑の生まれしや
綺羅星のごとく生まれしや
真の侍のありてこそかな
日本の歴史の重みなるかな


(反歌)

千歳巌のごとく
国の礎と千代に
その末を見守り
その信の強くも
揺るがざるかな
国の栄の基なれ
そは人物にあれ
国の山河にあれ
その礎の堅くも
国は崩れざりし
天地の支えつも
神の支えるなり
国は盤石にして
毀つ能わざりし
その礎知るべし


2020年01月03日

未来は予測できない (この世は人間は無常、無常ではない永遠の命を知るべき)


未来は予測できない

(この世は人間は無常、無常ではない永遠の命を知るべき)

未来は予測できない、ミネルバのフクロウは夜に飛ぶというとき科学者がこう言っている地震は予測できない、科学的にわかっていないからだ、一日が終わった時その真相を知る、過去になった時その真相を知りえる
科学も万能ではないからだ、わからないことが多くあるのだ
東南海地震が津波が1年以内に起こるとか、5年以内に起こるとか十年以内に起こるとか
20年以内に起こるとか30年以内に起こるとか言うことができる
つまり30年以内といえばその内に起こったとすれば当たったとなるのである
結局地震とか津浪は予測しても無駄だからそうなたっときに備えをしている方が大事だとなる
津波対策としては高台を作り防波堤にして逃げる算段をしておくことである

それは東日本震災の津波で経験しているからである
予測をあてにしても当たらないからである
そんならそんなことに力を予算を使うより実際に津波が来たときの備えに使えばいいとなる
要するに人間は万能ではないという自覚が必要になる
でも科学者とか技術者は万能を望まれている、神のような力をもつことを期待されているのである
         
人間は運命を未来を予測できないから突然運命が変わる
ベ―トベンの運命のように突然運命に左右され翻弄されるのである
自分に起きたことも回りで起きたこともそうである
家族が認知症に突然なったのである
それは何なのか訳わからなかったから恐怖だった
次に地震があり津浪があり原発事故があり自分が病気になりと次々に恐怖が襲ってきたのである、その間に犯罪にもあった
家に来たのは悪鬼のような人たちだった、こうして自分の家は悪鬼につかれたようになったのである
一転して自分の生活はまるっきり変わってしまったのである

運命は予測されずにこのように突然来るのである
第一津波でもそうである、これほど突然なことはない、逃げられないほど突然だから被害があれほど大きかった
もし事前にわかっていれば一日前でも避難するからあんな大被害にはならなったのである逃げる間もなく津波が襲って来たからである
これほどの恐怖はなかったのである

予測できないから運命だとまでなる、もうあきらめるほかないとまでなる
人間が未来を予測することが不可能だというとき未来は神の手中にあるというのもそうである
神のみが人間の未来を決めることができるのであり人間にはできないからそうなっている未来を予測できないがそれに備えることは津波でもできる
ただいつ起きるかは予測不可能なのである

ただ自然災害と人間に起きることはまた違っている
株がどうなるのか、景気がどうなるのか、預金封鎖があるのかないのかという今の心配は自然災害とは違ってある程度は予測できる
預金封鎖でもそれは神がするのではなく人間がする
それは政府で決めればできる、でも秘密裡にするから突然に来るとなる
政府の上層部はそういうことを知っている、もしそれが誰かが知れば事前に対策する
でもその前に対策をする、でも有効な対策が預金封鎖だとないのである
原発事故だってある程度は予測できた
なぜなら東電では10数メートルの津波が来ることを予測していたからである
ただコストを考え対策をしなかっただけなのである

とにかく人間は無力だとなり運まかせだとなる、成功も運不運だとなる
まず時代が変わると価値観が変わるのもそうである
戦前と戦後では価値観が黒から白に変わった、それは何だったのだろうとなる
今の時代もそうである
なぜ高度成長時代は団塊の世代が企業戦士として猛烈社員になって働いていたのに今は
働かないのが勝ちだとか働かない人がこんなに多いのか?
そうしてAI社会になり人間は働かなくても暮らしていける
そして人間は何をするのか?
人間はみんなアーティストになるとか言ってみたりベーシックインカムが今や公然と言われる
こういう価値観の世界は猛烈社員として働いた企業戦士から見れば容認できないのであるそれは戦前の戦争でも一眼となってアメリカと戦った世代が戦争に負けてから全く変わってしまった社会とにているのだ
そこで価値観がまるで変ってしまうのである

自分などは団塊の世代で会社員にもならなかった、働いていない
旅ばかりしていたとか遊びだった、でも学問が好きであり独学したり芸術の分野で勉強して訓練はしていた、でもそういうことを認められたことはないのである
それは一銭も金にはならなかったからである
つまり自分はアリではなくキリギリスだったのである

何かこれはアリとキリギリスに例えると

アリは働いてるばかりいて馬鹿、アリはもういらない、機械とロボットとAIが働いてくれるからいらない

キリギリスは歌っているばかりだけど価値があった、今の時代に必要なのはキリギリスだ
アリのように働く人はいらない、キリギリスのようにアーティストになり歌っている人こそ価値あるとされる
それで歌謡でも素人でも玄人並みになる人もいれば芸術家になればいいとしている
これも猛烈企業戦士の高度成長時代からすると信じられない価値観なのである
だから人間の未来は予測できない、時代時代でまるで価値観が変わるからである
こういうことでも未来は意外なものとなっているのだ
つまり予測できないものとして常に未来がある
70年くらいすぎると時代が必ず代わり価値観も変わるからである
銀行は安定したエリートだったのにもう銀行は不必要だとかなるのも予測できなかった
時代が変わると評価も価値観も変わるからそうなる

そして過去と同じことは起きないのである、似たことは起きる
例えば飢饉で相馬藩で三分の一の人口が減ったその穴埋めに越中などからの移民が働いて回復した、そして同じように原発事故で人口がやはり流出して減った
このように同じようでも違った形でまた同じことを繰り返すことはある
でもそれは違ったものだから予測できなかったのである
現代では飢饉は起こらないとみるが違った形で何かまた起きてくるのである

ともかく今年一年何が起きるから予測できない、運命はまた突然非情にして襲い苦しめるかもしれない、それがどうなるのかなってみなければわからないとなるのだ
第一預金封鎖なるとしたら備えようがないのである
結局あきらめるほかないのかとはなってしまうのである
人間はただ運命に翻弄されるだけなのか?
そうならないためには信仰が必要だとなる
人間社会のことは人間は変わらないしただ世間に翻弄されるだけだとなる
常に社会は時代は変化する、価値観も変わる
そうなると人間はただ時代に翻弄されるだけだとなる

人間社会は無常であり人間も無常である、だから無常でないものは何か追求すべきだとなる、変わらぬもの、永遠なるものは何か追求すべきだとなる
永遠の命を知るべきだとなるのである


2019年12月31日

人間と金の問題 (金は万能ではない、時間の方が大事だった)


人間と金の問題

(金は万能ではない、時間の方が大事だった)

今年も終わりだけどどうしても現代は金の問題が一番話題になる
たいがいyoutubeでも経済の問題が一番見られている
日本の貧困化も深刻だし金ももっていれもっているで銀行がなくなるとか預金封鎖があるとか心配になる
貧困化と同時に一億以上ある人は300万人も日本にいることの驚きである
これも格差社会になったからだともなる
株をもってれば株価が気になる
私は株とかしたけど何もしないでもっていたら上がっていた
それはリーマンショックのとき持っていた株だったのである
それを銀行員が来た別な投資信託に回したから損しないまでももうかることもなかった

というのは株とか投資というのはそれで自分自身だけでもうけるとすると
そこに時間をかけないとできない、デイトレだ―などはいつもパソコンを見ていなければならない、そうすると他のことはできなくなる
それで一億円もらったとして何か実りがあるのか?
金に換算するとあってもではその人を豊かにしただろうか?
何か銀行員とか証券会社で辞めた人はそうして金ばかり追ってそれが何か実際は実りがないということで新しく店を現物を扱う仕事をはじめたとかいうのもわかる
農業は苦しいにしろ収穫する時の喜びは格別だろう
それを金に換算するだけのものだったら喜びがないだろう

金があたかも万能のようになった社会がグロ−バル経済社会である
でも金が万能とはならない、例えば今どこでも耕作放棄地が増えている
その土地は一年数千円で借りられるとしてもそこで農業することは労働が必要なのであるその労働についてプログで書いた
小さな畑で毎日草刈りであり害虫から鳥からネズミとかに野菜が食われる
天候の影響が常にあり実りを得るのが容易ではない、するとその話を聞いただけでもう苦労が並大抵でないとなるかしたくなくなる

一億円やるから耕作放棄地を実りある畑にしてくれといってもそこにそうした苦しい労働がないとできないのである、もし機械とかで楽にできればいいが機械を使ってもまたそれも労働が必要なのである
それで一億円もらったらどうするのか?みんなそれで家を建てたり車を買ったりして農業という労働はしない、そのことは原発事故で誰も田畑での労働をしない、放置されて補償金をもらった若い世代は帰ってこないことでもわかる
もともと農業でも漁業でも跡継ぎがないのはその労働がきついからである
金にならないことがあるとしても労働自体が楽ではないからである

金でなんでもできるというのは消費はできる、でも生産するとなるとなんらかの労働が必要になるのだ
それで武田邦彦氏のような科学技術者の研究者が政府から官僚から研究して成果を出せ、その成果は金を出した方が得るのは理であるというのに反発したのもわかる
研究の成果にも労働が智慧や知識や実験とかが必要になりそうして苦労して出すのが研究者なのである
ただ金を出す人が何かを作り出すのではないのである
なぜ今地銀とか銀行がだめなっているのか?
それは金が余っていても銀行自体では何も作りだせないからである、金を貸すから何か利益を出してくれと頼むだけである
でも今はそうして金を貸してもうける人がいないから株とか投資信託とか外貨の保険とか何かアメリカの国際金融資本家にだまされて金を奪われる
それはゆうちょ銀行でも農林中金でも同じである
今は金が金を産みだしているが何か本当の実りを生み出していないのである
それは金融資本主義では金が金を産みだしても本当の価値は産みだしていない
それでアメリカも衰退してドルの価値はなくなるという人がいるのもわかる

人生でもすべて金で計られるとしたら間違いである
この人は一億円残したから一億円の価値があり金がない人は価値がないとはならない
価値は多様でありその人の価値は金があることだけにない
価値は金だけでは作りだせない、確かに金は必要なのである
それよりも老人になればわかる、いかに時間の方が貴重だったかわかる
だから老人はみんなあの時何かをししていれば良かった、旅行していればよかったとか
勉強していれば良かったとか何かしらみんな後悔しているのは金がないからではない
時間がなくなった、その時すべきことをしないで後悔しているのである
そういう時は時間が消えてしまうからである
そしてその時には青春時代などあっという間に過ぎて老人になっているのである

自分の人生をふりかえると何かお前の人生は遊びだったとかなる、でも電車であれ自転車であれ旅行したことが貯えとなっていた、学問であれ芸術であれ知識であれまずその場を踏まない限りわからない、実感できないからである
まず芭蕉でも「奥の細道」は旅しない限り空想では書けないものだった
外国でもそうである、いくらテレビを見ても本を読んでも外国のことはその地を踏んだ人と踏まない人の差が大きい、百聞一見にしかずになる        
だから外国で暮らした人は日本を外国と対照して見れるからかえって日本のことをわかるのである
それで50歳からバックパッカーで外国旅行したのが本当に大失敗したにしろ良かったとなる、なぜならその後介護とか体力の衰えでできなくなったからである

そうした経験が貯えとなって後で何か書くにしても活きてくる
人間はとにかく何かしら日々貯えているのである
花の名前を覚えるのにも一日ではできない、花を知るには相当な時間が必要である
なぜなら種類も多いし季節で違っているから花に通じることは時間がかかる
それは何でもそうである、この世にある無数の事に詳しくなれないのはそのためである
だから雑学でも後で役にたつのである
ただくだらないことに時間を費やしていると後で何も残らない、知識でも経験でも金を貯金すると同じように蓄えることである
人間は何かを日々貯えている、それは金だけでないのである

もちろん金は必要である、でも時間がそれ以上に大事なのである
旅するにしても自分は金がなかった、だからいつも安い宿を探すのに苦労していた
食事は最低限でおさえてグルメなどしなかった
でもありあまる時間があったからできたのである、会社勤めだったらできないからである外国旅行でも金を使わなかった、それは意外だった、外国は安い宿が多いのである
だからヨ−ロッパなど金がかかるようで基本的に宿代が安いから旅行しやすいのである
ゲストハウスなどが多いのである、日本はホテルでもビジネスホテルでも5000円となると高いと思うからだ
外国旅行はしたとしてもやはり自分は一年くらい外国に住むべきだったと後悔する
自分の時代はあまり外国旅行をしない、また留学もしない時代だった
今はそういう点では留学も安くできる時代である、だからそういう経験が後で活きるのである

とにかく人生で一番後悔するのはその時々に成すべきことをしないことであり時間を無駄にしたことなのである
才能があるなしにしろその一人が成せることはわずかである
楽器でも一つはできてもいくつもはできない、いくら天才でもできない
天才を見ても意外と業績を残していないのはやはりあらゆることに通じることができないのである

いづれにしろ人間は最後はみんな時間切れで終わる
今日は大晦日だけで何かもう時間かない、もう人生も終わりだとなる
今日は生きていたけど明日という時間がないとなる
いかに時間が貴重だったかを最後に知らしめられるのである
青春などあっというまに過ぎる、そして40くらいになってみんなおっさんだよとか白髪でてきたとか語っているのである
それだけ時間が過ぎるのが早いのである
(少年老い易く学成りがたし)である
一つの学を成り立たせるには相当な時間が必要である、雑学でさえそうである
何か一つのことに詳しくなるにはそれだけの時間が必要なのである
でも結局学問でも何か無駄が多い、それは勉強の仕方が悪いとかなる
それでもともとあった才能でも活かせないのである

今年も終わったけどももう人生も終わるとなる、老人になったら先がない
それは生きる時間がなくなることなのである

2019年12月17日

理系と文系の謎 (経営者が理系が向いているのか?)


理系と文系の謎

(経営者が理系が向いているのか?)

その人は理系である、電気の一級の資格をもっていた、だから建築関係の会社をたちあげた
でもその人は経営者では失格者であった、まず経営するにしてもその動機が
「自分は優秀だから、会社経営も簡単にできる、自分の頭のいいことをみせてやろう」
そんな動機だったのである
そこからして間違っていたのではないか?
その人は別に会社で雇われて理系の技術者として働いていれば問題なかったのである
給料も良くて田舎では恵まれていたのである
とにかく今の社会は電気社会だというとき電気関係で働く人が多いのである
それで原発では事故が起きたとき1000人も電気関係者が働いていたということでもわかる
エネルギーが石炭の時は常磐炭鉱のようにそこで大勢の人が働いていたのである

最近IT社会とかAI社会になるとどうしても理系が重んじられて社長にもなっているというでも何か理系というと機械マニアとかいたりして社会にうといというか無関心になる
だからこそそういう人はそういう人で貴重だと言う人がいる
それこそ日本の製造業を支えているのだという
つまりそれはそれで容認されていいとなる

でも経営となると何か違ってくる、細部の機械の部品に異常にこだわったりしている人が経営者になれるのか?
その人は何か経営者になって人格までおかしくなったのかもしれない
経営者というと商売人でもある、その人はだから何かもう頭に金のこたとしかなくなっていた、商売人になった結果として常に・・・したらいくらだという頭になっていたのである
これが技術者として会社に働いていればそういうことにはならなかった

ただ人間を考えると経営者であり商売人であり技術者であるとか学者であるというのもむずかしいと思う
その人の性向が向き不向きが必ずあるからだ
その良い例が学者が経済学をいくら学んでも会社経営とかなると成功しない
経済学という理論を学んでも社会で実践すると全然違ったものとなるからである
学者が株を実際に投資とかしても成功していないのである
ただ理論家であり実践者ではないのである
政治家と政治理論は別物なのである

人間は本当に向き不向きがある、なぜ関西には商売人とか商売に向いている人が多いのか大阪だとそもそも江戸時代から商売の都市だからそこでそういうエトス{精神的雰囲気)が培われた、だから言葉まで「もうかりまっせか」とか挨拶になっている
それが別に不純でもない、商売自体が悪いということはない
商売はただ相手からだまして奪うというものでもないのである
そんなことしたら商売がうまくいくはずがない、一時的にはうまくいっても長続きはしないのである

だから土地によっては人間に向き不向きが作られる
まず東北人は商売に向いていない、根っからの商売人になれないのである
そしてそうして不向きなことをすると失敗する
東北人に向いているのは農業であり職人とかである、研究者とかにも向いているかもしれない、何か内にこもる仕事に向いている
ただ伊達政宗は商売人でもあったし政治家であり演技者でもあったし文と武にも優れていた、それは例外的存在だったのである
そんな多様なものを持っている人などいないのである
別に東北人でもいろいろな人がいるからそういう人は例外的にはいるのである
もし現代でもこれだけの資質がある政治家がいたら驚きだとなる
今の政治家は何かそんな素養もなにもない、政治家もまた何かそうして政治家として育まれ土壌がないと育たないとなる
今は何でもその土壌が大衆が主役なのだからそこからまともな政治家でも何でも生まれるだろうか?みんな大衆にこびているから低級化してゆくのである

なぜ今まで経営者が文系だったかわかる、理系者は経営者に向いていないのだ
経営は機械とか物だけではない、社会が人が関係してくる
理系だと機械とか物にこだわる、でも社会的役割とかその仕事が社会にどのように影響するかなどトータルに見ることも必要になる
だから本当に原発ほどそういう神のような万能の人でしか経営者になれない、社長になれない、会長にもなれないものだったのである
それが自然に地域にどう影響するかなどトータルに見る目が必要になった
それは歴史も郷土史も関係していた、津波のことなどもしらねばならなかった
ただ東電の関係者は津波が来ると計算していたから理系であって優秀な人が相当数いたのである
それは理系でも機械の一部を詳しく知る人がいたとなる、それはあくまでも一部に詳しい人だったのである
第一吉田所長が肝心の復水器のことを知らなかったのである
要するに原発とかなるともう全体を知る人などいない
するともう人間では運営できないものとなっていたのである
そして事故になり成すすべもなく解決もできなくなったのである

いづれにしろ人間は向き不向きがありあらゆることに通じる人間などいないのである
だから理系の経営者だから成功するとは限らないのである
経営という時国家を経営するということで政治家とかも経営者なのである
国家をどうするのか?国家をどう経営するのか?
それが一部の機械とか一部の物質とか一部分をいくら詳しい人でもできない
でもそんなふうにして国家でも大会社でも経営できる万能な人はいないのである
だから遂には老子のように自然にまかせろとか何もするなとかなる
人間は政治にかかわり結果的に混乱しただけだとなるからだ
中国何千年の歴史は政争の歴史でありそれで膨大な死者が犠牲者が生まれたからそうにもなった
結局国家など誰も運営できない代物だとなったのである

そのことは聖書でも言っている

わたしはわらべを立てて彼らの君とし、みどりごに彼らを治めさせる。イザヤ

なぜこんなことが記されているのか?
みどりごがなぜ治めることができるのか?
結局人間はみんな欲の塊りであり政治家でも欲で動くからそうなる
金で動くからうそうなる、これも逆説なのである
人間が優秀だと思うことは優秀ではないのである
優秀なものはある一面危険になる、人間が優秀だというときある一面に優秀なのでありそれは肯定できる
でも万能ではありえないのである
だから国家とかなると誰も経営できないのである

それで日本では天皇を王としたとき天皇が優秀とか関係ないのである
生まれた結果そうなっているだけである、何かしらの優秀さはあっても神のような人でもなんでもないのである
皇室など見てもあの人どんな優秀さがあるのと見る
ただ天皇家に生まれただけなのである、でもそういう人でも国家運営するとなると有効だとなる

天皇は命令してはならない

天皇は権力をもってはならない

天皇象徴制とはこういうことなのである、天皇に権力がないからこそ治められる
それはみどりこに治めさせよとにているのである
それは実質権力をもって命令できるものとは違うのである
生殺与奪の権利を持つ王とは違っている

つまり天皇は国の中心であり国が乱れる時天皇も二人になった
それが南北朝の熾烈な争いとなり日本が全国が二つに分断されたからである
つまり無能であれ国でも家族でも治める人は必ずしも関係ないとなる
一人の天皇をたてるということが大事になる、二人いると分断されたからである
結局人間は人間を治めることができないのである
それで人間社会は結局破綻する運命にある、日本国内であれ世界であれ誰が治めるのか?
誰も治めることがてきないのである、経営できないのである

2019年12月03日

時間とイデア論(時間とはエネルギ―のことである)

  
時間とイデア論(時間とはエネルギ―のことである)

●時間論

ヒンドゥー教では、1劫(カルパ) = 1000マハーユガ (mahayuga)、1マハーユガ = 4ユガ (yuga) = 神々の12000年(4つのユガは不等長で、1ユガ =神々の4800、3600、2400、1200年)、神々の1年 = 360太陽年とされている[1]。

つまり、1劫 = 43億2000万年である。

日常的に使われる億劫(おっくう)や永劫(えいごう)などの言葉は、この「劫」に由来する。億劫は本来「おくこう」と読むが、「おっこう」を経て「おっくう」に転訛したものである。これは百千万億劫の略語で、数式にすると100×1千×1万×1億となる     

星は、生まれたときの重さでほぼその一生が決まります。例えば、太陽の場合には、今45億才くらいですが、あと50億年くらいもすると、水素がたりなくなって、その一生を終えます。


時間は何かというときこれも不可解なのである
つまり決まった答えがなのが時間なのである
その人の考え方で決まるのが時間だとなる
ただ共通なのものとして一年を360日にしている、それは太陽の運行で決めているのである
一日とは太陽が昇り沈むことで一日である
でもその前に太陰歴があり月の変化で時間を決めていた
共通しているのは時間は何かの変化なのである
月が満ち欠けがあり変化があるから時間がある、もしいつも満月が出ていたら変化がないから時間もなくなる

例えば石があるとするとそれは千年とかでも動かないから時間を感じられないのである
植物でも花になっり実になったり20日大根とか40日大根とか時間で計る
それは変化して大きくなるからである、変化しているからなのである
木が成長したりするのもそうである、木が成長するのに50年とかかかるというとき
そうである、でも一年で木が成長したらどうなるのか?
熱帯では木が早く成長するから木の時間の考え方が変わる
いづれにしろ何かしら変化することで時間を感じている
石は変化しないから時間が感じられないのである
だけど君が代のように石も変化すれば苔むす磐となるように変化すれば時間を感じる
それは長い時間をかけて大きくなって苔むしたとなる変化があるからである  

君が代は 千代に八千代に. さざれ石の 巌となりて. 苔のむすまで

さざれ石から巌となり苔むすというまでの変化で長い時間を現しているのである

ピラミッドも一部が崩れているとかで時間を感じる
でも何かそれは4千年前のものでもそんな時間を感じないのである
作られたときとたいして変わらないからである、それは固定して動かないからである
変化がないから時間が感じられない、でも崩れているから時間を感じるのである

いづれにしろなぜインドではそんなにとてつもない長い時間を考えたのか?
そんな時間をまず思いつかない、宇宙的時間を思いつかないのである
それも不思議だとなる
宇宙でも変化するから時間がある、でも宇宙の変化を地球から見えるのか?
星がなくなることなど見えないのである、今なら星が一つ消滅したなど観察できたとかなるけど当時ではできない、でも宇宙の変化から時間を計っているのはなぜだろうとなる

日本に仏教が入ってきているのだからインドの思想が入っているけどわからなくなっている、億劫(おっくう)はこうした時間の長さから日本語化していたのである
他にも仏教が日本語化したのはある
でもその思想内容を深く考察していないのである
何か明治以降は西洋の学問しか検討しなくなったのである
そしてたいがい仏教でも現代では宗教はカルト団体宗教となり組織化政治化してその内容など関係なくなったのである

わかりやすいのは一つの星が生まれて消失する時間が一劫かもしれない
すると無数の星が生まれてまた燃え尽きて消失する、すると一つの星が生まれて消滅するのには一億年なのか十億年なのかとなりわかりやすい、太陽も一つの星だからである
すると宇宙には無数の太陽があり生まれては消えてゆく
そしたらその時間は永劫だともなってしまう     

核融合してもエネルギーを放出できない鉄が生成され、鉄や鉄に近い質量を持つ原子核のみが存在することになり、太陽は燃えなくなります

鉄が残るということは変化しないことかもしれない、鉄が錆びるのは酸素があるからである、でも酸素がない世界だと錆びない、すると石すら変化するが鉄は変化しないから時間を感じないとなる、科学はわからないにしろ常に化学反応でも変化するということが時間を作り出している、変化しない物には時間が感じられないのである
無常だというとき常なきもの、変化する世界だから無常だとなった、科学的にも世界は化学反応であれ物理反応であれ変化するから無常の世界だとなる

そして不思議なのはその星が太陽がなくならない限り時間があるとなる

最初に時間ありきではない、最初に星が太陽がありき

「光あれ」が最初であり時間が生まれた

ここが勘違いしているのである、太陽が変化を産んでいるから時間を感じている
時間を作り出しているのはそうした変化である、物質の変化でもある
そうして時間を考える時、

時間とはエネルギーだともなる

つまり宇宙であれ地球であれエネルギーがあれば時間が生じる

星は太陽は巨大なエネルギーである、でもいつか消滅する
でも宇宙には星がいくつもの太陽があるとするとエネルギーは消滅しないのである
死ぬとは時間が消滅することである、生きられる時間がないということは生きるエネルギーが消滅するからである
もし人間が老いることもなく活動できればエネルギーがあれば時間もなくなるのである
だから永遠の命というときそういう状態になるから人間から時間が消滅するのである
神の世界では時間がないのである、天国でぱみんないつも若いという時そうである
年取らないのが天国になっている、だからそこに無常もなくなる

●イデア論

また不思議なのはイデア論である
人間は花を見ている時花だって咲いて枯れて死ぬ
でもイデア論から花を見る時、花のイデアは永遠なのである
神がそれを地球に作りだしたけど神が示したかったのは具体的に地球に現れる前にイデアとして頭にイメージしたものを地球で現実化したのである
だからその頭に浮かんだものイメージしたものは神であり神はそのイメージを地球が滅んでもまた再現できるともなる
どうして多様な生物でも植物でもあるのかとなる、それはもともと神がイメージしてそれが地球で現実化したからだとなる

例えば何でも何かイメージしたこと想像したことは現実化できる
創造することは想像することと同じである
考えてみたまえ、動物でも象であれタコとかであれ
どうしてそんなものを創造できたのか?
それは神が想像して現実化したのである
どんなことしたって人間の頭では想像できるものではないからだ
そして人間の想像力(創造力)はすべて神に由来している
全くあらたな生物を現実にありえないものを想像することができない
たいがい現実にあったものから二次製作として創造しているだけなのである 
変なのは自分の製作している抽象画も二次製作である
写真であれ絵であれそれをパソコンのソフトで加工しているだけであり自分がイメージしたものではないのである 
でもそれなりりアートになっているのが不思議だとなる

人間は新たな生物の種を作り出していない!

確かに人間はいろいろなものを作り出した、でもそれはあくまでも神が作ったものでありその二次製作である、全く新しい種を作っていない、作れないのである
カーネーションでもいろいろな色のものを作り出したとしてもその種には変化ないのである、果実でも全く新しい種類の果実は作れない、種は作れないのである
果実を大きくするとかうまくするとかはできても全く新しい果実は作れないのである
そこに人間の限界がある

とにかく星が太陽があれば時間は消滅しない、時間とはエネルギーなのである
エネルギーが消滅したとき星が死に宇宙が死ぬということはエネルギーが消失することである
でもまた星が太陽が突然その暗闇の宇宙に生まれる時時間が始まるのである、時間が生じるのである       
つまりエネルギーが永遠であり時間が永遠だともなるのである 

例えば人間はみんな死ぬとしてもそもそも宇宙が消滅しない限り命がありエネルギーがあり時間があるとなる、でももし宇宙が消滅して時間がなくなれば命もありえないとなる
でも命がなくなることはない、永遠の命があり命は消えることはない
エネルギーが消失することはない、だから神の世界は永遠にありうる
そしてイデアが不滅だという時、それは時間と関係ないからである
確かに地球の生物は植物でも花でも枯れる死ぬということがあるがやはりまた同じように咲いているし見ることができる
そこで示しているのは現実の花ではなく神が創造したイデアなのである
そのイデアは消えない、だから地球が滅びてもそのイデアは再現される
イデアか不滅だということはそのことなのである
人間も一種の神が想像(創造)したイデアなのかもしれない、それが地球で現実化したのである

でも人間はイデアを見ない、毎日思うことはそんなことではない、食べることであり生殖でありショーペンハウエルの言うように生きんとする意志の世界に生きている
それが現代の資本主義になると金に転換されている
生きんとする意志は普遍的なものとして金になったのである
イデアを見るより花より団子になっているのである、神の目的は本来はそうして食べることではない、イデアを見ることなのである
それは人間にしかできない、動物にはできない、動物は神のイデアを見ることはできない花を見てもただ食料となっているだけだからである
だから神のイデアを見ない者はある意味で動物の生を生きているだけだともなる





2019年11月13日

人間は時間をかけないと何も育めない (猫も親しくなるのに7年くらいかかった)


人間は時間をかけないと何も育めない

(猫も親しくなるのに7年くらいかかった)


我が家に猫のなつきぬ側にいて78年すぐ冬に入るかな


この猫はあまり自分によりつかなかった、別に私自身がこの猫を飼うということでもなかった、いつのまにいついた猫である
一時汚したりしたから怒ったりした、それで恐れて隠れる
一時は一か月もいなくなった、何か家にいつかない外に出る猫だったのである
しょっちゅう家を留守にしてぶらついては帰ってきていた
今でも触ることはできない、嫌がり逃げるからである
そこまで親しくなっていないのである

ただこの猫は一か月くらいいなくなったときもう帰ってこないと思った
でも帰って来たのは尻尾が誰かによって燃やされたのである
そこで尻尾からずっと血がでていたのである、最近は血はとまっみたいだ
何か猫は家を汚されることがあり嫌な面があった
だからこの猫はいつも縁の下とかで隠れることが多かった
でも餌をやっているから一応家からは離れずにいたということである

猫の不思議は最近は家にいて自分の側にいることが多くなった
するとなついてきたのかと見る、でも触ることはできない、逃げるからである
猫は何か家にいると人間のように思えてくる不思議がある
だから猫や犬を飼う人がいるのは一人で暮らす人が増えたということもある
猫を十匹飼っている女性もいる、それも福祉の世話になっていて金がないのに餌を与えているのである、それは迷惑になる

猫とか犬を飼う人が多いのはなぜか?それは犬とか猫は従順なのである
かえって人間より素直だと感じる、人間はなにかとうるさいし逆らうからである
子供でもそうである、猫と犬は飼い主に従順なのである
それで何か猫や犬をかわいがる人が増えたとなるのかもしれない
つまり現代の人間は従順なものがない、結婚しても夫に従順に仕える女性などいない
だから離婚が多いのである

ただ犬猫でもおそらく子供の時から飼っていれば親しくなる、それは人間でも同じである動物は親がいなくなると何でもいいからついてゆく習性がある
親でないものでも親だと思ってついてゆくからである
だから子供の時から飼っていればなつきやすいことは確かである
私の場合は成長してから飼うようになった、ただそれが自分でぱ積極的に飼うということではなかった、いつのまにいついたという感じなのである

人間は親しくなるには子供の時が大事である、だから兄弟でも姉妹でも一緒に育たないとしたら兄弟という感覚がなくなる、いくら血がつながっていてもそうなる
親しくなるには時間がかかる、猫でも7年くらい自分の場合はかかっている
だから人間は親しくなることは簡単にできない
そてし人間の生きる時間は限られている、だから親しくなれる人間は本当に少ないのである、老人になると旧知の人とか過去に親しく人とか同級生でもまた親しくしようとするのは人間はそんなにいろいすな人と時間をかけて親しくなれないのである

江戸時代辺りだと人間はあまり移動しないから濃密な人間関係があり親しくなっていた
現代人は広域的にグロ−バルに移動する社会である、するとどうしても親密な関係を作りにくいのである
なぜなら江戸時代のように狭い場所で村のようなところで暮らしていれば自ずと時間をかけて親しくなれるからである

だから不思議なのは熟年離婚とか増えるという時ではその後に親しい関係が男女でも作れるのか?それが疑問なのである、第一また親しい関係を作ろうとしたら時間がかかるからである、猫でさえ7年以上もかかったということでもわかる
人間だったらもっと時間がかかる、お手伝いさんだと十年くらい勤めていると家族のようになり信頼できるとされる
それだけ信頼するには親しくなるには時間がかかる

人間の問題は何でも時間がかかることなのである、何かを理解するにも時間がかかる
それで少年老い易く学成りがたし・・・となる
そしてみんな何か成し遂げようとしても時間切れで終わっているのだ
英語でも話せるようにしておけばよかったと後悔してもその時間がなくなっている
つまり人間は金の価値も大きいにしても時間の価値の方がさらに大きいのである
なぜなら百億円あっても時間はもう買えなくなるならからである
あと十年生きる時間をくださいと言っても時間だけは買えないのである
生きる時間は尽きてゆく、実は日々時間は何をするにしても尽きてゆくのである
そして二度とその時間が返ってこないのである

だから認知症になると過去の記憶に生きている、でも現実にそこに共に暮らしていないと離れていて一年に一回とか来る子供のことがわからなくなる
記憶から消えるのである、名前さえわからなくなる
私の場合は60年一緒に暮らしていたから家族がひどい認知症になっても忘れなかったのである人間は離れて暮らしているとその人のことがわからなくなるし信用もてきなくなる何しているかもわからなくなる、去る者は日々に疎しとなってしまうのである

人生の問題は時間が限られていることなのである
若い時は無限に時間があると感じられる、でもすでに30過ぎると急速に老いてゆくことがある、40才すぎると白髪でたりする、そして40になるとおっさんとか呼ばれるようになっいるのである、女性ならおばさんになっているのだ
だから時間が過ぎるのが早いのである

結局人間の問題はいかに時間を有効に使うかの方が大事になる、いくら金があってもその金の使い方で時間を浪費する、時間ほど人間は無駄にしているものはいない
つまり金がなくても時間を有効に使う方法はあった
私が旅したのは別に金がなくてもできた、時間があったからできたのである
自転車旅行になったときはテントだから宿代が無料だから金がなくても時間があれば旅はできる、そして今の旅行は交通費とか宿代にも食事にも金がかかりすぎるのである
その金をかけたわりには旅はなくなっているのである
旅人は現代ではいない、ただ保養とか食事でぜいたくするとかになってしまう

ただ金だと十円でも百円でもそれを失うと何か大きな損したと具体的に思う
でも時間を無駄にしたことを損したと自覚できないのである
時間などいくらでもあるとか若い時は思う、だから時間に対してシビアにならない
そして必ず時間を浪費しているのが人間なのである
老人になるともう時間がない、あとは死ぬだけだとなってしまうのである
最後は時間が切れて万事休すとなるのであく
時間がなくなることが死でもあったのだ、人生百年となると生きる時間をのびるからいい面ではある、でもまたいろいろ問題がある
人生百年ですら短いと思う、もちろんそこまで生きてみないとわからていことがある
時間はやはり限られているのだが人間は時間を一番無駄にしている浪費しているのである

人生は何に時間を費やしたかで決まる

いくら天才でも一人の個人が知ることでも成すことでも限られている
それぞれの人生はみんな違っていてそれは何に時間を費やしたかで決まるのである
その人の才能や向き不向きがあっても仕事でも時間を費やしていれば会得するものがある
それで入社して10年でその将来も決まるというときその若い時の十年間で身につけたものが将来を決めるとなるからである
それで若い日に神を覚えよというときもそうである
若い時しか神を覚える、知る時がないということは今になると恐怖である
なぜなら若い時はたちまち過ぎるからである、享楽にうつつをぬかすのも普通である
そんなことに若いエネルぎー浪費していたら放蕩などしていたらとりかえしつかない
その貴重な時間が浪費されて返ってこなくなるからである




2019年10月10日

人間が相手を理解できないのは何故か? (男女差、世代差、職業、地域の差、家族の差、・・・・)


人間が相手を理解できないのは何故か?

(男女差、世代差、職業、地域の差、家族の差、・・・・)


●男女

●世代の差

●文系と理系

●職業の相違 

●宗教の相違

●育った家族環境

●育った地域の差  



●世代の差

人間はなぜ理解しえないのか?理解できない前提となるものが多様なのである
家族でもそうである、親と子も理解することがむずかしい
そこに世代の差がありむずかしくなる、世代が違うことは本当にむずかしくなる
それは明治生まれと大正生まれと戦前生まれと戦後生まれとかそこに大きな断絶がある
それは江戸時代に生まれたものと明治以降生まれた者は違った国に生まれほど変化したから理解するのがむずかしくなる

時代を見ればまず戦争を経験した世代としない世代は大きなギャップがある
戦争とは異常なことだから人を殺し合うということが理解できないのである
だから戦争のことをいくら聞かされても理解できないということがある
人間は経験しないとわからないことが多いからである

それでギブミチョコレートの世代は団塊の世代より5年前だとしても違っていた
団塊の世代は戦後生まれでありその時生まれたばかりだからそういうことをしていなのである、それはまた都会に住んでいる人が経験していたのかもしれない
アメリカの兵隊にチョコレートをねだっていたのである
その時日本には何も食べるものすらなくなっていたからそうなった
そういうふうにして育った人間はどうなるのか?
子供の時から乞食根性で育っていることアメリカ頼りになっている
鬼畜米英の戦争から正反対の社会で生きたことになるのである
戦後の人間はギブミチョコレートになった、ただ物質欲だけの人間である
アメリカに勝つまでは欲しがりませんからも全く正反対の環境で育ったとういことである

それから団塊の世代は高度成長を経験している、それが失われた時代が30年とかつづき経済が停滞してさらに悪化して日本が貧困化して後進国になるほどだというときも何なのだろうとなる
銀行に預ければ利子がつく時代は終わり銀行でもゆうちょでも金をあずけても利子はつかない、むしろ投資信託とかゆうちょでも保険をすすめられて金は奪われる時代である
そして銀行員はいらない、銀行は消えるというのも時代である

平成に生まれて育った人間は高度成長時代がどういうものだったかを理解できない
またその世代を理解できないとなるのだ、いつも不景気であり非正規のワーキングプア大量にいて上級国民と下級国民の格差社会の中で苦しんでいるだけだとなる
高度成長時代は団塊の世代を中心にして中産階級が大量に生まれた時代である
みんな給料でも毎年のように上がり上昇している経済である
所得倍増の時代でありその時の雰囲気は停滞して下降するだけの経済とは違うしその雰囲気も違っていた、ジャパンアズナンバーワンとかなって日本は凄いとなっていたのであるそれも20年くらいで終わってしまったのである

●職業の相違

そして一番理解しえなくなっているのは職業が違うと基本的に相手を理解できないのである、それはもともと大昔からあったことである、それで海彦山彦の物語が日本では生まれたのである、その職業が生業が違うから理解できなくなる
その差も大きいのである、遊牧民と農耕民は全く違った生活をしていたから理解しえないので戦争になったのである

そういうことは民俗学だと山で暮らす人が木地師とかいて木材を加工してお椀とか日用品を作っていたが神秘化されて伝説化されたのはそういう職業が理解できないから神秘化された、他にも農民からして理解できないものがあり神秘化される
産鉄族などでもそうである、鉄を作る職業というのは理解しにくいからである
今でも無数の職業があり今や隣は何する人ぞとなり田舎でも隣が何をして暮らしているのかわかりにくいのである、子供時代は狭い範囲で生活していたからほとんどわかっていた何をして暮らしていたかわかっていたのである
燃料は炭だし木材をとるキコリがいたり漆塗りの職人がいたり籠や笊を作る竹職人がいたりと身近でその仕事が見られてその仕事が子供でも目にしているからわかりやすいのである

現代は本当に職業がわかりにくいのである、それだけ文明が複雑に無数に部分化しているからである、まず株をしたとして今のグローバル株式市場などわかることは不可能である地銀だと何か地元の経済を発展させるために投資しているのかと見ていたがそういうグローバル経済の株とか投資信託に投資する、投資信託といっても外国人がかかわって株をもったりしているから自ずとグロ−バルになっている
そうするとグロ−バルに思考しなければならなくなりもうどうなっているのかわからないのである、だからギャンブルとなっている
そしてそこでもうけているのは金融を操作する極一部の数パーセントの人たちが世界の富を収奪しているともなっている

人間が理解できないというとき理系と文系がそもそも理解し得ない
この差も大きいのである、だから理系は文系を馬鹿にするというのもわかる
文系にすると理系の人間を理解しにくいのである
理系から見れば文系はどうしても馬鹿に見えるのである
私自身が文系だから理系の人の方が優秀だと見る、高等な数学とか化学式のことがわかるとなると理系は優れているとなる、だから文系の大学は廃止すべきだとなるのもわかる
文系の大学はそもそも遊びだったからである
でも高校野球しかでていない人は大学のことがわからないのである
そこにも互いに理解できないものが生まれる

人間はそもそも家族同士でも世代間の差があり男女の差があり互いに理解できないものとなる、それで男女の行き違いから離婚がもはや二人に一人とかなっているともなる
それだけ男女の差が大きいからそうなっているのである
その他に育った環境にしても家族構成がみんな違っている
どういう家族で育ったのかも違っている、兄弟の多い家族で育ったものと一人っ子とかで育ったものはまた違っている
長女とか長男とか妹と弟は不思議に性格がそれなりのものとして作られてゆくことも不思議である、だから男女でもどういう家族環境で育ったかで違ってくる

それから育った地域の差もある、暑い所と寒い所で育った人間は違っている
沖縄に云ったらなたは東北人だねとか何も話ししないのにわかったというのもそうである東北人には東北人独特の体臭のようなものまである、何か打ち解けないとかある
大阪人とか比べると余りにも違っているとなるからだ
そこでも人間は理解できなくなる、みんな住んでいる場所が違っているからである
そもそも海側に住んでいる人と山側に住んでいる人は感覚的に違ったものになる
地理の影響も差異も大きいのである 

●人間は経験しないことは理解できない

ただ人間は経験したことは理解できるのである、ただ一人の個人の経験は限られているから理解する範囲が狭いのである

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2019−10−10 SPA

きちんとした防寒具や手袋が支給されると思うけどそれでも寒い。極寒の環境で8時間以上作業をするのは超辛いです

手がかじかんで指の感覚が無くなります。寒すぎて気持ちが落ち込みます

 だから長期間続ける人が非常に少ないく、みんなすぐにバイトをやめてしまいます。

零下20度で8時間労働はもう生命の危険になる





こういうことは経験している、20代は底辺労働者だったから寝る所もないことがあったから理解できる

建築現場で4階から落ちそうになった、その時が一番危険だったとふりかえる
建築現場はそれだけ危険なのである
だから誰もやりたくない、日本人はやりたくないとさけて外国人にさせているのであるでも俺は高い所が平気だむしろ好きなんだとかいう鳶がいたのには驚いた
そんな人もいるのかとなる、そういう人間も理解できないとなる

一番厳しかったのは冷凍室のバイトである、これは本当に厳しい
零下20度になるとそれをつづけていたら病気になることは確かである
そういう仕事も社会にはあるということである、そういう場で働くのはやはり追い詰められた人たちかもしれない、そんなところで働きたくないからである
私自身は体力もないのにそういう所で働いていたのである
寝る場所もないような時もあったから喫茶店でいつまでもいたというのもそうである
だからこれは自分自身が経験したから理解できるとなっているのだ
まず冷凍室で働くの本当に危険である、体がどうにかなってしまう
おそらくシベリアとか零下の温度で暮らしている人ならかまわないのかともなる

結局自分の場合は20代は相当に苦しかった、それで20代で老化していたのである
でも不思議なのは30過ぎてから家に帰り仕事もしないで楽に過ごした
そのために体力が回復してきたのである
そうして30年とか長く生活していた、無職として家にいただけだった
後は旅行しているだけだった、登山などもしたが体力ないから辛くてやめたのである
一時死ぬほど疲れたからである

ただ言えることは人間若い時はあえて苦しんでおけというのは本当である
まず若い時楽して高い地位についたり大きな金が入ったりしたらうぬぼれるようになり危険である
でもそういう苦しみの生活が延々と40代とかまでつづくとなると耐えられないとなる
今はそれが問題なのである、いつまでたってもそういう底辺労働者として安定しない苦しむ生活になると別だとなる
私の場合は家族環境に特別恵まれていたから良かったのである
そういう底辺労働をやめることができたからである
あとは自由に生きていた、自分のしたいことをしていたのである
だからこういう一生も不思議だったなと今でもつくづく思う 
奇妙なのはそういうことでニートとか引きこもりと自分は共通の体験をしている
社会からはずれた人間として生きてきたからである
これもそういう生活をした人でないとまた理解できないとなる、私はそういうことで社会からはずれて生きることがどういうことか体験してきたからわかるとなるのも奇妙だがそうなる
普通に社会人生活した人はそういうことを理解できないとなるからだ 

●それぞれの性格の相違

私はそもそも学校でもそうだし団体生活になじめない性格だった
でもなんとか集団生活になじもうと大学でも体育系の部に入った、でも一年でやめた
それかからカルト教団に入ったのもそうである、何か集団になじもうとしていたのである
しかし後は集団とか組織は嫌い一人自由に生きてきたのである
ただここにも問題があった、自由に一人生きられるたとしてもそこには大きな問題があった、社会性が身につかなかったとかあり小人閑居して不善を成すとなったのである
だから一人で自由に生きられるとしてもこれも意外といいように見えても簡単にみんなできないと思った
それにも自由に生きる能力が必要になる、だから天才はニーチェのように社会から離脱して異常化したのである、ただ社会から離脱するとニーチェのように凡人でも成り安いのである、何か引きこもりとかでもおそらく自分が特別優秀だとしている人がいるからだ
仕事をしていないと何か不思議なのだけど自然に没入して自然のリズムに合わせていきるようになる、すると会社とか社畜として生きるのとは相当に違ったものとなる
それは異常化するにしてもそこで芸術とか詩とか作るにはいいと思った

私はもともと人と付き合うのが苦手であるから一人家に籠って沈黙していたのである
すると沈黙するということは自然に没入することなのである
山でも大地でも自然は沈黙しているからその自然の大きな沈黙の中に入ることになるからだ、だからニーチェがなぜあのようになったのか理解できるのである
それもやはり人間は経験しないとわからないのである
自分自身がニーチェのように状態にあったから理解できるのである
誰が一番沈黙したのかと言っているからだ
キリスト教徒になったとしても自分は集団が嫌だから教会に一回も行ったことがない
むしろその生活はニーチェのようにな生活だったのである
社会から離脱した生活をしていたのである、それも30年とか長かったのである
だから異常化していたとなる

ともかく人間は互いに家族すら理解できない、それは世代の差とか男女の差とか育った環境の差とかいろいろあるからそうなる、それで離婚が多いのもわかる
現代はもともと複雑多様な環境でみんな違ったものとして育っている
そして遠く離れた人と結婚するのが普通てある
するとますます育った地域が違うから理解しにくくなる
それで江戸時代は近くの人と村内とか結婚しているし職業も似た人と結婚している
職業でも大工の人は大工の家の人と結婚することが多かったからうまくいっていたのかともみる、それでも江戸時代にやはり離婚が今と同じように多かったのはなぜなのか?
それだけ結婚自体がいかにむずかしいか、理解しえないかを物語っているのである    

では人間はみんな理解できないのか?例えば愛というとき母の愛とか恋愛とか同情とかいろいろある
そいういうものは通じる、でも宗教が違うとこの人はイスラム教だ、キリスト教だとかなりそこに差別が生まれる
そして苦しんでいる時でも助けないとなる、キリスト教徒でもキリスト教でないのものは人間でないとまでか南米ではなった
そういう宗教の差別が厳しいかそうなった、それで血で血を争うにようなったからフランス革命が起きた
そこでは宗教を否定して人権でありヒューマニズムで平等を目指したのである
つまり人間はこうして互いにいろいろな差があって理解することがむずかしいから争いが絶えないのである
いづれにしろ人間から争いがなくなることはない、それは家族自体でも争っているからである
自然は調和しているからそこに平和と美がある、それは神の国を現している
でもそこに住んでいる人間には調和がないのである








2019年10月08日

人の運命を決めるのはその人自身ではない? (事業失敗のカルマ―家のカルマの謎)


人の運命を決めるのはその人自身ではない?

(事業失敗のカルマ―家のカルマの謎)

カルマというとき謎である、運命も謎である、ただその人の運命は誰が決めるのか?
その人自身が決めるのか?また決められるのか?
個々人でも国家という集団の運命は誰が決めるのか?
織田信長は織田信長一人の力で英雄になったのか?
これも不可解なのである、桶狭間の戦いでも信長が奇跡のように勝ったのはなぜなのだろうとなる
駿河の戦国大名である今川義元に奢りがあったことである
圧倒的に兵力が違っていた、その数で奢りになり警戒を怠った
酒を飲まされて兵が泥酔していたところを襲われた
人間はなんでも奢るさとが危険になる

そこには天候が深く関係していた、関ケ原でも霧になりそれが勝敗に関係していた
モンゴル軍が日本に攻めてきて敗れたのも台風が来て沈んだからである
奇妙なのは台風が来てラグビーでスコットランド戦が中止になり引き分けになるからルールでは日本が決勝戦グループに入れると言っている
これも神風だというとき天候が勝敗に関係していると思った

なぜギリシャの神話の時代では戦争は神々の戦争であり神々がそれぞれの国や人を応援していた、神々が戦っていたのである
それは戦争でも何か神々が関与して勝敗が決まるとか見たからだろう
人智を越えたものが戦争にも天候のようにかかわるからそう見た

戦争でも勝敗は一つの原因ではない、複合的な因子があって勝敗を決める
カルマというのはその個人にあるにしても家のカルマとかその地域のカルマとか国のカルマがありその方がカルマとして強く働くのかもしれない
そのカルマには個人で抗うことができないものだからである

だからこそ家のカルマは怖いのである、結婚することはその家のカルマを受けることになるからだ

なぜその人はその女性と結婚したのか?

その女性の家は親が若い時から身体障害者となるような病気だった
それで妻はその夫を生涯世話する立場になってしまった

それもカルマなのかどうかはわからない、でも過酷な現実は逃れようがない
その夫婦から生まれた娘は結婚した
その結婚した相手は実は収入もいい恵まれた相手だったのである

ではなぜその結婚した相手が事業を始めたのか?

これも謎ではある、なぜなら収入がいいのだからその会社にいた方が良かったのだがあえて事業を始めたからである
それはその人は人のとれない資格をもっていて優秀だとされてほめられうらやましがられていたからである

そういうことで自身があり事業を始めれば成功するとその人は確信していたのかもしれない、ただ技術者であったが経営は全く違った才能を必要とされていたのである
そこでつまづいて事業に失敗して借金となってしまった

ただこの辺の事情は良くからないがここで私が問題にするのは

なぜその人は事業をはじめたのか?

それはその人自身が事業をはじめたのではない、その人はある力によって事業をしろとなりはじめたのではないか?
つまりギリシャの神話で戦争するのは神々が強いた神々が戦争をしていたようにである

それは事業をさせて失敗させるためにその人に事業をさせたともなる

だから戦争でもなぜ日本が戦争を起こしたのか?

それはいろいろ言われるが今になると不可解になる
アメリカによって戦争が強いられたのだという経済封鎖されて石油もなくなり追い詰められて戦争になったという理由もわかる
でも何かもう一つ理解しかねるのである

すると戦争を起こさせたのは日本という国自身ではなく神なのかとまでなる
でも負ける戦争をなぜ強いたのか?
ただその戦争がただ無謀だったとは思えないのである
そして勝敗だけにこだわれば日本が負けたのは日本に味方する神が負けたからだともなる日本の神とされた天皇は私は神ではないとして戦後は象徴天皇となったのである

不可解なのは個々人でもそうだが何か神の関与があり運命を決めているのかとなる
すると運命はあらかじめ決められていて変えられないとなる

だから恵まれた環境にある人がなぜあえて事業をはじめたのか、決めたのか?

それが謎なのだけどその人がただ操られて事業をしたわけではない
自らの意志でそうしたのである
人間にはそもそも自由意志があるから自分で決めることができる
これをしていけないと言っても自由意志があるからできる
それを神の力でも抑えることはできないのである
日本が戦争を起こしたのは日本の国民でも戦争しようとした意志が働いたからだとなる
それは上からの命令だけではない、国民の意志が働いたからだとなる

ただ事業を起こして失敗した人をみると何かもともとその人は失敗することに追いやる運命の力があったのかとなる

「あいつは何か傲慢だ、うぬぼれている、みんなから頭がいいとほめられている
それで事業するように自ずからなる、またそうさせる、そして失敗させてうぬぼれを打ち砕く」

そしてその家のカルマが働いた、事業を失敗するカルマをもともともっていたとなる
ただ事業に神がかかわるとかあるのか?これも謎ではある
ただその家のカルマがあり成功させなかったのかとなる
成功していたら相当にうぬぼれてたものになったからである

人間で怖いのは何かで才能でもなんでもうぬぼれる、奢りになることなのである

日本が戦争で負けたのにも奢りがなかったか?

日本はアメリカの強大さを知らなかった、情報が入らなかった
知っていた軍部の指導者はいた、だから山本五十六だったかアメリカとは戦争したくないと言っていたのである
今でも外国を知らない人がいる、でも現代は情報社会でありグロ−バル社会だからそういう偏狭なものにはならないから日本が起こした戦争のようなことは起きないとも思う

人間の奢りは実際は相当に怖いものである、奢れるもの久しからずとか言われてきたのはそのためである、奢ることは滅びに通じているのである
日本が戦争をしたとき奢りがあったことは間違えない、それは原発事故でもそうだった
日本の技術は優秀だから事故が起きない「安全神話」が作られた
それも日本が神の国だから戦争に負けないという奢りになっていたのである
宗教もカルト的になるとそうなるのである
神の国だ仏の国だとなり常勝なんとかとなり奢るようになる
宗教は今やほとんどカルトである、集団化したのはカルトである
そこにまた異常なうぬぼれ、奢りが生まれてくる
仏が味方しているから勝つとか戦争にも勝つとか選挙に勝つとなってしまうからである
そういう過ちを犯さないために政教分離が法律化したが守られていないのである

とにかくカルマというときその家々のカルマが必ずある
その家の家風とかもある、そこには悪い家風もある、そしてその悪い家風に染まるから結婚は怖いのである
昔は家と家の結婚となっていたのはその人を選ぶより家を選んでいたのである
今は人を選ぶからかえってその家のカルマを受けやすいのである
もちろんいいカルマもあるからすべて悪いとはならない、でもカルマとは悪い方に働くのが多いのである

事業を起こすことを問題にしたのは何か事業というのは戦争ともにているのである
戦争も事業だし国家でも経営することだから国家の指導者は経営者になっているのである経営の失敗が戦争の敗北だったとなるからだ
事業を起こすことは20人に1人しか成功していないとかまれなのである
そこには運があったりもする、いくら優秀でも成功するとは限らないのである
だから運命を支配する者が神でありその作用で人間の運命は決まるともなる
人間の運命を決めるのは人間ではできないというとき神が決めるというとき謙虚になる

原発でも科学技術というのは人間が作り出したものであり神が作ったものではないから万全ではないのである、だから事故が起きてとりかえしのつかないことになったのである
つまり人間の奢りが打ち砕かれたのである
そこに神官のようにあった科学技術者も無能化されたのである
その被害があまりにも大きいのでその人たちは高きものだったか卑いものとされたのである、もはや恨まれる者ともなったのである

何か他人の家のカルマと言っているが私自身の家族にもカルマがあった
姉は優秀な女性だった、体力もあり度胸もあり男まさりでありそれで感心していた
でも最後に認知症になり馬鹿になったときほど驚いたことはない
それも不可解でありなぜなのだろうとなった
人間が無能化される、馬鹿になるという驚きである
銀行から金すら下せなくなったからだ
そして(俺は優秀だ)と最後に言って死んだのである
それはニーチェが私は神だと言って死んだのとにている
ただ認知症は今や老人病でありみんながなる
でも人間が無能化される恐怖が認知症にあるのだ

優秀な人→無能化

こういうことが人間に起きる、原発事故で原発で働いていた人たちは科学者でも選ばれた優秀な人たちだったのである
でも事故になり無能化されたのである
人間は万能ではないからそういうことが起きてくる
つまり原発を操作する核を操作する能力が人間にはないからそうなったのである
そして人間が作りあげた文明自体が崩壊してゆく
この辺で起きたことは文明崩壊現象だったのである
なぜなら放射能汚染で住めなくなるということがそれを証明したのである
これは人類の未来を暗示しているのかもしれない
文明は崩壊して自壊して人が住めなくなる、それも人間の奢りからそうなったのかともみるのである

2019年09月25日

人間は出会う人が大事(出会いが決める運命と損得)


人間は出会う人が大事(出会いが決める運命と損得)

人間はつくづく出会いが決める、大学でカルト教団に自分が入ったのもたまたまゼミにいた人がその教団に入っていたからだった
それが最大の理由だったのである
その人と出会わなければ入ることもなかった、ただそれがすべて悪いとはなっていない
なぜなら大学は遊びの場所でありそこでただ遊ぶだけで終っていたかもしれないからだ

最近の自分の苦難を書いてきた、それも出会いが悪かったからだ
前から付き合っていた人が悪かった、事業に失敗して借金していたとかで余裕がなく借金に追われていた、そういう人は自分のことで精一杯であり他者を助ける余裕がない
自分から金をとることしか考えないようになっていた

後に家の手伝いに一時来ていた人は泥棒だった、そこで大金を失った
これもそもそもそういう人と出会ったことでそうなったのである

他に地銀の人が来たがこれもリーマンショックのとき半額になった株が元にもどり上がり調子のとき別な投資信託に株を売ってまわした
結果的に損した、その地銀の人は全く株のことを知らないのに知っている言っていた
私もプロだと思いまかせた
そして自分には株でも何でもそういう投資のことがわからないし時間もないからまかせたのである
地銀の営業の人の頭にあるのはノルマを果たすことだけであり地銀自体が今や余裕がないから客をもうけさせることなどできない、今は客から金をいかにして巻き上げるしかないのである、それはゆうちょでも同じだったのである
時代が変わってそうなっていたのである

なぜ人間はこうして出会いが運命まで決めてしまうのか?
そもそも犯罪に逢うということはそうした犯罪者と出会うからそうなる
犯罪者がそんなに多い訳ではない、でもそこでたまたま出会うことが最悪だったなるのである

大工さんに修理を頼んだが実際は直っていなかった、でも金ばかりとられたというのもそうである、出会いが悪いとなんでも悪い結果になる
病気でもいい医者と悪い医者がいる、いい医者に出会いは病気も直るが下手な医者にかかると病気は悪くなり早く死ぬこにもなるからどういう医者と出会うかが問題になる
でも田舎では医者は限られているから選ぶことはなかなかできないから損になる
それは教育でもそうである、いい先生に出会えばいいが悪い先生に出会いえば影響が大きいのである 

そもそも人間の運命はどんな母親から生まれてどういう家族で育つのか決められている
それも出会いであり出会いは運命だともなる
結婚だって出会う人によって決まる、どういう人と出会い結婚するかで運命が決まる
そして人間は出会うという時、意外と出会う人は限られている
そしてその限られた人の出会いで運命も決まる

良かったのは仙台から来た優創建というユニットバスの会社だった
百万で作ってくれた、地元だとガス会社では200百万かかると言われたからだ
知っている人に頼むとその人はプロではないから300万かかったのである
その会社は良心的であり仙台から来たとしてもそれだけ安くできたのである

人間の運命を決めるのはいろいろある、でも出会う人に左右されるというのも確かである住んでいる場所でもそうである、どうしてもこの辺だと医者自体が少ないのだから都会のように医者を選ぶことができないからいい医者と会えないのである
そういうハンディキャップが田舎にはある
金融機関でも都会のようにいろいろないか相談もできないのである

とにかく人間はどういう人と出会うかが大事になる
出会う人によって運命が決まってしまうことがある
人間の運命を決める要素はいろいろある

●住んでいる場所(故郷)

●生きる時代

●出会う人

この三つが運命を決める、住んでいる生まれた場所の影響が本当に大きい、田舎と東京に生れ育つ人では環境が違い過ぎる、そこにはいい面と悪い面がある
ただ自分は田舎向きであり老人になったら今では人ごみが嫌になり仙台にすら一年に一回とかしか行っていない、老人になるとどうしても田舎がいいとなる、それはその人の性向にもよる

また出会いというというときどんな本に出会い読むかということも大事である
本も人との出会いとにているからである
でも田舎だと本自体が売っていなかった、この差が大きかったのである
仙台まで行かないと専門書も売っていない、売っているのは売れる本だった
「冠婚葬祭」とかの本が百万部売れていた時代である
ベストセラーになった時代である、それはそういう本しか田舎には置いていなかったのである、でも本というのは莫大な量があったのである
それが読めなかったことは相当なハンディキャップを背負わされていたのである
今は古本が安いので集めている、すると知見が拡大してゆくのである
インタ−ネットでも論文が読めるとかなり知識が田舎でも得られるのである

なぜ出会いが大事かというとどこでもそうだろう、会社でもいい上司に逢うのとそうでないとなると苦痛になりやめたりする、でもいい上司に逢えば仕事もはかどるとなる
つまり秀吉でも信長に出会わなければ出世はできなかった
信長が優秀だったから秀吉も才能を活かせたとなる
才能だってそうなのである、それを認める人がいないと伸びないのである

今になっても自分がこんなに俳句とか短歌を作っているけど30過ぎてもいいものが作れなかったし才能がないとされていたからだ
だから才能でもそれを認め伸ばしてくれる人がないなと活かされないのである
それも人の出会いによることが多いともなる

第一出会いが大事だという時そもそも親と出会うということが運命を決めているのである親が悪いとどうしても初めから相当なハンディキャップ負うことになるからだ
私の場合は親が良かったからこうして自由に生きられたとなるからだ
才能も伸ばせたとなるからだ

だから出会いというとき良縁と悪縁がある、それは結婚でもそうである、その縁がいかに影響するか、良縁になればいいが悪縁になると悲惨になる
そして人間の不思議は良縁があっても悪縁を選ぶことが普通にある
良縁があってもそれを切るのが人間なのである

例えば天国があるとする、悪人はそこにはいられなくなり自ら進んで地獄に行くのであるそういう天国にはいられないのである、悪のある場所が住みやすいからそうなっている
だからこの世は悪人にとっては住みやすい場所なのである
天国となるととても住めない、自らこの世に帰りたいとかなる
良縁を切ると悪縁が入ってくるというのもそうである
むしろ悪縁をその人自ら選んでいるのである

結局最後は結果論でありもういろいろ言っても過去は返ってこない、こうすればよかったとかあうすれば良かったとかいってもどうにもならない、すべて結果は老人になれば出てしまったからである、後は死ぬだけだとなってしまったからである
ただこれからの人はこうして生きた人のことを参考すにすべきだとなる
40才になったら何もできない、人生も終わりだと嘆く人もいる
それだけ時間は過ぎるのが早いし出会う人も極限られている、後は「さよならだけが人生だ」となってしまうのである

「若き日に神を覚えよ」というとき若い時を神を知らなければ出会わなければ後は出会うことができないともなる、これも厳粛なことだと思った
若い時はいろいろなことに目を奪われるがそうしているとたちまち青春は過ぎるのであるそして浦島太郎のように白髪の老人になって時は戻ってこないのである
後は死があるだけだとなってしまうのである
玉手箱を開けたら夢のように煙となってすべては消えたとなる
そしてただ茫然としているだけになる、人間はみんなそういう繰り返しだったのである
そういう人間の本質は技術がいかに変わっても変わらないのである
だから諺を今でも活きている、「金の切れ目は縁の切れ目」というのも過去にもあり今はこれが極端になっていることでもわかる
そういうことは時代が変わっても変わらないのである
それは人間の欲とかがなくなるわけではない、いかに人工頭脳が優秀になっても変わらないのである、人間の欲がなくなることはないからである
それで諺が依然として通用していることでもわかるのである




2019年08月23日

「悲しむ者は幸いなり」母は悲しむ人だった (石の涙(詩)−家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」)


「悲しむ者は幸いなり」母は悲しむ人だった

(石の涙(詩)−家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」)


家を建てる者たちが捨てた石。それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ』

家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった
(マタイ21:44)

イザヤ書28章・・・・・・尊い隅の石
「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、固く据えられた礎の、尊い隅の石だ。7」28:16
 
 石の涙 

石が涙を流す
じっと耐えていた
石から涙が流れる
私の中にその石をかかえている
それは死んだ私の母だった
苦労して生きた母だった
目立たぬ母だった
私の中にその母が生きている
百歳まで生きた母だった
人は死んで何を残すのか?
その人生を残す
骨や灰にその人はない
その生きた人生にその人がある
その生はまた誰かの生となる
その人生があなたの力となる
死者は生者の中に生き続ける
死者はあなたを見ている
かくて人はその生をおろそかにできない
人生はあなただけのものではない
必ず周りに後の人に影響する
カルマともなる
あなたは今苦しい
あなたは今悲しい
でも耐えねばならない
ああ 石は涙を流す
しかしその涙は真珠ともなる
「悲しむ者は幸いである」
汝は生きねばならぬ
耐えねばならぬ
苦しみ悲しみ生きた者がいる
その死者があなたを見ている
あなたの生は人生はあなただけのものではない
後の世の人にも影響する
隅の石が後の世の柱となる人生
そして死者はあなたをじっと見ている
安易な生をおくるなかれ
その生はむなしく消える
あなたは恨んではいけない
苦しみと悲しみに生きる生
石の涙を流す人生
その涙が真珠となる人生
そしてあなたは死んでも同じように生き続ける


これは試みを経た石、固く据えられた礎の、尊い隅の石だ

試みを経た石とは人生を悲しみ苦しみ生きた人のことだろう、この世とは楽しむ場所ではなく苦しむ悲しむ場所なのである
だから「悲しむ者は幸いである」という意味を理解できないのである
どうして悲しむ者が幸いなのか?誰もこういうことを望んでいないのである
それは別にキリスト教徒でなくても人生は不可解である、ただ人間は必ずこの世ではいろいろなことで苦しみ悲しむ者としてある
そういうことがさけられないのである
私は楽しみ笑い暮らして人生を終えた、何の苦しみもない悲しみもないという人生があったならどうだろうか?
そういう人生を望むし誰も苦しみ悲しむ人生を送りたくないのである
貧乏な人生だって送りたくないのである

でもこの謎は尊い隅の石だということにある、中心の石ではない、目立つ石ではない、忘れられた石でもある
それがなぜ柱の石となるのか?
つまりこの世では中心となるのは偉い人達であり地位ある人達だと思っている
この世を動かしているのは決して隅の石ではないのである
ところがこの世は実際は大勢の庶民から平民から成り立っている
一部の人ではない、そういう庶民がいてこの社会がありうるのである
だからこそその隅の石が尊い石だとなる、でも現実に常に上級国民がいて下級国民がいて下級国民はただ虐げられるだけだとして不満が大きくなっている。 

高きものが卑(ひく)くされ、卑(ひく)き者が高くされる

これも原発事故であった、「安全神話」を作ったのはみんな高き人たちだったのである
政治家から官僚から科学者から学者からマスコミとか現代社会で権力をもつ人たちだったのである、高級国民だったのである、それが事故でその権威を喪失して卑いものとされたのである、だからこの言葉が現実化したのである

しかしこの世を社会を支えているのは隅の石であり目立たないものでありそれなくして社会はありえないのである
医者がいたとして医者は優遇されているとなるがその下に看護師がいて医者でもありうる
医者だけでは何もできないのである、すると隅の石とは看護師になる
隅の石となって働く人々がいて病院でも成り立つ、病院で掃除する人でもそうである、医者が高級な仕事としてあり掃除などは下級の仕事だとなる、でもやはり病院を支えていることには変わりないのである

明らかなことは経営者とかなるとそうしてただ上に立ち威張るだけではできない、その人は事業を起こしても経営者になっても他者のために物一つを持ちたくない人だったのである
ただ上に立ち威張っていたいだけだった、他者のためにするというより他者より上に立つ優秀なものとして見せたいために事業を起こしたとなる、技術者でもそのこと自体に動機に問題があった
原発事故でもおかしなのは原発が爆発したとき技術者が心配していたのは原子炉でありそこに生活していた人たちではなかった
その時率先してすべきことはそこに住んでいる人たちの安全をすみやかに計ることだったのである
でもそこに住んでいる人たちのことは眼中になかったのである

この世を支える者は隅の石だ

悲しむ者は幸いである

この言葉は理解しにくい、なぜならみんなそんなこと望んでいないからである、ただそういう例が死んだ私の母には言える
それでも母が理想的な人だったかとなるとそうではなかった
苦しみ悲しむ人だったが庭が無駄だと花が無駄だとか一切金にならないものは否定していたのである、そういう生い立ちがありそうなったともなる
働かされつづけていたからである、何か余裕があることをできなかったからである
趣味なども一切ない人だったからである
それも異常化していた、そういう親のもとで育ったらどうなるのか?
この世の美とは関係ない索漠なものとなっていた、だからどうしても苦しみ悲しむだけの人生が肯定できないのである
確実に楽しみ笑う人生も不可欠なのである、もし毎日苦しみと悲しみの人生だったらもう地獄になる
快楽しろというのではない、なんらか健全な楽しみがなかったら人生は息詰まるようなものになる
飲めや歌いやではない、苦しみ悲しむばかりの人生は肯定できないのである 

ただもし苦しみ悲しむこともなければ人間は浅薄になる、だから必ず苦しみと悲しみは人間には必要なのである
だから悲しむことが私にはなかったという人がいたらその人は人生をについて人間について何も知らず終わるとなってしまうのであるそしたらどんな宗教でも理解することは不可能だとなる
飲めや歌いやで何の苦しみ悲しみもない人生だったらそれはかえってむなしく消える
家族でも何か苦しみがあり協力するとき家族になる、それは血縁だからともならない
家族の結びつきは夫婦でもそうして苦しい時があり結ばれ真の家族となる
もしそれがないと家族でも強く結ばれない、夫婦でもそうである、それは家族だけではない、何か苦難があった時、そこで協力したとき強い結びつきが生まれる、だから津波や原発事故でもそうである
苦難がありそこで協力して立ち向かう、そこに強い結びつきが生まれる
でも現実はばらばらになって結びつきが破壊されたともなる
こんなところには住みたくない、補償金をもらって楽した方がいいとなったのが大半でありゴートタウン化したのである
結局自分でもそうだが口では言うのは楽でも現実になるとそれだけ厳しいということなのである

夜のふけて虫の音聴きぬ隅の石