2024年02月20日

カルト宗教の偽善の悪質−カトリックが免罪符を売ったのと似ている (創価と共産党の類似)


カルト宗教の偽善の悪質−カトリックが免罪符を売ったのと似ている

(創価と共産党の類似)

人々は法王の代理人から直接強奪されているという感じに加えて教会に関係するものは何でも貨幣の音がする

法王のの鉢に金を入れれば法王はその罪を赦す天と地の力を持っておられる。もし法王は許してくれるなら神様も許してくれなくちゃならない道理
金がチャリンとなれば払ってもらった魂はまっすぐ天へ昇ってゆく(愚行の世界史ーバーバラタックマン)   

●免罪符を売ったカトリックの堕落
  
カトリックの堕落は頂点に達していた。何かヨーロッパの歴史はわかりにくい。あれだけの教会があるのだからキリストの信仰を基にして社会があると見る。でも日本だってどこにでも寺がありそれで仏教は盛んなのかと見る。でも仏教などでも既に死んでいる形骸化している。この辺でもミャンマーの人が来ていて寺があるのでそこに集まっていた。それはミャンマーで熱い仏教信仰があるから日本でもそういう場所だと思って集まったのかもしれない。
でも実際日本の寺などはただ死者を祀る場所であり何か仏教を教える場所でもない。だからヨーロッパであれほど教会があるとしてもそれがそれでキリスト教は盛んであるということにもならない。むしろ現代でわ教会に行く人が相当に減っている。カトリックはその堕落があまりにもひどいものだったのである。だからそれに反抗してルターが激しくローマ教皇に対して抗議したのである。そしてプロテスタントが生まれキリスト教会は二分されたのである。

ヨーロッパのキリスト教の場合社会の中枢に入って土地を持ったり財産を持ったり政治化した。。そこはこの世の権力をもつ場所となった。そしてなぜ宗教が権力を持つようになったのか。それは免罪符を売るという極端なものとして堕落したのである。それは宗教関係者またはカルト教団でも同じである。カトリックが堕落したように同じことはカルト教団に言える。

ただ違うのはカトリックといえば千年以上の歴史があり日本の仏教とかは違っている。その千年以上の間にカトリックは協会は社会の中心となって存在しつづけたのである。カルト教団には戦後竹の子のようにでてきたがそうした長い歴史はない。だから一時的なものとして泡沫的なものとして消えるのである。

●カルト教団は宗教を現世の欲望を実現するために利用する

そもそもはカルト教団となればその最初から宗教となっていても宗教的要素ががない。宗教はあくまでも隠れ蓑であり宗教を追求しているわけではない。ただ看板が宗教にしているからそれで騙されるのである。共通しているのは御利益宗教だということである。
とにかく御利益があればあとは何も無くて何も言わない鯉俊だとか悔い改めるとかそんなことは一切言わない。そこで言われることは御利益でありすべてが御利益に始まり御利益に終わる。創価などは極端であり権力奪取を目的としている。御利益を具体的に得る為に御利益を配分するためにそうなる。このことは大衆にとってわかりやすいからあれだけの会員が増えたのである。それは誰でも理解するからである。

教会(カルト教団)に関係するものは何でも貨幣の音がする

まさにこれである。御利益とかねのことだからである。

例えばその人はあらゆることにあからさまに主張して求めている。その欲でも金のことでも女のことでもなんでも何でも得ることであからさまなのである。職人でもあるの一方でそうしてあからさまに金になればいいとしてそれを恥じることもない。でも一面から見ればその人は偽ることもないし正直だと思う。いいとは言わないけどその欲望でも否定しないしあからさまに言うのである。

でも実際はカルト教団などでもその欲望を達成するために宗教を利用しているのである。カトリックは堕落したのはまさに宗教を求めていたのだがそれはこの世の物に魅せられて自分たちの欲望を叶えるために信者から金を取るようになったのである。
それが悪質なのは地獄に落ちるとか罰当たるとかいいそれからそれから逃れたいなら免罪符を売る商売にしたことである。そういうことはカルト教団でも普通に行われている。何かというと地獄に落ちるとか罰当たりひどい目にあうとかそういうことはカトリックの堕落と似ていたともなる。

●食い詰めてにわか僧になったホームレス

それはテレビドラマだが表面上は形は僧になっているが実際は稼ぐ力もなく食い詰めていって僧にになり施しをしてもらう。その僧はただ普通の人であり女性に対しても欲をむきだしにしている。その人は別に本当は乞食なのだが経文を唱えることによってありがたいと思わせて施ししてもらう。カルト教団でも四国の遍路でホームレスになった人はにわか僧になったのと似ている。
わいそうなので金をやると言ったらお経を唱え始めたのである。私は恵んでもらう乞食ではない。お経を唱えてやるからありがたく思い私を尊敬しなさいとなっていた。

その人はそんな仏教と何の関係もない人だったのである。ただ四国遍路をしていて経文を覚えた。そいう場所だからまねてそうなった。恵んでもらえるとことを知ってそうなったのである。だからカルト教団というのもこれと似ている。
なぜならそこで金になるし寄付金が入ってくるからそれで生活しようとする人がいるからである。そもそもその人たちは御利益しかも求めていない。自分自身のまたは家族の御利益を求めて信仰しているとなる。小言う人は人はまさにこの世から現世利益として具体的に権力を得て金も得ることになるからである   

そこに宗教など一切関係ないのである。そもそも宗教など求めていないからである。ただ御利益だけを求めているのであり権力を求めているのである。だからこそ会員に対しては何か心を清めるとか修行しろとかそんなことは一切言わない。
また人がどんな人でも選ばない。数は集まればそれは民主主義社会では権力化して行くからである。結局ハイルヒトラーとなりナチス化して行くのである。そもそもなぜそうして一介のあくどい人間が人に対し他人に対して地獄におちるとか罰当たるとかいうのは言うことができるのか?その事が一番罰当たりになっている。

その人は死後裁かれて地獄に行くのである。それは確実である。その罪の方こそが恐れるべきであるがその人自身恐れもしないし他者に対して地獄に落ちるとか罰当たるとかいうのが信じられないとなる。その人を見ればわかる。一体その人がそんなことを言う資格があるのかとなる。その人自身が真っ先に地獄に行くような人が他者に対してそんなことが言えるのかとなる。ただそういうのは会員として一票を入れさせるるために止めるためにそうしているだけなのである  
  
自ら親鸞のように私は地獄に行く人間であり地獄が一場の住処であり私は罪深い人間であるという人が本当の宗教家なのである。それを他者に対して地獄に落ちるとか罰当たるとか常に言っている人はどういう人なのか?
あなた自身は地獄に堕ちる人間なのである。その宗教を利用して現世利益を得て権力を得てこの世の王となる支配者になるということを目的としている。それが信じられないとなる。カトリックの堕落はあまりにもあからさまだった。それと同じことがカルト教団にある。だからなぜそれが宗教として認められ税金も免除されているのか分からないとなる。

●不遇なのは恵まれないのはすべて社会のせいなのか?

ただ底辺層は頼るものがなくカルト教団である共産党であれなんでも頼るのである。だから市営住宅とかに住んでいる場所で必ずそうかと共産党は二つに別れて支持者になっているのである。何か似ているのは自分たちが不遇なのは貧乏なのは社会のせいだとしていることで共通している。
だから社会を変えねばならないそうすればご利益を得られるとするのである。ただ貧乏であるとか病気であれば同情することはある。でもすべてが社会のせいなのかとなると問題である。障害者を抱えることは不遇である。
でもその障害者を持つということは社会のせいでもないのである。またその容姿が悪いとかでもそれは社会のせいでもないのである。でもすべてが社会のせいにしているということで創価と共産党は似ているのかもしれない。一見相入れないもののようで社会の最底辺層は頼るということでは似ているのである。

それよりそうなっているのは親の因果が子に報いという方が多いかもしれない。どうしても親からの遺伝がありそれが不幸をもたらしている。それは社会のせいではないのである。私は美人に生まれなかったから社会のせいだとはならない。何かしら以前によってその人の幸福もある。
何か自分の場合は蓄膿症で2回も手術したから頭が冴えない。今でも何かそれは治っていない。鼻腔が狭いからそもそもそうなっているのである。何かこの遺伝というのは宿命であり一生つきまとう。それは治ることもないのである。私はやっと三流でも文系の大学に入ったのである。 60以上になるとそうした遺伝的なものがあり必ずまた病気になってくるのである。
それは社会のせいではないのである。でもこれがこれは親のせいであり社会のせいではないのである。それで社会のせいにして社会に恨みを持つということはできない。でも創価と共産党の共通点は何かそういうふうなことでも社会のせいにするということがある。もちろん社会の不平等ということはあるしそれを是正することは必要である。でもすべてを社会のせいにはできないのである

いずれにしろ親の因果が子に報いまたは遺伝的なもの病気などでもそういうとがある。それは社会を変えてもその遺伝的なものを変えることはできないだろう。いくら仏教で宿命転換だからといって変えることはできない。私が蓄膿症の手術を高校の時2回している。やはり老人になっても直らない、そもそもは鼻腔が狭いのだからそれが治しようがなかったということである。
そして何ら必ずそうして遺伝として病気になるのは人間の宿命なのである。頭の良し悪しとかも遺伝と関係している。ただ人間は環境も大事であり環境の作用によって良くも悪くもなるのである。

●カルト教団と共産党は熾烈な内部の序列争いがあり似ている

人間は不完全でありどこか足りないしどこか不具合がありそうした遺伝的なものは一生背負っていくほかない。そのカルマが消滅するのは死ぬほかないともなってしまう。生きている限りそのカルマに苦しみ苦しめられるということにもなる。それは変えられないからどうしようもない。ただそういう弱みにつけ込んでカルト教団などは会員にして免罪符を売ったように商売にする。また共産党などにしてもやはりそうした底辺層支持者にして自分たちの勢力を拡大して権力を持とうとしているのである。

あくまでもその個人に同情するということでもなくやはり勢力を拡大して権力を得たいということがある。ただ純粋に自分の利益を求めずに同情して何か与えるならそれは責められることはないと思う。
でも実際はそんな人は居ない。そういう底辺層を集めて一票でもなればそれは勢力を拡大することになる。仏教でも御利益があるとしてそうしているのである。要するに自分たちの御利益になるからそうしているのである。そういう人たちに同情するというわけでもない。むしろ幹部とかはそういう人たちを利用して勢力を拡大して権力を得ようとしているだけなのである。

御利益が得られる権力が得られる欲望が達成できるそのために異常な熱気となっている。では創価などは本当に革命になりその信者が社会の高い地位につくと本気で信じて運動していたのである。それは中国の共産主義でもロシアの共産主義でも同じだったのである。その結果として独裁者が生まれそれに反対するものは粛清されてその殺された数も膨大なのである。そして宗教団体になると反対するものやめるもの地獄に落ちるとかバチ当たるとか言って会員にして奴隷として引き留めようとしているのである
だから意外と創価と共産党にているのである。団体化して組織化して序列化しているのも似ている。

オウムではサリンをまいた大学を出ていない人は組織で上にあがるためにあえてサリンをまいたとしていると言っていた。組織内で序列がありそのためにそこまでしたのである。組織内でも必ずその権力をめぐって争いがある
これは創価であれ幸福の科学であれ人間の組織となるとそこで熾烈な序列争いが起きている。共産党でも同じである。それが人間の業(カルマ)だとなる。俺の方がお前より上だとなり争う、下僕になりなさいと弟子の足を洗ったキリストとは大違いである。足を洗わせたい方なのである。
つまり人間は自分が優れている自分が上だとして争っている。花ならそれぞれ違った色であり調和する。争うことないのである。

何か人間社会にはそうして時代が違っても同じこと繰り返す、それは人間が持っている業(カルマ)がありそうなる。それはいくら科学技術が発達しても社会制度を変えてもなくならないのである。社会の問題ではなく人間自身に内在している業(カルマ)がありなくならないとなる。だから共産主義であれ社会を変えても人間そのものの持っている業(カルマ)が消えないのだから変えようがないとなる。社会をいくら変えようとしても人間そのものが変えられないから変えようがないのである。







                                                                   

2024年02月19日

戦後民主主義の問題 【権利ばかり主張して責任とか義務がないがしろにされた】


戦後民主主義の問題

【権利ばかり主張して責任とか義務がないがしろにされた】

●原発事故の責任問題

戦後民主主義の問題として一番欠落したのは確かに権利を主張することは肯定された。でも問題はその権利にを主張するのはいいとしてもそれには必ず責任と義務があった。それがないがしろにされたのである。なぜか人間というのは責任から逃れられない。何であれ責任がつきまといその責任が問われ現実に責任をとらされるのである。
この辺で起きた原発事故はまさにその具体的な例である。そのことを私は追求してきた。その責任は故郷に人が住めなくなるほどの大きな災禍をもたらしたからである。その責任が誰にあったのかということを追求して追求した。
そうなるとその責任の範囲は広く国民全体であり政治家でも官僚でも科学者でももちろん東電でも地元の人でも責任があった。その濃淡はあるにしても責任はあった。ただ責任にしても現実に責任を取らされたのは地元の人たちである。故郷に自分の住んでいる場所に進めなくなったことが最大の責任を取らされたのである。

でも原発を推進した人たち政府や官僚の科学者でも東電の幹部でもその責任はとっていない。天下りした官僚でも金をもらっても何ら責任を取っていない。普通100円であれ1000円であれ盗んだらそれは見つかったら厳しく罰せられる。でもその警察関係の官僚が天下りした東電でわ多額の金をもらっても事故を起こしても罰せられることもないのである。
要するにそういう役得があり地位がある人は責任も重くなるはずなのであるがそうならない。おそらくその責任の重さに比例して金もその分大きなものとなっているのかもしれない。東電の幹部はその責任が重いのだけどそれも対して問われることなく見逃されたとなる。一時は財産没収しろなどと言われたがそんなこともなかった。

●ノブレス・オブリージュの背景

責任というときなぜ王族とか貴族に責任が持たされたのか

ノブレス・オブリージュ
『貴族が義務を負う(noblesse oblige)』のならば、王族は(それに比して)より多くの義務を負わねばならない。」と書いたのが最初である

王族とか貴族は特権を得る人たちだったからこうなった。そもそもヨーロッパの貴族というときその基となったのは都市国家があったとしたらそこに騎士がいたら騎士はその都市国家の住民守らねばならない。そういう義務がありそれで特権を得ていたのである。農民は城壁の外の農地で暮らしていて敵が攻めてきたら城壁の中に入ったりして命を守らねばならなかった。そこで騎士は都市国家の住民を守るために戦う人でもあった。だからこそノーブレスオブリージュという義務が課せられていたのである

ところが日本では侍が特権階級として支配階級として存在してもそこに住んでいる住民とは別である。確かに戦争になれば敵が攻めてくる。でもその戦争は侍と侍の戦いでありそのそこに住んでいる住民は関知しないのである。日本とヨーロッパの違いは城壁に囲まれているとしてもそれは侍が住んでいるところだけであり最後は城に籠る。戦争に負ければ切腹して死んで終わりである。住民は別にそのために敵が来ても殺されるということもないのである。

それで会津であれだけの悲劇があったとしても住民は関知していなかったのである。会津ではその時やーやー一揆が起きた。その理由は侍は税金を取るものだからこの際敵が攻めてきた時一緒になって一揆を起こしたのである。
だからそもそも日本では街を取り囲む城壁はない。ヨーロッパではそこに都市国家があれば城壁で囲まれているし街自体が囲まれてその城壁の外の農民でも敵が攻めてくれば城壁内に入って市壁の中に避難して命を守らなければならない,そういうことがありシティズンシップが仲間意識が生まれたとなる

だから不思議なのは会津の悲劇のことを語られるがそれは住民とは関係してない。ただ日本では戦争があるとしてそこの住民が領民が奴隷のようにされることは無いのである。外国では常に戦争に負ければ奴隷にされるという歴史がある。だから敵が攻めてきたときは住民も一体として戦わねばならない。それはシティズンシップなの生まれたゆえんである。
日本でわ村がアイデンティティの場でありそこには村意識があり共同意識があった。でも城が作られてもそれは侍が支配する場所であり住民とはそれほど関係なかったのである。だからこそ会津で城が燃えたとしても白虎隊はそのために自刀したとしても住民は何の関知していなかったのである。だからこの歴史を見ればヨーロッパでの人は理解しがたいともなる。日本では城が燃えているのを見てただ見ているだけだったのかとなる。それで恐怖もしなかったのかとなる。

●赤信号みんなで渡れば怖くないー無責任民主主義

確かなことは特権を得ればそれに対して責任と義務も生まれていたのである。民主主義はそうした貴族などはいない侍もいない
戦後民主主義が入ってきた時何を一番重点におき理解したかとなると権利を主張することだったのである。権利だけはみんな平等であり主張するべきだとなったのである。それに付随していた責任と義務とかはないがしろにされた。

赤信号みんなで渡れば怖くない責任はない

つまり法律違反であれなんであれみんなで渡れば怖くないその責任を持つことはないということである。それが戦後の民主主義だったのである。誰も赤信号を無視しても法律などを無視してもそれが多数になれば正しいことになったのである。法律があったとしてもそれも投票で決められるとなる。数が多ければ正しいのでその結果として別に日本だけではない数で決まればどうなるのか?ただみんなで赤信号を渡ってみんなが責任を取る必要がない永遠ならない。やはりみんなが責任を取らされるである。その責任のことを感じたらそんなこと普通は出来ないのである。つまり民主主義とはで責任を感じないシステムなのであるでありそこから過ちが起きてくるのである

ドイツでわ民主主義から投票からナチスが生まれたのである。別に数が多ければそれが力となり社会を席巻してしまったのである。戦後のカルト教団が興隆したの政教分離という法律が機能しない。結果的に何か言うと信教の自由だとかなんとか言ってあらゆる自由があるとしてその自由を主張する。でもそこに権利を主張しても責任とか義務は無視されるのである。そのことは民主主義の大きな欠陥であり最大の問題だったのである。

つまり民主主義とは全体主義ファシズムになりやすい制度だったということにもなる。それは数が集まればそれが正しいとなり権力となり社会を支配してしまうからである。それで戦後宗教でも信教の自由がありそれが過剰のなりカルト教団でも許される。それは政教分離という法律があるのにそれも数が集まれば無視されるからである。だからこの問題は日本だけの問題ではない民主主義の欠陥最近は顕著になってきたのであるその本場のアメリカでも内戦になるとこまでなっている。

民主主義自体が行き詰まっているのである。それはそこに権利を主張してもそこに責任と義務があるのに権利だけが主張されるからそうなる。だから貴族の方が責任と義務が課せられていたからその方が良かったと思う。それも問題にしても民主主義も欠陥があったことが顕著になったのである。
つまり現在の権力は誰が握っているかというと貴族ではない一部のものではない大衆だとなるその大衆は権利は主張してもそこに責任とか義務は感じていないのである。また法律的に責任を課せられていないし責任を感じないのである。ただ権利だけは主張するのである。

●責任とは神が与えた良心にそむくのが責任

そもそも責任というときこの世に生まれたときから責任を課せられている。それで生まれてくるとき泣いて生まれてくるのはその責任が課せられているからだとなる。何か人間というのはそもそもはその生まれたこと自体人間として生まれただけで人間としての責任が課せられている。
そのために人間には神が良心を与えて悪いことをしたら良心の痛みを感じさせる。動物にはそうした良心はない、だから別に他の動物を食べても良心の呵責など感じない、善悪もないのである。例えこの世で罰せられなくても裁きとあるというときこの世に生まれて悪いことをすればそれはこの世で罰せられなくても死後裁かれて罰せられるとなる。そういう責任が人間に課せられていて逃れられないのである。

別に勝手にすればいいそんなことでいちいち責任等とる必要もないと思っているが必ず責任を取らされるようになっている。その責任の重大さはこの辺の原発事故でもそうだったし振り返れば戦争でも莫大な人間が死んだのやはり責任を取らされてそうなったとも見る。確かに自然災害による被害も大きいがそれより戦争の被害は何千万という人間は死んでいるのだから比べようがないくらい大きい物なのである。その罪は問われ罰せられるとなれば人間にはそうした責任から逃れることができないということである。

私は何も悪いことはしていませんと言っても神の目から見ればやはり人間は罪を犯しているから罰せられるとなる。それを民主主義だから数を集めれば何でも許されるとか何でも主張できる権利を権力を得られるとかは許されないのである。
でもこの世では数を集めればそれが権力となり正しいとなりそれがナチスになってゆくのであるその結果として莫大な人間が死なねばならなかった。その責任を取らされたのである。責任というとき戦争の責任は誰にあるのか日本の戦争でも300百万人も死んだ。
その責任は誰が取るのかとなるそれで天皇は広島に訪れた時その責任を問われた時たじたじとなった300万人も死んだ原爆落とされて死んだ

その責任は問われたらもし天皇がその戦争を決断で決めたとしたら天皇が責任を取れとなってしまったからである。また原爆にしてそんなものを使って本当に利用して人間を殺戮したということはアメリカにも相当な責任がある。だから東京裁判などという勝者による一方的な裁判などは正当なものでもないしただ勝者の力を見せつけたというだけなのである。そもそも神が裁くなと言った時裁く力があるのは神しかないのである。人間には裁く能力はない。喧嘩両成敗となるのもどちらかにも非があるからそうなったのである。

太平洋戦争でも日本だけに非があるわけでもない。アメリカが攻められないのはただ力があり権力が持ってっているからだけなのである。そもそも悪である日本をアメリカは裁いてやるということ自体どれだけ傲慢なことなのか?
またアメリカでも戦争は力による一方的なものでありそのために多数の人が死んだそれもやはり戦争犯罪でありアメリカでも裁かれるべきものだったのである。ただ戦争となると誰が裁くのかとなると勝者が裁くだけだとなる。だから裁くものは人間でないし神しかありえないのである。
歴史とは人間の罪の記録だというときもそうである。だから最終戦争がハルマゲドンがあり人類が滅びるというのもそうである。
人間のカルマが罪が最終戦争になり人間は滅びるとなる。罪の総決算としてそうなる。それで人間の業(カルマ)が消滅するとなる。





2024年01月25日

人間はみんなジキルとハイド-人間のみに善悪がある 【組織団体も会社も同じように善と悪がある】

人間はみんなジキルとハイド-人間のみに善悪がある

【組織団体も会社も同じように善と悪がある】

 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心の
創世記における「命の木」と「善悪を知る木」ままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べて
はならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう

ローマ人への手紙 3:10-28 JA1955

次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。 彼らの足は、血を流すのに速く、 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。 そして、彼らは平和の道を知らない。 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。 


●職業は業であり必ずブラックの面がある

葬儀屋 僧侶 

人の不幸を喜ぶい卑しいお仕事です

カルト宗教団体

人の不幸が商売の種

風俗業

手っとり早い女性の稼ぎ場 金のため魂まで売る職業

ギャンブル(パチンコ屋など)

趣味も何もない暇つぶしの場の提供
でもギャンブル場だから身を滅ぼす人も

政治家

利権のブローカー

弁護士

ヤクザの示談屋とにている
もめ事の仲裁で分け前をもらう

医療関係

弱者となる病人相手
弱みにつけこむ商売
いらない薬やいらない手術でもうける

福祉関係(介護など)

弱者を相手にしぼりとる
弱者相手の職業だから人間のあくどさが一番現れる

銀行や証券会社

銀行は汚い消費者金融などに出資してもうけている
弱者には金は貸さないし冷たい
証券会社はマネーゲームでもうける
他人の金を利用して損しない、銀行も同じ

官僚、公務員

税金にたかる無駄使いが多い、天下り先のため大企業と結託

公明党共産党員

貧困ビジネス、弱者を相手に幹部が上前をはねて贅沢をする

学者、知識人

現体制擁護で富裕層につく、御用学者で得する

マスコミ

会社の宣伝機関、正義を装う、愚かな大衆操作の機関

皇室

権力に祭りあげられて利用される無能な人形

大企業(トヨタなど)

労働者は奴隷、派遣は一時期の部品
いらなくなれば容赦なく切り捨て
経団連は日本を牛耳る

軍隊

人を殺すのを生業とする職業

警察

権力を傘にして威張る組織
富裕層や権力側につく団体
弱者は無視

検察

正義の味方を装い権力側につく、大企業や大組織は罰しない
東電の幹部を見ればわかる、あれだけの事故でも罰せられない
百円盗んでも刑務所に入れられるのに

農協

政府から補助金をしぼりとる団体
農民もまたブラックなのか?

不動産屋

土地で暴利をむさぼること

建築関係

除染関係でもゼネコンの大企業の社員には一人十万出してもその他の人は一万しか労働者に払わない
ピンハネ団体

コンビニ

会社の正社員が店主や店員を搾取するシステム

暴力団

悪が支配することを標榜する正直な団体

なぜ人間はブラックになるのか会社や組織や会社でもブラックになるのか。そもそも人間自身が知恵の実を食べて善悪を知ったという時そこに既にブラックになる人間となった。だから人間は人間個人ですでに善悪があり二面性を備えている。だから人間はみんなジキルとハイドなのである。だから組織団体や会社でも同じようにブラックにもなる。つまり人間個々人でも善悪があり偽善がありその延長として組織団体会社でも二面性を持つのである。

何か職業というとき常にその職業でも二面性があり善悪があれジキルとハイドになる。弁護士と言えば善と正義を追求しているように見えるが半面その資格を利用して悪を行うこともある。何か遺産とかで揉めてきた時弁護士が代わりその分け前をいただくとなる。そこに正義より自分の利益のために弁護して弁護して法律を利用するということがある。だから交通事故で相談に行っただけで百万もっとられたのである。そもそもはそんな金を取られる必要もなかったのである。相談なら1万で住んでいただろう。。なぜその人が百万も出したのかというとそれは他人の金だったからである。なぜ百万も出さなければならなかったのかそれも理解できないからである。

だからこの世ではは常にこうしたことが行われる。例えば医者でも患者を治そうとするのだがその前に自分の利益を考えて不必要な薬で金のために患者に与える。利益優先になりそこで歪められる。その問題は一人の医者だけの問題ではなく社会問題になるのは保険を国民保険があるのだからその金は国民が払っているから本当は無駄な金を使ってはならないのである。それは国民の負担になるからである。また無駄な治療というのもありそれも問題なのである。今みんな税金に苦しんでいる。国民保険でもそれを払うことが容易で亡くなっているからである。

ただこういうことはあらゆる職業にありだから職業自体が業であり職業につかないことはそうした悪をなさないということで出家したともだろう。それで寺があり職業につかないで悪を犯さないようにしたと思うな。ただまだ宗教を標榜するものでも必ず善悪がありできるとジキルとハイドになってしまうのであ。カルト宗教団体になるとその看板は宗教にしてももしそれを実行すればあまりにも厳格であり誰も実行できない。誰も釈迦やキリストのようにもう無一物で修行などもできない。だからそういう宗教団体はむしろ禁欲は説かない。世俗社会よりを欲望追求する団体になる、それが宗教の名の元に行うから矛盾してくるがその人たちは無思考人間でありただ御利益があればいいだけだから悩む人もいないのである。。

●人間の二面性は変えることができない

だからこそそこに膨大な数がもし山の中で断食して修行しろと言ったら誰もついてこないからである。宗教というとき善を追求しているのだが今のカルト教団などはそんなものとは何の関係もない。ブラックそのもののである。だからそうして善人ぶっていることが偽善なのである。とにかくこの世には偽善が多すぎる。それで返って暴力団は正直だともうなる逆説がある。大概は個人であれ集団組織会社であれ善を標榜する。でもその内実は必ずブラックなものがある。それは政府にだって官僚だって司法関係にもある。ただそれが見えないということがありわからないから放置されているともなる。

いずれにしろ人間には二面性があり善悪を知るというするものになってなったということが人間の特徴なのである。なぜなら自然界には善悪がないからである。動物は他の動物を食べることは残酷だとしても人間人間のようにそれを悪人のようには見ないからである。つまり人間を除いた世界には自然界でも善悪というのは無いのである。人間だけに善悪があり知恵の実を食べた結果善悪を知るようになったというのはそのことである。だからそもそもが人間個々人でもそうして善悪があり二面性がある。だからその延長の組織団体会社でも必ず二面性がありジキルとハイドになってしまうのである。

この世とはもともと天使が住んでいた、人間は天使でありこの世は天国だった、それがなぜかその天使かサタンになってしまったのである。もともと天使だったものが墜落してサタンになった。
だからこの世の魅力に負けてサタンになったのが人間なのである。そうなれば当然この世がブラックになっているのは当然だとなる。結局人間は金の魅力に勝てないというときもそうである。金のために魂をサタンに売り渡しているのだ。それは人間の欲から生れているからだ。これは誰でもそうなるのである。私自身でもそうなる。それは人間はみんな善悪を知り善と悪の面の二面性があるからである。だから必然的にジキルとハイドになるのである。

一見善人のように見えても悪人にもなっているのである。だから逆に自分は悪人だとか罪深いだこと感じている人間は本当は善人だとなる。自分が善人だと思ってる人間は実は悪人だともなってしまうのである。天国は何かといえばそこにはこうした二面性はない裏表もない。そこに罪を感じないのである。人間は知恵の実を食べる前の善悪を知らない純真な世界があるだけになる。そこに悪はなく善のみがあり神よってそこは治められるのである。

●人間が社会を変えられない、人間そのものを変えられないから

なぜ社会が変えられないのかいくら技術が発達しても社会制度が変わってもこの世から悪はなくなることはない。資本主義だろうが社会主義だろうが共産主義だろうがキリスト教社会でもイスラム教社会でも仏教社会でもそれで社会が変わることはなかった。それはなぜなのかとなれば人間そのものは変えることができないからである。だからいくら社会を全体を変えようとしてもそれはみんな失敗しているのである。

それは人間というものはどういうものなのかということである。食べるなと神が命令した知恵の実を食べた時善悪を知るようになった。そのために人間は神に意にかなうものではなくなった。だから人間というのはいくら社会を変えようとしてもそれが失敗に終わる。その原因が人間そのものは知恵の実を食べて善悪を知り必ずジキルとハイドのようになってしまうからである。それでサタンというとき悪魔という時外部にあるわけではなく人間そのものに悪魔的なものがありジキルとハイドになり二面性があるからそうなってしまうのである。

だから人間そのものが生まれ変わらない限り社会も変えられないとなる。人間はいくら制度を変えても根本的には変わらない。そもそも変えることができないのである。民主主義でも人間そのものを変えることはできない。だからこそ神の国はこの世に実現しない。ただそれはこの世ではなく神の国で神自身が治める国で実現するのである。

そもそも共産党に入ったから創価に入ったからその人が変わるのか、全く変わらない、宗教ならそれをかえって利用してこの世の権力を得て栄誉栄華の生活をしたいというだけである。それを世俗社会より奨励しているからあれだけの数が集まるのだ。御利益御利益と狂気のように祈っているからである。
そんなところに平和もなにもないのである。そいう人たちは他者を殺してまでも自分たちの欲望を実現させようとするから怖いのである。それは偽善でも善を成すものとして行うのである。
だからその組織は軍隊組織になている。武器を持たせれば他者を殺す軍隊に変貌する。

だから社会の制度でも変えても根本的なところで何も変わらないのである。神の国では人間は善悪を知るとか二面性はなくなりただそこには善のみがあり正義のみがあり悪はなくなるのである。つまり人間というのは一度滅びてもう一度神の意にかなう国、神の国が実現するのである。つまりこの世は永遠に変わらない。その原因が人間そのものにありその人間を変えることは不可能だからそうなっているのである。

この世はこうしてそもそも変えることはできない。人間そのもの変えることはできないからである。
こうして人間が悪をなさないこと悪に染まらないと言うことはほとんど不可能になる。職業にしても必ずそこには悪の面がある
ないとしたら返って何か社会から得するような地位にないとか下々で働くような人になるかもしれない。それで貧しき人は幸いであるというとき悲しむ者は幸いであるというとき何か社会で出世するような人はいかがわしいものを持っているからだともなる。
つまり上に立つ人は得するのだがそのために悪を成すということもある。その人たちはそうは思っていなくてもそういう地位得てること自体が悪に通じているともなるだから。社会の下働きのような人たちは返って得することもなくそんな立場にあるから悪に染まらないともなる。それも逆説なのである。
でもみんなそうは思わない、やはり得になる立場を得たいとなる。

この世とはもともと天使が住んでいた、人間は天使でありこの世は天国だった、それがなぜかその天使かサタンになってしまったのである。もともと天使だったものが堕落してサタンになった。
だからこの世の魅力に負けてサタンになったのが人間なのである。そうなれば当然この世がブラックになっているのは当然だとなる。

彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。 彼らの足は、血を流すのに速く、 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。 そして、彼らは平和の道を知らない。 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。 


人間社会そのものはその職業でもそうなっている。義人はいない、ひとりもいないという時社会全体がそうなっているということにもなる。それだけ人間社会というのは悪に染まっているともなる。それは別に犯罪を犯すからというだけではなく警察に捕まるからというだけではなくみんなが罪を犯しているのである。別に罰せられなくても人間はいくらでも罪を犯している。
特にこの世で地位を得て楽している人間はやはり罰せられなくても罪を犯しているともなる。ただ罰せられないから自分たちは罪を犯してないとも思っているのである。だから返ってこの世でわ貧しい人が幸いであるとか悲しむ者は幸いであるとキリストは言ったのはそういう立場にある人は罪も犯すこともできないからそう言ったのである。



2023年12月27日

なぜ人生が誤算で終わるのか 【今年も終わるが未来は予想できない―時間がなくなることが最大の誤算】


なぜ人生が誤算で終わるのか

【今年も終わるが未来は予想できない―時間がなくなることが最大の誤算】

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30才以降急速に時間が消失してゆく

●金は計算できても時間は計算できない

そもそも人生が思いどうりになって人生きた人がいるだろうか。そういう人はいないと思う。何らかで人生は必ず後悔し計算どうりにならない誤算で終わるのである。
一級の免許を持っていたが技術者であったが事業を起こして失敗して借金を抱えた。事業に失敗する人もまた多い。そもそも原発という事業は大失敗だったのである。また太平洋戦争で300万人も死んだ者も大失敗だったのである。歴史的大失敗であり大誤算だったのである。つまり歴史も必ず失敗の歴史なのである。その失敗から教訓は生まれているのである。

また結婚したとして熟年離婚も多い。それもまた失敗でありその前に1/3は離婚しているのである。ただ熟年離婚というのは夫にとっては思いがけないものでありそんなことあり得ないというふうに思っていた夫も多いかもしれない。それも誤算だったのである。人間は何か計算どうりに行くことはほとんどない。それは思いがけないことが起きる。そのために運命が変わってしまうのである。それは個々人にも起きるわ全体的にも起きる。戦争とかは国全体の運命を変えてしまったからである。またこの辺では津波があり原発事故があり故郷に住めなくなったとかあり大きな変化に見舞われてしまったのである。それも大きな誤算だったのである。

人間は計算どうりに行かない。なぜまたそうなるのかというと意外と見逃しているのは実は時間の問題なのである。時間を計算することが人間はできない。常に金だったら日日計算しているし老後のことなどでも貯金していた方がいいとかなる。つまり金の計算はできるからである。ところが時間の計算ができないのである。
私自身でも何かしようとしたのだがそれもほんの試しで終わり時間も無くなり何もできなくなったのである。

●人生は何に時間を費やしたかで決まる

だから私のしたことは旅だけだったともなる。人間は何かするにしても限られた時間しか与えられていない。もちろん金も必要だが意外と時間が与えられないのである。だから会社員なれば一か月休んで自由に旅することもできない。すると旅するということは金よりも実は時間が大事だったとなる。私は仕事もしないのだから会社に勤めているわけでもないから時間は充分にあったから旅に費やしたとなる。

別にそれほど金も必要であってもそれほど金はかかるものでもなかった。何かホテルであり旅館でありそこで何かうまいものを食べるという目的もないし一番安い旅館にホテルにを探してそこではただ体を休めるというだけだったのである。旅をしたければ別に金がなくてもできないことはない。それより時間が大事だったのであるって何かする時間というのはいつまでもあるわけではない。
例えば留学するにしてもそれをそれは若い時にするものでありその時期を逃せばなかなかできなくなる。その時々にやるべきものをやらないと必ずそのチャンスはなくなり時間は消失してしまうのである。

例えば学問にしてもあらゆることに精通することなどできない。ほんの一部しか精通できないしそれは人間に与えられる時間が限られているからである。だからある極わずかな一部分しか詳しくはなれないのである。だからこそあらゆることで専門家して細分化してそこでその一部分には詳しくなるが全体になれる人はいないのである。それは人間の知りうる範囲が限られている。それは学ぶにも時間がかかるからそうなる。やはり人間は天才でない限り知識でも蓄積してゆくことが大事なのである。
だから雑学にしてもある一分野で詳しくなれることがある。つまりその一分野に時間を費やしたということなのである。でも他の事には費やす時間はないのである。

意外とその人を見る場合その人は何に時間を費やしたかを見ることである。それが人生だったからである。例えば会社に60まで働くとしたらそれが人生であり私はただ社畜として生きて来たという言っても不満でもそれが人生であった。なぜならそこに人生の時間を費やしたからそうなるのである。そして30年働いたとしてその30年間は会社のために尽くしたとか働いたとかなり何であれそれが人生だったともなる。

●限られた時間を何に使ったかが人生になる

人間はだから与えられた限られた時間何に使うかが大事になる。ただ常に金の計算をして金を稼ぐということは常にしている。でも時間計算している人は少ない。時間が計算しにくいからである。金だったら常に得した損したとか計算しているわ時間はあまり計算しないからである。

ところが老人になった時なぜみんな後悔するのか。それは何かをするという時間がなくなる。また体力もなくなってしまうからである。なかなかきつい登山などはできなくなる。若い時できることをしなければ老人になってからはいくら金があっても時間があってもまたできないとなってしまうのである。つまり老人とはいろいろなことはできなくなるということである。その大きな原因は時間がなくなるということでもある

なぜ事業をして失敗する人が多いのか。それを私自身でもそうだが人間の与えられてる時間は限られているからである。何かしようにも必ず時間が必要であり事業をしてみて失敗したからといってもう一度やり直すことはまた時間がかかり難しくなるのである。つまり一度押して失敗したからAに移りBに移りCに移りとかできないのである。人間のなし得ることは様々な分野があってもせいぜい一つ二つくらいなのである。それすらまともにやる時間も無いのである。それほど時間は消失しやすいということである。

結婚にしても一度失敗したからまた再婚してとかそういうことそういう時間もうない。人間関係を作るにも必ず時間は必要なのである。やはり長くいるということは親密になり信頼関係を作るにわ大事なのである。家族の場合はそうして長く一緒に暮らしてるからそこで愛情や信頼関係が生まれてくるのである。
たとえ家族で憎しみあっていて長い間暮らしていると自ずと愛情も湧いてくるのである。だからなんでも時間の作用がありその時間が見逃されているのである。だから親密になり信頼関係を築くに時間が必要でありその時間が限られているから人間関係でも難しいのである

例えば10の時間を与えられる人とその十倍の時間が与えられる人があるとしたら10倍の時間を与えられる人はやはり何をかで専門家にもなり何者かになれることは確かである。でも時間はみんな平等に限られたものしか限られた時間しか与えられないのである。 だから大して才能なくても一つの分野に時間をかければその分野については詳しくなれるのである。

●人間は一分野にしか詳しくなれない

人間ははあらゆることに詳しくはなれないのである。それは時間が限られているからである。何か30過ぎる頃から急速に時間が進んで行き40頃になると白髪が入ったりしておっさんになっているのである。それも早いなと思った。だから人間の盛りは30歳まででありそこで完成しているのである。キリストも30歳で人間として完成していたからである。そのあとはただ時間は延長すると言うだけにもなってしまう。ただその間でもやはり時間をいかに使うかということで人生は決まる

人生=時間×X

Xはは変数でありその人が何に時間をかけるかでその人の人生が決まる。もちろん金をかけるということもあるがそれ以上に何に時間を費やすかでその人が決まるとなる。
例えば語学でもさまざまな外国語があり全部など極めることはできない。 一分野には詳しくなれてもとても全部に詳しくなることなどは不可能である。つまり一つの言語に詳しくなれるがほかの言語に詳しくなることはほとんど不可能であるなぜなら言葉自体が難しいからそうなる。十か国語も話せる人間などこの世に居ないからである、そして山ほど本が買って積まれたがそれも消化されなかったのである。

●人間は未来は意外なものとなり予想できない

ともかく人生というのは時間が消失してゆく。 30歳から辺りから時間は下降気味であり急速に消失してゆく。70も越えれば生きる時間もわずかだとなってしまう。何かしようと思ったら時間切れになってるのは人生だともなる。
だから一番浪費しているのは時間なのである。時間は計算しにくいからである。金は常に計算しているが時間は計算しにくい。それで意外と老人は死ぬとき日本人は相当な金を残している。それも金が必要だろう後に金が必要だとして貯めていたがそれも有効に使えず死んでしまったということである。

それは人間はどれくらい生きるのかもどれくらいの時間をこれから生きるのかも分からないからである。そのために貯金をしていたのだがその貯金も使えずに死んでしまったともなる。それは金の計算はしても時間の計算はしていなかったからだとなる。またどれくらい生きるのかもその時間が計算できないからそうなっているのである。あと十年生きるのか20年生きるのかでは相当に違ったものになるからである。もしあと十年ならその間に使うお金を計算できるからである。でも時間は計算できないのである。そこで必ず誤算が生まれるのである。だからみんな人生は誤算で終わっているのである。

要するに人間は来年のことを言えば鬼が笑うというように来年のことすら何が起きるかわからないからである。ましてや十年後とかどうなるのかわからない。必ず何か思いもよらぬ誤算が人生にはつきまとっている。この辺で津波とか原発で故郷に住めなくなったということもそのことであるこれほど大きな変化に経験することは想像すらできなかったからである。人生には70年であれ80年であれ生きていれば想像もできないことが起きてくるのである。だから必ず人生は誤算になっているのである。こんなはずでわなかったとみんな後悔しているのである。

ともかく今年も終わりである。今年で何が良かったのか悪かったのかやはり私にとってはbing image creatorの経験が一番印象に残った。なぜ言葉だけを入れて絵が作れるのいうのは不思議になる。こんな経験するの今まではありえなかったことである。だから技術的にも経験できないことは時代によってできる。その最たるものはコンピューターの技術だったのである。

だから将来的には誰でも宇宙旅行ができるようになることは確かである。それは大金持ちだけではなく一般化するのである。それだけの技術開発は進むからそうなるのである。その技術進歩にしても未来はどうなるかということは確かに予想するのだがそれ以上のものはできてくるということがある。だからそれもなかなか予想できないのである。そして技術の進歩で思いがけないことができるようになり経験するようになるということである。

来年はどういう年になるのかそれもわからない。いろいろ予想して確実なことはわからない。大地震が来て壊滅的被害を受けるかもしれない。それもわからないので。つまり未来は常に未知でありいくら科学が発達しても予想できないのである。其れで必ず誤算になる。誰も未来を知ることはできない。それは神のみぞ知るとなる。。

一山の本積まれ読まじ年の暮






2023年12月22日

推理ドラマを見た感想ー殺人を犯した人は花の美が見えるだろうか?


推理ドラマを見た感想ー殺人を犯した人は花の美が見えるだろうか?

栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかったーその意味 

●殺人を犯罪を犯した人が花の美が見えるのか?

推理ドラマを見ている。それも再放送しているから二度見ている。なぜなら前見たものを忘れているからである。そして2回見るとそのドラマが何を訴えたいのか理解できる。推理ドラマはそれだけ複雑であり人間の罪とか心理をテーマにしているからである。時代劇だと勧善懲悪でありあまりにも単純化しすぎているので飽きてしまうのである。
でも推理ドラマは複雑であり現代も表現しているし特に鉄道テーマにしているのは鉄道好きだから面白いのである。大概の鉄道は載っているからそれも改装できて面白いのである

ただ私が推理ドラマを見ていて何か必ず違和感を覚えるのである。それは殺人を犯した女性が綺麗な身なりをして花を愛でていることである。それは別に殺人など犯してなければたとえ金持ちの娘であれ夫人であれそれほど違和感がないかもしれない。でも殺人を犯したような女性が花を愛でている時その女性は本当に花伸びがbingピザ美術わかるだろうかということである。

というよりその女性は花を愛でては美を知るということが本当にできるのだろうかということである。このことは常にドラマの中で例えば華道の家元でもそこでは殺人事件が起こる。そしたらその花をテーマにして花の美を追求しているがそんなことができるものだろうか。そこで何か醜い財産相続争いとかありそこで花を活けるのだがそういう資格があるのだろうかとも思う

私自身のテーマは花である。だからその花のことが気になるのである。なぜなら人間の心が曇り汚れた時花の美しさが見れるだろうか。それがドラマの中では何もそこに葛藤がない。それが何か常に違和感を感じているのである。今日のドラマでも殺人を犯して何億とか手に入れて金持ちになった女性がいい庭を作り花を愛でている。でもその女性がその花の美しさを愛でたり知ることができるものだろうか?

その心は人を殺したのだから汚れているしその立派な家でも庭でも汚れた金で作られたものであり住むことになったからである。別に金ががどこから入ろうか関係ないという人もいる
でも人間の心とか良心を偽ることができないではないか?人を殺したような犯罪人が果たして花の美しさを見れるのだろうかという疑問がある。でも推理ドラマではそんなことは全く無視しているのである。殺人を犯した女性が花を愛でているのである。

●花はどんな場所にも飾られるが花の美はそこに映えるのか

何かこういうことは他でも常にある。この世界はそもそも汚れた世界である。常に利益を求め利権に関わり政治家は平気でごまかして金を得ていた。でもそれを悪いとも思っていなかったのである。罪になるとも思わなかったのである。政治の世界はどうしても汚れたものとなる。だからそんなことを気にしてたら政治家などにはなれないとなる。
ただ不思議なのは人間の集まるところに必ず花が飾られているが本当にそこに花が映えるのだろうかということである。たとえば政治家が密談している料亭の部屋にも花輪飾られている。別にキャバレーでもどこでも花が飾られているのである。しかしそういうところに本当に花が映えるものだろうか。そういうところにそれは大都会でもそうである。花はそんな東京のような大都会に映えるだろうかとなる。

栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 

キリストがそう言ったのは野に咲く花のことである。花はもともと野に咲くものであったからである。でも別に今はいろいろな花を売っている。外国の花でも売っている。でも花は結構高い。するとやはり花を見るには鑑賞さらには金がかかるとなる。では貧乏人が花を観賞できないかとなればそうでもないのである。
それは私がいつも通っている道でバラの花を見たり椿の花を見たりしている。公園でも見たりしている。花は別に無料で見れるものもある多い。野に咲く花をもともと無料で見れるのである。だから塀に咲いているバラの花を詩にしたときその花は他人の家の花なのである。でも別にその花を観賞するのは無料なのである。ただその花を見る目が必要なのである。花に関心のない人はそうして無料で見る花すら関心がないからである。

だから人間社会で一番何か不可解なのはそもそもは野に花は映える
でもどんなところでもキャバレーだろうが政治家が集まるところだろうがもしかしたら暴力団の集まるところにも花が飾られたりしているのである。でもそういう場に本当に花が映えるものなのだろうかとなる。ただそれは決まりとしてそうしているだけでありその花を別に鑑賞するというわけでもないからかもしれない。
それからカルト教団などがあってそこでもやはり花が飾ってある一見宗教団体だからそこは心の清い人たちが集まっているから花を飾るにふさわしいとなる。でも全く違っているのである。カルト教団に集まるような人はそれもやはりこの世の欲を求めて汚れた人たちがこの世の利権と権力を得るために集まっているのである。だからそこで花のことなど語る人などいない。ただ御利益と権力とやはり出世と金を求めているだけなのである

カルト宗教団体というときまた偽りの宗教団体というときそれをどうして見分けるのか。それはその中から真善美が生まれるかということである。どうしても確かに立派な会館とか宗教礼拝場とかを作る。それは確かにキリスト教ならゴシックの大聖堂のように立派なものもある。でもそもそもカルト教団から何か真善美になるものは生まれないのである。そのこと自体が何か偽りの宗教でありそういう場所では真善美よ求めていないのである。だからそういう場所から真善美なるものは生まれないのである。

その事が一番カルト教団などがまるで本来の宗教とは違った俗世よりも汚れた場所だということがわかる。普通に心の清浄を求めればばそんな場所に居られないのである。でもそういう場所に居られるということ何の違和感も感じない。そのこと自体その人は汚れに染まっていて感じなくなっている。ではむしろそういう汚れた場所だからこそどんな人でも受け入れるから住みやすいとなるのである。普通なら正常を求めるならどんな人でも入れるわけではないからである。むしろ拒否されるからである。

●真善美が生まれないのははなぜなのか

ともかく確かなことはいくら人が集まっても会堂会館を作ってもそれでそこにそれの中に集まる人が心が汚れていれば何かそこから真善美なるものも生まれないのである。そもそも東京のような文明と真善美なるものが生まれない。野に咲く花のように本来の美はそこに喪失しているのである。
だから山伏のようなものが胡散臭いとなっていても山岳を歩き六根清浄と唱えて身を清めようとしていたのはやはり本来の宗教をはそこにあったとまでなる。今のカルト宗教などにわ心を清めるなどということは一切ないからである。御利益とこの世の権力をひたすら飽くことなく求めているだけなのである。そんな場所に花が映えるのだろうかとなる。

どこでもこの世界は汚れた場所でありこの世界から離れた場所で身を清める心を清めるのは元々宗教だったとなる。とにかく仏教でもやはりそれなりの歴史があるからそこに真善美が生まれている。もちろんキリスト教でもルネッサンスのように美容¥が生まれている。イスラム教でも偶像崇拝で何か気になるものを拒否しているようだが幾何学模様を飽くことなく作りそこに美を見出していたのである。でも現在の宗教からそういうものが全く感じられなくなったのである。

そもそも東京のような大都会は何かそこから真善美が生まれるのか。なぜそんなに醜悪なものとなっているのだろうかとなる。そのこと自体がまさに野に咲く花のように飾れていないということではないか。一体人間のしてきたことは何なのかとなってしまう。そんな醜悪なものを作り神はそれを嘉するのだろうかとなる。

科学技術の時代になれば科学第一になるのそこに真善美があるとは限らない。その最たるものが原発であった。それは自然の中で住んでいた人たちが放射線物質で汚染されて住めなくなったからである。また車社会になってやはり自然でも排気ガスとか騒音で汚しているからである。ただ人間というのは意外と美というものに無関心なのである。
だからこそ東京のような醜悪な場所に1000万人も住んでいても別にそれでいいとなっている。人間はそもそもそうした美など関係なく腹を満たせばいいとも。だから人間の本来の感覚が麻痺してしまっているのである。そして人間にとって一番恐ろしいのはいろいろあるにしても一番恐ろしいのは食えなくなることとかあるがいろいろあるにしてもそういう物質的なことではなく精神的なものがある。

それは真善美が見えなくなることである

すでにだから推理ドラマでも肝心の華道の家元でも跡目争いで財産を受け継ぐために争うということ自体そういう人が花を愛でることができるのだろうか。それが根本的な疑問として自分には常にあった。私自身のテーマが花だったからそうなるのである。
何か人間はいろいろなものを求めている。何かを得たい特に金を得たいと必死になっている。でも根本的にもし心が汚れたらこの世の真善美は見えなくなる。だからこそ心の清い者は神を見るだろうと言ったキリストが言った。それだけではない心が清くなければ自然の美とかこれこの世にある美を見ることはできなくなってしまうのである。このことこそ恐ろしいことではないか。でもそのことを深刻に考える人は本当に少ない。

ただこの世の欲のために金のために出世のために何でもするあらゆる労力を惜しまないとまでなっているのでは。だからそのためにはこれのためでもこの世の栄誉栄華を得るために殺人までしているのである。それはまた小説家とか短歌を作っている人でも何か必ず賞をもらいたいとかいうのもそのためである。推理ドラマでそのために殺人まで犯してたということがある。それはあくまでもドラマにしてもそんなことまでして賞をもらってその人が果たしていいものを作れるものだろうかとなる。

何かこの世の矛盾は一番そこに現れているかもしれない。一番恐ろしいのは真善美の見えなくなることである。現実にさまざまな人の集まりがあり団体があるがそこが宗教団体でもそこから真善美は全く生まれない。そこは穢れた人たちの集まりであり偽りの団体でありだからこそ何か良きもの真善美などは生まれないのである。そのことが一番如実に語っている。だからなぜ宗教なのかとなる。最も反宗教な場所だともなるからである。ただ人が集まり大きな会館を作ったり数でもって権力を誇示して政治に関わり利権を得ようとするだけなのである



2023年12月18日

宗教の基本は偶像崇拝の禁止 【人は形あるもの神とする―youtubeではまず顔と体を見る】

宗教の基本は偶像崇拝の禁止

【人は形あるもの神とする―youtubeではまず顔と体を見る】

宗教というとき宗教の基本は何なのか。人間は何でも神にしやすい。だから原始時代でもその後もあらゆるものが神となり崇拝した。

それは彼の名前が即、神に対する反逆を表明しているからである。つまり「ニムロド」とはヘブライ語で「我等は反逆する」を意味している。狩人としての彼の行為もまた、凶暴かつ残虐的に描写されている。なかんずくバベルの塔の建造においてはその企画発案者と見なされている。彼は巨大な塔を建て、唯一の神ではなく、偶像崇拝を始めるようになる。

ミドラーシュには、バベルでの偶像崇拝を拒絶した青年時代のアブラハムを炉に投げ入れるよう命じる場面が詳述されている。この逸話は一神教徒アブラハムと偶像崇拝者ニムロドとの間に起きた神学的な闘争として、アブラハムの信仰心について語る際によく引用されている。

ダンテ・アリギエーリの『神曲』では、ニムロドは巨人の姿で登場し、地獄の第九圏において裁かれている。

宗教の基本は偶像崇拝の拒否である。とにかく人間は目に見えるもの形あるものを神として崇拝する。だからエジプトでわ巨大な神像を作りさまざまな動物の神として崇拝した。だからエジプトは偶像崇拝で満ちていたのである。それでその偶像崇拝を拒否してエジプトを脱出したのはモーゼに率いられたヘブル人だったと思う。

つまり宗教の起源は神ならざるもの神として崇拝していることである。そのことが日本などでは理解されていない。日本はだから偶像崇拝に陥り安い国だとなる。 八百万の神がいる日本だからである。聖書でも偶像崇拝との戦いでありそのために命も賭けている。偶像崇拝が極端になったのはイスラム教である。一切の形あるものをー作ることは禁止されたからである。だからモスクでわ幾何学模様の文様しかないのである。

とにかく偶像崇拝を許さない極端に恐れているのである。それはやはりイスラム教でも今日もアブラハムから出て聖書に現れた記された神よ起源としているからである。
そしてねたむ神として神は偶像を拒否して真実の神を示したのである具現したのである。それは目に見えるものではない形あるものではない。それは確かにアブラハムからヘブル人に現れたのである。

人間は偶像崇拝に陥りやすい。カルト教団でもその教祖は競争は偶像化した。池田大作であれ麻原彰晃であれ大川隆法であれ偶像化した。。何か偶像というとき常に身近にある。例えばユーチューブでは必ずその人の顔とか体を見る。するとその身体を見て顔をまず見る。それで何か体が大きいとその人は偉大なように見えてそれも偶像崇拝にもなりやすい。何かか弱小な人間は体の強い大きなものに憧れるからである。そこで偶像崇拝に陥りやすいのである。

だからテレビという媒体はその影響が大きかった。前はラジオだったがそこでアナウンサーだった人がテレビが出た時やめたのである。それはテレビだとまず顔と体が映る。だから見映えが良くないと人気にならない。言葉だけだったら音声だけだったらその人の姿を見ないからその姿や顔から判断されないからそうなったのである。ともかくユーチューブだとその人は何かを語ることよりその人の顔を見たり体をみたりするのである。そうすると顔とか体の影響が大きなものとなる。そこで偶像崇拝に陥りやすいともなる。

ともかく一方でただの人間が神ともみない。ただの同じ人間じゃないかとも見る。だから神話時代でわ巨人が神となったくてエジプトでは巨大な心臓神の像は作られた。人間のようなものは神であるということはありえないと見たからである。でも一方で依然として人間でも神となる偶像崇拝がやはりある。人間はどうしても形あるものを実在するもの現実としてみる。

でも神は見えないものであり形あるものではないのである。だから人間が人間を師とするとき確かにそこで学ぶものがあるとしてもその差があまりに大きいから神格化されやすいのである。
つまり偶像化されやすいのである。ニムロデは巨人であり最初に王となった人物である。その人がバベルの塔を計画したという。ニムロデと反逆する意味であり神に反逆するものとして記されているのである。

確かなことは人間は形あるもの神として形無いものは見えない。でも神は形のない物として現れたのが神である。形のあるものを神とした時人間は神はそれを見て人間に対して妬んだのである。だから妬む神として現れたのである。でも神が妬んだりするのかということもある。でも神といっても人間と通じるものがあるのが神なのである。だから妬むと言う時やはり神も人間的なものを持っていたのである。



2023年11月27日

遺産をめぐる争い-そこに関わる人の醜い人間模様 【カルマを受けることの怖さを知るべき―推理ドラマは現実を反映している。】


遺産をめぐる争い-そこに関わる人の醜い人間模様

【カルマを受けることの怖さを知るべき―推理ドラマは現実を反映している。】

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●交通事故で死んだ異父兄弟の賠償金のこと

昨夜の推理ドラマは遺産をめぐる争いだった。それはテーマになりやすい。大会社の社長の息子が殺される。その息子の妻になった人は別に約束した人がいたのだが財産を目当てにしてその社長の息子と結婚した。その息子は性の悪い息子であり最初から妻に暴力を振るっていた。
そして社長の息子は殺された。それを仕組んだのはその家に女中手伝いさんとしていた女性だった。その女性は実はその家の愛人の子であり認知されていなかったのである。でもそこの家で働かせられていたが財産をもらう権利はなかった。でも財産を得るために画策したのである。その女性はその家の人たちを恨んでいた。またその財産目当てに叔父がかかわり財産を得ようとしていた。他に他に関わったのが弁護士でもあった。弁護士は愛人のここである認知されていない女性の色仕掛けで財産をとるを画策したのである。そこでいろいろな人たちが他にも財産を目当てに画策したのである。

私も何かこれと同じようなことを経験した。一人は父親違いの兄が交通事故で死んだ時。その賠償金が下りるのでそこにかかわった会社に雇われた社長だった。働かせてくれと乞食のように来たから雇ってやったのだ。恩着せがましく言ってそれが何か分からなかった。

墓も作ってやるから骨は置いて行けと言われた。それも何の目的なのかもわからなかった。そもそも兄といっても私の家ではよくしていない。そこで後ろめたさがあった。ただ実の母が生きているので財産を得る権利はあった。でも実際の財産は娘がいたのでそこにほとんど与える物となっていた。しかし中学生であり子供であるから面倒なものになった。その時結婚していた妻はちょうど離婚してしまっていたのである。

だからその賠償金を受け取ることはできないものとなっていた。そして静岡県とか離れていたので事情が飲み込めなかった。そこで何か私の母が後見人のようになってしまった。でもなぜそこのトラック会社の社長はそんなに兄の骨を置いて行けとかこだわっていたのか飲み込めなかった。それで後で賠償金が欲しくてそういっでそういったのはわかった。
つまり代理人となってその賠償金を得ようとしていたのかもしれないと思う。でも法律的にはなんら権利はなかったのである。でも何か身寄りがなく相続人が居ないと思って会社社長はその代理人になろうとしていたのだということがわかった。なにか助けるにしてもトラックの運転ができるのだから雇ったのであり何か全部援助したのではないのである。

●静岡県で起きたことで事情が呑み込めなかった

とにかく遠いところで事情が飲み込めなかったのである。でも不思議なのは死ぬ前にトラック会社の仲間と私の家に来たのである。確かにそのトラック会社では仲間と一緒にそれなりに働いていて喜んでいたみたいだった。ただそのことが交通事故になり賠償金が入るということでその社長も変質したのだと思う。何も骨を置いて行けとか墓を作ってやるとかこんな面倒なことをする必要もないからである。ただ身寄りがないと思ってそうなったのだと思う。正直何が起きたのか私はわからず3日で帰ってきた。

それはなぜかというと結婚してから何が起きていたのかよく理解できないできなかったからである。それは静岡県という遠い場所であり何が起きてるのか飲み込めないことによって理解できないものとなっていたのである。ただ突然事故になったから行ったまでだったのである。その時私自信は車がもっていないので自賠責とか任意の保険金とか知らなかったのである。ともかく死んだということで母と知り合いの人と一緒に行ったのである。だからその時何が起きたのか飲み込めなかったのである

それで弁護士もかかわった。それは知り合いの人が紹介した弁護士だった。ただ相談するだけで百万も取られたのである。結果的にその弁護士は何もしなかった。その弁護士は仙台に住んでいる弁護士だった。知り合いの人はこの人も何か社会のことでも知らない病気を持っていた障害者のような人だった。だから相談するだけで百万もとられたのである。別にそんな金を払う必要もなかったのである。何かこうして弁護士というのも遺産相続とかに関わりただ何もしないでもお金をもらうということがある。だからこのドラマでも弁護士もそういう役回りだったのである。

●私自身の介護と遺産相続で起きたこと

このドラマが何か架空のものではなく現実に起きているからこそただ空想的なものとして見ている見るということではなくなる
現実にそういうことが人間社会には起きてくる。ドラマでも現実を反映したものでありそれは全て架空のことはならない
推理ドラマでわ遺産相続はテーマになることが多い。今度は私自身の家でやはり遺産相続があり問題が起きた。それは私自身が遺産の相続者となっていたからである。でもその時私自身は親の遺産がいくらあるとかわからなかった。死んでみてわかったことであり相続する人は私一人だった。でも兄と同じようにその金を目当てに寄ってくる人がいたのである。現実にたまたま手伝ってくれた人がその犯人だったのである。その人と親しいという人でもなかったからである。

たまたま急に私の家族が病気になりその人がいて私自身も病気になり入院した時その人が私の親を見るようになったからである。確かに親戚の人はいたかこの人も事業で失敗して借金していた。だから高価な機械を買ってくれとか言われたりしたので自分自身は嫌だから頼まなかった。その人は人の世話をするという余裕もない。借金した人はもう人を助けるなどできないのである。だから入院してもその人に頼まなかったのである。でも結果的にはこれまで関係もない人にその遺産の一部は盗られた。

ここで銀行もかかわる。なぜなら銀行は遺産相続で意外と重要な役割を持っている。銀行が書類をそろえて許可しないと遺産相続になったとき下ろせないのである。何か銀行は何なのか何の役割があるのか今はわからない、金を預けても利子もつかない、そして投資信託など売りつける。というのは銀行ではいくら貯金しているかわかっているからである。

それで今や証券会社になったのか、現実に必ず証券会社の人を連れてくるからである。そして転売して手数料をとるのである。ただすべてが悪いというのではなくインデックス投資なら別に安い時買って高い時売ればいいのだからわかりやすいのである。投資信託はわかりにくいのである。その株も勝手に売られた。その時の事情があっても説明もなく勝手に売ったのである。
今株を持っていたら倍にもなっていたのである。ただ投資はリスクがあるから全部銀行の責任とはならない、自己責任が必ずある。でもそれ以来銀行もやはり遺産相続であれ金を奪いに来るもので何か金に群がるハエエナの一人のようにも思えた。それも利子がつけられなくなったことで銀行も証券会社にもなったとなるから信用できなくなったのである。
ただ銀行とは国とも関係している。なぜなら金利とかも国で決めて銀行に反映するし預金封鎖も国で銀行に命令できるからである。銀行にはやはり国が操作するためにあるのかともなる。


●家の持っているカルマを知るべき

だからこうして私の経験とこの推理ドラマは似ていたのである。殺人事件にはならないにしても遺産をめぐてかかわった人たちが似ていたのである。ただそこでその社長の息子が死んでも誰もその息子を悲しむ人は一人もいなかったのである。
ただ心配してたのはみんなその相続する大きな遺産であり金の事だったのである。その息子自体がまともな人ではないからそういうこともあった。それよりもその金に群がる人たちがいたということである。人間はいかにこうして欲がありそのために醜い争いが起きるのである。ただその家でもその親でも愛人の子に対して冷たく認知しないということで恨みを買ったのである。だから家というのは必ず何らかのカルマを持っている。それが必ずどこかで現れ誰かが苦しむ醜い争いともなってくる。

だから必ずしも金持ちの家がいいともならない。そこにはどんなカルマがあるかも分からないからである。すると金持ちの人とて結婚してもその家のカルマを受けることになり苦しむことになる。だからその家のカルマを知ることが必要なのだがなかなかわかりにくい。ただら結婚するということも危険な場合がある。だから昔から結婚は家と家の結婚であり個人同士の結婚ではなかったのである。それはそれぞれの家にカルマがあり結婚すれば必ずその家のカルマを受けることになるからである。ただすべてがその家が悪いカルマだけだとはならない。でも金持ちだからといって結婚すればそこに悪いカルマ受けるということもある。

ともかく人間は何らかカルマを背負っている。そのカルマは一代では消えない次の代の人がそのカルマを受けて苦しむ。特に長男長女はその家のカルマを受け継ぐのである。それはいい面でも受け継ぐのだが必ず悪い面でも受け継ぐことになるから怖いのであるある。私の場合はなんとかそのカルマを受け継いだ悪いカルマでも受け継いだのだが苦しんで何とか解消したようには思える。でもその苦しみは並大抵のものではなかった。そこで人間不信に陥ったのである。

そもそも家のカルマというとき聖書でもカインとアベルの兄弟がいて殺人もそこで行われたからそのカルマは今でも人間のカルマとして続いているのである。兄弟間でも遺産相続で殺人でも起きている。アブラハムは正妻ではなくただ子が欲しくて奴隷に産ませた子供はイシュマイルでありそれがアラブ人の祖先だったということは現在までの何千年後までもそのカルマが消えず今もアラブ人とユダヤ人が争っているのかとまでなる。そこに何か根深い解消できない人間のカルマがあったとなる。

そして金は金であればなんでもいい使っても何も問題がないとはならない、もしそれが誰かを殺して得たものでありそれを使ったらその金が呪いとなる、つまり血塗られた金であるからある。だから一攫千金とか何か拾った大きな金などでもその金の素性がわからないから危険だとなる。そういう金はカルト教団に集まる金にもあった。それで金を奪われたとして統一教会とかと関係した安倍首相が暗殺された。だから宗教団体に莫大な金が集まるとしてそれも危険な金となる。その莫大な金を利用したい得たいということで人も寄ってくるしそれで遺産争いにもなる。もし粗末な家一軒しか残さなければ誰も寄って来ないとなるからだ。
いずれにしろ金をめぐって起きる事件はは尽きない、このカルマも世の終わりまで続くとなる。

2023年11月10日

社会的死の考察【失われた人間の存在意義】 【村でご先祖様となった社会との比較】

社会的死の考察【失われた人間の存在意義】

【村でご先祖様となった社会との比較】

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無数のマス目があり一つが消えても意識されない

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村の中で一人の人間は死ねば意識される、密接に村は一体化していたから

●村で働き死んだ者は御先祖様になる意味ーworkの意味

人間の死を考えるとき一つは生物的死がある。それは社会とは関係ない。誰しも生物であれば死ぬことは避けられないからである。その解決は社会ではできない。それは神との関係でしか解決できない。ここで問題にするのは社会的死である。
人間は社会の中で仲間の中で生きている。その最小限の単位が家族である。だから家族の中で人が死ぬと家族が最も悲しみ死んだ後でも供養する。 でももう一つ人は社会の中で生きているのだから社会的死というのがある。
例えば村という社会のなかで生きていれば人は死ぬと御先祖様になるという。そのご先祖様は山に行って春になると田植えの時期になると里にに下ってきて村人と一緒に田植えをするという田植えを手伝うという。それは何を意味しているのか。それは死んだ後でも村人と一緒に働いているということである。

英語のワークにはただ仕事をするという働くという意味だけではない。
「働く」や「機能する」から派生した表現で “work” は、
効果がある(薬やサプリなどが)効く

(機械やシステムが)機能する、動かない

workには何か様々な意味がある。作品という意味もある。機能するというとき社会に機能するということであり社会の中で働いていればその人は社会に機能する存在なのである。それで街に一軒しかなくなった自転車屋のことを死んだので語った。それは街の中で一軒しかないから貴重なものとなっていたのである。
つまり自転車を故障してもなおしてくれる人がいなくなったからである。だからこそ死んでその人が居なくなったことで社会が機能しなくなったともなる。その人は社会にとって不可欠なものだったことを認識したのである。

人は村社会で見れば村の中で共に働く仲間でありその一人でもかければ必ず意識したろう。そしてなぜ死んだら村のご先祖様になったのかということである。その人は死んでもやはりみんなが意識して村人が意識して存在していたのである。そして肝心なことは春になると山から降りてきて村人と一緒に田植えをする。それは村人と一緒にワークする働き機能するということである。
つまり人間は働くということはただ金を得るというだけではなかった。働くことは村人と一緒にあり村を支え合うものでありだからこそ死んでもまたご先祖様となり田植えの時期にわは緒に働いていたのである。ワークしていたのである。

●無数のパーツとなり存在意義が失われた

このことを考えると現在はどうなっているの現代の社会はどうなっているのか。無数のパーツに分かれて人は何をして働いているのかも見えない一人の人間が死んで消えたとしてもほとんど意識もしない。現実に小さな町であってもスーパーであれコンビニであれそこで働く人が変わってもまた死んだとしてもほとんど意識しないだろう。それよりそれは誰でも変わってやれるものであり極端になるとロボットにもなる。

現実に人間ではなく店も無人化してロボットがするようになる。それはすでに現実化しているところがある。ましてや都会になればさらに働いている人が何であれその人を意識するということはない。つまり今や無数のパーツとなってそれが一つ欠けからといって何か意識することもない。またそこを別なもの人でロボットでも埋め合わせすればいいとなっている。

とにかく働くということがただ金を稼ぐだけでありその価値とか意味を見い出せないのが現代なのである。だから一人の人間が死んだとしてもほとんど意識されない。ただなぜ自転車屋の人が死んでそれが死後も意識されたのか?。それは自転車屋が駅の前にあり駅と一体化していたためだった。なぜなら街の活性化のために駅を活性化するにはどうするかとか語ったことがあるからである。

だから不思議なことは電車に乗って無人駅になった駅に降りるとその前に自転車屋は今は閉じている。でもそこに仕事をしていた星淳一氏が迎えに来ているような感覚になったのである。なぜそうなったのかというと駅の前で長く自転車屋をしていて駅と一体化していたのである。それで死んでも自転車屋が星淳一氏が1迎えに来ているような感覚になったのである。つまり依然として街の中でワークして働いて機能していたとなる。
その自転車屋が記憶されたのはやはり個人ではなく社会の中で機能していたからだとなるワークしていたからだとなる

●文明社会で人間の繋がりがなくナチスやらカルト教団が生まれた

でも現代社会は無数のパーツになり個々の存在は希薄化して社会的死でも意識されない。ただ一つの部品が消えたというだけになってしまっている。それだけ存在感がなくなったのは現代社会だと思う。なぜなら人間の存在意義も希薄化してただ機械の部品のようになってしまったのである。
ただそのことからなぜナチスが生まれたりカルト教団が生まれたりしたのか。それはこうした現代社会の無数に部品化した人の集まりから何か一つの人間としてのつながりを求めて生まれたものかもしれない。

現代社会は大衆化社会でありそこに人のつながりはない。人間は本質的に人間のつながりを求める。だからこそ家族が不可欠になっているのである。でも社会では今やそうした繋がりを得ることはできない。それで擬似的つながりとしてカルト教団が興隆した原因である。それは本来の宗教とは何の関係もない。なぜなら欲望を抑えろとかそんなことを心を清めるとかそんなことは一切言わないからである。
ただ一票を集めるためにただ人を会員を増やすことを目的としてありあとは何も言わない。宗教だったらいろいろ制限がされるカルト教団にはそんなもの一切無いのである。ただ数が増えればいいだけだからである。それもやはり現代の抱えた現代の文明が生んだ病理的現象だったのである。

そして村社会など閉鎖された遅れた社会であり自由もなく逆らう者は村八分にされるという何か村というのは否定的なものとして見られたのである。
でも現在の比較でみるとそういう社会が現在より人の濃厚なつながりがありそれが自然とも通じていて死んでもご先祖様として意識される。すると村の中でやはり人間としての存在感があり生きる意味があったと思う。

ただそんな村社会など遅れた社会であり常に否定されるだけになったのである。でも本当にこの文明社会というのは人間にとって人間らしく生きられる社会とかとなればそうでもないのである。文明そのものが病んでいるからこそナチスとかが生まれたのである。人間は無数のパーツアトム化して人間社会的にその存在も機械の部品に過ぎず一人が死んでも歯車が一つ消えたというだけになってしまう。それでいまや人間の死というのは何か価値あるものでもないし社会にとっても意識されないのでまたそこに存在意義がない。ただの部品が消えただけだどうなっている。だから人間とはそんなものなのかとなるとあまりにもわびしいとなる。

●村社会と文明社会の相違―村社会は遅れていたのか?

だから奇妙なのは今山村などは限界集落化してそんなところに住むべきではないとしているが価値生きる価値とか意味を追求していけばそうはならない。人間の存在は意味は返って大きなものとなる巨大な機械の一部品でありそれが死んで消失しても誰も意識などしないのである。人間の意味とか価値を追求していけばでも山村でもそっちの方があるとなる。そこに逆説的なものがある。
つまり現代文明人が得たものは失われたものは昔の村にあったということである。それは今と昔を比較して理解できるのである。

だから歴史を知るということはそこに意味がある現代の矛盾とか問題を知りは過去はどうであったかということ知り比較すると明確になってくるのである。確かに物質的には現在は豊かになっても精神的には貧しいと自覚されるのである。
とにかく人間とは何かを得るものがあれば必ず何かを失っているのである。その失ったものがなかなか自覚できないのである。それは人の繋がりとか人間の生きる意味とか価値が失われてしまったということだから深刻なものでもある。でも日々の生活に追われて金に追われてそんなことを考える人は特殊な人だとなってしまう。

それで特別優れた天才などはアウトサイダーになった。ニーチェとか上野霄里(うえのしょうり )とかまたシュペングラーにしても西欧文明の没落数の面から指摘したのもまさに大衆化とは数の文明であり一人一人は数に過ぎないとなるからである。
そこに一人一人の存在意義などないのである。ただ票が集まると権力化してそれが社会に通用するとなる。一人一人の一票の中身などどうでもいいのである。いちいちその一人どうだとか心がどうだとか言っていたら票など集まらないからである。だから現在というのはナチスとかファシズムとかの危険が常にある。それは一人一人の存在意義が失われているからである。

それで村社会など遅れたものであり考察にも値しないとなるが精神的な面からすればそうでもなかったとなる。なぜなら現代では老人等尊敬する人は居ない。あまりにも数が多すぎてただ社会の負担とされているだけだからである。
でも村社会の中で死んだら御先祖様となるということはその村の中で尊敬されてそれも死後も生きつづける。そしたら人間の存在意義とかから見れば遅れたと言われる村社会の方が生きる存在意義があったとまでなるのである。
ただ物質的な面とか便利さを追求すれば現代社会は便利である。
でも老人は敬われないし長生きしてもいいことはないといくら医療が発達して長生きしても老人は幸福にはなれないのである。だから歴史を振り返り過去過去と比べると何が失われて確かに物質的には得るものがあったか失われたものもあったということである。それが今問題になっているのである。物質的には満たされている。

田舎ではみんな車一人一台もやはり持っている。パソコンだって今は6万くらいでいいものが買える。何かこれこれが欲しいというか買いたい物も無いのである。そして今人々が求めてるのはそういう物質的なものではなく老人として敬われたいとか価値あるものとされたいとか存在意義を持ちたいとかなっているのである。それを追求すると逆説的だけど村社会にあったなる。だから必ず人間社会は得るものがあれば失われるものがあるということである

2023年10月28日

カルマは自覚できないことが最大の問題 【でも必ず苦しみとなって現れ自覚させられる】

カルマは自覚できないことが最大の問題

【でも必ず苦しみとなって現れ自覚させられる】

●何も起こらなければカルマは自覚できない

カルマの問題は自覚できないことである。それが盲点になっているのである。何も起きないからさらに自覚できなくなる。でも苦しみとなって表れた時否応なく自覚させられるのである。
今回のガザのイスラエルのテロにしてもそうである。確かに大掛かりな衝突はなくなっていた。これまでにない平和が続いたということを言っていた。中東戦争から50年年大きな衝突はなくなっていたからである。
でも常に小競り合いがあり問題は解決せず先延ばしされただけであった。カルマは消滅したわけではなかった。
カルマの問題は何も起きなければ苦しみもなければ自覚しないのである。でもそうであってもそれは嵐の前の静けさのようなものでもあった。根本的な問題カルマは消滅していないからである。

何か地震のように何も起きていない時間が長くても必ず大きな地震が起きてくる。それは根本的に地殻変動というのは終わることがないからである。それが地球のカルマなのである。
カルマというときだから恵まれた人にもカルマはある。ただ恵まれているから自覚できないのである。でもいつか必ずカルマを自覚させられるのである。それは自分自身の事でもあった。あまりにも恵まれていたことがそれがカルマとなっていたのである

そして2人の親を介護するとき地獄を経験したのである。そういう不安はあったがそれほどの苦しみが与えられるとわ思わなかった。その時自分のカルマを明確に自覚したのである。
カルマは必ず苦しみとなって現れる。でもその最大の問題は自分のカルマが何なのか自覚できないことなのであろ。恵まれていれば別にこれでいいとなってしまうからである。おそらくガザの問題でもイスラエルでもその問題は何も解決していないのに目をつぶってしまっていた。それが突然を爆発したように見えるがそれは必然的だったのである。

要するに不遇な人でも恵まれた人でもそれぞれにカルマを背負っているのである。それが苦しみとなって現れないとカルマを自覚できないのである。でも地震でも津波でも定期的に規則的に襲ってくる。だから備えなければならなかったのである。でもこのカルマとなると分かりにくいし自覚できないのである。

●対人関係でもカルマを負っているが自覚できない

その女性は夫が若い時から病気になりそのために一生苦しんだのである。でも娘は優秀な技術者と結婚して何の問題も起きなかった。でも事業を始めて失敗して同じように夫で苦しむことになったのである。これなどもどうしてそうなったのかとなればやはりその家のカルマとして苦しみが現れたのかもしれない。それは私の家とかなり深く関わっていたから私自身も苦しめられたのである。そもそもその娘にしても自分のカルマが何なのかなど自覚しないのである自覚できないのである。相手が優秀な人ならいいとなるのは当然だからでる
そこにカルマの盲点がありカルマで苦しむことが終わらないのである。

ともかく自分のカルマが自覚できないという時それが最大の問題なのである。恵まれていれば何も起きなければ全くカルマは意識できない。でもいうことがあってもカルマが表面に現れていないというだけであり潜伏しているのである。それが表に必ず苦しみとなって現れてくるのである。

例えば体にしても必ず60過ぎ頃からどこかしら不調になり病気になってくる。それはそれまでは何が起きなくても体というのは老化もするしどうしても病気になりやすくなる。それは体自体が老化して弱ってくるからそうなるのである。ただ若いときはそれが自覚できないのとで似ているのである。人間は潜在的に病気になるようにできているのである。ただ若いうちはそれが表面化しないのである。

人間関係にしてもカルマを負うことがある。人に世話になるということもあある。でも必ずしもそれを自覚しない。良くされて得したということしかないかもしれない。でもその良くしてくれた人が病気になったりして助けてもらいたいとき助けないということもある。それは自分自身はカルマを背負ってるということ自覚しないからである。その親戚というわけでもないが私の家では世話したのである。でもその娘とかはほとんど自覚していない。だから私が家で困った時助けないというのではないが何かよそ事になっていたのである。それは自分自身のカルマのことを自覚できていないからそうなるのである。とはいうもののそうされるのもまた私自身のカルマだったのである

●人類はカルマで罪で最後は滅亡する

カルマの一番の問題はこうして自らのカルマを自覚しないことなのである。だからカルマを解消しようにもできないとなるのである。ただ苦しみのために藁をもつかむ思いでカルト教団などに頼る。そして餌食にされるだけである。そういうカルマは別にカルト教団に入ったからといって解消できない。それを個々人に違っているし政治的にも解決できないことがあるからである。また金銭的にでも解決できないことがある。

でもカルマを解消しようとしてそういう団体に頼る。そしてその団体の勢力拡張に利用されるだけだとなる。そもそもそういう団体は個々人のカルマの解消など関心もないからである。会員一人増やして勢力拡大を目指すだけでありそういう面倒なことにかかわらないのである。それよりそのカルト教団などは巨大なカルマを背負った場所なのである。だからいずれそのカルマが苦しみとなって現れる。分裂したり争いになったり積もり積もった団体のカルマがいずれカルマとなって噴出してくるのである

そもそも人類そのものはこれまでどれだけのカルマを積んできたか。歴史を振り返れば眩暈がしてくるだろう。だから最終的に人類がハルマゲドン戦争で滅亡するとかカルマが積もり積もってそうなるのである。カルマの解消は人類滅亡の最終戦争になってしまう。それほど人間はカルマを積む罪を積んでゆくものだと思う

人間はそもそも罪を犯すにしてもその罪を自覚しないのである。殺人犯でも何か悪いことがしたと反省しているのかとみたらしていない。たまたま運が悪かっただけだと思ってるだけである。カルマが自覚できないように罪も自覚できないのが普通なのである私が何か悪いことをしましたかとなっているのは普通である。みんな善人なのである。てもどこかで苦しみが生じてなんで自分はこんなに苦しむのだとなり初めてカルマであれ罪であれ自覚するのである。


2023年10月07日

歴史は失敗の記録 【個々人の人生も失敗の記録カルマは繰り返す】


歴史は失敗の記録

【個々人の人生も失敗の記録カルマは繰り返す】

●聖書も神話も今も通用するのはなぜなのか

人間の歴史を振り返れば失敗の記録である。聖書でもそもそもが神が食べるなと言った知恵の実を食べた結果として人間は神から離れたものとなってしまった。そのことが最大の失敗でありその失敗したアダムの子孫が人間でありそれが変わることないからやはり同じ失敗を繰り返す。人間の失敗というときそれは神話の時代から続いている。

プロメテウスはゼウスから火を盗んだという時もそうである。その罰は過酷だった。その神話は現代にも通じていた。その火とは原子爆弾ともなり原発事故にもなったのである。
人間の失敗の淵源はそこにありそれは消えることなくカルマとなり継続されているのである。だから人間の科学技術でもそれは必ずしも成功するものではなく失敗することもある。
原発原子爆弾でもそうであり原発でもそうである。それはどれだけの災いをもたらしたかだからこそ火を盗んだプロメテウスの罰は過酷だったのである。科学技術でも遺伝子組み換えなども相当に危険なものかもしれない。何か神の領域に人が勝手にはいり操作する。そこで大きな禍が起きてくるかもしれない。
それは人間の知恵は万能ではないからである。核のことでも全部わかっていなかったからである。処理水にしてもそれを海に大量に流してどうなるのかわからないと言う。安全だと言っても結果をみないとわからないとなる。

失敗というときなぜ繰り返すのか。それは人間に欲がありその欲が消えないからそれがカルマとなって同じことが繰り返されるのである。人間から様々な欲が消えることは無い。だから具体的にわかりやすいのは女性に対する欲でありそれでも失敗する。その誘惑に負けて失敗するのである。
聖書では女性に誑かされて怪力のサムスンが力を失ってしまった。ダビデは王となり部下の妻を魅力に負けてその夫を戦場に出して死なせてその妻を自分のものにした。聖書でもやはり失敗の記録なのである。日本でわ久米仙人が女性の脛を見て天から落下したというのもそうである。つまりそこで神通力を失ったのである

まず世界史でも日本史でも人間の失敗の記録は歴史である。その失敗を繰り返すのはなぜかとなれば追求していけばそれが常に教訓となる。つまり歴史とは人生でも失敗の記録でありその失敗から教訓が生まれ庶民でも諺は生まれたのである。
そしてなぜそれが今でも通用しているのかとなれば人間自体の欲は消えないし人間はやはり神が食べるなと言った知恵の実を食べたということで原罪になっている。そのとき人間は神から離れてしまったのである。そして人間の力で神のようになる事を望んだのである。そのことからして必ず人間は失敗するようになる。もし神の御意にかなうように生きれば失敗は無いのである。

●人間の欲は消えずカルマとなり失敗を繰り返す

歴史とは人間の失敗の記録とすれば個々のの人生もまたほとんど例外がなく失敗の記録である。それはなぜなのか。そもそも人間の欲は消えないしいくら科学技術が発達しても人間自体は知恵の実を食べて自らが神のようになったというときそのことからして常に人間は失敗するようにできているのである。

そして人間社会というのはいくら科学技術が進んでもまた社会が変わってもなぜ理想社会ができないのか。それは人間自体が変わることがないからである。共産主義がで理想の社会ができるとか熱狂したがその結果は独裁者が生まれ何千万人なのか粛清されて殺されたとか言われる。カンボジアでは200万人が粛清されて骸骨の山の博物館となっている。つまり人間は社会自体を変えることは永遠にできない。そもそもは人間自体が変わらないからである。その欲は消えることはないし共産主義でも内部で権力争いがありそこで粛清されて殺される人が必ず出てくる。

それは何かカルト宗教団体とも似ている。共通しているのは人間の組織化でありその組織で序列化をする。幹部でもその組織は軍隊組織であり一人の独裁者が教祖でもナチスのようになり命令する。それが殺人でも組織化されて正当化される。それがオウムでもあった。そこには優秀な理系の大学を出た人たちがいて高校しか出てない人が上に上がりたくて積極的にサリンを撒いたと言っていた。その内部でも地位を上げるための権力闘争が行われていたのである。それは宗教団体でも宗教だから関係ないとみているが集団化組織化した宗教は共通しているのである。
一人の教祖が神のように崇められ偶像化してその大多数の人が組織化して序列化して軍隊組織になる。それは創価でも参謀とか隊長とか完全な軍隊組織なのである。だから教祖が神のようになり偶像となり絶対化してナチスのように他者を簡単に殺せと言えばその命令に従うのである。そこにカルト宗教でも共産主義者でも恐ろしいものがある。

また個々人でもなぜ人生が失敗であり後悔に終わるのか。例えば若気の至りとか必ずある。若い時のエネルギーが爆発してそれが過ちとなる。そういうこともカルマとして繰り返されているのである。そして人生を振り返り後悔することになる。
そして私も失敗した。私自身もは天才でもない、だから自由に生きたのはいいとしても社会から外れて生きることは難易度が高いのである。なにかおかしな方向に行ってしまいやすいのである。そして小人閑居して不善を成すと必ずなる。やはり一方で社会性を身に着けないと失敗する。それで親の介護で死ぬほどの苦しみを経験したのである。
とにかく人生で失敗したり後悔しない人は居ない。ダビデのような優れた人でも失敗してその失敗が教訓となっているのは人間の世界である。それは人間が滅亡するまでそのカルマは消えることなく続くのである。戦争でももう戦争など無いと思ったがやはり人間のカルマはおわらない。ウクライナ戦争がありやはり人間の業が戦争を作り出すのである。

●事業に失敗した人ーその動機が優秀であること示すため

なぜその人は事業に失敗したのか。特別誰も取れない資格を持っていた。だから会社でも収入が高く別に事業などしなくてもよかったのである。でもその人は常に優秀だと言われたから事業しても成功すると思っていたのであ。事業を起こした動機が私は優秀だから成功すると信じていたのである。でも会社で技術者として働くのと事業を起こして経営するのとは相当に違っていたのである。

でも動機からして自分の優秀さを示したいからしているというのも問題だった。そんな動機で事業をして失敗したら周りの影響も大きいのである。そして借金して苦しんでいる。そんな人が私が苦しんでいる時来たから最悪であった。頭の中が借金で一杯の人が人を助けることなどできない。だから事業でも簡単に起こすものではない。自分が優秀だとかみんなに見せてやるのだとかで事業を起こしたらそれがどうなるのかそれを考えるべきだった
ただ人間というのは常に他者より比べて優秀だということを争っている。その人は大工さんとして他にも庭仕事とかで優秀なのにそれではそれで満足はしない。だからまた別の事業をしてそれも原発事故などがあり無駄になった。
その人の事業を起こす動機もまたやはり自分が優秀だということ示したいためにそうしたのである。何か学校では優秀だとならず劣等感を持っていた。そのために大工でで優秀なことに満足せずやらなくてもいい事業をしてそれも無駄になったのである。

とにかく人間は自分は他人他者より優秀だということに非常にこだわっているのである。それで私の家族の一人は優秀だったにしても死ぬ間際に俺は優秀だったと言って息を引き取ったのである。それほどまでに優勝だということに拘っていたのである。
それで悲惨だったのはおそらく認知症になってそのことでなんとなく馬鹿になったことを気づいていた。だからこそそういったので俺はバカではないということでそう言って死んだのかもしれない。
ともかくこのように人間は異常に他者と比べて優秀だということを示したいのである。またなぜ組織を作り集団を作り集団になるとき必ず会社でもそうだが上下関係ができて序列化されそれは人間の業でもある。だからこそ人間はカルマ人を繰り返すから同じようなことを歴史の中でも繰り返すことになる。

●出世の意味

だからこそ聖書でもギリシャ神話でもほかの神話であれそれが現代まで通用しているのはまさに人間の原罪でありそれが消すことができないから継続しているのである。このカルマから脱することは不可能にもなっている。宗教の本来の意味は全く無視されて世間から脱して出世なのに栄誉栄華の地位を得る為に出世するということになったことでもわかるある
カルト宗教などはまさにこの世で出世して栄誉栄華の生活を送りたいというだけである。本来の宗教とは何の関係もない。だからそうした正反対になっている場で組織集団化している中でいられる人はすでに何か全く偽善の中にある。普通のまともな人ならとてもそんな中にいることできないはずである。

でもそれが多数となっているのはやはり繰り返される人間の業がカルマだともなる。
ただ理解しているのは御利益であり得するということでありそれはそれだけは常に誰でも理解する。発達障害の人でも理解している。利に敏いのである。それは直感的に日々の生活の中で計算もできないのに理解しているのである。だからそこでは実際考えることは必要ない。ただ御利益になること得することだを説けば誰でも即座に理解する。考えることもないからあれだけ人が集まるのである。





2023年10月01日

青春時代は出発点であり人生の方向を決めるから大事 (人間は失敗するのは最初に方向を誤ることーそして引き返すことができない)

青春時代は出発点であり人生の方向を決めるから大事

(人間は失敗するのは最初に方向を誤ることーそして引き返すことができない)

●若きときに神を覚えよ

ドラマで金持ちの家同士が意に沿わなくても政略結婚のようなことした。それは戦国時代でもその後もあった。でも現代ではそれは強制できない、別に親に反対もできる時代である。
それであとでいろいろ問題が起きて事件が起きた。人間は出発点が悪いと必ずその後に問題が起きてくる。その出発点になるのは青春時代でありそれでそこで方向を誤ると人生をの後悔するともなる。 青春時代は出発点でありそこで間違うと一生が間違った方向に行ってしまうともなる。

ただ若いときは先が見えない。何か時間が無限にあるように思えるので。だから若い時したいことをして欲の赴くままに生きるというのも普通にある。ただその青春の時代を実際はあっという間に過ぎる。それも一瞬の輝きだったとなる。それは女性にも言える。その若さは美は儚く30過ぎるとおばさんとかになってしまう。だから親はその美貌もすぐに色あせてくるから婚期を逃すから早く結婚しろとなるのである。

若きうち神を覚えよ知れという時それがなぜ大事なのか。神を覚える神を知るということが若い時しかできないからだとなる。別に年とってからの方がいろいろ経験を積んで聖書でも深く読めるしいろいろ理解するのだから別に若い時でなくても神のことを知るということはできると思う。でもそれができないとなればいかに若い時の時間が重要だったかあとで知る。でもその時遅しとなっていたらどうなるのか、もう時間を元に戻すことはできない

●カルト二世は親にすべて決められる

それは神を知るというだけではない就職するにしても何をするにしても青春時代が出発点になる。そこでその出発点が誤ると一生誤ってしまうともなる。それは怖いことである。だからカルト宗教の二世問題とかが深刻なのである。その人たちの一生がすでにもう生まれた時から決められていたとはである。その方向は親によって決められそれ以外考えられないとなっている。そういう家族では親に反抗するということは相当に難しいからである。

その人の一生は全く親に決められたもの以外ないないのである。そういう人は別の道があることも全く分からない。そしてそのカルト宗教団体について疑問も何もない。ただおかしいと気づいても目をつぶるのである。
なぜなら親の言うとうりになっていれば親からもほめられるしそれは家族のためになっているのだから家族に反抗するようなことはできない。そこにカルト宗教二世の深刻な問題がある。そういう人は親の言いなりになりその集団組織の完全な一員となり何ら個性を発揮することなくロボットとして奴隷として終わる。

その集団組織に従属して何一つその人が生きる個性も示すものことなくただハイルヒトラーで教祖を偶像化して一生を終わってしまう。これも恐ろしいことである。それもなぜそうなるのかといえば出発点が悪いからそうなったのである。だから青春時代は出発点でありその行く先が方向が決まってしまうから大事な時なのである。方向が間違ってしまえば北に行くのではなく東に行けばよかったとか言っても人生の場合は簡単に方向転換できないのである。

●なぜ大学選びが大事になるのか

なぜ大学選びが大事になるのか。それは大企業などでは選別するのにやはり大学を見ている。マーチから上でないと履歴書を見てすでにそこで選別されて入社できない。そこからしてやはりすでに差が出てきて生涯に影響する。もちろんそれが人間を全て決めるものではない。でも大企業に入るものと入れないものの差がすでに若い時にできてしまうということである。

ただそれから一流の大学を出ても会社に入って仕事ができないとかなりニートになる人も居る。だから学歴ですべては決まらない。社会で仕事ができるかできないかは必ずしも学歴では決められない。
でもそもそもが出発点で大企業に入れないとしたらその差が将来的に大きくなってしまうのである。ただ大企業でもそれがすべて価値を決めるというわけではない。人間の価値はあまりにも多様だからである。だから別に大企業に入らなくても自分自身の価値を作ることはできる。私自身は底辺でて社会から外れてしまったから出発点がそうなると一生社会から外れた人生になる。

でも逆にそのために自分自身の興味あること関心のあることを故郷で追求してきてきたのである。その成果をブログで出しているのである。ただそれは例外的なものであり特殊であり普通はやはり大企業に入るものと中小企業や底辺層になるのは相当な差になる。だ
から氷河期というのはその出発点でまともな会社に就職できず非正規になってしまったから45とか50過ぎて非正規であり結婚もできないしもう60になったら働くことさえできなくなり年金もわずかでありそれが今度は国の負担にもなる。
それは出発点から悪いからそうなってしまったのである。だから出発点が悪いと誤ると氷河期世代のように結局その人たちでも国家でも問題を抱えることになるのである。

●人間は先を見れない

ただ正直人間は個人でも組織集団でも国家でも先を見ることはできない。一時的にカルト集団でも創価などでも会員が爆発的に増えたことがあった。でも今になるともうその熱狂は終わり会員は増えることはないし衰退するだけになってしまった。そういうことは時代的に常にありあれだけ興隆していたのに衰退してしまうことがある。

七つの海を制覇した大英帝国でも今や小国に戻ったともなる。だから時代の変化で人間はその先を見ることができない。それで日本でも高度成長時代がありその後に失われた30年があった。その期間も本当に長かった。給料も上がらないそして今や円安で物価は上がり日本は世界でも実際は先進国ではない貧困国家になってしまったのである。 IT化に遅れ頼む日本は依然としてハンコとか戸籍とか保証人とかが必要であり何か自由に経済活動出来ない国であり改革できない国だったのである。

今や日本は高度成長時代は日本がすごいということばかり言われ日本は今や何でも悪いことしか言われないのである。その代わり方も激しかった。ともかく青春時代2は人生の出発点だから重要なのである。そこで方向を間違うと一生誤ることになる。だから大事なことは何か目先の利益だけではない何か未来にを作るものを志すということでもあ。それで立志式というのはあったということはそのためだったとなる。志すことが悪かったら一生もやはり悪い方向に行ってしまい一生を誤ってしまうのである。

●なぜ14才で立志式があったのか

14歳を祝う行事。
・奈良時代の「元服の儀」が由来。
・将来の目標や夢にして誓いを立てる。

奈良時代から立志式があったということはやはり時代が変わっても人間は変わらないことがある。まあ14歳となるとやはりその年頃でもうすでに将来に対して志を持つことが大事なのである。
私の場合はちょうど14歳に父親が死んだからそれ以来なぜ人は死ぬのかということが頭から離れなくなった。それで求道をしていたのである。その入った先はカルト教団でも私の志は目的は死の解決だったのである。でもカルト教団などはそうかでも他でもそういうことを問題にはしていない。
なぜなら社会で勢力を持ち権力を持ち知恵や名誉や金持ちになりたいというだけだったからだ宗教や信仰など追及はしていない。だから私は学生時代に辞めたのである。
つまりそういう場所で運動している人はこの世の栄華栄誉とか金持ちになりたいというだけである。そうしたギラギラした欲を持つ人たちが集まる場所なので。だからまともな人だったらそんなところに居ることはできない。

ともかく人生の出発点が誤るとその後の人生も誤った方向に行ってしまう。とても人生は短いから引き返すこともできないしやり直すこともできないのである。その深刻さが分かるのは老人であり老人は別に学がなくても何であれその人生の結果を否応なく示されるのでは。
俺の人生が無駄だったとかむなしいとかみんなになってしまっているのである。それは出発点が悪かったからである。ただこの世の栄耀栄華を目指してなんとか他者より優れていることを示したいとかそういう動機が悪かったともなる。

そしてその結果を老人になれば変えることはできなくなってしまうのである。何か方向を変えるのは若いうちなら出来るが30くらいすぎるともうできなくなってしまうのである。それだけ人間には充分な時間を与えられていない。だからチャンスにしても一回だけだとか結婚するにしてもその人が人を選ぶというよりたまたまちょうど若い時に出会いがありそれで結婚したという人も多い。その人がどういう人なのかとなど簡単に分からない。

というより人間には十分に相手を見たり考える時間がないのである。それより先にあるのは性欲でありそれゆえに交わり仕方なく結婚したとかも多い。そして1/3も離婚しているのはやはり十分に相手を見て選ぶ時間が人間にはないのである。
要するに人間はたちまち老いてしまう。そしてみんな後悔しているだけだる。どんな人でも後悔しない人はいない。たとえ恵まれて大企業に入ったとしても結局社畜だったとか言う人も多い
だから若き時神を知れということになる。若き時に神を求めよとなる。でもカルト教団は一切そういうことは教えないし求めていない。この世の栄耀栄華を求めているだけである。世俗社会より異常なほどにこの世の栄誉栄華を達成することをだけを求めているのである。だから仏法であれその教義とは正反対のことを追求しているだけなのである。だからなぜ宗教を看板にしているのか全く分からないとなる。


2023年09月28日

正直者は馬鹿を見るは本当なのか (私が家族の介護で経験したことーただ金を要求する人しか来なかった)


正直者は馬鹿を見るは本当なのか

(私が家族の介護で経験したことーただ金を要求する人しか来なかった)

「ずる賢い人が成功して、いい人は損をする」は正しくなかった|研究結果
ライフハッカー・ジャパン編集部 の意見

人に親切にすることは、誰もが知っているとおり正しい行ないです。では、賢い行ないとも言えるでしょうか?

うまく立ち回る、手を抜く、他人を操作するなどはすべて、手っ取り早く成功するために使われる戦略です。

こうした戦略はうまくいくのでしょうか? 古い格言にあるとおり「お人好しでは勝てない」のでしょうか?

自己中心的な戦略で成功したとしても、それはあくまで短期的なものであり、長期的に見れば「お人好しが勝てない」ことなどありません。

「ずる賢い人が成功して、いい人は損をする」は正しくなかった|研究結果

●介護の時金に困る人しか来ずに金を要求するだけだった

私の親の介護のことで塗炭の苦しみを味わった。そのことを延々と書いてきた。一人は事業に失敗して借金を抱えていた。その時点でもはや何も他者に対して助けることなどできない人だった。
だから自分が苦しんでいてもそのことを全く理解できていなかった。ただ金が欲しいということで何か事業で使った機械を1000万で買ってくれとか要請した。私はそんなところではない。親の介護のことで頭が精一杯頭がいっぱいだったのである。そして自分自身が病気でもあった。ただその人が何もしないということではなかった。でも借金を抱えていることでとても自分のことなどないがしろにされたのである。

まだこの辺ではその時原発事故があり避難者は住仮設住宅などに入ってきて混乱していた。だからその避難した人たちも私たちはとにかく助けられるべきだということで私が不満を言った時お前は冷たいやつだとか批判されたのである。

そのときは原発避難者や津波の避難所も混じり外部から援助の人たちがボランティアが来ていた。でも私のように個人的なもので悩むのは苦しんでいるものは全く無視された。そしてその原発避難者でも仮設に入って何もすることがないからパチンコとかギャンブル漬けだったのである。そんなところで借金していた事業に失敗した人の家族がパチンコ屋で働いていたとこあった。それも腹立たしいことだった。だからその時私は原発避難者にも不満を持っていたのである。でもそんなこと全体的には全く無視されたのである。ただそれは特別な異常な状態だからそれを批判するということもできない状態であった。

●私が苦しんでいることに全く配慮がなかった

でもなぜ私が苦しんでいることになんだ配慮はなかった。私のところに来た人たちは何か私の事に配慮が全くなかった。だから一人はれっきとした泥棒であり私が入院した時家が空っぽになり屋探して大金を盗まれた。
とにかく散々な目に合っただけでありそれも私のカルマだったともなるからあまり批判はできない。

人に親切にすることは、誰もが知っているとおり正しい行ないです。では、賢い行ないとも言えるでしょうか?

うまく立ち回る、手を抜く、他人を操作するなどはすべて、手っ取り早く成功するために使われる戦略です。

何か事業するにしても他者への心がけが親切心などが必要なのかもしれない。しかし現実は今の社会は他者から奪うということが普通にある。それが極端になると盗めばいいとなっている。現実に私に起きたことはそのことである。それは相手も金に困っているからそんな余裕がないからそうなったともなる。
そして金を持っている人から金持ちだったら奪ってもいいとなっていた。だから私が病気にもなり苦しんでいる時奪うというチャンスが生まれたのである。

でもそもそも相手が金持ちであり自分が貧乏で困っているときは金持ちから盗めばいいということことで正当化されるのか。そういうことをしてその人は裕福になれるのだろうか?そういう考えになる人もまた多いと思う。
逆に金持ちの家だったらそこに病人がいたら助ければそのお礼も大きなものになるかもしれない。ただそういう金目当てでだけでなく金持ちでも親切にすればやはり見返りがあるかもしれない。ただ金持ちはら奪えばいいという考えてはその人は裕福になれるのだろうか?

共産主義にはそういう思想がありだから貧乏人は搾取されているのだから奪えばいいとなり時の政権でも金持ちからでも奪うとなりそれが革命として正当化される。底辺層で恵まれない人はそうなりやすいのである。でも共産主義でも平等にはならなかった。
党の幹部に富が集まりやはり一部の人が豊かになる。富は一代で築けない、時間がかかり時間の作用があって一気に人間は平等化しない、でも貧乏であっても何代か時間がたつと富の蓄積が行われ豊かになう人もいる。だから一気に平等にするということは武力でも革命することには問題がある。それで失敗したのが共産主義革命であり粛清されたとかの数がカンボジアでは2百万人とか中国でもどれだけの人間が粛清されてころされたかわからないのである。

●金をとる奪うことしか考えない人が事業で成功するのか?

だからここで親切にすることはお人よしであり馬鹿げている。そんなことしても裕福にはなれない。それも一つの見方でありそういう人が多いかもしれない。でもそれが社会で成功するものなどだろうか。何か今の社会は金だけが目的であれ金になればいいとかなっている。それだけではない他者から奪うことが金にもなり裕福になる道だと思っている。ただ本当にそれで裕福になれるものなのだろうか。

それで私のところに来た人たちは一人は泥棒でありその人は果たして裕福になれるものだろうか。また事業に失敗した人は裕福になれるものだろうか。そもそもは相手が苦しみ困っているときただ金になればいいとしかないとしたらそういう人が果たしてで成功するものだろうか。確かに技術者としては優秀でも経営者としてはどういうこと成功するものなのだろうか。その辺は事業に詳しくないからわからない。でもここで書いていること親切にすることはお人よしでありそんなことしても見返りは無いともして人と接する。でもそういう人は本当に事業でも成功するものだろうか

ともかく一人の女性は金をくれとあからさまに言い本当に金を奪ったのである。だから極端でありそいう人もいるというのが現代である。
ただ今の現実社会はそんな甘いものではないとなりただし親切にしてお人好しの人などは貧乏になるだけだとなってしまう。でも本当にそうなのだろうかという疑問をここで呈している。

銀行でも投資信託を売りつけたかそれもただ銀行でもうければいいというだけであり客のことなどは考えていない。もちろん株とかは上がったり下がったりするからそれに文句をいちいち言うことはできない。でもただ銀行でもうければいいということしか考えなかったらどうなるのか。だからこそ転売して手数料を取ることしか考えてないとなる。そんなに転売する必要もないのである。でも転売するとその時手数料が入るのは大きいのである。

いずれにしろ銀行でもまた客から金を奪えばいいという考えしかない。それで銀行も仕事として成功するものだろうか。それもまた客から金を奪いということしか考えない。そこに問題がある。それは確かに一時的には金を儲けることができる。でもそれは一時的であり信頼を失うことにもなる。ただそれを全部銀行側の責任とはおならない。なぜなら客の方にも責任があり問題があるからである。

とにかく相手に親切にすることが助けることがお人好しだとして馬鹿にされることもある。でもガツガツとして相手から奪うということしか考えてない人が長い目で見れば成功するのだろうか。そのことをここで書いていたので納得した。短期的にはそれでいいだろう。儲かることは確かである。でも長期的に見れば逆にしてみれば損したとなりただ奪われたという感覚になる。それは株ならば上がったり下がったりするからそれをとやかくは言えない。
でもそんなに転売して株が上がった時も売ったそしてまた次の投資信託を買わせる。その時手数料が入り銀行にしてみればもうかったとなる。だからそういう商売は果たして長期的に見れば成功しているのかとなる。でも株とか証券とかはなかなか分かりにくいから一概に批判はできない。

●人を助けて親切にすればどこかで報いを得る

いずれにしろ私が経験したことは全く相手のことを考慮しない。何を苦しんでいるのかも見ていない。ただいま金がなくて苦しんでいるのだから奪いばいいという人しか来なかった。それは私の積んできたカルマだったのだ。また私の家自身のカルマであり一概に他者を批判はできない。
でも最近小さい事ではあるがカメラを忘れたりしたらわざわざ車で持ってきてくれた人がいた。また自転車で倒れたとき3人くらいの女性の人がわざわざ私のところに来て助けてくれたのである。それはやはり最近ボランティア的なことをしたり人を助けたりしたからそうそういうを徳積んだから見返りとしてそういうことがあったのかもしれない。見返りというのは必ずしも助けた相手からは来ない。全く知らない人から助けられるとこあり報いがあるということがある。
だから人に親切にしたり助けることは必ず何か報いがある。でもただ人を見たら苦しんでいる人であれなんであれ金になればいいとかをば良いとかとして接してくるとなるとその人に何か報いがあるのか。それはその人に取って悪いことが起きてくる。カルマとなってゆく。それは私自身が苦しみ経験したことである。
やはり徳は得であり親切にした他者をたすけることは得することになる
そのことをここでは言っていた

これを大きく世界的に見ればアメリカは世界の富を収奪したということは。そしてアメリカでも極一部の人がその富を一人占めする。もしアメリカでもその富を世界に分配して世界の人を豊かにすればアメリカはやはり栄えて衰退することはないかもしれない。でも世界史を見ればあらゆる国が栄えた国も衰退している。それは奢れる者の久しからずであり必ずある国に富が集中してもいずれは衰退してゆくのが人間の共通の歴史だったからである

別に中国がいいとかロシアがいいとかではないアメリカもやはり歴史を見れば衰退してゆく。七つの海を支配したイギリスでも衰退した。それと同じようにやはりアメリカも衰退する。それは世界の人間の法則のようにもなっている。この世に永遠に栄える国とかはありえないのである。ただもし世界の人たちを豊かにするいろいろな援助をして助けるということがあればやはりその国は栄えて長く長く栄えるということもある。

ともかく何かただ相手から金を奪う相手が弱ったときチャンスとなり金を奪うようなことをしていてそれが個々人であり国であっても栄えるものとなるだろうか。例えば中国でも確かに福島の処理水を海に放出することには問題がある。でもそれで困る人が相当にいる。中国国内でもいる。もちろん放射線の問題がありそれを許せないということはある。でもまたその魚介類でも売って生活する人がありそれは日本だけではない中国にもいる。そして本当に危険なのかどうかも分からない。
それは政治的なものであり科学的なものでも必ずしもない。そもそも原発自体が世界全体で作るべきものではないということもあった。それが一旦事故になれば福島のようにもう取り返しのつかないものになる。それは世界に波及するし今回のように世界の魚をべ食べられなくなる。だからこそ原発は作るべきではなかったのである。

●強欲資本主義はモラルがなく崩壊

他者に親切にすると言うのではなくそういうことはお人好しだとなる。かえって自分のためにだけ利益を追求して自分の会社のためにだけ利益を追求してもうければいいという感覚になっている。それが強欲資本主義でありそれが普通の感覚になっている時社会は荒廃する。すでに荒廃しているのである。だからもう資本主義というのはモラルも何もないから弱肉強食の世界で生きているとなる。そんな社会がどうして持続できるのだろうか。それはいつか破綻する。やはり人間社会でも共生とか共同とかがなければその社会は野獣社会となり食うか食われるかの世界となり地獄となってしまう。

現実に地獄にもなっている。ただいつの時代も親鸞が言っているように地獄は一定の住処なりである。いつの時代になってもこの世は地獄である変わることがないということである。だからこそやはり親切にするとかそういう人は馬鹿であり正直者は馬鹿を見るとかということわざも生まれたのである。でもそれが本当なのかやはり何らかのただそうして人間が利益をを追求するだけになったら人間社会そのものは自壊して行くだろう。現実にビッグモーターでもジャニーズ問題でも内部のモラルの荒廃から自壊するようにもなる。やはり結果としてそれを示しているともなる。一時的には成功しても長くは維持できない破綻して衰退するとなる

いずれにしろこの世を生きるということは何か。何か経験すればそこから教訓を得る。それでことわざというのは今にも生きているのは人間というものはそもそも変わらないからである。人間から欲を取り除くことはできない。だからこそ社会が変わっても科学技術がいくら進歩してもやはり人間自体は変わらないから同じような事件でも繰り返している。つまりカルマを繰り返すのが人間でありそのカルマ号が尽きることはないのである。なぜなら人間から欲がなくらないからである。

だからこそ自分のことばかり考えて自分の欲を達成するために手段も選ばず相手はただその欲を達成するために奪う存在だとなってしまう。また成功するためにはむしろ相手に親切にするとかでは成功しないとかなる。会社の経営でも客に親切に尽くすとかではなく客からいかにして金を巻き上げるとかになってしまう。それは極端にしろそういう考えで事業を起こしている人も居るだろう。まずは何でも利益が優先される。だからそこに多少の不正があっても目をつぶるということになる。そして利益を上げた人が褒められるし収入も多くなる。それはビッグモーターであからさまに起きたことである。

そして人間はとにかく相手より優れている成功者になりたい。そのために自分は優秀なのだということを示すために事業を起こしたのである。そういう動機になっていること自体が問題だったのである。そういうことで経営ができるのか成功するのかとなるとのかその出発点からして間違っていたのである。
ただ自分自身にしてもそういうことが起きたのは自分が積んできた何かのカルマでありそんな人しか来ないということ自体が自分のまた家族のカルマだったのかとなる。だからそんなに他者を批判はできない。でも現在はあまりにも金だけを追求して人に親切にするとかそういうことが無視されているのである。だからかえってそうそういうことでは事業でも成功しないのかと見る。

●大正生まれの馬鹿正直な女性

その女性は本当に馬鹿正直な女性だった。農家の女性でありその女性はまず嘘をつくことなどあり得なかった。何か今振り返ると私の家族はその人を馬鹿にしていた。でも認知症になったときその女性は私の家族によくされたわけでもないのに気遣ってくれたのである。これまで近くで親しくした人も認知症になったときは付き合うことはなくなった。でもその人はそういうことがなかったのである。でも別に私の家族に良くされたいということでもなかった。

だからその人はまれにみる馬鹿正直な女性だった。その女性は何か悪いことはできないまだしない。他者に対して裏表もない同情心を持っていた。だから今時そういう人は絶滅危惧種となっているかもしれない。どうしても戦後には特にそうなのかアメリカの民主主義が入ってきたとしても良い面はあったとしても人間はもはや金しか求めない。金が全てとなってしまったのである。
でも日本人はもともとそうでわなかった。いろいろな人がいるにしても日本人というのはこうして馬鹿正直な人でも普通にいたのかもしれない。そのために明治に入ってきたヨーロッパ人が日本人はみんな幸福そうだったというと言っているのは人間そのものが今と違っていた。何か悪というものを知らないというか馬鹿正直ということは素朴な人が多かったのかもしれない。

つまりそうして過去の人間のことが今になるとわからなくなったのである。同じ日本人でも今の人間は全く違った人間になっているのかもしれない。それは戦後はすべてアメリカに習ったからである。アメリカに習うということはアメリカはすべて金が第一であり金で全ての価値が決められる。そのことをアメリカに留学した内村鑑三は言っていた。
何するにしてもすべて金には金で測られる。でも日本は違っていると言うことを言っていたからである。何か講演してもその見返りとして金をいくら払えばいいとか金ですべてが決められる。そのことを言っていたからアメリカにすべてを習ったことが日本人もまた全ては金でしかなく金で計られるものとしてあるだけだとなってしまった。

だから戦前でも何か馬鹿正直な人がいたのかもしれない。ただそうは言っても同じ大正生まれでも全く違った人もいるから一概には言えない。でも何か日本人は金だけですべてを図るとか金で全ての価値を決めるとかそういうことはなかったのかもしれない。だから馬鹿正直な人がそれなりにいたのかもしれない。それは本当に絶滅危惧種となり今やもうそういう人は居ないだろう。常に利益を計算している。金をもらわなければ何もしない。何かしてもらえば金を払えばいいとしかなってない。

それはアメリカ人の価値観であり日本人はもともとそういうことがすべてではなかった。他でもラオスの人は素朴であるというときそこはまだ原始的でもあり文明も入ってきていないからそうなっていたのだろう。だから人間に言えることは文明化してもそれで人間が良くなったとも言えないのである。
返ってラオスのようにまだ外国人も入ってこない原始的な生活をしていれば素朴だとなる。でも最近中国人が入ってきているから商売にたけた人も出てくるし素朴さは失われるのである。
だから文明が人間の心を歪め素朴さを失わせる。それは日本でも明治以降に起きたことである。ただ戦前はまだ馬鹿正直な人でも日本人として素朴な人もいたとなる。ただもはやそういう人は絶滅危惧種であり現実にそういう人に出会うことはなくなったともなる。




2023年09月19日

人間の失敗の原因 (自然は成さずしてなる。人間はなして失敗する)


人間の失敗の原因

(自然は成さずしてなる。人間はなして失敗する)

成さずして成るー老子

●しなくてもいい事業を起こして失敗

近くの人は事業を起こして失敗した。その人はもともとみんなが取れない一級の免許を持った電気技師だった。だから会社に勤めていても高級取りだった。でもそれで常に優秀だと他から言われて事業を始めたのである。その事業の始める動機も何か東京とかの人のための別荘建てるような仕事だった。ログハウスとかを建てて東京の人などを相手にして金を稼ごうとしたのである。

その動機はただ自分が優秀である会社の経営者にもなれるそれを示したかったとしている。それが動機だったのである。でもその人は別にほかの人より優秀だったのである。その人を蔑むような人は周りでいなかったのである。
でも常に優秀だと言われているから経営者になっても当然成功して優秀だということを示したかった。でも実際はその事業も失敗して大きな借金だけが残されたのである。それで周りのものは大迷惑となったのである。
私自身もその人と関係していたから介護とかで苦しんでいる人がその人がきてもその人は頭の中が借金のことで生他人のことなど気遣うこともなかったのでだから苦しい時借金の要求にもなったのである。

もう一人の人は腕のいい大工である。その大工の仕事で充分に家族でもでも養うことができたしそれで確かに足りない面はあっても普通の生活はできたはずである。でもそれで満足することはなかった。その人はいい面としては大工だけではない庭作りもできるし壁塗りもできるしいろいろな事ができるのである。社交性もあり営業などにも向いている。

でもこの人も大工だけではその収入だけでは満足しなかった。もともとこうして何でもできる人だからホテル事業に手を出した。ホテルはラブホテルでもあった。このホテルを作るにも資金が必要だった。ただ大工ということがあってその建物を建てるときは家を造ることをしていたから役だった。それでその人は成功して立派な家を建てた。でもその家も津波で被害を受けた。でも流されたわけではなかった。今そこに住んでいないのは原発事故で避難区域になり不便なので隣の町に移り住んだ。

そして60以上すぎて熟年離婚となり一人で住んでいる。家族もばらばらになってしまった。息子は仙台市の方で移って仕事しているからである。確かに原発事故も原因しているがそれだけではないこれまでしてきたことが原因して今がある。何か性格的なこととかその人の人なりのことが原因もしているみたいだ。

●カルマとはこれまでした行為が苦しみとなり現れること

この二つの例の失敗の原因は何なのか。 2人はそもそもやり手であり優秀なのである。だからそのことが悪いわけではない。そして共通しているのは上昇志向が強いことである。他人より他人に負けたくない他人より優秀なのだということを見せてやりたいその上昇思考が強くでもそれだけやれてたということである。それだけの能力もあるとななっていた。

では何故失敗に終わったのか。たしかにそこには大工さんの場合は原発事故の被害があり津波の被害があるとその人だけの責任ではない。でもその人の責任も何かあった。結局人間は60すぎるとこれまでしてきたことが積もり積もってカルマとなって苦しみとなって現れる。それだけは間違いない。

私自身がもそうである。仕事もせず家に引きこもり30年間自由に旅などをして思うがままに生きていた。どうしても陰の性格であり社会生活馴染めなかったからである。
でも家族に恵まれてそういうことが出来たのである。でもその結果として家族が病気になり介護になった時自分一人でそれを背負わされることになった。
そして社会常識もなくなっていたから一人助けもなく苦しんでいるだけだった。それも自分のカルマだったのである。つまり人間は60以上になるとカルマの清算が強いられるのである。だから他人のことをとやかくようこともできない。ただそれぞれになぜそうなったのかということを知ればほかの人もこれから生きる人も若い人も参考にはなる。
要するにそれぞれの人生をふりかえると必ず何かその人の行為が結果として現れる。それが60以上にその行為の総決算が起きてくるのがカルマの法則なのである。

この原因の失敗の原因はどこにあったか

要するにしなくてもいいことをした

カルマとはこれまでしてきた行為が苦しみとなり現れること

これなのである。一人は何も事業など始めなくても充分に収入もあり他からも優秀な人と認められていたのだから別に事業など始める必要もなかったのである。でもさらに自分は優秀だとしてその優秀さを認めてやる認めさせるとしてそんな動機で事業を始めたのである。それがそもそも失敗の元だったのである。

大工さんの場合ももともと優秀でありやり手であり稼ぐ力はありホテルなど経営する必要もなかったのである。でも自分は何か学校ではあまり優秀でなかったからとか優秀なことを見せてやりたいとして始めたので。 2人の共通点はとにかく上昇志向がある強い。
でも別にその人たちは優秀であり他人からも認められているからそんなにまたさらに優秀だと事業を起こしていることが失敗の元になったのである。
大工さんの場合は原発事故とか津波がありそれも原因していたがやはりその人自身の性格とかしてきたことが原因していて家族もバラバラになった。だから結局不幸になったとなる。

ただ共通していることは優秀だということにこだわる。他者と比べて負けたくない優秀だとこだわる。それで私の姉も最後に言った言葉が(俺は優秀だった)とのである。そこまで優秀さにこだわっていたのかと理解できなかった。優秀だったことは間違いないし知っている。でも認知症になり馬鹿になったともなりそれで優秀だったと言ったのかもしれない。最後にどんな優秀な人も人認知症になれば馬鹿になったとなるから悲惨である。そこに人間の限界がある

●してしなくてもいいことをして失敗した

それは別にこうした個人の例だけではない。そもそも原発事故自体が原発を作ったこと自体がしなくてもいい作らなくてももいいのに作ったことによって最悪の結果になったのである。
確かに原発は地元の要求もありお金を稼ぎたいということもあり作られた。でもそれが必ず必要なものというものでもなかった。電気がなくてもいいというわけではない。でもこの夏が異常に熱くなっても電気は不足しなかった。だから電気は原発なくてもなんとか賄えるものだったのである

そもそも原発を作ったということ自体が問題だったので。その事業自体が必ずしも必要ではなかったのである。でも金になるとか作る方でも利権が関わり作ったのである。要するに人間の成すことが全て必要だから実際は成さなくてもなさなくてもいいものでもあえて成す。そのことによってこの大きな禍が生まれるのである。
それを説いたのが老子でありまたキリストでもあり釈迦でもあり宗教は大概人間の行為がカルマとなるというときこうして何か必要ないものでも成さなくていいことでも成す。その結果として災いが生まれるのである。

日本の戦争などでもそうである。なぜ300万人も死ななければならなかったのか。そもそも本当に戦争する必要があったのかそれ自体が問題だったのである。やむを得ないとか色々言われるが戦争というのも事業であり二つの例のように事業そのものが必要だったかどうかはわからない。でもあえてその事業を実行したということが300万人も死ぬという結果になったのである。その300万人の死が何か讃えられるべきものなのかということもわからないのではある

結局人間の問題は成さなくてもいいことも成すてそのことから大きな災いが生まれてくる。戦争もその一つの例であり事業でもそうである。本当にその事業が必要なのかどうかはわからない。ただ橋一つは作ればそれでみんなが助かるということはある。でも事業自体が本当に必要なのかどうかは分からないものがある。でも相手それを実行すると成すことにより大きな禍ともなるのである


2023年08月27日

人間は生まれつきですべて決まらない


人間は生まれつきですべて決まらない

(一つの行為でも変貌してライオンにもなる)

「What do you do?」か「What are you?」か
欧米のビジネスの場では、初対面の相手に英語で素性を尋ねる際に、「What do you do?」という質問の仕方をよくします。一方、日本では多くの場合、「What are you?」という聞き方をします。

「What do you do?」は「あなたはどんな行動をして、どんなパフォーマンスをあげていますか?」という意味です。つまり、「人にどんな価値を提供できるのか」という可能性を聞いています。

●人間の特徴−動物との相違ー生まれつきで決まらない

人間の特徴とは何なのか。動物なら生まれた時からすでにその未来は決まっている。猫に生まれたらネコであり犬に生まれたら犬でありネズミに生まれたらネズミである。
そして別に生まれてすぐにも自ら立って本能でも生きてゆく。確かに親に教えられ餌を取る能力を身につけるがそれも短い期間である。本質的には本能によって教えられなくても自ら生きる力を持っている。

では人間はどうなるのか。確かに人間でも生まれつきの才能は大きく作用する。だから生まれつきの才能でその将来も決まるとかも言われる。それも現実ではあるが人間にはそれがすべては当てはまらない。人間の特徴はその生まれた家族とか環境の影響が大きいのである。
どんな家に生まれたのか。どんな場所に生まれたのか。どんな人々と交わって育ったのか。そういう環境因子が人間を作る。
そして人間は生まれつきとかですべてが決まるわけではない。確かにその生まれつきの性格とか才能は後々まで影響する。でも人間の特質はその生まれつきのものを超えて人間自体が変わることができる。

極端に言えば自然界ではネズミはネズミであるネズミがライオンになったりはしない。でも人間の場合はネズミのようなものであってもあることをきっかけに行動によってライオンにもなるのである。人間っていうのはだから生まれつきで決まって決められないのである。一つの行為で人間は変わる。
だから聖書の不思議は理屈ではないし理論でもない。神に選ばれた人間が奇跡を示す。それが聖書の基本的な物語である。その神に選ばれた人は人間として特に優れた人でもなかった。
だからなぜそのような人が神に選ばれたのかという不思議がある。優秀な人がいるのだからその人を選べばいいとなる。でも天才とかなると確かに人並み優れたものとしてありそれも稀であるがそういう人は神に選ばれなかったのである。

●一つの行為でも神に選ばれて人間は変わる

人間の特徴はこうして生まれつきでは決まらない。人生を生きる中で一つの行為でそれがその人を変わることがある。つまり人間にとって大事なのは必ずしも生まれつきではない。何か一つの行為がきっかけとなりそれで神に選ばれるということが聖書を読めばそういう何かを神に選ばれた人が何かを成すということを記したのである。

その神に選ばれた人はその人自身が何かを成したのではない。神の力はその選ばれた人に加わったのである。だからこそその選ばれた人が何を成すことが出来たのである。それはそこに神の力が加わったからである。そこに人間のと動物とかと違う。
とてもネズミがライオンになったりはしないからである。ネズミはネズミとして生まれ死んでゆく。しかし人間はライオンに龍にすらなる。だから人間は確かにお生まれつきとか環境とかの影響は大きい。でも人間は一つの行為でも変わることができる。そして壁に選ばれて神の力が加わり大きなことを成すこともできる。

動物の特徴はネズミから生まれればネズミであネズミの親から生まれればその子はネズミである。猫から生まれればその子も猫である。猫のの子から虎になったりはしないのである。でも人間の場合はもともとネズミでもあってもライオンや虎にもなる。
それは一つの行為によってそうなるのである。その行為というのは生まれてから生きる中で起きてくる。自らの意志で行為した時それはその人を変えてしまうのである。そこに神の力が加わりその人は前とは違った人となってしまうのである。
だから人間というものは神と結びつくことによって本当の力を得るのである。そして人間はどんなに能力があってもその人が優れていてもそこに限界がある。いくら優れていてもやはり全能の神からすればわずかな能力だとなってしまう。全能の神がなすことと人間のなすことの差が大きいからである。

●人間は神に選ばれない限り満足しない

そして人間は決してノーベル賞をもらったとしても満足することはない。どんなに優秀でも満足できないのである。でもたいして才能もない優秀でなくても神から認められるその人は満足するのである。それが聖霊であり永遠の命を神から与えられることである。
とにかく人間は自分が優秀だと相手と比べて常に競っている。学歴でも競っている。俺はお前より優秀なんだと常に競っている。そして他者と比べて必ず劣等感を持つのである。
だから人間の間で俺はお前より優れているとか比べているのは全能の神から見ればおかしなものになる。人間の持っているわずかな才能で俺はお前より優秀だとかするのは滑稽だとなってしまうのである。全能の神に比べれば人間などはとるにたりない能力しかないのである。

だからむしろそうして比べてどっちが優秀だとか言うのではなく赤い色があり黄色い色があり青い色がある。それぞれに個性がありどっちが優秀だということはないのである。ただ色が違っていて個性を持っている。でも赤も黄色も青も一緒になって決して争うことはないのである。返ってさまざまな色がありその個性が調和するのはこの世界である。それは花を見ればわかる。花は青いからといって赤い花より劣っているとか赤いから優れているとか競わないからである。さまざまな個性の花の色がありただ調和しているだけなのである。

●親と子、世代間対立は人間の宿命−時代が変化するから

また人間の問題としてネズミの親がネズミなら子もネズミとはならない。どんな親に生まれるにしろ親と子の人生は別なのである。
むしろ親と全く違ったものとなることがその人なりの人生を生きたということにもなる。だからカルト宗教団体の二世というのは全くその親の言うとうりになりその団体のいいなりになり身も心も一つの色に染められて自らの人生を生きることはしないロボットになる。そうしていれば親からも褒められ親の言いなりになって親に尽くしたとして褒められることになる。

でもそこで自分の人生は失っていたのである。そもそも人間の特徴として親の言いなりになって生きることがなぜその人自身の人生を失ってしまうのか。
それは人間というのはその社会でも常に変化している。価値観でも変化している。だから私の親が酒屋の丁稚であり私を丁稚にしてしようとしたのかもしれない。それでそらソロバンを習わせたり店をしていたから配達ばかりさせられていたのである。そういう環境にしかなかったからである。

でもはなぜか親は大学に上げろといっていた。それは親自体がそうして下積みで苦労して生きてきたから大学を出せば楽できると思ったのかもしれない。ただその時大学とは言っていない。そもそも大学ということを知らなかったと思う。明治生まれでおそらく学校も出てない人だったからだと思う。ただ上の学校に行けば楽できると見ていたのである。でも父親は中学のとき死んだのである。だから私の場合全く父親とは違う人生を送ったのである。それは旅の人生でありそれは遊びといえば遊びである。

でも不思議なのは団塊の世代はみんな企業戦士とか働くことしかなかった。でも最近なぜ自由に生きるとかみんなアーティストになれとかただ働くばかりの人間がいいものとみていない。そこに大きな価値観の変化がおきたのである。ただ働き詰めの人生が良くは見なくなったのである。

もし明治生まれの父親が生きてたら決して私のように旅ばかりして遊んでいたりしたらそこで衝突が起きて悲惨なことになった。それは時代によって価値観が変わってしまうからである。そこで親と衝突するのである。だからどうしても親と子は衝突する。それが普通なのである。親の言いなりになる時全てではないにしろその人自身の人生を失ってしまう。
それは特にカルト教団の二世に起きているのである。カルト教団にとってその言いなりになる人は親孝行でもあり親にとっては一番いい子なのである。それは既にその人生が親によって決められてしまったのである。それが宗教になっているから宗教は絶対だから余計に始末悪いものとなってしまったのである。

また親子の対立は世代間の対立であれこれは時代が変わってくるから起きる。でもこの世代間の対立があって次の時代が作られるのかもしれない。今までの古い時代の価値もあるが新しいものを作るときやはり前の古い価値も継続されるとしてもまた否定されなければなれない。
そういうことは明治時代におきたのである。古い日本の伝統的価値も継続されてまた新しい価値を外国から取り入れたからである。和魂洋才というのがそうである。だから不思議に明治時代に一番漢詩が興隆したのである。それができたのは江戸時代300年の蓄積がありそれが明治になって開花したのである。
それで明治時代は偉大な時代であった時代になったのである。だからすべて古いものを否定するということではない。でもどうしても親と子が対立するというとき世代世代間の対立はあるというときそれは当然のことなのである。それが人間の宿命でもあるわけである。

人間という存在は固定しては見れない。常に変化する存在なのである。社会自体も常に古いものを尊んでも新しいものを取り入れる新陳代謝しないと停滞してしまうのである。そこで少子高齢化というのは自然の理にも反している。古い伝統的なものも継続されるべきだがまた新しいものも取り入れて社会を刷新しないと遅れてしまうのである。今日本は貧困化して何か社会全体が停滞して危機的な状態にもある。それを変えようとやはり次の世代の若い力が必要である。どうしても老人は保守的になってしまうからである。また新しいものを取り入れない。だから老人はIT社会に馴染まないのである。すると日本社会全体が世界から遅れてしまうのである。

2023年08月11日

天皇とは何なのか? (神権政治が生まれた背景ー人間は人間によって治められない)

天皇とは何なのか?


(神権政治が生まれた背景ー人間は人間によって治められない)


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加治将一

歴史的考察で浮かび上がる真実の姿。天皇ファンタジーと日本の現実


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●天皇は日本独得のもの―外国の王とは違う


天皇とは何かそれは日本独特のものであり。なぜ天皇は生まれたのかその経緯はどういうものだったのか?それは神話的にもなり明確ではない。天皇が初代天皇の神武天皇は実在の天皇かどうかは不明である。でもなぜ日本では21世紀までも継続されたのか?これはやはりなんらかの存在理由がある。


それはおそらく日本という国が海に囲まれていて一つの世界になっていたからかもしれない。大陸だと必ず民族の興亡があり国でも継続しないということがある。日本は明治維新まで外国から侵略されたということはない。征服されたこともない。それはアメリカに負けるまでそうだったのである。だから日本という国は他国に異民族に支配されたということはない。だからこそ天皇は継続されたのである。でもアメリカに敗れた時天皇もアメリカに裁判されて死刑になったかもしれないのである。でもそれは日本は統治できないとして天皇温存したのである。


何か天皇というとき外国から見ると国王なのかとなる。でも国王でもない国民の象徴とかという抽象的なものになっているのである。また天皇は強大な権力を持っている存在とも違う。確かに皇居とかは広大な土地であり。東京の中でその土地の価値だけで莫大なものになる。また別荘もあり、その土地も広いから。財産は巨大なものになる。

でも中国と比べると中国の皇帝とかは欲望でも歯止めがなく宮廷に千人の女性を姓の奴隷のようにしてはべらせ使いさせまさに酒池肉林とかその中国人の欲望とは限りないのである。 

中国だけでなく大陸の帝国はその王は巨大な権力を持ち中国では地下にまで皇帝が死んでも支配しようとし大宮殿を作っていたのである。


そういう皇帝とか王と比べると日本の天皇はそんな巨大な権力を有していない。 確かに仁徳天皇の古墳などは巨大だから権力も巨大だったともみる。でも古墳というのは必ずしも墓というものでもなく天皇のために作られたというものでもない一つの共同体の象徴としてあり中国の皇帝のように一人の王のために贅沢を尽くすというそういう種類のものでもない。中国のような巨大な国家は人民は奴隷のようにされてしまう。一人の王のために絶対君主というか王がいて力で治めるしかない。それで民という字が人の目を潰すということからきている。これも中国の恐ろしさである。


日本でも江戸時代だと見ざる聞かざる言わざるとして民衆は何も言えなかった。でも中国となるとその巨大な国を治めるだけでものすごいエネルギーが必要になってくる。


だからどうしても圧政になるのである。それはロシアとか見てもわかる。広大な土地を。人民を治めるということはどうしても強力な圧政になってしまうのである。 

中国で民主化するということが難しいのはその土地が広大であり人口も十億以上いてそんな人民をどうしてまとめるかとなる。圧政しかなくなる。もう民主制度になったら収集がつかなくなるかもしれない。みんな言いたいこと言っていたらとても広大な土地と10億人以上の民をどうして治めるのかとなってしまうからである。

だから中国というのは自分の国内をまとめるだけでものすごいエネルギーが必要になってくるのである。 


●人間を治めるために神を利用した神権政治になった


それに比べると日本は小さな国である島国である。だからこそまとまりやすいのである。強大な権力を持つこともできない。それだけの土地と人民がいないからである。 

一つの国をどうして治めるのか?それが人間の政治の課題でありそれは21世紀になっても解決しないのである。

一見民主主義が良いようでもそれもうまくいっていない。一体どうしたらうまく治められるのかは永遠の課題であり。そしてそれは解決しないのである。民主主義は理想のように言うがそれもただ暴力で持って治めることを権力を得ることをしないというだけであり何か理想的なものでもないのである。権力を得る為にはどうしても殺し合いがありそれを止めるために民主主義が生まれた。

ただ、それが全て上手くいくとなっていない。ただ大陸の圧政のようなよりはましだというだけである。政権交代するために殺し合いはしないからである。


おそらく人間は永遠に治めることは出来ない。それは人間のカルマである。 なぜまた21世紀になってロシアで戦争を起こしているのか?やはりそのカルマが終わることはないからである。 ロシアも今広大な土地を持っていて人民は1億人くらいでもその広大な土地に散らばる。人々を治めるのは圧制しかないのである。大陸の巨大な国家は圧政になり王が巨大な権力を持つのである。


それはエジプトのように神権剣政治にもなり共通しているのである。王が神のようになってしまうのである。それはカルト教団にも共通している。21世紀でもやはり。政治というのは?継続してやはりを繰り返しているのである。カルト教団もやはり教祖が神の様になり崇拝させて人々を支配しようとする。それが現実に起きたのは創価の池田大作がそうでありオウムの麻原でもそうであった。幸福の科学の大川隆法でもそうであった。だから政治というのは何か依然として進歩していないのである。
ということは人間を収めるということがいかに難しいかということである。3人寄れば文殊の知恵というが反面人間関係でも3人寄れば必ず争いがありまとめられなくなる。


身近な家族でも同じなので。その中でも夫婦でも常に争いがあるのである。だからこそ結婚しても1/3は離婚しているのである。

どうしてまとめるのか?それで子は鎹となったのである。家族をまとめるのは実はその中心となるものは必要なのである。

それは前は長男はなっていた。でも戦後は兄弟長男の特権は失われ、兄弟は皆平等となってしまったのである。では家の中心は誰がなるのか?すると中心になるものが失い家族はまとまらなくなったのである。


その中心になるものは別に能力が優れたものでもない。ただ中心になるものがいないと家族でも少人数でもバラバラになってしまうのである。何か私の家族のことを延々と書いてきた。二人のの母親がいたとして争っていたが振り返れば私と言う中心になる人がいなければ家族は分裂していたのである。確かに分裂状態になってもう死んで家族は居なくなった。でも依然としてやはり家族は私を中心として存在しずしつづけたのである。

だからそこに中心となるものはどれだけ重要なものかを認識するべきなのである。


南北朝の悲劇は天皇は2人になったことなのである。壬申の乱でもやはり天皇の兄弟が二つに分かれて争うことになった。南北朝では日本全体を二分してしまったので。それは村のような小さなところでも日本全国隅々まで二分して争うようになったのである。つまり天皇が2人になるということは国が一つにならないとうことなのである。そこに中心になるべきものがなくなって二分して。争うようになったので。その傷痕はあまりにも深いものだったのである。


●家族でも治めるのには中心になるものが必要


だから天皇とは何かというと。それが渡来人であれ別に血統がは継続されているからということでもなく天皇が特別神でもなく優秀でもなくてもそれが国をまとめる中心としてある。そこに意味があったのである。その天皇は特別外国の王のように権力を持っていなかった。

確かに皇居の土地は広大である。でももしそこが天皇の住む地でないとするとどうなるか?

その貴重な森は明治神宮の森のように失われていくかもしれない。天皇が住んでいるということで手を付けることができないのである。もちろんそこで大きな問題はある。不便になるしでも東京のようなところにそういう広大な土地があり森があるということはやはりそれをそれが全部悪いものともならないのである。


そもそも、なぜ政治というものは進歩しないのか?それは人間を治めることはそれだけ難しいからである。それは家族でも治めること自体難しいことでもわかる。家族でもそうしてまとまらないから、とにかく長男を立てたのである。その長男が優秀というのでなくてもあえて長男を立ててまとめさせたのである。

徳川幕府でもとにかく長男を立てて治めさせた。その長男が必ずしも優秀でなくてもただ、天皇のように象徴としてあるだけでまとめ役として有効なのである。もしそういうものがなければ、結局昔のようで。血で血を争って権力争奪の争いになる


日本の天皇とは何か?それは日本人が歴史の中で生み出した一つの知恵の産物なのである。何か神話とかそれも作り物でも真実でなくても別にいいのである。問題は国をどうしてまとめるかということにあるからである。そのまとめ役となるものは何なのか?昔だったら長男がそれをしていた。そこにもやはり歴史的に継続した。人間の知恵がありまたそれは長子は特別神によみされるものとして尊ばれたのである。


だから必ずしも人間の世界というのはなんでも平等というものはいいというわけではない。かえって平等なことでまとまらなくなり分裂することにもなるからである。

つまり長子が特別神によみされたものとしてありそれが家を継ぐということはまた、国は国を継ぐということにもなるのである。それがおそらく天皇になるのかもしれない。 

アメリカはなぜまとまらないのか?移民の国でありさまざまな人種はが混交して広大な大陸に散らばる。それをまとめるのは一体になるのか

民主主義といってもそれでとてもまとめられない。だから、もはや限界にきている。そして再び暴力も起きてくる。ということは、民主主義というのは万能ではない。 すべて数が多いからと、それが正しいわけでもないし。それで決めることが良いわけでもない。ただ、暴力によって決めないと言うだけなのである。 


そしてどうしても政治はうまくいかないまとめられない。国を治められない。それで誰が治めるかというと聖書では緑子に治めさせようとか

老子だと治めずして治めるとか無政府的な考えにもなってしまう。

もう民主主義の選挙などやっても無駄となりかえってじ引きで決めたほうがいいと言うまでなっている。その方が公正だともなるのである。それだけ政治は人間をまとめることは難しいから、そうなったのである。 


●天皇は日本の歴史で統一するための知恵として生まれた


ともかく、天皇が何かというとき。その由来が何であれそれは一つの日本の歴史の中で生み出した知恵であったということである。

だから、それは長男が神よりよみされたものであり家を治め継ぐということまた国でも通じている。そうしなければ。まとめられないからである。そんなのは不平等だと民主主義社会では言うけども民主主義のようにただ平等を目指してもかえって不平等にもなっている。それはなぜなのか?そのことも考えねばならないのである。


日本史上では,神を祀ることがすなわち政治の根本であるとし,政治を「まつりごと」と読むのはそれゆえである。原始,古代の社会にあっては万事宗教が優先し,すべて神の意志によって行われた。風雨雷地震などの自然現象はもちろん,狩猟,農耕の収穫にいたるまですべて神意と考えられた。したがって生活が豊かに,社会が平和になるためには神に祈る必要があり,これが政治であった。この思想は古代天皇制国家統一の支柱となり,律令制において神祇官太政官に並べて設置したのもそのためである。これは中世の神道思想から江戸時代の国学へと進んだ。明治維新以後神道国家観によって天皇の「まつりごと」を強調する傾向が生じたが,特に昭和に入って天皇を現人神とし,その親政を主張する右翼運動が高まった。だが太平洋戦争後,天皇の人間宣言とともにこの思想も影をひそめた。


明治維新には西欧文明の挑戦にあって日本は混乱した。でも古代から続く天皇により国家というのが継続されて復古したのである。それは西欧文明の民主主義とか自由主義とかそうしたものとは相反するものだったのである。

ヨーロッパでは神権政治があった。またフランス革命では政教分離が唱えられて宗教と政治を分離したのである。日本では明治になっても宗教と政治が一体化して天皇が依然として活用されていた。

つまり天皇というのはそれだけ日本にとって。皇国史観があるように日本の歴史を象徴するようになっていた。

明治維新の時混乱したが皇国思想の運動があり第二次世界大戦まで継続したのである。ただ神国だから負けないということであったが、アメリカに負けて権威失墜したのである。


それは創価などでも継続されている。選挙は仏法の戦いであり仏が全面に立つのだから負けることがないとなるのである。天皇が現人神だからが戦争にも勝つということに通じている。政教一致なのである。

結局、明治維新といっても。古代の復古があり先祖返りがありヨーロッパ文明の真髄を取り入れるということはなかった。 

政治でも神がかり的なものとなってそれが300人万人も死んだ犠牲を払ったのである。それは国家のために死んだのである。それでその供養は天皇がになっているのである。でも天皇にしてもそんな大きな責任を担えるかとなったらなれないのである。 


ではなぜ300万人も死なねばならなかったのか?


それに答えることは容易ではない。ただ、政治を国家を神聖化すればそれは国家のために神聖なる国家のために死んだとなる。 でも国家自体も過ちを犯すのである。神ならば過ちを犯すことはない。国家でもやはり人間が運営しているから過ちを犯すのである。神権授与された。神から権威が与えられたとかあくまでも。民衆を支配される。支配するための方便だということもある。そうなると神にさからうことができないとなるからである。


ともかく政治が宗教に関わると狂信的になりファシズムになりやすい。特に大衆社会となった時難しい理論を大衆に言っても通じない。ハイルヒトラーということで叫び一体感を感じるのである。

また念仏とか日蓮宗だとは題目を唱えて徒党を組み突撃して行った。それは分かりやすいからそうなっていたのである。

戦って死んでも成仏する極楽に行くんだということでそうにもなった。だから宗教っていうのは、人をの上に立つとき利用すると支配者にとっては便利なものになるのでは?ただ、そこに日本の天皇が神格化されて300万人も死んだ恐ろしい結果にもなるのである。


●大衆民主主義もファシズムになりやすい


ともかく一体、誰が人民を国を治めるのか治めることができるのかとなるとそんな人はいないとなる。 人間の力では収められないとなる。必ずそこには混乱が生じてカオスとなってバベルの塔のように崩れ去る。それが人間の歴史だった。 現代というのは大衆社会である。大衆が力を持った社会である。大衆社会とは数がすべてを決めるのである。

そういう社会がどういう結果になったのか?それがまたナチスの再来であり全体主義になりファシズムになりまた恐ろしい結果を生むのである。大衆を洗脳し、先導するものはカルト教団とか必ず現れてくる。というものは大衆は考えることをしないのでカルト教団が増殖したのである。


宗教というのは一面民衆を支配する洗脳するのにいいのである。そこには別に本来の宗教などは皆無である。ただ題目を唱えればあらゆる欲望が達成されるとかで何でもいいのである。

それはついに天皇ファシズム、仏教ファシズムとなり。仏の命令で反対するもの者を殺してもいいんだとまなってしまう。それを大衆が力を持った時止めることはできない。なぜなら、民主主義とは数によって全てが決まるからである。いくら一人の聡明な人がいたとしてもそんなものは何の力もない。多数の前に何の意味も持たないのである。


だから数を集めた人がトップに立ち支配するのである。でそれはナチス的手法しかないのである。

民主主義からナチスが生まれたのもそのためだったのである。だからこの社会というのは?絶望的なのである。人間は政治に関しては人間は進歩しなかったのである。 

マキャベリも占いであれ宗教であれ政治権力を得るためなら積極的に利用しろと説いている。だからこそ為政者は信仰などなくても宗教を戦争でも政治でも利用してきた。それは人間のカルマとして継続されてきた。カルト教団が現代でも勢力を持つのもそのためなのである。


確かなことを天皇が特別優れた人でもない一つの飾り物でもある。でもその飾り物でも国家の中心としてありまとめるものともなる。

その中心になるものがない時家は分裂して国家も分裂して悲惨なことになるのであ。

その時、外国勢力が入ってきて国家自体が分裂して争い国家すらそのために疲弊して消滅してしまうということにもなる。

だから中心になるものがいかに重要かを知るべきである。中心になるものがなければ家も維持できないし。国家を維持できない。


例えばなぜ一神教が生まれたのか?それはあらゆるものが神となった。さまざまな動物でも石でもでも山でも神となった。八百万の神である。でもそうなると。バラバラにな治められないエジプトでもやはり様々な神がいて地域地域の神がいると統一国家にする一つの神が必要なのである。唯一の神がそれがなければ国も統治できないのである。 

日本では天皇とは唯一の神でありそれで国をまとめようとしたのである。八百万の神がいてもその最上階に天皇がいてそれで国をまとめようとしたのである。


とにかく注意すべきは警戒すべきは民主主義というのは大衆民主主義になりそれがファシズムとななることが危険なのである。それは歴史的にもそのためにカンボジアでも社会主義で200万人も死んだとかなる。共産主義社会ではロシアでも中国でも反対者は抹殺された。それもまた恐怖殺し合いをしない民主主義は優れているとなる。でも民主主義からナチスが生まれたのだから、大衆民主主義となるとそうともならないので。 


政治というのは人間にとって古代から。継続したカルマとなっている。人民を治める方法がないとなる。そこに人間の限界があるのである。必ずあらゆることで、人間には限界がある。政治でもそうだし経済でもそうだし科学技術でも原発事故が起きたように人間の限界が現れてそうなるのである。

人間では統治できないからそうなるのである。治めることができないのである。それで理想はこの世では成就せず天の国で神が治め、成就するのである。そしてその前にこの世はカオスの中に。バブル崩壊し人間の作り出した文明は砂に埋もれ海に沈み森に隠され埋もれる。そして。ただ、謎を語るばかりなのである。それがこの世で人間がなす文明の結果なのである。


この世とは何かといえば理想の国など作れない。むしろ人間の作った文明はただむなしく謎となり残される。エジプト文明でもマヤ文明でも中華文明でもなんでも同じである。それはただ謎を語るだけなのである。そして世界統一した平和な世界など作れない。

戦争は終わることなくあり最後にハルマゲドンが来て人類は滅びる。ではこの世は何のためにあるのか?人間は何のために生まれてきたのか?それはこの世とは?試練の場なのである。様々な試練を受けて苦しみ、悲しみ。そして神の子に神の国にふさわしいものとなるものとして試練を受けるのである。


そして神によって選別されて神の国を召されてそこで唯一の神のもとに働き仕事するのである。そこに荘厳な神の国がなるのである。それは永遠の都であり、滅びの無き都である。そこでこの世で悲しみ苦しんだ涙は拭われる。それを成すのは全能なる唯一の神であり人間の力ではできないのである。ただ人はこのように生まれて生きるのはその神の国にふさわしい人となるべく選別されるためにあるのである。そのためにこの世がある。だからこの世に理想の国などをはできない。それを求めるのはいいとしても実現するのは神の国で神自ら治めたときなる

神はそれを約束して実現するからである。ただこの世に良きものがありそれを追求する。悪しきものに汚れないようにすることが大事なのである。聖なるものというとき人間が聖なるものとならねばならないのである。神の御意にかなうものとなるようにしなければならない。そこにこの世に生きる意義があるとなる



相馬新報(小林勇一): 天皇とは何なのか、その在り方を問う (政教分離がここでも問われている―国民の総意に大衆に踏みにじられる聖なるもの) (musubu2.sblo.jp)



2023年08月02日

カルマの法則 (他者を苦しめた者は自らも苦しめられる―苦しみカルマを自覚する)


カルマの法則


(他者を苦しめた者は自らも苦しめられる―苦しみカルマを自覚する)


若い時から病気を持ち障害者の夫を世話し続けた人がいる。何か障害者を家族に持つことはカルマなのかとなる。その人のために費やされるエネルギーが半端でないからである。50歳になっても世話し続けているからである。


カルマで怖いのは親戚であれ重いカルマを持った人と関係すると必ずそのカルマを受けることである。だから結婚は好き嫌いだけで決められないものがある。結婚すれば互いに持っていたカルマから逃れられなくなる。その結婚相手の親族と深い関係となるからである。


私が家族で介護の介護で七転八倒して苦しんだのもカルマだった。兄がいたとしても私の家では良くしていないかったからである。兄は40歳で交通事故で死んだ。そのカルマが私に回って来た。なぜなら介護となっても一人しかいないのだから全部背負うことになったからである


カルマとは法則がある


あなたのした行為が必ずあなたに返ってくる


あなたが他者を苦しめたらあなたも苦しめられる、苦しめられた他者の来る知らしめるために同じ苦しみを受けてその苦しみを理解するのである。そうでなければあなたのした行為(カルマ)のことを理解できないからである。


なぜ自分はこんな苦しみをうけるのだろうか?


それはあなたとのした行為が苦しみとなってカルマとなっていたそうなった。


なぜ私はこんなに夫で苦しむのか

なぜ私は子供で苦しむのか

なぜ私は毒親に苦しめられるのか

・・・・・・・


そこに因果関係がある。つまり夫に苦しめられるのはあなたが夫を苦しめていたからでありそれが今度は自分が今度は苦しめられることになった。そして母親が障害者の夫に苦労したことを自らも夫で苦労することによって母親の苦労を自覚する。

また他者に世話になることでもカルマになる。それが恩というときそうである。恩を受けたことはカルマとなる。だから恩を返すことを要求される。恩など返さなくてもいいとなるのも普通にある。でもそうなるとカルマがやはり課される。カルマは借金とも似ている。借りた金は返さなければならない、返さないと利子がつきさらに重くなるのである。

ただカルマの大きな問題は自分のカルマを自覚できなことなのである

全く無事平穏に生きていれば自覚できないのである。

そこにカルマの大きな問題がある。


でもからカルマを持たない人はいない。必ずカルマは人間の一生の中で現われる。 そもそも苦しみとなってカルマが現れない限りカルマを自覚できないから理解できない。すると他人がなぜあのように苦しんでいるのだろうと見る。それも他人事なのである。でも自分自身が苦しむとき自分のカルマに苦しむとき他人のカルマも理解するとなる。つまり人間というものは自分自身が苦しむ無い限り他人の苦しみに同情できないということになる。自分自身が苦しまないのだから同情もしないともなる。


だから何か苦しんでいる人は互いに同情しあうのである。痛みをわかるからである。それでそういう人たちは何とかしようとして共産党であれ創価などのカルト団体であれ藁をつかむようにして頼る

それで票を集めて幹部が権力を得ようとする。別にそうした人たちに同情しているわけではな、要するに貧困ビジネスにもなる。

第一一人くらい相談にのれるがそれが10人百人となると不可能になる。弱いものはこうしてまた餌食にされることがある。


そもそもなぜ人間に災いが起きてくるのだろうか?平穏無事に終わる人生などない。今無事、平穏無事でも。いつか必ず。苦しみを受ける。人間が苦しみから解放されるのは死ぬしかない。そしてもし苦しまない人生があったとしたらそれは何か人間として大きく欠けている。苦しまないから他者が苦しんでも同情もできないのである。でも自らが障害者の子どもを持つようになったときその苦しみを理解できるのである。


これは人間社会に共通していることである。大きく見れば人間の歴史を見ればやはりカルマの法則がそこに働いている。驚いたのは黒人の国イスラムのアフリカの国がヨーロッパの白人の女性を奴隷として売買していたことである。それもカルマとなり今度は自分たちが黒人が奴隷にされたとなる


今日本が貧乏になり外国人が日本は安いとして観光に来る。その中にはやはり売春のために来る人もいる。そのことは別に景気がいいときは東南アジアであれどこであれ貧乏な国ではしていたからである。つまりそれもカルマなのである。あなたのしたことは必ずカルマとなってかえってくる。アメリカは日本に原爆を落とした。そのカルマはあまりにも大きいものだったのである。原爆の苦しみをアメリカは知るためにはアメリカに原爆が落とされて何十万と死んでみない限り苦しまない限りわからないのである。


アメリカだけが自国が戦場になっていないから戦争の悲惨さを知らないのである。常に遠くから攻撃するのがアメリカだからである。国でもそれぞれカルマを背負っている。だから世界史でも言うまでも栄える国はない、盛衰が必ずある。アメリカも衰退の時期に来ている。

人間は絶えず戦争を続けてきた。第一次世界大戦、第二次世界大戦と何千万と死んだのである。つまり戦争はなくならないというとき人間のカルマも消滅しないということである。だからこそ、人間はそのカルマが積もり積もって最終的に人類はハルマゲドンで滅亡する。カルマの集積が限界を超えてついには自滅して行く。または神によって裁かれノアの洪水のように大自然災害が起きて滅亡するとなる。 

2023年06月07日

死とは何なのかー生物的死と社会的死 (記憶され生き続ける死者−村のご先祖様になるとは)


死とは何なのかー生物的死と社会的死

(記憶され生き続ける死者−村のご先祖様になるとは)

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村だったらこのように形が違っても一つに結ばれていた

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現代は無数に分割されて一つのマス目が消えても気づかない

●人間の死を考える

◎生物としての死
〇家族内の死
○社会的な死

死を考えるときこの三つがある。生物としての死は社会とか家族とかも関係ない。人間が個人でも死と共にすべて消滅してゆく。
すべてが無となる恐怖である。
今日の宗教の最大の問題はこの死の問題でありそれは社会とも関係ないし家族とも関係ない。個々人が生物として死んでゆくことだからである。それは社会的にも家族的にも解決不可能である。社会でも家族でも個々人の死ねないようにはできない
いくら医療が発達しても人間は百才以上生きてもいずれは死ぬのである。それは社会問題として解決不可能である。
ただ人間が死んだら葬儀をしたり墓を作り埋めたりとともらうことはする。でも死に関してはそもそもは社会的に解決不可能なのである。それは科学技術でも医療でもいくら発達しても解決不可能である。
だからそもそも宗教は社会的政治的経済的問題ではなく死その物の解決が最大のテーマとなったのである。

でも現実は宗教も社会的政治的経済的問題として追及されるようになったのである。でも本質的にそれは社会でも政治でも経済でも解決しないのである。それは死の問題はそもそもなぜ人間が死ぬようになったのかそこから死の問題を考えねばならない
人間はエデンの園にいたとき死はなかったのである。
それが食べるなと言われた知恵の実を食べて死ぬようになったのである。ということは神が禁止したことを破ったことによって死が生まれたからである。
だから死の問題は神と人間の関係でありその関係の中でしか解決しないのである。人と人の関係が社会であり家族でもある。でも死の問題は神と人との関係でありそこに社会とか家族は関係しないのである。
だから社会では解決しない。科学技術でも解決しない。カルト教団のように何百万人を集め信者を集めて神に祈っても解決しない。選挙のように投票して死の問題など解決しないのである。それは神と個々人の問題であり集団的に社会的に解決できないのである。

永遠の命を与えられるのは神しかいないし集団的に社会的に解決できないのである。
こうして一番重要なことは人間だけでは解決しない。社会的政治的経済的に科学技術でも解決しない。そこに人間の限界がある。その努力は無駄だとは言えないにしても人間の力では死の問題は解決しないのである
ただ人間の死には家族内の死とか社会的死がある。それは死その物の問題ではなく社会的問題として国家的問題として家族の問題としてもある。死別はそれだけ深刻な物だからである。永遠に合わなくなるということは耐えられないとなるからである。
ただ社会的死というときまたは家族内の死というときそれはまた別物でありその死は社会的に家族内の人が考える物となる
戦死者は国家的問題であり国家として考える物となる。

●街の一軒の自転車屋が死んで意識されたのはなぜなのか

最近死んだわが町の自転車屋の星淳一氏は我が小さな町での一人の死だったけどもなぜか死んでからその人を思うようになった。
それは私自身が自転車のことでいろいろと世話になったからである。その人が死んで一軒もに町に自転車屋がなくなったことで余計に意識するようになったのである。
何か依然として駅前に自転車屋の星さんがいるように思えるのである。つまり星さんは死んでもやはり何か駅と共にありそこで自転車屋を継続している感じになったのである。
だから社会的には死んでも依然として生き続けている感じになる。それは別に偉人でもないし歴史的人物でもない。でも死んだ結果としてその人はなお依然として街に生き続けている感じになる。そのことは社会的にまたは歴史的にも継続して生きているという感じにもなる。
偉人の場合は歴史に生き続けるから必ずしも死んで全く消えてしまうということはない。でもそうゆう人はごくわずかでありほとんどの人は名前すらきを記憶されないのである。
でも何か自転車屋の星さんは街に生き続けている感覚になる。

人間はありふれた物とか当たり前のことが意識できない。
自転車屋などどこにでもあるとかなる。他でもいろいろ職業があってもその人が社会の中で記憶されるということはなかなかない。特に現代は無数の職業があり人はただ巨大な社会の部品とかして歯車とかして記憶されない。
一つの部品がかける死んで消えたとしても巨大な社会はやはり何もなかったように継続してゆく。一人の人間の死など歯車が一つ消えたとしかならない。でももしその歯車が一つ壊れて消えたとき社会自体に影響したらその歯車のことでも考える。
それは小さな町で一軒しか自転車屋がなかったからである。もし医者でも一軒しかなかったらその医者が死んだりいなくなったらみんな困るから記憶される。
だから人間の価値はその場所や時代によって常にかわっているのである。

●村社会では死者が御先祖様となった理由

いずれにしろ社会的には人間は死んでもう社会は維持される。でも今あらゆるところで後継者不足となっている。社会的に必要な物でも欠損してもそれを埋める人がいないのである。だから一見自転車屋などなくてもいいともなっていたが今やそれが小さな町から一軒もなくなった時その存在価値が大きくなったのである。
そして駅前にあったことで駅のことをいつも見ていた。街を活性化するためにわどうしたらいいかと駅のことで語り合った事があった。だから不思議に駅に帰ってくると星さんはそこにいる感じになるのも
今になると私の家族は全部死んだので誰も待つ人もいない。それは悲しくさみしい。家族の死もやはり大きな物としてあり死んでも依然として生きているような感覚にもなる

だから日本では村がその生活の基盤としてアイデンティティとしてあった時死んだらご先祖様になるということはその村では死者でも生き続けているのである。
盆踊りとは死者の供養のために村の人は死者とともに踊ることで始まった。それは村という中で親密な人間関係があり死んでも依然として生き続けている感覚がありそうなった
だから田植えの時は死んだご先祖様が山から降りてきて手伝うという時もそうである。つまり仕事をし続けるということである。
もしその人は何も仕事もしないなら村の中でも町の中でも死んでも生き続けるということはない。だから人間にとって仕事をして村の中でも役割があって生きていることが大事だとなる。
でも今はあまりにも社会が巨大化して複雑化して職業にしても一つの巨大な機械の歯車のようになって死はただ一つの歯車が消失したというだけになる。でももしその一つの歯車でも消えたとき全体が動かなくなったとき意識するのである。
小さな町では自転車屋一軒でもその役割が大きな物だったのである。だから死んでからその人を意識するようになったのである。

ただグローバル化広域化社会になると物はいくらでも入ってくるが人は意識されない。もし近くでしか食糧でも手に入らなかったら別に農民でもなくても農民の価値は高くなる。
米でも野菜でも近隣からしか手に入らなかったからである。もし近くの農民から食料得ることができなくなったら死ぬことにもなったのだから深刻だったのである。今は何かあれば外国から輸入すればいいとなり近くの人の価値が相当に低下したのである。
いずれにしろ死んだらその土地のご先祖様になるなどということはもうない。農民の間でもないだろう。社会的に人間の死は価値が低くなったのである。何か村の中で死んでもご先祖様として生き続けることもなくなったのである。
社会的な死として重く意識されなくなったのである。

つまり村であれ社会であれ仕事を何か役割を持たない限りご先祖様とか社会的的意義ある死になることはありえないのである
そもそもニートとか引きこもりとか百万人以上いるとかの時代である。働かなくてもいいとなっていてもではその人にどんな価値があるのかとなる。そこにベーシックインカムとかの大きな問題がある。人間の代わりに機械が何でもする時代になったとき人間の存在価値はなくなりチャットgptで人間は用ありませんといわれたらどうなるのか、この社会に存在する価値がないから死んでくださいとも命令れされかねないのである。

コンピューターであれ機械であれロボットであれ人間は無用だとされたらどうなるのか、これも恐ろしいことになる
そして現代はグローバル化経済であり物は世界のからいくらでも入ってくる。でもその物が作られた土地とか風土とか人間の労働とかそれを作る人の苦労とか気持ちとかはわからない。ただ物だけが心と分離して入ってくるのである。だから物とは心でもあり物が憑くとなっていた。その物と心は分離して物だけが入ってくるのである。
それで地産地消がやはり体にいいとなる。貿易は必要でも限度を越えているのが現代だからである。
どうしても物から心の方へシフトされてゆく望まれている。
現実に物と物とはやり取りされても人間の心はそれで結ばれたとはならなかったのである。

苗族民話集で歌垣の場で結婚の約束をするやりとりがある

それはまことか口先だけか
よりあう心がまことなら
手に手に近いの品をさしだして
二人の真心とりかわそう

つまり最初にまことの心があって物がその心に従うものとしてあった。心がさきであり物は心に従うものとしてあったとなる
今は物が心と分離している。それで人間疎外が起きて物神化したとマルクスが分析したのである。それは経済の規模が世界的になりあまりにも巨大化してもう人間的なものから離れて心も何もない。ただものだけがやり取りされる世界市場になったのである
そこで失われたのは心だったとなる。だから今はその心の回復をしなければならない。そういう時代になったのである。

2023年05月21日

利から金から離れられない人間 (逆に利から離れた金にならないことにこそ真の価値がある)


利から金から離れられない人間

(逆に利から離れた金にならないことにこそ真の価値がある)

人間は一時たりとも金から離れることができない。人間の関係は利益利害関係から成り立っている。だから学生時代が貴重なのはそこに利害利益のことが関係していない場だからである。
だから友情でも育まれる。でも一旦社会に出たらもう利益利害金から離れることができない。それで学生時代を懐かしく思う人も出てくる。
例えば宗教ですら今は大概カルトになっているのだがそこでも普通の社会よりご利益利権を求めている。
そういう場に入ったら頭の中が御利益と利権しかなくなる。
だから一体それが宗教なのだろうかなぜ宗教を標榜しているのだろうかそれは全くわからない。
なぜ宗教が出世する出る世の中から離脱する。つまり世の中の欲から離れて心を浄化する。そのために利権とか金とかから離れて修業したのである。
ところが出世という意味が全く正反対になった。出世とはまさにこの世の地位と富とか権力を得ることになったことでもわかる。

この世に生きることはまさに出世争いであり宗教のようなこの世から出る離脱して悟りを開くなどと全く関係ないのである
そこでは返ってあらゆる欲が肯定され欲があればあるほどエネルギーがあっていいとなっている。だからこそあれほどの人が集まるのである。本来の宗教とは正反対なものでありなぜそれが宗教を標榜しているのかまったくわからないのである。
つまりカルト教団とはもっともその聖なるものを汚している団体なのである。ただ数が多く権力を持っているので容認されているのである。

その人は自分の欲望にをむき出しにしてその欲を達成しようとしている。女性に対してもそうだしまたあけすけに金が欲しいとして働き金を要求する。でもその人の方は正直なのである。
でもカルト教団などは宗教を標榜していてもその本来の宗教を追求しているわけでもない。全く正反対のものを追求している。
だから理論的には矛盾している。でも人間は理より利を追求している。だから理論的に理想を追求してもまったく逆のものになっているのである。それはカルト教団でもそうだし共産主義でもそうだったのである。

理に合わなくても利に合えばいい

人間は別に理論などは理解しなくてもいいのである。利益になることは金になることは即座に理解する。それは発達障害の人も利に聡いのである。毎日の暮らしでになることは利益になることは即座に理解するのである。
不思議なのは発達障害の人は何か簡単な計算はできないのに算数ができないのに日日買い物して金を使っている。だから金がいかに重要なものか知っているし金がないからとにかくわずかでも安いものを買っている。人間はともかく利益になること金になることは即座に理解する。だからこそカルト教団はご利益を説き進めるからあれだけ数が増えてくるのである。

でもみんな毎日金に追われ金に使われそれが嫌になって金のない世界に行きたいとなる。現実にまた地獄の沙汰も金次第とまでなっているからだ。
それで全ての価値は金で測られる。金にならないものは価値がないものとされる。でもそういう世の中に生きているとかなにならないものこそまた金とか利益とか関係しない人間関係とか価値が本当に価値あるものかともなる。
だから学生時代は本当は純粋に学問であれ何か社会に出る前に利益ではない金と関係しないそこで友情などを育むことになる。でもそういう場でも純粋に学問や真理を追求する場でもなくなっている。将来の出世のための勉強であり社会的地位を得て裕福な暮らしをしたいそこに既に利益のための勉強となっているのである。
だから逆説的になるが金にならないこと利益にならないことそのことが何か本当に人間にとって価値あるものなのかとまでなる

日本語で遊ぶとは遊ばされるとか何かこの世の利益とは離れたところにありそれが聖なるものとされた。
遊ぶとは利益を求めないことである。でも子供なら利益なしで純粋に遊ぶということがある。でも大人になれば利益なしでは遊ぶこともしない。頭の中は利益しかないのである。金の事しかないのである。とにかくあらゆる人が日日刻刻と金の事しか頭にない。利益のことしか頭にない。そこから離れることはこの世にいる限りできないのである。

利益から金から離れられのは死かないともなる
なぜなら

死者はもう利益とか金を求めない

死者が求めているのは何か?

心より愛すものでありその人を思うことは要求されているのである。死者はもう金も要らないし何も要求しないからである。
そして死者と生者との関係でも介護でも生きているときは負担になり苦しいとなるが一旦死ぬと誰でももっとよくしてやればよかったと後悔しているのである。

なぜなら死んでしまうと何もしてやれないからである。
逆に死んだ人にとっても生きている人に何もしてやれない与えてやることはできない。だからもっと何かしてやればよかった与えてやればよかったよくしてやればよかったとなるのである
でも一旦死ねば生きている人に死者は何もできなくなるのである。だから人間は死なない限りこの世の利益から欲からでも離れることができないのである。死んで始めて利益から欲から離れることができるのである。
でもその前にこの世に生きている時でも利益とか欲から離れることは価値あることになる。つまり利害関係なく利益を追求することなく真善美とか追求することは最高に価値あることになるのである。
でも実際にこの世でそんなことは実現しない。なぜならこの世では利益からよくから金から一時も離れることができないからである。
そういう世の中で利益から離れたこと利害から離れたことそのこと自体が大きな価値があることにかえってなっているのである。


今私は天の神の作った庭園にいる
さまざまな花が咲きその花を見てて飽きない
ただ私はその花に見とれその美に讃嘆する
花々は争うことなく調和して常に咲いている
その美は神が想像したイデアである
神は示したかったのはそのイディアなのである
それは無償で見られるものである
またその果実でも無償で得られるものである
そこに金は介在しない
様々な果実を食しその神のイディなる花々を見る
そこが天国なのである。

2023年04月30日

人間の矛盾−宗教が偽善になるのはなぜか? (利に合うことを求めるが理に合わなくなる)


人間の矛盾−宗教が偽善になるのはなぜか?

(利に合うことを求めるが理に合わなくなる)

人間の一番の矛盾は利益を求め日々暮らしている。
人間が求めるのは利でありそれがり合わなくてもまずは利益を上げることを第一にする。
人間の日々の暮らしを利益を上げることであり利益が上がらなければ生活もできないのだからそれが第一になる。
人間が理解するのはまず利益である。

その矛盾が一番表れているのはカルト宗教なのである。
なぜなら日本の宗教は神道であれ仏教であれキリスト教であれご利益宗教になっているからである。
神であれ仏であれ何であれ後利益を与えてくれと祈るのである。
賽銭を投げるのはもっと御利益を与えてくれるとして賽銭箱に入れるのである。
1000円賽銭箱に入れたら2000円になってほしとして入れるのである。でもその賽銭箱の金は誰が使うのか?
それは神主とかであり神様がそれを喜び使うわけでもないのである。

ほとんどの宗教はこうして御利益宗教になっている。
千円を与えたから2000円を与えてくれと神に祈る
これも都合のいい、勝手なものだが宗教のほとんどがそうなっている。
なぜそうなるのか?そもそも人間が理解するのはまず利益でありその理論ではない、神でも仏でも拝んだら利益が得られとして祈るのである。人間はどんな人でも利益になることは金になることはすぐに理解する。それは発達障害の人でも理解している。
利益になる金になることに敏感でありさといのである。

カルト宗教の信者が増えたというときその人たちが宗教を理解したからではない利益になるからすぐに理解したのである。
そもそも仏教とかなるともともと理解することが難解である。
でも真宗とか日蓮宗になると題目をあげれば利益になる、御利益になると教える。それはすぐに学のない人でも即座に理解する
だから何か困ることがあれば一心に題目を唱えろとなる
めんどうな教理などはどうでもいいのである。
そこで得するのはカルト宗教なら幹部である。創価だったらすべてが御利益のためでありあらゆる欲は是認されむしろ強い欲を持てと指導しているのである。だからこそ会員が一時的にでも増大したのである。

でも仏教の創始者のシャカはなぜ王宮から一回の乞食となり岩窟で修業したのだろうか?
生老病死があり人間の苦から解放されたい解脱したいとなり王宮の王子の身分を捨てて一介の乞食となって修行したのである。
師を見習えばただあらゆるこの世の欲を是認して欲を満たしたいと祈ることなどありえないのである。
そこからして矛盾している。カルト宗教は理論的には崩壊している。でも利には合っている、御利益があるとなれば祈ることは現実に現世利益が得られるのだから肯定されるのである。
それは共産主義でもそうである。マルクスの理論は平等を目指してもソビエト連邦とか中国でも平等は実現されず幹部だけが巨万の富を築いたのである。

なにか隣の人の土地を共産党の幹部が奪ってそれが殺人事件にもなったのである。平等どころではない、貧しい弱い人からその財でも土地でも奪ったのである。それは明らかに犯罪でも共産党幹部だから罪を問われることもないのである。
理想をかかげても現実は人間の欲は消えない、そのために御利益があるのは幹部であり弱い者は犠牲にされるのである。
つまり仏教であれキリスト教でもカルトになると実際は幹部が御利益を得るのであり理論は教義は無視されるのである。

まず人間は利を求めるし利は即座に理解できる、それが理論と教義と矛盾していてもいいのである。むずかしい理論などより利を得られとなればいいのである。そのために会員も増えるのである。ただ利益を求めて入るのだからこれが利益にならないとなればすぐにやめるのである。ただ宗教だから罰当たるとか不幸になるとか脅されてやめにくいとなる
つまり宗教はどうしても王宮を捨てて出世した、もろもろの欲から離脱しようとしたよりこの世で出世すること王宮に住むことこそ求めて祈っている、ここに最大の矛盾があった

出世という意味が全く逆転して使われるようになったことでもわかる、だからカルト宗教とかに詐欺でありそれを説く人間が真っ黒な偽善者なのに崇められるのは大衆が望むものがこの世の欲をかなえて出世すること説くからである
だからこそ騙される、魚心あれば水心になる。だから別に自分の心に忠実で欲を否定せずにいれることは返って正直だともなる
偽善家になるよりはましだともなる。

善人されるものが実は悪人であり悪人とされるものが善人だったともなる逆説が成り立つのがこの世だとなる
悪人が善人を装っているのが宗教では多いとなる、つまりそれだけ宗教をまともに実行することができないからそうなるのである
ジキルとハイドのようになってしまうのである。
そこに親鸞が自分は大悪人だと言ったことがかえって正直だったなるのである。
そもそも地獄に落ちると言っている人間が罪深い強欲なありふれた人間でありその人こそ地獄に落ちることが確定しているのである。だからかえって地獄に落ちるのではないかという人こそまともであり救われるとしている。それは娼婦がかえってキリストによって罪が許されて救われたのと同じである。

利にあっているが理に合わない

なぜそうなるのか?人間の欲がそうさせる。人間にはそういう二面性があるためにそうなるのである。


2023年04月17日

最後に人間は自らに問う (自分の人生は何だったのだろうと、、、庶民でも誰でも)


最後に人間は自らに問う

(自分の人生は何だったのだろうと、、、庶民でも誰でも)

また大工さんが来て庭の手入れとか掃除とかしてくれた。それで手間賃を与えた。それで満足して終わりだと思ったが
意外と俺は何のために生きてきたのかと問いかける。
普通は現場で働く人は肉体系はそんなことを考えないと思った。なぜならなぜ稼ぐことが第一でありそんなことを考えるのは知識人だと思っていた。
私は知識を追求してきた知識人だから哲学というのを一つの追求テーマになる。そういう本も読んできた。
でもその人は現場で働く人であり本などほとんど読んでいないのである。でも人間というのは最後になって老人になって私は何で生きてきたのだろうと問うのである。それは知識人だけのことではないのである。

私の姉は最後まで従軍看護婦としてマレーシアのシンガポールの向かいのジョホールバルで働き辛酸をなめた
それは20代で青春の盛りでありその4年間を戦場でで従軍看護婦として必死で働いたから死ぬまで忘れることは無かった。
死ぬ直前までもその従軍看護婦として働いたことを言い続けうなされて死んだ。それだけその経験はあまりにも強烈でありそれも青春の真っ盛りでそうなったから一生忘れることができなかったのである。
その後も最後にしきりに家を建てたことを自慢していた。
柱のことでもこの柱は同級生のキコリが自らその木材を取って使ったものだと自慢していたのである。
姉は父親が死んでから父親代わりになったのである。男勝りであり気が強くて家を支えたのである。母は繊細な人であり体も細身であり一人ではとても家を守れなかった。ただ母もこの家のために尽くしたのである。だから私も働いた認めてくれと最後はやはり言っていたのである。
私はそのことは言われることもなく体でわかっているから介護に尽くしたのである。だから別に知識人でなくても人間は最後に自らに問う。なんで生きてきたのか。何のために生きてきたのか。自分の人生とは何であったのかと自らに東洋になるとうようになる。

だからこれは別に肉体労働者だからとかなんか職業が違っているからではない。人間は最後に自らにその生きてきたことの意味を問うのである。
それで原発事故で漁師は特に船主などは事故前でも事故後でも充分なをもらっていた。だから生活に対する不安もなく暮らしていたのである。
でもその漁師でもなぜ私は港にいるのだろうと自らに問うていたのである。で生活には困らない。でも何のためにここにいて港にいるのだろうとなるなったのである。
おそらく別に原発事故がなくて漁師をしていたら魚をとり魚を売るそれで地域のためにもみんなのためにも働いているとなっていたから何のために働いているのかなどあまり考えることもなかっただろうと思う。
人間とはやはり人生の最後に自らの人生の意味を問う存在だということである。でも実際はガテン系というか肉体労働者だとそんなにそんなこと考えないだろう。ただ家族を養うためとか何か立派な家を建てるとかいい車を買うとか自分を自慢したいとか働く動機となっているなっていた。

でも確かに金を稼ぐということが第一目標である。でもそれほど最後に金にこだわらないということにもなる。もちろん今の時代老後のお金で苦しんでる人が多いのだから金は必要である
でも必ずその反面人は最後に自らの人生の意義を問うのである。それはいろいろ哲学があり哲学者がいてもそれが一見ガテン系とか肉体労働者とか庶民でも関係ないようでも人間である限りやはり人生の意味を問うのである
でも大概人間の価値は金で測られる。大工さんでも職人でも働いた分の金おいてそれで終わる。それ以上のものを得られることは無い。でも実は金だけではない自らの仕事に対して価値与えてもらいたいのである。だから人間の価値はすべて金ではかり終わるとはならない。
でわ金で測れない価値とは何なのか。それが実際は最後に問われる問題なのである。その仕事の人生の意味は何であったのかを問うのである。でもそれは金で計れないものだから簡単に言えないのである。金のように測れないとなるのである。でも最後にその意味を求めるのである。

しかし人は最初にその働く意味を価値を求めて働くべきなのだがそうしない。まず金を求めて働くのである働かされるのである。
だから最後になりその働く意味をとうことになる。
ただ金に追われて働くだけだともなってしまうのである。
戦争にしても三百万人も死んだのに何で戦争したのかもわからなくなっていることでもそうである。
いずれにしろ最後にどんな人でも別に知識人でなくても一般庶民でもみんなは自分の人生は価値ある意味あるものだったとしたいのである。それは別に特別な人のことではない。
知識人だけのことではない。ここは特殊な事情で原発事情などでふるさと消失したことなどで余計に自分の人生はなんだったのだろうと振り返ることになったのかもしれない。

でもあらゆる人が人生の最後にわ自分の人生は一体なんだったのだろうと自らに問う。それはなかなか一概には言えない。社会の中での価値があり地域の中での価値があり家族の中で価値があり個々人の中で価値がありとあり価値というのは多様だからである。
そして価値は変化するからである。でもその人は家族から一人離れて離婚して暮らすようになってそんなことを考えるようになったのかもしれない。つまり津波や原発事故で家を失い家族も離散して離婚もして一人取り残されてそうなったのかもしれない。
それはこの辺の特殊な事情でそうなった。ふるさとでも働き尽くしてきたのにふるさとがもう元の故郷に戻らないということもある。だから今度はその人の価値は大工とか庭師とかいろいろしてきたことに価値があるとなる。その技を若い時から磨いてきてそれが最後にも役立っているということである。

だから人間は若い時から価値あることをしていないと積み重ねていないと最後に私の人生はなんであったのだろう問う時その意味と価値を見え出せないということもある。
でも現実はただ金を求めて日々の生活のために追われそんな意味などを問わないのである
人間は逆になっているのである。若き日に神を求めよ神を知れなのだが実際は若き日に飲めや歌やであり享楽に走りまた欲望に走り結婚して家族を持てばその家族のためにとにかく稼がねばならないとなり意味とか価値と関係なく働くのが普通なのである
でもそうしても最後に俺の人生は何だったのだろうとどんな人でも別に哲学の本など一冊も読まなくてもそうなのである。
それは私の家族でも本など読んでいないのである。でも私の人生はなんだったのか私は働いた私は価値ある存在だった私の価値を認めて欲しいと切に訴えるのである。だから人間というのは誰でも価値と意味を求める存在なのである。
それは学問があるとか知識人とかとか関係ないのである。

ニーチェなど庶民と関係ないようであった。

もろもろの価値の根源は人間である、人間がおのれを維持するために、それらの価値を諸事物に付与したのである、人間が先でそれが諸事物に、意義、人間的意義を創り与えたのだ、それ故に彼みずからを「人間」すなわち「評価する者」と呼ぶのである

自然でも多様である。自然は物資として資材としても人間に活用される。もうひとつの側面として精神的なものとして人間が価値づける。それは文系の仕事になる。また美としての価値があり芸術になる。エデンの園であらゆるものに名前を付けることが最初の仕事だったというのもそうである。名づけることは意味と価値を与えることだったからである。

2023年04月09日

この世に生きることの無常 (老人になると何もいらないとなるーただ死があるだけになる)


この世に生きることの無常

(老人になると何もいらないとなるーただ死があるだけになる)

人間は老人になると否が応でも人間の真実を示される。
それはもう死んでこの世にいなくなるということが冷酷な事実として突きつけられるからである
そして人間とはこの世に存在するのはわずかなときだということを知る。人間が逢うにしても一時のことである。それは別に優れた人だけではない。ありふれた庶民ですら否応なく自覚されるのである。それはもう死ぬということが目の前に来ているからである。そして人生をみんな振り返り何だったのかということを考える。

一般的には現在は金を求めて金のために追われて働いて来た。それが何の為なのかということは問わない。なぜならみんな日々の食を得る為に必死だからである。
だからあとは飲めや歌えやで騒い死ぬことを考えないのである。
でも最後に老人になると死が目の前にありいろいろあっても結局死ぬだけだと自覚させられる。
そして一体人生とは何であったのかとなる。

私の親はいつももう何もいらないといっていた。それは最後にみんなそういう気持ちになる。いろいろなものが欲しいというものがなくなってしまう。それでも実はかなりの金を貯めこんでいて残していたのである。それを自分は知らなかった。
しかしその金も突然認知症になり銀行からおろせなくなったのである。この時ほど驚いたことはない。自分が働き貯めた金がおろせなくなったのである。人間は実際は死ぬまで金にこだわっている。その金もいらないとなっていたのである。
それよりもそんなふうにして貯めた金を銀行からおろせなくなったのである。そしたらなぜ金にこだわり金を求めて働いてきたのかとなる。自分の金が自分のものでなくなってしまったのである。そんなことがあるのかとただ驚くばかりだった。
何もいらないと言うならその金でも自分にでも誰かにでもくれれば良かったと思うのある。

人間は生きている限り金を一番大事なものとして生きている。それは老後でも同じである。でも金を持っていても銀行からおろせなくなったのである。それもあまりにも衝撃的なことだった。
人間の最後は実際はこの世から消えてゆくのだからこの世のものを財産でも金でもあの世に持ってゆくことはできない。この世に財産をたくわえてもあの世に持ってゆくことはできない。そのことでキリストは天に宝を蓄えなさいと言った
なぜなら最後はこの世のものを何も持っていけないからである
この世に巨万の富を積んでもそれをあの世には持っていけない。
この世に積んだ富はさびて腐敗して朽ちる。
文明でも何か偉大なようでもエジプト文明であれ砂に埋もれピラミッドは何なのか結局墓場になる。マヤ文明でも高度なもであった。でもジャングルに埋もれて謎を語るだけである。そこも墓場だったのである。
つまり巨大都市でもその繁栄もやがて墓場と化すかもしれない、そしてそれは謎になるのである。

でもこの世に生きている限りこの世の富に幻惑され執着している
だから大工さんでもいろいろ家のことは心配する、また一般的に他人になると財産を金を心配する。何かその分け前を得たいとかにもなる。
また医者だとその体を心配する。体を見るがその人間の心はみない。宗教とはこの世のもの財産であれその身体であれそれを見るものではない。神は人の心を見ていると言う時そうである。
神は何を見ているのか人の心を見ている。その財産とか金とかではない。でも人間は財産とか金を見ているのである

でも最後には人間をもう何もいらないとなる。ただお金もためてきたがそれもいらないとなったのである。
この世に生きることはすべて一時的なものである。
そして家のことを心配してもその家すらいずれは消失する。そもそもこの世に生きるのはわずかの時でありだからこそ一時的に泊まる宿に過ぎない寄留者にすぎないとなる
この世にいくら執着しようともみんないずれは死んでゆく。
そしてあの世に何も持ってゆくこともできないのである。

要するに人間はそもそも何も持てないのである。ただ一時的に神に与えられたものを利用しているだけである。借りて利用しているのである。人間はそもそも何も所有できないのである。すべては神のものであり神から与えられたものである。

「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」ヨブ記

まさにこれである。
そして人はこのように一時的に仮の宿に泊まってやがては旅立ち去ってゆくだけである。それが老人になると否応なく自覚させられるのである。
でも老人になった自覚させられても死のことを突き付けられてもそれを解決できない、それで若きうちに神を知れという教えがいかに重要なことかを知る
なぜなら若い時こそ飲めや歌いやであり死のことなど無視しているからである。カルト教団でも全くこの世のことしか関心がない、この世の欲に返って他の人より執着して追求している
だからそれがどうして宗教なのか全く理解できないのである。

2023年03月25日

時間が一番の謎-永続するものを求めよ (無常は変化てありもともと時間はない)


時間が一番の謎-永続するものを求めよ

(無常は変化てありもともと時間はない)

●変化するから時間を感じる

いろいろ謎があるけど一番の謎は時間である。時間となれば一つの解釈だけではなくこれも多様な見方があるから時間とはこれだと決められないのである。
だからもともと時間がないというときもそうである。
本当に時間はないと思う、例えば星があるとするそれに時間を感じない、いつでも同じ場所に輝いている、その輝きは衰えることはない、実際は星も消滅するとしても人間の生きる時間など瞬間的だともなる、星が消滅する前に自分自身があっという間に消えているのである。
星とかとか比べたら人間の生きる存在する時間は瞬間だったともなる、そうして変化しないものに時間を感じないのである。
太陽も一つの星だとすると変化しないから時間を感じないとなるが太陽が地球の様々な場所で昇り沈む、その変化がありその変化で時間を感じる、月でもそうである。特に最初に太陰暦になったのは月が満ち欠けるするから月自体が変化するから時間を感じてそうなったのである。つまり変化することで時間を感じたのである。

●時間を石からみる

reiwaishi1.jpg

去年の大地震で山の上から落ちた石である。
他にも落ちた石がある。この石を名ずけると形からだと台座石とかなる、でも時間軸で名ずけると令和石となる
さらに時間軸で正確に名づけると令和4年石となる
時間軸で命名するとそれは歴史を記すことになる

例えば石があるとする石がそこにあった状態から変化しないなちら時間を感じないのである。
でも石でもその石がそこにあったことを問うと由来を時間軸で見るとどうなるのか?
去年はこの辺で大地震があって山から崖からなど石がかなり落ちたのである。ここに石がなかったのに石があると認識するようになった。でももし百年過ぎたらこの石がどうしてここにあるのか意識できなくなくなる、それで年号とかを見て時間認識をする
もし去年落ちた石を令和石とかさらに令和四年石とかなづけていればそれが地名のようになっていればその時にこの石が落ちたと認識する、つまりこうして時間認識することで時間を意識させるのである。それはあくまでも石がもともとここになっかた⇒地震で山から落ちてここにあるようになった、、、その変化が時間を作りだしたのである。
ところが石はどこにでもある、何か目立つ石だと名前がつけられてある、でもその石がどうしてここにあるかなどがわからないのが多いのである。何万年前のなか何億年前のなのか火山が爆発して飛んできた石だとかもありわからないのである
ただ今回は大地震で崖から山から落ちて来た石だと認識した
それは大きな変化がありないものがここにありその地震が起きたこともイメージできるのである。

とにかく時間がないというとき空間はある、でも時間はないとなる。
時間とは何なのか?例えばA地点からB地点へ移動する時時間がいくらかかるとか計算する、すると時間があるとなる
でも徒歩で行く、自転車で行く、車で行く、電車で行く、飛行機で行く・・・最後にもう乗り物ではなく瞬間移動できるものができたら時間が消失する、空間に隔てられることはないのである。
時間がもともとないものだから消失しても不思議ではないのである。
定点で時間を計る時、動かない石でも苔むしたとか少々欠けたとかると時間を意識する、でも石そのものは動かないから意識しにくいのである。変化しなければ時間を意識しにくい、でもまた周りに木があり花が咲き草が生える、するとその回りでも木が成長して大樹になったら花が咲いても枯れたり草も青々としても枯れたりして回りの風景の変化から時間を意識するのである
でも石自体は変わらないので時間が感じられないのである。

 我が君は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで

君が代の苔むすまでもでもさざれ石が成長して石に苔がむして変化して時間を意識した、この歌は悠久の時間を意識させるものとして歌われたのである、天皇が永久的国の王として存在しつづけるこさとを現していたのである。

●物は消失するが見えないものは消えない

変化することでこの世は無常だとした、常に変化するからそこに時間意識が生れこの世は無常だとなったのである
でももし時間がないとすれば無常もないとなる
人間でも老いることもなく病気することもなく常に若い健康な状態であれば時間を意識しないのである
あなたは何歳だととか問うこともない、いつみても女性だったら若々しくて美人だとかなるし男性でも同じである、そこにはもう時間もないから無常も感じないのである
神の国では何らかで時間は消失している、人間でも老いることも死ぬこともないとされるからである
この世に存在するものは太陽でも星でも消失する、何十億年存在しようがいつかは消失する運命にある、目に見えるものは見えなくなる、でも不思議なのは目に見えないのものは存在し続ける

何かイデア論ではそうである。神の創造したイデアは消えないという時確かに物質として形としてこの世に現れ実在しても本質的にはイデアを神が創造したのでありそのイデアは消えないとしているのである。
花が枯れるとしても花にも多様な美と形がありその想像したイデアは消えないとしている、多様な生物にしろ神がイメージして創造したものでありそのイデアは消えないとしている

時間がないが時間を意識するのは変化のためである
このことは確かである。人間が無常だというとき個々人でも泡沫のように一時生きて消えてゆくだけだからである。
人間にとって本当に価値あるものは消えないものである
あらゆるものが時間の中で変化して消えてゆくのである
だから歴史的に価値があるものが価値があるという時それは長い時間の中でも価値が衰えないものなのである。

●この世のものは文明でも変化して消える

人間の社会にしても原始社会から封建社会から帝国社会から資本主義社会から共産主義社会からといろいろあった、でもそういうものも常に変化する、カルト教団などはほんのわずかな時間が存在して雲霧消消散する、何か一時的に大衆化して興隆したとしてもそれはほんの一時にすぎない、ただ大衆ファシズムのようにして騒ぎが大きいだけで何も残らないし持続するものがないのである。
だからそれもそもそも無常な存在てあり一時の馬鹿騒ぎのように消える
だから人間は歴史的価値とか永続するものを求めるべきなのである、宗教は本来そういうものだったがカルト教団とかなると全く世俗化した現世化したものであり宗教的なものなど一切ないからこそあのように会員でも増大してファシズムのようになったのである

仏教が無常を説いたのはわかる、そして無常を越えたものを求めたこともわかる、時間で変化して消失しないものを求めたこともわかる、キリスト教でも永遠の命を求めた神が与えたというときもそうである。無常ならざるものを求めた与えたからこそ永続したものとしてありつづけるし価値があるとなる

とにかくこの世に存在するものは無常なものである。
だから天皇すら消える、天皇は神でもなんでもないからである。
また共産主義も終わり資本主義も終わる、銀行がつぶれて消失すると騒ぐのもそである。会社でも永続するものなどないのである
アメリカの覇権国であるのももう終わりが近いのである。
世界史てもそうして常に覇権国は変わっているからである。
文明でもエジプト文明でも砂に埋もれマヤ文明でもジャングルに埋もれるとかなる、永続する文明などないのである
この世のものにあるもの人間に作られたものは永続しないのである。だから仏教で無常を説き無常ならざるものを求めめよとなったのである

泡沫のごとく消えるもの
その儚さを知れ
持続継続するもの
無常ならざるもの
永遠の命を求めよ
結跏趺坐釈迦は悟りぬ

今や社社会自体でもSDGsとか持続可能な開発目標を標語としてかかげるようになった。それも継続するもの持続して長く続くものこそ価値あるものとなるからそうなったのである

とにかく本当に価値あるものは


●歴史に残るもの

●永遠の命、永続するもの

とにかく本当に価値あるものは時間の経過があっても色あせないもの、継続して価値あるものである。
時間の中でも価値がありつづけるものである。





2023年02月26日

人間を作るの体験、老人の価値は何を経験したかで決まる (旅も体験であり貧乏旅行も金持ちの旅より価値があった)


人間を作るの体験、老人の価値は何を経験したかで決まる

(旅も体験であり貧乏旅行も金持ちの旅より価値があった)

●旅の経験は金がない旅も金持の旅も価値は変わらない

人間とは生きるとはそもそも様々なことを体験することである。
知識はその後についてくる、何かを体験して疑問をもったり体験することから学問も始まる、この世には無数のわからないことがあり必ず疑問になる、だからまず体験があり経験があるのが人間が生きることである
だから旅になるとこれも体験なのである。私が地名に興味を持ったのは旅をして鉄道の駅などの駅名に興味をもったり地名に興味をもったのはそのためである
また地形と風土に興味をもったのもそうである。それは旅した結果なのである

そして誤解しているのは旅する時、今は便利過ぎて旅が消失したのである。
本当の旅を経験していないのである。車だと途中を省いて通りすぎるだけになる
だから旅というものではなくなる、移動なのである。それで旅館でありホテルに泊まることが目的にもなる。そこで何をするのかとなると食事を楽しむとなり料理を楽しむのが目的だとなる、それでホテルをテーマにしたコンサルタントがホテルを再生事業にかかわるとき必ず料理を問題にしているのである。
もともと旅は歩いているからこそ旅だった。まず今は歩くことがなくなった。
近くでも歩かないのである。私も買い物にするのに近くで歩かない、自転車になる。
他の人は車になる。だから商店街は廃れたのである。
車が通っても素通りするだけだとなる。

草臥れて宿借る頃や藤の花 芭蕉

これは歩いた感覚から生まれたのであり車に乗っていたらこういう句はできない。
現代は旅というのか消失したのである。だから旅人もいない、いるのは車とかで移動する人であり旅人ではないのである。だから旅は道連れとかはない、車だと会話などしないし瞬間的に通り過ぎるだけだとなる。旅は道連れ世は情けなどもない。人間的出合いもなくなったのである。
そしてなぜ最近温泉街が廃墟化した映像がyoutubeででている。会津の東山温泉でもそうだし飯坂温泉でもそうである。それは高度成長時代のバブルの夢の跡のようになってしまった、その時景気が良く団体旅行でにぎわっていたからである
そのために大きなホテルができて歓楽街のようにもなっていたのである
それが会社の団体旅行もなくなり寂れて廃墟化したのである。
その頃から旅の宿ではない、会社の団体のために用意された歓楽街となっていたからである。だから本当にそれは夢の跡となってしまったのである

今本当の旅を体験することは至難である。まず一か月くらいの自由な時間が必要となると会社員には簡単にできない、だからバイクとか自転車とかだと旅する感覚になる
ただバイクも車と同じように早いから途中が省かれる、旅の感覚にはならないのである
だから不思議なのはこれほど移動する社会でも旅というのは喪失したのである
新幹線で一気に平泉であれ青森までであれ行ったとしてもそれはあくまでも移動なのである、旅ではない、だから芭蕉のような体験はできない、便利になりすぎて結果的に深く自然でも歴史でも感じなくなったのである

旅で不思議なのは旅の経験は必ずしも金をかけなくても体験できるし金をかけてもかえって体験できない、テレビで京都の外国人を泊める一泊10万なのかホテルを紹介していたがそこで体験するものが果たして貴重なものとなるかどうかはわからない
まだ豪華な船でクルーズしてそれが後で貴重な経験となっているかどうかもわからない
豪華列車の旅でもそうである、だから何でも金をかけたからといって体験をできるとは限らない、そういうものは金持ちの老人には向いている。
でも若い時に体力がある時に金がなくても自転車で日本一周したとかが大きな体験であり後でその体験が貴重なものだったということをふりかえる。
だから体験の価値は金で計れない、金がなくても旅の体験はできる、私は自転車旅行でテントを積んで寝泊まりしたから金はかからなかった、でもその方が体験として記憶に残ったのである。


蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと〉芭蕉

これも体験であり貴重なのである。金をいくらかけて便利な旅をしても旅の体験として貴重なものとなるとは限らない、それも一つの体験だから否定はしない、でも金をかけなくても旅はできる、金がないから旅ができないということはない、むしろ金より時間と体力があれば本当の旅を体験できたとなる。人間はすべて金では得られない、確かに豪華客船の旅も一つの体験である。特に外国だと旅もむずかしいからそれも体験である
でも余りにも便利で恵まれているとそれも何か贅沢すぎてかえってその体験が浅薄なものにもなる。

●人生とは何を経験体験したかである

結局人生とはどういう体験をしたかということでその人生の意義が見える
もしコロンブスのようなまた船で未知の国に行く体験をしたとしたらそれこそ人生を生きたとなる。そんな体験は今はできないからである。安全であり船が沈没することないからである。でも人生が生きたという醍醐味をがあるとしたらそういう危険を乗り切ったという冒険にあったとなる。

例えば聖書でも理解しようとする、でもいくら隅から隅まで読んでもわからない
なぜなら苦しむ悲しむ経験をしなければわからないからである。また奇跡があったとしてそれは事実であり体験したことを記したのである。それは空想ではなかったのである。
だからこそ価値がありその体験の価値があって聖書が読まれ続けているのである
まず体験しないと神も知り得ないのである。何か危機的な体験をしたりするとわかることがあるからである。
結局人間が生きることは体験することである。知識でも体験するからこそ身に着く、それでいくら勉強しても受験の暗記の勉強をしても現実に直面して挫折する
現実の問題を解決できない、現実の問題をどう解決するのかがわからないとなる

人間はやはりいろいろ体験することが人間を作る、大学とか無駄なようでもそれも一つの体験である。文系だと遊びの場だったとなってもそれも体験である。
だから高卒の人は大学のことを体験していないから理解できないのである
そこに人間の幅がないということがある、人生の一時期そうした自由な遊びの空間で過ごすということも経験なのである。ただそれでギャンブルにはまってしまったというマイナスの面もある、でも会社に入るとそういう体験はできなくなる。
だから留学体験とか外国で生活した体験がある人とない人の差が大きいのである
そういう人達は実感として外国を知っているからである。本を読んで知るのとは違っているのである。

農業などでも体験である。実地に農業している人の方が学者や学生より知っている
実地に農業を経験しないと農業のことはわからない、いくら本を読んでもわからないのである。別に学校で農業を学ばなくても家が農家なら実地に学ぶ機会があるから有利になる学校だけで本からだけで学べないからである。
人間を作るのは体験であり知識だけでは作れない、明治維新は侍が成したものでありでも官僚化して学問できるものが指導するようになったときおかしくなった
余りにも知識に重点を置きすぎたからである。そこに人格とか人間の資質などがないがしろにされた。そしてモラルも消失した。それは現代にもつづいている。
受験戦争の暗記だけの教育が人間をだめにしたとなる。
やはりそれは現実社会での体験をしない、頭だけで処理しようとすることで問題になったまた高度に専門化した結果頭でっかちとなり指導できなくなったともなる
それは個々の人間の問題ではなく文明全体の問題ともなる

現代は体験が希薄化している、頭だけで知識が優先されて体験が不足している
頭でっかちになりすぎたのである。膨大な知識でも消化できないのである
その知識でも体験がない活かせないのである。
ともかく旅も体験でもその旅の体験自体ができなくなったのが現代なのである。
なぜもてなしがあったかとなればまず旅人が宿に着いた時足を洗うのは歩いて来て埃りに汚れているからである。もてなしというときそういうふうに疲れているからもてなしがあった、車で来た人にはそういうことはない、するともてなしというのもなくなる
疲れたでしょうということもないからである。車でも疲れることはあっても歩いて来るのとは相当に違っているからである。
第一自転車旅行なぢしている人はまともでないとなる胡散臭いものとしていやがる。
ネクタイして背広をぴちっと来ている人が歓迎されるのである
でも今になると旅も一期一会であった,泊ったのも一夜だけであり後は泊まることもない、そこで親切にされたらうれしいとなる。でも今こうして旅する人自体いなくなったのである。
宿でもそんな人は相手にしないのである。だからテントが必ず必要なのである。

●体験が人間を作る

結局人間を作るのは体験である。それは必ずしも金をかけたからできるものではない
山に登るにしても体力が必要であり今になると年取るとできなくなったからである
だから激しい運動は若いうち体験していないと後でできなくなるのである
何でもできるように思えてもたちまち時間は過ぎてしまうのである。
体験というとき職業でも体験である。医者になるにしてもいくら学校で学んでも現実患者を診るとなると体験なのである。だから手術となると場数を踏んだ人がうまいとなるのはそれだけ体験を積み重ねて会得したとなるからである。そのために失敗したこともあるとなる

ただ正直人間はあるゆることを経験できない、先生に成ろうとしても免許が必要だなにかにとできない、要するに経験ができないのである。
それで自分は引きこもりになった、でもまたこの引きこもりも経験なのである。
そんなこと経験なのかとみてもやはりそれも特殊な経験だとなる
みんなが必ずしもなるわけでもないし高度成長時代に引きこもりなどほとんどいなかったからである。今や引きこもりは一つの時代の兆候だとなっている。
そこに問題があるにしろそれも一つの生き方だとまでされる時代にもなる
でもそこには是非があり大きな問題がひそんでいることも確かである

いづれにしろこれからは物でも飽和状態になっている、観光でもいかに体験するかである豪華客船の旅の体験だから否定はできない、でも旅の体験となるといろいろあり本当に旅を体験することは喪失しているのである。
目的についてうまいものを料理が目的だとするとなれば旅ではないのである。
それは付随したものであり本来の旅の価値とはならないのである。その体験でもうまいものをあそこで食べたなしかならない、旅の体験は抜け落ちしいるのである。
だからかえって時間と金を無駄にしたと後で後悔することにもなる
ただ登山とかは厳しいけど記憶に残る、でもそれは若いうちしかできないともなる
ただ70らいでも登山している人は今はいる、それも体験であり山を知るということはただ遠くから眺めるということもあるが山自体を体験するには登山が必要だとなる
人生は体験でありそれも様々なのである。
でも職業にしても簡単に体験できない、私が無人駅で駅員のまねごとしたのも体験だったそれでただ乗客となるだけではない体験をして駅のことがわかったのである
それを報告もしたのである。だからそこで問題のなのは

体験自体が貴重だった!

そこで金にならなくてもほめられなくても体験することが貴重なことだったのである。
なぜなら職業でも何でも簡単に体験できないからである。
結局自分が体験した職業となると流れ作業とか肉体労働とかしかなかったからである。
先生のまねごともしたがその経験も短く先生になることがどういうものかわからずじまいに終わった、つまりそれも体験できないからそうなったのである。
そして人生はたちまち時間がすぎてしまうのである

老人になるとどうしても自分の経験したことを語り自慢する、それを嫌がる人がいてもそれが人生だったからそうなる。それで認知症になったら親でも千回も同じことを語る
それを聞いている方がうんざりしたがそれがその人の人生だったから熱心に語りつづけたのである。私はこう生きたんだよという切実な訴えだったのである。
一人は従軍看護婦だったからシンガポールの向かいのジョホールバルで四年間地獄のような所で働いたからそれが死ぬまで忘れなかったのである。
だから生きたというとき一番印象に残ったことを語るのである
またこの家を建てたということでいつも自慢していたのもそうである
それも自分が建てたとして自慢したのは当然だったとなる。それはやはり苦労して建てたということがあるからそうなる。それは必ずどこの家でも親が語るのは当然だとなる
それを自慢するのはそれが生きた証ともなっているからである。
ただ病院とに入ると家とは切り離されるからそこで家を誇ることもできなくなるから
存在的にはただの病人になるやっかいものとなってしまうのである。

そして面白い老人とは価値ある老人とは金がある老人とは限らない、いろいろな人生体験をしてその体験が特別なものだったから価値がある、津波とかで九死に一生の経験などは誰でもできるものではないから自慢になる。
でも平々凡々な人生は余り自慢にもならない価値にもならないかもしれない。
波乱万丈を生きた人の話はかえって面白く価値あるとなる。
つまりその語ることでも経験を語るから経験が特別なものでないと訴えないのである。
ただそれぞれの経験があり違っている、それで石の貨幣があるがその価値は石が海に沈んでそれを取りだす苦労がありその苦労を語ることで価値が生まれるという
つまり貨幣そのものではなくいかにその石の貨幣を海からとりだしたという苦労話しに価値があるとなる、それが人間にも言えるのである。
いくら金を残したかではない、どういう経験をしたかでその老人の価値が決まるとなる
はっきりいって規格品のように生きた人は価値がない、カルト教団に生きた人の語ることは価値がないというよりもうその組織集団でも消失すれば個人の価値もなくなる
老人になると価値がまた変わってくる、金があるだけで価値があるとはならなくなる。
だからすべてを金に価値を置くことは失敗するとなる
金がなくてはいいというのではない、そういう極端なことを言ったら議論にもならない
金意外の価値が老人にはありその体験を語ることは別に金にならなくても価値があるとなる

船は荒波にもまれゆれ
それを乗り切り港につく
その時何かかえって達成感がある
そしてその荒波を乗り切ったことを
漁師は何度も語る
そこに価値があったから
静かな海を無事に帰ってきても
そこに価値は生まれない
激しい荒波にもまれた船は
そのこと故に港で安らいでいる

つまり荒波にもまれる経験があってその漁師の話でも価値あるものとなり漁師自体にも価値をあるものとされるのである。

2023年02月16日

常にあらゆる人でも物でも価値判断しているのが人間 (価値と意味を与えるのが人間の仕事)


常にあらゆる人でも物でも価値判断しているのが人間

(価値と意味を与えるのが人間の仕事)

●生まれた時から価値判断されている

人間とは何かとなれば絶えず価値を追及する存在だということである。
それは生まれ時から始まっている。何かかわいい子だとそうでないとか子供の時価値判断されてかわいがられる子供とそうでない子供に分けられる
親でも子供に対して平等に愛すわけでもない、例えば障害をもって生まれてきても母親は愛す他の子供より特別手をかけて愛するとういうことがある
だからその価値判断は一定しないのである

価値と言う時余りにも多様なのである。何が価値があるかとなると百人百様でも違ってくる、ある人に価値あることでも他の人には無価値になる
確かに子供の時など野球をみていたが今は見ていない、興味がないから見ない
相撲もみない、だから私にとって見るスポーツは価値がないのである
でもプロになれば活躍すれば莫大な金が入る、この世の中なんでもあれ金になれば価値があるとなる、毎日その人にとって価値あるものを買うことは常に価値があるから買うのである、金がなくても安い物でも買う、安くてもいいものを買おうとする
果物でもこれはうまいとかうまくないとかで価値を常に感じて買っているのである
金を払う時何かそこに価値があるから金を払うのである

ただある人にとって価値あることが他の人には全く価値がないこともこの世には多い
第一絵があるとしてその絵の価値がわかる人はなかなかない、でも絵の価値を知る人は価値あるものとなりそれが何億でも売れるとなるのである
でもその評価は必ずしもその絵の真価を知って買っているとは限らない、ただ高く売れるという投機の対象として買う場合も多い
わからないのはなぜアンテークコインなど大きな価値があるのか理解できない
それは歴史的価値あるものにしても現実に何億とかなると理解できなくなる
でも何億でも買う人がいるから価値があるとなる

要する一番価値を理解する時わかりやすいのは金で計る金になるものは何でも価値があるとなる。それはめんどうな理屈なしでわかるのである。そこで抜け落ちるのが金にならないものは価値がないとなる。でも金にならないものでも本当は価値がある、だから金で計れない価値もいくらでもある。
価値と言う時ある人が一人でも価値を認めればその一人が認めることで価値があるともなる。美人でなくてもその女性に何か価値あるものを認めて結婚する人もいるからだ
だから価値は余りにも多様であり何が価値あるのかとなると数字のように判断できないのである

多様な色がありその色でもみんな違っていることに価値がある
花などはそうである、みんな形も色も違っていることで価値が生まれているからである
そして花は必ず様々な色がありそれを一つの壺に活けると調和して互いにその美が映えるそれぞれの色があって調和して美を形成するのである
何か花はこうして調和するから見ているとなごむしほのぼのとする
人間でも本当は何人かでも集まればそれぞれの個性がありその個性が活かされて調和するとなればなごむのである、つまり赤い花と黄色の花でも青い花でも白い花でも争うことはないのである、人間はすでに二人でも男女ですら争いが絶えず調和しないのである
本当は人間でもそれぞれの価値がありそれが調和すればいいのである

いづれにしろ人間は常に価値を追及している、価値を見定める、これがうまいうまくないこれがいいとかこれが悪いとかこの人は何に優れているとか何もできないとか.....
価値を定める、それは常に日々行われているのである
これが価値がありこれは価値がないと常に価値判断しているのが人間の特性である。

●金を払う時価値を必ず見る

毎日ただただ飯くらうだけだであなたには何の価値があるのかと問われる
それが障害者とかに老人に問われる、老人だと数が多くなったから国家の負担も大きくなりすぎたからである
本当に奇妙だけど発達障害者がいる。あなたに何の価値があるのですかと問うとその価値がわからなくなる。でも母親にとってはやはり子供であり価値あるもの愛すべきものとして価値がある。でも他者にとってはただのやっかいものでありなぜ養わなければならないのかとなる
現実に私はなぜその障害者に金を払わなければならないのかわからないのである
そこに母親のように価値を認められないのである
そのために障害者を二十人と殺した人がいた、それはその人間たちはただ負担なだけで価値を認められなかったからだとなる、価値無いものとしてかみれなかったからそうなったのである

自分にとって大都会は価値がないとみる、自然に価値がありその自然と調和している生きる存在する田舎の方が価値あるとみている、でも東京でもなぜ一千万人が集中して住んでいるのかそんな場所に生きて何の価値があるかともみる
でも現実はそこに価値があるからそれだけの人が住んでいる、また価値がないにしても生きるために稼げるから住んでいるともなる、その大都会で生きるために注がれるエネルギーは莫大なものである、だからエネルギーの観点からすると東京などの人口は減らした方が節電になりいいとなる
もちろん別な見方があり価値観があるから一概には言えない
でも美的な観点から見ると大都会に価値を見出せないのである

とにかく二人の人間がいるとするとそこで常に価値が定めることが品定めが日常的におこなわれているのである

あなたは何の価値があるのですか

あなたは何ができるのですか

あなたは何が提供できるのですか

・・・・・・・

ただここでも金が価値基準になり金を稼げる人が価値あるとされる。それはなんでもいいとなる、法律に違反しなければ株でもうけようが何でもいいとなる
人間は価値あるものに金を払うからである、そして金になるものは価値があるとなる
その他のことは余り考えないのである
でも芸術とかなるとその価値を認めること自体容易でなくなる、だからゴッホの絵が百億とかなっていて生きている時は一つも売れなかったのである
そういう価値もある、芸術となると価値を認められること自体がむずかしいからである
食べ物と違って誰でも理解して鑑賞できるものではないからそうなる

●多様な価値の探求―最高の価値は神が与える価値

価値は余りにも多様でありある人に価値があってもある人には無価値になる
ただ価値をわかりやすくしたのが金で価値を計ることである、他の人が無価値でも金になれば価値があるとなるからである
金を払う時その人にとって価値があるから払うのである、だから奇妙なのは障害者がいて個人的に金を払うという時この人に何の価値があって金を払うのかとなる

国で援助するのは個人で家族でその負担を負わせないためでありみんなで負担を負うためにそうしたのである、だから個人的に金を直接払う時どうして払うのか何の価値があって払うのかともなる、ただ母親にしてみれば障害者でも愛すべき者であり価値かあるものなのである
だから家族内でもの価値がありどんな人でも家族内で価値あるものとされる

老人でも祖父母でも家族内で価値あるものとなる、社会的価値がないとしても家族内で価値があればその人は価値ある人なのである
でも家族内でも今老人が価値ないものとされるのが多くなっている
家族遺棄社会ともなっているから老人問題の深刻さがある。社会的には価値ないものとされているからである
私の家族のことを語ってきたが家を支えてきた価値があり家自体を作った価値があり私自身に尽くしてくれた価値があると家族の価値は自分にとって大きいものだった
ただ他の家族は違っている、こういうふうに家族の価値を感じない人も多いのである
粗末に扱われて虐待されたとかまである、だから家族も多様であり私自身は特別恵まれていたとなる、他の人は母親に対しても冷たいなと見る、それは私のように母親に良くされていたともならないからである、この家族関係でも親子関係でもみんなそれぞれ違っているからわかりにくいのである

人間は価値と意味の探求でありそれが人間の特徴である
その価値でも意味でも多様だから一様にならないから見分けるのがむずかしいとなる

もろもろの価値の根源は人間である、人間がおのれを維持するために、それらの価値を諸事物に付与したのである、人間が先でそれが諸事物に、意義、人間的意義を創り与えたのだ、それ故に彼みずからを「人間」すなわち「評価する者」と呼ぶのである
ニーチェーツアラストラ

神はこの世を創った、でもその価値を意味を与えるのは人間に与えられた仕事なのである例えばエデンの園で果実であれ花であれ名前をつけることは人間的な価値を与えることである、価値と意味を与えることは人間の仕事なのである
それは人間自身についても価値づけする、人間とはそういう存在だということである

現実にここに猫がいる、毎日餌をやっている、その猫自体なんで生きているのか何の価値があって生きているのかなど動物は考えない、でも餌をやる人間はその猫でも犬でも価値を見出しているから餌をやっているのである。
また植物でも花でも木でもそのもの自体が何か価値があるかなど自ら問わないのである
その価値を認める意味を認めるのは人間なのである
要するに動物であれ植物であれ花であれ森羅万象に価値と意味を与えているのは人間なのである、神はその素材を与えて人間にその価値と意味を見出されるようにしたのである
人間自体の価値もそうであり森羅万象でもそうなのである

●価値は国や地域でも変わってくる

価値はまた同じ価値でも場が違えば価値が違ってくる、無医村になれば医者の価値は格段に高くなる、この辺では自転車屋は一軒しかなかったので価値が高かったことに気づいた地域地域の価値があり国家と民族の大きな価値があり世界的なグロ−バルな価値もあり価値は多様なのである。
物の価値にしても自転車でも車でもその種類が多い、そして自転車だとデザインもそれぞれ違うし乗り心地も違うのである、だから同じではないからその同じ無いことに価値がある、電動自転車も増えて多様になりそれぞれに価値があるとなる
物の価値にしてもグロ−バル化して多様化したのである、多様化することは豊かになることである、食でもハンバーガーを世界で食ことには価値はない、日本食でも食べることで食も多様化して豊かになるのである、many culturl valuesになる
現代は量の追求でなくて質の追求であり多様性の価値の追求の時代になっているのである地域地域の国々の価値は量ではなく質として文化としての価値にある

そして宇宙を考える時銀河の価値があるとして宇宙のことなど知り得ないから未知になるからその価値は計りえないのである、ただこれからいろいろ知らないことが発見されれば人間的に価値づけられる、まだ見えない星の価値はゼロだからである
それは地球でも見えないものがあり発見されないものがあり価値づけられないものがまだ無数にある、地域でもそうでありその価値を発見されていないのである
その価値を芸術家が発見したりするのである、人間とはこうして価値の追求であり新しい価値の発見であり価値を創造することが人間に与えられた仕事なのである

そして最高に価値あるものは何かとなるとそれは神が与える価値である、人間が与える価値ではないのである。神のみが人間を神の子として聖霊をそそぎ最高の価値を与えたのである。それは神にしかできない、牧師とかでもできないのである
そこに人間の最大の意義があったとなる、ただ人間は堕落したのですべてには与えないのである、選ばれた人が神に価値が与えられて来世で神の国に永遠に生きるのである
そこに価値なきものはありえない、あらゆるものが価値あるものとしてあり花々のように様々な色があり調和するのである、神の国では老いることはないのである
病気もないのである、常に若々しく命は衰えることはないのである
そこではすべてに石コロ一つでも価値があり価値無いものとされることはないのである


2023年02月11日

カルマは苦しまなければ解消しない (カルト教団は組織自体がカルマを積んでいる)


カルマは苦しまなければ解消しない

(カルト教団は組織自体がカルマを積んでいる)


カルマと言う時必ず個々人でも家族でも集団でも国家でも積んでいる、ただカルマを意識するのは苦しまない限り意識できないのである
それを自分自身の家族の介護で延々と述べてきた。
私自身がカルマを意識したのは塗炭の苦しみを受けたからそう思ったのである
まず個々人でも家族でもカルマを積まない人はいないのである
ただカルマというとき悪いカルマになるが良いカルマもある
積善の家には必ず余慶ありとかある、それは自分自身の家にあった。ただ必ず悪いカルマもありそのために苦しみとなって現れる。
なぜ自分自身がそういう苦しみを受けたのか?
それは明らかに家族のカルマだったのである、家族の家のカルマを引き受けるのが長男長女になりやすいのである

母は家事を94歳くらいまでしていて食事でもずっと提供してくれた。それを自分は当たり前だと思っていた。でも死んでから全部家事をしなければならなくなった。
皿洗いから掃除から洗濯から何から何まで一人でするほかなくなった。
それもカルマだったのである。母親にすれば私はあなたのためにこうして家事をしてきたその苦労を知るべきだとしてそれがカルマとなっていたのである
また姉は金があったが他人にあまり施すということはなく金に厳しく冷たい人だった
ただ私には本当に良くしてくれたのである。でもそのことが私へのカルマとなっていたのである。つまりもっと金があったのだから援助するべきだったし施しでもするべきだったとなる、なぜなら十万の金を貸しても必ず与えるのではなく返してもらうことを強く要求していたからである。貸した相手は本当に正直でいい人だったのである
だからその人だけは姉が認知症になってもかわいそうだとして相手にしてくれたのである他の人は認知症になってからは馬鹿になったとか相手にしなくなったからである

人間はこうして必ずカルマを持ちカルマ故に子孫でも苦しみ、親の因果が子に報いとなるのである、ただ家族でも親でも必ずいい面と悪い面をもっている、悪い面のカルマをその子供は引き受けるのである。それは苦しまなければ解消できないのである
だから統一教会でも創価でもカルマ教団はカルマの解消するこめに献金しろとか言う
でも実際はカルマは解消できない、カルマは苦しまない限り解消できないのである
第一カルマと言ってもいいことばかり起きていたから意識もできない、苦しむ時なぜ私はこんなに苦しむのだろうとなる
その時カルマであると明確に意識できるのである
だからカルマの法則は確実にある、ただ例外がありその理由はわからない、正直でいい親をもってもその子供が全くでたらめな人となっているのもある
その理由はわからないのである

そもそもカルマは確かにある、でも統一教会や創価のように献金してそのカルマを解消しろとういのは詐欺なのである。なぜなら献金してもカルマなど解消できないからである
苦しまない限り解消できないからである。
でも苦しむのを嫌だから献金して解消するというときその金は幹部に入るだけなのであるつまりカルマを利用して金儲けしている詐欺なのである
そうしてその集団的カルト教団は大きなカルマを作っているのである
それがそのカルト教団自体のカルマとなりそのカルト教団に属している人達のカルマとなりやがて自壊してそのカルト教団は巨大な災いとなって滅んでゆく
それもまた自業自得のカルマなのである、その子供たち大きな災いのカルマを残してゆくのである、そうして苦しみそのカルマを引き受けた子供たちでも親を呪い組織集団を呪うとういことにもなる。

このカルマは個々人でも必ずある、何か必ず個々人でも悪いカルマを積んでいる
だから推理ドラマでは若い時の若気の至りの過ちが後の苦しみとなることがテーマになる若い時はどうしてもそうした過ちを犯しやすいからである
そもそも個々人でも家族でもそうだが組織集団でもカルマを作る、原発事故でもやはり地元の人達にも責任がありカルマとなっていたのである
それもやはり利益になる金になるということで積極的に誘致したからである

人間の問題はどうしても利益から離れられないのである
日々の生活自体が利益になることを求めている、そうすると利益になることは悪でも是認されやすいのである。
利益となれば会社でも利益を追及しているのでありそれが悪いことであっても利益優先になるのである。カルト教団もまさに宗教を利用した御利益優先の団体である
カルマを解消してやるから献金しろとか言うのはまさに詐欺なのである
そんなことしてもカルマは解消できない、苦しまない限り解消できないからである
だからアメリカでも原爆を日本に落としたのだからアメリカにも核攻撃されて甚大な被害を受けない限り苦しまない限りそのカルマは解決できないとなる
アメリカが正義でなんでもない、世界史は覇権を争う熾烈な戦いの場であり正義とか関係ないからである、だから日本が戦争してもそれが全部悪だと言えないのである

要するにハルマゲドンで人類が滅びるというときそれもカルマが集積してそうなる
カルマがそれで解消して新しい世界が開けるとなる、でもその時は人類は絶滅している
新たな天と地が神によって作られるのでありこの世には作られないのである
そしていつか悪は暴かれる、この世で王となり崇めれるのはサタンである
ただサタンが崇められるのは人間には欲がありそれから脱せられない、そのためにサタンがこの世の主となっているのである。

カルトの信者でも欲を求めて御利益を求めて集まるからである。
カルト教団というとき宗教でも島原の乱でもキリスト教が関係していてもそこに集まったのは戦国時代であり浪人が集まっていた、それは徳川幕府を倒して権力を得よとした人達であり必ずしもキリスト教の信者でもなかったのである
カルト教団は特に創価などではそういう人達が集まってくる、権力を得たいという人達が野心家が集まってくる。目的は権力奪取となり選挙がその最大の戦いとなる
それは信長の時代でも比叡山でもそこが政治権力の及ばない独立自治国のようになっていた。だから信長は敵対するものとして絶滅しようとしたのである

ただ宗教といってもこの世にはどうしても不満な人達がいる、そういう人達はなぜこうして不幸なのか貧乏なのかとか不満がある、その不満な人達を集めて革命をしようとするのが人間社会である、それは中国でも起きた、盗賊の首領でも中国の帝王にもなったからである、また黄巾の乱とかも宗教が関係して不満分子を集めて権力を倒そうとしたからである、でも本来宗教というのはそういうものではない、なぜならシャカは王宮に生まれたのでありキリストは枕するところなしという乞食のような生活をしていたからである。

そしたらそんなものを見習と言ったら誰もついてこない、むしろ王宮に暮せるようになるから信じろとして人を集めているのである。だから何か広宣流布なのかわからない、正反対のものを追及しているからである
共産主義でもやはり不満分子を集めて革命を起こして政権奪取しようとする
だから意外と共産党と創価は似ている、そこに不満をかかえている人達が多いからであるただその不満な人達を利用して幹部は政権奪取していい暮らしをするということである

いづれにしろ人間はカルマから脱することはできない、カルト教団に入ってカルマなど解消できない、かえってさらなるカルマを積むことになる、それは必ずその子供たちに子孫に影響してくる、それはナチスともなり狂気的集団となり社会を席巻する
怖いのはナチスのうよにそうしたカルト教団でも一部の者達の狂気にとどまらずナチスのように国民的狂気大衆的狂気ファシズムとなり巻き込まれることである。

それは第一次第二次世界大戦で証明されているからである。
人間がカルマから脱することができないというときカルマによって滅びるとなる
だから聖書ではノワの洪水でもこの世からの脱出がテーマになっている。
そして動物でも箱舟にのりこの世から一緒に脱出して生き残ったとなる
それがノワ一人が義人を選んで神が救出したとなるのである
神は一人の人間を選び救出するが集団組織は救出しない、ただ旧約聖書ではユダヤ民族を選んだがキリストが現れてからは個々人を救出することになったのである

2023年02月06日

ケチな人とは付き合いたくない (人の気持ちは必ず行為となって現れる)


ケチな人とは付き合いたくない

(人の気持ちは必ず行為となって現れる)

「ベタニアの香油」で、
ベタニアという村の女が高価な香油をイエスに注
ぐ場面である。女の行為は無駄使いであるととが
められるが、イエスは女を賞賛した。


これもケチと関係していたイエスに対して高価な油を使うのは贅沢だとしたのである
イエスはすでに死を予感していただからこそ油を高価な油を使うのだと使う咎められたことを許さなかった
ケチということは常に問題にされるあいつはケチくさいやつだ
そんな奴とは付き合いたくない男女関係でもそういうことがある
その女性は80何歳かの男性と付き合い相手が病気なので介護のような事もしていたでも自分自身が病気になり何の心配もしてくれなかったとして別れることになった

その男性の一人娘がいたがその人もケチだとして非難していたその一人娘はすでに孫もいるような女性であるそれなりに金はあるみたいだでもその女性が来た時でもでも世話する女性がきた時金が奪われるのではないかと警戒していたしていた
その世話する年配の女性も常に金に困っている人だっただから金が欲しいということは確かである
でもそれは本当に金がないのだからそうなるのもやむをいないとなるよくわからないが確かに100万の軽トラを買ったり今度は4万のバックが必要だとか言って買うと言っている、だから金がそんなにはないとは言えないもちろんあまるほどはない、治療代にかかるからであるでも世話する女性からするとケチに見えたそして病気になり入院したのに何のお見舞いもなく心配もしてくれなかったそのことで切れてしまったずいぶん仲がいいと見ていたがケチの問題で切れたのである

ケチという問題は意外と深刻である貧乏で苦しんだ人はどうしてもケチになるでもケチというとき別に金が持っている富裕層でもケチな人はいる金があるのだけどけれど金を有効に使わないそのことがケチなのである
また金だけではない何かちょっと人を援助することでもしないのである。その人は軽いものでも持ち上げることを嫌がっていた私のために何もしたくなかったのであるでも借金しているから金はは欲しかったでも本心は何もしたくなかったのである
そういうことは必ず行為となって現れる身振りとなっても現れるし表情にも現れるただそれも自分自身のカルマだったのであるそうされても仕方ない面が私にはあったのである

実際ケチといってもいろいろな面があるケチと節約は違う別に節約は悪いことではない、いろいろなものを電気でもも水でもエネルギーを節約することは今の時勢悪いとは言えないそうせざるを得ないからである
でもケチなのと節約は違ったケチとは何か出し惜しみする金があっても出さないまた何かできることがあってもしない
ケチとは金だけのことではないでも節約とは違う節約は悪いとはならないでもケチというときそれはその人間の性格とか人間性を問題にしているのであるケチとは本当は出せる金があっても出さない何かしてやれることがあってもしない簡単な事すらしないのである出し惜しみするのである

ただ貧乏で苦しんだ人はどうしてもケチになるそういう生活をしてきたから無駄な事には使いたくないそういう、それが習性とになっている。
私の母は大正生まれで貧乏でありその生い立ちも継母に育てられて不幸だった、何か働き詰めの一生だった、そこに何か楽しむということがなかったそのために花には興味もないから花を買ったりすると自分に対して怒っていたのである。そして庭に豆を植えていたのである。要するにこのように偏るのではなく豆も必要だが花も必要となることがいいのである、でも人間はどうしてもかたよるのである。
それもその生い立ちがそうさせたのである、継母に育てられたから親がいろいろと花のことなどを教える人だったらそうはならなかった
そこに不幸があったでもそのあとは高度成長時代を経験して豊かな生活を送ったでもその時も働き詰めであれ余裕がなく花などは無駄だと思っていたのであるただ金になることがしか追求しなかったのである

そして奇妙だったのは死ぬ頃に相当貯めた金を盗まれた、でも笑っていたのである、一円でも無駄にしなかった母が大金を盗まれてても笑っていたのである。何か認知症にもなっていた、でも金にあれほどこだわっていた人が大金を盗まれて笑っていたのにはおどろいたのである。おそらく死に間際になり欲が消失したのかもしれない
ただ人間は死ぬと金はどうでもよくなる、だから金があるときもっとよくしていたらなとあの世でくいているかもしれない、
あの世からは人はこの世にいる人にも何もできないし逆に死んだ人にも生きている人はなにもできなきなくる。
だからこそ生きているうちに良くしておけやれることはやってやれとなるのである。

こうして私は母にばかり育てられたら私もケチになっていたかもしれないもうひとりの母なる姉がいたのでそういうことにはならなかったのである姉はおおらかでありでありケチではない。でも他者には冷たいところがあった
金には厳しかったのである、一般的にみんな金金金の時代になったからそれもなかなか責めるということはできない

「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを何とも思われないのですか。妹が私の手伝いをするように言ってやってください。」
イエスは答えて言われた。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。無くてはならないものは多くはないのです。いや、一つだけです。マリヤはそのよい方を選んだのです。それを彼女から取り去ってはなりません」(ルカ10:38〜42口語訳)

なぜそういわれたのか、イエスと共にありそして話を聞くことの方が大事だったのであるなぜならその機会はもう二度とないことになったからである家事はいつでもできるでもイエスの話を聞くことは二度とできないことだったからである
それはただ家事に追われ仕事に追われ花に価値もない金にもならないどうして無駄だとすることと似ている
この世の自然の美は色々あるそれをそれを感じないそれは動物と同じである、人間はやはり動物とは違って神の作られたその美を見て感心したたえることが人間なのであるガツガツと食うだけの人は人間ではない動物になってしまうのである

ただケチというとき金だけの問題ではない相手に対して豪華なものを贈るということでもないたとえ粗末なものを送っても何か相手にしてやりたいと言う気持ちがあればそれは粗末なものでも嬉しいとなるでもそもそも相手に何もしたくないという気持ちになっていればその与えるものに何か心がこもらないのである私の私が困っているとき弁当を持ってきたがそれもいやいや持ってきた普通のコンビニの弁当であるあとはすぐ帰ってゆくだけだった
まあ仕方がないから来たというだけである何か持って行かなければならないと思い安い弁当をただ持ってきただけであるそこには何ら心がこもっていない何も持って来たくなかったのである何も贅沢なものを要求しているのではないそもそもが何もしてやりたくなかったのである心があれは手料理などをしたのものを持ってくればそれは違ったものになる

母の与える料理はたとえいいものではないにしろ母の愛情がこもっているだから外食するのとは違ったものなのである貧しくても精一杯工夫して子供に与えるそこには愛がこもっているから違っているのである
とにかく人間には常に心が関係してくるそれはやはり介護とか病気になった時苦しい時感じやすくなるのであるだから本当に相手に対して愛もないし情もなければ何もしたくない何も与えたくないただしょうがないから普通のお弁当でも買って与えるあとは何もしたくないということだったのである

脉(みゃく)をとる看護婦(かんごふ)の手の、
あたたかき日あり、
つめたく堅(かた)き日もあり

病気の時は人の微妙な心を感じるのである
自分の場合は看護師に虐待されたようなことがあったからそのことが忘れられないのである。今看護師はそもそもみんな老人を嫌っている。多すぎるからである、戦前は若人が肺病になった
だから悲惨であり同情されたということがあった。今老人が病気になっても数が多すぎてかえって早く死でくれとかなる
そういう気持ちは必ず行為となって現実化するから怖いのである。

とにかくケチなの人が家は何か事業することで成功するものだろうか相手の為に客のために与えるにしても本当は与えたくないわずかのものを与えてそれより多くのものをもらいたいということになるそういう気持ちで事業を成功するものなのだろうかもちろんそれ相応の利益を得ることはあたり前である
でもそこにやはり人間には心が関係していて心が現れてくる
こういうことはやはり相手が病気だったり弱くなったり苦しい時より感じやすくなるのであるこの人は私のためには何もしてやりたくないただ金だけは欲しいそういうことが表情にも行為にも現れるのであるただ自分の場合はそうされても仕方がないという面があっただから批判ばかりもできないということはあるただケチだということは常に人間関係で問題にされることなのである。それでやがてそういうケチな人は避けられる傾向がある

ただそこで間違えやすいのはケチと節約は違うということである節約は悪いことではないケチというときその人間自体が問題にされているだからケチというのことが常に問題になるのである
ケチというとき金があるとかないとかだけではない、気持ちの問題にもなる、金があってもケチな人はいるからだ
でも金でも余裕がないとケチになる、それは自分でもそうだったからである、

人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚を入れました。「レプトン」は、「レプタ」の複数形です。レプトン銅貨は当時パレスチナに流通していたギリシヤ銅貨の中で最小のものでした。

  旧約聖書に、夫に先立たれた「やもめ」や親を失った「孤児」の保護が命じられいることは、イスラエル社会の中で、この人たちが不安定な生活基盤で生きていたことを物語っています。「みなし子・やもめ・寄留の外国人」に対する神の顧(かえり)みの愛をいいあらわす旧約のことばがあります。
  イエスは、このやもめに目をとめ、弟子たちを呼び寄せて言われました。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から自分の持っている生活費を全部入れたからである」と言われました

この比較で貧しい人でもわずかに与えても多く与えたことになるその人はケチではないのであるでも金持ちが与える金が多いとしてもそれは持っている金からすれば少ないともなる
なけなしの金を与えた人の方が多く与えたのである
だからケチというとき金持ちでもケチな人はいるのである貧しい人でもケチでない人はいる
ケチということは必ずしも金の量では測れないのである
ただ現実の生活ではどうしても余裕がないとケチになることは仕方がないともなる、
でも人はケチな人は付き合いたくない金があってもケチな人は付き合いたくないそれは確かである

2023年01月31日

何の価値を追及しているのか?宗教が一番わかりにくい 古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ 芭蕉


何の価値を追及しているのか?宗教が一番わかりにくい

古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ 芭蕉

何かに価値があるとしてそれは必ずしも利益にはならない、価値と利益は即結びつかない
価値は多様であり何が価値あるのか意味があるのか決められない、ただ一般的な見方として金になれば利益になれば価値があるとなる、また価値と意味は違っている

なぜ価値があるのか

なぜ意味があるのか

それを問う時、利益になるから金になるから価値があり意味があるとならない
みんな金になる、利益になるとして働く、価値あるものが必ずしも金にならない
例えば芭蕉の俳句は価値があるというときその価値を知るとしたら相当に俳句に通じていないとその価値がわからないとなる、それは絵画でも音楽でも芸術分野になるとそうなるただ億の値段がつけば誰でも価値があるとなる、でもどうしてそんな価値があるのかとなるとその価値を知ることはみんなできない、そもそも芸術となると鑑賞自体がむずかしいからである、茶道とかなると古い茶碗に価値があるとしてどうしてそんなに価値があるのかとなる
ただ芸術でもわかりやすいのは長い時間の中で色あせないものも時間によって価値が減少しないでかえって価値が増してゆくものは本当に価値があるとなる

それは五月雨や降り残してや金色堂の芭蕉の句である、それはすでにその金色堂が建てられて400年とかすぎても五月雨のふりしきる中に朽ちずに残っていた
その価値を見出した、そこにみちのくの歴史が集約されていたともなる
それは江戸時代、それも今から400年前とかに作られたものでありその時代だからこそ作り得たものであり今になるとできない、感覚的に確かにみちのくは旅できるが江戸時代の感覚ではもはやできない、そこにその価値が衰えないのである
ある意味でかえって価値を増している、なぜならそれはその時代でしか作れないものだったからである、確かに正岡子規とかは写生俳句を提唱した功績があった
子規は芭蕉より蕪村に習ったのである、なぜなら蕪村は画家でもあり写生していたからである、でも蕪村よりも芭蕉の俳句の方が深さがある、また子規は写生俳句を唱えてもそれほどいい俳句を作ったとも見えない、それは早死にしたことも関係している
十分に熟成しないで死んだとなるからである

人間はこうして芸術的なものの価値は比較的わかりやすい、わかりにくいのは宗教的な価値である、キリスト教がありイスラム教があり仏教がある
そもそも文明というときキリスト教文明でありイスラム教文明であり仏教文明なのであるつまり文明の核に宗教がある、でもそもそもこの宗教の価値がみんな理解しているのかとなるとしていないのである
宗教の価値とは何なのか?それがわからなくなっている、でもカルト教団があり宗教は普及している、でも問題はその宗教の本来の価値を追求していない、ただ御利益となるとか福運がつくとかさらにこの世で高い地位につき金持ちになり豊かな暮らしができるとか
しかない、また病気でも治るとかとにかく何でも御利益があるしかないのである
でもそもそも宗教とは何になのか、宗教の価値とは何なのか知る人がいるのかとなる
なぜお釈迦さまが偉いのか、何の価値があって偉いのか、キリストがなぜ偉いのか何の価値があって偉いのか、それが本当にわかっている人がいるのかとなる
その価値がわかっている人がいるのかとなる
信者が何千万人何億人いたとしても一体どうしてそんなに崇められるのか、その価値は何なのかわかる人がいるのだろうか、カルト教団になればただ御利益追求でありまた神社にしても賽銭を投げて御利益を願うだけなのである
そうなると宗祖が説いた本来の価値とは何だったのか、それもわからないのである

古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ 芭蕉

キリストがシャカが何を求めたのかに重点を置く、そもそもシャカにしても王宮に住んでいた、そういう身分を捨てて一介の乞食となったのはなぜなのか?
今の宗教とかカルトとかなると王宮にいる王子でありたい、それが理想になっている
そうした生活をしたい身分になりたいとして毎日日蓮でありキリストであれ拝んでいる
その宗祖を見ればそんな境遇にない、日蓮だってあばら家に住んでいたのである
だから何でもこの世の欲がかなえられるとして御利益があるとしてひたすら日蓮であれキリストであれ祈っている、そんなこと宗祖に願ってもかなえるわけがないのである
そもそもキリストであれシャカであれ日蓮であれ親鸞であれ何を求めたのかが大事である王宮に住んでいて一介の乞食になる必要もないのである

ということは宗祖が求めたものと全然違ったものを求めている、それ宗祖が見てどう思うのか、もし宗祖が現れたらシャカでも日蓮でも何でもその宗祖こそ最も排斥するものとなる、なぜなら宗祖が求めたものとまるで違ったものを求めている、そしたら宗祖は私の弟子ではない、私が求めたものはそんなものではない、私はこの世からの解脱を求めた故に王宮を捨てたのだ、それがむしろみんな王宮に住みたいとなって王子となりたいとなって私に習わず拝んでいる、もし宗祖が現れたらその宗祖こそ最も排撃していてはならなんものとなってしまうのである、それはキリストでも同じである、荘厳な大聖堂があってもその宗祖が入れないともなる、その宗祖の教えたものを求めていないからである
だてから宗教に関しては何なのかわからないとなる、
宗教の本来の価値、宗祖が求めた価値がなんであったのかそれをまず知るべきである、でも全くこの世のものを求めて祈っているとしたら何なのだろうとなる
私の欲をかなえてください、私に王宮に住むような御利益福運を授けて下さいとひたすら祈っているとしたらそんな願いをかなえてくれるのかとなる
だからそもそもキリストでもシャカでも何を求めて何を説いたのか知るべきだとなる
その求めた価値が何であったのか知るべきだとなる

2023年01月30日

老舗の菓子屋を守るために犯罪者となったドラマ (なぜ命が尊いのかー仕事が天職が価値がありそれに献げる命が尊いとなる)


 老舗の菓子屋を守るために犯罪者となったドラマ

(なぜ命が尊いのかー仕事が天職が価値がありそれに献げる命が尊いとなる

●老舗を守るために犠牲にされたホームレス

葬儀屋松子の事件簿のドラマで老舗の菓子屋を受け継いだ男性が経営がおもわしくなく金に困っていた、それで自分自身に二億円の保険金をかけて偽装自殺した
本人が自殺したのではなく近くのホームレスが身代わりに殺されたのである
このドラマは何を意味しているのか?
その老舗の旦那は江戸時代からつづいた老舗の菓子屋を継続させることが最も大事なことだとしていた

ということはその老舗にはそれだけの価値があったから継続させようとしていた
ただ価値というとき本人が価値と思っても他者ではたいして価値を認めないことがある
いくら老舗の菓子屋でも認めないことがある
そもそも民間だととにかくたとえいくら価値があっても商売として経営として成り立たなければ維持できないのである

それで結局保険金二億円を得るためにホームレスが身代わりになったのである
そこでホームレスに何のか価値があるのかと見ていたかもしれない
こいつらは無駄飯喰らいだから何かの役にたたせるのがいいとまで見る
実際にそのホームレスは老舗を維持するために犠牲にされたとなる

そこに葬儀屋がかかわっているのも現代的である、孤独死した人もドラマになっていた
葬儀屋に死ぬ前に相談できる、どうしてほしいか相談できる
ただ葬儀屋でも客をとるためにいろいろと工作する、看護師に金を渡して死者を知らせて葬儀を請け負うとかある
葬儀屋というとき昔はなかった、地域で葬儀をしていた、村だったら村の人総出で葬式をしていた、それで村八分でも葬式だけは除外していたのである

●人間の命そのものが尊いのではない

ともかくこの年になると葬儀とか死がもう身近である、自分自身が後何年で死ぬのかとまでなる、ただ自分自身でも人間はいつ死ぬのかわからない、もちろん病気で弱ればなんとなく予想はつく、でもいつ死ぬかはわからないのである
だから自転車屋の人が私に死ぬ三日前ほどにいつまでやっていられるのかなと言っていたおそらく本人も確かに苦しかったがそんなに早く死ぬとは予想していなかった
癌の不思議は三日後に死ぬとしても仕事ができていたことである
寝た切りで何年もいて死ぬならいいがそんなふうに仕事ができるのかとなる
でも死に方としては良かった、仕事しながら迷惑もかけず死んだからである

人間の命と人間の価値とは何なのかという問題がある、人間の命は大事だよと言うのはわかる、でも人間の命が大事だとしたら尊ぶべきだとしたらただひたすら長く生きる生かさせることが大事だとなる、でも人間の命が大事だというときその命が何に費やされるかが問題になる、命そのものの価値より何のために命が与えられているのかとなる
天職を持ちその天職に価値がありその天職のために命を献げるということがある
仕事でもそうである、その仕事に天職に価値がありそのために命が献げられる
命が大事だというとき命そのものにあるのではなくその命を何に使うのかが問題になる
ただギャンブルとか無駄なものに命を使われればその命が大事だとはならないのである
命が何に使うか価値あるものに使うかで命が価値あるとなる

だから奇妙なのはロシアで犯罪者がウクライナと戦うめに釈放された、犯罪者でも国のために役だてばその命は尊いとなる、そして戦場だったら多くの敵を殺した人が英雄になるそれも不思議だけど犯罪者もそうなればその命は尊いものとなる
つまり命は何のためにあるのか?命そのものが大事というより何のためにあるのかが大事になる、黄熱病の細菌と戦い野口英世は死んだ、とするとその命は病気との戦いのために犠牲にされたということで尊いとなった
早く死んだとしてもそのことで功績があり讃えられることになったのである

●老舗の菓子屋を維持するために犠牲にされた人

だからそもそも人間の命が尊いとしても何のために命があるのかとなる
むしろ天職がありその天職が価値がありそのために命があるとなる
身近なことでも最近死んだ街一軒の自転車屋でも死んだがその人は自転車屋という仕事のために死んだ、それは一軒しかないのだからその仕事は他より価値あるものとなっていたただそれでその人が仕事をしていたということでもない、とにかく病気でありその治療費を払わねばならないとなり仕事をつづけていたともなる
でも死んでしまうと人間はもう金を稼ぐ必要はないのである
それで私が折り畳み自転車が売っていないのでナンバーをつけてくれと言ったが断れられた、それは自分の店で買わないから当然そうなったのである
でももう死ぬとわかっていたらもうけよりその仕事が重要であり無償でもしてやれば良かったとか勝手でも思う、もしかしたらあの世から別にたいして金にならなくてもしてやれば良かったとか反省しているかもしれない

つまり人間とはみんな利益を得るために金を得るために働かざるを得ない、でももともと仕事か天職は金を稼ぐだけのものではない、その仕事自体に価値がありその価値があって命が献げられるとなる、だから理想は金と関係なく仕事がありその天職に励むのがいいとなる、常に人間社会は金、金、金でありそれで歪められているのである
本当の価値を追求できないのである、そして無益なものに膨大な命が消費されることもある、戦争でもそうである、他にも無駄なことが膨大にあり命は費やされるのである

ともかくこのドラマでは老舗の菓子屋が価値がありその経営がおもわしくなっても維持しなければならないと事件が起きた、それは老舗の菓子屋が価値あるものでありそのために犯罪になった、そしてホームレスが身代わりになり犠牲にされた
このドラマの焦点は老舗の菓子屋が価値があるというドラマなのである
そのためにホームレスが犠牲になる、でも一人のホームレスより老舗の菓子屋が価値があるからホームレスの命はそのために使われるべきだともなっていたのである

でもその老舗の菓子屋がそれほど価値があるのか?それを誰が決めるのか、主人が決めたとしても回りでも価値があるとしなければ維持できないのである
そもそも価値が誰が決めるのかというのもわからない、大勢が価値あるとするものが価値がないともみる、でも大勢に価値がないものでも価値があるものはある
芸術品などはそうである、それは食べる物と違って価値がわかりにくいからである
だから金にならないことがあり誰も価値を認めないこともある
それで芸術家の悲劇が起きたのである

●無数の価値があり老舗の菓子屋の価値もその一つ

この世には無数の価値がありそれも発見されていない、身近な所でも発見されていない
学問的なことでもそうである、郷土史とかあっても発見されないものがいくらでもある
平凡な風景でも写真家でも画家でも優れていて個性的であればやはり美を発見する
そして価値あるものとなる、芭蕉がみちのくを旅して作って奥の細道の価値は衰えることがないのである、それだけのものを今も作れない、みちのくの価値を発見したのが芭蕉だったのである、それはどこでもまだ発見されていないものがある
新たな価値として再認識されるものがある、ただそれは食べ物と違ってなかなか見出しにくいとなる

江戸時代からつづく老舗の菓子屋を維持すること
それが価値あることだ
だから守らねばならぬ
たとえホームレスが一人死んでも犠牲にしても
老舗の菓子屋の価値のために死んだとなる
それは有意義なことだ
それだけ老舗の菓子屋に価値がある

こんなふうにもなる、それは勝手な見方にしてもそういうことがこの世にはある
人間が生きる価値とは命そのものにあるのではなくHuman life is precious when we live for something valuable...live forが大事なのである
その価値は多様であり時代ごとにも違っている、そしてまだ発見されていない価値があるここでは老舗の菓子屋の価値であるがこういうことは他でもあるだろう
伝統的なものの価値を守りつづけるということにもなる、そういう古来がつづく伝統的なるものの価値は民族的なものとしての価値でもある、日本文化としての価値がある
だから日本語をなくして英語にすればいいとかなると日本文化としての日本民族の価値は消失するのである、そこにグロ−バル化の問題がある
グロ−バル化とは国でも地域でも文化を破壊することが大きな問題なのである
貿易だけではすまない、物が入ってくるだけならいい、でも物とともに人間も関係してくる問題なのである、それが過剰になったのが現代のグロ−バル社会なのである

●医学の進歩のために犠牲にされた命

また医学の世界だと野口英世が黄熱病と戦い死んだ、犠牲になった、また華岡青洲の妻が麻酔薬の実験台にされた物語もそうである、それはフィクションでもそういうことは医学の世界にありえる、私の母の実家の継母は大学病院に献体した、医学の役に立ってもらいたいという人もいる、人間の命が尊いとしても命そのものが尊いのではなく医学が尊いともなる、医学が進歩する事は人類に貢献することにもなるからである
それで人間の命は戦争だったら国のためにと何千万人も死んだ、それは国を守ることが尊いもの価値あるものだからそうなったともなる
人間の命でも命そのものが尊いとはならない、何かのためになることが尊い、それは仕事に価値があり仕事が尊いともなる、だから価値とは何かというときその価値を決めるのは何かとなれば次の言葉があてはまる

もろもろの価値の根源は人間である、人間がおのれを維持するために、それらの価値を諸事物に付与したのである、人間が先でそれが諸事物に、意義、人間的意義を創り与えたのだ、それ故に彼みずからを「人間」すなわち「評価する者」と呼ぶのである
ニーチェーツアラストラ

神が世界創造した、でもその価値を評価することを与えられたのは人間なのである
神はイデアを創造した、様々なものを森羅万象を創造した、でもその価値を評価をするのは人間なのである、また価値を発見するのは人間である、その価値は無数にあり発見されていないのである
人間に与えられた仕事とはこうして万物に価値を与えることなのである
だから最初の仕事がエデンの園で名前をつけることだったのである
あらゆるものに果物でも名前をつけることだった、そのことによりその事物の価値を明らかにしたともなるからである、最初の学問が植物でも動物でも何でも名前つけて分類することになるからである
つまりそれが神が人間に与えた仕事だったのである、神が創造したとしても人間がその価値を評価するものとして造られたのでありまたそうした神が創造した世界わ賛美するものとして人間が創られたたのである

葬儀屋松子の事件簿

2023年01月25日

ケチな人の問題-人間はみんな偏っている (ケチな人は経営でも成功しないのではないか?)

ケチな人の問題-人間はみんな偏っている

(ケチな人は経営でも成功しないのではないか?)


財布からお金が出ていくときは、自分や家族、生活に必要なものを購入する時のみ。損得勘定で動くため、「この人や物にお金を使って元が取れるのか」「有益なのか」を常に考えているのです。
ケチな人は幼少のころから両親の倹約する姿を見て育った可能性も高く、それが当たり前の認識として備えられていることも。ケチな人の中にはお金を使うことに罪悪感を持ってしまい、過去に厳しい貧困を経験している人もいます。

印象4. 単純に器が小さいと感じてしまう

ケチな人は、割り勘にする時でも1円刻みまで細かく分け、社内でお祝いがある人にみんなでプレゼントをする時にも、「そんなに高くなくていいよね?」などといってしまいます。
ケチな人の行動や発言は、財布だけじゃなく心の狭さまでも浮き彫りにしてしまうのです。

●貧乏に苦しみケチになったことは同情する

その人は贅沢などできない、毎日かつかつの生活である、十円二十円でも安くないかと探している
ではその人がなぜサシミを買う時冷凍を買わないという、私はそんなことにこだわらないその女性は生きのい買うとなっていたのである
十円二十円節約しているのにそんなことをしていいのかと端から見ればおかしいとも見るでも私はそこに感心しているのも奇妙である
私の母親はもともと大正生れて貧乏だった、原町の紡績工場で働いていて食事はたくわんと味噌汁くらいだった、ずっと貧乏だったし戦後には食べるものがなくて苦しんだ
だから花に興味がないのである、花なんかいらないと言っていた
そして庭に豆を植えていたのである、それは極端な貧乏を経験してきたからである
何か花嫁修業などさせてもらえない、ただ働かせられるだけだった

それは戦前には子供は親に尽くすものとしてあったからだ、その親が継母だったのが最悪だったのである、そういう不幸な生い立ちでありケチになるのもわかる
正直私の場合母親は余り好きではなかった、もう一人の姉は鷹揚でありケチではない
でも姉にも問題があった、金があっても人を助けたりしない、他人には金に厳しかったのである

結局人間はなんらか性格にしろ何にしろ偏るのである
内向きな性格の人は本当に引きこもりになり異常化したりする、それを自分自身で経験しているからわかる、でも他の人達でも何か社会では力をもっていても異常だということを知った、第一カルト教団の教祖とかが性格的に異常化しているのが多いのである
オウムの麻原であり統一教会の教祖であり創価の教祖の池田大作であれ何か性格的におかしいのである、でも多数が認めているからおかしいとされないのである
それが極端化したのがヒットラーだったのである
つまり性格異常者が社会のトップに立ちそのために膨大な人間が死んで犠牲になったというのも信じられないとなる

ケチな性格というとき別に金がないからケチとは限らない、その女性は本当に明日食べるものがないくらい金がない、でもなぜサシミは冷凍のものを食べないのである
それは見れば贅沢だともみる、でも私の経験ではそういう人はケチではないとなる
金がありあまるほど持っていてもケチな人はいるのである
ケチというときだから貧乏人だけがケチとは限らないのである
ただやはり金がないとなればどうしてもケチになる、節約するしそうならざるをえない
だから大正生れの人でケチになるのはやむをえないともみる
金があれば余裕があれば自ずと余り金にこだわらないともなるからである
ケチな人は無償の行為はできない、ここに死にそうな人がいても助けないともなる、ケチとは金だけのことではない、あらゆることにケチであり出し惜しみする、簡単なことでもしないのである

●十円でも損しないと計算していたら経営者で成功するのか?

ケチな人は絶えずこの人と付き合って得になるか損になるか細かく厳しく計算しているかもしれない、だから自分が損するようなことは一切しない
何かしてやったら倍のものはもらうとなる、そうしないものとは付き合わないとなる
だから自分が苦しんでいたときまず金を問題にして金をくれたら助けてやるとかなる
商売としてみて相手が介護であれ苦しんでいる時そうなる
でも商売としてではなく相手が困っている時、緊急要する時それでいいのかとなる
医者でもなんとか助けてくれというとき金を出さないと看ないとかある、そこに問題がある、つまり医療には物の売買だけではないものがあるから医は仁術になったのである

でも今は医は算術となったのである
ケチな人は計算高く一切損することはわずかでもしないとなる、でもそうなると病気とか介護とか何か困った時そういう人が来たら恐怖にもなる
それを自分自身が経験してきた、人は世話になったとしても後で回復したら礼をするということはある、苦しんでいる時はそういう余裕がないのである
もうぎりぎりに追い詰められていて余裕がないのである
ただそうはいっても中国では病院では先払いになっている
払わな人がいるからそうなっている
保険で全部まかないない、半部以上払わなければならないからである
それは払わない人がいるからそうなっている

その人は経営者に向いていなかったのではないか?

経営でも十円でも損しないとか計算していたらできるのだろうかとなる
別に利益があげることは悪いことではない、でもケチな人が経営で成功するのかとなる
損してやれというのではない、何かケチるということは手抜きしたりいろいろ損することは絶対にしないとなる、そういう人に仕事を頼むのかともなる
ただ正直金がなければそうした余裕が生まれない、だからなかなか責められないとはなる

●人間はなんらかでみんな偏っている―社会でも国でも偏っている

いづれにしろ人間の性格はこうして誰でも偏るのである、それが異常化する、経営者でもサイコパスがいるとか異常性覚者が成功者にもなっているというときわからなとなる
まともな人格者が成功しているわけではないとすればそうなる
おそらく個々の家族でも何か偏る、異常化する、家族のことが良くyahooニュースででている、そこでは息子でが暴力をふるい大人になっても働かないとか家族がめちゃくちゃにされていることが語られている、引きこもりとかは普通にいる時代だからである
家族の異常性は意外と気づきにくいのである、それはやはり家族同士が付き合いがないと気づきにくいのである、人間は何でも相対的にみないと比較しないと自分でも家族でも地域でも国でも見えないのである、大きな石でも小さな石がないと大きいと気づかない
また黒い石どかりだったら黒いのが普通になる、そこに赤い石でも白い石があって黒い石を認識するのである、人間社会でも同じなのである

カルト教団の人達はみんな黒い石なのだけどそれが他と比べないから黒い石であることが認識できないのである、そしてナチスのように全員黒い石となり黒い石でないものは排斥もされるのである、それが人間社会の怖さである
そして何千万の国民が異常化しても偏ってもそれが正常となりそのために戦争ともなり何百万人も死ぬともなったのである、それが現代の大衆社会の怖さなのである
民主主義でも多数がすべて正しい通る社会だから大衆ファシズム社会になりやすいのが大衆民主主義社会なのである、ナチスは選挙で選ばれたからである

ケチな性格というのも一つの偏った性格である、偏るということは人間はそれだけ様々な要因で偏るのである、家族でも偏っていればそこで育つ人も偏るのである
育った家族が偏っている、一つの価値観とかに染まっているとそこで育つ子供も偏るとなる、カルト教団で育った子供は宗教二世はそうである
そういう家族で育てばそれが正常であり否定できないからである
そして家族とか家系でも何か偏っていてケチな家風とか生まれるのかもしれない
家風もそれぞれ違ったものになるからである

人間の問題はいろいろあるけどこの偏るよるということが大きな問題である
どうしてもその所属する所でも狭いからそうなる、実際に人間が日々生活する場は狭い
家族が日々生活する場としても狭すぎる、いくら国家を世界を語っても現実に日々接して生きる場は狭いからである、するとどうしても偏るのである
そもそもいかに偏らないことがむずかしいかである
二人が争う時必ずどららにも言い分がある、一方が完全に正しいということはない
だから一方のことだけを聞いていると必ず偏り公正ではなくなる
だから神は偏り見ないとなった、神だけが偏り見ないことができるからである
人間は必ず何らかで偏るのである、だから裁判でもみんな正しいとはなりえないのである

●ケチな性格もなかなか矯正できない

ともかくケチな性格も性格の偏りでそうなった、でもそもそも性格でもみんな偏る
内向的な性格の人は人嫌いになって引きこもりになったりして偏る、極端化するとそうなる、でもその人は禅のように寺で修行していれば別に変人にはならないのである
社会で生活していると変人になるのである
つまり人間はなんらかで偏る、性格でもそうである、ケチでもやはり偏った性格が形成されたとなる、そういう人と家族でも付き合うことは嫌だとなってしまうのである
でも正直人は何らか偏っている、だから自分はここが偏っていると気づくにはやはり対照的に視るために他の家族でも国だったら外国と比べるとその偏りに気づくのである
そうしないと自覚できないのである
ケチな人は別にその人自身はケチと思っていない、相手がケチだと思っているともなる
人間はとにかく自分の性格でも何でも自分自身もわからないのである

ただ人間の性格は変えられない、それでも何らかで偏っていることを気づくことは必要である、ではケチな性格を矯正できるかとなるとむずかしいのである
私の母親は花なんかいらないと異常化していたからである、そういうことは他の人にもある、貧乏で苦しんだ人は極端に節約して金があっても節約して絶対に損しないとかなる,私の母親はためることしか興味がなかった、そのためた金も盗まれたとなる
性格もやはり生来のものではなく過酷な人生とかなればそうなる
そこまで同情してみ見るのはまたむずかしいとなる、人間の性格とかも生来のものではなくその人が人生を生きる体験から作られるともなる
いづれにしろケチということはなかなか矯正できないだろう、偏ったことは矯正できない社会自体だってが何らかで偏る、そしてナチスにもなりファシズムにもなる
カルト教団とかこれほど社会を席巻するのもそうである、社会自体が偏ってそうなったのである






2023年01月16日

君子危うきに近かよらずー小人閑居して不善を成す (このことを人間は守れないのはなぜか?)


君子危うきに近かよらずー小人閑居して不善を成す

(このことを人間は守れないのはなぜか?)

「君子危うきに近寄らず」の意味とは? 使い方や類義語とともに解説

このことの解説をしていたが何か違っていると思った
この君子危うきに近寄らずとはその意味が奥深いのである
これがわかるのは相当に人生経験をしていないとわからない
あの時なぜ失敗したのかとふりかえるとそうだった
人間はほとんど君子危うきに近寄らずを守れない
それは何故かとなれば人間には欲があるからである
だからその欲のために危うきに近寄るのである
美人見たら性の欲望が抑えられないとなり過ちを犯すとなる
つまり人間の欲はその他いろいろありそのために君子危うきに近寄らずを守れないのである
だからこの格言を守ることは不可能に近いとなる
なぜこれほど事件が日々起きて来るのか、もめ事があるのか、それは誰しも欲があり
その欲のために危うきに近寄るのである
何か儲け話でもそうである、今や地銀とかでも経営が苦しいから投資信託を売りつける
投資は悪いものではないにしろそれもつくづく危険をともなっている
投資信託とか株でも知っていて自己責任ですれば問題はない
でも知らないですると君子危うきにかえって近ずいて大損するとなる
だから本当に君子危うきに近かずくことは不可能に近い
隠者になることは相当に難易度が高いのである

自分自身が引きこもりとなり隠者のような生活をしてきたがそのために社会性がなく肝心のことすら知らないことになり親の介護になり死ぬほどの苦労をしたともなる
つまり隠者というのも問題がある、社会を知らないことはそのことで必ず苦しむからである、君子危うきに近かよらずとはこの世には余りにも危ういことが多すぎる
何か事件があるとしたら何かやはり危うきものに近づいてそうなった
そうなるとまず女性というものにく近かずくものも危険だとなる
でも女性にあえて近づくのは男性の性欲があるからだとなる、ではそうならないのにはそもそもその性欲がなくならないとそうなるとなる
そのことから様々な問題が事件でも生まれているのである

ただこの世の中何が危険かわからないのである、男女関係だけではない、金銭関係でも危険がひそんでいる、だから何らかで危うき近かずき失敗する、それは自分自身でもそうである、何か危険かわからないのである、何かの調子で君子危うきに近かずいていることがあるからだ、つまりそれだけ君子危うきに近かよらずは守れないということである
だからこそ隠者になることなど相当に難易度が高いし誰もなれるものでもない
いづれ何か問題を起こすのである、だから小人閑居して不善を成すとういうのもそうである
これも自らの経験で理解した、小人が高等な隠者になることは至難だとなる
引きこもりであれニートであれその人達も必ず不善を成すのである
一見社会に迷惑をかけないからいいじゃないかともなるが何か問題を起こしやすいのである、それがいつか表面化するのである
そういうことができるのは特別選ばれたまさに君子しかいないとなる

「君子危うきに近かよらず」「小人閑居して不善を成す」これは本当にこれを実行できる人は本当にまれだと思う、余程優れた人でないとできないと思う
それは自分自身の経験で理解したのである、自分は小人だということを理解したのであるとにかく何かもめごとでも事件でも巻き込まれるのがこの世である
それから身を守ることは本当にむずかしい、どこでそういう災いが生まれてくるかわからないのである、でも知らずに巻き込まれ人もいる、でも基本的に人間の欲があるかぎりそうなるのである

カルト教団などもそうである、その人達に教団に近ずくことは危険である
でもいろいろ問題をかかえていて近づくことになる、その動機が人間の欲なのである
奇妙なのは宗教は欲を抑えるものとして禁欲から生まれたものだがカルト教団はむしろ人間の欲でそれを刺激させて会員を増やすのである
御利益がある地位とか金が得られるとか美人と出合えるとかあらゆるこの世の欲を刺激して会員を増やすのである、だから全く本来の宗教とは正反対のものとなっているのであるでも純粋な若い人だとそれがみぬけないことがある、でもなぜそんなに祈っているのか
選挙に勝つために祈っているのか、それはこの世の欲を実現させてくれるからだとなる
もちろん病気を直すためとかもある、もともとは病気が人間の一番の問題だったからそこから宗教が普及したのである、科学技術が病気を直すようになってからはそういうことがなくなったのである、でも依然としてカルト教団などが跋扈するのは科学技術でも解決しない問題が人間にはあるからである

人間はカルト教団でもあれどうしても危ういものに近づく、それが避けられないのであるだから老人になって人生をふりかえるといかにこの世が危ういもので満ちているかわかるそのために命を落とすものも多いのである、その原因は人間にはいろいろな欲があり欲を抑えられないからである、それで君子危うきに近かよらずを守れないし小人閑居して不善を成すとなるのである
だからこの格言は本当に短いにしろ深い意味がある、それは現代でも通用するのである
そういうことが普遍的真理なのである、時代が変わってもに人間の欲はなくなるわけでもいなから通用するのである、聖書でも人間は欲で滅びるというときそうである
それだけ人間の欲は消えることがないからである、それは科学技術がいくら発達してもそうなのである、人間の欲は消えることがない、消すこともできないのである
科学技術が発達しても理想の国など生まれないのである
とにかく人間が津波でも地震でも病気でも災いに満ちていることを痛感した、そして人間は人間関係でも必ず不和が生じる
結婚しても三分の一は離婚しているのである
この世はこうして災いが絶えないのである.
それで最後は神によって滅ぼされとなっているのである、そういう人間の不和は災いは消えることがないからである

2022年12月12日

人間は物語を残す(history)と同時に教訓を残す (でも人間は知恵の実を食べて神のようになったとしても賢くなれなかった)


人間は物語を残す(history)と同時に教訓を残す

(でも人間は知恵の実を食べて神のようになったとしても賢くなれなかった)

●個々の体験から教訓を得る

お骨には意味がなくその人の一生が人生でありそのstoryを残すと私自身の家族の歴史から書いた、それは私的なものだから他の人は関係ないとするかもしれない
でもやはりstoryはhistoryとなったように歴史は物語でありその物語が必ず教訓を残しただからいろいろな庶民が残した諺ですら人間がこれまで生きてきた中で残されたものであり教訓となっているのである、それは時代が変わっても変わらないから活きているのである、ということは人間そものもがいくら科学技術とか社会が変わっても変わらないから活きているのである
「金の切れ目が縁の切れ目」というときでもそうである、それが今は極端にそうなっているが昔でもそういうことがあり今に活きているのである

私が経験したことを書いたが私的な家族のことに留まらない教訓として読めるともなる
深く読んでもらうと確かにそこには教訓がある、兄の不幸は私の家とかかわり私の家が責められるものだった、でもその後の兄のことが全部私の家の責任とはならないと思う
何か金使いあらく結婚してもうまくいかず借金したことで離婚になったのか、そのいきさつはわからないにしろ何かしら兄自身にも責任があったともみる
いくら不幸な生い立ちでもその人自身がその生い立ちや環境にその責任がすべてあるとは思えないのである、ただ自己責任を余りに言いすぎるのも問題である

兄は過酷な運命に生まれたことは確かである、でも境遇はみんな違ったものになる
その境遇のせいにすべてができるのかとなると疑問である
ただ同情することはありそれで墓標を建てたてて供養している
ただ不運の星の下に生まれた人はいる、するとそのカルマを相当に自覚して生きないと
同じことが起きるのかともなる、兄の交通事故の原因はそもそも離婚したり借金したりと追い詰められた結果そうなったともなるからだ
それを恵まれた自分自身が言いにくいにしてもそうである
人間は誰しもカルマを背負っている、それが苦しみとなって現れる

人間は何であれ一人の一生でそれが別に優れた人でもなくても必ず教訓を残すのである
実家のめい子にしてもそうである、母が姑に嫌われたとしても自分だけは金持ちの人と結婚したりして娘を置いてそうしたから今度は認知症になったときその娘に頼ることはできなかったのである、娘は母親とすら思っていなとも見たからである
ただ金が欲しいというだけだったからである
その不幸は家を出るなら娘と一緒に出るべきだったともなる、自分だけが出て金持ちの人と再婚したということは勝手だったとなる
子供手放すというときそのことがあてはまる、それも教訓だった
小説ではないが小説でもそれが事実に基づいているから教訓を伝えるとなる
ただ私自身は小説は苦手でありなかなか深く読めないから読んでいない
でもこれを題材にすれば小説家なら書けるだろう、事実から小説が生れているからである

●歴史も必ず教訓を残すから学ぶべき

歴史もhistoryも必ず人間に教訓を残してきたのである、だから歴史を知るというときそこから教訓を学ぶということである、歴史となると大きなものになるからわかりにくいことがある、でも必ずそこから教訓を伝いているのである
その教訓を読み取る努力が必要になる、これは相当にむずかしいことになる
個人でも謙虚になれということはわかる、でも歴史の中でもやはり謙虚にならないで傲慢になって失敗した例はいくらでもある、野郎自大国が漢をみくびって戦争に負けた
そこにまさに夜郎自大国になっていたのである、それも教訓だったのである
それは実際日本の太平洋戦争でもアメリカの大国と戦争して勝てると思ったのも傲慢だった、相手をみくびりすぎたのである、そしてアメリカがどれだけ強大な国かを知らなかった、アメリカを直接接して知っている人はわずかだったからである
だからやはり野郎自大国になっていたとなる

結局なぜ人間は失敗するのか、それは傲慢になったからだとなる
個々人でもそうである、事業に失敗した人は意外と傲慢になって失敗したとなる
母親の実家の父親は警察署長だったから機織りの会社を経営して成功すると思っていたのである、でもその方面の経験とか知識に欠けていたようである
詳しいことはわからないにしろ警察署長だから成功すると思い傲慢になっていたのである母が言うには威張ってばかりいたと言っているからである
何かこの傲慢になることが人間が失敗する原因で多いとなる、その人が事業に失敗したのも確かに簡単に誰もとれない一級の免許を持っていた、だから会社に勤めている時は優秀な技術者として認められていたのである、でも事業をするというときまた違ったものになる、でもその人もそういうふうに技術者として優秀だと認められていたから事業を起こしても成功すると思っていたのである
その失敗の原因は傲慢になっていたということにあり共通しているとなる

他人のことを言うが私自身も失敗だったのである、結局何かをやろうとしてやることもできず引きこもりで終わったとなる、そういう機会も与えられず終わったとなる
多少教育に興味があったがそれも結局は経験を積み重ねることができず失敗だったとなるただもともと短歌とか俳句とかは作っていたからそれは継続して詩でも作って来たのである、その面では積み重ねで我なりにいいものができるようになったとみている
でもそれも時間をかけたらやっと死ぬ頃になって花が開いてきたともなる
人間は最初は芽にすぎない、でもそれが花開く時がくる
それも時間がかかるのである、自然と接して自然を知るには時間がかかる
だから都会から何か都会人からは芸術家とか天才が現れないというのも自然と接することがなく自然がどういうものか学べないからだとなる

●老人は経験を積んで賢くなる、二百年も生きればもっと賢くなる

だから青年はどんな老人でもいい、その老人から何か学ぶものがある
例えばとるにたらないくだらない老人でもあんな老人になりたくないとみれば学んでいるとなるからである
どういう老人になるかとなるとやはりすでに若い時から人間形成が始まっているのであるつまり若い時が大事なのはその方向が決まるからである
それでカルト教団などに入るとそうした時間でも労力でもただ奪われるだけだとなるから怖いのである
ただ私の場合は別に早い時期にやめたからそれも一つの経験であり教訓を得たということである
人間はもしかしたら成功した時かえって傲慢になり教訓を得ることがない
でも失敗した時必ず何らかの教訓を得るとはなる
人間とはその繰り返しカルマの繰り返しだともなる、なぜならカルマは延々とつづくからである
恐ろしいのは原発事故の失敗は未来永劫続くということである
その事故の失敗は余りにも大きいものだったのである

ともかく人間は賢者になれない、その歴史を見ても愚かである、その愚かさは何百万人も戦争で死ぬとなるから怖いのである、その反省があれば戦争などしないとなるがやはり依然として戦争があるのは人間が賢くなれないことなのである
一人の人間が賢くなったとしても大勢の人は賢くなれない、それは大衆化した社会をみればわかる、民主主義の数で決める政治ではかえって能力もないモラルもない人が選ばれていることでもわかる、数で決めるならどこでもそうなる
何か先見の明がある人など選ばれないだろう、政治とは権力争いでもあり権力を掌握するものが命令するともなるからである
要するにこうして人間が賢くなれないことが絶望的なのである
それは民主主義であれ社会主義であれ資本主義であれそうである
システムや組織を変えたとしてもそうである、個々人のレベルがあがらないと根本的にな解決にならない、でもどうしても大衆社会では賢者とかはありえないのである
水平化されてみんな同じだとなるからである
それで賢人政府なども実現できないのである

●エデンの園の禁断の実を食べて神のようになろうとしたがなれなかった

それは人間のような知恵がないからである、それはエデンの園で禁断の木の実をリンゴを食べたためである、それを食べてどうなったかというと人間自身が神となり知恵を持つものとなった、神が治めるのではなく人間自身が神となることになった
その原罪があり人間は自らを神として生きることになったのが根本的な原因なのである
でも結局人間の知恵は神に及ばないから人間社会は治まらないのである
絶えず争いがあり戦争もなくならない、法律を整備しても科学技術が進歩しても原発事故のように大事故になり取り返しのつかない失敗をした
それはギリシャ神話とかでも予言されていた、火を盗んだプロメテウスがゼウスから過酷な罰を与えられた

要するに人間は神となり知恵あるものとなり世界を治める

それができなかったのである、人間の知恵は神の知恵には劣る、神の知恵を凌駕することはできない、だから原発でも人間の知恵で作ったとしても崩壊して故郷に人間は住めなくなったのである、人間が自らを知恵あるものとして神のようになったときそれこそが傲慢であり人間はそのために高度な文明でも崩壊する、科学技術でも原発事故となり遂に核戦争で滅びる、ハルマゲドンで最終戦争で人間は滅びるとなる
それが智慧の実を食べた人間への罰だったのである
現代の文明自体が知的に技術的に高度ともならない、エジプト文明でもマヤ文明でも高度も知的で高度なものがあった、今でもピラミッドが現代の技術で再現できないものがあるでもどんな高度な文明があってもそれも滅びる、砂に埋もれジャングルに放棄されて埋もれたのである

人間の知恵で作った文明は永遠のものにはならない、神の国に永遠の都がある
つまり遅かれ早かれ文明は滅びるのである、人類も神の意にかなわないものとして滅びるのである、大都会があってもそこには美がないのである、それが致命的なのである
なぜそこに美なる荘厳な都を作れないのかとなるからだ
人間がいない自然状態のままの世界には美があった
それは津波で再現されたのである、八沢浦が元の美し入江にもどったということを書いたこれはそこで死んだ人もいたのだから批判された
でもその時入江にきらきら日がさして波が寄せてきたのを見た時驚嘆した
津浪は確かに悲惨だったけど自然は美を作り出すということである

●永遠の都はこの世にはない

それに比べると東京とかでも一千万人住んでいてもそこに美がないのである
それが致命的なのである、一千万人も住んでいれば確かに経済力とかはある
てもそこに美がない、田舎なら何もなくても自然の美はある
すると文明自体が何なのかとなる、かえって自然の美を破壊した怪物都市でありそんな所に人間が住めるのかとなるからだ
巨大な胃袋であり精神的なものがない文化がないのである
例えば天才でも都会からは生まれない、一千万人の大都会があっても天才は生まれない
育たないとなる、地方都市から生まれているのである、フィレンツとかルネサンスが起きた都市でも五万くらいだったのである、だからなぜそんな小都市からあれだけの文化が芸術が創造されたのかとなる

要するに人間の知恵で禁断の木の実を食べて神のようになったとしても人間の知恵は神の知恵には及ばない、だから必ず自壊して滅びるのである、永遠の都はありえないのであるそこに人間の限界がある、それはアダムが食べるなと命令した禁断の木の実を食べた結果として人間に起きたことなのである、それが人間のカルマとなり宿命となり今日までつづいている
人間はどうしても神のように賢くなれない運命だったのである
だからどうしても個々人でも失敗するし社会自体でも国でも失敗するのである
人間の愚かさはいくら文明が発達しても消えることはない、かえって人間は科学技術でも核戦争ともなり原発事故ともなり滅びるというのか運命なのである
それはエデンの園で禁断の木の実を食べて人間自ら知恵ある者として神のようになったというときから始まっていたのである

それで神に逆らうものとして人間がありバベルの塔を建ててもそれが崩壊するのである
それがまさに現代の文明でもある、原発事故のように崩壊するのが定めだったのである
人間は個々人でも全体でも社会でも賢くなれない、確かに歴史で教訓を残したとしても
依然としてやはり教訓は必ずしも活かされないのである
それは個々人でもそうであり社会全体でもそうである、だからカルマを繰り返しているのである、その原因はまた人間の欲にある、人間から欲がなくならない、それでもう68歳とかで熟年離婚したりする、不倫したりしているのである
人間の欲はそれだけ強いし消えないのである、だから人間が生殖して生き続けているともなる、それだけではない人間の欲は様々あり老人になったから消えるけでもなくかえって最後の欲望がでてくるともなる
そのために人間は欲で滅びると予言されたのである

●個人的には賢人はいる、でも大衆はほとんど賢くなれない

いづれにしろ社会全体でも賢くなれない、個人的にもなれない、ただ個人的には賢人とかいてギリシャではソクラテスとかが賢人政府を作ろうとした、それはあくまでも理想としてであり現実化はされないのである、むしろ政治となると権力闘争でありマキャベリズムになるのである
個人的には人間が百年ではない二百年とか健康で頭もボケないで活発であれば賢くなるとなる、成せなら外国でも理解するのがむずかしいからである
一つの国を理解するだけで何十年ともかかってしまうこともある、それだけグロ−バル化すれば知識も膨大に拡大するからである
でも歴史的には人間は何千年経ても賢くなっていないのである
個人的にはもし最初に老人となり青年となれば賢く生きれる、結局若い時は享楽に走ったり無駄なことで費やされる、そして時間を浪費するのである
もし老人から青年になればそういうことはない、時間の貴重さを知っているからである
また200年も生きるとなればグロ−バル化した世界では知識も膨大になっているからそれだけ元気に生きれるとしたら理解も深まる
たいして才能がなくても一つの分野の大家になれる

私自身が何でも理解することでも遅すぎたからである、でも遅いとしても長く元気に生きられば成果が生まれてくるとなるからである
個人的には確かに賢人はいる、それも極わずかである、あとは大衆となるとパンとサーカスになる、大衆社会となるとファシズムとなりポピュリズムとなり大衆を扇動するカルト教団とかが席巻してナチスになったのである、今ならカルト教団がそれと同じなのであるともかく人間は賢くなれない、やっと死ぬ間際になって人生はこうだったのか人間とはこういうものだったのか別に本を読まなくても体験から知るから老人は悟ったようになるのである、賢い人にもなる、でもまた老人でもやはり賢くなれるのはわずかだとなる
そこに人間の絶望があるとなる、科学技術ですべては解決しないからである

いくら科学技術が発達しても高価な機械で身体を診ても医者に見る目がなかったらわからないのである、それで脳卒中の前兆症状が三つもでていたのにわからなかったのである
一回は遠くの病院で診てもらい近くの医院でも診てもらってもわからなかったのである
科学技術の恩恵が大きいことは否めない、でも全能ではないのである
だからこの世の問題がすべて科学技術で解決されるというのは一つの空想にもなる
そうあってほしいというとき科学技術者が神のように見えるとなるが神の知恵を人間は持つことはできないのである、だから原発事故にもなったのである

遺骨の物語 (人が残すものは何なのかー骨ではない―家族遺棄社会を読む)

2022年12月08日

人生には確実に運が作用している (運も不運もカルマもめぐってゆく・・・)


人生には確実に運が作用している

(運も不運もカルマもめぐってゆく・・・)

人生は運だ ということは古今東西て言われてきた、それはなぜなのか、やはり人生を生きてみてそう感じたからだろう、それで財産でも運が作用してるとなった
fortuneは運の意味もあるからである、つまり人間は何でも努力だと思ってる、でも実際は 運の作用が大きい
私の家は小さな店を始めた、それで繁盛したのは別に商才とかあるわけでなかった
ただ場所が角にありその時戦後間もなくであり物が無くただ物が置けば売れたのであるその時車などない、だからみんな近くで買い物してたのである
だからその時代は何かを始めるには良い時代だったのある、簡単なことで店を始めることができたからである、本当に立派な店から始める必要もなかった、間に合わせもので始まったのである、それはどこでも同じだった、小さな工場でも大した機械も備えなくても注文があり人手が足りないから中卒の人たちを地方から呼んで雇ったのである
その時代はそうして 大した技術がなくても成功したとなる
それは時代の影響だったのである、今になればそういうことはもう簡単にはできない、大規模になり町の小さな商店消失したからである 
こうして時代時代によって運が作用しているのである

必ずしもその人は優れているとか優秀だとかで成功するわけでもないのである
いくら優秀でもその人が時代によって活かされるとは限らないのである
例えば江戸時代なら力があるものが優れた人となる、それで村では一人前に認められるのはくらべ石がありその石を持ち上げることができると一人前にされたのである
その時は機械もないのだから人間の力に頼っていたからである
今になれば力仕事は必要でもむしろ知能の方が大事になっている、建築でも設計する人が上になるのである
それで人間社会では必ずしも有能であっても有能にされない、そこに運の作用がある
いくら優秀であっても活かされず埋もれる人が多いのである

運と言う時私自身の家族でもそうだった、なぜかわからないがある人が死ぬと何か返って別な人が運が良くなるということもある、私の母は前の夫は事故で死んだ、それは不運だったのである、でも母は後妻に来て私を産んだのである
そして前の夫の子供 連れてきたが私の父親はよくしなかったのである
そのことで私は悪いなと思っていたのである、その兄も40歳で交通事故で死んだのであるだからこの不運は何なのだろうと思う、その理由がわからないのである
たしかなことは誰かが死ぬと誰かが良くなることがある

その女性は苦労した人である、貧乏が続いたのである、でも親しい人の妻が死んで今度はそこに言って話し相手とかになった、妻が死んだ結果そういうことができたのである
その女性は2回離婚してるのである
またその女性が私の家に来たのは私の家族がみんな死んだからである
それで私はその人に良くしているのである
別にその人が特別自分に必要だからというものでもない、たまたま家族が死んだのでそうなったのである

そのことで猫を一匹飼っていた、その時もう一匹の黒い猫が餌をやるとき 餌を奪いに来たのである、私はその猫を追い出していたのである
でも飼っていた猫は死んだ、結果的にその黒い猫 に餌をやっている
その猫はなれない、だから可愛くもないのである
それでも餌をやっている、それは一つの運命であり運だとなってしまう
つまり何らかの運が作用してそうなっている、その猫は不運だったが私が飼っていた猫が死んでいい運が回ってきたのである 
だから何か人間でも不可抗力な力が働いていてそうなるのかとなる
それが運なのである、それで金運もあり財産運もあり必ずしもその人の才能や努力だけで全てが決まらないのである、そこには運の作用があ、ただ運も不運もめぐってくるしいつまでも不運にはらない、またいつまでも運がいいともならない、それは巡って行くのである

その運は個々に時間をかけて巡って行くのであり一挙に全体に巡ることはない
一地域でもある人が金持ちになるとやはりその周りに金が巡って行く、だから その金持ちを悪いものとして拒否するとかえって金が巡ってこないということはある
金は天下の回りものなのである、金も運も一箇所にとどまらない、めぐみは巡りであり巡って行くのである、でも一挙に全体に巡っては行かない、ここに徐々に巡って行くのである
ただ逆に悪いことも巡って行く、それがカルマである、悪いこともだいだいに受け継がれることがある、親の因果が子に報いということである
ともかく優秀であっても努力しても必要でもそれで全てが人間の場合決まることはないのである、そこに運の作業があるからそうなるのである 

カルト宗教だと福運とかしきりに言うが返って実際は運が悪くなっている人達が多いのである、そういう事例を集めているのは創価に会員をとられた本山とか同じ日蓮宗でも対立している寺とか団体である、数が多ければどうしても不幸な人も多いのである
そういう団体に入るとかえって運がなくなることは確かである
人の不幸につけこんで会員を増やして団体の勢力を増大させる目的でそうしているからである、つまり人の不幸を種にして幹部達が福運を奪うことにもなるからである
なぜあれほど会員を増やすことに熱中しているかとなればそこから収入も得られからそうなる、でもそういう団体に入ると実際は不幸になる人が多いのである
ただ利権を得る、それで福運を得るのは幹部だけだともなる
寺でも宗教となるとお布施がもらえるのは福運がありますよ御利益がありますよ祈りなさい、そして献金しないさい、その福運はお金はもらいすまとなっているのである
かえって福運が御利益が奪われているのであ

それは共産主義でも同じなのである、権力を得て莫大な金を得ることになったからである運はあってもその運は作為的に人工的に作りだした運であり不公平になるのである
何か運には神の采配があるかもしれない、ただ不可解なのである
確かなことは運も不運もカルマもめぐってゆくのである、これだけは確かである
世界史で見てもある国が栄いても別な国が栄える、日本が栄えて今度は中国が栄えたとなるからである、富は金は一か所にとどまらないのである
だからどんな人でも一生のうちに運不運がありカルマでもめぐってゆく、そういうことがあるから今不運でもやがて運がめぐってくるということがある
するとそういう運がめぐってくるのを待つことが必要だとなる、ただなかなかなか待ちにくいとなる、でも何か富でも一代たげでは築けないし何事即製するものがない
一代では成果ができないが何代かで成果が出るということはある
そこで本当の成功は長い時間をかけないとありえないともなる、棚からぼた餅のようにはならないともなる

私の場合でも何か今になると自分のために家族があったともなる、父親は酒屋の丁稚であり苦労したし兄は不慮の事故で死んだとか不幸があった、また母の実家でも不幸に死んだ人がいる、母自体が不幸だった、でも私のためにそういう不幸があり私が活かされたともなる
それで私は家族に感謝しいいるのである

時代の運
家族の運
地域の運
・・・・

などがあり逆に時代の不運、家族の不運(親ガチャ)、地域の不運(原発事故)・・・
とかにもなる、人間を決めるのはいくら努力してもどうにもならないことがある
運の作用が大きいからそうなる、だから努力しても無駄だということではない
努力の上に運が加わらないとうまくいかないということである
女運が悪いとか男運が悪いとかもある、人間には様々な運が作用しているのである



2022年12月03日

人生の危険―利欲を離れることができない人間 (金の切れ目が縁の切れ目ー利によって離散集合)


人生の危険―利欲を離れることができない人間

(金の切れ目が縁の切れ目ー利によって離散集合)

●人間の本心は利欲で動くこと

利欲離れず
衆寡騒ぎ治まらず
人の世に危難多し災い多し
隠棲するも難あり
その心の欲は消えず
君子危うきに近寄らず
木石のごとく素心を保ち
己を持するを良しとする
利欲を離れれば心安らかなり
俗人と交わることも危うし
人はみな利欲に生きる
利をもって近づき
利をもって離れる
巧言令色にして仁なし
その口は災いのもと
内心あるは利欲のみなり
口を慎むべし
人は利の心に敏く
仁の心にうとし
人はただ利によって計り
利に追われ利にかられ利に終わり
その本意を失うを知るべし

この世に生きるとは何か?利欲から人は離れることはできない、日々の活動が利欲でありこれを否定できない、そもそも無料で何かを提供する人はいない
店で何か買うにしても売る方でも利欲でありそのために日々あくせくしている
一日たりとも利欲離れて人間はありえないのである
この世の付き合いも交際も利欲であり利欲を離れて交際もないのである
お歳暮とかいろいろ世の中の慣習があってもそれはただ物を贈与するというのではなく
そこには必ず利が働いている
上役であれ御世話になった人であり何らか利が働いて贈り物もある
つまり人間社会では無償の行為とか無償のものはないように見える
神が与えるのは無償である、人間を通せば無償でくなくなる、互いに利益になるから商売もある、それを否定はできないし悪いともならない
でも人間の交際が利しかないというときそこに危険がある

●兄の交通事故で経験した人間が利欲で豹変する怖さ

そういうことを身近かで経験している、兄の交通事故でその雇い主が盛んに兄が乞食のようにして来たのを雇ってやったとかいろいろ言うのは何なのだろうとわからなかった
そして骨を置いてゆけというのもわからなかった、墓を作ってやるからとういのもわからなかった、墓を作ってどうするのかとなる、それは保険金をもらうためだったのである
墓を作った所で金にもならないからである、墓代を払い供養するから金を出せということだったのである
それは交通事故の保険金をもらいたくて言っていたのである
なぜなら身よりがないと見ていたからである、私は車がないからそれがわからなかったのである、実の母親がいて保険金を受けとる権利があった
結婚した妻はその時離婚していた、それも一週間前だったのか離婚した、その書類を記したのである

中学生の娘がいたが母親であり妻にも離婚していなければ権利があった
でも離婚したので喪失していたのである
私の家では兄には良くしていなかったので権利を主張しにくかった
でも雇い主は雇ったとしても働いてくれるから雇ったのである
病人でもない、そのトラック会社で働く者として雇ったのである
その社員が交通事故で死んで権利があるとはならなかったのである
結局妻の兄の家に引き取られた、なぜならここから遠い静岡とかでありその事情もわからなくなっていた、でも妻の家とは子供の時から行き来していたからそうなったのである
だから人間でも遠くなると何が起きているからわからなくなるのである
確かにその会社の社長は雇ってくれたということはあったかもしれない
でも働く者として必要だから雇ったとなる、何か病気になったから世話したというのではないのである

おそらくこれも交通事故の保険金が大きいので身よりがないとしてその保険金の受取人になりたかったのだろう、それまではそんな気持ちはなかった
でも保険金というのは大きいから利欲が出てきたのである
人間はそうして利欲が何かの機会ででてくる、それが怖いのである
その社長は別に兄が交通事故で死ななかったらそんなことはなかった
ただ雇って働いてくれていただけだとなる
だから何かの調子で利欲が人間には出て来る、美人を見て性欲を抑えられなかったとか常にあるからである、別に美人を見なかったらそういうこともないかもしれない
金でもそうなのである、だから遺産相続でももめるのである
大金になるからそこで人間の欲が出てくるのである
そこで相談した弁護士も相談するだけで百万もとったのである、これも詐欺なのだが頼んだ人も社会を知らない人だったのである
私自身も車がないから自賠責だとか任意保険だとかわからなかったのである

こういうふうに欲に目をくらみ豹変するのが人間である
この辺の原発事故でもその補償金が大きいからその金をもらうことだけが目的にもなってしまった、復興とは補償金をどれだけ多くもらうことかにもなったのである
何か故郷を復興しようとするより補償金をもらうことが優先されたのである
そして故郷を出て他で家を建てり仕事を持ち帰らなくなったのである
二千万もらったとか今まで手にしない金が入ってきたから何か平常心を失ったとなる
それだけ貧乏な人達もいてそういう金を手にしたことがないからそうなった
人間は金で狂ってしまうのである、黄金を求めて争いがあるのもそのためである
無法者がアマゾンに集まり黄金を探して一攫千金を夢見てアマゾンの森を破壊して汚してゆくのもそのためである、遺産相続で兄弟が殺し合うということがあるのもそうである
ともかくあらゆるところで人間は利欲を求めるのである
そのために邪魔する原住民が銃で殺されたというから怖い、まるで麻薬の利権で争う
マフィアかギャング団である

●人間の本心は利欲で動くことーそして善人の仮面をかぶる

人間は善など求めない、ただ利欲があり利を求めているだけである
カルト教団などもそうである、無私になることが宗教だとなるがそんなことは全くない
ただ欲を求めてそうした団体に入ってくる
何か利益がないかとか入ってくる、そしてその欲を充たすために祈るのである
御利益のために利権のために祈っているのだから宗教とは正反対の団体なのである
たいして暴力団とも変わりないともなる
でも暴力団は俺たちは悪だということを表明しているのである
でも宗教を看板にしているカルト教団はただ宗教を自分たちの欲のために利用しているだけなのである
それはお賽銭を投げて御利益を祈る人とにている、千円を入れたら二千円でも御利益になって帰ってきてくれと祈っているのである

だからなぜ宗教を看板にしているのか神仏に祈っているのかわからないとなる
そもそも宗教というと心を浄化するとか無心になるとか無欲になるとかであるがその正反対がカルト教団の実体なのである、御利益と利権と権力を欲しくて集まり祈っているのである、そもそもそういう場所に良くいられるものだと思う
欲深い野心家が集まりその欲望を達成するために共に祈り権力争奪しようとするのである別に病気を直してくださいとか神仏に祈ることは悪いことではない
でもそのために誰かに金を寄付するとかなると違ったものになる
あなたの願いをかなえてやります、そのためには私に金を払いなさいとなるのはおかしいのである、その人は神仏でもないからである、その人もただ金が欲しくてそう言っているだけなのである

ともかく今世の社会はこれまででも人間の社会は人間は欲から離れてありえないのであるだから宗教というとき出家して僧になった、それは俗世ではどうしても利から離れられないからである、みんな日々生活するために利から離れられないのである
それがこの世である、人間の関係も利でしかなく金の切れ目は縁の切れ目にしかならない利に集まり利によって離れるだけなのである
だから出家があり修行したとなる、その出世とは仏教では世を出ることなのだがかえって世に深入りしているのがカルト教団なのである
出世するとはこの世で出世して地位でも権力でも得ることになったのである

だからこの世から俗世から俗人から離れないと心の清浄は保てないから出家して世とかかわらないものとして修行したとなる
もちろんそういう場でも寺でも修道院でも堕落したことは確かだがその動機は心の浄化のためであったから今のカルト教団などとは全く違っていたのである
第一カルト教団に入る人は利益を求めて入るのであり心の浄化とか全く関係ないからである
山で断食して心を浄化しろとか言ったら会員になる人などほとんどいなくなるからであるあらゆる欲を肯定するからこそあれだけの人数に増えたのである
創価などは一票になればあとはどうでもいいだけである、数を集めれば権力になりそれでこの世の欲を得られるとういだけである
題目をあげるのもただ欲を達成するためであり最終的にはこの世の権力を得て欲を充たすためだとなる、だからなぜそういう団体が宗教法人として認められて無税になっているのかわからないとなる、宗教もただ利益のために利欲のために利用されるだけだとなる

それで地獄に落ちるとか罰当たるとか言っているのだからあいた口が塞がらないともなる
そもそも利欲だけで動いている者がそんなことが言うこと自体言えること自体なんなのだろうとなる、シャカとかキリスの教えをただ自分達の欲を達成するために利用しているだけだとなる、そんなことしていたらそういう人こそ地獄に落ちて罰当たると普通の人でも理解できるはずなのである、でもそうなっているのは利得を利権を得られるからであり
全然悩みもしないのである、人間はそもそも俗世間にどっぷりと浸って生活していると
それが日常になり別に何も感じなくなるのだろう
それでも何か若い時は潔癖さを持っていたことは確かである
でも歳をとるにつれて塵埃の中に没してその汚れも当たり前であり感じなくなっているとなる、この世とはこんなものだとして諦観してあきらめるとなる

●人間は賢者になれない、君子危うきに近寄らずの意味

ではこの世がそういう世界だというとき人間がそういう利欲から欲望から離れられないとして世を嫌い隠者となる隠棲するとしてもこれも結構難易度が高いのである
要するに隠者になるとしても人間はやはり欲があり欲から離れられないからである
また引きこもりとかニードかになると何か人間にまともに成長しないのである
それより何か能力がないので脱落したためにそういう人ととなったともみる
何であれ職人にしてもそれがみんななれるわけでもない、建築土木関係でもこれも力仕事があり力がないとできないとかある、だからニートとか引きこもりはそうした仕事するできないからかともなる
自分には力仕事はできなかったとかあるからである

結局人間は賢くなれない、賢者になれないのである、だから引きこもりでもニートでも
小人閑居して不善を成すになるのである、何かおかしな方向に行ってしまう危険がある
ただ老人になると人生のことが自ずと解明してくることがある
欲を減退して悟ったような顔に普通の人でもなるのである
でも依然として老人になってもいろいろな人がいて欲から離れられない人もいて問題を起こすし小人閑居して不善を成す人が高齢化社会で膨大に増えるのである
暇をうまく使いない人が増えるのである

いづれにしろ人間の関係は金の切れ目が縁の切れ目だったとなる
みんな金を求めている、でも金が利がないとなれば別れるだけである
違うのは家族くらいであり友情などもないだろう、利により利なければ離れるだけであるそういう人が近所でもどこでもそうだというとき何かあると病気であれ事故であれ何か不測の事態が起きた時襲ってくるとなるから怖いのである
もしかしたら虎視眈々として財産を狙っているとかなる
そういう中で人間が生きていることか地獄だとなる、親鸞でもそういう地獄を生きたから地獄を語ったのである、この世にこそ地獄がある

それはいくら科学技術とかでも進歩しても同じなのである
怖いのはその科学技術で人殺すことにもなる、原爆でも落とされる核戦争にもなることである、国と国は対立してそうなる、国と国は平和になりえない、やはり隣の国でも弱体化すれば襲ってくるとなる
だからこの世に安住の地はない、地球に安住の地はない、利欲が消えない人間がいる限りどこでも安住はないのである、地獄とはこうしてこの世にある、いつ襲われるかもしれない人間社会だから地獄なのである
この世ではこうした地獄から逃れようがない、ただ希望は神の国で神が治める国で生きるたとしか希望がないのである、この世に理想の国など実現しないからである

文明がすすみ豊かになったとしてもかえって人間の素朴さは素心は失われる
すると文明とは何なのかとなる、法が発達して正義が行われるかとなるとならない
法律を破る者が弁護士だというときそうである、ただ法律は悪を利を得る為の手段だとまでなる、インディアンをだました白人がそうだったとなる
巧みに契約させて土地を奪ったとなるからである

●この世に桃源郷はない

山中問答  <李 白>

余に問う何の意ぞ 碧山に栖むと
笑って答えず 心自ずから閑なり
桃花流水 杳然として去り
別に天地の 人間に非ざる有り


呉山深くして而して深し
性を養ひて老朽に甘んず
ただ木石と共に居りて
氷瀑と志堅く守りぬ

中国はとてつもなく広いから何があるかわからない、だから桃源郷もあるとなった
でも実際はそこに人間が住んでいるかぎり欲のない人間はいないのだから桃源郷はないのである
桃の花が流れてきた上流になにがあるのか、それは誘われる、でもそこにも人間が住んでいたとしたらやはり欲があり理想郷などないのである
この世の理想郷とはただ頭の中でイメージされた空想の世界なのである
要するに桃源郷としてもそこには到達しえない場所なのである
だからこそ神秘であり理想化されるのである、死者が美化されるのと同じである
桃源郷のような所があったらいいなとイメージする、それは現実から逃避現象なのである平家の落人伝説でもそうである、別に高貴な人が落ち延びて来たわけでもないがそういうふうにして美化していたとなる
ただ文明化された所で育った人は素朴だということはある
文明がすすめばすすむほど逆に人間はかえって素朴さを失う、それは確かなのである
ラオスの人が素朴だったというときそうである、まだ開発されていないからである
でもそこも文明化されると素朴さは失われるのである
そういうことはヨ−ロッパ人が日本に来て同じようなことを感じたからである
みんないい顔していた、満足な顔をしていたというときそうである
文明が進むとかえって人間の素朴さは失われて狡智にたけたものとなる

ずる賢い知恵。悪知恵。奸知 (かんち) 

だから桃源郷というときそういう狡智がないから騙されるということがなかったとなる
例えばアメリカに入ってきた白人は契約させてインディアンの土地を奪ったとかある
文明人はかえって人をだます手練手管が発達する、法律さえそのために利用されるとなる

呉山深くして而して深し
性を養ひて老朽に甘んず
ただ木石と共に居りて
氷瀑と志堅く守りぬ

私が追及してきたのはこれである、引きこもりとなり社会から離れ山に籠もる、そして
石や木と一体化する、そこに素心は失うことなく守られるとなる
志を堅くとは汚れない心を維持するということである、堅い意志でもって守るということである

故郷に長くもあれな何となる石ともならむ冬の日暮れぬ

2022年12月01日

権力を追及するカルト教団(権力と権威の問題) (宗教はもともと権威であり権力はなかった)

権力を追及するカルト教団(権力と権威の問題)
(宗教はもともと権威であり権力はなかった)

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権力と権威というときまぎらわしい、一体化もしている、権威⇒権力 権力⇒権威
ともなる
政治では首相とか大統領とか習近平書記とかが権力がありその権力が権威となる
宗教でも権力と権威が混同される、宗教団体の教祖は権威があり権力もある
その権威は権力にもよっている、民主主義社会だと数が権力になる、票が権力になる
例えどれだけ優れた人がいても一票には変わりないのである
ただどんな人でも一票を持つのだから一応権力を持たされているとなる
でも十票でも票を求める人が権力を持つとなる

権威⇒権力 権力⇒権威

この構図がわかりにくいのである、宗教はもともと宗祖がいたとしてシャカでもキリストでもいたとしてももともと無権力だった、洞窟で家もなく修行したシャカでもそうだし
枕する所もなかったキリストにしても権力などなにもないのである
それがやがて権力化した、カトリックだと政教一致になり権力化した
そうなると人間は恐れるのは権力である、権力というときいろいろある
その最たるものが軍事力である、また現代では科学技術力であり経済力である
アメリカはこの軍事力と経済力と科学技術力で世界を支配するようになったからである
日本がの戦争でも最後に原爆を落として支配したからである

科学技術力がない時人間は宗教に頼った、頼るものがないからそうなった
だから村の中心には必ず薬師堂がある、そこで祈るほかなかったのである
そして地蔵にいろいろあり眼に効く地蔵があり耳に効く地蔵がありまた腰痛に効く地蔵がありと今の病院のように分化していたのである
なぜ宗教が力が持ったのはもともと病気を直すためだったのである
病気が人間にとって一番の問題だったからである
でも科学技術が医学が発達しない時代は宗教に頼るほかなかった
だから山伏とか法印とか一部落とか一地域に必ずいたのか?
それは病気の加持祈祷する者として生活できたとなる、つまり医者代わりだったのであるだから山伏は山を歩いて薬となる植物を探して現実にそれを飲ませたともなったのである

キリスト教でもやはり同じでありキリストが様々な奇跡を行った、病人も直したり奇跡を示したことで信じさせた、その頃病人を直す術がないのだから奇跡に頼るほかなかったのである、そしてユダヤ教の人達もキリストが奇跡を起こしたということで注意して見ていた、奇跡を起きることが神の使いだともなっていたからである
そもそも奇跡は神が起こすものだからそうなったのである
それは旧約時代がら聖書でも奇跡の物語であることでもわかる
奇跡なくしては信仰もありえなかったのである、必ず何らかで奇跡が起きているからである、最も知られているのはモーゼが海を割った紅海を割ってエジプトの軍隊から逃れたとなる、そんなことありえるのかというがその奇跡を信じないことには信仰もありえないのである、聖書の信仰はある意味でも理論とかではない、奇跡を信じる信仰なのである
奇跡を信じなければ信仰もありえないからである
奇跡とは科学でも自然でも超越したものとして働くのである
いくら科学が発達してもこの世には不可解なことがあり依然として謎である
だから奇跡なくしてはこの世のことは解決しないのである

なぜこれほど科学技術でも発達して情報でもインタ−ネットとか生まれて普及してグロ−バル化したのに依然として人間には様々な問題が生まれている
カルト教団の問題もそうである、それはやはりこの世のことが解決しないからである
カルト教団に入るのはそこでそれぞれが持っている問題を解決してもらいたいからだとなる、病気とか経済困窮とか家族の不和とか様々なもめごととか数限りなく人間を苦しめるものがあるからである、それが解決できないからカルト教団にでも頼るとなる
なぜカルト教団がこれだけ科学技術が発達しているのに頼るのかとなるとやはり依然として人間の問題が解決しないからである
そこでカルト教団ではやはり昔と同じように解決すると導き実際はそこで寄付金をせしめるともなる

何がホームレスになった四国遍路がどこかでお経を覚えて金を恵んだらお経をあげて私は乞食ではない、あなたに金をただではもらわない、私はあなたのために御経をあげてやろとなった、なんかわからなかったけど四国遍路となると宗教が関係しているからその人も見ようみまねで覚えたのだろう、切羽つまってにわか僧になったとなる
食いなくなってにわか僧になった人も昔からいたのである
つまりカルト教団というのもそういうものなのである、会員になる人もなんらか苦しいからそういうものに頼ることになるしそれ奨める人もそうなのである
金になる、食い物を貰える、だからにわか僧になる
何か本来の宗教を悟りでも求めてそうなっているのではないのである
つまりどっちにしろ御利益がある、役得がある、金になるとかしか動機はないのである
だから創価など広宣流布とか言っているけど何を広宣流布するのかさっぱりわからないとなる、法華経のことなど知っている人など一人もいないだろう
要するに外国人も創価の会員になるとき外国人でも創価の会員になっているということで会員を増やすことに使われているのである、外国人でも特に欧米人でも会員になっているのかと見て凄いと感じるからである
それが権威ぶけになるからそうしている

統一教会でも今度は権力を得るために日本政府とかかわり議員を選挙支援して政治権力にかかわり権力を持ち権威を持つことをたくらむ、だから権力と権威は一体化している
ただ本当の権威とはあらゆる分野で権威を持つ人がいるとしてそれは必ずしも権力とは結びつかない、芸術かでもいくら権力をもって宣伝してもその中身が真の価値がなければ認められない、一時的には認められても長い時間の中では消えてゆくとなる
権力があるということが真の価値をもたらすわけではない
だからそもそも宗教の宗祖が権力など持っていなかったとするときなぜこんなに権力を追及しているのかわからない
会員を増やすことに必死になっているのは数を増やし票を得て権力を得るためである

他のカルト教団でもとにかく数を増やせばいいとして活動している
不思議なのことはそういうカルト団体は真の一人の信者はいらないのである
一人よりなんでもいい、数を増やして票を得て権力を得ることなのである
宗教を利用て権力を得ることなのである、だから宗教は何なのかわけわからなくなるのである、宗教の説くものと正反対になっているのである
それで出家してこの世の欲から脱しようとした修行した僧はやはり宗教を求めていたとなる、そこで堕落したとしても本来の宗教を求めていたとなる
天台宗が日本で普及した宗教だったというとき山岳宗教であり山を聖なるものとして修行したからである

だから創価のように団地の宗教とか政治化した宗教はもともと宗教ではない
だからこそ政治化して権力を求めるだけの宗教になったのである
数を増やせばいいというときいろんな人が無差別に入ってくる
その中に暴力団まで入っていたというのは団体に利権があり政治化しているからその利権を求めて入っていたとなる
今そういうことが暴かれつつある、ただ正直この世の闇がなくなることはない
そういうものが生まれるのはこの世の闇がなくならないからである
知っている創価の会員でもそうだった、何か家族で苦しいことがあり生活困難に陥って
創価に入り活動して家族の一人が市議会議員になった、その弟が今度は熱心な創価の活動家となったのである、それが御利益となったから熱心になったのである
こうして創価の場合は御利益と社会生活が結びつくからあれだけ増えたのである
その御利益は創価が社会の主要な地位を得ることで革命は成る
御利益が配分されることになるからである
会員を増やして権力を奪うことによって御利益を配分できるのである

ではなぜこうした団体が公然と力を持つことができたのか?

これはやはり権力に深く食い入りその権力で社会に力を持ったためだとなる
だから創価の会員が警察官にもいてその人達が被害にあった人達がいても取り合わないとしている、かえって説得されたともしている
これも怖いことである、なぜそんなことまで許されているのか、これは大問題である
統一教会でも公安委員長が祝辞を送るなどしていたには驚いた
統一教会が自民党を深く々入り操作していたとなると驚く、そんな力があったのかとなる十万くらいの会員でそんな力をがもてたのかとなる

ともかく人を見る時、権威と権力が問題になる
ある人がなぜ力をもっているのか、最近翼の党の黒川氏が櫻井よしこを批判していた
その背後にはCIAがいたとしている、また統一教会とも深く関係していたとしている
その権威は背後に大きな権力があって発言力をもっていたのである
その背後の権力がマスコミでも通じる、その人自身個人のことではない、背後の団体であれ権力がその人を大きくしているのである、それがアメリカだったり中国だったりもするそしてデーブステートとかにもなる、つまり現代は背後に隠れている権力者のことがわかりにくいのである、時代劇なら悪代官とかわかりやすいのである
現代のグロ−バル化社会ではわかりにくい、でも日本はアメリカに戦争に負けて支配されたのだから当然背後の大きな権力がアメリカになるのである
アメリカに逆らうことはできない、自由貿易にしてもアメリカが有利になる得するシステムになる、それは世界でもそうである、アメリカに歯向かうとロシアでもイランでも北朝鮮でも経済制裁を課せられて苦しめられるのである
ただアメリカだけではない今度は中国が巨大化すれば中国が背後で権力を持ち日本は操作されるのである

ただこうして裏を探ってゆくとわけわからなくなるのである
なぜ右寄りの自民党が韓国の統一教会にそんなに支配されていたのかとなるからだ
右だったらそんなことありえないからである、常に韓国のことは批判しているからである今回の統一教会のことは理解しにくいのである、自民党が韓国側についていたということなどありえないと思っていたからである
統一教会は韓国の政府の代弁者でもありもしかしたら韓国政府もかかわっているのかともみるからである、だから右とは何なのか不可解になる
文鮮明は明らかに日本を支配するための思想をもっていたからである
それに自民党が従うということがありえないとなるからである
権力の裏は追求するとAの背後にBがいてBの背後にはCがいてとかなり遂にはその正体は何ななのかわからなくなるのである
結局サタンに操られているともなってしまうのである、どうしても真の権力者に到達しないからである



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チャンネル翼でここで赤裸々に宗教二世の被害を語っている
これ本当なのという疑問になるほどである
でも真実だろう、ただ政党とか日蓮宗でも争っている
憲政会では創価の悪口をこれでもかと言っている
結局創価が本山と分裂してこうなった、そして日蓮宗の寺の本山の信者がへってお布施が減ったとういことで攻撃している面もある
日蓮宗内の利権争いにもなる、とにかく会員がいるということは信者がいれば金になるという経済的理由で争うともなる

でもなぜ攻撃するのか?

創価をやめた人達を引き戻すためだともなる、どうしても宗教はやめるとまた別な宗教団体に入る傾向がある、だからやっかいなのである
翼の党かでも脱会した人達を味方にして勢力を伸ばそうとする
そこになかなか中立立場になりえないのである
政治勢力として権力を持つためにそうなる、後はお布施とかを得るためにそうなる
まず金がないと寺でも僧でも維持できないからである
だから創価が崩壊するのは金が入らなくなったときだとなる
もう聖教新聞でも減っているし会館を維持するにも金がかかりできないとなる
それでカルト教団を金の面から制約するのは的を得ている
別に金がなくても信仰はありえる、むしろその方が真の宗教を追及するにはいいとなる
純粋な宗教の価値を求めることになるからである

日蓮系」として39団体が掲載されています。例えば、日蓮宗、日蓮正宗、霊友会、立正佼成会などが載っています。
しかし、文化庁は、創価学会や顕正会を「日蓮系」と見なしていないようで、この項には載っていません。
創価学会や顕正会は、文化庁から見ると、あくまでも自称「日蓮系」。また、「日蓮系」の団体から見ると、詐称「日蓮系」かもしれません。

創価学会や顕正会こそ日蓮宗と普通は思う、それは何故なのか理解できない、宗教法人としても認められているからだ
その根拠がわからない、会員も多いのだからどういう理由でそうなったのだろうか?

それにしても日蓮系の団体は多いしカルトになりやすい、どうしても日蓮の思想がそうなりやすいのである
国粋主義になるからである


2022年11月29日

なぜカルト教団の被害者が多いのか (大衆化による地の塩たる真のエリートの消失した現代社会のため)


なぜカルト教団の被害者が多いのか

(大衆化による地の塩たる真のエリートの消失した現代社会のため)


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●カルマはカルト教団に入っても解消しない

人間はなぜカルト教団に入り被害を受けるのはなぜなのか、これは人間特有の問題である人間は何かそもそもその家族でも何でも不可解なのである
科学でも合理的にでも解決してきたのが人間である
でもなぜ依然として人間の謎があり不可解なことがあり解明されないのである
先祖の因縁というとき本当にこれはあると思う
ある人は妻は夫の病気で苦しめられた、20代で手術して肺結核になり半身不随のようになった、ほとんど仕事ができなくなり一生妻の世話になるような状態だったのである

そして不思議なのはその娘もなぜか夫に苦しめられることになった
夫はもともと技術者であり優秀で会社に勤めていた
でもやめて事業を起こして借金して苦しむことになった
つまり母親と同じように夫で苦しむようになったのである
だからこれも因縁なのかどうかわからないがカルマというのはあると思う
ただカルマがあったとしてもそれを言って金をとることは金をとる方が悪いのである
ただ確かにカルマがありそれがめぐりめぐってくるのである
ではカルマを解消するために因縁をたちきるためにカルト教団に入ってできるかとなるとできない

金をくれたらカルマを因縁を解消してやりましょう

こんなことを言うのはただ金が欲しいだけだからである
そもそもカルマは本人が苦しまない限り解消しないのである
また苦しまない限りカルマを認識することもできないのである
なぜ私は夫のことで苦しむのだろうというときそういえば私の母親も夫に苦しんだなとふりかえる、そこでカルマを意識するのである
そうでなければ母親が苦しんだことを理解できないのである
つまり例えば親が子を捨てるとその子も親を捨てるとかなる、逆に親を捨てると親になったとき子に捨てられとかなる、そういう因果がめぐってくる
国の関係でも日本か高度成長時代の時はアジアで女性を買って遊んでいた
今や逆に日本人の女性が貧乏になり買われる時代になったのである
これもカルマである、かつて日本人はアジアで同じことをしていたからである

国と国の関係でもアメリカが原爆を落としたということがアメリカのカルマとなる
つまりアメリカに原爆が落とされて始めてその苦しみを理解するのである
こんなひどいことなのかと理解する、実際にそれはそうされてみない限り理解できないのである、よその国の人が苦しんでも自分の国で苦しまない限りわからないのである
アメリカはアメリカ国内が戦場になったことはないのである
だからアメリカが国内でも爆撃されて大量に死んでみない限り戦争の悲惨さは理解できないのである
だからカルマは必ずめぐってくる、人を苦しめたものはやはり苦しめられるのである
上に立っていたものがやがて下になる、繁栄でも栄えていた国でも衰退する
イギリスなどがそうであり日本でも30年くらいで衰退したからである
次に衰退するのはアメリカなのである、恵みはいつまでもつづかない、必ずめぐりめぐってくるのである

だからアフリカで貧乏でもいつか栄える時が豊になる時が来る、そのために時間が必要なのでる、例え日本国内であれそれぞれの国であれ栄える者と栄えない者が必ずいる
でも時間が過ぎると一代だけではない二代三代と家がつづくうちに貧乏でも栄える家が生まれる、ただ時間がかかるのである、つまりある言えか栄えるには一代とか二代がかかり犠牲になるということもある、親が苦労してその次の代を栄えさせるということがある
だから共産主義のように急速に一様に平等にすることは無理なのである
そのためには革命となっても多大の犠牲があり死者がでるからである
その平和的解決は時間をかけることである、性急には変わりにくいのである
時間の中で貧乏な人でも豊かになってゆく、それを一気に暴力革命で平等にすると失敗する、それが共産主義でありそこで何百万にも粛清され殺されたとなるからである
そこには無理があり性急だから失敗したとなる

●平等は不平等になるー時間が解決する不平等の問題

とにかくカルマはめぐり恵み(めぐみ)もめぐるのである
いつまでも不幸な家系もないし個人もない、かえって必ず一生をみれば幸福と思えたことは不幸に因になったりしている、逆に不幸の因が幸福の因だったということにもなる
それは長い一生をふりかえればみんなそういうことを経験することになる
一生楽で終わる人などいないのである
だから若い時は進んで苦しんでおけ苦労しておけとなる
それは必ず人生は楽に終わらないからである、だから早いうちに苦労していた方が後の耐性を作るとなる
だから若い時享楽に費やしていたりすると何か良きことを成すこともできなくなるのであるそれだけ人生は短いからである、時間を無駄にしたことこそ取返しのつかないことになる
本当に今になれば一瞬一瞬でも真剣に生きて時間を無駄にしなければよかったとなる

それでカルト教団に時間を費やすことほど無駄なことはなかったとなる
まずそのために人生をそのものを失うことが怖いのである
一生精神的にも金銭的にも奴隷にされてしまうからである
つまり霊が支配される、奴隷の霊が与えられることが怖いのである
宗教に呪縛される、悪い方に呪縛される、そして奴隷にされ金銭でも貢がされる
そして偶像を拝まされるのである、そういう団体の教祖は偶像であり偶像はサタンであり使役されるとなる
そうして呪縛されるとなかなかぬけられないのである

人間は不可解なものだから人生でも不可解でありそんなことは迷信だとか言っても意外と有効なのである、カルト教団でもそこでは悲惨な不可解なことで死んだりしている
自殺したり倒産したり一家離散したりとかいろいろある
カルト教団に入っても解決しない、カルマだとすると自ら苦しまない限り解決しないのである、団体でそのカルマを背負ってはくれない、なぜなら個々人で家族でもそのカルマが違っているからである、集団的にカルマは解消しないからである
それで共産主義の過ちはそのカルマでも全部集団的に一挙に解決するように思わせる
それが革命になるのだがそのためにカンボジアで二百万人死んだとかスターリンで何百万人殺したとかなったのである、それは本来そうして人間の問題を解決するこが無理だったからそうなったのである、人間の問題を解決するのには時間がかかる
とても一代ではできないとなり何代かでやっと解決するとかなるからである

カルマとか苦しみはある所で終わる、どこまでもつづくということはない、ただ何代にもわたり継続するというがやはり三代くらいで自然と切れる、人間の一生でも一生苦しい人生はないように見える、ある所でやはり神はもしかしたらその苦しみを終えさせる
でも楽した人はやはりどこかで最後に老人とかなって苦しむともなる
一生でも苦しみがつづくとすれば耐えられないとなるからである
この人は苦しんだ人生だから最後くらいは楽にしようとかなるかもしれない、この人は楽な人生だったから最後に苦しませるとかなる
一見平等のようでもどこかで人間は平等にもなっているのかもしれない、そこに神の配剤があるかもしれない、ただそれも明確なものとしてわからない場合が多い

とにかく人間が運が大方決めるというのも真実である、でも運もめぐりめぐってくる
いつまでも不運な人はいないかもしれない、どこかで苦しい人生が好転してくるかもしれない、ただそうした神の配剤は気づきにくい、それは国の運命でもそうである
いつまでも貧乏な国でありえない、中国だってそうなった、数が多いからみんなとはいかないまでもかなりの数が裕福になったからである
いつまでも不運な人も家もないしいつまでも幸運な家も人もいないとなる
それは一気にではなく時間をかけて平等になってゆくと見る
金を天下の回りものでありやはり貧乏な人にもいつか回ってくるともなる
そういう運命も神が関与しているかもしれないのである

ただ不運に死ぬ人もいる、事故で死ぬ人もいる、その理由はわからない、カルト教団ではそれを言うがその教団内でどれだけ不幸な人達がいるかそうしたことは解消されないのである、むしろ近くで創価に入ったら息子が若くして病気して死んでその後に母親も死んだのである、他では親が自殺したとかなんとかいくらでも不幸なことは起きているからカルト教団に入っても解決しないのである、それは結局不可解だとなってしまうのである
むしろカルト教団はその信じる宗教によって呪われたものなのである
なぜならそもそもがその信仰が全くこの世のものと化してこの世の利欲を達成するためのものとして利用されるからである、そこで矛盾になりかえって仏でも神にも呪われるとなる、そこに神の祝福はないのである、神を仏を語り金でも何でも貢がせる、そして魂を呪縛する、それはサタンであり悪魔の所業にもなる
そもそも他者を罰当たるとか罰せるとか地獄に落ちるとか言えるのか、その人はどんな人なのか、その人を良くみたらわかる、その人自体が地獄人間なのである
確実にそう言う人間こそ地獄に落ちるのである

●大衆化によって真の指導者を失った社会はナチスになる

要するにカルト教団は自滅する運命にある、そんなもの一時的利益利権を求めるものだから消える、宗教とは世俗を超越したものを求めているからである
何百万人も集まる人間がどういう人間なのか、押して知るべしである
本当の信仰は極わずかの小数者のものであり絶対に多数のものにはなりえないのである
むしろ地の塩たる少数者でもいれば祝福があり全体にも祝福が及ぶのである
だから数が多いということは宗教的観点からすればすでに俗化したものであり地の塩ではない世俗的なものに染まった堕落したものなのである
でも数が多いということは民主主義社会では権力となるから数を集めるのである
それは誰とか問わない、その罪も問わない、ただ一票として数えられるだけである
あとは一切問わないのである、そして権力を手中にして世俗の利益を利権を得ることなのである

要するにカルト教団が生まれたのは大衆化に原因がある、もともと宗教は少数者のものでありその人達が地の塩となって民衆を導いたのである、これも堕落したにしろそうして極一部のものが修行して民衆を導いたのである
それが何でも大衆化したときもう指導する者もなくただ大衆の成されるままになり結局全員が堕落したものとなってそれが普通になった、結局そこで誇るものは数しかない
毎日会員を増やすことであり一票を得ることでありその外なんの興味もないとなる
数を増やすことが即権力と金でも地位でも何でも結びつくからである

貴族社会というと反発されるがそれがすべて悪いものでもなかった
必ず社会にはいい面と悪い面が生まれる、だから貴族社会にもいい面があり悪い面がある
「ノブレス・オブリージュ」の核心は、貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されない不文律の社会心理である。

貴族には戦争でも国を守るために率先して先陣に立った、イギリスの貴族とかそうであるもちろん貴族社会とか階級社会であり全部肯定はできない、でもその中にもいいものはあったということである
戦争だけでなく貴族とは指導的地位にあり国民に対しても責任をもたされていたのである

そして日本でも侍がいたというときその人達はやはり貴族であり重い責任を課せられていた、だから切腹して責任をとったというから厳しいのである、それで庶民は侍に成りたくなかったのである、ただ金持ちになるとかいい身分とかになるだけではなかったのであるその侍がいて明治維新は成功したのである、なぜなら明治に指導者になったのは侍がほとんどだったからである、ヨ−ロッパと違うのは侍自体貧しかったことである
でも侍としての教育を家庭とか藩で受けていたのでその自覚があり指導者となりえたとなる
なぜ明治にあれだけ創始者となり創業者となった人達が多い、やはり侍として教育されて教養があったからだともなる、それは知識だけではない文武両道とかあり人間としてモラル的にも何か芯があり指導者になりえた
だから明治が終わり大正となり昭和となると何か暗い時代になる、世界的情勢の変化があるにしても日本は暗黒時代に突入したのである、そして太平洋戦争で三百万人も死んだのである、その時侍などいなくなった、ただ侍のまねをしていただけなのである
ただそれは日本だけではないヨ−ロッパとかでも同じでありヒットラーのようなナチスが生れたのもやはり貴族というのがヨ−ロッパでもいなくなり大衆化したからだとなる
なぜならヒットラーは民主主義で生まれたのであり大衆から選ばれたものだからである
大衆の代表として生まれた者であり貴族とかではないしその自負もないし責任も持たなかったからである、これは日本だけではない世界全体でも起きたことである

●大衆は責任を持たないー日本に福祉がないのはパブリックなものが育ったなかったから

ともかく大衆化とは誰も責任など持たない社会である、要するに利益利権を得ることしかない、カルト教団でもそうである、そこに真の指導者はいない、教祖となるとヒットラーとたいして変わりないのである、そもそも大衆を指導する者は大衆に媚びるというか大衆のレベルに合わせなければならないから低俗化するのは当然だとなる
そうしなければ会員でも票も得られないからである
人間には何か必ずいい面と悪い面が生まれる、例えば長子を重んじて家を継がせることは不平等だとなり廃止された、でもそうなると誰も家に責任を持つ人がいなくなる
そんな家など古いとなってもやはり家を継続する者が責任者がいないことは大事なものが継承されないともなる、だから延々とつづいてきた伝統というのは何かそこに継承すべきものがあり知恵がある、それを全部否定して平等にしたのが問題なのである
結局誰も責任者もいない、大衆は利益利権を要求しても責任は持たないからである

徳川時代に武士が若死にしてもその未亡人や遺児を職場の雇い主である大名がめんどうをましみた例かない、みんな親類縁者に頼った
まして商家の丁稚、手代や地主の作男になると必ず親兄弟が身元引受人になり連れ帰ることになった

ヨ−ロッパの慣習では国王に仕えた騎士が死ぬと未亡人を保護した
男爵家で働いていた馬丁が死ぬと未亡人は国王が保護した
遺児は男爵家で育てなければならなかった
(現代を見る歴史―堺屋太一)

これもノブレス・オブリージュであり雇う方で責任が持たされていたのである
それだけの経済力がないとできないこともあった、日本でそれがなかったのは経済力がなかったからだともなる、でもヨ−ロッパでは確かにパブリックなものが発展した
日本の福祉はみんな家族で背負う、パブリックなものがないからそうなる
だから貴族社会でも侍社会でもそれをすべて不平等として否定することには問題がある
結局現代は大衆化してもう指導する者もいなくなった、ただ数だけですべてが決まるからである、そして大衆は責任を自覚もできないし持たないからである
そもそも侍なら責任を自覚させられて教育されるるが庶民はそんな教育などされないからである

要するに現代は大衆化して無責任社会になったのである、その指導者はただ数が決めるのでありその資質など問わないのである、だからそのレベルは大衆に合わせるのだから当然劣化するのである、そして大衆が力をもつとそれがナチスとか現代だとカルト教団とかになる、そこで一切高等なむずかしいことは言わない、大衆のレベルに合わせて御利益権力を得ることしか教えないのである、大衆に席巻されて価値ある尊いものは認められない
水平化されて何でも同じだとなる、大衆と同じレベルに劣化して価値ある尊ぶべきものは必ず卑しめられて水平化される、結局そうしてみんな劣化して俗化して同じだとなる
大衆は何か価値ある尊いものを重んじることはないからである

でもそれが逆に大衆にはねかえりカルト教団とかが跋扈して増殖して大衆化した宗教に苦しめられるともなる、つまり地の塩を失ったことが致命的なのである
第一地の塩といってもそれを大衆など認めないからである、みんな同じだというのが大衆だからである、それが逆に大衆にとってもいいものではないのである
誰も導くものはいない、ただ導く者は数を集めた人でありそれが大衆の代表者だからである、そもそもそんなに数を集めることが重要なことなのかとなる
でも選挙ではすべて数だからそうなるのである、そうしてもはや誰も導く者がなくヒットラーに導かれて大量に死ぬということにもなったのである

ただ誤解されやすいのが地の塩というとき特権階級でもない、金持ちでもないことがあるむしろ貧乏な人もいる、でも導く人にもなる、今のエリートはただ金持ちのことである
それでアメリカの富裕層に莫大な富が集中している、その人達は地の塩でもなんでもないただ世界から富を収奪する特権階級なのである、だから金持ちが地の塩でもないのであるでもすでに金持ちは責任がありその金を有効に使わないと金持の資格もないとなる
なぜなら金持つことが現代では一番の責任となっているからである
貴族もいない侍もいない真のエリートもいないとなれば金を多く持っている人が責任があるとなる、その責任を果たせない者は大衆からでも排斥されるとなる

2022年11月21日

カルト宗教団体を解散させられないのか? (信教の自由は解散しても守られる)


カルト宗教団体を解散させられないのか?

(信教の自由は解散しても守られる)



統一教会問題でしきりに解散させろとか税金をとれとか言う人が増えてきた
でも信教の自由とか結社の自由とかはある、だからそうした法律を盾にしてできないようにする
でも別に解散させても信教の自由は守られる、ただ集団的に組織された団体が解散されるだけで小規模の団体や個々人の信教の自由は守られるのである
第一信仰を簡単に捨てることはできないし別に捨てる必要はないのである
それはどんなことしても強制できない、だから信仰を迫害しても残ったことでもわかる
その時こそ本当の信仰者が残ったとなる
それは政治的にも権力でもなくすことができないものだからである

国家権力で解散させてもそれはあくまでも団体組織の解散であり個々人の信仰を奪うことはできないのである、何かとういと信教の自由を言うが別にそこまで国で否定しないし
否定できないのである、問題にしているのは集団組織化して政治にかかわり権力にかかわり操作する、そして目的がその権力奪取として公然と運動しているのである
それは創価だとあからさまであり現実化しているが統一教会でも他のカルト教団でも同じなのである
統一教会が特に危険だったのは外国勢力に日本の政治が操作されその富まで奪われることだったのである
ただわからないのは10万くらいの会員でそんな力を持てるのかということがわからないのである

いづれにしろカルト教団をを解散しても信教の自由の法律があっても問題がない
なぜなら信教の自由はそもそも奪われないものだからである、ただそうなると法人格とか失われて税金を払うとかにはなる、でも宗教団体はいかなる国からいかなる特権を受けてはならないということが法律で明記されているのだからそれが正常だとなる
ただ寄付金とかなると問題が出るかもしれない、なぜなら宗教だと献金は制限できない自主的なものとしてあるからだ
だから金持ちなら多額の金を献金することがありうる、それは強制ではなく自主的なものだからである
それは個々人の問題であるカルト教団の問題は団体化組織化してしていることである
ここに個人の信仰者がいてある人が金持ちでも寄付しますので使ってくださいとなれば
それを否定はできないし取り締まることもできないし税金を払いというのもなかなか強制できないだろう

問題は団体化組織化した宗教法人として認定されたものに解散命令とか強制できる
でもオウムのように小規模でも危険なカルトはあった、だからどこで線引きするかむずかしいとなる
確かなことは国から特権を受けることは宗教団体ではできないと政教分離で明示しているだから創価公明党は明らかに法律違反である、なぜ国土交通大臣とういう大きな国の権力の場を与えられているのか、これが全くわからないのである
それで大成建設では正本堂を建てた時、つながりができて必ず選挙の時は応援することを強いられたのである
つまり巨大な利権団体でもありそれでそういうことができたのである
何であれ選挙に勝つことが最大の目的としているのが創価だからである
その他のことはどうでもいいとなっている、おかしなのは選挙の時に必勝祈願する
座談会に集まりみんなで御本尊に祈る、また池田大作先生のために選挙に勝つとして最大に盛り上がるのである、これも完全に政教一致なのである
だからこういう団体には解散命令を出すべきなのである

だからといって信教の自由には違反しないのである、そもそもカルト教団など信仰のことなどうでもいいのである、目的は権力であり権力を得て支配階級になり御利益を特権を得ていい生活をすることしか眼中にないのである
そもそも宗教でないときなぜ信教の自由をとやかく言うのか?
それはあくまでも方便であり権力を得るためにそうしているだけなのである
だからもし権力を御利益を得られないとしたら離れてゆくのである
今は徐々に会員が減ってそうなりつつある、なんだ何も御利益が得られないではないかとなり離れつつある、ただその後の内部事情は自分にはわからなくなっている

解散命令を出しても問題はないし宗教迫害とか信教の自由の違反にもならないのである
別に信仰は個々人でも続けられるし少人数でも続けられる、ただ法人格を失うとういことである、だから国からの特権もえられないというだけである
オウムでも別に解散しても小規模にも信仰はつづけられている、でも何も国では言わないのである、小規模になればもう政治家でも相手にしないからである
わずかの票を得ても何の力にもならないからである
そういう小規模な団体で金持ちでも多額の献金をすることは拒否できないだろう
宗教法人でもないしその人は信仰から自主的にしていれば拒否はできない
宗教法人として認められれば様々な特権が与えられるから問題なのである
ただ小規模な寺とかでも法人であるし神社でもそうだから問題がある
だから一様に適応はできないかもしれない、どこで線引きするかが問題になる
会員の数で決めることなのかとかその財政で決めるのかとなる
だからなかなかめんどうなことだとはなる
でも明らかなことは創価公明党が国土交通大臣になっていることは国から最大の特権を受けていることなのだから政教分離の法律に違反していることは確かなのである

不思議なのは一体宗教団体と政治団体の区別ができるのか、それも問題なのである
政治団体でも共産党ならマルキシズムを宗教のようにしている、それで共産主義国家ができてそのく思想が絶対的なものとなり反抗するものは何百万人と粛清されて殺されたからである、それは宗教だから宗教は絶対的なものだからそうなったのである
そこでは思想の自由と結社の自由までなくなったのである
現実に創価でも他のカルト宗教団体でも逆らうやつは罰が当たる地獄に落ちるとか集団で脅迫しているからである
それが政治と一体化すると脅すだけではない現実に権力で罰を与えることもできるから問題なのである、カトリックは完全にそうして政治権力と一体化して腐敗したから政教分離の法律ができたのである

権力は宗教にかかわるな

宗教は権力にかかわるな!

こうなるのではないか、権力が宗教がかかわるのは拒否しても宗教そのものが権力と深くかかわり権力奪取を目指していることが許可されるていることが問題なのである
宗教は個々人の問題であり心の清いものが神を見るだろうという時個々人をさしているのであり集団組織ではないからである、集団組織でも欲にまみれた汚い人はいくらでもいるむしろ俗化すればそうなる、だからあらゆる欲望を是認するし達成するために会員となる政治家になれぞとか金持ちになれるとかいい女とつきあえるとか福運がつくとかあらゆる御利益を得られるということであれだけ人が集まるのである
それが大衆化して大勢の人が集まり権力化したのがカルト教団である

ただどうしても不満な人は底辺の人達がいてその人たちは頼る所がないので人を集める
では相談に来た人が本当に慈悲があるのか愛で接することができるのかというとそういうことは全然ないのである、あくまでも団体の勢力拡大して国家権力とかかわりそこで利権を得て御利益を配分するだけである、幹部でも自腹を切って金を払ったりしないのであるその御利益は国から権力奪取して配分するというだけである
そんなところに愛も慈悲もない、幹部自体がない、ただ民衆から収奪することしかないのである、それは共産主義でも中国でも同じである、共産党幹部が兆の金をたくわえ妾を十人もったとかなる、それが現実なのである、共産主義の理想などは実現していないのである、つまり幹部とその下々の差は天文学的てもある

幹部は栄誉栄華であり下々は農民は依然として最低の生活だとなっていることでもわかるむしろその富を分配するのが共産主義の思想なのにそうなっていないのである
結局人間の欲というのがどれほど強いかそれを拒否できないからそうなる
だから私は欲を抑えられない悪人ですと正直に言った親鸞とか真の宗教家だったとなる
俺は大悪人だと言っていたからである、でもカルト教団の長とかは大善人だとして社会に認めさせようとしているのである、その人こそ大悪人でありサタンなのである
この世で大善人は大悪人である、官僚とかでもそうである、特権階級はそうなる
この世では大悪人が大善人になる場所だからいくら理想を言っても常に失敗している
それは結局人間が欲から逃れられないからである
だから政治でもみどり子に治めさせよとか治めずして治まるとか老子の無為自然の思想が生まれたのである

ともかく宗教そのものが何なのかわからなくなっている、宗教を利用した税金逃れであり宗教で集めた金を今度は権力を得るためにいろいろ金を使い工作している
宗教団体で法人になればそれができる、そもそもそれが宗教と認定できるのかとなる
信教の自由があるにしてもそれが宗教なのかとなる、ただ宗教は脱税するための方便だともなる、だから何が宗教であると規定するのかである
それもめんどうになるが何でも宗教になれば無税になりやりたい放題というのもおかしいのである、現実は権力を得るためにそうしているとなるからである
それぞれの個々人の心の問題ではなく現実社会で御利益利権を得るための団体がどうして宗教法人として認められて税金をはらわずに宗教ビジネスのようになことをしている
最終目的は国家権力を得ることにある、それは他の宗教団体でも同じなのである
だから何が宗教と規定するのか、そのこと自体が問題になる
何かというと地獄に落ちるとか罰当たるとかそういうことを持ちだして脅迫したりもするそしてただ票をとるためであり利権を得るためなのである
だから宗教詐欺罪にもなるが罰せられないのである、ただ確実なことはそういう団体の人達は来世ではどんな罪で罰せられるのか相当に過酷なものとなると思う

来世では今世のように偽ることができないからである、悪があからさまに現れる場所だからである、だからこの世では大悪人が大善人となり大悪人が実は大善人だったとなるのである、何か逆転しているのである
成仏を問題にするがろくでもないみんなから嫌われていた人でもたいして苦しまないで死んでいる、だからそんなことで判断できないのである
要するに宗教を語った詐欺罪でありこれは相当に悪質であり来世での審判は厳しくなる
今世と来世は逆転しているのである、だからなんで地獄に落ちているのかと来世ではなる罪の自覚すらない人達なのである、罪の自覚を地獄に落ちるとか思う人は地獄に落ちない地獄に落ちるとか罰当たるという人が実は最も過酷な地獄に落ちているのである
でも今世ではそんなこと関係ない、堂々と悪人でも善人になっているのである
偽善でもわからないのである、本人すら自覚していないともなる
善人だから俺は罪深い悪人などと思わないのである、それは殺人者として刑に服している人もそうだった、たまたま運が悪い言っていた、全然反省もしないし罪の意識もないのである、それが人間として普通である、だから罪の意識を持っている人の方が救われるとなったのである,カルト教団員で罪の意識とか持っている人はいないだろう
そもそも他者に信仰をすすめている資格もない人達がすすめている、ただ一票を得るために毎日運動しているだけなのである
それよりその奨める人が罪を自覚して懺悔するべきだとなる



やっぱ宗教特権の非課税を廃止すべきだよな。

地方の貧乏寺や神社は減免、一方カネをもって積壺、犬作教、幸福からはお布施も含めた総収入の50%課税すればいい
宗教法人課税することで、国税庁も教団内のカネの流れを追跡できる。
いつでも任意に教団に税務調査に入れる。

もしオウムのときに「宗教法人課税」になってれば、二重帳簿を見破って、サリン原材料や自動小銃購入を掴み松本サリン事件も地下鉄サリン事件も未然に防げてた。

壺の場合は霊感商法の違法マネーと、お布施や寄付の合法マネーを教団内で混ぜ、マネロンしてエベンキランドで宗教施設建設費、その先は北チョン国へ流れてた。
もし宗教法人「課税」制度だったら、壺のカネの流れが国税庁に丸見えだった。
こうして宗教法人課税を導入するだけで、反社ビジネス宗教カルトは自主廃業するだろう。
残るのは既存の人畜無害な宗教だけとなる。


カルト教団の資金は何に使われているのか、そんなに金を集めて何するためなのか?
オウムだったら武器を作るためだったかなるから確かに金の流れをみればわかる
創価だったら選挙資金のためにとか会館を作るためとかなる
でも政治資金が創価と一体だから宗教関係にも回っている、それも政教分離違反なのである
宗教といっても何が宗教なのか規定できないからそうなる
統一教会は日本人信者から献金させて韓国に流れていた、だから外国の宗教団体が入ってくることは危険なのである
ただもし団体ではなく個人への寄付とするとその人を信用して財産をあづけたともなるからそれを違法としたりできるのかとなる
だから団体と個人的なものは区別すべきなのかとなる
ただ資金の流れは知るべきだということはある



2022年11月20日

引きこもりが全国で110万人もいる問題 (内向型の生き方戦略ー中村あやえもんを読む)


引きこもりが全国で110万人もいる問題

(内向型の生き方戦略ー中村あやえもんを読む)

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内向的な人は傷つきやすい、ささいなことでも傷つきやすい
敏感でありセンセティプなのである
だから人間を相手より自然を山でも石でも木でも花でも相手にするのが向いている
私がそうだったからである、そうして詩を書いてきたからである

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境地開拓派というのは造語であり面白い
芸術であればその人なりのものを作ることである
評論家でもその人なりの見方で批評する
境地開拓があり一様ではない
でも社会維持派はみんな一様のものとして扱い見てしまうのである




人付き合い よりも 好奇心 を 重視 する こと で 成果 を 出せ て、 人脈 よりも 工夫 で 新しい もの を 作り、 大勢 で いる よりも 一人 で いる こと で 思考 する エネルギー を 得 られ て、 より 完璧 を 目指す こと で 良質 な もの を 作れる の です。

境地 とは、 言葉 通り「 社会 から 少し 離れ た、 同種 が い ない 場所」 になり ます。

中村あやえもん. 内向型の生き方戦略―「社会から出て、境地を開拓する」という生き方

そもそも 人間 社会 において の「 普通」 とは、 社会 維持 型 の 性質 を 指し ます。 人間 は 社会 維持 型 が 八 割、 境地 開拓 型 が 二 割 という 比率 なので、 社会 維持 型 の 度合い が 強い ほど、 普通 の 人 だ と 判定 さ れ ます。

中村あやえもん. 内向型の生き方戦略―「社会から出て、境地を開拓する」という生き方
すなわち、 いきなり 全員 に ベーシックインカム を 与える よりも、 境地 開拓 型 に のみ ベーシックインカム を 与える 方 が 有効 だ と 分かり ます。 もちろん それでは 社会 維持 型 に対して 不公平 感 を 持た せる こと

私 は ゲーム の 制作 監督 を し て い た こと も あり、 作家 や シナリオライター、 絵描き や 漫画家、 音楽家、 声優 さん など、 いろいろ な クリエイター さん と 接する 機会 が あり まし た。 彼ら の 悩み はと いう と、 たいてい が「 普通 の 人 の よう には 生き られ ない」 という こと でし た。 だから 彼ら は みな、「 自分 にとって 好き な こと で 収益 を 上げ て、 生き られる よう に」 と、 自分 独自 の 生き方 を 模索 し て い まし た。 そして 世の中 を 見 て みる と、 クリエイター だけで なく、 内向 的 な 人 ほど この よう な 悩み を 持っ て いる こと に 気がつき まし た。




●社会維持派協調派が多数だと若い時は従う他ない

引きこもりは社会にとって深刻な問題かもしれない、それは数が多いということが社会に影響するからである、もともと内向型でアウトサイダー的な人間はいた
その人達は極めて数が少ないのである、10万人なのか百万人に一人なのかそういうレベルでありその人達は今の引きこもりとも違う、でも似ているのである
何か天才と狂気は紙一重というけどこの引きこもりもそうである、引きこもりは天才でなくても狂気にもなりやすいのである
社会からはずれることは実際は常人にはできないことだからそうなっている
ただ社会から外れて成功者になった例をあげてもそれと今の引きこもりは違っているように見える

ただ社会維持する性格の人が八割で内向型の境地開拓の人が二割というのはそうなのかもしれない、ということは社会維持派の人達が社会では圧倒的に多いとなるのか?

そのことは何を意味しているのか?

もしかしたらその人達は型にはまった集団行動することを好む、それで現代になってナチスとかカルト教団が生まれたのかもしれない、ナチスがその典型である
社会維持派の人達はこうした集団示威行動を好み社会維持するためにそうなるのだとしている
確かにカルト教団はそういう場である、創価でも統一教会でも似ている
集団で気勢を上げていたからである、同一行動になりその目的は権力奪取だった
統一教会でも映像でやはり同じようにみんなでエッエッオーと気勢を上げていたから似ていると思った

でも不思議なのはそもそも宗教というと内面を追及するものであり本来はそうして集団で示威行動するようなことない世界だった
ただ一向宗とかの念仏とか日蓮宗の題目とかは集団で示威行動するから宗教でも違っている、宗教でもイスラム教であり何であれ集団示威行動をする
つまり哲学とかなるとそれぞれに違ったものとして考えるものとしてある
でも宗教はかえってハイルヒットラーのようになりやすいのである
その奥深い内面を追及するものではなくみんな同じ行動をして一体感を持つのである
それが神道でもあり天皇崇拝で日本人を一体化して戦争になり3百万人も死んだのであるナチスでもそうである、それはこの本で言う社会維持派がこの世では外国でも八割いるということから起きてきたことなのか?
その辺の理由はわからないにしても社会は総じて社会維持派が作る、それに適応できないのが内向的性格だという
境地開拓の性格の人だという指摘は興味深い

ただ人間をいろいろに分類する、血液型とかでも人種でも内向型でも外向型でも理系と文系とかでも分類する、それは確かにありどうしても文系となると理系を理解しにくいように社会維持から見ると内向型の人を理解しにくいのである
それは犬と猫の相違でもある、犬は外向型であり何か隠すものがない、全面的に主人に従うのである、でも猫は何を考えているのかわからない、愛想もない、主人に従うより従わせるとまでなる、何か神秘的であり何を考えているのかわからないとなる
だから社会維持派にすると不可解ものとなる
猫はマイペースであり何か愛想良くしたりしないのである
だから犬好きがいて猫好きがいるとき猫を好きな人は内向的性格なのかとなる

●110万人も引きこもりがいるというときみんな境地開拓派として成功はしない

ともかくなぜ引きこもりが110万人もいるのか、それは東京でも地方でも田舎でも同じなのである、必ずそういう人を見かける、仕事をしていないのである
田舎でも昼間で仕事をしていないとそういう人に逢うのである
だからこの数に納得する、私の場合は時代的にみんな社会維持派として団塊の世代から企業戦士となった、私のように引きこもりになった人は本当にまれである
だからそんな人がいたのかとなり無関心である
でも今これだけ数が多いという時社会問題になったのである
だから私の場合は別に天才でもないが大学出てから好きなことをしてきた、好きなものを追及してきたのである

ただそうして境地開拓派というときそれは天才的な人であり業績も残している
でも110万人も引きこもりがいるというときその人達と同一には扱いないだろう
では110万人がそういうまれな天才になるのかとなるとそうは見えない
ただ社会の脱落者にしか見えないのである、アウトサイダーは社会の脱落者でもないのである、社会に反発した天才であり英雄ともなっていたからである
とてもそういう人に普通の人ではいくら境地開拓派でもなれないのである
ただそういう人達から天才が生れのかとかはわからないにしてももしその人達の極わずかでも自分の才能を発揮する人がでてくるかもしれない、なぜなら110万人もいたらその極わずかでも百人でも才能を発揮する人がいたら社会にとって有益だとなるからだ
でも大多数は社会の脱落者、落後者として終わるともなる

そして人間は20代で30歳までにその将来は決まる

これが怖いのである、引きこもりなどたいしたことがないとしている、時間など無限にある、暇で暇でしょうがいなとなっていた
ところが時間はあっというまに過ぎる、30過ぎると女性でも婚期を失うというとき美貌も失うからである、そして35歳以降は余生だとう言う人もいる
それだけ時間が過ぎるのが早いのである、そして40才になると白髪映えてくる
つまり40才で初老ともなり老人の入り口になっていたのである
だからみんな後になって人生はこんなに短いものかと驚いているし意外だったのである
そして怖いのは20代で引きこもりになっていると一生引きこもりになるということにもなる

なぜなら20代で人生の方向が決まるからである、これが怖いことだったのである
20代でカルト教団に入って抜けられなかったら一生カルトで終わるとなる
北朝鮮に飛行機をハイジャックして逃れた赤軍の若者はそのまま北朝鮮で一生終わるとまでなっていた、でも日本に帰りたいとなって帰って来た人たちもいる
でもその一生は北朝鮮でスパイのようなものにされて終わったのである
方向がそこで決定したのである、だから20代で人生の方向が決定することが怖いのである、そして人生はやり直すことができないのである
人生は長いのだから失敗してもいいとか方向はいつでも変えられるとかならないのであるそんな時間が人生にないのである、ただ人生百年時代になると時間のゆとりができているからその成果は60でも70以降でも出せる時代である、だからあせることはない
でも方向は20代で決まってしまうことが怖いのである
だから若き時神を知れと言うのは重要なことなのである

なぜなら20代を過ぎたら神を知ることができない!

20代はいろいろなことが起きやすい、波乱の時でありまた様々な欲望があふれだす時代でもありそこに翻弄されてあっというまに過ぎるからである
私の場合は父親が中学の時死んだので死ぬことをその時からなぜなのかということが一番の問題だったのである、そのために宗教団体に入ったのである
でも創価などは宗教などと何の関係もない団体である、だからそんなところに宗教を求めるのは正反対の場所だったのである、宗教の看板にしても暴力団だったということと変わりないのである
集団化して組織化している場は境地開拓派の内向的人とは無縁の場所だったのである
ただ社会維持派には向いているからあれだけ人が集まっているとなる
ただそれは宗教とは全く関係ない場所である

●自分自身を知れー内向的境地開拓派の生き方

いづれにしろ人間は生まれつき性格があり向き不向きがある、すると不向きなことをさせられたりすることは不幸である、いくら収入があったとしても不幸になる
だから医者の子は医者を継ぐとか強制されると不幸になる、例え医者になっても不幸である、そもそも自分に合わないことをしても幸福にはなれない、だから自分がどういうことに向いて知りそれにあったことをして究めることが大事になる
ただ人間に与えられた時間が短すぎるのである、老人になって必ず後悔しているのはそのためである、そして最後はいくら後悔しても何かする時間を消失している
時間を戻すことができないことがどうにもならないことなのである
だから本当にもう一回人生をやり直せればみんな失敗しなし後悔しないのである
老人になるとそのことが痛いほどわかるようになる、でも後悔先にたたずになり人生は
終わる、

ともかく内向的性格の人は社会維持派は8割と多いなかで二割となってることは生きることは苦しくむずかしくなる、だから学校にもなじめない、学校からして社会を維持するために基本的には作られているからである
それでこの本で教育でも自由教育を取り入れたが失敗したのは多数が社会維持派だからでありそういう人は自由に勉強して個性を出せといってもできないから失敗したとしているただ確かなことは内向的な人は社会維持派が多数の中で生きることがむずかしい
それを自覚して向いていることに精進することが大事である
社会維持派だとはみんなで調子を合わせて盛り上がる、大勢で集まり盛り上がる、そこで集団的に一体感を感じる、それでなぜカルト教団がいろいろ言われても増えるのかわかるこの世の中社会維持派が多数だからである
そのためにカルト教団とかナチスが社会を席巻してしまったのかとも見る
内面的なものを追及する境地開拓派だったらそうはならなかったとも見る
ただそう簡単に人間を分類はできないからわからない、ただ社会維持派は集団で盛り上がる、何か内向的な人はうじうじしてなぜ集団に溶け込まないのかとなる

でも不思議なのはそもそも宗教とは内面の追求だとするとき、一人座禅を組んで瞑想とかしているのは社会維持派には不似合いである、でも世界でなぜこれほど宗教が普及しているのか、これも不思議である、内向的な人の割合が二割くらいだとしたら集団的に盛り上がる宗教も社会維持派の宗教になったのかとなる
ただハイルヒットラーとみんな叫んでいれば仲間だとなり社会維持派の人達がそういうふうになり安かったのかとなる
そもそも外向的とか内向的であれ人間はそもそも集団で自然の中に生きてきたのだから防衛してきたのだから社会維持派が多数になっていることはわかる
我(われ)とは割れるから来ているからである、我という言葉はなかった
集団から割れて個人となったからである、人間に個はなく部族とか集団が一体化して生活していた、だから部族では顔まで似ているとなる

とにかくなぜこんなに引きこもりが現代でいるのか?

その原因が人間の性格がありその性格に合った仕事とか与えられない、内向的な人は内面的な追求に芸術とか学問とか何か新しい境地を開拓することに向いている、そして新しいことを発明した人達がその見本だとなる、でもそうした天才と言われる人の数は極めて少ないのである
その人達を目指せとかなるとそのハードルは相当に高くなる
結局は社会からはずれたもの、落伍者になる
そもそも110万人も引きこもりがいることはやはり異常である
それができているのはやはり経済的にも恵まれて働かなくても食べていけるからそういう人達がこんなにいるよちうになったのである
これも現代の社会状況から生まれたものだとなる
ただ内向的な人は良く自分のことを知っておく必要がある
なぜなら社会維持派が多数の社会でありそこで自分の居場所とか適合することがむずかしいからである
小学校であれ幼稚園からでも人間は集団行動を強いられるからである
内向的な人はそういう場からしてなじめないとなる
でもやはり社会人になるための訓練として社会維持派の中で生きるためにそうしているのである、それはやむをえないとはなる

●境地開拓派はそれれにふさわしい環境が与えられれば伸びる

でも境地開拓派は子供の時から好きなことを見つけて開発していけばやはりそれなりのもの専門家になる度合いが強い、ただ社会維持派と同調して歩調を合わせるのが苦手だからである、でも好きなことを見つけると夢中になりまさに境地開拓になる
独特のその人なりの世界を作り上げることができる、だからその人がどういう性格なのかを見極めて生きることが必要になる、でも社会維持派が多数なのだからそれがむずかしいのである
私自身は内向的であり境地開拓派の性格なのだけど実際は集団に社会維持派に適合しようとしていたのである、それはみんな自ずとそうなる
先生であれ学校で境地開拓派になり独自の世界を作れ発見しろなど教えないしそういう教育などないからである
学校ではなかなか個性的な教育はない、社会維持派に合わせる教育になるのである
だからなぜカルト教団がこれほど批判されていても多いのかとなる、それは社会維持派が多数だから多いのである、本当は内面志向が境地開拓派が宗教のなだけど社会維持派が多数だから宗教でもそうなったのである

私は別に人と接することが嫌でも少人数とか一対一の対話は好むのである
だから初めて逢った人で会話はしている、その人がどんな人生を送ったとかどんな人間なのか何に興味があるのかととか個人的に見るのである
大勢の人を相手にするのは苦手なのである、でも社会維持派となるとぐずぐず言わないで俺についてこいとかなる、何か理屈をこねるのを嫌うのである
だから警察と自衛隊とか建築土木現場とかの仕事は社会維持派が多いとなる
やはり集団的組織的に仕事をして一つの建物でも完成させることだからである
そのために協力一致しなければやれないからそうなる
だから体育系がいいとなる、命令に従う人がいいとなる、やはり社会では社会維持派が多数たからそうなる、軍隊なども上意下達であるからだ
そういう場所が内向的な人が苦手だというときなかなか合った仕事は与えられないのである、引きこもりの人がクリエターになりたいという時そうである
芸術だと独自の世界を作ることになるからそうなる、ただクリエターというとき恰好いいけど金にならないこともあり非常に社会ではそれで生活が成り立つこともむずかしい
だから何か家族とかの応援とか理解者がいるといいがそれはまれだとなる
ただそれでも引きこもりがそもそもこれだけの数がいることは親が容認していることは今までとは違っている、まず昔なら食べなければならないのだからそんなことできないからである、強制的に嫌でも働かざるをえないのである

内向的な人が陰の性格な人が全く引きこもりがいいわけではない、誰か理解ある人と少人数なら話すのである、私は人の話を個人的に聞く、そして相手を知る、老人だとその人が生きた人生を知り理解する、対話するのは好きなのである
ただ大勢を相手にして演説するとかは苦手なのである
何か一対一でその人のことを深く理解する、ソクラテスも対話から相手のことを知った
対話することがやはり人間は相手を理解する、大勢だと理解できないのである
でも社会維持派はそうして大勢で同一化して一体化することで興奮するのである
それが極端になるとナチスのようになるのである
そこに大きな危険がひそんでいたのである、だから戦争でも社会維持派は大イベントともなり興奮して戦うともなる、そういう時こそ最大に人間は団結して一体化するからである内向的な人は境地開拓派はそういうものに向かなくてもそういう時代があり適合せざるをえなかったとなる

●内面を追及する宗教とか哲学とか芸術の時代になり境地開拓派が主役にもなる

でも現代は戦争は確かにウクライナとかであるけど全般的には戦争は拒否される時代である、グロ−バル化というのもコロナウィルスとかで縮小してゆく
外延的に拡大化したのが現代である、でもそれも区切りが来たのかと見る
何か内面化する内省化する時代になっている、だから中世時代に戻るという人もいた
閉鎖的なある意味で引きこもりの時代になってゆくように見える
だから人間は必ず時代の影響を受ける、高度成長時代は社会維持派社会強調派が全面に出た時代である、経済も成長して企業戦士となりがむしゃらに働きぐいぐいと引っ張る人が指導者となったのである
そんな時代はとても引きこもりは向いていないし、そもそもいなかったのである
みんながむしゃらに働き高度成長時代を築いたからである
だからその時引きこもりになっていた人は本当にまれである
私は偶然家族に恵まれて引きこもりになっていたのである
そこで自分の好きなことを探求して来たのである、その時代そんな人は誰も知らない
引きこもりという言葉すらない、ただの変人になっていたのである

だから引きこもりが問題になっているが意外とこれからはそうした人達が主役になるかもしれない、高度成長時代とか戦争とかなるとどうしても社会維持派とか社会協調派が主役になる、でも社会が成熟してくると平和がつづくと内向的な人が境地開拓派が小数でも主役になるかもしれない、ただそれでもその中で目立つのはわずかだとはなる
百万人も引きこもりがいて何かそれで社会に貢献する人はわずかだとなる
だから引きもりがこれほどいるということが問題になる
社会維持派は協調派が多数の中でそういう人を寛容に見ていられるかとなるからだ
だから親と対立して殺人まで起きている、親が何しているのかわからないので不安になる実際親が死んだ時引きこもりは地獄になるからだ

この本は見方としては面白いと思った、ただ全部があてはまることはない、ただ内向的な人が境地開拓派として新語を作りだしたのは興味深い、天才は新しい言葉を作るからである、いづれにしろ高度成長時代から低成長時代とか失われた30年とかあったが結局日本はもう経済的には成長しないのだろう、でも成熟社会となり内面的なものの追求になる宗教とか哲学とか芸術分野で新しい発見がありまさに新しい境地が開拓されるとなる、たたカルト宗教団体は全く内面の追求とか境地開拓派とは反対なのである
集団的熱狂であり高揚でありナチスと似ているのである、もちろんそこでは境地開拓とかいう言葉とか理解できないし無縁の世界である、ただ政治化して経済化して欲望を達成する権力集団なのである
高度成長時代は陽の時代だが低成長時代になりコロナウィルスで在宅で仕事するようになったりテレワークになったりしたり時代が変わってきたとなる
つまり内向的な人でも境地開拓して主役になる時代なのかもしれない
時代風潮がありその時代にマッチした人が現れる、むしろ引きこもりでもその才能でも発揮できる時代なのかもしれない、ただ一概に外向的だとか社会維持派だとか内向的だとか教区開拓派だとかに分けることはできない、でも性格があり性格にあったように生きないと不幸になる、生きるのが苦しくなるのである

starandstone10.jpg

この隠された石が自分なのである
じっとして人にめったに逢わず沈黙しているとなる
その時心は安らかになっているのである

one twinkling star

the big fixed stone

stay here

in winter

in stillness

2022年11月13日

日々勤めよ、報いを得らずとも・・・死後に報いがある? 日々勤めよ、報いを得らずとも・・・死後に報いがある?


日々勤めよ、報いを得らずとも・・・死後に報いがある?


日々勤めるべし

日々勤め尽くしたること
それは無益とはならじ
日々体験して蓄積されたもの
妻は夫に尽くし母は子に尽くし
それは無益と徒労とならじ
死す者もその成したることが実りとなりぬ
人の働き無益とならじ
故に日々労苦のあれど勤むべし
そしてそれぞれに身につくもののあるべし
ただ即興にインスタントに身につくものはあらじ
日々の修行と鍛錬のあるべし
たゆまず勤めればそれぞれの実りあるべし
今親は死すとも我は深く感謝しぬ
我が心に死者はなお生き続ける
死者はなお我を生前と同じく励ましつづける
日々勤めよ、さすればいつか死後にも実りあるべし
日々尽くせよ、いつか報いあるべし
その生は働きは徒労にあらじ
神はそれぞれの分の報いを与える
その生は無益にあらざるべし
確かな実りとして与え残さるべし
その報酬は金のみにあらじ
その誇るべきは身につきし技なり知識なり知恵なり
老人は価値なしやその身につきしものに価値あり
そしてその技を知恵を伝えることに価値あり
それがなければ価値無き者となる
故に日々勤めよ、日々尽くせ、例え認められじも
いつかそは報いられるべし
この世に報いられざれば神の国にて報いられるべし
真の実りは神の国にて実現されるべし

人間はいろいろ不満がある、その一番の不満が一般的には働いても報酬が余りないということである、具体的には給料とか少ないとなる、金の問題になる
こんなに働いているのに金がもらえないということで不満になる
何か働いても意味がないとかではない、具体的には金の多寡ですべては計られる
金を多くもらえればその働くことがこいして意味ないものでも不満はないとなる
こんなに自分は働いているのになぜ報いが収入が少ないのか、金に生らないのか、このことで不満なのである

でも人間は何のために働いているのか?

その目的は金だけなのか、金も必要だしそれを否定するのではない、でも母親が子に尽くす時別に金がもらえなくてもする、それは子供がかわいいとか母性愛とかあり無償で尽くす愛である、もし金のために育てるとしたらそれは他人になる、他人に金を払って育ててもらえばいいとなるからである

でも夫婦がいるとして妻はなぜ夫のために尽くすのかとか問題になる
そもそもふしだらな夫に尽くすことはできないだろう、嫌になるだろう
子供の場合は誰であれ未来がありそれで育てる、それは無償の愛があり育てられる
でも大人になればただ無償で尽くすということがむずかしくなる
何か尽くすにしても見返りが報酬が得られることを望む

ただその報いの問題は必ずしも生きている時与えられるとは限らないのである
もちろん子供に介護されて親孝行されて報いを得たということはある
それで親は子供を育てて良かった助かった報いを得たと思う
でもそれだけではない、なぜ子供を育てるのか、それは本能的に動物的にでも母親は子に愛情をそそぐ、それは本能である

ただ人間と動物の相違は何かというと人間は常に何かしらの意味とか価値を求める
生きる意義を求める、働く尽くす意義を求める、確かに親は無償の愛で育てる
それは本能的でもあるがやがてやはり成長すれば親は何かしらの報いを求める
その子供が立派に成長する、社会的にも有用な人となる、例えば医者になるとかしたら
社会的地位もあり収入もあるから報われたとなる
その母親の子供は普通の店屋をしていて子供が医者になったのである
だからそんな金がどこにあったのかと不思議である、だから今はお医者様の母親になっているから報われたとなる

でもまた一方で全然報われない母親もいる、その母親は本当に情ある正直な女性だった
それで私も介護の時多少助けられたのである、でもその子供はふしだらな息子であり
報われることはなかった、そしてその家は絶えた、その父親も正直な人に働いた人だったのである、だからなぜそんなふしだらな息子が生まれたのか育ったのか謎である
だからいくら親が良くても子どもがまともに育つということもないし報われことも必ずしもないのである

また障害者をもった親はその子供ばかりを心にかけて愛している、50歳になってもその子供のことばかり愛して目をかけていた、他の兄弟二人いてもその人達にはあまり目をかけてなかったのかもしれない、だからその母親は病気になって介護されるようになっても連絡するなとまで言っている、でも障害者の息子はまともに世話できないのである
だから障害者の子供をいくら世話した愛したところで報いはないのである
そもそも人間は必ずしもこの世で報いを得ることなどないとなる
どんなに努力しても認められないとか必ずある
この世とはそもそも不公で理不尽なのである、何か不可解なのである
数学の公式のようにはならないのである

ただ人間の報いはこの世では得られなくても来世では得られるともなる
死んでから何か報いがあるのかとなるが死んでからその人がいたまれ賞讃されることがある、死んでからこそその人の価値が認められることもある
私は特に姉と母とには尽くされたから死んでからかえって思うようになり感謝しているからである
だから子供であれ親が尽くすことは必ずしも生きている時に報いがあるとは限らない
死後に特別感謝されたりすることがある
そして死者は長く忘られないとなれば死者は生者の中に生き続けるのである

とにかく人間は最後になるとその人生の意味とか価値が自ずと明らかにされる
ただ人間は集団的に生きる価値があり個々人に生きる価値がある
だから集団的に生きる価値となるとカルト教団などがあるがそれらの価値は教団が団体が組織があるとき価値があるがなくなれば価値はなくなる、会社で働く人が多数というときそもそも会社は何のためにあるのか、そこで働く意義は何なのかとなる
ただ利益をあげればいいのかとなる、でも実際は会社して利益をあげることが常に優先される
何のためとか会社自体が考えないだろう、だからこそ社畜となっているのである、何のためというより金がもらえるから働く奴隷なのである、何か意味あることに使役されるのならいいがそうではない、まずは利益を上げることしかないのである

そして人間の求める価値とか意味は

権力を栄誉栄華を金を求める価値

意味を求める価値

人間はともかくまず金になることを求める、それが何のためだとか何の意味あるのかなど見ない、欲望を実現するために働くとなる、だから金が一番の問題となりすべては金で計られる、何か意味があるとかめんどうなことではない、金をできるだけ稼ぎ後は贅沢するということである、まず一般的にはそんな意味とかを求めない、金を稼いで立派な家を建建てるとかいい車を買うとか何か贅沢することである
そのために働いているとなる、だから働く意義はすべて金で決まるとなる
金を多く稼いだ者が価値あるとなる、それがわかりやすいからである

でも一方で人間は何か意味あるもの本当に価値あるものを求める
だから別に女性でも必ず私は何々をしたとか何を成したとか最後に語りつづける
つまり人生で何かを成した価値あることを成したと語るのである
人生の意味を語るのである、私は本当に姉と母とには60歳まで尽くされてきたのである私に特別何かを求める訳でもない、ただ尽くすことだけだったのである
それは何のためというわげでもなかったのである
ただ私はたいして才能なくても大学出てから就職もせずニートのようになっていた
でも興味があることに時間を費やしていたのである、それは主に旅だったとなる
その成果を今私はプログで出しているのである

私はむしろ姉と母が死んだ後に感謝している、死んでしまったから死者はそのことはわからないにしろ生きている時は感謝していなかった
ただ60年かも私のために食事を用意したり二人は尽くしてくれたのである
それを死んでから特に思うようになった
でも実際母でもこの息子が何か社会にとって有用なものとして自慢できるものとしてあったわけではない、だからそういう息子に尽くすことを生前はどう思っていたか
報いがないと思っていたとなる、でも最後は介護したから喜んではいたのである
私は親に本当に無条件で良くされたから介護でも必死でしたし死んでからも感謝しつづけるようになった
死者とはこうして死んですぐに何もかも消えるわけではない、やはり生き続けているのだと思った、でもそれは人によって違う、家族でも違っている
家族でも複雑であり理解できないことがあるからだ

ただ生きている人でも親でも実は心がけなけれはならないのはもし死後まで感謝されるようになるにはどうするかとなる
子供を親の道具のようにする親もいる、何か自慢するために子供がいるとか普通にある
8人兄弟とか11人兄弟とかで父親に文句を言うと殴られるだけだったとか普通にある時代があった、とてもそういう親に感謝するとは思えない、ましてや死後まで感謝することはありえないだろう
だから問題があるにしろ一人っ子は親を想う度合いが強いのである
兄弟は何か必ず兄弟間で親の愛でも奪い合うとか争っているからである
一身に親の愛を受けることがないからである
意外と死者をどう思っているかとなると死後まで思っているかとが判断基準になる
本当に死者を想っている人は簡単に死者を忘れないからである
つまりますます生者の中で存在感を増して生き続けることがあるからだ
だから人間は死んですべてが終わるとはならない、愛は依然として生き続けているし
思いというのは残り続けるとういことである

ともかく何であれ日々勤めることである、そうすればいつか実りとなる、今世では認められずとも来世で神の国で認められ
神の国では無益な労働などありえないからである、無益に終わることはないのである
この世には膨大な無益な労働があるが神の国にはないのである、無駄なものは一つもないのである
石ころまでが黄金のように輝いているとなる
人間の最大のショックは人生そのものが無益化することである、それは戦争とかナチスとかカルト教団とかてもそうである
虚しく膨大な労力が無益に費やされることである、それは個々人の人生でもそうである
だからありふれた普通の人間でも女性でも老人になり最後に必ず自分のしてききたことを価値ある有意義なものとして認めさせるために語るのである、つまり誰しも無意味なものとしてはありたくないし死にたくもないのである
でも結局この世では膨大なことが無益に費やされているのである

2022年11月01日

時間はもともと存在しない (変化によって時間を意識する―時間の見方の多様性)


時間はもともと存在しない

(変化によって時間を意識する―時間の見方の多様性)


時間がなぜ謎でありわかりにくいのか、だからそもそも時間はないという人もいる
私も時間はないと思う、時間ではなくて変化があるだけである
だからこそこの世は無常ということになる、常無きものとは常にこの世が変化するからそうなる
人間関係でも今日いた人が明日は死んでいないとなる、60年も一緒にいた家族ですらみんな死んでいなくなったとかなる

この世で同じ状態がつづくことはない
鳥海山が噴火してそこに埋もれた木があり埋もれ木が発見されて噴火が起きた年代がわかったという、それは2000年前とかなる
その埋もれ木の年輪を見てわかったのである
木は成長しているから年輪も増えてくる、つまり成長することは変化なのである
もし木でももし変化しなかったら成長しなかったら時間がないとなる

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

君が代でもさざれ石が小さな石が成長して大きな岩となり苔むしてゆく、それは変化なのである、その変化によって時間を意識するのである
だから木でも成長しない、変化しなければ時間を感じないのである
石とかも苔むすこともなく変化しなければそこに万年あっても時間は意識できないのである

今年この辺で大きな地震があった、これは怖かった、それで私の家は今だにかたづけていないのである、他の家でも依然として修理つづけている
その大地震で大きな石が転げ落ちて来た、それは二三個見ている、結構大きな石である
その変化も大きいものだった、そこに石がないのに石があるようになったのも変化であるでも時間がたてば百年でも過ぎればその石が崖から落ちた石だということもわからないとしたらその石はいつもそこにあり地震で落ちてきた石だと認識できない

それで令和石とか名付ければ令和の年に落ちたものだとなる、でもさらに令和4年石となづければその年に地震で落ちた石として認識できる
でもそれを知らなければ時間というのは意識できないのである
つまり時間とは変化することによって意識する、太陽が朝昇り夕方に沈む
これも変化でありその変化で時間を意識しているのである
もし太陽が一点にとどまっていたら時間を意識できないのである

空間は常に認識する、でも時間は変化しないかぎり認識できないのである
ただA地点からB地点に移動するとき時間がかかるというときそれは変化ではない、空間の移動による変化であり時間とは違う、そもそも空間でも時間を感じるのは変化することで意識する
エベレストの山の上にアンモナイ化石がある、なぜそこにあるのだとなるともともと海だったからだとなる、その変化のスケールが大きすぎるから時間も億年単位になる
時間とはこうして短いものでも人間の一生でも変化して意識する
子供が成長して大きくなるのもそうだし老人になり白髪になるのも変化である
人間も40才になると白髪がでてきて歳だなと意識するからである
いつまでも若いとはならない、女性でも劣化してゆくからである

そもそも時間とは物事の様々な変化のことであり時間そのものはない、なぜなら変化しなければ時間が意識できない、ここに何もなかったが地震で石が転がり落ちてきた
ここに石があったがなくなったとかなれば時間を意識するのである
それは変化したから意識できる、だから変化しなければ時間を意識できないのである
それで天国では神の国では人はみな若くて年取らないというとき変化しないから時間もなくなるとなる、時間を感じるのは変化することによって感じるからである
共にいた人が死んだ時永遠に逢わないとなるのも変化である
つまり時間とは変化によって意識する、それで仏教でそのことを無常としたのである
常にこの世は変化するからである、今日逢っても明日はなく永遠に逢わないとなる
それが老人になれば実感する、あの時逢った人とも永遠に逢わないとなるからである

2022年の福島県沖地震(ふくしまけんおきじしん)は、2022年3月16日23時36分に、福島県沖で発生したマグニチュード(Mj)7.4の地震である。宮城県と福島県で震度6強の揺れを観測した

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この石はその時落ちた石である、だから令和4年石ともなる
手も時間が過ぎるといつ落ちたものかわからなくなる
自然でも変化するからその変化することで時間が生まれる、時間を認識する
もし石でも動かないとしたら時間を認識できないのである
でももう千年とか万年億年でも動かない岩でも石でもある
そこには時間を感じない、でも風化して岩でも石でも変化するからそこに時間を感じる
つまり全く変化しなければ時間は感じないのである

江戸時代の年号を見ているけど元禄とあれば相当に古いかこの辺では貴重である
でも幕末のころになるとその時代順序がわからなくなる、年号でも順序を逆にして見る
そしてその時代がどういうものだったかもわからなくなる
江戸時代は変化が少ないからその時代がどういうものかわからない
ただ天明とかあると飢饉の歳だったとか記録されているのである
でも明治以降は順序を間違えない、明治時代があり大正時代があり戦前の昭和時代がある戦後の昭和時代がある、次に平成があり令和になった
でも戦後でも平成の30年間とかはあまり変化がないから時代を意識しにくい
つまり時代を意識するのはその時代に何か大きな出来事が変化があるときである
日本だったらまず明治維新とかは時代の大きな区切りだから必ず意識する
でも明治後半と大正時代は意識しにくい、昭和でも戦争前と戦争後に時代は大きく変わったら戦争前と戦争後として区別する、つまり何か大きな出来事変化があったとき時代を認識する、時間を認識するのである
自然の変化でも津浪は巨大な変化をもたらしたから時代の区切りになるのである
江戸時代は余りそうした大きな区切りがないから時間を意識しにくいのである

ともかく自然も万年とか億単位なると変化する、陸だった所が海になったり海だったところが干拓して陸になったりする、人工的変化もあるが自然の大きな作用の変化もある
それで驚いたのは津波だったのである、津波が八沢浦だったら本当に江戸時代の入江に戻ったことほど驚いたことはない、美しい入江が再現したのである
そこで死んだ人もいたが元の入江にもどったことは信じられないことだった
時間はそもそもないというとき自然にも時間はない、ただ変化のみがある
その変化によって時間を意識するのである
鳥海山の噴火はその時埋もれた木の年輪からわかった、それも2000年前とか古いものだった、年輪を刻んだ木は時間を記録していたのである

時間があるのではなく変化することがありそれが時間として意識される
全く変わらないとしら時間を意識できないのである
宇宙の中に惑星があるとしてその惑星に行って時間を感じるにはどうしたらいいのか?
それもやはり地球が変化するように変化することを見ると時間を意識する
もしその変化がわからないと時間を意識できないのである
同じままで変化しないとしたらどうして時間を認識できるのかとなるからである
鉄の玉があるとしてそれが変化しなければ時間を感じない、鉄の玉でも錆びたり摩耗したりしていれば時間を感じるのである
でも風もない雨も降らないとか変化しない惑星だったら時間を認識できないのである

2022年10月25日

信教の自由とは何なのか? (統一教会は政治団体でもある,カルト団体がが信教の自由を盾にするのは間違い)


信教の自由とは何なのか?

(統一教会は政治団体でもある,カルト団体がが信教の自由を盾にするのは間違い)

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信教の自由を盾にカルト教団でもタブー化される、そして権力化して暴走する
それは原発でもそうだったのである、これも巨大な権力化して誰も批判もできなくなっていた
安全神話はこの政府と一体化した巨大権力でタブー化したのである
だから何かタブー化するのは危険だともなる
アンタッチャブルになりそれがナチスのように暴走するからである


常に宗教団体が批判されると信教の自由を言う、これを盾にして正当性を主張する
法律も常に都合のいいように利用されるのである
その解釈にもいろいろあり理屈はいくらでも言えるからである
そして最終的には法律でも権力がある者が決める、その権力が何かとなれば民主主義では選挙で政権をとったものである
すると選挙で勝てば数が多ければ法律も改正できるし何でも通るとなる
だから赤信号みんなで渡れば怖くないとなる

おそらく何が問題なのか?それは宗教法人とか宗教団体の問題である
信教の自由とは個々人にはある、個々人で何を信じようがいいともなる
だから無神論者もいいとなる、でも無神論者も一つの宗教だとしても無神論者の団体はないのである、ただ個々人的には別に神も仏もはいないというのは信教の自由で許されているのである
ただイスラム教国だと許されない、死刑にまでなるし殺戮される
イスラム国では信教の自由はないとなる

宗教法人とか宗教団体に信教の自由があるかが問題なのである

神は心を見ているという時、そもそもそれは個々人の心であり宗教団体のことではない
第一心を見るというとき団体化したら見ることもできないからである
団体化すること自体すでに政治化していることにもなる、また権力化していることになるなぜなら誰も一人だと社会では相手にしない、個人というだけで図書館に本を置くことを断られたりそもそも個人など社会では認めない、個人自体が犯罪者扱いなのである
でも団体化すれば犯罪的なことでも許されるのである

なぜ団体化すると社会で認めるのか?

それは団体化することは権力を持つからである、例えば一人で店で買うより十人が買うとなるとその十人の団体を相手にした方がいいとなるからだ
だからすべてこの世は団体でしか活動できない、NPOにしてもボランティアも団体でしかできないのである、つまり団体化組織化しないとこの世は動かないとういことである
つまり権力を持つためには団体化組織化することであるりそれは政治化することなのである
統一教会でも政治団体であり他のカルト教団も政治団体なのである
一番あからさまなのは創価である、宗教と政治が完全に一体化しているのである
教義自体がそうなっているから疑問も感じないとなる

だから奇妙なのはカルト教団は信教の自由を言うけど政教分離という法律があっても法律でも権力があれば無視できる、創価は完全に政教分離に違反していてもすでに自民党と一体化した政権なのだから無視である
だから自民党は創価公明党を批判しないのである、統一教会これほど問題にしているのに一切創価公明党にはふれないことでもわかる
でも政治的に質問権などを許可すれば創価も問われることになる

信教の自由は個々人にあるーでも宗教団体にあるのか?

そこが問題なのだけど信教の自由となれば何でも通るとなる、だから常に法律でも悪しく利用されるのである、理屈などいくらでも言えるからである
結局信教の自由というとき戦前はなかった、天皇崇拝となりその他は弾圧された
創価の初代会長の牧口恒三郎は逮捕されて獄死した
他の宗教団体も弾圧されたのである、そこで戦後は信教の自由が何かといわれるようになった、それはあくまでも宗教団体の信教の自由なのである
そして人間は団体化組織化することは政治化することなのである
民主主義ではすべて数で票で決まる時それで法律も作られ悪法でも作られる
そしてナチスは選挙で選ばれたことでもわかる、ナチスでも数が多ければ権力を持つことができるのである
こうして歴史的経緯があり戦後は極端に宗教団体とかでも批判されなくなった、でも逆にそこにも問題が生まれたのである
信仰なら信教の自由があり組織化団体化して権力を得ることも批判できないとなる、それは戦前の反省から極端化したのである

信教の自由というときこれも権力団体があり都合いいように使われるのである
力が正当化するのであり法律が社会を規制する訳ではないのである
だから創価になると権力を得ることしか頭にない、毎日選挙運動なのである
それは権力と御利益と直接結びつくからである
そういうものは大衆も即座に理解する、利にはさといからである
望むことは権力を得ることでありその他はどうでもいいということである
ただそこに宗教がかかわるからややこしくなるのである
宗教とはそもそも何かがが定義されないからである

現実は権力を得てこの世の王となることである、心の問題は関係ないのである
そんなことしたら人が集まらないからである
要するに人が集めるには心の問題より現実の利益であり権力を得ることが最優先課題なのである、そういうことは誰でも理解するからあれだけ人が集まるのである
だからそれが宗教なのか?信教の自由を言うがそもそもそれが宗教のなのか?
宗教は良心の問題だというときも宗教団体では関係ないのである、そんなことを問題にしているのではなく政治的利権とか御利益しか追求していないからである、それは一般社会だったら別に批判されないのである
でも宗教がかかわって信教の自由とかで批判するなとなるのがおかしいのである
それ自体が疑問なのである、信教の自由を盾にしているがそれは方便であり実質は権力を得ることだとしたら宗教法人でも許可すべきではないのである
宗教はあくまでも方便であり目的は権力を得ることだとなるからである
宗教と政治が一体化しているから複雑になっているのである
政治団体は政治的党派は許可される、でも宗教団体は実質は政治団体でも許可されるのかという問題がある

ともかく宗教が政治にかかわり権力を持つとおかしなことになる、別に預言者のように政治で権力を持つものを批判していい、それが日蓮でも預言者でもそうした
でもそれが政治団体化すると権力を持つことを目的化することは政教分離に違反するのである、でも自民党そのものが創価公明党と一体化しているのだから政教分離違反の政党であり法律違反だともなる
創価公明党に質問権を行使しなければならないとなる、それは他の宗教団体でもそうなるのである、でも自民党でも票が得たいからそれがでなきいとなる
つまり世の中は権力によって左右される、結局明治の前は戦国時代でも戦争で権力を持った者が支配するとなっていた、その後民主主義社会になっても権力が武力ではなくなったがやはり権力を追及するのが人間である、宗教でも権力を得る手段になる

目的は権力を得ることであり御利益を得ることでありそれしかないのである
あくまでも信教の自由とかいうのは方便である、権力をもちさえすればすべては通るとなる
それがナチスになったのである、現代では数が権力だからである
この世とはこの権力をどうするか、操作するか規制するかが常に問題になるのである
そのために三権分立とかもできたのである、権力は集団化して選挙でも得たものがナチスのようになる
権力が暴走するのである、原発事故だって権力を持ったものが起こしものだからである
だから権力を抑える監視することがどうするかか課題なのである、でも一旦権力を持つとその権力の悪しき利用が常にありそれを規制できない、それは歴史的にもそうでありそれが政治の一番の課題なのである

いづれにしろ宗教でもそうだが権力の危険なのはそれが常に権力自体が暴走する
それを制御できなくなることである、図のように必ず権力によって国民全体でも被害を及んでくる
オウムでも危険でも暴力装置化して権力を持つようにもなる危険があった
それでマスコミでも恐れて何も言えなくなっていたのである
マスコミは権力を監視するものとしてあってもそうではなかった
それは原発事故でも証明された、800億円もの金が電事連からでていたからである
宣伝費がでていて東電から朝日新聞でも全部新聞社では中国に招待されたとき事故になったのである
戦争中は朝日新聞が戦争を一番あおったとしている、それも権力側についた方が得だと判断したからである、だからこの世では政治では常に権力をどう操作するかか問題になる

でも結局人間ではできない、それで聖書でもみどり子に治めさせよとかまた老子だと治めずして治めるとか議員はくじ引きで選んだ方が公正になるとかなる
それだけ権力を持つと人間は危険なものになるからである
だからいかに権力を監視するかが制御するかが問題になるのができないのである
それは民主主義でもできない、なぜならナチスは選挙で選ばれたからである
民主主義だとすべて数で決まるのだから大衆化して数を集めようとしたのである
大衆社会になると大衆が権力を持つ、だからそもそも権力を制御することは不可能だともなる、人間はそもそもこの世を治めることが不可能だともなってしまう
だから神の国はこの世に成ることはない、神が治める神の国にしかないとなるのである
そこに人間社会の絶望がある、それは人間は権力を得ることを切望して争いが絶えないからである、それは民主主義社会でもそうだった、今度は大衆が数となり権力を持つようになったからである






2022年10月04日

宗教二世問題の深刻 (子供の時から洗脳されてぬけられない)


宗教二世問題の深刻

(子供の時から洗脳されてぬけられない)

●学会っ子という洗脳された人や紅衛兵とかも同じ

なぜ宗教二世問題が深刻なのか?それは純粋な子供の時から家族が洗脳されているのだから子供もそれに従うからかえって純粋な子供は染まり安い
透明な水だったらそこに赤をまぜると赤一色にすぐになってしまう
それは透明だからそうなる、もしその色が青だったら赤をまぜたら別な色になる
そういうことがなく透明でありそこで一つの色に染まり安いのである

創価だと学会っ子とかいる、完全に学会で家族一体となり育った人である
そういう人を知っている、その人は創価しか見えないのである
だから疑うこともなく創価の色に子供の時から染まっている
そして大人になって一生創価しかない人間になる
その人が悪い人間ではない、かえって純粋で素直だとカルト宗教に染まり安いのである
それはヒットラーユーゲントと同じだったのである

それは宗教だけではない、共産主義でもそうだった、共産主義でも一種の宗教だからである、それで毛沢東の文化革命があり紅衛兵がそうだった
それも中国全土を席巻したのである、その主役が紅衛兵だったのである
そういう少年は洗脳しやすいのである、そのためにどれだけの被害があったのか?
これはヒットラーユーゲントとも同じだった、ハイルヒットラーでありナチスの被害も何百万人が死んだとかカンボジアでも二百万人が死んだとか空恐ろしいものだったのである

●地獄に落ちるとか罰あたるとか脅えさせ呪縛するカルト

統一教会でも魂を支配して奴隷にするのである、その教祖は実はサタンなのである
カルト教団とは何かというと人間を奴隷にするためにある
奴隷の霊を与えて支配するのである、地獄に落ちるとか罰当たるとか脅して支配する
それがサタンなのである、でも人間はそういうものに弱いのはいろいろな問題をかかえて何とか解決しようとするからである、それでサタンにも頼るのである
そもそもサタンが地獄人間が地獄に落ちるとか脅しているのだからそんなこと信じるのは馬鹿だとなる、かえって地獄に落ちるとか悩む人だと救われるとまともな宗教家が言っている

俺は地獄に落ちるんじゃないかとか罰当たるのかと悩む人はかえって救われるとしている親鸞だったら私は大悪人だといい、悪人正機説を唱え地獄は一定の住処なりと言っていたそういう人が真実の宗教家だとなる
つまり自分自身が地獄に落ちる人間だという人が真の宗教家でありお前は地獄に落ちるというのはその人がサタンなのである
なぜ地獄人間のような人が地獄に落ちるなどと言えるのかとなる
そんなことちょっと考えればわかる、地獄に落ちるとか一体誰が言っているのかとなる
それが大集団で言うと恐怖になる、つまり誰かではなく人間は大集団が怖いからそうなったのである、集団化すれば何でも正当化してナチスになったのである
赤信号みんなでわたれば怖くないになった、それが現代社会なのである
民主主義でもすべて数で決まるから同じなのである

でも人間はそういうことに意外と呪縛されやすい、とういうのは何か不幸があったり不可解なことがありどうしてもそれを解決したいとなり頼ることになる
でも人間はそうして頼る者が危険になる
この世では何でも仲介するものが危険である、宗教でも仲介するものは危険である
教会があり牧師がいたとしてその牧師は信仰を仲介する者である
するとその仲介する者が力を持つようになる、神に取り継ぐものとして力をもちカトリックが社会を支配するようになったのである
それで直接神と向かい信仰するべきだとしたのがプロテスタントだったのである

●メデア(仲介する者)になるものの危険ー牧師とか投資でも仲介するものは危険

ともかく何でも仲介するものは危険である、メデアとは仲介するものでありそれでマスコミがあり報道も歪められた、マスコミがどれだけ力をもったか、第三の権力となったのもメデアとして仲介するものとして力を持ったからである
マスコミに出れば名前が知られる、何百万人が見るとしたならそうである
その宣伝力があり力をもったのである、でもインタ−ネットが生れyoutubeなどが生まれてその力は弱まったのである、何かテレビで主役なのは司会者であり報道局を報道する設備を持っているテレビ局なのである、だから何かyoutubeで発言している人がテレビに出ると脇役になる、主役にはなれない、主役になるのは司会者でありテレビ局なのである
youtubeだと主役になっているのは一人の個人なのである

なぜ仲介する者が力を持つかというと例えば投資などわかりにくい、だから銀行で投資信託を頼む、でもその銀行はもともと投資のプロでもない、ただ仲介するものでありそこで手数料をとる、投資自体は悪いものではないにしろ素人だとわかりにくい、すると専門家に頼らざるを得ないでも銀行はもともと投資のプロではない、だから適当であり手数料をかせげばいいしかない、銀行は投資信託でも絶対に損することがないからいい商売なのである
ただそういうことは複雑な現代社会ではいくらでもある
例えば弁護士が必要だというとき自分で訴訟ができないから弁護士に頼る他ない
法律はむずかしすぎるからである、そして現代はいろいろなことで仲介者を必要となる社会である、そうなると人間は仲介者がいなければ何もできないとなっている無力化されているのである

●偽りの宗教に呪縛される人間(サタンに操作される人間)

宗教というとき実際は神仏に頼るわけでもない、そこに巨大な集団があり組織化して力を持つことになる、そういう巨大な団体に頼っているのである
その巨大な団体は権力化して社会を支配することになる、神仏を表に出していても実際は数を集めて権力を求めているのである
現代の権力は金と数だからである、神仏といってもそれはあくまでも権力を得る手段にすぎないのである、つまり実質この世を支配しているのはサタンだとなる
それは神仏に頼るのではなく権力に頼るからそうなる

とにかく宗教二世問題が深刻なのは子供の時から染まってしまうからである
それが悪いということはならないし素直なら従うからである
でもなぜ反抗期があるのか、また子供は成長すると親から脱出したくなるのか?
そうなっているはどうしても人間は独立するには必要だからとなる
また時代の差があり古いものを否定して新しい時代を作るために必要だからだともなる
世代間の対立があるのが正常である、だから幸福の科学の二世の人が親に反抗しているのは驚きである、でもそれがまともなのである
ただ親に従う者は新しい時代に生きられないのである
結局紅衛兵騒動でもまるで麻疹のように一過性で終わった、現代は一過性で終わるのが多いのである、継続しないのである、その時その時で熱狂して終わる
終わってみてそれは何なのだとなっている
一種の熱病でありそれが覚めた時、何なのだとなるのである

いづれにしろ宗教二世の問題が深刻なのは宗教の呪縛から解放されないのである
サタンに奴隷の霊が与えられて呪縛される、それが深刻なのである
簡単にやめられないのである、だから親でもそういうものを残す与えるということは罪作りなのである、簡単に捨てられないからである
そこで子供は親を恨むともなる、ただ親だからしにくい、それで山上は統一教会を恨んだのである、それだけではないそれとかかわった支持した阿部前首相を狙い殺したとなる
積年の恨みがありそうなった、だから自民党にしてもそういうカルト宗教団体と安易に票になるからといってかかわるべきではなかった
それは創価公明党も同じなのである、票になるからとカルト教団と一体化することは危険なのである、政教分離が生まれた経緯もカトリックで庶民が苦しんだ結果生れたからである、免罪符とかを売ったからである、ということは地獄に落ちるとか罰当たるとかを逃れるためにそんなものを金で買った、それが悪質なものであり信仰を仲介する者達がいかに危険なものか証明していたのである
地獄に落ちたのは実はそうして免罪符などを売った教会側の牧師とかであったからだ
地獄に落ちるなどと言っているその当人が地獄に落ちていたのである

●カルト教団を簡単にやめられないのはなぜか

でもなぜカルト教団がこの世から消えないのか?
それは人間がいろいろな問題をかかえる、それが解決できないからである
先祖が悪くて苦しんでいるとかでもそうである、そういうカルマは各自に必ずありカルマとして苦しむことになり解決したいとなる、それで仲介者に頼るのである
それが危険なのである、仲介者というとき師となるも人もそうである、習っていいとしても盲従することは危険であり偶像崇拝になるのである
現代文明社会はともかく複雑であり必ず大迷宮に迷い込む、そしてそこで怪獣に食われるのである、オウムなどがその典型だった、理系の優秀な人達がそうして麻原という怪物に食われて死刑になったのである
それは統一教会でも創価でも幸福の科学でも日蓮宗系統の顕正会なのか日本会議なのかそれらも同等なのである

顕正会が恐ろしいのは、「必ず病気が治る」「必ず幸せになる」などの甘言で誘うわりに、信仰の「功徳」は得られず、確実に「会合への参加」「新聞の購読」「年末の寄付」といった費用と時間と労力の浪費を強要されていくという点です。

「国立戒壇を放棄した創価学会に抗議する」として、約70人の男子部員が街宣車を先頭に東京・信濃町の創価学会本部に押しかけ、「責任者に会わせろ」と敷地内に乱入、乱闘騒ぎの果てに青年部長Mをはじめ12人が逮捕された。

顕正会の手法も創価と同じだった、でも日蓮宗同士でも争っていることに驚く
宗派争いが過激になる、イスラム教でも宗派争いが現実に戦争にもなっている
創価も前は顕正会と似ていたのである、でも数が多くなり反発があると会員を増やせないとして強行な折伏などはやめたのである
ただ基本的にはその実体は変わっていないのである
国立戒壇を目指すということはやめたとしても本質的には権力を得て日本を支配する
権力を握りそして御利益を分配するのである、だから野心家が入る、政治家になりたい人も入る、欲望を実現するために入る、なぜなら権力を得ることを団体自体目的化しているからである、心のことなど関係ないからである

その極端化したものが顕正会であり初期の創価と似ているのである
日蓮宗はどうしても過激にならざるを得ないのである、それで太平洋戦争でも日蓮宗を信じて戦った人もいることでもわかる
日蓮宗は武力まで肯定するほど過激なのである、それでその団体は僧兵ともなる
なぜなら組織自体軍隊組織だからである、権力を奪取するための軍隊組織になっている
隊長とか参謀とかなっているのもそのためである
だからこんなファシズム団体と政権を運営する自民党は危険なのである
統一教会問題と同じなのだが自民党の政権の一翼を担っているので責めないのである
でもいづれは会員が減って票を得られないとなると自民党は捨てる
そういう兆候がすでに現れているいるからである

●カルト教団はサタンに操作されている

要するにカルト宗教団体はただこの世の力を得る為にこの世の手法をとっているだけである、金が力となれば統一教会のように金を信者むしりとる、数が力となれば数を集める
本来の宗教とはまるで違ったものである
つまりこの世の力を得るためにサタン化したのである、堕落した天使なのである
この世に魅せられてこの世の王となろうとしている、それで宗教を利用しているのであるだから相当に悪質でありこの人達は来世では苛烈な罰を受ける
聖なるものを汚したとして罰を受ける、その罰は苛烈なものとなる
まさにそのことにこそ恐怖なければならないのだがしない、あなた達がどんな罰を受けるのか?来世で裁かれるのか、それを知ったらショックになる
でもそう思わないのはなぜなのか?そこに巧妙な仕掛けがありそれにはまっている
サタンといってもその人達がサタンではない、サタンに操られている
そうなるのは結局この世のものに魅せられてこの世で栄誉栄華を得たいためだとなる
だからはキリストが試されたのである

悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、
こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」

カルト教団とは逆である、この世の栄誉栄華を求めて得られるとしてサタンを礼拝しているのである、結局この世に生きているのだからその誘惑から逃れられないのである
宗教さえ実はこの世の王となるための手段としてサタンに魂を売ったとまでなる
カルト教団の求めているのはこの世の王になることであり栄誉栄華を得るためである
そのためにこの世の権力を得ることが目的化しているのである
それが世俗世界ならそうなっていても理解できるが偽りとなり宗教がかかわり訳わからなくなっている、王仏冥合だとか煩悩即菩提だとかその解釈もただ都合がいいようになされる、その目的はこの世の力を得てこの世の王となるのがその教祖の野望なのである
それで奴隷の霊が与えられるのである、それは金銭的なものだけではない魂が奴隷下されるから怖いのである





2022年09月24日

木の成長と人間の成長 (長い目で見れない人間の弱点ー時間の貴重さがわからない)


木の成長と人間の成長

(長い目で見れない人間の弱点ー時間の貴重さがわからない)

●成功をあせるな

成長の早い杉やヒノキは木材としての質が悪く、商品価値が劣ります。
成長が早いと年輪が粗くなり、強度が弱く、折れやすく、乾燥によって曲がりやすくなるためです。
成長が遅いと年輪が密になり強度が増します。年輪の色の濃い部分は1年のうちの気温の低い秋冬の時期にゆっくり肥大した所です。
ですから、山に生えている木も南側斜面より北側斜面の樹の方が成長が遅く、価値が高いようです。
幹の太さが同じなら樹齢が古いほど良いようですよ。
まあ、苗木を植えたときくらいには肥料をやるのかも知れませんがね。
木材として伐採するのは早くても50、60年はかかります。


人間も同じである、とても人間のような複雑なものは即製できない、動物だったらもう教えられることもなく生まれてすぐに環境に適応するようにできている
でも人間は環境に適応するのにも時間がかかる、だから人間を作り育てることは最高にむずかしい、いくら素質があり才能があってもそれを育み伸ばすのには時間がかかる
確かに肥料をやることも大事である、でも基本的に木を育てるのは時間である
もう育つのには成熟するには50年とかかかるからだ
それはかえってやせ地の方が時間をかけて育つからいいというのは余りに肥料がやりすぎて早め育つといい木にはならない、つまり年輪が詰まっているのは一年一年じっくり育ったからだとなる年輪の幅があるのはいい木にはならない、しっかりとした丈夫な木にならない、年輪の間隔が狭いのがいいのである

人生も終わりになるとこのことを痛切に感じる、何かも身につかずただ時間が過ぎてしまったとなるからだ、一年一年充実して生きていなかった
もしその人なりに充実した時間を生きていればやがて立派な木として育つ
でもそこに必ず時間の無駄があり何かあてもなくぶらぶらしているとかいろいろなことに気をとられているうちに時間がなくなっているのだ
先が長いと思っているけど実際は時間はあっという間にすぎる
時間はなくなってみないと自覚できない、金は小金でもいつも意識して使っている
百円でも損した得したとかなっている、でも不思議なのは百万とかもうけた損したとか
かえって意識できないことがある、人間は大きなものを意識できないのである
なぜなら日ごろの生活が基本にしているからである
日頃の生活は100円得したと損したとかなる、毎日の食費とかが金を使う感覚になっているからだ
私は遺産が入ったとしても大金を使ったことがないから使えないのである
日常感覚からはみだした金は感覚的に理解できないのである
でも庭作りとかで大きな金を使った、それでも百万単位とかである

若い時の問題はとにかく一挙に脚光をあびたい、有名になりたいとかあせることである
実際は何にも認められるものがなくてもそうなる
成功をあせることである、それが失敗の元なのである
それはやはり木のように育つ感覚をとても持てないからである
何かすぐに成功して脚光を浴びたいとなる
それは事業を起こした人にも共通している、何かもう始めたりたちまち成功して大富豪にでもなる感覚になっている、まず地道に仕事をするよりギャンブルの感覚になる
私の祖父にあたる人は警察署長だった、でも機織り工場の事業を起こして倒産した
それもおそらく警察署長だから成功すると事業を起こす前に思っていた
でもその事業についてはずぶの素人にすぎなかったのである
だから一家離散にもなりその子の私の母親は苦しんだのである
事業でも簡単に成功はしない、ギャンブルのように一挙に大金が入ることなどないのである、何かそこには地道にやることが必要になる、でも人間は一挙に脚光をあびて成功者になりたいのである、それが20代とか若くてもそうなのである
ただ天才とかいるからそれは別である、どうしても啄木のような人間を普通の人は理解できないからである

●すぐに見返りを求めるな

人間の問題で何かすぐに何をしてもすぐに見返りを求める、私はあなたにこれだけ尽くしたのだから今その尽くした分をすぐくれとかなる、返してくれるとなる
ここに苦しんでいる人がいる困った人がいる、その時人間は無償ではしない、後で返してもらえばいいですよとかならない、今返してくれとなる
それより困って苦しんでいる人を見てこれはチャンスだと借金した人が今金をくれるなら助けてやるとか脅迫することにもなる、助ける方も今困っているのだから金をくれとなるだから借金している人は人を助けることはできないと思った
推理ドラマでは必ず借金して犯罪になっているからだ
借金はそれだけすでに自分自身に負担がかかっているのだから他人の負担をもう負えないのである

つまり今苦しんで困っている人がいたらとにかく助ける、今は見返りを求めない、そうしなければ助けることはできない、だから救急車はそうしている、金がなくても何がなくてもともかく来てくれる、そうしなければ人は死ぬこともあるからだ
でも普通はそうはならない、今借金して苦しんでいるから今助けるから金をくれ、そうしたら助けてやるとかなる、そういう人はそもそも人を助けることなどできなかったのである、それで自分は苦しめられたのである
助ける時あとでそれもかなりの年数がたってからその見返りがあるともなる
私は介護で自分の病気でも何か余裕がないから他人のことなど考慮することもできなかったからだ、でも余裕ができればあの時は助けられたなと援助することにもなる
それなりに金銭の余裕ができて助けることもできる
でも結局人間はみんな性急なのである

そしてせいては事を仕損じる

人間の弱点は長い時間でみれないことである、ただ毎日今に追われているだけなのであるだから国家百年の計とかなるとできない、中国だとやはりあれだけの歴史があるから長い目で見て国家造りをしている、日本人がそもそも性急な民族になっている
それで一年で首相も次々に交代するとかなる、これもやはり問題である、そうなると長い目で見て国家を運営できないからである

行き当たりばったり」の意味は「成り行きに任せること」
「行き当たりばったり」の意味とは「その場の成り行きに任せることや、その様子」です基本的には深く考えなかったり準備を怠ったりする悪いニュアンスを持ちます

人間は例えば長く下積みとかすることも耐えられない、すぐにでも上に立ちたい、偉くなりたいとかなる、下積みで苦労することに耐えられないのである
でも確かなことは人間はすぐに成功することはない、また長い目で見れば今の世だけで成功することではない、その人の評価は死んでからこそある
また長い歴史の中で評価に耐えればその人は歴史に生きつづける
でも一時代だけで脚光をあびてもはかなく消える、どれだけの人が脚光を一時あびても消えたのかその数も多すぎる、浮き名をたてて消えてゆく
芸術にしてもそうである、後世まで残り鑑賞されつづけるものは少ない、いくらその時代で脚光をあびても忘れ去れるのが普通である
そして後世に残る物はわずかである、後はみな消えてゆく

●若きときに神を知れーさすれば余裕が生まれる

ともかく人間が成長するには時間がかかる、ただ人間は成長しつづける、70越えても肉体は衰えても精神的には成長しつづける、人間は木と同じなのである
時間をかさねて大木となる、大木は一日して成っていない、ローマも一日にしては成らずである、普通の人でも積み重ねで何ものかになる
何か自分の場合、何でも理解することが遅かった、それは学ぶことで失敗したからだろう効率的に学べなかった、学校で暗記することと試験勉強しかなかったからだ
でもかえって学校を出てから自分の興味あることを発見して伸ばしてきた
これも家族に恵まれた結果であり家族には死んでも感謝している
もし家族に恵まれなかったら自分は浮浪者とかなり野垂れ死にだったかもしれない
だから家族の影響は人間にとって余りにも大きいとなる
いくら才能があっても家族に恵まれないでつぶれてゆく人などいくらでもいるからだ
また時代運が悪くてもそうなる、有為な有能な青年が戦争でどれだけ死んだかとなるからだ、戦争は人材を消耗させるのである

ただ人間にとって大事なことは若い時に神を知れということである
神を若い時に知ればその後はあせることもなくなる、もう神との約束があり来世は神の国に行くことがすでに決められるからである、すると何もあせることもない、例え失敗してもこの世での失敗であり栄枯盛衰は世の習いである、でも確実に来世で活躍できるとなればこの世で認められなくてもいいとまでなる
実際はこの世とは来世の準備のためにありこの世で何かを完成することなどできないからである、いくら才能があってもそうである
この世では様々な障害あり認められないからである、でも神に認められているからこの世で認められなくてもいいともなるからである
つまり神に認められることは余裕ができるのである、不遇でも耐えられるともなる
それがなければ不満は尽きないとなる、それはいくらこの世で成功してもそうなのであるこの世とは一時のことであり一時の夢であり永続しないからである
永続は神の国しかないからである、実際あの人と十年前逢ったな・・・でも永遠に逢わないとなる、あの人50年前に一緒にいたけどあの人は本当に存在したのかとまでなる
それで人の出合いは何なのたろうとなる、それは瞬間的なものでもあった
あとは人間は永遠に逢わないのである、これもふりかえると不思議になる

確かなことは人間で貴重なのは時間でありその時間がたちまち消失してゆく
そして時間は二度と戻ってこない、例えあっても永遠に逢わない、そもそも人間が逢うとは何なのかこれもわからない、ただすれ違った人が逢ったとはいえないだろう
でも結局人間の出合いもただすれ違っただけなのかともふりかえるとなる
人の出合いもそれだけはかないのである、大衆化した現代なら大勢の人が一体になったようでなっていない、あとはばらばらになり一体感もない虚しいものとなっているだけである、それはあらゆる団体組織に言える、宗教団体でも同じである
烏合離散するだけなのである、そこに真の出合いなど全くないのである

ただ権力が欲しい、金が欲しいとか欲を充たしたいだけに集まる、そしてたちまち離散して後には誰もいないとなる、特に現代ではそうである、大衆化群衆化しているからだ
何か後々まで残るものがないのである、みんな一時的なもので騒いでは烏合離散するだけなのである、人間はやはり死んでもその関係がつづくものが本当のものである
私の場合は家族がそうである、死んでも語りかけ供養して関係がつづいているからだ
そういう深い長い関係は現代社会ではもう消失したのである
ただ無数の人間が烏合離散しているだけである、そして後には何も残らない虚しいものとなっているのである
別れても死んでも心が通い合えば互いに別れたことにもならない、心は通じあっているとなるからだ
人間の信頼関係も長い時間でしか築けない、それで10年間ある家で手伝いさんでも勤めた人は信用できるとなる、信頼するにも人間は時間がかかるのである

木の成長と人間

木は一年一年年輪を刻む
じんくりじっくり雨風に耐えて
その幅は狭いといい木になる
一挙に木は育たない
一年一年じっくりと育つ
大地に山に根付いて育つ
養分を一気にとって成長しない
やせた土地でも徐々に養分をとり育つ
その歳月は長い
でもやがて大木に育つ
そして大木は森に大地に倒れる
重々しく倒れ森に大地に還る
木は十分生きた、そして命を全うした
次の代の木もそうして育つ
自然の命は即製できない
そのリズムは悠長であり気長である
人間は騒がしく烏合離散して
後に何も残さない
かく長くも生きた木を後に人は思うべきかな
長き平和の日を生きよ
山のようにゆったりと木のように長く
神より与えられし命を育め


2022年08月26日

なぜカルト宗教団体にだまされるのか? (思考脳が働かない、カルトは金をとることが目的-日本人はカルトにはまりやすい)


なぜカルト宗教団体にだまされるのか?

(思考脳が働かない、カルトは金をとることが目的-日本人はカルトにはまりやすい)

●金を信者からとること自体宗教ではない

なぜカルト宗教団体に入るのか?まただまされるのか?
思考脳が働かない、何でも苦しいからと頼ることの危険
カルトは金をとることを目的にしている

先祖の祟りだとかして統一教会が信者から金をとっていた、確かに親の因果が子に報いとかは現実にあるしほとんどの家に何か悪い因果が働くことは確かなのである
それは事実だし自分もそのことを延々とカルマとして書いてきた
でもそれが現実にあるとして統一教会のようにそのカルマから祟りから逃れるためには
教会に金を寄付せよということが最大の問題なのである

つまりカルト教団の目的は信者から脅して金をまきあげること

これなのである、そもそも宗教に金がからむと宗教本来持っている効用はなくなる
金だけが目的と化してそのためだけのものになる
むしろ統一教会だと先祖のカルマを梳いてるから金を出せということ自体悪質な詐欺なのである
単純に考えると人間は簡単に金だけは出したくない、何で金を出すのだと常になるからだでもなぜカルト教団に金を出すのか不思議だとなる
それは戒名とかでもそうである、いい戒名をつけるには高額な金を払うとかも騙されることである、死んでからいい戒名をつけてもらったからとして何かいいことがあるのか?
もう死んだら金は必要ないのである
というのは死者に供え物をする、それが果物とかではない、金を供え物とすることはできない、死者にとって金はもういらないからである、むしろ一杯の水でもお湯でもあげればいいとなる、死者には金は紙幣はもういらないのである
死者が望むのは物ではなくその人の心だともなる、死者を供養する心があれば水でも供えればいいし野の花でも供えてもいいのである
問題は供養する心が大事になるからだ、現実に死者を愛さないものは墓参りでも供養もしないからである

ともかく宗教に金がからむと不純なものが生まれる、だから宗教で成功することは危険である、巨額の寄付金が集まる、それ自体がすでに何かいかかわしいことをしているから金が集まったのである、でもその金が集まることでカルト教団は力をもつ、この世で力を持つのである、そもそもカルト教団はそうしてこの俗世で力をもって支配したいためにあるこの世で人を支配するには金だとなるから金を集めるのである
先祖が悪いことしたからとか先祖を救うためだとかが現実にあるとしても実際はそれで金を得るためにする、では金を払ったからといってカルマが解消するかとなるとしないのである
そこで得するのはカルト教団でありその幹部達なのである
つまりカルト教団とは悪質な宗教によに詐欺集団なのである
地獄に落ちないようにするには免罪符を売ったカトリックと同じなのである

ただ人間は金を払うことには100円でも敏感なのによく金を払うとなる
まあ、賽銭箱に十円であれ百円くらいならいいが憶の金を払うということはどういうことなのだろうとなる、貧乏に暮らしていたらそんな金を払うことはない、金で苦労していたらそんな金を払うだろうか?みんな金にはシビアなのである
そもそもカルト教団にだまされるのは思考脳が全くない人達である
なぜならちょっと考えればわかるからである、そういう自分もカルトに若い時はまったから他者に厳しくは言えないことはある
でも創価に入っても金はほとんど払っていない、新聞をとったとしてもわずかの金である大きな金を払ったことはないのである

●宗教は人間と人間の問題ではなく神と人間の問題である

宗教が何かというと人間と人間の問題ではない、神と人間の問題なのである
そこが根本的に間違っているのである、たいがい宗教は人と人との関係にあると見ているからである
そもそも神が人を万物を作ったのだから神と人との関係が最優先なのである
でもどうしても社会だと人と人の関係であり人を離れてありえないとなる
でも聖書を見れば神が存在して人がいる、その関係性を記したのが聖書だとなる
だから神が人間に望む者は何なのか、神に供えるものが問題になる
カインは野菜を供えてアベルは羊を供えた、でも羊を供えたアベルは神によみされたのである、羊はやはり人間と通じてそれを犠牲にすることは痛みをともなう、それは人間を神に捧げることに通じている

神が人間に求めるものは金ではない、紙幣ではない、それは死者でもそうである
神に供えるものは神が求めるものは人間そのものであり人間が犠牲になるのことなのである、だからアブラハムはその子のイサクを捧げようとしたのである
その子でも老人になって奇跡として授かったものであり最も大事なものだったのである
だからそもそも信者に金を求めること自体が詐欺である
神が求めるものは金とかでもないし物でもない、正しき義の人を神に捧げることである
その至高の人がキリストだったとなる、神の一人子だったからである
その人は傷なき神への献げものだったのである

カルトとは自らその長が神と称して他者を奴隷にする、サタンでもある、そして会員は犠牲を払わされる、その長は本当の神に成り変わって自らを神とする偶像でもある
ただ実はその会長にしても実はサタンに使われているだけである
その人を操作しているのはサタンなのである、そしてそのサタンに使われた人はまたサタンにいいように使われて捨てられるのである、結局地獄に落とされるのである
この世がサタンが依然として支配しているというとき人間の欲がなくならないからであるその欲があるためにその欲をかなえてくれるサタンに仕えてまた使われるのである
もし欲がなかったら幼児のようだったらサタンはそこに作用できないからである
だからこそみどり子に治めさせよとか老子のように治めずして治めるとかなったのである

神ー人間
自然ー人間
人間ー人間

日本人だと自然が八百万の自然が神となりまた人間と人間の関係しかない
唯一の神と人間の関係が欠落しているのである、それでカルトにはまりやすいのである
日本人は基本的に神と人間の関係がない、日本の宗教だと師が絶対的なものとなりやすい神のようになりやすいのである、法然に帰依した親鸞でも師が地獄に行くなら私も地獄に行くというまで人間と一体化するのが日本人の特徴なのである
それでカルト教団でも偽りの師でも一体化してゆく、偶像化して一体化して従うとなる

●事業化して政治化したカルト教団からは税金をとるべき

ともかく苦しいからと困ったからと安易にカルト教団に相談したりして金をとられるのは問題である、具体的な金ということでそこからカルト教団を判断する
新聞をとるくらいなら仕方がないとなるがそれ以上の金をとるとなると金をとることが目的の団体だと見るべきである
カルト教団の目的はとにかくこの世で力を得ることである、だからこそ金が第一の目的として運動しているし、創価だと票をとることを目的としている
政治家になればこの世の権力を得ることができるからである、だから創価では確かにあまり金はとらないが選挙を最大の目的としているのである

でも何百万の会員がいるとしてその人達の困りごととか苦しみを相談して解放してやることができるのかとなるとできない、そんな数になるとただ数を集めて票に結びつけて権利を得ることしか眼中にはないのである
第一人間は相談を受けて何かしてやれるのは二三人くらいだろう
百万人の相談にのれることなどありえないからである
だからただ頭数を集めてそれを票に結びつけるだけだとなる

だからカルトを制約するには金に注目することである、宗教団体でももともと宗教とも関係ないのだから税金をとるべきだとか金の面からカルトを見てとりしまるべきだとなる
とにかく信者から集めた莫大な金がどう使われているのか、それを見るべきである
そもそもそんな巨額な金が必要なのかとなる、神殿のようなものを建てたり事業に使われたりと宗教がビジネスにもなっている、宗教は本来事業と関係しないのである

でも現実社会では宗教家でももし豪邸に住んでいたり神殿のような豪華な建物を見たりすると信仰していれば大金持ちになれるのだとなり励むことになる
そのこと自体が危険なのである、それが宗教だとなり模範とされるからである
それで宗教者はあばら家のような家に住む方がいいともなる
なぜならそうしたら宗教に励んでも金持ちにはなれないとなることを示しているからだ
現実にシャカでもキリストでも家もない岩窟で座禅して悟りを開いたとかキリストもこの世に枕するところなしとい寝る場所もなかったからである
でもカルトとなるとその正反対でありこの世で成功して栄華栄誉に暮らすことなのである
ともかくカルトを制約するとしたら第一金の面であり巨額の金が集まるとしたら税金をとるべきである、宗教は本来金とは極力かかわるものではないからである
また宗教はビジネスでないからビジネスにかかわることは禁止すべきである
また少人数ならいいが何百万も会員とすることは独占法違反にもなり危険だからそうした巨大宗教団体は制約すべきである
なぜそれほどまでして会員を増やしたいのか?それは民主主義では数が権力になるからである、田中首相が金と数が力だということになる、それは政治とか世俗の世界ではそうなる、それが宗教まで適用されることが問題なのである

宗教はナチスになりやすい、数を集めることにを最大の目的としているのもそうである
結局赤信号みんなで渡れば怖くないとなる、数がすべてを決めるとなるのがのが民主主義ともなる、でも統一教会のように世論がバッシングするときまた数が効果を発することがある、これだけたたかれればもう統一教会は終わりだろう
だから他のカルト団体でもこうして世論でつぶすことができる
だから今創価などは戦々恐々しているかもしれない、火の粉が飛んでくるからである
現実に統一教会をバッシングしているが創価はなぜ責められるのかともなっているからである、創価も明らかにカルトだからである
それもナチス化する統一教会より危険な団体なのである、権力をとるためなら何でもする団体だからである
本当にカルト法が必要である、外国では日本のカルト団体は禁止されている
統一教会でもそうである、日本は余りにも戦後自由になりすぎたのである
それは戦争の結果ではあるがカルトはやはり制限してとりしまるべきだとなる
それは社会にとって危険なものになってゆく、ナチスの再現にもなってゆくからである

●宗教に外国が関係することの危険

確実に統一教会は政治にはいりこみ日本を乗っ取る計画をしていた
統一教会の大きな問題は韓国であり外国勢力がカルトとして日本侵略をねらっていたことなのである、これは非常に大きな問題だったのである
日本人からだまし取った金が韓国に回っていた
そして日本は最終的に韓国に支配されるとなる、そこに在日がからんできて複雑になる
在日とは何か日本人であって日本人ではないという複雑な立場にあるからだ
在日は外国に韓国にでも日本を売りわたす団体なのかともなる
ただ在日は理解しにくいのである、いろいな人がいて理解しにくいのである
明確に在日団体というのは組織があるとも言えないし理解しにくい
ただ下関には戦後韓国に北朝鮮でも帰るために集結したが朝鮮戦争になり帰れなくなり
下関にとどまった一団の人達住みついたという取材がyoutubeで見た
下関には在日の人達が集団的に居住したのである、今でも韓国の釜山に航路があり韓国系であり在日であれ行き来しているからである

統一教会の問題はこうして国と国の関係ともなり問題だったのである
外国にカルト教団を通じて日本の金が奪われ遂に日本の政治家に浸透して日本の政治が歪められる、それが最大の問題だったのである
それは政治だけではない、日本テレビにも24時間テレビで統一教会の人が番組作りしたとかニュースになった、それも統一教会側からそれを発表して一方的な報道をするなと警告してきたのである、つまり今統一教会をマスコミが批判しているがそのテレビ局でも統一教会が深くかかわっていたとして批判するなとなったのである
統一教会こうして日本の主要な権力とかかわり日本支配をねらっていたとなる
宗教はそのための隠れ蓑であり現実は日本政治を左右してその支配下にする
韓国が日本が支配する道具ともしていたとういことで重大な問題になったのである

宗教は個々人の心を問題になるのではない、権力を奪う団体でありやがてはカルト教団が権力を得て支配するためのものである、だから政教分離が必要なのだが自民党自体がすでにカルト教団に侵食されていた、第一創価公明党と一対なのだから自民党自体がカルト政党なのかとなっていたのである
つまり私が追及してきたように政教分離をしていないからそうなった
その法律は有名無実であり何ら行使されていないからである
公安委員長自体が統一教会にかかわっていたからである
これほど統一教会に侵食されていたことは意外である、なぜならどうしても10万くらいの団体がそんな力をもてるのかとなるからだ

ただそこに無料で選挙運動してくれるとか何か巧妙なものがあってそうなった
それでカルト教団の力をそぐにはみんな投票しなければならはないというのもわかる
創価公明でも固定票は限られて減っている、だから投票率が上がれば当選できなくなるからだ、まず自民党は創価公明と手を切るべきなのである
政教分離の法に違反する宗教団体が国土交通大臣になることは憲法違反だからである
宗教団体は国からいかなる特権も受けてはならないとなっているからだ
とにかく日本は戦後75年とかすぎて政治であれ何であれ大きな変革を強いられるているのである、日本の貧困化も深刻であり何か暴動でも起きるような物騒な時代になっているのである、だから自民党一党独裁は終わりつつあるのかとなる
大きな変革の時代でありそこに相当な痛みが生まれる、でもその後に再生する日本があるとなる、期待するとなる

2022年08月24日

人間の認識の限界 (空間と時間軸の認識の限界ーでも限界を破るべき)


人間の認識の限界

(空間と時間軸の認識の限界ーでも限界を破るべき)

人間というのは何事認識する意識するということに特徴がある
認識というときいろいろあってもまず空間認識がある、なぜならその住んでいる場所の空間認識は自ずと無意識にでもそなわる
でも空間認識にしても狭いのである、だから日本列島を空間認識すること自体難儀になる大平洋側で海から昇る太平洋を見ているのと日本海のように山から太陽が昇り海に沈んでゆくのを見るのとまるで違った空間認識になるからだ
また山国だと山から太陽が昇り山に太陽が沈む、この感覚もまた相当に違っている
その場所場所で空間認識は違ったものとして育つのである

京都だと盆地だから東山というと太陽が昇る山であり京都では意識される
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」
これは東山から見る風景である、でも海側に住んでいると山から昇る太陽をいつも見ていないから感覚的にわからないのである
それで近江に行って湖西方面から太陽が昇るのを見た、それは東(あづま)の方向だったのである、あんなところから太陽が昇るのを見て意外だった
そして湖西というと西であり日の没る場所だったのである、それも感覚的にわからなかった、だからいかに地理を頭だけでなく認識することがむずかしいかである
これは地理の本を見てもテレビで見てもわからないのである
その場に立って認識しないとわからないのである

基本的に太陽が昇る方向と太陽が沈む方向で方向を知る、でもこれが太平洋側と日本海では逆になるから認識できなくなる、そして人間の認識はそこに定着していないとできない一時的に旅してもまた同じ場所にいればその感覚が薄れてわからなくなる
アメリカのカリフォルニアなどは海岸は西になり太陽は西に沈むのである
また韓国では日本海は東海であり太陽が昇る場所なのである、それだけ地理の感覚は場所により正反対にもなっているのである
もちろん地理を本とかテレビとか映像だけでもわからない、それは一部分を切り取ったものであり全体を知り得ようがないからである、体感できないからである
そして外国に行ったとしてもそこはさらに一回くらい行っても地理も認識するのはむずかしい、確かに大雑把には認識するから行かないよりはいいとしてもその土地を離れると
記憶もうすれてく、特に外国はそうである、写真をとったとしてもそこがどこかもわからなくなっているのだ、見慣れない物があり認識することがむずかしいのである
ただ何回も行けば違っている、でもそんなことは普通はできないのである

地理を認識するときでは今なら飛行機でヨ−ロッパでもどこでも行ける、でも飛行機で行ったとしても地理は認識できない、飛行機に乗って見えるのは外は闇だけで何も見えないのである、でも船で一か月でもかかってヨ−ロッパなどに行けばまるで違った認識になる途中に港によるし大陸を遠望したりと認識することが違ってくる
それは車でそうである、車はただ目的地まで早く行くというだけであり途中が省かれるからだ、だから歩いて旅すれば地理を体感できる自転車でもできる、坂で苦労して上るからである、それで坂を越えたとき新たな世界が開ける感覚になる
それは近くの飯館村に行くときそうなのである
その峠が長くつづくからである、標高でも飯館村は600メートルとかあり高いのであるだから自転車で行くとその峠を越えるのが一苦労なのである
でも峠をやっと越えた時達成感がある、その感覚は車だと得られないのである
日本は山が多く峠が多い、だから峠というのは日本が作った漢字なのである

ともかく人間の認識は空間と時間軸で決められる、でもその範囲が狭いのである
また時間軸でも短いのでる、そこに人間の認識の限界がある
たとえ飛行機であれ空間を認識することが容易になったとしても現実的には認識できない大陸には長大な川があるとしてその一部を見てもわからない、その川を上から下まで下った時わかる、ナイル川でもそうである、私は船で川を下っても一部だった
河自体が長大だからそれを認識することもまたむずかしいのである
それは中国の揚子江でも黄河でもそうである、そんな大きな川が日本がにないから認識できないのである

空間認識というとき宇宙旅行で月まで火星まで行ったとしても宇宙の広さを認識することは不可能である、なぜなら何億光年のかなたの星があるとしてその空間の広大さを認識できないからである、そこに人間の限界がある
そして地理を知ることのむずかしさはそのように広大すぎてそれを知るには相当な時間を費やさないとできない、もし一億年光年の星に到達するとなるとどうにもならないなる
光の速さの乗り物ができても行けないのである
ただもし人間の寿命が200年とかなればそれだけ空間認識は深まる
なぜなら何度も旅したりして認識を深めることができるからだ
一回だけではない何回も行けるとなるからだ

ただ人間の歴史は空間を広げるものとしてもあった、歩いていただけでは空間認識は広がらない、でも馬に乗れば空間認識は飛躍的に広がった、またそれからテクノロジーの発展で鉄道が生まれて車が飛行機が生まれて飛躍的に広がったとなる
コロンブスとかのアメリカ発見も空間認識を広げたのである
そして地球には未知の領域がなくなった、でも狭い所でも地形とかは複雑であり探求することはいくらでもあるとなる
ここで問題になるのは時間のことである、時間もまた限られているからだ
そこで人間の認識の限界が生まれる、限られた時間内でしか認識できないからである
だからまず人間の空間認識はどうしても限られてくる
時間でも老人になればわかる、あっという間にに過ぎてしまったとなるからだ
30過ぎると体力でも下り坂になるとか40で白髪がはえるとかすぐに老いてくる
それも人間の限界になる、旅するにしてももう体力がないとかなる
要するに人間はみんな個々にわずかのことを認識して死んでゆくとなる

お釈迦様と孫悟空が神通力比べをした話しですが、孫悟空は、自分の神通力一杯で空を飛んで、これ以上遠いところは無かろうと思ったところに大きな山を見つけました。そこで、「これは良し、自分がここまで来た証拠をこの山に残してやろう」と思って「悟空参上!」と大きく書きました。戻って来て、お釈迦様にそれを報告した所、お釈迦様が「そなたが書いた言葉は、これか!」と手を広げられたところ、その手の指に「悟空参上!」と書いてあったという話しです。

これは人間の限界を語っている、それは実際は今でも同じなのである、いくら飛行機で外国に行き宇宙まで月や火星まで行っても空間の広さを実感することは不可能である
まず外国は一回くらい旅してもわからないのだ、空間認識にしても何度も行きその場に立てば自ずと深く認識できるようになる、その空間認識が場の認識がアイディンティティにもなる、でもとても一回くらい外国旅行しても認識できないのである
日本だと私は全国を旅しているから認識する、それでふりかえって俳句とか短歌とか詩にしたりする、それは日本がだからできることである、外国になるとむずかしくなる
大陸だと広すぎて空間認識することが不可能になるからだ
中国に三回行ってもとても空間認識できなかった、アメリカは一回だから余計できない
アメリカだとホイットマンでも空間克服することが詩になる、あれだけ広ければ果てしない空間の中で人間はとまどうのである、そこで人間が一体感を持つことは困難になる
一つの州でも日本より広くなるし砂漠もあるしとなると認識できなくなる

でも人間は空間でも時間でも限界を越えるものだとなる
それを目指している、限界を越えよということである
だからこそ神は人間に時間を越える永遠の命を与えたのである
永遠に生きるということは時間の限界がないことである
そうなれば空間認識でもいかに広くても時間が永遠にあるとすればできるとなる
全能の神は人間に限界を越えさせるのである
それは科学技術でも成されてきたとしてもそこにも限界がある
とても長寿がかなうよにうになっても永遠に生きることはできないからである
老化を止めることができないからである
そういう限界を破る力を与えるのは全能の神だとなる
人間に限界を設けてはいけないのである
もう限界だよということはあらゆることに言ってはならないのである
それは個々人でも俺はこんなもんだとか俺には才能はないとか何がないないとなる
それは自ら限界をもうけて小さくしているのである
人間には限界があってはならないのである、限界を越える力を神が与えるのである

限界を越えよ、限界を越えて新たな世界を見よ
汝を低く狭く見積もるな
神は汝に新たな世界を開く
限界を越えよ、限界を設けるな
限界を突き破れ、神に限界なし
また限界を決めてもそこを深く知れ
神の与えた地を深く耕せ
広く知り狭きも深く知れ
神はさらに汝に天の国を与える
汝はそこで尽くす
その時間も限りなくあれば・・・・




2022年08月17日

カルトの特徴とは何なのか (全体主義になるから共産主義もカルトであり権力を奪い変えようとする)


カルトの特徴とは何なのか

(全体主義になるから共産主義もカルトであり権力を奪い変えようとする)


●カルト宗教は全体を変えて理想国を作ろうとする

そもそもカルトとは何なのか、そのこと自体がわからない、明確に認識されない
だから太平洋戦争でもカルトだったとも言える、天皇を神として日本全員がカルトにはまった戦争だったともなる
そこには確かに天皇がかかわり天皇を現人神(あらひとかみ)とした戦争だったからである、そして必ず地方の村の神社には戦争の勝利する祈願するものが刻印されていた
村の神社というときたいがい五穀豊穣とか祈るものになっているが戦争の勝利の祈願のためにもなったのである、なぜなら村の人達が神社に参り兵士をどこでも見送っていたからである
だからそれも一つのカルトの形態だったともみれる
それは戦争を肯定する神であり戦争では人を殺ししてもいいとなるからだ
オウムでも逆らう者は殺してもいいとしポアしたからである
戦争は一種の宗教戦争にもなる、それで天皇が日本の神は戦争の神ではないとして人間宣言した、天皇自体が殺人命令を出した人だともなっていたからである
日本自体が全員が洗脳されてカルトとの会員のようになっていたともなる
そこでは必ず勝利せねばならない、神の祈り勝利せねばならないのである

それは創価でも選挙が聖戦であり仏戦だからみんな家々に座談会で集まり仏に祈願して必勝を願い祈るのである、完全に政教一致なのである
だから常に常勝関西とか常勝しなければならない、仏が応援するのだから負けないとなるからである、カルトとは何かとなる全体主義なのことは共通している
組織集団化して社会全体で事を成す、また全員が一致して社会を変革しようとする
社会全体を変えて理想国を目指すのである
つまりこの世を仏国にするし天国にもするのがカルトなのである
日蓮宗はそもそも国立戒壇を行うことが教義にある、そうなれば他の宗教は邪宗となり
日蓮宗一色になる、それとともに権力と一体化する
でも日蓮宗でも顕正会会とかあり創価と対立していたりする
それはイスラム教でも二大セクトがあり熾烈な争いとなり殺し合いまでしている
だから日蓮宗内でも争うことになる
国立戒壇となれば憲法違反にもなる、アメリカでもヨ−ロッパでも宗教でも自由である
イスラム教でも許可しているからである
ただこの憲法は絶対的なものではない、民主主義だと数を集めて政権をとれば変えられるからである、だからそれを実行するには選挙を仏戦ともしているのである
日蓮宗は一向宗の念仏とか禅宗とか強烈に批判しているから他者の宗教を許容しないのである

カルトは共産主義とも本当に似ている、共産主義もカルトなのである
マルキシズムは宗教の一種ともなっているからだ、そこに社会全体を変えて理想の国を作るということで全体主義なのである
この世を仏国土にして天国にするということで共通している
でも全体主義は共産主義でもソ連でも何千万が粛清されて殺されたとかある
中国でも毛沢東の文化革命でもそういうことが起きた、それに熱狂したのは宗教的熱狂でありまさにカルトだったとなる
社会全体を変えることが目的でありそこで権力と衝突するから権力持っている者たちと戦うことになる、暴力革命になる、そして権力を得れば権力を我がものとして栄誉栄華になる,カルトというときその目的は内心の悟りだとか心を浄化するとかそうした心の問題ではない、社会全体を変えることでありそのためには権力を得なければならないとなる

●この世に天国は理想国は作れない

カルト宗教団体の場合個々の心の問題は無視する、とにかく社会全体の改革を目指す、そのためにはまず権力を手中にしなければならない、そのために統一教会で政治家と深くかかわり権力を我がものにしようとしていた、選挙で議員を応援していたのである
他のカルト団体でも今は政治とかかわる、政治でもって権力を得て社会全体を変えようすとる、そこは共通しているのである
でもそれで社会が変わるかというと変わらないのである
ただカルト団体の幹部は富とか名誉とか地位を得るのである
ソビエト連邦時代でも共産党の幹部の書記は神のようにまるでエジプト時代と同じように葬られたのである、神格化されたのである
唯物論でもやはり人間が死ぬことは不可解だからそうなったのである

本来の宗教は個々の心に焦点をあてていた、「心の清い者は神を見るだろう」というときあくまでも個々人の心のことであり社会全体のことではない
社会全体を変えよとはしていない、ただ個々人の心が清くなれば社会全体も良くなるという思想なのである
でも全体主義は共産主義でも民族主義でも社会全体を国全体を変えよとする
社会を変えれば全体が良くなるという思想である
でも全体を変えることは共産主義でも失敗したのである、そこに何らかの無理があった
社会全体を変えても人間個々人が良くなるとは限らない、むしろ個々人を変えることが
心を浄化することが社会を変えるとするのがもともとの宗教だったのである

つまり天国でもこの世は作りえない、天国を作ろうとしたら社会全体を変えねばならない理想国にしようとしたらそうなる、でも共産主義でも失敗しているし全体を良くしても個々人の心はその罪とか欲とかは消えないのである
むしろ社会全体を変えようとするのは権力を奪って権力を得て社会を変えようとする
でもその権力を得よとすることは権力を持つことは堕落することになる
そもそも社会を変えようとするより権力を得たい、権力を持ちこの世のことで成功したいという下心なのだから権力を握った時やり放題になる
中国では幹部が兆の金を蓄えたとかなる
だからもし無欲な人が権力を得るならいいともなる、それで聖書ではみどり子に治めさせよとなっていたのである
ダビデでも王になったとき部下の妻を奪うために戦場に送り死なせた
権力を持つと欲でも他者が抑えることはできない、王は絶対的権力となってそういうこともできたとなるからた
社会全体を変えようととしてもその内実は自分自身も権力者を見て権力を我が物にしたいとなっていたのだから社会を変えるより権力を得たいためカルト宗教団体は理論化するのである

この世に理想の国とか天国とか仏国は実現しない、それは人間の欲がなくならないからである、そのことにこそ最大の問題があるとしたのが宗教だったのである
社会全体を変えても制度でも変えても人間の心が悪いものならば依然として社会は進歩したようでしない、それは日本でも一時豊かになっても日本人の心が良くなったわけではない、かえって他者を省みない非情な人達が増えたのである
いくら科学が機械か発達してもこの世に天国は生まれない、仏国は生まれない
天国は神がじかに主となり新たな天と地を作ることでもたらされる
人間は天国も仏国も理想の国を作れないのである、だからこそ共産主義は失敗したのである、人間の個々の運命はあまりにも複雑でありそのカルマでも平等にはできない
そのカルマは個々人で解決するほかないものである、その個々人のカルマを誰かが背負ってくれるのを期待してもできない、なぜなら個々人の家々のカルマは違っていて個々人が家族でも苦しまない限り解決しないからである
仏国土とか浄土とか言っても菩薩とか言っても依然として人間は罪にまみれ欲にまみれて変わらないからである

●政教分離は経済と宗教を分離することでもある

カルトとは全体主義でありそれはナチスでも大日本帝国でもそうだしソビエト連邦の共産主義でも中国でも同じなのである、全体的な妄想に陥る、国民全員が妄想に陥り悲惨な結果となる、カルトがなぜ怖いのか、それは人間の心を支配する
その妄想に陥れると何千万人が死ぬとかなるから怖いのである
人間はありえぬ妄想のためにも死ぬとなる、ただ中国は共産主義から資本主義にもなっていた黒い猫でも白い猫でもネズミをとる猫はいい猫だとなる
それは主義とかより現実的にネズミを食べ物でも得られるのがいいとなったのである
そういうことはもともと中国人にあった、現実利益的であり空想とかを拒否する国民性があった、怪力乱神を語らずとか儒教の教えだったからである

怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。

これは合理的なことであり経済合理性がありそれでイスラム教のような政教一致の国とは違ってあれだけまたたくまに表は共産主義でも資本主義化して経済的には発展したのかとなる、政教分離が近代にとって重要な法律だった、それがイスラム世界とか日本では実行されていないかった、だから日本は天皇を神とした聖戦になって三百万人死んだともなるそれもやはりカルト宗教の一種としてそうなったともみれる
カルトとは国民全体が妄想に陥り合理性とか理性を失うことである
それはナチスでも同じである、ナチスも民主主義の選挙で選ばれたからである
合法的に選ばれたのである、つまり数が多ければそれが正しいとなり権力を握ったのである、すべてを数が多いからと頼る時それが恐ろしい結果となったのである

いづれにしろ政治家はあまりにも安易にカルト教団にかかわっていた
今度は阿部前首相が手かざし宗教の崇教真光(すうきょうまひかり)ともかかわっていた

安倍元首相”手かざし宗教”広報誌で「自分も信者」と発言していた

政治家とは選挙のためなら相手を選ばない、宗教団体はまとまった票になるからその団体がどういうものでもいいのである
そこに日本人がそもそも宗教に寛容であり不摂生のためだともなる
日本は統一教会でもそうだが宗教に寛容なためカルトの吹き溜まりのようになっていたのである
宗教だとキリスト教でもイスラム教でも基本的に偶像崇拝を拒否する、これは共通しているのである、これが日本にないから結局カルトがはこびることになる
第一カルトの創価の応援で一体化しているのが自民党なのだからカルト政権だともなる
自民党はもともと農民とかを票田としていたがそれも弱体化してカルト団体にも頼るようになったのである、都市部でカルト宗教団体が創価などのように増えたからである

●なぜ宗教にかかわるとやめられないの、奴隷の霊が与えられるから

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

ともかくなぜ宗教がかかわるとやっかいになるのか、また宗教団体に入ると簡単にやめられなくなるのか、それは霊と心とかにかかわるものだからである
霊とか心を支配するからである、そして偶像を崇拝するようになる
だから偶像崇拝は危険なのである、唯一の神ではなく様々な偶像を崇拝する
その偶像に一番なりやすいのが人間なのである、だから教祖はオウムでも偶像になり
創価でも池田大作が偶像になりとかまた師でも偶像になる、ただ師を讃美するだけのロボットにされるのである
それで禅宗では師を殺せとして師の偶像化を拒否したから私は禅宗に惹かれるのである

そしてなぜカルト教団でもやめられないのかとなると心を霊を支配されるのからである
自由の霊ではなく奴隷の霊が与えられるのが怖いのである
地獄に落ちるとか罰当たるとかにおびえるのもそうである、それが意外と有効なのであるそのことで奴隷にされるのである、だから一旦霊が支配されると奴隷化されてしまうのである、それが肉体的なことでなく心のことだからやっかいなのである
ただわからないのはそういうカルト教団の幹部でも地獄と罰を恐れている
その恐れは世俗生活で失敗することである、事業でも何かするにも何か事故があったり
生活がうまくいかないことがあることを恐れているのである、それはあくまでも世俗的なことであり宗教自体の恐れではない、カルト教団は損かと得でしか考えない
御利益があるかどうかでし考えない、だから損することを異常に恐れているのである
要するに損得が一番わかりやすいからそうなる
日本人の宗教は神道でも御利益宗教であり何か得があるとして賽銭を入れるのである
それをもらって得するのは神主とかであり本人ではない、それはカルト教団でも得するのは幹部達であり信者は身も心も奴隷にされる
ただその幹部でも地獄とか罰を恐れている、実際はお前たちが地獄に落ちる罰当たりなものだということが自覚できないのである、宗教詐欺罪でありそれは最も過酷な地獄に落ちる罰となっているかもしれないからだ

女性はどうしても頼り安いから霊も支配されやすいから何か女性がまずカルト教団に入りやすい、統一教会でも創価でも最初に女性が会員となり数を増やす、創価だと婦人部であり選挙活動をになうし統一教会でも母親がはまってその子供が二世が苦しんだ
つまりいかにそうしてカルト教団を親にもったものは苦しむかである
それもカルマなのである、宗教だと簡単に捨てることもできなくなるからだ
でも実際は御本尊とかでもそれは字が書いてあるだけでありもともとそこに何の力もないのである、なぜなら簡単に紙だから破ることも燃やすこともできるのである
そうした人もいるしそれで頭が七つに割れるなどない、それを実証もできるのである
だからこそ神は目に見えないものなのである、目に見えなかったらそれを壊すことができない、偶像は必ず形になっているから壊すことができるからである
そういう宗教の基本が日本人は基本的に知らないのである、だから容易にカルトに洗脳されるのである

宗教とは何なのかー個々人のカルマは集団組織で解決しない 
(カルマは個々人が苦しまない限り解決しない)

2022年08月08日

政教分離とは何か (宗教と法律の問題ー宗教は心の内面を追求する)


政教分離とは何か

(宗教と法律の問題ー宗教は心の内面を追求する)

●法律と心の問題

法律とは何か、それは強制力を持っていることである、法律に違反すれば罰する力を持っていることである、権力で執行する力はを持っていることである
宗教とは何かとなれば様々な罪があるとしても法律に触れなければ罰すること刑罰を与えることはできない、ある人を恨んでいても殺したいと心でも思っても罰せられない
現実に人を殺した時罰せられる
でもあるインドの思想家は心で思ったことは必ず影響する、誰かが殺したいという念を強烈に持つと誰かにその念が伝わり殺すこともありえると言っていた
それだけ念は目に見えない具体的行動とならない場合でも罪だとなる
心で女性を犯したものは実際はそれも罪だとしている

こうなると誰も罪がない人はいない、それで不思議なのは自然界では罪というのはない
動物でも他の動物を食べるにしてもそれが罪とはならない、そうしなければ生きていけないからである、ただ自然界には人間のような様々な悪念はない
自然災害にしても人間を恨んで災害を起こしてはいないのである
津浪でこの辺で多数死んで海を恨んだという人もいたが自然を恨んでも無駄である
それよりなぜ人間が自然災害に備えなかったのかと人間を責めるのである

ともかく人間の思想とか念とかは相当に影響するから怖いのである
それが例え犯罪にならないとしても逮捕されないにしてもそういう念を持つことが危険になる、それで韓国でも中国でも戦争の恨みがありそれで日本に復讐しようとする
そういう念を政府が過剰に作り出す、そして日本人は謝るべきだとなり統一教会ではそれを宗教として正当化して韓国をアダムの国として日本をエバの国としてエバの国は韓国に尽くすのが当然だとして金を奪った
韓国では常にそういう念があり今の国だとしている、常に侵略されてきた歴史があるからだ、そういう念があると全体に影響して全体が恨みの念となり日本人は謝罪するべきだ
金を奪ってもいいのだということが正当化される
そうした集団的念が過剰に政府からでも作られることが怖いのである
それは別に行動にならなければいいというがいつか中国でも日本人を標的にして暴力にもなったし韓国でもなる、結局その集団的念が戦争になってゆく
つまり戦争とは外国に対して国単位で集団で全体に念が大きくなり強くなり本当に戦争となり外国人は殺してもいいとまでなったともなる

韓国人に最も顕著な、他の民族にはあまりない特徴といえばやはり「恨(ハン)」の精神であろう。

この恨(はん)は個人的なことではなく歴史的なものであり国家的恨(はん)だとなる
個人的恨みは批判されることがあるが国家の歴史的なものは肯定されるとなる

●心と念の問題

宗教というのはキリスト教でも仏教でも他の宗教でも法律ではない、法律の基であっても宗教に強制力はない、逮捕することはできない

「お前は人を殺したいとかの念を持ったから逮捕する」

こうはならないのである

なぜカルト宗教団体が問題なのか?それは法律にふれるから問題なのか?
オウムのように武装して権力得て日本を支配してその教祖が王になるという思想があったそれを具体的に実行しようとして武装化して本当に反対者を殺した
でも思想信教の自由というとき心で思っていただけらならそれが危険思想でも自由民主社会では罰せられることはないのである、刑罰も与えられないのである
宗教と政治の問題が政教分離でもわかりにくいのかというとそこに宗教とは本来どういうものなのか明確にしていないからである

宗教とは個々の心の問題であり政治や法律は現実社会で具体的に適応して執行力がある
でも具体的に心で人を殺したいと思っても恨んでも別に法律でそれが現実化しないかぎりかかわらはないのである
政教分離のむずかしいのは政治と宗教を分離するというけどそれがどういうことなのか明確ではないからである
別に現実に罪を犯すにしてもそれが具体的なものとなり他人を傷つけて殺すとなると犯罪として認定されて罰せられるのである
でも別に心で個々人でも集団でもどう思うかは関係しない、でも推理ドラマでは必ず殺人でも動機を調べる、それはどうしてどういう心から犯罪を犯したかを問題にするからである、それは個々人の心と関係しているから動機を必ず問うのである

カルト宗教団体の問題は思想の問題でも日本は韓国を戦争で苦しめたのだからその贖罪として金でも寄付すべきだとしている、日本人は謝罪すべきだというのはいいとしてそれがた現実になり金を献金するのはその贖罪のためだとなったとき問題が起きたのである
思想が思想のままではありえない、現実化して具体的なものとして行動になったからそれは犯罪と同じだとなった
人間は思想を軽いものとみる、人の思いは念はたいしたことがない、ただ心で思っているだけにすぎないとかなる、でもそれが必ず行動になるとインドの思想家は言っていたのである、阿部前首相を殺した人はその積年の恨みが積もり積もっていたのである
その激しい恨みの念がありあういう行動に出たのである

今政治と宗教の問題になっているのは政治がかかわるものと法律がかかわるものと宗教がかかわるものの区別が明確になっていないからである
一緒くたになっているからである
カルト宗教の問題は思いとか念にとどまっていればいいがそうではない、具体的に政治にかかわり御利益を得ようとする、それが政治権力として創価なら国土交通大臣となっていることである、宗教が心の問題ではない具体的な権力を得て施行できる立場にある
それは明らかに宗教団体の代表がそうなっているのでありその権力を利用して組織団体の力を増大することができる、だから宗教団体が国からいかなる特権を得てはならないということに政教分離の法律に違反していることは確かである
すると法律は執行力があるのだからそうしてはならないと政治に対して検察側が止めるべきだしてそういう地位につかせないようにすることである
つまり法律は無視されて執行もされないということである
だから法律など別に力があれば無視できるとなりそれは民主主義社会の崩壊に通じている三権分立は機能していないとなるからだ

●他者を地獄に落ちるとか脅迫することは犯罪

ただどんな思想を念を持つにしろそのことで具体的な犯罪とならない限り法律で罰することも刑罰を与えることはできない、だからどんなことでも思っても念など関係ないとか
現実にはなるが人間は動物と違って念とか思想の力が大きく作用する
それが人間の特徴なのである、カルト教団の危険なのはその念と思いが集団化組織化していることである
だから何か反対すると創価でもそうだし統一教会とか幸福の科学でも猛反対して組織的集団的に地獄に落ちるとか罰が当たるとか脅迫するのである
つまり宗教はそもそも他者を呪ったり恨んだりしないことが基本としてある
でも宗教になると平気で地獄に落ちるとか罰当たるとかいうのである
宗教が現実社会に適応されると心の問題内面の問題にとどまらない、なにかと言うと地獄に落ちるとか罰当たるとかいうのである、じれで呪縛される人がいる、洗脳される人達がいて問題になる

ただ不思議にそういう人達も実はその地獄に落ちると罰当たることを恐れているのであるとにかくささいなことでもカルト宗教とかなると何か不満があると相手に対して地獄に落ちるとか罰当たるとかいい、相手が不幸になることをみんなて喜ぶのである
それは仏法に逆らったからだとして信仰の問題にするのである
現実社会に宗教が適応される、人間にはいろいろな不幸がある、それをいちいち宗教的に判断する、成功したら福運があり信仰のおかげだとなる、でも商売に失敗することもあるするとそれは信仰がないからだったとかなる、つまり経済のことでも宗教を適応するのである、宗教をあらゆる世俗の世界にもちこみ判断する、宗教も経済てもなんでも一体化するのである
だから何か不満があると反対があると簡単に地獄に落ちるとか呪ったりするのである
人間はともかくいろいろあっても恨んではいけないとか言うのが本来の宗教である
ただそれが実行するとなると最高にむずかしいからみんな何か得すること利益があることが宗教だとして入るのである

要するにカルト宗教団体は確かに外国では禁止されている、統一教会も創価もフランスなどではカルトとして法律で禁止されているのである、世俗社会に宗教をもちこむとあらゆることが宗教と関係づける、そして常に不満があり反対する者は地獄に落ちるとか罰当たるとか脅迫する、そのこと自体が大きな犯罪とも思うのである
何か確かに具体的に殺すとかしなければ犯罪にはならないがそれは宗教的脅迫でありそういうことを口にしてはならないことではないか?
実際に人間を裁くことは神しかできないからである、だからはそういうことを平気で言うカルト教団は強迫団体なのでありとりしまるべきだとなる
脅迫罪というのが現実にあるからである

●世俗化された宗教はナチスにもなる

いづれにしろ集団組織化したカルトは具体的に心だけではない金銭を要求して収奪する
また政治権力を得るということは政教分離に違反するのである
それは心だけでない、具体的に権力を得ることであり権力を行使できる地位を得たことになるからだ、それは政教分離の法律違反だから取り締まるべきなのである
でも自民党はそれをしていない、票をもらえるからそうしている
統一教会でも票をそんなに持っていないのに選挙運動を手伝うとかして自民党に相当に影響していた、ただそんな力が10万くらいの信者の規模であったのかという疑問はある
ただ法律的には多額の金を献金させていたことは具体的でありそれは法律で取り締まるべきだとなる
権力を持てば罰があたるとか実行できるようになる、国土交通大臣なら大きな力をもっているから公明党に票を入れるなら仕事を与えるとかなる、応援しないものには罰を与えるともなる、予算でも公明創価に有利なように配分することになる
福運を団体組織の利権化することができる、第一そうしたいからこそ毎日選挙運動している

ただ思想にしても創価だと日蓮の教えが王仏冥合であり王は政治のことである、そして国立戒壇を目指しているのである、すると現代の政治からすると法律違反になるのである
でも信教思想の自由があるとしたら別にそれも認めさせることができる
選挙で勝てば数で決めるのが民主制だとするとそういうことでも決めることができる
そして数が万能になるとき遂に民主主義の選挙で法律に違反することなくナチスが生まれたようになる、それは合法的政権だったのである
だからすべてが数が多いからといってそれで決めていたら大惨事になる
「赤信号みんで渡れば怖くない」となってしまう
だから何らかの歯止が必要なのである、それが法律なのだがその法律も万能ではない
法律が執行されていないし法律も数によって変えられるからである
だから法治国家といいっても法律も実際は通用しないときどうなるのか?
結局数であり遂に暴力が決めるとなる、それで山上の行動が快挙だとして賞讃されるのは結局選挙でも政治は変わらないからである、そして政教分離などの法律も有名無実であり阿部前首相は最高権力者となり司法でもその悪事に手を出せないとなっていたからである
宗教とはどうしても内面から心から規制するものである、法律とか政治は外面的に規制する、いくら政治でも法律でも外面的に規制しても人々の心を変えることはできない
心が清いものが神を見るだろうという時、その心が清いということは内面的なことであり外からの圧力でできることではない、だから宗教の役割は外面的なものとして政治権力とか世俗的力で経済力でも変えるのではなく心で本当に悔い改めるとかするのが宗教だとなる、そういうものとして宗教がありそれはキリスト教でも仏教でも他の宗教でも同じなのである、ただ現世的なものの力があまりに強いから現世利益の宗教になってしまったのである

心の清いものは神を見るだろう

神は個々人の心を見ている

心の貧しい者は幸いである

悲しむ者は幸いである

・・・・・・・・

これは外面的なことではなく心の問題としてそうなったのである、宗教というのは思いとか念を浄めることなのである、山伏でも六根清浄を唱えて山で修行することは心の問題をとして宗教があったからである、心を浄めるには大都会ではできない、清浄な自然でしかできないからである
でも人間は現実社会に生きることはどうしても世俗とかかわりそこで宗教も世俗化して
現実社会にかかわり心の問題として宗教があったときまるで違ったものとなったのであるむしろ人間の思いは念は御利益権力志向になる、思いとか念を軽く見るのである
それより現世で金持ちになりたいとか高い地位につきたいとか美人と結婚したいとか様々な欲望を具体的に達成したいとなる、それがまた信仰にもなったのがカルト宗教なのである、だからこそ何百万人も集まらない、票にならないからである
世俗的欲望達成のための宗教となってしまったのである
ただ別に世俗社会だったらそういうことも容認される、でも宗教本来の目指したものとは正反対なものでありそれで矛盾しているのである、理論的にも崩壊しているのである
だからこそナチスになっていったのである、そもそもこうして矛盾しているのだから
いつかその矛盾から理論的に崩壊して破綻してしまうとなる
その破綻にしてもナチスのようになることが怖いのである

●宗教団体組織に頼っても問題は解決しない

ともかく宗教とは何かとなるとき心の問題とか内面的なものだとか言っても現実社会ではバンの問題であり日々の生活が優先されるから宗教もその庶民の日々の問題に適応する
いくら高等なことを言っても日々の生活に足しになるかどうかで決まる
生活に困っていれば援助してくれとなる、だから生活保護者が多くもなる
創価とか共産党に頼めば優先的に受けられるとかそうした日々の生活で足しになることで頼り一票にする、心がどうのこうのとか高等なことでは票は集められないからだ
でもそれが極端になるともう心の問題だった宗教が世俗以上に日々の生活のことになり
それで御利益を受けることしかなくなる、そうして創価とかではどうなったのか?
権力を奪い御利益を配分することが目的になる、だから権力異常に執着する
つまり世俗よりも世俗的になり宗教はただ世俗の御利益を得るための手段となる
そして何か反対すると批判すると地獄に落ちるとか罰当たるとか何百万人の会員が攻撃してくるから怖いのである、別に宗教と関係なく底辺層でも相談にのるとかはいいのである宗教がかかわるとややこしくなる、その区別ができなくなるから問題なのである

例えば社会で生きていれば必ず事業するにしても成功失敗はある、それがいちいち宗教に関係づける、信仰があれば成功する、なければ失敗するとかなる
すると事業で成功するには拝むことになる、そして成功した人は持ち上げられる
でも悲惨な失敗もある、その方がこの世では多い、会員でも実際は悲惨な失敗も多いのである、別に会員になっても問題は解決しない、かえって悪いことが起きることがある
近くで会員になったらすぐに息子が若くして病気で死に母親も死んだとかある
他でもそういうことは無数にある、交通事故だって学生時代に創価の人が死んだ
でもそれでも成仏したとかこじつけていたのである、その会員を見ても様々な問題は解決していないのである、むしろ悪くなっていることもある

それはそれぞれの家族とか個人のカルマが影響しているからかもしれない、自分の時はそうだった、なんらか家族とか親戚のカルマを受けて苦しんだとなる
だからそれぞれの問題は一様に解決はできない、一様に解決しようとしているのが組織団体として解決しようとして個々のカルマがありできない
共産党でもみんな平等にしようとしても結局共産主義が失敗したのは個々の運命とかカルマが違っているからである、そういうものを一様にできないからである
ただ苦しい人は藁をつかむ思いでそういう団体に頼る
女性だと頼ることが習性になっているから余計にそうなる、統一教会で息子が事件を起こした女性は夫を早く亡くして頼る人がいなくなりそうなったらしい
人間が困ったら組織団体で何でも解決してくるのか、結局上の人達はそういう人達を利用して議員になったりして得するだけだとなる、それは共産主義でも同じである
貧困ビジネスだという人もいる
問題になった女性は金はあったのである、一億円も献金していたからである
では何が問題だったのか?それは夫が自殺してそれで頼る者がいなくなりそうなった
でも金はあったのだから困ることがなかった、だからすべてが金の問題でもなかった
その解決方法は別にあったし統一教会に入ることではなかったのである
ほとんどの問題が金で苦しんでいる時、この女性自体の問題だったのである

悲しむ者が幸いだとなぜキリストが言ったのか?

そもそも人間には悲しむことが必ずあり愛別離苦がありそういうことはすべて金で解決できない、この女性は金持ちであっても解決できなかった
そうして解決できないことがあり悲しむ者となる、でも神はその涙をぬぐいたもうというとき救いがある、でもカルト宗教団体ではただそういう人達を利用して自分たちが得することしか考えないのである、だからいろいろ苦しみ困っている人達を勧誘するのにはいいのである、藁にもすがり助けてもらいたいとなるからだ
でも現実はそう言う組織団体はそういう人達を利用するだけだとなる
そして問題はそれぞれの問題が必ずしも金の問題ではなく違っていることにあり一様に数式のようにあてはまめて解決できなことである
だからカルト教団でも共産党でも似ている面があるのだ
ただカルト教団の悪質性は常に罰当たるとか地獄に落ちるとか恐喝することなのである
それは脅迫罪であり犯罪なのである、だから法律で取り締まるべきだとなる
つまりカルト宗教団体は法律ですべてではないにしろ取り締まるべきだとなる
現実に外国ではフランスなどでも取り締まっているからである
日本はそういう面でゆるいからと統一教会にでもつけこまれたとなるのである

●裁判で霊感商法は罰せられる、脅迫罪にもなる

「相手方に害悪を告知したり、心理的な圧力を加えるなどして、殊更に相手方の不安、恐怖心等をあおるなど、相手方の自由な意思決定を制約するような不相当な方法でされ、その結果、相手方の正常な判断が妨げられた状態で献金等がされたと認められるような場合には、当該勧誘行為は、社会的に相当な範囲を逸脱した行為として、違法と評価されるといわざるを得ない」

旧統一教会、信者家族らと法廷闘争も 夫の財産を内緒で献金、伝道しなければ「自分も家族も不幸に」…裁判所はどう判断?

これも犯罪として適応されるのか?犯罪ではあるが刑罰を与えられるかどうかである
そこに金銭がかかわっているからその金銭が問題になる
でも宗教が脅迫罪にもなる、先祖で苦しむとか罰当たるとか地獄に落ちるとか言うのは
脅迫罪なのである、そういうことは誰もわからないからである
神のみぞ知るとういうことになる、霊感商法は金もうけのためにそういうことで脅迫して売る、だから罪であり罰せられるとなる、そこに明確に金銭がかかわっているからである宗教は強要できないからである、信じる信じないを強要できない
そこには信教の自由がある、また結社の自由もある、でもカルト宗教団体の結社に問題がある、それが犯罪集団にもなることである、オウムとか統一教会とかそうである
その団体組織が犯罪組織でもあったからだ、創価でも折伏とか前は宗教を強要していた
そして会員にして票に結びつかせて権力を得るために運動していたし今でも継続されている
やたら宗教で他者を脅迫することは特にそれが金銭が具体的にかかわるときは禁止すべきであり罰するべきだともなる、ただその区別がむずかしいのである

2022年07月30日

統一教会と創価とかカルト宗教がなぜ力をもったのか? (大衆社会となりマスコミも政治もすべて大衆化したため)


統一教会と創価とかカルト宗教がなぜ力をもったのか?

(大衆社会となりマスコミも政治もすべて大衆化したため)


●現代文明の病弊として生まれたカルト宗教

その人は創価一家であり兄弟が議員でもありその人は創価しか見えない人だった
ただその人は素直な人でありもし本当の宗教を追求していれば全く別な人になった
ナチスでヒットラーユーゲントがいて青少年がナチスの強力な一員になった
それは中国でも起きた、文化革命の時毛沢東崇拝が起きて青少年が熱烈な紅衛兵となり中国全土を席巻した、それで粛清された人がどれだけいたのか、空恐ろしいものだった
また日本の戦争でも別なものとしてもそういうことがあった
だからこれはやはり現代社会の病弊として起きたともみる
大衆社会となり大衆により席巻される社会である、大衆が洗脳されてそうなる
これまでの戦争は日本でも侍が貴族同士の選ばれた戦士が戦っていたからである
そこから貴族でも騎士道が生れ日本だったら武士道が生まれた、互いに殺し合うにしてもそこにルールが倫理が生まれたのである
それはなぜか?それは一騎打ちになると相手の人間のことを殺すとなると卑怯なことをするなとか一個の人と人が戦うからルールが生まれて敵への憐憫でも生まれる
つまり人間的なものとなる

それが近代戦争となると一対一の戦いないし集団戦である、それは前からあったにしろ
戦争に参加していたのは貴族であり貴族同士の選ばれた戦士同士の戦いだった
日本では侍同士の戦いだった、それが明治維新で西郷隆盛率いる西軍と政府軍が戦った
政府軍は庶民でも参加できる国民軍だったのである、めれで侍の集まりである西軍が負けると思わなかったが負けた時、侍の時代は終わったのである
それは世界的にも起きたことなのである
こういうことが宗教問題と関係ないようで関係はある、近代社会は大衆社会でありあらゆることが大衆によって決定される、数によってすべては決まる社会である
また戦争にしてももう人間と人間の戦いではない、機械と機械の戦いにもなる
そこで敵を思いやる人間はいない、相手が機械になればそうなる
大衆とか群衆社会であり宗教でもそうである、選ばれた人を相手にしているのではない
無数の人達を相手にして操作するものマインドコントロールするものとなった

大衆ファシズムの世界となった、それで力を得たのがマスコミなのである
マスコミは大衆を相手にしているのであり優れた人達を相手にしていない
要するにパンとサーカスである、面白おかしくみんな見る娯楽番組が主流なに
むずかしいことは言わない、マスコミはこうして大衆の洗脳機関でありその裏にはまた大衆宗教と化した巨大権力化した宗教団体がある
それが今問題となった統一教会とかであり創価などが最たるものである
創価などは一人など関係ない、数しか見ていない、一票としてしか人を見ていない
大衆ファシズム団体なのである、それはナチスと同じではないにしろ似たものなのである
そもそも現代社会とは大都会を見ればわかるように無数の人間が群衆化して大衆化した世界である、大衆は高貴なものなど求めない、つまり現代には高貴なものを求める人は無視される、ただ数がすべてであり数が権力化するのである
田中首相が金と数ですべてが決まると言っていたとでもわかる
政治家とはそうして大衆を相手にしているのであり高貴なものを求めるものを求めていない、どんなに高貴なものがいても一票に変わりないからである、それは同等なのである
だから現代には指導する人はいない、大衆を操作するものが指導者でありそれがマスコミだったりする、マスコミは大衆を相手にしているのでありやはり視聴率が一番大事だからであるあとはスポンサーが金をくれるのだから大事なのである

●地の塩が消失した現代文明の荒廃現象としてのカルト宗教団体

要するに現代社会文明からは地の塩は消失した、ただ宗教でもそうだが大衆化したのである、だから宗教でも大衆をいかに操作するかが問題になる、そして大衆を支配するのである,マスコミもそうである、マスコミは何か常に公平中立を装うがそうではない
NHKは何か善人の代表のように見ているがそこに大きな悪がひそんでいる
それがわかったのはと民間では統一教会のことを批判しているのにNHKでは全くしていなのである

これはなぜなのか?

これは大問題である、そこには何らかの深い事情がある、統一教会を批判できない何かがあるとなる、なぜならNHKでも幹部が協議して放送することを決めるからである
その幹部の中に統一教会を批判できない人達がいるということである
それだけ統一教会は力がないとも見ていたがあったのかとなる、それは韓国との関係で政治問題化もするからである、また在日問題もありそれで表に出さないのである

いづれにしろ今回の統一教会とか創価とかカルト教団の問題の根は現代社会の病弊から生まれていた、それはナチスで経験していることである
社会が大衆という得たいのしれないものに席巻される社会である
そこに本来の宗教は皆無なのである、ゼロなのである、ただ大衆が理解するのは利益になることであり利権になることであり御利益になることである
それしか見ない、それは原発事故でもそうだった、それは莫大な利権だった
それで地元でも金の成る木であり群がったのである、そしてマスコミでも原発を批判しなかった、なぜなら原発が爆発した時、朝日新聞の幹部まで全部中国に招待されていたのである、つまり原発は東電からでも電事連からでも莫大な宣伝費が出ていたからだ
だから批判できなかったのである、だからマスコミは大衆洗脳機関なのである
肝心のNHK自体がそうなのである、そこは公平に見えても公平ではない、肝心のことを報道すらしないのである

福島県の報道関係でも同じである、福島民報は聖教新聞を刷っているし政経東北も何か鋭く問題を追求しているように見えてもそうではなかった
相双リテックはたいして技術もないのに除染でもうけて幹部で何十億もの金を山分けしていた、そして銀座で金を使っていたとこれはNHKでもちょっとだけ報道したからである
なぜなら相双リテックの宣伝をしていたらである
そもそも福島民報は県で半分出資しているから実際は県の広報機関であり政府の広報機関なのである、国の意向を伝えるだけのものだったのである

 なぜカルト宗教が増えたのか、これもやはり前々から偽預言者とかいた、それが現代社会では組織化して巨大化化したのである、それは大衆社会になったとき必然的に生まれたのである
つまりナチス化したのである、現代社会ではもう何かまともに教える場所などない
学校とかはただ知識を教える場所であり本来の人間を教育する場所ではない
だからこそマスプロ大学で千人とかの入る講堂で授業することに反発して学生運動が起きたりした、そこはエリートとしての教育の場所でもない、ただここも大衆化した学生をつめこむ場所にすぎなかったのである、理系は別として文系はそうである

だからなぜ宗教がカルト化したのか?

それは大衆宗教となったからである、大衆を相手にしいるのであり本当に求道心ある人など相手にしていない、今やそういう場所がなくなったのである
現代とは大衆に席巻された時代である、宗教もそうである、大衆宗教でありそれは容易にファシズムになるのである、結局人間がまともになるにはアウトサイダーになるほかないともなる、あらゆるものが大衆化して本来の人間でありえくなったからである
もちろんそこにも大きなも問題があるにしてももうニーチェのようになるしか本来の人間になりえないともなっているのである

●偶像崇拝の拒否から起きた一神教を日本人は理解できない

宗教二世の問題は親子二代で奴隷の霊が与えられることなのである
なぜカルト宗教問題が深刻なのかと言うと霊を支配するからである
罰当たるとか地獄に落ちるとかで霊を支配して奴隷化するからである

でもよくよくそういうことを言っている人間はどんな人間なのか?

全くの俗人でありその辺にいる普通の人である、そんな人がそんうなことが言えるの
お前が真っ先に地獄に落ちる、罰当たると言える人なのである
そんなこと簡単にわかることである、でもマインドコントロールされて見えなくなっているのである

おそらく日本人は宗教の基本を知らない、それで日本は宗教に寛容である、それがカルト宗教の吹き溜まりのようになった
ユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でももともとアブラハムを始祖して共通のものがある、宗教で一番大事なものは偶像崇拝の禁止なのである
なぜなら聖書は偶像崇拝との戦いでありその戦いから神を認識したのである

神は妬(ねた)む神として現れたからである

神は像ではない、像となるもの形あるものを神とすることに強烈に妬んだのである
これは本当に不可解でもあるが現実なのである、ねたむ神として現れたのである
だから一神教のすべての根幹は偶像崇拝の禁止なのである
いかにイスラム教では偶像崇拝を恐れているかわかる
人物像は像になるものは一切壁の模様としても描かかない、幾何学模様だけなのである
それだけ偶像を描くことを恐れていたのである、なぜなら神から恐ろしい罰があるとして恐れていたのである
でも日本だとこういう宗教の基本が欠けているのである、やはり仏像を日常的に拝むとかありそれも問題だった、教祖でも偶像化しやすい、一時オウムの麻原が偶像となったし
創価だと池田大作が偶像化したからである
ともかく宗教というとき本当に偶像崇拝が一番の問題なのである
ただ不思議なのは神社だとそこに偶像となるものがない、何に拝んでいるのかわからないのである、だから神道は謎である、御神体が自然だともなっているのである

●カルト宗教団体から真善美は生まれない、文化は生まれない

いづれにしろカルト宗教とか現代文明の病弊から生まれたものであり大衆社会から生まれたものであり本来の宗教とはまるで違ったものである
だからそれをなくすことや正すこともむずかしい、なぜなら大衆社会になったとき指導するものはいない、否定されたからである、マスコミがNHKが指導するものともなったからである,NHKの言うことはみな正しいともなったからである
NHKも偽善なのである、何か善人の顔しているが実際は悪人だということもある
それはカルト宗教でもそうである、天使を装うサタンなのである、要するにこの世は偽善が多すぎることなのである、偽りが多すぎるのである
そして社会は何らかみんなブラックなのである、つまり社会自体が暗黒社会なのである
罪の社会でありもうそれを正すことは不可能である、だから滅びるほかないともなる
罪の清算の時が来る、それは近いのかもしれない、もうあらゆることが限界に来ている
それで大清算のカルマの清算の時がくるともなる
カルト宗教もその一つでありそれは虚偽のものであり意味ないものであり大衆を洗脳するサタンに操られるものにすぎないのである

いづれにしろこの世は暗黒である、その闇は深く晴れることがない、ただ自然は美しいのである、そこにこの世の救いがあるとなる
カルト宗教を見分けるのはそこから何ら善きものが生まれないことであるし
肝心の真善美は生まれないのである、だからむしろ過去の宗教というとき問題があるにしろキリスト教文化が芸術が生れ仏教文化芸術が荘厳に生まれたことでもわかる
現代のカルト宗教からは一切そういうものは生まれない、ただ権力を操作したいというだけである、そこに集まる者も醜悪なものしかない、なぜなら教祖はサタンであり偶像崇拝しているような所から良きものが生まれるないからである
また大衆から良きものが生まれない、文化を作りだすこともない、大衆と民衆は違う、民衆は民謡とかでも文化を作りだしたが大衆は何も作りださない、マスコミとかに操作されるものでありパンとサーカスであり不毛なのである

ただマスコミではないインタ−ネットからは新しいものが文化的なものが生まれている
個々人が映像化したものが世界的に膨大に表現されているからである
そこに現代のグロ−バル化した文化が生れているのかともみる
でも現代から文化とかは生まれにくい、どうしても大衆社会であり大衆が求めるのはパンとサーカスだからである、そして大衆が権力化する世界である
一人が消費するより十人でも店に行き消費すれば金を使えば力となる
一人が消費しても力とはなりえない、だから店でも一人は相手にしない、問題は数だとなるのである、すべて人間は数としてか計算されない社会なのである
誰でもいい数を集めれば社会で権力化して支配できる社会でありそれが極端化するとナチスとなったのである、カルト宗教もそういうものとして生まれたのである

●カルト宗教団体が背後で国を操作することの危険

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この図のようにカルト宗教団体は国にかかわる、国を操作しようとしている
それで内村鑑三は外国の宣教師を嫌ったのである、何らか背後で国を操るということで嫌ったのである
だからこの図のように背後に国がかかわる、統一教会でもそれが明るみに出た
これほど選挙にでもかかわり日本を支配しようとしていたことに驚いた
自民党の安倍派はもともと勝共連合時代から支援したし支援を受けていた
一心同体だともなっていた、それは儀礼的な浅い関係ではなかった

また創価の後ろには中国がいる、創価もなぜあれほど中国に肩入れしているのか?
とにか中国様様なのである、宗教と共産主義が相いれないのにそうなっている
それは政治的意図があってそうしているのか、勢力を拡大するためにそうしているのか?でも中国で布教は無理だろう、どういうわけでしてしいるのか良くわからないのである
ただ創価は権力を権勢を拡大することが目的でありそのために布教もするし会員をとにかく増やそうとしている、その権勢を拡大するためには日本だって中国に売るとなる

それからエホバは別に日本の政治にかかわるようには見えない
でも後ろにアメリカがいて工作する、その団体なのかともなる
日本キリスト教会という団体もあるけどこれもアメリカから金が入ってきているのか
なぜなら信者数が創価と他でも比べると極端に少ない、でもあまり寄付金など要求しないのだろう、だから経済的にどうして成立っているのかとなる

日本基督教団は、神のみまえに、在日韓国人キリスト者たちとその同胞に対する戦前、戦後にわたる罪責を告白し、今日の在日大韓基督教会との協約締結を感謝する。
https://wvtravelclub.jp/the-united-church-of-christ-in-japan/

統一キリスト教団体だけではない、こういう主張をもっているのである
キリスト教団体は韓国に多い、また在日朝鮮人も数多くいて影響力がある
宗教団体でも内部に入り重要な地位をしめていたりマスコミでもそうである
在日の力は表に出ていないが大きい場合がある、それはなぜかというと在日は日本人なのである、見分けもつかないし日本語を普通に使うし優秀な人も多いのである

だから不思議なのは在日でアメリカ国籍を持っている人が下関とかにいた
この人はなんなのだろうと理解できなかった、れっきとしたアメリカ国籍だからアメリカ人であり岩国にアメリカの基地があるから出入りして兵士と話したりしているのである
留学もしているから英語を話せるからである
こういう人は他にもいる、だから一体何人なのかわかりにくくなるのである
宗教団体でも様々な人が入る、国籍は問わないからである、その中にスパイも入っているかもしれないということである
だから何かこの辺で在日の小説家が住むようになったのはなぜだろうと疑問になる
在日の人が何か運動するためのなのかとも見る
すでに市役所ではアメリカから賞をもらったとか横断幕がかかげられているのである
それは背後在日の勢力がありそうなったのかともみる

●不純な動機で数だけを集めるカルト団体

いづれにしろこうしてカルト教団には様々な勢力が入ってきて工作することがある
別に信仰とも関係ない、そもそもカルト教団は信仰など目的にしていない
勢力拡大してその国を操作するとかそういうものに利用されるだけだとなる
だからどんな人が入るにしろいいのである、数が増えれば勢力拡大になるからである
そうしているのは背後にそうさせている国があってそうなっているのかともみる
アメリカと中国がそうである、統一教会の不思議はアメリカとも深くかかわっていたのである、だから公明党でも統一教会の集会に出ていたのである

そもそも宗教団体自体が何か純粋な信仰を求める場所でなはい、不純な場所なのである
信仰は別に教会に入らなくても唯一の神を知ることができる
私は一回も教会に行ったこともないし全く別な創価とかのカルトで運動していたからである、だから本当に奇妙だともなる、ただ私に言えることは私は政治運動に興味もなかった私が求めていたのは死の解決だった、それで宗教を求めていたのである
結局宗教でもその人自身が動機が純粋であれば汚れることはない、創価にいい女がいると金持ちになれるとか金銭的にも援助してくれるとかなんとか得することばかり考えて入る人が多い、つまりそういう不純な動機の人達が膨大なのである
そんなこと考慮しないのである、創価だったら一票になればいいだけである

そうした余りにも不純な場所がカルト教団なのである、それは天使を装うサタンに操作される場所である、その背後に教団を利用して別な政治目的があり利用されるとなる
自民党なら利用してまた利用されるものだとなる
それが一つの権力集団だからそうなる、その権力に目をつけるからである
一票でも得られればいいとなる、それが権力をつくるからである
要するにこうしてみんな権力を求めているのがこの世なのである
権力となるのが金であったり軍事力だったり現代なら一票となる数なのである

宗教が権力化すると本来の宗教でなくなる、神が見るのは心だとするとき個々人の心を見ているからである、数とか権力化したもの建築でもこの世の威勢を誇るものでもない
個々人の心を見ている、心の清い人は神を見るだろうというときそうである
でも宗教とは必ず政治にもかかわりこの世とかかわりこの世的なものに変化する
そしてこの世の人間の欲望のためにも利用される政治にも利用される
そして日本人は宗教の基本を知らない、偶像崇拝がどれほど危険なものか知らないのである
そしてそもそも本当に神を求めるなら牧師とか教祖とかそうした仲介者を通さないことである、その人達でもいかがわしいのが多いからである

その人たちあたかも神の取次人のようになり権威を持ち権力を持つからである
誰も仲介がなくても神を知ることは個々人でできる
そこに仲介者を立てないことなのである
その仲介者は天使を装ったサタンになるからだ、そして偶像化されるのである
だから禅宗だと何か偶像崇拝を拒否する,師まで殺せというときそうである
それは師でも弱者はどうしても偶像化するからそうなったのである
そういう宗教の基本が日本人は教えられていないからカルト宗教の吹き溜まりのようになったのである、ただ外国でもカルトはあるから一概には言えない
でも日本はカルトとかに抵抗なく洗脳されやすい民族だともなる

2022年07月22日

いつの時代も言論の自由はなかった (人間の権力を求める、宗教も権力を得るために利用される)


いつの時代も言論の自由はなかった

(人間の権力を求める、宗教も権力を得るために利用される)

●言論の自由は歴史上なかった

そもそも人間はあらゆる自由が可能なのか、これが政教分離でも問題になる
結社の自由とか信教の自由があるからだ、人間は自由を求めて来たことは確かである
信教の自由と言ってもそれは歴史的に見ればなかった、必ず弾圧されてきた
それはキリスト教でも仏教でもそうだし思想としてもそうである、共産主義でも弾圧されてきた、人間に信教でも思想の自由がなかった
常にそれを許さないものが社会にあり権力でも弾圧してきた、キリスト教でもカトリックが今度は権力をもったから弾圧してきた
そして人権を重んじるフランス革命が生まれた、つまりこれは宗教からの解放として生まれたのである、それはなぜかとなればカトリックは宗教でも社会で権力をもっていたからである、その自由を求めてルターの宗教改革がありプロテスタントが生まれた
何か自由というとき権力側から弾圧されて血を流し犠牲になった人達が大勢いた
戦前なら天皇が神となりそれに逆らうものは弾圧された、殺された人達もいる
創価の創始者の牧口常三郎などがそうである

また言論の自由というけどこれもなかった、権力者に歯向かう批判の言論は許されなかった、中国では

焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)

『史記』秦始皇本紀によると、始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越(中国語版)は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。丞相の李斯は、儒者たちがいにしえによって体制を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。始皇帝はこの建議を容れて、医薬卜筮・農事以外の書物の所有を禁じた「挟書律」を制定した。

これで学者が生き埋めにされたとかあった、つまり皇帝の絶大な権力に反抗する者は苛烈なものとなった、そこには批判する自由も思想の自由もなかった
だから権力者を批判することは死ぬ覚悟でしないとできなかったのである
言論の自由など江戸時代にもなかった、幕府の批判は許されなかった、「見ざる、言わざる、聞かざる」になっていた
戦時中は政府の批判は許されなかった、戦争に対して何か批判的なことを言ったら特高が着て刑務所に送られた、つまり言論の自由は戦前まではなかったし今でもない
一見あるようでもない、私自身でも個人は発言してはいけないと町の図書館に本を置けなかった、公務員はそういう力を持っているからだ
つまりいつの世でも言論の自由はなかったのである、民主主義になっても言論の自由はない、なぜなら発言するにしても批判するにしてもできない、本を出すにしても普通はできない、だから原発でも危険を知っていた人があっても発言できなかった
またマスコミでも自由な発言はさせないし批判はない、原発でも原子力村が強固に作られていて批判は許されなかった

●権力をどうして監視できるのか

統一教会がなぜマスコミで一時あれほど批判して放送したのに

なぜその後全く報道されなかったのか?

これも不思議だった、統一教会のことなど忘れていたしそんな影響力があったとは思えなかった、でも自民党に働きかけて影響力をもっていた

そして公安委員長も統一教会に忖度していた!

これは大きなことである、権力というとき一番の権力は警察とかまた戦争になれば自衛隊とか軍隊になるからだ、戦時中軍人が一番威張っていたというときそうなる
人間の権力の最たるものが暴力であるからそうなる

統一教会が報道されなかったのは報道させないように権力が働きかけた

こういうことは常にある、権力あるものと権力がないものがありマスコミは報道する権力をもっているが報道しないのはさらにその上の権力あるものがあり報道させないからだとなる、原発でもその危険は報道させなかったとなるからだ

人間の社会の問題はこの権力にある、権力あるものが必ず自らの権力を維持するために守るために批判させないのである
権力というとき統一教会はそれなりに資金を集め奴隷となる信者を集め権力を持つことになる、民主主義では確かに自由があるが票を集めに苦労する、するとまとまって票がある組織団体とつながる、そこに癒着が生まれる

宗教団体でもそこにはまとまった票が得られるからつながる、創価はまとまった票が必ず計算して得られるから票田になり自民党と一体化する、その見返りとして大臣の椅子を与え権力の特権を与えるのである
創価の活動はまた権力を得ることにある、その権力を得る為に無血革命とか言ってその活動は選挙活動なのである、目的は権力を得ることである
そして今度は巨大な権力化すると反対する人を弾圧するのである
創価を批判する者は許さないとなる、そのために福島民報でも毎日新聞でも聖教新聞を刷らせて資金援助するのである、そうすれば批判できないからである

●権力がなぜ生れるのか?

そこから危険な状態になる、原発の危険は知らされず地元の人たちは故郷にも住めなくなったとか戦争で何百万人死んだとかなる、つまり権力とは実効力あるものでありただ何かを言うだけのことではない、批判を封じることもできるし何かを強制的に実行できる力なのである
だからこの世とは必ず権力との戦いになる、権力を持つものとの戦いなのである
その戦いはこの世の終わりまで終わらない、それは人間が権力を求めることにこそある
この権力とは何なのか?それは人間の尽きない止められる欲望だということである
権力をもてば得をする、金も入ると女性への欲望がかなえられるとか何かこの世の欲望が得られ立場になる、中国の共産党なら幹部になれば莫大な富が得られるとかなる
またアメリカにしても今度は一見平等を言うにしても民主主義にしても世界の富をわずかな人たちが独占する、株などでもそのシステムはわからない、巨大すぎて理解することは不可能なのである、その富は後進国などの貧者の汗の労働から得たものにもなる

だからこそ人は権力を得れる者になりたい!

それは宗教でも共産主義でも同じなのである、権力者がいるから権力者に代わり自分たちも欲望をかなえたい立場になりたいというだけである
統一教会を見ればわかる、信者を奴隷にして豪華な建物を建て幹部は贅沢しているのである、結局この世の中人間を養分にするものと養分にされるものとに分かれるのである
結局この世の中はブラック会社なのである、養分にする者が政治家であれ官僚であれ他にもいろいろある、パチンコする人はそれて儲ける人の養分だということもそうである
カルト教団だと信者は奴隷であり幹部の養分だとなる
要するに養分にされるものか養分にする方になるかがこの世である
政治家は国民を養分にする方であり自分のことしか考えない、選挙のときだけ愛想良くするが後は知らないと自ら議員が言っているからである
このようにこの世のからくりを知るべきだとなる

宗教でも山の中でわずかの食糧で節制して修行しているような人ならいい、カルト教団はとにかく権力を追求しているのである、政治化するのも数を集めるのも権力を求めているからそうなる、宗教はそもそもの始まりは権力の否定からはじまったのである
よくよく聖書を読めば権力を否定していることがわかる、権力を求めないことこそが宗教である、神の国とは権力なき世界である、唯一の神によって治められる世界である
全権が神にあり神が治める世界である、そこで人間は権力者の養分ではない
一人一人が自律的に神の子であり神の国に生きるのである

●権力を監視する三権分立

だからこの世でまともな人は必ず時の権力者と衝突する、これはさけられない
その権力者とは誰かとなるととにかく何らかで権力を持っている人である
官僚でも大きな力を持っている、警察は暴力装置だから権力を持っている
宗教団体でも数が多ければ票になるから権力を持っている、権力によって社会を人間を社会を動かすのである、宗教もその方便として使う、その目的は権力を得ることである
そのために人間は偽善的になる、宗教でも結局人間の欲を達成させる為のものとして利用される、美辞麗句を並べてもその中身は汚いものなのである
オリッピックでも美辞麗句を並べても実際はその実行者は金を得る為だったのである
人間はそもそもそういうものなのである、ジキルとハイドなのである
自分の欲望が第一でありそれをかなえるためにいろいろある、宗教もその一つになっているにすぎないのである

民主主義が三権分立になったのは「権力」を一番問題にしていたからである

「三権分立」とは、国家権力を「立法権」、「行政権」、「司法権」の3つに分けて、立法権は国会、行政権は内閣、司法権は裁判所という形でそれぞれ独立した機関が相互に抑制し、均衡を保つことで国家権力の濫用を防止し、国民の権利と自由を保障する仕組みのことです

司法とは権力の監視機関である、立法権は国会で審議して法律を決める、でも政教分離の法律を決めるとなると簡単にはできない、自民党でも他の党でも宗教団体の支持を受けているからそれができないのである
そもそも司法権でも絶対ではない、統一教会に公安委員長がかかわり忖度していたとかなるからだ、つまり宗教団体でもすでに大きな権力でありその権力に影響される
だから巨大化したカルト宗教団体でも取り締まることはできないのである
そして権力は危険なのは権力が巨大化するとそれに逆らうことができなくなり暴走する
それがナチスだったのである、もう誰も止めることはできない、それは独裁国家で起きて来る、独裁国家は独裁者に権力が集中する、そして誰も逆らえなくなる
それがロシアのプーチンであれ中国だったら習近平にもなる

そうした権力の暴走をどうして制御するのか?

それが民主主義社会でも自由社会でも課題になる、なぜならナチスは民主主義で選挙で当選して大きな力を持ち暴走したからである
つまり権力とは暴れ牛のようになる、その時誰もその牛を制御できなくなる創価などは今下降気味だけど会員がうなぎのぼりに増えてナチスのようにもなる勢いだったのである、民主主義は自由だとしても全体主義になりやすいのである
大衆が主役でありそれはただ数によってすべてが決まるからである、数が権力になるからだ、だからその数を集めるためにカルト教団は毎日活動している
布教するというのもただ数を集めて奴隷にするためである

●カルト教団員には獣の印が押されているーサタンの偶像崇拝である

カルト教団は精神的な奴隷にすることだからである、教祖が神となり絶対服従になるからである、それは偶像だとなる、それらは獣の印を押された人達だとなる
ある時は卍が印しとなりZが印しともなる、牛とか羊でも焼き印を押されたようなものである、その印しのある者はまるでサタンに属したともされる
この世は二つの人間に分かれている、この世のサタンの印を押されたものと神から選ばれた者の印を押されたものである、神の国の約束を得たものである
結局カルト教団の教祖は実際は天使を神を装ったサタンだとなる
結局宗教もサタンに乗っ取られるのだこの世だとなる
なぜ乗っ取られるかとなれば人間は限りなく欲望を持っているしその欲を絶つことは不可能である、だからこそその欲によって人は動く、サタンはその欲をかなえてやるとして
崇拝するのである,サタンは人間が作り出す、人間の欲望が作りだしたものである
もし欲がなければ子供のようにサタンはかかわれないからである

実際は統一教会の教祖の文鮮明でもまたオウムの麻原でも創価の池田大作でもサタンだったとなる、サタンを偶像を崇拝するのがこの世の人間である
本当の神は崇拝しない、だから神の一人子は十字架にかけられた、この世で崇拝されるのは善を装うサタンだとなる、そのサタンの権力が絶大なので多くの人達が従うのである
そして世を支配するのであ、その人たちは獣の印が押された人達のである
つまりサタンのものになった人達だとなる、何か無神論者の方が独立的であり優秀な人が多いこともいえる、カルト教団は大衆が相手でありただ数として数えられる人達であり
そこで一人一人など見ていないのである、数を集め権力として見ているだけである

そして人間は遂に権力と権力が対抗してハルマゲドンになり滅亡する
アメリカが中国がロシアが巨大な権力でありその権力同士が衝突して世界は核戦争とかで滅亡する、どうしても権力を求めるのだからそれをやめることができないのだから結果的にそうなる、もし人間が権力を求めなければそうはならないのである
でも権力と欲は一体なのだから権力なき世界など生れないのである
だからこの世は一時滅びなければならない、そして神の手により再び神の国が創造されるそれを望む他ないのである、いくら理想を求めても無駄だとなる



2022年07月20日

なぜ韓国でキリスト教徒が増えたのか (日本の支配の反発から民族キリスト教となっていた)


なぜ韓国でキリスト教徒が増えたのか

(日本の支配の反発から民族キリスト教となっていた)

●韓国の民族主義は日本支配の反発から起きた

こんな状況もあり、神社参拝を拒否したキリスト教徒、宣教師は弾圧され始めます。
これにより、朝鮮半島のキリスト教は「民族キリスト教」へと変化していきました。
つまり、この頃からキリスト教が民族主義と結びつくようになっていきます。
1919年3月1日に起こった独立運動(三・一運動)も宗教指導者による影響力によるものでした。

日韓併合下では外国との接触を持つキリスト教徒が抗日運動を担うようになった。特に、1919年に発生した三・一独立運動ではキリスト教徒が主要な役割を果たした。

朝鮮戦争により、国土が荒廃した韓国に進出して難民や被災者に積極的に食料援助を行いながら布教活動を行ったのが設立間もないペンテコステ系の教会でした。
そのため、教会に行けば、食べ物がもらえたため、ペンテコステ派が急速に勢力を伸ばします。


 「教会というのは本当に驚くべきところでした。小学校から受けてきた日本式教育によって死んだ民族意識が甦るところが教会でした。早天祈祷会の時には必ず独立のために祈祷し,聖書解釈をする時にも,祖国の独立を念願し,民族意識を目覚めさせる側からしていました。例えば使徒言行録に “主よ,イスラエルのために国を建て直してくださるのは,この時ですか”(使1:6)という題目がでると “主よ,朝鮮が建て直されるのは,この時ですか” というように解釈をするんです

 韓国における初期キリスト教受容の要因[上]
常石希望

 

 韓国にキリスト教が多いのはなぜか、それもプロテスタントである、カトリックが教会が勝手に作れないがプロテスタントは作れる、カトリックは世界的組織化してバチカンが総元締めになっている、つまり統制されているがプロテスタントはそれがない、誰か一人でも勝手に布教して教会でも作ることができる
 おそらく教会という一つの枠を作るものでもないとなる、だから無教会でもありうる
内村鑑三の無教会派として韓国人にも広がったのはそのためである

ではなぜ韓国にキリスト教徒が増えたのか、その理由の一つとして大きな理由として
日本に神社を神道を強制されたことの反発があり民族独立の願望が強かったことである
その民族独立復興とキリスト教がうまく一致したのである
何か宗教と民族意識(ナショナリズム)は合致しやすいのである
日本だと日蓮が民族主義と結びつく、だから太平洋戦争でも日蓮は持ち上げられたのである、逆に韓国は朝鮮半島は日本に侵略されたとしてその独立の強い意志で国民が一体となった、それがキリスト教と結びついたのである
愛国心と宗教が一体になりやすいのである、ただキリストはイスラエルの民族主義を否定したためユダヤ人の民族主義者の反発されて殺されたともしている
キリストはイスラエルという国に限定されるものではなく人類救済のために神が遣わしたものであり旧約の時代とは違ったものとして現れたのである
だからこそ一国家民族のものではない世界へ普及したのである

ただ宗教はナショナリズムと結びつきやすいのである、右翼的になりやすいのである
そういう心情は世界共通だから韓国でもキリスト教が民族主義的キリスト教になったのも理解できる、それで統一教会の理論も理解できる、韓国がアダムであり日本がエバだとういうのもキリスト教から生じた思想である
日本が戦争で朝鮮半島を侵略したということで贖罪として日本人は献金しなければならないという論理もそうである
つまり最初にキリスト教があるのではなくナショナリズムが民族主義がありそれにキリスト教が入り一体化したのである
ただナショナリズムと宗教は結びつきやすいのである、たいがい宗教だと共産主義を否定するのは右よりになるのはそのためである
内村鑑三でも日本を愛すこととキリストを愛すこと二つのJを主張したからである
宗教はやはりその国の歴史と伝統を重んじる、その上にキリスト教でもありえる
共産主義になるとマルキシズムはそうしたその国々の歴史と伝統を否定する、だから中国の文化革命のように歴史的なもの伝統的なものを破壊したのである
宗教とマルキシズムは対立するのである

●統一教会も韓国の民族主義として生まれた

なぜ韓国にキリスト教が普及したのか、その答えは一つではないにしろ韓国の置かれた立場が特殊であり韓国には中国人も多く住んでいて独立国ともなっていなかった
それで韓国人の独立を民族主義がキリスト教と結びついた、特に儒教で民族を国を治めていたがそれもなくなったとき余計にキリスト教に頼るようになった
それは戦後天皇を神として戦争した日本でもアメリカに負けると精神的支柱がなくなり
様々な新興宗教が勃興したのとにないる、その最たるものが創価だったのである
創価でも日蓮宗なのだから当然ナショナリズムと一体化するのである
ただなぜあれほど中国と一体化するのかその理由が良くわからない、中国で布教できるとは思えないからである、仏教系の・・団体が弾圧されているからだ

ともかく宗教が民族主義と結びつく、それがもともとの宗教ではない、宗教は国とかと関係なく個々人に神が現れ宿るものである、国に限定されないのである
ただその国の歴史と伝統を無視してはありえないのである、だからこそ内村鑑三が武士道キリスト教になり幕屋の手島郁郎が神道キリスト教にもなったし仏教とも一体化もするのであるそして日本は世界のあらゆる文化でも宗教でも入れる受け皿になったのである
だから神仏習合にもなった、でも仏教にしても日本に入ると先祖崇拝にもなった
ホトケとは先祖らしいからである、本来の仏教ではないのである

いづれにしろ統一教会の危険は韓国という国家がかかわり日本をキリスト教を使い支配しようとしたことである、その過程で日本人から金を巻き上げるものとしてカルト化したのである、こうして背後に国家がかかわると危険になる、そのために外国の宣教師でも内村鑑三は嫌い拒否したのである、つまり日本化した独自のキリスト教を主張したのである
信教の自由はそうした背後に国家がかかわり国家の意図がありかかわるとき危険になる
だからこういう点でも国家の独立を維持するには制限が必要になる
何らか日本の独立がいろいろ侵略されている、中国人が土地を買収しているのもそうであるそれはあからさまに目に見えるものとしてわかる、でも宗教とかなると目に見えてわからないことがありそこに宗教がかかわり庶民にも入ってくる

そうして精神的にも支配して国家自体がのっとられるともなる
また国家でも政治でも創価などによってのっとられる、現実に創価は統一教会のように
あらゆる権力のある場所に入り工作していたからである
それと同じことを統一教会がしていたのである、だからこれは警察でも公安でも政府でもとりしまべきだったとなる、でも議員でも票をとるために安易にかかわっていたのである参政党まで統一教会がかかわっていたことに驚くのである
統一教会のことなど忘れていたが実際は目に見えない形で日本の権力中枢に入りこんでいたのである

●普遍的思想、マルクス主義でも宗教でも民族主義は否定できなかった

民族主義はナショナリズムは否定できない、マルキシズムも普遍思想であり民族を越えたものとして世界を席巻した、でもその肝心のロシアがソビエト連邦が崩壊して結局ロシア民族主義になりウクライナと民族抗争していることでもわかる
またアメリカの民主主義も普遍思想であり民族を越えたものとして世界化した
でも民族そのものは否定できない、血は地でありその土地と結びついて民族がある
一方でイスラム圏となると砂漠であり遊牧民であり土地と結びつかなくても民族主義がある、従妹同士の結婚の風習があるというとき血の純潔を保つためだともなる

ともかくこの民族抗争は古代からあった、聖書で様々な民族がいて争っていた
そして最古の民族がユダヤ人なのである、でも今ではユダヤ人とはユダヤ教の集まりだとしている、なぜロシアにユダヤ人が多いのか、そしてウクライナでも多くゼレンスキー大統領がユダヤ人なのである、ユダヤ人でも別に一つではなく別れて分派しているのである宗教は普遍的なものであり民族を越えたものである、だからこそイスラム教がイスラム世界を作った、キリスト教がキリストがヨ−ロッパ中心にキリスト教圏を作った
でもロシアでも結局ソビエト連邦が崩壊して民族国家が残った、ロシア民族がロシアにもどったのである、そしてウクライナ人とロシア人が戦争している
それは民族抗争の継続なのである

ただアメリカとなると民族混交しているからそれを統一して融和するために民主主義が生まれた、この民主主義はやはり主義であり制度でもない、思想なのである、アメリカにはいろいろな人種の混交した多民族国家でありそれを一つにまとめるには民族主義ではできない、民主主義とはそれをまとめる普遍の思想でありマルキシズムとも同じである
民主主義はそういうものに思えない、でもやはり民主主義は多様な民族でも平等だという意識をもたせる主義だとういことである、法の下に平等だとかなる
人種で差別していたらまとまらないからである、そもそもアメリカは200年くらいで作られた国家でありそこに他の国のように長い歴史と伝統もない国である
そこでどうしてアイディンティティを作れるのかとなるとむずかしいのである
だから普遍的な思想が必要になる、でも宗教にしても多様だからそれでもまとまらない
一応キリスト教でまとまるとしてもイスラム教徒でもいるし多様になる
建国の精神としてはキリスト教である、清教徒でありピューリタンになる

そもそも民族主義という時何かとなるとそれは血縁だけではない、
血縁、精神、文化、伝統、言語、慣習、領土の一体化」としている
ここで大事なのは精神、文化である、民族が長い時間をかけて形成された歴史があり文化がある、文化というとき広範囲である、そこに身近なものとしてその風土から生まれた料理などある、これは意外と大事である、なぜなら料理はその国々の風土から生まれて体さえ作られてきたからである、それを無視することは体にも影響する
だから日本人が肉食になることは体にも影響する、あくまでも補足的なものとしてあればいいが主食になることは危険なのである、文化は普遍化できないからである
それでグロ−バル化とはハンバーグとかコカ・コーラとかで食の一様化にもなる
パン食でもそうである、バン食と肉食はあっている、ワインともあっているが日本食とは合わないとういことがある,イスラム圏で豚を食べないということは清潔さを維持するためだともなる、その国にとって禁止する食べ物がある、それも文化なのである
それは科学的に根拠がありそれを否定することは健康にも影響する

大量の穀物を育てる畑と大量の水を確保できる水路や川などが必要になります。イスラム教の発祥は中東(アラビア半島)です。乾燥した地域に適した家畜は牛、羊、ヤギなどの反芻動物の飼育が最適です。

豚は畑を耕す家畜にさえ利用できず、毛皮やミルクも取れませんから用途は食用のみです。家畜としての経済効果はとても悪いため、豚の食用文化が根付かなかったのかもしれません。

こういう理由がありその風土にマッチした食生活になる、また生で豚を食べていたことがあり食中毒になったので拒否したともある
こういうことが文化でありそれを否定することは体にも影響するから深刻なのである
だから文化は否定できないものであり普遍化できないししてはならないものである
普遍化というとき何でも普遍化できない、宗教でも普遍化であってもキリスト教でもその国々に伝わってその国の文化と合一して別なものとなる、ギリシャ正教からロシア正教でもその国と土地によって変化して土着するとなる
仏教でも中国の仏教と日本の仏教が違ったものとなって根付いたのと同じである
中国となると禅宗のように実用的なもの実践的なものとなたっ、韓国だと美的なものになった、日本でも仏教は違った日本的なものになったのである
インドだとそもそも仏教は空想的な面が多い、思念的になったのはやはり風土とか関係していた、インドは暑いから木陰で黙想したり座禅したりするのが合っているからである
つまり風土によって形成される文化があり普遍的宗教でも国々によって違ったものになるそれでグロ−バル化経済というのは経済中心主義であり国々の文化を破壊することがあり問題なのである、文化と精神は密接に関係しているからだ、経済中心主義のグロ−バル化は国々の文化精神を破壊するから危険だったのである
それで内村鑑三は武士道キリスト教になり手島郁郎の幕屋は神道宗教にもなったのである

●国家がカルト教団に乗っ取られる

戦後は民主主義で何でも自由だとなった、でも統一教会はカルト世界で認定されている
だから制限されている、でも日本では制限されていない、これも危険だった
あらゆることが自由ではありえない、そうしたら日本はいつの間に外国の支配下に入り
日本人としての自由もなくなる、外国に支配される国となる
アメリカに負けてからはアメリカの支配下になり日本の独立性は失われていた
その時日本人の心を失われたのである
信教の自由はある、でもそれが組織団体化して権力化して権力奪取とか目的にするとなるとそれが許されるのか、規制しなければならないことは確かである
でも統一教会に公安委員長とかがかかわっていたのである
まさにこれこそもう日本の国自体が韓国にでも売りわたしていたともなる
日本自体がこれほど統一教会に侵食されていたことの驚きである

それを明らかにしたのが山上だったということはこれは私怨だけでかたづけられないものになった、その闇が明るみに出されたからである、参政党もかかわっていたことはもうあらゆる政党にかかわっていたということである
日本の政治家そのものもが日本の守るともなっていなかった、それは公安とか国家権力の警察でもそうだったということは深刻である
日本はこれから国家存亡の危機になるのではないか、内外ともに大きな変化がきていて日本もまきこまれる、こういうとき国家自体がすでに外国勢力に侵略されていたとなる
中国の手先になっているのが創価であり自民党が統一教会でありまた創価と一体となり政権を維持している、そして阿部前首相を国葬とすることに公明党は賛成している
外国勢力と一体化したカルト教団が支えているのが自民党だとなる
ただ参政党もそうだとなるともはや日本独立の政党はないともなる
だから何かあれば世界争乱があれば日本は容易に外国に支配される
すでにアメリカの支配下にあるしまた今度は中国の支配下にもなる
こうなると明治維新を成した日本は独立していたしアジアで唯一の国だったからこの時代の方が国家は独立していてむしろアジアの先頭に立っていたのである
だから精神的には高揚したものがあったとふりかえる

日本がアメリカに負けて高度成長時代があったときアメリカに勝ったとか言われた
でもそれは一時の夢として失われた、失われた30年があり日本は経済でも低迷しているそして日本人は自信を失い、精神的にも独立はなくモラル的にも荒廃している
カルト宗教団体が内外から侵食されてそれらは日本国民を食い物にするものだった
創価は中国に国を売りわたす一部隊だし自民党は韓国に統一教会に侵食されて売りわたすともなる、つまた日本はアメリカの属国になりまた韓国であれ朝鮮半島にも侵食される
独立を失ってゆく、その時日本は物質的だけではない精神的属国になっていたしなってゆく、だから日本存亡の危機になっているのである
それは物質的だけではない精神的にもそうなっているのである

2022年07月18日

宗教が政治化、経済化、科学化、大衆化で本来の意義が失われた (グロ−バル化も制限が必要ータブーを破ることは危険)


宗教が政治化、経済化、科学化、大衆化で本来の意義が失われた

(グロ−バル化も制限が必要ータブーを破ることは危険)

●宗教もカルトは制限すべき

比叡山は多くの現代仏教の揺籃になっています。浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)、日蓮宗(日蓮)、時宗(一遍)の創始者は比叡山で修業をして、新しい仏教思想を発想しました。

統一教会でも創価でも幸福の科学でもこれらはやはり現代を象徴していたのである
それらは本来の宗教とはまるで違ったものとなった
シャカが岩窟で悟りを菩提樹の下で座禅を組んで悟りを開いたとかが起源としてある
でも現代の宗教はあまりにも政治化、経済化(御利益)、科学化、大衆化してしまった
オウムとかでも科学社会だから科学者が集まり異様なカルト集団になった
幸福の科学というのもそうである
つまり現代社会文明に適応するものとしてそうなったのである
大衆化というとき選挙の宗教となった創価がそうである、完全に政教一致となり選挙で
力を持ち権力を得る、利権を得る、御利益を得る経済第一の宗教である
それは団地から生まれた宗教だから互助会としてあれば問題なかったが日本の権力を得て御利益利権を得る危険な団体になった

そもそも都会から生まれる宗教は異常である、東京のような大都会に神は顕れようがないからだ、神は清浄な世界に住む、だからこそ砂漠に神がエホバが現れたのである
偶像に満ちている場所には現れなかったのである
また仏教でも本来は世俗から離れた場所で修行していたのである
天台宗がその起りであり山岳宗教であった、山を聖なるものとして修行していたのであるそこに政治とか経済とか衆人とかとは離脱した場所としてあった
モーゼがシナイ山で啓示を受けたのもそうである、山は神聖な場としてあったからだ

今の宗教はそういうものは全くない、完全に政治化して経済化して利権化して大衆化して世俗化した宗教とはまるで違ったものになっている
だからこそ統一教会は韓国によって日本を支配する機関として作られていたのである
政治化した一団体なのである、日本は戦後余りにも自由になりすぎたのである
戦前の天皇を神とすることでその反省からあらゆるものを自由にしたのである
民主主義といってもそれはただ自由に個々であれ団体組織であれ権利を要求する自由でありそこに責任とか義務などはない、自由とは無制限にありえないのである
もしそうなったらどうなるのか?あらゆるものが自由でありあらゆることが許されるともなる、信教の自由でもそうである、オウムも信教の自由を盾に抑えることもできなくなったのである、民主主義からナチスが生まれたように日本でもそうなる
本来の宗教とは何かということが問われることも何もない、宗教だといえば誰も何も言えなくなり宗教を逸脱したことでも容認される、それが社会を歪めて恐ろしいことになる
ナチスとなってゆくのである
宗教を逸脱していても創価のように数を集めると通るのが民主主義だからである
そうしてナチスのようになり膨大な人間が死んでゆくともなる

●無制限の自由は危険

人間には制限が必要だ!

人間は個々人でも自らでも制限する、節制するとか必ず必要なのである、そうなれば欲が無制限に追求されて歯止がかからなくなる、だから宗教とはそうした人間の限りない欲に制限する節制することで修行したりしていたのである
現代の宗教は大衆宗教はあらゆる欲が是認されむしろ欲望を強くもつことがエネルギーがあることとして祈っているのである
それはまさに資本主義社会に適合したものとなっている
ただウェバーが修道院から資本主義が生まれたというとき資本蓄積してそれを他者への慈善として行うとなり宗教的行為として生まれた
その見方もある、そもそもキリスト教はローマ帝国が容認したとき変貌したのである
カトリックが政治化したのである、組織集団化して教会が地域でも国でも支配する体制ができたのである、つまり宗教でも常に政治化することがありそれがローマ帝国が容認したことでそうなった、だからこそその権力があらゆるところに根を張り支配した
それに反発してルターの宗教改革があった、プロテスタントが生まれたのである
そのカトリックの圧力が余りにも大きいからこそプロテスタントに抗議するということになった

宗教でもどうしても世俗から離れてありえない、そこで政治化して経済化する、日々の活動は経済の活動とするとそれから逃れられないのである
でもそうなるとその巨大な経済活動に宗教はのみこまれる、もう世俗と何ら変わりない物となる、むしろ世俗よりも世俗的な場所が今の宗教団体とかなのである
そうでなければあんなに人が集まらない、山の中で修行しろなどと言ったら集まらないからた、そこであらゆる欲は是認されるしそれより奨励される、目的は誰でもいいから人を集めて権力化することである、会員一人集まれば貧乏人でも実際は力となる
買物するにしても一人だけより十人買うとなると店でもその十人を相手にして考慮するからである、一人は経済的には相手にされないのである

だからこの世ではそうしてもう数で決まる時、それが権力となるから権力から離脱することは不可能だとなる、10人集まれば権力になる、それでそれが正義でなくても通るのである、赤信号みんなで渡ればこわくないとなる、それが民主主義であり多数決なのであるそこからナチスが生まれたのである、こうして現代は大衆に席巻される時代である
大衆によってあらゆるものか消耗されるのである
カルト宗教などでもそうである、大衆化して本来の宗教は何もない、日々の経済活動であり御利益もうけ活動である、選挙となるとそれが最大の目的となるのは権力と直結しているからにすぎない、その権力を得ることで得するからしているだけである

だから現代社会では文明では宗教はもうない、ただ社会から組織集団から離れた場にあるそれは誰も注意もしない、認めない、アウトサイダーになるのである
人間が認めるのはすべて世俗的なことであり世俗から離れた価値は無なのである
それで天台宗というときそれが山岳宗教というとき世俗から離れて修行する場としてあったからそれが本来の宗教の場としてあったとなる
砂漠にエホバが唯一の神が現れたように山は聖なる場でありそこに神が宿るともなるからである、そこで六根清浄とか修行する山伏でもその方が本来の宗教だった
今の宗教団体などではそういう心を浄めるなど関係ないからである
ただ御利益利権を求めるだけだからである
ただ世俗の欲望の力は強力だからそれにとりこまれて本来の宗教は何もなくなったのである

●グロ−バル化も制限するようになる

また制限されるというときグローバル化も無制限思想なのである
ヒト、モノでも自由に往き来し国境をなくすことであり国というものも無くす、そこで世界で力をもつものは支配する者は多国籍企業であり国ではないとなる
現実今世界の経済を支配しているのは極一部のアメリカの特権階級だとされる
それは陰謀論になるにしろグロ−バル化とは世界から富を収奪することであり極一部のものが莫大な利益を得るシステムなのである
それは統計的にも立証されている、何パーセントの人たちが世界の富を収奪しているのである、グロ−バル化とはまた生態系とか風土を無視したものであり文化を破壊する
食文化でも破壊する、今大陸の平原とかで大量の麦が作られている
でもそこでは鉄分が不足するとして国で鉄分の供給をしているという
これは何を意味しているのか?大地で大量生産することで何から鉄分でも養分がとれないだから大量一律生産が必ずしもいいものとならない、それはやはり自然に反するものだからそうなる

コロナ禍やウクライナ危機だと思います。消費者としてできることは、国産を選ぶことです。自宅で調理したり、お米や米粉パンなどを食べたり。コロナ危機で、米国の政府は農家から農産物を買い上げて所得の低い人たちに配給し、農産物価格を下落させませんでした。日本も生産者と消費者を支えるために、何をしたらいいか考える必要があります。農業や畜産は大規模化で、多額の投資をしないとできない、リスクが高いビジネスになりました。小規模な家族経営が結局、環境問題や地域の活性化にとっても最適だということで、国連は持続可能な社会のカギになるとしています。国も方向転換を始めています。

小規模な家族経営が結局、環境問題や地域の活性化にとっても最適だということで、国連は持続可能な社会のカギになるとしています

これも自国内で食料をまかなうという方向転換である、つまり食糧の大量生産や外国に頼ることは危険にもなる、外国からコロナウィルスとかで入ってこなくなったからである
そもそもコロナウィルスでもなぜ世界にたちまち拡散したのか?
それはタブーとなるものが制限されず入ってはならいな領域に人間がずかずか入りこんだからである
人間に犯ししてはならないものがある、自然の聖域がある、それを無視して入り込んだ結果未知のウィルスが一挙に交通の発達したグロ−バル化で拡散したのである
生態系を破壊したのである、この辺の原発事故でもそうである
やはり核を破壊するということは自然界の神の領域に入り人間の手で操作することに危険があった、もし人間は万能ならしてもいいがそこまで知り得ないものがまだまだある
だから科学者でもそんな危険なことをするべきではなかったと反省しているのである
つまり科学が今度は宗教のようになったとき科学が万能となり科学者が神官になったのである、でももろくも津波によって崩壊したともなる

ともかく人間は常にタブーを破ってきた存在である、動植物は人間のようにタブーを破れない、神の作った世界で制限されて生きている、だから自然を破壊しないのである
人間はそのタブーを破る力がありでもそこから災いが生まれて来たのである
技(わざ)はわざわいだからである
いづれにしろ原発事故であれコロナウィルスとか一連のものは関連している
それは人間が何かしら神がタブーとしたものを破ったことから起きているのだ
だから人間社会には制限が必要でありタブーが必要であり越えてはならないものがある
国境も必要でありその中でアイディンティティを作ってゆく、無制限ではないのである
グロ−バル化とかなんでも無制限になったがそれは自然の生態系でも破壊するし国々の文化も破壊する、そこに制限が必要なのである

そもそも人間はアダムが食べるなと禁止された知恵の実のリンゴを食べてすべての災いがもたらされた,原罪をもつようになった
それだけではない神話でも常に人間が何々するなということを犯して災いがもたらされたのである、タブーを破った結果として災いがもたらされたのである
それが人間の宿命となり今日までつづいている、科学でもやはり行き過ぎたものとなりタブーを破るからそこに思わぬ落とし穴があり危険が生まれ災いが生まれる
それが人間の宿命だともなる、アダムが知恵の実を食べた結果として禁制を破った結果として人間の災いが起きて消えることがないとなっているからだ



山上の湖

厳しく山はそそり立ち
不浄をよせつけぬ
山上の湖は透明度を増す
その湖に映すものは何か
星々がダイヤモンドのようにきらめく
堅く結ばれて輝きぬ
山々はさらに厳しくそそり立ち
神は天より見下ろしぬ
神は不浄を拒絶する
人は安易にけがれ汚れてゆく
汝は不浄の下界に降りるなかれ
衆人と語るもの無益なり
衆より離れて清浄圏に住め
そこで巌のように堅くあれ
醜き人の入るべからじ
巌と氷雪の屹立した孤立圏
そこに神の厳格なる座のあり
そこで塵も雪となり凍てりつく
一切の不浄は拒絶されて
そこに至高のものを仰ぎ見る