2022年10月04日

宗教二世問題の深刻 (子供の時から洗脳されてぬけられない)


宗教二世問題の深刻

(子供の時から洗脳されてぬけられない)

●学会っ子という洗脳された人や紅衛兵とかも同じ

なぜ宗教二世問題が深刻なのか?それは純粋な子供の時から家族が洗脳されているのだから子供もそれに従うからかえって純粋な子供は染まり安い
透明な水だったらそこに赤をまぜると赤一色にすぐになってしまう
それは透明だからそうなる、もしその色が青だったら赤をまぜたら別な色になる
そういうことがなく透明でありそこで一つの色に染まり安いのである

創価だと学会っ子とかいる、完全に学会で家族一体となり育った人である
そういう人を知っている、その人は創価しか見えないのである
だから疑うこともなく創価の色に子供の時から染まっている
そして大人になって一生創価しかない人間になる
その人が悪い人間ではない、かえって純粋で素直だとカルト宗教に染まり安いのである
それはヒットラーユーゲントと同じだったのである

それは宗教だけではない、共産主義でもそうだった、共産主義でも一種の宗教だからである、それで毛沢東の文化革命があり紅衛兵がそうだった
それも中国全土を席巻したのである、その主役が紅衛兵だったのである
そういう少年は洗脳しやすいのである、そのためにどれだけの被害があったのか?
これはヒットラーユーゲントとも同じだった、ハイルヒットラーでありナチスの被害も何百万人が死んだとかカンボジアでも二百万人が死んだとか空恐ろしいものだったのである

●地獄に落ちるとか罰あたるとか脅えさせ呪縛するカルト

統一教会でも魂を支配して奴隷にするのである、その教祖は実はサタンなのである
カルト教団とは何かというと人間を奴隷にするためにある
奴隷の霊を与えて支配するのである、地獄に落ちるとか罰当たるとか脅して支配する
それがサタンなのである、でも人間はそういうものに弱いのはいろいろな問題をかかえて何とか解決しようとするからである、それでサタンにも頼るのである
そもそもサタンが地獄人間が地獄に落ちるとか脅しているのだからそんなこと信じるのは馬鹿だとなる、かえって地獄に落ちるとか悩む人だと救われるとまともな宗教家が言っている

俺は地獄に落ちるんじゃないかとか罰当たるのかと悩む人はかえって救われるとしている親鸞だったら私は大悪人だといい、悪人正機説を唱え地獄は一定の住処なりと言っていたそういう人が真実の宗教家だとなる
つまり自分自身が地獄に落ちる人間だという人が真の宗教家でありお前は地獄に落ちるというのはその人がサタンなのである
なぜ地獄人間のような人が地獄に落ちるなどと言えるのかとなる
そんなことちょっと考えればわかる、地獄に落ちるとか一体誰が言っているのかとなる
それが大集団で言うと恐怖になる、つまり誰かではなく人間は大集団が怖いからそうなったのである、集団化すれば何でも正当化してナチスになったのである
赤信号みんなでわたれば怖くないになった、それが現代社会なのである
民主主義でもすべて数で決まるから同じなのである

でも人間はそういうことに意外と呪縛されやすい、とういうのは何か不幸があったり不可解なことがありどうしてもそれを解決したいとなり頼ることになる
でも人間はそうして頼る者が危険になる
この世では何でも仲介するものが危険である、宗教でも仲介するものは危険である
教会があり牧師がいたとしてその牧師は信仰を仲介する者である
するとその仲介する者が力を持つようになる、神に取り継ぐものとして力をもちカトリックが社会を支配するようになったのである
それで直接神と向かい信仰するべきだとしたのがプロテスタントだったのである

●メデア(仲介する者)になるものの危険ー牧師とか投資でも仲介するものは危険

ともかく何でも仲介するものは危険である、メデアとは仲介するものでありそれでマスコミがあり報道も歪められた、マスコミがどれだけ力をもったか、第三の権力となったのもメデアとして仲介するものとして力を持ったからである
マスコミに出れば名前が知られる、何百万人が見るとしたならそうである
その宣伝力があり力をもったのである、でもインタ−ネットが生れyoutubeなどが生まれてその力は弱まったのである、何かテレビで主役なのは司会者であり報道局を報道する設備を持っているテレビ局なのである、だから何かyoutubeで発言している人がテレビに出ると脇役になる、主役にはなれない、主役になるのは司会者でありテレビ局なのである
youtubeだと主役になっているのは一人の個人なのである

なぜ仲介する者が力を持つかというと例えば投資などわかりにくい、だから銀行で投資信託を頼む、でもその銀行はもともと投資のプロでもない、ただ仲介するものでありそこで手数料をとる、投資自体は悪いものではないにしろ素人だとわかりにくい、すると専門家に頼らざるを得ないでも銀行はもともと投資のプロではない、だから適当であり手数料をかせげばいいしかない、銀行は投資信託でも絶対に損することがないからいい商売なのである
ただそういうことは複雑な現代社会ではいくらでもある
例えば弁護士が必要だというとき自分で訴訟ができないから弁護士に頼る他ない
法律はむずかしすぎるからである、そして現代はいろいろなことで仲介者を必要となる社会である、そうなると人間は仲介者がいなければ何もできないとなっている無力化されているのである

●偽りの宗教に呪縛される人間(サタンに操作される人間)

宗教というとき実際は神仏に頼るわけでもない、そこに巨大な集団があり組織化して力を持つことになる、そういう巨大な団体に頼っているのである
その巨大な団体は権力化して社会を支配することになる、神仏を表に出していても実際は数を集めて権力を求めているのである
現代の権力は金と数だからである、神仏といってもそれはあくまでも権力を得る手段にすぎないのである、つまり実質この世を支配しているのはサタンだとなる
それは神仏に頼るのではなく権力に頼るからそうなる

とにかく宗教二世問題が深刻なのは子供の時から染まってしまうからである
それが悪いということはならないし素直なら従うからである
でもなぜ反抗期があるのか、また子供は成長すると親から脱出したくなるのか?
そうなっているはどうしても人間は独立するには必要だからとなる
また時代の差があり古いものを否定して新しい時代を作るために必要だからだともなる
世代間の対立があるのが正常である、だから幸福の科学の二世の人が親に反抗しているのは驚きである、でもそれがまともなのである
ただ親に従う者は新しい時代に生きられないのである
結局紅衛兵騒動でもまるで麻疹のように一過性で終わった、現代は一過性で終わるのが多いのである、継続しないのである、その時その時で熱狂して終わる
終わってみてそれは何なのだとなっている
一種の熱病でありそれが覚めた時、何なのだとなるのである

いづれにしろ宗教二世の問題が深刻なのは宗教の呪縛から解放されないのである
サタンに奴隷の霊が与えられて呪縛される、それが深刻なのである
簡単にやめられないのである、だから親でもそういうものを残す与えるということは罪作りなのである、簡単に捨てられないからである
そこで子供は親を恨むともなる、ただ親だからしにくい、それで山上は統一教会を恨んだのである、それだけではないそれとかかわった支持した阿部前首相を狙い殺したとなる
積年の恨みがありそうなった、だから自民党にしてもそういうカルト宗教団体と安易に票になるからといってかかわるべきではなかった
それは創価公明党も同じなのである、票になるからとカルト教団と一体化することは危険なのである、政教分離が生まれた経緯もカトリックで庶民が苦しんだ結果生れたからである、免罪符とかを売ったからである、ということは地獄に落ちるとか罰当たるとかを逃れるためにそんなものを金で買った、それが悪質なものであり信仰を仲介する者達がいかに危険なものか証明していたのである
地獄に落ちたのは実はそうして免罪符などを売った教会側の牧師とかであったからだ
地獄に落ちるなどと言っているその当人が地獄に落ちていたのである

●カルト教団を簡単にやめられないのはなぜか

でもなぜカルト教団がこの世から消えないのか?
それは人間がいろいろな問題をかかえる、それが解決できないからである
先祖が悪くて苦しんでいるとかでもそうである、そういうカルマは各自に必ずありカルマとして苦しむことになり解決したいとなる、それで仲介者に頼るのである
それが危険なのである、仲介者というとき師となるも人もそうである、習っていいとしても盲従することは危険であり偶像崇拝になるのである
現代文明社会はともかく複雑であり必ず大迷宮に迷い込む、そしてそこで怪獣に食われるのである、オウムなどがその典型だった、理系の優秀な人達がそうして麻原という怪物に食われて死刑になったのである
それは統一教会でも創価でも幸福の科学でも日蓮宗系統の顕正会なのか日本会議なのかそれらも同等なのである

顕正会が恐ろしいのは、「必ず病気が治る」「必ず幸せになる」などの甘言で誘うわりに、信仰の「功徳」は得られず、確実に「会合への参加」「新聞の購読」「年末の寄付」といった費用と時間と労力の浪費を強要されていくという点です。

「国立戒壇を放棄した創価学会に抗議する」として、約70人の男子部員が街宣車を先頭に東京・信濃町の創価学会本部に押しかけ、「責任者に会わせろ」と敷地内に乱入、乱闘騒ぎの果てに青年部長Mをはじめ12人が逮捕された。

顕正会の手法も創価と同じだった、でも日蓮宗同士でも争っていることに驚く
宗派争いが過激になる、イスラム教でも宗派争いが現実に戦争にもなっている
創価も前は顕正会と似ていたのである、でも数が多くなり反発があると会員を増やせないとして強行な折伏などはやめたのである
ただ基本的にはその実体は変わっていないのである
国立戒壇を目指すということはやめたとしても本質的には権力を得て日本を支配する
権力を握りそして御利益を分配するのである、だから野心家が入る、政治家になりたい人も入る、欲望を実現するために入る、なぜなら権力を得ることを団体自体目的化しているからである、心のことなど関係ないからである

その極端化したものが顕正会であり初期の創価と似ているのである
日蓮宗はどうしても過激にならざるを得ないのである、それで太平洋戦争でも日蓮宗を信じて戦った人もいることでもわかる
日蓮宗は武力まで肯定するほど過激なのである、それでその団体は僧兵ともなる
なぜなら組織自体軍隊組織だからである、権力を奪取するための軍隊組織になっている
隊長とか参謀とかなっているのもそのためである
だからこんなファシズム団体と政権を運営する自民党は危険なのである
統一教会問題と同じなのだが自民党の政権の一翼を担っているので責めないのである
でもいづれは会員が減って票を得られないとなると自民党は捨てる
そういう兆候がすでに現れているいるからである

●カルト教団はサタンに操作されている

要するにカルト宗教団体はただこの世の力を得る為にこの世の手法をとっているだけである、金が力となれば統一教会のように金を信者むしりとる、数が力となれば数を集める
本来の宗教とはまるで違ったものである
つまりこの世の力を得るためにサタン化したのである、堕落した天使なのである
この世に魅せられてこの世の王となろうとしている、それで宗教を利用しているのであるだから相当に悪質でありこの人達は来世では苛烈な罰を受ける
聖なるものを汚したとして罰を受ける、その罰は苛烈なものとなる
まさにそのことにこそ恐怖なければならないのだがしない、あなた達がどんな罰を受けるのか?来世で裁かれるのか、それを知ったらショックになる
でもそう思わないのはなぜなのか?そこに巧妙な仕掛けがありそれにはまっている
サタンといってもその人達がサタンではない、サタンに操られている
そうなるのは結局この世のものに魅せられてこの世で栄誉栄華を得たいためだとなる
だからはキリストが試されたのである

悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、
こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」

カルト教団とは逆である、この世の栄誉栄華を求めて得られるとしてサタンを礼拝しているのである、結局この世に生きているのだからその誘惑から逃れられないのである
宗教さえ実はこの世の王となるための手段としてサタンに魂を売ったとまでなる
カルト教団の求めているのはこの世の王になることであり栄誉栄華を得るためである
そのためにこの世の権力を得ることが目的化しているのである
それが世俗世界ならそうなっていても理解できるが偽りとなり宗教がかかわり訳わからなくなっている、王仏冥合だとか煩悩即菩提だとかその解釈もただ都合がいいようになされる、その目的はこの世の力を得てこの世の王となるのがその教祖の野望なのである
それで奴隷の霊が与えられるのである、それは金銭的なものだけではない魂が奴隷下されるから怖いのである





2022年09月24日

木の成長と人間の成長 (長い目で見れない人間の弱点ー時間の貴重さがわからない)


木の成長と人間の成長

(長い目で見れない人間の弱点ー時間の貴重さがわからない)

●成功をあせるな

成長の早い杉やヒノキは木材としての質が悪く、商品価値が劣ります。
成長が早いと年輪が粗くなり、強度が弱く、折れやすく、乾燥によって曲がりやすくなるためです。
成長が遅いと年輪が密になり強度が増します。年輪の色の濃い部分は1年のうちの気温の低い秋冬の時期にゆっくり肥大した所です。
ですから、山に生えている木も南側斜面より北側斜面の樹の方が成長が遅く、価値が高いようです。
幹の太さが同じなら樹齢が古いほど良いようですよ。
まあ、苗木を植えたときくらいには肥料をやるのかも知れませんがね。
木材として伐採するのは早くても50、60年はかかります。


人間も同じである、とても人間のような複雑なものは即製できない、動物だったらもう教えられることもなく生まれてすぐに環境に適応するようにできている
でも人間は環境に適応するのにも時間がかかる、だから人間を作り育てることは最高にむずかしい、いくら素質があり才能があってもそれを育み伸ばすのには時間がかかる
確かに肥料をやることも大事である、でも基本的に木を育てるのは時間である
もう育つのには成熟するには50年とかかかるからだ
それはかえってやせ地の方が時間をかけて育つからいいというのは余りに肥料がやりすぎて早め育つといい木にはならない、つまり年輪が詰まっているのは一年一年じっくり育ったからだとなる年輪の幅があるのはいい木にはならない、しっかりとした丈夫な木にならない、年輪の間隔が狭いのがいいのである

人生も終わりになるとこのことを痛切に感じる、何かも身につかずただ時間が過ぎてしまったとなるからだ、一年一年充実して生きていなかった
もしその人なりに充実した時間を生きていればやがて立派な木として育つ
でもそこに必ず時間の無駄があり何かあてもなくぶらぶらしているとかいろいろなことに気をとられているうちに時間がなくなっているのだ
先が長いと思っているけど実際は時間はあっという間にすぎる
時間はなくなってみないと自覚できない、金は小金でもいつも意識して使っている
百円でも損した得したとかなっている、でも不思議なのは百万とかもうけた損したとか
かえって意識できないことがある、人間は大きなものを意識できないのである
なぜなら日ごろの生活が基本にしているからである
日頃の生活は100円得したと損したとかなる、毎日の食費とかが金を使う感覚になっているからだ
私は遺産が入ったとしても大金を使ったことがないから使えないのである
日常感覚からはみだした金は感覚的に理解できないのである
でも庭作りとかで大きな金を使った、それでも百万単位とかである

若い時の問題はとにかく一挙に脚光をあびたい、有名になりたいとかあせることである
実際は何にも認められるものがなくてもそうなる
成功をあせることである、それが失敗の元なのである
それはやはり木のように育つ感覚をとても持てないからである
何かすぐに成功して脚光を浴びたいとなる
それは事業を起こした人にも共通している、何かもう始めたりたちまち成功して大富豪にでもなる感覚になっている、まず地道に仕事をするよりギャンブルの感覚になる
私の祖父にあたる人は警察署長だった、でも機織り工場の事業を起こして倒産した
それもおそらく警察署長だから成功すると事業を起こす前に思っていた
でもその事業についてはずぶの素人にすぎなかったのである
だから一家離散にもなりその子の私の母親は苦しんだのである
事業でも簡単に成功はしない、ギャンブルのように一挙に大金が入ることなどないのである、何かそこには地道にやることが必要になる、でも人間は一挙に脚光をあびて成功者になりたいのである、それが20代とか若くてもそうなのである
ただ天才とかいるからそれは別である、どうしても啄木のような人間を普通の人は理解できないからである

●すぐに見返りを求めるな

人間の問題で何かすぐに何をしてもすぐに見返りを求める、私はあなたにこれだけ尽くしたのだから今その尽くした分をすぐくれとかなる、返してくれるとなる
ここに苦しんでいる人がいる困った人がいる、その時人間は無償ではしない、後で返してもらえばいいですよとかならない、今返してくれとなる
それより困って苦しんでいる人を見てこれはチャンスだと借金した人が今金をくれるなら助けてやるとか脅迫することにもなる、助ける方も今困っているのだから金をくれとなるだから借金している人は人を助けることはできないと思った
推理ドラマでは必ず借金して犯罪になっているからだ
借金はそれだけすでに自分自身に負担がかかっているのだから他人の負担をもう負えないのである

つまり今苦しんで困っている人がいたらとにかく助ける、今は見返りを求めない、そうしなければ助けることはできない、だから救急車はそうしている、金がなくても何がなくてもともかく来てくれる、そうしなければ人は死ぬこともあるからだ
でも普通はそうはならない、今借金して苦しんでいるから今助けるから金をくれ、そうしたら助けてやるとかなる、そういう人はそもそも人を助けることなどできなかったのである、それで自分は苦しめられたのである
助ける時あとでそれもかなりの年数がたってからその見返りがあるともなる
私は介護で自分の病気でも何か余裕がないから他人のことなど考慮することもできなかったからだ、でも余裕ができればあの時は助けられたなと援助することにもなる
それなりに金銭の余裕ができて助けることもできる
でも結局人間はみんな性急なのである

そしてせいては事を仕損じる

人間の弱点は長い時間でみれないことである、ただ毎日今に追われているだけなのであるだから国家百年の計とかなるとできない、中国だとやはりあれだけの歴史があるから長い目で見て国家造りをしている、日本人がそもそも性急な民族になっている
それで一年で首相も次々に交代するとかなる、これもやはり問題である、そうなると長い目で見て国家を運営できないからである

行き当たりばったり」の意味は「成り行きに任せること」
「行き当たりばったり」の意味とは「その場の成り行きに任せることや、その様子」です基本的には深く考えなかったり準備を怠ったりする悪いニュアンスを持ちます

人間は例えば長く下積みとかすることも耐えられない、すぐにでも上に立ちたい、偉くなりたいとかなる、下積みで苦労することに耐えられないのである
でも確かなことは人間はすぐに成功することはない、また長い目で見れば今の世だけで成功することではない、その人の評価は死んでからこそある
また長い歴史の中で評価に耐えればその人は歴史に生きつづける
でも一時代だけで脚光をあびてもはかなく消える、どれだけの人が脚光を一時あびても消えたのかその数も多すぎる、浮き名をたてて消えてゆく
芸術にしてもそうである、後世まで残り鑑賞されつづけるものは少ない、いくらその時代で脚光をあびても忘れ去れるのが普通である
そして後世に残る物はわずかである、後はみな消えてゆく

●若きときに神を知れーさすれば余裕が生まれる

ともかく人間が成長するには時間がかかる、ただ人間は成長しつづける、70越えても肉体は衰えても精神的には成長しつづける、人間は木と同じなのである
時間をかさねて大木となる、大木は一日して成っていない、ローマも一日にしては成らずである、普通の人でも積み重ねで何ものかになる
何か自分の場合、何でも理解することが遅かった、それは学ぶことで失敗したからだろう効率的に学べなかった、学校で暗記することと試験勉強しかなかったからだ
でもかえって学校を出てから自分の興味あることを発見して伸ばしてきた
これも家族に恵まれた結果であり家族には死んでも感謝している
もし家族に恵まれなかったら自分は浮浪者とかなり野垂れ死にだったかもしれない
だから家族の影響は人間にとって余りにも大きいとなる
いくら才能があっても家族に恵まれないでつぶれてゆく人などいくらでもいるからだ
また時代運が悪くてもそうなる、有為な有能な青年が戦争でどれだけ死んだかとなるからだ、戦争は人材を消耗させるのである

ただ人間にとって大事なことは若い時に神を知れということである
神を若い時に知ればその後はあせることもなくなる、もう神との約束があり来世は神の国に行くことがすでに決められるからである、すると何もあせることもない、例え失敗してもこの世での失敗であり栄枯盛衰は世の習いである、でも確実に来世で活躍できるとなればこの世で認められなくてもいいとまでなる
実際はこの世とは来世の準備のためにありこの世で何かを完成することなどできないからである、いくら才能があってもそうである
この世では様々な障害あり認められないからである、でも神に認められているからこの世で認められなくてもいいともなるからである
つまり神に認められることは余裕ができるのである、不遇でも耐えられるともなる
それがなければ不満は尽きないとなる、それはいくらこの世で成功してもそうなのであるこの世とは一時のことであり一時の夢であり永続しないからである
永続は神の国しかないからである、実際あの人と十年前逢ったな・・・でも永遠に逢わないとなる、あの人50年前に一緒にいたけどあの人は本当に存在したのかとまでなる
それで人の出合いは何なのたろうとなる、それは瞬間的なものでもあった
あとは人間は永遠に逢わないのである、これもふりかえると不思議になる

確かなことは人間で貴重なのは時間でありその時間がたちまち消失してゆく
そして時間は二度と戻ってこない、例えあっても永遠に逢わない、そもそも人間が逢うとは何なのかこれもわからない、ただすれ違った人が逢ったとはいえないだろう
でも結局人間の出合いもただすれ違っただけなのかともふりかえるとなる
人の出合いもそれだけはかないのである、大衆化した現代なら大勢の人が一体になったようでなっていない、あとはばらばらになり一体感もない虚しいものとなっているだけである、それはあらゆる団体組織に言える、宗教団体でも同じである
烏合離散するだけなのである、そこに真の出合いなど全くないのである

ただ権力が欲しい、金が欲しいとか欲を充たしたいだけに集まる、そしてたちまち離散して後には誰もいないとなる、特に現代ではそうである、大衆化群衆化しているからだ
何か後々まで残るものがないのである、みんな一時的なもので騒いでは烏合離散するだけなのである、人間はやはり死んでもその関係がつづくものが本当のものである
私の場合は家族がそうである、死んでも語りかけ供養して関係がつづいているからだ
そういう深い長い関係は現代社会ではもう消失したのである
ただ無数の人間が烏合離散しているだけである、そして後には何も残らない虚しいものとなっているのである
別れても死んでも心が通い合えば互いに別れたことにもならない、心は通じあっているとなるからだ
人間の信頼関係も長い時間でしか築けない、それで10年間ある家で手伝いさんでも勤めた人は信用できるとなる、信頼するにも人間は時間がかかるのである

木の成長と人間

木は一年一年年輪を刻む
じんくりじっくり雨風に耐えて
その幅は狭いといい木になる
一挙に木は育たない
一年一年じっくりと育つ
大地に山に根付いて育つ
養分を一気にとって成長しない
やせた土地でも徐々に養分をとり育つ
その歳月は長い
でもやがて大木に育つ
そして大木は森に大地に倒れる
重々しく倒れ森に大地に還る
木は十分生きた、そして命を全うした
次の代の木もそうして育つ
自然の命は即製できない
そのリズムは悠長であり気長である
人間は騒がしく烏合離散して
後に何も残さない
かく長くも生きた木を後に人は思うべきかな
長き平和の日を生きよ
山のようにゆったりと木のように長く
神より与えられし命を育め


2022年08月26日

なぜカルト宗教団体にだまされるのか? (思考脳が働かない、カルトは金をとることが目的-日本人はカルトにはまりやすい)


なぜカルト宗教団体にだまされるのか?

(思考脳が働かない、カルトは金をとることが目的-日本人はカルトにはまりやすい)

●金を信者からとること自体宗教ではない

なぜカルト宗教団体に入るのか?まただまされるのか?
思考脳が働かない、何でも苦しいからと頼ることの危険
カルトは金をとることを目的にしている

先祖の祟りだとかして統一教会が信者から金をとっていた、確かに親の因果が子に報いとかは現実にあるしほとんどの家に何か悪い因果が働くことは確かなのである
それは事実だし自分もそのことを延々とカルマとして書いてきた
でもそれが現実にあるとして統一教会のようにそのカルマから祟りから逃れるためには
教会に金を寄付せよということが最大の問題なのである

つまりカルト教団の目的は信者から脅して金をまきあげること

これなのである、そもそも宗教に金がからむと宗教本来持っている効用はなくなる
金だけが目的と化してそのためだけのものになる
むしろ統一教会だと先祖のカルマを梳いてるから金を出せということ自体悪質な詐欺なのである
単純に考えると人間は簡単に金だけは出したくない、何で金を出すのだと常になるからだでもなぜカルト教団に金を出すのか不思議だとなる
それは戒名とかでもそうである、いい戒名をつけるには高額な金を払うとかも騙されることである、死んでからいい戒名をつけてもらったからとして何かいいことがあるのか?
もう死んだら金は必要ないのである
というのは死者に供え物をする、それが果物とかではない、金を供え物とすることはできない、死者にとって金はもういらないからである、むしろ一杯の水でもお湯でもあげればいいとなる、死者には金は紙幣はもういらないのである
死者が望むのは物ではなくその人の心だともなる、死者を供養する心があれば水でも供えればいいし野の花でも供えてもいいのである
問題は供養する心が大事になるからだ、現実に死者を愛さないものは墓参りでも供養もしないからである

ともかく宗教に金がからむと不純なものが生まれる、だから宗教で成功することは危険である、巨額の寄付金が集まる、それ自体がすでに何かいかかわしいことをしているから金が集まったのである、でもその金が集まることでカルト教団は力をもつ、この世で力を持つのである、そもそもカルト教団はそうしてこの俗世で力をもって支配したいためにあるこの世で人を支配するには金だとなるから金を集めるのである
先祖が悪いことしたからとか先祖を救うためだとかが現実にあるとしても実際はそれで金を得るためにする、では金を払ったからといってカルマが解消するかとなるとしないのである
そこで得するのはカルト教団でありその幹部達なのである
つまりカルト教団とは悪質な宗教によに詐欺集団なのである
地獄に落ちないようにするには免罪符を売ったカトリックと同じなのである

ただ人間は金を払うことには100円でも敏感なのによく金を払うとなる
まあ、賽銭箱に十円であれ百円くらいならいいが憶の金を払うということはどういうことなのだろうとなる、貧乏に暮らしていたらそんな金を払うことはない、金で苦労していたらそんな金を払うだろうか?みんな金にはシビアなのである
そもそもカルト教団にだまされるのは思考脳が全くない人達である
なぜならちょっと考えればわかるからである、そういう自分もカルトに若い時はまったから他者に厳しくは言えないことはある
でも創価に入っても金はほとんど払っていない、新聞をとったとしてもわずかの金である大きな金を払ったことはないのである

●宗教は人間と人間の問題ではなく神と人間の問題である

宗教が何かというと人間と人間の問題ではない、神と人間の問題なのである
そこが根本的に間違っているのである、たいがい宗教は人と人との関係にあると見ているからである
そもそも神が人を万物を作ったのだから神と人との関係が最優先なのである
でもどうしても社会だと人と人の関係であり人を離れてありえないとなる
でも聖書を見れば神が存在して人がいる、その関係性を記したのが聖書だとなる
だから神が人間に望む者は何なのか、神に供えるものが問題になる
カインは野菜を供えてアベルは羊を供えた、でも羊を供えたアベルは神によみされたのである、羊はやはり人間と通じてそれを犠牲にすることは痛みをともなう、それは人間を神に捧げることに通じている

神が人間に求めるものは金ではない、紙幣ではない、それは死者でもそうである
神に供えるものは神が求めるものは人間そのものであり人間が犠牲になるのことなのである、だからアブラハムはその子のイサクを捧げようとしたのである
その子でも老人になって奇跡として授かったものであり最も大事なものだったのである
だからそもそも信者に金を求めること自体が詐欺である
神が求めるものは金とかでもないし物でもない、正しき義の人を神に捧げることである
その至高の人がキリストだったとなる、神の一人子だったからである
その人は傷なき神への献げものだったのである

カルトとは自らその長が神と称して他者を奴隷にする、サタンでもある、そして会員は犠牲を払わされる、その長は本当の神に成り変わって自らを神とする偶像でもある
ただ実はその会長にしても実はサタンに使われているだけである
その人を操作しているのはサタンなのである、そしてそのサタンに使われた人はまたサタンにいいように使われて捨てられるのである、結局地獄に落とされるのである
この世がサタンが依然として支配しているというとき人間の欲がなくならないからであるその欲があるためにその欲をかなえてくれるサタンに仕えてまた使われるのである
もし欲がなかったら幼児のようだったらサタンはそこに作用できないからである
だからこそみどり子に治めさせよとか老子のように治めずして治めるとかなったのである

神ー人間
自然ー人間
人間ー人間

日本人だと自然が八百万の自然が神となりまた人間と人間の関係しかない
唯一の神と人間の関係が欠落しているのである、それでカルトにはまりやすいのである
日本人は基本的に神と人間の関係がない、日本の宗教だと師が絶対的なものとなりやすい神のようになりやすいのである、法然に帰依した親鸞でも師が地獄に行くなら私も地獄に行くというまで人間と一体化するのが日本人の特徴なのである
それでカルト教団でも偽りの師でも一体化してゆく、偶像化して一体化して従うとなる

●事業化して政治化したカルト教団からは税金をとるべき

ともかく苦しいからと困ったからと安易にカルト教団に相談したりして金をとられるのは問題である、具体的な金ということでそこからカルト教団を判断する
新聞をとるくらいなら仕方がないとなるがそれ以上の金をとるとなると金をとることが目的の団体だと見るべきである
カルト教団の目的はとにかくこの世で力を得ることである、だからこそ金が第一の目的として運動しているし、創価だと票をとることを目的としている
政治家になればこの世の権力を得ることができるからである、だから創価では確かにあまり金はとらないが選挙を最大の目的としているのである

でも何百万の会員がいるとしてその人達の困りごととか苦しみを相談して解放してやることができるのかとなるとできない、そんな数になるとただ数を集めて票に結びつけて権利を得ることしか眼中にはないのである
第一人間は相談を受けて何かしてやれるのは二三人くらいだろう
百万人の相談にのれることなどありえないからである
だからただ頭数を集めてそれを票に結びつけるだけだとなる

だからカルトを制約するには金に注目することである、宗教団体でももともと宗教とも関係ないのだから税金をとるべきだとか金の面からカルトを見てとりしまるべきだとなる
とにかく信者から集めた莫大な金がどう使われているのか、それを見るべきである
そもそもそんな巨額な金が必要なのかとなる、神殿のようなものを建てたり事業に使われたりと宗教がビジネスにもなっている、宗教は本来事業と関係しないのである

でも現実社会では宗教家でももし豪邸に住んでいたり神殿のような豪華な建物を見たりすると信仰していれば大金持ちになれるのだとなり励むことになる
そのこと自体が危険なのである、それが宗教だとなり模範とされるからである
それで宗教者はあばら家のような家に住む方がいいともなる
なぜならそうしたら宗教に励んでも金持ちにはなれないとなることを示しているからだ
現実にシャカでもキリストでも家もない岩窟で座禅して悟りを開いたとかキリストもこの世に枕するところなしとい寝る場所もなかったからである
でもカルトとなるとその正反対でありこの世で成功して栄華栄誉に暮らすことなのである
ともかくカルトを制約するとしたら第一金の面であり巨額の金が集まるとしたら税金をとるべきである、宗教は本来金とは極力かかわるものではないからである
また宗教はビジネスでないからビジネスにかかわることは禁止すべきである
また少人数ならいいが何百万も会員とすることは独占法違反にもなり危険だからそうした巨大宗教団体は制約すべきである
なぜそれほどまでして会員を増やしたいのか?それは民主主義では数が権力になるからである、田中首相が金と数が力だということになる、それは政治とか世俗の世界ではそうなる、それが宗教まで適用されることが問題なのである

宗教はナチスになりやすい、数を集めることにを最大の目的としているのもそうである
結局赤信号みんなで渡れば怖くないとなる、数がすべてを決めるとなるのがのが民主主義ともなる、でも統一教会のように世論がバッシングするときまた数が効果を発することがある、これだけたたかれればもう統一教会は終わりだろう
だから他のカルト団体でもこうして世論でつぶすことができる
だから今創価などは戦々恐々しているかもしれない、火の粉が飛んでくるからである
現実に統一教会をバッシングしているが創価はなぜ責められるのかともなっているからである、創価も明らかにカルトだからである
それもナチス化する統一教会より危険な団体なのである、権力をとるためなら何でもする団体だからである
本当にカルト法が必要である、外国では日本のカルト団体は禁止されている
統一教会でもそうである、日本は余りにも戦後自由になりすぎたのである
それは戦争の結果ではあるがカルトはやはり制限してとりしまるべきだとなる
それは社会にとって危険なものになってゆく、ナチスの再現にもなってゆくからである

●宗教に外国が関係することの危険

確実に統一教会は政治にはいりこみ日本を乗っ取る計画をしていた
統一教会の大きな問題は韓国であり外国勢力がカルトとして日本侵略をねらっていたことなのである、これは非常に大きな問題だったのである
日本人からだまし取った金が韓国に回っていた
そして日本は最終的に韓国に支配されるとなる、そこに在日がからんできて複雑になる
在日とは何か日本人であって日本人ではないという複雑な立場にあるからだ
在日は外国に韓国にでも日本を売りわたす団体なのかともなる
ただ在日は理解しにくいのである、いろいな人がいて理解しにくいのである
明確に在日団体というのは組織があるとも言えないし理解しにくい
ただ下関には戦後韓国に北朝鮮でも帰るために集結したが朝鮮戦争になり帰れなくなり
下関にとどまった一団の人達住みついたという取材がyoutubeで見た
下関には在日の人達が集団的に居住したのである、今でも韓国の釜山に航路があり韓国系であり在日であれ行き来しているからである

統一教会の問題はこうして国と国の関係ともなり問題だったのである
外国にカルト教団を通じて日本の金が奪われ遂に日本の政治家に浸透して日本の政治が歪められる、それが最大の問題だったのである
それは政治だけではない、日本テレビにも24時間テレビで統一教会の人が番組作りしたとかニュースになった、それも統一教会側からそれを発表して一方的な報道をするなと警告してきたのである、つまり今統一教会をマスコミが批判しているがそのテレビ局でも統一教会が深くかかわっていたとして批判するなとなったのである
統一教会こうして日本の主要な権力とかかわり日本支配をねらっていたとなる
宗教はそのための隠れ蓑であり現実は日本政治を左右してその支配下にする
韓国が日本が支配する道具ともしていたとういことで重大な問題になったのである

宗教は個々人の心を問題になるのではない、権力を奪う団体でありやがてはカルト教団が権力を得て支配するためのものである、だから政教分離が必要なのだが自民党自体がすでにカルト教団に侵食されていた、第一創価公明党と一対なのだから自民党自体がカルト政党なのかとなっていたのである
つまり私が追及してきたように政教分離をしていないからそうなった
その法律は有名無実であり何ら行使されていないからである
公安委員長自体が統一教会にかかわっていたからである
これほど統一教会に侵食されていたことは意外である、なぜならどうしても10万くらいの団体がそんな力をもてるのかとなるからだ

ただそこに無料で選挙運動してくれるとか何か巧妙なものがあってそうなった
それでカルト教団の力をそぐにはみんな投票しなければならはないというのもわかる
創価公明でも固定票は限られて減っている、だから投票率が上がれば当選できなくなるからだ、まず自民党は創価公明と手を切るべきなのである
政教分離の法に違反する宗教団体が国土交通大臣になることは憲法違反だからである
宗教団体は国からいかなる特権も受けてはならないとなっているからだ
とにかく日本は戦後75年とかすぎて政治であれ何であれ大きな変革を強いられるているのである、日本の貧困化も深刻であり何か暴動でも起きるような物騒な時代になっているのである、だから自民党一党独裁は終わりつつあるのかとなる
大きな変革の時代でありそこに相当な痛みが生まれる、でもその後に再生する日本があるとなる、期待するとなる

2022年08月24日

人間の認識の限界 (空間と時間軸の認識の限界ーでも限界を破るべき)


人間の認識の限界

(空間と時間軸の認識の限界ーでも限界を破るべき)

人間というのは何事認識する意識するということに特徴がある
認識というときいろいろあってもまず空間認識がある、なぜならその住んでいる場所の空間認識は自ずと無意識にでもそなわる
でも空間認識にしても狭いのである、だから日本列島を空間認識すること自体難儀になる大平洋側で海から昇る太平洋を見ているのと日本海のように山から太陽が昇り海に沈んでゆくのを見るのとまるで違った空間認識になるからだ
また山国だと山から太陽が昇り山に太陽が沈む、この感覚もまた相当に違っている
その場所場所で空間認識は違ったものとして育つのである

京都だと盆地だから東山というと太陽が昇る山であり京都では意識される
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」
これは東山から見る風景である、でも海側に住んでいると山から昇る太陽をいつも見ていないから感覚的にわからないのである
それで近江に行って湖西方面から太陽が昇るのを見た、それは東(あづま)の方向だったのである、あんなところから太陽が昇るのを見て意外だった
そして湖西というと西であり日の没る場所だったのである、それも感覚的にわからなかった、だからいかに地理を頭だけでなく認識することがむずかしいかである
これは地理の本を見てもテレビで見てもわからないのである
その場に立って認識しないとわからないのである

基本的に太陽が昇る方向と太陽が沈む方向で方向を知る、でもこれが太平洋側と日本海では逆になるから認識できなくなる、そして人間の認識はそこに定着していないとできない一時的に旅してもまた同じ場所にいればその感覚が薄れてわからなくなる
アメリカのカリフォルニアなどは海岸は西になり太陽は西に沈むのである
また韓国では日本海は東海であり太陽が昇る場所なのである、それだけ地理の感覚は場所により正反対にもなっているのである
もちろん地理を本とかテレビとか映像だけでもわからない、それは一部分を切り取ったものであり全体を知り得ようがないからである、体感できないからである
そして外国に行ったとしてもそこはさらに一回くらい行っても地理も認識するのはむずかしい、確かに大雑把には認識するから行かないよりはいいとしてもその土地を離れると
記憶もうすれてく、特に外国はそうである、写真をとったとしてもそこがどこかもわからなくなっているのだ、見慣れない物があり認識することがむずかしいのである
ただ何回も行けば違っている、でもそんなことは普通はできないのである

地理を認識するときでは今なら飛行機でヨ−ロッパでもどこでも行ける、でも飛行機で行ったとしても地理は認識できない、飛行機に乗って見えるのは外は闇だけで何も見えないのである、でも船で一か月でもかかってヨ−ロッパなどに行けばまるで違った認識になる途中に港によるし大陸を遠望したりと認識することが違ってくる
それは車でそうである、車はただ目的地まで早く行くというだけであり途中が省かれるからだ、だから歩いて旅すれば地理を体感できる自転車でもできる、坂で苦労して上るからである、それで坂を越えたとき新たな世界が開ける感覚になる
それは近くの飯館村に行くときそうなのである
その峠が長くつづくからである、標高でも飯館村は600メートルとかあり高いのであるだから自転車で行くとその峠を越えるのが一苦労なのである
でも峠をやっと越えた時達成感がある、その感覚は車だと得られないのである
日本は山が多く峠が多い、だから峠というのは日本が作った漢字なのである

ともかく人間の認識は空間と時間軸で決められる、でもその範囲が狭いのである
また時間軸でも短いのでる、そこに人間の認識の限界がある
たとえ飛行機であれ空間を認識することが容易になったとしても現実的には認識できない大陸には長大な川があるとしてその一部を見てもわからない、その川を上から下まで下った時わかる、ナイル川でもそうである、私は船で川を下っても一部だった
河自体が長大だからそれを認識することもまたむずかしいのである
それは中国の揚子江でも黄河でもそうである、そんな大きな川が日本がにないから認識できないのである

空間認識というとき宇宙旅行で月まで火星まで行ったとしても宇宙の広さを認識することは不可能である、なぜなら何億光年のかなたの星があるとしてその空間の広大さを認識できないからである、そこに人間の限界がある
そして地理を知ることのむずかしさはそのように広大すぎてそれを知るには相当な時間を費やさないとできない、もし一億年光年の星に到達するとなるとどうにもならないなる
光の速さの乗り物ができても行けないのである
ただもし人間の寿命が200年とかなればそれだけ空間認識は深まる
なぜなら何度も旅したりして認識を深めることができるからだ
一回だけではない何回も行けるとなるからだ

ただ人間の歴史は空間を広げるものとしてもあった、歩いていただけでは空間認識は広がらない、でも馬に乗れば空間認識は飛躍的に広がった、またそれからテクノロジーの発展で鉄道が生まれて車が飛行機が生まれて飛躍的に広がったとなる
コロンブスとかのアメリカ発見も空間認識を広げたのである
そして地球には未知の領域がなくなった、でも狭い所でも地形とかは複雑であり探求することはいくらでもあるとなる
ここで問題になるのは時間のことである、時間もまた限られているからだ
そこで人間の認識の限界が生まれる、限られた時間内でしか認識できないからである
だからまず人間の空間認識はどうしても限られてくる
時間でも老人になればわかる、あっという間にに過ぎてしまったとなるからだ
30過ぎると体力でも下り坂になるとか40で白髪がはえるとかすぐに老いてくる
それも人間の限界になる、旅するにしてももう体力がないとかなる
要するに人間はみんな個々にわずかのことを認識して死んでゆくとなる

お釈迦様と孫悟空が神通力比べをした話しですが、孫悟空は、自分の神通力一杯で空を飛んで、これ以上遠いところは無かろうと思ったところに大きな山を見つけました。そこで、「これは良し、自分がここまで来た証拠をこの山に残してやろう」と思って「悟空参上!」と大きく書きました。戻って来て、お釈迦様にそれを報告した所、お釈迦様が「そなたが書いた言葉は、これか!」と手を広げられたところ、その手の指に「悟空参上!」と書いてあったという話しです。

これは人間の限界を語っている、それは実際は今でも同じなのである、いくら飛行機で外国に行き宇宙まで月や火星まで行っても空間の広さを実感することは不可能である
まず外国は一回くらい旅してもわからないのだ、空間認識にしても何度も行きその場に立てば自ずと深く認識できるようになる、その空間認識が場の認識がアイディンティティにもなる、でもとても一回くらい外国旅行しても認識できないのである
日本だと私は全国を旅しているから認識する、それでふりかえって俳句とか短歌とか詩にしたりする、それは日本がだからできることである、外国になるとむずかしくなる
大陸だと広すぎて空間認識することが不可能になるからだ
中国に三回行ってもとても空間認識できなかった、アメリカは一回だから余計できない
アメリカだとホイットマンでも空間克服することが詩になる、あれだけ広ければ果てしない空間の中で人間はとまどうのである、そこで人間が一体感を持つことは困難になる
一つの州でも日本より広くなるし砂漠もあるしとなると認識できなくなる

でも人間は空間でも時間でも限界を越えるものだとなる
それを目指している、限界を越えよということである
だからこそ神は人間に時間を越える永遠の命を与えたのである
永遠に生きるということは時間の限界がないことである
そうなれば空間認識でもいかに広くても時間が永遠にあるとすればできるとなる
全能の神は人間に限界を越えさせるのである
それは科学技術でも成されてきたとしてもそこにも限界がある
とても長寿がかなうよにうになっても永遠に生きることはできないからである
老化を止めることができないからである
そういう限界を破る力を与えるのは全能の神だとなる
人間に限界を設けてはいけないのである
もう限界だよということはあらゆることに言ってはならないのである
それは個々人でも俺はこんなもんだとか俺には才能はないとか何がないないとなる
それは自ら限界をもうけて小さくしているのである
人間には限界があってはならないのである、限界を越える力を神が与えるのである

限界を越えよ、限界を越えて新たな世界を見よ
汝を低く狭く見積もるな
神は汝に新たな世界を開く
限界を越えよ、限界を設けるな
限界を突き破れ、神に限界なし
また限界を決めてもそこを深く知れ
神の与えた地を深く耕せ
広く知り狭きも深く知れ
神はさらに汝に天の国を与える
汝はそこで尽くす
その時間も限りなくあれば・・・・




2022年08月17日

カルトの特徴とは何なのか (全体主義になるから共産主義もカルトであり権力を奪い変えようとする)


カルトの特徴とは何なのか

(全体主義になるから共産主義もカルトであり権力を奪い変えようとする)


●カルト宗教は全体を変えて理想国を作ろうとする

そもそもカルトとは何なのか、そのこと自体がわからない、明確に認識されない
だから太平洋戦争でもカルトだったとも言える、天皇を神として日本全員がカルトにはまった戦争だったともなる
そこには確かに天皇がかかわり天皇を現人神(あらひとかみ)とした戦争だったからである、そして必ず地方の村の神社には戦争の勝利する祈願するものが刻印されていた
村の神社というときたいがい五穀豊穣とか祈るものになっているが戦争の勝利の祈願のためにもなったのである、なぜなら村の人達が神社に参り兵士をどこでも見送っていたからである
だからそれも一つのカルトの形態だったともみれる
それは戦争を肯定する神であり戦争では人を殺ししてもいいとなるからだ
オウムでも逆らう者は殺してもいいとしポアしたからである
戦争は一種の宗教戦争にもなる、それで天皇が日本の神は戦争の神ではないとして人間宣言した、天皇自体が殺人命令を出した人だともなっていたからである
日本自体が全員が洗脳されてカルトとの会員のようになっていたともなる
そこでは必ず勝利せねばならない、神の祈り勝利せねばならないのである

それは創価でも選挙が聖戦であり仏戦だからみんな家々に座談会で集まり仏に祈願して必勝を願い祈るのである、完全に政教一致なのである
だから常に常勝関西とか常勝しなければならない、仏が応援するのだから負けないとなるからである、カルトとは何かとなる全体主義なのことは共通している
組織集団化して社会全体で事を成す、また全員が一致して社会を変革しようとする
社会全体を変えて理想国を目指すのである
つまりこの世を仏国にするし天国にもするのがカルトなのである
日蓮宗はそもそも国立戒壇を行うことが教義にある、そうなれば他の宗教は邪宗となり
日蓮宗一色になる、それとともに権力と一体化する
でも日蓮宗でも顕正会会とかあり創価と対立していたりする
それはイスラム教でも二大セクトがあり熾烈な争いとなり殺し合いまでしている
だから日蓮宗内でも争うことになる
国立戒壇となれば憲法違反にもなる、アメリカでもヨ−ロッパでも宗教でも自由である
イスラム教でも許可しているからである
ただこの憲法は絶対的なものではない、民主主義だと数を集めて政権をとれば変えられるからである、だからそれを実行するには選挙を仏戦ともしているのである
日蓮宗は一向宗の念仏とか禅宗とか強烈に批判しているから他者の宗教を許容しないのである

カルトは共産主義とも本当に似ている、共産主義もカルトなのである
マルキシズムは宗教の一種ともなっているからだ、そこに社会全体を変えて理想の国を作るということで全体主義なのである
この世を仏国土にして天国にするということで共通している
でも全体主義は共産主義でもソ連でも何千万が粛清されて殺されたとかある
中国でも毛沢東の文化革命でもそういうことが起きた、それに熱狂したのは宗教的熱狂でありまさにカルトだったとなる
社会全体を変えることが目的でありそこで権力と衝突するから権力持っている者たちと戦うことになる、暴力革命になる、そして権力を得れば権力を我がものとして栄誉栄華になる,カルトというときその目的は内心の悟りだとか心を浄化するとかそうした心の問題ではない、社会全体を変えることでありそのためには権力を得なければならないとなる

●この世に天国は理想国は作れない

カルト宗教団体の場合個々の心の問題は無視する、とにかく社会全体の改革を目指す、そのためにはまず権力を手中にしなければならない、そのために統一教会で政治家と深くかかわり権力を我がものにしようとしていた、選挙で議員を応援していたのである
他のカルト団体でも今は政治とかかわる、政治でもって権力を得て社会全体を変えようすとる、そこは共通しているのである
でもそれで社会が変わるかというと変わらないのである
ただカルト団体の幹部は富とか名誉とか地位を得るのである
ソビエト連邦時代でも共産党の幹部の書記は神のようにまるでエジプト時代と同じように葬られたのである、神格化されたのである
唯物論でもやはり人間が死ぬことは不可解だからそうなったのである

本来の宗教は個々の心に焦点をあてていた、「心の清い者は神を見るだろう」というときあくまでも個々人の心のことであり社会全体のことではない
社会全体を変えよとはしていない、ただ個々人の心が清くなれば社会全体も良くなるという思想なのである
でも全体主義は共産主義でも民族主義でも社会全体を国全体を変えよとする
社会を変えれば全体が良くなるという思想である
でも全体を変えることは共産主義でも失敗したのである、そこに何らかの無理があった
社会全体を変えても人間個々人が良くなるとは限らない、むしろ個々人を変えることが
心を浄化することが社会を変えるとするのがもともとの宗教だったのである

つまり天国でもこの世は作りえない、天国を作ろうとしたら社会全体を変えねばならない理想国にしようとしたらそうなる、でも共産主義でも失敗しているし全体を良くしても個々人の心はその罪とか欲とかは消えないのである
むしろ社会全体を変えようとするのは権力を奪って権力を得て社会を変えようとする
でもその権力を得よとすることは権力を持つことは堕落することになる
そもそも社会を変えようとするより権力を得たい、権力を持ちこの世のことで成功したいという下心なのだから権力を握った時やり放題になる
中国では幹部が兆の金を蓄えたとかなる
だからもし無欲な人が権力を得るならいいともなる、それで聖書ではみどり子に治めさせよとなっていたのである
ダビデでも王になったとき部下の妻を奪うために戦場に送り死なせた
権力を持つと欲でも他者が抑えることはできない、王は絶対的権力となってそういうこともできたとなるからた
社会全体を変えようととしてもその内実は自分自身も権力者を見て権力を我が物にしたいとなっていたのだから社会を変えるより権力を得たいためカルト宗教団体は理論化するのである

この世に理想の国とか天国とか仏国は実現しない、それは人間の欲がなくならないからである、そのことにこそ最大の問題があるとしたのが宗教だったのである
社会全体を変えても制度でも変えても人間の心が悪いものならば依然として社会は進歩したようでしない、それは日本でも一時豊かになっても日本人の心が良くなったわけではない、かえって他者を省みない非情な人達が増えたのである
いくら科学が機械か発達してもこの世に天国は生まれない、仏国は生まれない
天国は神がじかに主となり新たな天と地を作ることでもたらされる
人間は天国も仏国も理想の国を作れないのである、だからこそ共産主義は失敗したのである、人間の個々の運命はあまりにも複雑でありそのカルマでも平等にはできない
そのカルマは個々人で解決するほかないものである、その個々人のカルマを誰かが背負ってくれるのを期待してもできない、なぜなら個々人の家々のカルマは違っていて個々人が家族でも苦しまない限り解決しないからである
仏国土とか浄土とか言っても菩薩とか言っても依然として人間は罪にまみれ欲にまみれて変わらないからである

●政教分離は経済と宗教を分離することでもある

カルトとは全体主義でありそれはナチスでも大日本帝国でもそうだしソビエト連邦の共産主義でも中国でも同じなのである、全体的な妄想に陥る、国民全員が妄想に陥り悲惨な結果となる、カルトがなぜ怖いのか、それは人間の心を支配する
その妄想に陥れると何千万人が死ぬとかなるから怖いのである
人間はありえぬ妄想のためにも死ぬとなる、ただ中国は共産主義から資本主義にもなっていた黒い猫でも白い猫でもネズミをとる猫はいい猫だとなる
それは主義とかより現実的にネズミを食べ物でも得られるのがいいとなったのである
そういうことはもともと中国人にあった、現実利益的であり空想とかを拒否する国民性があった、怪力乱神を語らずとか儒教の教えだったからである

怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。

これは合理的なことであり経済合理性がありそれでイスラム教のような政教一致の国とは違ってあれだけまたたくまに表は共産主義でも資本主義化して経済的には発展したのかとなる、政教分離が近代にとって重要な法律だった、それがイスラム世界とか日本では実行されていないかった、だから日本は天皇を神とした聖戦になって三百万人死んだともなるそれもやはりカルト宗教の一種としてそうなったともみれる
カルトとは国民全体が妄想に陥り合理性とか理性を失うことである
それはナチスでも同じである、ナチスも民主主義の選挙で選ばれたからである
合法的に選ばれたのである、つまり数が多ければそれが正しいとなり権力を握ったのである、すべてを数が多いからと頼る時それが恐ろしい結果となったのである

いづれにしろ政治家はあまりにも安易にカルト教団にかかわっていた
今度は阿部前首相が手かざし宗教の崇教真光(すうきょうまひかり)ともかかわっていた

安倍元首相”手かざし宗教”広報誌で「自分も信者」と発言していた

政治家とは選挙のためなら相手を選ばない、宗教団体はまとまった票になるからその団体がどういうものでもいいのである
そこに日本人がそもそも宗教に寛容であり不摂生のためだともなる
日本は統一教会でもそうだが宗教に寛容なためカルトの吹き溜まりのようになっていたのである
宗教だとキリスト教でもイスラム教でも基本的に偶像崇拝を拒否する、これは共通しているのである、これが日本にないから結局カルトがはこびることになる
第一カルトの創価の応援で一体化しているのが自民党なのだからカルト政権だともなる
自民党はもともと農民とかを票田としていたがそれも弱体化してカルト団体にも頼るようになったのである、都市部でカルト宗教団体が創価などのように増えたからである

●なぜ宗教にかかわるとやめられないの、奴隷の霊が与えられるから

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

ともかくなぜ宗教がかかわるとやっかいになるのか、また宗教団体に入ると簡単にやめられなくなるのか、それは霊と心とかにかかわるものだからである
霊とか心を支配するからである、そして偶像を崇拝するようになる
だから偶像崇拝は危険なのである、唯一の神ではなく様々な偶像を崇拝する
その偶像に一番なりやすいのが人間なのである、だから教祖はオウムでも偶像になり
創価でも池田大作が偶像になりとかまた師でも偶像になる、ただ師を讃美するだけのロボットにされるのである
それで禅宗では師を殺せとして師の偶像化を拒否したから私は禅宗に惹かれるのである

そしてなぜカルト教団でもやめられないのかとなると心を霊を支配されるのからである
自由の霊ではなく奴隷の霊が与えられるのが怖いのである
地獄に落ちるとか罰当たるとかにおびえるのもそうである、それが意外と有効なのであるそのことで奴隷にされるのである、だから一旦霊が支配されると奴隷化されてしまうのである、それが肉体的なことでなく心のことだからやっかいなのである
ただわからないのはそういうカルト教団の幹部でも地獄と罰を恐れている
その恐れは世俗生活で失敗することである、事業でも何かするにも何か事故があったり
生活がうまくいかないことがあることを恐れているのである、それはあくまでも世俗的なことであり宗教自体の恐れではない、カルト教団は損かと得でしか考えない
御利益があるかどうかでし考えない、だから損することを異常に恐れているのである
要するに損得が一番わかりやすいからそうなる
日本人の宗教は神道でも御利益宗教であり何か得があるとして賽銭を入れるのである
それをもらって得するのは神主とかであり本人ではない、それはカルト教団でも得するのは幹部達であり信者は身も心も奴隷にされる
ただその幹部でも地獄とか罰を恐れている、実際はお前たちが地獄に落ちる罰当たりなものだということが自覚できないのである、宗教詐欺罪でありそれは最も過酷な地獄に落ちる罰となっているかもしれないからだ

女性はどうしても頼り安いから霊も支配されやすいから何か女性がまずカルト教団に入りやすい、統一教会でも創価でも最初に女性が会員となり数を増やす、創価だと婦人部であり選挙活動をになうし統一教会でも母親がはまってその子供が二世が苦しんだ
つまりいかにそうしてカルト教団を親にもったものは苦しむかである
それもカルマなのである、宗教だと簡単に捨てることもできなくなるからだ
でも実際は御本尊とかでもそれは字が書いてあるだけでありもともとそこに何の力もないのである、なぜなら簡単に紙だから破ることも燃やすこともできるのである
そうした人もいるしそれで頭が七つに割れるなどない、それを実証もできるのである
だからこそ神は目に見えないものなのである、目に見えなかったらそれを壊すことができない、偶像は必ず形になっているから壊すことができるからである
そういう宗教の基本が日本人は基本的に知らないのである、だから容易にカルトに洗脳されるのである

宗教とは何なのかー個々人のカルマは集団組織で解決しない 
(カルマは個々人が苦しまない限り解決しない)

2022年08月08日

政教分離とは何か (宗教と法律の問題ー宗教は心の内面を追求する)


政教分離とは何か

(宗教と法律の問題ー宗教は心の内面を追求する)

●法律と心の問題

法律とは何か、それは強制力を持っていることである、法律に違反すれば罰する力を持っていることである、権力で執行する力はを持っていることである
宗教とは何かとなれば様々な罪があるとしても法律に触れなければ罰すること刑罰を与えることはできない、ある人を恨んでいても殺したいと心でも思っても罰せられない
現実に人を殺した時罰せられる
でもあるインドの思想家は心で思ったことは必ず影響する、誰かが殺したいという念を強烈に持つと誰かにその念が伝わり殺すこともありえると言っていた
それだけ念は目に見えない具体的行動とならない場合でも罪だとなる
心で女性を犯したものは実際はそれも罪だとしている

こうなると誰も罪がない人はいない、それで不思議なのは自然界では罪というのはない
動物でも他の動物を食べるにしてもそれが罪とはならない、そうしなければ生きていけないからである、ただ自然界には人間のような様々な悪念はない
自然災害にしても人間を恨んで災害を起こしてはいないのである
津浪でこの辺で多数死んで海を恨んだという人もいたが自然を恨んでも無駄である
それよりなぜ人間が自然災害に備えなかったのかと人間を責めるのである

ともかく人間の思想とか念とかは相当に影響するから怖いのである
それが例え犯罪にならないとしても逮捕されないにしてもそういう念を持つことが危険になる、それで韓国でも中国でも戦争の恨みがありそれで日本に復讐しようとする
そういう念を政府が過剰に作り出す、そして日本人は謝るべきだとなり統一教会ではそれを宗教として正当化して韓国をアダムの国として日本をエバの国としてエバの国は韓国に尽くすのが当然だとして金を奪った
韓国では常にそういう念があり今の国だとしている、常に侵略されてきた歴史があるからだ、そういう念があると全体に影響して全体が恨みの念となり日本人は謝罪するべきだ
金を奪ってもいいのだということが正当化される
そうした集団的念が過剰に政府からでも作られることが怖いのである
それは別に行動にならなければいいというがいつか中国でも日本人を標的にして暴力にもなったし韓国でもなる、結局その集団的念が戦争になってゆく
つまり戦争とは外国に対して国単位で集団で全体に念が大きくなり強くなり本当に戦争となり外国人は殺してもいいとまでなったともなる

韓国人に最も顕著な、他の民族にはあまりない特徴といえばやはり「恨(ハン)」の精神であろう。

この恨(はん)は個人的なことではなく歴史的なものであり国家的恨(はん)だとなる
個人的恨みは批判されることがあるが国家の歴史的なものは肯定されるとなる

●心と念の問題

宗教というのはキリスト教でも仏教でも他の宗教でも法律ではない、法律の基であっても宗教に強制力はない、逮捕することはできない

「お前は人を殺したいとかの念を持ったから逮捕する」

こうはならないのである

なぜカルト宗教団体が問題なのか?それは法律にふれるから問題なのか?
オウムのように武装して権力得て日本を支配してその教祖が王になるという思想があったそれを具体的に実行しようとして武装化して本当に反対者を殺した
でも思想信教の自由というとき心で思っていただけらならそれが危険思想でも自由民主社会では罰せられることはないのである、刑罰も与えられないのである
宗教と政治の問題が政教分離でもわかりにくいのかというとそこに宗教とは本来どういうものなのか明確にしていないからである

宗教とは個々の心の問題であり政治や法律は現実社会で具体的に適応して執行力がある
でも具体的に心で人を殺したいと思っても恨んでも別に法律でそれが現実化しないかぎりかかわらはないのである
政教分離のむずかしいのは政治と宗教を分離するというけどそれがどういうことなのか明確ではないからである
別に現実に罪を犯すにしてもそれが具体的なものとなり他人を傷つけて殺すとなると犯罪として認定されて罰せられるのである
でも別に心で個々人でも集団でもどう思うかは関係しない、でも推理ドラマでは必ず殺人でも動機を調べる、それはどうしてどういう心から犯罪を犯したかを問題にするからである、それは個々人の心と関係しているから動機を必ず問うのである

カルト宗教団体の問題は思想の問題でも日本は韓国を戦争で苦しめたのだからその贖罪として金でも寄付すべきだとしている、日本人は謝罪すべきだというのはいいとしてそれがた現実になり金を献金するのはその贖罪のためだとなったとき問題が起きたのである
思想が思想のままではありえない、現実化して具体的なものとして行動になったからそれは犯罪と同じだとなった
人間は思想を軽いものとみる、人の思いは念はたいしたことがない、ただ心で思っているだけにすぎないとかなる、でもそれが必ず行動になるとインドの思想家は言っていたのである、阿部前首相を殺した人はその積年の恨みが積もり積もっていたのである
その激しい恨みの念がありあういう行動に出たのである

今政治と宗教の問題になっているのは政治がかかわるものと法律がかかわるものと宗教がかかわるものの区別が明確になっていないからである
一緒くたになっているからである
カルト宗教の問題は思いとか念にとどまっていればいいがそうではない、具体的に政治にかかわり御利益を得ようとする、それが政治権力として創価なら国土交通大臣となっていることである、宗教が心の問題ではない具体的な権力を得て施行できる立場にある
それは明らかに宗教団体の代表がそうなっているのでありその権力を利用して組織団体の力を増大することができる、だから宗教団体が国からいかなる特権を得てはならないということに政教分離の法律に違反していることは確かである
すると法律は執行力があるのだからそうしてはならないと政治に対して検察側が止めるべきだしてそういう地位につかせないようにすることである
つまり法律は無視されて執行もされないということである
だから法律など別に力があれば無視できるとなりそれは民主主義社会の崩壊に通じている三権分立は機能していないとなるからだ

●他者を地獄に落ちるとか脅迫することは犯罪

ただどんな思想を念を持つにしろそのことで具体的な犯罪とならない限り法律で罰することも刑罰を与えることはできない、だからどんなことでも思っても念など関係ないとか
現実にはなるが人間は動物と違って念とか思想の力が大きく作用する
それが人間の特徴なのである、カルト教団の危険なのはその念と思いが集団化組織化していることである
だから何か反対すると創価でもそうだし統一教会とか幸福の科学でも猛反対して組織的集団的に地獄に落ちるとか罰が当たるとか脅迫するのである
つまり宗教はそもそも他者を呪ったり恨んだりしないことが基本としてある
でも宗教になると平気で地獄に落ちるとか罰当たるとかいうのである
宗教が現実社会に適応されると心の問題内面の問題にとどまらない、なにかと言うと地獄に落ちるとか罰当たるとかいうのである、じれで呪縛される人がいる、洗脳される人達がいて問題になる

ただ不思議にそういう人達も実はその地獄に落ちると罰当たることを恐れているのであるとにかくささいなことでもカルト宗教とかなると何か不満があると相手に対して地獄に落ちるとか罰当たるとかいい、相手が不幸になることをみんなて喜ぶのである
それは仏法に逆らったからだとして信仰の問題にするのである
現実社会に宗教が適応される、人間にはいろいろな不幸がある、それをいちいち宗教的に判断する、成功したら福運があり信仰のおかげだとなる、でも商売に失敗することもあるするとそれは信仰がないからだったとかなる、つまり経済のことでも宗教を適応するのである、宗教をあらゆる世俗の世界にもちこみ判断する、宗教も経済てもなんでも一体化するのである
だから何か不満があると反対があると簡単に地獄に落ちるとか呪ったりするのである
人間はともかくいろいろあっても恨んではいけないとか言うのが本来の宗教である
ただそれが実行するとなると最高にむずかしいからみんな何か得すること利益があることが宗教だとして入るのである

要するにカルト宗教団体は確かに外国では禁止されている、統一教会も創価もフランスなどではカルトとして法律で禁止されているのである、世俗社会に宗教をもちこむとあらゆることが宗教と関係づける、そして常に不満があり反対する者は地獄に落ちるとか罰当たるとか脅迫する、そのこと自体が大きな犯罪とも思うのである
何か確かに具体的に殺すとかしなければ犯罪にはならないがそれは宗教的脅迫でありそういうことを口にしてはならないことではないか?
実際に人間を裁くことは神しかできないからである、だからはそういうことを平気で言うカルト教団は強迫団体なのでありとりしまるべきだとなる
脅迫罪というのが現実にあるからである

●世俗化された宗教はナチスにもなる

いづれにしろ集団組織化したカルトは具体的に心だけではない金銭を要求して収奪する
また政治権力を得るということは政教分離に違反するのである
それは心だけでない、具体的に権力を得ることであり権力を行使できる地位を得たことになるからだ、それは政教分離の法律違反だから取り締まるべきなのである
でも自民党はそれをしていない、票をもらえるからそうしている
統一教会でも票をそんなに持っていないのに選挙運動を手伝うとかして自民党に相当に影響していた、ただそんな力が10万くらいの信者の規模であったのかという疑問はある
ただ法律的には多額の金を献金させていたことは具体的でありそれは法律で取り締まるべきだとなる
権力を持てば罰があたるとか実行できるようになる、国土交通大臣なら大きな力をもっているから公明党に票を入れるなら仕事を与えるとかなる、応援しないものには罰を与えるともなる、予算でも公明創価に有利なように配分することになる
福運を団体組織の利権化することができる、第一そうしたいからこそ毎日選挙運動している

ただ思想にしても創価だと日蓮の教えが王仏冥合であり王は政治のことである、そして国立戒壇を目指しているのである、すると現代の政治からすると法律違反になるのである
でも信教思想の自由があるとしたら別にそれも認めさせることができる
選挙で勝てば数で決めるのが民主制だとするとそういうことでも決めることができる
そして数が万能になるとき遂に民主主義の選挙で法律に違反することなくナチスが生まれたようになる、それは合法的政権だったのである
だからすべてが数が多いからといってそれで決めていたら大惨事になる
「赤信号みんで渡れば怖くない」となってしまう
だから何らかの歯止が必要なのである、それが法律なのだがその法律も万能ではない
法律が執行されていないし法律も数によって変えられるからである
だから法治国家といいっても法律も実際は通用しないときどうなるのか?
結局数であり遂に暴力が決めるとなる、それで山上の行動が快挙だとして賞讃されるのは結局選挙でも政治は変わらないからである、そして政教分離などの法律も有名無実であり阿部前首相は最高権力者となり司法でもその悪事に手を出せないとなっていたからである
宗教とはどうしても内面から心から規制するものである、法律とか政治は外面的に規制する、いくら政治でも法律でも外面的に規制しても人々の心を変えることはできない
心が清いものが神を見るだろうという時、その心が清いということは内面的なことであり外からの圧力でできることではない、だから宗教の役割は外面的なものとして政治権力とか世俗的力で経済力でも変えるのではなく心で本当に悔い改めるとかするのが宗教だとなる、そういうものとして宗教がありそれはキリスト教でも仏教でも他の宗教でも同じなのである、ただ現世的なものの力があまりに強いから現世利益の宗教になってしまったのである

心の清いものは神を見るだろう

神は個々人の心を見ている

心の貧しい者は幸いである

悲しむ者は幸いである

・・・・・・・・

これは外面的なことではなく心の問題としてそうなったのである、宗教というのは思いとか念を浄めることなのである、山伏でも六根清浄を唱えて山で修行することは心の問題をとして宗教があったからである、心を浄めるには大都会ではできない、清浄な自然でしかできないからである
でも人間は現実社会に生きることはどうしても世俗とかかわりそこで宗教も世俗化して
現実社会にかかわり心の問題として宗教があったときまるで違ったものとなったのであるむしろ人間の思いは念は御利益権力志向になる、思いとか念を軽く見るのである
それより現世で金持ちになりたいとか高い地位につきたいとか美人と結婚したいとか様々な欲望を具体的に達成したいとなる、それがまた信仰にもなったのがカルト宗教なのである、だからこそ何百万人も集まらない、票にならないからである
世俗的欲望達成のための宗教となってしまったのである
ただ別に世俗社会だったらそういうことも容認される、でも宗教本来の目指したものとは正反対なものでありそれで矛盾しているのである、理論的にも崩壊しているのである
だからこそナチスになっていったのである、そもそもこうして矛盾しているのだから
いつかその矛盾から理論的に崩壊して破綻してしまうとなる
その破綻にしてもナチスのようになることが怖いのである

●宗教団体組織に頼っても問題は解決しない

ともかく宗教とは何かとなるとき心の問題とか内面的なものだとか言っても現実社会ではバンの問題であり日々の生活が優先されるから宗教もその庶民の日々の問題に適応する
いくら高等なことを言っても日々の生活に足しになるかどうかで決まる
生活に困っていれば援助してくれとなる、だから生活保護者が多くもなる
創価とか共産党に頼めば優先的に受けられるとかそうした日々の生活で足しになることで頼り一票にする、心がどうのこうのとか高等なことでは票は集められないからだ
でもそれが極端になるともう心の問題だった宗教が世俗以上に日々の生活のことになり
それで御利益を受けることしかなくなる、そうして創価とかではどうなったのか?
権力を奪い御利益を配分することが目的になる、だから権力異常に執着する
つまり世俗よりも世俗的になり宗教はただ世俗の御利益を得るための手段となる
そして何か反対すると批判すると地獄に落ちるとか罰当たるとか何百万人の会員が攻撃してくるから怖いのである、別に宗教と関係なく底辺層でも相談にのるとかはいいのである宗教がかかわるとややこしくなる、その区別ができなくなるから問題なのである

例えば社会で生きていれば必ず事業するにしても成功失敗はある、それがいちいち宗教に関係づける、信仰があれば成功する、なければ失敗するとかなる
すると事業で成功するには拝むことになる、そして成功した人は持ち上げられる
でも悲惨な失敗もある、その方がこの世では多い、会員でも実際は悲惨な失敗も多いのである、別に会員になっても問題は解決しない、かえって悪いことが起きることがある
近くで会員になったらすぐに息子が若くして病気で死に母親も死んだとかある
他でもそういうことは無数にある、交通事故だって学生時代に創価の人が死んだ
でもそれでも成仏したとかこじつけていたのである、その会員を見ても様々な問題は解決していないのである、むしろ悪くなっていることもある

それはそれぞれの家族とか個人のカルマが影響しているからかもしれない、自分の時はそうだった、なんらか家族とか親戚のカルマを受けて苦しんだとなる
だからそれぞれの問題は一様に解決はできない、一様に解決しようとしているのが組織団体として解決しようとして個々のカルマがありできない
共産党でもみんな平等にしようとしても結局共産主義が失敗したのは個々の運命とかカルマが違っているからである、そういうものを一様にできないからである
ただ苦しい人は藁をつかむ思いでそういう団体に頼る
女性だと頼ることが習性になっているから余計にそうなる、統一教会で息子が事件を起こした女性は夫を早く亡くして頼る人がいなくなりそうなったらしい
人間が困ったら組織団体で何でも解決してくるのか、結局上の人達はそういう人達を利用して議員になったりして得するだけだとなる、それは共産主義でも同じである
貧困ビジネスだという人もいる
問題になった女性は金はあったのである、一億円も献金していたからである
では何が問題だったのか?それは夫が自殺してそれで頼る者がいなくなりそうなった
でも金はあったのだから困ることがなかった、だからすべてが金の問題でもなかった
その解決方法は別にあったし統一教会に入ることではなかったのである
ほとんどの問題が金で苦しんでいる時、この女性自体の問題だったのである

悲しむ者が幸いだとなぜキリストが言ったのか?

そもそも人間には悲しむことが必ずあり愛別離苦がありそういうことはすべて金で解決できない、この女性は金持ちであっても解決できなかった
そうして解決できないことがあり悲しむ者となる、でも神はその涙をぬぐいたもうというとき救いがある、でもカルト宗教団体ではただそういう人達を利用して自分たちが得することしか考えないのである、だからいろいろ苦しみ困っている人達を勧誘するのにはいいのである、藁にもすがり助けてもらいたいとなるからだ
でも現実はそう言う組織団体はそういう人達を利用するだけだとなる
そして問題はそれぞれの問題が必ずしも金の問題ではなく違っていることにあり一様に数式のようにあてはまめて解決できなことである
だからカルト教団でも共産党でも似ている面があるのだ
ただカルト教団の悪質性は常に罰当たるとか地獄に落ちるとか恐喝することなのである
それは脅迫罪であり犯罪なのである、だから法律で取り締まるべきだとなる
つまりカルト宗教団体は法律ですべてではないにしろ取り締まるべきだとなる
現実に外国ではフランスなどでも取り締まっているからである
日本はそういう面でゆるいからと統一教会にでもつけこまれたとなるのである

●裁判で霊感商法は罰せられる、脅迫罪にもなる

「相手方に害悪を告知したり、心理的な圧力を加えるなどして、殊更に相手方の不安、恐怖心等をあおるなど、相手方の自由な意思決定を制約するような不相当な方法でされ、その結果、相手方の正常な判断が妨げられた状態で献金等がされたと認められるような場合には、当該勧誘行為は、社会的に相当な範囲を逸脱した行為として、違法と評価されるといわざるを得ない」

旧統一教会、信者家族らと法廷闘争も 夫の財産を内緒で献金、伝道しなければ「自分も家族も不幸に」…裁判所はどう判断?

これも犯罪として適応されるのか?犯罪ではあるが刑罰を与えられるかどうかである
そこに金銭がかかわっているからその金銭が問題になる
でも宗教が脅迫罪にもなる、先祖で苦しむとか罰当たるとか地獄に落ちるとか言うのは
脅迫罪なのである、そういうことは誰もわからないからである
神のみぞ知るとういうことになる、霊感商法は金もうけのためにそういうことで脅迫して売る、だから罪であり罰せられるとなる、そこに明確に金銭がかかわっているからである宗教は強要できないからである、信じる信じないを強要できない
そこには信教の自由がある、また結社の自由もある、でもカルト宗教団体の結社に問題がある、それが犯罪集団にもなることである、オウムとか統一教会とかそうである
その団体組織が犯罪組織でもあったからだ、創価でも折伏とか前は宗教を強要していた
そして会員にして票に結びつかせて権力を得るために運動していたし今でも継続されている
やたら宗教で他者を脅迫することは特にそれが金銭が具体的にかかわるときは禁止すべきであり罰するべきだともなる、ただその区別がむずかしいのである

2022年07月30日

統一教会と創価とかカルト宗教がなぜ力をもったのか? (大衆社会となりマスコミも政治もすべて大衆化したため)


統一教会と創価とかカルト宗教がなぜ力をもったのか?

(大衆社会となりマスコミも政治もすべて大衆化したため)


●現代文明の病弊として生まれたカルト宗教

その人は創価一家であり兄弟が議員でもありその人は創価しか見えない人だった
ただその人は素直な人でありもし本当の宗教を追求していれば全く別な人になった
ナチスでヒットラーユーゲントがいて青少年がナチスの強力な一員になった
それは中国でも起きた、文化革命の時毛沢東崇拝が起きて青少年が熱烈な紅衛兵となり中国全土を席巻した、それで粛清された人がどれだけいたのか、空恐ろしいものだった
また日本の戦争でも別なものとしてもそういうことがあった
だからこれはやはり現代社会の病弊として起きたともみる
大衆社会となり大衆により席巻される社会である、大衆が洗脳されてそうなる
これまでの戦争は日本でも侍が貴族同士の選ばれた戦士が戦っていたからである
そこから貴族でも騎士道が生れ日本だったら武士道が生まれた、互いに殺し合うにしてもそこにルールが倫理が生まれたのである
それはなぜか?それは一騎打ちになると相手の人間のことを殺すとなると卑怯なことをするなとか一個の人と人が戦うからルールが生まれて敵への憐憫でも生まれる
つまり人間的なものとなる

それが近代戦争となると一対一の戦いないし集団戦である、それは前からあったにしろ
戦争に参加していたのは貴族であり貴族同士の選ばれた戦士同士の戦いだった
日本では侍同士の戦いだった、それが明治維新で西郷隆盛率いる西軍と政府軍が戦った
政府軍は庶民でも参加できる国民軍だったのである、めれで侍の集まりである西軍が負けると思わなかったが負けた時、侍の時代は終わったのである
それは世界的にも起きたことなのである
こういうことが宗教問題と関係ないようで関係はある、近代社会は大衆社会でありあらゆることが大衆によって決定される、数によってすべては決まる社会である
また戦争にしてももう人間と人間の戦いではない、機械と機械の戦いにもなる
そこで敵を思いやる人間はいない、相手が機械になればそうなる
大衆とか群衆社会であり宗教でもそうである、選ばれた人を相手にしているのではない
無数の人達を相手にして操作するものマインドコントロールするものとなった

大衆ファシズムの世界となった、それで力を得たのがマスコミなのである
マスコミは大衆を相手にしているのであり優れた人達を相手にしていない
要するにパンとサーカスである、面白おかしくみんな見る娯楽番組が主流なに
むずかしいことは言わない、マスコミはこうして大衆の洗脳機関でありその裏にはまた大衆宗教と化した巨大権力化した宗教団体がある
それが今問題となった統一教会とかであり創価などが最たるものである
創価などは一人など関係ない、数しか見ていない、一票としてしか人を見ていない
大衆ファシズム団体なのである、それはナチスと同じではないにしろ似たものなのである
そもそも現代社会とは大都会を見ればわかるように無数の人間が群衆化して大衆化した世界である、大衆は高貴なものなど求めない、つまり現代には高貴なものを求める人は無視される、ただ数がすべてであり数が権力化するのである
田中首相が金と数ですべてが決まると言っていたとでもわかる
政治家とはそうして大衆を相手にしているのであり高貴なものを求めるものを求めていない、どんなに高貴なものがいても一票に変わりないからである、それは同等なのである
だから現代には指導する人はいない、大衆を操作するものが指導者でありそれがマスコミだったりする、マスコミは大衆を相手にしているのでありやはり視聴率が一番大事だからであるあとはスポンサーが金をくれるのだから大事なのである

●地の塩が消失した現代文明の荒廃現象としてのカルト宗教団体

要するに現代社会文明からは地の塩は消失した、ただ宗教でもそうだが大衆化したのである、だから宗教でも大衆をいかに操作するかが問題になる、そして大衆を支配するのである,マスコミもそうである、マスコミは何か常に公平中立を装うがそうではない
NHKは何か善人の代表のように見ているがそこに大きな悪がひそんでいる
それがわかったのはと民間では統一教会のことを批判しているのにNHKでは全くしていなのである

これはなぜなのか?

これは大問題である、そこには何らかの深い事情がある、統一教会を批判できない何かがあるとなる、なぜならNHKでも幹部が協議して放送することを決めるからである
その幹部の中に統一教会を批判できない人達がいるということである
それだけ統一教会は力がないとも見ていたがあったのかとなる、それは韓国との関係で政治問題化もするからである、また在日問題もありそれで表に出さないのである

いづれにしろ今回の統一教会とか創価とかカルト教団の問題の根は現代社会の病弊から生まれていた、それはナチスで経験していることである
社会が大衆という得たいのしれないものに席巻される社会である
そこに本来の宗教は皆無なのである、ゼロなのである、ただ大衆が理解するのは利益になることであり利権になることであり御利益になることである
それしか見ない、それは原発事故でもそうだった、それは莫大な利権だった
それで地元でも金の成る木であり群がったのである、そしてマスコミでも原発を批判しなかった、なぜなら原発が爆発した時、朝日新聞の幹部まで全部中国に招待されていたのである、つまり原発は東電からでも電事連からでも莫大な宣伝費が出ていたからだ
だから批判できなかったのである、だからマスコミは大衆洗脳機関なのである
肝心のNHK自体がそうなのである、そこは公平に見えても公平ではない、肝心のことを報道すらしないのである

福島県の報道関係でも同じである、福島民報は聖教新聞を刷っているし政経東北も何か鋭く問題を追求しているように見えてもそうではなかった
相双リテックはたいして技術もないのに除染でもうけて幹部で何十億もの金を山分けしていた、そして銀座で金を使っていたとこれはNHKでもちょっとだけ報道したからである
なぜなら相双リテックの宣伝をしていたらである
そもそも福島民報は県で半分出資しているから実際は県の広報機関であり政府の広報機関なのである、国の意向を伝えるだけのものだったのである

 なぜカルト宗教が増えたのか、これもやはり前々から偽預言者とかいた、それが現代社会では組織化して巨大化化したのである、それは大衆社会になったとき必然的に生まれたのである
つまりナチス化したのである、現代社会ではもう何かまともに教える場所などない
学校とかはただ知識を教える場所であり本来の人間を教育する場所ではない
だからこそマスプロ大学で千人とかの入る講堂で授業することに反発して学生運動が起きたりした、そこはエリートとしての教育の場所でもない、ただここも大衆化した学生をつめこむ場所にすぎなかったのである、理系は別として文系はそうである

だからなぜ宗教がカルト化したのか?

それは大衆宗教となったからである、大衆を相手にしいるのであり本当に求道心ある人など相手にしていない、今やそういう場所がなくなったのである
現代とは大衆に席巻された時代である、宗教もそうである、大衆宗教でありそれは容易にファシズムになるのである、結局人間がまともになるにはアウトサイダーになるほかないともなる、あらゆるものが大衆化して本来の人間でありえくなったからである
もちろんそこにも大きなも問題があるにしてももうニーチェのようになるしか本来の人間になりえないともなっているのである

●偶像崇拝の拒否から起きた一神教を日本人は理解できない

宗教二世の問題は親子二代で奴隷の霊が与えられることなのである
なぜカルト宗教問題が深刻なのかと言うと霊を支配するからである
罰当たるとか地獄に落ちるとかで霊を支配して奴隷化するからである

でもよくよくそういうことを言っている人間はどんな人間なのか?

全くの俗人でありその辺にいる普通の人である、そんな人がそんうなことが言えるの
お前が真っ先に地獄に落ちる、罰当たると言える人なのである
そんなこと簡単にわかることである、でもマインドコントロールされて見えなくなっているのである

おそらく日本人は宗教の基本を知らない、それで日本は宗教に寛容である、それがカルト宗教の吹き溜まりのようになった
ユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でももともとアブラハムを始祖して共通のものがある、宗教で一番大事なものは偶像崇拝の禁止なのである
なぜなら聖書は偶像崇拝との戦いでありその戦いから神を認識したのである

神は妬(ねた)む神として現れたからである

神は像ではない、像となるもの形あるものを神とすることに強烈に妬んだのである
これは本当に不可解でもあるが現実なのである、ねたむ神として現れたのである
だから一神教のすべての根幹は偶像崇拝の禁止なのである
いかにイスラム教では偶像崇拝を恐れているかわかる
人物像は像になるものは一切壁の模様としても描かかない、幾何学模様だけなのである
それだけ偶像を描くことを恐れていたのである、なぜなら神から恐ろしい罰があるとして恐れていたのである
でも日本だとこういう宗教の基本が欠けているのである、やはり仏像を日常的に拝むとかありそれも問題だった、教祖でも偶像化しやすい、一時オウムの麻原が偶像となったし
創価だと池田大作が偶像化したからである
ともかく宗教というとき本当に偶像崇拝が一番の問題なのである
ただ不思議なのは神社だとそこに偶像となるものがない、何に拝んでいるのかわからないのである、だから神道は謎である、御神体が自然だともなっているのである

●カルト宗教団体から真善美は生まれない、文化は生まれない

いづれにしろカルト宗教とか現代文明の病弊から生まれたものであり大衆社会から生まれたものであり本来の宗教とはまるで違ったものである
だからそれをなくすことや正すこともむずかしい、なぜなら大衆社会になったとき指導するものはいない、否定されたからである、マスコミがNHKが指導するものともなったからである,NHKの言うことはみな正しいともなったからである
NHKも偽善なのである、何か善人の顔しているが実際は悪人だということもある
それはカルト宗教でもそうである、天使を装うサタンなのである、要するにこの世は偽善が多すぎることなのである、偽りが多すぎるのである
そして社会は何らかみんなブラックなのである、つまり社会自体が暗黒社会なのである
罪の社会でありもうそれを正すことは不可能である、だから滅びるほかないともなる
罪の清算の時が来る、それは近いのかもしれない、もうあらゆることが限界に来ている
それで大清算のカルマの清算の時がくるともなる
カルト宗教もその一つでありそれは虚偽のものであり意味ないものであり大衆を洗脳するサタンに操られるものにすぎないのである

いづれにしろこの世は暗黒である、その闇は深く晴れることがない、ただ自然は美しいのである、そこにこの世の救いがあるとなる
カルト宗教を見分けるのはそこから何ら善きものが生まれないことであるし
肝心の真善美は生まれないのである、だからむしろ過去の宗教というとき問題があるにしろキリスト教文化が芸術が生れ仏教文化芸術が荘厳に生まれたことでもわかる
現代のカルト宗教からは一切そういうものは生まれない、ただ権力を操作したいというだけである、そこに集まる者も醜悪なものしかない、なぜなら教祖はサタンであり偶像崇拝しているような所から良きものが生まれるないからである
また大衆から良きものが生まれない、文化を作りだすこともない、大衆と民衆は違う、民衆は民謡とかでも文化を作りだしたが大衆は何も作りださない、マスコミとかに操作されるものでありパンとサーカスであり不毛なのである

ただマスコミではないインタ−ネットからは新しいものが文化的なものが生まれている
個々人が映像化したものが世界的に膨大に表現されているからである
そこに現代のグロ−バル化した文化が生れているのかともみる
でも現代から文化とかは生まれにくい、どうしても大衆社会であり大衆が求めるのはパンとサーカスだからである、そして大衆が権力化する世界である
一人が消費するより十人でも店に行き消費すれば金を使えば力となる
一人が消費しても力とはなりえない、だから店でも一人は相手にしない、問題は数だとなるのである、すべて人間は数としてか計算されない社会なのである
誰でもいい数を集めれば社会で権力化して支配できる社会でありそれが極端化するとナチスとなったのである、カルト宗教もそういうものとして生まれたのである

●カルト宗教団体が背後で国を操作することの危険

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この図のようにカルト宗教団体は国にかかわる、国を操作しようとしている
それで内村鑑三は外国の宣教師を嫌ったのである、何らか背後で国を操るということで嫌ったのである
だからこの図のように背後に国がかかわる、統一教会でもそれが明るみに出た
これほど選挙にでもかかわり日本を支配しようとしていたことに驚いた
自民党の安倍派はもともと勝共連合時代から支援したし支援を受けていた
一心同体だともなっていた、それは儀礼的な浅い関係ではなかった

また創価の後ろには中国がいる、創価もなぜあれほど中国に肩入れしているのか?
とにか中国様様なのである、宗教と共産主義が相いれないのにそうなっている
それは政治的意図があってそうしているのか、勢力を拡大するためにそうしているのか?でも中国で布教は無理だろう、どういうわけでしてしいるのか良くわからないのである
ただ創価は権力を権勢を拡大することが目的でありそのために布教もするし会員をとにかく増やそうとしている、その権勢を拡大するためには日本だって中国に売るとなる

それからエホバは別に日本の政治にかかわるようには見えない
でも後ろにアメリカがいて工作する、その団体なのかともなる
日本キリスト教会という団体もあるけどこれもアメリカから金が入ってきているのか
なぜなら信者数が創価と他でも比べると極端に少ない、でもあまり寄付金など要求しないのだろう、だから経済的にどうして成立っているのかとなる

日本基督教団は、神のみまえに、在日韓国人キリスト者たちとその同胞に対する戦前、戦後にわたる罪責を告白し、今日の在日大韓基督教会との協約締結を感謝する。
https://wvtravelclub.jp/the-united-church-of-christ-in-japan/

統一キリスト教団体だけではない、こういう主張をもっているのである
キリスト教団体は韓国に多い、また在日朝鮮人も数多くいて影響力がある
宗教団体でも内部に入り重要な地位をしめていたりマスコミでもそうである
在日の力は表に出ていないが大きい場合がある、それはなぜかというと在日は日本人なのである、見分けもつかないし日本語を普通に使うし優秀な人も多いのである

だから不思議なのは在日でアメリカ国籍を持っている人が下関とかにいた
この人はなんなのだろうと理解できなかった、れっきとしたアメリカ国籍だからアメリカ人であり岩国にアメリカの基地があるから出入りして兵士と話したりしているのである
留学もしているから英語を話せるからである
こういう人は他にもいる、だから一体何人なのかわかりにくくなるのである
宗教団体でも様々な人が入る、国籍は問わないからである、その中にスパイも入っているかもしれないということである
だから何かこの辺で在日の小説家が住むようになったのはなぜだろうと疑問になる
在日の人が何か運動するためのなのかとも見る
すでに市役所ではアメリカから賞をもらったとか横断幕がかかげられているのである
それは背後在日の勢力がありそうなったのかともみる

●不純な動機で数だけを集めるカルト団体

いづれにしろこうしてカルト教団には様々な勢力が入ってきて工作することがある
別に信仰とも関係ない、そもそもカルト教団は信仰など目的にしていない
勢力拡大してその国を操作するとかそういうものに利用されるだけだとなる
だからどんな人が入るにしろいいのである、数が増えれば勢力拡大になるからである
そうしているのは背後にそうさせている国があってそうなっているのかともみる
アメリカと中国がそうである、統一教会の不思議はアメリカとも深くかかわっていたのである、だから公明党でも統一教会の集会に出ていたのである

そもそも宗教団体自体が何か純粋な信仰を求める場所でなはい、不純な場所なのである
信仰は別に教会に入らなくても唯一の神を知ることができる
私は一回も教会に行ったこともないし全く別な創価とかのカルトで運動していたからである、だから本当に奇妙だともなる、ただ私に言えることは私は政治運動に興味もなかった私が求めていたのは死の解決だった、それで宗教を求めていたのである
結局宗教でもその人自身が動機が純粋であれば汚れることはない、創価にいい女がいると金持ちになれるとか金銭的にも援助してくれるとかなんとか得することばかり考えて入る人が多い、つまりそういう不純な動機の人達が膨大なのである
そんなこと考慮しないのである、創価だったら一票になればいいだけである

そうした余りにも不純な場所がカルト教団なのである、それは天使を装うサタンに操作される場所である、その背後に教団を利用して別な政治目的があり利用されるとなる
自民党なら利用してまた利用されるものだとなる
それが一つの権力集団だからそうなる、その権力に目をつけるからである
一票でも得られればいいとなる、それが権力をつくるからである
要するにこうしてみんな権力を求めているのがこの世なのである
権力となるのが金であったり軍事力だったり現代なら一票となる数なのである

宗教が権力化すると本来の宗教でなくなる、神が見るのは心だとするとき個々人の心を見ているからである、数とか権力化したもの建築でもこの世の威勢を誇るものでもない
個々人の心を見ている、心の清い人は神を見るだろうというときそうである
でも宗教とは必ず政治にもかかわりこの世とかかわりこの世的なものに変化する
そしてこの世の人間の欲望のためにも利用される政治にも利用される
そして日本人は宗教の基本を知らない、偶像崇拝がどれほど危険なものか知らないのである
そしてそもそも本当に神を求めるなら牧師とか教祖とかそうした仲介者を通さないことである、その人達でもいかがわしいのが多いからである

その人たちあたかも神の取次人のようになり権威を持ち権力を持つからである
誰も仲介がなくても神を知ることは個々人でできる
そこに仲介者を立てないことなのである
その仲介者は天使を装ったサタンになるからだ、そして偶像化されるのである
だから禅宗だと何か偶像崇拝を拒否する,師まで殺せというときそうである
それは師でも弱者はどうしても偶像化するからそうなったのである
そういう宗教の基本が日本人は教えられていないからカルト宗教の吹き溜まりのようになったのである、ただ外国でもカルトはあるから一概には言えない
でも日本はカルトとかに抵抗なく洗脳されやすい民族だともなる

2022年07月22日

いつの時代も言論の自由はなかった (人間の権力を求める、宗教も権力を得るために利用される)


いつの時代も言論の自由はなかった

(人間の権力を求める、宗教も権力を得るために利用される)

●言論の自由は歴史上なかった

そもそも人間はあらゆる自由が可能なのか、これが政教分離でも問題になる
結社の自由とか信教の自由があるからだ、人間は自由を求めて来たことは確かである
信教の自由と言ってもそれは歴史的に見ればなかった、必ず弾圧されてきた
それはキリスト教でも仏教でもそうだし思想としてもそうである、共産主義でも弾圧されてきた、人間に信教でも思想の自由がなかった
常にそれを許さないものが社会にあり権力でも弾圧してきた、キリスト教でもカトリックが今度は権力をもったから弾圧してきた
そして人権を重んじるフランス革命が生まれた、つまりこれは宗教からの解放として生まれたのである、それはなぜかとなればカトリックは宗教でも社会で権力をもっていたからである、その自由を求めてルターの宗教改革がありプロテスタントが生まれた
何か自由というとき権力側から弾圧されて血を流し犠牲になった人達が大勢いた
戦前なら天皇が神となりそれに逆らうものは弾圧された、殺された人達もいる
創価の創始者の牧口常三郎などがそうである

また言論の自由というけどこれもなかった、権力者に歯向かう批判の言論は許されなかった、中国では

焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)

『史記』秦始皇本紀によると、始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越(中国語版)は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。丞相の李斯は、儒者たちがいにしえによって体制を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。始皇帝はこの建議を容れて、医薬卜筮・農事以外の書物の所有を禁じた「挟書律」を制定した。

これで学者が生き埋めにされたとかあった、つまり皇帝の絶大な権力に反抗する者は苛烈なものとなった、そこには批判する自由も思想の自由もなかった
だから権力者を批判することは死ぬ覚悟でしないとできなかったのである
言論の自由など江戸時代にもなかった、幕府の批判は許されなかった、「見ざる、言わざる、聞かざる」になっていた
戦時中は政府の批判は許されなかった、戦争に対して何か批判的なことを言ったら特高が着て刑務所に送られた、つまり言論の自由は戦前まではなかったし今でもない
一見あるようでもない、私自身でも個人は発言してはいけないと町の図書館に本を置けなかった、公務員はそういう力を持っているからだ
つまりいつの世でも言論の自由はなかったのである、民主主義になっても言論の自由はない、なぜなら発言するにしても批判するにしてもできない、本を出すにしても普通はできない、だから原発でも危険を知っていた人があっても発言できなかった
またマスコミでも自由な発言はさせないし批判はない、原発でも原子力村が強固に作られていて批判は許されなかった

●権力をどうして監視できるのか

統一教会がなぜマスコミで一時あれほど批判して放送したのに

なぜその後全く報道されなかったのか?

これも不思議だった、統一教会のことなど忘れていたしそんな影響力があったとは思えなかった、でも自民党に働きかけて影響力をもっていた

そして公安委員長も統一教会に忖度していた!

これは大きなことである、権力というとき一番の権力は警察とかまた戦争になれば自衛隊とか軍隊になるからだ、戦時中軍人が一番威張っていたというときそうなる
人間の権力の最たるものが暴力であるからそうなる

統一教会が報道されなかったのは報道させないように権力が働きかけた

こういうことは常にある、権力あるものと権力がないものがありマスコミは報道する権力をもっているが報道しないのはさらにその上の権力あるものがあり報道させないからだとなる、原発でもその危険は報道させなかったとなるからだ

人間の社会の問題はこの権力にある、権力あるものが必ず自らの権力を維持するために守るために批判させないのである
権力というとき統一教会はそれなりに資金を集め奴隷となる信者を集め権力を持つことになる、民主主義では確かに自由があるが票を集めに苦労する、するとまとまって票がある組織団体とつながる、そこに癒着が生まれる

宗教団体でもそこにはまとまった票が得られるからつながる、創価はまとまった票が必ず計算して得られるから票田になり自民党と一体化する、その見返りとして大臣の椅子を与え権力の特権を与えるのである
創価の活動はまた権力を得ることにある、その権力を得る為に無血革命とか言ってその活動は選挙活動なのである、目的は権力を得ることである
そして今度は巨大な権力化すると反対する人を弾圧するのである
創価を批判する者は許さないとなる、そのために福島民報でも毎日新聞でも聖教新聞を刷らせて資金援助するのである、そうすれば批判できないからである

●権力がなぜ生れるのか?

そこから危険な状態になる、原発の危険は知らされず地元の人たちは故郷にも住めなくなったとか戦争で何百万人死んだとかなる、つまり権力とは実効力あるものでありただ何かを言うだけのことではない、批判を封じることもできるし何かを強制的に実行できる力なのである
だからこの世とは必ず権力との戦いになる、権力を持つものとの戦いなのである
その戦いはこの世の終わりまで終わらない、それは人間が権力を求めることにこそある
この権力とは何なのか?それは人間の尽きない止められる欲望だということである
権力をもてば得をする、金も入ると女性への欲望がかなえられるとか何かこの世の欲望が得られ立場になる、中国の共産党なら幹部になれば莫大な富が得られるとかなる
またアメリカにしても今度は一見平等を言うにしても民主主義にしても世界の富をわずかな人たちが独占する、株などでもそのシステムはわからない、巨大すぎて理解することは不可能なのである、その富は後進国などの貧者の汗の労働から得たものにもなる

だからこそ人は権力を得れる者になりたい!

それは宗教でも共産主義でも同じなのである、権力者がいるから権力者に代わり自分たちも欲望をかなえたい立場になりたいというだけである
統一教会を見ればわかる、信者を奴隷にして豪華な建物を建て幹部は贅沢しているのである、結局この世の中人間を養分にするものと養分にされるものとに分かれるのである
結局この世の中はブラック会社なのである、養分にする者が政治家であれ官僚であれ他にもいろいろある、パチンコする人はそれて儲ける人の養分だということもそうである
カルト教団だと信者は奴隷であり幹部の養分だとなる
要するに養分にされるものか養分にする方になるかがこの世である
政治家は国民を養分にする方であり自分のことしか考えない、選挙のときだけ愛想良くするが後は知らないと自ら議員が言っているからである
このようにこの世のからくりを知るべきだとなる

宗教でも山の中でわずかの食糧で節制して修行しているような人ならいい、カルト教団はとにかく権力を追求しているのである、政治化するのも数を集めるのも権力を求めているからそうなる、宗教はそもそもの始まりは権力の否定からはじまったのである
よくよく聖書を読めば権力を否定していることがわかる、権力を求めないことこそが宗教である、神の国とは権力なき世界である、唯一の神によって治められる世界である
全権が神にあり神が治める世界である、そこで人間は権力者の養分ではない
一人一人が自律的に神の子であり神の国に生きるのである

●権力を監視する三権分立

だからこの世でまともな人は必ず時の権力者と衝突する、これはさけられない
その権力者とは誰かとなるととにかく何らかで権力を持っている人である
官僚でも大きな力を持っている、警察は暴力装置だから権力を持っている
宗教団体でも数が多ければ票になるから権力を持っている、権力によって社会を人間を社会を動かすのである、宗教もその方便として使う、その目的は権力を得ることである
そのために人間は偽善的になる、宗教でも結局人間の欲を達成させる為のものとして利用される、美辞麗句を並べてもその中身は汚いものなのである
オリッピックでも美辞麗句を並べても実際はその実行者は金を得る為だったのである
人間はそもそもそういうものなのである、ジキルとハイドなのである
自分の欲望が第一でありそれをかなえるためにいろいろある、宗教もその一つになっているにすぎないのである

民主主義が三権分立になったのは「権力」を一番問題にしていたからである

「三権分立」とは、国家権力を「立法権」、「行政権」、「司法権」の3つに分けて、立法権は国会、行政権は内閣、司法権は裁判所という形でそれぞれ独立した機関が相互に抑制し、均衡を保つことで国家権力の濫用を防止し、国民の権利と自由を保障する仕組みのことです

司法とは権力の監視機関である、立法権は国会で審議して法律を決める、でも政教分離の法律を決めるとなると簡単にはできない、自民党でも他の党でも宗教団体の支持を受けているからそれができないのである
そもそも司法権でも絶対ではない、統一教会に公安委員長がかかわり忖度していたとかなるからだ、つまり宗教団体でもすでに大きな権力でありその権力に影響される
だから巨大化したカルト宗教団体でも取り締まることはできないのである
そして権力は危険なのは権力が巨大化するとそれに逆らうことができなくなり暴走する
それがナチスだったのである、もう誰も止めることはできない、それは独裁国家で起きて来る、独裁国家は独裁者に権力が集中する、そして誰も逆らえなくなる
それがロシアのプーチンであれ中国だったら習近平にもなる

そうした権力の暴走をどうして制御するのか?

それが民主主義社会でも自由社会でも課題になる、なぜならナチスは民主主義で選挙で当選して大きな力を持ち暴走したからである
つまり権力とは暴れ牛のようになる、その時誰もその牛を制御できなくなる創価などは今下降気味だけど会員がうなぎのぼりに増えてナチスのようにもなる勢いだったのである、民主主義は自由だとしても全体主義になりやすいのである
大衆が主役でありそれはただ数によってすべてが決まるからである、数が権力になるからだ、だからその数を集めるためにカルト教団は毎日活動している
布教するというのもただ数を集めて奴隷にするためである

●カルト教団員には獣の印が押されているーサタンの偶像崇拝である

カルト教団は精神的な奴隷にすることだからである、教祖が神となり絶対服従になるからである、それは偶像だとなる、それらは獣の印を押された人達だとなる
ある時は卍が印しとなりZが印しともなる、牛とか羊でも焼き印を押されたようなものである、その印しのある者はまるでサタンに属したともされる
この世は二つの人間に分かれている、この世のサタンの印を押されたものと神から選ばれた者の印を押されたものである、神の国の約束を得たものである
結局カルト教団の教祖は実際は天使を神を装ったサタンだとなる
結局宗教もサタンに乗っ取られるのだこの世だとなる
なぜ乗っ取られるかとなれば人間は限りなく欲望を持っているしその欲を絶つことは不可能である、だからこそその欲によって人は動く、サタンはその欲をかなえてやるとして
崇拝するのである,サタンは人間が作り出す、人間の欲望が作りだしたものである
もし欲がなければ子供のようにサタンはかかわれないからである

実際は統一教会の教祖の文鮮明でもまたオウムの麻原でも創価の池田大作でもサタンだったとなる、サタンを偶像を崇拝するのがこの世の人間である
本当の神は崇拝しない、だから神の一人子は十字架にかけられた、この世で崇拝されるのは善を装うサタンだとなる、そのサタンの権力が絶大なので多くの人達が従うのである
そして世を支配するのであ、その人たちは獣の印が押された人達のである
つまりサタンのものになった人達だとなる、何か無神論者の方が独立的であり優秀な人が多いこともいえる、カルト教団は大衆が相手でありただ数として数えられる人達であり
そこで一人一人など見ていないのである、数を集め権力として見ているだけである

そして人間は遂に権力と権力が対抗してハルマゲドンになり滅亡する
アメリカが中国がロシアが巨大な権力でありその権力同士が衝突して世界は核戦争とかで滅亡する、どうしても権力を求めるのだからそれをやめることができないのだから結果的にそうなる、もし人間が権力を求めなければそうはならないのである
でも権力と欲は一体なのだから権力なき世界など生れないのである
だからこの世は一時滅びなければならない、そして神の手により再び神の国が創造されるそれを望む他ないのである、いくら理想を求めても無駄だとなる



2022年07月20日

なぜ韓国でキリスト教徒が増えたのか (日本の支配の反発から民族キリスト教となっていた)


なぜ韓国でキリスト教徒が増えたのか

(日本の支配の反発から民族キリスト教となっていた)

●韓国の民族主義は日本支配の反発から起きた

こんな状況もあり、神社参拝を拒否したキリスト教徒、宣教師は弾圧され始めます。
これにより、朝鮮半島のキリスト教は「民族キリスト教」へと変化していきました。
つまり、この頃からキリスト教が民族主義と結びつくようになっていきます。
1919年3月1日に起こった独立運動(三・一運動)も宗教指導者による影響力によるものでした。

日韓併合下では外国との接触を持つキリスト教徒が抗日運動を担うようになった。特に、1919年に発生した三・一独立運動ではキリスト教徒が主要な役割を果たした。

朝鮮戦争により、国土が荒廃した韓国に進出して難民や被災者に積極的に食料援助を行いながら布教活動を行ったのが設立間もないペンテコステ系の教会でした。
そのため、教会に行けば、食べ物がもらえたため、ペンテコステ派が急速に勢力を伸ばします。


 「教会というのは本当に驚くべきところでした。小学校から受けてきた日本式教育によって死んだ民族意識が甦るところが教会でした。早天祈祷会の時には必ず独立のために祈祷し,聖書解釈をする時にも,祖国の独立を念願し,民族意識を目覚めさせる側からしていました。例えば使徒言行録に “主よ,イスラエルのために国を建て直してくださるのは,この時ですか”(使1:6)という題目がでると “主よ,朝鮮が建て直されるのは,この時ですか” というように解釈をするんです

 韓国における初期キリスト教受容の要因[上]
常石希望

 

 韓国にキリスト教が多いのはなぜか、それもプロテスタントである、カトリックが教会が勝手に作れないがプロテスタントは作れる、カトリックは世界的組織化してバチカンが総元締めになっている、つまり統制されているがプロテスタントはそれがない、誰か一人でも勝手に布教して教会でも作ることができる
 おそらく教会という一つの枠を作るものでもないとなる、だから無教会でもありうる
内村鑑三の無教会派として韓国人にも広がったのはそのためである

ではなぜ韓国にキリスト教徒が増えたのか、その理由の一つとして大きな理由として
日本に神社を神道を強制されたことの反発があり民族独立の願望が強かったことである
その民族独立復興とキリスト教がうまく一致したのである
何か宗教と民族意識(ナショナリズム)は合致しやすいのである
日本だと日蓮が民族主義と結びつく、だから太平洋戦争でも日蓮は持ち上げられたのである、逆に韓国は朝鮮半島は日本に侵略されたとしてその独立の強い意志で国民が一体となった、それがキリスト教と結びついたのである
愛国心と宗教が一体になりやすいのである、ただキリストはイスラエルの民族主義を否定したためユダヤ人の民族主義者の反発されて殺されたともしている
キリストはイスラエルという国に限定されるものではなく人類救済のために神が遣わしたものであり旧約の時代とは違ったものとして現れたのである
だからこそ一国家民族のものではない世界へ普及したのである

ただ宗教はナショナリズムと結びつきやすいのである、右翼的になりやすいのである
そういう心情は世界共通だから韓国でもキリスト教が民族主義的キリスト教になったのも理解できる、それで統一教会の理論も理解できる、韓国がアダムであり日本がエバだとういうのもキリスト教から生じた思想である
日本が戦争で朝鮮半島を侵略したということで贖罪として日本人は献金しなければならないという論理もそうである
つまり最初にキリスト教があるのではなくナショナリズムが民族主義がありそれにキリスト教が入り一体化したのである
ただナショナリズムと宗教は結びつきやすいのである、たいがい宗教だと共産主義を否定するのは右よりになるのはそのためである
内村鑑三でも日本を愛すこととキリストを愛すこと二つのJを主張したからである
宗教はやはりその国の歴史と伝統を重んじる、その上にキリスト教でもありえる
共産主義になるとマルキシズムはそうしたその国々の歴史と伝統を否定する、だから中国の文化革命のように歴史的なもの伝統的なものを破壊したのである
宗教とマルキシズムは対立するのである

●統一教会も韓国の民族主義として生まれた

なぜ韓国にキリスト教が普及したのか、その答えは一つではないにしろ韓国の置かれた立場が特殊であり韓国には中国人も多く住んでいて独立国ともなっていなかった
それで韓国人の独立を民族主義がキリスト教と結びついた、特に儒教で民族を国を治めていたがそれもなくなったとき余計にキリスト教に頼るようになった
それは戦後天皇を神として戦争した日本でもアメリカに負けると精神的支柱がなくなり
様々な新興宗教が勃興したのとにないる、その最たるものが創価だったのである
創価でも日蓮宗なのだから当然ナショナリズムと一体化するのである
ただなぜあれほど中国と一体化するのかその理由が良くわからない、中国で布教できるとは思えないからである、仏教系の・・団体が弾圧されているからだ

ともかく宗教が民族主義と結びつく、それがもともとの宗教ではない、宗教は国とかと関係なく個々人に神が現れ宿るものである、国に限定されないのである
ただその国の歴史と伝統を無視してはありえないのである、だからこそ内村鑑三が武士道キリスト教になり幕屋の手島郁郎が神道キリスト教にもなったし仏教とも一体化もするのであるそして日本は世界のあらゆる文化でも宗教でも入れる受け皿になったのである
だから神仏習合にもなった、でも仏教にしても日本に入ると先祖崇拝にもなった
ホトケとは先祖らしいからである、本来の仏教ではないのである

いづれにしろ統一教会の危険は韓国という国家がかかわり日本をキリスト教を使い支配しようとしたことである、その過程で日本人から金を巻き上げるものとしてカルト化したのである、こうして背後に国家がかかわると危険になる、そのために外国の宣教師でも内村鑑三は嫌い拒否したのである、つまり日本化した独自のキリスト教を主張したのである
信教の自由はそうした背後に国家がかかわり国家の意図がありかかわるとき危険になる
だからこういう点でも国家の独立を維持するには制限が必要になる
何らか日本の独立がいろいろ侵略されている、中国人が土地を買収しているのもそうであるそれはあからさまに目に見えるものとしてわかる、でも宗教とかなると目に見えてわからないことがありそこに宗教がかかわり庶民にも入ってくる

そうして精神的にも支配して国家自体がのっとられるともなる
また国家でも政治でも創価などによってのっとられる、現実に創価は統一教会のように
あらゆる権力のある場所に入り工作していたからである
それと同じことを統一教会がしていたのである、だからこれは警察でも公安でも政府でもとりしまべきだったとなる、でも議員でも票をとるために安易にかかわっていたのである参政党まで統一教会がかかわっていたことに驚くのである
統一教会のことなど忘れていたが実際は目に見えない形で日本の権力中枢に入りこんでいたのである

●普遍的思想、マルクス主義でも宗教でも民族主義は否定できなかった

民族主義はナショナリズムは否定できない、マルキシズムも普遍思想であり民族を越えたものとして世界を席巻した、でもその肝心のロシアがソビエト連邦が崩壊して結局ロシア民族主義になりウクライナと民族抗争していることでもわかる
またアメリカの民主主義も普遍思想であり民族を越えたものとして世界化した
でも民族そのものは否定できない、血は地でありその土地と結びついて民族がある
一方でイスラム圏となると砂漠であり遊牧民であり土地と結びつかなくても民族主義がある、従妹同士の結婚の風習があるというとき血の純潔を保つためだともなる

ともかくこの民族抗争は古代からあった、聖書で様々な民族がいて争っていた
そして最古の民族がユダヤ人なのである、でも今ではユダヤ人とはユダヤ教の集まりだとしている、なぜロシアにユダヤ人が多いのか、そしてウクライナでも多くゼレンスキー大統領がユダヤ人なのである、ユダヤ人でも別に一つではなく別れて分派しているのである宗教は普遍的なものであり民族を越えたものである、だからこそイスラム教がイスラム世界を作った、キリスト教がキリストがヨ−ロッパ中心にキリスト教圏を作った
でもロシアでも結局ソビエト連邦が崩壊して民族国家が残った、ロシア民族がロシアにもどったのである、そしてウクライナ人とロシア人が戦争している
それは民族抗争の継続なのである

ただアメリカとなると民族混交しているからそれを統一して融和するために民主主義が生まれた、この民主主義はやはり主義であり制度でもない、思想なのである、アメリカにはいろいろな人種の混交した多民族国家でありそれを一つにまとめるには民族主義ではできない、民主主義とはそれをまとめる普遍の思想でありマルキシズムとも同じである
民主主義はそういうものに思えない、でもやはり民主主義は多様な民族でも平等だという意識をもたせる主義だとういことである、法の下に平等だとかなる
人種で差別していたらまとまらないからである、そもそもアメリカは200年くらいで作られた国家でありそこに他の国のように長い歴史と伝統もない国である
そこでどうしてアイディンティティを作れるのかとなるとむずかしいのである
だから普遍的な思想が必要になる、でも宗教にしても多様だからそれでもまとまらない
一応キリスト教でまとまるとしてもイスラム教徒でもいるし多様になる
建国の精神としてはキリスト教である、清教徒でありピューリタンになる

そもそも民族主義という時何かとなるとそれは血縁だけではない、
血縁、精神、文化、伝統、言語、慣習、領土の一体化」としている
ここで大事なのは精神、文化である、民族が長い時間をかけて形成された歴史があり文化がある、文化というとき広範囲である、そこに身近なものとしてその風土から生まれた料理などある、これは意外と大事である、なぜなら料理はその国々の風土から生まれて体さえ作られてきたからである、それを無視することは体にも影響する
だから日本人が肉食になることは体にも影響する、あくまでも補足的なものとしてあればいいが主食になることは危険なのである、文化は普遍化できないからである
それでグロ−バル化とはハンバーグとかコカ・コーラとかで食の一様化にもなる
パン食でもそうである、バン食と肉食はあっている、ワインともあっているが日本食とは合わないとういことがある,イスラム圏で豚を食べないということは清潔さを維持するためだともなる、その国にとって禁止する食べ物がある、それも文化なのである
それは科学的に根拠がありそれを否定することは健康にも影響する

大量の穀物を育てる畑と大量の水を確保できる水路や川などが必要になります。イスラム教の発祥は中東(アラビア半島)です。乾燥した地域に適した家畜は牛、羊、ヤギなどの反芻動物の飼育が最適です。

豚は畑を耕す家畜にさえ利用できず、毛皮やミルクも取れませんから用途は食用のみです。家畜としての経済効果はとても悪いため、豚の食用文化が根付かなかったのかもしれません。

こういう理由がありその風土にマッチした食生活になる、また生で豚を食べていたことがあり食中毒になったので拒否したともある
こういうことが文化でありそれを否定することは体にも影響するから深刻なのである
だから文化は否定できないものであり普遍化できないししてはならないものである
普遍化というとき何でも普遍化できない、宗教でも普遍化であってもキリスト教でもその国々に伝わってその国の文化と合一して別なものとなる、ギリシャ正教からロシア正教でもその国と土地によって変化して土着するとなる
仏教でも中国の仏教と日本の仏教が違ったものとなって根付いたのと同じである
中国となると禅宗のように実用的なもの実践的なものとなたっ、韓国だと美的なものになった、日本でも仏教は違った日本的なものになったのである
インドだとそもそも仏教は空想的な面が多い、思念的になったのはやはり風土とか関係していた、インドは暑いから木陰で黙想したり座禅したりするのが合っているからである
つまり風土によって形成される文化があり普遍的宗教でも国々によって違ったものになるそれでグロ−バル化経済というのは経済中心主義であり国々の文化を破壊することがあり問題なのである、文化と精神は密接に関係しているからだ、経済中心主義のグロ−バル化は国々の文化精神を破壊するから危険だったのである
それで内村鑑三は武士道キリスト教になり手島郁郎の幕屋は神道宗教にもなったのである

●国家がカルト教団に乗っ取られる

戦後は民主主義で何でも自由だとなった、でも統一教会はカルト世界で認定されている
だから制限されている、でも日本では制限されていない、これも危険だった
あらゆることが自由ではありえない、そうしたら日本はいつの間に外国の支配下に入り
日本人としての自由もなくなる、外国に支配される国となる
アメリカに負けてからはアメリカの支配下になり日本の独立性は失われていた
その時日本人の心を失われたのである
信教の自由はある、でもそれが組織団体化して権力化して権力奪取とか目的にするとなるとそれが許されるのか、規制しなければならないことは確かである
でも統一教会に公安委員長とかがかかわっていたのである
まさにこれこそもう日本の国自体が韓国にでも売りわたしていたともなる
日本自体がこれほど統一教会に侵食されていたことの驚きである

それを明らかにしたのが山上だったということはこれは私怨だけでかたづけられないものになった、その闇が明るみに出されたからである、参政党もかかわっていたことはもうあらゆる政党にかかわっていたということである
日本の政治家そのものもが日本の守るともなっていなかった、それは公安とか国家権力の警察でもそうだったということは深刻である
日本はこれから国家存亡の危機になるのではないか、内外ともに大きな変化がきていて日本もまきこまれる、こういうとき国家自体がすでに外国勢力に侵略されていたとなる
中国の手先になっているのが創価であり自民党が統一教会でありまた創価と一体となり政権を維持している、そして阿部前首相を国葬とすることに公明党は賛成している
外国勢力と一体化したカルト教団が支えているのが自民党だとなる
ただ参政党もそうだとなるともはや日本独立の政党はないともなる
だから何かあれば世界争乱があれば日本は容易に外国に支配される
すでにアメリカの支配下にあるしまた今度は中国の支配下にもなる
こうなると明治維新を成した日本は独立していたしアジアで唯一の国だったからこの時代の方が国家は独立していてむしろアジアの先頭に立っていたのである
だから精神的には高揚したものがあったとふりかえる

日本がアメリカに負けて高度成長時代があったときアメリカに勝ったとか言われた
でもそれは一時の夢として失われた、失われた30年があり日本は経済でも低迷しているそして日本人は自信を失い、精神的にも独立はなくモラル的にも荒廃している
カルト宗教団体が内外から侵食されてそれらは日本国民を食い物にするものだった
創価は中国に国を売りわたす一部隊だし自民党は韓国に統一教会に侵食されて売りわたすともなる、つまた日本はアメリカの属国になりまた韓国であれ朝鮮半島にも侵食される
独立を失ってゆく、その時日本は物質的だけではない精神的属国になっていたしなってゆく、だから日本存亡の危機になっているのである
それは物質的だけではない精神的にもそうなっているのである

2022年07月18日

宗教が政治化、経済化、科学化、大衆化で本来の意義が失われた (グロ−バル化も制限が必要ータブーを破ることは危険)


宗教が政治化、経済化、科学化、大衆化で本来の意義が失われた

(グロ−バル化も制限が必要ータブーを破ることは危険)

●宗教もカルトは制限すべき

比叡山は多くの現代仏教の揺籃になっています。浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)、日蓮宗(日蓮)、時宗(一遍)の創始者は比叡山で修業をして、新しい仏教思想を発想しました。

統一教会でも創価でも幸福の科学でもこれらはやはり現代を象徴していたのである
それらは本来の宗教とはまるで違ったものとなった
シャカが岩窟で悟りを菩提樹の下で座禅を組んで悟りを開いたとかが起源としてある
でも現代の宗教はあまりにも政治化、経済化(御利益)、科学化、大衆化してしまった
オウムとかでも科学社会だから科学者が集まり異様なカルト集団になった
幸福の科学というのもそうである
つまり現代社会文明に適応するものとしてそうなったのである
大衆化というとき選挙の宗教となった創価がそうである、完全に政教一致となり選挙で
力を持ち権力を得る、利権を得る、御利益を得る経済第一の宗教である
それは団地から生まれた宗教だから互助会としてあれば問題なかったが日本の権力を得て御利益利権を得る危険な団体になった

そもそも都会から生まれる宗教は異常である、東京のような大都会に神は顕れようがないからだ、神は清浄な世界に住む、だからこそ砂漠に神がエホバが現れたのである
偶像に満ちている場所には現れなかったのである
また仏教でも本来は世俗から離れた場所で修行していたのである
天台宗がその起りであり山岳宗教であった、山を聖なるものとして修行していたのであるそこに政治とか経済とか衆人とかとは離脱した場所としてあった
モーゼがシナイ山で啓示を受けたのもそうである、山は神聖な場としてあったからだ

今の宗教はそういうものは全くない、完全に政治化して経済化して利権化して大衆化して世俗化した宗教とはまるで違ったものになっている
だからこそ統一教会は韓国によって日本を支配する機関として作られていたのである
政治化した一団体なのである、日本は戦後余りにも自由になりすぎたのである
戦前の天皇を神とすることでその反省からあらゆるものを自由にしたのである
民主主義といってもそれはただ自由に個々であれ団体組織であれ権利を要求する自由でありそこに責任とか義務などはない、自由とは無制限にありえないのである
もしそうなったらどうなるのか?あらゆるものが自由でありあらゆることが許されるともなる、信教の自由でもそうである、オウムも信教の自由を盾に抑えることもできなくなったのである、民主主義からナチスが生まれたように日本でもそうなる
本来の宗教とは何かということが問われることも何もない、宗教だといえば誰も何も言えなくなり宗教を逸脱したことでも容認される、それが社会を歪めて恐ろしいことになる
ナチスとなってゆくのである
宗教を逸脱していても創価のように数を集めると通るのが民主主義だからである
そうしてナチスのようになり膨大な人間が死んでゆくともなる

●無制限の自由は危険

人間には制限が必要だ!

人間は個々人でも自らでも制限する、節制するとか必ず必要なのである、そうなれば欲が無制限に追求されて歯止がかからなくなる、だから宗教とはそうした人間の限りない欲に制限する節制することで修行したりしていたのである
現代の宗教は大衆宗教はあらゆる欲が是認されむしろ欲望を強くもつことがエネルギーがあることとして祈っているのである
それはまさに資本主義社会に適合したものとなっている
ただウェバーが修道院から資本主義が生まれたというとき資本蓄積してそれを他者への慈善として行うとなり宗教的行為として生まれた
その見方もある、そもそもキリスト教はローマ帝国が容認したとき変貌したのである
カトリックが政治化したのである、組織集団化して教会が地域でも国でも支配する体制ができたのである、つまり宗教でも常に政治化することがありそれがローマ帝国が容認したことでそうなった、だからこそその権力があらゆるところに根を張り支配した
それに反発してルターの宗教改革があった、プロテスタントが生まれたのである
そのカトリックの圧力が余りにも大きいからこそプロテスタントに抗議するということになった

宗教でもどうしても世俗から離れてありえない、そこで政治化して経済化する、日々の活動は経済の活動とするとそれから逃れられないのである
でもそうなるとその巨大な経済活動に宗教はのみこまれる、もう世俗と何ら変わりない物となる、むしろ世俗よりも世俗的な場所が今の宗教団体とかなのである
そうでなければあんなに人が集まらない、山の中で修行しろなどと言ったら集まらないからた、そこであらゆる欲は是認されるしそれより奨励される、目的は誰でもいいから人を集めて権力化することである、会員一人集まれば貧乏人でも実際は力となる
買物するにしても一人だけより十人買うとなると店でもその十人を相手にして考慮するからである、一人は経済的には相手にされないのである

だからこの世ではそうしてもう数で決まる時、それが権力となるから権力から離脱することは不可能だとなる、10人集まれば権力になる、それでそれが正義でなくても通るのである、赤信号みんなで渡ればこわくないとなる、それが民主主義であり多数決なのであるそこからナチスが生まれたのである、こうして現代は大衆に席巻される時代である
大衆によってあらゆるものか消耗されるのである
カルト宗教などでもそうである、大衆化して本来の宗教は何もない、日々の経済活動であり御利益もうけ活動である、選挙となるとそれが最大の目的となるのは権力と直結しているからにすぎない、その権力を得ることで得するからしているだけである

だから現代社会では文明では宗教はもうない、ただ社会から組織集団から離れた場にあるそれは誰も注意もしない、認めない、アウトサイダーになるのである
人間が認めるのはすべて世俗的なことであり世俗から離れた価値は無なのである
それで天台宗というときそれが山岳宗教というとき世俗から離れて修行する場としてあったからそれが本来の宗教の場としてあったとなる
砂漠にエホバが唯一の神が現れたように山は聖なる場でありそこに神が宿るともなるからである、そこで六根清浄とか修行する山伏でもその方が本来の宗教だった
今の宗教団体などではそういう心を浄めるなど関係ないからである
ただ御利益利権を求めるだけだからである
ただ世俗の欲望の力は強力だからそれにとりこまれて本来の宗教は何もなくなったのである

●グロ−バル化も制限するようになる

また制限されるというときグローバル化も無制限思想なのである
ヒト、モノでも自由に往き来し国境をなくすことであり国というものも無くす、そこで世界で力をもつものは支配する者は多国籍企業であり国ではないとなる
現実今世界の経済を支配しているのは極一部のアメリカの特権階級だとされる
それは陰謀論になるにしろグロ−バル化とは世界から富を収奪することであり極一部のものが莫大な利益を得るシステムなのである
それは統計的にも立証されている、何パーセントの人たちが世界の富を収奪しているのである、グロ−バル化とはまた生態系とか風土を無視したものであり文化を破壊する
食文化でも破壊する、今大陸の平原とかで大量の麦が作られている
でもそこでは鉄分が不足するとして国で鉄分の供給をしているという
これは何を意味しているのか?大地で大量生産することで何から鉄分でも養分がとれないだから大量一律生産が必ずしもいいものとならない、それはやはり自然に反するものだからそうなる

コロナ禍やウクライナ危機だと思います。消費者としてできることは、国産を選ぶことです。自宅で調理したり、お米や米粉パンなどを食べたり。コロナ危機で、米国の政府は農家から農産物を買い上げて所得の低い人たちに配給し、農産物価格を下落させませんでした。日本も生産者と消費者を支えるために、何をしたらいいか考える必要があります。農業や畜産は大規模化で、多額の投資をしないとできない、リスクが高いビジネスになりました。小規模な家族経営が結局、環境問題や地域の活性化にとっても最適だということで、国連は持続可能な社会のカギになるとしています。国も方向転換を始めています。

小規模な家族経営が結局、環境問題や地域の活性化にとっても最適だということで、国連は持続可能な社会のカギになるとしています

これも自国内で食料をまかなうという方向転換である、つまり食糧の大量生産や外国に頼ることは危険にもなる、外国からコロナウィルスとかで入ってこなくなったからである
そもそもコロナウィルスでもなぜ世界にたちまち拡散したのか?
それはタブーとなるものが制限されず入ってはならいな領域に人間がずかずか入りこんだからである
人間に犯ししてはならないものがある、自然の聖域がある、それを無視して入り込んだ結果未知のウィルスが一挙に交通の発達したグロ−バル化で拡散したのである
生態系を破壊したのである、この辺の原発事故でもそうである
やはり核を破壊するということは自然界の神の領域に入り人間の手で操作することに危険があった、もし人間は万能ならしてもいいがそこまで知り得ないものがまだまだある
だから科学者でもそんな危険なことをするべきではなかったと反省しているのである
つまり科学が今度は宗教のようになったとき科学が万能となり科学者が神官になったのである、でももろくも津波によって崩壊したともなる

ともかく人間は常にタブーを破ってきた存在である、動植物は人間のようにタブーを破れない、神の作った世界で制限されて生きている、だから自然を破壊しないのである
人間はそのタブーを破る力がありでもそこから災いが生まれて来たのである
技(わざ)はわざわいだからである
いづれにしろ原発事故であれコロナウィルスとか一連のものは関連している
それは人間が何かしら神がタブーとしたものを破ったことから起きているのだ
だから人間社会には制限が必要でありタブーが必要であり越えてはならないものがある
国境も必要でありその中でアイディンティティを作ってゆく、無制限ではないのである
グロ−バル化とかなんでも無制限になったがそれは自然の生態系でも破壊するし国々の文化も破壊する、そこに制限が必要なのである

そもそも人間はアダムが食べるなと禁止された知恵の実のリンゴを食べてすべての災いがもたらされた,原罪をもつようになった
それだけではない神話でも常に人間が何々するなということを犯して災いがもたらされたのである、タブーを破った結果として災いがもたらされたのである
それが人間の宿命となり今日までつづいている、科学でもやはり行き過ぎたものとなりタブーを破るからそこに思わぬ落とし穴があり危険が生まれ災いが生まれる
それが人間の宿命だともなる、アダムが知恵の実を食べた結果として禁制を破った結果として人間の災いが起きて消えることがないとなっているからだ



山上の湖

厳しく山はそそり立ち
不浄をよせつけぬ
山上の湖は透明度を増す
その湖に映すものは何か
星々がダイヤモンドのようにきらめく
堅く結ばれて輝きぬ
山々はさらに厳しくそそり立ち
神は天より見下ろしぬ
神は不浄を拒絶する
人は安易にけがれ汚れてゆく
汝は不浄の下界に降りるなかれ
衆人と語るもの無益なり
衆より離れて清浄圏に住め
そこで巌のように堅くあれ
醜き人の入るべからじ
巌と氷雪の屹立した孤立圏
そこに神の厳格なる座のあり
そこで塵も雪となり凍てりつく
一切の不浄は拒絶されて
そこに至高のものを仰ぎ見る



2022年07月16日

宗教とは何なのかー個々人のカルマは集団組織で解決しない (カルマは個々人が苦しまない限り解決しない)


宗教とは何なのかー個々人のカルマは集団組織で解決しない

(カルマは個々人が苦しまない限り解決しない)

宗教と政治の問題を私は創価のかかわりで考えてきた
必ず信教の自由を言う、これを盾にカルト宗教団体は政治化しても国会議員まで出してもいいとなる、そもそも宗教とは何かということが明確にされていないのである
何を信じるか勝手だして信じなくても無宗教でも自由だとなる
常に自由が強調される、それが戦後民主主義である
自由には義務とか責任がともなうがそれは無視される
でも必ず自由にも責任が問われる、なんでも発言していい反対してもいい自由だとはなるではその発言に責任がとれまのかとなるとない
そして必ず人間は責任をとらされるようにできている
ナチスでもそうであり日本の戦争でも別なものにしても何百万人も死んだのである
それが戦争をすすめた国民の責任だったのである

だから別に一人の言うことなど責任がないようで必ず責任をとらされるのがこの世であるただ責任というとき権力をもったものが一番責任をとらされる
権力を行使できる立場の人が一番責任をとらされるのである
だから権力を得たいとしてもその責任は重すぎるから江戸時代でも庶民は切腹されるからとして侍になりたくなかったのである
民主主義は無責任社会である、でも責任は誰かがとらされる、原発事故では地元の人が故郷に住めなくなった、それも地元の人が全部ではないにしろ責任をとらされたのである
責任は政府と東電にあった、それから国民全部にもあった
原発は政府の方針で作られたからである
今電力不足でまた原発が稼働される、でもまた事故になったら誰が責任をとるのかとなるの責任を自覚してするのならいいがつまり事故になったら切腹するような責任を自覚してするならいいが実際は責任を幹部でも政府関係者でもとらない
でも戦争で3百万人死んだように必ず国民が責任をとらされるのである

戦後の民主主義はあらゆることが自由でありあらゆることに権利を主張した
でも責任とか義務とかはないがしろにされた
ただ自由とは自分の利益を得る自由でありそれにともなう権利は無視されたのである
原発事故でも地元の人は利益を得ることを望んだ、それはいいとしてもやはり責任が課せられていた、原発は危険なものでありその危険を無視して利益に走った
だから責任があった、ただ一番責任があるのは権力を持っいるものだった
原子力村を作って真実を教えない人達だったとなる

宗教の問題でも戦後は戦争がありそれで思想と信教の自由とかがなく国家権力が絶大であり従うほかなくその反動として民主主義が自由だとして生まれたものである
その宗教はカルト宗教であり本来の宗教とはまるで違ったものとなった
でも宗教だからといって常に信教の自由を否定するのかとなり認めてきた
それが災いとなったのが統一教会だったのである
韓国でも世界でもカルトと認め制限しているのに日本だけがしていなかったのである
日本はそれだけ何でも自由な国となっていたのである

そもそも宗教とは何かもわからなくなっていた、もともと日本人に宗教心がない、あるのは常に御利益しかない、それは神社で賽銭をなげて御利益を得ると同じである
創価でも他でも似たり寄ったりであり本来の信仰心などないのである
それが小規模ならいいが創価とか他のカルト教団でも巨大化するとどうなるのか?
国会議員になり公的機関に警察であれ自衛隊であれ役所であれ入り込み権力を得ようと工作する、また学校の先生にもいてその権力を拡大してゆく
日本の国家権力を収奪するために日々運動している、なぜそういう団体が創価などでもあからさまにしているのに制限できないのである
統一教会とかなると韓国が日本を支配するための機関でもあった
なぜな公安委員長が統一教会を支持する会の宣言役にもなっていたからである

信教の自由はある、でもその自由が権力を持つときどうなるのか?

創価てあれカルト教団は御利益を得るために祈る、だから何か御利益があるとき仏からでも神からでも福運をさずかったとしてさらに信仰することになる
つまりますます何か欲望をかなえたことで信仰が強情なものになる
創価だと議員になったりすると最大の信仰の御利益となりそれが信仰となるから強情になる、でもこの世の御利益が得られないとなるとどうなるのか?
信仰しても無駄だ何も利益が得られないとして捨てることにもなる
もちろん人間は苦しい時があるからなんとかしたいとなり宗教団体に入って解決したいともなる、でもカルト宗教団体はそうした人達の問題を解決できるのかとなるとできない
むしろそういう困窮した人達を利用して自分たちの権力を拡大することをもくろんでいるのである

人間の問題は余りにも複雑すぎるのである、簡単に一様に問題を解決できないのである
何か一人くらいは相談にのれる、でももう三人でも金に困ったとかいろいろな困りごとを相談されても解決できない、ましてや百人とか何千人とか何百万人なったらもう解決できない、だから創価などはただ困った人でも一票としてしか見ない
それで議員になる人がいてその人は得するだけだとなる、他でも集団化して問題を解決しようとしても簡単にできないのである
集団化して解決しようとするときそれは政治になる、でも政治でこの世の問題すべて解決できないのである
第一政治家自体が自分の利益しか考えていない、権力を得て得することしか考えていないのである、だから政治家自らが言っている、選挙のときは頭を下げてお願いするが後は関係ない、自分が得することだと自ら言っている、政治家とはそんなものなのである
でたも困った人は何かそういう巨大な集団になればみんな仲間であり助けてくれとは妄想する、だから苦しい時はそういうカルト宗教団体にでもとりこまれるのである
統一教会でもそうだった、財産がまきあげられたとなる

要するにそもそも人間は苦しみから逃れられない、そして人間は個々人でカルマをもっている、課せられている、そのカルマも個々人で違っているのである
そのカルマを解消するために個々人で別々にその苦しみを解消するほかないとなる
それは意外かもしれないが金持ちでもカルマをもっていて苦しむのである
その金のために苦しむことがある、遺産で兄弟が骨肉の争いとなることもあるし
私のように金が盗まれたりその金が災いになったりする
その金に何か悪いカルマとなり苦しめられることがあるのだ
そのカルマは集団的に解決できない、それぞれのカルマは違っているし個々に苦しんで解消するほかないのである、それで自分は二人の女性お親がいて介護で死ぬほどの苦しみを受けたのである、それが恵まれた自分のカルマだったと自覚した
何か不安だったがそれが現実化したとき過酷なものだった
でもなんとかきりぬけたとはなる

それぞれの運命は宿命は違っていてこれを一様化して集団組織では解決しない
なぜなら人間の運命とか宿命とか不可解だからである
だから財産がfortuneが運命という意味があったのはそのためである
それぞれの運命は不可解である、兄弟でも姉妹でも不可解である
全く違った人生にもなるからである、それも不可解なのである
ただ一生楽では人間は終わらない、必ずどこかで苦しむようにできている
それはカルマだとなる、それを集団組織では解決できない、なぜならそれぞれのカルマが一様ではないしその宿命とか運命でも違っているからである
それは不可解なのである、だから仏教でもカルマ論が生まれたとなる
生前の行いが関係しているとかまでなる、それは人間の個々の運命とか余りにも不可解だからである
だから例え恵まれた人でもカルマをもち苦しむことになるのである

だからカルト教団であれ集団組織に入り問題は解決しない、それはかえって統一教会であれ利用されるだけだとなる、苦しい時はどうしても助けてもらいたいとなりそういう団体に入るのである、でも実際は利用されるだけだとなる
それより自分のカルマを自覚することだともなる
なぜ今その人が苦しんでいるのか?それはやはりカルマが関係している
その人は私の家では援助した、それは親同士であったがその子にもカルマとなっていた
親が世話になりその子も世話になったのだからそれがカルマとなっていたが自覚できなかったから無関心となっていた、そして今自らがそのカルマのために苦しんでいるのかともなる,カルマとは意外と自覚できないのである、ただ苦しむとなぜ自分はこんなに苦しむのかとなり自覚するのである、それ意外で自覚できないのである
親の因果が子に報いというのは本当である、私自身がそれを苦しみで自覚した
もう死ぬほどの苦しみだった、それもカルマだったと自覚したのである

この世には経済的不平等とか他にも生まれつきの問題もある、才能にしろ生まれつきでありいくら努力してもそもそも才能がなかったらどうにもならない
また体力でもそうである、生まれつきなのである、私は体力がない、だから他の人を見て大工さんでも建築関係でも体力がある人がうらやましいとなる
そういうことでもみんな一様ではない、そもそもだから人間を数式のように解決できないのである、集団組織化して解決できないのである、個々に問題が違っているからである
それに対応できない、人間が相談にのれるのはせいぜい二三人だとかなる
キリストでも二三人いる所に私がいると言った
それが何百万人になったらそれはただ苦しむことでも利用されるだけである
個々に対応などできないからである、だからマルクスの理論はそうした個々の運命を無視しているから結局かえって不平等にもなってしまったのである
極一部の人が権力を一人じめして兆もの金を手に入れてめかけを十人もったとか報告されている

運命とは個々にめぐりめぐってゆく、金も天下の回りものであり個々にめぐってゆく
一か所には留まらないのである、だから今貧乏で苦しんでもいつか個々にめぐりめぐって金でも回ってくることがある、今苦しんていてもいつか苦しみも解消して楽になることがある,恵みはめぐるのである、ただ悪いカルマもめぐるのである
阿部前首相が殺されたのもカルマを作っていてそれがめぐりめぐってそうなったのである統一教会を支持していた、その統一教会で苦しんでいた人がいたがそれを無視していたとなる、何かそういうものがめぐりめぐって殺されたとなる
犯罪にあうとき意外と他人の悪いカルマを受けてそうなる
いろいろな災厄に私自身がそうなったのも他人のカルマを受けたからである
他人のカルマを受けることは怖い、また結婚したりすると必ず結婚した相手の家族のカルマを必ず受けるから怖いのである、それは逃れようがないからである
このカルマはそれぞれ苦しまない限り解決しない、集団組織では解決できないのである
それぞれの罪だって集団組織で解決できない、個々人によってしか解決しない
だから組織集団は幻想共同体だともなる、何か個々人で苦しむとそういう団体で助けてくれると妄想してしまうのである
そして利用されて金でもまきあげられるだけだとなってしまうのである

運はめぐり回る
金も天下の回りもの
いつかあなたにも運が回ってくる
その時まで耐えなさい
一挙に問題は解決しない
神の配剤がある
あなたは幻想を見てはいけない
集団組織ではカルマは解消しない
個々の苦しみがあり
個々に解決するほかない
運はめぐりめぐってゆく
運が開ける日を待ちなさい
・・・・

こうなるがなかなか待つということがむずかしいのである
そこで苦しい時変な方向に向かって行くのてある


2022年07月13日

人間の価値とは何なのか (天職−適職を見出した人は価値があるー金ではすべて計れない価値)


人間の価値とは何なのか

(天職−適職を見出した人は価値があるー金ではすべて計れない価値)

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●大工の技をみがき価値となる

人間の価値を見る時、何を見るのか?
どれだけ金を稼いだとかで見るのか?
でも人間の価値は金ですべてを計れない、もし金ですべてを計れば巨額の遺産を残した人が金を残した人が価値ある人となるからだ

大工さんを例にとればその価値は大工という技術を身につけたことにあった
その人は庭作りもできるたし壁塗りとか家作りに関する多様なことができたので特に価値があった、でもその人は他にも器用だからいろいろな仕事をしている
それは評価できないのである、でもそれで金を稼いだことは確かなのである
立派な家建てたりしたのも大工意外の仕事をしたからだとなる
ただその仕事は水商売であり評価できるものではなかった

そして最後に老人となってその人が何が価値あるか判明した
それはその人の大工としての技量でありまた庭作りできる技量だったとなる
確かにその人は他でも稼ぐ人だから高価な車も買った、それをみせびらかしたりした
でもそういう車を持っているからはその人の価値とはなっていない
立派な家を建てたとしてもそれがその人の価値となるとは限らない
私自身も家のことを延々と書いたが他者にとってはそれが価値とは必ずしもならない
親から家を受け継いだ子供にとっては価値があるとはなる

エッセンシャルワーカーとか言われたがエッセンシャルバリューとなるものが何か老人になって判明した、それは15歳から大工の修行をしてその技を磨いてきたことである
そこにエッセンシャルバリューが生まれたのである
その他のことは確かに金になっても価値にはならなかった
その人は体付きからしてまるで大工になるために生まれたように見えたのである
私自身は体力がないからうらやましいと見ていたのである
体の造りからして違うなと見ていたのである
大工とか建築関係になるとどうしても体力が必要なのである
重い庭の石を動かそうとした時はびっくりしたのである
どこでも比べ石とかが文化遺産として残されている
それは機械がない時代は力があることで一人前とされていたからである

●天職適職につくことの困難

ともかく人間の価値は多様であり人間には天職があるというのもわかる
生まれつき大工のような人はその人は修行したにしろみんながなれるとは思えないからである、その人の天職だと見た、そういう人はいろいろな分野でいる
医者でも農民でもいる、農民になるのも相当に自然に通じていないとてきない
みんなが農業で成功することもない、そこに篤農家が生れ指導するものとなる
漁師などもそうだろう、やはり天職というものがある、そういうふうに自分の特質を活かした人はその価値が認められる、価値ある人間となる
ただ俺たちは社畜なんだよなとか常に言っている会社員はそうなっていないのである
ではこうして天職についている人がどれだけいるかとなると相当に少ないだろう
たいがい会社員というとき集団で仕事しているのだからその仕事がわかりにくいこともある、江戸時代とか戦前でも職人の時代は天職が見えたとはなる

まず人間が仕事するとき金をどれだけ稼ぐかが問題になる、給料をまずみる、その仕事が自分にあった天職なのかとか見ない、また自分のことがわからないから自分にあった仕事をすることにならない、だから会社をやめる人が多くニートが引きこもりが多くなったのである、私自身もそうだったからである
天職とかでなくても何かその人にあった職につけないのである
私自身は奇妙だがこうしてプログであれ文章を書いているのが自分にあっているとつくづく思った、人前でしゃべることが苦手だからである
それをたまたまインタ−ネットという技術が生まれてできたとなる

いづれにしろ人間がどう生きるかというときどういう仕事につくかするかが大きな問題になる、大方が社畜として生きるとなれば大きな問題になる、でも現実はたいがい会社員になるのだからそうなる、その会社でも自分にあった仕事をして生きがいを見出して評価されればいいがそれがないとしたらその価値はないともなる
そうしたら人生そのものが無意味になる
人間が死ぬとその価値が必ず問われる、死ぬと公正に評価される、それで阿部前首相が
突然の死で問われる、意外と世界から評価されていたとなる
これもなかなかわかりにくい、阿部前首相は絶えず批判されていたからである
逆に外国に金を使いすぎたとして批判されていたのである
そもそも政治家の価値というのもわかりにくいのである、阿部前首相は死んだのでその政治家としての価値が問われ評価されたとなる
でもその評価もいろいろあるからわかりにくいのである

●金にまどわされて本来の価値を見失う

人間の問題はあまりにも金にまどわされる、金しか価値が見えないのである
でも金で計られない価値も多くそれがエッセンシャルな価値となる
それがその人を本当に評価されるべきものだと判明する
とにかく人間の価値でも老人になると自ずと判明してくるのである
だから金だけを求めて生きる仕事するとなるとその人の価値を作れないとなる
立派な家を作り高価な車を買ったとしてもそれが価値とならない
他者にとってはならない、他者にとっては家を建てるにしても修理するにしてもその大工の技を見て価値を見るからである

芸術家とかになると学者とかなるとその作品とか論文で価値をみる、だからわかりやすいその他の職業の人の価値は余りにも多様でわかりにくいのが現代なのである
それは大きな会社で働いているから個々の価値が見えないからだともなる
車でも昔の職人のようにとても一人で作れるものではないからである
その部品の数も多いし総合的に人間の技が結集したものとして作られるからである
最近ヤマハからでた電動自転車のWABASH RTはヤマハの電動自転車が開発した最高傑作である、それは40万以上でも価値がある評判である
これを買おうと思ったけどもう買えない、いつできるかわからないというからだ
前もコロナウィルス騒ぎとかで部品がないとか半導体不足とかで人気商品が作れない
買えない事態になっている、それはバイクでも二月に注文して一〇月に買えたとかなっている、今物が買えない、こういうことは経験していない、それが残念なのである
でもこの自転車にしても誰か一人が作ったものではない、ヤマハの社員が総合的に力を発揮して作った、三人くらい設計した人が出ていたがやはり会社で総合的に作ったものである、だから昔のように一人の職人が作ったものとして評価するものではなくなっている

人間はやはり仕事が大事である、金になる金にならないとかでなくその人に合ったもの
天職とか大げさなものでなくてもその仕事についたらその人の価値が作れる
ただ複雑多様化した現代ではそうした仕事につくことがむずかしい
みんな不如意な仕事についているのである、だから不満が多いのである
今回阿部前首相を銃殺した人も能力はかなりあったがそれに見合った仕事につけなかったその不満が阿部前首相にぶつけられたともなる、もしその人なりに合った仕事についていればいくらカルト宗教団体に財産を奪われたかあってもそうはならなかった
ただ氷河期世代とかはまともな職につけなかった人達であり不遇だったとなる

●人間は無駄に時間を使いすぎるーそして本来の価値を見失う

では私の天職とは何のか?生涯無職であり旅が仕事でもあった、でもいろいろと探求はしてきた、その成果を今出している、こうしてプログとかインタ−ネットで表現している
それが天職だったともある、ただこうして書いても創作しても現実的には金では一切評価されていない、だから何の価値があったとかされるだろう
でも金ですべては計れないのである、芸術とかなると特にそうである、価値が計りにくいのである、実業の世界だったら計り安いが芸術とかなると計りにくい
だから現実は画家でも芸術家になると金にならず悲惨な生活になったのである

自分は家族に恵まれてそうならなかっただけである、金のためにしたことはないからである、自分の好きなことをしてきただけだからである
ただそこにも相当なマイナスがあり失敗したとなる
結局後悔しない人生はない、それは人生が余りにも短すぎるからである
何か試しているだけで終わっている、何かになろうとして試すことすらできないのが現実社会なのである
だから昔だと職人になるには一八才では遅い、物にならないとして断られたということでもわかる、早いうちから訓練しないと物にならないのである
このように人間は時間がたちまち過ぎる、そしてみんな老人になり後悔しない人はいないのである
「若き内に神を知れ」とかでもそうである、早いうちに求道していないと老人になると神を知ることはできなくなる
若い時仕事を覚えて精進せよともなる、若いうちから学問でも志せとかなる、少年老い易く学成り難しとなるからである

結局人間は無駄が多い、時間の無駄が多すぎるのである、それは私はこうなりたいとかこういう仕事をしたいとかないからだともなる
またそう思っても誰でも医者にはなれないし自分の思うような仕事にはつけない
それで私のように仕事につけず旅ばかりするようになった
でもその時間は無駄ではなかった、そこで見聞を広め地理とか風土に興味をもったからである、そこから学問でも芸術にも興味をもったとなるからだ

要するに人間は天職につけといってもできない、ただ天職についた人はまれにいる
この人は大工が天職なのだなとか、医者に接してもこの人は医者が天職なのだなとか
この人は陶芸とか天職なのだなとかある、でも大方は天職を見いだせず終わっているともなる、それよりロボットのような仕事をさせられるのが現実であり多いとなる
私が経験した仕事が流れ作業だったということでもそうである
何か自分にあった適した仕事につくことは普通はできない、そのためにニートとか引きこもりが今多くなるのは理解できる、そんなことは贅沢だとなるがやはり自分にあった適職がなかなかない、そもそも人間は食べるために仕事しているともなる
天職とか適職は極一部の人しかないともなる

ただ自分の適職天職を見出した人は接していても価値を感じる、その人の価値を感じる
そしてその人はその仕事に満足するとなる、でもその適職でも天職でも必ずしも金になるとは限らない、とはいえ金の多寡ですべての価値は計れないのである
結局例え金になったとしてもその人の天職、適職でなかったもので稼いでもその人の価値にはならない、エッセンシャルバリューにはならないのである
とにかくどうしたら自分の価値を作れるのかそれが人生の初めから若い時から作っていかないと後悔する、大工でも昔なら戦前でも江戸時代でも一三歳からでも修行していないと物にならないとなっていたからである
理系はいいとして文系などは大学すら何も身に着かない、むしろ職人として大工であれそれを見習った方が技が身につくからいいとなる
文系の大学だと何ら社会で生活するものが身につかないのである
その貴重な四年間を浪費するのも大損だったともなる、そういう時間をとりもどせないからである、それで退職してから勉強したいと大学に行く人もでてきているのもわかる
つまりいかに人間はいかに貴重な時間を無駄にしていることを痛切に感じるからそうなるのである


2022年06月30日

流動性知能と結晶性知能 (老人は経験でも知識でも結晶してゆく―万物の霊長としての人間)


流動性知能と結晶性知能

(老人は経験でも知識でも結晶してゆく―万物の霊長としての人間)

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この言葉がいい、結晶してゆくとはこれまでの経験知識でもまるで原子が多様に結合するように明確になりまさに結晶してゆく
そればどうしても若い時はできない、自分自身でも不思議に思えるのは本が千冊あったとしてもそれを読んでも忘れていた、でもその本の内容を深く理解して自分の文脈の中で解説したり表現できるようになった
洞察力とか考察力とかがついてきて何事深く理解できるようになった
それでそうして集めた本を読み直して引用できる
ただ本を集めただけだともなるがそれも無駄だとはならなかった
本とはその人の一生とかを語るものがある、なぜなら最近読み直した本の著者すでに死んでいる人が多くなっているからだ

となるとこの世に残した物は本でありそこにその人の人生が凝縮されて結晶したものだともなる、第一もう死んだ人とは直接会えないからだ
そもそも直接会える人は少ない、本を読んだとしてもその著者と逢うことはないからである、でも人間はたちまち死ぬ、すると何を残すのかとなる、その人と逢うことはないし
また生きていた時でもその人を知ることはむずかしい
そして死ぬと何が残るかとなると本とか何か作品だとなる

そもそも知識でも天文学的に膨大でありそのほんの一部しか理解できない
また経験するにしても極わずかしかできない、そこにどうしても偏りが生まれる
専門家でも象牙の塔にこもり何か世間離れしているとか弁護士とかでもむずかしい法律の理論をふりまわして煙にまくとかなる
膨大な天文学的知識がそれぞれ専門家して互いに通じあわなくなっているのも現代であるおそらくヨ−ロッパの中世社会とかだと社会全体があって石の大聖堂がありバッハのパイプオルガンがその大聖堂にひびきわたる、絵画でも部分化したものではなく大聖堂の中で活かされる、社会が一つの有機体としてあり結合していて分離できないものとして一体としてあることで人々は深い連関性をもって生きていた
それが部分化してばらばらになったのが現代である
田舎ですら一万くらいの町でも隣の人が何をしているのかわからないということがある
職業も多岐に分化して広域化してグロ−バル化して互いに意思疎通ができなっている
言葉が通じないという時、バベルの塔と同じである、文明はバベルの塔であり互いに専門家して言葉が通じなくなったともなる
理系とかなると複雑であり文系と分化して互いに意思疎通ができなくなっている

そこでどうしても現代社会は一体感をもつためにナチスのような全体主義、ファシズムになる、共産主義も全体主義として変わらないし人間を一様なものとして見るからである
カルト教団なども全体主義であり個々の人間には関心がない、その人がどんな人なのか
そんなことは考慮しない、どんな人でも一票としてかカウントしない、様々な属性は無視されるのである、一人の人間でも様々な属性がある、単純なものでは男女でもそうである男という属性があり女という属性がありそれは相当に違っている
でも一票にしたら同じ一票だとなってしまうのである
つまり民主主義自体が人間を統計的数字としてみているのでありその人の持っている属性など関係ない、一人の人間のもっている属性は多様でもそれは無視される
地域の属性も大きな属性であり、どこに生まれ住んでいるかでその人か基本的に形成されるからである、年齢の属性もある、世代間でも考え方は違ってくる

ともかく老人になるとこれまで蓄積した知識であれ経験であれ結晶して来る
一見無駄に思えた雑学的知識でも深く理解して結晶してゆく
知識とは膨大だから個々人によって貯えた知識も違っているのである
それが最後にその人なりのものとして結晶する、ただカルト教団とか組織団体でも会社でも社蓄とかなっているとそれはその人なり知識とならず知恵とならず表現ともならないとなる、共産党でも個々人は細胞という、創価でももうそこには個人としての生はない
だから全体主義は違っているようで同じ性質があり似通っているのである
マルクス主義も全体主義だからである、個々の人間はみない、経済人間としてしか見ないからである、政治化すれば人間は一票としか見ない、政治的価値はどんな人でも特別優れた人でも天才でもなんでも一票で同じなのである
どっちにしろ巨大組織集団になれば人は番号化されて数がすべてとなる
それぞれが持っている属性は無視されるのである

それでどうししても人間が万物の霊長となるときただ数字化されるときその存在感はなくなる、数字は番号化すれば様々な人間の属性は無視されて消失する
人間が万物の霊長となるには自然とアイディンティティ化する存在だということである
山があれば山とアイディンティティ化する、山のように沈黙するとか石のように沈黙するとかなる、自然を擬人化することにもなる、それはエジプト文明では動物が人間化していたことでもわかる、それは偶像崇拝にもなったが人間の顔が動物となっていた
原始人のトーテムでもそうである、動物と人間が一体化したのである
現代人はもう機械と一体化してロボットにもなる、そこに動物との交流がなくなり同じ生物として通じるものもなくなる

人間がアイディンティティ化するときどうしても狭い範囲になる、その常時住んでいる場所でありそこで自然と一体化する、土着して一体化する
第一狭い範囲でもその土地のことを知るのはむずかしい、それだけ狭い地域でも多様であり複雑だからである、そこにまだ発見されない神秘的領域がある
それは依然として隠されているのである
東京のような大都会ではすでに生態系とか自然を意識できない、ビルの谷間で蟻のようになり人間はただ数としてあり巨大な人工的空間で万物の霊長などはもうない、万物というとき植物でも動物でも自然と一体化した人間のことだからである
大都会では何とアイディンティティ化するのかすべて経済人間であり宗教でも自然とは無関係である、ただ数を集めて誇示するだけである
人間は図形的に□か○でしかない、その他の多様な万物の霊長としての属性ははく奪されてロボットのようにされるのである
そこにめいめいの顔もない、同じロボットの顔しかない、カルト教団になればその教祖とみな同じ顔になる、そして異様なカルト教団の教祖が獣の印を押すのである

それで不思議なのはエジプト文明である、なぜピラミッドのような幾何学的精巧なものを作りあげたのに動物と一体化したアニミズム的文明だったのかとなる
まさに動物とも一体化していた、動物をみて神とみてその性質から神と崇めたのである
それは偶像崇拝であってもやはりそこに自然と通じて万物の霊長としての人間があったとなる、鷺について詩を書いたが鷺を見ていると本当に不思議である、それはまさに自然と合一してある、自然を決して乱さず忍び足で細い脚で歩む、それは絶妙であり自然と一体化するのである、人間はこのように一体化しない、そこに道具とか機械とかが介在して
自然と融合しないのである、車という物体が社会を席巻していてもそれが自然と合一したものではない、自転車だと風を受けて走るから自然と融合するのである
車だと風をさえぎり光でもさえぎり自然を遮断するのである

なぜ現代文明から大都会などからカルト教団とか異様なものが生まれるのか?

それは自然と遊離してアイディンティティ化するものを失っているからである
そこでは人間は数としてしか機能しない、見れないのである
それでシュペングラーの西欧の没落が数の考察から始まっていることでもわかる
経済人間となればこれも人間の社会の数字化でありあらゆことが数字化なのである
放射線被害でもコロナウィルスでも数字化されるて見る、経済でも常に数字で見る
でも一個のリンゴがあるとしてその性質がありそれはただ一個ということではないのである、いろいろなものを数として表現するときその属性は失われるのである
果物でも野菜でもそうだがみんな違った性質がありそれで意味をもっている
ただ数として表現すればその性質は失われるのである

20世紀は全体主義の時代だった、全体主義とは価値の平均化であり組織化集団化して
人間の属性を無視して一様化することである、そして数字化することである
そうして共産主義でも一千万人とか粛清して殺されたとかなる時代だった
ナチスはまさに人間を人間と見ない、数としてしか見ない、個々に対することがあれば例え相手を軽蔑したりけなしたりしてもやはり相手は人間として認めてそうしている
でもナチスとなると相手は人間ではない、一つの物のようにしか見ないのである
無機的存在となりただ数としてしか数えられないのである
現代で数学が最重要なものとなり統計が重要となるのはそのためである
理系が優先されるのもそうである、もちろん文系は勉強もしないから当然だとはなる
でも理系優先すぎるというか科学技術がすべてとなった世界は問題がある
また経済としてしか人間をみない、グロ−バル化すると毎日の関心は株とかしかない
それも数字でありグラフでありそこに多様な属性をもった人間はいないのである
金が数字となり計られる世界である、そしてもうグロ−バルになると計りえない世界でありそれが陰謀論になるのである

経済的グロ−バル化の次は個々の国であれ地域であれ人間であれ文化を基にしたものとなる
文化とはグロ−バル化のように数値化して計る経済とは違う価値観である
数字化できないのが文化である、固有の文化である、物量の価値ではなく質の価値であるそれは地域地域の価値でもある、それは数字化して一様化できないのである
文化の時代になるとき固有の価値がそれぞれの地域で国で華開くとなる
フランス料理、中華料理、日本料理がある
でもアメリカ料理とかイギリス料理は貧弱である、量の料理にもなる、
こうした文化もアメリカに戦争に負けた時食まで一様化された
ハンバーグなどは料理ではない、でもその味にならされて一様化したのである
ロシアでもマグドナルドがあり味まで一様化したのがアメリカのグロ−バル化だったのである,グロ−バル化とは経済優先でありそこに個々の文化の否定があった

肉食はもともと日本では希薄だった、漁労民族だからである、でもそれもグロ−バル化して肉食化したのである、それで欧米人は肉を消化する酵素が出るということで肉食に体も適応して作られてきた、日本では漁労民族であり魚主体の米が主食の文化だったのであるそれで腸が長くなった、これもやはり人間はその土地と一体化するアイディンティティ化するから体もその土地の成分で作られるともなっていた
そういうことを外来文化で破壊された、本居宣長は唐心と大和心がありそれを分けたそして日本の精神を言葉から探求した
グロ−バル化でかえって日本の文化は見失われた、だから日本の文化の根源が言葉にもあるというときそこを見直すことが日本文化の再生、ルネサンスになるのである
万物の霊長としての多様な属性の中に生きることで人間回復する
これは組織集団ではできない、そこでは一人の人間は相手にしない、数としてしか見ない結局一票としか見ないとなる、どんな人でも一票だからはそれぞれの属性ははく奪されて抽象的存在となる、それで民主主義から多数決からナチスが生まれたことでもわかる
多数こそ正義であり力でありあらゆる多様な人間の属性ははく奪されてロボット化されるのである





2022年06月27日

組織集団化して平等にできない人間 (創価でも共産党でも個々の人間の運命カルマを無視して失敗)


組織集団化して平等にできない人間

(創価でも共産党でも個々の人間の運命カルマを無視して失敗)

●創価とカルト教団とは何なのか

日曜討論でNHK党の黒川氏が統一教会とか創価とかをあからさまに批判したことは驚きだった、そもそもNHK党などをNHKの場に呼んだこと自体驚きだったとなる
そこで確かに公正になっていた、でも司会者はその発言を懸命にとめていた
そこにいた議員も唖然としていたかもしれない、NHKでそんな人を呼ばないからである
黒川氏とかはyoutubeでなじみでありまた参政党でも武田邦彦氏がシンパになっているのでそういう政党なのか理解した
それはインタ−ネットがすでに架空のものではなく現実社会化していることなのであるすると自分でもそうだが浮動票が過激な党にも流れてゆく
そして浮動票が6割があるということの驚きである、その人たちの票が流れれば政治も変化する、NHK党がNHKに出たことでその影響は大きいのである
裏にあったものが表に出てきて現実社会を変えてゆくようになる

そもそもカルト教団とは何なのか?

それは本来の宗教とはまるで違ったものでありおそらく現代文明の混沌から生れたものでありナチスと似たものにもなる、何かそこでばらばらになったアトム化した人間が一体か感をもつものとして生まれたからだ
創価でも団地の宗教として相互扶助機能として生まれた、そうしたものが小規模なら問題はなかったのである、団地の宗教として小規模なら問題なかったのだが巨大化してナチスのようになったことで日本全体に影響するようになったのである
ナチスも現代文明の病的なものが現れた結果だとしてピカートが説いた
それと同じようにカルト宗教団体も本来の宗教とは違う、なぜなら本来の宗教はすべて自然と密着して生まれたからである、その宗祖を見ればわかる、キリストであれシャカであれモハメッドであれ大都会からではなく田舎からまた岩窟で悟りを開いたりモーゼのように砂漠のシナイ山で神と出合い啓示を受けたからである

団地の宗教とかはありえないのである、まず東京とかの大都会とはそもそも宗教とは無縁である、高層ビルを見上げて人間はもう卑小化してロボットのようになっているからだ
山伏などは何か胡散臭いものとみているが山を聖なるものとして修行したのだから六根清浄を山で心を浄化しようとしたのだからこっちの方が宗教的だったのである
天台宗とはそもそも中国でも山岳宗教なのである、ところが現代のカルト宗教団体はそうした六根清浄などは求めない、極めて政治的であり経済的であり社会的であり人間の心の問題とは関係しないのである、創価は極端であり眼中にあるのは一票をとることとそして権力と密着して利益を得ることしかない、みんな政治的野心があり経済的野心がありそういう人達が入ってくる、どんな欲望も是認される、むしろ奨励されるのである
もっと欲を出せそして祈ってかなえろしかないのである
煩悩即菩提となり煩悩でも欲があってこそ菩提になるとなる

いづれにしろ理論などどうでもいいのである、目前の欲を達成することが目的である
それは文明病ともいえるものから生まれたものである
ニーチェなどでも異常と見えるが自然の中で人間のアイディンティティを求め偉大なものを求めた、ニーチェが批判した大衆こそが現代人なのである
それはカルト教団に象徴的に現れてナチスとも共通していたとなる

●人間を平等にできないー創価とか共産党の思想

この世には底辺層が常にいる、富裕層と下層階級が常にいる、その不平等がどこからきているのか?
これも不可解なのである、人間を平等にすることは人間の歴史で達成しなかった
マルクス主義でもそうである、平等を目指したが結果的にはソ連でも中国でも結果的にはとんでもない格差社会になった、共産党の書記はまるでエジプトのファラオのように神のようにされて葬られた、中国では共産党幹部が兆の金を得るまでになった
つまり平等を目指してかえって不平等になったのである

なぜ人間社会に不平等があるのか?

それが不可解なのである、自分自身を例にとっても本当に不可解なのである
自分の父親違いの兄は自分の家に来ても不幸だった、愛されることもなかった
母親は後妻であったからだ、そして集団就職して40才で交通事故で死んだのである
家族ですら兄弟でも不公平があり恵まれる人は恵まれる、これは何なのだろうかとなる
つまり社会に不平等があるのではない同じ家族でも不平等があるのだ
兄弟間でも不平等がある、それで親の介護になるとお前は親に良くされたのだからお前は介護しろと言われるのである、それは自分自身がそうだった、自分は特別親に良くされたから結局これまで書いてきたように自分自身が病気にもなり二人の親の介護で四苦八苦して死ぬような苦しみになった、つくづくこれも楽した結果としてのカルマだったのである
だから不平等というとき人間がもってうまれた運命論になってしまう
インドではそうなった、人間は家族でも不平等なのだから社会自体も不平等なのである

なぜではそうなっているのか?

それはもってうまれついた宿命論にカルマ論になる

カースト制が根強くインドに残っているのはそのためである
そこに運命の不可解があるからた

それを理解したのが猫を飼っていた、その猫はなついていた、その猫がいるとき外から餌をねらって別な猫が入って餌を奪っていた、でも私はその野良猫をはたいたりして追い払っていた、でもなついた猫は死んだ、すると追い払っていた猫にこれもかわいいとか餌をやるようになったのである
人間の運命の不思議は誰かが死ぬと誰かに恩恵があるということである
私の父親違いの兄は私の母親の父が事故で死んだのである
だから後妻に入って私が生まれたのである、私は父親にも愛されたが兄は愛されなかったそして40才で交通事故で死んだのである、その経過はその本人にも問題があった
離婚したとか借金したとかいろいろあってそうなったからだ
ただ運命の不可解はこのように誰かが死ぬと誰かが恩恵があることなのだ

その女性は不運であり離婚を二回している、でも親しい男性がいてその男性の妻が死んだ結果としてその男性の所に通い助けられるということにもなった
もともと離婚して相手は何か病気になったときも助けることがなかったとかある
その時その男性が助けたということで恩を感じている
ただこうなったのもその男性の妻が死んだことによるのである
これも猫の運命と似ているのてある、ここに運命の変遷がある
私の所にもその女性が来るようになったのは親が死んだからだともなるからだ
だから運命とは一様ではないし不可解なのである

●人間の運命の不可解

それで共産主義であれ創価などのカルト教団でも不幸な人が比較的入るのだがそれで集団指揮組織的に運命を変えることは無理だともみる
それは悲劇的なことになった、カンボジアでは二百万が死んで骸骨の山になったとか記念館がある、ソビエトでも千万人が粛清されて殺されたとか中国でも共産党の文化大革命で毛沢東の命令で千万人単位が粛清されて殺されたとかある

それはなぜなのか?

人間の個々の運命を不運な人でも平等にしようと無理にしたからではないか?
人間とはそういうものではない、人間の運命は不可解であり一様にできないからではないか?
人間の運命は集団的組織的には変えられない、個々に複雑にからみあっていてみんな平等にはできないからではないか、創価とかでも宗教でも本質的には共産主義と近い
ある都会の住宅地では必ず創価か共産党に入っていてコミニュティを形成する
下層階級として共通だから意外と創価と共産党には似ているのである
そこで票の取り合いとなり争うのである、犬猿の仲にもなる
創価は宗教としてもそれは本来の宗教とは何の関係もない、でも宗教を標榜しているからやっかいなのである、何かというと地獄に落ちると罰当たるとか言うからである
何も経済を良くして貧困者の味方となるというならいいのである
宗教的救いとはまた別だからである、それでも常に宗教的呪縛があり政教分離できないことが問題なのである

すべてを宗教としてみる、信仰からみる、それも御利益が福運があればいいとなる
でも近くでも奨められて貧困家庭で入信したがその息子は若くして病気で死に次に母親も死んだのである、それは何なのかとなる
ただ創価でもどこでもそうして不幸の家は人はいる、現実に自分の父親違いの兄がそうだったからである、創価とかなると本当にそういう人はいくらでもいる
他の人達よりもともと不幸な人が多いのだから当然だとなる
要するに人間の不幸はそうしたカルト教団に入っても共産党とかの政治でも解決しないのであ、人間の運命が不可解だからそうなる

●平等を追求してもかえって不平等を作る

この世から不幸をなくしてみんな幸福にできるのか?

確かに科学技術であれ何であれそういうことは努力してきた歴史がある
でも人間は平等にならないのである、そして人間はある面では平等である
どんなに恵まれてもやはりどこかで苦しむようになっている
私は恵まれたが最後は親の介護で死ぬほどの苦しみを受けた、それもカルマだったとなるどんなに恵まれても何らか必ずカルマを持ちカルマを受けて苦しむのである
そういう点では平等だともなる、恵まれた人でも富裕な人でもそうしたカルマから逃れられないのである、カルマはめぐってくるからである、また恵みもめぐってくるからである金は天下の回りものだというときもそうである
必ず金は一か所にとどまらない性質がある、世界的にみても栄えた国があったとしても衰退して次に栄える国は移るのである、アメリカが繁栄してそれも衰退して次は中国が繁栄するとなる、そういう覇権国はヨ−ロッパでもポルトガルースペインーイギリスとか覇権国が変わって繁栄も移ったとなるからだ

人間の幸福は個々に運はめぐる、恵みはめぐる

悪いカルマもめぐり苦しめる

人間の運命ほど不可解なものはない、恵みはめぐるなのである、だからある地域が豊になるときそこに農業だったら篤農家が優秀な人がいてそれで特産物を作ったりするとそれが地域の他の農家もまねて全体が豊になることがある、そういうことは国全体でも言える
幸福とか富とか運でもめぐりめぐっている、逆に不思議なのことは誰かの不運が誰かの幸運になっている、誰かが死んで必ずそれで利する人もいるのである
それが猫とか人間関係にあった、確かに誰かが死ぬということは不運でありいいことではない、ても確かに誰かが死ぬと誰かが得して他者の運命も変わってゆくことがある
そもそも誰かの不幸が誰かの幸福にもなる
ギャンブルだと誰かが得すれば誰かが損する、宝くじでも同じである、なぜそうなっいるのか不可解なのである
また逆に誰かの不幸が回り回って自分の不幸になったり誰かの悪いカルマが自分に回ってきて苦しむ、悪いカルマも回り回ってゆくのである
それを介護になり嫌というほど経験した、なんでこんなに苦しめられるのかと考えたがそれも悪い他者のカルマが回ってきたからだと思った

何か殺人とかでもある人が被害にあうのはなぜなのか、全くの偶然なのかとなるとそうでもない、何か因縁があり他人の悪いカルマが回って来たのである
まず人間は一生を見れば楽に終わる人などいない、どこかで苦しむようにできている
意外と長く人生でも苦しんできた人でも最後は楽だったとかなりまた長く楽だった人が最後になって塗炭の苦しみにあうとかある、最後まで人間は楽に終わらないのである
人間のカルマは罪障というかそれは必ず現れる
ただ誤解するのはこうしたカルマとか罪障を組織して集団では解消できないのである
なぜならそのカルマとか幸運とか富は個々に回ってゆくからである
確かに国単位でもカルマがありカルマは回ってゆく、でも基本的にカルマというとき個々に回るものであり集団組織化して解消しないのである

組織化集団化して解消するときかえってそれが不平等になり全体主義が共産主義でもカルト教団でも宗教でも悲惨なことになった、かえって無理に平等にするために千万人とか粛清されて殺されたからである、それは何か人間の運命を人為的に人工的に機械的にでも解決しようとして失敗したともなる
それは人間についての考察が間違った結果ともみる、ただ極端な不平等は何らか社会全体を歪める、またそういう大金持ちはそのために莫大なカルマを持ち自滅するように思えるアメリカが衰退するのもそうである、どうしても極端な格差となり国自体維持できなくなり分裂して衰退する運命ともみる、富は今度は中国に回っているのかともみる
戦後は高度成長が日本がにあって日本に回ってきたのである
それもまた日本が貧困化して衰退しているのはやはりそうなったのは金は天下の回りもの富は恵みはめぐるだからだともみる

●神の選別も不平等である

そしてカルト教団などは

『また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。』(黙示録13:16-18)

たれがあてはまる、それだけではない人類はこのように二種類に分けられるのかもしれない、そして終末に最後の日にそれが実行される
獣の印を押された人達はカルト教団員でありまた多数の人達である
現実にそこにサタンがいて教祖がいてそれがその獣の印を押すのである
なぜならナチスでもそうだったがヒットラーがいてそのロボットとなるからである
創価でも池田大作がそのサタンでありまたオウムだと麻原だったりする、それは悪魔の化身だともなるからだ、その悪魔が獣の印を押すのである
人間は必ず偶像崇拝になる、どうしても目に見えるものが神となる
特に人間が神になりやすいのである、偶像になりやすいのである、それを神は妬む神として一番嫌ったのである、宗教の基は偶像崇拝の拒否になったからである
それは聖書を読めばそれがテーマでありイスラム教となるとそれが極端化したのである

とにかく世の中はすでにそうして天国に神の国を造る人とそうではない人ととに分かたれているともなる
なぜある人が神に選ばれてある人は選ばれないのか、それも不平等なのである
ただ選ばれる人は必ずしも優れた人ではないことは確かである
この世には天才とか心身ともに優れた人がいる、でもそういう人が神に選ばれない
「心の貧しい人」が神に選ばれたのである、心の貧しい人とは経済的に貧しいというのではなく常に足りないもの心に足りないものを感じている人なのである
それはまさしく自分でもあった、何か身体的にも弱いし能力も多少はあったとしても自分にはなかった、だからなぜそんな人を神が選ぶのかとなるき奇異だとなったのである

とにかく人間の運命を全員を平等にすることは不可能である、これだけは確かである
だからこそカルト教団であれ共産主義であれ人間の運命をどう見るかでそういう思想が生まれた、ただ宗教は平等を目指さないということではない、宗教の目指しているのものが世俗的な経済的な平等ではないことなのである
いづれにしろ宗教と政治は世俗的なものとは一体化できないのである

要するに創価でも共産党でも似ている、革命が達成したら権力と富を得ることになる
それも幹部なら中国のように巨万の富を手に入る
創価でも幹部になればそうなる、それを目指して運動しているからである
その最大の運動が選挙になっているからである
一票は権力に結びつきそこで御利益を得ることになるからだ、また政治権力を得れば御利益として福運として配分できるからである
大臣にもなれるからである、ただそれはあくまでも幹部だけなのである
下々の党員であれそういうことはないのである

事実私の叔父にあたる人は共産党員だったが赤旗を配達していたがその給料はわずかだった、ただ働きと同じだった、それも細々と生活していた、乞食に近い生活でもあった
これと創価でも似ているのである、貧困層がいても幹部が身銭を切って助けることはない金を出すことはない、ただ貧困層を利用して幹部になれば金も地位も女も手に入るとなるその見本が公明党の議員が逮捕されたことでもわかる
あの人がまさに御利益と福運を身に着けた創価の模範として推奨されるものだったのである、それはその団体組織の体質があり必然的に生まれたのである
こうしてそもそも人間を平等にすることはできないのである
平等にするというのは人間を単純にみる、数字のように見ているからでる
実際は人間は余りにも複雑でありだからこそ運命論になってしまうのである
宿命転換を説いてもそれを組織的に集団的にはできない、だからこそ共産主義革命はかえって大きな不平等が産んだことでも実証しているのである

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2022年06月12日

還暦までニートの人ー人生を語れない 〈二三ページしか自分の人生を書けないーこの世の価値は常に変化する)


還暦までニートの人ー人生を語れない

〈二三ページしか自分の人生を書けないーこの世の価値は常に変化する)

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職歴なし還暦ニートの俺、失ったものの大きさに涙が止まらないwww
https://www.youtube.com/watch?v=ydepfkmpVWA&ab_channel=%E3%82%86%E3%81%A3%E3%81%8F%E3
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●経験しないと同情もできないし相手のことを理解できない

このyoutubeはこういう人が現実にいると見た、架空ではない、何か架空なものもある
それを漫画にしている、でも人間にはなんらかの真実があるときわかる
その真実とは自分の経験からその真実を察するのである
遠洋漁業で冷凍庫で働くことはその中が零下20度となるから辛いというとき自分もそういう経験したから理解できる、それはもう病気になる過酷な場所なのである
でも経験しなければわからないのである、そもそも零下20度でもそれがどういうことか
経験しないかぎりわからないのである
だから人間は経験しない限りあらゆることが理解できないのである
そういうことを伝えられても実感できないのである

その74才の女性は夫を脳梗塞で10年以上介護しましたとか言う時その苦労をどうして理解できるのか、その症状もかなり重かったみたいだからである
それを自分がある程度理解したのは自分自身が親を介護した経験があるからである
例えば認知症でもそうである、この認知症を理解することは至難である
身近に直接に接して介護してみないとわからないのである
それで自分自身がその体験を書いたのである、認知症のことがどういう病気が自ら苦しんで介護したから理解できるとなる
学校とか本ばかり読んでいても本当にわかるということは体験しないとわからないことが多すぎるのである、一回も外国に行かない人が本読んで外国を語っても変なことになる
それで50歳以後バックパッカーで世界を回ったからそれで外国に多少通じるようになったのである、つまり外国についていくら本を読んでも他人から聞いても一回外国の土地を踏んだ者の方が外国を知っているとなるのである

そして奇妙だけどニートとを生きて何も残らなかった、60までニートで語るものがないとこのyoutubeで言っている、このことはどこまで本当のものかわからない、でも自分自身がニートだったから変なのだけど理解して同感するのである
つまりニートを経験しないものはニートとは何なのとかわからないのである
社会で会社でばりばり仕事しているような人はわからないのである
この人は2チャンネルをしていた、パソコン通信でしていた、それがわくわくした経験だと言っていた、私もパソコンではなく通信機つきのワープロでしていた、だからあれは新しい経験としてあったことをふりかえる、文章だけで対話することは今までありえなかったからである、それは新しい経験だったのである

●時代が変わると価値観もがらりと変わる

だからその創設者のひろゆきとかに私は団塊の世代だけで親近感を覚えているのである
何か40代くらいの働かなくていいとかベーシックインカムだとかそういうことに同調するのである、自分自身が働くことがなかったから同調するのである
だからなぜ今になってそういうことを平気で言うのか不思議になる
団塊の世代はみんな企業戦士となって高度成長時代を猛烈に働いたからである
私はだから例外的存在であった、でもその後ニートとかひきこもりと非正規労働者とか
団塊の世代とは違った働き方が人達が社会で大きな割合をしめるようになった
それで働かなくていいとか堂々と主張するようになったのである

でも40年間くらいニートであってその人生で語ることが二三ページとかはありえないと思う、いくら社会とかかわらなくても相当な自由時間があるのだから何かをしていたとなるからだ、ただこの人はテレビくらいしか見ていなかったみたいだ
ただ人生を語る時別にニートだけではない、カルト教団に入ったような人でも人生を語るとしたらただ組織の一員としてロボットのようなっているから自ら何も語るものはないだろう、ナチス党員と同じだからである、そういう一生がみんな同じ制服を着て同じ色になっているだけだからである

庭に赤い薔薇白い薔薇が咲いた、そして黄色の薔薇が咲きだそうとしている、その時何かぼのぼのとしたものを感じた、それは違った色だからである、会社員でも何か他の人とは違った経験をして語るものがある、自ら社畜だというとき何か語ることがあるのかとなるに〜とひきこもりより語るものはあるとはなる
自分自身は自由時間を旅に費やした、だから旅のことを旅で見聞したことを語れる、それを膨大な詩にする作業をまとめとしている
また本を読んだりして蓄積したことをプログで書いている
奇妙なのは郷土史としてプログを書き始めたがそれが自転車で相馬藩内とか回っていた
それが意外と役に立っている、なぜなら自分の住んでいる場所する故郷すら地理がわからないからである、未だに知らない場所があり地理の発見があった
神社などでもそうである、何のいわれがあるのかわからなかったがわかるようになった
それで地名でも新しく発見して古代史でも理解が深まった
ただそれはただ自転車にのって遊んでいるだけでもあった
だから他者から見ていればあの人は何しているのだろうとなっていた
ただのごくつぶしに過ぎない社会にとって無用なものだと見られるだけだとなる
でも今になるとプログで故郷のことなどいろいろ書いているから役に立っているのである

●組織団体の価値は消失してゆく―金で計れない価値

そしてこれ意外と会社人間とカルト教団でもそこで会社員なら自ら社畜というように自ら何か語るものがない、だから退職すると用なしとなる
そして老後が長いから困ることになるのである
とにかくわからなのは人生の成果とは何かということである、また個々人の価値とは何かである、まずカルト教団だったらあくまで組織団体の価値であり個々人の価値はゼロである、それでその価値が認められるのは社会で権力を得て地位を得ることである
要するに共産主義革命が成功して社会で権力を握るとき価値はあるものとなる
それがなければその人たちは報えられないとなる、宗教でも内面とか精神的価値を求めていないからである、その一生は組織団体の奴隷とか家畜となって終わったとまでなる
なぜならそうした組織団体はこの世から消失してゆくからである

ただそもそも人間の価値は多様でありわかりにくいのである、それで生前整理となるとつまらないものでも思い出の品となりその人にとって価値あるものでも他者からみれば何の価値も見いだせない、だから捨てろとなる、それは金にならなくても人生の思い出でありその人にとっては価値あるものなのである、かけがえいのない価値があるともなる
とにかく金にならないものは価値を認めないのが社会である

でも人間の価値は何なのか?

この人は百億円残したから最大の価値があるとなるのか、他者はただその金が欲しいだけでありその人自体の価値等みていないのである

はたして全部金で人間の価値を計れるのだろうか?

それは死んだ時わかる、死んだ時点で人間の価値は明確化されることがある
私にとっては二人の母親がいてそれが大きな価値となっている
それは二人は家を支えて自分を自由に生かしてくれたということで自分にとっては
最大の価値がある、だから供養しているとなる、でも親でも全く絶縁している人もいる
近くにいい暮らししていても親が困窮していても挨拶もしない人がいる
その事情はわからないにしてももはや親子でもなんでもないのである

●金で計れない価値

価値と言う時、生前整理のように金で計れないもの思い出が大きな価値となる
でもそれは他者にとって別に何の価値もないともなる
ただ人間は価値を認めてもらいたいのである、庭作りでも壁ぬりでも大工でも何でもできる人は才能あることは認める、でもしつこく俺はこれを作ったと自慢する、それは俺は特別大工でも庭師としても優秀だと認めてもらいたい、他の者とは違うのだと認めてもらいたい、それで金を高くとっても当然だと主張しているのである
そして異常に自分の価値を高くしている、これも問題だがやはり優秀な人はそれだけ特別な価値をみとめてもらいたいとなる

ともかく人間の価値はあまりにも多様なのである、その人は何の取り柄もないようである梅をつけるのがうまいとかあったし他にも畑で野菜を作りしてあった
人間はなにかかにか取り柄がある、するとそこに価値があるとなる
ただその価値が認められないことがある、金にもならないことがある
するとその価値は無価値とされ無用のものともされるのである
そして時代が変わると価値観ががらりとかわる、戦争の時戦争一色であり軍人が威張っていて軍人が一番価値あるものだった、それはウクライナ戦争でも起きる、そこで命をかけて戦うのだから軍人の価値が一番高くなる、でも平和の時は軍人は価値がない、不気味なものななのである、だから価値が低いのが普通なのである
自衛隊だったら災害の時役に立つとかなっていて価値を認められない、でも戦争になったら戦争中のように価値が大きくなり社会で威張るということになる

それで最近働かなくてもいいとか40代くらいの人が言うのは価値観が変わったからである豊かになったことであえてがむしゃらに働くことがいいものとして認められない、ある程度の生活ができれば趣味に没頭する人生でもいいとかなる
金をとるためにがむしゃらに働くことはかえって嫌われるとまでなる
この世の中金があるだけものが何でも優遇されるというのはおかしいのである
金で計れない価値が確実にありそれが大事だともなる、そうなるのはやはりそれなりにみんなが平均的な暮らしができるときである、それでベーシックインカムが求めるようになったのである

金持だけが優遇される社会には問題がある、ホテルにしてもホスピタルが語源であり病院でもあった、旅で疲れたものを癒す場所だったからである
そこにホテルの価値があったが今や金持ちを優遇する場所にもなった
またインパウンドとかなるとこれも円安で金持ちの外国人だけを優遇して貧乏人の日本人は相手にしないとなるのもおかしいのである
ただそれは日本人が外国で景気のいいときそうしていたのだからカルマだったとなる
カルマは常にめぐってくるのである

●至高の価値が神にしか与えられない

そもそも人間の価値とは何か?

これは余りにも多様なのである、ある人にとって無価値なものも価値があるある人にとって価値があると思っても無価値だともなる、金ですべては価値は計れないからである
本当の価値は神が与えるとまでなる

神は心を見ているとか、心の清い者は神を見るだろう

これはなんのことなのか?これはこの世でどんな人であれ金持ちであれ地位があっても
そういう外見を見ないのである、神が見ているのは心だとなる
でもそんな心を見れるのかともなる、でも神には見えるのである
心が清いということはどういうことなのか?金持ちであれ貧乏人であれ地位があり才能があるとしても神が見ているのはその心だとなる
その心を見て神は永遠の命を与える、それが至高の価値であり人間には与えられない
神しか与えられないのである、様々な人間の価値を否定するわけではない、ただ至高の価値は神が与えるし神しか与えられないのである
要するにこの世の価値も常に変化して無常なのである
戦前なら国が最高の価値だったのである、それで国のために3百万人も死んだのである
でも戦後は全くそうはならない、だから国のために死んだ人は何の価値があったのかとまでなる、つまり価値観がまるで変ってしまったのである

何が価値とするのかこの世では常に変わっている、無常なのである
だからこそ不変の価値とは何かとなり求道することになる
そして意外と注目していないのが神が心をみるというとき動機が大事なのである
一体どういう動機で命をかけた戦争したのかとかどうして会社であれ何であれ仕事しているのかとなる、その動機は一体何なのかとなりその心をみるとなる
ただ金が欲しい金のためだとなるときその価値はないがしにされる、その時決して神はその人を評価しないのである、不純な動機ですることが問題なのである

カルト教団などは動機が不純なのである、何か知らないか金儲けになるとかいい女がいるのかとかそんな動機で宗教を求めている、それだから何百万の票を獲得することになる
その心を見ることなど全くない、ただ数が集まればいいだけなのである
それが権力になるからである、後は心とか動機など一切関係ないのである
本来の宗教など平気で踏みにじる場所なのである

結局引きこもりで60才まで過ごしてふりかえり泣いていたというのはリアルである
でも引きこもりだけではない、みんな老人になるとふりかえり過去がもどらないことに泣いている、ビートルズの曲を聞いて泣いていた人がいたのもわかる
もう青春も帰ってこない、人生も終わりだとして泣いてるのである
結局この世は一時の場所であり、さよならだけが人生として終わる、無常の世界である
liveはlieveであり去る場所であり永遠にいる場所ではない
束の間の夢だったとなる、本当の世界は神が治める神の国でありえるのである
それが希望なのである、この世に理想とかは実現しない、最後はハルマゲドンなのか何かなのかこの世は消滅する、また神によって滅ぼされる世界なのである

●老人になって明らかにされる人生の価値

明らかなことは最後に老人になってそれぞれの人生の価値が明らかにされる、それはささいなことまで明らかにされる
勉強したこと経験したことがまた罪でも明らかにされる、それで勉強しなかった人は後悔しているというのもわかる
老人になるととにかく後悔しない人はいない、こうすれば良かったとかなんなことして失敗したとか馬鹿だったとか後悔する
何が価値あることだったのか見えるからである、でもその時すでに時遅しとなっているのだ
求道することは老人では無理だというときこれは相当に深刻である、そんなこと重大に思っている人はいないからだ
私自身も思っていなかったけど父親が早く死んでなぜ人間は死ぬのかということが頭から離れなかったからだ
ただカルト教団に入ったとしても自分はそこを追求していたのである、でもそこはそんなこと全く関係ない場所だったのである
ともかく若き時神を知れということは重大なことだった、なぜなら青春など若い時などあっという間に過ぎる
そしてそのチャンスは二度と戻ってこないのである、それは女性が婚期を逃すと似ている
三十すぎたらおばさんとか言われるようになるからである
だからこそ婚期をうるさく言うのである、でも求道しろなどと言う人はいないのである

そして放蕩するとか青春が若い時がいつまでもつづくと思っているのである
でもみんな老人になる、それでも老いることがすべて悪いものかというとそうでもない
老いることは本当に賢者になれるさとでもある、もう愚かなことはしないともなる
悟ったような顔をしているのが老人だともなる、その差も大きいが老人になると誰しも人生はこうだったのかとかどんな人でも思い知らされるからである、でもその時はすでに時遅しとなっているのである

人生は一回しかない、チャンスも一回しかないとかなる、一回のチャンスを逃すともうチャンスが与えられないとなる
何度チャンスがあることなどないのである、それだけ人生は短いものだったのである
だから求道は老人になってから遅いとなる、一番盛んな若い時にするもなのである
それが人生の大きな盲点だったことを老人になり思いしらされるのである
なぜなら時間を元に戻すことができないからである、若い時に20代で方向が決まってしまうからである
それで現実に20代で引きこもりになった人は還暦までそうであり後戻りできなくなったとなる
それは自分のことでもあったが自分のしたこと旅でも勉強でも老人になって実っている
だから自分の引きこもり人生は無駄ではなかったと自分で自覚するようになったのである

2022年04月16日

寒さがもどったけどまたあたたかくなるから耐えられる (希望無くして生きられない人間)


寒さがもどったけどまたあたたかくなるから耐えられる

(希望無くして生きられない人間)

この二日間寒い、冬にもどった、今年は寒さがつづいているのか?
でもに三日前は暑かった、灯油を買おうとしたが二日くらいならがまんできると思い
買わなかった、でも寒い、私の家は旧式の家だから隙間風が入ってきて寒いのである
老人になると寒いとか暑いのに弱くなる、私はもともと寒さにも暑さにも弱い

でもなぜ灯油を買わなかったのか?
それはもう一日くらい待てばあたたかくなる、天気予報でそうなっているからだ
そうなると二日くらいならがまんしようとなる
つまりがまんするのはわずかの時間であると思うからがまんできる

冬があるとしてそれなりに長いとしても必ず春が来るから冬を耐えてゆこうとする
もし春が来ないとしたらもう耐えられないのである
絶望しかなくなる、これは経済でも言える、日本は貧困化している、ますます貧困化して食糧さえたりなくなり奪い合いになり飢饉にもなるとかになる心配ばかりしていたら
生きる気力もなくなる

今日は悪くても明日は良くなる

こうならないと生きる希望もなくなる、ウクライナのように戦争で苦しんでいると必ず戦争が終わるということを必死に願うようになる、今は苦しくても戦争は終わる
その終わることを必死に願うようになる
戦争はいづれ終わることは確かだからである、戦争はやはり長くても二三年で終わる
でもアフガニスタンとかテロとかなるとなかなか終わらなかった
そこで住んでいた少女が戦争がないことがどれだけか幸せかと言っていたことがわかる

ともかく人間から希望がなくなったら生きることはできない
これからも寒い日がつづき暖かくならないとしたら絶望だとなる
そうなると働く意欲もでてこない、いくら働いても暮らしが良くならない
給料も上がらない、暮らしは悪くなるだけだとなれば働く意欲もなくなる
人間はやはり今日よりは明日が良くなるということが生きる力となる

なぜ今世相が暗いかというと悪いことしかイメージできないからである
経済はますます悪くなるとか貯金していても預金封鎖されるとか賃金は上がらず物価だけが高くなってくるとかいいことを言う人がいないのである
それは現実がそうなっているのだからしかたないとなる
人間はそうなると消費もしいなのである、そしてますます暗くなり景気も悪くなる
景気は気であり気分だとするときその気が悪くなっているから全体的に暗くなっているのである、景気も良くならないとなる、つまり気分の影響で景気も良くならないとなる

宗教の必要性は来世があり天国があり死んでもそこに行けるということが希望になる
なぜ宗教が過去でもこれほど頼る人が増えたのか?それは希望をもちたい、題目でも念仏でも唱えていれば来世では極楽に行けるとなっていたからだ
どん底でもそれが希望になっていたのである、病気でも治るとなれば一心に祈るとなる
要するに医療すらない時代にはそうして祈るしかなかったのである
だから会津の方でも病気が治るということで仏教が普及したのである
山伏がいたのも山で薬草をとり病気治療していた、加持祈祷がまた仕事だったのである
医者代わりだったのである

要するに人間は死んだら終わりで何もなくなるとなればもう希望はないのである
人間は死んでも終わらない、天国に行きそこでこそ本当の生が始まるとなることを信じれば希望となりこの世の辛いことに耐えられるとなる
人間はそもそも希望をとったら生きられないのである

「パンドラの箱」の中身は「災い」です。病気、憎悪、犯罪、争いなど、人のさまざまな悪行を指します。また怒りや悲しみ、苦しみといった人にとってのネガティブな感情も災いのひとつとして数えられます。

最後に「希望」が残されたのです

様々な災いがありでも希望が最後に残されたのである、この世には様々な災いが災難があるが希望があれば生きられる
悪いことばかり言われるが実際の生活ではいろいろ改良されているのである
道は良くなり様々なものが快適になっている、それは常に改良をつづけているからである悪い事ばかり言うが人間は毎日それぞれの場で働いていて改善改良しているのだから
良くなっているのである
あらゆる分野で毎日改良がつづけられているからだ、機械でもより使いやすいように工夫改良が続けられている
だからコンピュターでもインタ−ネットでもそうだがそこで学ぶ機会が増大したのである本ならどんな本でも田舎でも通販でボタン一つ押せば買えるのである
すると田舎でも独学してでも相当なレベルの知識を持つことができる
学校教育ではとても教育としてはたりないからだ、するとこれからもしかしたら日本から少数精鋭となり天才とか生まれてくるかもしれない、天才でもそもそもそういう人を産む環境がないと生まれないからである

人間はそもそもどこかで希望を見出さないと生きていけない、何するにしてもそうであるだからそもそも経済でも今日より明日が良くなるという希望がないと成り立たない
ただ金は紙切れになるとか預金封鎖があるとか恐慌になるとか食糧もなくなるとかなんとかそんな暗い事ばかり言っていたらみんな落ち込むだけでますます景気が悪くなる
そうあっても何か希望を見出してゆかねば生きていけないのである

種をまいてそれが育ち果実となるからこそ働くのである、どうせ種をまいても育たない
天候が悪いとか自然災害がきて無駄になるとか思っていたらそもそも何もできない
食料すら作ることがてきないとなる
何か現代はまさに種をまいても育たない無駄だという感覚になっているのである
でも実際はあるゆる方面で改良は改善はしているのである
ただ日本に欠けているものは何か新しい物を発明できないことである
新しい物を作りだせないことが問題なのである

人間は過去をみればもっと悪い条件の中でも生きてきた、そして改良改善してきた
何か希望となるものを見出してきたのである、常に暗黒があったがやはり希望を見出して今日が築かれて来たのである
だからなぜ未来が暗黒ばかり語られるのか?それが異常なほどそうなのである
暗い未来しか見えないのである
種をまき肥料をやりそれが育ち果実となる、そう思って働く、現実にみんなそう思って働いている、でも暗い未来しか見えない、暗黒の未来のみがあるようになっている
それがおかしいとなる、もちろん常に暗黒はある、冬の時期はある
でも必ず春が来るから耐えられるのである

明日に向かって希望の太陽は輝く
その輝きは衰えることがない
神は人間から希望を奪わない
来世の天国も約束されている
汝はその場その場で希望を見いだせ
そして勤めて希望を見いだせ

ともかく人間の苦しみは永遠にはつづかない、いつかは終わる、それを介護で感じた
介護の期間は平均的に長い、5年が平均としても十年とかにもなる
だから早く死んでくれともなる、でもいつまでも続かないのである
人間の苦しみは何であれいつかは終わる、冬はいつまでもつづかないいつかは終わり春が来るのである
だから神を待ち望めとなる、神は架空のものではなく実存するものであり約束を果たすしうるものだからである、万能の神だからである
要するに希望なくして人間は生きられないのである

orengelily1111.jpg

我が室にオレンジリリーの一輪の咲きまた一輪咲きぬ希望なるかな

一輪オレンジリリーが咲いたそしてまた一輪咲いた、今は三輪咲いている
つまり希望とはこうして花が咲いてゆくことなのである
この世に花が咲き満ちる、暗黒ばかり語っていたらきりがないしかえってそのために景気が気が悪くなってくるのである、今は本当に経済的にも悪い気におおわれている
でも何かしらそれぞれの場で希望を見出さねば生きていけないのである
なも実際はそれぞれの場で改良改善が続けられているから良くなっているのである
パソコンでも安くてもいいものになっている、機械でも良くなっている、安く買えている20年前とかは40万くらいしていた、それも今のパソコンとは違っていて普通の人はマニアでないと使いないものだったのである
人間はともかくどちらかというと悪いことを見る、マスコミとかでも悪い予想を言う
視聴率を稼ぐために悪いことを言うのである、もちろん悪いこともありうる
でもそればかり言っていたら人間は生きていけないとなる
悪いことがあってもいいことがあるということも言わないとバランスがとれないのである


スマホで写真をとると花の名前とか関連したものがててくる
オレンジリーリーという名前の花だった
こういうふうにいろいろなものが学べるのである

2022年04月05日

空間軸と時間軸でみる世界 (時間軸で見た世界は常なき世界、無常迅速である)


空間軸と時間軸でみる世界

(時間軸で見た世界は常なき世界、無常迅速である)

人間は個々人であれ世界であれ空間軸と時間軸で考えるのが基本にある
空間的に地理的にどういう位置にあるかだ致命的に運命的になる
それはもう何億年でも変わらないからである
地理的宿命があるからだ、それで天の時、地の利、人の和が問題になる
ウクライナ戦争でもそうである、ヨ−ロッパとNATOとロシアの狭間で戦争が繰り返されて来たのは地理的宿命から逃れられないからである
その空間的地理的なことは地図を見ただけである程度直感的にわかる
でも時間軸で形成されたものを見るのが至難になる

だからウクライナのことでもロシアのことでもわかりにくくなる
ソビエト連邦がありそれが崩壊したのは20年前くらいだったが忘れていた
時間軸で起きることは忘れやすいのである、個々人でも数十年前にあったことを忘れる
なぜなら次々に新しい事が起り過去は忘れられてゆくからだ
家族として親密にして60年一緒に暮らしていても死ぬと何かあいまいなものとなり
遠い過去になってしまうのである

だから歴史という時、地歴になるのだが歴を時間軸で起きていることがわかりにくいのである、不思議なのは江戸時代の年号をみると元禄だとか安政だとか天明とかあっても
その時代に何が起きたのか時系列で起きたことを理解するのがむずかしいのである
そもそも年号でもその時代順序でもわからなくなる、安政が先のなのか天明が後なのかもわからなくなる、時代順序で理解できなくなる
でも明治時代があり大正時代があり戦前の昭和があり戦後の唱和がある
でもこれは私の父親が明治生まれだし母親も大正生れだから順序を逆にすることはない
祖父母辺りまでは時代の順序を間違わないのである
それで人間は具体的に時間軸で実感するのは祖父母までだとなる

例えばエジプトの歴史が時間軸で三千年あるとしてその三千年を時間軸で時代順で理解することは不可能に近い、三千年となればもう日本の歴史は2000年だとしてそれより長いからだ、それを時間軸で理解することはもうできないのである
でも空間軸で理解することは今でもできる、現実にエジプトに行ったしそこでピラミッドが残っていてそれを見たり遺跡は見ることができるのである
空間軸は変化していない、時間軸は常に変化してしいる、その時間軸で変化することか
無常だとなる、常になき社会であり人間なのである

70才でもなってみると本当に不思議な感覚になる、人の出合いにしても本当に一瞬なのである、そして永遠にこの世では合わなくなる、それは60年一緒にいた家族ですらもう死んだら永遠に逢わないのである、そうして人の出合いは余りにもはかないとなる
それで最後にはさよならだけが人生だとなる
何か駅で外から来た人と出会った、それは束の間だった、何か話すこともなかった
その人は若い女性である、でももうその人とは永遠に逢わないのである
それはどこでも起きていることなのだ、いろいろな人と合ったとしても束の間であり
あとは永遠に逢わなとなってしまう
あいつと逢ったな別れたな、あとは永遠に逢わないな、あの人は何であったかのとなる

ともかくエジプトであれそこに今でも行くことはできる、そこで起きたことを時間軸で理解することはむずかしい、ただピラミッドが今でもあるからそれはエジプト文明の集約として残っていることでその文明を感じるのである
もし何もなかったらただ砂漠だけだったら何も感じない
ただ何もない砂漠で砂塵の中に埋もれて何もなくただ風が唸っているだけだとなる
その存在すらわからなくなる
空間は地理は変化しない、でも時間軸で見る時人間世界は常に変化であり人の出合いでも一瞬でありいくら栄華を誇った文明でも帝国でも遠い過去になってしまう
つまり時間軸で見た世界は無常なのである、常なき世界である、その無常に抗して何かピラミッドは三千年後でも存在しているとなる

人間世界はこうして時間軸で見れば絶え間なく変化している、今日ある人は明日はいないとまでなる、隣の人と庭でちょっと話していたがあっという間に死んでいた
そこにいたのに消失した、そして永遠に逢わないのである、そういうことは老人になれば当たり前のことである、次々に知っている人が死んでゆくのである
そして永遠に逢わないのである、まさに無常の世界である

桜が咲くにしても華やかなのは一時でありたちまち散ってゆく、それも無常である
この世に永続するものはない、それが無常である


ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわに(※1)ぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、(※2)いづかたへか去る。また知らず
(方丈記ー鴨長明)


本当に老人になるとこれは当たり前の実感になる、それは別に優れた人と哲学者とかなくてもその現実がありありと実感するからである

所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり

せいぜい人間が出合ったとしても記憶しているのは一人二人くらいになる
みんなうたかたの泡のように消えてゆくだけである
この世とはそういう場所であり時間軸で見たら人間が生きるのは一瞬であり出合うも一瞬でありあとは二度と逢わないのである、それが無常なのである
だからこそ永遠の命を求める、この世とは違う永遠の世界を求める
そこで老いることはない、みんな若いという、病気になる人もいない、愛別離苦の世界もない、時間は有限ではない、無限であり空間に制約されることもない、空間はどうしても人間を制約する、時間でも制約する、そういう制約から超越することを望むのである

その女(ひと)と一時逢うも去りゆきぬ永遠(とわ)の別れや春になるとも

これは恋の歌とかなるがそんなものは自分にはない、若い人はこの無常がわからない
老人は別にみんな普通に感じている、知っている人でもみんな死んでゆくから必然的にそうなる、若い人はそれを実感しにくい、人生とは永遠につづく、人の出合いでもそれは一瞬だったなと思わないのである
でも最も華やかな青春でもそれもうたかたの泡のように消える
歓楽に費やしてもそれも一瞬のことだともなる、、はかない虚しいものとして消える
ただ人間はそうしてカルマを繰り返しているだけだとなる

生死事大 光陰可惜 無常迅速 時不待人

本当に無常迅速なのである、それで若きうちに神を知れとなった、瞬く間に時間は過ぎる飲めや歌いやしているうちにあっという間に過ぎる
若い時はいろいろなものに魅せられて過ぎてしまう、恋だなんだかんだと魅せられてあっという間に過ぎてしまうのである
でも若い時はそう感じないのである、だから老人から若い人を見ると全く違った感想を持つ、また若い人から老人を見る時も老人になることがないと見ているのである
でも必ず若い時はたちまち過ぎて老人になっているのである
40才になるとう白髪になり 老人の入り口になっているからだ



2022年03月06日

人間は結婚でも子育てもすべきときしないとあとはできない (チャンスを逃し、時間を無駄にするのが人間の一生)


人間は結婚でも子育てもすべきときしないとあとはできない

(チャンスを逃し、時間を無駄にするのが人間の一生)

婚期を逃す
子供持つ時期を逃す
学ぶ時期を逃す
スキルを身につける時期を逃す
相手を知る時期を逃す
愛することを逃す
冒険する時を逃す
チャンスを逃す
.........

韓国で結婚しても子供作らないとか結婚しない人が増えて出生率が世界で一番低い、韓国人がいなくなると将来を心配する、それは日本と同じだった
なぜ子供もたないのか?それは子供を育てることが負担なのである
金銭的にも苦しくなっている人が多いし仕事をしているキャリアウーマンは仕事が出産で仕事が中断されるとブランクができて仕事ができなくなると言っていた

人生の大きな落とし穴は何かするチャンスを必ず逃している
そしてそのチャンスを活かさないともうあとは二度と活かすことができない
それでみんな老人になって後悔するのである
まず後悔しない人はいない、私に後悔がないと言っても実際は後悔している
あの時こうれば良かったとかみんな後悔するのである

将来自分がどういう人間になりたいのか?

それが自分自身にもわからないのである、家具職人になるために丁稚奉公して技術を習得している10代の若者のことを放送していた、それが辛いと泣いていた
ではその家具職人でもそれが将来役立つかとなると今は機械化してAI化するからその家具職人として生きていけるのかとなるとわからない
ただ手でしかできないものがあり丸味も帯びた所は手でないとできないとしている
でも将来的にそうした職業でも生き残れるのかとなるとわからない、やめた人もいる
私は子供の時、ソロバンが得意であった、でもそれが何の役にもたたなかった

全くこれは時間の無駄だったのである、それは私の父親が酒屋の丁稚奉公をしていて
ソロバンを習わせたのである、その後計算はコンピュター化してソロバンは無用化したのである、こういう変化が常にあり若い時習ったことが将来役にたつかどうかわからないのである、もし役にたたなっかたら貴重な若い時の時間を無駄にしたとなる
その方が後悔することになる、ただ家具職人として役にたたなくてもそうした経験は貴重である、なぜなら人生は短い、何であれ経験することは貴重なのである
人間は経験することでも学ぶことでも限られているからである
たちまち時間が過ぎてしまうのである
人間はいくら本を読んでもわからないことがある、経験しないとわからないことがある
だから経験することはなんでも貴重だとなる

とにかく女性でも婚期を逃すなと親がうるさく言う時、女性の華やかな旬の時は短い
すぐに女性でも30過ぎるとおばさんとかなり子供すら産めなくなるのである
それも本当に早いから婚期をうるさく言うのである
男性でも実際婚期があり40になったらもう結婚もできずる一生独身だとなる
それが自分自身でもあった、ただ結婚とか子育てとかは本当に負担である
戦前なら子供をとう思って育てたかというと親に尽くさせるために子供を産んでいたのである、今後進国の人が日本で働いているのは親に仕送りしている
親に尽くこせるために子供を産んでいたのである、今は全然違っている
一人の子供を産み育てることが金銭的に時間的にも労力でも相当な負担になっている
すると本来するべきものができなくなる、仕事していても出産で中断して仕事もできなくなるとかなる、これも人生にとって痛手なのである

人間というのは本当に老人になればわかる、こんなに時間が早く過ぎるのかということに驚くのである、20代の盛りはあっというまに過ぎて30過ぎて40になると白髪でてきておっさんと呼ばれるようになる、そして何かをすることを何でも逃したことに気づく菜のである
求道でも「若き内神を知れ」てあり若いうち求道しないものは老人になってはできない
老人になれば仏教でいう悟りのような境地にはなる、でも神を知ることはできない
それは最もは血気盛んな時にするものであり老人になってはできなくなっているのだ
でも若いうちこの世のものに魅了される、女性でもなんであれ魅了される
そうして夢中になっているうちに時間でもたちまちすぎてしまうのである

結局人間の失敗と後悔は時間を無駄にした

このことに尽きる、何か有意義なことをすべきなのにそのチャンスを活かせなかった
時間を使いなかったということである
自分の家族も全部死んで後悔する、もっと優しくすれば愛すれば良かったとかにもなる
家族にすべきことしなかったことを後悔する、でも死んだらもう何もできないとなる
供養ししても返事も返ってこないのである
だから介護でも苦しいが終わり死ぬとみんなもっと優しくしていれば良かったと後悔しているのである
こうして後悔が人生なりともなっている
いかに時間を有効に活用しなかったかを後悔する、またチャンスを活かせなかったを後悔する、何かチャンスも何回もないのである、一回のチャンスで人生が決まることすらあるそして一回の失敗でもあとは成功もないということもある
なぜなら何回も挑戦して時間をかけてすることができない、時間がそんなに与えられていないからなのだ

芸術家の8割が独身だというときもし結婚して子育てしてとかなったらとても創作に時間を使いなくなる、その負担が大きすぎるのである、自分の場合たいして才能もないのに
俳句とか短歌とか詩を創りつづけてきた、それは自由な時間を与えられてできたことである、もし結婚して働いて子育てしてとかしたらできないのである
人間は何か身につけるのに必ず時間がかかるのである
花を知るのにも必ずフラワーアレンジメントでも家の中に一週間でも二週間でもさらに長く毎日見ているとその花が心に深く映ってくるのである
とても一日では花でも深く見れないのである

人間の愛と信頼関係でも時間をかかる、即席に相手を信頼できない、家族でも長い間一緒に暮らすことで愛とか信頼関係が生まれる
一緒に暮らさなければ兄弟だろうが姉妹だろうが愛情とか生れない、それで兄弟でも遺産相続では他人でしかたないから殺したりする、それは別に血縁でもありうるがもう一緒に育たなかったら兄弟という感覚はない、私の兄は子供の時5年間は一緒に暮らしたから
辛うじて兄という感覚をもったから今は死んでも供養しているとなる

結局人間は何に時間を費やしたかで決まる、その人を見る場合、この人は何に時間を費やした人なのかを見ればわかる、それが人生だったからである
会社勤めの人は人生の大半を過ごしたのだから会社人生でありそれが人生だったとなる
社畜としてもそれが人生だったとなのである、そもそも才能だってそれを伸ばすには時間がかかるのである、学ぶのにも失敗しているのは効率的に学べない、学ぶ方法が間違っていたとなる、そして時代時代で学ぶことも方法も違っている、今なら学ぶ方法が多様である、youtubeなどは学ぶのにはいいツールである、前なら学校しか学ぶ環境がなかったからである、だから将来的には別に学校に行かなくても学べる環境ができる
するとそこから天才のような人が生れるかもしれない、興味のあることを子供の時育てればそうなる、学校は一律的であり多様な人を育てることがてきないからだ

人間が時間の無駄が多いというとき人間はまた浪費が多い、何かを身につけるには精進が必要である、天才でない限り必ず必要である、芸術にしても何か創作するにしても心の節制が必要である、座禅なんか無駄ではないかとなるが口をつつしむとか心を浄化するとかで心を重点にして修行する、すると心が澄んで透明な水のようになり花でも自然の美を心に映すことになる、でも汚れた世界にいれば汚れた人と交われば心も濁るのである
まずそうした汚れた俗世間に交わると汚れていることは普通だとなってしまう
それでカルト教団などはそこは何ら宗教などない、心がどうだとかそんなことを全く問題にしていない、会員を増やして権力化することしかない、そこにどんな人でも欲深い人でも歓迎される、心を浄化するなど関係ない、ただ御利益求めているから膨大な有象無象の人間が集まる大衆化したものとなる

人間はまた若い時かここうして無駄なことに時間を使いすぎるのである、そして最後はすべて空の空なりで終わる、何で生きたかもわからなくなる
そうして繰り返されてきたのが人間だとなる、そうした業とか欲とか依然として消えないからそうなる、人間社会が変わらないのはそのためなのである
科学技術て進歩しても人間そのものは根本的には変わらないから業をカルマを繰り返すのである

2022年02月22日

これから社会的にも引きこもりの時代になるのか (家族環境の影響が大きすぎるーそして人生を後悔する)


これから社会的にも引きこもりの時代になるのか

(家族環境の影響が大きすぎるーそして人生を後悔する)


一橋大学を卒業後、40年ほど「引きこもり」…当事者が激白 “毒母”が生み出す「高齢引きこもり問題」
自分の主体が完全に剥奪された」と振り返る。母が推奨するエリートサラリーマン以外の人生を、自分で選択することができなかった

「僕が罪悪感を持つように、蔑むように言ってくる。僕は一度として受け止められたことも、肯定されたこともない。僕のすることすべてを母は否定した。常に母親から睨まれていて、僕には安心という経験がなかった。僕は間違ってはいけなかった

その後妻は連れ子に、優しい言葉一つかけたことがなかったという。継母から全てを否定されて育ったのが、杉本さんの母親だった
そしてそこが歪んでいるとは知らぬまま、もがき苦しんでいる「息子」たち。その数は一体、どれほどまでにのぼるのだろうか。

一橋大学を卒業後、40年ほど「引きこもり」…当事者が激白 “毒母”が生み出す「高齢引きこもり問題」





人間は家庭環境の影響が大きい、どういう家に生まれたかでその人の一生が決まってしまう、意外と他人の家のことがわからないのだ
だから自分の家が正常ではない、異常なのだということが認識できないのである
人間は自分個人のことでも家族でも団体組織でもその異常性を自覚できない
なぜならその中にいればそれが正常だとなるからだ
例えば日本でもみんな戦争しているとき戦争に反対することはもうできない
そうしたら警察がきて捕まえられる、ナチスでもあれだけ今になると異常でも社会自体が異常に染まると正常になるのである
それが家族にもあてはまる、そして家族でも他者の家族のことがわからないのである
何か家族とは一つの閉鎖された空間でありそこが生活の基本になるから客観的に見れないのである

客観的に家族を個人でも見るには対照的に見れるものがあると理解できる
赤だけ見ていたらそこは赤の世界しかないと見る、そこに黄色とか青とか茶色とかいろいろな色があれば対象的に見れる
そこで日本という国を理解するには外国で暮らしてみるとわかる
ここが違うと実感として理解できる、だから何か評論している人は外国で暮らし人なのである
人間は何か対象的に見るとわかりやすくなる、それは歴史でもそうである
昔はこうだった、こういうふうに暮らしていたとか人間関係でも違っているからそれを知ると現代が見えて来る、そこで歴史を勉強することが大事だとなる

要するにこの話しでも異常な親子関係でも家族関係でもそういう場にいたらそこから逃れられない、そして別な家族もあるということもわかりにくい
だから家族の異常性があっても理解できないのである
家族とはこんなものだと思って他にも別な親子でも家族でもあることがわからないのである
要するに家族とは閉鎖的空間であり他者が入りにくい空間でありそこで異常性が育まれるそういう自分自身がそうした家族で引きこもりなり60まで暮らしていたからわかる
でも自分の場合は何ら叱責されることもなかった
親は二人いたようなもので実際の母親は力がないから影響を受けなかったのであく
ただそれが特殊な家族でありこれから平均的な家族と親を考えることはできない
「あなたはあなたのやりたいこをやりなさい」と言われてそうなったのである
旅ばかりしていたとか自分の好きなことをしていたのである
これは特殊だから普遍化はできない、ただ家族にはそれぞれ違ったものであり他者の家族を理解できないのである
それは親子関係でもそうである、親子関係でもいろいろあるから理解できない
それそれ人間は他者を理解することが簡単にできないのである

親ガチャとか言われるが別にそれは普通にどこにでもある、親が子供のことを思う時
それが親の一方的なものとして子供に押し付ける、子供はそうして洗脳されやすいし
逆らうことができない、それで歪んでしまうとなる
そしてyoutubeで心理相談している人が外発的動機と内発的動機で仕事することを言っていた、外発的動機で仕事していると35以上辺りになるとつづかないと言っていた
つまりそれは外から押し付けられたものでありその人の中から自ずとでてきたものではない、外発的なものとして仕事をしているといづれは押し付けられたものだからつづかないとなりまたこれが自分なのだろうかと悩むとなる

ただ正直内発的動機だけでこの世をわたるとか仕事ができるのかとなるとできない
私はこんな仕事をしたいとか思っても誰も与えてくれないのである
私は芸術家に成りたいとか言っても誰も容認してくれないだろう
第一自分にあった仕事など与えられないのが普通なのである
そこで無理やり仕事についてもやめて引きこもりになるのである
だからこの世で仕事している大半は自発的動機でしている人はまれだろう
強制的にその仕事をさせられているというのが多いだろう
そこで引きこもりが増えたのである、それができたのは経済的に余裕ができたからであるもう貧乏な時代だったら何らか苦しくても仕事が合わなくても食べるために仕事をしなければならない、自分に合わなくてもしなければならないからだ

そうして引きこもりになるのは陰の性格が多いかもしれない、陰の性格の人はどうしても内面に向く、外面的にはぱっとしないから目立たない、でも社会だと陽の性格の人が好まれるし成功しやすいのである
ただ陰の性格に向いたものを求めてそれを追求すればそれなりのものになる
それが解かりやすい礼だと芸術家とか学問とか何か内面的な仕事である
ただこういうものは金にならないとか外発的動機が優先される社会だから内発的動機ではなかなか社会ではできない、もしかしたら昔だったらそういう陰の性格の人は寺に入り修行するのに向いていたともなる

私自身がひきこもりでありそうして内面を追求してきたからである
ただそれは社会に適合できないものとなり異常化する
だから自分自身も大きなものが欠けていて社会性がなく失敗したとなる
社会的常識とか社会性がないことも大きな問題だからである
ただ私の場合は異常な家族環境でもそれが自分の性格にあったことができる環境だったのである、だから芸術とか学問とか内面的なことを一人追求してきたのである
そこに人間はいない世界だった、自然が山とか木とか石とかとアイディンティティ化する同一化する世界を追求してきたのである
相手が人間ではなく自然だったとなる

とにかく子供は親の言うようにいい子になりたいと自然となる
でもそれがいいかとなるとならない、なぜなら人生は親のものではない、親と同じ人生を送るわけでもない、時代が変わると全く違った人生を生きることになるからだ
引きこもりというのも貧乏な時代にはありえないことだった
でも豊かになるとそういう人生も可能になったともみれる
つまり引きこもり人生でもありうる社会になったとなる
時代的にそういう人生すら容認されるともなる、だからなぜ今頃になってみんなアーティストになれというのもそうである
そんなことしていて食べていけるのかとなっていたし団塊の世代だとみんな企業戦士になって働いていた、その頃は高度成長時代でありそれに団塊の世代が適合したのである

でも時代が変わった、時代の雰囲気も相当に変わった、30年間日本がではと全く成長していないし賃金もあがっていない、貧困化している、そうなると時代の雰囲気も変わる
一方で引きこもりなど貧乏でできないとかともなる
また一方ではやはりそういう人達がいて何かその人なりのものもを追求できる時代にもなる
コロナウィルス以降は陽の時代から陰の時代の変化なのかもしれない
何かみんな巣籠り生活とか引きこもりにもなったからである
社会がグロ−バル化したことは世界と広く交わることだがその弊害も顕著になった
グロ−バル化はいいことばかりもたらさなかったのである
別に旅行などはしてもいいがあまりにもグロ−バル経済になったことの弊害が目立つようになっていたのである
聖書でもユダヤ人でも人種的にも広く交わらない民族で独自性を維持できたとしている
広く交わった時はかえって堕落した時代だったとしている
確かに日本でも江戸時代は広く交わらない社会であり鎖国だとなっていた

でもその江戸時代三百年で日本人の独自なものが培われたこともある
そのために明治になって和魂洋才となり日本のいい面とヨ−ロッパの文明が結合していい結果になったともみる、内村鑑三の武士道キリスト教とかもそうである
戦後はそういう日本人的なものがアメリカの戦争に負けて失われた
すると日本人はなんなのだろうとなる、日本人的なものがなくなり欧米的なものに支配される、すると欧米の悪い所にも染まって日本人の良さが喪失したのである
だからアメリカが金の支配する国であり何でも金だというとき日本でもそうなったのである,アメリカの悪い所にも染まった社会になった
極端な貧富の差のある社会でもそうである、つまりなんでもアメリカと似てくるのである当然アメリカに習ったのだからそうなるのである

いづれにしろこのコロナウィルスを契機として何か国自体が引きこもり的なものになってゆくかもしれない、グロ−バル化からまた江戸時代のような内にこもる閉鎖的なものとなりそこでまた日本独自の文化をはぐくむ時代となるかもしれない
すると外に開いた陽の時代から内にこもる陰の時代の変化になる
国風文化の再興ともなる、そうなる陰の性格の人にはいい時代になるかもしれない
内面的な追求とか中世時代に還るとかいわれたのもそうである
時代の雰囲気が変わるのである、何か時代の雰囲気というとき十年違っても変わっている子供の時代街中でも囲炉裏があり炭を使っていたとか洗濯を小川でしていたとかあった
それが電化されて電気製品を使い家事が楽になった、十年くらいでそうなったのである
その変化も大きかったのである

アメリカでも時代が影響していた

アメリカでもホイットマン1819年の文政生れである
1876年(明治9年)7月に札幌農学校教頭に赴任する

この時代は西部開拓の時代とかなり時代の雰囲気が今のアメリカとは全然違っていた
そういう時代は知識人とかは尊敬されていない、歌われたのは普通の平民であり現場で働く肉体労働者が多かった、だから体力が重んじられたともなる
それでロシアではやはり肉体が強くないと尊敬されないとしている
そこでプーチン大統領が肉体を見せびらかしている、肉体の強さを強調しているのかとみる、だからロシアは知識人は重んじられないというのも意外だったのである
常にこうして国々でも時代でも時代の雰囲気を作っている
だから一時代が過ぎるとその時代のことがわかりにくくなるのである
引きこもりというのもやはり時代が作った現象だったのである

ともかくなんであれ人間は親が悪い、社会が悪いとか時代が悪いといっても
必ず責任をとらされる、親のためにこうなったといってもあなたの責任でそうなったのですよと最後はなる、つまり何でも人間は責任をとらされるのである
それで子供が泣いて生まれてくるのはその責任のためだという人もいる
責任からなんでも逃れられないのである
その責任も自覚できないのである、結局いくら親が悪い、社会が悪い、時代が悪いとなっても最後は自分の責任にされるのである
いくら悪い環境でも育ってもそうである、そういう人は余程自分の境遇を自覚して生きないと悲惨な結果にもなる
結局人生最後はみんな後悔に終わる、あの時こうれば良かったとかあの時失敗したとかなる、それを最期に悔やんでもどうにもならないのである




2022年02月17日

待つ時間の消失 (待つ時間は期待する時間であるー間とか,無用の用とか東洋思想を見直す)


待つ時間の消失

(待つ時間は期待する時間であるー間とか,無用の用とか東洋思想を見直す)

現代かいろいろなものが消失した、それに気づかない人もいる、旅に過ごした人生で感じたことはそもそも旅も消失していたのである
旅とは行程のことであり目的に寄り早く着くことではないから旅があった
今は三時間で平泉に着くとしたら場所の俳句などできない、その時地の果てへ行くような感じであり死をも覚悟した旅だったからである
だからこそ「奥の細道」が生まれたのである
「五月雨の降り残してや光堂」というときこれは時間の感覚の俳句である
でもまた空間的距離も関係していた
なぜなら江戸からはるばる歩いて来て金色堂を見た、その金色堂がまだ残っていた
藤原氏の栄華の形見として残っていたという感懐があり生まれた句である

もし新幹線で三時間で着いたらこういう句は生まれないのである
人間は何でも空間軸と時間軸で構成されている、でも空間軸でもそれが交通の発達で狭くなると距離感がなくなると感じ方が違ってくる
だからそうして失ってしまったものがかなりある、ただ気づかないことがある
別に旅など車でも電車でもしているのではないかとなる
でも歩いて旅していた時代とは感じ方が違うし本来の旅は消失したのである
ということは何でも時代が進歩したとしても必ずそれによって失うものが必ずあるのが人間世界だということがわかる

医は仁術というとき医のモラルとか人間に対して人情とか愛とかで患者に接することだったその時代は病気は直せないものとして見ていたからかえって情を愛を注いでいたともなる逆に今は科学技術が発達したから病気は直せるものとして医者に行く
直せない医者は藪医者だとかされる、情とか愛など関係ないとなる
またて医者の方にしても医は算術だとなる、金もうけの手段としてある、だから人情がなくても
そして科学技術の最先端の機械設備を整えた病院がいいとなる
でも病院で死ぬことは情もない無機質な空間で死ぬことで嫌だとなる
最後死ぬときくらい愛情をもってみられて死にたいとなるからだ
その時はもう病気は治らないからである、老人でも治らない病気が多いからである

こうしてとにかく人間社会は何か進歩したとしても何かを失っているのである
人間とは何かを得れば何かを失うということがある、この辺で原発は歓迎されていた
金になるとかなり電気関係で働く人も多かったからだ
それで財を築いた人もいるからだ、でもそれが事故で反転した、故郷にも住めなくなったからだ、いいと思えるものが最悪ものにもなった、そして貴重なものを消失した
でもそれが貴重なものだと思っていなかった、故郷など別に住んでいるし貴重なものという意識がなかったのである
何か最も貴重なものの価値がわからない、当たり前にあるものの価値がわからないのが人間なのである
家族とか妻とかでもその価値が意外とわからない、でも死んでしまうとそのありがたみがわかる、今や全部家事でもして病気になっても誰も同情もしない、他人がこれほど冷酷だと思わなかったとなる、だから家族がいないことはこの世は一変して地獄に変わったのである
ただここでも失ってみて初めて家族の価値がわかったことになる

そういうことはあらゆることに言える、待つことでもそうである
待つことが何なのともなる、インタ−ネットの通販で感じた
本を注文すると三日四日くらい配達される、その期間が結構待ちどおしいとなることに気づいた
そこに待つ時間があるからである、すぐに例えばインタ−ネットの電子本で読んだりするとそめういうことはないのである
ただ題名しか読んでいないし中味を早く読みたいと待ち遠しいのである
その待つことでそれが配達されたときはうれしくむさぼるように読むということに気づいた、また電子本では手に入らないものが多いからそうなる

この待つ時間が電車にはある、駅で待つことは何か期待している、家族を迎えるために待つというときまた他でも友達を待つということでもそうである
何か待つ時間は期待する時間なのである、そこで駅は人間的な場所だったのである
そうした人間的なものが駅にはあった、それは待つ時間が必ず電車にはあるからだ
そういう時間があったということである、時間の感覚も時代によって違っていたのであるただ新幹線とかなるとあまり待つ時間がない、一時間置きとかではなく、待つ時間が短いと感じない、それよりも余りにも早く着きすぎるから時間の感覚が違ったから今までの駅とは違ったものになる
高速道路のSAとか道の駅には待つ時間がない、ただ立ち寄り去ってゆくだけである
道の駅で待っているということはない、そもそも車には何か待つ時間がない
いつでも家から出て目的により早く着くという乗り物だからである
そこで鉄道の駅とは相当に違ったものとなっていたのだ

人間は待つということは神を待望するというときも待つ時間なのである
神の国を待望する時間なのである、だから雄々しく待てとかなる
待つことに価値を見出していたのである、待つことも不生産なものではなく生産的な価値があった、ただ旅でもより早く目的地につけばいいとなると待つ時間もなくそれは精神的な損失だともなる、充実した旅とはならないからである
人間はこうしてより効率的なことを追求して社会を作ったてきたが必ずそこで失われたものがあった、それに気づいていなことがある

確かなことは待つ時間は期待する時間なのである、それが無駄なものではなく精神的にも豊かにする価値があった、それが消失したとき人間的なもの情的なものも失われたのである、何かすぐにけ手に入ればいいとなるがなかなか手に入らず得ることができないで待つ時間があってその手に入るものが貴重だとなりまたそれが手に入った時の喜びも大きいのである、それが本がすくに手に入らない三日四日かかることでも感じたのである
その待つ時間が実は貴重でありそれがかえって精神的豊かさを醸成していたのである
効率的になれば待つ時間は無駄だとなるのが現代である
それによって失うものがあることを感じないのである

だからともかく人間社会は進歩した効率化した合理化したとかでいいとするが必ず失うものがある、それに気づかない、だから人間とは必ずしも何でも効率化するとか合理化するとか機械化するとか何かいいように全部働かないのである
何かそこで人間的なものを失うことがある、何か不満だというときそういう人間的なものが喪失したとでまた不満になっているのだ

結局用ばかり追求するより無用の用が必要だとか老子の思想が東洋にはある
日本だと間の思想である、何か日本では日本語には間がつくのが多い
それは時間にも間が必要であり間合いが必要であり空間でも間が必要である
そこに人間的なものが生まれる、老子だと無用の用が必要だとなる
それが東洋的思想としてある、おそらく西洋的なものにはない、資本主義とかでもすべて効率的にする合理的にする、無駄をなくすということになる

東洋的思想として禅があるとしてそれは無の境地にいたるとか空を知るとかなるのだから仏教とかでも同じなのである、東洋文化として共通したものがある
それでインドでゼロを発見したとでもわかる、これは西洋文化からは生まれないものだったのである、ここに東洋と西洋の相違があり今見直されるべきなのは東洋的文明であり思想だともなる
キリスト教はもともとアジアから生まれたのである、宗教はアジアから東洋から生まれたそれが欧米化したのである、ギリシャ文明があり本来の宗教が変化したのである

キリスト教と西洋化したヨ−ロッパのものもでありそれは本来のアジアのものとは違っている
ただ現代の宗教は別に東洋的だとかアジアだとか関係ない、資本主義の論理のように適合した全く東洋とかアジアだとか高遠なものとは関係ない、御利益宗教であり要するに金にあればいいとしかないのである、東洋も西洋もないのである
ただ欲望の是認でありカルト宗教になっている、どの団体でも同じなのである
それが世界でも大都市が似たようなものになていることでもわかる
画一化して平均化した大衆社会になっているもの同じなのである

いづれにしろ資本主義とかその変容したマルクス主義とかは限界である、思想的には東洋に回帰する
思想としては東洋が元であり深いからである、それを再び見直す作業も必要になる
だから中国がマルクス主義になっているのはおかしいのである
ただ仏教とかでも結局は資本主義的になっている、欲望の全面的解放であり宗教的なもの皆無である
大衆の欲望を全面的に開放した異常なカルトなのである
そんなとこに思想もなにもない、ただ資本主義の欲望追求と変わりないのである

だから不思議に思うのは中国には仏教遺跡が多い、仏都も多い、そこで唐の時代に日本もその仏教最盛期の時学んだ
でもその仏教も過去のものとなり今の中国は日本でも仏教は関係ない社会なのである
中国こそもっとも資本主義に適合した国だとなっている、だからあれだけ急速に経済発展したのである
でもそれも行き詰まっている、資本主義とその同根の西欧文明から転換が必要なのである
キリスト教は西洋化したものであり本来の東洋にオリエントから発したものなのである
だからこそキリストが生まれたとき東洋の三博士が祝福したことでもわかる
東洋から生まれたから東洋の三博士と通じていたのである






2022年02月15日

未来に備えることができない人間 (意味と価値がないものに費やされる人間の膨大な労力)


未来に備えることができない人間

(意味と価値がないものに費やされる人間の膨大な労力)

●人間は未来を見れない

人間はなぜこれほど未来を見るのがむずかしいのか?
それはソロバンのことで失敗したことで語った
子供の時習ってソロバンできたとか自慢していたけど何の役にも立たなかった
その時間と労力は全く無駄になった、ソロバンでは何か考える力も身につかなかった
読み、書き、ソロバンの時代は考える力、思考脳を養うことではなかったからである
社会生活するうえでの単純なスキルを身につければよかったのである
だから高校まで自主的に考えたことがない、ただ視線の点数をあげることしか眼中になかった、何かを理解するのではない試験のための暗記の勉強だったのである
そして大学に入ったらそこは遊びの場だったからおかしなことだった
要するに大学とは自主的に考える自主的に課題があり学ぶ場だったのである
それを高校まで全くしていなかったらできない
するとどうなるのか?遊びであったりカルト教団にはまったりと何か変な方向に行ってしまうとなる

でも大学でぱ多少考えることはした、でも何か文系は理系と違って自ら課題があって勉強していた人はまれだとなる
つまり現代は読み書きソロバンのレベルではとても役にたたない、社会が情報社会とか高度化しているからだ、また規格品の大量生産でも平均的人間でも役にたたなくなる
そういうことはAIが機械がするようになるからだ
すると人間は何をするのか?それが問題になってくる
それは金になるとか収入の問題があったとしてもそれだけではない、例えば退職してからの人生も長い、人生百年としたらその設計をどうするのかとなる
金銭問題も重要だけどどうして生きがいのある張りのある生活ができるのかとなる
そういうことは個々人でも社会でも備えていないのである
まず退職したらボランティアとかすることはむずかしい、一見無料で働くのだから受け入れられると思うが全然違う、ボランティアは現役の人にとっては邪魔なものであり組織を乱すものとして受け入れられないのである
なぜなら仕事とは会社ならば組織でしていて仲間でしてボランティアなどはその組織に受け入れられないのである

●急激に起きる不可解なこと不測なこと

ともかく人間は未来に備えることはほとんど不可能に思える
誰も予期せぬことが起りこんなはずではなかったと老人になってふりかえるからだ
それは未来が見えないからである、それで何か株とかでもうけるとしたら未来を見なければならちないから簡単にできないのである
必ず不測のことが起きて予定が狂うからである、、だからもう未来に備えることが不可能だともなる
自分に起きたことも突然だったので対処できなかった
家族の一人が認知症になり急に暴れたとき対処しようがかった

何なったのかわからず狂気になったのか怖かった
ただそうした急激に起きることでも多少の知識があると役立つとものだとふりかえった
なぜなら認知症など何か全くかわらなかった
だからインタ−ネットで調べてお茶でも飲ませて落ち着かせろとか書いてあった
それでそれを実行したのである、それだけでも効果があった
それはもの忘れで異常な興奮状態になっていたからである
そして認知症については医者すらわかっていなかったのである
だから誰からも助言を受けることができなかった、それでインタ−ネットで対処方法を調べてそれが多少役にたったのである
今回のウィルス騒ぎでもそうである、何なのか未知だから対処しようがないのである

本当に未来を予測することが大事なのかというと命にかかわっているからである
津浪でも原発事故でもそうだった、そのことが見えていたら二万人死んだとか故郷に住めなくなったとかならなかったからである
海岸沿いに住んでいた人達がどれだけ危険だったのか?
その危険をイメージできたていたらとても住むことはできなかったのである
そんな恐ろしいんことが起きることをイメージしていたら予測していたら二万人の命が助かったとなる
また戦争でも三百万人も死ぬことになることをイメージしたらとても戦争などできない
まずそのことをイメージしたらとても戦争などしなかったとなる

だから未来を予測することか命にかかわるから預言者とは未来を予言する人だとなった
未来を予言していれば危険からまねがれるからである、命が助かるからである
ただどうして未来を見ることができるのか?
それができないのである、ただ津波が起きた、原発事故が起きた、戦争が起きたとかなり後から人間から考えるのである、それは個々人の場合でも同じである
人生をふりかえってあの時何々うしいればとか何をしなければ良かったとか反省する
しかし時間をもどに戻せないのである、これが恐ろしいことなのである
その時々で判断して実行したことで誤っていても元にもどせないのである

●やり直すことができない人間

例えば将棋だとコンピュターを相手にしていると待ったをして何回も前の状態に戻して勝負してゆくと必ず勝つのである、でも前に戻せないから人間は歴史でも人生でもどうにもならないのである、その時々の判断実行で未来が決まるとなる
人生でも歴史の勝負でも待ったがないのである
そして人生は実際は真剣勝負であり一回で決まるとまでなる、そんなに何回も勝負できない、たいがい30までに人生の勝負は決まってしまうとなる
例えば女性でも婚期が短いから30まで選ぶ男性でその人生が決められるとまでなる
でもなぜ離婚が多いか、それは一回結婚してみて失敗だったとなるからだ

でも結婚でも何回もできるわけではない、婚期だって短いのだから一回で決まってしまうともなる、要するにチャンスは一回とかしかないのである
人生は長いのだから何回もチャンスがあるとか失敗してもまたやり直せばいいとかいうけどそんな時間は人間にないのである
だから事業でも一回失敗したら立ち直るのは最高に難しくなる
もし人生が二百年とか元気に生きられるならいいが短いからそうはならないのである
人生百年にしても元気でいられるのは80くらいまでだとなるからやはり活躍できる時間が限られている

本当に60とか過ぎて70歳になって一番不思議なのはあの人とあったのは50年前だったなとなることである、それが昨日会ったようにも思えるからだ
あの時若い時あの人と逢ったなそれからもう半世紀も過ぎたのかと驚くのである
それだけ時間が過ぎるのは早かったとふりかえる
もう人間がこの世であうの一瞬だったとも思う、そして後はこの世にいないのである
すでにそうして同世代でも死んだ人が結構いるからだ
70とかなると同世代で一割以上死んだいるからだ
こういうことが若い時は実感できないである、でもどんな人でも老人になると否が応でもそれが実感させられるのである、こんなに人生が短いものかと驚くのである
光陰矢の如しでありさよならだけが人生だとなっているのだ
逢った人があっても二度と合わなくなるのである
それで私の家族が全部死んだから60年一緒にいた家族すら消えていないのである
逢うこともできなくなったのである

だから求道するならもう中学からでもしないと間に合わない、なぜなら若き時に神を知れというときそのチャンスが30までとしたらそうなる
たまたま私の場合は父親が中学で死んだからそのことが頭から離れず人間が死ぬということを一番問題にしていた、それで求道していた、でもカルト教団に入って失敗した
でもやめた、そこからまた迷ったりして師についたりした、でも師から学ぶことができなかった、でもその師を否定して偶像を否定して神に出会ったという不思議がある
ふりかえると何がなんだかわからないのに神を知ったとなる
なぜなら自分は聖書など読んだこともなかったからである
神と出会うというと聖霊を受けるというとき別に聖書を読まなくてもありうる
要するに人間は経験でしかわからないのである、あらゆることがそうである
経験しなければわからないのである、辛いことや苦しいとでも経験しなければわからないだからそうして経験したことから相手のことにも同情するとなる
何か障害児をもった親のこととかあらゆることで経験しないとわからないのである
その苦しみとかがわからないのである

いづれにしろ人生はふりかえれば一瞬だったともなる、出合いも一瞬で終わった
あなたと会いましたね、でも永遠にあなたとはもう会いませんねとなっていたのである
そんなことがありうるのかというけどこれは老人になればみんな否応なく知らして目られることなのである
あの人と逢ったことがあったな、それも一瞬であり永遠に逢わなくなった
それで人の出合いとは何だったのかとなる
人間とは何かこの葉が風に舞うようにただ翻弄されているだけにもなる
そのうちはまたたくまに時間がなくなり消失して茫然としている
後は死ぬだけだとなってしまうのである
最後はみんなだから夢のまた夢だったとなって終わるのである

●意味と価値がないものに使役される人間(人類)

そもそもこの世に生きることの意味とか価値がわからない、何か膨大な労力が徒労だともなる、働くことでもそうである、そんなに働くことが必要なのかという疑問がある
それはオリッピックでもそうである、0.1秒記録を破ったとか何の意味が価値があるのかスキーのジャンプで十センチ伸ばして世界記録だとか何の意味があるのか?
そんなことに膨大なエネルギー費やす意味があるのかとなる

何か人類にとって意味あることなのか?

世界平和のためだとか言うけどロシアがウクライナに攻め入ることが止められるのかとなるとできない、オリッピックでわかったことは一部利権団体の利益のためのものであったり政治的思惑があってしている、そのために世界平和に寄与することなどないのである

そして人間が働くということは別に意味と価値を求めていないのである
要するに

彼はタルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられた(この岩はゼウスが姿を変えたときのものと同じ大きさといわれる)。シーシュポスがあと少しで山頂に届くというところまで岩を押し上げると、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまい、この苦行が永遠に繰り返される

何か意味があるわけでもなく延々として無意味なことをさせられる
それは罰なのである、カルマなのである、この世で無価値なこと無意味なことが延々と労苦としてさせられる、労働でもそれが罰だというときそうである
人類は人間はいかにこうして無益なことをさせられるのか?
それはそれはサタンに使役されてそうさせられているとも感じる
近代の戦争では何千万人も死んだ、それが何が意味があるのか、それもわからないのである、何かサタンに仕掛けられてそうして膨大な無意味な死が生まれた
それはどっちが正しいかとかではない、どっちにしろ戦争を制止した方が良かったとなるからだ、戦争の結果として戦争をしたよりいいことはないのである
多少領土の拡張があってもその死者の数からみたら得したとも言えないのである

諸々の価値の根源は人間である、人間はおのれを維持するためにそれらの価値を諸事物に付与したのだ、−人間が元で、それが諸事物に、意義と人間的意義を創り与えたのだ
それゆえ彼自らを「人間」評価する者と呼ぶのである‐ニーチェーツアラストラ

オリッピックでも価値とか意義が認められない、また価値とか意義が認められないことがこの世にはありすぎるのだ、大きく見れば文明そのものでもそうである
そこに美とか真とか善の世界が生れれば別である
今の大都会にそういうものはない、真善美はないのである
そうして宗教でもカルト教団などはただ数を誇り票数を誇り権力化しているだけである
また何でも量で計りGDPとかすべてを量で計る、そこに質を見ないのである
だから全体として数が膨大でも量が膨大でも意味と価値はないとなる
ただサタンに無意味にシーシュポスのように使役されているだけだともみる
無益なこと無価値なことに膨大な労力が使役されるときシーシュポスき同じである
それはもう罰であり業(カルマ)でありただ虚しく使役されて意味も価値も作りたさないとなる
人間の未来とは何なのかというとき意味あること価値あることを目指して働いているのでもない、ただ虚しく使役されている、社畜だと自ら言うように奴隷だとなる
奴隷制度がくなっても人間は自ら奴隷になっているのである

2022年02月06日

自己責任とは何なのかー権力をもつ者が責任がある (最終責任は神にある-人間の責任の限界)


自己責任とは何なのかー権力をもつ者が責任がある

(最終責任は神にある-人間の責任の限界)

●侍の責任は切腹だから庶民は侍になりたくなかった

自己責任のことを良く言われるようになった、自己責任とは何かということが問われる
それはあなたの責任です、あなたが悪いのですとなる
それは民主主義社会になったときそうなったのである
民主主義では自由でありでもその自由には責任がともなう、だから何でも自由でも事故責任にされる、でもそもそも人間はあらゆることに責任などとれないのである
また他者にしても自己責任は問わない
何かこれは罪を問うのと似ている、罪を犯した女性に「罪なき者はうて」といったとき
誰もその場にいなくなった、みんな罪を犯していたからである
罪を問いうるものとはそれを問い裁ける権能を持つものだとなる

責任もそれと似ている、誰もあらゆることに責任を持てないからである
ただあらゆることに人間は責任が問われる存在である
また確実にあらゆることで責任が負わされて問われる
民主主義社会とは平等な権利があるというときみんな平等に責任も問われる
意外とその責任を自覚していなのである
江戸時代とか封建制とか君主制とかだと責任は庶民にはない、江戸時代だったら政治にかかわることもできないのだから責任は侍にある

だから庶民は切腹などしたくないから侍になりたくなかった

侍の責任は切腹してとれとなっていたからである
つまり侍が威張っていられるからいい、得だからいいとかにならない
それだけの責任をまかせられるからそうなる、その時庶民に責任はない、自己責任もあるにはあるにしても本質的にはないのである
だから確かに侍をうらやむことがあっても侍になりたくなかったのである

庶民はもともと責任はなかった、責任を持つものは何か必ず権限を持つものである
侍は行政組織であり権限をもっていた、逮捕したり刑罰を与えたりする
その責任は相当に重くなる、今でも裁判がむずかしいのは人間には人を裁ける権能がないからである、罪なき者は打てというときがそうである
裁判官でも普通の人でありその人が人を裁くときやはりできないとなるからだ
そこに常に複雑な事情がありそれを酌量すると人を簡単に罰せられなくなる
だから警察とかは一番権力があるのだから責任も一番重くなる
でもその権力故にかえってその権力を悪用するとなる
つまり権力を持つと必ず悪用するものがあり権力は絶対的に腐敗するとなる

●権力をもつ者は責任が大きい

ローマの官僚のピサロがキリストを十字架にする判断をしたとき「自分には責任がない」と言った、でもそういう権力を持つ場にあったから後で責任が問われたのである
つまり権力を持つ立場にあればそれだけで思い責任が課せられていたのである
なぜなら十字架にしないこともできる権力を持っていたからである

そして一旦権力を持つとその権力者を罰することは簡単にできなくなる
権力が大きくなるともう罰することはできなくなる、かえってその権力の悪を追求ずると罰せられる、原発事故が起きたのは「原子力村」という権力集団ができたためである
その権力は安全神話まで作ることができた絶対的なものとなる
政治家、官僚、御用学者、科学技術者、マスコミが一体となり安全神話を作った
そこには海上保安庁とか司法関係の官僚も天下りしていたのである
もうこれだけの権力で固められたら誰も批判はできなくなっていたのである
そこに権力の恐ろしさがある、
神話というとき日本神国神話の戦争もそういうことがあった
今度は宗教が権力を作るのである、天皇は現人神(あらひとかみ)だから負けないとなって三百万人も死んだのである、それで広島を訪ねた昭和天皇がその責任を問われたときしどろもどろになっていたのである、あなたは神なのになぜ負けたのかと問われたことにもなる、その時天皇もその空恐ろしい責任を問われたのである

そういうことは創価とか他のカルト教団にもある、政治と一体化して権力化しているからである、創価などは選挙が聖戦とも位置付けているから常勝だとして信仰の力で勝ったとかなりそれで成仏するとかまでなっている、それは日本神国戦争と似ているのである
だからこそ政教分離がヨ−ロッパで生まれたのである
何かカルト教団に入ってだまされたとして裁判沙汰になった人もいたようである
それも自己責任に成るのか?
政教分離をしていない創価などは確実に法律で禁止されることをしているのだからそれが社会で通用しているのだから自己責任にはならないとなる
いくら政教分離を言っても現実にそれは容認されて自民党が利用しているからである

こういうことはいろいろある、つねに人間社会では責任が問われる
だからこそ契約こまかく責任をとりませんとして契約させるのである
それだけあらゆることで責任が問題になるのが人間社会なのである

●自己責任も必ずあるが何でも責任を問えない

JA東びわこ(滋賀県彦根市)による2016年開催のイベント内企画「おにぎりの早食い競争」で、参加者の男性(当時28)が喉を詰まらせて死亡したのは、主催者側の注意義務違反に原因があるとして、両親が同JAを相手取り、約8300万円の損害賠償をもとめて裁判を起こした

こんなことまで責任をとらされる、これはこんなエベントに参加したこと自体自己責任だとも思う、早食い競争などそんな馬鹿らしいことに参加すること自体常識でそれがどんなことかわかる、それに参加したこと自体が自己責任だともなる
ただ自己責任となるとき本当にどこまで自己責任になるのか判断できないのである
あなたが貧乏なのは自己責任だというの簡単である
実際はその人自身の問題は必ずある、怠け者だと努力しないとかいい加減だとかいろいろある、でもすべてが自己責任とは言えない、そうしてこの世の中は不可解だからインドではカースト制が生まれた、前世の宿縁でそうなったとなる、カルマでそうなったとなる
それが必ずしも理不尽ではないのは人間はみんな明らかにカルマをもって積んで生まれてくるからである

いい親に生まれたのもカルマだとなり悪い親に生まれたのもカルマだとなることがあるからだ、それは確かに不公平なのだけど人間は完全に平等にはできないのである
だからこそ共産主義がいいようで失敗したのである、なぜなら人間は努力することがなくなった、いくら才能があっても働いても結局同じ収入にしかならないとして能力のある人でも馬鹿らしいから働かなくなったからである
どうしてもその家でもやはり何らか徳を積んだり努力する家であってそれを受け継ぐことで豊かになる、そういうことは必ずありみんな働く者でもしないものでも才能あるものもない者を平等にすることはできない、そうするとかえって不平等になるのである
代を積み重ねることとは時間軸で積み重ねる努力があり豊かになることである
だから人間は一代では豊かになれない、だから強制的に共産主義のようにすることは失敗したのである

いづれにしろこの自己責任とか責任問題は様々なことがありそれを問うことはむずかしいのである
ただ侍は権限をもっていたから責任があり庶民にはなかったとなる
今でも権限を権力も持つものは大きな責任がある、だからその責任は厳しいものとなる
ただ得するからと権力を持つことはできないのである
そうなると戦争で3百万人死んだとかなりその責任は誰にあったのかと今になり問われるからである、原発事故でもそうである、その甚大な被害の責任でも誰もとっていない
でも地元の人は故郷に住めなくなったという責任をとらされたのである
政治家とか官僚とか御用学者とか科学技術者とかマスコミでも責任は問われない
でもマスコミでも相当な責任があったのである
これまでは勝手に放送する報道する権利など庶民になかったからである
すると庶民はやはり責任があまりないとなっていた
知りえようかないし発言もできないとなれば責任がそもそもないからである

●責任は万能の神しかとりえない

ただ責任というとき本当はもう人間では責任がとりえようがない、人間は万能でもないし必ずミスがあり事故だってあるしさけられないのである
医療ミスだって必ずありそれもさけえようがない、それをいちいち問うしていたら誰も医者にならないだろう、手術に失敗したら切腹だと成ったら誰も医者にならなくなる
そういうことは他でもある、つまり人間は責任を負いきれない、それは人間が万能ではないからである

すべての責任を負えるのは万能の神しかいない!

実際はこうなっいる、神が人間を創造したというときその責任は実は神にある
創造責任がある、機械でも作った人に壊れたら責任があると同じである
第一神が人間でも作ったとしたらその製作責任がある
だから最後にキリストが十字架で「神よ、神よ、我を捨てたもうた」と神に訴えてその責任を神に訴えたとのである、それで神はその責任をキリストを蘇らさせることで果たしたとなる、つまり人間にはそもそもあるゆることで責任は負えない
なぜなたら万能ではないからである、だから必ず何らか事故になったり問題が生まれる
その責任を自己責任だとして神がその責任を人間に負いとしても無理である
人間にはそんな責任を負える能力などないからである

ただ自己責任であれ責任は人間にありそれを全部問わないということではない、問われるべきものがある、特に権力をもったものには厳しく問われるべきなのである
つまり権力を持つものと持たないものでは責任の度合いが違うからである
権力を持つ者の責任は重いのである、だから簡単に地位あるものとか権力を持ちたいとなるのは問題なのである、そういう重い責任を自覚せずになることは危険である
そうなるとその権力の悪しき利用で甚大な被害になる、戦争で何百万人死んだとかまた原発事故で故郷に住めなくなったとかなる
だから侍のように切腹して責任をとる覚悟ないと本当はできない
ただ得して楽して威張っていることとかを望んでそういう権力を持つことは危険になる

そして現代の一番の権力が金なのである、金を多くもっている人はやはりその金の大きさに比例して責任が生じている、それで江戸時代でも十両盗んだから死刑になっていた
つまり金を持つことも責任なのである、金がもてない貧乏な人は現代でぱ責任がないとなる、何であれ金を多く持った人は責任が生じる、それを浪費した遊興費とかにしたら責められる
そしてグロ−バル化社会になったとき金を一番もっている権力を一番持っている国が今ならアメリカが一番責任があるのだ、原爆でも落とす権力をもっていたし核も持っている
つまり核兵器を持つ国は人類に対して責任がある
軍事力は最大の権力だからである、それを悪用されると人類滅亡にもなるからだ
だからそれだけの責任が生じている、ただ強ければいいとはならないのである
強いから何でもしていいとはならない、そこには必ず責任が生じている
その責任はカルマとなってのしかかる、アメリカげ原発を落としたということでカルマとなっている、その責任が余りにも重かったのである

●宗教も権力化する、聖なるものの権威の悪用の危険

例え戦争に勝ったとしてもその責任はカルマは重く消えることがないのである
だから権力をもつことは責任でありその責任が必ず問われるのである
それから逃れることがてきないのである
だから侍のように切腹でも覚悟しないと権力は持てないとなる
結局でも権力の濫用が常にありそのために被害がある、だからいかに権力を抑えるかが人類の課題なのである、それは宗教でもそうなのである
宗教も結局宗教の濫用であり神の権威の濫用であり神が味方しているとか仏が味方しているとかなり相手を恐れさせて戦争もしている

確かに旧約聖書時代はそういうことがあった、でもよくよく聖書を読んてみると権力の否定なのである、軍隊を持つことでも民衆の数を数えることでも否定された
そしてみどり子に治めさせよというとき権力の否定だったのである
つまり神は弱い者の味方なのである、弱い者が強い者に勝つ物語なのである
出エジプトでもそうである、強大なエジプト軍に対して海を割る奇跡で逃れたとか
ダビデがゴリアテに勝ったとか弱いも者が強い者に勝つ物語である
権力とは強い者となるために持つ、でも権力は絶対的なものではない、権力とはこの世のものであり権力を永久に維持はできない、常に権力争いがあって権力は変わるのである
維持出来ないのである,アメリカの権力ももう維持できない、中国でも維持できない
内部分裂したりして維持できないのである

宗教が権力と一体となることは最悪なのである、それが証明されたのは日本の神国戦争でもあり宗教戦争でもそういうことがあった、神が味方するとして正当化される
でも人を殺すなというとき何であれ人を殺すことは宗教では否定される
でも宗教ではかえって人を殺すことでも宗教によって正当化されてきたこともある
宗教が戦争を肯定することはありえない、ただ自衛とかなにかそういうことではありえるがそもそも人を殺すことは罪だから戦争は大量殺戮だから否定される
戦争というときそれも強い者が権力あるものが権力で優位にたつものが勝つとなる
でもそもそも強い者が権力だけで軍事力だけで人を治めることは国を治めることはできないのである

ともかく自己責任というときとても人間は責任を負いきれるものではない
それが必要でもあまりに責任を言うと何もできなくなく、だから最近で子供に話しかけることもできない、常にどこかでマスコミで児童への性犯罪とか言われる
すると必ず責任問題になりもう何もできなくなる、子供と接することもできなくなっている、それは常に責任を問うからそうなる
でも全員がそういう人ではない、でも一人でもそういう人がいたとして今は情報社会でそうなるのである
民主主義とは誰ても逆に責任を追及てきる、侍が責任をとったというとき民衆から批判されるからではない、君主に殿に責任をとらされたのであり民衆が責めるからではない
現代は大衆でも民衆でも絶えず責任を問う、事件があれば報道されて責任を問うのである他者の責任を問うことは楽しみでもある、自分自身に被害はないからである
でも「罪なき者は打て」となりそんなに自分自身をふりかえって責任を問えるものかともなる、その責任を問うことでブーメランのように自分の責任も問われるのである

●報道でも出版でも権力に左右される

出版とか報道するにしても権力がないとできない、今まではそうである
勝手出版したり本屋に置けないのである、図書館にも置けない、自分の本は創価を批判したのか個人というだけで地元の図書館に置けなかった、それを管理していた役人はそれだけの権力をもっていたのである
つまり報道とか出版とかでもトランプ大統領すらツイッターとかで発言されなくなったことでもわかる、メデアは中立ではない媒介するだけのものではない
権力機構として機能しているのである
だから権力をもつものは常に監視しなければならない、でも権力者は必ずその力を行使してくる、つまり何かを禁止する力をもっているのである

だからこそ権力を行使できる人は監視する必要がある三権分立になったのである
権力の横暴を止めるものとしてそうなったのである
民主主義の基本がそこにあったからだともなる
共産主義政権にはそれがなく一党独裁となり反対するものは権力で抹殺されて殺されたとなるからだ
権力は大きくなれば監視することも抑制することもできなくなる
そして遂にナチスともなりカルト教団でも席巻されて甚大な被害になる、戦争で何百万人死んだり反対者が千万人殺されたとかも言われる、共産主義だと粛清される
権力とはそういうふうにその使用を誤るともう甚大な被害になる
だから政治の理想は無権力だとなる、それは結局この世では実現しない
来世の神の国で実現するのである、この世は結局そうて権力争いで自滅するのである
それが人間のカルマであり宿命なのである

2022年01月31日

人間は何でも必ず責任をとらされる (無責任に何でも決めることはてきないー多数決がすべてではいな)


人間は何でも必ず責任をとらされる

(無責任に何でも決めることはてきないー多数決がすべてではいな)

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責任という時、例えば何かを決める時、十人がいたとする、そこに黒い丸が十個あったが中に一個の赤い丸があったとする
そこで十人が全員全部黒であり赤はないと判断する

その前にその判断に対して責任をとれますか?

本当に赤はなかったのだと言い切れますか

もし間違っていたら責任をとってくださいよ

間違っていたら一人十万とりますよ

こう言われたとき十人が赤がないとしても判断するのは慎重になる
全員が赤はないとしてもあとで責任をとらされるから慎重になる

ても原発事故では原子力村が「安全神話」を作ったが事故になった
その時誰も責任をとらなかったのである

「原発は絶対安全です」
「それを責任持って言えますか、もし事故になったら責任をとりますか」
「・・・・・・・」

結局誰も責任とらなかった、でも地元の人たちは責任をとらされたのである
故郷に住めなくなったのである

「でも地元の人達も金をもらって容認したのだから責任がないとは言えない」

「あなた達には金をやりました、だから事故になっても責任を追及しないで下さいよ」

人間は最初から責任を感じていれば判断でも慎重になる
大衆民主主義になるとみんな投票するにしても責任感じない
でもいくら大衆でも必ず責任はとらされる
おそらく地元でも責任を感じていなかった、ただ金をもらえばいい金になればいいしかなかったのである
また東電でも政府でも原発を作っても事故になったら責任とらされるということもなかった
もし事故が起きたら切腹させられるとかなったらもう慎重になり作れない、作ったとしても常に戦々恐々として安全を計ったいたとなる、でもそういう責任も自覚しないから安易になっていたのである

そして10人が全部赤はない、赤が危険信号だとしてもないとされる
それに反対する者は追放だとかなってしまった
民主主義は多数決だけど多数がすべて正しいとはならない、でも多数に押し切られる
危険も無視される、赤信号みんなでわたれば怖くないとなっていたのである
実はそれが一番怖いことだったのである
民主主義の危険がそこにあったのである
赤信号みんなで渡れば怖くないということは責任もないとなっていたのである
でもそこで事故が起きたら責任をとらされるのである
多数決がすべて正しい訳ではない、なぜなら一人一人が無責任になる
一人など投票でもなんら影響しないとかなる

つまり責任を感じないことが自覚できないことが問題なのである

でも原発事故でわかったことは必ず責任がないということはない、責任はとらされる、
とらされたとなる
それが原発の距離に比例してとらされたとなる、原発に近ければ近いほど危険だったからその責任は重いものとなり住民は住めなくなったということである
確かにその分補償金をもらったとしてもやはり責任は距離に比例してとらされたのであるただ飯館村は距離的に遠いし関係ないともみていたから責任があったとは言えない

とにかく人間にはあらゆることに責任がつきまとっている、何か高校生の一人が警察官に警棒でなぐられて左目が失明したとかなった
そこでSNSで騒ぎになり暴徒となって警察署を襲ったのである
300人くらいで襲った、それも理由あるとしてもその暴徒化した人達は写真をとられているから後で警察に呼ばれて責任がとられるとしている
つまり行動には必ず責任がとらされる

そして若い時は無茶な行動に走る、でもそうしたことを後で後悔してもその罪を償わされる、責任がとらされるのである、そういう無謀なことでもそのままに解消しない
責任をいつかとらされるのである、それがカルマにもなる
人間の行為には必ずカルマが責任がつきまとっていて逃れられないということである

子供が泣いて生まれるのはこの世に生まれることがカルマ(責任)を背負わされることでありそれでそれが課せられているから
泣いて生まれというのもわかる
人間はどんなことしても責任(カルマ)から逃れられないからである

2022年01月07日

青年に告ぐー自分を小さく見積もるな―大望を抱け (できることでもできないと思う先入観)


青年に告ぐー自分を小さく見積もるな―大望を抱け

(できることでもできないと思う先入観)

人間はどうしても先入観がありそれで左右されてしまう
私は最初から自転車旅行はできないと思っていた、あれは特別な体力がある若い人がやるものだと見ていたのである、これを20代に体力あるときにそう思っていたのである
そういう先入観があってそうなっていた、実際は自転車旅行は登山より楽だということがしてみてわかったのである
なぜなら疲れたら休めるし食事でも飲み物でもとれるからである
それで北海道旅行でも一か月したとしても一日休んでまた行ったのである
だから体力なくてもできなるとわかったのである
それは40代だったし別に50代でも行けるし60代だってできる
登山は体力ないとできないし危険になる、疲れ方が異常なのである
そして飲み物でもとれないし食事することも山小屋とかでしかできないとかなる
その山小屋すらなこともあるからだ、だから遭難ということがありそのため登山をやめたのである

それから海外旅行で失敗したのはこれもできないと思っていたのである
言葉も通じないしそんなところでどうして海外旅行できるのかと思っていた
それも一人旅ができるのかと思っていた
それも田舎にいて何かそういう情報にうとくなっていた
なぜなら円が80円のときがありその時はみんな海外旅行に金がなくても行っていた
中国に三回行ったけど物価が十分の一くらいの時があったのだ
だから今になると信じられない、都市部ではもう日本と変わりないとか高くさえなっているのである
海外旅行は本当に言葉が通じなくてもできる、なぜなら世界中が観光化しているからである、英語は中学英語くらいわかればいいともなる、もちろんそれ以上できれば楽である
ところが英語など全く通じない場所が世界でも多いのである
それでも海外旅行ができる、全然言葉が通じなくてもできる、若い人は感が働くから若い時は有利である、適応性があるからだ、私は50歳なって行ったからひどい目にあったのだ、でもその時初めて英語で外国人と話した経験をしたのである


人間はこうして先入観がありできないと思いこむ人が多いのである
それはおそらくあらゆることにそうなのかもしれない、私にはできない、他人はできるが私はできないと思い込んでしまっているのだ
それは環境とか時代も影響している、家族でも海外経験ある人がいればその人から直接聞けるからだ、そうでないと狭い田舎とかではできないと思いこんでしまうのである
だから家族環境とかがその人の一生に相当に左右するとなる
どんな家族に生まれるかで普通の人は一生が決まるとまでなる
どうしても人間的刺激は都会だと受けやすい、田舎では受けにくいのである
東京だといろいろな働く場所があるのも違っている、田舎だと知的な仕事など限られている、だから建築関係とかが多い、それで仕事がないから双葉とか大熊とかでは出稼ぎであり地元で働きたいと原発を誘致したのが失敗になったのである


そして家族でも実際は様々な家族がいる、その家族のことも異常な家族でも異常だと気づかないのである、自分の家族は普通の家族ではない、でも異常だと気づかないのである
家族とはそんなものだと思うのである、家族だけではない日本人として育てば日本人的な思考とかになる、だから日本を語れる人は外国生活を経験した人なのである
それは比較して日本が見えるようになるからである
日本を知るには相対的に見ないとわからないのである、日本で当たり前のことが外国では違ってくるしその逆でもそうである、だから留学経験は相当に価値あるものとなる
ただ語学を学ぶというだけではない外国を知り日本を知ることで価値がある
旅したくらいでぱわからないからである
本でもテレビなどを見ても実際はわからないのである、百聞は一見にしかずになるからだ
そして人間というのは自分を低くみつもる、俺はたいしたことがない人間だ、才能もないとか思いこんでいるのである、もちろん自分自身がそうだった


何にもいい所がなかったからだ、だからこの人は何にもならないと見られて当然だったのである、学校ではこの人は何にもできないと見られていたしそれも本当だったのである
体力もないし内向的だしぱっとしないそれより馬鹿のようにしか見えなかったのである
現実そういう所があった、私はどうしても集団生活になじめないのである
ただ別に天才のように優秀だからではない社交性とかなかったからだった
それが家族のもとを脱出して大学に行ってから変えることができた
一時体育会とか入りそんな大学の体育会でやれると思わなかった、それも体育会がどんな所か知らないので入ったのである、そもそも大学とはどんな所かも知らなかったのであるその頃大学というものを何か理解できなかったのである
もし体育会がどんな所か知っていれば入らなかったとなる
つまり知らないからそんな危険な場所に入ったのである、私はなんとか虚弱体質だから
強くなりたくて入ったのである

つまり人間とはこうして常に先入観を持っている、そんなことできないよとかなっているのだ、そういう人も多いのである、ところが人間の可能性は実はその本人もわからない
未知なのである、また生まれつきでも決まらない、天才は別にしても普通の人はそうなのである
例えば自分を見た師はこの人は何にもなれないと見ていたのである
それも当然だとなる、何か優れたものもなかったからである、多少文学的才能があったとしてもそれもあまりにも目立たないものだったからである
そして師とかは必要でもその危険はそうして自分の様な者は確かに低く見積もられても当然であった
でも将来はまだ30年とかあるとすればそのうちに人間が変わってゆく
どうなってゆくかわからないのである、何か不思議なのは60越えて70になってからとか理解力が深くなったのも不思議である、やはり死が目前に迫ると人間は目覚めるとかなる

そして師は必ず弟子を低く見積もる

これが師の問題なのである、お前はそんなものだよとかなる、とても大物にはなれないとかなる、確かに若い時見てればそうしか見えないのである
一般的に師は弟子を低く見る、そして弟子を奴隷のようにすることもある
ただ師を讃美するだけの弟子にしたいのである
だから俳句とか短歌の結社とか師でも多くいるがそんなものに従っていたら大物にはなれない、そんなところで師とかしているのは自分が偉いと見させたいためである
それらはみんな小物でありそんなものに従っていたらその人独自のものは発揮できない
そういう所はデレタンとが多いのである

例えばお前はネズミだからお前はネズミとして生きるほかないとかなる
でも人間は何ものかわからないのだ、将来はライオンとなりまた龍ともなるかもしれないただ師は必ず弟子でも低く見積もる、なぜなら自分より大きく偉くなるとかしたくないからである、だから小物でも師として威張っていたいのである
最も恐ろしいのは師が偶像化して師のロボットにされることである
カルト教団の教祖とかは最も危険である、一切のその人の個性は無視され教祖のロボットとされるからである、その人自身を生きることがなくなるのである
その人生は師のコピーとしてロボットとして生きることしかなかったとなる

そもそも人間は自分を自ら低く見積もっているのだ、俺はこんなものだとか見ている
でも人間の可能性はわからない、自分自身にとっても未知なのである
そして人生でもどう展開してゆくかもわからないのである
そうして思わず時代の英雄とかになった人がいる、それは時代がそうさせたのである
明治維新とかではそうである、だから三島由紀夫とかでもいくら英雄になろうとしてもなれない、英雄でも時代が作るからである、平和な時代にはなれないのである

ともかく俺はこんなものだよ自分と低く見積もるなとなる、さらに人生百年時代になるともう60才でも序の口だともなってしまうからである
今youtubeでも70代の人が語っている、若い人になるとどうしても人生を語りにくいが70代とかなる語れるとなるからだ
それだけ人生が長くなるとやはり人間は成長してゆく、とにかく理解力が深まるのである理解できないことが理解できるようになる、私は何か本を家を傾くほど買って読んでいたが理解するものはわずかだった、でも今になると自分なりに理解できるのである
だから評論に向いていると思うようになったのである

人間は成長しつづけるものである、そして世界は未知に満ちている、わからないことがいくらでもある、だから探求は死ぬまでつづくとなる
神はあなたを大きくしようとしている、そのためには自分は低く見積もらないことであるまた若い時から結果を出そうとしてあせらないことである
無駄飯を喰らってでも生きているとかの図々しさも必要になる
意外と引きこもりは社会から離脱して大自然と融合してゆくから何か大きなものと一体化する、でも社会だと現代文明はどんな仕事であれ部品になるから小さくされるのである
大鵬のようになったりしないのである、ただ正直そこにも大きな問題があった
自分自身は別に天才でもなんでもない、普通の人間でありむしろ普通の人間より劣っていた、才能があったとしてもそれはわずかなものだった

私は何か優秀だから天才だから引きこもりとかになったのではない、ただ社会に適合できない性格でありまた何か体もそうだったのである、集団の中にいると異常に緊張していられないからである
ただそこで社会常識すらなくなっていたのである、これも大きな問題だった
社会に生きる限り社会常識は必要なのである、それがないとニーチェとか狂気になって終わる、それはそれで認められるが引きこもりとアウトサイダーは何か社会から逸脱しまたそうなりやすいのである
俺は社畜だとかただこきつかわれるだけだとかしている人間も問題だがアウトサイダーも何かおかしな方向に行ってしまうのである、それで「小人閑居して不善成す」となる
それを自分自身が経験しているからである
閑居できる人間は実際は相当な社会常識もあってまたそれを逸脱できる人間でもあるとなるからまれなのである
つまり普通の人はできないのである、だから引きこもりとはそうして必ず不善な成すから危険にもなる、そういう人が60万人もいるということはやはり問題なのである
そんな優秀な人などもともといないからである、だから不善を成すとなり危険になる

汝は大望を抱け、まだ見ざる驚異の世界のあり
この世は未だ未知に満ちている
万年雪のヒマラヤの高峰を仰ぎ、グランドキャニオンを見
モンゴルの平原を望み中華大陸からシルクロードへ
汝は大鵬となりかなたへ飛ぶ
そを大いなるものを知られざるかな
雌伏百年汝は巨大化して大木となる
汝は百年黙想して大自然と同化せよ
一切の雑音を拒否して岩ともなりて
その場を動かざれ
汝は汝を低く見積もるな
汝は汝は知らじネズミとして自分を見る
他者も汝をネズミとしてしか見ない
ネズミとして同類と見るのだ
しかし汝は龍ともならん
大いなる自然に変化する
汝は思わざる所に行き神の業を見る
この世はすべてではない
汝は新しき天と地を見る
神の国は汝に与えられる
永遠の命が与えられて神の国に住む
そこにこそ真の実りがある
偽らざる実りがあり神とともに歓喜に生きる
そこには絶え間ない喜びがあり神の祝福がある
大調和の音楽が地の果てまで宇宙の果てまで
統一されてひびきわたる
一なる神が指揮をとり乱れることはない
さらなる全能なる神の業が成り統べる

詩を作ることは自然と一体化するアイディンティティ化することである
すると石や木や山でも沈黙している、すると同じように沈黙しないとアイディンティティ化できないのである、それを自分は一人で田舎でしてきた
私は引きこもりでも家族に責められたことがないのである、旅するにしてもどこにでも行ってみなさい、外国でも行ってみなさいと奨励されていたのである
だから家族の影響は大きいのである、自分を作ったのは姉と母だったとなるのである
ここで争っていたにしてもそうだった、そうして沈黙の行者のようになり大自然と同化することをしてきたのである、そして詩を作っていたのである

ともかく今が一番人生で充実している、ただ介護十年間は本当に心身ともに消耗した
それがだんだん回復して今が一番充実している
もともと自分は長生きできないと思っていた、体力的に思っていた
でも私の母は華奢であり重いものも持てないような細身の体だった
自分も似ているのである、でも百才まで生きたのである
だから意外と体力があるとないとか関係なく長生きする人はする
そして人生とはマラソンなのである、最初トップを走ってもつづかない、ところが徐々に後ろから上に上がってくる人がいるのだ、後半の10キロそして最後の5キロが勝負なのである、だから今私はゴール前の死の前の5キロに来ている
つまり勝利のテープ切ることが見えて来たともなるのだ
最後の力をふりしぼって栄冠を得る時に来ている
何でも今になって深く理解できるし気力も充実しているのである




2022年01月05日

人間の一生の評価(個人は残るが集団組織は消える) (人間の一生が無益だったなることに耐えられない)


人間の一生の評価(個人は残るが集団組織は消える)

(人間の一生が無益だったとなることのショック)

●集団組織の価値は消える

人間の一生の評価が老人に対して起る、この人は一体何をしてきたのか、何を生きてきたのか、この人の一生の価値はなんだったのかと自らも問うし他者も問う
私の姉は認知症になり最後に千回も従軍看護婦としてマレーシアのジョホールバルで地獄を生きたことを語りつづけて死んだ
死ぬ間際までそのことを語っていた、それが余りにも過酷であり青春時代だったから老人になっても忘れることがてきなかった
そしてそのことを最も伝えたいことであり語ったのである

このことは日本の戦争で死んだ犠牲になった3百万人の一人のことである
要するに人生を一人一人でみても自分の生きたことはしてきたことは価値があり無駄でなかったとしたいのである
たからこそ靖国に祀られて国のために死んだ英霊としているのだ
この人達は戦犯だったとか言えないのである
それは一人の人間の一生でもお前の人生は何の価値もない益もないものだったと言えないと同じなのである
例え社会では評価しなくても家族で評価される人がいるしその価値は多様である

ただ個人としての価値と集団組織としての価値がある
現代は集団組織に属す人が大半だからその価値は会社とか組織集団の価値にある
だから会社を退職するとその人の価値はなくなる、大企業に勤めていたとしても価値はなくなる
かえって何か趣味を追求していて写真でも絵でも俳句でもなんでもいい、それが優れていると評価されたりする、会社で重役していたとしても退職すると価値がなくなる
その価値は会社に勤めていたときの価値だったからである

だから戦争を評価するのがむずかしいのがそれは日本国家に尽くしたという価値であり
集団組織の価値なのである、その価値をどう評価するのが本当にむずかしくなる
つまりそれを全く無駄だった、そんな戦争するべきではなかったという人の方が多いからである、すると戦争で死んだ人達もただ無益に死んだとまでなってしまう

●集団組織のために一生尽くしても無益となるショック

でも何か現代でも組織集団に属しているのが普通である、会社人間ではあり組織集団人間なのである
会社の組織の集団の価値がその人間の価値にある
たとえば創価のことを批判してきたが共産党でも組織集団に一生を捧げた人はいくらでもいるのだ、カルト教団でも間違っていてもそれに人生そのものを捧げた人はいる
そしたらそんな一生は何の価値もない社会にとって害になるだけだったとされたらどうなるのか?現実はそうでもそこに所属して一生を費やした人は認めないだろう
例えばオウムには優秀な理系の若者がいたけど死刑になった、その集団は犯罪集団にすぎなかったのである、するとその価値は無益化された、それより犯罪集団として処刑されたのである、悪の集団だったとなる
そういうことはナチスとかでも起きた、それは犯罪集団だったとされたのである
これと日本は違っていても日本では戦争で死んでも無益だったとか何の価値もない
犯罪集団だとか言えないのである

だから組織集団に一生を捧げた人も同じである、いくら社会的に批判されても価値あるものとして働いたと主張する、それは組織集団内でそうなる
でもその組織集団が消失したらその価値を伝えるものがなくなる
創価でも共産党でも他のカルト団体でもやがてその組織集団が消えたら価値も喪失する
でも社会というのは継続されてゆくのである
そして歴史的に評価される、その時そうした組織集団はなくなっていたり客観的にく評価される、そういう集団が現実に権力をもっているときは簡単にできないが権力を失うと客観的に公正にみるようになる、つまり歴史的評価とは長い時間の中でその価値が判定されるかことである、だからその長い時間の中で評価されるものは確かな価値があったとなるでも実際は組織集団でも一時的であり消えるものは価値ないとされる

その時その価値は虚しくされる、何の価値もない、ただ実際は社会に何の価値ももたらさなかった犯罪集団だったともされるのである
でも現実今内部にいる人達に対してお前らの価値はない、無益だなどと言えないのであるそういうことを気付いてもあくまでも価値があるものとして主張しつづけて死ぬことになる、無駄死になどと戦死者に言えないのと同じである

でも組織集団とはいづれ消えてゆくのではないか、もしかしたら国家とか民族すら消えてしまうのではないか?
ユダヤ人は国家を失い離散した、でもユダヤ人は国が無くても残りイスラエルを再び建国した、でもイスラエルの価値はイエスキリストを神の子を出したことでありユダヤ人集団より世界に広まったのはキリストの信仰だったのである
集団組織の価値は長い時間の中で消失してゆく、でもイエスキリストの価値は永遠に残る
また組織集団の価値は時がだてば消失する、何か墓に上等兵とか記された墓がそちこちにまだあるけど誰かその価値を認めて偉い人だったとか今思うだろうか?
でも戦争の時はみんな偉い国に尽くした人だとしていたのである
墓に軍隊の位を示すことはそれを社会で認めていたからである
でも今になるとそうした位を墓に記していてもこの人は偉い、国に尽くした人だとか見ている人がいるだろか?何か虚しいとなる
ただその位だけが大きく墓に記されているのである、その位の意味が今あるのかとなる
これが組織集団に生きた価値が消失していると見えるのである

●この世に生きる限り権力に左右される

権力というのはあくまでもその時代で権力をもっていたから評価される、無視できない
それを認めないことは生きてもいけなくなる、弾圧もされる、戦争の時逆らったために権力にみって殺された人もいるし預言者はたいがい殺されたことでもわかる
だからこの世の権力を否定することは生きることもできなくなる
なぜなら組織集団が数が多ければそれは経済的にも十人が買えば売る方では無視できない本でも出版するにしても本屋では売れない本は起きたくないし置かない
もし大勢の人が買ってくれるなら置くのである
それで仙台の書店で入り口に幸福の科学の本が山ほど並べられていたことでもわかる
それは会員が買うから書店でも置くのである

出版とかでもマスコミでも必ず権力が働く、だから大きな権力を持っている組織集団は圧力をかける、創価が藤原弘達の「創価学会を切る」を置かせなかったのもそうである
創価はそれだけの権力をもっているからだ、創価に逆らう者は排斥される
原発でも原子力村が権力化して安全神話を作った、それに逆らうことはできなかった
出版でも確かに危険を言うものはいた、でも書店の片隅に目立たないように置かれていたのである、だから原発が危険だという報道はほとんど地元の報道機関でもしていない

それが大きな事故となったのである、またナチスが席巻したのも危険な権力集団を放置していたら無関心だったからそれが巨大化したとき全国民がその組織集団に席巻されたのである、つまり警告もしない、すると危険なものが巨大化して社会を支配するようになっていたのである
つまりこうして実は組織集団は権力化して危険なのである
それは経済だと独占法違反だともなる、ある会社が商売で独占してしまうことは社会にとって危険だからその法律ができた、それがGAFAだったのである
トランプ大統領まで発言させないようにしたからである

●権力組織集団の価値は消失する

おそらく組織集団とかの価値は消える、でも個人の価値は消えないのである
でも個人はこの世でば認められないのである、なぜならこの世で認めるのは権力だけだからである、権力ある者しか相手にしない、権力とはいろいろある、今の時代は数が権力なのである、数を集めれば票を集めれば権力となりそれを社会では認める
何百万人も会員が信者がいるのかとなり恐れもする
そしてこの世で個人は認められない、発言すらできない、何か一見個人が発言しているように見える、でも個人は発言できない、この世に認められて発言しているようでもそれは必ず背後に集団があって組織があってその集団組織が後押して発言できるのである
純粋の個人は発言できない、社会では認めない、地元の図書館でも個人というだけで自分の本は置けなかったからである

つまりこの世から個人は抹殺されるのである、でも十人でも数を集めて信者でもあれば
認める、十人集まっても権力になるからだ、一人だったら何の権力もないのである
だから公的機関でも完全に無視して認めないのである
この世で存在させられなくされる
でも不思議なのは歴史に残るのは個人である、組織集団は消えるのである
民族すら消える、国家すら消失する、もちろん会社組織でも消える、現実に日本の大企業でもなくなっているからだ、組織集団は一時的なもので消えてゆくのである
もちろん大衆とか群衆などはもう何もなくなる残さない、砂のように影のように消えてゆくだけである

日蓮であれ親鸞であれキリストであれ開祖は個人は残るがその組織化した団体は残らないのである、要するに何の価値も残さないのである
ただそれは権力集団だったのでありその権力とは時代によって変わる、そこに価値を認める人はいなくなる、日本の軍隊でも戦争の時は最高に価値あるものであり軍人は一番偉い者だったのである、今になるとそれは全部無価値とはならないにしてもそんな価値あるものと見ないのである

いづれにしろ人間一生の価値が最後に問われる、あなたは何をしてきたのか、何を求めてきたのか、何を残したのか・・・とかいろいろ問われる
そしてあなたの一生は何の益もなかったとされるほどショックはないのである
でもそういうことが最後に起きて来る
その価値が無価値にされる、結局空の空だったとなる
いくら価値ある主張しても結局誰も認めない、それは権力ある時だけのことである
ただそして最後は茫然として死んでゆくだけだとなる
様々な世界の帝国も結局滅び栄枯盛衰の跡なのである
永遠に栄える国はない、それは神の国にしかありえないのである

●文明は墓場となって終るーしかし不死鳥のように蘇る個人のロゴスの声

とにかくその一生は徒労だったとなる、その努力も徒労だったとなる
文明そのものでもそれが墓場になるというときもそうである
残ったのは墓だけだったとなる、エジプト文明で残されたのも実際は墓だけだったとなるからだ、文明自体が墓場と化してしまったということである
つまり人間の真実の価値はこの世で認められないし実ることもないのである
それは神の国でしか実らないのである、そうしていくらでも価値あるものが消失させられたからである戦争でも病気でも貧乏でも才能は開かず終わった者も多いのである
この世とは常に権力闘争の場所でありそのために人々がある
会社でも何か会社の派閥闘争に敗れて海外旅行している人がいた
会社とか小さな世界でも常に人間の権力争いはある、集団組織でも一枚岩ではなく常に派閥争い権力闘争がある、それは人類が始まって以来ある
それが人間の業(カルマ)なのである、だから最終的にそのカルマによって人間は滅亡すると聖書では予言されているのである、欲によって滅びるとされるのである

その逆説として権力をもたないもの権力自体が否定された
みどり子に治めさせよとか老子の治めずして治めるとかである
つまり欲のないみどり子や自然のままに治める、上に立って支配する人もいない世界である、それこそ理想社会たとしている、結局それは神の国でしか実現しないのである
この世には限界があるのだ、新しい天と地を望むことでありこの世はいくら科学技術が発達しても政治でも治められない、必ず災いが生まれ権力闘争が生れ争いがやまないので
上に立たないで下僕になりなさいというのが実行できない、俺はお前より上だとして争うのである、国同士の覇権争いもやまないのである、米中戦争になるというのもアメリカに従いアメリカが世界を支配するとなり争いがやまないのである
そして最終戦争ハルマゲドンになり人類は滅亡する
ただその後に神の国が来るのである、そこに望みがある、つまりこの世は終わりつつあるただその終末にはこの辺で起きたように信じられないことが起きる
それがもしかしたら今年かもしれないのである
しかし神に選ばれた者は救出されるのである、それがノワの箱舟なのである

組織集団人間は消失する
群衆大衆は砂のように
影のように消失する
無数の者が虚しく消えてゆく
しかし個人の声は消えずに
全地ににひびきわたる
その声は大地に岩に山に
ひびきわたり反響する
真実の日はロゴスはそこにある
不死鳥のように蘇り
そのロゴスの神殿は不壊なり

ともかく現代とはもう言葉も通じない、ロゴスは破壊されている、それを統一するものがもない、カオスなのであり必ず迷路に入り出れなくなる
そこに何かサタンの魔殿ような偽善団体があり権力をもって支配する
そこに真実は語られることはない、ただアウトサイダーがその文明圏から除外されて
神の声を聞きロゴスの中に生きるのである
しかしそれは文明から除外されているから見ることもない、隠されているのである
しかし不死鳥のようにその個人の声はよみがえりロゴスの神殿にひびきわたるのである
そこに神の実現したいものがあり神がそこにありたいとなりそうなる
ただ文明の世界はカオスでありバビロンでありそこから除外されている
だから見えないしその語ることも聞こえない、文明とは雑音の世界だからである
雑音の中で真実の声はかき消されるのである
自分が引きこもり(隠者)となって追求したのはこの自然のロゴスであった
それは文明から離脱してないと聞こえないものだったのである
文明の雑音から離れないと聞こえない見えないものだったのである






2022年01月04日

人生のコースが親に選ばれてしまう恐怖 (親ガチャでなくても親の言う通りにされた人生‐カルト教団の二世の問題)


人生のコースが親に選ばれてしまう恐怖

(親ガチャでなくても親の言う通りにされた人生‐カルト教団の二世の問題


人生の怖さというのはいろいろある、ただ何が怖いのかもわからないのだ

人生をどう生きるか?

これは本当は各自違っている、人生とは実際は時代によっても相当に違ってくる
だから親と話が合わなくなったり対立が世代間で生まれのは当然なのである
もし対立がない方がおかしいしそのまま親の言う通りの人生を歩むことは自分の人生を失うことにもなる
これは別に親と子の問題だけではない、社会でも世代間の対立がある
だから学生運動などがあったがそういうことが起きるのが普通なのである
若者が社会の不正とか何か不満があって抗議しないこと自体おかしいのである
親と子でも宿命的に対立するから反抗期がある、反抗期がないと人間はまともに育たないのである

私は父親が明治生まれであり酒屋の丁稚奉公だったのである、でも中学の時死んだ
そして自分の人生は親とはまるで違った人生を歩んだのである
それは母親でも働き詰めの人生であり遊びも何もない、花にも興味がない、金を使いたくないという人生を送った、だから人間味もなかったとなる
そして貧乏だから金があるようになっても使わないのである、貧乏に育った人は何かケチになる、金を使わないのだ、金があっても使わない、ただためるだけなのである

それで60歳で国から年金三万をもらった、別に年金を払わなくてももらっていたのである、5年待っているともっともらったとして悔やんでいた
それで百才まで生きたが金を使わないので一千万以上ためた、でもその金の大方が盗まれたのである、これも因果だったなと思う、何も使わないうちに盗まれて終わったとなる
金は使える時使わないと使うこともできなくなるのだ
つまり人生とは百才生きても限られているからである
使う時間がなくなるのである、金をためるのはいいとしてところがその金を使う時間がなくなるのである、いかに時間が貴重なものか老人になると意識するようになる
あと何年生きるのだとなることを考えてみればわかる
一日一日が貴重になる、もういつ死ぬかわからないからだ

人間は親の影響が非常に大きい、親によって人生のコースが決められる
もう親に決められてそれ以外ないとも一方的に決められる、医者の家に生まれたら医者になることしかないと強制もされる、それは開業医であれば医院があれば継いでもらいたいとなるからだ
でも医者に向かない人もいる、でも親の都合で強制されるのである
江戸時代辺りだと侍は侍の子として親の跡を継いでいた、そうしない禄をもらえないからだ、それで人生のコースに悩まないということにもなる
すでに決まっているからだ、その決まった通りに生きるほかないからである
でも明治以降職業選択が自由になったとき自分がどういう職業に就くか悩むようになったのである、それもまた苦しいとはなる
自由というのは意外と苦しいことになる、自分の適性にあった職業を選べるとしても簡単にそんな職業がないからである

例えば怖いのはカルト教団の家などは確実にそのコースが決められる、それは人によるが子供の時から家族ごと信仰していると完全に洗脳されてその他のことは見えなくなるのである、そしてもうカルト教団のロボットのようになり何も他のことを考えないのである
これは何かおかしいと疑問ももたないのである
それは親が家族全体がそうなのだからその方向は決まってしまうのである
そこに宗教というか家族全体がはまりこんでいるから逃れることもできないのである
特に素直な真面目な人だと余計にそうなるのである
だからそういうカルト教団の二世とかはそこから脱することが難しくなる

おそらくすべてではないにしろ医者の家に生まれていい医者になりそれが合った人も多いことは確かである、それはそれでいいとなる
でも合わない人がいるのだ、すると合わないことを一生することになる
それは患者にとっても迷惑だとなる、そういう人は優れた医者になりにくいからである
何でも好きこそものの上手なれとなるからである
医者は何か理論だけではない、手術するのに手が器用でないとうまくならないとかあり天性ものがあるらだか、何でも天性のものがありそれと合わないものをいくらやっても上手になれないということがある

自分の場合はまず父親とはまるで違った人生を生きたことになる
酒屋の丁稚奉公で貧乏だったと親が考えられない人生を生きたことになる
それはもし親が生きていたらとても許されないものだったのである
ただ早い時期に死んだから対立しないだけだったのである
引きこもりとなったり今は相当数いる、そして旅ばかりして就職もしなかった
だからこんな人生もありえたということが時代が変わったことなのである
それは親にとって想像もできない人生を送ったことになっていたのだ

親の言う通りになる人生は自分の人生を失う

つまり時代が変わるから親の言う通りになる人生は自分の人生を失うことになる
カルト教団などでもそこに親の言う通りになっていたら人生そのものを失うことになる
ただ親に逆らわないと結構楽だからそのままその道を行くことになる
なぜなら親と対立することは相当なエネルギーが必要になる
医者になれと言われても自分になれないとかあり別な道を行きたいとしても親に強制されるからだ
でも親に従っていると楽なことがある、親にいい子とされるからである
親と対立すると経済的に援助もしない自分で稼でとかなるからだ
あなたの人生は自由に生きなさいとうい親はほとんどいないかもしれない
自分の場合いは特殊な環境でそうなっていたのである
大学出ても職にもつかず放浪していたりして引きこもりであり後は旅ばかりしていたとなる、でも親にとがめられることもなかったのである
今は引きこもりが普通にいるからこれも時代が違ってきたからそういう人が普通にいるのである、もし時代が違っていたら何であれ働かざるを得ないかである

とにかく人生とは一回しかないのである

こんな人生失敗だった、別な人生がありえたとしてももう二回生きることはできないのである、そこで痛切に親の言う通りに生きて失敗したと後悔する
でももう人生は一回しかないからどうにもならないのである
その方向が決まるのは30までなのである、だから青春時代は人生の方向が決まってしまうから大事だとなる
例えば青春時代に享楽にふけり放蕩などしていると後でもう真善美とか追求できなくなるそこで向上する精神とかが奪われているからである
カルト教団に入った人は一生奴隷として終る、精神的奴隷として終わる
ただ親にしてみればそういう子はいい子だったとなるのである

親ガチャとか親のために駄目にされたとか言うけど別に医者とか恵まれた親でも親によって自分自身の人生が奪われることがあるのだ
親と全く違った人生を生きることが実はその人の人生を生きたともなる
なぜなら次代か変わると全く違った世界とか価値観に生きることがありうるからだ
親が生きた時代とはまるで違った世界に生きる
それが明治生まれの親をもった自分の人生だったのである

一見親の言う通り生きた人は親にとってはいい子なのである
それは逆に親によって子供の人生が犠牲にされたともなるのだ
また親ガチャというとき親が貧乏とかで何もできなかったとかなる
でも親が裕福でも医者の子供でも親ガチャはあるのだ
親とは全然違った社会になっていることがあり価値観も変わるからである
明治時代になったとき侍はなくなった、すると親の言う通り生きることできない
みずから自分の職業を探して自立するほかなくなったからである
また戦後でもみんな戦争のために国家のために生きていたがそれが敗戦でまるで変ってしまった、国家より自分の個性を生きろとかなったからである
明治になり戦後で社会が極端に変わったのである

それで70年周期で社会は極端に変わる、その時期が今なのである
その変わり目だから信じられないことが起きる
今までの価値観が通用しなくなる、そうした激変の時代になっているのだ
会社のために生きていてももう会社がなくなるとか終身雇用もなくなる
だから個々人で自立して生きろとかいうのもそうである
これまでの価値観が通用しなくなるのである
ただ若い人はそこから今までにない世界が開けて新しい人生を生きるともなる
70年ごとに大きな変化がくる、それが今なのである

だから今は明治時代でありまた戦後の焼け野原から立ち直った時代とも似ている
そういう大きな変わり目でありそこで大きな事件とか自然災害も起きるのである
津浪で村ごと流されて消失したというのもそうである
この辺では原発事故にもなり信じられない変わり方をしたからである
そういう激変が起きる、コロナウィルスでもそうである、何か世界的にも大きな変化が起きる、そこに相当な痛みも戦後の焼け野原のような状態にもなる
その後に新しい時代を社会を世界を見るとなる
でも戦後の焼け野原のように絶望的な状態になるかこともありうる、それは日本の貧困化ですでに現象化している
つまりどん底の貧困になり日本が飢餓状態になるということもありうる
戦後の焼け野原で食糧すら得られないということもありうる、そういう激変の時代が来ているのである


2021年12月30日

先祖の因果ー分裂不和の家で子孫も栄えず―国家の繁栄も同じ?


先祖の因果ー分裂不和の家で子孫も栄えず―国家の繁栄も同じ?


先祖の代にいじめ・家庭内暴力・兄弟対立があると、子孫にもその影響が出てくる

登校拒否や閉じこもり、家庭内暴力の問題が起きている場合、背景となっている先祖の代にいじめの問題があることがよくあります。本人は知らず知らずしているのですが、先祖の怨みが乗り移ったかのように先祖の人生をトレースしていることがあるのです。

母親の実家はとにかく不和分裂の家だった、それは再婚したためだった、その家の事情があってそうなった、継母にもなっていて自分の母親はいじめられて悲惨だったのである
そして自分の家ともうまくいかず争っていた、その原因が再婚した女性にあったのだ
それが子孫にも影響したのである、不思議に自分にとってばあちゃんにあたるとしても
そういう感覚はなかった、交流もなかった、だからその後でも親戚関係が希薄であり結局絶縁したのである、もともと絶縁したような状態だったから当然だったともなる
母親の父親が再婚した相手は気が強く二人の妻が家を出ることにもなった
結局その家は栄えることがなかった、また人物でも出なかった
実家の墓があるにしても嫁が家をでて別に家を建てて墓を建てたからそこからして分裂しているのである

ただ自分の家でも二人の女性が姉と母が争っていても姉が父が死んで父親代わりのようになって家を支えたし自分も支えられたのである
だから姉の功績は自分にとって大きいとなり感謝している
家の不思議は家というのは血縁だけではない一つの共同体なのである
その共同体でも協力することがないとやはりいくら血縁でも家族でも支えられないのである
それで家系でも離婚した家とかいろいろ不倫とかもめる家は共同体として維持できないのである、そして分裂不和になりその家に栄えがないし人物もでてこないとなる
人物も育てられないのである、だから家族が人間の基本としてあるから家族が良くないとその家は栄えないし人物も出ないとなる
ただ家系の法則でも必ず例外がある、その家は両親が父親でも真面目であり母親も正直な今にはいない珍しい女性だった、情にも篤い古い時代の良さを残した人だった
でもその息子は全くふしだらであり嫌われ者であり何もいいところがなかったのである
そして最近死んだのである、だからこれは何なのだろうとなる
家系が悪くはないのになぜそうなったのか不可解だとなる

とにかく人間には不可解なことが常にある、そこに神の采配があるのかとなる
ただ例外があっても一般的には良い家系では栄える率が高くなるし人物もでるとなる
ただ何らか家系でも必ずプラスの面とマイナスの面がでてくる
すべていいようには働かないのである、何か必ずカルマを背負っていてそれが現れるのである
それは家だけではない、その土地とかにもある、この辺では原発で一時的に栄えたがそれが裏目になり衰退してしまったからである
それがカルマとなって故郷にすめなくなったとかなり消滅の危機にもなったのである
でも原発で財を築いた人もいるのである、その富は呪われたものとなったのである
例えば誰も地域で今原発で豊かになった人を認められないのである
漁業組合とかでも事故前は原発御殿が建っていたとかうらやましがられていた

事故後も補償金で何も困ることもない、そして何かトリチウムを海に流すと魚がとっても売れないと騒ぐがそこでまた補償金交渉となり水増しされるとかなる
これも矛盾なのである、そんなことして金をもらって回りの人が喜んでいるのかとなる
もし何か漁業で魚が一杯とれてもうけたとした何も言わないのである
他にも大熊町長の五億円入った金庫が津波で流されたとかあった、それも流されて当然だとかなった、そんな金があったのかと驚いている、他にも原発で働いて金になったというのはある、原発はそれだけ金の成る木だったからである
除染でも今度は相双リテックが何十億の金を山分けしたとかある
そういうことで金持ちになった人を回りで喜ぶのか?そういう金は運霧消散してしまうかもしれないちょうどギャンブルでもうけたように消えるかもしれない
でも別に金もうけた人が悪いとはならない、何かやはり正当なものとして金儲けていれば周りにもその恵みが回ってきて別に非難したりしないのである
地域を豊かにする家とかあるからだ

そういうことは国単位でも言えるとなる、アメリカの富はどうして増えたのか?
それが世界に貢献する世界を豊かにするものならいい、確かにそういう面はあった
でも軍事力で武器を売ってもうけたとかなるとそういう国は栄えるのだろうか?
武器会社が戦争を起こしてもうけるのだという陰謀論がある、そういう国が栄えるのだろうかとなる、そういう国はやはり衰退してゆくのではないか?
中国でも一帯一路政策で自分の国だけが栄えようとして他は中国のために犠牲にするとかなれば栄えないとなるだろう
それは最小単位の共同体の家でもそうだとなる
家が栄えるという時家が拡大したのが国にもなっている、ハウスブルクとかでもヨ−ロッパで大きな国となって栄えたのもそうである、ハウスとは家でありブルクは城だからである、城とは家の延長だったのである
この辺では相馬氏がそれと同じだったのである、御家という野馬追の旗があり御家中とかあり家が拡大したものが支配者となったのである

そもそも江戸時代三百年は徳川家が支配した、継続した、それはなぜできたのか?
それはやはり家が栄えて継続したからだともなる
つまり人間の歴史の中心に家がありその家が拡大したものが国家にもなった
国の家にもなったのである、栄えた家が国家の中心になったともなる
ただ家にも栄枯盛衰がありそれは人間の社会ではさけられない、永続して栄える家などないのである

どうしてその家が栄えてまた衰退したのか?
それは国家が栄えて衰退するのとも似ている、不和分裂の家だったらとても栄えることはありえないとなる
また国内でも常に内乱があり争っていたら栄えることはないだろう
天皇とは何かというとき日本ではそうした国を治めるものとしてあった
でも南北朝時代になると全国隅々まで争乱となった、二人の天皇がたてて争ったからである、その傷痕はあまりにも深いものだったのである明治天皇が南朝の系統だったとか言われるのもそうである、そこまで尾を引いていたのである
いづれにしろ国内でも分裂して争っていたら国の栄はないのである
国家でも家の延長だからである


とにかく自分自身の家でも母親の実家は不和分裂の家だった
自分の家でも必ずしも調和はしていなかった、でもそういうことがあっても自分には家族でも力を注がれたのである、それは死んでから特に感じるようになった
結局自分のために家があったとまでなる
そのために犠牲になったのかとまでみる、ある家から一人の人物が出るとして何かそこには犠牲となって死んでいる人が結構多いのである

国家レベルでもそうである、日本だったら戦争の犠牲が三百万人の死者をだしたことである
でもその後に高度成長時代になり栄えたとなる、その結果としてその成果が現れるとなる戦争の影響は別に焼野原になってもその子供には悪いものとして影響しなかったのも不思議である、だから不思議なのはなぜ焼野原になり食べ物もないのに子供が多いのに育てられた、今の時代はその十倍とか豊かなのに少子化になっているのかわからないとなる
そしてなぜ日本は衰退して貧困化しているのたろうとなる
ただ世界の歴史でも栄枯盛衰はあるからそれが法則となっているからその結果なのかとなる

日本はこれからまた蘇り栄えるのだろうか?

富は蓄積されたからその蓄積されたものでしばらく栄える、おそらく文化面で栄えることになるのか?経済成長の後に文化面で芸術とかでルネサンスのように興隆することがあるとなる、ただそれも見えていない、インタ−ネットとかyoutubeとかの変化は確かに表現することがテーマになっているから個性を発揮する時代だともなる
マスコミとか大衆相手でもないものが生まれている、するとそこに文化も生れとなる
新しい表現が生まれるとなる、私自身が表現をプログのようなものでも写真でも出せるから駆使して出していることでもわかる
これはマスコミとかではできない、マスコミだとただテレビに出るだけでも有名人になった、でもそれはマスコミに選ばれた人でありまた大衆に選ばれた人なのである
だから本当の人物はなかなか出てこないのである

現代とは何でも大衆が力をもった時代でありあらそる面でそうである、そして大衆は文化を作らないのである、かえって民衆は民謡とか文化を作ったのである
民衆と大衆は違ったものである、大衆とマスコミは一体である
だからこそマスコミニケーションとはなっていたのである、それは文化ではないのであるマスコミは文化を創り出さなかった、文化とはそれぞれの土地に根付いて生まれているからである,マスコミがまるで国民を指導するようにもなった
裁判官にもなった、特にNHKはそうだったのである、NHKの力がどれだけ大きいものだったのかNHKはまるであらゆることを指導するものにもなったからである
それも崩れつつある、インタ−ネットとかスマホとかなり一局支配の報道はなくなり分散したからである

今年も終わるが毎日書き続けたがコメントを読むこともしなかった
忙しくてできなかった、家事に追われてそうなる
ここに書くだけで時間をとられる、結構これが負担なのである
ただ感じたことは個々人でメデアを持つことは大きな力になる
それでメデアがマスコミが第三の権力になったことを理解したのである





2021年12月28日

人生百年は長期戦 (陰の性格の人は後半戦に強いー引きこもりは陰の人になる)


人生百年は長期戦

(陰の性格の人は後半戦に強いー引きこもりは陰の人になる)

陰の魂の質は、穏やかさ、清らかさ、静けさ、安心感など・・・あまり目立たずに陰から人を支えたり、他者に調和や平和を届ける様なエネルギーになります。
陰の魂の持ち主とは逆に、陽の魂の持ち主は、社会の中で特に評価されやすい傾向もあります



人間の性格で陰陽がある、陽は前向きで明るくばりばり行動する力があり目立つし人を導くこともできる、人も集まる、そして早い時期に成功しやすい
一方陰の人は何かと社会でマイナスに見られる、陰気でありとっつきにくいとか社交的でないとかなる、そうしてどうも引きこもりになる人が今や60万なのか多い
陰の人は社会で率先してばりばりやれないからだろう、そこでつまづくとなる
社会にでて引きこもりになりやすいのが陰の性格である
注目されるのは陽の性格の人である、女性で明るく目立つ陽の性格の人は好かれやすい
何か大人し控えめな人は損するとなるかもしれない

陰の人はこうして社会では不利な面が多い、でも自分の性格を知って陰の人も力を発揮することができる
人間の謎は必ずあらゆる面で有利なことでも不利になり不利なことでも有利になる
大軍でも強国でも少数の国と戦い負けることもある
だから何が有利に働くかわからないのである、だから自分の性格が陰だからと悲観することはない、ただ己を知ることが大事である
陽の人がうらやましいと陽の人のように生きるということはかえって苦しくなり失敗する何が自分は陰であり人と付き合うことは苦手である、人と逢うことだけでひどく疲れるのである、だから引きこもりになったのだと思う
引きこもりになるのは陰の人だと思うからである

陰の人には陰の人に逢った生き方がある、陰の人は内面的なものの追求に向いている
実業家とか政治家とか大勢の人の上にたち目立つ人となるのは向いていない
陰の人は芸術家とか思想家とか学者とか内面的なものを追求するのに向いているとなる
それは必ずしもチームワークでするのではなく一人でもやれる仕事だとなるからだ
ただ研究者でもチームワークが必要だともあり何らか仕事をするには協同する必要があるから一概には言えない
でも陰の人はいくら陽の人が成功しやすい社会に認められやすいからとまねることはできない、そうなるとかえって苦しくなるからだ

歴史をみても信長は陽の人であり秀吉も陽の人であり天才的であり率先して人を導くことができる、華々しく活躍する天才でもある
でも家康となる何か地味であり華々しいという感じがない、陰の人の感じになる
でもなぜ彼が最後に天下をとったのか、治めたのか?
それは家康が特別優秀な天才でもない、その前に陽の天才だった信長が殺され、秀吉も死んだからである、痕に残ったのが才能もたいきしてなかった家康だったともなる
家康には特別天才的なものがなくても忍耐力があったとなりたまたまマラソンで走っていたら前を行っていた人が脱落してしまったともなる
長期戦になったら特別強い人が優秀な人が死んでしまったということで家康が最後に天下をとった、それより長期戦の結果天下が自ずと転がりこんできたともみる

70以上になると結構同期でも死ぬ人が増えるし病気になる人も増える
マラソンに例えるならばたばた落後する人が増えてくる、ただ人生百年となると結構長丁場の戦いにはなる、元気な人も多い、でもやはり結構病気になる人死ぬ人が増えるのである、人生の競争でも脱落してゆく人が増えるのである
要するに長生きするだけでも勝利者にもなるのである

だから陰の人は後半戦に強いことを今私は自覚した、陽の人は前半戦に強い、ばりばり力を出して成功しやすいとなる
そういうことで陰の人はあせらないことである、なかなか前半戦では成果が出ないのである、でも陰の人でも引きこもりでも何か好きなことでも積み重ねることがあればやがて芸術でも学問でも思想家としても大成するともなる
陰の人は理解力でもなかなかつかない、陽の人は物事でもなんでも理解してしまうことがある、陰の人は何か成し遂げるにも理解するにも時間がかかるとなる

ただ陰の性格の人は人生の後半戦で力を発揮するようになる、それも人生百年となると
50歳以降にすらなる、60でも70歳以上でもそうである
普通の人でも80歳まで働くようになる、それは経済的にそうなるというがそうでなくても人生百年は長期戦になる
そして何か人間はやはり成長しつづけるものである、例え陰の人でも目立たないが木のように時間をかけて成長しつづけて大木になる
それは時間によってそうなるのである、必ずしもその人の才能によってなるとは限らないのだ
現実有能な人でも早く死んでしまい何か実りとなるものを残せなかったともなるからだ

つまり人生百年を生きる心構えが若い人でも必要になる、人生は長期戦であり将来はどうなるかわからない、だから黙々とでも引きこもりでも社会に適合できなくても認められなくても長い目で淡々と積み重ねる、努力することが必要だとなる
でも若い時は50年後先など見えない、だからたいがい60くらいで死ぬと見ている
でも実際は本当に90から100歳とかまで生きる時代になっているのだ
全部ではないにしろ病気になる人も多いにしろそれが平均的になってくるのだ
だからこの長期戦をどう生きるかを考えねばならない
とにかく人間というのは動物とかと比べても成長するのが遅いのである
でも成長しつづけるとういことがある、それは木とかと同じである、成長するに時間がかかるのである、何か理解するのにも時間がかかる

だから本を大量に読んでもいても理解していなかった、今になると理解力がついてきたからその言わんとすることがすぐに理解できる、そして自分の文脈で引用できるのである
大器晩成というのは別にもともと大器でもない、長期戦を生き抜いた結果として晩成したということになる
時代にもよるが平和な時代には長期戦になる、特に長寿社会になるとそうなる
戦前でも正岡子規も36歳くらいで結核で死に啄木も27歳で結核で死に宮沢賢治でも36歳くらいで死にとかとにかく結核で死んだ人が多い、結核は若くして死んだから悲惨だったのである、また戦争でも有能な若い人が将来を嘱望された人が死んだのである
このように人間の才能とかは天賦の才能に恵まれていても開花することがむずかしいのである

つくづく自分が才能などたいしたないのにこうしてそれなりに開花ししてきたのは家族に恵まれたためである、自分の家族をふりかえると自分のためにあった、自分を育てるためにあったようにすら思うようになった、みんな死んでそう思うようになった
父親は酒屋の丁稚奉公であり母も戦前は貧乏であり苦労の一生であり陰の性格だった
でも百才まで生きた、そして陽の姉がいて私に尽くしてくれた
父の違う兄は不幸であり不遇であり交通事故で死んだ、こうして何か私の家族全部が私のために犠牲のようになったとみる

こうしてなかなか一人の才能ある人間すら簡単に才能を開花させることはできない
それは時代の影響もある、戦前のような貧乏な時代になるとなかなか才能を開発できない戦後でも焼け野原から始まった、家には一冊の本もない、その後でも本屋にしか本がないそれも百万分の一くらいしかないとも今になると見る
子供部屋もなちかことおじとかもいない、子供部屋がないとなかなか落ち着いて自分の勉強ができないとういことがあるからだ
現代だとこうしたものがさらに整ってきているから有利である
こうして時代の差がありそれでそれぞれの個性的なものを追求できないのである
つまり人間はそれぞれに才能があったとしてもその才能は開花できないのである

つくづくこれからの人生は百年であり長期戦である、例え最初はびりでも最後に一番になることだってありうる、先を行っていた人たちも脱落してくる
だから先がわからないのである、ただひたすら黙々とマイペースで走っていたら前の人が脱落して一番にっていたということもありうる、それが人生百年の意味なのである
だから若い時に人生をあきめることはない、ひたすら走りつづけることである
ただこのことが若い時に理解できないのである、若い時自殺するような人はそうである
ともかく生き続けることである、人生はどう展開するかわからないのである
でも日々の努力は怠らないことである、ささないなことでも後で花開くとういことがあるからだ


本格的な怪物は母の胎内での期間が五万年、十万年かかるべきものなのだ
80万年無駄飯くらってやっとよちよち歩き出るような人間、いや超人間になりたい
(単細胞的思想ー上野霄里)

自分の性質が活動的な仕事に向いているか、それとも有閑のうちに研究ないし黙想することに向いているのか、である
そして自分の才能に導かれる方向に傾いていかねばならない

心が俗事や陳腐なことを軽蔑するとともに、聖なる霊感を受けていよいよ高く舞い上がればその時こそ遂に死すべき人間どもの口には崇高すぎる歌を吟じるにいたる
心がある高く険しいところにあるものに達するには正気である限り不可能である
心はすべからく陳腐なことから遠ざかり轡(くつわ)をばりばりとかみ、己の指揮官を急がせてかつて自分がら恐れて登らなかった高みへ引き立てて行くべきである
(セネカー人生の短さについて)


上野霄里氏は天才であり天才的思考になる、若い時であったがこれも理解できなかった
ただ天才は凡人には偶像化するから危険ではあった、ただその言うことは今理解できる
人間は長期的に見るべきであり人間は成長しつづける存在なのである
若い時は理解できなくてもやがて理解するようになる、だから若い時理解できなくても本を読んでおいた方がいいとはなる
天才は努力を否定するから凡人とは違う、その言うことは理解する

凡人でも

心が俗事や陳腐なことを軽蔑するとともに、聖なる霊感を受けていよいよ高く舞い上がればその時こそ遂に死すべき人間どもの口には崇高すぎる歌を吟じるにいたる

これは修養なのである、修行をしつづけることである、天才的な人は修行しなくても一挙にわかる、でも普通の人はには修養とか修行が努力も必要なのである
だから不浄を拒否して山に籠もり修行したのである
俗世間に染まらないことなのである、それは宗教だけではない、芸術でもそうである
それは崇高なものを目指しているからである、そしたら俗世間に染まってしまったらその崇高なもの純粋な自然の美を見ることもてきないからである
今の宗教は政治経済化して組織集団化しているから俗世間の価値観しかない
かえって欲がないのはエネルギーないとかなり俗世間より以上に俗世間的な場所なのである、そんなところで心が浄められるとか全くない、全く不浄な人々の中にまじりそれが普通となり汚れているのである

だから引きこもりでもそうした不浄な世間と交わらないということで黙想して浄化する
そこで自然の美も見えてくるとなる、ただここにはやはりマイナスも大きい
それでアウトサイダーには狂気になった人が多いのである
ただこうして引きこもりでも黙想して不浄を拒否して生活していれば自ずと神聖なものでも自然の美でも見えてくる、それで私は今それを詩とかにしたものを発表している
百遍以上の詩はまだ発表していないからである

とにかく人生百年時代を生きることは若い時は序の口だからそこであきらめることはないただ正直若い時に方向が決まってしまうことが怖いのである
カルト教団から脱しなかったらそのまま一生そのままつづくということが怖い
そして人生そのものもを失ってしまうのである
それが極端化したのがオウムだし他の創価でもなんでも宗教の組織化集団化したものは同じなのである
それで若き時に神を知れということが重要なものとなる
若い時に方向が決まる、偶像崇拝していたら生涯偶像崇拝のままである
そしてオウムの麻原とか創価の池田大作とかでも偶像を拝みつづけるから怖い
宗教で一番大事なことは偶像崇拝しないことだからである
でも宗教でも偶像崇拝していることが多いのである、組織集団化した宗教はそうである

今年も終わりだけど私の中でこうして引きこもりでも不浄を拒否して黙想していても
それが実ってくることはある、それも30年以上とかそうだったのである
だからこの年月が何だったのか?それは今の実りへとつながるものだったともなる
そこにマイナスな面も大きく失敗したが引きこもりが無駄とはならなかったのである

2021年12月10日

時間の貴重さが自覚できない (あなたの時間を奪われるな-消失しやすい時間)


時間の貴重さが自覚できない

(あなたの時間を奪われるな-消失しやすい時間)


3000円の時計を買ったが壊れたので使えない、それで何度も損した悔しいとなる
その損は3000円だから何かかえって計算しやすい身近になるから悔しいとなる
でも例えば百万円損したとかなると意識しない場合すらある
貯金の額でも大きい人は意識できないのである
かえって千円とかでも意識しやすいから損したとなり忘れられないのである
人間は何でも大きくなると意識しにくいのである、細かいことは意識するのである

時間は一時間損したとか意識しない、千円なくしたときのように意識しないのである
若い時だと特にそうである、時間がいくらでもあり暇で暇でしょうがないとなっているでも30過ぎる辺りから時間がなくなることを多少は意識する、40才になるとあれ白髪でてきたなとか40だと先がみえてくる、要するになにかしようにもこれまでしたことが学んだことが問題になるのである
何か新しくしようとする時間がなくなるのである、そしてあっというまに60過ぎて老人になる

人生をふりかえると旅行とかで海外旅行で20代とか30代とかの人とあった
でもすでに海外旅行をしてから十年以上していない、その時逢った人もすでに40くらいになっているかもかもしれないし20代でも30代後半になっている
だからこれも本当に不思議でありこんなに時間が早くすぎるのか、それは先日逢ったようにさえ思うからである、人間の出合いも瞬間的だとも思った
あの人と逢ったことあったな、あれからもう十年以上すぎたのか、そして永遠に逢わないなとなっている
まず人間は十年以上合わないと相当に人間が変わっている
子供の時一回しか合わない親戚の女性は別人のようになっいた、とても普通の人間ではないと見た、それは子供の時しか逢っていなかったからである
人間の世界はこうして常に変化でありこの年になると昨日逢って話したけど死んでいたということもある、それが隣の女性だったのである

人間はまず時間を意識しない、時間は金のように意識しないから時間を失っても損したと思わないのである、でも老人になると痛切に意識するのである
それは何かをするにも学ぶのにも時間がなくなるからである
「少年老い易く学なりがたし」となる光陰矢の如しともなる
だから退職して何かを学ぼうとする人が増えているのもわかる
60の手習いとかもありうる、でもやはり人間はつくづく積み重ねが大事である
新しく学ぶことは簡単にはできないのである、人間の時間は限られている
老人でも今まで積み重ねてきたことだと素人でも専門家にもなれる
でも新しく一から始めることは趣味でもむずかしいとなる

だから金は常に意識している、百円でも千円でも強烈に毎日意識して使い失えば悔しいとなる、でも時間は金のように意識できないのである
そして金と時間がどちらが大事かとなると金も大事であるが老人になると時間が大事になる、先がなくなるからだ、人間の成すこと何でも時間がかかるからだ
老人になって投資に向いていないのは時間がなくなっているからである
長期的視野で投資できないからである、利益を上げる前に死んでしまうということもある
その他でも人間は何をするにも時間がかかる、それはあらゆることでそうである
家族でも一緒に過ごす時間がなかったら親密になれない、母親でも一緒に過ごす時間がなかったら親子にもならない、その母親は5歳まで一緒いて育てた娘がいてもその娘が母親とも思っていない、でも誰も頼る者がいない、それで認知症になって頼ったが金を頼りにされるだけだから悲劇である
子供の時一緒に生活していないなら母親ともならないのである
それで実の母親でもなくても血がつながらなくても母親として世話していたら実の母親となるのである
動物でも子供の時、猫でも犬と一緒にいると犬が母親にもなるのである
つまりこうしてなんでも親しくなるにも時間がかかる

そして時間は限られている

人間が親しくなるとか共同するにも時間がかかる、夫婦になるにもやはりすぐに結婚しても親しくなれない、理解てあい信頼するには時間がかかる
だから離婚してまた結婚してとかなるとそれも時間がかかるから離婚は相当に不利だともみる、新しい人間関係を作るにも時間がかかるからだ
何度もやり直すとういことが人間にとってむずかしいのである
それで転職することはかえって苦しいとなる、なじんできた会社から出て新しくまた人間関係でも作ることはむずかしくなる、50過ぎたりしたらそうである
今までなじんだ所が不満があってもいいのである
そのために原発事故で故郷から避難した人は故郷に帰りたいとなる
新しい場所に簡単になじめないからである
人間にはそんなに転々として移動しても簡単にその場所とか人間関係でも作りにくいのである、なぜなら時間かかるからだ、そのために農家では三代住んでいなと認められないとかなることもわかる、土地を基にした農民だとそうなっていたのである

お手伝いさんでも十年働いていた人は信頼できる、でも新しい人だと信頼できないのである、何か百人もお手伝いさんを変えた金持ちの家があった、そんなことで信頼関係は築けない、信頼し合うだけでもそれだけ時間がかかるのである
なぜ封建自体に強固な主従関係ができたかというと何代にもわたって同じ主君に仕えていたということがあるからだ、代々仕えていて信頼関係が時間の中で作られていたのである
いくらグロ−バル化して空間を広げても人間の信頼関係とかは時間で作られる
だから世界となると国々でも民族間同士でも信頼しない、戦争になるとなる
いくら物が入ってきてもその国の人と信頼があるとか親しくなるとかないのである
それには時間がかかるからである
エジプト文明が三千年ありローマ帝国でも300年とかつづきそこで培われたものがあるそこにも時間がありできたとなる
現代の問題は速成して時間をかけないでインスタントになる、そこで重みがないのであるつまり時間でしか作れないものがありそれが問題なのである

私のプログでもすでに15年くらいしている、するとその蓄積したものがある
自分の書いたものでも忘れていてもう一度自分の書いたものを読んで感心している
また過去に書いたものをまた新たに発展させて書くこともできる
それで今いろいろとまとめている、もう一つは記録を保存するためにまとめている
それが量が多いから作業として大変になる、時間がかかる
何かこのインタ−ネットというメデアでもプログに書くにしてもやはり手間がかかり時間がかかる、手間だけは省けないのである
それで自分の記録したものも膨大になりそれを見直したりつけ加えたりすると時間がかかるのである

ワードプレスとかもしようとしてもスキル的にめんどうだともなる
つまりスキルでも覚えるのに時間がかかるのである
こうして何でも時間がかかる、そして時間は老人になるとなくなるのである
投資にしてもデイトレーダーとかなると一日パソコン画面を見ているようになる
すると他に何もできなくなる、また社長でも忙しくなり他のことはできなくなるという
大きな金を稼いだとしてもそこに時間が奪われる、そして自分のしたいこともできないとかなる
画家だったら絵を描くことに専念すべきなのだが時間をとるべきなのだからその外のことに時間がとられて肝心の絵を描くことに集中できない、時間がないとなる
こうして金と時間を比べると人間はいかに時間を無駄にしているかとなり老人になるとみんな後悔しているのである、つまり時間切れになり何もできない、後は死ぬだけだとなってしまうからである



奪われる時間

時間は常に奪われている
自らも時間を失っている
しかし時間は意識できない
金のように意識できない
計算も大ざっぱでありできない
だから時間は失いやすい
時間を失われたことに気づかない
それで時間は奪われやすい
時間を失うことは奪われることは

人生を奪われると同じだ

組織団体とかでもは奪われる
そこに奉仕して何を得られるのか?
ただ貴重な時間が奪われる
つまり人生そのものが奪われるのだ
あなたの時間を奪うものがいくらでもいる
わずかの金で労働者は時間を奪われる
あなたのすべきことは別にあった
あなたの人生は時間をどう使うかで決まる
何かするにも学ぶのにも時間がかかる
親しくなるにも時間がかかる
信頼を培うにも時間がかかる
でも時間は限られている
あなたの時間はたちまち消失する
もう老人になると時間は黄金にも優る
死ぬとはあなたの時間がなくなることだから

あなたの時間を奪われるな!

時間を奪われることはあなたの人生を奪われることだ
それを肝に命じよ
あなたが時間を何に使ったかか人生になる
体験する学ぶ時間があなたの人生を作る
ただあなたの時間は常に奪われる
自らも時間を浪費している
そして最後に時間は消失して人生は一瞬だったともなる
それほど時間は消失しやすい
時間は極めて限られている
その時間の使い様であなたの人生は決まる
金を求めても時間を失う

金に使われるなかれ!

あなたの人生の時間を生きよ
あなたが奪われたのは間であり
またあなたの人生そのものだったのである
あなたの時間を全力で生きよ!
そこにあなたの報いがあり実りがある
それはそれぞれの人によって違っている
あなたの報いと実りを得よ
さすれば人生に後悔はないとならむ






2021年12月08日

(人間が消えた方が自然には良かったーSDGs(持続可能社会ー老子の思想) ドラマの一シーンから


(人間が消えた方が自然には良かったーSDGs(持続可能社会ー老子の思想)

ドラマの一シーンから

「何か協力したいのですが・・」
「今何ができるというんだ」
「何かはあると思うですが・・」
「何もないよ」
「何かあると思うですが・・」
「うるさいな、あえて言えばお前が消えることだよ」
「・・・・・・・」

テレビドラマの警官同士の問答だけどこういうことがある
この世を良くしようとしても本当はその存在自体が悪になっていること邪魔になっていることが結構多いのである
それは人間だけではない、技術にもありうる、物でも機械でもありうる
原発などなかったらいいとかある、それが大迷惑になるものだったからである
核など科学者が優秀でも発明してそれが人間社会にとっていいものだったとかとなるとならなかった、原子爆弾となり核戦争で人類が滅亡する恐怖にふるえなければならなくなったからである

「核技術は人間にとって必要だ
これなくして人類の人間の幸福はありえない」
「そんなことはない、むしろ災いにもなるから慎重にすべきだ」
「リスクは何にでもある、リスクを恐れてはならない、そうしなければ進歩もない」
「それが疑問なんですよ、核が無くても人間の幸福は追求できる
むしろ核がない方が良かったのです、進歩ということはこれも危険なものがあったのです」

何かこうした逆説が常に人間社会には成立つ、あるよりない方がいいのである
そうしたら人間がいない方がいいとかなる
地球の災いの最大の原因は人間にあるからだ
人間が増えたことによりグロ−バルな災いが生れた、グローバル化した結果世界大戦になったともなる
江戸時代は中国の脅威もなかった、韓国とも友好的だった、グロ−バル化で友好が促進されることにもならなかったのである

中国の脅威はアメリカより過酷になる、中国人は近いから今でもそうだが住みつくからである、そして住むことによって中国人が日本人の上に立つことになる
そうなるとウィグルとかチベットにもなる、中国人社会にされてしまうのである
漢族中心の社会になる、チベット人は迫害されてネパールに逃れていた人と逢ったからである
中国には依然として十何億もいまとしたら日本に送り込まれて漢人が支配する社会になるそれはアメリカが支配するのとは根本的に違う、ウィグルとかと民族同化になり同じになるのである、そこに中国の最大の脅威がある
老子の思想にひかれるのは人間も数はいらない、小国寡民であり治めずして治まるとか無用の用とかを言ったことである、つまり二千年前にすでに文明を否定していたのである
だから鍬まで使うと人間がそこなわれるとまで言ったのである
道具とか機械まで否定したのである

今の状況が現代文明が老子が警告したようになったともみる
無用の用が必要でありいらないものが多すぎる、人間でも多すぎる
この世を良くしようとしてもそもそも人間が邪魔だから消えることだとなる
経済成長一点張りとかも否定される、小国寡民の思想はコロナウィルスでもこれから経済成長とかばかりを目指す社会ではない、グロ−バル化はかえって災いも大きいものだっからである
これに賛成する人はいないがもし人類を地球で養うのは限界でありだからこそSDGs(持続可能社会)持続社会が望まれているのである

 衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

 このように人間は文明を作ったけど着飾ったけど結局それも美とも言えない、浪費だともなる、そんなに体にまとうもので着飾っても人間自体は美しくならない
 それより自然界では鳥でも何でも着飾っていない、それで自然に調和して美しいのである、人間はいくら着飾っても人間そのものが内面が汚れている
 だからむしろ人間はこの自然の汚点であり消えた方がいいということが成り立つのである

本当の美は白鷺でも白鳥でも自然そのものに同化しているものである
何も着飾っていない、人間の造りだした物がなぜこんなにに醜悪になっているのか?
それは大都会を見ればわかる、そこに美はないからである
つまり大都会自体が醜悪なものだということである
何か協力したいのですが社会を良くしたいのですがと人間が寄ってきてもかえってお前がこの世からいなくなることが最もこの世を良くするともなるのである
人間を見ればそうなる、そうして私は人間嫌いになり引きこもりになったのである
人間は見たくないとなったのである

成さずして成るというとき人間は成し過ぎたのである、科学技術でもそうである
様々なことを自然に手を加えて成し過ぎたのである、老子の思想は植物的思想である
山や木や石は何も成さない、ということは自然界に災いをもたらさないのである
自然に調和していれば成さなければ原発事故で故郷に住めなくなるということなどありえなかったのである
この辺はそういう人類の教訓の場にもなったのである

「私は社会を良くしたいのですがどうしらいいですか」
「あなたは何もしないことです、むしろ消えることです」
「えええ、そんなことありえない・・・・・」

これも逆説なのである、社会に有用になろうとしてもそれが災いにもなるし人間そのものが自然に調和しないものだからそうなる
何かそういうことを思わない、役立つものとして必死になっているのが人間なのである
役に立っているという時、大きな自然界からみればそうではない、害悪になっている場合がある、社会に役に立つとしてもそれは小さなことでもある
人間が社会でもいくら役たとうとしてもたかがしれたものになる
役立つという時本当に役立っているのは自然界である、でもこの自然界に感謝する人もいないのである、第一空気とか水に感謝する人はいない、ありふれたものに感謝はしない
原発事故でこの辺は空気すら吸えない、水すら飲めない状態になったのである
つまり人間が余計なことをして成してそうなったのである

むしろ人間は悪を成すのであり悪を成さざるをえないのである、なぜなら欲があり欲を充たすために悪を成す、何も成さないでいられないのが人間なのである
そうして人間の災いは尽きることがないのである

みちのくに安らぎあれや山眠る

みちのくの大地に抱かれて眠る
静寂の大地に抱かれて眠る
そこに人間の顔も見ない
不平は限りなく尽きることがない
石はただ黙して大地は山は眠る
聞こえるのは枯野に風のうなる音
人間の騒擾は消えて休みに入る

みちのくという場は安らぎと休息に向いているのである、東京から大阪とかまでは活動の場であり騒々しいがみちのくの効用は安らぎと休息の場なのである
それも必要なのである

東京を電車で離れみちのくへ秋の陽映えて沈みけるかな

みちのくへというときまさにこういうふうなのがふさわしいとなる
ただ東京にも十年以上行っていないから遠くなったとはなる

2021年11月27日

親ガチャでも責任は親はとらない (自分の人生は自分でとらされる−人生を後悔しないために)


親ガチャでも責任は親はとらない

(自分の人生は自分でとらされる−人生を後悔しないために)

親ガチャというとき親によって人生でも決められる、それから逃れることができない
親によって人生の行路が決められる、いい親に生れたらそれだけで人生は楽勝だともなる確かにそういうことは多い、親によって大きな差が生まれる
でもそういうことを言っても人生の責任は自分でとらされる
親に不満であっても親を何やかにやといっても親は子供の人生に責任をとらない
個々の人生の責任は何であれどんな親にもかかわらず自分自身とらされるのである
親の言う通りにして失敗だった、自分の道は他にあったとなっても最後はどうにもならない、ただ後悔だけになる、そういう人も多いだろう

また会社でもこういう会社に勤めているべきでなかったとしてもそうである
それは会社の責任でもないし会社は一切責任などとらないのである
人生の責任は最後は自分でとらされるのである
「あなたの責任でそうなったのです」となる、親どうのこうの会社がどうのうこうの組織団体がどうのこうのと言ってもそうなのである
その人たちは組織でも団体でも個々の人生など考慮していないからである
ただその人の人生など見ていない、人材を見ているのであり材とは全体ではなく何か役立つものとして材になるものとして採用しているだけである
その人の人生がどうのこうのなど関係ないのである

組織団体というとき国家さえそうなのである、国家は個々人の人生に責任をとらない
戦争でわかるように人生を国家のために捧げても地獄の様な苦しみを受けて死んでも国家は責任はとらない、ただ英霊として祀ることはしたがそのことで死んだ人が報えられたかとなるとそれもわからない、20代とか30代で死んだらどんな人でも無念が残るからである、結局国家のために犠牲にされたともなる、別な見方があるにしろとてもその人なり人生があったとしても国家のために犠牲にされたとなる
でもその責任を国家はとらないのである

組織団体というときカルト教団などでもそうである、そういう組織団体に所属して生まれた人がいたとして親がその幹部とかなっているとその人の人生は組織団体を生きるのであり個々人の人生は生きない、そういう人を創価とかで知っている
親が幹部だしそれで議員とかなっていて大学まで出たとかなるからもう経済的にも利益でもあらゆることが一体化しているからその組織団体と身も心も一体化して人生の行路がすでに決められていてそれ意外の道が見えなくなっていたのである
疑問をもつことすらない、宗教を求めることでもない、宗教団体でも宗教を求めないのである、ただ組織団体の権益利益と権力追求しかないのである
ただ親でも家族でももうそこに身も心も捧げているからその外のことは何も見えないのである

そこで宗教に対しての求道心など何もないのである
これも親によって人生の進路が決められていた、でもその人生の責任を親はとらないのである、親は子供を産む、育てる、でも人生の責任は負わないのである
それは別に金持ちの親でも同じなのである
医者の家に生まれたら医者になれとなる、家業を継げとなるが自分は医者に向かない、別な人生を生きたいとしてもできない、でも自分は医者には向いていない別な人生を生きるべきだったとしても後悔しても誰も責任をとらない、自分がとらされるだけなのである

結局人間はなんらか常に責任を負わされている、でも責任はとらないのである
原発事故でも「安全神話」を作った政治家でも官僚でも東電でも何ら責任をとらない
官僚に天下りした検事でも海上自衛隊でも警察官僚でも責任はとらない
ただ法外な金だけをもらっていて返すこともないのである

でも必ず誰かが責任はとらされる

この辺では故郷に住めなくなったということで大きな責任をとらされたのである
戦争では三百万人の国民が死んだのである
戦争責任は誰にあったのか?これもはっきりしないがやはり戦争を決行した人達上層部の人達がいたがその人達の責任ははっきりしないのである
終には天皇に責任があるとして問われたこともあったのである
天皇が戦争を決行することを命令したとされてそうなった

ともかく20代で方向が決まってしまう、20代でいろいろ悩む、でも親がどうのこうのと言っても親が責任をとらない、だから親が悪いとしてもいくらそうだったとしても責任をとるのは自分自身なのである
確かに親は一応飯を食わせていろいろめんどうはみる、でも子どもの人生の責任を全部とることなどないのである、だから親の言いなりにされて自分はそうすべきではなかったとしても親は子供の人生の責任をとらない、とるのは自分自身なのである
だから親ガチャであり自分の一回限りの人生を無駄にしても親は責任をとらない
とらされるのは自分自身なのである、俺は親の言う通りにして失敗だったとしても親は責任をとらない、とらされるのは子供自身なのである

ともかく親ですら確かに一応いろいろ世話はするが子供の人生は親とは別であり子供子供の人生を生きる、親がどういおうと自分の人生は自分自身が決めるとしないと後で後悔する、つまり誰も個々人の人生の責任などとらないからである
とらされるのは自分自身だけである、こうして自分は生きて良かったとなればいいがただ誰かのために親のためにとか組織団体とか会社のためとかに生きて自分自身の無駄にしたとなると後悔する、ただそういう人は多いだろう
だから自分自身の人生を生きることは容易ではないとなる
親に反対されたとかいろいろあってむずかしくなる
生活が第一だとなったりするから親の影響が大きいからそうなる

ただ本当に怖いのは20代で30まで人生の行路が決まってしまうことである
20代で引きこもりになると一生引きこもりになるのも怖いのである
北朝鮮に全日空の飛行機をハイジャックして北朝鮮に渡った赤軍のメンバーは日本に帰ってこれなくなった、そして子供が成人にまでなっていたのである
北朝鮮はその時楽園だとか宣伝されていたのである
そこは実際は地獄だったのである、でも北朝鮮で子供が成人するまで生活して日本には帰れなくなったのである、つまり20代で人生の方向が決まるということが怖いと思った
すでに親によって決められる人生も怖い、そうしてその責任は誰もとらない、親もとらない、自分自身がとらされるだけなのである

そういう自分は特別に親に恵まれて好きなことをしていた、会社に勤めるのもあっていないし引きこもりで自由に好きなことをしていたのである、だから今でも死んでも親に感謝しているのである
このマイナス面も大きかったが好きなことを追求で来たから自分にとって自分の人生を生きたとなるのである
親との確執が何か必ずあっていいのである、それが全くないということ自体問題なのである、それは全く親の言いなりであり親は子供の人生全体まで責任など持たないのである
医者が子供に医者になってもらいたいというのは継いでもらいたいというのは親のエゴであり子供のためではない、子供には子供の人生があるからである
だから親の言いなりになって自分の人生を失うことは後悔するとなる
人間の問題は二回人生を生きられない、一回失敗したからまたやり直すことができないのである、だから30までに人生の方向が決まりほぼ確定してしまうことが怖いのである
それもあっというまに過ぎてしまったとなるからである


2021年11月24日

運が決める成功、財産も金運も運 (松下幸之助は「人間90%は運命」と考えていた)


運が決める成功、財産も金運も運

(松下幸之助は「人間90%は運命」と考えていた)

fortune 運、幸運にもこと、幸運、果報、繁栄、成功、出世、運勢、(将来の)運命、富

わしは運命が100%とは言っておらん。90%やと。実は、残りの10%が人間にとっては大切だということや

電気屋の仕事をやるにしても、わしがもし大阪でない別のところにいたらどうであったか。電車を見ることもなかったから、電気の仕事をやろうと、ひらめくこともなかったやろうな。たまたま大阪の街におった。特にとりたてて力のない平凡なわしが、一応仕事だけでも成功したということを思えば、なおさらのことやな。

松下幸之助というとき特別な優秀な人で成功したとみるのが普通である
でも違っていた、こういうことを言い残したのは自分は運が良かったなと一生をふりかえり思ったからである
成功した人と金持ちになっている人を見るといい、どうして金持ちになったのか?
そこに運が大きく作用しているのである
第一生まれた家とか場所とか才能とかでも親から受け継がれる、すると親とか生まれた場所とかで相当な差が生まれる
教育格差は都会に生まれた人と田舎に生まれた人ですでに相当な差がある
田舎だともう学校で公立しかないし決められている、洗濯の余地はないからだ
その後でも知識習得の格差があった

田舎だとまず専門的な本など置いていない、図書館にしてもたいしたものではない
まず田舎だと本すら買えなかったのである、そしたらどうして勉強するのかとなる
それで一週間に一回とか仙台市に行って本を買うほかなかった
でも仙台市でも本は限られたものしかなかった
インタ−ネットでこんなに本があることに古本をふくめてあることに驚いた
書店に置いてある本は都会でも何万分の一でもない、百万分の一くらいしか置いていないかったのかと見る、それほど本は多かったのである
もしそうして自由に本を選び読んでいたら専門家になれていたとなる
ここからして格差があったから都会に住む者と田舎に住む者では住む場所で差が生まれていた

ただだからといって田舎がすべて損になるとはならない、田舎では自然と日々接するから感性が磨かれる、例えば俳句などでも四季があり季語を感覚的に実感的に覚えるには田舎の方がいいのである、私の場合はそうしてたいして才能もないのに時間があり家に恵まれて自由に生かされるたからできた、引きこもりであったが家族に責められることもなく30年間過ごした、このマイナス面も大きかったがプラスの面も大きかったのである

何か運が作用している時具体的な例になると誰かが死ぬと誰かに運が回ってくる
これは確かなことなのである、ある人が親しい男性の妻が死んだ結果として嫌だった夫と離婚した、そして親しい男性の妻が死んだのでその家に自由に出入りしたのである
また自分の家に来たのも私の家族が全部死んだからである
もし家族がいたらその人と付き合う必要もなかったのである
そもそも私が生まれたのは母親が前の夫が事故で死んで後妻に来たためである
その時子供がいたけど連れ子になり自分の家でいい待遇をしなかったのである
その後集団就職して結婚したがそこでうまくいかず交通事故で死んだのである
そのことで私は悪いと兄の墓を墓を作り墓参りしているのである

誰かの不幸が幸福になり誰かが死ぬと誰かの運が良くなるというのも確かである
それを猫を飼ってわかった、最初飼った猫はどこかに帰えて帰らない、死んだのである
一か月くらい帰らないで尻尾をいたずらして焼かれた不運があった
でも帰ってきて世話していたのである、その猫はなれていた、でも死んだのである
次になぜ今の猫に餌をやっているのか?
それは前も来ていた、でも餌は飼っている猫にしかやらなかった
でも飼っている猫のを餌を奪いとりにきていたのである
それで追い出していたのである、そのたなのか、その黒い猫はずっと餌をやっいるがなれないのである

でも自分としてもなぜ餌をやっているのか?

その猫がかわいいということでもない、何か一人になって淋しいということがあり餌をやっている、でも家にはあげないから飼っているとはいえない
汚れるので家の中には入れないのである、でも窓から顔を出すので餌をやっている
今日は安かったカツオのさしみまで与えた、それは特別安いものだったからである
でもぜいたくだと思った、前の猫にもそうして少しは分けていたのである

こういうことは自分自身で何か同情するとかでもない、たまたま来ていて自分が淋しいとかあり猫が来たなとなり与えている、その猫は今まで家に来た時は追い出していたのである、だからなれないのかと思う
要するにこれも全く運なのである
運はめぐってゆく、恵みはめぐるであり回ってゆくのである
金は天下の回り物というときもそうである、金は必ず一か所にとどまらない、めぐってゆく恵みとなるのである、ある地域で金持ちが豊かな人がいるときその土地になんらかもたらす恵みがありそれが地域にめぐってゆくのである
最初は一家族でも全体に及んでくるのである
何か特産物が作りだすというとき最初は篤農家がいてその土地にあったものを作りだす
それを回りの者もまねて豊かになるということがあるからだ

それはあくまでも運なのである、だから成功した人自体が松下幸之助ですらそう思ったというので運がいかに作用しているかわかる
高度成長時代は誰でも成功する率が高かった、私の家で商売を始めたとき何もない、店でもただ品物を並べるだけであり品物を置くだけで売れた、物がない時代だったからであるそしてたまたま角にあって場所が良くて売れたのである
その頃近間にしか店がない時代だったからである
私の家では別に商才などなかった、むしろ母親などは商売に向いていない、内向的な人だったからである、だから一時的でも栄えたのは時代と運だったのである
今になるとこんな商売などできないし小さな店はスーパーなどができてみんななくなったからである
何か成功することは時代と運だとなる

結婚にしても運が作用する、その女性は二人と結婚して離婚した、相手が悪かったから貧乏だった、それは運が回ってこなかっただけだともなる
容姿が悪いということもある、でも美人が不幸になっているというときか必ずしも生まれつきですべてが決まる訳でもないのである
何か結婚でもめぐりあわせがあり運がつきまとっているのである
何か何でも平等にしようとする共産主義とか社会主義とかが失敗したのは人間の運命とかを無視しているからである
平等を追求してい行くと不平等になるのはそのためである
みんな個性を違うし生まれた親も違うし家族でも違うし生まれた場所も違うしといろいろな相違がすでにあって生まれてくるからである
そもそもそれを平等にすることはできないのである、かえって平等にすれば不平等になるのである
ただ教育とかは平等にして国で金を出して人材を育てるべきだとなる

人間は運から運命から宿命から逃れられない、必ずいいことがあっても悪いことがある
悪いカルマがどんな家にも人にもありそれで苦しむことになる
私は特別恵まれていても最後は親の介護でそれも二人もいたから自分自身も病気になり死ぬ思いした、それも結局特別恵まれた結果だったのである
金持でも恵まれていても必ずカルマを積んでいるから後年にそのカルマが苦しみとなって現れるのである

運というとめぐりあわせも運なのである、結婚も運だともなる、たまたま出会って結ばれる、何かその出合いも運だとなる、なぜあの人は不細工な男なのに美人と結婚しているのかとなる、でもその人の出合いがそうしたのである、たまたま出会ったことによりそうなった、出合いでも何回もわるわけではない、その出合うチャンスは限られた時間しかない普通は30歳まででありその後男女が出合い結婚することはむずかしくなるからだ
つまり結婚するチャンスもその時が限られていて短いのである

だから人間はどこで運がめぐってくるかわからない、本当にわからない、秀吉でも信長の側にいなければ天下をとることはできなかった
仕える人とか会社とかでも作用する、つまり自分がいくら才能があったとしても運がないと成功しないというのはそのためである
時代にもよる、高度成長時代は誰でも何もない所から始まり成功しやすかったからだ
今は事業するにしても簡単に成功などしないのである
日本全体が落ち込んでいるからである、つまり自分だけの力だけでは成功しない
成功とは結局運だという時、その成功は自分だけで作ったものではないということを考慮する必要がある、謙虚になる必要がある
まさに生んだという時自分の力ではないだ、ただ十パーセントは自分の努力とか才能とかで成功するとなる

いづれにしろ運はどこでめぐってくるかわからない、日本の経済でも将来がわからないのは国際情勢でも変わるからである、そこで日本全体の運も変わる、するとまた成功しやすくなる、運とか常に変化しやすいのである
だから栄える家でも地域でも国でも変わる、そして不運が必ずありそれでこの辺のように原発で栄えたがもう住めなくなり悲惨な結果にもなる
でも原発で財を成した人はこの辺で多いのである
だから何が富をもたらするのか運をもたらすのかはわからない、いいと思ったものが悪くもなる、運命は反転する、だから栄えた家でもみんなながつづきしないのである
中国が15、6年であんなに発展するとは思わなかったからだ

では運を良くしようとする時どうするのかとなるとそれを人為的に作り出すことはできない、運命がありどんなし親から生まれるからを選ぶこともできないからである
それで親ガチャになる、それに不満でもどうにもならない、その運命の下で運がめぐってくることを待つほかないともなる
ただ10パーセントは運ではないのだから努力もしておけとなるのである
ただいくら努力しても成功するとは限らないのである
ただ時間だけは平等に与えられている、その時間が極めて限られているのである
そして人生ではこの時間を一番みんな無駄にしているのである
そこで運命にかかわらず大きな差が生まれているともなる
時間を活かした人はやはり最後にその人なりの成功があるとなる

ともかく運が90パーセントだと松下幸之助すら言っているのだから自分自身の力だけではどうにならない、そして結局人間自体が人間の社会をどうにかできるものでもない
人間自身自分自身すらどうにもならないのである
人間がいくら努力しても全能の神にはなれない、そこに人間の限界があり神に頼らざるをえないのである、最終的に人間の運命を決めるのは決めることができるのは人間ではない神なのである

2021年11月03日

事業失敗もカルマの法則? (人間の奢りが失敗の原因―家系のカルマ)


事業失敗もカルマの法則?

(人間の奢りが失敗の原因―家系のカルマ)

問題を起こしたまま人生を終えた先祖は、亡くなった後も苦しんでいます。行いや恨みは亡くなったからといって帳消しになるものではありません。法句経に、「悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む

母親の実家は不和分裂の家だった、なぜそうなったのか、それは事業に失敗したことが大きな原因だった、父親が警察署長して事業を始めたが失敗した
そうして事業を始めたのは警察署長をしていたからそれで成功すると思っていたのである結果としてその後裕福だった家は貧乏になり子供が苦労したのである
悪かったのは母親が病気になりそこに新しい継母が入ってきた
この継母が異常に気の強い人でそれで私の母親はひどいいきじめにあったのである

その家の跡を継ぐ人が嫁をもらったがその異常に気の強い継母に二人の嫁が追い出されたようになった、一人は娘が5歳の時別な人と再婚した
一人は別に家を構えて実家から出て行ったのである
ただその継母は肺病になったその家の息子を看病していたのである
ただこの継母に母の実家は翻弄されて遂にその継母も家を出て養老院で暮らして死んだ
最後は眼が見えなくなり母が行ってめんどうみて死んだ
「悪かったな」と言っていたという、そのお骨は約束していた大学病院で解剖されて私の家に来たのである

こうして不和分裂の家だからその親戚関係も争いうまくいかなかった
それが如実に現れたのは母が病気で寝ている時、その母の弟の嫁になった娘が「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらへ)と血相変えて去って行った
これも付き合いもたいしてないからそうなったのも当然だったともなる
その娘とは第一子供のころ一回くらいしかあっていないからである
ただその墓に私の異父兄弟の兄が埋められていたのでかかわっていただけである

事業の失敗というときなぜか父方の方でも嫁に行った先で事業をはじめて失敗した
これもなぜ事業をはじめたのかわからない、簡単にとれない特別の資格をもっていて会社で高給取りだったたからである
だからなぜ事業をはじめたのか?何かこの人も自分は優秀だと自負がありはじめたのかとなる、ただそこにしても自分は付き合いがないから関係ないと思っていたのである
でも意外とこうして薄い親戚の縁でも必ずかかわりその家のカルマを受けることが怖いのである
天皇家などでも結婚でもめているからのちのちに結婚相手の家族の家系のカルマを受けるから怖いのである
カルマが現れるのは60歳以降にもなるからだ
現実に秋篠宮家では自由結婚したが同じように娘も自由結婚した、ても天皇家となると簡単に一般人と同じにはなれない
でも親がそうしたのだから娘もそうしていいとなる、それもカルマだったのである
親のカルマが子に現れたのである

その家は父親が若い時病気で苦しんでいて一生その苦しみのためにまともに仕事もできない人だった、そのために嫁は苦しんだのである

つまり母親が夫で生涯苦しむ⇒その娘が夫で苦しむ

これがカルマだとなる、母親と同じカルマを受け継ぎ苦しむとなる
ただこうして同じ苦しみを受けると母親のことを理解するとはなる
「私はどれだけ夫苦しみち娘もまた夫で苦しむ、それで母親の苦労を理解するともなる
要するに人間は苦しまないとカルマを理解できないのである
戦争などでもとても人が殺し合うことなど理解できない、それを理解するにはまた戦争になることだともなるから恐ろしいとなる
そうでなくても何か苦しみとして現れる時カルマを理解するのである

いづれにしろどんな家でも家系でもなんらかのカルマを背負っている、その軽重はあってもそうである、それが苦しみとなって現れたとき理解するのである
例えばアメリカで日本に原爆を落としたけどこれもアメリカ本土に原爆を核ミサイルでも撃ち込まれて何十万とか死ななければその業(カルマ)高い理解できない
こんなひどいことをしていいのか、そう思った時、あなた達アメリカ人がそうしたのではないですか、それがカルマなんですよとなる
何であれ何か他者にでもした行為(カルマ)は今度は自分に現れて来る
それがカルマの法則なのである

なぜ事業に失敗したのか?

母の実家では警察署長していたからそれで成功すると思った

父方の親戚では特別の資格を持っていたし優秀とされていた

その奢りがあり失敗した

これは明らかに共通した原因があったとなる、人間の失敗は奢りから来ているのが多いのである、日本の戦争だってアメリカがどんな国かもしらないで奢りから始めた
日本は強いから負けないとかなっていた、それは原発でもそうである、日本の技術は優秀だからと言っていたからである、それで権力で「安全神話」を作ったのは奢りだったのである、人間の奢りは危険なのである、科学技術もまるで神の様な力をもつと過信して大事故にもなる、それも奢りからなるのである

人間の失敗の原因は奢りにあったことは確かである
人間が成功する時でもやはり自分の力だけで成功することもない、そこには様々な要素入ってくるからとても一人の力では成功しない、限界がある
人間の奢りは神から罰せられる、人間が神の様な力をもつことは神が許さない
だから失敗して罰せられるのである

いづれにしろ母の実家は墓まで分裂していたのである、母の弟が家を継いだにしろ外にでた、そして別に墓を作ったのである
でもその娘は一番長く暮らした育ての親にひどいことをした
そして自分に最後に「ひどい娘だわ」と呪いの言葉を残して死んだのである
病気になっても見捨てたのである、ただ簡単に死んだから良かったとなる
女性でも冷酷な人は普通にいる、病院で自分を虐待した看護師〈女性〉もそうだった、だから男女であれ人間は冷酷な人は普通にいる、だからそういう人は看護師とかでも医者でもふさわしくないとなるがそういう情的な面は見ていないのである

ただその労働がきついからそうして気の強くないと勤まらないということはある
ただ全般的に情に欠けた社会になっている、だから病院でも長く入っていてかえって悪くなったという人も多いのである
それは精神的な理由もある、病院は無機質な空間で情が感じられないからである
知っている人は病院に長く入院していたが家に帰ったらかえって良くなったというのもそうである
老人の場合体の治療も必要だが情的な面も大事になるが今はこの情を病院とか医者とか看護師になかなか求めにくい
情無き社会になっているからである
ただこうして情がない愛情もなくなる社会は怖いとなる、それをここ十年の自分の病気と家族の介護で嫌というほど経験したからである、ただこれも楽して来た自分のカルマだったのである、家族のカルマであり清算が強いられたのである

2021年10月22日

記憶したものが宝となる (老人は記憶に生きるー老人の心に映し出されるもの)


記憶したものが宝となる

(老人は記憶に生きるー老人の心に映し出されるもの)




老人の心に映し出されるもの

神秘な透明な水に写ったもの
隠された森の沼に湖に写ったもの
知られざる花の写り消えぬ
また天より神の御顔の写り消えぬ
しかしその消えたものは
その水に記憶されている
その水に神秘の花は記憶されている
それ故にまた花は映しだされる
時に霧が深く覆い記憶も消えたと思う
でも霧が晴れてまた記憶したものが
その湖に美しく映し出される
ただ醜いものは消える
神の鏡の湖に写ることはない
記憶されるものと記憶されないもの
老人は記憶をたどり生きる
でもそこに醜いものばかり写るなら
その記憶を消したいとなる
でもその悪しき記憶も消えない
だから良きものを記憶するように
その心を正しくして澄んでいなければならない
さすればあなたの老後は美しい記憶で
次々と花園を歩むように美で充たされる
終わりなき記憶たどる旅となる
確かにその湖の平静な水面も風に嵐に波立つ
でもそれは一時であり過ぎて行く
そしてその静まる水面には花々が
次々に色を変えて映りあきない
老人はそうして記憶に生きる
美しく蘇る記憶に生きる
そうしてその記憶を天国にもってゆく
その天国にそのつづきがある



すべては誠実な記憶のなかに持続され、言葉に絵に歌になって保存される

追憶の絵本を、体験したものの宝庫をもたなければ、どんなにつまらなく、みじめなものだろう‐
「人生は成熟するにつれ若くなる)ヘルマン、ヘッセ

老人は記憶に生きる、でも問題はあなたはどれだけ記憶したものを持っているかとなる
誠実に記憶されるというときやはり誠実に生きないと記憶もされないとなる
心に記憶されのはやはり不実なものではない、誠実ならば不実とならず実りとなり記憶される、ただ何らか人は必ず罪を犯すしそれが悔恨となって苦しめられる
人生でも最後に記憶の絵本のようになったら成功だったともなる
でもいくら金を残しても何か思い出したくない嫌なことがありそういう生き方も普通にある、金のために不誠実となり嫌なこともしたとかなる
現代ではそれが多いのである、それは老人になったとき消えるのではなくその嫌な記憶に苦しめられるともなる
その時は老後は地獄だともなる、いくら金があってもその心に映したものが悪ければ醜いものしか映らないとなり地獄となる

だからどうしても現代では金のためにそうして心が汚れる人が多い、でもそれが老人になったとき消えるのかとなると心に刻印されるのである、それが怖いのである
ただそういうことを深刻に考える人はまれである、金になればいいとしかなくなっているからだ
現代の資本主義社会はそれが問題なのである、みんな金で汚されてゆく
何か戦前でも江戸時代でもこんなに金で汚されることがなかったと思う
もちろん貧乏であり時代が違っているから比較はできないにしろ現代ほど金に追われ金のために心が汚されている時代はなかったと思う

ともかく人間の記憶は不思議である、どうして記憶がよみがえるのか不思議なのである
ただ忘れることも本当に多い、だから記録しておけというのもわかる
今ならデジタルカメラでもスマホでも膨大なものが記録できる、そこから記憶がよみがえることもある、第一自分の書いたものを忘れて読み直すとたんなこと書いていたのかと忘れているからだ、人間とは常に忘れてゆく、人も次々死んでゆく、それは次々に人も忘れられてゆくということである、それだけはかないということである
記憶にとどまるのはわずかであり歴史でも名を残し記憶されるのはわずかである
あとは忘れられてその名も覚える人もいなくなる、それは老人になると実際に知っている人が次々に死んでゆくのだから嫌でも自覚させられるのてある

老人は記憶に生きる(記憶の宮殿)
http://musubu2.sblo.jp/article/186530838.html

ここの続きとして書いた、この記憶の宮殿はみんな人によって違う、経験したことも学んだことも違っているからだ
でも人間は最後に記憶となり記憶を生きることになる、でももし記憶されるものがないとすると退屈ともなり老後の時間が長いと耐えられないともなる
何か行動するにしても体が弱りできなくなる、どうしても老人は行動力がなくな家に閉じこもり記憶に生きるようになるからだ
豊かな老後は金を必要だけど記憶に生きるようになるから記憶されたものが大事になる
その記憶されたものとは日々の生活で積み重ねたものなのである
ただ自分の場合家族をのぞいて人間を記憶しているということがない、また逢いたい人もない、自然との合一を追求してきたが人間は嫌いだったからである

2021年10月21日

人生を後悔しないために (道徳無き経済の異常性ー人格を歪める資本主義文明社会)


人生を後悔しないために

(道徳無き経済の異常性ー人格を歪める資本主義文明社会)



人生を後悔しないために

高い地位、儀礼、富、学識など、そういうものに到達した人々について
わたしが思うには、彼らの到達したものは彼らの体と魂に結果を残すものではない限り
すべて彼らの身につかず、浪間に消える‐ホイットマン

身につくものが何だったのかになる、それが老年に現れる、身につくものを残らないとしたらそれを追及したことが無駄だともなる、その身についたものは金では計れないのである

あなたは神を知るべき時に知ることを逃した
それは盛りの若き時に求めるべきものだった
その貴重な機会を逃してしまった
その日は遠く帰ってこない

あなたは元気な若き時に冒険すべきだった
若きは短く青春はたちまち過ぎる
きついことは若き時にすべきだった
老いて体力もなく気力もなくなり
果敢にいどむことはできなくなった

あなたは学ぶべき時に学ばなかった
あなたはただ享楽に時を費やした
あなたは何かスキルを身につける時にしなかった
あなたはそこで鍛錬して身につけるべきだった

あなたは遊ぶべき時に遊ばなかった
遊びの時も必要でありそれも人生の内
あなたは広く見聞すべき時にしなかった
外国でも実地に知るべきだった

あなたは人を助けるべき時に助けなかった
あなたは苦しい人に無関心だった
またあなたは近くの危険なことにも無関心だった
そして大事故が起きて身に及んだ

あなたは節制すべきだった
あなたはただ放漫でありただ怠惰だった
外に現れずとも内なる心に実るものがある
享楽にまかせず節制していれば
内に心に実るものが外に現れる
それは隠せおうせず現れる

あなたは何か有益なことをせず
何か学ぶべき時に学ばなかった
学ぶことは限りなくあり
神の創りし世界は多様で広大
しかしあなたはそれを見逃した

あなたは成すべきことを成さなかった
学ぶべき時に学ばなかった
あなたの才能ではない
あなたはただそうした貴重な時間を活かせなかった
その時間をもう取り戻せなくなった

みんな老いれば残るのは後悔だけだ
特に貴重な何かをする学ぶ時間を失ったこと
その時間が取り戻せないことを痛切に悔いる
あなたが費やしたものが無益だったこと
それが最大の悔恨となる知れ

集団の馬鹿騒ぎに己を失い費やされる
あなたの貴重な時間は奪われていたのだ
奴隷ということは時間を奪われたことである
会社であり宗教団体であれそこで奴隷にされる
何かただ使役される、それが金のためだけでも

金を使うのではない、ただ金に使われている労働
そこに真の実りはなく何か実りとして残らない
人は金のために働くのではない
真の実りのために働く時、充実感がある

こうして時間を虚しく費やされると悔いる
例え有り余る金を得ても虚しいとなる
老いて病気になりその金すら使えない
また時間もなくなり使えなくなる

あなたの日はもう終わった
あなたの与えられた時間はもうない
あなたはあとは死ぬだけである
人生の経験で成したことを天にもってゆく

それは財産でも金でもない
この世で経験して学んだことを天にもってゆく
老いて真の実りは現れる
何に時間を使ったかその成果が確実に現れる

それ故に時間を有益に使わなかったものは
老年はみじめであり過去の過ちも闇黒となる
それは罰せられなくても心に現れる
それを偽ることができない

金があっても心が歪んだもの
人格が歪み心も曲がったものが多い
何かそこに異様な奇形な姿を見る
その人は金があっても人格形成に失敗した
もはやその人格は矯正できない

その姿をもって地獄に行くともなる
集団は関係なく個々がそうして問われる
人生はもう結果として現れた
もうそれを是正することはできない!

あなたがあなたの人生を培い作った
あなたにはあなたの時間が与えられていた
時間はみんな平等に与えられていた
ただ時間を活かせなかった!
そしてみんな人生を悔いている

時間はもとにもどらない
そこに人生の厳粛さがあった
人生は一度きりであり
チャンスも一度きり
そのチャンスも逃した

最後にあなたの経験と学びの実りが現れる
個々に違った実りが現れる
それを収穫するのが老年である
そういう実り豊かな老年のために
あなたは時間を無駄にしてはならない
それは人生を無駄にすることだったから

●それぞれの経験と学びが老年に現れ結実する

どんな人でも優秀な人でも人生は後悔に終わる、結局人間の学ぶことでも経験することでもわずかしかないからである
すると何か足りないものとして終わる、自分だと経験したものは旅だった
だからその旅のことをふりかえり俳句とか短歌にしてふりかえる
それは無駄なことではなかった、でも人生はいろいろ多様であり学ぶことも経験することも多様である、普通だと結婚して子供もちとか経験する、もしそういうことでも経験しないと何か欠けたものになる、自分の場合まともな社会生活していないから欠けたものになる、社会性が欠如した人間になっていた

でも普通に結婚して子供を育てた人でも何か必ず欠けている、どう見てもその人はそうして普通の結婚して子供を育てても奇形化した人間になっていた
まとも人格ではない、もう信じられない薄情なものともなりこれが人間なのかとも疑ったただ本人はそんなことを気付いていないのである
その人の人格も長い間の結婚生活とかでも作られて来たのである
ただ付き合いがなかったからわからなかっただけである

ただ確実なのは最後に老年になってその結果が自ずと現れる!

何か学んだものでも経験したものでも確実に老年に現れる、そして最後に偽ることができない、もうそうしてできあがったものを直すことができない
人格でもそうだしその人なりの個性でもそうである
個性とか才能でもその人なり資質があっても天才でない限り人生の時間の中で作ってゆくものだからである
だから老年にはそれぞれの経験したこと学んだことが否応なく現れる
それがむずかしいものではなくても雑学のようなものでも役に立つものとして現れる
また老年になると理解が深まる、理解できないものが理解できるようになる

あのことはそうだったのかとかわかる、またこういう解釈があったのかと理解できる
だから老年は含蓄が深いものになる、それで老人は普通の人でも悟ったようにも見えるのである、賢者にも見えるのである
つまりこういうふうになるのは若い時はなりえないからだ、壮年でもなりえない
老年になると自ずと成るのである、何かが解読されてゆく、理解できなかったものが理解できてからまる人生の糸がほぐれるように理解できるようになる
別にそれは特別の人だけではない、普通の人も人生をふりかえりそうなるのである
あのことはこういうことだったのかと理解するようになる

どんな人生でもそれぞれ違っていて経験も違っていてそれが実りになる
まず何かを経験しない人はいないからである、だから誰しもその経験を老人は語る
遂に千回も認知症になっても語っていた
老人はこうして人生を語ることが仕事にもなる、そこに必ず人生の教訓がある
失敗したことでもこうして失敗したとかなりそれが後の教訓となるのである

●後悔しない人生はない

確かなことは後悔しない人生などないのである
それは人間一個の経験とか学ぶことが極限られたものだからである
例えば会社員の経験がないものはそもそも会社のことがわからないのである
では自分の様に自由に旅した経験は会社員として過ごした人には理解できないとなる
こうして経験するものが違うから理解できなくなる、理解することは自分が経験して学んだことだけだとなるからだ

今退職とかして学び直している人が増えているというときそのことが痛切にわかる
つまり学ぶことをしなかったことを悔いてそうなったのである
もっと学ぶべきことが山ほどあったができなかった、それで退職して時間ができてそうなったのである、でも実際は退職しても学べることは学べる
でも若い時に学ぶこととは違う、むしろ老人になると今まで自分が経験したことを学んだことを深化することであり知識を広げることでもないし新しいことをとりいれずらなくなる、だから老人の学びとは何でも広く浅くではなく狭く深くなるのである
それは自分の経験と学んだことからそうなる

ともかく本を山ほど買っても読んでもびっしりと印しをつけていても理解していなかったでも今になると深く理解できて自分の文脈の中で活かすことができる
そうなったとき実は本当に他者の知識でも思想でも経験ても理解したことになるのだ
老人になって本当の実りがある、ただ若い時はがむしゅらに経験することであり学ぶことである、それは後で雑学でも活きてくるのである
ただそのためには詩にしたように節制が必要であり享楽に費やしたりしていたらそうはならない、意外とこの節制ができない、性であれなんであれ時間は奪われ費やされるのである

●心でも体でも節制が必要

体も節制が必要なのである、何かしら放逸に体でも使っていると必ず老年になるとその積み重ねが体にでてくる、酒とか煙草でもしていると何らか体に影響してくる
また過重な肉体労働をつづけるとそれも老年になるとその積み重なったものが体に出てきて具合悪くなる、ただ必ず老人になると体の故障がどこかにでてくる
でもやはり体でも節制していなと老人になるとその積み重ねで異常がでてくる
スポーツマンでもプロの人も体に負担をかけすぎて早めに死んだり病気になる
それでも何か冒険もしないとか慎重に行き過ぎるのも問題なのである
身体が丈夫な人はやはり常人のできないことができる、それがその人の人生を作るともなるからだ、でも不摂生に酒でもなんでも無理なことを体に良くないことをしているとやはり必ず老年になると不具合がでてくるのである
そして十年くらい同じ年齢でも違ってくる、同じ年齢でも本当に70以上でもこの人は若いなと驚く人がいる、老けている人は本当に体も弱っているからだ

節制でも心の節制も意外と大事なのである
心の節制とは何かとなるがそれは口をつつしむとかである、何か人間はしゃべりすぎることは心を無駄に費やして汚すということもある
悪口を言ったり何かしゃべりすぎることは心をけがし消耗させることにもなる
自然ど合一するには山や樹や石のように深く沈黙することが必要になる
でもこれは社会生活では異常者になるからできないのである
引きこもりだったから自分にはできた、禅僧のように沈黙行をしていたとなる
ただそこで社会性がなくなり異常化していたのである
だから社会性も必要でありそれがないと何か異常化して社会のことすらわからずに苦労することになる、結局人間はなんらかで偏る、社会生活を正常にしていてもそれすら偏ったものとなる、会社員とか公務員でも何かそこでの人生も偏ったものになる
それは社会の一部であり全体ではないからである

心の節制が必要だという時心を汚す無益に消耗することにはあまり人間は気を使わないのである
まずカルト教団などは肝心のこうした心の修行のようなことは一切ない
社会活動であり集団活動であり御利益追求だから会社員とも同じであり世俗社会より世俗的な場所であり宗教的なことは一切ないのである、巨大な企業と会社と同じなのである
それでなぜ宗教の看板をかかげているのか全くわからないとなる
禅宗の沈黙行などはない、真宗とか日蓮宗などは一日題目あげているから世俗社会より騒々しいところでありまた団体化して集団示威行動する、そして社会を威圧する
それはナチスとたいして変わりないのである
そのために危険な団体でありそれが社会を席巻してナチスのようにもなる恐怖があるのだ
ともかく老年には人生の結果ができる、もう偽ることのできない結果がでる
それは恐ろしいことにもなる、青春の放逸なども後悔となり苦しむ

そのために推理ドラマでも必ず若い時の過ちが尾を引いた事件になり悔やむとなっている若い時は過ちを犯しやすいからである、節制でできないからそうなる
それも後悔となるしいろいろなことがただ後悔として苦しめるのである
だから実りある老年になるにはどうするのかを若い時知らねばならない
でも若い時みんな老人がそういうことを言ってもわからないのである
若い時老人の気持ちとかがわからない、理解できないのである
何か青春でも終わりないように見えるし人生でも終わりないように見えるのである
でも人生は終わってみればあっという間だったとなる
こんなに早く終わるのかと驚くばかりになる、それはみんな老人になるとそう思うのである、つまり老人になってみないとわからないことなのである
そこに人間の弱点が盲点があったとなるのである

●会社人間は資本主義社会の奴隷(社畜)ー人格は無視

会社員が資本主義社会で商品であるというときもそうである
つまり人格など関係ない、商品としてして見てないない、会社にとって有能な有益なの商品としてしか見ていない、人間としてどうのこうのは関係ない
そういうふうに人間を見ること自体すでに人間は奴隷であり社畜だとなる
ところが人生は人格を磨き形成して完成するものだと見れば会社員で働くことは人生としては全くそんなことで働いていたら最後に後悔しかないともなってしまうのである
そんな人格まで無視して働いていていいのかともなってしまうのである
でも今の社会は会社員であることなのである、それ以外の道は提供されていないともなるそれも異常だとなる

例えば江戸時代とか戦前までは職人は会社員ではない、会社員となったのは戦後のことなのである
職人は一人で物つくりしていて売っていたのである、会社などなかったのである
小規模のものがあっても会社はない、それでいいものを作るために職人気質とか生まれたそして武士道とか職人道とか商人道とかその道を究める者としてあった
そこに人格など歪めるものがなかったのである、だから本当に資本主義人間とかは何なのだろうとなる、そんな生き方していいのかと疑問になる
そして金がすべてとなり人間はすべて金で計られるようになったのである
そんな社会は人間の社会なのかともなる、そうなら資本主義などやめた方がいいなる
株式などはただ金を右から左に流して巨万の富を得ているとかであり公正の市場でもないのである、それで銀行員とかはそのグロ−バル経済のギャンブル場の賭博場に雇われた人なのかとも見てしまうのである

資本主義はこうしてモラルもなくなったのだからそれを維持することはむずかしいとなる道徳無き経済である、そういうものが維持できるのか?
グロ−バル経済とは世界市場は巨大なギャンブル場でありそこに人格など関係ない
ただ金を唯一の価値としてすべてを商品化して人間も商品化して奴隷にするといことである、この人間はいくらの値段だとかその人に張り付けられている
それは人間そのものを無視したものである、そこに実際は恐ろしい社会の荒廃になる
でも資本主義社会に生きていればみんながそうなるしかない
そうならもう会社員であることでも拒否した方がまともだとまでなってしまう
でもそうなると生きる術がないとなってしまう、でも人間の人生の目的は何なのか?
それがただ財産と金を得ることだとなればそうなってしまう
じも人格の完成だとかなればそんな社会に会社に属していること自体拒否しなくてはならないとなってしまうのである

いづれにしろ株式で生活している人など何か異常なのである
それはまともな生業でもないとなる、そういう仕事が何か人格を歪めていたら老年になって真の実りはなくなる、これも怖いことではないか?
でも人格がどうだとか見る人はまれである、すると現代社会は現代人は何のだとという疑問になる、文明人とは何なのだろうとなる、モラルなき道徳無き人間とは何なのだろうとなる、それが獣社会になってしまわないか?
モラルがないから食うか食われるのか世界でありすべては金で計られ商品化されて値段をつけられる、ところが人生は値段をつけられない金で計れないものに計りしれない価値があることも最後に思いしらされるのである
それは人格が歪んた人は地獄人間になっているのだ、ダンテの地獄編に体が歪になり奇形となっている人間である、つまりそういう地獄人間になることが目指しているのが今の文明なのかとなってしまうのである

そんな人間を作ることが資本主義社会でありまた文明社会だとすると拒絶して生きていた方がいいとなる、ニートの方が増しだともなる
資本主義社会の勝者とは何者なのか?地獄人間でありサタンともなってしまわないか?
ただこの異常性に気づいている人はその中で生きているとき気づかない
それが普通でありそれからはずれた人は異常だとなるからだ
異常な社会に生きている人はそれが異常だと気づかないのである
それでナチスが社会を席巻したときそれが異常だとも気づかない、むしろそれに適合しない人が異常ことされたのである
それはカルト教団ではそうなっている、異常だとすると異常だと見る人は異常にされるのである、数が多ければ正常だとされるのである

でも社会全員が異常だとか見る人はいない!

たいがい会社からはずれた人が異常とみられる、だから何が異常なの正常なのかわからないのである

人間を派遣しているのではなく、人材を派遣しているこの意味ー鈴木傾城

人材とは一部を材として切り取ったものである、人間とは全体のことである
人材とは人間を一部分として材として切り取ったものとして商品化されているというのはわかる、ここで道徳が語らないが道徳無き経済はもう人間社会ともならないのである
獣社会となっている、そんな社会自体何なのだろうとなる、それは地獄社会だということである


2021年10月12日

先が見えないから失敗する (人間は未来を見ることができない―預言者の意味)


先が見えないから失敗する

(人間はは未来を見ることができない―預言者の意味)

津浪や原発事故ではいかに先をみることが大事か思い知らされた
もし先が見ることができたらこんな大惨事にはならなかった
人間は先が読めない、何でもどう展開するから読めない
それで判断に迷うことになる
道を行くにしても分かれ道があり右を行くべきか左を行くべき迷うことがある
その先が見えないからそうなる、地図もないときはそうである
そして道に迷うことになる

歴史を見る時、今ならすべて結果を見ていて結果から判断する
戦争に負ければなぜ負けたのかとふりかえる、でも戦争する前は戦争で勝つと思ってしたのであり負けることなど考えないのである
負けた結果を見て後世の人は判断する、だから歴史は結果から見る
でもその時代に生きた人達はそういう結果から見れない、どっちに転ぶかもわからないのである、それはサイコロでも振ってみないと結果がわからないのと同じなのである
それでどっちに転ぶかサイコロの丁半(ちょうはん)の世界である

必ず賭けがありその行動の結果がどうでるかはわからないのである
信長の桶狭間にしてもそれは賭けだったのである、天候も影響して勝ったとなるが
どうなるかわからないものだったのである
関ケ原の戦いでも霧が左右したとかあり勝敗はわからないものだったのである
ただ歴史は結果からみているから冷静に見るがその時代の中に生きていればどうなるかわからなかったのである
だから結果からみれば日本の太平洋戦争でもなぜしたのかとなる、馬鹿げているとかなるでもその時は決して負けるなどと思ってしたわけでもないのである
太平洋戦争でも本当はどう展開するかは未知だったのである
日本でも勝つこともありえたのである

聖書が予言者の書だというとき預言者とはあらかじめ予言する人だとなる
なぜそうなったのかというと予言することは生死にかかわることだからである
ノアの箱舟でもそうである、大洪水が来るということは生死にかかわることである
だからノワが箱船を用意したのである
それは馬鹿げていると笑われてもそうしたのである
そして助かったのはノワの一族だけだったとなったのである
予言の大切さを書き記したのが聖書だともなる

例えばソドム、ゴムラが神に滅ぼされるとき危機一髪逃れたのがロトである
まさに危機一髪でありロトの妻ははふりかえり塩の柱となってしまった
その光景を見たとき余りの恐ろしさにそうなったのである
それは津波でも経験した、もうその時瞬時に判断して逃げないと助からなかったからだ
そうして多数の人間が死んだのである
逃げる時間がなかったのである、とっさに何も持たず逃げない限り助からなかったのである

でも津波が来るとして備えていれば原発事故も防げたのである
それで仙台の方で若林地区なのか学者が津波が来ると警告したら地価が安くなるから言うなと口止めされたのである
つまり予言することは危険を伴う、もし予言しても現実に起きなかったら批判される
預言者は殺されて来たからである、つまり予言することは危険がともなうからである
地震学者でも十年以内に地震くる、二十年以内に地震が来るというがそんなこと誰でも言えるのである、でももう十年以内に地震が来たらどうするのか?
その時予言が当たらなかったら死刑にするとかなったら誰もそんなことは言わないのである、だれでも一年以内に地震が来るとか5年以内に来るとかそんなこといくらでも言えるのである、ただ適当に言っていればいいだけである、ただの無責任であり何の責任もないからである

コロナウィルスでもこれを誰も予測した人かいなかった、そして専門家も全く未知のものでありわからないものだった
だから今回は専門家の信頼を失った、これも素人並みだったのである
要するに原因がわからないのである、何で急に増えたのかまた急に減ったのかも専門家がわからないのである
いろいろむずかしいことを言ってもわからなのである
それは地震を予知する学者と変わりなかったのである、そんなこと誰でも言えるとまでなっていたのである
だから専門家会議など無駄だという人もいたのである、それほど専門家が用もないものだったとことに何なのだろとなった
そんな人達に国で金を払うとなるとこれも無駄だとなる

人間にとってあらかじめ知ることがいかに大事か

だから聖書は預言の書だとなる、預言者が中心になって記された書だとなる
預言者とは神から遣わされた役をであるからだ
その役を科学者が津波の予言でしたとき予言者と同じように批判されて脅かされたとなる人間はともかく利益を求める、欲を求める、それを止められると激怒する
不動産業の人が津波がここに来ると学者が言った時言うなとなったのもそうである
原発でもみんな利益を求めるからやめろとなるともうそういう人は住めなくなっていた
宗教は本来欲を制御するものだがそんなことを許す人はいないしそうしたら人は集まらない、だからカルト教団になるとかえって世俗より欲を追求することになる
底辺層になれば金持ちになるとか地位がある人になるとか何でも御利益であり福運だとかなる、ところが現実は底辺層は確率的には不幸からさらに不幸になる人が多いのである
それは別に宗教とは関係ない、百万人も底辺層ならどうしてもさらに底辺化して悪いことが起きる確率が大きくなるということである

ただ人間は将来のこと未来のことがわからない、何が起きるかわからない、いくら科学が発達してもわかららない、未来がいくら科学技術が発達してもわからないのである
未来を知りえるのは全能の神しかない、未来を知るというが神が未来を作りだすからである、もしかしたら今の地球を滅びても新しい惑星を作り出してそこに選ばれた人間が住まわせるということある、そんなことができるのが全能の神だとなるからだ
つまり未来を知り作るのは人間ではないのである、全能なる神なのである
この世に理想郷などできない、むしろハルマゲドンであり業火のうちに滅びる
それが予言れれ予定されているのである

だから神の選ばれたものを救出する、それが聖書に記されていることなのである
人間の未来は科学技術によって生まれない、それが原発事故で証明された
科学技術が万能になることはない、むしろ科学技術よって核戦争のように滅びるということが確立として大きいともなる
人間は人間の業(カルマ)によって滅びるということである
科学技術でもすべていいものとてしは働かないからである
その滅びの日が迫っているのかもしれない、グロ−バル化することは世界が一つのように見えてきている、またイスラエルが建国されたこともその日が近いともなる
人類の業〈カルマ)の総決算が起きてくる時が迫りつつあるのかもしれない
明らかにそこには神の意志が働くのであり何か自然現象として科学的に起こるのではない自然を越えた所に神が実在して神の意志で滅ぼされるのである




2021年09月27日

人生百年は嘘、活動する時間はその前になくなる (人間の最大の後悔は時間の浪費だった)


人生百年は嘘、活動する時間はその前になくなる

(人間の最大の後悔は時間の浪費だった)

いくつまで生きているのか」ではなく、「いくつまで健康なのか」であり、それはきっと「70歳くらいまで」であろうということです。
そして、本連載の最大のテーマは「60歳で仕事を辞める」ということであり、その根拠になるのが、「60歳というのは、QOL(生活の質)が高い人生が、あと10年しかないこと」です。
これをきちんと咀嚼したら、答えはひとつです。「大好きではない仕事は、60歳で辞める」これに尽きます。

人生百年時代といっても活動できる正味となると短いのである
ただ活動時期でも10年は確実に伸びている、60から70はかなり体力的にきついことでもできる人はできる
それで退職した人がよほど自由な旅行したかったのだろう
鹿児島から青森まで歩いて旅していたのである
この人はそれだけ旅したかったが公務員とか会社員だと時間がとれないのでできなかったそのためにそうしたエネルギーが退職して爆発したとなる

60から70はまだ体力的に充実している、だからそんなことまでできる、私はこれだけ旅行しても歩いた旅行は近くでもしていなからである
本当の旅したいなら歩いてみることである、全然違った感想を持つようになるし江戸時代のことを体で理解することになる

私の場合は60から十年は過酷な親二人の介護だった、それで自由な時間は完全に奪われたでも50代からバックパッカーで海外旅行したから良かった
なぜなら今になるとできない、体力的にも気力的に海外旅行は苦しいからだ
つまり意外と人間に与えられた時間は短いなのである
これが人生の最大の盲点だったのである、急速に時間が飛んでゆく消失してゆくのである女性でも30まで結婚しないと婚期を逃して結婚するのがむずかしくなる
婚期が長くなってもそうである、容姿も衰えてくるからである
そして30以上になると子供を産むことの限度になる、子供を産むのは30前の方がいいとなる
女性でもいくらでも時間があっていい人を選べばいい、気に入った人と出会うまで待てばいいとかならない
そのうち時間が過ぎて婚期を失う、つまり人の出会うチャンスも何回もないのである
気にいったいい人を待っていたらいつの間に歳とって今度は誰も相手にしないとかなる
男女でも出会う機会も一回とかなる、それは若い時が短いからそうなる
その若い時の十年くらいに出会いないとあとはないとまでなってしまうのである

結局男女にかかわらず人間は30までにその一生が決まる、方向が決まる
男性だと30までに会社員であれ何か仕事でスキルを身につけないと後はなかなかむずかしくなる、人間は何度も挑戦して何か身につけることはできない
経営者でも一回失敗するとまた再挑戦すればいいというがそうもならない
一回で成功しないともうそれで終わりだともなる、何回もやり直すことが簡単にできないのである
それはなぜか、人間の時間が限られているためなのである
人間は何回も失敗して挑戦できるとかやりなおしができるとかないのである
30過ぎて40になるとおっさんとか言われることでもわかる
時間だけは無常に過ぎてゆく、無常迅速なのである

ともかく人間には不測のことが起きて人生が一転する、私の姉は突然召集令状の赤紙が来て従軍看護婦として戦地に行かされた、そこは地獄だったのである
突然地獄に落とされたともなるのだ
母は東京の人と結婚したけど夫が事故で死んで後妻になったとかそういう不測のことが常に人生にあり予定が狂わされる、時代の影響も受ける
常にまた時代も変転しているから思わぬ予測されないことが起きる
要するに自分で決めようとしても大きな力に運命に翻弄されだけだともなる

だから求道というとき若い時しないならできない、信仰とかは老人になってするものとか思っているが老人の宗教は慰めである、最も若い時エネルギーがあると求めるものなのである、その時期を逃すと神を知ることができないというのも恐怖だった
私自身はカルト教団に入っても神を求めていたのである
とにかく人間は30まで人生が決まるとまでなる
その後の人生も長いとしてもたいがい30までその人の未来を決めている
それで就職とかでも新卒を一括採用しして重んじるのは会社で働かせて活用するには就職して30くらいまでが仕事を覚えるからである
それは職人でも20代で教えられると身につく、後から確かに身につくことがあるとしてもむずかしくなる

人生の勝負は一回

チャンスは一回

良く侍が仕官するために御前試合などがある、でもそういうチャンスは何回もない
でもそのチャンスをものにすれば仕官の道が開かれる、だから一回でもチャンスをものにしないとその後はチャンスがなく浪人暮らしが一生つづくともなるから怖い
若いとき、就職に失敗したとか会社をやめたとかなり引きこもりになると一生引きこもり人生になる
宮本武蔵でも大きな勝負したのは二回くらいしかない、その二回でも勝ったから名を残したとなる、人生の大一番一回であり何回もないのである

こういうことで人間が経験したり知識を得ることでも時間短いからみんな限られたものになる、あらゆることに通じる人などいないのである
あることには詳しくてもあらゆることに詳しい人などいないのである
だから優れているというときあることについて優れているのでありあらゆることに優れた人などこの世にいないのである
それは全能の神しかありえないのである、俺は優秀だというといあることについて優秀なのでり他の分野については全く素人と同じなのである
福島原発の吉田所長すら復水器のことを知らなかった、専門分野ではないとして知らなかった、他の社長でもあらゆることを知っているのかとなると知らないのである
そうして知らなくても社長になっているのかとなるが一応社長としているとなる

ともかく退職して60以降はその人のやりたいことをやるべきだというのは確かである
もう人生も終わり死ぬことになるからだ、だからやりたくないことをしているのは無駄だとなる、60以降になると時間の過ぎるのがさらに加速される
70過ぎると明日は死んでいるのかと毎日自覚するようにもなる
それだけ時間の過ぎるのが早いのである

そして時間を無駄にしたこと浪費したことを一番後悔する

時間をもどすことはできないし増やすこともできないからだ
ただ時間でもいつまでも健康であれば違っている、健康であれば体力もあればやはり何かをできるからである、でも健康を失えばもう何もできないのである
また家族の介護とか不測のことが起きやすい、すると自由時間は奪われて何もできないとなる
天国ではみんな歳とらない若いというとき時間がなくなることは心配ないとなる
でもこの世での時間は急速に失うのである

結局人生は予定通りにすすまない、それで意外な結果で終わる

人生は予定した通りにならない、いくら計画しても必ず不測のことが起きる
認知症になった、地震だ、津波だ、コロナウィルスだ、病気だ、日本の経済の衰退だ、貧困化だ・・・・・何か必ず不測のことが個々人でも全体でも起きる
知っている人は80歳越えて病気との戦いしかない、病院通いが仕事になっている人も多いのである
そしてみんな予定は狂うのである、また逆に思わぬ幸運がありそれで得したとかもある
介護で苦しんだが親の遺産があって自由に使えるとかもある
また逆に思わぬ不幸が常に人間にはある、だから未来をどうのこうのと予測しても思わぬことが必ず起きるから無駄だともなる
その日を精一杯に生きるほかないとなる、未来は神にまかせる、ただ今日一日を悔いなく生きることを心がけるほかないとなる

ただどんなささいな経験でも最後に老人になって活きてくる、結局人間が経験することはわずかしかないからである、いくら海外旅行するにしても限られている
中国であれアメリカであれ大きすぎて絶対にその地理を理解することは不可能である
そのほんの一部のみを知るだけなのである、それだけ地球は広いということである
結局人生の後悔は時間を活かさなかったことに尽きる
勉強でもそうである、英語でも外国語をものにするにも時間を活かせないから効率的に学習しないからものにならなかったとかなる
勉強の仕方が悪かったとなる、ただ時間が無限のようにあればまた語学でも学ぶことができるかもはやその時間がない、結局人生は時間切れで終わるのである



2021年09月09日

人生は時間切れで終わる (人生は短いから何でもできない、チャンスも一回くらいである)


人生は時間切れで終わる

(人生は短いから何でもできない、チャンスも一回くらいである)

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リストラ40代50代が転職相談で地獄を見る

ここで言っていることはリストラされて40代50代で事業をはじめる、フランチャイズ店の経営する、それは独立した経営者ではなくただ本部に金を吸い上げられる
始めるのに金がかかりそれを支払わせられるからだ
何も経験もなかったら大企業の役職をもった人でもただのおじさんに過ぎない
一から始めなければならない、アルバイトして飲食店のことを知ることが大事だとしている、一兵卒から始めねばならないとしている

今までの経験が何ら役にたたない!

こうなると40代でも結構むずかしい、結局何らか仕事は経験を積まない限りできない
自分自身も何ら仕事の経験を積んでいないから失敗した
一二年とか教師のまねごとをしたけど失敗だった、どう教えるかの経験を積んでいなかったからである
どんなことでもいかに経験が大事なのかわかる、そして経験の積み重ねで仕事ができる人になる

ところが

人間の経験する時間が限られている!

これが最大の問題だったのである、それで他の人も言っているけど35以上は人生の余禄だとかいうのもわかる、人間は30くらいまでで決まってしまうとなるからだ
20代で底辺だと一生底辺になり引きこもりだと一生引きこもりになる
これは相当に怖いことである、人生は長いのだから何があわてる必要もないとか
先はわからないとか思ってもそうではない
人生ではっきりしていることは先は確かにわからない

でも確実なのは何するにも時間が限られていることなのだ!

私の場合正規のルートからはずれた結果職にもつかず旅していたら一生が旅になってしまった、また別な道が開けるとかまだまだ人生は長いからどうにかなるとか思っていた
でも20代で人生の方向が決まり30以後は余禄だともなる、何かするものはこの世にいくらでもある、でも何かを選びする時間が限られているのである
だから40代50代でリストラされると厳しいとなる、まだ時間があるのではないかというけどジャンルの違う飲食店とかで商売始めるのは実際相当に厳しい
アルバイトで見習で一から始めろとしても厳しい、それは全く別な分野でありこれまで積み重ねたものを活かせないからである
それで失敗する人が多い、ただ起業資金を奪われただけだったともなる

ある人が経営に失敗したのは技術力があったのだが会社でも経営することがどういうことかわからなかった、確かに技術面では優秀でも小さな会社でも自営業でもするとなると
それは技術者として雇われるのとはまるで違ったものとなっていたのである
だから会社をやめて失敗だったとなる、やめなければ給料も良かったのだから困ることもなかったのである、結果的に借金を背負い込んだだけだともなった
つまり雇われる者と経営する者とは相当に違っている
でも普通は雇われる経験はしている、でも人を雇い使う経験はしていないのである
人間はまずいろいろな経験ができない、いろいろな経験する時間が与えられていないのである、だからあらゆることを知っているとか優秀な人はこの世にいないのである
もし人生が千年でもあればいろいろな経験を積むからできるともなる
でも人間の一生は短いのである
失敗したらやりなおせばいいというがそのそのやり直す時間がないのである

菅首相も官房長官では優秀だったとされる、でも総理になるのと官房長官は相当に違ったものである、官房長官を経験しても総理の経験などできない、誰もできない、それでピーターの法則のように無能化されるともなる
技術者として優秀だったから経営者としても優秀だとはならない、それでかえって出世すると無能化するという法則が成り立つのである、つまり人間は限られた時間しか与えられないからあらゆることを経験できない、もし時間があったなら千年でも生きていろいろなことを経験できたらこの仕事はこういうものだったのかと実感して知るのである
でも人間はわずかのものしか経験できないからあることで有能でも別なことでは無能化されるのである

そして最後はどうなるのか、時間切れで終わりだ

こうなる、おそらく老後に好きなことをしたいとか計画していても病気になってできないとか何か不測のことが起きてできなくなる
そして退職してやりたいことをやるとしてもできなくなる
人間のの一生はそれだけ短いのである
そのために(若い時に神を知れ)となっていたのである
それも若い時はそんなこと思わないのである、それは老人になっても時間が十分あるのだからできると思うのである

時間などいくらでもありあまっている、暇で暇でしょうがないんだよ

こういう若い時は思っている、でもこうして最も浪費しているのが時間だったのである
時間が最も消失しやすいものだったのである
40、50から一から始めることはできなる、60の手習いとかもあるからできることはできる、でもこれまで積み重ねたことが後年活きるのであり何も積み重ねのないと本当に一から始めるのだから苦しいとなる

そしてあっという間に老人となる、ただ今は60代では老人とは言えない、でも何らかそれでも病気になる人が多いのである
何か学問であれ芸術であれ詩歌であれそれを目指すならまず今なら世界旅行が欠かせないそれで失敗したのは50代から海外旅行をバックパッカーでその経験は貴重だった、何か世界のことについて書くにしてもその経験がないと何も書けなかったからである
だからたいがいヤホーニュースの記事の解説している人は留学している人なのである

この人のyoutubeがなぜ人気があるのかというといろいろな経験をしている、その経験談が面白いし役にたつのである
今まではこういうことはなかなかできなかった、テレビに出て延々と自分の経験など語れないからである、そこがインタ−ネットで変わったことである
何か実際に経験したことは訴えるのである、その人の書いていること語ることは経験したことでありそれが見る人に聞く人に訴えるのである
それがただ本を読んで語っているだけでは訴えないのである
ただyoutubeにはいろいろあって本の解説番組がありそれは
それなりに面白いとなる
youtubeは何か老人でも経験を語れるから老人でも向いているのである
若い人は経験がないから語れないのである
だから老人の経験を知って聞くことは有意義だとなる
ただ自分にしても本を読んでも理解できなかったかとなる経験がたりなかったら若い時は理解できなかったとなる
老人になると理解力だけは深まる、だから評論に向いてくるのである

ただ人間はどんな人でも時間が限られているから人生は時間切れで終る
時間の過ぎるのが早いからである、無常迅速というのもそうである
人生をふりかえればあっという間だったともなる
こんな簡単に終わるのかと唖然としてしまうのである
そして残るのは後悔だけでありその最たるものか時間を無駄にしたということなのである



2021年09月05日

人権意識というのがどこから生まれたのか? (カトリックからの宗教支配からの脱却から起きた)


人権意識というのがどこから生まれたのか?

(カトリックからの宗教支配からの脱却から起きた)



1790年8月3日、政府はユダヤ人の権利を全面的に認めた。1792年5月から1794年10月まで、キリスト教は徹底的に弾圧された。当時カトリック教会の聖職者は特権階級に属していた。革命勃発以来、聖職者追放と教会への略奪・破壊がなされ、1793年11月には全国レベルでミサの禁止と教会の閉鎖が実施され、祭具類がことごとく没収されて造幣局に集められ、溶かされた
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フランス全土に網の目のように張り巡らされた教区教会は、1667年のルイ法典(フランス語版)(民事王令)以降、教区司祭のもとで洗礼証書・婚姻証書・埋葬証書の認証という形式によって戸籍業務を一手に担い、教区内住民の生誕、結婚、死や葬送に関する一切の記録を納めていた


「恐怖政治」の時期には多くの聖職者が処刑され、追放された。教会は閉鎖され、多くの建造物は破壊されて美術品も売りに出された。こうした「非キリスト教化運動」(反キリスト教運動、キリスト教否定運動)が特に激しかったのは、1793年秋から1794年春にかけてであった。この運動は、知識人の反宗教感情と国民一般の反教権主義とが結びついたもので、宣誓を拒否する聖職者は「反革命的狂信者」と断罪された[

恐怖政治」の時期には多くの聖職者が処刑され、追放された。教会は閉鎖され、多くの建造物は破壊されて美術品も売りに出された。こうした「非キリスト教化運動」(反キリスト教運動、キリスト教否定運動)が特に激しかったのは、1793年秋から1794年春にかけてであった。この運動は、知識人の反宗教感情と国民一般の反教権主義とが結びついたもので、宣誓を拒否する聖職者は「反革命的狂信者」と断罪された


フランスの人権主義はカトリック支配の反発から生まれた、その反発は凄まじいものだったのである、聖職者が革命の標的となり多数の聖職者は追放された
そして社会は世俗化して博愛、自由、平等のフランス革命の標語になった
この博愛は宗教的なものでない、人権としての博愛である
つまりキリスト教徒だから愛すとかではない、宗教にかかわらず博愛になる、広く愛すということことである、こういうことはすでに仏教でもキリスト教でも起きていた
ヒンズー教ではカースト制があり奴隷階級もあってそこには博愛はない
宗教によって縛られ奴隷にされていたのである、それをシャカが破ってカースト制で差別せずにあらゆる人間を愛すとなりアジアに広まったのである
キリスト教でも最初はユダヤ民族のためのものでありイスラエルのためのものであり他に適用されないものだった、それで異民族の善きソマリア人の例えで万民を愛すものとして広まったのである

あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」

愛をもって接した人は隣人でありその隣人が異邦人であれ黄色人種であれ黒人であれ関係ないということである
でも現実にあなたは何教ですか?イスラム教です
では私はキリスト教だから助けません
そうなったら愛はキリスト教の人だけに限られてしまうのである
アメリカても実際は黄色人種をアジア人を差別しているし黒人はもともと差別されて今でも差別されている、アメリカには根強く人種差別がある
それでなぜ日本に原子爆弾を落としたのかというと黄色人種だから人種差別があったからヨ−ロッパには落とさなかった、また白人の先祖がヨ−ロッパ人だからドイツには落とさなかったとしている,アメリカはそもそも差別の国なのである
ヨ−ロッパ人もそうである、アジア人を黄色人種を一段低いものとして差別しているから植民地にもしたとなる、それで今度は中国人の下につくようになるときヨ−ロッパ人は下位にたたされる、イスラムが栄えていたときは白人がヨ−ロッパが奴隷として女性も売られていたのである、裸にされて市場で売られていた
オスマントトルコではそうして奴隷にされた女性がハーレム中に置かれたのである
日本では奴隷にされた歴史はない、それは日本は異民族との熾烈な争いがなかったからである、日本が一つの世界であり直接民族同士の熾烈な争いを経験していないからである
その争いをヨ−ロッパがアジアに進出した時、経験したのである

要するに宗教は民族が違うと通用しない、ある国家とか民族だけのものなら世界宗教にはならないのである、だから人権主義が生まれたのはキリスト教の宗教の否定から生まれたのは宗教によって人間の自由が奪われていたからである
仏教が日本では江戸時代に戸籍係になっていたと同じようにカトリックでもなっていた
それでプロテスタントと結婚したとも認められなかった、戸籍を作れなかったからだ
カトリックはすべて宗教で縛り権力をもったために反発された
そのために宗教からの自由を求めてフランス革命が起きたのである
宗教からの自由を求めたのである、キリスト教だけを信じることを強制されることからの解放として革命があった、思想信教の自由を求めたのである
カトリックになるとキリスト教しか許されない、でもプロテスタントは抗議するということであり今までの社会をすみずみまで支配していたカトリック社会を解放したのである
カトリックは十分の一税を強制的に徴集していた、その税金も今度は国家へ納めることになったのである、政教分離になったのである

こうしてフランス革命からみればイスラム教など政教一致だから宗教の自由はない、また無神論も認められない、アラーの神を否定することは殺されるとなっている
そこに信教の自由はない、仏教であれキリスト教であれ宗教を選ぶことはできないのである、そこにフランス革命から政教分離になった意義があった
なぜイスラム社会が停滞しているのか?その原因は宗教にもある、イスラム社会の規範がありそれを旧弊としてあってもアフガニスタンとかでは厳格にタリバンは守る
そうなるとフランス革命で起きたような自由は極端に制限される
女性の人権も無視され抑圧され弾圧される、だから女性にも職業に就く自由をと訴える時命がけになる、殺されることもあるし現実にあるからだ

ただイスラム社会は政教分離は起こらない、それが近代化できない遅れたものになっているともみる
なぜならイスラム社会はカトリックのように強力な宗教規範が世俗を支配しているからである、信教の自由もないし女性の服装の自由もない、言論の自由もない、教育の自由すらない、女性の教育すら認めていないのである
だからイスラム社会は停滞している、でも世界と接する時、グロ−バル化社会ではそういう社会がまるで取り残された社会となる、部族が日本の江戸時代のように藩のように個々に支配している、統一国家ではない、民族のモザイクのなかで反発し合っている

言えることは宗教は強制されるべきではないことである、自主的に求めて信仰すべきものである、だから何を信じるのも自由だともなる、人に危害を加えない限り自由だとなる
しかし自由には責任がともなっている、無神論でもいい、でも本当に責任を持って言えるのか?
ただ無責任に深い考えもなく言っている、もし本当にドストフェススキーのように深刻に悩んでもう神を否定すると人間でありえないとかまでなればいい、ただ軽い気持ちで神を否定することが恰好いいとかだけで主張しているのが多いのである
とにかく圧力団体となりそれが政治と一体化して創価のようになるのは政教一致であり
王仏冥合とかの中世的思想で政治権力と一体化することは現代では危険なのである
その自由の制約が社会を停滞させるのである、権力一体化することはカトリックと同じだからである

だから創価が公明党が権力を持てば危険になる、カトリックのように社会の隅々まで権力で支配することになるからだ、そこて力を持つのは聖職者でありその宗教団体で地位をもったものが社会でも地位をもつようになる
民衆を権力で操作して宗教で操作する、地獄に落ちるとか罰当たるとかで脅し権力をもてば実効力があり支配できるからである
それがイスラム社会ではタリバンのように宗教規範に反するものは即銃殺になる
だから命がけで女性の就職の権利を主張している

つまり権力と宗教が一体化することは危険なのである
なぜなら天国は心の中にあるというときこの世の権力を得ることではないからだ
でもみんな実際の生活では権力をもとめている
それを目的として創価では日々選挙運動しかないからである
つまり宗教と政治が一体化することは危険なのである、日本でも天皇が現人神(あらひとかみ)となり宗教戦争ともなったからである、日本は神国だから絶対に勝つとなってそれを信じて戦い3百万人も死んだとなるからだ
創価の初代会長は牧ロ 常三郎は天皇に反対して戦時中獄死したのである、それは政教分離されないためにそうなったから戦後はあくまでも天皇は政治権力にはタッチしない象徴天皇となったのである

とにかくフランス革命で目指したものはあらゆる自由だったのである、宗教からの自由であり貴族が支配した身分制からの自由であり人種とかでも差別されない自由であり言論の自由もある
ただ本当に自由が実現されているかとなるとされていない、報道の自由は日本では世界的に下位である、インタ−ネットが生まれてやっと言論の自由が生まれた、それもまだまだであるがマスコミにテレズなら六局に牛耳られていた時よりは弱小な個人でも一応発言できるということで進んではいる
ただ人間には全面的自由はありえない、自由といっても必ずなんから制約される
その制約が外部のものとして宗教とかの制約ではなく内面的良心的制約ならいいのであるそういう精神的なもの内面的なものからの制約は強制されたものではないから容認される権力で内面と精神的自由を制約するのが問題なのである

そしてすべてを自由にはできない、宗教団体でも政教一致の団体は制約すべきである
信教は自由である、個々人では自由である、でも団体化して政治化して権力化して社会を宗教で支配することは危険である、その歴史がカトリックの歴史だったのである
それでフランス革命では聖人像とかまで破壊され教会の中にあった宗教的な遺産も破壊されたのである、それは度を越えたものとなった
明治維新に優遇されていた寺が国家神道になったとき仏像が破壊されたのと似ている
宗教が組織化団体化すると宗教の権力争いとなる、イスラム教でもみんな統一されているかとなるスンニ派とか熾烈な争いがあり統一されていない
その憎しみは骨肉の争いと同じである、どうしてもイスラム社会が停滞しているのは政教分離ができないためだとみる

タリバン支配になったアフガニスタンは宗教の制約が厳しくて経済でも発展しにくいとなる、女性が就職もできないとなると社会の発展もない、経済の発展もありえないとなる
不思議なのはなぜ中国が経済的にあれだけ急速に発展したのか?
それはイスラム社会とは違い宗教の縛りがないためのかとも見る
中国はもともと現世主義であり宗教的なものを拒否する社会だったからである
ヨ−ロッパが発展したのはカトリック支配からプロテスタントになり現代の先進国となった、でもカトリックが支配した南米とかアジアでもフィリピンなとは近代化に遅れたのは宗教のためかともみる、宗教が社会全般に影響するからそうなるともみる

ともかくアメリカは人権人権というがそもそもアメリカが人権を言う権利があるのだろうか?人権を言うならばとても原爆なと落とせないのである、そこには人種差別があり落としたともなる、人権を言う人が戦争になればアメリカは容赦なく殺してきた
ベトナムでもイラクでもアフガニスタンでも容赦なく殺してきた
まさになんであれ相手の人権を無視するからそういうことができる
つまり何であれ人を殺すことは人権をの最大の無視なのである
人権を言うなら内政干渉をしたりしない、その国の人はその国を造るのでありその国の人を殺すようなことはしないのである
いづれにしろ何であれ相手を殺すことは最大の人権の無視なのである
だから最大の悪は戦争だとなる、戦争になれば理由は何であれ殺すことが正当化されるからである

中国もウィグルで人権が無視されている、でもアメリカもまた人権を言うが無視しているのである,アメリカ内部でも人種差別が根強くあり人権を無視しているとなる
何か人権至上主義も実際は強い者が弱い者の人権を認めないということで共通している
力があるかないかで人権も得られるとなる、弱い者には人権もないのである
アメリカでアフガニスタンで人権を無視しているからアメリカが与えるというときも無理がある、人権はそれぞれの国で自主的に獲得しないかぎり得られないともなる
でもアフガニスタンで女性の権利を主張したことはやはり外部からの刺激でそれを主張するようにはなったのである、だから外部の刺激で目覚めたということはある

いづれにしろいくら人権といってもそれが通用するのは強い国であり強い者だけである
弱い者は人権は得られないのである,貧富の差があっても得られない、貧乏な人は人権もないのである、金がなくて医者にかかれないとかありいくら医者にかかれる人権があるとしてもできないとなるからだ、そういうことは他にいくらでもある
人権を主張しても強い者はできるが弱い者はできない、自由も得られないのである



2021年09月01日

学歴にこだわるのはなぜか? (人間はなぜ優秀さにこだわるのか?あらゆることに優秀な人はいない)


学歴にこだわるのはなぜか?

(人間はなぜ優秀さにこだわるのか?あらゆることに優秀な人はいない)


学歴の前に人間はともかく優秀さに異常にこだわる、学歴はその一つの目安である
ただYAHOO ニュースが解説している人は高学歴でありそれも必ず海外でアメリカなどに留学した人が多い、その留学経験が高い見識を持つたとになる
むしろこの留学経験とかの差が大きいように見るのである
また有名大学の理系の人も発現している、となるとこういう人は優秀である

なぜ留学経験や海外経験で差がつくのか?

それはそこで学問したからというものでもない、外国を肌で知る、単なる本の知識ではない、そこで暮らして肌でしる、それが貴重なのである
その土地のことでもそこで一年も暮らしていれば肌でしる、それはちょっとした経験でもそうである、なぜこんなに日本と違うのだろうとなりその比較で日本を知る
アメリカとか中国などでもあまりに広すぎてその土地自体を知ることができない

私はアメリカに一回とか中国に三回とか旅行してもそんなことでまずその広さを理解できないのである、ここからして大きな誤解が生まれるのである
再三地理を知らなければ外国でも日本ですらわからないと書いてきたがその地理が広すぎてわからないのである
グランドキャニオンなどはまるで別な惑星に来た感じになったからである
全く異質な風土だからあんな所に住んでいる人の気持ちもわからなくなる
イギリスなら島国であり多少日本と似ているから理解しやすいとはなるかしれない

とにかく何か人間は俺はお前より優秀なんだと比較して俺はお前り上なんだと必ずマウントしようとする、学歴もその一つなのである、ただ実社会では仕事ができるかできないかで判断されるからそれほど学歴は通用しない、ただ文系とかはあまり学歴が関係しないように思う、理系で一流大学なら別である、その差が大きいのである

人間は優秀だというときあることで優秀なのでありあらゆることに優秀な人はいないのである、それはどんな優秀な人でもそうである、ある一部に優秀なだけなのである
全能なのは神しかいないからである
優秀だという時知識だけではない、江戸時代とかには農業は力仕事が多いから力あるものが優秀とされた、それで比べ石があり石をもちあげることで一人前とされたのである
その時代は知識ではない、力が優秀さの基準だったからである

今なら機械でするということで力だけでは優秀とはならない
でも依然として建築現場とかでは力仕事が多いから体力があることは優秀だとなる
私は体力がないからもっと知識を身に着ければいいと後悔している
社会がどういう所なのかわからないからそうなったのである
つまり体力がない者は必死で知識を身につけるべきだとなる、そうでないと体力仕事をさせられたりもう寿命さえ縮まるとなるからだ
設計するものと現場で働く者の差が余りにも大きいからである

なぜその大工さんは体力も見るとまるで柔道の有段者のように体力がある、それで体力がない自分はうらやましいとなる、またコミニケーションも優れている
だから一人親方かできる、また庭作りも家作りもできる、万能選手ということもある
それで常にそのことを自慢してマウントをとりにくる
それでも自分は認められないとか不満なのである、その人は十分に優秀なのである
ただ私のように知識の面ではないが庭作りだから植物のことにも詳しいし社会で現実に稼ぐ能力がありたけている、そしたら自分から見たら十分に優秀なのである
でもそれでも自分は認めらていないとか不満なのである

私の姉も看護婦であり保健婦であり優秀だった、体力があり気丈夫でありただ太っているだけではない動きも機敏なのである、頭の回転も速いのである
そして何より男でも恐れない、相手をにらんで恐れないのである、男の方が恐れていたのである、まるで女親分という感じだったのである、だからこそ父親が死んでからこの家を作り守ることができたとなる
そして死の時最後に言い残した言葉だ「私は優秀だった」という言葉だったのである
それもやっと聞き取りわかった、そのことで悲惨だったのはひどい認知症になっていたからである、その介護のことをプログで書いてきた
ただそんになまで優秀だということにこだわるのには驚いた、最後は認知症になり馬鹿になったということでそういうことを言い残して死んだのかもしれない
俺は馬鹿じゃない優秀だったのだと言いたかったのかもしれない、だから悲惨だったとなる

ただ女性でもそうであり異常に優秀さにこだわるのが人間なのである
女性の場合は美にこだわるのが異常だともなる

「鏡よ鏡、国じゅうでいちばん美しい女はだれ?」
と聞いて、鏡が、
「あなたです、お妃さま、あなたが国じゅうでいちばん美しい」

白雪姫の童話でもそうである、異常に美しさにこだわる、それが男性の場合は優秀さにこだわる、ただ女性でも今では仕事をするから仕事の優秀さにこだわる

でも人間でも向き不向きがあり医者でもいくら大学を出て資格をとっても向き不向きがあり医者の腕には相当な差がある、だから下手な医者にかかると大損になる
それはアラる場所でそうであり教師でもなんでもそうである
その差が大きいのである、だから例え有名な大学が出たから腕のいい医者となるとも限らないのである、医者とか手術するとき知識ではなく手の器用さが大事になるとかそれに向いていいなと駄目なのである

結局人間の優秀さも限定的である、万能にはなれない、そして何かを習得するには時間がかかる、もし一つの楽器でも時間をかけて訓練すれば上手になる
でもあらゆる楽器を習得することはできない、時間が限られているからだ
たからあらゆる楽器を習得する人はいないのである
そして人間の経験はあらゆることを経験できない、ほんのわずかのことしか経験できないそこでどうしても視野が狭くなるのである
またそうして何するにしても時間がかかる、その時間がなくて時間キレで人生も終わる
あの時こうしていれば良かったとかもっと勉強していれば良かったとかいろいろ反省して最後は終わりだとなる

会社に就職することは実はそこで経験を積むことがのちのち役にたつ、会社に就職した経験の人はまず会社のこと自体わからないからである
そこで引きこもりは社会のこと自体わからないとなってしまうから危険なのである
ただ引きこもりで自分のしたいことがありその能力を伸ばすということはありうる
私は自由な時間があったから旅ばかりしていたとしてもそれで地理に興味を持ったということがあるからだ、また詩の創作もしていた、それは自由な時間が与えられたからできたことなのである
つまり人生を振り返ると人生は短い、だからどんなつまらない経験でも役に立つとなる
失敗でも役に立つとなる、そもそも人間は経験でも知識の習得でも時間がないので限られたことしか知りえないしできないからそうなる
何か訓練するにもその時間がないのである、そして最後は時間切れで人生も終わるのである、人間がなぜこれほど優秀さにこだわるのか?

それは俺はお前より優秀だとということで優越感をもちたいからだとなる
でもあらゆることに優秀ではないから劣等感を持つ、十分にあることで優秀でもあらゆることに優秀だとはなりえないからである
そして神に認められないということでこの世では不満でありこの世のことの優秀さにこだわる、結局人間はみんな死ぬ、そして人間の優秀さも虚しくされる
だから永遠の命が与えられる神が最高のものでありその外の能力はたいしたことがないともなる、人間は万能の力を持つことはできない、それは神しか持つことはできない
そして人間は科学技術で優秀とかなってもそれが呪いともなる
それはプロメテウスの神話とかで言われてきた、火を盗んで過酷な罰を受けた
それが今になって原発事故でそれが現実化したのである
人間の業には技(わざ)には呪いが隠されている、技(わざ)はわざわいになる
すべていいものとして働かないのである、科学技術がパラダイスをもたらなさないのである、そこに人間の限界がある
つまり人間はいくら優秀だと言っても限界がありその優秀さも神によって砕かれるのである、それが原発事故でもあった、そういうことは他でも必ず起きて来る

聖書で不思議なのは優秀な人間が選ばれたのではないしまた優秀だから勝つともならないむしろ優秀でない人が選ばれた、ではなぜそうして戦いでも勝ったのか
それは神の働きが関与があって勝ったのである、その人の力ではない、現実にその選んだ人は優秀ではないからだ、天才という人はいる、でもそうして特別優秀な人は神に選ばれなかったのである、そういう人は自分自身の力を過信するし自分の力で行おうとする
でも神には選ばれない、そういう人は自分自身の力で成せると思うからである
すると神がかかわることができなくなる、何かこの世で大きなことはとても一個の人間ではできないと思う、何かしら神の関与があって成さる

また戦いでも

淝水の戦いひすいのたたかい)

百万の兵が八万の兵に敗れたとか大軍でも敗れる、その原因は大軍となると統率できなくなりうまく責められて大混乱になり敗れたとここのyoutubeで分析している
百万は多いにしても必ずしも数が多いから勝つとはなっていないのである
信長の桶狭間でも大軍を相手にして少数軍で勝っている
どこで勝敗が決まるかわからないということがある
それが大国のアメリカでもベトナムに負けたとかアフガニスタンでも負けた
圧倒的に武器でも物量でも優っているのに負けたのである
中国は巨大だからそれを統率することがむずかしくなり絶えず分裂してきたのが歴史である、そこに弱点があり歴史は繰り返すとなる

科学技術でも万能ではないから原発事故になったしコロナウィルスでも実際は科学者でも医者でもわからない未知なものだからである
そういう未知なものが依然として起きて来る、人間の体でも全部はわからないからであるこの世には依然として未知の領域が大きいのである
要するに神のみぞ知るという他ないのである
神が導かない限り人間は知りえようがないことがある、ただどういうふうに人間社会に神が関与するのか?それが良くわからない
でもアメリカがなぜ小国のベトナムでもアフガニスタンでも征服できなかったのか?
力の差が格段にあるのに征服できない、あんなふう無様に撤退してゆく
あれが大国のアメリカなのかと唖然とした、だからすべてこの世の中力だけでは治められないのである、そこに何らか神の関与があるともみるのである


2021年08月07日

金に追われ金に狂う社会 (他人は金からしかみない、死んでも金である―経験した実話)


金に追われ金に狂う社会

(他人は金からしかみない、死んでも金である―経験した実話)

人間の不思議は他者になると何を見ているのか?
その財産とか金しかみていない、他者は死んでも何の関心もない、近くで死んでもただ死んだのかで終わりである
ただ近くだと多少は身近だから驚きその人のことをいたむとか考える
でも遠い他者となると死んだのもわからないし何も考えない
他者になると家族でない者をどうみているかとなるとその人の財産と金しかみていない
その財産と金の分け前を得たいとしかなくなる
他者とはそんなものである、だから他者が弱ると襲ってくる
動物でも子供はが弱者であり餌食になる、子供が一番弱いから襲うのである
私がここ十年とかその前でも経験したことは人間が求めるのは金しかなくなったということである

それは一応身内の兄が交通事故で突然死んだことである、その時事情が良くのみこめなかった、何かトラック会社に勤めていた社長が盛んに世話したといい、そのことを盛んに言っていた、死体はその社長の家に一時安置したからである
でも骨を渡さないとかお前はなんなのだとか盛んに言われた、確かに兄に対しては私の家では良くしなかったしそれで負い目があり言われてもしょうがないと思った
それで自分自身はかかわったにしろすぐめんどうだから帰った
母と親戚の人は残って処理した、でも骨をもってゆくと言ったら返さないと墓を作ってやるとか何かいろいろ言うのがわからなかった

何が起きたのか突然のことで理解できなかった、その社長は保険金をとる代理人になりたい、保険金をとるためにそう言っていたのだとわかった
だから世話したとかなんとかいろいろ恩を着せる、つまり乞食のようにして来たということとか世話してやったとか言っていたのである
でもなぜ骨など置いて墓まで作るようなことをしようとしたのか?
そんな手間なことや金のかかることをしようとしたのか?
それが理解できなかった、手厚く葬るためにそうしようとしたのか、何かわからなかったのである、そんなことをしていたら金がかかるからだ
それで後でわかったことは交通事故の保険金を欲しいためにそんなことをしていたのである、つまり親戚でも親でもいないと見ていたのである
そして自分自身は引きこもりであり車もないから自賠責とか自動車保険のことがわからなかったのである,一緒に付き添った親戚の人が車をもっていたので教えられてわかったのである

ともかくこのことをふりかえると確かに兄を運転手と雇った時、同情したことがあったのかもしれない、兄も助かったとかなっていた、なぜなら市営住宅から借金で追い出されていたからである、どこにも行くあてがなく運送会社に行ったのである
ただそこでは別に無料で助けたわけではない、トラック運転手として雇ったのである
結構働くので重宝がられたと仲間から聞いた
だから雇う方でも働いてもらうのだから助かっているともなっていたのである
もし乞食のようにして来たというならそんな待遇をしないだろう
でも死んだとき何か豹変した、保険金のことを知っているからだ
その金を代理人になり得ようとして墓まで作ってやるとか骨は渡さないと頑張ったのである
ただなぜそんなことをするのか私も母も車をもっていないしわからなかったのである

そしてその後も弁護士を頼むと言ったら怒り絶対に骨を渡さないとかなって困った
なぜそんなに骨とか墓にこだわっていたのか?それが何なのかわからなかった
それは保険金を欲しいためにそういっていた、代理人となり保険金を相続するためにそう言っていたのである、ただ雇い主には法律的にはなれない、現実に母がいたからである
母にしても兄には負い目がありトラック会社の社長の言うことに逆らえないことがあったそこをつかれると弱いからである、でも法律的には社長には相続の権利はなかった
ただ社長と兄の関係がどういうものかわからなかった、結構仲良くして働いていたのだろう、でも交通事故で死んだ時、豹変した、保険金のことを知っていたからである
そして兄にはそうした親戚とか親とかいないと思っていたからである
とにかく頼んだ弁護士はなにもしなかった、

ここでもめて弁護士を頼んだのがその弁護士もまた金をとるだけの人だったのである
相談するだけで百万を払いといわれて自分の家で払ったのである
その頼んだ人も何か社会のことをわからなかったのである、仙台市で知り合いだったというが相談するだけで百万を事前にとることなどありえないのである
何万かは相談したらとる、何もしないの相談だけで百万とることはありえないのである
また払う必要もなかったのである、そこで払う方も馬鹿だったとなる
なぜなら払う必要もないしそんな金をとるなら別な弁護士に相談すればいいことにすぎなかったのである
何か休業補償とかなんとかありその書類を渡さないと苦労させられた
その交渉したのは保険金を払う会社の人であり弁護士は何もしていない
だから弁護士もこうしてただ困った人から相談を受けて金をとるだけの人もいる
弁護士は何かこうしてもめごにからんで漁夫の利を得るような商売にもなる
でも百万を何もしないで得たのだからいい商売にもなる
その親戚の人は死んだ、何かトラック運転手の社長のことを最後まで信用していたのである、そんな悪い人ではないとして信用していたのである
その人は社会のことを知らない人だったのである、もちろん自分自身もそうである
社会を知らない人はそんな悪い人がいないとみる、その人もそうだったのである

それから今度はその兄の娘がいたが交通事故で両親はその前に離婚していた、そこで死んだ時、その妻の実家に引き取られたのである、その養育費は保険金から出された
でもその娘はその妻の実家の兄の家からでて東京に住むようになった
そして父の保険金で暮らしていたのだが金使いが荒く金がなくなり生活保護になった
娘が一人生まれていたからそれで長い間暮らしていた
ただ母は死ぬ前にその孫にあたる女性に何百万やれと大声で私に言った、母は本当に孫のことを思っていたのである、でもその孫娘はただ金のことしか見ない
それがわかったのは私の家の墓に兄の墓を作ったから墓参りしてもらいたいと言って10万送った、その孫娘はいつも金がないから送ったのである
でも墓参りには来なかった、金が欲しいだけだったのである、そうして実の親の縁も切れたとなる、親の縁も金の切れ目が縁の切れ目となった
だから母が孫娘を本当に思っていたことなど関知しないのである
その孫娘も金が欲しいということしかなかったのである
ただ親からひどい目にあったのだからそうなっても仕方がないともなるが何か悲しいとなる

それから今度は私の家族の介護で苦しむようになった、それも親戚といっても兄弟とかではないから結局金を要求されるだけだった、一人は事業に失敗していて多額の借金をしていて人のことを思いやることなどできない人だった、だから何かするにも表立っては言わないが金を要求していたのである、でも百万はくれたのである
今度はその時、原発事故があり小高の人が仮設に避難してきた、そこで何もすることがなくパチンコとかギャンブルに興じていたのが小高の人たちだったのである
そして南相馬市では鹿島区は30キロはずれて補償金は一人70万で終わった
医療費は半年で打ち切られた

でも原町区と小高は十年も医療無料高速無料でありさらに期間が延びた!

これも信じられないとなる、せめて南相馬市なのだから医療費とか高速は無料にして同じにすべきだったのである、こうしてここで延々と補償金でもめて分断された
飯館村でも補償金のことでもめて分断された
また介護中に家を留守にして金を奪われたとか延々と金の問題が次々に起きたのである
それは今でもつづいている、金に困窮した人がやはりせびるとかあり払っているからである、その金は大きくはないから払っている

とにかくこうしてここ十年以上延々と金の問題が起きている、金、金、金である
親戚でも付き合いなの女性だったがその女性は母親を介護している所に来て
「ばあちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらい」と血相変えて去っていったのである、子供の時一回くらいしか合ってない人だからしょうがいなとなるがそれでも信じられないとなる、その人は金には困っていないのである、何かと金が遺産とか入る人だったのである
でも実の親ではないが長く一緒に生活した親が病気になったときやはり私の家と同じように何のめんどうもみない、それで最後に私のところに電話かけて「ひどい娘だわ」と言って白血病ですぐ死んだ、すぐ死んだから良かったとなる、とても娘は介護などできないからである

こうして延々と金にまつわる金、金、金で問題が起きていたのである
これは特殊な例かとなるとそうではない、今の世の中はこうして金、金、金しかないのである
それはあらゆる場所でそうであり金を求め金に追われ金に狂う人たちがほとんどなのである
みんな金に狂いもう人間としてのモラルも消失している、金にさえなれば何でもいいとなる、遂には金のために人を殺すとまでなる、現実に心ではそうなっている
他者など死んでも関係ないしそれより死んだ人の財産が金が心配だとなる
家族の死はいたみ悲しむが他者の死はただ一人この世から消えるだけだ、数が一人減るだけだとなる、それより金と財産があればそれが欲ししとなるだけである

もちろんここには自分の家のカルマがあり自分自身にも問題がありそれがカルマとなって苦しみとなって現れたのである
必ずカルマは家でも個人でも現れ清算を強いられる、それは苦しみとなって現れるのである
ただこうしてすべてが金になっている、金てすべてがもめている、
そして最後は肉親ですら「金の切れ目が縁の切れ目」で終わっているのごこの世だとなる

2021年07月18日

未来はわからない、人間は動機が大事 (動機で方向が決まる―未来も決まる―神は心を見ている)


未来はわからない、人間は動機が大事

(動機で方向が決まる―未来も決まる―神は心を見ている)


人間はせいぜい5年先くらいしか見えない、学生時代だと高校に入るために受験勉強るすとか大学に入るためにでもそうである
次は就職のために用意するとかなる、するとせいぜい5年先くらいしか見ていないのである
そうしたらとてもこの世の中の変化する社会では未来をがどうなるのかわからないのだからそれに備えて行動することは不可能だとなる
結局人間は何が起こるかわからなのだ
この辺で起きた津波から原発事故でもそうだった
こんなことになるなど予想できない、特にあんな大きな津波が来るなどこの辺ではイメージなどできなかった

でも未来を見るというとき確かに過去をみる、歴史をみると未来が見えることがある
なぜなら津波でもこの辺では400年前に溺死者700人という記録が発見されたからである、でもそれはたった二行であり専門の学者すら津波の後に発見したのである
でもそういう過去を知れば未来を知りえたともなるのである

人間はどんなことしたって未来のことがわからないから来年のことを言うと鬼が笑うという格言が生まれた、来年すら何か起こるかわからないのである
第一コロナウィルスを予測した人は一人もいないのである
これだっけ過去にそれも百年前とかにあったことでありその被害も大きかった
でもそのことでも忘れていて話題にもならなかったのである
何か自然災害でも人間の災害がかつて過去に経験している、ただ忘れてしまっているのである、だから災害は忘れた頃にやってくるとかカルマは繰り返すとなる
自然災害でも疫病でも周期的にやってくる、でもその間隔が長いと忘れて警戒もしないとなる

実は鬼ちゃんが笑っているのは、「来年の事を言うと鬼が笑う」ということわざからでした。このことわざの意味は、「将来のことはわからないのだから、あれこれ言っても意味がない。予測できない未来のことを言うと、鬼がバカにして笑う」というもののようです

まさにこれであり来年ですらわからないことを十年先がわかるのかとなる
コロナウィルスで今こんなふうになっているのを予測した人は一人もいないからである

だから未来を見る方法は人間にはない、不可能だとなる
それは人生でもそうである、20代とか若い時に未来を見れるのか、せいぜい5年先くらいが限度だということは納得する、60以上のこと老人になってからのことが予想だにできないのである
そして若い人は若いことが永遠につづくように思っているのである
年取らないと思っているのである
でも40になると白髪が生えてきたりしておっさんになる
つまりすでに老人の入り口になってそうなるのである
だから40才になると必ず気づく、もう時間がない、後がない、遅かったとなるのである急速に40才から老人に向かっているのである
老人に向かうということは死に向かっているのである

70代になると明日は死ぬかもしれないと死が目前になる
その心境もその年にならないとわからないのである
老人の心境とは例えば人がいろいろな人と出会う、でももう私はこの世にいないかもしれない、あなたと逢うことは永遠にないですよとなってしまうのである
だからそもそも人間がこの世で逢うということ何なのだろうとなる
現実に自分の家族は全部死んだからである
家族すら70過ぎたりすると一時の出会いだったのかともなってしまうのである
そして同期の人も死に病気になったりする人が多いのである

だから人間とは誰も未来など知りえようがないと知るべきである
では何が大事なのかとなると求道するとなれば動機が大事になる
あなたはどういう動機で宗教でも求めているのかが大事になる
私はカルト教団に入ったにしろ自分が求めていたのはどうして人間が死ぬのかということでその解決のために入ったともなる
つまり私はそういうことを解決したくて求道していたとなる
ただそんな場所は宗教とは何の関係もない場所だったのだから解答はなかったのである
そこは俗世間より俗的な場所であり不純な場所だったのである
だからなぜ宗教の看板を出しているのか不可解だとなる
ただ動機としては不純なものはなかったのである
ただ私はキリスト教とかを求めていなかった、聖書など読んでもいなかった
だからほとんど知らなかったのである
ただなぜ人間は死ぬのかということがいつも頭にあったのである
それは父親が中学に死んだことが影響していた、それ以来死のことが頭から離れなくなったのである
だからすでに中学の時から求道が始まっていたのである

ふりかえると求道というのはそうして早い時期から始めた方がいいのである

「若きうちに神を知れ」

その若きうちとは20代までなのである、実は自分自身そんなことを思ってもみなかったただそういう事情がありそうなったのである
本当にふりかえると意外だったとなる
普通は若い時は享楽にのめりこんだりするのが普通である、欲望が最大限に拡大する時期だからである、性の欲望でも何でもそうである
そういう時期でありそのために欲望にのまれてしまうのである
そして神を知る一番大事な時期を逃してしまいあとは神を知る機会がえられなくなる
何か老人になれば神を知ることがかえってできるのだと見ているができない
ただ仏教のように諦念とか悟りの境地にはなる
でも神を知るということは一番盛りの時でないと知りえないのである
だから最も大事な時期を享楽に費やしていたらあとはもう神を知ることは不可能だしその後に善きことに真善美の追求もできなくなるのである

だからそもそも人間は未来など時代の先など誰も見れない、ただ変わらないのは人間の一生の先は見ることはできる
つまり人間の一生は人間が生まれてから変わらない、必ず年をとり老いてゆく
その盛りは青春時代でもあっというまに過ぎる、それでみんな老人になる
でも老人になることがどういうことかわからない
いつまでも若いということがつづくと思っているのである
でも老人をみればわかるはずである、みんな誰でも老人になることはどこでも普通にあり現実に見ることができるからだ
でも不思議に若い時は老人にならないと思っているのである
そこに人生の最大の盲点があったと思う、そしてもう時間を元にもどすことはできなくなるのだ、もう70代になると死があるのであり人生とは命とはliveとは本当にlieveであり去ることなのである、さよならだけが人生だとなってしまうのである
だからこの世でなぜ人間が逢うのかもわからないとなる

いくら未来を見て未来に備えようとしても不可能である、想像したこととは全く違った世界になっている、今頃なぜ働かなくてもよくなる、ベーシックインカムでそうなる
人間は自分の好きなことをやれとかみんなアーティストになれというのが不思議なのである、一生会社員になりそれで何もなく一生終わるという予想していたからである
それが大会社でもつぶれるとか会社員はいらなくなるとか言って自分の好きなことをしてそれで稼げというのが不思議なのである
銀行がなくなるというのもそうである、地方では銀行は一番安定した職業と見られていたからである、そこに就職すれば一生安定した人生が送れるとなっていたからである
それで公務員と同じように見られていた
高度成長時代に育った人たちは団塊の世代でもそんなことを予想することもできなかったろう、みんな企業戦士として働いて高度成長時代を生きたからである
こういうふうに常に未来はまるで違ったものとなり計算が狂ってしまうのである
そしてみんな人生は意外だったとなっているのである
つまり予想通りに生きた人は一人もいないとなってしまうのである

だからむしろ何かするときでも若い時は動機が大事だとなる
不純な動機だったら未来も不純なものになる、例え金持になっても不純な動機から始まっているのだから結果も不純なものとなる
それがカルト教団などに多いのである、そこはまるで宗教など関係ない世界だからであるそして結局人生を虚しく費やして終わるというのが本当に多いのである
結局人間とは何か悪魔にサタンによって操られ虚しく人生も浪費して終わるとなる
だからナチスでも社会自体が狂気になり千万単位で人が死んだということもそうである
膨大な命がサタンなのか操作されて失われたのである
日本がの戦争もそう言えないにしても何か似たものがある
3百万人の人間が死ぬということがどうしても理解できないからである
そこに何か意味があったのか?膨大な人間がいたずらに無意味に死んだのかとなる

ともかく神が「人の心を見ている」というとき動機を見ているということなのである
動機が不純だったら何をしても世間的に成功したとして神から見れば成功したとならないのである
だからとんなことしても未来など見れない、知りえない、ただ人間の人生とはその一生はいつの世でも見ることができる、それは若い時はたちまちすぎて老いるというとである
仏教では生病老死でありこれは人間が存在してから変わらないのである
いくら長生きするとしても実際は120歳が限界でありそれ以上は生きられない、限界なのである
だからこのことは人間がこの世に存在した時から変わらないからこそ聖書の言葉でも
聖賢の教えでも庶民の格言でも生きているのである

ただ時代が変わるという時、科学技術の進歩がありとても未来を見れないのである
第一飛行機で外国に行けるようになることを江戸時代辺りでも誰も予想もできない
それはヨ−ロッパだってそうなのである、そんなことがありえるのかということになっているのが時代の変化だからである
だから未来は社会全体になれば知りえないとなるのである
ただ神話などで人間の未来は予測されていた、技術が災いをもたらすことは予測されていたのである、火を盗んだプロメテウスが過酷な罰を受けたように甚大な災いがもたらされることを予測していた、日本でも技(わざ)は災い(わざわい)ということで技術が災いをもたらすことら予測されていたのである
それが原発事故となって現実化したのである

この世には自然災害でも何か信じられない大きな災いが起きることが予想される
それで聖書のテーマが脱出なのである、この世を変えることではない、それが必要でもこの世から脱出がテーマになるのである
ノワの箱舟でも出エジプトでも脱出なのである
神にこの世から救出されることであり災いの世からの脱出することなのである
この世はいつか滅びることは預言されている、何かこの世に理想の社会ができると思っていてもできない、それはどんな制度でもできない、人間には不可能なのである
神の国は神自ら治めるから神の国になるのであり人間には不可能なのである
常に混乱状態になる、コロナウィルスでもそうであり様々な予期せぬことで混乱して
誰も導くことがてきないともなる


2021年07月04日

集団組織が社会であり個人は無視される (世界はすべて全体主義である)


集団組織が社会であり個人は無視される

(世界はすべて全体主義である)

人間社会というのはどうしても現実になれば一人一人が力となり、すると一人一人でも集合して組織化するものが力となり権力を持つようになる
このことから逃れられない、一人一人を大事にしろというときその集合したものが大事に白しろとなり社会はその団体を組織を優先せざるをえない

人間一人でもその人は民主主義だと一票を持っている、それを多数集めた方が力を持つそれが正しいか正しくないかなど関係ない、数は力となり数が優先される
一人など相手にしない、選挙ではいかに数を獲得するかで決まるからである
個人はむしろ排斥され社会の敵と化す、だから個人が社会を相手にするときバックに必ず団体組織が存在するのである
その個人を見るより背後の団体組織を見て文学賞なども与えるのである

ともかく人間は一人でもその人が飲んだり食ったり買ったり消費活動をする
すると経済的にそれなりの力を持つ、それが団体組織化すると経済的にも力を持つようになる、その団体組織に非買運動されたら困るとなるからだ
そういうということは国の間でも起きる、国が敵対すれば物を買ったり売らないとなるからだ、自国優先となり食料でも入らなくなるのである
つまり経済力とはこうして常に強力な力となる
だから敵対すると経済でしめあげる、それで日本はアメリカに経済封鎖されて石油など入らなくなり戦争に突入したとか言われる、経済的に追い詰められてそうなったと見る人もいる
それが国と国では敵対すると常套手段になるからだ

民主主義でも個人の自由があるとしても一票があるとしても何の力もない、民主主義とは実際は全体主義になる、ギリシャのボリスのような一万くらいの人数で行われていたものとはまるで違った社会になっているからだ
だから世界で民主主義に疑問を持つようになったのはそのためである
田中首相が政治とは金と数だと言ったのはそのためである
政治とはまず一人一人が経済活動する、それがまとまると数として統計的に力となり権力となる
その国の力もその経済活動でGDPで計られる、ただ中国が人口が多くても全体の経済活動生産と消費力がない時はいくら数が多くても弱小国家と見られていたのである
だからすべてを数で計られないことがあった
GDPでも日本の十分の一とかの時代があったからだ
インドではまだ人口が中国と同じように多いのにGDPが少ないから大国に見られないのである

ともかく人間は個人として見ている人はいない、何かの組織団体に属していることからその属性によってその人間を見る
会社自体そうである、どういう会社に属しているかでその人を見る
大企業に属していればその人は価値ある人となり一目置かれる
トヨタの社員ですとなれば一目置かれる、でもその会社の価値が下がるとその人間の価値も下がる、それは国でもそうである
今や日本が経済的に落ちぶれると中国でも物価が同じくらいでありむしろ日本の方が安いとなり日本の価値は低落した
それで今度は日本では外国人をもてなすようになる、中国人様となる
日本が高度成長になり金持ちになったとき日本人は同じようになっていたからである
日本人は上客となっていたからである
政治と経済は密接に結びついている

でも個人的価値というのは人類全体でも別にある、絵の才能とか何か文学でもその人独自の才能がありそれは別に国とも関係なくある、ただ芸術にしてもバックにその国の歴史とか風土とかから生まれるから純粋に個人のものとはならない
そもそも精神的価値となると集団組織から産みだされるのだろうか?
政治経済としては数として価値を持つが芸術とかなると価値は個人が産みだすものとなるその人独自のものとして産みだすものである
だから政治経済とは権力化するが個々人を基にしたもの、芸術でも何か精神的価値あるものはそうはならない、いくら数を集めてもそこに価値を認めないからである

宗教でもすべて組織団体でみる、私は何の団体組織にも属していませんが神を信じていますとしてもそれを認めない、ただ数を集める時社会では認めるのである
つまり宗教でも権力化するとき認めるのである
個人は認めない、排斥されてないものとされているのである
でも「神は人の心を見ている」というとき集団組織を見ているのか?
それぞれ心が違ったものでありその個々人を見る、多数の人々がいてもその個々人を見る組織団体化して信じても実際は救われることはないのである
神にこれだけの数を集めたから認めてください、救ってくださいと言っても神は認めないのである

結局集団組織は政治的経済的なもの数とかで計られる、だから民主主義とはすべて数の多寡で決まる時、全体主義に最もなり安いのである
だからナチスは民主主義から正当な手段で選挙で政党として選ばれて支配したのである
つまり膨大な数を力とする民主主義は容易に全体主義になりやすいのである
それで世界的に民主主義が行き詰まっているということがある
例えば中国では民主主義は結局敵対勢力を産むものとして危険視するのもわかる
反対勢力を容認したらたちまち崩壊してしまうからである
それがソ連でもあり中東でもあり結果的にその民主とは自由とは外国勢力に操作されたという一面があったからだ
中東で起きたことでもそうである、国自体がシリアなどでは社会主義で政治的に安定しても民主主義の自由を取り入れたとしてもアメリカとかヨ−ロッパとかソ連の勢力争いの場になり悲惨なものとてってしまった、自国がなくり国自体が難民化してしまったからだ

政治と経済と軍事力は一体化する、権力化する、そういう宿命がある
宗教もまた政治化して権力化する、だからこそ権力をいかに抑えるかが課題になる
三権分立もそうだし政教分離でもそうである、日本だって神国だとかなって宗教が権力の道具となったりしたからである
宗教となるともともと権力の否定から始まったのである、それは仏教でも老子の教えでもキリスト教でも同じである、だから誰が治めるべきかというときみどり子に治めさせろと聖書にある、幼子だったら権力を悪用することなどできないしそもそも権力などの必要性を認めないしいらないからである
そして欲もないから悪いこともしないからである
要するに人間社会を治めることは至難でありいくら制度を変えても結局失敗しているのである、民主主義とか資本主義とか社会主義とか制度としてあってもそれもまた内部から崩壊してゆく、機能しなくなる、もう資本主義も社会主義も制度疲労を起こしていて賞味期限切れになっている、そしてまた混乱状態になる
70年くらい過ぎるとか必ずどんな制度でも腐敗してまた新たなものを産みだすしかなくなるのである、そういう変革の時代に今来ているということである

人間は人間を治められない

人間は制度があってもその制度が絶対ではない、だから制度は70年くらいすると制度疲労になり機能しなくなる、資本主義も超格差社会になり極わずかの人が富を独占するようになる、それは社会主義でも同じ事が起きる
人間は人間を治められない、例えば家族でも血縁でも必ず問題が起きる
家族すら治められない、だから宗教は血縁を否定したのである
この世は結局こうして常に問題が起きて混乱して来る、宗教だって権力の道具となる
神の国というとき神が治めるかから治められるとなる、人間では治められないとなるのだ

2021年06月23日

老人の心境(人生の終わりに短歌十首) (世代ごとに変わる心境―若い人は理解できない老人の気持ち)


 老人の心境(人生の終わりに短歌十首)

 (世代ごとに変わる心境―若い人は理解できない老人の気持ち)

 人間の気持ちというのは世代ごとに変わっている、40才が一つの区切りかもしれない
その頃白髪でてきたりするし身体に変化が生まれる
だから40才でおじさんとかよばれてもう俺は終わりなのかとあせる
氷河期世代などがそうである、それを盛んにyoutubeで訴える人がいるのもわかる
40代になるとすぐに50になり60になるからだ
20代が人生の華だとなるが30過ぎるともうそれもなく女性でも男性にちやほやされなくなるとか言うのもわかる
それだけふりかえれば人間の一生は短いとなる

そして人間の最大の盲点が老人になるとどうなるのか?

これがわからないのである、20代だといつまでも青春とかがつづくと思ったり時間がいくらでもあると思っている、体力もあると思っている
でもこれもふりかえるとあっというまに過ぎる
そして若い時老人になるとどうなるのか?それは体を見れば衰えているからわかる
あんなよぼよぼになりたくないと見る、でも何か若い人は自分自身がそうなるとは見ないのである
若い人が老人を理解できないのである

ただ本当に老人の心境になるのは本当は60過ぎであり今は長生きだから70過ぎにもなる
ただみんな老人が一様ではない、もう体力的にもふけこみ見た感じでも10年くらいの差ができる、60でも70に見えたりするしその人は85歳の女性だったけど60代の人より若く見えた不思議がある、こうして老人と言っても個人差が大きくなる
その人は70才でももう80歳にも見える、眼が悪くて文字を満足に見えないからである
眼が見えないと耳が聞こえないとか常に腰が悪いとかなるとやはりもう本当に弱った老人にしか見えないのである 

老人になって一番意識するようになるのは何か?

それは明日死ぬかもしれないということを現実として見ることである
それは同じ世代の人が実際に死んでゆくことでもそうなる
同世代で一割が死んでいるとか近くで子供の時遊んだ人が死んだとかなる
だから常に死を意識することになる
そして人間のことはこうして70以上とかならないと知ることができない
天命を知ることができない、70以上になると明日死ぬということが現実化するからであるそして常に一生をふりかえる、人生とは何だったのだろうと振り返る

そししてまた意識するのがなぜ人と人は逢うのか?

これも意識する、なぜなら二度と逢えなくなるからである、するとなぜ人と人は逢うのかとふりかえる、つまり死んだら永遠に逢えなくなる
これも不思議なこととなる、人が逢うなど別にありふれたことでありそんなことを意識しないともなる、でも人間がこの世で逢うとは何なのか、それも不思議になる
なぜなら永遠に逢えなくなるからである
今や家族すら全部死んでもう二度と逢えなくなったからである
人間が出会い逢うということそれは永遠に逢えなくなるものとして逢っていたとなる
すると人と出会うことは貴重なことだったとふりかえる
それで一期一会の思想が生まれたとなる

つまり今の世に生きていて逢っていることは深い縁があったからだともなる
そのことがわかるのは70代だともなる
誰しも70過ぎると人生はこんなものだったとか知らしめられる、別に優れた人だけではない普通の人でもそうなのである、それで老人は何か悟ったような雰囲気を持つようになるのである、これはとても若い時はなりえないからである
つまり人間は悟ったり賢くなれのは老人にならないとなれないともなる

自分自身は何かいろいろ理解することが遅かった、受験勉強などで勉強嫌いにもなった
でも旅をしたりいろいろ自由に引きこもりでも学んで学問好きにもなったのである
だから60過ぎて70過ぎてこうしていろいろなことを書けるになったのである
それは理解力がついた、深く自分なりに理解できるようになったからである
本当に智慧がつくのは老人になってからである、ただ求道は若い時しないと神を知ることはできない、それも盲点だったのである
だいたい青春時代は欲が爆発して享楽する時代だからでもある
ただそうして一番大事な時期に生を消耗すると神を知る機械を逸することも怖いことだとふりかえる、ただ誰もその時そんなことを想わないのである

私がカルト教団に入ったのは選挙運動するためではない、宗教を求めていたからである
ただそこはそんなものとは全く関係ない場所だったのである
ただ自分が求めていたのは死の問題でもあった、死を意識するということは実は老人になれば否応なく現実問題として意識する
でもその時死を意識しても遅かったともなる
その解決は若い時していなければできないともなっていたからである
そこが人生の落とし穴だったともなる
宗教など老人になってからでも求めればいいやとかなっているからである

人間は死ぬ、この世から消えるのもまもなくだ

そしてこの世で人と逢っても永遠に別れる、逢わない

このことが現実化するのだ、何かと人ともめたりしても遂には永遠に逢わないのである
すると逢うだけでも貴重だったともなる、それが老人には嫌でも知らしめられるのであるそれで老人は常に後悔するのである

人間は結局最初に老人になる、それから若くなる

こうなれば失敗もないのである、そうしたら馬鹿なこともしないのである
老人になることがをどういことか知れば失敗もないのである
老人になれば誰しも悟り知恵かつき愚かなこともしないともなるからだ
ただその老人でもいろいろあるし迷惑老人も多いからいちがいには言えない
でもどうしても若い時は老人のこと老人の心境を理解できない
もしそのことを知れば若い人は失敗もしないし悔いのない人生を送れる
老人になると時間ほど貴重なものがなかったとふりかえる

ああ、時間を無駄にした、馬鹿なことに時間を浪費した

それが一番の後悔になっているのが普通だからである
その時莫大な富が金があったとしてもそうである
老人になると体力なるからきついことはできなくなる
いくら金があっても何かいろいろなことができなくなるからだ
旅でも登山でも億劫になるし体力がなくなりできなくなる
だから私は株などしたくない、これも自力で取引きをパソコンで覚えればいいがそのパソコンの画面を見ていると時間がとられるからしたくない
だから銀行の営業の人に頼んだのである、でもそうしたら株ではもうけられないことを知ったのでやめたのである
その株で何億でももうけても果たしてそれだ人生の成果となるのだろうか?

そもそも人生の成果とは何なのか?

これは財産を築いたとかあるにしても金を残したとかで計れないのである
芸術家だったら後世に残る作品を残したとかある、職人でもいい庭を作ったとかありそれが残されているということもある
何か他にもいろいろある、眼に見えないものとしても遺されるものがある
だからいくら金を残してもそれがすべて成果として評価されるとはならない
金がなくてもいいということではない、それがすべての成果とならないということである
要するに時間を何に費やしたかでその成果が計られる

これが人生だともなる、時間は限られているから例えば一つの楽器でも覚えるのに時間がかかる、時間を費やす、すると一つの楽器を覚えることが人生だったともなる
そして天才でもいくつもの楽器に習熟することはできないのである
その時間がみんな平等に与えられて限られているからである

また普通は会社員となれば会社のために尽くす、銀行員だったら銀行に所属しているのだから例え相手をだますものでも投資信託などでも売る
そういうことは別に会社に属していれば必然的にそうなる
そうなるとその会社の価値がその人の個々人の価値ともなる
それで有名な大企業に所属していればその会社名がその人の価値となる
人生全体もそうなる、でも一旦退職するとその価値も喪失する
それで人生の先が長くなると会社をやめると価値のない人間になってしまうのである
いづれにしろ人生とは何だったのか、70くらい過ぎると否応なく知らしめられるのである



人生の終わりに(短歌十首)

この世にそ生きる日短く逢うとても再び逢わじ人は逝きにし

人はみな死に別るかなその最期手を握りて心通いぬ

人はみな死にて別れぬ何気なくありにし日のなつかしきかな

老人の残れる生の短きを徒(あだ)に過ごさじ深く思わむ

この世にて生きる日短く逢うとても再び逢わじ人は逝きにし

人の世を生きるは短く徒言(あだごと)語るは許さじ明日はなきしを

人の世を生きるは短く人は逝く貫くもののあるべしかな

常に思へ明日無き身なれ時々を徒に過ごさじ実りあるべし

その人の何を生きなむ最期かな徒にすごせし月日悔いなむ

まことにそ生きにし人のその生の後に明らかに輝きあらむ 





2021年06月12日

裕がない人は人を助けることができない (余裕なき現代はみんな疲れ、人を思う余裕すらない)


余裕がない人は人を助けることができない

(余裕なき現代はみんな疲れ、人を思う余裕すらない)


人間は何か余裕がないと他人に対して親切になれないし助けることもできない
余裕はだから意外と大事なのである

●時間

●空間

●金(経済)

●健康問題

これらでも余裕がないと人間は自分のことが精一杯で他人のことを思うことすらできない
時間ないんだよ、ここは狭くて窮屈だ、金がないんだ、金が欲しいんだ
俺は病気なんだよ、他人のことを思うより自分の病気のことで精一杯だよ

こうなっているとどうしても余裕が生まれないからギスギスしているし他者に親切になれない

なぜその人は病気だけど仕事している、それでわずかの金でも後から払うとか貸してくれという、でもそれには応じない、そういうお願いする人はいつも金がないのである
だから相手が病気でもそのことを思わない、それより自分の金がないことで苦しめているのがその人だともなってしまうからである
その女性は米を買うにして自転車を直すにしてもそうして金で苦労している
そういう人は相手を思う余裕がないのである

ところが金でも余裕ある人間は病気なのに良く仕事しているなとか同情する
それで多少金がかかってもいいやとなる、奇妙なのはその金のない人に金を与える
その金は病気でも仕事している人に回ってゆく
なぜそうなるのかというと金に余裕があるからそうなるのである
相手が病人でも金のない人は同情しないともなる、なぜなら余裕がないからである
だから意外と余裕がないと相手を思ったり同情したりできないのである

それで自分が病気になり親の介護になったとき来た人は事業に失敗したり金がなくて苦しんている人だった、また原発事故で避難して来た人もいた
こういう人達そもそも余裕がないから人を助けることなどできないのである
大きな負担を背負っているのだからとても他人のことを思うことすらできない
なんとかしてくれとなっている人が他人が苦しんでいることも見えないのである

だから余裕がなければ愛とかいたわりとか同情とかもできない、それより自分をなんとかしてくれとなっているからだ
金に余裕がない人は金を与えることはできない、また苦しんでいる人は自分のことで精一杯だから他人のことに気がまわらないのである

だから助けてもらいたいというとき余裕のない人が来たり余裕のない人の所に行っても無駄だとなる
現代人は何か昔から比べればいい暮らしをしていても余裕がない、心の余裕がもてない
それが何か世の中をギスギスしたものにしている、まず時間の余裕がない人も多い
日本だと国土が狭いから空間的余裕がない、そして時は金なりと資本主義社会で時間に追われる、常に人は何かに追われている、一番は金に追われている
それば贅沢して金に追われている人も多い、借金しても家建てたり高い車を買ったりと金がないのにそうしている人も多い、するとその人たちは金に追われるのである
だから余裕がなくなる

こうしてこの世で余裕がない人がまわりで多くなると実際は住みにくい社会になる
現実になっている
ただ不思議なのは別に金がなくても余裕ある人はいた、そういう人はでも特別の人であり悟りを開いたような人とかなり例外だとなる
今は特に金がないと余裕がもていない、それだけなんでも金のかかる社会だからである
金を払わなければ水も得られない、もし井戸水だったら井戸水が枯れなければ水は得られるとなるからだ、現代は金がないと水道が止められるのである
そもそも昔はその日暮らしの人が多かった、江戸時代は宵越しの銭は持たないとなっていた、その日のうちに金は全部使ってしまうということである
そうなったのはそんなに金を貯えることができなかったからである
日銭暮らしが多かったのである、その日その日を暮らすのが精一杯だったのである
そうなると余裕がないとなるがそうでもなかったとなるのが不思議だとなる
今は一億円たくわえても安心とかにもならない、それはなぜだろうともなる

金でも贅沢しようとすると今は限りない、するといくらあっても金に余裕がない!

こうもなっているためだともなる、いい家が欲しい、車が欲しい、いいものを食べたい、・・・・きりなく欲しいというものがありそれで金に追われるともなる
ただ貧乏になるとその日の金に追われる、何か贅沢するのではない、その日の食べるものを得るために追われるとなる
貧乏暇なしにもなる、だから忙しく金に追われるというとき必ずしも本来はそうしなくてもいいのにしているから時間の余裕もないとなる、現代人は昔に比べると豊かな暮らしているが忙しいし余裕がなのである

私の母はまず一緒に遊んだこともない、暇なし働いていた、それは若い時からそうであるだから何か暇で余裕ある姿を見ていない、店もしていたから食事中でも立ったりしていたそれが嫌だった、でもしかたないということはあったし責められないことはあった
そうして一生働き詰めで終わった、そして花などいらないと自分を怒っていたのである
それはそういう事情があるにしろいい人生だとは思えないである
それはそういうふうに強いられた結果であり母だけの責任ではないにしろ何か全く余裕のない人生も嫌だとなるしそういう人といるのも嫌だともなる

その正反対として余裕のある人生を送れたのが自分だった、何か高校とかまでは勉強でも強いられて嫌いになった、でも大学は時間に追われることがなかった良かった
ただそのために大学が遊びの場になり勉強しなかったことを後悔している
自分の場合は母と反対に余裕がありすぎた人生だったのである、それも問題だとはなった私は旅するかただ家でじっとして黙想しているだけだったからである

だからそういう環境にあったことが奇妙であり不思議だったとなる
それでやはり引き籠もりとなり異常化した人間になっていたのである
ただそうして黙想していることで自然と山とか木とか石と一体化した詩を書いたりしていたのである
自然は山でも木でも石でも沈黙している、すると人間も沈黙しないと一体化できないのである、だから自分は禅宗に座禅して沈黙の業をしている僧と似ていたのである
でもこういう生活は本当に別に寺で修行僧になっていれば異常でもないが日常の社会生活では異常になるのである

ともかくそういうにしていることは余裕がないとできない、なぜなら必ず金を稼げと強いられるからである、そんなことして何になる、一銭の金にもならないとなるからだ
なぜ引きこもりとか多いのかというと親がいて一応食べていけるからそうしている
ということは親でも金に余裕があるから養えるとなっている
もし余裕がない時代だったらそんなことありえないからである
ともかく人間にとって余裕は意外と大事である、そもそも余裕があるから学問でも芸術でも生まれた、暇とはスコーレでありスクールになっているからだ
学校とは暇があって生まれた場だったのである、でも今は学校は全くそうしたものとは違う、受験に追われ膨大な知識に追われる全く余裕のない場なのである

でも余裕なくさせているのは社会がそうさせている、それが何か無駄なものののためにそうさせられる、強いられる、それで団塊の世代の猛烈企業戦士に全員がなったよりそこからはずれて別なことを余裕もって追求する人もいていいと今になると思う
それが自分自身だったのである、ただそのために親の介護とかで四苦八苦した
ただ全員が企業戦士となって猛烈に働くだけの人生は良かったのかとなるとそうでもない何か今になると仕事は遊びだとか好きなことをしろとか価値観が変わってしまったのである、だから猛烈な企業戦士とかは嫌われる時代にもなった

これも奇妙だと思う、それでおそらく団塊の世代は確かに遊び上手の世代ともされた
いろいろ趣味をもっている世代である、でも一方で猛烈企業戦士として会社員として働いた人も多い、とにかく時代によって価値観が変わってくる
それは戦争が終わった時、日本はまるで違った世界に価値観に生きることにてったからだそして戦争から70年過ぎた時、また価値観が大きく変わる
金だけに追われて忙しく生活するのが嫌だという人もでてくる、それは少数でもやはり前よりそういう傾向が大きくなっている、すると時代の価値観が変わった見るのである

2021年06月10日

最後は記憶したことが人生となる―心に印されるものの怖さ (記憶をしたものの整理に追われる)


最後は記憶したことが人生となる―心に印されるものの怖さ

(記憶をしたものの整理に追われる)


何度も言っているけど人生とは最後は何を記憶したかになる
その記憶はみんな違ったものになるからそれぞれの人生の結果は多様なのである
だからどんな人でも何かしら語るべきものがあるとなる
なぜなら違った経験をしているからである
それで老人からその経験を聞くことはどんな人でも参考になる
失敗の経験でも参考になる
つまり事の真相は経験している時はわからない、時間がたたないとわからないことがあるからだ
それで何か事件が起きてもその時に真相はわからない、時間がたって判明して来る
歴史的な事件でもそうなのである、明治維新が何だったのか、今になると否定的に見る人もでてきているのもそうである
ただ歴史的なものになるともう50年くらいすぎると遠い過去になり不明になりやすい

私が経験したことは勤めたこともないのだから限られている
ほとんど旅に費やされたということである
ただその経験でも何か歴史を見ることでも役にたっている
地歴が科目となったように歴史と地理は不可分なものとしてあったからである
そして記憶たどる旅をしているのが時分である
いくら記憶が人生だとしても人間の記憶力は本当に弱い、それで記憶するために写真でとっておくとかメモを書くとかしないとその記憶自体があいまいとなり思い出せなくなる
それでこれまで書いたものが膨大になるので整理している
毎日整理するのに追われている
プログはインタ−ネットでは何か記録するのに優れているのだ

sdメモリーとかこれだけ小さいもの記録する量が映像でも驚くほど記録できる
そのメモリーは格段に進歩したのである
人間だったら脳にこんなに記録できないのである
それで自分の書いたものすら忘れていて読み返してみてこんなことを書いていたのと感心している
おそらく歴史でも文字ができて記録できたということで歴史が生まれたといのもわかる
それだけ文字の発明は人間にとって大事なものだったのである
それでエジプトでは神聖文字が生まれたのである
文字が神聖なものにヒエログリフになったのである

とにかく人間最期は記憶したことが人生になる、それで私の姉は従軍看護婦で4年間シンガポールの向かい側のジョホールバルで苦しんだからそのことを死ぬ間際まで語り死んだその前に千回もそのことを語っていた、認知症になっても過去のことは忘れないからである、特に印象に残ったことは忘れないのである
そういう戦争ということはもう経験した人しかわからない、いくら映像で見ても残されたものを見ても読んでも実感できないからだ

そして何か経験したことでも後からその意味がわかる、経験したことを後から深く考察してその意味を知ることにもなる
それは歴史的大事件でもそれが起きた時はわかりにくいのである、でも後から解明されて真実が明るみに出される
隠されていた悪が暴かれることがある、いくらその時は隠されても遂に明るみに出される若きの至りとかで若い時に力まかせにした悪行でも暴かれて老人になってから良心の呵責とかなり苦しめられる

人の行った行為はみなカルマとなる

それが隠されたり忘れ去れることもない、神は見ているとまでなる
そうなると本当に奔放な若い時の行動も悔いるとなる
そういうドラマも多いのもそのためである
警察につかまるとか刑罰を受けるとかではない、そういうことと関係なく良心の呵責に苦しむことになる
だからどんな人でもカルマをつまない人はいないである

原発事故とかでもそうだった、それを追求してきたが「安全神話」を作った人々は共犯者であり悪人だったとまで暴きだされた、ただその責任はとっていない
東電に天下りして金を得ていた官僚とか高級国民なども責任があった
でも責任は誰もとっていないのである
でも十年過ぎ二十年過ぎとかなりその悪が暴かれる
悪が暴かれないのはその時の政権によって隠されるからである

オリンピックのJOCの経理部長が自殺したのも大事件でもその真相は何も語られないし騒ぎもしないのは上からおさえられているからだとなる
何か都合の悪いことが出てきて今の政権が追及されるからだとなる
そして人間の歴史とは何かとなれば罪の歴史だったというときそうなる
絶え間ない殺し合いの歴史だったとも見れるからである
戦争自体が罪でありどっちが正しかったということはないからである
日本とアメリカの戦争でもアメリカが正しかったとはならないからだ
それで歴史は勝者の歴史となっている、勝者が記したのが歴史だとなっているらだ

その人の一生は何なのだったのか?

それは記憶されたものともなる、何が脳に記憶されたのかとなる
それは各人か違っている、その人の経験と学習から脳も作られるからだ
人間の脳とか性格とかは遺伝子的に決められているのかとなると人間の場合はそうはならない、人間は人生の経験の中で作られていく
何か臆病とか気弱な人でも一瞬の行動で勇気ある人にも変わる
たいがい英雄とか天才は生まれつき優秀だったからそうなったともみる
天才の場合はそうである、でも一般人でも人生を経験してゆくなかで変貌することもありうる   

だから人間がすべて生まれつきで決まるわけではない、そうして人生の経験の中で神が関与することもある
それは不可解なものである、そもそも人生そのものがそれぞれか小説より奇なりともなっているのだ
聖書が理論とではない、実際に起きたことを記したものでしる、そこに必ず神の関与がありそれを記したのである、だから奇跡を信じなければ理解できないのである

では人間が死んだらそうした記憶とか記録とかも全部消えて空になるのか、もしかしたらそれば消えずにあの世にもってゆくものかもしれない、なぜならみんな消えるとしたら
それぞれの人生が無意味なってしまうだろう

神があなたは何を見て何を聞いて何を見ましたか?

そのことはあなたの心に脳に記されている、それを神の前であからさまに示されるともなる、そうなると怖いことになる
その時心に記された悪も暴かれる、それがまざまざとして可視化される
つまり死ですべてが消えるわけではないとなると怖いのである
もちろんそういうことをありありとイメージしたら本当に悪いことなどできない
だからこそ平気で生きていられるとなる
死んで裁きがあるということをありありと思う人はいないからだ
だから平気で悪を犯して罪を犯しているともなる

何か悪いことをしましたとかなっているのである、ただそれが死んだ後にあの世で暴かれるとなると怖いとなる、そういう恐怖心があれば簡単に悪は行わないし心にも思わないとなる
そうした裁きとかは個々人になる、人は神の心を見ているという時、集団の心は見れないからである、いろいろな集団に属していてもそれで罪を裁きを逃れられない
要するにそうした宗教団体とはこの世の隠れ蓑であり死後は何の効力もない、個々人の罪は消えないとなる

いづれにしろ自分は今や記憶をたどり記録をたどり整理している
それが膨大なものだから苦労している、つまり分厚い一冊の本のように整理するとなる
人間の一生はいづれにしろどんな人でもそれぞれ一冊の本にもなる
ただ表現力のない人は読者に感銘されるものを書けないとなるだけである
旅をしてもその時見たものを経験したものを回想して深化する、それができれば充実したものとなる
だから旅でも記憶されるような旅をしろと言ってきたのである
それは車では無理だと言ってきた、電車でもそうである、歩くか自転車の旅でないと旅というのを記憶してたどることはできないともなる
ただこれは外国では無理だからそうとはならない、国内の場合は記憶する旅をすらなら歩くか自転車でないと記憶に残らないともなる
ただ自分も最初は電車旅行でありそれはある目的地に行くのにはいいが旅を経験するには歩くか自転車でないとできないのである

2021年06月05日

大学で遊びギャンブル人生で終わった人 (大学で20代で方向が人生の方向が決まる怖さ)


大学で遊びギャンブル人生で終わった人

(大学で20代で方向が人生の方向が決まる怖さ)

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70代男性、老後無年金・無貯金でギャンブルまみれ人生の実態
https://www.youtube.com/watch?v=Lk0WLlUHWoc

lofestage1.jpg

30までの時間は長く感じられる
30過ぎる急速に早く感じられる、時間間隔は相当に違っている
子供の一日は大人になったときより十倍も長い感覚になる
30前までも長く感じる、30過ぎると時間は過ぎるのが早くなり40で
おっさんになり白髪がはえて老人に向かっている
もう60を過ぎて70とかなるともう死ぬだけだとなる
明日は死んでいるかもしれないという感覚である



この人は地方から上京して大学に入ってもそこから人生が狂ってしまった
大学のまわりが競馬場とかパチンコ屋とかがありそれでギャンブルにのめりこんだ
学業はそっちのけになった、バーとかでアルバイトしていた人もいた
そしてそれがどっちが本業かわからなくなるからこうなったのである
何か高校から大学への変化が大きいのである、そのギャップが大きいのでこうなる人も多い、変なのは学校というと毎日学校で授業を受けるものとなっていた
でも大学になると授業を欠席しても何のとがめもないのである
ただ一年に一回単位をとる試験がある、それを受かると単位が取れる
その単位をとるにしていい加減なものだったのである
私立の文系となると何か遊びの場になっていたのである

そうなると学校に行かず授業も受けず遊んでいる人が普通にいる
そして授業に出ないことで威張っている人がいる
授業に出ないことが自慢する、だから一日中マージャンしていた人がいた
そんならマージャン教室に入った方が良かったとなる
一体大学に何しに来たかわからなくなる
そういう人が結構いたのである、特に私立の文系などはそうである
団塊の世代ではマンモス大学であり授業でも千人とか入る講堂でしていたとか
高校とは全然違ったものなのである
すると何か暇をもてあましギャンブルに興じるともなる
私もパチンコを覚えたりして遊んでいたのである
こうして何のために大学に入ったのかわからなくなる

私の場合は創価とかカルト教団に費やしたのもそうである
それも何もするこことがないのでそうなったともなる
でも私の場合もともと求道精神があってそうなった
でも創価でもカルト教団など宗教の看板をかかげても全く宗教とは関係ない
ただ毎日が選挙運動の駒として使われるだけだった
あとは御利益を得るために祈る、そしてあらゆる欲は是認される
その欲をかなえるために毎日祈っている、禁欲とか一切なくむしろ欲望を強くして
かなえるために祈るだけである
だからこそ人があれだけ集まるのである、その数は票となり圧力団体となり利権団体となる

ただ青春時代は危険な時代である、変な方向にも行きやすいのである
大学でも自由だから変な方向に行くようにもなる
ギャンブルとか女遊びとかで費やして終わる人もいる
そういう場所が大学だというのも異常だったとなる
理系の大学だったらこんなことありえないのである

とにかく20代頃から変な方向に行ったものはそのまま一生変な方向に行ってもどれなくなる、それが怖いことだったのである
現実この人は大学でギャンブルをおぼえそこにのめりこんでそれが人生になってしまったそれを自分でぱ悔いのない人生だったとしているがそれが他人に誇れるのか?
そんなことが自慢になるのか、誰もそんな人のことを感心する人はいないだろう

ただ本当に20代頃からこうして変な方向に行く人はそのまま一生変な方向へ行き一生そうなってしまう怖さである
大学ですでにギャンブラーになりそのまま一生そうなってしまったのである
まずニートなども良くみかけるけどそういう人も20代でなるとそのまま一生ニートであり無職で人生が終わる
それが自分自身もそうだったからである、一生無職で旅して終わったとなるからだ
ただ自分の場合は学問とか芸術に興味をもち追求していたのが違っていたとなる

いづれにしろ今やそれぞれの人生がなんであったのか問われる
もう団塊の世代でも75となり死んだ人も一割以上いるし身近で同年代の人が死んでいる
78歳くらいの人が近くで二人死んだ
三人の男性はみんな死んだが78だった、何か78歳は鬼門の年だともみた
78歳になると急激に体が弱っていくというからそういう年なのである

人間は20代で30までほぼ決まるというとき30過ぎて40になると白髪がでてきたりしてすでに老人にも向かっていたからである
50になるともう人生も終わりに近づくとかなる、それだけ時間が過ぎるのが早かったのである
その時間の貴重さが若い時はわからないからくだらないことに時間を費やして浪費している、そして老人になってみんな悔やんでいる
急速に時間が過ぎてゆくことが自覚できないからである
それが人生の大きな落とし穴だったのである

そして絶対に時間を元に戻すことはできない

青春時代も二度ともどってこない

右左と分かれ道があり右に行ったものは右の方向に行き左に行ったものは左に行きその方向をもう変えることができない、その方向を決めるのが20代なのである
正社員となるのも20代でありそれ以後はなりにくい、そしてニートとかなると一生ニートなのである、それで最期に親が死ぬと厳しいことになる
そのことを自分は親の介護で経験したからである

ともかく同世代の人が次々に死んでゆく、するとその人生は何だったのかと問われる
弔(とむら)うとはその人生を問うということなのもわかる
一体この人の人生は何なのだったとか問うことになる
カルト宗教団体であれ共産党であれある団体組織に属した人はその属した組織団体が人生だったとなる、でも個々の人生があり何か不思議なのは人が死んだ時は個々の人生が問われる、創価であれ共産党にであれまた他のカルト教団に入っていたということで自慢にならない、そこで評価されたのはただ一票となるとか数として数えられることだからであるでもその人の人生となると個々の人生として評価される
日本民族の一員として死んだといっても誰も世界で評価しないだろう
一例としてもし芸術作品を世界に通用するものでも残したら評価されるとなる

この人の一生は何なのだったろう?

これが問われるのである、でも死に方に成仏することにこだわるがそれはあまり関係ないようにも見える
なぜなら近くで死んだ人はその人生は本当にいい加減だったからであり罪深いともなる
でたらめな人生であったからだ、それでみんな嫌っていて葬式もなく終った
近くでも誰も惜しむ人もなかった、でも死ぬときは簡単に死んだのである
迷惑もかけず死んだのである、だから死にざまより人間はその人がどういうふうに生きたのかが問題になる、成仏するというときむしろその人の人生が有意義なものとなっていたとき成仏する、だから死にざまとは生きざまのことでありどんなふうに死ぬのかとはさほど関係ないとみるのである

それにしても人生も終わりになると本当に短い、あっという間だったとさえなる
そんなに短い時間しか人生にはなかった、そしてみんなわずかの時間この世にいるだけである、そしてこの世から消えていく、すると人はなんのために人と出会ったり別れたり
そもそもなんでこの世にいるのかもわからなくなる
一瞬の泡のように生まれて消えるともなる、人生とはそんなものかとなる
何かもっと重々しいはずであるとなるが現実はその生は何するにしろはかないとなる
有名な人もみんな消えてゆく、何か手にとる本が30年前とかなりその作者はほとんど死んでいるのである、すると死者が残した物は本でありその他その人の人生を知る術もないのである
だから死んで何が残るのだろうともなる
本でも残している人はいい方である、普通人は家族でも死ぬと急速に忘れられてゆく、何か定かでない幻のようになってしまうのである、家族でない人はそんな人いたのとなってしまう
その人の存在すら本当にこの世に存在していたのかも定かでなくなるのだ

石は千年動かない
その場に千年変わらずある
人間は百年くらいで消える
すると石の方が人間より
存在感がある
人間は百年も過ぎたら
みんな消えてしまうのだから

こんなふうになってしまう、それだけ人間の一生は短いからこうなるのであ

大学で遊びギャンブル人生で終わった人 (大学で20代で方向が人生の方向が決まる怖さ)


大学で遊びギャンブル人生で終わった人

(大学で20代で方向が人生の方向が決まる怖さ)

gamblelife1.jpg

daigaku11.jpg

70代男性、老後無年金・無貯金でギャンブルまみれ人生の実態
https://www.youtube.com/watch?v=Lk0WLlUHWoc

lofestage1.jpg

30までの時間は長く感じられる
30過ぎる急速に早く感じられる、時間間隔は相当に違っている
子供の一日は大人になったときより十倍も長い感覚になる
30前までも長く感じる、30過ぎると時間は過ぎるのが早くなり40で
おっさんになり白髪がはえて老人に向かっている
もう60を過ぎて70とかなるともう死ぬだけだとなる
明日は死んでいるかもしれないという感覚である



この人は地方から上京して大学に入ってもそこから人生が狂ってしまった
大学のまわりが競馬場とかパチンコ屋とかがありそれでギャンブルにのめりこんだ
学業はそっちのけになった、バーとかでアルバイトしていた人もいた
そしてそれがどっちが本業かわからなくなるからこうなったのである
何か高校から大学への変化が大きいのである、そのギャップが大きいのでこうなる人も多い、変なのは学校というと毎日学校で授業を受けるものとなっていた
でも大学になると授業を欠席しても何のとがめもないのである
ただ一年に一回単位をとる試験がある、それを受かると単位が取れる
その単位をとるにしていい加減なものだったのである
私立の文系となると何か遊びの場になっていたのである

そうなると学校に行かず授業も受けず遊んでいる人が普通にいる
そして授業に出ないことで威張っている人がいる
授業に出ないことが自慢する、だから一日中マージャンしていた人がいた
そんならマージャン教室に入った方が良かったとなる
一体大学に何しに来たかわからなくなる
そういう人が結構いたのである、特に私立の文系などはそうである
団塊の世代ではマンモス大学であり授業でも千人とか入る講堂でしていたとか
高校とは全然違ったものなのである
すると何か暇をもてあましギャンブルに興じるともなる
私もパチンコを覚えたりして遊んでいたのである
こうして何のために大学に入ったのかわからなくなる

私の場合は創価とかカルト教団に費やしたのもそうである
それも何もするこことがないのでそうなったともなる
でも私の場合もともと求道精神があってそうなった
でも創価でもカルト教団など宗教の看板をかかげても全く宗教とは関係ない
ただ毎日が選挙運動の駒として使われるだけだった
あとは御利益を得るために祈る、そしてあらゆる欲は是認される
その欲をかなえるために毎日祈っている、禁欲とか一切なくむしろ欲望を強くして
かなえるために祈るだけである
だからこそ人があれだけ集まるのである、その数は票となり圧力団体となり利権団体となる

ただ青春時代は危険な時代である、変な方向にも行きやすいのである
大学でも自由だから変な方向に行くようにもなる
ギャンブルとか女遊びとかで費やして終わる人もいる
そういう場所が大学だというのも異常だったとなる
理系の大学だったらこんなことありえないのである

とにかく20代頃から変な方向に行ったものはそのまま一生変な方向に行ってもどれなくなる、それが怖いことだったのである
現実この人は大学でギャンブルをおぼえそこにのめりこんでそれが人生になってしまったそれを自分でぱ悔いのない人生だったとしているがそれが他人に誇れるのか?
そんなことが自慢になるのか、誰もそんな人のことを感心する人はいないだろう

ただ本当に20代頃からこうして変な方向に行く人はそのまま一生変な方向へ行き一生そうなってしまう怖さである
大学ですでにギャンブラーになりそのまま一生そうなってしまったのである
まずニートなども良くみかけるけどそういう人も20代でなるとそのまま一生ニートであり無職で人生が終わる
それが自分自身もそうだったからである、一生無職で旅して終わったとなるからだ
ただ自分の場合は学問とか芸術に興味をもち追求していたのが違っていたとなる

いづれにしろ今やそれぞれの人生がなんであったのか問われる
もう団塊の世代でも75となり死んだ人も一割以上いるし身近で同年代の人が死んでいる
78歳くらいの人が近くで二人死んだ
三人の男性はみんな死んだが78だった、何か78歳は鬼門の年だともみた
78歳になると急激に体が弱っていくというからそういう年なのである

人間は20代で30までほぼ決まるというとき30過ぎて40になると白髪がでてきたりしてすでに老人にも向かっていたからである
50になるともう人生も終わりに近づくとかなる、それだけ時間が過ぎるのが早かったのである
その時間の貴重さが若い時はわからないからくだらないことに時間を費やして浪費している、そして老人になってみんな悔やんでいる
急速に時間が過ぎてゆくことが自覚できないからである
それが人生の大きな落とし穴だったのである

そして絶対に時間を元に戻すことはできない

青春時代も二度ともどってこない

右左と分かれ道があり右に行ったものは右の方向に行き左に行ったものは左に行きその方向をもう変えることができない、その方向を決めるのが20代なのである
正社員となるのも20代でありそれ以後はなりにくい、そしてニートとかなると一生ニートなのである、それで最期に親が死ぬと厳しいことになる
そのことを自分は親の介護で経験したからである

ともかく同世代の人が次々に死んでゆく、するとその人生は何だったのかと問われる
弔(とむら)うとはその人生を問うということなのもわかる
一体この人の人生は何なのだったとか問うことになる
カルト宗教団体であれ共産党であれある団体組織に属した人はその属した組織団体が人生だったとなる、でも個々の人生があり何か不思議なのは人が死んだ時は個々の人生が問われる、創価であれ共産党にであれまた他のカルト教団に入っていたということで自慢にならない、そこで評価されたのはただ一票となるとか数として数えられることだからであるでもその人の人生となると個々の人生として評価される
日本民族の一員として死んだといっても誰も世界で評価しないだろう
一例としてもし芸術作品を世界に通用するものでも残したら評価されるとなる

この人の一生は何なのだったろう?

これが問われるのである、でも死に方に成仏することにこだわるがそれはあまり関係ないようにも見える
なぜなら近くで死んだ人はその人生は本当にいい加減だったからであり罪深いともなる
でたらめな人生であったからだ、それでみんな嫌っていて葬式もなく終った
近くでも誰も惜しむ人もなかった、でも死ぬときは簡単に死んだのである
迷惑もかけず死んだのである、だから死にざまより人間はその人がどういうふうに生きたのかが問題になる、成仏するというときむしろその人の人生が有意義なものとなっていたとき成仏する、だから死にざまとは生きざまのことでありどんなふうに死ぬのかとはさほど関係ないとみるのである

それにしても人生も終わりになると本当に短い、あっという間だったとさえなる
そんなに短い時間しか人生にはなかった、そしてみんなわずかの時間この世にいるだけである、そしてこの世から消えていく、すると人はなんのために人と出会ったり別れたり
そもそもなんでこの世にいるのかもわからなくなる
一瞬の泡のように生まれて消えるともなる、人生とはそんなものかとなる
何かもっと重々しいはずであるとなるが現実はその生は何するにしろはかないとなる
有名な人もみんな消えてゆく、何か手にとる本が30年前とかなりその作者はほとんど死んでいるのである、すると死者が残した物は本でありその他その人の人生を知る術もないのである
だから死んで何が残るのだろうともなる
本でも残している人はいい方である、普通人は家族でも死ぬと急速に忘れられてゆく、何か定かでない幻のようになってしまうのである、家族でない人はそんな人いたのとなってしまう
その人の存在すら本当にこの世に存在していたのかも定かでなくなるのだ


2021年05月08日

人生を決める時間が短すぎる (30代でほとんど人生は決まる、婚期も30歳まで)


人生を決める時間が短すぎる

(30代でほとんど人生は決まる、婚期も30歳まで)

「結婚を急いでもうまくいくケースはあると思います。だけど私の場合はダメだった。急ぎすぎて相手をちゃんと見てなかったし、結婚したとたんに、あれ、これが目的だったんだっけと妙な気持ちにもなったし。何がしたかったんでしょう、私」

どうしても30歳までに結婚したかった女性。スピード婚から破局にいたるまで

結婚でもそうだけどその原因は何なのか?
結婚もしない自分が言うのは変だけど結婚だけではない、人生全般のこととして共通したものがあることに気づいた

人生は短い

チャンスは一回

青春はあっという間に過ぎ

婚期も短い


なぜ若い人に特に女性に婚期を言うのか、結婚を急がせるのか、それは女性の美貌でも若さでもその盛りが短いからである
30歳となるとおばさんだとか相手にしなくなるとか言われる
すると30歳までになんとか結婚しないといけないとあせる
ここで例にだしたのはそうである、30まで結婚しようとしてあせっていたのである

結局人間の一生が30までにほぼ決まるというのもそうである
そんな早い時期に決まってしまうのかとなる
人生は長いからチャンスはいくらでもあるとか思ってもチャンスは一回だけだったとかなる
結婚でも実際はそれほど出会いがないしチャンスもないのである
だから相手を良く見極めるとかの時間もないから判断を誤る
そうなるのは婚期でも短すぎる、青春は短すぎる、そういうとき未熟で判断するから失敗するとなる、それで離婚が三分の一もいるとなる
人生の速さは30過ぎるとわかる、そこからだいたい人生が決まり方向が決まってしまうからである
いくらでも人生にチャンスがあるとかやり直しができるとか言うがそうはならない

人生は一回でありやり直すことができない

これが厳粛な事実だったのである、確かに別に学ぶことは人生が終わるまでつづく
でも人生を決めるのは30までてありその後はすぐに40才になりもうおじさんだよとかなる、40才で人生が終わりに近づいたと自覚する
何かその頃白髪生えたりするし40才になるともう転職などしにくいのである
会社では若い人を採用したいからである
それで氷河期世代などは40とかなるともう正社員になることが不可能にもなってしまうその数が多いからまた社会的影響が大きいのである

つまり40才になったらもうおじさんであり老人に向かっているとさえなる
だから40代とかの氷河期世代はあせる、でももうどうにもならなくなっているのだ
これは時代の犠牲者でもありかわいそうだったとはなる
でもどうにもならない、時代の犠牲者というとき戦争で三百万人死んだ人達もそうだからである
人間は時代の子でありそれぞれの時代を生きるほかないのである 

人生を決めるのは30歳まででありそのあとは30歳までしてきた決めた道を行くことになる
つまり進む方向が30までに決まる、女性も婚期はほぼ30まであり多少は長くなっていてもそこを過ぎると結婚はできなくなる
意外とどういう方向に行くの決めることは大事である
方角でも方向を間違うと目的地につけないのである
東を目指していたのに北に行っていることが普通にありそうなると迷うことになるからだそして目的地につけないとなるからだ
赤軍派は飛行機をハイジャックして北朝鮮に亡命した
そしたらもう二度と日本にも帰れなくなったが帰りたいとして戻った人もいる
でもすでに老人になって成人した子供までいたのである
その人の一生の方向はハイジャックしたとき決まったのである
その方向をもう変えることはできなくなってしまったのである

こうして人生を決める期間が短すぎることで失敗する、結婚もそうなのである
まずその人にとって最適な人間など普通いないからである
男女ともいない、するとどこかで不具合が必ず起きてくる、そして嫌だとなり離婚する
離婚しなくても実質離婚状態の人もいるというのもわかる
たいがい女性だと子供ができて別れられないとかなり嫌でも離婚しないとかある
でも子供が成人すると熟年離婚にもなるのもわかる
もうがまんできないとなってそうなる
離婚しなくてもあの人の結婚は失敗だったとかみる、いびつな夫婦になっていたからである、結婚する相手によって女性も変わる、夫婦もそうしてともに曲がった夫婦となったのかもしれない、そういうふうに離婚しなくてもその人の結婚は失敗だったともみる

いづれにしろ30までに人生の方向が決まりそのあとは人生は簡単に変えられないとなる
自分にしてもそうだった、20代で就職せず無職であり遂に家庭環境にめぐまれて旅ばかりするようになったのである
20代で正社員とかまともに職につかないものは一生そのままになる傾向があるのだ
一旦引きこもりとかニートになるともう容易にぬけだせないということにもなる

つまり一生引きこもりになる!

そういうふうになった人たちが多いこともわかる、何か職業につけといってもできなくなっているのだ
それで小人閑居して不善を成すともなる、何か犯罪者にもなりやすいのである
そういう人は今までは極少数だった、なぜなら働かないと食べていけなかったからである今は親が援助して働かなくても暮らしていけるとかなりそういう人が増えたのである

ともかく人生を決める時間が余りにも短いということが人間の大きな問題であった
そこで何がなんだかわからず夢中に生きてるうちたちたまち青春は過ぎて30歳になり
すぐに40才になりおじさんだとかなり白髪もはえてきて人生も終わりに近づくとかなる

そしてもう二度とチャンスはない!

また引き返すこともできない、時間をもどすことはできない!

だからこそ信仰でも「若き時に神を覚えよ」「求めよ、さらば与えられむ」とは若い時のことである、いくら求めてその時期をすぎると与えられないともなるからだ
でも若い時はみなん別なことに心を奪われているのだ、女性に心奪われのが普通であり
また何かに心を奪われやすいのである
求道するとき何か若い時は関係ないと思っている、若い時求道するより女性に最大の関心がありさまざまなことに魅了するものがあり夢中になりたちまち青春は終わっている

そして二度と青春は帰ってこない!

カルト教団などでもやめないと一生狂わされてしまい人生を無駄にする
そんなところは宗教とか求める場ではないからだ
でもそれが見えないのである、そうしてオウムのように悲惨な結果として人生を浪費して終る、他でも宗教団体などはみんなそうなのである、一番宗教と無縁な場所が宗教団体だというのも現実なのである、ただ創価などは社会から公認されているから余計に道を誤るそこも巨大な宗教の詐欺集団だともなるからだ、そうした巨大なものにはだまされやすいのである、他にも保険会社とか大企業でも銀行でもゆうちょすらそうだった
経営が苦しくなりいかがわしい金融商品を売りつけていたからである
第一国家自体が国民をだますということがある、それが原発事故だったからである
権力で安全神話を作ったのは国家でもあったからだ
社会に公認されていても何かそこが正しいとは限らないのである
それはナチスをみればわかる、国民全員が認めていたものだからである

何か老人になっても70過ぎても空間はやはり移動できるから体験できる
だから一度旅した所にもう一度行けないことはない、その時本当に新たな感動を覚える
そこに同じ場所にありえたとういことで感動する
なぜなら次はその場所にいない、あの世に逝ってしまうからである
同じ場所でも年齢によってまた季節によって違ったものに感じるからである
でも時間だけは戻すことができないのである
それで江戸時代にもどることはできない、そこには想像でしか行けない
それで必ず大きな誤解が生じる、その過ぎ去った時代を経験できないからそうなる
本当にタイムマシンで江戸時代にでももどれば意外だったとなる
そこではいくら本でも映画でも見ても全く違った現実に遭遇して驚くのである



2021年04月05日

チャンスを逃す人生 (チャンスは時間は取り戻すことはできない)


チャンスを逃す人生

(チャンスは時間は取り戻すことはできない)

人間は常にチャンスがある、何かをする時間がある、でもそのチャンスも時間もたちまち消失してゆく

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、コヘレトの言葉


神を知るべき時がある
結婚するべき時がある
学ぶべき時がある 
仕事を覚える時がある 
成功するにも時がある
体を鍛える時がある
善を成すべき時がある
苦しむ時がある
楽しむ時がある
出会うべき時がある
旅をする時がある
・・・・・・

こうして様々なことするべきとか学ぶべきとかある、でもそのチャンスを逃しているのだだから老人になるとあの時こうしていれば良かった、あの時学んでいれば良かったとか後悔だけになる
それはチャンスとか時間がいくらでもあると見ているからである
でも何かをすべきチャンスが思った以上ないしまた時間もないのである
だから貴重な時間を逃しているのだ、若き時神を知れというときもそうである
神を知るのは経験を積んだ老人が知るのかと思っている
でも最も血気盛んな時神を知れと言っている
これも意外なのである、そしてその時期を過ぎるともう神を知ることが不可能だともなるのだ、これは怖いことだったとふりかえる
神を知るチャンスとか時期は極めて限られているのである

ともかく結婚でも常に親でも娘とかでも婚期を遅れないようにうるさく言うことがわかった、それは婚期もたちまち過ぎる、そうなると女性としての魅力がなくなり結婚できなくなるということを親は経験しているからそういうのである
男でもやはり婚期があり時期がありそれを逃すともう結婚するのはむずかしくなる
今は何かニートとかまた結婚しない人が氷河期世代とかあり多くなった
その人たちは40とかすぎてゆくと結婚はむずかしくなる
男性でも二十代から30代までが限度だとなるからだ
つまり時間が過ぎてゆくのが思った以上早いのである

人間は何か良いことを善を積もうとしてもその時間がなくなる、ささいなことでも何か善いことをして他者のためにしてみる、そういう時間もなくなる
結局何もせず善を積まずに終わる
何か駅で案内のボランティアをしたけどこれもたまたま駅が無人化して頼まれてしていたそれもまたできなくなった、コロナウィルスで接触しにくくなったからである
だからその時認められなくても何か駅のことで経験したから良かったとなる

つまり何かささいなことでも人はチャンスを逃している
何かすべきことをしないで終わっている
親のことでも親はいつか死ぬ、別れる、すると介護でも苦しいのだけど十分にしていたらなと死んでからふりかえる人がまた多いのである
なぜそうなるのか?それは二度と親でも死んで逢えなくなるからである
それで冷たくしたりすると後悔することになるので介護の問題は難しいのである
この世に出会うということそれは親ですら短いものとなり遂には永遠に合わないともなるすると逢っていた一緒に暮らした時間が貴重だったとなる
たたこれはあらゆることに言える、人間はチャンスも時間でも限られたものしか与えられていないのである

だからこの世で一番無駄にしているのはチャンスと時間である
誰にでもチャンスがある、ただそれを逃しているだけなのである
第一それがチャンスだともわからないことも多いのである
もしこれはかけがえのない人生には二度とないチャンスだと思ったら後悔などないからである
今勉強しなければ後は時間がなくなるとかも思わないのである
こうしてチャンスでも時間でも消失してゆく
そして老人になり誰でも後悔しているのである
それはチャンスとか時間がいくらでもあると思うからである
でも青春などはたちまち夢のように過ぎてしまうのである
そうしてみんな愕然としているのである

一番の後悔は時間を活用しなかった、チャンスを活かせなかったことなのである
そして時間は平等に与えられている、そこに差別はない、ただ貧富の差でチャンスがある人とない人がある、留学となると金がかかるから金持ちしかそのチャンスが与えられないということはある
でも留学だけが人生ではない、他にもいくらでも経験すること学ぶことがあるからその方でもチャンスは与えられている、時間も与えられている
ただなんでもそれを活かすことができないのである
何かを常に活かそうとしていればそうはならないのである
人間は必ず時間を無駄にしている、活かしていないからである

不思議なのは泥棒であれ悪を成すにもチャンスがある、悪事を働くチャンスをうかがう
それも偶然ではなく目的があってする場合、虎視眈々とねらっているとなる
また動物だと獲物を常に虎視眈々と狙っている、それは真剣そのものである
しかし人間そのように虎視眈々とチャンスをねらっていない
何か平々凡々としまりなく時間がただ無意味に過ぎてゆくのである

そこでチャンスがあってもチャンスを逃すのである、動物は獲物を得るチャンスを逃すと餓えて死ぬことがある、だから真剣だとなる
そうなるのは獲物を貯えることができないからである
日々の獲物をねらって食べるほかない、すると日々虎視眈々と獲物をねらうことになる
そこにチャンスを逃すまえという緊張感が生まれている
人間は何かそういうふうに日々生きていない、別に食べるものがすぐなくなったりしないからである、そして日々緊張感もなく生きているとなる
ただ動物のようになっていたら何かまた絶えず獲物をとるために追われて疲れるともなる
とにかく動物はこうして日々獲物をとるチャンスをうかがっている
でも人間はそんなふうにしてチャンスをとらえようとはしていない

要するに千載一遇のチャンスがあってもそのチャンスを逃す、それはチャンスと見ないからである、そして二度とそのチャンスはなくなる
つまり明日またチャンスがあるとして逃しているのである
でもその明日は遂にこなくなるのもまた早いのである
だから求道でも早い時期からしないとできない、老人になって悟るとかは別である
それで若きうち神を知れとなる、でも若いうちは飲めや歌いやとか享楽に走る
また性欲のために費やされる、そのうちたちまちに老いてしまうのである
40になったら白髪がでてきておっさんとか言われるのである
女性でもその美貌もまた衰えてゆくのが早いのである  

例えば料理でもこれが経験していれば家族が失ってもできる
でも全然経験しないとできない、第一買い物が結構むずかしいのである
十年くらい一人でしていても買い物がわからないのである
何を買っていいのかわからない、そして料理もできないとなる
それだけ料理できるようになるには時間がかかるのである
そういう経験をしていればこうはならなかったのである
ただこうしてパソコンで文章を書けるのは親指シフトを経験しているからできる
パソコンだってこれを使いこなすにはそれだけの時間が必要になる
結局何でもある程度経験していれば身につくから一から始めたらできない
老人になればもう何か新しいことができても苦しいとなるのである

世間的なことでも株などは若い時にするべきものだったのである、額は少額でも訓練していれば良かったのである、それが60以上とか70以上になってやるというのはリスクになる、株は十年単位で見れば必ず下がっていてもあがる、また上がっても必ず下がるという規則のようなものがあるからだ、すると10年くらい放っておいてもいいやとかなり様子を見ていると上がるのである、だから本当にリーマンショックの時半分に下落した株をもっていたら二倍のもうけになった
それと最近でも株が下がった時買わないかと来た時買っていればこれもこんなに高くなるとは思わなかったから失敗だった
それは自分自身で株の経験がないから銀行の営業の人にまかせたから失敗だったとなる

もし若い時株をしていたら経験しているからもうけられるということがあったからだ
ただそういう経験していないから銀行でも他人まかせになったから失敗したとなる
こうして何か経験していないことをすることはリスクになる
他人まかせでは成功しないのである、株でも経験する時があったとなる
何かする時があったが逃していたともなる、それはあらゆることに言えるのである
その最たるものが神を知ることを逃していることでわかる

こうして人間は何か成すべき時に成さない、それが後で失敗の元となる
結局何かを成すべき時が限られている、チャンスも限られている
だから様々なこと時間でも無駄にしてチャンスもものにできないのである
日々緊張感をもってチャンスでもものにしようとして時間を有益に使うという心構えがあったらこうはならなかったのである、それはただみんな最後は後悔しない人は一人もいない、そのことがわかるのは遂に死ぬときだとなる
それが否が応でも思い知らされるのである 

死ぬことを老人になってから考えて遅いのである、若き時に死は何なのか知らねばならない、人間はいくらでも親でも他人でも死に接している、すると死のことを一番恐怖するからである、もう老人になると同世代でも日常的に死んでゆく
そして永遠に逢わなくなってしまうのである
死ぬにも時があるというとき人間は死ぬべき時でもだらだらと生き続ける
それが何かいいようでかえって苦しみをもたらしている
人間は死ぬべき時に死なない、現代は長生きになりそうなりやすい、死ねない時代だとなる、それはかえって無益に生かされているから若い人に早く死ねとか言われる
ただ百才まで生きても意味ある生はある、ただ無用化して廃人のようになっても生きている人がいる、それは迷惑だとなってしまう
だから婚期を逃すと同じく死期を逃したともなる、それは本人にとっても周りの者にとってもいいものではない、それぞれの人生が立場があり一概には言えないがやはり死期というのもある、その時を逃すとまたかえって苦しむだけだとなる