2023年01月31日

何の価値を追及しているのか?宗教が一番わかりにくい 古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ 芭蕉


何の価値を追及しているのか?宗教が一番わかりにくい

古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ 芭蕉

何かに価値があるとしてそれは必ずしも利益にはならない、価値と利益は即結びつかない
価値は多様であり何が価値あるのか意味があるのか決められない、ただ一般的な見方として金になれば利益になれば価値があるとなる、また価値と意味は違っている

なぜ価値があるのか

なぜ意味があるのか

それを問う時、利益になるから金になるから価値があり意味があるとならない
みんな金になる、利益になるとして働く、価値あるものが必ずしも金にならない
例えば芭蕉の俳句は価値があるというときその価値を知るとしたら相当に俳句に通じていないとその価値がわからないとなる、それは絵画でも音楽でも芸術分野になるとそうなるただ億の値段がつけば誰でも価値があるとなる、でもどうしてそんな価値があるのかとなるとその価値を知ることはみんなできない、そもそも芸術となると鑑賞自体がむずかしいからである、茶道とかなると古い茶碗に価値があるとしてどうしてそんなに価値があるのかとなる
ただ芸術でもわかりやすいのは長い時間の中で色あせないものも時間によって価値が減少しないでかえって価値が増してゆくものは本当に価値があるとなる

それは五月雨や降り残してや金色堂の芭蕉の句である、それはすでにその金色堂が建てられて400年とかすぎても五月雨のふりしきる中に朽ちずに残っていた
その価値を見出した、そこにみちのくの歴史が集約されていたともなる
それは江戸時代、それも今から400年前とかに作られたものでありその時代だからこそ作り得たものであり今になるとできない、感覚的に確かにみちのくは旅できるが江戸時代の感覚ではもはやできない、そこにその価値が衰えないのである
ある意味でかえって価値を増している、なぜならそれはその時代でしか作れないものだったからである、確かに正岡子規とかは写生俳句を提唱した功績があった
子規は芭蕉より蕪村に習ったのである、なぜなら蕪村は画家でもあり写生していたからである、でも蕪村よりも芭蕉の俳句の方が深さがある、また子規は写生俳句を唱えてもそれほどいい俳句を作ったとも見えない、それは早死にしたことも関係している
十分に熟成しないで死んだとなるからである

人間はこうして芸術的なものの価値は比較的わかりやすい、わかりにくいのは宗教的な価値である、キリスト教がありイスラム教があり仏教がある
そもそも文明というときキリスト教文明でありイスラム教文明であり仏教文明なのであるつまり文明の核に宗教がある、でもそもそもこの宗教の価値がみんな理解しているのかとなるとしていないのである
宗教の価値とは何なのか?それがわからなくなっている、でもカルト教団があり宗教は普及している、でも問題はその宗教の本来の価値を追求していない、ただ御利益となるとか福運がつくとかさらにこの世で高い地位につき金持ちになり豊かな暮らしができるとか
しかない、また病気でも治るとかとにかく何でも御利益があるしかないのである
でもそもそも宗教とは何になのか、宗教の価値とは何なのか知る人がいるのかとなる
なぜお釈迦さまが偉いのか、何の価値があって偉いのか、キリストがなぜ偉いのか何の価値があって偉いのか、それが本当にわかっている人がいるのかとなる
その価値がわかっている人がいるのかとなる
信者が何千万人何億人いたとしても一体どうしてそんなに崇められるのか、その価値は何なのかわかる人がいるのだろうか、カルト教団になればただ御利益追求でありまた神社にしても賽銭を投げて御利益を願うだけなのである
そうなると宗祖が説いた本来の価値とは何だったのか、それもわからないのである

古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ 芭蕉

キリストがシャカが何を求めたのかに重点を置く、そもそもシャカにしても王宮に住んでいた、そういう身分を捨てて一介の乞食となったのはなぜなのか?
今の宗教とかカルトとかなると王宮にいる王子でありたい、それが理想になっている
そうした生活をしたい身分になりたいとして毎日日蓮でありキリストであれ拝んでいる
その宗祖を見ればそんな境遇にない、日蓮だってあばら家に住んでいたのである
だから何でもこの世の欲がかなえられるとして御利益があるとしてひたすら日蓮であれキリストであれ祈っている、そんなこと宗祖に願ってもかなえるわけがないのである
そもそもキリストであれシャカであれ日蓮であれ親鸞であれ何を求めたのかが大事である王宮に住んでいて一介の乞食になる必要もないのである

ということは宗祖が求めたものと全然違ったものを求めている、それ宗祖が見てどう思うのか、もし宗祖が現れたらシャカでも日蓮でも何でもその宗祖こそ最も排斥するものとなる、なぜなら宗祖が求めたものとまるで違ったものを求めている、そしたら宗祖は私の弟子ではない、私が求めたものはそんなものではない、私はこの世からの解脱を求めた故に王宮を捨てたのだ、それがむしろみんな王宮に住みたいとなって王子となりたいとなって私に習わず拝んでいる、もし宗祖が現れたらその宗祖こそ最も排撃していてはならなんものとなってしまうのである、それはキリストでも同じである、荘厳な大聖堂があってもその宗祖が入れないともなる、その宗祖の教えたものを求めていないからである
だてから宗教に関しては何なのかわからないとなる、
宗教の本来の価値、宗祖が求めた価値がなんであったのかそれをまず知るべきである、でも全くこの世のものを求めて祈っているとしたら何なのだろうとなる
私の欲をかなえてください、私に王宮に住むような御利益福運を授けて下さいとひたすら祈っているとしたらそんな願いをかなえてくれるのかとなる
だからそもそもキリストでもシャカでも何を求めて何を説いたのか知るべきだとなる
その求めた価値が何であったのか知るべきだとなる

2023年01月30日

老舗の菓子屋を守るために犯罪者となったドラマ (なぜ命が尊いのかー仕事が天職が価値がありそれに献げる命が尊いとなる)


 老舗の菓子屋を守るために犯罪者となったドラマ

(なぜ命が尊いのかー仕事が天職が価値がありそれに献げる命が尊いとなる

●老舗を守るために犠牲にされたホームレス

葬儀屋松子の事件簿のドラマで老舗の菓子屋を受け継いだ男性が経営がおもわしくなく金に困っていた、それで自分自身に二億円の保険金をかけて偽装自殺した
本人が自殺したのではなく近くのホームレスが身代わりに殺されたのである
このドラマは何を意味しているのか?
その老舗の旦那は江戸時代からつづいた老舗の菓子屋を継続させることが最も大事なことだとしていた

ということはその老舗にはそれだけの価値があったから継続させようとしていた
ただ価値というとき本人が価値と思っても他者ではたいして価値を認めないことがある
いくら老舗の菓子屋でも認めないことがある
そもそも民間だととにかくたとえいくら価値があっても商売として経営として成り立たなければ維持できないのである

それで結局保険金二億円を得るためにホームレスが身代わりになったのである
そこでホームレスに何のか価値があるのかと見ていたかもしれない
こいつらは無駄飯喰らいだから何かの役にたたせるのがいいとまで見る
実際にそのホームレスは老舗を維持するために犠牲にされたとなる

そこに葬儀屋がかかわっているのも現代的である、孤独死した人もドラマになっていた
葬儀屋に死ぬ前に相談できる、どうしてほしいか相談できる
ただ葬儀屋でも客をとるためにいろいろと工作する、看護師に金を渡して死者を知らせて葬儀を請け負うとかある
葬儀屋というとき昔はなかった、地域で葬儀をしていた、村だったら村の人総出で葬式をしていた、それで村八分でも葬式だけは除外していたのである

●人間の命そのものが尊いのではない

ともかくこの年になると葬儀とか死がもう身近である、自分自身が後何年で死ぬのかとまでなる、ただ自分自身でも人間はいつ死ぬのかわからない、もちろん病気で弱ればなんとなく予想はつく、でもいつ死ぬかはわからないのである
だから自転車屋の人が私に死ぬ三日前ほどにいつまでやっていられるのかなと言っていたおそらく本人も確かに苦しかったがそんなに早く死ぬとは予想していなかった
癌の不思議は三日後に死ぬとしても仕事ができていたことである
寝た切りで何年もいて死ぬならいいがそんなふうに仕事ができるのかとなる
でも死に方としては良かった、仕事しながら迷惑もかけず死んだからである

人間の命と人間の価値とは何なのかという問題がある、人間の命は大事だよと言うのはわかる、でも人間の命が大事だとしたら尊ぶべきだとしたらただひたすら長く生きる生かさせることが大事だとなる、でも人間の命が大事だというときその命が何に費やされるかが問題になる、命そのものの価値より何のために命が与えられているのかとなる
天職を持ちその天職に価値がありその天職のために命を献げるということがある
仕事でもそうである、その仕事に天職に価値がありそのために命が献げられる
命が大事だというとき命そのものにあるのではなくその命を何に使うのかが問題になる
ただギャンブルとか無駄なものに命を使われればその命が大事だとはならないのである
命が何に使うか価値あるものに使うかで命が価値あるとなる

だから奇妙なのはロシアで犯罪者がウクライナと戦うめに釈放された、犯罪者でも国のために役だてばその命は尊いとなる、そして戦場だったら多くの敵を殺した人が英雄になるそれも不思議だけど犯罪者もそうなればその命は尊いものとなる
つまり命は何のためにあるのか?命そのものが大事というより何のためにあるのかが大事になる、黄熱病の細菌と戦い野口英世は死んだ、とするとその命は病気との戦いのために犠牲にされたということで尊いとなった
早く死んだとしてもそのことで功績があり讃えられることになったのである

●老舗の菓子屋を維持するために犠牲にされた人

だからそもそも人間の命が尊いとしても何のために命があるのかとなる
むしろ天職がありその天職が価値がありそのために命があるとなる
身近なことでも最近死んだ街一軒の自転車屋でも死んだがその人は自転車屋という仕事のために死んだ、それは一軒しかないのだからその仕事は他より価値あるものとなっていたただそれでその人が仕事をしていたということでもない、とにかく病気でありその治療費を払わねばならないとなり仕事をつづけていたともなる
でも死んでしまうと人間はもう金を稼ぐ必要はないのである
それで私が折り畳み自転車が売っていないのでナンバーをつけてくれと言ったが断れられた、それは自分の店で買わないから当然そうなったのである
でももう死ぬとわかっていたらもうけよりその仕事が重要であり無償でもしてやれば良かったとか勝手でも思う、もしかしたらあの世から別にたいして金にならなくてもしてやれば良かったとか反省しているかもしれない

つまり人間とはみんな利益を得るために金を得るために働かざるを得ない、でももともと仕事か天職は金を稼ぐだけのものではない、その仕事自体に価値がありその価値があって命が献げられるとなる、だから理想は金と関係なく仕事がありその天職に励むのがいいとなる、常に人間社会は金、金、金でありそれで歪められているのである
本当の価値を追求できないのである、そして無益なものに膨大な命が消費されることもある、戦争でもそうである、他にも無駄なことが膨大にあり命は費やされるのである

ともかくこのドラマでは老舗の菓子屋が価値がありその経営がおもわしくなっても維持しなければならないと事件が起きた、それは老舗の菓子屋が価値あるものでありそのために犯罪になった、そしてホームレスが身代わりになり犠牲にされた
このドラマの焦点は老舗の菓子屋が価値があるというドラマなのである
そのためにホームレスが犠牲になる、でも一人のホームレスより老舗の菓子屋が価値があるからホームレスの命はそのために使われるべきだともなっていたのである

でもその老舗の菓子屋がそれほど価値があるのか?それを誰が決めるのか、主人が決めたとしても回りでも価値があるとしなければ維持できないのである
そもそも価値が誰が決めるのかというのもわからない、大勢が価値あるとするものが価値がないともみる、でも大勢に価値がないものでも価値があるものはある
芸術品などはそうである、それは食べる物と違って価値がわかりにくいからである
だから金にならないことがあり誰も価値を認めないこともある
それで芸術家の悲劇が起きたのである

●無数の価値があり老舗の菓子屋の価値もその一つ

この世には無数の価値がありそれも発見されていない、身近な所でも発見されていない
学問的なことでもそうである、郷土史とかあっても発見されないものがいくらでもある
平凡な風景でも写真家でも画家でも優れていて個性的であればやはり美を発見する
そして価値あるものとなる、芭蕉がみちのくを旅して作って奥の細道の価値は衰えることがないのである、それだけのものを今も作れない、みちのくの価値を発見したのが芭蕉だったのである、それはどこでもまだ発見されていないものがある
新たな価値として再認識されるものがある、ただそれは食べ物と違ってなかなか見出しにくいとなる

江戸時代からつづく老舗の菓子屋を維持すること
それが価値あることだ
だから守らねばならぬ
たとえホームレスが一人死んでも犠牲にしても
老舗の菓子屋の価値のために死んだとなる
それは有意義なことだ
それだけ老舗の菓子屋に価値がある

こんなふうにもなる、それは勝手な見方にしてもそういうことがこの世にはある
人間が生きる価値とは命そのものにあるのではなくHuman life is precious when we live for something valuable...live forが大事なのである
その価値は多様であり時代ごとにも違っている、そしてまだ発見されていない価値があるここでは老舗の菓子屋の価値であるがこういうことは他でもあるだろう
伝統的なものの価値を守りつづけるということにもなる、そういう古来がつづく伝統的なるものの価値は民族的なものとしての価値でもある、日本文化としての価値がある
だから日本語をなくして英語にすればいいとかなると日本文化としての日本民族の価値は消失するのである、そこにグロ−バル化の問題がある
グロ−バル化とは国でも地域でも文化を破壊することが大きな問題なのである
貿易だけではすまない、物が入ってくるだけならいい、でも物とともに人間も関係してくる問題なのである、それが過剰になったのが現代のグロ−バル社会なのである

●医学の進歩のために犠牲にされた命

また医学の世界だと野口英世が黄熱病と戦い死んだ、犠牲になった、また華岡青洲の妻が麻酔薬の実験台にされた物語もそうである、それはフィクションでもそういうことは医学の世界にありえる、私の母の実家の継母は大学病院に献体した、医学の役に立ってもらいたいという人もいる、人間の命が尊いとしても命そのものが尊いのではなく医学が尊いともなる、医学が進歩する事は人類に貢献することにもなるからである
それで人間の命は戦争だったら国のためにと何千万人も死んだ、それは国を守ることが尊いもの価値あるものだからそうなったともなる
人間の命でも命そのものが尊いとはならない、何かのためになることが尊い、それは仕事に価値があり仕事が尊いともなる、だから価値とは何かというときその価値を決めるのは何かとなれば次の言葉があてはまる

もろもろの価値の根源は人間である、人間がおのれを維持するために、それらの価値を諸事物に付与したのである、人間が先でそれが諸事物に、意義、人間的意義を創り与えたのだ、それ故に彼みずからを「人間」すなわち「評価する者」と呼ぶのである
ニーチェーツアラストラ

神が世界創造した、でもその価値を評価することを与えられたのは人間なのである
神はイデアを創造した、様々なものを森羅万象を創造した、でもその価値を評価をするのは人間なのである、また価値を発見するのは人間である、その価値は無数にあり発見されていないのである
人間に与えられた仕事とはこうして万物に価値を与えることなのである
だから最初の仕事がエデンの園で名前をつけることだったのである
あらゆるものに果物でも名前をつけることだった、そのことによりその事物の価値を明らかにしたともなるからである、最初の学問が植物でも動物でも何でも名前つけて分類することになるからである
つまりそれが神が人間に与えた仕事だったのである、神が創造したとしても人間がその価値を評価するものとして造られたのでありまたそうした神が創造した世界わ賛美するものとして人間が創られたたのである

葬儀屋松子の事件簿

2023年01月25日

ケチな人の問題-人間はみんな偏っている (ケチな人は経営でも成功しないのではないか?)

ケチな人の問題-人間はみんな偏っている

(ケチな人は経営でも成功しないのではないか?)


財布からお金が出ていくときは、自分や家族、生活に必要なものを購入する時のみ。損得勘定で動くため、「この人や物にお金を使って元が取れるのか」「有益なのか」を常に考えているのです。
ケチな人は幼少のころから両親の倹約する姿を見て育った可能性も高く、それが当たり前の認識として備えられていることも。ケチな人の中にはお金を使うことに罪悪感を持ってしまい、過去に厳しい貧困を経験している人もいます。

印象4. 単純に器が小さいと感じてしまう

ケチな人は、割り勘にする時でも1円刻みまで細かく分け、社内でお祝いがある人にみんなでプレゼントをする時にも、「そんなに高くなくていいよね?」などといってしまいます。
ケチな人の行動や発言は、財布だけじゃなく心の狭さまでも浮き彫りにしてしまうのです。

●貧乏に苦しみケチになったことは同情する

その人は贅沢などできない、毎日かつかつの生活である、十円二十円でも安くないかと探している
ではその人がなぜサシミを買う時冷凍を買わないという、私はそんなことにこだわらないその女性は生きのい買うとなっていたのである
十円二十円節約しているのにそんなことをしていいのかと端から見ればおかしいとも見るでも私はそこに感心しているのも奇妙である
私の母親はもともと大正生れて貧乏だった、原町の紡績工場で働いていて食事はたくわんと味噌汁くらいだった、ずっと貧乏だったし戦後には食べるものがなくて苦しんだ
だから花に興味がないのである、花なんかいらないと言っていた
そして庭に豆を植えていたのである、それは極端な貧乏を経験してきたからである
何か花嫁修業などさせてもらえない、ただ働かせられるだけだった

それは戦前には子供は親に尽くすものとしてあったからだ、その親が継母だったのが最悪だったのである、そういう不幸な生い立ちでありケチになるのもわかる
正直私の場合母親は余り好きではなかった、もう一人の姉は鷹揚でありケチではない
でも姉にも問題があった、金があっても人を助けたりしない、他人には金に厳しかったのである

結局人間はなんらか性格にしろ何にしろ偏るのである
内向きな性格の人は本当に引きこもりになり異常化したりする、それを自分自身で経験しているからわかる、でも他の人達でも何か社会では力をもっていても異常だということを知った、第一カルト教団の教祖とかが性格的に異常化しているのが多いのである
オウムの麻原であり統一教会の教祖であり創価の教祖の池田大作であれ何か性格的におかしいのである、でも多数が認めているからおかしいとされないのである
それが極端化したのがヒットラーだったのである
つまり性格異常者が社会のトップに立ちそのために膨大な人間が死んで犠牲になったというのも信じられないとなる

ケチな性格というとき別に金がないからケチとは限らない、その女性は本当に明日食べるものがないくらい金がない、でもなぜサシミは冷凍のものを食べないのである
それは見れば贅沢だともみる、でも私の経験ではそういう人はケチではないとなる
金がありあまるほど持っていてもケチな人はいるのである
ケチというときだから貧乏人だけがケチとは限らないのである
ただやはり金がないとなればどうしてもケチになる、節約するしそうならざるをえない
だから大正生れの人でケチになるのはやむをえないともみる
金があれば余裕があれば自ずと余り金にこだわらないともなるからである
ケチな人は無償の行為はできない、ここに死にそうな人がいても助けないともなる、ケチとは金だけのことではない、あらゆることにケチであり出し惜しみする、簡単なことでもしないのである

●十円でも損しないと計算していたら経営者で成功するのか?

ケチな人は絶えずこの人と付き合って得になるか損になるか細かく厳しく計算しているかもしれない、だから自分が損するようなことは一切しない
何かしてやったら倍のものはもらうとなる、そうしないものとは付き合わないとなる
だから自分が苦しんでいたときまず金を問題にして金をくれたら助けてやるとかなる
商売としてみて相手が介護であれ苦しんでいる時そうなる
でも商売としてではなく相手が困っている時、緊急要する時それでいいのかとなる
医者でもなんとか助けてくれというとき金を出さないと看ないとかある、そこに問題がある、つまり医療には物の売買だけではないものがあるから医は仁術になったのである

でも今は医は算術となったのである
ケチな人は計算高く一切損することはわずかでもしないとなる、でもそうなると病気とか介護とか何か困った時そういう人が来たら恐怖にもなる
それを自分自身が経験してきた、人は世話になったとしても後で回復したら礼をするということはある、苦しんでいる時はそういう余裕がないのである
もうぎりぎりに追い詰められていて余裕がないのである
ただそうはいっても中国では病院では先払いになっている
払わな人がいるからそうなっている
保険で全部まかないない、半部以上払わなければならないからである
それは払わない人がいるからそうなっている

その人は経営者に向いていなかったのではないか?

経営でも十円でも損しないとか計算していたらできるのだろうかとなる
別に利益があげることは悪いことではない、でもケチな人が経営で成功するのかとなる
損してやれというのではない、何かケチるということは手抜きしたりいろいろ損することは絶対にしないとなる、そういう人に仕事を頼むのかともなる
ただ正直金がなければそうした余裕が生まれない、だからなかなか責められないとはなる

●人間はなんらかでみんな偏っている―社会でも国でも偏っている

いづれにしろ人間の性格はこうして誰でも偏るのである、それが異常化する、経営者でもサイコパスがいるとか異常性覚者が成功者にもなっているというときわからなとなる
まともな人格者が成功しているわけではないとすればそうなる
おそらく個々の家族でも何か偏る、異常化する、家族のことが良くyahooニュースででている、そこでは息子でが暴力をふるい大人になっても働かないとか家族がめちゃくちゃにされていることが語られている、引きこもりとかは普通にいる時代だからである
家族の異常性は意外と気づきにくいのである、それはやはり家族同士が付き合いがないと気づきにくいのである、人間は何でも相対的にみないと比較しないと自分でも家族でも地域でも国でも見えないのである、大きな石でも小さな石がないと大きいと気づかない
また黒い石どかりだったら黒いのが普通になる、そこに赤い石でも白い石があって黒い石を認識するのである、人間社会でも同じなのである

カルト教団の人達はみんな黒い石なのだけどそれが他と比べないから黒い石であることが認識できないのである、そしてナチスのように全員黒い石となり黒い石でないものは排斥もされるのである、それが人間社会の怖さである
そして何千万の国民が異常化しても偏ってもそれが正常となりそのために戦争ともなり何百万人も死ぬともなったのである、それが現代の大衆社会の怖さなのである
民主主義でも多数がすべて正しい通る社会だから大衆ファシズム社会になりやすいのが大衆民主主義社会なのである、ナチスは選挙で選ばれたからである

ケチな性格というのも一つの偏った性格である、偏るということは人間はそれだけ様々な要因で偏るのである、家族でも偏っていればそこで育つ人も偏るのである
育った家族が偏っている、一つの価値観とかに染まっているとそこで育つ子供も偏るとなる、カルト教団で育った子供は宗教二世はそうである
そういう家族で育てばそれが正常であり否定できないからである
そして家族とか家系でも何か偏っていてケチな家風とか生まれるのかもしれない
家風もそれぞれ違ったものになるからである

人間の問題はいろいろあるけどこの偏るよるということが大きな問題である
どうしてもその所属する所でも狭いからそうなる、実際に人間が日々生活する場は狭い
家族が日々生活する場としても狭すぎる、いくら国家を世界を語っても現実に日々接して生きる場は狭いからである、するとどうしても偏るのである
そもそもいかに偏らないことがむずかしいかである
二人が争う時必ずどららにも言い分がある、一方が完全に正しいということはない
だから一方のことだけを聞いていると必ず偏り公正ではなくなる
だから神は偏り見ないとなった、神だけが偏り見ないことができるからである
人間は必ず何らかで偏るのである、だから裁判でもみんな正しいとはなりえないのである

●ケチな性格もなかなか矯正できない

ともかくケチな性格も性格の偏りでそうなった、でもそもそも性格でもみんな偏る
内向的な性格の人は人嫌いになって引きこもりになったりして偏る、極端化するとそうなる、でもその人は禅のように寺で修行していれば別に変人にはならないのである
社会で生活していると変人になるのである
つまり人間はなんらかで偏る、性格でもそうである、ケチでもやはり偏った性格が形成されたとなる、そういう人と家族でも付き合うことは嫌だとなってしまうのである
でも正直人は何らか偏っている、だから自分はここが偏っていると気づくにはやはり対照的に視るために他の家族でも国だったら外国と比べるとその偏りに気づくのである
そうしないと自覚できないのである
ケチな人は別にその人自身はケチと思っていない、相手がケチだと思っているともなる
人間はとにかく自分の性格でも何でも自分自身もわからないのである

ただ人間の性格は変えられない、それでも何らかで偏っていることを気づくことは必要である、ではケチな性格を矯正できるかとなるとむずかしいのである
私の母親は花なんかいらないと異常化していたからである、そういうことは他の人にもある、貧乏で苦しんだ人は極端に節約して金があっても節約して絶対に損しないとかなる,私の母親はためることしか興味がなかった、そのためた金も盗まれたとなる
性格もやはり生来のものではなく過酷な人生とかなればそうなる
そこまで同情してみ見るのはまたむずかしいとなる、人間の性格とかも生来のものではなくその人が人生を生きる体験から作られるともなる
いづれにしろケチということはなかなか矯正できないだろう、偏ったことは矯正できない社会自体だってが何らかで偏る、そしてナチスにもなりファシズムにもなる
カルト教団とかこれほど社会を席巻するのもそうである、社会自体が偏ってそうなったのである






2023年01月16日

君子危うきに近かよらずー小人閑居して不善を成す (このことを人間は守れないのはなぜか?)


君子危うきに近かよらずー小人閑居して不善を成す

(このことを人間は守れないのはなぜか?)

「君子危うきに近寄らず」の意味とは? 使い方や類義語とともに解説

このことの解説をしていたが何か違っていると思った
この君子危うきに近寄らずとはその意味が奥深いのである
これがわかるのは相当に人生経験をしていないとわからない
あの時なぜ失敗したのかとふりかえるとそうだった
人間はほとんど君子危うきに近寄らずを守れない
それは何故かとなれば人間には欲があるからである
だからその欲のために危うきに近寄るのである
美人見たら性の欲望が抑えられないとなり過ちを犯すとなる
つまり人間の欲はその他いろいろありそのために君子危うきに近寄らずを守れないのである
だからこの格言を守ることは不可能に近いとなる
なぜこれほど事件が日々起きて来るのか、もめ事があるのか、それは誰しも欲があり
その欲のために危うきに近寄るのである
何か儲け話でもそうである、今や地銀とかでも経営が苦しいから投資信託を売りつける
投資は悪いものではないにしろそれもつくづく危険をともなっている
投資信託とか株でも知っていて自己責任ですれば問題はない
でも知らないですると君子危うきにかえって近ずいて大損するとなる
だから本当に君子危うきに近かずくことは不可能に近い
隠者になることは相当に難易度が高いのである

自分自身が引きこもりとなり隠者のような生活をしてきたがそのために社会性がなく肝心のことすら知らないことになり親の介護になり死ぬほどの苦労をしたともなる
つまり隠者というのも問題がある、社会を知らないことはそのことで必ず苦しむからである、君子危うきに近かよらずとはこの世には余りにも危ういことが多すぎる
何か事件があるとしたら何かやはり危うきものに近づいてそうなった
そうなるとまず女性というものにく近かずくものも危険だとなる
でも女性にあえて近づくのは男性の性欲があるからだとなる、ではそうならないのにはそもそもその性欲がなくならないとそうなるとなる
そのことから様々な問題が事件でも生まれているのである

ただこの世の中何が危険かわからないのである、男女関係だけではない、金銭関係でも危険がひそんでいる、だから何らかで危うき近かずき失敗する、それは自分自身でもそうである、何か危険かわからないのである、何かの調子で君子危うきに近かずいていることがあるからだ、つまりそれだけ君子危うきに近かよらずは守れないということである
だからこそ隠者になることなど相当に難易度が高いし誰もなれるものでもない
いづれ何か問題を起こすのである、だから小人閑居して不善を成すとういうのもそうである
これも自らの経験で理解した、小人が高等な隠者になることは至難だとなる
引きこもりであれニートであれその人達も必ず不善を成すのである
一見社会に迷惑をかけないからいいじゃないかともなるが何か問題を起こしやすいのである、それがいつか表面化するのである
そういうことができるのは特別選ばれたまさに君子しかいないとなる

「君子危うきに近かよらず」「小人閑居して不善を成す」これは本当にこれを実行できる人は本当にまれだと思う、余程優れた人でないとできないと思う
それは自分自身の経験で理解したのである、自分は小人だということを理解したのであるとにかく何かもめごとでも事件でも巻き込まれるのがこの世である
それから身を守ることは本当にむずかしい、どこでそういう災いが生まれてくるかわからないのである、でも知らずに巻き込まれ人もいる、でも基本的に人間の欲があるかぎりそうなるのである

カルト教団などもそうである、その人達に教団に近ずくことは危険である
でもいろいろ問題をかかえていて近づくことになる、その動機が人間の欲なのである
奇妙なのは宗教は欲を抑えるものとして禁欲から生まれたものだがカルト教団はむしろ人間の欲でそれを刺激させて会員を増やすのである
御利益がある地位とか金が得られるとか美人と出合えるとかあらゆるこの世の欲を刺激して会員を増やすのである、だから全く本来の宗教とは正反対のものとなっているのであるでも純粋な若い人だとそれがみぬけないことがある、でもなぜそんなに祈っているのか
選挙に勝つために祈っているのか、それはこの世の欲を実現させてくれるからだとなる
もちろん病気を直すためとかもある、もともとは病気が人間の一番の問題だったからそこから宗教が普及したのである、科学技術が病気を直すようになってからはそういうことがなくなったのである、でも依然としてカルト教団などが跋扈するのは科学技術でも解決しない問題が人間にはあるからである

人間はカルト教団でもあれどうしても危ういものに近づく、それが避けられないのであるだから老人になって人生をふりかえるといかにこの世が危ういもので満ちているかわかるそのために命を落とすものも多いのである、その原因は人間にはいろいろな欲があり欲を抑えられないからである、それで君子危うきに近かよらずを守れないし小人閑居して不善を成すとなるのである
だからこの格言は本当に短いにしろ深い意味がある、それは現代でも通用するのである
そういうことが普遍的真理なのである、時代が変わってもに人間の欲はなくなるわけでもいなから通用するのである、聖書でも人間は欲で滅びるというときそうである
それだけ人間の欲は消えることがないからである、それは科学技術がいくら発達してもそうなのである、人間の欲は消えることがない、消すこともできないのである
科学技術が発達しても理想の国など生まれないのである
とにかく人間が津波でも地震でも病気でも災いに満ちていることを痛感した、そして人間は人間関係でも必ず不和が生じる
結婚しても三分の一は離婚しているのである
この世はこうして災いが絶えないのである.
それで最後は神によって滅ぼされとなっているのである、そういう人間の不和は災いは消えることがないからである

2022年12月12日

人間は物語を残す(history)と同時に教訓を残す (でも人間は知恵の実を食べて神のようになったとしても賢くなれなかった)


人間は物語を残す(history)と同時に教訓を残す

(でも人間は知恵の実を食べて神のようになったとしても賢くなれなかった)

●個々の体験から教訓を得る

お骨には意味がなくその人の一生が人生でありそのstoryを残すと私自身の家族の歴史から書いた、それは私的なものだから他の人は関係ないとするかもしれない
でもやはりstoryはhistoryとなったように歴史は物語でありその物語が必ず教訓を残しただからいろいろな庶民が残した諺ですら人間がこれまで生きてきた中で残されたものであり教訓となっているのである、それは時代が変わっても変わらないから活きているのである、ということは人間そものもがいくら科学技術とか社会が変わっても変わらないから活きているのである
「金の切れ目が縁の切れ目」というときでもそうである、それが今は極端にそうなっているが昔でもそういうことがあり今に活きているのである

私が経験したことを書いたが私的な家族のことに留まらない教訓として読めるともなる
深く読んでもらうと確かにそこには教訓がある、兄の不幸は私の家とかかわり私の家が責められるものだった、でもその後の兄のことが全部私の家の責任とはならないと思う
何か金使いあらく結婚してもうまくいかず借金したことで離婚になったのか、そのいきさつはわからないにしろ何かしら兄自身にも責任があったともみる
いくら不幸な生い立ちでもその人自身がその生い立ちや環境にその責任がすべてあるとは思えないのである、ただ自己責任を余りに言いすぎるのも問題である

兄は過酷な運命に生まれたことは確かである、でも境遇はみんな違ったものになる
その境遇のせいにすべてができるのかとなると疑問である
ただ同情することはありそれで墓標を建てたてて供養している
ただ不運の星の下に生まれた人はいる、するとそのカルマを相当に自覚して生きないと
同じことが起きるのかともなる、兄の交通事故の原因はそもそも離婚したり借金したりと追い詰められた結果そうなったともなるからだ
それを恵まれた自分自身が言いにくいにしてもそうである
人間は誰しもカルマを背負っている、それが苦しみとなって現れる

人間は何であれ一人の一生でそれが別に優れた人でもなくても必ず教訓を残すのである
実家のめい子にしてもそうである、母が姑に嫌われたとしても自分だけは金持ちの人と結婚したりして娘を置いてそうしたから今度は認知症になったときその娘に頼ることはできなかったのである、娘は母親とすら思っていなとも見たからである
ただ金が欲しいというだけだったからである
その不幸は家を出るなら娘と一緒に出るべきだったともなる、自分だけが出て金持ちの人と再婚したということは勝手だったとなる
子供手放すというときそのことがあてはまる、それも教訓だった
小説ではないが小説でもそれが事実に基づいているから教訓を伝えるとなる
ただ私自身は小説は苦手でありなかなか深く読めないから読んでいない
でもこれを題材にすれば小説家なら書けるだろう、事実から小説が生れているからである

●歴史も必ず教訓を残すから学ぶべき

歴史もhistoryも必ず人間に教訓を残してきたのである、だから歴史を知るというときそこから教訓を学ぶということである、歴史となると大きなものになるからわかりにくいことがある、でも必ずそこから教訓を伝いているのである
その教訓を読み取る努力が必要になる、これは相当にむずかしいことになる
個人でも謙虚になれということはわかる、でも歴史の中でもやはり謙虚にならないで傲慢になって失敗した例はいくらでもある、野郎自大国が漢をみくびって戦争に負けた
そこにまさに夜郎自大国になっていたのである、それも教訓だったのである
それは実際日本の太平洋戦争でもアメリカの大国と戦争して勝てると思ったのも傲慢だった、相手をみくびりすぎたのである、そしてアメリカがどれだけ強大な国かを知らなかった、アメリカを直接接して知っている人はわずかだったからである
だからやはり野郎自大国になっていたとなる

結局なぜ人間は失敗するのか、それは傲慢になったからだとなる
個々人でもそうである、事業に失敗した人は意外と傲慢になって失敗したとなる
母親の実家の父親は警察署長だったから機織りの会社を経営して成功すると思っていたのである、でもその方面の経験とか知識に欠けていたようである
詳しいことはわからないにしろ警察署長だから成功すると思い傲慢になっていたのである母が言うには威張ってばかりいたと言っているからである
何かこの傲慢になることが人間が失敗する原因で多いとなる、その人が事業に失敗したのも確かに簡単に誰もとれない一級の免許を持っていた、だから会社に勤めている時は優秀な技術者として認められていたのである、でも事業をするというときまた違ったものになる、でもその人もそういうふうに技術者として優秀だと認められていたから事業を起こしても成功すると思っていたのである
その失敗の原因は傲慢になっていたということにあり共通しているとなる

他人のことを言うが私自身も失敗だったのである、結局何かをやろうとしてやることもできず引きこもりで終わったとなる、そういう機会も与えられず終わったとなる
多少教育に興味があったがそれも結局は経験を積み重ねることができず失敗だったとなるただもともと短歌とか俳句とかは作っていたからそれは継続して詩でも作って来たのである、その面では積み重ねで我なりにいいものができるようになったとみている
でもそれも時間をかけたらやっと死ぬ頃になって花が開いてきたともなる
人間は最初は芽にすぎない、でもそれが花開く時がくる
それも時間がかかるのである、自然と接して自然を知るには時間がかかる
だから都会から何か都会人からは芸術家とか天才が現れないというのも自然と接することがなく自然がどういうものか学べないからだとなる

●老人は経験を積んで賢くなる、二百年も生きればもっと賢くなる

だから青年はどんな老人でもいい、その老人から何か学ぶものがある
例えばとるにたらないくだらない老人でもあんな老人になりたくないとみれば学んでいるとなるからである
どういう老人になるかとなるとやはりすでに若い時から人間形成が始まっているのであるつまり若い時が大事なのはその方向が決まるからである
それでカルト教団などに入るとそうした時間でも労力でもただ奪われるだけだとなるから怖いのである
ただ私の場合は別に早い時期にやめたからそれも一つの経験であり教訓を得たということである
人間はもしかしたら成功した時かえって傲慢になり教訓を得ることがない
でも失敗した時必ず何らかの教訓を得るとはなる
人間とはその繰り返しカルマの繰り返しだともなる、なぜならカルマは延々とつづくからである
恐ろしいのは原発事故の失敗は未来永劫続くということである
その事故の失敗は余りにも大きいものだったのである

ともかく人間は賢者になれない、その歴史を見ても愚かである、その愚かさは何百万人も戦争で死ぬとなるから怖いのである、その反省があれば戦争などしないとなるがやはり依然として戦争があるのは人間が賢くなれないことなのである
一人の人間が賢くなったとしても大勢の人は賢くなれない、それは大衆化した社会をみればわかる、民主主義の数で決める政治ではかえって能力もないモラルもない人が選ばれていることでもわかる、数で決めるならどこでもそうなる
何か先見の明がある人など選ばれないだろう、政治とは権力争いでもあり権力を掌握するものが命令するともなるからである
要するにこうして人間が賢くなれないことが絶望的なのである
それは民主主義であれ社会主義であれ資本主義であれそうである
システムや組織を変えたとしてもそうである、個々人のレベルがあがらないと根本的にな解決にならない、でもどうしても大衆社会では賢者とかはありえないのである
水平化されてみんな同じだとなるからである
それで賢人政府なども実現できないのである

●エデンの園の禁断の実を食べて神のようになろうとしたがなれなかった

それは人間のような知恵がないからである、それはエデンの園で禁断の木の実をリンゴを食べたためである、それを食べてどうなったかというと人間自身が神となり知恵を持つものとなった、神が治めるのではなく人間自身が神となることになった
その原罪があり人間は自らを神として生きることになったのが根本的な原因なのである
でも結局人間の知恵は神に及ばないから人間社会は治まらないのである
絶えず争いがあり戦争もなくならない、法律を整備しても科学技術が進歩しても原発事故のように大事故になり取り返しのつかない失敗をした
それはギリシャ神話とかでも予言されていた、火を盗んだプロメテウスがゼウスから過酷な罰を与えられた

要するに人間は神となり知恵あるものとなり世界を治める

それができなかったのである、人間の知恵は神の知恵には劣る、神の知恵を凌駕することはできない、だから原発でも人間の知恵で作ったとしても崩壊して故郷に人間は住めなくなったのである、人間が自らを知恵あるものとして神のようになったときそれこそが傲慢であり人間はそのために高度な文明でも崩壊する、科学技術でも原発事故となり遂に核戦争で滅びる、ハルマゲドンで最終戦争で人間は滅びるとなる
それが智慧の実を食べた人間への罰だったのである
現代の文明自体が知的に技術的に高度ともならない、エジプト文明でもマヤ文明でも高度も知的で高度なものがあった、今でもピラミッドが現代の技術で再現できないものがあるでもどんな高度な文明があってもそれも滅びる、砂に埋もれジャングルに放棄されて埋もれたのである

人間の知恵で作った文明は永遠のものにはならない、神の国に永遠の都がある
つまり遅かれ早かれ文明は滅びるのである、人類も神の意にかなわないものとして滅びるのである、大都会があってもそこには美がないのである、それが致命的なのである
なぜそこに美なる荘厳な都を作れないのかとなるからだ
人間がいない自然状態のままの世界には美があった
それは津波で再現されたのである、八沢浦が元の美し入江にもどったということを書いたこれはそこで死んだ人もいたのだから批判された
でもその時入江にきらきら日がさして波が寄せてきたのを見た時驚嘆した
津浪は確かに悲惨だったけど自然は美を作り出すということである

●永遠の都はこの世にはない

それに比べると東京とかでも一千万人住んでいてもそこに美がないのである
それが致命的なのである、一千万人も住んでいれば確かに経済力とかはある
てもそこに美がない、田舎なら何もなくても自然の美はある
すると文明自体が何なのかとなる、かえって自然の美を破壊した怪物都市でありそんな所に人間が住めるのかとなるからだ
巨大な胃袋であり精神的なものがない文化がないのである
例えば天才でも都会からは生まれない、一千万人の大都会があっても天才は生まれない
育たないとなる、地方都市から生まれているのである、フィレンツとかルネサンスが起きた都市でも五万くらいだったのである、だからなぜそんな小都市からあれだけの文化が芸術が創造されたのかとなる

要するに人間の知恵で禁断の木の実を食べて神のようになったとしても人間の知恵は神の知恵には及ばない、だから必ず自壊して滅びるのである、永遠の都はありえないのであるそこに人間の限界がある、それはアダムが食べるなと命令した禁断の木の実を食べた結果として人間に起きたことなのである、それが人間のカルマとなり宿命となり今日までつづいている
人間はどうしても神のように賢くなれない運命だったのである
だからどうしても個々人でも失敗するし社会自体でも国でも失敗するのである
人間の愚かさはいくら文明が発達しても消えることはない、かえって人間は科学技術でも核戦争ともなり原発事故ともなり滅びるというのか運命なのである
それはエデンの園で禁断の木の実を食べて人間自ら知恵ある者として神のようになったというときから始まっていたのである

それで神に逆らうものとして人間がありバベルの塔を建ててもそれが崩壊するのである
それがまさに現代の文明でもある、原発事故のように崩壊するのが定めだったのである
人間は個々人でも全体でも社会でも賢くなれない、確かに歴史で教訓を残したとしても
依然としてやはり教訓は必ずしも活かされないのである
それは個々人でもそうであり社会全体でもそうである、だからカルマを繰り返しているのである、その原因はまた人間の欲にある、人間から欲がなくならない、それでもう68歳とかで熟年離婚したりする、不倫したりしているのである
人間の欲はそれだけ強いし消えないのである、だから人間が生殖して生き続けているともなる、それだけではない人間の欲は様々あり老人になったから消えるけでもなくかえって最後の欲望がでてくるともなる
そのために人間は欲で滅びると予言されたのである

●個人的には賢人はいる、でも大衆はほとんど賢くなれない

いづれにしろ社会全体でも賢くなれない、個人的にもなれない、ただ個人的には賢人とかいてギリシャではソクラテスとかが賢人政府を作ろうとした、それはあくまでも理想としてであり現実化はされないのである、むしろ政治となると権力闘争でありマキャベリズムになるのである
個人的には人間が百年ではない二百年とか健康で頭もボケないで活発であれば賢くなるとなる、成せなら外国でも理解するのがむずかしいからである
一つの国を理解するだけで何十年ともかかってしまうこともある、それだけグロ−バル化すれば知識も膨大に拡大するからである
でも歴史的には人間は何千年経ても賢くなっていないのである
個人的にはもし最初に老人となり青年となれば賢く生きれる、結局若い時は享楽に走ったり無駄なことで費やされる、そして時間を浪費するのである
もし老人から青年になればそういうことはない、時間の貴重さを知っているからである
また200年も生きるとなればグロ−バル化した世界では知識も膨大になっているからそれだけ元気に生きれるとしたら理解も深まる
たいして才能がなくても一つの分野の大家になれる

私自身が何でも理解することでも遅すぎたからである、でも遅いとしても長く元気に生きられば成果が生まれてくるとなるからである
個人的には確かに賢人はいる、それも極わずかである、あとは大衆となるとパンとサーカスになる、大衆社会となるとファシズムとなりポピュリズムとなり大衆を扇動するカルト教団とかが席巻してナチスになったのである、今ならカルト教団がそれと同じなのであるともかく人間は賢くなれない、やっと死ぬ間際になって人生はこうだったのか人間とはこういうものだったのか別に本を読まなくても体験から知るから老人は悟ったようになるのである、賢い人にもなる、でもまた老人でもやはり賢くなれるのはわずかだとなる
そこに人間の絶望があるとなる、科学技術ですべては解決しないからである

いくら科学技術が発達しても高価な機械で身体を診ても医者に見る目がなかったらわからないのである、それで脳卒中の前兆症状が三つもでていたのにわからなかったのである
一回は遠くの病院で診てもらい近くの医院でも診てもらってもわからなかったのである
科学技術の恩恵が大きいことは否めない、でも全能ではないのである
だからこの世の問題がすべて科学技術で解決されるというのは一つの空想にもなる
そうあってほしいというとき科学技術者が神のように見えるとなるが神の知恵を人間は持つことはできないのである、だから原発事故にもなったのである

遺骨の物語 (人が残すものは何なのかー骨ではない―家族遺棄社会を読む)

2022年12月08日

人生には確実に運が作用している (運も不運もカルマもめぐってゆく・・・)


人生には確実に運が作用している

(運も不運もカルマもめぐってゆく・・・)

人生は運だ ということは古今東西て言われてきた、それはなぜなのか、やはり人生を生きてみてそう感じたからだろう、それで財産でも運が作用してるとなった
fortuneは運の意味もあるからである、つまり人間は何でも努力だと思ってる、でも実際は 運の作用が大きい
私の家は小さな店を始めた、それで繁盛したのは別に商才とかあるわけでなかった
ただ場所が角にありその時戦後間もなくであり物が無くただ物が置けば売れたのであるその時車などない、だからみんな近くで買い物してたのである
だからその時代は何かを始めるには良い時代だったのある、簡単なことで店を始めることができたからである、本当に立派な店から始める必要もなかった、間に合わせもので始まったのである、それはどこでも同じだった、小さな工場でも大した機械も備えなくても注文があり人手が足りないから中卒の人たちを地方から呼んで雇ったのである
その時代はそうして 大した技術がなくても成功したとなる
それは時代の影響だったのである、今になればそういうことはもう簡単にはできない、大規模になり町の小さな商店消失したからである 
こうして時代時代によって運が作用しているのである

必ずしもその人は優れているとか優秀だとかで成功するわけでもないのである
いくら優秀でもその人が時代によって活かされるとは限らないのである
例えば江戸時代なら力があるものが優れた人となる、それで村では一人前に認められるのはくらべ石がありその石を持ち上げることができると一人前にされたのである
その時は機械もないのだから人間の力に頼っていたからである
今になれば力仕事は必要でもむしろ知能の方が大事になっている、建築でも設計する人が上になるのである
それで人間社会では必ずしも有能であっても有能にされない、そこに運の作用がある
いくら優秀であっても活かされず埋もれる人が多いのである

運と言う時私自身の家族でもそうだった、なぜかわからないがある人が死ぬと何か返って別な人が運が良くなるということもある、私の母は前の夫は事故で死んだ、それは不運だったのである、でも母は後妻に来て私を産んだのである
そして前の夫の子供 連れてきたが私の父親はよくしなかったのである
そのことで私は悪いなと思っていたのである、その兄も40歳で交通事故で死んだのであるだからこの不運は何なのだろうと思う、その理由がわからないのである
たしかなことは誰かが死ぬと誰かが良くなることがある

その女性は苦労した人である、貧乏が続いたのである、でも親しい人の妻が死んで今度はそこに言って話し相手とかになった、妻が死んだ結果そういうことができたのである
その女性は2回離婚してるのである
またその女性が私の家に来たのは私の家族がみんな死んだからである
それで私はその人に良くしているのである
別にその人が特別自分に必要だからというものでもない、たまたま家族が死んだのでそうなったのである

そのことで猫を一匹飼っていた、その時もう一匹の黒い猫が餌をやるとき 餌を奪いに来たのである、私はその猫を追い出していたのである
でも飼っていた猫は死んだ、結果的にその黒い猫 に餌をやっている
その猫はなれない、だから可愛くもないのである
それでも餌をやっている、それは一つの運命であり運だとなってしまう
つまり何らかの運が作用してそうなっている、その猫は不運だったが私が飼っていた猫が死んでいい運が回ってきたのである 
だから何か人間でも不可抗力な力が働いていてそうなるのかとなる
それが運なのである、それで金運もあり財産運もあり必ずしもその人の才能や努力だけで全てが決まらないのである、そこには運の作用があ、ただ運も不運もめぐってくるしいつまでも不運にはらない、またいつまでも運がいいともならない、それは巡って行くのである

その運は個々に時間をかけて巡って行くのであり一挙に全体に巡ることはない
一地域でもある人が金持ちになるとやはりその周りに金が巡って行く、だから その金持ちを悪いものとして拒否するとかえって金が巡ってこないということはある
金は天下の回りものなのである、金も運も一箇所にとどまらない、めぐみは巡りであり巡って行くのである、でも一挙に全体に巡っては行かない、ここに徐々に巡って行くのである
ただ逆に悪いことも巡って行く、それがカルマである、悪いこともだいだいに受け継がれることがある、親の因果が子に報いということである
ともかく優秀であっても努力しても必要でもそれで全てが人間の場合決まることはないのである、そこに運の作業があるからそうなるのである 

カルト宗教だと福運とかしきりに言うが返って実際は運が悪くなっている人達が多いのである、そういう事例を集めているのは創価に会員をとられた本山とか同じ日蓮宗でも対立している寺とか団体である、数が多ければどうしても不幸な人も多いのである
そういう団体に入るとかえって運がなくなることは確かである
人の不幸につけこんで会員を増やして団体の勢力を増大させる目的でそうしているからである、つまり人の不幸を種にして幹部達が福運を奪うことにもなるからである
なぜあれほど会員を増やすことに熱中しているかとなればそこから収入も得られからそうなる、でもそういう団体に入ると実際は不幸になる人が多いのである
ただ利権を得る、それで福運を得るのは幹部だけだともなる
寺でも宗教となるとお布施がもらえるのは福運がありますよ御利益がありますよ祈りなさい、そして献金しないさい、その福運はお金はもらいすまとなっているのである
かえって福運が御利益が奪われているのであ

それは共産主義でも同じなのである、権力を得て莫大な金を得ることになったからである運はあってもその運は作為的に人工的に作りだした運であり不公平になるのである
何か運には神の采配があるかもしれない、ただ不可解なのである
確かなことは運も不運もカルマもめぐってゆくのである、これだけは確かである
世界史で見てもある国が栄いても別な国が栄える、日本が栄えて今度は中国が栄えたとなるからである、富は金は一か所にとどまらないのである
だからどんな人でも一生のうちに運不運がありカルマでもめぐってゆく、そういうことがあるから今不運でもやがて運がめぐってくるということがある
するとそういう運がめぐってくるのを待つことが必要だとなる、ただなかなかなか待ちにくいとなる、でも何か富でも一代たげでは築けないし何事即製するものがない
一代では成果ができないが何代かで成果が出るということはある
そこで本当の成功は長い時間をかけないとありえないともなる、棚からぼた餅のようにはならないともなる

私の場合でも何か今になると自分のために家族があったともなる、父親は酒屋の丁稚であり苦労したし兄は不慮の事故で死んだとか不幸があった、また母の実家でも不幸に死んだ人がいる、母自体が不幸だった、でも私のためにそういう不幸があり私が活かされたともなる
それで私は家族に感謝しいいるのである

時代の運
家族の運
地域の運
・・・・

などがあり逆に時代の不運、家族の不運(親ガチャ)、地域の不運(原発事故)・・・
とかにもなる、人間を決めるのはいくら努力してもどうにもならないことがある
運の作用が大きいからそうなる、だから努力しても無駄だということではない
努力の上に運が加わらないとうまくいかないということである
女運が悪いとか男運が悪いとかもある、人間には様々な運が作用しているのである



2022年12月03日

人生の危険―利欲を離れることができない人間 (金の切れ目が縁の切れ目ー利によって離散集合)


人生の危険―利欲を離れることができない人間

(金の切れ目が縁の切れ目ー利によって離散集合)

●人間の本心は利欲で動くこと

利欲離れず
衆寡騒ぎ治まらず
人の世に危難多し災い多し
隠棲するも難あり
その心の欲は消えず
君子危うきに近寄らず
木石のごとく素心を保ち
己を持するを良しとする
利欲を離れれば心安らかなり
俗人と交わることも危うし
人はみな利欲に生きる
利をもって近づき
利をもって離れる
巧言令色にして仁なし
その口は災いのもと
内心あるは利欲のみなり
口を慎むべし
人は利の心に敏く
仁の心にうとし
人はただ利によって計り
利に追われ利にかられ利に終わり
その本意を失うを知るべし

この世に生きるとは何か?利欲から人は離れることはできない、日々の活動が利欲でありこれを否定できない、そもそも無料で何かを提供する人はいない
店で何か買うにしても売る方でも利欲でありそのために日々あくせくしている
一日たりとも利欲離れて人間はありえないのである
この世の付き合いも交際も利欲であり利欲を離れて交際もないのである
お歳暮とかいろいろ世の中の慣習があってもそれはただ物を贈与するというのではなく
そこには必ず利が働いている
上役であれ御世話になった人であり何らか利が働いて贈り物もある
つまり人間社会では無償の行為とか無償のものはないように見える
神が与えるのは無償である、人間を通せば無償でくなくなる、互いに利益になるから商売もある、それを否定はできないし悪いともならない
でも人間の交際が利しかないというときそこに危険がある

●兄の交通事故で経験した人間が利欲で豹変する怖さ

そういうことを身近かで経験している、兄の交通事故でその雇い主が盛んに兄が乞食のようにして来たのを雇ってやったとかいろいろ言うのは何なのだろうとわからなかった
そして骨を置いてゆけというのもわからなかった、墓を作ってやるからとういのもわからなかった、墓を作ってどうするのかとなる、それは保険金をもらうためだったのである
墓を作った所で金にもならないからである、墓代を払い供養するから金を出せということだったのである
それは交通事故の保険金をもらいたくて言っていたのである
なぜなら身よりがないと見ていたからである、私は車がないからそれがわからなかったのである、実の母親がいて保険金を受けとる権利があった
結婚した妻はその時離婚していた、それも一週間前だったのか離婚した、その書類を記したのである

中学生の娘がいたが母親であり妻にも離婚していなければ権利があった
でも離婚したので喪失していたのである
私の家では兄には良くしていなかったので権利を主張しにくかった
でも雇い主は雇ったとしても働いてくれるから雇ったのである
病人でもない、そのトラック会社で働く者として雇ったのである
その社員が交通事故で死んで権利があるとはならなかったのである
結局妻の兄の家に引き取られた、なぜならここから遠い静岡とかでありその事情もわからなくなっていた、でも妻の家とは子供の時から行き来していたからそうなったのである
だから人間でも遠くなると何が起きているからわからなくなるのである
確かにその会社の社長は雇ってくれたということはあったかもしれない
でも働く者として必要だから雇ったとなる、何か病気になったから世話したというのではないのである

おそらくこれも交通事故の保険金が大きいので身よりがないとしてその保険金の受取人になりたかったのだろう、それまではそんな気持ちはなかった
でも保険金というのは大きいから利欲が出てきたのである
人間はそうして利欲が何かの機会ででてくる、それが怖いのである
その社長は別に兄が交通事故で死ななかったらそんなことはなかった
ただ雇って働いてくれていただけだとなる
だから何かの調子で利欲が人間には出て来る、美人を見て性欲を抑えられなかったとか常にあるからである、別に美人を見なかったらそういうこともないかもしれない
金でもそうなのである、だから遺産相続でももめるのである
大金になるからそこで人間の欲が出てくるのである
そこで相談した弁護士も相談するだけで百万もとったのである、これも詐欺なのだが頼んだ人も社会を知らない人だったのである
私自身も車がないから自賠責だとか任意保険だとかわからなかったのである

こういうふうに欲に目をくらみ豹変するのが人間である
この辺の原発事故でもその補償金が大きいからその金をもらうことだけが目的にもなってしまった、復興とは補償金をどれだけ多くもらうことかにもなったのである
何か故郷を復興しようとするより補償金をもらうことが優先されたのである
そして故郷を出て他で家を建てり仕事を持ち帰らなくなったのである
二千万もらったとか今まで手にしない金が入ってきたから何か平常心を失ったとなる
それだけ貧乏な人達もいてそういう金を手にしたことがないからそうなった
人間は金で狂ってしまうのである、黄金を求めて争いがあるのもそのためである
無法者がアマゾンに集まり黄金を探して一攫千金を夢見てアマゾンの森を破壊して汚してゆくのもそのためである、遺産相続で兄弟が殺し合うということがあるのもそうである
ともかくあらゆるところで人間は利欲を求めるのである
そのために邪魔する原住民が銃で殺されたというから怖い、まるで麻薬の利権で争う
マフィアかギャング団である

●人間の本心は利欲で動くことーそして善人の仮面をかぶる

人間は善など求めない、ただ利欲があり利を求めているだけである
カルト教団などもそうである、無私になることが宗教だとなるがそんなことは全くない
ただ欲を求めてそうした団体に入ってくる
何か利益がないかとか入ってくる、そしてその欲を充たすために祈るのである
御利益のために利権のために祈っているのだから宗教とは正反対の団体なのである
たいして暴力団とも変わりないともなる
でも暴力団は俺たちは悪だということを表明しているのである
でも宗教を看板にしているカルト教団はただ宗教を自分たちの欲のために利用しているだけなのである
それはお賽銭を投げて御利益を祈る人とにている、千円を入れたら二千円でも御利益になって帰ってきてくれと祈っているのである

だからなぜ宗教を看板にしているのか神仏に祈っているのかわからないとなる
そもそも宗教というと心を浄化するとか無心になるとか無欲になるとかであるがその正反対がカルト教団の実体なのである、御利益と利権と権力を欲しくて集まり祈っているのである、そもそもそういう場所に良くいられるものだと思う
欲深い野心家が集まりその欲望を達成するために共に祈り権力争奪しようとするのである別に病気を直してくださいとか神仏に祈ることは悪いことではない
でもそのために誰かに金を寄付するとかなると違ったものになる
あなたの願いをかなえてやります、そのためには私に金を払いなさいとなるのはおかしいのである、その人は神仏でもないからである、その人もただ金が欲しくてそう言っているだけなのである

ともかく今世の社会はこれまででも人間の社会は人間は欲から離れてありえないのであるだから宗教というとき出家して僧になった、それは俗世ではどうしても利から離れられないからである、みんな日々生活するために利から離れられないのである
それがこの世である、人間の関係も利でしかなく金の切れ目は縁の切れ目にしかならない利に集まり利によって離れるだけなのである
だから出家があり修行したとなる、その出世とは仏教では世を出ることなのだがかえって世に深入りしているのがカルト教団なのである
出世するとはこの世で出世して地位でも権力でも得ることになったのである

だからこの世から俗世から俗人から離れないと心の清浄は保てないから出家して世とかかわらないものとして修行したとなる
もちろんそういう場でも寺でも修道院でも堕落したことは確かだがその動機は心の浄化のためであったから今のカルト教団などとは全く違っていたのである
第一カルト教団に入る人は利益を求めて入るのであり心の浄化とか全く関係ないからである
山で断食して心を浄化しろとか言ったら会員になる人などほとんどいなくなるからであるあらゆる欲を肯定するからこそあれだけの人数に増えたのである
創価などは一票になればあとはどうでもいいだけである、数を集めれば権力になりそれでこの世の欲を得られるとういだけである
題目をあげるのもただ欲を達成するためであり最終的にはこの世の権力を得て欲を充たすためだとなる、だからなぜそういう団体が宗教法人として認められて無税になっているのかわからないとなる、宗教もただ利益のために利欲のために利用されるだけだとなる

それで地獄に落ちるとか罰当たるとか言っているのだからあいた口が塞がらないともなる
そもそも利欲だけで動いている者がそんなことが言うこと自体言えること自体なんなのだろうとなる、シャカとかキリスの教えをただ自分達の欲を達成するために利用しているだけだとなる、そんなことしていたらそういう人こそ地獄に落ちて罰当たると普通の人でも理解できるはずなのである、でもそうなっているのは利得を利権を得られるからであり
全然悩みもしないのである、人間はそもそも俗世間にどっぷりと浸って生活していると
それが日常になり別に何も感じなくなるのだろう
それでも何か若い時は潔癖さを持っていたことは確かである
でも歳をとるにつれて塵埃の中に没してその汚れも当たり前であり感じなくなっているとなる、この世とはこんなものだとして諦観してあきらめるとなる

●人間は賢者になれない、君子危うきに近寄らずの意味

ではこの世がそういう世界だというとき人間がそういう利欲から欲望から離れられないとして世を嫌い隠者となる隠棲するとしてもこれも結構難易度が高いのである
要するに隠者になるとしても人間はやはり欲があり欲から離れられないからである
また引きこもりとかニードかになると何か人間にまともに成長しないのである
それより何か能力がないので脱落したためにそういう人ととなったともみる
何であれ職人にしてもそれがみんななれるわけでもない、建築土木関係でもこれも力仕事があり力がないとできないとかある、だからニートとか引きこもりはそうした仕事するできないからかともなる
自分には力仕事はできなかったとかあるからである

結局人間は賢くなれない、賢者になれないのである、だから引きこもりでもニートでも
小人閑居して不善を成すになるのである、何かおかしな方向に行ってしまう危険がある
ただ老人になると人生のことが自ずと解明してくることがある
欲を減退して悟ったような顔に普通の人でもなるのである
でも依然として老人になってもいろいろな人がいて欲から離れられない人もいて問題を起こすし小人閑居して不善を成す人が高齢化社会で膨大に増えるのである
暇をうまく使いない人が増えるのである

いづれにしろ人間の関係は金の切れ目が縁の切れ目だったとなる
みんな金を求めている、でも金が利がないとなれば別れるだけである
違うのは家族くらいであり友情などもないだろう、利により利なければ離れるだけであるそういう人が近所でもどこでもそうだというとき何かあると病気であれ事故であれ何か不測の事態が起きた時襲ってくるとなるから怖いのである
もしかしたら虎視眈々として財産を狙っているとかなる
そういう中で人間が生きていることか地獄だとなる、親鸞でもそういう地獄を生きたから地獄を語ったのである、この世にこそ地獄がある

それはいくら科学技術とかでも進歩しても同じなのである
怖いのはその科学技術で人殺すことにもなる、原爆でも落とされる核戦争にもなることである、国と国は対立してそうなる、国と国は平和になりえない、やはり隣の国でも弱体化すれば襲ってくるとなる
だからこの世に安住の地はない、地球に安住の地はない、利欲が消えない人間がいる限りどこでも安住はないのである、地獄とはこうしてこの世にある、いつ襲われるかもしれない人間社会だから地獄なのである
この世ではこうした地獄から逃れようがない、ただ希望は神の国で神が治める国で生きるたとしか希望がないのである、この世に理想の国など実現しないからである

文明がすすみ豊かになったとしてもかえって人間の素朴さは素心は失われる
すると文明とは何なのかとなる、法が発達して正義が行われるかとなるとならない
法律を破る者が弁護士だというときそうである、ただ法律は悪を利を得る為の手段だとまでなる、インディアンをだました白人がそうだったとなる
巧みに契約させて土地を奪ったとなるからである

●この世に桃源郷はない

山中問答  <李 白>

余に問う何の意ぞ 碧山に栖むと
笑って答えず 心自ずから閑なり
桃花流水 杳然として去り
別に天地の 人間に非ざる有り


呉山深くして而して深し
性を養ひて老朽に甘んず
ただ木石と共に居りて
氷瀑と志堅く守りぬ

中国はとてつもなく広いから何があるかわからない、だから桃源郷もあるとなった
でも実際はそこに人間が住んでいるかぎり欲のない人間はいないのだから桃源郷はないのである
桃の花が流れてきた上流になにがあるのか、それは誘われる、でもそこにも人間が住んでいたとしたらやはり欲があり理想郷などないのである
この世の理想郷とはただ頭の中でイメージされた空想の世界なのである
要するに桃源郷としてもそこには到達しえない場所なのである
だからこそ神秘であり理想化されるのである、死者が美化されるのと同じである
桃源郷のような所があったらいいなとイメージする、それは現実から逃避現象なのである平家の落人伝説でもそうである、別に高貴な人が落ち延びて来たわけでもないがそういうふうにして美化していたとなる
ただ文明化された所で育った人は素朴だということはある
文明がすすめばすすむほど逆に人間はかえって素朴さを失う、それは確かなのである
ラオスの人が素朴だったというときそうである、まだ開発されていないからである
でもそこも文明化されると素朴さは失われるのである
そういうことはヨ−ロッパ人が日本に来て同じようなことを感じたからである
みんないい顔していた、満足な顔をしていたというときそうである
文明が進むとかえって人間の素朴さは失われて狡智にたけたものとなる

ずる賢い知恵。悪知恵。奸知 (かんち) 

だから桃源郷というときそういう狡智がないから騙されるということがなかったとなる
例えばアメリカに入ってきた白人は契約させてインディアンの土地を奪ったとかある
文明人はかえって人をだます手練手管が発達する、法律さえそのために利用されるとなる

呉山深くして而して深し
性を養ひて老朽に甘んず
ただ木石と共に居りて
氷瀑と志堅く守りぬ

私が追及してきたのはこれである、引きこもりとなり社会から離れ山に籠もる、そして
石や木と一体化する、そこに素心は失うことなく守られるとなる
志を堅くとは汚れない心を維持するということである、堅い意志でもって守るということである

故郷に長くもあれな何となる石ともならむ冬の日暮れぬ

2022年12月01日

権力を追及するカルト教団(権力と権威の問題) (宗教はもともと権威であり権力はなかった)

権力を追及するカルト教団(権力と権威の問題)
(宗教はもともと権威であり権力はなかった)

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権力と権威というときまぎらわしい、一体化もしている、権威⇒権力 権力⇒権威
ともなる
政治では首相とか大統領とか習近平書記とかが権力がありその権力が権威となる
宗教でも権力と権威が混同される、宗教団体の教祖は権威があり権力もある
その権威は権力にもよっている、民主主義社会だと数が権力になる、票が権力になる
例えどれだけ優れた人がいても一票には変わりないのである
ただどんな人でも一票を持つのだから一応権力を持たされているとなる
でも十票でも票を求める人が権力を持つとなる

権威⇒権力 権力⇒権威

この構図がわかりにくいのである、宗教はもともと宗祖がいたとしてシャカでもキリストでもいたとしてももともと無権力だった、洞窟で家もなく修行したシャカでもそうだし
枕する所もなかったキリストにしても権力などなにもないのである
それがやがて権力化した、カトリックだと政教一致になり権力化した
そうなると人間は恐れるのは権力である、権力というときいろいろある
その最たるものが軍事力である、また現代では科学技術力であり経済力である
アメリカはこの軍事力と経済力と科学技術力で世界を支配するようになったからである
日本がの戦争でも最後に原爆を落として支配したからである

科学技術力がない時人間は宗教に頼った、頼るものがないからそうなった
だから村の中心には必ず薬師堂がある、そこで祈るほかなかったのである
そして地蔵にいろいろあり眼に効く地蔵があり耳に効く地蔵がありまた腰痛に効く地蔵がありと今の病院のように分化していたのである
なぜ宗教が力が持ったのはもともと病気を直すためだったのである
病気が人間にとって一番の問題だったからである
でも科学技術が医学が発達しない時代は宗教に頼るほかなかった
だから山伏とか法印とか一部落とか一地域に必ずいたのか?
それは病気の加持祈祷する者として生活できたとなる、つまり医者代わりだったのであるだから山伏は山を歩いて薬となる植物を探して現実にそれを飲ませたともなったのである

キリスト教でもやはり同じでありキリストが様々な奇跡を行った、病人も直したり奇跡を示したことで信じさせた、その頃病人を直す術がないのだから奇跡に頼るほかなかったのである、そしてユダヤ教の人達もキリストが奇跡を起こしたということで注意して見ていた、奇跡を起きることが神の使いだともなっていたからである
そもそも奇跡は神が起こすものだからそうなったのである
それは旧約時代がら聖書でも奇跡の物語であることでもわかる
奇跡なくしては信仰もありえなかったのである、必ず何らかで奇跡が起きているからである、最も知られているのはモーゼが海を割った紅海を割ってエジプトの軍隊から逃れたとなる、そんなことありえるのかというがその奇跡を信じないことには信仰もありえないのである、聖書の信仰はある意味でも理論とかではない、奇跡を信じる信仰なのである
奇跡を信じなければ信仰もありえないからである
奇跡とは科学でも自然でも超越したものとして働くのである
いくら科学が発達してもこの世には不可解なことがあり依然として謎である
だから奇跡なくしてはこの世のことは解決しないのである

なぜこれほど科学技術でも発達して情報でもインタ−ネットとか生まれて普及してグロ−バル化したのに依然として人間には様々な問題が生まれている
カルト教団の問題もそうである、それはやはりこの世のことが解決しないからである
カルト教団に入るのはそこでそれぞれが持っている問題を解決してもらいたいからだとなる、病気とか経済困窮とか家族の不和とか様々なもめごととか数限りなく人間を苦しめるものがあるからである、それが解決できないからカルト教団にでも頼るとなる
なぜカルト教団がこれだけ科学技術が発達しているのに頼るのかとなるとやはり依然として人間の問題が解決しないからである
そこでカルト教団ではやはり昔と同じように解決すると導き実際はそこで寄付金をせしめるともなる

何がホームレスになった四国遍路がどこかでお経を覚えて金を恵んだらお経をあげて私は乞食ではない、あなたに金をただではもらわない、私はあなたのために御経をあげてやろとなった、なんかわからなかったけど四国遍路となると宗教が関係しているからその人も見ようみまねで覚えたのだろう、切羽つまってにわか僧になったとなる
食いなくなってにわか僧になった人も昔からいたのである
つまりカルト教団というのもそういうものなのである、会員になる人もなんらか苦しいからそういうものに頼ることになるしそれ奨める人もそうなのである
金になる、食い物を貰える、だからにわか僧になる
何か本来の宗教を悟りでも求めてそうなっているのではないのである
つまりどっちにしろ御利益がある、役得がある、金になるとかしか動機はないのである
だから創価など広宣流布とか言っているけど何を広宣流布するのかさっぱりわからないとなる、法華経のことなど知っている人など一人もいないだろう
要するに外国人も創価の会員になるとき外国人でも創価の会員になっているということで会員を増やすことに使われているのである、外国人でも特に欧米人でも会員になっているのかと見て凄いと感じるからである
それが権威ぶけになるからそうしている

統一教会でも今度は権力を得るために日本政府とかかわり議員を選挙支援して政治権力にかかわり権力を持ち権威を持つことをたくらむ、だから権力と権威は一体化している
ただ本当の権威とはあらゆる分野で権威を持つ人がいるとしてそれは必ずしも権力とは結びつかない、芸術かでもいくら権力をもって宣伝してもその中身が真の価値がなければ認められない、一時的には認められても長い時間の中では消えてゆくとなる
権力があるということが真の価値をもたらすわけではない
だからそもそも宗教の宗祖が権力など持っていなかったとするときなぜこんなに権力を追及しているのかわからない
会員を増やすことに必死になっているのは数を増やし票を得て権力を得るためである

他のカルト教団でもとにかく数を増やせばいいとして活動している
不思議なのことはそういうカルト団体は真の一人の信者はいらないのである
一人よりなんでもいい、数を増やして票を得て権力を得ることなのである
宗教を利用て権力を得ることなのである、だから宗教は何なのかわけわからなくなるのである、宗教の説くものと正反対になっているのである
それで出家してこの世の欲から脱しようとした修行した僧はやはり宗教を求めていたとなる、そこで堕落したとしても本来の宗教を求めていたとなる
天台宗が日本で普及した宗教だったというとき山岳宗教であり山を聖なるものとして修行したからである

だから創価のように団地の宗教とか政治化した宗教はもともと宗教ではない
だからこそ政治化して権力を求めるだけの宗教になったのである
数を増やせばいいというときいろんな人が無差別に入ってくる
その中に暴力団まで入っていたというのは団体に利権があり政治化しているからその利権を求めて入っていたとなる
今そういうことが暴かれつつある、ただ正直この世の闇がなくなることはない
そういうものが生まれるのはこの世の闇がなくならないからである
知っている創価の会員でもそうだった、何か家族で苦しいことがあり生活困難に陥って
創価に入り活動して家族の一人が市議会議員になった、その弟が今度は熱心な創価の活動家となったのである、それが御利益となったから熱心になったのである
こうして創価の場合は御利益と社会生活が結びつくからあれだけ増えたのである
その御利益は創価が社会の主要な地位を得ることで革命は成る
御利益が配分されることになるからである
会員を増やして権力を奪うことによって御利益を配分できるのである

ではなぜこうした団体が公然と力を持つことができたのか?

これはやはり権力に深く食い入りその権力で社会に力を持ったためだとなる
だから創価の会員が警察官にもいてその人達が被害にあった人達がいても取り合わないとしている、かえって説得されたともしている
これも怖いことである、なぜそんなことまで許されているのか、これは大問題である
統一教会でも公安委員長が祝辞を送るなどしていたには驚いた
統一教会が自民党を深く々入り操作していたとなると驚く、そんな力があったのかとなる十万くらいの会員でそんな力をがもてたのかとなる

ともかく人を見る時、権威と権力が問題になる
ある人がなぜ力をもっているのか、最近翼の党の黒川氏が櫻井よしこを批判していた
その背後にはCIAがいたとしている、また統一教会とも深く関係していたとしている
その権威は背後に大きな権力があって発言力をもっていたのである
その背後の権力がマスコミでも通じる、その人自身個人のことではない、背後の団体であれ権力がその人を大きくしているのである、それがアメリカだったり中国だったりもするそしてデーブステートとかにもなる、つまり現代は背後に隠れている権力者のことがわかりにくいのである、時代劇なら悪代官とかわかりやすいのである
現代のグロ−バル化社会ではわかりにくい、でも日本はアメリカに戦争に負けて支配されたのだから当然背後の大きな権力がアメリカになるのである
アメリカに逆らうことはできない、自由貿易にしてもアメリカが有利になる得するシステムになる、それは世界でもそうである、アメリカに歯向かうとロシアでもイランでも北朝鮮でも経済制裁を課せられて苦しめられるのである
ただアメリカだけではない今度は中国が巨大化すれば中国が背後で権力を持ち日本は操作されるのである

ただこうして裏を探ってゆくとわけわからなくなるのである
なぜ右寄りの自民党が韓国の統一教会にそんなに支配されていたのかとなるからだ
右だったらそんなことありえないからである、常に韓国のことは批判しているからである今回の統一教会のことは理解しにくいのである、自民党が韓国側についていたということなどありえないと思っていたからである
統一教会は韓国の政府の代弁者でもありもしかしたら韓国政府もかかわっているのかともみるからである、だから右とは何なのか不可解になる
文鮮明は明らかに日本を支配するための思想をもっていたからである
それに自民党が従うということがありえないとなるからである
権力の裏は追求するとAの背後にBがいてBの背後にはCがいてとかなり遂にはその正体は何ななのかわからなくなるのである
結局サタンに操られているともなってしまうのである、どうしても真の権力者に到達しないからである



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チャンネル翼でここで赤裸々に宗教二世の被害を語っている
これ本当なのという疑問になるほどである
でも真実だろう、ただ政党とか日蓮宗でも争っている
憲政会では創価の悪口をこれでもかと言っている
結局創価が本山と分裂してこうなった、そして日蓮宗の寺の本山の信者がへってお布施が減ったとういことで攻撃している面もある
日蓮宗内の利権争いにもなる、とにかく会員がいるということは信者がいれば金になるという経済的理由で争うともなる

でもなぜ攻撃するのか?

創価をやめた人達を引き戻すためだともなる、どうしても宗教はやめるとまた別な宗教団体に入る傾向がある、だからやっかいなのである
翼の党かでも脱会した人達を味方にして勢力を伸ばそうとする
そこになかなか中立立場になりえないのである
政治勢力として権力を持つためにそうなる、後はお布施とかを得るためにそうなる
まず金がないと寺でも僧でも維持できないからである
だから創価が崩壊するのは金が入らなくなったときだとなる
もう聖教新聞でも減っているし会館を維持するにも金がかかりできないとなる
それでカルト教団を金の面から制約するのは的を得ている
別に金がなくても信仰はありえる、むしろその方が真の宗教を追及するにはいいとなる
純粋な宗教の価値を求めることになるからである

日蓮系」として39団体が掲載されています。例えば、日蓮宗、日蓮正宗、霊友会、立正佼成会などが載っています。
しかし、文化庁は、創価学会や顕正会を「日蓮系」と見なしていないようで、この項には載っていません。
創価学会や顕正会は、文化庁から見ると、あくまでも自称「日蓮系」。また、「日蓮系」の団体から見ると、詐称「日蓮系」かもしれません。

創価学会や顕正会こそ日蓮宗と普通は思う、それは何故なのか理解できない、宗教法人としても認められているからだ
その根拠がわからない、会員も多いのだからどういう理由でそうなったのだろうか?

それにしても日蓮系の団体は多いしカルトになりやすい、どうしても日蓮の思想がそうなりやすいのである
国粋主義になるからである


2022年11月29日

なぜカルト教団の被害者が多いのか (大衆化による地の塩たる真のエリートの消失した現代社会のため)


なぜカルト教団の被害者が多いのか

(大衆化による地の塩たる真のエリートの消失した現代社会のため)


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●カルマはカルト教団に入っても解消しない

人間はなぜカルト教団に入り被害を受けるのはなぜなのか、これは人間特有の問題である人間は何かそもそもその家族でも何でも不可解なのである
科学でも合理的にでも解決してきたのが人間である
でもなぜ依然として人間の謎があり不可解なことがあり解明されないのである
先祖の因縁というとき本当にこれはあると思う
ある人は妻は夫の病気で苦しめられた、20代で手術して肺結核になり半身不随のようになった、ほとんど仕事ができなくなり一生妻の世話になるような状態だったのである

そして不思議なのはその娘もなぜか夫に苦しめられることになった
夫はもともと技術者であり優秀で会社に勤めていた
でもやめて事業を起こして借金して苦しむことになった
つまり母親と同じように夫で苦しむようになったのである
だからこれも因縁なのかどうかわからないがカルマというのはあると思う
ただカルマがあったとしてもそれを言って金をとることは金をとる方が悪いのである
ただ確かにカルマがありそれがめぐりめぐってくるのである
ではカルマを解消するために因縁をたちきるためにカルト教団に入ってできるかとなるとできない

金をくれたらカルマを因縁を解消してやりましょう

こんなことを言うのはただ金が欲しいだけだからである
そもそもカルマは本人が苦しまない限り解消しないのである
また苦しまない限りカルマを認識することもできないのである
なぜ私は夫のことで苦しむのだろうというときそういえば私の母親も夫に苦しんだなとふりかえる、そこでカルマを意識するのである
そうでなければ母親が苦しんだことを理解できないのである
つまり例えば親が子を捨てるとその子も親を捨てるとかなる、逆に親を捨てると親になったとき子に捨てられとかなる、そういう因果がめぐってくる
国の関係でも日本か高度成長時代の時はアジアで女性を買って遊んでいた
今や逆に日本人の女性が貧乏になり買われる時代になったのである
これもカルマである、かつて日本人はアジアで同じことをしていたからである

国と国の関係でもアメリカが原爆を落としたということがアメリカのカルマとなる
つまりアメリカに原爆が落とされて始めてその苦しみを理解するのである
こんなひどいことなのかと理解する、実際にそれはそうされてみない限り理解できないのである、よその国の人が苦しんでも自分の国で苦しまない限りわからないのである
アメリカはアメリカ国内が戦場になったことはないのである
だからアメリカが国内でも爆撃されて大量に死んでみない限り戦争の悲惨さは理解できないのである
だからカルマは必ずめぐってくる、人を苦しめたものはやはり苦しめられるのである
上に立っていたものがやがて下になる、繁栄でも栄えていた国でも衰退する
イギリスなどがそうであり日本でも30年くらいで衰退したからである
次に衰退するのはアメリカなのである、恵みはいつまでもつづかない、必ずめぐりめぐってくるのである

だからアフリカで貧乏でもいつか栄える時が豊になる時が来る、そのために時間が必要なのでる、例え日本国内であれそれぞれの国であれ栄える者と栄えない者が必ずいる
でも時間が過ぎると一代だけではない二代三代と家がつづくうちに貧乏でも栄える家が生まれる、ただ時間がかかるのである、つまりある言えか栄えるには一代とか二代がかかり犠牲になるということもある、親が苦労してその次の代を栄えさせるということがある
だから共産主義のように急速に一様に平等にすることは無理なのである
そのためには革命となっても多大の犠牲があり死者がでるからである
その平和的解決は時間をかけることである、性急には変わりにくいのである
時間の中で貧乏な人でも豊かになってゆく、それを一気に暴力革命で平等にすると失敗する、それが共産主義でありそこで何百万にも粛清され殺されたとなるからである
そこには無理があり性急だから失敗したとなる

●平等は不平等になるー時間が解決する不平等の問題

とにかくカルマはめぐり恵み(めぐみ)もめぐるのである
いつまでも不幸な家系もないし個人もない、かえって必ず一生をみれば幸福と思えたことは不幸に因になったりしている、逆に不幸の因が幸福の因だったということにもなる
それは長い一生をふりかえればみんなそういうことを経験することになる
一生楽で終わる人などいないのである
だから若い時は進んで苦しんでおけ苦労しておけとなる
それは必ず人生は楽に終わらないからである、だから早いうちに苦労していた方が後の耐性を作るとなる
だから若い時享楽に費やしていたりすると何か良きことを成すこともできなくなるのであるそれだけ人生は短いからである、時間を無駄にしたことこそ取返しのつかないことになる
本当に今になれば一瞬一瞬でも真剣に生きて時間を無駄にしなければよかったとなる

それでカルト教団に時間を費やすことほど無駄なことはなかったとなる
まずそのために人生をそのものを失うことが怖いのである
一生精神的にも金銭的にも奴隷にされてしまうからである
つまり霊が支配される、奴隷の霊が与えられることが怖いのである
宗教に呪縛される、悪い方に呪縛される、そして奴隷にされ金銭でも貢がされる
そして偶像を拝まされるのである、そういう団体の教祖は偶像であり偶像はサタンであり使役されるとなる
そうして呪縛されるとなかなかぬけられないのである

人間は不可解なものだから人生でも不可解でありそんなことは迷信だとか言っても意外と有効なのである、カルト教団でもそこでは悲惨な不可解なことで死んだりしている
自殺したり倒産したり一家離散したりとかいろいろある
カルト教団に入っても解決しない、カルマだとすると自ら苦しまない限り解決しないのである、団体でそのカルマを背負ってはくれない、なぜなら個々人で家族でもそのカルマが違っているからである、集団的にカルマは解消しないからである
それで共産主義の過ちはそのカルマでも全部集団的に一挙に解決するように思わせる
それが革命になるのだがそのためにカンボジアで二百万人死んだとかスターリンで何百万人殺したとかなったのである、それは本来そうして人間の問題を解決するこが無理だったからそうなったのである、人間の問題を解決するのには時間がかかる
とても一代ではできないとなり何代かでやっと解決するとかなるからである

カルマとか苦しみはある所で終わる、どこまでもつづくということはない、ただ何代にもわたり継続するというがやはり三代くらいで自然と切れる、人間の一生でも一生苦しい人生はないように見える、ある所でやはり神はもしかしたらその苦しみを終えさせる
でも楽した人はやはりどこかで最後に老人とかなって苦しむともなる
一生でも苦しみがつづくとすれば耐えられないとなるからである
この人は苦しんだ人生だから最後くらいは楽にしようとかなるかもしれない、この人は楽な人生だったから最後に苦しませるとかなる
一見平等のようでもどこかで人間は平等にもなっているのかもしれない、そこに神の配剤があるかもしれない、ただそれも明確なものとしてわからない場合が多い

とにかく人間が運が大方決めるというのも真実である、でも運もめぐりめぐってくる
いつまでも不運な人はいないかもしれない、どこかで苦しい人生が好転してくるかもしれない、ただそうした神の配剤は気づきにくい、それは国の運命でもそうである
いつまでも貧乏な国でありえない、中国だってそうなった、数が多いからみんなとはいかないまでもかなりの数が裕福になったからである
いつまでも不運な人も家もないしいつまでも幸運な家も人もいないとなる
それは一気にではなく時間をかけて平等になってゆくと見る
金を天下の回りものでありやはり貧乏な人にもいつか回ってくるともなる
そういう運命も神が関与しているかもしれないのである

ただ不運に死ぬ人もいる、事故で死ぬ人もいる、その理由はわからない、カルト教団ではそれを言うがその教団内でどれだけ不幸な人達がいるかそうしたことは解消されないのである、むしろ近くで創価に入ったら息子が若くして病気して死んでその後に母親も死んだのである、他では親が自殺したとかなんとかいくらでも不幸なことは起きているからカルト教団に入っても解決しないのである、それは結局不可解だとなってしまうのである
むしろカルト教団はその信じる宗教によって呪われたものなのである
なぜならそもそもがその信仰が全くこの世のものと化してこの世の利欲を達成するためのものとして利用されるからである、そこで矛盾になりかえって仏でも神にも呪われるとなる、そこに神の祝福はないのである、神を仏を語り金でも何でも貢がせる、そして魂を呪縛する、それはサタンであり悪魔の所業にもなる
そもそも他者を罰当たるとか罰せるとか地獄に落ちるとか言えるのか、その人はどんな人なのか、その人を良くみたらわかる、その人自体が地獄人間なのである
確実にそう言う人間こそ地獄に落ちるのである

●大衆化によって真の指導者を失った社会はナチスになる

要するにカルト教団は自滅する運命にある、そんなもの一時的利益利権を求めるものだから消える、宗教とは世俗を超越したものを求めているからである
何百万人も集まる人間がどういう人間なのか、押して知るべしである
本当の信仰は極わずかの小数者のものであり絶対に多数のものにはなりえないのである
むしろ地の塩たる少数者でもいれば祝福があり全体にも祝福が及ぶのである
だから数が多いということは宗教的観点からすればすでに俗化したものであり地の塩ではない世俗的なものに染まった堕落したものなのである
でも数が多いということは民主主義社会では権力となるから数を集めるのである
それは誰とか問わない、その罪も問わない、ただ一票として数えられるだけである
あとは一切問わないのである、そして権力を手中にして世俗の利益を利権を得ることなのである

要するにカルト教団が生まれたのは大衆化に原因がある、もともと宗教は少数者のものでありその人達が地の塩となって民衆を導いたのである、これも堕落したにしろそうして極一部のものが修行して民衆を導いたのである
それが何でも大衆化したときもう指導する者もなくただ大衆の成されるままになり結局全員が堕落したものとなってそれが普通になった、結局そこで誇るものは数しかない
毎日会員を増やすことであり一票を得ることでありその外なんの興味もないとなる
数を増やすことが即権力と金でも地位でも何でも結びつくからである

貴族社会というと反発されるがそれがすべて悪いものでもなかった
必ず社会にはいい面と悪い面が生まれる、だから貴族社会にもいい面があり悪い面がある
「ノブレス・オブリージュ」の核心は、貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されない不文律の社会心理である。

貴族には戦争でも国を守るために率先して先陣に立った、イギリスの貴族とかそうであるもちろん貴族社会とか階級社会であり全部肯定はできない、でもその中にもいいものはあったということである
戦争だけでなく貴族とは指導的地位にあり国民に対しても責任をもたされていたのである

そして日本でも侍がいたというときその人達はやはり貴族であり重い責任を課せられていた、だから切腹して責任をとったというから厳しいのである、それで庶民は侍に成りたくなかったのである、ただ金持ちになるとかいい身分とかになるだけではなかったのであるその侍がいて明治維新は成功したのである、なぜなら明治に指導者になったのは侍がほとんどだったからである、ヨ−ロッパと違うのは侍自体貧しかったことである
でも侍としての教育を家庭とか藩で受けていたのでその自覚があり指導者となりえたとなる
なぜ明治にあれだけ創始者となり創業者となった人達が多い、やはり侍として教育されて教養があったからだともなる、それは知識だけではない文武両道とかあり人間としてモラル的にも何か芯があり指導者になりえた
だから明治が終わり大正となり昭和となると何か暗い時代になる、世界的情勢の変化があるにしても日本は暗黒時代に突入したのである、そして太平洋戦争で三百万人も死んだのである、その時侍などいなくなった、ただ侍のまねをしていただけなのである
ただそれは日本だけではないヨ−ロッパとかでも同じでありヒットラーのようなナチスが生れたのもやはり貴族というのがヨ−ロッパでもいなくなり大衆化したからだとなる
なぜならヒットラーは民主主義で生まれたのであり大衆から選ばれたものだからである
大衆の代表として生まれた者であり貴族とかではないしその自負もないし責任も持たなかったからである、これは日本だけではない世界全体でも起きたことである

●大衆は責任を持たないー日本に福祉がないのはパブリックなものが育ったなかったから

ともかく大衆化とは誰も責任など持たない社会である、要するに利益利権を得ることしかない、カルト教団でもそうである、そこに真の指導者はいない、教祖となるとヒットラーとたいして変わりないのである、そもそも大衆を指導する者は大衆に媚びるというか大衆のレベルに合わせなければならないから低俗化するのは当然だとなる
そうしなければ会員でも票も得られないからである
人間には何か必ずいい面と悪い面が生まれる、例えば長子を重んじて家を継がせることは不平等だとなり廃止された、でもそうなると誰も家に責任を持つ人がいなくなる
そんな家など古いとなってもやはり家を継続する者が責任者がいないことは大事なものが継承されないともなる、だから延々とつづいてきた伝統というのは何かそこに継承すべきものがあり知恵がある、それを全部否定して平等にしたのが問題なのである
結局誰も責任者もいない、大衆は利益利権を要求しても責任は持たないからである

徳川時代に武士が若死にしてもその未亡人や遺児を職場の雇い主である大名がめんどうをましみた例かない、みんな親類縁者に頼った
まして商家の丁稚、手代や地主の作男になると必ず親兄弟が身元引受人になり連れ帰ることになった

ヨ−ロッパの慣習では国王に仕えた騎士が死ぬと未亡人を保護した
男爵家で働いていた馬丁が死ぬと未亡人は国王が保護した
遺児は男爵家で育てなければならなかった
(現代を見る歴史―堺屋太一)

これもノブレス・オブリージュであり雇う方で責任が持たされていたのである
それだけの経済力がないとできないこともあった、日本でそれがなかったのは経済力がなかったからだともなる、でもヨ−ロッパでは確かにパブリックなものが発展した
日本の福祉はみんな家族で背負う、パブリックなものがないからそうなる
だから貴族社会でも侍社会でもそれをすべて不平等として否定することには問題がある
結局現代は大衆化してもう指導する者もいなくなった、ただ数だけですべてが決まるからである、そして大衆は責任を自覚もできないし持たないからである
そもそも侍なら責任を自覚させられて教育されるるが庶民はそんな教育などされないからである

要するに現代は大衆化して無責任社会になったのである、その指導者はただ数が決めるのでありその資質など問わないのである、だからそのレベルは大衆に合わせるのだから当然劣化するのである、そして大衆が力をもつとそれがナチスとか現代だとカルト教団とかになる、そこで一切高等なむずかしいことは言わない、大衆のレベルに合わせて御利益権力を得ることしか教えないのである、大衆に席巻されて価値ある尊いものは認められない
水平化されて何でも同じだとなる、大衆と同じレベルに劣化して価値ある尊ぶべきものは必ず卑しめられて水平化される、結局そうしてみんな劣化して俗化して同じだとなる
大衆は何か価値ある尊いものを重んじることはないからである

でもそれが逆に大衆にはねかえりカルト教団とかが跋扈して増殖して大衆化した宗教に苦しめられるともなる、つまり地の塩を失ったことが致命的なのである
第一地の塩といってもそれを大衆など認めないからである、みんな同じだというのが大衆だからである、それが逆に大衆にとってもいいものではないのである
誰も導くものはいない、ただ導く者は数を集めた人でありそれが大衆の代表者だからである、そもそもそんなに数を集めることが重要なことなのかとなる
でも選挙ではすべて数だからそうなるのである、そうしてもはや誰も導く者がなくヒットラーに導かれて大量に死ぬということにもなったのである

ただ誤解されやすいのが地の塩というとき特権階級でもない、金持ちでもないことがあるむしろ貧乏な人もいる、でも導く人にもなる、今のエリートはただ金持ちのことである
それでアメリカの富裕層に莫大な富が集中している、その人達は地の塩でもなんでもないただ世界から富を収奪する特権階級なのである、だから金持ちが地の塩でもないのであるでもすでに金持ちは責任がありその金を有効に使わないと金持の資格もないとなる
なぜなら金持つことが現代では一番の責任となっているからである
貴族もいない侍もいない真のエリートもいないとなれば金を多く持っている人が責任があるとなる、その責任を果たせない者は大衆からでも排斥されるとなる

2022年11月21日

カルト宗教団体を解散させられないのか? (信教の自由は解散しても守られる)


カルト宗教団体を解散させられないのか?

(信教の自由は解散しても守られる)



統一教会問題でしきりに解散させろとか税金をとれとか言う人が増えてきた
でも信教の自由とか結社の自由とかはある、だからそうした法律を盾にしてできないようにする
でも別に解散させても信教の自由は守られる、ただ集団的に組織された団体が解散されるだけで小規模の団体や個々人の信教の自由は守られるのである
第一信仰を簡単に捨てることはできないし別に捨てる必要はないのである
それはどんなことしても強制できない、だから信仰を迫害しても残ったことでもわかる
その時こそ本当の信仰者が残ったとなる
それは政治的にも権力でもなくすことができないものだからである

国家権力で解散させてもそれはあくまでも団体組織の解散であり個々人の信仰を奪うことはできないのである、何かとういと信教の自由を言うが別にそこまで国で否定しないし
否定できないのである、問題にしているのは集団組織化して政治にかかわり権力にかかわり操作する、そして目的がその権力奪取として公然と運動しているのである
それは創価だとあからさまであり現実化しているが統一教会でも他のカルト教団でも同じなのである
統一教会が特に危険だったのは外国勢力に日本の政治が操作されその富まで奪われることだったのである
ただわからないのは10万くらいの会員でそんな力を持てるのかということがわからないのである

いづれにしろカルト教団をを解散しても信教の自由の法律があっても問題がない
なぜなら信教の自由はそもそも奪われないものだからである、ただそうなると法人格とか失われて税金を払うとかにはなる、でも宗教団体はいかなる国からいかなる特権を受けてはならないということが法律で明記されているのだからそれが正常だとなる
ただ寄付金とかなると問題が出るかもしれない、なぜなら宗教だと献金は制限できない自主的なものとしてあるからだ
だから金持ちなら多額の金を献金することがありうる、それは強制ではなく自主的なものだからである
それは個々人の問題であるカルト教団の問題は団体化組織化してしていることである
ここに個人の信仰者がいてある人が金持ちでも寄付しますので使ってくださいとなれば
それを否定はできないし取り締まることもできないし税金を払いというのもなかなか強制できないだろう

問題は団体化組織化した宗教法人として認定されたものに解散命令とか強制できる
でもオウムのように小規模でも危険なカルトはあった、だからどこで線引きするかむずかしいとなる
確かなことは国から特権を受けることは宗教団体ではできないと政教分離で明示しているだから創価公明党は明らかに法律違反である、なぜ国土交通大臣とういう大きな国の権力の場を与えられているのか、これが全くわからないのである
それで大成建設では正本堂を建てた時、つながりができて必ず選挙の時は応援することを強いられたのである
つまり巨大な利権団体でもありそれでそういうことができたのである
何であれ選挙に勝つことが最大の目的としているのが創価だからである
その他のことはどうでもいいとなっている、おかしなのは選挙の時に必勝祈願する
座談会に集まりみんなで御本尊に祈る、また池田大作先生のために選挙に勝つとして最大に盛り上がるのである、これも完全に政教一致なのである
だからこういう団体には解散命令を出すべきなのである

だからといって信教の自由には違反しないのである、そもそもカルト教団など信仰のことなどうでもいいのである、目的は権力であり権力を得て支配階級になり御利益を特権を得ていい生活をすることしか眼中にないのである
そもそも宗教でないときなぜ信教の自由をとやかく言うのか?
それはあくまでも方便であり権力を得るためにそうしているだけなのである
だからもし権力を御利益を得られないとしたら離れてゆくのである
今は徐々に会員が減ってそうなりつつある、なんだ何も御利益が得られないではないかとなり離れつつある、ただその後の内部事情は自分にはわからなくなっている

解散命令を出しても問題はないし宗教迫害とか信教の自由の違反にもならないのである
別に信仰は個々人でも続けられるし少人数でも続けられる、ただ法人格を失うとういことである、だから国からの特権もえられないというだけである
オウムでも別に解散しても小規模にも信仰はつづけられている、でも何も国では言わないのである、小規模になればもう政治家でも相手にしないからである
わずかの票を得ても何の力にもならないからである
そういう小規模な団体で金持ちでも多額の献金をすることは拒否できないだろう
宗教法人でもないしその人は信仰から自主的にしていれば拒否はできない
宗教法人として認められれば様々な特権が与えられるから問題なのである
ただ小規模な寺とかでも法人であるし神社でもそうだから問題がある
だから一様に適応はできないかもしれない、どこで線引きするかが問題になる
会員の数で決めることなのかとかその財政で決めるのかとなる
だからなかなかめんどうなことだとはなる
でも明らかなことは創価公明党が国土交通大臣になっていることは国から最大の特権を受けていることなのだから政教分離の法律に違反していることは確かなのである

不思議なのは一体宗教団体と政治団体の区別ができるのか、それも問題なのである
政治団体でも共産党ならマルキシズムを宗教のようにしている、それで共産主義国家ができてそのく思想が絶対的なものとなり反抗するものは何百万人と粛清されて殺されたからである、それは宗教だから宗教は絶対的なものだからそうなったのである
そこでは思想の自由と結社の自由までなくなったのである
現実に創価でも他のカルト宗教団体でも逆らうやつは罰が当たる地獄に落ちるとか集団で脅迫しているからである
それが政治と一体化すると脅すだけではない現実に権力で罰を与えることもできるから問題なのである、カトリックは完全にそうして政治権力と一体化して腐敗したから政教分離の法律ができたのである

権力は宗教にかかわるな

宗教は権力にかかわるな!

こうなるのではないか、権力が宗教がかかわるのは拒否しても宗教そのものが権力と深くかかわり権力奪取を目指していることが許可されるていることが問題なのである
宗教は個々人の問題であり心の清いものが神を見るだろうという時個々人をさしているのであり集団組織ではないからである、集団組織でも欲にまみれた汚い人はいくらでもいるむしろ俗化すればそうなる、だからあらゆる欲望を是認するし達成するために会員となる政治家になれぞとか金持ちになれるとかいい女とつきあえるとか福運がつくとかあらゆる御利益を得られるということであれだけ人が集まるのである
それが大衆化して大勢の人が集まり権力化したのがカルト教団である

ただどうしても不満な人は底辺の人達がいてその人たちは頼る所がないので人を集める
では相談に来た人が本当に慈悲があるのか愛で接することができるのかというとそういうことは全然ないのである、あくまでも団体の勢力拡大して国家権力とかかわりそこで利権を得て御利益を配分するだけである、幹部でも自腹を切って金を払ったりしないのであるその御利益は国から権力奪取して配分するというだけである
そんなところに愛も慈悲もない、幹部自体がない、ただ民衆から収奪することしかないのである、それは共産主義でも中国でも同じである、共産党幹部が兆の金をたくわえ妾を十人もったとかなる、それが現実なのである、共産主義の理想などは実現していないのである、つまり幹部とその下々の差は天文学的てもある

幹部は栄誉栄華であり下々は農民は依然として最低の生活だとなっていることでもわかるむしろその富を分配するのが共産主義の思想なのにそうなっていないのである
結局人間の欲というのがどれほど強いかそれを拒否できないからそうなる
だから私は欲を抑えられない悪人ですと正直に言った親鸞とか真の宗教家だったとなる
俺は大悪人だと言っていたからである、でもカルト教団の長とかは大善人だとして社会に認めさせようとしているのである、その人こそ大悪人でありサタンなのである
この世で大善人は大悪人である、官僚とかでもそうである、特権階級はそうなる
この世では大悪人が大善人になる場所だからいくら理想を言っても常に失敗している
それは結局人間が欲から逃れられないからである
だから政治でもみどり子に治めさせよとか治めずして治まるとか老子の無為自然の思想が生まれたのである

ともかく宗教そのものが何なのかわからなくなっている、宗教を利用した税金逃れであり宗教で集めた金を今度は権力を得るためにいろいろ金を使い工作している
宗教団体で法人になればそれができる、そもそもそれが宗教と認定できるのかとなる
信教の自由があるにしてもそれが宗教なのかとなる、ただ宗教は脱税するための方便だともなる、だから何が宗教であると規定するのかである
それもめんどうになるが何でも宗教になれば無税になりやりたい放題というのもおかしいのである、現実は権力を得るためにそうしているとなるからである
それぞれの個々人の心の問題ではなく現実社会で御利益利権を得るための団体がどうして宗教法人として認められて税金をはらわずに宗教ビジネスのようになことをしている
最終目的は国家権力を得ることにある、それは他の宗教団体でも同じなのである
だから何が宗教と規定するのか、そのこと自体が問題になる
何かというと地獄に落ちるとか罰当たるとかそういうことを持ちだして脅迫したりもするそしてただ票をとるためであり利権を得るためなのである
だから宗教詐欺罪にもなるが罰せられないのである、ただ確実なことはそういう団体の人達は来世ではどんな罪で罰せられるのか相当に過酷なものとなると思う

来世では今世のように偽ることができないからである、悪があからさまに現れる場所だからである、だからこの世では大悪人が大善人となり大悪人が実は大善人だったとなるのである、何か逆転しているのである
成仏を問題にするがろくでもないみんなから嫌われていた人でもたいして苦しまないで死んでいる、だからそんなことで判断できないのである
要するに宗教を語った詐欺罪でありこれは相当に悪質であり来世での審判は厳しくなる
今世と来世は逆転しているのである、だからなんで地獄に落ちているのかと来世ではなる罪の自覚すらない人達なのである、罪の自覚を地獄に落ちるとか思う人は地獄に落ちない地獄に落ちるとか罰当たるという人が実は最も過酷な地獄に落ちているのである
でも今世ではそんなこと関係ない、堂々と悪人でも善人になっているのである
偽善でもわからないのである、本人すら自覚していないともなる
善人だから俺は罪深い悪人などと思わないのである、それは殺人者として刑に服している人もそうだった、たまたま運が悪い言っていた、全然反省もしないし罪の意識もないのである、それが人間として普通である、だから罪の意識を持っている人の方が救われるとなったのである,カルト教団員で罪の意識とか持っている人はいないだろう
そもそも他者に信仰をすすめている資格もない人達がすすめている、ただ一票を得るために毎日運動しているだけなのである
それよりその奨める人が罪を自覚して懺悔するべきだとなる



やっぱ宗教特権の非課税を廃止すべきだよな。

地方の貧乏寺や神社は減免、一方カネをもって積壺、犬作教、幸福からはお布施も含めた総収入の50%課税すればいい
宗教法人課税することで、国税庁も教団内のカネの流れを追跡できる。
いつでも任意に教団に税務調査に入れる。

もしオウムのときに「宗教法人課税」になってれば、二重帳簿を見破って、サリン原材料や自動小銃購入を掴み松本サリン事件も地下鉄サリン事件も未然に防げてた。

壺の場合は霊感商法の違法マネーと、お布施や寄付の合法マネーを教団内で混ぜ、マネロンしてエベンキランドで宗教施設建設費、その先は北チョン国へ流れてた。
もし宗教法人「課税」制度だったら、壺のカネの流れが国税庁に丸見えだった。
こうして宗教法人課税を導入するだけで、反社ビジネス宗教カルトは自主廃業するだろう。
残るのは既存の人畜無害な宗教だけとなる。


カルト教団の資金は何に使われているのか、そんなに金を集めて何するためなのか?
オウムだったら武器を作るためだったかなるから確かに金の流れをみればわかる
創価だったら選挙資金のためにとか会館を作るためとかなる
でも政治資金が創価と一体だから宗教関係にも回っている、それも政教分離違反なのである
宗教といっても何が宗教なのか規定できないからそうなる
統一教会は日本人信者から献金させて韓国に流れていた、だから外国の宗教団体が入ってくることは危険なのである
ただもし団体ではなく個人への寄付とするとその人を信用して財産をあづけたともなるからそれを違法としたりできるのかとなる
だから団体と個人的なものは区別すべきなのかとなる
ただ資金の流れは知るべきだということはある



2022年11月20日

引きこもりが全国で110万人もいる問題 (内向型の生き方戦略ー中村あやえもんを読む)


引きこもりが全国で110万人もいる問題

(内向型の生き方戦略ー中村あやえもんを読む)

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内向的な人は傷つきやすい、ささいなことでも傷つきやすい
敏感でありセンセティプなのである
だから人間を相手より自然を山でも石でも木でも花でも相手にするのが向いている
私がそうだったからである、そうして詩を書いてきたからである

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境地開拓派というのは造語であり面白い
芸術であればその人なりのものを作ることである
評論家でもその人なりの見方で批評する
境地開拓があり一様ではない
でも社会維持派はみんな一様のものとして扱い見てしまうのである




人付き合い よりも 好奇心 を 重視 する こと で 成果 を 出せ て、 人脈 よりも 工夫 で 新しい もの を 作り、 大勢 で いる よりも 一人 で いる こと で 思考 する エネルギー を 得 られ て、 より 完璧 を 目指す こと で 良質 な もの を 作れる の です。

境地 とは、 言葉 通り「 社会 から 少し 離れ た、 同種 が い ない 場所」 になり ます。

中村あやえもん. 内向型の生き方戦略―「社会から出て、境地を開拓する」という生き方

そもそも 人間 社会 において の「 普通」 とは、 社会 維持 型 の 性質 を 指し ます。 人間 は 社会 維持 型 が 八 割、 境地 開拓 型 が 二 割 という 比率 なので、 社会 維持 型 の 度合い が 強い ほど、 普通 の 人 だ と 判定 さ れ ます。

中村あやえもん. 内向型の生き方戦略―「社会から出て、境地を開拓する」という生き方
すなわち、 いきなり 全員 に ベーシックインカム を 与える よりも、 境地 開拓 型 に のみ ベーシックインカム を 与える 方 が 有効 だ と 分かり ます。 もちろん それでは 社会 維持 型 に対して 不公平 感 を 持た せる こと

私 は ゲーム の 制作 監督 を し て い た こと も あり、 作家 や シナリオライター、 絵描き や 漫画家、 音楽家、 声優 さん など、 いろいろ な クリエイター さん と 接する 機会 が あり まし た。 彼ら の 悩み はと いう と、 たいてい が「 普通 の 人 の よう には 生き られ ない」 という こと でし た。 だから 彼ら は みな、「 自分 にとって 好き な こと で 収益 を 上げ て、 生き られる よう に」 と、 自分 独自 の 生き方 を 模索 し て い まし た。 そして 世の中 を 見 て みる と、 クリエイター だけで なく、 内向 的 な 人 ほど この よう な 悩み を 持っ て いる こと に 気がつき まし た。




●社会維持派協調派が多数だと若い時は従う他ない

引きこもりは社会にとって深刻な問題かもしれない、それは数が多いということが社会に影響するからである、もともと内向型でアウトサイダー的な人間はいた
その人達は極めて数が少ないのである、10万人なのか百万人に一人なのかそういうレベルでありその人達は今の引きこもりとも違う、でも似ているのである
何か天才と狂気は紙一重というけどこの引きこもりもそうである、引きこもりは天才でなくても狂気にもなりやすいのである
社会からはずれることは実際は常人にはできないことだからそうなっている
ただ社会から外れて成功者になった例をあげてもそれと今の引きこもりは違っているように見える

ただ社会維持する性格の人が八割で内向型の境地開拓の人が二割というのはそうなのかもしれない、ということは社会維持派の人達が社会では圧倒的に多いとなるのか?

そのことは何を意味しているのか?

もしかしたらその人達は型にはまった集団行動することを好む、それで現代になってナチスとかカルト教団が生まれたのかもしれない、ナチスがその典型である
社会維持派の人達はこうした集団示威行動を好み社会維持するためにそうなるのだとしている
確かにカルト教団はそういう場である、創価でも統一教会でも似ている
集団で気勢を上げていたからである、同一行動になりその目的は権力奪取だった
統一教会でも映像でやはり同じようにみんなでエッエッオーと気勢を上げていたから似ていると思った

でも不思議なのはそもそも宗教というと内面を追及するものであり本来はそうして集団で示威行動するようなことない世界だった
ただ一向宗とかの念仏とか日蓮宗の題目とかは集団で示威行動するから宗教でも違っている、宗教でもイスラム教であり何であれ集団示威行動をする
つまり哲学とかなるとそれぞれに違ったものとして考えるものとしてある
でも宗教はかえってハイルヒットラーのようになりやすいのである
その奥深い内面を追及するものではなくみんな同じ行動をして一体感を持つのである
それが神道でもあり天皇崇拝で日本人を一体化して戦争になり3百万人も死んだのであるナチスでもそうである、それはこの本で言う社会維持派がこの世では外国でも八割いるということから起きてきたことなのか?
その辺の理由はわからないにしても社会は総じて社会維持派が作る、それに適応できないのが内向的性格だという
境地開拓の性格の人だという指摘は興味深い

ただ人間をいろいろに分類する、血液型とかでも人種でも内向型でも外向型でも理系と文系とかでも分類する、それは確かにありどうしても文系となると理系を理解しにくいように社会維持から見ると内向型の人を理解しにくいのである
それは犬と猫の相違でもある、犬は外向型であり何か隠すものがない、全面的に主人に従うのである、でも猫は何を考えているのかわからない、愛想もない、主人に従うより従わせるとまでなる、何か神秘的であり何を考えているのかわからないとなる
だから社会維持派にすると不可解ものとなる
猫はマイペースであり何か愛想良くしたりしないのである
だから犬好きがいて猫好きがいるとき猫を好きな人は内向的性格なのかとなる

●110万人も引きこもりがいるというときみんな境地開拓派として成功はしない

ともかくなぜ引きこもりが110万人もいるのか、それは東京でも地方でも田舎でも同じなのである、必ずそういう人を見かける、仕事をしていないのである
田舎でも昼間で仕事をしていないとそういう人に逢うのである
だからこの数に納得する、私の場合は時代的にみんな社会維持派として団塊の世代から企業戦士となった、私のように引きこもりになった人は本当にまれである
だからそんな人がいたのかとなり無関心である
でも今これだけ数が多いという時社会問題になったのである
だから私の場合は別に天才でもないが大学出てから好きなことをしてきた、好きなものを追及してきたのである

ただそうして境地開拓派というときそれは天才的な人であり業績も残している
でも110万人も引きこもりがいるというときその人達と同一には扱いないだろう
では110万人がそういうまれな天才になるのかとなるとそうは見えない
ただ社会の脱落者にしか見えないのである、アウトサイダーは社会の脱落者でもないのである、社会に反発した天才であり英雄ともなっていたからである
とてもそういう人に普通の人ではいくら境地開拓派でもなれないのである
ただそういう人達から天才が生れのかとかはわからないにしてももしその人達の極わずかでも自分の才能を発揮する人がでてくるかもしれない、なぜなら110万人もいたらその極わずかでも百人でも才能を発揮する人がいたら社会にとって有益だとなるからだ
でも大多数は社会の脱落者、落後者として終わるともなる

そして人間は20代で30歳までにその将来は決まる

これが怖いのである、引きこもりなどたいしたことがないとしている、時間など無限にある、暇で暇でしょうがいなとなっていた
ところが時間はあっというまに過ぎる、30過ぎると女性でも婚期を失うというとき美貌も失うからである、そして35歳以降は余生だとう言う人もいる
それだけ時間が過ぎるのが早いのである、そして40才になると白髪映えてくる
つまり40才で初老ともなり老人の入り口になっていたのである
だからみんな後になって人生はこんなに短いものかと驚いているし意外だったのである
そして怖いのは20代で引きこもりになっていると一生引きこもりになるということにもなる

なぜなら20代で人生の方向が決まるからである、これが怖いことだったのである
20代でカルト教団に入って抜けられなかったら一生カルトで終わるとなる
北朝鮮に飛行機をハイジャックして逃れた赤軍の若者はそのまま北朝鮮で一生終わるとまでなっていた、でも日本に帰りたいとなって帰って来た人たちもいる
でもその一生は北朝鮮でスパイのようなものにされて終わったのである
方向がそこで決定したのである、だから20代で人生の方向が決定することが怖いのである、そして人生はやり直すことができないのである
人生は長いのだから失敗してもいいとか方向はいつでも変えられるとかならないのであるそんな時間が人生にないのである、ただ人生百年時代になると時間のゆとりができているからその成果は60でも70以降でも出せる時代である、だからあせることはない
でも方向は20代で決まってしまうことが怖いのである
だから若き時神を知れと言うのは重要なことなのである

なぜなら20代を過ぎたら神を知ることができない!

20代はいろいろなことが起きやすい、波乱の時でありまた様々な欲望があふれだす時代でもありそこに翻弄されてあっというまに過ぎるからである
私の場合は父親が中学の時死んだので死ぬことをその時からなぜなのかということが一番の問題だったのである、そのために宗教団体に入ったのである
でも創価などは宗教などと何の関係もない団体である、だからそんなところに宗教を求めるのは正反対の場所だったのである、宗教の看板にしても暴力団だったということと変わりないのである
集団化して組織化している場は境地開拓派の内向的人とは無縁の場所だったのである
ただ社会維持派には向いているからあれだけ人が集まっているとなる
ただそれは宗教とは全く関係ない場所である

●自分自身を知れー内向的境地開拓派の生き方

いづれにしろ人間は生まれつき性格があり向き不向きがある、すると不向きなことをさせられたりすることは不幸である、いくら収入があったとしても不幸になる
だから医者の子は医者を継ぐとか強制されると不幸になる、例え医者になっても不幸である、そもそも自分に合わないことをしても幸福にはなれない、だから自分がどういうことに向いて知りそれにあったことをして究めることが大事になる
ただ人間に与えられた時間が短すぎるのである、老人になって必ず後悔しているのはそのためである、そして最後はいくら後悔しても何かする時間を消失している
時間を戻すことができないことがどうにもならないことなのである
だから本当にもう一回人生をやり直せればみんな失敗しなし後悔しないのである
老人になるとそのことが痛いほどわかるようになる、でも後悔先にたたずになり人生は
終わる、

ともかく内向的性格の人は社会維持派は8割と多いなかで二割となってることは生きることは苦しくむずかしくなる、だから学校にもなじめない、学校からして社会を維持するために基本的には作られているからである
それでこの本で教育でも自由教育を取り入れたが失敗したのは多数が社会維持派だからでありそういう人は自由に勉強して個性を出せといってもできないから失敗したとしているただ確かなことは内向的な人は社会維持派が多数の中で生きることがむずかしい
それを自覚して向いていることに精進することが大事である
社会維持派だとはみんなで調子を合わせて盛り上がる、大勢で集まり盛り上がる、そこで集団的に一体感を感じる、それでなぜカルト教団がいろいろ言われても増えるのかわかるこの世の中社会維持派が多数だからである
そのためにカルト教団とかナチスが社会を席巻してしまったのかとも見る
内面的なものを追及する境地開拓派だったらそうはならなかったとも見る
ただそう簡単に人間を分類はできないからわからない、ただ社会維持派は集団で盛り上がる、何か内向的な人はうじうじしてなぜ集団に溶け込まないのかとなる

でも不思議なのはそもそも宗教とは内面の追求だとするとき、一人座禅を組んで瞑想とかしているのは社会維持派には不似合いである、でも世界でなぜこれほど宗教が普及しているのか、これも不思議である、内向的な人の割合が二割くらいだとしたら集団的に盛り上がる宗教も社会維持派の宗教になったのかとなる
ただハイルヒットラーとみんな叫んでいれば仲間だとなり社会維持派の人達がそういうふうになり安かったのかとなる
そもそも外向的とか内向的であれ人間はそもそも集団で自然の中に生きてきたのだから防衛してきたのだから社会維持派が多数になっていることはわかる
我(われ)とは割れるから来ているからである、我という言葉はなかった
集団から割れて個人となったからである、人間に個はなく部族とか集団が一体化して生活していた、だから部族では顔まで似ているとなる

とにかくなぜこんなに引きこもりが現代でいるのか?

その原因が人間の性格がありその性格に合った仕事とか与えられない、内向的な人は内面的な追求に芸術とか学問とか何か新しい境地を開拓することに向いている、そして新しいことを発明した人達がその見本だとなる、でもそうした天才と言われる人の数は極めて少ないのである
その人達を目指せとかなるとそのハードルは相当に高くなる
結局は社会からはずれたもの、落伍者になる
そもそも110万人も引きこもりがいることはやはり異常である
それができているのはやはり経済的にも恵まれて働かなくても食べていけるからそういう人達がこんなにいるよちうになったのである
これも現代の社会状況から生まれたものだとなる
ただ内向的な人は良く自分のことを知っておく必要がある
なぜなら社会維持派が多数の社会でありそこで自分の居場所とか適合することがむずかしいからである
小学校であれ幼稚園からでも人間は集団行動を強いられるからである
内向的な人はそういう場からしてなじめないとなる
でもやはり社会人になるための訓練として社会維持派の中で生きるためにそうしているのである、それはやむをえないとはなる

●境地開拓派はそれれにふさわしい環境が与えられれば伸びる

でも境地開拓派は子供の時から好きなことを見つけて開発していけばやはりそれなりのもの専門家になる度合いが強い、ただ社会維持派と同調して歩調を合わせるのが苦手だからである、でも好きなことを見つけると夢中になりまさに境地開拓になる
独特のその人なりの世界を作り上げることができる、だからその人がどういう性格なのかを見極めて生きることが必要になる、でも社会維持派が多数なのだからそれがむずかしいのである
私自身は内向的であり境地開拓派の性格なのだけど実際は集団に社会維持派に適合しようとしていたのである、それはみんな自ずとそうなる
先生であれ学校で境地開拓派になり独自の世界を作れ発見しろなど教えないしそういう教育などないからである
学校ではなかなか個性的な教育はない、社会維持派に合わせる教育になるのである
だからなぜカルト教団がこれほど批判されていても多いのかとなる、それは社会維持派が多数だから多いのである、本当は内面志向が境地開拓派が宗教のなだけど社会維持派が多数だから宗教でもそうなったのである

私は別に人と接することが嫌でも少人数とか一対一の対話は好むのである
だから初めて逢った人で会話はしている、その人がどんな人生を送ったとかどんな人間なのか何に興味があるのかととか個人的に見るのである
大勢の人を相手にするのは苦手なのである、でも社会維持派となるとぐずぐず言わないで俺についてこいとかなる、何か理屈をこねるのを嫌うのである
だから警察と自衛隊とか建築土木現場とかの仕事は社会維持派が多いとなる
やはり集団的組織的に仕事をして一つの建物でも完成させることだからである
そのために協力一致しなければやれないからそうなる
だから体育系がいいとなる、命令に従う人がいいとなる、やはり社会では社会維持派が多数たからそうなる、軍隊なども上意下達であるからだ
そういう場所が内向的な人が苦手だというときなかなか合った仕事は与えられないのである、引きこもりの人がクリエターになりたいという時そうである
芸術だと独自の世界を作ることになるからそうなる、ただクリエターというとき恰好いいけど金にならないこともあり非常に社会ではそれで生活が成り立つこともむずかしい
だから何か家族とかの応援とか理解者がいるといいがそれはまれだとなる
ただそれでも引きこもりがそもそもこれだけの数がいることは親が容認していることは今までとは違っている、まず昔なら食べなければならないのだからそんなことできないからである、強制的に嫌でも働かざるをえないのである

内向的な人が陰の性格な人が全く引きこもりがいいわけではない、誰か理解ある人と少人数なら話すのである、私は人の話を個人的に聞く、そして相手を知る、老人だとその人が生きた人生を知り理解する、対話するのは好きなのである
ただ大勢を相手にして演説するとかは苦手なのである
何か一対一でその人のことを深く理解する、ソクラテスも対話から相手のことを知った
対話することがやはり人間は相手を理解する、大勢だと理解できないのである
でも社会維持派はそうして大勢で同一化して一体化することで興奮するのである
それが極端になるとナチスのようになるのである
そこに大きな危険がひそんでいたのである、だから戦争でも社会維持派は大イベントともなり興奮して戦うともなる、そういう時こそ最大に人間は団結して一体化するからである内向的な人は境地開拓派はそういうものに向かなくてもそういう時代があり適合せざるをえなかったとなる

●内面を追及する宗教とか哲学とか芸術の時代になり境地開拓派が主役にもなる

でも現代は戦争は確かにウクライナとかであるけど全般的には戦争は拒否される時代である、グロ−バル化というのもコロナウィルスとかで縮小してゆく
外延的に拡大化したのが現代である、でもそれも区切りが来たのかと見る
何か内面化する内省化する時代になっている、だから中世時代に戻るという人もいた
閉鎖的なある意味で引きこもりの時代になってゆくように見える
だから人間は必ず時代の影響を受ける、高度成長時代は社会維持派社会強調派が全面に出た時代である、経済も成長して企業戦士となりがむしゃらに働きぐいぐいと引っ張る人が指導者となったのである
そんな時代はとても引きこもりは向いていないし、そもそもいなかったのである
みんながむしゃらに働き高度成長時代を築いたからである
だからその時引きこもりになっていた人は本当にまれである
私は偶然家族に恵まれて引きこもりになっていたのである
そこで自分の好きなことを探求して来たのである、その時代そんな人は誰も知らない
引きこもりという言葉すらない、ただの変人になっていたのである

だから引きこもりが問題になっているが意外とこれからはそうした人達が主役になるかもしれない、高度成長時代とか戦争とかなるとどうしても社会維持派とか社会協調派が主役になる、でも社会が成熟してくると平和がつづくと内向的な人が境地開拓派が小数でも主役になるかもしれない、ただそれでもその中で目立つのはわずかだとはなる
百万人も引きこもりがいて何かそれで社会に貢献する人はわずかだとなる
だから引きもりがこれほどいるということが問題になる
社会維持派は協調派が多数の中でそういう人を寛容に見ていられるかとなるからだ
だから親と対立して殺人まで起きている、親が何しているのかわからないので不安になる実際親が死んだ時引きこもりは地獄になるからだ

この本は見方としては面白いと思った、ただ全部があてはまることはない、ただ内向的な人が境地開拓派として新語を作りだしたのは興味深い、天才は新しい言葉を作るからである、いづれにしろ高度成長時代から低成長時代とか失われた30年とかあったが結局日本はもう経済的には成長しないのだろう、でも成熟社会となり内面的なものの追求になる宗教とか哲学とか芸術分野で新しい発見がありまさに新しい境地が開拓されるとなる、たたカルト宗教団体は全く内面の追求とか境地開拓派とは反対なのである
集団的熱狂であり高揚でありナチスと似ているのである、もちろんそこでは境地開拓とかいう言葉とか理解できないし無縁の世界である、ただ政治化して経済化して欲望を達成する権力集団なのである
高度成長時代は陽の時代だが低成長時代になりコロナウィルスで在宅で仕事するようになったりテレワークになったりしたり時代が変わってきたとなる
つまり内向的な人でも境地開拓して主役になる時代なのかもしれない
時代風潮がありその時代にマッチした人が現れる、むしろ引きこもりでもその才能でも発揮できる時代なのかもしれない、ただ一概に外向的だとか社会維持派だとか内向的だとか教区開拓派だとかに分けることはできない、でも性格があり性格にあったように生きないと不幸になる、生きるのが苦しくなるのである

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この隠された石が自分なのである
じっとして人にめったに逢わず沈黙しているとなる
その時心は安らかになっているのである

one twinkling star

the big fixed stone

stay here

in winter

in stillness

2022年11月13日

日々勤めよ、報いを得らずとも・・・死後に報いがある? 日々勤めよ、報いを得らずとも・・・死後に報いがある?


日々勤めよ、報いを得らずとも・・・死後に報いがある?


日々勤めるべし

日々勤め尽くしたること
それは無益とはならじ
日々体験して蓄積されたもの
妻は夫に尽くし母は子に尽くし
それは無益と徒労とならじ
死す者もその成したることが実りとなりぬ
人の働き無益とならじ
故に日々労苦のあれど勤むべし
そしてそれぞれに身につくもののあるべし
ただ即興にインスタントに身につくものはあらじ
日々の修行と鍛錬のあるべし
たゆまず勤めればそれぞれの実りあるべし
今親は死すとも我は深く感謝しぬ
我が心に死者はなお生き続ける
死者はなお我を生前と同じく励ましつづける
日々勤めよ、さすればいつか死後にも実りあるべし
日々尽くせよ、いつか報いあるべし
その生は働きは徒労にあらじ
神はそれぞれの分の報いを与える
その生は無益にあらざるべし
確かな実りとして与え残さるべし
その報酬は金のみにあらじ
その誇るべきは身につきし技なり知識なり知恵なり
老人は価値なしやその身につきしものに価値あり
そしてその技を知恵を伝えることに価値あり
それがなければ価値無き者となる
故に日々勤めよ、日々尽くせ、例え認められじも
いつかそは報いられるべし
この世に報いられざれば神の国にて報いられるべし
真の実りは神の国にて実現されるべし

人間はいろいろ不満がある、その一番の不満が一般的には働いても報酬が余りないということである、具体的には給料とか少ないとなる、金の問題になる
こんなに働いているのに金がもらえないということで不満になる
何か働いても意味がないとかではない、具体的には金の多寡ですべては計られる
金を多くもらえればその働くことがこいして意味ないものでも不満はないとなる
こんなに自分は働いているのになぜ報いが収入が少ないのか、金に生らないのか、このことで不満なのである

でも人間は何のために働いているのか?

その目的は金だけなのか、金も必要だしそれを否定するのではない、でも母親が子に尽くす時別に金がもらえなくてもする、それは子供がかわいいとか母性愛とかあり無償で尽くす愛である、もし金のために育てるとしたらそれは他人になる、他人に金を払って育ててもらえばいいとなるからである

でも夫婦がいるとして妻はなぜ夫のために尽くすのかとか問題になる
そもそもふしだらな夫に尽くすことはできないだろう、嫌になるだろう
子供の場合は誰であれ未来がありそれで育てる、それは無償の愛があり育てられる
でも大人になればただ無償で尽くすということがむずかしくなる
何か尽くすにしても見返りが報酬が得られることを望む

ただその報いの問題は必ずしも生きている時与えられるとは限らないのである
もちろん子供に介護されて親孝行されて報いを得たということはある
それで親は子供を育てて良かった助かった報いを得たと思う
でもそれだけではない、なぜ子供を育てるのか、それは本能的に動物的にでも母親は子に愛情をそそぐ、それは本能である

ただ人間と動物の相違は何かというと人間は常に何かしらの意味とか価値を求める
生きる意義を求める、働く尽くす意義を求める、確かに親は無償の愛で育てる
それは本能的でもあるがやがてやはり成長すれば親は何かしらの報いを求める
その子供が立派に成長する、社会的にも有用な人となる、例えば医者になるとかしたら
社会的地位もあり収入もあるから報われたとなる
その母親の子供は普通の店屋をしていて子供が医者になったのである
だからそんな金がどこにあったのかと不思議である、だから今はお医者様の母親になっているから報われたとなる

でもまた一方で全然報われない母親もいる、その母親は本当に情ある正直な女性だった
それで私も介護の時多少助けられたのである、でもその子供はふしだらな息子であり
報われることはなかった、そしてその家は絶えた、その父親も正直な人に働いた人だったのである、だからなぜそんなふしだらな息子が生まれたのか育ったのか謎である
だからいくら親が良くても子どもがまともに育つということもないし報われことも必ずしもないのである

また障害者をもった親はその子供ばかりを心にかけて愛している、50歳になってもその子供のことばかり愛して目をかけていた、他の兄弟二人いてもその人達にはあまり目をかけてなかったのかもしれない、だからその母親は病気になって介護されるようになっても連絡するなとまで言っている、でも障害者の息子はまともに世話できないのである
だから障害者の子供をいくら世話した愛したところで報いはないのである
そもそも人間は必ずしもこの世で報いを得ることなどないとなる
どんなに努力しても認められないとか必ずある
この世とはそもそも不公で理不尽なのである、何か不可解なのである
数学の公式のようにはならないのである

ただ人間の報いはこの世では得られなくても来世では得られるともなる
死んでから何か報いがあるのかとなるが死んでからその人がいたまれ賞讃されることがある、死んでからこそその人の価値が認められることもある
私は特に姉と母とには尽くされたから死んでからかえって思うようになり感謝しているからである
だから子供であれ親が尽くすことは必ずしも生きている時に報いがあるとは限らない
死後に特別感謝されたりすることがある
そして死者は長く忘られないとなれば死者は生者の中に生き続けるのである

とにかく人間は最後になるとその人生の意味とか価値が自ずと明らかにされる
ただ人間は集団的に生きる価値があり個々人に生きる価値がある
だから集団的に生きる価値となるとカルト教団などがあるがそれらの価値は教団が団体が組織があるとき価値があるがなくなれば価値はなくなる、会社で働く人が多数というときそもそも会社は何のためにあるのか、そこで働く意義は何なのかとなる
ただ利益をあげればいいのかとなる、でも実際は会社して利益をあげることが常に優先される
何のためとか会社自体が考えないだろう、だからこそ社畜となっているのである、何のためというより金がもらえるから働く奴隷なのである、何か意味あることに使役されるのならいいがそうではない、まずは利益を上げることしかないのである

そして人間の求める価値とか意味は

権力を栄誉栄華を金を求める価値

意味を求める価値

人間はともかくまず金になることを求める、それが何のためだとか何の意味あるのかなど見ない、欲望を実現するために働くとなる、だから金が一番の問題となりすべては金で計られる、何か意味があるとかめんどうなことではない、金をできるだけ稼ぎ後は贅沢するということである、まず一般的にはそんな意味とかを求めない、金を稼いで立派な家を建建てるとかいい車を買うとか何か贅沢することである
そのために働いているとなる、だから働く意義はすべて金で決まるとなる
金を多く稼いだ者が価値あるとなる、それがわかりやすいからである

でも一方で人間は何か意味あるもの本当に価値あるものを求める
だから別に女性でも必ず私は何々をしたとか何を成したとか最後に語りつづける
つまり人生で何かを成した価値あることを成したと語るのである
人生の意味を語るのである、私は本当に姉と母とには60歳まで尽くされてきたのである私に特別何かを求める訳でもない、ただ尽くすことだけだったのである
それは何のためというわげでもなかったのである
ただ私はたいして才能なくても大学出てから就職もせずニートのようになっていた
でも興味があることに時間を費やしていたのである、それは主に旅だったとなる
その成果を今私はプログで出しているのである

私はむしろ姉と母が死んだ後に感謝している、死んでしまったから死者はそのことはわからないにしろ生きている時は感謝していなかった
ただ60年かも私のために食事を用意したり二人は尽くしてくれたのである
それを死んでから特に思うようになった
でも実際母でもこの息子が何か社会にとって有用なものとして自慢できるものとしてあったわけではない、だからそういう息子に尽くすことを生前はどう思っていたか
報いがないと思っていたとなる、でも最後は介護したから喜んではいたのである
私は親に本当に無条件で良くされたから介護でも必死でしたし死んでからも感謝しつづけるようになった
死者とはこうして死んですぐに何もかも消えるわけではない、やはり生き続けているのだと思った、でもそれは人によって違う、家族でも違っている
家族でも複雑であり理解できないことがあるからだ

ただ生きている人でも親でも実は心がけなけれはならないのはもし死後まで感謝されるようになるにはどうするかとなる
子供を親の道具のようにする親もいる、何か自慢するために子供がいるとか普通にある
8人兄弟とか11人兄弟とかで父親に文句を言うと殴られるだけだったとか普通にある時代があった、とてもそういう親に感謝するとは思えない、ましてや死後まで感謝することはありえないだろう
だから問題があるにしろ一人っ子は親を想う度合いが強いのである
兄弟は何か必ず兄弟間で親の愛でも奪い合うとか争っているからである
一身に親の愛を受けることがないからである
意外と死者をどう思っているかとなると死後まで思っているかとが判断基準になる
本当に死者を想っている人は簡単に死者を忘れないからである
つまりますます生者の中で存在感を増して生き続けることがあるからだ
だから人間は死んですべてが終わるとはならない、愛は依然として生き続けているし
思いというのは残り続けるとういことである

ともかく何であれ日々勤めることである、そうすればいつか実りとなる、今世では認められずとも来世で神の国で認められ
神の国では無益な労働などありえないからである、無益に終わることはないのである
この世には膨大な無益な労働があるが神の国にはないのである、無駄なものは一つもないのである
石ころまでが黄金のように輝いているとなる
人間の最大のショックは人生そのものが無益化することである、それは戦争とかナチスとかカルト教団とかてもそうである
虚しく膨大な労力が無益に費やされることである、それは個々人の人生でもそうである
だからありふれた普通の人間でも女性でも老人になり最後に必ず自分のしてききたことを価値ある有意義なものとして認めさせるために語るのである、つまり誰しも無意味なものとしてはありたくないし死にたくもないのである
でも結局この世では膨大なことが無益に費やされているのである

2022年11月01日

時間はもともと存在しない (変化によって時間を意識する―時間の見方の多様性)


時間はもともと存在しない

(変化によって時間を意識する―時間の見方の多様性)


時間がなぜ謎でありわかりにくいのか、だからそもそも時間はないという人もいる
私も時間はないと思う、時間ではなくて変化があるだけである
だからこそこの世は無常ということになる、常無きものとは常にこの世が変化するからそうなる
人間関係でも今日いた人が明日は死んでいないとなる、60年も一緒にいた家族ですらみんな死んでいなくなったとかなる

この世で同じ状態がつづくことはない
鳥海山が噴火してそこに埋もれた木があり埋もれ木が発見されて噴火が起きた年代がわかったという、それは2000年前とかなる
その埋もれ木の年輪を見てわかったのである
木は成長しているから年輪も増えてくる、つまり成長することは変化なのである
もし木でももし変化しなかったら成長しなかったら時間がないとなる

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

君が代でもさざれ石が小さな石が成長して大きな岩となり苔むしてゆく、それは変化なのである、その変化によって時間を意識するのである
だから木でも成長しない、変化しなければ時間を感じないのである
石とかも苔むすこともなく変化しなければそこに万年あっても時間は意識できないのである

今年この辺で大きな地震があった、これは怖かった、それで私の家は今だにかたづけていないのである、他の家でも依然として修理つづけている
その大地震で大きな石が転げ落ちて来た、それは二三個見ている、結構大きな石である
その変化も大きいものだった、そこに石がないのに石があるようになったのも変化であるでも時間がたてば百年でも過ぎればその石が崖から落ちた石だということもわからないとしたらその石はいつもそこにあり地震で落ちてきた石だと認識できない

それで令和石とか名付ければ令和の年に落ちたものだとなる、でもさらに令和4年石となづければその年に地震で落ちた石として認識できる
でもそれを知らなければ時間というのは意識できないのである
つまり時間とは変化することによって意識する、太陽が朝昇り夕方に沈む
これも変化でありその変化で時間を意識しているのである
もし太陽が一点にとどまっていたら時間を意識できないのである

空間は常に認識する、でも時間は変化しないかぎり認識できないのである
ただA地点からB地点に移動するとき時間がかかるというときそれは変化ではない、空間の移動による変化であり時間とは違う、そもそも空間でも時間を感じるのは変化することで意識する
エベレストの山の上にアンモナイ化石がある、なぜそこにあるのだとなるともともと海だったからだとなる、その変化のスケールが大きすぎるから時間も億年単位になる
時間とはこうして短いものでも人間の一生でも変化して意識する
子供が成長して大きくなるのもそうだし老人になり白髪になるのも変化である
人間も40才になると白髪がでてきて歳だなと意識するからである
いつまでも若いとはならない、女性でも劣化してゆくからである

そもそも時間とは物事の様々な変化のことであり時間そのものはない、なぜなら変化しなければ時間が意識できない、ここに何もなかったが地震で石が転がり落ちてきた
ここに石があったがなくなったとかなれば時間を意識するのである
それは変化したから意識できる、だから変化しなければ時間を意識できないのである
それで天国では神の国では人はみな若くて年取らないというとき変化しないから時間もなくなるとなる、時間を感じるのは変化することによって感じるからである
共にいた人が死んだ時永遠に逢わないとなるのも変化である
つまり時間とは変化によって意識する、それで仏教でそのことを無常としたのである
常にこの世は変化するからである、今日逢っても明日はなく永遠に逢わないとなる
それが老人になれば実感する、あの時逢った人とも永遠に逢わないとなるからである

2022年の福島県沖地震(ふくしまけんおきじしん)は、2022年3月16日23時36分に、福島県沖で発生したマグニチュード(Mj)7.4の地震である。宮城県と福島県で震度6強の揺れを観測した

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この石はその時落ちた石である、だから令和4年石ともなる
手も時間が過ぎるといつ落ちたものかわからなくなる
自然でも変化するからその変化することで時間が生まれる、時間を認識する
もし石でも動かないとしたら時間を認識できないのである
でももう千年とか万年億年でも動かない岩でも石でもある
そこには時間を感じない、でも風化して岩でも石でも変化するからそこに時間を感じる
つまり全く変化しなければ時間は感じないのである

江戸時代の年号を見ているけど元禄とあれば相当に古いかこの辺では貴重である
でも幕末のころになるとその時代順序がわからなくなる、年号でも順序を逆にして見る
そしてその時代がどういうものだったかもわからなくなる
江戸時代は変化が少ないからその時代がどういうものかわからない
ただ天明とかあると飢饉の歳だったとか記録されているのである
でも明治以降は順序を間違えない、明治時代があり大正時代があり戦前の昭和時代がある戦後の昭和時代がある、次に平成があり令和になった
でも戦後でも平成の30年間とかはあまり変化がないから時代を意識しにくい
つまり時代を意識するのはその時代に何か大きな出来事が変化があるときである
日本だったらまず明治維新とかは時代の大きな区切りだから必ず意識する
でも明治後半と大正時代は意識しにくい、昭和でも戦争前と戦争後に時代は大きく変わったら戦争前と戦争後として区別する、つまり何か大きな出来事変化があったとき時代を認識する、時間を認識するのである
自然の変化でも津浪は巨大な変化をもたらしたから時代の区切りになるのである
江戸時代は余りそうした大きな区切りがないから時間を意識しにくいのである

ともかく自然も万年とか億単位なると変化する、陸だった所が海になったり海だったところが干拓して陸になったりする、人工的変化もあるが自然の大きな作用の変化もある
それで驚いたのは津波だったのである、津波が八沢浦だったら本当に江戸時代の入江に戻ったことほど驚いたことはない、美しい入江が再現したのである
そこで死んだ人もいたが元の入江にもどったことは信じられないことだった
時間はそもそもないというとき自然にも時間はない、ただ変化のみがある
その変化によって時間を意識するのである
鳥海山の噴火はその時埋もれた木の年輪からわかった、それも2000年前とか古いものだった、年輪を刻んだ木は時間を記録していたのである

時間があるのではなく変化することがありそれが時間として意識される
全く変わらないとしら時間を意識できないのである
宇宙の中に惑星があるとしてその惑星に行って時間を感じるにはどうしたらいいのか?
それもやはり地球が変化するように変化することを見ると時間を意識する
もしその変化がわからないと時間を意識できないのである
同じままで変化しないとしたらどうして時間を認識できるのかとなるからである
鉄の玉があるとしてそれが変化しなければ時間を感じない、鉄の玉でも錆びたり摩耗したりしていれば時間を感じるのである
でも風もない雨も降らないとか変化しない惑星だったら時間を認識できないのである

2022年10月25日

信教の自由とは何なのか? (統一教会は政治団体でもある,カルト団体がが信教の自由を盾にするのは間違い)


信教の自由とは何なのか?

(統一教会は政治団体でもある,カルト団体がが信教の自由を盾にするのは間違い)

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信教の自由を盾にカルト教団でもタブー化される、そして権力化して暴走する
それは原発でもそうだったのである、これも巨大な権力化して誰も批判もできなくなっていた
安全神話はこの政府と一体化した巨大権力でタブー化したのである
だから何かタブー化するのは危険だともなる
アンタッチャブルになりそれがナチスのように暴走するからである


常に宗教団体が批判されると信教の自由を言う、これを盾にして正当性を主張する
法律も常に都合のいいように利用されるのである
その解釈にもいろいろあり理屈はいくらでも言えるからである
そして最終的には法律でも権力がある者が決める、その権力が何かとなれば民主主義では選挙で政権をとったものである
すると選挙で勝てば数が多ければ法律も改正できるし何でも通るとなる
だから赤信号みんなで渡れば怖くないとなる

おそらく何が問題なのか?それは宗教法人とか宗教団体の問題である
信教の自由とは個々人にはある、個々人で何を信じようがいいともなる
だから無神論者もいいとなる、でも無神論者も一つの宗教だとしても無神論者の団体はないのである、ただ個々人的には別に神も仏もはいないというのは信教の自由で許されているのである
ただイスラム教国だと許されない、死刑にまでなるし殺戮される
イスラム国では信教の自由はないとなる

宗教法人とか宗教団体に信教の自由があるかが問題なのである

神は心を見ているという時、そもそもそれは個々人の心であり宗教団体のことではない
第一心を見るというとき団体化したら見ることもできないからである
団体化すること自体すでに政治化していることにもなる、また権力化していることになるなぜなら誰も一人だと社会では相手にしない、個人というだけで図書館に本を置くことを断られたりそもそも個人など社会では認めない、個人自体が犯罪者扱いなのである
でも団体化すれば犯罪的なことでも許されるのである

なぜ団体化すると社会で認めるのか?

それは団体化することは権力を持つからである、例えば一人で店で買うより十人が買うとなるとその十人の団体を相手にした方がいいとなるからだ
だからすべてこの世は団体でしか活動できない、NPOにしてもボランティアも団体でしかできないのである、つまり団体化組織化しないとこの世は動かないとういことである
つまり権力を持つためには団体化組織化することであるりそれは政治化することなのである
統一教会でも政治団体であり他のカルト教団も政治団体なのである
一番あからさまなのは創価である、宗教と政治が完全に一体化しているのである
教義自体がそうなっているから疑問も感じないとなる

だから奇妙なのはカルト教団は信教の自由を言うけど政教分離という法律があっても法律でも権力があれば無視できる、創価は完全に政教分離に違反していてもすでに自民党と一体化した政権なのだから無視である
だから自民党は創価公明党を批判しないのである、統一教会これほど問題にしているのに一切創価公明党にはふれないことでもわかる
でも政治的に質問権などを許可すれば創価も問われることになる

信教の自由は個々人にあるーでも宗教団体にあるのか?

そこが問題なのだけど信教の自由となれば何でも通るとなる、だから常に法律でも悪しく利用されるのである、理屈などいくらでも言えるからである
結局信教の自由というとき戦前はなかった、天皇崇拝となりその他は弾圧された
創価の初代会長の牧口恒三郎は逮捕されて獄死した
他の宗教団体も弾圧されたのである、そこで戦後は信教の自由が何かといわれるようになった、それはあくまでも宗教団体の信教の自由なのである
そして人間は団体化組織化することは政治化することなのである
民主主義ではすべて数で票で決まる時それで法律も作られ悪法でも作られる
そしてナチスは選挙で選ばれたことでもわかる、ナチスでも数が多ければ権力を持つことができるのである
こうして歴史的経緯があり戦後は極端に宗教団体とかでも批判されなくなった、でも逆にそこにも問題が生まれたのである
信仰なら信教の自由があり組織化団体化して権力を得ることも批判できないとなる、それは戦前の反省から極端化したのである

信教の自由というときこれも権力団体があり都合いいように使われるのである
力が正当化するのであり法律が社会を規制する訳ではないのである
だから創価になると権力を得ることしか頭にない、毎日選挙運動なのである
それは権力と御利益と直接結びつくからである
そういうものは大衆も即座に理解する、利にはさといからである
望むことは権力を得ることでありその他はどうでもいいということである
ただそこに宗教がかかわるからややこしくなるのである
宗教とはそもそも何かがが定義されないからである

現実は権力を得てこの世の王となることである、心の問題は関係ないのである
そんなことしたら人が集まらないからである
要するに人が集めるには心の問題より現実の利益であり権力を得ることが最優先課題なのである、そういうことは誰でも理解するからあれだけ人が集まるのである
だからそれが宗教なのか?信教の自由を言うがそもそもそれが宗教のなのか?
宗教は良心の問題だというときも宗教団体では関係ないのである、そんなことを問題にしているのではなく政治的利権とか御利益しか追求していないからである、それは一般社会だったら別に批判されないのである
でも宗教がかかわって信教の自由とかで批判するなとなるのがおかしいのである
それ自体が疑問なのである、信教の自由を盾にしているがそれは方便であり実質は権力を得ることだとしたら宗教法人でも許可すべきではないのである
宗教はあくまでも方便であり目的は権力を得ることだとなるからである
宗教と政治が一体化しているから複雑になっているのである
政治団体は政治的党派は許可される、でも宗教団体は実質は政治団体でも許可されるのかという問題がある

ともかく宗教が政治にかかわり権力を持つとおかしなことになる、別に預言者のように政治で権力を持つものを批判していい、それが日蓮でも預言者でもそうした
でもそれが政治団体化すると権力を持つことを目的化することは政教分離に違反するのである、でも自民党そのものが創価公明党と一体化しているのだから政教分離違反の政党であり法律違反だともなる
創価公明党に質問権を行使しなければならないとなる、それは他の宗教団体でもそうなるのである、でも自民党でも票が得たいからそれがでなきいとなる
つまり世の中は権力によって左右される、結局明治の前は戦国時代でも戦争で権力を持った者が支配するとなっていた、その後民主主義社会になっても権力が武力ではなくなったがやはり権力を追及するのが人間である、宗教でも権力を得る手段になる

目的は権力を得ることであり御利益を得ることでありそれしかないのである
あくまでも信教の自由とかいうのは方便である、権力をもちさえすればすべては通るとなる
それがナチスになったのである、現代では数が権力だからである
この世とはこの権力をどうするか、操作するか規制するかが常に問題になるのである
そのために三権分立とかもできたのである、権力は集団化して選挙でも得たものがナチスのようになる
権力が暴走するのである、原発事故だって権力を持ったものが起こしものだからである
だから権力を抑える監視することがどうするかか課題なのである、でも一旦権力を持つとその権力の悪しき利用が常にありそれを規制できない、それは歴史的にもそうでありそれが政治の一番の課題なのである

いづれにしろ宗教でもそうだが権力の危険なのはそれが常に権力自体が暴走する
それを制御できなくなることである、図のように必ず権力によって国民全体でも被害を及んでくる
オウムでも危険でも暴力装置化して権力を持つようにもなる危険があった
それでマスコミでも恐れて何も言えなくなっていたのである
マスコミは権力を監視するものとしてあってもそうではなかった
それは原発事故でも証明された、800億円もの金が電事連からでていたからである
宣伝費がでていて東電から朝日新聞でも全部新聞社では中国に招待されたとき事故になったのである
戦争中は朝日新聞が戦争を一番あおったとしている、それも権力側についた方が得だと判断したからである、だからこの世では政治では常に権力をどう操作するかか問題になる

でも結局人間ではできない、それで聖書でもみどり子に治めさせよとかまた老子だと治めずして治めるとか議員はくじ引きで選んだ方が公正になるとかなる
それだけ権力を持つと人間は危険なものになるからである
だからいかに権力を監視するかが制御するかが問題になるのができないのである
それは民主主義でもできない、なぜならナチスは選挙で選ばれたからである
民主主義だとすべて数で決まるのだから大衆化して数を集めようとしたのである
大衆社会になると大衆が権力を持つ、だからそもそも権力を制御することは不可能だともなる、人間はそもそもこの世を治めることが不可能だともなってしまう
だから神の国はこの世に成ることはない、神が治める神の国にしかないとなるのである
そこに人間社会の絶望がある、それは人間は権力を得ることを切望して争いが絶えないからである、それは民主主義社会でもそうだった、今度は大衆が数となり権力を持つようになったからである






2022年10月04日

宗教二世問題の深刻 (子供の時から洗脳されてぬけられない)


宗教二世問題の深刻

(子供の時から洗脳されてぬけられない)

●学会っ子という洗脳された人や紅衛兵とかも同じ

なぜ宗教二世問題が深刻なのか?それは純粋な子供の時から家族が洗脳されているのだから子供もそれに従うからかえって純粋な子供は染まり安い
透明な水だったらそこに赤をまぜると赤一色にすぐになってしまう
それは透明だからそうなる、もしその色が青だったら赤をまぜたら別な色になる
そういうことがなく透明でありそこで一つの色に染まり安いのである

創価だと学会っ子とかいる、完全に学会で家族一体となり育った人である
そういう人を知っている、その人は創価しか見えないのである
だから疑うこともなく創価の色に子供の時から染まっている
そして大人になって一生創価しかない人間になる
その人が悪い人間ではない、かえって純粋で素直だとカルト宗教に染まり安いのである
それはヒットラーユーゲントと同じだったのである

それは宗教だけではない、共産主義でもそうだった、共産主義でも一種の宗教だからである、それで毛沢東の文化革命があり紅衛兵がそうだった
それも中国全土を席巻したのである、その主役が紅衛兵だったのである
そういう少年は洗脳しやすいのである、そのためにどれだけの被害があったのか?
これはヒットラーユーゲントとも同じだった、ハイルヒットラーでありナチスの被害も何百万人が死んだとかカンボジアでも二百万人が死んだとか空恐ろしいものだったのである

●地獄に落ちるとか罰あたるとか脅えさせ呪縛するカルト

統一教会でも魂を支配して奴隷にするのである、その教祖は実はサタンなのである
カルト教団とは何かというと人間を奴隷にするためにある
奴隷の霊を与えて支配するのである、地獄に落ちるとか罰当たるとか脅して支配する
それがサタンなのである、でも人間はそういうものに弱いのはいろいろな問題をかかえて何とか解決しようとするからである、それでサタンにも頼るのである
そもそもサタンが地獄人間が地獄に落ちるとか脅しているのだからそんなこと信じるのは馬鹿だとなる、かえって地獄に落ちるとか悩む人だと救われるとまともな宗教家が言っている

俺は地獄に落ちるんじゃないかとか罰当たるのかと悩む人はかえって救われるとしている親鸞だったら私は大悪人だといい、悪人正機説を唱え地獄は一定の住処なりと言っていたそういう人が真実の宗教家だとなる
つまり自分自身が地獄に落ちる人間だという人が真の宗教家でありお前は地獄に落ちるというのはその人がサタンなのである
なぜ地獄人間のような人が地獄に落ちるなどと言えるのかとなる
そんなことちょっと考えればわかる、地獄に落ちるとか一体誰が言っているのかとなる
それが大集団で言うと恐怖になる、つまり誰かではなく人間は大集団が怖いからそうなったのである、集団化すれば何でも正当化してナチスになったのである
赤信号みんなでわたれば怖くないになった、それが現代社会なのである
民主主義でもすべて数で決まるから同じなのである

でも人間はそういうことに意外と呪縛されやすい、とういうのは何か不幸があったり不可解なことがありどうしてもそれを解決したいとなり頼ることになる
でも人間はそうして頼る者が危険になる
この世では何でも仲介するものが危険である、宗教でも仲介するものは危険である
教会があり牧師がいたとしてその牧師は信仰を仲介する者である
するとその仲介する者が力を持つようになる、神に取り継ぐものとして力をもちカトリックが社会を支配するようになったのである
それで直接神と向かい信仰するべきだとしたのがプロテスタントだったのである

●メデア(仲介する者)になるものの危険ー牧師とか投資でも仲介するものは危険

ともかく何でも仲介するものは危険である、メデアとは仲介するものでありそれでマスコミがあり報道も歪められた、マスコミがどれだけ力をもったか、第三の権力となったのもメデアとして仲介するものとして力を持ったからである
マスコミに出れば名前が知られる、何百万人が見るとしたならそうである
その宣伝力があり力をもったのである、でもインタ−ネットが生れyoutubeなどが生まれてその力は弱まったのである、何かテレビで主役なのは司会者であり報道局を報道する設備を持っているテレビ局なのである、だから何かyoutubeで発言している人がテレビに出ると脇役になる、主役にはなれない、主役になるのは司会者でありテレビ局なのである
youtubeだと主役になっているのは一人の個人なのである

なぜ仲介する者が力を持つかというと例えば投資などわかりにくい、だから銀行で投資信託を頼む、でもその銀行はもともと投資のプロでもない、ただ仲介するものでありそこで手数料をとる、投資自体は悪いものではないにしろ素人だとわかりにくい、すると専門家に頼らざるを得ないでも銀行はもともと投資のプロではない、だから適当であり手数料をかせげばいいしかない、銀行は投資信託でも絶対に損することがないからいい商売なのである
ただそういうことは複雑な現代社会ではいくらでもある
例えば弁護士が必要だというとき自分で訴訟ができないから弁護士に頼る他ない
法律はむずかしすぎるからである、そして現代はいろいろなことで仲介者を必要となる社会である、そうなると人間は仲介者がいなければ何もできないとなっている無力化されているのである

●偽りの宗教に呪縛される人間(サタンに操作される人間)

宗教というとき実際は神仏に頼るわけでもない、そこに巨大な集団があり組織化して力を持つことになる、そういう巨大な団体に頼っているのである
その巨大な団体は権力化して社会を支配することになる、神仏を表に出していても実際は数を集めて権力を求めているのである
現代の権力は金と数だからである、神仏といってもそれはあくまでも権力を得る手段にすぎないのである、つまり実質この世を支配しているのはサタンだとなる
それは神仏に頼るのではなく権力に頼るからそうなる

とにかく宗教二世問題が深刻なのは子供の時から染まってしまうからである
それが悪いということはならないし素直なら従うからである
でもなぜ反抗期があるのか、また子供は成長すると親から脱出したくなるのか?
そうなっているはどうしても人間は独立するには必要だからとなる
また時代の差があり古いものを否定して新しい時代を作るために必要だからだともなる
世代間の対立があるのが正常である、だから幸福の科学の二世の人が親に反抗しているのは驚きである、でもそれがまともなのである
ただ親に従う者は新しい時代に生きられないのである
結局紅衛兵騒動でもまるで麻疹のように一過性で終わった、現代は一過性で終わるのが多いのである、継続しないのである、その時その時で熱狂して終わる
終わってみてそれは何なのだとなっている
一種の熱病でありそれが覚めた時、何なのだとなるのである

いづれにしろ宗教二世の問題が深刻なのは宗教の呪縛から解放されないのである
サタンに奴隷の霊が与えられて呪縛される、それが深刻なのである
簡単にやめられないのである、だから親でもそういうものを残す与えるということは罪作りなのである、簡単に捨てられないからである
そこで子供は親を恨むともなる、ただ親だからしにくい、それで山上は統一教会を恨んだのである、それだけではないそれとかかわった支持した阿部前首相を狙い殺したとなる
積年の恨みがありそうなった、だから自民党にしてもそういうカルト宗教団体と安易に票になるからといってかかわるべきではなかった
それは創価公明党も同じなのである、票になるからとカルト教団と一体化することは危険なのである、政教分離が生まれた経緯もカトリックで庶民が苦しんだ結果生れたからである、免罪符とかを売ったからである、ということは地獄に落ちるとか罰当たるとかを逃れるためにそんなものを金で買った、それが悪質なものであり信仰を仲介する者達がいかに危険なものか証明していたのである
地獄に落ちたのは実はそうして免罪符などを売った教会側の牧師とかであったからだ
地獄に落ちるなどと言っているその当人が地獄に落ちていたのである

●カルト教団を簡単にやめられないのはなぜか

でもなぜカルト教団がこの世から消えないのか?
それは人間がいろいろな問題をかかえる、それが解決できないからである
先祖が悪くて苦しんでいるとかでもそうである、そういうカルマは各自に必ずありカルマとして苦しむことになり解決したいとなる、それで仲介者に頼るのである
それが危険なのである、仲介者というとき師となるも人もそうである、習っていいとしても盲従することは危険であり偶像崇拝になるのである
現代文明社会はともかく複雑であり必ず大迷宮に迷い込む、そしてそこで怪獣に食われるのである、オウムなどがその典型だった、理系の優秀な人達がそうして麻原という怪物に食われて死刑になったのである
それは統一教会でも創価でも幸福の科学でも日蓮宗系統の顕正会なのか日本会議なのかそれらも同等なのである

顕正会が恐ろしいのは、「必ず病気が治る」「必ず幸せになる」などの甘言で誘うわりに、信仰の「功徳」は得られず、確実に「会合への参加」「新聞の購読」「年末の寄付」といった費用と時間と労力の浪費を強要されていくという点です。

「国立戒壇を放棄した創価学会に抗議する」として、約70人の男子部員が街宣車を先頭に東京・信濃町の創価学会本部に押しかけ、「責任者に会わせろ」と敷地内に乱入、乱闘騒ぎの果てに青年部長Mをはじめ12人が逮捕された。

顕正会の手法も創価と同じだった、でも日蓮宗同士でも争っていることに驚く
宗派争いが過激になる、イスラム教でも宗派争いが現実に戦争にもなっている
創価も前は顕正会と似ていたのである、でも数が多くなり反発があると会員を増やせないとして強行な折伏などはやめたのである
ただ基本的にはその実体は変わっていないのである
国立戒壇を目指すということはやめたとしても本質的には権力を得て日本を支配する
権力を握りそして御利益を分配するのである、だから野心家が入る、政治家になりたい人も入る、欲望を実現するために入る、なぜなら権力を得ることを団体自体目的化しているからである、心のことなど関係ないからである

その極端化したものが顕正会であり初期の創価と似ているのである
日蓮宗はどうしても過激にならざるを得ないのである、それで太平洋戦争でも日蓮宗を信じて戦った人もいることでもわかる
日蓮宗は武力まで肯定するほど過激なのである、それでその団体は僧兵ともなる
なぜなら組織自体軍隊組織だからである、権力を奪取するための軍隊組織になっている
隊長とか参謀とかなっているのもそのためである
だからこんなファシズム団体と政権を運営する自民党は危険なのである
統一教会問題と同じなのだが自民党の政権の一翼を担っているので責めないのである
でもいづれは会員が減って票を得られないとなると自民党は捨てる
そういう兆候がすでに現れているいるからである

●カルト教団はサタンに操作されている

要するにカルト宗教団体はただこの世の力を得る為にこの世の手法をとっているだけである、金が力となれば統一教会のように金を信者むしりとる、数が力となれば数を集める
本来の宗教とはまるで違ったものである
つまりこの世の力を得るためにサタン化したのである、堕落した天使なのである
この世に魅せられてこの世の王となろうとしている、それで宗教を利用しているのであるだから相当に悪質でありこの人達は来世では苛烈な罰を受ける
聖なるものを汚したとして罰を受ける、その罰は苛烈なものとなる
まさにそのことにこそ恐怖なければならないのだがしない、あなた達がどんな罰を受けるのか?来世で裁かれるのか、それを知ったらショックになる
でもそう思わないのはなぜなのか?そこに巧妙な仕掛けがありそれにはまっている
サタンといってもその人達がサタンではない、サタンに操られている
そうなるのは結局この世のものに魅せられてこの世で栄誉栄華を得たいためだとなる
だからはキリストが試されたのである

悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、
こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」

カルト教団とは逆である、この世の栄誉栄華を求めて得られるとしてサタンを礼拝しているのである、結局この世に生きているのだからその誘惑から逃れられないのである
宗教さえ実はこの世の王となるための手段としてサタンに魂を売ったとまでなる
カルト教団の求めているのはこの世の王になることであり栄誉栄華を得るためである
そのためにこの世の権力を得ることが目的化しているのである
それが世俗世界ならそうなっていても理解できるが偽りとなり宗教がかかわり訳わからなくなっている、王仏冥合だとか煩悩即菩提だとかその解釈もただ都合がいいようになされる、その目的はこの世の力を得てこの世の王となるのがその教祖の野望なのである
それで奴隷の霊が与えられるのである、それは金銭的なものだけではない魂が奴隷下されるから怖いのである





2022年09月24日

木の成長と人間の成長 (長い目で見れない人間の弱点ー時間の貴重さがわからない)


木の成長と人間の成長

(長い目で見れない人間の弱点ー時間の貴重さがわからない)

●成功をあせるな

成長の早い杉やヒノキは木材としての質が悪く、商品価値が劣ります。
成長が早いと年輪が粗くなり、強度が弱く、折れやすく、乾燥によって曲がりやすくなるためです。
成長が遅いと年輪が密になり強度が増します。年輪の色の濃い部分は1年のうちの気温の低い秋冬の時期にゆっくり肥大した所です。
ですから、山に生えている木も南側斜面より北側斜面の樹の方が成長が遅く、価値が高いようです。
幹の太さが同じなら樹齢が古いほど良いようですよ。
まあ、苗木を植えたときくらいには肥料をやるのかも知れませんがね。
木材として伐採するのは早くても50、60年はかかります。


人間も同じである、とても人間のような複雑なものは即製できない、動物だったらもう教えられることもなく生まれてすぐに環境に適応するようにできている
でも人間は環境に適応するのにも時間がかかる、だから人間を作り育てることは最高にむずかしい、いくら素質があり才能があってもそれを育み伸ばすのには時間がかかる
確かに肥料をやることも大事である、でも基本的に木を育てるのは時間である
もう育つのには成熟するには50年とかかかるからだ
それはかえってやせ地の方が時間をかけて育つからいいというのは余りに肥料がやりすぎて早め育つといい木にはならない、つまり年輪が詰まっているのは一年一年じっくり育ったからだとなる年輪の幅があるのはいい木にはならない、しっかりとした丈夫な木にならない、年輪の間隔が狭いのがいいのである

人生も終わりになるとこのことを痛切に感じる、何かも身につかずただ時間が過ぎてしまったとなるからだ、一年一年充実して生きていなかった
もしその人なりに充実した時間を生きていればやがて立派な木として育つ
でもそこに必ず時間の無駄があり何かあてもなくぶらぶらしているとかいろいろなことに気をとられているうちに時間がなくなっているのだ
先が長いと思っているけど実際は時間はあっという間にすぎる
時間はなくなってみないと自覚できない、金は小金でもいつも意識して使っている
百円でも損した得したとかなっている、でも不思議なのは百万とかもうけた損したとか
かえって意識できないことがある、人間は大きなものを意識できないのである
なぜなら日ごろの生活が基本にしているからである
日頃の生活は100円得したと損したとかなる、毎日の食費とかが金を使う感覚になっているからだ
私は遺産が入ったとしても大金を使ったことがないから使えないのである
日常感覚からはみだした金は感覚的に理解できないのである
でも庭作りとかで大きな金を使った、それでも百万単位とかである

若い時の問題はとにかく一挙に脚光をあびたい、有名になりたいとかあせることである
実際は何にも認められるものがなくてもそうなる
成功をあせることである、それが失敗の元なのである
それはやはり木のように育つ感覚をとても持てないからである
何かすぐに成功して脚光を浴びたいとなる
それは事業を起こした人にも共通している、何かもう始めたりたちまち成功して大富豪にでもなる感覚になっている、まず地道に仕事をするよりギャンブルの感覚になる
私の祖父にあたる人は警察署長だった、でも機織り工場の事業を起こして倒産した
それもおそらく警察署長だから成功すると事業を起こす前に思っていた
でもその事業についてはずぶの素人にすぎなかったのである
だから一家離散にもなりその子の私の母親は苦しんだのである
事業でも簡単に成功はしない、ギャンブルのように一挙に大金が入ることなどないのである、何かそこには地道にやることが必要になる、でも人間は一挙に脚光をあびて成功者になりたいのである、それが20代とか若くてもそうなのである
ただ天才とかいるからそれは別である、どうしても啄木のような人間を普通の人は理解できないからである

●すぐに見返りを求めるな

人間の問題で何かすぐに何をしてもすぐに見返りを求める、私はあなたにこれだけ尽くしたのだから今その尽くした分をすぐくれとかなる、返してくれるとなる
ここに苦しんでいる人がいる困った人がいる、その時人間は無償ではしない、後で返してもらえばいいですよとかならない、今返してくれとなる
それより困って苦しんでいる人を見てこれはチャンスだと借金した人が今金をくれるなら助けてやるとか脅迫することにもなる、助ける方も今困っているのだから金をくれとなるだから借金している人は人を助けることはできないと思った
推理ドラマでは必ず借金して犯罪になっているからだ
借金はそれだけすでに自分自身に負担がかかっているのだから他人の負担をもう負えないのである

つまり今苦しんで困っている人がいたらとにかく助ける、今は見返りを求めない、そうしなければ助けることはできない、だから救急車はそうしている、金がなくても何がなくてもともかく来てくれる、そうしなければ人は死ぬこともあるからだ
でも普通はそうはならない、今借金して苦しんでいるから今助けるから金をくれ、そうしたら助けてやるとかなる、そういう人はそもそも人を助けることなどできなかったのである、それで自分は苦しめられたのである
助ける時あとでそれもかなりの年数がたってからその見返りがあるともなる
私は介護で自分の病気でも何か余裕がないから他人のことなど考慮することもできなかったからだ、でも余裕ができればあの時は助けられたなと援助することにもなる
それなりに金銭の余裕ができて助けることもできる
でも結局人間はみんな性急なのである

そしてせいては事を仕損じる

人間の弱点は長い時間でみれないことである、ただ毎日今に追われているだけなのであるだから国家百年の計とかなるとできない、中国だとやはりあれだけの歴史があるから長い目で見て国家造りをしている、日本人がそもそも性急な民族になっている
それで一年で首相も次々に交代するとかなる、これもやはり問題である、そうなると長い目で見て国家を運営できないからである

行き当たりばったり」の意味は「成り行きに任せること」
「行き当たりばったり」の意味とは「その場の成り行きに任せることや、その様子」です基本的には深く考えなかったり準備を怠ったりする悪いニュアンスを持ちます

人間は例えば長く下積みとかすることも耐えられない、すぐにでも上に立ちたい、偉くなりたいとかなる、下積みで苦労することに耐えられないのである
でも確かなことは人間はすぐに成功することはない、また長い目で見れば今の世だけで成功することではない、その人の評価は死んでからこそある
また長い歴史の中で評価に耐えればその人は歴史に生きつづける
でも一時代だけで脚光をあびてもはかなく消える、どれだけの人が脚光を一時あびても消えたのかその数も多すぎる、浮き名をたてて消えてゆく
芸術にしてもそうである、後世まで残り鑑賞されつづけるものは少ない、いくらその時代で脚光をあびても忘れ去れるのが普通である
そして後世に残る物はわずかである、後はみな消えてゆく

●若きときに神を知れーさすれば余裕が生まれる

ともかく人間が成長するには時間がかかる、ただ人間は成長しつづける、70越えても肉体は衰えても精神的には成長しつづける、人間は木と同じなのである
時間をかさねて大木となる、大木は一日して成っていない、ローマも一日にしては成らずである、普通の人でも積み重ねで何ものかになる
何か自分の場合、何でも理解することが遅かった、それは学ぶことで失敗したからだろう効率的に学べなかった、学校で暗記することと試験勉強しかなかったからだ
でもかえって学校を出てから自分の興味あることを発見して伸ばしてきた
これも家族に恵まれた結果であり家族には死んでも感謝している
もし家族に恵まれなかったら自分は浮浪者とかなり野垂れ死にだったかもしれない
だから家族の影響は人間にとって余りにも大きいとなる
いくら才能があっても家族に恵まれないでつぶれてゆく人などいくらでもいるからだ
また時代運が悪くてもそうなる、有為な有能な青年が戦争でどれだけ死んだかとなるからだ、戦争は人材を消耗させるのである

ただ人間にとって大事なことは若い時に神を知れということである
神を若い時に知ればその後はあせることもなくなる、もう神との約束があり来世は神の国に行くことがすでに決められるからである、すると何もあせることもない、例え失敗してもこの世での失敗であり栄枯盛衰は世の習いである、でも確実に来世で活躍できるとなればこの世で認められなくてもいいとまでなる
実際はこの世とは来世の準備のためにありこの世で何かを完成することなどできないからである、いくら才能があってもそうである
この世では様々な障害あり認められないからである、でも神に認められているからこの世で認められなくてもいいともなるからである
つまり神に認められることは余裕ができるのである、不遇でも耐えられるともなる
それがなければ不満は尽きないとなる、それはいくらこの世で成功してもそうなのであるこの世とは一時のことであり一時の夢であり永続しないからである
永続は神の国しかないからである、実際あの人と十年前逢ったな・・・でも永遠に逢わないとなる、あの人50年前に一緒にいたけどあの人は本当に存在したのかとまでなる
それで人の出合いは何なのたろうとなる、それは瞬間的なものでもあった
あとは人間は永遠に逢わないのである、これもふりかえると不思議になる

確かなことは人間で貴重なのは時間でありその時間がたちまち消失してゆく
そして時間は二度と戻ってこない、例えあっても永遠に逢わない、そもそも人間が逢うとは何なのかこれもわからない、ただすれ違った人が逢ったとはいえないだろう
でも結局人間の出合いもただすれ違っただけなのかともふりかえるとなる
人の出合いもそれだけはかないのである、大衆化した現代なら大勢の人が一体になったようでなっていない、あとはばらばらになり一体感もない虚しいものとなっているだけである、それはあらゆる団体組織に言える、宗教団体でも同じである
烏合離散するだけなのである、そこに真の出合いなど全くないのである

ただ権力が欲しい、金が欲しいとか欲を充たしたいだけに集まる、そしてたちまち離散して後には誰もいないとなる、特に現代ではそうである、大衆化群衆化しているからだ
何か後々まで残るものがないのである、みんな一時的なもので騒いでは烏合離散するだけなのである、人間はやはり死んでもその関係がつづくものが本当のものである
私の場合は家族がそうである、死んでも語りかけ供養して関係がつづいているからだ
そういう深い長い関係は現代社会ではもう消失したのである
ただ無数の人間が烏合離散しているだけである、そして後には何も残らない虚しいものとなっているのである
別れても死んでも心が通い合えば互いに別れたことにもならない、心は通じあっているとなるからだ
人間の信頼関係も長い時間でしか築けない、それで10年間ある家で手伝いさんでも勤めた人は信用できるとなる、信頼するにも人間は時間がかかるのである

木の成長と人間

木は一年一年年輪を刻む
じんくりじっくり雨風に耐えて
その幅は狭いといい木になる
一挙に木は育たない
一年一年じっくりと育つ
大地に山に根付いて育つ
養分を一気にとって成長しない
やせた土地でも徐々に養分をとり育つ
その歳月は長い
でもやがて大木に育つ
そして大木は森に大地に倒れる
重々しく倒れ森に大地に還る
木は十分生きた、そして命を全うした
次の代の木もそうして育つ
自然の命は即製できない
そのリズムは悠長であり気長である
人間は騒がしく烏合離散して
後に何も残さない
かく長くも生きた木を後に人は思うべきかな
長き平和の日を生きよ
山のようにゆったりと木のように長く
神より与えられし命を育め


2022年08月26日

なぜカルト宗教団体にだまされるのか? (思考脳が働かない、カルトは金をとることが目的-日本人はカルトにはまりやすい)


なぜカルト宗教団体にだまされるのか?

(思考脳が働かない、カルトは金をとることが目的-日本人はカルトにはまりやすい)

●金を信者からとること自体宗教ではない

なぜカルト宗教団体に入るのか?まただまされるのか?
思考脳が働かない、何でも苦しいからと頼ることの危険
カルトは金をとることを目的にしている

先祖の祟りだとかして統一教会が信者から金をとっていた、確かに親の因果が子に報いとかは現実にあるしほとんどの家に何か悪い因果が働くことは確かなのである
それは事実だし自分もそのことを延々とカルマとして書いてきた
でもそれが現実にあるとして統一教会のようにそのカルマから祟りから逃れるためには
教会に金を寄付せよということが最大の問題なのである

つまりカルト教団の目的は信者から脅して金をまきあげること

これなのである、そもそも宗教に金がからむと宗教本来持っている効用はなくなる
金だけが目的と化してそのためだけのものになる
むしろ統一教会だと先祖のカルマを梳いてるから金を出せということ自体悪質な詐欺なのである
単純に考えると人間は簡単に金だけは出したくない、何で金を出すのだと常になるからだでもなぜカルト教団に金を出すのか不思議だとなる
それは戒名とかでもそうである、いい戒名をつけるには高額な金を払うとかも騙されることである、死んでからいい戒名をつけてもらったからとして何かいいことがあるのか?
もう死んだら金は必要ないのである
というのは死者に供え物をする、それが果物とかではない、金を供え物とすることはできない、死者にとって金はもういらないからである、むしろ一杯の水でもお湯でもあげればいいとなる、死者には金は紙幣はもういらないのである
死者が望むのは物ではなくその人の心だともなる、死者を供養する心があれば水でも供えればいいし野の花でも供えてもいいのである
問題は供養する心が大事になるからだ、現実に死者を愛さないものは墓参りでも供養もしないからである

ともかく宗教に金がからむと不純なものが生まれる、だから宗教で成功することは危険である、巨額の寄付金が集まる、それ自体がすでに何かいかかわしいことをしているから金が集まったのである、でもその金が集まることでカルト教団は力をもつ、この世で力を持つのである、そもそもカルト教団はそうしてこの俗世で力をもって支配したいためにあるこの世で人を支配するには金だとなるから金を集めるのである
先祖が悪いことしたからとか先祖を救うためだとかが現実にあるとしても実際はそれで金を得るためにする、では金を払ったからといってカルマが解消するかとなるとしないのである
そこで得するのはカルト教団でありその幹部達なのである
つまりカルト教団とは悪質な宗教によに詐欺集団なのである
地獄に落ちないようにするには免罪符を売ったカトリックと同じなのである

ただ人間は金を払うことには100円でも敏感なのによく金を払うとなる
まあ、賽銭箱に十円であれ百円くらいならいいが憶の金を払うということはどういうことなのだろうとなる、貧乏に暮らしていたらそんな金を払うことはない、金で苦労していたらそんな金を払うだろうか?みんな金にはシビアなのである
そもそもカルト教団にだまされるのは思考脳が全くない人達である
なぜならちょっと考えればわかるからである、そういう自分もカルトに若い時はまったから他者に厳しくは言えないことはある
でも創価に入っても金はほとんど払っていない、新聞をとったとしてもわずかの金である大きな金を払ったことはないのである

●宗教は人間と人間の問題ではなく神と人間の問題である

宗教が何かというと人間と人間の問題ではない、神と人間の問題なのである
そこが根本的に間違っているのである、たいがい宗教は人と人との関係にあると見ているからである
そもそも神が人を万物を作ったのだから神と人との関係が最優先なのである
でもどうしても社会だと人と人の関係であり人を離れてありえないとなる
でも聖書を見れば神が存在して人がいる、その関係性を記したのが聖書だとなる
だから神が人間に望む者は何なのか、神に供えるものが問題になる
カインは野菜を供えてアベルは羊を供えた、でも羊を供えたアベルは神によみされたのである、羊はやはり人間と通じてそれを犠牲にすることは痛みをともなう、それは人間を神に捧げることに通じている

神が人間に求めるものは金ではない、紙幣ではない、それは死者でもそうである
神に供えるものは神が求めるものは人間そのものであり人間が犠牲になるのことなのである、だからアブラハムはその子のイサクを捧げようとしたのである
その子でも老人になって奇跡として授かったものであり最も大事なものだったのである
だからそもそも信者に金を求めること自体が詐欺である
神が求めるものは金とかでもないし物でもない、正しき義の人を神に捧げることである
その至高の人がキリストだったとなる、神の一人子だったからである
その人は傷なき神への献げものだったのである

カルトとは自らその長が神と称して他者を奴隷にする、サタンでもある、そして会員は犠牲を払わされる、その長は本当の神に成り変わって自らを神とする偶像でもある
ただ実はその会長にしても実はサタンに使われているだけである
その人を操作しているのはサタンなのである、そしてそのサタンに使われた人はまたサタンにいいように使われて捨てられるのである、結局地獄に落とされるのである
この世がサタンが依然として支配しているというとき人間の欲がなくならないからであるその欲があるためにその欲をかなえてくれるサタンに仕えてまた使われるのである
もし欲がなかったら幼児のようだったらサタンはそこに作用できないからである
だからこそみどり子に治めさせよとか老子のように治めずして治めるとかなったのである

神ー人間
自然ー人間
人間ー人間

日本人だと自然が八百万の自然が神となりまた人間と人間の関係しかない
唯一の神と人間の関係が欠落しているのである、それでカルトにはまりやすいのである
日本人は基本的に神と人間の関係がない、日本の宗教だと師が絶対的なものとなりやすい神のようになりやすいのである、法然に帰依した親鸞でも師が地獄に行くなら私も地獄に行くというまで人間と一体化するのが日本人の特徴なのである
それでカルト教団でも偽りの師でも一体化してゆく、偶像化して一体化して従うとなる

●事業化して政治化したカルト教団からは税金をとるべき

ともかく苦しいからと困ったからと安易にカルト教団に相談したりして金をとられるのは問題である、具体的な金ということでそこからカルト教団を判断する
新聞をとるくらいなら仕方がないとなるがそれ以上の金をとるとなると金をとることが目的の団体だと見るべきである
カルト教団の目的はとにかくこの世で力を得ることである、だからこそ金が第一の目的として運動しているし、創価だと票をとることを目的としている
政治家になればこの世の権力を得ることができるからである、だから創価では確かにあまり金はとらないが選挙を最大の目的としているのである

でも何百万の会員がいるとしてその人達の困りごととか苦しみを相談して解放してやることができるのかとなるとできない、そんな数になるとただ数を集めて票に結びつけて権利を得ることしか眼中にはないのである
第一人間は相談を受けて何かしてやれるのは二三人くらいだろう
百万人の相談にのれることなどありえないからである
だからただ頭数を集めてそれを票に結びつけるだけだとなる

だからカルトを制約するには金に注目することである、宗教団体でももともと宗教とも関係ないのだから税金をとるべきだとか金の面からカルトを見てとりしまるべきだとなる
とにかく信者から集めた莫大な金がどう使われているのか、それを見るべきである
そもそもそんな巨額な金が必要なのかとなる、神殿のようなものを建てたり事業に使われたりと宗教がビジネスにもなっている、宗教は本来事業と関係しないのである

でも現実社会では宗教家でももし豪邸に住んでいたり神殿のような豪華な建物を見たりすると信仰していれば大金持ちになれるのだとなり励むことになる
そのこと自体が危険なのである、それが宗教だとなり模範とされるからである
それで宗教者はあばら家のような家に住む方がいいともなる
なぜならそうしたら宗教に励んでも金持ちにはなれないとなることを示しているからだ
現実にシャカでもキリストでも家もない岩窟で座禅して悟りを開いたとかキリストもこの世に枕するところなしとい寝る場所もなかったからである
でもカルトとなるとその正反対でありこの世で成功して栄華栄誉に暮らすことなのである
ともかくカルトを制約するとしたら第一金の面であり巨額の金が集まるとしたら税金をとるべきである、宗教は本来金とは極力かかわるものではないからである
また宗教はビジネスでないからビジネスにかかわることは禁止すべきである
また少人数ならいいが何百万も会員とすることは独占法違反にもなり危険だからそうした巨大宗教団体は制約すべきである
なぜそれほどまでして会員を増やしたいのか?それは民主主義では数が権力になるからである、田中首相が金と数が力だということになる、それは政治とか世俗の世界ではそうなる、それが宗教まで適用されることが問題なのである

宗教はナチスになりやすい、数を集めることにを最大の目的としているのもそうである
結局赤信号みんなで渡れば怖くないとなる、数がすべてを決めるとなるのがのが民主主義ともなる、でも統一教会のように世論がバッシングするときまた数が効果を発することがある、これだけたたかれればもう統一教会は終わりだろう
だから他のカルト団体でもこうして世論でつぶすことができる
だから今創価などは戦々恐々しているかもしれない、火の粉が飛んでくるからである
現実に統一教会をバッシングしているが創価はなぜ責められるのかともなっているからである、創価も明らかにカルトだからである
それもナチス化する統一教会より危険な団体なのである、権力をとるためなら何でもする団体だからである
本当にカルト法が必要である、外国では日本のカルト団体は禁止されている
統一教会でもそうである、日本は余りにも戦後自由になりすぎたのである
それは戦争の結果ではあるがカルトはやはり制限してとりしまるべきだとなる
それは社会にとって危険なものになってゆく、ナチスの再現にもなってゆくからである

●宗教に外国が関係することの危険

確実に統一教会は政治にはいりこみ日本を乗っ取る計画をしていた
統一教会の大きな問題は韓国であり外国勢力がカルトとして日本侵略をねらっていたことなのである、これは非常に大きな問題だったのである
日本人からだまし取った金が韓国に回っていた
そして日本は最終的に韓国に支配されるとなる、そこに在日がからんできて複雑になる
在日とは何か日本人であって日本人ではないという複雑な立場にあるからだ
在日は外国に韓国にでも日本を売りわたす団体なのかともなる
ただ在日は理解しにくいのである、いろいな人がいて理解しにくいのである
明確に在日団体というのは組織があるとも言えないし理解しにくい
ただ下関には戦後韓国に北朝鮮でも帰るために集結したが朝鮮戦争になり帰れなくなり
下関にとどまった一団の人達住みついたという取材がyoutubeで見た
下関には在日の人達が集団的に居住したのである、今でも韓国の釜山に航路があり韓国系であり在日であれ行き来しているからである

統一教会の問題はこうして国と国の関係ともなり問題だったのである
外国にカルト教団を通じて日本の金が奪われ遂に日本の政治家に浸透して日本の政治が歪められる、それが最大の問題だったのである
それは政治だけではない、日本テレビにも24時間テレビで統一教会の人が番組作りしたとかニュースになった、それも統一教会側からそれを発表して一方的な報道をするなと警告してきたのである、つまり今統一教会をマスコミが批判しているがそのテレビ局でも統一教会が深くかかわっていたとして批判するなとなったのである
統一教会こうして日本の主要な権力とかかわり日本支配をねらっていたとなる
宗教はそのための隠れ蓑であり現実は日本政治を左右してその支配下にする
韓国が日本が支配する道具ともしていたとういことで重大な問題になったのである

宗教は個々人の心を問題になるのではない、権力を奪う団体でありやがてはカルト教団が権力を得て支配するためのものである、だから政教分離が必要なのだが自民党自体がすでにカルト教団に侵食されていた、第一創価公明党と一対なのだから自民党自体がカルト政党なのかとなっていたのである
つまり私が追及してきたように政教分離をしていないからそうなった
その法律は有名無実であり何ら行使されていないからである
公安委員長自体が統一教会にかかわっていたからである
これほど統一教会に侵食されていたことは意外である、なぜならどうしても10万くらいの団体がそんな力をもてるのかとなるからだ

ただそこに無料で選挙運動してくれるとか何か巧妙なものがあってそうなった
それでカルト教団の力をそぐにはみんな投票しなければならはないというのもわかる
創価公明でも固定票は限られて減っている、だから投票率が上がれば当選できなくなるからだ、まず自民党は創価公明と手を切るべきなのである
政教分離の法に違反する宗教団体が国土交通大臣になることは憲法違反だからである
宗教団体は国からいかなる特権も受けてはならないとなっているからだ
とにかく日本は戦後75年とかすぎて政治であれ何であれ大きな変革を強いられるているのである、日本の貧困化も深刻であり何か暴動でも起きるような物騒な時代になっているのである、だから自民党一党独裁は終わりつつあるのかとなる
大きな変革の時代でありそこに相当な痛みが生まれる、でもその後に再生する日本があるとなる、期待するとなる

2022年08月24日

人間の認識の限界 (空間と時間軸の認識の限界ーでも限界を破るべき)


人間の認識の限界

(空間と時間軸の認識の限界ーでも限界を破るべき)

人間というのは何事認識する意識するということに特徴がある
認識というときいろいろあってもまず空間認識がある、なぜならその住んでいる場所の空間認識は自ずと無意識にでもそなわる
でも空間認識にしても狭いのである、だから日本列島を空間認識すること自体難儀になる大平洋側で海から昇る太平洋を見ているのと日本海のように山から太陽が昇り海に沈んでゆくのを見るのとまるで違った空間認識になるからだ
また山国だと山から太陽が昇り山に太陽が沈む、この感覚もまた相当に違っている
その場所場所で空間認識は違ったものとして育つのである

京都だと盆地だから東山というと太陽が昇る山であり京都では意識される
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」
これは東山から見る風景である、でも海側に住んでいると山から昇る太陽をいつも見ていないから感覚的にわからないのである
それで近江に行って湖西方面から太陽が昇るのを見た、それは東(あづま)の方向だったのである、あんなところから太陽が昇るのを見て意外だった
そして湖西というと西であり日の没る場所だったのである、それも感覚的にわからなかった、だからいかに地理を頭だけでなく認識することがむずかしいかである
これは地理の本を見てもテレビで見てもわからないのである
その場に立って認識しないとわからないのである

基本的に太陽が昇る方向と太陽が沈む方向で方向を知る、でもこれが太平洋側と日本海では逆になるから認識できなくなる、そして人間の認識はそこに定着していないとできない一時的に旅してもまた同じ場所にいればその感覚が薄れてわからなくなる
アメリカのカリフォルニアなどは海岸は西になり太陽は西に沈むのである
また韓国では日本海は東海であり太陽が昇る場所なのである、それだけ地理の感覚は場所により正反対にもなっているのである
もちろん地理を本とかテレビとか映像だけでもわからない、それは一部分を切り取ったものであり全体を知り得ようがないからである、体感できないからである
そして外国に行ったとしてもそこはさらに一回くらい行っても地理も認識するのはむずかしい、確かに大雑把には認識するから行かないよりはいいとしてもその土地を離れると
記憶もうすれてく、特に外国はそうである、写真をとったとしてもそこがどこかもわからなくなっているのだ、見慣れない物があり認識することがむずかしいのである
ただ何回も行けば違っている、でもそんなことは普通はできないのである

地理を認識するときでは今なら飛行機でヨ−ロッパでもどこでも行ける、でも飛行機で行ったとしても地理は認識できない、飛行機に乗って見えるのは外は闇だけで何も見えないのである、でも船で一か月でもかかってヨ−ロッパなどに行けばまるで違った認識になる途中に港によるし大陸を遠望したりと認識することが違ってくる
それは車でそうである、車はただ目的地まで早く行くというだけであり途中が省かれるからだ、だから歩いて旅すれば地理を体感できる自転車でもできる、坂で苦労して上るからである、それで坂を越えたとき新たな世界が開ける感覚になる
それは近くの飯館村に行くときそうなのである
その峠が長くつづくからである、標高でも飯館村は600メートルとかあり高いのであるだから自転車で行くとその峠を越えるのが一苦労なのである
でも峠をやっと越えた時達成感がある、その感覚は車だと得られないのである
日本は山が多く峠が多い、だから峠というのは日本が作った漢字なのである

ともかく人間の認識は空間と時間軸で決められる、でもその範囲が狭いのである
また時間軸でも短いのでる、そこに人間の認識の限界がある
たとえ飛行機であれ空間を認識することが容易になったとしても現実的には認識できない大陸には長大な川があるとしてその一部を見てもわからない、その川を上から下まで下った時わかる、ナイル川でもそうである、私は船で川を下っても一部だった
河自体が長大だからそれを認識することもまたむずかしいのである
それは中国の揚子江でも黄河でもそうである、そんな大きな川が日本がにないから認識できないのである

空間認識というとき宇宙旅行で月まで火星まで行ったとしても宇宙の広さを認識することは不可能である、なぜなら何億光年のかなたの星があるとしてその空間の広大さを認識できないからである、そこに人間の限界がある
そして地理を知ることのむずかしさはそのように広大すぎてそれを知るには相当な時間を費やさないとできない、もし一億年光年の星に到達するとなるとどうにもならないなる
光の速さの乗り物ができても行けないのである
ただもし人間の寿命が200年とかなればそれだけ空間認識は深まる
なぜなら何度も旅したりして認識を深めることができるからだ
一回だけではない何回も行けるとなるからだ

ただ人間の歴史は空間を広げるものとしてもあった、歩いていただけでは空間認識は広がらない、でも馬に乗れば空間認識は飛躍的に広がった、またそれからテクノロジーの発展で鉄道が生まれて車が飛行機が生まれて飛躍的に広がったとなる
コロンブスとかのアメリカ発見も空間認識を広げたのである
そして地球には未知の領域がなくなった、でも狭い所でも地形とかは複雑であり探求することはいくらでもあるとなる
ここで問題になるのは時間のことである、時間もまた限られているからだ
そこで人間の認識の限界が生まれる、限られた時間内でしか認識できないからである
だからまず人間の空間認識はどうしても限られてくる
時間でも老人になればわかる、あっという間にに過ぎてしまったとなるからだ
30過ぎると体力でも下り坂になるとか40で白髪がはえるとかすぐに老いてくる
それも人間の限界になる、旅するにしてももう体力がないとかなる
要するに人間はみんな個々にわずかのことを認識して死んでゆくとなる

お釈迦様と孫悟空が神通力比べをした話しですが、孫悟空は、自分の神通力一杯で空を飛んで、これ以上遠いところは無かろうと思ったところに大きな山を見つけました。そこで、「これは良し、自分がここまで来た証拠をこの山に残してやろう」と思って「悟空参上!」と大きく書きました。戻って来て、お釈迦様にそれを報告した所、お釈迦様が「そなたが書いた言葉は、これか!」と手を広げられたところ、その手の指に「悟空参上!」と書いてあったという話しです。

これは人間の限界を語っている、それは実際は今でも同じなのである、いくら飛行機で外国に行き宇宙まで月や火星まで行っても空間の広さを実感することは不可能である
まず外国は一回くらい旅してもわからないのだ、空間認識にしても何度も行きその場に立てば自ずと深く認識できるようになる、その空間認識が場の認識がアイディンティティにもなる、でもとても一回くらい外国旅行しても認識できないのである
日本だと私は全国を旅しているから認識する、それでふりかえって俳句とか短歌とか詩にしたりする、それは日本がだからできることである、外国になるとむずかしくなる
大陸だと広すぎて空間認識することが不可能になるからだ
中国に三回行ってもとても空間認識できなかった、アメリカは一回だから余計できない
アメリカだとホイットマンでも空間克服することが詩になる、あれだけ広ければ果てしない空間の中で人間はとまどうのである、そこで人間が一体感を持つことは困難になる
一つの州でも日本より広くなるし砂漠もあるしとなると認識できなくなる

でも人間は空間でも時間でも限界を越えるものだとなる
それを目指している、限界を越えよということである
だからこそ神は人間に時間を越える永遠の命を与えたのである
永遠に生きるということは時間の限界がないことである
そうなれば空間認識でもいかに広くても時間が永遠にあるとすればできるとなる
全能の神は人間に限界を越えさせるのである
それは科学技術でも成されてきたとしてもそこにも限界がある
とても長寿がかなうよにうになっても永遠に生きることはできないからである
老化を止めることができないからである
そういう限界を破る力を与えるのは全能の神だとなる
人間に限界を設けてはいけないのである
もう限界だよということはあらゆることに言ってはならないのである
それは個々人でも俺はこんなもんだとか俺には才能はないとか何がないないとなる
それは自ら限界をもうけて小さくしているのである
人間には限界があってはならないのである、限界を越える力を神が与えるのである

限界を越えよ、限界を越えて新たな世界を見よ
汝を低く狭く見積もるな
神は汝に新たな世界を開く
限界を越えよ、限界を設けるな
限界を突き破れ、神に限界なし
また限界を決めてもそこを深く知れ
神の与えた地を深く耕せ
広く知り狭きも深く知れ
神はさらに汝に天の国を与える
汝はそこで尽くす
その時間も限りなくあれば・・・・




2022年08月17日

カルトの特徴とは何なのか (全体主義になるから共産主義もカルトであり権力を奪い変えようとする)


カルトの特徴とは何なのか

(全体主義になるから共産主義もカルトであり権力を奪い変えようとする)


●カルト宗教は全体を変えて理想国を作ろうとする

そもそもカルトとは何なのか、そのこと自体がわからない、明確に認識されない
だから太平洋戦争でもカルトだったとも言える、天皇を神として日本全員がカルトにはまった戦争だったともなる
そこには確かに天皇がかかわり天皇を現人神(あらひとかみ)とした戦争だったからである、そして必ず地方の村の神社には戦争の勝利する祈願するものが刻印されていた
村の神社というときたいがい五穀豊穣とか祈るものになっているが戦争の勝利の祈願のためにもなったのである、なぜなら村の人達が神社に参り兵士をどこでも見送っていたからである
だからそれも一つのカルトの形態だったともみれる
それは戦争を肯定する神であり戦争では人を殺ししてもいいとなるからだ
オウムでも逆らう者は殺してもいいとしポアしたからである
戦争は一種の宗教戦争にもなる、それで天皇が日本の神は戦争の神ではないとして人間宣言した、天皇自体が殺人命令を出した人だともなっていたからである
日本自体が全員が洗脳されてカルトとの会員のようになっていたともなる
そこでは必ず勝利せねばならない、神の祈り勝利せねばならないのである

それは創価でも選挙が聖戦であり仏戦だからみんな家々に座談会で集まり仏に祈願して必勝を願い祈るのである、完全に政教一致なのである
だから常に常勝関西とか常勝しなければならない、仏が応援するのだから負けないとなるからである、カルトとは何かとなる全体主義なのことは共通している
組織集団化して社会全体で事を成す、また全員が一致して社会を変革しようとする
社会全体を変えて理想国を目指すのである
つまりこの世を仏国にするし天国にもするのがカルトなのである
日蓮宗はそもそも国立戒壇を行うことが教義にある、そうなれば他の宗教は邪宗となり
日蓮宗一色になる、それとともに権力と一体化する
でも日蓮宗でも顕正会会とかあり創価と対立していたりする
それはイスラム教でも二大セクトがあり熾烈な争いとなり殺し合いまでしている
だから日蓮宗内でも争うことになる
国立戒壇となれば憲法違反にもなる、アメリカでもヨ−ロッパでも宗教でも自由である
イスラム教でも許可しているからである
ただこの憲法は絶対的なものではない、民主主義だと数を集めて政権をとれば変えられるからである、だからそれを実行するには選挙を仏戦ともしているのである
日蓮宗は一向宗の念仏とか禅宗とか強烈に批判しているから他者の宗教を許容しないのである

カルトは共産主義とも本当に似ている、共産主義もカルトなのである
マルキシズムは宗教の一種ともなっているからだ、そこに社会全体を変えて理想の国を作るということで全体主義なのである
この世を仏国土にして天国にするということで共通している
でも全体主義は共産主義でもソ連でも何千万が粛清されて殺されたとかある
中国でも毛沢東の文化革命でもそういうことが起きた、それに熱狂したのは宗教的熱狂でありまさにカルトだったとなる
社会全体を変えることが目的でありそこで権力と衝突するから権力持っている者たちと戦うことになる、暴力革命になる、そして権力を得れば権力を我がものとして栄誉栄華になる,カルトというときその目的は内心の悟りだとか心を浄化するとかそうした心の問題ではない、社会全体を変えることでありそのためには権力を得なければならないとなる

●この世に天国は理想国は作れない

カルト宗教団体の場合個々の心の問題は無視する、とにかく社会全体の改革を目指す、そのためにはまず権力を手中にしなければならない、そのために統一教会で政治家と深くかかわり権力を我がものにしようとしていた、選挙で議員を応援していたのである
他のカルト団体でも今は政治とかかわる、政治でもって権力を得て社会全体を変えようすとる、そこは共通しているのである
でもそれで社会が変わるかというと変わらないのである
ただカルト団体の幹部は富とか名誉とか地位を得るのである
ソビエト連邦時代でも共産党の幹部の書記は神のようにまるでエジプト時代と同じように葬られたのである、神格化されたのである
唯物論でもやはり人間が死ぬことは不可解だからそうなったのである

本来の宗教は個々の心に焦点をあてていた、「心の清い者は神を見るだろう」というときあくまでも個々人の心のことであり社会全体のことではない
社会全体を変えよとはしていない、ただ個々人の心が清くなれば社会全体も良くなるという思想なのである
でも全体主義は共産主義でも民族主義でも社会全体を国全体を変えよとする
社会を変えれば全体が良くなるという思想である
でも全体を変えることは共産主義でも失敗したのである、そこに何らかの無理があった
社会全体を変えても人間個々人が良くなるとは限らない、むしろ個々人を変えることが
心を浄化することが社会を変えるとするのがもともとの宗教だったのである

つまり天国でもこの世は作りえない、天国を作ろうとしたら社会全体を変えねばならない理想国にしようとしたらそうなる、でも共産主義でも失敗しているし全体を良くしても個々人の心はその罪とか欲とかは消えないのである
むしろ社会全体を変えようとするのは権力を奪って権力を得て社会を変えようとする
でもその権力を得よとすることは権力を持つことは堕落することになる
そもそも社会を変えようとするより権力を得たい、権力を持ちこの世のことで成功したいという下心なのだから権力を握った時やり放題になる
中国では幹部が兆の金を蓄えたとかなる
だからもし無欲な人が権力を得るならいいともなる、それで聖書ではみどり子に治めさせよとなっていたのである
ダビデでも王になったとき部下の妻を奪うために戦場に送り死なせた
権力を持つと欲でも他者が抑えることはできない、王は絶対的権力となってそういうこともできたとなるからた
社会全体を変えようととしてもその内実は自分自身も権力者を見て権力を我が物にしたいとなっていたのだから社会を変えるより権力を得たいためカルト宗教団体は理論化するのである

この世に理想の国とか天国とか仏国は実現しない、それは人間の欲がなくならないからである、そのことにこそ最大の問題があるとしたのが宗教だったのである
社会全体を変えても制度でも変えても人間の心が悪いものならば依然として社会は進歩したようでしない、それは日本でも一時豊かになっても日本人の心が良くなったわけではない、かえって他者を省みない非情な人達が増えたのである
いくら科学が機械か発達してもこの世に天国は生まれない、仏国は生まれない
天国は神がじかに主となり新たな天と地を作ることでもたらされる
人間は天国も仏国も理想の国を作れないのである、だからこそ共産主義は失敗したのである、人間の個々の運命はあまりにも複雑でありそのカルマでも平等にはできない
そのカルマは個々人で解決するほかないものである、その個々人のカルマを誰かが背負ってくれるのを期待してもできない、なぜなら個々人の家々のカルマは違っていて個々人が家族でも苦しまない限り解決しないからである
仏国土とか浄土とか言っても菩薩とか言っても依然として人間は罪にまみれ欲にまみれて変わらないからである

●政教分離は経済と宗教を分離することでもある

カルトとは全体主義でありそれはナチスでも大日本帝国でもそうだしソビエト連邦の共産主義でも中国でも同じなのである、全体的な妄想に陥る、国民全員が妄想に陥り悲惨な結果となる、カルトがなぜ怖いのか、それは人間の心を支配する
その妄想に陥れると何千万人が死ぬとかなるから怖いのである
人間はありえぬ妄想のためにも死ぬとなる、ただ中国は共産主義から資本主義にもなっていた黒い猫でも白い猫でもネズミをとる猫はいい猫だとなる
それは主義とかより現実的にネズミを食べ物でも得られるのがいいとなったのである
そういうことはもともと中国人にあった、現実利益的であり空想とかを拒否する国民性があった、怪力乱神を語らずとか儒教の教えだったからである

怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。

これは合理的なことであり経済合理性がありそれでイスラム教のような政教一致の国とは違ってあれだけまたたくまに表は共産主義でも資本主義化して経済的には発展したのかとなる、政教分離が近代にとって重要な法律だった、それがイスラム世界とか日本では実行されていないかった、だから日本は天皇を神とした聖戦になって三百万人死んだともなるそれもやはりカルト宗教の一種としてそうなったともみれる
カルトとは国民全体が妄想に陥り合理性とか理性を失うことである
それはナチスでも同じである、ナチスも民主主義の選挙で選ばれたからである
合法的に選ばれたのである、つまり数が多ければそれが正しいとなり権力を握ったのである、すべてを数が多いからと頼る時それが恐ろしい結果となったのである

いづれにしろ政治家はあまりにも安易にカルト教団にかかわっていた
今度は阿部前首相が手かざし宗教の崇教真光(すうきょうまひかり)ともかかわっていた

安倍元首相”手かざし宗教”広報誌で「自分も信者」と発言していた

政治家とは選挙のためなら相手を選ばない、宗教団体はまとまった票になるからその団体がどういうものでもいいのである
そこに日本人がそもそも宗教に寛容であり不摂生のためだともなる
日本は統一教会でもそうだが宗教に寛容なためカルトの吹き溜まりのようになっていたのである
宗教だとキリスト教でもイスラム教でも基本的に偶像崇拝を拒否する、これは共通しているのである、これが日本にないから結局カルトがはこびることになる
第一カルトの創価の応援で一体化しているのが自民党なのだからカルト政権だともなる
自民党はもともと農民とかを票田としていたがそれも弱体化してカルト団体にも頼るようになったのである、都市部でカルト宗教団体が創価などのように増えたからである

●なぜ宗教にかかわるとやめられないの、奴隷の霊が与えられるから

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

ともかくなぜ宗教がかかわるとやっかいになるのか、また宗教団体に入ると簡単にやめられなくなるのか、それは霊と心とかにかかわるものだからである
霊とか心を支配するからである、そして偶像を崇拝するようになる
だから偶像崇拝は危険なのである、唯一の神ではなく様々な偶像を崇拝する
その偶像に一番なりやすいのが人間なのである、だから教祖はオウムでも偶像になり
創価でも池田大作が偶像になりとかまた師でも偶像になる、ただ師を讃美するだけのロボットにされるのである
それで禅宗では師を殺せとして師の偶像化を拒否したから私は禅宗に惹かれるのである

そしてなぜカルト教団でもやめられないのかとなると心を霊を支配されるのからである
自由の霊ではなく奴隷の霊が与えられるのが怖いのである
地獄に落ちるとか罰当たるとかにおびえるのもそうである、それが意外と有効なのであるそのことで奴隷にされるのである、だから一旦霊が支配されると奴隷化されてしまうのである、それが肉体的なことでなく心のことだからやっかいなのである
ただわからないのはそういうカルト教団の幹部でも地獄と罰を恐れている
その恐れは世俗生活で失敗することである、事業でも何かするにも何か事故があったり
生活がうまくいかないことがあることを恐れているのである、それはあくまでも世俗的なことであり宗教自体の恐れではない、カルト教団は損かと得でしか考えない
御利益があるかどうかでし考えない、だから損することを異常に恐れているのである
要するに損得が一番わかりやすいからそうなる
日本人の宗教は神道でも御利益宗教であり何か得があるとして賽銭を入れるのである
それをもらって得するのは神主とかであり本人ではない、それはカルト教団でも得するのは幹部達であり信者は身も心も奴隷にされる
ただその幹部でも地獄とか罰を恐れている、実際はお前たちが地獄に落ちる罰当たりなものだということが自覚できないのである、宗教詐欺罪でありそれは最も過酷な地獄に落ちる罰となっているかもしれないからだ

女性はどうしても頼り安いから霊も支配されやすいから何か女性がまずカルト教団に入りやすい、統一教会でも創価でも最初に女性が会員となり数を増やす、創価だと婦人部であり選挙活動をになうし統一教会でも母親がはまってその子供が二世が苦しんだ
つまりいかにそうしてカルト教団を親にもったものは苦しむかである
それもカルマなのである、宗教だと簡単に捨てることもできなくなるからだ
でも実際は御本尊とかでもそれは字が書いてあるだけでありもともとそこに何の力もないのである、なぜなら簡単に紙だから破ることも燃やすこともできるのである
そうした人もいるしそれで頭が七つに割れるなどない、それを実証もできるのである
だからこそ神は目に見えないものなのである、目に見えなかったらそれを壊すことができない、偶像は必ず形になっているから壊すことができるからである
そういう宗教の基本が日本人は基本的に知らないのである、だから容易にカルトに洗脳されるのである

宗教とは何なのかー個々人のカルマは集団組織で解決しない 
(カルマは個々人が苦しまない限り解決しない)

2022年08月08日

政教分離とは何か (宗教と法律の問題ー宗教は心の内面を追求する)


政教分離とは何か

(宗教と法律の問題ー宗教は心の内面を追求する)

●法律と心の問題

法律とは何か、それは強制力を持っていることである、法律に違反すれば罰する力を持っていることである、権力で執行する力はを持っていることである
宗教とは何かとなれば様々な罪があるとしても法律に触れなければ罰すること刑罰を与えることはできない、ある人を恨んでいても殺したいと心でも思っても罰せられない
現実に人を殺した時罰せられる
でもあるインドの思想家は心で思ったことは必ず影響する、誰かが殺したいという念を強烈に持つと誰かにその念が伝わり殺すこともありえると言っていた
それだけ念は目に見えない具体的行動とならない場合でも罪だとなる
心で女性を犯したものは実際はそれも罪だとしている

こうなると誰も罪がない人はいない、それで不思議なのは自然界では罪というのはない
動物でも他の動物を食べるにしてもそれが罪とはならない、そうしなければ生きていけないからである、ただ自然界には人間のような様々な悪念はない
自然災害にしても人間を恨んで災害を起こしてはいないのである
津浪でこの辺で多数死んで海を恨んだという人もいたが自然を恨んでも無駄である
それよりなぜ人間が自然災害に備えなかったのかと人間を責めるのである

ともかく人間の思想とか念とかは相当に影響するから怖いのである
それが例え犯罪にならないとしても逮捕されないにしてもそういう念を持つことが危険になる、それで韓国でも中国でも戦争の恨みがありそれで日本に復讐しようとする
そういう念を政府が過剰に作り出す、そして日本人は謝るべきだとなり統一教会ではそれを宗教として正当化して韓国をアダムの国として日本をエバの国としてエバの国は韓国に尽くすのが当然だとして金を奪った
韓国では常にそういう念があり今の国だとしている、常に侵略されてきた歴史があるからだ、そういう念があると全体に影響して全体が恨みの念となり日本人は謝罪するべきだ
金を奪ってもいいのだということが正当化される
そうした集団的念が過剰に政府からでも作られることが怖いのである
それは別に行動にならなければいいというがいつか中国でも日本人を標的にして暴力にもなったし韓国でもなる、結局その集団的念が戦争になってゆく
つまり戦争とは外国に対して国単位で集団で全体に念が大きくなり強くなり本当に戦争となり外国人は殺してもいいとまでなったともなる

韓国人に最も顕著な、他の民族にはあまりない特徴といえばやはり「恨(ハン)」の精神であろう。

この恨(はん)は個人的なことではなく歴史的なものであり国家的恨(はん)だとなる
個人的恨みは批判されることがあるが国家の歴史的なものは肯定されるとなる

●心と念の問題

宗教というのはキリスト教でも仏教でも他の宗教でも法律ではない、法律の基であっても宗教に強制力はない、逮捕することはできない

「お前は人を殺したいとかの念を持ったから逮捕する」

こうはならないのである

なぜカルト宗教団体が問題なのか?それは法律にふれるから問題なのか?
オウムのように武装して権力得て日本を支配してその教祖が王になるという思想があったそれを具体的に実行しようとして武装化して本当に反対者を殺した
でも思想信教の自由というとき心で思っていただけらならそれが危険思想でも自由民主社会では罰せられることはないのである、刑罰も与えられないのである
宗教と政治の問題が政教分離でもわかりにくいのかというとそこに宗教とは本来どういうものなのか明確にしていないからである

宗教とは個々の心の問題であり政治や法律は現実社会で具体的に適応して執行力がある
でも具体的に心で人を殺したいと思っても恨んでも別に法律でそれが現実化しないかぎりかかわらはないのである
政教分離のむずかしいのは政治と宗教を分離するというけどそれがどういうことなのか明確ではないからである
別に現実に罪を犯すにしてもそれが具体的なものとなり他人を傷つけて殺すとなると犯罪として認定されて罰せられるのである
でも別に心で個々人でも集団でもどう思うかは関係しない、でも推理ドラマでは必ず殺人でも動機を調べる、それはどうしてどういう心から犯罪を犯したかを問題にするからである、それは個々人の心と関係しているから動機を必ず問うのである

カルト宗教団体の問題は思想の問題でも日本は韓国を戦争で苦しめたのだからその贖罪として金でも寄付すべきだとしている、日本人は謝罪すべきだというのはいいとしてそれがた現実になり金を献金するのはその贖罪のためだとなったとき問題が起きたのである
思想が思想のままではありえない、現実化して具体的なものとして行動になったからそれは犯罪と同じだとなった
人間は思想を軽いものとみる、人の思いは念はたいしたことがない、ただ心で思っているだけにすぎないとかなる、でもそれが必ず行動になるとインドの思想家は言っていたのである、阿部前首相を殺した人はその積年の恨みが積もり積もっていたのである
その激しい恨みの念がありあういう行動に出たのである

今政治と宗教の問題になっているのは政治がかかわるものと法律がかかわるものと宗教がかかわるものの区別が明確になっていないからである
一緒くたになっているからである
カルト宗教の問題は思いとか念にとどまっていればいいがそうではない、具体的に政治にかかわり御利益を得ようとする、それが政治権力として創価なら国土交通大臣となっていることである、宗教が心の問題ではない具体的な権力を得て施行できる立場にある
それは明らかに宗教団体の代表がそうなっているのでありその権力を利用して組織団体の力を増大することができる、だから宗教団体が国からいかなる特権を得てはならないということに政教分離の法律に違反していることは確かである
すると法律は執行力があるのだからそうしてはならないと政治に対して検察側が止めるべきだしてそういう地位につかせないようにすることである
つまり法律は無視されて執行もされないということである
だから法律など別に力があれば無視できるとなりそれは民主主義社会の崩壊に通じている三権分立は機能していないとなるからだ

●他者を地獄に落ちるとか脅迫することは犯罪

ただどんな思想を念を持つにしろそのことで具体的な犯罪とならない限り法律で罰することも刑罰を与えることはできない、だからどんなことでも思っても念など関係ないとか
現実にはなるが人間は動物と違って念とか思想の力が大きく作用する
それが人間の特徴なのである、カルト教団の危険なのはその念と思いが集団化組織化していることである
だから何か反対すると創価でもそうだし統一教会とか幸福の科学でも猛反対して組織的集団的に地獄に落ちるとか罰が当たるとか脅迫するのである
つまり宗教はそもそも他者を呪ったり恨んだりしないことが基本としてある
でも宗教になると平気で地獄に落ちるとか罰当たるとかいうのである
宗教が現実社会に適応されると心の問題内面の問題にとどまらない、なにかと言うと地獄に落ちるとか罰当たるとかいうのである、じれで呪縛される人がいる、洗脳される人達がいて問題になる

ただ不思議にそういう人達も実はその地獄に落ちると罰当たることを恐れているのであるとにかくささいなことでもカルト宗教とかなると何か不満があると相手に対して地獄に落ちるとか罰当たるとかいい、相手が不幸になることをみんなて喜ぶのである
それは仏法に逆らったからだとして信仰の問題にするのである
現実社会に宗教が適応される、人間にはいろいろな不幸がある、それをいちいち宗教的に判断する、成功したら福運があり信仰のおかげだとなる、でも商売に失敗することもあるするとそれは信仰がないからだったとかなる、つまり経済のことでも宗教を適応するのである、宗教をあらゆる世俗の世界にもちこみ判断する、宗教も経済てもなんでも一体化するのである
だから何か不満があると反対があると簡単に地獄に落ちるとか呪ったりするのである
人間はともかくいろいろあっても恨んではいけないとか言うのが本来の宗教である
ただそれが実行するとなると最高にむずかしいからみんな何か得すること利益があることが宗教だとして入るのである

要するにカルト宗教団体は確かに外国では禁止されている、統一教会も創価もフランスなどではカルトとして法律で禁止されているのである、世俗社会に宗教をもちこむとあらゆることが宗教と関係づける、そして常に不満があり反対する者は地獄に落ちるとか罰当たるとか脅迫する、そのこと自体が大きな犯罪とも思うのである
何か確かに具体的に殺すとかしなければ犯罪にはならないがそれは宗教的脅迫でありそういうことを口にしてはならないことではないか?
実際に人間を裁くことは神しかできないからである、だからはそういうことを平気で言うカルト教団は強迫団体なのでありとりしまるべきだとなる
脅迫罪というのが現実にあるからである

●世俗化された宗教はナチスにもなる

いづれにしろ集団組織化したカルトは具体的に心だけではない金銭を要求して収奪する
また政治権力を得るということは政教分離に違反するのである
それは心だけでない、具体的に権力を得ることであり権力を行使できる地位を得たことになるからだ、それは政教分離の法律違反だから取り締まるべきなのである
でも自民党はそれをしていない、票をもらえるからそうしている
統一教会でも票をそんなに持っていないのに選挙運動を手伝うとかして自民党に相当に影響していた、ただそんな力が10万くらいの信者の規模であったのかという疑問はある
ただ法律的には多額の金を献金させていたことは具体的でありそれは法律で取り締まるべきだとなる
権力を持てば罰があたるとか実行できるようになる、国土交通大臣なら大きな力をもっているから公明党に票を入れるなら仕事を与えるとかなる、応援しないものには罰を与えるともなる、予算でも公明創価に有利なように配分することになる
福運を団体組織の利権化することができる、第一そうしたいからこそ毎日選挙運動している

ただ思想にしても創価だと日蓮の教えが王仏冥合であり王は政治のことである、そして国立戒壇を目指しているのである、すると現代の政治からすると法律違反になるのである
でも信教思想の自由があるとしたら別にそれも認めさせることができる
選挙で勝てば数で決めるのが民主制だとするとそういうことでも決めることができる
そして数が万能になるとき遂に民主主義の選挙で法律に違反することなくナチスが生まれたようになる、それは合法的政権だったのである
だからすべてが数が多いからといってそれで決めていたら大惨事になる
「赤信号みんで渡れば怖くない」となってしまう
だから何らかの歯止が必要なのである、それが法律なのだがその法律も万能ではない
法律が執行されていないし法律も数によって変えられるからである
だから法治国家といいっても法律も実際は通用しないときどうなるのか?
結局数であり遂に暴力が決めるとなる、それで山上の行動が快挙だとして賞讃されるのは結局選挙でも政治は変わらないからである、そして政教分離などの法律も有名無実であり阿部前首相は最高権力者となり司法でもその悪事に手を出せないとなっていたからである
宗教とはどうしても内面から心から規制するものである、法律とか政治は外面的に規制する、いくら政治でも法律でも外面的に規制しても人々の心を変えることはできない
心が清いものが神を見るだろうという時、その心が清いということは内面的なことであり外からの圧力でできることではない、だから宗教の役割は外面的なものとして政治権力とか世俗的力で経済力でも変えるのではなく心で本当に悔い改めるとかするのが宗教だとなる、そういうものとして宗教がありそれはキリスト教でも仏教でも他の宗教でも同じなのである、ただ現世的なものの力があまりに強いから現世利益の宗教になってしまったのである

心の清いものは神を見るだろう

神は個々人の心を見ている

心の貧しい者は幸いである

悲しむ者は幸いである

・・・・・・・・

これは外面的なことではなく心の問題としてそうなったのである、宗教というのは思いとか念を浄めることなのである、山伏でも六根清浄を唱えて山で修行することは心の問題をとして宗教があったからである、心を浄めるには大都会ではできない、清浄な自然でしかできないからである
でも人間は現実社会に生きることはどうしても世俗とかかわりそこで宗教も世俗化して
現実社会にかかわり心の問題として宗教があったときまるで違ったものとなったのであるむしろ人間の思いは念は御利益権力志向になる、思いとか念を軽く見るのである
それより現世で金持ちになりたいとか高い地位につきたいとか美人と結婚したいとか様々な欲望を具体的に達成したいとなる、それがまた信仰にもなったのがカルト宗教なのである、だからこそ何百万人も集まらない、票にならないからである
世俗的欲望達成のための宗教となってしまったのである
ただ別に世俗社会だったらそういうことも容認される、でも宗教本来の目指したものとは正反対なものでありそれで矛盾しているのである、理論的にも崩壊しているのである
だからこそナチスになっていったのである、そもそもこうして矛盾しているのだから
いつかその矛盾から理論的に崩壊して破綻してしまうとなる
その破綻にしてもナチスのようになることが怖いのである

●宗教団体組織に頼っても問題は解決しない

ともかく宗教とは何かとなるとき心の問題とか内面的なものだとか言っても現実社会ではバンの問題であり日々の生活が優先されるから宗教もその庶民の日々の問題に適応する
いくら高等なことを言っても日々の生活に足しになるかどうかで決まる
生活に困っていれば援助してくれとなる、だから生活保護者が多くもなる
創価とか共産党に頼めば優先的に受けられるとかそうした日々の生活で足しになることで頼り一票にする、心がどうのこうのとか高等なことでは票は集められないからだ
でもそれが極端になるともう心の問題だった宗教が世俗以上に日々の生活のことになり
それで御利益を受けることしかなくなる、そうして創価とかではどうなったのか?
権力を奪い御利益を配分することが目的になる、だから権力異常に執着する
つまり世俗よりも世俗的になり宗教はただ世俗の御利益を得るための手段となる
そして何か反対すると批判すると地獄に落ちるとか罰当たるとか何百万人の会員が攻撃してくるから怖いのである、別に宗教と関係なく底辺層でも相談にのるとかはいいのである宗教がかかわるとややこしくなる、その区別ができなくなるから問題なのである

例えば社会で生きていれば必ず事業するにしても成功失敗はある、それがいちいち宗教に関係づける、信仰があれば成功する、なければ失敗するとかなる
すると事業で成功するには拝むことになる、そして成功した人は持ち上げられる
でも悲惨な失敗もある、その方がこの世では多い、会員でも実際は悲惨な失敗も多いのである、別に会員になっても問題は解決しない、かえって悪いことが起きることがある
近くで会員になったらすぐに息子が若くして病気で死に母親も死んだとかある
他でもそういうことは無数にある、交通事故だって学生時代に創価の人が死んだ
でもそれでも成仏したとかこじつけていたのである、その会員を見ても様々な問題は解決していないのである、むしろ悪くなっていることもある

それはそれぞれの家族とか個人のカルマが影響しているからかもしれない、自分の時はそうだった、なんらか家族とか親戚のカルマを受けて苦しんだとなる
だからそれぞれの問題は一様に解決はできない、一様に解決しようとしているのが組織団体として解決しようとして個々のカルマがありできない
共産党でもみんな平等にしようとしても結局共産主義が失敗したのは個々の運命とかカルマが違っているからである、そういうものを一様にできないからである
ただ苦しい人は藁をつかむ思いでそういう団体に頼る
女性だと頼ることが習性になっているから余計にそうなる、統一教会で息子が事件を起こした女性は夫を早く亡くして頼る人がいなくなりそうなったらしい
人間が困ったら組織団体で何でも解決してくるのか、結局上の人達はそういう人達を利用して議員になったりして得するだけだとなる、それは共産主義でも同じである
貧困ビジネスだという人もいる
問題になった女性は金はあったのである、一億円も献金していたからである
では何が問題だったのか?それは夫が自殺してそれで頼る者がいなくなりそうなった
でも金はあったのだから困ることがなかった、だからすべてが金の問題でもなかった
その解決方法は別にあったし統一教会に入ることではなかったのである
ほとんどの問題が金で苦しんでいる時、この女性自体の問題だったのである

悲しむ者が幸いだとなぜキリストが言ったのか?

そもそも人間には悲しむことが必ずあり愛別離苦がありそういうことはすべて金で解決できない、この女性は金持ちであっても解決できなかった
そうして解決できないことがあり悲しむ者となる、でも神はその涙をぬぐいたもうというとき救いがある、でもカルト宗教団体ではただそういう人達を利用して自分たちが得することしか考えないのである、だからいろいろ苦しみ困っている人達を勧誘するのにはいいのである、藁にもすがり助けてもらいたいとなるからだ
でも現実はそう言う組織団体はそういう人達を利用するだけだとなる
そして問題はそれぞれの問題が必ずしも金の問題ではなく違っていることにあり一様に数式のようにあてはまめて解決できなことである
だからカルト教団でも共産党でも似ている面があるのだ
ただカルト教団の悪質性は常に罰当たるとか地獄に落ちるとか恐喝することなのである
それは脅迫罪であり犯罪なのである、だから法律で取り締まるべきだとなる
つまりカルト宗教団体は法律ですべてではないにしろ取り締まるべきだとなる
現実に外国ではフランスなどでも取り締まっているからである
日本はそういう面でゆるいからと統一教会にでもつけこまれたとなるのである

●裁判で霊感商法は罰せられる、脅迫罪にもなる

「相手方に害悪を告知したり、心理的な圧力を加えるなどして、殊更に相手方の不安、恐怖心等をあおるなど、相手方の自由な意思決定を制約するような不相当な方法でされ、その結果、相手方の正常な判断が妨げられた状態で献金等がされたと認められるような場合には、当該勧誘行為は、社会的に相当な範囲を逸脱した行為として、違法と評価されるといわざるを得ない」

旧統一教会、信者家族らと法廷闘争も 夫の財産を内緒で献金、伝道しなければ「自分も家族も不幸に」…裁判所はどう判断?

これも犯罪として適応されるのか?犯罪ではあるが刑罰を与えられるかどうかである
そこに金銭がかかわっているからその金銭が問題になる
でも宗教が脅迫罪にもなる、先祖で苦しむとか罰当たるとか地獄に落ちるとか言うのは
脅迫罪なのである、そういうことは誰もわからないからである
神のみぞ知るとういうことになる、霊感商法は金もうけのためにそういうことで脅迫して売る、だから罪であり罰せられるとなる、そこに明確に金銭がかかわっているからである宗教は強要できないからである、信じる信じないを強要できない
そこには信教の自由がある、また結社の自由もある、でもカルト宗教団体の結社に問題がある、それが犯罪集団にもなることである、オウムとか統一教会とかそうである
その団体組織が犯罪組織でもあったからだ、創価でも折伏とか前は宗教を強要していた
そして会員にして票に結びつかせて権力を得るために運動していたし今でも継続されている
やたら宗教で他者を脅迫することは特にそれが金銭が具体的にかかわるときは禁止すべきであり罰するべきだともなる、ただその区別がむずかしいのである

2022年07月30日

統一教会と創価とかカルト宗教がなぜ力をもったのか? (大衆社会となりマスコミも政治もすべて大衆化したため)


統一教会と創価とかカルト宗教がなぜ力をもったのか?

(大衆社会となりマスコミも政治もすべて大衆化したため)


●現代文明の病弊として生まれたカルト宗教

その人は創価一家であり兄弟が議員でもありその人は創価しか見えない人だった
ただその人は素直な人でありもし本当の宗教を追求していれば全く別な人になった
ナチスでヒットラーユーゲントがいて青少年がナチスの強力な一員になった
それは中国でも起きた、文化革命の時毛沢東崇拝が起きて青少年が熱烈な紅衛兵となり中国全土を席巻した、それで粛清された人がどれだけいたのか、空恐ろしいものだった
また日本の戦争でも別なものとしてもそういうことがあった
だからこれはやはり現代社会の病弊として起きたともみる
大衆社会となり大衆により席巻される社会である、大衆が洗脳されてそうなる
これまでの戦争は日本でも侍が貴族同士の選ばれた戦士が戦っていたからである
そこから貴族でも騎士道が生れ日本だったら武士道が生まれた、互いに殺し合うにしてもそこにルールが倫理が生まれたのである
それはなぜか?それは一騎打ちになると相手の人間のことを殺すとなると卑怯なことをするなとか一個の人と人が戦うからルールが生まれて敵への憐憫でも生まれる
つまり人間的なものとなる

それが近代戦争となると一対一の戦いないし集団戦である、それは前からあったにしろ
戦争に参加していたのは貴族であり貴族同士の選ばれた戦士同士の戦いだった
日本では侍同士の戦いだった、それが明治維新で西郷隆盛率いる西軍と政府軍が戦った
政府軍は庶民でも参加できる国民軍だったのである、めれで侍の集まりである西軍が負けると思わなかったが負けた時、侍の時代は終わったのである
それは世界的にも起きたことなのである
こういうことが宗教問題と関係ないようで関係はある、近代社会は大衆社会でありあらゆることが大衆によって決定される、数によってすべては決まる社会である
また戦争にしてももう人間と人間の戦いではない、機械と機械の戦いにもなる
そこで敵を思いやる人間はいない、相手が機械になればそうなる
大衆とか群衆社会であり宗教でもそうである、選ばれた人を相手にしているのではない
無数の人達を相手にして操作するものマインドコントロールするものとなった

大衆ファシズムの世界となった、それで力を得たのがマスコミなのである
マスコミは大衆を相手にしているのであり優れた人達を相手にしていない
要するにパンとサーカスである、面白おかしくみんな見る娯楽番組が主流なに
むずかしいことは言わない、マスコミはこうして大衆の洗脳機関でありその裏にはまた大衆宗教と化した巨大権力化した宗教団体がある
それが今問題となった統一教会とかであり創価などが最たるものである
創価などは一人など関係ない、数しか見ていない、一票としてしか人を見ていない
大衆ファシズム団体なのである、それはナチスと同じではないにしろ似たものなのである
そもそも現代社会とは大都会を見ればわかるように無数の人間が群衆化して大衆化した世界である、大衆は高貴なものなど求めない、つまり現代には高貴なものを求める人は無視される、ただ数がすべてであり数が権力化するのである
田中首相が金と数ですべてが決まると言っていたとでもわかる
政治家とはそうして大衆を相手にしているのであり高貴なものを求めるものを求めていない、どんなに高貴なものがいても一票に変わりないからである、それは同等なのである
だから現代には指導する人はいない、大衆を操作するものが指導者でありそれがマスコミだったりする、マスコミは大衆を相手にしているのでありやはり視聴率が一番大事だからであるあとはスポンサーが金をくれるのだから大事なのである

●地の塩が消失した現代文明の荒廃現象としてのカルト宗教団体

要するに現代社会文明からは地の塩は消失した、ただ宗教でもそうだが大衆化したのである、だから宗教でも大衆をいかに操作するかが問題になる、そして大衆を支配するのである,マスコミもそうである、マスコミは何か常に公平中立を装うがそうではない
NHKは何か善人の代表のように見ているがそこに大きな悪がひそんでいる
それがわかったのはと民間では統一教会のことを批判しているのにNHKでは全くしていなのである

これはなぜなのか?

これは大問題である、そこには何らかの深い事情がある、統一教会を批判できない何かがあるとなる、なぜならNHKでも幹部が協議して放送することを決めるからである
その幹部の中に統一教会を批判できない人達がいるということである
それだけ統一教会は力がないとも見ていたがあったのかとなる、それは韓国との関係で政治問題化もするからである、また在日問題もありそれで表に出さないのである

いづれにしろ今回の統一教会とか創価とかカルト教団の問題の根は現代社会の病弊から生まれていた、それはナチスで経験していることである
社会が大衆という得たいのしれないものに席巻される社会である
そこに本来の宗教は皆無なのである、ゼロなのである、ただ大衆が理解するのは利益になることであり利権になることであり御利益になることである
それしか見ない、それは原発事故でもそうだった、それは莫大な利権だった
それで地元でも金の成る木であり群がったのである、そしてマスコミでも原発を批判しなかった、なぜなら原発が爆発した時、朝日新聞の幹部まで全部中国に招待されていたのである、つまり原発は東電からでも電事連からでも莫大な宣伝費が出ていたからだ
だから批判できなかったのである、だからマスコミは大衆洗脳機関なのである
肝心のNHK自体がそうなのである、そこは公平に見えても公平ではない、肝心のことを報道すらしないのである

福島県の報道関係でも同じである、福島民報は聖教新聞を刷っているし政経東北も何か鋭く問題を追求しているように見えてもそうではなかった
相双リテックはたいして技術もないのに除染でもうけて幹部で何十億もの金を山分けしていた、そして銀座で金を使っていたとこれはNHKでもちょっとだけ報道したからである
なぜなら相双リテックの宣伝をしていたらである
そもそも福島民報は県で半分出資しているから実際は県の広報機関であり政府の広報機関なのである、国の意向を伝えるだけのものだったのである

 なぜカルト宗教が増えたのか、これもやはり前々から偽預言者とかいた、それが現代社会では組織化して巨大化化したのである、それは大衆社会になったとき必然的に生まれたのである
つまりナチス化したのである、現代社会ではもう何かまともに教える場所などない
学校とかはただ知識を教える場所であり本来の人間を教育する場所ではない
だからこそマスプロ大学で千人とかの入る講堂で授業することに反発して学生運動が起きたりした、そこはエリートとしての教育の場所でもない、ただここも大衆化した学生をつめこむ場所にすぎなかったのである、理系は別として文系はそうである

だからなぜ宗教がカルト化したのか?

それは大衆宗教となったからである、大衆を相手にしいるのであり本当に求道心ある人など相手にしていない、今やそういう場所がなくなったのである
現代とは大衆に席巻された時代である、宗教もそうである、大衆宗教でありそれは容易にファシズムになるのである、結局人間がまともになるにはアウトサイダーになるほかないともなる、あらゆるものが大衆化して本来の人間でありえくなったからである
もちろんそこにも大きなも問題があるにしてももうニーチェのようになるしか本来の人間になりえないともなっているのである

●偶像崇拝の拒否から起きた一神教を日本人は理解できない

宗教二世の問題は親子二代で奴隷の霊が与えられることなのである
なぜカルト宗教問題が深刻なのかと言うと霊を支配するからである
罰当たるとか地獄に落ちるとかで霊を支配して奴隷化するからである

でもよくよくそういうことを言っている人間はどんな人間なのか?

全くの俗人でありその辺にいる普通の人である、そんな人がそんうなことが言えるの
お前が真っ先に地獄に落ちる、罰当たると言える人なのである
そんなこと簡単にわかることである、でもマインドコントロールされて見えなくなっているのである

おそらく日本人は宗教の基本を知らない、それで日本は宗教に寛容である、それがカルト宗教の吹き溜まりのようになった
ユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でももともとアブラハムを始祖して共通のものがある、宗教で一番大事なものは偶像崇拝の禁止なのである
なぜなら聖書は偶像崇拝との戦いでありその戦いから神を認識したのである

神は妬(ねた)む神として現れたからである

神は像ではない、像となるもの形あるものを神とすることに強烈に妬んだのである
これは本当に不可解でもあるが現実なのである、ねたむ神として現れたのである
だから一神教のすべての根幹は偶像崇拝の禁止なのである
いかにイスラム教では偶像崇拝を恐れているかわかる
人物像は像になるものは一切壁の模様としても描かかない、幾何学模様だけなのである
それだけ偶像を描くことを恐れていたのである、なぜなら神から恐ろしい罰があるとして恐れていたのである
でも日本だとこういう宗教の基本が欠けているのである、やはり仏像を日常的に拝むとかありそれも問題だった、教祖でも偶像化しやすい、一時オウムの麻原が偶像となったし
創価だと池田大作が偶像化したからである
ともかく宗教というとき本当に偶像崇拝が一番の問題なのである
ただ不思議なのは神社だとそこに偶像となるものがない、何に拝んでいるのかわからないのである、だから神道は謎である、御神体が自然だともなっているのである

●カルト宗教団体から真善美は生まれない、文化は生まれない

いづれにしろカルト宗教とか現代文明の病弊から生まれたものであり大衆社会から生まれたものであり本来の宗教とはまるで違ったものである
だからそれをなくすことや正すこともむずかしい、なぜなら大衆社会になったとき指導するものはいない、否定されたからである、マスコミがNHKが指導するものともなったからである,NHKの言うことはみな正しいともなったからである
NHKも偽善なのである、何か善人の顔しているが実際は悪人だということもある
それはカルト宗教でもそうである、天使を装うサタンなのである、要するにこの世は偽善が多すぎることなのである、偽りが多すぎるのである
そして社会は何らかみんなブラックなのである、つまり社会自体が暗黒社会なのである
罪の社会でありもうそれを正すことは不可能である、だから滅びるほかないともなる
罪の清算の時が来る、それは近いのかもしれない、もうあらゆることが限界に来ている
それで大清算のカルマの清算の時がくるともなる
カルト宗教もその一つでありそれは虚偽のものであり意味ないものであり大衆を洗脳するサタンに操られるものにすぎないのである

いづれにしろこの世は暗黒である、その闇は深く晴れることがない、ただ自然は美しいのである、そこにこの世の救いがあるとなる
カルト宗教を見分けるのはそこから何ら善きものが生まれないことであるし
肝心の真善美は生まれないのである、だからむしろ過去の宗教というとき問題があるにしろキリスト教文化が芸術が生れ仏教文化芸術が荘厳に生まれたことでもわかる
現代のカルト宗教からは一切そういうものは生まれない、ただ権力を操作したいというだけである、そこに集まる者も醜悪なものしかない、なぜなら教祖はサタンであり偶像崇拝しているような所から良きものが生まれるないからである
また大衆から良きものが生まれない、文化を作りだすこともない、大衆と民衆は違う、民衆は民謡とかでも文化を作りだしたが大衆は何も作りださない、マスコミとかに操作されるものでありパンとサーカスであり不毛なのである

ただマスコミではないインタ−ネットからは新しいものが文化的なものが生まれている
個々人が映像化したものが世界的に膨大に表現されているからである
そこに現代のグロ−バル化した文化が生れているのかともみる
でも現代から文化とかは生まれにくい、どうしても大衆社会であり大衆が求めるのはパンとサーカスだからである、そして大衆が権力化する世界である
一人が消費するより十人でも店に行き消費すれば金を使えば力となる
一人が消費しても力とはなりえない、だから店でも一人は相手にしない、問題は数だとなるのである、すべて人間は数としてか計算されない社会なのである
誰でもいい数を集めれば社会で権力化して支配できる社会でありそれが極端化するとナチスとなったのである、カルト宗教もそういうものとして生まれたのである

●カルト宗教団体が背後で国を操作することの危険

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この図のようにカルト宗教団体は国にかかわる、国を操作しようとしている
それで内村鑑三は外国の宣教師を嫌ったのである、何らか背後で国を操るということで嫌ったのである
だからこの図のように背後に国がかかわる、統一教会でもそれが明るみに出た
これほど選挙にでもかかわり日本を支配しようとしていたことに驚いた
自民党の安倍派はもともと勝共連合時代から支援したし支援を受けていた
一心同体だともなっていた、それは儀礼的な浅い関係ではなかった

また創価の後ろには中国がいる、創価もなぜあれほど中国に肩入れしているのか?
とにか中国様様なのである、宗教と共産主義が相いれないのにそうなっている
それは政治的意図があってそうしているのか、勢力を拡大するためにそうしているのか?でも中国で布教は無理だろう、どういうわけでしてしいるのか良くわからないのである
ただ創価は権力を権勢を拡大することが目的でありそのために布教もするし会員をとにかく増やそうとしている、その権勢を拡大するためには日本だって中国に売るとなる

それからエホバは別に日本の政治にかかわるようには見えない
でも後ろにアメリカがいて工作する、その団体なのかともなる
日本キリスト教会という団体もあるけどこれもアメリカから金が入ってきているのか
なぜなら信者数が創価と他でも比べると極端に少ない、でもあまり寄付金など要求しないのだろう、だから経済的にどうして成立っているのかとなる

日本基督教団は、神のみまえに、在日韓国人キリスト者たちとその同胞に対する戦前、戦後にわたる罪責を告白し、今日の在日大韓基督教会との協約締結を感謝する。
https://wvtravelclub.jp/the-united-church-of-christ-in-japan/

統一キリスト教団体だけではない、こういう主張をもっているのである
キリスト教団体は韓国に多い、また在日朝鮮人も数多くいて影響力がある
宗教団体でも内部に入り重要な地位をしめていたりマスコミでもそうである
在日の力は表に出ていないが大きい場合がある、それはなぜかというと在日は日本人なのである、見分けもつかないし日本語を普通に使うし優秀な人も多いのである

だから不思議なのは在日でアメリカ国籍を持っている人が下関とかにいた
この人はなんなのだろうと理解できなかった、れっきとしたアメリカ国籍だからアメリカ人であり岩国にアメリカの基地があるから出入りして兵士と話したりしているのである
留学もしているから英語を話せるからである
こういう人は他にもいる、だから一体何人なのかわかりにくくなるのである
宗教団体でも様々な人が入る、国籍は問わないからである、その中にスパイも入っているかもしれないということである
だから何かこの辺で在日の小説家が住むようになったのはなぜだろうと疑問になる
在日の人が何か運動するためのなのかとも見る
すでに市役所ではアメリカから賞をもらったとか横断幕がかかげられているのである
それは背後在日の勢力がありそうなったのかともみる

●不純な動機で数だけを集めるカルト団体

いづれにしろこうしてカルト教団には様々な勢力が入ってきて工作することがある
別に信仰とも関係ない、そもそもカルト教団は信仰など目的にしていない
勢力拡大してその国を操作するとかそういうものに利用されるだけだとなる
だからどんな人が入るにしろいいのである、数が増えれば勢力拡大になるからである
そうしているのは背後にそうさせている国があってそうなっているのかともみる
アメリカと中国がそうである、統一教会の不思議はアメリカとも深くかかわっていたのである、だから公明党でも統一教会の集会に出ていたのである

そもそも宗教団体自体が何か純粋な信仰を求める場所でなはい、不純な場所なのである
信仰は別に教会に入らなくても唯一の神を知ることができる
私は一回も教会に行ったこともないし全く別な創価とかのカルトで運動していたからである、だから本当に奇妙だともなる、ただ私に言えることは私は政治運動に興味もなかった私が求めていたのは死の解決だった、それで宗教を求めていたのである
結局宗教でもその人自身が動機が純粋であれば汚れることはない、創価にいい女がいると金持ちになれるとか金銭的にも援助してくれるとかなんとか得することばかり考えて入る人が多い、つまりそういう不純な動機の人達が膨大なのである
そんなこと考慮しないのである、創価だったら一票になればいいだけである

そうした余りにも不純な場所がカルト教団なのである、それは天使を装うサタンに操作される場所である、その背後に教団を利用して別な政治目的があり利用されるとなる
自民党なら利用してまた利用されるものだとなる
それが一つの権力集団だからそうなる、その権力に目をつけるからである
一票でも得られればいいとなる、それが権力をつくるからである
要するにこうしてみんな権力を求めているのがこの世なのである
権力となるのが金であったり軍事力だったり現代なら一票となる数なのである

宗教が権力化すると本来の宗教でなくなる、神が見るのは心だとするとき個々人の心を見ているからである、数とか権力化したもの建築でもこの世の威勢を誇るものでもない
個々人の心を見ている、心の清い人は神を見るだろうというときそうである
でも宗教とは必ず政治にもかかわりこの世とかかわりこの世的なものに変化する
そしてこの世の人間の欲望のためにも利用される政治にも利用される
そして日本人は宗教の基本を知らない、偶像崇拝がどれほど危険なものか知らないのである
そしてそもそも本当に神を求めるなら牧師とか教祖とかそうした仲介者を通さないことである、その人達でもいかがわしいのが多いからである

その人たちあたかも神の取次人のようになり権威を持ち権力を持つからである
誰も仲介がなくても神を知ることは個々人でできる
そこに仲介者を立てないことなのである
その仲介者は天使を装ったサタンになるからだ、そして偶像化されるのである
だから禅宗だと何か偶像崇拝を拒否する,師まで殺せというときそうである
それは師でも弱者はどうしても偶像化するからそうなったのである
そういう宗教の基本が日本人は教えられていないからカルト宗教の吹き溜まりのようになったのである、ただ外国でもカルトはあるから一概には言えない
でも日本はカルトとかに抵抗なく洗脳されやすい民族だともなる

2022年07月22日

いつの時代も言論の自由はなかった (人間の権力を求める、宗教も権力を得るために利用される)


いつの時代も言論の自由はなかった

(人間の権力を求める、宗教も権力を得るために利用される)

●言論の自由は歴史上なかった

そもそも人間はあらゆる自由が可能なのか、これが政教分離でも問題になる
結社の自由とか信教の自由があるからだ、人間は自由を求めて来たことは確かである
信教の自由と言ってもそれは歴史的に見ればなかった、必ず弾圧されてきた
それはキリスト教でも仏教でもそうだし思想としてもそうである、共産主義でも弾圧されてきた、人間に信教でも思想の自由がなかった
常にそれを許さないものが社会にあり権力でも弾圧してきた、キリスト教でもカトリックが今度は権力をもったから弾圧してきた
そして人権を重んじるフランス革命が生まれた、つまりこれは宗教からの解放として生まれたのである、それはなぜかとなればカトリックは宗教でも社会で権力をもっていたからである、その自由を求めてルターの宗教改革がありプロテスタントが生まれた
何か自由というとき権力側から弾圧されて血を流し犠牲になった人達が大勢いた
戦前なら天皇が神となりそれに逆らうものは弾圧された、殺された人達もいる
創価の創始者の牧口常三郎などがそうである

また言論の自由というけどこれもなかった、権力者に歯向かう批判の言論は許されなかった、中国では

焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)

『史記』秦始皇本紀によると、始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越(中国語版)は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。丞相の李斯は、儒者たちがいにしえによって体制を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。始皇帝はこの建議を容れて、医薬卜筮・農事以外の書物の所有を禁じた「挟書律」を制定した。

これで学者が生き埋めにされたとかあった、つまり皇帝の絶大な権力に反抗する者は苛烈なものとなった、そこには批判する自由も思想の自由もなかった
だから権力者を批判することは死ぬ覚悟でしないとできなかったのである
言論の自由など江戸時代にもなかった、幕府の批判は許されなかった、「見ざる、言わざる、聞かざる」になっていた
戦時中は政府の批判は許されなかった、戦争に対して何か批判的なことを言ったら特高が着て刑務所に送られた、つまり言論の自由は戦前まではなかったし今でもない
一見あるようでもない、私自身でも個人は発言してはいけないと町の図書館に本を置けなかった、公務員はそういう力を持っているからだ
つまりいつの世でも言論の自由はなかったのである、民主主義になっても言論の自由はない、なぜなら発言するにしても批判するにしてもできない、本を出すにしても普通はできない、だから原発でも危険を知っていた人があっても発言できなかった
またマスコミでも自由な発言はさせないし批判はない、原発でも原子力村が強固に作られていて批判は許されなかった

●権力をどうして監視できるのか

統一教会がなぜマスコミで一時あれほど批判して放送したのに

なぜその後全く報道されなかったのか?

これも不思議だった、統一教会のことなど忘れていたしそんな影響力があったとは思えなかった、でも自民党に働きかけて影響力をもっていた

そして公安委員長も統一教会に忖度していた!

これは大きなことである、権力というとき一番の権力は警察とかまた戦争になれば自衛隊とか軍隊になるからだ、戦時中軍人が一番威張っていたというときそうなる
人間の権力の最たるものが暴力であるからそうなる

統一教会が報道されなかったのは報道させないように権力が働きかけた

こういうことは常にある、権力あるものと権力がないものがありマスコミは報道する権力をもっているが報道しないのはさらにその上の権力あるものがあり報道させないからだとなる、原発でもその危険は報道させなかったとなるからだ

人間の社会の問題はこの権力にある、権力あるものが必ず自らの権力を維持するために守るために批判させないのである
権力というとき統一教会はそれなりに資金を集め奴隷となる信者を集め権力を持つことになる、民主主義では確かに自由があるが票を集めに苦労する、するとまとまって票がある組織団体とつながる、そこに癒着が生まれる

宗教団体でもそこにはまとまった票が得られるからつながる、創価はまとまった票が必ず計算して得られるから票田になり自民党と一体化する、その見返りとして大臣の椅子を与え権力の特権を与えるのである
創価の活動はまた権力を得ることにある、その権力を得る為に無血革命とか言ってその活動は選挙活動なのである、目的は権力を得ることである
そして今度は巨大な権力化すると反対する人を弾圧するのである
創価を批判する者は許さないとなる、そのために福島民報でも毎日新聞でも聖教新聞を刷らせて資金援助するのである、そうすれば批判できないからである

●権力がなぜ生れるのか?

そこから危険な状態になる、原発の危険は知らされず地元の人たちは故郷にも住めなくなったとか戦争で何百万人死んだとかなる、つまり権力とは実効力あるものでありただ何かを言うだけのことではない、批判を封じることもできるし何かを強制的に実行できる力なのである
だからこの世とは必ず権力との戦いになる、権力を持つものとの戦いなのである
その戦いはこの世の終わりまで終わらない、それは人間が権力を求めることにこそある
この権力とは何なのか?それは人間の尽きない止められる欲望だということである
権力をもてば得をする、金も入ると女性への欲望がかなえられるとか何かこの世の欲望が得られ立場になる、中国の共産党なら幹部になれば莫大な富が得られるとかなる
またアメリカにしても今度は一見平等を言うにしても民主主義にしても世界の富をわずかな人たちが独占する、株などでもそのシステムはわからない、巨大すぎて理解することは不可能なのである、その富は後進国などの貧者の汗の労働から得たものにもなる

だからこそ人は権力を得れる者になりたい!

それは宗教でも共産主義でも同じなのである、権力者がいるから権力者に代わり自分たちも欲望をかなえたい立場になりたいというだけである
統一教会を見ればわかる、信者を奴隷にして豪華な建物を建て幹部は贅沢しているのである、結局この世の中人間を養分にするものと養分にされるものとに分かれるのである
結局この世の中はブラック会社なのである、養分にする者が政治家であれ官僚であれ他にもいろいろある、パチンコする人はそれて儲ける人の養分だということもそうである
カルト教団だと信者は奴隷であり幹部の養分だとなる
要するに養分にされるものか養分にする方になるかがこの世である
政治家は国民を養分にする方であり自分のことしか考えない、選挙のときだけ愛想良くするが後は知らないと自ら議員が言っているからである
このようにこの世のからくりを知るべきだとなる

宗教でも山の中でわずかの食糧で節制して修行しているような人ならいい、カルト教団はとにかく権力を追求しているのである、政治化するのも数を集めるのも権力を求めているからそうなる、宗教はそもそもの始まりは権力の否定からはじまったのである
よくよく聖書を読めば権力を否定していることがわかる、権力を求めないことこそが宗教である、神の国とは権力なき世界である、唯一の神によって治められる世界である
全権が神にあり神が治める世界である、そこで人間は権力者の養分ではない
一人一人が自律的に神の子であり神の国に生きるのである

●権力を監視する三権分立

だからこの世でまともな人は必ず時の権力者と衝突する、これはさけられない
その権力者とは誰かとなるととにかく何らかで権力を持っている人である
官僚でも大きな力を持っている、警察は暴力装置だから権力を持っている
宗教団体でも数が多ければ票になるから権力を持っている、権力によって社会を人間を社会を動かすのである、宗教もその方便として使う、その目的は権力を得ることである
そのために人間は偽善的になる、宗教でも結局人間の欲を達成させる為のものとして利用される、美辞麗句を並べてもその中身は汚いものなのである
オリッピックでも美辞麗句を並べても実際はその実行者は金を得る為だったのである
人間はそもそもそういうものなのである、ジキルとハイドなのである
自分の欲望が第一でありそれをかなえるためにいろいろある、宗教もその一つになっているにすぎないのである

民主主義が三権分立になったのは「権力」を一番問題にしていたからである

「三権分立」とは、国家権力を「立法権」、「行政権」、「司法権」の3つに分けて、立法権は国会、行政権は内閣、司法権は裁判所という形でそれぞれ独立した機関が相互に抑制し、均衡を保つことで国家権力の濫用を防止し、国民の権利と自由を保障する仕組みのことです

司法とは権力の監視機関である、立法権は国会で審議して法律を決める、でも政教分離の法律を決めるとなると簡単にはできない、自民党でも他の党でも宗教団体の支持を受けているからそれができないのである
そもそも司法権でも絶対ではない、統一教会に公安委員長がかかわり忖度していたとかなるからだ、つまり宗教団体でもすでに大きな権力でありその権力に影響される
だから巨大化したカルト宗教団体でも取り締まることはできないのである
そして権力は危険なのは権力が巨大化するとそれに逆らうことができなくなり暴走する
それがナチスだったのである、もう誰も止めることはできない、それは独裁国家で起きて来る、独裁国家は独裁者に権力が集中する、そして誰も逆らえなくなる
それがロシアのプーチンであれ中国だったら習近平にもなる

そうした権力の暴走をどうして制御するのか?

それが民主主義社会でも自由社会でも課題になる、なぜならナチスは民主主義で選挙で当選して大きな力を持ち暴走したからである
つまり権力とは暴れ牛のようになる、その時誰もその牛を制御できなくなる創価などは今下降気味だけど会員がうなぎのぼりに増えてナチスのようにもなる勢いだったのである、民主主義は自由だとしても全体主義になりやすいのである
大衆が主役でありそれはただ数によってすべてが決まるからである、数が権力になるからだ、だからその数を集めるためにカルト教団は毎日活動している
布教するというのもただ数を集めて奴隷にするためである

●カルト教団員には獣の印が押されているーサタンの偶像崇拝である

カルト教団は精神的な奴隷にすることだからである、教祖が神となり絶対服従になるからである、それは偶像だとなる、それらは獣の印を押された人達だとなる
ある時は卍が印しとなりZが印しともなる、牛とか羊でも焼き印を押されたようなものである、その印しのある者はまるでサタンに属したともされる
この世は二つの人間に分かれている、この世のサタンの印を押されたものと神から選ばれた者の印を押されたものである、神の国の約束を得たものである
結局カルト教団の教祖は実際は天使を神を装ったサタンだとなる
結局宗教もサタンに乗っ取られるのだこの世だとなる
なぜ乗っ取られるかとなれば人間は限りなく欲望を持っているしその欲を絶つことは不可能である、だからこそその欲によって人は動く、サタンはその欲をかなえてやるとして
崇拝するのである,サタンは人間が作り出す、人間の欲望が作りだしたものである
もし欲がなければ子供のようにサタンはかかわれないからである

実際は統一教会の教祖の文鮮明でもまたオウムの麻原でも創価の池田大作でもサタンだったとなる、サタンを偶像を崇拝するのがこの世の人間である
本当の神は崇拝しない、だから神の一人子は十字架にかけられた、この世で崇拝されるのは善を装うサタンだとなる、そのサタンの権力が絶大なので多くの人達が従うのである
そして世を支配するのであ、その人たちは獣の印が押された人達のである
つまりサタンのものになった人達だとなる、何か無神論者の方が独立的であり優秀な人が多いこともいえる、カルト教団は大衆が相手でありただ数として数えられる人達であり
そこで一人一人など見ていないのである、数を集め権力として見ているだけである

そして人間は遂に権力と権力が対抗してハルマゲドンになり滅亡する
アメリカが中国がロシアが巨大な権力でありその権力同士が衝突して世界は核戦争とかで滅亡する、どうしても権力を求めるのだからそれをやめることができないのだから結果的にそうなる、もし人間が権力を求めなければそうはならないのである
でも権力と欲は一体なのだから権力なき世界など生れないのである
だからこの世は一時滅びなければならない、そして神の手により再び神の国が創造されるそれを望む他ないのである、いくら理想を求めても無駄だとなる



2022年07月20日

なぜ韓国でキリスト教徒が増えたのか (日本の支配の反発から民族キリスト教となっていた)


なぜ韓国でキリスト教徒が増えたのか

(日本の支配の反発から民族キリスト教となっていた)

●韓国の民族主義は日本支配の反発から起きた

こんな状況もあり、神社参拝を拒否したキリスト教徒、宣教師は弾圧され始めます。
これにより、朝鮮半島のキリスト教は「民族キリスト教」へと変化していきました。
つまり、この頃からキリスト教が民族主義と結びつくようになっていきます。
1919年3月1日に起こった独立運動(三・一運動)も宗教指導者による影響力によるものでした。

日韓併合下では外国との接触を持つキリスト教徒が抗日運動を担うようになった。特に、1919年に発生した三・一独立運動ではキリスト教徒が主要な役割を果たした。

朝鮮戦争により、国土が荒廃した韓国に進出して難民や被災者に積極的に食料援助を行いながら布教活動を行ったのが設立間もないペンテコステ系の教会でした。
そのため、教会に行けば、食べ物がもらえたため、ペンテコステ派が急速に勢力を伸ばします。


 「教会というのは本当に驚くべきところでした。小学校から受けてきた日本式教育によって死んだ民族意識が甦るところが教会でした。早天祈祷会の時には必ず独立のために祈祷し,聖書解釈をする時にも,祖国の独立を念願し,民族意識を目覚めさせる側からしていました。例えば使徒言行録に “主よ,イスラエルのために国を建て直してくださるのは,この時ですか”(使1:6)という題目がでると “主よ,朝鮮が建て直されるのは,この時ですか” というように解釈をするんです

 韓国における初期キリスト教受容の要因[上]
常石希望

 

 韓国にキリスト教が多いのはなぜか、それもプロテスタントである、カトリックが教会が勝手に作れないがプロテスタントは作れる、カトリックは世界的組織化してバチカンが総元締めになっている、つまり統制されているがプロテスタントはそれがない、誰か一人でも勝手に布教して教会でも作ることができる
 おそらく教会という一つの枠を作るものでもないとなる、だから無教会でもありうる
内村鑑三の無教会派として韓国人にも広がったのはそのためである

ではなぜ韓国にキリスト教徒が増えたのか、その理由の一つとして大きな理由として
日本に神社を神道を強制されたことの反発があり民族独立の願望が強かったことである
その民族独立復興とキリスト教がうまく一致したのである
何か宗教と民族意識(ナショナリズム)は合致しやすいのである
日本だと日蓮が民族主義と結びつく、だから太平洋戦争でも日蓮は持ち上げられたのである、逆に韓国は朝鮮半島は日本に侵略されたとしてその独立の強い意志で国民が一体となった、それがキリスト教と結びついたのである
愛国心と宗教が一体になりやすいのである、ただキリストはイスラエルの民族主義を否定したためユダヤ人の民族主義者の反発されて殺されたともしている
キリストはイスラエルという国に限定されるものではなく人類救済のために神が遣わしたものであり旧約の時代とは違ったものとして現れたのである
だからこそ一国家民族のものではない世界へ普及したのである

ただ宗教はナショナリズムと結びつきやすいのである、右翼的になりやすいのである
そういう心情は世界共通だから韓国でもキリスト教が民族主義的キリスト教になったのも理解できる、それで統一教会の理論も理解できる、韓国がアダムであり日本がエバだとういうのもキリスト教から生じた思想である
日本が戦争で朝鮮半島を侵略したということで贖罪として日本人は献金しなければならないという論理もそうである
つまり最初にキリスト教があるのではなくナショナリズムが民族主義がありそれにキリスト教が入り一体化したのである
ただナショナリズムと宗教は結びつきやすいのである、たいがい宗教だと共産主義を否定するのは右よりになるのはそのためである
内村鑑三でも日本を愛すこととキリストを愛すこと二つのJを主張したからである
宗教はやはりその国の歴史と伝統を重んじる、その上にキリスト教でもありえる
共産主義になるとマルキシズムはそうしたその国々の歴史と伝統を否定する、だから中国の文化革命のように歴史的なもの伝統的なものを破壊したのである
宗教とマルキシズムは対立するのである

●統一教会も韓国の民族主義として生まれた

なぜ韓国にキリスト教が普及したのか、その答えは一つではないにしろ韓国の置かれた立場が特殊であり韓国には中国人も多く住んでいて独立国ともなっていなかった
それで韓国人の独立を民族主義がキリスト教と結びついた、特に儒教で民族を国を治めていたがそれもなくなったとき余計にキリスト教に頼るようになった
それは戦後天皇を神として戦争した日本でもアメリカに負けると精神的支柱がなくなり
様々な新興宗教が勃興したのとにないる、その最たるものが創価だったのである
創価でも日蓮宗なのだから当然ナショナリズムと一体化するのである
ただなぜあれほど中国と一体化するのかその理由が良くわからない、中国で布教できるとは思えないからである、仏教系の・・団体が弾圧されているからだ

ともかく宗教が民族主義と結びつく、それがもともとの宗教ではない、宗教は国とかと関係なく個々人に神が現れ宿るものである、国に限定されないのである
ただその国の歴史と伝統を無視してはありえないのである、だからこそ内村鑑三が武士道キリスト教になり幕屋の手島郁郎が神道キリスト教にもなったし仏教とも一体化もするのであるそして日本は世界のあらゆる文化でも宗教でも入れる受け皿になったのである
だから神仏習合にもなった、でも仏教にしても日本に入ると先祖崇拝にもなった
ホトケとは先祖らしいからである、本来の仏教ではないのである

いづれにしろ統一教会の危険は韓国という国家がかかわり日本をキリスト教を使い支配しようとしたことである、その過程で日本人から金を巻き上げるものとしてカルト化したのである、こうして背後に国家がかかわると危険になる、そのために外国の宣教師でも内村鑑三は嫌い拒否したのである、つまり日本化した独自のキリスト教を主張したのである
信教の自由はそうした背後に国家がかかわり国家の意図がありかかわるとき危険になる
だからこういう点でも国家の独立を維持するには制限が必要になる
何らか日本の独立がいろいろ侵略されている、中国人が土地を買収しているのもそうであるそれはあからさまに目に見えるものとしてわかる、でも宗教とかなると目に見えてわからないことがありそこに宗教がかかわり庶民にも入ってくる

そうして精神的にも支配して国家自体がのっとられるともなる
また国家でも政治でも創価などによってのっとられる、現実に創価は統一教会のように
あらゆる権力のある場所に入り工作していたからである
それと同じことを統一教会がしていたのである、だからこれは警察でも公安でも政府でもとりしまべきだったとなる、でも議員でも票をとるために安易にかかわっていたのである参政党まで統一教会がかかわっていたことに驚くのである
統一教会のことなど忘れていたが実際は目に見えない形で日本の権力中枢に入りこんでいたのである

●普遍的思想、マルクス主義でも宗教でも民族主義は否定できなかった

民族主義はナショナリズムは否定できない、マルキシズムも普遍思想であり民族を越えたものとして世界を席巻した、でもその肝心のロシアがソビエト連邦が崩壊して結局ロシア民族主義になりウクライナと民族抗争していることでもわかる
またアメリカの民主主義も普遍思想であり民族を越えたものとして世界化した
でも民族そのものは否定できない、血は地でありその土地と結びついて民族がある
一方でイスラム圏となると砂漠であり遊牧民であり土地と結びつかなくても民族主義がある、従妹同士の結婚の風習があるというとき血の純潔を保つためだともなる

ともかくこの民族抗争は古代からあった、聖書で様々な民族がいて争っていた
そして最古の民族がユダヤ人なのである、でも今ではユダヤ人とはユダヤ教の集まりだとしている、なぜロシアにユダヤ人が多いのか、そしてウクライナでも多くゼレンスキー大統領がユダヤ人なのである、ユダヤ人でも別に一つではなく別れて分派しているのである宗教は普遍的なものであり民族を越えたものである、だからこそイスラム教がイスラム世界を作った、キリスト教がキリストがヨ−ロッパ中心にキリスト教圏を作った
でもロシアでも結局ソビエト連邦が崩壊して民族国家が残った、ロシア民族がロシアにもどったのである、そしてウクライナ人とロシア人が戦争している
それは民族抗争の継続なのである

ただアメリカとなると民族混交しているからそれを統一して融和するために民主主義が生まれた、この民主主義はやはり主義であり制度でもない、思想なのである、アメリカにはいろいろな人種の混交した多民族国家でありそれを一つにまとめるには民族主義ではできない、民主主義とはそれをまとめる普遍の思想でありマルキシズムとも同じである
民主主義はそういうものに思えない、でもやはり民主主義は多様な民族でも平等だという意識をもたせる主義だとういことである、法の下に平等だとかなる
人種で差別していたらまとまらないからである、そもそもアメリカは200年くらいで作られた国家でありそこに他の国のように長い歴史と伝統もない国である
そこでどうしてアイディンティティを作れるのかとなるとむずかしいのである
だから普遍的な思想が必要になる、でも宗教にしても多様だからそれでもまとまらない
一応キリスト教でまとまるとしてもイスラム教徒でもいるし多様になる
建国の精神としてはキリスト教である、清教徒でありピューリタンになる

そもそも民族主義という時何かとなるとそれは血縁だけではない、
血縁、精神、文化、伝統、言語、慣習、領土の一体化」としている
ここで大事なのは精神、文化である、民族が長い時間をかけて形成された歴史があり文化がある、文化というとき広範囲である、そこに身近なものとしてその風土から生まれた料理などある、これは意外と大事である、なぜなら料理はその国々の風土から生まれて体さえ作られてきたからである、それを無視することは体にも影響する
だから日本人が肉食になることは体にも影響する、あくまでも補足的なものとしてあればいいが主食になることは危険なのである、文化は普遍化できないからである
それでグロ−バル化とはハンバーグとかコカ・コーラとかで食の一様化にもなる
パン食でもそうである、バン食と肉食はあっている、ワインともあっているが日本食とは合わないとういことがある,イスラム圏で豚を食べないということは清潔さを維持するためだともなる、その国にとって禁止する食べ物がある、それも文化なのである
それは科学的に根拠がありそれを否定することは健康にも影響する

大量の穀物を育てる畑と大量の水を確保できる水路や川などが必要になります。イスラム教の発祥は中東(アラビア半島)です。乾燥した地域に適した家畜は牛、羊、ヤギなどの反芻動物の飼育が最適です。

豚は畑を耕す家畜にさえ利用できず、毛皮やミルクも取れませんから用途は食用のみです。家畜としての経済効果はとても悪いため、豚の食用文化が根付かなかったのかもしれません。

こういう理由がありその風土にマッチした食生活になる、また生で豚を食べていたことがあり食中毒になったので拒否したともある
こういうことが文化でありそれを否定することは体にも影響するから深刻なのである
だから文化は否定できないものであり普遍化できないししてはならないものである
普遍化というとき何でも普遍化できない、宗教でも普遍化であってもキリスト教でもその国々に伝わってその国の文化と合一して別なものとなる、ギリシャ正教からロシア正教でもその国と土地によって変化して土着するとなる
仏教でも中国の仏教と日本の仏教が違ったものとなって根付いたのと同じである
中国となると禅宗のように実用的なもの実践的なものとなたっ、韓国だと美的なものになった、日本でも仏教は違った日本的なものになったのである
インドだとそもそも仏教は空想的な面が多い、思念的になったのはやはり風土とか関係していた、インドは暑いから木陰で黙想したり座禅したりするのが合っているからである
つまり風土によって形成される文化があり普遍的宗教でも国々によって違ったものになるそれでグロ−バル化経済というのは経済中心主義であり国々の文化を破壊することがあり問題なのである、文化と精神は密接に関係しているからだ、経済中心主義のグロ−バル化は国々の文化精神を破壊するから危険だったのである
それで内村鑑三は武士道キリスト教になり手島郁郎の幕屋は神道宗教にもなったのである

●国家がカルト教団に乗っ取られる

戦後は民主主義で何でも自由だとなった、でも統一教会はカルト世界で認定されている
だから制限されている、でも日本では制限されていない、これも危険だった
あらゆることが自由ではありえない、そうしたら日本はいつの間に外国の支配下に入り
日本人としての自由もなくなる、外国に支配される国となる
アメリカに負けてからはアメリカの支配下になり日本の独立性は失われていた
その時日本人の心を失われたのである
信教の自由はある、でもそれが組織団体化して権力化して権力奪取とか目的にするとなるとそれが許されるのか、規制しなければならないことは確かである
でも統一教会に公安委員長とかがかかわっていたのである
まさにこれこそもう日本の国自体が韓国にでも売りわたしていたともなる
日本自体がこれほど統一教会に侵食されていたことの驚きである

それを明らかにしたのが山上だったということはこれは私怨だけでかたづけられないものになった、その闇が明るみに出されたからである、参政党もかかわっていたことはもうあらゆる政党にかかわっていたということである
日本の政治家そのものもが日本の守るともなっていなかった、それは公安とか国家権力の警察でもそうだったということは深刻である
日本はこれから国家存亡の危機になるのではないか、内外ともに大きな変化がきていて日本もまきこまれる、こういうとき国家自体がすでに外国勢力に侵略されていたとなる
中国の手先になっているのが創価であり自民党が統一教会でありまた創価と一体となり政権を維持している、そして阿部前首相を国葬とすることに公明党は賛成している
外国勢力と一体化したカルト教団が支えているのが自民党だとなる
ただ参政党もそうだとなるともはや日本独立の政党はないともなる
だから何かあれば世界争乱があれば日本は容易に外国に支配される
すでにアメリカの支配下にあるしまた今度は中国の支配下にもなる
こうなると明治維新を成した日本は独立していたしアジアで唯一の国だったからこの時代の方が国家は独立していてむしろアジアの先頭に立っていたのである
だから精神的には高揚したものがあったとふりかえる

日本がアメリカに負けて高度成長時代があったときアメリカに勝ったとか言われた
でもそれは一時の夢として失われた、失われた30年があり日本は経済でも低迷しているそして日本人は自信を失い、精神的にも独立はなくモラル的にも荒廃している
カルト宗教団体が内外から侵食されてそれらは日本国民を食い物にするものだった
創価は中国に国を売りわたす一部隊だし自民党は韓国に統一教会に侵食されて売りわたすともなる、つまた日本はアメリカの属国になりまた韓国であれ朝鮮半島にも侵食される
独立を失ってゆく、その時日本は物質的だけではない精神的属国になっていたしなってゆく、だから日本存亡の危機になっているのである
それは物質的だけではない精神的にもそうなっているのである

2022年07月18日

宗教が政治化、経済化、科学化、大衆化で本来の意義が失われた (グロ−バル化も制限が必要ータブーを破ることは危険)


宗教が政治化、経済化、科学化、大衆化で本来の意義が失われた

(グロ−バル化も制限が必要ータブーを破ることは危険)

●宗教もカルトは制限すべき

比叡山は多くの現代仏教の揺籃になっています。浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)、日蓮宗(日蓮)、時宗(一遍)の創始者は比叡山で修業をして、新しい仏教思想を発想しました。

統一教会でも創価でも幸福の科学でもこれらはやはり現代を象徴していたのである
それらは本来の宗教とはまるで違ったものとなった
シャカが岩窟で悟りを菩提樹の下で座禅を組んで悟りを開いたとかが起源としてある
でも現代の宗教はあまりにも政治化、経済化(御利益)、科学化、大衆化してしまった
オウムとかでも科学社会だから科学者が集まり異様なカルト集団になった
幸福の科学というのもそうである
つまり現代社会文明に適応するものとしてそうなったのである
大衆化というとき選挙の宗教となった創価がそうである、完全に政教一致となり選挙で
力を持ち権力を得る、利権を得る、御利益を得る経済第一の宗教である
それは団地から生まれた宗教だから互助会としてあれば問題なかったが日本の権力を得て御利益利権を得る危険な団体になった

そもそも都会から生まれる宗教は異常である、東京のような大都会に神は顕れようがないからだ、神は清浄な世界に住む、だからこそ砂漠に神がエホバが現れたのである
偶像に満ちている場所には現れなかったのである
また仏教でも本来は世俗から離れた場所で修行していたのである
天台宗がその起りであり山岳宗教であった、山を聖なるものとして修行していたのであるそこに政治とか経済とか衆人とかとは離脱した場所としてあった
モーゼがシナイ山で啓示を受けたのもそうである、山は神聖な場としてあったからだ

今の宗教はそういうものは全くない、完全に政治化して経済化して利権化して大衆化して世俗化した宗教とはまるで違ったものになっている
だからこそ統一教会は韓国によって日本を支配する機関として作られていたのである
政治化した一団体なのである、日本は戦後余りにも自由になりすぎたのである
戦前の天皇を神とすることでその反省からあらゆるものを自由にしたのである
民主主義といってもそれはただ自由に個々であれ団体組織であれ権利を要求する自由でありそこに責任とか義務などはない、自由とは無制限にありえないのである
もしそうなったらどうなるのか?あらゆるものが自由でありあらゆることが許されるともなる、信教の自由でもそうである、オウムも信教の自由を盾に抑えることもできなくなったのである、民主主義からナチスが生まれたように日本でもそうなる
本来の宗教とは何かということが問われることも何もない、宗教だといえば誰も何も言えなくなり宗教を逸脱したことでも容認される、それが社会を歪めて恐ろしいことになる
ナチスとなってゆくのである
宗教を逸脱していても創価のように数を集めると通るのが民主主義だからである
そうしてナチスのようになり膨大な人間が死んでゆくともなる

●無制限の自由は危険

人間には制限が必要だ!

人間は個々人でも自らでも制限する、節制するとか必ず必要なのである、そうなれば欲が無制限に追求されて歯止がかからなくなる、だから宗教とはそうした人間の限りない欲に制限する節制することで修行したりしていたのである
現代の宗教は大衆宗教はあらゆる欲が是認されむしろ欲望を強くもつことがエネルギーがあることとして祈っているのである
それはまさに資本主義社会に適合したものとなっている
ただウェバーが修道院から資本主義が生まれたというとき資本蓄積してそれを他者への慈善として行うとなり宗教的行為として生まれた
その見方もある、そもそもキリスト教はローマ帝国が容認したとき変貌したのである
カトリックが政治化したのである、組織集団化して教会が地域でも国でも支配する体制ができたのである、つまり宗教でも常に政治化することがありそれがローマ帝国が容認したことでそうなった、だからこそその権力があらゆるところに根を張り支配した
それに反発してルターの宗教改革があった、プロテスタントが生まれたのである
そのカトリックの圧力が余りにも大きいからこそプロテスタントに抗議するということになった

宗教でもどうしても世俗から離れてありえない、そこで政治化して経済化する、日々の活動は経済の活動とするとそれから逃れられないのである
でもそうなるとその巨大な経済活動に宗教はのみこまれる、もう世俗と何ら変わりない物となる、むしろ世俗よりも世俗的な場所が今の宗教団体とかなのである
そうでなければあんなに人が集まらない、山の中で修行しろなどと言ったら集まらないからた、そこであらゆる欲は是認されるしそれより奨励される、目的は誰でもいいから人を集めて権力化することである、会員一人集まれば貧乏人でも実際は力となる
買物するにしても一人だけより十人買うとなると店でもその十人を相手にして考慮するからである、一人は経済的には相手にされないのである

だからこの世ではそうしてもう数で決まる時、それが権力となるから権力から離脱することは不可能だとなる、10人集まれば権力になる、それでそれが正義でなくても通るのである、赤信号みんなで渡ればこわくないとなる、それが民主主義であり多数決なのであるそこからナチスが生まれたのである、こうして現代は大衆に席巻される時代である
大衆によってあらゆるものか消耗されるのである
カルト宗教などでもそうである、大衆化して本来の宗教は何もない、日々の経済活動であり御利益もうけ活動である、選挙となるとそれが最大の目的となるのは権力と直結しているからにすぎない、その権力を得ることで得するからしているだけである

だから現代社会では文明では宗教はもうない、ただ社会から組織集団から離れた場にあるそれは誰も注意もしない、認めない、アウトサイダーになるのである
人間が認めるのはすべて世俗的なことであり世俗から離れた価値は無なのである
それで天台宗というときそれが山岳宗教というとき世俗から離れて修行する場としてあったからそれが本来の宗教の場としてあったとなる
砂漠にエホバが唯一の神が現れたように山は聖なる場でありそこに神が宿るともなるからである、そこで六根清浄とか修行する山伏でもその方が本来の宗教だった
今の宗教団体などではそういう心を浄めるなど関係ないからである
ただ御利益利権を求めるだけだからである
ただ世俗の欲望の力は強力だからそれにとりこまれて本来の宗教は何もなくなったのである

●グロ−バル化も制限するようになる

また制限されるというときグローバル化も無制限思想なのである
ヒト、モノでも自由に往き来し国境をなくすことであり国というものも無くす、そこで世界で力をもつものは支配する者は多国籍企業であり国ではないとなる
現実今世界の経済を支配しているのは極一部のアメリカの特権階級だとされる
それは陰謀論になるにしろグロ−バル化とは世界から富を収奪することであり極一部のものが莫大な利益を得るシステムなのである
それは統計的にも立証されている、何パーセントの人たちが世界の富を収奪しているのである、グロ−バル化とはまた生態系とか風土を無視したものであり文化を破壊する
食文化でも破壊する、今大陸の平原とかで大量の麦が作られている
でもそこでは鉄分が不足するとして国で鉄分の供給をしているという
これは何を意味しているのか?大地で大量生産することで何から鉄分でも養分がとれないだから大量一律生産が必ずしもいいものとならない、それはやはり自然に反するものだからそうなる

コロナ禍やウクライナ危機だと思います。消費者としてできることは、国産を選ぶことです。自宅で調理したり、お米や米粉パンなどを食べたり。コロナ危機で、米国の政府は農家から農産物を買い上げて所得の低い人たちに配給し、農産物価格を下落させませんでした。日本も生産者と消費者を支えるために、何をしたらいいか考える必要があります。農業や畜産は大規模化で、多額の投資をしないとできない、リスクが高いビジネスになりました。小規模な家族経営が結局、環境問題や地域の活性化にとっても最適だということで、国連は持続可能な社会のカギになるとしています。国も方向転換を始めています。

小規模な家族経営が結局、環境問題や地域の活性化にとっても最適だということで、国連は持続可能な社会のカギになるとしています

これも自国内で食料をまかなうという方向転換である、つまり食糧の大量生産や外国に頼ることは危険にもなる、外国からコロナウィルスとかで入ってこなくなったからである
そもそもコロナウィルスでもなぜ世界にたちまち拡散したのか?
それはタブーとなるものが制限されず入ってはならいな領域に人間がずかずか入りこんだからである
人間に犯ししてはならないものがある、自然の聖域がある、それを無視して入り込んだ結果未知のウィルスが一挙に交通の発達したグロ−バル化で拡散したのである
生態系を破壊したのである、この辺の原発事故でもそうである
やはり核を破壊するということは自然界の神の領域に入り人間の手で操作することに危険があった、もし人間は万能ならしてもいいがそこまで知り得ないものがまだまだある
だから科学者でもそんな危険なことをするべきではなかったと反省しているのである
つまり科学が今度は宗教のようになったとき科学が万能となり科学者が神官になったのである、でももろくも津波によって崩壊したともなる

ともかく人間は常にタブーを破ってきた存在である、動植物は人間のようにタブーを破れない、神の作った世界で制限されて生きている、だから自然を破壊しないのである
人間はそのタブーを破る力がありでもそこから災いが生まれて来たのである
技(わざ)はわざわいだからである
いづれにしろ原発事故であれコロナウィルスとか一連のものは関連している
それは人間が何かしら神がタブーとしたものを破ったことから起きているのだ
だから人間社会には制限が必要でありタブーが必要であり越えてはならないものがある
国境も必要でありその中でアイディンティティを作ってゆく、無制限ではないのである
グロ−バル化とかなんでも無制限になったがそれは自然の生態系でも破壊するし国々の文化も破壊する、そこに制限が必要なのである

そもそも人間はアダムが食べるなと禁止された知恵の実のリンゴを食べてすべての災いがもたらされた,原罪をもつようになった
それだけではない神話でも常に人間が何々するなということを犯して災いがもたらされたのである、タブーを破った結果として災いがもたらされたのである
それが人間の宿命となり今日までつづいている、科学でもやはり行き過ぎたものとなりタブーを破るからそこに思わぬ落とし穴があり危険が生まれ災いが生まれる
それが人間の宿命だともなる、アダムが知恵の実を食べた結果として禁制を破った結果として人間の災いが起きて消えることがないとなっているからだ



山上の湖

厳しく山はそそり立ち
不浄をよせつけぬ
山上の湖は透明度を増す
その湖に映すものは何か
星々がダイヤモンドのようにきらめく
堅く結ばれて輝きぬ
山々はさらに厳しくそそり立ち
神は天より見下ろしぬ
神は不浄を拒絶する
人は安易にけがれ汚れてゆく
汝は不浄の下界に降りるなかれ
衆人と語るもの無益なり
衆より離れて清浄圏に住め
そこで巌のように堅くあれ
醜き人の入るべからじ
巌と氷雪の屹立した孤立圏
そこに神の厳格なる座のあり
そこで塵も雪となり凍てりつく
一切の不浄は拒絶されて
そこに至高のものを仰ぎ見る



2022年07月16日

宗教とは何なのかー個々人のカルマは集団組織で解決しない (カルマは個々人が苦しまない限り解決しない)


宗教とは何なのかー個々人のカルマは集団組織で解決しない

(カルマは個々人が苦しまない限り解決しない)

宗教と政治の問題を私は創価のかかわりで考えてきた
必ず信教の自由を言う、これを盾にカルト宗教団体は政治化しても国会議員まで出してもいいとなる、そもそも宗教とは何かということが明確にされていないのである
何を信じるか勝手だして信じなくても無宗教でも自由だとなる
常に自由が強調される、それが戦後民主主義である
自由には義務とか責任がともなうがそれは無視される
でも必ず自由にも責任が問われる、なんでも発言していい反対してもいい自由だとはなるではその発言に責任がとれまのかとなるとない
そして必ず人間は責任をとらされるようにできている
ナチスでもそうであり日本の戦争でも別なものにしても何百万人も死んだのである
それが戦争をすすめた国民の責任だったのである

だから別に一人の言うことなど責任がないようで必ず責任をとらされるのがこの世であるただ責任というとき権力をもったものが一番責任をとらされる
権力を行使できる立場の人が一番責任をとらされるのである
だから権力を得たいとしてもその責任は重すぎるから江戸時代でも庶民は切腹されるからとして侍になりたくなかったのである
民主主義は無責任社会である、でも責任は誰かがとらされる、原発事故では地元の人が故郷に住めなくなった、それも地元の人が全部ではないにしろ責任をとらされたのである
責任は政府と東電にあった、それから国民全部にもあった
原発は政府の方針で作られたからである
今電力不足でまた原発が稼働される、でもまた事故になったら誰が責任をとるのかとなるの責任を自覚してするのならいいがつまり事故になったら切腹するような責任を自覚してするならいいが実際は責任を幹部でも政府関係者でもとらない
でも戦争で3百万人死んだように必ず国民が責任をとらされるのである

戦後の民主主義はあらゆることが自由でありあらゆることに権利を主張した
でも責任とか義務とかはないがしろにされた
ただ自由とは自分の利益を得る自由でありそれにともなう権利は無視されたのである
原発事故でも地元の人は利益を得ることを望んだ、それはいいとしてもやはり責任が課せられていた、原発は危険なものでありその危険を無視して利益に走った
だから責任があった、ただ一番責任があるのは権力を持っいるものだった
原子力村を作って真実を教えない人達だったとなる

宗教の問題でも戦後は戦争がありそれで思想と信教の自由とかがなく国家権力が絶大であり従うほかなくその反動として民主主義が自由だとして生まれたものである
その宗教はカルト宗教であり本来の宗教とはまるで違ったものとなった
でも宗教だからといって常に信教の自由を否定するのかとなり認めてきた
それが災いとなったのが統一教会だったのである
韓国でも世界でもカルトと認め制限しているのに日本だけがしていなかったのである
日本はそれだけ何でも自由な国となっていたのである

そもそも宗教とは何かもわからなくなっていた、もともと日本人に宗教心がない、あるのは常に御利益しかない、それは神社で賽銭をなげて御利益を得ると同じである
創価でも他でも似たり寄ったりであり本来の信仰心などないのである
それが小規模ならいいが創価とか他のカルト教団でも巨大化するとどうなるのか?
国会議員になり公的機関に警察であれ自衛隊であれ役所であれ入り込み権力を得ようと工作する、また学校の先生にもいてその権力を拡大してゆく
日本の国家権力を収奪するために日々運動している、なぜそういう団体が創価などでもあからさまにしているのに制限できないのである
統一教会とかなると韓国が日本を支配するための機関でもあった
なぜな公安委員長が統一教会を支持する会の宣言役にもなっていたからである

信教の自由はある、でもその自由が権力を持つときどうなるのか?

創価てあれカルト教団は御利益を得るために祈る、だから何か御利益があるとき仏からでも神からでも福運をさずかったとしてさらに信仰することになる
つまりますます何か欲望をかなえたことで信仰が強情なものになる
創価だと議員になったりすると最大の信仰の御利益となりそれが信仰となるから強情になる、でもこの世の御利益が得られないとなるとどうなるのか?
信仰しても無駄だ何も利益が得られないとして捨てることにもなる
もちろん人間は苦しい時があるからなんとかしたいとなり宗教団体に入って解決したいともなる、でもカルト宗教団体はそうした人達の問題を解決できるのかとなるとできない
むしろそういう困窮した人達を利用して自分たちの権力を拡大することをもくろんでいるのである

人間の問題は余りにも複雑すぎるのである、簡単に一様に問題を解決できないのである
何か一人くらいは相談にのれる、でももう三人でも金に困ったとかいろいろな困りごとを相談されても解決できない、ましてや百人とか何千人とか何百万人なったらもう解決できない、だから創価などはただ困った人でも一票としてしか見ない
それで議員になる人がいてその人は得するだけだとなる、他でも集団化して問題を解決しようとしても簡単にできないのである
集団化して解決しようとするときそれは政治になる、でも政治でこの世の問題すべて解決できないのである
第一政治家自体が自分の利益しか考えていない、権力を得て得することしか考えていないのである、だから政治家自らが言っている、選挙のときは頭を下げてお願いするが後は関係ない、自分が得することだと自ら言っている、政治家とはそんなものなのである
でたも困った人は何かそういう巨大な集団になればみんな仲間であり助けてくれとは妄想する、だから苦しい時はそういうカルト宗教団体にでもとりこまれるのである
統一教会でもそうだった、財産がまきあげられたとなる

要するにそもそも人間は苦しみから逃れられない、そして人間は個々人でカルマをもっている、課せられている、そのカルマも個々人で違っているのである
そのカルマを解消するために個々人で別々にその苦しみを解消するほかないとなる
それは意外かもしれないが金持ちでもカルマをもっていて苦しむのである
その金のために苦しむことがある、遺産で兄弟が骨肉の争いとなることもあるし
私のように金が盗まれたりその金が災いになったりする
その金に何か悪いカルマとなり苦しめられることがあるのだ
そのカルマは集団的に解決できない、それぞれのカルマは違っているし個々に苦しんで解消するほかないのである、それで自分は二人の女性お親がいて介護で死ぬほどの苦しみを受けたのである、それが恵まれた自分のカルマだったと自覚した
何か不安だったがそれが現実化したとき過酷なものだった
でもなんとかきりぬけたとはなる

それぞれの運命は宿命は違っていてこれを一様化して集団組織では解決しない
なぜなら人間の運命とか宿命とか不可解だからである
だから財産がfortuneが運命という意味があったのはそのためである
それぞれの運命は不可解である、兄弟でも姉妹でも不可解である
全く違った人生にもなるからである、それも不可解なのである
ただ一生楽では人間は終わらない、必ずどこかで苦しむようにできている
それはカルマだとなる、それを集団組織では解決できない、なぜならそれぞれのカルマが一様ではないしその宿命とか運命でも違っているからである
それは不可解なのである、だから仏教でもカルマ論が生まれたとなる
生前の行いが関係しているとかまでなる、それは人間の個々の運命とか余りにも不可解だからである
だから例え恵まれた人でもカルマをもち苦しむことになるのである

だからカルト教団であれ集団組織に入り問題は解決しない、それはかえって統一教会であれ利用されるだけだとなる、苦しい時はどうしても助けてもらいたいとなりそういう団体に入るのである、でも実際は利用されるだけだとなる
それより自分のカルマを自覚することだともなる
なぜ今その人が苦しんでいるのか?それはやはりカルマが関係している
その人は私の家では援助した、それは親同士であったがその子にもカルマとなっていた
親が世話になりその子も世話になったのだからそれがカルマとなっていたが自覚できなかったから無関心となっていた、そして今自らがそのカルマのために苦しんでいるのかともなる,カルマとは意外と自覚できないのである、ただ苦しむとなぜ自分はこんなに苦しむのかとなり自覚するのである、それ意外で自覚できないのである
親の因果が子に報いというのは本当である、私自身がそれを苦しみで自覚した
もう死ぬほどの苦しみだった、それもカルマだったと自覚したのである

この世には経済的不平等とか他にも生まれつきの問題もある、才能にしろ生まれつきでありいくら努力してもそもそも才能がなかったらどうにもならない
また体力でもそうである、生まれつきなのである、私は体力がない、だから他の人を見て大工さんでも建築関係でも体力がある人がうらやましいとなる
そういうことでもみんな一様ではない、そもそもだから人間を数式のように解決できないのである、集団組織化して解決できないのである、個々に問題が違っているからである
それに対応できない、人間が相談にのれるのはせいぜい二三人だとかなる
キリストでも二三人いる所に私がいると言った
それが何百万人になったらそれはただ苦しむことでも利用されるだけである
個々に対応などできないからである、だからマルクスの理論はそうした個々の運命を無視しているから結局かえって不平等にもなってしまったのである
極一部の人が権力を一人じめして兆もの金を手に入れてめかけを十人もったとか報告されている

運命とは個々にめぐりめぐってゆく、金も天下の回りものであり個々にめぐってゆく
一か所には留まらないのである、だから今貧乏で苦しんでもいつか個々にめぐりめぐって金でも回ってくることがある、今苦しんていてもいつか苦しみも解消して楽になることがある,恵みはめぐるのである、ただ悪いカルマもめぐるのである
阿部前首相が殺されたのもカルマを作っていてそれがめぐりめぐってそうなったのである統一教会を支持していた、その統一教会で苦しんでいた人がいたがそれを無視していたとなる、何かそういうものがめぐりめぐって殺されたとなる
犯罪にあうとき意外と他人の悪いカルマを受けてそうなる
いろいろな災厄に私自身がそうなったのも他人のカルマを受けたからである
他人のカルマを受けることは怖い、また結婚したりすると必ず結婚した相手の家族のカルマを必ず受けるから怖いのである、それは逃れようがないからである
このカルマはそれぞれ苦しまない限り解決しない、集団組織では解決できないのである
それぞれの罪だって集団組織で解決できない、個々人によってしか解決しない
だから組織集団は幻想共同体だともなる、何か個々人で苦しむとそういう団体で助けてくれると妄想してしまうのである
そして利用されて金でもまきあげられるだけだとなってしまうのである

運はめぐり回る
金も天下の回りもの
いつかあなたにも運が回ってくる
その時まで耐えなさい
一挙に問題は解決しない
神の配剤がある
あなたは幻想を見てはいけない
集団組織ではカルマは解消しない
個々の苦しみがあり
個々に解決するほかない
運はめぐりめぐってゆく
運が開ける日を待ちなさい
・・・・

こうなるがなかなか待つということがむずかしいのである
そこで苦しい時変な方向に向かって行くのてある


2022年07月13日

人間の価値とは何なのか (天職−適職を見出した人は価値があるー金ではすべて計れない価値)


人間の価値とは何なのか

(天職−適職を見出した人は価値があるー金ではすべて計れない価値)

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●大工の技をみがき価値となる

人間の価値を見る時、何を見るのか?
どれだけ金を稼いだとかで見るのか?
でも人間の価値は金ですべてを計れない、もし金ですべてを計れば巨額の遺産を残した人が金を残した人が価値ある人となるからだ

大工さんを例にとればその価値は大工という技術を身につけたことにあった
その人は庭作りもできるたし壁塗りとか家作りに関する多様なことができたので特に価値があった、でもその人は他にも器用だからいろいろな仕事をしている
それは評価できないのである、でもそれで金を稼いだことは確かなのである
立派な家建てたりしたのも大工意外の仕事をしたからだとなる
ただその仕事は水商売であり評価できるものではなかった

そして最後に老人となってその人が何が価値あるか判明した
それはその人の大工としての技量でありまた庭作りできる技量だったとなる
確かにその人は他でも稼ぐ人だから高価な車も買った、それをみせびらかしたりした
でもそういう車を持っているからはその人の価値とはなっていない
立派な家を建てたとしてもそれがその人の価値となるとは限らない
私自身も家のことを延々と書いたが他者にとってはそれが価値とは必ずしもならない
親から家を受け継いだ子供にとっては価値があるとはなる

エッセンシャルワーカーとか言われたがエッセンシャルバリューとなるものが何か老人になって判明した、それは15歳から大工の修行をしてその技を磨いてきたことである
そこにエッセンシャルバリューが生まれたのである
その他のことは確かに金になっても価値にはならなかった
その人は体付きからしてまるで大工になるために生まれたように見えたのである
私自身は体力がないからうらやましいと見ていたのである
体の造りからして違うなと見ていたのである
大工とか建築関係になるとどうしても体力が必要なのである
重い庭の石を動かそうとした時はびっくりしたのである
どこでも比べ石とかが文化遺産として残されている
それは機械がない時代は力があることで一人前とされていたからである

●天職適職につくことの困難

ともかく人間の価値は多様であり人間には天職があるというのもわかる
生まれつき大工のような人はその人は修行したにしろみんながなれるとは思えないからである、その人の天職だと見た、そういう人はいろいろな分野でいる
医者でも農民でもいる、農民になるのも相当に自然に通じていないとてきない
みんなが農業で成功することもない、そこに篤農家が生れ指導するものとなる
漁師などもそうだろう、やはり天職というものがある、そういうふうに自分の特質を活かした人はその価値が認められる、価値ある人間となる
ただ俺たちは社畜なんだよなとか常に言っている会社員はそうなっていないのである
ではこうして天職についている人がどれだけいるかとなると相当に少ないだろう
たいがい会社員というとき集団で仕事しているのだからその仕事がわかりにくいこともある、江戸時代とか戦前でも職人の時代は天職が見えたとはなる

まず人間が仕事するとき金をどれだけ稼ぐかが問題になる、給料をまずみる、その仕事が自分にあった天職なのかとか見ない、また自分のことがわからないから自分にあった仕事をすることにならない、だから会社をやめる人が多くニートが引きこもりが多くなったのである、私自身もそうだったからである
天職とかでなくても何かその人にあった職につけないのである
私自身は奇妙だがこうしてプログであれ文章を書いているのが自分にあっているとつくづく思った、人前でしゃべることが苦手だからである
それをたまたまインタ−ネットという技術が生まれてできたとなる

いづれにしろ人間がどう生きるかというときどういう仕事につくかするかが大きな問題になる、大方が社畜として生きるとなれば大きな問題になる、でも現実はたいがい会社員になるのだからそうなる、その会社でも自分にあった仕事をして生きがいを見出して評価されればいいがそれがないとしたらその価値はないともなる
そうしたら人生そのものが無意味になる
人間が死ぬとその価値が必ず問われる、死ぬと公正に評価される、それで阿部前首相が
突然の死で問われる、意外と世界から評価されていたとなる
これもなかなかわかりにくい、阿部前首相は絶えず批判されていたからである
逆に外国に金を使いすぎたとして批判されていたのである
そもそも政治家の価値というのもわかりにくいのである、阿部前首相は死んだのでその政治家としての価値が問われ評価されたとなる
でもその評価もいろいろあるからわかりにくいのである

●金にまどわされて本来の価値を見失う

人間の問題はあまりにも金にまどわされる、金しか価値が見えないのである
でも金で計られない価値も多くそれがエッセンシャルな価値となる
それがその人を本当に評価されるべきものだと判明する
とにかく人間の価値でも老人になると自ずと判明してくるのである
だから金だけを求めて生きる仕事するとなるとその人の価値を作れないとなる
立派な家を作り高価な車を買ったとしてもそれが価値とならない
他者にとってはならない、他者にとっては家を建てるにしても修理するにしてもその大工の技を見て価値を見るからである

芸術家とかになると学者とかなるとその作品とか論文で価値をみる、だからわかりやすいその他の職業の人の価値は余りにも多様でわかりにくいのが現代なのである
それは大きな会社で働いているから個々の価値が見えないからだともなる
車でも昔の職人のようにとても一人で作れるものではないからである
その部品の数も多いし総合的に人間の技が結集したものとして作られるからである
最近ヤマハからでた電動自転車のWABASH RTはヤマハの電動自転車が開発した最高傑作である、それは40万以上でも価値がある評判である
これを買おうと思ったけどもう買えない、いつできるかわからないというからだ
前もコロナウィルス騒ぎとかで部品がないとか半導体不足とかで人気商品が作れない
買えない事態になっている、それはバイクでも二月に注文して一〇月に買えたとかなっている、今物が買えない、こういうことは経験していない、それが残念なのである
でもこの自転車にしても誰か一人が作ったものではない、ヤマハの社員が総合的に力を発揮して作った、三人くらい設計した人が出ていたがやはり会社で総合的に作ったものである、だから昔のように一人の職人が作ったものとして評価するものではなくなっている

人間はやはり仕事が大事である、金になる金にならないとかでなくその人に合ったもの
天職とか大げさなものでなくてもその仕事についたらその人の価値が作れる
ただ複雑多様化した現代ではそうした仕事につくことがむずかしい
みんな不如意な仕事についているのである、だから不満が多いのである
今回阿部前首相を銃殺した人も能力はかなりあったがそれに見合った仕事につけなかったその不満が阿部前首相にぶつけられたともなる、もしその人なりに合った仕事についていればいくらカルト宗教団体に財産を奪われたかあってもそうはならなかった
ただ氷河期世代とかはまともな職につけなかった人達であり不遇だったとなる

●人間は無駄に時間を使いすぎるーそして本来の価値を見失う

では私の天職とは何のか?生涯無職であり旅が仕事でもあった、でもいろいろと探求はしてきた、その成果を今出している、こうしてプログとかインタ−ネットで表現している
それが天職だったともある、ただこうして書いても創作しても現実的には金では一切評価されていない、だから何の価値があったとかされるだろう
でも金ですべては計れないのである、芸術とかなると特にそうである、価値が計りにくいのである、実業の世界だったら計り安いが芸術とかなると計りにくい
だから現実は画家でも芸術家になると金にならず悲惨な生活になったのである

自分は家族に恵まれてそうならなかっただけである、金のためにしたことはないからである、自分の好きなことをしてきただけだからである
ただそこにも相当なマイナスがあり失敗したとなる
結局後悔しない人生はない、それは人生が余りにも短すぎるからである
何か試しているだけで終わっている、何かになろうとして試すことすらできないのが現実社会なのである
だから昔だと職人になるには一八才では遅い、物にならないとして断られたということでもわかる、早いうちから訓練しないと物にならないのである
このように人間は時間がたちまち過ぎる、そしてみんな老人になり後悔しない人はいないのである
「若き内に神を知れ」とかでもそうである、早いうちに求道していないと老人になると神を知ることはできなくなる
若い時仕事を覚えて精進せよともなる、若いうちから学問でも志せとかなる、少年老い易く学成り難しとなるからである

結局人間は無駄が多い、時間の無駄が多すぎるのである、それは私はこうなりたいとかこういう仕事をしたいとかないからだともなる
またそう思っても誰でも医者にはなれないし自分の思うような仕事にはつけない
それで私のように仕事につけず旅ばかりするようになった
でもその時間は無駄ではなかった、そこで見聞を広め地理とか風土に興味をもったからである、そこから学問でも芸術にも興味をもったとなるからだ

要するに人間は天職につけといってもできない、ただ天職についた人はまれにいる
この人は大工が天職なのだなとか、医者に接してもこの人は医者が天職なのだなとか
この人は陶芸とか天職なのだなとかある、でも大方は天職を見いだせず終わっているともなる、それよりロボットのような仕事をさせられるのが現実であり多いとなる
私が経験した仕事が流れ作業だったということでもそうである
何か自分にあった適した仕事につくことは普通はできない、そのためにニートとか引きこもりが今多くなるのは理解できる、そんなことは贅沢だとなるがやはり自分にあった適職がなかなかない、そもそも人間は食べるために仕事しているともなる
天職とか適職は極一部の人しかないともなる

ただ自分の適職天職を見出した人は接していても価値を感じる、その人の価値を感じる
そしてその人はその仕事に満足するとなる、でもその適職でも天職でも必ずしも金になるとは限らない、とはいえ金の多寡ですべての価値は計れないのである
結局例え金になったとしてもその人の天職、適職でなかったもので稼いでもその人の価値にはならない、エッセンシャルバリューにはならないのである
とにかくどうしたら自分の価値を作れるのかそれが人生の初めから若い時から作っていかないと後悔する、大工でも昔なら戦前でも江戸時代でも一三歳からでも修行していないと物にならないとなっていたからである
理系はいいとして文系などは大学すら何も身に着かない、むしろ職人として大工であれそれを見習った方が技が身につくからいいとなる
文系の大学だと何ら社会で生活するものが身につかないのである
その貴重な四年間を浪費するのも大損だったともなる、そういう時間をとりもどせないからである、それで退職してから勉強したいと大学に行く人もでてきているのもわかる
つまりいかに人間はいかに貴重な時間を無駄にしていることを痛切に感じるからそうなるのである


2022年06月30日

流動性知能と結晶性知能 (老人は経験でも知識でも結晶してゆく―万物の霊長としての人間)


流動性知能と結晶性知能

(老人は経験でも知識でも結晶してゆく―万物の霊長としての人間)

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この言葉がいい、結晶してゆくとはこれまでの経験知識でもまるで原子が多様に結合するように明確になりまさに結晶してゆく
そればどうしても若い時はできない、自分自身でも不思議に思えるのは本が千冊あったとしてもそれを読んでも忘れていた、でもその本の内容を深く理解して自分の文脈の中で解説したり表現できるようになった
洞察力とか考察力とかがついてきて何事深く理解できるようになった
それでそうして集めた本を読み直して引用できる
ただ本を集めただけだともなるがそれも無駄だとはならなかった
本とはその人の一生とかを語るものがある、なぜなら最近読み直した本の著者すでに死んでいる人が多くなっているからだ

となるとこの世に残した物は本でありそこにその人の人生が凝縮されて結晶したものだともなる、第一もう死んだ人とは直接会えないからだ
そもそも直接会える人は少ない、本を読んだとしてもその著者と逢うことはないからである、でも人間はたちまち死ぬ、すると何を残すのかとなる、その人と逢うことはないし
また生きていた時でもその人を知ることはむずかしい
そして死ぬと何が残るかとなると本とか何か作品だとなる

そもそも知識でも天文学的に膨大でありそのほんの一部しか理解できない
また経験するにしても極わずかしかできない、そこにどうしても偏りが生まれる
専門家でも象牙の塔にこもり何か世間離れしているとか弁護士とかでもむずかしい法律の理論をふりまわして煙にまくとかなる
膨大な天文学的知識がそれぞれ専門家して互いに通じあわなくなっているのも現代であるおそらくヨ−ロッパの中世社会とかだと社会全体があって石の大聖堂がありバッハのパイプオルガンがその大聖堂にひびきわたる、絵画でも部分化したものではなく大聖堂の中で活かされる、社会が一つの有機体としてあり結合していて分離できないものとして一体としてあることで人々は深い連関性をもって生きていた
それが部分化してばらばらになったのが現代である
田舎ですら一万くらいの町でも隣の人が何をしているのかわからないということがある
職業も多岐に分化して広域化してグロ−バル化して互いに意思疎通ができなっている
言葉が通じないという時、バベルの塔と同じである、文明はバベルの塔であり互いに専門家して言葉が通じなくなったともなる
理系とかなると複雑であり文系と分化して互いに意思疎通ができなくなっている

そこでどうしても現代社会は一体感をもつためにナチスのような全体主義、ファシズムになる、共産主義も全体主義として変わらないし人間を一様なものとして見るからである
カルト教団なども全体主義であり個々の人間には関心がない、その人がどんな人なのか
そんなことは考慮しない、どんな人でも一票としてかカウントしない、様々な属性は無視されるのである、一人の人間でも様々な属性がある、単純なものでは男女でもそうである男という属性があり女という属性がありそれは相当に違っている
でも一票にしたら同じ一票だとなってしまうのである
つまり民主主義自体が人間を統計的数字としてみているのでありその人の持っている属性など関係ない、一人の人間のもっている属性は多様でもそれは無視される
地域の属性も大きな属性であり、どこに生まれ住んでいるかでその人か基本的に形成されるからである、年齢の属性もある、世代間でも考え方は違ってくる

ともかく老人になるとこれまで蓄積した知識であれ経験であれ結晶して来る
一見無駄に思えた雑学的知識でも深く理解して結晶してゆく
知識とは膨大だから個々人によって貯えた知識も違っているのである
それが最後にその人なりのものとして結晶する、ただカルト教団とか組織団体でも会社でも社蓄とかなっているとそれはその人なり知識とならず知恵とならず表現ともならないとなる、共産党でも個々人は細胞という、創価でももうそこには個人としての生はない
だから全体主義は違っているようで同じ性質があり似通っているのである
マルクス主義も全体主義だからである、個々の人間はみない、経済人間としてしか見ないからである、政治化すれば人間は一票としか見ない、政治的価値はどんな人でも特別優れた人でも天才でもなんでも一票で同じなのである
どっちにしろ巨大組織集団になれば人は番号化されて数がすべてとなる
それぞれが持っている属性は無視されるのである

それでどうししても人間が万物の霊長となるときただ数字化されるときその存在感はなくなる、数字は番号化すれば様々な人間の属性は無視されて消失する
人間が万物の霊長となるには自然とアイディンティティ化する存在だということである
山があれば山とアイディンティティ化する、山のように沈黙するとか石のように沈黙するとかなる、自然を擬人化することにもなる、それはエジプト文明では動物が人間化していたことでもわかる、それは偶像崇拝にもなったが人間の顔が動物となっていた
原始人のトーテムでもそうである、動物と人間が一体化したのである
現代人はもう機械と一体化してロボットにもなる、そこに動物との交流がなくなり同じ生物として通じるものもなくなる

人間がアイディンティティ化するときどうしても狭い範囲になる、その常時住んでいる場所でありそこで自然と一体化する、土着して一体化する
第一狭い範囲でもその土地のことを知るのはむずかしい、それだけ狭い地域でも多様であり複雑だからである、そこにまだ発見されない神秘的領域がある
それは依然として隠されているのである
東京のような大都会ではすでに生態系とか自然を意識できない、ビルの谷間で蟻のようになり人間はただ数としてあり巨大な人工的空間で万物の霊長などはもうない、万物というとき植物でも動物でも自然と一体化した人間のことだからである
大都会では何とアイディンティティ化するのかすべて経済人間であり宗教でも自然とは無関係である、ただ数を集めて誇示するだけである
人間は図形的に□か○でしかない、その他の多様な万物の霊長としての属性ははく奪されてロボットのようにされるのである
そこにめいめいの顔もない、同じロボットの顔しかない、カルト教団になればその教祖とみな同じ顔になる、そして異様なカルト教団の教祖が獣の印を押すのである

それで不思議なのはエジプト文明である、なぜピラミッドのような幾何学的精巧なものを作りあげたのに動物と一体化したアニミズム的文明だったのかとなる
まさに動物とも一体化していた、動物をみて神とみてその性質から神と崇めたのである
それは偶像崇拝であってもやはりそこに自然と通じて万物の霊長としての人間があったとなる、鷺について詩を書いたが鷺を見ていると本当に不思議である、それはまさに自然と合一してある、自然を決して乱さず忍び足で細い脚で歩む、それは絶妙であり自然と一体化するのである、人間はこのように一体化しない、そこに道具とか機械とかが介在して
自然と融合しないのである、車という物体が社会を席巻していてもそれが自然と合一したものではない、自転車だと風を受けて走るから自然と融合するのである
車だと風をさえぎり光でもさえぎり自然を遮断するのである

なぜ現代文明から大都会などからカルト教団とか異様なものが生まれるのか?

それは自然と遊離してアイディンティティ化するものを失っているからである
そこでは人間は数としてしか機能しない、見れないのである
それでシュペングラーの西欧の没落が数の考察から始まっていることでもわかる
経済人間となればこれも人間の社会の数字化でありあらゆことが数字化なのである
放射線被害でもコロナウィルスでも数字化されるて見る、経済でも常に数字で見る
でも一個のリンゴがあるとしてその性質がありそれはただ一個ということではないのである、いろいろなものを数として表現するときその属性は失われるのである
果物でも野菜でもそうだがみんな違った性質がありそれで意味をもっている
ただ数として表現すればその性質は失われるのである

20世紀は全体主義の時代だった、全体主義とは価値の平均化であり組織化集団化して
人間の属性を無視して一様化することである、そして数字化することである
そうして共産主義でも一千万人とか粛清して殺されたとかなる時代だった
ナチスはまさに人間を人間と見ない、数としてしか見ない、個々に対することがあれば例え相手を軽蔑したりけなしたりしてもやはり相手は人間として認めてそうしている
でもナチスとなると相手は人間ではない、一つの物のようにしか見ないのである
無機的存在となりただ数としてしか数えられないのである
現代で数学が最重要なものとなり統計が重要となるのはそのためである
理系が優先されるのもそうである、もちろん文系は勉強もしないから当然だとはなる
でも理系優先すぎるというか科学技術がすべてとなった世界は問題がある
また経済としてしか人間をみない、グロ−バル化すると毎日の関心は株とかしかない
それも数字でありグラフでありそこに多様な属性をもった人間はいないのである
金が数字となり計られる世界である、そしてもうグロ−バルになると計りえない世界でありそれが陰謀論になるのである

経済的グロ−バル化の次は個々の国であれ地域であれ人間であれ文化を基にしたものとなる
文化とはグロ−バル化のように数値化して計る経済とは違う価値観である
数字化できないのが文化である、固有の文化である、物量の価値ではなく質の価値であるそれは地域地域の価値でもある、それは数字化して一様化できないのである
文化の時代になるとき固有の価値がそれぞれの地域で国で華開くとなる
フランス料理、中華料理、日本料理がある
でもアメリカ料理とかイギリス料理は貧弱である、量の料理にもなる、
こうした文化もアメリカに戦争に負けた時食まで一様化された
ハンバーグなどは料理ではない、でもその味にならされて一様化したのである
ロシアでもマグドナルドがあり味まで一様化したのがアメリカのグロ−バル化だったのである,グロ−バル化とは経済優先でありそこに個々の文化の否定があった

肉食はもともと日本では希薄だった、漁労民族だからである、でもそれもグロ−バル化して肉食化したのである、それで欧米人は肉を消化する酵素が出るということで肉食に体も適応して作られてきた、日本では漁労民族であり魚主体の米が主食の文化だったのであるそれで腸が長くなった、これもやはり人間はその土地と一体化するアイディンティティ化するから体もその土地の成分で作られるともなっていた
そういうことを外来文化で破壊された、本居宣長は唐心と大和心がありそれを分けたそして日本の精神を言葉から探求した
グロ−バル化でかえって日本の文化は見失われた、だから日本の文化の根源が言葉にもあるというときそこを見直すことが日本文化の再生、ルネサンスになるのである
万物の霊長としての多様な属性の中に生きることで人間回復する
これは組織集団ではできない、そこでは一人の人間は相手にしない、数としてしか見ない結局一票としか見ないとなる、どんな人でも一票だからはそれぞれの属性ははく奪されて抽象的存在となる、それで民主主義から多数決からナチスが生まれたことでもわかる
多数こそ正義であり力でありあらゆる多様な人間の属性ははく奪されてロボット化されるのである





2022年06月27日

組織集団化して平等にできない人間 (創価でも共産党でも個々の人間の運命カルマを無視して失敗)


組織集団化して平等にできない人間

(創価でも共産党でも個々の人間の運命カルマを無視して失敗)

●創価とカルト教団とは何なのか

日曜討論でNHK党の黒川氏が統一教会とか創価とかをあからさまに批判したことは驚きだった、そもそもNHK党などをNHKの場に呼んだこと自体驚きだったとなる
そこで確かに公正になっていた、でも司会者はその発言を懸命にとめていた
そこにいた議員も唖然としていたかもしれない、NHKでそんな人を呼ばないからである
黒川氏とかはyoutubeでなじみでありまた参政党でも武田邦彦氏がシンパになっているのでそういう政党なのか理解した
それはインタ−ネットがすでに架空のものではなく現実社会化していることなのであるすると自分でもそうだが浮動票が過激な党にも流れてゆく
そして浮動票が6割があるということの驚きである、その人たちの票が流れれば政治も変化する、NHK党がNHKに出たことでその影響は大きいのである
裏にあったものが表に出てきて現実社会を変えてゆくようになる

そもそもカルト教団とは何なのか?

それは本来の宗教とはまるで違ったものでありおそらく現代文明の混沌から生れたものでありナチスと似たものにもなる、何かそこでばらばらになったアトム化した人間が一体か感をもつものとして生まれたからだ
創価でも団地の宗教として相互扶助機能として生まれた、そうしたものが小規模なら問題はなかったのである、団地の宗教として小規模なら問題なかったのだが巨大化してナチスのようになったことで日本全体に影響するようになったのである
ナチスも現代文明の病的なものが現れた結果だとしてピカートが説いた
それと同じようにカルト宗教団体も本来の宗教とは違う、なぜなら本来の宗教はすべて自然と密着して生まれたからである、その宗祖を見ればわかる、キリストであれシャカであれモハメッドであれ大都会からではなく田舎からまた岩窟で悟りを開いたりモーゼのように砂漠のシナイ山で神と出合い啓示を受けたからである

団地の宗教とかはありえないのである、まず東京とかの大都会とはそもそも宗教とは無縁である、高層ビルを見上げて人間はもう卑小化してロボットのようになっているからだ
山伏などは何か胡散臭いものとみているが山を聖なるものとして修行したのだから六根清浄を山で心を浄化しようとしたのだからこっちの方が宗教的だったのである
天台宗とはそもそも中国でも山岳宗教なのである、ところが現代のカルト宗教団体はそうした六根清浄などは求めない、極めて政治的であり経済的であり社会的であり人間の心の問題とは関係しないのである、創価は極端であり眼中にあるのは一票をとることとそして権力と密着して利益を得ることしかない、みんな政治的野心があり経済的野心がありそういう人達が入ってくる、どんな欲望も是認される、むしろ奨励されるのである
もっと欲を出せそして祈ってかなえろしかないのである
煩悩即菩提となり煩悩でも欲があってこそ菩提になるとなる

いづれにしろ理論などどうでもいいのである、目前の欲を達成することが目的である
それは文明病ともいえるものから生まれたものである
ニーチェなどでも異常と見えるが自然の中で人間のアイディンティティを求め偉大なものを求めた、ニーチェが批判した大衆こそが現代人なのである
それはカルト教団に象徴的に現れてナチスとも共通していたとなる

●人間を平等にできないー創価とか共産党の思想

この世には底辺層が常にいる、富裕層と下層階級が常にいる、その不平等がどこからきているのか?
これも不可解なのである、人間を平等にすることは人間の歴史で達成しなかった
マルクス主義でもそうである、平等を目指したが結果的にはソ連でも中国でも結果的にはとんでもない格差社会になった、共産党の書記はまるでエジプトのファラオのように神のようにされて葬られた、中国では共産党幹部が兆の金を得るまでになった
つまり平等を目指してかえって不平等になったのである

なぜ人間社会に不平等があるのか?

それが不可解なのである、自分自身を例にとっても本当に不可解なのである
自分の父親違いの兄は自分の家に来ても不幸だった、愛されることもなかった
母親は後妻であったからだ、そして集団就職して40才で交通事故で死んだのである
家族ですら兄弟でも不公平があり恵まれる人は恵まれる、これは何なのだろうかとなる
つまり社会に不平等があるのではない同じ家族でも不平等があるのだ
兄弟間でも不平等がある、それで親の介護になるとお前は親に良くされたのだからお前は介護しろと言われるのである、それは自分自身がそうだった、自分は特別親に良くされたから結局これまで書いてきたように自分自身が病気にもなり二人の親の介護で四苦八苦して死ぬような苦しみになった、つくづくこれも楽した結果としてのカルマだったのである
だから不平等というとき人間がもってうまれた運命論になってしまう
インドではそうなった、人間は家族でも不平等なのだから社会自体も不平等なのである

なぜではそうなっているのか?

それはもってうまれついた宿命論にカルマ論になる

カースト制が根強くインドに残っているのはそのためである
そこに運命の不可解があるからた

それを理解したのが猫を飼っていた、その猫はなついていた、その猫がいるとき外から餌をねらって別な猫が入って餌を奪っていた、でも私はその野良猫をはたいたりして追い払っていた、でもなついた猫は死んだ、すると追い払っていた猫にこれもかわいいとか餌をやるようになったのである
人間の運命の不思議は誰かが死ぬと誰かに恩恵があるということである
私の父親違いの兄は私の母親の父が事故で死んだのである
だから後妻に入って私が生まれたのである、私は父親にも愛されたが兄は愛されなかったそして40才で交通事故で死んだのである、その経過はその本人にも問題があった
離婚したとか借金したとかいろいろあってそうなったからだ
ただ運命の不可解はこのように誰かが死ぬと誰かが恩恵があることなのだ

その女性は不運であり離婚を二回している、でも親しい男性がいてその男性の妻が死んだ結果としてその男性の所に通い助けられるということにもなった
もともと離婚して相手は何か病気になったときも助けることがなかったとかある
その時その男性が助けたということで恩を感じている
ただこうなったのもその男性の妻が死んだことによるのである
これも猫の運命と似ているのてある、ここに運命の変遷がある
私の所にもその女性が来るようになったのは親が死んだからだともなるからだ
だから運命とは一様ではないし不可解なのである

●人間の運命の不可解

それで共産主義であれ創価などのカルト教団でも不幸な人が比較的入るのだがそれで集団指揮組織的に運命を変えることは無理だともみる
それは悲劇的なことになった、カンボジアでは二百万が死んで骸骨の山になったとか記念館がある、ソビエトでも千万人が粛清されて殺されたとか中国でも共産党の文化大革命で毛沢東の命令で千万人単位が粛清されて殺されたとかある

それはなぜなのか?

人間の個々の運命を不運な人でも平等にしようと無理にしたからではないか?
人間とはそういうものではない、人間の運命は不可解であり一様にできないからではないか?
人間の運命は集団的組織的には変えられない、個々に複雑にからみあっていてみんな平等にはできないからではないか、創価とかでも宗教でも本質的には共産主義と近い
ある都会の住宅地では必ず創価か共産党に入っていてコミニュティを形成する
下層階級として共通だから意外と創価と共産党には似ているのである
そこで票の取り合いとなり争うのである、犬猿の仲にもなる
創価は宗教としてもそれは本来の宗教とは何の関係もない、でも宗教を標榜しているからやっかいなのである、何かというと地獄に落ちると罰当たるとか言うからである
何も経済を良くして貧困者の味方となるというならいいのである
宗教的救いとはまた別だからである、それでも常に宗教的呪縛があり政教分離できないことが問題なのである

すべてを宗教としてみる、信仰からみる、それも御利益が福運があればいいとなる
でも近くでも奨められて貧困家庭で入信したがその息子は若くして病気で死に次に母親も死んだのである、それは何なのかとなる
ただ創価でもどこでもそうして不幸の家は人はいる、現実に自分の父親違いの兄がそうだったからである、創価とかなると本当にそういう人はいくらでもいる
他の人達よりもともと不幸な人が多いのだから当然だとなる
要するに人間の不幸はそうしたカルト教団に入っても共産党とかの政治でも解決しないのであ、人間の運命が不可解だからそうなる

●平等を追求してもかえって不平等を作る

この世から不幸をなくしてみんな幸福にできるのか?

確かに科学技術であれ何であれそういうことは努力してきた歴史がある
でも人間は平等にならないのである、そして人間はある面では平等である
どんなに恵まれてもやはりどこかで苦しむようになっている
私は恵まれたが最後は親の介護で死ぬほどの苦しみを受けた、それもカルマだったとなるどんなに恵まれても何らか必ずカルマを持ちカルマを受けて苦しむのである
そういう点では平等だともなる、恵まれた人でも富裕な人でもそうしたカルマから逃れられないのである、カルマはめぐってくるからである、また恵みもめぐってくるからである金は天下の回りものだというときもそうである
必ず金は一か所にとどまらない性質がある、世界的にみても栄えた国があったとしても衰退して次に栄える国は移るのである、アメリカが繁栄してそれも衰退して次は中国が繁栄するとなる、そういう覇権国はヨ−ロッパでもポルトガルースペインーイギリスとか覇権国が変わって繁栄も移ったとなるからだ

人間の幸福は個々に運はめぐる、恵みはめぐる

悪いカルマもめぐり苦しめる

人間の運命ほど不可解なものはない、恵みはめぐるなのである、だからある地域が豊になるときそこに農業だったら篤農家が優秀な人がいてそれで特産物を作ったりするとそれが地域の他の農家もまねて全体が豊になることがある、そういうことは国全体でも言える
幸福とか富とか運でもめぐりめぐっている、逆に不思議なのことは誰かの不運が誰かの幸運になっている、誰かが死んで必ずそれで利する人もいるのである
それが猫とか人間関係にあった、確かに誰かが死ぬということは不運でありいいことではない、ても確かに誰かが死ぬと誰かが得して他者の運命も変わってゆくことがある
そもそも誰かの不幸が誰かの幸福にもなる
ギャンブルだと誰かが得すれば誰かが損する、宝くじでも同じである、なぜそうなっいるのか不可解なのである
また逆に誰かの不幸が回り回って自分の不幸になったり誰かの悪いカルマが自分に回ってきて苦しむ、悪いカルマも回り回ってゆくのである
それを介護になり嫌というほど経験した、なんでこんなに苦しめられるのかと考えたがそれも悪い他者のカルマが回ってきたからだと思った

何か殺人とかでもある人が被害にあうのはなぜなのか、全くの偶然なのかとなるとそうでもない、何か因縁があり他人の悪いカルマが回って来たのである
まず人間は一生を見れば楽に終わる人などいない、どこかで苦しむようにできている
意外と長く人生でも苦しんできた人でも最後は楽だったとかなりまた長く楽だった人が最後になって塗炭の苦しみにあうとかある、最後まで人間は楽に終わらないのである
人間のカルマは罪障というかそれは必ず現れる
ただ誤解するのはこうしたカルマとか罪障を組織して集団では解消できないのである
なぜならそのカルマとか幸運とか富は個々に回ってゆくからである
確かに国単位でもカルマがありカルマは回ってゆく、でも基本的にカルマというとき個々に回るものであり集団組織化して解消しないのである

組織化集団化して解消するときかえってそれが不平等になり全体主義が共産主義でもカルト教団でも宗教でも悲惨なことになった、かえって無理に平等にするために千万人とか粛清されて殺されたからである、それは何か人間の運命を人為的に人工的に機械的にでも解決しようとして失敗したともなる
それは人間についての考察が間違った結果ともみる、ただ極端な不平等は何らか社会全体を歪める、またそういう大金持ちはそのために莫大なカルマを持ち自滅するように思えるアメリカが衰退するのもそうである、どうしても極端な格差となり国自体維持できなくなり分裂して衰退する運命ともみる、富は今度は中国に回っているのかともみる
戦後は高度成長が日本がにあって日本に回ってきたのである
それもまた日本が貧困化して衰退しているのはやはりそうなったのは金は天下の回りもの富は恵みはめぐるだからだともみる

●神の選別も不平等である

そしてカルト教団などは

『また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。』(黙示録13:16-18)

たれがあてはまる、それだけではない人類はこのように二種類に分けられるのかもしれない、そして終末に最後の日にそれが実行される
獣の印を押された人達はカルト教団員でありまた多数の人達である
現実にそこにサタンがいて教祖がいてそれがその獣の印を押すのである
なぜならナチスでもそうだったがヒットラーがいてそのロボットとなるからである
創価でも池田大作がそのサタンでありまたオウムだと麻原だったりする、それは悪魔の化身だともなるからだ、その悪魔が獣の印を押すのである
人間は必ず偶像崇拝になる、どうしても目に見えるものが神となる
特に人間が神になりやすいのである、偶像になりやすいのである、それを神は妬む神として一番嫌ったのである、宗教の基は偶像崇拝の拒否になったからである
それは聖書を読めばそれがテーマでありイスラム教となるとそれが極端化したのである

とにかく世の中はすでにそうして天国に神の国を造る人とそうではない人ととに分かたれているともなる
なぜある人が神に選ばれてある人は選ばれないのか、それも不平等なのである
ただ選ばれる人は必ずしも優れた人ではないことは確かである
この世には天才とか心身ともに優れた人がいる、でもそういう人が神に選ばれない
「心の貧しい人」が神に選ばれたのである、心の貧しい人とは経済的に貧しいというのではなく常に足りないもの心に足りないものを感じている人なのである
それはまさしく自分でもあった、何か身体的にも弱いし能力も多少はあったとしても自分にはなかった、だからなぜそんな人を神が選ぶのかとなるき奇異だとなったのである

とにかく人間の運命を全員を平等にすることは不可能である、これだけは確かである
だからこそカルト教団であれ共産主義であれ人間の運命をどう見るかでそういう思想が生まれた、ただ宗教は平等を目指さないということではない、宗教の目指しているのものが世俗的な経済的な平等ではないことなのである
いづれにしろ宗教と政治は世俗的なものとは一体化できないのである

要するに創価でも共産党でも似ている、革命が達成したら権力と富を得ることになる
それも幹部なら中国のように巨万の富を手に入る
創価でも幹部になればそうなる、それを目指して運動しているからである
その最大の運動が選挙になっているからである
一票は権力に結びつきそこで御利益を得ることになるからだ、また政治権力を得れば御利益として福運として配分できるからである
大臣にもなれるからである、ただそれはあくまでも幹部だけなのである
下々の党員であれそういうことはないのである

事実私の叔父にあたる人は共産党員だったが赤旗を配達していたがその給料はわずかだった、ただ働きと同じだった、それも細々と生活していた、乞食に近い生活でもあった
これと創価でも似ているのである、貧困層がいても幹部が身銭を切って助けることはない金を出すことはない、ただ貧困層を利用して幹部になれば金も地位も女も手に入るとなるその見本が公明党の議員が逮捕されたことでもわかる
あの人がまさに御利益と福運を身に着けた創価の模範として推奨されるものだったのである、それはその団体組織の体質があり必然的に生まれたのである
こうしてそもそも人間を平等にすることはできないのである
平等にするというのは人間を単純にみる、数字のように見ているからでる
実際は人間は余りにも複雑でありだからこそ運命論になってしまうのである
宿命転換を説いてもそれを組織的に集団的にはできない、だからこそ共産主義革命はかえって大きな不平等が産んだことでも実証しているのである

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2022年06月12日

還暦までニートの人ー人生を語れない 〈二三ページしか自分の人生を書けないーこの世の価値は常に変化する)


還暦までニートの人ー人生を語れない

〈二三ページしか自分の人生を書けないーこの世の価値は常に変化する)

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職歴なし還暦ニートの俺、失ったものの大きさに涙が止まらないwww
https://www.youtube.com/watch?v=ydepfkmpVWA&ab_channel=%E3%82%86%E3%81%A3%E3%81%8F%E3
%82%8A%E7%AC%91%E3%81%88%E3%82%8B%E8%A9%B1

●経験しないと同情もできないし相手のことを理解できない

このyoutubeはこういう人が現実にいると見た、架空ではない、何か架空なものもある
それを漫画にしている、でも人間にはなんらかの真実があるときわかる
その真実とは自分の経験からその真実を察するのである
遠洋漁業で冷凍庫で働くことはその中が零下20度となるから辛いというとき自分もそういう経験したから理解できる、それはもう病気になる過酷な場所なのである
でも経験しなければわからないのである、そもそも零下20度でもそれがどういうことか
経験しないかぎりわからないのである
だから人間は経験しない限りあらゆることが理解できないのである
そういうことを伝えられても実感できないのである

その74才の女性は夫を脳梗塞で10年以上介護しましたとか言う時その苦労をどうして理解できるのか、その症状もかなり重かったみたいだからである
それを自分がある程度理解したのは自分自身が親を介護した経験があるからである
例えば認知症でもそうである、この認知症を理解することは至難である
身近に直接に接して介護してみないとわからないのである
それで自分自身がその体験を書いたのである、認知症のことがどういう病気が自ら苦しんで介護したから理解できるとなる
学校とか本ばかり読んでいても本当にわかるということは体験しないとわからないことが多すぎるのである、一回も外国に行かない人が本読んで外国を語っても変なことになる
それで50歳以後バックパッカーで世界を回ったからそれで外国に多少通じるようになったのである、つまり外国についていくら本を読んでも他人から聞いても一回外国の土地を踏んだ者の方が外国を知っているとなるのである

そして奇妙だけどニートとを生きて何も残らなかった、60までニートで語るものがないとこのyoutubeで言っている、このことはどこまで本当のものかわからない、でも自分自身がニートだったから変なのだけど理解して同感するのである
つまりニートを経験しないものはニートとは何なのとかわからないのである
社会で会社でばりばり仕事しているような人はわからないのである
この人は2チャンネルをしていた、パソコン通信でしていた、それがわくわくした経験だと言っていた、私もパソコンではなく通信機つきのワープロでしていた、だからあれは新しい経験としてあったことをふりかえる、文章だけで対話することは今までありえなかったからである、それは新しい経験だったのである

●時代が変わると価値観もがらりと変わる

だからその創設者のひろゆきとかに私は団塊の世代だけで親近感を覚えているのである
何か40代くらいの働かなくていいとかベーシックインカムだとかそういうことに同調するのである、自分自身が働くことがなかったから同調するのである
だからなぜ今になってそういうことを平気で言うのか不思議になる
団塊の世代はみんな企業戦士となって高度成長時代を猛烈に働いたからである
私はだから例外的存在であった、でもその後ニートとかひきこもりと非正規労働者とか
団塊の世代とは違った働き方が人達が社会で大きな割合をしめるようになった
それで働かなくていいとか堂々と主張するようになったのである

でも40年間くらいニートであってその人生で語ることが二三ページとかはありえないと思う、いくら社会とかかわらなくても相当な自由時間があるのだから何かをしていたとなるからだ、ただこの人はテレビくらいしか見ていなかったみたいだ
ただ人生を語る時別にニートだけではない、カルト教団に入ったような人でも人生を語るとしたらただ組織の一員としてロボットのようなっているから自ら何も語るものはないだろう、ナチス党員と同じだからである、そういう一生がみんな同じ制服を着て同じ色になっているだけだからである

庭に赤い薔薇白い薔薇が咲いた、そして黄色の薔薇が咲きだそうとしている、その時何かぼのぼのとしたものを感じた、それは違った色だからである、会社員でも何か他の人とは違った経験をして語るものがある、自ら社畜だというとき何か語ることがあるのかとなるに〜とひきこもりより語るものはあるとはなる
自分自身は自由時間を旅に費やした、だから旅のことを旅で見聞したことを語れる、それを膨大な詩にする作業をまとめとしている
また本を読んだりして蓄積したことをプログで書いている
奇妙なのは郷土史としてプログを書き始めたがそれが自転車で相馬藩内とか回っていた
それが意外と役に立っている、なぜなら自分の住んでいる場所する故郷すら地理がわからないからである、未だに知らない場所があり地理の発見があった
神社などでもそうである、何のいわれがあるのかわからなかったがわかるようになった
それで地名でも新しく発見して古代史でも理解が深まった
ただそれはただ自転車にのって遊んでいるだけでもあった
だから他者から見ていればあの人は何しているのだろうとなっていた
ただのごくつぶしに過ぎない社会にとって無用なものだと見られるだけだとなる
でも今になるとプログで故郷のことなどいろいろ書いているから役に立っているのである

●組織団体の価値は消失してゆく―金で計れない価値

そしてこれ意外と会社人間とカルト教団でもそこで会社員なら自ら社畜というように自ら何か語るものがない、だから退職すると用なしとなる
そして老後が長いから困ることになるのである
とにかくわからなのは人生の成果とは何かということである、また個々人の価値とは何かである、まずカルト教団だったらあくまで組織団体の価値であり個々人の価値はゼロである、それでその価値が認められるのは社会で権力を得て地位を得ることである
要するに共産主義革命が成功して社会で権力を握るとき価値はあるものとなる
それがなければその人たちは報えられないとなる、宗教でも内面とか精神的価値を求めていないからである、その一生は組織団体の奴隷とか家畜となって終わったとまでなる
なぜならそうした組織団体はこの世から消失してゆくからである

ただそもそも人間の価値は多様でありわかりにくいのである、それで生前整理となるとつまらないものでも思い出の品となりその人にとって価値あるものでも他者からみれば何の価値も見いだせない、だから捨てろとなる、それは金にならなくても人生の思い出でありその人にとっては価値あるものなのである、かけがえいのない価値があるともなる
とにかく金にならないものは価値を認めないのが社会である

でも人間の価値は何なのか?

この人は百億円残したから最大の価値があるとなるのか、他者はただその金が欲しいだけでありその人自体の価値等みていないのである

はたして全部金で人間の価値を計れるのだろうか?

それは死んだ時わかる、死んだ時点で人間の価値は明確化されることがある
私にとっては二人の母親がいてそれが大きな価値となっている
それは二人は家を支えて自分を自由に生かしてくれたということで自分にとっては
最大の価値がある、だから供養しているとなる、でも親でも全く絶縁している人もいる
近くにいい暮らししていても親が困窮していても挨拶もしない人がいる
その事情はわからないにしてももはや親子でもなんでもないのである

●金で計れない価値

価値と言う時、生前整理のように金で計れないもの思い出が大きな価値となる
でもそれは他者にとって別に何の価値もないともなる
ただ人間は価値を認めてもらいたいのである、庭作りでも壁ぬりでも大工でも何でもできる人は才能あることは認める、でもしつこく俺はこれを作ったと自慢する、それは俺は特別大工でも庭師としても優秀だと認めてもらいたい、他の者とは違うのだと認めてもらいたい、それで金を高くとっても当然だと主張しているのである
そして異常に自分の価値を高くしている、これも問題だがやはり優秀な人はそれだけ特別な価値をみとめてもらいたいとなる

ともかく人間の価値はあまりにも多様なのである、その人は何の取り柄もないようである梅をつけるのがうまいとかあったし他にも畑で野菜を作りしてあった
人間はなにかかにか取り柄がある、するとそこに価値があるとなる
ただその価値が認められないことがある、金にもならないことがある
するとその価値は無価値とされ無用のものともされるのである
そして時代が変わると価値観ががらりとかわる、戦争の時戦争一色であり軍人が威張っていて軍人が一番価値あるものだった、それはウクライナ戦争でも起きる、そこで命をかけて戦うのだから軍人の価値が一番高くなる、でも平和の時は軍人は価値がない、不気味なものななのである、だから価値が低いのが普通なのである
自衛隊だったら災害の時役に立つとかなっていて価値を認められない、でも戦争になったら戦争中のように価値が大きくなり社会で威張るということになる

それで最近働かなくてもいいとか40代くらいの人が言うのは価値観が変わったからである豊かになったことであえてがむしゃらに働くことがいいものとして認められない、ある程度の生活ができれば趣味に没頭する人生でもいいとかなる
金をとるためにがむしゃらに働くことはかえって嫌われるとまでなる
この世の中金があるだけものが何でも優遇されるというのはおかしいのである
金で計れない価値が確実にありそれが大事だともなる、そうなるのはやはりそれなりにみんなが平均的な暮らしができるときである、それでベーシックインカムが求めるようになったのである

金持だけが優遇される社会には問題がある、ホテルにしてもホスピタルが語源であり病院でもあった、旅で疲れたものを癒す場所だったからである
そこにホテルの価値があったが今や金持ちを優遇する場所にもなった
またインパウンドとかなるとこれも円安で金持ちの外国人だけを優遇して貧乏人の日本人は相手にしないとなるのもおかしいのである
ただそれは日本人が外国で景気のいいときそうしていたのだからカルマだったとなる
カルマは常にめぐってくるのである

●至高の価値が神にしか与えられない

そもそも人間の価値とは何か?

これは余りにも多様なのである、ある人にとって無価値なものも価値があるある人にとって価値があると思っても無価値だともなる、金ですべては価値は計れないからである
本当の価値は神が与えるとまでなる

神は心を見ているとか、心の清い者は神を見るだろう

これはなんのことなのか?これはこの世でどんな人であれ金持ちであれ地位があっても
そういう外見を見ないのである、神が見ているのは心だとなる
でもそんな心を見れるのかともなる、でも神には見えるのである
心が清いということはどういうことなのか?金持ちであれ貧乏人であれ地位があり才能があるとしても神が見ているのはその心だとなる
その心を見て神は永遠の命を与える、それが至高の価値であり人間には与えられない
神しか与えられないのである、様々な人間の価値を否定するわけではない、ただ至高の価値は神が与えるし神しか与えられないのである
要するにこの世の価値も常に変化して無常なのである
戦前なら国が最高の価値だったのである、それで国のために3百万人も死んだのである
でも戦後は全くそうはならない、だから国のために死んだ人は何の価値があったのかとまでなる、つまり価値観がまるで変ってしまったのである

何が価値とするのかこの世では常に変わっている、無常なのである
だからこそ不変の価値とは何かとなり求道することになる
そして意外と注目していないのが神が心をみるというとき動機が大事なのである
一体どういう動機で命をかけた戦争したのかとかどうして会社であれ何であれ仕事しているのかとなる、その動機は一体何なのかとなりその心をみるとなる
ただ金が欲しい金のためだとなるときその価値はないがしにされる、その時決して神はその人を評価しないのである、不純な動機ですることが問題なのである

カルト教団などは動機が不純なのである、何か知らないか金儲けになるとかいい女がいるのかとかそんな動機で宗教を求めている、それだから何百万の票を獲得することになる
その心を見ることなど全くない、ただ数が集まればいいだけなのである
それが権力になるからである、後は心とか動機など一切関係ないのである
本来の宗教など平気で踏みにじる場所なのである

結局引きこもりで60才まで過ごしてふりかえり泣いていたというのはリアルである
でも引きこもりだけではない、みんな老人になるとふりかえり過去がもどらないことに泣いている、ビートルズの曲を聞いて泣いていた人がいたのもわかる
もう青春も帰ってこない、人生も終わりだとして泣いてるのである
結局この世は一時の場所であり、さよならだけが人生として終わる、無常の世界である
liveはlieveであり去る場所であり永遠にいる場所ではない
束の間の夢だったとなる、本当の世界は神が治める神の国でありえるのである
それが希望なのである、この世に理想とかは実現しない、最後はハルマゲドンなのか何かなのかこの世は消滅する、また神によって滅ぼされる世界なのである

●老人になって明らかにされる人生の価値

明らかなことは最後に老人になってそれぞれの人生の価値が明らかにされる、それはささいなことまで明らかにされる
勉強したこと経験したことがまた罪でも明らかにされる、それで勉強しなかった人は後悔しているというのもわかる
老人になるととにかく後悔しない人はいない、こうすれば良かったとかなんなことして失敗したとか馬鹿だったとか後悔する
何が価値あることだったのか見えるからである、でもその時すでに時遅しとなっているのだ
求道することは老人では無理だというときこれは相当に深刻である、そんなこと重大に思っている人はいないからだ
私自身も思っていなかったけど父親が早く死んでなぜ人間は死ぬのかということが頭から離れなかったからだ
ただカルト教団に入ったとしても自分はそこを追求していたのである、でもそこはそんなこと全く関係ない場所だったのである
ともかく若き時神を知れということは重大なことだった、なぜなら青春など若い時などあっという間に過ぎる
そしてそのチャンスは二度と戻ってこないのである、それは女性が婚期を逃すと似ている
三十すぎたらおばさんとか言われるようになるからである
だからこそ婚期をうるさく言うのである、でも求道しろなどと言う人はいないのである

そして放蕩するとか青春が若い時がいつまでもつづくと思っているのである
でもみんな老人になる、それでも老いることがすべて悪いものかというとそうでもない
老いることは本当に賢者になれるさとでもある、もう愚かなことはしないともなる
悟ったような顔をしているのが老人だともなる、その差も大きいが老人になると誰しも人生はこうだったのかとかどんな人でも思い知らされるからである、でもその時はすでに時遅しとなっているのである

人生は一回しかない、チャンスも一回しかないとかなる、一回のチャンスを逃すともうチャンスが与えられないとなる
何度チャンスがあることなどないのである、それだけ人生は短いものだったのである
だから求道は老人になってから遅いとなる、一番盛んな若い時にするもなのである
それが人生の大きな盲点だったことを老人になり思いしらされるのである
なぜなら時間を元に戻すことができないからである、若い時に20代で方向が決まってしまうからである
それで現実に20代で引きこもりになった人は還暦までそうであり後戻りできなくなったとなる
それは自分のことでもあったが自分のしたこと旅でも勉強でも老人になって実っている
だから自分の引きこもり人生は無駄ではなかったと自分で自覚するようになったのである

2022年04月16日

寒さがもどったけどまたあたたかくなるから耐えられる (希望無くして生きられない人間)


寒さがもどったけどまたあたたかくなるから耐えられる

(希望無くして生きられない人間)

この二日間寒い、冬にもどった、今年は寒さがつづいているのか?
でもに三日前は暑かった、灯油を買おうとしたが二日くらいならがまんできると思い
買わなかった、でも寒い、私の家は旧式の家だから隙間風が入ってきて寒いのである
老人になると寒いとか暑いのに弱くなる、私はもともと寒さにも暑さにも弱い

でもなぜ灯油を買わなかったのか?
それはもう一日くらい待てばあたたかくなる、天気予報でそうなっているからだ
そうなると二日くらいならがまんしようとなる
つまりがまんするのはわずかの時間であると思うからがまんできる

冬があるとしてそれなりに長いとしても必ず春が来るから冬を耐えてゆこうとする
もし春が来ないとしたらもう耐えられないのである
絶望しかなくなる、これは経済でも言える、日本は貧困化している、ますます貧困化して食糧さえたりなくなり奪い合いになり飢饉にもなるとかになる心配ばかりしていたら
生きる気力もなくなる

今日は悪くても明日は良くなる

こうならないと生きる希望もなくなる、ウクライナのように戦争で苦しんでいると必ず戦争が終わるということを必死に願うようになる、今は苦しくても戦争は終わる
その終わることを必死に願うようになる
戦争はいづれ終わることは確かだからである、戦争はやはり長くても二三年で終わる
でもアフガニスタンとかテロとかなるとなかなか終わらなかった
そこで住んでいた少女が戦争がないことがどれだけか幸せかと言っていたことがわかる

ともかく人間から希望がなくなったら生きることはできない
これからも寒い日がつづき暖かくならないとしたら絶望だとなる
そうなると働く意欲もでてこない、いくら働いても暮らしが良くならない
給料も上がらない、暮らしは悪くなるだけだとなれば働く意欲もなくなる
人間はやはり今日よりは明日が良くなるということが生きる力となる

なぜ今世相が暗いかというと悪いことしかイメージできないからである
経済はますます悪くなるとか貯金していても預金封鎖されるとか賃金は上がらず物価だけが高くなってくるとかいいことを言う人がいないのである
それは現実がそうなっているのだからしかたないとなる
人間はそうなると消費もしいなのである、そしてますます暗くなり景気も悪くなる
景気は気であり気分だとするときその気が悪くなっているから全体的に暗くなっているのである、景気も良くならないとなる、つまり気分の影響で景気も良くならないとなる

宗教の必要性は来世があり天国があり死んでもそこに行けるということが希望になる
なぜ宗教が過去でもこれほど頼る人が増えたのか?それは希望をもちたい、題目でも念仏でも唱えていれば来世では極楽に行けるとなっていたからだ
どん底でもそれが希望になっていたのである、病気でも治るとなれば一心に祈るとなる
要するに医療すらない時代にはそうして祈るしかなかったのである
だから会津の方でも病気が治るということで仏教が普及したのである
山伏がいたのも山で薬草をとり病気治療していた、加持祈祷がまた仕事だったのである
医者代わりだったのである

要するに人間は死んだら終わりで何もなくなるとなればもう希望はないのである
人間は死んでも終わらない、天国に行きそこでこそ本当の生が始まるとなることを信じれば希望となりこの世の辛いことに耐えられるとなる
人間はそもそも希望をとったら生きられないのである

「パンドラの箱」の中身は「災い」です。病気、憎悪、犯罪、争いなど、人のさまざまな悪行を指します。また怒りや悲しみ、苦しみといった人にとってのネガティブな感情も災いのひとつとして数えられます。

最後に「希望」が残されたのです

様々な災いがありでも希望が最後に残されたのである、この世には様々な災いが災難があるが希望があれば生きられる
悪いことばかり言われるが実際の生活ではいろいろ改良されているのである
道は良くなり様々なものが快適になっている、それは常に改良をつづけているからである悪い事ばかり言うが人間は毎日それぞれの場で働いていて改善改良しているのだから
良くなっているのである
あらゆる分野で毎日改良がつづけられているからだ、機械でもより使いやすいように工夫改良が続けられている
だからコンピュターでもインタ−ネットでもそうだがそこで学ぶ機会が増大したのである本ならどんな本でも田舎でも通販でボタン一つ押せば買えるのである
すると田舎でも独学してでも相当なレベルの知識を持つことができる
学校教育ではとても教育としてはたりないからだ、するとこれからもしかしたら日本から少数精鋭となり天才とか生まれてくるかもしれない、天才でもそもそもそういう人を産む環境がないと生まれないからである

人間はそもそもどこかで希望を見出さないと生きていけない、何するにしてもそうであるだからそもそも経済でも今日より明日が良くなるという希望がないと成り立たない
ただ金は紙切れになるとか預金封鎖があるとか恐慌になるとか食糧もなくなるとかなんとかそんな暗い事ばかり言っていたらみんな落ち込むだけでますます景気が悪くなる
そうあっても何か希望を見出してゆかねば生きていけないのである

種をまいてそれが育ち果実となるからこそ働くのである、どうせ種をまいても育たない
天候が悪いとか自然災害がきて無駄になるとか思っていたらそもそも何もできない
食料すら作ることがてきないとなる
何か現代はまさに種をまいても育たない無駄だという感覚になっているのである
でも実際はあるゆる方面で改良は改善はしているのである
ただ日本に欠けているものは何か新しい物を発明できないことである
新しい物を作りだせないことが問題なのである

人間は過去をみればもっと悪い条件の中でも生きてきた、そして改良改善してきた
何か希望となるものを見出してきたのである、常に暗黒があったがやはり希望を見出して今日が築かれて来たのである
だからなぜ未来が暗黒ばかり語られるのか?それが異常なほどそうなのである
暗い未来しか見えないのである
種をまき肥料をやりそれが育ち果実となる、そう思って働く、現実にみんなそう思って働いている、でも暗い未来しか見えない、暗黒の未来のみがあるようになっている
それがおかしいとなる、もちろん常に暗黒はある、冬の時期はある
でも必ず春が来るから耐えられるのである

明日に向かって希望の太陽は輝く
その輝きは衰えることがない
神は人間から希望を奪わない
来世の天国も約束されている
汝はその場その場で希望を見いだせ
そして勤めて希望を見いだせ

ともかく人間の苦しみは永遠にはつづかない、いつかは終わる、それを介護で感じた
介護の期間は平均的に長い、5年が平均としても十年とかにもなる
だから早く死んでくれともなる、でもいつまでも続かないのである
人間の苦しみは何であれいつかは終わる、冬はいつまでもつづかないいつかは終わり春が来るのである
だから神を待ち望めとなる、神は架空のものではなく実存するものであり約束を果たすしうるものだからである、万能の神だからである
要するに希望なくして人間は生きられないのである

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我が室にオレンジリリーの一輪の咲きまた一輪咲きぬ希望なるかな

一輪オレンジリリーが咲いたそしてまた一輪咲いた、今は三輪咲いている
つまり希望とはこうして花が咲いてゆくことなのである
この世に花が咲き満ちる、暗黒ばかり語っていたらきりがないしかえってそのために景気が気が悪くなってくるのである、今は本当に経済的にも悪い気におおわれている
でも何かしらそれぞれの場で希望を見出さねば生きていけないのである
なも実際はそれぞれの場で改良改善が続けられているから良くなっているのである
パソコンでも安くてもいいものになっている、機械でも良くなっている、安く買えている20年前とかは40万くらいしていた、それも今のパソコンとは違っていて普通の人はマニアでないと使いないものだったのである
人間はともかくどちらかというと悪いことを見る、マスコミとかでも悪い予想を言う
視聴率を稼ぐために悪いことを言うのである、もちろん悪いこともありうる
でもそればかり言っていたら人間は生きていけないとなる
悪いことがあってもいいことがあるということも言わないとバランスがとれないのである


スマホで写真をとると花の名前とか関連したものがててくる
オレンジリーリーという名前の花だった
こういうふうにいろいろなものが学べるのである

2022年04月05日

空間軸と時間軸でみる世界 (時間軸で見た世界は常なき世界、無常迅速である)


空間軸と時間軸でみる世界

(時間軸で見た世界は常なき世界、無常迅速である)

人間は個々人であれ世界であれ空間軸と時間軸で考えるのが基本にある
空間的に地理的にどういう位置にあるかだ致命的に運命的になる
それはもう何億年でも変わらないからである
地理的宿命があるからだ、それで天の時、地の利、人の和が問題になる
ウクライナ戦争でもそうである、ヨ−ロッパとNATOとロシアの狭間で戦争が繰り返されて来たのは地理的宿命から逃れられないからである
その空間的地理的なことは地図を見ただけである程度直感的にわかる
でも時間軸で形成されたものを見るのが至難になる

だからウクライナのことでもロシアのことでもわかりにくくなる
ソビエト連邦がありそれが崩壊したのは20年前くらいだったが忘れていた
時間軸で起きることは忘れやすいのである、個々人でも数十年前にあったことを忘れる
なぜなら次々に新しい事が起り過去は忘れられてゆくからだ
家族として親密にして60年一緒に暮らしていても死ぬと何かあいまいなものとなり
遠い過去になってしまうのである

だから歴史という時、地歴になるのだが歴を時間軸で起きていることがわかりにくいのである、不思議なのは江戸時代の年号をみると元禄だとか安政だとか天明とかあっても
その時代に何が起きたのか時系列で起きたことを理解するのがむずかしいのである
そもそも年号でもその時代順序でもわからなくなる、安政が先のなのか天明が後なのかもわからなくなる、時代順序で理解できなくなる
でも明治時代があり大正時代があり戦前の昭和があり戦後の唱和がある
でもこれは私の父親が明治生まれだし母親も大正生れだから順序を逆にすることはない
祖父母辺りまでは時代の順序を間違わないのである
それで人間は具体的に時間軸で実感するのは祖父母までだとなる

例えばエジプトの歴史が時間軸で三千年あるとしてその三千年を時間軸で時代順で理解することは不可能に近い、三千年となればもう日本の歴史は2000年だとしてそれより長いからだ、それを時間軸で理解することはもうできないのである
でも空間軸で理解することは今でもできる、現実にエジプトに行ったしそこでピラミッドが残っていてそれを見たり遺跡は見ることができるのである
空間軸は変化していない、時間軸は常に変化してしいる、その時間軸で変化することか
無常だとなる、常になき社会であり人間なのである

70才でもなってみると本当に不思議な感覚になる、人の出合いにしても本当に一瞬なのである、そして永遠にこの世では合わなくなる、それは60年一緒にいた家族ですらもう死んだら永遠に逢わないのである、そうして人の出合いは余りにもはかないとなる
それで最後にはさよならだけが人生だとなる
何か駅で外から来た人と出会った、それは束の間だった、何か話すこともなかった
その人は若い女性である、でももうその人とは永遠に逢わないのである
それはどこでも起きていることなのだ、いろいろな人と合ったとしても束の間であり
あとは永遠に逢わなとなってしまう
あいつと逢ったな別れたな、あとは永遠に逢わないな、あの人は何であったかのとなる

ともかくエジプトであれそこに今でも行くことはできる、そこで起きたことを時間軸で理解することはむずかしい、ただピラミッドが今でもあるからそれはエジプト文明の集約として残っていることでその文明を感じるのである
もし何もなかったらただ砂漠だけだったら何も感じない
ただ何もない砂漠で砂塵の中に埋もれて何もなくただ風が唸っているだけだとなる
その存在すらわからなくなる
空間は地理は変化しない、でも時間軸で見る時人間世界は常に変化であり人の出合いでも一瞬でありいくら栄華を誇った文明でも帝国でも遠い過去になってしまう
つまり時間軸で見た世界は無常なのである、常なき世界である、その無常に抗して何かピラミッドは三千年後でも存在しているとなる

人間世界はこうして時間軸で見れば絶え間なく変化している、今日ある人は明日はいないとまでなる、隣の人と庭でちょっと話していたがあっという間に死んでいた
そこにいたのに消失した、そして永遠に逢わないのである、そういうことは老人になれば当たり前のことである、次々に知っている人が死んでゆくのである
そして永遠に逢わないのである、まさに無常の世界である

桜が咲くにしても華やかなのは一時でありたちまち散ってゆく、それも無常である
この世に永続するものはない、それが無常である


ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわに(※1)ぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、(※2)いづかたへか去る。また知らず
(方丈記ー鴨長明)


本当に老人になるとこれは当たり前の実感になる、それは別に優れた人と哲学者とかなくてもその現実がありありと実感するからである

所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり

せいぜい人間が出合ったとしても記憶しているのは一人二人くらいになる
みんなうたかたの泡のように消えてゆくだけである
この世とはそういう場所であり時間軸で見たら人間が生きるのは一瞬であり出合うも一瞬でありあとは二度と逢わないのである、それが無常なのである
だからこそ永遠の命を求める、この世とは違う永遠の世界を求める
そこで老いることはない、みんな若いという、病気になる人もいない、愛別離苦の世界もない、時間は有限ではない、無限であり空間に制約されることもない、空間はどうしても人間を制約する、時間でも制約する、そういう制約から超越することを望むのである

その女(ひと)と一時逢うも去りゆきぬ永遠(とわ)の別れや春になるとも

これは恋の歌とかなるがそんなものは自分にはない、若い人はこの無常がわからない
老人は別にみんな普通に感じている、知っている人でもみんな死んでゆくから必然的にそうなる、若い人はそれを実感しにくい、人生とは永遠につづく、人の出合いでもそれは一瞬だったなと思わないのである
でも最も華やかな青春でもそれもうたかたの泡のように消える
歓楽に費やしてもそれも一瞬のことだともなる、、はかない虚しいものとして消える
ただ人間はそうしてカルマを繰り返しているだけだとなる

生死事大 光陰可惜 無常迅速 時不待人

本当に無常迅速なのである、それで若きうちに神を知れとなった、瞬く間に時間は過ぎる飲めや歌いやしているうちにあっという間に過ぎる
若い時はいろいろなものに魅せられて過ぎてしまう、恋だなんだかんだと魅せられてあっという間に過ぎてしまうのである
でも若い時はそう感じないのである、だから老人から若い人を見ると全く違った感想を持つ、また若い人から老人を見る時も老人になることがないと見ているのである
でも必ず若い時はたちまち過ぎて老人になっているのである
40才になるとう白髪になり 老人の入り口になっているからだ



2022年03月06日

人間は結婚でも子育てもすべきときしないとあとはできない (チャンスを逃し、時間を無駄にするのが人間の一生)


人間は結婚でも子育てもすべきときしないとあとはできない

(チャンスを逃し、時間を無駄にするのが人間の一生)

婚期を逃す
子供持つ時期を逃す
学ぶ時期を逃す
スキルを身につける時期を逃す
相手を知る時期を逃す
愛することを逃す
冒険する時を逃す
チャンスを逃す
.........

韓国で結婚しても子供作らないとか結婚しない人が増えて出生率が世界で一番低い、韓国人がいなくなると将来を心配する、それは日本と同じだった
なぜ子供もたないのか?それは子供を育てることが負担なのである
金銭的にも苦しくなっている人が多いし仕事をしているキャリアウーマンは仕事が出産で仕事が中断されるとブランクができて仕事ができなくなると言っていた

人生の大きな落とし穴は何かするチャンスを必ず逃している
そしてそのチャンスを活かさないともうあとは二度と活かすことができない
それでみんな老人になって後悔するのである
まず後悔しない人はいない、私に後悔がないと言っても実際は後悔している
あの時こうれば良かったとかみんな後悔するのである

将来自分がどういう人間になりたいのか?

それが自分自身にもわからないのである、家具職人になるために丁稚奉公して技術を習得している10代の若者のことを放送していた、それが辛いと泣いていた
ではその家具職人でもそれが将来役立つかとなると今は機械化してAI化するからその家具職人として生きていけるのかとなるとわからない
ただ手でしかできないものがあり丸味も帯びた所は手でないとできないとしている
でも将来的にそうした職業でも生き残れるのかとなるとわからない、やめた人もいる
私は子供の時、ソロバンが得意であった、でもそれが何の役にもたたなかった

全くこれは時間の無駄だったのである、それは私の父親が酒屋の丁稚奉公をしていて
ソロバンを習わせたのである、その後計算はコンピュター化してソロバンは無用化したのである、こういう変化が常にあり若い時習ったことが将来役にたつかどうかわからないのである、もし役にたたなっかたら貴重な若い時の時間を無駄にしたとなる
その方が後悔することになる、ただ家具職人として役にたたなくてもそうした経験は貴重である、なぜなら人生は短い、何であれ経験することは貴重なのである
人間は経験することでも学ぶことでも限られているからである
たちまち時間が過ぎてしまうのである
人間はいくら本を読んでもわからないことがある、経験しないとわからないことがある
だから経験することはなんでも貴重だとなる

とにかく女性でも婚期を逃すなと親がうるさく言う時、女性の華やかな旬の時は短い
すぐに女性でも30過ぎるとおばさんとかなり子供すら産めなくなるのである
それも本当に早いから婚期をうるさく言うのである
男性でも実際婚期があり40になったらもう結婚もできずる一生独身だとなる
それが自分自身でもあった、ただ結婚とか子育てとかは本当に負担である
戦前なら子供をとう思って育てたかというと親に尽くさせるために子供を産んでいたのである、今後進国の人が日本で働いているのは親に仕送りしている
親に尽くこせるために子供を産んでいたのである、今は全然違っている
一人の子供を産み育てることが金銭的に時間的にも労力でも相当な負担になっている
すると本来するべきものができなくなる、仕事していても出産で中断して仕事もできなくなるとかなる、これも人生にとって痛手なのである

人間というのは本当に老人になればわかる、こんなに時間が早く過ぎるのかということに驚くのである、20代の盛りはあっというまに過ぎて30過ぎて40になると白髪でてきておっさんと呼ばれるようになる、そして何かをすることを何でも逃したことに気づく菜のである
求道でも「若き内神を知れ」てあり若いうち求道しないものは老人になってはできない
老人になれば仏教でいう悟りのような境地にはなる、でも神を知ることはできない
それは最もは血気盛んな時にするものであり老人になってはできなくなっているのだ
でも若いうちこの世のものに魅了される、女性でもなんであれ魅了される
そうして夢中になっているうちに時間でもたちまちすぎてしまうのである

結局人間の失敗と後悔は時間を無駄にした

このことに尽きる、何か有意義なことをすべきなのにそのチャンスを活かせなかった
時間を使いなかったということである
自分の家族も全部死んで後悔する、もっと優しくすれば愛すれば良かったとかにもなる
家族にすべきことしなかったことを後悔する、でも死んだらもう何もできないとなる
供養ししても返事も返ってこないのである
だから介護でも苦しいが終わり死ぬとみんなもっと優しくしていれば良かったと後悔しているのである
こうして後悔が人生なりともなっている
いかに時間を有効に活用しなかったかを後悔する、またチャンスを活かせなかったを後悔する、何かチャンスも何回もないのである、一回のチャンスで人生が決まることすらあるそして一回の失敗でもあとは成功もないということもある
なぜなら何回も挑戦して時間をかけてすることができない、時間がそんなに与えられていないからなのだ

芸術家の8割が独身だというときもし結婚して子育てしてとかなったらとても創作に時間を使いなくなる、その負担が大きすぎるのである、自分の場合たいして才能もないのに
俳句とか短歌とか詩を創りつづけてきた、それは自由な時間を与えられてできたことである、もし結婚して働いて子育てしてとかしたらできないのである
人間は何か身につけるのに必ず時間がかかるのである
花を知るのにも必ずフラワーアレンジメントでも家の中に一週間でも二週間でもさらに長く毎日見ているとその花が心に深く映ってくるのである
とても一日では花でも深く見れないのである

人間の愛と信頼関係でも時間をかかる、即席に相手を信頼できない、家族でも長い間一緒に暮らすことで愛とか信頼関係が生まれる
一緒に暮らさなければ兄弟だろうが姉妹だろうが愛情とか生れない、それで兄弟でも遺産相続では他人でしかたないから殺したりする、それは別に血縁でもありうるがもう一緒に育たなかったら兄弟という感覚はない、私の兄は子供の時5年間は一緒に暮らしたから
辛うじて兄という感覚をもったから今は死んでも供養しているとなる

結局人間は何に時間を費やしたかで決まる、その人を見る場合、この人は何に時間を費やした人なのかを見ればわかる、それが人生だったからである
会社勤めの人は人生の大半を過ごしたのだから会社人生でありそれが人生だったとなる
社畜としてもそれが人生だったとなのである、そもそも才能だってそれを伸ばすには時間がかかるのである、学ぶのにも失敗しているのは効率的に学べない、学ぶ方法が間違っていたとなる、そして時代時代で学ぶことも方法も違っている、今なら学ぶ方法が多様である、youtubeなどは学ぶのにはいいツールである、前なら学校しか学ぶ環境がなかったからである、だから将来的には別に学校に行かなくても学べる環境ができる
するとそこから天才のような人が生れるかもしれない、興味のあることを子供の時育てればそうなる、学校は一律的であり多様な人を育てることがてきないからだ

人間が時間の無駄が多いというとき人間はまた浪費が多い、何かを身につけるには精進が必要である、天才でない限り必ず必要である、芸術にしても何か創作するにしても心の節制が必要である、座禅なんか無駄ではないかとなるが口をつつしむとか心を浄化するとかで心を重点にして修行する、すると心が澄んで透明な水のようになり花でも自然の美を心に映すことになる、でも汚れた世界にいれば汚れた人と交われば心も濁るのである
まずそうした汚れた俗世間に交わると汚れていることは普通だとなってしまう
それでカルト教団などはそこは何ら宗教などない、心がどうだとかそんなことを全く問題にしていない、会員を増やして権力化することしかない、そこにどんな人でも欲深い人でも歓迎される、心を浄化するなど関係ない、ただ御利益求めているから膨大な有象無象の人間が集まる大衆化したものとなる

人間はまた若い時かここうして無駄なことに時間を使いすぎるのである、そして最後はすべて空の空なりで終わる、何で生きたかもわからなくなる
そうして繰り返されてきたのが人間だとなる、そうした業とか欲とか依然として消えないからそうなる、人間社会が変わらないのはそのためなのである
科学技術て進歩しても人間そのものは根本的には変わらないから業をカルマを繰り返すのである

2022年02月22日

これから社会的にも引きこもりの時代になるのか (家族環境の影響が大きすぎるーそして人生を後悔する)


これから社会的にも引きこもりの時代になるのか

(家族環境の影響が大きすぎるーそして人生を後悔する)


一橋大学を卒業後、40年ほど「引きこもり」…当事者が激白 “毒母”が生み出す「高齢引きこもり問題」
自分の主体が完全に剥奪された」と振り返る。母が推奨するエリートサラリーマン以外の人生を、自分で選択することができなかった

「僕が罪悪感を持つように、蔑むように言ってくる。僕は一度として受け止められたことも、肯定されたこともない。僕のすることすべてを母は否定した。常に母親から睨まれていて、僕には安心という経験がなかった。僕は間違ってはいけなかった

その後妻は連れ子に、優しい言葉一つかけたことがなかったという。継母から全てを否定されて育ったのが、杉本さんの母親だった
そしてそこが歪んでいるとは知らぬまま、もがき苦しんでいる「息子」たち。その数は一体、どれほどまでにのぼるのだろうか。

一橋大学を卒業後、40年ほど「引きこもり」…当事者が激白 “毒母”が生み出す「高齢引きこもり問題」





人間は家庭環境の影響が大きい、どういう家に生まれたかでその人の一生が決まってしまう、意外と他人の家のことがわからないのだ
だから自分の家が正常ではない、異常なのだということが認識できないのである
人間は自分個人のことでも家族でも団体組織でもその異常性を自覚できない
なぜならその中にいればそれが正常だとなるからだ
例えば日本でもみんな戦争しているとき戦争に反対することはもうできない
そうしたら警察がきて捕まえられる、ナチスでもあれだけ今になると異常でも社会自体が異常に染まると正常になるのである
それが家族にもあてはまる、そして家族でも他者の家族のことがわからないのである
何か家族とは一つの閉鎖された空間でありそこが生活の基本になるから客観的に見れないのである

客観的に家族を個人でも見るには対照的に見れるものがあると理解できる
赤だけ見ていたらそこは赤の世界しかないと見る、そこに黄色とか青とか茶色とかいろいろな色があれば対象的に見れる
そこで日本という国を理解するには外国で暮らしてみるとわかる
ここが違うと実感として理解できる、だから何か評論している人は外国で暮らし人なのである
人間は何か対象的に見るとわかりやすくなる、それは歴史でもそうである
昔はこうだった、こういうふうに暮らしていたとか人間関係でも違っているからそれを知ると現代が見えて来る、そこで歴史を勉強することが大事だとなる

要するにこの話しでも異常な親子関係でも家族関係でもそういう場にいたらそこから逃れられない、そして別な家族もあるということもわかりにくい
だから家族の異常性があっても理解できないのである
家族とはこんなものだと思って他にも別な親子でも家族でもあることがわからないのである
要するに家族とは閉鎖的空間であり他者が入りにくい空間でありそこで異常性が育まれるそういう自分自身がそうした家族で引きこもりなり60まで暮らしていたからわかる
でも自分の場合は何ら叱責されることもなかった
親は二人いたようなもので実際の母親は力がないから影響を受けなかったのであく
ただそれが特殊な家族でありこれから平均的な家族と親を考えることはできない
「あなたはあなたのやりたいこをやりなさい」と言われてそうなったのである
旅ばかりしていたとか自分の好きなことをしていたのである
これは特殊だから普遍化はできない、ただ家族にはそれぞれ違ったものであり他者の家族を理解できないのである
それは親子関係でもそうである、親子関係でもいろいろあるから理解できない
それそれ人間は他者を理解することが簡単にできないのである

親ガチャとか言われるが別にそれは普通にどこにでもある、親が子供のことを思う時
それが親の一方的なものとして子供に押し付ける、子供はそうして洗脳されやすいし
逆らうことができない、それで歪んでしまうとなる
そしてyoutubeで心理相談している人が外発的動機と内発的動機で仕事することを言っていた、外発的動機で仕事していると35以上辺りになるとつづかないと言っていた
つまりそれは外から押し付けられたものでありその人の中から自ずとでてきたものではない、外発的なものとして仕事をしているといづれは押し付けられたものだからつづかないとなりまたこれが自分なのだろうかと悩むとなる

ただ正直内発的動機だけでこの世をわたるとか仕事ができるのかとなるとできない
私はこんな仕事をしたいとか思っても誰も与えてくれないのである
私は芸術家に成りたいとか言っても誰も容認してくれないだろう
第一自分にあった仕事など与えられないのが普通なのである
そこで無理やり仕事についてもやめて引きこもりになるのである
だからこの世で仕事している大半は自発的動機でしている人はまれだろう
強制的にその仕事をさせられているというのが多いだろう
そこで引きこもりが増えたのである、それができたのは経済的に余裕ができたからであるもう貧乏な時代だったら何らか苦しくても仕事が合わなくても食べるために仕事をしなければならない、自分に合わなくてもしなければならないからだ

そうして引きこもりになるのは陰の性格が多いかもしれない、陰の性格の人はどうしても内面に向く、外面的にはぱっとしないから目立たない、でも社会だと陽の性格の人が好まれるし成功しやすいのである
ただ陰の性格に向いたものを求めてそれを追求すればそれなりのものになる
それが解かりやすい礼だと芸術家とか学問とか何か内面的な仕事である
ただこういうものは金にならないとか外発的動機が優先される社会だから内発的動機ではなかなか社会ではできない、もしかしたら昔だったらそういう陰の性格の人は寺に入り修行するのに向いていたともなる

私自身がひきこもりでありそうして内面を追求してきたからである
ただそれは社会に適合できないものとなり異常化する
だから自分自身も大きなものが欠けていて社会性がなく失敗したとなる
社会的常識とか社会性がないことも大きな問題だからである
ただ私の場合は異常な家族環境でもそれが自分の性格にあったことができる環境だったのである、だから芸術とか学問とか内面的なことを一人追求してきたのである
そこに人間はいない世界だった、自然が山とか木とか石とかとアイディンティティ化する同一化する世界を追求してきたのである
相手が人間ではなく自然だったとなる

とにかく子供は親の言うようにいい子になりたいと自然となる
でもそれがいいかとなるとならない、なぜなら人生は親のものではない、親と同じ人生を送るわけでもない、時代が変わると全く違った人生を生きることになるからだ
引きこもりというのも貧乏な時代にはありえないことだった
でも豊かになるとそういう人生も可能になったともみれる
つまり引きこもり人生でもありうる社会になったとなる
時代的にそういう人生すら容認されるともなる、だからなぜ今頃になってみんなアーティストになれというのもそうである
そんなことしていて食べていけるのかとなっていたし団塊の世代だとみんな企業戦士になって働いていた、その頃は高度成長時代でありそれに団塊の世代が適合したのである

でも時代が変わった、時代の雰囲気も相当に変わった、30年間日本がではと全く成長していないし賃金もあがっていない、貧困化している、そうなると時代の雰囲気も変わる
一方で引きこもりなど貧乏でできないとかともなる
また一方ではやはりそういう人達がいて何かその人なりのものもを追求できる時代にもなる
コロナウィルス以降は陽の時代から陰の時代の変化なのかもしれない
何かみんな巣籠り生活とか引きこもりにもなったからである
社会がグロ−バル化したことは世界と広く交わることだがその弊害も顕著になった
グロ−バル化はいいことばかりもたらさなかったのである
別に旅行などはしてもいいがあまりにもグロ−バル経済になったことの弊害が目立つようになっていたのである
聖書でもユダヤ人でも人種的にも広く交わらない民族で独自性を維持できたとしている
広く交わった時はかえって堕落した時代だったとしている
確かに日本でも江戸時代は広く交わらない社会であり鎖国だとなっていた

でもその江戸時代三百年で日本人の独自なものが培われたこともある
そのために明治になって和魂洋才となり日本のいい面とヨ−ロッパの文明が結合していい結果になったともみる、内村鑑三の武士道キリスト教とかもそうである
戦後はそういう日本人的なものがアメリカの戦争に負けて失われた
すると日本人はなんなのだろうとなる、日本人的なものがなくなり欧米的なものに支配される、すると欧米の悪い所にも染まって日本人の良さが喪失したのである
だからアメリカが金の支配する国であり何でも金だというとき日本でもそうなったのである,アメリカの悪い所にも染まった社会になった
極端な貧富の差のある社会でもそうである、つまりなんでもアメリカと似てくるのである当然アメリカに習ったのだからそうなるのである

いづれにしろこのコロナウィルスを契機として何か国自体が引きこもり的なものになってゆくかもしれない、グロ−バル化からまた江戸時代のような内にこもる閉鎖的なものとなりそこでまた日本独自の文化をはぐくむ時代となるかもしれない
すると外に開いた陽の時代から内にこもる陰の時代の変化になる
国風文化の再興ともなる、そうなる陰の性格の人にはいい時代になるかもしれない
内面的な追求とか中世時代に還るとかいわれたのもそうである
時代の雰囲気が変わるのである、何か時代の雰囲気というとき十年違っても変わっている子供の時代街中でも囲炉裏があり炭を使っていたとか洗濯を小川でしていたとかあった
それが電化されて電気製品を使い家事が楽になった、十年くらいでそうなったのである
その変化も大きかったのである

アメリカでも時代が影響していた

アメリカでもホイットマン1819年の文政生れである
1876年(明治9年)7月に札幌農学校教頭に赴任する

この時代は西部開拓の時代とかなり時代の雰囲気が今のアメリカとは全然違っていた
そういう時代は知識人とかは尊敬されていない、歌われたのは普通の平民であり現場で働く肉体労働者が多かった、だから体力が重んじられたともなる
それでロシアではやはり肉体が強くないと尊敬されないとしている
そこでプーチン大統領が肉体を見せびらかしている、肉体の強さを強調しているのかとみる、だからロシアは知識人は重んじられないというのも意外だったのである
常にこうして国々でも時代でも時代の雰囲気を作っている
だから一時代が過ぎるとその時代のことがわかりにくくなるのである
引きこもりというのもやはり時代が作った現象だったのである

ともかくなんであれ人間は親が悪い、社会が悪いとか時代が悪いといっても
必ず責任をとらされる、親のためにこうなったといってもあなたの責任でそうなったのですよと最後はなる、つまり何でも人間は責任をとらされるのである
それで子供が泣いて生まれてくるのはその責任のためだという人もいる
責任からなんでも逃れられないのである
その責任も自覚できないのである、結局いくら親が悪い、社会が悪い、時代が悪いとなっても最後は自分の責任にされるのである
いくら悪い環境でも育ってもそうである、そういう人は余程自分の境遇を自覚して生きないと悲惨な結果にもなる
結局人生最後はみんな後悔に終わる、あの時こうれば良かったとかあの時失敗したとかなる、それを最期に悔やんでもどうにもならないのである




2022年02月17日

待つ時間の消失 (待つ時間は期待する時間であるー間とか,無用の用とか東洋思想を見直す)


待つ時間の消失

(待つ時間は期待する時間であるー間とか,無用の用とか東洋思想を見直す)

現代かいろいろなものが消失した、それに気づかない人もいる、旅に過ごした人生で感じたことはそもそも旅も消失していたのである
旅とは行程のことであり目的に寄り早く着くことではないから旅があった
今は三時間で平泉に着くとしたら場所の俳句などできない、その時地の果てへ行くような感じであり死をも覚悟した旅だったからである
だからこそ「奥の細道」が生まれたのである
「五月雨の降り残してや光堂」というときこれは時間の感覚の俳句である
でもまた空間的距離も関係していた
なぜなら江戸からはるばる歩いて来て金色堂を見た、その金色堂がまだ残っていた
藤原氏の栄華の形見として残っていたという感懐があり生まれた句である

もし新幹線で三時間で着いたらこういう句は生まれないのである
人間は何でも空間軸と時間軸で構成されている、でも空間軸でもそれが交通の発達で狭くなると距離感がなくなると感じ方が違ってくる
だからそうして失ってしまったものがかなりある、ただ気づかないことがある
別に旅など車でも電車でもしているのではないかとなる
でも歩いて旅していた時代とは感じ方が違うし本来の旅は消失したのである
ということは何でも時代が進歩したとしても必ずそれによって失うものが必ずあるのが人間世界だということがわかる

医は仁術というとき医のモラルとか人間に対して人情とか愛とかで患者に接することだったその時代は病気は直せないものとして見ていたからかえって情を愛を注いでいたともなる逆に今は科学技術が発達したから病気は直せるものとして医者に行く
直せない医者は藪医者だとかされる、情とか愛など関係ないとなる
またて医者の方にしても医は算術だとなる、金もうけの手段としてある、だから人情がなくても
そして科学技術の最先端の機械設備を整えた病院がいいとなる
でも病院で死ぬことは情もない無機質な空間で死ぬことで嫌だとなる
最後死ぬときくらい愛情をもってみられて死にたいとなるからだ
その時はもう病気は治らないからである、老人でも治らない病気が多いからである

こうしてとにかく人間社会は何か進歩したとしても何かを失っているのである
人間とは何かを得れば何かを失うということがある、この辺で原発は歓迎されていた
金になるとかなり電気関係で働く人も多かったからだ
それで財を築いた人もいるからだ、でもそれが事故で反転した、故郷にも住めなくなったからだ、いいと思えるものが最悪ものにもなった、そして貴重なものを消失した
でもそれが貴重なものだと思っていなかった、故郷など別に住んでいるし貴重なものという意識がなかったのである
何か最も貴重なものの価値がわからない、当たり前にあるものの価値がわからないのが人間なのである
家族とか妻とかでもその価値が意外とわからない、でも死んでしまうとそのありがたみがわかる、今や全部家事でもして病気になっても誰も同情もしない、他人がこれほど冷酷だと思わなかったとなる、だから家族がいないことはこの世は一変して地獄に変わったのである
ただここでも失ってみて初めて家族の価値がわかったことになる

そういうことはあらゆることに言える、待つことでもそうである
待つことが何なのともなる、インタ−ネットの通販で感じた
本を注文すると三日四日くらい配達される、その期間が結構待ちどおしいとなることに気づいた
そこに待つ時間があるからである、すぐに例えばインタ−ネットの電子本で読んだりするとそめういうことはないのである
ただ題名しか読んでいないし中味を早く読みたいと待ち遠しいのである
その待つことでそれが配達されたときはうれしくむさぼるように読むということに気づいた、また電子本では手に入らないものが多いからそうなる

この待つ時間が電車にはある、駅で待つことは何か期待している、家族を迎えるために待つというときまた他でも友達を待つということでもそうである
何か待つ時間は期待する時間なのである、そこで駅は人間的な場所だったのである
そうした人間的なものが駅にはあった、それは待つ時間が必ず電車にはあるからだ
そういう時間があったということである、時間の感覚も時代によって違っていたのであるただ新幹線とかなるとあまり待つ時間がない、一時間置きとかではなく、待つ時間が短いと感じない、それよりも余りにも早く着きすぎるから時間の感覚が違ったから今までの駅とは違ったものになる
高速道路のSAとか道の駅には待つ時間がない、ただ立ち寄り去ってゆくだけである
道の駅で待っているということはない、そもそも車には何か待つ時間がない
いつでも家から出て目的により早く着くという乗り物だからである
そこで鉄道の駅とは相当に違ったものとなっていたのだ

人間は待つということは神を待望するというときも待つ時間なのである
神の国を待望する時間なのである、だから雄々しく待てとかなる
待つことに価値を見出していたのである、待つことも不生産なものではなく生産的な価値があった、ただ旅でもより早く目的地につけばいいとなると待つ時間もなくそれは精神的な損失だともなる、充実した旅とはならないからである
人間はこうしてより効率的なことを追求して社会を作ったてきたが必ずそこで失われたものがあった、それに気づいていなことがある

確かなことは待つ時間は期待する時間なのである、それが無駄なものではなく精神的にも豊かにする価値があった、それが消失したとき人間的なもの情的なものも失われたのである、何かすぐにけ手に入ればいいとなるがなかなか手に入らず得ることができないで待つ時間があってその手に入るものが貴重だとなりまたそれが手に入った時の喜びも大きいのである、それが本がすくに手に入らない三日四日かかることでも感じたのである
その待つ時間が実は貴重でありそれがかえって精神的豊かさを醸成していたのである
効率的になれば待つ時間は無駄だとなるのが現代である
それによって失うものがあることを感じないのである

だからともかく人間社会は進歩した効率化した合理化したとかでいいとするが必ず失うものがある、それに気づかない、だから人間とは必ずしも何でも効率化するとか合理化するとか機械化するとか何かいいように全部働かないのである
何かそこで人間的なものを失うことがある、何か不満だというときそういう人間的なものが喪失したとでまた不満になっているのだ

結局用ばかり追求するより無用の用が必要だとか老子の思想が東洋にはある
日本だと間の思想である、何か日本では日本語には間がつくのが多い
それは時間にも間が必要であり間合いが必要であり空間でも間が必要である
そこに人間的なものが生まれる、老子だと無用の用が必要だとなる
それが東洋的思想としてある、おそらく西洋的なものにはない、資本主義とかでもすべて効率的にする合理的にする、無駄をなくすということになる

東洋的思想として禅があるとしてそれは無の境地にいたるとか空を知るとかなるのだから仏教とかでも同じなのである、東洋文化として共通したものがある
それでインドでゼロを発見したとでもわかる、これは西洋文化からは生まれないものだったのである、ここに東洋と西洋の相違があり今見直されるべきなのは東洋的文明であり思想だともなる
キリスト教はもともとアジアから生まれたのである、宗教はアジアから東洋から生まれたそれが欧米化したのである、ギリシャ文明があり本来の宗教が変化したのである

キリスト教と西洋化したヨ−ロッパのものもでありそれは本来のアジアのものとは違っている
ただ現代の宗教は別に東洋的だとかアジアだとか関係ない、資本主義の論理のように適合した全く東洋とかアジアだとか高遠なものとは関係ない、御利益宗教であり要するに金にあればいいとしかないのである、東洋も西洋もないのである
ただ欲望の是認でありカルト宗教になっている、どの団体でも同じなのである
それが世界でも大都市が似たようなものになていることでもわかる
画一化して平均化した大衆社会になっているもの同じなのである

いづれにしろ資本主義とかその変容したマルクス主義とかは限界である、思想的には東洋に回帰する
思想としては東洋が元であり深いからである、それを再び見直す作業も必要になる
だから中国がマルクス主義になっているのはおかしいのである
ただ仏教とかでも結局は資本主義的になっている、欲望の全面的解放であり宗教的なもの皆無である
大衆の欲望を全面的に開放した異常なカルトなのである
そんなとこに思想もなにもない、ただ資本主義の欲望追求と変わりないのである

だから不思議に思うのは中国には仏教遺跡が多い、仏都も多い、そこで唐の時代に日本もその仏教最盛期の時学んだ
でもその仏教も過去のものとなり今の中国は日本でも仏教は関係ない社会なのである
中国こそもっとも資本主義に適合した国だとなっている、だからあれだけ急速に経済発展したのである
でもそれも行き詰まっている、資本主義とその同根の西欧文明から転換が必要なのである
キリスト教は西洋化したものであり本来の東洋にオリエントから発したものなのである
だからこそキリストが生まれたとき東洋の三博士が祝福したことでもわかる
東洋から生まれたから東洋の三博士と通じていたのである






2022年02月15日

未来に備えることができない人間 (意味と価値がないものに費やされる人間の膨大な労力)


未来に備えることができない人間

(意味と価値がないものに費やされる人間の膨大な労力)

●人間は未来を見れない

人間はなぜこれほど未来を見るのがむずかしいのか?
それはソロバンのことで失敗したことで語った
子供の時習ってソロバンできたとか自慢していたけど何の役にも立たなかった
その時間と労力は全く無駄になった、ソロバンでは何か考える力も身につかなかった
読み、書き、ソロバンの時代は考える力、思考脳を養うことではなかったからである
社会生活するうえでの単純なスキルを身につければよかったのである
だから高校まで自主的に考えたことがない、ただ視線の点数をあげることしか眼中になかった、何かを理解するのではない試験のための暗記の勉強だったのである
そして大学に入ったらそこは遊びの場だったからおかしなことだった
要するに大学とは自主的に考える自主的に課題があり学ぶ場だったのである
それを高校まで全くしていなかったらできない
するとどうなるのか?遊びであったりカルト教団にはまったりと何か変な方向に行ってしまうとなる

でも大学でぱ多少考えることはした、でも何か文系は理系と違って自ら課題があって勉強していた人はまれだとなる
つまり現代は読み書きソロバンのレベルではとても役にたたない、社会が情報社会とか高度化しているからだ、また規格品の大量生産でも平均的人間でも役にたたなくなる
そういうことはAIが機械がするようになるからだ
すると人間は何をするのか?それが問題になってくる
それは金になるとか収入の問題があったとしてもそれだけではない、例えば退職してからの人生も長い、人生百年としたらその設計をどうするのかとなる
金銭問題も重要だけどどうして生きがいのある張りのある生活ができるのかとなる
そういうことは個々人でも社会でも備えていないのである
まず退職したらボランティアとかすることはむずかしい、一見無料で働くのだから受け入れられると思うが全然違う、ボランティアは現役の人にとっては邪魔なものであり組織を乱すものとして受け入れられないのである
なぜなら仕事とは会社ならば組織でしていて仲間でしてボランティアなどはその組織に受け入れられないのである

●急激に起きる不可解なこと不測なこと

ともかく人間は未来に備えることはほとんど不可能に思える
誰も予期せぬことが起りこんなはずではなかったと老人になってふりかえるからだ
それは未来が見えないからである、それで何か株とかでもうけるとしたら未来を見なければならちないから簡単にできないのである
必ず不測のことが起きて予定が狂うからである、、だからもう未来に備えることが不可能だともなる
自分に起きたことも突然だったので対処できなかった
家族の一人が認知症になり急に暴れたとき対処しようがかった

何なったのかわからず狂気になったのか怖かった
ただそうした急激に起きることでも多少の知識があると役立つとものだとふりかえった
なぜなら認知症など何か全くかわらなかった
だからインタ−ネットで調べてお茶でも飲ませて落ち着かせろとか書いてあった
それでそれを実行したのである、それだけでも効果があった
それはもの忘れで異常な興奮状態になっていたからである
そして認知症については医者すらわかっていなかったのである
だから誰からも助言を受けることができなかった、それでインタ−ネットで対処方法を調べてそれが多少役にたったのである
今回のウィルス騒ぎでもそうである、何なのか未知だから対処しようがないのである

本当に未来を予測することが大事なのかというと命にかかわっているからである
津浪でも原発事故でもそうだった、そのことが見えていたら二万人死んだとか故郷に住めなくなったとかならなかったからである
海岸沿いに住んでいた人達がどれだけ危険だったのか?
その危険をイメージできたていたらとても住むことはできなかったのである
そんな恐ろしいんことが起きることをイメージしていたら予測していたら二万人の命が助かったとなる
また戦争でも三百万人も死ぬことになることをイメージしたらとても戦争などできない
まずそのことをイメージしたらとても戦争などしなかったとなる

だから未来を予測することか命にかかわるから預言者とは未来を予言する人だとなった
未来を予言していれば危険からまねがれるからである、命が助かるからである
ただどうして未来を見ることができるのか?
それができないのである、ただ津波が起きた、原発事故が起きた、戦争が起きたとかなり後から人間から考えるのである、それは個々人の場合でも同じである
人生をふりかえってあの時何々うしいればとか何をしなければ良かったとか反省する
しかし時間をもどに戻せないのである、これが恐ろしいことなのである
その時々で判断して実行したことで誤っていても元にもどせないのである

●やり直すことができない人間

例えば将棋だとコンピュターを相手にしていると待ったをして何回も前の状態に戻して勝負してゆくと必ず勝つのである、でも前に戻せないから人間は歴史でも人生でもどうにもならないのである、その時々の判断実行で未来が決まるとなる
人生でも歴史の勝負でも待ったがないのである
そして人生は実際は真剣勝負であり一回で決まるとまでなる、そんなに何回も勝負できない、たいがい30までに人生の勝負は決まってしまうとなる
例えば女性でも婚期が短いから30まで選ぶ男性でその人生が決められるとまでなる
でもなぜ離婚が多いか、それは一回結婚してみて失敗だったとなるからだ

でも結婚でも何回もできるわけではない、婚期だって短いのだから一回で決まってしまうともなる、要するにチャンスは一回とかしかないのである
人生は長いのだから何回もチャンスがあるとか失敗してもまたやり直せばいいとかいうけどそんな時間は人間にないのである
だから事業でも一回失敗したら立ち直るのは最高に難しくなる
もし人生が二百年とか元気に生きられるならいいが短いからそうはならないのである
人生百年にしても元気でいられるのは80くらいまでだとなるからやはり活躍できる時間が限られている

本当に60とか過ぎて70歳になって一番不思議なのはあの人とあったのは50年前だったなとなることである、それが昨日会ったようにも思えるからだ
あの時若い時あの人と逢ったなそれからもう半世紀も過ぎたのかと驚くのである
それだけ時間が過ぎるのは早かったとふりかえる
もう人間がこの世であうの一瞬だったとも思う、そして後はこの世にいないのである
すでにそうして同世代でも死んだ人が結構いるからだ
70とかなると同世代で一割以上死んだいるからだ
こういうことが若い時は実感できないである、でもどんな人でも老人になると否が応でもそれが実感させられるのである、こんなに人生が短いものかと驚くのである
光陰矢の如しでありさよならだけが人生だとなっているのだ
逢った人があっても二度と合わなくなるのである
それで私の家族が全部死んだから60年一緒にいた家族すら消えていないのである
逢うこともできなくなったのである

だから求道するならもう中学からでもしないと間に合わない、なぜなら若き時に神を知れというときそのチャンスが30までとしたらそうなる
たまたま私の場合は父親が中学で死んだからそのことが頭から離れず人間が死ぬということを一番問題にしていた、それで求道していた、でもカルト教団に入って失敗した
でもやめた、そこからまた迷ったりして師についたりした、でも師から学ぶことができなかった、でもその師を否定して偶像を否定して神に出会ったという不思議がある
ふりかえると何がなんだかわからないのに神を知ったとなる
なぜなら自分は聖書など読んだこともなかったからである
神と出会うというと聖霊を受けるというとき別に聖書を読まなくてもありうる
要するに人間は経験でしかわからないのである、あらゆることがそうである
経験しなければわからないのである、辛いことや苦しいとでも経験しなければわからないだからそうして経験したことから相手のことにも同情するとなる
何か障害児をもった親のこととかあらゆることで経験しないとわからないのである
その苦しみとかがわからないのである

いづれにしろ人生はふりかえれば一瞬だったともなる、出合いも一瞬で終わった
あなたと会いましたね、でも永遠にあなたとはもう会いませんねとなっていたのである
そんなことがありうるのかというけどこれは老人になればみんな否応なく知らして目られることなのである
あの人と逢ったことがあったな、それも一瞬であり永遠に逢わなくなった
それで人の出合いとは何だったのかとなる
人間とは何かこの葉が風に舞うようにただ翻弄されているだけにもなる
そのうちはまたたくまに時間がなくなり消失して茫然としている
後は死ぬだけだとなってしまうのである
最後はみんなだから夢のまた夢だったとなって終わるのである

●意味と価値がないものに使役される人間(人類)

そもそもこの世に生きることの意味とか価値がわからない、何か膨大な労力が徒労だともなる、働くことでもそうである、そんなに働くことが必要なのかという疑問がある
それはオリッピックでもそうである、0.1秒記録を破ったとか何の意味が価値があるのかスキーのジャンプで十センチ伸ばして世界記録だとか何の意味があるのか?
そんなことに膨大なエネルギー費やす意味があるのかとなる

何か人類にとって意味あることなのか?

世界平和のためだとか言うけどロシアがウクライナに攻め入ることが止められるのかとなるとできない、オリッピックでわかったことは一部利権団体の利益のためのものであったり政治的思惑があってしている、そのために世界平和に寄与することなどないのである

そして人間が働くということは別に意味と価値を求めていないのである
要するに

彼はタルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられた(この岩はゼウスが姿を変えたときのものと同じ大きさといわれる)。シーシュポスがあと少しで山頂に届くというところまで岩を押し上げると、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまい、この苦行が永遠に繰り返される

何か意味があるわけでもなく延々として無意味なことをさせられる
それは罰なのである、カルマなのである、この世で無価値なこと無意味なことが延々と労苦としてさせられる、労働でもそれが罰だというときそうである
人類は人間はいかにこうして無益なことをさせられるのか?
それはそれはサタンに使役されてそうさせられているとも感じる
近代の戦争では何千万人も死んだ、それが何が意味があるのか、それもわからないのである、何かサタンに仕掛けられてそうして膨大な無意味な死が生まれた
それはどっちが正しいかとかではない、どっちにしろ戦争を制止した方が良かったとなるからだ、戦争の結果として戦争をしたよりいいことはないのである
多少領土の拡張があってもその死者の数からみたら得したとも言えないのである

諸々の価値の根源は人間である、人間はおのれを維持するためにそれらの価値を諸事物に付与したのだ、−人間が元で、それが諸事物に、意義と人間的意義を創り与えたのだ
それゆえ彼自らを「人間」評価する者と呼ぶのである‐ニーチェーツアラストラ

オリッピックでも価値とか意義が認められない、また価値とか意義が認められないことがこの世にはありすぎるのだ、大きく見れば文明そのものでもそうである
そこに美とか真とか善の世界が生れれば別である
今の大都会にそういうものはない、真善美はないのである
そうして宗教でもカルト教団などはただ数を誇り票数を誇り権力化しているだけである
また何でも量で計りGDPとかすべてを量で計る、そこに質を見ないのである
だから全体として数が膨大でも量が膨大でも意味と価値はないとなる
ただサタンに無意味にシーシュポスのように使役されているだけだともみる
無益なこと無価値なことに膨大な労力が使役されるときシーシュポスき同じである
それはもう罰であり業(カルマ)でありただ虚しく使役されて意味も価値も作りたさないとなる
人間の未来とは何なのかというとき意味あること価値あることを目指して働いているのでもない、ただ虚しく使役されている、社畜だと自ら言うように奴隷だとなる
奴隷制度がくなっても人間は自ら奴隷になっているのである

2022年02月06日

自己責任とは何なのかー権力をもつ者が責任がある (最終責任は神にある-人間の責任の限界)


自己責任とは何なのかー権力をもつ者が責任がある

(最終責任は神にある-人間の責任の限界)

●侍の責任は切腹だから庶民は侍になりたくなかった

自己責任のことを良く言われるようになった、自己責任とは何かということが問われる
それはあなたの責任です、あなたが悪いのですとなる
それは民主主義社会になったときそうなったのである
民主主義では自由でありでもその自由には責任がともなう、だから何でも自由でも事故責任にされる、でもそもそも人間はあらゆることに責任などとれないのである
また他者にしても自己責任は問わない
何かこれは罪を問うのと似ている、罪を犯した女性に「罪なき者はうて」といったとき
誰もその場にいなくなった、みんな罪を犯していたからである
罪を問いうるものとはそれを問い裁ける権能を持つものだとなる

責任もそれと似ている、誰もあらゆることに責任を持てないからである
ただあらゆることに人間は責任が問われる存在である
また確実にあらゆることで責任が負わされて問われる
民主主義社会とは平等な権利があるというときみんな平等に責任も問われる
意外とその責任を自覚していなのである
江戸時代とか封建制とか君主制とかだと責任は庶民にはない、江戸時代だったら政治にかかわることもできないのだから責任は侍にある

だから庶民は切腹などしたくないから侍になりたくなかった

侍の責任は切腹してとれとなっていたからである
つまり侍が威張っていられるからいい、得だからいいとかにならない
それだけの責任をまかせられるからそうなる、その時庶民に責任はない、自己責任もあるにはあるにしても本質的にはないのである
だから確かに侍をうらやむことがあっても侍になりたくなかったのである

庶民はもともと責任はなかった、責任を持つものは何か必ず権限を持つものである
侍は行政組織であり権限をもっていた、逮捕したり刑罰を与えたりする
その責任は相当に重くなる、今でも裁判がむずかしいのは人間には人を裁ける権能がないからである、罪なき者は打てというときがそうである
裁判官でも普通の人でありその人が人を裁くときやはりできないとなるからだ
そこに常に複雑な事情がありそれを酌量すると人を簡単に罰せられなくなる
だから警察とかは一番権力があるのだから責任も一番重くなる
でもその権力故にかえってその権力を悪用するとなる
つまり権力を持つと必ず悪用するものがあり権力は絶対的に腐敗するとなる

●権力をもつ者は責任が大きい

ローマの官僚のピサロがキリストを十字架にする判断をしたとき「自分には責任がない」と言った、でもそういう権力を持つ場にあったから後で責任が問われたのである
つまり権力を持つ立場にあればそれだけで思い責任が課せられていたのである
なぜなら十字架にしないこともできる権力を持っていたからである

そして一旦権力を持つとその権力者を罰することは簡単にできなくなる
権力が大きくなるともう罰することはできなくなる、かえってその権力の悪を追求ずると罰せられる、原発事故が起きたのは「原子力村」という権力集団ができたためである
その権力は安全神話まで作ることができた絶対的なものとなる
政治家、官僚、御用学者、科学技術者、マスコミが一体となり安全神話を作った
そこには海上保安庁とか司法関係の官僚も天下りしていたのである
もうこれだけの権力で固められたら誰も批判はできなくなっていたのである
そこに権力の恐ろしさがある、
神話というとき日本神国神話の戦争もそういうことがあった
今度は宗教が権力を作るのである、天皇は現人神(あらひとかみ)だから負けないとなって三百万人も死んだのである、それで広島を訪ねた昭和天皇がその責任を問われたときしどろもどろになっていたのである、あなたは神なのになぜ負けたのかと問われたことにもなる、その時天皇もその空恐ろしい責任を問われたのである

そういうことは創価とか他のカルト教団にもある、政治と一体化して権力化しているからである、創価などは選挙が聖戦とも位置付けているから常勝だとして信仰の力で勝ったとかなりそれで成仏するとかまでなっている、それは日本神国戦争と似ているのである
だからこそ政教分離がヨ−ロッパで生まれたのである
何かカルト教団に入ってだまされたとして裁判沙汰になった人もいたようである
それも自己責任に成るのか?
政教分離をしていない創価などは確実に法律で禁止されることをしているのだからそれが社会で通用しているのだから自己責任にはならないとなる
いくら政教分離を言っても現実にそれは容認されて自民党が利用しているからである

こういうことはいろいろある、つねに人間社会では責任が問われる
だからこそ契約こまかく責任をとりませんとして契約させるのである
それだけあらゆることで責任が問題になるのが人間社会なのである

●自己責任も必ずあるが何でも責任を問えない

JA東びわこ(滋賀県彦根市)による2016年開催のイベント内企画「おにぎりの早食い競争」で、参加者の男性(当時28)が喉を詰まらせて死亡したのは、主催者側の注意義務違反に原因があるとして、両親が同JAを相手取り、約8300万円の損害賠償をもとめて裁判を起こした

こんなことまで責任をとらされる、これはこんなエベントに参加したこと自体自己責任だとも思う、早食い競争などそんな馬鹿らしいことに参加すること自体常識でそれがどんなことかわかる、それに参加したこと自体が自己責任だともなる
ただ自己責任となるとき本当にどこまで自己責任になるのか判断できないのである
あなたが貧乏なのは自己責任だというの簡単である
実際はその人自身の問題は必ずある、怠け者だと努力しないとかいい加減だとかいろいろある、でもすべてが自己責任とは言えない、そうしてこの世の中は不可解だからインドではカースト制が生まれた、前世の宿縁でそうなったとなる、カルマでそうなったとなる
それが必ずしも理不尽ではないのは人間はみんな明らかにカルマをもって積んで生まれてくるからである

いい親に生まれたのもカルマだとなり悪い親に生まれたのもカルマだとなることがあるからだ、それは確かに不公平なのだけど人間は完全に平等にはできないのである
だからこそ共産主義がいいようで失敗したのである、なぜなら人間は努力することがなくなった、いくら才能があっても働いても結局同じ収入にしかならないとして能力のある人でも馬鹿らしいから働かなくなったからである
どうしてもその家でもやはり何らか徳を積んだり努力する家であってそれを受け継ぐことで豊かになる、そういうことは必ずありみんな働く者でもしないものでも才能あるものもない者を平等にすることはできない、そうするとかえって不平等になるのである
代を積み重ねることとは時間軸で積み重ねる努力があり豊かになることである
だから人間は一代では豊かになれない、だから強制的に共産主義のようにすることは失敗したのである

いづれにしろこの自己責任とか責任問題は様々なことがありそれを問うことはむずかしいのである
ただ侍は権限をもっていたから責任があり庶民にはなかったとなる
今でも権限を権力も持つものは大きな責任がある、だからその責任は厳しいものとなる
ただ得するからと権力を持つことはできないのである
そうなると戦争で3百万人死んだとかなりその責任は誰にあったのかと今になり問われるからである、原発事故でもそうである、その甚大な被害の責任でも誰もとっていない
でも地元の人は故郷に住めなくなったという責任をとらされたのである
政治家とか官僚とか御用学者とか科学技術者とかマスコミでも責任は問われない
でもマスコミでも相当な責任があったのである
これまでは勝手に放送する報道する権利など庶民になかったからである
すると庶民はやはり責任があまりないとなっていた
知りえようかないし発言もできないとなれば責任がそもそもないからである

●責任は万能の神しかとりえない

ただ責任というとき本当はもう人間では責任がとりえようがない、人間は万能でもないし必ずミスがあり事故だってあるしさけられないのである
医療ミスだって必ずありそれもさけえようがない、それをいちいち問うしていたら誰も医者にならないだろう、手術に失敗したら切腹だと成ったら誰も医者にならなくなる
そういうことは他でもある、つまり人間は責任を負いきれない、それは人間が万能ではないからである

すべての責任を負えるのは万能の神しかいない!

実際はこうなっいる、神が人間を創造したというときその責任は実は神にある
創造責任がある、機械でも作った人に壊れたら責任があると同じである
第一神が人間でも作ったとしたらその製作責任がある
だから最後にキリストが十字架で「神よ、神よ、我を捨てたもうた」と神に訴えてその責任を神に訴えたとのである、それで神はその責任をキリストを蘇らさせることで果たしたとなる、つまり人間にはそもそもあるゆることで責任は負えない
なぜなたら万能ではないからである、だから必ず何らか事故になったり問題が生まれる
その責任を自己責任だとして神がその責任を人間に負いとしても無理である
人間にはそんな責任を負える能力などないからである

ただ自己責任であれ責任は人間にありそれを全部問わないということではない、問われるべきものがある、特に権力をもったものには厳しく問われるべきなのである
つまり権力を持つものと持たないものでは責任の度合いが違うからである
権力を持つ者の責任は重いのである、だから簡単に地位あるものとか権力を持ちたいとなるのは問題なのである、そういう重い責任を自覚せずになることは危険である
そうなるとその権力の悪しき利用で甚大な被害になる、戦争で何百万人死んだとかまた原発事故で故郷に住めなくなったとかなる
だから侍のように切腹して責任をとる覚悟ないと本当はできない
ただ得して楽して威張っていることとかを望んでそういう権力を持つことは危険になる

そして現代の一番の権力が金なのである、金を多くもっている人はやはりその金の大きさに比例して責任が生じている、それで江戸時代でも十両盗んだから死刑になっていた
つまり金を持つことも責任なのである、金がもてない貧乏な人は現代でぱ責任がないとなる、何であれ金を多く持った人は責任が生じる、それを浪費した遊興費とかにしたら責められる
そしてグロ−バル化社会になったとき金を一番もっている権力を一番持っている国が今ならアメリカが一番責任があるのだ、原爆でも落とす権力をもっていたし核も持っている
つまり核兵器を持つ国は人類に対して責任がある
軍事力は最大の権力だからである、それを悪用されると人類滅亡にもなるからだ
だからそれだけの責任が生じている、ただ強ければいいとはならないのである
強いから何でもしていいとはならない、そこには必ず責任が生じている
その責任はカルマとなってのしかかる、アメリカげ原発を落としたということでカルマとなっている、その責任が余りにも重かったのである

●宗教も権力化する、聖なるものの権威の悪用の危険

例え戦争に勝ったとしてもその責任はカルマは重く消えることがないのである
だから権力をもつことは責任でありその責任が必ず問われるのである
それから逃れることがてきないのである
だから侍のように切腹でも覚悟しないと権力は持てないとなる
結局でも権力の濫用が常にありそのために被害がある、だからいかに権力を抑えるかが人類の課題なのである、それは宗教でもそうなのである
宗教も結局宗教の濫用であり神の権威の濫用であり神が味方しているとか仏が味方しているとかなり相手を恐れさせて戦争もしている

確かに旧約聖書時代はそういうことがあった、でもよくよく聖書を読んてみると権力の否定なのである、軍隊を持つことでも民衆の数を数えることでも否定された
そしてみどり子に治めさせよというとき権力の否定だったのである
つまり神は弱い者の味方なのである、弱い者が強い者に勝つ物語なのである
出エジプトでもそうである、強大なエジプト軍に対して海を割る奇跡で逃れたとか
ダビデがゴリアテに勝ったとか弱いも者が強い者に勝つ物語である
権力とは強い者となるために持つ、でも権力は絶対的なものではない、権力とはこの世のものであり権力を永久に維持はできない、常に権力争いがあって権力は変わるのである
維持出来ないのである,アメリカの権力ももう維持できない、中国でも維持できない
内部分裂したりして維持できないのである

宗教が権力と一体となることは最悪なのである、それが証明されたのは日本の神国戦争でもあり宗教戦争でもそういうことがあった、神が味方するとして正当化される
でも人を殺すなというとき何であれ人を殺すことは宗教では否定される
でも宗教ではかえって人を殺すことでも宗教によって正当化されてきたこともある
宗教が戦争を肯定することはありえない、ただ自衛とかなにかそういうことではありえるがそもそも人を殺すことは罪だから戦争は大量殺戮だから否定される
戦争というときそれも強い者が権力あるものが権力で優位にたつものが勝つとなる
でもそもそも強い者が権力だけで軍事力だけで人を治めることは国を治めることはできないのである

ともかく自己責任というときとても人間は責任を負いきれるものではない
それが必要でもあまりに責任を言うと何もできなくなく、だから最近で子供に話しかけることもできない、常にどこかでマスコミで児童への性犯罪とか言われる
すると必ず責任問題になりもう何もできなくなる、子供と接することもできなくなっている、それは常に責任を問うからそうなる
でも全員がそういう人ではない、でも一人でもそういう人がいたとして今は情報社会でそうなるのである
民主主義とは誰ても逆に責任を追及てきる、侍が責任をとったというとき民衆から批判されるからではない、君主に殿に責任をとらされたのであり民衆が責めるからではない
現代は大衆でも民衆でも絶えず責任を問う、事件があれば報道されて責任を問うのである他者の責任を問うことは楽しみでもある、自分自身に被害はないからである
でも「罪なき者は打て」となりそんなに自分自身をふりかえって責任を問えるものかともなる、その責任を問うことでブーメランのように自分の責任も問われるのである

●報道でも出版でも権力に左右される

出版とか報道するにしても権力がないとできない、今まではそうである
勝手出版したり本屋に置けないのである、図書館にも置けない、自分の本は創価を批判したのか個人というだけで地元の図書館に置けなかった、それを管理していた役人はそれだけの権力をもっていたのである
つまり報道とか出版とかでもトランプ大統領すらツイッターとかで発言されなくなったことでもわかる、メデアは中立ではない媒介するだけのものではない
権力機構として機能しているのである
だから権力をもつものは常に監視しなければならない、でも権力者は必ずその力を行使してくる、つまり何かを禁止する力をもっているのである

だからこそ権力を行使できる人は監視する必要がある三権分立になったのである
権力の横暴を止めるものとしてそうなったのである
民主主義の基本がそこにあったからだともなる
共産主義政権にはそれがなく一党独裁となり反対するものは権力で抹殺されて殺されたとなるからだ
権力は大きくなれば監視することも抑制することもできなくなる
そして遂にナチスともなりカルト教団でも席巻されて甚大な被害になる、戦争で何百万人死んだり反対者が千万人殺されたとかも言われる、共産主義だと粛清される
権力とはそういうふうにその使用を誤るともう甚大な被害になる
だから政治の理想は無権力だとなる、それは結局この世では実現しない
来世の神の国で実現するのである、この世は結局そうて権力争いで自滅するのである
それが人間のカルマであり宿命なのである

2022年01月31日

人間は何でも必ず責任をとらされる (無責任に何でも決めることはてきないー多数決がすべてではいな)


人間は何でも必ず責任をとらされる

(無責任に何でも決めることはてきないー多数決がすべてではいな)

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責任という時、例えば何かを決める時、十人がいたとする、そこに黒い丸が十個あったが中に一個の赤い丸があったとする
そこで十人が全員全部黒であり赤はないと判断する

その前にその判断に対して責任をとれますか?

本当に赤はなかったのだと言い切れますか

もし間違っていたら責任をとってくださいよ

間違っていたら一人十万とりますよ

こう言われたとき十人が赤がないとしても判断するのは慎重になる
全員が赤はないとしてもあとで責任をとらされるから慎重になる

ても原発事故では原子力村が「安全神話」を作ったが事故になった
その時誰も責任をとらなかったのである

「原発は絶対安全です」
「それを責任持って言えますか、もし事故になったら責任をとりますか」
「・・・・・・・」

結局誰も責任とらなかった、でも地元の人たちは責任をとらされたのである
故郷に住めなくなったのである

「でも地元の人達も金をもらって容認したのだから責任がないとは言えない」

「あなた達には金をやりました、だから事故になっても責任を追及しないで下さいよ」

人間は最初から責任を感じていれば判断でも慎重になる
大衆民主主義になるとみんな投票するにしても責任感じない
でもいくら大衆でも必ず責任はとらされる
おそらく地元でも責任を感じていなかった、ただ金をもらえばいい金になればいいしかなかったのである
また東電でも政府でも原発を作っても事故になったら責任とらされるということもなかった
もし事故が起きたら切腹させられるとかなったらもう慎重になり作れない、作ったとしても常に戦々恐々として安全を計ったいたとなる、でもそういう責任も自覚しないから安易になっていたのである

そして10人が全部赤はない、赤が危険信号だとしてもないとされる
それに反対する者は追放だとかなってしまった
民主主義は多数決だけど多数がすべて正しいとはならない、でも多数に押し切られる
危険も無視される、赤信号みんなでわたれば怖くないとなっていたのである
実はそれが一番怖いことだったのである
民主主義の危険がそこにあったのである
赤信号みんなで渡れば怖くないということは責任もないとなっていたのである
でもそこで事故が起きたら責任をとらされるのである
多数決がすべて正しい訳ではない、なぜなら一人一人が無責任になる
一人など投票でもなんら影響しないとかなる

つまり責任を感じないことが自覚できないことが問題なのである

でも原発事故でわかったことは必ず責任がないということはない、責任はとらされる、
とらされたとなる
それが原発の距離に比例してとらされたとなる、原発に近ければ近いほど危険だったからその責任は重いものとなり住民は住めなくなったということである
確かにその分補償金をもらったとしてもやはり責任は距離に比例してとらされたのであるただ飯館村は距離的に遠いし関係ないともみていたから責任があったとは言えない

とにかく人間にはあらゆることに責任がつきまとっている、何か高校生の一人が警察官に警棒でなぐられて左目が失明したとかなった
そこでSNSで騒ぎになり暴徒となって警察署を襲ったのである
300人くらいで襲った、それも理由あるとしてもその暴徒化した人達は写真をとられているから後で警察に呼ばれて責任がとられるとしている
つまり行動には必ず責任がとらされる

そして若い時は無茶な行動に走る、でもそうしたことを後で後悔してもその罪を償わされる、責任がとらされるのである、そういう無謀なことでもそのままに解消しない
責任をいつかとらされるのである、それがカルマにもなる
人間の行為には必ずカルマが責任がつきまとっていて逃れられないということである

子供が泣いて生まれるのはこの世に生まれることがカルマ(責任)を背負わされることでありそれでそれが課せられているから
泣いて生まれというのもわかる
人間はどんなことしても責任(カルマ)から逃れられないからである

2022年01月07日

青年に告ぐー自分を小さく見積もるな―大望を抱け (できることでもできないと思う先入観)


青年に告ぐー自分を小さく見積もるな―大望を抱け

(できることでもできないと思う先入観)

人間はどうしても先入観がありそれで左右されてしまう
私は最初から自転車旅行はできないと思っていた、あれは特別な体力がある若い人がやるものだと見ていたのである、これを20代に体力あるときにそう思っていたのである
そういう先入観があってそうなっていた、実際は自転車旅行は登山より楽だということがしてみてわかったのである
なぜなら疲れたら休めるし食事でも飲み物でもとれるからである
それで北海道旅行でも一か月したとしても一日休んでまた行ったのである
だから体力なくてもできなるとわかったのである
それは40代だったし別に50代でも行けるし60代だってできる
登山は体力ないとできないし危険になる、疲れ方が異常なのである
そして飲み物でもとれないし食事することも山小屋とかでしかできないとかなる
その山小屋すらなこともあるからだ、だから遭難ということがありそのため登山をやめたのである

それから海外旅行で失敗したのはこれもできないと思っていたのである
言葉も通じないしそんなところでどうして海外旅行できるのかと思っていた
それも一人旅ができるのかと思っていた
それも田舎にいて何かそういう情報にうとくなっていた
なぜなら円が80円のときがありその時はみんな海外旅行に金がなくても行っていた
中国に三回行ったけど物価が十分の一くらいの時があったのだ
だから今になると信じられない、都市部ではもう日本と変わりないとか高くさえなっているのである
海外旅行は本当に言葉が通じなくてもできる、なぜなら世界中が観光化しているからである、英語は中学英語くらいわかればいいともなる、もちろんそれ以上できれば楽である
ところが英語など全く通じない場所が世界でも多いのである
それでも海外旅行ができる、全然言葉が通じなくてもできる、若い人は感が働くから若い時は有利である、適応性があるからだ、私は50歳なって行ったからひどい目にあったのだ、でもその時初めて英語で外国人と話した経験をしたのである


人間はこうして先入観がありできないと思いこむ人が多いのである
それはおそらくあらゆることにそうなのかもしれない、私にはできない、他人はできるが私はできないと思い込んでしまっているのだ
それは環境とか時代も影響している、家族でも海外経験ある人がいればその人から直接聞けるからだ、そうでないと狭い田舎とかではできないと思いこんでしまうのである
だから家族環境とかがその人の一生に相当に左右するとなる
どんな家族に生まれるかで普通の人は一生が決まるとまでなる
どうしても人間的刺激は都会だと受けやすい、田舎では受けにくいのである
東京だといろいろな働く場所があるのも違っている、田舎だと知的な仕事など限られている、だから建築関係とかが多い、それで仕事がないから双葉とか大熊とかでは出稼ぎであり地元で働きたいと原発を誘致したのが失敗になったのである


そして家族でも実際は様々な家族がいる、その家族のことも異常な家族でも異常だと気づかないのである、自分の家族は普通の家族ではない、でも異常だと気づかないのである
家族とはそんなものだと思うのである、家族だけではない日本人として育てば日本人的な思考とかになる、だから日本を語れる人は外国生活を経験した人なのである
それは比較して日本が見えるようになるからである
日本を知るには相対的に見ないとわからないのである、日本で当たり前のことが外国では違ってくるしその逆でもそうである、だから留学経験は相当に価値あるものとなる
ただ語学を学ぶというだけではない外国を知り日本を知ることで価値がある
旅したくらいでぱわからないからである
本でもテレビなどを見ても実際はわからないのである、百聞は一見にしかずになるからだ
そして人間というのは自分を低くみつもる、俺はたいしたことがない人間だ、才能もないとか思いこんでいるのである、もちろん自分自身がそうだった


何にもいい所がなかったからだ、だからこの人は何にもならないと見られて当然だったのである、学校ではこの人は何にもできないと見られていたしそれも本当だったのである
体力もないし内向的だしぱっとしないそれより馬鹿のようにしか見えなかったのである
現実そういう所があった、私はどうしても集団生活になじめないのである
ただ別に天才のように優秀だからではない社交性とかなかったからだった
それが家族のもとを脱出して大学に行ってから変えることができた
一時体育会とか入りそんな大学の体育会でやれると思わなかった、それも体育会がどんな所か知らないので入ったのである、そもそも大学とはどんな所かも知らなかったのであるその頃大学というものを何か理解できなかったのである
もし体育会がどんな所か知っていれば入らなかったとなる
つまり知らないからそんな危険な場所に入ったのである、私はなんとか虚弱体質だから
強くなりたくて入ったのである

つまり人間とはこうして常に先入観を持っている、そんなことできないよとかなっているのだ、そういう人も多いのである、ところが人間の可能性は実はその本人もわからない
未知なのである、また生まれつきでも決まらない、天才は別にしても普通の人はそうなのである
例えば自分を見た師はこの人は何にもなれないと見ていたのである
それも当然だとなる、何か優れたものもなかったからである、多少文学的才能があったとしてもそれもあまりにも目立たないものだったからである
そして師とかは必要でもその危険はそうして自分の様な者は確かに低く見積もられても当然であった
でも将来はまだ30年とかあるとすればそのうちに人間が変わってゆく
どうなってゆくかわからないのである、何か不思議なのは60越えて70になってからとか理解力が深くなったのも不思議である、やはり死が目前に迫ると人間は目覚めるとかなる

そして師は必ず弟子を低く見積もる

これが師の問題なのである、お前はそんなものだよとかなる、とても大物にはなれないとかなる、確かに若い時見てればそうしか見えないのである
一般的に師は弟子を低く見る、そして弟子を奴隷のようにすることもある
ただ師を讃美するだけの弟子にしたいのである
だから俳句とか短歌の結社とか師でも多くいるがそんなものに従っていたら大物にはなれない、そんなところで師とかしているのは自分が偉いと見させたいためである
それらはみんな小物でありそんなものに従っていたらその人独自のものは発揮できない
そういう所はデレタンとが多いのである

例えばお前はネズミだからお前はネズミとして生きるほかないとかなる
でも人間は何ものかわからないのだ、将来はライオンとなりまた龍ともなるかもしれないただ師は必ず弟子でも低く見積もる、なぜなら自分より大きく偉くなるとかしたくないからである、だから小物でも師として威張っていたいのである
最も恐ろしいのは師が偶像化して師のロボットにされることである
カルト教団の教祖とかは最も危険である、一切のその人の個性は無視され教祖のロボットとされるからである、その人自身を生きることがなくなるのである
その人生は師のコピーとしてロボットとして生きることしかなかったとなる

そもそも人間は自分を自ら低く見積もっているのだ、俺はこんなものだとか見ている
でも人間の可能性はわからない、自分自身にとっても未知なのである
そして人生でもどう展開してゆくかもわからないのである
そうして思わず時代の英雄とかになった人がいる、それは時代がそうさせたのである
明治維新とかではそうである、だから三島由紀夫とかでもいくら英雄になろうとしてもなれない、英雄でも時代が作るからである、平和な時代にはなれないのである

ともかく俺はこんなものだよ自分と低く見積もるなとなる、さらに人生百年時代になるともう60才でも序の口だともなってしまうからである
今youtubeでも70代の人が語っている、若い人になるとどうしても人生を語りにくいが70代とかなる語れるとなるからだ
それだけ人生が長くなるとやはり人間は成長してゆく、とにかく理解力が深まるのである理解できないことが理解できるようになる、私は何か本を家を傾くほど買って読んでいたが理解するものはわずかだった、でも今になると自分なりに理解できるのである
だから評論に向いていると思うようになったのである

人間は成長しつづけるものである、そして世界は未知に満ちている、わからないことがいくらでもある、だから探求は死ぬまでつづくとなる
神はあなたを大きくしようとしている、そのためには自分は低く見積もらないことであるまた若い時から結果を出そうとしてあせらないことである
無駄飯を喰らってでも生きているとかの図々しさも必要になる
意外と引きこもりは社会から離脱して大自然と融合してゆくから何か大きなものと一体化する、でも社会だと現代文明はどんな仕事であれ部品になるから小さくされるのである
大鵬のようになったりしないのである、ただ正直そこにも大きな問題があった
自分自身は別に天才でもなんでもない、普通の人間でありむしろ普通の人間より劣っていた、才能があったとしてもそれはわずかなものだった

私は何か優秀だから天才だから引きこもりとかになったのではない、ただ社会に適合できない性格でありまた何か体もそうだったのである、集団の中にいると異常に緊張していられないからである
ただそこで社会常識すらなくなっていたのである、これも大きな問題だった
社会に生きる限り社会常識は必要なのである、それがないとニーチェとか狂気になって終わる、それはそれで認められるが引きこもりとアウトサイダーは何か社会から逸脱しまたそうなりやすいのである
俺は社畜だとかただこきつかわれるだけだとかしている人間も問題だがアウトサイダーも何かおかしな方向に行ってしまうのである、それで「小人閑居して不善成す」となる
それを自分自身が経験しているからである
閑居できる人間は実際は相当な社会常識もあってまたそれを逸脱できる人間でもあるとなるからまれなのである
つまり普通の人はできないのである、だから引きこもりとはそうして必ず不善な成すから危険にもなる、そういう人が60万人もいるということはやはり問題なのである
そんな優秀な人などもともといないからである、だから不善を成すとなり危険になる

汝は大望を抱け、まだ見ざる驚異の世界のあり
この世は未だ未知に満ちている
万年雪のヒマラヤの高峰を仰ぎ、グランドキャニオンを見
モンゴルの平原を望み中華大陸からシルクロードへ
汝は大鵬となりかなたへ飛ぶ
そを大いなるものを知られざるかな
雌伏百年汝は巨大化して大木となる
汝は百年黙想して大自然と同化せよ
一切の雑音を拒否して岩ともなりて
その場を動かざれ
汝は汝を低く見積もるな
汝は汝は知らじネズミとして自分を見る
他者も汝をネズミとしてしか見ない
ネズミとして同類と見るのだ
しかし汝は龍ともならん
大いなる自然に変化する
汝は思わざる所に行き神の業を見る
この世はすべてではない
汝は新しき天と地を見る
神の国は汝に与えられる
永遠の命が与えられて神の国に住む
そこにこそ真の実りがある
偽らざる実りがあり神とともに歓喜に生きる
そこには絶え間ない喜びがあり神の祝福がある
大調和の音楽が地の果てまで宇宙の果てまで
統一されてひびきわたる
一なる神が指揮をとり乱れることはない
さらなる全能なる神の業が成り統べる

詩を作ることは自然と一体化するアイディンティティ化することである
すると石や木や山でも沈黙している、すると同じように沈黙しないとアイディンティティ化できないのである、それを自分は一人で田舎でしてきた
私は引きこもりでも家族に責められたことがないのである、旅するにしてもどこにでも行ってみなさい、外国でも行ってみなさいと奨励されていたのである
だから家族の影響は大きいのである、自分を作ったのは姉と母だったとなるのである
ここで争っていたにしてもそうだった、そうして沈黙の行者のようになり大自然と同化することをしてきたのである、そして詩を作っていたのである

ともかく今が一番人生で充実している、ただ介護十年間は本当に心身ともに消耗した
それがだんだん回復して今が一番充実している
もともと自分は長生きできないと思っていた、体力的に思っていた
でも私の母は華奢であり重いものも持てないような細身の体だった
自分も似ているのである、でも百才まで生きたのである
だから意外と体力があるとないとか関係なく長生きする人はする
そして人生とはマラソンなのである、最初トップを走ってもつづかない、ところが徐々に後ろから上に上がってくる人がいるのだ、後半の10キロそして最後の5キロが勝負なのである、だから今私はゴール前の死の前の5キロに来ている
つまり勝利のテープ切ることが見えて来たともなるのだ
最後の力をふりしぼって栄冠を得る時に来ている
何でも今になって深く理解できるし気力も充実しているのである




2022年01月05日

人間の一生の評価(個人は残るが集団組織は消える) (人間の一生が無益だったなることに耐えられない)


人間の一生の評価(個人は残るが集団組織は消える)

(人間の一生が無益だったとなることのショック)

●集団組織の価値は消える

人間の一生の評価が老人に対して起る、この人は一体何をしてきたのか、何を生きてきたのか、この人の一生の価値はなんだったのかと自らも問うし他者も問う
私の姉は認知症になり最後に千回も従軍看護婦としてマレーシアのジョホールバルで地獄を生きたことを語りつづけて死んだ
死ぬ間際までそのことを語っていた、それが余りにも過酷であり青春時代だったから老人になっても忘れることがてきなかった
そしてそのことを最も伝えたいことであり語ったのである

このことは日本の戦争で死んだ犠牲になった3百万人の一人のことである
要するに人生を一人一人でみても自分の生きたことはしてきたことは価値があり無駄でなかったとしたいのである
たからこそ靖国に祀られて国のために死んだ英霊としているのだ
この人達は戦犯だったとか言えないのである
それは一人の人間の一生でもお前の人生は何の価値もない益もないものだったと言えないと同じなのである
例え社会では評価しなくても家族で評価される人がいるしその価値は多様である

ただ個人としての価値と集団組織としての価値がある
現代は集団組織に属す人が大半だからその価値は会社とか組織集団の価値にある
だから会社を退職するとその人の価値はなくなる、大企業に勤めていたとしても価値はなくなる
かえって何か趣味を追求していて写真でも絵でも俳句でもなんでもいい、それが優れていると評価されたりする、会社で重役していたとしても退職すると価値がなくなる
その価値は会社に勤めていたときの価値だったからである

だから戦争を評価するのがむずかしいのがそれは日本国家に尽くしたという価値であり
集団組織の価値なのである、その価値をどう評価するのが本当にむずかしくなる
つまりそれを全く無駄だった、そんな戦争するべきではなかったという人の方が多いからである、すると戦争で死んだ人達もただ無益に死んだとまでなってしまう

●集団組織のために一生尽くしても無益となるショック

でも何か現代でも組織集団に属しているのが普通である、会社人間ではあり組織集団人間なのである
会社の組織の集団の価値がその人間の価値にある
たとえば創価のことを批判してきたが共産党でも組織集団に一生を捧げた人はいくらでもいるのだ、カルト教団でも間違っていてもそれに人生そのものを捧げた人はいる
そしたらそんな一生は何の価値もない社会にとって害になるだけだったとされたらどうなるのか?現実はそうでもそこに所属して一生を費やした人は認めないだろう
例えばオウムには優秀な理系の若者がいたけど死刑になった、その集団は犯罪集団にすぎなかったのである、するとその価値は無益化された、それより犯罪集団として処刑されたのである、悪の集団だったとなる
そういうことはナチスとかでも起きた、それは犯罪集団だったとされたのである
これと日本は違っていても日本では戦争で死んでも無益だったとか何の価値もない
犯罪集団だとか言えないのである

だから組織集団に一生を捧げた人も同じである、いくら社会的に批判されても価値あるものとして働いたと主張する、それは組織集団内でそうなる
でもその組織集団が消失したらその価値を伝えるものがなくなる
創価でも共産党でも他のカルト団体でもやがてその組織集団が消えたら価値も喪失する
でも社会というのは継続されてゆくのである
そして歴史的に評価される、その時そうした組織集団はなくなっていたり客観的にく評価される、そういう集団が現実に権力をもっているときは簡単にできないが権力を失うと客観的に公正にみるようになる、つまり歴史的評価とは長い時間の中でその価値が判定されるかことである、だからその長い時間の中で評価されるものは確かな価値があったとなるでも実際は組織集団でも一時的であり消えるものは価値ないとされる

その時その価値は虚しくされる、何の価値もない、ただ実際は社会に何の価値ももたらさなかった犯罪集団だったともされるのである
でも現実今内部にいる人達に対してお前らの価値はない、無益だなどと言えないのであるそういうことを気付いてもあくまでも価値があるものとして主張しつづけて死ぬことになる、無駄死になどと戦死者に言えないのと同じである

でも組織集団とはいづれ消えてゆくのではないか、もしかしたら国家とか民族すら消えてしまうのではないか?
ユダヤ人は国家を失い離散した、でもユダヤ人は国が無くても残りイスラエルを再び建国した、でもイスラエルの価値はイエスキリストを神の子を出したことでありユダヤ人集団より世界に広まったのはキリストの信仰だったのである
集団組織の価値は長い時間の中で消失してゆく、でもイエスキリストの価値は永遠に残る
また組織集団の価値は時がだてば消失する、何か墓に上等兵とか記された墓がそちこちにまだあるけど誰かその価値を認めて偉い人だったとか今思うだろうか?
でも戦争の時はみんな偉い国に尽くした人だとしていたのである
墓に軍隊の位を示すことはそれを社会で認めていたからである
でも今になるとそうした位を墓に記していてもこの人は偉い、国に尽くした人だとか見ている人がいるだろか?何か虚しいとなる
ただその位だけが大きく墓に記されているのである、その位の意味が今あるのかとなる
これが組織集団に生きた価値が消失していると見えるのである

●この世に生きる限り権力に左右される

権力というのはあくまでもその時代で権力をもっていたから評価される、無視できない
それを認めないことは生きてもいけなくなる、弾圧もされる、戦争の時逆らったために権力にみって殺された人もいるし預言者はたいがい殺されたことでもわかる
だからこの世の権力を否定することは生きることもできなくなる
なぜなら組織集団が数が多ければそれは経済的にも十人が買えば売る方では無視できない本でも出版するにしても本屋では売れない本は起きたくないし置かない
もし大勢の人が買ってくれるなら置くのである
それで仙台の書店で入り口に幸福の科学の本が山ほど並べられていたことでもわかる
それは会員が買うから書店でも置くのである

出版とかでもマスコミでも必ず権力が働く、だから大きな権力を持っている組織集団は圧力をかける、創価が藤原弘達の「創価学会を切る」を置かせなかったのもそうである
創価はそれだけの権力をもっているからだ、創価に逆らう者は排斥される
原発でも原子力村が権力化して安全神話を作った、それに逆らうことはできなかった
出版でも確かに危険を言うものはいた、でも書店の片隅に目立たないように置かれていたのである、だから原発が危険だという報道はほとんど地元の報道機関でもしていない

それが大きな事故となったのである、またナチスが席巻したのも危険な権力集団を放置していたら無関心だったからそれが巨大化したとき全国民がその組織集団に席巻されたのである、つまり警告もしない、すると危険なものが巨大化して社会を支配するようになっていたのである
つまりこうして実は組織集団は権力化して危険なのである
それは経済だと独占法違反だともなる、ある会社が商売で独占してしまうことは社会にとって危険だからその法律ができた、それがGAFAだったのである
トランプ大統領まで発言させないようにしたからである

●権力組織集団の価値は消失する

おそらく組織集団とかの価値は消える、でも個人の価値は消えないのである
でも個人はこの世でば認められないのである、なぜならこの世で認めるのは権力だけだからである、権力ある者しか相手にしない、権力とはいろいろある、今の時代は数が権力なのである、数を集めれば票を集めれば権力となりそれを社会では認める
何百万人も会員が信者がいるのかとなり恐れもする
そしてこの世で個人は認められない、発言すらできない、何か一見個人が発言しているように見える、でも個人は発言できない、この世に認められて発言しているようでもそれは必ず背後に集団があって組織があってその集団組織が後押して発言できるのである
純粋の個人は発言できない、社会では認めない、地元の図書館でも個人というだけで自分の本は置けなかったからである

つまりこの世から個人は抹殺されるのである、でも十人でも数を集めて信者でもあれば
認める、十人集まっても権力になるからだ、一人だったら何の権力もないのである
だから公的機関でも完全に無視して認めないのである
この世で存在させられなくされる
でも不思議なのは歴史に残るのは個人である、組織集団は消えるのである
民族すら消える、国家すら消失する、もちろん会社組織でも消える、現実に日本の大企業でもなくなっているからだ、組織集団は一時的なもので消えてゆくのである
もちろん大衆とか群衆などはもう何もなくなる残さない、砂のように影のように消えてゆくだけである

日蓮であれ親鸞であれキリストであれ開祖は個人は残るがその組織化した団体は残らないのである、要するに何の価値も残さないのである
ただそれは権力集団だったのでありその権力とは時代によって変わる、そこに価値を認める人はいなくなる、日本の軍隊でも戦争の時は最高に価値あるものであり軍人は一番偉い者だったのである、今になるとそれは全部無価値とはならないにしてもそんな価値あるものと見ないのである

いづれにしろ人間一生の価値が最後に問われる、あなたは何をしてきたのか、何を求めてきたのか、何を残したのか・・・とかいろいろ問われる
そしてあなたの一生は何の益もなかったとされるほどショックはないのである
でもそういうことが最後に起きて来る
その価値が無価値にされる、結局空の空だったとなる
いくら価値ある主張しても結局誰も認めない、それは権力ある時だけのことである
ただそして最後は茫然として死んでゆくだけだとなる
様々な世界の帝国も結局滅び栄枯盛衰の跡なのである
永遠に栄える国はない、それは神の国にしかありえないのである

●文明は墓場となって終るーしかし不死鳥のように蘇る個人のロゴスの声

とにかくその一生は徒労だったとなる、その努力も徒労だったとなる
文明そのものでもそれが墓場になるというときもそうである
残ったのは墓だけだったとなる、エジプト文明で残されたのも実際は墓だけだったとなるからだ、文明自体が墓場と化してしまったということである
つまり人間の真実の価値はこの世で認められないし実ることもないのである
それは神の国でしか実らないのである、そうしていくらでも価値あるものが消失させられたからである戦争でも病気でも貧乏でも才能は開かず終わった者も多いのである
この世とは常に権力闘争の場所でありそのために人々がある
会社でも何か会社の派閥闘争に敗れて海外旅行している人がいた
会社とか小さな世界でも常に人間の権力争いはある、集団組織でも一枚岩ではなく常に派閥争い権力闘争がある、それは人類が始まって以来ある
それが人間の業(カルマ)なのである、だから最終的にそのカルマによって人間は滅亡すると聖書では予言されているのである、欲によって滅びるとされるのである

その逆説として権力をもたないもの権力自体が否定された
みどり子に治めさせよとか老子の治めずして治めるとかである
つまり欲のないみどり子や自然のままに治める、上に立って支配する人もいない世界である、それこそ理想社会たとしている、結局それは神の国でしか実現しないのである
この世には限界があるのだ、新しい天と地を望むことでありこの世はいくら科学技術が発達しても政治でも治められない、必ず災いが生まれ権力闘争が生れ争いがやまないので
上に立たないで下僕になりなさいというのが実行できない、俺はお前より上だとして争うのである、国同士の覇権争いもやまないのである、米中戦争になるというのもアメリカに従いアメリカが世界を支配するとなり争いがやまないのである
そして最終戦争ハルマゲドンになり人類は滅亡する
ただその後に神の国が来るのである、そこに望みがある、つまりこの世は終わりつつあるただその終末にはこの辺で起きたように信じられないことが起きる
それがもしかしたら今年かもしれないのである
しかし神に選ばれた者は救出されるのである、それがノワの箱舟なのである

組織集団人間は消失する
群衆大衆は砂のように
影のように消失する
無数の者が虚しく消えてゆく
しかし個人の声は消えずに
全地ににひびきわたる
その声は大地に岩に山に
ひびきわたり反響する
真実の日はロゴスはそこにある
不死鳥のように蘇り
そのロゴスの神殿は不壊なり

ともかく現代とはもう言葉も通じない、ロゴスは破壊されている、それを統一するものがもない、カオスなのであり必ず迷路に入り出れなくなる
そこに何かサタンの魔殿ような偽善団体があり権力をもって支配する
そこに真実は語られることはない、ただアウトサイダーがその文明圏から除外されて
神の声を聞きロゴスの中に生きるのである
しかしそれは文明から除外されているから見ることもない、隠されているのである
しかし不死鳥のようにその個人の声はよみがえりロゴスの神殿にひびきわたるのである
そこに神の実現したいものがあり神がそこにありたいとなりそうなる
ただ文明の世界はカオスでありバビロンでありそこから除外されている
だから見えないしその語ることも聞こえない、文明とは雑音の世界だからである
雑音の中で真実の声はかき消されるのである
自分が引きこもり(隠者)となって追求したのはこの自然のロゴスであった
それは文明から離脱してないと聞こえないものだったのである
文明の雑音から離れないと聞こえない見えないものだったのである






2022年01月04日

人生のコースが親に選ばれてしまう恐怖 (親ガチャでなくても親の言う通りにされた人生‐カルト教団の二世の問題)


人生のコースが親に選ばれてしまう恐怖

(親ガチャでなくても親の言う通りにされた人生‐カルト教団の二世の問題


人生の怖さというのはいろいろある、ただ何が怖いのかもわからないのだ

人生をどう生きるか?

これは本当は各自違っている、人生とは実際は時代によっても相当に違ってくる
だから親と話が合わなくなったり対立が世代間で生まれのは当然なのである
もし対立がない方がおかしいしそのまま親の言う通りの人生を歩むことは自分の人生を失うことにもなる
これは別に親と子の問題だけではない、社会でも世代間の対立がある
だから学生運動などがあったがそういうことが起きるのが普通なのである
若者が社会の不正とか何か不満があって抗議しないこと自体おかしいのである
親と子でも宿命的に対立するから反抗期がある、反抗期がないと人間はまともに育たないのである

私は父親が明治生まれであり酒屋の丁稚奉公だったのである、でも中学の時死んだ
そして自分の人生は親とはまるで違った人生を歩んだのである
それは母親でも働き詰めの人生であり遊びも何もない、花にも興味がない、金を使いたくないという人生を送った、だから人間味もなかったとなる
そして貧乏だから金があるようになっても使わないのである、貧乏に育った人は何かケチになる、金を使わないのだ、金があっても使わない、ただためるだけなのである

それで60歳で国から年金三万をもらった、別に年金を払わなくてももらっていたのである、5年待っているともっともらったとして悔やんでいた
それで百才まで生きたが金を使わないので一千万以上ためた、でもその金の大方が盗まれたのである、これも因果だったなと思う、何も使わないうちに盗まれて終わったとなる
金は使える時使わないと使うこともできなくなるのだ
つまり人生とは百才生きても限られているからである
使う時間がなくなるのである、金をためるのはいいとしてところがその金を使う時間がなくなるのである、いかに時間が貴重なものか老人になると意識するようになる
あと何年生きるのだとなることを考えてみればわかる
一日一日が貴重になる、もういつ死ぬかわからないからだ

人間は親の影響が非常に大きい、親によって人生のコースが決められる
もう親に決められてそれ以外ないとも一方的に決められる、医者の家に生まれたら医者になることしかないと強制もされる、それは開業医であれば医院があれば継いでもらいたいとなるからだ
でも医者に向かない人もいる、でも親の都合で強制されるのである
江戸時代辺りだと侍は侍の子として親の跡を継いでいた、そうしない禄をもらえないからだ、それで人生のコースに悩まないということにもなる
すでに決まっているからだ、その決まった通りに生きるほかないからである
でも明治以降職業選択が自由になったとき自分がどういう職業に就くか悩むようになったのである、それもまた苦しいとはなる
自由というのは意外と苦しいことになる、自分の適性にあった職業を選べるとしても簡単にそんな職業がないからである

例えば怖いのはカルト教団の家などは確実にそのコースが決められる、それは人によるが子供の時から家族ごと信仰していると完全に洗脳されてその他のことは見えなくなるのである、そしてもうカルト教団のロボットのようになり何も他のことを考えないのである
これは何かおかしいと疑問ももたないのである
それは親が家族全体がそうなのだからその方向は決まってしまうのである
そこに宗教というか家族全体がはまりこんでいるから逃れることもできないのである
特に素直な真面目な人だと余計にそうなるのである
だからそういうカルト教団の二世とかはそこから脱することが難しくなる

おそらくすべてではないにしろ医者の家に生まれていい医者になりそれが合った人も多いことは確かである、それはそれでいいとなる
でも合わない人がいるのだ、すると合わないことを一生することになる
それは患者にとっても迷惑だとなる、そういう人は優れた医者になりにくいからである
何でも好きこそものの上手なれとなるからである
医者は何か理論だけではない、手術するのに手が器用でないとうまくならないとかあり天性ものがあるらだか、何でも天性のものがありそれと合わないものをいくらやっても上手になれないということがある

自分の場合はまず父親とはまるで違った人生を生きたことになる
酒屋の丁稚奉公で貧乏だったと親が考えられない人生を生きたことになる
それはもし親が生きていたらとても許されないものだったのである
ただ早い時期に死んだから対立しないだけだったのである
引きこもりとなったり今は相当数いる、そして旅ばかりして就職もしなかった
だからこんな人生もありえたということが時代が変わったことなのである
それは親にとって想像もできない人生を送ったことになっていたのだ

親の言う通りになる人生は自分の人生を失う

つまり時代が変わるから親の言う通りになる人生は自分の人生を失うことになる
カルト教団などでもそこに親の言う通りになっていたら人生そのものを失うことになる
ただ親に逆らわないと結構楽だからそのままその道を行くことになる
なぜなら親と対立することは相当なエネルギーが必要になる
医者になれと言われても自分になれないとかあり別な道を行きたいとしても親に強制されるからだ
でも親に従っていると楽なことがある、親にいい子とされるからである
親と対立すると経済的に援助もしない自分で稼でとかなるからだ
あなたの人生は自由に生きなさいとうい親はほとんどいないかもしれない
自分の場合いは特殊な環境でそうなっていたのである
大学出ても職にもつかず放浪していたりして引きこもりであり後は旅ばかりしていたとなる、でも親にとがめられることもなかったのである
今は引きこもりが普通にいるからこれも時代が違ってきたからそういう人が普通にいるのである、もし時代が違っていたら何であれ働かざるを得ないかである

とにかく人生とは一回しかないのである

こんな人生失敗だった、別な人生がありえたとしてももう二回生きることはできないのである、そこで痛切に親の言う通りに生きて失敗したと後悔する
でももう人生は一回しかないからどうにもならないのである
その方向が決まるのは30までなのである、だから青春時代は人生の方向が決まってしまうから大事だとなる
例えば青春時代に享楽にふけり放蕩などしていると後でもう真善美とか追求できなくなるそこで向上する精神とかが奪われているからである
カルト教団に入った人は一生奴隷として終る、精神的奴隷として終わる
ただ親にしてみればそういう子はいい子だったとなるのである

親ガチャとか親のために駄目にされたとか言うけど別に医者とか恵まれた親でも親によって自分自身の人生が奪われることがあるのだ
親と全く違った人生を生きることが実はその人の人生を生きたともなる
なぜなら次代か変わると全く違った世界とか価値観に生きることがありうるからだ
親が生きた時代とはまるで違った世界に生きる
それが明治生まれの親をもった自分の人生だったのである

一見親の言う通り生きた人は親にとってはいい子なのである
それは逆に親によって子供の人生が犠牲にされたともなるのだ
また親ガチャというとき親が貧乏とかで何もできなかったとかなる
でも親が裕福でも医者の子供でも親ガチャはあるのだ
親とは全然違った社会になっていることがあり価値観も変わるからである
明治時代になったとき侍はなくなった、すると親の言う通り生きることできない
みずから自分の職業を探して自立するほかなくなったからである
また戦後でもみんな戦争のために国家のために生きていたがそれが敗戦でまるで変ってしまった、国家より自分の個性を生きろとかなったからである
明治になり戦後で社会が極端に変わったのである

それで70年周期で社会は極端に変わる、その時期が今なのである
その変わり目だから信じられないことが起きる
今までの価値観が通用しなくなる、そうした激変の時代になっているのだ
会社のために生きていてももう会社がなくなるとか終身雇用もなくなる
だから個々人で自立して生きろとかいうのもそうである
これまでの価値観が通用しなくなるのである
ただ若い人はそこから今までにない世界が開けて新しい人生を生きるともなる
70年ごとに大きな変化がくる、それが今なのである

だから今は明治時代でありまた戦後の焼け野原から立ち直った時代とも似ている
そういう大きな変わり目でありそこで大きな事件とか自然災害も起きるのである
津浪で村ごと流されて消失したというのもそうである
この辺では原発事故にもなり信じられない変わり方をしたからである
そういう激変が起きる、コロナウィルスでもそうである、何か世界的にも大きな変化が起きる、そこに相当な痛みも戦後の焼け野原のような状態にもなる
その後に新しい時代を社会を世界を見るとなる
でも戦後の焼け野原のように絶望的な状態になるかこともありうる、それは日本の貧困化ですでに現象化している
つまりどん底の貧困になり日本が飢餓状態になるということもありうる
戦後の焼け野原で食糧すら得られないということもありうる、そういう激変の時代が来ているのである


2021年12月30日

先祖の因果ー分裂不和の家で子孫も栄えず―国家の繁栄も同じ?


先祖の因果ー分裂不和の家で子孫も栄えず―国家の繁栄も同じ?


先祖の代にいじめ・家庭内暴力・兄弟対立があると、子孫にもその影響が出てくる

登校拒否や閉じこもり、家庭内暴力の問題が起きている場合、背景となっている先祖の代にいじめの問題があることがよくあります。本人は知らず知らずしているのですが、先祖の怨みが乗り移ったかのように先祖の人生をトレースしていることがあるのです。

母親の実家はとにかく不和分裂の家だった、それは再婚したためだった、その家の事情があってそうなった、継母にもなっていて自分の母親はいじめられて悲惨だったのである
そして自分の家ともうまくいかず争っていた、その原因が再婚した女性にあったのだ
それが子孫にも影響したのである、不思議に自分にとってばあちゃんにあたるとしても
そういう感覚はなかった、交流もなかった、だからその後でも親戚関係が希薄であり結局絶縁したのである、もともと絶縁したような状態だったから当然だったともなる
母親の父親が再婚した相手は気が強く二人の妻が家を出ることにもなった
結局その家は栄えることがなかった、また人物でも出なかった
実家の墓があるにしても嫁が家をでて別に家を建てて墓を建てたからそこからして分裂しているのである

ただ自分の家でも二人の女性が姉と母が争っていても姉が父が死んで父親代わりのようになって家を支えたし自分も支えられたのである
だから姉の功績は自分にとって大きいとなり感謝している
家の不思議は家というのは血縁だけではない一つの共同体なのである
その共同体でも協力することがないとやはりいくら血縁でも家族でも支えられないのである
それで家系でも離婚した家とかいろいろ不倫とかもめる家は共同体として維持できないのである、そして分裂不和になりその家に栄えがないし人物もでてこないとなる
人物も育てられないのである、だから家族が人間の基本としてあるから家族が良くないとその家は栄えないし人物も出ないとなる
ただ家系の法則でも必ず例外がある、その家は両親が父親でも真面目であり母親も正直な今にはいない珍しい女性だった、情にも篤い古い時代の良さを残した人だった
でもその息子は全くふしだらであり嫌われ者であり何もいいところがなかったのである
そして最近死んだのである、だからこれは何なのだろうとなる
家系が悪くはないのになぜそうなったのか不可解だとなる

とにかく人間には不可解なことが常にある、そこに神の采配があるのかとなる
ただ例外があっても一般的には良い家系では栄える率が高くなるし人物もでるとなる
ただ何らか家系でも必ずプラスの面とマイナスの面がでてくる
すべていいようには働かないのである、何か必ずカルマを背負っていてそれが現れるのである
それは家だけではない、その土地とかにもある、この辺では原発で一時的に栄えたがそれが裏目になり衰退してしまったからである
それがカルマとなって故郷にすめなくなったとかなり消滅の危機にもなったのである
でも原発で財を築いた人もいるのである、その富は呪われたものとなったのである
例えば誰も地域で今原発で豊かになった人を認められないのである
漁業組合とかでも事故前は原発御殿が建っていたとかうらやましがられていた

事故後も補償金で何も困ることもない、そして何かトリチウムを海に流すと魚がとっても売れないと騒ぐがそこでまた補償金交渉となり水増しされるとかなる
これも矛盾なのである、そんなことして金をもらって回りの人が喜んでいるのかとなる
もし何か漁業で魚が一杯とれてもうけたとした何も言わないのである
他にも大熊町長の五億円入った金庫が津波で流されたとかあった、それも流されて当然だとかなった、そんな金があったのかと驚いている、他にも原発で働いて金になったというのはある、原発はそれだけ金の成る木だったからである
除染でも今度は相双リテックが何十億の金を山分けしたとかある
そういうことで金持ちになった人を回りで喜ぶのか?そういう金は運霧消散してしまうかもしれないちょうどギャンブルでもうけたように消えるかもしれない
でも別に金もうけた人が悪いとはならない、何かやはり正当なものとして金儲けていれば周りにもその恵みが回ってきて別に非難したりしないのである
地域を豊かにする家とかあるからだ

そういうことは国単位でも言えるとなる、アメリカの富はどうして増えたのか?
それが世界に貢献する世界を豊かにするものならいい、確かにそういう面はあった
でも軍事力で武器を売ってもうけたとかなるとそういう国は栄えるのだろうか?
武器会社が戦争を起こしてもうけるのだという陰謀論がある、そういう国が栄えるのだろうかとなる、そういう国はやはり衰退してゆくのではないか?
中国でも一帯一路政策で自分の国だけが栄えようとして他は中国のために犠牲にするとかなれば栄えないとなるだろう
それは最小単位の共同体の家でもそうだとなる
家が栄えるという時家が拡大したのが国にもなっている、ハウスブルクとかでもヨ−ロッパで大きな国となって栄えたのもそうである、ハウスとは家でありブルクは城だからである、城とは家の延長だったのである
この辺では相馬氏がそれと同じだったのである、御家という野馬追の旗があり御家中とかあり家が拡大したものが支配者となったのである

そもそも江戸時代三百年は徳川家が支配した、継続した、それはなぜできたのか?
それはやはり家が栄えて継続したからだともなる
つまり人間の歴史の中心に家がありその家が拡大したものが国家にもなった
国の家にもなったのである、栄えた家が国家の中心になったともなる
ただ家にも栄枯盛衰がありそれは人間の社会ではさけられない、永続して栄える家などないのである

どうしてその家が栄えてまた衰退したのか?
それは国家が栄えて衰退するのとも似ている、不和分裂の家だったらとても栄えることはありえないとなる
また国内でも常に内乱があり争っていたら栄えることはないだろう
天皇とは何かというとき日本ではそうした国を治めるものとしてあった
でも南北朝時代になると全国隅々まで争乱となった、二人の天皇がたてて争ったからである、その傷痕はあまりにも深いものだったのである明治天皇が南朝の系統だったとか言われるのもそうである、そこまで尾を引いていたのである
いづれにしろ国内でも分裂して争っていたら国の栄はないのである
国家でも家の延長だからである


とにかく自分自身の家でも母親の実家は不和分裂の家だった
自分の家でも必ずしも調和はしていなかった、でもそういうことがあっても自分には家族でも力を注がれたのである、それは死んでから特に感じるようになった
結局自分のために家があったとまでなる
そのために犠牲になったのかとまでみる、ある家から一人の人物が出るとして何かそこには犠牲となって死んでいる人が結構多いのである

国家レベルでもそうである、日本だったら戦争の犠牲が三百万人の死者をだしたことである
でもその後に高度成長時代になり栄えたとなる、その結果としてその成果が現れるとなる戦争の影響は別に焼野原になってもその子供には悪いものとして影響しなかったのも不思議である、だから不思議なのはなぜ焼野原になり食べ物もないのに子供が多いのに育てられた、今の時代はその十倍とか豊かなのに少子化になっているのかわからないとなる
そしてなぜ日本は衰退して貧困化しているのたろうとなる
ただ世界の歴史でも栄枯盛衰はあるからそれが法則となっているからその結果なのかとなる

日本はこれからまた蘇り栄えるのだろうか?

富は蓄積されたからその蓄積されたものでしばらく栄える、おそらく文化面で栄えることになるのか?経済成長の後に文化面で芸術とかでルネサンスのように興隆することがあるとなる、ただそれも見えていない、インタ−ネットとかyoutubeとかの変化は確かに表現することがテーマになっているから個性を発揮する時代だともなる
マスコミとか大衆相手でもないものが生まれている、するとそこに文化も生れとなる
新しい表現が生まれるとなる、私自身が表現をプログのようなものでも写真でも出せるから駆使して出していることでもわかる
これはマスコミとかではできない、マスコミだとただテレビに出るだけでも有名人になった、でもそれはマスコミに選ばれた人でありまた大衆に選ばれた人なのである
だから本当の人物はなかなか出てこないのである

現代とは何でも大衆が力をもった時代でありあらそる面でそうである、そして大衆は文化を作らないのである、かえって民衆は民謡とか文化を作ったのである
民衆と大衆は違ったものである、大衆とマスコミは一体である
だからこそマスコミニケーションとはなっていたのである、それは文化ではないのであるマスコミは文化を創り出さなかった、文化とはそれぞれの土地に根付いて生まれているからである,マスコミがまるで国民を指導するようにもなった
裁判官にもなった、特にNHKはそうだったのである、NHKの力がどれだけ大きいものだったのかNHKはまるであらゆることを指導するものにもなったからである
それも崩れつつある、インタ−ネットとかスマホとかなり一局支配の報道はなくなり分散したからである

今年も終わるが毎日書き続けたがコメントを読むこともしなかった
忙しくてできなかった、家事に追われてそうなる
ここに書くだけで時間をとられる、結構これが負担なのである
ただ感じたことは個々人でメデアを持つことは大きな力になる
それでメデアがマスコミが第三の権力になったことを理解したのである





2021年12月28日

人生百年は長期戦 (陰の性格の人は後半戦に強いー引きこもりは陰の人になる)


人生百年は長期戦

(陰の性格の人は後半戦に強いー引きこもりは陰の人になる)

陰の魂の質は、穏やかさ、清らかさ、静けさ、安心感など・・・あまり目立たずに陰から人を支えたり、他者に調和や平和を届ける様なエネルギーになります。
陰の魂の持ち主とは逆に、陽の魂の持ち主は、社会の中で特に評価されやすい傾向もあります



人間の性格で陰陽がある、陽は前向きで明るくばりばり行動する力があり目立つし人を導くこともできる、人も集まる、そして早い時期に成功しやすい
一方陰の人は何かと社会でマイナスに見られる、陰気でありとっつきにくいとか社交的でないとかなる、そうしてどうも引きこもりになる人が今や60万なのか多い
陰の人は社会で率先してばりばりやれないからだろう、そこでつまづくとなる
社会にでて引きこもりになりやすいのが陰の性格である
注目されるのは陽の性格の人である、女性で明るく目立つ陽の性格の人は好かれやすい
何か大人し控えめな人は損するとなるかもしれない

陰の人はこうして社会では不利な面が多い、でも自分の性格を知って陰の人も力を発揮することができる
人間の謎は必ずあらゆる面で有利なことでも不利になり不利なことでも有利になる
大軍でも強国でも少数の国と戦い負けることもある
だから何が有利に働くかわからないのである、だから自分の性格が陰だからと悲観することはない、ただ己を知ることが大事である
陽の人がうらやましいと陽の人のように生きるということはかえって苦しくなり失敗する何が自分は陰であり人と付き合うことは苦手である、人と逢うことだけでひどく疲れるのである、だから引きこもりになったのだと思う
引きこもりになるのは陰の人だと思うからである

陰の人には陰の人に逢った生き方がある、陰の人は内面的なものの追求に向いている
実業家とか政治家とか大勢の人の上にたち目立つ人となるのは向いていない
陰の人は芸術家とか思想家とか学者とか内面的なものを追求するのに向いているとなる
それは必ずしもチームワークでするのではなく一人でもやれる仕事だとなるからだ
ただ研究者でもチームワークが必要だともあり何らか仕事をするには協同する必要があるから一概には言えない
でも陰の人はいくら陽の人が成功しやすい社会に認められやすいからとまねることはできない、そうなるとかえって苦しくなるからだ

歴史をみても信長は陽の人であり秀吉も陽の人であり天才的であり率先して人を導くことができる、華々しく活躍する天才でもある
でも家康となる何か地味であり華々しいという感じがない、陰の人の感じになる
でもなぜ彼が最後に天下をとったのか、治めたのか?
それは家康が特別優秀な天才でもない、その前に陽の天才だった信長が殺され、秀吉も死んだからである、痕に残ったのが才能もたいきしてなかった家康だったともなる
家康には特別天才的なものがなくても忍耐力があったとなりたまたまマラソンで走っていたら前を行っていた人が脱落してしまったともなる
長期戦になったら特別強い人が優秀な人が死んでしまったということで家康が最後に天下をとった、それより長期戦の結果天下が自ずと転がりこんできたともみる

70以上になると結構同期でも死ぬ人が増えるし病気になる人も増える
マラソンに例えるならばたばた落後する人が増えてくる、ただ人生百年となると結構長丁場の戦いにはなる、元気な人も多い、でもやはり結構病気になる人死ぬ人が増えるのである、人生の競争でも脱落してゆく人が増えるのである
要するに長生きするだけでも勝利者にもなるのである

だから陰の人は後半戦に強いことを今私は自覚した、陽の人は前半戦に強い、ばりばり力を出して成功しやすいとなる
そういうことで陰の人はあせらないことである、なかなか前半戦では成果が出ないのである、でも陰の人でも引きこもりでも何か好きなことでも積み重ねることがあればやがて芸術でも学問でも思想家としても大成するともなる
陰の人は理解力でもなかなかつかない、陽の人は物事でもなんでも理解してしまうことがある、陰の人は何か成し遂げるにも理解するにも時間がかかるとなる

ただ陰の性格の人は人生の後半戦で力を発揮するようになる、それも人生百年となると
50歳以降にすらなる、60でも70歳以上でもそうである
普通の人でも80歳まで働くようになる、それは経済的にそうなるというがそうでなくても人生百年は長期戦になる
そして何か人間はやはり成長しつづけるものである、例え陰の人でも目立たないが木のように時間をかけて成長しつづけて大木になる
それは時間によってそうなるのである、必ずしもその人の才能によってなるとは限らないのだ
現実有能な人でも早く死んでしまい何か実りとなるものを残せなかったともなるからだ

つまり人生百年を生きる心構えが若い人でも必要になる、人生は長期戦であり将来はどうなるかわからない、だから黙々とでも引きこもりでも社会に適合できなくても認められなくても長い目で淡々と積み重ねる、努力することが必要だとなる
でも若い時は50年後先など見えない、だからたいがい60くらいで死ぬと見ている
でも実際は本当に90から100歳とかまで生きる時代になっているのだ
全部ではないにしろ病気になる人も多いにしろそれが平均的になってくるのだ
だからこの長期戦をどう生きるかを考えねばならない
とにかく人間というのは動物とかと比べても成長するのが遅いのである
でも成長しつづけるとういことがある、それは木とかと同じである、成長するに時間がかかるのである、何か理解するのにも時間がかかる

だから本を大量に読んでもいても理解していなかった、今になると理解力がついてきたからその言わんとすることがすぐに理解できる、そして自分の文脈で引用できるのである
大器晩成というのは別にもともと大器でもない、長期戦を生き抜いた結果として晩成したということになる
時代にもよるが平和な時代には長期戦になる、特に長寿社会になるとそうなる
戦前でも正岡子規も36歳くらいで結核で死に啄木も27歳で結核で死に宮沢賢治でも36歳くらいで死にとかとにかく結核で死んだ人が多い、結核は若くして死んだから悲惨だったのである、また戦争でも有能な若い人が将来を嘱望された人が死んだのである
このように人間の才能とかは天賦の才能に恵まれていても開花することがむずかしいのである

つくづく自分が才能などたいしたないのにこうしてそれなりに開花ししてきたのは家族に恵まれたためである、自分の家族をふりかえると自分のためにあった、自分を育てるためにあったようにすら思うようになった、みんな死んでそう思うようになった
父親は酒屋の丁稚奉公であり母も戦前は貧乏であり苦労の一生であり陰の性格だった
でも百才まで生きた、そして陽の姉がいて私に尽くしてくれた
父の違う兄は不幸であり不遇であり交通事故で死んだ、こうして何か私の家族全部が私のために犠牲のようになったとみる

こうしてなかなか一人の才能ある人間すら簡単に才能を開花させることはできない
それは時代の影響もある、戦前のような貧乏な時代になるとなかなか才能を開発できない戦後でも焼け野原から始まった、家には一冊の本もない、その後でも本屋にしか本がないそれも百万分の一くらいしかないとも今になると見る
子供部屋もなちかことおじとかもいない、子供部屋がないとなかなか落ち着いて自分の勉強ができないとういことがあるからだ
現代だとこうしたものがさらに整ってきているから有利である
こうして時代の差がありそれでそれぞれの個性的なものを追求できないのである
つまり人間はそれぞれに才能があったとしてもその才能は開花できないのである

つくづくこれからの人生は百年であり長期戦である、例え最初はびりでも最後に一番になることだってありうる、先を行っていた人たちも脱落してくる
だから先がわからないのである、ただひたすら黙々とマイペースで走っていたら前の人が脱落して一番にっていたということもありうる、それが人生百年の意味なのである
だから若い時に人生をあきめることはない、ひたすら走りつづけることである
ただこのことが若い時に理解できないのである、若い時自殺するような人はそうである
ともかく生き続けることである、人生はどう展開するかわからないのである
でも日々の努力は怠らないことである、ささないなことでも後で花開くとういことがあるからだ


本格的な怪物は母の胎内での期間が五万年、十万年かかるべきものなのだ
80万年無駄飯くらってやっとよちよち歩き出るような人間、いや超人間になりたい
(単細胞的思想ー上野霄里)

自分の性質が活動的な仕事に向いているか、それとも有閑のうちに研究ないし黙想することに向いているのか、である
そして自分の才能に導かれる方向に傾いていかねばならない

心が俗事や陳腐なことを軽蔑するとともに、聖なる霊感を受けていよいよ高く舞い上がればその時こそ遂に死すべき人間どもの口には崇高すぎる歌を吟じるにいたる
心がある高く険しいところにあるものに達するには正気である限り不可能である
心はすべからく陳腐なことから遠ざかり轡(くつわ)をばりばりとかみ、己の指揮官を急がせてかつて自分がら恐れて登らなかった高みへ引き立てて行くべきである
(セネカー人生の短さについて)


上野霄里氏は天才であり天才的思考になる、若い時であったがこれも理解できなかった
ただ天才は凡人には偶像化するから危険ではあった、ただその言うことは今理解できる
人間は長期的に見るべきであり人間は成長しつづける存在なのである
若い時は理解できなくてもやがて理解するようになる、だから若い時理解できなくても本を読んでおいた方がいいとはなる
天才は努力を否定するから凡人とは違う、その言うことは理解する

凡人でも

心が俗事や陳腐なことを軽蔑するとともに、聖なる霊感を受けていよいよ高く舞い上がればその時こそ遂に死すべき人間どもの口には崇高すぎる歌を吟じるにいたる

これは修養なのである、修行をしつづけることである、天才的な人は修行しなくても一挙にわかる、でも普通の人はには修養とか修行が努力も必要なのである
だから不浄を拒否して山に籠もり修行したのである
俗世間に染まらないことなのである、それは宗教だけではない、芸術でもそうである
それは崇高なものを目指しているからである、そしたら俗世間に染まってしまったらその崇高なもの純粋な自然の美を見ることもてきないからである
今の宗教は政治経済化して組織集団化しているから俗世間の価値観しかない
かえって欲がないのはエネルギーないとかなり俗世間より以上に俗世間的な場所なのである、そんなところで心が浄められるとか全くない、全く不浄な人々の中にまじりそれが普通となり汚れているのである

だから引きこもりでもそうした不浄な世間と交わらないということで黙想して浄化する
そこで自然の美も見えてくるとなる、ただここにはやはりマイナスも大きい
それでアウトサイダーには狂気になった人が多いのである
ただこうして引きこもりでも黙想して不浄を拒否して生活していれば自ずと神聖なものでも自然の美でも見えてくる、それで私は今それを詩とかにしたものを発表している
百遍以上の詩はまだ発表していないからである

とにかく人生百年時代を生きることは若い時は序の口だからそこであきらめることはないただ正直若い時に方向が決まってしまうことが怖いのである
カルト教団から脱しなかったらそのまま一生そのままつづくということが怖い
そして人生そのものもを失ってしまうのである
それが極端化したのがオウムだし他の創価でもなんでも宗教の組織化集団化したものは同じなのである
それで若き時に神を知れということが重要なものとなる
若い時に方向が決まる、偶像崇拝していたら生涯偶像崇拝のままである
そしてオウムの麻原とか創価の池田大作とかでも偶像を拝みつづけるから怖い
宗教で一番大事なことは偶像崇拝しないことだからである
でも宗教でも偶像崇拝していることが多いのである、組織集団化した宗教はそうである

今年も終わりだけど私の中でこうして引きこもりでも不浄を拒否して黙想していても
それが実ってくることはある、それも30年以上とかそうだったのである
だからこの年月が何だったのか?それは今の実りへとつながるものだったともなる
そこにマイナスな面も大きく失敗したが引きこもりが無駄とはならなかったのである

2021年12月10日

時間の貴重さが自覚できない (あなたの時間を奪われるな-消失しやすい時間)


時間の貴重さが自覚できない

(あなたの時間を奪われるな-消失しやすい時間)


3000円の時計を買ったが壊れたので使えない、それで何度も損した悔しいとなる
その損は3000円だから何かかえって計算しやすい身近になるから悔しいとなる
でも例えば百万円損したとかなると意識しない場合すらある
貯金の額でも大きい人は意識できないのである
かえって千円とかでも意識しやすいから損したとなり忘れられないのである
人間は何でも大きくなると意識しにくいのである、細かいことは意識するのである

時間は一時間損したとか意識しない、千円なくしたときのように意識しないのである
若い時だと特にそうである、時間がいくらでもあり暇で暇でしょうがないとなっているでも30過ぎる辺りから時間がなくなることを多少は意識する、40才になるとあれ白髪でてきたなとか40だと先がみえてくる、要するになにかしようにもこれまでしたことが学んだことが問題になるのである
何か新しくしようとする時間がなくなるのである、そしてあっというまに60過ぎて老人になる

人生をふりかえると旅行とかで海外旅行で20代とか30代とかの人とあった
でもすでに海外旅行をしてから十年以上していない、その時逢った人もすでに40くらいになっているかもかもしれないし20代でも30代後半になっている
だからこれも本当に不思議でありこんなに時間が早くすぎるのか、それは先日逢ったようにさえ思うからである、人間の出合いも瞬間的だとも思った
あの人と逢ったことあったな、あれからもう十年以上すぎたのか、そして永遠に逢わないなとなっている
まず人間は十年以上合わないと相当に人間が変わっている
子供の時一回しか合わない親戚の女性は別人のようになっいた、とても普通の人間ではないと見た、それは子供の時しか逢っていなかったからである
人間の世界はこうして常に変化でありこの年になると昨日逢って話したけど死んでいたということもある、それが隣の女性だったのである

人間はまず時間を意識しない、時間は金のように意識しないから時間を失っても損したと思わないのである、でも老人になると痛切に意識するのである
それは何かをするにも学ぶのにも時間がなくなるからである
「少年老い易く学なりがたし」となる光陰矢の如しともなる
だから退職して何かを学ぼうとする人が増えているのもわかる
60の手習いとかもありうる、でもやはり人間はつくづく積み重ねが大事である
新しく学ぶことは簡単にはできないのである、人間の時間は限られている
老人でも今まで積み重ねてきたことだと素人でも専門家にもなれる
でも新しく一から始めることは趣味でもむずかしいとなる

だから金は常に意識している、百円でも千円でも強烈に毎日意識して使い失えば悔しいとなる、でも時間は金のように意識できないのである
そして金と時間がどちらが大事かとなると金も大事であるが老人になると時間が大事になる、先がなくなるからだ、人間の成すこと何でも時間がかかるからだ
老人になって投資に向いていないのは時間がなくなっているからである
長期的視野で投資できないからである、利益を上げる前に死んでしまうということもある
その他でも人間は何をするにも時間がかかる、それはあらゆることでそうである
家族でも一緒に過ごす時間がなかったら親密になれない、母親でも一緒に過ごす時間がなかったら親子にもならない、その母親は5歳まで一緒いて育てた娘がいてもその娘が母親とも思っていない、でも誰も頼る者がいない、それで認知症になって頼ったが金を頼りにされるだけだから悲劇である
子供の時一緒に生活していないなら母親ともならないのである
それで実の母親でもなくても血がつながらなくても母親として世話していたら実の母親となるのである
動物でも子供の時、猫でも犬と一緒にいると犬が母親にもなるのである
つまりこうしてなんでも親しくなるにも時間がかかる

そして時間は限られている

人間が親しくなるとか共同するにも時間がかかる、夫婦になるにもやはりすぐに結婚しても親しくなれない、理解てあい信頼するには時間がかかる
だから離婚してまた結婚してとかなるとそれも時間がかかるから離婚は相当に不利だともみる、新しい人間関係を作るにも時間がかかるからだ
何度もやり直すとういことが人間にとってむずかしいのである
それで転職することはかえって苦しいとなる、なじんできた会社から出て新しくまた人間関係でも作ることはむずかしくなる、50過ぎたりしたらそうである
今までなじんだ所が不満があってもいいのである
そのために原発事故で故郷から避難した人は故郷に帰りたいとなる
新しい場所に簡単になじめないからである
人間にはそんなに転々として移動しても簡単にその場所とか人間関係でも作りにくいのである、なぜなら時間かかるからだ、そのために農家では三代住んでいなと認められないとかなることもわかる、土地を基にした農民だとそうなっていたのである

お手伝いさんでも十年働いていた人は信頼できる、でも新しい人だと信頼できないのである、何か百人もお手伝いさんを変えた金持ちの家があった、そんなことで信頼関係は築けない、信頼し合うだけでもそれだけ時間がかかるのである
なぜ封建自体に強固な主従関係ができたかというと何代にもわたって同じ主君に仕えていたということがあるからだ、代々仕えていて信頼関係が時間の中で作られていたのである
いくらグロ−バル化して空間を広げても人間の信頼関係とかは時間で作られる
だから世界となると国々でも民族間同士でも信頼しない、戦争になるとなる
いくら物が入ってきてもその国の人と信頼があるとか親しくなるとかないのである
それには時間がかかるからである
エジプト文明が三千年ありローマ帝国でも300年とかつづきそこで培われたものがあるそこにも時間がありできたとなる
現代の問題は速成して時間をかけないでインスタントになる、そこで重みがないのであるつまり時間でしか作れないものがありそれが問題なのである

私のプログでもすでに15年くらいしている、するとその蓄積したものがある
自分の書いたものでも忘れていてもう一度自分の書いたものを読んで感心している
また過去に書いたものをまた新たに発展させて書くこともできる
それで今いろいろとまとめている、もう一つは記録を保存するためにまとめている
それが量が多いから作業として大変になる、時間がかかる
何かこのインタ−ネットというメデアでもプログに書くにしてもやはり手間がかかり時間がかかる、手間だけは省けないのである
それで自分の記録したものも膨大になりそれを見直したりつけ加えたりすると時間がかかるのである

ワードプレスとかもしようとしてもスキル的にめんどうだともなる
つまりスキルでも覚えるのに時間がかかるのである
こうして何でも時間がかかる、そして時間は老人になるとなくなるのである
投資にしてもデイトレーダーとかなると一日パソコン画面を見ているようになる
すると他に何もできなくなる、また社長でも忙しくなり他のことはできなくなるという
大きな金を稼いだとしてもそこに時間が奪われる、そして自分のしたいこともできないとかなる
画家だったら絵を描くことに専念すべきなのだが時間をとるべきなのだからその外のことに時間がとられて肝心の絵を描くことに集中できない、時間がないとなる
こうして金と時間を比べると人間はいかに時間を無駄にしているかとなり老人になるとみんな後悔しているのである、つまり時間切れになり何もできない、後は死ぬだけだとなってしまうからである



奪われる時間

時間は常に奪われている
自らも時間を失っている
しかし時間は意識できない
金のように意識できない
計算も大ざっぱでありできない
だから時間は失いやすい
時間を失われたことに気づかない
それで時間は奪われやすい
時間を失うことは奪われることは

人生を奪われると同じだ

組織団体とかでもは奪われる
そこに奉仕して何を得られるのか?
ただ貴重な時間が奪われる
つまり人生そのものが奪われるのだ
あなたの時間を奪うものがいくらでもいる
わずかの金で労働者は時間を奪われる
あなたのすべきことは別にあった
あなたの人生は時間をどう使うかで決まる
何かするにも学ぶのにも時間がかかる
親しくなるにも時間がかかる
信頼を培うにも時間がかかる
でも時間は限られている
あなたの時間はたちまち消失する
もう老人になると時間は黄金にも優る
死ぬとはあなたの時間がなくなることだから

あなたの時間を奪われるな!

時間を奪われることはあなたの人生を奪われることだ
それを肝に命じよ
あなたが時間を何に使ったかか人生になる
体験する学ぶ時間があなたの人生を作る
ただあなたの時間は常に奪われる
自らも時間を浪費している
そして最後に時間は消失して人生は一瞬だったともなる
それほど時間は消失しやすい
時間は極めて限られている
その時間の使い様であなたの人生は決まる
金を求めても時間を失う

金に使われるなかれ!

あなたの人生の時間を生きよ
あなたが奪われたのは間であり
またあなたの人生そのものだったのである
あなたの時間を全力で生きよ!
そこにあなたの報いがあり実りがある
それはそれぞれの人によって違っている
あなたの報いと実りを得よ
さすれば人生に後悔はないとならむ






2021年12月08日

(人間が消えた方が自然には良かったーSDGs(持続可能社会ー老子の思想) ドラマの一シーンから


(人間が消えた方が自然には良かったーSDGs(持続可能社会ー老子の思想)

ドラマの一シーンから

「何か協力したいのですが・・」
「今何ができるというんだ」
「何かはあると思うですが・・」
「何もないよ」
「何かあると思うですが・・」
「うるさいな、あえて言えばお前が消えることだよ」
「・・・・・・・」

テレビドラマの警官同士の問答だけどこういうことがある
この世を良くしようとしても本当はその存在自体が悪になっていること邪魔になっていることが結構多いのである
それは人間だけではない、技術にもありうる、物でも機械でもありうる
原発などなかったらいいとかある、それが大迷惑になるものだったからである
核など科学者が優秀でも発明してそれが人間社会にとっていいものだったとかとなるとならなかった、原子爆弾となり核戦争で人類が滅亡する恐怖にふるえなければならなくなったからである

「核技術は人間にとって必要だ
これなくして人類の人間の幸福はありえない」
「そんなことはない、むしろ災いにもなるから慎重にすべきだ」
「リスクは何にでもある、リスクを恐れてはならない、そうしなければ進歩もない」
「それが疑問なんですよ、核が無くても人間の幸福は追求できる
むしろ核がない方が良かったのです、進歩ということはこれも危険なものがあったのです」

何かこうした逆説が常に人間社会には成立つ、あるよりない方がいいのである
そうしたら人間がいない方がいいとかなる
地球の災いの最大の原因は人間にあるからだ
人間が増えたことによりグロ−バルな災いが生れた、グローバル化した結果世界大戦になったともなる
江戸時代は中国の脅威もなかった、韓国とも友好的だった、グロ−バル化で友好が促進されることにもならなかったのである

中国の脅威はアメリカより過酷になる、中国人は近いから今でもそうだが住みつくからである、そして住むことによって中国人が日本人の上に立つことになる
そうなるとウィグルとかチベットにもなる、中国人社会にされてしまうのである
漢族中心の社会になる、チベット人は迫害されてネパールに逃れていた人と逢ったからである
中国には依然として十何億もいまとしたら日本に送り込まれて漢人が支配する社会になるそれはアメリカが支配するのとは根本的に違う、ウィグルとかと民族同化になり同じになるのである、そこに中国の最大の脅威がある
老子の思想にひかれるのは人間も数はいらない、小国寡民であり治めずして治まるとか無用の用とかを言ったことである、つまり二千年前にすでに文明を否定していたのである
だから鍬まで使うと人間がそこなわれるとまで言ったのである
道具とか機械まで否定したのである

今の状況が現代文明が老子が警告したようになったともみる
無用の用が必要でありいらないものが多すぎる、人間でも多すぎる
この世を良くしようとしてもそもそも人間が邪魔だから消えることだとなる
経済成長一点張りとかも否定される、小国寡民の思想はコロナウィルスでもこれから経済成長とかばかりを目指す社会ではない、グロ−バル化はかえって災いも大きいものだっからである
これに賛成する人はいないがもし人類を地球で養うのは限界でありだからこそSDGs(持続可能社会)持続社会が望まれているのである

 衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

 このように人間は文明を作ったけど着飾ったけど結局それも美とも言えない、浪費だともなる、そんなに体にまとうもので着飾っても人間自体は美しくならない
 それより自然界では鳥でも何でも着飾っていない、それで自然に調和して美しいのである、人間はいくら着飾っても人間そのものが内面が汚れている
 だからむしろ人間はこの自然の汚点であり消えた方がいいということが成り立つのである

本当の美は白鷺でも白鳥でも自然そのものに同化しているものである
何も着飾っていない、人間の造りだした物がなぜこんなにに醜悪になっているのか?
それは大都会を見ればわかる、そこに美はないからである
つまり大都会自体が醜悪なものだということである
何か協力したいのですが社会を良くしたいのですがと人間が寄ってきてもかえってお前がこの世からいなくなることが最もこの世を良くするともなるのである
人間を見ればそうなる、そうして私は人間嫌いになり引きこもりになったのである
人間は見たくないとなったのである

成さずして成るというとき人間は成し過ぎたのである、科学技術でもそうである
様々なことを自然に手を加えて成し過ぎたのである、老子の思想は植物的思想である
山や木や石は何も成さない、ということは自然界に災いをもたらさないのである
自然に調和していれば成さなければ原発事故で故郷に住めなくなるということなどありえなかったのである
この辺はそういう人類の教訓の場にもなったのである

「私は社会を良くしたいのですがどうしらいいですか」
「あなたは何もしないことです、むしろ消えることです」
「えええ、そんなことありえない・・・・・」

これも逆説なのである、社会に有用になろうとしてもそれが災いにもなるし人間そのものが自然に調和しないものだからそうなる
何かそういうことを思わない、役立つものとして必死になっているのが人間なのである
役に立っているという時、大きな自然界からみればそうではない、害悪になっている場合がある、社会に役に立つとしてもそれは小さなことでもある
人間が社会でもいくら役たとうとしてもたかがしれたものになる
役立つという時本当に役立っているのは自然界である、でもこの自然界に感謝する人もいないのである、第一空気とか水に感謝する人はいない、ありふれたものに感謝はしない
原発事故でこの辺は空気すら吸えない、水すら飲めない状態になったのである
つまり人間が余計なことをして成してそうなったのである

むしろ人間は悪を成すのであり悪を成さざるをえないのである、なぜなら欲があり欲を充たすために悪を成す、何も成さないでいられないのが人間なのである
そうして人間の災いは尽きることがないのである

みちのくに安らぎあれや山眠る

みちのくの大地に抱かれて眠る
静寂の大地に抱かれて眠る
そこに人間の顔も見ない
不平は限りなく尽きることがない
石はただ黙して大地は山は眠る
聞こえるのは枯野に風のうなる音
人間の騒擾は消えて休みに入る

みちのくという場は安らぎと休息に向いているのである、東京から大阪とかまでは活動の場であり騒々しいがみちのくの効用は安らぎと休息の場なのである
それも必要なのである

東京を電車で離れみちのくへ秋の陽映えて沈みけるかな

みちのくへというときまさにこういうふうなのがふさわしいとなる
ただ東京にも十年以上行っていないから遠くなったとはなる

2021年11月27日

親ガチャでも責任は親はとらない (自分の人生は自分でとらされる−人生を後悔しないために)


親ガチャでも責任は親はとらない

(自分の人生は自分でとらされる−人生を後悔しないために)

親ガチャというとき親によって人生でも決められる、それから逃れることができない
親によって人生の行路が決められる、いい親に生れたらそれだけで人生は楽勝だともなる確かにそういうことは多い、親によって大きな差が生まれる
でもそういうことを言っても人生の責任は自分でとらされる
親に不満であっても親を何やかにやといっても親は子供の人生に責任をとらない
個々の人生の責任は何であれどんな親にもかかわらず自分自身とらされるのである
親の言う通りにして失敗だった、自分の道は他にあったとなっても最後はどうにもならない、ただ後悔だけになる、そういう人も多いだろう

また会社でもこういう会社に勤めているべきでなかったとしてもそうである
それは会社の責任でもないし会社は一切責任などとらないのである
人生の責任は最後は自分でとらされるのである
「あなたの責任でそうなったのです」となる、親どうのこうの会社がどうのうこうの組織団体がどうのこうのと言ってもそうなのである
その人たちは組織でも団体でも個々の人生など考慮していないからである
ただその人の人生など見ていない、人材を見ているのであり材とは全体ではなく何か役立つものとして材になるものとして採用しているだけである
その人の人生がどうのこうのなど関係ないのである

組織団体というとき国家さえそうなのである、国家は個々人の人生に責任をとらない
戦争でわかるように人生を国家のために捧げても地獄の様な苦しみを受けて死んでも国家は責任はとらない、ただ英霊として祀ることはしたがそのことで死んだ人が報えられたかとなるとそれもわからない、20代とか30代で死んだらどんな人でも無念が残るからである、結局国家のために犠牲にされたともなる、別な見方があるにしろとてもその人なり人生があったとしても国家のために犠牲にされたとなる
でもその責任を国家はとらないのである

組織団体というときカルト教団などでもそうである、そういう組織団体に所属して生まれた人がいたとして親がその幹部とかなっているとその人の人生は組織団体を生きるのであり個々人の人生は生きない、そういう人を創価とかで知っている
親が幹部だしそれで議員とかなっていて大学まで出たとかなるからもう経済的にも利益でもあらゆることが一体化しているからその組織団体と身も心も一体化して人生の行路がすでに決められていてそれ意外の道が見えなくなっていたのである
疑問をもつことすらない、宗教を求めることでもない、宗教団体でも宗教を求めないのである、ただ組織団体の権益利益と権力追求しかないのである
ただ親でも家族でももうそこに身も心も捧げているからその外のことは何も見えないのである

そこで宗教に対しての求道心など何もないのである
これも親によって人生の進路が決められていた、でもその人生の責任を親はとらないのである、親は子供を産む、育てる、でも人生の責任は負わないのである
それは別に金持ちの親でも同じなのである
医者の家に生まれたら医者になれとなる、家業を継げとなるが自分は医者に向かない、別な人生を生きたいとしてもできない、でも自分は医者には向いていない別な人生を生きるべきだったとしても後悔しても誰も責任をとらない、自分がとらされるだけなのである

結局人間はなんらか常に責任を負わされている、でも責任はとらないのである
原発事故でも「安全神話」を作った政治家でも官僚でも東電でも何ら責任をとらない
官僚に天下りした検事でも海上自衛隊でも警察官僚でも責任はとらない
ただ法外な金だけをもらっていて返すこともないのである

でも必ず誰かが責任はとらされる

この辺では故郷に住めなくなったということで大きな責任をとらされたのである
戦争では三百万人の国民が死んだのである
戦争責任は誰にあったのか?これもはっきりしないがやはり戦争を決行した人達上層部の人達がいたがその人達の責任ははっきりしないのである
終には天皇に責任があるとして問われたこともあったのである
天皇が戦争を決行することを命令したとされてそうなった

ともかく20代で方向が決まってしまう、20代でいろいろ悩む、でも親がどうのこうのと言っても親が責任をとらない、だから親が悪いとしてもいくらそうだったとしても責任をとるのは自分自身なのである
確かに親は一応飯を食わせていろいろめんどうはみる、でも子どもの人生の責任を全部とることなどないのである、だから親の言いなりにされて自分はそうすべきではなかったとしても親は子供の人生の責任をとらない、とるのは自分自身なのである
だから親ガチャであり自分の一回限りの人生を無駄にしても親は責任をとらない
とらされるのは自分自身なのである、俺は親の言う通りにして失敗だったとしても親は責任をとらない、とらされるのは子供自身なのである

ともかく親ですら確かに一応いろいろ世話はするが子供の人生は親とは別であり子供子供の人生を生きる、親がどういおうと自分の人生は自分自身が決めるとしないと後で後悔する、つまり誰も個々人の人生の責任などとらないからである
とらされるのは自分自身だけである、こうして自分は生きて良かったとなればいいがただ誰かのために親のためにとか組織団体とか会社のためとかに生きて自分自身の無駄にしたとなると後悔する、ただそういう人は多いだろう
だから自分自身の人生を生きることは容易ではないとなる
親に反対されたとかいろいろあってむずかしくなる
生活が第一だとなったりするから親の影響が大きいからそうなる

ただ本当に怖いのは20代で30まで人生の行路が決まってしまうことである
20代で引きこもりになると一生引きこもりになるのも怖いのである
北朝鮮に全日空の飛行機をハイジャックして北朝鮮に渡った赤軍のメンバーは日本に帰ってこれなくなった、そして子供が成人にまでなっていたのである
北朝鮮はその時楽園だとか宣伝されていたのである
そこは実際は地獄だったのである、でも北朝鮮で子供が成人するまで生活して日本には帰れなくなったのである、つまり20代で人生の方向が決まるということが怖いと思った
すでに親によって決められる人生も怖い、そうしてその責任は誰もとらない、親もとらない、自分自身がとらされるだけなのである

そういう自分は特別に親に恵まれて好きなことをしていた、会社に勤めるのもあっていないし引きこもりで自由に好きなことをしていたのである、だから今でも死んでも親に感謝しているのである
このマイナス面も大きかったが好きなことを追求で来たから自分にとって自分の人生を生きたとなるのである
親との確執が何か必ずあっていいのである、それが全くないということ自体問題なのである、それは全く親の言いなりであり親は子供の人生全体まで責任など持たないのである
医者が子供に医者になってもらいたいというのは継いでもらいたいというのは親のエゴであり子供のためではない、子供には子供の人生があるからである
だから親の言いなりになって自分の人生を失うことは後悔するとなる
人間の問題は二回人生を生きられない、一回失敗したからまたやり直すことができないのである、だから30までに人生の方向が決まりほぼ確定してしまうことが怖いのである
それもあっというまに過ぎてしまったとなるからである


2021年11月24日

運が決める成功、財産も金運も運 (松下幸之助は「人間90%は運命」と考えていた)


運が決める成功、財産も金運も運

(松下幸之助は「人間90%は運命」と考えていた)

fortune 運、幸運にもこと、幸運、果報、繁栄、成功、出世、運勢、(将来の)運命、富

わしは運命が100%とは言っておらん。90%やと。実は、残りの10%が人間にとっては大切だということや

電気屋の仕事をやるにしても、わしがもし大阪でない別のところにいたらどうであったか。電車を見ることもなかったから、電気の仕事をやろうと、ひらめくこともなかったやろうな。たまたま大阪の街におった。特にとりたてて力のない平凡なわしが、一応仕事だけでも成功したということを思えば、なおさらのことやな。

松下幸之助というとき特別な優秀な人で成功したとみるのが普通である
でも違っていた、こういうことを言い残したのは自分は運が良かったなと一生をふりかえり思ったからである
成功した人と金持ちになっている人を見るといい、どうして金持ちになったのか?
そこに運が大きく作用しているのである
第一生まれた家とか場所とか才能とかでも親から受け継がれる、すると親とか生まれた場所とかで相当な差が生まれる
教育格差は都会に生まれた人と田舎に生まれた人ですでに相当な差がある
田舎だともう学校で公立しかないし決められている、洗濯の余地はないからだ
その後でも知識習得の格差があった

田舎だとまず専門的な本など置いていない、図書館にしてもたいしたものではない
まず田舎だと本すら買えなかったのである、そしたらどうして勉強するのかとなる
それで一週間に一回とか仙台市に行って本を買うほかなかった
でも仙台市でも本は限られたものしかなかった
インタ−ネットでこんなに本があることに古本をふくめてあることに驚いた
書店に置いてある本は都会でも何万分の一でもない、百万分の一くらいしか置いていないかったのかと見る、それほど本は多かったのである
もしそうして自由に本を選び読んでいたら専門家になれていたとなる
ここからして格差があったから都会に住む者と田舎に住む者では住む場所で差が生まれていた

ただだからといって田舎がすべて損になるとはならない、田舎では自然と日々接するから感性が磨かれる、例えば俳句などでも四季があり季語を感覚的に実感的に覚えるには田舎の方がいいのである、私の場合はそうしてたいして才能もないのに時間があり家に恵まれて自由に生かされるたからできた、引きこもりであったが家族に責められることもなく30年間過ごした、このマイナス面も大きかったがプラスの面も大きかったのである

何か運が作用している時具体的な例になると誰かが死ぬと誰かに運が回ってくる
これは確かなことなのである、ある人が親しい男性の妻が死んだ結果として嫌だった夫と離婚した、そして親しい男性の妻が死んだのでその家に自由に出入りしたのである
また自分の家に来たのも私の家族が全部死んだからである
もし家族がいたらその人と付き合う必要もなかったのである
そもそも私が生まれたのは母親が前の夫が事故で死んで後妻に来たためである
その時子供がいたけど連れ子になり自分の家でいい待遇をしなかったのである
その後集団就職して結婚したがそこでうまくいかず交通事故で死んだのである
そのことで私は悪いと兄の墓を墓を作り墓参りしているのである

誰かの不幸が幸福になり誰かが死ぬと誰かの運が良くなるというのも確かである
それを猫を飼ってわかった、最初飼った猫はどこかに帰えて帰らない、死んだのである
一か月くらい帰らないで尻尾をいたずらして焼かれた不運があった
でも帰ってきて世話していたのである、その猫はなれていた、でも死んだのである
次になぜ今の猫に餌をやっているのか?
それは前も来ていた、でも餌は飼っている猫にしかやらなかった
でも飼っている猫のを餌を奪いとりにきていたのである
それで追い出していたのである、そのたなのか、その黒い猫はずっと餌をやっいるがなれないのである

でも自分としてもなぜ餌をやっているのか?

その猫がかわいいということでもない、何か一人になって淋しいということがあり餌をやっている、でも家にはあげないから飼っているとはいえない
汚れるので家の中には入れないのである、でも窓から顔を出すので餌をやっている
今日は安かったカツオのさしみまで与えた、それは特別安いものだったからである
でもぜいたくだと思った、前の猫にもそうして少しは分けていたのである

こういうことは自分自身で何か同情するとかでもない、たまたま来ていて自分が淋しいとかあり猫が来たなとなり与えている、その猫は今まで家に来た時は追い出していたのである、だからなれないのかと思う
要するにこれも全く運なのである
運はめぐってゆく、恵みはめぐるであり回ってゆくのである
金は天下の回り物というときもそうである、金は必ず一か所にとどまらない、めぐってゆく恵みとなるのである、ある地域で金持ちが豊かな人がいるときその土地になんらかもたらす恵みがありそれが地域にめぐってゆくのである
最初は一家族でも全体に及んでくるのである
何か特産物が作りだすというとき最初は篤農家がいてその土地にあったものを作りだす
それを回りの者もまねて豊かになるということがあるからだ

それはあくまでも運なのである、だから成功した人自体が松下幸之助ですらそう思ったというので運がいかに作用しているかわかる
高度成長時代は誰でも成功する率が高かった、私の家で商売を始めたとき何もない、店でもただ品物を並べるだけであり品物を置くだけで売れた、物がない時代だったからであるそしてたまたま角にあって場所が良くて売れたのである
その頃近間にしか店がない時代だったからである
私の家では別に商才などなかった、むしろ母親などは商売に向いていない、内向的な人だったからである、だから一時的でも栄えたのは時代と運だったのである
今になるとこんな商売などできないし小さな店はスーパーなどができてみんななくなったからである
何か成功することは時代と運だとなる

結婚にしても運が作用する、その女性は二人と結婚して離婚した、相手が悪かったから貧乏だった、それは運が回ってこなかっただけだともなる
容姿が悪いということもある、でも美人が不幸になっているというときか必ずしも生まれつきですべてが決まる訳でもないのである
何か結婚でもめぐりあわせがあり運がつきまとっているのである
何か何でも平等にしようとする共産主義とか社会主義とかが失敗したのは人間の運命とかを無視しているからである
平等を追求してい行くと不平等になるのはそのためである
みんな個性を違うし生まれた親も違うし家族でも違うし生まれた場所も違うしといろいろな相違がすでにあって生まれてくるからである
そもそもそれを平等にすることはできないのである、かえって平等にすれば不平等になるのである
ただ教育とかは平等にして国で金を出して人材を育てるべきだとなる

人間は運から運命から宿命から逃れられない、必ずいいことがあっても悪いことがある
悪いカルマがどんな家にも人にもありそれで苦しむことになる
私は特別恵まれていても最後は親の介護でそれも二人もいたから自分自身も病気になり死ぬ思いした、それも結局特別恵まれた結果だったのである
金持でも恵まれていても必ずカルマを積んでいるから後年にそのカルマが苦しみとなって現れるのである

運というとめぐりあわせも運なのである、結婚も運だともなる、たまたま出会って結ばれる、何かその出合いも運だとなる、なぜあの人は不細工な男なのに美人と結婚しているのかとなる、でもその人の出合いがそうしたのである、たまたま出会ったことによりそうなった、出合いでも何回もわるわけではない、その出合うチャンスは限られた時間しかない普通は30歳まででありその後男女が出合い結婚することはむずかしくなるからだ
つまり結婚するチャンスもその時が限られていて短いのである

だから人間はどこで運がめぐってくるかわからない、本当にわからない、秀吉でも信長の側にいなければ天下をとることはできなかった
仕える人とか会社とかでも作用する、つまり自分がいくら才能があったとしても運がないと成功しないというのはそのためである
時代にもよる、高度成長時代は誰でも何もない所から始まり成功しやすかったからだ
今は事業するにしても簡単に成功などしないのである
日本全体が落ち込んでいるからである、つまり自分だけの力だけでは成功しない
成功とは結局運だという時、その成功は自分だけで作ったものではないということを考慮する必要がある、謙虚になる必要がある
まさに生んだという時自分の力ではないだ、ただ十パーセントは自分の努力とか才能とかで成功するとなる

いづれにしろ運はどこでめぐってくるかわからない、日本の経済でも将来がわからないのは国際情勢でも変わるからである、そこで日本全体の運も変わる、するとまた成功しやすくなる、運とか常に変化しやすいのである
だから栄える家でも地域でも国でも変わる、そして不運が必ずありそれでこの辺のように原発で栄えたがもう住めなくなり悲惨な結果にもなる
でも原発で財を成した人はこの辺で多いのである
だから何が富をもたらするのか運をもたらすのかはわからない、いいと思ったものが悪くもなる、運命は反転する、だから栄えた家でもみんなながつづきしないのである
中国が15、6年であんなに発展するとは思わなかったからだ

では運を良くしようとする時どうするのかとなるとそれを人為的に作り出すことはできない、運命がありどんなし親から生まれるからを選ぶこともできないからである
それで親ガチャになる、それに不満でもどうにもならない、その運命の下で運がめぐってくることを待つほかないともなる
ただ10パーセントは運ではないのだから努力もしておけとなるのである
ただいくら努力しても成功するとは限らないのである
ただ時間だけは平等に与えられている、その時間が極めて限られているのである
そして人生ではこの時間を一番みんな無駄にしているのである
そこで運命にかかわらず大きな差が生まれているともなる
時間を活かした人はやはり最後にその人なりの成功があるとなる

ともかく運が90パーセントだと松下幸之助すら言っているのだから自分自身の力だけではどうにならない、そして結局人間自体が人間の社会をどうにかできるものでもない
人間自身自分自身すらどうにもならないのである
人間がいくら努力しても全能の神にはなれない、そこに人間の限界があり神に頼らざるをえないのである、最終的に人間の運命を決めるのは決めることができるのは人間ではない神なのである

2021年11月03日

事業失敗もカルマの法則? (人間の奢りが失敗の原因―家系のカルマ)


事業失敗もカルマの法則?

(人間の奢りが失敗の原因―家系のカルマ)

問題を起こしたまま人生を終えた先祖は、亡くなった後も苦しんでいます。行いや恨みは亡くなったからといって帳消しになるものではありません。法句経に、「悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む

母親の実家は不和分裂の家だった、なぜそうなったのか、それは事業に失敗したことが大きな原因だった、父親が警察署長して事業を始めたが失敗した
そうして事業を始めたのは警察署長をしていたからそれで成功すると思っていたのである結果としてその後裕福だった家は貧乏になり子供が苦労したのである
悪かったのは母親が病気になりそこに新しい継母が入ってきた
この継母が異常に気の強い人でそれで私の母親はひどいいきじめにあったのである

その家の跡を継ぐ人が嫁をもらったがその異常に気の強い継母に二人の嫁が追い出されたようになった、一人は娘が5歳の時別な人と再婚した
一人は別に家を構えて実家から出て行ったのである
ただその継母は肺病になったその家の息子を看病していたのである
ただこの継母に母の実家は翻弄されて遂にその継母も家を出て養老院で暮らして死んだ
最後は眼が見えなくなり母が行ってめんどうみて死んだ
「悪かったな」と言っていたという、そのお骨は約束していた大学病院で解剖されて私の家に来たのである

こうして不和分裂の家だからその親戚関係も争いうまくいかなかった
それが如実に現れたのは母が病気で寝ている時、その母の弟の嫁になった娘が「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらへ)と血相変えて去って行った
これも付き合いもたいしてないからそうなったのも当然だったともなる
その娘とは第一子供のころ一回くらいしかあっていないからである
ただその墓に私の異父兄弟の兄が埋められていたのでかかわっていただけである

事業の失敗というときなぜか父方の方でも嫁に行った先で事業をはじめて失敗した
これもなぜ事業をはじめたのかわからない、簡単にとれない特別の資格をもっていて会社で高給取りだったたからである
だからなぜ事業をはじめたのか?何かこの人も自分は優秀だと自負がありはじめたのかとなる、ただそこにしても自分は付き合いがないから関係ないと思っていたのである
でも意外とこうして薄い親戚の縁でも必ずかかわりその家のカルマを受けることが怖いのである
天皇家などでも結婚でもめているからのちのちに結婚相手の家族の家系のカルマを受けるから怖いのである
カルマが現れるのは60歳以降にもなるからだ
現実に秋篠宮家では自由結婚したが同じように娘も自由結婚した、ても天皇家となると簡単に一般人と同じにはなれない
でも親がそうしたのだから娘もそうしていいとなる、それもカルマだったのである
親のカルマが子に現れたのである

その家は父親が若い時病気で苦しんでいて一生その苦しみのためにまともに仕事もできない人だった、そのために嫁は苦しんだのである

つまり母親が夫で生涯苦しむ⇒その娘が夫で苦しむ

これがカルマだとなる、母親と同じカルマを受け継ぎ苦しむとなる
ただこうして同じ苦しみを受けると母親のことを理解するとはなる
「私はどれだけ夫苦しみち娘もまた夫で苦しむ、それで母親の苦労を理解するともなる
要するに人間は苦しまないとカルマを理解できないのである
戦争などでもとても人が殺し合うことなど理解できない、それを理解するにはまた戦争になることだともなるから恐ろしいとなる
そうでなくても何か苦しみとして現れる時カルマを理解するのである

いづれにしろどんな家でも家系でもなんらかのカルマを背負っている、その軽重はあってもそうである、それが苦しみとなって現れたとき理解するのである
例えばアメリカで日本に原爆を落としたけどこれもアメリカ本土に原爆を核ミサイルでも撃ち込まれて何十万とか死ななければその業(カルマ)高い理解できない
こんなひどいことをしていいのか、そう思った時、あなた達アメリカ人がそうしたのではないですか、それがカルマなんですよとなる
何であれ何か他者にでもした行為(カルマ)は今度は自分に現れて来る
それがカルマの法則なのである

なぜ事業に失敗したのか?

母の実家では警察署長していたからそれで成功すると思った

父方の親戚では特別の資格を持っていたし優秀とされていた

その奢りがあり失敗した

これは明らかに共通した原因があったとなる、人間の失敗は奢りから来ているのが多いのである、日本の戦争だってアメリカがどんな国かもしらないで奢りから始めた
日本は強いから負けないとかなっていた、それは原発でもそうである、日本の技術は優秀だからと言っていたからである、それで権力で「安全神話」を作ったのは奢りだったのである、人間の奢りは危険なのである、科学技術もまるで神の様な力をもつと過信して大事故にもなる、それも奢りからなるのである

人間の失敗の原因は奢りにあったことは確かである
人間が成功する時でもやはり自分の力だけで成功することもない、そこには様々な要素入ってくるからとても一人の力では成功しない、限界がある
人間の奢りは神から罰せられる、人間が神の様な力をもつことは神が許さない
だから失敗して罰せられるのである

いづれにしろ母の実家は墓まで分裂していたのである、母の弟が家を継いだにしろ外にでた、そして別に墓を作ったのである
でもその娘は一番長く暮らした育ての親にひどいことをした
そして自分に最後に「ひどい娘だわ」と呪いの言葉を残して死んだのである
病気になっても見捨てたのである、ただ簡単に死んだから良かったとなる
女性でも冷酷な人は普通にいる、病院で自分を虐待した看護師〈女性〉もそうだった、だから男女であれ人間は冷酷な人は普通にいる、だからそういう人は看護師とかでも医者でもふさわしくないとなるがそういう情的な面は見ていないのである

ただその労働がきついからそうして気の強くないと勤まらないということはある
ただ全般的に情に欠けた社会になっている、だから病院でも長く入っていてかえって悪くなったという人も多いのである
それは精神的な理由もある、病院は無機質な空間で情が感じられないからである
知っている人は病院に長く入院していたが家に帰ったらかえって良くなったというのもそうである
老人の場合体の治療も必要だが情的な面も大事になるが今はこの情を病院とか医者とか看護師になかなか求めにくい
情無き社会になっているからである
ただこうして情がない愛情もなくなる社会は怖いとなる、それをここ十年の自分の病気と家族の介護で嫌というほど経験したからである、ただこれも楽して来た自分のカルマだったのである、家族のカルマであり清算が強いられたのである

2021年10月22日

記憶したものが宝となる (老人は記憶に生きるー老人の心に映し出されるもの)


記憶したものが宝となる

(老人は記憶に生きるー老人の心に映し出されるもの)




老人の心に映し出されるもの

神秘な透明な水に写ったもの
隠された森の沼に湖に写ったもの
知られざる花の写り消えぬ
また天より神の御顔の写り消えぬ
しかしその消えたものは
その水に記憶されている
その水に神秘の花は記憶されている
それ故にまた花は映しだされる
時に霧が深く覆い記憶も消えたと思う
でも霧が晴れてまた記憶したものが
その湖に美しく映し出される
ただ醜いものは消える
神の鏡の湖に写ることはない
記憶されるものと記憶されないもの
老人は記憶をたどり生きる
でもそこに醜いものばかり写るなら
その記憶を消したいとなる
でもその悪しき記憶も消えない
だから良きものを記憶するように
その心を正しくして澄んでいなければならない
さすればあなたの老後は美しい記憶で
次々と花園を歩むように美で充たされる
終わりなき記憶たどる旅となる
確かにその湖の平静な水面も風に嵐に波立つ
でもそれは一時であり過ぎて行く
そしてその静まる水面には花々が
次々に色を変えて映りあきない
老人はそうして記憶に生きる
美しく蘇る記憶に生きる
そうしてその記憶を天国にもってゆく
その天国にそのつづきがある



すべては誠実な記憶のなかに持続され、言葉に絵に歌になって保存される

追憶の絵本を、体験したものの宝庫をもたなければ、どんなにつまらなく、みじめなものだろう‐
「人生は成熟するにつれ若くなる)ヘルマン、ヘッセ

老人は記憶に生きる、でも問題はあなたはどれだけ記憶したものを持っているかとなる
誠実に記憶されるというときやはり誠実に生きないと記憶もされないとなる
心に記憶されのはやはり不実なものではない、誠実ならば不実とならず実りとなり記憶される、ただ何らか人は必ず罪を犯すしそれが悔恨となって苦しめられる
人生でも最後に記憶の絵本のようになったら成功だったともなる
でもいくら金を残しても何か思い出したくない嫌なことがありそういう生き方も普通にある、金のために不誠実となり嫌なこともしたとかなる
現代ではそれが多いのである、それは老人になったとき消えるのではなくその嫌な記憶に苦しめられるともなる
その時は老後は地獄だともなる、いくら金があってもその心に映したものが悪ければ醜いものしか映らないとなり地獄となる

だからどうしても現代では金のためにそうして心が汚れる人が多い、でもそれが老人になったとき消えるのかとなると心に刻印されるのである、それが怖いのである
ただそういうことを深刻に考える人はまれである、金になればいいとしかなくなっているからだ
現代の資本主義社会はそれが問題なのである、みんな金で汚されてゆく
何か戦前でも江戸時代でもこんなに金で汚されることがなかったと思う
もちろん貧乏であり時代が違っているから比較はできないにしろ現代ほど金に追われ金のために心が汚されている時代はなかったと思う

ともかく人間の記憶は不思議である、どうして記憶がよみがえるのか不思議なのである
ただ忘れることも本当に多い、だから記録しておけというのもわかる
今ならデジタルカメラでもスマホでも膨大なものが記録できる、そこから記憶がよみがえることもある、第一自分の書いたものを忘れて読み直すとたんなこと書いていたのかと忘れているからだ、人間とは常に忘れてゆく、人も次々死んでゆく、それは次々に人も忘れられてゆくということである、それだけはかないということである
記憶にとどまるのはわずかであり歴史でも名を残し記憶されるのはわずかである
あとは忘れられてその名も覚える人もいなくなる、それは老人になると実際に知っている人が次々に死んでゆくのだから嫌でも自覚させられるのてある

老人は記憶に生きる(記憶の宮殿)
http://musubu2.sblo.jp/article/186530838.html

ここの続きとして書いた、この記憶の宮殿はみんな人によって違う、経験したことも学んだことも違っているからだ
でも人間は最後に記憶となり記憶を生きることになる、でももし記憶されるものがないとすると退屈ともなり老後の時間が長いと耐えられないともなる
何か行動するにしても体が弱りできなくなる、どうしても老人は行動力がなくな家に閉じこもり記憶に生きるようになるからだ
豊かな老後は金を必要だけど記憶に生きるようになるから記憶されたものが大事になる
その記憶されたものとは日々の生活で積み重ねたものなのである
ただ自分の場合家族をのぞいて人間を記憶しているということがない、また逢いたい人もない、自然との合一を追求してきたが人間は嫌いだったからである

2021年10月21日

人生を後悔しないために (道徳無き経済の異常性ー人格を歪める資本主義文明社会)


人生を後悔しないために

(道徳無き経済の異常性ー人格を歪める資本主義文明社会)



人生を後悔しないために

高い地位、儀礼、富、学識など、そういうものに到達した人々について
わたしが思うには、彼らの到達したものは彼らの体と魂に結果を残すものではない限り
すべて彼らの身につかず、浪間に消える‐ホイットマン

身につくものが何だったのかになる、それが老年に現れる、身につくものを残らないとしたらそれを追及したことが無駄だともなる、その身についたものは金では計れないのである

あなたは神を知るべき時に知ることを逃した
それは盛りの若き時に求めるべきものだった
その貴重な機会を逃してしまった
その日は遠く帰ってこない

あなたは元気な若き時に冒険すべきだった
若きは短く青春はたちまち過ぎる
きついことは若き時にすべきだった
老いて体力もなく気力もなくなり
果敢にいどむことはできなくなった

あなたは学ぶべき時に学ばなかった
あなたはただ享楽に時を費やした
あなたは何かスキルを身につける時にしなかった
あなたはそこで鍛錬して身につけるべきだった

あなたは遊ぶべき時に遊ばなかった
遊びの時も必要でありそれも人生の内
あなたは広く見聞すべき時にしなかった
外国でも実地に知るべきだった

あなたは人を助けるべき時に助けなかった
あなたは苦しい人に無関心だった
またあなたは近くの危険なことにも無関心だった
そして大事故が起きて身に及んだ

あなたは節制すべきだった
あなたはただ放漫でありただ怠惰だった
外に現れずとも内なる心に実るものがある
享楽にまかせず節制していれば
内に心に実るものが外に現れる
それは隠せおうせず現れる

あなたは何か有益なことをせず
何か学ぶべき時に学ばなかった
学ぶことは限りなくあり
神の創りし世界は多様で広大
しかしあなたはそれを見逃した

あなたは成すべきことを成さなかった
学ぶべき時に学ばなかった
あなたの才能ではない
あなたはただそうした貴重な時間を活かせなかった
その時間をもう取り戻せなくなった

みんな老いれば残るのは後悔だけだ
特に貴重な何かをする学ぶ時間を失ったこと
その時間が取り戻せないことを痛切に悔いる
あなたが費やしたものが無益だったこと
それが最大の悔恨となる知れ

集団の馬鹿騒ぎに己を失い費やされる
あなたの貴重な時間は奪われていたのだ
奴隷ということは時間を奪われたことである
会社であり宗教団体であれそこで奴隷にされる
何かただ使役される、それが金のためだけでも

金を使うのではない、ただ金に使われている労働
そこに真の実りはなく何か実りとして残らない
人は金のために働くのではない
真の実りのために働く時、充実感がある

こうして時間を虚しく費やされると悔いる
例え有り余る金を得ても虚しいとなる
老いて病気になりその金すら使えない
また時間もなくなり使えなくなる

あなたの日はもう終わった
あなたの与えられた時間はもうない
あなたはあとは死ぬだけである
人生の経験で成したことを天にもってゆく

それは財産でも金でもない
この世で経験して学んだことを天にもってゆく
老いて真の実りは現れる
何に時間を使ったかその成果が確実に現れる

それ故に時間を有益に使わなかったものは
老年はみじめであり過去の過ちも闇黒となる
それは罰せられなくても心に現れる
それを偽ることができない

金があっても心が歪んだもの
人格が歪み心も曲がったものが多い
何かそこに異様な奇形な姿を見る
その人は金があっても人格形成に失敗した
もはやその人格は矯正できない

その姿をもって地獄に行くともなる
集団は関係なく個々がそうして問われる
人生はもう結果として現れた
もうそれを是正することはできない!

あなたがあなたの人生を培い作った
あなたにはあなたの時間が与えられていた
時間はみんな平等に与えられていた
ただ時間を活かせなかった!
そしてみんな人生を悔いている

時間はもとにもどらない
そこに人生の厳粛さがあった
人生は一度きりであり
チャンスも一度きり
そのチャンスも逃した

最後にあなたの経験と学びの実りが現れる
個々に違った実りが現れる
それを収穫するのが老年である
そういう実り豊かな老年のために
あなたは時間を無駄にしてはならない
それは人生を無駄にすることだったから

●それぞれの経験と学びが老年に現れ結実する

どんな人でも優秀な人でも人生は後悔に終わる、結局人間の学ぶことでも経験することでもわずかしかないからである
すると何か足りないものとして終わる、自分だと経験したものは旅だった
だからその旅のことをふりかえり俳句とか短歌にしてふりかえる
それは無駄なことではなかった、でも人生はいろいろ多様であり学ぶことも経験することも多様である、普通だと結婚して子供もちとか経験する、もしそういうことでも経験しないと何か欠けたものになる、自分の場合まともな社会生活していないから欠けたものになる、社会性が欠如した人間になっていた

でも普通に結婚して子供を育てた人でも何か必ず欠けている、どう見てもその人はそうして普通の結婚して子供を育てても奇形化した人間になっていた
まとも人格ではない、もう信じられない薄情なものともなりこれが人間なのかとも疑ったただ本人はそんなことを気付いていないのである
その人の人格も長い間の結婚生活とかでも作られて来たのである
ただ付き合いがなかったからわからなかっただけである

ただ確実なのは最後に老年になってその結果が自ずと現れる!

何か学んだものでも経験したものでも確実に老年に現れる、そして最後に偽ることができない、もうそうしてできあがったものを直すことができない
人格でもそうだしその人なりの個性でもそうである
個性とか才能でもその人なり資質があっても天才でない限り人生の時間の中で作ってゆくものだからである
だから老年にはそれぞれの経験したこと学んだことが否応なく現れる
それがむずかしいものではなくても雑学のようなものでも役に立つものとして現れる
また老年になると理解が深まる、理解できないものが理解できるようになる

あのことはそうだったのかとかわかる、またこういう解釈があったのかと理解できる
だから老年は含蓄が深いものになる、それで老人は普通の人でも悟ったようにも見えるのである、賢者にも見えるのである
つまりこういうふうになるのは若い時はなりえないからだ、壮年でもなりえない
老年になると自ずと成るのである、何かが解読されてゆく、理解できなかったものが理解できてからまる人生の糸がほぐれるように理解できるようになる
別にそれは特別の人だけではない、普通の人も人生をふりかえりそうなるのである
あのことはこういうことだったのかと理解するようになる

どんな人生でもそれぞれ違っていて経験も違っていてそれが実りになる
まず何かを経験しない人はいないからである、だから誰しもその経験を老人は語る
遂に千回も認知症になっても語っていた
老人はこうして人生を語ることが仕事にもなる、そこに必ず人生の教訓がある
失敗したことでもこうして失敗したとかなりそれが後の教訓となるのである

●後悔しない人生はない

確かなことは後悔しない人生などないのである
それは人間一個の経験とか学ぶことが極限られたものだからである
例えば会社員の経験がないものはそもそも会社のことがわからないのである
では自分の様に自由に旅した経験は会社員として過ごした人には理解できないとなる
こうして経験するものが違うから理解できなくなる、理解することは自分が経験して学んだことだけだとなるからだ

今退職とかして学び直している人が増えているというときそのことが痛切にわかる
つまり学ぶことをしなかったことを悔いてそうなったのである
もっと学ぶべきことが山ほどあったができなかった、それで退職して時間ができてそうなったのである、でも実際は退職しても学べることは学べる
でも若い時に学ぶこととは違う、むしろ老人になると今まで自分が経験したことを学んだことを深化することであり知識を広げることでもないし新しいことをとりいれずらなくなる、だから老人の学びとは何でも広く浅くではなく狭く深くなるのである
それは自分の経験と学んだことからそうなる

ともかく本を山ほど買っても読んでもびっしりと印しをつけていても理解していなかったでも今になると深く理解できて自分の文脈の中で活かすことができる
そうなったとき実は本当に他者の知識でも思想でも経験ても理解したことになるのだ
老人になって本当の実りがある、ただ若い時はがむしゅらに経験することであり学ぶことである、それは後で雑学でも活きてくるのである
ただそのためには詩にしたように節制が必要であり享楽に費やしたりしていたらそうはならない、意外とこの節制ができない、性であれなんであれ時間は奪われ費やされるのである

●心でも体でも節制が必要

体も節制が必要なのである、何かしら放逸に体でも使っていると必ず老年になるとその積み重ねが体にでてくる、酒とか煙草でもしていると何らか体に影響してくる
また過重な肉体労働をつづけるとそれも老年になるとその積み重なったものが体に出てきて具合悪くなる、ただ必ず老人になると体の故障がどこかにでてくる
でもやはり体でも節制していなと老人になるとその積み重ねで異常がでてくる
スポーツマンでもプロの人も体に負担をかけすぎて早めに死んだり病気になる
それでも何か冒険もしないとか慎重に行き過ぎるのも問題なのである
身体が丈夫な人はやはり常人のできないことができる、それがその人の人生を作るともなるからだ、でも不摂生に酒でもなんでも無理なことを体に良くないことをしているとやはり必ず老年になると不具合がでてくるのである
そして十年くらい同じ年齢でも違ってくる、同じ年齢でも本当に70以上でもこの人は若いなと驚く人がいる、老けている人は本当に体も弱っているからだ

節制でも心の節制も意外と大事なのである
心の節制とは何かとなるがそれは口をつつしむとかである、何か人間はしゃべりすぎることは心を無駄に費やして汚すということもある
悪口を言ったり何かしゃべりすぎることは心をけがし消耗させることにもなる
自然ど合一するには山や樹や石のように深く沈黙することが必要になる
でもこれは社会生活では異常者になるからできないのである
引きこもりだったから自分にはできた、禅僧のように沈黙行をしていたとなる
ただそこで社会性がなくなり異常化していたのである
だから社会性も必要でありそれがないと何か異常化して社会のことすらわからずに苦労することになる、結局人間はなんらかで偏る、社会生活を正常にしていてもそれすら偏ったものとなる、会社員とか公務員でも何かそこでの人生も偏ったものになる
それは社会の一部であり全体ではないからである

心の節制が必要だという時心を汚す無益に消耗することにはあまり人間は気を使わないのである
まずカルト教団などは肝心のこうした心の修行のようなことは一切ない
社会活動であり集団活動であり御利益追求だから会社員とも同じであり世俗社会より世俗的な場所であり宗教的なことは一切ないのである、巨大な企業と会社と同じなのである
それでなぜ宗教の看板をかかげているのか全くわからないとなる
禅宗の沈黙行などはない、真宗とか日蓮宗などは一日題目あげているから世俗社会より騒々しいところでありまた団体化して集団示威行動する、そして社会を威圧する
それはナチスとたいして変わりないのである
そのために危険な団体でありそれが社会を席巻してナチスのようにもなる恐怖があるのだ
ともかく老年には人生の結果ができる、もう偽ることのできない結果がでる
それは恐ろしいことにもなる、青春の放逸なども後悔となり苦しむ

そのために推理ドラマでも必ず若い時の過ちが尾を引いた事件になり悔やむとなっている若い時は過ちを犯しやすいからである、節制でできないからそうなる
それも後悔となるしいろいろなことがただ後悔として苦しめるのである
だから実りある老年になるにはどうするのかを若い時知らねばならない
でも若い時みんな老人がそういうことを言ってもわからないのである
若い時老人の気持ちとかがわからない、理解できないのである
何か青春でも終わりないように見えるし人生でも終わりないように見えるのである
でも人生は終わってみればあっという間だったとなる
こんなに早く終わるのかと驚くばかりになる、それはみんな老人になるとそう思うのである、つまり老人になってみないとわからないことなのである
そこに人間の弱点が盲点があったとなるのである

●会社人間は資本主義社会の奴隷(社畜)ー人格は無視

会社員が資本主義社会で商品であるというときもそうである
つまり人格など関係ない、商品としてして見てないない、会社にとって有能な有益なの商品としてしか見ていない、人間としてどうのこうのは関係ない
そういうふうに人間を見ること自体すでに人間は奴隷であり社畜だとなる
ところが人生は人格を磨き形成して完成するものだと見れば会社員で働くことは人生としては全くそんなことで働いていたら最後に後悔しかないともなってしまうのである
そんな人格まで無視して働いていていいのかともなってしまうのである
でも今の社会は会社員であることなのである、それ以外の道は提供されていないともなるそれも異常だとなる

例えば江戸時代とか戦前までは職人は会社員ではない、会社員となったのは戦後のことなのである
職人は一人で物つくりしていて売っていたのである、会社などなかったのである
小規模のものがあっても会社はない、それでいいものを作るために職人気質とか生まれたそして武士道とか職人道とか商人道とかその道を究める者としてあった
そこに人格など歪めるものがなかったのである、だから本当に資本主義人間とかは何なのだろうとなる、そんな生き方していいのかと疑問になる
そして金がすべてとなり人間はすべて金で計られるようになったのである
そんな社会は人間の社会なのかともなる、そうなら資本主義などやめた方がいいなる
株式などはただ金を右から左に流して巨万の富を得ているとかであり公正の市場でもないのである、それで銀行員とかはそのグロ−バル経済のギャンブル場の賭博場に雇われた人なのかとも見てしまうのである

資本主義はこうしてモラルもなくなったのだからそれを維持することはむずかしいとなる道徳無き経済である、そういうものが維持できるのか?
グロ−バル経済とは世界市場は巨大なギャンブル場でありそこに人格など関係ない
ただ金を唯一の価値としてすべてを商品化して人間も商品化して奴隷にするといことである、この人間はいくらの値段だとかその人に張り付けられている
それは人間そのものを無視したものである、そこに実際は恐ろしい社会の荒廃になる
でも資本主義社会に生きていればみんながそうなるしかない
そうならもう会社員であることでも拒否した方がまともだとまでなってしまう
でもそうなると生きる術がないとなってしまう、でも人間の人生の目的は何なのか?
それがただ財産と金を得ることだとなればそうなってしまう
じも人格の完成だとかなればそんな社会に会社に属していること自体拒否しなくてはならないとなってしまうのである

いづれにしろ株式で生活している人など何か異常なのである
それはまともな生業でもないとなる、そういう仕事が何か人格を歪めていたら老年になって真の実りはなくなる、これも怖いことではないか?
でも人格がどうだとか見る人はまれである、すると現代社会は現代人は何のだとという疑問になる、文明人とは何なのだろうとなる、モラルなき道徳無き人間とは何なのだろうとなる、それが獣社会になってしまわないか?
モラルがないから食うか食われるのか世界でありすべては金で計られ商品化されて値段をつけられる、ところが人生は値段をつけられない金で計れないものに計りしれない価値があることも最後に思いしらされるのである
それは人格が歪んた人は地獄人間になっているのだ、ダンテの地獄編に体が歪になり奇形となっている人間である、つまりそういう地獄人間になることが目指しているのが今の文明なのかとなってしまうのである

そんな人間を作ることが資本主義社会でありまた文明社会だとすると拒絶して生きていた方がいいとなる、ニートの方が増しだともなる
資本主義社会の勝者とは何者なのか?地獄人間でありサタンともなってしまわないか?
ただこの異常性に気づいている人はその中で生きているとき気づかない
それが普通でありそれからはずれた人は異常だとなるからだ
異常な社会に生きている人はそれが異常だと気づかないのである
それでナチスが社会を席巻したときそれが異常だとも気づかない、むしろそれに適合しない人が異常ことされたのである
それはカルト教団ではそうなっている、異常だとすると異常だと見る人は異常にされるのである、数が多ければ正常だとされるのである

でも社会全員が異常だとか見る人はいない!

たいがい会社からはずれた人が異常とみられる、だから何が異常なの正常なのかわからないのである

人間を派遣しているのではなく、人材を派遣しているこの意味ー鈴木傾城

人材とは一部を材として切り取ったものである、人間とは全体のことである
人材とは人間を一部分として材として切り取ったものとして商品化されているというのはわかる、ここで道徳が語らないが道徳無き経済はもう人間社会ともならないのである
獣社会となっている、そんな社会自体何なのだろうとなる、それは地獄社会だということである


2021年10月12日

先が見えないから失敗する (人間は未来を見ることができない―預言者の意味)


先が見えないから失敗する

(人間はは未来を見ることができない―預言者の意味)

津浪や原発事故ではいかに先をみることが大事か思い知らされた
もし先が見ることができたらこんな大惨事にはならなかった
人間は先が読めない、何でもどう展開するから読めない
それで判断に迷うことになる
道を行くにしても分かれ道があり右を行くべきか左を行くべき迷うことがある
その先が見えないからそうなる、地図もないときはそうである
そして道に迷うことになる

歴史を見る時、今ならすべて結果を見ていて結果から判断する
戦争に負ければなぜ負けたのかとふりかえる、でも戦争する前は戦争で勝つと思ってしたのであり負けることなど考えないのである
負けた結果を見て後世の人は判断する、だから歴史は結果から見る
でもその時代に生きた人達はそういう結果から見れない、どっちに転ぶかもわからないのである、それはサイコロでも振ってみないと結果がわからないのと同じなのである
それでどっちに転ぶかサイコロの丁半(ちょうはん)の世界である

必ず賭けがありその行動の結果がどうでるかはわからないのである
信長の桶狭間にしてもそれは賭けだったのである、天候も影響して勝ったとなるが
どうなるかわからないものだったのである
関ケ原の戦いでも霧が左右したとかあり勝敗はわからないものだったのである
ただ歴史は結果からみているから冷静に見るがその時代の中に生きていればどうなるかわからなかったのである
だから結果からみれば日本の太平洋戦争でもなぜしたのかとなる、馬鹿げているとかなるでもその時は決して負けるなどと思ってしたわけでもないのである
太平洋戦争でも本当はどう展開するかは未知だったのである
日本でも勝つこともありえたのである

聖書が予言者の書だというとき預言者とはあらかじめ予言する人だとなる
なぜそうなったのかというと予言することは生死にかかわることだからである
ノアの箱舟でもそうである、大洪水が来るということは生死にかかわることである
だからノワが箱船を用意したのである
それは馬鹿げていると笑われてもそうしたのである
そして助かったのはノワの一族だけだったとなったのである
予言の大切さを書き記したのが聖書だともなる

例えばソドム、ゴムラが神に滅ぼされるとき危機一髪逃れたのがロトである
まさに危機一髪でありロトの妻ははふりかえり塩の柱となってしまった
その光景を見たとき余りの恐ろしさにそうなったのである
それは津波でも経験した、もうその時瞬時に判断して逃げないと助からなかったからだ
そうして多数の人間が死んだのである
逃げる時間がなかったのである、とっさに何も持たず逃げない限り助からなかったのである

でも津波が来るとして備えていれば原発事故も防げたのである
それで仙台の方で若林地区なのか学者が津波が来ると警告したら地価が安くなるから言うなと口止めされたのである
つまり予言することは危険を伴う、もし予言しても現実に起きなかったら批判される
預言者は殺されて来たからである、つまり予言することは危険がともなうからである
地震学者でも十年以内に地震くる、二十年以内に地震が来るというがそんなこと誰でも言えるのである、でももう十年以内に地震が来たらどうするのか?
その時予言が当たらなかったら死刑にするとかなったら誰もそんなことは言わないのである、だれでも一年以内に地震が来るとか5年以内に来るとかそんなこといくらでも言えるのである、ただ適当に言っていればいいだけである、ただの無責任であり何の責任もないからである

コロナウィルスでもこれを誰も予測した人かいなかった、そして専門家も全く未知のものでありわからないものだった
だから今回は専門家の信頼を失った、これも素人並みだったのである
要するに原因がわからないのである、何で急に増えたのかまた急に減ったのかも専門家がわからないのである
いろいろむずかしいことを言ってもわからなのである
それは地震を予知する学者と変わりなかったのである、そんなこと誰でも言えるとまでなっていたのである
だから専門家会議など無駄だという人もいたのである、それほど専門家が用もないものだったとことに何なのだろとなった
そんな人達に国で金を払うとなるとこれも無駄だとなる

人間にとってあらかじめ知ることがいかに大事か

だから聖書は預言の書だとなる、預言者が中心になって記された書だとなる
預言者とは神から遣わされた役をであるからだ
その役を科学者が津波の予言でしたとき予言者と同じように批判されて脅かされたとなる人間はともかく利益を求める、欲を求める、それを止められると激怒する
不動産業の人が津波がここに来ると学者が言った時言うなとなったのもそうである
原発でもみんな利益を求めるからやめろとなるともうそういう人は住めなくなっていた
宗教は本来欲を制御するものだがそんなことを許す人はいないしそうしたら人は集まらない、だからカルト教団になるとかえって世俗より欲を追求することになる
底辺層になれば金持ちになるとか地位がある人になるとか何でも御利益であり福運だとかなる、ところが現実は底辺層は確率的には不幸からさらに不幸になる人が多いのである
それは別に宗教とは関係ない、百万人も底辺層ならどうしてもさらに底辺化して悪いことが起きる確率が大きくなるということである

ただ人間は将来のこと未来のことがわからない、何が起きるかわからない、いくら科学が発達してもわかららない、未来がいくら科学技術が発達してもわからないのである
未来を知りえるのは全能の神しかない、未来を知るというが神が未来を作りだすからである、もしかしたら今の地球を滅びても新しい惑星を作り出してそこに選ばれた人間が住まわせるということある、そんなことができるのが全能の神だとなるからだ
つまり未来を知り作るのは人間ではないのである、全能なる神なのである
この世に理想郷などできない、むしろハルマゲドンであり業火のうちに滅びる
それが予言れれ予定されているのである

だから神の選ばれたものを救出する、それが聖書に記されていることなのである
人間の未来は科学技術によって生まれない、それが原発事故で証明された
科学技術が万能になることはない、むしろ科学技術よって核戦争のように滅びるということが確立として大きいともなる
人間は人間の業(カルマ)によって滅びるということである
科学技術でもすべていいものとてしは働かないからである
その滅びの日が迫っているのかもしれない、グロ−バル化することは世界が一つのように見えてきている、またイスラエルが建国されたこともその日が近いともなる
人類の業〈カルマ)の総決算が起きてくる時が迫りつつあるのかもしれない
明らかにそこには神の意志が働くのであり何か自然現象として科学的に起こるのではない自然を越えた所に神が実在して神の意志で滅ぼされるのである