神を愛するとは何なのか
【親子の愛でも何故もめるのかー無償の愛が無いから】
「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただ一人である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4−5)これがヘブル語の聞け"という最初のことばからとったシェマーとして知られていることばです。 現代のユダヤ人は、朝夕の祈りの中で、シェマ―を唱えることを最も聖なる義務の一つだと考えます
主を求めなさい
主を恐れなさい
主に仕えなさい
主の命令と定めを守りなさい
掟を守り行いなさい
聖書メッセージ(Tヨハネ4:7〜12)『神は愛なり』
聖書箇所 Tヨハネ4:7〜12
4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
神を愛しなさいと言うけど神をどうして愛せるのか、目に見えないものを愛せるのか
神が愛であるという時神は常に人を愛する者であり与えてくれるものである
それが神を愛しなさいというとき神が愛されることを望む。神は自ら満ち足りたものであり愛されることを望むのかとなる。
人間は常に人であれ愛されることを望む、それで神は誰であれ愛してくれる与えてくれるものと見る。だから神を愛しなさいとは何なの理解できない
そもそも愛という時愛される愛であり自ら他者をすべてのものを愛せよとなると実行できない、だから教会であれ宗教団体であれそこに入るのはみんなが神が愛してくれる与えてくれる何かもらえると思って入る、それが他者愛しなさい与えなさいと指導されると期待外れだとなる
そもそもそうした高等な愛でなくても愛にはいろいろある。親子の愛と男女の愛とかいろいろある。では神の愛という時何なのか?それは親子の愛とか家族愛とかからしかイメージできない、だからキリスト教では父の愛となる。それは親子の愛なのである
でも親子の愛は血縁の愛である。父の愛はそうした血縁とは関係ない、愛という時血縁でも親子の愛がない場合がある。それで親子間で確執がありもめる
親の愛にもエゴがあり条件があり見返りを要求する。
要するに無償の愛がこの世ではない、愛にしても必ず見返りが要求される。親子でもそうである。それで嫌になり親子でも争う。神の愛となれば無償の愛である。愛する人であれ何も要求しない、それでも神は愛されることを望み要求する。神も愛されることのである。それは何か物を与えるとかではない、神を愛することは神に仕えることであり神の掟を守ることである。だから肉親などの愛とは違う。そこに厳格な父が存在してその戒めに従うとなるから母親の愛とも違うとなる、そこが誤解しやすい、何でも許され与えられ愛されるのとは違う。
でもみんな神とはそんな厳格なものとは見ない、とにかく無条件で愛され与えられるものとみる。それで宗教団体に入るのはとにかく何かを与えてくれる愛してくれる助けてくれると見て入る。だから愛しなさい、与えなさい、許しなさい・・・とかなると実行できない、愛してください与えてくださいと思って入ってくるからである。実際はカルト教団になると一人でも会員を増やして勢力を増大させてこの世で力を持つことだから受け入れる。でも何でも与えられれ助けてくれるとはならないとなり失望する。それも余りにも勝手なものだとなる。
その神の厳しい掟を守れとなれば嫌だとなる。何か騙されたともなりやめるともなる
それも余りにも勝手な一方的な要求だとなる。自分の都合のいいように解釈してそうなる。神は相当に厳格であり女性のように甘いものではない、
とにかく愛という時、愛してくれる与えてくれることであり神でも愛することであるということは理解できない、神を愛することがどういうことか理解できない
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
まず人間が神を愛するということはありえない、第一見えないし実在するのかどうかもわからないからである。だから人間は常に神ならざるものを愛して拝むのである
それで妬む神として神がその実在を示したのである。
弟子フィリポが「父(神)を見せてください」と願った時、イエスはこう答えました。
「私を見た者は父を見たのです」
これは、
「神を知りたいなら、私の生き方・言葉・行動を見なさい
紙は見ることはできない、でもキリストを見た者は神を見たとなる。神とは何なのかキリストの言動を見て知ることができたのである。抽象的ではなく目前に現存する者として認識できたのである。
神が愛であるという時、親子の愛とかからイメージする。でも親子の愛でも無償の愛はない、常に何かを要求する愛である。別に親子でなくても血縁でなくても愛はありうる
その方が本当の愛となることもある。なぜなら一緒に子供の時から生活しなければ血縁でも親と認識されない。そこで愛は育まれない、それで動物は親が違っていても乳をのませれば親と認識するが実の親でも認識できない、犬でも犬に育てられた猫は犬が親だとなる。そこに親の愛を感じて育つからである。
ともかく神の愛とは何なのかそれは親子の愛とかからしかイメージできない。親子の愛でも母親の愛と父親の愛は違っている。父の愛は厳格な愛になる、でも母親の愛をみんな求めてている。厳格な父親の愛は嫌なのである。
だから神を愛しなさいというとき父の愛は受け入れにくいのである
愛が最も大事なことはわかる。何故なら愛は体にも影響する。病気になったりすれば看病するにも愛が必要になる。でも医者でも看護師でも家族代わりになれない。家族のような愛を持てないからである。そこが致命的になる。
また独身者が早死にするのは愛する人がいないからだとなる。つまり愛は体に影響する。心と体は一体だからである。それは自分自身がそうだからわかる
いくら病院で治療するにしても高度な機械で診てもらうにしても優秀な医者に診てもらってもそこに愛が無ければやはり影響する。でもその愛は家族なら持てるが医者でも看護師でも持てない、そこに限界がある。癌でも周りに愛する人がいれば癌でも消えたり長く生きるというのはわかる。それだけ愛は影響する。でも何かそれほど重要視されない、常に医者に機械に薬に頼る。機械でもAIでも愛が持てないのが限界である
神が愛であるというとき愛が持てなければ神にはなれないからである。
だからいくら文明が高度に発達してもそこに愛が欠けているから殺伐としている
愛無き荒野と化している。
いづれにしろいくら愛を説いてもそれを実践することはむずかしい。それは親子の愛すら無償の愛でないことでもわかる。子供に何かを要求する愛だからである。そこで親子でも確執が生まれうまくいかないとなる。