2019年05月21日

40歳の焦燥 (人生は30までで骨格は形成される、あきめるには早すぎるから苦しい)


40歳の焦燥

(人生は30までで骨格は形成される、あきめるには早すぎるから苦しい)

Love & Freedom(底辺労働者)の人がなぜ焦燥感に苦しむのか?
それは盛んに自ら言うように40だともう終わりだがそれまでならなんとか未来がまだあると見る
そういう中途半端な年齢だからだろう
でもすでに30を越えて40になると人間はもう決まってしまう
それでもうスキルもなにもないとか苦しむ
一生底辺労働で後は生活保護だとかFXで一発かけて挽回する他ないと悲壮感を漂わせている

人間は何か意外と20代くらいで決まってしまう、40近くになったからもうその一生は見えてくるとなる
「若き時に神を知れ」というのはそのためだった、この深い意味は若い時わからないのである
20代で求道しないものが30過ぎて40過ぎて求道できなくなっている
そんなことがあるのかというときふりかえるとあった
求道は最も命が盛んな時するものであり力が衰えた老年になってすることができなくなる
普通はこういうことを考えない、青春なら欲望のままに若さを発揮して生きればいいとかなる、そんな求道とか関係ないとなる
ただ求道だけではない、ビジネスでも仕事でも20代に骨格が形成されるから30過ぎると無理だとなる
だから人間は30でほぼ人生行路が決まるとまでなる
その20代があっというまに過ぎてしまうのである
やはりその時期が一番大事だったのかとふりかえるとなる

20代というとき何か人生はとてつもなく長いように感じるのである
永遠につづくようにも思う、だから年齢によって感じる時間は相当に違っていた
60とか過ぎると人生が終わるのがアッという間だったとなる
年齢によって青年と老人の差はこの時間感覚にある
人生が限りなく長いと20代では思っていたが過ぎてみればアッという間だった
そして20代でほぼ人生は決まっていたともなる
そしてすでに若い時は青春はとりもどせなくなっているのだ

ただ30までにほぼ決まるとしてもその先は長いこともある
私の場合は30年間旅に費やして終わったとなる
これも普通はありえないことだが正規のルートからはずれたからそのまま外れたルートを最後まで来たということになる
だから一旦正規のルートからはずれるとそのまま最後まではずれたままになる
20代でも正規のルートからはずれるとフリーターとかニートとかなり正規のルートにはもどれなくなる
時代が変わるにしてもそうなっいる

ただ人生百年という時今までと違った時間感覚をもつ必要がある
つまり成果を出すのはかなり遅くなる、60代とか70代になってもいいとなる
その先さらに百年生きるとなるとそうなるのである
だから長期展望ができる時代になっているのだ
何か成果を出すためにあせる必要はないのである
骨格は20代で決まるとしてもそこに肉付けする時間が長くなるのである

いづれにしろ40代の焦燥感はわかる
でもこれが60とか70とかなると消えてしまうのである
あきらめるから焦燥感が消える、なんとかしようとかもがくこともないのである

なんだ、人生は終わりなのか、これぽっちで終わりなのかと驚くのである
そして何か不思議な感覚になる
この人生は何なのか?人の出会いでもさよならだけが人生だとなる
人間は会ったとしても本当は分かれるだけだとなる
あなたとここで会いましたがすぐお別れです、私はあの世に行きます、あなたとは二度と会いませんとなるのも不思議なのである
例えば嫌な人がいようが常に嫁姑で憎み争っていようがその喧嘩していたのもなつかしくさえなるかもしれない、なぜなら二度と会えなくなるからである
現実に家族が全部死んでそうなったからである

この世にいつまでもいられない、人生はliveはleaveであり去ることだったとなる
とかなり次々に変わるのである、常がない、無常なのである
「I leave A for B.」「I leave B forC.」「I leave C forD.」.....
去ることが人生なら重荷もないのである
何かを重く背負うから背負わされるから人生は苦しくなる 

でももうこの世から去るだけだ、この世とはお別れだとなるとそういう重荷も消えるのである、だから60以上でも警備員とか底辺で仕事している人がいるがそういう人はあきらめているからふっきれているから悟りきったようになっているともみる
40のような焦燥感がないのである

人生はこんなもんだ、人生はこんなで終わりなのかと意外に思うのである
つまり若い時とか40でも何かをしなければならない、何かを達成しなければならないとかで苦しいのである
別に今日一日でも生きていれば得だよとか老人だとそうなる
なぜならすぐに死んでこの世とはお別れだからである
だから焦燥感とかはなくなる、ただ後悔は誰でもある
時間を有効に活かせなかった後悔は誰でもある、巨額の金を残した人でもそうである
青春はもどらないし時間がもどらない、人生をやり直すことはできないからだ
だから金より時間が貴重だったとなる

人生は誰でもなにかしら積み重ねがある、それが60以降に活きてくる
自分自身は文学の才能はあったとしても何か何もないとも見られていたのである
でも60以降とかさらにその後に何か今まで積み重ねたものが活きてきたなと思う
また理解できないことを理解できるようにもなったのである
詩でもそうである、相当に書き溜めたがまだ発表していない
なんとか詩集にしようとはしているがなかなかできない


青春でもその後の壮年でも人間には節制とか心を訓練する必要がある
しないと人間は欲望のままになり怠惰になってゆく
つまり心の鍛錬が必要なのである、それはあらゆる面でそうである
芸術でもそうであり他の仕事でも職人でも技を身に着けるのにはそうなる
それで全く絵の才能がないのに私が抽象画を作れたのはただ訓練してそうなったのであるだからすべて才能だけで決まるわけではないのである
何事か常に積み重ねて節制して鍛錬してゆくことが実りとなってゆく
だから人生百年時代は本当は焦る必要はないのである

自分としては酒とか煙草を30過ぎて一切やめたのが良かった
酒は頭を馬鹿にするし認知症にもなるかもしれない、精神を修行するには酒は良くない
なぜなら頭が一時的馬鹿になってしまうからである、脳と精神を麻痺させるのである
その影響は結構大きいのである、むしろ煙草はそんなに影響がないかもしれない
酒は一時的無意識にして馬鹿になる

いづれにしろ精神の修養と修行はしろ、節制はしろ!

これは別に宗教だけではない、あらゆる面で言えたのである
天才でない限り人間は積み重ねなのである
第一膨大な知識を全部知悉することは不可能である
ほんの一部だけであり天才だって知識的にわずかしか知ることができない
つまりある分野に積み重ねれば凡人だって詳しくなれる
そしてその人に埋もれていた才能が開花することはある
だから修行するとか節制するとかが大事になる
自分は社会からはずれて生きてきたけど修行とか節制をしてきたともなる
旅したのも見聞を広めるためであり何か無駄に浪費したのとも違っていたから今になり書くものがある、そして自分自身は節制してきたし雑学のような知識でも積み重ねてきたのである
それで凡人でも今になり何かしら芸術でも実るものがあったと思う
ただ誰も評価してくれないというだけなのである 




2019年05月05日

カルマを積んでいるから必ず苦しみとなって現れる (国でも会社でも団体でもカルマの清算が強いられる)


 カルマを積んでいるから必ず苦しみとなって現れる

 (国でも会社でも団体でもカルマの清算が強いられる)

良いことをすると良いプラスポイントがたまっていって、いつかポイントが自分に還元されます。

しかしプラスポイントと同様に、悪いことを行うと悪いポイントが貯まっていきます。そして悪いマイナスポイントも悪い出来事として自分に還元されてしまうのです。

自分にカルマのポイントが還元されることを「カルマの精算」と呼びます。


カルマの謎はいいことと悪いことがポイントとなることは確かである
ところが人間社会全体を見ればつくづく個々人だけでない、家族であれ会社であれそもそも国自体がカルマを積んでいる
それがある時何かの大きな事件となって苦しみとなって現れる
つまり時代を変えるような大きな歴史的事件が起きる
それが戦争とか自然災害とか巨大な事故とかである
また金融とかなると資本市主義が崩壊するような深刻な状態に陥ってゆく
金融恐慌などが起きてくる

その周期は60年間70年なのである
個々人でもそうであり国とか世界全体のレベルでもそうなのである
日本だと70年前は戦争でありその70年前は明治維新なのである
その変革は日本全体をまきこむ変革の時代であった
それはカルマの清算も意味していたのである

なぜそういうことが起きてくるのか?
知らずにカルマが積まれてどうにもなくなってくるからである
自分自身の体験したことでもそうである
介護から病気から今度は他者から責められるだけだった
塗炭の苦しみを受けたのである
誰も助ける者もいなかったのである
これも自分自身のカルマだった、別に悪いことしないからとか関係なく人はカルマを生きている限り積んでいるのだ

カルマといってもそれは多様なのである、結婚することもカルマであり結婚しないこともカルマであり子供をもつこともカルマだし持たないのもカルマである
仕事するのもカルマだししないのもカルマである
おそらく何もしなくても人間はカルマを積んでいる
その清算がやがて60以降に確実にカルマとなって苦しみとなって現れて清算を強いられる

それは個々人だけではない、国全体とか世界全体とか会社でもあらゆる団体でも起きてくる、宗教団体などでも起きてくる、宗教などでもそこでは本当に善いことを心の清い人たちの集まりでもなんでもないからだ
むしろ宗教を利用してこの世の欲を追求しているのがほとんどだからである
そこでカルマがそういう団体に現れてくる
そこで派閥争いとか権力闘争が内部でも起こり殺し合いさえ普通に起きる
組織化すること自体人間の業なのである、そこでは熾烈な地位争いとか起きてくる
それでオウムでは有名大学出ていないから幹部になれないとサリンを率先してまいた人がいたのである
そういうことはどこの組織団体でも起きてくる、それがカルマ(業)なのである

原発事故を見ればわかる、そこには東電だけではない、国家自体が国家を担う政治家でも官僚でもマスコミでも今の社会の枢要にある人たちが「安全神話」結託して作ったのである、国家自体がカルマを積みそして破局的な事故を起こしたのである
その時津波とか地震とかも何かカルマを清算するために起きたともなる
何かそこには人間の業(カルマ)が蓄積されて遂に爆発したとなる
戦争などでもそうしてカルマが人類全体に積もり何千万という人間が死ぬ
そして人類滅亡のハルマゲドンが起きるというときもそうである
人類とは人間とはそもそも生きること自体カルマを積む存在だったのである
だからいつか人類滅亡のカルマが破局的なものとして現実化する

例えば世界全体で資本主義がここ二百年くらいつづいたとしてもそれも富が数パーセントの人に握られる、そんな社会が持続すると思うだろうか?
なにかしらでそんな悪魔的なことをしていたら破局が訪れ日がくる、それが世界恐慌なのかもしれない、資本主義の崩壊なのである
その枢要な要の銀行もつぶれる、銀行というのは悪魔的な所があったからだ
それが確かにいい方面に機能していたときは良かった
銀行は兵器産業を推進する会社とか環境破壊の会社とかいろいろな悪い会社に投資している、また最近では地銀レベルでも投資信託とかでかえって投資する先がなくなり利子をとる方になっているのだ、だからもう銀行は半分が潰れるという時、そういうカルマを積んできたからまず資本主義は銀行から破綻してつぶれてゆく
資本主義が長くつづいてカルマを積みそのためにもうどうにもならなくなりつぶれる破産するのである

個々人でもそうだけど何か巨大なカルマが積もり積もった時、もうどうにもならなくなり天変地異とか起きたり巨大事故が原発事故が起きたり戦争が起きる
それはカルマの清算なのである、そのために人類の三分の一は死ぬと聖書でも予言しているのはそのためである
カルマの清算は個々人でもそうだが人類全体でもその規模が巨大になるのである
人類が滅亡することだってありうるのである
人類とは人間とは罪を背負ってカルマを背負って生きていたが遂にもうそのカルマを清算することを強いられる、神の許容限度を越えたとなりそれで世界が滅亡するような破局的現象が起きてくる  

そこには人間の念というのも関係している、思想も関係している、悪念が視界をさえぎるほどに人間からあくことなく放出されてくるすると神はそういう悪念に耐えられなくなりそれを一掃するために天変地異とかが地球規模で宇宙規模でも起きてくる
だから大都会は危険である、そこには悪念が欲念が集積した場所だからである
そこには人間の生き地獄が現れやすいのである、何かそこに美的なものがないことでもわかる
美的なものが生まれないことでもわかる、天才でもヨ−ロッパでも地方都市には生まれてもメガポリスなどからは生まれないのである現代は世界的にもメガポリスの時代でありそこに富が集中している、それが危険なのである

そういう場には文化は生まれない、ただ巨大な欲望の経済都市となっているだけなのである、巨大な胃袋になっているだけなのである
とにかくこの辺に起きたことは必ず全体に波及する、ここだけの問題ではない、津波とか地震は天変地異は起きる、また原発事故もどこかで日本だけではない起きる、そうういカルマが必ず蓄積されていて起きる
中国だってとても何兆もの金を人民から奪っている政権が維持できるのか?
これもカルマが積もり積もって革命が起きてそこで文化革命の時のように膨大な犠牲者が生まれる
だから何かが起きないこと自体ただ猶予期間にすぎないのである
最後に死が来るように避けられないのである、だからこそ易姓革命が起きるのである

戦争から70年過ぎて日本でも今がその大きな変革の時なのである、その変化に大きな痛みが生まれる
会社でも銀行でももう安泰なものはない、国家を担う人たちでも安泰はない
国自体が崩壊するような危機に瀕するからだ
つまり資本主義は終わる、その時新しい生みの苦しみが起きる、それは新しいものが生まれ作るための苦しみなのである

「人間は幼いときから悪をおこなう」(創世記8章21節)

ノアの時代、地上に創造した人間たちが堕落していったのを見た神は、すべてを滅ぼすことを決心した

その時すでに悪がカルマが積もり積もっていたのである、そうならざるをえないのが人間だったのである
それは一人の例外もないのである、そして再びノワの洪水並みの天変地異が起きる
人類がそういう時期にきている、グローバル化とは人類の平和を促進することでもない
悪でも世界規模で実現してくることでもある、多国籍企業などでも世界を舞台にして環境破壊するし世界の貧乏な国を搾取しているのである、つまりグロ−バル化とは世界規模で何か大きな破局が起きることでもあるのだ
そもそも第一次第二次世界大戦もそういうグロ−バル化のために起きた、その前はそんなことがない、日本だったら鎖国で300年戦争していないからである、グロ−バル化とは何かいいように見えても世界的破局をもたらすものともなるのだ
貿易戦争がそうである、貿易の面で国と国が助け合うとういう面があっても熾烈な経済戦争になりまた戦争になる
だから現代では何でも世界規模で大きな事件となり破局が人類的にもなり遂に人類滅亡の危機になる
それは別にSFの小説ではない、現実なのである

自分自身にも起きたことは何か自分のカルマでありまた人間がもうモラルもなにもない、金しかない、人とは金でしかない、情もなにもなくなっている、金のためには人を殺してもいいとまで普通にみんなそういう心情になっていることが怖いのである
そういう地獄人間が今やこの世を形成しているのである、そんな社会が平和でありうるのか?
だからこそ自分自身にもそういう人達が弱った時襲いかかってきたしそれはまた自分が積んだカルマの結果だったともなる
カルマとは別に自分が悪いことをしなくてもいろいろなことで積んでいるのである
知らないでも積んでいて苦しみとなって現れたとき自覚するのである
私は何も悪いことをしていないと私の家族が言って死んだ、それは何かみんな私は悪いことはしていないと死ぬとき言う人が多いのである、そのこと自体最後に死ぬとき罪の呵責に悩まされているからそうなったのだと思う

そうして認知症などという訳のわからない病気になるのも人間のカルマの結果だったともみる
認知症になるといくら優秀な人だとしてもあらゆるものが崩壊する、もう人間でくなったのかという恐怖を味わったからである
そういう大きなカルマが最後にくること自体、人間のカルマがいかに大きいものか最後に苦しみとなって現れるかを如実に示しているのだ、もうカルマから逃れようがないのだ、人間は幼い時からカルマを積んでいかるらである
生れたのもなにかしらカルマがあって生まれたとなる、カルマを清算するために生まれたともなる
なぜなら人間が苦しみなく終わることがないからである、どんな裕福でも病気になったり死ぬから同じだとなるからだ
そういうことでは平等だからである、つまりカルマから逃れられないの宿命なのである
科学技術すらカルマと関係ないようでも人間のカルマなのである

技(わざ)は災いに通じているからだ、科学技術が破局的なものをもたらすことは原発事故で証明されたからである、核戦争が人類を滅ぼすこともありうるからだ
最後に人間は業を尽くしてハルマゲドンの最終戦争で滅びる
つまり人間の業(カルマ)はそのくらいのことがない限り消滅することがないのである

大難を得て罪障消滅するー日蓮

これも個々人にあてはまるし人類全体にもあてはまる

2019年04月07日

神の爆弾に宗教問題をとりあげる (宗教団体はただ数を権力を得るために活動しているだけ)


神の爆弾に宗教問題をとりあげる

(宗教団体はただ数を権力を得るために活動しているだけ)


宗教と宗教団体と違っている、宗教団体とはなんであれ利権を追求する団体である
それは政治団体ともにている、創価などは政治団体化している幸福の科学でもまた他の日蓮宗系統の団体でもそうである
そもそも宗教を職業とすること宗教で飯を食うこと自体が何か誤った方向に導いたのかもしれない、それでパウロはそのことを嫌ってテント作りして自活して布教していた
宗教というとき何か暴力団のように怖いというのは団体化して徒党を組んで威圧してくるからである
そして罰が当たるとかその団体は宗教で脅しをかけたりする、呪うことだってする
そうしたカルト団体では宗教団体はみんな同じなのである
個々人の改心とか心の問題など関係ないのである
会員を増やしてこの世の勢力となり権力と利益を得るためでしかない
エホバなどでもそうである、会員になるのはどんな人でもいいのである
ネコ十匹飼ってまわりに迷惑をかけているとしてもその人がどんな人か問わない

それはどこでも同じなのである、会員を増やすことが第一であり宗教で重んじる改心とか何か精神的なことは一切関係ないのである
だから政治団体に当然なってゆく、議員をたてないにしても政治団体なら当然団体の利益を得るために訴えても正当化されるからである
そして集団化すると何でも許されるとまでなる
みんな創価の会員であれカルト団体の会員化したらそれはナチスになるのである
宗教だと必ずそれが悪用される、敵に罰が当たるとか呪詛するのも普通である
それが何百万で呪詛されたら怖いものとなる、つまりナチスなのである
当然権力を目指しているのだからその人たちが権力がとれば結果はどうなるのか?
それはソビエトとか中国の共産党でもわかる、利権は一分の幹部が一人占めすることになる、なぜならそもそもそうしたイデオロギーなど手段に過ぎないのである
権力を得るための美辞麗句でしかないのである

現実は常に人間の底知れない欲望がありそれが権力を得ればそれを実現しようとする
宗教団体だから清貧だとか今はありえないのである
それはすでに宗教が力をもったとき権力を得た時そうなっていたのである
だから実質の権力者の武士と衝突して信長の焼き討ちがあった
それは信長でも相手がそうしてただ権力を維持して権力をふるうだけの団体とみていたからである、そこに現実に武力をもつ僧兵もいたからそうだったのである
宗教団体は僧兵であり武力をもたないにしろいざとなれば武装すらして権力をふるうことになる、カトリックでもそうだったから政教分離政策をとるようになったのである

つまり宗教も必ず俗化する、巨大な大衆であれそうしたものに飲み込まれて俗化する
そもそも会員だけを増やすことを目的としているのだから必然的にそうなるのである
その人たちは地の塩なんでもないただの俗化した人たちである
ただそうして団体で数で権力化して圧力をかける、そのために宗教も利用されるだけだとなる、寺がつぶれてゆくというときも何か宗教が胡散臭いというのがあるからである、江戸時代から墓を管理するだけのものでありそれが現代までつづいてきただけなのである
大衆にとって宗教はなにか?
それは一つの利権団体として利用するものとしてあるだけである

キリストが二三人集まる所に私がいるとか言っている、たった数人のことなのである
それが何百万とか億人とかなるともうそこには神はいないのである
ただ権力を得るために人々が群がるだけだとなる
オウムの幹部は高学歴でありそれで学歴をもっていない人が地位を得るために幹部になりたくてサリンをまいたと言っていた
その内部でも熾烈な地位争い権力争いがある
そして人間が組織化して集団化するのは人間の変わらない業なのである
会社自体でも必ず派閥を組む、派閥を組むことも人間の業である
それで宗教でも団体化組織化したら同じになる
そこはもう権力を操作する場所でありあとは宗教はそのために利用されるだけだとなる

そもそもでは会員を一人でも増やしたから信者の数を増やしたから神は認めるのか?
数さえ集めればそれで集団で神に訴えて神が仏でもいい認めるのか?
それは世俗ではそうして数が集まれば恐怖するし権力で左右できる
でも数が多いからとその人たちがみんなどんな人たちなのか、その内面は心はどうなるのか?そういうことは一切関係ない、これだけの数が集まりました、みんな成仏させてください、天国に入れてくださいとは宗教ではならないのである
それは世俗の場なら通用するからそうなっているのである

それがイスラム教でも同じだったのである、最近見ている、「オスマン帝国外伝 〜愛と欲望のハレム〜」でイブラヒムという大帝相に反乱する、イスラムにもいろいろ宗教団体があり特別の団体に金を支給できない、多くはできないと断る、それをその宗教団体は怒りデモしたり襲撃までする
それは一重に特別に特定の宗教団体に金を多く出せということでそうなった
それでそこまでするというのはドラマだからだろう 
普通は宗教家だったらそんなことまでしないとなる
それで殺されているのだから割に合わないとなるからだ
でも金がないと生活に困るとかありそうなった、政府からの支援で成り立っていたからだともなる、これも何か政治と宗教の分離がなされておらずこうなった
現実にこれは日本であれ世界であれ共通の問題だと思った
利権のためには金が欲しいとなれば武力で襲うこともある
ただそれだけのことでありそこに何か宗教が関係しているとも思えないのである

宗教団体の会員の頭の中にあるのはとにかく会員を誰でもいい、一人でも増やして勢力を持つことである、権力をもつことである、それしかない
それが権力を得る事だからである、後は馬鹿な会員に適当に罰当たるとか脅していればいいとなる、ただそれでも自分がその罰を当たることを恐れているのである
それは自分が損すること常に恐れている、損することは罰があたることなのである
利益があるもうかる得することが信仰のおかげだとなるだけである
それが宗教の俗化であり大衆化でありもうそこには本来の宗教心など何一つないのであるあるのは人間のむきだしの欲望が集団化したというだけなのである
そこでは一切の精神的なもの真善美もない、そんなものが生まれえようがないからだ
だから宗教でも仏教でも芸術化されたときそこにはやはり今の宗教とは違っていたのである、それは本来の宗教心が信仰心があってこそ生まれたとなるからである

現実に創価だったらカジノなどギャンブルに反対するはずだがしない、自民党のなすがままである、それが庶民の政党なのか?
つまりもともと権力を求めるだけであり権力で得することしか考えないからそうてっても不思議ではないのである
それは結局大衆なら得することしかしない、原発でも得するから積極的に誘致したのである
損得ですべて判断するだけである、いづれにしろそういう団体はなのためにあるのか?
それはただ利権をえるために会員を増やし権力を得るためだとしかいいようがないのである
だからそういう団体が宗教を標榜していることこそ偽善だとなる
でもそういう矛盾がこの世の習いだとなる、それが変わらぬ世の中の姿だとなる
それにしてももっと謙虚ならいいがあからさまに利権のみを追求しているのは異常だとなる
そのために毎日祈っているのも異常だとなるがそれがそうならないのは数が多いことであり権力をもつと是認されることである
そしてまたいつしかナチスの全体主義の再来の悪夢が現実化するのである 

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紙の爆弾は何なのか?左翼系であるがそれなりの論調を出している
でも楽天でその紙の爆弾を出した、楽天の社長は創価系だとしているがそうでもないことがわかる、ここで批判しているからである
とにかくインタ−ネットだとプログだと簡単にこうして評論を加えられる
それは金がかからないからである、マスコミが力をもったのはまず一個人では新聞であれ雑誌であれテレビとなると余計に何も言うこともできない
ただそうした権力をもつマスコミによって牛耳られてきたのである
それがyoutubeで放送するとかインタ−ネットで報道が変わって来たのである
マスコミとyoutubeでも平行化してくる、それは報道するにしても資金がかからないからである、テレビ局すら個人でも作れるともなる
そこで百家争鳴になっている

2019年03月26日

天の時 地の利 人の和 (天の時が一番大事だとも思う所以)


天の時 地の利 人の和

(天の時が一番大事だとも思う所以)

1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 
2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 
3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、 
4 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、 
5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、 
6 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、 
7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、 
8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。 

聖書の言葉


天の時 地の利 人の和はどこでも働く、季節があるとしてその季節にかなったとものとして種を植えそれを育つのを待つ、その時期が問題なのである
種蒔桜があるとして桜の時期に種をまくとか時節にかなって農業がある
そして実りの時を待たねばならない、実りの時もある
実りを急がすことはできないのである、そうすれば失敗する

天の時というときそれは本当にあらゆる所に人にあてはまるのである
天の時というときその時代があり時代が実はその人の力量に関係なく決める
どんなに才能があっても天才でも時代に恵まれなければ変人で終わる
平賀源内などがそうである、また凡才でも時代に恵まれれば英雄にもなる
吉田松陰などでも志士と言われた人たちもあのように若くて英雄になれたのはただ時代がそうさせたのである
それは江戸時代のような平和な時期にはそうした人が生まれないからである

ただそれは何か歴史的な大きなものでも個々の人生に常に起きている
天の時というときそれは何なのか?
少年時代があり青春時代があり壮年時代があり老年時代がある
そこに人の出会いがありいろいろなことを経験する
ところがこの出会いに一番天の時が関係しているのだ
恋愛であれこれも時節がありそれを逃すと2度とできなくなる
つまり誰と会い恋愛するとか結婚するとかではない
そういう時節がありその時節を逃すとそういう機会はは二度とめぐってこないのである
それはその人の時が時節が決めているのであり人が決めているともならないのである
男女ともそういう時節がありその時を逃すと二度とそういう時はめぐってこないのである
地の利も大事だが天の時もつくづく大事である、だから天の時の方が地の利より大事かもしれない、そして時代は常に変わってゆくからだ

私の家は最初は子供相手の小さな駄菓子屋のようなものだった
でもその時は時代が高度成長に向かって進んでいる時代だったのである
物が置けば売れたのである、別に商才があるとかではない、その時は日本では小さな事業主でも店屋でも成功する確率が高かったのである
つまり天の時があったとなる、その小さな店をするのに資金が必要だったがそれも50万だったか5万だったかわずかな金だったが工面するのに苦労したというだけである
その店で別に商才とか商売に向いていたか成功したのではないのである
ただ地の利があったことは確かである
小さな町でも角にあり地の利があった、人が集まり安い場にあったのである
今でも人が集まり安い場所だと売る物が中味はどうあれ売れることがあるからだ
だから経営でも天の時と地の利と人の和が常に影響しているのである

つくづく人生は時をチャンスを逃したら二度ともどってこない
天の時を逃したら二度とチャンスはもどってこない、何回もチャンスは来ないのである
人生は長いから何度も挑戦するチャンスがあるとはならないのである
求道でも若い時を逃すとできない、老人の宗教は慰めとか別なのである
だから青春時代は大事だとなる、そこで人間の基礎が作られるからである
その時放蕩していたりしたら決して老年になって実りとはならないのである

ただ実りというときこれも人生で急ぐと失敗する、どんな人にも実り時がかならやってくる、それは現代では人生百年という時遅くなるのである
大器晩成というのではなく実りは凡人にでもその時になれば実りの時がくる
それは学問でも芸術でも他の仕事でもそうである
たゆまず精進していれば実りの時が来る
でもその時を急がすことはできないのである、何か私は本を読んでもわからなかった
ただ本を買っただけだとなる、でも今はその本の内容を即座に理解して自分なりに消化できる、これも不思議だと思う
理解できないものが理解できるようになるのはやはり老人になってからだとなる
深い読みができるのは老人だとなる

とにかく人間は時代の子なのである、その時代から脱して生きることはできないのであるだから天の時こそ一番大事だともなる、天の時とはやはり季節とも関係しているからだ
春夏秋冬で第一心でも体も変わるからである
そして天の時の最も大事だという時、その時が時代を生きる時でも個々人でも二度と逃すと戻ってこないということなのである
それが老人になると必ず後悔となり否応なくつきつけられるのである
人生は二度ないということもそうである、そこが天の時が最も大事な所以なのである

学問にしても何か身につけるにしてもそうなのである
若い時から職人として修行したりまた勉強でも留学するのは若い時がいいし海外旅行でもそうである、若い時に見聞を広めた方がいいとなる
またそういう時代に恵まれないとできないこともある
今ならそんなに金がなくても海外旅行でも留学さえできるからだ
だから中国人の高校生が日本人と同じようにしゃべれるということに驚いた
中学から4年くらい日本で暮らしていたからそうなった
若い時は柔軟性があり適応力があるからそうなった
でも語学でも30以上とかになると覚えられなくなるのだ
だからこれも時が大事だとなる 

また時というとき人の出会いでもその人がどういう時にあるのかが問題になる
もしその人が健康で金にも余裕があるというとき困ったら頼めば助けられることがある
でもその人が健康を害していたり金に余裕がない、時間にも余裕がないとなればいくら自分が苦しいから助けてくれと頼んでできない相談なのである
でも私の経験では私が健康的にも介護とかで一番苦しい時、事業に失敗した人が来たり金銭に困る人がづけづけと頼みに来たりまた弱者と化した時、恐喝まがいのことをされたりした、大金を盗まれたりもした
それは確かに弱者化したからそうされやすい時だが自分自身にとっては家族と自分自身の体のことで精一杯なのだから他人の相談にのるとか助けることなどできないのである
今は体にも家族の介護もしていないから余裕ができたから助けることができる
でもそういう時に来たら自分自身が困っているのだから助けてもらいたいのに逆に弱者と化したことをいいことに苦しめられただけだったのである
つまりその人がどいう時なのか?状態なのかで接することが必要なのである
でもそんなことを全く考慮しない、その人も助ける余裕がないからそうなっていたのであるもし余裕ある時だったらこうはならなかったのである

いづれにしろ人間にとって人生でもその時が一番大事なのである
もし人生が永遠につづくならいい、それが余りにも短いからその時が大事になる

老人になって何をみんな後悔しているのか?

なすべき時を逃した!

これなのである、なぜならその時が永遠に戻ってこないからである、やり直すこともできないからである、そのことが否応なく気づかされるのである
そして人生は百年時代でも短いのである
だからこそ時の方が大事だとなるのだ

2019年03月17日

人生はなぜ誤算が多いのか? (将来を誰も予測できないから―人生そのものがリスクだ)


人生はなぜ誤算が多いのか?

(将来を誰も予測できないから―人生そのものがリスクだ)


人間個々人でもそうだが社会でも誰も将来を予測できないから誤算になる
こんなはずじゃなかたとみんな人生を終える
そして後悔しない人生はない、誤算がない人生はない
いくら老後に備えても貯金しようがそれで安全にもならないし備えたとはならない
老後にやることなくなり生きがいもなくなり絶望したりする
それから老後にやりたいことをやろうとしてもできなくなる
金はあるが体力がなくなり病気になったとか親の介護で何もできなくなる
そうした誤算が誰にでもあり備えることができない

この辺で津波とか原発事故を誰が予想できたか?
こんなことが起きるなど誰も予測できなかったのである
そうししたことが個々の人生でも社会的にも起きてくる
70年くらいの単位で激変が起きてくる
それにいくら備えようが備えることは不可能なのである

自分の家族をみても一人は突然赤紙が来て4年間従軍看護婦としてシンガポールに行かされて地獄の苦しみの中で生きねばならなかった
それは全く突然なのである、ベ―トベンの運命なのである
一人は東京で結婚したが夫は若くして工場の事故で死んだ
またもう一人は40歳で交通事故で死んだ、そして私の身内は全部死んで残っているのは自分一人になった
なにかしら個々人でも社会的に予測しないことが起きる
もうそれに備えることは不可能である

だから老後を計画しても無駄だともなる、貯金していても病気になったりして何もできなくなる、なにかしたいことがあったら体力あるうちに若いうちに思い切ったことをしろとなる、体力がなくなったら金があっても何もできなくなるからだ
そして時間とたちまちすぎてかえってこないのである
青春はあっというまに過ぎる、そして若い内求道しないものは後はできない
いつでもできると思うができない、せいぜい慰めが宗教になる
だから若い内に神を覚えよとなっていたのである
そのショックは青春が過ぎてしまって後悔するだけだとなっているのである

人間何かいろいろ備えろとか言うがもう人間はリスクから逃れらられない
もう生きていること自体リスクなのだ、株でも何でもリスクがないものはない
私の母は安全志向で冒険などしない人だった
それでも水害にあい、水が来て炬燵の穴に米を運んでいる時落ちて大けがをしたのであるつまり家の中にいても安全はないのである、それは津波でも証明された
この世には安全な場所はどこにもないのだ

だから津波に備えてバカでかい堤防とか高台といろいろ対策したがそんなことでも何が起きるかわらないのである、そういう備えししても今度はそこに住む人がいないとか誤算になったりする、何かも災害でも備えることは不可能である
それで減災という思想が生まれた、なるべく被害を少なくなるする方法である
それは馬鹿でかい堤防とか高台を造成して住むのではなく津波が来たらなるべく早く逃げる算段を日ごろから心がけることである
それも自然災害に備えることであり莫大な金をかけて堤防とか高台を作っても無駄だともなる

要するに人間は何であれ絶対に危険から逃れられられない存在だということを知るべきである、いつの世も火宅の世に生きているのが人間なのだ
だからもう危険を覚悟してあきらめて生きるほかないとなる
運任せだともなる、その方がリスクをかえってさけるということもある
あまりにも戦々恐々として危険を避ける安全策をとっているとかえって危険だったりするかえって危険の中に飛び込んだ方が窮地を逃れることもある
だからといってあえて危険な所に行けというのではない
人間は危険から避けられない存在なのである
それは第一人間は生身の人間でありいつそうした体でも何か壊れやすいからである
つまり人間の体自体が最大のリスクなのである
もう誰でも老化するのが早い、するとみんな病人になるのである

だから人間は備えても必ず思わぬこと予測しないことが起きて誤算になる
でも良い誤算もある、こんな得があったなと良い誤算も起きたりする
どっちかというと普通は悪い誤算でありいくら備えても結局何もならなかったともなる
結局人間はどんなに備えても安全はありえない、リスクは必ずある
あまりにも安全志向の人はかえって危険にもなる
貯金ばかりしていても安全とはならない、現実に今の時代は貯金には利子がつかないから安全ではないからだ
言いたいことはリスクに備えることは不可能だということである

むしろどんな危険にでも備えるとなると信仰しかないのかもれない
あなたが若い内に神を知ればそれでいかなることにも対処できて満足だともなる
それはなぜかとなればどんなに財産があっても津波が来て一瞬にして流されるかもしれないからだ、津波は一瞬にしてすべてを奪い去ったから恐怖だったのだ
そういう人間の手に負えないものに備えること自体不可能だったのである
それは津波だけではないそういうことが何か別のことで起きるかもしれない
70年くらいの周期で時代が激変するからである
それで今頃になってAI化でベーシックインカムで生活するようになる
人間はみんなアーティストなになるとか言っているのか?
みんな日本人は真面目に働くのが勤めだと思っていたのにそんなこと言うこと自体なんなのだとなる、それはニートとか働かないことをすすめていることが信じられないとなるからだ

このように社会の価値観もがらりと変わる、なんで自分は馬鹿真面目に働くばかりだったのだ、その価値を今や否定される、あなたは自由にあなたのしたいことをしなさいと言われてもなにしていいかわからなよとか愕然とする
この社会はある時価値観ががらりと変わる、そして今までしていたことの価値観も否定される、戦争が唯一の国家が唯一の価値だとして命まで捧げたのに何の報奨もない
戦争自体が平和を乱したとか犯罪者のように言われる
戦後はそういう経験をした、そういうことがまた起きる

だから人間はあらゆることに備えることは不可能である
それで若い内に神を知れ永遠の命を知れとなる
そもそもだって死こそ最大のリスクであり別に津波や原発事故でなくてもみんな死んでゆく、人間は死ぬのである、そのことが最大のリスクであり逃れることもできないのであるその死に備えることはいくら財産を貯えてもできない
後は身一つで死んでゆくほかない、財産は何ももってゆこともできないのである
だから地上にいくら財を貯えても無駄だとなるのだ
津波のように一瞬にして流されて消えてしまうとなる
津浪で体育館で身一つで避難したひ人が命だけ助かってもうけものだったということを言っていた、財産に執着して家にもどった人は死んだりした
それもあれだけの災害でそう思ったのである
何もなくても命が助かったということで良かったとなってしまったのである

いづれにしろ人間はあらゆることに備えることは不可能である
必ず誤算に終わる、この世に生きることこそ最大のリスクなのである
壊れやすい体をもって生きていることこそ最大のリスクなのである
たちまち体が老化するということは病気になることでありそして死ぬだけだとなるからだ何もしなくてもどんなに安全を計っても備えても無駄なのである
だからあえて危険の中に飛び込んでゆく方が安全であったともなる
びくびく生きていてもいづれは死ぬからである
人間は死と背中合わせで生きているのである、また生きることを強いられているのであるだから危険を恐れても危険を備えることも無駄だとなる
無謀は良くないにしろ石橋たたいてわたっても無駄だともなる

人間は安全に生きるより命を何かに向かって全身で燃焼させることの方が大事だとなる
それは個々人で時代で何になるかわからない、どっちにしろ短い人生でありいづれはみんな老いて病気になり死ぬ
老人になると毎日死刑台に向かう日を数えているようなものだ
それで最後に大きなことをしたいとか犯罪でも恐れなくなる
有終の美を飾りたいと劇画的に切腹したりする有名人もでてくる
それは老いることを恐れたからである
その心も老人になるとわかる、残されたわずかの人生をどうするかとなるとなんか社会がどうだこうだとか批判などどうでもいい、どうせ死ぬんだからともなるのである



2019年03月01日

人の成果はすべて結果で決められるのか? (神は心を動機を見ているー結果より重んじている)


人の成果はすべて結果で決められるのか?

(神は心を動機を見ているー結果より重んじている)


例えば戦争だと負けるか勝つかの結果で決まる
負けたものは何も価値ないものとされる
だから歴史は勝者の歴史だとなる、負けたものは歴史に記されないともなる
では一体日本が戦争に敗れて300万人も死んだ
でも負けたのだから結果は惨憺たる敗北だったのだから意味がない
世界の歴史には記されないとなっていいのか?
その問いはあまりにも大きなものであり今だにそうなっていないことでもわかる
例え負けたとしてもでは三百万人の死は意味ない無駄な死だったできるのか?
それができないから後の世の人もその評価に苦しんでいるのである

人間社会では事業でもビジネスでも結果を出さない限り評価されない
投資信託を売って銀行員はその時成果をだした、ノルマを果たした、それは銀行に利益をもたらしたから結果から評価される
でも顧客に対しては損させたのだから結果を出してもすべてそれがいいものとして評価されるのかというのも疑問なのである
結果論で言えば金をもうけたものが何でも評価されるとなる
すべての価値は金で評価されるとなる
老人でもどれだけ金を残したのかもうけたのかで評価される
常に年収いくらだとか貯金がいくらだとかで人間は現代では評価される
結果とは金のことなのである

ただ結果を出すにしてもいろいろなことに条件があり左右される
戦争でも天候の影響などが大きいのである、だから勝負は時の運だとかなる
こういう結果を出そうとしてもその時々の条件がいろいろありいい結果が出ないということがある、それは時の運だとなる
つまり結果を出すということはいろいろな条件がありそれは一人の人間であれ会社組織であれ予測できないことが起こり結果が出たり出なかったりする
戦争でもどういう結果を生むかなど予測できないのである
大軍でも敗れることもあり信長の桶狭間のような勝利もある

そもそも人間を結果とか行動とかで評価すると間違うともなる
それで宗教では内面を重んじる、心を見るとなる
「神は心を見ている」というとき人間の成した結果を重んじていないのである
どういう心をもって成したのか?
それがもし不純な心で成したとすればそれが結果をだしても成功したとしても神は評価しない、逆に結果がでない負けたとしてもそこに例えば義があったとしたら神は評価するのである
それは何のことかというと神は動機の方を重んじているのだ
事業でもどういう動機でするのか?それが肝心だとなる
それによって成功という結果はでないかもしれないが動機が良ければまず行動する前にすでに成功していたともなる
動機が不純ならすでに何事かを成す前に失敗していたとなるのだ
たとえ巨万の富を得たとしてもそうなる
だから結果ばかりから判断すると人間は誤る

事業でも何か理系で技術が優秀だからと事業をはじめた、その人は自分が他者に優秀だということを見せるために事業を起こしたともなる
そして失敗したが依然として自分は優秀だと他者に見せたいから借金して隠している
そういう人はそもそも事業を起こす資格がなかったともなる
そんな動機で事業を始められたら周りの人が迷惑だとなるし現実事業に失敗してそうなった、その被害を関係ないと思ったが自分も受けた
その人が成功していたら結果をだしていたらどうなったのか?
今度はさらに自分は優秀だと吹聴して自慢することになる
成功しても結果をだしてもそれはいいものとならないのである
社会にとってもそんな人が成功することは逆に害悪にもなるのだ

どういう動機ではじめるのか?それが肝心だとなる
それは医者になりたいという時でも他でもそうである
ただ医者だと月給がいいとか評判もいいとか尊敬されるとか社会では一番優れた人と認められるとかで医者になる
そこには動機がない、何か親でもガンで死んだからガンを直すために努力したいとか何か動機が必要なのだがそれがない、親の跡を継がねばならないとかありやむなく医者になったとかなる

だから動機というとき犯罪でも故意なのかそうでないのかで有罪と無罪にもなる
なぜその犯罪を犯したのか?その動機を心をみて裁いているのである
殺人という結果があったとしてもそうである、その殺人を犯す動機をみているのである
神が心を見ているという時それと同じなのである
それで意外と思想というものに人は重点を置かない
人間が心でどう思うかということに重点を置かない、どう思うとそんなこと勝手だと思うそれが何か結果となるのかとなるからだ

でも実際は何か思うことは相当なエネルギーでありそれが影響する
誰かを憎いという念というのは相当なエネルギーなのである
一人でも誰かを思うことは相当なエネルギーとなる
そのために個人と直接対話するといインタ−ネットの匿名上でも疲れるのである
それは対話することは相手を思うからである
それで何か自分自身がプログでもコメントしてきても対応できないともなっている
それはその人に対して相当なエネルギーを思うことで使うからだともなる
そしていい加減な人の中傷とかもありインタ−ネット上だと相手がわからないから答えるのに疲れるとなる、エネルギーが消耗するから答えられないともなる
ただプログでも一方的に書いていると疲れないからこうして書いているともなる

このように思うということは相当なエネルギーを消耗するのである
それでインドの思想家が「誰かが憎い殺したい」とただ思うだけでその結果が出るということを教えた、本人が何もしないのにその念がが誰かに伝わりそうさせるというのだ
だからそういう念がもし国民とか会社とか組織とか多数の中に伝播するとなると怖いことになる、それは国家レベルだと戦争になるのである
宗教団体でも何百万人が地獄に落ちるとか罰があたるとか一斉にそうした念をもつことがいかに恐ろしいことになるか?
それが宗教の名のもとにそうした念をもつからである、それが巨大集団になるから空恐ろしいものとなりやがて現実に殺すとかなる

それは中国の文化革命とかカンボジアとかでもそういうことが起きた
巨大集団が一つの念にこりかたまった、それはナチスのようにもなったとなる
その念をあおることでマスメデアが加担するからメデアというのはそうした悪い念でも増幅させるから現代では怖いのである
ナチスがラジオからラジオの広報から生まれたという時いかにラジオですらそういう影響があったとなる

今なら映像である、テレビがどれほど社会に影響したかわかる
そこでまずテレビでとりあげるだけで犯罪者となりリンチ化する
何百万人も見ているとなる一斉にその犯罪者に対して憎悪の念が向けられるからである
マスメデアを通じたリンチなのである、それをあおるのがテレビになっていたのだ
韓国とか中国の危険はそこにあるのだ、現実に戦争にもなりかねない状態になった
毎日韓国では日本を呪詛しているともなるからだ、戦争の恨みを果たすためにそうしている、それが国民全体に伝播してやがて日本に対して戦争をしかけるとまでなる
人の思いとか念は眼に見えない結果として現れないがやがて結果として現れる

宗教の場合は思想となるとそういう方面を重視した、思想とは思でも思うであり想でも思うことである、思いとか念は眼に見えないとしてもそれは強力なものとして伝わる
様々な結果よりこうした人の思いの方が怖いとなるのだ
結果は様々な条件に左右されるしそれは人智を越えて結果がでる
でも思想は心はその前にわかる、どういう動機で行為になったのか?
その方が大事だとなる、それで思想を深めるということも大事になる
つまり結果とか行為にのみに重点を置いても人のことはわからないのである
その結果をみて人間はすべてを判断することはできないのである、評価もできないのである

人間はそもそも思いの中に生きている、生きているとは何かを常に思っていることなのである、意識していることである

無念無想に人はならない

常に何かを思い何かを意識している、一方で植物でも動物でもそうした念が生じていない悪い念が憎悪とか嫉妬とか様々な悪い念が思いが生じない、単純なのである
人間だけが思いとか念が生じてそれが実際に事実として現象として現れる
だから思いとか念を治めるものとして宗教が思想が生まれたのである
ただその宗教にしてもカルト宗教団体とか団体組織化するとそれが悪い念の集合体となる宗教という名で相手を呪詛する、それは宗教と関係ないのだけどその念で思いで一体となり地獄に落ちるとか罰あたるとか呪詛するものとなるから怖いのである
第一そうしたことが宗教のもとに正当化されるからである
そもそも相手を呪ったり何か憎悪したりしないように心の修養を積むのが宗教だからである

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。(マタイ6:33、新共同訳)

これもそうである、最初に求めるべきなのは結果ではない、行為ではない、その動機を重んじることだからである
その動機が悪かったらいくら事業に成功しても神は評価しないとなるからだ
だから事業するにしてもこれとはまた違っていても何を求めてするのかが結果より大事だとなる
もしその求めるものが正しければ結果がでいなとしてもそれは失敗することがないとなるからだ
結果だけで人間の成すことがすべて決められない、評価できないのである
もし戦争で300百万人死んだとしてもその動機が評価されれば無駄とはならない

つまり最初に意味あるものを価値あるものを求める

そうすれば結果にかかわらずすでに成功していたともなるのである
だから意味と価値を求めて働けともなる、結果ではないとなる
そこがただ現実社会では取り違えるし評価が間違うのである

2019年02月21日

固定観念と思い込みと先入観に陥りやすいのはなぜ?


固定観念と思い込みと先入観に陥りやすいのはなぜ?

リンゴは赤い

リンゴは赤いというのは頭に変えられないものとしてインプットされている
でも赤くない青いリンゴでも黄色のリンゴでも実際はある
でもリンゴは赤いということを頭の中で変えられない
それはななぜか?

それは経験でそうなったのである、絶えず赤いリンゴ食べてきた結果そうなった
たまたま青いリンゴとか黄色のリンゴでも食べた見たとしてもその確率は非常に低いからそれが固定観念を作り出すのである

それならば「固定観念」など無くしてしまえば、もっと自由な発想でいられる、と思いますよね?ところが、年齢とともに積み上がり、さらには無くせないのが「固定観念」の難しいところです。なぜなら、それは今までの経験や教育によって積み上げられて作られているからです。

老人の場合は今まで経験したことから判断することが多い、だから頑固になる融通性がなくなる、それはどうしても人間は経験したことが判断の基になっているからである
それはささいなことでもそうである

自分自身が気づいたことは駅から大阪に仙台の空港から飛行機で行ける
それなら時間もかからないし運賃も安くなる
それは駅でそういう人にあったから知っていた                

ところが自分自身の経験では一回も飛行機で大阪に行っていない

電車でしか行っていないから飛行機で行けば簡単に行けるということを聞いて知っていても大阪は遠いななかなか行けないなと思い込んでいたのである
要するに人間の自分が経験したことを基にして判断している
結果的に経験といってもあらゆることを経験できない、社会のほんの一部しか人は経験できない、また知識でもほんの一部しか身につかないから固定観念をもちそれを破ることができないのである

それはあらゆるところに起きる、最近地銀に投資をまかせた、地銀は信用できると思っていたからだ、しかし地銀は証券とか投資のこと株でも投資信託のことは全くの素人だったのである、でも地銀は信用できるという経験からそう思ったのである
現実におばあちゃんが地銀を信用して投資信託を買わされて一千万損ししても依然として地銀を信用していたのである
老人になるとそうして銀行とか地銀でも直接顔合わせて信用できるものとして長年経験しているからそうなったのである

老人は今まで経験したことで判断する、津波でもこの辺ではそうした経験をしている人はない、400年前に大きな津波が来たということは誰も知らなかった
すると老人は津波は来ないという固定観念があり逃げずに死んだ人が多いのである
経験から判断するからそうなるのである
すると経験しないことには対応できないのである

ところが人間の一生は短い、400年単位とかで起きることになるとそれを経験した人がいない、だから対処できなくなる
そして人はそれぞれの経験で判断するけどそれも限られているから新しい事態が起きたら対処できないのである

ただ仙台から沖縄には飛行機で行った、それは沖縄は電車で行ける場所でないから飛行機で行こうとなっていたのである                                              

だから今の時代に大阪に飛行機で一回でも行く体験していたらこうはならなかった

仙台空港までは直通の電車が出ているからだ、それは士っていたけど大阪まで一回も飛行機で行っていないということが未だに大阪には簡単には行けないと思い込んでいたのである

いづれにしろこの固定観念とか先入観とか思い込みはささいなことでも常にある
それで失敗しているのである、これは老人には多いにしろみんなに起きていることである成功体験からぬけられずに失敗したとかいろいろこの固定観念とか先入観で失敗する
それはもう人間の宿命である
そして常に時代は変わる、それも技術でも急速に変わりそれに追いつけない、体験できない、経験しないからわからなくなる

科学の歴史でも技術の歴史でもこうした固定観念を打ち破る歴史だった、コペルニクス展開とかもそうである、地球が動いているということはありえないことだった
飛行機で空を飛べることはありえないことだったが実現した
人間は固定観念にとらわれると失敗する
信長でも最初は奇襲で勝ったがその後はその戦法をとらなかった
常に臨機応変に対処したのである、成功体験にとらわれなかったのである

でも実際に固定観念とか先入観を打ち破ることは本当にむずかしい
単純なことでもそうである
この辺だと太陽が海から山に沈むのだからそればかり毎日見ていたらそれが固定観念になる、でも山から太陽が昇り海に沈むのも日本海だとか普通にあるし山から昇り山に沈むことも普通にある、でもその感覚が理解できないのは地理でもそこに長年住んでいると固定観念化しているからである
だから旅するとその変化が新鮮な体験となるのである
まず方向が例えば飯館とか山に囲まれているとわからなくなるのである
近くでもそうなのである、それで地理を理解することが一番むずかしいのである
それはそうした旅して実際に体験しないとわからないからである
地図を見てもわからないのである

地理の固定観念というときまず日本からしか日本は地理を見ない、でも大陸側から日本を見れば違ったものになる、そういう視点で地図を作った本もある
それは視点を変えると世界は違ったものに見えるからである
地理もだから固定観念化してそれで世界を見誤るのである
なぜなら世界地図を見ただけでは地理はわからないからである
実際に路査すればわかるが世界となると広いからそれができないかち人間の視野は現代でもこれだけ情報社会になっても狭いから判断を誤る

テレビの画面から地理はかわならいし世界もわからない、その映像も誤解が多いのであるそれはその地理の一部分しかパーツしか写さないからである
その周りの状況とか全部を映すことはできないからである
それでイラク戦争の時油まみれの海鳥だけを映していたが周りの状況は写されずそれがイラクが悪いとなったのである
テレビとは映像で誤解を与えるものなのである、映像だと真実だと見るからである
でもそれも幻想だとしているのもわかる
真実は何か事実はなにかもテレビの小さい四角の画面からは判断できないのである
でも映像のインパクトが大きいから映像によって固定観念化されるのである

いづれにしろ人間にとってこの固定観念とか思い込みとか先入観はささいなことでも常にあり判断を間違うのである、それが人間の弱点なのである
だからAIでもかえって人間より判断で間違えないという時、それは膨大な情報を処理しているからなのだ、人間はほんの一部しか情報を得ることができないし理解できないからである、するとその判断が誤るとなるのである
だから固定観念から先入観から思い込みから脱することが大きな問題になる
特に老人はこれまでの人生で経験したことで判断する
それが時代に乗り遅れ判断を誤るのである
時代が急速に変わる時はどうしても追いつけなくなくなるのである

2019年01月16日

世の中は三日見ぬ間の桜かなー三日見ぬ間の枯木かな (老人は時代の変化についていけない)


世の中は三日見ぬ間の桜かなー三日見ぬ間の枯木かな 

(老人は時代の変化についていけない)


人間の一生でも世の中でもこんなに変わるとは想像もできなかった
この辺では特にそうだった
ここ十年で体験したことは変化が激しすぎたのである
第一津波では村がいくつも消失したからである
村ごと消えるなど想像もできなかった
その津波で家族も死んだ人も多数いるし原発事故では故郷に住めなくなった
それもありえないことだった
人生は無常だということを一身上でも家族が認知症になりみんな死んでそうだった
ただ茫然として一人取り残されたとなる

ただ人生とはそういうものだったのである、だから日本でも70年間平和だったということはまれだったし自分自身でも何事もなく暮らしていけたことの方が幸運だったとなる
でも一回は水害などがあったがそれほどの被害ではなかった
床上浸水だったがそれほどの被害ではなく乗り越えられた
それ意外に何か不幸なことはなかったのである

それが一度にここ十年介護やら自分の病気やら回りは津波や原発の被害にあった
それは想像を絶したものだったのである
世の中もそうだが個人的にも家族でも変化が激しいのである
人生とは常に変化なのである、成長してゆくこと自体が変化なのである
大きな変化は30頃まで起きる、そこが青春なのだけどこれもあっというまに過ぎる
青春の若さとか女性なら美とかあっというまに色あせてすぐに老人になる
そして見る影もなくなる、つまり枯木になるのである

世の中は三日見ぬ間の桜かなというときそれは盛りの時期である、また個人的にも世の中でも国でもそうである
中国を見ればわかる、十年二十年をふりかえってみればわかる
どれだけ遅れていたか?物価は日本の十分の一とかであり技術は最低であった
それが今見れば驚くばかりである、給料だって日本とたいして変わらなくなっているし新幹線が走っているしスマホとかの技術では中国が優れている
論文の数では中国が日本を百倍単位で引き離している、それだけ技術が進歩しているのである
でも中国という時、何か依然として右の人は日本がより科学技術でも遅れた国だと見ている、それはあまりにも変わるとそれに追いついていけないのである
三日見ぬ間の桜かな、その三日が十年であり二十年であり同じである
もはや中国は満開に花が咲いているともなった

しかし一方で衰退するのも早いのだ、女性でも若いと思ったらたちまち老人になり若い時の面影もなくなる、三日見ぬ間の枯木になっているのだ
だから国単位でも栄えていたと思ったら枯木になっていたというのはいくらでもある
そのスピードが早いのである、アメリカと中国は今や同等でありアメリカがいつまでも栄える強国ではなくなっている
でも今までのようにアメリカの位置は強国として世界をリードするものとして見ている
でも現実はそうでなくなっている、自分の国が優先だとなっている
それはアメリカがもう衰退しているからである

人間はその変化を見抜けないのである、銀行が地銀が真面目な仕事であり地方ではエリートだと思っていた、でもその地位ももう保てない
それで追い詰められているから収益をあげられないから投資信託をうりつける
これは銀行で売った時点で絶対に損しない商品なのである
手数料が確実に入るから毎月配分とか言って売りつける
だから地銀とかは対面的に営業の人が来てその人を信じるということがある
それでおばあちゃんが投資信託で一千万損しても銀行員を信じていたというのもそのためである
それは老人は急激な変化に対応できないからである
それは自分自身もそうだったのである、銀行というとき信じていたのである
でも世の中の時代の変化が激しいからそれに追いつけず失敗する

つまり三日見ぬ間の桜なのだがまた三日見ぬ間の枯木にもなっている
そういうふうに人間の変化が激しいのである、人間関係でもそうである
常に変化している、60年一緒に生活していても死んでしまうともう帰ってはこない
ただそこで茫然としているだけである
そしてただ過去をふりかえるだけだとなる、最後には同じことを認知症になって千回も話する、それは別に認知症にならなくても老人になると過去のことを嫌になるほど繰り返し語るからである、なぜならそうして語ることが生きたことだからである

ダーウィンは、「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」という考えを示したと言われています

変化に対応できるものというとき時代を見ればわかる、明治時代には本当に激変した社会に変化したものが生き残った
その変化に対応できたのは若者だったのである、とても老人では適応できない
それはいつの時代でもそうである、子供でも若者でも一番その時代の社会に適応する能力がある
でもすでにすぐに40とか50になると適応力がなくなるのである

おそらくなぜ日本が衰退するのかという時、時代の変化に適応する若者がいない、若者が活躍しない、それは老人が多い、高齢化社会になると新陳代謝がなくなる社会になるからだ
明治だったら若者が創始者になって創業者になってやるほかない、だから明治に会社でも大学でなんでも創始者になったのである
そしてなぜ戦後にこれだけ日本が発展できたのか?
それは戦争に負けた結果、既得権者が一掃されて新陳代謝が行われた、強いられた結果なのである
その変化も激しかったのである
高齢化社会はその新陳代謝がうまくいかない、老人がいつまでも権力を握っている社会である
相続でも60とか70になってやっと親の財産でも相続するとかなっている
そうなると下の世代は権力をもたないから自由にできない、自分のやりたいこともできないのである
新陳代謝ができない社会が少子高齢化社会なのである

それで女川辺りでは津波の被害地域でも老人は口出すなと言って若い世代に街作りをまかしたのである
急激に変化する時老人は対応できない、若い世代は40くらいまではまだ適応できる
でもそれ以上になるとむずかしくなる、私が失敗したの50から海外旅行したので遅かったのである
若い世代なら今の時代に適応して新しい未来を目指し作ることができる
時代に適応できるからである、だからこの辺ではそうした若い世代が明治時代のように活躍できる場でもある
何もないところから一から始めねばならないということになったからである

いづれにしろ戦後70年過ぎてまた明治から戦争まで70年であり戦後の高度成長を経て70年でありそこでまた大きな変革の時代に変化の時代になる、それで色々な分野で変革が迫られているのである
ただその激変に老人はついていけないのである
                                            
世の中は三日見ぬ間の桜かなー三日見ぬ間の枯木かな

世の中も人生もこれだった、いつの世もそうだった、常に変化であり無常の世界だったのである


2018年12月31日

人生は二度なし(このことを若い時はわからない)


人生は二度なし(このことを若い時はわからない)


人生二度なしという厳粛な事実を若い時はわからない、青春もたちまちすぎるしたちまち老いる、なんだこれで人生が終わりなのかというとき老人になって愕然とするのである
ええ、たったこれだけだったのかというショックである
それほど人生は短いものだったのである
こういうことは別に優れた人とか哲学者とか宗教家だけではない
普通のありふれた平凡な人もわかるのである
老人になれば否が応でも現実でもって示される

そしてつくづく誰でももし人生が二回あったらなもう一回人生がやり直させたらなと切実に思うのである
ちょっとベトナム人の若い女性がいた、ベトナム人にも美人がいるんだなと思った
財布を落としてそれを知らせたのはベトナム人の若い女性だったのである
そしたらちょっとしたきっかけでもしかしたら仲良くなり結婚していたかもしれない
ちょっとしたきっかけでそうなるたこともありえたなと思った
しかしもう老人になったらありえない、ただ死に向かっているだけなのである
ただ若い人はこれから人生を生きるのだとつくづく思う
でも老人にはもう人生は終わったものなのである
終ったものとして回想しているだけなのである

そして人間はやり直しできない、あの時若い時こうすれば良かったと後悔してもできない若い時選んだことがそのまま人生の最後までつづくということがある
例えば道が二つに分かれたとしていて右を行ったらもう引き返して左に行くことはできないのである、それか人生なのである
だからその分かれ道で誤った方向に行くとそのまま人生の最後までその誤った方向から引き返せないとなる、それも今になると怖いことだと思う
人生はやり直せるというのは甘い考えなのである
そんな時間が人間には与えられていないのである

一回きりの人生しか人間には与えられていない

これは本当に最後になるとショックなことだったと
だからなぜ若い時が大事なのか?
それは方向を決めてしまうからである
その方向が若い時に決まってしまうから怖いことだったのである
ただ若い時そのことを自覚している人はほとんどいない
どっちに行こうがそれほど気にしていないし真剣に考えない
右に行こうが左に行こうが時間はたっぷりあると思っているのだ
人生回り道もあるしそんなことどうでもいいことだとしか思わないのである

「若き時神を覚えよ」というときもそうである
若い時しか本当の求道はできない、すると若い時でその方向が決まってしまうから若い時は人生を決するとまでなってしまうのである
人間はもう30代でもう決まるとまで言える
あとはつけたしであり余得ともなるのである
30からは時間が倍速で早く過ぎるのである
そしてあっというまに60、70となり老いるのである

そして死ぬとどうなるののか、死ぬとどんな人でもすぐに忘れ去られるのである
どんなに有名でも忘れられるのが早いのである
すでに仕事もしない退職した人は社会で用がなくなった人は生きながら忘れられる
それで家族の一人が認知症になったけどそれも無常だった
役所をやめてから役割が家でもなくなり何か生きながら無用の人となっていた
その時社会からもすでに忘れられていたのである
知る人も極わずかであり若い知らない人が増えてその人たちは知らないとなっていたのである
だから退職した人はそうなりやすい、社会で無用のものとなり生きながら忘れられるのである、そして死んだらもうただ忘却されるだけである
そのスピードが早いのである、だから無常迅速と言うのである

ただ現代は長生きになったからその分何か仕事をする残すにはいい、60くらいで死ぬのは早すぎるからである、何か仕事に追われているうちでも終わってしまうからである
長ければやはり何か平凡な人でも仕事をして残すことはできるとなるし才能がたいしてなくても何か積み重ねたもので才能が開花することがあるからだ
才能は第一いくら恵まれていても開発する時間が必要だからである

いづれにしろ自分の人生も終わりに近づいていると思う
旅するにしても何か気力がないから行けない、今は確かに介護が終わって行けるのだから行く気がしない、何か疲れるとなるからだ
だから旅にしてもいつかできなくなる、終わるということである
こんなに旅したのに依然として旅しない所がずいぶんあったし見ていなかったなとつくづく思う、それだけ人間の与えられた時間が短いからそうなっていたのだ
人生は光陰矢の如しであり最後は人生あっというまに終わるとなってしまうのである

今年も終わるが大晦日だけどこのことを若い人は肝に命じるべきだけどどうしてもそう思えないのである、そして老人になって愕然とするのである
そして二度と人生はやり直しできない、二回の人生はないのである
もし若い時でも30代以降でもこうした自覚があればもっと充実した人生になっていた
それはみんな誰でも思っているのだ、とにかく人間は無駄に費やす時間が多すぎるのである
でも何でも雑学でも経験したことは最後に活きてくる、活かせるのである
だから不思議なのは今一番私自身がいろいろなことがわかり活かしている
それを今インタ−ネットのホームページでプログで発表しているのである

ふりむけばすべての足跡が意味あるものとして示される・・・

今NHKの紅白歌合戦での歌詞を見た、福山雅治とかの歌手である
こう最後にこうなる、それは特別な人生だけではない、普通の平凡な人生でもそうなのである
その意味がはっきりと平凡な人でも知らしめられるのである
だから何か過去に悪いことした人も決してそれが心の中で消えることはないてのである
それが最後にまざまざと示される、そして後悔して苦しむ
それも怖いことなのである、ただそう自覚している人はいないからこそ若い時は放埓でもかまわないとなっているのだ
それが青春の特権だとかなってしまうのである

ということで今年も終わり来年もこうしてプログを書き続けます

良いお年を・・・

2018年12月06日

平和と幸福は何もしないで与えられることはない (常に平和と幸福は努力して作り上げてゆかないとない)


平和と幸福は何もしないで与えられることはない

(常に平和と幸福は努力して作り上げてゆかないとない)

平和とはなんだろうと思う、平和平和と叫んでも平和が来るのか?
そもそも平和とは何なのか?
平和の逆を見るといい、極端なのは戦争状態であり飢餓状態とか災害で破壊されたとか事故で苦しむとかいろいろある
平和でない状態は常に歴史的にも個々人でもあった
個々人でも病気とか必ずあるからだ、死もあるし逃れられないのだ

最高にに平和を感じる時は逆に戦争で苦しんでいるとき戦争がないときとかなのである
殺し合いしているのは最悪だからである、だから戦争がない状態にもどったというとき
幸福感を人一倍感じる、それは個々人でも病期が直った時一番感じる
その時生きられんだとかつくづくそれだけで幸福を感じる

平和とか幸福はそこにただあり与えられているものではなかった
何か自分は恵まれていて家族に与えられている存在だった
その家族が介護になり死別がありその時自分は今度は家族のために尽くさねばならなかった、自分が今度は与える側になった
でも何かを与えるということも喜びになる、苦しみもあるが与えることは喜びがともなうただ相手から与えられるだけの存在に平和と幸福はない

平和とか幸福とかはただ与えられるだけでは得られない、人間はそういうふうにできている、何かをただ与えられるだけでは平和も幸福もありえない存在なのだ
幸福になるためにはやはり勉強も必要になる
勉強するということは幸福になるためなのである
ただ受験勉強とはかそうではなかった、勉強するのは人間は才能があったとしても必ず勉強せねばならない、才能を開発しないかぎり天才でない限り生まれないのだ

そして勉強していれば雑学でもなんでも最後に花開くことがある
それも勉強していなかったらありえないのである
ただ何でも努力も勉強もしないで与えられることは人間にはないのである
絵の才能が全然ないのに抽象画でもパソコンのソフトで描けたとなればそれなりにただ見ているよりはそこに自らで作ったという満足感がある
これもやはり才能を開発するという努力の結果で幸福が生まれたとなる

人間という存在はそもそも何か何もしなくて与えられない、平和でも幸福でもそうである家族だってそれも互いに努力するなかで築かれてゆくのであり結婚したときは愛がないというのもわかる、恋愛は愛ではないというのもわかる
愛は結婚して共に生活して子供を育てるという過程を経て家族も作られる
それはただ何もしなくて家族が生まれるわけではなかった
家族はそうして長い間生活してその中で苦労を共にして作られてゆく
家族はもともと与えられるものとも違っていたのである
子供の時は与えられる存在だが大人になれば常に努力して作っていかねば何事成ることはないのである

例えば農業でも何かを実らせるには本当にむずかしい、様々な試行錯誤必要である
そこで練馬大根とか・・・大根とか下仁田葱とか地名がついたブランド品が生まれる
それは特産品となる売れる、それがてきるまでは苦労している
それはどこでもそうである、それで特産品となったときそこに努力の成果がありその土地に幸福をもたらしたのである
それはあらゆる分野でそうである、平和とか幸福は作り出すものでありただ何もしないで与えられるものではなかった

だから復興というときこれもそうなのである、それは不幸な状態でありそこに再び平和と幸福を作ることが要請されている、それでもし復興が成ったらその喜びは何倍もの平和と幸福感を感じる、でも何もしなければもう何も生まれない
ただ荒廃してゆくだけだとなりそこには平和も幸福も生まれないのである
今の所はそうなっている、何か打つ手がないとなり町や村は捨てられたという感じになる
私の住んでいる所は幸いに避難区域でない、かえって外部からの人が集まり増えてにぎやかになったということがある、いろいろな施設も生まれたとかもある
だから避難区域との差が大きすぎるということがある
ただ人間はつくづく何もしなかったら平和も幸福も与えられないようにできている
戦争とは破壊でありだからそこからは平和とか幸福は生まれない
それでも破壊した後に建設がはじまりその時あらためて平和と幸福を感じるのである
それは前より一層平和と幸福を感じる

幸福は何か与えられる得たいということがある、でも人間の幸福は与えることにある
何かを与える時平和と幸福を感じる、神は与えるだけの存在だから幸福だとなる
人間にあらゆるものを与えるのが神だからである
ただ神は人に感謝を求めるが後は一切なにも求めない、人間は何か与えたとてしても必ず見返りを望む、そして恩着せたり俺は与えたからとその何倍を要求する
それは遂に脅迫にすらなる、無償で与える人は一人もいないのである
神は無償で与えている、でもそれを実らせるには人間でも農業に絶えない努力が必要になっているのである

でも一番実りの幸福を感じているのはそうして努力して実らせた人なのである
その時まさに平和と幸福が作り上げられたからである
無人駅でボランティアのまねごとしてもそうである
みんな自動化しているから別に人はいらないとなるがやはり人がそこに手を加えて作り出すものがある、まず機械とかAIだけで平和と幸福は作り出せない
なぜならあくまでも人間が生きるのであり機械とかはAIでも生きるということがないからである、それは人間が生きるということが先にあって活かされるのである
あくまでも人間が生きることであり人間が主人であることには変わりないからである

だから無人駅でも人間はいらないとか他でも機械があるから人間はいらないとはならない必ず人間が必要であり人間が主人公なのである
そもそも機械とAIは何か望むということもない、平和とか幸福とか愛とかも望まない
だから機械だと兵器となり武器と化して人を殺しても何も感じないのである
機械とかはあくまでも人間の道具でしかないのである
だから機械でもAIでも平和とか幸福をもたらすものとは必ずしもならない、それはあくまでも人間の道具だからである、使い方を誤ればやはり不幸をもたらし平和は破壊されるのである

いづれにしろ人間は与えられるだけの存在だと平和も幸福も感じない
それで退職した老人が不幸になりやすいのは何か社会的活動して与えるものがなくなるからである、ただ一日なにすることもなくテレビを見ていたり暇つぶしにギャンブルばかりしていたらそこに幸福は生まれないのである
そういう何も与えない人は膨大に増える時社会自体が不幸になる
それが高齢化の問題だともなっているのである  

人間の信頼関係でも簡単に作れない、俺には金があるからなんでもできる、人も自由に雇い働かせられるとかともならない
家に入れる人は相当に信頼関係がないとできない、金だけではひとを頼むことができないものだった
その人にとって金だけを得ることだとすると危険になるからだ
それじ十年もその家で働いていたとかなると信用できるとなる、でもそれだけの年月が必要であり時間が必要になる
そういうことで金だけで平和とか幸福は得られないのである
それが互いにでも作り上げてゆくものだからそうなっている、研究者に金をやるから一大発明しろといってもできないというときもそうである、研究するのは地道な努力も必要でありいくら金を積んでも一朝一夕にできるものはないからである

ともかく人間の逆説は「悲しむ者は幸いなり」ということもある、なぜ悲しむ人が幸いなのか?
そこに人間の根源的な問いがある、この世は悲しむことなしでありえない、悲しむことによって人間の深いものを理解するからだ
悲しむ者が幸いだという時、悲しむ後に本当の人間の平和と幸福を知るからそうなる
だからこの辺の復興でもそうなのである、悲しむ状態だけだとそこからまた幸いが平和がもどるということがあるということを示ししている、ただそう自覚することはむずかしい、ただ不満だけがあるともなっているのである

タグ:平和と幸福

2018年11月20日

人間は必ず経験を経て教訓を残す (泥棒が残した教訓‐欲をおさえろ)


人間は必ず経験を経て教訓を残す

(泥棒が残した教訓‐欲をおさえろ)

人間は長い間に経験を積み重ねてきた、その経験から諺や教訓が生まれた
三国志などでも戦争の中で教訓が生まれた
それは生きるか死ぬかの経験の中で生まれた教訓なのである
最近そうした諺で教訓でも重い意味があると思った
それはなぜか?それは実人生とか経験の中で生まれていたからである
頭の中でイメージして作ったものではない、事実の経験から生まれたから重みがあるし継続されてそれせ今の社会でも活きているのである
それは地域や時代を越えて普遍的真理ともなる

人間とは科学技術がどれほど進歩しても変わらないのである
様々な欲が根本的に変わらないとしたらやはり科学技術がいくら進歩しても悪がなくならないのである
その人間の業は人間の欲が滅びるまで継続されるのである
若い世代でもやはり同じように犯罪が生まれる、若気の至りでも犯罪になる
そういうことは変わらないのである
それは江戸時代にもあったし現代でも違っているようでも同じなのである
つまり人間の欲が消えないからそうなっているのである

だから私自身が経験したことも不思議だった
泥棒が残す教訓ともあるものだと思った

「その人はある家に入った、そこには…円の金があった、しかしその金はその人にとって目にしたこともいような大きな金だった、その人は貧乏暮らしをつづけていたからであるそれでその金の半分を盗んだ、それでも大きな金だった」

こういう話になるけどなぜこれが教訓になったのか?

半分だけ盗んだということでその人は奇妙だけど救われたとなる
なぜなら全部盗んだとすると裁判沙汰になったりしたかもしれないからだ
盗まれた人は大きな金でもあきらめたからである
それは半分だけ盗まれたとういことで一応まだ余裕があるから訴えることもなかったのである

その盗まれた人にはあきらめたということで恨まないということで互いに何か極端になれば殺し合うとかまでにはならなかった、しかしそうでなければ極端になればそうなったしそういう事件も多いことでわかる
友達に何万とか貸して返さないからと恨みになり事件が起きたりしているからである

ここで何が教訓なのか?

欲をおさえろ!欲を減らせ!

それが災いとかから逃れ徳を積むことになる
人間は欲をおさえられない、欲は限りなく増大してとめられないのである
そこに必ず災いが起きてくるということである
だからどの宗教でも欲をおさえろと説いている、宗教はそういうものである
でもカルト宗教となると欲を限りなく増大させる
煩悩即菩提とかなんとか勝手に解釈して強い煩悩があった方がいいとも説いている
そうしなければ欲をおさえろというとき誰も従わないからである

すべての災いと事件と問題の大半は欲をおさえられないことから起きている
もしこのように欲をおさえれば事件は起きない
それは盗まれた人と盗んだ人双方に言えたなとふりかえる
双方ともに泥棒は大きな金でも半分に盗むのをおさえた
盗まれた方は大きな金でもあきらめた、そこに共に欲をおさえたということである
何か奇妙だけどふりかえるとそうなったのである

原発事故でもそうである、補償金でもめで分断された、それはどっちもどっちだったかもしれない、この経験と同じかもしれない
第一そもそも原発事故も人間の欲と関係してたのである
原発は金になるから誘致した、金になればなんでもいいということで誘致したのである
そこに災いを生まれたのである
金になるなら危険など構わないのである、その欲は限りなく増大してゆく
漁業組合で船主などでは補償金で原発御殿が建つとかなっていた
人間の欲の故に原発が作られたともなるのだ

でも人間の欲をおさえるのが一番むずかしい、それをやめろとか言うとその土地にすら生きていけなくなる、なぜならみんな豊かな贅沢な生活をしたいからである
だから原発には反対できなかったのである

でもなぜ人間は宗教が生まれたのかとなるやはり仏教でもキリスト教でもなんでも欲をおさえるということを説いたのである
資本主義のはじまりも宗教的なものキリスト教の修道院からはじまったというときもそうである
それは欲をおさえて働き神に奉仕する、そこで資本が富が蓄積されて配分されるということだったのである
今の強欲資本主義とはまるで違ったものだったのである
今のグローバル資本主義とか株の世界とは違ったものである、もうここにはモラルは消失しているからである
だから自分自身が株で欲を増大させて失敗したから株も投資も人間の欲がからんでいるから怖いものとなる
別に働いて利益を得ることは悪いことではない、でも何か株とか投資は常に一攫千金とか目指すギャンブルの要素があった
それがモラルにかなった経済活動とは思えないものだった、だから何か資本主義自体がもう維持できない状態になっている
格差が極端になっているから限界になっているのだ

欲がなぜ怖いのか?

それは必ず災いをもたらすからである、人間から災いが消えないのはなぜか?
それは欲があるからだとなる
国の争いでも石油で戦争になったりする、石油というのは絶対に必要だとなりそれのために戦争になる、では石油なしで人間は生きていけないのか?
実際はここ百年ばかりが石油を使用している
それまでは人類は石油を利用していないのである
すると石油なしで生活しえないということはないのである

人間が欲をおさえることが本当に災いを避けさせるとか平和をもたらすということを真剣に思わないのである
例えばもし日本の戦争が石油が入らなくなり戦争になった良くいう
でも別に石油がなくても炭でも薪でも暖房できるのである
ある程度の電気は石油なしでも供給できるのである
そんなことで戦争して人間の命が300百万人も死ぬよりはいいとなる

人間はそもそも欲を真剣におさえることをしないできない

結果的に欲はかぎりなく増大してゆく、借金してまで家がほしい車が欲しい、欲しい、欲しいとなり制限できなくなる
何かを欲を制限することが災いから逃れ平和をもたらすということを考えない
それは真剣に欲がもたらす災いを考慮していないからそうなっているのだ
私自身が経験したことでも双方で殺人事件にまで発展することはありえた
普通にそういう事件は起きているからだ
でも双方に欲をおさえたから何の事件にもならなかったし災いから逃れたのである

そんな殺人事件にならなかったのは奇妙なことだが互いに欲をおさえたことによっていたのである
そういうことは国同士の貿易でも起きてくる、貿易戦争になるのも戦争の原因である
どちらも利益のためにゆずれなくなり戦争になる
それは国同士でも欲をおさえられないからである
自国の欲をおさえられないからそうなる
だから欲をおさえるということが互いに必要なのだけどできなくなり戦争になる

日本でも貧乏になったとか、格差社会になるのはなぜか?
それは金持ちがいても自分たちだけが贅沢したい欲を満たしたいということでそうなる
別に配分すればそうはならないのである、それは金持ちはさらに金を欲しい減らしたくないとなる、それは人間の心理である、増やしたとしても減らしたくないのである
それは自分でも同じだった、自分だって欲をおさえられないのである

平和というのはこうして欲をおさえないかぎり生まれない
剣をもつものは剣で滅びるという時もそうである
人間は何かを断つ捨てるということを真剣に実行しないかぎり互いの平和はない
なぜこの世から災いが争乱が絶えないのか?
それは欲が消えないからである、それで遂に欲でこの世が滅びるというのも理解できる
要するにこの世が滅びないためには欲をおさえろとなるのだ
でもどうしてもおさえられないから滅びるのがこの世なのである

人間の一生は本当にはかない、青春などあっというまにすぎさる
そしてみんな老人になり見る影もなくなる、ただ無常を感じるだけである
もう家族もみんな死んだとか津波原発事故でこの辺は無情だった
私自身も本当にこの世の無常を知った、人間はこの世に束の間生きるだけである
そして消えてゆくだけだとなる
何を成そうが何を得ようが人間の一生ははかない、だから人間の欲もやがては消えてゆく認知症になった母が一円にこだわって使わない母が大金を盗まれて笑っていたのも不思議である、つまりに欲がなくなってそうなったのである
金のことがわからなくなってそうなったのである
その姿を見て不思議だった、最後に欲もなにもなくなったとなる
要するに人間の欲が消えたとき平和が訪れたとなるのか
もしでも正気だったら狂気のようになり騒ぎ殺し合いまでにもなりうるからだ

別に石油がなくても原発がなくても車がなくても生きられる、現実に人類の歴史でここ百年くらいが異常にそうしたものに頼ることになった
それまではそれがなくても生活できていたからである
石油がなくなっても車がなくなっても電気でも今まではなかったのだからそれで世の中は滅びるということはない、むしろ欲で滅びるのが人間なのである
だから欲をおさえるということがいかに大事な教訓であるかそれは宗教が生まれたのである、それは結局実行されていない、科学技術が現代の宗教というときそれは欲と深く関係しているのである、人間の様々な欲が科学技術で実現するとみんな本当に思っているからである、だから科学技術は危険にもなり災いにもなる

なぜなら人間の限りない欲望を実現するものとなるからだ
それで原発でも危険でも作られたからである、結果的に事故となり故郷にすら住めなくなったからだ、科学技術は災いを生むのである
それは科学的精神とかとサイエンスとかと違って人間の欲を実現するものとして魔術的なものとして追求されているからである
何か科学技術は全面的いいものとして肯定されるが果たしてそうなのか?
原発事故の結果をみればわかる、もう故郷にすら住めなくなったからである

2018年11月19日

人間の本性は悪でありその恐ろしさを体験で知る (人間は悪(エゴ)であるがただその機会がないと現れないだけ)


人間の本性は悪でありその恐ろしさを体験で知る

(人間は悪(エゴ)であるがただその機会がないと現れないだけ)


自分自身の過酷な経験から人間の本性を知った、それは恐怖の経験だった
自分を助けると思っていた人が実を自分を食い物にしようとしていた
弱者になった時、自分の思い通りにして金を得ようとしていた
その人は事業に失敗したとかありどのくらいかわからないが借金していた
だから自分が苦しい時確かに多少は助けたにしろ借金を背負っているから
それを返すことで頭がん一杯でそれしかなくなっていた
妻はそのためにパチンコ屋で奴隷のように働かせられていたのである
その妻が来てもなにもする気はないしできない
ただその家の者は全体が借金を要求するように負担となって自分の所に来たのである
私の家ではその家族のことを昔であれ助けたことがあってその人は恩返しだとして来ていた、でも自分自身が借金していることでそれどころではなかったのである
まず自分に余裕がない人は人を助けることなどできないのである

そしてこの経験から人間の本性は悪でありエゴであり他者はただ金とだけ関係しているとものと思った、金がとれないならその人は何の価値もない、近づくこともない
金があるとなり金がとれるとなり接してくるのでありそれ以外何の関心もないのである
極端になれば人間は金の切れ目が縁の切れ目でありそれはどこでも普通に起きている
他人にどんな関心があるのか?利益的関係しかないとなる
そうしてもともと薄い関係だったからみんな去った
そういう人とは二度と会わないのである
この世の他人の縁とかはそんなものかとなりただ無常になるだけだった
それより人間の本性はエゴであり悪であるということを経験で知った

例えば性善説とか唱えているのはまず社会経験がたりないのではないか?
自分もそうだった、でも社会経験している人はそんな説を唱えるはずがないのである
人間の歴史をみてもそうである、弱肉強食の世界が歴史でもあった
戦争の歴史が世界史でもあった
人間も動物の一種でありどうしても他者の命を食べなければ生きていけないということからエゴだとして仏教が生まれた、だからインドでは動物を大事にする、同じ命をるものとして大事にする
ただ動物は弱肉強食でもそれは他の生物を食べなければ生きていけないからそうなっている、人間の場合は別に食べるものがあっても罪を犯すしいろいろなエゴの目的で犯罪を犯すのである

事業に失敗したからといって別に明日から食べられないということはない
ただ自分が成功者として見せたいということなどがあり借金したりそれでその借金を他者に負わせたり虚栄心とかからも人間はエゴになり悪人になる
別にその人でもうまくいっていたときは普通の人でありいい人であり善人だったのである今でも善人として見られているしわからない人は事業で成功した優秀な人として見られているのである
それはたいがい他者は外見しか見ないしわからないからである

人間は悪でありエゴだというとき人間は機会で縁によって悪がエゴが喚起され悪魔になる      

なにもなければこうはならない、ただ事業に失敗するとか例えば目の前に一億円の金があるときそこに何人かいたら奪い合いになり殺し合うとういこともある
そこに美人がいて取り合いになり殺しあいにもなる、そこに人間の欲がエゴがむきだしになる、だからもしそういうことがなければそこにいた人たちは何も争わない
善人なのである、この辺でも原発事故の補償金でももめたがこれも同じなのである
それも額がそれなりに大きいから不満がありそれで協力できなくなったのである
何かの機会で縁で人間の本性のエゴが欲が刺激されてそれが悪となり悪魔に変質するのが人間なのである

だから別に悪を犯さない人で自分は悪人だと言っている宗教家がいる、それは歴史的に知られた人である、親鸞でもそうである、パウロでもそうである
親鸞になると極端になり悪人が往生するというときそれはなぜなのか?
その人は人間のエゴと悪を自覚したから救われるのである
俺はなんて悪人だったのだとなんらかの切っ掛けで機会があり縁があって自覚したのである、女性をものにしたいとなり殺人までするようになるのもそうである
実際にそのことを実行して悪人だったということを自覚して仏門に入ったという武士もいた、親鸞が悪人が成仏するというときそれは自分が悪だエゴだということを自覚した人なのである、「俺はなんて悪人だったのだ」と自覚した人なのである
普通はどんな悪を犯しても人は簡単には自分が悪人だと自覚しないのである
大悪人でも善人だとしか自覚していないのである
だからこそ千人殺してみろと親鸞は言ったのである、それなら自分は悪人だと自覚せざるをえなくなるからである、人間はみんな善人と思っている
でもその本質がエゴであり悪であるからそれがなんらかの機会で現れるのである

そのエゴと欲とか悪は誰にでもあるとなるからそういった
なぜならそもそも人間は動物でも他の生物でも食べなければ生きていけないからである
そこにすでにエゴがあり欲がありそれを否定できないからである
それで仏教ではベジタリアンになり動物は魚すら食べないとなったのである
なぜ自分の家ががたがたになり崩壊するようになったとき
その時同情は一切ない、かえって襲う好機が訪れたとなったのである
家族の一人が認知症になったりしたらもうその家はがたがたになる
そして認知症になったら近所でもどこでも同情などしない、財産を奪うのに最高の好機だとなる、なぜなら銀行から金すらおろせないからである
NHKとかで認知症の人を優しく見守る地域とか言うがそんなものありえないのである
この世の非情さを知っていればそんなことはありえないし実現不可能である
そんな社会があるとしたらそこは天国になっているはずである

このうよに確かに他者が悪人として見るのは容易であるが自分も同じなのだと悪人だとみるのはむずかしい、人間は普通はみんな善人だと思っているからである
何もなければそうである、だから親鸞が自ら悪人だというときそこに真実を見ていたのである、人間の本性は悪でありエゴであり欲だということである
ただこれが何かの機会がないと現れないのである
だから金でもなんでも追い詰められた人間はなんでもする、人を殺すことでもわずかの金でもする、それはもともとそういう時は動物が飢えている状態と同じだからである
そういう状態になったら誰でも犯罪者になり悪人になるのである
ただそういうふうに追い詰められないからこそ善人でいるだけなのである
追い詰められた人間が本当の人間の正体なのである
だからこの世に生きることは人間の中で生きること自体が怖いことだと思った
経験から人間の見方が変わってしまったのである

人間はみんな悪人でありエゴであり欲でありそれは自分も生物であるかぎりそうなのである、人間は悪人なのである、自分だって追い詰められれば悪人になる
ただそういうふうに追い詰められていないから善人のふりをしていられるというだけなのである
この辺で補償金でもめたというときエゴがむきだしになった、それで協力できなくなったでもいち早く故郷を見捨てた人たちもエゴがむきだしになっていたのである
まず補償金をもらったから故郷のことなどより自分のことしか考えなかったからである
みんなでどうしようとかも考えない、自分さえ良ければいいしかなかったのである
だからある機会で人間の悪のエゴの欲の本性が現れるのである
放射能問題があるにしてもただそれは理由になるにしてもそれだけではなかったのである補償金をもらって自分たちだけが家族が良ければそれでいいとなったのである   

宗教は共通している、仏教でもキリスト教でもモラルにかかわれば共通している
だから個人的にも漱石は則天去私でありわたくしを去ることでありエゴと欲の否定でありショーペンハウエルは生きんとする意志の否定になる、それは共通して人間にあるエゴの否定なのである
ショーペンハウエルのまさに生きんとする意志とは人間が本能的に食欲であり性欲であり種族維持自体がエゴになる
そういう欲は否定できない、だから人間が生まれたのは何かしら罪があってこの世に生を受けたとしている
カルマが業があって生まれたとなる、なぜならこの世に生を受けたことはエゴなくして生きられないから生きること自体罪となるからである、どうしたらちエゴとか欲とかから脱出できるのか?それは不可能だとなる
だからこそ人間はこの世に生きることはみんな悪人として生きるとなるのである 

この世がなぜおかしいのかというときこうしてみんな悪人なのに善人社会だと思っている
そういうふうに善人なのはただ機会が与えられないからである
動乱の世界、戦国時代のようになればもうそこはエゴがむきだしの殺し合いになり自らの欲をエゴを達成することになるだけである
だから沖縄で一番怖かったのは隣の人だった、女性を襲ってきたというのである
外から来る人だけではないそうした混乱の時襲ってくるのは隣の人だということである
何か沖縄ではみんな被害者だと騒ぐけど内部でもそういうことが起きていたのである
その詳しい事情はわからないにしろそういうことがこうして自分が経験したことでもそういうことがあった思った

人間の本性がエゴであり悪であり欲だというとき当然そうなっても不思議ではないのである
だから人間は野獣と変わりない恐ろしいものだとなる、ただ他者のみならず自分自身でもその野獣の一人になるとういことである
何か追い詰められたそうなってしまうのである、つまり食うか食われるになってしまうのである
それがこの世の現実である、その現実はいくら科学が進歩しても変わらないのである
だからこそこの世はいくら良くなるとかいうけど絶望的になるのである
それで死がすべて悪いものとは思えない、この世を去ることはこうした食うか食われるかの世界から逃れることだからである
死によって人間のエゴや欲は消滅するからである、それはエゴや欲からの解放ともなるからだ 
そして人間は死ぬまでこうして欲やエゴから解放されない、業がカルマが消滅しないのである




2018年11月18日

反転する人生、運命の謎 (プラスに働くものが一転してマイナスになる)


反転する人生、運命の謎

(プラスに働くものが一転してマイナスになる)

なぜこの辺で原発事故でこんなふうに大被害になったのか?、津波でもそうである
原発はこれまでいいものとしてあった、そこで働いた人がこの辺では多いのである
原発は金になるものでありいいものだったのである
原発は地域に恩恵を与えていたのである
それが一転してマイナスなものとして働く
まず白が真っ黒になったという状態になった
科学技術の信頼は全く失われた、これも科学技術社会なのだから衝撃だった
誰も普通の人は放射線被害がこれほどのものとは思っていなかったのである

ただこういうふうにプラスに働いていたものがマイナスに働くということは歴史でも人生でもある、戦後の歴史でも団塊の世代は数が多いということはプラスに働いていたのである、その数が多いということで労働力になり高度経済成長時代を築いたのである
だから不思議なのは食料もなにもない、戦後の焼け野原からそういうことができたというのも幸運だったとなる
戦争は悲惨だったがその後は経済成長したから戦争の影響を受けたにしろそれが全部マイナスに働かなかったのである

でも今はどうなったか?その団塊の世代など人口が多い世代が今度はマイナスに働く
高齢化社会になりその数も膨大であり認知症が800万人時代とか信じられない時代になりお荷物となりその負担に耐え切れないともう施設に入れないとかなっている
介護難民がすでに出ているのである、特に認知症は嫌われるから追い出されている
それだけの世話する人が確保できない、金も確保できないのである
このプレッシャーはあまりにも大きいものとなって国すら潰れるとまでなる

それは自分自身が一人は認知症でありもう一人も介護した
四苦八苦して介護した、その時誰も助けるものがいない、かえって弱者化して責められてきた、同情もない、そのことを延々と書いてきた
ただこれも自分のカルマだったのである
結局楽した結果としてこれだけ過酷なものとなったということがある
つまり楽することもカルマを積んでいたのである
人間はただ何もしないで生きていてせ何かしらカルマを積んでいるのだ

それ以後人生が一転する、何かの切っ掛けで人生はベ―トベンの運命のように人生は一転する、優秀であった人も事業をはじめて失敗して借金に苦しむ
健康であった人が脳梗塞とかで半身不随になり車椅子生活になる
運命があるとき反転する、白から黒になる、それは大きくは社会でもそうだし個々人でもそうなのである
その変化があまりにも大きいともうそれに対処できなくなる
それがこの辺の状態なのである

だから個々人でも社会でもこのようにプラスに働いていたものが一転してマイナスに働くのか?それはまさに人間の運命だとなる
ただでは今度はプラスからマイナスになったが今度はマイナスからプラスになるということもある
この辺は新地である、駅は大都会並みであり駅前には温泉がでたとか大きな施設ができて人が集まるようになる、このように津波で甚大な被害を受けてもマイナスになってもプラスにまたなる所もある
戦争は悲惨でマイナスだったがその後はプラスに日本は転じたのである

だから人間は社会でもそうした繰り返しだった気かとなる
プラスに働くものがありマイナスに働くものがある
そもそも国自体がプラスに働くものがありマイナスに働くものである
日本は国土が狭いが山が多く水資源には恵まれているとか海に囲まれて海産物には恵まれてきたとかある、狭いから狭い国土で米でも収穫高をあげてうまい米を作ってきたとかある、砂漠になにもないと思ったら石油がでて豊かになっているとかなにかしらマイナスと思える所にもプラスになるものがある
神は砂漠にも恵みを与えていたのである

例えば人間でもいろいろな人がいて性格も性質も体質も違う、体力があるものいて外交的なものがいて内向的な人もいる
外交的な人からみると内向的な人は嫌れる、陰気だとなり社会でも嫌われる
でもそれは生まれつきのものであり外交的にはできない
体力でも生まれつきがあり強いものは強い
でも人間の性格でも弱点と思えるものがかえって長所ともなる
マイナスと思えるものがプラスになりプラスに思えるものがマイナスにもなる
体力的にも強くバリバリ社会で活躍する人も意外と年取ってから弱く早く死んだりする

人間には陰陽の性格があり最近読んだ本で陰の体質の人は人生の後半戦に強いと書いてあった
そうれもそうなのか、何か自分ももしかしたらそうなのか?
後半戦に力を発揮する、何か今自分は一番力を発揮しているように思う
理解力が深まったからである、今までは本を読んでもただ読んでいるというだけだった
今は自分なりに解釈して評論もできる、だからこれも不思議なのである
高齢化社会になると人生百年となると後半戦に強い人が生き残る活躍するともなる
そうなると陰の体質の人が有利だともなる
長期戦でありマラソンに適していて後半戦に力を発揮できるとなればそうである
それは体力でもそうなのだ、後半戦には陽の人はもたないとなる
ただこれも本当は人はいろいろだからわからない、もう同世代でも二割とか死んでいるとなるからだ


だからマイナスになるということは今度は逆にプラスになってゆくということにもなる
それはまた困難がともなうがマイナスばかりには人間個々人でもならない
社会でもマイナスから今度はプラスに転じてゆく
そういうことも歴史でも社会でも人間個々人にでも起きてくる
それでマイナスからプラスになるということもあるからそうなるように努力する
ただ今はこの辺では先が見えない、二重三重苦になっている

今言えることは日本全体でもマイナスの局面に転じている、マイナスに転じるということはそれはあらゆるものがそうである
民主主義でも制度疲労しているし資本主義でもそうである
世界的にも何かマイナスの局面になっている、それで大きな変革の時代になる
その時痛みがある、犠牲もある、それは戦争と同じなのである
世界でも国でもそうしたし大きな変わり目に来ている
つつりそれはマイナスの局面になる、でもそこからまたプラスの局面へと転化する
その時痛みと犠牲が生まれる、明治維新でもそうである
戦争の時もそうである、それを乗り越えたとき再びプラスの局面に転じてゆく
それが人生でもあり歴史でもり、運命だったとなる    

占いでも凶運は強運に転じる、凶運というのはそれを生じさせるものを積んできたからだというのも納得がいく、それが自分のことでもあった
私自身がこの凶運から学んだことが多い、人生の試練だった
人間は何か困難があると学ぶことが多いと思った、楽に過ごしていたら学ばないのである楽に過ごしていることも後でそれがカルマとなり過酷な凶運になり苦しむ
人生が一生楽に終わることがないからだ、それはどんなに恵まれていてもそうである
この辺は全体的にも凶運になったでもまたそれが強運に転じることもありうる
ただそれはこれだけの被害となると今まで経験したことのない放射線被害だからなんともいえない、ただ凶運が強運となる可能性はあるということである

それでも高齢化社会の問題は病気になったり認知症になったり後は死があるだけであり
マイナスになるだけだというとことで問題なのである
それは社会全体でもそうである、死んではじめてプラスになるという問題である
つまり高齢化社会は団塊の世代でもまたその後の世代でも死んだときプラスに転じる
それは50年とか先になるのだ、それまでマイナスとして働くものだから苦しいとなるのだ、ただ個々人でも社会でもそういうプラス→マイナス→プラスというサイクルがあることは確かなのである

2018年11月06日

国際ロマンス詐欺が増える−40歳の女性が被害 (人間の生きる時間が短すぎることが最大の問題だった)


国際ロマンス詐欺が増える−40歳の女性が被害

(人間の生きる時間が短すぎることが最大の問題だった)

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工藤恵子 婚活KOKO 結婚カウンセラー

人生は時間との勝負だ!

このyoutubeは面白いと見た、それはなぜなのか?
それは何かただ結婚のことだけではない、人生を語っていることなのである
それは女性から見た人生とか女性の視点で語っている
なかなか女性のことはわかりにくいがここでは何かわかりやすい、具体的例で説明するからわかりやすいのである

今日のニュースで国際ロマンス詐欺があったが被害者は40歳の女性だった
この婚活のyoutubeではそういう年の人がなぜ結婚できないか語っていた
それはいろいろ実際の相談に乗った人の例で語っていた
そしてもう女性は40歳になると結婚はすごく厳しいものになるというのもわかる
それであせってこんな詐欺にひっかかる
それはインタ−ネット時代で起きたことである
外国人と簡単にやりとりできる時代になったからである
でも英語で話せたのかというのは良くわからない
グーグルの翻訳など使えば意外と話せるのかもしれない

結局人生の最大の問題は何なのか?
生きる時間が限られている、たちまち時間がなくなり老いる
今やそういう人たちをテレビで華やかに活躍した俳優でも病気になった、ええ、あの人が死んだのかと驚く、同年代の人が病気になり死んでゆく
そういうふうに華やかな時代は本当に短いのである
女性も20代が華だけでどその花の盛りもたちまち過ぎるのである
だからあれこれ高望みしている人は婚期を逃すのである
結婚は生活だと割り切る人は結婚できるとしている
あれこれ望みが高すぎる人は結婚できないというのもわかる
それは時間の無駄ということである、時間がいくらでもあるならいいが結婚するにも時間が問題になる

今は誰かが来て無理やり見合いさせたり家同士の結婚でもないから何かいろいろ高望みして結婚が遅れる傾向にある、何か時代的条件で結婚が遅れる
それは自由な社会であり高望みするからそうなる、自由な社会になるといろいろ選択する範囲も広くなるから男性でもいい男性を選ぶとなればそんな男性はいないとなる

結局人生とはなぜ失敗が多いのか、みんな人生を後悔するのか?
それは時間が短いということである、限られていることなのだ
それは結婚だけのことではない、勉強だってそうだしその他技術を習得するにしても
例えばここ十年介護とかで家事をしてきたけど家事を覚えるには時間がかかるなとつくづく思った、そして料理は未だに何もできないのである、まず料理上手になるには相当な時間が必要だと思った、そして向き不向きもある

結局人間は才能や資質があっても時間をどれくらいかけるかで決まる
それも時間をどれだけ有効に効率的に使うかでも決まる
いくら天才でも費やす時間が限られている
楽器でも一つ覚えるだけで時間がかかる、だから二つも三つも覚えられないのである
それはあらゆることに言える、語学だってそうである
何するにも覚えるにも時間がかかるのである
結局みんな時間切れで終わる
結婚でもそうである、選り好みしているうちに結婚も逃す

とにかくなんでもたちまち時間が過ぎてゆくのである
それは男性でも女性でもつくづく同じである
時間は限られている、例えば最も重要なこと求道するにも信仰するにも実は若い時しかない、時間があるから老人になってから求道しよう信仰しようとしてもできなくなっているもっとも血気盛んな時に神を覚えよと聖書にある
その時期を逃すとできない
それは信仰だけではない、スポーツでも例えば武道などは高校生から大学くらいにしないと基礎ができないからその後になると覚えるのがむずかしくなる
それは体で覚えるものだからである
それで空手の師範までなった人は遅くはじめたから苦労したというのもわかる
それは人生は30くらいで何でも決まるという時そこで方向とか決まり基礎ができるからである

だから放蕩などで青春を浪費した人は最も後悔する

時間はそれだけ貴重であり最も貴重な時間は青春時代なのである、30までなのである
でもこのことが若い時はわからないのである
時間が無限にあるような気がする、時間がありすぎて暇で困るとなっていた
暇潰すのに困っていた、でもそれもたちまちすぎて老人になると生きる時間がもうないとなっているのだ、何かするにも病気になったり体力が落ちてできないのである
だからこのyoutubeを見て結婚も同じである、婚期を逃すと男女とも結婚はできない
そしてチャンスは何度もない、この人はだめだからもっといい別ないい人を見つけようとしていたらいくら時間があってもたりないのである
だからあるところであきらめてというか早めに選んだ方がいいともなる

結局私自身が結婚しないということが婚期を逃したということなのである
それは婚期だけでない、何かのチャンスでも人は逃してもう取り戻せないのである
もっと勉強していれば良かったとか逆にもっと旅行していればよかったとか
もっと家庭サービスをしていれ良かったとか後悔だけが人生となっているのが多すぎるのである
それは何か時間が無限にあるように見えるからである、もう非正規とかフリーターなどでも40歳過ぎたらそのままであり収入も低いままでありスキルも身につかない、結婚もしていないとなると老人になったときどうなるのか?
それは相当に悲惨なことになることは眼に見えている、でもそれを考えないのである
それは時間がまだまだあるとみるからである
でもさすがに40になると自覚せざるを得なくなる

そして最も大事なものが金だと思っている、でも老人になると時間なのである
そして時間は金で買えないのである、青春をとりもどしたいとして百億払っても元の青春時代は返ってこない、女性でも20代の美貌に帰れない、いくら化粧してもだめなのである、無常だというとき常に人生は変化だからである
そして最後はただ白髪の老人となり茫然としているだけになる
それは浦島太郎なのである、玉手箱をあけてたら一瞬にして老人になっていた
竜宮城の快楽は夢だったとなる              

人間はそういう繰り返しなのである、これはいくら科学技術が発達しても変わらない
確かに長生きになったとしても十年とか寿命が延びてもそうである
いづれには死ぬ、人生の時間は限られている、その限られている時間をいかに有効に過ごしたかで人生は決まるとなる
そして最後は雑学でも何か知識として活かせる、ただ放蕩しているより雑学でも本を読んでいた方がいいともなる、実際に山ほど本を買ったが読んでいなかったが積読だったが
その本を買っていたことが宝だったとまでなる
今になると理解できるからである、買ったときは読んでも理解できなかったのである
今はたいがい読んですぐ理解できる、そして自分なりに解釈できる
だから老人になると評論に向いているなと思った
それはその内容が即座に理解できるからである

「光陰矢のごとし」「少年学成り難し」とか人生の短いことはいろいろ言われたがどうしても若い時は実感できない、老人になりそれが現実になると否が応でもそれをつきつけられるのである、その時はすでにまさに時遅しとなっているのが人間なのである

2018年10月30日

ひきこもりは異常なのか? (異常と正常とは何なのか?文明人はほとんど異常である?)


ひきこもりは異常なのか?

(異常と正常とは何なのか?文明人はほとんど異常である?)


私自身がひきこもりだった、社会不適応者として遂に人生も終わり死ぬとなる
ふりかえれば異常だったともつくづく思う
何かひきこもりとか一旦社会から外れた人は社会の常識がわからないということがある
簡単なことすらわからないままになってしまうことがある
だから社会人として勤めた方がいいとなる

ただでは異常と正常とは何なのか?
たいがい会社勤め?で適応できないものは今は病気にされて排除される
何かしらの病名をつけるのである、この人は病気なのだとして社会で認定して接することになる
それで深層ニュースでもその関係の人が出てきて話する
医療関係者がいろいろ言うということでもわかる

では社会人として勤めている人がすべて正常なのか?
これもわからないのだ、社会に過度に適応している人はかえって異常なのかもしれない
そうして文明そのもの批判するアウトサイダー生まれた
その対比で文明人が過度に今の社会に適応した人は異常だとなる
本当の人間だったら適応できないのが普通だからである
まず全人間として生きるとしたらかえって特別優秀な天才などはもう社会人にはなれない結局社会人として文明人として生きることは無数のパーツとしてしか生きられないのである、そこですでに文明人は異常化しているのである

それは大きな見方としてあるが本当にではひきこもりはまた違ったものでも異常なのかということはわからない
公務員として勤めて夫婦であり子供も成人している人がいた
その人は異常人格者だった、まず人への同情心がない、それは自分の家系とかの問題があるにしろ異常人格者になっていた
それでも世間から見たら極々普通の模範的な人として見られていたのである
何らそこには異常性は見られない、模範的な社会人なのである
でもその人自身も夫婦も異常な夫婦だと見た

何か変だなという人が社会で成功している人にも普通にいるだろう
事業に失敗した人でもそうである、その人は社会的に認められていた人だったからであるでもその人も人のことなど考えない思いやりもないただ成功していることを世間に見せてやるとかしかない異常人格者だったともなる
でも現実に世間ではそう見てないなのである、ただ多額の借金をかかえこんでいることを知ればまた違ったものになるかもしれない。
一応小さな会社でもは社長のような立場になっているからである

例えばこの文明社会に過度に適応して成功している人間、ほめたたえられている人間がもしかしたら異常人格者かもしれない、良くサイコパスとかいるがそういう人が普通にいるのかもしれない、むしろそういう異常人格にでもならないと今の社会では成功しないかもしれないのだ、ナチスとかいたけどなぜそんな信じられないことが社会を席巻したのか?ナチスは何者だったのか?それが一国を導き多数の人を死にいたらしめたのである
異常人格者に導かれてそうなったとするとそれは文明そのものが異常だったとピカートとかの思想家が指摘したのである

何が異常なのか正常なのか?例えば科学者で優秀でもフランケンシュタインのようになる人もいるだろう、科学でも機械マニアとかいてそういう人は社会適応性が欠けている
人付き合いが苦手でもものすごく機械に通じている優秀な人もいるのである
そういう人も育てることが日本では必要だと科学者も言ったりする
でもそういう人も社会的に適応できない異常者にもなる

正直自分も人生を生きて異常だったと思う
根本的に人付き合いができないということでそうなったともなる
ひきこもりの問題はそういう何かアウトサイダーとかの問題ではない、一般化した問題である、それを可能にしたのは豊かな時代であり別に金を稼がなくても生活できるからそうなったのである、それはそういう時代が生んだものなのである
ひきこもりとか異常になるのは「小人閑居して不善を成す」とか必ずなる
つまり社会生活を勤め人として生きられる人はある意味でロボットとして生きられる人だともなる、一方で社会からはずれて生きる人も特別優秀で天才のようて人でないと必ずこうなる、なにかおかしな方向に行ってしまうことがある
もしひきこもりで不善を成さない人がいたらその人は本当に珍しい人だとなる
それは聖人とか天才とか中国だと君主だとかまれにみる人だとなる
別に自分はそういう人ではない、かえって落ちこぼれであり才能もない普通の人間だった

そういうことがあるから普通は社会に適応して真面目に生きろとなる
でも経済的豊かになれば別に食べていければ会社勤めをしなくてもいいからそうなる人が増えるのである、とても貧乏な時代ならできないからだ
とするとそうして余裕を与えられる社会だからそういう人たちがいても寛容であっていいともなるが現実は親の介護になったり死んだり親がいなくなると塗炭の苦しみにあう
それを私はプログで書いてきた

奇妙なことはそこで自分を苦しめたのは社会的には正常そのものの人たちだったのであるその人たちは本当に犯罪者であったり異常人格者だったのである
そのために自分は苦しめられた、恐怖におとしいれられたのである
だからそもそも何が異常なのか正常なのか?それがわからないのだ
一つの大きな目安としてはその人の人格がどうなっているのかである
例えは社長になっているような人でも非情な人がサイコパスのような人がいるとしたら
その人は異常であり異常であっても社会に認められているとなるのだ
そういうことは社会で結構あると思う
一体社会に適応している人たちがそんなにほめたたえられるものなのか?
会社でももうけのためには人の命など考えない人たちが普通にいるしブラック会社などいくらでもいる、原発事故を起こした人たちも社会では地位ある最も優秀とされた人たちなのである、その人たちは社会的地位から何から社会の模範のような人たちだったのであるそういう人たちも異常化していたのではないか?
「安全神話」を形成していたことは異常ではなかったか?

つまり世間を見れば異常が支配者となり異常人格者が指導者になり社会を席巻することは過去にもあり現代文明の複雑怪奇な社会では普通になる
ではその人たちは異常だとか社会から責められることはない、ただ優秀な人たちだとして認められるだけなのである
そういう根本的な問題がある、別にひきこもりがいいとはならない、それも異常である
でもこの社会で何が異常なのか正常なのかわからないのである

デイトレダ―とかパソコンの画面を一日見ている株でもうけている人は成功者なのである銀行でも投資信託をうりつける人はノルマをかせぎ優秀だとなる
何かそうして社会自体が犯罪を犯すようなことをしていても金をかせげば社会は認める
つまり金を稼ぐ人は異常でも何でもない、この社会にとって最高の成功者なのである
それで世界の富を何パーセントかの人が独占している
これも容認されているし異常である、でもそうした異常は正常だとなるのである
資本主義社会では別にどれだけ金を稼げるかによって価値が決まる
人格など問わないのである、それも異常だとならないか?
つまりこの世自体が異常なのである、何が異常か正常なのか区別はできない
だから社会を異常者が指導者になり席巻することにもなる

だから文明人そのものを批判するアウトサイダーが生まれた、文明そのものを断罪したのである、文明は異常だからこそ断罪したのである,非人間的だから断罪したのである
文明そのものがいかに非人間的で危険で異常なのか?
今回の原発事故でも現れた、戦争でもそうである
文明が起こす戦争であり文明そのものに起因する戦争なのである
石油をめぐって戦争になるならそれは石油文明が起こす戦争である
別に石油がなくても生きることはできるからである 
原発は原子力文明になるから起きた事故なのである
戦争のことをいろいろ言うけど本質的には文明による戦争でありそれは異常な文明だからそうなる
資本主義でも株式社会でも異常である、それは一握りの人間に富が独占される仕組みである、それは異常者を指導者として容認する仕組みだともなるのである

ひきこもりを擁護しているわけではないが社会そのものが異常と正常が区別できない
この社会でもっとも模範となる正常な人間が異常だということもありうるのだ
正直東京のような大都会で生きられる人間は異常ではないか?
本来大自然の中で人間の正常な精神とかアイディンティティが養成される
つまり東京のようにな所に生きられる人間はすでに異常なのではないか?
何をアイディンティティでとして生きるのかとなるからだ
すると文明人はほとど以上てありアウトサイダーが正常だともなるのである

ただ正直そういうことはあってもひきこもりは親が介護になったり死ぬと過酷なものになる、誰も助けるものはいない、その時世間は非情であり責めてくる
そのことはプログで書いてきた、一身にその苦しみを背負うことになる
その時社会の非情さをいやというほど実際に知る
それはすでに冷静に見れば予期できることなのである,共倒れにもなり悲惨な事態になった人もでているからだ、だからひきこもりとアウトサイダーは違ったものとしても何かにている面がある、それで関心をもつということはあったからここで書いたのである

2018年10月23日

人間が最後に問われるのは人生の意味である (歴史でも問われているのは意味である)


人間が最後に問われるのは人生の意味である

(歴史でも問われているのは意味である)


オウムとは何だったのか?
それを考える時怖いのは優秀な青年が無意味に死んだということではないか?
最後は死刑になったときそれが厳しい過酷な現実として示されたのである
その死に直面したとき本気でその生を問うたが遅かったとなる
つまりそれは災いをもたらした他者を勝手な宗教の曲解で殺したことである
だから何であれ人を殺したものは殺されてもしかたがないとなる
その理由がなんであれそうなる

人間はともかく動物のように食べなければ生きていけない、パンなしでは生きていけないでもパンのみでは生きることができないのが人間でもある
そこにジレンマが生まれ葛藤が生まれる
日々の生活はただ食べることに動物のように追われる、利益優先になりそのためにはいちいち意味を考えていたらできない、まずは利益だとなる

でも恐ろしいのは人間が最後に問われるのは求めるのは生きる意味であり生きた意味だとなる、だからこそ一体戦争で三百万人死んだけど今問われているのはその意味なのであるそんなものを無意味だったとなればその生も死も無意味となる
それこそ空恐ろしいことになる、意味がないことのために3百万に死んだのかとなるからだ

カルト教団の怖さは何か複雑な社会で優秀な青年が意味を求めてカルトに入ったりしている、自分もそうだった、でもそこは何か意味を与えるように見える
複雑な社会でそうしたカルト教団に入るのはやはり意味を求めていたからである
つまりオウムに入った青年は純粋だったということを直接接していた記者など言っているからである
それは自分も創価に入っていたから理解できる、何か意味あるものとして錯覚するのである、そういうふうに仕組まれているのだ、だからこそカルトなのである
現実は社会で利益優先にしているのと同じなのである
ただそこに何か巧妙に宗教を利用して一票を得て権力を手中にするのが目的なのだが王仏冥合とか中世時代の思想をもってくる、それで理論的に正当化しようとする

だから矛盾してくる、一票とることが成仏することであり入れなければ罰があたると恐怖におとしこむ手法である、平和の時代は武力で政権を奪取できないから票をとることで政治権力を得ることに奔走する、そこに宗教がかかわると矛盾しているけどそうなる
現実に民主主義の投票でもアフガニスタンでは30人くらいが投票のために殺されているのである、投票という行為で政治を変えるということが本当はむずかしいものなのである中国では民主主義がないからその政治は暗黒なのである
一党独裁であり反対者は闇にほうむられる、サウジアラビアでも批判した記者が暗殺された、それはまた宗教がかかわると怖くなる
オウムのように宗教で正当化されポアされるのである
それでヨ−ロッパではカトリックの政治支配があり政教分離になった
戦後も天皇が現人神(あらひとかみ)となり国家が国家神道となり宗教と一体となったから政教分離になった

いづれにしろ人間は歴史となったとき問われるのは意味である
一体カルト教団がどんな意味があったのか?
それが歴史的に問われる、人生個々人でもそうである
最後に問われるのは意味なのである
だからこそその前から実は意味を求めて人生を生きることが大事だとなる
でも現実社会は利益をもとめるのが最優先なのである、利益が上がればいいとなり是認される、実際銀行などでも何をするところなのか?
それが良くわからない、ただ投資信託を売りつけ手数料をとればいいとなり営業の銀行員はノルマを果たせばほめられていいとなるだけである
でも本来の銀行業にはやはり地域に貢献して意味を求めるものがあった
でも利益優先になるときそれは無視されるのである

意味を求める時それはあらゆる分野にある、ジャーナリズムにもあるしいろいろな職業にもある、ただすべてが利益優先になる、そこで歪められる

でも人間最後に問われるのは意味である

もしオウムのように有為な青年が意味なく死んだとなることを思えばわかる
また戦争で有為な将来有望な青年が死んだというときそれが無意味だったとなればその3百万人の死は何なのだったとなる
それは空恐ろしいことになる、人間はそんな簡単に無意味に死んでいいのかとなるからだただ何が意味があるのかとなるとそれは具体的な利益のように見えない
いくらいくらもうかったとか、議員になれたとか地位を得たとか具体的な御利益とはならない、だから庶民は多数はただ利益になるからと御利益で宗教団体に入る
それは何でもいいとなる、それであれだけの数となり今度はその数が権力となり社会に圧力をかけて利益を得ようとするのである

ただ最後に問われるのは歴史で問われるのは意味である、意義である

例えばナチスに何の意味があったのか?ファシズムに何の意味があったのか?
そういうことがオウムであれ戦争の死者であれまたこれからも問われる
明治維新だっていろいろに問われるている、見直されているのもそのためである
明治維新が礼賛されるだけの時代は終わったのである
そういうふうに歴史が常に見直されるのは意味を問うようになるからである
人間は誰でも哲学的存在なのである
意味がない生や死こそ本当は恐ろしいものなのである
そして意味とか価値は時代によって新しく作られてもゆく
例えばこの辺では津波や原発事故で荒廃した、でもここで復興することがあればそれは新たな価値と意味を創造したことになり後世の人たちに評価される
そして先祖が良かったから今の自分たちがあるとか感謝するようになるのである
でも実際は若い人は流出して故郷を捨てたのである
それはまた先祖が悪かったともなるのである、原発など誘致した先祖が悪かったとなるのである

人間の最後になると何か見えてくるものがある

人間が最後に問われるのは意味である

最後から本当は人生を生きなければならなかった、しかしそうはいかなかったとみんな反省しているのだが遅かったとなるのが人生なのである

2018年10月21日

「文系学部廃止の衝撃」吉田俊哉を読む (大学とは学問とは何なのか)


「文系学部廃止の衝撃」吉田俊哉を読む

(大学とは学問とは何なのか)

大学とは何なのか?戦前はエリート養成の大学であり何か大学とは何かとか悩む必要がなかった、そこでは自ずとエリートとして見られているし自覚が芽生えた
そして寮歌などう歌いエリートとしての青春を謳歌したのである

 デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ 

 あとの半年ねて暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ

こんな生活が大学ではできた、今でも文系は勉強しない,何か勉強することが大学では嫌われていたというのも不思議である
大学でとまどうのはまず授業に出なくてもいいということだった
高校だと毎日嫌でも授業に出るから勉強嫌いになった、勉強するのは自主的にするのではないただ試験だとか受験のためである、何か興味のためでもなかった
せめて興味のためだったら良かったそういう余裕もないのである
だから何か高校までは自主的に考えて何かを追求することがなかった

そもそも学問のはじまりは二つある、学ぶとはまねることである、暗記することでもあるこの二つが高校までは中心になる、そしてあとは試験のためであり受験勉強なのである
だから純粋に学ぶということがない、でももともと学問は問うということがはじまりである、なぜか?この疑問から始まっている
そこに学問のはじまりがありその疑問を解決するために学問があり学ぶのである
だからギリシャからはじまった西洋の学問は文明は最初は理系とか文系とかの区別はない哲学であった、世界の成り立ちを物質でもなんでも探求する哲学になる
そこから今の原子論がうまれた、自然を構成する分割できないもの原子がアトムから自然は成り立っているとかなる
それを哲学的に考察して科学へと発展していったのである

ともかく人間は何するにしても疑問がとめどもなく無数にある、作物を育てるのにも種をまいても良く育たないということが普通にある、するどなぜなのか?
その疑問が必ず生じてくる、それは肥料だとか水の問題とかある、果物が育つのはかえって福島ならそこは扇状地で砂礫であり水はけがいいから桃がうまいものができたとかなるその土壌に適した作物が必ずありそれがブランド品になる
自然のどういう作用で果物でも野菜でもとれるのかわかる
その土地とか風土と密接に関係しているのである
それは学問として発達すれば農学となり化学とも関係してくる
それは理系だと今はなる、理系はどちらかというと実学なのである

ピタゴラスの定理だとどうしても屋根を作るために必要なものとして解かねばならない難問だった、それが解かれたことにより屋根を作るのが容易になったのである
ギリシャにはそうして学問の発祥の地としてあった
実用としてその謎を解くということが学問のはじまりである
それは理系だと今ではなる、ただ不思議なのは建築に興味がある、では建築でもただ機能的に現代的な高層ビルを建てる技術はある、それだけ発展した技術はある

でもそこにピラミッドやギリシャの神殿やゴシックの大聖堂やモスクでも何か精神性を感じるのかというと感じない、だからシュペングラーが数から分析して高度な数学として文明の建築を見た、その精神性を付与するとなると何かそこには文系の眼が必要になる
そもそせ宗教的建造物はそうした精神性がないとしたらただ摩天楼のように高いだけなら意味がない、そこは祈りの空間として意味をもてっいるからである
ただ大きいというだけただ高いというだけの建築には意味がない、精神性がない、ナチスの時にやたら大きな建物が建てられたという時精神性がないからそうなった
ただ大きいだけでは意味がない、その建築が作られるのにも人間の精神性が付与されてはじめて魂を入れたとなる

そもそも学問のはじまりは深刻な疑問に答えることだった
そして最も深刻な疑問はなぜ人間が死ぬのか?
このことが一番の疑問でありそれに答えるものとして宗教も生まれる
なぜ病気になるのかということでもそれに答えていたのは宗教である
結局加持祈祷するほかないから小さな地区でも村でも必ず山伏が法印がいたのである
しかし本当は人間の最大の問題は人間が死ぬということである
その最大の問いに答えるもでなければ宗教もありえない、その答えを出したのはキリストだけだったとなる、永遠の命は人間に宿る、人間は死ない御霊が与えられている
それが信仰の基になったのである

だから大学はもともと修道院とか寺が学問の場であり求道心がある人たちが集まった場所である、大学は中世では神学と法学と医学しかない、法学となると最古の法典としてハムラビ法典がありローマ法がある、西洋の学問が法から成り立つというとき聖書でも信仰は神との契約だというときその契約は法律用語である
日本人に法になじみにくいが仏教でも寺は求道の場であり修行の場だから同じたったのである

そもそも寺子屋があったとしてそこで実業を教えていた、読み書きそろばんを教えていた
それは寺というのがもともと修行の場であり宗教施設である
そこから派生して実業の寺小屋が生まれた
ヨ−ロッパでも修道院が修行の場でありまた様々な実業の場としてもあった、パン作りとか葡萄酒を作るとか菓子作りもして有名な修道院もあった、日本では沢庵和尚となれば沢庵を発明したからである

そもそも大学とは何なのか?
これがわからなくなった、起源をたどれば宗教から派生したものとしてもろもろの学問があり元は神学が主な教科だった
だから大学というのは医学があるとしたらそれは実業としてあった、でも神学となると実業ではない
大学が現代では実業を身につけるものとしてある時それは理系になる、工学系とかでは機械を作るとけであり農学系だと農業技術を学ぶ所であり医学系だと化学とかなる
それが理系であり理系は社会に役にたつとなり文系はいらないとなる、でも大学とかはもともと宗教から派生したものだから実業とは違うものだった
もし大学は実業だけの場だったら職人のように訓練すればいい場所となる、その職につくための訓練をする場だとなる
大学というとき大きく学ぶだからそうした特定された専門の技術を習得する場だけではない、人間として人格を作るとかある
そうなると幅広い教養とか文学などでも学ぶ、そういう場所が大学だったとなる

実際に大学というと仏教でもキリスト教でも宗教系が多いのでもわかる、大学は依然として宗教から派生したものとしての名残を残しているのである
大学とは何か?それは「人間を作る場所」だともなる
何か専門の実業だけではない人間として広く学ぶ場であり人格を作る場所である、だからそこに遊戯も必要でありスポーツも必要であり様々なクラブも必要でありそこで幅広い人間を養成することである、だから大学は人生とか社会全般のことを考える場所でもある、専門技術を習得するだけではない、そのために自由時間が与えられている
ただ自分の場合はカルト教団に入ったから奇妙だけどそこは宗教として求道の場所だったが全く違っていたのである

いづれにしろ大学と高校はあまりにも違いすぎるのである
自由時間がふんだんに与えられているがそれにとまどうのであるそれで変な方向に行く人もでてくる
大学が遊戯の場だというとき本当に遊びの場となってしまう人もいる、毎日麻雀していたり何か怠惰になり遊びほうける場所にもなる、そういう時間を浪費する場にもなる
それで大学は特に文系はそうなるから無駄だとされる
理系は専門技術の習得があり就職もしやすいが文系は社会に出ても何らそうした技術を習得していないから役にたたないとなるのだ
そして不思議なのは大学で遊ぶことを覚えるとまともな職業人になりにくくなる
授業にも出ない、時間にはルーズになる、毎日時間通りに会社に行き勤めるということがしにくくなる
でも実際は団塊の世代でも学生運動した人たちもみんな就職して企業戦士になったのである
自分のようにアウトローとかになった人は本当にまれである
今ならニートとか普通にいるがその時はいない、そんな人いないから誰も話題にもしなかったのである
だから自分にはそのことが理解できないのである

今のようにニートとかもっといても良かったと思う、そんなにみんなが猛烈な企業戦士とかになる必要がなかったと思う
大学で自由な遊びを覚えた人がみんなそうなることが理解できなかったのである
ただそこには時代があり就職もみんなできたしそういう時代だったとなる
そうして正規のルートからはずれた人は本当にまれだった、みんなその時は正社員になれて会社に入れば安泰だとなっていたからである、でもほとんどの人は企業戦士になる必要はなかったと今では思う
そもそも大学は職業人だけではない何か自由人を作る場所でもあったからだ
だからみんな猛烈な企業戦士になったということはもしかしたら大学の趣旨に反するものだったともなる
もっと自由人を出す所が大学だったともなるからだ

2018年10月15日

家から歴史を認識する (人間の根源的なアイディンティティは歴史は家にあった)


家から歴史を認識する

(人間の根源的なアイディンティティは歴史は家にあった)


家というのはみんな誰でも一番身近である、歴史を認識するとしてもそれは広く大きいし認識するにしても無数にある、だからどうして歴史を認識するのかとなる
一番根源的な存在の認識とか確認は家族の中にあるし歴史という時簡単に考えれば
それは親があって子供がありと世代がつづくことである
親が死ぬと祖父でもいいが死ぬとやはりそれは歴史的存在となる
人間は死んでもすべて消えるというわけではない

人間は歴史的存在として継続される

その歴史的存在として一番身近に継続されるものが親であり祖父だとなる
ただその上になるとなかなか普通では認識しにくくなる
最近私の家族がみんな死んだとき死んだ家族をかえって意識することがある
父親はもう死んでから半世紀とか長いから忘れている
でも父親の存在は大きく簡単には消えない、歴史的実在として力強く残っている不思議がある
そもそも自分の家の創始者は祖父でもない、祖父は何もわからない名前だけである
ただ名前の一字が共通している
これは代々名前の一字が共通していることで先祖をたどる
相馬氏だと胤(たね)が必ず名前に入っているからである

他でも代々つづいた家系では名前の一字が共通している
ただ私の家の先祖は父まででありその上がたどれないのである
それだけの家系と言えばそれまでだがそれでも父は明治生まれであり葛尾村(かつろう)村から双葉の新山で酒屋の丁稚になったことはわかる
ただそうした話を直接聞いたことがない、中学の時死んだからである
それが残念だったと今ではなる

酒屋をして暖簾分けをしてこの地に住むようになった
この暖簾分けというのは当時の社会ではかなり重要なことだった
江戸時代からそれははじまっている、今の会社なら暖簾分けして独立することはない
みんな月給とりであり会社をやめると退職金をもらってあとは年金で暮らすとなる
それが戦前でもまず会社員になっている人、サラリーマンは少なかった
江戸時代の商家というのがつづいていたということがある
するとそうして勤めるとは奉公になるがそこで一人前になるには暖簾分けして別に商店を開きそこで生活することである、番頭とかになっても暖簾分けされないと一人前にはならない、そういうシステムの中で生きていたのである

確かなことは父親がこの家の創業者であることを家族がみんな死んでから認識するようになった、父親の役割が大きかったと認識した
父親の存在はそれだけ大きいものなのである
それも不思議だが具体的な血肉を分けた歴史認識だとなる
聖書でもわかるように常に家系を意識していたのである
聖書はまさに神の系統を記した書なのである
その系統から神の子が生まれると予言されて実際にキリストが生まれたのである
歴史とはまさに神の系統の家の歴史だったのである
その系統の歴史の中から神の子が生まれると予言されていたのである

歴史とは何かというときいろいろあっても家系が先祖をたどるのが歴史の基本だとなる
なんらかで日本の歴史でも神というときその先祖のことなのである
天皇が日本の歴史となり皇統の歴史である、天皇の歴代天皇は祖となり神となっているのが日本の歴史である、皇国史観となる、

要するに先祖でも死んでから半世紀とか一世紀とかたつともうその生々しい存在はなくなり神となるのが歴史である
家族でも死んで十年でも二十年でもまだ生々しい生前のことが浮かぶが半世紀とか一世紀も死んでからたつとなるとそれはもう生々しい人間としての感覚もなくなって神となってしまうのである

ただそうであっても人間は死んでも消えない、歴史的存在としては生き続けるのである
その子がいてまた孫がいてやはり家族の中で歴史的存在として生きつづける
動物は一代で終わりであるが人間の特徴は歴史的存在として長く生き続けるのである
遅きに失したが家族が全部死んでそうした認識が芽生えたとなる
親がいて創始者が創業者がいてこの家が成り立っていてその後継いだとなる
それももう自分も老人であるから遅かったのだがそういう意識を認識をもったのである
人間の生は確かにはかない、みんな死ぬ、でも人間は家族でも歴史的存在としては百年とかそれ以上悠に生き続けるのである
だから家族として家系としてではなく人間で大事なのは中国では青史に残ってこそ生の意味があったとなる
そういう長期的な視野が中国では育った、中国は歴史の国だからである
現代は中国に学ばなくってその辺がわからなくなったとういことはある

述懷<ョ山陽>  

十有 三春秋
逝く者は 已に水の如し
天地 始終無く
人生 生死有り
安んぞ 古人に類するを得て
千載 青史に列せん  


人間の存在は青史に残ることにこそ生きる意義があるというのが中国的死生観である
そうでなければ人間の存在はあまりにもはかないとなるからだ
そういうふうに歴史的存在としての人間を認識して生きる、長期的展望の下で生きる
目の前の利にばかり追われて一生を終えるなということになる
その長期的展望とは国家自体でもいえる、現代は忙しくただ目の前の利に追われているだけだとなる
中国から学ぶのはこの歴史感覚である、そこから様々な教訓がそこから生まれた
人間でもだから50年後とか100年後に残る仕事ができるかなのである

現代はただ情報環境が発達しているからただ今目立つことにエネルギ―をそそぐがそうしたものはうたかたのように消えてない、もし50年後に100年後でも残るものなら青史に名を残すとなる
ただ別に一般庶民でも歴史はあり歴史的存在として家系に残り続ける
ただ現代はそうして家というものの紐帯が薄れている、核家族とかなったのもそうである、会社社会工業社会になったとき家というより会社員となり工員となり核家族化したのである
そのアイディンティティが・・・・会社に勤めていますということでわかる、それが名の知れた会社ならその人は一目置かれるとなるからだ、昔は家がアイディンティティの基だったのである、武家では特にそうだった 
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つまり自己のアイディンティティでの認識は先祖をたどる歴史的認識だったのである、こういうアイディンティティは古今東西変わりない人間的存在意識の確認なのである
先祖がどうだとか家系がどうだとか言うのは古いともなるが何かかえって現代では様々なアイディンティティでが喪失して無数の砂粒のようになっている、何か自己のアイディンティティでを確認できなくなる、それで自分のルーツを探る人が増えてくる面もある
何か自分のプログでも家系を姓名からたどる人がいるからである
野馬追いの旗印もそうした家のアイディンティティなのだがそれが不明になった、なぜあんなに旗印が多様なのかたどりえようがなくなったのである、ただここで名乗ったようにこうして先祖をたどるものとして旗印があった印なのである
もう一つは大和国の住人とある時その住んでいる地域がアイディンティティになる、それも江戸時代までは強かった
どこに住んでいるかでその人を見るのである、今はその住んでいる場所よりどこの会社とかに所属していることがアイディンティティでになる、だから故郷でも愛着がなくなって原発事故で避難者は若い世代は流出したともなる
老人は故郷に愛着があり帰ったというのもわかる

ともかく天皇でもそうだがそうして親から子へ孫へと一つの系統として歴史を認識することはわかりやすいとなる
それが父系になるということは東西で同じであり父親の重みが自ずと認識されたためである
別に女性差別ではなく世界中でそうなっているからである、母系はあったが廃れたのである


2018年10月07日

つらぬく、生きぬく、耐えぬく人生


つらぬく、生きぬく、耐えぬく人生
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つらぬく
生きぬく
耐えぬく

生きるということは何か?何か信仰で信念でも仕事でもこの三つが必要になる
そのつらぬくものが何かは人によって違ってくる
どうしても人間は曲がったものになるのはやはりそれだけこの三つが実行できないからである

国家的規模で歴史でもそれができない,それで戦争で負けたら全く日本人はあっさり転向した、アメリカにすべて従い日本人の自主性を失った
だから小野田少尉はジャングルで依然として戦闘状態にあり帰ってきたときがっかりしたのである、日本にはあれだけアメリカとも戦っていたのにアメリカに従うだけの国になっていたからである

そこに一貫性が国としてなくなっていたのである
国にも骨格のようなものがありそれが喪失したら国として一貫性もなにもなくなり成り立つのかともなる、だから戦後はただ経済的豊かさを求めるだけであり日本人としての一貫性は喪失して日本人の独自性も喪失したとなる
民主主義をとりいれてもただ権利だけを主張するエゴ的なものとして主張するようになった

右であれ左であり人間は一貫性があればそれそれで辻褄があってくる
でも転向すると何であれ辻褄があわなくなる
そういうことはすでに青春時代、若い時方向が決まってしまう
若い時妥協して曲がってしまうとその後も曲がったままになりやすい
カルト宗教団体でも何かおかしいのではないか?
そう思ってもずるずるそこにあって脱出できなくなる
若い時何かそうしてそれぞれに違っていても方向を決めるものにぶちあたる

ただ人間の一生は時代によっても違うしいろいろだから家庭環境でも生活する場も性格も違うから外から見て何を貫くは違うものになる
なぜ師がいたとしてもすでに師との世代差があり生きる環境も違うとか生い立ちも違うとかあり必ず師と違ったものとなってゆく
師の人生であり弟子の人生は人生で別に築いてゆくものになる
必ずそこで時代の影響を受けるから違ったものになる   
師とは別個の人間であり師と同じになることではないがカルト教団では師が絶対化して師のコピー人間にされる
大量の奴隷のようにされる、そこに師の危険性がある、師は学ぶとしても否定されるべきなのである
師と同じになることではないのである
正直あまりにも過酷だと自分の場合は耐えられないものとなった
環境に恵まれた結果として今日がある
だからそれぞれの条件は違っているのである                          
もし偉大な人なら過酷な条件でも耐えられるからである。

ただこの三つの戒めがあって人生は何かなしたとか実りが生まれる、満足が生まれる
でもどこかで曲がった方向に行きやすい、そこに強大な力が圧迫がある
それで曲がった方向に行ってしまう、その強大な力に従った方が楽だからである
でも若い時その方向性が決まることが怖いとふりかえり思う
一旦その方向が曲がった方に行くと正しい方向にもどせないのである
カルト教団に入ってもそこから脱出できない、それには相当なエネルギーが必要になるからだ 

それはだいたい30くらいまで決まってしまう、だからその後に変更することはむずかしくなる、ということは若い時にその方向が決まってしまうとなる
「若き日に汝の神を覚えよ」というときそうである  

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。/苦しみの日々が来ないうちに。/『年を重ねることに喜びはない』と/言う年齢にならないうちに。」

その時を逃したら神を知ることができないともなる、だから若い時方向性が決まるから怖いのである、もちろん自分の一生は何か間違っていたしふがいないものだった
何か特別優れたことをしたということはなかった
社会からはずれたものであり参考にはならないかもしれない
ただ若い時の方向は間違っていなかったことは確かである

ともかく人間にはこの三つがないと満足したものとはならない
第一何をするにしても簡単に成ることはないからだ
即席に何かうまくいく成ることはない、するとどうしてもこの三つが必要になる
地道に努力して最後に成功するということがある
でも日の目を見ないとなかなかそうして継続して努力しつづけることが嫌になるだろう
それでも継続してこの三つを守れば最後に実りがあり満足がある

大地に根を張り
まっすぐに伸びた木よ
そはここに力強く根付き
その生は全うされた
そしてここに倒れた
その倒れた木はなおここにに立っている
一つの標としてここに立っている
その姿は不変でありゆるがない
その木はまっすぐに立ち
曲がることなく立ち倒れた
そこに悔いはない
その生は正しく全うされたから

人間はやはり土着的なものとしてある、その土地に木のように根付く
その土地に根を張り生きてゆく、そういう場が必要なのである
あちらこちらと移動していたらそういう強いアイディンティティではもてない
そこから文化も生まれるからだ、だから人間も土着的なものしとてある
だから都会には現代にはこうした土着なものは欠如しているからアイディンティティがもてず浮遊している感じになる
そこに生の充実感が得られないのである

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この最高裁判所の真ん中にあるのは樹の幹である、そして石に囲まれている
これは最高裁判所にふさわしい建築だと思った
木というのが真ん中にあり石という堅固なもので囲まれている
それは正しさを追求する場にふさわしいとなる
建築にも思想が反映されると重みを増すのである

一般的に日本の建築はそうした重みがないのである
現代文明にある建築にはそうした重みがない
ただビジネスする金儲けの場としての建築である
つまり精神性がないのである
精神性が養われない世界なのである
煉瓦作りの盛岡銀行のも何か堅実なものを感じる
高層ビルとかあってもそこに精神性がないからただ高いというだけになっている
ともかく樹の太い幹が柱となり石に囲まれているのは最高裁判所の内部にふさわしい














2018年10月01日

情けは人のためならず (自己責任は必ずある)


 情けは人のためならず

 (自己責任は必ずある)

他者の感情に対し共感する感情の同一性を指す。」
「英語におけるSympathy(同情)の語源としては、ギリシア語より由来し、共に苦しむこと、感情が同一になることを指している。これより転じて、同情とは他者の苦しみに応答して、自らも苦しむような感情を持つ。」

情けが仇(相手にかけた情けが逆に悪い結果を招く、という意味)

情けをかけることは悪いことではない、しかし情けは人のためにならずというとき何なのか?
その人は困窮していることはわかるし障害者をもったりといろいす苦労の連続だったということ雇われた人から金をもらえなかったことなどで同情した
ただそれにも限界があった、次から次と金をせびり要求する
消費者金融から借金していてそれも自分が払って返してやった
でもそれがまたとりたてにきたとかもうここ三年間そのことをいい要求してくる
これで終わりだといっても要求してくる
仕事は実際は何もしないと同じである
ただ金ばかり要求してくる、それじ事情があったから援助していた
でもこうなるときりなくなる、その人はなぜ借金とりにそんなに払わなければならないのか?そのことがわからないのである
ただ百万とかの大きな金でないから一万だ二万だと5千円だとかこまめに要求するから払った、そういう方法はうまいと思った
事業した人などは金の額が大きすぎるからとても借金して要求されてもできない
億の金が必要になるかもしれないからだ
現実に自分が苦しんでいる時自分の全財産を要求してきたからである

情けが人のためにならずというときなぜなのか?
それは同情するにしても人間は必ず自己責任がある、その自己責任とはカルマなのである何かしらカルマを積んで結果的に苦しい目にあう、それは同情に値するにしてもそこには必ず自己責任がその人なりのカルマがありそれを全部肩代わりすることはできない
それを情けをかけるのはいいが負担が全部自分にかかってくる
そうするとその人は自己責任として逃れる、でもその人は援助しても延々と借金しているのかもしれない、歯止めがない
例えばギャンブルなどで金を使って借金して借金を要求されたらたまらないとなる
延々として要求されるしそれでギャンブルをやめるわけでもないからだ
それで覚せい剤中毒の息子がいて有名な芸能人が一か月百万も小遣いを払っていたというその息子は40歳近くになっている、でも薬をたつことができずまた逮捕された
つまり親でも情けは人のためならずとなる、それで更生できるならいいがならないからである

人に同情するというときこれもむずかしい、事業に失敗した人はあまりにも軽い気持ちで事業をはじめた、資格をもっているし技術者で優秀だから事業をはじめたが経営者と技術者は違っている、その人が事業をはじめた理由はただ自分が優秀だからその優秀さを認めさせるためだともなる、何か社会的事業として社会に尽くすということはない
それで失敗して借金を要求してくる
その人は上にたって人を雇うとか導ける人ではなかった、ただ技術者としては優秀だったとなるから会社で技術者をしていればそれなりに優秀な人として通っていたのである
その人はまず人のためになにかすることができない人である
なぜなら自分が苦しんでいる時、軽い荷物一つも持つ気持ちがなかった
ただ金が欲しいというだけである、でも金は百万以上くれたしまた他にも貸したのであるだからただでやらけたわけではなかったのである
ただその人は他者のために軽い荷物一つても持つ気持ちがない人だった

そういう人が上にたてるのか?社長とかになれるのか?
ただ社長とかでもいろいろあるしブラックもあるからそういうものなのかとも思う
でも上にたつ人でも他者に尽くすということが基本にあるから会社を経営できるのかと思った
もちろん自分がそうさせられたのは自分のカルマだったのである
自分の場合は社会から離れて会社に就職していないしそこでカルマを積んでいたから苦しい目にあった、まずニートとかなるとその結末は本当に悲惨なことになる
ただ人間は何もしないにしろ何をするにしろカルマを積んでいるのである
その結果が必ず老人になって苦しみとなって現れるのである
だから人のことは自分も言えないのである

人に情けをかけるというときここで起きた原発避難者のことを批判してきた
そのことで反発があったがこれも情けは人のためならずであった
多額の補償金をもらい仮説に絶えずボランティアがきて応援してかわいそうだとしてNHKからマスコミが同情して応援した
そのことで原発避難者はかわいそうな人たちとして特権化したのである
現実は毎日パチンコ屋通いでありギャンブルにギャンブラーになっていたのである
それは行政とにも問題があった、なぜなら働くとかえって補償金をもらえなくなっていたからである、そうなれば誰も働かないからである

でも全国でもNHKからマスコミがかわいそうな人たちとして応援した
ボランティアも今でも来ていた人がいた
それは悪いことではないにしろ何か原発避難者は被害者意識にこりかたまり同情されるのが当然だとなってしまったのである
それで仮設を提供した地元の人たちは不満だったのである
ただそのことは表立っては言えない、原発避難者からお前は人間の心もないのかとか怒られるからである、それで小高と鹿島の人は分断されたのである
鹿島の奴らはなんなのだと遠くからこんなに応援に来ているのに金のことばかり言っている、NHKでもマスコミでもみんなかわいそうだと応援しているのに何なのだとなり
怒りとなり険悪な関係になってしまったのである

こういうことも情けは人のためならずということがある
情けをかけたためにかえって自立心をなくさせたりただかわいそうな人たちとして他者に要求するだけの人となる、被害者は特権化する、被害者意識が過剰になるとただその被害のために要求するだけの人となる
そしてこの辺ではおそらくプルトニウムが二万年消えない被害のように二万年被害者だとして訴えて要求するだけの人たちになるかもしれない
全部原発事故のためだとなり子供に子孫にもそのことを言い続けるからである
それは韓国と沖縄とかとにたようになる、その被害があったとしてもそれを種にして50年も百年もさらに果てしなく追及されたらたまったものではていからだ
そういう地域はもう退廃してゆくだけだろう、すべて原発事故のためだと言っていれば通るからである

だから人間のむずかしいのは情けをかけるべきことがありまたやたら情けをかけてもそれはその人のためにならないことがある
それがむずかしいのである、ただ金を要求されて払っていてもそれが仇になる
有名な芸能人は金があるから息子に払っていた、でも立ち直ることができなかった
そこになんらか非情になることができなかった
つまり非情になることもまた必要だったとなる
ただそれだってその人によりけりなのである、息子でも別に会社勤めをしなくても真面目に何かを勉強したりしている人はいるからである
私は会社勤めに合わないししていない、親の援助でずっと生きていただけである
でもただ遊んでいただけではない、いろいろと勉強して今その成果を出しているのである

つくづくここ十年の介護やら自分の病気やらで苦労して感じたことは今でも諺がすたれず十分に通用していることは人間そのものが変わっていないからである
確かにテレビを見てインタ−ネットをしてスマホをして車に乗って飛行機に乗ってとかいろいろ技術として科学として変わったとしても人間そのものは変わっていない
特別慈悲深くなるとかもない、情けでもそれがすべていいものとして働かない

金の切れ目が縁の切れ目

これも本当にそうだった、もう今になるとそれが極端になっているのである
みんなそうして別れて行った、これが世間だったとなる
だから諺は庶民から生まれたとしてそれが世渡りしていてみんなが感じたからそれが真理のようにして残ったとなるのだ

2018年09月17日

愛国心とは何なのか? (利他の精神なくしてありえない)


愛国心とは何なのか?


(利他の精神なくしてありえない)


●経営者と愛国心


利己、己を利するために、利益を追求することから離れて、利他、他人をよくしてあげようという優しい思いやりをベースに経営していきますと、会社は本当に繁栄しますよくなります。


会社経営でもこういうことを必ず言っている、つまり自己の利益だけを求めていたら会社は成り立たない、繁栄しない

でも反面ブラック会社というのがある、それはまず雇う人を社員をただのロボットのように見ている、だから非正規社員として雇う、時間給で人を雇う

それはセブンエレブンとかコンビニとかで雇われる人がそうである

会社ではもうそこに人件費を払いたくないから自動化して無人化したいのである

JRでも無人駅を増やしているのもそのためである

人のコストが一番高いからそうなるのである


そしてセブンエレブンなどではチェーン化して出店するオーナーは会社から搾取されるとある、そこでは会社の利益になることだけを追求してオーナーとかやそこに雇う人はロボットの方がいいと考えているのである

そういうところに愛社精神もロイヤルティも育たないだろう

それが高度成長時代の会社とは違ったものになっている

高度成長時代は企業戦士となり愛社精神が強かったのは会社が終身雇用であり家族のことまでめんどうみる共同体のようになっていたからである

時間給などではない、全人生を考慮して雇っていたのである

ただそれが可能だったのは高度成長という経済が成長して給料が毎年上がっている時だったのである。


経営者になるときただ利益をあげることを至上命令とする、利益があがらなければ社長はやめさせられる、そこに利他の精神などがあるのか?

事業に失敗した人はなぜだったのか?

その人は利他の精神が全くなかったのである。なぜ事業を起こしたのか?、自分が優秀だということを見せたいために事業を起こした

技術的には資格をもっていて優秀だったからである

でも利他の精神など全くなかったのである

ただ金持ちを相手にして金をもうけたいというだけだったのである

だから自分が苦しい時その人は一つの荷物をもつ気がなかった

つまり社長でも何かそうして人に尽くす気持ちがないとできないのではないか?

社長とはただ威張って社員をこきつかい利益をあげるだけを目的として

自分が偉いということを見せるだけなのか?

そんな人が社長だったらどうなるのか?

そこに利他の精神が愛など全くないのである

要するに社員は奴隷であり客は金を得るための道具だとなる


「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」


上に立つものはこうならないと指導できないだろう、ただ威張っていたいという人が経営者になれるのかとなる

モラル的にそうでなければ上に立てるのか?ただ人に仕えさせて威張っていたいとなる人が社長になれるのか?

そんな人に人はついてゆくだろうか?


●格差社会は愛国心を喪失させる


愛社精神と愛国精神でも通じるものがある、国家でも富裕層と貧困層とかに二分すると格差社会になると愛国心は喪失する

みんな自分だけの利を求めるとき国は二分化して分裂する

特に官僚とか政治家とか上に立つものが自分たちだけの利益を求めて社員でも国民でも奴隷のようにみるとき国家でも会社でも忠誠心がなくなり衰退してゆく

ローマ帝国が崩壊したのは貴族が贅沢して奴隷を使っていたからだとなる

そこになぜキリスト教が普及したのか?

それは極端な格差社会だから平等の愛を説くキリスト教が普及したのである

格差社会は国を分裂させる、いづれ国民の不満が爆発してフランス革命のようになる

貴族もギロチンにかけられる、そういう恐ろしい反乱が国民から起きてくる

それは中国などの歴史でもそうだった、極端な格差社会になると金持ちが盗賊に襲われて殺される、そして盗賊が皇帝になったのである


このようなことを自分も経験したので書いてきた

極端な格差社会になるとモラルはなくなる、金持ちはみんな不正でもって金持ちになるとみられる、だから奪ってもいいのだとなる、そこには何の罪の意識もなくなるのである

第一上に立つものが雇う人でも時間給でロボットのように扱う

そこに愛社精神とかは生まれない、奴隷なのである。良く俺たちは社畜なんだよなという時そうである、雇われる社員は奴隷だと思っているからだ


国家にしても国民を政治家とか官僚とかが奴隷のように思い扱えば国家への忠誠心とか愛国心は喪失する、中国では民という漢字は目をつぶすというとき怖いものがある

あれだけ人口が多い大国になると人民とかでも支配者は奴隷とみているのである

そこで皇帝が神のようになり国民から税金をとり酒地肉林とかあくなき欲望に走るのが中国の歴史だった、中国の欲望の強さは地下まで死んでまで自らの権力を誇示して生きようとしていたのである。始皇帝の兵馬俑とかがそうである

それが中国の歴史だったのである、だから中国には愛国心が育ちにくいのである

愛国心といっても国を利用して利己的に私的に欲望を満たすことである

その時国民が犠牲になっても大量に死んでもいいのである

それは共産党国家になっても同じだった、何兆もの富を蓄えた共産党幹部がいたからである、それは昔の王侯と皇帝と変わりないのである。

そういう国家が果たして力をもちえるのか?いくら数が多くても愛国心があるようで実際はもちえないのが中国だとなる


アメリカはどうかとなるとアメリカはホイットマンの詩のように平民の国なのである

そこに王様はいないのである、みんな平民なのである

ただ黒人奴隷はいた、そこに人種差別がある、でも平民の国であるから愛国心もあるとなっていた、そこでも対立争いはあったにしてもやはり愛国心があった

でも今はアメリカでも格差社会になる時愛国心は失われる

アメリカの国家は多国籍企業の言いなりに動く、国家は大企業の使用人のようになる

そして株でも金融でも一部の富裕層に富が集まる、その格差が大きすぎるから国としての統一感がなくなる、何パーセントの富裕層が富を独占する、そういう国になると愛国心は喪失するのである

つまり愛国心とは何かとなるといろいろあるにしても利他の精神が基本になるからだ

それが失われたとき愛国心は失われる、だからアメリカでも中国でも愛国心をもつことはむずかしい、国が巨大すぎるからである。

アメリカで富裕層が愛国心を説くのは矛盾している

なぜならアメリカの貧困層が増大していてわずかの富裕層に富が集中している

まず貧困層に富を分け与えるのが先だからである


●宗教が愛国心の基


日本という国は島国であり一つにまとまりやすい国であった

天皇というのは中国の皇帝とは違う、日本の精神的シンボルのようなものであり地下まで帝国を維持しているような強欲なものはない

そんな権力をもちえなかった、天皇とは逆に飾りだともなっていたのである、実質の権力は侍がもっていて天皇はもっていなかったからだ

ともかく愛国心というとき別に宗教に関係なく宗教者は熱烈な愛国者である

日蓮がそうであり内村鑑三でもそうだし手島郁郎もそうである

キリスト者にもいろいろあっても別に日本文化を否定しない

それは宗教はもともと利他の精神から起きて来たからである

仏教でもそうだし宗教は利他の精神を説くから愛国心も利他の精神から成り立つから共通しているのである

国を愛すとなるとそれは大きなものだから利他の精神なくしてありえないからである


現代は愛国心が失ったという時、上も下も利他の精神がなくなったからである、ただ利己的な利益を求めるだけであり金を求めるだけであり

会社でもそうだし組織団体でもカルト宗教団体でもそうである

自分たちの所属する組織団体の利益をもとめひいては自分の利益になる金になることを求めることになったとき愛国心も喪失したのである

だから戦争はいいものではないにしても国のために死んだ若い人たちには愛国心があった、強制された面もあるが愛国心はあったからできたことである,今はそもそも国は常に否定されている

ただ利己的な利益を求める金だけを求めるだけになっているからだ  


旧約聖書:箴言:15章:17節


野菜を食べて互に愛するのは、肥えた牛を食べて互に憎むのにまさる


現実はたらふく肉を食べたい、どんなことをしても食べたい、相手を殺しても食べたいとなっている

つまり肥えた牛がいれば奪い合い争いとなり殺し合いになる

この辺でも補償金でもめたのもそうである、原発は金の産むものでありそれで誘致されたのである

危険性などほとんど問題にしていなかった、ただただたらふく肉食べたい、金が欲しいとなっているだけである

そして今度は補償金で争い憎みあっていたのである

野菜を食べて互いに愛し合うことはかえってむずかしいのである

そもそも歴史でも人間の争いはたらふく肉を食べたいということで起きているからである。

互いに肥えた牛を奪い合うことになって争うからである

肥えた牛とは今では石油とかいろいろある、原発でもそうである、それは金になるからである

だから利他の精神を説いても実際はむずかしい、どうしても事故の利益が優先されるからである。

そして富裕層が自分の富を手放したくない、そこで金でいろいろ工作してくる、政治家に働きかける

政治家も肥えた牛を食べたいから富裕層につくとなる、だからこれを実行することは簡単ではないのである。

原発でも地元でもあまりにも欲が前面に出てそういう人がいたからこそ原発は歓迎された

そして事故になりとりかえしのつかないことになったのである。


●日本精神の新たな復活

   

日本精神に再び立つべし



いさおしく御国のために果てにしを今誰か思ふらむ


大和の国にその英霊の浮かぶも悲し認められざるかな


何故に我が死すをかえりみて嘆くらむ              


今民をかえりみる者なし


ただ我が利のみ追いて金のみが力なり


我が社のみの利を求めて民を思わじ


あらゆるものの上から下も求むるは利のみなりき  


心はたやすく金で買われ心は踏みにじられる


すめらぎの誠の道を再び正しうるわしき国を作らむ


日本は再び立たむ正しきを貫く独立の国として


その誇りをとりもどせ、金に計れぬ誇りをとりもどせ


何を恐れむ神の御意の国に宿らば恐ることなし


さらば霊峰富士のさらに映えて国は栄えむ


国を守るは武器にあらじ日本精神なり


誠の道を貫く古来よりの日本精神なり


核兵器にても国は守れざるなり


日本精神と民の力こそ国を守るなり


その民を虐げる者は国を食いものにする者なり


国の富を貪る者よ、民を貪る者よ、呪わるべし


故にこれらを撃つべし一掃すべし


日本の民の力の再びよみがえり立つべし


再び維新の時なり、改める時なり


心ある者は立て、そして戦い、武器を持つにあらじ


大いなる変革の時は再び来たれり  



日本精神とは何なのか?これも今は明確ではない、日本精神は侍精神だという人もいた、何か日本の歴史の中で伝統的に血肉となったものである、それが失われたのは日本が戦争に負けてアメリカ一辺倒になった、そうさせられたということである

金の価値観しかなくなったためである、何か獣のように欲をむきだしにして貪り食らうというだけである

弱者も貪り食らう対象となる、貧困ビジネスもある、弱者とみればつけ入る、もう日本人の良さは消失しているのである

そして核武装が言われるが武器で国が守れるのか?

もう核戦争になると人類滅亡になる、つまり核武装してもそれは自国でも他国でも滅亡なのである

だから今やそんなことしても無益だとなる


ともかく戦後70年で大変革の時が来ている、それはあらゆる方面に及んでいる

結局戦後70年とは明治維新があり70年過ぎて太平洋戦争があり焼野原になり復興してまた70年過ぎた

大きな変革の時になったのである、それは世界的にもそうである

明治維新と戦後の焼け野原を思えばまだその変化は小さいとなる


確かに東日本大震災でもその被害は大きかった、でも戦後の焼け野原を広島の原爆から立ち直ったのを見ればまだましだとも思う

その時は食べるものすらなかったからである。

かえって戦争では既得権者が一掃されて復興したとも言われる、既得権者が居座っていると改革はできないからである。

それが一掃されたので新しい日本になった、ただそれはアメリカ主導でなったのである

だから今度の改革は日本主導でしなけければならない、それは戦争の時のように独立するとなると厳しいものになる

中国が大国化してアメリカがいてロシアがいるからである、その挟間で日本は苦しむからである

ただそういう時期にきているからもう改革は避けられないしもしそれがでなければ日本は衰退して中国であれロシアであれ今度はアメリカが衰退しても属国化することは変わりないのである。


弱者化すると個人的にもそうだが周りの国が攻めてくる、弱者は奴隷化されやすいのである

あからさまに自分が弱者化したとき借金した人が奴隷にしようとしていた

でもその人もまた借金で奴隷になっているのは因果応報である

奴隷として人間を使おうとするものはやがて奴隷として使われるのもカルマなのである

歴史でも弱者と強者は逆転するからである、それも人間の法則なのである


江戸時代でも隣の藩は敵であり助けたりしないのである

弱体化すると好機になり攻めてきて支配されるのである

日本も弱体化するとロシアが攻めてくるし中国も攻めてくる

その前に日本には耕作放棄地とか使用されない土地があり誰が持ち主かもわからない土地が膨大にある、そういうところは中国に買い占められたりしている

空白地というのはそうなりやすいのである

その土地を使用ししても文句を言う人もいなくなるからだ

そのうちに外国人が住んでそこは日本でなくなるということにもなる

だから日本は少子高齢化でそういう危険性も高くなっている

日本の国力が衰退すれば自ずとそうなってしまうのである




タグ:愛国心とは

2018年09月11日

人間は自由である、でも行為には必ず責任が課せられる (責任から逃れられない、カルマから逃れられない)


人間は自由である、でも行為には必ず責任が課せられる

(責任から逃れられない、カルマから逃れられない)

人間以外の被造物が世界(被造物同士)にたいして責任をもたず、人間だけが世界にたいして責任をもつ。それは、人間だけが神を前にして責任を釈明し、責任をとらされる存在だから、つまり超越と人間との独自の関係ゆえである。

キリスト教と生命科学ー責任概念を中心にして

人間の謎はいろいろあるが人間のみが責任をもち責任を負わされ責任を果たすことを要求される、人間は生まれた時点ですでに重い責任(カルマ)を背負ってくるからだともなる人間はこの世に生きることは責任があるというときもう存在するだけでもそうである
空気を吸い水を飲み動物を植物を食わねば生きていけない、存在ふることは他の生命があって生きられるのである、だから何かを食べるだけで責任が生じている
食べ物でも食料でも大事にせねばならない責任が生まれるている

一体動物であれ植物であれ鉱物であれそれらが何であれ責任を問われることはない、
残酷に他の動物の肉を食べるからとそんな残酷なことをするものは死刑だとはならない、犬猫を飼うものでも犬や猫が勝手に子供を生んでも
そのために野良犬になり野良猫になってもその親に責任があるとはならない、むしろそれを飼う人間の方が責任を社会から問われるのである、生物で責任をとらされるのは人間だけである
それはなぜなのか?その答えはかなりむずかしいものとなる

これまでも原発事故のことで責任のことを書いてきた
一体原発事故の責任は誰にあるのか?
それを追求してきた、また責任をもちうるのは誰なのか?
責任をもちしるのは問われるのは資本主義では金をより多くもっている者であり
金の額に比例して責任が重くなる
だから江戸時代では十両盗むと打ち首になった
金はわかりやすい責任の具体的な指標とるからである

なぜあらゆることに人間は責任を問われるのか?また責任を課せられてそれを負うのか?それはカルマ論ともなり不可解だとなる、それは神学的哲学的問題にになるからだ
人間はあらゆることに責任があるというとき責任をとらされる
借金することは自由である、でも必ず返すことを要求される、責任が借りたときに生じていたのである。返さなければそれ相応の責任を負い江戸時代に遊女に売られたとか現代でも過酷なとりたてにあう
人間は何するにしても責任が問われる、恋愛なら好き嫌いで別れたとしても子供ができれば責任をとらされる、結婚は大きな責任の上に成り立つ、財産があれば離婚すれば金で支払うことになる

人間はあらゆることに責任が課せられ責任を負うことが定めである
人間は極端になれば何でもする自由がある
親鸞のように千人殺してみなさい、それであなたの罪深さを知りなさいともなる
つまり千人を殺す自由がある、でもその責任もある
その責任を果たせる人はそうしてもいいとなるのだ
要するに人間にだけまた自由が与えられているのだ
動物はただ本能的に生きるだけであり自由はない、自らの意志で決断するとかはない
ただ本能に導かれて行動するのであり動物には人間のような自主的に決断するものはない
人間は自由であるから何をしてもいい→人間には責任がある→責任を負わされる

例えばカルト教団に入るのも自由である、ではそのカルト教団がどういうものなのか?
入る人はただみんなが入っているからと容易に入る
でもカルト教団に入った人は必ずその責任を課せられる
自分はそんな責任を負うことはないと思っても課せられる
オウムでもそうだった、そこに入った人は高学歴の優秀な学生であり優秀な人たちだったでも結果的には麻原にだまされたとか逮捕されてからは言うようになった
そして最近幹部がみんな死刑になった
その死刑になる時責任の重さを知らしめられたのである。
その時後悔してもどうにもならなくなっていたのである
だから行為の結果というのはカルマは厳しいものになる
そうしたら安易な行為はできないとなるのだ

人間は自由である、何するにしてもカルトだろうが何だろうがその教義を勝手に解釈して殺人集団になってもいいとなっていたのである
しかし人を闇雲に殺した結果としてみんな幹部は死刑になったのである。
その時その過ちを悔いてもその責任を負わされたのである。
もちろん死刑には疑問があるにしろ実際にそうなったときその責任の重さを自覚したことは確かである、世の中はやはり外から見ても厳しいものだと自覚する
目に目を歯には歯をであり殺したものは殺されて当然だともなる

江戸時代には庶民は侍になりたくなかったという、それは侍は責任のために切腹させられたからである,それが責任の取り方だから庶民はそんなことは嫌だとなり侍になりたくなかったのである。
侍がなぜそれほど責任を課せられていたかというと今のような民主主義などない
身分社会だから侍が模範となる社会でありその模範となるべきものが悪を成したら厳しい処罰として切腹させられたのである
責任者がはっきりしていたのが江戸時代だったとなる

責任というときいろいろある,あらゆることに責任が問われ負わされるのである
原発事故では漁業組合とか船主の責任が問われた、それはそれだけの金を事故前も事故後ももらっていたからである
つまり漁業権をもつ権利があったのだがその権利を行使したのはいいとしてでは原発事故になったら責任が問われた
なぜ漁業権を東電に売り渡したのだ、その責任はどうするのだ
事故後もなぜ手厚い補償金をもらいつづけているのだと問われる
このことは双葉や大熊の町民にも問われたのである。
他にもいろいろな責任が問われた、政府でも官僚でもマスコミでもあらゆるものの責任が問われた、それはなぜなのか?

権力を持っても権利をもつものは責任が問われる負わされる

責任をもつものはまたそれだけのことを行使できる権力をもつものなのである
江戸時代には庶民は何の権力もないから侍が政治を行うのだからその結果の責任は侍がとらされていたのである
だから権力がないものは責任もないのである
報道でもそもそも江戸時代には報道などない、瓦版などがあったとしても報道に値しないだろう、とすると情報でも侍がすべてもっているのだから庶民は何もできない
でも明治以降は新聞でもなんでも報道する権利を与えられた
だからこそ今度は報道する権利をもち権力をもったものには責任が問われる
マスコミに風当たりが強くなったのはテレビでも六局しか報道の権利を与えられなかったからである、出版でも必ずしも自由とはならなかったからである
情報は報道はマスコミが独占していたからである

となれば権力をもつのだから責任が問われ負わされるのである。
でもそういう自覚をもって報道していたマスコミはない
だからこそ政府と官僚とマスコミなどが一体となり強固な安全神話は作られたのである。
責任が誰にあるのか?それはまず権力をもったのもが問われてしかるべきなのである
報道もできないとか何も言う権利もないとかなればその人に責任はないのである
それは江戸時代と同じであり責任をとるべきは侍となりその侍になっていたのが政府であり官僚でありマスコミでありまた電事連とかの労働組合でもあり権力をもつものがみんな一致して安全神話を作ったのである
だから今はこうして権力は団体になり組織になり会社になりその責任が分散されてあいまいになり結局誰も責任はとらないとなったのである。
侍のようになっていたら切腹するべきものだったのである。
でも東電の社長であれ誰も責任はとらなかったのである

責任とは権力ももつものが一番責任がある、その地位にある人が普通は一番責任がある
でも誰も責任はとらないのである
責任はとらなくても必ず人間社会では責任をとらされるのである
原発事故後は人は住めなくなった、荒れ放題になりゴーストタウンになった
その責任はそこに住む人もとらされたのである。
誰かが必ず責任はとらされる、それが人間の宿命である、カルマだとなる 

自己決定権の対極として有している。それは、自ら決定することのできない「偶有性」(contingency)に起因する責任である。ここでは、さしあたりこの責任概念を「偶有的責任」と呼ぶことにする4。自己決定権が、行為者が自らの行為結果の責任を負う、という意味での因果法則あるいは応報主義に強く規定されているのに対し、偶有的責任は因果法則に拘束されていない。なぜなら偶有的責任は、自己決定に基づく責任とは反対に、自分で選ぶことのできなかった、あるいは決定することのできなかった状況から生ずる責任概念だからである

自己決定権というけど銀行で投資信託をうりつける、確実に手数料が入る
でも営業の銀行マンは私たちは金融のプロですからまかせてくださいと言った
そうか、プロならまかせていいのかと思いまかせて失敗だった
地銀などまず証券のことなど素人並みであり知らなかったのである。
適当に選んで投資したのだが分散投資とかするのは方法として間違っていないしそのことを言っていた、でも株が上がったとき投資信託に回した、Jリートに回した
その株をもっていればリ−マンショック以来もっていた株だからかなり利益を出したのである、分散投資のルールを自ら守らなかった
そして責任を問われるのは決めたのは自分であり自分がとることになった
自己決定するにしてもそれが専門でもないし知識がないし経験もないからプロに頼むのである、結局自己決定権を銀行は自らの利益のために奪って他者の金を投資した
その責任はとらない、手数料だけはとるというだけだったのである

ここにも誰が責任あるのか?それが問われる,どこでも責任問題がある
だから契約がこまかく規定しているのは責任を逃れるためなのである
家が雨漏りして直してもらって結構な金をとられた
でも雨漏りは全然直っていなかった
そうならば最初から直らない場合は金は払わないとして仕事させる契約すべきだったとなる、無駄な金を払っただけだとなってしまったからである
それはどこきょ分野でも医者でも常に人間は責任を問われる、そうなると何でも簡単には引き受けられないとと普通はなる、でも原発は恐ろしいものでありそんなものが事故を起こしたらその責任は誰がとるのだとなっていた
現実に補償金は払ったとしても誰もなんらか罰せられることはなかったのである

人間は何かするにも常に責任が問われるとき責任を自覚して仕事をしないと後で責任が問われるから慎重にもなるし真剣にもなる、何でも簡単に引き受けられないともなる
戦争でもどうして起こしたのか?結果として3百万人死んだ、その責任は誰がとるのか?もしそうなら戦争をするには相当な深慮遠謀が必要だったとなる
その結果の重大性を考えれば戦争が強いられとしても簡単にはできない
その犠牲をみれば戦争をしない、もう苦しくても戦争はしないという選択もあったと思うからである、男は戦争で死ぬのが当たり前だという理屈は成り立たない
ともかく行為の結果として必ず責任が問われる、だからこそ簡単に行為に踏み切ることはできないともなる

家族でも何か困りごとがあれば災いがあるとしたら家族の誰かがその責任を問われ負わされる、自分はその責任を負わされたことを介護とかで苦しみそのことを書いてきた
自分はただただ病気になっていても責められるだけだったのである
それも自分のカルマとしてその責任を負わされたのである。
でもそれが宿命でありカルマだったとなるからどうにもならなかったのである。
人間は責任からカルマからのがれられないのである
自由である、権利を主張してもいい、でもそれには責任が課せられる
自由や権利ばかり主張しても重い責任があるということを知るべきである

それはあらゆるところにある、明治以降私有権が認められたが結果として私有する権利はある、でも山でも土地でも所有することには責任が生じる
山は入会権として村人がみんなで管理していた
でも私有権が認められると山は無数に分割される
でもその分割した所有した山の一部分を守るかとなると守れない
なぜなら山とは全体のことでありそうした私的所有だけで守れないものだからである

この辺では荒地になっている所がまだ多い、また全国的に耕作放棄地が増えている
ではそのままにしていいのか?そんな土地を所有していることができるのか?
それは美観的にもいいものではない、何もできずに荒地にしている人には私有する権利があるのかとなる、それは空き家の増大でも言えた
それで法律が変わりそうした放置された空き家には税金が高く課せられることになった
つまりただ放置しておくと税金を高く払わなければならなくなったのである
私有権が与えられたからとそれで何でも自分の利益にしようとするができないのである
疎の私有する権利が与えられてもではその土地を有効に活かして利用できないものは土地をもつ権利がないとなるのだ

ともかく人間はあらゆることに責任が課せられる、負わされる
インタ−ネットとかでも発言が自由になれば責任を負わされる
何を言ってもいい自由である、でもその発言には責任をもてよとなる、負わされるのである、そう自覚しなくても今やそうなりつつある
それは誰でも発言できるようになっから権力を与えられたからだとなる
ただでは無数にあるプログで発言してどれだけの責任があるのかともなる
マスコミだとテレビでは真実が報道されないのは必ず様々な団体から抗議が来るからである、盲人のことを言えば盲人団体から抗議されるしカルト宗教団体を批判すればその団体から抗議がくる、こうしてもう何も真実は報道されなくなったのである
それぞれの団体が権力をもっているからである

でもそれぞれの団体にもただ権力をもつだけではない責任が課せられ負わされているのである、数が多いからとあらゆることが通るのかとなるとそうはならないからだ
だからその団体組織でもあなたたちは誰が責任をとるのかと問われるのである。
あなたたちは数が多いからと責任が免責になることはないのである。 
今は江戸時代と違うから庶民でも民主主義の社会では責任をとらされる
庶民にも権利が与えられれば一票でもそうだし権力をもたさればそれを行使したものには責任が問われるのである。責任が課せられて責任を負わされる社会なのである。
ただ数が多いと責任が分散されるのである
戦争でも国民に責任があったとなると国民全部に責任があるとなる
結果的には誰も責任がないとなっている

原発事故でもそうである、原発を誘致した地元の人にも責任があり原発を選んだのは国民だとなり国民全部に責任があるとなり結果的には誰も責任がないとなる
そういうことは日本では多い、責任の所在を明確にしないのである。
そして日本ではまた同じようなことが起きてくる
どうしても責任あるものとはその権限がある者でありすべての人に等しくあるとは思えないからである。、そして情報でも正しい情報を与えらなければ判断しようがないからである。複雑な社会になればもう自己決定権があるとしてもできないのである
原子力のこと放射能のことがわかるのかと言われればわからないとなりどうにもならないすると専門家にまかせる、まかせられた専門家が責任をとるとなる
でも実際は専門家も責任はとらなかったのである


タグ:責任論

2018年09月01日

最後に家族にも和解が来る (死んだ後の家族の不思議)


最後に家族にも和解が来る

(死んだ後の家族の不思議)

家族がみんな死んだけど今日は夢で父親と母親の夢を見た
父親はもう子供の時死んだから夢にみることはなくなっていた
もう実の父親でも先祖のようなものになっていた

でも夢を見たのは不思議である
母親が笑っていて父親と仲良くしていたのである
母は後妻であり問題があり父とは仲良くなかった

でも夢で見たのは父親は早く死んだのだが母親そのあと百歳まで生きた
父親といた歳月は10年ほどだった、その後の人生が長かったのである
でも今頃なぜそんな夢を見たのだろうか?
夢とは何なのだろうかとなる

夢はカルタシスなのかもしれない、夫婦がいたとして喧嘩ばかりして争ったり離婚するのも多い、すると子供は仲良くしてもらいたいとずっと思っている
そのことは大人になっても潜在意識としてつづく
そこで自分の場合もそういうことがあって母親と父親が長生きしてまだ一緒に暮らして笑っていた夢を見たとなる

ただこの夢を見た時、不思議なのは自分が救われたといえばおおげせだが何か肩の荷がおりた、ほっとしたという感覚になった
これも何とも不思議と言えば不思議である
カルタシスとは魂の浄化のことである、何かそういうことが夢を見て起きたのである
それはなんともいえぬものであり幸福感があった

自分の家は争いの家だった、でも最後に和解があった、ただ一人は和解しているかどうかわからないが恨んではいない、家族はみんな死んだ
人間は争っていても死後に和解がありうる
死が問題を解決することがある、生きているうちは解決しなくても死んで解決することがある

なにがそういうことが夢を見て起きたのかもしれない、なんとも不思議な夢だと思うからである
夫婦でも仲良く年取れば幸福であるがみんなそうにはらない、必ず争いが生まれるのが人間である

自分は家族では苦しんだ、最後は一人が認知症になり家族はばらばらになった
でも最後には死ぬときに正気にもどり和解があり死後にもあった
人間はどんなにしろ争いから逃れられない、家族でもそうだし共同体同士でも国同士でも争う、その争いはやむことがない、でも最後に和解が来る
ただそれは人類がハルマゲドンとかで滅んだ後かもしれない、人類レベルとなるとそうなる
ただ家族と狭い範囲の争いだと和解が来る、和解とは和になって解けることである
私が見た夢はまさ家族が和解した夢だったのである

悲しむ者は幸いである、神はその涙をぬぐってくれる、というキリストの言葉がある

この世には争が絶えない、そこで悲しむ泣く人は絶えないのである。
それは家族レベルでもあるし地域レベルでもあるし大きくは国レベルでもあるしそれが歴史だともなる
でも最後に和解の時がくる、争ったものが手を結び合うのである
ただそれが国レベルとかになると人類レベルとかなるともう人類が滅びる後だとなってしまう
ただ天国でそうして和解した人たちが家族を共同体を築いているのかもしれない
この世とはなぜ悲しむことが多いのか?そして解決しないのか?
人間はこの世でそうした負の部分を体験する、それは来世での天国を築くためだともなるそういう不和とか争いを心底経験するから来世での和解は本物となる
もしそれが安易なものとして和解ならまた争いになるからだ
もう争いたくないということを心底思えば本物に和解になるからである。

2018年08月31日

人間は自分が困らなければ無関心である (犯罪は関心をもたせるためのなか? 常時監視状態にある姑息な陰険な田舎)


人間は自分が困らなければ無関心である

(犯罪は関心をもたせるためのなか?
常時監視状態にある姑息な陰険な田舎)

シリアカーに乗っている人にスーパーで呼びとめられた
家の周りをうろつくなとか言った
どこの家なのと言ったら何も言わず何か不満げに去って行った
私は良く他の家の庭でも花などの写真をとる、するとそれを見ている人がいるのだ
ただ本当に人の気配も感じないのだ、でも田舎では誰かが見ている
ある人は周りから監視されているような状態になっている
一人暮らしになってから特に女性が入るとうるさいのである
それでも回りのことを気遣い何も言えないのである。
だから田舎では村八分があったことを理解できる
日本の閉鎖された村のマイナス点がそこに如実に現れているからだ

畑をしている女性は隣の畑の人と仲が悪い、だから常にその人のことを気にかけて自分の畑に入ってきて困るとかいうしその人自体の悪口を常に自分に言う
確かにそういう人なのだろう、ただ畑で仲良くしている人もいる
その女性はスーパーで財布をもっていないことで何かナイロンの袋に金を入れていたので警察に通報されたのである。それも誰かが通報したのだから陰険である
自分も駅で案内などしていたが怪しいとして通報された
だから何か家の前でうろついていると警察に通報されるかもしれない
見ていないようで見ているからだ
でもただ家を見ているだけでは犯罪にはならないだろう
それで通報するとなると問題があるだろう
駅は一応公共の場だから通報したともなる

その女性はまた市営住宅でも隣の人とかのことで文句を言う、何か気にさわることをしているからだ、そういう隣人がいると隣り合わせだから嫌になる
それで殺人が起きたりするから怖いことがある
何か田舎は実際は住んでみれば陰険であり姑息な所である
田舎がいいという人は工事関係者でも大阪の人でも長くいない、住んでいないからである人間関係のわずらわしさは田舎にあり嫌になる
何か一人になってからそうした嫌なことを自分も経験している
大阪が外国人に好かれるのもわかる、日本人でもわかる
親しみやすいしおせっかいでも人にかかわってくれるからである
大阪だったら困った人がいたらどうしたのと寄ってきて助けてくれることがあるかもしれない、東京とか他ではなかなかないだろう
田舎の人が情が厚いというのは昔のことである。田舎の人がいいというときそれはそこに住んでいないからそう見えるのである

ただなぜそのシニアカーの人がそんなことを自分に言ったのか?
確かに体が悪くシニアカーに乗っている人を見かける、でも別に声もかけたりしない
そんな人がいても無関心なのである
今回は自分に文句を言われてそのシニアカーの人に注目した
なぜ自分にそんなことを言ったのか?
どこの家の人なのか?なぜ身体障害者になったのか?
何かその人のことを気にかけたという不思議があった
そして田舎だとそういう人がいれば後をつければ別にその人の家のことがわかる
そんなに遠くないからである。
でも警察に通報されたら皆目わからないのである
ただ木陰で休んでいて怪しいとなり警察に通報されたのは与那国島だった
そこはら田舎というよりもう閉鎖された島だから江戸時代だったかもしれない
島暮らしになったらそれこそもういい面は家族のようになるのが悪い面となると監獄に一緒にいるようにもなる、プライバシーは全くなくなる

ともかく人間はつくづく近くにいても無関心なのである
その人はシリアカーで見かけたとしても無関心である
すぐ近くで津波で死んだとしても家族でも被害を受けなければ関心があっても深刻にはならないのが人間である

ではどうしたら人間は関心をもつのか?

犯罪に合ったりしたとき一番その人に関心をもつ、それが家族が殺されたとかなるともうその関心は異常になる、その人を延々と恨み呪いつづける
絶対に簡単に許すことなどできないのだ、そういう経験を自分もしている
大金を盗まれてその人を憎みつづけたのである。
犯罪にあった人は不思議なことだがその人を一番関心をもつようになる
それがマイナスの関心でも憎むことでもそうである
これも人間の心理として不思議である

俺に関心をもて、憎むのでもいい関心をもて!

犯罪にあった人はこうして決して被害者はその人のことを忘れないのである。
関心をもちつづけるのである。
でももし犯罪にあわないなら何の関心ももたない
その人が誰かを傷つけても殺したとしてもそんなことがあったのかとニュースを一回見て終わりなのである。でも被害者は延々と犯罪者を憎み関心をもちつづけるのである

だから犯罪とは何なのだろうとなる、その人に関心をもたせるために犯罪になるのかとまでなる、なぜならそうしなければ全くの無関心だからである
その人が今日食べるものがないとしても何もしなければ無関心だがわずかの金でもとられたり傷つけたりされればその人に関心をもつのである。

今なぜ富裕層でも底辺層とう貧乏人に無関心なのか?
それは直接かかわらないし現代では見えにくくなっているからだ
例えば昔なら乞食になって物乞いに来ればこの人は貧乏でそうなったとわかるからである今は着るものも普通に来ているし貧乏が見えにくいのである。
ただ現代の貧乏の特徴は必ず貧乏な人は水道を止められとか、電気をとめられたとかで表面化するのである。それ以外はなかなか見えにくいのである。

富裕層とかが貧乏人のことをわかるには大きくは富裕層に暴動が起きたり個々人でも貧乏人に犯罪にあうときなのである。この時貧乏人のことを自覚させられる
それ以外は直接交わることもないと無関心なのである。
貧乏人など困った人などどこにいるの?こうなっていて無関心なのである。
自分もそうだったからである、それはあらゆることに言える、相手の困ったことには無関心である、ただ自分が困った時なぜ無関心なのかと不満になるのである。
それは介護の時自分がそうだった、誰も助けないし責められるだけだったからである

ただつくづく原発事故でもそうだったが人間は関心を持つべきものに持たない
そのことが原発事故につながった、もっと関心をもっていればそうはならなかった
でも関心を持つということは意外とむずかしいのである。
いくら貧乏のことでも無関心なのは今は見えないからである。
インド辺りだと子供が乞食してたり障害者が街にいて物乞いしたりしていればわかる
今は日本では見えないから貧乏がわからない
ホームレスはわかるが今はネットカフェとかで寝泊まりしているとまた貧乏は見えないのである。

ただ何でも人間が無関心だということは問題を引き起こすようになる
いつか苦しめられて関心をもたされるようにもなる
それが犯罪の被害者になったり自然災害でもそうである
自然災害でも自分にふりかからないかぎり無関心だからである
でも日本は災害が多いからどこかでまた災害で苦しむ人がいる
だから無関心ではいられないのだが自分の身にふりかからないかぎり人間は依然として
無関心なのである

2018年08月25日

好きこそ物の上手なれ (人間向き不向きがある)


好きこそ物の上手なれ

(人間向き不向きがある)


人間にはつくづく生まれつきがあり向き不向きがある、そればとうして作られるのか?
それは必ずしも遺伝とかでもない、家庭の環境とかも大きく作用している
モーツアルトが生まれたのは幼児の時から親が音楽家であり音楽一家だったからである
そういう家に生まれたから感性が自ずと養われたのである。
もちろん才能とか遺伝も関係している
でも才能が生まれつきあったとしてもそういう環境がなかったらその才能は活きてこないのである。
だから才能を活かした人はまれなのである。
時代でも才能は活かされない、戦争では優秀な才能ある人でも天才でも若いうちに戦場の露と消えたのである。

才能というとき何かノーベル賞をもらうとか天才芸術家のようなものをイメージする
でもこの世には無数の職業がある、そこに向き不向きがある
畑をしている女性は農家の生まれである、その女性はつくづく農民として生まれもまた体つきでも力あるから向いていると思った
そうして根っからの農民とかの人がいるのだと思った
その女性は生まれつき環境でせ農民だった、だから本当は農業しているのが向いていたのである。金にならないから農業を継ぐ人がいないと荒地が増えた
でも農業に向いた人はいるから本当は農業をしていた方がいいとなる

大工さんでも知ったがその人の体をみると自分などと全然違うのである。
体がしまっている、柔道の有段者のような体をしていた
きびきびと体が動くのである。その人は一人親方でもあり経営もできる
その人はそうしていろいろなことができる、大工でも庭作りでも壁塗りまでしているとか一人で何でもできるのだ、庭作りもできる
その人は最初は大工でもうまい方ではなかったというが生まれつきだといとき体力も関係している、体力は生まれつきである
その人の欠点は何かということ奇妙だが何でもできること八方美人であり器用貧乏になっている、その人の問題はそうして稼ぐことができるが稼げるならなんでもいいということでなんでもするのだがブラックなことにも手を出している
そんなことをしなくてもその人はそれだけの才能があるのだからする必要がない
でも金がいくらでも欲しいとなりそうなった、原発でも金になるからと賛成していたのである。
その人は大工として大成している、だからそんなにいろいろなことをする必要はなかったのである。

要するに人間は根っからの農民とか職人とか商売人がいる
それはどういう土地で生まれたかにもよる、環境にもよる、大阪とかだったらもうかりまっかとか普通にずけずけいう、それは大阪ではみんなそういう商人の言葉使いになっているからである。それは日常語になっているのだからそうなる
当然商売人に向いている、近江商人の出の人と出会ったが外国でもねぎるのがうまいのである、自分もまねてしてみたがかえって失敗した
そんなに値切る場面ではなかったからだ、そこでしかられたりした
そして東北人はまず商売に向いていない、言葉からしてズーズー弁であり向いていない
東北人は一見見るとわかる、真面目で硬い表情でありうちとけない
だから東北人は農民とか職人とかに向いているが商売人には向いていない

それで知っている人は理系の職人の仕事を会社でしていたが事業起こして借金になり失敗した、事業になると商売人にもなるし職人ではできないからである。
向かないことをすると失敗する、金になるならない前にその人はすでに向かないことをしているということで失敗しているのである
ただ常に例外があるしみんながそうではない、伊達政宗などは商人的気質があったのかもしれない、仙台弁は語尾にだっちゃだっちゃという、これは相馬弁のんだとはかなり違った響きなのである。仙台は繁華な町だったからそうなったのかともなる
そういう土壌があったのかとなる

人間はこうして生まれ育った地域でも向き不向きが生まれる、そして向かないことをやると不幸になる、医者の家に生まれたからとみんな医者に向いてはいない
例え一流大学の医学部を出ても手術がうまいのは手の器用さだとかなり学歴ではない
それは生まれつきなものだろう、だから親が医者だからと医者になるのがみんな向いているわけではない、でもそうなっていることが問題であり結果的に患者がそういう医者にあたると被害まででるから怖いとなる

人間は向かないことをしていたら不幸になる、それがいくら金になるとしても不幸になる性格でも内向的な人間は外交的な営業とかするのは向いていないだろう
政治家などにも向いていない、学者とか職人とか芸術家なら向いているとなる
自分は内向的だから何か学問とか芸術とかを追求するのに向いていた
ただ学問を学校時代は大学でも嫌っていたのである。
もし死ぬ頃になって自分は学問に向いていたなどと知る
人間はこうして本当にその人に向いたもの才能でも開花させることが至難なのである。
それは生まれつきが才能があったとしも活かされないからである

なぜ三分の一が会社に入ってもやめるとか離婚が三分の一とか江戸時代でも多かったのかそれはやはり性格でも違っているし育ちも違っているし会わなくなるである
つまりそれぞれの才能でも性格でも違っているし育った環境も違っているからである
第一才能を活かすにしてもそういう場が与えられる人はまれだからである
自分の場合は特殊であり自分なりのものを追求できたとはなる
それでも自分にはほかにいろいろな可能性があったとか老人になって悔やんでいるのである。それは人間の才能とかは本当に埋もれてしまう、活かされない方が圧倒的に多いからである。
別に数学が得意でなくても何か教育で興味をもつ方法はあった、でも受験勉強だけで本当に興味のあることを追求できなかったとなり後悔しているとかなる

結局諺は今も生きている真理である

好きこそ物の上手なれ

好きでないことを無理やりしてたらいくら金になっても不幸て人生だったとなってしまうのである。

 この諺についての関連したサイト             

ここでは好きだと長続きするが好きでないものは長続きしない、強制されてやることはかえって他者も不幸にする、その人のあったことをしていれば他の人にもいい影響がある
つまりり花でもいろいろな花があり咲くにふさわしい場所がある
生け花をフラワーアレンジメントをしていだかあきて中止している
それはなぜか?
花は野に咲いているのがふさわしいからである。野に山に咲いている花は自然である
生け花は人工化したものだからである。それはそれとして意味があっても野に咲いている花は飽きない、畑に咲いている花でもそうだしもともと花は自然の野に咲いていたからである。自然の光と風と風景の中にマッチして咲いている時一番美しいからである。
人間もまた同じだったのである。その人なりのあった所に生きるのがふさわしいとなる
そして人間社会が不幸なのはみんなそうなっていないからである。
いろいろなことで金になるならないとかで人生が決められたり時代の影響でもその人なりに生きられないから不幸な人が多いのである。


2018年08月15日

人間は二つのものを同時に得られない (得るものがあれば失うものがある)


人間は二つのものを同時に得られない

(得るものがあれば失うものがある)


人間はつくづく二つのものを得られないようにできている
才能だってそうである、一つのことができてもあらゆる才能はない
知能に優秀な人がいても体力がない、体力があるとしても知能に劣るとかなる
一般的にはそうである、でも知能に優れて体力も優れている人もいる
そういう人はうらやましいとなる
なぜそんな人がいるのかと不思議になる

人間はそもそも二つの能力を兼ね備える人はいない、何か優れていることは何かに劣っていることにもなる、知能でも知的なものでも何かに詳しくなれるとしてもいくら天才でもあらゆることに詳しくなれる人はいないのである
なぜ天才でもそれほど成果がでないということもある
それは人間の生きる時間が限られているからである
あらゆることに優れた人はいないのである   
天は二物を与えずである

そしていくら天才でも天分があっても発揮できない人が本当に多い
時代によって環境によってできない、そしてたいした才能もないのに環境とかに恵まれてそれなりに才能を発揮できる人もいる
だからいくらいい天分をもっていたとしても才能があっても発揮できないことがつくづく多い
この人は医者であり文学的才能もあり武道家でもあったが病で病室にとじこめられて最後は早死だった人もいる
どうしてそうなったのかわからない、いくら恵まれてもそうして無念に死ぬ人もある
たいして才能なくても何かそれなりに才能を発揮したとなる人もいる

いづれにしろ何かも備わった人はいない、何かに必ず人は欠けている
神だったらオールマイティである、神だけがそうであり人間は何か欠けている
その人が活きるかどうかはまた時代と環境にも影響される、だから優れた人でも何も力を発揮せずに終わることもある
たいして才能がないのに時代によって英雄にされたりする
明治維新ではそういうことが起きた、その時代が英雄を作ったのでありその人間ではないのである
現実に現代のような社会になるとそんな英雄は生まれ得ようがないからだ

人間は国によっても地理によっても運命づけられている
国によって地理によって恵みも違う、日本は海に囲まれて海の幸に恵まれているとか海が防壁となって侵略されなかったとかなる
でも逆に海によって閉ざされて大きくなれなかったとかともなる
それぞれの国にそうした地理的制限が必ずありその地理的制限の中で生きてきたしそこで歴史や文化を作ってきたのである。
一つの国であらゆるものに恵まれた国はないのである

この辺でつくづく感じたことは漁師がいたとしてその人たちは実は東電に漁業権を売り渡していい生活をしていたのである
それはどういうことなのか?二つのものを得ようとしたのである。
東電に漁業権を売りいい生活をする、もちろん魚もとるのだがそれは別に魚をとることだけに専念することではない、東電の補償金で事故前も事故後も十分だったからである
要するにここでも二つのものを得ようとしていたし実際に得ていたのである
でもそれができななかった、原発事故でそうなった
確かに船主などは事故前も事故後も補償金を十分にもらえるから変わっていない
でも周りからなんで漁業関係者は手厚い補償金がもらえるんだとうらやまれることになった、事故前からそういうことはあったにしてもそれはしかたないものとして容認されていたしそのことについて文句をおおぴらには言えなかったのである。
事故後がそうはいかなかった、周りの目が厳しくなったのである
そんなことが許されるのかとなった、そのことは前にも書いた

この辺では漁業関係者だけではない、二つのものを得ようとしていたのである
原発で金を得て豊かになりたい、その気持ちが非常に強かった
そして原発で豊かになりまた一方で自然とともに生活をするとかなる
両方を得て生活したかったのである
現代人は二つだけではない、ABCDと欲しいものがあればみんな欲しいとなっている
欲が限りないのである。そこに落とし穴があった

人間は何かを得れば必ず何かを失うという法則のようなものがある
江戸時代をふりかえると貧乏だけどそこに景色もいいし車もないからのんびりしていいと今では見る、でも現代は豊かになってもそうした景観は破壊されている
義理人情すらない金だけを求める殺伐とした社会になっている
それは江戸時代にあったものが失われたからである。
その代わりに豊かになった、贅沢できる時代になった
時代的にもなんでも良くなったというのではなく何かを得れば何かを失っているのである原始時代の生活が悪いかとなるとそうでもない、狩猟でも何でもその生活は今と違って興奮するものであり面白いものであったともなる
鹿を獲止めてそれをみんなで食べるとき充実感があったとなる
でもそういう生活を失った時今度米が食べられるとなったがそれで狩猟時代にあったものは失われたとなる

人間は何かを得ると必ず何かを失っているのだ
青春とかはたちまち過ぎて失う、あっというまに白髪の老人老女になっている
でもまた老人になると何でも深い見方ができるとか経験からいろいろなことがわかるとかなる、そういう知恵とか悟りとは若い時は得にくい、だからいくら本読んでも理解できないことが多いのであ

要するに人間は二つのものを同時に得られないようにできている
青春には体力があるが知恵はなく深い見方ができない、それで芸術なども深く鑑賞できないのである。
だから二つのものを同時に得ようとすることが間違っていたのである。
二つのものは得られない、都会で豊かな生活ができるが田舎には田舎の良さがある
自然の中でゆったり暮らすとかある
でも田舎では給料も安いと質素な暮らしする、都会のような贅沢はできないとなるが田舎には田舎の良さがありそれで満足するとなる
しかし今や田舎ではその両方を得ている、でも本当はそういうように世の中はできていない、飯館村などでも原発事故で住めないようになっても多額の補償金をもらった
ありあまる金を得た、でも何かを失った、他の避難区域でもそうである
何か常に二つのものを得られないのである。

でも人間は二つも三つも四つも得ようとしている、その欲が限りないのである
宗教などは本来は世俗に分かれていてこの世のものを得るものは天のものは得られないとなっていた、でもカルト宗教団体でも宗教は世俗でも聖なるものでも一緒になっている
政教分離というとき政治と宗教は別物であり一体化すべきではない
でも人間は世俗的なものと天なるものも得よとしている
この世のものも天国的なものも得たいとなって活動しているのが実体である
この世の欲を認めているし宗教団体の方がこの世の欲を増進させているのだ
だからどこでも何百万人もの会員がいる
それだけ数が多いことは世俗化したことなのである、だからこそ増えるのである

人間は二つの物は得られない、そこにこの辺の問題もあった
原発で豊かになりたい、貧乏は嫌だ、農業とか漁業とかでは今は豊かになれない
ただその二つのものを得ようとしたとき両方失うということもあった
第一人が住めなくなるということはもう最悪である
何でもいい故郷に住めればいいとなる、いくら豊かになっても故郷に住めなくなればもう終わりだとなる、それで事故後は蝋燭でもいいから家族一緒に故郷で暮らしたいとまでなったのである
人間は二つのものを同時に得られない、どんな国でもそこには良いことと悪いことがある貧乏でもそうである、その中で良くしようとするのがいいとなる

本当は漁師は魚をとり供給することで故郷に生きる
農民は米や野菜を作りそれで生活する、農民は米や野菜を漁師に提供して互いに豊かな生活となる、でも魚をとりさらに東電に漁業権を売り渡して富を得る
そこに問題があった、そしてその両方も失うということがある
確かに別に補償金もらって同じように豊かな暮らしができてもそれが回りから許されないものとして見られるようになった

金があってもそれですべてが満たされるない、金があることで失うものがある
人はまずその金に目をつけるからだ、それで本当の愛は得られないとなる
金でなんでも買うことはできないからである。
金がなくていいということではない、金ですべてが得られることはない
愛などでも買うことはできない、金がいくらあっても買うことはできない
人はただその金を求めるのであり愛は関係ないからである
金を得て得るものがありまた失うものもある
つまり両方を得ることはできないのである
今の時代ほどう豊かな生活をしている時代はないがそこにたりないもの失ったものがあるいくら科学技術が進歩したとしてもこれは同じなのである。
進歩とは何か新しいことを得ることだがまた同時に何かを失うことなのである
そうなると進歩がすべていいものとしては働かないことを知るべきである
核を発明したことは科学技術の進歩である
でもそれと同時にその核によって甚大な被害があり核戦争になり人類が滅びることにもなるとしたらそれはいいものではなかったのである。
むしろ進歩しない方が良かったとなるのである 

結局個人の人生でも国でも世界でも歴史が残すのは教訓である、失敗したとしてもそれが教訓として後世に残される
それを鑑みて今生きることの指針にする、人間は過去から学ぶことはできる、そして未来は実は過去からくる
維新とあれば明治維新でありこれは実はもともとあったものを改める新しくするという意味である
全く新しいものではないのだ
ともかくこの辺では津波とか原発事故で後世への教訓を残した
それはここだけではない、他でも世界でも教訓とすべきものとなった
ここでは様々なことが問題となりそれを解決する方法もなくなったからである


2018年07月17日

追い詰められた人間は一番怖い (モラルもなにもなくなる)


追い詰められた人間は一番怖い

(モラルもなにもなくなる)

今日の時代劇である人が子供と旅していて子供が病気になりその時助けられた
金が一両とか与えられて医者に見せられた
その人は名前も言わず去った、助けられた人は名前を言った
これだけだと美談だった

ところがその助けた人がヤクザであり捕らえられて牢屋に入りあと数日とかで獄門打ち首になる予定だった、そして運悪いとなるがその牢番がそのヤクザが助けた人だったのである、そのヤクザは顔を覚えていたし名前も覚えていた
その助けたことを言い牢番に難題をふきかける
それもその牢番に娘がいて仲間に娘を誘拐してとらえて人質にして牢屋から出すことを要求したのである。

こういうことを自分も経験した、これはドラマにしろそれとにたことが今の社会でもある人間社会ではあるのだ、ドラマもそれが江戸時代ならもう現代とは関係ないとなるが人間のやることは同じことをカルマを繰り返すから遠い昔でも理解できるのである

まず借金した人は追い詰められている、なんとか返すことが迫られ金がないからなんでもするともなる、借金している人はすでに犯罪予備軍である
借金することにより追い詰められる、すると金を工面するために何でもすることになる
江戸時代だと娘を女郎として売られたりする、借金のかたにされる

追い詰められた人間は本当に怖い、善悪もなにもなくなる、なぜわずかの金で殺されるのか?その人は明日食べるものがないとすると追い詰められていればそうなる
それはもう善悪の問題ではないのだ、生きるか死ぬかの問題だからである
事件はそうして追い詰められた人が犯すことが多いのである

自分が介護になり病気になったとき来たのがこういうふうに追い詰められた人たちだったのである。だから人を助けることなどできない、余裕も何もないのだ
事業に失敗して借金していたとか何か家族で問題を起こして金がなくて困っていたとか住む場所に苦労していたとかある

そんな人たちが来た時、自分が病気で弱っている、介護で苦しんでいる、そうなるとチャンスとなる、お前を助けてやるから金を出せとあからさまに言わないまでそうなったし犯罪にもあった、こうして家ががたがたになっている所だと弱者化した家は相手の要求をのまざるをえなくなるからだ
それで最初はそうではなかったと思ったが自分を意のままのようにしようとしたのであるそれは自分の金を意のままにしようとした
あからさまに金を全面に出して要求してきたのである
だから病院に入院したときその人を呼ばなかった
ただ結果的には家は荒らされて大金を失った、家の番をしていたのが泥棒だったのである
なにかこういうことがある、三人の不幸な母親のことを書いたが娘は実の母親でも5歳までしか一緒にいないし娘は母親だなと思っていない
なぜならその後に育ての親となって長く住んでいた母親すら病気になっても放置していたそして「ひどい娘だわ」と自分のところに言ってすぐ死んだのである
そういう娘が実の母親を施設に入れたのは金のためである。
その実の母親は金持ちの家に後妻に入ったからである。
それでずっと楽してきたが夫が死んだとかなり一人になって娘を頼ってきたのである
その娘は母親とか思っていない何の情もない、非情な人間と化していた
その実の母親は認知症になっていたのも悲劇である

それは自分も同じだった、自分も泥棒に頼っていたのである。
それも自分のカルマだったのだろう、この時代劇のドラマでも偶然に善意の人に助けられた、その人は名前も言わず消えた
それだけなら美談である、でも相手がヤクザだったのである。
それで最後に本性を現してとんでもないむごい目にあったのである。
しょせんヤクザとかは人は助けられない、一見情あるようでもそうではない
そのことで後でひどいめにあったからである

人間は本当に情とか愛とかいうけどそんなものがあるのかともなる
何か得られれば何かを得る、そうして計算して毎日暮らしてるからだ
無償というのはこの世にありえないのである。
事業に失敗した人は自分のために軽い荷物を一つももちたくなかった
それが態度でわかった、ただ金に困っているからその弱みにつけこんで金が欲しいというだけになっていた、その人も何日かで死刑に獄門打ち首になるのとは違うが追い詰められているからそういうふうにしか人を見なくなったのである。

その人は若い人はいい人だったという、その時は事業に失敗していないし追い詰められてもいない、会社では有能な人間として認められていたのである。月給も高かったのであるただ事業に失敗して借金で追い詰められて人間が悪魔のように変貌してしまったのであるこうして追い詰められた人間に偶然でも出会うということは怖いことである。
人間は追い詰められるとモラルを失う、今食べるものがなければ偶然あった人でも殺すとなる、善悪は関係なくなるのである。
だから追い詰められた人間は一番怖いのである。生きるためにはなんでもするからだ
何日かで獄門打ち首になるとすればもう善悪を言っていられない、俺はこれだけ悪いことしたのだからそれも当然だなどと思わないからである。
生きるためにはその時何でもする、善悪は関係なくなるのである

だから人間は別に金に困らないとか何もなければその人はいい人なのである。善人なのである。でも何かによって金でも追い詰められたら悪魔に変貌する
だから人間をそういう立場にさせられたり自らなると最も危険になるのだ
善悪と関係なく恐るべき犯罪でも平気ですることになる、そういう事件が時代に変わらず人間には起きている、

福島県会津美里町の民家で2012年7月、夫婦が殺害されキャッシュカードなどが奪われた事件で、強盗殺人などの罪に問われた無職高橋(旧姓横倉)明彦被告(46)の裁判員裁判の判決が14日、福島地裁郡山支部であり、有賀貞博裁判長は求刑通り死刑を言い渡した。検察側は論告で、 119番の録音記録などをもとに、高橋被告が、被害者を刺して
キャッシュカードの暗証番号を聞き出し、震える声で「お願い」と繰り返した幸代さんを殺害した。

この悲惨な事件もこの犯罪を犯した人がなぜそうなったのか?
やはりわからないが追い詰められていた、金に困っていた、その犠牲になったのが夫妻だった、震える声で「お願い」と繰り返し言ったのに無惨に殺されたのである。
追い詰められた人間は善悪はない、ただ今自分が生き延びるためにそうしている
ただわからないのは非情化するというとき必ずしも金だけではない、育ての親をなぜあれほど非情にしたのか?すでに成人した子供も二人もいるのにそんなことができるのか?
事情があったとこはわかるがそこまで非情になれるものなのか?

その女性は金には困ったことがない、金には恵まれていたのである。
だから必ずしも金だけで人は非情になるとはならない
ただ一般的に追い詰められた人間は善悪もなくなり怖い、そして人はヤクザのように一見情があり良いことをししているようでもそういうことはできない
悪人は悪人であり善いことはできないのではないか?
だからドラマにしろその恩を受けたことで後で恐ろしい目にあったというのも現実の人間社会であることなのだ、つくづくこの世を生きることは恐ろしいことだと自分の経験で知った 

ここで恐ろしいものは実の母親が認知症になったが金があっても頼る人がいなくなっていたことなのである。それで自分のように泥棒に頼ったりすることになる
でもこれは老人になると普通に起こりやすいのである。
なぜなら金しか目的がなくなるときいくら金があっても金のことがわからなくなる
すると頼るとしても親戚でも実の子供でも金しか見なくなるからもしれないからだ
弁護士などの後見人に頼んでもその弁護士がその金を着服したり容易にできるからだ
現実にそれで逮捕された弁護士もいる

老人は金を持っていても最後は弱者化する、認知症になる人も多いからだ
つまりそうして弱者化したとき人間の恐ろしい本性が現れる
老人はそうしてもう頼る者がなく遂にはそうした金だけを狙う目的とする人に頼る
だから金だけもっていても安心はできない
いづれにしろこの世が人間がこういうものとして変わらないものであるときこの世に救いも何もない、この世に何か期待しても無駄である。
人間の本性は悪であり恐ろしいものをもっているからだ
この世から去る意外に安心はないのである。この世は火宅の世であり災いの世であり平和は永遠にない、だからこそこの世が神によっていつか滅ぼされるのである。

科学技術が発展してこの世が変わるというのも嘘である、現実にインタ−ネットで10人女性が殺されたとか犯罪の温床にもなる
原発事故だって犯罪的要素があり起きたともなるからだ
科学技術で社会が変わる世の中は変わると言ってもそもそも人間の本性は悪であり変わらないとしたらどうして社会が変わるのか?だから共産主義でも2百万にカンボジアで殺戮があっとたなるのである。
根本的に人間の本性が悪でありそれが変わらないからか科学技術でも変わらないのである
宇宙に進出しても宇宙で戦争するのが映画でなくても現実だからである。

2018年07月16日

すべてが金で得られるのか? (最後に鏡に映せないような醜い姿になった恐ろしさ)


すべてが金で得られるのか?

(最後に鏡に映せないような醜い姿になった恐ろしさ)

ダークネス

●真善美を見る目は金では買えない

このサイトで資本主義とは何か?金だということを言っていることはわかる、きれいごとではなく金によってあらゆる価値が図られ決められる、その人がどんな人かとか関係ない、金をもっていればその人は資本主義社会では優遇される
だから一億円持っいる人は投資していれば配当金があり永遠に働かないで暮らせるとなるだから資本を金をもつことが資本主義では一番大事なことであり
きれいごと言っても金なしでは何も得られないとなる
それはそれで筋が通っているからとやくか言うことはない

例えば芸術にしたって金で計られる、どんないい絵を描いたとしても市場に出して売れなければ価値がないとなる、現実に一億円の値段の絵と数万の値段の絵があるとしたら一億円の絵が価値があるとなるからだ
ただ絵の場合は新人などではその絵の価値がわからないから最初は安い値段で買える
あとでそれが馬鹿高くなったりする
でも最初はその絵の価値がわからないのである。
その価値がわかる人ならその絵を買って損はないのである。

ところがここで問題になるのは絵を見る絵の価値を芸術の価値を見分ける人はまれなのである。芸術は創造する人がいるがまた鑑賞する人もいる
その鑑賞する目をもつことが至難なのである
その価値を見分ける鑑賞する目がないとそもそも鑑賞すらできないのである。
ただ投機的に絵を買う人がいる、それはその絵の価値が決まってからそうしている
ではその絵が画家でもわからないことがある,ゴッホの絵は生前は一つも売れていない
その時その絵を見分ける人がいたら億万長者になっていたのである。
安くその時買えたからである、でも誰も買わなかったのである
つまりその価値を見分けることがむずかしいからそうなったのである
芸術というのはそれだけ鑑賞することがむずかしいからそうなる
他の商品だと食品だとかうまいとかうまくないとかわかりやすいから市場化しやすいのである、たいがい高いものはうまいし品質がいいのである
他の商品でも高いものはたいがいいいものであり値段通りになっていることが多いのである

でも芸術に関してはすべて金で買えるとはならない、芸術は鑑賞すること自体むずかしいのである、確かに家にピアノがあれば自ら演奏していれば音楽を鑑賞する力がつく
でもそもそも一つの楽器を習得するには時間がかかる
ピアノがないなら今なら電子楽器があり買える、でもそれを習得できる人とできない人もいるし時間がかかるのである。
だから才能がなくても何か一つの楽器でも時間をかけて覚えれば音楽を深く知ることができる、鑑賞もできる、でもそれには時間が必要になるのだ
その時間はみんな平等に与えられている、金があるからと多くの時間は与えられていないのである。だから時間では平等なのである。
時間も買えるということは確かにある、大金持ちだったら家事を頼めば自由な時間をもてて何かに没頭できるということはある
だから時間は金で買えるということはあるにしてもその時間でも何倍にも増えるとうことはないのである。時間はみんな同じ時間しか与えられていない、多少増減はあってもそうである

だから人生は才能というより何に時間を費やしたかで決まるのである。
それが人生だったとなるのだ、会社勤めするにしても職業でも経験するのは転職したとしてもいくつか限られている、経験することは限られているのである
それは時間がないからなのである。もし無限の時間が与えられていればいろいろなことを経験できるからである。
いくら金があっても金持ちの家でなんでもしていいからは言われてもその人が何か特別な人になるのかというとそうでもないのである一億円で何もしないで暮らせることは本当だとしてもではその時間を何に使うかでその人生も決まる、毎日ギャンブルして暮らせるしゲームしていてもいいし何もしなくてもいいでも時間は確実に過ぎてゆく、それが意外と早いのである
金がなくても社会で会社でも就職して何かスキルを身につけたり会社で働いて社会のことがわかるということもある
でもいくら金があっても何もしなくてもいいとしてもそこで時間を有効に使わない限り何も得られないのである。

確か金があれば留学できたりとか特別な経験を積むことはできる、すると語学も覚えるようになったり国際感覚が身についたりする
学歴も金で買えるとかもなるのは金持ち階級なら本当だろう
でもそうできたとしても本当に何かを身につくということはまた別である
医師の免許をとれて社会で地位があり収入もいい安定した生活を送れるということはある
それで最初から格差社会では階級社会であり資本がある、金がある家に生まれれば将来が約束されたのだとなる

でも人間はみんな医者になることが人生ではない,それも向き不向きがありいくら金になる社会的に評価されるとしても向いていない人がなればその人生は誤ったとなるかもしれない、その人なりの人生を生きればよかったとかなる
それは意外と老人になってからみんな悔やんでいるのである。
老人で過去を人生を悔やまない人は一人もいない
なぜなら人間は意外と何もできない、あれをやりたいとか何かになりたいと希望をもっていてもたいがい何もできずに終わっているのである。
それは人間の時間があまりにも限られているからである。
なんだこれだげで終わりかとなるのである、そのことにみんな愕然としているのである

それは金持ちでも何もしなくて生きることができた人でも同じなのである。
金はもっていたけどその金を活かすこともできなかった
ただ無駄に時間を過ごして何も得られなかった、これなら働いていた方が良かったとかなる、何も経験しないから何も身につかなかったとなるのである
だから金があっても時間を有効に使わないものは何も残らないのである。
まず金があっても芸術に関してはまた学問でも雑学でもそれを習得するには時間がかかり簡単に身につかないのである。
芸術だと絶えず見る目を育てる必要がある、それにはまた時間がかかるのである
別に今はインタ−ネット上にいくらでも写真とか絵が出ているから学べる
でも見る目を育てるには時間がかかるのである 

●モラルを失うことの怖さ

そして人間は金があってもモラル的に堕落するとこの世にある自然でも真善美が見えなくなる、金があるからと放蕩する人もいるがそういう人は何もこの世にある善きものを探求したりできなくなる、見えなくなるのだ
この世の悪に染まってもそうである
だからカルト教団みたいなの所に入っていてもそうである
銀行でも今や何かブラックになっていた、この世は宗教を看板にしていれば崇高なものを求めるているのかと思えば全くそうではないただ数を集めて権力をとり利権を得るためだとなる
拝めばそうした利権が得られるからとすすめている、それは世俗と同じなのである。

だからそういうところに勤めていれば自ずとこの世の汚れに染まってくる
そしてこの世にある自然でも良きものが見えなくなる恐怖があるのだ
ただこのことはあまり考慮しないのである。
月給が高くなればいい、金になればいいとしか考えないのである。
銀行などはそうして地方でも真面目な働き場だと思っていたがそうではなくなっていた
カルト教団もそうだがそういう会社もブラックになっていたのかとなる

そうなるとそんな会社をやめて別なことを追求すればいいともなる
でも金がないからできないのが資本主義だということにもなる
ブラック会社であれ金を得なければ生きていけないからである。
一億円たまれば遺産でもあればそんな会社に勤める必要がないとなるからだ
ただ別にすべてがブラック会社ではない、社会がそもそもそんなブラック会社ばかりだったら成り立つのか?   

今は人手不足になり働く人がいなければ会社もつぶれる、そんなブラック会社には働く人がいなくなる、現実に銀行をやめる人が多いというとき何か疑問を感じたこもある
こんな仕事していいのかと疑問になる人もいてやめる
そうしてブラック会社は消えてゆく、それは社会がモラルなしでは成り立たないからである。不正して人をだましてもうけて栄えるようなことは神も許さないからである。
一時的にはいいとしても世界でもそういうことはありえないのである。
戦争で他国を蹂躙して金持ちになる国は栄えないだろう
アメリカにしてもそういうことがあっても発明したりいろいろと先進技術をせ世界に普及したから金持ち国家となったのであり戦争に強いからとそれだけで世界をリードできないのである。

人間は確かに金は必要だし金の力は大きいから否定はできない、でもそれだけですべてが決まるのか?
モラルに反して金儲けする会社が生き残れるのか? 社会的に認められて繁盛するのか?
そして自分は常に感じてきた、この世の自然でもそうしてモラルに反したことをしていると善きものが見えなくなる、これは本当はかなり怖いことである。
そのことを真剣に考えている人は意外と少ない、ただ金があればいいしか考えない
つまり人間は悪魔に魂を容易に売り渡す存在なのかもしれない
金を得ればいいとして魂を悪魔に売り渡す、ちょっと嘘ついてもいいではないか
そんな固いこと言うなよとかなり容易に魂を売り渡す、そうするとこの世の自然でも良いものが目に見えなくなる、それは濁った水であり花でもなんでも美しいものが映せなくなるのである。

● 真澄鏡(まそかがみ) の意味

なぜ日本では鏡が三種の神器なのか?

真澄鏡(まそかがみ) は「見る・照る・研ぐ・懸く・清き・向ふ・面・影」などにかかる。

『池水に 左の目を洗ひ 日霊に祈り 右の目を洗ひ 月に祈り イシコリトメが マス鏡 鋳造り 進む』4文

鏡は何かを写すというとき実は姿だけではない、心も写すから畏れたとなる
悪しき心も写すからそれで畏れた、鏡は姿だけではない心を写すから畏れたのである
左の眼を洗い右の眼を洗いそして太陽に月に祈るという信仰は自然信仰である
太陽でも月でも清いものであるからだ

あさか山かげさへ見ゆる山の井の浅くは人をおもふものかは

 とよみて、木に書きつけて、庵に来て死にけり。

 とあるが、文中あさか山の歌は早く万葉集巻十六に出るもので、説話はこれにヒントを得て面白く構成されたものであろう。筋は京都の某大納言の娘で世に優れた美女が、男のためかどわかされて陸奥国|安積山《あさかやま》に棲んでいて鏡を持たない儘に過していたが、或る日男の留守中の佗しいままに、山の井の水鏡に姿を写し余りにも変り果てて恐ろしげな己の容姿を歎き恥ぢて、男の帰りも待たないで死んで行くというのである

 この物語はまさにそれを示している、井戸の水も鏡の代わりになっていた
その井戸水に姿を映す、そしたらその姿があまりも恐ろしいものとなっていた
それでショックで死んだとなる
こういう恐れを自分は常に感じてきたのである。何か悪徳に染まりこの世でも自然でも良きものが心に映らなくなることである。
そこで悪魔に魂を売ってもそうなったときその姿まで変わりショックで死んでしまうともなる、それほど恐ろしものとして鏡でも山の井でも神聖視されていたのである。

金の力は資本主義社会では本当に大きいから金がすべてだとなる
それもわかるがだからといって金のために魂まで売っていいのか?
その時自分の姿を心を鏡に山の井に写すことができなくなる、その醜い姿を見てショックで死んでしまうとなる
確かに金でなんでも買えるとしてそうしてたら自分の姿が鏡に山の井に写せないものとなっていたとなる、その罰の方が怖いのではないか?

その罰は確実にある、そんなことを言ったらこの世を生きることすらできないともいう
でもまたどっちが怖いことなのかと人生をふりかえれば真善美が見えなくなる
鏡にも山の井にも写せない姿になる、それが怖いとなる
ただこれは金だけで起きてはいない、別に金だけではない、人間は金があっても金と関係なく変わり果てることには驚く、現実に悪魔のように普通になってしまうのをみんな見ているだろう、自分でもそのことを常に恐れていたし今でもそうである
ただこの世が汚れているというときそれに染まって感じてなくなる
若いときは感じてもやがて感じなくなる、世の中はそんなものだよとなり世渡りする
でも最後にその姿を見れないような恐ろしげな姿になっているとしたら怖いことである
天国だ地獄だというけど地獄とはこのように真善美とかが見えなくなることなのである。
地獄とはそういう場所なのである。それはすでにこの世で始まっている、それが天国まで継続している
この世と天国でも地獄でも断絶しない、継続している

●この世の富は一時的で永続性がない

だからこの世でいくら金持ちになったとしてもこの世で善きものが真善美が見えなくなっていたらその人は地獄に行く
ただカルト教団とかに入っていたとしても教会に入ったとしてもそれは外面的なものであり真実はわからない
ただ目安として何か真善美が創造されるのならそこにはいいものがあるとなる   
そういう外面は宗教となっても中味は教祖でも悪魔の場合が普通にあるからだ
一人の教祖を異常に崇めいてるのはその教祖がサタンの場合がある,偶像にもなる
その教祖のコピ−でありその大量生産だからである
ただ数ばかりであったり数で誇示してもそこから真善美が生まれないとしたらその団体には価値がない
それでルネサンスがあれほどの美を創造したということに驚嘆する
やはりそこには下地となるのもがあり生まれた、なぜなら現代文明からもう生まれないからである。
そういう下地が時代的に喪失したからもう生まれないのである
ただ個々人的には生まれるが全体としての真善美は生まれないのである。

 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むこともなくまた盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
(マタイによる福音書六章19節021節)

この世にいくら宝を積んでも最後は虚しくなる、いくら金があっても老人になると使うことすらできない,病気になって健康を失えば金があっても特等室でも寝たきりで天井を見ているだけになってしまう
そしてこの世に生きる時間が短すぎることである、王様であっても生きるときが短いのである
栄華の時は短いのである。だから豪華な宮殿に住んでいても宮殿は残りそこに住んでいた人は死んでしまうから宮殿が建物の方が寿命が長いのである。この世の栄華はたちまにち消えてしまう、煙のように消えてしまう、人間も死んだら煙のように消えてしまう
人間の作りだした栄華には永続性がないのである。文明でもみんなジャングルに埋もれたり砂に埋もれたりしている
海に沈んだという文明都市もあるらしいとかなる
つまり人間の作り出した富には永続性がないことは致命的なのである
力も富も権力でも女性の美でも永続性がない、たちまち色あせて衰退して見る影もなくなる
人間はいくら力を権力を誇示しても一時的なものにすぎないのである。
地上の富は永続性がない、人間は建築物より寿命が短いがその建築物でも錆びついたりしてやがては朽ちてゆく
ピラミッドは永続性を維持しようとして時間に抵抗したものだという見方もできる
それだけ長い時間でも残っているからだ、人間はせいぜい百年生きてもみんな地上から消えているからである。

2018年07月15日

三人の不幸な母親 (因果応報は必ずある、カルマは最後に苦しみとなって現れる)


三人の不幸な母親

(因果応報は必ずある、カルマは最後に苦しみとなって現れる)

その女性の親は三人いた、5歳までは実の親が育てていた、ただ姑とうまくいかず5歳で家を出た、娘は姑に育てられた、その原因はあまりにも気の強い姑にあったが嫁にもあった、なにか新興宗教にこっていたらしい
その実の親は金持ちの家の後妻になった、何不自由なく暮らしていたのである。

次に姑に育てられていたが新たな嫁が来たがその嫁も姑とはうまくいかず別に暮らすことになっいた、姑ととは別な家で暮らすことになった
だから姑には問題があった、とても一緒に暮らせるような女性ではなかった
その女性自体が後妻に入っていたのである。

そしてその時自分の母親はその後妻に入った継母に育てられたのである。
そのことで聞いた話でひどいなと思ったのは
「継母が弁当を作ったのだがそれを残した、そしたら俺の作ったものは食べれないのか」とその弁当を投げたという、これはひどいなと思った
継母ということがあり何かそういうことが他でもあるだろう
ともかく母の実家は問題の家だったのである。

その後三人目の母親に娘は育てられた、ただその娘はかわいがられたし金には困らない
だから不幸の生い立ちの人はいるからそんなに不幸なのかということもある
両親が死んで施設にあずけられたとかあるからだ
今度はなぜか三人目の母親とはうまくいっていたようだが何かと干渉するので反抗するようになった、自分の家ではあまりその三人目の母親とはうまくいかずつきあっていなかった、ただ娘はうまくいっていると思っていたのである。
別に継母でもない、かえってかわいがりすぎてて問題になった
でも自分の母親のようにひどい継母の仕打ちなどしされていないのである

その後どうなったのか?
最初に5歳まで育てた実の母親は病気になり娘を頼ってきたのである。
それまで長い間会っていないかったのである
でも夫が死んだりして一人になり頼るものがなくて娘に頼ってきた
しかしその時その娘は異常人格者になっていた
自分の家にきて自分の母親に弱って寝ていたのだが
「おばちゃんは金あるんだから金でめんをとみてもらへ」
と言って血相変えて去って行った、その後は会っていない
あんな人間になったことに驚いて声も出なかった

その娘は三番目の一番かわいがられた母親にも病気なったとき何もしない
放置していた、そして自分の家に自分に電話で言ってきた
「ひどい娘だわ」と言って白血病ですぐに死んだのである。
すぐに死んだから良かった、それが介護になったらどうなったのか?
とても介護などできる娘ではないからだ
それが救いだったのである

関係がうまくいっていなかった自分の家でもあるが最後に自分に言った言葉は忘れられないとなる、娘は葬式をちょっとして何か孝行したようなことを言っていたという
全然違う、ある意味で呪いの言葉を残して死んだのである。
いろいろあっても一番世話してくれた母親だったのだからそれが理解できないのだ
まずその娘は異常人格になっていた、血も涙もない人間のようになっていたのか?
長い間会っていなかったから人間は変わるものだと思った
悪魔のようになってしまったとも見た

そして最初の5歳で別れた実の親はアルツハイマーになった、娘は何もしない、金をもっているので金だけに関心がある、後妻に入った家にも息子がいて金で争っているらしい
この娘は実の娘だと母親がたよっているけどそんな感情は微塵もないのだ
現実に最も長く一緒にいてかわいがられた親が病気になっても何もしない、捨てていたからである
そんな娘に頼る実の親も不幸であり怖いと思った、実の親だと自分は思っていても相手そんな感情など微塵もない,ただ金になるから施設に入れているだけなのである。

そして自分の母親の継母だった人は施設に長く入っていたが目が見えなくなって妄想してしいた、性格があまりにも気が強くて回りとうまくいかなかったらしい
そして目が見えなくなり自分の母親を頼ってきたのである。
自分の母親は子供の時そうしてひどいめにあったしその後もいろいろとあまりにも気が強い人だからひどいめにあった
でも自分の母親は親だということで施設に見に行っていたのである。
そして最後に「悪かったな」と言って死んだ、何か反省してそう言ったのだろう
その骨は大学病院で解剖されて自分の家にもってこられて母の実家の墓に収まった
何か自分の母親の実家はいろいろな問題がある家だったのである。
父親が警察署長であっても事業に手を出して失敗して一家離散のようになったり問題があった

人間は結局因果応報でありカルマから逃れられない、必ずそうしたカルマが行為の報いを受けるのである。カルマが苦しみとなって現れる
三人の母親を不幸にしたのは何なのか?
最後の後妻の母親のことはわからない、その娘のことがどうしても理解できない
いくらいろいろあってもそこまでなっていることがわからない
それは娘自体の人格異常でありそうなった原因が最後の母親にだけあるとは思えないのである。

人間は結局カルマから逃れられない、因果応報は必ずある
それが必ず苦しみとなって現れる,そしてカルマを積まないものは一人もいない
何かしらカルマを積みそれが苦しみとなって現れるのである。
その現れるのも死ぬ間際になってとかになる
そうしてカルマを積んだ人がほとんどなのだから人間の死の様相はいいものとならない
断末魔の死が多いのである。
それはカルト教団に入っていても同じある、決してそのカルマはカルト教団に入っても解消はしない、むしろカルマをまた悪い方に積んだいるのである。
自分の母親はいろいろと苦労したけどいつも眠るように死にたいと言っていた
それだけはかなえられた,百歳でそのように死んだからである
でもほとんどの人の死はいいものではない、断末魔の死なのである。

2018年06月17日

誰かが悪さをして自分が苦しむ (猫の尻尾が焼かれまた血が出ていた)


誰かが悪さをして自分が苦しむ

(猫の尻尾が焼かれまた血が出ていた)

誰かが猫にいたずらして尻尾を焼いた、一か月くらいいなくなったので帰らないと思ったそれが尻尾が焼かれて帰ってきた、血が点々とついて汚れる
一時収まったがまた血が出ている、そして家を汚すので嫌になった
何かこの猫は飼うつもりでなかったがいついたのである。

家族が介護になってから何かこうしてめんをとなことが次々に起きてきた
犯罪にもあい、事業に失敗した人が来て金を要求される
自分が苦しいときそうして次々に問題をかかえた人が来た
自分自身のことで精一杯なのに問題をかかえた人が来る

ある人は飲食店で賃金を払われなかったといいその分を自分が払った
その後畑をしていてもキジに食われた、モグラに食われた、虫に食われたとその度に
肥料だとか薬に金をくれといい、払う羽目になる

要するにこの災難つづきは自分が起こしたことではない、でも自分のカルマがあってそうなっているとあきらめた
でもそもそも猫の尻尾を焼いた人こそ重いカルマを負うべきだし猫を世話すべきなのである。
でもいつかその人もカルマを背負わされる運命にある
カルマとは行為であり悪い行為は必ず苦しみとなって現れるからだ

ともかく自分だけではない、なぜこうして家族でも親戚でも災いとなる人が必ずいて苦しむ、それはなぜなのか?
そういう事件は日常的に起きている,家族にそうした人がいると終わりだというのもそのためである。へたすると殺されたりするからだ
実際に兄弟姉妹でもそういうことあった、姉が優秀でも妹はだめだ、弟がだめだとなり殺人までになった
障害者をもって苦しんでいる人もいる

だからこの理不尽は何なのだろう?
悪いのは猫の尻尾を焼いた人であり自分ではない、賃金を払わなかった人が悪いのであり自分ではない,でも自分が払うことになった
猫の尻尾を焼いた人は誰かにそのカルマ(行為)を負わせたとなるのだ
借金した人もまたカルマだけど他者に負わせるのである。
実際他者のカルマによって何の罪もないのに殺されるという事件がある
なぜそうなるのか?それが不可解になる
それもやはり本人にカルマがあってそうなっているのか?

自分は家族がいたとき何かそうした災いとかにあっていないのである。
家族が介護になってからそうした災いが次々に起きてきた
それも終わったかと思ったら猫に苦しんでいるとなる
それはたいしたことがないにしろやっかいだなと思う
自分はペットを世話できる人ではない、ルーズだし自分のことをやるだけで精一杯だからである
家事もやらなければならないしいろんなことができないのである。

いづれにしろ人間は誰かのカルマ(行為)は必ず他者に及ぶ、悪るいことしたら当然だし善の行為でもそうである。
でも悪い行為は誰かが負い償わさせられるというのもどうしてなのだろうとなる
その行為をした本人こそ償わねばならないのだ
それはただいづれ否応なく償わさせられる、それがカルマだからである。
でも何の罪もない人がなぜ償わさせられるのか?
結局キリストが人々の罪をになった死んだというとき犠牲になったというときそのことかもしれない、何か猫とキリストは関係ないにしろそうかもしれない
人々の罪を背負って死んだとされるからだ

この世の災いはどこから生まれてくるのか?
誰かが悪をなす、それでその周りもカルマを負わされて苦しむ
だからこの世でいくら一人が罪を犯さないにしても災いを受けるのである。
災いから逃れようがないのである。
原発事故だって関係ないと所で飯館村とかで一番被害が大きかった
全然関係ないと思っても災いによって苦しみが与えられる
それにしても30年間はこうした災いが自分にはなかった
それは奇跡的なことだったかもしれない,ただその楽なことがカルマになっていたのである。

人間は生きている限り楽していても金をもちすぎてもカルマになる
つまりどう転んでもカルマから逃れられないのである。
それは死ぬことによってしかカルマから逃れられない
たかちいづれこの世は大きなカルマによって滅びるのである。
この世に天国など出現しない、なぜなら自分が罪がないように生きても回りがそうではない、そのために他者のカルマを受けて苦しむのである。
最悪はそのために殺されるとまでなっているのだ
〈地獄の道連れにしてやる)とか言う人がいるからだ
この世に災いは限りなくあり消えることはないのである。


2018年06月13日

楽で終わらない人生 (苦は楽の元)


楽で終わらない人生

(苦は楽の元)

その女性は5歳まで娘と一緒に生活していた
でもその家に厳しい姑がいて家を出たのである
その事情はわかる、その姑は普通の人ではなかったからである。
それで自分の母親が継母になったからひどいめにあった
ただそれなりに気丈夫で家を支えたということはあった

それで家を出たというのも理解できる、でも家を出て苦労したかというとしていない
金持ちの家の後妻に入ったのでずっと楽していたのである。
そして認知症になったとき頼るものがなくその5歳の時別れた娘に頼ってきたのである。認知症なる前に頼ってきてその後に認知症になった
施設に入れたのは金があったからである。
地位ある人の後妻になったからである

でも長い間5歳の時別れた娘とは会ってもいなかったのである
その後娘は新しく嫁に来た女性に育てられた、その女性はずっと母親になっていたのである。でも何か理由がわからないが反発してその母親にもひどいことをした
病気になったとき放置したのである
ただその病気になってすぐ死んだから良かったのである。
介護などとてもできる女性ではないからだ
その育てた母親は「ひどい娘だわと最後に自分に言って死んだのである。
自分の家でもその娘の母親とは家とはうまくいっていないからそうなっていたことに意外だったのである

それが自分の母親が病気になったとき
「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらへ」
と血相変えて去って行った
それでその女性の異常性に気づいたのである。
自分の家の場合はいい関係でないからしかたがない面があった
でもなぜ一番長く母親としてあった育ての親にそこまでするのか?
別に愛情がないのでもない,ただかわいがりすぎて母親の意のままにしたということで反発したとかはあった
でもあまりにもひどすぎたのである。
何か異常化した人間の心まで失った人に見えたのである。

こうして実の母親は娘に頼ったが後妻に入った家の子供と財産争いになっている
後妻の家でも子供は金にしか関心がないからだ
そういう状態でもう誰も金しか関心がない,それで認知症になっているからしょっちゅう電話来るとこぼしていた、自分は何も介護などしないがそこで苦しんでいる
なら自分は何もしないで施設にあずけて金さえもらえればいいと思っているからだ
実の母親でも全く愛情がないからである。

結局このように人生の最後にその人のカルマ(行為)の総決算を強いられる
それは自分でも書いてきたがそうだった、青年時代は20代は苦しんでいた
それも強いられたのではなく自ら苦しみを求めたともいえる
若いうちは望んでも苦労しろとかかわいい子には旅させろとういのは今もそうである
若いとき楽して高い地位についたりしたら傲慢になってしまう
なんらか傲慢さを打ち砕かれないと人格形成はできないのである。

ただ30以後は旅ばかりしていて楽したのである。
楽することもカルマとなっていたのである。
金あることもないこともカルマとなる、楽することもカルマとなる
社会性の欠如もあり七転八倒したのである。
介護で自分も病気になり誰も助けてくれないという苦境にあった
そういう時来たのは犯罪者とか借金に苦しむ人とかこの女性のような異常な人だったのである。それもつくづく自分のカルマだったのである。
だから自分はそのことについてひどいめにあったが恨んだりしない
人間はなんらかで苦しむのもカルマなのだ、それはもう逃れられないのである。
生きている限りカルマがある、そのカルマの故に苦しむのである。

ともかく人間は楽では終わらない、どんな金持ちでも恵まれていてもその恵まれたことで後で苦しむことになる,金持ちの娘が社会性がないとかで財産をとられたとかあった
それも社会性がない社会でもまれていないからそうなったのである。
自分も社会性が欠如しているから苦しんだのである。
旅ばかりしていては社会性は身につかないからである。

若いときは苦しむのはいい、また肉体的にもきついことは若いときしないとできなくなる登山などは特にそうである。海外旅行だって自分は50歳ではじめたから苦しんだのである。
大学で武道部に入って苦しんだのも良かった、体力がないのに良くやれたなとふりかえるそれは体力なくても若いということでできたのである。
若さはそれだけのことを成すということである。

ともかく苦は楽の元なのだ、苦しまないものは後で必ず苦しむ、それは人生の公式のようなものである。自分の母親は大正生まれで苦労の連続だったけど最後は百歳まで生きて楽に死んだ、眠るように死にたいと口癖のように言っていたが実際にそうして死ぬことができたのである、最後だけは願いがかなったとなる
それは苦労した結果として最後に神様が楽させてくれたともなるのだ

人間はだから楽ばかり求めるのも問題なのである。
原発避難区域とかで復興できないのはもう楽しか求めないからである
それは時代であるがそのために復興などできないのである。
一方であまりに苦労ばかりていると自分の母親のように庭はいらていと何にも興味もない人になってしまう、それも問題なのである。

ともかく人間には時代が変わっても変わらない教訓がある,それはことわざとしても活きつづけている

(鉄は熱い内に打て)(楽は苦の種)なのである


2018年05月28日

欲を減らせ,欲をおさえよ! (災いは人間の欲から起きる)


欲を減らせ,欲をおさえよ!

(災いは人間の欲から起きる)



欲を減らせ,欲をおさえよ!

(災いは人間の欲から起きる)

 「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」箴言15章17節

これは自分の経験から感じた,人間は欲によって誤る,欲が危険なのである。
それが宗教の基である,だから欲望があるのがいいとか欲望があるから資本主義が発達したとかいう人がいる
それは危険な思想である。つまり常に資本主義では欲望を喚起する,宣伝で喚起する,刺激する,そして企業は売り込むためにそうしている
だから本当は必要ないものまで買っているのである。
欲望を刺激して拡大して経済成長させるというのは資本主義社会では悪いことではない
むしろ奨励されているのである。経済成長第一主義だからそうなる
景気が悪くなることが一番悪いことだからそうなる

ただ本当に欲というのは限りないのである。100もらっても次は200欲しい,そして一旦100を確保したらその100を減らしたくないのである。
それは別に強欲だからでもない人間の心理なのである。
だから金持ちは財産を減らしたくないのである。

人間の欲はきりがなくなる,あれも欲しいこれも欲しいとなるし制限がないのである。
そういうことから何が起きてくるのか?災いが起きてくる
原発なども実は人間の欲と深く結びついていた
莫大な利権でありそのために地元でも金にまどわされて原発を積極的に受け入れたのである。まずは金だとして受け入れたのである。
実際に大熊町だったか先に原発を受け入れて金回りが良くなったから今度は隣町の双葉町とかが原発をこっちももってこいとかなっていたのである。

原発利権は想像を絶する莫大な利権をもたらすのである。
事故後でも何兆円とかの補償金を支払われることに驚いたからである。
そんなに金を出せるのかと自分は知らないから驚いたのである。
それだけの利権が原発にはあった,その利権の故にあらゆるものが結託して
原発にかかわっていたのである。
マスコミにも800億円が宣伝費として支払われていたとかなっていた
中国にマスコミの幹部が招待ささていたとき事故が起きた
そこには朝日新聞社の人もいたのである。

ただ人間の欲をすべて否定はできない,山尾三省のようにパンが贅沢などという人とはもう誰もつきあえないのである。
そうではなくて欲はきりないからあるところで減らせということなのである。
全部を減らすのではないあるところで限界をもうけて減らせとなる
100で満足すべきことをさらに200欲しいとなることが危険なのである。
欲をへらせないとどうなるのか?

ある人は事業して失敗したけどその人は自分は成功しているとまだ外部に示している
借金もしているが成功したとしている,だからわからない人もいるだろう
そして怖いのは「俺は成功者だ」そう見せるために借金したり今度は親戚に借金を求めてくる,それはもう手段を選ばないのである。
見栄があり成功者だということ優秀だということを示したいからそうなっている
そういう人は相手を犠牲にしてもまでその体面を保とうとする
そういう人は前と同じような贅沢をしたい,だから生活の質は落さないのである。
減らす生活をしないのである。その穴埋めが借金でありそれを求めらる方にしたら
勝手だとなってもその人は欲を減らせないからそうなっているのである。

欲を減らせないことは犯罪にもなる,貧乏で犯罪するのではない,贅沢したいために犯罪にもなる,今日本人一旦高度成長で贅沢の味を覚えてしまった
だから生活の質を落せない,うまいものを食べたいし何でも贅沢したい
それで金がたりないとなると借金してまで贅沢をするとなる
もう犯罪をしても贅沢をしたい減らせないのである。
それが怖いのはもうそこから犯罪に結びつく,極端になると人から奪っても贅沢でもしたいとなる

現実にそういう目に自分はあった,でも自分にしてもそういうことにこだわるのも怖いと思った、確かに犯罪にあっても金で恨んでもそれがまた復讐となればまた犯罪になる
そこであきらめればそうはならない,つまりそれも欲と関係していたのである。
いくら金あってもたりないと思う金持ちもいる
するとわずかの金だってこだわる人はいるかもしれないからだ
そういうふうに人間の欲がきりない,欲はそもそも抑えられないものであるからだ
だから人間の欲を全部なくすなどできない,ただなんとか減らすことをする
それをしないと危険なことになり犯罪になり身を滅ぼすことになる
今日本人は貧乏になるというとき今までの考え方どこまでも欲を追及して拡大して経済を成長させるという思想は危険である。
もう成長はできない,成長させようとすれば無理が生まれる

欲を減らせ,欲をおさえろ

これからの指針は今までとは違ったものとなる,生活は減らす生活,質素な生活を目指してなるべく浪費しないことである。
そんなことしたら景気が悪くなるというがそういう時代ではなくなったのだ
その象徴が原発事故でもあった,それは基本的に人間の欲から起きた事故だったのである何か犯罪でも基本的には人間の欲から起きているのだ
ただ皮肉なのは金があればかえって余裕があり質素な生活を説くということはあるのも現代である。
汲々して生活している人に質素を説いても無駄だとなるからだ
ただ金持ちでも減らすという生活を質素な生活をすることが求められる
ある意味で江戸時代にもどるともなる,江戸時代は侍でも今の人より質素な生活をしていたからである。物でも何一つ無駄をしていない,リサイクルの生活だったからである。

なぜこう思ったがというと人間は欲から殺したり殺されたりするということを実感したからである。
それで恐怖を感じた,自分が欲のために人を殺す,そしてまた殺されるとういことを実感したからである。それよりは欲を減らして平和に暮らせる方がいいと思ったからである。人間は欲をなくすことはできない,欲を減らすことができるだけなのである。
100あるのにそれを全部いらないとはできない,20くらい減ってもいいかとはなる
それも100ない人もし50しかなかったら10減らすとなると苦しいとなる
だから減らすというとき人によって違ったものになる
奇妙なのはもっている人は減らすことができるがもっていないもの減らすこともできないとなる

ただ欲といってもいろいろある,欲はきりないのである。
だからどこかで減らす抑えることをしないと社会はもうもたない,資本主義はグローバルに欲を追及して拡大しすぎたのである。
欲というとき中国人の帝王がその見本である。地下にまで現世の欲を追及した,死んでまで欲を追及したのが中国人である,地下宮殿まで作って死後もそこで生きようとしたからである。中国人の欲望は大きいのである。日本人は淡白だとなるが中国人の欲は強大なのである。
中国人はあくまでも現世にこだわる,現世で欲を追及して達成しようとしている
巨大な富を得て巨大な富が消尽されるのである。
そうしても結局は人間は永遠には生きられない,その地下宮殿にはミイラ化した王が眠るだけだとなっていたのである。
その地下宮殿を作るにも民の犠牲があったのである。

結局人間はいくらこういっても欲が減らせない抑えられないからこそ聖書では欲で滅びるとなったのである。社会的にみれば利権であり利権社会はなくならないし中国だと賄賂社会になる,個人的にも様々な欲があり減らせない抑えられない
利権社会になっているとしてもそういう社会にしているのは個人的な欲望があるから利権社会になる,それがこの世の変わらない有り様なのである。
確かに社会が悪いというのもわかる,その前に個人の欲が悪いから社会が悪いとなる
宗教の場合はまず個人の欲が悪いとしている,だからこそ社会が悪いとなり世の中は変わらないとなっているのだ。
それは科学技術が発達しようが原発事故のようにそれが人間の欲と深く結びつくから危険なことになるのである。
現代の科学技術はサイエンスではない,サイエンスは何か哲学的な意味があった
今は技術でテクノロジーが全面に出ている,そしてそれは常に欲と深く結びついているのである。だから危険になるのである

肥えた牛というのはこうした便利な科学技術も現代的に解釈すれば入ってくる
また肉食の否定なのかともなる,肥えた牛は何か人間の欲望にとって争いの種となるものなのだ,一方で野菜を食べるということは貧しいが共に平和に過ごせるともなる
宗教はもともと聖賢の教えでも欲をおさえろ減らせと警告してきたのである。
それは確かに今の資本主義の論理とは合わないのである。

それは別にしても個人的にも本当に野菜で満足しないで肥えた牛を食べようとするときそこに争いが生まれる,だからこの言葉が生まれたのでありそれは現代は複雑な社会であり科学技術社会でも同じなのである。
つまり原発より肥えた牛より野菜で満足した方がいいとしたのである。
現実に原発事故になったとき避難した人達は家族がばらばらになった
それで蝋燭でもいいから家族一緒に暮らしたいと極端なことになったのである。
それはやはりそれだけひどいことになったから極端になったのである。
自分でも何か殺す殺されるとかいうことに直面したからそうなった
そういうことがないかぎり人間はまた悟らないのである。
人間は宗教とか哲学から知識だけでは学べない,現実問題の中で知識でも身につくのである。
でも現実で過ちを犯して悟ってからは遅いとなっているのである。

タグ:欲の危険

2018年05月25日

不幸はは誰のせいなのか? (みんなアベのせいにする,不満の捌け口を求める)

不幸はは誰のせいなのか?

(みんなアベのせいにする,不満の捌け口を求める)


その人は確かにいろいろと不幸である。まず容姿が悪すぎる,それが不孝にした原因である,女性は結婚する相手によって幸不幸が左右されやすいからだ

では容姿が悪く生まれたのは誰のせいなのか?

アベが悪いのか,政治のせいなのか?また障害者をかかえているからそれも不孝である。
その女性は絶えず今の政府を批判するとき饒舌になる,怒りが政府に向かうのである。
まず共産党とか創価とかエホバでもカルト宗教団体に所属している人は不満をもっているその捌け口としてそういう会員になる
別に宗教を求めているわけでもないのである。
不満の捌け口がないのである。

ただそういう人は自助努力をあまりしないで絶えず政府の批判をする,アベが悪いとなるでもその不孝の原因を探ると容姿が悪いとか障害者をもったとかそれは政治と関係がないのだが政治と結びつけているのである。
それで絶えず政府に要求するのである。その女性は市役所に絶えず注文しているからである。クレーマーでもある,それは常に不満をかかえているからである。

野党ではそうした不満層をとりこむために常にアベが悪いとなりアベが退陣することをもくろむ,それはマスコミと一体となってする
不満層はそうしたあるものが権力をもつものが地位あるものが特権階級が常に得していると見ている,それは陰謀論でもそうである。
人間社会には常にそういうことだがあった,貧富の差があった
でもすべてがでは社会は特権階級が悪いのかとなるとわからないのである。

社会には常に優秀な人とそうでない人がいるからだ
そうした能力を否定して平等にしたら悪平等になる,それで共産主義は失敗したとなる
浪江の篤農家の人は優秀だから娘三人を大学に出すことができた
そしてその人に習っていた人達がいたのである。
つまり優秀な人に習って自分も豊かになろうとしたのである。
だからすべてを政府のせいにするのは間違っているのである。
人間は何かしら自助努力しないかぎり豊かになれないし幸福にもなれないのだ

もちろんこの世には不公平がありそれは正すべきなのである。

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東洋経済5月26日号


このように何か特権階級がいてそれで無駄に金が使われて豊かになっている人達が常にいる,そのために医療費が増大してその金は国民の税金から払われる  原発でもマスコミに莫大な宣伝費が電事連からはらわれていたのである。800億円とかがはらわれていたのである。
税金の無駄使いでありサラリーマンなどは一番税金をとられるから不公平だとなる
天下りとかもあり特権階級はいつの世でもいる
貧乏人としてあえでいる人はそういう人には不満になるのは悪いことではない

ただすべてがアベが悪いとなるのか?
自助努力をしないでアベが悪いアベが悪いと盛んに言う,でもその人にも何か自助努力すべきことはある,ただ年取ってどこが悪いとかその医療費も国民に負担させる
それはアベが悪いというけど国民に負担させているのである。
税金でまかなっているからそうなる
とにかく創価とか共産や野党でもカルト宗教団体にはそうした不満層をとりこむ
エホバの証人などでもそうである。金もないのに猫十匹飼って金がないというのもおかしいのである。
カルト教団とかには何かそうした不満な人達の捌け口としてある
不満を訴える場所がないからそうなっているのだ

ただなぜその女性が障害者をかかえたり容姿が悪いとか金がないとか常に不満を言う
それがすべてアベが悪いとなる,障害者をもったのは政府の責任でもない
貧乏なのもみんな政府の責任でもない,なぜなら福祉で援助を受けているからである。
特権階級で利権を得ている人は悪い人だしそういう人達は常にいる
それは是正すべきである。
でもすべてが安倍が悪いとなり自分は何も悪いことはないと思っているのだ
ただそうして過酷な宿命の下に生まれた人は常にいた
江戸時代でもいたしいつの時代でもいた,でもそれが全部時の政府が悪かったのか?
一部のものが富を独り占めしていたのかとなるとそうでもないのである。
平等を目指した共産主義が失敗したのは自助努力するのを否定してただ平等を目指したからである。その平等こそ悪平等になっていたのである。
もちろんこの世の中はどんなに努力したって不満がなくならない
それがこの世である。

そこで悲しむ者は幸いなりとキリストが言った
この意味は何なのか?不幸な人が幸いなのか?これは簡単に理解できないのである。
まず特権階級はいいようにみえてもそういう人は天国には行けないことは確かである。
なぜなら悲しむ人ではないからである。
そういう人がクリスチャンになっているのも普通であるがそれは天国には入れないとなる別に今は誰でもクリスチャンになれるからである。教会に入ればそうなるからである。

ただみんな不幸な人貧乏な人は悪いのは自分ではない,アベが悪いとなっているのだ
そして不満の捌け口を創価とかに入り野党を応援するようになる
でもそもそも不孝の原因になっているのはアベがすべてではないのである。
容姿が悪いとか障害者の問題はいくら金があっても解決しないのである。
それはだから何度も言うようにカルマだとなる
その人のもったカルマだとなる
自分でも介護で苦しんだのはそうだった,自分の場合は余りにも楽した結果としてカルマを知らずに積んでいて苦しみとなって現れたのである。
楽していることもカルマになっていたのである。
自分の場合は親にそれだけ楽させてもらいやりたいことをやらせてもらったから苦しくてもそのカルマを自分で納得していたのである。
他の人はなかなか納得できないからその不満を政府にアベが悪いとなっているのである。



2018年05月05日

時間は何かをなし遂げるためにある? (時間は年齢と反比例して貴重になる)


時間は何かをなし遂げるためにある?

(時間は年齢と反比例して貴重になる)


自分の銭(カネ)を分けてやりたがる者は見当たらないが、
生活(時間)となると誰も彼もが、なんと多くの人々に分け与えていることか。
財産(カネ)を守ることは吝嗇(けち)であっても、
時間を投げ捨てる段になると、貪欲であることが唯一の美徳である場合なのに、
たちまちにして、最大の浪費家と変わる。

セネカ

人間にとって時間とは何か?それは謎である。人間は時間と空間の中に生きていることは確かである。
人間はそれぞれの地域で生きる,その地域の空間はみんな違っているのである。
例えば海側に住む人間と山側に住む人間の空間は違っているのである。
福島県だとハマ、ナカ、アイヅになる
この空間は相当に違っている,なぜならハマは浜通りは冬はほとんど雪がふらない
でも会津は冬は雪に閉ざされてしまうからである。この差は大きいのである。
そこに培われる感覚は相当に違ったものになる
海は人間を解放的にするが山は閉ざされた感覚になるからである。
そういう空間感覚のアイディンティティは地球が広いからどこでもある

そしてその空間でもその空間をアイディンティティ化することは時間がかかるのである。まずその土地のことを深く知るには絶えず耕すことが必要になる
それは現実の生活で農業などするとその土地を耕すことが必要になる
その土地のまさに土や気候のことを知らないと農業にならないのである。
それはもう一代だけではできない,だから農家だと三代ではじめて農家となり仲間となるというときそれだけその土地のことを知るのがむずかしいからである。
農業は工業とは違うからそうなっている

これを何か芸術にしてもそうである。だからこそcultureはcultivateになる
その土地を深く耕していかないといいものはできない,そのためには時間がかかる
その土地を知るには例えば老木のようにならないとわからないことがある
それだけ時間がかかるのである。
相馬地域でも狭いにしろ複雑な地形なのでありそこに魅力がある
自分はそうしてその地形から詩とか書いてきた
だから自分が一番興味をもっているのは地形なのである。地理なのである。
それは世界まで自由に旅したことによっても地理に一番興味をもっているのである。

では不思議なのは時間というのは別に地理のようにそれぞれの特徴があるわけではない
数学的には世界中一時間は一時間の長さなのである。
でも時代的に時間の感覚は相当に違っている,現代文明の時間は一秒単位で時計に刻まれる時間なのである。だから心臓に悪く感じる,何か時間に切迫されるのである。
現代に生きていればそういう時間感覚から誰も逃れられないのである。
その時間感覚から逃れるのにはタイムマシンで江戸時代とかにもどるほかないのである。その時時間の区分はおおざっぱであり時間の感覚はまるで違ったものとなるからだ

時間とは何なのか?人間の時間とは何なのか?それはいろいろある
人間はまず時間によってしか何かを理解したり深く物事を考えることができないのである何かを深く知るには時間が必要になる,そもそも人生そのものが時間によって理解が深まるからだ,若い人はどうしても経験がないから浅薄な考えしかない,深い思想をもてないのである。爆発的行動力があっても深い思想によって行動することはできないのである。ただ若者は若者の成すべきことがあり時間が与えられているのである。

時間というのはただ過ぎてゆく時間としてとらえると何の意味もないだろう
時間とは何かを理解する会得する何かを成すために与えられているのである。
そして時間は限られているのである。
そして若いときの時間があり壮年の時間があり老年の時間がある
それはその時々に成す時間が与えられている,そして若いときすべきことをしないともう二度とできない,激しい運動とかきついことはもう年になるとできないのである。
老人になって何かを新しく学ぶこともできないのである。

時間とは何なのか?それは何かを理解して何かを成すべきものとして与えられている
その時間はそれぞさ限られている,例えば語学を習得する時間,楽器を習得する時間,
旅をして見聞を広める時間,登山して自然を体得する時間,思想を深める読書する時間,芸術を鑑賞する時間,農業を習得する時間,・・・・このように何かを会得して理解して習得する時間として与えられている
その中には時間は浪費される,人間にはいろいろな欲望がありさまたげられ時間は浪費されるのが常である。その時若いときもっと勉強していればなとみんな後悔しているのである。
そしてこれだけ本でも情報がある時代にはもうそうしたくだらないものに時間を費やしていると貴重な時間を失うのである。
次から次へと人は自分を売り込む時代である。くだらない小説など読んでいたらそれだけで何も残らない
しかし商業主義社会ではそうしたくだらないもの金のためにうりこむ,出版社でもそうである。
そういうものにみんな貴重な時間が奪い取られているのである。
それで老人になり後悔するが時すでに遅しとなるのである。
この世にはそうしてくだらないものが多すぎるからそれに紛れ貴重な時間を失うのである。

人間は時間によってしか理解できないものだと老人になるとつくづく思った
それは自然でも人間でもそうである。自然のものは気長であり悠長である
木が育つにも50年とかかかる,するともうその木の成長を見るのは一代ではできないのである。そういうふうに自然とともに生活していたときは人間は江戸時代あたりは時間の感覚が違っていたのである。
だから自分が石とか木をテーマにするときそうである。その土地のことでも長く住んでいないとわからないのである。時間によってしか会得できないのである。
人間は普通凡人ならまず年取らない限り賢明な聡明な人間になれない,
自分はもともと凡人だったから特にそうだった,何か聡明になれない,賢くなれなかったでもやはり年になれば物事でも人間でも理解が深まる
それを我ながら最近は自覚しているのも不思議である。
凡人でも老人になると賢者のようになるというとき何かあきらめとかついてそうなる
欲望にふりまわされていたがそれがなくなると自ずと聡明になるということもある

ただ老人でも時間を無駄にした人は何も身についていないのである。
何かをするために会得するために時間があるというとき楽器でも会得するに相当な時間が必要なのである。語学でもそうである。そうして有益なことに時間を使っていないとたちまち時間は飛んでゆき,「少年老いやすく学なりがたし」となっているのである。

時間はまた年齢に反比例して貴重になる,子供のとき時間が無限に長く感じられる,そこでは死ぬということは考えないのである。
若いときも退屈をもてあますのである。ただ何かを好きになり夢中になればそういうことはない,要するに何をしても何をしなくても時間はすぎてゆくのである。
人生はだから何に時間を費やしたかで決まる,ゲームに没頭した人はゲームが意味あるないにしろゲーム人生だったしギャンブルに費やしたものはギャンブル人生だったとなるのである。
そして遂に最後の時間がくる,その時一番時間が貴重になる
ぞうだろう,これが最後の一時間だとなればもうその時間は何十億円より貴重なものになる,いくら金があっても金はその時無用となり,何の役にも立たない
なぜなら死ねば時間がなくなるからである。その時時間の貴重さが一番現れるのである。

時間は二十代までは長く感じられるしこの時の時間が人間の基礎を作るから大事であった特に求道というとき最も命が盛んなときしかできない,老人になってからはできない
個々にも相当な誤算があることがわかる
求道などいつでもできると思っているができない,一番生命が盛んなときしかできないのである。だから若き時神を覚えろとなる,なぜなら若いときに人生の基礎を作るからである。若いとき曲がった方向に行くと一生曲がった方向に行くことになるかもしれない
それは簡単に是正できないから怖いのである
若いときは過ちをを必ず犯すけどそれも是正できない,それで後で後悔してもどうにもならない怖さがある,つまりその時そんなことたいしたことではないとみんな思っているし自分も思っていた,でもそれが後で後悔しても時間がもどらないから怖いことになるのである。その罪は払拭できない,刑罰になるならないではない心に刻まれるから怖いのである。
まずカルト教団などに入っていてそのまま人生送ったら人生を棒にふることになる
ただそういう人はありふれている

人生を棒にふる

そういう人であふれているのも現実である。その時はわからないのである。
人生をふりかえりわかるのである。でもその時はもう手遅れであり遅いのである
そこに人生の厳粛さがある,一回失敗したからまたやればいいとはならないのである。
それよりできないのてある。老人になって後悔してももう一度やり直すことができないのである。ここが人間の最大の盲点だったのである。
だから青春時代に30前までに人間の基礎ができて固まってその延長が人生だともなってしまう,自分の場合はそうだった,30代以降は遊びだったのである。
これも問題であり失敗だったともなる,何か社会性が欠如して60歳で親の介護になり四苦八苦したことを書いてきたが社会性かないためにそうなったのである。
ただ人間はどんな人でもあらゆることに通じることはできない,何か欠けているのである社会経験でも多様でありとても一人ではいろいろなことは経験できないからである。

ともかく若いときは時間の貴重さがわからないのである。時間など無限になると思ってしまうのである。ただ高齢化は長生きだからそれで何かを成すには理解を深めるにはいい時代なのである。それだけ時間が伸びることは人生百年ともなれば二回も人生があるとういことにもなるし何か才能がなくても積み重ねればそれなりの専門性を身につけうるし一角の人物になりうる時代でもある
第一50歳で何か成功する,文学の分野で成功するとかしなくてもいい,もう70からでもいいともなる,その時成熟したものが創作しうるのである。
老人になると人間はやはり賢明になり聡明に凡人でもなるからである。



2018年04月26日

生者も死者も愛を求めている (消えない愛を求めよ-目に見えないものの価値を知るべき)


生者も死者も愛を求めている

(消えない愛を求めよ-目に見えないものの価値を知るべき)

生者は墓参りして
仏様に花や水をあげる
供え物もする
生者から死者に働きかけることは常にある
しかしでは死者はどうなのか?
死者はまた生者に働きかけるのか?
その声も無く姿もないのに
でも死者が寄り添うものは
生者しかありえない!
死者は姿も見えないけど
生者に寄り添い働きかける
親しき人に愛する人に
死者は生者に働きかける
生者に時にその面影が浮かび
死者は生者に寄り添おうとする
生者と死者は見えない糸で結ばれている
死者はないとすればない
でもあるとすればある
死者はいつまでも生者とともにある
死者は生者に寄り添い
共にあることを願う
顔を姿も見えないとしても
死者は生者に何を望むのか?
供え物や物や金なのか?
もう死者にはそういうものは必要ない
でも死者が求めているものがある
死者は愛を求めている
生者も死者も生きている時にあった
愛を求めている
生きている時求めあった
愛を互いに求めている
人はかくして愛を切に求めあう
死者もまた愛を求めている
だから生者を愛をもって見ているし
また生者もかつて共に生きたときの
愛を求めている
こうして愛は消えないものなのだろう
あらゆるものは無常である
在りしものは消えてゆく
その姿すら消えてない
しかし消えないものがある
それは「愛」だった
ともに愛し合うことは人は求めていた
それは死者になっても同じだった
この世にあり見えるものは消える
しかし「愛」は消えない
それは目に見えないものだからである
目に見えないものが尊いものであり
目に見えるものは消える無常にある
だから消えないものを
「愛」を求めるべき
それは永遠に消えることがないものだから?

死者と何かといったら永遠の謎である。死ねば姿も形もなくなる,ではなにもなくなったのか?これもわからない,ただ愛する人が死んだとき人はその人が本当に全く消え去ったものないものとしているだろうか?
墓参りしたり死んだ人を語ったり死んだ人を偲ぶ,それはその人を愛していたからだろうその一つの形として仏様をまつり墓を作り人は死者を偲ぶ
でもそこに本当に死者がいるのだろうか?
ただ生者がそう思っているだけかもしれない,現実に死者の不思議は死者が死んで灰に骨になる,そこに死者がいるかというとそうでもない,むしろ遺影とかに死者を偲ぶ
そこになにかしら生前の姿が面影があるから偲ぶ
骨とかは灰にはありえないのである。

自分は家族のことを語るがそれは他人にとっては嫌なことになるかもしれない、
でも自分にとって家族は母と姉だった,三人は60年間一緒に暮らしたし自分に三食用意してくれたし自分を支えてくれたからである。
だから自分と一番深くかかわったのはこの二人なのである。
いつまでも家族のことばかり言うのはみっともないというのも確かである。
でも特殊な事情でそうなっているのである。

だから死者を思うときは偲ぶときはこの二人なのである。父は中学生の時はやめに死んだから半世紀もたつから過去のものになった,でも60年間一緒に過ごした姉と母は生々しい記憶として残っているから違う
そしてつくづく介護になってから世間の非情を一身にあびた
これほど他者が冷酷なものか知った,そのことでまた一段と自分を愛して支えてくれた家族を思うようになった
今は自分を思ってくれる人はいない,二人は常に自分を思ってくれたのである。
だから二人が死んだことは本当にショックだった

ただそうはいっても自分の家族は憎しみあう家族でもあり矛盾した家族であり模範的な家族でもなんでもない,ただそうした家族でも60年間一緒に過ごしたということが影響しているのである。
人間が深い関係になることは現代では故郷に住んでも少ない時代である。
それで孤独死とか無縁社会とかなる
おそらく原発事故で避難区域になったところがなぜあんなに簡単に崩壊したのか?
ばらばらになったのか,もう故郷などより家族でも補償金のことしか頭になくなったのである。金がすべてになってしまったのである。
だからもともと故郷に愛着するとかなく金の方が大事でありそういう時代になっていたということもある

人間は深い関係をもつのは家族でもあるとはかぎらない,女性でも結婚すれば親より結婚した相手が夫との関係の方が深くなる,だから自分の場合は特殊な事情でそうなった
だからそのショックが大きかったのである。

人間は愛とかいっても現実生活は毎日見えるものを通して生活している
食べることでも食べ物を買うことで生きている,金がそこで現実として重要になる
そこに愛は関係していないのである。愛は意識することがない
いくら物を食べ物を買ってもそこに人の愛があるとは思わないのである。
でも母親が料理して子供に与えるときそこに愛がある,それが家族である
でもまたスーパーからオカズを買って与えるとそこには愛を感じないのである。

人間はこうして毎日の生活では愛を感じない,家族でもそうである。
そして家族が死んで愛を感じたとなる,そして愛という目に見えないものこそ大事だったと意識する,なぜならもうその人の姿も形もないのだからその人をどうして意識するのかとなるからだ
それは愛があり愛でもって通じ合うとういことしかない,いくら供え物しても相手に通じているかどうかもわからない,そして死者が求めているのは何なのか?
死んだのだからもう求めるものは金でも物でもない,死者が求めているのは実は愛だともなる,それは目に見えないのである。
死者もまた愛を求めているともなる,死者は食べ物も何か目に見えるものも必要ではないからである。
でも何か求めているのかとなると愛だとなる
だから死者と生者は目に見えない愛をもって通じ合うとなる
しかし愛がなければ親子でも通じ合わないのである。
現実に親にひどいめにあった人は墓参りすらしないからである。

目に見えるものは無常であり消える

目に見えないものは永遠になくならない

この世では常に目に見えるものに追われ生活している,でも死ぬともうそうした食べ物でも何でも目に見えるものに追われる必要がなくなる,そこで愛が目に見えないけどありつづけるともなる
神は愛だというときその愛は目に見えないから永遠に消えないとなる
人は神に愛をもとめまた人は神を人に愛されることを望む,神すら愛を求めているのである。ただこの世では目に見えるものでしか生きられないのである。
愛があっても食べ物が得られないとなったりするからである。
この世に生きている時はだから目に見えないものの価値を本当に知り得ないのである。

2018年04月25日

禍福(かふく)は糾(あざな)える縄(なわ)の如(ごと)し (悪いことは良いこととなり良いことも悪くなる)


禍福(かふく)は糾(あざな)える縄(なわ)の如(ごと)し

(悪いことは良いこととなり良いことも悪くなる)

災いと福とは、縄をより合わせたように入れかわり変転する。吉凶は糾える縄の如し。

人間でもこういうことは人生をふりかえればみんな感じている
苦があれば楽があるというのもそうである。
みんな金持ちに生まれていいとか美人に生まれていいとかうらやましがる
ではそれがすべて人間にとっていいものに働くかとなるならない
金持ちの家に生まれた人がみんな幸福なのか?
金持ちには金持ちの悩みがあり金を持っていることで災いをもたらされる
だから貧乏の方がいいというのではなく金持ちをうらやんでも金持ちがすべていいとはならないのである。

では貧乏がいいのかというとそうではないが貧乏でもそこにいいものがあるということはいえる,貧乏のどこがいいのかとなると反論はあるし普通は認めない
あまりにも金持ちの家に育ったら贅沢を覚えてしまうから節約などできなくなる
金持ちのお嬢さんと結婚したら夫は贅沢をさせてやらないと満足しないとなるからかえっていいものじゃないともなる

金持ちの家では介護になっても子供は直接介護などしたりしない,金があるから施設でめんどうみてもらうとなる,でも貧乏な家でも介護となれば困るが子供は苦労して育ててくれたからと親を直接めんどうみるということはある
だから何か良く働くかわからないのである。
いいと思ったことは悪いことになり悪いと思ったことがいい方面に働くことはいくらでもある
だたら禍福はあざなえる縄のごとしとなる

人間個々人を見ても多様な人がいる,みんな不満が多い,頭が悪いとか体力がないとか不細工だとか不満が多い,でも人間は何かしらいいところがあるし悪い所もある
何か人間には神がいいものを与えてくれのかもしれない
頭が悪いとしても体力があるとかあり女性なら不細工でも何か女性でも力があるとかで力仕事ができるとかある,ある人はコミニケーション能力が非常に高いのには感心する
なにか金をねだるのだがその説明が納得いくものでありうまいのである。
あんなふうにして頼めることが不細工でも何か良くされることがある
美人は何もしないでも良くされるがそれでも苦しい時があり美人だからといって何もできない人もいる,頼むこともできない人もいる
それも能力だなとつくづく思う,金持ちのお嬢さんに育ったら苦しいとき頼むこともできないのである。
それで地主が金持ちだった女性の兄弟が餓死したという事件があったのもわかる
金持ちの家に育ち処世術をもち得なかったのである。

いいと思われていたことは悪くなり悪いと思われたことはいいことにもなる
人間には何か絶対的にいいということはないのである。
いい面と悪い面が交互に来るというのは確かである。
自分は家族に恵まれたが最後は認知症などの介護でさんざんな目にあった
これも良くしてもらったからこそまたそれで苦しめられたもなるのだ
何か人間関係でもいいことだけはない,必ず悪いことも引き受けることになる
夫婦でもそうだろう,良くしてもらっていたら介護になったらひどい目にあう
子供でも親に良くしてもらったら今は必ず介護をさせられる時代だからである。
親孝行したいとき親はなしの時代ではない,長寿時代は必ず親の介護をしなければならないのである。

ともかく人間の運命は生まれつきで決められたわけではない,確かに兄弟でも差があった同じ兄弟でも一人は大学まで出された,それも別に能力があるわけではなかった
ただ金があったので三流大学に入り遊んでいただけだとなる
一方は中卒で集団就職の時代でありその差も大きかった
しかしそのことで恨んでもどうにもならない,そういう運命を呪ってもどうにもならない別に東京に集団就職してその後どうなったのか,それなりに自立して生活をしていて家族をもっている人も普通にいる

今は大学を出ても文系の三流大学では高卒の方がいいし高卒に使われる時代だとなっている,だから学歴でもそうである。それが幸福を決める訳ではないのである。
だから人間は悪いことばかりに目を向けていないで悪いところにもいいことがあるということに目を向ける必要がある

そもそも世界中の国でも地域でも見ればわかる,必ずいい面と悪い面がある
日本という国土は狭いが海の幸に恵まれているとか狭いながら工夫して稲作して食べる工夫をしたとか島国でも良い点があり活かしてきたのが歴史である。
それはどこの国でもそうである。砂漠でなにもないと思ったら石油が与えられていたとか何か神は公平なのである。公平でないと思うのはやはりそう思う人間側に問題がある
悪いことばかり見ているのである。
その悪いことばかり見ていたらもういいこともなくなる

例えばこの辺で原発事故とかで悲惨な状態になった,それはみんな悪いことだとなる
でもいいこともあった,原発事故なら多額の補償金をもらったとかある
そのいいことと思っていた欲しいう補償金でもそれがまた悪いものとして働き市町村は分断されたとかある
つまりここでも補償金は個々人にとって家族にとっていいことなのだが逆にそれによって市町村も家族もばらばらになったとかあり復興もできなくさせているとういことがある
補償金もらえばいいし復興など関係ないともなっているからである。
それも補償金が必ずしもいい面だけには作用しなかったからである。

原発事故で避難区域になったところは住めない状態になった
でもそこでさえいいものがあるかもしれない,それが発見されていないのかもしれない
どんな悪い状態でもいいことがありそれが見いだされていないとういこともある
つまり避難区域などでは何もなくなったとか悪い面だけを見ているからである。
ただ何かいいことがあるのか?
それは言えるがやはり悪いことにもいいことはありうる
ボランティアが来てくれたとかいろいろ援助があったとか何かある
ただ悪い面だけを見ている取り上げるから悪いことしかないともなる

ただ人が住まなくなって町や村を見直すということはあった
様々な外部の人がかかわり援助もあった,そして何が大事なものだったのか再認識したこともあった,いい方面に目を向ければそうである。
悪い方面に目を向ければもうみんな悪いことしかない,だからこんな所を出て行くしかないとなったのである。
もう絶望しかないとなったのである。それがわかるがそこでいい面を見いだしてゆく
そうでないととても復興などありえていからである。
こうなると悪いことばかり目につくし真っ暗な世界になる
そこにわずかの光を見いだすことでいい面を見いだす,そこに復興がありうる
そんなこと外部の人が言ってもどうにもなちらないというのも確かである。
だから自分は何も言いたくないとはなる

でも悪い事ばかり見える,そういう中でもいいことを見いだすことがなければとても人間は耐えられなくなる,生きていけなくなることも確かである。
介護十年で苦しんだが終わればこれにもいい面はあったなとか回想する
実際はこれまで書いてきたようにさんざんな目にあったのである。
その傷痕は簡単に消えないしトラウマになってしまったのである。
他人を信用できないとか他人が求めているのは金しかないとかである
ただ一番良くしてもらった自分だから家族に恩返しできて良かったとは回想するのである何かそれは事故の良心の満足となっているのである。

いづれにしろ人間は悪い方面ばかりを見ていたらもう生きているのも嫌になる
だからどんな悪いときでもいい面がありそれを追及することはある
そういうふうに人間はある,ただではシリアのような戦争にまきこまれたような国はどうなるのか,どこにそこにいい面があるのかともなる
そこには地獄しかないともなる,でもあれだけひどいめにあっているとういことはそこに何かいい面も将来的にあるのかもしれない,償いがあるのかもしれない
ただそこには悪いことしか見えない,それでもいい面を見いださないともう生きることさえできないだろう。

そういう深刻な問題はさておき平和な国でもやはりこういうことはある
良いことでも悪くなり悪いと見えても良いことがある
だから良いことを見いだしてゆくことが必要だとなる
ただ悪い方だけを見ていたら結局絶望しかないし自殺するようになるだろう。
お前は楽だからそんなこと言えるとかはある
でも他者をいくらうらやんでもどうにもならない,いいことにはつながらないのである。それは個々人の人生でもそうだし他の街はいいとかうらやんでもどうにもならない
いい面を見いだしてゆくほかないのである。
それが嫌なら結局他の街に住むしかないとなり若い人はこの辺では流出したとなる
そういうひういう人でありひきとめることはできない
でもそういう人達がではこれからいいことばかりなのかというとまたわからないのである困難の中にとどまった人達が今度は逆に称賛されていい方向に向かうこともありうるかもしれない,将来のことは人間にはわからないのである。
だから禍福はあざなえる縄のごとしとなるのである

2018年04月13日

人間は日々地道に勤めて幸福を得る (幸福は突然に一挙に得られない)


人間は日々地道に勤めて幸福を得る

(幸福は突然に一挙に得られない)


不孝は突然やってくる

幸福は突然には来ない

不孝は思いがけなくやってくる,それを人生をふりかえればわかるし他の人のことを見てもわかる
事故があったり病気になるのも突然なのである。
60すぎるとみんななんらかの病気をかかえるようになる
でも老いが突然来るというのは本当である。
病気も突然来る,老人になるとそのリスクが高いし確実なのである。
なんらかの変調をきたすし病気になる

そして逆に幸福は突然に来ない,宝くじのようにギャンブルで当たるように来ないのである。突然に来るのは不孝なのである。
この辺を見ればわかる,突然に津浪で死んだ人もいるし家を失った人もいる,そして原発事故だった、故郷にも住めなくなった
この不孝も突然に来たのである。
突然に来るものは不孝なのである。幸福は突然にやってこない

これは何なのか?
幸福になるために突然に宝くじのようには来ないということである。
老人になって趣味がないとかすることがないという人も増えている
でも趣味だって時間をかけてスキルをは磨いていないとできないのである。
突然に覚えたりはできない,習得する時間が必要なのである。
そういう習得に時間をかけていれば他のものでも上達する
何かそうしたスキルは突然上達したりしないのである。

幸福になるためにはやはり幸福になる努力をすることが必要になる
それは人生では地道なものになるかもしれない,何か派手なものではない
こつこつ積み重ねる反復する作業である。
貯蓄でもこつこつためていれば金持ちでなくてもたまることはある
一挙に宝くじのように金をが入ることは普通はない,株とか投資でももうけている人はやはりそうした訓練を日々積んで来た人なのである。
素人は一挙投資でもうけることはありえないのである。それは自分の経験でわかった

人間は幸福になりたい,でも不孝はベートベンの運命のように突然やってくるのだ
それはさけることができないように必然的にやってくる
誰の運命でもそうである。まず人間自体がリスクである。病気になるからである。
それから老化することもリスクである。老化は確実に病気になることとにているのであるあらゆる機能が弱ってくるからである。機械が古くなり故障するのとにている
もう新しくしないとならないのだが人間にはそれができないのである。

ただ日頃から地道にしていることが幸福に結びつく,なぜなら幸福は天から突然降ってきたりしないのである。
仕事するにも普通はみんな地道であり地道なことの繰り返しである。
普通の仕事は投資とか株のように一挙にもうかるようなことはないのである。
人間には何らか運が作用していることは確かである。
これは否定できないにしろ日頃ごろごろして何もしないでスキルも磨かないなら突然何か幸運がいいことがやってくるのかとなるとならない

自分がしているパソコンの抽象画でもそうである。なぜ全く絵の才能がないのに絵を描けたのかという不思議があるからだ
それはやはりパソコンを長年していてソフトでたまたま発見したからだとなる
それも長年パソコンをしていたからだとなるのである。
そもそも仕事はそうして地道にしていてその仕事に熟達してゆく
突然に熟達したりしないのである。
富というのも実際は一代ではなかなか築けないというときそれだけ時間がかかる
先祖の恩恵で金持ちになるというのが多いのはそのためである。
一からはじめたら容易でなるなるからだ
一代で資本を蓄積して次の代でその資本を基に事業をして成功するとかなる

才能なども天才は別にして能力は地道に磨いていればそれなりのものを発見するかもしれない,人間の能力もまた発見されていない個々人でもどんな能力があるかわからないのである。
何か地道にし日々精進していればそうした能力も身につくとなる
一挙にそうした才能が天から降ってくるように身につくとはならないのである。

例えば遊ぶということも退職したから簡単にできるかとなるとできない,遊ぶ能力を磨いているできるが人生を勤め人として費やした人は遊びができないのである。
だから今度自由になったから遊べといってもとまどうのである。
遊ぶというときギャンブルとかではない,何か趣味とか能力にかかわるものである。
そういうものが退職してすぐに身につくかとなるとできない,将棋でも本当にできない
それだけ修練していないとできないのである。

反復によって手に入れた能力は深みもあり凄みもある

この意見はまさにそうである。反復によって能力が身につくのである。
長い時間のなかで楽器でも反復して習得するのである。
能力が才能が生まれつきでもそうして反復していなければ能力は身につかないのである。
つまり人間は虫がいいし本来なまけものだからそうした反復作業を嫌がって一挙に手に入れようとする,地道な努力を嫌うのである。
何か文学でも賞をもらいたいとか目立つことばかり目指す,地道なことはしたくないのである。そういう人はいつも目立っていたいのである。
でも普通の仕事はみんな地道なのである。
でもどんな仕事でもその道に通じたものは違っている,簡単に素人が一挙にできるものではない,底辺の仕事でもそうである。
仕事に通じるにはそれだけ修練が必要であり時間がかかるのである。

そんなことよりAIになればそういうことはコンピューターがしてくれるから人間はなにもすることがなくなる,遊んでいればいいという人がいる
でもこの遊ぶことが簡単にできないのである。
毎日パチンコ屋通いとかギャンブルとか酒飲んでいるだけでは遊ぶことではない
遊ぶとは人間だけができることなのである。そこに意味が見いだされるのである。

なぜ今これだけ観光するのにいい時代はない,でも旅人はほとんどいない,ただ移動してグルメ旅行になっている,旅人は見かけないのである。
ただ鉄道であれ車であれそうした便利ものもで移動しているだけなのである。
自転車旅行だとなんとか旅しているなと感じるから自分もしてきた
今の時代になると旅人になることは容易ではない,遍路でもずっと歩きとおしてはいない途中で電車にのったりするしずっと歩いて旅している人はいないのである。
途中で必ず乗り物に乗っているからである。
だから道をたどりきままに旅する人はいない,決められたコースを移動しているだけだとなる
旅は分かれ道がありそこでどっちに行こうかと選択する,そこに旅の醍醐味がある
決められた道を行っていたらつまらないのである。
だから今の時代旅人はいないし旅がなくなったともなる
観光旅行と旅はまた違っているからだ
近くでも自転車でぶらぶら気ままに行くとき旅だったともなるのである。

不孝は突然やってくる

幸福は日々築き上げるもの

幸福というとき家族でも結婚して作り上げてゆくものでありできあがったものではない
幸福は与えられない,それぞれの努力が必要になる
お互いに築いてゆくところに幸福がある
家でも建築でも土台を作り積み上げて完成する,一気には作れないのである。
どこの世界でもそうして積み上げて作られてゆく
それが発見につながり幸福をもたらすとなる

確かに不孝は突然やってきて幸福を破壊する,でももし強い絆で結ばれていた家族ならそう簡単には破壊されないだろう。
幸福を築いてきた歴史があるからである。
何事一朝一夕にはならないからだ,だからこそ強固に結ばれる
日本の国だって積み重ねられて築き上げられてきたものである。
日本の幸福を作ってきたのである。だから簡単には破壊されない

でもなぜ原発避難区域などではちりぢりばらばらになり町が村が崩壊したのか?
突然の不孝で一挙に崩壊したのか?
そういう絆がなかったのか,絆ということが盛んに言われたけど何かそういうものがなかったから家族も散り散りになり町や村が廃墟化したのである。
そこにも積み上げたものがありそれが幸福を作っていたのである。
それが一挙に不孝が突然来て崩壊したとなる
だから町でも村でも長い年月で築き上げてきたものがありそれがそんなに簡単に崩壊するのかというのがわからないのである。
実際はそれだけの絆もないし築き上げてきたものを尊重しなかったのかともなる

とにかく突然の幸福とかは運とかで入るものは失いやすい,遺産なども突然入れると失いやすい,宝くじでもギャンブルでもうけたものも失いやすい
なぜならそれは日々築き上げてきた幸福ではない,一時の運で思いがけなくもうけようとしているからである。
日々築き上げてもうけようとしているのではないからである。
何か自分もそういう経験をして金も失ったともなる
いづれにしろ人間を作るのは地道な活動なのである。一挙に何かを幸福でも得ることはできないことは確かである。
タグ:幸福論

2018年04月12日

最後に不孝に終わる人間 (三人の母親の結末)


最後に不孝に終わる人間

(三人の母親の結末)

母の実家は複雑であり不孝である。一人の母親は母のママハハだった,それで母が言っていたのは弁当を作ってくれたが残したらそれを自分が作ったのは食べれないのかと怒り投げられたという,それも少女の時でありこれもひどいなと思っていた
でもその母親は老人ホームに入り最後は目が見えなくなり誰もみるものがなく母が最後にみて死んだ,遺体は病院で解剖することにしていて骨はひきとり墓に納めた
最後は悪かったなと言って死んだ

もう一人の母親はその実家で育ったが五歳のとき別れて母親は家を出て別な裕福な家に後妻に入った,そして認知症になりその前に五歳まで一緒にいた実の母親がその子供とあった,それで老人ホームに入った,金はもっていたからだ
ただ認知症になっているからわからなくなっていた,それで嫁いだ先の子供と金で争っていたのである。
そして前にも書いたがその子供は信じられないい女性になっていた
子供はすでに大きくなっていた,大学生とかになっていた
だからいくらそんなことがあっても普通の大人だと思っていたがそうではなかった
まず全然人間の情すらなくなっていたのである
その実の母親をみるにしても金だけであり母親などと思っていないのである。
だから最後にこの実の母親は不孝だなとつくづく思った
他人に世話になるより不孝である。何の愛情もないからである。
結局この実の母親は楽して最後は不孝になった
楽な道を選んだ結果として不孝になったのである。
自分は子供をおいて金持ちの後妻に入ったからである。
その後は子供とは関係していなかったのである。

ただこの女性についてわからないのは一番世話した三番目の母親がいたがその女性にもひどいしうちをしたのである。
そして自分の所に「ひどい娘だわ」と言い残してすぐ死んだのである。
この母親とは一番長く生活していた,ただ娘を言いなりにしていたのすごく反発するようになった,それはあってもそれだけ長く一緒にいて母親となっていたのだからそんなひどい仕打ちをする必要はなかったと思う
ただ自分の家とはもめていたからその女性についてはわからないしかかわらなかった
だから何か言えるものではないがそれにしても問題があるにしろそれだけ世話したのに
病気になってもなってもひどいしうちをした

そして自分の家にきてもそうだった,自分の家の場合はしかたないとは思った
「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみろ」と言って血相変えて去って行ったのには驚いたいうか言葉もなかった
非情化した人間になっていた,だから「ひどい娘だわ」というのはそのことでわかった
普通人間はひどいめにあうと非情になることはわかる
その女性はまず金銭的には何不自由なく育ったのである。
別に子供のとき両親に別れたという人もいるがそうでもない,三人の母親にかわいがられたのである。だから外から見ると複雑でもかわいそうだとも見えないのである。
ただその原因は嫁いだ夫にもあったのかもしれない,その辺は長い間交際がないのでわからなくなっていた,だから自分はとやかく言える立場ではない

とにかく「ひどい娘だわ」と言って死んだ一番世話した母親の無念はわかる
ただ最初はその母親が悪いとばかり思っていた,自分の家では疎遠になっていたしその人のことがわからなくなっていたからだ
だから娘の方については悪いとは思っていなかったのである。
その娘は非情化したというより凶暴な女性になっていたのである。
とにかく人間の変わりようには驚く,全く別人になる,ただ子供の時しか知らないから何とも言えないが人間はそんなに変わるものかと思う

いづれにしろ母の実家,兄弟も姉妹も全部死んだ,そして物語となった
それはまた教訓ともなるだろう
別にママハハでも子供に愛情をそそげば実の親と変わりないものとなる
それをしないから不孝になったともなる
実の母親でも愛情がないとするとただ自分の幸福だけを思い裕福な家に子供を捨てて楽したのだから今になって子供に世話になろうとしたことが間違いだった
ただ他に世話になる人がいないなということもあった
そしてただ金を求められるだけだとなったが本人は認知症になっていたのである。
それも悲惨である。

みんな人の一生をみると最後に総決算になり不孝になっている人が多いのだ
それはそれまでの人生の決算でカルマの決算でそうなる
そもそも死ぬということが人間にとってどんな人でも悲劇なのである。
悲しみのうちに人間は死ぬとなるからだ
だから最後はどんな人でもあわれな最後となる
人間の最後はみんな悲劇なのである。
人生も物語として終わるが歴史も物語である,history-storyなのである。

人間の一生がどうなるのか?それは死んだからわかる
それも死んでからそれなりの時がすぎると自ずと解明される
それは歴史でも同じなのである。歴史となるとさらに時間がかかる
今になって明治維新が問われるのもそうである。
実家のママハハが死んだのは実際は十数年前だったと思う
二〇年くらいすぎていたかもしれない

タグ:人間の最後

2018年04月06日

人間は生まれつきではない後天的に作られる (体も知能もモラルでも後天的に作られる)


人間は生まれつきではない後天的に作られる

(体も知能もモラルでも後天的に作られる)

人間の現在は時計の振り子の今のように無になってしまうことは絶対ない
それは心にも組織にも血液にも同時に記憶されている
人間は一生の出来事をすべて、器官にもまた体液にも精神にも刻みつけ
それをいだいて生きつづけているのである。
(「人間この未知なるもの」アレキシス、カレル)

この本はいい本である。人間は何でも先天的なもので作られるものではない,もちろん素質はある,だから天才は例外としなければならない、それは普通の人はまねることができないからである。
ただ普通の人でも精進してゆけば一角のものになれるということを目指す必要がある
それは体力と知能は別々のものではない,

器官にもまた体液にも精神にも刻みつけそれをいだいて生きつづけている

その人の一生が体に刻みつけられているというのである。
実際は体すら長い人生の中で作られてゆく,生まれつきのものはある
体力がある人とない人の差も大きいのである。
自分は体力がない,そのことが学校でうまくいかないことになった
体力と知力も関係しているからそうなる

その後なんとか体力をつけようと大学で体育会で武道を一年間したことで自信がついた,何か他の人にとっては楽なようでも自分の20代は苦しかった
それで30ころすでに60歳のようになり老成していたから老人になってもその風貌が変わらないのである。
なんらか自分は二十代でそれだけエネルギーを消耗したのである。

それから30以後は三食昼寝つきというか何の苦労もしていない,本当に楽な生活だったのである。その生活がエネルギーを回復させたのである。
例えば自分は体力がないから山に登ったがその後死ぬように疲れた,それで一週間とか眠りつづけるような状態になった,登山はそれだけ体力が必要なのである。
だから登山はあまりせず自転車旅行に切り換えたのである。

人間は一生の出来事をすべて体でも記憶しているというとき人間は生まれつきもあっても何かいろいろな経験をしてその出来事の中で会得してゆく
それは知識でも本からだけは得ることができない,実感というのは海外旅行でもそうだが実際に海外に行ってその地を踏まない限り理解できないのである。
百聞一見にしかずになる,そういう体験の結果として理解を深める

それから人生の行動でもそうである。一番経験するのが30まででありその間の経験で人間の方向と基礎が定まる,だからこの時期は本当は一番大事である
だからいろいろ人間がいても素質があっても環境に恵まれても金持ちの家に生まれても
青春時代を放蕩とかに費やしたらすべてだいなしになる
それが意外と怖いことでありのちのちまでそのことが尾をひくから怖いのである。

でも青春時代となると江戸時代でも人間のしていることは同じだったなとなる
旗本の若者が放蕩するとういか女をもてあそぶことなど良く映画になっているが
それが慶応大学でも東大でも一流大学でも同じことをしていた
女性をもてあそんでいたのである。レイプしたりしていた
そしてその親は社会の有力者だから金で解決したとか言われるのもにている
ただ侍の場合はモラルが厳しい,切腹させられることがある
そこが今とは違っていたのである。
人間していることは時代が変わっても変わらないのである。

ビジネスしている人でもチャンスは一回だけだとか言うとき人間の一生でそんなにチャンスは与えられない,一回のチャンスで決まることもある,長い人生だから一回くらい失敗してもどうってことないということもないと思う
でもチャンスはそんなに与えられないのである。
一つの出来事によって人間が決められる、そういう出来事は青春時代に起こる
30までに起こる,だから若い時神を求めよとなる,求道でも若い内しなかったらできないのである。
一番血気盛んなときにしないとできない,老人が求める宗教はまた別なのである。
慰めみたいなものだからである。

いづれにしろ体でも人によって相当な差がある,うらやましいのは生まれつき体力がある人になる,その差も大きい,知力にしてもそうである。
ただそれで全部人間が決まるのかというとそうでもない
体もその一生の間の生活で作られてゆく,できあがったものとして変わらないものでもない,いくら体力あるひとでも暴飲暴食ばかりしていたらだめになる
体の弱いひとでも節制して運動しているとそれなりに激しい運動はできなくても丈夫な体になりうる

何かわからないのだがなぜ自分は今になると若く見えるというのも不思議である。
それは自転車旅行をしたりしていたからである。それが習慣になり体が弱いのだが筋肉がついたりしていたのかもしれない,確かに今になると弱ってはいる
自分はどうしても長くは生きられない体に思っていた
ではなぜここまで生きられたのか?それは無理しなかったことなのである。
無理する生活をする必要がなかった,会社で無理に働かされることなどなかったからである。

なぜ今まで日本人でも長生きできなかったのかそれは相当に体力的にも無理していたし栄養もとれなかった,結果として早く死んでいたのである。
それは環境とか栄養とか病気を直せないとか様々な要因があり長生きできなかった
今になるとこれだけ世界的人生百年とかなっているのはそうした環境が改善されたからなのである。
百歳生きた自分の母は長生きの秘訣はなんですかと聞かれたら無理をしないことですと言っていた,自分の母親は本当に家から一歩も出ないで同じことの繰り返しの生活をしていた、無理はしないのである。
人間は無理をすると体に負担になりそれで早死にすることは確かである。
ただこうして30年間楽した結果として介護とかのカルマを背負うことになって苦しんだのである。
介護はエネルギーを消耗させるなとつくづく思った,何か旅行すらしたくないとか消耗したのである。

才能でも人間はいろいろな素質と才能をもってい生まれてくるがそれを活かしきれないのないのである。まず環境がそうである。
例えば音楽でも家にピアノがあり習える環境とそうでない環境では雲泥の差があるからだ音楽を追及するには音楽的環境が必要なのである。
それがものになるならないにしろピアノが家にあり常に触れている人とそうでない人の差はその環境で決まる,才能の前に環境だったともなる
楽器一つにしても覚えるのに手間だし時間がかかりすぎるのである。
そのうちに時間が消えてゆく飛んでゆきもう覚えられないとなるのである。

自分のしているパソコンのソフトの抽象画も不思議である。自分は本当に絵の才能が全くないのである。でも絵を描ければなと思っていた
それがパソコンの抽象画でそれなりに絵が創作できるということで開眼した
もちろんこれの評価はたいしたことはないともなる
でもアメリカ人の人が中心に30人くらい見ているかもしれない
ということはそれなりの評価がある,でなければ見ないだろ
抽象画大量に生産できるから,そうしてアクセスがつづいているのである。
これができたのはまさにart(技術)に左右されていたからである。
新しい技術が生まれて自分のような絵の才能がないのでも絵を描けたとなる
それはパソコンのソフトの習熟の結果できるものであり才能とは違うからである。
ただこれもパソコンが発明されないならできないことだったのである。

体も日頃の習慣で作られる

知能も日頃の鍛練で作られる

人生も体験で変わり作られる

人間は確かに謎である。運命も謎である。でもその運命も生まれつきがすべてではない
その謎はまた人間には神が関与するということもある
いくら才能があっても資質があっても天才でもそれが活かせる環境に時代に生まれなければ活かせないのである。
つまりそういうふうに才能でも資質でもなんでも活かせるのはまれだとなる
なぜなら戦争をとってもどれだけの有為な青年が無惨に大量に死んだかでもわかる
そういうふうに時代によってどうにもならないからである。
だから戦後は才能や資質を活かせる時代になっているが団塊の世代でも貧乏からはじまっているから自分のように恵まれて生きた人はそれほどないだろう。
だから環境が生まれつきより大事だともなるのである。


2018年03月28日

権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する (なぜ歴史はくりかえすのか?)


権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する 


(なぜ歴史はくりかえすのか?)


人間の歴史をふりかえると同じようなことくりかえしている,だからカルマ論があり歴史はくりかえすとなる
そもそも人間そのものは変わらないからである。人間がもっている欲望がなくなるわけでもない,文明がいくら発達しても人間は変わらない,欲望はなくならない
とすればその欲望があるからカルマとなり同じことをくりかえすとなる
犯罪でもそうである。犯罪の動機でも男女関係などの犯罪は変わりなくある
その動機はわかりやすいのである。
人間そのものが変わらないとしたら社会でも歴史でも同じことをくりかえすことになる

人間は権力を求めるというときもそうである。権力というときいろいろあるが地位とか財力とかである。権力闘争が常にありくりかえされているしそれは凄惨なものになる
ロシア革命でも中国革命でも一千万人が粛清されたとかある
そういう権力闘争は今も変わっていない,民主主義ではその権力闘争を選挙という形で置き換えたから共産主義などと違って凄惨な争いが起きていないのである。

人間の心理をみると富を財産をもつとそれを失いたくないという力が働く
何か金というのはいくらあっても減らしたくないのである。
老人が金があっても使わないというときもういくら貯金していても増えないからである。もし高度成長時代のように利子がついていれば老人でも使う,でも利子もつかないから減るだけなので使わないともなる

人間はなんとか財産をもつと減らしたくない失いたくないという力が働く,保守的になるその財産を富を守るにはどうするのか?
そのために実は警察権力とか軍隊とかもかかわってくる,政治がかかわってくる
アメリカでは金持ちが自分たちの財産を守るために政治でロビー活動して献金するので金持ちに有利な政策にさせる,露骨なのは後進国でも桁外れの金持ちがいてその人たち私兵を雇い自分たちの財産を守る
このようにこうした大金持ちが発見したのが国家だということもある
国家は巨大な権力を利権を左右できるからだ

そしてこうした大金持ちとか権力者が恐れるのは何か?
権力や地位や財産を奪われることなのである。
そのために戦々恐々としているのである。
いつ部下にでも裏切られ権力を地位を財産を失うかもしれないと恐れる
だからこそ粛清して自分の地位の権力を維持しようとしている
権力でも地位でも財産でも守ることが権力者は第一に考える
国民のことなど貧民のことなど考慮しないのである。
だから中国では巨万の富を貯えた共産党の幹部の人達はなにかあったら外国に逃げる算段をしている,金も外国に移してなにかあったら脱出しようとしている
それは日本の金持ちでもそう考える人がいる

その人たちは何を恐れているのか?膨大な貧民がまたいてその人たちが反乱することを恐れている
その人たちに権力も地位も富も奪われることを恐れているのである。
金持ちはその財産をいかに守るかが最大の問題になるのだ
中国で頼りになるのは家族だけだというとき家族のことを第一に考える
財産を維持して家族を守ることを優先させるのである。
貧民は絶えずありその人たちの不満がいつ爆発するかわからないからだ
中国では膨大な数の暴動が起きている,小規模だからニュースにもならないが起きている不満がそれだけあるということである。
コネ社会だというとき賄賂がやらないと何もできないとかでもそうである。
中国では利権を一人じめしようとすることが多いからである。
共産党が平等を目指したのに極端な格差社会であり王朝ができているのと同じであり
これも歴史はくりかえすとなる

そしてこれだけ格差が大きいと貧民が反乱して暴動を起す,それが革命になる
その時今権力をもっている人も地位ある人も金ある人も一挙に失うのである。
そのことを一番恐れているのが権力がある財力がある人達なのである。
日本では中国やアメリカのように極端な金持ちとかはいない
まず歴史的に村社会であり狭い地域で生きていたから突出した富をもてば回りから責められる,田舎に住めばわかる
金持ちではいられない,回りの目が常にありそんな極端な金持ちは田舎に住めないのである。つまり日本はもともと平等志向が強いのである
天皇というのは王様ではない,天皇そのものが質素であり中国とかの王様とは違っているだから天皇を倒すということはしないのである。天皇は必ずしも権力者ではないからである。

革命とか社会が変わるというときこうした既得権者が一掃されることなのである。
明治維新はまたそうした革命とは違っていてもやはり侍階級がなくなり平民の時代になった,太平洋戦争でもそうでありその時の既得権者が軍人でも地主階級でも一挙にその権力と財力を失ったのである。
その結果として新しい国造りができたとなる
人間の歴史もまたそういう繰り返しだったとなる
権力や地位や財力をもてばそれを失いたくない守りになる
それで社会は停滞する,腐敗する,それで権力は腐敗する,絶対的に腐敗するとなる
政権で長期化すると腐敗してゆく,利権かしてゆき腐敗する
だから政権交代が必要として民主主義が生まれたのである。
中国にはそれがない,習近平が終身のトップに君臨する,それはまさに王様であり中国王朝なのである。それは中国では歴史でくりかえされてきたことである。

ただそれが安泰かというとまた同じように反乱が起きてくつがえされるから権力や財力をもつものは恐れる,それがくりかえされた人間の業(カルマ)である
そもそも人間は権力とか地位とか財力を求める,それは貧民でも同じである
むしろそういう虐げられた人達は余計にそうなのである。
だからそういう虐げられた人達を利用して政権の転覆をねらう
それはカルト教団などもそうである。宗教も権力とか金と離れて考えられないのである。カトリックでも権力集団化した政治化したのもそのたである。
そういうことは創価でも他のカルト宗教団体でも同じである。

ではその人たちが権力をにぎるとどうなるのか?やはり同じことをくりかえすのである。
権力や地位や財力をもつとそれを失いたくないとなる
そういう繰り返しが人間の歴史だったのである。

金持ちが天国に入るのは駱駝が針の穴を通るより難しい

つまりこの世の欲から人間は離れられないのである。心理的にも一旦富を所有したらその富を失いたくないとなり守りになる
そしてそれが奪われることを恐れるようになる
本当は別にその富を分ければいいともなるがそれもできない,権力と地位でも富でも独占したいからそれができない,それが人間であり変わらないから同じことをくりかえしているのである。
自分もたいして富でもないがそのことを経験した,格差がなくならないかぎりこういうことはなくならないのである。


2018年03月27日

fortuneとは(財産を得るのは運なのか)


fortuneとは(財産を得るのは運なのか)

運、幸運にもこと、幸運、果報、繁栄、成功、出世、運勢、(将来の)運命、富

富とか財産を得たいというのは誰でも思っている,ではどうして富が得られるのか?
毎日勤勉にこつこつ働いて貯蓄してゆくことが正道だとなるのが普通である。
金が富が棚からぼた餅のように落ちてくるなど期待するなとなる
こつこつ働いてこそ富は得られるのだ,そうすべきでありただ何もしないでなまけていて富は得られない,そう普通には言われる

一方でなぜここでfortuneが財産が運なのかとなる,運の作用で富が得られということも人間社会がはじまってからあった
例えば株式投資などでも運の作用が確かにある,あらゆることを考慮して投資できないからである。そこに思わぬリスクがありそれが予測できないのである。
いくらチャートを見ていても例外的に動くこともあるからだ
だからこれも運が関係しているのかとなる,その時代の影響もある
常に世界情勢でも動いているからその変化の中で経済が株でも影響されるからである。
そうしたものを全部をみぬいて投資することは不可能だとなるからである。
そこで運だともなってしまう。

自分は全く働いて金が得てえない,ただ親の財産があり暮らしてきただけである。
ただその暮らしは最低限のものである。旅をしたとしても金も最低しか使っていない
何か贅沢などしていない,だから自分で百万の金を使ったことがないから今でも使えないのである。そうして金を使わないものは大金が入っても使えないのである。
そういう習慣が身についているからそうなる

運というのはどこでも作用している,親の影響も大きく親によってその将来も左右される生まれた親によって大きな差が生まれるからこれも運だとなる
そういう星の下に生まれたとなり運だともなる
だから人間には宿命論が生まれる,そういう定めに生まれるカルマがありそうなったのだとなる

ただ一方で人間の運は決まっていない,どんな親に生まれたとしてもそれですべてが決まる訳でもないとかある,そして人間を作るのは生まれつきで天分で決まっているかとなればそうでもないのである。
その人生も必ずしも親によって決められるものでもない
天才とかはたしかに例外的にいたとしても人間の人生を決めるのはその人であり親でもないし環境でもないことがある
ただその人の人生がどういうふうに展開するかは本人でもわからないし他者でもわからないのである。

事業をはじめて失敗したのは時代だとか運がなかったとか言うがそもそもその事業の計画がずさんすぎたということがある,でも成功すると確信していた
失敗したら運が悪かった時代が悪かったとか言い訳するのも自分勝手だともなる
すべてがそうして運でもないし生まれつきでもないし親によって決まる訳でもない
投資でもそうである。何も知らないで銀行にまかせたのが悪いということがあったからだそれは運でもない経験もないのに銀行がプロだと思いまかせたことに失敗があった
だからそれは運ではない予測できたことだから自己責任だとなる

なんらかで人間は自己責任があることは確かである。でもまたそこには運がある
その運がわからないのである。
この辺で確かに原発事故などで被害があったがそれで大金を得た人もいた,それも運だった,一方で津浪で無惨に死んだ人もいる,それも運だったのかとなる
死ぬ人と死なない人がいたからである。
海岸に住んでいた人は運が悪かったとなるのか?
それより原発事故も運が悪かったから不可抗力だったとなるのか?
津浪は予測できなかったとしているが実際は予測していたが備えをしなかったとなると運ではない
それで東電には責任があったと賠償が請求される

ただ間一髪で助かったのは運が良かったなとか常にある,それはやはり何かしら運が関係しているのか?
つまり人間にはどうしても不可抗力なのもがあり予測できないことがある
だからこそ運で決まるともなる,様々な要素があって株が決まってくるからもうどんな人も予測できないからである。
だから運だとなってしまう,ギャンブルももうかるのも損するのも運だとなる

運がなければどんなにこつこつ努力しても金持ちにもなれないし才能ある人間にはなれないともなる,もともと天分がなければ才能はありえないともなる
もしでも人間が生んですべてが決まるとしたら努力もしなくなるだろう
どうせ努力しても無駄だとなってしまうからである。
ただ努力をしつづけるのはやはり運だけでは人生は作れない,富も幸運ももたらされないから努力するのである。なんらか精進しなければ何も成せないということはある
物作りでも日本人は精進して励むからこそ品質がいいものを作る

人間は運だけに頼っても富は得られない,また努力だけでも幸運は富も得られないことは確かである。ただ運は常に人間社会では左右していることも確かである。
なぜなら天候というのも必ず左右している,桶狭間で信長が勝ったのは天候のせいだんたとか他にもモンゴルの船が台風で沈んだのも天候のせいだったとかなると運がそこに左右したとなるからだ
でも人間は信長でも運を呼びこむということで決断したことで勝利を得たとういこともある、運が左右しても座して待っているだけでは運は開けない
果断に決断して運が開ける,人が英雄となったときは時代の影響がある
そこにも運が左右している,明治維新でもあえなく死んだ人が多い,英雄として残っているのはわずかだとなるからだ

世代的にも運不運がある,まず戦争の時に生まれたらもう最悪である。3百万人が死んだ
そうなるともう死ぬ他ない,死ぬのが人生だとなってしまう
つくづく団塊の世代などは戦争の後に生まれたから幸運だったとなる
高度成長時代も運が良かったともなる,そういう時代であり環境があり団塊の世代は恵まれていたとされる
どんなことしても時代の影響がありまねがれないからである。

正直この世では運というとき神の采配が神が運命に加担している,それは聖書の世界ではそうである。何か事を成すことは人の力ではない神が加担して介入して事が成されたとしている,とすると運を作るのは神だとなるからだ
そうなると宿命論になるがただ宿命によって人間が決まる訳ではない
努力でも精進することでもまたはこつこつ働くことでも研究することでも積み重ねることで人間が天才でも成し得ないこと成す場合もあるからだ

人間の社会が不可解だというとき不可抗力なものがあり未来がわからないのである。
それで運だとなる,でも何も求めないものは何も得られないのである。
求めなさい,さらば与えられるだろうとなる
求めるということは人間の意志であり運ではないのである。運とは何もしないで何かを得るとういことだからである。
何も求めないものは何も得られないのである。それは運ではない,求道心がないものがそもそも悟りとか信仰にいたるわけがないのである。

ただなんらか人生でも歴史でも神の介入がある,そこで歴史を解きあかすことも人間にはできないし人生にもできないのである。
いろいろ言っても将来のことが未来は神の手中にあるとなる
未来をにぎっているのは神であり人間にはないとなる
それは神が万能だからそうなっているのである。
人間はいくら科学技術を発展させても駆使してもそれで社会が良くなるということではない,現実に原発事故などがあり不孝にしたからである。
神のみが最終的に人間の運命をにぎっていることは否定できないのである。
これはいくら人間が努力しても無駄だとなる
神のみが一瞬にして世界も滅ぼすことができなるからである。
神の御意にかなわないとしたら世界を一瞬で滅ぼす,そのことは予言されているからだ



2018年03月01日

意味を求める人間 (宗教や哲学などの意味を求める時代になっている)


意味を求める人間

(宗教や哲学などの意味を求める時代になっている)

この地球とか宇宙はなぜあるのだろうか?
こういうふうにまず考えるのが人間なのである。
そこに人間の人間たる所以(ゆえん)がある
これだけ多様な生物がいて宇宙があり地球がある
しかしその意味を考える人はいない
考えて意味を与えているのが人間なのである。
神が創造主だけど意味を価値を与えることは人間なのである。

動物は腹が減った今日食べるものがあった腹は充たされた満足だとなる
それ以外なにもない,自分が生きる意味など考えないのである。
人間も最初はそうだった,狩猟するにしろ漁労で生活にしろ食べることに追われていた
そこに余暇はないのである。
「俺たちは何で生きているのか,働いているのか?」
とか考える余裕もなく食べることに追われていた。
暇ができなければ考えたりしない,意味を求めたりしないのである。

ただ人間が言葉をもつというときその言葉がすでに動物にはない高度なものである。
言葉があるというとき人間はすでに意味を求めるものとして言葉があった
言葉がロゴスが最初にあったというときそれだけ人間にとって言葉はその存在を問うものとして欠かせないものになっていた
バベルの塔の意味しているのは人間は一つの言葉を話ししていたとき神が怒って言葉が通じなくさせたことなのである。
人間が通じ合えるのは言葉によってだったのである。
何かこうして延々と一人プログで自分は書いているけど書きながら考えているのである。それがプログとかではしやすいのである。
言葉や文章は考える道具なのだとつくづく思う
もちろん言葉で話しても考えるが文章で考えることは深くなる

なぜ人間に宗教や哲学が生まれたのか?
それが大きな疑問がありその解答を得るためである。
最大の人間の問題は死だった,なぜ人間は死ぬのか?
それがどうしても今だって納得がいかないからである。
死によってすべてが終わるのかとなれば生きる意味もなくなってしまう
どうせ死ぬんだ,無になるんだ,だからどんな生き方してもいい
悪も善もないとか自暴自棄のようにもなってしまうだろ。
それだけ死はすべての人間の存在を否定するものなのである。
だからこの解決なくして人間の生きる意味は様々なことを言ってもなくなる

その解答は永遠の命を説いたキリスト教しかないともなる
ただ死後の生があるということで宗教は共通している
この世だけで生が終わらないということは死んだら天国とか地獄とかあるとなれば
そのことに恐怖して現世も生きることになる
その来世をも否定する無神論者が普通に多い
でも無神論者がどこまで真剣にそのことを考えるかとなると考えない
人間はそのことで人間でいられなくなるとか結論した人もいる
人間が存在して自分でも自然でも宇宙があるのではない,神が存在して人間があり宇宙があり自然がある
自然は自然に生成したという人がいる,それは違う,明かに人間であれ万物は目的があり神によって創造されたのである。
ただその意味とか価値は人間が求める,人間が解答を出すようにしたのである。
山でも木でも石でもそれがなどういう意味をもっているかは神は教えない
その答えを出すのは人間なのである。

今は日本では豊かになったから暇も生まれた,働かない人が膨大なのである。
一億人にいるとして65歳以上が4人に一人とかなる時代である。
その老人の大半は働かないのである。その他ニートとかも働いていない
それができたのは高度成長時代に親が金を貯えたからだともいう
自分などもそうだった,自分が働くこともしないで旅ばかりしていたというのも親がいたからである。
高度成長時代はまずがむしゃらに欲望を達成するために働いた時代である。
そういう時代は何のために働くかなど考えない,家電製品が欲しい家が欲しい車が欲しいうまいものを腹一杯食べたいしかないのである。
そういう時代は何でも意味を求める時代ではなかった
働くことにも意味など求めないのである,金になればいい欲望を達成すればいいとしかならない
でも豊かになると人は意味を何でも求める,働くことにも消費することにも何かしら意味をもとめる,中国人でも最初は物の消費だったが今は事の消費だというときもそうである何かしらその国の文化とかその国のもっている価値を見いだそうとしているのである。

老人になると人生をふりかえり自分の人生は何だったのだろう?
このように必ずその人生の意味を求めるのである。
でもそう思ってももうその人生の意味を老人になってから求めることができない
意味を求めたらこんな人生を送らなかったといっても後悔してももう人生をやり直すことができないのである。
そして金持ちにっても何か虚しいなとなっていることもある
自分が求めたのは結局金だった,でも金だけでは意味ある人生を送れなかったとかなる
ただ金にふりまわされで生きてきただけだとか後悔する
老人になるとこうしてみんな哲学的になるのである

今の時代は高度成長も終わり経済は成長しなくなった,成長を求めてももう無理である
そういう時代ももどってこない,今は宗教とか哲学とか芸術とか他でも何か意味をあるものを求める考える時代なのである。
そして価値観とかも変わってしまったのである。がつがつと欲望を充たすために働いた時代は終わった,一人一人が意味ある生を求めているのである。
老人の貧困が問題になるが老人は欲望が一般的には減退する,あまり消費しない
自分も電動自転車のマウテンバイクを欲しいと思った,それは30万以上する
でもそれに乗るエネルギーがなくなったのである。
節々が痛くなるとか疲れるとかなる,新しい道具でも何か電器製品でも使いこなせないことがある,パソコンでもそうである。
それを教えてもらいたいが量販店では物を売るだけしかしないのである。
そういうことでも需要に答えていないのである。
高齢化社会というのも時代的に違った価値観になる
つまりまだ高度成長時代の延長のような価値観が尾をひいている
その価値観を高度成長も終わり高齢化社会になり変わっているのである。
だからそれに適合した社会にも経済にも働き方にもなる必要がある

とにかくこうして延々と自分一人で書いているのも書きながら考えるのにいいからであるここに対話がないのだけど思索を深めているのである。
要するに人間はいくら他者がいていろいろ言っても結論は自分で出すほかないのである。投資でもなんでも結論をだして選択するのは自分しかないのである。
それを誰かの言う通りにしていたら自主性と独立はなくなるからだ
それでカルト教団とかに入り奴隷にされたりいろいろ洗脳されて投資させられたり
原発を造らされたりして甚大な被害を受けるからだ





2018年02月20日

高度成長グローバル資本主義の終わり (宗教,哲学,芸術などの内面化意味を求める社会に)


高度成長グローバル資本主義の終わり

(宗教,哲学,芸術などの内面化意味を求める社会に)


小さな庭

沈黙の深く
一人一人の
意味あるものと
顕れるべしかな
一人一人の声を聞き
雑多なる声は
騒音語となり消えぬ
小さな庭の
一つ一つの石は
確かに組まれて
意味を深める
人は意味なき世界に
生きることあたわず
小さなる世界に
その意味を求め安しも
経済のための社会にあらず
社会のための経済
その小さな世界に具現化す
グローバル経済には意味は求めがたし
ただ経済のため金のために翻弄されるだけ

今の時代は何なのか?それは実際は今の人にはわからないのである,歴史は一時代が終わったとき冷静に見れるし評価も定まってゆく,人間も生きている内は評価しにくいのである。
今の時代は何か?それがしきりに言われるようになったのが中世にもどるということである。
ただ中世とは何かというとこれまた見方がありいろいろである
日本の中世はかえって動乱の時代だったからヨーロッパの中世とは違う
ヨーロッパの中世はグローバル社会とはまるで違った閉鎖された江戸時代のような世界である。だから暗黒社会だとも言われる

ではなぜ中世なのか?それは資本主義がグローバルに展開した時代が終わったとういことである。グローバル資本主義がありえたのは投資先が常にあって成り立っていたのであるそれがなくなったとき銀行に金をあづけても利子がつかない,むしろ金をあづけると事務費とかはられることになる
そのことが何か資本主義の終焉を象徴していたのである。

日本は戦後焼け野原から何もない世界から急速に高度成長したのである。
中国とにている,中国の二十年前は再貧困国のようになっていた
それが二十年すぎたら新幹線のようなものも走るしとか日本の高度成長と同じだったのである。世界も十年単位とか20ねん単位急速に変わるものだと思った
だからその変わりように追いつけなくなるのである。
人生もまた70年単位にして急速に変化してその変化に対応できなくなる
現代は変化のスピードが早いのである。

日本が敗戦になったのはこの変化についていけないとういことがあった
戦艦大和のような船の時代は終わり飛行機の時代になったときそれは無用化されて海の藻屑と消えたのである。
20世紀は科学技術の時代である。科学技術が社会を席巻した時代である。
それと高度成長とグローバル資本主義の時代だった
そしてもう日本ではインフラ整備も終わりかえって道路でも橋でもトンネルでも老朽化して修復する時代である。また無用な道路なども作りすぎた時代にもなった
高度成長が終わり長く経済が停滞するしグローバル資本主義でも投資先がなく金融資本主義になった
金融資本主義とは本来の資本主義とは違う,ただ金を右から左とながしてし利ざやを稼ぐのであり投資しているのではないのである。
投資する先がなくなっていたのである。
地銀なども地元の企業に投資して育てるという役割があったがそれないから証券会社の支店化して投資信託とかで利ざやをかせぐだけの商売である
銀行の役割はもうなくなり消えるという時代になっていた

こういう時代は何なのか?
物理的空間的拡大の時代であったのも現代である。それは交通面で飛行機とか車社会とかなり人間は外へ外へ向かうようになった
広域社会化でありグローバル化社会である。人も物も自由に行き来することが可能になったからである。
ただそのグローバル化も移民問題などで世界的にゆきづまった
それがアメリカでもそうでありグローバル化は失敗してもうこれ以上できないとなった
資本主義も投資先がなく銀行に利子がつかないようにもうゆきづまり終わるとされているビットコインバブルなどもそれを象徴している
資本主義は必ずバブル化して破綻しやすいからである。

そして次なる時代は何なのか?ITとかAI,通信時代になった,この特徴は物の流通ではない,物理的リアル空間の拡大ではない,その中心が頭脳に左右するものであり心の世界に向かう,内面世界に向かうものである。
だから今までも物理的物の豊かさを目指すものではないのである。
その技術は精神に影響してくるものである。
そもそもインターネットを介して物の流通があってもそれよりそこで人間が情報をやりとりしていることが主だとするとそれは情報も精神の世界なのである。
膨大な情報のやりとり交通の世界になったのである。

インターネットでもその発信方法が変わる,最近youtubeを見ているとこれは学習能力がある,テレビとは違うメデアである。それも誰でも簡単にテレビのように放送できることが強みである。それでユーチュバーが生まれたのもわかる
ただそのユーチュバーが稼いでいるのはテレビと同じ手法である。
何か刺激的な映像を出して視聴率をとるのである。
でもその他にも多様であり学べるものがある
インターネットのメデアは一方的でなく対話的な面がある
だから引用して議論しやすいのである。本とも違ったメデアなのである。
どちらかというと広く浅い知識を得るメデアである。
現代は多様な複雑なの社会だから広く浅い知識も必要なのである。
それには要点をついたyoutubeが向いているなと最近思った

ただ現代はこうしてインターネットとか世界的につながるとしてもそのアイディンティティを得る場はどこなのか,それはやはりリアルに自然とか社会と結びついている場なのである。
小さな庭というときそれが拡大したのが故郷かなる,リアルな自然があり村があり町があり市がある所である
そこで意味を探求して進化させるのが人間的なのである。
だから像で考えよというときその像が都会にはない,自然がないから像として考えられないのである。毎日高層ビルを見上げていかなる像が浮かぶのかとなる
ヨーロッパでは都市が歴史的に作られそこが一つの世界となり世界観を作る
地方都市が充実しているからミクロコスモスとなり文化が興隆した
フィレンツでも4万くらいの人口だった,小都市にすぎなかったのである。
ヨーロッパではそうした小都市が歴史的に作れらて文化が育まれたのである。
日本にはそうした小都市は歴史的に少ない,城下町は都市とは違うからである。
だからこれから地方の小都市の充実がかえって望まれている
東京一極集中は文化的に不毛なのである。

自分は田舎で石とか樹とか森とか山とかのアイディンティティ化することをしてきた
そこに意味を求めてきた,それを短歌や詩にしたりした,それは意味を求めていたのである。自然の意味を求めていたのである。
それは科学技術とかとは違う芸術とか哲学とか宗教の分野にもなる
今の時代は経済一辺倒の世界が収束して宗教,哲学,芸術とか内面的な精神的価値を求める時代になる
グローバル経済社会ではとても意味など求められないのである。
それは非人間的な世界であり株の世界でも世界の賭博場のようにしている
ただ人間はそこで経済に金にふりまわされているだけなのである。
そしてそこでもうけるのは極一部の人しかなく後は世界的格差社会になったのである。

人間的な世界を求めるとき小さな庭のように狭い世界でないと一つの区切られた世界でないとできない,例えば会津は万葉時代から一つの国として意識されていたからそこで意味を深めるアイディンティティ化しやすいのである。
今の県は廃藩置県後にできたのもであり風土とか地理を歴史を考慮していないから一体感がないのである。
例えは北海道は広いのだけど原始性が残っていて一つの国と見れる
それで榎本たけようが蝦夷共和国を目指したのが理解できるのである。
北海道は自然でも原始性が残りそこに日本では別個の一つの世界を作り出すことができると明治維新の時も思われていたのである。
北海道はだから今でも蝦夷共和国を目指し得るのである。

結局戦後焼け野原から高度成長時代へと発展したが日本は高齢化したように老人になると過去をふりかえるようになる,そういう時代になった
過去をふりかえるということは老人ならどんな人でもしている,そしてその意味を求めるようになる,俺の人生はこうだったとあれも失敗だったとか悔いるのである。
そういう反省の時代でありそこから若い人も学ぶものがある
若い人だけで議論していると何か深いものの見方ができないのである。

いづれにしろ今の時代はもうグローバル経済とか金だけに経済だけに翻弄される時代は終わったという認識をもつべきである。
だから株とか投資とかで期待してそうした狂騒の世界に巻き込まれるべきではない
それは自分も最後にしたがもうやめた,結局投資信託でも手数料をとられだけであり銀行の最後のあがきとしてすすめているだけなのである。
銀行がなくなるということがまさにグローバル経済の終焉の時代を告げていたのである。ただすぐにはグローバル経済とか資本主義はなくならない,ただ傾向としてはもうそういう経済だけの世界は終焉に向かっているのである。
そういう時代認識をしないと何かまた過去の幻影にふりまわされるのである。
時代というのは社会でも常に変化しているけどその変化に対応できないのである。

とにかく小さな世界だと意味を求めやすい,禅宗だとその小さな庭に一つの宇宙をも世界を見たのと同じである。大きな世界になると社会でも自然でも意味づけることがむずかしくなるからだ,そこに自然を庭化する日本的なものがあるといえばそうである。
ただ世界的にも意味を求める時代は宗教は哲学,芸術などの時代になるのである。
インターネットとかはそういう精神世界の追及に向いているものがある
いろいろな人からの情報とか知識を得やすいからである。また対話的にもなっているからである。ただ草創期だと日常のささいなことの対話になるがだんだん成熟すると深いものの見方をする人などもインターネットに現れてきている
そして死んだ人が「心の青雲」のプログの著者の都築詠一氏だったのである。
なぜならその人はインターネットでプログを書いただけで本には出ていないからである。そういう人も出てきたのだと驚いたのである。
インターネットで発表することは発信する方にすると楽なのである
publishとはpublicであり公表するということであり公(おおやけ)にすることである。
今なら本は簡単に安く作れる,でも公表するとなると簡単にはできない
その公表するということでインターネットでは気軽なのである。
そして人間は書きながら文章で思考することがあるなと思った
文章を書くことで思考を深めている,思考を具体化しているのである。
だから自分はこうして毎日書いているのはそういうことをインターネットではしやすいからなのである。だから現代はインターネットでも文章の時代だともなる
自分はしゃべることは苦手だから文章を書く方がいいとなりプログなどは向いているのである。
文章の方が深いものを探求できる,しゃべるだけではできない,ただ広く浅くなる知識や情報だとしゃべるyoutubeの放送が向いているなと思った




2018年02月18日

人間の歴史は挫折の歴史だった (個人的にも挫折があり未来がある)


 人間の歴史は挫折の歴史だった

 (個人的にも挫折があり未来がある)


大鳥の飛翔の挫折

大鳥は
果てなき大空へ
その真澄みの空に
飛びたとうとする
大いなる志
大いなる野望
大いなる希望
大地に海に果てなし
大鳥よ
その翼を張れ
大鳥の志の良しも
そはストレートに飛び立ちぬ
あとをふりかえず飛び立てり
しかし大鳥のその半ば墜ちぬ
その志の良しも悲し
大鳥は墜ちぬ
されど大鳥は翔けぬ
かなたへと遠く高く
例え墜ちしも
大鳥はかなたに向かい
希望の地に向かい
幻となり翔りゆく
大いなる挫折
そは挫折にあらじ
次なる未来に向かう
次なる未来を作るもの
大いなる希望の飛翔なりしも
挫折を恐れざれ
高き大いなる志をもて
その実る必ず来たらむ


人間の歴史をふりかえるとき必ず挫折がある,すんなりと何でもうまくいかないのであるそれはあらゆる分野でそうなっている,政治でも経済でも科学でも技術分野でもあらゆる分野でそうである。
科学技術関係でも神話にあるようにイカロスが墜落がある

蝋で固めた翼によって自由自在に飛翔する能力を得るが、太陽に接近し過ぎたことで蝋が溶けて翼がなくなり、墜落して死を迎えた。

これも技術的なものの人間の奢りとして語られる,科学技術でもそれが発明され開発される過程で必ず挫折がある,そういう実験がつづけられて科学技術は発展してきた
常に挫折があり越えられない壁があり人間はそれに挑戦し続けてきたのである。
この神話が科学技術の奢りに対しての警告だったというのもわかる
最近では小保方が万能細胞を発明したとか話題になったがこれも実際にはなく研究の挫折だった,そういうことは他にもいろいろある,どこかで挫折してゆく
それは人間が万能ではないからでてある。
神は全能であり不可能なことはない,人間の力は神に及ばないからそうなる

政治的にも常に挫折がある,信長でも最期は本能寺の乱で野望は挫折したし秀吉でも朝鮮半島の征服は挫折した,政治でも挫折の歴史なのである。
二本の戦争でも敗戦してその野望は挫折したのである。
何かを目指しても必ず挫折する,そういうことは歴史にいくらでもある
そもそもいろいろ文明があってもその文明も最後は挫折する
例え長く栄えてもつづいてもいつかは挫折して衰退して終わる
エジプト文明でもローマ帝国でもマヤ文明でも挫折してその繁栄は終わる
挫折は宿命としてある,挫折は人間の成すことに避けられないのである。

津浪の被害でも原発事故でも大いなる挫折だった,原発神話が作られたがそれも事故で一挙に崩壊した,挫折したのである。
反れば文明の挫折にも匹敵していたのである
人間の成すことは挫折がつきものなのである。個人的にそうである。
例えば事業を起す人で成功している人は二〇人に一人なのである。
これからみればいかに事業に失敗した人がどれだけ多いかわかる
それは自分も実際にそういう人に接しているからわかった
事業を起こして成功している人はまれなのである。

では挫折したから何をしても無駄なのかとなる,個人的にも人間の成すこと挫折が多いから一層何もしない方がいいともなるからだ
ここで取り上げるのは北海道開墾に挑んで挫折した一人の詩人の猪狩満直である。
四〇歳くらいで北海道の開墾に挑んで死んだのである。
だから常に戦いだ,戦いだとして呪って死んだのである。

火のような呪いがある

そういって無念に死んだのである。そういう無念に死んだ人もまた人間の歴史では多い
なぜなら人間はそもそも挫折が宿命づけられているからである。
人間とは挫折するものだという宿命である。みんななんでもすんなりと成功などしないのである。キリスト自体が成功はしていない,十字架で終わって挫折して死んだとなる
偉人がいたとしてもみんな成功して終わるとは限らない,必ず挫折がある
ただ挫折があるとしてもではその人生とか科学の研究でも政治上のことでも無駄だったのかとなるとそうはならない
人間はやはり困難に挑戦して新たな未来を開いてゆく,それが人間の歴史だったからである。大航海時代でもやはり海を渡ることは最大の難関でありそれが成功したがそれで沈没したり挫折したものは多いのである。
みんなが挑んでも成功するわけではないのである。

人間はそもそもなぜ挫折するのかというと人間がみな死ぬということは挫折なのである。だから挫折が宿命づけられている,何をしようと人間は最後は死ぬのだから挫折なのである。そしてなかなか仕事でも完成できずに死ぬ
特に寿命が短い時は芸術家でも十分な成果は上げられずに死ぬ,啄木も病気で挫折したりと挫折が多いのである。
人間は百歳まで生きても最後は死ぬから挫折なのである。何かやり残したことがそれでもあるのが人間である。人間に限界があり挫折するのである。

だから挫折しても挫折がすべて無駄ととはならない
それより何を目指して何を残したのかが問題になる
それは挫折したからといってそれですべて無意味だとはならないからだ
かえって成功して失敗したともなるからだ
原発などは最初成功していて原発と共に未来ある街となっていた
その成功がかえって事故で挫折して無に帰したのである。

猪狩満直は北海道の開拓に挑んで失敗した,病気で挫折してもその目指したこと残したものがあり後世に伝えるものがあった
挫折したからといってそれで終わっていなかった
一方でこの辺では原発で成功したがあとで挫折して悲惨な結果になったのである。

こう考えると人間は何を目指すかが大事である,志が大事だとなる,動機も大事だとなる仕事でもその人の目指しているのは何なのか?それが問われる
ただ成功すればいいもうければいいというときそれが成功したとしても成功と言えるのかとなる,でも挫折しても失敗しても目指すものが間違っていなければそのことは時間がたって見直されることがある
確かにみんな成功を目指しているし成功しないものは認められない
でもその成功したことが悪いものとして成功することもある
カルト宗教団体などは大成功したがその成功したことが社会にとって悪であり害を及ぼすものにもなる,だから社会にとって成功が失敗だったということもある
事業をするにも何を目指しているのか志は何なのかということが問題になる
その人は事業に失敗したのは志もなにもない,ただ自分が頭がいい,有能だからそれを示したいためにまたはもうけるたげに事業を起こしたのである。
それが挫折したがもともと志も何もないのである。
だから失敗しても挫折してもそれだけのことだとなってしまうのである。
もしそこに何か高い志があればそうはなっていないのである。
例え挫折しても失敗してもそうである。

「心に青雲」のプログの著者都築詠一氏のように志を高くもてということは言える
この人の志は何であったのか?ともかく志をもっていてプログで語り死んだのである。
ここでもやはり挫折したのである。もっと語れることがあったが中途で病気で挫折したのである。
こういうことは人間である限りありふれていることなのだ
なぜなら人間の命は有限であり寿命があるのだからその内に何でもできないからである。だから大芸術家でもみんな未完に終わるのである。
何かもっと成し得たが成し得ないということで終わっているのだ
それが人間の宿命なのである。完全に成功しえるのは全能の神しかえないのである。
人間は挫折して失敗することに定められているのだ
だから問題は挫折することでも失敗することでもないのである。

猪狩満直は北海道に開墾に挑み挫折して失敗して死んだけど後世に伝えるものがあった
それを次の世代の人はくみとる必要がある
農業しか仕事がない時代であった,でもなぜ今農業が無視されているのか?
原発があった周辺でもそうである。それは全国でそうなったのが時代である。
だからこそ原発が建てられたのである。
そこで確かに成功したのである。収入も多くなったが結果的には故郷に住めなくなったのである。
農業などで暮らしていけるか,農業など誰もやりたくないと金にならないとしていたのである。だから農業をそれほど軽視することが拒否することがそもそも間違っていたのかともなる,みんな現代の贅沢を享受したいとなりそうなった
でもそこに落とし穴があった,原発の危険性はその甘い誘惑に無視されたのである。

ただ人間は誰でも楽をしたいのである。求めて苦しむ人はいないのである。
猪狩満直でも三野混沌でもそうである。それは時代で強いられたのである。
一方で山尾三省は求めて苦難に生きて六二歳で死に妻はもっと早く死んだのである。
そういうことは何か不自然に見えるのはやはり人間は強いられてしか苦しまないからである。みんな楽な道を選ぶのである。
なぜこの辺で避難区域になったところに若い人でも脱出したのかというと楽な方を求めて去ったのである。それは時代であり誰も強いられなければ苦しむのは嫌だからである。
楽な道があればそっちの方を人間は選ぶからである。
ただ楽なことだけを求めて未来が開けるのかというとそれはわからない
長い目で見ればわからない,そうして苦しんだ人は未来を開き後世の人から見直されてその価値を高めるかもしれない,一方で楽な道を選んだ人は後世の人からどう見られるのかそれは時代が変わると価値が変わるしその人生は評価されないとなる
三野混沌などはあれだけ苦しんで来てきたのにさらに最後に困難な道を行けと遺言している
たいだいこれ異常御免だとなる,猪狩満直の場合は若くて死んだから呪詛になっていたのである。

それで人間はいろいろ仕事していても未来に通じているのか?
後世の人に評価されるのか?
そういう視点から仕事しているのかとなると目前の利益だけを求めている人が多いのである。それは今の時点で成果となり利益となり評価されるが未来に通じているのか?
それはわからないのである。かえって成功して失敗していることがあるのだ
それは成功しているが故に失敗しているともなる
だから未来を見据えて仕事することが肝要にもなるが若い人にはそれが見えないのであるただがむしゃらに成果を上げる利益を上げることに費やされるのである。



タグ:挫折の人生

2018年02月12日

人間は有能だから成功するのか? (有能な人間が危険にもなる-文明は有能な集団により作られたが滅びる)


人間は有能だから成功するのか?

(有能な人間が危険にもなる-文明は有能な集団により作られたが滅びる)

人間の社会は謎である。なぜ老子とかの思想家が生まれたのか?
文明社会のアンチテーゼとして生まれた
人間が道具をもつこと自体否定した
なぜなら人間は道具をもてば道具に使われる
それも今になると人間は機械に使われるというときそうなっている
道具にしか過ぎないものが道具に使われている

人間はまた有能になることを求めている,それも荘子になると否定している
無用の大木を称賛しているのはそのためである。
人材とか材は森全体ではなく木をその一部を材料として切り取ることである。
そういう意味があるとき人間は今や無数の材として一本の木であるものが森であるものが材として切り取られて使われる,部品化して使われているともなる

そして足の悪い人や障害者が戦争に行かずにすんだがかえって丈夫な人は戦争に兵隊としてとられて死んだ,障害をもった人は生き残った
それは日本の戦争でも言える,甲種合格とか体の丈夫な人は率先して兵隊としてとられ死んだ,それでわざわざ病気になり戦争に行くことをまねそがれた人もいる
それは非国民なのだけど戦争が終わると日本人はほとんど戦争を否定するようになった
その価値を認めなくなったからそういう人を非国民とも言わなくなったのである。
むしろ戦争した人が悪いとされる方が多かったのである。
だから別に戦争に病気を装い行かなかった人を今では責めないのである。

そもそも戦争になると戦争に有能な人が偉いとなる,戦争に有能ということは人殺しが平気でできる人間でもある,冷酷な人間が戦争に適しているし有能なのである。
だから有能だということは一面怖いことにもなる
何かブラック会社でも営業で成績をあげるのは有能だとなるがそういう人は果たして推薦できる人間なのか?あくどいやり方で成績をあげている人もいるかもしれないからだ
でもノルマを課せられているから営業成績をあげる人が有能だとされる
それは社会にとってもいいものでもない場合がある
銀行でも投資信託を強引にすすめて成績をあげれば銀行では有能な人としてみる
でもそれをすすめられて損している人も多いから社会にとってはいいとはならないのである。

人間が有能だということは一面危険なことなのである。
科学者がそうである。科学者は今では一番有能な人でありエリートであり支配者にもなる政治家とか他は今は低く見られるが科学者は聖職者のように今では見ているからだ
でも有能だということは歴史をふりかえっても強力な殺戮兵器を産み出すことにもなる
それは技術者とか科学者のすることである。
そして現代の核に結びつく結果となった,核兵器を発明したのはアイシュタインとか科学者であり最高の知性をもつ有能な人だったとなるからである。
原発を作ったのもそうした有能な優秀な科学技術集団だったともなる
だから有能だということは一面危険なのである。

人間の歴史をふりかえるとなぜ宗教が生まれたのか?
宗教とは何であったのか?そもそもなぜ東西の宗教,キリスト教でも仏教でも聖職者は僧侶でも出家して社会から離れ社会的には無能集団のように暮らしたのか?
生産活動をしない集団になった,乞食が一つの行となる
生産活動をせず布施といえば乞食ではない,僧職につくものは食料を無料で与えられるのである。社会的に見れば何の生産活動もしないのだから否定されるはずなのである。
そういう人が社会的に偉いとどうしてなったのか?
今では僧侶とかはさげすまされている,牧師だってそうである。
なんの生産活動もしない無能だとされている,宗教は世俗的価値を否定するが故にそうなったのである。

人間がそもそも有能だということは何なのか?
それ自体がわからないのである。
だから宗教ではキリスト教でも仏教でも人間が有能であることを疑問をもち否定している人間が有能であるとうことは神から見れば奢りになるからである。
その奢り故に人間の成したことは罰せられる,道具を作ることは人間として優秀なことであり有能だからできたことだがその道具によって核のように人類自体が滅亡するとまでなる

要するに道具といってもそれは最初は石器である,でもその石器でも自然界ではありえないものであり強力なものなのである。それで動物と対抗できたからである。
石の斧でも槍でも動物を殺せた,それに動物は負けたのである。
だからどれほどそうした最低の道具でも強力なものであったか知るべきである。
ヨーロッパとか西の石器は最初から大きかった,ということは歴史の出発点からして西洋は殺傷能力を高いものを作っていたともなる,兵器も西洋では発達したのである。大砲が城の時代を終わらせたというのもそうである,鉄砲でもそうである。
それが石器が鉄となり現代の核兵器までになったのである。
石器でも強力なものでありそれが核兵器までになる,そして人類はその有能さの故に滅びるともなる


一身上のことになるが自分の姉は従軍看護婦になって4年間シンガポールで働いた
戦前は看護婦になること自体相当優秀でないとなれない,それで東京まで行って試験に受かりなることができた,体も健康優良児のようであり頭も太っていたが切れていた
なんでもパキパキとする行動的な女性であった
だからいつも感心して自分はいろいろ劣っているから見ていたのである
でも最後は認知症になり無惨に死んだ,最後の言葉は「自分は優秀だった」ということを今の際まで言って死んだのである。
何か優秀なことにこだわっていたのである。事実優秀だからこそそういうことができたことは確かである。この家を作ったということも確かである。
でも最後は無能化されて死んだということがショックだった

一方で馬鹿にしていた人は正直で情の厚い親切な人だったのである。
その人は姉が認知症になっても受け入れてくれた
他の人は誰も来なくなったし嫌がったその人だけは受け入れてくれたのである。
それを見たとき何が人間にとって優秀なのかもわからなちなったのである。
優秀だと見られた人が無能化されて愚かな者だと見えた人が実は優秀だったともなる
それは何か能力かあるとかないとかではない,人間としてかえってその愚かに見えたものが人間として評価されるものだったともなる

だからこうして人間の評価もわからないのである。それは人間の歴史でも有能な人間が必ずしも成功するとは限らない,いくら有能でも時代が違うとその有能さも埋もれたりして発揮されないのである。天才でもその天才が時代によって発揮されないのである。
事業を起こして成功する人が必ずしも有能な人ではない,知っている人が事業に失敗したのは理系であり技術者でも会社を経営するとなると様々な別な能力が必要になるから失敗した,その時代の影響もある
誰も今銀行がなくなるなど思いもよらなかったからである。
事業が成功するということはいろいな条件が幸運に恵まれることも必要なのだろう。
いづれにしろいくら有能でも成功するとは限らないのである。

文明とは優秀な有能な集団が実際は作ったともなる,マヤ文明でも技能集団は支配階級になった,それは高度な知能集団だったのである。
でも最後は太陽の力が弱るとか人間が人身御供にされた
何かそうして太陽の力がなくなり滅びる日にちまで特定してカルト宗教のようになり森に放置されて埋もれたのである。
何かそれは原発とにているのだ,現代最高の有能な科学技術集団が原発を作った
それは今やその回りには人が住まない地域となり放置されて荒野化して森林に埋もれる
チェルノブエリではそこは野生が復活してノロジカとか狼まで住むようになったのとにている
人間の知性が有能さが一挙に崩壊したのである。つまり無能化されたのである。

結局人間は有能だとか優秀だとかいうけどそういうことを決めるのは全能の神しかない
人間がいくら有能でも文明を作ったとしてもそれも最後は限界にきて放置され森に埋もれる,人間は無能化されるのである。
人間がすでに有能だというとき何かそこに奢りがありそれが砕かれるのである。高きものは卑(ひく)くされ卑くいものが高くされるというのはそのことである。
そういう価値判断とか評価は人間だけでは決められないのである。

タグ:有能と無能

2018年02月07日

時代時代の苦しみを人は負う (70年周期で時代が大きく変わる)


時代時代の苦しみを人は負う

(70年周期で時代が大きく変わる)

時代が変わる時人は苦しみ負う
江戸時代には飢饉の苦しみを負う
越中などの移民が苦労して働く
明治になると侍の世は終わり
北海道に開拓に入る農民となり
いろいろな職につく
慣れない職につく
侍は苦しみを負った
戦前は貧乏で苦しむ
女性は紡績工場で過酷な労働に苦しむ
戦争の時は戦争の苦しみを負った
多くの人が戦場で苦しみ死んだ
戦争が終わり引揚者は
不便な所に開墾に入った
その苦しみを負った
団塊の世代でも中卒で集団就職
その人たちは苦しみを負った
常に時代の苦しみを負い
時代が変わると苦しみを負わされる
それが人間の歴史だ
それぞれの時代を生きるのは宿命
今また大きく時代が変わる
原発事故で避難して苦しみを負う
人は生きる限り苦しみを負う
時代時代の苦しみを負う
そうして積み重ねられたのが歴史
国々の歴史も苦しみの歴史
今の時代は苦しみつ作られてきた
人間は苦しみから逃れることができない
時代時代に苦しみがある
苦しみを逃れる者は後の世に残す物がない
苦しみによって作られてきたものだから
それが尊いのだ
楽した親を金持ちの親を直接子供は世話しない
金で他人が世話する老人ホームにあづける
苦労した親を見ていたら世話する
苦労して育てたから親がありがたいと・・・
そこに育てられた価値が生まれる
苦しみを負うことによって価値は生まれる
ただ血のつながりの父母は父母ではない
苦しみつつ作られたものを残したもの
それが父母であり先祖となる
苦しみが人間を作り歴史を作る
だから苦しみから逃れてはいけない
そうすると後世に残す物がない
そういう人は先祖として尊ばれないだろう
苦しむ者よ,その人は尊い
苦しみ耐える者が後の世を作る

相馬藩だと越中からなどの移民があり飢饉から立ち直れた,その時越中などの移民は相当に苦しんだ,土地でもいい土地は与えられなかったのである。それで加賀泣きとかが伝えられている,この土地で新参者として苦しんだのである。
その苦しみと涙があって相馬藩は飢饉で三分の一に人口が減ったが立ち直ったのである。そしてこの地の先祖となったのである。

時代が自然にそれぞれの時代があるのか?時代は例えば明治時代だと外からの圧力で開国して明治維新になったがそれも自然と生まれた時代ではない
そこで時代を作った人達がいた,それはその時代を生きた若者だったのである。
そうした混乱と変革の時代を生きて命を落した人達がいる,でもそういう人達が新しい時代を作ったのである,その人たちは時代の犠牲だったとなる
江戸時代から明治時代に変わる時産みの苦しみがあって犠牲になった

明治になったとき侍は特権を失った,それで北海道に開墾に入った,伊達藩などでも侍が一体となり伊達町を築いたのである。そこに苦労があったがその時苦しみ時代を築いたのである。つまり時代は自然と生まれるのではない,人の苦労によって作られるのである。
ともかく歴史を見れば必ず時代の苦しみがある,戦国時代なら戦争の苦しみがあったし太平洋戦争でも戦争の苦しみがあった,常に時代の苦しみがある
でもその苦しみ故に新しい時代が作られる,時代は自然発生的に生まれていないのである時代はその時々時代に生きる人達が作り上げたものなのである。
戦後の引揚者もまたいたるところにいて不便な所に入り苦労したのである。
そういう場所が本当にいたるところにある,この辺では津島とかでもそうだし飯館村でもそうだし鹿島の小池にも引揚者が働く場がなくて開墾に入ったのである。
戦後そういう苦しみを負ったのである。

団塊の世代は評判悪い,楽した世代だというとき評判が悪いのはそのためなのである。
何か苦しんで作り出したものがない,楽した世代だと常に言われるからである。
そういう時代に生まれたのもまた時代だったとなる

いづれにしろこれから生きる人はどうなるのか?
資本主義が終わるとか銀行がなくなるとか激変の時代になる
でもこれからの時代もまたこれから生きる人々が作るのである
時代は自然に生まれるのではない,次に生きるものが作り上げるのである。
それが人間の歴史でありただ何もしないで新しい時代は生まれないのである。
確かに団塊の世代は楽だった,これからは激変して日本は苦しくなる
それぞれの場でも苦しくなる,苦しみを背負うことになる
それは次の時代を作るための苦しみだとなる
そういうことは歴史で常にあったからである。

歴史は決められたものではない,ふりかえれば歴史は固定化している,過去をふりかえればそうなる,でも歴史は固定していない,未来は固定していない,絶えず作り上げられるものとしてあるから固定していない,次代が未来がわからないのは過去と違って固定していないからである,それと今から生きる人達が作り上げるものだから固定しないしわからないのである。

津浪や原発事故でもそうである,この辺は苦しみを背負わされたのである。
ただそれを担うのを嫌い故郷は捨てられたともなる
そこには確かにもう住みたくないというのはわかる
でも何かそういう苦しみの場であってもやはりそれを担うことがあれば未来が開かれるかもしれない,もうただ故郷を捨てて他で住めばいいとなった
でもそこで苦しみを背負い生きればやはり未来が開かれるかもしれない
そういうことは過去にも歴史としてあったしそれが歴史だったからである。
そして故郷の未来はなくなったともなる
子供がいないとか若い人がいないということ自体がすでにその地域の未来がくなっているのだ,老人だけではもう死ぬだけであり何もできないからである。

ただ未来という時,それはこの世だけではない,来世こそ未来なのである
そこに神の約束された理想世界がある,その未来こそ本当の未来である。
だから若い時に求道してその未来を確信することが大事なのである。
その未来なくしてこの世をいくら変えようとしても絶望になるのである。
未来は神によって約束されている,そういう確信のもとに生きない限りこの世を克服できない,結局絶望挫折に終わる

未来はどこにあるのか?例えばカルト教団にいるような人はもう未来がないしすでにこの世の悪に染まったような人も未来はない,でもこの世がそうした悪に満ちているとき悪に染まる,やがてそれを感じなくなる,これはおかしいのじゃないかと思ってもそういう場で惰性でいたりして悪に染まってゆく
その時決然としてそういう場から離脱することが必要になる
そうしないとそこで未来はないとなる
若い時にそうした方向が決まるから大事だとなる
ただここの事情は違ってくる,同じ事情の人はいない,だから人の真似をしてもだめである。境遇とかがみんな違っているからその運命も違ってくるのである。
そういう時,お前は楽だったといえば楽だったがまたそれも宿命だったのである。
その楽があって自分は体力がなのにこれまで生きてこられた,そうでなかった死んでいたのである。過酷な生活を強いられて死んだ人が過去に多いからである。
その楽なことから自分の病気とか介護で苦しんだことを書いてきたのである。
人間は楽に終わることはないのである。どこかで苦しむようになっている
それが人生なのである。金持ちの家に生まれたとしても一生楽に終わることはないのである

いづれにしろ明治維新から太平洋戦争から戦後70年で大きく時代が変わる
津浪原発はそういう時代の変革の時に起きたのである。
そしてこれから若い人は相当に苦しむ,日本の経済は衰退してゆく,もう東南アジアであれ中国であれ物価もさほど変わらなくなっている
中国など10数年前とまるで変わってしまった,物価が10倍差があったが今は日本とさほど変わらないのである。タイでも富裕層がいて日本人より金持ちの人が多くなっているのだ日本人の底辺層の人達の方が貧乏になっている時代なのである。
これも時代であり逃れようがない,そして時代の産みの苦しみを担わされるのである。

2018年01月27日

青年に与える詩 (未来を担う若者よ(詩)


青年に与える詩

(未来を担う若者よ(詩)

若者は竹のように真っ直ぐに伸び
柔軟に風にしなりゆれて伸びる
青々と竹は空に伸びようとしている
老木はその地に深く根を張り
その土地のことを語り朽ちようとしている
様々なものが交じり生きる
子供も若者も老いも老若男女が
若者よ,素直に伸びよこの大地に
その未来を築くは若者なり
汝のすることを省みて正せ
その成すことの良しや
ただ唯々諾々と上の者に従うや
欲にまみれ世知にたけた保身者に
時に雷雲となり電光となり
この世に睥睨する者を震撼ならしめよ
若き力は未来に向かって噴出する
老人は過去を語り死んでゆく
若者はこの地の未来をにない生きる
しかしたちまち若者は老いる
若者よ,悔いなきを生きよ
汝らが未来を築く者にして
今上にあるものにあらじ
この地をいつくしめ
汝らが生きる地をいつくしめ
金のみならず誠と美のある地
今苦しくも若者は未来を担う
その苦しみはやがて喜びになるらむ

森には老木あり多様な樹の種類がある,森は杉だったら杉だけの森はなかったのである。杉林になったのは家の材料などとして使うのに良かったから杉という人工林にしたのである。
松でも海岸の松原は稲作で潮風から防ぐものだった,これも人工林だったのである。
それで津浪で根こそぎ流された,松は根を強く張らないものだったのである。
津浪には弱かったのである。竹の方が強かった
それは人工林になっていたから根こそぎ津浪で流された

森に老木がある,それもまた人間社会とにている,若い樹だけではない,老木も森にあるそしてそれは何かを語るのである。その老木も森に朽ちてゆき森に還る
人間の一生をふりかえると若いときは大事だった
ここをきりぬけないとその後もうまくいかない,つまり若いときはその後の人生の方向を決めてしまうからである。
人生は長いといったけ実は30までで人生は決まってしまう
仕事している人でも20代で身につかなければ仕事をできる人にならないというのもわかるそれからチャンスなど何度でも人生が長いから来ると思っているが実際は一回だとなる
一回のチャンスで人生が決まる

だから青春時代をどう生きるかで人生は決まるともなる,その後の人生は余祿みたくなってしまう。
ただ一方で若いとのエネルギーは無益に消耗しやすいのである。
ありあまるエネルギーがあってもそれが欲望も大きくなるからそれに費やされてしまう。そのうちエネルギーが消失してしまうのである。
まず若い内に宗教だったら求道しなければあとはできない,老人になって求道はできないその時はすでに時遅しになっている

その時大事なことは不純な動機をもたないことである。若い内は一途に求める
それもそこに打算とかそうしたものがない,まっしぐらに突き進む
確かにそこは汚れた場でもそうした真っ直ぐな心をもっていれば汚されない
つまり人間は動機が大事なのである。宗教になれば特にそうである。

この世は暗黒の世界である。それは今だけではない,常にそうだったのである。
この世は変わらないというとき人間は変わらないからである。
確かに技術的に進歩したとしても人間そのものは変わっていない,だからこそ諺が未だに生きていることでもわかる,金の切れ目が縁の切れ目というとき全く今と変わりないからである。進歩したからといって人間の欲が消えるわけではない,それで電子空間でも犯罪が起きてくる,技術が進歩しても戦争はなくならなかった,弱肉強食の世界は変わらなかったのである。

若いときどうせ世の中とはこんなものだと悪に染まっても平気になることである。
銀行員でも何か投資信託などをすすめるのが客にとっていいものなのか?
そういう疑問をもつ,それはいろんな場でそういう疑問をもつ
カルト教団などに入ってもこれが宗教なのか?そういう疑問は若いとき必ずもつ
でもそんなものだと悪があっても正さないし染まってゆく
そうなるともうそこで人生は曲がり曲がった方向に向かってゆく
そこで時間はたちまち過ぎてすぐに老人になって後悔するだけだとなる

まず人間で一番無駄にしているのは時間である。時間などいくらでもあると思ったがたちまちなくなる,何してもなくなる,後は死だけが残されるとなる
もし老人の視点からふりかえれば時間を無駄にしなければ何者かになっていたなとみんな思う,時間の使い方が悪かったから何も意義あるものを残せなかったとなる
何か研究するにしてもそうである。時間がなくて成果があげられないで終わる
みんな金,金,金だけど時間をの大切を感じている人は少ないのである。
そして過ぎ去った時間は取り戻せないのである。

これからは日本は苦しい立場になる,それにしても人間はその時代時代を生きるのでありそれは宿命である。戦争の時代は若くても死ぬほかなかった
江戸時代は江戸時代を生きた,貧乏でもその時代を生きた
戦争が終わり高度成長時代の団塊の世代は恵まれたと言われるのも時代なのである。
この辺が津浪や原発事故で苦難を強いられたのも時代だったとなる
それをになってこれからの人は生きる他ないのである。
ただそれがすべて悪い方向に行くかどうかはわからないのである。
なぜならこれからの若い人が地域を国を担い生きるからである。
その若い人たちが作ってゆくものだからである。
今は苦しくてもその苦しみを担うことで未来が開けるかもしれない
それで原発事故で町や村から避難した人達でもそこに残った若者はそういう苦難を強いられてもそこで踏ん張れば未来を作るものとなるかもしれない
それができるのも若い者であり老人にはできないのである。
老人は昔を語るだけだとなるがそれも後の者に教訓を残してゆく
そういう繰り返しが人生であり歴史だったともなる

タグ:青春時代

2018年01月18日

自分の失われた金 (カルマの清算のために金は失った)


自分の失われた金

(カルマの清算のために金は失った)

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今貯金を計算したら相当へった,それはこれらの人に使ったからである。
その額は大きい,事業失敗者にも払った
盗難の額が一番大きかった,これは痛手だった
親戚の遺産分配もそれなりに大きかった
困窮者が来て援助するはめになった,これもそれなりに要求されて大きかった
そして地銀もまた同じようにもうけ話をもってきても結果は銀行や証券会社に手数料とかとられるだけだった

結果としてずいぶん減ったと思う,ただ助かったのは介護は手間だったけどそれほど金がかからなかった,それは自分一人でのりきったからである
ただその間に自分が病気になったりして盗難にあったり苦しい目にあった
介護は本当は二人だからもっと金がかかっているのが普通である。
でもここで金がかかっていないから残ったともなるかもしれない
病院に入院して治療代とか安いし自宅で介護していてもベッド代にしても安いから意外と金はかからなっかた,手間はかかったがかからなかった
ここで金を使っていたら残らなかった
介護とか病気とかで金がかかると思っているが意外と保険があるからかからない
ただ保険金を払うことにかかるだけである。
だからそこを心配する人がいるが自分の場合介護医療には意外とかからなかった
ただ私的に介護する人をたのんだら月三〇万とか一千万くらいかかったともなる
つまり自宅介護で自力でできるなら金は意外とかからないのである

ともかく金は要求されて出ていったとなる,それもしかたない面はあるがここでわかることは困窮者が多いからこうなっているのである。
一見銀行が関係しないようでも銀行も地銀などが困窮会社になる
もうけることができない,金を貸さない金貸しがいるのかと揶揄されたことでもわかる
金を貸してもうけるのが銀行だけどそれができないから銀行の役割はなくなり消滅してゆく危機である。

事業失敗者の要求も追い詰められているから余裕がないから介護する自分の家にきても助けることなどできない,ただ重荷となって自分に事業失敗の金をなんとかしてくれとくるだけである。それはだんだん自分が死んだら金が入るのではないかとすら思うようになる保険金殺人のようになるから怖い
人間はみんな金に追い詰められればそうなる
わずかの金でも殺すし借金が犯罪の動機になるのが普通である

なぜ自分がこんなに金で責められたのか?
それはみんな金に余裕がないからである。
差し迫ったものがありそれが強盗のようなものにもなり脅迫めいたものにもなり自分は苦しめられたのである。こういう人は他人に同情する余裕もなにもなくなっているから
そういう人が自分が苦しい時に来ればかえって苦しめるだけだったともなる

ただこうなったのも自分の親のカルマと自分のカルマだったのである。
ふりかえるとカルマの清算を強いられたのである。
必ずカルマの清算時期がある,遺産相続したりすると必ずこうした金のことでもめる
だからカルマの清算は過酷なのである。
必ずそのカルマの清算の時はやってくる
へたすると殺されるということさえカルマが重ければなる
それは自分だけではない,例えば親が金があってもその金がブラックな金だとカルマの清算が強いられる,金があればすべていいとはならない,そのブラックな金のためにカルマがまわってきて苦しめられる
それは人生の法則のようなものである。若いときの過ちもそのままでは終わらない
必ずカルマとなり後年責められる苦しむことになる

ただここで銀行に苦しめられというのは無知だからだろう,銀行に責任があるわけではない,それはただ知識がない経験がないことでのってしまっただけだとなる
ただ銀行も今は困窮者になっているから余裕がないから証券会社化したのである。銀行もまた困窮者だから苦しめる側になったともなる
困窮者になれば明日食べるものがなければ相手を襲ってでも奪っても殺してまで得ようとするだろう。そこまで追い詰められている人間は善悪はなくなるからだ
そういう人に出くわすのもカルマだとなるかもしれない
自分がそうだったとなる,でないとなぜある人がなぜ事件にあい,苦しめられるのか理不尽だとなるからだ,

もう自分は自分の親とか自分でもカルマを清算したとしてくれとなる
これ以上金はもうない,それで許してくれともなる
つまり金をもつことはこうしてカルマになるから気をつけろとなる
金の額にもよるが平均的にしても上回る金だと今は貧困者が多いから責められる
田舎では特にそうである。田舎では大金持ちなどは住めない
なぜあいつは金をもっているんだとなるからだ
ともかく金というのはどこまでもついてまわる,そして地獄の沙汰も金しだいになる
金の恐ろしさがわかる,金をめぐって人生も変転する
だから人間は金から解放されたいと心底願うようになる
そして強欲資本主義とか金融資本主義がやがては成り立たなくなる,そして別なシステムが生まれるのか?そういう時代が来ることを願うほかない

ただ天に宝を積めというときこの世に積んだ宝も金もそれは腐れる,死ぬときは結局そんなものは意味がなくなる,天国ではこの世の金で生きるのではない
天に積んだ宝で生きる,金にふりまわされることはもうないのである。

カルマの精算期にきたら

本当にこういうことがある,もうこれは法則のようなものである。
人はカルマから逃れられないのである。ただ苦しみがないと自覚できないのである。
なんらか苦しみがともなうときカルマを自覚するのである

自分はカルマ消すことをしてきた,だからもう金ではめんどう起さないでくれとなる
金のカルマから解放されたいとなる






2018年01月10日

記憶されることの大事 (記憶は場所と深く関係していた)


記憶されることの大事

(記憶は場所と深く関係していた)

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毎日特定の場所に一つ記されているのを見ると記憶しやすい,頭に残る



人生をふりかえると意外と大事なものが記憶だったなとなる
なぜなら最後は人間は本当に記憶だけに生きることになるからだ
認知症になったら本当に生きることは記憶していたことになる
それで家族の一人がその記憶したことを千回も聞かされたのである。
そして遂に死んだが今になると死んだ人の千回も語ったことが
それがその人の人生だったとなる
老人はみんな人生をふりかえり語る,それは記憶が人生になっているからである。

現実に記憶されないものは本当に存在したのか?
記憶から消えたものは存在したのかとなる
いろいろな人にあってもやがて忘れる
忘れたときその人は存在しないものとなるからだ
とにかく人間は忘れやすいのだ、昨日何かあったことも忘れる

そして人間は死ぬとたちまち忘れられその人が存在していたのかどうかもわからなくなる死んで百年も過ぎてその人が覚えられている人は相当な人物でないといない
墓が一つ墓地に倒れている,そこに名前が記されている,でもいつかこの墓も捨てられてなくなる,その時この人がいたということは誰もわからなくなる
この世に存在したことすらわからなくなるのである。忘れられるのである。

記憶と関係しているのはその場所とか何か一つのものではない
例えばパソコンに付箋がありそこに買い物するものなど書いておく
するとそこを毎日見ているから頭に記憶される
それは毎日見ることで記憶されるのである
そしてそれだけが実は目立つから記憶されやすい
その場所が関係していたのである。

一つの場所→毎日見る→記憶に残る・・・となる
だから英語の単語でも覚える場合,ここに一つの単語を書いて毎日見ると記憶しやすいことがわかった
買い物でも忘れるからここに書いておくと忘れないのである。
勉強でも記憶することが大事でありでもその記憶するにしてもそれが簡単にできない
膨大に記憶するものがありそれでできない
毎日見るものがパソコンの隅にありふれに一語とか書いてあれば記憶しやすいのである。その記憶するものがどこにどの場所にあるか明確だったからである。
つまり記憶は場所と関係していたのである。
それと毎日見ることで確認してゆくと記憶に残る

都会だとどこに何があるかわからない、それはいろいろなものがありすぎてそうなっているのである。本だってありすぎて同じ本を買ったことが何回かある
千冊あったとしたらそんな本を読んでいることを記憶されていなかったのである。
ありすぎることは記憶できないことに通じている
誰も千人の人と会って覚える人などいないのである。
それは数でしかない,統計的数字となってしまうのである。
民主主義だと一見公平なようでもただ数で決まるから顔が見えないから数ですべて決められるとそこに問題が起きる

ともかく人間は何かを記憶してゆく,記憶されなければ何もなかった存在しなかったことになる,それで都会ではなんでも記憶しにくい,膨大な人が流れてゆき,いちいち一人一人を記憶しにくいし過去でももう都会だとわからないのである。
田舎だと墓でも古い碑でも道端の木でも一つ一つが記憶されやすい
それは場所と関係していた
それがどこにあるかとして記憶している

パソコンの隅に付箋がありそこに書かれたものを毎日見て記憶しているのと似ているのだ
一本の松が五本松の松は枯れたが倒れずにありその時も生きていた感じになる
枯松とかの地名があるのもそこに松が枯れてもあったということで地名化する
そして松が枯れて遂に倒れてしまった,でもそれでもなおそこに松があったということを記憶させる,これがかたずけられたときここに松があったことがわからなくなる
でもその場所で見ていたものは記憶しているのである。
その松の記憶はなかなか消えないのである。
それは家族の死とにていたのである。枯れた松は老人でありやがて死んでゆくが以前として家にはいるような感じになる
相馬市の道の駅の五本松も日本は枯れて切られたけど三本は残っている
ここに五本あったときを記憶しているから五本松だということはリアルなのである。

いづれにしろ去る者日々に疎しという時,親戚で離れていると疎遠になる,むしろ毎日顔合わせる人こそ大事になる,その人は毎日見ているし会っているから大事になる
都会になるとどうしても人間の存在は希薄化する,みんな一時的忘れやすい
でも一つの場所に生きていると故郷などに生きているとそこが記憶の場所になる
故郷とは家族であれ記憶の場所なのである。
つまり記憶するには場所が不可欠なのである。
場所とともに記憶されることが多いのである。場所は具体的であるからだ
パソコンの付箋でもこれがテキストとかなって隠れているとわかりにくくなる
一つの場所に記されているということで毎日見ていることで記憶に残るのである。

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一本の松の枯れて立ちにしも遂に倒れて冬の日暮れぬ
タグ:記憶術

2018年01月09日

20代で人生は決まる (人生のチャンスは一回しかない)


20代で人生は決まる

(人生のチャンスは一回しかない)


あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。伝道者の書 12章1節

20代という期間はその1年1年が数千万、数億円くらいの価値があると思います。

正社員就職を目指すなら、まず優先すべきは1年でも若いうちに勝負をつけることです

人が最も良いパフォーマンスを発揮するのは、「最適な環境」で、「最も得意なこと」にコミットしたときである。

●青春時代は必ず過ちを犯す
●人生を決めるチャンスは一回しかない
●60代以降はカルマの清算が強いられる
●光陰矢のごとし 無常迅速

人生のバターンは決まっている,それは推理ドラマのテーマとなる,若い内は必ず過ちを犯す,そのエネルギーがあふれて無謀になり過ちを犯す,そして後で悔いる
若いときは暴走しやすいのである。それだけエネルギーが噴出するからである。

そして20代で30代で人生の勝負はついてしまうというのは本当だと思う
ここでビジネスとかで言われるが人生そのものでも20代で勝負がつく,人生は長いから
そんなことないと思っているがみんな年とればわかる
たちまち時間は過ぎてあとは死だけが現実になる

肝心な求道でも20代にしないならもうできない,神を知ることはできないのだ
これは重大なことである。神を求めるのは年取ってからはできないのである。
そしてチャンスは一回しかない,人生は長いから何度もチャンスが来て立ち直れるとか言われるがそれほど人生は長くはない
一回の賭けで決まる,自分もそうは思っていなかったがふりかえればそうである。

また人間は経験を積むにしてもいろいろなことができない,自分は50代で海外旅行していなければできなくなっていた,なぜならその後は介護とか病気になり十年は費やされて時間は消失したからである。自分のように会社に勤めもせず自由に生きたものでも人生は短い,これくらいのことしかできないのかとつくづく思った。
人生は長いから後でやれると思うとできない,老後は自由に生活してやりたいことをやるとか計画するとできない,病気になったり介護になったりまた新しいことについていけないとかなる

人間の時間は限られている,どんなに自由時間が与えられてもたちまち消失するのが時間だったのである。だから時間に万金の値があることを年をとれば知る
金があっても時間がなければあらゆることは身につかない,学習するにしても時間が必要であり金だけではないからでてある。時間が貴重なのである。
そして若いときでないと体力を使うことはできない,登山でもなかなかできなくなる
つまり冒険するのは若いときしかできない,それだけ若いときの価値は大きかったとなる
だから10代から20代は本当に大事だった,その時間を活かした人は成功したのであり幸福だったとなる,若いとき臨んでも苦労しろというのもそうである。
そういう経験が人間を作る,人間はあまりにも恵まれていたら後で苦労する
だから人間は金とかでは金持ちと貧乏人の差がある
でも時間は平等に与えられている,金持ちが特別長い時間を与えられているわけではないだから時間を活かせば貧乏人でも何かしら身につくし一角の人間になりうる
金持ちでも時間を活かせなければ浪費すれば放蕩などしていればもう人間は作るチャンスは消失するのである。

そして60代以降はカルマの清算が強いられる,若いとき成した過ちでも清算を強いられる時間がたってもそういうことは消えないからだ,そこで悔いるのだが遅いとなる
カルマとして苦しみとして現れるのである。
それはどんな人でもカルマを積まない人はいないから60代以降は過酷になる
自分の十年間はそうだったからである。
人生とはこのように同じ道をみんな歩む,それは人間にカルマとして課せられたものだからである。例外はないのである。
ほとんど数式ともなっているのだ,
結局それは人間が今だけではない、長い間そうして綿々とつづいてきたのが人間の生である。そこに教訓が生まれて格言が生まれ宗教哲学が生まれたのである。
庶民の諺でもそうである。そこに普遍的な真理があったことに感嘆するからである。
それは今も通用していることは人間の本性は今も環境が変わっても変わらないからである人間の欲が消えたわけではないから同じことをくりかえすのである。

タグ:20代