2025年04月28日

家族のカルマは苦しみとなって現れる 【事業の失敗もカルマなのか―具体的例として知る】


家族のカルマは苦しみとなって現れる
【事業の失敗もカルマなのか―具体的例として知る】


カルマの法則は確かにある。でも、それを理解することは複雑で解りにくい。なぜ、私の母の実家がさまざまな問題がのある家だったのか。警察署長にまでなった父親はいてそれがなぜ問題を抱えるようになったのか。

●事業に失敗した。
●後妻が来て家族が乱れた

何かこの後妻というのが問題が生じる。私の母親も後妻なのである、それで子供がいて連れ子がいて後妻にきて問題が起きた
私の母親自体が実家で後妻が入って来て乱れた。ただ実の母親が病気になり夫が世話できなくなりそこに後妻を迎えたことで乱れた。それでも肺病になった25才で死んだ母の兄がいて看病したのである
つまりその後妻は二人の病人を看病したのである。だからすべて悪いとはならない、でも母は継母でありいじめられてのである
弁当を作ってもらったのはいいが食べ残したらその弁当を実の母親ではないから食べられないのかtその弁当をぶんまけたのである
これもひどいことである。母は幼少時代は金持ちでもありお嬢さんだったが父親が事業に失敗してから貧乏になり苦労したのである。

この事業に失敗することもカルマなのだろうか?なぜなら。私の父親も双葉の新山の方で酒屋の丁稚をしていたが倒産したからである。親戚といっても兄弟とかではない、父親の関係でもやはり鉄工所とか経営した家が倒産した
また原町でも事業を始めた人が借金をかかえた。その人が私の家族が介護になりまた私が病気にもなり来たから苦しくなった。
またそうして私が病気になって家を留守にしたときたまたまあった大金を盗まれたとかある
そのことは間にも書いてきた。

何か事業に失敗する人は本当に多い、推理ドラマでもそれがテーマになる。事業は20人に一人くらいしか成功しないむずかしいものである。だからそれはどこにでも普通にいるとなる
親戚の人はなぜ事業を始めたのかそれが良くわからないのである。確かなことは難しい資格を持っていて優秀だったから事業を始めた。別に会社勤めしていればその家族でも妻でも楽だった

その妻の家族は夫は肺病とかになり手術して障害者にもなった。だから相当に苦労したのである
でもそのむずかしい資格をもった夫を持ったので楽だったのである
その父親の妻はだから障害者の夫をもって苦労したのである

だから夫で妻が苦労する→その娘も夫で苦労するというカルマが成り立つと見た

なぜそうなのかとなればその娘でも母親の苦労がわからない、どれだけ夫で苦労したかわからない、でも今度は自分の夫で苦労したとき身に染みてわかるとなる。

なぜこんなに夫のために苦しむのかー私の母親も夫のために苦しんだーそれで母親がどれだけ苦労したか身をもって知るとなる
それがカルマなのである。
それは自分にもあった。父親違いの兄は自分の家では良くしなかった、そのことがカルマとなり介護で苦しんだとかなる
何か家族にも負の部分がありそれが長男長女に苦しみとなって現れる。家のカルマが長男長女に現れやすいのである

つまり事業の失敗で苦しむ人が相当に多いことは確かである。それがカルマとなりその家族が子供でも苦しむとなる
カルマという時小高の人のカルマは原発事故と関係していた。小高から原町に一人移り住んだ。何か原発の補償金でいい車など買い別に東電でも批判しなかった。というのは津波の被害にもあったが東電の補償金が多額で助かったと言っていたからである
でも熟年離婚になり息子は仙台で働くようになり病気になり仙台市の病院に入院した
何かこれもカルマが複合的に重なり苦しみとなって現象化した

とにかくカルマの特徴は苦しみとなって現れる

様々なことで苦しみとなって現れる、それだけは間違いない、その原因も複雑でわかりにくいがなぜ苦しむのかとなるとやはりカルマが関係している。私自身でも若い時代は苦労したにしろその後は楽だった、でも家族の病気と介護で地獄化したのである
楽をした分苦労が重なったとなる。だから人間は楽で一生終わる人もいないし苦しみで一生終わる人もいないとも見る
私の母親はいつも眠るように楽に死にたいと言っていたが百歳まで生きて本当にそういうふうに死んだのである
その願いはかなえられたとなる。一方姉は認知症になりその死に方は悪かった、それも何らかのカルマがあった

いずれにしろこの世を生きることはカルマがある。カルマとはその人の行ったことでありまた宿命なのか、逃れられないものがある。別に金持ちの家でもカルマを持ち不幸がある。家族の不和とか何か悪いことが起きる
つまりカルマがない人はいないともなる。カルマとはまた罪を犯すことにもなる
だからこそ複雑であれカルマの法則が成り立つ、例外はあるにしても成り立つのである

それがカルト宗教団体に入ってもカルマは解消しない、なぜなら近くで創価に入ったら息子が病気になり死にその後を追ううように母親も死んだからである。でも創価に入ったからいってカルマは解消しない不幸もなくならない
ただ不幸な人は頼る者がなく必ず共産党とか創価にカルト宗教団体に頼る。でも解決しないのである
そういうことは実際に身近で見ているからわかる。つまりそいう団体自体膨大の人々のカルマを背負うことになる
そして解決はしない、幹部はその人達を利用して金をまきあげ議員になったり得することしか考えていないからである
つまりそういう団体自体巨大なカルマをもちそのために崩壊する。個々人のカルマが巨大な集団のカルマとなっただけである
そもそもカルマとは人間の業でありそれが積もり積もって人類自体が最後にハルマゲドンなのか破滅するともなる

アメリカが衰退するという時やはりしなくてもいい戦争をして莫大な犠牲者を出した、それは正義でもなかった
大国の横暴だったのである。だからそれもカルマとなり災いともなり苦しみともなったゆく、アメリカがいつまでも繁栄することはないのである。だから歴史にもカルマの法則は成り立つとなる


2025年04月02日

人間は環境の影響が大きいー他者の家族の理解の困難 【不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。トルストイ】


人間は環境の影響が大きいー他者の家族の理解の困難
【不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。トルストイ】


不幸の原因

●家族の影響
●時代の影響
●その人の資質(遺伝)

何かその人を見ていると不幸だなと感じた。50才くらいで結婚しない、ただこの世代は本当に結婚しない人が多い
その理由はこの世代は氷河期世代で恵まなかった。それもありこの世代の人は本当に不運だった
でも時代の影響はまねがれない、戦争で死んだ若い人も多数いたからである。団塊の世代は辛うじて戦争後に生まれて助かったとなる。つまりわずかに生まれた時代の差でそうなったのである。戦争中は20代で特攻隊で死んだ人がいる
それも悲惨だったのである。だからどういう時代に生まれるかで人生もかなり決められてしまう

その人を見ているとつくづく不幸だなと見る。その家族と付き合う中で分かったのである
その母親は団塊の世代であり同世代である。その母親は子供は厳しくしつけた方がいいとしてその考え方が変わらないのである
老人が頑固だという時考え方が変えられないのである。それで確かに学校で体罰が普通に行われていた
廊下にたたされたりもした。それは団塊の世代でも同じだったのである。その時は学校でも家庭でも子供は厳しくしつけるべきだとなっていたのである。だから今でもその考えは変わらないのである
でもその息子は親が介護になっても優しくしない、それで母親が嘆いている。この家族の不幸は発達障害の子供を持ったことである。それでそ長男に母親がかかりきりになってしまった。弟はないがしろにされたということがある

その人は建築土木現場で働き今は介護施設で働いているのも奇妙である。なぜなら親を介護しているからである
ただ介護といってもまともにしていないから母親が文句を言うのである
とにかくその不幸は家族の影響と時代の影響があり不幸なのである。その人の資質はわからない。でも不幸だと見る
それはその人がどうのこうのではない、環境が悪くて不幸だとなる

私の母親も幼児期は警察署長の家に生まれたから恵まれていたのである。でも事業に手を出して失敗して母も病気になりそこに後妻の人が入って来てその女性が異常なほど気が強く母親はいじめられたのである
子供の時弁当を残したら実の母親ではないから食べられないのかとその弁当を捨てられたのである
その後も紡績工場で働いたが一汁一菜でありそれで十年くらい働いていたのである。働きずめだったのである
そいうこともあり花など興味なく何か趣味もない、ただ働く働かされたのである。ともかくその時代は貧乏であり子供は家の家計のたしになるものとしてあった。今でも貧乏な国はそういうことがある。子供は働き手なのである
私自身も子供の時は店の配達で働いていたのである
つまり時代の影響でありまた家族に影響でそうなった。これらは運命的でありどうにもならないとなる

時代の影響家族の影響は逃れがたくある。その人は時代が氷河期世代であり家族環境も悪い、資質はわからないにしてもいくら資質が良くても才能があってもそんな環境では伸ばせないと見た。
だからどんな家族に生まれ育つかが相当に影響する。カルト教団の家に育った人は全く洗脳されてまるでナチスのようにもなり
紅衛兵にもなっていた。他が全く見えないのである。純粋培養されてそうなった。だから家族の影響はあまりにも影響が大きい

確かにその人の資質はある。でもその人の育つ環境をみるといかに生まれ育った環境の方が大きな影響があったとみる
人間は環境の影響の方が人間形成にしても大きいのかと見る。人間は環境が悪いと打ちのめされる。
いくら資質が良くてもそうである。だから教育でもそもそも環境の影響が大きいとなる
どういう家に育つかでその人も作られてゆく。ただ本当に他者の家族のことでもわからにものだと思った
それを理解するには結構長い時間も必要になる。そして他者の家族でもまた個人的なものでも理解するようになる

ともかくその人を作るのは生まれつきより環境の影響が大きいと見る。特にどんな家族に生まれるかが大きな影響を受ける
ただ家族でもわかりにくいのである。ヨーロッパで貴族から天才が生まれたというけどそれは家庭内で教育があり家庭教師がいて才能を伸ばしたとなる。でも労働者階級からは天才は生まれなかったとなる。
とにかく人間の幸不幸はなぜ生まれるのかこれも謎である。私の父親違いの兄は私の家では良くしなかった。その原因は東京で実の父親が工場の事故で死んだことにあった。そして今度は兄も交通事故で40才で死んだのである。そのことで私は恵まれたから心痛めている。

ただなぜこうして不幸な人がいるのか?それはいくらでもいるだろう。ただどうしてそうなっているのかわからないことがある
例え悪い環境に生まれても育っても立派な人がいる。その人はやはり本当に優れた人だとなる。悪い環境なら別に特別な人に成らなくてもそれだけで立派だともなる。人間はどうしても環境が悪いと歪められるからである
そうして悪い環境でもまともに育てば立派だとなる。

人間はその人を見るときなかなかわかりにくい、私自身の家族もまた他から見たらわかりにくいからである
だからこそ

幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。トルストイ

それぞれに不幸であるというときその不幸も様々であり違っているのである。それが簡単にわからないのである。
まず障害者を持った家族は何らかで不幸になる。その負担が大きいからである。それだけではない不幸になる原因はいろいろある。貧困はわかりやすいがそれだけではないろいろな不幸がある。それが他から見て分かりにくいのである
だから本当は家族を理解することが大事になる。でも理解すること自体簡単にできないのである

,正常なコミュニケーションのなさ家族では,各成員が担う役割に柔軟性がなく,
特定の人物に偏った役割や責任が課せられており,以下のような適切さを欠いた様々な役割が存在していることが述べられている。

これなのか、その一人の人に負担がかかるということは確かである。もし障害者を兄弟にもたなければ負担は分担できたからである。それで一人に負担がかかってしまったのである。そこに不幸があったとなる。
また家系因縁もある。先祖がかかわることもある

先祖代々呪ってやる」というセリフがあるように、強力な怨念は先祖のみならず家系全体へ影響を及ぼす

これは間違いなくある。親戚で私に最後に『ひどい娘だわ』と恨みの言葉を残し直ぐに死んだ人がいる
その娘は本当にひどい人だったのである、だからその怨念が必ず影響する
それで介護でも恨みを残し死ぬとやはり後で怨念となり影響するから困るのである
私の場合は感謝して死んでくれたから死後でも供養できる。遺影は笑っている。恨んではいないからである
これは軽く見ているが恐ろしいことかもしれない。

とにかく不幸という時様々であり理解すること自体簡単ではないのである。貧困だけなら金で解決できるかもしれないが様々な人間関係の中で不幸がありまた幸福があるのは人間なのである。ただ正直そこまで他者が家族に入ることは嫌になる

何か家族の泥沼に引き込まれる。私の家族も一人が認知症になりもう一人も介護になり自分自身も病気で入院二回したとか泥沼になった。その時かえってそうした時今度は金を盗られたとか他者から責められてさらに苦しめられたのが現実だったのである。つまりそういう泥沼に引き込まれるからかかわりたくないというのも現実なのである
カルト教団では確かに相手にするにしても一票を得るとか不幸な人を助けるふりして自分の利益を計るとなる
まともに付き合えば自分に跳ね返ってくる。泥沼に引きずり込まれる恐怖がある。

いずれにしろ問題をかかえない人も家族もいないのかもしれない。ただわかりにくいのである。だから何もできなくても理解することが必要になるがそれもまた簡単にはできないのである。










2025年03月28日

時間の大切さがわからないー何に時間を費やしたかが人生 【海外旅行は金より体力+時間が必要だった】

時間の大切さがわからないー何に時間を費やしたかが人生

【海外旅行は金より体力+時間が必要だった】

人生でもっとも大切なことは、思い出をたくさんつくることです。なぜなら、自分の人生の最後に残るものは、お金ではなく思い出だからです

●時間の貴重さが金のように意識できない

人間は人間は時間の大事さがわからない。常に金のことは十円でも意識する。金が貴重なことは生活の中で身に染みて理解する
でも金のように時間の貴重さを意識しない、時間はいくらでもあるとなりそれが30才過ぎる辺りから時間がないと意識される
なぜなら40才になると白髪が出てきたりするからである。そうなれば老いでも意識するようになる
死すらまじかだともなる。青春はあっというまに過ぎる。女性でも30過ぎるとおばさんにもなる
時間などいくらでもあると時間の貴重さを意識できない、それが盲点なのである。

それは現代だけではない昔から言われたことであり人間はやはりいろいろ変わっても老いて死ぬことは変わりないから現代でも諺でも聖賢の教えでも廃れず残り通用する。諺でも馬鹿にできないのは人間が生きて死ぬということを経験することは同じであり今いくら寿命が伸びたとしても同じなのである。寿命が20年伸びたとしてもやはり生きる時間は短いと感じる
とにかく時間の価値は意識しにくいのである。それは老人になった否応なく意識させられる
つまり何するにも時間がない、つまり最後は時間切れで死ぬということである。死ぬとは健康が失われるというだけではなく
生きる時間はなくなることである。だからいくら金があってもその金を使えないということがある

何か新しいものを機械でも操作できないということがある、それを使いこなせないということがある
老人は携帯は使える、私の母は90才でも携帯が使えたからである。ただ番号を押せばいいのだから意外とできたのである。
でもスマホとなると面倒になるから使えないとなる。それでいくら金があって買えてもその操作が難しく使えないとかなる
それには時間がかかるからである。私自身もプログをSSL化しないのは操作がめんどうになるかしていなかったのが失敗だった
何か老人になると面倒になる、それで億劫ななる、若い時は新しいものに飛びつく

私は悪筆だからワープロをしてそれに通信機能がついていたことで早い時期からパソコン通信でもしていた
面倒なものでもしていたのは私の場合引きこもりで暇だからできたのである。つまりここでも時間が関係していたのである
何か習得するにも常に時間がかかる。金もかかるとしても時間もかかる。時間がかかるというとき手間もかかる
その時間がいくらでもあると思っているがその時間も消失する。

●金より体力と時間が大事なこともあった

金+体力+時間=経験になる。確かに金がなければ何か学ぶにしてもできないことがある。本を買うにも金がかかるとかある
旅行するにも金がかかる。それで失敗したのは海外旅行が円高で金がかからない時代があった。そのとき貧乏人でもフリーターとかでも世界を旅行していたのである。その時金が無くても世界旅行できたのである
私は50才過ぎてバックパッカーになって世界旅行した。でもその時でも外国のことがわからなくて金がかかると思っていたのである。

なぜそうなったかというと私は日本国内でも旅行するので困ったのが泊る旅館とホテル代だったのである
いつも安い宿を探していたから疲れたのである。それで海外に行っても安宿を探していた
ただヨーロッパだと意外と安いホテルが多い、それはユースホステルとか千円で泊まれるとか老人でも泊っている
また個室ではないにしろ安い若者向きのホテルがある。だから金がかからないかった。でもアジアでも金がかかると思い節約していたのが失敗だった。金よりむしろ体力があれば若ければ海外旅行は意外とできたのである
それは円高時代だったからである。今になると苦しくなる。だからその時海外旅行した人は得だった、恵まれていたとなる

金+体力+時間=経験となるが若い時は金が無くても体力と時間がある。老人は金があっても体力がない時間もなくなり
何かきついことはできなくなる。でも海外旅行は金がなくてもなんとかフリーターでもできたのである。
だからその時代は恵まれていたとなる。金の問題として私の場合恵まれていたのだがやはり親は実際は金がありその金を使わしてくれればもっとできることがあった。遺産をもらったのは60以降であり遅かったからである
だから親でもやはり子供に金を使わせるべきだったなる。ただ私は十分に過分に親にあたえてもらったから文句は言えない
でも何か60過ぎて70近くになって金があればもっと金を与えてくれればよかったとなる

つまり親でも金を使うべき時に子供に与えてくれなければ時間がなくなり金を使えず何もできないとなる
第一70過ぎてから海外旅行するとなるといくら金があっても苦しくなるからしたくないとなる
だからいくら金があてもそれを有効に使わないと使えなくなる。そして日本人は死んで使わない金を膨大に残している
それは生きているうちに子供で与えれば良かったとなる。

●何であれ何に時間を費やしたかが人生

とにかく人生は誰でも失敗がある、失敗がない後悔がない人はいない、それは時間でも体力でもありつづけると思っていることである。30過ぎると体力でも落ちてくる、だからこそ鉄は熱い内に打てとなる。激しい運動はできなくなるからである
そして人生が最後に残るのが思い出だけだとなる時その思い出を作る経験が大事になる
だから会社員で30年でも過ごしたとすればそれが人生でありそこに時間が費やされたのだから社畜であれそれがあなたの人生だったとなってしまう。そんなことしたくなかった、金のために仕方なかったとしてもつまり人生とは何に時間を費やしたかが人生だとなってしまう。それが老人になり思い出になってしまうのである

その会社で共に長く働いたとなればそれが思い出となりその思い出を語ることになる
それが何であれ人生だったなってしまう。会社での30年40年であれそれだけの時間を費やしたのだからそれが人生だったとなる
だからそこで費やした時間が無駄だったとなればその人生は何になるのかとなる
カルト教団であれそこにやはり会社に尽くすように働いた人はやはりそれが間違っていてもそれが人生だったとなることは怖いとなる。でも老人になれば否定できないとなる。若い内は方向転換できたけど年を取るにつれてできなくなる
もうその時は新しく何かをする時間が消失したとなる。

だから人生とは何に時間を費やしたかである。旅に時間を費やせば芭蕉のように人生は旅だとなってしまうのである
ただ様々な人生がある、でも何に時間を費やしたかが人生であることは確かである。何か原発事故で浪江町の津島の方で
戦後引揚者が入って来て苦労して畑でも作り共に苦労した仲間いてそこで暮らしたいという時そこで時間を費やしたから
それが人生となり思い出となったから離れたくないとなったのである

それは原発事故の避難区域ではそうなった。確かに新しい土地に移り生活して便利になっても実際苦労して共に働いた場所が人生の時間を費やした場所でありそれでそこに住みたいとなった
新しい所は便利でも若い人なら新しく経験して思い出が作れるが老人にはその時間がなくなったからである
つまりそうした人生の思い出を奪ったことが大きな被害でありそれを金で穴埋めできないとなった
つまり新しい土地でやり直す経験する時間が老人には消失したからである。

ただ空間では同じ場所に暮らしても20年であれ30年であれ交流がないと理解できなくなる
空間を共有してもその空間で共に時間を費やすことがないと相手を理解できなくなる
だから空間を共有しても時間では別々なのものに費やしているから近くでも理解できなくなる
それは現代では職業でも多様でありまた移動社会だから空間を共有するとしても福島県とか仙台市の人とかでも仕事に来る
だから昔の村のような狭い土地に密着して暮らす農民社会とは違ったものになる
隣は何をする人ぞとなりやすいのである。そこから近くでも理解しにくくなるのである









2025年03月27日

人間は無報酬(金なしでは)では他者に何もしたくない―ただより高い物はないの意味 【神の国では神自ら無報酬で賜物として与えられる‐聖書の野の花の例え】


人間は無報酬(金なしでは)では他者に何もしたくない―ただより高い物はないの意味
【神の国では神自ら無報酬で賜物として与えられる‐聖書の野の花の例え】

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人を媒介して与えらるものは無償ではない、見返りが必ず要求される

●無報酬では何もしたくない、ささいなことでもしたくない、ただより高いものはない

人間の価値は金で計られる、でもそれが本当なのだろうか?労働自体も金で計られる、金の多寡で労働が決められる
でも変なんだけどその人は大金持ちだとする。でも貧乏な人が来て自らお茶を入れるとかする
単にその人のために物を運ぶというとき何か大金持ちだからそんなことしないでお手伝いさんにしてもらえばいいとか
そのために金を払って自分は何もしない、ありあまる金を払えば事が済むとなる

私自身がその人は別に金を払うわけでもない、むしろ金を与えている、その人のために物を運ぶ、寒いから小型の温風器を運ぶ
それが手間に感じたのである。その人は別に私のために何もしてくれない、それなのに金を与える
奇妙なのは金を与えるよりその人のために温風器を運ぶことが負担に思ったことである
それは直接の労働にもなっていたからである。人間社会は赤の他人に無償ではなにもやりたくないことが実感した
金がもらえるという報酬があり仕事している。単にモノを運ぶことでもそうである。金をあげますからA地点からB地点へ物を運んでくださいとなり運ぶのである。それを無償ですることはない。

それで親戚の人でも箱一つを運ぶのを嫌がっていた、そんなもの簡単でも何も報酬がないとしたくないとなる
でも報酬は与えていたのである。その人は借金していたから私からその借金を払うために金を都合してもらいたかったのである。
その額も事業していたから大きいものとなっていた。ただ確かなことは私のためには何もしたくなかったのである
だから気持ちとしては箱一つでも運ぶのを嫌がっていた、頭の中は借金のことしかなかったからである

ただそれが私が批判できるかとなるとできないとわかった。なぜなら自分自身がなぜ赤の他人に物を運ぶのに負担を感じたからである。それも金をはらっていてまた物を運んでいたからである、何か物を運ぶことが返って負担を感じたからである

人間は何か報酬がなければ何もしたくない!

これが別にいい悪いとかではなく人間だということを知る。ただより高いものはないというとき無償で何かを他人にしてやる人はいない、もしする人があるとなると何か魂胆があり後で大きな見返りを要求されるとなるから出た諺だとなる
要するに人間はなんであれただ無料で他人に尽くすことはできない、それはいい悪いとかではなく人間はそういうものだということである。福祉関係の仕事でも無料ではない、国からでも自治体からでも金をもらっているからしているのである
だからこの世でただより高いものはないというとき人間は無償では何もしない、したくないとなる

だからただですることがあれば返ってその報酬は金を払うより高くつく、だからこそこの世で他者にサービスを受けるとき
一定の価格が決めれる。ただのサービスは返って高くつくからそうなった。他人には報酬なしでは何もしてもらえないということである
カルト宗教団体であれ宗教だと無償でしてくれるのかとなるとやはり無償ではない、カルト教団なら確実にその見返りを要求している、だから献金が常に要求されるのである。要するにかえってただより高くつく場合がある。無償で助ける人はいないということである

●無報酬でもしたいことはある

ただ不思議なのは人間は報酬無くても金がもらえなくてもやりたいことがある。例えば芸術家なら画家ならいい絵を描きたいという願望が強い、それを売れば金になるからではない、絵を描きたいという動機がありそのために金が必要だとなる。だから画家は金になるより自分の納得する絵を描きたいとなる、だから絵を描くことは報酬が例えなくて描きたいのである
仕事にはそういうことがある。私は別にプログで毎日書いても報酬はないしほめられるということもない、でもなぜこんなに熱心にしているのか、それは自分なりの絵を描きたいという画家と同じなのである
それは金を払ってでもしたいことだからそうなる。単にモノを運ぶとなればしたくないのはそれが絵を描くのとは違っている
それは何か報酬がなければしたくない仕事だとなる。

要するにただ金を得るだけに強いられる労働と自らしたくてする労働は違っている、大方は金のためにしたくないけどしている
だからみんな会社員は社畜だと自ら言うのである。
ともかくただより高いものはないというとき人間は無償で他人のために働くことはしたくないそれは確かである。

なぜあなたのために物を運ばねばならないのか?
何か得があるのか

だから一つの物でも他者のためには運びたくないのである。それは冷たいともならない批判できないみんなそうだからである。
一方自然界は食料でも何でも無償で無料で与えられる。それでも人間が栽培するとそこに人の労働が加わりるから無料ではない必ず報酬が金が要求される。どうしても絶えずこれは苦労して作ったものとなり報酬が要求される
でも不思議なのは自然界では食料を得るとしてもそこに労働は加えられていない、木の実であれ何であれそれは神から直接与えられたものである。何か報酬は要求されない。だからその時その果実でも木の実でも甘美になる

それで野にある桑の実を食べたときそういう食べ物は買って食べるより甘美なものになる、別に誰かが苦労して作ったものではない、無料で無償で食べられるものだからである。それは出エジプトで与えられたマナとも似ている
誰かの労苦によって与えられたものではないからである。だからそれは一層甘美だったのである
天国とはこうして食べ物でも無償で与えられ場である。神が直接賜物として与えられる。金を払う必要はない、ただ神に感謝して食べればいいだけなのである。何か人間が手を加えるときかえって必ずそこには不純なものが生まれて来るともなる
人間の手から与えられるものは神が直接与えるものとは違う、かならず報酬が要求されるのである。それが負担に感じるのである。

そして人間でも無償では他人には何もしたくないのである。それは冷たいというのではない、神は何かを与えるにしても
無償であり何か神自身が苦労したわけでもない、それは奇跡と通じている。
聖書では何かそうして奇跡として人間い与える、キリストもパンであれ葡萄酒であれ奇跡として与えた
奇跡とは何の苦労もせず与えるということである。病気でも触れただけで癒したとかなる
人間の医療となればいろいろと苦労する。だから医者にかかれば医者への報酬は一番高いものになり医者は一番偉いものとなる
医者に対しての報酬は一番大きいものとなる。医者が神のように崇められともなる。

要するに人間を媒介として与えられるものは無償ではない、常に負担となるものである。だからただより高い物はないとなる
逆に無償でただで与えるのが神だとなる。何か見返りを要求しない、感謝するだけでいいとなる
つまり人間を媒介として与えられるものは常に報酬が期待されて負担になる、それで何か生きること自体負担になっている
純粋に喜べないのである。ただでしてもらってもそれは神が与えるものとは違ってさらなる報酬が要求されているからである

●神の国では無償で与えらる

この世で本当にいいものは自然の景観であるがそれは無償で与えられる、富士山を見たからと金を要求はしない
野の花を見たから何か報酬は要求されないのである。そして野に咲く花が最も美しいのである

なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

働きもせず、紡ぎもしません

人間が作り出す衣服は作り出すのに大変な苦労がある。野の花は働きもせず、紡ぎもしませんとなっている
それは労苦なしで咲いている。でも人間が花を栽培すると苦労して栽培したとなり報酬が金が要求されるのである
でも一番は花が美しいのは野に咲く花なのである。
人間は絶えず働き紡いでいる、それで必ずしも野の花のように美しいとはならない。だから人間の労働は膨大なものである
その労働の結果として大都会がある一千万の大都会があってもそこに一輪の野の花ほどの美がないということでその対象が極端なものと現れている。要するに膨大に働き労して紡いで作られたものでもそこに美がない、それは何なのだろうとなる
それこそ徒労だったのかとなる。

ともかく人間の労働はすべて賞賛されるものではない、絵を描くとか何かその人なりにしたいことをしていない、強制されて働く、何か与えられるにしても必ず報酬が要求される
そのことは資本主義だろうが共産主義だろうが変わらないのである。また変えようがないのである
そこにこの世の絶望がある。神が自らの業で作り治める神の国でしか理想は実現されないのである
人間がいくら労働しても努力しても理想の国は実現することがないのである、そこに人間の限界がある。

神の国では神自ら治める
神の手でじかに食料も与えられる
それ故により甘美となる
鳥は着るもので苦労しない
住む家もなく苦労しない
食べるものでも日々ある
神は労せず何でも与える
その報酬は要求はしない
ただ感謝すればいい
そこに至福があり人は満ち足りる
神の計らいは万全であり
そこに災いはない
病もなく老いもない死もない
永遠の神の都で安らぐ

野の花でも鳥でも同じである。食べるものでも与えられているけど人間とは違う。着ることもないし家もないけど生きられからである。誰か苦労して与えるわけではない、神自ら与えるもので生きる。ただ家畜とかペットになると人の手から与えられたもので生きるから違ってくる。だからいくら餌を与えても慣れない猫になぜ餌やるのだろうとなる
また餌をやっても感謝もない、だからなぜ餌をやっているのかとなる。猫でも与えるときは何らかの報酬を期待しているからだとなる。

確かなことは人間は常に何でも苦労して作り出すから報酬なくしては何も与えたくないということである
giftはドイツ語由来でありそれには毒の意味があったことことが象徴的である。人間から与えられるものには毒が含まれているともなる。何かただより高いものはないに通じている。無償の賜物としては与えられないともなる
つまり人間から与えられるものには毒があるとなる。一番いいものは神から直に賜物として与えられるものだとなる。


2025年03月21日

真面目に働いても価値を創れない問題−ひろゆきの論


真面目に働いても価値を創れない問題−ひろゆきの論
【マリアとマルタの例えー花に興味がない人は価値がない】

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【ひろゆき】真面目に働いている人には申し訳ございませんが、真面目な人ほど使えない理由を説明します

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人間は常に価値が問われる存在である。真面目であることも価値はある。ただ何か真面目に仕事をしてもその人の価値が認められるのか?例えばレジにするにしてもそのレジをする。女性でも特別な価値を認められるのか?
ただ、レジにしても男性より女性が良いとなる。女性でもまた美人がいいとかなる。美人でなくても愛想がいいとかなる。
何かそこでほかの人と違うものを示せば、価値あるとなる。
何か。近くの店でも80近い人がレジを店番しているといい感じはしない。やはり若い女性の方が良いとなる。
だから、あらゆる仕事にも適材適所なのである。老人は裏方に回り掃除などをしていれば良いとなる。

ひろゆきはただ真面目なのなら、それだけでは真面目なのならそれだけでは価値にならないとしている。
ただ、時間どうりに真面目に仕事をこなす。でも、それだけでは価値にはならない。
何か、その人は営業でも。ほかの人とは違って、成果をあげればその人の価値が認められる。その人が、必ずしも時間どうりに来なくても結果を出せば価値あると認められる。それを真面目に時間どうりに働く人は違って成果を出しているからだとなる。会社ではいくら時間どうりに来て働いても成果が出なかったらその人を評価しない。
要するに、何らかの成果を出すことが評価につながる。

それで、わかりやすいのは芸術家である。たとえ一作でも優れた作品を作れる人は創作できる人はその一つの作品で評価があり、それでその一つの作品でも絵でも売れたり評価が得られ価値ある人とされる
音楽にしても一つの作品でも優れているとそれだけで売れるし価値があるとなる
その価値は必ずしも真面目な人でなくても天才的な人は作れるのである。もちろんゴッホとか価値を認められない人もいて苦しんだが死後その価値は世界的に認められた。生前は食うこともままならなかったが何十億にもなっている
そもそもそういう価値はいくら努力しても作り出せない、天才だからこそ作り出せたものだからである
芸術関係だといくら真面目に努力してもそうした作品を創造できないからである
第一そういう天才は努力しなくても創造できる。小学生から大人の小説を読んで理解していたとかなる
天才と秀才は違う、秀才は真面目な努力家だけれど何か新しい発見と創造に寄与しないのである

何が価値を作り出すかは多様である。別に普通の人でも様々な価値がある、その価値を見い出されない人いる
その女性は何かコミュニケーション能力が高い、そして緑化会社に勤めていたからまた農家の出だから花に詳しい
他の女性でも農家の人は花に本当に詳しかった。でも全然花に興味を持たない人がいる、その人はまだ若いので美人でも花に興味をもたないのである。だから私はその花に詳しい老人に価値があるとして金を与えている
ただ病気になって庭のことなどでもできなくなったので残念だとなる
その人は最初は家事をしてくれた、それもほんの一時期のことである。その仕事より庭の手入れとか花について知っていることに価値を見出したのである
それはキリストがなぜ家事をしているマルタよりキリストの言葉に熱心に耳を傾ける人女性を評価したのかとなる

マルタは当時の常識からマリアを非難しているのです。しかし、それだけではないのです。マルタの心の中にあった思いは、不満は、「自分も本当はイエスの話を聞きたいのに、女だから仕方なく家事をしている」という不満があったことです。

 マルタは「家事なら誰にも負けない。わたしは働き者で、マリアは怠け者だ」という優越感もあったのでしょう。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」というイエスの言葉は、料理のことだけでなく、このような優越感と劣等感の狭間で悶々として、ストレスと感じているマルタの心の状態を指摘しているのではないでしょうか。

マルタとマリア

そういうことはあった。でもマリアの方を評価した。それは私の母がそうだった。結局大正生まれで働くことしかなく何かその他のことは何にも全く興味をもたなかった。それはやむえない家庭に事情でそうなった。貧乏な時代は常に働くことが優先されたからである。だから戦時中食料がなく苦しんだから庭に豆を植えていたのである。花はいらないと言っていたのである
それはなんとも悲しいというか異常なことに見えた。その時何か母が巨大な働き蟻に見えたのである

母は働くことにしか金になることにしか価値を見い出さなかったのである。それはそういう環境で育ったからであり母が全部責任があるとはならないのである。あまりに貧乏だとそうなってしまう、花より団子になってしまうのである。
何故その時キリストの言葉を聞くことが大事だったのかそれはその時をのがすともはやあうこともその話も聞くことができなくなっていたからである、だから家事が必要でもキリストの言葉を聞く方が大事だったのである

いずれにしろ真面目に働くだけでは価値が生まれない、

野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

働きもせず、紡ぎもしません・・・必ずしも真面目に働くことが価値をうまない。だから怠けていろと言うのでもない、
真面目なことがすべて価値にはつながらないのである。価値を生み出さないのである
でも私は天才でないから芸術の創作などでも学問でも真面目に追求してきたのである
そしてこの年になってその成果を出しているのである。だから何に対して真面目なのかが問題なのである
切磋琢磨して職人として真面目に技を磨くことはいいことである。何でも天才でない限り努力しない限り身に着かないのである
真面目に精進することは大事なのである。ただ真面目に決まりきったことをしても価値を生まないのである
それでみんな社畜だというときその人なりの価値を見つけ育て価値を創っていないのである
ただ価値と言っても余りに多様だから一概に言えない。

ただ様々な花を見るとき様々な形と色の花があり花はそれぞれ個性があり私を認め評価してくださいとなる
それはそれぞれに違った美があり花の楽園を作りそこがパラダイスになっているのである
つまりそれぞれに違った美があり価値があるとなる。同じだったら価値がないとなる。その美のイデアを作り出したのは神でありその様々な花を見るとき神の業に感嘆して神をほめたたえるともなる
その時もほめたたえられた神も喜ぶとなる。でも花に関心がない人はマルタのように価値を認めないとなる
神はその創造した花を見て評価する人の方を価値あるものとされるということである

とにかくこの世の価値は余りにも多様なのである。だから何に価値があるとかなると簡単に言えないのである
ただ糞真面目に働いても価値は生まれないとなる。それはロボットにやらせればいいとなる
現実にそうなりつつある。ロボットにAIでもできないことをすることがこれからのからは価値あることだとなる。
だからみんなアーテストになれというのは団塊の世代の高度成長時代と価値観が変わったのである
どうしても貧乏な時代はそうした余裕がなからそうなっていたのである。

いずれにしろ老人になり価値が問われる。どんな価値を作り出したのかその人なりの価値を作り出したのか問われる
それは死んでも問われる、なかなか人間のことはわからない、家族ですらわからない、でも死んでからいろいろと自ずとわかることがある、そういうひとだったのかとわかるのである、だから死んでからも人間の価値は問われているのである
弔うとは死者を問うことだからである、何をしてきた何の価値を残したかを問うことなのである


2025年03月14日

金だけではない人間は価値を求めその人の価値を見る 【価値は多様であり変化するー花を知る人の価値】


金だけではない人間は価値を求めその人の価値を見る
【価値は多様であり変化するー花を知る人の価値】

●金を増やすだけでは価値にならない

投資をするとき株の投資を考えるがなんとか金を増やそうとする、その動機はただ金を増やすことである
何か投資する会社のことを知りそれがわかり投資する人は稀だろう。そうなると難易度が高くなるからである
地方銀行でもそもそも投資信託を奨めたが銀行すらその会社のことがわかって投資をすすめていない
ただ適当に当たるも八卦当たらぬも八卦であり銀行は手数料をとることが目的でしかなかった
そもそも投資する会社のことがわかることは容易ではない、プロですらわからないし損を出しているからギャンブルだとなる。
何かわからずに金をつぎ込んでそれが運よければもうけがあるとなる。

またその時々の時代の情勢でも変わる
ともかくこうした株式投資は金だけが増やす言うだけでありそれが問題だった。何か仕事するにしてもただ金だけを利益だけを得るということはそれを目的とすることは問題がある。
でも現実社会ではまず利益を出すことが最優先される。利益をあげれば成果として認められる。それが不正であっても利益を上げらば認めてもらえる。でも何であれ高等なことを言っても利益をあげなけらば認められない。そこに矛盾が生まれる。

何かそういうことは社会全般にある。成果を出せ利益を出せと常に強制される。そうしなければ会社自体成り立たないとなるからである。理想はあっても利益が出さなければ会社は成り立たない。そのジレンマに悩む。
カルト宗教団体でも実際は利益が御利益が第一だという時、お布施をもらえる、また一票を得ることは具体的な成果として出てくるから目標となる。金と票は具体的成果なのである。それが信心の結果になる

ここで人間はとにかく利益を上げる、金を増やすというだけになる。でも人間が何か買ったり時間を使うという時価値を作り出すために使う、何か消費するにしても本を買うとしたら知識を広めるため深めるために買う、それはその人なりの価値を作り出すための消費である。私自身膨大な本を買った、読まないものがあったが確かなことは知識を広め私なりの追求するものがあり買ったとなる。それは明らかにただ金を増やすためではない、目的がありしてきたことである
また旅でも見分を広めることでありただ遊ぶだけではなかった。それは明らかに目的があり具体的成果がある投資だったのである、旅をして見分を広め地名とか地理に興味を持ったからである。それはただ金が増えればいいというものではない、世界を広く知り見聞を広めてたいという動機があった。

つまり人間とは何らかのその人なりの価値を見い出して作ってゆくのが人生だとなる。そのために時間が与えられているし金も必要だとなる。金だけを増やすことが目的ではない、金を得たとしてもそれだけでは価値にはならない、その金をどのように使うかが問題になる。でもそもそもそんことより食べるために働かねばならないとなる。何が自分の価値を創るのか?
それより今日一日食べるために働くとなる、強制されるのが普通だとなる
それでも人間は働くことであれ遊ぶことであれ価値を作り出す、それが最後に老人になってあなたは何の価値を作り出してきたのですかと問われる

●花に詳しい老女になぜ金を与えるのか

それは別に意識して働かなくてもとにかく人間は何かに時間を費やしている。その人は別に取り柄があるわけではない、金も残していない金で苦しんでいる、でもその人は緑化会社とか庭作りとで仕事していて花とかに詳しいのである
花の美を見るのではなくその花を手入れすることを知っているのである。
だから花を見てその手入れができるのである。私は花の美を見ているがその年配の女性は花の育ち具合とか土の状態とか見るのである。だからその人は私の家に来て何もしないけど金を与えているのである
なぜなら全く花に興味を示さない女性もいる。その人は比較的若くて美人だけど花に興味を示さないから私にとって価値ないと見る。
私の母親も継母に育てられ花に興味がなく花などいらない無駄だとしていた、食料でも苦労したから庭に豆を植えていたのである、それを見て悲しかった。それは母のせいではなく花を見るような環境に無く働かせられていたからそうなったから一概に責められないのである

やはり貧乏だとどうしても花より団子になてしまう。日々食べることで精一杯になる。私の場合はそうした仕事にも追われることもなく様々なことを暇だから追求してきたからである。だから私の場合は特別恵まれてそうなったとなる
ともかく人は人生で何か必ず価値を作り出すものがあるし本来は価値を創ることのために投資すべきであり時間を使うべきだとなる。なぜならその価値を老人になると問われる、例え相当な金を残したとしてもその金に価値があるのかとなる
その人は何の価値があるのか価値を作り出してきたのか何に時間を費やしてきたのかとなる
その人は金を残しても何をしてきた語らないしわからないとなる。ただ金は残したのである。でもその人に価値が認められるのかとなるとないとなる。だからすべて金で計られるともならない、ただ毎日食べることにも事欠く人も増えているから金がいらないととかではない、価値は金だけでは計れないということである

価値は多様だからである。その女性は貧乏でも毎日食べることに事欠くとしても花に興味があり花を育てる智慧を身に着けていたのである。その人はまた農家育ちであり健康な時は畑で野菜作りしていた。それもほとんど収穫はなかった。それでもその話が私は興味をもっていたから金を与えていたのである。つまり農業を実地にしている人は自然を血肉でもって知っているともなったのである。だからその女性に金を与えても自分自身は無駄だとは思わなかったのである
農業知る花を育てることを知っていることは価値あることと認めたからそうなる。別に利益が得られなくても損したとは思わないのである。
人間の価値は多様だから別に金にならなくても価値がある人はいる価値になるものは無数にあるとなる

●その人なりの価値を作り出すのが人生−弔うとは死者を問いその価値を問うこと

いずれにしろ人生は何らか価値を創ることが目的であり利益を金を得ることだけが目的化すると最後に自分の価値は何だったのかと他者からも自らも問われる、何故なら死んでも終わりではなくその人の生きた価値が依然として問われるからである。
弔うとは死者を問うことである。死んでもその人が生きた価値が問われれる
最近有名なアナウンサーが死んだけどな十億の金を残して死んだというがではその人の価値は何だったのかと問われる
金ではなくその価値は何だったのかとなる。戦争で死んだ人達も何で戦い死んだのかと深刻に問われる
でも目的と確かな価値を求めて死んだとしたら悔いはないとなる

確かなことは人生の価値は残した金の額だけでは計れない、その価値は多様でありその価値が老人になり最後に他者にも問われまた自らでも問われるのが人間だとなる
この価値を問うということは死んでも終わらない、なぜなら延々と死んだ人の価値を問うからである。明治維新でもやはりそこでしてきたことの価値が今でもいろいろと問われる、その価値も一定ではなく変化したりしている
死んでも依然として価値が追求され問われているのである

カルト教団でも一世を風靡した教祖でも死んで全く価値がなくなることもある。生前いくら脚光を浴びても死んだら全く語られず忘れられて無価値になる人もまた多い、だから人間の価値は生きている時だけで決まるわけではない。
死んでからも延々と価値が問われるのである。

結局人間は最後から老人になって人生を振り返ると誰でもわかることがある。それで老人で後悔しない人はいないのである
金は有り余るほど残したけど社長であり忙しくて旅もできなかったとか何か自分のしたいことができなかったとか後悔する
ともかく人生とは限られた時間を何に費やしたかが価値になる。そして人間に与えられる時間はみんな限られている
ある人が特別な長く与えられるわけでもない、ただ長く生きる人とそうでない人はいる、でも時間は大概平等に与えられている
だから公平だとはなる。ただ金は公平には与えられていない。

でも人間の生きる時間は短い、その間に経験することも限られている。いくら金があってもやはりその人の経験することは限られている、あらゆることを経験することはできないのである
その点は平等だとなるかもしれない、要するに花のことを語ったが花にしても多様だから詳しくなるのは難しくなる
ある人はクリスマスローズを育てているとか知った。その種類もいいろいろあるからやはり詳しくなるには時間がかかるのである。でもその花に詳しいということは価値を作り出しているのである。一つの種類の花に詳しくなることもまた価値を作り出しているのである。だから価値は多様なのである。そしてクリスマスローズの専門家とももなり価値ある人となる
だから価値という時金ですべては計れないのである。だから最後にこの人は何の価値を残したのかという時金では計れないのである。何億残したとしてもそれは他人には関係ないからである。それでその人の価値は計れないのである。

あなたの価値は何ですか?
私は何億の金をもうけてためた、それが私の価値だ

最後はそうはならないのである。金ですべての価値を計れないのである。価値は余りにも多様だからそうなる。
ただ金があればその金を使って価値を創ることはできる、でも死んで金を残してもそれを子供に残しても価値とはならない
つまり価値とは何かというとき多様でありそれが哲学的問題になる。哲学など一般に関係ないとなるがやはり価値は価値は必ずだれにでも問われるのである

2025年02月25日

天国の一つの楽園の詩 【この世からそれぞれの個性で天国がイメージされる】

天国の一つの楽園の詩
【この世からそれぞれの個性で天国がイメージされる】

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様々な色の花々
赤い花、黄色い花、青い花
そのコントラストに映えて
赤い花はさらに赤く
黄色い花は一段と映え
青は深みをます
天使のように蝶が舞い
馥郁と香りは流れ充たす
十分に蜜は供給される
鳥は花を食べ木の実を啄む
種々の果実は豊に実り
食べ物の不足する心労はなし
そこに老いもなく病もない
一つの美と調和の国
石と石は黙して
木は大地に強く根を張り
信頼を深めて動かじ
かたつむりはせかされることなく
石の上をのろのろと進む
山鳩はここに集い平和の楽園
時計は止まり時は日時計が知らす
事物と事物は所を得て
言葉は本来の重みを回復する
ロゴスの完成した和合の一世界
そこは神の祝福が注がれて
選ばれし者が住む
室内楽のように心地よく響き合う
そこは小人数が集うたゆまぬ研鑽の場
一人一人が役割を担う創造の国
そこに電車の駅があり
次なる楽園に人を運ぶ
駅は新たな夢の国へ運ぶ
期待と希望の場所
いくつもの多様な国々を回る
旅に終わりはない
新たな世界へ電車は運ぶ


この世とは何か?それも謎だけど何らか天国的なものがある。何故ならいくら天国があるとしてもそれをイメージするのはこの世しかない、全くこの世と違った世界をイメージすることは不可能である。何か天国で語る時もこの世から経験したことやこの世で見たことからイメージする。全くこの世から離れた世界をイメージできないのである

だからなぜここに一つの天の国に鉄道の駅があるのか?天国に鉄道の駅があるのとなってしまう。それはこの世で経験したことから天国をイメージしているのである
鉄道の旅を私自身が経験して鉄道が好きだからそれが天国にもあるとなる。要するにこの世からしか天国でもイメージできないし全くこの世と違った世界はイメージできない、それは地獄でもそうである

現実にこの世の地獄が現在でも生々しくあり毎日のように報道されている。むしろこの世は地獄と感じるのが普通である。天国はむしろイメージの世界でしかありえないとなる。
それでもやはりこの世にあるもの見たものから天国をイメージするのである。だから天国になぜ鉄道があるのかとなる
ただ私は車は必要でも好きではないから天国には車はないとなる。この世にある物でもそんなものがない方がいいとかそんな人がいない方いいとかいくらでもある。

そういうことから天国をイメージする。軍隊とか警察はない方がいいとか病気が無い方がいいとか老いるのは嫌だから老いることがない世界に行きたいとなりそこが天国だとなる
もちろん死ぬことも無い方がいいとなりそこが永遠の命が与えられて生きるとなる。つまりこの世は地獄であっても天国的なものがありその地獄を脱出して天国をそこにイメージする
第一動物でも食われつしている世界は地獄そのものである
ゆっくり寝てもいられないとなる。

正直この世は地獄を生きることである。親鸞の言う地獄が一定の住処だとなる。人間の歴史もこれも信じられない地獄を作り出した記録である。余りにも残酷な歴史である
だからこの世の地獄を脱出して天国に行きたいとなる

人間でも地獄人間に取り囲まれているともなる。愛がどうのこうのといっても実際はエゴにしか生きられなのが人間であり生物である。そしていくら科学が発達してもやはり地獄なのである
核兵器があれば核戦争になり現実日本は被害にあい原発事故でもそうである、科学技術によってパラダイスが生まれるわけでもなく別な新たな地獄が生まれる、車が便利でも交通事故がなくならない、空飛ぶ車ができても空をそんなものが飛び交っていたら落ち着かないともなる。鳥が飛ぶのとは違うからである

とにかく天国と言ってもその人によってイメージするものが違ってくる、同じ天国をイメージしないのである
何かロゴスと言っても別なふうに解釈する人もいる
天国をイメージするにも個性によって違ってくる。だから天国でも一様ではなく多種多様だとなる。
ただ確かなことはこの世で見たものから経験したものからイメージしていることは確かである、でも個性によって見え方が違っている。
電車に乗って行くと別な世界が開けて見えるのと同じでありそこに変化がありあきないとなる。いくら天国でも同じだとあきるからである。

いずれにしろ数人でも個性ある人物が集まればそれだけでも規模は小さいにしてもルネサンスが生まれるともなる
ただ大衆とかから集団組織からは生まれない、そこはナチスのように同じ制服を着て教祖と同じ顔になる
大量のロボットの生産となる。でもそれは権力化して社会を席巻するのである
何を見るにしても個性によって見え方が違うのもまたこの世を豊かにする
みんな感じ方でも同じ色しかみないとしたら多様性は喪失するからである
カルト宗教団体は個性の否定であり一人の教祖のコピーの大量生産なのである
文明を糾弾する時そうした規格化されたみんな同じにすることで批判の対象となる
















2025年02月24日

上野霄里(うえの しょうり)氏の集団組織化の激烈な否定はなぜなのかー北の大地の原生人間〔詩〕 【集団組織は国家がそうであり莫大な死者を出した歴史を知るべし】


上野霄里(うえの しょうり)氏の集団組織化の激烈な否定はなぜなのかー北の大地の原生人間〔詩〕
【集団組織は国家がそうであり莫大な死者を出した歴史を知るべし】

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なぜ上野霄里(うえの しょうり)氏のことが理解できないのか、なぜ彼は徹底して組織集団を否定したのか、それは異常にもなり理解できなくなる
でも逆になぜ一方で人間社会は組織集団化することに熱狂する。
組織集団のためなら何でもするとか組織集団に必死に同調して同化するのか、それも極端な対比だから何なのだろうとなる

その歴史的実例の怖さとしてナチスの非道がありまた共産主義の教条主義がありそのために何千万なのか粛清されて殺された
また日本でも戦争で国家のためにと300百万が死んだ。
それは国家という集団組織がありそれが成さしめたとなる
現代ではカルト教団がそうである。そこは創価でも隊長とか参謀とか軍隊組織になっている。だから国民を軍隊として組織化するからそれは戦争になれば同じように人を殺戮するともなる。
ナチスにもなる。その組織集団の命令には絶対服従が強いられるからである。宗教だから平和を追求するわけではない、そういう組織団体は権力を得て社会を支配することである
それは共産主義でも同じなのである。この人間の集団組織化による甚大な被害は何だったのかとなる

それは人間の集団化組織化でありナチスと似ている。同じ制服を着てヒットラーがいて右に習えとなる。教祖に絶対服従となる
それで死ぬとしても従うとなった。このことが理解できない
だから上野霄里氏の言うことが余りにも社会常識からはずれているとしてもなぜそうした集団組織が行ったことが膨大な死者をもたらしたのかとなる
その狂気はどこから生まれたのか?
それが不可解なのである。
それでニーチェが

個人も狂っているが集団も狂っていると言ったのである

その個人が狂うよりこうした組織集団が狂うことほど恐怖はなかった。それは歴史に記された異常な恐怖となる
だから上野霄里とかニーチェの言う原生人間とか超人とかは一般人には理解できない、でも逆に人間は異常なほどに集団組織化に熱をあげるのかとなる。それが人間の習性で集団組織化して仲間だとして気勢をあげる。そして仲間に入らない者は糾弾して異常化して無視して攻撃してくる、異常だとして排斥する
でもどちらが異常なのか歴史が証明している

でも多数が正しいとなり多数の言い分は何であれ社会を席巻するのである。なぜならナチスはヒットラーは選挙で正式に選ばれたからである。創価などでも選挙宗教になっているのは選挙は権力とじかに結び付いているからである。それは宗教でもナチスとにているのである。

でも社会は集団化組織で成り立っている。会社でもそこは集団化組織化しているのだからその集団組織の意向に従わねばならない
社会自体そうなっている。国家自体が集団化組織化したものである、それでその集団に従わざるを得なくなり膨大な死者を出したのである。だからニーチェでも国家を否定しているし上野霄里氏も否定する、でも集団組織を徹底して否定することはその集団組織の敵にもなる、だから集団組織からは認められないとなる
ただその極端な対比で見えてくるものがある。集団組織化は非常に怖いものでありそれが莫大な人間の死になったことである。
小人数ならいいが巨大な集団化組織化は危険なのは暴走しても誰ももはや止めることもできなくなったということである


北の大地に立つ原生人間

広々とした北の大地に原生人間が独り立つ
新鮮な空気を吸い込みその強健な体躯
北の果てに聳えたつ独立峰の利尻岳
北の海は唸り轟き吠える
原生の大地は花々に埋めるつくされて
野生の鳥が激しく鳴き飛ぶ
そこに雑音はなくただその鳴く声が響き渡る
そして冬は純白の雪に覆われて
北極星がきらめき方向を示す
ますます厳しく屹立する利尻岳
烈風が吹きつけ直立不動
真実の覇気ある厳格な姿
原野に雪嵐がうなり残るは獣の足跡
あわれアイヌのカムイコタンよ
熊の皮を敷いて一冬を耐える
原生人間は星となり天に輝く

何か上野霄里氏は北を目指したけどそれが東北ではなく北海道がふさわしいとなる、原生人間という時北海道が原野があり広大でありふさわしいとなる。私自身も北海道に死にたいとまでなっている
北海道は外国人でも魅せられる。何かやはり日本的景観とは異質なのである。だから北海道に立つと気持ちまで変わるのである
日本ではあのような平原とか広大な平地がないからだとなる。






2025年02月23日

何のために働くのか? 【meaning〔意味〕とmission〔使命〕を追求していない、利益第一となる問題】


何のために働くのか?
【meaning〔意味〕とmission〔使命〕を追求していない、利益第一となる問題】


●人間は何であれ利益第一―カルト宗教も御利益第一

伊藤貫氏がmeaningとmissionを追求しろというとき一体国家であれ組織であれそんなこと追求しているのか、第一は利益を上げることである
でも老人になって問われるのはそ人のmeaningとmissinoは何だったのだろうとなる、結局利益であり金儲けが第一になる
そうしなければ会社でも成り立たないからである。
そういう意識を持って働いている人などいるのかとなる。今日食べるために金が必要だから働くというのが多数だろう

meaningとmissionを意識するのは極一部ではないか?
そんなことで社会が動いているのかみんな働いているのかとなる
まず何であれ利益をあげろというのが要求される
それはカルト教団でも同じである。御利益は普通の社会より追求して仏であれ何であれ祈っているのである。
meaningとmissionを意識する人はまれである。第一そんな高等なことを言っていたら大衆はついてこないしその言葉すら理解していない。でも御利益なるとか権力を得て社会で威張れるとかなれば即座に理解する。その言葉すら理解できない。

●人生の成果とは何なのか

でも老人になるとかえってそのことが問われる、一体あなた何のために生きて来たのか、ただ金を稼ぐために生きて来たのか
ただそんなことより日々食べるために仕事して来たとなる

でも何か結果的に10億円でも残した人がいる。でもその人は必ずしも何か価値あることをしてきたのか、そうともならない、ただ人が寄ってくるのはその金のためだとなる。別にその人のしてきたことに価値を認める訳ではない、そういう人は何か語るものをもっていない、農家の人とかなると作物を育てる様々な苦労を語る。大工さんでも苦労を語る、商売の人も苦労を語る。
でも株で億の金を儲けたと言っても何かそれを語っても聞いてもわからないし価値を認められないのである
何かうしろめたいことがあ全く語らない人もいる

だから人生の成果とは何なのかとなる。今ならどれだけ金を稼いだかで見られる。でもそれが本当の価値あることなのか?
そうもならないのはなぜなのかとなる。そもそもmeaningとmissionを意識して働いてきた人が極めて少ないだろう

ただ目前の利益に追われるて働いているというのが普通だろう
個々人でもそうだし社会全体でもそうである。社会でも国家でも何が目的であるのかもわからない。国家が真善美とか追求しているのかとなればない。国家とは何のためにあるのかそれもわからない。トランプ大統領のように政治とはデールだとなる。商売の取引だとなる。得と損であり損になればやらない、他国も助けないとなる、協力しないとなる。すべて損得利益で見る
国家もやはり会社と同じだとなる。

●戦争で300万人死んだ意味が深刻に問われる

でもmeaningとmissionを意識させられるのはなぜ戦争では300万人も死んだのか、それが不可解なのである。そんなに死んだという時その人達の死の意味を問われる、なぜなら死を賭して戦い死んだのに何の意味もなかったとされたらどうなるのか
それが無意味な死であったとなればどうなるのか、では戦争をした人たちは何かmeaningとmissionを感じて持って戦争したのかとなればそれもそうでもない、国から命令されたからであり強制されたからだとなる。そうして戦地に行った人も問題があるかもしれない、ただ何のために戦争に行くのかなど考えない、赤紙一枚来て突然戦地に行かされたのである。強制されたのである。

そして戦争が終わり戦没者供養をしているがでも返ってmeaningとmissionが問われている。それも深刻なのである、それはそれだけの人間が無駄死にだった言えないからである。犬死だったと言えないからである。だからもともとmeaningとmissionがわかりそのために死んでもいいとなっていれば問題なかったとなる。
それがあいまいでありだからこそ今それが深刻に問われているのである。それが個々のの人生でも同じなのである。

老人になってそれぞれ生きたmeaningとmissiongあ問われるのである。それも厳しく問われる。そして価値判断が成される。また死んでもでもやはりその人のmeaningとmissiongが問われる
それでもmeaningとmissiongお意識して働く生きる人はどれだけいるのかとなる。ただ金のために働く働かさせられる。そういう人がほとんどではないか、そうであっても最後にはその人のmeaningとmissionggあ問われるのである。

だから最初に神の国を求めなさいというときそれがmeaningとmissiongnいなるからそうなる。様々なことがあってもそれを第一としてmeaningとmissionを持ち生きることである。
求めるものが間違っていればやはりいくら利益を得ても最後は価値ないものとされる。それが老人ななって最後にわかるというのが問題なのである。まずは利益を求めなさいとなっている
そうしなければ食べてもいけないとかなる。

でも人間は意味ある死がありそれが大事になる、なぜならみんないづれ死ぬからである。だらだらと生きてもそれが意味あるとはならない、ただ恥があるだけだとなる。それなら意味ある死を死んだら価値あるとなる。そもそも何を目的として生きているのかそれが明確ではないのである。真善美を追求している訳でもない、意味ある生を追求している訳でもない、それが問題なのである。


2025年02月22日

老人が問われる人生の価値 【不遇でも人生の時間を何に費やしたか問われる】


老人が問われる人生の価値
【不遇でも人生の時間を何に費やしたか問われる】

●不遇な人もそれが言い訳にはならない

人間の価値というとき老人になると人間の一生の価値はなんであったかとなる。その一生の価値とはいろいろ他者が批評するがみんな違ったものになる、それはその人が一般的には努力した積み重ねたものが価値となる。
だからどんな家族に生まれたとかいろいろ条件が違っている。でも人生という時そうした生まれつきのものではなくその人なり築きあげてゆくものがある。

俺は家族にもいろいろ恵まれていないからうまくいかなかったのだと嘆く、それも確かのそうなのだがそうして他者や環境のせいにしても結局その人の一生はその人は築き上げるほかないとなる
いくらいろいろ恵まれていないと文句ばかり言っていても何ら積極的なものが生まれず改善もせず終わることになる
一生がただ運が悪かったとか回りの環境が悪いためであり自分のせではないとしても結局自分のせいになっている
ただ戦争で死んだとか氷河期世代とか世代的に時代的に不運がある。それもまたどうにもならないとなる。

知っている大工さんは学校でできなくても大工として壁塗りから庭仕事からいろいろなことができる。そのことの価値は認められる。その人はそれなりに努力して他にはできないような価値を作り出したということである。
でも学校で勉強ができないから何でも俺はダメなんだと思っていしまえばどうなったのか、何もできない人になってしまったということにもなる。つまり自分の不遇を嘆いても何ら解決しないともなる。ただ恵まれた私が言えるかとなる。でもそうして身の不遇を嘆いていても何ら解決にはならないことも確かである

●老人に問われるもの―何に時間を費やしたのか

いづれにしろ老人になると問われるのはあなたの一生は何だったのかとなる。あなたが経験したことは何だったとのかとなる。
そのことを旅が人生でもあったとなり私はプログに書いたのである。それが遊びだとしてもやはりそれが一生でもあった。
私はそのことに満足している。そのように生きられたことに満足している。それは家族に恵まれたからであるがそうでなくても人間はいくら不遇でも結局老人になり問われるのはその人が何をしてきたか、努力して来たか何を積み上げてきたのかである
何かしら積み上げてきたものがる。引き籠りでもある。そこに時間がありその時間を何に費やしたかである

人生とは何に時間を費やしたではないか
それが何であれそうなってしまう

それを社会運動であれカルト宗教であれそれに時間を費やせばそうなる。それが間違ったものであってもやはりそれに時間を費やしたのだからそれがその人の人生であり価値だとなる
でもそういう組織団体に属している人の価値はその組織団体が消滅すればなくなる。その人自身の価値ではないからである。

●何かを理解するのにも時間がかかる

俳句であれ短歌であれそれを作るには四季を感じて季語を理解する。だから必ず時間がかかる。時間がかかるというとき本を家が傾くほど買ったが理解していなかった。本というのはそもそも理解することが難しいと思った。ただ読んだとしても理解したとはならないからである。自分の文脈で引用することで自分のものになる。本は本当に理解することが難しくただ積読〔つんどく〕になっていたのである。
人間はそもそも天才でない限り何かを理解することができない、時間がかかる、つまり人間は何をするにも会得するにも時間がかかる。でもその時間を常に無駄にする浪費しているのである

いくらでも時間などあるではないかと見ている。でも遂には最後は時間切れで終わる。たったこれだけで終わりなのかいろいろできると思ったができなかったとなる。そしてもう二度と人生をやり直すことはできなくなる。後悔してもどうにもならないのである。生きる時間が消失したのである。

いずれにしろ人生を後悔しない人はいない、ああすれば良かったこうすれば良かったとか何かしら後悔のまま人生は終わる
後悔しない人は一人もいない、私自身も勉強の仕方が悪かったとかもっと早く海外旅行すべきだったとかいろいろある
老人になり後悔しない人は一人もいないのである。それだけ限られた時間を有効に使うことができていないのである。
結局人生は二度はない、後悔先にたたずになる。それが人間の繰り返しだとなる。でも否応なく老人になるとそれを思い知らされるのである。

焼き捨てて日記の灰のこれだけか 山頭火

最後に人生をふりかえるとこんなものかともなる。意外と人生も終わってみれば日記も結構な量を書いたが灰になていしまったとなる







2025年02月19日

なぜ共産主義革命が失敗したのか―一挙に社会を変えることで犠牲が大きかった 【創価公明も同じであり失敗】


なぜ共産主義革命が失敗したのか―一挙に社会を変えることで犠牲が大きかった
【創価公明も同じであり失敗】

●共産主義革命の失敗の原因

なぜ共産主義が失敗したのだろうか。それは一挙に極端に平等化を目指したからではないか。それはあまりにも強引だったのである。確かに社会の不平等はある。それを是正したいということもある。
でもそれを一挙にやろうとすると暴力革命になる。フランス革命でもそれは行き過ぎたものだったのである。貴族階級を殺すということで平等を実現しようとした。
また共産主義革命でもやはり一挙に富裕層とか支配者を殺すことで暴力革命で平等を実現しようとしたのである。でもそれもあまりに強引すぎて極端になって返って何百万もの人間が殺されたとなる。何か知識人でもその人たちは楽して得をして大きな収入を得てるとか憎悪のの対象になったのである

カンボジアでは眼鏡をかけているだけで何か気に食わないとなり粛清された
みんな黒い服を着るとか何でも一様化する。外国語を話す人も粛清された。また宗教でも弾圧された。それは中国でも前のソビエト連邦でも起きた。中国でも起きた.それはなぜなのか
人間を一様化平等化することを性急に実現しようとした
また社会の底辺層の不満分子を組織化して暴力革命を実行した
そこにも多大の犠牲者を出した。それはナチスとも似ていたのだる。つまり全体主義だったのである

人間の問題は何か一挙に解決できないのではないか?
時間をかけないと解決できないのではないか
解決を急ぎすると失敗するのではないか

●人間の運命の不可解

人間の問題は様々ある。そもそも人間の運命自体が不可解なのである。金持ちの家に生まれるものがあれば貧乏な家に生まれるものもある。その差も大きいのである。
それだけではないさまざまな不平等が人間にはある。金持ちの家に生まれても何か交通事故で早く死んだりするもするしすべて恵まれている人はいない

だからなぜそうなっているのかということが不可解になりインドではカースト制が生まれた。それは生前の行為がカルマとなってそうなったと言う事である。どうしても不平等がありその不平等はの原因がその人の生前の善行とか悪行とかカルマと関係してそうなったとする思想である

そういう思想が生まれたのはやはり人間の運命というのは不可解だからである。例えばフォーチュンというのは財産が運だというのもそうである。いろいろあってたとえその人が優秀で才能があっても必ずしも成功して富を得るわけでもないからである
だか運の作用が大きいとして理解したのである

人間の不平等とか様々な問題を一挙に解決しようとする時そこに無理があり返って多大な信じられない犠牲者が出たということである。それは戦争というのもそれと似ている。戦争で問題を一挙に解決しようというとき世界でも日本でも何千万人になるのか信じられない犠牲が出たということである。

何か共産主義でマルクス主義で一挙に社会の不平等でも問題が解決できると熱狂したがその犠牲者は膨大なものだったのである
だからといって資本主義がすべていいというわけではないし推奨しているわけでもない。何か理想の社会などどんな主義であり実現することはない。それを無理して強引に実現しようとしたのがマルクス主義でありその犠牲者は膨大なものだったのである。

この世の人間の問題は一挙には解決できない!

●猫にも運命が作用していた

そこには時間が必要である。時間によっておのずと解決するかもしれない。それを個々人の運命でも人生でもそうなのである。何か一生苦労するということはないかもしれない
私が経験したことで不思議なのは猫を一匹飼っていた。その猫はなついていたのである。でも黒い猫が餌をやっているとき必ず来て奪おうとしていたのである。
私はその黒い猫を追い払っていたのである。ところが私の家で飼っていた猫は死んだ。その結果として私はその黒い猫に何か知らないが餌をやるようになったのである。でも一年なのか二年なのか餌をやり続けてもその猫は慣れることはないただそれでも餌
をやり続けているのである。

これはだからこれは何なのだろうというとき一つの運命だったともなる。何かい人間でも人が死ぬと誰かが得するというか変わるということがある。私の父親違いの兄は東京で父親が死んでその妻だった私の母親を私の家の後妻となったのである。
でも私の家はその兄を良くしなかったのである。私は特別良くされたのである。そして兄は40歳くらいで交通事故で死んでしまったのである。そもそもは本人の不幸は実の父親が事故で死んだということだったのでそしてその子供も事故で死んだのである。だからこれは何なのだろうとなる。

その人は近くの男性と親しくなったのはその男性は妻を亡くしてから親しくなりその家にも手伝いとかに行っていたのである。そうなったのはその男性の妻は死んだためそうなったのである。それで恩恵を受けたのである。
何か誰かが死ぬと誰かの運命は変わり恩恵を受けるということがある。それは何なのか良くわからない。でも何らかのことで人の運命は変わるもちろん悪い方にも変わるのだが良い方にも変るのである。

現実自分自身のことだがなぜその貧乏な人に私が応援して援助しているのかというのも不思議になる。それは私の家族が全部死んだ結果としてそうなったのである。だからそれ私は特別親切だとか何かそういうことでもない何もないのである。一つの運命としてそうなったとしか思えないのである
もしかしたらそういう風に人間というのは何かの運命に強制されている神に強制されているのかもしれない。そうした運命を無視して人間の力で強制的に運命を作る平等化するということがうまくいかないのはそういうところに原因があるかもしれない。

●一挙に社会を強引に変えることはできない

つまり何か人間というのを社会を一挙に強引に集団的に組織的に変えることは何か無理がありそれが多大な犠牲を生んだのかもしれない。例えばそれはカルト宗教団体にも言える。宗教だからマルクス主義のように平等目指すということはない。カルマだとしてその人の前世の行為だとなればそうなる

でも創価などを見ればそうした宿命論ではない何か共産主義と似ているのである。そうした底辺層の不満を政治によって権力を持って一挙に解決しようとする。それは何か共産主義と同じではないか。つまり何が共通しているのかというとそうした不満分子を集めて一挙に社会を変えようとすることである。
それが共通しているのである。

ただそうしようとするのは幹部たちがそうした不満層に訴えて政治的力を持ち自分たちの権力を得て得するという目的にもなる。だから中国でも共済党の幹部になれば莫大な金を得ることができそしてまたそこに不平等は生まれているのであるみんな共産党の幹部になれば金持ちになれるとなったなっているからである。

ともかく社会はそんなに一挙に変えられものではない
もしそれを強引に実行するとカンボジアやロシアであれ中国でも多大な犠牲者が出したのである。金持ちを血祭りにあげるということは何かやはり問題があった。それが行き過ぎたものになったのである。でもそうした不平等とか問題は時間をかけて解決するということができないからそうなった。

●時間をかけないと裕福にもなれない

何か裕福になるにはとても一代ではできないように思うからである。私の家でも父親は酒屋の丁稚である貧乏で苦労してきたしほかの人も苦労してきた。でも日本でも高度成長時代がありみんなは裕福になれたということがあった。その時戦前ならば地主と小作がいてこれも不平等だったがアメリカの支持でで地主がなくなり小作に土地が与えられて不平等はなくなったのである
でも戦前でも共産党は暴力革命を目指していたのである。そ。れで取り締まられたこともあった
ただ民主主義の社会では暴力は許されないから選挙活動で平和革命を行うようになったのである。

だから何か共産党と創価公明党は似ているのである。どちらにしろ社会を性急に変えれば不平等はなくなる。その事では一致しているからである。創価公明というのは仏教だから平和革命などと言っているが現実はその組織団体は軍隊と同じなのである参謀とか隊長とかがいて軍隊組織になっているからである

その組織団体を権力を奪取して社会を一挙に変えて不満分子に恩恵をもたらすものとするからである、御利益を与えることができるからである。宗教は個々人の心の内面を問題にするがカルト宗教は創価でも社会を改革すれば改善するとなるから共産主義と似ているのである。

確かなことは人間個人であれ社会であれ一挙に変えることはできない。裕福になるしてもまた一代でよってできない。つまり時間がなくてはそもそもは人間の問題では解決できないのである
だからまず一生不遇でも不遇に終わる人はない。どこかで好転することがある。ただみんな不満なのはそうして長い時間を待てないということである。だから一挙に解決しようとして返って大きな災いを社会であれ人間にももたらすのである

2025年02月16日

人生と記憶ー人間は環境と経験によってつくられる 【最後は経験した記憶が人生だったとなる】


人生と記憶ー人間は環境と経験によってつくられる
【最後は経験した記憶が人生だったとなる】

●経験されたことが人生となる

そもそも人生とは何かとなれば最後はその人に何が記憶されたかにもなる。何を経験したかが人生にもなる。人間の場合は遺伝の影響も大きいにしてもその人生経験が人間をつくる。
それが動物と大きなな違いである。動物ならネズミはネズミでありライオンはライオンである。その遺伝から変えることはできない。
でも人間の場合が何らかの行為で経験からネズミからライオンになったりもする。それは遺伝ではなくその人の経験からそうなったのである。
だから人間をつくるのはその人の経験でありその経験もみんな違っているから人間を見る場合どんな経験をしてきたのかを知るべきだとなる。そして最後に残るのはその人の経験してきたことだそれが体にも脳にも刻まれているのである。

何か学習するにしてもそれが学校とか本とかで読んでもわからないのである。でも外国旅行すれば実地にその場を踏めばいくら本を読んでいる人よりも実感としてわかるのである。
それで私は50歳まで外国に行っていなかった。ただ本は相当に読んでいたでも外国について肝心なことは全く理解できていなかったのである。
これでもわかるように人間は実際の体験からこそ学ぶのである。例えば英語を学ぶにしても学校でわ実際の外国人と会話することなどないから本質的なことで英語でもわからないということがある。また留学するということは実地に外国人と直接接してその場で生活するのだから実感するからその経験が大きいのである。だから外国に住んで生活した人とそういう経験をしない人の差も大きいのである。

●精神と同様細胞も記憶する力を持っている

ともかく人間をつくるのは遺伝的要素も大きいのどんな経験をしたのかで決まる。そしてその経験が人間をつくる。最後は老人になればその人は何を経験したのか何を記憶したのかは結果として現れるのである。

精神と同様細胞も記憶する力を持っているからである
人間ーこの未知なるもの‐アレキシス・カレル

人間とは脳で記録すると見ているわ実際は身体全体で経験して記憶するのである。だから体感という言葉はそれを表している体全体で感じて記憶するのである。それで何度も言っているが車の旅だと風とか光とか自然を感じないので体全体で感じないので記憶に残りにくい。坂や峠があるとしてそこを車とかで行けば体に記憶として刻まれ残らないのである。
歩くたびならまたは自転車でも坂を上ることは容易ではない。だからこそそれが体に記憶として残るのである
にわか雨御堂に休む旅の人

つまり突然雨がふり雨宿りするため御堂に休んだ。そのときの経験は御堂の役割を知ったことである。御堂は休息所であり
時代劇ではそこに確かに寝ていた人がいたからである
それもこうした経験があって体感するのである。それが車だとただ過ぎてくだけで自然を感じないからわからなくなるのである。そして記憶にも残らないから旅を経験するということもないともなる。

●何を記憶したかが人生になる

ともかく人間の最後は老人になればあなたは何を経験したのか記憶したのかが問題になる。なぜならそのことが生きたことであり人生の結果になってしまうからである。
人間はいくら金を残したとしてもそれでその人の人生が分かるわけでもないし価値あるわけでもない。現実にそういう人はかなりいる。金融関係で働いてるような人は何か人生で実りのある経験をしていないようにも見える。それは巧妙に人を騙して金を得るだけの仕事だという人もいる。そういう人は自分の経験したことを人に語らないのである。つまり後ろめたいことがあり語りたくないということがあるただそういう人でも金は残しているのである
大概私はこうしてきたこんなことで苦労してきたとか何をか老人になれば語る。でも語りたくないということはその人生は何なのだろうと見る。金を残した人もすべてそれで人間の価値は測れない。だから老人を見る時その人が何を経験したかを聞けば語ってくれれば分かるのである。

私は旅をしてきたからその旅のことを常に語っているのである。そんなの遊びじゃないかと見る人もいるが金にもならなかったがそれもやはり私自身の人生だったなる。
だから何も語ることがない人はいくら金を残してその人生に価値が無かったとなるかもしれない。つまり最後はすべてお金で測ることはできなかったということである。それで10億円を残した人でもその人生に価値があるとは限らないのである
どんな人に成るかは確かに生まれつきの素質がベースになるとしてもその後どんな経験をするかで違ってくる
経験が人間を作る。それが良く理解されていないのである。人生で経験することもそれぞれ違っているからである。
ただ簡単にお前は価値がないと言えるのか、自分のことを何も知らないでそう決めつける
ただ何に価値があるかは多様だから計ることがむずかしいのである。そもそも店であれスーパーであれそこでレジをしている人を価値あるとか見ていない、だからこそ機械化自動化する。そして別に買い物するでもそこで売る人に価値がるとか見ていないだろう。人生が経験だとすれば自らを社畜だという人は私は会社の奴隷として金のために仕方なく働いてきました。そういう人は自分の人生を老人になって語れるのか、それは実際大きな問題である。でもそういうことを思う人は少ないだろう。金を稼げればいいし仕方なかったといっても老人になり自ら奴隷なって働きましたと語っても誰もその価値を認めないとなる
それ気づいた時はすでに時遅しとなる。結局時遅しとなるのが人生に多いのである

●金ですべて計れない人生の価値

外資系銀行の“ろくでもないビジネス”
要は、彼らは次の3つをやっているに過ぎない。
1つ目は「相場操縦」だ。マーケットに介入し、自分たちが儲かるような相場を作っている。
2つ目は「M&A」。会社を買収し、転売して利益を出す。
3番目は、いろいろなデリバティブ取引を活用して、「低リスク高利回り」をうたうインチキ金融商品を販売すること。

最近死んだ森永卓郎が言っていた。それで彼自身農業してその体験を語る。農業はカラスにネズミ食われるとか野生の動物の戦いで高度な知的作業より知恵がいるとかも経験からそういったのである。
私も畑で仕事する人に聞いたそのことを知った。それだけ大変な仕事である。でもそういう仕事してきた人はその経験を語りうるとなる。
でも金融関係で仕事した人は語りたくないとなるかもしれない、何か金を右から左に流して数字だけを追っているともなる。だからデイトレダーとかでも一日パソコンの画面を見て株の数字だけを見ている。それで億の金を残しても何か生きた実感を語れないとなる。それが最後に何が残ったかというとき金は残ってもその人生は虚しかったとなる、語ることもないともなってしまうのである。

そしてあなたが価値がないというときその人の何が価値がなかったのかとなる。その人が経験した人生が価値がなかったとなる
それで戦争で苦しみ生き抜いた人が戦争のことを語り続ける
そんなこと無意味だと価値がないと言われたらどうなるのか
それはその人の生きて来た人生を無価値として否定することになる。それでは浮かばれないとなる。

●人生の実りと何なのか

とにかく人間をつくるのはその素質遺伝でもあるがその後の経験が環境が人間をつくどんな土地に生まれてどんな家族で育つとかどんな職業の家に育つかそういう環境が人間をの遺伝よりも大きな影響力を持つのである。どんなに優れた素質を持っていてもし家庭が悪ければ貧乏であったりすれば伸ばすことはできないのである。それは植生でも風土でも違っていればそれぞれ違ったものとして育つと同じである
場所が変われば気持ちも変わるということにもなる。それだけ環境の影響が大きいとなる。だから人間も生物の一種であるから環境の産物だとなる

特に日本だと北海道は大陸的風土であるその土地に船で降り立った時から何か気持ちま広々として変わってしまうのである
それだけ北海道は本州とか違った世界だからそうなる。アメリカだとグランドキャニオンとか見たときそこはあまりにも異質で別の惑星にでも来たのかと思ったそういう場所に住んでいる人の気持ちはどうなるのだろうとも見る。
また砂漠のようなところに住んでいる人のはどういう気持ちになるのかとなる。それは日本にはない光景だからそうなるのである。それに対応する言葉も見出せなかったからである。

人生とは何が記憶されたかどうかということをあまり考えない。でも最後に老人になればあなたに記憶されたものは何なのかとなってしまう。何も語ることがなければその人の人生は何だったとなってしまうからである。私は10億円を残しましたといってもその人の人生は何だったのかとなってしまう。その人の人生とは経験したことは体にまで記憶として刻まれた事だったのである。

実りある人生とは何か
米が実るそれを刈り取る
野菜を畑で直に収穫する
果物がなり手に取り収穫する
その時喜びがある
それは数でもない金でもない
それは体で喜びを感じる
それが神への感謝にもなる

農業は何が実りとなるかわかり安いのである。でも数字ばかり追っていたら何か実りを感じられないのである。
ただなぜエジプトの書記が穀物を計算する書記が神に様に崇められたのか、それは今の官僚が力を持ち崇められるとなるのと似ている。すでに文明化していて数字を操作する者が力を持つとなっていたのである。
だから官僚とは必ずしも価値ある物とはならない、ただ数字化して権力を持った人たちだとなる
でも権力を持つことと価値あることは違う。そこが勘違いされやすい。政治家は権力持つから偉いとなるが価値があるかどうかはわからない、むしろ食料を生産している人が価値があるとも言える
価値は多様だからわかりにくいのである。






2025年01月29日

継続は力なりーWORKするものを持て 【それぞれの分野で生涯追求するものを持つ】


継続は力なりーWORKするものを持て
【それぞれの分野で生涯追求するものを持つ】

●WORKする作品化する仕事を持て

人間は継続することが大事である。仕事でも何か転々として職を変えてもそれが本当の実りとならないだろう
自分がしてきた仕事を見て会社に採用されるならいい、同じような仕事になるからそれなら継続して仕事ができる
人間はworkいなる仕事となるのがいいとなる。つまりworkは作品でもある。自分なりの作品を仕上げる、それも継続して追求する
昔の職人はそうであり職人気質とか生まれた。つまり意固地であっても自分の作品を作ることにこだわりり継続して追求した
それで下駄でも何か手仕事で作ったものでも自分の名前を入れていた。近くで包丁を作る人がいてそこに名前を入れてあったとか今でもある、それは依然として大量生産ではなく個人的に昔の職人のようになり作っている

今時個人お名前をいれているとかはない、ただ規格化した大量生産でその仕事も流れ作業で作り出される。そこに個人の工夫が入る余地がなく人間はロボットになる
みんな工場で働き会社で働くから社畜だと自らが奴隷にするほかない。そこで誇りがもてないとなる
仕事というとき何か継続しないと実りとか成果がえられない、ただ時給いくらとか金のためだけに働く仕事は奴隷であり社畜だとなる。現実は大方はそうなり強いられている

自分の場合俳句短歌とか詩を作ることを追求してきた。才能がなかったけど若い時から一応五七五とか言葉を並べ作て来た
そおれは現在も続いている、この年になればやはり才能がたいしてなくてもそれなりに実るものがある。

●自然と同化するには田舎で沈黙することで学ぶ

とにかく才能の前に継続することである。詩などでも私は田舎で木とか石とか自然の事物と一体化するアイデンティティ化することをしてきた、そのために一人家に籠り禅僧のように座禅して沈黙する修行していたとなる、引きこもりになり一人修行していたとなる。
山でも木でも石でも沈黙しているからアイデンティティ化するには沈黙しないと一体化できないのである。これは社会から見れば異常になる、ただ不思議なのは僧はなぜそれが許されていたのかとなる。それも貧乏な時代であり民衆が布施して養っていたのも不思議だとなる

自然と同化するというときやはり田舎でないとできない、大都会となると自然がないのだから自然と一体化できない、高層ビルとか車の騒音の世界で自然を知ることはできない。
自然は山でも大地でも石でも岩でも沈黙しているからである。
ただそんな風に社会ではできない、それは異常な人と見られる
何か常にサービス業だと客に無理でも嫌でも歓迎する、顔でも無理に笑顔を作る。鏡を見たらその作り顔が映っていたというののもわかる。それが無理して習慣化して顔まで作り顔になっていたとなる
人間はこうして歪められる。

自然はありのままであり本然のままであり偽ることもない。それは動物でもそうである。何かこびるとかもない、餌をとるにしても人間のようにこびたりしない、食べるのも別にそれでいちいち媚びたりしない、ただ獲物を捕らえたというだけである。
人間社会では何か常に何するにも他者がいて食料でも金を媒介にして買うことになる。でもそれで何か自ら働いて得たものではないから本当に日々の食料を得るという感覚が得られない。もし自家生産していれば買うのとは全く違っ充実感が得られる
そして直接大地であれ自然と人間が結びつく体験をする

●継続は力なり

ともかく人間はそもそも継続して続けないと何でも物にならない
才能のあるなしでではなく何が一つでも継続して続けていればものになる。でもあらゆることに詳しくなることは不可能である。
そして人間に与えられた時間は短い。その短い人生にあれもこれもと手を出しても物にならない熟達することができないのである
たちまち時間は過ぎてしまうからである
たとえ大した才能がなくても継続していればそれなりに実りとなる
でもそれは限られたものでありあらゆることに通じることは不可能である

詩を作るにしても天才でない限りまず自然を知る同化することが必要である、俳句でも季語が基本にある時その季語自体を感覚的に理解するにはやはり自然を日々年々実感することが不可欠である
それは大都会だとしにくいのである。つまりまず自然と一体化することが必須なのである。それは悟りにも通じている
自然もロゴスでありやはり秩序がある法則ありそれは科学にもなるが詩でもロゴスを追求する

この世界を知ることでも何か身に着けるでも継続しないと身につかない、語学にしてもそうだし学問でも芸術でもそれぞれの分野で継続していないと成果は生まれない、陶芸作家でも何度も試行錯誤してその人なりの独自のものが作れるとなる
それは一朝一夕にはできない継続しないとできないのである
継続しなければ一芸に秀でることはできない。
そして老人になるとこれまで継続したものが結果となる、でも会社で社畜として自ら金のため奴隷化した人が何か継続するものがあるのかとなる。一貫して追求したものがないとその人なりの成果が現れないのである。

何か奇妙だけどAIが作る詩でもまず詩を作り詩を理解していなければ利用できない。それで足りないところとかを付け加えたり直したりした。それはやはり詩に通じていないとできないのである
それは他の分野でも同じなのである。だからみんがAIを効果的に利用できるわけではない、やはりその道に通じていないとAIでも利用できないのである。ただAIは人間の脳力を拡張することは確かである、人間の脳力は一個人ではたかがしれているだからこそその脳を拡張活性化するのがAIだとなる。

ともかくどんな分野でも継続してないと物にならない、そもそも人間に与えられた時間が短いからである。さから60以降とか確かにまだ学べるがどうしてもこれまで追求して来たものをさらに追及すると成果になる。とてもいろいろな分野に通じることは不可能である。だから一つの分野でも継続して探求することが大事になる
つまりworkすることその人なりの作品を仕上げることが大事なのである。

つまり最後に問われるもは何か?

あなたの継続して追求してきたものは何ですか?

それが必ず問われる。それがなければ価値がないともなる、老人になれば人生の結果が否が応でも現れるからである

2025年01月10日

時間とともにチャンス〔機会〕も失われる 【何かをする時間が失い気づくー無常迅速を知れ】


時間とともにチャンス〔機会〕も失われる
【何かをする時間が失い気づくー無常迅速を知れ】

空間軸と時間軸で考えてきたが人間の盲点は時間軸で起きることがわかりにくいと考察して来た
何かのチャンス機会は空間軸でも起きる。でも時間軸でもチャンスが関係している。それがわかるのは老人になると否が応でも思い知らされる

なぜなら別に空間軸なら老人になっても旅行でもできる、でも時間を戻すことはできない、子供時代に戻ることもできないし青春時代にも戻ることはできない、何か共にする時間も失う、家族を考えるとそれは時間を共有した人であり別に血縁関係でなくても長く一緒に暮らしていたら家族になる

動物でも子供が親がいなくなったとき犬でも猫の親になったりとか他にもある。それはそのとき子供の時親代わりになったからである。では実の猫の親がいたとしても親と認識できなくなる
子供の時一緒にいることが家族になったとなる。
ともかくその時一時期でも時間を共有したからそうなった

でも人間の時間は限られている、友達になりやすいのは若い時でありその時利害関係で結ばれるのではなく何か一つの目的とかありそれを目指して共同するということがある
ただその時利害が入ってくると不純なものになる。それで社会人になると利害で結ばれるから学生時代とは違うとなり友情とか育まれないとなる。利害と関係ない一時期がありそこで友情も育まれる
それも一時期であり短いのである。学生時代は社会人として生活するよりずっと長いからである。

人間の盲点は時間を機会をチャンスを軽く見ることである。時間などいくらでもある。それより金が欲しいとなるのが普通である。
金があればいろいろなことができる、金がなくてできない、本を買って読みたいとしても金がかかる・・・そういうことがきりなくある。でも時間のことを考えないのである
老人になると金があっても何かする時間がないとなる。そして何かする時間が無くなりそこで失われた時間に貴重さを知る

求道とかは若い内にするものでありその若い時期も短く失われる
だから若い内神を知れとなる。その時期を失うと神を知ることができなくなることは怖い、ともかく最も失いやすいのが時間だとなる
何かスキルを身に着けるのにも時間がかかる、だから前は大工になるには親方に弟子入するのに18才では遅いとなっていたのである。若い内でないとスキルも身に着かない、鉄は熱い内に打てとなる

老人になりかつての同級生とかあって話しても何か噛み合わなくなる。それは空間が同じ地域に生きても別々の時間を生きていたからそうなる。仕事も多様だからその人が何をしてきたのかも理解できなくなる。それは空間も確かに関係しているけど何かを共にするとかの時間が失われたのである。

それは結婚でも時間の作用が大きい、共に生活する時間があって夫婦になる。そして結婚というときその人が性格がどうのとか様々な見方があっても大事なのは出会う機会だったとなる。そのチャンスは若い時期でありその時期を失うと後はなかなか出会うということもなくなる。

それは空間軸で近くにいるとかが関係しているのではなく時間軸が関係している、いくら近くても若い時期に会わなければ結婚にはならない、別に遠くても今なら特に出会い外国人で結婚しているからである。むしろその時期に出会うことが大事なのである
確かに空間軸が関係しているが時間軸の方が重要だとなる

青春とか若い時期は短いからである。それで親は娘の婚期に煩いのである。たちまち美貌も失うからである。
人間に与えられた時間は短い、青春でもたちまちすぎる。あっという間でもある、それとともに何かをする時間も失う
70以上になるとスマホも操作するのも覚えるのも大変だとなる

それで時流に遅れる、情報社会になったとき新聞テレビはオールドメデアとされるからである。私自身はたまたま引きこもりで時間がありワープロ時代から通信機能がついていたのでパソコン通信していたのである、それでも40以上くらいでありその時ひろゆきは2チャネルを主催したように20代の人がはじめていたのである。

今はすでに50以上になっているから時間が過ぎるのは早いのである、。今や70以上になれば死が目の前になっている、もはや何する時間もないとなる。つまり人と出会うというよりさよならだけが人生だとなる。もはや死んでゆき永遠に会わないというのが非情な現実なのである
だからこそ無常迅速というときそれは何かをする時間が消失する

神仏であれ求めるなら若い時期だとなる。その他のことでもいかに時間が大事か老人になると思い知らされる、なぜなら時間は戻すことができないからである。不思議なのは空間なら老人でももう一度行くことができる、でもタイムマシンに乗って時間をもどすことはできない、同じ場所に行ってももうそこで時間を共有することはなくなったのである。
だから歴史がわかりにくいのは時間軸で理解できないからである

ローマ帝国が作られた場に今でも立つことができる、でも時間軸で起きたことを理解することは至難になる。2000年前に起きたことを理解することは本当に難しい、人間は十年前でも起きたことでもあいまいになり忘れるからである。そして新しい事件が次々に起きてそれに心を奪われて前のことを十年前でも十年一昔というように忘れるのである

だから私がプログであれホームページであれ始めたのは25年前とかなる。それで自分で書いたもの読み返してこんなこと書いていたのかと自分で感心しているのも不思議なのである
つまり人間はこうして文章に書き記録しているからまた自分の書いたことでも思い出して確認できる。そうでなければやはり自分自身の書いたものでも忘れるのである。




2025年01月06日

宗教は山を聖として修行から始まった―真言ロゴスを追求 【モーゼの十戒、山岳宗教の天台宗も同じ】


宗教は山を聖として修行から始まった―真言ロゴスを追求
【モーゼの十戒、山岳宗教の天台宗も同じ】


聖なる山の創成

熱いマグマが地の底から噴き出す
轟音を響かせて天地に鳴りぬ
その形成された大いなる山の力よ
天を衝きその優美な姿は形成されぬ
一本筋を通した不羈なるもの
太陽は輝き昇り山に映えぬ
烈風が山頂に唸り吹きつけ
氷河にも閉ざし人を寄せ付けぬ
しかしまたその愛らしい花々を咲かしめ
純粋無垢なる美に飾る
その強固なる硬い岩の真実
億年の風雪を帯びて山は威圧する
厳正厳粛泰然自若として不動
銀河の星々を飾りとして
強靭なる峻厳なる山は天地に映えぬ
神の奇しき業の成就
その畏怖すべき現存の迫力
厳格に山は荒肌を見せて閉ざしぬ

沈黙の大岩

沈黙の大岩は動ぜず
清流のひびき流れ
凍星はかなたに煌めく
徒事(あだごと)を言わず
真言を語れ
ロゴスを語れ
そを岩に刻め
聖なる山から
十戒を携えて
モーゼは山を下りぬ
その岩石の険しく
その厳格なる戒め
神より授かるもの
神に召されて汝は不破たれ
その言を伝えよ
愚かなる者に語るべからず
聖なるもの穢すものなれば
深く己を持して沈黙すべし
重鎮大岩不動厳正
安心立命解脱悟道
一喝覚醒雷神天鼓
正信受理貫徹信心


宗教と山は不可分である。モーゼはシナイ山で十戒を授かったのもそうである。そのシナイ山は木もない岩山であり荒寥たる山々である。
また仏教にしても中国の天台宗が基になったというとき山岳宗教である。山を聖として修行したのである。日本でも比叡山が天台宗に始まり日蓮でも親鸞でも修行したのである
宗教と山は一体なのだる。
だから都会から生まれたカルト宗教は本来の宗教を追求していない俗化したものなのである。

古代から宗教は都会から生まれない、なぜキリストが神殿を商売の場にするなと怒ったのか、それもエルサレムが都会化して堕落した場と見たからである。都会を嫌っていたのである
へブル人の宗教は商売と関係することを嫌ったのである
だからユダヤ人が離散して商売人になったことは本来はありえないことだが土地を持つことができない流浪の民となったからそうなった。

つまり宗教は山と切り離せずあった。だから大衆化した群集化したカルト教団などとはまるで違ったものとして出発していたのである。山を聖なるものとして籠り真言ロゴスを見出す。
だからとても東京であれ大都会から生まれるものではなかった
そこから生まれた宗教はカルトとなり異様なものとなったのである。本来の聖なるものは全くない。また山で身を浄める心を浄めることなどない、ただこの世の欲望がすべて是認されて御利益を権力を得る為に狂気のように祈っているから異常なのである

宗教的要素は全くないのである。山伏とか法印でも山で六根清浄とか祈り修行した。そういう身を浄めるとか心を浄めるとか一切ないのである。だからこそあれだけの人が集まったのである
山で修行しろとかなればそんなに人は集まらないからである。
つまり聖と俗を分離すべきでもあった、政教分離があるが聖なるものを追求するものと俗界の信仰を分けるべきだったのである

それで宗教は俗界と妥協して一体化して本来の宗教は失ったのである、俗界には厳しい戒律とかは要求すべきではないにしろ選ばれた人は厳しく真言ロゴスを追求すべきだったのである
すべて俗に合わせたことが宗教本来の聖なるものを消失したのである。地の塩であるべきものが塩となるものがなくなったのだる。聖と俗は分けるべきだったのである。そのために地の塩たる者が消失したのである。ただ俗なる世界があるだけとなったのである。民主主義でも数が多数がすべてとして決めるとき必ず問題が生まれる、それがファシズムともなる
地の塩となるべき者が必ず必要でありそういう人がいなくなればこの世はただ欲望を無限に追求する俗しかない世界になる。

自分の場合は引きこもりであり自然と一体化することを試みて来た。そして真言ロゴスを見出すことをしてきた
つまり一人修行していたのである。詩は真言であれロゴスなのである。

相互に影響し合った。真言は三密(身・口・意)の中の口密に相当し、極めて重要な密教の実践要素となった

ただ山でそれが人間を反映して巨人は山ともなる。すると偶像崇拝にもなる。ただ自然でも常に人間的なものが反映する
山にも人間を見るということもある。ただ山には愛とかはない、荒寥たる情もないものとなる
とにかくギリシャでもゼウスはオリンポス山に住みデルフォイの神殿も山の上にあったから人間共通のものとして山を聖なるものとみていたのである。でもそこは神の啓示を受ける場だった


2025年01月03日

老人はみんな後悔する 【貴重な時間が失われたことに気づくーそれは取り戻すことができない】


老人はみんな後悔する
【貴重な時間が失われたことに気づくーそれは取り戻すことができない】

老人になって気付くことは何かを得たということより何を失ったかということである。その失ったもので最たるものは時間だったのである。時間は限られている。その限られた時間に何をするかがその人の人生になる。また出会いのチャンスとかも本当にまれである出会うことも失われていく。

時間は貴重なものでありそこでその時間を何に費やすかが問題になる。例えば会社に勤めた人でもそこに人生の時間の主なものが費やされる。
でもそこで共に働く人がいて時間が費やされたとしても何のための共に働くのとかそういうことより利益第一主義でありそのためにともに働く。でもそこに後で振り返って共に働いたという達成感とか意味を感じられない。

何か銀行とか証券会社とかは今になればただ顧客から金を奪うものだとまでなってしまう。そうなったのは銀行でも投資先がなく利子ををつけることができないから投資信託など証券会社とともに投資信託などを売りつけて手数料を稼ぐ商売になる
ただそうしてその銀行とか会社で働いて収入を得ても何か実りとなったのか老人になって問われる。何か協働して成し遂げたという実りが得られるのか、でも利益は得たとなる

何か働くというときただ利益になればいいとなる。その目的は利益になることでありそれしかない、そうして働いて利益を得たとしても金を貯めたとしてもそれで満足するのか、共に働いたなと仲間と振り返ることができるのか、確かに金は得たけど何か虚しい後ろめたいとなる。

でも貧しくても江戸時代の村で村総出で太鼓を叩いて田植えしている映画を見た時村人はそこで強い絆をもって働いていたことを感じた
そういう村人は老人になった時ここで共に働いたととなり充足するものがあったとなる。戦後浪江町の津島とかに開拓に入った人たちはそこで苦労して働いたから協働したから強い絆が生まれたという、だからその土地を離れたくない、そこで苦労を語り合うときやはり連帯感が持つ、その土地を離れたらそいう連帯感は持てないのである。

大工になるにしても若い内でないと昔は18才では弟子に取らないとかなっていた。それでは遅すぎたとなる、スキルを身に着けるのには若い内であり鉄は熱い内に打てとなり若い時でないとできないことがありその時身に着けないともはや身に着けるこてゃできないとなる。つまり何するにも時間がかかるが時間は無情に過ぎて行く、スマホとかなると若い人には簡単でも70越えるとむずかしくなる。私はパソコンを引きこもりでたまたま早いうちにしていたのでできたとなる。だから20年とかしているのである。
ただこんなにインターネットが発達するとは思わなかったのである。

いずれにしろ何かをする共に働くことであれ時間は失われてゆく
こうすれば良かったああすれば良かったあんなことしなければ良かったとか誰でも反省する、でも無情に時間は失われあのである。もう一度生きることはできなくなった、そして何かをする出会うチャンスも失われたのである。もはや二度と会わなくなるからである。

老人になると何故話が噛み合わなくなるのか、それは10年であれ20年30年別々に生きてその人生が理解できなくなる。もし共に働く時間を共有していたらそういうことがない、その別々に生きた時間で何を生きていたのか理解することが不可能になる。
つまり何かを共にする時間が失われていたのである。それをやり直すことはできない、何かをする時間が失われて帰って来ないのである。
だから時間ほど貴重なものはなかったとなる、でも時間ほど浪費されるものあないはない、金はいつも勘定して無駄にしたくないと意識するが時間はそうして金のように意識できないのである。
そして老人になって気づくのである

成すべきことを成さなかった
様々なチャンスを逃がした
活かすことができなかった
もはや人生はやりなおすことはできないと、、、

それで後悔しない老人はいないのである。例えば今になると海外旅行が高嶺の花のようになった。でも円高の時はフリーターであれ海外旅行していたのである。その人達は金持ちでもないただ自由な時間があり円高で海外旅行できたのである。

今になると円安で簡単にできないというときやはりチャンスを逃がしたとなる、その時々にできることをしていないとできなくなる、私も50からバックぱかーになて世界を旅行したが今になると体力的にも金銭的にもできないとなる。だからチャンスを活かさないとそのチャンスが失われるのである。
ただ時間はいくらでもありチャンスはいくらでもあるとみる。

しかし振り返ると本当にチャンスもニ三回とであり何かするべきことを学ぶべきことをしないで時間は消失したのである。
今や後は死ぬだけだとなる、だから若い内神を知れというときこれがいかに大事なことだったか、青春時代などあっというまにすぎるからである。でも若い時は女性であれ様々なものに魅了されてたちまち夢のようにすぎてゆく、貴重な時間は常に失われてゆくのである。

とにかく時間が意識されにくいので一番失われやすい

なぜならもし後一年とかで死ぬとなれば時間の貴重さを意識せざるを得ない、それは老人はみな感じる、後何年生きるのだとなるからである。



2024年12月24日

なぜ人間は互いに理解できなくなるのか 【空間軸と時間軸の相互関係―時間は取り戻せない】


なぜ人間は互いに理解できなくなるのか
【空間軸と時間軸の相互関係―時間は取り戻せない】

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空間軸ならA地点からB地点に行けるが、時間軸となると戻ることができなくなる、時間は取り戻せない!

●距離が離れすぎて理解できなくなる

人間はなぜ理解し合えなくなるのか,それを空間軸と時間軸で見る時これは別々のものではなく相互作用がある
距離が離れていればやはり時間軸でも交わる機会が少なくなる。すると互いに理解するのは難しくなる。どうしても空間軸で離れてしまうと時間軸でも交わる機会が少なくなる・
するとそこに誤解が生まれる、私の父親違いの兄が交通事故で死んだとき何が何だかわからなくなった。離婚したとか中学生の娘を児童施設にあずえてと施設から連絡がありわかった。

でもそないろいろなことが一気に押し寄せてきても遠すぎて理解できなくなっていた。もし近くに住んでいたら事情がわかるから対処方法があった。静岡でありそこに行くことも大変なことに成っていたからである。
つまり空間軸で離れすぎていたことと時間軸でも空白がブランクがありわからなくなっていた。そこでいろいろなことが起きていても理解できなかったのである。

●同じ空間にいても時間軸で交わらず理解できなくなった

ただ空間軸でも狭い地域に住んでいても理解し合うかとなるとそうもならない、その中学の同級生とは何十年も没交渉であり何をしているのかもわからなかった。
たまたま地域で作った野菜など売る店にいた。でもその店にはほとんど行かずスーパーで買い物していた。だから接することもなかった。相手にしても私が何をしているのかわからなくなっていた。
それで直接会た時あなたは何をしているのですかと言われて自分は黙っていた。これまでのことを答えることが長くなり簡単にできなかったからだ。

そしたらあなたとはここに来る必要はないと断られた。何をしているかわからないとして無用の人と見てそうなったのかもしれない、ただ田舎だと客を断ることがある
それは隣の街の自転車でも修理でも断られた。何かその店の評判は他の自転車屋で悪口が言う客がいてわかった。また医者でも日ごろ日常的に行かないと断られる、特に開業医はそいうことがある。
ただ断られても何かそれで問題になることはない。そもそもその店にはほとんどいていないしその同級生とは50年とかも没交渉だったからである。これだけの時間軸で没交渉だったらそもそも互いに理解することあ不可能である。ただ狭い地域だから共有するものはある。
それをプログに書いたとしてもスマホをしていないとしたら私のことも郷土のこともわからないのである。もう一人の同級生はスマをしていて多少わたしのことがわかって郷土のことについて話できたとなる
現代はスマホでも使わない人は情報的に孤立するともなる。それは田舎の狭い範囲でもそうである

●現代社会は複雑で意志疎通ができないことが多い

そもそも現代社会で意志疎通が難しくなったのはあまりにも無数の職業に分化したためである。近くで何をしているのかわからないというのもそうである。工場で特殊な仕事をしていると聞いてわからないのである。他でも車で遠くに仕事に行くが何をしているかわからないのである。特にこの辺は原発事故で避難区域から移住した人が多いからこれおまたわからなくなった原因である。

いずれにしろ空間軸であれ時間軸であれ人間は理解しあえなくなる。そもそもこれだけ複雑な人が交わる世界で人と人が理解することが基本的に難しくなっている。都会に住む人と田舎に住む人と理解することがむずかしくなる。
それは今だけではない江戸時代であれ職業が違うとその人理解できないから神秘的な存在となった。
お椀を作る木地師でもやはり神秘化されたし鉄作りする人もこれも神秘化された・それは今の原発で働いていた人達と共通している。そこで何をしているのか理解できなかったのである。そして大事故になり様々なことが言われるようになった。
このように昔から職業が違うとその人理解することが難しくなることはあった。ただ基本は大方は農民だから職業が同じであり現代のような無数の職業もないか理解しあえたとなる。

共通に体験することが多かったからである。だから俳句となると季語があるというとき農民の仕事と関係していてきごでも言葉も生まれたとなる。冬が増えるであり野菜を作るにかえっていいからそうなった。つまり農耕と結びついて生まれた言葉が多いのである。だからcutureがcultivate〔耕す〕からきている。
農民同士は理解し合うことがあった。同じ職業だったら理解しやすい、侍は侍同士結婚して大工は大工と結婚してとか理解することができた。つまり結婚するにしても理解しやすかったとなる
今なら外国人と結婚する人もいるし無数の違った職業の人と結婚するから夫を理解することもむずかしくなる。

●様々の専門に分化して理解しあえない

つまり現代はどんな優れた人でも社会を理解できない。様々な専門家がいてどんな人でもあらゆる職業に通じる人はいないのである。必ず視野狭窄になる。いくら専門家でもそうなのである。
それで福島原発の吉田所長が復水器のこと私は材料関係専門だからしらなかったと言っていた。つまり社長でも会社のことでも全部わからないのである。肝心なこともわからなかったのである。

人間はさらに今度は一千万住む東京のような大都会であれ今度は海底に住む人とか地底に住む人とか二分離して意思疎通がさらにできなくなるというのもわかる。それだけ一万の街に住んでいても狭い範囲でも意思疎通ができなくなっている。それだけ複雑な社会であり狭いとしても物は外国から入ってくるからグローバル化もしている。そこでさらに意思疎通がむずかしくなっている。
そもそも外国など簡単に理解できないからである。結果としてどうしてもそこに誤解が生まれ衝突して最悪戦争もになる。
それが近代の戦争でありその死者の数が何千万人にもなったのである。

●空間軸は戻せても時間は戻せない

空間軸だったら別に外国でも今なら行ける、でも外国でも時間軸で見ることは理解することは最高にむずかしいのである
歴史を理解することは難し、別にその場に立つことはできてもそれを時間軸でみることは簡単にできない。ここで2000年前1000年前何があったのかを知るのはむずかしい。日本だって難しいのである。
人間は今でも空間軸でA地点からB地点に行ける。でも時間軸で10年前でももどることはむずかしくなる。
人間は同じ土地に住んで空間軸で確かに共有するものがある
でも時間軸で供することは限られている、何か家族でも一緒に暮らしていなければ家族にならないのである。別に他人でも子供のころから一緒に暮らしていれば家族のようになる

でも子供の時でも一緒に暮らす時間がなかったら家族にならないのであるつまりそれだけ時間はたちまち過ぎる、時間が貴重だというとき時間は失いやすいからである
何か一緒に協働して働くとかそうした時間が貴重だった
なぜならそうして共同する時間が消失してその時間を戻せなくなる。もっとあの時一緒にするべきことがあったとしても時間が戻せないのである。
一緒にここで苦労して働いたなとか言うときそうした共同の時間を持ったということである。でもすぐに時間が過ぎてその時間は取り戻せなくなる。

だから中学で同級生だったとしても50年以上過ぎたらそれも没交渉だったら近くに住んでいても相手を理解することは不可能である。それで近くにいてももう逢うこともなくなった。もはや互いにに理解することが不可能なった
それは実の親子関係でも起きる、距離が離れて時間軸でも交わらなければ疎遠になり理解することがむずかしくなる
でも突然遠くから電話であれスマホであれ金を貸してくれと言われてもその事情がのみこめなくなる。近くであれば常時行き来していれば事情は分かるから理解しやすいのである。

必ず距離的にも空間でも離れすぎると理解するのが難しくなる
また親子でも兄弟でも10年没交渉とかなると理解できなくなる。
同じ場所に住んでいても没交渉だとやはり時間軸で理解できなくなる。そして時間軸の空白が60以上とかなると取り戻せないのである。何か協働したり助け合ったりする時間を持たないと同じ場所に近くに住んでいても理解しあえなくなる。

時間は取り戻せない、もう一回人生をやり直したい!

それができないかことが深刻なのである。つまり時間は無情に過ぎて行く、何をするにしろ無情に過ぎて行く。
それを自覚するのが50過ぎてからであり60過ぎて否応なく自覚されるのである。



2024年12月21日

人間は本当に存在するのか―存在するとは何になのか 【近くでも互いに存在しなくなった―老人は人間関係が切れてゆくこと】


人間は本当に存在するのか―存在するとは何になのか
【近くでも互いに存在しなくなった―老人は人間関係が切れてゆくこと】

その「私」という主体にとって友人や恋人などの他者が【存在】するのは、「なんらかの体験を元に思念・思考」しつづけているからです。
ある瞬間、他者のことを「思念・思考」しなかった場合には、「私」という主体から他者は【存在】しないことになる。
同様に、「私」という主体が「私」を「思念・思考」しなくなると、「私」も【存在】しないことになります

自分以外の人間は、存在するのでしょうか?

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●近くでも互いの存在が認められなくなったこと

その人は中学の同級生だった。その人は確かに道の駅ではないが農協が経営する地元の野菜とか店にいて売る人だった。その人はそこで野菜など売る仕事をしていたということはわかる。
でも私が何をしているのかわからない。だからあなたは何をしているのですかと聞かれた。その前にその人は私に対して関係を断った。もともと関係していなかったのだがおそらく私が何をしているかわからないから私と言う人間を認められなかった

私は説明しようとしてもその人はその前に私との関係を断ったのである。それはほんのわずかの時間の出来事だった。何か私と会った時近くでも知らない人でも私を知っていた人がいたのである。それは私のプログを読んで知っていたのでは今はスマホをしているからスマホでネットの情報を得る得る人が多くなった
だから意外と地元でも自分のことを知っている人がいた。その若い女性は私の顔を見てプログに書いている人だとわかった
でも別に私はプログに自分の顔の写真を載せていないのである
だからどうして知ったのかと不思議でもあった。ただ今になると大概スマホをしているからインターネットにアクセスできる。そこから情報を得ている人も多くなった。でも70以上とかなると携帯はしているがスマホ見ている人は少ない。スマホはパソコンの延長だから結構面倒なものになる

その中学の同級生はマホなどしていない。だから私のプログをまったく読んでいないから私という人間は理解できないしそもそも私という人間が存在しないのだと思う。そこに確かに私という人間はいる私という人間はじかに会った
でもその人にとって私という人間が同じ狭い土地に生きているのに全く理解することがなかった。その人と何か語ろうとしたのだがその前にその人は私を何をしているか分からないと拒絶して会話もできなかった。

それは私が何であるかを実際は知ろうとしなかったのである。実際私が私自身を語ろうとした時それは相当に長くなる。とても簡単に語れるではない。でもその人は私が知ろうとする前に何もしてないとして拒絶したのである。
そのことは私という存在を無視して認めないということであった。私のことを知れば同じ土地に生きていてそれを知ることもできたはずである。でもその人私を何もしていないして知ることもないとして対話をは拒絶したのである

つまりその人は私自身の存在を認めず存在しないとしたと同じである
ところが私自身もその人と会話もできなかったから実はそのことは私自身にとって存在しないものとなってしまった。
そしておそらくすぐ近くに住んでいてとも合わないからその人とどちらにしても存在しなくなるのである。没交渉になり双方で関係もしないしその後に何があるかもわからないしそもそもが存在しないのである。それは存在を否定することになっている。
現実は狭い範囲で生活しているのだからそんなことはないともなるがその店で何も買わないとしたら会う事もないので没交渉になりもはや互いに存在しなくなるのである。

●牛乳配達員との関係も切れた

もう一人は私の家に牛乳などを配達していた人である。でもそれも十年前に断れたれることになった。それは親の介護とかで継続できなくなったからである。それを断りに行った時その人は私を何か蔑むように馬鹿にするようなこと直接面と向かって言ったのである。
なぜそんなことを言ったのかわからないよ何か私を馬鹿にしたいということがあったのだろう。別に私はその人と直接会ったりもしないし話したりもしなかったその人はただ牛乳配達するだけでありそこに何か会話とかはなかった。ヤクルトとかなると何らかそこに会話があったがその人は配達される箱に置くだけだったからで直接顔を合わすことはなかったからである

その人とはいつも牛乳を配達しているから自転車で行くとその車と出会うのである。でも牛乳を配達を停止してからは何も話していない。それも十年くらい過ぎてしまったのである。
つまり十年くらい没交渉だったのであるその人の販売店すぐ近くにあってすでに十年くらい牛乳配達を停止してから一言も話すこともなかったのである。その人は車で配達しているからその車と私の自転車とは合っているのである
でもその人と直接に話すすることをすでに十年もくなっていたのである。ただ私はその人に馬鹿にされたということでそのことは覚えている。

つまり何か物を買ったりするときそこに人間が介在するのだがではその人間をいちいち覚えているかというとその場限りになるのも多い。スーパーで買い物しても別にそこで売る人と必ずしも会話したり何かその人と直接語り合うこともない。ただものを買えばいいというだけである。
第一相手がどこに住んでどういう人なのかもわからないのでこの辺では原発事故で避難してきた人が多いので余計に地元の人でもないから分からなくなっている。ただ都会なら別にスーパーの人が売っていてもその人たちをいちいちどこに住んで何をしているの何を考えているのかなど思わない。
現在というのははものを売るにしても買うにしてもただそれは物の売買でありそこに何か人間関係が生まれるわけでもない。

だから物を買うにしてもそこに何らか人間関係が生まれるということはない。それが通信販売とかなるとまさに配達する人などただ物を運んでくる人でありそれ以外のことは何もわからないのであ。だから例えばその配達する人は誰でも良いし配達する人が変わっても別に気にすることもないのである。

何か現代っていうのはこうして人間の関係が持てない時代になっている。というのは向かいの人は何が特殊な技能があって工場で働いているらしい。でも何をしているのか分からないしその人の顔もめったに見ないのであだから私にとってその人は存在するのかどうかともなってしまう。他でもすぐ近くのだけどその人はこの土地で働いているのかどうかわからない。話したこともないし何の仕事をしているのかも分からないのであだから私にとってその人はすぐ近くに住んでいるのだけど存在しないとまでなってしまう。

●人間関係が持てない社会−車社会の影響

現在はこうして人間の関係がつながりが持てない時代ではないか。私の戦後まもなくの子供時代近くの人間関係が密だったように思う。近くでで何をしているのか仕事をしているのか分かったからである。農家の人がいて養蚕していたとか漆塗りをしていたとか石屋の人は石を毎日削っていたとかを見ていたまた竹で駕籠を作る人も見ていた、つまり説明するまでもなく一目でその人が何をしているか何の仕事をしているかわかったのである。大工もいたし建具屋もいたしとかそれは狭い土地で狭い中で村のような所で仕事をしていたからだろう。
また車がないから一地域の狭い場所で生活に必要な物をまかなっていた。だから隣近所で何をしているかわからないなどということがなかったと思う。

不思議なのはこの辺で原発避難区域になったところから移住してきた人が多いでもその人たちをこの土地で働いていないように見えるそもそも車があるから隣の市にとかに働きに行く。買い物でも必ず近くに4 5万の都市があるから買い物に行くのであそれとともに働く人もまた車で隣の市とかに行く人が多いのである
つまり車社会になった時その生活範囲は広くなったのである。車がない時代は本当に隣近所とかでまかなう他なかったのである。だからそこでいい面と悪い面があるが人間関係も密になっていたともなる

ともかく人間の生活が多様化したとき例えば私は自転車が欠かせないから一軒だけあった自転車屋とそれなりに関係して
でも車社会になればみんなが自転車と関わるわけではない。
そして車を持ってない人自転車に乗る人は何か別の存在ともなる。自転車に乗ってる人はよく会うはその人は障害者だったりまた引きこもりとかニートだったり何か劣ったとみられる人たちなのである
つまり現代では車を持たないということ異常でもだから常に警察のににらまれて職務質問されるのである何か自転車に乗ってるだけで不審者に見られてしまうのである

●SNS-ネット社会で起きていること

いずれにしろ今度はネット社会になる時逆にインターネットにアクセスできない人は取り残されるかもしれない。私のことはプログで読めばわかる。
でもスマホもしてないインターネットにもアクセスしない70以上の人となると私があった同級生のように私と言う人が存在しても何をしているか分からないとして関係は断った。それも10年30年なのか付き合いのブランクがありそれを語ることが簡単にはできなくなった。つまりこうしてまた付き合いのブランクがあると会話もできなくなってしまう

こうしてまた現代社会は広域化グローバル化するとき空間軸では世界まで広がっても時間軸でわ継続されるものはなくなったとも言える。昔の村だったら狭い範囲で代々続く家があり農家だからその土地に根付いて生活しているすると何か継続継続されるものがある。祭りなどでも継続されるのでで現代社会はそうした農民農業社会でないから何か代々長く継続されるということもなくなる。それで人間関係希薄化して行くのである

ともかく不思議なの人間の存在である。本当にその人間が存在すると認識するのか。またどうしてその人間が存在すると認識できるのだろうか。

ある瞬間、他者のことを「思念・思考」しなかった場合には、「私」という主体から他者は【存在】しないことになる。

確かに私はその人と会ってその人を考え思った時その人は存在したのである。でもその人は私の存在を否定したからその時点で私という存在はその人にとっては無くなった、また私のプログでも読まないのだから私については何も分からないし私のことについて知ることも拒否したのだからその人にとっても私は存在しないし私にとってもその人は存在しなくなった

別にその店に買い物に行かなければ困ることもないスーパーに行けばいくらでもものは買えるからだ。こうしてその人の存在は自分にとってもなくなり相手にとっても自分の存在はもはやなくなったのである。ただ狭い範囲に生きているのだから関係ないとは言えないが私自身のプログなども読まないのだからもはや知ることはできないということである

いずれにしろそもそもは存在するということは何なのかということになる人間に関してもそうであるが一つの石が存在するとして
その石を確かに認識したとしてももうしその石をただ一時的に見ただけなら忘れてしまう。でもその石に名前をつけてその石の存在する意味を書いたり詩にしたりすると時石に存在の意味を与えているのである。何らか名前を付けるときは石一つでも一つの存在の意味を与えているともなる。そうでなければ石は存在しても存在しなくなってしまうだろう

●人間は存在すると認められるのだろうか?

その人は確かに大学時代に頻繁に会った。でもそれから50年もすぎたらいったいその人は存在したのだろうかとなってしまう。
実際はもはや存在しなかったとなってしまう。その後その人は何をしているかもわからないし遠くに住んでいるのだからわからなくなるそもそもは東京に住んでいるのだが一体東京に1000万人いるとしてそこで人間は存在しているのだろうか?

確かに1000万人いたとしてその一人でも関係しているわけでないとしたらそこに人間は存在しないとまでなってしまうのではないか? 1000万人もいるとしたらその一人くらいと関係してもいいはずだがそれがないとしたら1000万人は本当に存在しているのだろうか?だから人間が存在しているということは何なのか不可解となってしまうのである。
現在とはまさに大衆社会でもあり大勢の人と交わる社会でもあるが実際は東京に1000万人いたとしてもそこに本当に人間が存在しているのかどうかとまでなるのも不可解だとなってしまう

関心領域という映画が話題になったが人間は隣でも関心をもたない、ナチスの収容所で人が殺されていても関心を持たない
こうしてすぐ近くの人でも関心をもたない、それが現代社会の特徴だともなる。そもそも家族のように直に接して関心を持ち続ける死んでからも関心を持ち続ける関係は何人いるのかとなる。
特にもう80歳近くになると人間の関係は切れやすい、それよりみんな死んでゆくのだからこの世から消えるのだからこの世の人間関係を切れるということである。

そして人間は別にある人との関係が切れても何も感じない、そして人間が関心を持っているのは利益になることでありそれ以外関心を持つことは少ない、だから金の切れ目が縁の切れ目でありさよならだけが人生だと最後はなってしまうのである。
買い物にしてもコンビニであれスーパーであれどこでも一人くらい来なくても関係ないのである。
特別その人が習慣的に多額の買い物するなら別である、だから何か高価なものを買ってくれる人になると特別待遇にもなる。
でも普通の買い物でそんなことにはならない、一人が来なくても何の影響もないとなるのが普通である
だから田舎の店では断られることがある、別に一人など来ても来なくても関係ないとなるからである。

でもその人は雇われた人だから一人でも客を失うようなことをしていいのかとなる
そんな事どうでもいいとなるのが普通である。何か客の対応が悪いとしてもそれで客を失っても一人などどうでもいいのである。
ともかくその人がいなくなっても別に関心をもたないということもある。この年になれば人が死んでもまた死んだかとなり次から次と死んでゆくから関心が持てなくなる。つまり余りに多くの人が死んでゆくからいちいち関心ももてなくなるのである。



2024年12月04日

山を聖なるものとした宗教は世界共通 【現代文明は大都市からはカルト宗教とか異常なものしか生まれない】


山を聖なるものとした宗教は世界共通
【現代文明は大都市からはカルト宗教とか異常なものしか生まれない】



聖なる山

山は聖なる場シナイ山に
モーゼは十戒を神より授かる
その荒寥たる厳格なる山々
山は神より啓示を授かる場
ギリシャのドルフィーの高みに
清水は山より流れ落ちて
神殿の柱はもの寂び古りぬ
ここに巫女は神より啓示を受けぬ
山は深く黙し鎮座する
崇高なる山を仰ぎ心も高なる
日本の山伏は尾根を伝い修行する
六根清浄を唱え身を浄める
山々の重なる深い奥処
神は人を拒み隠れ棲む
重なり連なり聳える山
山と山は力強く結び合いぬ
地球創成の太古の紐帯
億年の風雪に鍛えられた山
地球の歴程が刻まれた山
山は力強く威圧する
荒々しく人を寄せつけず
山唸るその底から虎のように
神は不浄を拒みその中に住み
そして未だ見ぬ神秘の花を秘めて咲く

智は、鳩摩羅什訳の『法華経』『摩訶般若波羅蜜経』『大智度論』、そして『涅槃経』に基づいて教義を組み立て、『法華経』を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観によって仏となることを説いた学僧である。

天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった

さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。

天台宗

日本の仏教は天台宗から始まっている。近江の比叡山がその本拠地となった。天台宗は天の台であり山岳宗教だった。だから山で修行した。そえは山自体を聖なるものとするものがありそうなった
奈良の三輪山は何を礼拝しているのかというと山そのものが礼拝の対象なのである。そこに礼拝すべきものがないからである
山が御神体のようになっていた。
それが世界的に共通しているものがある、シナイ山でモーゼが10戒を授かったのもそうである。シナイ山に登ったがこには1本の木もないし草もない岩石の山である。砂漠の山は大概同じである。だから荒寥としている。

またギリシャのゼウスが住んだオリンポス山も雪に覆われて高く本当に聖なる山と感じた。いかにも神が棲むにふさわしいと感じた。デルホイの神殿も山の上にありそこが中心となり巫女が神より啓示を受ける場所になった。だから人間の感覚として山に聖なるものを感じたことでは世界で共通している。共通の感覚をもっていたとなる。

だからこの辺で福島県でも霊山は僧侶が修行する場でありその後に南朝の拠点になった。学問岩とかもあり何かそこで学んでいたとなる。でもそこは戦場となり炎上した。
それから山形県の山寺でもやはり天台宗の僧が修行した場所なのである。つまり山を聖なる場として修行した。それは江戸時代でも修験者がいて山で修行した。山伏がそうであり法印の墓が小さな村でも町中でも必ずあることでもわかる。六根清浄を祈り修行したのである、山で霊力を身に着けるということがあった。
そのがの鎌倉時代になっても念仏を唱える親鸞の真宗とかがうまれたのも実は天台宗の比叡山で修行していたからこそそこでヒントを得て念仏を唱えることになった。日蓮でもそうである。
天台宗を基にしていることは共通しているのである

だから現代の宗教が東京という大都会から生まれているというときそれがカルト宗教となった。ただ創価でもオウムでも富士山にお山にお参りするとかあったかたやはり山を聖なるものとしている伝統が続いた。ただ創価は団地の宗教と言われる如くそれは地方から出てきた人たちが仲間作りして政治団体化したのである。
だから選挙宗教にもなった。権力奪取を目的とする政治団体化した。それは本来の宗教的要素がない、ただお山参りとして富士山の本山に行くというのは山で身を浄めることがありその伝統を受け継いでいたのである。

天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される

題目をあげるということとは天台宗を基にしていたのである。
それが狂気のように御利益現世利益を求めるカルトと化したのである。何ら宗教的なものがないのである。
何か身を浄めるとか教えない、毎日御利益を得るために狂気のように祈るだけなのである。山で修行することは山の清浄な気に触れて身を浄めることである。そいうことが一切ない、ただ現世利益と御利益を求め祈るだけだとなる、それが宗教として通用したということも異常であった。何かナチスとも似ていたのである

だから古代であれ人間の感覚として世界共通なものがあり聖なる山への信仰があったことはそれは正常だったのである。
人間はそうした聖なる感覚を文明化で失ってきたのである。
だから文明自体が大都会自体が何か返って異常なものを生み出すし犯罪の温床にもなる、そこは連関なき社会であり人間がアトム化した荒野なのである。そういう場所から何は生まれるのか?
異常化した世界でありオウムのような異様なものも生まれる
つまり東京自体が異常であり異常なものを必然的に生み出すのである。それは山を聖なるものとして修行した人達とはまるで違っていたのである。そこではロゴスが言葉も通用しなくなっている

混沌カオスでありだからこそハイルヒットラーのナチスが生まれたとなる。
人間の精神の修養とかはない、ただ物質的なものの追求なのである。高層ビルにしてもそれがあまりに大きいから人間的なものを逸脱して人間の精神が作用しないアイデンティティ化できないのである。
それは恐竜のようなものに感じる。巨大というだけでそこに精神は宿らないのである。建築でも古代であれギリシャの神殿であれそこに精神性を感じる。キリスト教の聖堂でもイスラム教のモスクでも精神性を感じる。だからアテネの学堂という絵は建築と人間が一体化して建築が人間に威厳を与えている。現代文明は人間と建築は分離して建築が人間を圧倒して人間を卑小化している
そして人間はただ数となり大衆化してそこに人間の威厳は失われたのである。

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建築から見る歴史(アテネの学堂-詩)

2024年10月18日

老人になると人生の総決算として問われる価値 【二人の間でも家族内での価値があり多様な価値】


老人になると人生の総決算として問われる価値
【二人の間でも家族内での価値があり多様な価値】

●身分で決められた価値【江戸時代など】

老人になると何か一番価値が問われる、常に子供の時からでも価値が問われるとしても若い時は将来が未来がある者としてあり価値は今に無く未来にあるからそれほど問われない、確かに勉強ができるとか頭いいとかまたスポーツで肉体的に優れているとかある。だから若くても常に人間の価値判断はある

でも若ければそれほど問われない、ただ老人になると何か厳しく価値が問われる。
この老人は何の価値があるのかとみる。ただ馬齢を重ねただけなのか何をしてきた人なのか問われる。
ただ人間の場合は余りにも価値が多様なのである。何が価値あるかも定かではない、ただ江戸時代なら身分で価値が生まれた時から決められれてしまう、どんな家に生まれるかで価値が決められているからである、侍の家に生まれればそれだけで価値があるとなる。この辺で野馬追いあるのでそれが昔を偲ぶだけの祭りと見えても実際は身分制社会の再現でありそれが現実社会に適応されるのである。

この辺で只野という姓が多い、南朝の末裔であり霊山が炎上して落ち延びてきた侍の子孫だとなる。だからその只野氏というだけで何かその価値を誇りにして上下関係を強制するとまでなる
現実野馬追では相馬氏の子孫が依然として殿様でありその殿様を中心にして野馬追がある。依然として殿様が活きている場なのである。でも他の祭りは京都辺りでの時代祭りとかではそれはただの昔を再現するパレードでありそこに身分制などない、なぜならその祭りに出る人は貴族の子孫でもなくただ庶民から選ばられた人だからである。
でも野馬追は侍の子孫でなければ出れないのである。だから現実に江戸時代の身分制社会の再現なのである。そこが他の祭りとは違っている。

●身分社会から能力主義社会へ

人間は常にこうして上下関係をつくるものである。侍でも明治維新を成し遂げたのは下級武士であり身分の低い侍だった
天は人の上に人は作らず人の下に作らずという福沢諭吉でもそうである。明治になった時そうした身分制社会は終った。
だから初代の総理大臣になった伊藤博文は足軽でありそれも実際は足軽の家に養子になったのかそんなものでしかなかった。でも総理大臣になったのである。このことが身分で価値を決めていた時代の終わりを知らしめたのである。

では何が価値あるものなのか?それは身分では決まらない、能力で決まる社会である。学力に秀でれば学校でも価値あるとなる
能力主義になったのが明治以降である。医者になる弁護士になるその他社会の重要な地位につくには学問が必要となり学問のすすめが福沢諭吉により書かれてベストセラーとなったのである。
それは現代でもそうであり学歴社会が依然として通用するとなればその継続だとなる。でも大学でも半分が大学に行く時代に大学が粗製乱造された。戦後の団塊の世代でも大学に行ったのは50人学級で5人くらいであり少なかった

でも大学は私立文系とかならばマスプロ大学となり千人とかを講堂につめこむとか何かそこはレジャーランドとか公園だったかなっていたのである。要するにそこはエリート養成の場でもない
戦前の旧制高校とかとはまるで違った大衆化したものでありそれで学生運動が起きたのである。戦前は大学は選ばれた者のものでありその人たちは大学を出れば重要な地位に着いたのである。
戦後の大学は別のそうしたエリート養成の場ではなくなった
ただ大衆化した大学であれ増えた生徒を詰め込む場所に過ぎなかったのである。だからゼミでも教授であれニ三回しか会っていないのである。それは三流大学の文系だからそうなっていたかもしれないが戦前の大学との相違が大きかったのである
つまり大学に入る価値が文系なら相当に低落したのである。

●技術の優劣で決まる価値

だから何か大工さんが他の大工さんと違っていて庭作りもできる
壁塗りもできる塗装もできるとかなるとその人は相当に価値あるとなる。その人の人格は関係なく技術的には優れているとなる
技術的に優れているというときそれは江戸時代の個々の職人にもありやはり医者でも物つくりでも技術が関係する、その技術で優劣が決められる、それが今や戦争でも技術の争いである。

それは昔からあったにしろ例えば中国の夜郎自大国が漢に負けたのは銅と鉄で鉄の武器を持った漢に負けたのである。技術の優劣で勝敗が決まったのである。それは信長軍と武田軍の戦いで鉄砲を主体とした信長軍が武田軍の騎馬軍団に買ったのと似ている
グローバル世界になると常に技術の優劣でその国の価値は決まる。戦争でも今や遠隔操作のドローンとかロボットが戦いその技術力で勝敗が決まるとなる。日本が最後に戦争に負けたのもアメリカに作った原子爆弾を落とされたからである。
現代は科学技術でその優劣が決まってくるのである

●誰か一人でも価値を認めても価値ある人となる

ただ一般的に価値といってもその価値があまりにも多様なのである。最近私の家で店をしていた時豆腐を下ろしに来た人と川の土手の散歩道で語る。その人は私の家の事情を知っていて母親のことを語るとき何か親しみを覚えてその人に価値見いだしたのである。その人自体は豆腐を造っていたということで誇りを見出していないことがある。でも私は母のことを語ってくれるのでその人に親しみを覚える価値を見いいだしたのである。

その人に何が価値があるかというとき別に何でもないその人が特別な技術を持っていなくても価値を見出すことはある。
だから価値はあまりにも多様だから一概には言えないのである。
このように見い出せられない価値は結構ある
例えばこのように私と2人だけでもそこに2人だけの価値が生まれたということもある、何が価値があるかというとこうして 2人だけの間でも互いに価値を認め合うことがある。それは家族内だけの価値もありそれは外から見てわからないのである。

何か価値があるというときそれがなかなか見出されないことがある。そのことが本人にとっては価値がないと思ってもつまらないと思ってほかの人にとっては価値あるものとなる場合がある
だから常に価値は変わり価値は新たに見出されてゆくのだから何か価値がない人間というのもいないのかもしれない。
価値というものもまた常に変わり新しくつくられてゆく。新美南吉のおじいさんのランプというのもランプから電気に変わったときランプは必要になり壊された。つまり価値のないものとなってしまったのである。そういうことは科学技術の分野では常に起きてきたのである。

ともかくあらゆる人は価値を認めてもらいたい無意味な無価値な人間とされたくないのでそれを障害者すら価値を認めてもらいたいとなっているからである.障害者でも何の価値もないとされたくないのである。そしてその価値判断で障害者とかは負担をかけるだけであり抹殺するべきだとなるのが怖いのである
若い人は老人は集団自殺しろというのもそうである
優生思想はそうである。民族差別もまたそうである。白人に価値があって黒人は価値がないという差別もそうである。
でも黒人でも優秀な人がいるから肌の色だけで優劣が決められるというものでもない。

ただ老人が無益なもの無用なものだという時すべてがそうではない、個々人の価値はこのように多様であり違っているからである
とにかく老人はどうしても最後の人生の総決算として価値が問われるのである。


2024年10月01日

苦しみとなって自覚させられるカルマ 【延々と続く解消できない人間のカルマ】


苦しみとなって自覚させられるカルマ
【延々と続く解消できない人間のカルマ】

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シーシュポスの神話

●自分のカルマを自覚する

〇親の遺伝的カルマ
〇家系で作られたカルマ
〇生活で作られたカルマ

何か親が死んで感じたことはカルマは必ずあり苦しむ。親の因果が子に報いとは必ずある。遺伝のカルマは逃れようなくある。
私の母の遺伝のカルマを今年の暑さで感じた
母はやはり蓄膿症でまた胃腸が悪く痩せていたのである
それで今年の酷暑で私は鼻が乾燥したのか何か悪くなったのである、もともと蓄膿症で二回手術しているから花の鼻腔が狭く何か鼻で息しずらい傾向があった。それが酷暑で何か悪くなり舌がとか渇き食欲も亡くなり8キロとか痩せた。こういうことは今までなかった。
つまり体の弱点がありそこが傷んだということである。

今年の夏の猛烈な暑さではもともと体に疾患があった人が相当に死んでいる。それは熱中症で死んだとはなっていないがそれがもとでもともと弱い所がそれが致命傷になって死んだのである
病名は熱中症でなくても病名は別なものとなっている。その数が多い、老人は特に多いのである。

●私の遺伝のカルマ

何らかで遺伝的カルマはそれぞれ逃れようなくある。それが意識されたのである。ともかく何故私が高校でも成績が悪く知能的に劣ったのは蓄膿症が原因でもあった。なぜかというと鼻腔が狭いということは脳に酸素が供給しずらいからそうなる。
また暑い時鼻から息を吸うことで脳を冷やすのでいいとあるが鼻で呼吸できないと脳が冷やされないので脳の働きが悪くなる

そしてもう一つ母からの遺伝ではないが母の生活が私へのカルマとなっていたのである。店をしている時母はお客さん来ると食事している時でもかならず立って店に出ていたのである。
そのことが自分は嫌だった。でも母が死んでから自分で食事の用意をするが必ず足りないものがあり台所に行く。つまり食事中でも立って足りないものを台所に取りにゆく、つまり母と同じように自分自身がなったことを自覚したのである。

それはまさに別に遺伝ではなく親の生活のなかでしてきたことが自分のカルマとなっていたのである。だからなぜ食事中に中断して立たねばならないのかとなり母もそうだった。だから私もそうなったと自覚したのである。カルマということはこういうことなのである。

●親が子捨てる子が親を捨てるカルマ

カルマというのは必ずある。私の父親違いの兄は後妻に来た自分の家で愛されることなく歪んだものとなっていた。
それで母親を恨んでいたのである。でも自分が親になり離婚して子供を中学の時一時児童施設にあずけたりとか子供に大迷惑をかけた。そして交通事故で40才で死んだ。
でもその兄の為に墓を建てるからと連絡したが交通費がないと10万を送ったがあとは一切連絡がないのである。つまり親は捨てられたとなる。これもやはり兄自体が親に捨てられたとして恨んでいたが自分の娘に捨てられたのである
だから別に親が子を捨てるということは普通にあった。
また子が親捨てることもありそれは親の因果が子に報いとなる。

そういうカルマは人間は延々んと繰り返していて変わらないのである。カルマは解消できな五うことである。
何か仏教で宿命転換というがそれはカルマの解消なのである
でもそれは簡単い出来ない、何故なら何代もカルマが解消しないし現実に人間自体のカルマは解消されない、それは個々人だけではない様々なカルマがあり国自体のカルマもありそれで戦争もなくならないのである。

ようするに人間が活きる限りその行為自体がカルマとなる。人間の行為がカルマとなりそれが解消されないのである。だからと言ってカルト教団とかに入ってもカルマは解消できない、そこでかえって大きなカルマを積むことになる。その組織団体が返って大きなカルマを積んでいる団体だからである。個々人でカルマは違っているし一様に解決できない。そこに集まる人達もそれぞれカルマを持っていてその団体自体が巨大なカルマとなる。団体はカルマを持った人たちの集まりでありそのカルマが集積した場所である。要するに罪の集団であり人類自体が罪の集団なのである。だからいつかカルマの清算を強いられるのである

とにかく人類自体がカルマを積んでいる、カルマとは罪でもある
その人間の罪は解消できないのである。だからこの世とは人間とはいくら科学技術が発展しても人間の苦しみは消えることがないのである。カルマとはシーシュポスの神話のように延々と石を持ち上げる苦しみである、その苦しみから解放されないのである。

●国にもカルマがある

例えば中国には中国のカルマがある。それは国土が広く人口も多いから一つにまとめることが至難になる。だから三国志のようになる。常に分裂するのである。そのカルマは解消しないのである
またアメリカでも移民の国だからそれがカルマとなり巨大な国土を国民をまとめることが難しいのである。ロシオでも領土が広くて治められないとかありそれは次代に受け継がれ解消できないのである。またヨーロッパでは絶えず争いがあったの隣国と地につながりそれで絶えず争いがあった。リバーがライバルとなっとき河が国境となったのだがそれは川を挟んで争うということにもなったのである

それでドニエプル川を挟んでロシアとウクライナが争うというときそれもカルマとして継続されているとなる。
ともかく人間個々人でもそうっだが国単位でもカルマを積み継続されるのも歴史である。だからアメリカが日本に原爆を落とした行為はカルマとなる。そのためにアメリカは世界で一番核爆弾を持ち核を一番恐れているのである。
現実にアメリカは自分の国が戦場になったことがない、だから戦争の本当の苦しみを知らない、だからこそ原爆を落とされて苦しめばその行為【カルマ】を自覚できるのである。

●余談として


これもやはり石破氏してきたことがカルマとして跳ね返って来たのである

2024年09月21日

何が神なのか―人間は足りないものがあるから神を求める 【心貧しき者は幸いであることの意味】


何が神なのか―人間は足りないものがあるから神を求める
【心貧しき者は幸いであることの意味】

なぜ巨人幻想が生まれるのか―人間の卑小さを脱するため 【巨人幻想の詩】

●巨人願望超人願望がなぜ生まれるのか

神とは何かというときまず人間自体が神とは見なかった。
人間は体にしても小さいし様々なもので欠けている。病気にもなるし老いてゆくしと人間には足りないものが多々ある
だからどうしても神というとき巨人願望幻想となり巨大な神像とかになった。それがエジプトのファラオの像である
また神話の神でありそれは人間ではない、その後でも人間は卑小なものだからその卑小さを越えるものを望んだ
それがニーチェの超人とかになる。人間はとにかく様々な弱さをがあり絶対的強さを持ちたいとなるのは当然なのである
そもそも地球に80億の人間がいる時そんなに多い人間がなものにならない、ただありふれたものでありそれに価値を見え出せないのである。
そして現代の特徴はそんなありふれた人間を特別なものとして見ない、ただ数が集まる時その集団化したものを恐れる。一人一人の人間など価値がない、でも集団化すると価値ではないがそこに存在感あり政治的経済的価値がありそれを認めるのである
人間は現代は統計として数として認識するのであり個人として一人は存在しいなのである。宗教でもそこに数集めれば何かがあるとしてその存在を意識する。でも一人なら誰も意識すらしないのである。

●卑小な弱小な人間で満足する人は一人もいない

キリストが神の子であったというときそれが認められなかったのは神が何であるか認識できなかったからである
人間が神になるのか卑小などこにでもいる人間が神になるということが認められなかったのである。特に自分などでも何か体が弱くまた知能的にも劣っているというときそんなものが神になるのかとなる。体でも生まれつき欠陥がありそれで今年の夏が酷暑でおかしくなったのである。
だからこそ巨人願望幻想が生まれる、卑小で弱小でありたくないとなりそうなる。人間は自然の壮大さと比べるとき余りにも弱小な存在である。何か吹けば飛ぶような存在である

人間が人間であることに満足している人一人もいない、それは人間には足りないものがありすぎるからである。完全無欠な人間もいないし万能な人間もいない、だから人間は誰でも劣等感をもっている。それぞれ何か足りないものがありそれで他者がそれを持っている時羨み嫉妬するともなる

●神はまず人であり神であること

でも神とは何かとなるときキリストは神の子でありまた人でもあった。人でもあり神の子でまあった。神話の巨人とかではなかった。たいがい人間として見ればそんなものありふれている
どこにでもいるしその人間が神の子だというとき何なのか理解できなかった。だから神の子として認識できなかったのである。

ただキリストの不思議は神が人であり神であったことなのである。まず人であることでありその人が神性が備わっていたのである。巨人が神である時それは人ではないのである
まず人であることが神性がそなわることになる。だからこそ大工として普通に人間として働いていたのである。神話の巨人とかはそなことしない、何をして食べて暮らしていたかもわからないのである、巨人ともなればその体をどうして維持していたのかとなるからである。

神というのは人間離れしたものではなく人としてありまた神としてある。つまり人としてあらねば神ともならないのである
ではその人とは何かとなれば人には情がありあわれみがありとなりそれが愛ともなる。それが神に通じるものとして人にある
何故なら動物にはないからである。でも人間と同じく親子の情はある、哺乳類になるとある。だから人間に通じるものがある。

でもどうしてもキリストを神の子として認めることはできなかった。人が神であることを認めることができなかった。それは今でもそうである。なぜ80億人もいる人間がありふれた人間が神なのかとなるからである。でも人としてあり神としてあったことがキリストの出現で実現したのである。

●貧しき者は幸いであるの意味

逆にまず人であらねば神ともなりえないのである。だから人ではない巨人願望が幻想にもなる。人間が完全無欠だったら神など求めない、自らが神になるからである。そしたらそもそも神は必要ないとなる。人間は欠けたものがあるからこそ神を求めるのである。心貧しき者は幸いであるというとき何か足りないものがあるからその足りないものが神によって満たされる

でも自ら神になれば別に神は必要ではなくなる、すると神の役割もなくなっていしまうともなる。だからこそ人間は常に欠けたもの意識するからこそ神を求める、もし完全無欠で神のようになっていたら神を求めないのである。だから奇妙なのは人間は常に足りないものがありそれで神を求める、そのために神と人は結ばれるとなる。完全無欠だったら神を必要としないからである

心貧しき者が幸いであるというときの貧しさ空虚さがあるかこそそこに神が働きかけることができる。でも完全無欠だったら神の働く余地がないとなってしまい神の役割がなくなるのである。
だからこそなぜ天才はあまりの恵まれているからキリストを神の子とは認めず自らがニーチェのように神となってしまうのである。そこに学ぶべきものがあるとしても天才になれるわけでもないから失望に終わるとなる。

2024年09月17日

富裕層の不安−財産が消失する不安 【人間にこの世では安心が得られない―神の国でしか得られない】

富裕層の不安−財産が消失する不安
【人間にこの世では安心が得られない―神の国でしか得られない】

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デジタル資本主義の怖さ】21世紀の大金持ちの支配者たちが考えるリアルな世界の終末
【デジタル生存競争: 誰が生き残るのか/ダグラス


何か人間は財産でも権力でも地位を持つとそれを維持して守ろうとする。だから保守はそうして既得権者であり自民党が二世議員が多いのもそのためである。
何か上流階級は上流階級同士で結び合うというのもそうである。
それは会社でも継続させるのに既得権として維持するためにそうなる。つまり大金持ちになるとその財産でも地位でもいかに維持していゆくのかと腐心する。
それで世界的富豪となるとその財産を失うことが不安になり極端なものになり別の惑星へ脱出することまで画策しているという
つまり余りにも持てる者もその富を失うことの不安がある

その富を財産をどう守るのかとなる。何か戦争でも起きると財産も失うかもしれないとかいろいろ不安がる。だからとんでもない金持ちでも不安を解消できないのである。
一方で貧乏人は最低でも食べるものがあればいいとかで別に財産をとかないのだから失う不安もないのである。今日食べていければいいとなっている。これも奇妙な対照である

とにかく人間社会は格差社会になる宿命がある、格差が解消されることがない、歴史をみればそうである。だから貴族階級があり階級が生まれたからマルクスの共産主義で平等にしようとしたが極端化して失敗した。権力争いで粛清されて殺された人たちが膨大なのである。共産主義でも平等は実現しない、やはり共産党の幹部が権力をもち格差が生まれたからである

そもそもなぜ格差が生まれるのか?なぜ富を独占する人達が生まれるのか、それはスポーツでも必ずどうしても優れた人そうでない人がいてそこに差別が上下関係ができる。優れたものがいて劣ったものが生まれる。それを解消することはできない、みんな平等だと言っても必ずあらゆる分野で優れたものがいて劣ったものがいる。そういう問題は解決できない。

でも大金持ちになったとしても人間の不安は解消しないのである。大金持ちが貧乏人の襲われる富を奪われるという不安があり何かの事件で富が失われることで不安になる。その不安をなくすにはその富を貧乏人でも分配することなのだがそれもしない。
そして大金持ちでも不安は消えることはないのである。
現実に必ずそうした金持ちでも既得権者でも安泰ではない

日本だったら明治維新がありそれは下級武士が上級武士を倒す革命だったのである。何故伊藤博文が首相までになったのか、もともと農民で足軽だった人がそこまでなれたというのはまさに革命がありそうなったのである。
だから既得権者がいつまでも安泰ということはない、戦後財閥解体とか地主の既得権が奪われたとかある
だからいつまでも既得権を維持することはできないのである

いずれにしろ莫大な財産を持っていても不安は解消しない
それが失うことがあり戦々兢々しているとなる
いずれにしろこの世は無常の世であり変転する世である
一定していないのである。だから大富豪でもいつ富が失われるか不安になる。現実に事件があれば失われるのである。
そしていくら金があってもすべていいわけではない、病気になればいくら金があっても何もできなくなる。
だからすべてを金に頼ることはできないのである。それで莫大な金を財産を持っていても安心はないのである。

この世にいくら宝を積んでも消失するしそれで満足することはないのである。だから宝は天に積めとなる、そこなら失うことがないからである。この世は常に変遷してゆく無常の世界である
人も家族ですら死んでたちまち消えた。今日ある人が明日はいなくなる。だからこの世にあるものが頼りにならないのである。
永遠の都は天にありそこでしか安心はありえないのである。
この世は火宅の世災いの世であることは変わることがなく遂に滅びてしまう神に滅ばされるとなる。この世には何であれ安定はないのである。

大金持ちはその責任も金に比例して重大である。その責任を果たせないものは呪われるし底辺層からも攻撃される
金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るより難しい
キリストが言ったのは財産を余りにも持っていて捨てることができないからそう言ったのである。財産に執着して捨てられない。貧乏人はもともと財産もないから返って天の国へ行きやすいともなる逆説だったのである。まず大富豪となればその富を有効に使うとか分配しないと返ってその富によって呪われることがあるから怖いのである

2024年09月12日

なぜ巨人幻想が生まれるのか―人間の卑小さを脱するため 【巨人幻想の詩】


なぜ巨人幻想が生まれるのか―人間の卑小さを脱するため
【巨人幻想の詩】

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巨人は広大な大地に住む
人間のおもちゃのような家ではない
広大な大地を寝床にして山が枕か
その時は一日が百年であり
その歳は計られれない
巨人は己が大地を歩む
のしのしとどっしんどっしんと歩む
その音は地下深くはるか遠くまで響く
巨人は広大な大地に眠る
山のように動かず眠る
そのい巨人を起こすな!
人は蟻のように営々と働く
しかし巨人は大地に眠る
千年深々と眠り休む
するとその大地を覆っているのは花々であり
太陽は巨人を見て微笑む
人よ、人の業を休め
そして神の業を働かしめよ
人間の営々たる労働の成果は何ぞ
そこに誠の実りはなし
人間の業は災いを生み苦しめる
巨人が千年の眠りから目覚めると
そこは花々で覆われている
誰が働いたわけでもなく
花々は無心に大地に喜び咲きぬ
神の御意は成さずして成る
そこに響くのは大きな響き
大地に山々に響く
その音は雑音ではない
妙なる心沈める調べ
その調べに山も大地も聞き入る
大いなる響きも山々に木霊する
大調和するオーケストラの響き
不協和不調和にあらず
すべてが響き和する世界
空をつんざく大地を引き裂く音ではない
そこに機械は介在せず
大自然が原初のままに響き合う
そして巨人はその音を聞き
千年の眠りにつく
山の向こうからまた一人の巨人が来る
のしのしとどっしんどっしんとやって来る
そして二人の巨人は出会う
そこで争うことなく厚い信頼の握手をする
その巨人も広大な土地に住み
土地をめぐって争うことはしない
その巨人は己が土地に去っていた
{また会おう}二人の巨人は争わない
共に広い広い土地が与えられているから

なぜ人間は巨人幻想に陥るのか、それは人間は卑小であり小さいものとして認識する、だから大きなものに憧れる、それが巨人幻想を生み超人幻想を生む。
つまり人間はそんな卑小なものとしてありたくないからそうなる
だから神像は巨大なものとなり偶像崇拝なった。
特に自分など何か常に小さいことに捕らわれるので嫌になる

その時巨人幻想を生み出す、巨人のようにありたい、社会とか世間を無視して巨人でありたいとなる。それは自分だけではなく人間全般に通じる。何か人間は蟻のようにも見えるからである。
働いているばかりの人間は蟻のように見える、一方で大自然を観るとそこに壮大なものが余りにも違った世界がある。
大地であれ山であれ海であれ宇宙であれ広大なものが広がっている、でも人間はそういう大自然から見ると蟻のように見える
その労苦は延々と続くのである、まるで奴隷と同じである

文明といいそれは讃えられるべきものなのか、東京を見たらそこは何だとなる。そこに讃歌するものがあるのかとなる。ただ無益に使役される奴隷がいるだけなのかとも見る
それが人間の労働の成果なのかとなれば絶望になる。真善美がないからである、そこから生まれたのはカルト教団とかであり異様なものが生まれてくる。つまりその母胎となるものがありそうした異様なものが必然的に生まれたのである

では巨人とは現実に存在せず幻想である。その幻想を生み出すのは人間は余りにも卑小でありそれに嫌悪してニーチェの超人とか


上野霄里原生人間が主張されたのである。ただそれはあくまでも幻想である。それを信じれば偶像崇拝になる

ただ人間の理想は大自然と調和することである、それが一千万の東京にあるかとならとない、そこは絶望的な場所ではないか、そこに自然はなく美はなく人間の作り出した荒野なのである。





2024年09月08日

家庭環境が悪く歪められた人間の例 【原因があり結果がある何故なのかを追求する人間】


家庭環境が悪く歪められた人間の例
【原因があり結果がある何故なのかを追求する人間】

善因善果(ぜんいんぜんか):善い行いをすれば必ず善い結果を得る
悪因悪果(あくいんあっか):悪い行いをすれば必ず悪い結果を招く
自因自果(じいんじか):自分がやった行いは必ず自分に返ってくる

●人間はなぜなのかを追求する

この世とは人間とは何なのかという時さまざまな謎があることになる。科学というときその謎解明するために生まれた。それは因果関係を知ることである。 原因があって結果がある。そこに必ず因果の法則がある。それは仏教で解かれたのである。
ただ科学ならばその因果の法則というのはわかりやすい。でも人生とか人間に関しての因果の法則というとそれは科学のように究明できない。余りにも複雑であり数式のように割出せないからである

でも人間というのは必ずなぜそうのだろうかと追求する。それが人間なのである。例えばなぜその人はそんな性格の人になったのかそれはただ生まれつきであり生まれつきに性格が悪いという人が確かにいる。でも人間は環境によって歪められる
家庭環境は悪ければまともな人に育たないというのはその理由が分かる。両親に愛されないとかそこにいろいろな悪条件があってその人自体が歪められるのである。

●私の母親が花はいらないと歪んだ理由はわかる

私の母親はもともとは性格的には素直でありおとなしい人だったでも継母にいじめられて歪んだものにもなった。なぜ私の母親は花などはいらないと花など買う必要ないとか私に言っていたのかというとただただ働かせられるだけであり継母は何か生け花とかを習わせたりしなかったからである。
そうした貧乏な時代がありそのために花など無駄なものだとそんなものに金を使うべきではないとなってしまったのである

ただ幼少時代は恵まれていた。でも警察署長であった父親は事業を始めて失敗してそこから全く何か花を観賞するような余裕もなくなっていたのである。そしてそこに実の母が病気になり継母が入ってきていじめられたことで性格的にもおかしくなったのである。だから母のことをなぜそんなに花などいらないとなったかというとその理由が分かるのである。

こうして何か家庭環境であれ人間はもともとの資質が良いものでも歪められるのである。でもそうした事情がわからない人はその人その女性を見て嫌になるだろう。だから人間であれ必ず何らかの理由があって性格でもゆがめられたりする。その理由がわかるとその人をあまり攻めるということも控えることになる。
ただ人間の場合は複雑でありなぜその人がそうなったかというときその背景に複雑な事情がありそれを知ることは容易ではない

●親戚の女性が非情な冷酷な歪んだ人になった理由がわからない

だから親戚の一人はなぜあのように冷酷になり非情な人間になったのか?確かに子供の時一回くらいしか会っていないからその付き合いがないから分からなくなった。
でもその人は最初の実の母と五年間くらい暮らしその後別の私の継母となった人がまた母親のようになった。それからまた別な人が母親になりその人が一番長く一緒に暮したとなる。ただその人は母親にいじめられたということはなくかわいがられたのである
でも最後の母親は干渉しすぎて嫌われた。そうは言ってもやはり可愛がられてきたのである。私の母親のように継母いじめられたということはないのである

でもなぜその最後の3人目の母親に対して冷たい仕打ちをしたのか理解できない。干渉しすぎて嫌われたとしても一番長く一緒に暮した人だからである。それでその母親は病気になりその時も全く何もしない。それでその母親を私に最後に電話をかけてきたのである
ひどい娘だわと言ってその人は死んだのである。そのことで私は別に私の家と関係していないしうまくいっていないからあまり考えもしなかった。

でも私の家に来て母親は私が介護していたのだがその娘に何も頼まなかったのに【おばあちゃんは金があるんだから金で面倒見てもらい】と言って去っていったのである。その前に母親は苦しくてその人に百万を与えたのででもいったいその人は何をしたのかといえば何をしない第一付き合いはなかったからである
だからどうして百万も与える必要があったのか何も世話もしないのにそんなものを受け取る資格も何もなかったのであるただ後で夫に言って返してもらったのでだから夫の方はまともだったのかとなる。

このことがありその一番長く一緒に暮した母親は私に最後にひどい娘だわと言うその一言が理解したのであるその人はいったいどうなっているのかということが理解できない
なぜそんなに一番長く暮らした母親と問題があって別に可愛がられたのでありそんなひどいことをする必要もなかったのである
私の家の場合はほとんど関係していないからやむを得ない事情があった。
それにしてもなぜそんなひどい娘に女性に育ったのかということはどうしても理解できないのである

●女性は環境でも家庭でも受けやすいのか

ただ女性は家庭環境とか夫とかの影響深く受けるものかもしれない。それで本来資質的には良い物があっても歪められてしまうのかもしれない
ともかくその人はなぜか金には恵まれているのである。遺産が例えば実の母は金持ちの家に五歳に入ってその遺産を受け取る資格があるただ後妻に入ったとしてもそこには息子がいたから何かそこで遺産争いをしているみたいだ
そしてその実の母親はその娘に頼頼って施設に入った。認知症になっていたのである。でもその娘は全く母親を母親と思っていない。ただ金が得られるから施設に入れただけなのである。だからその実の母親も悲惨だとなる。

とにかく私の母親の継母となった人は最後は施設で何か目が見えなくなったりして周りとも上手くいかず悲惨な状態で死んだらしい
そして大学病院で解剖されるということを頼んでいたから私の母親の元にそのお骨が来たのであるその前には何か錯乱状態みたくなり私が母が見に行っていたのである
だからこれも因果応報であり別に実の母親でなくても親切にしていればそんなことにはならなかったかもしれない。だからその因果関係ははっきりしているのである
ただその女性の場合はどうしてそんな非情な人間とな冷酷な人間となったのか理解できないのである。
その人が確かに母親が3人変わったということで何かそれが異常なものとなった。でもそれをその3人の母親には特別かわいがられたのだから私の母親のように継母にじめられたのと違っているからまた理解できないのである

私が餌をやっている猫は絶対に慣れない、その原因は野良猫であり人間にいじめられて人間を警戒してなれなくなった。
別に子猫のときから人間に慣れていればそうはならないのである。長い間餌をやっても絶対になれないのである
ただ餌が欲しいから来る、何かそのとき甘えたような声を出す、でもあとは逃げるだけなのである。
これもやはり育った環境の影響でそうなったとなる

●何故かと歴史でも追及してもわからないことがある

つまり人間の場合なぜそうなったのかというときいろいろその背景が複雑であり科学のように理解できないのである
確かに生まれた資質が良くても家庭環境が悪ければその人は歪んだものになる。何かやはり犯罪を犯す人は家庭環境に恵まれないとかある。だから犯罪者でもその背景を知れば同情するともなる
ただ人間の場合なぜかとなれば複雑でありなかな科学のように明確な答えがないのである

歴史でもなぜ日本でアメリカと戦争になったのかその理由未だに明確でないのである。だから日本人が300万人も死んだというときなぜ死なねばならなかったのかということが理解できないからスッキリしないのである。つまり人間は常になぜなのかということをその原因を追求する
そしてその理由はわかったときそういうことだったのかとして心もスッキリするのである

ともかく人間は何であれ何か事件があるにしろ何か現象として起きるにしろそこに因果の法則がありなぜなのかということを問うのがとう人間である。この世には様々な謎がありその謎を解くことは人間の仕事にもなっているのである
ただ科学の場合はなぜかということは明確に答えとして出る場合が多い。人間に関してはなぜか問うても明確な答えが出ないことがある。でも人間社会では常になぜかということが問われ追求される。でもその明確な答えが出ないこともある。そして宗教とかなるとその答えを出すのは人間ではないのである。

人間はなぜ死ぬのかなど疑問に思って科学であれなんであれ納得する答えはないただ神のみがその答えを与えるので永遠の命を人間に与えることによってその答えを出してくれるのである。
実際はこの世のことはすべて解き明かされることなどない。それは神のみぞ知るということであり人間には限界があるからである

2024年09月07日

老人は昔を語ることで意義がある 【空間軸で拡大した社会で失われた時間軸で形成されたもの】

老人は昔を語ることで意義がある

【空間軸で拡大した社会で失われた時間軸で形成されたもの】

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●老人は必ず昔を語る。その人生を語る

老人と語る時一体その老人は何をしてきたのか何を経験したのかを問う、それは何でもいいのである。ある会社に30年とか勤めればそのことを語る、仲間であった人のことを語る
そこでともに働いたのだからまたもう一度その職場で働きたいと振り返る、何故なら何であれ30年40年とか同じ職場で働いていたら当然そうなる。その仕事が何であれ愛着が生まれるからである。

たあ人間は一番印象に残ったことを語る。私の姉は従軍看護婦としてシンガポールの向かい側のジョホールバルで4年間働いた。その印象が若い時であり強烈だから忘れずに死ぬまで語り続けたのである。戦争というのは普通は経験できないから忘れることがない、それで語続ける。

老人とは過去を語ることによって老人の存在意義がある、同世代で子供時代の経験は貴重であった。なぜなら今ある便利なものはほとんどないからである。江戸時代の続きのような生活だった。
裏の堀で洗濯してトイレでも外のトイレであり近くの農家が汲み取りにきていた。何か原始的生活だったのである。まさに江戸時代の続きである。道は舗装されていないし車も通らない、物を運ぶにもリヤカーとか人力の世界だった。電器製品などもない、水道もないから近くの井戸の水をもらっていたのである。その水を運ぶのが大変だったのである。バケツで運んでいたからである。
その労力は大変なものだったなる。

老人の存在価値と意義が何にあるのかとなれば過去を語ることにある。でも過去を語るにしても戦後十年くらいは何か江戸時代の続きでもあり今とは相当違っているから語る価値がある
でもその後は便利な生活になってそうした生活はないから今の60代であれ何か興味をもてないかもしれない。
たいして今と変わりない生活ではないかとなるからである。

ともかく老人になればあなたは何をしてきた人なのか何を経験してきた人なのか否応なく問われる。例えそれが失敗したことであれそんなことがあったのかと一つの教訓にもなる。成功した人だけが語られるということでもないのである。

●老人が核家族化で昔を語り歴史が継承されない

確かなことは老人の価値はその語ることにある。そしてその話を聞いた息子娘であれその親でも祖父母でも語ったことを伝えるのである。それが人間の営みでありだからヒストリーはストリーなるのである。老人は何らかでみんな語り部になる。

ただ現代は語るにしても祖父母と同居しないときそうして過去が伝えられない何か継承されない問題がある
ある家では紙漉きをしていたがその息子に嫁いだ人は姑も死んでからであり何か江戸時代からの野馬追いに出る家でも伝えられない、直接話も聞いていないからである。世代間で何か継承されない語り伝えられない、それも問題だと思う、その語り伝えることに老人の役割があるからだ。老人はそれで無駄であり必要ないとされるからである。

昔話とかは囲炉裏を囲んで老人が語ったものである。その時テレビでもラジオでも本でもない、すると直接語ることが何かを伝えることになる。特に冬が長い、娯楽もないするとそこで昔話が語られるとそれを子供たちも興味深く聞き祖父母との繋がりが生まれていた。そこには老人の役割があった。何故なら情報とは極めて小さな村とかに限られていたからである。
村の外のことなどほとんどわからないとなる。だから時間軸で生きていたのである。グローバル化した世界など想像することもできなかったのである。おそらくだから何度も祖父母から昔話を聞くそこで伝承されたものがある。
今は余りにも空間軸が拡大して時間軸で形成されたものが失われたのである。

●時間軸で形成された歴史が失われる

ただ昔を過去を語るにしてもいろ入りあり何か会社であれば部長だったとか何だったとか自慢されても嫌になる。またこの辺で野馬追は江戸時代の身分社会の復活でありそれで上下関係を具体的に思い知らされる。野馬追に出る家は侍の家であり上だとなってしまう。ともかく上下関係を持ってくると嫌がられる

この辺では只野氏の姓が50軒ほどあり只野一族の町だともなる。それが平家にあらずば人にあらずとなるように只野にあらずば人にあらずともなる。それは江戸時代の身分制の復活になる。
江戸時代とかは生まれた家で価値が決まり身分で価値が決められた時代だからである。

今高齢化社会で老人が問題になり老人には何も価値がない厄介な無駄な物だとされるのはやはり昔の村のような濃密な共同体がなくなったからだろう。村だったら同じ土地で長く代々暮らすから老人の経験と知恵も尊ばれる。村の「生き字引」とかにもなる。
だからこそその村で死ぬと御先祖様となりその村に生き続ける

そういう時間軸で代々生活して来た世界と今は余りに違ったものとなった。つまりグローバル経済とか空間軸で拡大したが時間軸で形成されたものが失われたのである。
だから家族でも祖父母と同居しないとなればその家のことであれ何か伝えられないのである。それで世代間でも対立して老人は集団自殺しろとか公然という若い世代の人がいて問題になった。つまり家族であれ核家族であれ一代限りとか継承されない、時間軸で形成されたものは失われるのである。

●時間軸で過去を知り今を知る―今だけを見ても今もわからない

それが社会にどう影響するのか?何かただ今だけを考える、今という時間だけで考える。過去を見ないで今だけを注目するとき人間の思考でも偏ったものとなりむしろい今だけに注目したら今自体が何かわからなくなる。
水道でも電気製品でも車でもない社会があった。そいいう社会で形成されたものがあり比較して今の社会を理解するのである。なぜなら過去にあったものが失われているからである。日本人から現代人から情がなくなったというときもそうである。過去にあったものが必ず失われているからである。

ともかく老人にも価値があるものだがその価値が活かされない社会でありただ厄介者とみなされる。それは空間軸の社会が拡大して時間軸で形成された者が失われたことにもある。世代間の対立というときは時間軸で形成されるものが機能しない破壊されたということにもある。だから時間軸で形成されたものを取り戻すことが必要である。ただ村のような濃密な人間関係で何代も同じ場所でアイデンティティ化されてきた時代とはは余りにも違った社会でありむずかしいとなる。

ただグローバル経済から空間軸で拡大した経済から逆に時間軸で形成された社会の復帰が起きる。時間軸で形成された社会なら老人も排除するというのではなく全体で欠かせないものとして機能するということがある。いくら空間的に社会が拡大しても必ずしも心が通うということまなく対立してくる。
空間軸となるとグローバルリストになり時間軸となればナショナリストになる。ナショナリストはそれぞれの国で風土と一体化して形成された文化を重んじるからである。世界はグローバル経済からナショナリストに方向を転換しているのである。



2024年09月03日

老人と若者は別々の存在ではない 【今見ている老人の姿があなたの未来にもなる】


老人と若者は別々の存在ではない
【今見ている老人の姿があなたの未来にもなる】

●老人の問題は若い人の問題でもあり切り離せない

老人の問題は実は若い人の問題でもある。老人は老人であり若い人は若い人で別々であり関係ないとはならない。
なぜなら若い人も必ず老人になるからである。もし若い人でも老人にならなければ老人のことは関係ないとなる
だから若い人老人になるということはどういうことか知るべきである。若い人は老人にならないと思っている人さえいる。
若い時代がいつまでも続くような錯覚に陥っているのであるだから老人のことは関係ないと見てしまうのである。
ところが必ずたちまち若い人も老人になってしまうのであるだから老人等のことは関係ないとか老人の話など聞いてもなんにもならないとかなる。

老人になってみると意外なことが起きてくる。一番の問題は若い時からただ目的もなく金のために無我夢中で働いてきたとかなるでも老人になるといったい私は何のために生きてきたのか私の人生は何だったのか私の生きてきたかちとはなんだったのかそういうこと誰でも別に特別の知識人でなくても一般庶民でも老人になればそれが問われる

でも最初から明確な目的を持って志を持って生きている人はいないただカルト教団などはその動機でも志でも持っていたとしてもそれは純粋なものではなくただ御利益を求めてこの世の栄華を求めて運動してきたのである。

奇妙なのは一時なぜあのように熱心になっていたのかということであるそれは別に信仰のためではなく御利益を得られるということでで熱心になっていただけなのである。だからその動機も不純であるし目的も間違っているからその人生の結果はどうなるのか?私は信仰に生きたなどという人は一人もいない、ただ御利益は得たのである。その御利益は幹部になって信者からお布施を集めてそれで利益を得たのである。
つまり宗教の一種の詐欺だったとなる、幹部が御利益を得られると説いてその御利益を得るのは幹部だからである。

●人生の結果を成果をすべて金で計られるか?

たとえばそれ働いて何十億の金を残したというときその人はそれだけの価値を作り出した。でこれを残さない人は稼がなかった人は価値がないとなるのか、その人生の成果は金で測られるだろうか。問題はその金そのものではなくその金をどうして稼いでたのかということでその話を聞いて納得すれば価値あるとなる
でもただ金を残したというだけでそれがその人の価値になるとも思えないのである

私は若い時から親方について大工で修行してきて腕を磨いてきたそれから私はほかの人と違って壁塗りでも庭作りでもしてきた
そうして私は働き金も稼いでいた稼いだ。そういう話を聞けばその人がたとえそれで金持ちになってもそのことで文句を言う人もいないしその人は価値ある人間だったとなる。
でも株で儲けたとか遺産で金を得たとかなると何かその人はその人自身の才能とか努力と関係なく金を得たということで反発されるのである
だから奇妙なの石のの貨幣なのである。なぜそれを家の前に飾っておくのか?それで何か買えるわけでもないただその石は海に沈み苦労して引揚げ運んだということで価値がある。
つまりその人の価値はいかに苦労してその海に沈んだ石の貨幣を取り出して運んだということで価値がある。それを家の前に飾り物語ることにその家であれ人の価値となっている

確かにその石の貨幣で何か買えるわけではない、でもその人の人生で大事なのはその生きた物語だったとなる。つまりヒストリーはストリーなのである。その人の一生に価値があるということはそのストリーにある。身分制社会ではその人がどいう親から生まれたかでその価値も決められる。
でも今はその人がどういう人生を送ったかが問われる。それは老人になると必ず自らも自問するし他社からも問われる
私は一体何を生きたのか何が価値あることをしてきたのかそういうこと誰でも自問するのである。

ただ人生で金を稼ぐために無我夢中でありそんなことをあまり考えない。がむしゃらに金になればいい御利益になればいいしかないのが普通である。でも老人になると自分自身でも自問するし他者から何をしてきたのかが問われる。金を十億円残したしたらその金をどうして稼いだのか問われる。不正したり騙したりして稼いだとなればそれは語らないとなる。でもその語らないことが不審になる。何か悪いことをしたということで語りたくないからだとなる。

●老人になって否応なく問われるその人の価値

だから若い人はどう生きればいいのかというとき老人がどう生きたかを知るべきだとなる。老人が後悔して反省していること知りそうならないようにすべきだとなる。若い時は厳しく問われない、でも老人に成ったら否応なく厳しく問われるからである

あなたの人生は何だったのか何かあなたの人生の価値は何だったのか自らも問われ他者からも問われるからである。
でも老人のことは若い人は関係ないとみている、それより老人にならないと思っているのである。いつまでも若いと思っているのである。だから老人のことは関係ないと見ている

老人のことを知るということは若い人に必要である、なぜなら若い人も老人になるからである。
つまり今見ている老人があなたの未来の姿にもなる。
いろいろな老人がいるとしてあんな老人になりたくないというとときまさにそうならないように若い時から生きるべきだとなる。
でも若い人は老人とは関係ないと見ているのである。
今老人を嫌悪しているけど今度は逆に若い人が老人になり嫌悪されるようになる。だからこそ若い時からどう生きるかとか真剣になるべきだがただダラダラして流されて生きているうちにたちまちに老いてゆくのである。ただそれが人間のカルマであり繰り返しだったとなる。若い人も老いるし死ぬことは変わりないからである

●時間軸で形成されたものが破壊されやすい現代

とにかく人生でも社会でも世代間の対立があっても分離することは社会を歪める。家族でも本来祖父母がいて両親がいてとかになると世代が違っていても何か受け継がれるものがあり語られことになる。その女性の嫁いだ家は紙漉きをしていた。
でもそのことはすでに結婚した相手の母親が死んだ後であり何も伝えられていないのである。ただその女性は姑となる人がいないから結婚したのかとも見る。姑がいると相当な確執があり同じ墓に入りたくないともなる怨念が生まれているからである。

ただ老人が祖父母がいないということ世代間での継承がなくなるということである。何か広域社会とかグローバル社会になると時間軸で形成されたものが破壊される。
この辺の原発事故で起きたことでもそうである。時間軸で形成された歴史が失われたからである。村社会だと時間軸で形成された歴史が継承される。一つの村ん代々住む人がいるからである。それで農家では三代住んでいないと仲間と認められないというとき仲間になるにもそれだけの時間がかかるということである。

2024年08月04日

人生は予定通りにいかない―必ず不測のことがあり狂う


人生は予定通りにいかない―必ず不測のことがあり狂う


私が話したほぼ全員が、人生の少なくともひとつの側面は予定通りに運ばなかったり、進路から逸脱したり、同時発生したり、順序が狂ったりしたと語った。

 私たちはみな自分自身と、すでに存在していない理想とを突き合わせ、それが達成できなかったことで自分を責めているのだ。

「人生の転機」の法則 平凡な毎日を揺るがす「破壊的要因」との関

「夕月や 流れ残りの きりぎりす」

一茶双樹記念館から江戸川の堤沿いを歩む大人の流山散歩

波乱万丈を生きた一茶らしい句である。ただ俳句は短いからその背景を読む必要がある。何か洪水なのか水に流され死なないでキリギリスがいる。そこに夕月がでている。

これは例えばあの時一瞬死んでいたかもしれない、そいうことを必ず人は経験している、別に平凡な人でも経験するのが人生である。私の母はとてもおとなしく冒険するような女性ではなかったが父親が警察署長とかして幼児期は恵まれていたのである。
でもその父親が事業に手を出して失敗して母親が病気に成りそのとき後妻に入った女性がいて継母になり苦しめられたのである。

そしてなぜ東京に女中になるために故郷を出たのか?その辺の事情はわからない。でも結婚した相手が工場で事故で死んだのである。結果として故郷に帰り私の父と再婚したのである、その連れ子が私の兄だったが私の家を出されて実家で5年間暮らし集団就職したのである。この事故が原因で運命が狂ってしまったのである。人間は事故で運命が狂ってしまうことがある。推理ドラマで必ず交通事故で運命が狂うことがテーマになる。
結果的にに兄の一人娘は苦労することに成った。交通事故で運命が狂ってしまったのである。だから何らかの事故で運命が狂うことは結構ある。事故で死ぬ人も多いからである。

ただ人間はどんな人でも恵まれた人でも一生恵まれて終わる人はいないと思う。何か必ず不幸がありそれで運命が一転して苦しむことになる。この辺の津波原発事故で人生は狂ってしまった人は相当にいる。これは個々人に起きたものではなく町自体を廃墟にするような大災害だったのである。
そうした大災害でも人間社会には起きてくる戦争だって大災害であった300万人も日本人が死んだからである私の姉は赤紙一枚が来て従軍看護婦となる。ンガポールの向かい側のジョホールバルの病院で地獄の経験しているからである。それは何の説明もなくただ突然赤一枚が来て地獄に連れて行かれたのでは何か突然こうして人間の運命が狂ってしまうことがある。

つまり人間は誰しも順調に過ごす人はいな何かしらで病気になったりさまざまな災難が免れることはできないからである。つまりこの世とは火宅の世であり親鸞が言ったよ地獄がが一定の住処なりとなる。歴史を見ても何か災いがない時代などなかったろう
そして人間はこうして運命に翻弄されるともなる。その運命も不可抗力で起きてきて避けることができないのである。

だから聖書で常に脱出がテーマになっているのはそれだけこの世というのは災いが多い場所なのである
だから災いから逃れるためには神の導きが必要であり神に頼りこの世から脱出する以外方法がないのである。最後は人間の人類の運命は最終戦争でハルマゲドンで滅びてしまうということでもそうである。最近でもウクライナであるイスラエルである戦争は現実に勃発してだから三次世界大戦も起きてくるかもしれない。
つまり個々人でも必ず災いがあり逃れることができないのである。

禍という時人間は誰しも病気になる。年を取れば必ず病気になる人が多くなる。この病気の災いもまた大きなものであり誰でもなる。なぜなら老化すればそれも病気の一種であり体が衰えてくるからそうなるのである。それは誰も逃れることができない
いくら金持ちでも病気にならないということはあり得ないからである。こうして人間は災いから逃れることができないのである

それでカルト教団などに入り何とか災いが逃れようとするがそのカルト教団が自体が最大の災いの場所なのである。ただ宗教を利用して搾取する団体なのである。だから別にカルト教団に入って信仰したとしても災いから逃れることはできない。ただどうしても苦しくなると藁をもつかむ思いでそうなる
つまりこの世こういう場所であり災いから逃れることはできない場所なのである

人生はいくら計画しても計画通リにはならないというのもそのためである。何であれ事故である病気であれ人生はどこかで必ず狂ってしまうのでそれから逃れることができないのである。
つまりこの世を生きるということ人智で持って生きようとしても必ずその運命は狂ってしまうのである。そこにどうしても人間の限界があるとなる。

2024年08月01日

働いたら負けだろと35年間恵まれて過ごした人の末路 【働く働かないにしろ老人は人生の結果の責任をとらされる】

働いたら負けだろと35年間恵まれて過ごした人の末路
【働く働かないにしろ老人は人生の結果の責任をとらされる】

働いたら負けだろ…年金「年間160万円」の両親を頼り続ける〈57歳・無職のひとり息子〉、遊び暮らした「35年の代償」

●恵まれた人も最後に老人になり苦労する

人間はどうしても一応60以上くらいになると必ず人生の総決算のようなものは現れてくる。別に真面目に働いた人でもそうでありその人たちもやはり人生を振り返り何をしてきたのか何かにあることをしてきたのか問われるのである。
だから必ずしも別にこうして働かないとしてもこの人は何をしてきたんだろうかとなる。

何か必ず語ることがありただ遊んでたとしてその遊んでいたということは何をして遊んでいたのだろうかとなる。もしお金の余裕があって海外旅行とかしていればその人はやはり外国に詳しくなるから遊んだとしても無駄とはならない
何かよくわからないのだがその人は相当に早い時期から海外旅行していてイランとかにも言っていて詳しかったのである。

なぜそんなに海外旅行していたかというと家賃の収入で暮らせる人だったからである何かその頃まだ海外旅行とは高い時代があったその人は早い時期からそうして海外旅行していたのである。
だからそうした働かなくてもいい身分の人は常に存在したし明治時代で高等遊民とか言われたのででもまたその人たちが全く無駄なものだったかとなるとそうでもない。その人その一部であれ文学とかで功績を残した人はいるからである

確かなことはこの人は別に家は裕福であり働く必要もなかったのである。だからそのこと自体咎められるということでもない。でも問題は何をしていたのかということである。遊んでいたというけど何をして遊んでいたのだろうかとなその辺のことはよくわからないから評価もできない
ただ人生というのはいくら遊んでたとしても必ず何かを体験しているし何かに時間を費やしている。その何かがこれだけの記事では全くわからないということであるこれ

働いたら負けだろとかは2ちゃんねるの時代盛んに言われてたのである

何か働くことに帰って価値を見出されず今でも会社員だと社畜というように自らを奴隷と思っているから働いたら負けだろうというのはその人たちもそう思っていたのである。ただ働くと言ってもいろいろありその働くことがすべて価値あるとはならない
その人は私と同じ歳でも何をしてきて来た人なのかそのことを一切語らない。おそらく語りたくないのだろう。何かそうして働いてきたとしてもそのことについて語りたくないというとこういうことは何かやましいことがあってそうなったのかもしれない
大概どんな人で自分のしてきたこと働いたことでも遊んだことでも必ず語るからである私自身がそうである

●人間を作るのは何でも体験

私自身は結局20代まではいろいろとアルバイトなどで働いていたが流れ作業などばかりで働くことに嫌気がさして旅ばかりしていたとなるからである。そして結局私の人生は旅の人生だとなってしまったのである。
でもそれがすべて無駄だったとか無駄だとかはならなかった。旅をした結果地名に興味を持ちそこから歴史に興味を持ちまた元々俳句とか短歌に作ったりしていたからそれを発展させたのである。
つくづく思うことは何か地理でも芸術にしても実際の体験がないと本物の芸術でも創作できない。

まず地理を知るには本ばかり読んで全く通じることはできない。それは国内でもそうだし外国でもそうなる。だから外国に関しては別に大して知識もなくても一回その場を踏んだ人と踏まない人の差は大きなものとなるのである
それで私は50歳でバックパッカーで世界を旅行したこと外国に通じることになったのである。もしその時行かなかったら私は何ら外国について語るべき事もなくなっていたということである。

また山を知るというとき遠くから見て山を知るということがあるが実際は山を登ってみてこそ実感として知ることができる
でも登山となると結構きついから勤め人だとなかなかできないかもしれない。勤め人だと長い旅を旅ができないからそれもやはり欠落したものとなる。とにかく人間はどんな人生でも欠けたものになる。働くことがすべていいとは限らないのである

●働くことがすべていいことではない

私の母は大正生まれでもともと貧乏であり不幸な生い立ちがあり花には全く興味持たなかった。だから花に金を使うこと無駄なこととしてしなかったそして庭に豆を植えると言っていたのである。戦争中に食糧危機を経験しているからそうなった。これも何ともわびしいというかそういう人が親であり近くにいたら殺伐としたものとなったろうただ私はには特殊な事情ででもう一人母となるべき人がいてその影響をあまり受けなかったのである

ともかく別に働くということがすべて良いものではないだからもしこの人が遊んでたというその遊んでたというのはどういうことかわからないがやはり自分の趣味である何か社会役立つもの提供していたかもしれない
でも最終的に働かないことにより両親が病気になったり介護になったりしてどうにもならなくなったということであるそしてまた一人っ子だから頼る人もいなくなったのであるそれは私自身に似ていたのである

いずれにしろ人間は60過ぎればもはや人生の結果が必ず出るそれは別に働いていたとか働かないとかではない働いていた人でもやはり何か語れないと言う人もいて何をしていたかも分からないその人はなんだったのだろうとなる。
ただ別に生活には老人になっても困っていないのであるただいくら社畜としても会社で30年とか過ごしていれば何かしら語ることがそれがないということはやはりなんなんだろうとなる

●働く働かないにしろ人生の成果が問われる

そもそも人生の成果とはなんなのだろうとなる
それは別に働いているとか働かないとか会社に勤めているとか勤めていないとかですべてが決まるわけではない。またその人がいくら稼いだとかその金の量で価値が人間何の価値が決まるというわけでもない。もちろん金はあった方がいい金で全て人生の価値が測れるのかということである。そもそも人生の価値そのものが何なのかとなるからである。

もしかしたらこの人の遊んでいたとしてもその遊んでいたことが何なのかそのことに何か価値あることがあったかもしれない
ただ60すぎると否応なくその人の人生価値が問われる
そしてこの人生の価値というのは死んでからもやはり問われるのでなぜなら弔う(ともらう)ということは死んだ人を問うということである
その人が何をしてきたのかを問うことが弔うになり供養するということになるからである
つまり人間は死んでからでもその価値が問われるのは人間なのである。死んで全ては終わりにならないのである。だから歴史でも後の世でも問われ続けているのである。
だからむしろ死んでからの方がその人の人生を冷静に見られてその価値が判断されるのでその人は何10億の金を残したとしてその人に価値があるとならないからである。人生の価値は何かということを問題になるのである。

確かなことは60以上になれば容赦なくその人の価値は判断されてしまう。若ければまだ人生の価値を作るということができるわもはや60すぎると今は高齢化でもなかなかできないとなというのは病気になったり親の介護になったりして自分自身の価値を作るということ難しくなるからである

●20代で決まる人生

自分の人生は20代で決まったのかもしれない。私は一人っ子で甘やかされて育ったから家を出て東京の大学に行った時そこで変わった。体育会で一年間やれたのも不思議だった。そんな体力もないと思っていたからである。それかカルト宗教に入ったりしたのは自分は何かもともと求道心があり宗教でも求めていたのである。
そこはそんな場とはまるで違っていたからやめた。ただ私の性向として陰の性格だから集団に溶け込もうとしていたとなる。ただ私は集団に溶け込めない性格であり学校でも一番嫌だったし会社とかで嫌だったとなる。何かマイペースでやるのが向いていたのである。

だから大学出てからはマイペースで何でもしてきたから良かったとなる。

ただ若い時は相当苦労したのである。恵まれた環境にあったにせよ私は進んで20代でわ苦労してきたのである。それが一見いいことではないように見えたが自分にとってはよく作用したのである
そこで私は打ちのめされたのである。そこで何か奢ることもなくなったのである。それは一見いいものではなかったが振り返るといいものとして作用するようになった。いずれにしろ若い時からチヤホヤされて苦労もしないでもてはやされるのは非常に危険である

若い時成功することも相当に危険である。それが奢りとなってしまうからである。人間の共通性としてこの奢りというのが大きな問題である。それは一個人だけでなく国単位でもおごる時危険になっていたのである。それは日本がアメリカの戦争アメリカなど大したことがないという終わりがあり大惨事にに終わったので
とにかく人間は万事塞翁が馬でありであり何がよく作用するのか悪く作用するか分からないのが人生を振り返るときそれがわかるということである。



2024年07月28日

国家にmissin and meaaning が必要? 【人生でも最後に問われるものもmissin and meaaning 】


国家にmissin and meaaning が必要?

【人生でも最後に問われるものもmissin and meaaning 】

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伊藤貫×ジェイソン・モーガン
「何故、アメリカ文明からアングロサクソンとキリスト教的な価値観が消えたのか?

●利益優先になるのが現実社会

伊藤貫氏がしきりに国家にmissin and meaaning が必要だという、それがアメリカにない、マテリアリズム、物質主義であり刹那主義であり拝金主義しかないと批判する。プラグマテズムもそうである。実利主義である。
それは中国であれ日本であれ同じである。中国だと儒教を学ぶ人がいない、そのために外国で学んだという人がいる。そもそも中国では儒教を教える人もいない、中国はもともと実利主義であり拝金主義でありアメリカと似ているのである。

今どこでも国家がmissin and meaaning を追求するだろうか?
個々人ではまだ追求するが国家で追求するだろうか?
プラトンが哲人政治を理想だとするがそれは実現不可能な理想論である。むしろ民主主義になると大衆が力を持つ、数が力となるからである。そして大衆理解するには実利主義えありプラグマテズムだとなる。それは誰でも理解するからである。
発達障害の人でも利にさといのである。それは理屈など関係なく
本能的に理解する。だから大衆民主主義は全体主義になりファシズムになりやすい。ヒットラーは選挙で合法的に生まれたからである。

●政治もカルト宗教も実利主義

要するに人間は実利主義になるのが普通である。日々の生活でも常に金の計算をしているからである。ただ人間の矛盾は実利主義と意味とか使命とか求めること相反することで悩むとなる
たとえばカルト教団は宗教だったらmissin and meaaning を求めるのが基本にある。でも大衆宗教に成れば実利主義になる。創価などは異常なほど実利主義であり権力志向である。御利益を求めて狂気のように題目をあげて集団で祈る。カルト教団は実利主義であり同じ傾向がある。これが矛盾になるのだけでを大衆にmissin and meaaning を説いても通じないだろう、ただ御利益を説けばすぐに理解して通じるのである。

でも宗教となればmissin and meaaning を追求している、でも大衆ではそいうものは必要ないのである
国家にしても大衆国家になれば実利主義でありそんなもの邪魔なだけになる。そこに矛盾を感じないのは大衆は考えないからである
金になる儲かるとか説けば人が集まるからである。
だからなぜ宗教を看板にしているのわからないとなる。
一番必要としないものは実はその毎日拝んでいる宗教なのである。

●利益を上げることがまず求めらる現実社会

でもこの矛盾はあらゆるところにあり個々人でもある。。何か会社に勤めても絶えず利益を上げることを要求される。それは客にとって良いものでないにしろ必ずまずは利益を上げることが優先される。そもそも会社自体が実利主義であり利益を上げることが会社の目的だからだ。

だからこの問題は人間の普遍的な問題である人間はそもそもみんな実利主義であり利益を求めて活動しているからである。ただその実利主義だからとしてそれがすべては悪いものとはならない。ただ必ず実利主義を求めて行くと矛盾してくるものが人間である。それは例えば医者で本当はこの人に薬はいらないのだが金を得るためにはあえていらない薬でも患者に出す。別にそういうことはあらゆる人に起こるである。どうしても利益優先になるのは現実社会では否定できないからである

ただ大衆はそうだとしてもやはり一部の人はmission and meaningを求めているのである。人間だけはmission and meaningを求める動物だったら毎日腹を満たせばいいというだけだからである。でも現実は人間でも大勢は対して動物と変わりないのである。
mission and meaningを求めるのは一部の人であり大多数は実利主義であり日々の暮らしで精一杯なのである。だからギリシャの哲学者でもそれは貴族であり奴隷はただ毎日貴族に使われているだけだった。そこで高等なミッションとかミーニングとかそういうものは関係なかったのである。つまりギリシャでもそういうことを考えたのは暇がスコーレがありそのために日々の労働に使われることなく考えることが出来たのである

●老人になると問われる人生の意味

ただ不思議なのはかならず実は老人になるとその人の成果が問われるこの人は何のために生きてきたのか何のために働いてきたのか問われその人は自分が働いてきたことしたことについて語らない。ということは何かやましいことをしていたのでありそれで語らないのである

なぜなら普通の人でも大工さんなどはその人はほかの人と違って庭師でも壁塗りでもできるから私はこれこれこういうことができるとして異常なほど私にその価値を認めた認めてもらいたくてか主張する。大概はどんな人でも老人になると自分のしてきたことを語りそれで自分というものを認めてもらいたい承認欲求は必ずある
では人生の成果として金ですべてを測られるのだろうか

10億円の金を稼いだ人は10億円の価値がある1億円稼いだ人は1億円の価値であり5000万稼いだ人は5000万の価値であり・・・100万円しか稼げない稼げず残さなかったそれだけの価値しかないとかされるだろうか。もちろん金があったほうがいいなければいいと言っているのではない
でも人生の最後にその人の価値が何だったのだろうかと見るとき何になるのかということである
それが mission and meaningになるのである

●あとからmission and meaningを問うことの問題

例えば国家にして太平洋戦争で日本は300万人も死んだというときそれは一体何のためだったのだろうかとなる。それは今でも明確には分からないのである。。そこで問われているのはやはりmission and meaningなのである。だから欧米からの植民地解放のための戦いだということでそのmission and meaningを与えているのである
でもそれだけなのかそれは後付けでそうそう言っているのかもしれない。なぜなら300万人も死んだというときもはや死者は何も語らないしでもその市が国家にとって個々人にとっても無駄死にだったとは言えないからである。
だからなんらかの価値あるものとして意義づけをしなければならないからである。でもその人たちが果たして自分のmission and meaningを理解して地獄の戦場で戦い死んでいったかどうかは疑問であるなぜならナチスのようなものもあってそれはファシズムでありそこに何かしらmission and meaningあっあったとは思えないからである。

ともかく人間で確かにmission and meaningを自覚して働いている人がいるのすべてはただ目の前の利益を求めて日々生活しているのが普通である。だから国家がそれをもてといってもその国民が果たして理解するのかとなる
ただ国家には強制する力があるからそこにmission and meaningないとしても戦場へ送ることができた。私の家族の一人は現実に突然に赤紙一枚が来て従軍看護婦として地獄の戦場に送られたのであるそこで何かmission and meaningを自覚するも何もそんな時間もなく教えられることもなく四年間もそこで地獄の中で過ごす他なかったのである。
だから国家はmission and meaningを自覚させて納得させれば別だがただ強制されて何のために戦い死んだのも分からない
死んだ後にその人たちはなんのために死ななければならなかったと今になってmission and meaningが深刻にに問われるようになったのである。

これは必ず歴史で後で振り返るときmission and meaningは深刻に問われるのである。それは老人になった時あなたは何のために生きてきたのかmission and meaning必ずと問われるのと似ているのである。でもそもそも普通の戦争でなくても普通の平和な時代でもいったいmission and meaningを追求して生きて来たい人はどれだけいるのかとなる。
ただ目の前の利益を求めて生きてきたのは普通普通の人ではないか。それでもその最後に問われるのはmission and meaningなのである

●最初からmission and meaningを求め生きる

だから最初に神の国を求めなさいというとき利益ではなく利益を度外視してまずは神の国を求めなさいということでありそれに付随してパンは与えられるとしている。
でも普通の人達はほとんどまずは利益を上げなければ生きても生きてゆくことはできない。パンを与えパンを得なければ生きていけないから利益優先になるのでただそれでも人生の最後に問われるのはmission and meaningなるのである

だから最初から本当は神の国を問われるのは求めなさいというときそれが老人になり死んでもそれは継続して神の国に入るということになる
でもそうして生きる人はほとんど居ない
それだけまずは利益だとなり実利主義になるのである。それは国家でも同じである何か高邁な理想のために戦争したとしたとかあるのかとなる。ほとんどないかもしれない。それだけ人間は本末転倒になっているのである。ただそうは言っても必ず最後に死んだ後にしろ歴史でも問われるのはmission and meaningなのである。

2024年07月10日

劣等感を持たない人いない 【人間は劣等感を解消できない―劣った人が神に選ばれた不思議】


劣等感を持たない人いない

【人間は劣等感を解消できない―劣った人が神に選ばれた不思議】


●学校で勉強できなくて異常なほど劣等感を持つ人

人間はなぜ劣等感を持つのか。人間はそもそも他者と比べれば何か劣っているものを感じる。それはあらゆる面でそうである。体力でもそうであり体力のない人は体力がある人を羨ましいと思い劣等感を持つ。逆に勉強ができる人を勉強ができない人は劣等感を持つ。
その人は大工さんでありなぜその人が異常なほど劣等感を持つか。それは学校の時勉強はできない事が原因となり異常なほどの劣等感を持つようになった。それは自分自身でも学校では勉強ができないから劣等感を持っていた。

だからその人は高校出て大工さんになったが普通の大工さんと違って庭師にもなったし壁塗りとかとかいろいろなことをこなせる仕事ができる・そんなに色々なこともできる人いないからそれだけで相当に優秀だとみた。でもその人が学校で勉強ができないということに相当に劣等感を持っていたのである。だからなんとかのし上がるため努力したのである。

それでも異常なほどに劣等感を持っている。だから私が本を読んでいたり何か知識的な仕事をしていることに対してその人は理解できないから劣等感を持つ。それで本を捨てた方がいいとかそんなことまで言うのである。私はその人をいろいろなことができるのだから評価して褒めていたのである。でもその人は知識的なことをわからないから劣等感を持っている
ただそれを発条にして人一倍努力したとはなる

ただ人と比べるときなんだか必ず人は劣等感を持つ。なぜなら人間は知識でも一部分しかわからないし仕事にしてもごく一部しか担当してその他のことはわからないからである。あらゆることに通じている人間はいないのである。そのために他者と比べて私はそのことができないとかそれで劣等感をを持っていたたらきりがなくなってしまう。

●あらゆる人が女性でも劣等感を持つ-劣等感を解消することは不可能

その豆腐屋だった女性はその仕事に対してやはり劣等感を持っていたみたいだ。でもその人は息子が医者になったりして相当に恵まれているのである。でも豆腐屋だったということでそれは職業として下位のものとして見て劣等感を持っていた。女性でも劣等感を持つ人は必ずいる。

ただ奇妙なのは私の姉の場合看護婦の免許を持っていたし自分は常に優秀だと自慢していたのである。そして他者を劣ったものと見ていたのである。そういう人は珍しいと思う。自分の家族のことだから悪くは言いたくないな客観的に見るとこれも異常なことだったかもしれない
そして最後に私は優秀だったと言って死んだのである。実際は認知症になり馬鹿になり死んだのだから最後に私は馬鹿ではない優秀だったということ強調したかった。だから悲惨だったのである。それほどまでに優秀ということにこだわっていたのである。これもなかなか理解できないことだった。ただ家族としては家につくした人でありなかなか批判はできない。でもこれも何か異常だったのかともなる
ともかく人間は劣等感を持たざるを得ない。その理由は人間のできることは極わずかでありあらゆることができる人あらゆることに通じる人などいないからである。それで人と比べると必ず自分にないものがありそれで劣等感を持つ。

つまり劣等感を解消するということは不可能になってしまう。他者と比べれば必ずできないことがあるそれで劣等感を持つとしたら解決不可能である。
ただ劣等が恐ろしいのは社会に対してその劣等感克服するために社会に認めさせるために実際に行動することである。ヒットラーは画家になりたかったが画家になれなかったので政治家になりそれでその劣等感を克服しようとしたのである。だから劣等感というのは怖いものを持っているのである。
池田大作にしても何か大学を出ていないということで世界中に金をばらまいて博士号をもらっていた。何か大学というのも特別なものとみてそれで拘っていたのである。別にその人は大学出なくても相当に能力があった人である。だからなぜそれほどまでに博士号もらうことにこだわったのかとなそれはやはり劣等感を持っていたからだとなる。

●神が選んだのは返って劣っていた人だという不思議

いずれにしろこの世の中で劣等感を持たない人はいない
知識にしても膨大でありその一部しかごく一部しか理解できないするとそのことで劣等感を持つのである。だからほとんど人間で劣等感を持たない人は人はいないようにも思う。何かしら他者と比べれば知らないことがありそれで劣等感を持つ。別に豆腐屋でも立派な仕事でありその息子は医者になったのだから劣等感を持つ必要はないとみるがそうでもなかったのである。
あらゆる仕事で劣等感を持っている人が多い。また学歴とかでもこだわり劣等感を持つ。文系の大学などただ大学という場ににいただけであり何も勉強していないということがある。だからなぜ大学というだけで私は大学を出ていないとか劣等感を持つのかとなる。

つまり劣等感を持つということはきりきりなくあるということである。そうなれば人間は劣等感を解消することができないとなる。また国の間でも人種でも優劣があり白人は優れているとかヨーロッパ人は優れているとかありそれで劣等感でではなく差別するのである。人間は神から見れば神は差別しない。神はどんな人種であれ国であれその中から選ぶのである。
不思議なのむしろ劣った人間を選んだ。旧約聖書でも神に選ばれたという人は普通の人よりもを劣った人だったのである。他に優秀な人がいたのに劣った人を選んだという不思議がある。だから奇異なことだとなったのである。
心が貧しい人は神を見るだろうというとき貧しいというのは富のことではなく心が謙虚な人何も自分には誇れるものはないという人のことを言っていたのである。
そういう人神を選んだとなる。そのために天才となるとあらゆるもので恵まれているから神はそういう人を選ばなかったのであるむしろ恵まれない人こそ何も誇れるものがないと思っている人こそ神にに選ばれたということである

●人間の不満とか劣等感は社会を変えても解決しない

ともかくあらゆる人が劣等感を持っている他者と比べれば必ず何か足りないものがあるからである。それが人間にとって変わらない大きな問題である。劣等感は別に人間が存在していた時からあった。なぜなら狩猟時代であり狩りうまい人が居るが下手な人がいてそれで劣等感持つようになるからである。
つまり劣等感は人間から解消できない、これは人間は病気のことやいろいろなことを科学技術とかの発展で解決してきたが劣等感を失くすことは不可能である。そこに人間の絶望があるとなる。

またルサンチマンなども解決できない、なぜなら何か不満がありそれを社会のせいにする。社会が悪いとなりその不満を吸収するのが創価とか公明党か他の野党にもなる。要するに社会を変えればその不満も解消できると思うからである。でも現実は必ず不満な人がいていくら社会を変えても共産主義国家になっても平然として社会から不満は消えることはないのである。ただ一部の者は中国のように特権階級化するだけである。

つまり社会を変えて劣等感とかルサンチマンは解消できないのである。
それで奇妙なのはまた最近AIの進歩して人間よりりAIが優れているとなるがでも別にそのAIに劣等感を抱くことはない。ただ一時機械に仕事が奪われたとして機械の打ちこわしということが起きた。それは別に劣等感とも違っている現実の生活に影響したからそうなったのである。現実の生活に影響したからそうなったのである。 劣等感を持つというときそれは人間に対してあり機械に対してではない。いくらAIは人間より優秀だからといってAIに劣等感を持つ人はいないのである。劣等感とかルサンチマンはあくまでも人間に対してもつのである。
とにかく人間の問題はいくら社会を改革して本質的なところで改革できない。それは劣等感とかルサンチマンはなくならないからである。

2024年07月03日

緊急事態で助けないと恨まれ殺される推理ドラマ 【人間社会から恨みをとりのぞくことはできない】


緊急事態で助けないと恨まれ殺される推理ドラマ

【人間社会から恨みをとりのぞくことはできない】

ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、弱者が敵わない強者に対して内面に抱く、「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった感情[1]。そこから、弱い自分は「善」であり、強者は「悪」だという「価値の転倒」のこと

●助けないで恨まれることがある

赤の他人でも助けないで恨まれるということがある。それは推理ドラマで何回か見た。推理ドラマでも現実を元にして作られている。現実社会でそういうことがあるからいくら架空のことでも現実ともみる。
何か子供は瀕死の状態に陥って近くで写真を撮っていた人に助けを求めた。それは一刻を争うもので車に乗せて行ってくれと頼んだがその人たちは夕日の写真を撮ってる仲間たちだった。そしてその写真を撮る方法を優先して助けなかったのである
そのことで恨まれて殺人事件になった。

なぜこうなるかというとたとえ相手が赤の他人でもなんとか助けてもらいたいというとき助けてくれないのでその人を恨むようになった。私の場合はそういう経験をしている。
なぜ私が病気にもなり介護で四苦八苦しているとき助けてくれないのかと周りの人でも親戚でも恨むようになったからである。
というのはなぜこれだけ一目見れば苦しんでるのがわかるのに私に要求されるのは金だけだったのである。

一人は事業に失敗して借金がありすぐ借金を何とかしたいとして私が苦しんでいる時金を出してくれと頼んだのである。
例えばそれを砂漠とかで水がなくて水をくれというときあなたの持ち物でも何でも全部出したら水をやるとかと似ている
実際に大金をその時に別な人に盗まれたりしたのそのためである。だからそうなると助けるというのではなく相手が弱っているから金があれば金を取ればいいそれしか頭にない人たちだった。

その時小高の人たちは仮設住宅に大挙入ってきて他からもボランティアきて援助されていたのである。そのときおかしなのはその仮設住宅に入達は何もすることもなくパチンコ屋とかギャンブルに興じていたのである。
そしておかしなのは借金した人がそのパチンコ屋で掃除とかで働いていたのである。私が苦しんでいた時なぜそんなことをしていたのかとなれば借金のためだったとなる。

そもそもは借金しているという時点でもはや人を助けるということはできなくなっていたのである。ただ何もしないということではなかったが借金しているということでそれをなんとかしてくれと自分のところにしても私自身が介護のためにまたは自分の病気のために苦しんでる時そんなこと考えることもできなかったのである。

だから私自身もその人たちを恨んだのである。つまりなんとか助けてくれというときそれは赤の他人である無視されることは恨まれるということである。そんな事別に赤の他人のだったのだからその人の判断であり恨まれる覚えもはないともなる
実際問題として恨まれるのである

●医者が恨まれやすいのは命にかかわるから

もう一つの事件は緊急事態の時病院に運ばれたのだが院長が不倫をしていてその最中であり断って治療手術断ったのである。そして患者は死んだので患者はその病院の院長を恨んでー殺人に至ったとなる
医療ミスというのは常にあり医者はそれで恨まれるということがある。私自身も近くの医者に緊急事態の時頼んだがあなたは常に来て私のところに来てていないからと断られたのである。つまり医者というのは緊急事態がありそれに対応しないとまたは医療ミスがありそれでで恨まれやすい仕事だと思う。それが生死に関わるからそうなりやすいのである。

いずれにしろ別にそれで助けてくれと言って助けないとしても罪悪感を感じない、でもそれでで恨まれるということはこの世ではある。なぜ何も悪いことをしないのに恨まれるのかともなる
要するにその人たちを相手がよほど困っていて無関心だからそうなった。それより夕日の写真を撮ることを優先的にしたから車で病院まで連れて行かなかったのである。だからその人たちは別に恨まれて殺されるまで恨まれると思っていなかった。そういうことはこの世でありうる。なぜ助けてくれなかったのだということで恨みとなりそれは殺人にまでなってしまった。
だから医者というのはそうして命に関わることが多いから恨まれやすい職業だともなる。また一面命に関わるから医者は今でも特別尊敬される人になる。つまりそれだけ責任が重いから恨まれることもありまた特別尊敬される人にもなっているのである

●恨まれる人はなぜ恨まれるかわからない場合がある

でも恨まれた人にしてみればなんで恨まれたのかということもわからないことがある。それはやはり別に赤の他人なら簡単に無視もできるからである。それで罪悪感も感じないとなる。またいくら緊急事態でもそれを認識できないということもある。
でもそれでも恨まれて殺されているということもあるかもしれない。それは別にそれほど負担になるものではない。夕陽の写真を撮るの一旦中止しても別にたいしたことはない。それより子どもの命のほうが大事なことは一目瞭然である。ただ人間は相手がどれほど苦しみ困っていても相手のことを認識できないのである。

それで私が八沢浦が津波で元の入江に戻ったということで写真をだしたがそれはひどく批判されたのである。なぜならそこで子供は死んだり家は流されたりして苦しんでいた人がいたからである。ただ私はあまりにもその光景に驚きそこに目を奪われてしまったのである。
別にそこに苦しんでいる人を見て無視したとか楽しんだとかということではない。もともと私は八沢浦の入江になっていた時の美しさを想像していたからほれがそれが現実になったのに驚嘆したのである
だからそこで子供が死んだとか家が流されたとか苦しい人たちがいたのにそのことを思うことはなかったのである
ただ私はその時介護と病気で自らの病気で苦しんでいたのであるそして私自身の苦しんで言えることは無視されたのである。

●自分の苦しみには敏感でも他人の苦しみには無関心

いずれにしろ人間というのは相手がどんなに苦しんでいてそれに同情するというより無関心な方が多いかもしれない。むしろ相手が弱体化したときチャンスだとして襲ってくる人もまた多いのである。というのは人間というのは自分の苦しみにはものすごく敏感である。俺は苦しい苦しいとなっていっるのが普通である。でも他人の苦しみには無関心になる。どんなに苦しんでいて別に無関心でいることはできる。

第一地球の果てのようなところで人が苦しんでいるテレビの映像を見てもそれで助けようとか思う人はあまりないと思う。だから人間というのは自分の苦しみには敏感であって他人の苦しみには無関心になってしまうのである
ただその他人の弱った時苦しんでいる時金があれば金を取ってやろうとかそんなことしか思わない
そういうこと自分の病気と介護で散々経験したのである。ただそれもまた自分自身のカルマだったと思う
何らかで人間はその行為によってカルマとなって苦しみとなって現れるということである一見平穏無事に暮らしていてもその期間が長くてもいずれ何かそれ自体がカルマとなって苦しみとなって現れる

だから最近自転車で転んだりして3回知らない人がやってきて大丈夫ですかと言われ何かしら私が人を助けることがあり助けられたのかもしれない。だからなんだか善行を積むことはたとえその本人から見返りがなくてもほかの人から見返りがあるともなる。だから善行を積むことはとにかくそれもカルマとなっていい方に作用して将来的に助けとなるかもしれないのである。

とにかく人間が苦しむ人に対して無関心でありむしろその人が苦しんでいる時喜んだり楽しんだり悪質なのはそのためにチャンスだとして金を取ろうとしたりする
それが現代では常態化しているかもしれない。むしろ戦前とか江戸時代とかは貧乏でも何か人に同情したり助けるということがあったかもしれない
ただ貧乏であるから金銭的にはできなくてもちょっとしたことでわ助けていたかもしれないということである

とにかく現代は人と人の繋がりが希薄はして金だけが頼りとなる社会でありだから常に金の事を考えて人を助けるにしても金を要求してくるということである
だから現在の社会の方が非情になっていて暮らしにくいとかもなる。ただいつの世もこの世がいい社会などは全く存在しなかった。だからこそ親鸞は地獄は一定すみかぞかしと言ったが今でも変わりないということである。
地獄の中を生きていかなければならないのはこの世だったのであるそれはいくら豊かな暮らしをしても返って非情になった人間が多いことに通じている。全ては現在は金で換算されるからまさに地獄の沙汰も金次第となりどんなに苦しんでよう同情したりもしないし
ただ他人は金のことだけを考えている。それは親子でも兄弟でも遺産相続で争うように金だけを求めるもっと社会になっているのである

●社会に恨みを持つ人がいて創価とか共産党がある

ともかく何か相手に悪いことをしたから恨まれるというのではなく何もしないということでも恨まれることはある。なんでこんなに苦しんでる時助けてくれないのだと言うことで恨まれるそれを心がけていないと恨まれ事件が起きる。ただ本人にしていれば何も悪いことしてないのになぜ恨まれたのだろうとなってしまうのである

ただ人間は必ずルサンチマンを持ちそれが自分が悪いというのではなく社会が悪いとなるのである。それで社会に対して上の人に対して根深い恨みを持っているのである
そのために創価とか共産党は何かそうした深いルサンチマン恨みを持っていてその恨みを晴らすのは社会を変えるということではらせると思っているのである。そしてそういう人たちを利用して組織化集団化して政治の問題として支持者を増やそうとする。
そもそも障害者を持ったり病気になったりいろいろとあるがそれはすべて社会のせいだとはならない。でもそうしたことを恨みを晴らすことができないからこそ上の人たちや社会を恨むようになるのである。
そういう恨み怨念を持つ集団は何かあればその恨みを晴らそうとするから上の者にとっては危険なのである。共産主義にはマルクス主義には憎悪の思想がある。階級闘争で搾取階級を倒す思想である。そこに深い憎悪がありそれが革命ともなり上の人が殺されるともなる。米騒動のように追い詰められ打ちこわしとかになったからである。創価とか共産党政権をとったらどうなるかというとやはりそうしたルサンチマンというのは消えないと思う。その人たちはそういう人達を利用して権力を得ようとする

障害者などはどうして政権が変わったからといって治るわけでもないし病気だって治らないのででもそれが全部社会のせいだとしてしまうのはその不満をぶつけるものはないからそうなってしまうのである。
だから人間社会にそうした根本的解決方法があるのかとなるないとなってしまう。障害者は依然として存在するし病気というのもなくなることがないからであるただ貧困などはある程度解決するかもしれない
でも最近また日本は貧困化しているから貧困で恨まれるということは増えていくそれで格差が拡大すると社会が恨む怨む人が多くなるから金持ちでも危険な状態になってくるのである

2024年06月23日

カルト教団であれ共産主義であれこの世の権力を持つことを目的にしている 【組織集団では個々人の価値は見ない】


カルト教団であれ共産主義であれこの世の権力を持つことを目的にしている

【組織集団では個々人の価値は見ない】

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●組織集団化すると個々人の価値は問われない

何か価値を問うとき組織とか集団とか団体に属しているとその組織とは集団団体の価値がその人の価値になる。会社でも有名な大会社に勤めていればその人のも価値も高くなる。
でも個々人の価値を見るときいくらそうした組織集団団体に属していても別のものになる。でも人は何か組織集団団体に属していることでその人を見る。宗教団体などは特にそうである。創価かであれ幸福の科学である何何の宗教団体であれその人が属している組織団体からその人を見る。その人の価値はその属している組織団体によるのでありその人個人の価値は問われないのである。

例えばさまざまな国家がある。その国家の一員になっていてそれはその人の価値になるなるのだろうか、私は日本人であり日本国家に属しているから価値があるとなるのか?またアメリカ人でありアメリカ人は世界で一番強国なのだから価値があるとなるのか?

そもそも日本人にしろアメリカ人にしろその人を見れば多様であり日本人だから価値があるとかアメリカ人だから価値があるとかになりにくい。だからあなたのプロフェッショナルは何ですかと聞かれた時あなたの職業は何ですかということでその人を見て価値を測る。それは個人の価値をその職業職業から判断するのである。

その大工さんは異常なほどに自分の仕事の価値を認めその仕事の価値を認められたいのである。なぜなら他の人と違って大工としてもすぐれていて壁塗りとか庭師までしているからそんな人は他にないからその人は価値あるとなる。だからこそ自分の価値を認めてくれるとなるの。それはその人の職業から価値を認められたいとなっているのである

●組織団体に属してもその人の価値は計れない

そもそも様々な組織集団に属するとき宗教でも別にキリスト教であれイスラム教である仏教徒であれそこに属する人はいくらでもいる。でもそれで個人の価値が図れるということはない。なぜならいくらでもそうした組織団体に属している人は無数にいるからである。だからそこに属しているとしてもその人の価値がそれで見られるということはない。つまりその中にはいろいろな人がいる。例えばイスラム教であれキリスト教であれ何かの宗教団体組織に属しているからとしてその人が価値あるとならない

その組織集団に属してそのために働いたとしてもその価値は組織団体内に限られていることでありその組織団体の中では価値があるかもしれない。でも外部から見たときその個々人の価値は何なのかわからなくなるのである
組織団体というときそれは必ず権力と結びつき利権と結びつき
その権力と利権の故に価値あるとなる。組織団体化は政治団体化するから必然的にそうなるのである。そして権力化して強制できるものとなる

ただ宗教団体の価値というのはその教祖がいて日蓮宗なら日蓮がいてその日蓮を崇めて日蓮の価値を高めるためにある。でも現実は組織集団化するときそれは巨大な権力利権団体となり社会に大きな力を持ち強制するものともなる。日蓮が何を説いたというよりも巨大な組織集団化したとき人はその数の多さにとかその組織集団が持っている権力お恐れるようになりそれに従うとなるのである。つまり日蓮は一人で国家権力と戦ったのだが宗教でも組織団体化するとそのそれ自体が巨大な権力となる。それは社会威圧して強制できるようになるのである

●カルト宗教団体であれ共産主義でも目的は権力を得ること

ではなぜそうした組織団体は何を目的として存在しているのか?

それはともかく会員を増やして権力持ちそれで社会を強制して支配するということである。その支配の道具としてただ宗教は利用されるだけだとなる。何か今度は罰が当たるとか地獄に落ちるとか会員を脅してやめさせないようにする。つまり会員はそうした宗教の奴隷になりそれで組織団体を維持して拡大させようとする。
要するに聖なるものは俗世の道具にされて使われる。何か悪魔的なのである。だから個々人の心の問題は完全に無視する。心の清い人は神を見るだろうとか関係なくなる。どんな心の人でもいい、会員として確保して勢力を拡大して権力を我がものとしたいだけなのである。

カトリックでは免罪符を売るとかして堕落したからプロテスタントが生まれたのである。カルト教団は宗教ビジネスだということで共通している。だから多額の献金を集めその金で社会を支配しようとする。つまりとにかく権力を持ち社会を支配することが目的なのである。宗教はその手段に過ぎないのである。

第一その一人一人は何を目的で動機で活動しているのか、それは御利益でありすべてが御利益のためにあり結局その御利益は社会で権力を持った時実現するのである。第一この世に仏国土とか天国は絶対に実現しない、人間の心とか欲望は変わらないからである。だから共産主義でも理想国など成らなかった。

それはロシアであれ中国であれカンボジアであれ実験済みでありそのために粛清されて殺された人が千万単位である。それはまたその組織集団の内部での熾烈な権力闘争の結果だったのである。社会で権力を持ちたい、そして今度は組織集団での熾烈な権力闘争と変化する。組織集団化するとき何か共産主義でもカルト宗教でも似ているのである、教理的には相反しているのに実質的には権力争奪を目的としと外部に圧力をかけ内部でも権力闘争になるのが歴史だったのである。

そしてオウムでもオウム王国に日本をしようとしていた。その内部でも権力争いがあった。高卒の人は大卒の人に劣等感を抱き地位を上げるために率先してサリンをまいたと言っていたのである。組織内部で序列がありそこでも熾烈な権力闘争がある。権力と御利益を執拗に求める人たちなのだから当然そうなる。
あのような小さな団体でも日本国を支配しようとしていたのである。だからこうした人間の業は変わらないから社会自体をいくら変えようとしてもできなかったとなる。






2024年06月14日

あの世から見えるこの世 【人間の欲は死なない限り消えない】

あの世から見えるこの世

【人間の欲は死なない限り消えない】

人間は生きている限り欲から離れられない。その欲によって過ちを犯すし争いにもなる。要するに人間は欲から離れることは不可能である。だからこそこの世は欲で滅びるということになる。欲から離れられるのは死ぬことしかありえないように思う。だからわずかの土地を奪いそのことで私の家は恨んでいた。

でもその人たちは死んでしまったのである。なぜか人間の争いというのは戦争となると必ず土地を巡っての争いなのである。だから私の経験したわずかな土地でもそれが忘れられないともなる。でも人間は一旦死ねばそんなわずかな土地にこだわっていたということがどうみるかとなる。なぜあんなわずかな土地のために人から奪ったのかと見ているかもしれない。ただ人間はこの世に生きる限りこの世の欲を脱することができないのである

欲にもさまざまなものがありきりがないのである。人間は食い意地がなくならない。だから近くで最近死んだ人は糖尿病であり鯛焼きを食べたいといい知人に買ってきてくれと言っていたが仲が悪くなって知人は買うこともしなかった。ある人が死ぬ時にすしスシ持ってこいと言って死んだという。

だから人間は生きている限り食わねばならないし食い意地というのは消えることもない。また性欲というのも死ぬまで消えないということもある。男女ともにその欲は消えないということがでも一旦死んであの世に行ってしまうとそうした様々な欲はもはや無いのである。だからあの世からこの世を見たときなんであんなにつまらない欲こだわり人を苦しめたり人を裏切ったり反省しているかもしれない。

なぜこの世から争いがなくならないとしたらそれは欲がなくならないからである。宗教はその欲なくすためのものだったがカルト宗教になるとさらにみんな現世利益と御利益のために狂気のようにして祈っているのである。あらゆる欲は肯定されて世俗よりさらに世俗的になったのはカルト教団である。
だからこそあれだけの人数は増えたのである。あらゆる欲はそこで肯定されむしろ強い欲を持てと指導されているからである。欲があることがエネルギーがあるとまでされているのである。

つまりこの世の宗教とかでも結局はこの世の欲から離れることができない。それよりこの世の欲より求めるものとしてカルト教団がて生まれたのである。だからそこには本来の宗教というのは何もないのである。だからなぜそれが宗教団体として認められているのかも理解できない。政治団体とは利権団体だから別にそれでいいわけである宗教となるとそうはならないからである

いずれにしろ人間は人間社会は変えることが不可能だという時人間の欲が消えることはないからである。その欲が消えるのは死ぬ死んだときしかないからだよ。生きている限り欲から離れることは不可能である。でも死んであの世に行ったときそこからこの世を見るときなんでつまらない欲にこだわりそれで人を殺めたり騙したりいろいろな悪を成したのかと見る。
だから人間は死ぬのだからその死んだ後にあの世からこの世を見るということも必要である。ただ現実はこの世に生きている限りは欲から離れられないのだからこの世でわ不可能である。

でも老人になるともうすでにあの世は近くこの世から離れて行くのである。それをひしひしと否応なく自覚させられる。何かこのことはどうでもいいとまでなる。まもなく死んでゆくのだからこの世のことにこだわりこの世の欲にこだわるということも希薄化してゆく。それでも依然として実際はこの世の欲に執着してこの世から離れ出ない人はいくらでもいる。それだけこのように執着するものがありその欲でも消えることがないからである。

でもみんな死んでゆくときそんな欲でももはや必要もないしあの世から見て出たとき何でそんなものに欲にこだわっていたのかということがで馬鹿らしいと見る。それはただあの世から見た時そう見るのでありこのように生きる限りは欲にこだわりそのために悪をなすことはでも消えることは無いのである

つまりだから人間はみんな死ぬ。そしてあの世に行くのだから死んだ後にこの世をあの世から見るという必要がある。つまりその時つまらない欲にこだわりそれで他者を苦しめたり自らも苦しんだりしていたことが馬鹿げたことだとあの世で悟りだただその時は既に時を遅しとなっている。あの世で悟っても救われれないともなるからである

とにかく人間社会が変わらないというとき人間から欲を取り去ることはできない。動物にしたって肉食動物ならほかの動物の食べなければ生きていけない。だからこそ肉食というのは否定されて草食動物だけならだけになるのは天国だともなる。
人間は死ぬということは全てのこの世の欲が消えるということである。その欲が消えた世界が天国にもなるのである。

依然としてこの世に未練を残す霊が留まる
それは一片の土地を我がものと留まる
それを譲りたくない、我が土地として
でもその土地も空地化して今誰も住まない
何かの欲の執着は死んでもあるのか
しかし死んだら何も所有はできない
死者はこの世にかかわることはもはやできない
王といえども死骸をミイラを残しても
もはや何も得ることもできない
その一時の栄華もはかなく消える

つまり人間をミイラにするというのもこの世にいたいという執着である。王としてこの世にありたいという権力の執着だともなる。カルト教団では教祖をミイラにするというとき現世に生きる人たちが組織集団を維持するためである。
それはソビエト連邦でも書記が死んだときあたかも神のようにして葬儀が行われたからである。
しかし結局維持できないのである。いくら栄華を誇ってもこの世は一時的なものであり消失する、組織団体でも消えるのである。
永遠に続く組織団体などありえないのである。国家すら永遠ではない、永遠は神の都にしかありえないのである。この世のものはみな消失してゆくのである。







2024年06月08日

我が神我が父であり組織集団化多数の中に神は現れない 【密室で一人祈りなさい】


我が神我が父であり組織集団化多数の中に神は現れない

【密室で一人祈りなさい】


我が子よ、私は我が子を守り導く
我が子よ、私はあなたを離さない
父なる神の声がじかに力強くひびく
父なる神はまことにおわします
災いの世から救出する万能の神が働く
汝は神の国へ導かれ神と共に生きる
そこに死のない永遠の都に生きる
その栄光は朽ちることなく輝く
主よ、我は神の御手のなかにあります
我は成しえず神の成すを知るべし


「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。詩編

イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。)」この見捨てると言う言葉が、詩篇ではヘブル語の「アーザブ」と言う言葉。イエス様が使われたのは(アラム語の)「サバクタニ」この「シェバク」という言葉は「離れていなくなる」と言う意味ではなく、手を出さない、助けないという意味だそうだ。


●集団に現れない神

信仰というときそれが神と我との関係である。宗教団体化したとき教会化したとき神と我々の関係になってしまった。つまりみんな我々の神として神を礼拝しているのである
イスラム教でも我々の全員の神でありわが神として神を見ている。何かそれも理解できない面がある。それは確かに偶像崇拝の拒否ということでありそれは信仰として正しいことである。
でも何かイスラム教からは個人としての信仰者は存在しないのかもしれない。なぜなら常に集団で礼拝しているからである

でも旧約聖書って神が現れたというときある特定の個人に現れたのであり我々という2人以上の人に現れていない。だからそもそも神が現れたの特定の個人であり我々というか2人上には現れていないのである。
ただ神というとき日本人だったら天皇現人神とした時それは日本人全員が神とする人となっていた。日本民族の神でありほかの民族の神として礼拝することはできなかった。そもそも我々の神となるとき集団の神となるときそこには集団以外の人排除する傾向がある。

その集団に組織に入らなければその人は認められることもないのである。それはキリスト教の教会にしてもそこに集団化して組織化して小規模であるにしろその中には入らない限り神と接しられないとまでなる。その教会内で我々の神として集団で礼拝するのである
でもその集団の中に入らない人は神を礼拝することもできないのである。その神を礼拝する牧師がいてまたカトリック教だったら司教が取次をしていたのである。プロテスタントになると直接神と個人が我が結びつくことになり仲介役の教会とか司教とか牧師は必要ないとされたのである

確かなことは原始キリスト教時代という時何か集団神が現れたらしい。でもそれは一時期でありその後は集団に集団化して形式化してただ社会化して神と個人が旧約聖書のように神と預言者が結びついて神がその預言者を通じて奇跡を起こしたり民を導くということはなくなった。
ただ集団で神を礼拝してその集団に属さなければその中には入れないし神を礼拝することもできない。つまり宗教とは組織か集団化したとき我々の神でありわが神というのは存在しなくなった。そして我々の神というとき社会でもそこに集団化組織化したときその神を認めるということになる。あれだけの人数が神として礼拝しているのだがいるのだから神であるとなったのである
でも一人の個人が神が現れたとしてといてその個人は社会では認めないのである。ただ一人に現れる神とかを社会では認めないのである。では神というときそれは神は我が父であり神にとってその子であり我が子なのである。それは個人と集団の関係ではなく個人と個人の関係だとなってしまう。

●キリストが十字架で最後に読んだのも我が神我が父である

十字架で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか

だからキリストでも我が神が神見捨てのかと訴えられた
その時キリストは父なる神に訴えたのでありそれを我が神のことである。我々の神ではなかったのである。キリストとは神の一人子でありそれは一人なのである。

でも宗教は我々の神組織化されて集団化された神になる時それは社会でも認めるし社会でもその組織集団を恐れるのである。別にその組織集団が礼拝している神を恐れるわけではない。何百万人のもの人が礼拝している時その数に恐れ従うのである。要するにその神は何でもいいあくまでも神ともなる。問題を数が多いということでそ神になりそれはサターンだともなる。それはナチスせありハイルヒットラーにもなる

だから宗教が組織か集団化して行ったとき権力化して社会へ圧力をかける。またその人たちの礼拝する神を強制することができる。もし一人だったら誰も恐れもしないし相手にもしないということである。
ただ神とはあくまでもわが父でありわが神であるそして神から見たときわが子でありそのわが子を神は見捨てはしない
でもなぜキリストが最後に問うたのはそれはまさにわが父にわが神に最後に死ぬときに訴えたのである。でも我が神わが父は決してその子を見捨てることはない
その愛するわが子を見捨てることはない。ただ組織化集団化した人たちを救うかとなれば救わない。それはわが子ではないからである。わが子というとき特定の個人でありわが神でりわが父の一人子となっているからである。

我と汝の関係をフーバーなどが説いたがまさに神と我の関係であった。神と我々の關係の中に神は存在しないのである。とても人間社会を見ればみんな我々と神の関係である我々が神によって救われるとか助けてくれるとか見ているのである。だから社会ではそこに数が多いほどそれが神を恐れる
だから神自体を恐れる人は殆どいない。その組織化集団した人たちを恐れるのである。その人たちにとって神などは存在しなくてもいい。問題は数を集めてこの世の勢力となりそこに集団の組織の神として強制してこの世の王となることが目的なのである。

ただノアの方舟のように誰も神のことなど信じないし笑って言っただけである。でも確かにノアは神の声を聞いて方舟をひたすら作っていたのである。そしてノアは神によって救出されたがその他の人は洪水に呑まれて死んだのである。
つまりそこにいた大勢の人は死に神に選ばれた個人が家族が救出されたということである。だから組織か集団化した人たちが神からの救いがあるのかというとないのであるつまり宗教でも組織か集団化して数が増えれば増えるほど神であれ仏であれ力を増してくる。

●人間が恐れるのはこの世の勢力である、神は恐れない

そして神とか仏とかを別に恐れるわけでもない社会が恐れるのはその組織化集団化した人たちは威圧してくるから恐れるのである。ただそこには真の神は決して現れることはないのである。我々の神というのは存在しない
わが神でありわが父なのであるそれは一人の人と結びついたものであり我々というものをそこに存在しないのである。だからいくら組織集団化して人を集めてもそれでその人たちが救われるということはないのである
神が投票によって決められるようなものではない。神自身が選ぶ人が神の子なり救われるのである。投票によって決められるようなものではありえないのである。ただ組織化集団化するときその人たちは神を求めていない仏でも求めていない。
そうして数を集めて権力化して社会を威圧してこの世の権力を力をこの世に力を持ち支配するためなのである。だからそもそも宗教というのが組織化集団化して人を集めるということ自体が間違っていたのである

それはもはや宗教ではない巨大な権力集団であり利権集団でありそこに宗教とは何の関係もない政治団体となってしまったのである。だからイスラム教にしても政治団体だからレバノンでも四つぐらいの宗派があって宗派争いがありそれは政治的争いであり権力闘争にもなっている。そんなことが宗教ではあれ得なかったのである。
つまり宗教は政治化すれば同じ宗教でも派閥がありその派閥同士で争っている。特に日蓮宗をそういう傾向が強い政治的団体化して互いに宗派で争うということである。

そもそも組織か集団化したということは政治化したことでありそこに神というものはなく数を集めて社会を威圧して社会を支配してゆく。
特に民主主義社会ではすべてが数で決まるというなった時いかに数を集めるかということに奔走する。それはただこの世の力を得るためである。民主主義社会になれば数が第一である数を集めれば権力化するからであるその数を集めるというとその人はどんな人かどんな人か性格的にどうとか心がどうとかどうとかそんなことは一切問うことはない。

その人を会員にしたときその人はその組織集団に属して権力集団権力を形成して行くのである
だから不思議なのはそうしてこの世の力によって神であれ仏であれそれが力を持っているということを示される
そんなことありえないことだがそうなってしまったのである。もともと釈迦にしても無一物である洞窟で修行していた
キリストでも家もなく寝る処もない何の権力もなかったのである。つまり宗教とはもともと無権力であり何か社会を組織集団化して威圧するようなものでわなかった。

それが逆に組織か集団化したとき社会を威圧するものとなりその組織集団が礼拝する神であれ仏であれそれを強制されるようにもなった。イスラム教の剣とコーランにもなる。
だからそもそも宗教組織集団化すること自体が間違っていた。それでニ三人で集まり祈りなさいというときせいぜいニ三人くらいは神を祈る人数として認められていたともなる
それが何百人何千人何万人何百万人となること自体が異常なことだったのである。そんなところに神は現れないからである我が神は決してわが父はそんな大集団に現れることはない。だから組織化集団化する宗教は宗教ではない
この世の権力化したものでありその権力でもって人々を支配するものでありそのために神でも仏でもただその現世の権力御利益のためにただ利用されているだけだとなってしまう。

●この世の力を求めて宗教団体は権力化した

要するになぜ宗教団体がどうして社会を席巻したのか。それは宗教を求めるだからではなくこの世のものを欲望を叶えられる御利益を得られるこの世の権力を得られるこの世の栄誉栄華を得られるものとして求めたのである。そこに本来の宗教などなく求める人は一人もいなかったのである
要するにサタンを拝してこの世の力を得るために拝んでいたというだけである。だからよくカトリックでも実際はサタンに乗っ取られたというときそのことになる。

ただ小集団であればまだ許されるそれが何千人何百何万人何百万人となるとそれはもはや宗教とは何の関係もない
社会を支配する権力集団となってしまう。だから内村鑑三であり無教会であり手島郁郎幕屋でもあれせいぜい集まった人が500人とかそんなものだったのでそこではとても権力化することは無理である。
それでも多いことで自慢していたのである。そういう団体は別に社会を数で威圧したりしない。だからそういう集団まで否定することはなかなかできない。

ただ神とは我が神でありわが父であり神からみれば我が子でありそこに我々という言葉は入ってこないのである
我々となった時それは組織集団化してこの世の力を頼るものであり神を恐れたり神を頼ったりすることではないのである
だからその組織集団に神の力は働かない。ただ権力この世の権力集団として社会を威圧してこの世を支配するためのものでありそれはサタンのか支配するということにもなる。

サバクタニ」この「シェバク」という言葉は「離れていなくなる」と言う意味ではなく、手を出さない、助けないという意味だそうだ。

キリストが訴えたのはまさにわが父に我が神に手を出さない助けないのかということを訴えたのである。このことこそ最も恐ろしいことではないか?
でも組織集団化した宗教はその組織集団の中にあってこそ存在感がありすべてをその人間の組織集団頼っているのである
そこに神である仏に祈ったとしても頼っている人はいない。つまりこの世とは人間が一番恐れているのは仲間はずれになるとか集団から排除されるとかこの世に頼るべきものはなくなる。そこに神とか仏は存在しない。実はそうした人に頼っているのである。その人の数が多ければ多いほど頼りになると思っているのである。

でもわが父に頼る人は一人もいないとなってしまうだから神は我々の神ではなく決してその多数の人を助けることはない救出することはない
それがノアの方舟とかで旧約聖書記されたことなのである。だからもしノアを馬鹿にしないでもしノアに従えばノアに従って箱船に乗っている乗った人は助かったとたるのである。宗教から見れば数が多いということは何の力にもならない
ただそこにそこに救いはない。神の力は働くことはないむしろその組織集団は確実に滅び消えていくのである
神は個々人が密室で祈る時現れるが集団で祈る時は現れない。なぜなら我が子よ求めてくるのでありそれは一人のことだからである。集団は我が子になりえないのである。だからいくら大勢で神を礼拝しても神は現れないとなる




2024年06月04日

岩手山の威容【詩】 【独立峰は人間にも見えて魅力があるー上野霄里とかニーチェとか巨像化する】

岩手山の威容【詩】

【独立峰は人間にも見えて魅力があるー上野霄里とかニーチェとか巨像化する】

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その噴火口
急峻な斜面
濃霧の中に隠され咲く花
噴出した溶岩の山
それは今も熱い
煮い滾る原始組成の力
その激烈な爆発の跡
それは天地に轟き
大地をゆすりぬ
その斜面を真っ赤な紅葉が
山巓まで染め上げる
そして一転して純白の雪が覆う
その厳格な原始の山嶽の威容
その全貌を知り得ようがない
その山の貌は多様である
その山は天に向き聳えて屹立する
それは立ちはだかる巨人
不浄を寄せ付けぬ独立峰
その山巓に星は散りばめられる
その絶巓に轟々と雪嵐が唸る
まるで野生の獣の咆哮のように
そして閉ざされて東北の長い冬を耐える
・・・・・・・・

岩手山に3回登った。岩手山の魅力は独立峰だということでそれは盛岡市内でも独立峰として見ることができる。なかなか独立峰となるとそれほどあるとは限らない。なぜ独立峰が魅力なのかというと富士山は魅力になっているかもわかる世界の人でも富士山に魅せられてしまうのである。それは独立峰だからであるその姿もまた優美であり必ず印象に残るものだからである

だからこの独立方を見ているとき必ず人間の心に反映される。独立峰というとき北海道なら羊蹄山とか青森なら岩木山とかありそれが魅力なのである。鳥海山などもそうである。会津には確かに2000m級の山があるひしめき合っているのだが独立峰というのがないのである。

私が岩手山を登った時それは別に一番印象に残ったのは早く秋になって8月なのか9月なのかすでに紅葉に染まっていたでも一転して既に真っ白な雪に覆われていた。その厳しい変化に感嘆したのである。私は体力がないけど30代とかはまだ山登りしていたのである。
でも山登りで相当に疲れて何か帰ってきて死ぬように寝ていたことがある。山登りはそれだけ体力的には消耗する。それで40過ぎてからやめてしまったのである。それからは自転車旅行になったのである。自転車旅行なら別にいつでも休めるし食事もとれるから意外と体力がなくてもできるものだと分かったのである。でも登山はそうはいかない。低い山ですら遭難する人はいるように相当な体力が必要である厳しいと思う。
現実に岩手山で吐いて山小屋で寝て何とか下山したのである。だから登山は危険なのである。

何か人間というのは何であれ木であり石である人間と見てしまう。独立峰もある意味で人間と見るのだがそれはあまりにも厳しいものであり人間を寄せ付けのものであり人間化することは難しい
でも例えば上野霄里氏とかの原生人間とかニーチェの超人とかアイデンティティ化したような感覚になる。だからどうしても私のような貧弱な体力だとまたは性格でもそうした巨大なもの強烈のものを現わそうとするとと難しくなる。

つまり決して岩手山であれその全貌を知ることは不可能である。あまりに多様でありまたその姿を捕らえることはできない。そうなれば神のようなものになってしまうだろう。そこに人間の限界がある
それは巨人幻想に陥り偶像化にもなる。なぜ巨像が神となるのかとても小さな人間が神と見えないからそうなった。その巨像も崩れ落ちるのである。

でも山を知ろうとするとき独立峰であり遠くから見ても確かにその山の威容はわかる。何かどうしても強烈な天才でもある上野 霄里氏とかニーチェとかに見えてくる。それは原生人間でありまだ超人だとなってしまうのである。
ただ現実にはそんな独立峰でありそれをアイデンティティ化される人間などが存在し得ないのである。ただ何かそれに似たような人間は確かに存在しているということである。

いずれにしろ何か山でもそうだが山を知るには確かに遠くから見てもその実際の姿を知るに実際は登ってみないと山を知ることはできない。例えばヒマラヤを遠くエベレストを遠くから見て感嘆した。山を本当に知りたければエベレストに登らない限り知ることはできないと思う
それはあまりにも厳しいからできないとなる。ただなぜそんなに厳しいところに山に魅せられるかというとやはり山にはそれだけの魅力があるということである。

とにかく今私は体力も落ちて山に登るところではない。自転車だって遠くに行くと何か体調を悪くしてしまうだから厳しいことは若いときにしていないとできなくなる。私自身が我ながら感心しているのは50過ぎてからバックパッカーになって世界を回ったことである。それを回想するとき今更ながらに良く行けたものだと思う。今や外国に行くこと自体行く気力もない、気力も体力も亡くなったとなる。人間とはこうしてたちまち老いてゆくからやるべき時やらないと本当に後悔するのである。


its crater
Steep slopes
Flowers hidden and blooming in thick fog
The mountain of lava that erupted
It is still hot
The power of primordial composition boiling over
Traces of its violent explosion
It roars to the heavens and earth
Shaking the earth
Bright red autumn leaves stain its slope
It dyes up to the mountaintop.
And the snow of pure white covers it in a complete turn.
The majesty of the mountain of the strict primitive mountain
I cannot know its whole aspect.
The appearance of the mountain is various.
The mountain rises and soars toward the heaven.
It is a giant standing tall
It is an independent peak that does not let impurity come.
Stars are scattered on its mountaintop.
The snow storm roars at its mountaintop.
Like the roar of a wild beast.
And it is closed and endures a long winter in northeastern Japan.
・・・・・・・・

Translated with DeepL.com (free version)

2024年05月31日

なぜ人間は失敗するのか 【未来に何が起きるか分からない備えることができないため】


なぜ人間は失敗するのか

【未来に何が起きるか分からない備えることができないため】

●先を見れないから教育でも失敗―ソロバンは役にたたなかった

なぜ人間が人生でも歴史の中でも国家的単位でも失敗するのか。それは先が見れないからである。未来に何が起きるかがわからないから失敗する。
子供の時そろばんを習わせられたがそれは何の役にも立たなかったソロバンできたと喜んでいたがコンピューター化して計算機で計算するからそろばんを習うことは無駄だったとなるのである。でもそのときはその先を見ることはできないコンピューターでも生まれていないしそれは想像上でも存在しないものだったからである。
ただ先端科学者は今のパソコンの何千倍なのか巨大な機械化して計算をしていたそこに未来の萌芽すでにあったのである。花でもその目を見てどんな花を咲くかわからない場合がある。コンピューターでも最初はどんなものになるか分からなかったのである。

私はたまたまパソコンに触れたのは別に理系でもないし文系でありそうした機械的な事には関心はなかった。なぜ深入りしたのかとなるとワープロに通信機能がついていたのを買ったことが大きかったのである。それでbbsとかで文章のやり取りをしていた。それがなかなか理解できなかった。電話なら理解できるわ文章で対話するということは全く新しいことだったから理解できなかったので。
というのはすでに私自身が40歳くらい以上になっていてその時そのパソコンに触れたは20代でありひろゆきなどが2ちゃんねるを創設したのである。でも年齢的には一世代でも離れていてそれを理解できなかった。つまり新しい技術でも新しいものを若い人は直感的に理解できる。そこにどうしても世代間の差が出てしまうのである。

とにかく何かパソコンというのはその時おもちゃのようなものでもあった。とてもまともなものではなく絶えずフリーズして再起動しないと使えない代物だった。
でもそういうものでもそれが新しい技術であり新しいものはそこから生まれるものとなっていたのである。ただその時おもちゃのようなパソコンに触れていた人は今日のような世界的なインターネット通信とかさらにAIとかに発展するということは見えていなかった。その未来を見ない見れないから日本でわ遅れてしまったのである。
日本人の頭脳は技術が世界から遅れたというのではなくそこに新しい未来があるということが見えていなかったのである。なぜならパソコンはおもちゃのようなものでありそんなものがとても今日のように高度なものになると思えなかったからである。

●若い人もたちまちみんな老人になる

だからなんであれ人間は先が見えないから失敗するのである。それは人生についても同じである。人生の先に何があるのかそれは若い人でも必ず老人になる。でも不思議なのは若いときは老人にならないと思っているのである。
ところが若いということはたちまち過ぎてしまい女性なら30歳過ぎるとおばさんとか言われてしまうので。その容姿もたちまち変化して若さが失われてゆくことである。その変化が早いのである。なぜなら人間の体力の頂点は30歳くらいまででありその後衰えるだけだからである

そして40歳になるとすでに白髪が生えてきたりするのである。だからいかに人間は劣化してゆくのが早いかということである。それが現実に老人等いくらでもいるのに老人にならないと思っているのも不思議である。いつまでも若いと思っているのが不思議なのである
だから若き時神を知れというのは重要なことになる。なぜなら若き時神を知らなければそのチャンスを逃してしまうことにもなる。別に老人になってからでも神を知ることもできるし悟ることもできるし若いときはその欲望のままに生きればいいとかなる。でもそれもたちまち過ぎてしまうのである。

●津波は400年前にここでも被害があったが忘れれていた

歴史的なことでもやはり先を見れないということで失敗するのであ る。例えばこの辺で起きた津波原発事故などもそうである。この辺では400年間津波等起きていないから津波は来ないという確信になっていて老人は避難もしなかったので死んでしまったのである。

でも実際は400年前に慶長津波がありそのときこの辺でも700人が生波(津波)で死んだという記録が二行だけ記されていたのである。でもそれを学者知らなかったのである。この教訓は未来を見るという時過去を知らない知らなければまた未来も見えないということである。つまり歴史を勉強する意味はこうして過去を知り未来を知るということである
津波は必ず周期的に来ているしただそれが400年前とかなると全く忘れられてしまっていたのである。だからこそ災害は忘れた頃にやって来るということなのである。

なぜ聖書で預言者が現れてそれが重要なことかというと未来を予言することが命にかかわるからである。それで学者が仙台の若林区とか宅地造成した地域は津波がくるから危険だと警告したら不動産業者がそんなこと言うなと学者を咎めた。

なぜなら土地の値段が下がってしまうという土地が売れないということでそういったのでそのとき学者は預言者だと言っていた。つまりそんな津波など来ないということが一般的な認識でありそんなことを誰も信じないいということでもあった。
だから預言者というのは未来に何が起きる危険なことが起きるとして警告する人でもあった。それに備えないと甚大な被害が起きる。ノアはそのために大洪水が来るとして方舟をただひたすら作っていた。それで笑いものにもなっていた。でも神からその未来を知ることがになったからそれを信じて箱船を作ったのであ

●未来を知ることの重大性

つまり未来に何が起きるかそれを知らないとその被害は今回の津波のように甚大なものになる。また原発事故でもそれが安全神話を作り事故が起きたらどうするのかということなど何の対策もしなかった。なにか事故が起きるということに過敏になっていて地元でもそんなこと言える状態ではなかった。科学者はお前は核のことなど知っているのか知らないものは何も言うなとなっていただから避難訓練などはしない。
そのために一番放射性物質は蓄積した浪江町の津島に町長は町民を引き連れて避難したのである。ところがそこは90マイクロシーベルトとかとんでもない放射線量の高さだったのである。だから対馬の山はいまだに入ることができない禁止地域になっているのである。

つまり何であれ人間は未来を見ることができない。でも核というもの自体を人間が操作するという能力があるということではなかった。そこに人間の驕りがありその驕りがまた必ず失敗の原因だったことは歴史を見ればわかる。人間がなぜ失敗するものかというと必ずなんらか驕りがありそれが砕かれてしまうのである。個々人で若い時はなぜかうぬぼれていてそれで砕かれることが大事になる。

つまり苦労して実際はあなたは優れたものが無いということを知らされるのである。
だから砕かれた魂ということが若い時に重要になる。私自身はそのように三流大学で底辺でしか働かないから自惚れることもできなかったのである。とても優秀な人の問題は必ずうぬぼれてしまいそれで失敗するのである

近くで理系であり技術的に一級の誰も取れない免許を取ってみんなから頭が良いとされていた人が事業に失敗したのも惚れだったのである
なぜなら技術者として優秀でも経営者になると会社を興したがそれで失敗したのである。だから人間はあらゆることに優秀であることはありえない。そしてその驕りから常に失敗するのである。

●未来を先を見ないことが国家的にも大失敗になる

歴史的に見ても日本は太平洋戦争でアメリカに負けたのもそうである。それもアメリカのことなどわからないし日本は負けると思って戦争したわけでもない。ただそこにもをうぬぼれがありアメリカなど大したことないなど小さく見て失敗したのである。そういうことは歴史にもいろいろとはあ夜郎自大国というのは漢の国など大したことないとして戦争して敗れたのである夜郎自大国の兵器は青銅器であり官漢の国は敵だったから負けたとなるその技術的な差についても無視したからである

ともかく人間は歴史であれここの人生であれ先は見えない。未来がわからないからこそ失敗するのである。来年のことを言えば鬼が笑うというときそれだけ一年先も分からないということである。このところ起きてきた津波や原発事故やコロナウイルスとかまたは円安とか想像し得ないことが連続して起きてきたからである。それもその前はそんなことが起きないと見ていて失敗するのである。

だから未来を見るということは第一になる。今なら子供にソロバンなど習わせる必要はない。コンピューターのプログラムを学ぶべきだとなる。それは既にそういう時代だから何を学ぶべきか分かるのである。ただそれにしてもコンピューターにしてもどうして言葉を入れて絵が作られるのか本当に不思議になる。つまりAIと言うものは誰もその未来がわからなかったしこれからでもそのAIが発展する時どうなるのかわからないのである。
それを否定的に見る人もいるし大したことがないと見る人もいるしまた逆にその未来がバラ色になるとして見る人もいる。つまり常にその未来というものはわからないし見えないのであるある

●聖書は先をみて危険から逃れる予言者の記録

聖書で予言しているハルマゲドン起きるのかというとそれは起きる。それが今ロシアとウクライナの戦争で現実化しているからである。そもそも核というものは平和的利用でも原発事故でこの辺が甚大な影響を受けたように被害を受けたように核戦争というのは人類を滅ぼすほどの力を持っている。

だからそれが起きないとは言えないのである。そもそもはいつか人類は確実に滅びる。人類はカルマが重なって最後にハルマゲドンとなり滅亡するのでだからこそロシアというのは聖書に記されたエゼキル書のゴグであり恐怖したのである。核戦争は現実味を帯びてきているからである。
つまり何か人類最終戦争は現実化しているのかとなる。それは聖書で予言されているのだから起きるとなるそもそも聖書というのは未来に何が起きるかそれを予言してそれに備えて脱出したいすることだった。ノアの方舟でもノアが神から洪水が起こされるととして箱船を作った。それは災いから脱出するためのものである。

他にもソドム、ゴムラは神によって滅ぼされるとしてが脱出したの同じである。出エジプトでもそうである。聖書のテーマは脱出なのである。この世の災いからの脱出なのである。そのために神は選ばれた人を救い出すすのである。だから神に選ばれた人はこの地球は滅びたとしても神の国で生き続けるのではそしてこの世とは地球でも滅びてしまうのであるまたは神が滅ぼしてしまうのである。

●少子高齢化も氷河期世代の対策をしない未来を見なかったため

ともかく未来を見るということがいかに大事かということを別にそうした大きなことでなくても例えばなぜ少子高齢化になったかというと日本の場合は団塊の世代の子どもの氷河期世代があってその人たちは本当に結婚していないのである。
今40とか50代になっていかに結婚しない人が多いのかに驚くのである。その人たちが普通に結婚していれば少子高齢化にならなかったのである。
でもその対策はその時代にしてないからもはや手遅れになってしまったのである。つまり少子高齢化の対策は氷河期世代の時未来を見てしていないからもはやできなくなったのである。こうして大きなことでなくてもいかに未来を見ることが人間の生死さえ左右する。だからいかに何か国家にしても未来を見て対策しないことが今日を作り手遅れとなってしまっていたのである。

それはあらゆることに言えるのであるカルト宗教団体など一時は創価などでもまるで日本全体を支配するような感覚にもなっていた。だからそこで運動する人たちは日本は創価によって支配されるということを信じていたのである。でもそこには未来はなかったのである。今になるとただ衰退するだけでありあとは消えるだけだとなってしまっているのである

何か一時的に人間社会は何か熱に浮かされたように熱狂して先を見ないということがそれは太平洋戦争でも起きたことである。国民全体が戦争に熱狂していたという。それがファシズムなのであるそうして全体が狂気のようになっている時まともにそのことを戒める人は排斥されるだけだとなってしまう。それで予言者はそんなことが起きるのかと常に受け入れなかった


仙台の若林区とかで学者が津波が来るとして言ったら危険だと言ったら不動産業者にそんなこと言うなと怒られたということと同じである。未来の危険を言うことはまたその人自身にとっても危険なことになる。そんなことを嘘だとなってみんなから責められるのである。でも確かなことは未来を知ることは大事なことか津波原発事故でこの辺では身にしみて悟ったのである

2024年05月14日

イラン・イスラム共和国は、政教一致の国の貧困化 【政教一致で両手に剣とコーランで権力で強制して悪魔にもなる―創価も天皇も似ている】


イラン・イスラム共和国は、政教一致の国の貧困化

【政教一致で両手に剣とコーランで権力で強制して悪魔にもなる―創価も天皇も似ている】


 ホメイニは、イスラム法学者たちが直接政治に関わるべきだと説いた。イスラムに精通している彼らこそ、神の命じるとおりに国を動かし、この世に理想郷を築くことができるのだ、と

反体制デモが起きるたびに、ハメネイはそれを「イスラムの敵による陰謀」と切り捨て、武力で弾圧するばかりで、対話に応じる姿勢を一切見せていない。

国内ではハイパーインフレが進行、食料品や日用品の価格は一年間で三倍くらいのペースで上がり続けている。今年、一本200円の牛乳が、来年の今ごろは600円、再来年は1800円に、と想像すればこのインフレの凄まじさが分かると思う。

イランの経済が悲惨すぎる…日本なんて比じゃない、ハイパーインフレに苦しむ「驚きの実態」https://news.yahoo.co.jp/articles/78e8e8a370c7f786c04f852cc7c9dc36bc232f32


●イスラムは政教一致で発展しなかった―イランの経済的苦境

イランの情報は入ってこない。こんな状態なのかということに驚いた。そもそもイスラム圏内のなぜ貧困化して経済発展しないのか?なぜなら中国ですら共産主義国家でも経済発展をしたからであるイスラム国家というのはヨーロッパよりもともと先進国でありヨーロッパは辺境でもあった。それで信じられないことは白人がの女性が五ドルでイスラム圏内の黒人とかにも奴隷として買われていた。それだけ国の力としても差があったからそうなった。
それがとても信じられないなぜイスラム圏は発展しなかったのか?その理由は何なのか?それはやはり宗教は関係していた.イスラム圏は政治経済であれ完全に政教一致でありその権力を握っているものはイスラムの法学者とか宗教関係者なのである。

今も自らを「神意に基づく永久不滅の体制」と呼び、軽くこの先千年くらいはイランを支配し続けるつもりでいる

つまり政教一致の独裁制になり政権交代はない。神のもとにアラーの下に治めるのでありその実験はは権力は神から与えられたものとして絶対化するのである

そのことはヨーロッパでもカトリックが権力を握り堕落したのと同じである。最悪なのは免罪符など売りつけて宗教を商売の道具にしたのである。それでルターが反発してプロテスタントが生まれた。そういう歴史がヨーロッパにあり政教分離が法律ともなったのである

でもイスラム圏では宗教と政治経済は一体であり政教分離はなされていなかった。それが発展しなかった大きな理由だったともなる。
そもそも宗教とは何かというときそれがこの世に関わるときどうなるのかということで宗教が追求しているのは何なのかということである。心の清い者は神を見るだろうというときそれは人間の心に関係したものであり何かこの世の利益や権力を得るため得ることではない。
でも宗教がこの世に関わる時その宗教も巨大な強力な世俗の力によって変質した

イスラム圏になると剣とコーラのの両方を手にして人民を支配することになった。そこに最大の矛盾が生まれたのである。宗教でも剣でもって権力でもって強制される。従わない者は剣でもって殺されたり支配される。つまり宗教は権力を持てばその権力によって宗教は強制されまたその権力によって支配される。

心がどうのこうのというものではないくれないそれはすべて強制力があり権力でよって力によって支配されるのである。それが厄介なのは宗教が関わるとその宗教も権力によって実際の生活に実行力をもつ。イランとかになればだからその政権を持つ法学者とかに反対することもできないしそれで腐敗した政権交代はなくなってしまうのである。
そしてホメイニ政権の延々と続いて改革されることはない。つまり独裁政権となってもそれを交代させることができないのでそれは共産主義政権とも似ている。中国の習近平体制を変えることができないからである。

●創価は完全に正教一致の団体ー長島の一向一揆とも似ている

とにかく政治と宗教経済でも一体になると何か発展が阻まれる。
そのためにイスラム圏は発展しなかったとなる。その例が実際に日本でもある。創価公明などはまさにそうである。完全に政教一致でありその活動の目的は権力奪取であり公明党があらゆる権力を掌握することが目的だったのである。
だからこそ選挙が最大の戦いであり仏法の戦いである必ず仏の加護を得て勝つとして毎日選挙運動に精を出していたのである。すべてのエネルギーは選挙に注がれていたのである。
そしてまた政教一致だから選挙で勝てば運動していれば成仏するまでとなっていたのである。これも異常なことだがその中に居る人はそれは宗教のための闘いでもあったのである

石山本願寺の門主・顕如は信長に対抗することを決意。「仏法の灯火を守るため、織田家と一向宗に敵する者と戦え。従わぬものは破門する」と全国の一向宗門徒に檄文を飛ばし、反信長の姿勢を明確に打ち出しました。

なぜこれほどの熾烈な争いになったのか?それは石山本願寺が要衝の地にありその地を信長が得たいとなり争いとなった
また比叡山の僧の虐殺も僧侶集団が治外法権のようになり琵琶湖の船の交通に対し税をとっていたこかありその収入を得たいということもあった。
つまりそうした中世の寺院とは土地を持っていたし税金でもとる一つの権力集団化したものであり僧兵がいて武装もしていた。だから信長は政治的に支配するのに邪魔だった

もし何か草庵のような所に住んで何も権力もないなら敵対するものとは見なかったのである。それは信長に従わない武装集団でもありそのために敵とみなされて虐殺されたとなる。
ではそれが信仰迫害だったかとなると疑問である。なぜなら一向宗集団では一つの政治団体化していて武装もしていたからである
だから宗教のためい信仰のため殉教したとにはならない。それは宗教団体より一つの政教一致の政治団体化していたからである。
信長は別に宗教を迫害する意図はなかったのである。つまり宗教でも政治化して権力化して集団化して武装まですれば敵対勢力とみなされたのである。だから政教分離とかの問題がここにもあったのである。一向宗の集団にすれば戦て死んでもそれは成仏するとまでなる。信仰の戦いにもなっていたのである。

●創価や天皇を神とした戦争−政教一致の危険

ともかくそもそも宗教と政治と経済とが一体化したときどうなるのかということである。この長島の一向宗の一揆とも似た状況になる。つまり選挙は信仰のための戦いであり一票を得ることで成仏するとまでなる。それは長島の一向宗と似ていたのである。

つまり宗教でもこうして集団化して利権化してくると政治的には対抗勢力と見られるようになる。だから政教分離との問題は実際は日本でもありすでにこうして大きな問題にもなっていたのである。島原の乱もこれと似ていた。そこには徳川に歯向かう浪人が加わりキリスト教を掲げた信仰の戦いと見えたがそこには野心をいだく浪人が結集していたのである。

創価だと絶えず御利益とか福運とかなんでもいいから得すること狂気のように求め祈っている。それが信心になる。信心が強いということはこの世の欲望が強い人なのだる。そこに本来の欲を抑制することなど言わないのである。そんなことを言えばあれだけの人が集まらなかったからである。

そんな俗的な人たちなのに絶えず何か逆らうとなると地獄に落ちるとか罰当たるといい脅迫してくる。それはカトリックで免罪符を売っていたのと同じなのである。最大に罰当たるのはそういう人たちではないか、そもそもが宗教と政治と経済でも一体化するとおかしなことになり矛盾してきて自滅する。矛盾していて自己崩壊する。ただそれは創価だけではない

日本の戦争でも天皇を神として300百万人も死んだからである。それは天皇を神とした政教一致から起きたことである。だからこそ天皇が人間宣言したとき三島由紀夫が怒り自決した。それは天皇を神として死んだ英霊に申し訳ないとして抗議してそうなった。つまり政教一致っだからそうなったのである。イスラムでも過激派はそうなったからである。アラーのために自爆するのと天皇万歳として死ぬことは似ているからだ。
ただ天皇自体はヨーロッパの王のように権力は持たない,神輿であり天皇自体は権力を持たない特殊なものになっていたのである。それは日本人が国を治める一つ知恵だったとなる

いずれにしろ宗教は権力を持つ政教一致になること自体が問題なのである。そして逆に宗教が権力を持つことが目的となり権力と宗教が剣とコーランのように一体化する。そのこと自体が矛盾になってくる。剣とは権力でありその権力は強制力を持つから剣でもって従わせることができる
逆に従わない者は剣でもって従わせるそしてまた宗教だから罰当たるとか地獄に落ちるとかも強制できるのである。それは宗教が権力を持てば宗教も強制力を持ち人民を支配することになる。それはイランとかイスラム圏で起きていることである。

●宗教が権力を持つこと自体矛盾であり危険になる

ともかく宗教は権力を持つこと自体が矛盾してくるのである。だからこそ釈迦だったら住む場所もないしく岩窟に住んでいたとかキリストなら枕するところなしと言って世俗的なものを得ず終わったのである。
でもその宗教でもその宗祖のことなどを見習わない 何か政教一致とは悪魔と天使が合体したような怪物になる。ジキルとハイドになってしまう。それは異常人格者でもある。人間にはもともと善悪がありそれで善を言うのだが悪もあり。その二面性がありそれは政正教一致の矛盾にもなる。

ただただこの世のものを欲望を達成するために祈っているだけである。だからそんなこの世の欲望を宗祖は宗教は叶えてくれるのだろうかとなる。それ自体が異常なのだけど矛盾しているのだけどもそれを考えないということ自体がまさにカルトなのである。
大衆は考えない大衆が求めるのは何かとにかく御利益欲望の実現だからである。それは全部肯定してひたすら今度はその欲望を実現するために権力を得るために選挙活動し一日祈っているのである。だからそれは何なのだろうとなる。

それを正当化するのは何なのかまさに考えもしない大衆でありついにはナチスのようになってしまうのが現代だということである。なぜなら数がすべてであり数が権力となればそうなってしまう。そこに正義も何もないのである。だからまた民主主義というのも大衆民主主義となりただただ数はすべてでありそれが権力となるからナチスが生まれたのである。だから人間社会というのは政治の面では何ら進歩してないのである。むしろ後退しているのではないかとも見る

ただそういう反乱が起きるのはどうしてもこの世は不公正であり必ず不満な人たちがいてそれが集団化して政治的に対立する。だから人間の社会は権力闘争なのである。みんな誰でも高い地位に就きたいとか権力を得たいとかは誰でも思っている。だからこの世の有り様というものは結局変わることがないのである。

高き者は低くされ、低き者は高くされる。

高き地位にある者は低くされる、地位もなく低き者は高くされる

この世のさまは変わらない、この世で権力を持ち高き地位にある
者は低くされる。この世で高い地位に着き得している人間は低くされる、高き地位に着くこと自体問題なのである。
でも現実はこの世ではみんあ高き地位に着きて得したいとなる、低い地位で満足する人は一人もいない、それで宗教団体でも共産党でもそうした不満分子を集めて高い地位に着き得すしたいとなる。だから創価と共産党は似ているのである。でもその幹部はそういう人たちを利用して自らは高い地位に着き得するということである

ただこの関係も神の国では逆転する、この世で高い地位につきこの世はいいものだとしていると低くされる。
いずれにしろこの世で栄華栄誉の生活をしても最後はソロモン王のように空の空ななってしまうのである。高い地位としてもこの世の一時的なものでありいつまでも高い地位に着いていていることはできない、それもはかないものだとなる。








2024年05月10日

人間は最後に意味と生きた意味と価値が問われる 【更に死後に歴史的価値と意味が問われる】

人間は最後に意味と生きた意味と価値が問われる

【更に死後に歴史的価値と意味が問われる】



金で測れない価値とは何なのか。それが実際は最後に問われる問題なのである。その仕事の人生の意味は何であったのかを問うのである。でもそれは金で計れないものだから簡単に言えないのである。金のように測れないとなるのである。でも最後にその意味を求めるのである。

しかし人は最初にその働く意味を価値を求めて働くべきなのだがそうしない。まず金を求めて働くのである働かされるのである。
だから最後になりその働く意味をとうことになる。
ただ金に追われて働くだけだともなってしまうのである。



●人間は自然でも意味と価値を与えるもの

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人間とはあらゆることに意味と価値を求める。例えば山の中に一つの石がある。その石は令和四年に地震があり山から落ちた石である。それで私は令和四年石と名付けた。つまりただの一つの石でも人間はそれに意味と価値を与える。それが人間の特徴である。それは一つの歴史的証拠でありやはりそれで意味を持つようになったのである。つまり人間はそうして一つの石でも意味と価値を与えるのである。

自然そのものはたとえ価値があったとしてもその価値を見出すものは価値を与えるものは人間なのである。つまり神の創造したものに価値と意味を見えだすのは人間なのである。動物はただ自然の中で本能的に生きるだけであり別に意味とか価値などは問わないのである。ただ人間は自然に対して価値と意味を見い出すのである。

そして常に人間はこれは価値がないこれは意味がないとか判断する。それが人間の特徴なのである。でも一方で人間はそもそも意味を求めて何か価値を求めて生きるのでもなく仕事するものでもない。まず生活するには利益を上げる金は第一になる。だから金のために働くのでありいちいちその働く意味とか価値を追求することもない。

でも必ずその人の価値とか意味が問われるのである。それは意外と生前には追及されないで人生の終わりに老人になると問われるのである。あなたは何のために生きてきたのか何を追求して生きてきたのかあなたの人生の価値は何なのかあなたの人生の意味は何なのかと問われる。でも私は金を稼ぐために金を得るために働いて来た
何が意味があるかなど追求はしていない。常に現実社会ではどれだけ稼いだとか全ては金でその人の価値は測れる。そこに意味があるのかどうかは関係なく多く稼いだ人が価値あるのだとなってしまう。

でも不思議なの最後に問われるのはその意味である。なぜならもし金で全ての価値が測られるとしたら金がすべてと全てとなりその価値も金となってしまう。でも現実は最後に問われるのはその人の人生の意味でありそれに価値があれば生きるに値したとなる。あの人は100億円残したから価値あるとなるのか?必ずしもそうはならない。ただその100億円を社会のために有効に使い人々がそのために恩恵を受けたりしたらやはりその人は価値あるものとなる。

●人間は死んでから返って生きた意味と価値が問われる

ともかくなぜなぜか不思議なの人間の価値とか意味は死んでからもかえって問われる。老人になると確かにその人の人生が問われる。でも死んでから問われるのその人の生きた価値でありであり意味である。それそのことで一番わかりやすいのは日本の戦争でなぜ300万人も死んだのだがそれが意味があり価値あるものだったのかということが戦争が終わってから70年も過ぎてより深く問われているのである。なんで300万人も死ねばならなかったということでその意味と価値が問われる。
なぜなら300万人も死んだんだからそんなのは昔であり無意味であるとしたらその死んだ人たちは浮かばれないからである。また別に個人であれ家族であれ死んでから返ってその生の意味と価値が問われているのである。

私の家族は父親は早く死んでその後に姉と母が家を守り私を育ててくれた。その価値は大きなものだった。だから今でも感謝して供養している。だから価値というのは意味というのは返って死後に問われるのである
それは戦争で苦しんで300万人も死んだのにそれが価値もない無意味なことだったとなれば死んだ人は浮かばれないとなるからである。
例えばそれはカルト教団などでもうまた政治団体であれ共産党であれ組織集団に尽くして一生終わる人もいる。もしそれそれが価値のない無意味なものだと言われれば耐えられないだろう。何のために尽くしてきたのか働いてきたのかもわからなくなるからである。

でも普通はそういう組織団体は何を追求してきたのか何の意味と価値を追求してきたのか?それは国家的なものとして300万人も戦争で死んだという時も同じである。何を目的として何の価値と意味を追求してそれだけの人間が死ねばならなかったのかその意味が今になるとわからないのである。

ただカルト教団などは別に宗教の価値を追求するわけでもない。とにかく会員を増やして一票を増やして社会にその数でもって影響力を増してそれを権力に結びつける。その目的は一大社会勢力となり権力を追求している。だから創価とかなればすべては一票を得るために運動しているだけである。そしてやはり金になるために御利益を得るためにすべてのエネルギーが費やされる。そこに何か宗教的意味とか価値などは追求していないのである。
でも現実社会では全ての人が利益を追求しているのだから何か意味とか価値を求めて働いているわけでもないから同じだとなる

ただそうした組織団体で一体なぜそこで運動していたのか問われることになる。それは戦争で300万人も犠牲になったとことと同じである。なぜそれほどの人が熱中したのかということが問われる。その意味は何だったのかと問われる。それはつまり歴史的に価値があったのかと問われる。つまり個人の人生でも家族で最後に問われるのはその意味と価値である。それで家族であっても死んでから十数年過ぎるとかえって客観的に死んだ人を見てその死んだ人はどういう功績があったのかと見るようになる。

つまり意味と価値が問われ客観的冷静的に見て問われるのである。それが生きている時にはなかなか客観的にみて冷静に判断できないのである。それは歴史でも同じであれその時に生きてていた人はその意味と価値は何なのかわからずに行動していたと思うな。なぜなら人間はそもそも最初から意味とか価値を追求しているわけではないからである。そこに人間の問題がある。でも必ずその人の生きた意味と価値は何であったのかと問われる。組織集団であれやはりその意味と価値が問われるようになる。

でもそもそも人間は意味と価値を最初から求めて生きて働くわけではない。でも最後に問われるのはその意味と価値であり死んでからもさらに客観的になり意味と価値が判断されるのである。
そして無意味とされ無価値とされることがどれほど深刻なことになるかということである。それはそれは戦争で300万人も死んだのにその人たちは無意味だとか無価値だとかされたらその死者たちは浮かばれないからである。でも現実に何のために日本人は戦いそれだけの人間が死んだのかその意味と価値が分からなくなっているのである。

●死後さらに歴史的価値が意味が問われる

とにかく歴史的に意味と価値が見出されることが大事である。でも現実にその時々に懸命に生きていてもそれがのちのち意味があり価値があるものとはならない。そのときは一世を風靡して価値あるものとされても一時代が過ぎた時それも無価値となる場合がある。依然としては二等兵とかを誇らしげに墓に刻んである。でも今その価値と意味を認める人はどれくらいいるだろうか?戦争から70年80年もすぎるとその意味と価値を認める人はどれくらいいるのか?

でも歴史的価値があれば意味が認められれば死んだ人は浮かばれるとなるでも歴史的価値を残すものはこそ価値あるものだったとななぜなら時間が過ぎても色褪せないものとして意味と価値がありそれこそ価値あり意味あるものだったとなるからである時間が過ぎてその意味と価値が認められないものはいくら権力があっても財力があっても金を残して意味があり価値があるとはならなかったのである。

だから最初から人間は本当は意味と価値を求めるべきだったのだが人間はそれより利益を権力を求めで活動してそして後で意味と価値が問われるのだがそれが無かったとなるのである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

普通はこの世の利益【金】をまず求め得なさい

これが先であり異常なほどカルト教団では御利益を権力を求め祈り活動している。それが世俗なのだけど宗教の名のもとにこの世の欲望を追求して祈ることが理解できないとなる。
神の国を求めなさいということはまさにその事だったのである。それはそこに意味と価値がありそれを最初に追求しなさいということだったのである
でも現実はまずは利益を求めよう利益を得よう金を得よう権力を得ることが目的となりそれが最後になり無意味となり無価値となってさらに歴史的にも価値が認められないとなってしまう
でも現実は常に利益を求めることであり目の前の利益に追われそんなことを求めもしないのである。

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群衆とか大衆とか組織集団とかに意味と価値は求めにくい、
でも一人の人間には意味と価値が現れ求めやすい、比べると一人の人間の方が価値と意味を問うと
その差が余りにも大きいとなる、でも現実社会は多数によって動くそれは権力でなのである

2024年04月13日

若き時に神を知れー20代で人間は決まる 【老人になり後悔しないために】

若き時に神を知れー20代で人間は決まる

【老人になり後悔しないために】


空の空なり

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加治氏将一チャンネル


これだけ風俗にかかわる若いものが関わっているのも驚きである
滅びの門は広いのである。この人たちも後で後悔するのである
貴重な若い時の資源を浪費したことになるからである。ただ会社でも利益のみを追求しているから同じようなことがある。カルト教団で教団でも御利益追求だから同じだとはなる。人間はどうしても利益に使われるのである。.それがなんためかなど考えない今利益になればいいじゃないかとなるからである。

●人間は老人になるとできなくなることが多くなる

人間は死を前にして何を思うのか?その一生を振り返り何を思うのか何を語るのか?結局いろいろあるにしても空の空なりになる。大きなことを成すように思えるがその前に何かを成そうとしたがすでに人生は終わっていた。こんなに人生が短いものなのかと最後に驚くし呆れてしまう。
人生は30過ぎると実際は急速に老人に向かっているのである。なぜなら40になると白髪が入ってきたりするからである。もうすでに体力的にも最盛期は過ぎている。 50になるともう老人のは入り口になっている。ソロモンなどは王様のなのだからいろいろな事業でも出来たし女性でも自由にいくらでも侍らすことができた。何不自由のない生活だったのである。そんな王様でも結局最後は空の空になってしまったのである

私自身も自転車に乗るにしても今度は腰が痛くなったとか体全体にがたついて何か遠くに行くのも難儀なった。するとあれもう遠くにも自転車で行けないのかとなりがっかりもする。
私にとっては自転車に乗ることが生きがいだったからである。それは車でも同じである。もう危険だから車に乗るなと言って免許を取り上げられたときその老人は生きる気力も奪われるのである。。それより足腰が悪くなりまともに歩けなくなったりする人もすでに出ている。また高齢化で杖をついて歩いている人も多いのである。

要するにそうなった時これはもう自分のやりたいこともできないそれで愕然とすることがある。人間は70になっても80になってもおそらく同じように継続して生きられると思っているのである。
でももはやそういう体力もなくなるということがある。それはすでにあなたの人生は終わりですとまでなってしまうのである。なぜなら人生と何かを成すことであり何かを試すことであり経験することなのだからそれができなくなることは死に向かっているのである。

そして誰でも感じるのは人生とはこんなに短くあっけないものだったのかということである。すでにあっけなく死んだ人が周りに相当いる。人間の死を見るときつくづくあっけないとの思ってしまうのである。そして死んでしまえばその人はたちまち忘れ忘れられてしまうのである。後々まで語られるのはほんのわずかの優れた人でしかない。あとはすべて死んだ時点で急速に忘れられてしまうのである。そしてそんな人がいたのかとまでなる。何か人間の存在は重々しいものと思ってるは実際はそんなものではない呆気なく死んで一巻の終わりだとなるだけである。


●若い時の浪費の怖さ


若い時に風俗関係などに費やしている数の多さに驚く。まさに飲めや歌いの青春時代である。それもたちまちに夢のように終わってしまう。そしてその青春時代に何が残ったかといえば何か後ろめたい時間を貴重な時間浪費したという悔恨だけなのである。
それはカルト教団などに入ってもそうである。そこでは宗教を追求しているようで看板にしているのに宗教などとは何の関係もない。世俗より世俗的なところでありただひたすら欲望を求めて欲望を実現するために祈っているのである。だから若い時そんなところに入ると一生後悔することになる。何か騙されたと思ってももはや若い時の純真な心は戻ってこないのである。
それでオウムであれ何か理系の優秀な人が人生をそこで浪費して終わってしまったのである。それより死刑にもなったから何のためにしたのかもわからなくなったのである。

そもそもその最初は間違っていると方向が間違うと元に戻れなくなる。 20代でその方向が決まることが怖いことなのでその方向が間違っているときそのまま一生は間違った方向に行ってしまう。そしてもはや戻ることはできないのである。
そして人生とは何回もやり直せる時間などないのである。だから一時的に青春時代でも飲めや歌いで享楽にのめり込んで騒いでいてもそれもあっという間に時間が過ぎてその後には空しさしか残らないのである。そんな人生を語ることもできないし自慢することもできない。人間はやはり子どもであれ孫であれ自分の人生について語り自慢したいとなるからである。何も語れない人生はそれは間違った人生だったのである。

ともかく青春時代などその華やかな時代などあっという間に過ぎてしまう。だからこそ若きうちに神を知れというのは格言になった。もっとも勢いは盛んな時神を知らなければその後は知ることができない。老人になれば確かに悟りとかおのずと思われる。
でも神を知るということはできないのである。要するに明日に道を聞けば夕べに死すとも可なりとなるのはやはり20代なのである。その時期を逃すともはや神を知ることはできない。でもそのときは勢いが盛んな時でありそんなこと思わないのである。
とても力が衰えるように思えないのである。でもたちまちに力は衰えてしまうのであるそのことで愕然としたときはすでにどうにもならないのである。
要するにあとはただ死があるだけであり結局あっけないくみんな死んでゆくのである

いずれにしろ若い時そんなことをして貴重な時間を費やして確かに金が入ったとしてもそれは後になって後悔するだけである。ただ利益だけお金だけを求めるということが後で後悔することになる。ただそれは社会全体でそういうことがあり会社でもそうだし銀行とかでもそうだった。そこではただ利益になればいいというだけである。だからそういうことは常に社会全体にありそれが極端化したのはそういう風俗の世界である。でも人間社会は常に利益を求めて奔走しているのだから利益から逃れられないのだからそうなりやすいとなる。

カルト宗教団体などそうした社会と全く同じでありそれ以上に御利益を追求しているのだから何なのだとなる
でもそれがあれだけ創価かのようであれだけ大勢になればこの社会は容認するのである。というのは必ず大多数の人間はみんな御利益を求めているからそれを説けば人が集まるということである。だからもしそこに人が集まるというとき1万人以上も集まればすでにそこは世俗化した御利益を求める団体に過ぎないのである。でも数が多ければ利権化して権力化して社会を支配するようになるのである。

だからその出発点がその動機が間違っているとそ一生も間違った人生になる。でもそこで御利益とかあると利権化して権力になるというときそのために励むとなる。それは宗教はなく御利益をこの世の権力を権勢を求めるとなってしまうのである。だから確かに御利益を得ても最後は何を得るのかとな宗教の追求したもの得られることはできないのである。

また真善美もその組織集団から現れることはない。そもそもそんなもの最初から追求していないからだ。ただ金持ちになり権力を得たい御利益を得たいそれしかないからである
そういうところに真善美になるものは現れるようがないのである。だからその最初は大事であり若き時神を知れということが大事になる。それはこの世の権勢を求めることでなく神を知るということはこの世のものを得ることではない。

神の国に行く約束を得ることであるその他はどうでもいいとなってしまう。その約束を得ない限り人間に安息は無いのである。この世でいくら栄養栄華を極めてそれもむなしくされてしまう。カルト教団とかは普通の人よりそうした栄誉栄華を求めているだけなのである。その動機から不純だからその最後もまだまともにならないのである。その原因はやはり若い時純真な時に神を求めて神を知るということがしないからである。
すべてこの世のもの求めていただけだからである。結局金の切れ目が縁の切れ目でありその人たちの組織も集団も雲霧消散してしまうのである。ただまともであればその矛盾を感じるはずなのだがもともとはそんな気持などある人たちでないから別に御利益になればいいというだけの団体なのである

●人間は死を前にして最後に悟っても遅いとなる

ともかく人間の最後になると馬鹿でも見えてくるものはある。なぜならこの世からただ去っていくだけだからである。そのときこの世とはなんなのだろうといやでも示されるからである。依然としてバカ騒ぎであり人間のカルマが繰り返され終わることなく続いているだけである。このように理想の国など作れないし人間の欲望は終るわけでないから依然としてこの世は穢れたものであり常に政治でも社会でもそうであり是正されることもないのであるそこに人間社会の絶望がある。

それが誰でも死を前にする時分かるのである。死を前にしてそもそもこの世のことをいろいろ考えても無駄だとなってしまうのである。何か癌になって経済学者が経済のことを語っているがそんなことを語っても死を前にしては無力である。それはほかの学問でもあらゆる学問でも科学でもなんでも同じである。そもそも学問で死を解決することは不可能だからである。科学でも不可能だからである。それを解決できるのは全能の神であり永遠の命を与える神しかありえないのである

とにかく人間死を目前にして何を考えるだろうか?

そのことを既に若い時から知るべきである。さまざまなことを思い巡らしても結局人間の最後は死なのである。この世は空の空なりとなってしまうのである。それを若い時から知らないかればならないのである。でも若い時は飲めや歌やいろいろなこの世のものに惑わされてそうならないのである。
そして若い時に神を知らなければ一生知ることができないということが恐怖なのである。老人になってから神を知ればいいと言っても知ることはもはやできないのである
ただ仏教で言う悟りのようなもの自ずとある
でも神を知ることはできなくなってしまうことが恐ろしい事だったのである。なぜならこの世とは永住する場所でないしliveはlieveであり一時いるだけのことだったのである。

あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

この世に宝を蓄えるために日日心を煩わしている。でもその宝盗まれたり錆び付いたりして永遠のものではない。そもそもは文明であれエジプト文明であるそれは砂に埋もれマヤ文明はジャングルに埋もれたとか文明自体が富を蓄えたとしてもすさび付いて盗掘にあったりしているから同じである。この世にあるものはそうして保つことはできないのである。天に貯えたものは永遠に寂びることも消失することもないのである。そこに永遠の命があり永遠の都があるのであるそこの宝は朽ちることもないし錆つくこともないのである。この世にあるものは一切錆び付いて朽ちてゆくだけである。だからある意味で徒労だどんなってしまい空の空なりとなってしまうのである。

それは死を前にして否が応でも示されるのである。でもその時は既に時遅しである。だからこそ若き時神を求めよとソロモンは言ったのである。その若い時は飲めや歌やとか何か訳のわからないことによって迷わされておかしな方向に行ったり必ず道に迷うのである
でももし本当に求道心があり神を求めているならばその動機が正しいならばそのカルト宗教団体でもその実態を見破ることができる。何かやはり動機が問題でありそれが人間を過ちに導いているとなる。

狭い門から入れ。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこから入っていく者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者が少ない

若い時すでに風俗で身を費やして将来を失う、なぜならそういうことしていると真善美とかを追求できなくなる。飲めや歌いやあっという間に若い日は失われ返ってこないんである。その貴重な時間を取りもどせなくなる。若い時はやはり純真な心を持たないとこの世の良きものが見えなくなるのである。だからその出発点を誤ると方向を誤ることが怖いことなのである。


2024年04月09日

無用の用の思想−自転車と車の問題 【グローバル経済資本主義西洋思想から転換する時代】


無用の用の思想−自転車と車の問題

【グローバル経済資本主義西洋思想から転換する時代】

自分より上層の人たちに「有用」と思われたら酷使されて人生を棒に振ることになる。
天寿を全うしたいのなら馬鹿のまねに徹して人々の目に止まらないようにすることだ。

櫟社というやしろの神木になっている櫟(くぬぎ)の大木に、匠石は目もくれない。その弟子がたずねると、「舟を造れば沈むし、棺桶をつくれば腐るし、道具をつくればこわれてしまう。・・・全くとりえのない木だ.使いみちがないからあのように長寿が保てたのだよ」と匠石は答えた。

、額が白い牛、鼻がそり反った豚は、痔病のある人間は、厄祓いの犠牲にならない。不吉なものとされるため、神人が大吉とするものに外ならない

荘子に見られる「無用の用」の話

●精神障害者は特権者だった―自転車と車の問題

何かその人についてわからなかった。髪はボサボサであり普通の格好ではない。年は40代くらいかもしれない。なぜその人と会うかというとどういうわけか自転車に乗っていると自転車の人と近しくなるのである。現在社会は車社会であり自転車に車のない人は自転車を足としている人は劣った人たちなのである。
それで自転車に乗っている人は自転車を通じて話したりするの大概ニートとか劣った人たちなのである。何か私の場合そういう人たちと会いやすいのである。普通昼間でもまともな人は会社で働いたり役所で働いたりしていて見えないのである。車に乗っている人は車というのに閉じ込められて何か出会って話すということがほとんどない。それで自転車旅行をしていた時車の中に泊まる人がいたとしてもわからないのである。そこは密閉空間になっていて閉ざされた空間であり人が交わらないということである。

車というのはそうして人と人とが交わらない密閉された空間である。だから旅は道連れということは起きない。歩いて旅していれば必ず同行するのだからそこで親しくなり一時的であれ旅は道連れ世は情けになるのである。そういう旅はもはや江戸時代まででありなくなったのである。だからこれまでも旅は喪失したということを書いてきた。旅人はいないということを書いてきた。。それは大したことがないようでも一つの人間的な文化となっていたものも喪失したのである。どうしても道具とか機械によって便利になっても失われるものがある

一人の老農夫が水甕を持って水場に行っては水を汲み,担いできては畑に流していた。子貢は気の毒に思って,「おまえさんは,はねつるべを知らないのですか」とたずねた。はねつるべを使うと,水汲みも水を畑に流すことも格段に楽になる。すると老農夫は,「わたしもそういうものは知っているが,先生からこういうことを聞いたことがある。機械(からくり)を使うと,どうしてもものごとが機事(からくりごと)になり,からくりをどのように使ったら効率的かということが大事になる。そういうことばかり考えていると,心も機心(からくりごごろ)になり,心の純白さが失われてしまう。そうなると道から外れてしまうから,わたしは,はねつるべは使わないのですよ」と答えた。老子

心も機心(からくりごごろ)になり,心の純白さが失われてしまう。

つまり車社会になったとき心も機心(からくりごごろ)になり車心によって何か人間の本来の心まで失われたともなる。人間の本来の場のある付き合いなどが失われたのである。だから人間と人間は車によって返って親密になるのではなく疎遠になって常に車なしではありえないそして常に事故がありそれでも車は手放さない社会になったのである。
老子の思想は鍬まで使うなと言っているから極端である
道具を使うなという時道具によって人間的なものが奪われるからそう言ったのである。確かに車社会になれば歩くということがなくなりそこで旅もなくなった。道具によっているものも大きいがまた失われるものは必ず必ずあるということである

その異様な風体をした人は何かわからなかった。そして最近わかった。その人は精神障害者であり近くの精神障害者が集まる仕事している場所に出入りしていたからである。
でもその人は何か異常性は感じられない話しても普通なのであるただ異様な格好をしているから何なのだろうと見ていたその人はそういう格好をしてぶらぶらしてもそれで咎められることもできない。なぜなら精神障害者であり国からこれを支給されて保護されているからである
だからその人は仕事というのもしないし自転車で自由に走り回っているだけだと思う。普通だったらその人は批判されるのだがそれもされない。その理由は障害者であり金も支給されている仲間もいて保護されている。つまり異様でありなんであれそれで社会からはずれていても批判もされないのも奇妙なのである。
なぜなら仕事をしないニートは常に批判されて親でもなんとかしようとしてプロの仕事人に頼んで仕事させようとしているからである

●荘子の無用の用と何か―戦争に行かずにすんだ障害者

それで思い出したの老荘思想である。無用の用の思想である
障害者のことを荘子は語っている。障害者だからこそ戦争に行って死ぬこともなかった。補償されて食料も供給されていた。でも兵士として有能な人は戦死したとかかえって障害者の方が生き延びたとして荘子も奨励もしていたのである。それは日本の戦争の時懲兵検査でも障害者は兵士にならないですんだのである。

確かに今振り返るとあの戦争で300万人も死んだ。その時障害者は戦争に行くこともなく延びたとなる。そして有能な人間は体も丈夫な人間は兵役に取られ死んだのであるそうして死んだ人たちが必ずしも今になって褒め称えいれられるかというとそうでもないのである。。その時懲兵拒否するためにわざわざ病気を装ったという人たちもいた。

それは戦争で行けば死ぬから行きたくないとなったのである。その時日本国家のためだとか天皇陛下万歳と言って死んだ人たちは本当に意味あることだろうだったとか今問われている。だからこそ障害者が戦争に行かずに住んで長生きしたことを荘子が言っていることがそんなことは許されないと普通なるがそうでもなかったことを時代が過ぎてわかってきたのである。
現実に私の家族の一人が4年間も従軍看護婦として国に尽くしても年金ももらえずもらったの表彰状一つだけだったのである
その苦労からすればなんなのだろうとなる。それより死んだ人は報われるのだろうかとなる。

ただ無用の用というのはわかりにくい。なぜなら人間社会では常に有用なことを目指しているのである有能な人間でない者はもはや人間でもないとされる。だから無用の用という思想は本当に逆説だったのである。なぜそのような思想が生まれたのかというのも不思議である。それはヨーロッパからは生まれない思想であった。極めて東洋的な思想なのである。ただキリストの教えでも
なぜ、

着物のことで思いわずらうのか。 野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。 働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

働きもせず、紡ぎもしない・・・これはいやあれ老荘思想に通じるものがある。とにかくヨーロッパの思想でわキリスト教でも常に有用であることが求められる。だからこそ有用な人間になるために修道院でも神のために働き他者に尽くすということから資本主義が生まれたというのもそのためなのである。何か用途がなければそれはヨーロッパでは許されないことだった。そこに東西の思想の文化の大きな相違があったと思う

ともかく奇妙なことだがあまりにも用に満たされたの世界というのは息苦しくなる。それは東京のような大都会を見ればわかる。家とビルで埋め尽くされてまた車で埋め尽くされてそこはすべて用で埋め尽くされ無用な空間がないから空き地もないからそういうとこで生きることは地獄にもなる。

つまり有用に埋めつけされた世界そこはもはや地獄にもなる。人間にはすべて有用がいいというわけではない。日本だったら間の思想があり間とは無用の空間として必要なのである。例えば話すして話すことにしても次々にしゃべると言うのではなく間をおくとそこで何かそれぞれ話したことを考える間があり有効なのである。間がなければそのしゃべることでもかえって相手に伝わらないということがある。すべてが実用的なもので満たされて間がない時かえってそれが窮屈なものとなり失われるものはあったのである。

●西洋文明の資本主義の用の思想の行きずまり

確かなこと現在の世界の文明というときそれは明らかに資本主義であれ共産主義であるそれは有用な世界を血眼で求めている。有用でないものは必ず責められる。その思想というのは実はキリスト教も極めてヨーロッパ的な思想であり東洋的思想ではない。だからキリスト教は実際は東洋的なものである。ただあらゆるものは東洋はオリエントになっている起源となっているのである。ヨーロッパ的思想は文明が世界を席巻したのそれは必ずしも宗教と別物だったのである。ただ宗教というのも実際は現代社会では資本主義化してそんな無用の用とかとは関係ない有用さを求めて必死になっていたのである。

だから西洋文明というのは一つの転換期に来ている。それは限りなく有用なものを目指すものであり無用の空間などは無用の用などは許されないものであった。
でもそのことが世界をゆがめた。自然破壊にもなり自然をすべて有用なものとして利用すると都会を大都会を見ればそこに無用の空間は消失して殺伐となってしまったのである。つまり無用の空間というとき公園を作るとかなるそれは無駄ではない。でもあまりにもビルとか家とかすべて有用で埋め尽くされて窮屈なものとなり人間自体が歪められる結果になったのである

例えばそうしの無用の木のたとえでもそうである

大工の棟梁が,櫟(クヌギ)の大木を指して「この木を使って舟を造れば沈んでしまうし,家具に使おうとするとすぐに壊れる.こんな大木になれたのも,役に立たないからだ」と言った.そのあと,櫟(クヌギ)の木が夢に出てきて「人の役に立ちそうな木というものは,実ができるとむしり取られ,枝は折られ,人の役に立とうとして却って身を傷つけている.そこで自分は役立たずになることを願い,その結果大木となったのだ」

材というとき人材でも使われる人とも使われる
材というのは森の一部の木を切り取りまた木の枝を切り取り一部を切り取ったものを有用のものとして使うのであるでも一つの木がありそれは全体である。材は人間を一つの人材として見て材として見て切り取ることである。でも人間一個を取ればそれは全体であり材では無いのである。
でも現実社会では人間の一部の才能は切り取られ材として利用されるだけである。人間はもはや様々な専門職業があり一個の人間として全人間として機能することはないのである。だからこそ無用の用を言ったのは全人間としての用であり一部の材として切り取られるものではないといったのである

いずれにしろ車社会というのはもはや限界である。車が要らないというのではなくやはり交通でもや車以外のもの見直すということである。車によって得られるもの大きいものだったが失われたものもあったということを知るべきである。そして現在の世界は西欧的文明から変化を求められている。その一つがあまりにも用を求めて返って人間社会が生きづらくなったということである。高度成長とか経済発展とかそれも限界に来たそれを推し進めてゆけば自然破壊となり人間の生存すら危ぶまれる。

だから今人口減少時代になっているのはそれは自然の理であり神がそうしているのかとまで見る。このまま限りなく人口が世界で増加して行けば自然破壊が極端になり人間は住めなくなってしまうかもしれないからだ。もちろん日本でも少子高齢化になっていてそれがいいというわけではない。でも地球には許容範囲の人口がありそれが超えてしまって問題が起きている。そのために人口減少しているのはすべて悪いとも思えないのである。すべてを経済の観点からだけを見るのは終わったように思えるからである

西洋文明というか思想というかそれが行き詰まってきたのが現代だと思う。だからといって今の宗教カルト宗教団体などは今までの宗教とはまるで違っている。それは資本主義に染まった西洋的物質文明の極端化したものである。なぜなら異常なほどにご利益を求めて狂気のようになって祈っている団体だからである。そこで無用の用などは許されない。みんな用のある実用的な人にならない限りそんな人はいらないとなっているからである。だから本来の宗教性はゼロであり血眼になってご利益を求めそのためにあことなく活動して休む暇もないので結局それも何のためにしているのかも分からない

●グローバル経済も終わりに―人間の欲は消えない

ただ現代は利益になるもの金になるものはよしとされそれを追求しているのがまたカルト宗教団体なのでそれで高度成長時代になり増大したのはまさに時代に合ったものであり本来の宗教とは何の関係もないのである。それで一時代が去ると跡形もなくなってしまうのである。 一種の病的団体でありナチスのような狂気の団体なのである。
でもそれが集団化し数多ければ正常となってしまうのがこの民主主義の問題なのであるだから民主主義自体も行き詰まりアメリカでも内乱状態にあるとかなってしまう。すべて数が正義となり数で決まるということは異常な世界でもあったらあっただからこそナチスは民主主義の選挙で正当に選ばれて世界のような強この世界を作り出したのである

確かなことは戦後70年過ぎて日本であれ世界であれ大転換期を迎える。それは資本主義で共産主義でもそういうものは終わりを告げ。世界を市場化するなどということ自体が間違っていたのである。結局そこで利益を得たのはアメリカであり大企業でありごくわずかの富裕層だけだったのである。そこで必ず陰謀論になるだからグローバル経済というのも貿易というのはなくならないにしても世界を市場化するなどということは終わりなのである。
いかに株とかでもそれが正当に見えるが違っているのである何かヘッジファンドとかいかがわしいものに操作されて金が右から左に流れて労せずして莫大な金を得ている人たちがいる。

そういう資本主義というのはもはや継続できないのである。ではそれに代わるものがあるのかといえばなかなか難しいな明らかなことは西洋的なものが終わり次に何か別なもの東洋的なものは起きてくるかもしれないただそれはわかり明確に見えないのである。
でも資本主義が悪というときそれはやっぱり自然の理に反しているというか何か人びとを幸福にするというよりは不幸にしてきた面もあるから終わるのである。資本主義とはごく一部の人が暴利をむさぼるシステムだからである。かといって共産主義また一部の幹部が暴利を得るものとして終わったのである

そもそも政治にしてもなぜ混乱してうまく機能しない。それは人間の欲というのがなくならないからである。政治家でもそもそも欲がなくならないからただ欲によって動かされてるだけで別に民衆のことなど考えないのである。自分たちが良ければいいとしかないからである。
だから理想の政治などこの世で行われたことはない。人々はただ権力を持ちたいそして上に立ちたい支配したいということしかない。それで日本の問題でも既得権者のことを批判している人がいる。まさにただ既得権を維持するための政治であれ経済になっている。それは人間の欲というのは消えないしただ自分たちの欲を実現するために政治がある。カルト宗教団体なども欲の塊であり欲を実現するために毎日狂気のようになって祈っているのである。

だから決してそういうカルト教団であるそういう人たちが政権を取ったりしたら地獄にまたなるのである。権力を持ったものは人民を酷使し強制するのである
それはカルト教団でも共産主義でもまた同じだったのである。だから治めずして治めるとか老子の思想が生まれ聖書では緑子に治めさせ世というときそこに人間の欲が介在しないからそうなったのである。

つまりすべての根源は人間の欲にあり欲はは消えることがないから人間社会が良くなることもないのである。また機械であれそれはいくら発展しても必ず負の面が出てきてそれが災いとなってくるのである。それが老子が道具を否定した所以である。なぜなら鉄の道具を作ったら必ず武器になるからであるそれがただの石であってそれを投げれば武器になるからである。だから最終的には核という道具が人間を人類を滅亡させると思う。それが人間のカルマだったともなるのである

人間の罪障消滅は最終的にハルマゲドンによって終わると思う。それが人間の宿命でありカルマだともなってしまうのである。だからいくら道具が機械が発展進歩してもAIでもそれは最終的に人間を滅ぼすものになるというのは言われるのはそのためである。だから車社会というのはどれだけ交通事故で人を殺しているかそれは世界的に起きていて今フランスでは自転車通勤をしているというときやはり車社会というのはもはや限界に来ているということである。そこで失われたもののを気づき始めたからである。

また世界がグローバル経済で結ばれることがいいものだったかというと世界史をみればわかる。アフリカではヨーロッパ人に奴隷にされてインディアンが殺戮されたり南米でも実際はポルトガルスペインに略奪されたともなるその後にしてもなぜ世界大戦が2回もありそれで死んだ人は何千万ともなる。それもグローバル化の負の大きな面だったのである。だから老子言う小国寡民というのは世界を平和に保つためのものでもあったという逆説が成り立つのである



2024年03月02日

歴史とは何かー聖書は神が人間にじかに関わった事実を記した ー記された人物も実在した


歴史とは何かー聖書は神が人間にじかに関わった事実を記した

ー記された人物も実在した

●地質時代から始まる歴史

歴史は何かというとき過去に何があったかを知ることである。だから地質学がありそれも時代によって地層が違っていたりなぜヒマラヤ山脈から貝の化石が発見されるとかそこに壮大な何億年何十億年の地質の変化の地球が形成されたドラマドラマがある。
つまり現在あるものは過去に遡らなければ今というのはわからないということである。地球自体が地形でも何億年とかなれば変化しているからである。さらに遡れば地球がどうしてできたのかは宇宙史にもなる。宇宙がどうして生まれたのか惑星がどうしてできたのかとなり壮大なものになる。

だから歴史というとき地質学がら始まっているのである。それでライン川がなぜできたのかというときアルプスが造山運動で押し上げられてできた。今度はドイツの陸地が分断されて地溝帯ができてそこにアルプスからの水が流れ込んでラインが生まれた。
そしてラインが境にしてヨーロッパは大陸は二つに分断されたとなる。ラテン系の民族は西側に住み東側はゲルマン人が住んだのである。だから歴史というとき地質学から始まらないとわからないのではある。

●聖書に記されたことは事実であり実在した人

ただ人間にしても歴史が始まったのは聖書に記されたものは歴史の始まりである。それはアダムから始まりそこから子孫が生まれてその家族の歴史を記したのは最初の歴史である。人間は誰しも親があって生まれてくるしその親にもまた親があってと連綿と続いてゆくのは人間だからである。動物には確かに親がいたとしてもその前の親とか先祖となると存在しない。動物はあくまでも種の保存は目的であり代々続く歴史というのは存在しないのである。

人間には歴史は存在する。聖書の前に歴史があったとしても神話伝説があったとしてもそれは歴史ではない。
聖書の特徴は何かというと事実だったということである。そもそもその事実を記したことが聖書なのである。なぜなら歴史というときそもそもはそれが事実なのかそんな人間が存在したのかそれすらわからなくなるからである。
だから聖書に出てくる人物は実在の人物でありそこに起きたことは事実である。それは神話とか小説とかとは違う。何か小説家ととかは確かに事実を元にしてもそれを脚色したりイメージしたものを勝手に作り出す。そこで事実でないことが事実のように見てしまうのである。

それで司馬遼太郎の問題は事実と想像したことが混同してわかりにくくなったことである。つまり小説は確かに事実をもとにしても作家によって脚色されたものであり本当のことはわからないのである。だから坂本竜馬にしてもいまだに何をしたのかもよくわかっていない。
なぜ暗殺されたのかもわからないのである。。するとさまざまにイメージして実際はなかったことも事実でないことも織り込む。
でもそれが事実であったようになったから問題だったのである。だから歴史を知るには何が事実であったのかまずそれを見るべきだとなる。そのそもそも歴史というとき勝手にイメージしたものをそれが事実だと思っているからである。

ところが聖書にしてもそれが架空のことに見る人もいる。モーゼが海を割ったのなどというのはありえないからそれは作り話だとされる。でも聖書というのはそこに起きたことを事実を伝えることを基本にしているのである。それが歴史の基本としてありその事実から過去を読み解くのである。

●歴史は架空のことではなく事実を記したもの

例えば地質学であり考古学でも何かものは発見されて具体的にあるものを調べてその当時の状態がどうであったか年代など作り地質学は発展したのである。それはものを中心にして現実にあるものはイメージしたものでもなく事実をそのまま記録したのである。
人間の場合は確かに何か物を残してその物から過去を見る。縄文時代だったら縄文土器を見て土偶などう見てその時代を見る。でも縄文時代にどういう人間が生きていたのかその名前すら残っていない。だから物を残しただけでわ調べただけでは人間の歴史があったとはならないのである。
つまり人間の歴史は親があり祖父母がありと連綿と続くものとして認識されることである。だから聖書になると必ずそこに生きていた現実の人間の名前が記されている。その名前に意味があって解き明かしているのである。その人たちは明らかに実在した人たちなのである。

だからアダムも存在したしアブラハムでも存在したのである。人間の最初はアダムであり人間の歴史というのはアダムから始まったのである。そのアダム実在した人間であり神話の人間とは違う。そして人間というのはそのアダムから始まったのでありそれがそれ以外の何か北京原人とかいろいろ言うけどもその人は人間ではなかった。猿人類とかであり人間にはなっていない。なぜアダムが食べてはならないという禁断の実を食べてエデンの園から追放されたのか?
それは善悪を知る者となり現在の人間になったからである。動物には善悪はない。例えば動物を他の動物を殺して食べるのもてもそれは生きるためでありでも悪もないのである。人間だけに善悪があるというのも人間の最大の特徴なのである。

また動物には歴史は無い。その親であれ祖父母であれそれは別にわからない。ただ一代限りであり種の保存があるだけなのである。つまりその種の特徴が遺伝されるだけである。ライオンはライオンとして遺伝されネズミはネズミとして遺伝されて続くだけである。そこに歴史は無いのである。
例えば植物にしても歴史はない。様々な無数の花はあるとしてそれも種の保存であり神のイディアがこの地上に具現化したものである。神の目的はそのイディアを示すことでありそこにも別に歴史はない。動物の種の保存と同じなのである。

●人間に起きた事実と実在した人間のヒストリーが歴史

歴史が事実を基にしているというとき日本の歴史でも皇国史観になっているがそれは天皇の歴史だったとなる。天皇家の歴史なのである。でも神武天皇とかは実在の人間ではない。神話化されたものであり神話と歴史は違っているのである。あくまでも事実を基にしたのが歴史なのである。実在の人物でないものは歴史にならないとなる。それでキリストにしてもそんな人はいなかったという人もいる。
でもそれは明らかに実在したことでありキリストが死んで蘇ったというのも500人くらいが現実に見たものであり事実である。。その他いろいろなことが起きたが奇跡も起きたがそれは事実であった。

なぜなら聖書というのは何かというと人間が神が人間に直接関わりそこに起きた奇跡でもそうでありそれを事実であったから記したことある。ただ想像して作ったものではないのである。だから事実というとき日本にある戸籍というのはそれは確かに事実を記したものなのである。それで死んだ私の母親の戸籍を辿っていったら二回も結婚していたのである。一人の人は知っていたが2回も結婚したことは聞いていなかったからである。でもそれは戸籍に記されていたから事実だったのである。だから親でも事実を伝えるわけではない、言いたくないことが必ずあるからである。

だから戸籍はその家族であれ事実であり実在したものであり歴史を知るにはその証拠ともなる。ただプライバシーがあり他人の戸籍を勝手に調べることはできない。でも歴史だと必ず事実でないことが事実のようにされることが普通である。そこで歴史が歪められててしまうのである。

とにかく歴史とは事実を基にしたものを知るべきなのだが想像したもの架空の話でも歴史となり混同されやすいのである。聖書の奇跡の話にしてもそんなことありえないとなり否定される。でも聖書は想像して作られたものではない。現実に起きたことであり現実に存在したことでありそのことしか記していない。人間どうして人間に神が直接関わったかも歴史である。そこに奇跡があっても事実なのである。

つまりそれは神というものは架空のものではなく人間が作ったものでもなく神自身が実在して人間に働きかけた歴史でありそれ記録されたのである。だからそんな奇跡がなかったとかいうことは現実にあったことを否定し神の存在を否定することにつながっているのである。そもそも聖書は神の実在を現実に神が現れたこと記したものでありそれを否定したら神は存在しないとなるからである。

ただ歴史といっても事実といっても無数の事実がありその歴史でも膨大なものになってしまう。ただ聖書の場合は人間にが生きた神が直接どうかかわったかを記したものでありそれはほかの歴史とは違っている。だから返って今になればそれは特殊なものだとなる。それぞれの家に歴史があり国も歴史があるがその歴史は膨大な事実の集積でありそこに神が関わったのなどは関係ないからである。だから今になると聖書の歴史というのは特殊なものに見えるのである。

●人間の歴史には終わりがある

ただ歴史というとき中国には歴史があり歴史を歴史を重んじる。青史に記されることが重要視されているからである。ところが不思議なのはインドには歴史がないのである。インドでは皇帝とかがいないからである。中国では代々の皇帝が記されている。日本でも天皇が存在して代々存在してそれが皇国史観となっているから日本には歴史があるとなる

歴史という時聖書は預言者が出てきて預言者の歴史であり未来を予言することがまだその特徴である。始まりがあり終わりがあるということも予言している。つまりこの世は終わりがありあるこの世は滅びるとしている。だからこの世は最後にハルマゲドンで滅びるとかとにかく終わりがあることは確かである。そしてそのこの世が終わった後に新しい天の国が神の力によって技によって作り出されるのである。

つまりこの世は終わりがあるということである。それはいつになるか分からないにしても確実に終わりが来る。そして人間の歴史は終わるのであるただそれで人間自体が終わるのではない。神の国で神の都で神に選ばれた者が永遠に生きるのである。それが神の約束であり契約でありそれは必ず守られるのである。だから聖書は約束の書であり神との契約の書でもある。それはあくまでも事実をもとにして神が現実に人間にかかわり人間に現れた記録だったからである。だから人間の歴史といってもそれも膨大なものでありそれも消えてしまうともなる。

中国何千年の歴史でもエジプトの歴史でも日本の歴史でもそれはいつかは終わりが来てその国自体も消失するということである。でもそれで人間が終わるわけではない。神の国で選ばれた人が永遠に生きるのである。
ただそうなると神の国では歴史は存在しなくなる。なぜなら歴史が家族の歴史だという時代々続くものでありそれがなくなれば歴史を消失してしまう。永遠に生きるとしたらそれは一代だけであり子孫というのもなくなるからである。つまりその時何らかで時間というのが消失するのかもしれない。人間はそこで老いることもないとしたらいつも若いとしたら時間を感じなくなるからである。

そして聖なるものとされた者のみが存在するともなる。その生命の書に記されていないものは皆消えてしまうともなる。歴史といってもそれは膨大なものでありそれを解き明かすことは不可能である。ただ聖書はそこに一貫したテーマがあり神が現実に人間にかかわり神の子でも現れることを予言していたしキリストは神の子として生まれてれることも予言されていたのである。

だから聖書は予言の書であり予言が確実に実現するということか聖書の特徴なのである。膨大な歴史があり事実がありそれがあったとしてもそこに一貫したテーマはないただ無数の事実は世界史にありそれをそれは何を意味しているのかもわからない。ただ人間の歴史を面白がって調べることもできる。それはただ人間の展覧会なのかともなる。聖書から見れば神から見れば罪の歴史でもあったとなる。
歴史がただ無数の事実の羅列だったら解き明かすことは不可能である。ただ聖書の場合は神が現実にいかに人間に関わったかということを記したのであり神の実在を示したのでありそれはほかの歴史書とは違っていたのである。


2024年02月20日

カルト宗教の偽善の悪質−カトリックが免罪符を売ったのと似ている (創価と共産党の類似)


カルト宗教の偽善の悪質−カトリックが免罪符を売ったのと似ている

(創価と共産党の類似)

人々は法王の代理人から直接強奪されているという感じに加えて教会に関係するものは何でも貨幣の音がする

法王のの鉢に金を入れれば法王はその罪を赦す天と地の力を持っておられる。もし法王は許してくれるなら神様も許してくれなくちゃならない道理
金がチャリンとなれば払ってもらった魂はまっすぐ天へ昇ってゆく(愚行の世界史ーバーバラタックマン)   

●免罪符を売ったカトリックの堕落
  
カトリックの堕落は頂点に達していた。何かヨーロッパの歴史はわかりにくい。あれだけの教会があるのだからキリストの信仰を基にして社会があると見る。でも日本だってどこにでも寺がありそれで仏教は盛んなのかと見る。でも仏教などでも既に死んでいる形骸化している。この辺でもミャンマーの人が来ていて寺があるのでそこに集まっていた。それはミャンマーで熱い仏教信仰があるから日本でもそういう場所だと思って集まったのかもしれない。
でも実際日本の寺などはただ死者を祀る場所であり何か仏教を教える場所でもない。だからヨーロッパであれほど教会があるとしてもそれがそれでキリスト教は盛んであるということにもならない。むしろ現代でわ教会に行く人が相当に減っている。カトリックはその堕落があまりにもひどいものだったのである。だからそれに反抗してルターが激しくローマ教皇に対して抗議したのである。そしてプロテスタントが生まれキリスト教会は二分されたのである。

ヨーロッパのキリスト教の場合社会の中枢に入って土地を持ったり財産を持ったり政治化した。。そこはこの世の権力をもつ場所となった。そしてなぜ宗教が権力を持つようになったのか。それは免罪符を売るという極端なものとして堕落したのである。それは宗教関係者またはカルト教団でも同じである。カトリックが堕落したように同じことはカルト教団に言える。

ただ違うのはカトリックといえば千年以上の歴史があり日本の仏教とかは違っている。その千年以上の間にカトリックは協会は社会の中心となって存在しつづけたのである。カルト教団には戦後竹の子のようにでてきたがそうした長い歴史はない。だから一時的なものとして泡沫的なものとして消えるのである。

●カルト教団は宗教を現世の欲望を実現するために利用する

そもそもはカルト教団となればその最初から宗教となっていても宗教的要素ががない。宗教はあくまでも隠れ蓑であり宗教を追求しているわけではない。ただ看板が宗教にしているからそれで騙されるのである。共通しているのは御利益宗教だということである。
とにかく御利益があればあとは何も無くて何も言わない鯉俊だとか悔い改めるとかそんなことは一切言わない。そこで言われることは御利益でありすべてが御利益に始まり御利益に終わる。創価などは極端であり権力奪取を目的としている。御利益を具体的に得る為に御利益を配分するためにそうなる。このことは大衆にとってわかりやすいからあれだけの会員が増えたのである。それは誰でも理解するからである。

教会(カルト教団)に関係するものは何でも貨幣の音がする

まさにこれである。御利益とかねのことだからである。

例えばその人はあらゆることにあからさまに主張して求めている。その欲でも金のことでも女のことでもなんでも何でも得ることであからさまなのである。職人でもあるの一方でそうしてあからさまに金になればいいとしてそれを恥じることもない。でも一面から見ればその人は偽ることもないし正直だと思う。いいとは言わないけどその欲望でも否定しないしあからさまに言うのである。

でも実際はカルト教団などでもその欲望を達成するために宗教を利用しているのである。カトリックは堕落したのはまさに宗教を求めていたのだがそれはこの世の物に魅せられて自分たちの欲望を叶えるために信者から金を取るようになったのである。
それが悪質なのは地獄に落ちるとか罰当たるとかいいそれからそれから逃れたいなら免罪符を売る商売にしたことである。そういうことはカルト教団でも普通に行われている。何かというと地獄に落ちるとか罰当たりひどい目にあうとかそういうことはカトリックの堕落と似ていたともなる。

●食い詰めてにわか僧になったホームレス

それはテレビドラマだが表面上は形は僧になっているが実際は稼ぐ力もなく食い詰めていって僧にになり施しをしてもらう。その僧はただ普通の人であり女性に対しても欲をむきだしにしている。その人は別に本当は乞食なのだが経文を唱えることによってありがたいと思わせて施ししてもらう。カルト教団でも四国の遍路でホームレスになった人はにわか僧になったのと似ている。
わいそうなので金をやると言ったらお経を唱え始めたのである。私は恵んでもらう乞食ではない。お経を唱えてやるからありがたく思い私を尊敬しなさいとなっていた。

その人はそんな仏教と何の関係もない人だったのである。ただ四国遍路をしていて経文を覚えた。そいう場所だからまねてそうなった。恵んでもらえるとことを知ってそうなったのである。だからカルト教団というのもこれと似ている。
なぜならそこで金になるし寄付金が入ってくるからそれで生活しようとする人がいるからである。そもそもその人たちは御利益しかも求めていない。自分自身のまたは家族の御利益を求めて信仰しているとなる。小言う人は人はまさにこの世から現世利益として具体的に権力を得て金も得ることになるからである   

そこに宗教など一切関係ないのである。そもそも宗教など求めていないからである。ただ御利益だけを求めているのであり権力を求めているのである。だからこそ会員に対しては何か心を清めるとか修行しろとかそんなことは一切言わない。
また人がどんな人でも選ばない。数は集まればそれは民主主義社会では権力化して行くからである。結局ハイルヒトラーとなりナチス化して行くのである。そもそもなぜそうして一介のあくどい人間が人に対し他人に対して地獄におちるとか罰当たるとかいうのは言うことができるのか?その事が一番罰当たりになっている。

その人は死後裁かれて地獄に行くのである。それは確実である。その罪の方こそが恐れるべきであるがその人自身恐れもしないし他者に対して地獄に落ちるとか罰当たるとかいうのが信じられないとなる。その人を見ればわかる。一体その人がそんなことを言う資格があるのかとなる。その人自身が真っ先に地獄に行くような人が他者に対してそんなことが言えるのかとなる。ただそういうのは会員として一票を入れさせるるために止めるためにそうしているだけなのである  
  
自ら親鸞のように私は地獄に行く人間であり地獄が一場の住処であり私は罪深い人間であるという人が本当の宗教家なのである。それを他者に対して地獄に落ちるとか罰当たるとか常に言っている人はどういう人なのか?
あなた自身は地獄に堕ちる人間なのである。その宗教を利用して現世利益を得て権力を得てこの世の王となる支配者になるということを目的としている。それが信じられないとなる。カトリックの堕落はあまりにもあからさまだった。それと同じことがカルト教団にある。だからなぜそれが宗教として認められ税金も免除されているのか分からないとなる。

●不遇なのは恵まれないのはすべて社会のせいなのか?

ただ底辺層は頼るものがなくカルト教団である共産党であれなんでも頼るのである。だから市営住宅とかに住んでいる場所で必ずそうかと共産党は二つに別れて支持者になっているのである。何か似ているのは自分たちが不遇なのは貧乏なのは社会のせいだとしていることで共通している。
だから社会を変えねばならないそうすればご利益を得られるとするのである。ただ貧乏であるとか病気であれば同情することはある。でもすべてが社会のせいなのかとなると問題である。障害者を抱えることは不遇である。
でもその障害者を持つということは社会のせいでもないのである。またその容姿が悪いとかでもそれは社会のせいでもないのである。でもすべてが社会のせいにしているということで創価と共産党は似ているのかもしれない。一見相入れないもののようで社会の最底辺層は頼るということでは似ているのである。

それよりそうなっているのは親の因果が子に報いという方が多いかもしれない。どうしても親からの遺伝がありそれが不幸をもたらしている。それは社会のせいではないのである。私は美人に生まれなかったから社会のせいだとはならない。何かしら以前によってその人の幸福もある。
何か自分の場合は蓄膿症で2回も手術したから頭が冴えない。今でも何かそれは治っていない。鼻腔が狭いからそもそもそうなっているのである。何かこの遺伝というのは宿命であり一生つきまとう。それは治ることもないのである。私はやっと三流でも文系の大学に入ったのである。 60以上になるとそうした遺伝的なものがあり必ずまた病気になってくるのである。
それは社会のせいではないのである。でもこれがこれは親のせいであり社会のせいではないのである。それで社会のせいにして社会に恨みを持つということはできない。でも創価と共産党の共通点は何かそういうふうなことでも社会のせいにするということがある。もちろん社会の不平等ということはあるしそれを是正することは必要である。でもすべてを社会のせいにはできないのである

いずれにしろ親の因果が子に報いまたは遺伝的なもの病気などでもそういうとがある。それは社会を変えてもその遺伝的なものを変えることはできないだろう。いくら仏教で宿命転換だからといって変えることはできない。私が蓄膿症の手術を高校の時2回している。やはり老人になっても直らない、そもそもは鼻腔が狭いのだからそれが治しようがなかったということである。
そして何ら必ずそうして遺伝として病気になるのは人間の宿命なのである。頭の良し悪しとかも遺伝と関係している。ただ人間は環境も大事であり環境の作用によって良くも悪くもなるのである。

●カルト教団と共産党は熾烈な内部の序列争いがあり似ている

人間は不完全でありどこか足りないしどこか不具合がありそうした遺伝的なものは一生背負っていくほかない。そのカルマが消滅するのは死ぬほかないともなってしまう。生きている限りそのカルマに苦しみ苦しめられるということにもなる。それは変えられないからどうしようもない。ただそういう弱みにつけ込んでカルト教団などは会員にして免罪符を売ったように商売にする。また共産党などにしてもやはりそうした底辺層支持者にして自分たちの勢力を拡大して権力を持とうとしているのである。

あくまでもその個人に同情するということでもなくやはり勢力を拡大して権力を得たいということがある。ただ純粋に自分の利益を求めずに同情して何か与えるならそれは責められることはないと思う。
でも実際はそんな人は居ない。そういう底辺層を集めて一票でもなればそれは勢力を拡大することになる。仏教でも御利益があるとしてそうしているのである。要するに自分たちの御利益になるからそうしているのである。そういう人たちに同情するというわけでもない。むしろ幹部とかはそういう人たちを利用して勢力を拡大して権力を得ようとしているだけなのである。

御利益が得られる権力が得られる欲望が達成できるそのために異常な熱気となっている。では創価などは本当に革命になりその信者が社会の高い地位につくと本気で信じて運動していたのである。それは中国の共産主義でもロシアの共産主義でも同じだったのである。その結果として独裁者が生まれそれに反対するものは粛清されてその殺された数も膨大なのである。そして宗教団体になると反対するものやめるもの地獄に落ちるとかバチ当たるとか言って会員にして奴隷として引き留めようとしているのである
だから意外と創価と共産党にているのである。団体化して組織化して序列化しているのも似ている。

オウムではサリンをまいた大学を出ていない人は組織で上にあがるためにあえてサリンをまいたとしていると言っていた。組織内で序列がありそのためにそこまでしたのである。組織内でも必ずその権力をめぐって争いがある
これは創価であれ幸福の科学であれ人間の組織となるとそこで熾烈な序列争いが起きている。共産党でも同じである。それが人間の業(カルマ)だとなる。俺の方がお前より上だとなり争う、下僕になりなさいと弟子の足を洗ったキリストとは大違いである。足を洗わせたい方なのである。
つまり人間は自分が優れている自分が上だとして争っている。花ならそれぞれ違った色であり調和する。争うことないのである。

何か人間社会にはそうして時代が違っても同じこと繰り返す、それは人間が持っている業(カルマ)がありそうなる。それはいくら科学技術が発達しても社会制度を変えてもなくならないのである。社会の問題ではなく人間自身に内在している業(カルマ)がありなくならないとなる。だから共産主義であれ社会を変えても人間そのものの持っている業(カルマ)が消えないのだから変えようがないとなる。社会をいくら変えようとしても人間そのものが変えられないから変えようがないのである。







                                                                   

2024年02月19日

戦後民主主義の問題 【権利ばかり主張して責任とか義務がないがしろにされた】


戦後民主主義の問題

【権利ばかり主張して責任とか義務がないがしろにされた】

●原発事故の責任問題

戦後民主主義の問題として一番欠落したのは確かに権利を主張することは肯定された。でも問題はその権利にを主張するのはいいとしてもそれには必ず責任と義務があった。それがないがしろにされたのである。なぜか人間というのは責任から逃れられない。何であれ責任がつきまといその責任が問われ現実に責任をとらされるのである。
この辺で起きた原発事故はまさにその具体的な例である。そのことを私は追求してきた。その責任は故郷に人が住めなくなるほどの大きな災禍をもたらしたからである。その責任が誰にあったのかということを追求して追求した。
そうなるとその責任の範囲は広く国民全体であり政治家でも官僚でも科学者でももちろん東電でも地元の人でも責任があった。その濃淡はあるにしても責任はあった。ただ責任にしても現実に責任を取らされたのは地元の人たちである。故郷に自分の住んでいる場所に進めなくなったことが最大の責任を取らされたのである。

でも原発を推進した人たち政府や官僚の科学者でも東電の幹部でもその責任はとっていない。天下りした官僚でも金をもらっても何ら責任を取っていない。普通100円であれ1000円であれ盗んだらそれは見つかったら厳しく罰せられる。でもその警察関係の官僚が天下りした東電でわ多額の金をもらっても事故を起こしても罰せられることもないのである。
要するにそういう役得があり地位がある人は責任も重くなるはずなのであるがそうならない。おそらくその責任の重さに比例して金もその分大きなものとなっているのかもしれない。東電の幹部はその責任が重いのだけどそれも対して問われることなく見逃されたとなる。一時は財産没収しろなどと言われたがそんなこともなかった。

●ノブレス・オブリージュの背景

責任というときなぜ王族とか貴族に責任が持たされたのか

ノブレス・オブリージュ
『貴族が義務を負う(noblesse oblige)』のならば、王族は(それに比して)より多くの義務を負わねばならない。」と書いたのが最初である

王族とか貴族は特権を得る人たちだったからこうなった。そもそもヨーロッパの貴族というときその基となったのは都市国家があったとしたらそこに騎士がいたら騎士はその都市国家の住民守らねばならない。そういう義務がありそれで特権を得ていたのである。農民は城壁の外の農地で暮らしていて敵が攻めてきたら城壁の中に入ったりして命を守らねばならなかった。そこで騎士は都市国家の住民を守るために戦う人でもあった。だからこそノーブレスオブリージュという義務が課せられていたのである

ところが日本では侍が特権階級として支配階級として存在してもそこに住んでいる住民とは別である。確かに戦争になれば敵が攻めてくる。でもその戦争は侍と侍の戦いでありそのそこに住んでいる住民は関知しないのである。日本とヨーロッパの違いは城壁に囲まれているとしてもそれは侍が住んでいるところだけであり最後は城に籠る。戦争に負ければ切腹して死んで終わりである。住民は別にそのために敵が来ても殺されるということもないのである。

それで会津であれだけの悲劇があったとしても住民は関知していなかったのである。会津ではその時やーやー一揆が起きた。その理由は侍は税金を取るものだからこの際敵が攻めてきた時一緒になって一揆を起こしたのである。
だからそもそも日本では街を取り囲む城壁はない。ヨーロッパではそこに都市国家があれば城壁で囲まれているし街自体が囲まれてその城壁の外の農民でも敵が攻めてくれば城壁内に入って市壁の中に避難して命を守らなければならない,そういうことがありシティズンシップが仲間意識が生まれたとなる

だから不思議なのは会津の悲劇のことを語られるがそれは住民とは関係してない。ただ日本では戦争があるとしてそこの住民が領民が奴隷のようにされることは無いのである。外国では常に戦争に負ければ奴隷にされるという歴史がある。だから敵が攻めてきたときは住民も一体として戦わねばならない。それはシティズンシップなの生まれたゆえんである。
日本でわ村がアイデンティティの場でありそこには村意識があり共同意識があった。でも城が作られてもそれは侍が支配する場所であり住民とはそれほど関係なかったのである。だからこそ会津で城が燃えたとしても白虎隊はそのために自刀したとしても住民は何の関知していなかったのである。だからこの歴史を見ればヨーロッパでの人は理解しがたいともなる。日本では城が燃えているのを見てただ見ているだけだったのかとなる。それで恐怖もしなかったのかとなる。

●赤信号みんなで渡れば怖くないー無責任民主主義

確かなことは特権を得ればそれに対して責任と義務も生まれていたのである。民主主義はそうした貴族などはいない侍もいない
戦後民主主義が入ってきた時何を一番重点におき理解したかとなると権利を主張することだったのである。権利だけはみんな平等であり主張するべきだとなったのである。それに付随していた責任と義務とかはないがしろにされた。

赤信号みんなで渡れば怖くない責任はない

つまり法律違反であれなんであれみんなで渡れば怖くないその責任を持つことはないということである。それが戦後の民主主義だったのである。誰も赤信号を無視しても法律などを無視してもそれが多数になれば正しいことになったのである。法律があったとしてもそれも投票で決められるとなる。数が多ければ正しいのでその結果として別に日本だけではない数で決まればどうなるのか?ただみんなで赤信号を渡ってみんなが責任を取る必要がない永遠ならない。やはりみんなが責任を取らされるである。その責任のことを感じたらそんなこと普通は出来ないのである。つまり民主主義とはで責任を感じないシステムなのであるでありそこから過ちが起きてくるのである

ドイツでわ民主主義から投票からナチスが生まれたのである。別に数が多ければそれが力となり社会を席巻してしまったのである。戦後のカルト教団が興隆したの政教分離という法律が機能しない。結果的に何か言うと信教の自由だとかなんとか言ってあらゆる自由があるとしてその自由を主張する。でもそこに権利を主張しても責任とか義務は無視されるのである。そのことは民主主義の大きな欠陥であり最大の問題だったのである。

つまり民主主義とは全体主義ファシズムになりやすい制度だったということにもなる。それは数が集まればそれが正しいとなり権力となり社会を支配してしまうからである。それで戦後宗教でも信教の自由がありそれが過剰のなりカルト教団でも許される。それは政教分離という法律があるのにそれも数が集まれば無視されるからである。だからこの問題は日本だけの問題ではない民主主義の欠陥最近は顕著になってきたのであるその本場のアメリカでも内戦になるとこまでなっている。

民主主義自体が行き詰まっているのである。それはそこに権利を主張してもそこに責任と義務があるのに権利だけが主張されるからそうなる。だから貴族の方が責任と義務が課せられていたからその方が良かったと思う。それも問題にしても民主主義も欠陥があったことが顕著になったのである。
つまり現在の権力は誰が握っているかというと貴族ではない一部のものではない大衆だとなるその大衆は権利は主張してもそこに責任とか義務は感じていないのである。また法律的に責任を課せられていないし責任を感じないのである。ただ権利だけは主張するのである。

●責任とは神が与えた良心にそむくのが責任

そもそも責任というときこの世に生まれたときから責任を課せられている。それで生まれてくるとき泣いて生まれてくるのはその責任が課せられているからだとなる。何か人間というのはそもそもはその生まれたこと自体人間として生まれただけで人間としての責任が課せられている。
そのために人間には神が良心を与えて悪いことをしたら良心の痛みを感じさせる。動物にはそうした良心はない、だから別に他の動物を食べても良心の呵責など感じない、善悪もないのである。例えこの世で罰せられなくても裁きとあるというときこの世に生まれて悪いことをすればそれはこの世で罰せられなくても死後裁かれて罰せられるとなる。そういう責任が人間に課せられていて逃れられないのである。

別に勝手にすればいいそんなことでいちいち責任等とる必要もないと思っているが必ず責任を取らされるようになっている。その責任の重大さはこの辺の原発事故でもそうだったし振り返れば戦争でも莫大な人間が死んだのやはり責任を取らされてそうなったとも見る。確かに自然災害による被害も大きいがそれより戦争の被害は何千万という人間は死んでいるのだから比べようがないくらい大きい物なのである。その罪は問われ罰せられるとなれば人間にはそうした責任から逃れることができないということである。

私は何も悪いことはしていませんと言っても神の目から見ればやはり人間は罪を犯しているから罰せられるとなる。それを民主主義だから数を集めれば何でも許されるとか何でも主張できる権利を権力を得られるとかは許されないのである。
でもこの世では数を集めればそれが権力となり正しいとなりそれがナチスになってゆくのであるその結果として莫大な人間が死なねばならなかった。その責任を取らされたのである。責任というとき戦争の責任は誰にあるのか日本の戦争でも300百万人も死んだ。
その責任は誰が取るのかとなるそれで天皇は広島に訪れた時その責任を問われた時たじたじとなった300万人も死んだ原爆落とされて死んだ

その責任は問われたらもし天皇がその戦争を決断で決めたとしたら天皇が責任を取れとなってしまったからである。また原爆にしてそんなものを使って本当に利用して人間を殺戮したということはアメリカにも相当な責任がある。だから東京裁判などという勝者による一方的な裁判などは正当なものでもないしただ勝者の力を見せつけたというだけなのである。そもそも神が裁くなと言った時裁く力があるのは神しかないのである。人間には裁く能力はない。喧嘩両成敗となるのもどちらかにも非があるからそうなったのである。

太平洋戦争でも日本だけに非があるわけでもない。アメリカが攻められないのはただ力があり権力が持ってっているからだけなのである。そもそも悪である日本をアメリカは裁いてやるということ自体どれだけ傲慢なことなのか?
またアメリカでも戦争は力による一方的なものでありそのために多数の人が死んだそれもやはり戦争犯罪でありアメリカでも裁かれるべきものだったのである。ただ戦争となると誰が裁くのかとなると勝者が裁くだけだとなる。だから裁くものは人間でないし神しかありえないのである。
歴史とは人間の罪の記録だというときもそうである。だから最終戦争がハルマゲドンがあり人類が滅びるというのもそうである。
人間のカルマが罪が最終戦争になり人間は滅びるとなる。罪の総決算としてそうなる。それで人間の業(カルマ)が消滅するとなる。





2024年01月25日

人間はみんなジキルとハイド-人間のみに善悪がある 【組織団体も会社も同じように善と悪がある】

人間はみんなジキルとハイド-人間のみに善悪がある

【組織団体も会社も同じように善と悪がある】

 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心の
創世記における「命の木」と「善悪を知る木」ままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べて
はならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう

ローマ人への手紙 3:10-28 JA1955

次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。 彼らの足は、血を流すのに速く、 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。 そして、彼らは平和の道を知らない。 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。 


●職業は業であり必ずブラックの面がある

葬儀屋 僧侶 

人の不幸を喜ぶい卑しいお仕事です

カルト宗教団体

人の不幸が商売の種

風俗業

手っとり早い女性の稼ぎ場 金のため魂まで売る職業

ギャンブル(パチンコ屋など)

趣味も何もない暇つぶしの場の提供
でもギャンブル場だから身を滅ぼす人も

政治家

利権のブローカー

弁護士

ヤクザの示談屋とにている
もめ事の仲裁で分け前をもらう

医療関係

弱者となる病人相手
弱みにつけこむ商売
いらない薬やいらない手術でもうける

福祉関係(介護など)

弱者を相手にしぼりとる
弱者相手の職業だから人間のあくどさが一番現れる

銀行や証券会社

銀行は汚い消費者金融などに出資してもうけている
弱者には金は貸さないし冷たい
証券会社はマネーゲームでもうける
他人の金を利用して損しない、銀行も同じ

官僚、公務員

税金にたかる無駄使いが多い、天下り先のため大企業と結託

公明党共産党員

貧困ビジネス、弱者を相手に幹部が上前をはねて贅沢をする

学者、知識人

現体制擁護で富裕層につく、御用学者で得する

マスコミ

会社の宣伝機関、正義を装う、愚かな大衆操作の機関

皇室

権力に祭りあげられて利用される無能な人形

大企業(トヨタなど)

労働者は奴隷、派遣は一時期の部品
いらなくなれば容赦なく切り捨て
経団連は日本を牛耳る

軍隊

人を殺すのを生業とする職業

警察

権力を傘にして威張る組織
富裕層や権力側につく団体
弱者は無視

検察

正義の味方を装い権力側につく、大企業や大組織は罰しない
東電の幹部を見ればわかる、あれだけの事故でも罰せられない
百円盗んでも刑務所に入れられるのに

農協

政府から補助金をしぼりとる団体
農民もまたブラックなのか?

不動産屋

土地で暴利をむさぼること

建築関係

除染関係でもゼネコンの大企業の社員には一人十万出してもその他の人は一万しか労働者に払わない
ピンハネ団体

コンビニ

会社の正社員が店主や店員を搾取するシステム

暴力団

悪が支配することを標榜する正直な団体

なぜ人間はブラックになるのか会社や組織や会社でもブラックになるのか。そもそも人間自身が知恵の実を食べて善悪を知ったという時そこに既にブラックになる人間となった。だから人間は人間個人ですでに善悪があり二面性を備えている。だから人間はみんなジキルとハイドなのである。だから組織団体や会社でも同じようにブラックにもなる。つまり人間個々人でも善悪があり偽善がありその延長として組織団体会社でも二面性を持つのである。

何か職業というとき常にその職業でも二面性があり善悪があれジキルとハイドになる。弁護士と言えば善と正義を追求しているように見えるが半面その資格を利用して悪を行うこともある。何か遺産とかで揉めてきた時弁護士が代わりその分け前をいただくとなる。そこに正義より自分の利益のために弁護して弁護して法律を利用するということがある。だから交通事故で相談に行っただけで百万もっとられたのである。そもそもはそんな金を取られる必要もなかったのである。相談なら1万で住んでいただろう。。なぜその人が百万も出したのかというとそれは他人の金だったからである。なぜ百万も出さなければならなかったのかそれも理解できないからである。

だからこの世ではは常にこうしたことが行われる。例えば医者でも患者を治そうとするのだがその前に自分の利益を考えて不必要な薬で金のために患者に与える。利益優先になりそこで歪められる。その問題は一人の医者だけの問題ではなく社会問題になるのは保険を国民保険があるのだからその金は国民が払っているから本当は無駄な金を使ってはならないのである。それは国民の負担になるからである。また無駄な治療というのもありそれも問題なのである。今みんな税金に苦しんでいる。国民保険でもそれを払うことが容易で亡くなっているからである。

ただこういうことはあらゆる職業にありだから職業自体が業であり職業につかないことはそうした悪をなさないということで出家したともだろう。それで寺があり職業につかないで悪を犯さないようにしたと思うな。ただまだ宗教を標榜するものでも必ず善悪がありできるとジキルとハイドになってしまうのであ。カルト宗教団体になるとその看板は宗教にしてももしそれを実行すればあまりにも厳格であり誰も実行できない。誰も釈迦やキリストのようにもう無一物で修行などもできない。だからそういう宗教団体はむしろ禁欲は説かない。世俗社会よりを欲望追求する団体になる、それが宗教の名の元に行うから矛盾してくるがその人たちは無思考人間でありただ御利益があればいいだけだから悩む人もいないのである。。

●人間の二面性は変えることができない

だからこそそこに膨大な数がもし山の中で断食して修行しろと言ったら誰もついてこないからである。宗教というとき善を追求しているのだが今のカルト教団などはそんなものとは何の関係もない。ブラックそのもののである。だからそうして善人ぶっていることが偽善なのである。とにかくこの世には偽善が多すぎる。それで返って暴力団は正直だともうなる逆説がある。大概は個人であれ集団組織会社であれ善を標榜する。でもその内実は必ずブラックなものがある。それは政府にだって官僚だって司法関係にもある。ただそれが見えないということがありわからないから放置されているともなる。

いずれにしろ人間には二面性があり善悪を知るというするものになってなったということが人間の特徴なのである。なぜなら自然界には善悪がないからである。動物は他の動物を食べることは残酷だとしても人間人間のようにそれを悪人のようには見ないからである。つまり人間を除いた世界には自然界でも善悪というのは無いのである。人間だけに善悪があり知恵の実を食べた結果善悪を知るようになったというのはそのことである。だからそもそもが人間個々人でもそうして善悪があり二面性がある。だからその延長の組織団体会社でも必ず二面性がありジキルとハイドになってしまうのである。

この世とはもともと天使が住んでいた、人間は天使でありこの世は天国だった、それがなぜかその天使かサタンになってしまったのである。もともと天使だったものが墜落してサタンになった。
だからこの世の魅力に負けてサタンになったのが人間なのである。そうなれば当然この世がブラックになっているのは当然だとなる。結局人間は金の魅力に勝てないというときもそうである。金のために魂をサタンに売り渡しているのだ。それは人間の欲から生れているからだ。これは誰でもそうなるのである。私自身でもそうなる。それは人間はみんな善悪を知り善と悪の面の二面性があるからである。だから必然的にジキルとハイドになるのである。

一見善人のように見えても悪人にもなっているのである。だから逆に自分は悪人だとか罪深いだこと感じている人間は本当は善人だとなる。自分が善人だと思ってる人間は実は悪人だともなってしまうのである。天国は何かといえばそこにはこうした二面性はない裏表もない。そこに罪を感じないのである。人間は知恵の実を食べる前の善悪を知らない純真な世界があるだけになる。そこに悪はなく善のみがあり神よってそこは治められるのである。

●人間が社会を変えられない、人間そのものを変えられないから

なぜ社会が変えられないのかいくら技術が発達しても社会制度が変わってもこの世から悪はなくなることはない。資本主義だろうが社会主義だろうが共産主義だろうがキリスト教社会でもイスラム教社会でも仏教社会でもそれで社会が変わることはなかった。それはなぜなのかとなれば人間そのものは変えることができないからである。だからいくら社会を全体を変えようとしてもそれはみんな失敗しているのである。

それは人間というものはどういうものなのかということである。食べるなと神が命令した知恵の実を食べた時善悪を知るようになった。そのために人間は神に意にかなうものではなくなった。だから人間というのはいくら社会を変えようとしてもそれが失敗に終わる。その原因が人間そのものは知恵の実を食べて善悪を知り必ずジキルとハイドのようになってしまうからである。それでサタンというとき悪魔という時外部にあるわけではなく人間そのものに悪魔的なものがありジキルとハイドになり二面性があるからそうなってしまうのである。

だから人間そのものが生まれ変わらない限り社会も変えられないとなる。人間はいくら制度を変えても根本的には変わらない。そもそも変えることができないのである。民主主義でも人間そのものを変えることはできない。だからこそ神の国はこの世に実現しない。ただそれはこの世ではなく神の国で神自身が治める国で実現するのである。

そもそも共産党に入ったから創価に入ったからその人が変わるのか、全く変わらない、宗教ならそれをかえって利用してこの世の権力を得て栄誉栄華の生活をしたいというだけである。それを世俗社会より奨励しているからあれだけの数が集まるのだ。御利益御利益と狂気のように祈っているからである。
そんなところに平和もなにもないのである。そいう人たちは他者を殺してまでも自分たちの欲望を実現させようとするから怖いのである。それは偽善でも善を成すものとして行うのである。
だからその組織は軍隊組織になている。武器を持たせれば他者を殺す軍隊に変貌する。

だから社会の制度でも変えても根本的なところで何も変わらないのである。神の国では人間は善悪を知るとか二面性はなくなりただそこには善のみがあり正義のみがあり悪はなくなるのである。つまり人間というのは一度滅びてもう一度神の意にかなう国、神の国が実現するのである。つまりこの世は永遠に変わらない。その原因が人間そのものにありその人間を変えることは不可能だからそうなっているのである。

この世はこうしてそもそも変えることはできない。人間そのもの変えることはできないからである。
こうして人間が悪をなさないこと悪に染まらないと言うことはほとんど不可能になる。職業にしても必ずそこには悪の面がある
ないとしたら返って何か社会から得するような地位にないとか下々で働くような人になるかもしれない。それで貧しき人は幸いであるというとき悲しむ者は幸いであるというとき何か社会で出世するような人はいかがわしいものを持っているからだともなる。
つまり上に立つ人は得するのだがそのために悪を成すということもある。その人たちはそうは思っていなくてもそういう地位得てること自体が悪に通じているともなるだから。社会の下働きのような人たちは返って得することもなくそんな立場にあるから悪に染まらないともなる。それも逆説なのである。
でもみんなそうは思わない、やはり得になる立場を得たいとなる。

この世とはもともと天使が住んでいた、人間は天使でありこの世は天国だった、それがなぜかその天使かサタンになってしまったのである。もともと天使だったものが堕落してサタンになった。
だからこの世の魅力に負けてサタンになったのが人間なのである。そうなれば当然この世がブラックになっているのは当然だとなる。

彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。 彼らの足は、血を流すのに速く、 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。 そして、彼らは平和の道を知らない。 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。 


人間社会そのものはその職業でもそうなっている。義人はいない、ひとりもいないという時社会全体がそうなっているということにもなる。それだけ人間社会というのは悪に染まっているともなる。それは別に犯罪を犯すからというだけではなく警察に捕まるからというだけではなくみんなが罪を犯しているのである。別に罰せられなくても人間はいくらでも罪を犯している。
特にこの世で地位を得て楽している人間はやはり罰せられなくても罪を犯しているともなる。ただ罰せられないから自分たちは罪を犯してないとも思っているのである。だから返ってこの世でわ貧しい人が幸いであるとか悲しむ者は幸いであるとキリストは言ったのはそういう立場にある人は罪も犯すこともできないからそう言ったのである。



2023年12月27日

なぜ人生が誤算で終わるのか 【今年も終わるが未来は予想できない―時間がなくなることが最大の誤算】


なぜ人生が誤算で終わるのか

【今年も終わるが未来は予想できない―時間がなくなることが最大の誤算】

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30才以降急速に時間が消失してゆく

●金は計算できても時間は計算できない

そもそも人生が思いどうりになって人生きた人がいるだろうか。そういう人はいないと思う。何らかで人生は必ず後悔し計算どうりにならない誤算で終わるのである。
一級の免許を持っていたが技術者であったが事業を起こして失敗して借金を抱えた。事業に失敗する人もまた多い。そもそも原発という事業は大失敗だったのである。また太平洋戦争で300万人も死んだ者も大失敗だったのである。歴史的大失敗であり大誤算だったのである。つまり歴史も必ず失敗の歴史なのである。その失敗から教訓は生まれているのである。

また結婚したとして熟年離婚も多い。それもまた失敗でありその前に1/3は離婚しているのである。ただ熟年離婚というのは夫にとっては思いがけないものでありそんなことあり得ないというふうに思っていた夫も多いかもしれない。それも誤算だったのである。人間は何か計算どうりに行くことはほとんどない。それは思いがけないことが起きる。そのために運命が変わってしまうのである。それは個々人にも起きるわ全体的にも起きる。戦争とかは国全体の運命を変えてしまったからである。またこの辺では津波があり原発事故があり故郷に住めなくなったとかあり大きな変化に見舞われてしまったのである。それも大きな誤算だったのである。

人間は計算どうりに行かない。なぜまたそうなるのかというと意外と見逃しているのは実は時間の問題なのである。時間を計算することが人間はできない。常に金だったら日日計算しているし老後のことなどでも貯金していた方がいいとかなる。つまり金の計算はできるからである。ところが時間の計算ができないのである。
私自身でも何かしようとしたのだがそれもほんの試しで終わり時間も無くなり何もできなくなったのである。

●人生は何に時間を費やしたかで決まる

だから私のしたことは旅だけだったともなる。人間は何かするにしても限られた時間しか与えられていない。もちろん金も必要だが意外と時間が与えられないのである。だから会社員なれば一か月休んで自由に旅することもできない。すると旅するということは金よりも実は時間が大事だったとなる。私は仕事もしないのだから会社に勤めているわけでもないから時間は充分にあったから旅に費やしたとなる。

別にそれほど金も必要であってもそれほど金はかかるものでもなかった。何かホテルであり旅館でありそこで何かうまいものを食べるという目的もないし一番安い旅館にホテルにを探してそこではただ体を休めるというだけだったのである。旅をしたければ別に金がなくてもできないことはない。それより時間が大事だったのであるって何かする時間というのはいつまでもあるわけではない。
例えば留学するにしてもそれをそれは若い時にするものでありその時期を逃せばなかなかできなくなる。その時々にやるべきものをやらないと必ずそのチャンスはなくなり時間は消失してしまうのである。

例えば学問にしてもあらゆることに精通することなどできない。ほんの一部しか精通できないしそれは人間に与えられる時間が限られているからである。だからある極わずかな一部分しか詳しくはなれないのである。だからこそあらゆることで専門家して細分化してそこでその一部分には詳しくなるが全体になれる人はいないのである。それは人間の知りうる範囲が限られている。それは学ぶにも時間がかかるからそうなる。やはり人間は天才でない限り知識でも蓄積してゆくことが大事なのである。
だから雑学にしてもある一分野で詳しくなれることがある。つまりその一分野に時間を費やしたということなのである。でも他の事には費やす時間はないのである。

意外とその人を見る場合その人は何に時間を費やしたかを見ることである。それが人生だったからである。例えば会社に60まで働くとしたらそれが人生であり私はただ社畜として生きて来たという言っても不満でもそれが人生であった。なぜならそこに人生の時間を費やしたからそうなるのである。そして30年働いたとしてその30年間は会社のために尽くしたとか働いたとかなり何であれそれが人生だったともなる。

●限られた時間を何に使ったかが人生になる

人間はだから与えられた限られた時間何に使うかが大事になる。ただ常に金の計算をして金を稼ぐということは常にしている。でも時間計算している人は少ない。時間が計算しにくいからである。金だったら常に得した損したとか計算しているわ時間はあまり計算しないからである。

ところが老人になった時なぜみんな後悔するのか。それは何かをするという時間がなくなる。また体力もなくなってしまうからである。なかなかきつい登山などはできなくなる。若い時できることをしなければ老人になってからはいくら金があっても時間があってもまたできないとなってしまうのである。つまり老人とはいろいろなことはできなくなるということである。その大きな原因は時間がなくなるということでもある

なぜ事業をして失敗する人が多いのか。それを私自身でもそうだが人間の与えられてる時間は限られているからである。何かしようにも必ず時間が必要であり事業をしてみて失敗したからといってもう一度やり直すことはまた時間がかかり難しくなるのである。つまり一度押して失敗したからAに移りBに移りCに移りとかできないのである。人間のなし得ることは様々な分野があってもせいぜい一つ二つくらいなのである。それすらまともにやる時間も無いのである。それほど時間は消失しやすいということである。

結婚にしても一度失敗したからまた再婚してとかそういうことそういう時間もうない。人間関係を作るにも必ず時間は必要なのである。やはり長くいるということは親密になり信頼関係を作るにわ大事なのである。家族の場合はそうして長く一緒に暮らしてるからそこで愛情や信頼関係が生まれてくるのである。
たとえ家族で憎しみあっていて長い間暮らしていると自ずと愛情も湧いてくるのである。だからなんでも時間の作用がありその時間が見逃されているのである。だから親密になり信頼関係を築くに時間が必要でありその時間が限られているから人間関係でも難しいのである

例えば10の時間を与えられる人とその十倍の時間が与えられる人があるとしたら10倍の時間を与えられる人はやはり何をかで専門家にもなり何者かになれることは確かである。でも時間はみんな平等に限られたものしか限られた時間しか与えられないのである。 だから大して才能なくても一つの分野に時間をかければその分野については詳しくなれるのである。

●人間は一分野にしか詳しくなれない

人間ははあらゆることに詳しくはなれないのである。それは時間が限られているからである。何か30過ぎる頃から急速に時間が進んで行き40頃になると白髪が入ったりしておっさんになっているのである。それも早いなと思った。だから人間の盛りは30歳まででありそこで完成しているのである。キリストも30歳で人間として完成していたからである。そのあとはただ時間は延長すると言うだけにもなってしまう。ただその間でもやはり時間をいかに使うかということで人生は決まる

人生=時間×X

Xはは変数でありその人が何に時間をかけるかでその人の人生が決まる。もちろん金をかけるということもあるがそれ以上に何に時間を費やすかでその人が決まるとなる。
例えば語学でもさまざまな外国語があり全部など極めることはできない。 一分野には詳しくなれてもとても全部に詳しくなることなどは不可能である。つまり一つの言語に詳しくなれるがほかの言語に詳しくなることはほとんど不可能であるなぜなら言葉自体が難しいからそうなる。十か国語も話せる人間などこの世に居ないからである、そして山ほど本が買って積まれたがそれも消化されなかったのである。

●人間は未来は意外なものとなり予想できない

ともかく人生というのは時間が消失してゆく。 30歳から辺りから時間は下降気味であり急速に消失してゆく。70も越えれば生きる時間もわずかだとなってしまう。何かしようと思ったら時間切れになってるのは人生だともなる。
だから一番浪費しているのは時間なのである。時間は計算しにくいからである。金は常に計算しているが時間は計算しにくい。それで意外と老人は死ぬとき日本人は相当な金を残している。それも金が必要だろう後に金が必要だとして貯めていたがそれも有効に使えず死んでしまったということである。

それは人間はどれくらい生きるのかもどれくらいの時間をこれから生きるのかも分からないからである。そのために貯金をしていたのだがその貯金も使えずに死んでしまったともなる。それは金の計算はしても時間の計算はしていなかったからだとなる。またどれくらい生きるのかもその時間が計算できないからそうなっているのである。あと十年生きるのか20年生きるのかでは相当に違ったものになるからである。もしあと十年ならその間に使うお金を計算できるからである。でも時間は計算できないのである。そこで必ず誤算が生まれるのである。だからみんな人生は誤算で終わっているのである。

要するに人間は来年のことを言えば鬼が笑うというように来年のことすら何が起きるかわからないからである。ましてや十年後とかどうなるのかわからない。必ず何か思いもよらぬ誤算が人生にはつきまとっている。この辺で津波とか原発で故郷に住めなくなったということもそのことであるこれほど大きな変化に経験することは想像すらできなかったからである。人生には70年であれ80年であれ生きていれば想像もできないことが起きてくるのである。だから必ず人生は誤算になっているのである。こんなはずでわなかったとみんな後悔しているのである。

ともかく今年も終わりである。今年で何が良かったのか悪かったのかやはり私にとってはbing image creatorの経験が一番印象に残った。なぜ言葉だけを入れて絵が作れるのいうのは不思議になる。こんな経験するの今まではありえなかったことである。だから技術的にも経験できないことは時代によってできる。その最たるものはコンピューターの技術だったのである。

だから将来的には誰でも宇宙旅行ができるようになることは確かである。それは大金持ちだけではなく一般化するのである。それだけの技術開発は進むからそうなるのである。その技術進歩にしても未来はどうなるかということは確かに予想するのだがそれ以上のものはできてくるということがある。だからそれもなかなか予想できないのである。そして技術の進歩で思いがけないことができるようになり経験するようになるということである。

来年はどういう年になるのかそれもわからない。いろいろ予想して確実なことはわからない。大地震が来て壊滅的被害を受けるかもしれない。それもわからないので。つまり未来は常に未知でありいくら科学が発達しても予想できないのである。其れで必ず誤算になる。誰も未来を知ることはできない。それは神のみぞ知るとなる。。

一山の本積まれ読まじ年の暮






2023年12月22日

推理ドラマを見た感想ー殺人を犯した人は花の美が見えるだろうか?


推理ドラマを見た感想ー殺人を犯した人は花の美が見えるだろうか?

栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかったーその意味 

●殺人を犯罪を犯した人が花の美が見えるのか?

推理ドラマを見ている。それも再放送しているから二度見ている。なぜなら前見たものを忘れているからである。そして2回見るとそのドラマが何を訴えたいのか理解できる。推理ドラマはそれだけ複雑であり人間の罪とか心理をテーマにしているからである。時代劇だと勧善懲悪でありあまりにも単純化しすぎているので飽きてしまうのである。
でも推理ドラマは複雑であり現代も表現しているし特に鉄道テーマにしているのは鉄道好きだから面白いのである。大概の鉄道は載っているからそれも改装できて面白いのである

ただ私が推理ドラマを見ていて何か必ず違和感を覚えるのである。それは殺人を犯した女性が綺麗な身なりをして花を愛でていることである。それは別に殺人など犯してなければたとえ金持ちの娘であれ夫人であれそれほど違和感がないかもしれない。でも殺人を犯したような女性が花を愛でている時その女性は本当に花伸びがbingピザ美術わかるだろうかということである。

というよりその女性は花を愛でては美を知るということが本当にできるのだろうかということである。このことは常にドラマの中で例えば華道の家元でもそこでは殺人事件が起こる。そしたらその花をテーマにして花の美を追求しているがそんなことができるものだろうか。そこで何か醜い財産相続争いとかありそこで花を活けるのだがそういう資格があるのだろうかとも思う

私自身のテーマは花である。だからその花のことが気になるのである。なぜなら人間の心が曇り汚れた時花の美しさが見れるだろうか。それがドラマの中では何もそこに葛藤がない。それが何か常に違和感を感じているのである。今日のドラマでも殺人を犯して何億とか手に入れて金持ちになった女性がいい庭を作り花を愛でている。でもその女性がその花の美しさを愛でたり知ることができるものだろうか?

その心は人を殺したのだから汚れているしその立派な家でも庭でも汚れた金で作られたものであり住むことになったからである。別に金ががどこから入ろうか関係ないという人もいる
でも人間の心とか良心を偽ることができないではないか?人を殺したような犯罪人が果たして花の美しさを見れるのだろうかという疑問がある。でも推理ドラマではそんなことは全く無視しているのである。殺人を犯した女性が花を愛でているのである。

●花はどんな場所にも飾られるが花の美はそこに映えるのか

何かこういうことは他でも常にある。この世界はそもそも汚れた世界である。常に利益を求め利権に関わり政治家は平気でごまかして金を得ていた。でもそれを悪いとも思っていなかったのである。罪になるとも思わなかったのである。政治の世界はどうしても汚れたものとなる。だからそんなことを気にしてたら政治家などにはなれないとなる。
ただ不思議なのは人間の集まるところに必ず花が飾られているが本当にそこに花が映えるのだろうかということである。たとえば政治家が密談している料亭の部屋にも花輪飾られている。別にキャバレーでもどこでも花が飾られているのである。しかしそういうところに本当に花が映えるものだろうか。そういうところにそれは大都会でもそうである。花はそんな東京のような大都会に映えるだろうかとなる。

栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 

キリストがそう言ったのは野に咲く花のことである。花はもともと野に咲くものであったからである。でも別に今はいろいろな花を売っている。外国の花でも売っている。でも花は結構高い。するとやはり花を見るには鑑賞さらには金がかかるとなる。では貧乏人が花を観賞できないかとなればそうでもないのである。
それは私がいつも通っている道でバラの花を見たり椿の花を見たりしている。公園でも見たりしている。花は別に無料で見れるものもある多い。野に咲く花をもともと無料で見れるのである。だから塀に咲いているバラの花を詩にしたときその花は他人の家の花なのである。でも別にその花を観賞するのは無料なのである。ただその花を見る目が必要なのである。花に関心のない人はそうして無料で見る花すら関心がないからである。

だから人間社会で一番何か不可解なのはそもそもは野に花は映える
でもどんなところでもキャバレーだろうが政治家が集まるところだろうがもしかしたら暴力団の集まるところにも花が飾られたりしているのである。でもそういう場に本当に花が映えるものなのだろうかとなる。ただそれは決まりとしてそうしているだけでありその花を別に鑑賞するというわけでもないからかもしれない。
それからカルト教団などがあってそこでもやはり花が飾ってある一見宗教団体だからそこは心の清い人たちが集まっているから花を飾るにふさわしいとなる。でも全く違っているのである。カルト教団に集まるような人はそれもやはりこの世の欲を求めて汚れた人たちがこの世の利権と権力を得るために集まっているのである。だからそこで花のことなど語る人などいない。ただ御利益と権力とやはり出世と金を求めているだけなのである

カルト宗教団体というときまた偽りの宗教団体というときそれをどうして見分けるのか。それはその中から真善美が生まれるかということである。どうしても確かに立派な会館とか宗教礼拝場とかを作る。それは確かにキリスト教ならゴシックの大聖堂のように立派なものもある。でもそもそもカルト教団から何か真善美になるものは生まれないのである。そのこと自体が何か偽りの宗教でありそういう場所では真善美よ求めていないのである。だからそういう場所から真善美なるものは生まれないのである。

その事が一番カルト教団などがまるで本来の宗教とは違った俗世よりも汚れた場所だということがわかる。普通に心の清浄を求めればばそんな場所に居られないのである。でもそういう場所に居られるということ何の違和感も感じない。そのこと自体その人は汚れに染まっていて感じなくなっている。ではむしろそういう汚れた場所だからこそどんな人でも受け入れるから住みやすいとなるのである。普通なら正常を求めるならどんな人でも入れるわけではないからである。むしろ拒否されるからである。

●真善美が生まれないのははなぜなのか

ともかく確かなことはいくら人が集まっても会堂会館を作ってもそれでそこにそれの中に集まる人が心が汚れていれば何かそこから真善美なるものも生まれないのである。そもそも東京のような文明と真善美なるものが生まれない。野に咲く花のように本来の美はそこに喪失しているのである。
だから山伏のようなものが胡散臭いとなっていても山岳を歩き六根清浄と唱えて身を清めようとしていたのはやはり本来の宗教をはそこにあったとまでなる。今のカルト宗教などにわ心を清めるなどということは一切ないからである。御利益とこの世の権力をひたすら飽くことなく求めているだけなのである。そんな場所に花が映えるのだろうかとなる。

どこでもこの世界は汚れた場所でありこの世界から離れた場所で身を清める心を清めるのは元々宗教だったとなる。とにかく仏教でもやはりそれなりの歴史があるからそこに真善美が生まれている。もちろんキリスト教でもルネッサンスのように美容¥が生まれている。イスラム教でも偶像崇拝で何か気になるものを拒否しているようだが幾何学模様を飽くことなく作りそこに美を見出していたのである。でも現在の宗教からそういうものが全く感じられなくなったのである。

そもそも東京のような大都会は何かそこから真善美が生まれるのか。なぜそんなに醜悪なものとなっているのだろうかとなる。そのこと自体がまさに野に咲く花のように飾れていないということではないか。一体人間のしてきたことは何なのかとなってしまう。そんな醜悪なものを作り神はそれを嘉するのだろうかとなる。

科学技術の時代になれば科学第一になるのそこに真善美があるとは限らない。その最たるものが原発であった。それは自然の中で住んでいた人たちが放射線物質で汚染されて住めなくなったからである。また車社会になってやはり自然でも排気ガスとか騒音で汚しているからである。ただ人間というのは意外と美というものに無関心なのである。
だからこそ東京のような醜悪な場所に1000万人も住んでいても別にそれでいいとなっている。人間はそもそもそうした美など関係なく腹を満たせばいいとも。だから人間の本来の感覚が麻痺してしまっているのである。そして人間にとって一番恐ろしいのはいろいろあるにしても一番恐ろしいのは食えなくなることとかあるがいろいろあるにしてもそういう物質的なことではなく精神的なものがある。

それは真善美が見えなくなることである

すでにだから推理ドラマでも肝心の華道の家元でも跡目争いで財産を受け継ぐために争うということ自体そういう人が花を愛でることができるのだろうか。それが根本的な疑問として自分には常にあった。私自身のテーマが花だったからそうなるのである。
何か人間はいろいろなものを求めている。何かを得たい特に金を得たいと必死になっている。でも根本的にもし心が汚れたらこの世の真善美は見えなくなる。だからこそ心の清い者は神を見るだろうと言ったキリストが言った。それだけではない心が清くなければ自然の美とかこれこの世にある美を見ることはできなくなってしまうのである。このことこそ恐ろしいことではないか。でもそのことを深刻に考える人は本当に少ない。

ただこの世の欲のために金のために出世のために何でもするあらゆる労力を惜しまないとまでなっているのでは。だからそのためにはこれのためでもこの世の栄誉栄華を得るために殺人までしているのである。それはまた小説家とか短歌を作っている人でも何か必ず賞をもらいたいとかいうのもそのためである。推理ドラマでそのために殺人まで犯してたということがある。それはあくまでもドラマにしてもそんなことまでして賞をもらってその人が果たしていいものを作れるものだろうかとなる。

何かこの世の矛盾は一番そこに現れているかもしれない。一番恐ろしいのは真善美の見えなくなることである。現実にさまざまな人の集まりがあり団体があるがそこが宗教団体でもそこから真善美は全く生まれない。そこは穢れた人たちの集まりであり偽りの団体でありだからこそ何か良きもの真善美などは生まれないのである。そのことが一番如実に語っている。だからなぜ宗教なのかとなる。最も反宗教な場所だともなるからである。ただ人が集まり大きな会館を作ったり数でもって権力を誇示して政治に関わり利権を得ようとするだけなのである



2023年12月18日

宗教の基本は偶像崇拝の禁止 【人は形あるもの神とする―youtubeではまず顔と体を見る】

宗教の基本は偶像崇拝の禁止

【人は形あるもの神とする―youtubeではまず顔と体を見る】

宗教というとき宗教の基本は何なのか。人間は何でも神にしやすい。だから原始時代でもその後もあらゆるものが神となり崇拝した。

それは彼の名前が即、神に対する反逆を表明しているからである。つまり「ニムロド」とはヘブライ語で「我等は反逆する」を意味している。狩人としての彼の行為もまた、凶暴かつ残虐的に描写されている。なかんずくバベルの塔の建造においてはその企画発案者と見なされている。彼は巨大な塔を建て、唯一の神ではなく、偶像崇拝を始めるようになる。

ミドラーシュには、バベルでの偶像崇拝を拒絶した青年時代のアブラハムを炉に投げ入れるよう命じる場面が詳述されている。この逸話は一神教徒アブラハムと偶像崇拝者ニムロドとの間に起きた神学的な闘争として、アブラハムの信仰心について語る際によく引用されている。

ダンテ・アリギエーリの『神曲』では、ニムロドは巨人の姿で登場し、地獄の第九圏において裁かれている。

宗教の基本は偶像崇拝の拒否である。とにかく人間は目に見えるもの形あるものを神として崇拝する。だからエジプトでわ巨大な神像を作りさまざまな動物の神として崇拝した。だからエジプトは偶像崇拝で満ちていたのである。それでその偶像崇拝を拒否してエジプトを脱出したのはモーゼに率いられたヘブル人だったと思う。

つまり宗教の起源は神ならざるもの神として崇拝していることである。そのことが日本などでは理解されていない。日本はだから偶像崇拝に陥り安い国だとなる。 八百万の神がいる日本だからである。聖書でも偶像崇拝との戦いでありそのために命も賭けている。偶像崇拝が極端になったのはイスラム教である。一切の形あるものをー作ることは禁止されたからである。だからモスクでわ幾何学模様の文様しかないのである。

とにかく偶像崇拝を許さない極端に恐れているのである。それはやはりイスラム教でも今日もアブラハムから出て聖書に現れた記された神よ起源としているからである。
そしてねたむ神として神は偶像を拒否して真実の神を示したのである具現したのである。それは目に見えるものではない形あるものではない。それは確かにアブラハムからヘブル人に現れたのである。

人間は偶像崇拝に陥りやすい。カルト教団でもその教祖は競争は偶像化した。池田大作であれ麻原彰晃であれ大川隆法であれ偶像化した。。何か偶像というとき常に身近にある。例えばユーチューブでは必ずその人の顔とか体を見る。するとその身体を見て顔をまず見る。それで何か体が大きいとその人は偉大なように見えてそれも偶像崇拝にもなりやすい。何かか弱小な人間は体の強い大きなものに憧れるからである。そこで偶像崇拝に陥りやすいのである。

だからテレビという媒体はその影響が大きかった。前はラジオだったがそこでアナウンサーだった人がテレビが出た時やめたのである。それはテレビだとまず顔と体が映る。だから見映えが良くないと人気にならない。言葉だけだったら音声だけだったらその人の姿を見ないからその姿や顔から判断されないからそうなったのである。ともかくユーチューブだとその人は何かを語ることよりその人の顔を見たり体をみたりするのである。そうすると顔とか体の影響が大きなものとなる。そこで偶像崇拝に陥りやすいともなる。

ともかく一方でただの人間が神ともみない。ただの同じ人間じゃないかとも見る。だから神話時代でわ巨人が神となったくてエジプトでは巨大な心臓神の像は作られた。人間のようなものは神であるということはありえないと見たからである。でも一方で依然として人間でも神となる偶像崇拝がやはりある。人間はどうしても形あるものを実在するもの現実としてみる。

でも神は見えないものであり形あるものではないのである。だから人間が人間を師とするとき確かにそこで学ぶものがあるとしてもその差があまりに大きいから神格化されやすいのである。
つまり偶像化されやすいのである。ニムロデは巨人であり最初に王となった人物である。その人がバベルの塔を計画したという。ニムロデと反逆する意味であり神に反逆するものとして記されているのである。

確かなことは人間は形あるもの神として形無いものは見えない。でも神は形のない物として現れたのが神である。形のあるものを神とした時人間は神はそれを見て人間に対して妬んだのである。だから妬む神として現れたのである。でも神が妬んだりするのかということもある。でも神といっても人間と通じるものがあるのが神なのである。だから妬むと言う時やはり神も人間的なものを持っていたのである。



2023年11月27日

遺産をめぐる争い-そこに関わる人の醜い人間模様 【カルマを受けることの怖さを知るべき―推理ドラマは現実を反映している。】


遺産をめぐる争い-そこに関わる人の醜い人間模様

【カルマを受けることの怖さを知るべき―推理ドラマは現実を反映している。】

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●交通事故で死んだ異父兄弟の賠償金のこと

昨夜の推理ドラマは遺産をめぐる争いだった。それはテーマになりやすい。大会社の社長の息子が殺される。その息子の妻になった人は別に約束した人がいたのだが財産を目当てにしてその社長の息子と結婚した。その息子は性の悪い息子であり最初から妻に暴力を振るっていた。
そして社長の息子は殺された。それを仕組んだのはその家に女中手伝いさんとしていた女性だった。その女性は実はその家の愛人の子であり認知されていなかったのである。でもそこの家で働かせられていたが財産をもらう権利はなかった。でも財産を得るために画策したのである。その女性はその家の人たちを恨んでいた。またその財産目当てに叔父がかかわり財産を得ようとしていた。他に他に関わったのが弁護士でもあった。弁護士は愛人のここである認知されていない女性の色仕掛けで財産をとるを画策したのである。そこでいろいろな人たちが他にも財産を目当てに画策したのである。

私も何かこれと同じようなことを経験した。一人は父親違いの兄が交通事故で死んだ時。その賠償金が下りるのでそこにかかわった会社に雇われた社長だった。働かせてくれと乞食のように来たから雇ってやったのだ。恩着せがましく言ってそれが何か分からなかった。

墓も作ってやるから骨は置いて行けと言われた。それも何の目的なのかもわからなかった。そもそも兄といっても私の家ではよくしていない。そこで後ろめたさがあった。ただ実の母が生きているので財産を得る権利はあった。でも実際の財産は娘がいたのでそこにほとんど与える物となっていた。しかし中学生であり子供であるから面倒なものになった。その時結婚していた妻はちょうど離婚してしまっていたのである。

だからその賠償金を受け取ることはできないものとなっていた。そして静岡県とか離れていたので事情が飲み込めなかった。そこで何か私の母が後見人のようになってしまった。でもなぜそこのトラック会社の社長はそんなに兄の骨を置いて行けとかこだわっていたのか飲み込めなかった。それで後で賠償金が欲しくてそういっでそういったのはわかった。
つまり代理人となってその賠償金を得ようとしていたのかもしれないと思う。でも法律的にはなんら権利はなかったのである。でも何か身寄りがなく相続人が居ないと思って会社社長はその代理人になろうとしていたのだということがわかった。なにか助けるにしてもトラックの運転ができるのだから雇ったのであり何か全部援助したのではないのである。

●静岡県で起きたことで事情が呑み込めなかった

とにかく遠いところで事情が飲み込めなかったのである。でも不思議なのは死ぬ前にトラック会社の仲間と私の家に来たのである。確かにそのトラック会社では仲間と一緒にそれなりに働いていて喜んでいたみたいだった。ただそのことが交通事故になり賠償金が入るということでその社長も変質したのだと思う。何も骨を置いて行けとか墓を作ってやるとかこんな面倒なことをする必要もないからである。ただ身寄りがないと思ってそうなったのだと思う。正直何が起きたのか私はわからず3日で帰ってきた。

それはなぜかというと結婚してから何が起きていたのかよく理解できないできなかったからである。それは静岡県という遠い場所であり何が起きてるのか飲み込めないことによって理解できないものとなっていたのである。ただ突然事故になったから行ったまでだったのである。その時私自信は車がもっていないので自賠責とか任意の保険金とか知らなかったのである。ともかく死んだということで母と知り合いの人と一緒に行ったのである。だからその時何が起きたのか飲み込めなかったのである

それで弁護士もかかわった。それは知り合いの人が紹介した弁護士だった。ただ相談するだけで百万も取られたのである。結果的にその弁護士は何もしなかった。その弁護士は仙台に住んでいる弁護士だった。知り合いの人はこの人も何か社会のことでも知らない病気を持っていた障害者のような人だった。だから相談するだけで百万もとられたのである。別にそんな金を払う必要もなかったのである。何かこうして弁護士というのも遺産相続とかに関わりただ何もしないでもお金をもらうということがある。だからこのドラマでも弁護士もそういう役回りだったのである。

●私自身の介護と遺産相続で起きたこと

このドラマが何か架空のものではなく現実に起きているからこそただ空想的なものとして見ている見るということではなくなる
現実にそういうことが人間社会には起きてくる。ドラマでも現実を反映したものでありそれは全て架空のことはならない
推理ドラマでわ遺産相続はテーマになることが多い。今度は私自身の家でやはり遺産相続があり問題が起きた。それは私自身が遺産の相続者となっていたからである。でもその時私自身は親の遺産がいくらあるとかわからなかった。死んでみてわかったことであり相続する人は私一人だった。でも兄と同じようにその金を目当てに寄ってくる人がいたのである。現実にたまたま手伝ってくれた人がその犯人だったのである。その人と親しいという人でもなかったからである。

たまたま急に私の家族が病気になりその人がいて私自身も病気になり入院した時その人が私の親を見るようになったからである。確かに親戚の人はいたかこの人も事業で失敗して借金していた。だから高価な機械を買ってくれとか言われたりしたので自分自身は嫌だから頼まなかった。その人は人の世話をするという余裕もない。借金した人はもう人を助けるなどできないのである。だから入院してもその人に頼まなかったのである。でも結果的にはこれまで関係もない人にその遺産の一部は盗られた。

ここで銀行もかかわる。なぜなら銀行は遺産相続で意外と重要な役割を持っている。銀行が書類をそろえて許可しないと遺産相続になったとき下ろせないのである。何か銀行は何なのか何の役割があるのか今はわからない、金を預けても利子もつかない、そして投資信託など売りつける。というのは銀行ではいくら貯金しているかわかっているからである。

それで今や証券会社になったのか、現実に必ず証券会社の人を連れてくるからである。そして転売して手数料をとるのである。ただすべてが悪いというのではなくインデックス投資なら別に安い時買って高い時売ればいいのだからわかりやすいのである。投資信託はわかりにくいのである。その株も勝手に売られた。その時の事情があっても説明もなく勝手に売ったのである。
今株を持っていたら倍にもなっていたのである。ただ投資はリスクがあるから全部銀行の責任とはならない、自己責任が必ずある。でもそれ以来銀行もやはり遺産相続であれ金を奪いに来るもので何か金に群がるハエエナの一人のようにも思えた。それも利子がつけられなくなったことで銀行も証券会社にもなったとなるから信用できなくなったのである。
ただ銀行とは国とも関係している。なぜなら金利とかも国で決めて銀行に反映するし預金封鎖も国で銀行に命令できるからである。銀行にはやはり国が操作するためにあるのかともなる。


●家の持っているカルマを知るべき

だからこうして私の経験とこの推理ドラマは似ていたのである。殺人事件にはならないにしても遺産をめぐてかかわった人たちが似ていたのである。ただそこでその社長の息子が死んでも誰もその息子を悲しむ人は一人もいなかったのである。
ただ心配してたのはみんなその相続する大きな遺産であり金の事だったのである。その息子自体がまともな人ではないからそういうこともあった。それよりもその金に群がる人たちがいたということである。人間はいかにこうして欲がありそのために醜い争いが起きるのである。ただその家でもその親でも愛人の子に対して冷たく認知しないということで恨みを買ったのである。だから家というのは必ず何らかのカルマを持っている。それが必ずどこかで現れ誰かが苦しむ醜い争いともなってくる。

だから必ずしも金持ちの家がいいともならない。そこにはどんなカルマがあるかも分からないからである。すると金持ちの人とて結婚してもその家のカルマを受けることになり苦しむことになる。だからその家のカルマを知ることが必要なのだがなかなかわかりにくい。ただら結婚するということも危険な場合がある。だから昔から結婚は家と家の結婚であり個人同士の結婚ではなかったのである。それはそれぞれの家にカルマがあり結婚すれば必ずその家のカルマを受けることになるからである。ただすべてがその家が悪いカルマだけだとはならない。でも金持ちだからといって結婚すればそこに悪いカルマ受けるということもある。

ともかく人間は何らかカルマを背負っている。そのカルマは一代では消えない次の代の人がそのカルマを受けて苦しむ。特に長男長女はその家のカルマを受け継ぐのである。それはいい面でも受け継ぐのだが必ず悪い面でも受け継ぐことになるから怖いのであるある。私の場合はなんとかそのカルマを受け継いだ悪いカルマでも受け継いだのだが苦しんで何とか解消したようには思える。でもその苦しみは並大抵のものではなかった。そこで人間不信に陥ったのである。

そもそも家のカルマというとき聖書でもカインとアベルの兄弟がいて殺人もそこで行われたからそのカルマは今でも人間のカルマとして続いているのである。兄弟間でも遺産相続で殺人でも起きている。アブラハムは正妻ではなくただ子が欲しくて奴隷に産ませた子供はイシュマイルでありそれがアラブ人の祖先だったということは現在までの何千年後までもそのカルマが消えず今もアラブ人とユダヤ人が争っているのかとまでなる。そこに何か根深い解消できない人間のカルマがあったとなる。

そして金は金であればなんでもいい使っても何も問題がないとはならない、もしそれが誰かを殺して得たものでありそれを使ったらその金が呪いとなる、つまり血塗られた金であるからある。だから一攫千金とか何か拾った大きな金などでもその金の素性がわからないから危険だとなる。そういう金はカルト教団に集まる金にもあった。それで金を奪われたとして統一教会とかと関係した安倍首相が暗殺された。だから宗教団体に莫大な金が集まるとしてそれも危険な金となる。その莫大な金を利用したい得たいということで人も寄ってくるしそれで遺産争いにもなる。もし粗末な家一軒しか残さなければ誰も寄って来ないとなるからだ。
いずれにしろ金をめぐって起きる事件はは尽きない、このカルマも世の終わりまで続くとなる。

2023年11月10日

社会的死の考察【失われた人間の存在意義】 【村でご先祖様となった社会との比較】

社会的死の考察【失われた人間の存在意義】

【村でご先祖様となった社会との比較】

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無数のマス目があり一つが消えても意識されない

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村の中で一人の人間は死ねば意識される、密接に村は一体化していたから

●村で働き死んだ者は御先祖様になる意味ーworkの意味

人間の死を考えるとき一つは生物的死がある。それは社会とは関係ない。誰しも生物であれば死ぬことは避けられないからである。その解決は社会ではできない。それは神との関係でしか解決できない。ここで問題にするのは社会的死である。
人間は社会の中で仲間の中で生きている。その最小限の単位が家族である。だから家族の中で人が死ぬと家族が最も悲しみ死んだ後でも供養する。 でももう一つ人は社会の中で生きているのだから社会的死というのがある。
例えば村という社会のなかで生きていれば人は死ぬと御先祖様になるという。そのご先祖様は山に行って春になると田植えの時期になると里にに下ってきて村人と一緒に田植えをするという田植えを手伝うという。それは何を意味しているのか。それは死んだ後でも村人と一緒に働いているということである。

英語のワークにはただ仕事をするという働くという意味だけではない。
「働く」や「機能する」から派生した表現で “work” は、
効果がある(薬やサプリなどが)効く

(機械やシステムが)機能する、動かない

workには何か様々な意味がある。作品という意味もある。機能するというとき社会に機能するということであり社会の中で働いていればその人は社会に機能する存在なのである。それで街に一軒しかなくなった自転車屋のことを死んだので語った。それは街の中で一軒しかないから貴重なものとなっていたのである。
つまり自転車を故障してもなおしてくれる人がいなくなったからである。だからこそ死んでその人が居なくなったことで社会が機能しなくなったともなる。その人は社会にとって不可欠なものだったことを認識したのである。

人は村社会で見れば村の中で共に働く仲間でありその一人でもかければ必ず意識したろう。そしてなぜ死んだら村のご先祖様になったのかということである。その人は死んでもやはりみんなが意識して村人が意識して存在していたのである。そして肝心なことは春になると山から降りてきて村人と一緒に田植えをする。それは村人と一緒にワークする働き機能するということである。
つまり人間は働くということはただ金を得るというだけではなかった。働くことは村人と一緒にあり村を支え合うものでありだからこそ死んでもまたご先祖様となり田植えの時期にわは緒に働いていたのである。ワークしていたのである。

●無数のパーツとなり存在意義が失われた

このことを考えると現在はどうなっているの現代の社会はどうなっているのか。無数のパーツに分かれて人は何をして働いているのかも見えない一人の人間が死んで消えたとしてもほとんど意識もしない。現実に小さな町であってもスーパーであれコンビニであれそこで働く人が変わってもまた死んだとしてもほとんど意識しないだろう。それよりそれは誰でも変わってやれるものであり極端になるとロボットにもなる。

現実に人間ではなく店も無人化してロボットがするようになる。それはすでに現実化しているところがある。ましてや都会になればさらに働いている人が何であれその人を意識するということはない。つまり今や無数のパーツとなってそれが一つ欠けからといって何か意識することもない。またそこを別なもの人でロボットでも埋め合わせすればいいとなっている。

とにかく働くということがただ金を稼ぐだけでありその価値とか意味を見い出せないのが現代なのである。だから一人の人間が死んだとしてもほとんど意識されない。ただなぜ自転車屋の人が死んでそれが死後も意識されたのか?。それは自転車屋が駅の前にあり駅と一体化していたためだった。なぜなら街の活性化のために駅を活性化するにはどうするかとか語ったことがあるからである。

だから不思議なことは電車に乗って無人駅になった駅に降りるとその前に自転車屋は今は閉じている。でもそこに仕事をしていた星淳一氏が迎えに来ているような感覚になったのである。なぜそうなったのかというと駅の前で長く自転車屋をしていて駅と一体化していたのである。それで死んでも自転車屋が星淳一氏が1迎えに来ているような感覚になったのである。つまり依然として街の中でワークして働いて機能していたとなる。
その自転車屋が記憶されたのはやはり個人ではなく社会の中で機能していたからだとなるワークしていたからだとなる

●文明社会で人間の繋がりがなくナチスやらカルト教団が生まれた

でも現代社会は無数のパーツになり個々の存在は希薄化して社会的死でも意識されない。ただ一つの部品が消えたというだけになってしまっている。それだけ存在感がなくなったのは現代社会だと思う。なぜなら人間の存在意義も希薄化してただ機械の部品のようになってしまったのである。
ただそのことからなぜナチスが生まれたりカルト教団が生まれたりしたのか。それはこうした現代社会の無数に部品化した人の集まりから何か一つの人間としてのつながりを求めて生まれたものかもしれない。

現代社会は大衆化社会でありそこに人のつながりはない。人間は本質的に人間のつながりを求める。だからこそ家族が不可欠になっているのである。でも社会では今やそうした繋がりを得ることはできない。それで擬似的つながりとしてカルト教団が興隆した原因である。それは本来の宗教とは何の関係もない。なぜなら欲望を抑えろとかそんなことを心を清めるとかそんなことは一切言わないからである。
ただ一票を集めるためにただ人を会員を増やすことを目的としてありあとは何も言わない。宗教だったらいろいろ制限がされるカルト教団にはそんなもの一切無いのである。ただ数が増えればいいだけだからである。それもやはり現代の抱えた現代の文明が生んだ病理的現象だったのである。

そして村社会など閉鎖された遅れた社会であり自由もなく逆らう者は村八分にされるという何か村というのは否定的なものとして見られたのである。
でも現在の比較でみるとそういう社会が現在より人の濃厚なつながりがありそれが自然とも通じていて死んでもご先祖様として意識される。すると村の中でやはり人間としての存在感があり生きる意味があったと思う。

ただそんな村社会など遅れた社会であり常に否定されるだけになったのである。でも本当にこの文明社会というのは人間にとって人間らしく生きられる社会とかとなればそうでもないのである。文明そのものが病んでいるからこそナチスとかが生まれたのである。人間は無数のパーツアトム化して人間社会的にその存在も機械の部品に過ぎず一人が死んでも歯車が一つ消えたというだけになってしまう。それでいまや人間の死というのは何か価値あるものでもないし社会にとっても意識されないのでまたそこに存在意義がない。ただの部品が消えただけだどうなっている。だから人間とはそんなものなのかとなるとあまりにもわびしいとなる。

●村社会と文明社会の相違―村社会は遅れていたのか?

だから奇妙なのは今山村などは限界集落化してそんなところに住むべきではないとしているが価値生きる価値とか意味を追求していけばそうはならない。人間の存在は意味は返って大きなものとなる巨大な機械の一部品でありそれが死んで消失しても誰も意識などしないのである。人間の意味とか価値を追求していけばでも山村でもそっちの方があるとなる。そこに逆説的なものがある。
つまり現代文明人が得たものは失われたものは昔の村にあったということである。それは今と昔を比較して理解できるのである。

だから歴史を知るということはそこに意味がある現代の矛盾とか問題を知りは過去はどうであったかということ知り比較すると明確になってくるのである。確かに物質的には現在は豊かになっても精神的には貧しいと自覚されるのである。
とにかく人間とは何かを得るものがあれば必ず何かを失っているのである。その失ったものがなかなか自覚できないのである。それは人の繋がりとか人間の生きる意味とか価値が失われてしまったということだから深刻なものでもある。でも日々の生活に追われて金に追われてそんなことを考える人は特殊な人だとなってしまう。

それで特別優れた天才などはアウトサイダーになった。ニーチェとか上野霄里(うえのしょうり )とかまたシュペングラーにしても西欧文明の没落数の面から指摘したのもまさに大衆化とは数の文明であり一人一人は数に過ぎないとなるからである。
そこに一人一人の存在意義などないのである。ただ票が集まると権力化してそれが社会に通用するとなる。一人一人の一票の中身などどうでもいいのである。いちいちその一人どうだとか心がどうだとか言っていたら票など集まらないからである。だから現在というのはナチスとかファシズムとかの危険が常にある。それは一人一人の存在意義が失われているからである。

それで村社会など遅れたものであり考察にも値しないとなるが精神的な面からすればそうでもなかったとなる。なぜなら現代では老人等尊敬する人は居ない。あまりにも数が多すぎてただ社会の負担とされているだけだからである。
でも村社会の中で死んだら御先祖様となるということはその村の中で尊敬されてそれも死後も生きつづける。そしたら人間の存在意義とかから見れば遅れたと言われる村社会の方が生きる存在意義があったとまでなるのである。
ただ物質的な面とか便利さを追求すれば現代社会は便利である。
でも老人は敬われないし長生きしてもいいことはないといくら医療が発達して長生きしても老人は幸福にはなれないのである。だから歴史を振り返り過去過去と比べると何が失われて確かに物質的には得るものがあったか失われたものもあったということである。それが今問題になっているのである。物質的には満たされている。

田舎ではみんな車一人一台もやはり持っている。パソコンだって今は6万くらいでいいものが買える。何かこれこれが欲しいというか買いたい物も無いのである。そして今人々が求めてるのはそういう物質的なものではなく老人として敬われたいとか価値あるものとされたいとか存在意義を持ちたいとかなっているのである。それを追求すると逆説的だけど村社会にあったなる。だから必ず人間社会は得るものがあれば失われるものがあるということである