2022年04月16日

寒さがもどったけどまたあたたかくなるから耐えられる (希望無くして生きられない人間)


寒さがもどったけどまたあたたかくなるから耐えられる

(希望無くして生きられない人間)

この二日間寒い、冬にもどった、今年は寒さがつづいているのか?
でもに三日前は暑かった、灯油を買おうとしたが二日くらいならがまんできると思い
買わなかった、でも寒い、私の家は旧式の家だから隙間風が入ってきて寒いのである
老人になると寒いとか暑いのに弱くなる、私はもともと寒さにも暑さにも弱い

でもなぜ灯油を買わなかったのか?
それはもう一日くらい待てばあたたかくなる、天気予報でそうなっているからだ
そうなると二日くらいならがまんしようとなる
つまりがまんするのはわずかの時間であると思うからがまんできる

冬があるとしてそれなりに長いとしても必ず春が来るから冬を耐えてゆこうとする
もし春が来ないとしたらもう耐えられないのである
絶望しかなくなる、これは経済でも言える、日本は貧困化している、ますます貧困化して食糧さえたりなくなり奪い合いになり飢饉にもなるとかになる心配ばかりしていたら
生きる気力もなくなる

今日は悪くても明日は良くなる

こうならないと生きる希望もなくなる、ウクライナのように戦争で苦しんでいると必ず戦争が終わるということを必死に願うようになる、今は苦しくても戦争は終わる
その終わることを必死に願うようになる
戦争はいづれ終わることは確かだからである、戦争はやはり長くても二三年で終わる
でもアフガニスタンとかテロとかなるとなかなか終わらなかった
そこで住んでいた少女が戦争がないことがどれだけか幸せかと言っていたことがわかる

ともかく人間から希望がなくなったら生きることはできない
これからも寒い日がつづき暖かくならないとしたら絶望だとなる
そうなると働く意欲もでてこない、いくら働いても暮らしが良くならない
給料も上がらない、暮らしは悪くなるだけだとなれば働く意欲もなくなる
人間はやはり今日よりは明日が良くなるということが生きる力となる

なぜ今世相が暗いかというと悪いことしかイメージできないからである
経済はますます悪くなるとか貯金していても預金封鎖されるとか賃金は上がらず物価だけが高くなってくるとかいいことを言う人がいないのである
それは現実がそうなっているのだからしかたないとなる
人間はそうなると消費もしいなのである、そしてますます暗くなり景気も悪くなる
景気は気であり気分だとするときその気が悪くなっているから全体的に暗くなっているのである、景気も良くならないとなる、つまり気分の影響で景気も良くならないとなる

宗教の必要性は来世があり天国があり死んでもそこに行けるということが希望になる
なぜ宗教が過去でもこれほど頼る人が増えたのか?それは希望をもちたい、題目でも念仏でも唱えていれば来世では極楽に行けるとなっていたからだ
どん底でもそれが希望になっていたのである、病気でも治るとなれば一心に祈るとなる
要するに医療すらない時代にはそうして祈るしかなかったのである
だから会津の方でも病気が治るということで仏教が普及したのである
山伏がいたのも山で薬草をとり病気治療していた、加持祈祷がまた仕事だったのである
医者代わりだったのである

要するに人間は死んだら終わりで何もなくなるとなればもう希望はないのである
人間は死んでも終わらない、天国に行きそこでこそ本当の生が始まるとなることを信じれば希望となりこの世の辛いことに耐えられるとなる
人間はそもそも希望をとったら生きられないのである

「パンドラの箱」の中身は「災い」です。病気、憎悪、犯罪、争いなど、人のさまざまな悪行を指します。また怒りや悲しみ、苦しみといった人にとってのネガティブな感情も災いのひとつとして数えられます。

最後に「希望」が残されたのです

様々な災いがありでも希望が最後に残されたのである、この世には様々な災いが災難があるが希望があれば生きられる
悪いことばかり言われるが実際の生活ではいろいろ改良されているのである
道は良くなり様々なものが快適になっている、それは常に改良をつづけているからである悪い事ばかり言うが人間は毎日それぞれの場で働いていて改善改良しているのだから
良くなっているのである
あらゆる分野で毎日改良がつづけられているからだ、機械でもより使いやすいように工夫改良が続けられている
だからコンピュターでもインタ−ネットでもそうだがそこで学ぶ機会が増大したのである本ならどんな本でも田舎でも通販でボタン一つ押せば買えるのである
すると田舎でも独学してでも相当なレベルの知識を持つことができる
学校教育ではとても教育としてはたりないからだ、するとこれからもしかしたら日本から少数精鋭となり天才とか生まれてくるかもしれない、天才でもそもそもそういう人を産む環境がないと生まれないからである

人間はそもそもどこかで希望を見出さないと生きていけない、何するにしてもそうであるだからそもそも経済でも今日より明日が良くなるという希望がないと成り立たない
ただ金は紙切れになるとか預金封鎖があるとか恐慌になるとか食糧もなくなるとかなんとかそんな暗い事ばかり言っていたらみんな落ち込むだけでますます景気が悪くなる
そうあっても何か希望を見出してゆかねば生きていけないのである

種をまいてそれが育ち果実となるからこそ働くのである、どうせ種をまいても育たない
天候が悪いとか自然災害がきて無駄になるとか思っていたらそもそも何もできない
食料すら作ることがてきないとなる
何か現代はまさに種をまいても育たない無駄だという感覚になっているのである
でも実際はあるゆる方面で改良は改善はしているのである
ただ日本に欠けているものは何か新しい物を発明できないことである
新しい物を作りだせないことが問題なのである

人間は過去をみればもっと悪い条件の中でも生きてきた、そして改良改善してきた
何か希望となるものを見出してきたのである、常に暗黒があったがやはり希望を見出して今日が築かれて来たのである
だからなぜ未来が暗黒ばかり語られるのか?それが異常なほどそうなのである
暗い未来しか見えないのである
種をまき肥料をやりそれが育ち果実となる、そう思って働く、現実にみんなそう思って働いている、でも暗い未来しか見えない、暗黒の未来のみがあるようになっている
それがおかしいとなる、もちろん常に暗黒はある、冬の時期はある
でも必ず春が来るから耐えられるのである

明日に向かって希望の太陽は輝く
その輝きは衰えることがない
神は人間から希望を奪わない
来世の天国も約束されている
汝はその場その場で希望を見いだせ
そして勤めて希望を見いだせ

ともかく人間の苦しみは永遠にはつづかない、いつかは終わる、それを介護で感じた
介護の期間は平均的に長い、5年が平均としても十年とかにもなる
だから早く死んでくれともなる、でもいつまでも続かないのである
人間の苦しみは何であれいつかは終わる、冬はいつまでもつづかないいつかは終わり春が来るのである
だから神を待ち望めとなる、神は架空のものではなく実存するものであり約束を果たすしうるものだからである、万能の神だからである
要するに希望なくして人間は生きられないのである

orengelily1111.jpg

我が室にオレンジリリーの一輪の咲きまた一輪咲きぬ希望なるかな

一輪オレンジリリーが咲いたそしてまた一輪咲いた、今は三輪咲いている
つまり希望とはこうして花が咲いてゆくことなのである
この世に花が咲き満ちる、暗黒ばかり語っていたらきりがないしかえってそのために景気が気が悪くなってくるのである、今は本当に経済的にも悪い気におおわれている
でも何かしらそれぞれの場で希望を見出さねば生きていけないのである
なも実際はそれぞれの場で改良改善が続けられているから良くなっているのである
パソコンでも安くてもいいものになっている、機械でも良くなっている、安く買えている20年前とかは40万くらいしていた、それも今のパソコンとは違っていて普通の人はマニアでないと使いないものだったのである
人間はともかくどちらかというと悪いことを見る、マスコミとかでも悪い予想を言う
視聴率を稼ぐために悪いことを言うのである、もちろん悪いこともありうる
でもそればかり言っていたら人間は生きていけないとなる
悪いことがあってもいいことがあるということも言わないとバランスがとれないのである


スマホで写真をとると花の名前とか関連したものがててくる
オレンジリーリーという名前の花だった
こういうふうにいろいろなものが学べるのである

2022年04月05日

空間軸と時間軸でみる世界 (時間軸で見た世界は常なき世界、無常迅速である)


空間軸と時間軸でみる世界

(時間軸で見た世界は常なき世界、無常迅速である)

人間は個々人であれ世界であれ空間軸と時間軸で考えるのが基本にある
空間的に地理的にどういう位置にあるかだ致命的に運命的になる
それはもう何億年でも変わらないからである
地理的宿命があるからだ、それで天の時、地の利、人の和が問題になる
ウクライナ戦争でもそうである、ヨ−ロッパとNATOとロシアの狭間で戦争が繰り返されて来たのは地理的宿命から逃れられないからである
その空間的地理的なことは地図を見ただけである程度直感的にわかる
でも時間軸で形成されたものを見るのが至難になる

だからウクライナのことでもロシアのことでもわかりにくくなる
ソビエト連邦がありそれが崩壊したのは20年前くらいだったが忘れていた
時間軸で起きることは忘れやすいのである、個々人でも数十年前にあったことを忘れる
なぜなら次々に新しい事が起り過去は忘れられてゆくからだ
家族として親密にして60年一緒に暮らしていても死ぬと何かあいまいなものとなり
遠い過去になってしまうのである

だから歴史という時、地歴になるのだが歴を時間軸で起きていることがわかりにくいのである、不思議なのは江戸時代の年号をみると元禄だとか安政だとか天明とかあっても
その時代に何が起きたのか時系列で起きたことを理解するのがむずかしいのである
そもそも年号でもその時代順序でもわからなくなる、安政が先のなのか天明が後なのかもわからなくなる、時代順序で理解できなくなる
でも明治時代があり大正時代があり戦前の昭和があり戦後の唱和がある
でもこれは私の父親が明治生まれだし母親も大正生れだから順序を逆にすることはない
祖父母辺りまでは時代の順序を間違わないのである
それで人間は具体的に時間軸で実感するのは祖父母までだとなる

例えばエジプトの歴史が時間軸で三千年あるとしてその三千年を時間軸で時代順で理解することは不可能に近い、三千年となればもう日本の歴史は2000年だとしてそれより長いからだ、それを時間軸で理解することはもうできないのである
でも空間軸で理解することは今でもできる、現実にエジプトに行ったしそこでピラミッドが残っていてそれを見たり遺跡は見ることができるのである
空間軸は変化していない、時間軸は常に変化してしいる、その時間軸で変化することか
無常だとなる、常になき社会であり人間なのである

70才でもなってみると本当に不思議な感覚になる、人の出合いにしても本当に一瞬なのである、そして永遠にこの世では合わなくなる、それは60年一緒にいた家族ですらもう死んだら永遠に逢わないのである、そうして人の出合いは余りにもはかないとなる
それで最後にはさよならだけが人生だとなる
何か駅で外から来た人と出会った、それは束の間だった、何か話すこともなかった
その人は若い女性である、でももうその人とは永遠に逢わないのである
それはどこでも起きていることなのだ、いろいろな人と合ったとしても束の間であり
あとは永遠に逢わなとなってしまう
あいつと逢ったな別れたな、あとは永遠に逢わないな、あの人は何であったかのとなる

ともかくエジプトであれそこに今でも行くことはできる、そこで起きたことを時間軸で理解することはむずかしい、ただピラミッドが今でもあるからそれはエジプト文明の集約として残っていることでその文明を感じるのである
もし何もなかったらただ砂漠だけだったら何も感じない
ただ何もない砂漠で砂塵の中に埋もれて何もなくただ風が唸っているだけだとなる
その存在すらわからなくなる
空間は地理は変化しない、でも時間軸で見る時人間世界は常に変化であり人の出合いでも一瞬でありいくら栄華を誇った文明でも帝国でも遠い過去になってしまう
つまり時間軸で見た世界は無常なのである、常なき世界である、その無常に抗して何かピラミッドは三千年後でも存在しているとなる

人間世界はこうして時間軸で見れば絶え間なく変化している、今日ある人は明日はいないとまでなる、隣の人と庭でちょっと話していたがあっという間に死んでいた
そこにいたのに消失した、そして永遠に逢わないのである、そういうことは老人になれば当たり前のことである、次々に知っている人が死んでゆくのである
そして永遠に逢わないのである、まさに無常の世界である

桜が咲くにしても華やかなのは一時でありたちまち散ってゆく、それも無常である
この世に永続するものはない、それが無常である


ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわに(※1)ぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、(※2)いづかたへか去る。また知らず
(方丈記ー鴨長明)


本当に老人になるとこれは当たり前の実感になる、それは別に優れた人と哲学者とかなくてもその現実がありありと実感するからである

所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり

せいぜい人間が出合ったとしても記憶しているのは一人二人くらいになる
みんなうたかたの泡のように消えてゆくだけである
この世とはそういう場所であり時間軸で見たら人間が生きるのは一瞬であり出合うも一瞬でありあとは二度と逢わないのである、それが無常なのである
だからこそ永遠の命を求める、この世とは違う永遠の世界を求める
そこで老いることはない、みんな若いという、病気になる人もいない、愛別離苦の世界もない、時間は有限ではない、無限であり空間に制約されることもない、空間はどうしても人間を制約する、時間でも制約する、そういう制約から超越することを望むのである

その女(ひと)と一時逢うも去りゆきぬ永遠(とわ)の別れや春になるとも

これは恋の歌とかなるがそんなものは自分にはない、若い人はこの無常がわからない
老人は別にみんな普通に感じている、知っている人でもみんな死んでゆくから必然的にそうなる、若い人はそれを実感しにくい、人生とは永遠につづく、人の出合いでもそれは一瞬だったなと思わないのである
でも最も華やかな青春でもそれもうたかたの泡のように消える
歓楽に費やしてもそれも一瞬のことだともなる、、はかない虚しいものとして消える
ただ人間はそうしてカルマを繰り返しているだけだとなる

生死事大 光陰可惜 無常迅速 時不待人

本当に無常迅速なのである、それで若きうちに神を知れとなった、瞬く間に時間は過ぎる飲めや歌いやしているうちにあっという間に過ぎる
若い時はいろいろなものに魅せられて過ぎてしまう、恋だなんだかんだと魅せられてあっという間に過ぎてしまうのである
でも若い時はそう感じないのである、だから老人から若い人を見ると全く違った感想を持つ、また若い人から老人を見る時も老人になることがないと見ているのである
でも必ず若い時はたちまち過ぎて老人になっているのである
40才になるとう白髪になり 老人の入り口になっているからだ



2022年03月06日

人間は結婚でも子育てもすべきときしないとあとはできない (チャンスを逃し、時間を無駄にするのが人間の一生)


人間は結婚でも子育てもすべきときしないとあとはできない

(チャンスを逃し、時間を無駄にするのが人間の一生)

婚期を逃す
子供持つ時期を逃す
学ぶ時期を逃す
スキルを身につける時期を逃す
相手を知る時期を逃す
愛することを逃す
冒険する時を逃す
チャンスを逃す
.........

韓国で結婚しても子供作らないとか結婚しない人が増えて出生率が世界で一番低い、韓国人がいなくなると将来を心配する、それは日本と同じだった
なぜ子供もたないのか?それは子供を育てることが負担なのである
金銭的にも苦しくなっている人が多いし仕事をしているキャリアウーマンは仕事が出産で仕事が中断されるとブランクができて仕事ができなくなると言っていた

人生の大きな落とし穴は何かするチャンスを必ず逃している
そしてそのチャンスを活かさないともうあとは二度と活かすことができない
それでみんな老人になって後悔するのである
まず後悔しない人はいない、私に後悔がないと言っても実際は後悔している
あの時こうれば良かったとかみんな後悔するのである

将来自分がどういう人間になりたいのか?

それが自分自身にもわからないのである、家具職人になるために丁稚奉公して技術を習得している10代の若者のことを放送していた、それが辛いと泣いていた
ではその家具職人でもそれが将来役立つかとなると今は機械化してAI化するからその家具職人として生きていけるのかとなるとわからない
ただ手でしかできないものがあり丸味も帯びた所は手でないとできないとしている
でも将来的にそうした職業でも生き残れるのかとなるとわからない、やめた人もいる
私は子供の時、ソロバンが得意であった、でもそれが何の役にもたたなかった

全くこれは時間の無駄だったのである、それは私の父親が酒屋の丁稚奉公をしていて
ソロバンを習わせたのである、その後計算はコンピュター化してソロバンは無用化したのである、こういう変化が常にあり若い時習ったことが将来役にたつかどうかわからないのである、もし役にたたなっかたら貴重な若い時の時間を無駄にしたとなる
その方が後悔することになる、ただ家具職人として役にたたなくてもそうした経験は貴重である、なぜなら人生は短い、何であれ経験することは貴重なのである
人間は経験することでも学ぶことでも限られているからである
たちまち時間が過ぎてしまうのである
人間はいくら本を読んでもわからないことがある、経験しないとわからないことがある
だから経験することはなんでも貴重だとなる

とにかく女性でも婚期を逃すなと親がうるさく言う時、女性の華やかな旬の時は短い
すぐに女性でも30過ぎるとおばさんとかなり子供すら産めなくなるのである
それも本当に早いから婚期をうるさく言うのである
男性でも実際婚期があり40になったらもう結婚もできずる一生独身だとなる
それが自分自身でもあった、ただ結婚とか子育てとかは本当に負担である
戦前なら子供をとう思って育てたかというと親に尽くさせるために子供を産んでいたのである、今後進国の人が日本で働いているのは親に仕送りしている
親に尽くこせるために子供を産んでいたのである、今は全然違っている
一人の子供を産み育てることが金銭的に時間的にも労力でも相当な負担になっている
すると本来するべきものができなくなる、仕事していても出産で中断して仕事もできなくなるとかなる、これも人生にとって痛手なのである

人間というのは本当に老人になればわかる、こんなに時間が早く過ぎるのかということに驚くのである、20代の盛りはあっというまに過ぎて30過ぎて40になると白髪でてきておっさんと呼ばれるようになる、そして何かをすることを何でも逃したことに気づく菜のである
求道でも「若き内神を知れ」てあり若いうち求道しないものは老人になってはできない
老人になれば仏教でいう悟りのような境地にはなる、でも神を知ることはできない
それは最もは血気盛んな時にするものであり老人になってはできなくなっているのだ
でも若いうちこの世のものに魅了される、女性でもなんであれ魅了される
そうして夢中になっているうちに時間でもたちまちすぎてしまうのである

結局人間の失敗と後悔は時間を無駄にした

このことに尽きる、何か有意義なことをすべきなのにそのチャンスを活かせなかった
時間を使いなかったということである
自分の家族も全部死んで後悔する、もっと優しくすれば愛すれば良かったとかにもなる
家族にすべきことしなかったことを後悔する、でも死んだらもう何もできないとなる
供養ししても返事も返ってこないのである
だから介護でも苦しいが終わり死ぬとみんなもっと優しくしていれば良かったと後悔しているのである
こうして後悔が人生なりともなっている
いかに時間を有効に活用しなかったかを後悔する、またチャンスを活かせなかったを後悔する、何かチャンスも何回もないのである、一回のチャンスで人生が決まることすらあるそして一回の失敗でもあとは成功もないということもある
なぜなら何回も挑戦して時間をかけてすることができない、時間がそんなに与えられていないからなのだ

芸術家の8割が独身だというときもし結婚して子育てしてとかなったらとても創作に時間を使いなくなる、その負担が大きすぎるのである、自分の場合たいして才能もないのに
俳句とか短歌とか詩を創りつづけてきた、それは自由な時間を与えられてできたことである、もし結婚して働いて子育てしてとかしたらできないのである
人間は何か身につけるのに必ず時間がかかるのである
花を知るのにも必ずフラワーアレンジメントでも家の中に一週間でも二週間でもさらに長く毎日見ているとその花が心に深く映ってくるのである
とても一日では花でも深く見れないのである

人間の愛と信頼関係でも時間をかかる、即席に相手を信頼できない、家族でも長い間一緒に暮らすことで愛とか信頼関係が生まれる
一緒に暮らさなければ兄弟だろうが姉妹だろうが愛情とか生れない、それで兄弟でも遺産相続では他人でしかたないから殺したりする、それは別に血縁でもありうるがもう一緒に育たなかったら兄弟という感覚はない、私の兄は子供の時5年間は一緒に暮らしたから
辛うじて兄という感覚をもったから今は死んでも供養しているとなる

結局人間は何に時間を費やしたかで決まる、その人を見る場合、この人は何に時間を費やした人なのかを見ればわかる、それが人生だったからである
会社勤めの人は人生の大半を過ごしたのだから会社人生でありそれが人生だったとなる
社畜としてもそれが人生だったとなのである、そもそも才能だってそれを伸ばすには時間がかかるのである、学ぶのにも失敗しているのは効率的に学べない、学ぶ方法が間違っていたとなる、そして時代時代で学ぶことも方法も違っている、今なら学ぶ方法が多様である、youtubeなどは学ぶのにはいいツールである、前なら学校しか学ぶ環境がなかったからである、だから将来的には別に学校に行かなくても学べる環境ができる
するとそこから天才のような人が生れるかもしれない、興味のあることを子供の時育てればそうなる、学校は一律的であり多様な人を育てることがてきないからだ

人間が時間の無駄が多いというとき人間はまた浪費が多い、何かを身につけるには精進が必要である、天才でない限り必ず必要である、芸術にしても何か創作するにしても心の節制が必要である、座禅なんか無駄ではないかとなるが口をつつしむとか心を浄化するとかで心を重点にして修行する、すると心が澄んで透明な水のようになり花でも自然の美を心に映すことになる、でも汚れた世界にいれば汚れた人と交われば心も濁るのである
まずそうした汚れた俗世間に交わると汚れていることは普通だとなってしまう
それでカルト教団などはそこは何ら宗教などない、心がどうだとかそんなことを全く問題にしていない、会員を増やして権力化することしかない、そこにどんな人でも欲深い人でも歓迎される、心を浄化するなど関係ない、ただ御利益求めているから膨大な有象無象の人間が集まる大衆化したものとなる

人間はまた若い時かここうして無駄なことに時間を使いすぎるのである、そして最後はすべて空の空なりで終わる、何で生きたかもわからなくなる
そうして繰り返されてきたのが人間だとなる、そうした業とか欲とか依然として消えないからそうなる、人間社会が変わらないのはそのためなのである
科学技術て進歩しても人間そのものは根本的には変わらないから業をカルマを繰り返すのである

2022年02月22日

これから社会的にも引きこもりの時代になるのか (家族環境の影響が大きすぎるーそして人生を後悔する)


これから社会的にも引きこもりの時代になるのか

(家族環境の影響が大きすぎるーそして人生を後悔する)


一橋大学を卒業後、40年ほど「引きこもり」…当事者が激白 “毒母”が生み出す「高齢引きこもり問題」
自分の主体が完全に剥奪された」と振り返る。母が推奨するエリートサラリーマン以外の人生を、自分で選択することができなかった

「僕が罪悪感を持つように、蔑むように言ってくる。僕は一度として受け止められたことも、肯定されたこともない。僕のすることすべてを母は否定した。常に母親から睨まれていて、僕には安心という経験がなかった。僕は間違ってはいけなかった

その後妻は連れ子に、優しい言葉一つかけたことがなかったという。継母から全てを否定されて育ったのが、杉本さんの母親だった
そしてそこが歪んでいるとは知らぬまま、もがき苦しんでいる「息子」たち。その数は一体、どれほどまでにのぼるのだろうか。

一橋大学を卒業後、40年ほど「引きこもり」…当事者が激白 “毒母”が生み出す「高齢引きこもり問題」





人間は家庭環境の影響が大きい、どういう家に生まれたかでその人の一生が決まってしまう、意外と他人の家のことがわからないのだ
だから自分の家が正常ではない、異常なのだということが認識できないのである
人間は自分個人のことでも家族でも団体組織でもその異常性を自覚できない
なぜならその中にいればそれが正常だとなるからだ
例えば日本でもみんな戦争しているとき戦争に反対することはもうできない
そうしたら警察がきて捕まえられる、ナチスでもあれだけ今になると異常でも社会自体が異常に染まると正常になるのである
それが家族にもあてはまる、そして家族でも他者の家族のことがわからないのである
何か家族とは一つの閉鎖された空間でありそこが生活の基本になるから客観的に見れないのである

客観的に家族を個人でも見るには対照的に見れるものがあると理解できる
赤だけ見ていたらそこは赤の世界しかないと見る、そこに黄色とか青とか茶色とかいろいろな色があれば対象的に見れる
そこで日本という国を理解するには外国で暮らしてみるとわかる
ここが違うと実感として理解できる、だから何か評論している人は外国で暮らし人なのである
人間は何か対象的に見るとわかりやすくなる、それは歴史でもそうである
昔はこうだった、こういうふうに暮らしていたとか人間関係でも違っているからそれを知ると現代が見えて来る、そこで歴史を勉強することが大事だとなる

要するにこの話しでも異常な親子関係でも家族関係でもそういう場にいたらそこから逃れられない、そして別な家族もあるということもわかりにくい
だから家族の異常性があっても理解できないのである
家族とはこんなものだと思って他にも別な親子でも家族でもあることがわからないのである
要するに家族とは閉鎖的空間であり他者が入りにくい空間でありそこで異常性が育まれるそういう自分自身がそうした家族で引きこもりなり60まで暮らしていたからわかる
でも自分の場合は何ら叱責されることもなかった
親は二人いたようなもので実際の母親は力がないから影響を受けなかったのであく
ただそれが特殊な家族でありこれから平均的な家族と親を考えることはできない
「あなたはあなたのやりたいこをやりなさい」と言われてそうなったのである
旅ばかりしていたとか自分の好きなことをしていたのである
これは特殊だから普遍化はできない、ただ家族にはそれぞれ違ったものであり他者の家族を理解できないのである
それは親子関係でもそうである、親子関係でもいろいろあるから理解できない
それそれ人間は他者を理解することが簡単にできないのである

親ガチャとか言われるが別にそれは普通にどこにでもある、親が子供のことを思う時
それが親の一方的なものとして子供に押し付ける、子供はそうして洗脳されやすいし
逆らうことができない、それで歪んでしまうとなる
そしてyoutubeで心理相談している人が外発的動機と内発的動機で仕事することを言っていた、外発的動機で仕事していると35以上辺りになるとつづかないと言っていた
つまりそれは外から押し付けられたものでありその人の中から自ずとでてきたものではない、外発的なものとして仕事をしているといづれは押し付けられたものだからつづかないとなりまたこれが自分なのだろうかと悩むとなる

ただ正直内発的動機だけでこの世をわたるとか仕事ができるのかとなるとできない
私はこんな仕事をしたいとか思っても誰も与えてくれないのである
私は芸術家に成りたいとか言っても誰も容認してくれないだろう
第一自分にあった仕事など与えられないのが普通なのである
そこで無理やり仕事についてもやめて引きこもりになるのである
だからこの世で仕事している大半は自発的動機でしている人はまれだろう
強制的にその仕事をさせられているというのが多いだろう
そこで引きこもりが増えたのである、それができたのは経済的に余裕ができたからであるもう貧乏な時代だったら何らか苦しくても仕事が合わなくても食べるために仕事をしなければならない、自分に合わなくてもしなければならないからだ

そうして引きこもりになるのは陰の性格が多いかもしれない、陰の性格の人はどうしても内面に向く、外面的にはぱっとしないから目立たない、でも社会だと陽の性格の人が好まれるし成功しやすいのである
ただ陰の性格に向いたものを求めてそれを追求すればそれなりのものになる
それが解かりやすい礼だと芸術家とか学問とか何か内面的な仕事である
ただこういうものは金にならないとか外発的動機が優先される社会だから内発的動機ではなかなか社会ではできない、もしかしたら昔だったらそういう陰の性格の人は寺に入り修行するのに向いていたともなる

私自身がひきこもりでありそうして内面を追求してきたからである
ただそれは社会に適合できないものとなり異常化する
だから自分自身も大きなものが欠けていて社会性がなく失敗したとなる
社会的常識とか社会性がないことも大きな問題だからである
ただ私の場合は異常な家族環境でもそれが自分の性格にあったことができる環境だったのである、だから芸術とか学問とか内面的なことを一人追求してきたのである
そこに人間はいない世界だった、自然が山とか木とか石とかとアイディンティティ化する同一化する世界を追求してきたのである
相手が人間ではなく自然だったとなる

とにかく子供は親の言うようにいい子になりたいと自然となる
でもそれがいいかとなるとならない、なぜなら人生は親のものではない、親と同じ人生を送るわけでもない、時代が変わると全く違った人生を生きることになるからだ
引きこもりというのも貧乏な時代にはありえないことだった
でも豊かになるとそういう人生も可能になったともみれる
つまり引きこもり人生でもありうる社会になったとなる
時代的にそういう人生すら容認されるともなる、だからなぜ今頃になってみんなアーティストになれというのもそうである
そんなことしていて食べていけるのかとなっていたし団塊の世代だとみんな企業戦士になって働いていた、その頃は高度成長時代でありそれに団塊の世代が適合したのである

でも時代が変わった、時代の雰囲気も相当に変わった、30年間日本がではと全く成長していないし賃金もあがっていない、貧困化している、そうなると時代の雰囲気も変わる
一方で引きこもりなど貧乏でできないとかともなる
また一方ではやはりそういう人達がいて何かその人なりのものもを追求できる時代にもなる
コロナウィルス以降は陽の時代から陰の時代の変化なのかもしれない
何かみんな巣籠り生活とか引きこもりにもなったからである
社会がグロ−バル化したことは世界と広く交わることだがその弊害も顕著になった
グロ−バル化はいいことばかりもたらさなかったのである
別に旅行などはしてもいいがあまりにもグロ−バル経済になったことの弊害が目立つようになっていたのである
聖書でもユダヤ人でも人種的にも広く交わらない民族で独自性を維持できたとしている
広く交わった時はかえって堕落した時代だったとしている
確かに日本でも江戸時代は広く交わらない社会であり鎖国だとなっていた

でもその江戸時代三百年で日本人の独自なものが培われたこともある
そのために明治になって和魂洋才となり日本のいい面とヨ−ロッパの文明が結合していい結果になったともみる、内村鑑三の武士道キリスト教とかもそうである
戦後はそういう日本人的なものがアメリカの戦争に負けて失われた
すると日本人はなんなのだろうとなる、日本人的なものがなくなり欧米的なものに支配される、すると欧米の悪い所にも染まって日本人の良さが喪失したのである
だからアメリカが金の支配する国であり何でも金だというとき日本でもそうなったのである,アメリカの悪い所にも染まった社会になった
極端な貧富の差のある社会でもそうである、つまりなんでもアメリカと似てくるのである当然アメリカに習ったのだからそうなるのである

いづれにしろこのコロナウィルスを契機として何か国自体が引きこもり的なものになってゆくかもしれない、グロ−バル化からまた江戸時代のような内にこもる閉鎖的なものとなりそこでまた日本独自の文化をはぐくむ時代となるかもしれない
すると外に開いた陽の時代から内にこもる陰の時代の変化になる
国風文化の再興ともなる、そうなる陰の性格の人にはいい時代になるかもしれない
内面的な追求とか中世時代に還るとかいわれたのもそうである
時代の雰囲気が変わるのである、何か時代の雰囲気というとき十年違っても変わっている子供の時代街中でも囲炉裏があり炭を使っていたとか洗濯を小川でしていたとかあった
それが電化されて電気製品を使い家事が楽になった、十年くらいでそうなったのである
その変化も大きかったのである

アメリカでも時代が影響していた

アメリカでもホイットマン1819年の文政生れである
1876年(明治9年)7月に札幌農学校教頭に赴任する

この時代は西部開拓の時代とかなり時代の雰囲気が今のアメリカとは全然違っていた
そういう時代は知識人とかは尊敬されていない、歌われたのは普通の平民であり現場で働く肉体労働者が多かった、だから体力が重んじられたともなる
それでロシアではやはり肉体が強くないと尊敬されないとしている
そこでプーチン大統領が肉体を見せびらかしている、肉体の強さを強調しているのかとみる、だからロシアは知識人は重んじられないというのも意外だったのである
常にこうして国々でも時代でも時代の雰囲気を作っている
だから一時代が過ぎるとその時代のことがわかりにくくなるのである
引きこもりというのもやはり時代が作った現象だったのである

ともかくなんであれ人間は親が悪い、社会が悪いとか時代が悪いといっても
必ず責任をとらされる、親のためにこうなったといってもあなたの責任でそうなったのですよと最後はなる、つまり何でも人間は責任をとらされるのである
それで子供が泣いて生まれてくるのはその責任のためだという人もいる
責任からなんでも逃れられないのである
その責任も自覚できないのである、結局いくら親が悪い、社会が悪い、時代が悪いとなっても最後は自分の責任にされるのである
いくら悪い環境でも育ってもそうである、そういう人は余程自分の境遇を自覚して生きないと悲惨な結果にもなる
結局人生最後はみんな後悔に終わる、あの時こうれば良かったとかあの時失敗したとかなる、それを最期に悔やんでもどうにもならないのである




2022年02月17日

待つ時間の消失 (待つ時間は期待する時間であるー間とか,無用の用とか東洋思想を見直す)


待つ時間の消失

(待つ時間は期待する時間であるー間とか,無用の用とか東洋思想を見直す)

現代かいろいろなものが消失した、それに気づかない人もいる、旅に過ごした人生で感じたことはそもそも旅も消失していたのである
旅とは行程のことであり目的に寄り早く着くことではないから旅があった
今は三時間で平泉に着くとしたら場所の俳句などできない、その時地の果てへ行くような感じであり死をも覚悟した旅だったからである
だからこそ「奥の細道」が生まれたのである
「五月雨の降り残してや光堂」というときこれは時間の感覚の俳句である
でもまた空間的距離も関係していた
なぜなら江戸からはるばる歩いて来て金色堂を見た、その金色堂がまだ残っていた
藤原氏の栄華の形見として残っていたという感懐があり生まれた句である

もし新幹線で三時間で着いたらこういう句は生まれないのである
人間は何でも空間軸と時間軸で構成されている、でも空間軸でもそれが交通の発達で狭くなると距離感がなくなると感じ方が違ってくる
だからそうして失ってしまったものがかなりある、ただ気づかないことがある
別に旅など車でも電車でもしているのではないかとなる
でも歩いて旅していた時代とは感じ方が違うし本来の旅は消失したのである
ということは何でも時代が進歩したとしても必ずそれによって失うものが必ずあるのが人間世界だということがわかる

医は仁術というとき医のモラルとか人間に対して人情とか愛とかで患者に接することだったその時代は病気は直せないものとして見ていたからかえって情を愛を注いでいたともなる逆に今は科学技術が発達したから病気は直せるものとして医者に行く
直せない医者は藪医者だとかされる、情とか愛など関係ないとなる
またて医者の方にしても医は算術だとなる、金もうけの手段としてある、だから人情がなくても
そして科学技術の最先端の機械設備を整えた病院がいいとなる
でも病院で死ぬことは情もない無機質な空間で死ぬことで嫌だとなる
最後死ぬときくらい愛情をもってみられて死にたいとなるからだ
その時はもう病気は治らないからである、老人でも治らない病気が多いからである

こうしてとにかく人間社会は何か進歩したとしても何かを失っているのである
人間とは何かを得れば何かを失うということがある、この辺で原発は歓迎されていた
金になるとかなり電気関係で働く人も多かったからだ
それで財を築いた人もいるからだ、でもそれが事故で反転した、故郷にも住めなくなったからだ、いいと思えるものが最悪ものにもなった、そして貴重なものを消失した
でもそれが貴重なものだと思っていなかった、故郷など別に住んでいるし貴重なものという意識がなかったのである
何か最も貴重なものの価値がわからない、当たり前にあるものの価値がわからないのが人間なのである
家族とか妻とかでもその価値が意外とわからない、でも死んでしまうとそのありがたみがわかる、今や全部家事でもして病気になっても誰も同情もしない、他人がこれほど冷酷だと思わなかったとなる、だから家族がいないことはこの世は一変して地獄に変わったのである
ただここでも失ってみて初めて家族の価値がわかったことになる

そういうことはあらゆることに言える、待つことでもそうである
待つことが何なのともなる、インタ−ネットの通販で感じた
本を注文すると三日四日くらい配達される、その期間が結構待ちどおしいとなることに気づいた
そこに待つ時間があるからである、すぐに例えばインタ−ネットの電子本で読んだりするとそめういうことはないのである
ただ題名しか読んでいないし中味を早く読みたいと待ち遠しいのである
その待つことでそれが配達されたときはうれしくむさぼるように読むということに気づいた、また電子本では手に入らないものが多いからそうなる

この待つ時間が電車にはある、駅で待つことは何か期待している、家族を迎えるために待つというときまた他でも友達を待つということでもそうである
何か待つ時間は期待する時間なのである、そこで駅は人間的な場所だったのである
そうした人間的なものが駅にはあった、それは待つ時間が必ず電車にはあるからだ
そういう時間があったということである、時間の感覚も時代によって違っていたのであるただ新幹線とかなるとあまり待つ時間がない、一時間置きとかではなく、待つ時間が短いと感じない、それよりも余りにも早く着きすぎるから時間の感覚が違ったから今までの駅とは違ったものになる
高速道路のSAとか道の駅には待つ時間がない、ただ立ち寄り去ってゆくだけである
道の駅で待っているということはない、そもそも車には何か待つ時間がない
いつでも家から出て目的により早く着くという乗り物だからである
そこで鉄道の駅とは相当に違ったものとなっていたのだ

人間は待つということは神を待望するというときも待つ時間なのである
神の国を待望する時間なのである、だから雄々しく待てとかなる
待つことに価値を見出していたのである、待つことも不生産なものではなく生産的な価値があった、ただ旅でもより早く目的地につけばいいとなると待つ時間もなくそれは精神的な損失だともなる、充実した旅とはならないからである
人間はこうしてより効率的なことを追求して社会を作ったてきたが必ずそこで失われたものがあった、それに気づいていなことがある

確かなことは待つ時間は期待する時間なのである、それが無駄なものではなく精神的にも豊かにする価値があった、それが消失したとき人間的なもの情的なものも失われたのである、何かすぐにけ手に入ればいいとなるがなかなか手に入らず得ることができないで待つ時間があってその手に入るものが貴重だとなりまたそれが手に入った時の喜びも大きいのである、それが本がすくに手に入らない三日四日かかることでも感じたのである
その待つ時間が実は貴重でありそれがかえって精神的豊かさを醸成していたのである
効率的になれば待つ時間は無駄だとなるのが現代である
それによって失うものがあることを感じないのである

だからともかく人間社会は進歩した効率化した合理化したとかでいいとするが必ず失うものがある、それに気づかない、だから人間とは必ずしも何でも効率化するとか合理化するとか機械化するとか何かいいように全部働かないのである
何かそこで人間的なものを失うことがある、何か不満だというときそういう人間的なものが喪失したとでまた不満になっているのだ

結局用ばかり追求するより無用の用が必要だとか老子の思想が東洋にはある
日本だと間の思想である、何か日本では日本語には間がつくのが多い
それは時間にも間が必要であり間合いが必要であり空間でも間が必要である
そこに人間的なものが生まれる、老子だと無用の用が必要だとなる
それが東洋的思想としてある、おそらく西洋的なものにはない、資本主義とかでもすべて効率的にする合理的にする、無駄をなくすということになる

東洋的思想として禅があるとしてそれは無の境地にいたるとか空を知るとかなるのだから仏教とかでも同じなのである、東洋文化として共通したものがある
それでインドでゼロを発見したとでもわかる、これは西洋文化からは生まれないものだったのである、ここに東洋と西洋の相違があり今見直されるべきなのは東洋的文明であり思想だともなる
キリスト教はもともとアジアから生まれたのである、宗教はアジアから東洋から生まれたそれが欧米化したのである、ギリシャ文明があり本来の宗教が変化したのである

キリスト教と西洋化したヨ−ロッパのものもでありそれは本来のアジアのものとは違っている
ただ現代の宗教は別に東洋的だとかアジアだとか関係ない、資本主義の論理のように適合した全く東洋とかアジアだとか高遠なものとは関係ない、御利益宗教であり要するに金にあればいいとしかないのである、東洋も西洋もないのである
ただ欲望の是認でありカルト宗教になっている、どの団体でも同じなのである
それが世界でも大都市が似たようなものになていることでもわかる
画一化して平均化した大衆社会になっているもの同じなのである

いづれにしろ資本主義とかその変容したマルクス主義とかは限界である、思想的には東洋に回帰する
思想としては東洋が元であり深いからである、それを再び見直す作業も必要になる
だから中国がマルクス主義になっているのはおかしいのである
ただ仏教とかでも結局は資本主義的になっている、欲望の全面的解放であり宗教的なもの皆無である
大衆の欲望を全面的に開放した異常なカルトなのである
そんなとこに思想もなにもない、ただ資本主義の欲望追求と変わりないのである

だから不思議に思うのは中国には仏教遺跡が多い、仏都も多い、そこで唐の時代に日本もその仏教最盛期の時学んだ
でもその仏教も過去のものとなり今の中国は日本でも仏教は関係ない社会なのである
中国こそもっとも資本主義に適合した国だとなっている、だからあれだけ急速に経済発展したのである
でもそれも行き詰まっている、資本主義とその同根の西欧文明から転換が必要なのである
キリスト教は西洋化したものであり本来の東洋にオリエントから発したものなのである
だからこそキリストが生まれたとき東洋の三博士が祝福したことでもわかる
東洋から生まれたから東洋の三博士と通じていたのである






2022年02月15日

未来に備えることができない人間 (意味と価値がないものに費やされる人間の膨大な労力)


未来に備えることができない人間

(意味と価値がないものに費やされる人間の膨大な労力)

●人間は未来を見れない

人間はなぜこれほど未来を見るのがむずかしいのか?
それはソロバンのことで失敗したことで語った
子供の時習ってソロバンできたとか自慢していたけど何の役にも立たなかった
その時間と労力は全く無駄になった、ソロバンでは何か考える力も身につかなかった
読み、書き、ソロバンの時代は考える力、思考脳を養うことではなかったからである
社会生活するうえでの単純なスキルを身につければよかったのである
だから高校まで自主的に考えたことがない、ただ視線の点数をあげることしか眼中になかった、何かを理解するのではない試験のための暗記の勉強だったのである
そして大学に入ったらそこは遊びの場だったからおかしなことだった
要するに大学とは自主的に考える自主的に課題があり学ぶ場だったのである
それを高校まで全くしていなかったらできない
するとどうなるのか?遊びであったりカルト教団にはまったりと何か変な方向に行ってしまうとなる

でも大学でぱ多少考えることはした、でも何か文系は理系と違って自ら課題があって勉強していた人はまれだとなる
つまり現代は読み書きソロバンのレベルではとても役にたたない、社会が情報社会とか高度化しているからだ、また規格品の大量生産でも平均的人間でも役にたたなくなる
そういうことはAIが機械がするようになるからだ
すると人間は何をするのか?それが問題になってくる
それは金になるとか収入の問題があったとしてもそれだけではない、例えば退職してからの人生も長い、人生百年としたらその設計をどうするのかとなる
金銭問題も重要だけどどうして生きがいのある張りのある生活ができるのかとなる
そういうことは個々人でも社会でも備えていないのである
まず退職したらボランティアとかすることはむずかしい、一見無料で働くのだから受け入れられると思うが全然違う、ボランティアは現役の人にとっては邪魔なものであり組織を乱すものとして受け入れられないのである
なぜなら仕事とは会社ならば組織でしていて仲間でしてボランティアなどはその組織に受け入れられないのである

●急激に起きる不可解なこと不測なこと

ともかく人間は未来に備えることはほとんど不可能に思える
誰も予期せぬことが起りこんなはずではなかったと老人になってふりかえるからだ
それは未来が見えないからである、それで何か株とかでもうけるとしたら未来を見なければならちないから簡単にできないのである
必ず不測のことが起きて予定が狂うからである、、だからもう未来に備えることが不可能だともなる
自分に起きたことも突然だったので対処できなかった
家族の一人が認知症になり急に暴れたとき対処しようがかった

何なったのかわからず狂気になったのか怖かった
ただそうした急激に起きることでも多少の知識があると役立つとものだとふりかえった
なぜなら認知症など何か全くかわらなかった
だからインタ−ネットで調べてお茶でも飲ませて落ち着かせろとか書いてあった
それでそれを実行したのである、それだけでも効果があった
それはもの忘れで異常な興奮状態になっていたからである
そして認知症については医者すらわかっていなかったのである
だから誰からも助言を受けることができなかった、それでインタ−ネットで対処方法を調べてそれが多少役にたったのである
今回のウィルス騒ぎでもそうである、何なのか未知だから対処しようがないのである

本当に未来を予測することが大事なのかというと命にかかわっているからである
津浪でも原発事故でもそうだった、そのことが見えていたら二万人死んだとか故郷に住めなくなったとかならなかったからである
海岸沿いに住んでいた人達がどれだけ危険だったのか?
その危険をイメージできたていたらとても住むことはできなかったのである
そんな恐ろしいんことが起きることをイメージしていたら予測していたら二万人の命が助かったとなる
また戦争でも三百万人も死ぬことになることをイメージしたらとても戦争などできない
まずそのことをイメージしたらとても戦争などしなかったとなる

だから未来を予測することか命にかかわるから預言者とは未来を予言する人だとなった
未来を予言していれば危険からまねがれるからである、命が助かるからである
ただどうして未来を見ることができるのか?
それができないのである、ただ津波が起きた、原発事故が起きた、戦争が起きたとかなり後から人間から考えるのである、それは個々人の場合でも同じである
人生をふりかえってあの時何々うしいればとか何をしなければ良かったとか反省する
しかし時間をもどに戻せないのである、これが恐ろしいことなのである
その時々で判断して実行したことで誤っていても元にもどせないのである

●やり直すことができない人間

例えば将棋だとコンピュターを相手にしていると待ったをして何回も前の状態に戻して勝負してゆくと必ず勝つのである、でも前に戻せないから人間は歴史でも人生でもどうにもならないのである、その時々の判断実行で未来が決まるとなる
人生でも歴史の勝負でも待ったがないのである
そして人生は実際は真剣勝負であり一回で決まるとまでなる、そんなに何回も勝負できない、たいがい30までに人生の勝負は決まってしまうとなる
例えば女性でも婚期が短いから30まで選ぶ男性でその人生が決められるとまでなる
でもなぜ離婚が多いか、それは一回結婚してみて失敗だったとなるからだ

でも結婚でも何回もできるわけではない、婚期だって短いのだから一回で決まってしまうともなる、要するにチャンスは一回とかしかないのである
人生は長いのだから何回もチャンスがあるとか失敗してもまたやり直せばいいとかいうけどそんな時間は人間にないのである
だから事業でも一回失敗したら立ち直るのは最高に難しくなる
もし人生が二百年とか元気に生きられるならいいが短いからそうはならないのである
人生百年にしても元気でいられるのは80くらいまでだとなるからやはり活躍できる時間が限られている

本当に60とか過ぎて70歳になって一番不思議なのはあの人とあったのは50年前だったなとなることである、それが昨日会ったようにも思えるからだ
あの時若い時あの人と逢ったなそれからもう半世紀も過ぎたのかと驚くのである
それだけ時間が過ぎるのは早かったとふりかえる
もう人間がこの世であうの一瞬だったとも思う、そして後はこの世にいないのである
すでにそうして同世代でも死んだ人が結構いるからだ
70とかなると同世代で一割以上死んだいるからだ
こういうことが若い時は実感できないである、でもどんな人でも老人になると否が応でもそれが実感させられるのである、こんなに人生が短いものかと驚くのである
光陰矢の如しでありさよならだけが人生だとなっているのだ
逢った人があっても二度と合わなくなるのである
それで私の家族が全部死んだから60年一緒にいた家族すら消えていないのである
逢うこともできなくなったのである

だから求道するならもう中学からでもしないと間に合わない、なぜなら若き時に神を知れというときそのチャンスが30までとしたらそうなる
たまたま私の場合は父親が中学で死んだからそのことが頭から離れず人間が死ぬということを一番問題にしていた、それで求道していた、でもカルト教団に入って失敗した
でもやめた、そこからまた迷ったりして師についたりした、でも師から学ぶことができなかった、でもその師を否定して偶像を否定して神に出会ったという不思議がある
ふりかえると何がなんだかわからないのに神を知ったとなる
なぜなら自分は聖書など読んだこともなかったからである
神と出会うというと聖霊を受けるというとき別に聖書を読まなくてもありうる
要するに人間は経験でしかわからないのである、あらゆることがそうである
経験しなければわからないのである、辛いことや苦しいとでも経験しなければわからないだからそうして経験したことから相手のことにも同情するとなる
何か障害児をもった親のこととかあらゆることで経験しないとわからないのである
その苦しみとかがわからないのである

いづれにしろ人生はふりかえれば一瞬だったともなる、出合いも一瞬で終わった
あなたと会いましたね、でも永遠にあなたとはもう会いませんねとなっていたのである
そんなことがありうるのかというけどこれは老人になればみんな否応なく知らして目られることなのである
あの人と逢ったことがあったな、それも一瞬であり永遠に逢わなくなった
それで人の出合いとは何だったのかとなる
人間とは何かこの葉が風に舞うようにただ翻弄されているだけにもなる
そのうちはまたたくまに時間がなくなり消失して茫然としている
後は死ぬだけだとなってしまうのである
最後はみんなだから夢のまた夢だったとなって終わるのである

●意味と価値がないものに使役される人間(人類)

そもそもこの世に生きることの意味とか価値がわからない、何か膨大な労力が徒労だともなる、働くことでもそうである、そんなに働くことが必要なのかという疑問がある
それはオリッピックでもそうである、0.1秒記録を破ったとか何の意味が価値があるのかスキーのジャンプで十センチ伸ばして世界記録だとか何の意味があるのか?
そんなことに膨大なエネルギー費やす意味があるのかとなる

何か人類にとって意味あることなのか?

世界平和のためだとか言うけどロシアがウクライナに攻め入ることが止められるのかとなるとできない、オリッピックでわかったことは一部利権団体の利益のためのものであったり政治的思惑があってしている、そのために世界平和に寄与することなどないのである

そして人間が働くということは別に意味と価値を求めていないのである
要するに

彼はタルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられた(この岩はゼウスが姿を変えたときのものと同じ大きさといわれる)。シーシュポスがあと少しで山頂に届くというところまで岩を押し上げると、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまい、この苦行が永遠に繰り返される

何か意味があるわけでもなく延々として無意味なことをさせられる
それは罰なのである、カルマなのである、この世で無価値なこと無意味なことが延々と労苦としてさせられる、労働でもそれが罰だというときそうである
人類は人間はいかにこうして無益なことをさせられるのか?
それはそれはサタンに使役されてそうさせられているとも感じる
近代の戦争では何千万人も死んだ、それが何が意味があるのか、それもわからないのである、何かサタンに仕掛けられてそうして膨大な無意味な死が生まれた
それはどっちが正しいかとかではない、どっちにしろ戦争を制止した方が良かったとなるからだ、戦争の結果として戦争をしたよりいいことはないのである
多少領土の拡張があってもその死者の数からみたら得したとも言えないのである

諸々の価値の根源は人間である、人間はおのれを維持するためにそれらの価値を諸事物に付与したのだ、−人間が元で、それが諸事物に、意義と人間的意義を創り与えたのだ
それゆえ彼自らを「人間」評価する者と呼ぶのである‐ニーチェーツアラストラ

オリッピックでも価値とか意義が認められない、また価値とか意義が認められないことがこの世にはありすぎるのだ、大きく見れば文明そのものでもそうである
そこに美とか真とか善の世界が生れれば別である
今の大都会にそういうものはない、真善美はないのである
そうして宗教でもカルト教団などはただ数を誇り票数を誇り権力化しているだけである
また何でも量で計りGDPとかすべてを量で計る、そこに質を見ないのである
だから全体として数が膨大でも量が膨大でも意味と価値はないとなる
ただサタンに無意味にシーシュポスのように使役されているだけだともみる
無益なこと無価値なことに膨大な労力が使役されるときシーシュポスき同じである
それはもう罰であり業(カルマ)でありただ虚しく使役されて意味も価値も作りたさないとなる
人間の未来とは何なのかというとき意味あること価値あることを目指して働いているのでもない、ただ虚しく使役されている、社畜だと自ら言うように奴隷だとなる
奴隷制度がくなっても人間は自ら奴隷になっているのである

2022年02月06日

自己責任とは何なのかー権力をもつ者が責任がある (最終責任は神にある-人間の責任の限界)


自己責任とは何なのかー権力をもつ者が責任がある

(最終責任は神にある-人間の責任の限界)

●侍の責任は切腹だから庶民は侍になりたくなかった

自己責任のことを良く言われるようになった、自己責任とは何かということが問われる
それはあなたの責任です、あなたが悪いのですとなる
それは民主主義社会になったときそうなったのである
民主主義では自由でありでもその自由には責任がともなう、だから何でも自由でも事故責任にされる、でもそもそも人間はあらゆることに責任などとれないのである
また他者にしても自己責任は問わない
何かこれは罪を問うのと似ている、罪を犯した女性に「罪なき者はうて」といったとき
誰もその場にいなくなった、みんな罪を犯していたからである
罪を問いうるものとはそれを問い裁ける権能を持つものだとなる

責任もそれと似ている、誰もあらゆることに責任を持てないからである
ただあらゆることに人間は責任が問われる存在である
また確実にあらゆることで責任が負わされて問われる
民主主義社会とは平等な権利があるというときみんな平等に責任も問われる
意外とその責任を自覚していなのである
江戸時代とか封建制とか君主制とかだと責任は庶民にはない、江戸時代だったら政治にかかわることもできないのだから責任は侍にある

だから庶民は切腹などしたくないから侍になりたくなかった

侍の責任は切腹してとれとなっていたからである
つまり侍が威張っていられるからいい、得だからいいとかにならない
それだけの責任をまかせられるからそうなる、その時庶民に責任はない、自己責任もあるにはあるにしても本質的にはないのである
だから確かに侍をうらやむことがあっても侍になりたくなかったのである

庶民はもともと責任はなかった、責任を持つものは何か必ず権限を持つものである
侍は行政組織であり権限をもっていた、逮捕したり刑罰を与えたりする
その責任は相当に重くなる、今でも裁判がむずかしいのは人間には人を裁ける権能がないからである、罪なき者は打てというときがそうである
裁判官でも普通の人でありその人が人を裁くときやはりできないとなるからだ
そこに常に複雑な事情がありそれを酌量すると人を簡単に罰せられなくなる
だから警察とかは一番権力があるのだから責任も一番重くなる
でもその権力故にかえってその権力を悪用するとなる
つまり権力を持つと必ず悪用するものがあり権力は絶対的に腐敗するとなる

●権力をもつ者は責任が大きい

ローマの官僚のピサロがキリストを十字架にする判断をしたとき「自分には責任がない」と言った、でもそういう権力を持つ場にあったから後で責任が問われたのである
つまり権力を持つ立場にあればそれだけで思い責任が課せられていたのである
なぜなら十字架にしないこともできる権力を持っていたからである

そして一旦権力を持つとその権力者を罰することは簡単にできなくなる
権力が大きくなるともう罰することはできなくなる、かえってその権力の悪を追求ずると罰せられる、原発事故が起きたのは「原子力村」という権力集団ができたためである
その権力は安全神話まで作ることができた絶対的なものとなる
政治家、官僚、御用学者、科学技術者、マスコミが一体となり安全神話を作った
そこには海上保安庁とか司法関係の官僚も天下りしていたのである
もうこれだけの権力で固められたら誰も批判はできなくなっていたのである
そこに権力の恐ろしさがある、
神話というとき日本神国神話の戦争もそういうことがあった
今度は宗教が権力を作るのである、天皇は現人神(あらひとかみ)だから負けないとなって三百万人も死んだのである、それで広島を訪ねた昭和天皇がその責任を問われたときしどろもどろになっていたのである、あなたは神なのになぜ負けたのかと問われたことにもなる、その時天皇もその空恐ろしい責任を問われたのである

そういうことは創価とか他のカルト教団にもある、政治と一体化して権力化しているからである、創価などは選挙が聖戦とも位置付けているから常勝だとして信仰の力で勝ったとかなりそれで成仏するとかまでなっている、それは日本神国戦争と似ているのである
だからこそ政教分離がヨ−ロッパで生まれたのである
何かカルト教団に入ってだまされたとして裁判沙汰になった人もいたようである
それも自己責任に成るのか?
政教分離をしていない創価などは確実に法律で禁止されることをしているのだからそれが社会で通用しているのだから自己責任にはならないとなる
いくら政教分離を言っても現実にそれは容認されて自民党が利用しているからである

こういうことはいろいろある、つねに人間社会では責任が問われる
だからこそ契約こまかく責任をとりませんとして契約させるのである
それだけあらゆることで責任が問題になるのが人間社会なのである

●自己責任も必ずあるが何でも責任を問えない

JA東びわこ(滋賀県彦根市)による2016年開催のイベント内企画「おにぎりの早食い競争」で、参加者の男性(当時28)が喉を詰まらせて死亡したのは、主催者側の注意義務違反に原因があるとして、両親が同JAを相手取り、約8300万円の損害賠償をもとめて裁判を起こした

こんなことまで責任をとらされる、これはこんなエベントに参加したこと自体自己責任だとも思う、早食い競争などそんな馬鹿らしいことに参加すること自体常識でそれがどんなことかわかる、それに参加したこと自体が自己責任だともなる
ただ自己責任となるとき本当にどこまで自己責任になるのか判断できないのである
あなたが貧乏なのは自己責任だというの簡単である
実際はその人自身の問題は必ずある、怠け者だと努力しないとかいい加減だとかいろいろある、でもすべてが自己責任とは言えない、そうしてこの世の中は不可解だからインドではカースト制が生まれた、前世の宿縁でそうなったとなる、カルマでそうなったとなる
それが必ずしも理不尽ではないのは人間はみんな明らかにカルマをもって積んで生まれてくるからである

いい親に生まれたのもカルマだとなり悪い親に生まれたのもカルマだとなることがあるからだ、それは確かに不公平なのだけど人間は完全に平等にはできないのである
だからこそ共産主義がいいようで失敗したのである、なぜなら人間は努力することがなくなった、いくら才能があっても働いても結局同じ収入にしかならないとして能力のある人でも馬鹿らしいから働かなくなったからである
どうしてもその家でもやはり何らか徳を積んだり努力する家であってそれを受け継ぐことで豊かになる、そういうことは必ずありみんな働く者でもしないものでも才能あるものもない者を平等にすることはできない、そうするとかえって不平等になるのである
代を積み重ねることとは時間軸で積み重ねる努力があり豊かになることである
だから人間は一代では豊かになれない、だから強制的に共産主義のようにすることは失敗したのである

いづれにしろこの自己責任とか責任問題は様々なことがありそれを問うことはむずかしいのである
ただ侍は権限をもっていたから責任があり庶民にはなかったとなる
今でも権限を権力も持つものは大きな責任がある、だからその責任は厳しいものとなる
ただ得するからと権力を持つことはできないのである
そうなると戦争で3百万人死んだとかなりその責任は誰にあったのかと今になり問われるからである、原発事故でもそうである、その甚大な被害の責任でも誰もとっていない
でも地元の人は故郷に住めなくなったという責任をとらされたのである
政治家とか官僚とか御用学者とか科学技術者とかマスコミでも責任は問われない
でもマスコミでも相当な責任があったのである
これまでは勝手に放送する報道する権利など庶民になかったからである
すると庶民はやはり責任があまりないとなっていた
知りえようかないし発言もできないとなれば責任がそもそもないからである

●責任は万能の神しかとりえない

ただ責任というとき本当はもう人間では責任がとりえようがない、人間は万能でもないし必ずミスがあり事故だってあるしさけられないのである
医療ミスだって必ずありそれもさけえようがない、それをいちいち問うしていたら誰も医者にならないだろう、手術に失敗したら切腹だと成ったら誰も医者にならなくなる
そういうことは他でもある、つまり人間は責任を負いきれない、それは人間が万能ではないからである

すべての責任を負えるのは万能の神しかいない!

実際はこうなっいる、神が人間を創造したというときその責任は実は神にある
創造責任がある、機械でも作った人に壊れたら責任があると同じである
第一神が人間でも作ったとしたらその製作責任がある
だから最後にキリストが十字架で「神よ、神よ、我を捨てたもうた」と神に訴えてその責任を神に訴えたとのである、それで神はその責任をキリストを蘇らさせることで果たしたとなる、つまり人間にはそもそもあるゆることで責任は負えない
なぜなたら万能ではないからである、だから必ず何らか事故になったり問題が生まれる
その責任を自己責任だとして神がその責任を人間に負いとしても無理である
人間にはそんな責任を負える能力などないからである

ただ自己責任であれ責任は人間にありそれを全部問わないということではない、問われるべきものがある、特に権力をもったものには厳しく問われるべきなのである
つまり権力を持つものと持たないものでは責任の度合いが違うからである
権力を持つ者の責任は重いのである、だから簡単に地位あるものとか権力を持ちたいとなるのは問題なのである、そういう重い責任を自覚せずになることは危険である
そうなるとその権力の悪しき利用で甚大な被害になる、戦争で何百万人死んだとかまた原発事故で故郷に住めなくなったとかなる
だから侍のように切腹して責任をとる覚悟ないと本当はできない
ただ得して楽して威張っていることとかを望んでそういう権力を持つことは危険になる

そして現代の一番の権力が金なのである、金を多くもっている人はやはりその金の大きさに比例して責任が生じている、それで江戸時代でも十両盗んだから死刑になっていた
つまり金を持つことも責任なのである、金がもてない貧乏な人は現代でぱ責任がないとなる、何であれ金を多く持った人は責任が生じる、それを浪費した遊興費とかにしたら責められる
そしてグロ−バル化社会になったとき金を一番もっている権力を一番持っている国が今ならアメリカが一番責任があるのだ、原爆でも落とす権力をもっていたし核も持っている
つまり核兵器を持つ国は人類に対して責任がある
軍事力は最大の権力だからである、それを悪用されると人類滅亡にもなるからだ
だからそれだけの責任が生じている、ただ強ければいいとはならないのである
強いから何でもしていいとはならない、そこには必ず責任が生じている
その責任はカルマとなってのしかかる、アメリカげ原発を落としたということでカルマとなっている、その責任が余りにも重かったのである

●宗教も権力化する、聖なるものの権威の悪用の危険

例え戦争に勝ったとしてもその責任はカルマは重く消えることがないのである
だから権力をもつことは責任でありその責任が必ず問われるのである
それから逃れることがてきないのである
だから侍のように切腹でも覚悟しないと権力は持てないとなる
結局でも権力の濫用が常にありそのために被害がある、だからいかに権力を抑えるかが人類の課題なのである、それは宗教でもそうなのである
宗教も結局宗教の濫用であり神の権威の濫用であり神が味方しているとか仏が味方しているとかなり相手を恐れさせて戦争もしている

確かに旧約聖書時代はそういうことがあった、でもよくよく聖書を読んてみると権力の否定なのである、軍隊を持つことでも民衆の数を数えることでも否定された
そしてみどり子に治めさせよというとき権力の否定だったのである
つまり神は弱い者の味方なのである、弱い者が強い者に勝つ物語なのである
出エジプトでもそうである、強大なエジプト軍に対して海を割る奇跡で逃れたとか
ダビデがゴリアテに勝ったとか弱いも者が強い者に勝つ物語である
権力とは強い者となるために持つ、でも権力は絶対的なものではない、権力とはこの世のものであり権力を永久に維持はできない、常に権力争いがあって権力は変わるのである
維持出来ないのである,アメリカの権力ももう維持できない、中国でも維持できない
内部分裂したりして維持できないのである

宗教が権力と一体となることは最悪なのである、それが証明されたのは日本の神国戦争でもあり宗教戦争でもそういうことがあった、神が味方するとして正当化される
でも人を殺すなというとき何であれ人を殺すことは宗教では否定される
でも宗教ではかえって人を殺すことでも宗教によって正当化されてきたこともある
宗教が戦争を肯定することはありえない、ただ自衛とかなにかそういうことではありえるがそもそも人を殺すことは罪だから戦争は大量殺戮だから否定される
戦争というときそれも強い者が権力あるものが権力で優位にたつものが勝つとなる
でもそもそも強い者が権力だけで軍事力だけで人を治めることは国を治めることはできないのである

ともかく自己責任というときとても人間は責任を負いきれるものではない
それが必要でもあまりに責任を言うと何もできなくなく、だから最近で子供に話しかけることもできない、常にどこかでマスコミで児童への性犯罪とか言われる
すると必ず責任問題になりもう何もできなくなる、子供と接することもできなくなっている、それは常に責任を問うからそうなる
でも全員がそういう人ではない、でも一人でもそういう人がいたとして今は情報社会でそうなるのである
民主主義とは誰ても逆に責任を追及てきる、侍が責任をとったというとき民衆から批判されるからではない、君主に殿に責任をとらされたのであり民衆が責めるからではない
現代は大衆でも民衆でも絶えず責任を問う、事件があれば報道されて責任を問うのである他者の責任を問うことは楽しみでもある、自分自身に被害はないからである
でも「罪なき者は打て」となりそんなに自分自身をふりかえって責任を問えるものかともなる、その責任を問うことでブーメランのように自分の責任も問われるのである

●報道でも出版でも権力に左右される

出版とか報道するにしても権力がないとできない、今まではそうである
勝手出版したり本屋に置けないのである、図書館にも置けない、自分の本は創価を批判したのか個人というだけで地元の図書館に置けなかった、それを管理していた役人はそれだけの権力をもっていたのである
つまり報道とか出版とかでもトランプ大統領すらツイッターとかで発言されなくなったことでもわかる、メデアは中立ではない媒介するだけのものではない
権力機構として機能しているのである
だから権力をもつものは常に監視しなければならない、でも権力者は必ずその力を行使してくる、つまり何かを禁止する力をもっているのである

だからこそ権力を行使できる人は監視する必要がある三権分立になったのである
権力の横暴を止めるものとしてそうなったのである
民主主義の基本がそこにあったからだともなる
共産主義政権にはそれがなく一党独裁となり反対するものは権力で抹殺されて殺されたとなるからだ
権力は大きくなれば監視することも抑制することもできなくなる
そして遂にナチスともなりカルト教団でも席巻されて甚大な被害になる、戦争で何百万人死んだり反対者が千万人殺されたとかも言われる、共産主義だと粛清される
権力とはそういうふうにその使用を誤るともう甚大な被害になる
だから政治の理想は無権力だとなる、それは結局この世では実現しない
来世の神の国で実現するのである、この世は結局そうて権力争いで自滅するのである
それが人間のカルマであり宿命なのである

2022年01月31日

人間は何でも必ず責任をとらされる (無責任に何でも決めることはてきないー多数決がすべてではいな)


人間は何でも必ず責任をとらされる

(無責任に何でも決めることはてきないー多数決がすべてではいな)

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責任という時、例えば何かを決める時、十人がいたとする、そこに黒い丸が十個あったが中に一個の赤い丸があったとする
そこで十人が全員全部黒であり赤はないと判断する

その前にその判断に対して責任をとれますか?

本当に赤はなかったのだと言い切れますか

もし間違っていたら責任をとってくださいよ

間違っていたら一人十万とりますよ

こう言われたとき十人が赤がないとしても判断するのは慎重になる
全員が赤はないとしてもあとで責任をとらされるから慎重になる

ても原発事故では原子力村が「安全神話」を作ったが事故になった
その時誰も責任をとらなかったのである

「原発は絶対安全です」
「それを責任持って言えますか、もし事故になったら責任をとりますか」
「・・・・・・・」

結局誰も責任とらなかった、でも地元の人たちは責任をとらされたのである
故郷に住めなくなったのである

「でも地元の人達も金をもらって容認したのだから責任がないとは言えない」

「あなた達には金をやりました、だから事故になっても責任を追及しないで下さいよ」

人間は最初から責任を感じていれば判断でも慎重になる
大衆民主主義になるとみんな投票するにしても責任感じない
でもいくら大衆でも必ず責任はとらされる
おそらく地元でも責任を感じていなかった、ただ金をもらえばいい金になればいいしかなかったのである
また東電でも政府でも原発を作っても事故になったら責任とらされるということもなかった
もし事故が起きたら切腹させられるとかなったらもう慎重になり作れない、作ったとしても常に戦々恐々として安全を計ったいたとなる、でもそういう責任も自覚しないから安易になっていたのである

そして10人が全部赤はない、赤が危険信号だとしてもないとされる
それに反対する者は追放だとかなってしまった
民主主義は多数決だけど多数がすべて正しいとはならない、でも多数に押し切られる
危険も無視される、赤信号みんなでわたれば怖くないとなっていたのである
実はそれが一番怖いことだったのである
民主主義の危険がそこにあったのである
赤信号みんなで渡れば怖くないということは責任もないとなっていたのである
でもそこで事故が起きたら責任をとらされるのである
多数決がすべて正しい訳ではない、なぜなら一人一人が無責任になる
一人など投票でもなんら影響しないとかなる

つまり責任を感じないことが自覚できないことが問題なのである

でも原発事故でわかったことは必ず責任がないということはない、責任はとらされる、
とらされたとなる
それが原発の距離に比例してとらされたとなる、原発に近ければ近いほど危険だったからその責任は重いものとなり住民は住めなくなったということである
確かにその分補償金をもらったとしてもやはり責任は距離に比例してとらされたのであるただ飯館村は距離的に遠いし関係ないともみていたから責任があったとは言えない

とにかく人間にはあらゆることに責任がつきまとっている、何か高校生の一人が警察官に警棒でなぐられて左目が失明したとかなった
そこでSNSで騒ぎになり暴徒となって警察署を襲ったのである
300人くらいで襲った、それも理由あるとしてもその暴徒化した人達は写真をとられているから後で警察に呼ばれて責任がとられるとしている
つまり行動には必ず責任がとらされる

そして若い時は無茶な行動に走る、でもそうしたことを後で後悔してもその罪を償わされる、責任がとらされるのである、そういう無謀なことでもそのままに解消しない
責任をいつかとらされるのである、それがカルマにもなる
人間の行為には必ずカルマが責任がつきまとっていて逃れられないということである

子供が泣いて生まれるのはこの世に生まれることがカルマ(責任)を背負わされることでありそれでそれが課せられているから
泣いて生まれというのもわかる
人間はどんなことしても責任(カルマ)から逃れられないからである

2022年01月07日

青年に告ぐー自分を小さく見積もるな―大望を抱け (できることでもできないと思う先入観)


青年に告ぐー自分を小さく見積もるな―大望を抱け

(できることでもできないと思う先入観)

人間はどうしても先入観がありそれで左右されてしまう
私は最初から自転車旅行はできないと思っていた、あれは特別な体力がある若い人がやるものだと見ていたのである、これを20代に体力あるときにそう思っていたのである
そういう先入観があってそうなっていた、実際は自転車旅行は登山より楽だということがしてみてわかったのである
なぜなら疲れたら休めるし食事でも飲み物でもとれるからである
それで北海道旅行でも一か月したとしても一日休んでまた行ったのである
だから体力なくてもできなるとわかったのである
それは40代だったし別に50代でも行けるし60代だってできる
登山は体力ないとできないし危険になる、疲れ方が異常なのである
そして飲み物でもとれないし食事することも山小屋とかでしかできないとかなる
その山小屋すらなこともあるからだ、だから遭難ということがありそのため登山をやめたのである

それから海外旅行で失敗したのはこれもできないと思っていたのである
言葉も通じないしそんなところでどうして海外旅行できるのかと思っていた
それも一人旅ができるのかと思っていた
それも田舎にいて何かそういう情報にうとくなっていた
なぜなら円が80円のときがありその時はみんな海外旅行に金がなくても行っていた
中国に三回行ったけど物価が十分の一くらいの時があったのだ
だから今になると信じられない、都市部ではもう日本と変わりないとか高くさえなっているのである
海外旅行は本当に言葉が通じなくてもできる、なぜなら世界中が観光化しているからである、英語は中学英語くらいわかればいいともなる、もちろんそれ以上できれば楽である
ところが英語など全く通じない場所が世界でも多いのである
それでも海外旅行ができる、全然言葉が通じなくてもできる、若い人は感が働くから若い時は有利である、適応性があるからだ、私は50歳なって行ったからひどい目にあったのだ、でもその時初めて英語で外国人と話した経験をしたのである


人間はこうして先入観がありできないと思いこむ人が多いのである
それはおそらくあらゆることにそうなのかもしれない、私にはできない、他人はできるが私はできないと思い込んでしまっているのだ
それは環境とか時代も影響している、家族でも海外経験ある人がいればその人から直接聞けるからだ、そうでないと狭い田舎とかではできないと思いこんでしまうのである
だから家族環境とかがその人の一生に相当に左右するとなる
どんな家族に生まれるかで普通の人は一生が決まるとまでなる
どうしても人間的刺激は都会だと受けやすい、田舎では受けにくいのである
東京だといろいろな働く場所があるのも違っている、田舎だと知的な仕事など限られている、だから建築関係とかが多い、それで仕事がないから双葉とか大熊とかでは出稼ぎであり地元で働きたいと原発を誘致したのが失敗になったのである


そして家族でも実際は様々な家族がいる、その家族のことも異常な家族でも異常だと気づかないのである、自分の家族は普通の家族ではない、でも異常だと気づかないのである
家族とはそんなものだと思うのである、家族だけではない日本人として育てば日本人的な思考とかになる、だから日本を語れる人は外国生活を経験した人なのである
それは比較して日本が見えるようになるからである
日本を知るには相対的に見ないとわからないのである、日本で当たり前のことが外国では違ってくるしその逆でもそうである、だから留学経験は相当に価値あるものとなる
ただ語学を学ぶというだけではない外国を知り日本を知ることで価値がある
旅したくらいでぱわからないからである
本でもテレビなどを見ても実際はわからないのである、百聞は一見にしかずになるからだ
そして人間というのは自分を低くみつもる、俺はたいしたことがない人間だ、才能もないとか思いこんでいるのである、もちろん自分自身がそうだった


何にもいい所がなかったからだ、だからこの人は何にもならないと見られて当然だったのである、学校ではこの人は何にもできないと見られていたしそれも本当だったのである
体力もないし内向的だしぱっとしないそれより馬鹿のようにしか見えなかったのである
現実そういう所があった、私はどうしても集団生活になじめないのである
ただ別に天才のように優秀だからではない社交性とかなかったからだった
それが家族のもとを脱出して大学に行ってから変えることができた
一時体育会とか入りそんな大学の体育会でやれると思わなかった、それも体育会がどんな所か知らないので入ったのである、そもそも大学とはどんな所かも知らなかったのであるその頃大学というものを何か理解できなかったのである
もし体育会がどんな所か知っていれば入らなかったとなる
つまり知らないからそんな危険な場所に入ったのである、私はなんとか虚弱体質だから
強くなりたくて入ったのである

つまり人間とはこうして常に先入観を持っている、そんなことできないよとかなっているのだ、そういう人も多いのである、ところが人間の可能性は実はその本人もわからない
未知なのである、また生まれつきでも決まらない、天才は別にしても普通の人はそうなのである
例えば自分を見た師はこの人は何にもなれないと見ていたのである
それも当然だとなる、何か優れたものもなかったからである、多少文学的才能があったとしてもそれもあまりにも目立たないものだったからである
そして師とかは必要でもその危険はそうして自分の様な者は確かに低く見積もられても当然であった
でも将来はまだ30年とかあるとすればそのうちに人間が変わってゆく
どうなってゆくかわからないのである、何か不思議なのは60越えて70になってからとか理解力が深くなったのも不思議である、やはり死が目前に迫ると人間は目覚めるとかなる

そして師は必ず弟子を低く見積もる

これが師の問題なのである、お前はそんなものだよとかなる、とても大物にはなれないとかなる、確かに若い時見てればそうしか見えないのである
一般的に師は弟子を低く見る、そして弟子を奴隷のようにすることもある
ただ師を讃美するだけの弟子にしたいのである
だから俳句とか短歌の結社とか師でも多くいるがそんなものに従っていたら大物にはなれない、そんなところで師とかしているのは自分が偉いと見させたいためである
それらはみんな小物でありそんなものに従っていたらその人独自のものは発揮できない
そういう所はデレタンとが多いのである

例えばお前はネズミだからお前はネズミとして生きるほかないとかなる
でも人間は何ものかわからないのだ、将来はライオンとなりまた龍ともなるかもしれないただ師は必ず弟子でも低く見積もる、なぜなら自分より大きく偉くなるとかしたくないからである、だから小物でも師として威張っていたいのである
最も恐ろしいのは師が偶像化して師のロボットにされることである
カルト教団の教祖とかは最も危険である、一切のその人の個性は無視され教祖のロボットとされるからである、その人自身を生きることがなくなるのである
その人生は師のコピーとしてロボットとして生きることしかなかったとなる

そもそも人間は自分を自ら低く見積もっているのだ、俺はこんなものだとか見ている
でも人間の可能性はわからない、自分自身にとっても未知なのである
そして人生でもどう展開してゆくかもわからないのである
そうして思わず時代の英雄とかになった人がいる、それは時代がそうさせたのである
明治維新とかではそうである、だから三島由紀夫とかでもいくら英雄になろうとしてもなれない、英雄でも時代が作るからである、平和な時代にはなれないのである

ともかく俺はこんなものだよ自分と低く見積もるなとなる、さらに人生百年時代になるともう60才でも序の口だともなってしまうからである
今youtubeでも70代の人が語っている、若い人になるとどうしても人生を語りにくいが70代とかなる語れるとなるからだ
それだけ人生が長くなるとやはり人間は成長してゆく、とにかく理解力が深まるのである理解できないことが理解できるようになる、私は何か本を家を傾くほど買って読んでいたが理解するものはわずかだった、でも今になると自分なりに理解できるのである
だから評論に向いていると思うようになったのである

人間は成長しつづけるものである、そして世界は未知に満ちている、わからないことがいくらでもある、だから探求は死ぬまでつづくとなる
神はあなたを大きくしようとしている、そのためには自分は低く見積もらないことであるまた若い時から結果を出そうとしてあせらないことである
無駄飯を喰らってでも生きているとかの図々しさも必要になる
意外と引きこもりは社会から離脱して大自然と融合してゆくから何か大きなものと一体化する、でも社会だと現代文明はどんな仕事であれ部品になるから小さくされるのである
大鵬のようになったりしないのである、ただ正直そこにも大きな問題があった
自分自身は別に天才でもなんでもない、普通の人間でありむしろ普通の人間より劣っていた、才能があったとしてもそれはわずかなものだった

私は何か優秀だから天才だから引きこもりとかになったのではない、ただ社会に適合できない性格でありまた何か体もそうだったのである、集団の中にいると異常に緊張していられないからである
ただそこで社会常識すらなくなっていたのである、これも大きな問題だった
社会に生きる限り社会常識は必要なのである、それがないとニーチェとか狂気になって終わる、それはそれで認められるが引きこもりとアウトサイダーは何か社会から逸脱しまたそうなりやすいのである
俺は社畜だとかただこきつかわれるだけだとかしている人間も問題だがアウトサイダーも何かおかしな方向に行ってしまうのである、それで「小人閑居して不善成す」となる
それを自分自身が経験しているからである
閑居できる人間は実際は相当な社会常識もあってまたそれを逸脱できる人間でもあるとなるからまれなのである
つまり普通の人はできないのである、だから引きこもりとはそうして必ず不善な成すから危険にもなる、そういう人が60万人もいるということはやはり問題なのである
そんな優秀な人などもともといないからである、だから不善を成すとなり危険になる

汝は大望を抱け、まだ見ざる驚異の世界のあり
この世は未だ未知に満ちている
万年雪のヒマラヤの高峰を仰ぎ、グランドキャニオンを見
モンゴルの平原を望み中華大陸からシルクロードへ
汝は大鵬となりかなたへ飛ぶ
そを大いなるものを知られざるかな
雌伏百年汝は巨大化して大木となる
汝は百年黙想して大自然と同化せよ
一切の雑音を拒否して岩ともなりて
その場を動かざれ
汝は汝を低く見積もるな
汝は汝は知らじネズミとして自分を見る
他者も汝をネズミとしてしか見ない
ネズミとして同類と見るのだ
しかし汝は龍ともならん
大いなる自然に変化する
汝は思わざる所に行き神の業を見る
この世はすべてではない
汝は新しき天と地を見る
神の国は汝に与えられる
永遠の命が与えられて神の国に住む
そこにこそ真の実りがある
偽らざる実りがあり神とともに歓喜に生きる
そこには絶え間ない喜びがあり神の祝福がある
大調和の音楽が地の果てまで宇宙の果てまで
統一されてひびきわたる
一なる神が指揮をとり乱れることはない
さらなる全能なる神の業が成り統べる

詩を作ることは自然と一体化するアイディンティティ化することである
すると石や木や山でも沈黙している、すると同じように沈黙しないとアイディンティティ化できないのである、それを自分は一人で田舎でしてきた
私は引きこもりでも家族に責められたことがないのである、旅するにしてもどこにでも行ってみなさい、外国でも行ってみなさいと奨励されていたのである
だから家族の影響は大きいのである、自分を作ったのは姉と母だったとなるのである
ここで争っていたにしてもそうだった、そうして沈黙の行者のようになり大自然と同化することをしてきたのである、そして詩を作っていたのである

ともかく今が一番人生で充実している、ただ介護十年間は本当に心身ともに消耗した
それがだんだん回復して今が一番充実している
もともと自分は長生きできないと思っていた、体力的に思っていた
でも私の母は華奢であり重いものも持てないような細身の体だった
自分も似ているのである、でも百才まで生きたのである
だから意外と体力があるとないとか関係なく長生きする人はする
そして人生とはマラソンなのである、最初トップを走ってもつづかない、ところが徐々に後ろから上に上がってくる人がいるのだ、後半の10キロそして最後の5キロが勝負なのである、だから今私はゴール前の死の前の5キロに来ている
つまり勝利のテープ切ることが見えて来たともなるのだ
最後の力をふりしぼって栄冠を得る時に来ている
何でも今になって深く理解できるし気力も充実しているのである




2022年01月05日

人間の一生の評価(個人は残るが集団組織は消える) (人間の一生が無益だったなることに耐えられない)


人間の一生の評価(個人は残るが集団組織は消える)

(人間の一生が無益だったとなることのショック)

●集団組織の価値は消える

人間の一生の評価が老人に対して起る、この人は一体何をしてきたのか、何を生きてきたのか、この人の一生の価値はなんだったのかと自らも問うし他者も問う
私の姉は認知症になり最後に千回も従軍看護婦としてマレーシアのジョホールバルで地獄を生きたことを語りつづけて死んだ
死ぬ間際までそのことを語っていた、それが余りにも過酷であり青春時代だったから老人になっても忘れることがてきなかった
そしてそのことを最も伝えたいことであり語ったのである

このことは日本の戦争で死んだ犠牲になった3百万人の一人のことである
要するに人生を一人一人でみても自分の生きたことはしてきたことは価値があり無駄でなかったとしたいのである
たからこそ靖国に祀られて国のために死んだ英霊としているのだ
この人達は戦犯だったとか言えないのである
それは一人の人間の一生でもお前の人生は何の価値もない益もないものだったと言えないと同じなのである
例え社会では評価しなくても家族で評価される人がいるしその価値は多様である

ただ個人としての価値と集団組織としての価値がある
現代は集団組織に属す人が大半だからその価値は会社とか組織集団の価値にある
だから会社を退職するとその人の価値はなくなる、大企業に勤めていたとしても価値はなくなる
かえって何か趣味を追求していて写真でも絵でも俳句でもなんでもいい、それが優れていると評価されたりする、会社で重役していたとしても退職すると価値がなくなる
その価値は会社に勤めていたときの価値だったからである

だから戦争を評価するのがむずかしいのがそれは日本国家に尽くしたという価値であり
集団組織の価値なのである、その価値をどう評価するのが本当にむずかしくなる
つまりそれを全く無駄だった、そんな戦争するべきではなかったという人の方が多いからである、すると戦争で死んだ人達もただ無益に死んだとまでなってしまう

●集団組織のために一生尽くしても無益となるショック

でも何か現代でも組織集団に属しているのが普通である、会社人間ではあり組織集団人間なのである
会社の組織の集団の価値がその人間の価値にある
たとえば創価のことを批判してきたが共産党でも組織集団に一生を捧げた人はいくらでもいるのだ、カルト教団でも間違っていてもそれに人生そのものを捧げた人はいる
そしたらそんな一生は何の価値もない社会にとって害になるだけだったとされたらどうなるのか?現実はそうでもそこに所属して一生を費やした人は認めないだろう
例えばオウムには優秀な理系の若者がいたけど死刑になった、その集団は犯罪集団にすぎなかったのである、するとその価値は無益化された、それより犯罪集団として処刑されたのである、悪の集団だったとなる
そういうことはナチスとかでも起きた、それは犯罪集団だったとされたのである
これと日本は違っていても日本では戦争で死んでも無益だったとか何の価値もない
犯罪集団だとか言えないのである

だから組織集団に一生を捧げた人も同じである、いくら社会的に批判されても価値あるものとして働いたと主張する、それは組織集団内でそうなる
でもその組織集団が消失したらその価値を伝えるものがなくなる
創価でも共産党でも他のカルト団体でもやがてその組織集団が消えたら価値も喪失する
でも社会というのは継続されてゆくのである
そして歴史的に評価される、その時そうした組織集団はなくなっていたり客観的にく評価される、そういう集団が現実に権力をもっているときは簡単にできないが権力を失うと客観的に公正にみるようになる、つまり歴史的評価とは長い時間の中でその価値が判定されるかことである、だからその長い時間の中で評価されるものは確かな価値があったとなるでも実際は組織集団でも一時的であり消えるものは価値ないとされる

その時その価値は虚しくされる、何の価値もない、ただ実際は社会に何の価値ももたらさなかった犯罪集団だったともされるのである
でも現実今内部にいる人達に対してお前らの価値はない、無益だなどと言えないのであるそういうことを気付いてもあくまでも価値があるものとして主張しつづけて死ぬことになる、無駄死になどと戦死者に言えないのと同じである

でも組織集団とはいづれ消えてゆくのではないか、もしかしたら国家とか民族すら消えてしまうのではないか?
ユダヤ人は国家を失い離散した、でもユダヤ人は国が無くても残りイスラエルを再び建国した、でもイスラエルの価値はイエスキリストを神の子を出したことでありユダヤ人集団より世界に広まったのはキリストの信仰だったのである
集団組織の価値は長い時間の中で消失してゆく、でもイエスキリストの価値は永遠に残る
また組織集団の価値は時がだてば消失する、何か墓に上等兵とか記された墓がそちこちにまだあるけど誰かその価値を認めて偉い人だったとか今思うだろうか?
でも戦争の時はみんな偉い国に尽くした人だとしていたのである
墓に軍隊の位を示すことはそれを社会で認めていたからである
でも今になるとそうした位を墓に記していてもこの人は偉い、国に尽くした人だとか見ている人がいるだろか?何か虚しいとなる
ただその位だけが大きく墓に記されているのである、その位の意味が今あるのかとなる
これが組織集団に生きた価値が消失していると見えるのである

●この世に生きる限り権力に左右される

権力というのはあくまでもその時代で権力をもっていたから評価される、無視できない
それを認めないことは生きてもいけなくなる、弾圧もされる、戦争の時逆らったために権力にみって殺された人もいるし預言者はたいがい殺されたことでもわかる
だからこの世の権力を否定することは生きることもできなくなる
なぜなら組織集団が数が多ければそれは経済的にも十人が買えば売る方では無視できない本でも出版するにしても本屋では売れない本は起きたくないし置かない
もし大勢の人が買ってくれるなら置くのである
それで仙台の書店で入り口に幸福の科学の本が山ほど並べられていたことでもわかる
それは会員が買うから書店でも置くのである

出版とかでもマスコミでも必ず権力が働く、だから大きな権力を持っている組織集団は圧力をかける、創価が藤原弘達の「創価学会を切る」を置かせなかったのもそうである
創価はそれだけの権力をもっているからだ、創価に逆らう者は排斥される
原発でも原子力村が権力化して安全神話を作った、それに逆らうことはできなかった
出版でも確かに危険を言うものはいた、でも書店の片隅に目立たないように置かれていたのである、だから原発が危険だという報道はほとんど地元の報道機関でもしていない

それが大きな事故となったのである、またナチスが席巻したのも危険な権力集団を放置していたら無関心だったからそれが巨大化したとき全国民がその組織集団に席巻されたのである、つまり警告もしない、すると危険なものが巨大化して社会を支配するようになっていたのである
つまりこうして実は組織集団は権力化して危険なのである
それは経済だと独占法違反だともなる、ある会社が商売で独占してしまうことは社会にとって危険だからその法律ができた、それがGAFAだったのである
トランプ大統領まで発言させないようにしたからである

●権力組織集団の価値は消失する

おそらく組織集団とかの価値は消える、でも個人の価値は消えないのである
でも個人はこの世でば認められないのである、なぜならこの世で認めるのは権力だけだからである、権力ある者しか相手にしない、権力とはいろいろある、今の時代は数が権力なのである、数を集めれば票を集めれば権力となりそれを社会では認める
何百万人も会員が信者がいるのかとなり恐れもする
そしてこの世で個人は認められない、発言すらできない、何か一見個人が発言しているように見える、でも個人は発言できない、この世に認められて発言しているようでもそれは必ず背後に集団があって組織があってその集団組織が後押して発言できるのである
純粋の個人は発言できない、社会では認めない、地元の図書館でも個人というだけで自分の本は置けなかったからである

つまりこの世から個人は抹殺されるのである、でも十人でも数を集めて信者でもあれば
認める、十人集まっても権力になるからだ、一人だったら何の権力もないのである
だから公的機関でも完全に無視して認めないのである
この世で存在させられなくされる
でも不思議なのは歴史に残るのは個人である、組織集団は消えるのである
民族すら消える、国家すら消失する、もちろん会社組織でも消える、現実に日本の大企業でもなくなっているからだ、組織集団は一時的なもので消えてゆくのである
もちろん大衆とか群衆などはもう何もなくなる残さない、砂のように影のように消えてゆくだけである

日蓮であれ親鸞であれキリストであれ開祖は個人は残るがその組織化した団体は残らないのである、要するに何の価値も残さないのである
ただそれは権力集団だったのでありその権力とは時代によって変わる、そこに価値を認める人はいなくなる、日本の軍隊でも戦争の時は最高に価値あるものであり軍人は一番偉い者だったのである、今になるとそれは全部無価値とはならないにしてもそんな価値あるものと見ないのである

いづれにしろ人間一生の価値が最後に問われる、あなたは何をしてきたのか、何を求めてきたのか、何を残したのか・・・とかいろいろ問われる
そしてあなたの一生は何の益もなかったとされるほどショックはないのである
でもそういうことが最後に起きて来る
その価値が無価値にされる、結局空の空だったとなる
いくら価値ある主張しても結局誰も認めない、それは権力ある時だけのことである
ただそして最後は茫然として死んでゆくだけだとなる
様々な世界の帝国も結局滅び栄枯盛衰の跡なのである
永遠に栄える国はない、それは神の国にしかありえないのである

●文明は墓場となって終るーしかし不死鳥のように蘇る個人のロゴスの声

とにかくその一生は徒労だったとなる、その努力も徒労だったとなる
文明そのものでもそれが墓場になるというときもそうである
残ったのは墓だけだったとなる、エジプト文明で残されたのも実際は墓だけだったとなるからだ、文明自体が墓場と化してしまったということである
つまり人間の真実の価値はこの世で認められないし実ることもないのである
それは神の国でしか実らないのである、そうしていくらでも価値あるものが消失させられたからである戦争でも病気でも貧乏でも才能は開かず終わった者も多いのである
この世とは常に権力闘争の場所でありそのために人々がある
会社でも何か会社の派閥闘争に敗れて海外旅行している人がいた
会社とか小さな世界でも常に人間の権力争いはある、集団組織でも一枚岩ではなく常に派閥争い権力闘争がある、それは人類が始まって以来ある
それが人間の業(カルマ)なのである、だから最終的にそのカルマによって人間は滅亡すると聖書では予言されているのである、欲によって滅びるとされるのである

その逆説として権力をもたないもの権力自体が否定された
みどり子に治めさせよとか老子の治めずして治めるとかである
つまり欲のないみどり子や自然のままに治める、上に立って支配する人もいない世界である、それこそ理想社会たとしている、結局それは神の国でしか実現しないのである
この世には限界があるのだ、新しい天と地を望むことでありこの世はいくら科学技術が発達しても政治でも治められない、必ず災いが生まれ権力闘争が生れ争いがやまないので
上に立たないで下僕になりなさいというのが実行できない、俺はお前より上だとして争うのである、国同士の覇権争いもやまないのである、米中戦争になるというのもアメリカに従いアメリカが世界を支配するとなり争いがやまないのである
そして最終戦争ハルマゲドンになり人類は滅亡する
ただその後に神の国が来るのである、そこに望みがある、つまりこの世は終わりつつあるただその終末にはこの辺で起きたように信じられないことが起きる
それがもしかしたら今年かもしれないのである
しかし神に選ばれた者は救出されるのである、それがノワの箱舟なのである

組織集団人間は消失する
群衆大衆は砂のように
影のように消失する
無数の者が虚しく消えてゆく
しかし個人の声は消えずに
全地ににひびきわたる
その声は大地に岩に山に
ひびきわたり反響する
真実の日はロゴスはそこにある
不死鳥のように蘇り
そのロゴスの神殿は不壊なり

ともかく現代とはもう言葉も通じない、ロゴスは破壊されている、それを統一するものがもない、カオスなのであり必ず迷路に入り出れなくなる
そこに何かサタンの魔殿ような偽善団体があり権力をもって支配する
そこに真実は語られることはない、ただアウトサイダーがその文明圏から除外されて
神の声を聞きロゴスの中に生きるのである
しかしそれは文明から除外されているから見ることもない、隠されているのである
しかし不死鳥のようにその個人の声はよみがえりロゴスの神殿にひびきわたるのである
そこに神の実現したいものがあり神がそこにありたいとなりそうなる
ただ文明の世界はカオスでありバビロンでありそこから除外されている
だから見えないしその語ることも聞こえない、文明とは雑音の世界だからである
雑音の中で真実の声はかき消されるのである
自分が引きこもり(隠者)となって追求したのはこの自然のロゴスであった
それは文明から離脱してないと聞こえないものだったのである
文明の雑音から離れないと聞こえない見えないものだったのである






2022年01月04日

人生のコースが親に選ばれてしまう恐怖 (親ガチャでなくても親の言う通りにされた人生‐カルト教団の二世の問題)


人生のコースが親に選ばれてしまう恐怖

(親ガチャでなくても親の言う通りにされた人生‐カルト教団の二世の問題


人生の怖さというのはいろいろある、ただ何が怖いのかもわからないのだ

人生をどう生きるか?

これは本当は各自違っている、人生とは実際は時代によっても相当に違ってくる
だから親と話が合わなくなったり対立が世代間で生まれのは当然なのである
もし対立がない方がおかしいしそのまま親の言う通りの人生を歩むことは自分の人生を失うことにもなる
これは別に親と子の問題だけではない、社会でも世代間の対立がある
だから学生運動などがあったがそういうことが起きるのが普通なのである
若者が社会の不正とか何か不満があって抗議しないこと自体おかしいのである
親と子でも宿命的に対立するから反抗期がある、反抗期がないと人間はまともに育たないのである

私は父親が明治生まれであり酒屋の丁稚奉公だったのである、でも中学の時死んだ
そして自分の人生は親とはまるで違った人生を歩んだのである
それは母親でも働き詰めの人生であり遊びも何もない、花にも興味がない、金を使いたくないという人生を送った、だから人間味もなかったとなる
そして貧乏だから金があるようになっても使わないのである、貧乏に育った人は何かケチになる、金を使わないのだ、金があっても使わない、ただためるだけなのである

それで60歳で国から年金三万をもらった、別に年金を払わなくてももらっていたのである、5年待っているともっともらったとして悔やんでいた
それで百才まで生きたが金を使わないので一千万以上ためた、でもその金の大方が盗まれたのである、これも因果だったなと思う、何も使わないうちに盗まれて終わったとなる
金は使える時使わないと使うこともできなくなるのだ
つまり人生とは百才生きても限られているからである
使う時間がなくなるのである、金をためるのはいいとしてところがその金を使う時間がなくなるのである、いかに時間が貴重なものか老人になると意識するようになる
あと何年生きるのだとなることを考えてみればわかる
一日一日が貴重になる、もういつ死ぬかわからないからだ

人間は親の影響が非常に大きい、親によって人生のコースが決められる
もう親に決められてそれ以外ないとも一方的に決められる、医者の家に生まれたら医者になることしかないと強制もされる、それは開業医であれば医院があれば継いでもらいたいとなるからだ
でも医者に向かない人もいる、でも親の都合で強制されるのである
江戸時代辺りだと侍は侍の子として親の跡を継いでいた、そうしない禄をもらえないからだ、それで人生のコースに悩まないということにもなる
すでに決まっているからだ、その決まった通りに生きるほかないからである
でも明治以降職業選択が自由になったとき自分がどういう職業に就くか悩むようになったのである、それもまた苦しいとはなる
自由というのは意外と苦しいことになる、自分の適性にあった職業を選べるとしても簡単にそんな職業がないからである

例えば怖いのはカルト教団の家などは確実にそのコースが決められる、それは人によるが子供の時から家族ごと信仰していると完全に洗脳されてその他のことは見えなくなるのである、そしてもうカルト教団のロボットのようになり何も他のことを考えないのである
これは何かおかしいと疑問ももたないのである
それは親が家族全体がそうなのだからその方向は決まってしまうのである
そこに宗教というか家族全体がはまりこんでいるから逃れることもできないのである
特に素直な真面目な人だと余計にそうなるのである
だからそういうカルト教団の二世とかはそこから脱することが難しくなる

おそらくすべてではないにしろ医者の家に生まれていい医者になりそれが合った人も多いことは確かである、それはそれでいいとなる
でも合わない人がいるのだ、すると合わないことを一生することになる
それは患者にとっても迷惑だとなる、そういう人は優れた医者になりにくいからである
何でも好きこそものの上手なれとなるからである
医者は何か理論だけではない、手術するのに手が器用でないとうまくならないとかあり天性ものがあるらだか、何でも天性のものがありそれと合わないものをいくらやっても上手になれないということがある

自分の場合はまず父親とはまるで違った人生を生きたことになる
酒屋の丁稚奉公で貧乏だったと親が考えられない人生を生きたことになる
それはもし親が生きていたらとても許されないものだったのである
ただ早い時期に死んだから対立しないだけだったのである
引きこもりとなったり今は相当数いる、そして旅ばかりして就職もしなかった
だからこんな人生もありえたということが時代が変わったことなのである
それは親にとって想像もできない人生を送ったことになっていたのだ

親の言う通りになる人生は自分の人生を失う

つまり時代が変わるから親の言う通りになる人生は自分の人生を失うことになる
カルト教団などでもそこに親の言う通りになっていたら人生そのものを失うことになる
ただ親に逆らわないと結構楽だからそのままその道を行くことになる
なぜなら親と対立することは相当なエネルギーが必要になる
医者になれと言われても自分になれないとかあり別な道を行きたいとしても親に強制されるからだ
でも親に従っていると楽なことがある、親にいい子とされるからである
親と対立すると経済的に援助もしない自分で稼でとかなるからだ
あなたの人生は自由に生きなさいとうい親はほとんどいないかもしれない
自分の場合いは特殊な環境でそうなっていたのである
大学出ても職にもつかず放浪していたりして引きこもりであり後は旅ばかりしていたとなる、でも親にとがめられることもなかったのである
今は引きこもりが普通にいるからこれも時代が違ってきたからそういう人が普通にいるのである、もし時代が違っていたら何であれ働かざるを得ないかである

とにかく人生とは一回しかないのである

こんな人生失敗だった、別な人生がありえたとしてももう二回生きることはできないのである、そこで痛切に親の言う通りに生きて失敗したと後悔する
でももう人生は一回しかないからどうにもならないのである
その方向が決まるのは30までなのである、だから青春時代は人生の方向が決まってしまうから大事だとなる
例えば青春時代に享楽にふけり放蕩などしていると後でもう真善美とか追求できなくなるそこで向上する精神とかが奪われているからである
カルト教団に入った人は一生奴隷として終る、精神的奴隷として終わる
ただ親にしてみればそういう子はいい子だったとなるのである

親ガチャとか親のために駄目にされたとか言うけど別に医者とか恵まれた親でも親によって自分自身の人生が奪われることがあるのだ
親と全く違った人生を生きることが実はその人の人生を生きたともなる
なぜなら次代か変わると全く違った世界とか価値観に生きることがありうるからだ
親が生きた時代とはまるで違った世界に生きる
それが明治生まれの親をもった自分の人生だったのである

一見親の言う通り生きた人は親にとってはいい子なのである
それは逆に親によって子供の人生が犠牲にされたともなるのだ
また親ガチャというとき親が貧乏とかで何もできなかったとかなる
でも親が裕福でも医者の子供でも親ガチャはあるのだ
親とは全然違った社会になっていることがあり価値観も変わるからである
明治時代になったとき侍はなくなった、すると親の言う通り生きることできない
みずから自分の職業を探して自立するほかなくなったからである
また戦後でもみんな戦争のために国家のために生きていたがそれが敗戦でまるで変ってしまった、国家より自分の個性を生きろとかなったからである
明治になり戦後で社会が極端に変わったのである

それで70年周期で社会は極端に変わる、その時期が今なのである
その変わり目だから信じられないことが起きる
今までの価値観が通用しなくなる、そうした激変の時代になっているのだ
会社のために生きていてももう会社がなくなるとか終身雇用もなくなる
だから個々人で自立して生きろとかいうのもそうである
これまでの価値観が通用しなくなるのである
ただ若い人はそこから今までにない世界が開けて新しい人生を生きるともなる
70年ごとに大きな変化がくる、それが今なのである

だから今は明治時代でありまた戦後の焼け野原から立ち直った時代とも似ている
そういう大きな変わり目でありそこで大きな事件とか自然災害も起きるのである
津浪で村ごと流されて消失したというのもそうである
この辺では原発事故にもなり信じられない変わり方をしたからである
そういう激変が起きる、コロナウィルスでもそうである、何か世界的にも大きな変化が起きる、そこに相当な痛みも戦後の焼け野原のような状態にもなる
その後に新しい時代を社会を世界を見るとなる
でも戦後の焼け野原のように絶望的な状態になるかこともありうる、それは日本の貧困化ですでに現象化している
つまりどん底の貧困になり日本が飢餓状態になるということもありうる
戦後の焼け野原で食糧すら得られないということもありうる、そういう激変の時代が来ているのである


2021年12月30日

先祖の因果ー分裂不和の家で子孫も栄えず―国家の繁栄も同じ?


先祖の因果ー分裂不和の家で子孫も栄えず―国家の繁栄も同じ?


先祖の代にいじめ・家庭内暴力・兄弟対立があると、子孫にもその影響が出てくる

登校拒否や閉じこもり、家庭内暴力の問題が起きている場合、背景となっている先祖の代にいじめの問題があることがよくあります。本人は知らず知らずしているのですが、先祖の怨みが乗り移ったかのように先祖の人生をトレースしていることがあるのです。

母親の実家はとにかく不和分裂の家だった、それは再婚したためだった、その家の事情があってそうなった、継母にもなっていて自分の母親はいじめられて悲惨だったのである
そして自分の家ともうまくいかず争っていた、その原因が再婚した女性にあったのだ
それが子孫にも影響したのである、不思議に自分にとってばあちゃんにあたるとしても
そういう感覚はなかった、交流もなかった、だからその後でも親戚関係が希薄であり結局絶縁したのである、もともと絶縁したような状態だったから当然だったともなる
母親の父親が再婚した相手は気が強く二人の妻が家を出ることにもなった
結局その家は栄えることがなかった、また人物でも出なかった
実家の墓があるにしても嫁が家をでて別に家を建てて墓を建てたからそこからして分裂しているのである

ただ自分の家でも二人の女性が姉と母が争っていても姉が父が死んで父親代わりのようになって家を支えたし自分も支えられたのである
だから姉の功績は自分にとって大きいとなり感謝している
家の不思議は家というのは血縁だけではない一つの共同体なのである
その共同体でも協力することがないとやはりいくら血縁でも家族でも支えられないのである
それで家系でも離婚した家とかいろいろ不倫とかもめる家は共同体として維持できないのである、そして分裂不和になりその家に栄えがないし人物もでてこないとなる
人物も育てられないのである、だから家族が人間の基本としてあるから家族が良くないとその家は栄えないし人物も出ないとなる
ただ家系の法則でも必ず例外がある、その家は両親が父親でも真面目であり母親も正直な今にはいない珍しい女性だった、情にも篤い古い時代の良さを残した人だった
でもその息子は全くふしだらであり嫌われ者であり何もいいところがなかったのである
そして最近死んだのである、だからこれは何なのだろうとなる
家系が悪くはないのになぜそうなったのか不可解だとなる

とにかく人間には不可解なことが常にある、そこに神の采配があるのかとなる
ただ例外があっても一般的には良い家系では栄える率が高くなるし人物もでるとなる
ただ何らか家系でも必ずプラスの面とマイナスの面がでてくる
すべていいようには働かないのである、何か必ずカルマを背負っていてそれが現れるのである
それは家だけではない、その土地とかにもある、この辺では原発で一時的に栄えたがそれが裏目になり衰退してしまったからである
それがカルマとなって故郷にすめなくなったとかなり消滅の危機にもなったのである
でも原発で財を築いた人もいるのである、その富は呪われたものとなったのである
例えば誰も地域で今原発で豊かになった人を認められないのである
漁業組合とかでも事故前は原発御殿が建っていたとかうらやましがられていた

事故後も補償金で何も困ることもない、そして何かトリチウムを海に流すと魚がとっても売れないと騒ぐがそこでまた補償金交渉となり水増しされるとかなる
これも矛盾なのである、そんなことして金をもらって回りの人が喜んでいるのかとなる
もし何か漁業で魚が一杯とれてもうけたとした何も言わないのである
他にも大熊町長の五億円入った金庫が津波で流されたとかあった、それも流されて当然だとかなった、そんな金があったのかと驚いている、他にも原発で働いて金になったというのはある、原発はそれだけ金の成る木だったからである
除染でも今度は相双リテックが何十億の金を山分けしたとかある
そういうことで金持ちになった人を回りで喜ぶのか?そういう金は運霧消散してしまうかもしれないちょうどギャンブルでもうけたように消えるかもしれない
でも別に金もうけた人が悪いとはならない、何かやはり正当なものとして金儲けていれば周りにもその恵みが回ってきて別に非難したりしないのである
地域を豊かにする家とかあるからだ

そういうことは国単位でも言えるとなる、アメリカの富はどうして増えたのか?
それが世界に貢献する世界を豊かにするものならいい、確かにそういう面はあった
でも軍事力で武器を売ってもうけたとかなるとそういう国は栄えるのだろうか?
武器会社が戦争を起こしてもうけるのだという陰謀論がある、そういう国が栄えるのだろうかとなる、そういう国はやはり衰退してゆくのではないか?
中国でも一帯一路政策で自分の国だけが栄えようとして他は中国のために犠牲にするとかなれば栄えないとなるだろう
それは最小単位の共同体の家でもそうだとなる
家が栄えるという時家が拡大したのが国にもなっている、ハウスブルクとかでもヨ−ロッパで大きな国となって栄えたのもそうである、ハウスとは家でありブルクは城だからである、城とは家の延長だったのである
この辺では相馬氏がそれと同じだったのである、御家という野馬追の旗があり御家中とかあり家が拡大したものが支配者となったのである

そもそも江戸時代三百年は徳川家が支配した、継続した、それはなぜできたのか?
それはやはり家が栄えて継続したからだともなる
つまり人間の歴史の中心に家がありその家が拡大したものが国家にもなった
国の家にもなったのである、栄えた家が国家の中心になったともなる
ただ家にも栄枯盛衰がありそれは人間の社会ではさけられない、永続して栄える家などないのである

どうしてその家が栄えてまた衰退したのか?
それは国家が栄えて衰退するのとも似ている、不和分裂の家だったらとても栄えることはありえないとなる
また国内でも常に内乱があり争っていたら栄えることはないだろう
天皇とは何かというとき日本ではそうした国を治めるものとしてあった
でも南北朝時代になると全国隅々まで争乱となった、二人の天皇がたてて争ったからである、その傷痕はあまりにも深いものだったのである明治天皇が南朝の系統だったとか言われるのもそうである、そこまで尾を引いていたのである
いづれにしろ国内でも分裂して争っていたら国の栄はないのである
国家でも家の延長だからである


とにかく自分自身の家でも母親の実家は不和分裂の家だった
自分の家でも必ずしも調和はしていなかった、でもそういうことがあっても自分には家族でも力を注がれたのである、それは死んでから特に感じるようになった
結局自分のために家があったとまでなる
そのために犠牲になったのかとまでみる、ある家から一人の人物が出るとして何かそこには犠牲となって死んでいる人が結構多いのである

国家レベルでもそうである、日本だったら戦争の犠牲が三百万人の死者をだしたことである
でもその後に高度成長時代になり栄えたとなる、その結果としてその成果が現れるとなる戦争の影響は別に焼野原になってもその子供には悪いものとして影響しなかったのも不思議である、だから不思議なのはなぜ焼野原になり食べ物もないのに子供が多いのに育てられた、今の時代はその十倍とか豊かなのに少子化になっているのかわからないとなる
そしてなぜ日本は衰退して貧困化しているのたろうとなる
ただ世界の歴史でも栄枯盛衰はあるからそれが法則となっているからその結果なのかとなる

日本はこれからまた蘇り栄えるのだろうか?

富は蓄積されたからその蓄積されたものでしばらく栄える、おそらく文化面で栄えることになるのか?経済成長の後に文化面で芸術とかでルネサンスのように興隆することがあるとなる、ただそれも見えていない、インタ−ネットとかyoutubeとかの変化は確かに表現することがテーマになっているから個性を発揮する時代だともなる
マスコミとか大衆相手でもないものが生まれている、するとそこに文化も生れとなる
新しい表現が生まれるとなる、私自身が表現をプログのようなものでも写真でも出せるから駆使して出していることでもわかる
これはマスコミとかではできない、マスコミだとただテレビに出るだけでも有名人になった、でもそれはマスコミに選ばれた人でありまた大衆に選ばれた人なのである
だから本当の人物はなかなか出てこないのである

現代とは何でも大衆が力をもった時代でありあらそる面でそうである、そして大衆は文化を作らないのである、かえって民衆は民謡とか文化を作ったのである
民衆と大衆は違ったものである、大衆とマスコミは一体である
だからこそマスコミニケーションとはなっていたのである、それは文化ではないのであるマスコミは文化を創り出さなかった、文化とはそれぞれの土地に根付いて生まれているからである,マスコミがまるで国民を指導するようにもなった
裁判官にもなった、特にNHKはそうだったのである、NHKの力がどれだけ大きいものだったのかNHKはまるであらゆることを指導するものにもなったからである
それも崩れつつある、インタ−ネットとかスマホとかなり一局支配の報道はなくなり分散したからである

今年も終わるが毎日書き続けたがコメントを読むこともしなかった
忙しくてできなかった、家事に追われてそうなる
ここに書くだけで時間をとられる、結構これが負担なのである
ただ感じたことは個々人でメデアを持つことは大きな力になる
それでメデアがマスコミが第三の権力になったことを理解したのである





2021年12月28日

人生百年は長期戦 (陰の性格の人は後半戦に強いー引きこもりは陰の人になる)


人生百年は長期戦

(陰の性格の人は後半戦に強いー引きこもりは陰の人になる)

陰の魂の質は、穏やかさ、清らかさ、静けさ、安心感など・・・あまり目立たずに陰から人を支えたり、他者に調和や平和を届ける様なエネルギーになります。
陰の魂の持ち主とは逆に、陽の魂の持ち主は、社会の中で特に評価されやすい傾向もあります



人間の性格で陰陽がある、陽は前向きで明るくばりばり行動する力があり目立つし人を導くこともできる、人も集まる、そして早い時期に成功しやすい
一方陰の人は何かと社会でマイナスに見られる、陰気でありとっつきにくいとか社交的でないとかなる、そうしてどうも引きこもりになる人が今や60万なのか多い
陰の人は社会で率先してばりばりやれないからだろう、そこでつまづくとなる
社会にでて引きこもりになりやすいのが陰の性格である
注目されるのは陽の性格の人である、女性で明るく目立つ陽の性格の人は好かれやすい
何か大人し控えめな人は損するとなるかもしれない

陰の人はこうして社会では不利な面が多い、でも自分の性格を知って陰の人も力を発揮することができる
人間の謎は必ずあらゆる面で有利なことでも不利になり不利なことでも有利になる
大軍でも強国でも少数の国と戦い負けることもある
だから何が有利に働くかわからないのである、だから自分の性格が陰だからと悲観することはない、ただ己を知ることが大事である
陽の人がうらやましいと陽の人のように生きるということはかえって苦しくなり失敗する何が自分は陰であり人と付き合うことは苦手である、人と逢うことだけでひどく疲れるのである、だから引きこもりになったのだと思う
引きこもりになるのは陰の人だと思うからである

陰の人には陰の人に逢った生き方がある、陰の人は内面的なものの追求に向いている
実業家とか政治家とか大勢の人の上にたち目立つ人となるのは向いていない
陰の人は芸術家とか思想家とか学者とか内面的なものを追求するのに向いているとなる
それは必ずしもチームワークでするのではなく一人でもやれる仕事だとなるからだ
ただ研究者でもチームワークが必要だともあり何らか仕事をするには協同する必要があるから一概には言えない
でも陰の人はいくら陽の人が成功しやすい社会に認められやすいからとまねることはできない、そうなるとかえって苦しくなるからだ

歴史をみても信長は陽の人であり秀吉も陽の人であり天才的であり率先して人を導くことができる、華々しく活躍する天才でもある
でも家康となる何か地味であり華々しいという感じがない、陰の人の感じになる
でもなぜ彼が最後に天下をとったのか、治めたのか?
それは家康が特別優秀な天才でもない、その前に陽の天才だった信長が殺され、秀吉も死んだからである、痕に残ったのが才能もたいきしてなかった家康だったともなる
家康には特別天才的なものがなくても忍耐力があったとなりたまたまマラソンで走っていたら前を行っていた人が脱落してしまったともなる
長期戦になったら特別強い人が優秀な人が死んでしまったということで家康が最後に天下をとった、それより長期戦の結果天下が自ずと転がりこんできたともみる

70以上になると結構同期でも死ぬ人が増えるし病気になる人も増える
マラソンに例えるならばたばた落後する人が増えてくる、ただ人生百年となると結構長丁場の戦いにはなる、元気な人も多い、でもやはり結構病気になる人死ぬ人が増えるのである、人生の競争でも脱落してゆく人が増えるのである
要するに長生きするだけでも勝利者にもなるのである

だから陰の人は後半戦に強いことを今私は自覚した、陽の人は前半戦に強い、ばりばり力を出して成功しやすいとなる
そういうことで陰の人はあせらないことである、なかなか前半戦では成果が出ないのである、でも陰の人でも引きこもりでも何か好きなことでも積み重ねることがあればやがて芸術でも学問でも思想家としても大成するともなる
陰の人は理解力でもなかなかつかない、陽の人は物事でもなんでも理解してしまうことがある、陰の人は何か成し遂げるにも理解するにも時間がかかるとなる

ただ陰の性格の人は人生の後半戦で力を発揮するようになる、それも人生百年となると
50歳以降にすらなる、60でも70歳以上でもそうである
普通の人でも80歳まで働くようになる、それは経済的にそうなるというがそうでなくても人生百年は長期戦になる
そして何か人間はやはり成長しつづけるものである、例え陰の人でも目立たないが木のように時間をかけて成長しつづけて大木になる
それは時間によってそうなるのである、必ずしもその人の才能によってなるとは限らないのだ
現実有能な人でも早く死んでしまい何か実りとなるものを残せなかったともなるからだ

つまり人生百年を生きる心構えが若い人でも必要になる、人生は長期戦であり将来はどうなるかわからない、だから黙々とでも引きこもりでも社会に適合できなくても認められなくても長い目で淡々と積み重ねる、努力することが必要だとなる
でも若い時は50年後先など見えない、だからたいがい60くらいで死ぬと見ている
でも実際は本当に90から100歳とかまで生きる時代になっているのだ
全部ではないにしろ病気になる人も多いにしろそれが平均的になってくるのだ
だからこの長期戦をどう生きるかを考えねばならない
とにかく人間というのは動物とかと比べても成長するのが遅いのである
でも成長しつづけるとういことがある、それは木とかと同じである、成長するに時間がかかるのである、何か理解するのにも時間がかかる

だから本を大量に読んでもいても理解していなかった、今になると理解力がついてきたからその言わんとすることがすぐに理解できる、そして自分の文脈で引用できるのである
大器晩成というのは別にもともと大器でもない、長期戦を生き抜いた結果として晩成したということになる
時代にもよるが平和な時代には長期戦になる、特に長寿社会になるとそうなる
戦前でも正岡子規も36歳くらいで結核で死に啄木も27歳で結核で死に宮沢賢治でも36歳くらいで死にとかとにかく結核で死んだ人が多い、結核は若くして死んだから悲惨だったのである、また戦争でも有能な若い人が将来を嘱望された人が死んだのである
このように人間の才能とかは天賦の才能に恵まれていても開花することがむずかしいのである

つくづく自分が才能などたいしたないのにこうしてそれなりに開花ししてきたのは家族に恵まれたためである、自分の家族をふりかえると自分のためにあった、自分を育てるためにあったようにすら思うようになった、みんな死んでそう思うようになった
父親は酒屋の丁稚奉公であり母も戦前は貧乏であり苦労の一生であり陰の性格だった
でも百才まで生きた、そして陽の姉がいて私に尽くしてくれた
父の違う兄は不幸であり不遇であり交通事故で死んだ、こうして何か私の家族全部が私のために犠牲のようになったとみる

こうしてなかなか一人の才能ある人間すら簡単に才能を開花させることはできない
それは時代の影響もある、戦前のような貧乏な時代になるとなかなか才能を開発できない戦後でも焼け野原から始まった、家には一冊の本もない、その後でも本屋にしか本がないそれも百万分の一くらいしかないとも今になると見る
子供部屋もなちかことおじとかもいない、子供部屋がないとなかなか落ち着いて自分の勉強ができないとういことがあるからだ
現代だとこうしたものがさらに整ってきているから有利である
こうして時代の差がありそれでそれぞれの個性的なものを追求できないのである
つまり人間はそれぞれに才能があったとしてもその才能は開花できないのである

つくづくこれからの人生は百年であり長期戦である、例え最初はびりでも最後に一番になることだってありうる、先を行っていた人たちも脱落してくる
だから先がわからないのである、ただひたすら黙々とマイペースで走っていたら前の人が脱落して一番にっていたということもありうる、それが人生百年の意味なのである
だから若い時に人生をあきめることはない、ひたすら走りつづけることである
ただこのことが若い時に理解できないのである、若い時自殺するような人はそうである
ともかく生き続けることである、人生はどう展開するかわからないのである
でも日々の努力は怠らないことである、ささないなことでも後で花開くとういことがあるからだ


本格的な怪物は母の胎内での期間が五万年、十万年かかるべきものなのだ
80万年無駄飯くらってやっとよちよち歩き出るような人間、いや超人間になりたい
(単細胞的思想ー上野霄里)

自分の性質が活動的な仕事に向いているか、それとも有閑のうちに研究ないし黙想することに向いているのか、である
そして自分の才能に導かれる方向に傾いていかねばならない

心が俗事や陳腐なことを軽蔑するとともに、聖なる霊感を受けていよいよ高く舞い上がればその時こそ遂に死すべき人間どもの口には崇高すぎる歌を吟じるにいたる
心がある高く険しいところにあるものに達するには正気である限り不可能である
心はすべからく陳腐なことから遠ざかり轡(くつわ)をばりばりとかみ、己の指揮官を急がせてかつて自分がら恐れて登らなかった高みへ引き立てて行くべきである
(セネカー人生の短さについて)


上野霄里氏は天才であり天才的思考になる、若い時であったがこれも理解できなかった
ただ天才は凡人には偶像化するから危険ではあった、ただその言うことは今理解できる
人間は長期的に見るべきであり人間は成長しつづける存在なのである
若い時は理解できなくてもやがて理解するようになる、だから若い時理解できなくても本を読んでおいた方がいいとはなる
天才は努力を否定するから凡人とは違う、その言うことは理解する

凡人でも

心が俗事や陳腐なことを軽蔑するとともに、聖なる霊感を受けていよいよ高く舞い上がればその時こそ遂に死すべき人間どもの口には崇高すぎる歌を吟じるにいたる

これは修養なのである、修行をしつづけることである、天才的な人は修行しなくても一挙にわかる、でも普通の人はには修養とか修行が努力も必要なのである
だから不浄を拒否して山に籠もり修行したのである
俗世間に染まらないことなのである、それは宗教だけではない、芸術でもそうである
それは崇高なものを目指しているからである、そしたら俗世間に染まってしまったらその崇高なもの純粋な自然の美を見ることもてきないからである
今の宗教は政治経済化して組織集団化しているから俗世間の価値観しかない
かえって欲がないのはエネルギーないとかなり俗世間より以上に俗世間的な場所なのである、そんなところで心が浄められるとか全くない、全く不浄な人々の中にまじりそれが普通となり汚れているのである

だから引きこもりでもそうした不浄な世間と交わらないということで黙想して浄化する
そこで自然の美も見えてくるとなる、ただここにはやはりマイナスも大きい
それでアウトサイダーには狂気になった人が多いのである
ただこうして引きこもりでも黙想して不浄を拒否して生活していれば自ずと神聖なものでも自然の美でも見えてくる、それで私は今それを詩とかにしたものを発表している
百遍以上の詩はまだ発表していないからである

とにかく人生百年時代を生きることは若い時は序の口だからそこであきらめることはないただ正直若い時に方向が決まってしまうことが怖いのである
カルト教団から脱しなかったらそのまま一生そのままつづくということが怖い
そして人生そのものもを失ってしまうのである
それが極端化したのがオウムだし他の創価でもなんでも宗教の組織化集団化したものは同じなのである
それで若き時に神を知れということが重要なものとなる
若い時に方向が決まる、偶像崇拝していたら生涯偶像崇拝のままである
そしてオウムの麻原とか創価の池田大作とかでも偶像を拝みつづけるから怖い
宗教で一番大事なことは偶像崇拝しないことだからである
でも宗教でも偶像崇拝していることが多いのである、組織集団化した宗教はそうである

今年も終わりだけど私の中でこうして引きこもりでも不浄を拒否して黙想していても
それが実ってくることはある、それも30年以上とかそうだったのである
だからこの年月が何だったのか?それは今の実りへとつながるものだったともなる
そこにマイナスな面も大きく失敗したが引きこもりが無駄とはならなかったのである

2021年12月10日

時間の貴重さが自覚できない (あなたの時間を奪われるな-消失しやすい時間)


時間の貴重さが自覚できない

(あなたの時間を奪われるな-消失しやすい時間)


3000円の時計を買ったが壊れたので使えない、それで何度も損した悔しいとなる
その損は3000円だから何かかえって計算しやすい身近になるから悔しいとなる
でも例えば百万円損したとかなると意識しない場合すらある
貯金の額でも大きい人は意識できないのである
かえって千円とかでも意識しやすいから損したとなり忘れられないのである
人間は何でも大きくなると意識しにくいのである、細かいことは意識するのである

時間は一時間損したとか意識しない、千円なくしたときのように意識しないのである
若い時だと特にそうである、時間がいくらでもあり暇で暇でしょうがないとなっているでも30過ぎる辺りから時間がなくなることを多少は意識する、40才になるとあれ白髪でてきたなとか40だと先がみえてくる、要するになにかしようにもこれまでしたことが学んだことが問題になるのである
何か新しくしようとする時間がなくなるのである、そしてあっというまに60過ぎて老人になる

人生をふりかえると旅行とかで海外旅行で20代とか30代とかの人とあった
でもすでに海外旅行をしてから十年以上していない、その時逢った人もすでに40くらいになっているかもかもしれないし20代でも30代後半になっている
だからこれも本当に不思議でありこんなに時間が早くすぎるのか、それは先日逢ったようにさえ思うからである、人間の出合いも瞬間的だとも思った
あの人と逢ったことあったな、あれからもう十年以上すぎたのか、そして永遠に逢わないなとなっている
まず人間は十年以上合わないと相当に人間が変わっている
子供の時一回しか合わない親戚の女性は別人のようになっいた、とても普通の人間ではないと見た、それは子供の時しか逢っていなかったからである
人間の世界はこうして常に変化でありこの年になると昨日逢って話したけど死んでいたということもある、それが隣の女性だったのである

人間はまず時間を意識しない、時間は金のように意識しないから時間を失っても損したと思わないのである、でも老人になると痛切に意識するのである
それは何かをするにも学ぶのにも時間がなくなるからである
「少年老い易く学なりがたし」となる光陰矢の如しともなる
だから退職して何かを学ぼうとする人が増えているのもわかる
60の手習いとかもありうる、でもやはり人間はつくづく積み重ねが大事である
新しく学ぶことは簡単にはできないのである、人間の時間は限られている
老人でも今まで積み重ねてきたことだと素人でも専門家にもなれる
でも新しく一から始めることは趣味でもむずかしいとなる

だから金は常に意識している、百円でも千円でも強烈に毎日意識して使い失えば悔しいとなる、でも時間は金のように意識できないのである
そして金と時間がどちらが大事かとなると金も大事であるが老人になると時間が大事になる、先がなくなるからだ、人間の成すこと何でも時間がかかるからだ
老人になって投資に向いていないのは時間がなくなっているからである
長期的視野で投資できないからである、利益を上げる前に死んでしまうということもある
その他でも人間は何をするにも時間がかかる、それはあらゆることでそうである
家族でも一緒に過ごす時間がなかったら親密になれない、母親でも一緒に過ごす時間がなかったら親子にもならない、その母親は5歳まで一緒いて育てた娘がいてもその娘が母親とも思っていない、でも誰も頼る者がいない、それで認知症になって頼ったが金を頼りにされるだけだから悲劇である
子供の時一緒に生活していないなら母親ともならないのである
それで実の母親でもなくても血がつながらなくても母親として世話していたら実の母親となるのである
動物でも子供の時、猫でも犬と一緒にいると犬が母親にもなるのである
つまりこうしてなんでも親しくなるにも時間がかかる

そして時間は限られている

人間が親しくなるとか共同するにも時間がかかる、夫婦になるにもやはりすぐに結婚しても親しくなれない、理解てあい信頼するには時間がかかる
だから離婚してまた結婚してとかなるとそれも時間がかかるから離婚は相当に不利だともみる、新しい人間関係を作るにも時間がかかるからだ
何度もやり直すとういことが人間にとってむずかしいのである
それで転職することはかえって苦しいとなる、なじんできた会社から出て新しくまた人間関係でも作ることはむずかしくなる、50過ぎたりしたらそうである
今までなじんだ所が不満があってもいいのである
そのために原発事故で故郷から避難した人は故郷に帰りたいとなる
新しい場所に簡単になじめないからである
人間にはそんなに転々として移動しても簡単にその場所とか人間関係でも作りにくいのである、なぜなら時間かかるからだ、そのために農家では三代住んでいなと認められないとかなることもわかる、土地を基にした農民だとそうなっていたのである

お手伝いさんでも十年働いていた人は信頼できる、でも新しい人だと信頼できないのである、何か百人もお手伝いさんを変えた金持ちの家があった、そんなことで信頼関係は築けない、信頼し合うだけでもそれだけ時間がかかるのである
なぜ封建自体に強固な主従関係ができたかというと何代にもわたって同じ主君に仕えていたということがあるからだ、代々仕えていて信頼関係が時間の中で作られていたのである
いくらグロ−バル化して空間を広げても人間の信頼関係とかは時間で作られる
だから世界となると国々でも民族間同士でも信頼しない、戦争になるとなる
いくら物が入ってきてもその国の人と信頼があるとか親しくなるとかないのである
それには時間がかかるからである
エジプト文明が三千年ありローマ帝国でも300年とかつづきそこで培われたものがあるそこにも時間がありできたとなる
現代の問題は速成して時間をかけないでインスタントになる、そこで重みがないのであるつまり時間でしか作れないものがありそれが問題なのである

私のプログでもすでに15年くらいしている、するとその蓄積したものがある
自分の書いたものでも忘れていてもう一度自分の書いたものを読んで感心している
また過去に書いたものをまた新たに発展させて書くこともできる
それで今いろいろとまとめている、もう一つは記録を保存するためにまとめている
それが量が多いから作業として大変になる、時間がかかる
何かこのインタ−ネットというメデアでもプログに書くにしてもやはり手間がかかり時間がかかる、手間だけは省けないのである
それで自分の記録したものも膨大になりそれを見直したりつけ加えたりすると時間がかかるのである

ワードプレスとかもしようとしてもスキル的にめんどうだともなる
つまりスキルでも覚えるのに時間がかかるのである
こうして何でも時間がかかる、そして時間は老人になるとなくなるのである
投資にしてもデイトレーダーとかなると一日パソコン画面を見ているようになる
すると他に何もできなくなる、また社長でも忙しくなり他のことはできなくなるという
大きな金を稼いだとしてもそこに時間が奪われる、そして自分のしたいこともできないとかなる
画家だったら絵を描くことに専念すべきなのだが時間をとるべきなのだからその外のことに時間がとられて肝心の絵を描くことに集中できない、時間がないとなる
こうして金と時間を比べると人間はいかに時間を無駄にしているかとなり老人になるとみんな後悔しているのである、つまり時間切れになり何もできない、後は死ぬだけだとなってしまうからである



奪われる時間

時間は常に奪われている
自らも時間を失っている
しかし時間は意識できない
金のように意識できない
計算も大ざっぱでありできない
だから時間は失いやすい
時間を失われたことに気づかない
それで時間は奪われやすい
時間を失うことは奪われることは

人生を奪われると同じだ

組織団体とかでもは奪われる
そこに奉仕して何を得られるのか?
ただ貴重な時間が奪われる
つまり人生そのものが奪われるのだ
あなたの時間を奪うものがいくらでもいる
わずかの金で労働者は時間を奪われる
あなたのすべきことは別にあった
あなたの人生は時間をどう使うかで決まる
何かするにも学ぶのにも時間がかかる
親しくなるにも時間がかかる
信頼を培うにも時間がかかる
でも時間は限られている
あなたの時間はたちまち消失する
もう老人になると時間は黄金にも優る
死ぬとはあなたの時間がなくなることだから

あなたの時間を奪われるな!

時間を奪われることはあなたの人生を奪われることだ
それを肝に命じよ
あなたが時間を何に使ったかか人生になる
体験する学ぶ時間があなたの人生を作る
ただあなたの時間は常に奪われる
自らも時間を浪費している
そして最後に時間は消失して人生は一瞬だったともなる
それほど時間は消失しやすい
時間は極めて限られている
その時間の使い様であなたの人生は決まる
金を求めても時間を失う

金に使われるなかれ!

あなたの人生の時間を生きよ
あなたが奪われたのは間であり
またあなたの人生そのものだったのである
あなたの時間を全力で生きよ!
そこにあなたの報いがあり実りがある
それはそれぞれの人によって違っている
あなたの報いと実りを得よ
さすれば人生に後悔はないとならむ






2021年12月08日

(人間が消えた方が自然には良かったーSDGs(持続可能社会ー老子の思想) ドラマの一シーンから


(人間が消えた方が自然には良かったーSDGs(持続可能社会ー老子の思想)

ドラマの一シーンから

「何か協力したいのですが・・」
「今何ができるというんだ」
「何かはあると思うですが・・」
「何もないよ」
「何かあると思うですが・・」
「うるさいな、あえて言えばお前が消えることだよ」
「・・・・・・・」

テレビドラマの警官同士の問答だけどこういうことがある
この世を良くしようとしても本当はその存在自体が悪になっていること邪魔になっていることが結構多いのである
それは人間だけではない、技術にもありうる、物でも機械でもありうる
原発などなかったらいいとかある、それが大迷惑になるものだったからである
核など科学者が優秀でも発明してそれが人間社会にとっていいものだったとかとなるとならなかった、原子爆弾となり核戦争で人類が滅亡する恐怖にふるえなければならなくなったからである

「核技術は人間にとって必要だ
これなくして人類の人間の幸福はありえない」
「そんなことはない、むしろ災いにもなるから慎重にすべきだ」
「リスクは何にでもある、リスクを恐れてはならない、そうしなければ進歩もない」
「それが疑問なんですよ、核が無くても人間の幸福は追求できる
むしろ核がない方が良かったのです、進歩ということはこれも危険なものがあったのです」

何かこうした逆説が常に人間社会には成立つ、あるよりない方がいいのである
そうしたら人間がいない方がいいとかなる
地球の災いの最大の原因は人間にあるからだ
人間が増えたことによりグロ−バルな災いが生れた、グローバル化した結果世界大戦になったともなる
江戸時代は中国の脅威もなかった、韓国とも友好的だった、グロ−バル化で友好が促進されることにもならなかったのである

中国の脅威はアメリカより過酷になる、中国人は近いから今でもそうだが住みつくからである、そして住むことによって中国人が日本人の上に立つことになる
そうなるとウィグルとかチベットにもなる、中国人社会にされてしまうのである
漢族中心の社会になる、チベット人は迫害されてネパールに逃れていた人と逢ったからである
中国には依然として十何億もいまとしたら日本に送り込まれて漢人が支配する社会になるそれはアメリカが支配するのとは根本的に違う、ウィグルとかと民族同化になり同じになるのである、そこに中国の最大の脅威がある
老子の思想にひかれるのは人間も数はいらない、小国寡民であり治めずして治まるとか無用の用とかを言ったことである、つまり二千年前にすでに文明を否定していたのである
だから鍬まで使うと人間がそこなわれるとまで言ったのである
道具とか機械まで否定したのである

今の状況が現代文明が老子が警告したようになったともみる
無用の用が必要でありいらないものが多すぎる、人間でも多すぎる
この世を良くしようとしてもそもそも人間が邪魔だから消えることだとなる
経済成長一点張りとかも否定される、小国寡民の思想はコロナウィルスでもこれから経済成長とかばかりを目指す社会ではない、グロ−バル化はかえって災いも大きいものだっからである
これに賛成する人はいないがもし人類を地球で養うのは限界でありだからこそSDGs(持続可能社会)持続社会が望まれているのである

 衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

 このように人間は文明を作ったけど着飾ったけど結局それも美とも言えない、浪費だともなる、そんなに体にまとうもので着飾っても人間自体は美しくならない
 それより自然界では鳥でも何でも着飾っていない、それで自然に調和して美しいのである、人間はいくら着飾っても人間そのものが内面が汚れている
 だからむしろ人間はこの自然の汚点であり消えた方がいいということが成り立つのである

本当の美は白鷺でも白鳥でも自然そのものに同化しているものである
何も着飾っていない、人間の造りだした物がなぜこんなにに醜悪になっているのか?
それは大都会を見ればわかる、そこに美はないからである
つまり大都会自体が醜悪なものだということである
何か協力したいのですが社会を良くしたいのですがと人間が寄ってきてもかえってお前がこの世からいなくなることが最もこの世を良くするともなるのである
人間を見ればそうなる、そうして私は人間嫌いになり引きこもりになったのである
人間は見たくないとなったのである

成さずして成るというとき人間は成し過ぎたのである、科学技術でもそうである
様々なことを自然に手を加えて成し過ぎたのである、老子の思想は植物的思想である
山や木や石は何も成さない、ということは自然界に災いをもたらさないのである
自然に調和していれば成さなければ原発事故で故郷に住めなくなるということなどありえなかったのである
この辺はそういう人類の教訓の場にもなったのである

「私は社会を良くしたいのですがどうしらいいですか」
「あなたは何もしないことです、むしろ消えることです」
「えええ、そんなことありえない・・・・・」

これも逆説なのである、社会に有用になろうとしてもそれが災いにもなるし人間そのものが自然に調和しないものだからそうなる
何かそういうことを思わない、役立つものとして必死になっているのが人間なのである
役に立っているという時、大きな自然界からみればそうではない、害悪になっている場合がある、社会に役に立つとしてもそれは小さなことでもある
人間が社会でもいくら役たとうとしてもたかがしれたものになる
役立つという時本当に役立っているのは自然界である、でもこの自然界に感謝する人もいないのである、第一空気とか水に感謝する人はいない、ありふれたものに感謝はしない
原発事故でこの辺は空気すら吸えない、水すら飲めない状態になったのである
つまり人間が余計なことをして成してそうなったのである

むしろ人間は悪を成すのであり悪を成さざるをえないのである、なぜなら欲があり欲を充たすために悪を成す、何も成さないでいられないのが人間なのである
そうして人間の災いは尽きることがないのである

みちのくに安らぎあれや山眠る

みちのくの大地に抱かれて眠る
静寂の大地に抱かれて眠る
そこに人間の顔も見ない
不平は限りなく尽きることがない
石はただ黙して大地は山は眠る
聞こえるのは枯野に風のうなる音
人間の騒擾は消えて休みに入る

みちのくという場は安らぎと休息に向いているのである、東京から大阪とかまでは活動の場であり騒々しいがみちのくの効用は安らぎと休息の場なのである
それも必要なのである

東京を電車で離れみちのくへ秋の陽映えて沈みけるかな

みちのくへというときまさにこういうふうなのがふさわしいとなる
ただ東京にも十年以上行っていないから遠くなったとはなる

2021年11月27日

親ガチャでも責任は親はとらない (自分の人生は自分でとらされる−人生を後悔しないために)


親ガチャでも責任は親はとらない

(自分の人生は自分でとらされる−人生を後悔しないために)

親ガチャというとき親によって人生でも決められる、それから逃れることができない
親によって人生の行路が決められる、いい親に生れたらそれだけで人生は楽勝だともなる確かにそういうことは多い、親によって大きな差が生まれる
でもそういうことを言っても人生の責任は自分でとらされる
親に不満であっても親を何やかにやといっても親は子供の人生に責任をとらない
個々の人生の責任は何であれどんな親にもかかわらず自分自身とらされるのである
親の言う通りにして失敗だった、自分の道は他にあったとなっても最後はどうにもならない、ただ後悔だけになる、そういう人も多いだろう

また会社でもこういう会社に勤めているべきでなかったとしてもそうである
それは会社の責任でもないし会社は一切責任などとらないのである
人生の責任は最後は自分でとらされるのである
「あなたの責任でそうなったのです」となる、親どうのこうの会社がどうのうこうの組織団体がどうのこうのと言ってもそうなのである
その人たちは組織でも団体でも個々の人生など考慮していないからである
ただその人の人生など見ていない、人材を見ているのであり材とは全体ではなく何か役立つものとして材になるものとして採用しているだけである
その人の人生がどうのこうのなど関係ないのである

組織団体というとき国家さえそうなのである、国家は個々人の人生に責任をとらない
戦争でわかるように人生を国家のために捧げても地獄の様な苦しみを受けて死んでも国家は責任はとらない、ただ英霊として祀ることはしたがそのことで死んだ人が報えられたかとなるとそれもわからない、20代とか30代で死んだらどんな人でも無念が残るからである、結局国家のために犠牲にされたともなる、別な見方があるにしろとてもその人なり人生があったとしても国家のために犠牲にされたとなる
でもその責任を国家はとらないのである

組織団体というときカルト教団などでもそうである、そういう組織団体に所属して生まれた人がいたとして親がその幹部とかなっているとその人の人生は組織団体を生きるのであり個々人の人生は生きない、そういう人を創価とかで知っている
親が幹部だしそれで議員とかなっていて大学まで出たとかなるからもう経済的にも利益でもあらゆることが一体化しているからその組織団体と身も心も一体化して人生の行路がすでに決められていてそれ意外の道が見えなくなっていたのである
疑問をもつことすらない、宗教を求めることでもない、宗教団体でも宗教を求めないのである、ただ組織団体の権益利益と権力追求しかないのである
ただ親でも家族でももうそこに身も心も捧げているからその外のことは何も見えないのである

そこで宗教に対しての求道心など何もないのである
これも親によって人生の進路が決められていた、でもその人生の責任を親はとらないのである、親は子供を産む、育てる、でも人生の責任は負わないのである
それは別に金持ちの親でも同じなのである
医者の家に生まれたら医者になれとなる、家業を継げとなるが自分は医者に向かない、別な人生を生きたいとしてもできない、でも自分は医者には向いていない別な人生を生きるべきだったとしても後悔しても誰も責任をとらない、自分がとらされるだけなのである

結局人間はなんらか常に責任を負わされている、でも責任はとらないのである
原発事故でも「安全神話」を作った政治家でも官僚でも東電でも何ら責任をとらない
官僚に天下りした検事でも海上自衛隊でも警察官僚でも責任はとらない
ただ法外な金だけをもらっていて返すこともないのである

でも必ず誰かが責任はとらされる

この辺では故郷に住めなくなったということで大きな責任をとらされたのである
戦争では三百万人の国民が死んだのである
戦争責任は誰にあったのか?これもはっきりしないがやはり戦争を決行した人達上層部の人達がいたがその人達の責任ははっきりしないのである
終には天皇に責任があるとして問われたこともあったのである
天皇が戦争を決行することを命令したとされてそうなった

ともかく20代で方向が決まってしまう、20代でいろいろ悩む、でも親がどうのこうのと言っても親が責任をとらない、だから親が悪いとしてもいくらそうだったとしても責任をとるのは自分自身なのである
確かに親は一応飯を食わせていろいろめんどうはみる、でも子どもの人生の責任を全部とることなどないのである、だから親の言いなりにされて自分はそうすべきではなかったとしても親は子供の人生の責任をとらない、とるのは自分自身なのである
だから親ガチャであり自分の一回限りの人生を無駄にしても親は責任をとらない
とらされるのは自分自身なのである、俺は親の言う通りにして失敗だったとしても親は責任をとらない、とらされるのは子供自身なのである

ともかく親ですら確かに一応いろいろ世話はするが子供の人生は親とは別であり子供子供の人生を生きる、親がどういおうと自分の人生は自分自身が決めるとしないと後で後悔する、つまり誰も個々人の人生の責任などとらないからである
とらされるのは自分自身だけである、こうして自分は生きて良かったとなればいいがただ誰かのために親のためにとか組織団体とか会社のためとかに生きて自分自身の無駄にしたとなると後悔する、ただそういう人は多いだろう
だから自分自身の人生を生きることは容易ではないとなる
親に反対されたとかいろいろあってむずかしくなる
生活が第一だとなったりするから親の影響が大きいからそうなる

ただ本当に怖いのは20代で30まで人生の行路が決まってしまうことである
20代で引きこもりになると一生引きこもりになるのも怖いのである
北朝鮮に全日空の飛行機をハイジャックして北朝鮮に渡った赤軍のメンバーは日本に帰ってこれなくなった、そして子供が成人にまでなっていたのである
北朝鮮はその時楽園だとか宣伝されていたのである
そこは実際は地獄だったのである、でも北朝鮮で子供が成人するまで生活して日本には帰れなくなったのである、つまり20代で人生の方向が決まるということが怖いと思った
すでに親によって決められる人生も怖い、そうしてその責任は誰もとらない、親もとらない、自分自身がとらされるだけなのである

そういう自分は特別に親に恵まれて好きなことをしていた、会社に勤めるのもあっていないし引きこもりで自由に好きなことをしていたのである、だから今でも死んでも親に感謝しているのである
このマイナス面も大きかったが好きなことを追求で来たから自分にとって自分の人生を生きたとなるのである
親との確執が何か必ずあっていいのである、それが全くないということ自体問題なのである、それは全く親の言いなりであり親は子供の人生全体まで責任など持たないのである
医者が子供に医者になってもらいたいというのは継いでもらいたいというのは親のエゴであり子供のためではない、子供には子供の人生があるからである
だから親の言いなりになって自分の人生を失うことは後悔するとなる
人間の問題は二回人生を生きられない、一回失敗したからまたやり直すことができないのである、だから30までに人生の方向が決まりほぼ確定してしまうことが怖いのである
それもあっというまに過ぎてしまったとなるからである


2021年11月24日

運が決める成功、財産も金運も運 (松下幸之助は「人間90%は運命」と考えていた)


運が決める成功、財産も金運も運

(松下幸之助は「人間90%は運命」と考えていた)

fortune 運、幸運にもこと、幸運、果報、繁栄、成功、出世、運勢、(将来の)運命、富

わしは運命が100%とは言っておらん。90%やと。実は、残りの10%が人間にとっては大切だということや

電気屋の仕事をやるにしても、わしがもし大阪でない別のところにいたらどうであったか。電車を見ることもなかったから、電気の仕事をやろうと、ひらめくこともなかったやろうな。たまたま大阪の街におった。特にとりたてて力のない平凡なわしが、一応仕事だけでも成功したということを思えば、なおさらのことやな。

松下幸之助というとき特別な優秀な人で成功したとみるのが普通である
でも違っていた、こういうことを言い残したのは自分は運が良かったなと一生をふりかえり思ったからである
成功した人と金持ちになっている人を見るといい、どうして金持ちになったのか?
そこに運が大きく作用しているのである
第一生まれた家とか場所とか才能とかでも親から受け継がれる、すると親とか生まれた場所とかで相当な差が生まれる
教育格差は都会に生まれた人と田舎に生まれた人ですでに相当な差がある
田舎だともう学校で公立しかないし決められている、洗濯の余地はないからだ
その後でも知識習得の格差があった

田舎だとまず専門的な本など置いていない、図書館にしてもたいしたものではない
まず田舎だと本すら買えなかったのである、そしたらどうして勉強するのかとなる
それで一週間に一回とか仙台市に行って本を買うほかなかった
でも仙台市でも本は限られたものしかなかった
インタ−ネットでこんなに本があることに古本をふくめてあることに驚いた
書店に置いてある本は都会でも何万分の一でもない、百万分の一くらいしか置いていないかったのかと見る、それほど本は多かったのである
もしそうして自由に本を選び読んでいたら専門家になれていたとなる
ここからして格差があったから都会に住む者と田舎に住む者では住む場所で差が生まれていた

ただだからといって田舎がすべて損になるとはならない、田舎では自然と日々接するから感性が磨かれる、例えば俳句などでも四季があり季語を感覚的に実感的に覚えるには田舎の方がいいのである、私の場合はそうしてたいして才能もないのに時間があり家に恵まれて自由に生かされるたからできた、引きこもりであったが家族に責められることもなく30年間過ごした、このマイナス面も大きかったがプラスの面も大きかったのである

何か運が作用している時具体的な例になると誰かが死ぬと誰かに運が回ってくる
これは確かなことなのである、ある人が親しい男性の妻が死んだ結果として嫌だった夫と離婚した、そして親しい男性の妻が死んだのでその家に自由に出入りしたのである
また自分の家に来たのも私の家族が全部死んだからである
もし家族がいたらその人と付き合う必要もなかったのである
そもそも私が生まれたのは母親が前の夫が事故で死んで後妻に来たためである
その時子供がいたけど連れ子になり自分の家でいい待遇をしなかったのである
その後集団就職して結婚したがそこでうまくいかず交通事故で死んだのである
そのことで私は悪いと兄の墓を墓を作り墓参りしているのである

誰かの不幸が幸福になり誰かが死ぬと誰かの運が良くなるというのも確かである
それを猫を飼ってわかった、最初飼った猫はどこかに帰えて帰らない、死んだのである
一か月くらい帰らないで尻尾をいたずらして焼かれた不運があった
でも帰ってきて世話していたのである、その猫はなれていた、でも死んだのである
次になぜ今の猫に餌をやっているのか?
それは前も来ていた、でも餌は飼っている猫にしかやらなかった
でも飼っている猫のを餌を奪いとりにきていたのである
それで追い出していたのである、そのたなのか、その黒い猫はずっと餌をやっいるがなれないのである

でも自分としてもなぜ餌をやっているのか?

その猫がかわいいということでもない、何か一人になって淋しいということがあり餌をやっている、でも家にはあげないから飼っているとはいえない
汚れるので家の中には入れないのである、でも窓から顔を出すので餌をやっている
今日は安かったカツオのさしみまで与えた、それは特別安いものだったからである
でもぜいたくだと思った、前の猫にもそうして少しは分けていたのである

こういうことは自分自身で何か同情するとかでもない、たまたま来ていて自分が淋しいとかあり猫が来たなとなり与えている、その猫は今まで家に来た時は追い出していたのである、だからなれないのかと思う
要するにこれも全く運なのである
運はめぐってゆく、恵みはめぐるであり回ってゆくのである
金は天下の回り物というときもそうである、金は必ず一か所にとどまらない、めぐってゆく恵みとなるのである、ある地域で金持ちが豊かな人がいるときその土地になんらかもたらす恵みがありそれが地域にめぐってゆくのである
最初は一家族でも全体に及んでくるのである
何か特産物が作りだすというとき最初は篤農家がいてその土地にあったものを作りだす
それを回りの者もまねて豊かになるということがあるからだ

それはあくまでも運なのである、だから成功した人自体が松下幸之助ですらそう思ったというので運がいかに作用しているかわかる
高度成長時代は誰でも成功する率が高かった、私の家で商売を始めたとき何もない、店でもただ品物を並べるだけであり品物を置くだけで売れた、物がない時代だったからであるそしてたまたま角にあって場所が良くて売れたのである
その頃近間にしか店がない時代だったからである
私の家では別に商才などなかった、むしろ母親などは商売に向いていない、内向的な人だったからである、だから一時的でも栄えたのは時代と運だったのである
今になるとこんな商売などできないし小さな店はスーパーなどができてみんななくなったからである
何か成功することは時代と運だとなる

結婚にしても運が作用する、その女性は二人と結婚して離婚した、相手が悪かったから貧乏だった、それは運が回ってこなかっただけだともなる
容姿が悪いということもある、でも美人が不幸になっているというときか必ずしも生まれつきですべてが決まる訳でもないのである
何か結婚でもめぐりあわせがあり運がつきまとっているのである
何か何でも平等にしようとする共産主義とか社会主義とかが失敗したのは人間の運命とかを無視しているからである
平等を追求してい行くと不平等になるのはそのためである
みんな個性を違うし生まれた親も違うし家族でも違うし生まれた場所も違うしといろいろな相違がすでにあって生まれてくるからである
そもそもそれを平等にすることはできないのである、かえって平等にすれば不平等になるのである
ただ教育とかは平等にして国で金を出して人材を育てるべきだとなる

人間は運から運命から宿命から逃れられない、必ずいいことがあっても悪いことがある
悪いカルマがどんな家にも人にもありそれで苦しむことになる
私は特別恵まれていても最後は親の介護でそれも二人もいたから自分自身も病気になり死ぬ思いした、それも結局特別恵まれた結果だったのである
金持でも恵まれていても必ずカルマを積んでいるから後年にそのカルマが苦しみとなって現れるのである

運というとめぐりあわせも運なのである、結婚も運だともなる、たまたま出会って結ばれる、何かその出合いも運だとなる、なぜあの人は不細工な男なのに美人と結婚しているのかとなる、でもその人の出合いがそうしたのである、たまたま出会ったことによりそうなった、出合いでも何回もわるわけではない、その出合うチャンスは限られた時間しかない普通は30歳まででありその後男女が出合い結婚することはむずかしくなるからだ
つまり結婚するチャンスもその時が限られていて短いのである

だから人間はどこで運がめぐってくるかわからない、本当にわからない、秀吉でも信長の側にいなければ天下をとることはできなかった
仕える人とか会社とかでも作用する、つまり自分がいくら才能があったとしても運がないと成功しないというのはそのためである
時代にもよる、高度成長時代は誰でも何もない所から始まり成功しやすかったからだ
今は事業するにしても簡単に成功などしないのである
日本全体が落ち込んでいるからである、つまり自分だけの力だけでは成功しない
成功とは結局運だという時、その成功は自分だけで作ったものではないということを考慮する必要がある、謙虚になる必要がある
まさに生んだという時自分の力ではないだ、ただ十パーセントは自分の努力とか才能とかで成功するとなる

いづれにしろ運はどこでめぐってくるかわからない、日本の経済でも将来がわからないのは国際情勢でも変わるからである、そこで日本全体の運も変わる、するとまた成功しやすくなる、運とか常に変化しやすいのである
だから栄える家でも地域でも国でも変わる、そして不運が必ずありそれでこの辺のように原発で栄えたがもう住めなくなり悲惨な結果にもなる
でも原発で財を成した人はこの辺で多いのである
だから何が富をもたらするのか運をもたらすのかはわからない、いいと思ったものが悪くもなる、運命は反転する、だから栄えた家でもみんなながつづきしないのである
中国が15、6年であんなに発展するとは思わなかったからだ

では運を良くしようとする時どうするのかとなるとそれを人為的に作り出すことはできない、運命がありどんなし親から生まれるからを選ぶこともできないからである
それで親ガチャになる、それに不満でもどうにもならない、その運命の下で運がめぐってくることを待つほかないともなる
ただ10パーセントは運ではないのだから努力もしておけとなるのである
ただいくら努力しても成功するとは限らないのである
ただ時間だけは平等に与えられている、その時間が極めて限られているのである
そして人生ではこの時間を一番みんな無駄にしているのである
そこで運命にかかわらず大きな差が生まれているともなる
時間を活かした人はやはり最後にその人なりの成功があるとなる

ともかく運が90パーセントだと松下幸之助すら言っているのだから自分自身の力だけではどうにならない、そして結局人間自体が人間の社会をどうにかできるものでもない
人間自身自分自身すらどうにもならないのである
人間がいくら努力しても全能の神にはなれない、そこに人間の限界があり神に頼らざるをえないのである、最終的に人間の運命を決めるのは決めることができるのは人間ではない神なのである

2021年11月03日

事業失敗もカルマの法則? (人間の奢りが失敗の原因―家系のカルマ)


事業失敗もカルマの法則?

(人間の奢りが失敗の原因―家系のカルマ)

問題を起こしたまま人生を終えた先祖は、亡くなった後も苦しんでいます。行いや恨みは亡くなったからといって帳消しになるものではありません。法句経に、「悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む

母親の実家は不和分裂の家だった、なぜそうなったのか、それは事業に失敗したことが大きな原因だった、父親が警察署長して事業を始めたが失敗した
そうして事業を始めたのは警察署長をしていたからそれで成功すると思っていたのである結果としてその後裕福だった家は貧乏になり子供が苦労したのである
悪かったのは母親が病気になりそこに新しい継母が入ってきた
この継母が異常に気の強い人でそれで私の母親はひどいいきじめにあったのである

その家の跡を継ぐ人が嫁をもらったがその異常に気の強い継母に二人の嫁が追い出されたようになった、一人は娘が5歳の時別な人と再婚した
一人は別に家を構えて実家から出て行ったのである
ただその継母は肺病になったその家の息子を看病していたのである
ただこの継母に母の実家は翻弄されて遂にその継母も家を出て養老院で暮らして死んだ
最後は眼が見えなくなり母が行ってめんどうみて死んだ
「悪かったな」と言っていたという、そのお骨は約束していた大学病院で解剖されて私の家に来たのである

こうして不和分裂の家だからその親戚関係も争いうまくいかなかった
それが如実に現れたのは母が病気で寝ている時、その母の弟の嫁になった娘が「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらへ)と血相変えて去って行った
これも付き合いもたいしてないからそうなったのも当然だったともなる
その娘とは第一子供のころ一回くらいしかあっていないからである
ただその墓に私の異父兄弟の兄が埋められていたのでかかわっていただけである

事業の失敗というときなぜか父方の方でも嫁に行った先で事業をはじめて失敗した
これもなぜ事業をはじめたのかわからない、簡単にとれない特別の資格をもっていて会社で高給取りだったたからである
だからなぜ事業をはじめたのか?何かこの人も自分は優秀だと自負がありはじめたのかとなる、ただそこにしても自分は付き合いがないから関係ないと思っていたのである
でも意外とこうして薄い親戚の縁でも必ずかかわりその家のカルマを受けることが怖いのである
天皇家などでも結婚でもめているからのちのちに結婚相手の家族の家系のカルマを受けるから怖いのである
カルマが現れるのは60歳以降にもなるからだ
現実に秋篠宮家では自由結婚したが同じように娘も自由結婚した、ても天皇家となると簡単に一般人と同じにはなれない
でも親がそうしたのだから娘もそうしていいとなる、それもカルマだったのである
親のカルマが子に現れたのである

その家は父親が若い時病気で苦しんでいて一生その苦しみのためにまともに仕事もできない人だった、そのために嫁は苦しんだのである

つまり母親が夫で生涯苦しむ⇒その娘が夫で苦しむ

これがカルマだとなる、母親と同じカルマを受け継ぎ苦しむとなる
ただこうして同じ苦しみを受けると母親のことを理解するとはなる
「私はどれだけ夫苦しみち娘もまた夫で苦しむ、それで母親の苦労を理解するともなる
要するに人間は苦しまないとカルマを理解できないのである
戦争などでもとても人が殺し合うことなど理解できない、それを理解するにはまた戦争になることだともなるから恐ろしいとなる
そうでなくても何か苦しみとして現れる時カルマを理解するのである

いづれにしろどんな家でも家系でもなんらかのカルマを背負っている、その軽重はあってもそうである、それが苦しみとなって現れたとき理解するのである
例えばアメリカで日本に原爆を落としたけどこれもアメリカ本土に原爆を核ミサイルでも撃ち込まれて何十万とか死ななければその業(カルマ)高い理解できない
こんなひどいことをしていいのか、そう思った時、あなた達アメリカ人がそうしたのではないですか、それがカルマなんですよとなる
何であれ何か他者にでもした行為(カルマ)は今度は自分に現れて来る
それがカルマの法則なのである

なぜ事業に失敗したのか?

母の実家では警察署長していたからそれで成功すると思った

父方の親戚では特別の資格を持っていたし優秀とされていた

その奢りがあり失敗した

これは明らかに共通した原因があったとなる、人間の失敗は奢りから来ているのが多いのである、日本の戦争だってアメリカがどんな国かもしらないで奢りから始めた
日本は強いから負けないとかなっていた、それは原発でもそうである、日本の技術は優秀だからと言っていたからである、それで権力で「安全神話」を作ったのは奢りだったのである、人間の奢りは危険なのである、科学技術もまるで神の様な力をもつと過信して大事故にもなる、それも奢りからなるのである

人間の失敗の原因は奢りにあったことは確かである
人間が成功する時でもやはり自分の力だけで成功することもない、そこには様々な要素入ってくるからとても一人の力では成功しない、限界がある
人間の奢りは神から罰せられる、人間が神の様な力をもつことは神が許さない
だから失敗して罰せられるのである

いづれにしろ母の実家は墓まで分裂していたのである、母の弟が家を継いだにしろ外にでた、そして別に墓を作ったのである
でもその娘は一番長く暮らした育ての親にひどいことをした
そして自分に最後に「ひどい娘だわ」と呪いの言葉を残して死んだのである
病気になっても見捨てたのである、ただ簡単に死んだから良かったとなる
女性でも冷酷な人は普通にいる、病院で自分を虐待した看護師〈女性〉もそうだった、だから男女であれ人間は冷酷な人は普通にいる、だからそういう人は看護師とかでも医者でもふさわしくないとなるがそういう情的な面は見ていないのである

ただその労働がきついからそうして気の強くないと勤まらないということはある
ただ全般的に情に欠けた社会になっている、だから病院でも長く入っていてかえって悪くなったという人も多いのである
それは精神的な理由もある、病院は無機質な空間で情が感じられないからである
知っている人は病院に長く入院していたが家に帰ったらかえって良くなったというのもそうである
老人の場合体の治療も必要だが情的な面も大事になるが今はこの情を病院とか医者とか看護師になかなか求めにくい
情無き社会になっているからである
ただこうして情がない愛情もなくなる社会は怖いとなる、それをここ十年の自分の病気と家族の介護で嫌というほど経験したからである、ただこれも楽して来た自分のカルマだったのである、家族のカルマであり清算が強いられたのである

2021年10月22日

記憶したものが宝となる (老人は記憶に生きるー老人の心に映し出されるもの)


記憶したものが宝となる

(老人は記憶に生きるー老人の心に映し出されるもの)




老人の心に映し出されるもの

神秘な透明な水に写ったもの
隠された森の沼に湖に写ったもの
知られざる花の写り消えぬ
また天より神の御顔の写り消えぬ
しかしその消えたものは
その水に記憶されている
その水に神秘の花は記憶されている
それ故にまた花は映しだされる
時に霧が深く覆い記憶も消えたと思う
でも霧が晴れてまた記憶したものが
その湖に美しく映し出される
ただ醜いものは消える
神の鏡の湖に写ることはない
記憶されるものと記憶されないもの
老人は記憶をたどり生きる
でもそこに醜いものばかり写るなら
その記憶を消したいとなる
でもその悪しき記憶も消えない
だから良きものを記憶するように
その心を正しくして澄んでいなければならない
さすればあなたの老後は美しい記憶で
次々と花園を歩むように美で充たされる
終わりなき記憶たどる旅となる
確かにその湖の平静な水面も風に嵐に波立つ
でもそれは一時であり過ぎて行く
そしてその静まる水面には花々が
次々に色を変えて映りあきない
老人はそうして記憶に生きる
美しく蘇る記憶に生きる
そうしてその記憶を天国にもってゆく
その天国にそのつづきがある



すべては誠実な記憶のなかに持続され、言葉に絵に歌になって保存される

追憶の絵本を、体験したものの宝庫をもたなければ、どんなにつまらなく、みじめなものだろう‐
「人生は成熟するにつれ若くなる)ヘルマン、ヘッセ

老人は記憶に生きる、でも問題はあなたはどれだけ記憶したものを持っているかとなる
誠実に記憶されるというときやはり誠実に生きないと記憶もされないとなる
心に記憶されのはやはり不実なものではない、誠実ならば不実とならず実りとなり記憶される、ただ何らか人は必ず罪を犯すしそれが悔恨となって苦しめられる
人生でも最後に記憶の絵本のようになったら成功だったともなる
でもいくら金を残しても何か思い出したくない嫌なことがありそういう生き方も普通にある、金のために不誠実となり嫌なこともしたとかなる
現代ではそれが多いのである、それは老人になったとき消えるのではなくその嫌な記憶に苦しめられるともなる
その時は老後は地獄だともなる、いくら金があってもその心に映したものが悪ければ醜いものしか映らないとなり地獄となる

だからどうしても現代では金のためにそうして心が汚れる人が多い、でもそれが老人になったとき消えるのかとなると心に刻印されるのである、それが怖いのである
ただそういうことを深刻に考える人はまれである、金になればいいとしかなくなっているからだ
現代の資本主義社会はそれが問題なのである、みんな金で汚されてゆく
何か戦前でも江戸時代でもこんなに金で汚されることがなかったと思う
もちろん貧乏であり時代が違っているから比較はできないにしろ現代ほど金に追われ金のために心が汚されている時代はなかったと思う

ともかく人間の記憶は不思議である、どうして記憶がよみがえるのか不思議なのである
ただ忘れることも本当に多い、だから記録しておけというのもわかる
今ならデジタルカメラでもスマホでも膨大なものが記録できる、そこから記憶がよみがえることもある、第一自分の書いたものを忘れて読み直すとたんなこと書いていたのかと忘れているからだ、人間とは常に忘れてゆく、人も次々死んでゆく、それは次々に人も忘れられてゆくということである、それだけはかないということである
記憶にとどまるのはわずかであり歴史でも名を残し記憶されるのはわずかである
あとは忘れられてその名も覚える人もいなくなる、それは老人になると実際に知っている人が次々に死んでゆくのだから嫌でも自覚させられるのてある

老人は記憶に生きる(記憶の宮殿)
http://musubu2.sblo.jp/article/186530838.html

ここの続きとして書いた、この記憶の宮殿はみんな人によって違う、経験したことも学んだことも違っているからだ
でも人間は最後に記憶となり記憶を生きることになる、でももし記憶されるものがないとすると退屈ともなり老後の時間が長いと耐えられないともなる
何か行動するにしても体が弱りできなくなる、どうしても老人は行動力がなくな家に閉じこもり記憶に生きるようになるからだ
豊かな老後は金を必要だけど記憶に生きるようになるから記憶されたものが大事になる
その記憶されたものとは日々の生活で積み重ねたものなのである
ただ自分の場合家族をのぞいて人間を記憶しているということがない、また逢いたい人もない、自然との合一を追求してきたが人間は嫌いだったからである

2021年10月21日

人生を後悔しないために (道徳無き経済の異常性ー人格を歪める資本主義文明社会)


人生を後悔しないために

(道徳無き経済の異常性ー人格を歪める資本主義文明社会)



人生を後悔しないために

高い地位、儀礼、富、学識など、そういうものに到達した人々について
わたしが思うには、彼らの到達したものは彼らの体と魂に結果を残すものではない限り
すべて彼らの身につかず、浪間に消える‐ホイットマン

身につくものが何だったのかになる、それが老年に現れる、身につくものを残らないとしたらそれを追及したことが無駄だともなる、その身についたものは金では計れないのである

あなたは神を知るべき時に知ることを逃した
それは盛りの若き時に求めるべきものだった
その貴重な機会を逃してしまった
その日は遠く帰ってこない

あなたは元気な若き時に冒険すべきだった
若きは短く青春はたちまち過ぎる
きついことは若き時にすべきだった
老いて体力もなく気力もなくなり
果敢にいどむことはできなくなった

あなたは学ぶべき時に学ばなかった
あなたはただ享楽に時を費やした
あなたは何かスキルを身につける時にしなかった
あなたはそこで鍛錬して身につけるべきだった

あなたは遊ぶべき時に遊ばなかった
遊びの時も必要でありそれも人生の内
あなたは広く見聞すべき時にしなかった
外国でも実地に知るべきだった

あなたは人を助けるべき時に助けなかった
あなたは苦しい人に無関心だった
またあなたは近くの危険なことにも無関心だった
そして大事故が起きて身に及んだ

あなたは節制すべきだった
あなたはただ放漫でありただ怠惰だった
外に現れずとも内なる心に実るものがある
享楽にまかせず節制していれば
内に心に実るものが外に現れる
それは隠せおうせず現れる

あなたは何か有益なことをせず
何か学ぶべき時に学ばなかった
学ぶことは限りなくあり
神の創りし世界は多様で広大
しかしあなたはそれを見逃した

あなたは成すべきことを成さなかった
学ぶべき時に学ばなかった
あなたの才能ではない
あなたはただそうした貴重な時間を活かせなかった
その時間をもう取り戻せなくなった

みんな老いれば残るのは後悔だけだ
特に貴重な何かをする学ぶ時間を失ったこと
その時間が取り戻せないことを痛切に悔いる
あなたが費やしたものが無益だったこと
それが最大の悔恨となる知れ

集団の馬鹿騒ぎに己を失い費やされる
あなたの貴重な時間は奪われていたのだ
奴隷ということは時間を奪われたことである
会社であり宗教団体であれそこで奴隷にされる
何かただ使役される、それが金のためだけでも

金を使うのではない、ただ金に使われている労働
そこに真の実りはなく何か実りとして残らない
人は金のために働くのではない
真の実りのために働く時、充実感がある

こうして時間を虚しく費やされると悔いる
例え有り余る金を得ても虚しいとなる
老いて病気になりその金すら使えない
また時間もなくなり使えなくなる

あなたの日はもう終わった
あなたの与えられた時間はもうない
あなたはあとは死ぬだけである
人生の経験で成したことを天にもってゆく

それは財産でも金でもない
この世で経験して学んだことを天にもってゆく
老いて真の実りは現れる
何に時間を使ったかその成果が確実に現れる

それ故に時間を有益に使わなかったものは
老年はみじめであり過去の過ちも闇黒となる
それは罰せられなくても心に現れる
それを偽ることができない

金があっても心が歪んだもの
人格が歪み心も曲がったものが多い
何かそこに異様な奇形な姿を見る
その人は金があっても人格形成に失敗した
もはやその人格は矯正できない

その姿をもって地獄に行くともなる
集団は関係なく個々がそうして問われる
人生はもう結果として現れた
もうそれを是正することはできない!

あなたがあなたの人生を培い作った
あなたにはあなたの時間が与えられていた
時間はみんな平等に与えられていた
ただ時間を活かせなかった!
そしてみんな人生を悔いている

時間はもとにもどらない
そこに人生の厳粛さがあった
人生は一度きりであり
チャンスも一度きり
そのチャンスも逃した

最後にあなたの経験と学びの実りが現れる
個々に違った実りが現れる
それを収穫するのが老年である
そういう実り豊かな老年のために
あなたは時間を無駄にしてはならない
それは人生を無駄にすることだったから

●それぞれの経験と学びが老年に現れ結実する

どんな人でも優秀な人でも人生は後悔に終わる、結局人間の学ぶことでも経験することでもわずかしかないからである
すると何か足りないものとして終わる、自分だと経験したものは旅だった
だからその旅のことをふりかえり俳句とか短歌にしてふりかえる
それは無駄なことではなかった、でも人生はいろいろ多様であり学ぶことも経験することも多様である、普通だと結婚して子供もちとか経験する、もしそういうことでも経験しないと何か欠けたものになる、自分の場合まともな社会生活していないから欠けたものになる、社会性が欠如した人間になっていた

でも普通に結婚して子供を育てた人でも何か必ず欠けている、どう見てもその人はそうして普通の結婚して子供を育てても奇形化した人間になっていた
まとも人格ではない、もう信じられない薄情なものともなりこれが人間なのかとも疑ったただ本人はそんなことを気付いていないのである
その人の人格も長い間の結婚生活とかでも作られて来たのである
ただ付き合いがなかったからわからなかっただけである

ただ確実なのは最後に老年になってその結果が自ずと現れる!

何か学んだものでも経験したものでも確実に老年に現れる、そして最後に偽ることができない、もうそうしてできあがったものを直すことができない
人格でもそうだしその人なりの個性でもそうである
個性とか才能でもその人なり資質があっても天才でない限り人生の時間の中で作ってゆくものだからである
だから老年にはそれぞれの経験したこと学んだことが否応なく現れる
それがむずかしいものではなくても雑学のようなものでも役に立つものとして現れる
また老年になると理解が深まる、理解できないものが理解できるようになる

あのことはそうだったのかとかわかる、またこういう解釈があったのかと理解できる
だから老年は含蓄が深いものになる、それで老人は普通の人でも悟ったようにも見えるのである、賢者にも見えるのである
つまりこういうふうになるのは若い時はなりえないからだ、壮年でもなりえない
老年になると自ずと成るのである、何かが解読されてゆく、理解できなかったものが理解できてからまる人生の糸がほぐれるように理解できるようになる
別にそれは特別の人だけではない、普通の人も人生をふりかえりそうなるのである
あのことはこういうことだったのかと理解するようになる

どんな人生でもそれぞれ違っていて経験も違っていてそれが実りになる
まず何かを経験しない人はいないからである、だから誰しもその経験を老人は語る
遂に千回も認知症になっても語っていた
老人はこうして人生を語ることが仕事にもなる、そこに必ず人生の教訓がある
失敗したことでもこうして失敗したとかなりそれが後の教訓となるのである

●後悔しない人生はない

確かなことは後悔しない人生などないのである
それは人間一個の経験とか学ぶことが極限られたものだからである
例えば会社員の経験がないものはそもそも会社のことがわからないのである
では自分の様に自由に旅した経験は会社員として過ごした人には理解できないとなる
こうして経験するものが違うから理解できなくなる、理解することは自分が経験して学んだことだけだとなるからだ

今退職とかして学び直している人が増えているというときそのことが痛切にわかる
つまり学ぶことをしなかったことを悔いてそうなったのである
もっと学ぶべきことが山ほどあったができなかった、それで退職して時間ができてそうなったのである、でも実際は退職しても学べることは学べる
でも若い時に学ぶこととは違う、むしろ老人になると今まで自分が経験したことを学んだことを深化することであり知識を広げることでもないし新しいことをとりいれずらなくなる、だから老人の学びとは何でも広く浅くではなく狭く深くなるのである
それは自分の経験と学んだことからそうなる

ともかく本を山ほど買っても読んでもびっしりと印しをつけていても理解していなかったでも今になると深く理解できて自分の文脈の中で活かすことができる
そうなったとき実は本当に他者の知識でも思想でも経験ても理解したことになるのだ
老人になって本当の実りがある、ただ若い時はがむしゅらに経験することであり学ぶことである、それは後で雑学でも活きてくるのである
ただそのためには詩にしたように節制が必要であり享楽に費やしたりしていたらそうはならない、意外とこの節制ができない、性であれなんであれ時間は奪われ費やされるのである

●心でも体でも節制が必要

体も節制が必要なのである、何かしら放逸に体でも使っていると必ず老年になるとその積み重ねが体にでてくる、酒とか煙草でもしていると何らか体に影響してくる
また過重な肉体労働をつづけるとそれも老年になるとその積み重なったものが体に出てきて具合悪くなる、ただ必ず老人になると体の故障がどこかにでてくる
でもやはり体でも節制していなと老人になるとその積み重ねで異常がでてくる
スポーツマンでもプロの人も体に負担をかけすぎて早めに死んだり病気になる
それでも何か冒険もしないとか慎重に行き過ぎるのも問題なのである
身体が丈夫な人はやはり常人のできないことができる、それがその人の人生を作るともなるからだ、でも不摂生に酒でもなんでも無理なことを体に良くないことをしているとやはり必ず老年になると不具合がでてくるのである
そして十年くらい同じ年齢でも違ってくる、同じ年齢でも本当に70以上でもこの人は若いなと驚く人がいる、老けている人は本当に体も弱っているからだ

節制でも心の節制も意外と大事なのである
心の節制とは何かとなるがそれは口をつつしむとかである、何か人間はしゃべりすぎることは心を無駄に費やして汚すということもある
悪口を言ったり何かしゃべりすぎることは心をけがし消耗させることにもなる
自然ど合一するには山や樹や石のように深く沈黙することが必要になる
でもこれは社会生活では異常者になるからできないのである
引きこもりだったから自分にはできた、禅僧のように沈黙行をしていたとなる
ただそこで社会性がなくなり異常化していたのである
だから社会性も必要でありそれがないと何か異常化して社会のことすらわからずに苦労することになる、結局人間はなんらかで偏る、社会生活を正常にしていてもそれすら偏ったものとなる、会社員とか公務員でも何かそこでの人生も偏ったものになる
それは社会の一部であり全体ではないからである

心の節制が必要だという時心を汚す無益に消耗することにはあまり人間は気を使わないのである
まずカルト教団などは肝心のこうした心の修行のようなことは一切ない
社会活動であり集団活動であり御利益追求だから会社員とも同じであり世俗社会より世俗的な場所であり宗教的なことは一切ないのである、巨大な企業と会社と同じなのである
それでなぜ宗教の看板をかかげているのか全くわからないとなる
禅宗の沈黙行などはない、真宗とか日蓮宗などは一日題目あげているから世俗社会より騒々しいところでありまた団体化して集団示威行動する、そして社会を威圧する
それはナチスとたいして変わりないのである
そのために危険な団体でありそれが社会を席巻してナチスのようにもなる恐怖があるのだ
ともかく老年には人生の結果ができる、もう偽ることのできない結果がでる
それは恐ろしいことにもなる、青春の放逸なども後悔となり苦しむ

そのために推理ドラマでも必ず若い時の過ちが尾を引いた事件になり悔やむとなっている若い時は過ちを犯しやすいからである、節制でできないからそうなる
それも後悔となるしいろいろなことがただ後悔として苦しめるのである
だから実りある老年になるにはどうするのかを若い時知らねばならない
でも若い時みんな老人がそういうことを言ってもわからないのである
若い時老人の気持ちとかがわからない、理解できないのである
何か青春でも終わりないように見えるし人生でも終わりないように見えるのである
でも人生は終わってみればあっという間だったとなる
こんなに早く終わるのかと驚くばかりになる、それはみんな老人になるとそう思うのである、つまり老人になってみないとわからないことなのである
そこに人間の弱点が盲点があったとなるのである

●会社人間は資本主義社会の奴隷(社畜)ー人格は無視

会社員が資本主義社会で商品であるというときもそうである
つまり人格など関係ない、商品としてして見てないない、会社にとって有能な有益なの商品としてしか見ていない、人間としてどうのこうのは関係ない
そういうふうに人間を見ること自体すでに人間は奴隷であり社畜だとなる
ところが人生は人格を磨き形成して完成するものだと見れば会社員で働くことは人生としては全くそんなことで働いていたら最後に後悔しかないともなってしまうのである
そんな人格まで無視して働いていていいのかともなってしまうのである
でも今の社会は会社員であることなのである、それ以外の道は提供されていないともなるそれも異常だとなる

例えば江戸時代とか戦前までは職人は会社員ではない、会社員となったのは戦後のことなのである
職人は一人で物つくりしていて売っていたのである、会社などなかったのである
小規模のものがあっても会社はない、それでいいものを作るために職人気質とか生まれたそして武士道とか職人道とか商人道とかその道を究める者としてあった
そこに人格など歪めるものがなかったのである、だから本当に資本主義人間とかは何なのだろうとなる、そんな生き方していいのかと疑問になる
そして金がすべてとなり人間はすべて金で計られるようになったのである
そんな社会は人間の社会なのかともなる、そうなら資本主義などやめた方がいいなる
株式などはただ金を右から左に流して巨万の富を得ているとかであり公正の市場でもないのである、それで銀行員とかはそのグロ−バル経済のギャンブル場の賭博場に雇われた人なのかとも見てしまうのである

資本主義はこうしてモラルもなくなったのだからそれを維持することはむずかしいとなる道徳無き経済である、そういうものが維持できるのか?
グロ−バル経済とは世界市場は巨大なギャンブル場でありそこに人格など関係ない
ただ金を唯一の価値としてすべてを商品化して人間も商品化して奴隷にするといことである、この人間はいくらの値段だとかその人に張り付けられている
それは人間そのものを無視したものである、そこに実際は恐ろしい社会の荒廃になる
でも資本主義社会に生きていればみんながそうなるしかない
そうならもう会社員であることでも拒否した方がまともだとまでなってしまう
でもそうなると生きる術がないとなってしまう、でも人間の人生の目的は何なのか?
それがただ財産と金を得ることだとなればそうなってしまう
じも人格の完成だとかなればそんな社会に会社に属していること自体拒否しなくてはならないとなってしまうのである

いづれにしろ株式で生活している人など何か異常なのである
それはまともな生業でもないとなる、そういう仕事が何か人格を歪めていたら老年になって真の実りはなくなる、これも怖いことではないか?
でも人格がどうだとか見る人はまれである、すると現代社会は現代人は何のだとという疑問になる、文明人とは何なのだろうとなる、モラルなき道徳無き人間とは何なのだろうとなる、それが獣社会になってしまわないか?
モラルがないから食うか食われるのか世界でありすべては金で計られ商品化されて値段をつけられる、ところが人生は値段をつけられない金で計れないものに計りしれない価値があることも最後に思いしらされるのである
それは人格が歪んた人は地獄人間になっているのだ、ダンテの地獄編に体が歪になり奇形となっている人間である、つまりそういう地獄人間になることが目指しているのが今の文明なのかとなってしまうのである

そんな人間を作ることが資本主義社会でありまた文明社会だとすると拒絶して生きていた方がいいとなる、ニートの方が増しだともなる
資本主義社会の勝者とは何者なのか?地獄人間でありサタンともなってしまわないか?
ただこの異常性に気づいている人はその中で生きているとき気づかない
それが普通でありそれからはずれた人は異常だとなるからだ
異常な社会に生きている人はそれが異常だと気づかないのである
それでナチスが社会を席巻したときそれが異常だとも気づかない、むしろそれに適合しない人が異常ことされたのである
それはカルト教団ではそうなっている、異常だとすると異常だと見る人は異常にされるのである、数が多ければ正常だとされるのである

でも社会全員が異常だとか見る人はいない!

たいがい会社からはずれた人が異常とみられる、だから何が異常なの正常なのかわからないのである

人間を派遣しているのではなく、人材を派遣しているこの意味ー鈴木傾城

人材とは一部を材として切り取ったものである、人間とは全体のことである
人材とは人間を一部分として材として切り取ったものとして商品化されているというのはわかる、ここで道徳が語らないが道徳無き経済はもう人間社会ともならないのである
獣社会となっている、そんな社会自体何なのだろうとなる、それは地獄社会だということである


2021年10月12日

先が見えないから失敗する (人間は未来を見ることができない―預言者の意味)


先が見えないから失敗する

(人間はは未来を見ることができない―預言者の意味)

津浪や原発事故ではいかに先をみることが大事か思い知らされた
もし先が見ることができたらこんな大惨事にはならなかった
人間は先が読めない、何でもどう展開するから読めない
それで判断に迷うことになる
道を行くにしても分かれ道があり右を行くべきか左を行くべき迷うことがある
その先が見えないからそうなる、地図もないときはそうである
そして道に迷うことになる

歴史を見る時、今ならすべて結果を見ていて結果から判断する
戦争に負ければなぜ負けたのかとふりかえる、でも戦争する前は戦争で勝つと思ってしたのであり負けることなど考えないのである
負けた結果を見て後世の人は判断する、だから歴史は結果から見る
でもその時代に生きた人達はそういう結果から見れない、どっちに転ぶかもわからないのである、それはサイコロでも振ってみないと結果がわからないのと同じなのである
それでどっちに転ぶかサイコロの丁半(ちょうはん)の世界である

必ず賭けがありその行動の結果がどうでるかはわからないのである
信長の桶狭間にしてもそれは賭けだったのである、天候も影響して勝ったとなるが
どうなるかわからないものだったのである
関ケ原の戦いでも霧が左右したとかあり勝敗はわからないものだったのである
ただ歴史は結果からみているから冷静に見るがその時代の中に生きていればどうなるかわからなかったのである
だから結果からみれば日本の太平洋戦争でもなぜしたのかとなる、馬鹿げているとかなるでもその時は決して負けるなどと思ってしたわけでもないのである
太平洋戦争でも本当はどう展開するかは未知だったのである
日本でも勝つこともありえたのである

聖書が予言者の書だというとき預言者とはあらかじめ予言する人だとなる
なぜそうなったのかというと予言することは生死にかかわることだからである
ノアの箱舟でもそうである、大洪水が来るということは生死にかかわることである
だからノワが箱船を用意したのである
それは馬鹿げていると笑われてもそうしたのである
そして助かったのはノワの一族だけだったとなったのである
予言の大切さを書き記したのが聖書だともなる

例えばソドム、ゴムラが神に滅ぼされるとき危機一髪逃れたのがロトである
まさに危機一髪でありロトの妻ははふりかえり塩の柱となってしまった
その光景を見たとき余りの恐ろしさにそうなったのである
それは津波でも経験した、もうその時瞬時に判断して逃げないと助からなかったからだ
そうして多数の人間が死んだのである
逃げる時間がなかったのである、とっさに何も持たず逃げない限り助からなかったのである

でも津波が来るとして備えていれば原発事故も防げたのである
それで仙台の方で若林地区なのか学者が津波が来ると警告したら地価が安くなるから言うなと口止めされたのである
つまり予言することは危険を伴う、もし予言しても現実に起きなかったら批判される
預言者は殺されて来たからである、つまり予言することは危険がともなうからである
地震学者でも十年以内に地震くる、二十年以内に地震が来るというがそんなこと誰でも言えるのである、でももう十年以内に地震が来たらどうするのか?
その時予言が当たらなかったら死刑にするとかなったら誰もそんなことは言わないのである、だれでも一年以内に地震が来るとか5年以内に来るとかそんなこといくらでも言えるのである、ただ適当に言っていればいいだけである、ただの無責任であり何の責任もないからである

コロナウィルスでもこれを誰も予測した人かいなかった、そして専門家も全く未知のものでありわからないものだった
だから今回は専門家の信頼を失った、これも素人並みだったのである
要するに原因がわからないのである、何で急に増えたのかまた急に減ったのかも専門家がわからないのである
いろいろむずかしいことを言ってもわからなのである
それは地震を予知する学者と変わりなかったのである、そんなこと誰でも言えるとまでなっていたのである
だから専門家会議など無駄だという人もいたのである、それほど専門家が用もないものだったとことに何なのだろとなった
そんな人達に国で金を払うとなるとこれも無駄だとなる

人間にとってあらかじめ知ることがいかに大事か

だから聖書は預言の書だとなる、預言者が中心になって記された書だとなる
預言者とは神から遣わされた役をであるからだ
その役を科学者が津波の予言でしたとき予言者と同じように批判されて脅かされたとなる人間はともかく利益を求める、欲を求める、それを止められると激怒する
不動産業の人が津波がここに来ると学者が言った時言うなとなったのもそうである
原発でもみんな利益を求めるからやめろとなるともうそういう人は住めなくなっていた
宗教は本来欲を制御するものだがそんなことを許す人はいないしそうしたら人は集まらない、だからカルト教団になるとかえって世俗より欲を追求することになる
底辺層になれば金持ちになるとか地位がある人になるとか何でも御利益であり福運だとかなる、ところが現実は底辺層は確率的には不幸からさらに不幸になる人が多いのである
それは別に宗教とは関係ない、百万人も底辺層ならどうしてもさらに底辺化して悪いことが起きる確率が大きくなるということである

ただ人間は将来のこと未来のことがわからない、何が起きるかわからない、いくら科学が発達してもわかららない、未来がいくら科学技術が発達してもわからないのである
未来を知りえるのは全能の神しかない、未来を知るというが神が未来を作りだすからである、もしかしたら今の地球を滅びても新しい惑星を作り出してそこに選ばれた人間が住まわせるということある、そんなことができるのが全能の神だとなるからだ
つまり未来を知り作るのは人間ではないのである、全能なる神なのである
この世に理想郷などできない、むしろハルマゲドンであり業火のうちに滅びる
それが予言れれ予定されているのである

だから神の選ばれたものを救出する、それが聖書に記されていることなのである
人間の未来は科学技術によって生まれない、それが原発事故で証明された
科学技術が万能になることはない、むしろ科学技術よって核戦争のように滅びるということが確立として大きいともなる
人間は人間の業(カルマ)によって滅びるということである
科学技術でもすべていいものとてしは働かないからである
その滅びの日が迫っているのかもしれない、グロ−バル化することは世界が一つのように見えてきている、またイスラエルが建国されたこともその日が近いともなる
人類の業〈カルマ)の総決算が起きてくる時が迫りつつあるのかもしれない
明らかにそこには神の意志が働くのであり何か自然現象として科学的に起こるのではない自然を越えた所に神が実在して神の意志で滅ぼされるのである




2021年09月27日

人生百年は嘘、活動する時間はその前になくなる (人間の最大の後悔は時間の浪費だった)


人生百年は嘘、活動する時間はその前になくなる

(人間の最大の後悔は時間の浪費だった)

いくつまで生きているのか」ではなく、「いくつまで健康なのか」であり、それはきっと「70歳くらいまで」であろうということです。
そして、本連載の最大のテーマは「60歳で仕事を辞める」ということであり、その根拠になるのが、「60歳というのは、QOL(生活の質)が高い人生が、あと10年しかないこと」です。
これをきちんと咀嚼したら、答えはひとつです。「大好きではない仕事は、60歳で辞める」これに尽きます。

人生百年時代といっても活動できる正味となると短いのである
ただ活動時期でも10年は確実に伸びている、60から70はかなり体力的にきついことでもできる人はできる
それで退職した人がよほど自由な旅行したかったのだろう
鹿児島から青森まで歩いて旅していたのである
この人はそれだけ旅したかったが公務員とか会社員だと時間がとれないのでできなかったそのためにそうしたエネルギーが退職して爆発したとなる

60から70はまだ体力的に充実している、だからそんなことまでできる、私はこれだけ旅行しても歩いた旅行は近くでもしていなからである
本当の旅したいなら歩いてみることである、全然違った感想を持つようになるし江戸時代のことを体で理解することになる

私の場合は60から十年は過酷な親二人の介護だった、それで自由な時間は完全に奪われたでも50代からバックパッカーで海外旅行したから良かった
なぜなら今になるとできない、体力的にも気力的に海外旅行は苦しいからだ
つまり意外と人間に与えられた時間は短いなのである
これが人生の最大の盲点だったのである、急速に時間が飛んでゆく消失してゆくのである女性でも30まで結婚しないと婚期を逃して結婚するのがむずかしくなる
婚期が長くなってもそうである、容姿も衰えてくるからである
そして30以上になると子供を産むことの限度になる、子供を産むのは30前の方がいいとなる
女性でもいくらでも時間があっていい人を選べばいい、気に入った人と出会うまで待てばいいとかならない
そのうち時間が過ぎて婚期を失う、つまり人の出会うチャンスも何回もないのである
気にいったいい人を待っていたらいつの間に歳とって今度は誰も相手にしないとかなる
男女でも出会う機会も一回とかなる、それは若い時が短いからそうなる
その若い時の十年くらいに出会いないとあとはないとまでなってしまうのである

結局男女にかかわらず人間は30までにその一生が決まる、方向が決まる
男性だと30までに会社員であれ何か仕事でスキルを身につけないと後はなかなかむずかしくなる、人間は何度も挑戦して何か身につけることはできない
経営者でも一回失敗するとまた再挑戦すればいいというがそうもならない
一回で成功しないともうそれで終わりだともなる、何回もやり直すことが簡単にできないのである
それはなぜか、人間の時間が限られているためなのである
人間は何回も失敗して挑戦できるとかやりなおしができるとかないのである
30過ぎて40になるとおっさんとか言われることでもわかる
時間だけは無常に過ぎてゆく、無常迅速なのである

ともかく人間には不測のことが起きて人生が一転する、私の姉は突然召集令状の赤紙が来て従軍看護婦として戦地に行かされた、そこは地獄だったのである
突然地獄に落とされたともなるのだ
母は東京の人と結婚したけど夫が事故で死んで後妻になったとかそういう不測のことが常に人生にあり予定が狂わされる、時代の影響も受ける
常にまた時代も変転しているから思わぬ予測されないことが起きる
要するに自分で決めようとしても大きな力に運命に翻弄されだけだともなる

だから求道というとき若い時しないならできない、信仰とかは老人になってするものとか思っているが老人の宗教は慰めである、最も若い時エネルギーがあると求めるものなのである、その時期を逃すと神を知ることができないというのも恐怖だった
私自身はカルト教団に入っても神を求めていたのである
とにかく人間は30まで人生が決まるとまでなる
その後の人生も長いとしてもたいがい30までその人の未来を決めている
それで就職とかでも新卒を一括採用しして重んじるのは会社で働かせて活用するには就職して30くらいまでが仕事を覚えるからである
それは職人でも20代で教えられると身につく、後から確かに身につくことがあるとしてもむずかしくなる

人生の勝負は一回

チャンスは一回

良く侍が仕官するために御前試合などがある、でもそういうチャンスは何回もない
でもそのチャンスをものにすれば仕官の道が開かれる、だから一回でもチャンスをものにしないとその後はチャンスがなく浪人暮らしが一生つづくともなるから怖い
若いとき、就職に失敗したとか会社をやめたとかなり引きこもりになると一生引きこもり人生になる
宮本武蔵でも大きな勝負したのは二回くらいしかない、その二回でも勝ったから名を残したとなる、人生の大一番一回であり何回もないのである

こういうことで人間が経験したり知識を得ることでも時間短いからみんな限られたものになる、あらゆることに通じる人などいないのである
あることには詳しくてもあらゆることに詳しい人などいないのである
だから優れているというときあることについて優れているのでありあらゆることに優れた人などこの世にいないのである
それは全能の神しかありえないのである、俺は優秀だというといあることについて優秀なのでり他の分野については全く素人と同じなのである
福島原発の吉田所長すら復水器のことを知らなかった、専門分野ではないとして知らなかった、他の社長でもあらゆることを知っているのかとなると知らないのである
そうして知らなくても社長になっているのかとなるが一応社長としているとなる

ともかく退職して60以降はその人のやりたいことをやるべきだというのは確かである
もう人生も終わり死ぬことになるからだ、だからやりたくないことをしているのは無駄だとなる、60以降になると時間の過ぎるのがさらに加速される
70過ぎると明日は死んでいるのかと毎日自覚するようにもなる
それだけ時間の過ぎるのが早いのである

そして時間を無駄にしたこと浪費したことを一番後悔する

時間をもどすことはできないし増やすこともできないからだ
ただ時間でもいつまでも健康であれば違っている、健康であれば体力もあればやはり何かをできるからである、でも健康を失えばもう何もできないのである
また家族の介護とか不測のことが起きやすい、すると自由時間は奪われて何もできないとなる
天国ではみんな歳とらない若いというとき時間がなくなることは心配ないとなる
でもこの世での時間は急速に失うのである

結局人生は予定通りにすすまない、それで意外な結果で終わる

人生は予定した通りにならない、いくら計画しても必ず不測のことが起きる
認知症になった、地震だ、津波だ、コロナウィルスだ、病気だ、日本の経済の衰退だ、貧困化だ・・・・・何か必ず不測のことが個々人でも全体でも起きる
知っている人は80歳越えて病気との戦いしかない、病院通いが仕事になっている人も多いのである
そしてみんな予定は狂うのである、また逆に思わぬ幸運がありそれで得したとかもある
介護で苦しんだが親の遺産があって自由に使えるとかもある
また逆に思わぬ不幸が常に人間にはある、だから未来をどうのこうのと予測しても思わぬことが必ず起きるから無駄だともなる
その日を精一杯に生きるほかないとなる、未来は神にまかせる、ただ今日一日を悔いなく生きることを心がけるほかないとなる

ただどんなささいな経験でも最後に老人になって活きてくる、結局人間が経験することはわずかしかないからである、いくら海外旅行するにしても限られている
中国であれアメリカであれ大きすぎて絶対にその地理を理解することは不可能である
そのほんの一部のみを知るだけなのである、それだけ地球は広いということである
結局人生の後悔は時間を活かさなかったことに尽きる
勉強でもそうである、英語でも外国語をものにするにも時間を活かせないから効率的に学習しないからものにならなかったとかなる
勉強の仕方が悪かったとなる、ただ時間が無限のようにあればまた語学でも学ぶことができるかもはやその時間がない、結局人生は時間切れで終わるのである



2021年09月09日

人生は時間切れで終わる (人生は短いから何でもできない、チャンスも一回くらいである)


人生は時間切れで終わる

(人生は短いから何でもできない、チャンスも一回くらいである)

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リストラ40代50代が転職相談で地獄を見る

ここで言っていることはリストラされて40代50代で事業をはじめる、フランチャイズ店の経営する、それは独立した経営者ではなくただ本部に金を吸い上げられる
始めるのに金がかかりそれを支払わせられるからだ
何も経験もなかったら大企業の役職をもった人でもただのおじさんに過ぎない
一から始めなければならない、アルバイトして飲食店のことを知ることが大事だとしている、一兵卒から始めねばならないとしている

今までの経験が何ら役にたたない!

こうなると40代でも結構むずかしい、結局何らか仕事は経験を積まない限りできない
自分自身も何ら仕事の経験を積んでいないから失敗した
一二年とか教師のまねごとをしたけど失敗だった、どう教えるかの経験を積んでいなかったからである
どんなことでもいかに経験が大事なのかわかる、そして経験の積み重ねで仕事ができる人になる

ところが

人間の経験する時間が限られている!

これが最大の問題だったのである、それで他の人も言っているけど35以上は人生の余禄だとかいうのもわかる、人間は30くらいまでで決まってしまうとなるからだ
20代で底辺だと一生底辺になり引きこもりだと一生引きこもりになる
これは相当に怖いことである、人生は長いのだから何があわてる必要もないとか
先はわからないとか思ってもそうではない
人生ではっきりしていることは先は確かにわからない

でも確実なのは何するにも時間が限られていることなのだ!

私の場合正規のルートからはずれた結果職にもつかず旅していたら一生が旅になってしまった、また別な道が開けるとかまだまだ人生は長いからどうにかなるとか思っていた
でも20代で人生の方向が決まり30以後は余禄だともなる、何かするものはこの世にいくらでもある、でも何かを選びする時間が限られているのである
だから40代50代でリストラされると厳しいとなる、まだ時間があるのではないかというけどジャンルの違う飲食店とかで商売始めるのは実際相当に厳しい
アルバイトで見習で一から始めろとしても厳しい、それは全く別な分野でありこれまで積み重ねたものを活かせないからである
それで失敗する人が多い、ただ起業資金を奪われただけだったともなる

ある人が経営に失敗したのは技術力があったのだが会社でも経営することがどういうことかわからなかった、確かに技術面では優秀でも小さな会社でも自営業でもするとなると
それは技術者として雇われるのとはまるで違ったものとなっていたのである
だから会社をやめて失敗だったとなる、やめなければ給料も良かったのだから困ることもなかったのである、結果的に借金を背負い込んだだけだともなった
つまり雇われる者と経営する者とは相当に違っている
でも普通は雇われる経験はしている、でも人を雇い使う経験はしていないのである
人間はまずいろいろな経験ができない、いろいろな経験する時間が与えられていないのである、だからあらゆることを知っているとか優秀な人はこの世にいないのである
もし人生が千年でもあればいろいろな経験を積むからできるともなる
でも人間の一生は短いのである
失敗したらやりなおせばいいというがそのそのやり直す時間がないのである

菅首相も官房長官では優秀だったとされる、でも総理になるのと官房長官は相当に違ったものである、官房長官を経験しても総理の経験などできない、誰もできない、それでピーターの法則のように無能化されるともなる
技術者として優秀だったから経営者としても優秀だとはならない、それでかえって出世すると無能化するという法則が成り立つのである、つまり人間は限られた時間しか与えられないからあらゆることを経験できない、もし時間があったなら千年でも生きていろいろなことを経験できたらこの仕事はこういうものだったのかと実感して知るのである
でも人間はわずかのものしか経験できないからあることで有能でも別なことでは無能化されるのである

そして最後はどうなるのか、時間切れで終わりだ

こうなる、おそらく老後に好きなことをしたいとか計画していても病気になってできないとか何か不測のことが起きてできなくなる
そして退職してやりたいことをやるとしてもできなくなる
人間のの一生はそれだけ短いのである
そのために(若い時に神を知れ)となっていたのである
それも若い時はそんなこと思わないのである、それは老人になっても時間が十分あるのだからできると思うのである

時間などいくらでもありあまっている、暇で暇でしょうがないんだよ

こういう若い時は思っている、でもこうして最も浪費しているのが時間だったのである
時間が最も消失しやすいものだったのである
40、50から一から始めることはできなる、60の手習いとかもあるからできることはできる、でもこれまで積み重ねたことが後年活きるのであり何も積み重ねのないと本当に一から始めるのだから苦しいとなる

そしてあっという間に老人となる、ただ今は60代では老人とは言えない、でも何らかそれでも病気になる人が多いのである
何か学問であれ芸術であれ詩歌であれそれを目指すならまず今なら世界旅行が欠かせないそれで失敗したのは50代から海外旅行をバックパッカーでその経験は貴重だった、何か世界のことについて書くにしてもその経験がないと何も書けなかったからである
だからたいがいヤホーニュースの記事の解説している人は留学している人なのである

この人のyoutubeがなぜ人気があるのかというといろいろな経験をしている、その経験談が面白いし役にたつのである
今まではこういうことはなかなかできなかった、テレビに出て延々と自分の経験など語れないからである、そこがインタ−ネットで変わったことである
何か実際に経験したことは訴えるのである、その人の書いていること語ることは経験したことでありそれが見る人に聞く人に訴えるのである
それがただ本を読んで語っているだけでは訴えないのである
ただyoutubeにはいろいろあって本の解説番組がありそれは
それなりに面白いとなる
youtubeは何か老人でも経験を語れるから老人でも向いているのである
若い人は経験がないから語れないのである
だから老人の経験を知って聞くことは有意義だとなる
ただ自分にしても本を読んでも理解できなかったかとなる経験がたりなかったら若い時は理解できなかったとなる
老人になると理解力だけは深まる、だから評論に向いてくるのである

ただ人間はどんな人でも時間が限られているから人生は時間切れで終る
時間の過ぎるのが早いからである、無常迅速というのもそうである
人生をふりかえればあっという間だったともなる
こんな簡単に終わるのかと唖然としてしまうのである
そして残るのは後悔だけでありその最たるものか時間を無駄にしたということなのである



2021年09月05日

人権意識というのがどこから生まれたのか? (カトリックからの宗教支配からの脱却から起きた)


人権意識というのがどこから生まれたのか?

(カトリックからの宗教支配からの脱却から起きた)



1790年8月3日、政府はユダヤ人の権利を全面的に認めた。1792年5月から1794年10月まで、キリスト教は徹底的に弾圧された。当時カトリック教会の聖職者は特権階級に属していた。革命勃発以来、聖職者追放と教会への略奪・破壊がなされ、1793年11月には全国レベルでミサの禁止と教会の閉鎖が実施され、祭具類がことごとく没収されて造幣局に集められ、溶かされた
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フランス全土に網の目のように張り巡らされた教区教会は、1667年のルイ法典(フランス語版)(民事王令)以降、教区司祭のもとで洗礼証書・婚姻証書・埋葬証書の認証という形式によって戸籍業務を一手に担い、教区内住民の生誕、結婚、死や葬送に関する一切の記録を納めていた


「恐怖政治」の時期には多くの聖職者が処刑され、追放された。教会は閉鎖され、多くの建造物は破壊されて美術品も売りに出された。こうした「非キリスト教化運動」(反キリスト教運動、キリスト教否定運動)が特に激しかったのは、1793年秋から1794年春にかけてであった。この運動は、知識人の反宗教感情と国民一般の反教権主義とが結びついたもので、宣誓を拒否する聖職者は「反革命的狂信者」と断罪された[

恐怖政治」の時期には多くの聖職者が処刑され、追放された。教会は閉鎖され、多くの建造物は破壊されて美術品も売りに出された。こうした「非キリスト教化運動」(反キリスト教運動、キリスト教否定運動)が特に激しかったのは、1793年秋から1794年春にかけてであった。この運動は、知識人の反宗教感情と国民一般の反教権主義とが結びついたもので、宣誓を拒否する聖職者は「反革命的狂信者」と断罪された


フランスの人権主義はカトリック支配の反発から生まれた、その反発は凄まじいものだったのである、聖職者が革命の標的となり多数の聖職者は追放された
そして社会は世俗化して博愛、自由、平等のフランス革命の標語になった
この博愛は宗教的なものでない、人権としての博愛である
つまりキリスト教徒だから愛すとかではない、宗教にかかわらず博愛になる、広く愛すということことである、こういうことはすでに仏教でもキリスト教でも起きていた
ヒンズー教ではカースト制があり奴隷階級もあってそこには博愛はない
宗教によって縛られ奴隷にされていたのである、それをシャカが破ってカースト制で差別せずにあらゆる人間を愛すとなりアジアに広まったのである
キリスト教でも最初はユダヤ民族のためのものでありイスラエルのためのものであり他に適用されないものだった、それで異民族の善きソマリア人の例えで万民を愛すものとして広まったのである

あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」

愛をもって接した人は隣人でありその隣人が異邦人であれ黄色人種であれ黒人であれ関係ないということである
でも現実にあなたは何教ですか?イスラム教です
では私はキリスト教だから助けません
そうなったら愛はキリスト教の人だけに限られてしまうのである
アメリカても実際は黄色人種をアジア人を差別しているし黒人はもともと差別されて今でも差別されている、アメリカには根強く人種差別がある
それでなぜ日本に原子爆弾を落としたのかというと黄色人種だから人種差別があったからヨ−ロッパには落とさなかった、また白人の先祖がヨ−ロッパ人だからドイツには落とさなかったとしている,アメリカはそもそも差別の国なのである
ヨ−ロッパ人もそうである、アジア人を黄色人種を一段低いものとして差別しているから植民地にもしたとなる、それで今度は中国人の下につくようになるときヨ−ロッパ人は下位にたたされる、イスラムが栄えていたときは白人がヨ−ロッパが奴隷として女性も売られていたのである、裸にされて市場で売られていた
オスマントトルコではそうして奴隷にされた女性がハーレム中に置かれたのである
日本では奴隷にされた歴史はない、それは日本は異民族との熾烈な争いがなかったからである、日本が一つの世界であり直接民族同士の熾烈な争いを経験していないからである
その争いをヨ−ロッパがアジアに進出した時、経験したのである

要するに宗教は民族が違うと通用しない、ある国家とか民族だけのものなら世界宗教にはならないのである、だから人権主義が生まれたのはキリスト教の宗教の否定から生まれたのは宗教によって人間の自由が奪われていたからである
仏教が日本では江戸時代に戸籍係になっていたと同じようにカトリックでもなっていた
それでプロテスタントと結婚したとも認められなかった、戸籍を作れなかったからだ
カトリックはすべて宗教で縛り権力をもったために反発された
そのために宗教からの自由を求めてフランス革命が起きたのである
宗教からの自由を求めたのである、キリスト教だけを信じることを強制されることからの解放として革命があった、思想信教の自由を求めたのである
カトリックになるとキリスト教しか許されない、でもプロテスタントは抗議するということであり今までの社会をすみずみまで支配していたカトリック社会を解放したのである
カトリックは十分の一税を強制的に徴集していた、その税金も今度は国家へ納めることになったのである、政教分離になったのである

こうしてフランス革命からみればイスラム教など政教一致だから宗教の自由はない、また無神論も認められない、アラーの神を否定することは殺されるとなっている
そこに信教の自由はない、仏教であれキリスト教であれ宗教を選ぶことはできないのである、そこにフランス革命から政教分離になった意義があった
なぜイスラム社会が停滞しているのか?その原因は宗教にもある、イスラム社会の規範がありそれを旧弊としてあってもアフガニスタンとかでは厳格にタリバンは守る
そうなるとフランス革命で起きたような自由は極端に制限される
女性の人権も無視され抑圧され弾圧される、だから女性にも職業に就く自由をと訴える時命がけになる、殺されることもあるし現実にあるからだ

ただイスラム社会は政教分離は起こらない、それが近代化できない遅れたものになっているともみる
なぜならイスラム社会はカトリックのように強力な宗教規範が世俗を支配しているからである、信教の自由もないし女性の服装の自由もない、言論の自由もない、教育の自由すらない、女性の教育すら認めていないのである
だからイスラム社会は停滞している、でも世界と接する時、グロ−バル化社会ではそういう社会がまるで取り残された社会となる、部族が日本の江戸時代のように藩のように個々に支配している、統一国家ではない、民族のモザイクのなかで反発し合っている

言えることは宗教は強制されるべきではないことである、自主的に求めて信仰すべきものである、だから何を信じるのも自由だともなる、人に危害を加えない限り自由だとなる
しかし自由には責任がともなっている、無神論でもいい、でも本当に責任を持って言えるのか?
ただ無責任に深い考えもなく言っている、もし本当にドストフェススキーのように深刻に悩んでもう神を否定すると人間でありえないとかまでなればいい、ただ軽い気持ちで神を否定することが恰好いいとかだけで主張しているのが多いのである
とにかく圧力団体となりそれが政治と一体化して創価のようになるのは政教一致であり
王仏冥合とかの中世的思想で政治権力と一体化することは現代では危険なのである
その自由の制約が社会を停滞させるのである、権力一体化することはカトリックと同じだからである

だから創価が公明党が権力を持てば危険になる、カトリックのように社会の隅々まで権力で支配することになるからだ、そこて力を持つのは聖職者でありその宗教団体で地位をもったものが社会でも地位をもつようになる
民衆を権力で操作して宗教で操作する、地獄に落ちるとか罰当たるとかで脅し権力をもてば実効力があり支配できるからである
それがイスラム社会ではタリバンのように宗教規範に反するものは即銃殺になる
だから命がけで女性の就職の権利を主張している

つまり権力と宗教が一体化することは危険なのである
なぜなら天国は心の中にあるというときこの世の権力を得ることではないからだ
でもみんな実際の生活では権力をもとめている
それを目的として創価では日々選挙運動しかないからである
つまり宗教と政治が一体化することは危険なのである、日本でも天皇が現人神(あらひとかみ)となり宗教戦争ともなったからである、日本は神国だから絶対に勝つとなってそれを信じて戦い3百万人も死んだとなるからだ
創価の初代会長は牧ロ 常三郎は天皇に反対して戦時中獄死したのである、それは政教分離されないためにそうなったから戦後はあくまでも天皇は政治権力にはタッチしない象徴天皇となったのである

とにかくフランス革命で目指したものはあらゆる自由だったのである、宗教からの自由であり貴族が支配した身分制からの自由であり人種とかでも差別されない自由であり言論の自由もある
ただ本当に自由が実現されているかとなるとされていない、報道の自由は日本では世界的に下位である、インタ−ネットが生まれてやっと言論の自由が生まれた、それもまだまだであるがマスコミにテレズなら六局に牛耳られていた時よりは弱小な個人でも一応発言できるということで進んではいる
ただ人間には全面的自由はありえない、自由といっても必ずなんから制約される
その制約が外部のものとして宗教とかの制約ではなく内面的良心的制約ならいいのであるそういう精神的なもの内面的なものからの制約は強制されたものではないから容認される権力で内面と精神的自由を制約するのが問題なのである

そしてすべてを自由にはできない、宗教団体でも政教一致の団体は制約すべきである
信教は自由である、個々人では自由である、でも団体化して政治化して権力化して社会を宗教で支配することは危険である、その歴史がカトリックの歴史だったのである
それでフランス革命では聖人像とかまで破壊され教会の中にあった宗教的な遺産も破壊されたのである、それは度を越えたものとなった
明治維新に優遇されていた寺が国家神道になったとき仏像が破壊されたのと似ている
宗教が組織化団体化すると宗教の権力争いとなる、イスラム教でもみんな統一されているかとなるスンニ派とか熾烈な争いがあり統一されていない
その憎しみは骨肉の争いと同じである、どうしてもイスラム社会が停滞しているのは政教分離ができないためだとみる

タリバン支配になったアフガニスタンは宗教の制約が厳しくて経済でも発展しにくいとなる、女性が就職もできないとなると社会の発展もない、経済の発展もありえないとなる
不思議なのはなぜ中国が経済的にあれだけ急速に発展したのか?
それはイスラム社会とは違い宗教の縛りがないためのかとも見る
中国はもともと現世主義であり宗教的なものを拒否する社会だったからである
ヨ−ロッパが発展したのはカトリック支配からプロテスタントになり現代の先進国となった、でもカトリックが支配した南米とかアジアでもフィリピンなとは近代化に遅れたのは宗教のためかともみる、宗教が社会全般に影響するからそうなるともみる

ともかくアメリカは人権人権というがそもそもアメリカが人権を言う権利があるのだろうか?人権を言うならばとても原爆なと落とせないのである、そこには人種差別があり落としたともなる、人権を言う人が戦争になればアメリカは容赦なく殺してきた
ベトナムでもイラクでもアフガニスタンでも容赦なく殺してきた
まさになんであれ相手の人権を無視するからそういうことができる
つまり何であれ人を殺すことは人権をの最大の無視なのである
人権を言うなら内政干渉をしたりしない、その国の人はその国を造るのでありその国の人を殺すようなことはしないのである
いづれにしろ何であれ相手を殺すことは最大の人権の無視なのである
だから最大の悪は戦争だとなる、戦争になれば理由は何であれ殺すことが正当化されるからである

中国もウィグルで人権が無視されている、でもアメリカもまた人権を言うが無視しているのである,アメリカ内部でも人種差別が根強くあり人権を無視しているとなる
何か人権至上主義も実際は強い者が弱い者の人権を認めないということで共通している
力があるかないかで人権も得られるとなる、弱い者には人権もないのである
アメリカでアフガニスタンで人権を無視しているからアメリカが与えるというときも無理がある、人権はそれぞれの国で自主的に獲得しないかぎり得られないともなる
でもアフガニスタンで女性の権利を主張したことはやはり外部からの刺激でそれを主張するようにはなったのである、だから外部の刺激で目覚めたということはある

いづれにしろいくら人権といってもそれが通用するのは強い国であり強い者だけである
弱い者は人権は得られないのである,貧富の差があっても得られない、貧乏な人は人権もないのである、金がなくて医者にかかれないとかありいくら医者にかかれる人権があるとしてもできないとなるからだ、そういうことは他にいくらでもある
人権を主張しても強い者はできるが弱い者はできない、自由も得られないのである



2021年09月01日

学歴にこだわるのはなぜか? (人間はなぜ優秀さにこだわるのか?あらゆることに優秀な人はいない)


学歴にこだわるのはなぜか?

(人間はなぜ優秀さにこだわるのか?あらゆることに優秀な人はいない)


学歴の前に人間はともかく優秀さに異常にこだわる、学歴はその一つの目安である
ただYAHOO ニュースが解説している人は高学歴でありそれも必ず海外でアメリカなどに留学した人が多い、その留学経験が高い見識を持つたとになる
むしろこの留学経験とかの差が大きいように見るのである
また有名大学の理系の人も発現している、となるとこういう人は優秀である

なぜ留学経験や海外経験で差がつくのか?

それはそこで学問したからというものでもない、外国を肌で知る、単なる本の知識ではない、そこで暮らして肌でしる、それが貴重なのである
その土地のことでもそこで一年も暮らしていれば肌でしる、それはちょっとした経験でもそうである、なぜこんなに日本と違うのだろうとなりその比較で日本を知る
アメリカとか中国などでもあまりに広すぎてその土地自体を知ることができない

私はアメリカに一回とか中国に三回とか旅行してもそんなことでまずその広さを理解できないのである、ここからして大きな誤解が生まれるのである
再三地理を知らなければ外国でも日本ですらわからないと書いてきたがその地理が広すぎてわからないのである
グランドキャニオンなどはまるで別な惑星に来た感じになったからである
全く異質な風土だからあんな所に住んでいる人の気持ちもわからなくなる
イギリスなら島国であり多少日本と似ているから理解しやすいとはなるかしれない

とにかく何か人間は俺はお前より優秀なんだと比較して俺はお前り上なんだと必ずマウントしようとする、学歴もその一つなのである、ただ実社会では仕事ができるかできないかで判断されるからそれほど学歴は通用しない、ただ文系とかはあまり学歴が関係しないように思う、理系で一流大学なら別である、その差が大きいのである

人間は優秀だというときあることで優秀なのでありあらゆることに優秀な人はいないのである、それはどんな優秀な人でもそうである、ある一部に優秀なだけなのである
全能なのは神しかいないからである
優秀だという時知識だけではない、江戸時代とかには農業は力仕事が多いから力あるものが優秀とされた、それで比べ石があり石をもちあげることで一人前とされたのである
その時代は知識ではない、力が優秀さの基準だったからである

今なら機械でするということで力だけでは優秀とはならない
でも依然として建築現場とかでは力仕事が多いから体力があることは優秀だとなる
私は体力がないからもっと知識を身に着ければいいと後悔している
社会がどういう所なのかわからないからそうなったのである
つまり体力がない者は必死で知識を身につけるべきだとなる、そうでないと体力仕事をさせられたりもう寿命さえ縮まるとなるからだ
設計するものと現場で働く者の差が余りにも大きいからである

なぜその大工さんは体力も見るとまるで柔道の有段者のように体力がある、それで体力がない自分はうらやましいとなる、またコミニケーションも優れている
だから一人親方かできる、また庭作りも家作りもできる、万能選手ということもある
それで常にそのことを自慢してマウントをとりにくる
それでも自分は認められないとか不満なのである、その人は十分に優秀なのである
ただ私のように知識の面ではないが庭作りだから植物のことにも詳しいし社会で現実に稼ぐ能力がありたけている、そしたら自分から見たら十分に優秀なのである
でもそれでも自分は認めらていないとか不満なのである

私の姉も看護婦であり保健婦であり優秀だった、体力があり気丈夫でありただ太っているだけではない動きも機敏なのである、頭の回転も速いのである
そして何より男でも恐れない、相手をにらんで恐れないのである、男の方が恐れていたのである、まるで女親分という感じだったのである、だからこそ父親が死んでからこの家を作り守ることができたとなる
そして死の時最後に言い残した言葉だ「私は優秀だった」という言葉だったのである
それもやっと聞き取りわかった、そのことで悲惨だったのはひどい認知症になっていたからである、その介護のことをプログで書いてきた
ただそんになまで優秀だということにこだわるのには驚いた、最後は認知症になり馬鹿になったということでそういうことを言い残して死んだのかもしれない
俺は馬鹿じゃない優秀だったのだと言いたかったのかもしれない、だから悲惨だったとなる

ただ女性でもそうであり異常に優秀さにこだわるのが人間なのである
女性の場合は美にこだわるのが異常だともなる

「鏡よ鏡、国じゅうでいちばん美しい女はだれ?」
と聞いて、鏡が、
「あなたです、お妃さま、あなたが国じゅうでいちばん美しい」

白雪姫の童話でもそうである、異常に美しさにこだわる、それが男性の場合は優秀さにこだわる、ただ女性でも今では仕事をするから仕事の優秀さにこだわる

でも人間でも向き不向きがあり医者でもいくら大学を出て資格をとっても向き不向きがあり医者の腕には相当な差がある、だから下手な医者にかかると大損になる
それはアラる場所でそうであり教師でもなんでもそうである
その差が大きいのである、だから例え有名な大学が出たから腕のいい医者となるとも限らないのである、医者とか手術するとき知識ではなく手の器用さが大事になるとかそれに向いていいなと駄目なのである

結局人間の優秀さも限定的である、万能にはなれない、そして何かを習得するには時間がかかる、もし一つの楽器でも時間をかけて訓練すれば上手になる
でもあらゆる楽器を習得することはできない、時間が限られているからだ
たからあらゆる楽器を習得する人はいないのである
そして人間の経験はあらゆることを経験できない、ほんのわずかのことしか経験できないそこでどうしても視野が狭くなるのである
またそうして何するにしても時間がかかる、その時間がなくて時間キレで人生も終わる
あの時こうしていれば良かったとかもっと勉強していれば良かったとかいろいろ反省して最後は終わりだとなる

会社に就職することは実はそこで経験を積むことがのちのち役にたつ、会社に就職した経験の人はまず会社のこと自体わからないからである
そこで引きこもりは社会のこと自体わからないとなってしまうから危険なのである
ただ引きこもりで自分のしたいことがありその能力を伸ばすということはありうる
私は自由な時間があったから旅ばかりしていたとしてもそれで地理に興味を持ったということがあるからだ、また詩の創作もしていた、それは自由な時間が与えられたからできたことなのである
つまり人生を振り返ると人生は短い、だからどんなつまらない経験でも役に立つとなる
失敗でも役に立つとなる、そもそも人間は経験でも知識の習得でも時間がないので限られたことしか知りえないしできないからそうなる
何か訓練するにもその時間がないのである、そして最後は時間切れで人生も終わるのである、人間がなぜこれほど優秀さにこだわるのか?

それは俺はお前より優秀だとということで優越感をもちたいからだとなる
でもあらゆることに優秀ではないから劣等感を持つ、十分にあることで優秀でもあらゆることに優秀だとはなりえないからである
そして神に認められないということでこの世では不満でありこの世のことの優秀さにこだわる、結局人間はみんな死ぬ、そして人間の優秀さも虚しくされる
だから永遠の命が与えられる神が最高のものでありその外の能力はたいしたことがないともなる、人間は万能の力を持つことはできない、それは神しか持つことはできない
そして人間は科学技術で優秀とかなってもそれが呪いともなる
それはプロメテウスの神話とかで言われてきた、火を盗んで過酷な罰を受けた
それが今になって原発事故でそれが現実化したのである
人間の業には技(わざ)には呪いが隠されている、技(わざ)はわざわいになる
すべていいものとして働かないのである、科学技術がパラダイスをもたらなさないのである、そこに人間の限界がある
つまり人間はいくら優秀だと言っても限界がありその優秀さも神によって砕かれるのである、それが原発事故でもあった、そういうことは他でも必ず起きて来る

聖書で不思議なのは優秀な人間が選ばれたのではないしまた優秀だから勝つともならないむしろ優秀でない人が選ばれた、ではなぜそうして戦いでも勝ったのか
それは神の働きが関与があって勝ったのである、その人の力ではない、現実にその選んだ人は優秀ではないからだ、天才という人はいる、でもそうして特別優秀な人は神に選ばれなかったのである、そういう人は自分自身の力を過信するし自分の力で行おうとする
でも神には選ばれない、そういう人は自分自身の力で成せると思うからである
すると神がかかわることができなくなる、何かこの世で大きなことはとても一個の人間ではできないと思う、何かしら神の関与があって成さる

また戦いでも

淝水の戦いひすいのたたかい)

百万の兵が八万の兵に敗れたとか大軍でも敗れる、その原因は大軍となると統率できなくなりうまく責められて大混乱になり敗れたとここのyoutubeで分析している
百万は多いにしても必ずしも数が多いから勝つとはなっていないのである
信長の桶狭間でも大軍を相手にして少数軍で勝っている
どこで勝敗が決まるかわからないということがある
それが大国のアメリカでもベトナムに負けたとかアフガニスタンでも負けた
圧倒的に武器でも物量でも優っているのに負けたのである
中国は巨大だからそれを統率することがむずかしくなり絶えず分裂してきたのが歴史である、そこに弱点があり歴史は繰り返すとなる

科学技術でも万能ではないから原発事故になったしコロナウィルスでも実際は科学者でも医者でもわからない未知なものだからである
そういう未知なものが依然として起きて来る、人間の体でも全部はわからないからであるこの世には依然として未知の領域が大きいのである
要するに神のみぞ知るという他ないのである
神が導かない限り人間は知りえようがないことがある、ただどういうふうに人間社会に神が関与するのか?それが良くわからない
でもアメリカがなぜ小国のベトナムでもアフガニスタンでも征服できなかったのか?
力の差が格段にあるのに征服できない、あんなふう無様に撤退してゆく
あれが大国のアメリカなのかと唖然とした、だからすべてこの世の中力だけでは治められないのである、そこに何らか神の関与があるともみるのである


2021年08月07日

金に追われ金に狂う社会 (他人は金からしかみない、死んでも金である―経験した実話)


金に追われ金に狂う社会

(他人は金からしかみない、死んでも金である―経験した実話)

人間の不思議は他者になると何を見ているのか?
その財産とか金しかみていない、他者は死んでも何の関心もない、近くで死んでもただ死んだのかで終わりである
ただ近くだと多少は身近だから驚きその人のことをいたむとか考える
でも遠い他者となると死んだのもわからないし何も考えない
他者になると家族でない者をどうみているかとなるとその人の財産と金しかみていない
その財産と金の分け前を得たいとしかなくなる
他者とはそんなものである、だから他者が弱ると襲ってくる
動物でも子供はが弱者であり餌食になる、子供が一番弱いから襲うのである
私がここ十年とかその前でも経験したことは人間が求めるのは金しかなくなったということである

それは一応身内の兄が交通事故で突然死んだことである、その時事情が良くのみこめなかった、何かトラック会社に勤めていた社長が盛んに世話したといい、そのことを盛んに言っていた、死体はその社長の家に一時安置したからである
でも骨を渡さないとかお前はなんなのだとか盛んに言われた、確かに兄に対しては私の家では良くしなかったしそれで負い目があり言われてもしょうがないと思った
それで自分自身はかかわったにしろすぐめんどうだから帰った
母と親戚の人は残って処理した、でも骨をもってゆくと言ったら返さないと墓を作ってやるとか何かいろいろ言うのがわからなかった

何が起きたのか突然のことで理解できなかった、その社長は保険金をとる代理人になりたい、保険金をとるためにそう言っていたのだとわかった
だから世話したとかなんとかいろいろ恩を着せる、つまり乞食のようにして来たということとか世話してやったとか言っていたのである
でもなぜ骨など置いて墓まで作るようなことをしようとしたのか?
そんな手間なことや金のかかることをしようとしたのか?
それが理解できなかった、手厚く葬るためにそうしようとしたのか、何かわからなかったのである、そんなことをしていたら金がかかるからだ
それで後でわかったことは交通事故の保険金を欲しいためにそんなことをしていたのである、つまり親戚でも親でもいないと見ていたのである
そして自分自身は引きこもりであり車もないから自賠責とか自動車保険のことがわからなかったのである,一緒に付き添った親戚の人が車をもっていたので教えられてわかったのである

ともかくこのことをふりかえると確かに兄を運転手と雇った時、同情したことがあったのかもしれない、兄も助かったとかなっていた、なぜなら市営住宅から借金で追い出されていたからである、どこにも行くあてがなく運送会社に行ったのである
ただそこでは別に無料で助けたわけではない、トラック運転手として雇ったのである
結構働くので重宝がられたと仲間から聞いた
だから雇う方でも働いてもらうのだから助かっているともなっていたのである
もし乞食のようにして来たというならそんな待遇をしないだろう
でも死んだとき何か豹変した、保険金のことを知っているからだ
その金を代理人になり得ようとして墓まで作ってやるとか骨は渡さないと頑張ったのである
ただなぜそんなことをするのか私も母も車をもっていないしわからなかったのである

そしてその後も弁護士を頼むと言ったら怒り絶対に骨を渡さないとかなって困った
なぜそんなに骨とか墓にこだわっていたのか?それが何なのかわからなかった
それは保険金を欲しいためにそういっていた、代理人となり保険金を相続するためにそう言っていたのである、ただ雇い主には法律的にはなれない、現実に母がいたからである
母にしても兄には負い目がありトラック会社の社長の言うことに逆らえないことがあったそこをつかれると弱いからである、でも法律的には社長には相続の権利はなかった
ただ社長と兄の関係がどういうものかわからなかった、結構仲良くして働いていたのだろう、でも交通事故で死んだ時、豹変した、保険金のことを知っていたからである
そして兄にはそうした親戚とか親とかいないと思っていたからである
とにかく頼んだ弁護士はなにもしなかった、

ここでもめて弁護士を頼んだのがその弁護士もまた金をとるだけの人だったのである
相談するだけで百万を払いといわれて自分の家で払ったのである
その頼んだ人も何か社会のことをわからなかったのである、仙台市で知り合いだったというが相談するだけで百万を事前にとることなどありえないのである
何万かは相談したらとる、何もしないの相談だけで百万とることはありえないのである
また払う必要もなかったのである、そこで払う方も馬鹿だったとなる
なぜなら払う必要もないしそんな金をとるなら別な弁護士に相談すればいいことにすぎなかったのである
何か休業補償とかなんとかありその書類を渡さないと苦労させられた
その交渉したのは保険金を払う会社の人であり弁護士は何もしていない
だから弁護士もこうしてただ困った人から相談を受けて金をとるだけの人もいる
弁護士は何かこうしてもめごにからんで漁夫の利を得るような商売にもなる
でも百万を何もしないで得たのだからいい商売にもなる
その親戚の人は死んだ、何かトラック運転手の社長のことを最後まで信用していたのである、そんな悪い人ではないとして信用していたのである
その人は社会のことを知らない人だったのである、もちろん自分自身もそうである
社会を知らない人はそんな悪い人がいないとみる、その人もそうだったのである

それから今度はその兄の娘がいたが交通事故で両親はその前に離婚していた、そこで死んだ時、その妻の実家に引き取られたのである、その養育費は保険金から出された
でもその娘はその妻の実家の兄の家からでて東京に住むようになった
そして父の保険金で暮らしていたのだが金使いが荒く金がなくなり生活保護になった
娘が一人生まれていたからそれで長い間暮らしていた
ただ母は死ぬ前にその孫にあたる女性に何百万やれと大声で私に言った、母は本当に孫のことを思っていたのである、でもその孫娘はただ金のことしか見ない
それがわかったのは私の家の墓に兄の墓を作ったから墓参りしてもらいたいと言って10万送った、その孫娘はいつも金がないから送ったのである
でも墓参りには来なかった、金が欲しいだけだったのである、そうして実の親の縁も切れたとなる、親の縁も金の切れ目が縁の切れ目となった
だから母が孫娘を本当に思っていたことなど関知しないのである
その孫娘も金が欲しいということしかなかったのである
ただ親からひどい目にあったのだからそうなっても仕方がないともなるが何か悲しいとなる

それから今度は私の家族の介護で苦しむようになった、それも親戚といっても兄弟とかではないから結局金を要求されるだけだった、一人は事業に失敗していて多額の借金をしていて人のことを思いやることなどできない人だった、だから何かするにも表立っては言わないが金を要求していたのである、でも百万はくれたのである
今度はその時、原発事故があり小高の人が仮設に避難してきた、そこで何もすることがなくパチンコとかギャンブルに興じていたのが小高の人たちだったのである
そして南相馬市では鹿島区は30キロはずれて補償金は一人70万で終わった
医療費は半年で打ち切られた

でも原町区と小高は十年も医療無料高速無料でありさらに期間が延びた!

これも信じられないとなる、せめて南相馬市なのだから医療費とか高速は無料にして同じにすべきだったのである、こうしてここで延々と補償金でもめて分断された
飯館村でも補償金のことでもめて分断された
また介護中に家を留守にして金を奪われたとか延々と金の問題が次々に起きたのである
それは今でもつづいている、金に困窮した人がやはりせびるとかあり払っているからである、その金は大きくはないから払っている

とにかくこうしてここ十年以上延々と金の問題が起きている、金、金、金である
親戚でも付き合いなの女性だったがその女性は母親を介護している所に来て
「ばあちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらい」と血相変えて去っていったのである、子供の時一回くらいしか合ってない人だからしょうがいなとなるがそれでも信じられないとなる、その人は金には困っていないのである、何かと金が遺産とか入る人だったのである
でも実の親ではないが長く一緒に生活した親が病気になったときやはり私の家と同じように何のめんどうもみない、それで最後に私のところに電話かけて「ひどい娘だわ」と言って白血病ですぐ死んだ、すぐ死んだから良かったとなる、とても娘は介護などできないからである

こうして延々と金にまつわる金、金、金で問題が起きていたのである
これは特殊な例かとなるとそうではない、今の世の中はこうして金、金、金しかないのである
それはあらゆる場所でそうであり金を求め金に追われ金に狂う人たちがほとんどなのである
みんな金に狂いもう人間としてのモラルも消失している、金にさえなれば何でもいいとなる、遂には金のために人を殺すとまでなる、現実に心ではそうなっている
他者など死んでも関係ないしそれより死んだ人の財産が金が心配だとなる
家族の死はいたみ悲しむが他者の死はただ一人この世から消えるだけだ、数が一人減るだけだとなる、それより金と財産があればそれが欲ししとなるだけである

もちろんここには自分の家のカルマがあり自分自身にも問題がありそれがカルマとなって苦しみとなって現れたのである
必ずカルマは家でも個人でも現れ清算を強いられる、それは苦しみとなって現れるのである
ただこうしてすべてが金になっている、金てすべてがもめている、
そして最後は肉親ですら「金の切れ目が縁の切れ目」で終わっているのごこの世だとなる

2021年07月18日

未来はわからない、人間は動機が大事 (動機で方向が決まる―未来も決まる―神は心を見ている)


未来はわからない、人間は動機が大事

(動機で方向が決まる―未来も決まる―神は心を見ている)


人間はせいぜい5年先くらいしか見えない、学生時代だと高校に入るために受験勉強るすとか大学に入るためにでもそうである
次は就職のために用意するとかなる、するとせいぜい5年先くらいしか見ていないのである
そうしたらとてもこの世の中の変化する社会では未来をがどうなるのかわからないのだからそれに備えて行動することは不可能だとなる
結局人間は何が起こるかわからなのだ
この辺で起きた津波から原発事故でもそうだった
こんなことになるなど予想できない、特にあんな大きな津波が来るなどこの辺ではイメージなどできなかった

でも未来を見るというとき確かに過去をみる、歴史をみると未来が見えることがある
なぜなら津波でもこの辺では400年前に溺死者700人という記録が発見されたからである、でもそれはたった二行であり専門の学者すら津波の後に発見したのである
でもそういう過去を知れば未来を知りえたともなるのである

人間はどんなことしたって未来のことがわからないから来年のことを言うと鬼が笑うという格言が生まれた、来年すら何か起こるかわからないのである
第一コロナウィルスを予測した人は一人もいないのである
これだっけ過去にそれも百年前とかにあったことでありその被害も大きかった
でもそのことでも忘れていて話題にもならなかったのである
何か自然災害でも人間の災害がかつて過去に経験している、ただ忘れてしまっているのである、だから災害は忘れた頃にやってくるとかカルマは繰り返すとなる
自然災害でも疫病でも周期的にやってくる、でもその間隔が長いと忘れて警戒もしないとなる

実は鬼ちゃんが笑っているのは、「来年の事を言うと鬼が笑う」ということわざからでした。このことわざの意味は、「将来のことはわからないのだから、あれこれ言っても意味がない。予測できない未来のことを言うと、鬼がバカにして笑う」というもののようです

まさにこれであり来年ですらわからないことを十年先がわかるのかとなる
コロナウィルスで今こんなふうになっているのを予測した人は一人もいないからである

だから未来を見る方法は人間にはない、不可能だとなる
それは人生でもそうである、20代とか若い時に未来を見れるのか、せいぜい5年先くらいが限度だということは納得する、60以上のこと老人になってからのことが予想だにできないのである
そして若い人は若いことが永遠につづくように思っているのである
年取らないと思っているのである
でも40になると白髪が生えてきたりしておっさんになる
つまりすでに老人の入り口になってそうなるのである
だから40才になると必ず気づく、もう時間がない、後がない、遅かったとなるのである急速に40才から老人に向かっているのである
老人に向かうということは死に向かっているのである

70代になると明日は死ぬかもしれないと死が目前になる
その心境もその年にならないとわからないのである
老人の心境とは例えば人がいろいろな人と出会う、でももう私はこの世にいないかもしれない、あなたと逢うことは永遠にないですよとなってしまうのである
だからそもそも人間がこの世で逢うということ何なのだろうとなる
現実に自分の家族は全部死んだからである
家族すら70過ぎたりすると一時の出会いだったのかともなってしまうのである
そして同期の人も死に病気になったりする人が多いのである

だから人間とは誰も未来など知りえようがないと知るべきである
では何が大事なのかとなると求道するとなれば動機が大事になる
あなたはどういう動機で宗教でも求めているのかが大事になる
私はカルト教団に入ったにしろ自分が求めていたのはどうして人間が死ぬのかということでその解決のために入ったともなる
つまり私はそういうことを解決したくて求道していたとなる
ただそんな場所は宗教とは何の関係もない場所だったのだから解答はなかったのである
そこは俗世間より俗的な場所であり不純な場所だったのである
だからなぜ宗教の看板を出しているのか不可解だとなる
ただ動機としては不純なものはなかったのである
ただ私はキリスト教とかを求めていなかった、聖書など読んでもいなかった
だからほとんど知らなかったのである
ただなぜ人間は死ぬのかということがいつも頭にあったのである
それは父親が中学に死んだことが影響していた、それ以来死のことが頭から離れなくなったのである
だからすでに中学の時から求道が始まっていたのである

ふりかえると求道というのはそうして早い時期から始めた方がいいのである

「若きうちに神を知れ」

その若きうちとは20代までなのである、実は自分自身そんなことを思ってもみなかったただそういう事情がありそうなったのである
本当にふりかえると意外だったとなる
普通は若い時は享楽にのめりこんだりするのが普通である、欲望が最大限に拡大する時期だからである、性の欲望でも何でもそうである
そういう時期でありそのために欲望にのまれてしまうのである
そして神を知る一番大事な時期を逃してしまいあとは神を知る機会がえられなくなる
何か老人になれば神を知ることがかえってできるのだと見ているができない
ただ仏教のように諦念とか悟りの境地にはなる
でも神を知るということは一番盛りの時でないと知りえないのである
だから最も大事な時期を享楽に費やしていたらあとはもう神を知ることは不可能だしその後に善きことに真善美の追求もできなくなるのである

だからそもそも人間は未来など時代の先など誰も見れない、ただ変わらないのは人間の一生の先は見ることはできる
つまり人間の一生は人間が生まれてから変わらない、必ず年をとり老いてゆく
その盛りは青春時代でもあっというまに過ぎる、それでみんな老人になる
でも老人になることがどういうことかわからない
いつまでも若いということがつづくと思っているのである
でも老人をみればわかるはずである、みんな誰でも老人になることはどこでも普通にあり現実に見ることができるからだ
でも不思議に若い時は老人にならないと思っているのである
そこに人生の最大の盲点があったと思う、そしてもう時間を元にもどすことはできなくなるのだ、もう70代になると死があるのであり人生とは命とはliveとは本当にlieveであり去ることなのである、さよならだけが人生だとなってしまうのである
だからこの世でなぜ人間が逢うのかもわからないとなる

いくら未来を見て未来に備えようとしても不可能である、想像したこととは全く違った世界になっている、今頃なぜ働かなくてもよくなる、ベーシックインカムでそうなる
人間は自分の好きなことをやれとかみんなアーティストになれというのが不思議なのである、一生会社員になりそれで何もなく一生終わるという予想していたからである
それが大会社でもつぶれるとか会社員はいらなくなるとか言って自分の好きなことをしてそれで稼げというのが不思議なのである
銀行がなくなるというのもそうである、地方では銀行は一番安定した職業と見られていたからである、そこに就職すれば一生安定した人生が送れるとなっていたからである
それで公務員と同じように見られていた
高度成長時代に育った人たちは団塊の世代でもそんなことを予想することもできなかったろう、みんな企業戦士として働いて高度成長時代を生きたからである
こういうふうに常に未来はまるで違ったものとなり計算が狂ってしまうのである
そしてみんな人生は意外だったとなっているのである
つまり予想通りに生きた人は一人もいないとなってしまうのである

だからむしろ何かするときでも若い時は動機が大事だとなる
不純な動機だったら未来も不純なものになる、例え金持になっても不純な動機から始まっているのだから結果も不純なものとなる
それがカルト教団などに多いのである、そこはまるで宗教など関係ない世界だからであるそして結局人生を虚しく費やして終わるというのが本当に多いのである
結局人間とは何か悪魔にサタンによって操られ虚しく人生も浪費して終わるとなる
だからナチスでも社会自体が狂気になり千万単位で人が死んだということもそうである
膨大な命がサタンなのか操作されて失われたのである
日本がの戦争もそう言えないにしても何か似たものがある
3百万人の人間が死ぬということがどうしても理解できないからである
そこに何か意味があったのか?膨大な人間がいたずらに無意味に死んだのかとなる

ともかく神が「人の心を見ている」というとき動機を見ているということなのである
動機が不純だったら何をしても世間的に成功したとして神から見れば成功したとならないのである
だからとんなことしても未来など見れない、知りえない、ただ人間の人生とはその一生はいつの世でも見ることができる、それは若い時はたちまちすぎて老いるというとである
仏教では生病老死でありこれは人間が存在してから変わらないのである
いくら長生きするとしても実際は120歳が限界でありそれ以上は生きられない、限界なのである
だからこのことは人間がこの世に存在した時から変わらないからこそ聖書の言葉でも
聖賢の教えでも庶民の格言でも生きているのである

ただ時代が変わるという時、科学技術の進歩がありとても未来を見れないのである
第一飛行機で外国に行けるようになることを江戸時代辺りでも誰も予想もできない
それはヨ−ロッパだってそうなのである、そんなことがありえるのかということになっているのが時代の変化だからである
だから未来は社会全体になれば知りえないとなるのである
ただ神話などで人間の未来は予測されていた、技術が災いをもたらすことは予測されていたのである、火を盗んだプロメテウスが過酷な罰を受けたように甚大な災いがもたらされることを予測していた、日本でも技(わざ)は災い(わざわい)ということで技術が災いをもたらすことら予測されていたのである
それが原発事故となって現実化したのである

この世には自然災害でも何か信じられない大きな災いが起きることが予想される
それで聖書のテーマが脱出なのである、この世を変えることではない、それが必要でもこの世から脱出がテーマになるのである
ノワの箱舟でも出エジプトでも脱出なのである
神にこの世から救出されることであり災いの世からの脱出することなのである
この世はいつか滅びることは預言されている、何かこの世に理想の社会ができると思っていてもできない、それはどんな制度でもできない、人間には不可能なのである
神の国は神自ら治めるから神の国になるのであり人間には不可能なのである
常に混乱状態になる、コロナウィルスでもそうであり様々な予期せぬことで混乱して
誰も導くことがてきないともなる


2021年07月04日

集団組織が社会であり個人は無視される (世界はすべて全体主義である)


集団組織が社会であり個人は無視される

(世界はすべて全体主義である)

人間社会というのはどうしても現実になれば一人一人が力となり、すると一人一人でも集合して組織化するものが力となり権力を持つようになる
このことから逃れられない、一人一人を大事にしろというときその集合したものが大事に白しろとなり社会はその団体を組織を優先せざるをえない

人間一人でもその人は民主主義だと一票を持っている、それを多数集めた方が力を持つそれが正しいか正しくないかなど関係ない、数は力となり数が優先される
一人など相手にしない、選挙ではいかに数を獲得するかで決まるからである
個人はむしろ排斥され社会の敵と化す、だから個人が社会を相手にするときバックに必ず団体組織が存在するのである
その個人を見るより背後の団体組織を見て文学賞なども与えるのである

ともかく人間は一人でもその人が飲んだり食ったり買ったり消費活動をする
すると経済的にそれなりの力を持つ、それが団体組織化すると経済的にも力を持つようになる、その団体組織に非買運動されたら困るとなるからだ
そういうということは国の間でも起きる、国が敵対すれば物を買ったり売らないとなるからだ、自国優先となり食料でも入らなくなるのである
つまり経済力とはこうして常に強力な力となる
だから敵対すると経済でしめあげる、それで日本はアメリカに経済封鎖されて石油など入らなくなり戦争に突入したとか言われる、経済的に追い詰められてそうなったと見る人もいる
それが国と国では敵対すると常套手段になるからだ

民主主義でも個人の自由があるとしても一票があるとしても何の力もない、民主主義とは実際は全体主義になる、ギリシャのボリスのような一万くらいの人数で行われていたものとはまるで違った社会になっているからだ
だから世界で民主主義に疑問を持つようになったのはそのためである
田中首相が政治とは金と数だと言ったのはそのためである
政治とはまず一人一人が経済活動する、それがまとまると数として統計的に力となり権力となる
その国の力もその経済活動でGDPで計られる、ただ中国が人口が多くても全体の経済活動生産と消費力がない時はいくら数が多くても弱小国家と見られていたのである
だからすべてを数で計られないことがあった
GDPでも日本の十分の一とかの時代があったからだ
インドではまだ人口が中国と同じように多いのにGDPが少ないから大国に見られないのである

ともかく人間は個人として見ている人はいない、何かの組織団体に属していることからその属性によってその人間を見る
会社自体そうである、どういう会社に属しているかでその人を見る
大企業に属していればその人は価値ある人となり一目置かれる
トヨタの社員ですとなれば一目置かれる、でもその会社の価値が下がるとその人間の価値も下がる、それは国でもそうである
今や日本が経済的に落ちぶれると中国でも物価が同じくらいでありむしろ日本の方が安いとなり日本の価値は低落した
それで今度は日本では外国人をもてなすようになる、中国人様となる
日本が高度成長になり金持ちになったとき日本人は同じようになっていたからである
日本人は上客となっていたからである
政治と経済は密接に結びついている

でも個人的価値というのは人類全体でも別にある、絵の才能とか何か文学でもその人独自の才能がありそれは別に国とも関係なくある、ただ芸術にしてもバックにその国の歴史とか風土とかから生まれるから純粋に個人のものとはならない
そもそも精神的価値となると集団組織から産みだされるのだろうか?
政治経済としては数として価値を持つが芸術とかなると価値は個人が産みだすものとなるその人独自のものとして産みだすものである
だから政治経済とは権力化するが個々人を基にしたもの、芸術でも何か精神的価値あるものはそうはならない、いくら数を集めてもそこに価値を認めないからである

宗教でもすべて組織団体でみる、私は何の団体組織にも属していませんが神を信じていますとしてもそれを認めない、ただ数を集める時社会では認めるのである
つまり宗教でも権力化するとき認めるのである
個人は認めない、排斥されてないものとされているのである
でも「神は人の心を見ている」というとき集団組織を見ているのか?
それぞれ心が違ったものでありその個々人を見る、多数の人々がいてもその個々人を見る組織団体化して信じても実際は救われることはないのである
神にこれだけの数を集めたから認めてください、救ってくださいと言っても神は認めないのである

結局集団組織は政治的経済的なもの数とかで計られる、だから民主主義とはすべて数の多寡で決まる時、全体主義に最もなり安いのである
だからナチスは民主主義から正当な手段で選挙で政党として選ばれて支配したのである
つまり膨大な数を力とする民主主義は容易に全体主義になりやすいのである
それで世界的に民主主義が行き詰まっているということがある
例えば中国では民主主義は結局敵対勢力を産むものとして危険視するのもわかる
反対勢力を容認したらたちまち崩壊してしまうからである
それがソ連でもあり中東でもあり結果的にその民主とは自由とは外国勢力に操作されたという一面があったからだ
中東で起きたことでもそうである、国自体がシリアなどでは社会主義で政治的に安定しても民主主義の自由を取り入れたとしてもアメリカとかヨ−ロッパとかソ連の勢力争いの場になり悲惨なものとてってしまった、自国がなくり国自体が難民化してしまったからだ

政治と経済と軍事力は一体化する、権力化する、そういう宿命がある
宗教もまた政治化して権力化する、だからこそ権力をいかに抑えるかが課題になる
三権分立もそうだし政教分離でもそうである、日本だって神国だとかなって宗教が権力の道具となったりしたからである
宗教となるともともと権力の否定から始まったのである、それは仏教でも老子の教えでもキリスト教でも同じである、だから誰が治めるべきかというときみどり子に治めさせろと聖書にある、幼子だったら権力を悪用することなどできないしそもそも権力などの必要性を認めないしいらないからである
そして欲もないから悪いこともしないからである
要するに人間社会を治めることは至難でありいくら制度を変えても結局失敗しているのである、民主主義とか資本主義とか社会主義とか制度としてあってもそれもまた内部から崩壊してゆく、機能しなくなる、もう資本主義も社会主義も制度疲労を起こしていて賞味期限切れになっている、そしてまた混乱状態になる
70年くらい過ぎるとか必ずどんな制度でも腐敗してまた新たなものを産みだすしかなくなるのである、そういう変革の時代に今来ているということである

人間は人間を治められない

人間は制度があってもその制度が絶対ではない、だから制度は70年くらいすると制度疲労になり機能しなくなる、資本主義も超格差社会になり極わずかの人が富を独占するようになる、それは社会主義でも同じ事が起きる
人間は人間を治められない、例えば家族でも血縁でも必ず問題が起きる
家族すら治められない、だから宗教は血縁を否定したのである
この世は結局こうして常に問題が起きて混乱して来る、宗教だって権力の道具となる
神の国というとき神が治めるかから治められるとなる、人間では治められないとなるのだ

2021年06月23日

老人の心境(人生の終わりに短歌十首) (世代ごとに変わる心境―若い人は理解できない老人の気持ち)


 老人の心境(人生の終わりに短歌十首)

 (世代ごとに変わる心境―若い人は理解できない老人の気持ち)

 人間の気持ちというのは世代ごとに変わっている、40才が一つの区切りかもしれない
その頃白髪でてきたりするし身体に変化が生まれる
だから40才でおじさんとかよばれてもう俺は終わりなのかとあせる
氷河期世代などがそうである、それを盛んにyoutubeで訴える人がいるのもわかる
40代になるとすぐに50になり60になるからだ
20代が人生の華だとなるが30過ぎるともうそれもなく女性でも男性にちやほやされなくなるとか言うのもわかる
それだけふりかえれば人間の一生は短いとなる

そして人間の最大の盲点が老人になるとどうなるのか?

これがわからないのである、20代だといつまでも青春とかがつづくと思ったり時間がいくらでもあると思っている、体力もあると思っている
でもこれもふりかえるとあっというまに過ぎる
そして若い時老人になるとどうなるのか?それは体を見れば衰えているからわかる
あんなよぼよぼになりたくないと見る、でも何か若い人は自分自身がそうなるとは見ないのである
若い人が老人を理解できないのである

ただ本当に老人の心境になるのは本当は60過ぎであり今は長生きだから70過ぎにもなる
ただみんな老人が一様ではない、もう体力的にもふけこみ見た感じでも10年くらいの差ができる、60でも70に見えたりするしその人は85歳の女性だったけど60代の人より若く見えた不思議がある、こうして老人と言っても個人差が大きくなる
その人は70才でももう80歳にも見える、眼が悪くて文字を満足に見えないからである
眼が見えないと耳が聞こえないとか常に腰が悪いとかなるとやはりもう本当に弱った老人にしか見えないのである 

老人になって一番意識するようになるのは何か?

それは明日死ぬかもしれないということを現実として見ることである
それは同じ世代の人が実際に死んでゆくことでもそうなる
同世代で一割が死んでいるとか近くで子供の時遊んだ人が死んだとかなる
だから常に死を意識することになる
そして人間のことはこうして70以上とかならないと知ることができない
天命を知ることができない、70以上になると明日死ぬということが現実化するからであるそして常に一生をふりかえる、人生とは何だったのだろうと振り返る

そししてまた意識するのがなぜ人と人は逢うのか?

これも意識する、なぜなら二度と逢えなくなるからである、するとなぜ人と人は逢うのかとふりかえる、つまり死んだら永遠に逢えなくなる
これも不思議なこととなる、人が逢うなど別にありふれたことでありそんなことを意識しないともなる、でも人間がこの世で逢うとは何なのか、それも不思議になる
なぜなら永遠に逢えなくなるからである
今や家族すら全部死んでもう二度と逢えなくなったからである
人間が出会い逢うということそれは永遠に逢えなくなるものとして逢っていたとなる
すると人と出会うことは貴重なことだったとふりかえる
それで一期一会の思想が生まれたとなる

つまり今の世に生きていて逢っていることは深い縁があったからだともなる
そのことがわかるのは70代だともなる
誰しも70過ぎると人生はこんなものだったとか知らしめられる、別に優れた人だけではない普通の人でもそうなのである、それで老人は何か悟ったような雰囲気を持つようになるのである、これはとても若い時はなりえないからである
つまり人間は悟ったり賢くなれのは老人にならないとなれないともなる

自分自身は何かいろいろ理解することが遅かった、受験勉強などで勉強嫌いにもなった
でも旅をしたりいろいろ自由に引きこもりでも学んで学問好きにもなったのである
だから60過ぎて70過ぎてこうしていろいろなことを書けるになったのである
それは理解力がついた、深く自分なりに理解できるようになったからである
本当に智慧がつくのは老人になってからである、ただ求道は若い時しないと神を知ることはできない、それも盲点だったのである
だいたい青春時代は欲が爆発して享楽する時代だからでもある
ただそうして一番大事な時期に生を消耗すると神を知る機械を逸することも怖いことだとふりかえる、ただ誰もその時そんなことを想わないのである

私がカルト教団に入ったのは選挙運動するためではない、宗教を求めていたからである
ただそこはそんなものとは全く関係ない場所だったのである
ただ自分が求めていたのは死の問題でもあった、死を意識するということは実は老人になれば否応なく現実問題として意識する
でもその時死を意識しても遅かったともなる
その解決は若い時していなければできないともなっていたからである
そこが人生の落とし穴だったともなる
宗教など老人になってからでも求めればいいやとかなっているからである

人間は死ぬ、この世から消えるのもまもなくだ

そしてこの世で人と逢っても永遠に別れる、逢わない

このことが現実化するのだ、何かと人ともめたりしても遂には永遠に逢わないのである
すると逢うだけでも貴重だったともなる、それが老人には嫌でも知らしめられるのであるそれで老人は常に後悔するのである

人間は結局最初に老人になる、それから若くなる

こうなれば失敗もないのである、そうしたら馬鹿なこともしないのである
老人になることがをどういことか知れば失敗もないのである
老人になれば誰しも悟り知恵かつき愚かなこともしないともなるからだ
ただその老人でもいろいろあるし迷惑老人も多いからいちがいには言えない
でもどうしても若い時は老人のこと老人の心境を理解できない
もしそのことを知れば若い人は失敗もしないし悔いのない人生を送れる
老人になると時間ほど貴重なものがなかったとふりかえる

ああ、時間を無駄にした、馬鹿なことに時間を浪費した

それが一番の後悔になっているのが普通だからである
その時莫大な富が金があったとしてもそうである
老人になると体力なるからきついことはできなくなる
いくら金があっても何かいろいろなことができなくなるからだ
旅でも登山でも億劫になるし体力がなくなりできなくなる
だから私は株などしたくない、これも自力で取引きをパソコンで覚えればいいがそのパソコンの画面を見ていると時間がとられるからしたくない
だから銀行の営業の人に頼んだのである、でもそうしたら株ではもうけられないことを知ったのでやめたのである
その株で何億でももうけても果たしてそれだ人生の成果となるのだろうか?

そもそも人生の成果とは何なのか?

これは財産を築いたとかあるにしても金を残したとかで計れないのである
芸術家だったら後世に残る作品を残したとかある、職人でもいい庭を作ったとかありそれが残されているということもある
何か他にもいろいろある、眼に見えないものとしても遺されるものがある
だからいくら金を残してもそれがすべて成果として評価されるとはならない
金がなくてもいいということではない、それがすべての成果とならないということである
要するに時間を何に費やしたかでその成果が計られる

これが人生だともなる、時間は限られているから例えば一つの楽器でも覚えるのに時間がかかる、時間を費やす、すると一つの楽器を覚えることが人生だったともなる
そして天才でもいくつもの楽器に習熟することはできないのである
その時間がみんな平等に与えられて限られているからである

また普通は会社員となれば会社のために尽くす、銀行員だったら銀行に所属しているのだから例え相手をだますものでも投資信託などでも売る
そういうことは別に会社に属していれば必然的にそうなる
そうなるとその会社の価値がその人の個々人の価値ともなる
それで有名な大企業に所属していればその会社名がその人の価値となる
人生全体もそうなる、でも一旦退職するとその価値も喪失する
それで人生の先が長くなると会社をやめると価値のない人間になってしまうのである
いづれにしろ人生とは何だったのか、70くらい過ぎると否応なく知らしめられるのである



人生の終わりに(短歌十首)

この世にそ生きる日短く逢うとても再び逢わじ人は逝きにし

人はみな死に別るかなその最期手を握りて心通いぬ

人はみな死にて別れぬ何気なくありにし日のなつかしきかな

老人の残れる生の短きを徒(あだ)に過ごさじ深く思わむ

この世にて生きる日短く逢うとても再び逢わじ人は逝きにし

人の世を生きるは短く徒言(あだごと)語るは許さじ明日はなきしを

人の世を生きるは短く人は逝く貫くもののあるべしかな

常に思へ明日無き身なれ時々を徒に過ごさじ実りあるべし

その人の何を生きなむ最期かな徒にすごせし月日悔いなむ

まことにそ生きにし人のその生の後に明らかに輝きあらむ 





2021年06月12日

裕がない人は人を助けることができない (余裕なき現代はみんな疲れ、人を思う余裕すらない)


余裕がない人は人を助けることができない

(余裕なき現代はみんな疲れ、人を思う余裕すらない)


人間は何か余裕がないと他人に対して親切になれないし助けることもできない
余裕はだから意外と大事なのである

●時間

●空間

●金(経済)

●健康問題

これらでも余裕がないと人間は自分のことが精一杯で他人のことを思うことすらできない
時間ないんだよ、ここは狭くて窮屈だ、金がないんだ、金が欲しいんだ
俺は病気なんだよ、他人のことを思うより自分の病気のことで精一杯だよ

こうなっているとどうしても余裕が生まれないからギスギスしているし他者に親切になれない

なぜその人は病気だけど仕事している、それでわずかの金でも後から払うとか貸してくれという、でもそれには応じない、そういうお願いする人はいつも金がないのである
だから相手が病気でもそのことを思わない、それより自分の金がないことで苦しめているのがその人だともなってしまうからである
その女性は米を買うにして自転車を直すにしてもそうして金で苦労している
そういう人は相手を思う余裕がないのである

ところが金でも余裕ある人間は病気なのに良く仕事しているなとか同情する
それで多少金がかかってもいいやとなる、奇妙なのはその金のない人に金を与える
その金は病気でも仕事している人に回ってゆく
なぜそうなるのかというと金に余裕があるからそうなるのである
相手が病人でも金のない人は同情しないともなる、なぜなら余裕がないからである
だから意外と余裕がないと相手を思ったり同情したりできないのである

それで自分が病気になり親の介護になったとき来た人は事業に失敗したり金がなくて苦しんている人だった、また原発事故で避難して来た人もいた
こういう人達そもそも余裕がないから人を助けることなどできないのである
大きな負担を背負っているのだからとても他人のことを思うことすらできない
なんとかしてくれとなっている人が他人が苦しんでいることも見えないのである

だから余裕がなければ愛とかいたわりとか同情とかもできない、それより自分をなんとかしてくれとなっているからだ
金に余裕がない人は金を与えることはできない、また苦しんでいる人は自分のことで精一杯だから他人のことに気がまわらないのである

だから助けてもらいたいというとき余裕のない人が来たり余裕のない人の所に行っても無駄だとなる
現代人は何か昔から比べればいい暮らしをしていても余裕がない、心の余裕がもてない
それが何か世の中をギスギスしたものにしている、まず時間の余裕がない人も多い
日本だと国土が狭いから空間的余裕がない、そして時は金なりと資本主義社会で時間に追われる、常に人は何かに追われている、一番は金に追われている
それば贅沢して金に追われている人も多い、借金しても家建てたり高い車を買ったりと金がないのにそうしている人も多い、するとその人たちは金に追われるのである
だから余裕がなくなる

こうしてこの世で余裕がない人がまわりで多くなると実際は住みにくい社会になる
現実になっている
ただ不思議なのは別に金がなくても余裕ある人はいた、そういう人はでも特別の人であり悟りを開いたような人とかなり例外だとなる
今は特に金がないと余裕がもていない、それだけなんでも金のかかる社会だからである
金を払わなければ水も得られない、もし井戸水だったら井戸水が枯れなければ水は得られるとなるからだ、現代は金がないと水道が止められるのである
そもそも昔はその日暮らしの人が多かった、江戸時代は宵越しの銭は持たないとなっていた、その日のうちに金は全部使ってしまうということである
そうなったのはそんなに金を貯えることができなかったからである
日銭暮らしが多かったのである、その日その日を暮らすのが精一杯だったのである
そうなると余裕がないとなるがそうでもなかったとなるのが不思議だとなる
今は一億円たくわえても安心とかにもならない、それはなぜだろうともなる

金でも贅沢しようとすると今は限りない、するといくらあっても金に余裕がない!

こうもなっているためだともなる、いい家が欲しい、車が欲しい、いいものを食べたい、・・・・きりなく欲しいというものがありそれで金に追われるともなる
ただ貧乏になるとその日の金に追われる、何か贅沢するのではない、その日の食べるものを得るために追われるとなる
貧乏暇なしにもなる、だから忙しく金に追われるというとき必ずしも本来はそうしなくてもいいのにしているから時間の余裕もないとなる、現代人は昔に比べると豊かな暮らしているが忙しいし余裕がなのである

私の母はまず一緒に遊んだこともない、暇なし働いていた、それは若い時からそうであるだから何か暇で余裕ある姿を見ていない、店もしていたから食事中でも立ったりしていたそれが嫌だった、でもしかたないということはあったし責められないことはあった
そうして一生働き詰めで終わった、そして花などいらないと自分を怒っていたのである
それはそういう事情があるにしろいい人生だとは思えないである
それはそういうふうに強いられた結果であり母だけの責任ではないにしろ何か全く余裕のない人生も嫌だとなるしそういう人といるのも嫌だともなる

その正反対として余裕のある人生を送れたのが自分だった、何か高校とかまでは勉強でも強いられて嫌いになった、でも大学は時間に追われることがなかった良かった
ただそのために大学が遊びの場になり勉強しなかったことを後悔している
自分の場合は母と反対に余裕がありすぎた人生だったのである、それも問題だとはなった私は旅するかただ家でじっとして黙想しているだけだったからである

だからそういう環境にあったことが奇妙であり不思議だったとなる
それでやはり引き籠もりとなり異常化した人間になっていたのである
ただそうして黙想していることで自然と山とか木とか石と一体化した詩を書いたりしていたのである
自然は山でも木でも石でも沈黙している、すると人間も沈黙しないと一体化できないのである、だから自分は禅宗に座禅して沈黙の業をしている僧と似ていたのである
でもこういう生活は本当に別に寺で修行僧になっていれば異常でもないが日常の社会生活では異常になるのである

ともかくそういうにしていることは余裕がないとできない、なぜなら必ず金を稼げと強いられるからである、そんなことして何になる、一銭の金にもならないとなるからだ
なぜ引きこもりとか多いのかというと親がいて一応食べていけるからそうしている
ということは親でも金に余裕があるから養えるとなっている
もし余裕がない時代だったらそんなことありえないからである
ともかく人間にとって余裕は意外と大事である、そもそも余裕があるから学問でも芸術でも生まれた、暇とはスコーレでありスクールになっているからだ
学校とは暇があって生まれた場だったのである、でも今は学校は全くそうしたものとは違う、受験に追われ膨大な知識に追われる全く余裕のない場なのである

でも余裕なくさせているのは社会がそうさせている、それが何か無駄なものののためにそうさせられる、強いられる、それで団塊の世代の猛烈企業戦士に全員がなったよりそこからはずれて別なことを余裕もって追求する人もいていいと今になると思う
それが自分自身だったのである、ただそのために親の介護とかで四苦八苦した
ただ全員が企業戦士となって猛烈に働くだけの人生は良かったのかとなるとそうでもない何か今になると仕事は遊びだとか好きなことをしろとか価値観が変わってしまったのである、だから猛烈な企業戦士とかは嫌われる時代にもなった

これも奇妙だと思う、それでおそらく団塊の世代は確かに遊び上手の世代ともされた
いろいろ趣味をもっている世代である、でも一方で猛烈企業戦士として会社員として働いた人も多い、とにかく時代によって価値観が変わってくる
それは戦争が終わった時、日本はまるで違った世界に価値観に生きることにてったからだそして戦争から70年過ぎた時、また価値観が大きく変わる
金だけに追われて忙しく生活するのが嫌だという人もでてくる、それは少数でもやはり前よりそういう傾向が大きくなっている、すると時代の価値観が変わった見るのである

2021年06月10日

最後は記憶したことが人生となる―心に印されるものの怖さ (記憶をしたものの整理に追われる)


最後は記憶したことが人生となる―心に印されるものの怖さ

(記憶をしたものの整理に追われる)


何度も言っているけど人生とは最後は何を記憶したかになる
その記憶はみんな違ったものになるからそれぞれの人生の結果は多様なのである
だからどんな人でも何かしら語るべきものがあるとなる
なぜなら違った経験をしているからである
それで老人からその経験を聞くことはどんな人でも参考になる
失敗の経験でも参考になる
つまり事の真相は経験している時はわからない、時間がたたないとわからないことがあるからだ
それで何か事件が起きてもその時に真相はわからない、時間がたって判明して来る
歴史的な事件でもそうなのである、明治維新が何だったのか、今になると否定的に見る人もでてきているのもそうである
ただ歴史的なものになるともう50年くらいすぎると遠い過去になり不明になりやすい

私が経験したことは勤めたこともないのだから限られている
ほとんど旅に費やされたということである
ただその経験でも何か歴史を見ることでも役にたっている
地歴が科目となったように歴史と地理は不可分なものとしてあったからである
そして記憶たどる旅をしているのが時分である
いくら記憶が人生だとしても人間の記憶力は本当に弱い、それで記憶するために写真でとっておくとかメモを書くとかしないとその記憶自体があいまいとなり思い出せなくなる
それでこれまで書いたものが膨大になるので整理している
毎日整理するのに追われている
プログはインタ−ネットでは何か記録するのに優れているのだ

sdメモリーとかこれだけ小さいもの記録する量が映像でも驚くほど記録できる
そのメモリーは格段に進歩したのである
人間だったら脳にこんなに記録できないのである
それで自分の書いたものすら忘れていて読み返してみてこんなことを書いていたのと感心している
おそらく歴史でも文字ができて記録できたということで歴史が生まれたといのもわかる
それだけ文字の発明は人間にとって大事なものだったのである
それでエジプトでは神聖文字が生まれたのである
文字が神聖なものにヒエログリフになったのである

とにかく人間最期は記憶したことが人生になる、それで私の姉は従軍看護婦で4年間シンガポールの向かい側のジョホールバルで苦しんだからそのことを死ぬ間際まで語り死んだその前に千回もそのことを語っていた、認知症になっても過去のことは忘れないからである、特に印象に残ったことは忘れないのである
そういう戦争ということはもう経験した人しかわからない、いくら映像で見ても残されたものを見ても読んでも実感できないからだ

そして何か経験したことでも後からその意味がわかる、経験したことを後から深く考察してその意味を知ることにもなる
それは歴史的大事件でもそれが起きた時はわかりにくいのである、でも後から解明されて真実が明るみに出される
隠されていた悪が暴かれることがある、いくらその時は隠されても遂に明るみに出される若きの至りとかで若い時に力まかせにした悪行でも暴かれて老人になってから良心の呵責とかなり苦しめられる

人の行った行為はみなカルマとなる

それが隠されたり忘れ去れることもない、神は見ているとまでなる
そうなると本当に奔放な若い時の行動も悔いるとなる
そういうドラマも多いのもそのためである
警察につかまるとか刑罰を受けるとかではない、そういうことと関係なく良心の呵責に苦しむことになる
だからどんな人でもカルマをつまない人はいないである

原発事故とかでもそうだった、それを追求してきたが「安全神話」を作った人々は共犯者であり悪人だったとまで暴きだされた、ただその責任はとっていない
東電に天下りして金を得ていた官僚とか高級国民なども責任があった
でも責任は誰もとっていないのである
でも十年過ぎ二十年過ぎとかなりその悪が暴かれる
悪が暴かれないのはその時の政権によって隠されるからである

オリンピックのJOCの経理部長が自殺したのも大事件でもその真相は何も語られないし騒ぎもしないのは上からおさえられているからだとなる
何か都合の悪いことが出てきて今の政権が追及されるからだとなる
そして人間の歴史とは何かとなれば罪の歴史だったというときそうなる
絶え間ない殺し合いの歴史だったとも見れるからである
戦争自体が罪でありどっちが正しかったということはないからである
日本とアメリカの戦争でもアメリカが正しかったとはならないからだ
それで歴史は勝者の歴史となっている、勝者が記したのが歴史だとなっているらだ

その人の一生は何なのだったのか?

それは記憶されたものともなる、何が脳に記憶されたのかとなる
それは各人か違っている、その人の経験と学習から脳も作られるからだ
人間の脳とか性格とかは遺伝子的に決められているのかとなると人間の場合はそうはならない、人間は人生の経験の中で作られていく
何か臆病とか気弱な人でも一瞬の行動で勇気ある人にも変わる
たいがい英雄とか天才は生まれつき優秀だったからそうなったともみる
天才の場合はそうである、でも一般人でも人生を経験してゆくなかで変貌することもありうる   

だから人間がすべて生まれつきで決まるわけではない、そうして人生の経験の中で神が関与することもある
それは不可解なものである、そもそも人生そのものがそれぞれか小説より奇なりともなっているのだ
聖書が理論とではない、実際に起きたことを記したものでしる、そこに必ず神の関与がありそれを記したのである、だから奇跡を信じなければ理解できないのである

では人間が死んだらそうした記憶とか記録とかも全部消えて空になるのか、もしかしたらそれば消えずにあの世にもってゆくものかもしれない、なぜならみんな消えるとしたら
それぞれの人生が無意味なってしまうだろう

神があなたは何を見て何を聞いて何を見ましたか?

そのことはあなたの心に脳に記されている、それを神の前であからさまに示されるともなる、そうなると怖いことになる
その時心に記された悪も暴かれる、それがまざまざとして可視化される
つまり死ですべてが消えるわけではないとなると怖いのである
もちろんそういうことをありありとイメージしたら本当に悪いことなどできない
だからこそ平気で生きていられるとなる
死んで裁きがあるということをありありと思う人はいないからだ
だから平気で悪を犯して罪を犯しているともなる

何か悪いことをしましたとかなっているのである、ただそれが死んだ後にあの世で暴かれるとなると怖いとなる、そういう恐怖心があれば簡単に悪は行わないし心にも思わないとなる
そうした裁きとかは個々人になる、人は神の心を見ているという時、集団の心は見れないからである、いろいろな集団に属していてもそれで罪を裁きを逃れられない
要するにそうした宗教団体とはこの世の隠れ蓑であり死後は何の効力もない、個々人の罪は消えないとなる

いづれにしろ自分は今や記憶をたどり記録をたどり整理している
それが膨大なものだから苦労している、つまり分厚い一冊の本のように整理するとなる
人間の一生はいづれにしろどんな人でもそれぞれ一冊の本にもなる
ただ表現力のない人は読者に感銘されるものを書けないとなるだけである
旅をしてもその時見たものを経験したものを回想して深化する、それができれば充実したものとなる
だから旅でも記憶されるような旅をしろと言ってきたのである
それは車では無理だと言ってきた、電車でもそうである、歩くか自転車の旅でないと旅というのを記憶してたどることはできないともなる
ただこれは外国では無理だからそうとはならない、国内の場合は記憶する旅をすらなら歩くか自転車でないと記憶に残らないともなる
ただ自分も最初は電車旅行でありそれはある目的地に行くのにはいいが旅を経験するには歩くか自転車でないとできないのである

2021年06月05日

大学で遊びギャンブル人生で終わった人 (大学で20代で方向が人生の方向が決まる怖さ)


大学で遊びギャンブル人生で終わった人

(大学で20代で方向が人生の方向が決まる怖さ)

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70代男性、老後無年金・無貯金でギャンブルまみれ人生の実態
https://www.youtube.com/watch?v=Lk0WLlUHWoc

lofestage1.jpg

30までの時間は長く感じられる
30過ぎる急速に早く感じられる、時間間隔は相当に違っている
子供の一日は大人になったときより十倍も長い感覚になる
30前までも長く感じる、30過ぎると時間は過ぎるのが早くなり40で
おっさんになり白髪がはえて老人に向かっている
もう60を過ぎて70とかなるともう死ぬだけだとなる
明日は死んでいるかもしれないという感覚である



この人は地方から上京して大学に入ってもそこから人生が狂ってしまった
大学のまわりが競馬場とかパチンコ屋とかがありそれでギャンブルにのめりこんだ
学業はそっちのけになった、バーとかでアルバイトしていた人もいた
そしてそれがどっちが本業かわからなくなるからこうなったのである
何か高校から大学への変化が大きいのである、そのギャップが大きいのでこうなる人も多い、変なのは学校というと毎日学校で授業を受けるものとなっていた
でも大学になると授業を欠席しても何のとがめもないのである
ただ一年に一回単位をとる試験がある、それを受かると単位が取れる
その単位をとるにしていい加減なものだったのである
私立の文系となると何か遊びの場になっていたのである

そうなると学校に行かず授業も受けず遊んでいる人が普通にいる
そして授業に出ないことで威張っている人がいる
授業に出ないことが自慢する、だから一日中マージャンしていた人がいた
そんならマージャン教室に入った方が良かったとなる
一体大学に何しに来たかわからなくなる
そういう人が結構いたのである、特に私立の文系などはそうである
団塊の世代ではマンモス大学であり授業でも千人とか入る講堂でしていたとか
高校とは全然違ったものなのである
すると何か暇をもてあましギャンブルに興じるともなる
私もパチンコを覚えたりして遊んでいたのである
こうして何のために大学に入ったのかわからなくなる

私の場合は創価とかカルト教団に費やしたのもそうである
それも何もするこことがないのでそうなったともなる
でも私の場合もともと求道精神があってそうなった
でも創価でもカルト教団など宗教の看板をかかげても全く宗教とは関係ない
ただ毎日が選挙運動の駒として使われるだけだった
あとは御利益を得るために祈る、そしてあらゆる欲は是認される
その欲をかなえるために毎日祈っている、禁欲とか一切なくむしろ欲望を強くして
かなえるために祈るだけである
だからこそ人があれだけ集まるのである、その数は票となり圧力団体となり利権団体となる

ただ青春時代は危険な時代である、変な方向にも行きやすいのである
大学でも自由だから変な方向に行くようにもなる
ギャンブルとか女遊びとかで費やして終わる人もいる
そういう場所が大学だというのも異常だったとなる
理系の大学だったらこんなことありえないのである

とにかく20代頃から変な方向に行ったものはそのまま一生変な方向に行ってもどれなくなる、それが怖いことだったのである
現実この人は大学でギャンブルをおぼえそこにのめりこんでそれが人生になってしまったそれを自分でぱ悔いのない人生だったとしているがそれが他人に誇れるのか?
そんなことが自慢になるのか、誰もそんな人のことを感心する人はいないだろう

ただ本当に20代頃からこうして変な方向に行く人はそのまま一生変な方向へ行き一生そうなってしまう怖さである
大学ですでにギャンブラーになりそのまま一生そうなってしまったのである
まずニートなども良くみかけるけどそういう人も20代でなるとそのまま一生ニートであり無職で人生が終わる
それが自分自身もそうだったからである、一生無職で旅して終わったとなるからだ
ただ自分の場合は学問とか芸術に興味をもち追求していたのが違っていたとなる

いづれにしろ今やそれぞれの人生がなんであったのか問われる
もう団塊の世代でも75となり死んだ人も一割以上いるし身近で同年代の人が死んでいる
78歳くらいの人が近くで二人死んだ
三人の男性はみんな死んだが78だった、何か78歳は鬼門の年だともみた
78歳になると急激に体が弱っていくというからそういう年なのである

人間は20代で30までほぼ決まるというとき30過ぎて40になると白髪がでてきたりしてすでに老人にも向かっていたからである
50になるともう人生も終わりに近づくとかなる、それだけ時間が過ぎるのが早かったのである
その時間の貴重さが若い時はわからないからくだらないことに時間を費やして浪費している、そして老人になってみんな悔やんでいる
急速に時間が過ぎてゆくことが自覚できないからである
それが人生の大きな落とし穴だったのである

そして絶対に時間を元に戻すことはできない

青春時代も二度ともどってこない

右左と分かれ道があり右に行ったものは右の方向に行き左に行ったものは左に行きその方向をもう変えることができない、その方向を決めるのが20代なのである
正社員となるのも20代でありそれ以後はなりにくい、そしてニートとかなると一生ニートなのである、それで最期に親が死ぬと厳しいことになる
そのことを自分は親の介護で経験したからである

ともかく同世代の人が次々に死んでゆく、するとその人生は何だったのかと問われる
弔(とむら)うとはその人生を問うということなのもわかる
一体この人の人生は何なのだったとか問うことになる
カルト宗教団体であれ共産党であれある団体組織に属した人はその属した組織団体が人生だったとなる、でも個々の人生があり何か不思議なのは人が死んだ時は個々の人生が問われる、創価であれ共産党にであれまた他のカルト教団に入っていたということで自慢にならない、そこで評価されたのはただ一票となるとか数として数えられることだからであるでもその人の人生となると個々の人生として評価される
日本民族の一員として死んだといっても誰も世界で評価しないだろう
一例としてもし芸術作品を世界に通用するものでも残したら評価されるとなる

この人の一生は何なのだったろう?

これが問われるのである、でも死に方に成仏することにこだわるがそれはあまり関係ないようにも見える
なぜなら近くで死んだ人はその人生は本当にいい加減だったからであり罪深いともなる
でたらめな人生であったからだ、それでみんな嫌っていて葬式もなく終った
近くでも誰も惜しむ人もなかった、でも死ぬときは簡単に死んだのである
迷惑もかけず死んだのである、だから死にざまより人間はその人がどういうふうに生きたのかが問題になる、成仏するというときむしろその人の人生が有意義なものとなっていたとき成仏する、だから死にざまとは生きざまのことでありどんなふうに死ぬのかとはさほど関係ないとみるのである

それにしても人生も終わりになると本当に短い、あっという間だったとさえなる
そんなに短い時間しか人生にはなかった、そしてみんなわずかの時間この世にいるだけである、そしてこの世から消えていく、すると人はなんのために人と出会ったり別れたり
そもそもなんでこの世にいるのかもわからなくなる
一瞬の泡のように生まれて消えるともなる、人生とはそんなものかとなる
何かもっと重々しいはずであるとなるが現実はその生は何するにしろはかないとなる
有名な人もみんな消えてゆく、何か手にとる本が30年前とかなりその作者はほとんど死んでいるのである、すると死者が残した物は本でありその他その人の人生を知る術もないのである
だから死んで何が残るのだろうともなる
本でも残している人はいい方である、普通人は家族でも死ぬと急速に忘れられてゆく、何か定かでない幻のようになってしまうのである、家族でない人はそんな人いたのとなってしまう
その人の存在すら本当にこの世に存在していたのかも定かでなくなるのだ

石は千年動かない
その場に千年変わらずある
人間は百年くらいで消える
すると石の方が人間より
存在感がある
人間は百年も過ぎたら
みんな消えてしまうのだから

こんなふうになってしまう、それだけ人間の一生は短いからこうなるのであ

大学で遊びギャンブル人生で終わった人 (大学で20代で方向が人生の方向が決まる怖さ)


大学で遊びギャンブル人生で終わった人

(大学で20代で方向が人生の方向が決まる怖さ)

gamblelife1.jpg

daigaku11.jpg

70代男性、老後無年金・無貯金でギャンブルまみれ人生の実態
https://www.youtube.com/watch?v=Lk0WLlUHWoc

lofestage1.jpg

30までの時間は長く感じられる
30過ぎる急速に早く感じられる、時間間隔は相当に違っている
子供の一日は大人になったときより十倍も長い感覚になる
30前までも長く感じる、30過ぎると時間は過ぎるのが早くなり40で
おっさんになり白髪がはえて老人に向かっている
もう60を過ぎて70とかなるともう死ぬだけだとなる
明日は死んでいるかもしれないという感覚である



この人は地方から上京して大学に入ってもそこから人生が狂ってしまった
大学のまわりが競馬場とかパチンコ屋とかがありそれでギャンブルにのめりこんだ
学業はそっちのけになった、バーとかでアルバイトしていた人もいた
そしてそれがどっちが本業かわからなくなるからこうなったのである
何か高校から大学への変化が大きいのである、そのギャップが大きいのでこうなる人も多い、変なのは学校というと毎日学校で授業を受けるものとなっていた
でも大学になると授業を欠席しても何のとがめもないのである
ただ一年に一回単位をとる試験がある、それを受かると単位が取れる
その単位をとるにしていい加減なものだったのである
私立の文系となると何か遊びの場になっていたのである

そうなると学校に行かず授業も受けず遊んでいる人が普通にいる
そして授業に出ないことで威張っている人がいる
授業に出ないことが自慢する、だから一日中マージャンしていた人がいた
そんならマージャン教室に入った方が良かったとなる
一体大学に何しに来たかわからなくなる
そういう人が結構いたのである、特に私立の文系などはそうである
団塊の世代ではマンモス大学であり授業でも千人とか入る講堂でしていたとか
高校とは全然違ったものなのである
すると何か暇をもてあましギャンブルに興じるともなる
私もパチンコを覚えたりして遊んでいたのである
こうして何のために大学に入ったのかわからなくなる

私の場合は創価とかカルト教団に費やしたのもそうである
それも何もするこことがないのでそうなったともなる
でも私の場合もともと求道精神があってそうなった
でも創価でもカルト教団など宗教の看板をかかげても全く宗教とは関係ない
ただ毎日が選挙運動の駒として使われるだけだった
あとは御利益を得るために祈る、そしてあらゆる欲は是認される
その欲をかなえるために毎日祈っている、禁欲とか一切なくむしろ欲望を強くして
かなえるために祈るだけである
だからこそ人があれだけ集まるのである、その数は票となり圧力団体となり利権団体となる

ただ青春時代は危険な時代である、変な方向にも行きやすいのである
大学でも自由だから変な方向に行くようにもなる
ギャンブルとか女遊びとかで費やして終わる人もいる
そういう場所が大学だというのも異常だったとなる
理系の大学だったらこんなことありえないのである

とにかく20代頃から変な方向に行ったものはそのまま一生変な方向に行ってもどれなくなる、それが怖いことだったのである
現実この人は大学でギャンブルをおぼえそこにのめりこんでそれが人生になってしまったそれを自分でぱ悔いのない人生だったとしているがそれが他人に誇れるのか?
そんなことが自慢になるのか、誰もそんな人のことを感心する人はいないだろう

ただ本当に20代頃からこうして変な方向に行く人はそのまま一生変な方向へ行き一生そうなってしまう怖さである
大学ですでにギャンブラーになりそのまま一生そうなってしまったのである
まずニートなども良くみかけるけどそういう人も20代でなるとそのまま一生ニートであり無職で人生が終わる
それが自分自身もそうだったからである、一生無職で旅して終わったとなるからだ
ただ自分の場合は学問とか芸術に興味をもち追求していたのが違っていたとなる

いづれにしろ今やそれぞれの人生がなんであったのか問われる
もう団塊の世代でも75となり死んだ人も一割以上いるし身近で同年代の人が死んでいる
78歳くらいの人が近くで二人死んだ
三人の男性はみんな死んだが78だった、何か78歳は鬼門の年だともみた
78歳になると急激に体が弱っていくというからそういう年なのである

人間は20代で30までほぼ決まるというとき30過ぎて40になると白髪がでてきたりしてすでに老人にも向かっていたからである
50になるともう人生も終わりに近づくとかなる、それだけ時間が過ぎるのが早かったのである
その時間の貴重さが若い時はわからないからくだらないことに時間を費やして浪費している、そして老人になってみんな悔やんでいる
急速に時間が過ぎてゆくことが自覚できないからである
それが人生の大きな落とし穴だったのである

そして絶対に時間を元に戻すことはできない

青春時代も二度ともどってこない

右左と分かれ道があり右に行ったものは右の方向に行き左に行ったものは左に行きその方向をもう変えることができない、その方向を決めるのが20代なのである
正社員となるのも20代でありそれ以後はなりにくい、そしてニートとかなると一生ニートなのである、それで最期に親が死ぬと厳しいことになる
そのことを自分は親の介護で経験したからである

ともかく同世代の人が次々に死んでゆく、するとその人生は何だったのかと問われる
弔(とむら)うとはその人生を問うということなのもわかる
一体この人の人生は何なのだったとか問うことになる
カルト宗教団体であれ共産党であれある団体組織に属した人はその属した組織団体が人生だったとなる、でも個々の人生があり何か不思議なのは人が死んだ時は個々の人生が問われる、創価であれ共産党にであれまた他のカルト教団に入っていたということで自慢にならない、そこで評価されたのはただ一票となるとか数として数えられることだからであるでもその人の人生となると個々の人生として評価される
日本民族の一員として死んだといっても誰も世界で評価しないだろう
一例としてもし芸術作品を世界に通用するものでも残したら評価されるとなる

この人の一生は何なのだったろう?

これが問われるのである、でも死に方に成仏することにこだわるがそれはあまり関係ないようにも見える
なぜなら近くで死んだ人はその人生は本当にいい加減だったからであり罪深いともなる
でたらめな人生であったからだ、それでみんな嫌っていて葬式もなく終った
近くでも誰も惜しむ人もなかった、でも死ぬときは簡単に死んだのである
迷惑もかけず死んだのである、だから死にざまより人間はその人がどういうふうに生きたのかが問題になる、成仏するというときむしろその人の人生が有意義なものとなっていたとき成仏する、だから死にざまとは生きざまのことでありどんなふうに死ぬのかとはさほど関係ないとみるのである

それにしても人生も終わりになると本当に短い、あっという間だったとさえなる
そんなに短い時間しか人生にはなかった、そしてみんなわずかの時間この世にいるだけである、そしてこの世から消えていく、すると人はなんのために人と出会ったり別れたり
そもそもなんでこの世にいるのかもわからなくなる
一瞬の泡のように生まれて消えるともなる、人生とはそんなものかとなる
何かもっと重々しいはずであるとなるが現実はその生は何するにしろはかないとなる
有名な人もみんな消えてゆく、何か手にとる本が30年前とかなりその作者はほとんど死んでいるのである、すると死者が残した物は本でありその他その人の人生を知る術もないのである
だから死んで何が残るのだろうともなる
本でも残している人はいい方である、普通人は家族でも死ぬと急速に忘れられてゆく、何か定かでない幻のようになってしまうのである、家族でない人はそんな人いたのとなってしまう
その人の存在すら本当にこの世に存在していたのかも定かでなくなるのだ


2021年05月08日

人生を決める時間が短すぎる (30代でほとんど人生は決まる、婚期も30歳まで)


人生を決める時間が短すぎる

(30代でほとんど人生は決まる、婚期も30歳まで)

「結婚を急いでもうまくいくケースはあると思います。だけど私の場合はダメだった。急ぎすぎて相手をちゃんと見てなかったし、結婚したとたんに、あれ、これが目的だったんだっけと妙な気持ちにもなったし。何がしたかったんでしょう、私」

どうしても30歳までに結婚したかった女性。スピード婚から破局にいたるまで

結婚でもそうだけどその原因は何なのか?
結婚もしない自分が言うのは変だけど結婚だけではない、人生全般のこととして共通したものがあることに気づいた

人生は短い

チャンスは一回

青春はあっという間に過ぎ

婚期も短い


なぜ若い人に特に女性に婚期を言うのか、結婚を急がせるのか、それは女性の美貌でも若さでもその盛りが短いからである
30歳となるとおばさんだとか相手にしなくなるとか言われる
すると30歳までになんとか結婚しないといけないとあせる
ここで例にだしたのはそうである、30まで結婚しようとしてあせっていたのである

結局人間の一生が30までにほぼ決まるというのもそうである
そんな早い時期に決まってしまうのかとなる
人生は長いからチャンスはいくらでもあるとか思ってもチャンスは一回だけだったとかなる
結婚でも実際はそれほど出会いがないしチャンスもないのである
だから相手を良く見極めるとかの時間もないから判断を誤る
そうなるのは婚期でも短すぎる、青春は短すぎる、そういうとき未熟で判断するから失敗するとなる、それで離婚が三分の一もいるとなる
人生の速さは30過ぎるとわかる、そこからだいたい人生が決まり方向が決まってしまうからである
いくらでも人生にチャンスがあるとかやり直しができるとか言うがそうはならない

人生は一回でありやり直すことができない

これが厳粛な事実だったのである、確かに別に学ぶことは人生が終わるまでつづく
でも人生を決めるのは30までてありその後はすぐに40才になりもうおじさんだよとかなる、40才で人生が終わりに近づいたと自覚する
何かその頃白髪生えたりするし40才になるともう転職などしにくいのである
会社では若い人を採用したいからである
それで氷河期世代などは40とかなるともう正社員になることが不可能にもなってしまうその数が多いからまた社会的影響が大きいのである

つまり40才になったらもうおじさんであり老人に向かっているとさえなる
だから40代とかの氷河期世代はあせる、でももうどうにもならなくなっているのだ
これは時代の犠牲者でもありかわいそうだったとはなる
でもどうにもならない、時代の犠牲者というとき戦争で三百万人死んだ人達もそうだからである
人間は時代の子でありそれぞれの時代を生きるほかないのである 

人生を決めるのは30歳まででありそのあとは30歳までしてきた決めた道を行くことになる
つまり進む方向が30までに決まる、女性も婚期はほぼ30まであり多少は長くなっていてもそこを過ぎると結婚はできなくなる
意外とどういう方向に行くの決めることは大事である
方角でも方向を間違うと目的地につけないのである
東を目指していたのに北に行っていることが普通にありそうなると迷うことになるからだそして目的地につけないとなるからだ
赤軍派は飛行機をハイジャックして北朝鮮に亡命した
そしたらもう二度と日本にも帰れなくなったが帰りたいとして戻った人もいる
でもすでに老人になって成人した子供までいたのである
その人の一生の方向はハイジャックしたとき決まったのである
その方向をもう変えることはできなくなってしまったのである

こうして人生を決める期間が短すぎることで失敗する、結婚もそうなのである
まずその人にとって最適な人間など普通いないからである
男女ともいない、するとどこかで不具合が必ず起きてくる、そして嫌だとなり離婚する
離婚しなくても実質離婚状態の人もいるというのもわかる
たいがい女性だと子供ができて別れられないとかなり嫌でも離婚しないとかある
でも子供が成人すると熟年離婚にもなるのもわかる
もうがまんできないとなってそうなる
離婚しなくてもあの人の結婚は失敗だったとかみる、いびつな夫婦になっていたからである、結婚する相手によって女性も変わる、夫婦もそうしてともに曲がった夫婦となったのかもしれない、そういうふうに離婚しなくてもその人の結婚は失敗だったともみる

いづれにしろ30までに人生の方向が決まりそのあとは人生は簡単に変えられないとなる
自分にしてもそうだった、20代で就職せず無職であり遂に家庭環境にめぐまれて旅ばかりするようになったのである
20代で正社員とかまともに職につかないものは一生そのままになる傾向があるのだ
一旦引きこもりとかニートになるともう容易にぬけだせないということにもなる

つまり一生引きこもりになる!

そういうふうになった人たちが多いこともわかる、何か職業につけといってもできなくなっているのだ
それで小人閑居して不善を成すともなる、何か犯罪者にもなりやすいのである
そういう人は今までは極少数だった、なぜなら働かないと食べていけなかったからである今は親が援助して働かなくても暮らしていけるとかなりそういう人が増えたのである

ともかく人生を決める時間が余りにも短いということが人間の大きな問題であった
そこで何がなんだかわからず夢中に生きてるうちたちたまち青春は過ぎて30歳になり
すぐに40才になりおじさんだとかなり白髪もはえてきて人生も終わりに近づくとかなる

そしてもう二度とチャンスはない!

また引き返すこともできない、時間をもどすことはできない!

だからこそ信仰でも「若き時に神を覚えよ」「求めよ、さらば与えられむ」とは若い時のことである、いくら求めてその時期をすぎると与えられないともなるからだ
でも若い時はみなん別なことに心を奪われているのだ、女性に心奪われのが普通であり
また何かに心を奪われやすいのである
求道するとき何か若い時は関係ないと思っている、若い時求道するより女性に最大の関心がありさまざまなことに魅了するものがあり夢中になりたちまち青春は終わっている

そして二度と青春は帰ってこない!

カルト教団などでもやめないと一生狂わされてしまい人生を無駄にする
そんなところは宗教とか求める場ではないからだ
でもそれが見えないのである、そうしてオウムのように悲惨な結果として人生を浪費して終る、他でも宗教団体などはみんなそうなのである、一番宗教と無縁な場所が宗教団体だというのも現実なのである、ただ創価などは社会から公認されているから余計に道を誤るそこも巨大な宗教の詐欺集団だともなるからだ、そうした巨大なものにはだまされやすいのである、他にも保険会社とか大企業でも銀行でもゆうちょすらそうだった
経営が苦しくなりいかがわしい金融商品を売りつけていたからである
第一国家自体が国民をだますということがある、それが原発事故だったからである
権力で安全神話を作ったのは国家でもあったからだ
社会に公認されていても何かそこが正しいとは限らないのである
それはナチスをみればわかる、国民全員が認めていたものだからである

何か老人になっても70過ぎても空間はやはり移動できるから体験できる
だから一度旅した所にもう一度行けないことはない、その時本当に新たな感動を覚える
そこに同じ場所にありえたとういことで感動する
なぜなら次はその場所にいない、あの世に逝ってしまうからである
同じ場所でも年齢によってまた季節によって違ったものに感じるからである
でも時間だけは戻すことができないのである
それで江戸時代にもどることはできない、そこには想像でしか行けない
それで必ず大きな誤解が生じる、その過ぎ去った時代を経験できないからそうなる
本当にタイムマシンで江戸時代にでももどれば意外だったとなる
そこではいくら本でも映画でも見ても全く違った現実に遭遇して驚くのである



2021年04月05日

チャンスを逃す人生 (チャンスは時間は取り戻すことはできない)


チャンスを逃す人生

(チャンスは時間は取り戻すことはできない)

人間は常にチャンスがある、何かをする時間がある、でもそのチャンスも時間もたちまち消失してゆく

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、コヘレトの言葉


神を知るべき時がある
結婚するべき時がある
学ぶべき時がある 
仕事を覚える時がある 
成功するにも時がある
体を鍛える時がある
善を成すべき時がある
苦しむ時がある
楽しむ時がある
出会うべき時がある
旅をする時がある
・・・・・・

こうして様々なことするべきとか学ぶべきとかある、でもそのチャンスを逃しているのだだから老人になるとあの時こうしていれば良かった、あの時学んでいれば良かったとか後悔だけになる
それはチャンスとか時間がいくらでもあると見ているからである
でも何かをすべきチャンスが思った以上ないしまた時間もないのである
だから貴重な時間を逃しているのだ、若き時神を知れというときもそうである
神を知るのは経験を積んだ老人が知るのかと思っている
でも最も血気盛んな時神を知れと言っている
これも意外なのである、そしてその時期を過ぎるともう神を知ることが不可能だともなるのだ、これは怖いことだったとふりかえる
神を知るチャンスとか時期は極めて限られているのである

ともかく結婚でも常に親でも娘とかでも婚期を遅れないようにうるさく言うことがわかった、それは婚期もたちまち過ぎる、そうなると女性としての魅力がなくなり結婚できなくなるということを親は経験しているからそういうのである
男でもやはり婚期があり時期がありそれを逃すともう結婚するのはむずかしくなる
今は何かニートとかまた結婚しない人が氷河期世代とかあり多くなった
その人たちは40とかすぎてゆくと結婚はむずかしくなる
男性でも二十代から30代までが限度だとなるからだ
つまり時間が過ぎてゆくのが思った以上早いのである

人間は何か良いことを善を積もうとしてもその時間がなくなる、ささいなことでも何か善いことをして他者のためにしてみる、そういう時間もなくなる
結局何もせず善を積まずに終わる
何か駅で案内のボランティアをしたけどこれもたまたま駅が無人化して頼まれてしていたそれもまたできなくなった、コロナウィルスで接触しにくくなったからである
だからその時認められなくても何か駅のことで経験したから良かったとなる

つまり何かささいなことでも人はチャンスを逃している
何かすべきことをしないで終わっている
親のことでも親はいつか死ぬ、別れる、すると介護でも苦しいのだけど十分にしていたらなと死んでからふりかえる人がまた多いのである
なぜそうなるのか?それは二度と親でも死んで逢えなくなるからである
それで冷たくしたりすると後悔することになるので介護の問題は難しいのである
この世に出会うということそれは親ですら短いものとなり遂には永遠に合わないともなるすると逢っていた一緒に暮らした時間が貴重だったとなる
たたこれはあらゆることに言える、人間はチャンスも時間でも限られたものしか与えられていないのである

だからこの世で一番無駄にしているのはチャンスと時間である
誰にでもチャンスがある、ただそれを逃しているだけなのである
第一それがチャンスだともわからないことも多いのである
もしこれはかけがえのない人生には二度とないチャンスだと思ったら後悔などないからである
今勉強しなければ後は時間がなくなるとかも思わないのである
こうしてチャンスでも時間でも消失してゆく
そして老人になり誰でも後悔しているのである
それはチャンスとか時間がいくらでもあると思うからである
でも青春などはたちまち夢のように過ぎてしまうのである
そうしてみんな愕然としているのである

一番の後悔は時間を活用しなかった、チャンスを活かせなかったことなのである
そして時間は平等に与えられている、そこに差別はない、ただ貧富の差でチャンスがある人とない人がある、留学となると金がかかるから金持ちしかそのチャンスが与えられないということはある
でも留学だけが人生ではない、他にもいくらでも経験すること学ぶことがあるからその方でもチャンスは与えられている、時間も与えられている
ただなんでもそれを活かすことができないのである
何かを常に活かそうとしていればそうはならないのである
人間は必ず時間を無駄にしている、活かしていないからである

不思議なのは泥棒であれ悪を成すにもチャンスがある、悪事を働くチャンスをうかがう
それも偶然ではなく目的があってする場合、虎視眈々とねらっているとなる
また動物だと獲物を常に虎視眈々と狙っている、それは真剣そのものである
しかし人間そのように虎視眈々とチャンスをねらっていない
何か平々凡々としまりなく時間がただ無意味に過ぎてゆくのである

そこでチャンスがあってもチャンスを逃すのである、動物は獲物を得るチャンスを逃すと餓えて死ぬことがある、だから真剣だとなる
そうなるのは獲物を貯えることができないからである
日々の獲物をねらって食べるほかない、すると日々虎視眈々と獲物をねらうことになる
そこにチャンスを逃すまえという緊張感が生まれている
人間は何かそういうふうに日々生きていない、別に食べるものがすぐなくなったりしないからである、そして日々緊張感もなく生きているとなる
ただ動物のようになっていたら何かまた絶えず獲物をとるために追われて疲れるともなる
とにかく動物はこうして日々獲物をとるチャンスをうかがっている
でも人間はそんなふうにしてチャンスをとらえようとはしていない

要するに千載一遇のチャンスがあってもそのチャンスを逃す、それはチャンスと見ないからである、そして二度とそのチャンスはなくなる
つまり明日またチャンスがあるとして逃しているのである
でもその明日は遂にこなくなるのもまた早いのである
だから求道でも早い時期からしないとできない、老人になって悟るとかは別である
それで若きうち神を知れとなる、でも若いうちは飲めや歌いやとか享楽に走る
また性欲のために費やされる、そのうちたちまちに老いてしまうのである
40になったら白髪がでてきておっさんとか言われるのである
女性でもその美貌もまた衰えてゆくのが早いのである  

例えば料理でもこれが経験していれば家族が失ってもできる
でも全然経験しないとできない、第一買い物が結構むずかしいのである
十年くらい一人でしていても買い物がわからないのである
何を買っていいのかわからない、そして料理もできないとなる
それだけ料理できるようになるには時間がかかるのである
そういう経験をしていればこうはならなかったのである
ただこうしてパソコンで文章を書けるのは親指シフトを経験しているからできる
パソコンだってこれを使いこなすにはそれだけの時間が必要になる
結局何でもある程度経験していれば身につくから一から始めたらできない
老人になればもう何か新しいことができても苦しいとなるのである

世間的なことでも株などは若い時にするべきものだったのである、額は少額でも訓練していれば良かったのである、それが60以上とか70以上になってやるというのはリスクになる、株は十年単位で見れば必ず下がっていてもあがる、また上がっても必ず下がるという規則のようなものがあるからだ、すると10年くらい放っておいてもいいやとかなり様子を見ていると上がるのである、だから本当にリーマンショックの時半分に下落した株をもっていたら二倍のもうけになった
それと最近でも株が下がった時買わないかと来た時買っていればこれもこんなに高くなるとは思わなかったから失敗だった
それは自分自身で株の経験がないから銀行の営業の人にまかせたから失敗だったとなる

もし若い時株をしていたら経験しているからもうけられるということがあったからだ
ただそういう経験していないから銀行でも他人まかせになったから失敗したとなる
こうして何か経験していないことをすることはリスクになる
他人まかせでは成功しないのである、株でも経験する時があったとなる
何かする時があったが逃していたともなる、それはあらゆることに言えるのである
その最たるものが神を知ることを逃していることでわかる

こうして人間は何か成すべき時に成さない、それが後で失敗の元となる
結局何かを成すべき時が限られている、チャンスも限られている
だから様々なこと時間でも無駄にしてチャンスもものにできないのである
日々緊張感をもってチャンスでもものにしようとして時間を有益に使うという心構えがあったらこうはならなかったのである、それはただみんな最後は後悔しない人は一人もいない、そのことがわかるのは遂に死ぬときだとなる
それが否が応でも思い知らされるのである 

死ぬことを老人になってから考えて遅いのである、若き時に死は何なのか知らねばならない、人間はいくらでも親でも他人でも死に接している、すると死のことを一番恐怖するからである、もう老人になると同世代でも日常的に死んでゆく
そして永遠に逢わなくなってしまうのである
死ぬにも時があるというとき人間は死ぬべき時でもだらだらと生き続ける
それが何かいいようでかえって苦しみをもたらしている
人間は死ぬべき時に死なない、現代は長生きになりそうなりやすい、死ねない時代だとなる、それはかえって無益に生かされているから若い人に早く死ねとか言われる
ただ百才まで生きても意味ある生はある、ただ無用化して廃人のようになっても生きている人がいる、それは迷惑だとなってしまう
だから婚期を逃すと同じく死期を逃したともなる、それは本人にとっても周りの者にとってもいいものではない、それぞれの人生が立場があり一概には言えないがやはり死期というのもある、その時を逃すとまたかえって苦しむだけだとなる


2021年02月24日

人生は何に時間をかけたかで決まる (時間は限られているからーそして老人はみんな後悔している)


人生は何に時間をかけたかで決まる

(時間は限られているからーそして老人はみんな後悔している)


時間というのは意識しにくい、時間の貴重さを意識しにくい、でも確実に時間は消失してゆく、時間が消失してゆくことは金を使うのとは違う、金だったら十円で損すると損したという気分になる、でも時間はそうはならないのである
だから時間の貴重さを意識しにくいのである
でも時間は確実に日々消失して最後はなくなる、その時は死ぬ時だとなる
老人になればわかる、みんな後悔している時何かをしなかったとか時間を有効に使わなかったことの後悔なのである、時間を無駄にしたことの後悔なのである
そして人生とは何に時間を費やしたかが人生になってしまう

仕事にしてもその人の資質とかは関係してもある仕事を覚えるにしても時間がかかる
あらゆることに時間をかけることはできない、すると人間はあることに時間をかけたものがその人を作りそれが人生だったともなる
職場でもそうである、そこで時間を費やせば時間をかけたのだからその職場の仲間であれ仕事であれ人生だったともなる
ともに仕事をしたとかもあるが貴重な時間をともに過ごしたということでもある
だからあまり転職をしない方がいいというのは会社でも仕事でも覚えるのに時間がかかるそれで転々として職場が変わるとスキルも身につかないとなる
ある仕事を覚えるのにも時間がかかるからである
そのために派遣と非正規の仕事はスキルが身につかずに終わるからいい働き方ではないとなる

例えば

100=A+B+C

とある、100が時間である、すると100の時間があってもABC に時間を分散していたら何か一つにAに100を費やすのと30とかに時間を分散させるのでは相当に結果的に違ったものになる、才能とか資質があっても問題はどれだけ時間をかけるかで決まる
いくら才能があってもあらゆることに通じることはできない、時間をかけることできないでも才能がなくても一つのことに時間をかければそれなりのものになる
結局人生は何に時間を費やしたかで決まる、そして最後はみんな時間切れになっているのだ、もう何かに費やす時間がなくなるのである
そしてみんなこれぽっちで終わりなのかとショックになる
おそらく百才生きてもそうなる、時間はみんな限られているし平等にしか与えられない
ある人には200とかある人は100だとかならない、金を不平等に与えられても時間は平等に与えられている、だからいかに時間を活かすかで人生は決まるとなる

自分のように定職もなく旅ばかりしていたら旅が人生ともなる、でも現代に旅人はいないということを書いてきた、すると旅人となることは特殊なことでありみんなが経験できることではないともなる
現代の旅は移動するだけである、車で移動してうまいものを食べるとかになる
旅人とはなれないのである、それはアウトサイダーになってしまうのである
でも旅人になることは旅に時間を費やすこともその人の人生だったとなる
それで芭蕉の俳句が生まれたりしたのである

だから何十年も一緒に生活して離婚することである、晩年になって夫が退職したりして
離婚する、それが理解できないのである
では新しい人間関係とか互いに理解するにはまた時間がかかる
人間は何をするにも時間がかかる、人間でも親しくなるには信頼を築くには時間がかかるそれで使用人でも十年とか勤めていると信用されるようになる
それだけの時間がそうさせたのである、時間が限られているのだからまた別な人とやり直すのは時間がかかる、だから離婚することはもったいないとなるが現実は三人に一人とか離婚しているのである

つくづく自分は若い時から株をしていれば良かったとなる
でも団塊の世代とかその下でも別に貯金していれば利子がついたのだから投資をする必要もないし学ぶ必要もなかったのである
だから今の老人は貯金していれば安全だという意識がありしないできないのである
経験がない株に時間を費やした時間がなかったからである
株に詳しくなるにしても時間がかかるのである
だから株は長期的にみれば上がり下がりがあってももうかるとなる
でもそのスキルを会得するには時間がかかる、それで銀行の営業の人がすすめられたらまかせるとなってしまう、それで損したのである

つまり何でも習熟するには時間がかかり経験も必要であり簡単に覚えられないのである
それは個々の仕事でも簡単な仕事でもそうである、仕事を覚えるのには時間がかかるのである、それで自分には合ってないと思っていても一つの仕事に時間をかけてしていればその仕事に詳しくなる、プロになるともなる
まず家事でもこれを習熟するには時間がかかると思った、未だに料理ができないことでもわかる、それだけ習熟するには時間がかかる
そして人間はいろんなことに習熟できない、時間をかけるものは限られているから最後はこんなわずかなことしかできなかったのかと驚くのである
若い時は何かを成しうると思っていたのは無限に時間があるかと思っていたからである
また暇に感じるのもそうである、でも確実に時間は消失してゆく
最後は老人は金より時間が黄金のように価値あるものとなる
なぜならそもそも生きる時間が消えてゆくからである
日々何であれ見納めだとかなってしまう、末期の眼で見ることになるからそこにいるということだけでも貴重な時間になってゆく
その感覚が若い時はわからないのである

もし老人のような境地になっていたら時間を絶対に無駄にしなかっただろう
でも若い時は時間の貴重さがわからないのである
最後になってわかる、それでみんな後悔しているのである
そして最後はお別れだけが人生だともなる
本当にこの世で人間が逢うということは何なのか?
これ自体不思議だとなる、なぜならこの世で逢ったとしても永遠に死ねば逢わなくなる
家族もみんな死んでもう会えないとかなる、死んで逢うことの貴重さを知る
でもみんな逢うことの貴重さを自覚する人はいないし何か逢うということが何か意味を見出していない、ただ通りすぎてゆくだけだとかしかない

とにかく人生でも最後になるとあっという間に終わりだったとなる
それが否応でも自覚させられるのは老人になってからである
これぽっちで終わりなのかと驚くのである、そして信仰でも若い時汝の神を知れというときもそうである、若い時求道しなければあとは神を知ることができないというのもショックである、悟りとか信仰は老人になってからでいいとかなる
でもこれも老人になってからは時すでに遅しとなっているのである
要するに神を知る機会を失っていたのである
そしてその時間をがもう取り戻せない、失われた時間を取り戻せない

それはあらゆる面で言えるのである、こうしてみんな後悔しない人はいないとなっている
だから若い時は実は老人をみることである、老人を知ることだともなる
老人の言っていることを参考にすべきだとなる
同世代では人生がどういうものかわからないからだ
時間が貴重だとか同世代では感じないからである
人生の結果が老人に現れる、ではどうしたらいいのかとなると老人を知り老人の言うことに耳を傾けることだともなる
説教を聞くのが嫌だとかではなく、それは自分自身のために聴くのである
つまり若い人もみんな老人になるからだ、だからその時みんな後悔するけどなるべく後悔しない生き方をする、それは時間が消失してゆくことが一番の人間の問題だと知ることなのである、時間を浪費することが最大の後悔となるからである



2021年02月08日

最後は記憶が人生になる (場所と一体化して記憶されるー家と一体化して記憶されいる死んだ母ー墓の意義)


最後は記憶が人生になる

(場所と一体化して記憶されるー家と一体化して記憶されいる死んだ母ー墓の意義)

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the fixed place for memory




仙台市に行ってヨドバシカメラのカードを忘れた、でも実際は財布に入っていたのである

これが忘れた原因は何であったのか?

カードが多すぎてわからなくなったこともある、それよりヨドバシカメラのカードをいつも部屋の手の届く所に置いていたことが記憶となっていたのである
ヨドバシカメラのカードはその場所にあると記憶していた
それをいつも見ていたからである
でも実際は財布に入れていたのである

つまり記憶は場所と関係している、カード単体で記憶しているのではなくその場所が関係している、場所と一体化して記憶している
人間は何か単体では記憶しにくい、何かと関連して記憶している
ABCとあるときAだけ単体として記憶しにくい、原子でも結合して一つの物になる
人間の記憶のメカニズムは機械と違う、一つの場面でも単体では記憶しない
家を記憶するにもその周辺の情景から記憶する
田んぼの中に家があるとか線路の脇に家があるとか坂の上に家があるとビルがあって家があるとかその家の隣の家があって同時に記憶する
家一つを単体では記憶していないのである
何か記憶して思い出す時でも単体では思い出せない、その周辺の情景があってつないで思い出すのである

例えば緑がありその中に赤がある、緑として単体で記憶されないのである
赤、緑、青とかあって赤が記憶される
それは極めて人間の記憶のメカニズムとしてある
人間の特徴としてとにかく忘れやすいのである、そのためになんでも記録しておけというとき忘れるからである、そして忘れるということは何なのか?
それがあっても存在しないことになる、認知症になると子供の名前すら忘れる
すると自分の子どもなのに「あなたは誰ですか」というときその自分の子供さえ存在しないことになる、記憶されないことは存在の否定なのである

それは人間に認知症でなくても常に起きている、とにかく人間は忘れる
人間は死んだ時点でその人は肉体も消えるから忘れてしまうのである
そんな人いたのとまでなってしまう、肉体を実在しないのだからその存在さえないものとされる、忘れられるのである
それでいかに記憶することがまた歴史では記録することが大事なのかを知る
それで文字が発明された過去に起きたことを記録したことが文明を作ったともなる
その文字が神聖なのはヒエログリフとなったのはまさに記録したものが神聖だとなるからだ、もし文字で記録されていなかったら過去の文明も謎になる
エジプト文明は文字で記録されていたからなんとか解明できるとなる
マヤ文明とかは文字がないので謎になりジャングルに埋もれたとなる

そしていかに記録が大事なのかを知ったのはこの辺の津浪だった
相馬藩政記に生波で溺死者700名あったと記録されていたのである、生波(いくなみ)とは津波のことだった、その時津波という言葉はなかったのである
これはたった二行だったがこの記録ほど貴重なものはなかった
なぜならそれを知ったのは津波の後だったからである、誰も知らなかったのである
そして400年前に津波があったということを知らないからこの辺では津波が来ないとしていたのである、もしこのことを知っていたら警戒していたとなる
だからこそ天災は忘れた頃にやってくるとなる
それだけ人間は忘れやすいのである
自分自身膨大なものをプログに書いたけどその自分で書いたものを忘れているのである
そして読み返して自分自身が感心しているのも奇妙なのである

いづれにしろどうしたら記憶するかということが意外とあらゆることで旅ですらそうだった、どんなに旅しても記憶しているかいなかが大事になる、何が記憶されるか大事になるもし記憶されないならそこに行ったということなかったとまでなる
実際に行ったとしてもそうである、団体旅行した人はどこに行ったかわからないと言っていた、その場所に行ったことすら覚えていないのである

ともかく人間の記憶が単一ではなく場と結びついて記憶される
それで寝る時、広い八畳間で寝ている、そこに本を置いてある、するとき寝る時毎日その本をがそこにあり見ているからその本の内容も記憶していることに気づいた
場と一体となり記憶が定着している、でも本がいくらあってもみんな記憶できない
本がありすぎるとまたどこに何が書いてあったかもわからなくなる
それだインタ−ネットだとキーワードで検索できるから便利なのである
蔵書でもそれができれば便利になる、なぜなら前に読んだ本もたとえ赤線でも引いても忘れていたのである、本を読んでもは忘れてしまうのである

人生をあとでふりかえるときとにかく記憶したものを語る
でも旅でも記憶していなかったら存在しないと同じになる
そこに旅したともならないのである、でもいくら旅しても人間は忘れる
そうなるとせっかく旅したのにその経験も無駄だったともなる
記録と記憶は違う、記録は何かあったことでも機械的に記録することである
でも記憶はその場から全体から思い出すのが記憶なのである
ただ記録したことから記憶が蘇ることがあるから今ならデジカメでもいいから印象的な場面を記録する、フィルム時代と違うからそれは後で思い出すのに効果的だとはなる
でもそれは他人にとっては一場面であり部分であり全体ではないから記憶とはならない
だから何かテレビの旅番組を見ても旅したとはならない
それは一部分を切りとったものだからである
そこに行くまでの行程も旅でありそれが省かれているから旅を経験できないのである

人間はとにかく親しい人でも死んだりしたらただ忘却があるのみだとなる
それで死んだ人でも場所と結びついて記憶している
百才で死んだ母のことを書いてきた、その母がいた場所がありその場所に自分が座っていると不思議になる、そこに母は70年とか座っていたからである
するとそこに母がいるような感覚になる、いつまでもそこにいる感覚になる
その場所から離れずいる感覚になる、形は無いが確かにいるとなる
結局それだけ長くいたからその場と一体化したのである
それで嫁とは女と家のなのである、家と一体化して記憶されている

そして墓とは何かと言えば記憶を物体化したものである
墓に来て死んだ人を思い出す装置なのである、それは人間は死んだ人を忘れるからであるそれでいつも母の実家の墓参りしたときそこに肺病で27歳くらいで死んだ人を思い出すのである、この人はかわいそうだったなとみる
でも今は墓参りもしていない、その墓を継いだ女性が異常人格者だから怖くて行けなくなったのである、母の実家はもともと分裂不和の家だったからその後にのこされた人も分裂不和になったのである
そうなると自分自身からもその実家のことは忘れる、墓参りのときは思い出すがそれなくなったからである、とにかく墓参りとは死んだ人を記録する場であり思い出す場所だということである、場所と結びついて思い出すのである
だから墓がないとさらに死んだ人は忘れられる、全く存在しなかったともなる
そういう人も多いのである、墓の効用は記録して死んだ人を思い出すということにあったからである

2021年01月31日

親鸞の千人殺せの意味 (凶悪犯罪者でも罪の意識がないー受刑者のリアル)


親鸞の千人殺せの意味

(凶悪犯罪者でも罪の意識がないー受刑者のリアル)


刑務所で無期懲役とかなった人を取材していた、それで意外だったのは残酷な犯罪でも
その本人は罪の意識がない、たまたま運が悪かったとその場に居合わせたのが悪かったとか言っている、そして30年の刑務所に入っていても出所することを願っている
それだけの犯罪を犯したのだから何か罪の意識をもち反省しているのかと思うとしていない
でも犯罪者でもみんな罪の意識をもっていない、自分が悪いと思っていない
むしろ相手が他者が悪いと思っている

つかまったのが失敗だった!

それが余りにも残酷な犯罪を犯してもそうだったのかと意外だったのである
人間は人を殺しても罪の意識を持たない、罪の意識を持てないのである
ほとんどの人もみんな善人だと思っている、何か自分等もそうである
悪人と思っている人はほとんどいないのである
それが残酷な犯罪を犯していた人でもそうだったとすると軽犯罪になると全然罪の意識はない、盗みでも強盗犯罪でも罪の意識がないことに驚いたからである
そしたら軽犯罪で罪の意識を持っている人はいない、たまたま捕まったのが運が悪かったと思うだけである

ただそれにしても30年も刑務所に入っていたら反省するのかとみるがしない、それが理不尽だとも思っている、だから人間は必ずしも刑罰を与えても罪の意識を持たない
だから宗教で不思議なのは全然罪も犯していないのに私は罪の頭だとかいう宗教者であるパウロなどがそうだし優れた宗教者はそうである

親鸞が千人殺せ!

こういったのは人間はそれほど残酷な犯罪を犯しても罪の意識をもたないからだとなる
なぜなら一人殺してももたない、ては千人殺してみろということでとはないか?
そうすればその残酷さで罪の意識を持つともなるからそう言ったとなる

ただ人間は最後に俺は悪いことしてないと言って死ぬ人が多い
何かそういうのは後ろめたいことが誰でもあるから最後に罪の意識がでてきてまた何か悔いてそういうとなる

継母で子供を残酷にいじめた人が最後に「悪かったな」とその子供に言って死んだ
それはもうずいぶん年になってからである、でもそうなったのは眼が悪くなったりひどい状態になり助けもなくてそう言ったともなる
でもなにか人間は最後に悪いことをしたことを恐れるということはある
でも終身刑になるような人が罪の意識をもたない、むしろ運が悪かったとかなり自分の責任にしていないのである

こういうのを見ると人間で自分が悪人だと自覚している人はすでに罪の意識があり優れた人だとなる、自分が善人だとしている人は実は悪人だとなってしまう
でもほとんどの人は善人だと思っている
でも世の中で地位をもっていたり金持ちだったりする人は何か悪人であるかもしれない
でもそれだって悪人だと思わない、弁護士も意外ともめごとにかかわっているから
法外な金を得たりする、相談しただけで百万もとった弁護士がいた
これも悪人なのだけど責められない本人も罪の意識もないのである

だからなんであれ罪の意識をもっている人は人間として優れているともなる
俺は善人だとか言う人は実は悪人でありそういう人がほとんどなのである
それは自分にも言える、とにかく罪の意識をもつ人はまれなのである
だからそれだけでその人は救われているともなる
それで親鸞が千人殺せといったともなる
ただこれを理解することはむずかしい、それだけ人間は罪の意識だとか自分は悪人だと思わないのである

人間は何か苦しむ時なぜ苦しむのだろうと考える、でも苦しまないと全然考えない
何か苦しむ時、罰だとか何に原因があるのかと考える
それはカルマだと認識する、苦しむ時カルマを意識する
それは自分自身が家族の介護の苦しみで意識したからである

家には必ずなにかしらのカルマをどこの家でも背負っている、それが苦しみとなって現れると思ったのである、なぜこんな苦しみにあうのかとなる家でもカルマがありそのために苦しみを背負わされたとなる
ただ刑務所に入っている人が終身刑の人でもそうした罪の意識がない、カルマを感じないというのもわからないのである
刑務所の生活は不自由でもそんなに苦しみを感じないからなのかともみる
ただ30年刑務所に入っていてもいつか出たいというのが希望なのである
でも別に罪の意識はもっていないとなる

人間の逆説として(俺は悪人なんだ)と思っている人は実際は善人だということになる
ボランティアなどでも何か経験してみると俺は善人なんだ、だからほめられるべきだとなる、そういう意識が前面に出やすいのである,ボランティアしているから善人として認めろということである
でも人間がもし悪人だとすると俺は悪いやつなんだ、だからいいことは何もできない
ただ罪を悔いるだけだとなる
でもたいがい人間は俺は善人なんだとしかないのである
何か団体で行動するにしてもそうである、カルト教団で何か俺は悪人なんだなどと懺悔する人なと一人もいない、ただ御利益御利益しかないのである
それで何か苦しいこと損することがあると罰当たるとかしかないのである
その教祖も大善人であり悪人だなとと思いもしないのである
だからこの世の大善人は実際は大悪人であり悪人と思っている人は実は善人だという逆説になるのである

2021年01月22日

プラスがマイナスに働きマイナスがプラスに働く (コロナウィルスで引きこもりの時代になるのか?)


プラスがマイナスに働きマイナスがプラスに働く

(コロナウィルスで引きこもりの時代になるのか?)


その人は体力もあるし大工であり何でも器用でできる、やり手である、話もうまい
悪く言えば八方美人であり器用貧乏にもなる
でもなんでもそうして器用にできることは生活力もありいいことなのである
それが何かマイナスとなるとは思えないのである
でも何でもできることはやらなくてもいいことまでしている
大工で十分に稼げるのに何かしなくてもいい公にもできない仕事もしている
その人は欲のために何でもする、またできるのである

だから人間の謎はそうしていい面でも悪い面に働くこともある
そもそもやり手の人間は悪いことでもやり手になるからだ
無能な人間は悪いことすらできないのである、不器用でできないとなる
でもそれは倫理的な面から見れば悪いことでもないとなる

人間は社会では外交的な人が好かれる、私自身でも外交的でいつも笑っているような人を好む、何か陰気で内向的な人は社会では嫌われる
自分自身がそうである、内向的でありそれで一日ほとんどしゃべられない生活をつづけてきた、つまり引きこもりだったのである
ただそんな生活ができたのは家族に恵まれたからである
それで何ら叱責されることもなかったからである

ただ内向的なことがすべて悪いとはマイナスに働くとは限らないのである
自分はしゃべるのは苦手である、でも文章を書くのは好きなのである
だからこうしてプログだと文章だから書き続けている
一人内向的作業をしているとなる、それに向いているからである
それで引きこもりの時からワープロに通信機のついていたときから引きこもりはじめていた、それが今日に継続している

内向的な人間には内向的なことをする、仕事をするのが向いている、ただ社会では文系とかなると内向的な仕事は少ないのである、営業とかが多くなる
するとそれに向かいない人もでてくる、向かないことをすることはストレスになる
人間にはどうしても何でも向き不向きがある  
機械マニアのような理系の若者がいてそういう人は人との交際か苦手である
また英語など勉強しなくても機械マニアには機械マニアとして生きることで日本を導く者になるというのもそうである
人間ではなく機械相手にしている人でも社会に有益だとしているのだ
猫でも雪を嫌っていると見ていたら雪の中を押し分けて駆ける猫がいたのである
普通は雪を嫌うからである、猫でも何か内向的なものと外交的なものがいるともなる
猫の性格も一様ではないのである

ともかく人間はプラスになることとマイナスになることは表裏一体である
島国となるとそこに孤立しているとかマイナス面があるがまたプラス面がある
何か不利と見えるのがものが有利にもなる、例えば動物でも肉食の強い動物が種的には強いともならない、なぜならかえって草食の小型の哺乳類が繁栄したからである
恐竜などは滅びて小型の哺乳類が生き延びたからである
つまり強さが弱さになり弱さが強さにもなる
必ずしも大国が強いとは限らない、大国は大国の弱点がある、中国のように一つの国としてまとめることができず内紛が絶えないともなるからだ
日本は小国でもまとまりやすいからかえって強いともなっていた
何か強いと見えるものがかえって弱点となり弱いと見えるものが強いともなる

聖書でもかえって弱いと見えたものが強く勝つとかが語られている
ダビデとゴリアテとか弱者が強者に勝つ物語がある、だからどこで強くなるのか弱くなるのか定められないのである   
イスラエル自体エジプトなどと比べると小国である、でも神が選んだ国だったのである
確かに中国でもアメリカでも大国である、でも大国なりの弱点がある
その弱点の故に国がまとめられず衰退してゆくともなる

人間はそもそも何が有利に働くかわからないのである
コロナウィルスでもニューノーマルな生活が言われるがそれは三密をさけることだというのもそうである、常にこれまでは何でも集団化して集まる
でも何か不思議なのは食堂でも居酒屋でもデスタンスをとれとか黙食しろというのもそうである、しゃべらずに食べろ、密になるなデスタンスをとれというのも社会を変えてしまう、それは引きこもりして仕事しろということなのかともなる
家に引きこもり仕事しろという時代なのかとなる
そういうことは総一億引きこもりの時代になるのかともなる

時代によって価値観も変わる、グロ−バル化とは世界とも広く交わるのがいいとみていたでもコロナウィルスで内に籠もる時代になる、内向的になる
中世のような時代にもなる、明治から戦後でも高度成長時代を経て外交的な世界だった
外に向く世界だった、それが内向自体に変化する、それは江戸時代の鎖国のような時代になるのか?
鎖国だってすべてか悪いとはならない、いい面もあった、これからは何か落ち着いた内向的時代になるのかもしれない、動物的世界、激しく移動して動く世界から木や石や山のように動かないものへの移行なのかもしれない
そういう時代の変化にあり価値観も変わる、だから内向的性格がすべて悪く働くとは限らない、むしろニューノーマルの世界は内向的世界であり内向的性格の人にとっては有利に働くともなる

そしてみんなアーティストになれとかそれは内向的世界であり内向的性格の人にとってはいい時代ともなる、何か価値観が内向的なものとなる
人間の内面の追求となるのは宗教とか芸術の世界だともなる
ただカルト教団は外交的なものでありそこで全く内面的もの外交的なものは嫌われる
まず一日しゃべらず黙想しているようなことはありえない、そういうことは最も嫌われる毎日外交的に人と接して票を集めるとか会員を増やすために布教するとか常に外交的なことを強いられるのである、それが会社のノルマと同じなのである
それで会員を増やし票を獲得した人が評価される世界である
だからそれは全く本来の宗教とは違うのである、常に社会にむっかて外交的になり人と絶えず接して一票を得るために活動する、それが権力獲得に結び付くからである
だから宗教とは全く正反対の世界なのである
集団行動して大勢が集まり気勢をあげる、でもコロナウィルスでそれができないから盛り上がらないと困っている

いづれにしろ人間はマイナスとして働くように見えるのもプラスになる
プラスに働くように見えるものもマイナスに働く、だから別に引きこもりすら全部がマイナスに働くとは限らないのである
引きこもりは新時代の新しいライフスタイルだったともなりうる
ただそれが今までとはあまりにも違ったものに見えるから受け入れられないともなった
でももしかしたら引きこもりでも時代を先取りしたライフスタイルだったともなるかもしれない、コロナウィルスがそういう価値観の変化をもたらしたともなるからだ

そもそもブラック会社とかまたカルト教団であれ組織集団でも雇われて働くこと自体馬鹿らしいのである
雇う方にとってその人がどんな人でもいいのである、だからロボットの方がましだとなりAIとかロボット化する、雇う方ではその人間にどんな資質があるとか見ない
計算しているのは自分がもうけることであり雇う人間はコストでしかないのである
もう人間とも見ていない、都合よく使うロボットなのである
人間が働くことは自分の資質を活かして自分のあったことをして何かを成し遂げることである、雇う人はそんなことを考えない、自分の都合いいように働く人である

それでロボットの方がましだとなったのである
つまり人生とは何かとなればその人なりに生きることである
そしてその人なりのものもを達成すれば生きたとなる
ただ雇い主の都合でロボットのように働かせらさせるのは生きたことにはならない
人生を奪われたともなるのだ、そして最後に残るのは何もないとまでなる
多少の金が残ったとしても何かその人なりのものを達成したということがない
ただ雇い主のいいように使われて人生が終わったともなる

2021年01月19日

カルマの法則 (楽した人は後で苦しむー苦しんだ人は楽になる)


カルマの法則

(楽した人は後で苦しむー苦しんだ人は楽になる)

カルマとは実例がありそれでカルマが法則ともなっていることを知る

子供を捨てた親は子供に捨てられる

これも法則の一つである、その人は5歳まで子供を育てていた、でも子供置いて嫁ぎ先から出た、それは理由がありそこは同情する
姑があまりにもきつい人でありそれで出て行ったのである
その後に来た人も出て行った、異常なほど強気の人であり耐えられないとなっていたからだ
でも子供を置いて嫁ぎ先を出たとしても本人は金持ちの家の後妻に入った
だから生活は楽であった、苦労することもなかった
でもその楽したことが何かかえってカルマになったともなる

なぜなら認知症になり頼る人がなく5歳まで育てた娘に頼ったからである
その娘のことは信じられない非情な異常化した人間になっていたことを書いた
その娘がその親をどう思っているかというと金を得るだけのものでしかない
親とか思っていないのである
ただそれが本人にわからない、認知症になっていてわからない
金があってもその金をどうにもならない、その金を目当てに後妻に入った家の跡継ぎと争っている
これも悲惨だと見た、娘と思っていても娘は親と思っていない、ただ金が欲しいだけである、施設に入れていてもそんなふうにしか思っていないのである

なぜそうなったのか?

確かに家をでるというのはやむをえなかったかもしれない、でも子供と一緒に出れば良かったのかもしれない、それができなかった、そして楽な道を選んだのである
つまり楽なことが必ずしもいいとはならない、でも人間は楽な道を選ぶのである
これとはどうにもならない、でも苦しいことを選ぶ選択もある
それが後に楽になるということもある、苦しいけどその苦しさに耐えてのりきれば楽になる

楽は苦の種、苦は楽の種

これなのである、それで若いうちは望んで苦しんでおけとなる、なぜなら人間に生まれたことは苦から逃れられないからである、そもそも生まれたこと自体が苦しむためだともなる、業(カルマ)の故に生まれてそのカルマを解消するために生まれたともなる
だから人間は必ず苦しむようにできている

そして楽なことは苦しむことにもなる、楽なこともカルマを積んでいるのである
この女性の場合は楽な道を選らび老人になって苦しみを受けるようになったのである
意外と金持ちの親は施設にあづけられて子供はかまわないのである
でも子供が親が苦しんで育てとかなるとその親の背を見て育つから孝行するともなる
だから必ずしも金持ちの親がいいともかぎらないのである
つまり金持ちの人は子供を苦労して育てるということがないからである

他人のことをあれこれ言うが私自身も若い時は望んで苦しんだがその後は楽していたのである
その楽が苦に変わった、介護となり苦しむ結果となったからである
だから楽していることも必ずカルマになってくる、人間は何をするにしろカルマを積んでいる、それが自覚できない、でも60以降とかなると必ず自覚させられる
苦しみとなって現れるからである
だから苦しんだ人は後でかえって楽になる

人生も長いスパンで時間でみると違ったものになる、結果がわからないからである
苦しい道を選んでもそれが一生苦しいとはならない、後で楽になる
楽な道を選んだらそれが苦しみとなって後年現れる
だから何か選ぶ時はむずかしい、結婚するにも女性なら金持ちとかとしたとなりともかく楽に生活できる人を選ぶ、でも結果的にそれが楽になるとはかぎらない
女性もどこかで苦しむようになっている、だから苦しい道を選んでも後で楽になることがある

この辺でも農業をするなと親に殴られた人がいた、農業は金にならないとかなり苦労ばかり多いとなりそうなった、でも原発事故以後その子供は親になりその子供が故郷を捨てて帰らなくなった、何かこれもカルマだったとなる
農業を軽んじたせいだったともなる、それは漁業でもいえる
だから東電に漁業権を売り楽な暮らしをしていたのである、補償金で楽な暮らしをしていた、それが事故で故郷に住めなくなったのである

しかし人は長い目ではみない、今良ければいいとか今が楽で贅沢すればいいとしかならないのである
ただ結果的には長い目でみれば「楽は苦の種、苦は楽の種」になる
それは長い目で見てそうなるのである、人間は長い目で見るこがなかなかできない
今が良ければいいとしかならないからである
そして人生の選択でも楽な方を選ぶのである
ただそれがみんな楽になるとは限らないのである、だからカルマの法則がある
いろいな実例を人生で見てゆくとこれもカルマだなと気づくのである

2020年12月18日

権利と責任 (権利を得るものには責任が課せられる)


権利と責任

(権利を得るものには責任が課せられる)

権利というとき利を得るものとしての権利である、でも明治時代に翻訳したとき権理となっていたのである、なんらかのリーズンがあって権利を得るとなっていた
これの方が正しい訳だったともなる、権利はrightでもある、正しさである
でも現実はただ権利となった、利を得るためのものでありその利を得て独占するための権利となる
民主主義でも権利を主張するのは正しいことであり推奨された
とにかくあらゆる人が団体が組織が権利を社会に向かって主張する
それが庶民でもそうなのである、生活保護者でも執拗に権利を主張する、生活保護者でも権利者だからである、もちろんそれを全部は否定できない、でも何か権利ばかりを主張する社会になったのである

原発事故でもそうだった、船主のことを再三追求して来たがこれがわかりやすいからそうなった、漁業権といんう権利を漁師は漁業組合は持っていた
それが権利であり主張できる、それで事故前でも東電から多額の補償金をもらっていたのである、、漁業権を東電に売ったともなるからである
でも漁業権の権利は魚の資源保護とかが目的であり理由なのである
それならもともと原発は海を汚染することがあるから慎重になるべきだったということがある、でも権利となり利が優先されて東電に漁業権を売りわたして金を得ることになったその補償金は事故前でも大きなものだったのである、それで原発御殿が建ったとか周りからうらやましがられていたのである

ところが原発事故で責められることになった、なんで東電などに漁業権を売ったのだ許可したのだとなる、その責任はどうするのだとなった
ただそのことをあからさまに言う人はいない、地元でもいない
ただここでは確かに権利の利を得るためにそうなった、でも今になってその責任が追及された、つまり権利には責任がつきまとっていた
もし権理となっていたらその利を得るにしてもそこに理由があるとなる
その理由は魚とか海産物資源の保護だったのである
もしそうなら簡単に金になる利になるからと漁業権を売りわたすとか許可することはなかったとなる
ただその責任をまねがれるには漁業権でも漁師とかだけのものではない、自治体全体のものとして協議していればそうはならなかった、責任が分散されたのである
でもそうなるとどうしても漁師だけの権利ではなくなり利益を得られなくなるからそうしなかったのである

ただこれこはあくまでも一例でありこういうことは本当に多いのである
どんな人でもとにかく利益を得ればいいとなる、その理由を必ずしも考えない
そんな例はこの世でいくらでもある、利を得るためには不正をしているのが普通だからである
ただ何かの権利を得ることは必ず責任が課せられることになる
この責任の部分が権利からぬけおちているのである、民主主義だととにかく組織でも団体でも権利を主張する、また自由社会だととにかく自由だとなり権利を主張する
だから極端になれば暴力団でも権利があるとして団体で主張したりする
それが今の社会であり漁業権とかはその一つの例なのである

例えば自分の一身上のことだが親戚の人が母の実家の墓を300万円もらって墓を守ってくれとその家系の長男が遺言して死んだ
そうなるとどうなるのか?確かに3百万円もらったからいいと普通なら考える
だからこそ3百万もらったのである
その親戚はもう人間でもなくなっていた、情もなにもない非情な人間になっていた
だから育ての親が病気のときも放っておきその母親は「ひどい娘だわ」と私に電話をして死んだのである、私の家とは疎遠であり付き合いもなかったが自分に余程悔しかったのか電話して死んだのである

そういう人がどうして墓を守ることができるのか?
恨んで死んだ人の墓参りとかでもできるだろうか?
確かに権利として金を得た、でもそこには大きな責任があった
墓など墓参りしなくてもいいということはある、何もしなくてもいいとはなる
でも何か墓参りして供養しないと気味悪いということもある
別に墓を捨ててもいい、現実にそうなる、でも金を得たとしてもそこには責任がつきまとう、それはあらゆることでそうなのである
金を得ることはすべて無条件でいいともならないのである
金には責任が課せられているのだ、それずドラマで金をもらったからと殺人に加担したとなる、その理由は金をもらったからだとしている
金は具体的な責任なのである、だから金さえもらえればいいとはならないのである
でも現実社会では金をもらえばいい、そのためには権利を主張しろというのが民主主義になったのである

こういう例など山ほどあり日常茶判事である、弁護士すらそうだった
交通事故のことで相談に行ったら何もしないのに相談だけで百万払いとなった
それを自分の家で親戚に頼んだ、その人が弁護士を知っているから頼んだとなる
でも相談料だけで百万とることはありえない、でもその人は世間のことがわからず
私の家で払うことになったのである、でもそれは交通事故の賠償金から払ったとなる
そこに自分の家の手落ちもあったとなる
ただ相談するだけで百万をとることはありえないのである
まずそんな権利がありえない、弁護士ならそういうことがわかっていても金を得るためにそうしたのである、たから弁護士自体が利のみで動いているともなる
それがこの世だと言えばそうなる

とにかく権利を主張するのはいい、でもそこには責任が課せられている、でもその責任は無視するのである、それで後で痛い目にあうことになる
それは戦争でもいい、国民がみんな賛成して戦争するのもいい、でもその責任は国民に課せられる、実際に三百万人が死に地獄の苦しみを受けて死んだからだ
戦争するならただ勝つだけを言う、でも負けたら悲惨な結果になる、その責任は甚大なものになった、それで天皇まで責任をとれとなった、広島に行ったらそのことを追及されたのである
地位が高いということはまた責任も重大になる、東電でも事故になったらその責任を追及されたからである、でも実際は原発事故では責任を誰もとっていないのである

「安全神話」を作り安全だというのはいい、でもその責任をとれるのか?
責任問題がここにもあった、人間は必ず責任を課せられている、責任から逃れられないのが人間なのである、それで赤ん坊が泣いて生まれてくるのはその生れたことで責任が課せられているからだというのもわかる
責任がないような人でも何もしなくても責任が問われる、存在していること自体責任が問われる、原発事故ではそこの住民も責任を問われた
その責任は現実に故郷に住めなくなったことなのである、これは大きな責任を押し付けられたとなる、ただその前に原発を誘致した責任が住民にもあったからだ
それを拒否することもできたが誰一人としてしなかった、ただ利にあればいいとしていたからである

小高の大工さんが小高に原発ができると景気良くなるとしか言わなかった
その人は何か大工の腕が良くても利しか考えない人だった、金になるなら何でもする人だった、それはみんな同じである、そこに大きな責任があることは考えないのである
でも必ず責任をとらされるのである
誰かが責任をとらされる、戦争だと国民が三百万人死ぬことで責任をとらされたのである原発事故では故郷にすめなくなるということで責任をとらされた
その責任は飯館村などは関係なかったがやはりその責任は波及してそうなった
これほど広範囲に放射線の影響があると思わなかったからである

とにかく権利を主張するのはいい、でもその権利には責任が課せられている、権利を得ることによって責任が課せられる、その責任は重いものになる
もしその責任のことを権利を得る時自覚していたら簡単に権利を主張することもないとなる、でもそれが意識できない、権利を得て利権を得て得をすることしか考えないのであるつまり日本では民主主義とは各自が権利を追及してまた組織団体が権利を主張して利権を得ることなのである、そこに責任があるのだがそれを意識しないのである
ただその結果として必ず責任を課せられる、その責任から逃れられないのである
だからもしその責任を自覚するなら権利を主張するのもいいのである
でもそういうことがなくただ権利だけを主張するとあとで重い責任を課せられて責任をとらされる

戦争だ、アメリカをうちのめせ、その時誰も三百万人が死ぬことをイメージした人は一人もいなかった、原発事故でも故郷に住めなくなるということをイメージした人は一人もいなかった、でも必ず権利を主張しても責任を誰かがとらされる
東電の幹部は責任をとっていないが住民はと故郷に住めなくなる責任をとらされたのである、何かここに民主主義がただ権利を主張するものであり責任と表裏一体なことを意識していないのである
高い地位につくことはそれだけ大きな責任が課せられる、だからその責任をとれないから辞退する人もいるだろう、そんな重い責任を引き受けることができないともなる

権利を主張するのはいい、でも責任から逃れられない

権利と責任は一体なのである、権利だけを得ることはできない、必ず責任が問われる
そして現実に責任を誰かがとらされるのがこの世である
だから何を主張してもいい、また集団で何を主張していもいい、でも責任は確実にとらされる、集団でも個々人でもとらされる、ただ集団はみんなで赤信号渡ればいいとかなり無責任になる、集団は責任を自覚しにくい、みんながしているから正しいとなるからだ
でもその集団でもその中の人間でも確実に責任をとらされる
オウムがそうだった、死刑にされたことでもわかる、その時後悔したが時すでに遅しとなっていたのである

そういうことは他のカルト教団にもある、いづれは責任を問われる、そもそもこの世自体が罪の世でありその罪が暴かれて責任が問われる、罰せられるともなる
最後の審判があるというのもそのためである
ただそれを自覚している人はいないのである、でも確実に責任はとらされる、それが罰せられるともなる、そういうことが原発事故でもあったしこの社会全体が必ず罰せられるとなる、つまり行為がカルマでありその行為についての責任をとらされるのが人間なのである、そのカルマから責任から逃れることができないのである
だから赤ん坊が泣いて生まれるのはそのためだとなる、この世に生まれたこと自体すでに責任を課せられ責任をとらされるからそうなる
何もしなくても存在するだけで責任を課せられとらされるのが人間だとなるからだ
「俺には責任がない」こう言ってもなんらか必ず責任があり責任をとらされるのが人間なのである 

マスコミは報道ということで大きな責任がある、なぜなら政権の行方でも左右することがあるからだ、世論を作るのはマスコミだとしているからだ
それで最近NHKが批判される、その影響が余りにも大きいからである
NHK様の言うことなら正しいとまでなっているからだ、そして報道する権利というのはマスコミにしかなかったからだ、テレビなら六局した放送する権利かなかったからだ
それで権利を得たのだがそこには重い責任が課せられていたのである
つまり国家の運命さえ握っていたともなるからだ、報道によって国家の運命を左右するとなればその責任は余りにも重すぎだのである、それで戦前は朝日新聞は一番戦争をあおったのである、その頃テレビがないから新聞が大きな力をもち国民を戦争にあおったのである 

つまり報道をすることはそれだけの重い責任があったとなる
それだけの影響力があったからそうなった、でもインタ−ネットが生れてそうした六局支配のマスコミとかに反抗できるyoutubeが現れたとなる
それは個人でも放送局になっているからだ、プログだってほとんど無料でできる
写真をも出せるから意外とこんなメデアでも表現できる幅が大きいということに感心したのである、ただ読む人が少ないからその影響力はわずかだとなる
でも有名な人だとそれなりに影響力を持つようになったのである

ただすでに何でもいい発言することには今度は責任が課せられる、誹謗中傷するのもいいネットではしやすい、でも今度はネットの発言でもセキニンか課せられる
その発言でも責任をもち責任がとらされる時代になる
何であれ責任から逃れられないのが人間なのである

2020年12月15日

家は単なる建物ではない先祖の死者が生き続ける場 (天皇は家から発した、国家とは天皇家のことだったから)


家は単なる建物ではない先祖の死者が生き続ける場

(天皇は家から発した、国家とは天皇家のことだったから)

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野馬追いに出た御家と只野氏と天皇の菊の紋がある、これはまさに歴史の象徴としての旗なのである

家をローンで買ったり家を新しく作ることは金がかかりすぎる
もう家に不動産にも価値がないという見方もある
それは空家とか少子高齢化で家そのものが価値がなくなったからだとしている
つまり家でも消費するものであり一時的なものとしての価値がないとしてそう言っているそれは経済的にはそうである、ただ家とかには土地でも経済的価値では計れないものがある

人間はすべてを経済的価値では計れないのである、家もそうである、家は単なる箱ではない、その家で営まれる生活があり家族がいて家がある
家というのは何か家という建物だけではない、そこで家族が暮らした精神的なものも受け継がれる、家は今のように30年くらいで古くなり新しくされるから不用だというのは現代的見方である

家はそれぞれに家の家族の歴史がありそこに何か一時的に消化される、消費されるものと違っている、特に日本では家は単なる建物ではない、家にはそこで人間が長く一緒に暮らした結果として精神的なものが付与されている

そもそも家が拡大したのが一つの国なのである、公(おおやけ)とは大きな家のことだからである、大きな家とは今では公共的な建物である
そこで政治でも行われるし公共的なものに使われる共有の建物となるからである
天皇とはそうした公(おおやけ)の象徴なのである

悠紀殿と主基殿の天皇の座のすぐ近くに「寝座」があるため、「新天皇が神と寝ることにより神格を得る」など、いろいろな説が流れされてきた。

折口がこの見立てに不可欠な要素として持ち出したのが、「天皇霊」という概念だ。折口によれば、〈天子様の御身体は、魂の容れ物〉であり、天皇はその魂(「天皇霊」)を受け入れることで完全な天皇として「復活」する。すなわち折口は、天皇の権威をほかならぬ「万世一系」の「血筋」ではなく、「肉体を入れ替えて復活をとげる霊魂」という超越的存在の継承によって説明しようとしたのだ。

大嘗祭ではそうして家の中で天皇を継承する儀式が行われる、それは秘密にされている
そこには他所からせ計り知れないものがあり代々天皇を継承する儀式なのである
それは家を受け継ぐことでありその家が拡大したものがもともと国だったからである
だから選挙で大統領を選ぶとかにはなりえない、家を受け継ぐものは長男であり血縁である、それは江戸時代までつづいたのである
御家と御家中とか江戸時代に言っていたのも家が公(おおやけ)になっていてそうなっていた、家を継ぐものは血縁であり長男に定められていたのである

家を拡大したものが国家でもあったのだ、ヨ−ロッパでもハウスブルク家などが大きな国を支配したとなるのもそうである
王の座はそうした王家が代々受け継いできたとなるからである
王は多数決とかでは決められない、王の権威は代々受け継がれてきたことにある
日本では天皇になるのである

とにかく自分の家族でも全部死んだ、残ったのは自分一人である、それで遅かったが家を自分は受け継いだとなる
その座を受け継いだとなる、それで母親の座った場所に自分が座っていると不思議である母親の座がありその座に自分が座った時、母がそこにあり自分がそこに座り母を受け継ぐとなったのである、父親はすでに中学の時死んだから遠い祖(おや)になっていた
だから私の場合は家族という時、姉と母になるのである
60年から70年も一緒にいたからである

不思議なのは家は嫁である、女と家が一体化したのが嫁なのである
それは家を一緒にともにする、家と一体化するのが嫁となるのである
確かに嫁いで60年とかなれば自ずとそうなるのである
母親が死んで4年とかになるが何かその母がいた座に母がいる
自分が座った時、その母の生を受け継ぐという感覚になっていたのである
ただ複雑な家族だから一概には言えないが今になると母はこの家の嫁となった
女と家が一体化した存在となり死んでもその座にいるという感覚になる
そして家は自分に受け継がれたともなる

私の家の歴史は父から始まる、双葉の新山で酒屋に丁稚として勤めていた
それで暖簾分けしてこの町にきた、この土地はその時買ったものである
それから駄菓子屋から店をはじめた、それで繁盛したとなる
子供時代の思い出としては近くの井戸から風呂の水をバケツで運んだことがあり
それは家族総出の仕事だった、その時水道がなかったからである
その時の家はトタン屋根のヤハな家であり必ず雨漏りする家であり洗面器でその雨漏りをためていたのである

それから台風でその家は水没した、屋根まで水が来たのである、それで近くの旅館に逃げた、その時もう家は使えないほどになった、でもなんとかそれでも使えるようにした
そういうことがあり私の家では逃げるための二階を建てることが悲願になったのである
それで姉と母がこの二階の家を建てたのである、それは大きなものだったら回りで驚いたのである、うらやましがられたのである、その頃まだそうして家を建てることが簡単にできない時代だったからである
でもその後も水害にあった、床上浸水したのである、ここは街で一番低い場所であり
上から道が川のように流れてきたのである
今でも去年の大雨で水があふれて水が家に入ってきて水浸しになったのである
幸い床下で助かったのである
とにかくそれだけここが土地が低い場所だからそうなるのである

自分の家にはそういう歴史がある、それぞれの家には必ずこうした歴史がある
それが何代もつづく家だと家の歴史がある
そういう歴史があるとき家は単なる箱ではない、そこで暮らしたストリーがあり歴史がある
その歴史を受け継ぐことになる、そういう歴史があるとき家は単なる箱ではない、建物ではない、その家を通じて営まれた家族がいて歴史がある
それを受け継ぐのがその子供たちだとなる
ただその歴史もその子供たちでも受け継がない、空家化するとか他人が入ってくるとそうした歴史は受け継がれない、他人にとってはそこで暮らしたともないのだから関係ないとなるからだ
ただ他人でも嫁はその家と一体化するから受け継ぐとなる

家にはそれぞれ歴史があり単に一時的なものとして消費するものとは違うのである
都会だとまず家は一時的に消費するものとなりやすい、アパートでも転々とするとか
移動するからである、でも一旦土地を買ってそこに家を建てて住めばやはりそこは単なる箱ともならない、やはり思い出が詰まった家であり単なる箱ではないのである
だから家が失われると思い出でも失われることになる
ただその家はその家族にとっての家であり他人には関係ないとなる

ともかく津浪とか原発事故とかでは家が失われたりまた家があっても子供たちが移住して老人だけか取り残されるとかになった
老人は家に思い出があり愛着がある、それで家を離れたくないのである
だから単に家は消費するものであり一時的に建物の箱として利用しているのとは違うのである
確かに経済的には価値がなくなるとしても精神的価値はあるしそれはそもそも金に変えられないのである、すべてを金に換算することはできない
土地の価値でも一部を切り取って家を建てる土地がある
でもその土地に生きるというときその景観とか大きな自然の中で価値が生まれる
ただ経済的な価値、金にならないものは価値として認められないのである
でもそこに実際は人間として替えがたい価値があるともなる
そういう金では計れない価値が現代では無視されるのである
そこに人間として空虚なものとなり充実した生の営みが消失するのである 

住宅は所有するものではなく、「消費して、使い捨てするものだ」という感覚が当たり前になっていく

物だったらそうなる、でもこの人は(鈴木傾城)は右翼である、そしたら伝統的なものを大事にする、家にこだわることは確かに保守的な思考ではある
だから家のために一生を費やされるというのも馬鹿げていることもわかる
でもそれは単に寝起きするとか食事するとかとしての場ではなく家で営まれる生活がありそれが思い出となり家の価値が生れて来る、つまり家は人が住むことによって精神的価値が付与されるのである
だから家を受け継ぐというとき建物だけではない、何か精神的なものを受け継ぐのであるそれが自分自身が遅くなりすぎたにしろ家族が全部死んで感じたのである
家には先祖が親が生き続ける場所なのである、次の代に受け継がれ生き続けるのである
それが象徴的なのは天皇霊を受け継ぐとかに儀式化されたのである
国家とは国の家なのである、家から発したものが国家となったのが日本の国家の由来なのである、それを否定するにしろそうして国家が受けづがれてきたことを知るべきである

(人間と空間)オットーリードッヒ,ポルノウ

この本は家について深く考察している、人間の思考は家があって家から思考している
一見天皇とかなると家と関係ないようでも深く家と関係して生まれていたのである

(人間はそこで自分が空間のなかに根を下ろし、空間の中のすべての関係がそこへと関連づけらている、そのような中心を必要とするのである

体験されている空間もまた今日なお一つの中心に関連付けられて、一つの中心から構築されているそれこそ人間が住んでいる家屋である
人間の家屋は人間の世界の具体的中心になるのである

天皇が生まれた経過はこの家なのである、日本の中心となった家なのである
それは日本では江戸時代でも継続されていた、侍でも長男が家を受け継いでいた 
そういう家中心の社会がありそれは明治になっても受け継がれた
不思議なのは一家の墓が生まれたのは明治以降なのである
それまでは個人墓であり夫婦墓でもあった、一家の墓がないのである
だから強制的に一家の墓が政府の政策として強制されたともなる
それは国をまとめるものとして家を中心にして基礎にしたということである
そして天皇家が日本の家であり公(おおやけ)であり国家だとなったのである
天皇とは何なのか?家から思考するとわかりやすいのである

いづれにしろ戦後は家の重みは失った、核家族とかなりこれまでの家の感覚はなくなっただから家は一時的に消費するものだというのは戦後にそうなった感覚である
そこに家は一代で終わるということになった
そして膨大な空家が生まれたのである、これからも生れる、近くでも本当に大きな家で一人暮らしの人が多いのである、私自身もそうだがそんな大きな家に一人でいるのはもったいないとみるのである、これからも800万軒とか空家が生まれ壊されるともなる
それより原発避難区域になったところは空家だらけになり町や村自体が消失しかねないのである、それは全国でも限界集落があり村や町や市まで消滅してゆくというからその変化が大きいのである
そこで失われるものは家という建物だけではない、何か精神的なものも失われる
天皇家すらもう維持できないということにも現れている
天皇家すら維持できないということは庶民の家も維持できないのが普通だとなる
そこで失われるものも大きなものがある
歴史とは代々受け継がれるものでありそういうものが箱としての家ではない、精神的なものが失われることになるからだ

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

まさにこれなのである、これは地元の木材で作った家であり外材を使う前はみんな地元の木材で作っていたのである、それで私の家も橲原の木で柱を作ったとして自慢していたのである,グロ−バル化でそういうこともなくなったというとき故郷とかに対する意識も薄れたのである、経済的に地元より外国であれ外部と関係している時は自ずとそうなる
今は家はハウス会社が外からきて一二週間でプラモデルのように組み立てるだけである
地元の人がかかわることもないのである
だから一時的に家を建て消費するという感覚になるのである
                

2020年12月11日

引きこもり、ニート、アウトサイダー (文明社会の脱落者なのか?)


引きこもり、ニート、アウトサイダー

(文明社会の脱落者なのか?)

<レールから外れたうちの子が悪いのだけど、今の世の中、一度脱線してしまったら、もう修復は無理。私みたいな弱い人間がいたら、家族の人生まで狂ってしまう。壊れた母親は、これから、どうして生きていけばいいのだろう>


今の世の中、一度脱線してしまったら、もう修復は無理


人生は二度ない、若い時は感じない、人生はとてつも長く感じる、時間感覚が老人とまるで違う、老人になると人生はあっという間に終わる、たったこれだけかとなるのに驚く
これは老人になってみないとわからないのである
だから本当に20代で人生は決まるとなる、そこでレールをはずれたものは一生レールからはずれるのである

また逆にレールに乗ったとしてもそのレールに乗って終着駅まで運ばれることになる
一生社畜だとか言って会社人間となり終わる
どっちにしろ20代でその進路が方向が決まる
だから赤軍のメンバーは日本航空をハイジャックして北朝鮮に行ったがそのまま日本に帰ることなく北朝鮮で子供は成人していたのである
その時決断した結果として一生の方向が決まってしまったのである
それを後悔しても元に戻ることはできなくなっていたのである

カルト教団などでもオウムとかでもそうだし他のカルト教団でも創価でも・・・いろいろあるが同じなのである、そこに入ったものは一生呪縛されたものとして終わる
脱出しないと一生そこに囚われたままになる
だから20代で進路が方向が決まるから怖いのである
そして失敗したとしても方向が間違ったとしても引き返すことができないのである
それが赤軍が北朝鮮に日本航空をハイジャックしてそのまま日本に帰れなくななったことに現れている

ニートとか引きこもりは正規のルートを脱線した結果そうなった
その数が60万とかなんとか多いのはなぜなのか?
それだけ親とかに経済的余裕があり寄生できているということになる
だから経済的豊かさがもたらした現代的現象だともなる
貧乏だったらなんらか働かなければ食べていけいないからである
それで団塊の世代ではニートとか引きこもりはほとんどいなかった
ただいたとしても気づかないし問題にもならなかった
みんな企業戦士となり高度成長時代を築いたのである
だからその時、引きこもりとかニートがいたとしても例外的存在であり誰も注意もしなかったしそんな人がいるのかともなっていたのである

アウトサイダーというときそれは天才的な芸術家などで社会から脱線してもかえって凡人とは違って優れた人だったのである
ただそういう人は狂気となった人が多い、ニーチェとかヘルダーリンでも社会から離脱して狂気化した、ゴッホとかでもそうである
でも今のニートとか引きこもりはそうしたあまりに優れていたからそうなったのとは違うでも何か似ているのである、そういう人と私は逢う、同類なのか何かふてぶてしい
でも社会からはずれた人間として異常だともみる
ただその数がこれだけ多いということはそれが普通になり何らか対策しなければならないとなったのである、少なければほうっておかれだけだからである
数が多くなるとそれが社会的現象となり社会で問題視する
カルト教団も実際は異常集団なのだけど数が多いということで認められるのと同じであるその異常集団がナチスとかファシズムとなってゆくけど数が多いということで容認されるのである

ただ20代とかで脱線したら一生脱線した道を行くことになる
特に日本は集団組織の中で生きるから集団組織から離れた人間は見放す、落伍者ともされるのである
私自身が30年間引きこもったのも20代から正規のレールからはずれたからである
その後はそのままはずれた道を行くことになったのである
ただ自分の場合は家族に恵まれたから何か働けとも言わないし旅とが費やしたり自由に勉強したりしていたのである
だから自分の場合は特殊だったとなる、ただ介護になったとき本当に死ぬような苦しみを味わった、それを延々とプログに書いた
現実に引きこもりとかニートとか社会性がないから介護とかなると苦しむ
また頼りになる人もいないから一身に親の介護になり苦しむのである
それで事件になることが多くなる、それは金の問題だけではない、介護でも協力してもらえる人がいないということで苦しむ
そして親子で共倒れになる、私自身もそういう一歩手前までなっていたからである

ただ人間というのは長く生きていると時代が変わる、それが本当に解せないとなる
小野田少尉がジャングルで戦後も戦争状態にあったが日本に帰ってきたらまるで違った時代になっていた、あれほど日本国民が一眼になって戦争していたのに全く違った世界になっていたことに驚き戸惑うことになる
そういうことが戦後70年で起きている、終身雇用の会社人間の時代は終わったとかAIで人間のやることはなくなる、みんなアーチストになれというのもそうである
ベーシックインカムでやりたいことをやれとかいうのは本当に団塊の企業戦士とうし生きた人たちには理解できないとなるのだ
自分自身はそうしていたからそれに違和感を感じないのである 

いづれにしろ人間社会をみるとき人間が労力を費やしたものに価値が本当にあるのか?
それを一番感じるのは東京とか大都会を見た時である
そこに何の価値があるのか、美があるのか、ここが人間の住む場所なのかという疑問になる、そんな世界で人間が生きるのかとなると絶望になる
そこで人間はもう人間ではない、経済的単位であり数として数えられるだけでありただ消耗されていくだけだとなる
何かそうこに人間の作った荘厳なものでもあればいいがそういうものもない
巨大な高層ビルを見上げている蟻のようになっているだけである 

そもそも一千万の人間が密集して住んでいること自体生物としてありえないことである
そういう大都市があること自体が回りに影響する、東電が福島に原発を作ったのもそれだけの人口に供給する電力が必要だったから危険でも福島に作ったとういことがある
もちろん経済的効果があったとしてももうそこは人間の住む場所ではない
密集していることはコロナウィルスでも伝染しやすいとなり、東京から人が出るのを抑えられない、東京の影響が周りに波及して来る
福島県はそういう位置にもあったとなり原発事故になったのである
つまり茨城県だと東京に近すぎる、福島県だと遠からず近からずになり地理的なものから原発が作られたのである、そこに恩恵があっても災いももたらした原因があった

結局極論になるが人間はいくら働いても理想の国とか天国とか絶対に生まれない、作れないのである、人間の労働はむしろ自然破壊にもなり原発事故にもなったりいい結果をもたらすとは限らない、そこに人間の限界がある
つまり天国は人間の労働の結果としてもたらすことできない、天国は労せずして神から与えられるのである、ギフトなのである、恩寵なのである
なぜなら人間の成す業(わざ)には災い(わざわい)となるものがあり呪われているものがあり原発事故のようにもなるからである

2020年12月05日

人間の価値は歴史的価値となり消えない (死んでから人間の本当の価値がわかる)


人間の価値は歴史的価値となり消えない

(死んでから人間の本当の価値がわかる)


人間は死ぬと何も残らず消えてしまうのか?
人間が死ぬと十年くらいすぎると家族だと何か死者はどうなってゆくのか?
それで弔う(とむらう)とは問い明らかにすることだというのもわかる
死者のことを問い明らかにする

それは死んで十年くらい過ぎると人の心は死者をいたむことから冷静になりその人自身が何であったのか問うことになる、それが弔うになる
その時真にその人の価値を人間の価値を問うことになる

価値と言っても人間にはいろいろな価値があり多様である
家族で生きるとその家族の中でどういう役割を果たしたのかという価値を問う
ぐうたらで迷惑ばかりかけていたような人は死んでも血がつながっていても弔うこともできない、ただ苦しめられ迷惑ばかりかけていた親だったら弔うことすらできない
何ら価値を認めることができないのである

ただ人間の価値というときそれが様々でありだから他者からみてその価値がわからないのである、家族でどういう役割を果たしたのかとなるとそれも他のものはわかりにくいからだ、家族でも一様ではないからわかりにくいからである
人間の価値はそれだけ多様なのである
この人間は生きる価値がないとか生きた価値がないとか社会で言ったとしても家族では価値ある存在の人も普通にいるからだ

歴史的価値というとなるとそれは一家族の問題ではない、日本国家から日本の歴史から世界史での価値とまでなる
それで戦争のことをその価値を弔う(とむらう)問うことがむずかしくなる
それで自分の家族の一人が従軍看護婦だったということでその歴史的価値を問うことになる
今でも墓に二等兵だとか一等兵だとか日本軍の位を墓に刻んでいるのが普通にある
でもそれを見て日本軍の位がどれだけの価値が今認めているのか?
この人は日本軍の位で高いから価値があったと認めているだろうか?
今になると何か自分自身でもそんな位が意味あるのだろうかとなるし注意している人すらわずかだと思う、つまり価値を認めなくなったのである

ただ私の姉が従軍看護婦看護婦としてマレーシアのジョホールバルで四年間苦しみ働いてことを聞かされた、そのことが戦争に負けたからといって全く価値がないとはならない
それを感じたのは今コロナウィルスで医療崩壊するとか危険だから募集しているけどやりたくないとかなる
それを見ていて国家のために命をかけて働いた看護婦がかつていたということをふりかえる
それが価値ないこととはならない、今はただ金のために働くだけであり医者は危険をさけているしそうできるが看護師はできないという、つまり看護師の方が直接危険にさらされている、いくら50万もらっても割に合わないとなるかだ

つまり人間の価値はどうして生まれるのか?

その時々や時代によっても違ってくる、また歴史的価値となるものは百年後でも二百年後でも見直され注目されることもある、でも全く捨て去れる価値もあり人間もある
ただ長く歴史の中で生き続ける価値がありそれが本当の価値だとなる
それは死後もさらに歴史の中でその価値は衰えることなく生き続ける
その時その人は死んでも生き続けるとなる、つまり死ですべては終わらないのである
ただそれだけの価値を持ち続ける生き続けるとなると相当な功績がないとありえないとなる

今日ドラマで特攻隊のことをやっていた、その特攻隊員は出撃する前に5日間くらい恋人とあい別れた、でもそれが最後の別れではなかった、途中徳之島とに不時着して生き延びていたのである、でもその後は戸籍からも存在を消して亡霊のように生きていた
そして40年後くらいなのか恋人とあった、でもその人に何か価値があったのか?
その人は特攻隊として死んだ時価値が生まれていたのである
その後の人生は別であり身を隠して生きていてもそこに価値は生まれなかったのである
それは新たに別な価値を作りだして生きることになったからである
40年となれば長い、だから昔の恋人とかはもう価値を共有できない
その人が特攻隊として死んだ時、国家的価値として残されるともなった
ただそれを無価値だともされるがその人の価値は時代を生きることは特攻隊になり死ぬことだったのである

人間は死ぬと最初はただ悲しいとかなる、でもだんだん時間が過ぎるとその人を弔う、
その人を問うということで弔(とむら)うになる、その人の価値を問うということになるその人の一生の人生を問い弔うとなる
本当に価値ある生を送った人は死んでも生き続ける、不朽のように生きつづける
その時、その人は死なないともなる
ただそれは今を見てはわからない、今は価値のない人でも作品でも価値あるとされる
でもその人は死んでも百年後とかに価値ある人ならその人は歴史の中で生き続ける

歴史の中で不朽の価値を残す者
それは死んでも歴史の中で生き続ける
その価値は衰えることなく
純金のように輝く価値
それは色あせることなく価値を増して輝く

ともかく歴史の中で何が価値あるものなのかというときまだ見出されない価値もある
百年くらいではまだその価値が確定されないとなる
歴史的価値とは百年では短く判定されないのである
それで明治維新でも今にになるとその価値判断が変わったりするのである

2020年11月28日

未来とは何なのか? (今していることが未来を作っている)


未来とは何なのか?

(今していることが未来を作っている)

willには何かをしたい達成したい作りたいとか強い意志を示している
未来への強い願望がある、だから単なる・・・になるとかの意味はない
日本語だと何かあいまいな言葉なのである
英語だったら必ず主語がありI will make my house とかなる
それは主語があって自分の家を作るということである

willは強い意志として家を建てることを目的としてある、そこに主語もありその主語となる人物が家を建てる目的がありその目的に向かって強い意志を働かせるということである日本語だと何か未来というとき未来は何か・・・だろうとなり未来は何もしなくても人間の意志を働かせなくても棚からぼた餅のように与えられる感覚になる

未来とは何かとなれば今していることが未来なのである、家を建てたいと思えば何かしらそのために資金を集めるとか計画して実行しない限り建たないのである
それをもし自作するとしたら土地を買うとかそこに地盤を作るとかしなければならなくなる、その時家が建つという未来が生れてくるのである
ただ何もしなければ未来は生れないのである

本一冊を読むにしてもそれはその時理解できなくても理解しようとしたその人の意志があり読書もできる、その意志がなければ本でも読まないからである
何か音楽でも楽器を覚えたいとしたらすでに楽器を買い楽器を練習しているだろう
何もしなかったら一つの楽器でも覚えることは不可能である
そこに未来はないとなる、だから今なにをしているのかが未来なのである

奇妙だけど引きこもりでも未来がある、何もしていないようでもその人の好きなことをしていればそれが未来に通じているのである
芸術とかを追及しているとかでもそうである、それは認められないにしろ引きこもりその人が今していることが未来なのである
未来とは今何をしているかなのである
未来があるとか未来がないという時、すでにその人が何かをしていて芸術でも何か萌芽があれば未来があるとなる
現実に私自身は俳句とか短歌を二十代からはじめたとしてもただ五七五とか言葉でも並べていただけなのである、でもそれをつづけいたら未来がありえたのである
今になるとそれなりのものを創作できるようになっているからだ

未来は何か何もしなくてもただ幸運のようにやってこない、今何をしているのかが未来なのである、未来とは今のことなのである
例えば今作られているものはすべて最初からあったわけではない、鉄道にしても道にしても作られたものなのである、建築物でもそうである
それを作ろうとした人がいてできたものでありそれが形となったのである

だから今を無視して未来はありえないのである、時間にしても今があるが過去とか未来の時間はないともなる、それが時間の不思議である
死ぬということは今の時間がなくなることなのである、何かをするということもできなくなるからである

要するに今という時間にしてきたことが積み重ねが知識でも技術でもなんでもその人を作るということである、ある人が楽器をうまくひけるな、絵をうまく描けるなとかいい文章を書くなとかでもそれは一朝一夕にはできない、相当な訓練と積み重ねが必要になる
この人はピアノがうまいなというときそこまでうまく弾けるのはそれだけの積み重ねがあったということである
今の積み重ねによって上達したとなる

例えばこの辺の津浪とか原発事故の復興でももう被害にあった人は十年過ぎても何もしない、ただ他の人が復興してくれるとかの意識になっている
あとは補償金をもっとよこせという運動することであるとかなる
個々に何か復興するということをしていない、土地があってもそこで畑を作り実りをもたらそうとすることもない、ただ荒地になっているだけである
そこに人間の意志(will)が働かないからである、だから未来がないともなる
未来が生まれないのである、未来とは人間の意志が作るものであり誰かが作ってくれるものでもないからである

この辺には未来がない

こういうときその人たちは今何もしない、何かわずかでも努力する試みもしない
もちろんその試みをしている人たちもいる、それは外から来た人たちでもある
そこに未来が生まれるとなる、花栽培しようとかなればそこに未来が生まれているのである
未来は棚からぼた餅のようにやってこない、未来を開くというときもそうである
拓くために力をそそがねばならない、道一つにしてもそれが何もしないでは生まれないのである

だから今何をしいるのか?毎日テレビばかりとか何か無駄なことに時間を費やしていると未来はないとなる、何か勉強するわけでもない、ただ馬鹿騒ぎを見ているだけだともなるからだ、やはり本を読んだ方がいいとなるのである
そして遂にその何かをする今の時間が消失するのが老人なのである
老人は何もできなくなる、ただ今までしたことを時間を費やしたことを表現するとなるだけである
その表現するにしてもただ無駄な時間を過ごしていたら表現することすらないとなる
今の時間に経験をしなかったら将来も老人になっても何も語るものもないとなってしまう時間はたちまち飛んでゆくからである、そして人生に何も残さず死んでゆくともなる

とにかく未来とは漠然としてどこからかやってくるわけでもない、今それぞれか何をしているかが未来なのである、だからこそwillは意志なのである
何かを達成しようとする作る意志なのである、その意志があって未来がありうる

結局時間は限られている、その限られている時間を必ず無駄にしているのが人間なのである、そのことを後悔するのは老人になって痛切にわかる
残された時間がわずかになり後は死ぬだけだとなるからだ、もう何かをする時間はなくなるのである、ただその人がしてきた結果があるだけである
老人に未来がないとはそのことなのである、子供や青年に未来があるというとき何かを今にする時間が豊富にあるということなのである
でもその時間が消失しやすいのである、そして時間は戻ってこない、人生の時間はたちまち切れてしまい死ぬだけだとなってしまうのである

また未来というのは方向でもある、右に行く道があり左に行く道がある
右と左では違った風景が開ける、でもそこで選択しなければならない
それは若い時に起きる、ある会社にとどまるかとどまらないかとか決めるのもそうであるもしその会社にとどまっていればそのまま悪い方向に行くかもしれない
ただ決断して別な道を行けば未来が開けるということもある
それは時間がたってみないと人生をふりかえってみないとわからない
あの時あんな会社やめて良かったとかふりかえるのである

例えば日本航空をハイジャックして北朝鮮に渡った赤軍とかの若者たちはそれからそこで暮らして二十代の子どもいる、
(よど号ハイジャック事件)そして何か北朝鮮のスパイのようなことをしていたのである、それで日本に帰りたいとなったのである、でもそこで方向が間違っても引き返すことができなかったのである、それが人生の怖さだとなる
間違ったからと何回も引き返すこともできないからだ
その人生は北朝鮮に向かった時決定していたのである
若い時に未来を決定したのである、若い時にはこうしてその人の方向が決まるから怖いのである、間違った道を行けばそのまま間違った道を行きもどれなくなるのである
若い時に未来は決定されたともなるのである



2020年11月27日

人は経験からしか学べない (聖書でもいくら読んでもわからない-農業もわからない・・・)


人は経験からしか学べない

(聖書でもいくら読んでもわからない-農業もわからない・・・)

経験が人間を作るのであって知識とかではない、いくら知識があっても経験しないとわからない、それで失敗したのは海外旅行だった
50歳から海外旅行したので遅かった、それまで外国についての本は読んでいた
でも外国を知るには外国に実際に行ってみることである
百聞は一見にしかず...なのである
例えば日本に来た人が富士山はきれいだよと伝える時いくら伝えられてもわからないのである、写真を見てもわからない、百聞は一見にしかず・・になってしまうのである
だからこれほど海外旅行が盛んになった理由もわかる
いくらテレビで放送されても実感できないからである

経験しないとわからないことがこの世にいくらでもある、結婚していない人にとって結婚とは何かもわからない、子育てしない人でもそうである
そこに経験がないから理解できないのである
職業が違うとその職業が経験しないからわからないのである
医者の人を理解するにしても医者としての経験もないのだから理解しようがないのである患者としてみてもらうだけであり医者の人の気持ちとかその職業がどういうものか理解できないのである
農業でもそうである、農業がどれだけ大変な仕事なのかその仕事をしてみなければわからないのである、ただ農業をしていた人に経験した人に直接聞いたのでその苦労がある程度はわかった、でもこれも実際に農業してみて農業とはどういうものか知る   

こういうことは経験かしか詩にもできない、そこには語り尽くせない何かがある
それは経験者しかしらないものがあるからだ
スーパーでただジャガイモを買っていてはそれを生産する人のことなどわからない
だから食料が貴重なものだということもわからない
ただ安いか高いかうまいかうまくないかとかしか見ないからである
つまりそれを作っている人の気持ちは農業だけではない、何でもそうだとなる

それで山尾三省が東京暮らしから屋久島で極貧で農業をした、その経験を詩にしたりしたそこに農業をしている人は普通にいてもその経験が新鮮なものだったのである
何か畑に実りがある、そのことに深く感激して土地と自然と一体化する喜びを詩にした
まさにそれは経験して理解したのである
本当に自然と一体化するアイディンティティ化するには農業を実地にしてみないとわからないといことである、その時人間は自然と深くコミットして自然を理解するのである
その理解は経験から生まれたのであり経験しない限りわからないのである
つまり本当に大地とは何か自然とは何かを体で知ったとなる
ただ実際は相当な過酷なものであり妻は60前に死に本人も62才くらいで死んでいる
パンは贅沢だとなると普通の生活ではないからだ

じゃがいもを掘る
そのじゃがいもは
わたくしの最終の 悲しみと憤りであり
最終の共感と連帯である
祈りである
はだしの足を 土の中に突っ込んで
びろう葉帽子の下で一鍬一鍬 じゃがいもを掘る


経験という時奇妙なのは私がした無人駅のボランティアだった、たまたま無人駅となり人にわからないことを聞かれたから教えていたのである
それで駅長とかJRの人とかかわったのである
そしてわかったことは駅長とかは駅のことを知らない、現場を知らないということであった、そこにいつもいないからわからない
駅でわかったことは上りと下りのことが意外とわからないのである
だからそのことを良く聞かれた、それで跨線橋にその行く先を記すものを示した方がいいとJRの人に駅長に言ったらそういう表示をするものを作ってくれたのである

それが同じように線路をまたいで向かい側の待合室にも上りと下りの表示をしてくれたのである
都会だと必ずそれは何々行きとして表示してあるが田舎駅ではない場合があるのだ
それは久ノ浜で自分自身が下りて上りと下りがわからなくなった
表示するものがなかったからである、つまり意外と上りと下りがわからないのである
それで不安になる、久ノ浜では今でも誰も言わないので表示されていないのである

この現場とその現場にかかわらないことは東電のような巨体企業でも起きている
現場の電気関係者が千人とか働いていていろいろ現場のことを知っていたのである
技術者もいて配管が老朽化して危ないとか指摘して原発は危険だと警告していた
でも現場の人から言わせると何かを上の人に言えなかったという
なぜなら仕事をもらえなくなるからだと言っていた、決めるのは上の人であり現場の人ではないからである
こういうことは他にある、社長だからといって何でも知っているわけではない、かえって現場のことはわからない、駅長だから駅のことをすべて知っているわけではなかったのである、つまり社長でもすべてを経験できないからそうなっているのである

人間を作るのは経験である、例えば聖書でも隅から隅まで読んでもわからない、神学部に入ってもわからない、そして聖書は学問ではない、何か現実に起こったことを神の事績として記した書なのである、つまり経験されたことを記したのである
だから奇跡が多いという時それが現実に起きたことだからである
まず奇跡がなかったら聖書も成り立たない、つまり神が人間のことに関与して奇跡を起こした物語が聖書なのである、そして聖霊がくだらない限り理解不可能である
そのことによって全能の神がいることを理解するからである

こういうことは別に聖書だけではない、優れた作家とか何か指導者とかでもそうである
何か実地に経験したことから書いているから訴えるものがある
第一悲しむとしても本当に血の涙を流すような経験しないと悲しむということがどういうことかわからない
本当はキリストを理解するとしたら十字架で血の涙を流すほかないという厳しさが要求されるともなる
何か人生でも最も重要なことは経験しなければわからない
なぜ戦争のことがわからないものとなったのか?
それは戦争を経験していないからだとなる、戦争という異常なことはいくら聞いても理解できないのである、人を殺したり殺されたりすることが日常になる世界は理解できないのである

ただ正直人間の経験は極わずかである、職業にしても無数にあるとき経験しているのは極わずかである、すると相手のことが理解できないとなる
自分の場合は引きこもりのようになっていたから社会的経験がなく親の介護で塗炭の苦しみにあった、それは今のニートとか引きこもりが親が死んだ時自分と同じようになる
本当に誰も助けない、そて親子共倒れになる地獄になる
それはすでに予想されるものだったのである
ただこれも奇妙なのは引きこもり一つの経験だったということである
なぜなら社会から隔離して人と会わないという生活はまさに隠者の生活であり
禅僧のように寺に引きこもるとにていたのである
それは精神的修養であった、だから何であれ人間は経験なのである
引きこもりだってプラスに働くものがあるから人生のことは何がいいとか決められないのである

ただ結局人間は何かを理解するには経験しない限り理解できない
津浪でもこれも経験しないかぎりわからないものだった、それを経験した時その恐ろしさを知った、原発でも事故など起きないと安全神話を信じていた
それももろくも打ち砕かれて経験から知ったが時遅しとなっていたのである

つまり結局人間は経験からしか学べない、その経験を伝えるものが歴史なのだが津波に関しては何も伝えられなかった、相馬地域では700人溺死としか記されていなかった
その詳細は全く不明である、つまり誰もその経験した人が語り伝えられなかったのである歴史は簡単に言えば経験を人に語り伝えることなのである
何かしら人生で人は経験する、それを語り伝えることなのである
語り伝えるだけでは歴史は消失するから文書で残すということなったのである
津浪に関してその文書すら二行しか残されなかったのである
そうした経験が語られ伝えられていればこなん大被害にはならなかったのである
だからこの辺で起きた原発事故でも語り伝えなければそんなことなかったとまでなる
そして原発は安全だとまでまたなってしまうのである
やはり十年も過ぎると人間は十年一昔であり忘れやすいのである
何か地元でも関心がなくなるのである、今はコロナウィルス一色だから余計にそうなったのである


2020年11月10日

資本主義社会で商品化されて切り売りされる人間 (全人間を生きるにはアウトサイダーになるほかない)


資本主義社会で商品化されて切り売りされる人間

(全人間を生きるにはアウトサイダーになるほかない)

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材料として人間は商品化され切り売りされる

このサイトは引用もできないのか?人間が派遣されるのではなく、人材が派遣されるという、資本主義社会の冷酷な現実をこの人はいつも書いている
確かに人材というとき材は材木であり木のことなのである、木は一つの生命体であり
森の中で生きている時は全体として森の命として存在していたのである
でも一本の木が切られて材料となるとき森の全体の命から切り離された材料になったのである、商品となったのである
それで森に生活していたソーローはその森の木をただ商品として見ている商人に怒ったのである、ソーローは森の住人であり森全体の中で生きていたからである

資本主義の矛盾を冷酷さはマルクスが人間の商品化を人間疎外として指摘していた
だからめずらしいことではない、人間はみんな商品にされているのが資本主義だとなる
だからそれは社会全般でそうなっている、婚活とかも人間を商品化しているという感覚になる
商品として価値あるものが男女とも選ぶ市場を形成しているからである
それは遊郭の遊女でも商品として並べられて選ばれて金で買われていたのと同じである
一見婚活は現代的合理的なものとして見られるがやはり資本主義的現代社会の一端として現れたものである
そこでなかなかうまく選ぶことができないというのはどうしても男女とも商品化するとき商品価値が高いものを選ぼうとする、すると互いに望みが大きくなり選ぶことがむずかしくなる、そして選ばれる最高の商品はみんなが欲しい商品なのだから簡単に手に入らない競争も激化して手に入らない、でもいつまでも相応の人がいいとはならず高望みして決まらないとなる、つまり人間が商品として陳列させていることなのである
婚活を主催する人は昔なら仲人なのだがその商品をすすめる商売人となっているのだ

何かこのことに興味をもったのは私は森を詩で追求して来た
木の詩も書いてきた、それでその見方が面白いと思ったのである
このサイトではもともとユニークな見方をしていたのである
なぜ現代社会ではこうして人間が商品として能力にしても一部が切り売りされるのか?
それは資本主義社会だからというのでもない、現代文明がたどりついた結果なのである
文明そのものが非人間的なものである

人間が派遣するのではない、人材を派遣する

このことがまさに非人間的なことなのである、人間というとき森のように全体のことであり人材とはその森から切り離された木という材料にすることである
その時森という全体の命から切り離されたものとなり生命としては死んだものともなる
第一森全体を派遣したりできない、森は全体でありそれは一つの命として存在しているからである

また人間を派遣するいうとき、人間とは全体のことである、部分のことではない、なぜなら人間一人は様々な要素があるからだ、家族の一員であれば妻であったり母であったり
家族の中の一人として機能している存在である
その家族という全体から抽出して一部の能力を人材として採用するのが会社なのである
そもそも社会の仕事は人間的なものを切り離してある一部分の能力だけを見て採用する
人間全体を見る人はいない、そんなことしたら会社が成り立たない
ただ高度成長期はそういうことがあった、家族全体の福祉とかを担っていたのである
だから運動会とか社員旅行とか様々なことで家族のようにもなっていたのである
それは会社が高度成長で終身雇用ができてそうなっていたのである
人を雇うとその人の頼みとか聞いているときりなくなるのである
何で困ったとか助けてくれとか病気だから休ませてくれとかな本当に切りなくなる
でも資本主義社会では冷酷である、もう働けないからやめてくれと首にされるだけなのである、そして代わりはいくらでもいる、いないなら外国から連れて安く働かせればいいとなる

とにかく人間は資本主義社会だけではない、社会主義社会でもどんな社会でもこのようなことが起きている、奴隷がいたこともそうである、現代社会はあからさまな奴隷ではないにしろ商品化されて奴隷化されているのである
だから社畜だとか自ら言っていることでもわかる、それがわかっているからそう言っている
では資本主義社会の人間商品化から脱するにはどうすればいいのか?
それは皮肉にも株でもなんでもいい、一億円くらい稼いでこの社会から離脱してアウトサイダーになることだともなる 

なぜ引きこもりとかがこれだけ多くなるかと言えば人間の商品化とか奴隷化が嫌だからともなる、親でも援助してくれれば働かなくてもいいとなるからだ
それは問題あるにしろ商品化とか人材派遣とかそういうことからまねがれない
そうならないためには金があればできるとなるからだ
親に援助されていてもそれができればその方がいいとなる
そうなったのが自分自身だったのである、20代では底辺労働者だったけど30以降は働かず旅ばかりしていたし会社にこきつかわれこともなかった
その間は人材とされることもなく自然とアイディンティティ化する詩を書いてきたとなる森全体を生きようとしてきたのが自分だったとなる

ただこういうことはすでに2000年前から指摘されていたのである
老子とか荘子の思想がそうである      


「樗と呼ばれる大木があって、その太い根元は節くれ立って墨縄の当てようがなく、
小枝はかがまって定規にかからない。
道ばたに立っているのだが、通りかかる大工は振り向きもしない」というのです。

要するに無用の木なのです。

『荘子』では、「そんな木は無用なるが故に、用材として伐採されることがない。だから大木になる


人材にするも人材になりえない、材料になりえない人間を無用の木に例えたのである
無用の木こそ本来の木の命を生きるものであった、木という全体を生きるものだった
でもそれを人間社会から見ると無用になるのである
そうなるためには引きこもりになりアウトサイダーになるのである
そして最もあるものには値段がつけられないしまた無料なのである
景観は最も素晴らしいものでも金で計れないしそれに直接金を払う人はいない
景観のいい場所のホテルとか旅館とか温泉はその景観によって価値がでる
でもそもそも景観自体は無料なのである、最も価値があるものがこの世では実は無料なのである、富士山が見えるからといって富士山に金を払う必要はないのである

いづれにしろこの世に適合すること自体働くこと自体、人間の人材化であり部品化であるそれはどんなに優秀な人でもそうである、医者にしても人間の体を全部知る人はいない
体の一部分の専門家であり全部のことはわからないのである
これだけ複雑な文明で人間はみんな機械の部品のようになっているのである
だから職業につくこと自体部品化をまねがれない、人間存在の卑小化なのである
働くかないものは生きる価値がないとかされるが全人間的価値を志向すると社会の一員となることは社会の部品化なのである
宗教でも会員一人となるとき認められるが一人だと誰も認めないのである
それで天才的人間はアウトサイダー化したのである

一般的には天才でなくても老後は会社人間を離脱して全人間として生きるべきだともなるいろいろなしがらみを脱して大自然に融合する、それが可能になる
老後も働くというのは問題である、経済的な問題がなければそれが可能になるのである
社会のためにとかボランティアするにしても利益なしでするべきでありただそこに生きがいを見出すのである、ただボランティアには様々な問題があり簡単にはできないのであるだから荘子の無用の木になれとなる、社会の用なきところに自然の大いなる用があるとなるからだ、社会の用とは人材として一部を切り取られた用だからである
全人間としての用は社会には決して与えられない、それだけ複雑でありもう社会というのは怪物であり全体は知ることは不可能だからである

2020年11月02日

権威と権力(明治天皇は偽物?) (権力だけでは治められない、権威になる天皇とかが必要になる)


権威と権力(明治天皇は偽物?)

(権力だけでは治められない、権威になる天皇とかが必要になる)

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人間を治める時、権力だけでは力だけでは治められない、武力でもって従いといっても権力だけでは従わない、権力は必要でも何か権威が必要なのである
それが天皇であったり教祖であったりする、宗教的なものがそこにかかわり治める
そこに神とか仏を権力を得たいものは利用するとなる
神の力が働く仏の力が働く、日本がでは神国となれば神の国なのだから負けないとなる
そういうことは創価でも行われている、選挙は仏法の戦いであり信仰のための戦いになっている、だから常に勝利、勝利としつこく言うのである
つまり負けを認めないのである、神仏に負けはないからである

天皇とは何か、天皇は武力をもっているわけではない、でも天皇の歴史は日本がでは長いそれで皇国史観が生まれた、日本の歴史は天皇の歴史だともなっている
天皇は神輿として利用されたとなる、それで確かに明治維新の時、長州藩で天皇のすりかえがありそこに田布施町がかかわっていた、はすり替えられた天皇だったという説である、明治維新は天皇が極端に持ち上げられたのはどうしても権威が必要だったのである
天皇の効用としては日本がでは権威と権力を分けた支配構造を作ったことで統一して治めることができたとされる、権力だけでぱ力だけでは治められない、そこに宗教とかも利用される
神聖ローマ帝国とかキリスト教もカトリックを通じて権威として利用したという歴史がある、神の国だという思想である、それは日本でもあったのだから共通している

不思議なのは共産主義でもソビエト連邦で書記がまるで神のようにして葬られた
神格化されて葬られた、つまり人間社会を治める時、武力だけでは暴力だけは治められない、必ずすると反発があり暴力で争うことになる
でももしその上に権威があればそれに従うとなる
それで創価だと池田大作になりそのミイラ化して神格化して治めるということをその幹部たちはたくらむ、おそらく何かそうした権威が必要でそうなっている、その人間がどうでもいい、馬鹿な民衆は偽りの権威に従うとなからだ
つまり幹部にしてもそうした方が治めやすい、それで神格化する
おそらく王が神格化されるのせそういうこととして人間の歴史でつづけられてきた
エジプトの王はファラオであり神像ともなっていたからである
神の様な力をもつというときそれは武力とか暴力だけで治められないからそうういものを作りだしたともなる

預言者なら神から認められ本当に力をもったのである、それは政治とか現実の人間社会とは違った権威である、この世でいくら力をもっても本当の力をもっているのは神しかない本当の力は神から授かるのである、でも政治になるとそうしたまがい物でも権威を作りだす、聖なる権威を作り出す、それが天皇にもなる
共産主義でも唯物論でもやはりそうした聖なる権威が必要になり書記が神のようにして葬られたのである、それは中国でも起きている、毛沢東の権威は神のようにもなっていた
そして習近平もそうした権威をもちたいができない、いくら権力があっても従わせることがむずかしいからそうなる

だから天皇は血統が大事でもすりかえても不思議ではない、大村寅次郎がすり替え天皇説はそこから生まれて来る、天皇とは政治的権威であり宗教的権威とも違うのである
権力を維持するためには権威が必要でありそれはその人がどういう人とか関係なく作られることもある、池田大作でもカルト教団では何百万人の人を支配する時、そういう権威が必要になる、それがないと治められない、それでなぜ池田大作を神のようにして持ち上げるのとかなると何百万人を支配して納得させるために権威を幹部など作りあげたとなる
それは共産主義でも同じだったのである
全体主義になると選挙に勝つことが権威となることはない、何か権威が必要でありそれでそうしした権威がまがいものでも持ち上げて神輿とする

図のように権威そのものが権威を作るのではなく、強大な権力が権威作り出す、権力の上に権威が作りだされ
る、それが政治である、権力は民主主義なら一票であり数だから創価では数を集めることが仏法の戦いともなる、政教一致ならなる、とにかく権力を持ち権威を作りだして支配する
天皇の場合はまた違ってい天皇という権威が建国以来作られていて権威があってそれにのっかって権力が作れるいという構図になる、ただ権力があて権威を作れないことは確かである
だから権力の上に権威を作るのは政教一致であり危険なのである

それは人間の歴史をふりかえればそういうことを古今東西でしてきたことがわかる
人間は権威をもちたい、権力を持ちたい、でも権力だけでは権力を維持できない、それで権威が必要になり天皇が作られた、その権威の下には誰でも従わなければならない
でもその権威なるものは権力を持ちたい維持したいものが作り上げて従わせるためだとなる、それですり替え天皇説の大村寅次郎が作られたとなる

いづれにしろ明治維新の時天皇を極端に持ち上げられたのは何か権威になるものが必要だったからである、つまり権威として天皇は継続されていたからである
神からの権威というか仏からの権威というかそういうものを政治的に利用したのである
それでヨ−ロッパでは政教分離が生まれた、政治と宗教は別であり一体化してはならないという法律である、宗教的権威を政治的に利用するを禁止したのである

人間を治める時、権力と暴力だけではできない、何かしらの正当性とか聖なる権威とかが必要になる、それがまた社会を歪める、また選挙で決めるにしても多数が正義でもなんでもない、多数は権力であり数の暴力となって社会をゆがめる
だから今選挙自体が日本だったら50パーセントもないのだから機能していない
選挙でも公正に決められなくなっている、多数の横暴がありそれが正しい選択ともならない、だからアメリカ大統領選挙では選挙で決着がつかない、それでアメリカ全体で3億丁の銃があり武装して戦うとまでなっている
つまりもう選挙では多数決では決められないのである 
つまり何をもって大統領でも王でも支配する者を決めるかという問題がある

王権神授説(おうけんしんじゅせつ、英: divine right of kings, divine right, God's mandate)または神授王権とは、「王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、また王権は人民はもとよりローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた神以外の何人によっても拘束されることがなく、国王のなすことに対しては人民はなんら反抗できない」とする政治思想のことである。

カトリックが力をもったのは政治の権威となったことである、不可分に結びついたのである、でもこのことは人間の歴史の政治の普遍的な問題としてあった
どうして人民を治めるのか?それは武力や暴力だけでは治められない、だから法の支配というのも生れた、法治国家である
ただこうして歴史をふりかえると歴史は繰り返すということである
政治の歴史を見ればそこにどうしても力だけでは治められないから神仏がかかわり権威として治めるためにそうしたとなる
だから創価でもそれは共産主義ともにた全体主義であり池田大作を権威として幹部が祭り上げてその下に支配しようとする、つまり誰かを神のようにして権威をもたせてそうするそこに本来の本当の権威がないにしてもそれが治めるのに都合がいいからそうする
すり替え天皇の大村寅次郎がまさにそれだったとなる

結局人間の権威は人間が作りだしてもそこには本当の権威はない、ただ神から与えられた人が権威をもつのである、でもその人は政治的権威とはなりえない、それは政治的権威とは別物だからである、政治的権力と権威はこの世の権威なのである
絶対的権威は神にしかない、つまりこの世の権威とする者は偽りであり偽預言者である
それは常に現れている
とにかくこの世の権威とは政治の権威でありこれは世俗的権威であり神の権威ではない
この世では世俗的権威であり神聖なものになりえない
ただそれを利用する、それは方便だともなる
天皇もそういう権威でありだから偽物の天皇の大村寅次郎が田布施町に作られたともなる要するにこの世を治めるのは永遠に神ではない、神が治める場所は天国しかないのであるそこでは神に治められるから永遠の繁栄と平和がありうるのである
この世の権威となっているものはみんな偽物なのである
だからいづれ化けの皮がはがれる、何百万人が崇拝するのは実はサタンでもあったのだ
偽物を拝まされていたとなる  

【なぜ?山口県から8人もの総理大臣が誕生!その理由が凄すぎる!】
隠された歴史が明かす、日本の”真実”!明治天皇の秘密、知りたい?-masakazu kaji-


2020年10月19日

計画、計算できない人生 (何が起こるか予測できないー信仰ならただ求めることが一番大事)


計画、計算できない人生

(何が起こるか予測できないー信仰ならただ求めることが一番大事)

人間はいくら計算しても計算通りにならない、一流大学を出て大企業に入り終身雇用で安泰だとか目指してもそれも今や崩れた
終身雇用などありえなかった、それは一時の高度成長時代があってありえたがそれも30年前にバブル崩壊で終わった
日本はそれから経済は低迷したままのなのである

人生を経験して老人になった人に聞いてみるといい、計画通りに計算通りにいった人はいないだろう、何か必ず不測のことが起きて意外だったとなる
こんなしことになるとは思わなかったとなる
つまり人生そのものが有為転変なのである、無常だというときもそうである
常なるものはこの世にない、人間自体常に変わっている、同じ状態を維持できない
男性でも女性でも常に体でも変わってゆく、40才になると男でも白髪がでてくる
それで40才で先が見えた俺の人生も終わりだとみる
それが早いのである
氷河期世代は40ともなるとあせり苦しむのである、40になるともう社会的に終わりだと見るし社会も見るとなるからだ

自分の人生は特殊だから参考にはならない、ただ20代で自分の人生はほぼ確定した
あとは余禄のようになってしまった
私はまず家から田舎からの脱出願望が強かった、大学にも入れるような学力もなくても運よく三流大学に入った、ただ大学で勉強するというより家から田舎から脱出することで大学に入るとなっていたのである
でもそれが功を奏した、私はわがままであり家から家族から故郷から離れる必要があったのだ

だから引きこもりというとき家から離れない、親から離れないということが問題なのである、経済的に独立しなくてもそうである
人間は一度家とか故郷ととかから離れる必要がある、それが精神的に成長させるのであるだから現代的にしろ引きこもりとかニートとかは家から離れない、家族からその土地から離れないということが精神的に自立しないことに通じている

とにかく20代は自分にとって一番苦しかった、別にカルト教団に入ったのは私には求道心があった、でもそこは宗教とは無関係なところだった
だからやめた、でも奇妙なのは自分自身は求めていたのは何なのか?
それはなぜ人間は死ぬのかということで宗教を求めていたのである
一切の世俗的野望などなかったのである

何であれ何を求めるかが人生では大事である

つまり求めなさいさらば与えられるだろうとなる、求めない限り与えられないのである
誰も水を求めている時、水を与えられる、でも何も求めないものは与えられない
だから宗教とか信仰を強制するのは間違えでる、求めないものに水を飲みたくないものに水を与えても無駄だかである
でも求める者は砂漠のような所で水がない所で乾き求めるものは水が与えられる
まずその求めることこそが信仰なのである
ただもしその求めるものがこの世の欲だとしたら求めること自体が間違っている
だからカルト教団ではその求めるものが現世利益しかない、神社に求めるものは自分の個人的欲望を満たすことを祈る、それでいくばくかの賽銭をなげる
第一そんなことで神様がその願いを聞くことがあるのかとなる

要するに求めないものに何を言っても無駄である、求めるものは求めるものを得る
誰に教えられなくてもそうである、だから聖書も読んでいない、教会に一回も行かない自分でもキリスト信者になったというのもそうである
とにかく自分の場合は何か20代で波乱でありそうなったのである
それこは本を読んだとかではない、求めていてそれが人との出会いとか実人生の中でそうなったのである
ふりかえるとだから不思議なのである、師がいたとしてもそれも偶像化した、その偶像を否定した時神を知ったともなる

どうして神が人間に現れたのか?

それは神とは何かというとき妬む神として現れたのである

これも不思議なのだけど聖書を読めばかわる、それは偶像崇拝との戦いだったからである人間は必ず偶像を拝む、それも人間が一番偶像になりやすいのである
だから真実唯一の神が人間を見て何を拝んでいるんだ、そんな偶像は神ではないとして
妬み現れたのである
それが宗教のはじまりだったのである、それはユダヤ人に聖書に記された歴史だったとなる

そもそもなぜモーゼがエジプトを脱出せねばならなかったのか?

それはエジプトが偶像崇拝の国だったからである、あらゆるものが人間でも神像化していた、それで神はモーゼに命じて脱出させたのである
だから宗教の最大の問題は偶像崇拝だったのである、それはイスラム教でも同じだった
一神教なのである
神は見えない神であり見える神は偶像になるのである

いづれにしろどんな人生であれ計画しても計算してもその通りにならない、みんな思わぬ結果として意外に終わる
歴史を見ればわかる、なぜ戦争であれそれは全く思わぬこととして起こり世界で何千万も日本でも三百万人も死んだ、それもその当時の人は予期せぬこととして起こった
赤紙一枚きて戦場に連れ去られてしまったのである
そういう急激な運命の変化に見舞われたのである
有能な才能ある人も若くしてあえなく戦場の露と消えたのである
残酷な運命の下に生まれてそうなったのである

人間の計画は計算は無駄になる、こつこつと金をためてもそれもあえなく消えたとかにもなる、何もしないのに遺産が転がり込んだとかにもなる
何か計画して計算してもその通りにならない、無駄なのである
コロナウィルスでも誰も予測した人などいないからである
だから人生には歴史には予測し得ないことが起きるのである
それが何なのかどうなるのかわからないのである
津浪や原発事故でもそうである、故郷に住めなくなると誰が思ったか?
いくら危険でもそんなこと起こりえないと思っていたのである
だから長い人生の間では必ず予測し得ないことが起きる
だから計画して計算しても無駄だともなる
それだからといって無駄に金を使いということではない、金自体もいくら計画して計算してもその通りにならない

現実に私の家族は金をため込んでいたが認知症になり銀行から金を下せなくなった
この時ほど驚いたこともない、つまりこれまで金を唯一の頼りとしてため込んでいたものを自分自身で下せなくなったのである、これほどのショックはない
金をに頼っていてもこんなふうにもなってしまうのである
いくら金に頼んでもそれもこんなことになったら何にもならない
自分の金を自分で使えなくなったからである

ともかく予期せぬことが起きて来る、でもそれに備えることはできない、別に金をためてもいいけどそれも認知症になったりしたら何の役にもたたないともなる
何か一生安泰したものもない、会社だって今のように変わると安心ではない
でも婚活では女性はひたすら安定、安心、安全を求めているという
そんなことありえないというのが現実である
みんな有為転変なのである、だから若き時神を知れというのはこうした有為転変の人生に備えるためだったともなる、永遠の命があることを知れば安心だとなるからだ
別に死んでも人間は死なないとなれば畏れることはないとなるからだ
だから若い時に神を知れというのが大事になる
若い時が過ぎるとその機会を失うからである

ただ人間は30過ぎるともう終わったとかにもなる、なぜなら40でおっさんだとかなり白髪も生えてくる、それで氷河期世代の人があせるのもわかる
それだけ時間が過ぎるのが早いからである、夢のようにたちまち人生は過ぎて浦島太郎になっているのである
それは引きこもりでもニートでも30辺りになると一生そうなって終わる
自分自身がそうだった、竜宮城とかにいると外から言われたいたのも納得する
家族に養われて恵まれ過ぎていたらたちまち時間は過ぎて老人になっていたのである

そういう人は自分でもそうだったが親が何でもしてくれるから結婚もしたくない、なぜなら女性と付き合うにしてもいろいろ要求が多すぎるからだ、何してくれ何くれとしかないそして文句や愚痴が多い、でも親は何も言わず世話してくれたからその方がいいとなったのである、そこに大きな落とし穴があったとしても人間は楽だったら楽なままにしていたい、苦しむのは嫌なのである、苦しむのは仕方なくそうすするのでありあえて苦しむことを選ぶことはないのである

ただ結果として親の介護で四苦八苦してもう誰も助けてくれない、むしろ責められるだけだったとなる、苦しい時責められるのはさらに重圧となり苦しいのである
慰めの言葉も一つもなかった、一人苦しみ耐えているほかなかったのである



2020年09月25日

人生も歴史も無念を語る (すべての人が無念で終わるー死があるから)


人生も歴史も無念を語る

(すべての人が無念で終わるー死があるから)

歴史とは何なのだろうと思う、人間の罪の歴史だという人もいる、戦争の歴史だからそうともなる、ただわかりやすいのは歴史は無念の歴史であり無念の集積の歴史である
その無念が怨念ともなる、権力闘争に敗れたり戦争で殺された人が無数にいるからだ
それで日本がの神社は怨念を恐れて祟りを恐れて祀ったというのもわかる
それだけ非業の死とか無念に死んだ人が多いのである
日本だって太平洋戦争で三百万人死んだとかある、それら無念の死であるから靖国神社がある、やすらかに眠ってくださいとなり神社があるからだ
無念を怨念を鎮める神社だともなるからだ

無念という時第一すべての人間は無念に終る、無念というときいろいろある、貧乏で苦しんで無念に死ぬというのが継続してある
また病気とか不慮の事故とかで死ぬのは今でもある、身内でも40才で交通事故で死んだそして病気で死ぬ人も無念になる、特に若い人が死ぬのは無念である
戦前までは肺結核で若くして死んだからそういう人たちは無念を残して死んだのである
母の実家には25歳で肺結核で死んだ人がいた、何かそれでキリスト教に入ったのかもしれない、啄木も肺結核で無念の死となった
いづれにしろ無念の死は数限りなくある

いづれにしろ人間はみんな無念で死ぬ、それはどんな人でもそうである、例えば大金持ちでも地位を得た人であれ美人であれ無念に死ぬ
それはなぜなのか?結局人間はすべて死ぬということにある
人間は誰一人として死からまねがれない、つまり死にたくないのである
すると死ぬことは無念だとなる、死に関しては平等である、どんな金持ちでも地位があっても死からまねがれないからだ、また誰でも男女でも老いる
すると美人でもしわくちゃのばあちゃんになる、それを見た時まるで別人になってしまう
とにかくみんな無念だとして死んでゆく、姉は死んだ「俺は優秀だった」と言って死んだ優秀だったことはわかるが認知症になってそのために馬鹿になったということでそれが悔しくて最後にそう言ったのかもしれない、ただ個々の人生をみればみんな無念に死ぬ
病気になるも無念であり人間には何かそうして無念にさせるものがいくらでもある
かなえられなものがいくらでもあり死んでゆく
私はこうしたかったああしたかったとか後悔して死んでゆく
まず老人になって後悔しない者はいないのである
どんな人生を送っても後悔しない人はいない、何か足りないものがある

後悔しない人生を送れといってもではみんなそうできるのか?
自分を社畜だとか奴隷だとか言っていやいや会社勤めしている人は老人になり後悔する
もっとやりたいことをやっているべきだったとかなる
別に自由に自分のように生きても後悔がある、社会性を身につけるために働くべきだったとなるしまた留学すべきだとかもっと海外旅行すべきだったとかある
特にヒマラヤは一回で終わったからもっと行くべきだった
なぜなら十回も行った人がいたからである
そんなに行けたのかというのが意外だったからである、それはトレッキングコースを行っていたのだから必ずしも登頂するとかではない、ヒマラヤは見るだけでいいともなる

人間の歴史自体数限りない無念の死で埋まっている、非業の死もいくらでもある
第一戦争では日本人だけではない、何千万人とか死んだとかなる
他にも権力闘争は必ずありカンボジアとかでも骸骨が積まれた記念館がある
それも非業の死だった、歴史はそうした人間の過ちの無念の記録だともなる
自然災害の死もある、津波で死んだ人たちも非業の死だとなるし原発事故の被災者も故郷に住めなくなったのだから故郷を離れて死ぬから無念だとなる

無念だというとき一番多いのは貧乏のために願いがかなえられないことが一番多いかもしれない、そもそも学校にすら行けない国もある、ネパールなどはボールペンとかすらないつまり文房具すら用意できないのだからどうして教育ができるのかとなる
世界ではまだそうした貧困な国がある
そういう場所では学校に行くことすらかなえられない、また裕福な国では学校嫌いになり行きたくないともなる、自分自身がそうだった、それは貧困な国になれば贅沢だとはなる私の父親はさしみが食いるようになったが病気で食いたくないとして死んだ
何か食べ物に関してもまともに食べらない無念があった
食べ物の恨みは怖いということにもなる

ただこうした様々な人間の無念も豊かになったり科学技術が発展して解消することがある肺結核は伝染病とわかりかからなくなったから肺結核で無念で死ぬ人はいない
他のウィルスでもワクチンができてかからなくなったから病気で無念で死ぬことはかなり減ったのである、教育でもゆきわたるようになったからそれで無念だということもない
様々なものが改善されて無念で終わることがなくなってはきた
でも人間はどんなことをしても無念で終わる
何か無念を残さないで死ぬ人はいないのである
何か無念だとして死んでゆく、動物さえ犬さえ最後は吠え続けて死んだ、それは最後の断末魔で死にたくない死にたくないと叫んで死んだように思う
つまり人間は死ぬから無念なのである

すると死ぬかぎり無念は解消しないのである、その死から解放するのが信仰になる
死ななくならない限りそれがありえないからだ、死ぬということはみんな無念だとなるからだ、死なない命を与えられない限り無念はなくならないのだ
永遠の命が与えられない限り人間の無念はなくならないのだ
確かにキリストは十字架で無念に死んだけど蘇ったのだからそれで無念は解消されたからだ
人間の無念は結局死ぬことにある、だからどんな人も無念に死ぬのである
いろいろ無念があっても死の問題を解消しないかぎり人間から無念はなくならいのである要するに神の国に行く他、無念を解消する方法はないのである
この世に生きることは結局誰でも死ぬから無念に終わるのである
この世でどんなに恵まれても死ぬときは無念になる
ありあまるほどの富を貯えても病気になって寝た切りになったらその富は何の役にもたたなくなる、ただ天井を見ているだけになる、これも無念だとなるからだ

ただこうした人間の無念が歴史だという時、その無念を知るべきだとなる
そして今の恵まれたことに感謝すべきだとはなる
先人の努力の積み重ねで様々な無念も解消してきたからである
歴史にはいろいろな見方がある、歴史の見方として後世に何をもたらしたかを見ることも大事になる、科学技術でも伝染病を治したということは病気で死ぬ無念をなくしたとなるからわかりやすい、また貧困をなくしたということもわかりやすい
これらが一番わかりやすい、他にも無念をなくしたことがある

自分に関しては家族に恵まれて自由に生きることができたから社畜なんだとかならなかった、ただそれでも後悔は残る、別に社畜だからとそれか全部マイナスにはならないからだ、まず引きこもりとかニートとか何か欠けるようになる
また結婚しないとか子供もたないとかも何か人間的に欠けた人となる
ただ正直あらゆることをすることは人間はできない、芸術家の8割が独身だったということがそれを証明している、何か家族をもったらそれに費やすエネルギーが膨大になり何か考えることもできなくなる、今家事を全部していただけで自分は感じたからである
家事は相当な労力であり疲れることを介護でも一人になっても知ったからである