2023年09月19日
人間の失敗の原因 (自然は成さずしてなる。人間はなして失敗する)
2023年08月27日
人間は生まれつきですべて決まらない
2023年08月11日
天皇とは何なのか? (神権政治が生まれた背景ー人間は人間によって治められない)
天皇とは何なのか?
(神権政治が生まれた背景ー人間は人間によって治められない)
歴史的考察で浮かび上がる真実の姿。天皇ファンタジーと日本の現実。
●天皇は日本独得のもの―外国の王とは違う
天皇とは何かそれは日本独特のものであり。なぜ天皇は生まれたのかその経緯はどういうものだったのか?それは神話的にもなり明確ではない。天皇が初代天皇の神武天皇は実在の天皇かどうかは不明である。でもなぜ日本では21世紀までも継続されたのか?これはやはりなんらかの存在理由がある。
それはおそらく日本という国が海に囲まれていて一つの世界になっていたからかもしれない。大陸だと必ず民族の興亡があり国でも継続しないということがある。日本は明治維新まで外国から侵略されたということはない。征服されたこともない。それはアメリカに負けるまでそうだったのである。だから日本という国は他国に異民族に支配されたということはない。だからこそ天皇は継続されたのである。でもアメリカに敗れた時天皇もアメリカに裁判されて死刑になったかもしれないのである。でもそれは日本は統治できないとして天皇温存したのである。
何か天皇というとき外国から見ると国王なのかとなる。でも国王でもない国民の象徴とかという抽象的なものになっているのである。また天皇は強大な権力を持っている存在とも違う。確かに皇居とかは広大な土地であり。東京の中でその土地の価値だけで莫大なものになる。また別荘もあり、その土地も広いから。財産は巨大なものになる。
でも中国と比べると中国の皇帝とかは欲望でも歯止めがなく宮廷に千人の女性を姓の奴隷のようにしてはべらせ使いさせまさに酒池肉林とかその中国人の欲望とは限りないのである。
中国だけでなく大陸の帝国はその王は巨大な権力を持ち中国では地下にまで皇帝が死んでも支配しようとし大宮殿を作っていたのである。
そういう皇帝とか王と比べると日本の天皇はそんな巨大な権力を有していない。 確かに仁徳天皇の古墳などは巨大だから権力も巨大だったともみる。でも古墳というのは必ずしも墓というものでもなく天皇のために作られたというものでもない一つの共同体の象徴としてあり中国の皇帝のように一人の王のために贅沢を尽くすというそういう種類のものでもない。中国のような巨大な国家は人民は奴隷のようにされてしまう。一人の王のために絶対君主というか王がいて力で治めるしかない。それで民という字が人の目を潰すということからきている。これも中国の恐ろしさである。
日本でも江戸時代だと見ざる聞かざる言わざるとして民衆は何も言えなかった。でも中国となるとその巨大な国を治めるだけでものすごいエネルギーが必要になってくる。
だからどうしても圧政になるのである。それはロシアとか見てもわかる。広大な土地を。人民を治めるということはどうしても強力な圧政になってしまうのである。
中国で民主化するということが難しいのはその土地が広大であり人口も十億以上いてそんな人民をどうしてまとめるかとなる。圧政しかなくなる。もう民主制度になったら収集がつかなくなるかもしれない。みんな言いたいこと言っていたらとても広大な土地と10億人以上の民をどうして治めるのかとなってしまうからである。
だから中国というのは自分の国内をまとめるだけでものすごいエネルギーが必要になってくるのである。
●人間を治めるために神を利用した神権政治になった
それに比べると日本は小さな国である島国である。だからこそまとまりやすいのである。強大な権力を持つこともできない。それだけの土地と人民がいないからである。
一つの国をどうして治めるのか?それが人間の政治の課題でありそれは21世紀になっても解決しないのである。
一見民主主義が良いようでもそれもうまくいっていない。一体どうしたらうまく治められるのかは永遠の課題であり。そしてそれは解決しないのである。民主主義は理想のように言うがそれもただ暴力で持って治めることを権力を得ることをしないというだけであり何か理想的なものでもないのである。権力を得る為にはどうしても殺し合いがありそれを止めるために民主主義が生まれた。
ただ、それが全て上手くいくとなっていない。ただ大陸の圧政のようなよりはましだというだけである。政権交代するために殺し合いはしないからである。
おそらく人間は永遠に治めることは出来ない。それは人間のカルマである。 なぜまた21世紀になってロシアで戦争を起こしているのか?やはりそのカルマが終わることはないからである。 ロシアも今広大な土地を持っていて人民は1億人くらいでもその広大な土地に散らばる。人々を治めるのは圧制しかないのである。大陸の巨大な国家は圧政になり王が巨大な権力を持つのである。
それはエジプトのように神権剣政治にもなり共通しているのである。王が神のようになってしまうのである。それはカルト教団にも共通している。21世紀でもやはり。政治というのは?継続してやはりを繰り返しているのである。カルト教団もやはり教祖が神の様になり崇拝させて人々を支配しようとする。それが現実に起きたのは創価の池田大作がそうでありオウムの麻原でもそうであった。幸福の科学の大川隆法でもそうであった。だから政治というのは何か依然として進歩していないのである。
ということは人間を収めるということがいかに難しいかということである。3人寄れば文殊の知恵というが反面人間関係でも3人寄れば必ず争いがありまとめられなくなる。
身近な家族でも同じなので。その中でも夫婦でも常に争いがあるのである。だからこそ結婚しても1/3は離婚しているのである。
どうしてまとめるのか?それで子は鎹となったのである。家族をまとめるのは実はその中心となるものは必要なのである。
それは前は長男はなっていた。でも戦後は兄弟長男の特権は失われ、兄弟は皆平等となってしまったのである。では家の中心は誰がなるのか?すると中心になるものが失い家族はまとまらなくなったのである。
その中心になるものは別に能力が優れたものでもない。ただ中心になるものがいないと家族でも少人数でもバラバラになってしまうのである。何か私の家族のことを延々と書いてきた。二人のの母親がいたとして争っていたが振り返れば私と言う中心になる人がいなければ家族は分裂していたのである。確かに分裂状態になってもう死んで家族は居なくなった。でも依然としてやはり家族は私を中心として存在しずしつづけたのである。
だからそこに中心となるものはどれだけ重要なものかを認識するべきなのである。
南北朝の悲劇は天皇は2人になったことなのである。壬申の乱でもやはり天皇の兄弟が二つに分かれて争うことになった。南北朝では日本全体を二分してしまったので。それは村のような小さなところでも日本全国隅々まで二分して争うようになったのである。つまり天皇が2人になるということは国が一つにならないとうことなのである。そこに中心になるべきものがなくなって二分して。争うようになったので。その傷痕はあまりにも深いものだったのである。
●家族でも治めるのには中心になるものが必要
だから天皇とは何かというと。それが渡来人であれ別に血統がは継続されているからということでもなく天皇が特別神でもなく優秀でもなくてもそれが国をまとめる中心としてある。そこに意味があったのである。その天皇は特別外国の王のように権力を持っていなかった。
確かに皇居の土地は広大である。でももしそこが天皇の住む地でないとするとどうなるか?
その貴重な森は明治神宮の森のように失われていくかもしれない。天皇が住んでいるということで手を付けることができないのである。もちろんそこで大きな問題はある。不便になるしでも東京のようなところにそういう広大な土地があり森があるということはやはりそれをそれが全部悪いものともならないのである。
そもそも、なぜ政治というものは進歩しないのか?それは人間を治めることはそれだけ難しいからである。それは家族でも治めること自体難しいことでもわかる。家族でもそうしてまとまらないから、とにかく長男を立てたのである。その長男が優秀というのでなくてもあえて長男を立ててまとめさせたのである。
徳川幕府でもとにかく長男を立てて治めさせた。その長男が必ずしも優秀でなくてもただ、天皇のように象徴としてあるだけでまとめ役として有効なのである。もしそういうものがなければ、結局昔のようで。血で血を争って権力争奪の争いになる
日本の天皇とは何か?それは日本人が歴史の中で生み出した一つの知恵の産物なのである。何か神話とかそれも作り物でも真実でなくても別にいいのである。問題は国をどうしてまとめるかということにあるからである。そのまとめ役となるものは何なのか?昔だったら長男がそれをしていた。そこにもやはり歴史的に継続した。人間の知恵がありまたそれは長子は特別神によみされるものとして尊ばれたのである。
だから必ずしも人間の世界というのはなんでも平等というものはいいというわけではない。かえって平等なことでまとまらなくなり分裂することにもなるからである。
つまり長子が特別神によみされたものとしてありそれが家を継ぐということはまた、国は国を継ぐということにもなるのである。それがおそらく天皇になるのかもしれない。
アメリカはなぜまとまらないのか?移民の国でありさまざまな人種はが混交して広大な大陸に散らばる。それをまとめるのは一体になるのか
民主主義といってもそれでとてもまとめられない。だから、もはや限界にきている。そして再び暴力も起きてくる。ということは、民主主義というのは万能ではない。 すべて数が多いからと、それが正しいわけでもないし。それで決めることが良いわけでもない。ただ、暴力によって決めないと言うだけなのである。
そしてどうしても政治はうまくいかないまとめられない。国を治められない。それで誰が治めるかというと聖書では緑子に治めさせようとか
老子だと治めずして治めるとか無政府的な考えにもなってしまう。
もう民主主義の選挙などやっても無駄となりかえってじ引きで決めたほうがいいと言うまでなっている。その方が公正だともなるのである。それだけ政治は人間をまとめることは難しいから、そうなったのである。
●天皇は日本の歴史で統一するための知恵として生まれた
ともかく、天皇が何かというとき。その由来が何であれそれは一つの日本の歴史の中で生み出した知恵であったということである。
だから、それは長男が神よりよみされたものであり家を治め継ぐということまた国でも通じている。そうしなければ。まとめられないからである。そんなのは不平等だと民主主義社会では言うけども民主主義のようにただ平等を目指してもかえって不平等にもなっている。それはなぜなのか?そのことも考えねばならないのである。
日本史上では,神を祀ることがすなわち政治の根本であるとし,政治を「まつりごと」と読むのはそれゆえである。原始,古代の社会にあっては万事宗教が優先し,すべて神の意志によって行われた。風雨雷地震などの自然現象はもちろん,狩猟,農耕の収穫にいたるまですべて神意と考えられた。したがって生活が豊かに,社会が平和になるためには神に祈る必要があり,これが政治であった。この思想は古代天皇制国家統一の支柱となり,律令制において神祇官を太政官に並べて設置したのもそのためである。これは中世の神道思想から江戸時代の国学へと進んだ。明治維新以後神道国家観によって天皇の「まつりごと」を強調する傾向が生じたが,特に昭和に入って天皇を現人神とし,その親政を主張する右翼運動が高まった。だが太平洋戦争後,天皇の人間宣言とともにこの思想も影をひそめた。
明治維新には西欧文明の挑戦にあって日本は混乱した。でも古代から続く天皇により国家というのが継続されて復古したのである。それは西欧文明の民主主義とか自由主義とかそうしたものとは相反するものだったのである。
ヨーロッパでは神権政治があった。またフランス革命では政教分離が唱えられて宗教と政治を分離したのである。日本では明治になっても宗教と政治が一体化して天皇が依然として活用されていた。
つまり天皇というのはそれだけ日本にとって。皇国史観があるように日本の歴史を象徴するようになっていた。
明治維新の時混乱したが皇国思想の運動があり第二次世界大戦まで継続したのである。ただ神国だから負けないということであったが、アメリカに負けて権威失墜したのである。
それは創価などでも継続されている。選挙は仏法の戦いであり仏が全面に立つのだから負けることがないとなるのである。天皇が現人神だからが戦争にも勝つということに通じている。政教一致なのである。
結局、明治維新といっても。古代の復古があり先祖返りがありヨーロッパ文明の真髄を取り入れるということはなかった。
政治でも神がかり的なものとなってそれが300人万人も死んだ犠牲を払ったのである。それは国家のために死んだのである。それでその供養は天皇がになっているのである。でも天皇にしてもそんな大きな責任を担えるかとなったらなれないのである。
ではなぜ300万人も死なねばならなかったのか?
それに答えることは容易ではない。ただ、政治を国家を神聖化すればそれは国家のために神聖なる国家のために死んだとなる。 でも国家自体も過ちを犯すのである。神ならば過ちを犯すことはない。国家でもやはり人間が運営しているから過ちを犯すのである。神権授与された。神から権威が与えられたとかあくまでも。民衆を支配される。支配するための方便だということもある。そうなると神にさからうことができないとなるからである。
ともかく政治が宗教に関わると狂信的になりファシズムになりやすい。特に大衆社会となった時難しい理論を大衆に言っても通じない。ハイルヒトラーということで叫び一体感を感じるのである。
また念仏とか日蓮宗だとは題目を唱えて徒党を組み突撃して行った。それは分かりやすいからそうなっていたのである。
戦って死んでも成仏する極楽に行くんだということでそうにもなった。だから宗教っていうのは、人をの上に立つとき利用すると支配者にとっては便利なものになるのでは?ただ、そこに日本の天皇が神格化されて300万人も死んだ恐ろしい結果にもなるのである。
●大衆民主主義もファシズムになりやすい
ともかく一体、誰が人民を国を治めるのか治めることができるのかとなるとそんな人はいないとなる。 人間の力では収められないとなる。必ずそこには混乱が生じてカオスとなってバベルの塔のように崩れ去る。それが人間の歴史だった。 現代というのは大衆社会である。大衆が力を持った社会である。大衆社会とは数がすべてを決めるのである。
そういう社会がどういう結果になったのか?それがまたナチスの再来であり全体主義になりファシズムになりまた恐ろしい結果を生むのである。大衆を洗脳し、先導するものはカルト教団とか必ず現れてくる。というものは大衆は考えることをしないのでカルト教団が増殖したのである。
宗教というのは一面民衆を支配する洗脳するのにいいのである。そこには別に本来の宗教などは皆無である。ただ題目を唱えればあらゆる欲望が達成されるとかで何でもいいのである。
それはついに天皇ファシズム、仏教ファシズムとなり。仏の命令で反対するもの者を殺してもいいんだとまなってしまう。それを大衆が力を持った時止めることはできない。なぜなら、民主主義とは数によって全てが決まるからである。いくら一人の聡明な人がいたとしてもそんなものは何の力もない。多数の前に何の意味も持たないのである。
だから数を集めた人がトップに立ち支配するのである。でそれはナチス的手法しかないのである。
民主主義からナチスが生まれたのもそのためだったのである。だからこの社会というのは?絶望的なのである。人間は政治に関しては人間は進歩しなかったのである。
マキャベリも占いであれ宗教であれ政治権力を得るためなら積極的に利用しろと説いている。だからこそ為政者は信仰などなくても宗教を戦争でも政治でも利用してきた。それは人間のカルマとして継続されてきた。カルト教団が現代でも勢力を持つのもそのためなのである。
確かなことを天皇が特別優れた人でもない一つの飾り物でもある。でもその飾り物でも国家の中心としてありまとめるものともなる。
その中心になるものがない時家は分裂して国家も分裂して悲惨なことになるのであ。
その時、外国勢力が入ってきて国家自体が分裂して争い国家すらそのために疲弊して消滅してしまうということにもなる。
だから中心になるものがいかに重要かを知るべきである。中心になるものがなければ家も維持できないし。国家を維持できない。
例えばなぜ一神教が生まれたのか?それはあらゆるものが神となった。さまざまな動物でも石でもでも山でも神となった。八百万の神である。でもそうなると。バラバラにな治められないエジプトでもやはり様々な神がいて地域地域の神がいると統一国家にする一つの神が必要なのである。唯一の神がそれがなければ国も統治できないのである。
日本では天皇とは唯一の神でありそれで国をまとめようとしたのである。八百万の神がいてもその最上階に天皇がいてそれで国をまとめようとしたのである。
とにかく注意すべきは警戒すべきは民主主義というのは大衆民主主義になりそれがファシズムとななることが危険なのである。それは歴史的にもそのためにカンボジアでも社会主義で200万人も死んだとかなる。共産主義社会ではロシアでも中国でも反対者は抹殺された。それもまた恐怖殺し合いをしない民主主義は優れているとなる。でも民主主義からナチスが生まれたのだから、大衆民主主義となるとそうともならないので。
政治というのは人間にとって古代から。継続したカルマとなっている。人民を治める方法がないとなる。そこに人間の限界があるのである。必ずあらゆることで、人間には限界がある。政治でもそうだし経済でもそうだし科学技術でも原発事故が起きたように人間の限界が現れてそうなるのである。
人間では統治できないからそうなるのである。治めることができないのである。それで理想はこの世では成就せず天の国で神が治め、成就するのである。そしてその前にこの世はカオスの中に。バブル崩壊し人間の作り出した文明は砂に埋もれ海に沈み森に隠され埋もれる。そして。ただ、謎を語るばかりなのである。それがこの世で人間がなす文明の結果なのである。
この世とは何かといえば理想の国など作れない。むしろ人間の作った文明はただむなしく謎となり残される。エジプト文明でもマヤ文明でも中華文明でもなんでも同じである。それはただ謎を語るだけなのである。そして世界統一した平和な世界など作れない。
戦争は終わることなくあり最後にハルマゲドンが来て人類は滅びる。ではこの世は何のためにあるのか?人間は何のために生まれてきたのか?それはこの世とは?試練の場なのである。様々な試練を受けて苦しみ、悲しみ。そして神の子に神の国にふさわしいものとなるものとして試練を受けるのである。
そして神によって選別されて神の国を召されてそこで唯一の神のもとに働き仕事するのである。そこに荘厳な神の国がなるのである。それは永遠の都であり、滅びの無き都である。そこでこの世で悲しみ苦しんだ涙は拭われる。それを成すのは全能なる唯一の神であり人間の力ではできないのである。ただ人はこのように生まれて生きるのはその神の国にふさわしい人となるべく選別されるためにあるのである。そのためにこの世がある。だからこの世に理想の国などをはできない。それを求めるのはいいとしても実現するのは神の国で神自ら治めたときなる
神はそれを約束して実現するからである。ただこの世に良きものがありそれを追求する。悪しきものに汚れないようにすることが大事なのである。聖なるものというとき人間が聖なるものとならねばならないのである。神の御意にかなうものとなるようにしなければならない。そこにこの世に生きる意義があるとなる
相馬新報(小林勇一): 天皇とは何なのか、その在り方を問う (政教分離がここでも問われている―国民の総意に大衆に踏みにじられる聖なるもの) (musubu2.sblo.jp)
2023年08月02日
カルマの法則 (他者を苦しめた者は自らも苦しめられる―苦しみカルマを自覚する)
カルマの法則
(他者を苦しめた者は自らも苦しめられる―苦しみカルマを自覚する)
若い時から病気を持ち障害者の夫を世話し続けた人がいる。何か障害者を家族に持つことはカルマなのかとなる。その人のために費やされるエネルギーが半端でないからである。50歳になっても世話し続けているからである。
カルマで怖いのは親戚であれ重いカルマを持った人と関係すると必ずそのカルマを受けることである。だから結婚は好き嫌いだけで決められないものがある。結婚すれば互いに持っていたカルマから逃れられなくなる。その結婚相手の親族と深い関係となるからである。
私が家族で介護の介護で七転八倒して苦しんだのもカルマだった。兄がいたとしても私の家では良くしていないかったからである。兄は40歳で交通事故で死んだ。そのカルマが私に回って来た。なぜなら介護となっても一人しかいないのだから全部背負うことになったからである
カルマとは法則がある
あなたのした行為が必ずあなたに返ってくる
あなたが他者を苦しめたらあなたも苦しめられる、苦しめられた他者の来る知らしめるために同じ苦しみを受けてその苦しみを理解するのである。そうでなければあなたのした行為(カルマ)のことを理解できないからである。
なぜ自分はこんな苦しみをうけるのだろうか?
それはあなたとのした行為が苦しみとなってカルマとなっていたそうなった。
なぜ私はこんなに夫で苦しむのか
なぜ私は子供で苦しむのか
なぜ私は毒親に苦しめられるのか
・・・・・・・
そこに因果関係がある。つまり夫に苦しめられるのはあなたが夫を苦しめていたからでありそれが今度は自分が今度は苦しめられることになった。そして母親が障害者の夫に苦労したことを自らも夫で苦労することによって母親の苦労を自覚する。
また他者に世話になることでもカルマになる。それが恩というときそうである。恩を受けたことはカルマとなる。だから恩を返すことを要求される。恩など返さなくてもいいとなるのも普通にある。でもそうなるとカルマがやはり課される。カルマは借金とも似ている。借りた金は返さなければならない、返さないと利子がつきさらに重くなるのである。
ただカルマの大きな問題は自分のカルマを自覚できなことなのである
全く無事平穏に生きていれば自覚できないのである。
そこにカルマの大きな問題がある。
でもからカルマを持たない人はいない。必ずカルマは人間の一生の中で現われる。 そもそも苦しみとなってカルマが現れない限りカルマを自覚できないから理解できない。すると他人がなぜあのように苦しんでいるのだろうと見る。それも他人事なのである。でも自分自身が苦しむとき自分のカルマに苦しむとき他人のカルマも理解するとなる。つまり人間というものは自分自身が苦しむ無い限り他人の苦しみに同情できないということになる。自分自身が苦しまないのだから同情もしないともなる。
だから何か苦しんでいる人は互いに同情しあうのである。痛みをわかるからである。それでそういう人たちは何とかしようとして共産党であれ創価などのカルト団体であれ藁をつかむようにして頼る
それで票を集めて幹部が権力を得ようとする。別にそうした人たちに同情しているわけではな、要するに貧困ビジネスにもなる。
第一一人くらい相談にのれるがそれが10人百人となると不可能になる。弱いものはこうしてまた餌食にされることがある。
そもそもなぜ人間に災いが起きてくるのだろうか?平穏無事に終わる人生などない。今無事、平穏無事でも。いつか必ず。苦しみを受ける。人間が苦しみから解放されるのは死ぬしかない。そしてもし苦しまない人生があったとしたらそれは何か人間として大きく欠けている。苦しまないから他者が苦しんでも同情もできないのである。でも自らが障害者の子どもを持つようになったときその苦しみを理解できるのである。
これは人間社会に共通していることである。大きく見れば人間の歴史を見ればやはりカルマの法則がそこに働いている。驚いたのは黒人の国イスラムのアフリカの国がヨーロッパの白人の女性を奴隷として売買していたことである。それもカルマとなり今度は自分たちが黒人が奴隷にされたとなる
今日本が貧乏になり外国人が日本は安いとして観光に来る。その中にはやはり売春のために来る人もいる。そのことは別に景気がいいときは東南アジアであれどこであれ貧乏な国ではしていたからである。つまりそれもカルマなのである。あなたのしたことは必ずカルマとなってかえってくる。アメリカは日本に原爆を落とした。そのカルマはあまりにも大きいものだったのである。原爆の苦しみをアメリカは知るためにはアメリカに原爆が落とされて何十万と死んでみない限り苦しまない限りわからないのである。
アメリカだけが自国が戦場になっていないから戦争の悲惨さを知らないのである。常に遠くから攻撃するのがアメリカだからである。国でもそれぞれカルマを背負っている。だから世界史でも言うまでも栄える国はない、盛衰が必ずある。アメリカも衰退の時期に来ている。
人間は絶えず戦争を続けてきた。第一次世界大戦、第二次世界大戦と何千万と死んだのである。つまり戦争はなくならないというとき人間のカルマも消滅しないということである。だからこそ、人間はそのカルマが積もり積もって最終的に人類はハルマゲドンで滅亡する。カルマの集積が限界を超えてついには自滅して行く。または神によって裁かれノアの洪水のように大自然災害が起きて滅亡するとなる。
2023年06月07日
死とは何なのかー生物的死と社会的死 (記憶され生き続ける死者−村のご先祖様になるとは)
2023年05月21日
利から金から離れられない人間 (逆に利から離れた金にならないことにこそ真の価値がある)
2023年04月30日
人間の矛盾−宗教が偽善になるのはなぜか? (利に合うことを求めるが理に合わなくなる)
2023年04月17日
最後に人間は自らに問う (自分の人生は何だったのだろうと、、、庶民でも誰でも)
2023年04月09日
この世に生きることの無常 (老人になると何もいらないとなるーただ死があるだけになる)
2023年03月25日
時間が一番の謎-永続するものを求めよ (無常は変化てありもともと時間はない)
2023年02月26日
人間を作るの体験、老人の価値は何を経験したかで決まる (旅も体験であり貧乏旅行も金持ちの旅より価値があった)
2023年02月16日
常にあらゆる人でも物でも価値判断しているのが人間 (価値と意味を与えるのが人間の仕事)
2023年02月11日
カルマは苦しまなければ解消しない (カルト教団は組織自体がカルマを積んでいる)
2023年02月06日
ケチな人とは付き合いたくない (人の気持ちは必ず行為となって現れる)
2023年01月31日
何の価値を追及しているのか?宗教が一番わかりにくい 古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ 芭蕉
2023年01月30日
老舗の菓子屋を守るために犯罪者となったドラマ (なぜ命が尊いのかー仕事が天職が価値がありそれに献げる命が尊いとなる)
2023年01月25日
ケチな人の問題-人間はみんな偏っている (ケチな人は経営でも成功しないのではないか?)
2023年01月16日
君子危うきに近かよらずー小人閑居して不善を成す (このことを人間は守れないのはなぜか?)
2022年12月12日
人間は物語を残す(history)と同時に教訓を残す (でも人間は知恵の実を食べて神のようになったとしても賢くなれなかった)
2022年12月08日
人生には確実に運が作用している (運も不運もカルマもめぐってゆく・・・)
2022年12月03日
人生の危険―利欲を離れることができない人間 (金の切れ目が縁の切れ目ー利によって離散集合)
2022年12月01日
権力を追及するカルト教団(権力と権威の問題) (宗教はもともと権威であり権力はなかった)
2022年11月29日
なぜカルト教団の被害者が多いのか (大衆化による地の塩たる真のエリートの消失した現代社会のため)
2022年11月21日
カルト宗教団体を解散させられないのか? (信教の自由は解散しても守られる)
2022年11月20日
引きこもりが全国で110万人もいる問題 (内向型の生き方戦略ー中村あやえもんを読む)
引きこもりが全国で110万人もいる問題
(内向型の生き方戦略ー中村あやえもんを読む)
境地 とは、 言葉 通り「 社会 から 少し 離れ た、 同種 が い ない 場所」 になり ます。
中村あやえもん. 内向型の生き方戦略―「社会から出て、境地を開拓する」という生き方
そもそも 人間 社会 において の「 普通」 とは、 社会 維持 型 の 性質 を 指し ます。 人間 は 社会 維持 型 が 八 割、 境地 開拓 型 が 二 割 という 比率 なので、 社会 維持 型 の 度合い が 強い ほど、 普通 の 人 だ と 判定 さ れ ます。
中村あやえもん. 内向型の生き方戦略―「社会から出て、境地を開拓する」という生き方
すなわち、 いきなり 全員 に ベーシックインカム を 与える よりも、 境地 開拓 型 に のみ ベーシックインカム を 与える 方 が 有効 だ と 分かり ます。 もちろん それでは 社会 維持 型 に対して 不公平 感 を 持た せる こと
私 は ゲーム の 制作 監督 を し て い た こと も あり、 作家 や シナリオライター、 絵描き や 漫画家、 音楽家、 声優 さん など、 いろいろ な クリエイター さん と 接する 機会 が あり まし た。 彼ら の 悩み はと いう と、 たいてい が「 普通 の 人 の よう には 生き られ ない」 という こと でし た。 だから 彼ら は みな、「 自分 にとって 好き な こと で 収益 を 上げ て、 生き られる よう に」 と、 自分 独自 の 生き方 を 模索 し て い まし た。 そして 世の中 を 見 て みる と、 クリエイター だけで なく、 内向 的 な 人 ほど この よう な 悩み を 持っ て いる こと に 気がつき まし た。
●社会維持派協調派が多数だと若い時は従う他ない
引きこもりは社会にとって深刻な問題かもしれない、それは数が多いということが社会に影響するからである、もともと内向型でアウトサイダー的な人間はいた
その人達は極めて数が少ないのである、10万人なのか百万人に一人なのかそういうレベルでありその人達は今の引きこもりとも違う、でも似ているのである
何か天才と狂気は紙一重というけどこの引きこもりもそうである、引きこもりは天才でなくても狂気にもなりやすいのである
社会からはずれることは実際は常人にはできないことだからそうなっている
ただ社会から外れて成功者になった例をあげてもそれと今の引きこもりは違っているように見える
ただ社会維持する性格の人が八割で内向型の境地開拓の人が二割というのはそうなのかもしれない、ということは社会維持派の人達が社会では圧倒的に多いとなるのか?
そのことは何を意味しているのか?
もしかしたらその人達は型にはまった集団行動することを好む、それで現代になってナチスとかカルト教団が生まれたのかもしれない、ナチスがその典型である
社会維持派の人達はこうした集団示威行動を好み社会維持するためにそうなるのだとしている
確かにカルト教団はそういう場である、創価でも統一教会でも似ている
集団で気勢を上げていたからである、同一行動になりその目的は権力奪取だった
統一教会でも映像でやはり同じようにみんなでエッエッオーと気勢を上げていたから似ていると思った
でも不思議なのはそもそも宗教というと内面を追及するものであり本来はそうして集団で示威行動するようなことない世界だった
ただ一向宗とかの念仏とか日蓮宗の題目とかは集団で示威行動するから宗教でも違っている、宗教でもイスラム教であり何であれ集団示威行動をする
つまり哲学とかなるとそれぞれに違ったものとして考えるものとしてある
でも宗教はかえってハイルヒットラーのようになりやすいのである
その奥深い内面を追及するものではなくみんな同じ行動をして一体感を持つのである
それが神道でもあり天皇崇拝で日本人を一体化して戦争になり3百万人も死んだのであるナチスでもそうである、それはこの本で言う社会維持派がこの世では外国でも八割いるということから起きてきたことなのか?
その辺の理由はわからないにしても社会は総じて社会維持派が作る、それに適応できないのが内向的性格だという
境地開拓の性格の人だという指摘は興味深い
ただ人間をいろいろに分類する、血液型とかでも人種でも内向型でも外向型でも理系と文系とかでも分類する、それは確かにありどうしても文系となると理系を理解しにくいように社会維持から見ると内向型の人を理解しにくいのである
それは犬と猫の相違でもある、犬は外向型であり何か隠すものがない、全面的に主人に従うのである、でも猫は何を考えているのかわからない、愛想もない、主人に従うより従わせるとまでなる、何か神秘的であり何を考えているのかわからないとなる
だから社会維持派にすると不可解ものとなる
猫はマイペースであり何か愛想良くしたりしないのである
だから犬好きがいて猫好きがいるとき猫を好きな人は内向的性格なのかとなる
●110万人も引きこもりがいるというときみんな境地開拓派として成功はしない
ともかくなぜ引きこもりが110万人もいるのか、それは東京でも地方でも田舎でも同じなのである、必ずそういう人を見かける、仕事をしていないのである
田舎でも昼間で仕事をしていないとそういう人に逢うのである
だからこの数に納得する、私の場合は時代的にみんな社会維持派として団塊の世代から企業戦士となった、私のように引きこもりになった人は本当にまれである
だからそんな人がいたのかとなり無関心である
でも今これだけ数が多いという時社会問題になったのである
だから私の場合は別に天才でもないが大学出てから好きなことをしてきた、好きなものを追及してきたのである
ただそうして境地開拓派というときそれは天才的な人であり業績も残している
でも110万人も引きこもりがいるというときその人達と同一には扱いないだろう
では110万人がそういうまれな天才になるのかとなるとそうは見えない
ただ社会の脱落者にしか見えないのである、アウトサイダーは社会の脱落者でもないのである、社会に反発した天才であり英雄ともなっていたからである
とてもそういう人に普通の人ではいくら境地開拓派でもなれないのである
ただそういう人達から天才が生れのかとかはわからないにしてももしその人達の極わずかでも自分の才能を発揮する人がでてくるかもしれない、なぜなら110万人もいたらその極わずかでも百人でも才能を発揮する人がいたら社会にとって有益だとなるからだ
でも大多数は社会の脱落者、落後者として終わるともなる
そして人間は20代で30歳までにその将来は決まる
これが怖いのである、引きこもりなどたいしたことがないとしている、時間など無限にある、暇で暇でしょうがいなとなっていた
ところが時間はあっというまに過ぎる、30過ぎると女性でも婚期を失うというとき美貌も失うからである、そして35歳以降は余生だとう言う人もいる
それだけ時間が過ぎるのが早いのである、そして40才になると白髪映えてくる
つまり40才で初老ともなり老人の入り口になっていたのである
だからみんな後になって人生はこんなに短いものかと驚いているし意外だったのである
そして怖いのは20代で引きこもりになっていると一生引きこもりになるということにもなる
なぜなら20代で人生の方向が決まるからである、これが怖いことだったのである
20代でカルト教団に入って抜けられなかったら一生カルトで終わるとなる
北朝鮮に飛行機をハイジャックして逃れた赤軍の若者はそのまま北朝鮮で一生終わるとまでなっていた、でも日本に帰りたいとなって帰って来た人たちもいる
でもその一生は北朝鮮でスパイのようなものにされて終わったのである
方向がそこで決定したのである、だから20代で人生の方向が決定することが怖いのである、そして人生はやり直すことができないのである
人生は長いのだから失敗してもいいとか方向はいつでも変えられるとかならないのであるそんな時間が人生にないのである、ただ人生百年時代になると時間のゆとりができているからその成果は60でも70以降でも出せる時代である、だからあせることはない
でも方向は20代で決まってしまうことが怖いのである
だから若き時神を知れと言うのは重要なことなのである
なぜなら20代を過ぎたら神を知ることができない!
20代はいろいろなことが起きやすい、波乱の時でありまた様々な欲望があふれだす時代でもありそこに翻弄されてあっというまに過ぎるからである
私の場合は父親が中学の時死んだので死ぬことをその時からなぜなのかということが一番の問題だったのである、そのために宗教団体に入ったのである
でも創価などは宗教などと何の関係もない団体である、だからそんなところに宗教を求めるのは正反対の場所だったのである、宗教の看板にしても暴力団だったということと変わりないのである
集団化して組織化している場は境地開拓派の内向的人とは無縁の場所だったのである
ただ社会維持派には向いているからあれだけ人が集まっているとなる
ただそれは宗教とは全く関係ない場所である
●自分自身を知れー内向的境地開拓派の生き方
いづれにしろ人間は生まれつき性格があり向き不向きがある、すると不向きなことをさせられたりすることは不幸である、いくら収入があったとしても不幸になる
だから医者の子は医者を継ぐとか強制されると不幸になる、例え医者になっても不幸である、そもそも自分に合わないことをしても幸福にはなれない、だから自分がどういうことに向いて知りそれにあったことをして究めることが大事になる
ただ人間に与えられた時間が短すぎるのである、老人になって必ず後悔しているのはそのためである、そして最後はいくら後悔しても何かする時間を消失している
時間を戻すことができないことがどうにもならないことなのである
だから本当にもう一回人生をやり直せればみんな失敗しなし後悔しないのである
老人になるとそのことが痛いほどわかるようになる、でも後悔先にたたずになり人生は
終わる、
ともかく内向的性格の人は社会維持派は8割と多いなかで二割となってることは生きることは苦しくむずかしくなる、だから学校にもなじめない、学校からして社会を維持するために基本的には作られているからである
それでこの本で教育でも自由教育を取り入れたが失敗したのは多数が社会維持派だからでありそういう人は自由に勉強して個性を出せといってもできないから失敗したとしているただ確かなことは内向的な人は社会維持派が多数の中で生きることがむずかしい
それを自覚して向いていることに精進することが大事である
社会維持派だとはみんなで調子を合わせて盛り上がる、大勢で集まり盛り上がる、そこで集団的に一体感を感じる、それでなぜカルト教団がいろいろ言われても増えるのかわかるこの世の中社会維持派が多数だからである
そのためにカルト教団とかナチスが社会を席巻してしまったのかとも見る
内面的なものを追及する境地開拓派だったらそうはならなかったとも見る
ただそう簡単に人間を分類はできないからわからない、ただ社会維持派は集団で盛り上がる、何か内向的な人はうじうじしてなぜ集団に溶け込まないのかとなる
でも不思議なのはそもそも宗教とは内面の追求だとするとき、一人座禅を組んで瞑想とかしているのは社会維持派には不似合いである、でも世界でなぜこれほど宗教が普及しているのか、これも不思議である、内向的な人の割合が二割くらいだとしたら集団的に盛り上がる宗教も社会維持派の宗教になったのかとなる
ただハイルヒットラーとみんな叫んでいれば仲間だとなり社会維持派の人達がそういうふうになり安かったのかとなる
そもそも外向的とか内向的であれ人間はそもそも集団で自然の中に生きてきたのだから防衛してきたのだから社会維持派が多数になっていることはわかる
我(われ)とは割れるから来ているからである、我という言葉はなかった
集団から割れて個人となったからである、人間に個はなく部族とか集団が一体化して生活していた、だから部族では顔まで似ているとなる
とにかくなぜこんなに引きこもりが現代でいるのか?
その原因が人間の性格がありその性格に合った仕事とか与えられない、内向的な人は内面的な追求に芸術とか学問とか何か新しい境地を開拓することに向いている、そして新しいことを発明した人達がその見本だとなる、でもそうした天才と言われる人の数は極めて少ないのである
その人達を目指せとかなるとそのハードルは相当に高くなる
結局は社会からはずれたもの、落伍者になる
そもそも110万人も引きこもりがいることはやはり異常である
それができているのはやはり経済的にも恵まれて働かなくても食べていけるからそういう人達がこんなにいるよちうになったのである
これも現代の社会状況から生まれたものだとなる
ただ内向的な人は良く自分のことを知っておく必要がある
なぜなら社会維持派が多数の社会でありそこで自分の居場所とか適合することがむずかしいからである
小学校であれ幼稚園からでも人間は集団行動を強いられるからである
内向的な人はそういう場からしてなじめないとなる
でもやはり社会人になるための訓練として社会維持派の中で生きるためにそうしているのである、それはやむをえないとはなる
●境地開拓派はそれれにふさわしい環境が与えられれば伸びる
でも境地開拓派は子供の時から好きなことを見つけて開発していけばやはりそれなりのもの専門家になる度合いが強い、ただ社会維持派と同調して歩調を合わせるのが苦手だからである、でも好きなことを見つけると夢中になりまさに境地開拓になる
独特のその人なりの世界を作り上げることができる、だからその人がどういう性格なのかを見極めて生きることが必要になる、でも社会維持派が多数なのだからそれがむずかしいのである
私自身は内向的であり境地開拓派の性格なのだけど実際は集団に社会維持派に適合しようとしていたのである、それはみんな自ずとそうなる
先生であれ学校で境地開拓派になり独自の世界を作れ発見しろなど教えないしそういう教育などないからである
学校ではなかなか個性的な教育はない、社会維持派に合わせる教育になるのである
だからなぜカルト教団がこれほど批判されていても多いのかとなる、それは社会維持派が多数だから多いのである、本当は内面志向が境地開拓派が宗教のなだけど社会維持派が多数だから宗教でもそうなったのである
私は別に人と接することが嫌でも少人数とか一対一の対話は好むのである
だから初めて逢った人で会話はしている、その人がどんな人生を送ったとかどんな人間なのか何に興味があるのかととか個人的に見るのである
大勢の人を相手にするのは苦手なのである、でも社会維持派となるとぐずぐず言わないで俺についてこいとかなる、何か理屈をこねるのを嫌うのである
だから警察と自衛隊とか建築土木現場とかの仕事は社会維持派が多いとなる
やはり集団的組織的に仕事をして一つの建物でも完成させることだからである
そのために協力一致しなければやれないからそうなる
だから体育系がいいとなる、命令に従う人がいいとなる、やはり社会では社会維持派が多数たからそうなる、軍隊なども上意下達であるからだ
そういう場所が内向的な人が苦手だというときなかなか合った仕事は与えられないのである、引きこもりの人がクリエターになりたいという時そうである
芸術だと独自の世界を作ることになるからそうなる、ただクリエターというとき恰好いいけど金にならないこともあり非常に社会ではそれで生活が成り立つこともむずかしい
だから何か家族とかの応援とか理解者がいるといいがそれはまれだとなる
ただそれでも引きこもりがそもそもこれだけの数がいることは親が容認していることは今までとは違っている、まず昔なら食べなければならないのだからそんなことできないからである、強制的に嫌でも働かざるをえないのである
内向的な人が陰の性格な人が全く引きこもりがいいわけではない、誰か理解ある人と少人数なら話すのである、私は人の話を個人的に聞く、そして相手を知る、老人だとその人が生きた人生を知り理解する、対話するのは好きなのである
ただ大勢を相手にして演説するとかは苦手なのである
何か一対一でその人のことを深く理解する、ソクラテスも対話から相手のことを知った
対話することがやはり人間は相手を理解する、大勢だと理解できないのである
でも社会維持派はそうして大勢で同一化して一体化することで興奮するのである
それが極端になるとナチスのようになるのである
そこに大きな危険がひそんでいたのである、だから戦争でも社会維持派は大イベントともなり興奮して戦うともなる、そういう時こそ最大に人間は団結して一体化するからである内向的な人は境地開拓派はそういうものに向かなくてもそういう時代があり適合せざるをえなかったとなる
●内面を追及する宗教とか哲学とか芸術の時代になり境地開拓派が主役にもなる
でも現代は戦争は確かにウクライナとかであるけど全般的には戦争は拒否される時代である、グロ−バル化というのもコロナウィルスとかで縮小してゆく
外延的に拡大化したのが現代である、でもそれも区切りが来たのかと見る
何か内面化する内省化する時代になっている、だから中世時代に戻るという人もいた
閉鎖的なある意味で引きこもりの時代になってゆくように見える
だから人間は必ず時代の影響を受ける、高度成長時代は社会維持派社会強調派が全面に出た時代である、経済も成長して企業戦士となりがむしゃらに働きぐいぐいと引っ張る人が指導者となったのである
そんな時代はとても引きこもりは向いていないし、そもそもいなかったのである
みんながむしゃらに働き高度成長時代を築いたからである
だからその時引きこもりになっていた人は本当にまれである
私は偶然家族に恵まれて引きこもりになっていたのである
そこで自分の好きなことを探求して来たのである、その時代そんな人は誰も知らない
引きこもりという言葉すらない、ただの変人になっていたのである
だから引きこもりが問題になっているが意外とこれからはそうした人達が主役になるかもしれない、高度成長時代とか戦争とかなるとどうしても社会維持派とか社会協調派が主役になる、でも社会が成熟してくると平和がつづくと内向的な人が境地開拓派が小数でも主役になるかもしれない、ただそれでもその中で目立つのはわずかだとはなる
百万人も引きこもりがいて何かそれで社会に貢献する人はわずかだとなる
だから引きもりがこれほどいるということが問題になる
社会維持派は協調派が多数の中でそういう人を寛容に見ていられるかとなるからだ
だから親と対立して殺人まで起きている、親が何しているのかわからないので不安になる実際親が死んだ時引きこもりは地獄になるからだ
この本は見方としては面白いと思った、ただ全部があてはまることはない、ただ内向的な人が境地開拓派として新語を作りだしたのは興味深い、天才は新しい言葉を作るからである、いづれにしろ高度成長時代から低成長時代とか失われた30年とかあったが結局日本はもう経済的には成長しないのだろう、でも成熟社会となり内面的なものの追求になる宗教とか哲学とか芸術分野で新しい発見がありまさに新しい境地が開拓されるとなる、たたカルト宗教団体は全く内面の追求とか境地開拓派とは反対なのである
高度成長時代は陽の時代だが低成長時代になりコロナウィルスで在宅で仕事するようになったりテレワークになったりしたり時代が変わってきたとなる
つまり内向的な人でも境地開拓して主役になる時代なのかもしれない
時代風潮がありその時代にマッチした人が現れる、むしろ引きこもりでもその才能でも発揮できる時代なのかもしれない、ただ一概に外向的だとか社会維持派だとか内向的だとか教区開拓派だとかに分けることはできない、でも性格があり性格にあったように生きないと不幸になる、生きるのが苦しくなるのである
the big fixed stone
in winter
in stillness
2022年11月13日
日々勤めよ、報いを得らずとも・・・死後に報いがある? 日々勤めよ、報いを得らずとも・・・死後に報いがある?
2022年11月01日
時間はもともと存在しない (変化によって時間を意識する―時間の見方の多様性)
時間はもともと存在しない
(変化によって時間を意識する―時間の見方の多様性)
時間がなぜ謎でありわかりにくいのか、だからそもそも時間はないという人もいる
私も時間はないと思う、時間ではなくて変化があるだけである
だからこそこの世は無常ということになる、常無きものとは常にこの世が変化するからそうなる
人間関係でも今日いた人が明日は死んでいないとなる、60年も一緒にいた家族ですらみんな死んでいなくなったとかなる
この世で同じ状態がつづくことはない
鳥海山が噴火してそこに埋もれた木があり埋もれ木が発見されて噴火が起きた年代がわかったという、それは2000年前とかなる
その埋もれ木の年輪を見てわかったのである
木は成長しているから年輪も増えてくる、つまり成長することは変化なのである
もし木でももし変化しなかったら成長しなかったら時間がないとなる
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで
君が代でもさざれ石が小さな石が成長して大きな岩となり苔むしてゆく、それは変化なのである、その変化によって時間を意識するのである
だから木でも成長しない、変化しなければ時間を感じないのである
石とかも苔むすこともなく変化しなければそこに万年あっても時間は意識できないのである
今年この辺で大きな地震があった、これは怖かった、それで私の家は今だにかたづけていないのである、他の家でも依然として修理つづけている
その大地震で大きな石が転げ落ちて来た、それは二三個見ている、結構大きな石である
その変化も大きいものだった、そこに石がないのに石があるようになったのも変化であるでも時間がたてば百年でも過ぎればその石が崖から落ちた石だということもわからないとしたらその石はいつもそこにあり地震で落ちてきた石だと認識できない
それで令和石とか名付ければ令和の年に落ちたものだとなる、でもさらに令和4年石となづければその年に地震で落ちた石として認識できる
でもそれを知らなければ時間というのは意識できないのである
つまり時間とは変化することによって意識する、太陽が朝昇り夕方に沈む
これも変化でありその変化で時間を意識しているのである
もし太陽が一点にとどまっていたら時間を意識できないのである
空間は常に認識する、でも時間は変化しないかぎり認識できないのである
ただA地点からB地点に移動するとき時間がかかるというときそれは変化ではない、空間の移動による変化であり時間とは違う、そもそも空間でも時間を感じるのは変化することで意識する
エベレストの山の上にアンモナイ化石がある、なぜそこにあるのだとなるともともと海だったからだとなる、その変化のスケールが大きすぎるから時間も億年単位になる
時間とはこうして短いものでも人間の一生でも変化して意識する
子供が成長して大きくなるのもそうだし老人になり白髪になるのも変化である
人間も40才になると白髪がでてきて歳だなと意識するからである
いつまでも若いとはならない、女性でも劣化してゆくからである
そもそも時間とは物事の様々な変化のことであり時間そのものはない、なぜなら変化しなければ時間が意識できない、ここに何もなかったが地震で石が転がり落ちてきた
ここに石があったがなくなったとかなれば時間を意識するのである
それは変化したから意識できる、だから変化しなければ時間を意識できないのである
それで天国では神の国では人はみな若くて年取らないというとき変化しないから時間もなくなるとなる、時間を感じるのは変化することによって感じるからである
共にいた人が死んだ時永遠に逢わないとなるのも変化である
つまり時間とは変化によって意識する、それで仏教でそのことを無常としたのである
常にこの世は変化するからである、今日逢っても明日はなく永遠に逢わないとなる
それが老人になれば実感する、あの時逢った人とも永遠に逢わないとなるからである
2022年の福島県沖地震(ふくしまけんおきじしん)は、2022年3月16日23時36分に、福島県沖で発生したマグニチュード(Mj)7.4の地震である。宮城県と福島県で震度6強の揺れを観測した

この石はその時落ちた石である、だから令和4年石ともなる
手も時間が過ぎるといつ落ちたものかわからなくなる
自然でも変化するからその変化することで時間が生まれる、時間を認識する
もし石でも動かないとしたら時間を認識できないのである
でももう千年とか万年億年でも動かない岩でも石でもある
そこには時間を感じない、でも風化して岩でも石でも変化するからそこに時間を感じる
つまり全く変化しなければ時間は感じないのである
江戸時代の年号を見ているけど元禄とあれば相当に古いかこの辺では貴重である
でも幕末のころになるとその時代順序がわからなくなる、年号でも順序を逆にして見る
そしてその時代がどういうものだったかもわからなくなる
江戸時代は変化が少ないからその時代がどういうものかわからない
ただ天明とかあると飢饉の歳だったとか記録されているのである
でも明治以降は順序を間違えない、明治時代があり大正時代があり戦前の昭和時代がある戦後の昭和時代がある、次に平成があり令和になった
でも戦後でも平成の30年間とかはあまり変化がないから時代を意識しにくい
つまり時代を意識するのはその時代に何か大きな出来事が変化があるときである
日本だったらまず明治維新とかは時代の大きな区切りだから必ず意識する
でも明治後半と大正時代は意識しにくい、昭和でも戦争前と戦争後に時代は大きく変わったら戦争前と戦争後として区別する、つまり何か大きな出来事変化があったとき時代を認識する、時間を認識するのである
自然の変化でも津浪は巨大な変化をもたらしたから時代の区切りになるのである
江戸時代は余りそうした大きな区切りがないから時間を意識しにくいのである
ともかく自然も万年とか億単位なると変化する、陸だった所が海になったり海だったところが干拓して陸になったりする、人工的変化もあるが自然の大きな作用の変化もある
それで驚いたのは津波だったのである、津波が八沢浦だったら本当に江戸時代の入江に戻ったことほど驚いたことはない、美しい入江が再現したのである
そこで死んだ人もいたが元の入江にもどったことは信じられないことだった
時間はそもそもないというとき自然にも時間はない、ただ変化のみがある
その変化によって時間を意識するのである
鳥海山の噴火はその時埋もれた木の年輪からわかった、それも2000年前とか古いものだった、年輪を刻んだ木は時間を記録していたのである
時間があるのではなく変化することがありそれが時間として意識される
全く変わらないとしら時間を意識できないのである
宇宙の中に惑星があるとしてその惑星に行って時間を感じるにはどうしたらいいのか?
それもやはり地球が変化するように変化することを見ると時間を意識する
もしその変化がわからないと時間を意識できないのである
同じままで変化しないとしたらどうして時間を認識できるのかとなるからである
鉄の玉があるとしてそれが変化しなければ時間を感じない、鉄の玉でも錆びたり摩耗したりしていれば時間を感じるのである
でも風もない雨も降らないとか変化しない惑星だったら時間を認識できないのである
2022年10月25日
信教の自由とは何なのか? (統一教会は政治団体でもある,カルト団体がが信教の自由を盾にするのは間違い)
それを制御できなくなることである、図のように必ず権力によって国民全体でも被害を及んでくる
オウムでも危険でも暴力装置化して権力を持つようにもなる危険があった
それでマスコミでも恐れて何も言えなくなっていたのである
マスコミは権力を監視するものとしてあってもそうではなかった
それは原発事故でも証明された、800億円もの金が電事連からでていたからである
宣伝費がでていて東電から朝日新聞でも全部新聞社では中国に招待されたとき事故になったのである
戦争中は朝日新聞が戦争を一番あおったとしている、それも権力側についた方が得だと判断したからである、だからこの世では政治では常に権力をどう操作するかか問題になる
でも結局人間ではできない、それで聖書でもみどり子に治めさせよとかまた老子だと治めずして治めるとか議員はくじ引きで選んだ方が公正になるとかなる
それだけ権力を持つと人間は危険なものになるからである
だからいかに権力を監視するかが制御するかが問題になるのができないのである
それは民主主義でもできない、なぜならナチスは選挙で選ばれたからである
民主主義だとすべて数で決まるのだから大衆化して数を集めようとしたのである
大衆社会になると大衆が権力を持つ、だからそもそも権力を制御することは不可能だともなる、人間はそもそもこの世を治めることが不可能だともなってしまう
だから神の国はこの世に成ることはない、神が治める神の国にしかないとなるのである
そこに人間社会の絶望がある、それは人間は権力を得ることを切望して争いが絶えないからである、それは民主主義社会でもそうだった、今度は大衆が数となり権力を持つようになったからである
2022年10月04日
宗教二世問題の深刻 (子供の時から洗脳されてぬけられない)
2022年09月24日
木の成長と人間の成長 (長い目で見れない人間の弱点ー時間の貴重さがわからない)
2022年08月26日
なぜカルト宗教団体にだまされるのか? (思考脳が働かない、カルトは金をとることが目的-日本人はカルトにはまりやすい)
2022年08月24日
人間の認識の限界 (空間と時間軸の認識の限界ーでも限界を破るべき)
2022年08月17日
カルトの特徴とは何なのか (全体主義になるから共産主義もカルトであり権力を奪い変えようとする)
2022年08月08日
政教分離とは何か (宗教と法律の問題ー宗教は心の内面を追求する)
2022年07月30日
統一教会と創価とかカルト宗教がなぜ力をもったのか? (大衆社会となりマスコミも政治もすべて大衆化したため)
統一教会と創価とかカルト宗教がなぜ力をもったのか?
(大衆社会となりマスコミも政治もすべて大衆化したため)
●現代文明の病弊として生まれたカルト宗教
その人は創価一家であり兄弟が議員でもありその人は創価しか見えない人だった
ただその人は素直な人でありもし本当の宗教を追求していれば全く別な人になった
ナチスでヒットラーユーゲントがいて青少年がナチスの強力な一員になった
それは中国でも起きた、文化革命の時毛沢東崇拝が起きて青少年が熱烈な紅衛兵となり中国全土を席巻した、それで粛清された人がどれだけいたのか、空恐ろしいものだった
また日本の戦争でも別なものとしてもそういうことがあった
だからこれはやはり現代社会の病弊として起きたともみる
大衆社会となり大衆により席巻される社会である、大衆が洗脳されてそうなる
これまでの戦争は日本でも侍が貴族同士の選ばれた戦士が戦っていたからである
そこから貴族でも騎士道が生れ日本だったら武士道が生まれた、互いに殺し合うにしてもそこにルールが倫理が生まれたのである
それはなぜか?それは一騎打ちになると相手の人間のことを殺すとなると卑怯なことをするなとか一個の人と人が戦うからルールが生まれて敵への憐憫でも生まれる
つまり人間的なものとなる
それが近代戦争となると一対一の戦いないし集団戦である、それは前からあったにしろ
戦争に参加していたのは貴族であり貴族同士の選ばれた戦士同士の戦いだった
日本では侍同士の戦いだった、それが明治維新で西郷隆盛率いる西軍と政府軍が戦った
政府軍は庶民でも参加できる国民軍だったのである、めれで侍の集まりである西軍が負けると思わなかったが負けた時、侍の時代は終わったのである
それは世界的にも起きたことなのである
こういうことが宗教問題と関係ないようで関係はある、近代社会は大衆社会でありあらゆることが大衆によって決定される、数によってすべては決まる社会である
また戦争にしてももう人間と人間の戦いではない、機械と機械の戦いにもなる
そこで敵を思いやる人間はいない、相手が機械になればそうなる
大衆とか群衆社会であり宗教でもそうである、選ばれた人を相手にしているのではない
無数の人達を相手にして操作するものマインドコントロールするものとなった
大衆ファシズムの世界となった、それで力を得たのがマスコミなのである
マスコミは大衆を相手にしているのであり優れた人達を相手にしていない
要するにパンとサーカスである、面白おかしくみんな見る娯楽番組が主流なに
むずかしいことは言わない、マスコミはこうして大衆の洗脳機関でありその裏にはまた大衆宗教と化した巨大権力化した宗教団体がある
それが今問題となった統一教会とかであり創価などが最たるものである
創価などは一人など関係ない、数しか見ていない、一票としてしか人を見ていない
大衆ファシズム団体なのである、それはナチスと同じではないにしろ似たものなのである
そもそも現代社会とは大都会を見ればわかるように無数の人間が群衆化して大衆化した世界である、大衆は高貴なものなど求めない、つまり現代には高貴なものを求める人は無視される、ただ数がすべてであり数が権力化するのである
田中首相が金と数ですべてが決まると言っていたとでもわかる
政治家とはそうして大衆を相手にしているのであり高貴なものを求めるものを求めていない、どんなに高貴なものがいても一票に変わりないからである、それは同等なのである
だから現代には指導する人はいない、大衆を操作するものが指導者でありそれがマスコミだったりする、マスコミは大衆を相手にしているのでありやはり視聴率が一番大事だからであるあとはスポンサーが金をくれるのだから大事なのである
●地の塩が消失した現代文明の荒廃現象としてのカルト宗教団体
要するに現代社会文明からは地の塩は消失した、ただ宗教でもそうだが大衆化したのである、だから宗教でも大衆をいかに操作するかが問題になる、そして大衆を支配するのである,マスコミもそうである、マスコミは何か常に公平中立を装うがそうではない
NHKは何か善人の代表のように見ているがそこに大きな悪がひそんでいる
それがわかったのはと民間では統一教会のことを批判しているのにNHKでは全くしていなのである
これはなぜなのか?
これは大問題である、そこには何らかの深い事情がある、統一教会を批判できない何かがあるとなる、なぜならNHKでも幹部が協議して放送することを決めるからである
その幹部の中に統一教会を批判できない人達がいるということである
それだけ統一教会は力がないとも見ていたがあったのかとなる、それは韓国との関係で政治問題化もするからである、また在日問題もありそれで表に出さないのである
いづれにしろ今回の統一教会とか創価とかカルト教団の問題の根は現代社会の病弊から生まれていた、それはナチスで経験していることである
社会が大衆という得たいのしれないものに席巻される社会である
そこに本来の宗教は皆無なのである、ゼロなのである、ただ大衆が理解するのは利益になることであり利権になることであり御利益になることである
それしか見ない、それは原発事故でもそうだった、それは莫大な利権だった
それで地元でも金の成る木であり群がったのである、そしてマスコミでも原発を批判しなかった、なぜなら原発が爆発した時、朝日新聞の幹部まで全部中国に招待されていたのである、つまり原発は東電からでも電事連からでも莫大な宣伝費が出ていたからだ
だから批判できなかったのである、だからマスコミは大衆洗脳機関なのである
肝心のNHK自体がそうなのである、そこは公平に見えても公平ではない、肝心のことを報道すらしないのである
福島県の報道関係でも同じである、福島民報は聖教新聞を刷っているし政経東北も何か鋭く問題を追求しているように見えてもそうではなかった
相双リテックはたいして技術もないのに除染でもうけて幹部で何十億もの金を山分けしていた、そして銀座で金を使っていたとこれはNHKでもちょっとだけ報道したからである
なぜなら相双リテックの宣伝をしていたらである
そもそも福島民報は県で半分出資しているから実際は県の広報機関であり政府の広報機関なのである、国の意向を伝えるだけのものだったのである
なぜカルト宗教が増えたのか、これもやはり前々から偽預言者とかいた、それが現代社会では組織化して巨大化化したのである、それは大衆社会になったとき必然的に生まれたのである
つまりナチス化したのである、現代社会ではもう何かまともに教える場所などない
学校とかはただ知識を教える場所であり本来の人間を教育する場所ではない
だからこそマスプロ大学で千人とかの入る講堂で授業することに反発して学生運動が起きたりした、そこはエリートとしての教育の場所でもない、ただここも大衆化した学生をつめこむ場所にすぎなかったのである、理系は別として文系はそうである
だからなぜ宗教がカルト化したのか?
それは大衆宗教となったからである、大衆を相手にしいるのであり本当に求道心ある人など相手にしていない、今やそういう場所がなくなったのである
現代とは大衆に席巻された時代である、宗教もそうである、大衆宗教でありそれは容易にファシズムになるのである、結局人間がまともになるにはアウトサイダーになるほかないともなる、あらゆるものが大衆化して本来の人間でありえくなったからである
もちろんそこにも大きなも問題があるにしてももうニーチェのようになるしか本来の人間になりえないともなっているのである
●偶像崇拝の拒否から起きた一神教を日本人は理解できない
宗教二世の問題は親子二代で奴隷の霊が与えられることなのである
なぜカルト宗教問題が深刻なのかと言うと霊を支配するからである
罰当たるとか地獄に落ちるとかで霊を支配して奴隷化するからである
でもよくよくそういうことを言っている人間はどんな人間なのか?
全くの俗人でありその辺にいる普通の人である、そんな人がそんうなことが言えるの
お前が真っ先に地獄に落ちる、罰当たると言える人なのである
そんなこと簡単にわかることである、でもマインドコントロールされて見えなくなっているのである
おそらく日本人は宗教の基本を知らない、それで日本は宗教に寛容である、それがカルト宗教の吹き溜まりのようになった
ユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でももともとアブラハムを始祖して共通のものがある、宗教で一番大事なものは偶像崇拝の禁止なのである
なぜなら聖書は偶像崇拝との戦いでありその戦いから神を認識したのである
神は妬(ねた)む神として現れたからである
神は像ではない、像となるもの形あるものを神とすることに強烈に妬んだのである
これは本当に不可解でもあるが現実なのである、ねたむ神として現れたのである
だから一神教のすべての根幹は偶像崇拝の禁止なのである
いかにイスラム教では偶像崇拝を恐れているかわかる
人物像は像になるものは一切壁の模様としても描かかない、幾何学模様だけなのである
それだけ偶像を描くことを恐れていたのである、なぜなら神から恐ろしい罰があるとして恐れていたのである
でも日本だとこういう宗教の基本が欠けているのである、やはり仏像を日常的に拝むとかありそれも問題だった、教祖でも偶像化しやすい、一時オウムの麻原が偶像となったし
創価だと池田大作が偶像化したからである
ともかく宗教というとき本当に偶像崇拝が一番の問題なのである
ただ不思議なのは神社だとそこに偶像となるものがない、何に拝んでいるのかわからないのである、だから神道は謎である、御神体が自然だともなっているのである
●カルト宗教団体から真善美は生まれない、文化は生まれない
いづれにしろカルト宗教とか現代文明の病弊から生まれたものであり大衆社会から生まれたものであり本来の宗教とはまるで違ったものである
だからそれをなくすことや正すこともむずかしい、なぜなら大衆社会になったとき指導するものはいない、否定されたからである、マスコミがNHKが指導するものともなったからである,NHKの言うことはみな正しいともなったからである
NHKも偽善なのである、何か善人の顔しているが実際は悪人だということもある
それはカルト宗教でもそうである、天使を装うサタンなのである、要するにこの世は偽善が多すぎることなのである、偽りが多すぎるのである
そして社会は何らかみんなブラックなのである、つまり社会自体が暗黒社会なのである
罪の社会でありもうそれを正すことは不可能である、だから滅びるほかないともなる
罪の清算の時が来る、それは近いのかもしれない、もうあらゆることが限界に来ている
それで大清算のカルマの清算の時がくるともなる
カルト宗教もその一つでありそれは虚偽のものであり意味ないものであり大衆を洗脳するサタンに操られるものにすぎないのである
いづれにしろこの世は暗黒である、その闇は深く晴れることがない、ただ自然は美しいのである、そこにこの世の救いがあるとなる
カルト宗教を見分けるのはそこから何ら善きものが生まれないことであるし
肝心の真善美は生まれないのである、だからむしろ過去の宗教というとき問題があるにしろキリスト教文化が芸術が生れ仏教文化芸術が荘厳に生まれたことでもわかる
現代のカルト宗教からは一切そういうものは生まれない、ただ権力を操作したいというだけである、そこに集まる者も醜悪なものしかない、なぜなら教祖はサタンであり偶像崇拝しているような所から良きものが生まれるないからである
また大衆から良きものが生まれない、文化を作りだすこともない、大衆と民衆は違う、民衆は民謡とかでも文化を作りだしたが大衆は何も作りださない、マスコミとかに操作されるものでありパンとサーカスであり不毛なのである
ただマスコミではないインタ−ネットからは新しいものが文化的なものが生まれている
個々人が映像化したものが世界的に膨大に表現されているからである
そこに現代のグロ−バル化した文化が生れているのかともみる
でも現代から文化とかは生まれにくい、どうしても大衆社会であり大衆が求めるのはパンとサーカスだからである、そして大衆が権力化する世界である
一人が消費するより十人でも店に行き消費すれば金を使えば力となる
一人が消費しても力とはなりえない、だから店でも一人は相手にしない、問題は数だとなるのである、すべて人間は数としてか計算されない社会なのである
誰でもいい数を集めれば社会で権力化して支配できる社会でありそれが極端化するとナチスとなったのである、カルト宗教もそういうものとして生まれたのである
●カルト宗教団体が背後で国を操作することの危険

この図のようにカルト宗教団体は国にかかわる、国を操作しようとしている
それで内村鑑三は外国の宣教師を嫌ったのである、何らか背後で国を操るということで嫌ったのである
だからこの図のように背後に国がかかわる、統一教会でもそれが明るみに出た
これほど選挙にでもかかわり日本を支配しようとしていたことに驚いた
自民党の安倍派はもともと勝共連合時代から支援したし支援を受けていた
一心同体だともなっていた、それは儀礼的な浅い関係ではなかった
また創価の後ろには中国がいる、創価もなぜあれほど中国に肩入れしているのか?
とにか中国様様なのである、宗教と共産主義が相いれないのにそうなっている
それは政治的意図があってそうしているのか、勢力を拡大するためにそうしているのか?でも中国で布教は無理だろう、どういうわけでしてしいるのか良くわからないのである
ただ創価は権力を権勢を拡大することが目的でありそのために布教もするし会員をとにかく増やそうとしている、その権勢を拡大するためには日本だって中国に売るとなる
それからエホバは別に日本の政治にかかわるようには見えない
でも後ろにアメリカがいて工作する、その団体なのかともなる
日本キリスト教会という団体もあるけどこれもアメリカから金が入ってきているのか
なぜなら信者数が創価と他でも比べると極端に少ない、でもあまり寄付金など要求しないのだろう、だから経済的にどうして成立っているのかとなる
日本基督教団は、神のみまえに、在日韓国人キリスト者たちとその同胞に対する戦前、戦後にわたる罪責を告白し、今日の在日大韓基督教会との協約締結を感謝する。
https://wvtravelclub.jp/the-united-church-of-christ-in-japan/
統一キリスト教団体だけではない、こういう主張をもっているのである
キリスト教団体は韓国に多い、また在日朝鮮人も数多くいて影響力がある
宗教団体でも内部に入り重要な地位をしめていたりマスコミでもそうである
在日の力は表に出ていないが大きい場合がある、それはなぜかというと在日は日本人なのである、見分けもつかないし日本語を普通に使うし優秀な人も多いのである
だから不思議なのは在日でアメリカ国籍を持っている人が下関とかにいた
この人はなんなのだろうと理解できなかった、れっきとしたアメリカ国籍だからアメリカ人であり岩国にアメリカの基地があるから出入りして兵士と話したりしているのである
留学もしているから英語を話せるからである
こういう人は他にもいる、だから一体何人なのかわかりにくくなるのである
宗教団体でも様々な人が入る、国籍は問わないからである、その中にスパイも入っているかもしれないということである
だから何かこの辺で在日の小説家が住むようになったのはなぜだろうと疑問になる
在日の人が何か運動するためのなのかとも見る
すでに市役所ではアメリカから賞をもらったとか横断幕がかかげられているのである
それは背後在日の勢力がありそうなったのかともみる
●不純な動機で数だけを集めるカルト団体
いづれにしろこうしてカルト教団には様々な勢力が入ってきて工作することがある
別に信仰とも関係ない、そもそもカルト教団は信仰など目的にしていない
勢力拡大してその国を操作するとかそういうものに利用されるだけだとなる
だからどんな人が入るにしろいいのである、数が増えれば勢力拡大になるからである
そうしているのは背後にそうさせている国があってそうなっているのかともみる
アメリカと中国がそうである、統一教会の不思議はアメリカとも深くかかわっていたのである、だから公明党でも統一教会の集会に出ていたのである
そもそも宗教団体自体が何か純粋な信仰を求める場所でなはい、不純な場所なのである
信仰は別に教会に入らなくても唯一の神を知ることができる
私は一回も教会に行ったこともないし全く別な創価とかのカルトで運動していたからである、だから本当に奇妙だともなる、ただ私に言えることは私は政治運動に興味もなかった私が求めていたのは死の解決だった、それで宗教を求めていたのである
結局宗教でもその人自身が動機が純粋であれば汚れることはない、創価にいい女がいると金持ちになれるとか金銭的にも援助してくれるとかなんとか得することばかり考えて入る人が多い、つまりそういう不純な動機の人達が膨大なのである
そんなこと考慮しないのである、創価だったら一票になればいいだけである
そうした余りにも不純な場所がカルト教団なのである、それは天使を装うサタンに操作される場所である、その背後に教団を利用して別な政治目的があり利用されるとなる
自民党なら利用してまた利用されるものだとなる
それが一つの権力集団だからそうなる、その権力に目をつけるからである
一票でも得られればいいとなる、それが権力をつくるからである
要するにこうしてみんな権力を求めているのがこの世なのである
権力となるのが金であったり軍事力だったり現代なら一票となる数なのである
宗教が権力化すると本来の宗教でなくなる、神が見るのは心だとするとき個々人の心を見ているからである、数とか権力化したもの建築でもこの世の威勢を誇るものでもない
個々人の心を見ている、心の清い人は神を見るだろうというときそうである
でも宗教とは必ず政治にもかかわりこの世とかかわりこの世的なものに変化する
そしてこの世の人間の欲望のためにも利用される政治にも利用される
そして日本人は宗教の基本を知らない、偶像崇拝がどれほど危険なものか知らないのである
そしてそもそも本当に神を求めるなら牧師とか教祖とかそうした仲介者を通さないことである、その人達でもいかがわしいのが多いからである
その人たちあたかも神の取次人のようになり権威を持ち権力を持つからである
誰も仲介がなくても神を知ることは個々人でできる
そこに仲介者を立てないことなのである
その仲介者は天使を装ったサタンになるからだ、そして偶像化されるのである
だから禅宗だと何か偶像崇拝を拒否する,師まで殺せというときそうである
それは師でも弱者はどうしても偶像化するからそうなったのである
そういう宗教の基本が日本人は教えられていないからカルト宗教の吹き溜まりのようになったのである、ただ外国でもカルトはあるから一概には言えない
でも日本はカルトとかに抵抗なく洗脳されやすい民族だともなる
2022年07月22日
いつの時代も言論の自由はなかった (人間の権力を求める、宗教も権力を得るために利用される)
2022年07月20日
なぜ韓国でキリスト教徒が増えたのか (日本の支配の反発から民族キリスト教となっていた)
2022年07月18日
宗教が政治化、経済化、科学化、大衆化で本来の意義が失われた (グロ−バル化も制限が必要ータブーを破ることは危険)
2022年07月16日
宗教とは何なのかー個々人のカルマは集団組織で解決しない (カルマは個々人が苦しまない限り解決しない)
2022年07月13日
人間の価値とは何なのか (天職−適職を見出した人は価値があるー金ではすべて計れない価値)
人間の価値とは何なのか
(天職−適職を見出した人は価値があるー金ではすべて計れない価値)

●大工の技をみがき価値となる
人間の価値を見る時、何を見るのか?
どれだけ金を稼いだとかで見るのか?
でも人間の価値は金ですべてを計れない、もし金ですべてを計れば巨額の遺産を残した人が金を残した人が価値ある人となるからだ
大工さんを例にとればその価値は大工という技術を身につけたことにあった
その人は庭作りもできるたし壁塗りとか家作りに関する多様なことができたので特に価値があった、でもその人は他にも器用だからいろいろな仕事をしている
それは評価できないのである、でもそれで金を稼いだことは確かなのである
立派な家建てたりしたのも大工意外の仕事をしたからだとなる
ただその仕事は水商売であり評価できるものではなかった
そして最後に老人となってその人が何が価値あるか判明した
それはその人の大工としての技量でありまた庭作りできる技量だったとなる
確かにその人は他でも稼ぐ人だから高価な車も買った、それをみせびらかしたりした
でもそういう車を持っているからはその人の価値とはなっていない
立派な家を建てたとしてもそれがその人の価値となるとは限らない
私自身も家のことを延々と書いたが他者にとってはそれが価値とは必ずしもならない
親から家を受け継いだ子供にとっては価値があるとはなる
エッセンシャルワーカーとか言われたがエッセンシャルバリューとなるものが何か老人になって判明した、それは15歳から大工の修行をしてその技を磨いてきたことである
そこにエッセンシャルバリューが生まれたのである
その他のことは確かに金になっても価値にはならなかった
その人は体付きからしてまるで大工になるために生まれたように見えたのである
私自身は体力がないからうらやましいと見ていたのである
体の造りからして違うなと見ていたのである
大工とか建築関係になるとどうしても体力が必要なのである
重い庭の石を動かそうとした時はびっくりしたのである
どこでも比べ石とかが文化遺産として残されている
それは機械がない時代は力があることで一人前とされていたからである
●天職適職につくことの困難
ともかく人間の価値は多様であり人間には天職があるというのもわかる
生まれつき大工のような人はその人は修行したにしろみんながなれるとは思えないからである、その人の天職だと見た、そういう人はいろいろな分野でいる
医者でも農民でもいる、農民になるのも相当に自然に通じていないとてきない
みんなが農業で成功することもない、そこに篤農家が生れ指導するものとなる
漁師などもそうだろう、やはり天職というものがある、そういうふうに自分の特質を活かした人はその価値が認められる、価値ある人間となる
ただ俺たちは社畜なんだよなとか常に言っている会社員はそうなっていないのである
ではこうして天職についている人がどれだけいるかとなると相当に少ないだろう
たいがい会社員というとき集団で仕事しているのだからその仕事がわかりにくいこともある、江戸時代とか戦前でも職人の時代は天職が見えたとはなる
まず人間が仕事するとき金をどれだけ稼ぐかが問題になる、給料をまずみる、その仕事が自分にあった天職なのかとか見ない、また自分のことがわからないから自分にあった仕事をすることにならない、だから会社をやめる人が多くニートが引きこもりが多くなったのである、私自身もそうだったからである
天職とかでなくても何かその人にあった職につけないのである
私自身は奇妙だがこうしてプログであれ文章を書いているのが自分にあっているとつくづく思った、人前でしゃべることが苦手だからである
それをたまたまインタ−ネットという技術が生まれてできたとなる
いづれにしろ人間がどう生きるかというときどういう仕事につくかするかが大きな問題になる、大方が社畜として生きるとなれば大きな問題になる、でも現実はたいがい会社員になるのだからそうなる、その会社でも自分にあった仕事をして生きがいを見出して評価されればいいがそれがないとしたらその価値はないともなる
そうしたら人生そのものが無意味になる
人間が死ぬとその価値が必ず問われる、死ぬと公正に評価される、それで阿部前首相が
突然の死で問われる、意外と世界から評価されていたとなる
これもなかなかわかりにくい、阿部前首相は絶えず批判されていたからである
逆に外国に金を使いすぎたとして批判されていたのである
そもそも政治家の価値というのもわかりにくいのである、阿部前首相は死んだのでその政治家としての価値が問われ評価されたとなる
でもその評価もいろいろあるからわかりにくいのである
●金にまどわされて本来の価値を見失う
人間の問題はあまりにも金にまどわされる、金しか価値が見えないのである
でも金で計られない価値も多くそれがエッセンシャルな価値となる
それがその人を本当に評価されるべきものだと判明する
とにかく人間の価値でも老人になると自ずと判明してくるのである
だから金だけを求めて生きる仕事するとなるとその人の価値を作れないとなる
立派な家を作り高価な車を買ったとしてもそれが価値とならない
他者にとってはならない、他者にとっては家を建てるにしても修理するにしてもその大工の技を見て価値を見るからである
芸術家とかになると学者とかなるとその作品とか論文で価値をみる、だからわかりやすいその他の職業の人の価値は余りにも多様でわかりにくいのが現代なのである
それは大きな会社で働いているから個々の価値が見えないからだともなる
車でも昔の職人のようにとても一人で作れるものではないからである
その部品の数も多いし総合的に人間の技が結集したものとして作られるからである
最近ヤマハからでた電動自転車のWABASH RTはヤマハの電動自転車が開発した最高傑作である、それは40万以上でも価値がある評判である
これを買おうと思ったけどもう買えない、いつできるかわからないというからだ
前もコロナウィルス騒ぎとかで部品がないとか半導体不足とかで人気商品が作れない
買えない事態になっている、それはバイクでも二月に注文して一〇月に買えたとかなっている、今物が買えない、こういうことは経験していない、それが残念なのである
でもこの自転車にしても誰か一人が作ったものではない、ヤマハの社員が総合的に力を発揮して作った、三人くらい設計した人が出ていたがやはり会社で総合的に作ったものである、だから昔のように一人の職人が作ったものとして評価するものではなくなっている
人間はやはり仕事が大事である、金になる金にならないとかでなくその人に合ったもの
天職とか大げさなものでなくてもその仕事についたらその人の価値が作れる
ただ複雑多様化した現代ではそうした仕事につくことがむずかしい
みんな不如意な仕事についているのである、だから不満が多いのである
今回阿部前首相を銃殺した人も能力はかなりあったがそれに見合った仕事につけなかったその不満が阿部前首相にぶつけられたともなる、もしその人なりに合った仕事についていればいくらカルト宗教団体に財産を奪われたかあってもそうはならなかった
ただ氷河期世代とかはまともな職につけなかった人達であり不遇だったとなる
●人間は無駄に時間を使いすぎるーそして本来の価値を見失う
では私の天職とは何のか?生涯無職であり旅が仕事でもあった、でもいろいろと探求はしてきた、その成果を今出している、こうしてプログとかインタ−ネットで表現している
それが天職だったともある、ただこうして書いても創作しても現実的には金では一切評価されていない、だから何の価値があったとかされるだろう
でも金ですべては計れないのである、芸術とかなると特にそうである、価値が計りにくいのである、実業の世界だったら計り安いが芸術とかなると計りにくい
だから現実は画家でも芸術家になると金にならず悲惨な生活になったのである
自分は家族に恵まれてそうならなかっただけである、金のためにしたことはないからである、自分の好きなことをしてきただけだからである
ただそこにも相当なマイナスがあり失敗したとなる
結局後悔しない人生はない、それは人生が余りにも短すぎるからである
何か試しているだけで終わっている、何かになろうとして試すことすらできないのが現実社会なのである
だから昔だと職人になるには一八才では遅い、物にならないとして断られたということでもわかる、早いうちから訓練しないと物にならないのである
このように人間は時間がたちまち過ぎる、そしてみんな老人になり後悔しない人はいないのである
結局人間は無駄が多い、時間の無駄が多すぎるのである、それは私はこうなりたいとかこういう仕事をしたいとかないからだともなる
またそう思っても誰でも医者にはなれないし自分の思うような仕事にはつけない
それで私のように仕事につけず旅ばかりするようになった
でもその時間は無駄ではなかった、そこで見聞を広め地理とか風土に興味をもったからである、そこから学問でも芸術にも興味をもったとなるからだ
要するに人間は天職につけといってもできない、ただ天職についた人はまれにいる
この人は大工が天職なのだなとか、医者に接してもこの人は医者が天職なのだなとか
この人は陶芸とか天職なのだなとかある、でも大方は天職を見いだせず終わっているともなる、それよりロボットのような仕事をさせられるのが現実であり多いとなる
私が経験した仕事が流れ作業だったということでもそうである
何か自分にあった適した仕事につくことは普通はできない、そのためにニートとか引きこもりが今多くなるのは理解できる、そんなことは贅沢だとなるがやはり自分にあった適職がなかなかない、そもそも人間は食べるために仕事しているともなる
天職とか適職は極一部の人しかないともなる
ただ自分の適職天職を見出した人は接していても価値を感じる、その人の価値を感じる
そしてその人はその仕事に満足するとなる、でもその適職でも天職でも必ずしも金になるとは限らない、とはいえ金の多寡ですべての価値は計れないのである
結局例え金になったとしてもその人の天職、適職でなかったもので稼いでもその人の価値にはならない、エッセンシャルバリューにはならないのである
とにかくどうしたら自分の価値を作れるのかそれが人生の初めから若い時から作っていかないと後悔する、大工でも昔なら戦前でも江戸時代でも一三歳からでも修行していないと物にならないとなっていたからである
理系はいいとして文系などは大学すら何も身に着かない、むしろ職人として大工であれそれを見習った方が技が身につくからいいとなる
文系の大学だと何ら社会で生活するものが身につかないのである
その貴重な四年間を浪費するのも大損だったともなる、そういう時間をとりもどせないからである、それで退職してから勉強したいと大学に行く人もでてきているのもわかる
つまりいかに人間はいかに貴重な時間を無駄にしていることを痛切に感じるからそうなるのである
2022年06月30日
流動性知能と結晶性知能 (老人は経験でも知識でも結晶してゆく―万物の霊長としての人間)
流動性知能と結晶性知能
(老人は経験でも知識でも結晶してゆく―万物の霊長としての人間)

この言葉がいい、結晶してゆくとはこれまでの経験知識でもまるで原子が多様に結合するように明確になりまさに結晶してゆく
そればどうしても若い時はできない、自分自身でも不思議に思えるのは本が千冊あったとしてもそれを読んでも忘れていた、でもその本の内容を深く理解して自分の文脈の中で解説したり表現できるようになった
洞察力とか考察力とかがついてきて何事深く理解できるようになった
それでそうして集めた本を読み直して引用できる
ただ本を集めただけだともなるがそれも無駄だとはならなかった
本とはその人の一生とかを語るものがある、なぜなら最近読み直した本の著者すでに死んでいる人が多くなっているからだ
となるとこの世に残した物は本でありそこにその人の人生が凝縮されて結晶したものだともなる、第一もう死んだ人とは直接会えないからだ
そもそも直接会える人は少ない、本を読んだとしてもその著者と逢うことはないからである、でも人間はたちまち死ぬ、すると何を残すのかとなる、その人と逢うことはないし
また生きていた時でもその人を知ることはむずかしい
そして死ぬと何が残るかとなると本とか何か作品だとなる
そもそも知識でも天文学的に膨大でありそのほんの一部しか理解できない
また経験するにしても極わずかしかできない、そこにどうしても偏りが生まれる
専門家でも象牙の塔にこもり何か世間離れしているとか弁護士とかでもむずかしい法律の理論をふりまわして煙にまくとかなる
膨大な天文学的知識がそれぞれ専門家して互いに通じあわなくなっているのも現代であるおそらくヨ−ロッパの中世社会とかだと社会全体があって石の大聖堂がありバッハのパイプオルガンがその大聖堂にひびきわたる、絵画でも部分化したものではなく大聖堂の中で活かされる、社会が一つの有機体としてあり結合していて分離できないものとして一体としてあることで人々は深い連関性をもって生きていた
それが部分化してばらばらになったのが現代である
田舎ですら一万くらいの町でも隣の人が何をしているのかわからないということがある
職業も多岐に分化して広域化してグロ−バル化して互いに意思疎通ができなっている
言葉が通じないという時、バベルの塔と同じである、文明はバベルの塔であり互いに専門家して言葉が通じなくなったともなる
理系とかなると複雑であり文系と分化して互いに意思疎通ができなくなっている
そこでどうしても現代社会は一体感をもつためにナチスのような全体主義、ファシズムになる、共産主義も全体主義として変わらないし人間を一様なものとして見るからである
カルト教団なども全体主義であり個々の人間には関心がない、その人がどんな人なのか
そんなことは考慮しない、どんな人でも一票としてかカウントしない、様々な属性は無視されるのである、一人の人間でも様々な属性がある、単純なものでは男女でもそうである男という属性があり女という属性がありそれは相当に違っている
でも一票にしたら同じ一票だとなってしまうのである
つまり民主主義自体が人間を統計的数字としてみているのでありその人の持っている属性など関係ない、一人の人間のもっている属性は多様でもそれは無視される
地域の属性も大きな属性であり、どこに生まれ住んでいるかでその人か基本的に形成されるからである、年齢の属性もある、世代間でも考え方は違ってくる
ともかく老人になるとこれまで蓄積した知識であれ経験であれ結晶して来る
一見無駄に思えた雑学的知識でも深く理解して結晶してゆく
知識とは膨大だから個々人によって貯えた知識も違っているのである
それが最後にその人なりのものとして結晶する、ただカルト教団とか組織団体でも会社でも社蓄とかなっているとそれはその人なり知識とならず知恵とならず表現ともならないとなる、共産党でも個々人は細胞という、創価でももうそこには個人としての生はない
だから全体主義は違っているようで同じ性質があり似通っているのである
マルクス主義も全体主義だからである、個々の人間はみない、経済人間としてしか見ないからである、政治化すれば人間は一票としか見ない、政治的価値はどんな人でも特別優れた人でも天才でもなんでも一票で同じなのである
どっちにしろ巨大組織集団になれば人は番号化されて数がすべてとなる
それぞれが持っている属性は無視されるのである
それでどうししても人間が万物の霊長となるときただ数字化されるときその存在感はなくなる、数字は番号化すれば様々な人間の属性は無視されて消失する
人間が万物の霊長となるには自然とアイディンティティ化する存在だということである
山があれば山とアイディンティティ化する、山のように沈黙するとか石のように沈黙するとかなる、自然を擬人化することにもなる、それはエジプト文明では動物が人間化していたことでもわかる、それは偶像崇拝にもなったが人間の顔が動物となっていた
原始人のトーテムでもそうである、動物と人間が一体化したのである
現代人はもう機械と一体化してロボットにもなる、そこに動物との交流がなくなり同じ生物として通じるものもなくなる
人間がアイディンティティ化するときどうしても狭い範囲になる、その常時住んでいる場所でありそこで自然と一体化する、土着して一体化する
第一狭い範囲でもその土地のことを知るのはむずかしい、それだけ狭い地域でも多様であり複雑だからである、そこにまだ発見されない神秘的領域がある
それは依然として隠されているのである
東京のような大都会ではすでに生態系とか自然を意識できない、ビルの谷間で蟻のようになり人間はただ数としてあり巨大な人工的空間で万物の霊長などはもうない、万物というとき植物でも動物でも自然と一体化した人間のことだからである
大都会では何とアイディンティティ化するのかすべて経済人間であり宗教でも自然とは無関係である、ただ数を集めて誇示するだけである
人間は図形的に□か○でしかない、その他の多様な万物の霊長としての属性ははく奪されてロボットのようにされるのである
そこにめいめいの顔もない、同じロボットの顔しかない、カルト教団になればその教祖とみな同じ顔になる、そして異様なカルト教団の教祖が獣の印を押すのである
それで不思議なのはエジプト文明である、なぜピラミッドのような幾何学的精巧なものを作りあげたのに動物と一体化したアニミズム的文明だったのかとなる
まさに動物とも一体化していた、動物をみて神とみてその性質から神と崇めたのである
それは偶像崇拝であってもやはりそこに自然と通じて万物の霊長としての人間があったとなる、鷺について詩を書いたが鷺を見ていると本当に不思議である、それはまさに自然と合一してある、自然を決して乱さず忍び足で細い脚で歩む、それは絶妙であり自然と一体化するのである、人間はこのように一体化しない、そこに道具とか機械とかが介在して
自然と融合しないのである、車という物体が社会を席巻していてもそれが自然と合一したものではない、自転車だと風を受けて走るから自然と融合するのである
車だと風をさえぎり光でもさえぎり自然を遮断するのである
なぜ現代文明から大都会などからカルト教団とか異様なものが生まれるのか?
それは自然と遊離してアイディンティティ化するものを失っているからである
そこでは人間は数としてしか機能しない、見れないのである
それでシュペングラーの西欧の没落が数の考察から始まっていることでもわかる
経済人間となればこれも人間の社会の数字化でありあらゆことが数字化なのである
放射線被害でもコロナウィルスでも数字化されるて見る、経済でも常に数字で見る
でも一個のリンゴがあるとしてその性質がありそれはただ一個ということではないのである、いろいろなものを数として表現するときその属性は失われるのである
果物でも野菜でもそうだがみんな違った性質がありそれで意味をもっている
ただ数として表現すればその性質は失われるのである
20世紀は全体主義の時代だった、全体主義とは価値の平均化であり組織化集団化して
人間の属性を無視して一様化することである、そして数字化することである
そうして共産主義でも一千万人とか粛清して殺されたとかなる時代だった
ナチスはまさに人間を人間と見ない、数としてしか見ない、個々に対することがあれば例え相手を軽蔑したりけなしたりしてもやはり相手は人間として認めてそうしている
でもナチスとなると相手は人間ではない、一つの物のようにしか見ないのである
無機的存在となりただ数としてしか数えられないのである
現代で数学が最重要なものとなり統計が重要となるのはそのためである
理系が優先されるのもそうである、もちろん文系は勉強もしないから当然だとはなる
でも理系優先すぎるというか科学技術がすべてとなった世界は問題がある
また経済としてしか人間をみない、グロ−バル化すると毎日の関心は株とかしかない
それも数字でありグラフでありそこに多様な属性をもった人間はいないのである
金が数字となり計られる世界である、そしてもうグロ−バルになると計りえない世界でありそれが陰謀論になるのである
経済的グロ−バル化の次は個々の国であれ地域であれ人間であれ文化を基にしたものとなる
文化とはグロ−バル化のように数値化して計る経済とは違う価値観である
数字化できないのが文化である、固有の文化である、物量の価値ではなく質の価値であるそれは地域地域の価値でもある、それは数字化して一様化できないのである
文化の時代になるとき固有の価値がそれぞれの地域で国で華開くとなる
フランス料理、中華料理、日本料理がある
でもアメリカ料理とかイギリス料理は貧弱である、量の料理にもなる、
こうした文化もアメリカに戦争に負けた時食まで一様化された
ハンバーグなどは料理ではない、でもその味にならされて一様化したのである
ロシアでもマグドナルドがあり味まで一様化したのがアメリカのグロ−バル化だったのである,グロ−バル化とは経済優先でありそこに個々の文化の否定があった
肉食はもともと日本では希薄だった、漁労民族だからである、でもそれもグロ−バル化して肉食化したのである、それで欧米人は肉を消化する酵素が出るということで肉食に体も適応して作られてきた、日本では漁労民族であり魚主体の米が主食の文化だったのであるそれで腸が長くなった、これもやはり人間はその土地と一体化するアイディンティティ化するから体もその土地の成分で作られるともなっていた
そういうことを外来文化で破壊された、本居宣長は唐心と大和心がありそれを分けたそして日本の精神を言葉から探求した
グロ−バル化でかえって日本の文化は見失われた、だから日本の文化の根源が言葉にもあるというときそこを見直すことが日本文化の再生、ルネサンスになるのである
万物の霊長としての多様な属性の中に生きることで人間回復する
これは組織集団ではできない、そこでは一人の人間は相手にしない、数としてしか見ない結局一票としか見ないとなる、どんな人でも一票だからはそれぞれの属性ははく奪されて抽象的存在となる、それで民主主義から多数決からナチスが生まれたことでもわかる
多数こそ正義であり力でありあらゆる多様な人間の属性ははく奪されてロボット化されるのである
2022年06月27日
組織集団化して平等にできない人間 (創価でも共産党でも個々の人間の運命カルマを無視して失敗)
組織集団化して平等にできない人間
(創価でも共産党でも個々の人間の運命カルマを無視して失敗)
●創価とカルト教団とは何なのか
日曜討論でNHK党の黒川氏が統一教会とか創価とかをあからさまに批判したことは驚きだった、そもそもNHK党などをNHKの場に呼んだこと自体驚きだったとなる
そこで確かに公正になっていた、でも司会者はその発言を懸命にとめていた
そこにいた議員も唖然としていたかもしれない、NHKでそんな人を呼ばないからである
黒川氏とかはyoutubeでなじみでありまた参政党でも武田邦彦氏がシンパになっているのでそういう政党なのか理解した
それはインタ−ネットがすでに架空のものではなく現実社会化していることなのであるすると自分でもそうだが浮動票が過激な党にも流れてゆく
そして浮動票が6割があるということの驚きである、その人たちの票が流れれば政治も変化する、NHK党がNHKに出たことでその影響は大きいのである
裏にあったものが表に出てきて現実社会を変えてゆくようになる
そもそもカルト教団とは何なのか?
それは本来の宗教とはまるで違ったものでありおそらく現代文明の混沌から生れたものでありナチスと似たものにもなる、何かそこでばらばらになったアトム化した人間が一体か感をもつものとして生まれたからだ
創価でも団地の宗教として相互扶助機能として生まれた、そうしたものが小規模なら問題はなかったのである、団地の宗教として小規模なら問題なかったのだが巨大化してナチスのようになったことで日本全体に影響するようになったのである
ナチスも現代文明の病的なものが現れた結果だとしてピカートが説いた
それと同じようにカルト宗教団体も本来の宗教とは違う、なぜなら本来の宗教はすべて自然と密着して生まれたからである、その宗祖を見ればわかる、キリストであれシャカであれモハメッドであれ大都会からではなく田舎からまた岩窟で悟りを開いたりモーゼのように砂漠のシナイ山で神と出合い啓示を受けたからである
団地の宗教とかはありえないのである、まず東京とかの大都会とはそもそも宗教とは無縁である、高層ビルを見上げて人間はもう卑小化してロボットのようになっているからだ
山伏などは何か胡散臭いものとみているが山を聖なるものとして修行したのだから六根清浄を山で心を浄化しようとしたのだからこっちの方が宗教的だったのである
天台宗とはそもそも中国でも山岳宗教なのである、ところが現代のカルト宗教団体はそうした六根清浄などは求めない、極めて政治的であり経済的であり社会的であり人間の心の問題とは関係しないのである、創価は極端であり眼中にあるのは一票をとることとそして権力と密着して利益を得ることしかない、みんな政治的野心があり経済的野心がありそういう人達が入ってくる、どんな欲望も是認される、むしろ奨励されるのである
もっと欲を出せそして祈ってかなえろしかないのである
煩悩即菩提となり煩悩でも欲があってこそ菩提になるとなる
いづれにしろ理論などどうでもいいのである、目前の欲を達成することが目的である
それは文明病ともいえるものから生まれたものである
ニーチェなどでも異常と見えるが自然の中で人間のアイディンティティを求め偉大なものを求めた、ニーチェが批判した大衆こそが現代人なのである
それはカルト教団に象徴的に現れてナチスとも共通していたとなる
●人間を平等にできないー創価とか共産党の思想
この世には底辺層が常にいる、富裕層と下層階級が常にいる、その不平等がどこからきているのか?
これも不可解なのである、人間を平等にすることは人間の歴史で達成しなかった
マルクス主義でもそうである、平等を目指したが結果的にはソ連でも中国でも結果的にはとんでもない格差社会になった、共産党の書記はまるでエジプトのファラオのように神のようにされて葬られた、中国では共産党幹部が兆の金を得るまでになった
つまり平等を目指してかえって不平等になったのである
なぜ人間社会に不平等があるのか?
それが不可解なのである、自分自身を例にとっても本当に不可解なのである
自分の父親違いの兄は自分の家に来ても不幸だった、愛されることもなかった
母親は後妻であったからだ、そして集団就職して40才で交通事故で死んだのである
家族ですら兄弟でも不公平があり恵まれる人は恵まれる、これは何なのだろうかとなる
つまり社会に不平等があるのではない同じ家族でも不平等があるのだ
兄弟間でも不平等がある、それで親の介護になるとお前は親に良くされたのだからお前は介護しろと言われるのである、それは自分自身がそうだった、自分は特別親に良くされたから結局これまで書いてきたように自分自身が病気にもなり二人の親の介護で四苦八苦して死ぬような苦しみになった、つくづくこれも楽した結果としてのカルマだったのである
だから不平等というとき人間がもってうまれた運命論になってしまう
インドではそうなった、人間は家族でも不平等なのだから社会自体も不平等なのである
なぜではそうなっているのか?
それはもってうまれついた宿命論にカルマ論になる
カースト制が根強くインドに残っているのはそのためである
そこに運命の不可解があるからた
それを理解したのが猫を飼っていた、その猫はなついていた、その猫がいるとき外から餌をねらって別な猫が入って餌を奪っていた、でも私はその野良猫をはたいたりして追い払っていた、でもなついた猫は死んだ、すると追い払っていた猫にこれもかわいいとか餌をやるようになったのである
人間の運命の不思議は誰かが死ぬと誰かに恩恵があるということである
私の父親違いの兄は私の母親の父が事故で死んだのである
だから後妻に入って私が生まれたのである、私は父親にも愛されたが兄は愛されなかったそして40才で交通事故で死んだのである、その経過はその本人にも問題があった
離婚したとか借金したとかいろいろあってそうなったからだ
ただ運命の不可解はこのように誰かが死ぬと誰かが恩恵があることなのだ
その女性は不運であり離婚を二回している、でも親しい男性がいてその男性の妻が死んだ結果としてその男性の所に通い助けられるということにもなった
もともと離婚して相手は何か病気になったときも助けることがなかったとかある
その時その男性が助けたということで恩を感じている
ただこうなったのもその男性の妻が死んだことによるのである
これも猫の運命と似ているのてある、ここに運命の変遷がある
私の所にもその女性が来るようになったのは親が死んだからだともなるからだ
だから運命とは一様ではないし不可解なのである
●人間の運命の不可解
それで共産主義であれ創価などのカルト教団でも不幸な人が比較的入るのだがそれで集団指揮組織的に運命を変えることは無理だともみる
それは悲劇的なことになった、カンボジアでは二百万が死んで骸骨の山になったとか記念館がある、ソビエトでも千万人が粛清されて殺されたとか中国でも共産党の文化大革命で毛沢東の命令で千万人単位が粛清されて殺されたとかある
それはなぜなのか?
人間の個々の運命を不運な人でも平等にしようと無理にしたからではないか?
人間とはそういうものではない、人間の運命は不可解であり一様にできないからではないか?
人間の運命は集団的組織的には変えられない、個々に複雑にからみあっていてみんな平等にはできないからではないか、創価とかでも宗教でも本質的には共産主義と近い
ある都会の住宅地では必ず創価か共産党に入っていてコミニュティを形成する
下層階級として共通だから意外と創価と共産党には似ているのである
そこで票の取り合いとなり争うのである、犬猿の仲にもなる
創価は宗教としてもそれは本来の宗教とは何の関係もない、でも宗教を標榜しているからやっかいなのである、何かというと地獄に落ちると罰当たるとか言うからである
何も経済を良くして貧困者の味方となるというならいいのである
宗教的救いとはまた別だからである、それでも常に宗教的呪縛があり政教分離できないことが問題なのである
すべてを宗教としてみる、信仰からみる、それも御利益が福運があればいいとなる
でも近くでも奨められて貧困家庭で入信したがその息子は若くして病気で死に次に母親も死んだのである、それは何なのかとなる
ただ創価でもどこでもそうして不幸の家は人はいる、現実に自分の父親違いの兄がそうだったからである、創価とかなると本当にそういう人はいくらでもいる
他の人達よりもともと不幸な人が多いのだから当然だとなる
要するに人間の不幸はそうしたカルト教団に入っても共産党とかの政治でも解決しないのであ、人間の運命が不可解だからそうなる
●平等を追求してもかえって不平等を作る
この世から不幸をなくしてみんな幸福にできるのか?
確かに科学技術であれ何であれそういうことは努力してきた歴史がある
でも人間は平等にならないのである、そして人間はある面では平等である
どんなに恵まれてもやはりどこかで苦しむようになっている
私は恵まれたが最後は親の介護で死ぬほどの苦しみを受けた、それもカルマだったとなるどんなに恵まれても何らか必ずカルマを持ちカルマを受けて苦しむのである
そういう点では平等だともなる、恵まれた人でも富裕な人でもそうしたカルマから逃れられないのである、カルマはめぐってくるからである、また恵みもめぐってくるからである金は天下の回りものだというときもそうである
必ず金は一か所にとどまらない性質がある、世界的にみても栄えた国があったとしても衰退して次に栄える国は移るのである、アメリカが繁栄してそれも衰退して次は中国が繁栄するとなる、そういう覇権国はヨ−ロッパでもポルトガルースペインーイギリスとか覇権国が変わって繁栄も移ったとなるからだ
人間の幸福は個々に運はめぐる、恵みはめぐる
悪いカルマもめぐり苦しめる
人間の運命ほど不可解なものはない、恵みはめぐるなのである、だからある地域が豊になるときそこに農業だったら篤農家が優秀な人がいてそれで特産物を作ったりするとそれが地域の他の農家もまねて全体が豊になることがある、そういうことは国全体でも言える
幸福とか富とか運でもめぐりめぐっている、逆に不思議なのことは誰かの不運が誰かの幸運になっている、誰かが死んで必ずそれで利する人もいるのである
それが猫とか人間関係にあった、確かに誰かが死ぬということは不運でありいいことではない、ても確かに誰かが死ぬと誰かが得して他者の運命も変わってゆくことがある
そもそも誰かの不幸が誰かの幸福にもなる
ギャンブルだと誰かが得すれば誰かが損する、宝くじでも同じである、なぜそうなっいるのか不可解なのである
また逆に誰かの不幸が回り回って自分の不幸になったり誰かの悪いカルマが自分に回ってきて苦しむ、悪いカルマも回り回ってゆくのである
それを介護になり嫌というほど経験した、なんでこんなに苦しめられるのかと考えたがそれも悪い他者のカルマが回ってきたからだと思った
何か殺人とかでもある人が被害にあうのはなぜなのか、全くの偶然なのかとなるとそうでもない、何か因縁があり他人の悪いカルマが回って来たのである
まず人間は一生を見れば楽に終わる人などいない、どこかで苦しむようにできている
意外と長く人生でも苦しんできた人でも最後は楽だったとかなりまた長く楽だった人が最後になって塗炭の苦しみにあうとかある、最後まで人間は楽に終わらないのである
人間のカルマは罪障というかそれは必ず現れる
ただ誤解するのはこうしたカルマとか罪障を組織して集団では解消できないのである
なぜならそのカルマとか幸運とか富は個々に回ってゆくからである
確かに国単位でもカルマがありカルマは回ってゆく、でも基本的にカルマというとき個々に回るものであり集団組織化して解消しないのである
組織化集団化して解消するときかえってそれが不平等になり全体主義が共産主義でもカルト教団でも宗教でも悲惨なことになった、かえって無理に平等にするために千万人とか粛清されて殺されたからである、それは何か人間の運命を人為的に人工的に機械的にでも解決しようとして失敗したともなる
それは人間についての考察が間違った結果ともみる、ただ極端な不平等は何らか社会全体を歪める、またそういう大金持ちはそのために莫大なカルマを持ち自滅するように思えるアメリカが衰退するのもそうである、どうしても極端な格差となり国自体維持できなくなり分裂して衰退する運命ともみる、富は今度は中国に回っているのかともみる
戦後は高度成長が日本がにあって日本に回ってきたのである
それもまた日本が貧困化して衰退しているのはやはりそうなったのは金は天下の回りもの富は恵みはめぐるだからだともみる
●神の選別も不平等である
そしてカルト教団などは
『また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。』(黙示録13:16-18)
たれがあてはまる、それだけではない人類はこのように二種類に分けられるのかもしれない、そして終末に最後の日にそれが実行される
獣の印を押された人達はカルト教団員でありまた多数の人達である
現実にそこにサタンがいて教祖がいてそれがその獣の印を押すのである
なぜならナチスでもそうだったがヒットラーがいてそのロボットとなるからである
創価でも池田大作がそのサタンでありまたオウムだと麻原だったりする、それは悪魔の化身だともなるからだ、その悪魔が獣の印を押すのである
人間は必ず偶像崇拝になる、どうしても目に見えるものが神となる
特に人間が神になりやすいのである、偶像になりやすいのである、それを神は妬む神として一番嫌ったのである、宗教の基は偶像崇拝の拒否になったからである
それは聖書を読めばそれがテーマでありイスラム教となるとそれが極端化したのである
とにかく世の中はすでにそうして天国に神の国を造る人とそうではない人ととに分かたれているともなる
なぜある人が神に選ばれてある人は選ばれないのか、それも不平等なのである
ただ選ばれる人は必ずしも優れた人ではないことは確かである
この世には天才とか心身ともに優れた人がいる、でもそういう人が神に選ばれない
「心の貧しい人」が神に選ばれたのである、心の貧しい人とは経済的に貧しいというのではなく常に足りないもの心に足りないものを感じている人なのである
それはまさしく自分でもあった、何か身体的にも弱いし能力も多少はあったとしても自分にはなかった、だからなぜそんな人を神が選ぶのかとなるき奇異だとなったのである
とにかく人間の運命を全員を平等にすることは不可能である、これだけは確かである
だからこそカルト教団であれ共産主義であれ人間の運命をどう見るかでそういう思想が生まれた、ただ宗教は平等を目指さないということではない、宗教の目指しているのものが世俗的な経済的な平等ではないことなのである
いづれにしろ宗教と政治は世俗的なものとは一体化できないのである
要するに創価でも共産党でも似ている、革命が達成したら権力と富を得ることになる
それも幹部なら中国のように巨万の富を手に入る
創価でも幹部になればそうなる、それを目指して運動しているからである
その最大の運動が選挙になっているからである
一票は権力に結びつきそこで御利益を得ることになるからだ、また政治権力を得れば御利益として福運として配分できるからである
大臣にもなれるからである、ただそれはあくまでも幹部だけなのである
下々の党員であれそういうことはないのである
事実私の叔父にあたる人は共産党員だったが赤旗を配達していたがその給料はわずかだった、ただ働きと同じだった、それも細々と生活していた、乞食に近い生活でもあった
これと創価でも似ているのである、貧困層がいても幹部が身銭を切って助けることはない金を出すことはない、ただ貧困層を利用して幹部になれば金も地位も女も手に入るとなるその見本が公明党の議員が逮捕されたことでもわかる
あの人がまさに御利益と福運を身に着けた創価の模範として推奨されるものだったのである、それはその団体組織の体質があり必然的に生まれたのである
こうしてそもそも人間を平等にすることはできないのである
平等にするというのは人間を単純にみる、数字のように見ているからでる
実際は人間は余りにも複雑でありだからこそ運命論になってしまうのである
宿命転換を説いてもそれを組織的に集団的にはできない、だからこそ共産主義革命はかえって大きな不平等が産んだことでも実証しているのである
2022年06月12日
還暦までニートの人ー人生を語れない 〈二三ページしか自分の人生を書けないーこの世の価値は常に変化する)
https://www.youtube.com/watch?v=ydepfkmpVWA&ab_channel=%E3%82%86%E3%81%A3%E3%81%8F%E3
2022年04月16日
寒さがもどったけどまたあたたかくなるから耐えられる (希望無くして生きられない人間)
寒さがもどったけどまたあたたかくなるから耐えられる
(希望無くして生きられない人間)
この二日間寒い、冬にもどった、今年は寒さがつづいているのか?
でもに三日前は暑かった、灯油を買おうとしたが二日くらいならがまんできると思い
買わなかった、でも寒い、私の家は旧式の家だから隙間風が入ってきて寒いのである
老人になると寒いとか暑いのに弱くなる、私はもともと寒さにも暑さにも弱い
でもなぜ灯油を買わなかったのか?
それはもう一日くらい待てばあたたかくなる、天気予報でそうなっているからだ
そうなると二日くらいならがまんしようとなる
つまりがまんするのはわずかの時間であると思うからがまんできる
冬があるとしてそれなりに長いとしても必ず春が来るから冬を耐えてゆこうとする
もし春が来ないとしたらもう耐えられないのである
絶望しかなくなる、これは経済でも言える、日本は貧困化している、ますます貧困化して食糧さえたりなくなり奪い合いになり飢饉にもなるとかになる心配ばかりしていたら
生きる気力もなくなる
今日は悪くても明日は良くなる
こうならないと生きる希望もなくなる、ウクライナのように戦争で苦しんでいると必ず戦争が終わるということを必死に願うようになる、今は苦しくても戦争は終わる
その終わることを必死に願うようになる
戦争はいづれ終わることは確かだからである、戦争はやはり長くても二三年で終わる
でもアフガニスタンとかテロとかなるとなかなか終わらなかった
そこで住んでいた少女が戦争がないことがどれだけか幸せかと言っていたことがわかる
ともかく人間から希望がなくなったら生きることはできない
これからも寒い日がつづき暖かくならないとしたら絶望だとなる
そうなると働く意欲もでてこない、いくら働いても暮らしが良くならない
給料も上がらない、暮らしは悪くなるだけだとなれば働く意欲もなくなる
人間はやはり今日よりは明日が良くなるということが生きる力となる
なぜ今世相が暗いかというと悪いことしかイメージできないからである
経済はますます悪くなるとか貯金していても預金封鎖されるとか賃金は上がらず物価だけが高くなってくるとかいいことを言う人がいないのである
それは現実がそうなっているのだからしかたないとなる
人間はそうなると消費もしいなのである、そしてますます暗くなり景気も悪くなる
景気は気であり気分だとするときその気が悪くなっているから全体的に暗くなっているのである、景気も良くならないとなる、つまり気分の影響で景気も良くならないとなる
宗教の必要性は来世があり天国があり死んでもそこに行けるということが希望になる
なぜ宗教が過去でもこれほど頼る人が増えたのか?それは希望をもちたい、題目でも念仏でも唱えていれば来世では極楽に行けるとなっていたからだ
どん底でもそれが希望になっていたのである、病気でも治るとなれば一心に祈るとなる
要するに医療すらない時代にはそうして祈るしかなかったのである
だから会津の方でも病気が治るということで仏教が普及したのである
山伏がいたのも山で薬草をとり病気治療していた、加持祈祷がまた仕事だったのである
医者代わりだったのである
要するに人間は死んだら終わりで何もなくなるとなればもう希望はないのである
人間は死んでも終わらない、天国に行きそこでこそ本当の生が始まるとなることを信じれば希望となりこの世の辛いことに耐えられるとなる
人間はそもそも希望をとったら生きられないのである
「パンドラの箱」の中身は「災い」です。病気、憎悪、犯罪、争いなど、人のさまざまな悪行を指します。また怒りや悲しみ、苦しみといった人にとってのネガティブな感情も災いのひとつとして数えられます。
最後に「希望」が残されたのです
様々な災いがありでも希望が最後に残されたのである、この世には様々な災いが災難があるが希望があれば生きられる
悪いことばかり言われるが実際の生活ではいろいろ改良されているのである
道は良くなり様々なものが快適になっている、それは常に改良をつづけているからである悪い事ばかり言うが人間は毎日それぞれの場で働いていて改善改良しているのだから
良くなっているのである
あらゆる分野で毎日改良がつづけられているからだ、機械でもより使いやすいように工夫改良が続けられている
だからコンピュターでもインタ−ネットでもそうだがそこで学ぶ機会が増大したのである本ならどんな本でも田舎でも通販でボタン一つ押せば買えるのである
すると田舎でも独学してでも相当なレベルの知識を持つことができる
学校教育ではとても教育としてはたりないからだ、するとこれからもしかしたら日本から少数精鋭となり天才とか生まれてくるかもしれない、天才でもそもそもそういう人を産む環境がないと生まれないからである
人間はそもそもどこかで希望を見出さないと生きていけない、何するにしてもそうであるだからそもそも経済でも今日より明日が良くなるという希望がないと成り立たない
ただ金は紙切れになるとか預金封鎖があるとか恐慌になるとか食糧もなくなるとかなんとかそんな暗い事ばかり言っていたらみんな落ち込むだけでますます景気が悪くなる
そうあっても何か希望を見出してゆかねば生きていけないのである
種をまいてそれが育ち果実となるからこそ働くのである、どうせ種をまいても育たない
天候が悪いとか自然災害がきて無駄になるとか思っていたらそもそも何もできない
食料すら作ることがてきないとなる
何か現代はまさに種をまいても育たない無駄だという感覚になっているのである
でも実際はあるゆる方面で改良は改善はしているのである
ただ日本に欠けているものは何か新しい物を発明できないことである
新しい物を作りだせないことが問題なのである
人間は過去をみればもっと悪い条件の中でも生きてきた、そして改良改善してきた
何か希望となるものを見出してきたのである、常に暗黒があったがやはり希望を見出して今日が築かれて来たのである
だからなぜ未来が暗黒ばかり語られるのか?それが異常なほどそうなのである
暗い未来しか見えないのである
種をまき肥料をやりそれが育ち果実となる、そう思って働く、現実にみんなそう思って働いている、でも暗い未来しか見えない、暗黒の未来のみがあるようになっている
それがおかしいとなる、もちろん常に暗黒はある、冬の時期はある
でも必ず春が来るから耐えられるのである
明日に向かって希望の太陽は輝く
その輝きは衰えることがない
神は人間から希望を奪わない
来世の天国も約束されている
汝はその場その場で希望を見いだせ
そして勤めて希望を見いだせ
ともかく人間の苦しみは永遠にはつづかない、いつかは終わる、それを介護で感じた
介護の期間は平均的に長い、5年が平均としても十年とかにもなる
だから早く死んでくれともなる、でもいつまでも続かないのである
人間の苦しみは何であれいつかは終わる、冬はいつまでもつづかないいつかは終わり春が来るのである
だから神を待ち望めとなる、神は架空のものではなく実存するものであり約束を果たすしうるものだからである、万能の神だからである
要するに希望なくして人間は生きられないのである

我が室にオレンジリリーの一輪の咲きまた一輪咲きぬ希望なるかな
一輪オレンジリリーが咲いたそしてまた一輪咲いた、今は三輪咲いている
つまり希望とはこうして花が咲いてゆくことなのである
この世に花が咲き満ちる、暗黒ばかり語っていたらきりがないしかえってそのために景気が気が悪くなってくるのである、今は本当に経済的にも悪い気におおわれている
でも何かしらそれぞれの場で希望を見出さねば生きていけないのである
なも実際はそれぞれの場で改良改善が続けられているから良くなっているのである
パソコンでも安くてもいいものになっている、機械でも良くなっている、安く買えている20年前とかは40万くらいしていた、それも今のパソコンとは違っていて普通の人はマニアでないと使いないものだったのである
人間はともかくどちらかというと悪いことを見る、マスコミとかでも悪い予想を言う
視聴率を稼ぐために悪いことを言うのである、もちろん悪いこともありうる
でもそればかり言っていたら人間は生きていけないとなる
悪いことがあってもいいことがあるということも言わないとバランスがとれないのである
スマホで写真をとると花の名前とか関連したものがててくる
オレンジリーリーという名前の花だった
こういうふうにいろいろなものが学べるのである