2020年09月25日

人生も歴史も無念を語る (すべての人が無念で終わるー死があるから)


人生も歴史も無念を語る

(すべての人が無念で終わるー死があるから)

歴史とは何なのだろうと思う、人間の罪の歴史だという人もいる、戦争の歴史だからそうともなる、ただわかりやすいのは歴史は無念の歴史であり無念の集積の歴史である
その無念が怨念ともなる、権力闘争に敗れたり戦争で殺された人が無数にいるからだ
それで日本がの神社は怨念を恐れて祟りを恐れて祀ったというのもわかる
それだけ非業の死とか無念に死んだ人が多いのである
日本だって太平洋戦争で三百万人死んだとかある、それら無念の死であるから靖国神社がある、やすらかに眠ってくださいとなり神社があるからだ
無念を怨念を鎮める神社だともなるからだ

無念という時第一すべての人間は無念に終る、無念というときいろいろある、貧乏で苦しんで無念に死ぬというのが継続してある
また病気とか不慮の事故とかで死ぬのは今でもある、身内でも40才で交通事故で死んだそして病気で死ぬ人も無念になる、特に若い人が死ぬのは無念である
戦前までは肺結核で若くして死んだからそういう人たちは無念を残して死んだのである
母の実家には25歳で肺結核で死んだ人がいた、何かそれでキリスト教に入ったのかもしれない、啄木も肺結核で無念の死となった
いづれにしろ無念の死は数限りなくある

いづれにしろ人間はみんな無念で死ぬ、それはどんな人でもそうである、例えば大金持ちでも地位を得た人であれ美人であれ無念に死ぬ
それはなぜなのか?結局人間はすべて死ぬということにある
人間は誰一人として死からまねがれない、つまり死にたくないのである
すると死ぬことは無念だとなる、死に関しては平等である、どんな金持ちでも地位があっても死からまねがれないからだ、また誰でも男女でも老いる
すると美人でもしわくちゃのばあちゃんになる、それを見た時まるで別人になってしまう
とにかくみんな無念だとして死んでゆく、姉は死んだ「俺は優秀だった」と言って死んだ優秀だったことはわかるが認知症になってそのために馬鹿になったということでそれが悔しくて最後にそう言ったのかもしれない、ただ個々の人生をみればみんな無念に死ぬ
病気になるも無念であり人間には何かそうして無念にさせるものがいくらでもある
かなえられなものがいくらでもあり死んでゆく
私はこうしたかったああしたかったとか後悔して死んでゆく
まず老人になって後悔しない者はいないのである
どんな人生を送っても後悔しない人はいない、何か足りないものがある

後悔しない人生を送れといってもではみんなそうできるのか?
自分を社畜だとか奴隷だとか言っていやいや会社勤めしている人は老人になり後悔する
もっとやりたいことをやっているべきだったとかなる
別に自由に自分のように生きても後悔がある、社会性を身につけるために働くべきだったとなるしまた留学すべきだとかもっと海外旅行すべきだったとかある
特にヒマラヤは一回で終わったからもっと行くべきだった
なぜなら十回も行った人がいたからである
そんなに行けたのかというのが意外だったからである、それはトレッキングコースを行っていたのだから必ずしも登頂するとかではない、ヒマラヤは見るだけでいいともなる

人間の歴史自体数限りない無念の死で埋まっている、非業の死もいくらでもある
第一戦争では日本人だけではない、何千万人とか死んだとかなる
他にも権力闘争は必ずありカンボジアとかでも骸骨が積まれた記念館がある
それも非業の死だった、歴史はそうした人間の過ちの無念の記録だともなる
自然災害の死もある、津波で死んだ人たちも非業の死だとなるし原発事故の被災者も故郷に住めなくなったのだから故郷を離れて死ぬから無念だとなる

無念だというとき一番多いのは貧乏のために願いがかなえられないことが一番多いかもしれない、そもそも学校にすら行けない国もある、ネパールなどはボールペンとかすらないつまり文房具すら用意できないのだからどうして教育ができるのかとなる
世界ではまだそうした貧困な国がある
そういう場所では学校に行くことすらかなえられない、また裕福な国では学校嫌いになり行きたくないともなる、自分自身がそうだった、それは貧困な国になれば贅沢だとはなる私の父親はさしみが食いるようになったが病気で食いたくないとして死んだ
何か食べ物に関してもまともに食べらない無念があった
食べ物の恨みは怖いということにもなる

ただこうした様々な人間の無念も豊かになったり科学技術が発展して解消することがある肺結核は伝染病とわかりかからなくなったから肺結核で無念で死ぬ人はいない
他のウィルスでもワクチンができてかからなくなったから病気で無念で死ぬことはかなり減ったのである、教育でもゆきわたるようになったからそれで無念だということもない
様々なものが改善されて無念で終わることがなくなってはきた
でも人間はどんなことをしても無念で終わる
何か無念を残さないで死ぬ人はいないのである
何か無念だとして死んでゆく、動物さえ犬さえ最後は吠え続けて死んだ、それは最後の断末魔で死にたくない死にたくないと叫んで死んだように思う
つまり人間は死ぬから無念なのである

すると死ぬかぎり無念は解消しないのである、その死から解放するのが信仰になる
死ななくならない限りそれがありえないからだ、死ぬということはみんな無念だとなるからだ、死なない命を与えられない限り無念はなくならないのだ
永遠の命が与えられない限り人間の無念はなくならないのだ
確かにキリストは十字架で無念に死んだけど蘇ったのだからそれで無念は解消されたからだ
人間の無念は結局死ぬことにある、だからどんな人も無念に死ぬのである
いろいろ無念があっても死の問題を解消しないかぎり人間から無念はなくならいのである要するに神の国に行く他、無念を解消する方法はないのである
この世に生きることは結局誰でも死ぬから無念に終わるのである
この世でどんなに恵まれても死ぬときは無念になる
ありあまるほどの富を貯えても病気になって寝た切りになったらその富は何の役にもたたなくなる、ただ天井を見ているだけになる、これも無念だとなるからだ

ただこうした人間の無念が歴史だという時、その無念を知るべきだとなる
そして今の恵まれたことに感謝すべきだとはなる
先人の努力の積み重ねで様々な無念も解消してきたからである
歴史にはいろいろな見方がある、歴史の見方として後世に何をもたらしたかを見ることも大事になる、科学技術でも伝染病を治したということは病気で死ぬ無念をなくしたとなるからわかりやすい、また貧困をなくしたということもわかりやすい
これらが一番わかりやすい、他にも無念をなくしたことがある

自分に関しては家族に恵まれて自由に生きることができたから社畜なんだとかならなかった、ただそれでも後悔は残る、別に社畜だからとそれか全部マイナスにはならないからだ、まず引きこもりとかニートとか何か欠けるようになる
また結婚しないとか子供もたないとかも何か人間的に欠けた人となる
ただ正直あらゆることをすることは人間はできない、芸術家の8割が独身だったということがそれを証明している、何か家族をもったらそれに費やすエネルギーが膨大になり何か考えることもできなくなる、今家事を全部していただけで自分は感じたからである
家事は相当な労力であり疲れることを介護でも一人になっても知ったからである

2020年08月29日

自然災害など人間社会に起きることの不思議 (神からの罰として起きることもあるのか?)


自然災害など人間社会に起きることの不思議

(神からの罰として起きることもあるのか?)
      

死⇒原罪⇒罰

認知症(難病)⇒罰

津浪⇒原発事故⇒罰

コロナウィルス⇒罰

オリンピックの中止⇒罰

人間に起きることは不可解なことがある、なぜこうしていろいろことが起きたのか自分自身の一身上でも不思議なのである
家族が認知症になったことでもそうである、なぜこんな病気に見舞われたのか?
こんな悲惨な病気に見舞われたのか? 
何かALSとかは業病であり神の罰だとか言って顰蹙を買った
カルト教団だと常にそういうことを言うがその教団でもそういう人はいくらでもいる
不運に死ぬ人などどうしても普通の人より多いからそういう場に入り不幸から逃れようとするが実際はさらに不幸になっている人も確率的には多いのである
認知症になって自分は悪いことはしていないと言っていた
でも身内だから言いにくいが傲慢なところがあったことは確かである
その傲慢さが銀行からも金を下せないという悲劇になった
金をいくらためてもそうなったら金の価値は無になってしまった驚きである

でも大概の人は老人ではそういうことを言う、むしろ悪いことをしてきたからそう言っているのだ、まず悪いことをしない人などいないからである
ただ病気がみんななるしその因果関係はわからない
別に信仰深い人でも病気になっているし死んでいるからである
会社だって団体でも悪いことしている、カルト教団自体が宗教を装い悪いことをしているこの世自体がブラックなのである
それで人々の心がみな悪いとしてノワの洪水が起きた
それは神が起こした大自然災害だったのである 
ただ人間はこの世に生まれて災いからまねがれることはできない
ヨブの苦難は神が苦難を与えたのであり信仰の試練として与えた
そして苦難を乗り越えて神に祝福されたのである

個人的にも神に守られるということはある、自分にしても何回か死んでいたようなことがあった、それが死ななかったのは神が助けたのかとなる
お前はまだ死んでいけないとして助けたのかもしれない、ただ死ぬ危険は交通事故にあった、三回くらい自転車で転んで強く打ったからそれで死ぬことがありえた
三本の前の歯が折れた、他でも頭を打って死んでもいいときがあった
でもこの交通事故で死ぬ確率は多いのである、この世では今まではイスラエル民族を神が守った、でも新約時代になると個々人を守るのが神になった

では一身上でもまた社会でもこんなに災いが連続して起きるのか?
津浪などはあまりにも恐ろしいものでありこんな災いは想像もつかないものだった
ただ津波でも三陸では明治に起きていて一万人死んでいるとかある
だから別に今だけに起きたことではない、でも余りにも大きな被害だから神からの罰なのかとまでなる
それが確かに原発事故を起こしたことでそうだったとも解釈した
核そのものが原子核を破壊して熱をだす危険な操作だったから科学者がこんなことするべきではないと言っていたからである
また遺伝子操作などもそうした危険があり何が起きて来るかわからないのである
すると予想もつかない災いがまた起きてくるかもしれない
オリンピックの中止もコロナウィルスで起きた、これも広告屋の電通とかの利権のためにあるとか言われた
オリッピックは平和の祭典ではなくなっていた、商業主義でありもうけのためにするのである
だから中止されてもいいものだったともみた、それよりまだ復興していない東北に力を注ぐべきだと思っていたからだ

人間はそもそも神のタブーを禁止したことをして災いをもたらした
それはアダムが智慧の実を食べた結果として神から罰せられた、原罪を負った
つまり何々をしてはいけないということを神が禁じたことをした結果として災いが生まれたのである
それはプロメテウスがゼウスから火を盗んで過酷な刑に処せられたとかも同じである
タブーを破った結果として過酷な刑に処せられた
それは原発事故でもそうだった、プルトニウムの毒が二万年消えないとかそのために除染しても除染してもできない、森から放射性物質は出てくるからである
それはまるでシーシュポスの神話と同じだと述べた
岩が転がり落ちてきてそれを持ち上げてもまた坂から落ちてきて延々と岩を持ち上げる罰を与えられたのである、それは何の意味もない苦行を課せられただけである
それはやはり過酷な罰だったとなる、カルマだったともなる

この世の謎というとき人間社会に起きることは何かすべて合理的に判断できない
確かにこの世に起きることには原因と結果があり、何か原因があって結果がある
事故だって何か必ず原因があり原因が追究される、そして機械が壊れてもその原因がわかれば安心する、でも原因がわからないと何なのだろうとなる
コロナウィルスなどは正体不明だから不安になっている
どうしてそれが生れてどういうものなのかわからないから不安になる
何でも原因がわかれば病気でも直せるとなり安心する
そのために人間は原因を追究している、それで人間はいつかは死ななくなるとかまで言うことになる、科学が万能になると思っているからだ

例えばレバノンに逃れたゴーンのレバノンであんな大事故が起きて悲惨なの状態になったのはなぜなのか?その原因は何なのかとなる
ゴーンに罰が当たったとかともみる、悪人に逃れる場所がないともなる
その因果関係があるとするとそうなるのか?
神が罰したとかなる、何か宗教の場合はカルト教団でも常に罰があったと批判する人を言うのである、だから政治でも批判できなくなる、レバノンでは宗教政党がいくつかモザイクのように支配していて政教分離していなから政治でも批判できないとしている
アメリカの黒人暴動でもそうである、そもそも奴隷として連れてきたことに原因があるからだ、それがアメリカのカルマとなっているのである

コロナウィルスウィルスでもウィルスとは何なのだろうとなるとこれもやはり神の自然界のタブーを破った結果として自然の復讐だともされる
人間が入ってはいけない、または触れてはいけない生物がすむ領域に侵入した結果として起きたとなる、そして風土病でありその土地土地に限定されたものだったがグロ−バル化でたちまち広がる、だからグロ−バル化とか交通の発達にも負の面があったともなる
つまり何でも原因があり結果があるともなる、それは科学的思考でもある
ただ科学と宗教がありそれは確かに一つの根で共通している
もともとは宗教であっても呪術であってもやがて効果のある薬を植物から見出して飲ませる、すると効き目があるとして薬が発展する、ただ祈ったり護符とか与えても病気は治らないからである
ただの紙切れでも与えるということは今でもどんな宗派でも行われている
でもそんなもので病気は治らないから今は宗教者は信頼されていないのである
それで宗教は衰退して科学技術の自体になり科学者が神官に聖職者になったのである

要するにこの世に起きることに神の関与があるのか?

なぜこのように様々な災いが生れて来るのかという原因がわからないからそうなる
もし科学でも何でも説明できればそうかとなるができないからこそ自然にも人間界にも神の関与があるのかとなる
旧約聖書では明らかに神の関与があり神が自然でも変えて選民であるイスラエルの民を導きだした、救い出したのである
そういう物語が基本的なものとして形成されている、それが奇跡なのである
モーゼでも脱出がテーマであり海を割り道を作ったというという奇跡でもそうである
そんなことありえないというがその奇跡を否定したら信仰自体成り立たなくなる
聖書とは神が人間でも自然でも関与したことを記したからである
ただ新約聖書からはそうした奇跡の物語はあまり記されなくなって科学の時代になったのである、なぜなら結核を治したのは科学者であり医者だったからである
それで科学者が神官になり聖職者になったのである

でもコロナウィルスでも以前として未知のものが生まれるとそれは何なのか解明できないから不安になる、そうなると科学で解決できないととなると祈るということにもなる
それしか方法がないからだ
でもなぜこれほどいろいろなことが一身上でも社会でも起きて来るのか?
末世になるとそうした災いが生まれるというのもわかる
一身上で駅でボランティアしていたがそれで何ら認められることなくかえって駅長にも
地域の人にも認めらなかった、そして怪しい人として警察に通報されたりした
要するに勝手駅に何かするなとされたて終わったのである
そしたらコロナウィルスで鉄道が利用されないという信じられないことが起きた
これも何なのだろうとなる
人と接することができないということも何なのだろうとなる
これも罰だったのかと勝手に私怨として見ることにもなる
宗教というのは何かそういうふうに相手が批判したりすると必ず罰当たるとかいうのが普通でありそれが個人でもそうなり危険なのである
原因と結果を宗教的解釈する、すると科学的思考とは違ったものになる
例え自分に非があっても罰当たったとか喜ぶのである、宗教はこうして悪人に悪用されてきたのも歴史である

ただ神が人間界に関与するというときなぜ第二次世界大戦のような悲惨なことを見逃しているのか?

原子爆弾を落とすようなことを見逃しているのか?

それが不可解なのである、例えば日本が神の国だとしたら奇跡で原子爆弾を落とす飛行機を何らかの力で墜落させてもいいとなるからだ、それもなかった
ただベトナム戦争ではなぜ圧倒的な力があったアメリカが勝てなかったのか?
そこには神の力か働いたのかとなる
聖書では力の強いものが必ずしも勝つ歴史ではない、弱い者でも神が関与すれば味方になって勝った歴史なのである、それを記したのが旧約聖書である
ともかくこの世に起きることはすべて原因結果があるとしても合理的にも説明できない
すると神が関与したのかとなる、ただ神が関与したとなるときこの世を変えることではない、神はこの世から選ばれた人を救い出す脱出させることを奇跡を通じてすることであるだからそもそもこの世を変えることは不可能である 

むしろこの世は欲でもって滅びるとされているからだ
この世が改革されて天国になることはない、滅びがあるだけだとなる
ただ改善の努力はつづける、でもそこに必ず不可抗力なものがある
それはなぜなのか?それは人間の根本的な罪が払拭できないからである
共産主義でも資本主義でも極端な格差社会になるのもそうである
人間の欲が限りなく肥大化してそんなことになる、ほんのわずかな人たちが巨額の富を得てどっちにしろ貧困者が増大していることでもわかる
平等を目指した共産党の幹部が何兆円もの金を得ている
これほど矛盾したこともないのである
つまりどんな主義であれ社会を変えることが不可能なのは人間の欲が消えないからである科学技術でも人間の欲のためにありそれで原発は金の成る木となりあらゆる人が政治家でも官僚でもマスコミでも御用学者でもその欲のために群がった
そこで危険は無視されたのである、それは地元の人たちも同じだった
原発事故の原因もいろいろあってもその中で人間の欲がありそのために事故が起きたともなるからだ


天変地異がなぜつづけて起きるのか?
(悪を暴き出す面はあった、地球を浄化するためなのか?)

2020年08月19日

社会が変わると価値観が変わる (ニートとか引きこもりとか増え遊戯三昧も追求されるネットの時代)


社会が変わると価値観が変わる

(ニートとか引きこもりとか増え遊戯三昧も追求されるネットの時代)

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安倍首相と日本人がかかっている呪い。嫌な仕事、結果が出ない仕事を辞めたくても辞めれない・・・呪いはどこから来るの?作家今一生さんと一月万冊清水有


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スーヅの時代は終わった(加治将一)


何かインタ−ネットで特にyoutubeの発言を見ていると不思議になる
今日の月一万冊での対話でもそうである
特に遊戯三昧という禅宗の言葉が面白い、何か遊びでもそれを追及して行けば悟りの境地にもなるとかなる
遊戯とか遊ぶことなど無駄であり社会人から拒否される
また禅宗は座禅するということはデスタンスをとることである、そして大声でしゃべらないことである、そうして沈黙していることが修行なのである
そうしないと棒で叩かれる、だから私はキリスト教とか聖書の神に基づいているとしても禅宗が好きなのである、向いている
それは30年間引きこもっていたから寺に入らないにしろ禅宗の修行僧のようになっていたのである
例えば遊戯三昧というとき自転車とかで旅したとするとそれは雲水となる
自由な旅を追及したとなるからだ
でもそういうことができたのは家族に恵まれたからである
あなたのしたいことをしなさいとなっていたのである
普通働かなかったら働け働けとなって親に殺されたりもしているからだ
私にはそういうことは全くなかった、だから特別な家庭環境でそうなったのである

そして今になるともう死んでもいいとう歳になってまたコロナウィルスで今までの社会常識が変わる、他でもAIの社会になるとコンピュターが仕事するからすることがないからみんなけアーティストになれとかいうのも奇妙なことだと思う
その人は歌が好きで歌手になりたいとしている、でもすでに60代なのである
加治将一氏でもスーツの時代が終わったというときまたスーツを着ているのは詐欺者に多いというときも今までの価値観とは違う、会社員がほとんどだとするときスーツなしではありえないからだ
私はスーツなど着たこともないのである
そしてスーツを着ている人は何か逆に胡散臭いということが確かにある
パリッとして正装しているからスーツを着た人は信用できるとなる
そういう人は社会人として常識あり信頼されている
その恰好を見て人は判断するからだと言われてきたのである
つまり人は何であれ見た目だとか言われているのが普通だったのである
だからこういうことを盛んにyoutubeとかネットで言われるのは何か不思議なのである
別にアウトサイダーならいい、それがまるで時代の先端を行くのがアウトサイダーだとなっている
アウトサイダーとなれば社会で天才と言われる極わずかの10人足らずとかの人間のことを言っていたのである
例えばニーチェとかゴッホとか宗教ではキケルゴールとかの単独者のことである
それは極めて少数者でありそれは歴史にも残る人として評価されている
上野霄里氏などもそうだった、それは一時師として私は仰いでいたからである

とにかくアウトサイダーとして生きることは実際は至難なことでありむしろ天才とか優れた人のことを言っていたのである
それがなぜか普通の人がそうしたアウトサイダーとかになる
まず無職だということがその条件だからである、ところが現代はニートでも引きこもりでも百万単位でどこにでもいる、田舎でもいる
良く同類なのか、そういう人と田舎でも逢う、風体からしてその人は仕事はしていない
何か髭をはやしてふてぶてしい、だからそういう人は何なのだろうとなる
またコトオジという子供部屋おじさんというのとも会う、その人は毎日ぶらぶらしているだけである、だからそういう人となぜか私は逢うのである
でもそういう人は何なのだろうとなる
でも今でもそういう人を世間はどうみているだろうか?
毎日苦労して働いているのになぜぶらぶらして働かないのだと大きな不満をもっている
そういう人は死んだ方がいいともしている
また現実にホームレスに暴力をふるった人がいてそれは会社員の人が苦しんで働いているのに何もしないでいるホームレスに不満になり暴力をふるったとしている

ただまずスーツを着ている人間を詐欺師だというのも驚きである
でも本当はスーツを着ていれば信頼されるというよりそれによってだますということがあった
なぜなら銀行でも保険の勧誘でもまた営業になればみんなスーツを着ている
それはユニホームのようなものである、それで信頼されるものとなっていた
でも実際はそういうユニホームにだまされるとういこともある
だから警官の恰好をして人をだました詐欺者がいたというのもそうである
もしよれよれの服など着ていたらなんだこいつはとなり相手にしないからだ
でも団塊の世代となるとみんな会社員でありスーツを着ないでは仕事ができないのであるただこうしてスーツを着ている人が詐欺者だということも一面あった 

カルト教団とかでは勧誘するときそうしてみなんスーツを着てまるで会社員のような恰好してくる,創価ではそういうふうにスーツを着てまるで大企業の社員のようにして勧誘していた、創価ではとにかくナチスのような雰囲気の世界でありみんな統一された服装にもなる、そこに一切の自由はない、中国の共産党とも同じである
その人たちも人民会堂ではスーツを着ている、ただ多様な世界だから民族衣装の人もいることは違っている
スーツを着ている人は詐欺者というのは本当に意外でありその人でも不動産とかの商売をしていたのだからスーツを着ていたのではないか?
この人については何か理解できないものがある
ただ比較的欧米とかでの生活経験ある人は自由な考えとか態度の人が多い
それで外国で生活経験を積んだ方がいいというのはわかる
たいがい日本を客観的に見れるのはそういう人達だからである

インタ−ネットの発言はもともとマスコミのように制限されていなかった
自由な発言の場として発展した、でもこんなことをみんな言っていいのだろうかとなる
それが今の社会にアフターコロナに必要なのだとか言うのもそれはもう昔のアウトサイダーとかではない、社会自体そういう価値観を受け入れるようになったからだともなる
そもそも百万もニーととか引きこもりがいること自体異常である
でも数が多ければ正常になる、ナチスでもそうなったからである
その時はみんなそれが正常だったのである、だから創価などもそれと似ている
みんな創価の会員になったらナチスと似たものとなるからだある
そうなるのじゃないかと一時は会員が増えたので危険があった
回りをみてもみんな創価の会員だとなっていたらそうなるのである

いづれにしやスーツでも制服とかを着るのはその時その個人の個性とか自由は奪われているのかもしれない、警察でも自衛隊でも何かユニホームを着ることは全体主義に通じている、実際にファシズムの全体主義になれば警察とか軍隊が戦争の時のように強権をもって統制してくるからだ、それは歴史で実験済みである
ただ世界的にもスーツを着ているのがスタンダードになっているからスーツを否定することは何なのだろうとなる
日本の伝統を重んじるなら和服を着ろというもの理屈である、なぜなら民族衣装こそその国の伝統文化だからだとなる
スーツは民族衣装ではないからである

ともかく今インタ−ネットでそんなことを盛んに言うのはこれまでの価値観が変わりそうなった、今までのように経済成長も望めないし一生大企業でも勤めていれば役職につき給料もあがり社会的地位を得て社会に認められるとういものでもなくなったからだという
それでダークネスで「どこの馬の骨かわからなくなる」これも大企業でも富士通でも45歳でリストラになるとかなればそうである
お父さんは一流企業で働いてる自慢もできなくなる
それは実際に厳しい社会でもある、一生安泰な世界はなくなる
職人なら腕一本という時代になるのとにている、大きな後ろ盾の会社とかはあてにならなくなるからだ
俺には一人で稼げる腕があるとなればそうなる

でも確かに遊戯三昧という禅宗の考え方は面白い、遊戯でも究めればなにものかになる
それは自分自身が流れ作業との底辺の仕事を嫌い旅ばかりしていたからわかる
旅でも追及して行けばそれは旅人として名を遺す人ともなるからだ
社会からはずれても西行や芭蕉や山頭火とかなり一つの世界を究めたとなるからだ
だから一つの世界を究めるということは人生では大事である
ただそれはスーツを着ているようなユニホームも制服を着ているような人には無理に思える、その人たちが個性を出すことは禁止されるからだ
同じ歩調で統一される、それはカルト教団でも同じである
そこには全く自由はなくなるのである、集団で必ず行動してナチス的になるからだ
共産党も中国のように同じなのである、一人一人が細胞というときもそうである
政治とかはみなそうなりやすいのである、また宗教も集団化すれば一人一人は細胞にすぎないのである、一票という頭数だけになる
中味は個性とかなんとかは一切無視されて数として数えられるだけだとなる

とにかく人生は70年も生きると価値観がまるで変ることがある
それは戦争に負けた日本で起きた、国家が最大の価値であったのがそれが全く失われたからである、その代りに企業戦士となり会社にすべてを捧げるともなった
会社に帰属していることがスーツをきて一斉に出勤することは何か軍隊の変形したものなのかもれない、今になるとそれは何なのだとなるのも不思議だとなる
スーツの時代は終わったというのは会社員の時代が終わったとういことなのか?
それも簡単には受け入れられないだろう、でも今時代が大きく変わってゆくことは確かなのである
だから私こそ遊戯三昧に生きてきた、ただそこで小人だからこそ閑居して不善を成すとなったのである
以外と今でもニートとか引きこもりとかは様々な見方があるにしろいいものと見られないそんな人間がなぜいるのだろうとまだなっている、みんな働いているのに働かない人間は許されないとなるからだ、ただ原発事故とかなり異常事態になりみんなが復興のために働くことが求められたときはやはり働かない人間は責められても仕方がないとなる
現実は外から来た人たちが仕事でもボランティアでも働いていたのである
肝心の地元の人たちは働かないからこそそう言われたのである

ともかく人生大事なことはぶれないことである、右でも左でもいい、それを貫けばその人は何者かになる、だから遊戯三昧でもいいのである
でもそれが社会からはずれたものだから貫くこと自体相当に優れた人でないとできない
私はたまたま家庭環境に恵まれたからなれただけなのである
おそらくニートとか引きこもりとかも食べさせる家族がいて成り立っている
そういう豊かな時代だからこそ生れ人たちなのである
時代でも70年も過ぎると明治維新があり70年過ぎて戦争があり戦争にまけて価値観ががらりと変わった、そしてまた70年過ぎて価値観が変わる
そういう大きな時代の変わり目となり技術でもインタ−ネットとかスマホとかが成熟してきたことでも変わったのである
だから人生はこうして変わるからこれからは遊戯三昧でもそれを追及していけば何者かになるという時代になる
その表現の場としてインタ−ネットがプログでもyoutubeでも生まれたとなる
そして規制のマスコミは古くなり衰退メデアとなる
そういう先を見越すことがこれからは大事である、だから銀行でも半分がなくなるとかなるのも時代である、公務員がいいとした時代も終わりつつある
東大の優秀な人は官僚を目指さないとかあり意外と公務員は人気がなくなっているのだ
これも時代の変化なのである






2020年08月12日

人間の運命の謎 (不平等の歴史ー人間の才能は常に活かされていなかった)


人間の運命の謎

(不平等の歴史ー人間の才能は常に活かされていなかった)


人間の謎は例えば家族でも同じ母親から生まれてもその運命は格段に差があったりする
それは自分自身の家族でもそうだった、兄がいたとしても父親は違うしそれで大きな差が生れた、兄とは5年しか一緒に家で暮らしていない
兄は集団就職で中卒だったが自分は勉強嫌いで高校でも卒業できない成績だったが
別にそんな成績でも私立文系の東京の大学に入った
この差も大きいとふりかえる、ただ集団就職は当時はクラスの3分の1がそうだったのである、大学に行けたのはクラスで50人とかいた場合があり4,5人だった
ということそれだけ恵まれていたということである
ただ今になると大学は高卒の半分は行っているしFランとか最低クラスでも一応大学に行ける、最近は親に金がなくても国が援助して借金しなくても行けるようになったという
だから大学は誰でも行ける時代になるのかもしれない
ただ大学の問題はピンからキリまであることなのだ、その差が大きいのである
特に文系となると何か大学でもみんな同じように見えてしまうのである

人間はなぜ個々人でも家族でも平等でないのか?
なぜ不平等が生れたのか?これはもう歴史がはじまってから生まれているからその要因はいろいろありそれを調べるとなると容易ではなくなる
例えば原始共産制とかの平等社会があったとしても狩りするとして狩りのうまい人と下手な人がいてそこで能力に差が生れリーダーになる人それに従う人がいてその部落が成り立つとかなる、人間には必ずそうして能力の差が生まれつきでもありそこで狩りのうまい人とか戦争で強い人とがリーダーになり王ともなり選ばれた兵士となり支配階級になる
それは日本でも侍がそうなったようにそういうことかどこの国でもある

そもそもなぜ奴隷が生れたのかというと部族同士で争い負けた方の人たちが奴隷にされる国同士で民族同士で争い負けると奴隷にされるのが大陸の歴史であった
そして不思議なのは奴隷というのは人権的に進歩した扱い方だったのである
なぜならさ戦争に負けると皆殺しにされていたからである
でも殺さないで奴隷として生かすということは人類史では進歩だったのである

要するに不平等とはこうして民と民の戦争の結果としても起きる、そこに能力の差が生れて起きる、個々人の不平等も能力の差から起きる、民族でも国家でもやはり国力とか能力の差があり戦争で負けると奴隷にされるのである
これは歴史から人間全体から見るとそうなるが個々人でもそうなのである
能力の差が常にありそれで不平等が生れる
女性の場合は容姿が大きな不平等を産む原因となる
なぜその女性が何か知的にも活発なのに不遇に貧困に一生終わっているのか?
それを考えるとどうしても容姿が悪すぎたということにあったとしか思えない
頭は別に悪いというのではない、中卒でももともと女性でも頭がいいというか活発な人がいる、それは学歴のことではない、能力にいろいろあるからだ
コミニケーション能力でもそうである

ただ個々人の能力となると才能がもともとあったとしてもそれを活かすことは至難なのである
私の母親は大正生まれで貧困だった、それで10年間紡績工場で働いた、わずかに幼少の頃だけ恵まれて生活していたがその後は働きづめの生涯だったのである
尋常小学校を出て読み書きはできたにしろ後は何も勉強していない
またそうした余裕が与えられていないのである
だから花などいらないと庭に豆を植えていたのである、花は無駄なものとして見ていたのである
それは人間として大きく欠けたものになっていた、ただ別に花に興味がない女性もいた
その人は40代であり別に貧困ではない、花に親しまない家庭環境だったのかともなる
今は生け花とかの花嫁修業はしない、姉は貧困家庭でも生け花を習っていた
だから貧困でも花嫁修業させてくれたとかありその相違も大きいものだったのである
私は母の資質を受け継いでいる、何か文学的な才能があり俳句とか短歌を20代の頃から作り出した、でもそれはただ575とか並べるだけだったのである
でもなぜその後私は才能をそれなりに伸ばすことができたのか?
それは家庭環境に恵まれたからである、仕事はしないにしろ自由な時間が与えられて旅に明け暮れて一人家にこもり自然と一体化することをして詩を作ったりしていた
本も相当に読んだ、理解はしていないが読んでいたのである

才能はそもそも天才でないかぎり努力しして開発しないかぎり活かされないものである
何かしらの才能があってもそれを伸ばす環境がないと活かされないのである
だから膨大な人が才能があっても埋もれて死んでいるのである
それは家庭環境だけではない時代の不遇でも埋もれている
日本は戦争の時、有能な人が戦死したからである、若くして死んだからである
また病気で死んでもいる、長生きしないことでも才能が活かされないのである
だから人間の才能が活かされることは稀有なことかもしれない、何かしらの才能があっても活かされない人の方が膨大なのである

例えば知的なものを育てるにはそうした環境がないとできない、普通に暮らしていても結婚して子供をもったりするとまた家が狭いとかなると書斎もないとかなるとそこで読書したり書き物したり瞑想したり創作したりしにくくなるのである
子供が騒いだり妻にしても干渉されたりして集中できなくなる
それがテレワークでも起きている、仕事にも集中できないことが問題なのである
だからテレワークには広い家が必要なのである
私は大学の時に家を新築して大きな書斎までもっていたのである、ただその時本は少なかった、ただ子供の時は高校までは家が古い家であり個室がないから勉強に集中できなかった、というより勉強嫌いだったのである
私が勉強しはじめたのはむしろ大学を出たとか相当に遅れていたのである
でもその後引きこもりになり家にこもって本を読んだり俳句や短歌を作ったり詩を作ったりしていたのである、自然と一体化することをしていた
1日誰とも話しないということが普通の引きこもりだったのである
それはまるで禅僧のような生活だったのである
でも家族からとがめられないのでそうしていたのである
一面だからこれは異常なことだったのである、それで異常化したことも確かであり失敗もしたのである

ただこういう家庭環境にありその時早い時期から通信機能つきのワープロを買ったりしてすでにパソコン通信でもしていたしITになじんでいたとはなる
それも才能を伸ばすことでもあったとふりかえる
ただまともな社会生活をしていないから異常化していたのである
人間は確かに不平等を作りだしている一番の原因は家庭環境だと思う
それで親に愛されない人はみんな底辺になるとか言う人もいる
そういうことでは自分は特別恵まれていたのである
家庭環境が不平等の原因だというとき才能でも学校ができるまえは自宅で学習するほかない、するとそこに学ぶ環境が本とかがなければ勉強しようがないとなる
それでなぜヨ−ロッパに天才が多いのかというとそうしして貴族の家には学ぶ環境があったからだとなる、第一ピアノがなければ音楽の才能を発揮することはできないしモーツアルトは幼児の時からそうした訓練をしていたことでもわかる
ここに大きな差があり不平等が生れていたのである

なぜ人間は不平等になってしまうのか?
それはいろいろな原因があり解決できない、それで財産でもある人がない人がいて
fortuneとは運命であり財産の意味もある、つまり金運がいい人と悪い人がいるというときそういう考えないのである、どうして金のある人とない人が生れるのか?
それは本人の努力とか才能だけではない、運が関係しているともなる
運がないと事業でもなんでもうまくいかないともなるからだ
ただこの運にしても自分の家族をみても兄弟でも必ず不平等が生れて差かつくのである
つまり何でも平等であることは不可能である、平等を目指した共産主義が皮肉にも中国のようにもっとも格差が激しい者かいなったからである
共産党員が富を独占することになったからである

こういうことでそもそも人間は平等な社会を作ることは不可能である
それでインドではカースト制を作った、生まれつき平等はない、不平等だなのが人間の定めだとまでなってそうてったのである
ただ時代的には現代が一番才能を伸ばしやすい時代である
なぜならなぜ必ず田舎でもニートとか子供部屋おじさんとか働かない人がいるのか?
なぜかそういう人と自分は逢うことが多いのである
同類になるからそうなるともなる、そういう人は別に嫌なことはしなくてもいい自分のしたこいことをすればいいとなると才能を伸ばすことができるのである
才能は何かそもそも開発しない限りてきない、すると自由な時間がありそれなりの環境がないとできないのである、ある程度の本を買うとかの資産も必要なのである
ただ才能といっても多様だからどういうふうに伸ばせるかは個々人で違っている
ビジネスの才能とかはまた別であり社会訓練しないとできないのが普通である

それで不思議なのは自分のしているパソコンによるり抽象画の製作なのである
まず私は全く絵の才能がない、でもなぜ抽象画を作れるのか自分自身が不思議だった
それはコンピュターが生れてできたことなのである
そのソフトが生れてできたのである、つまりartとは技術のことであることがこれでわかった、技術が発達することで芸術も生れたということである
新しい絵の具が開発されたことで絵画も新しい絵画生まれたともなる
だから抽象画を作る時全く才能がなくてもできる、ただ機械的に操作してできる
つまりAIが創作しているのと同じでありそれに手を加えているだけだとなる
翻訳でも優秀になるからそうなったのである
人間の才能もだから機械によって開発されるということでありもしそうしたものがなければできないとなっていたのだ
第一映像の時代を築いたのはカメラだった、カメラによってどれだけ人間の才能が開発されたかでもわかる
そしてカメラでもレンズの方がカメラの本体より高いのが普通にある
でもプロになるとそうしたた高額なレンズを使うからいい写真とれるとなっているのだ
それはカメラの機械の差であり必ずしも才能の差ではないともなっている
そういうふうに時代によっても活かされるものと活かされないものがあり不平等が常にあるのが人間社会なのである

2020年07月12日

この世に生まれたこと自体、カルマだった (カルマとは業(罪)であり責任でありあらゆることに責任がつきまとっている)


この世に生まれたこと自体、カルマだった

(カルマとは業(罪)であり責任でありあらゆることに責任がつきまとっている)

なんか技術者でもそうである、車の事故を起こしてエアバッグの不具合でタカタとかの会社が倒産したとかある
技術的問題があり死者もでたのでそうなった、アメリカに訴えられたからその補償金でつぶれるともなった
今回のヤマハの電動自転車は何度もすすめた、ただそれの弱点はスタンドがないことと荷台がつけられないことだった
それで近くの自転車屋がスタンドをつけてくれた、それは結構技術的にむずかしいものだったのである、だから最初はどこに置いても倒れていて困った
意外とスタンドがないことは困るのである
でもちょっと直したら倒れなくなった、これは助かった、もしスタンドでも倒れるだけならつけても無駄だった、それを進めるべきものではなかったとなる
何の役にもたたないからである、すると金を損しただけだとなる
そして責任をとれとか言う人もでてくる
でも直ったのでそこの自転車屋はそれなりに技術力があるとして評価する           

地銀のことをいろいろ言ったがこれもまた責任問題になる
投資信託のことをまかせてくださいというから営業の人にまかした
でもそれはいろいろな事情で株とにている、だから損してもその責任は営業の人でも
地銀でも一切とらない、理由はいろいろ言えるからである

結局あなたの責任です!

こうなるだけである、地銀では営業の人でも手数料はがっちりとるが損したとしても一切責任はとらない、損させたのはそれを買った客であり地銀でも営業の人でもないのである株があがると言われて買ったのだから下がったらどうしますか、何もしません
株はいろいろな事情で上がったり下がったりするものですとなるだけである
つまり地銀であれ営業であれ責任一切とらないのである

すると知識のないものはやるな!

株でも投資信託でも知っている人、自分で決められる人がやるべきだとなる
すると営業の人がすすめたとしてもその商品に対して責任をとるのは客である
だからその見極めをできないものは買うなとなる
私自身は株でも投資信託でも知らなかったけどまかせた
でも何も知らなくてまかせても責任は客にあり地銀とか営業にはないのである 

ただトータルでは運よくというか損しなかったので営業の人にでも何も言わない
でも怖かったのはJ-REITがコロナウィルスで暴落したことである
半分になったことである
私はどうして一月に売ったかというとどうしても営業の人を信じられなくなって売ってくれとなったのである
それが功を奏して損せずに済んだのである

何か営業というとき人を媒介するからその人を責めることになる
営業の人が責任をあるようになり責めるとなる
それで裁判になり営業の人が銀行が訴えられたりしたことがあった
それはどうしてもそこに人が介在するから媒介するからその人が責任を課せられる
例えば人を紹介して雇ってもらったりしても紹介した人が責められるということがある
つまり媒介した人が責任があるし紹介してもらった人はその人に責任が課せられるから
下手なことはできないともなる
連帯証人とかなったらその重い責任から逃れられなくなる

だから何か人間はあらゆるところで責任がつきまとっている、だから契約では常に責任を明確にして責任はとりませんと記しておくのである
それだけ必ず人間は責任問題になるからそれに備えるためにそうなる
だから銀行では損したのはあなたのせいであり私たちのせいではありませんとなっているこれは本当なのである、別に銀行に全部責任があるわけではない
そういうものとして売っているからである
それをふまえて客は買うのでありその責任をとれないものは買った方が悪いとなる

ただ投資信託でも保険でもなんでも説明責任はある
医者が手術するにも命にかかわるから説明する、でも患者も良くわからないから医者に従うだけだとなる、そしてそこでミスがあっても医者は責任をとらない
余程のことでないかぎり責任はとらない、その責任を重くすると手術すらできなくなるからである、それでシステム的に責任はとらない、手術してガーゼを残していたとか時々ある、でもその責任を全くとらなかったこと知人で知っている
ただ苦しめられ損になっただけだとなる

原発事故でもあれだけ安全神話まで作り安全だと言ったのに安全ではなかった
そして故郷に住めないまでになったが東電の幹部でも国でも責任はとらない
でも必ず人間社会は責任をとらされるのである
国家の指導部の過ちの責任は国民がとらされる、戦争で3百万人死んだのは国民が責任をとらされたからである、原発事故で莫大な補償金とか事故処理の除染でも何兆円の金は税金として国民にはねかえってゆく
ただそうした大きなことは何か責任として意識しにくいのである

何か買い物でもクレマーがいる、十円二十円のことで文句言うのはその人がそれだけ貧乏だからである、そういう小さいことだと責任が追及されやすいのである
小悪は罰せられやすいが大悪は罰せられずかえって称賛されるのである

(我々は小盗を捕らえるが、大盗には脱帽する)

世の中というものは、自分よりも弱い者に対しては圧迫したり高圧的な態度をとったりするが、強い者に対しては見て見ぬふりをしたり、追従したりするものだということ。
日本で似た意味をもつことわざに、「長い物には巻かれろ」があります。

これは外国の諺だった、この大盗は官僚とか政治家とか何かしらこの世で権力をもったものである、こういう人は税金を盗んでも別にとがめられることないのである
それで自分自身でも家族が公務員だったから知っている
何かこうした地位にあるものは得するのである
それで自分自身も得していたともなるからなかなか責められない
でもなぜ自分自身が介護とかなり苦しんだのはそうしたことがカルマとなっていたのかもしれない、何か金でもそこにカルマがついてまわっているのである  
家族には親族でも必ずカルマがあり親の因果が子に報えるのである
高い地位についたりまた株などでも金融でも世界の富を一人じめするような人がいること自体それが巨大なカルマとなっている、だから大金持ちとかはいい死に方をしないともなる、もの凄い業をカルマをもつようになり最後は家族でも不和となりその報いを受ける
金がないのもカルマであり金がありすぎるのもカルマになっているのだ
だからどこかでそのカルマを払うことが必要でありそうでないと必ず清算を迫られるのである、なぜなら金は具体的なカルマであり責任としてわかりやすいからである

それで夫の借金に苦しめられている女性がプログに書いている
その重圧はいくら支払っても支払い切れないのである
そもそも収入も少ないから払いきれないのである、その借金のカルマはわかりやすい
払っても払っても払いきれない、その借金はシシュポスの神話の岩のようである
もちあげても持ち上げても終わりなく持ちあげる業である
それはまさに借金を返し続けるカルマともにている、借金という重圧から解放されないのである

ともかく人間は常に責任をカルマを負わされている存在である
これから逃れようがないのである、どんな仕事でも必ず責任が課せられている
もう何もしなくても存在するだけで責任が課せられている
住むこと自体が責任を課せられている、原発事故でもそうである
そんなの関係ないよとはならなかった、その地域の責任でありみんなに課せられていたのである、ただそういう自覚がなかっただけだったのである

人間は死んでもカルマから責任から逃れられない

死後裁きにあう


「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定められている」

この世は公平ではない、地位高きものも大盗でありでもこの世では裁かれない
裁くことは人間にはできない、裁く権能があるのは神だけだとなる

たいがい死んだら罪も何もなくなる、無となると思う
でも無にならずに裁かれる、あなたがこの世でしたことでも裁かれる
そして怖いことはあなたの知らないことで裁かれることである
隠された罪が暴かれる、それを見逃すことは神がはないからである
死んでもカルマから業から罪から逃れられないのである

そして集団とかは権力のことでありその集団に属していたことでも裁かれる
宗教の集団に属することでカルマから罪から逃れられない、かえってそこで悪は隠されているのである
カルト教団などでは絶対に人の罪のことなど問わないからである
そこにはどんな人間でもいいのである、一票になるとか会員が増えればいいだけなのである

だから神は人の心をみるというときどうして集団だったら見れるのか?

集団に魂があるのか?個々人にしか魂はないし見ることもできない
まず集団が絶対にその心が清いなどということはないからである
その証拠にみんな集団化したものはこの世の利権と利益を求めているたとで一致しているからである、それはあらゆる集団でそうなのである
政教分離に反対するのは神道派でも仏教派でもあらゆる宗教集団で反対だからである
税金をとられることだから一致して反対するのである

カルマとは前世の行為の結果をこの世で支払うことである、生まれた時にすでにカルマを業をもって生れカルマを支払わされる
つまり生まれたこと自体すでに借金を負わされているのだ
だから延々と借金を払い続けねばならいカルマをもっているとなる
そして死んでもやはりカルマは清算できない、一見死ねばこの世から消えるのだから責任もカルマもなくなると思う
でも現実はこの世からあの世は連続している、あの世でカルマは罪は明確になりかえって逃れることはできなくなる、この世ではいろいろな罪であれまやかしであれ何でもあれ隠すことができるがあの世では隠せないのである
太陽より強烈な霊の光に照射されからである、そこで闇がなく逃れられないのである


多重債務の夫と見つめ合う私

延々と借金返済のために苦しんでいる、それも夫の借金である、このようにカルマから脱することはできない、払っても払っても借金が消えないのである
人間はこれとにている、カルマを消すことができないのである

2020年05月27日

なぜ人間は道を誤るのか? (先が読めないーそして二0代で方向が決まる


なぜ人間は道を誤るのか?

(先が読めないーそして二0代で方向が決まる

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同じ時間でもその重要な度合いが違っている
そんなはずがないとしても後でわかる
それで新卒一括採用が人生を決めるとされるのである

人間は道を誤る、その原因は何なのか?
オウムとかカルト宗教団体に入りそこで優秀な理系の人がテロ集団化して殺人集団になり殺人を宗教で正当化してそれで人生を棒にふる
そこか宗教を求める場ではない、なぜそんなことになったのか?
今でもカルト宗教団体は創価のように社会に宗教を看板にして大集団化して組織化している

それは何なのだろうとなる、それもカルトなのだけど別に社会では容認されている
別にオウムのようにテロ集団ではない、選挙で政権を奪うとかそうでなくても権力側につき利権を得たいとなる
それも巨大な御利益を得るための集団であり組織である
それは政教分離に違反していてもとがめられることもないのである

道を誤るという時、国家自体が道を誤る、それが戦争で3百万人死んだ
それは国家が道を誤ったからである、また原発事故でも国家が道を誤ったからである
これも故郷に住めなくなったとか甚大な被害を与えたのである
国家すら道を誤る、国家が道を誤ればその被害は3百万人死ぬとかになる
また原発事故で故郷に住めなくもなる
つまり個々人だけではない、国家自体が常に道を誤るものなのである
だから本当は政府とか国家の指導者を監視しなければならないのである
それは原発事故で証明された、安全神話を権力で国家が作って道を誤ったからである

個々人でも何かしら道を誤る、国家規模でも道を誤る、それはなぜなのかとなる
面白いのはFラン大学に入ったことで人生は失敗だったとすでに28才くらいで大後悔したとyoutubeで反面教師になっているのを見て共感した
自分もFランとさぼど変わりないからである

何か結局人間が20代で方向が決まる

これが意外というかそう自覚できる人はまれである、人生は若い時はとてつもなく長いものに感じる、でも老人になると40くらいになると白髪でてきたりしてあっというまに老人になっているのだ
老人になると人生はあっという間だとなってしまう
それでみんな後悔するようになる、すで28才でこの人は人生が終わったようになって後悔しているのだ
その歳で人生を悟ったともなるのだ

なぜ20代が大事なのかと言うとそこで人生の方向が決まってしまうからである
カルト教団に入ったものはそこから脱出しなければ一生そのままになってしまう

そしてなぜ新卒で人生が決まるとされるのか?

それは大学を出て新卒で大企業とかに入ればそれで一生が安泰となる
また公務員とかになるにもそこで人生の行路が決まるからだ
そこからはずれたものは一生底辺になってしまうのである
それを私も経験した、就職もしないで一時は底辺労働者となってうろついていた
そしたらそのまま老人になるまで無職であり社会からはずれたものになってしまった
つまり20代でまともな進路からはずれたものは一生まともになれないのである
社会からも認められないのである
Fラン大学などはまともな就職先もなくブラック会社で底辺で働き給料も少ないから結婚もできなとしている
一生底辺の人生を送る他ないとなる
私も大学出てもアルバイトであり肉体労働とか流れ作業とかしか仕事の経験がないのである、だからそういう底辺に共感するのである

正社員の経験がないと、中途採用にも応募できない。年齢的にもどんどん厳しくなり、30を過ぎると応募できる会社自体がなくなる。周りの視線も厳しくなっていきました。『落ちこぼれ』『負け組』などと、自業自得と言わんばかりのレッテルを貼られ、自己嫌悪に陥りました。

30才すぎるとこうなってしまうのである

ただまた何かこれは変なのだけど自分は宗教を求めていたのである
自分のテーマはなぜ人間は死ぬのだろうということだった
それを解決したくて宗教を求めていたのである
だからカルト宗教団体に入ったのである
そして私はキリスト教について教会に一回も行っていないし聖書などもほとんど読んでいないのである
ではなぜキリスト教徒になったのだろうとなる
それは本当に自分自身も不思議だとなるのだ

ただ言えることは「求めよ、さらば与えられむ」である
なんであれもしそこでカルト宗教団体であれ求めるものが正しければ道を誤らないだろう私が求めているのはなぜ人間が死ぬのだろうということであったとしたらなぜ毎日選挙のために運動するのか疑問になるからだ
他でもそういうことは必ずある、だから何を求めるかが大事である
そこさえはっきりしていれば道を誤ることは無いのである

だから自分の場合は別に20代で道をはずれて底辺になってしまってもかまわなかったとなる、ただ人間が社会からはずれることアウトサイダーになることは実際は過酷なことなのである、ニートとか働かなくて楽じゃないかとなるがそうではない
世間の目が厳しいしまともに扱ってもらえないこともある
それから必ずそうして社会からはずれると社会のことがわからなくなる
社会のことがわかるにはやはり社会生活をしなければわからないのである
それで芸能人であれ芸術家であれ社会からはずれたものは確かに常識もしらない異常化する、それは自分自身が何か変な方向に行ってしまったからである
必ず小人閑居して不善を成すからである
実際のアウトサイダーになった人は天才芸術家とかでありその人たち優れた作品を残した人たちである、でも社会からはずれた人だったのである
その数は百万人に1人くらいであった、でも狂気となったのも多い
それだけ社会からはずれるということは精神異常と隣り合わせにもなる

ただ人間が異常化するというときそうして公務員とか正規のルートを進んだ者でも異常化していた、まるで常識もないにも驚いた
それは東大出ても今回のマージャンしていた検事でもそうである
あれだけ地位があってもその地位の自覚もない異常だったのである
なんらか人間は異常化する、例えば学者がいるとする、これもまた象牙の塔とかにこもり社会を研究していても現実の社会を知らない人がいる
科学者でもある一部分を研究しているだけでありそこに詳しくても全部に詳しい人は今はいないのである、そうして人間は極小化された部分に通じても全体を知らないとなり何かそこで専門馬鹿とか異常化しやすいのである  
そしてナチスとかもそうであり国家自体が狂気のファシズムともなり道を誤る
国家レベルでも道を誤り悲惨な結果になったのである 
個人も狂うが集団も狂う、でも集団が狂う時正常だとされるのである
なぜならその集団に歩調を合わせない者は今度は異常とされて刑務所にも入れられたからである、これだけ複雑な社会になるともう社会全体のことなどわかりえようがない
だからこそカルト宗教にもなりナチスでもファシズムでも生れて当然だとなる

現実の社会はその現実で働いて見ないとわからない、本ばかり読んでいてもわからないからだ、経験が物言うのである
何か理解するには仕事でも職業でもちょっとでもいいから経験すると本当に理解できるのである、そして会社の人でも上の人が現場で働く人のことを知らない
現場の人が知っていたのである、原発でも配管のことなど老朽化していて危ないとか知っていたのは現場の人だったのである
幹部と現場の乖離がありまた東京の中央の幹部と福島の現場との乖離があった
そこで意思疎通ができなくなっていたのである
流れ作業ばかりしていたら自分はこんなロボットのようなことはしたくない、ではどうすればいいのか?必死で勉強すればよかったとなるのである
そういうふうに人間は経験からしか理解できないのである
だからFラン大学とは痛切に勉強しないことを後悔するようになる

ともかく20代でそうして正規の社会からはずれた結果として変な方向に行くようになったのは20代で人生の行路が決まっていたからである
例えば赤軍とかの人は日本航空機をハイジャックして北朝鮮に行った
そこで遂に一生を過ごすようになった、子供すらそこで育てていたのである
でも日本に帰りたいとなったのである
何か北朝鮮のスパイのような仕事をさせられていたのである
そこでもその時人生の方向が決まってしまったからである
だから20代で人生の行路が方向が決まる、そのことが自覚できない
別に人生は長いのだから道を誤ったらまた引き返せばいいとかなる
でも実際は引き返せない、方向がきまり誤った道でもそのまま行くほかなくなりたちまち老人になっていたのである

人間が道を誤るのはなぜなのか、それはそもそも目的とか動機が悪いからだともなる
事業に失敗した人は別に理系で優秀だったし一級の免許をもっていた
でも事業をはじめたのは自分は優秀でありその優秀さを示すために見せてやるためだったとなる、そんなことで事業をはじめたのかとなるとそれが失敗したとしても当然だとなるそれに同情もできないとなる
そんなことで事業などしたら他者の迷惑だとなる

人間の不可解なのはなぜそんな行動をするのか?

その動機は何なのか?

推理小説では動機をまず探る、なぜ殺したのか?その動機は何だったのかとなる
つまり事業でもそういう行動をしたのはなんのためだったのかとなる
もちろん金儲けしたいということはあってもその他の動機があってする
俺は億万長者になって優秀なところを見せたいから事業をする
そういう動機だとするとその時周りの人はなんとみるだろうか?
そこからして出発点からして間違っている

だから戦争でもそんな一大事を国家の運命を決めるの動機は何だったろうとなる
なぜなら3百万人も死んだら結果論してなぜそこまでしなければならなかったと問うようになっているからだ、でもなぜ戦争になったのかその戦争の原因は動機は何なのか70年過ぎてもわからないのである
ただ戦争終った後にいろいろ理由をつけているだけなのである

いづれろにしろ20代で人生が決まるとか言われるのはその方向が決まってしまうからである、そして誤っても引き返せないから怖いのである
それで「若い時神を覚えよ」となる、なぜなら神を知るのは20代とかまででありそれ以上になると知る機会がなくなるとしたらいかにその時を逃したらもう神を知るチャンスがないとしたらそうなる

つまりチャンスは二度と来ない、神を知るチャンスはその時を逃すと二度と来ない

これを知れば恐怖である
でも20代では様々な欲でも噴出する、性の欲望でも極大化してとめられない
他にも欲望があふれるように出て来る時でもある
結局そうした欲望に目がくらみ神を求めよと言ってもできない
そのうちあっというまに老人になっているのである
だからみんな人生は後悔なりとなっている
だから勉強することでもなぜしなかったとのかとあらゆることで後悔するのである
なぜ旅しなかったのかとか外国に行かなかったのかとその後悔することは老人になるといろいろある、でもみんなそうして後悔して死んでゆくだけなのである

求めよ、さらば与えられむ

そこに神を求めよとでありその外のものを求めすぎるのである、そこから人間は道を誤るのである 

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2020年05月05日

人生の経験が宝になる (老後は金だけではない過去の経験が宝となる)


人生の経験が宝になる

(老後は金だけではない過去の経験が宝となる)

人生百年時代になるとどうしても老後をどう過ごすかが問題になる
金も問題だがないのも困るが何か財産というときみんな金だと思っている
つまり金の多寡でその人をみる

でもその人の人生で経験したことが実は財産になっている
その経験が多様であり人によって違っている
だから老人は経験を語る、そこに何かしらの教訓が必ず含まれている
それですでに30近くでyoutubeでFラン大学に6年間いて底辺に落ちた人が語る
つまりそれも経験なのである
自分も何か30歳までこの人と似ていたから共感する
つまりいかに大学でも勉強しないかということで後悔している
ただどんな優秀な人でも人生を後悔しない人はいない
結局人間は時間を必ず無駄にしている、時間の貴重さがわからないのである
そして老人になるともう経験する時間が無くなっているのだ
だから老人は経験したことが宝になる

だから話で面白いのと若い人より老人だとなる、どんな経験したのかと注目する
特に外国で生活していた同世代の人には驚く、アメリカとかで良く生活できた、仕事できたと経験しない人はみる、それも15年もである
他にも外国で生活している人が日本を語る時、説得力がある
日本でしか生活していないものは視野が狭くなるからだ

みんな宝は金だと思っている、でも人生で残るものは何なのか?
それはその人が経験してきたことでありそれが宝なのである
自分の場合は旅したことが財産となっていた
そんなの遊びじゃないか何かそれで伝えるものがあるのか?
それはある、私が常に地理を語っているのは日本全国だと隈なく旅している
それも鉄道で最初はしていたが後で40頃から自転車で旅していた
それでより地理を体で知るということができた
だから今になるとあそこを旅したなとかその場面を思い出すのである

もちろん読書も有効に時間を費やすものとしてある、でも百聞は一見にしかずになる
特に外国だとそうなる、これはいくら本読んでも一回旅した人にはかなわないし
また外国に住んで生活した人の差が大きすぎるのである
外国で生活した人は肌で外国を知る、本をいくら読んでも何か外国だけはわからないからだ、地理からして全く理解できないのである
それで50過ぎてバックパッカーで外国を旅行したことが外国を知ることになり良かったとなる、その後は介護とかで全く旅行できなくなったからである

あらゆるものが経験があって理解できる、例えば教育にしても教える子供前にしてこそ
教育をどうするか、どうしたら効果的に教えられるか理解するようになる
それも実際に子供を前にして教えてみないとわからないから教育実習というのが大事になる
また医者でも研修生がいて実際に医療にたずさわらる経験をしないかぎりいくら大学で勉強していてもわからないとなる、つまりそれも経験なのである

手術がうまい人は手術をより多く経験した人である

手術は経験しない限り上達しない、だからどれくらいの手術の経験があるからでその医者の力量が図られる
それで医者は手術がしたいというとき手術を経験しないと上達しないからである
手術の回数で手術の力量が計られるのである

つまり知識をいくら貯えてもそうした経験がないといい教師にはなれないのである
そこに失敗とかもあるがその積み重ねで教えるコツがわかる
自分の場合はそれできなかった、経験を積むことができなかったから後悔しているとなる

ただ正直人間の経験することがわずかである、だからどうしても複雑多様な社会の理解に欠ける、職業でも理解できないのはそもそも経験できないからである
私にちょっとその仕事をやらせてもらいますかとはならない、仕事は危険でもあるし絶対にそんなふうにしてやることができないのである
それで駅でボランティアした経験でも駅がどういうものか鉄道がどういうものか多少知ったのである、そうしたわずかのことでも経験がいかに人間にとって大事かわかる
ただ残念なことはその経験する時間があまりにも短すぎるし極わずかのことしか経験できないことである
正直自分には会社勤めもしないから何か社会性が欠けていた、結婚もしないとなれば何か人間として根本的な経験を欠けたものとなっていた
つまり女性でも子育てしない人は母親のことを理解できないともなるからだ

人間を作るのは経験である、宗教とか信仰も経験がないとわからない、聖書を隅から隅まで読んでも経験がないと理解できない
別に聖書を読まなくても理解できるし信仰を知ることができる
第一聖書では何か起きたこと事実として起きたことを一番重視している
単なる哲学でもない、思想でもない、現実に起きたことを書き記したのである
そこに奇跡もあるがそれも事実だったから書き記したのである
単なる知識ではない、現実に起きた事実でありそれは奇跡でも事実だから記したのであるすべて事実として起きたことを記したのである
つまり経験されたことであり想像された世界ではない、そこに重みがある

本質的に人間は経験しない限り学べない、何か本当に辛い経験をしないかぎり「悲しむ者は幸いなり」とか理解することは不可能である
キリストの言葉でも現実に苦しむことがないかぎり理解できない
ただ本をだけを読んでも理解できないのである
だから聖書を全く読まなくても経験したことで理解できるのである
でも隅から隅まで読んでも理解できないのである 
それは教会に行ってもそうである、経験しないことをいくら説教されても理解できないからである

経験という時例えば宇宙旅行した人としない人の差がもう信じられないほど大きい
宇宙から地球を見る経験した人はどうなるのか?
それをしている人としない人の差がどれだけ大きいかそのことで経験がいかに人間を作るかをしる
つまり宇宙から地球を見たら世界観が変わってしまうからだ
それは外国旅行でもわかる、ヒマラヤとか一回でも見た人は魅せられてしまうだろう
私は一回しか見ていないからそれも後悔している
仕事でもそうだしあらゆることが経験することなのである
本をいくら読んでも外国のことがわからない、それがいかに経験が大事かを物語っている
そして老人はその経験をふりかえる、経験が宝になる、例えばもしヒマラヤ登山を経験した人としない人の世界観も違ってくる
つまりなぜエベレス登山で死んでいる人が多いのか、それだけ魅せられてしまったということである
3000メートルから8000メートルの山を見たとき本当に日本では経験しえない驚きだった
ただその時曇っていたのではっきり見えなかったから残念だったのである

いづれにしろ人間を作るのは経験であり老人はその経験を語るのである
その語ることが面白いということがあればその老人は価値ある経験をしたとなる
だから戦争を経験した人は死ぬ直前まで戦争のことを語っていた
それだけあまりにもありえない強烈な経験となって忘れることができなかったのである
戦争などはいくら聞いても実際に経験しないかぎり理解できないものだからである
戦争を経験した人は生涯忘れられないのである  

とにかく歴史でもそうだが今回のコロナウィルスでも時代に起きた経験でありやはりこの後そのことを語っても経験しない人はなかなか理解できなくなる
それで私は一身上でも家族の認知症とか自分の病気とか他者から責められたとか様々な経験をして理解した
津浪や原発事故でもそうである、これも避難民になったとかなれば経験である
それを批判したりしたがその人たちにとって経験したことはまた違っている
ただ津波だけは恐怖だった、村ごとすべて消失するなどイメージすらできなかったからだこういう経験はなかなかできない、でも何百年に一回とかこんな恐ろしいことが世の中には起きるのだ、その起きたことが歴史である
ウィルスでも日本でもコレラとかで大きな被害があったからかつて経験されたことなのである、ただ忘れていたというだけである
歴史はそもそもそうして人間が経験したことを書き記したものである
その物語がhi-storyになった、つまり人間個人にしても一生はhistoryなのである
つまり経験されたことでありそれを語ったものなのである


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経営でも投資でも経験しないとわからない、いくら本を読んでも話聞いても実際にしてみなければわからない
つまり自ら経験しないかぎり理解することは不可能である
あらゆるものが経験なのである、経験しない限り何か上達する身につくことはないのである





2020年03月12日

人生はみんな失敗に終わる (学歴も関係ない、文明そのものが原発事故のように終わる)


人生はみんな失敗に終わる

(学歴も関係ない、文明そのものが原発事故のように終わる)


学歴がどうのこうのとかFランのことをyoutubeで自ら話しているのも面白い
なぜ自分は底辺労働とかニートとかFランとかに興味をもつのか?
今回も長男長女は融通性がなく引きこもりになりやすいというのもなるほどと思った
次男と次女とかなる世渡り上手でうまく対応する術を身につけるとなる
それもまさに自分が長男であり一人っ子でありそうだった

自分自身はどうしても集団生活になじめない、人間関係が苦手なのである
それでどういうわけか家庭環境で引きこもりが許されたので30以降は無職であり家に引きこもっていた、ただ仕事もしないで旅ばかりしていたとなる
そのことから社会常識が欠如する人間になっていたのである

大学でもほとんど勉強していない、Fランではないけどにたようなものだった
第一私の年代ではまだFラン大学がなかった
一応大学となるとみんなエリートになっていた、でも団塊の世代だとその頃から大学という価値が数が多くなり価値がかなり下がってたいのである
だからなぜこんなに大学は人数が多く1000人とか集まる講堂とかで授業しているのだろうとなる、そんな数の人間を前に講義すること自体なじめなかったから余計に勉強もしたなくなった、高校の時も勉強は嫌いだった、だから良く卒業できたと思う
卒業すらできない状態だった

私にとって大学とは田舎から自立するために出るということ家族から離れることに意味があった、そこで甘えていたが自立できるようになったからである
それだけか最大の効果であり勉強などどうでも良かったのである
そしてなぜカルト教団に入ったのか?
これも私はもともと宗教を求めていたのである、私の最大の問題は死の解決だったからである
でもカルト教団は全く宗教とは関係ない政治団体だったのである
だから毎日一票をとるために一軒一軒回るだけだった
ただこれも人間と接するということでひきこもりにならない効用はあった
でも勉強はしていない、これも実に無駄だったとなる

その後は就職もしない、底辺労働者でありそこで散々な目にあった
工事現場ではビルの四回から落ちて死ぬ所だった、そこは一番危険であった
そこで感じたことは底辺になることはこれだけ厳しいものだということを自覚した
そのことを語っている人がいて勉強しておけということを言うのもわかる
一回就職してみるべきだというのもわかる
実社会がどういうところか学生時代はわからないからである

ただ文学に興味があり短歌と俳句は早い時期からはじめていた、それも稚拙なものだったでも何らかその方面で才能があり今日までもう死ぬ時期になり続いている
詩も書いてきたがいいものが作れなかったが今はそれなりに作れている
人間は何らかその人なりものをもっていて個性をもっていてそれを活かすことである
天職につくことである、そこにこそ生きる意味がある
金は必要でもその前にその人なりの仕事をもつことである
そのために勉強して訓練することである

それがわかるのは老人になってからである、また震災で別に補償金をもらえるから生活できたとしても毎日パチンコ通いでありギャンブルだけになるともうその精神も荒廃する
それがやがて顔に現れる、生きがいもなにもなくなるしヤクザと変わりなくなることが怖い、それより大工でも自転車屋でも職人でも農業でも仕事をもっていることがその人を価値あらしめる
確かに漁業していた人は漁業権を売り東電から事故前も事故後も補償金を特別もらっているから生活に困らない
でもそうして魚もとらないとしたなんで港にいるのか?
そういう疑問になったことでわかる、何の意味があり価値があってあなたは港にいるのかとなるからだ
避難民となってもただ補償金だけで生活している人はそうなる
でも他に避難民として移ってもそこで何か仕事をもっている技術などもっている人は他の土地でも価値を認められるのである
それは金の問題ではない、仕事をもっていることにできることに意味がある

ともかく人間の成すことは結局失敗なのである
みんな成功したと思い努力しているし勉強している、でも最後は失敗に終わる
そもそもどんな優秀な人でも最後になって失敗に終わる
それは身近な家族で見たらかショックだった
体力的にも頭脳的にも優れた人間であっても認知症になんで馬鹿になったからショックだった、つまり認知症になることは人生そのものが失敗だったという烙印をおされる
なぜなら馬鹿になったのだとなってしまうからである
そして最後に言い残した言葉が

俺は優秀だった

ここには万感の思いがあったとなる
人間は優秀だった、優秀な人間が文明は人間が作った、でもそこに今や見る影もない、廃墟となっていたともなる

人間は成功も失敗もない、みんな最後はこうして失敗なのである
それは個々人でもそうだが文明そのものが失敗なのである
それを如実に示したのが原発事故だったのである
そこに理系の優秀な選ばれた人が働いていたからである
それはまた人間の英知を集めて作られた文明を構成するそのものだったからである
それが津波とかで一挙にバベルの塔のように崩壊したのである
つまり人間の愚かさを示すだけだったのである
つまり失敗に終わったということである

人間は成功も失敗であり失敗も成功である、失敗も必要なのである
人間は失敗して謙虚になる、俺は頭がいいから成功ばかりして億万長者になった
こんなことを自慢するようになったら危険である
それで事業を起こして失敗した人がいた、もし失敗しなかったら傲慢になって手がつけられないとなった

いづれにしろ学歴が別にその人の価値を決めない、文系などみんなたいして変わりないのである、ただ理系は価値があるから区別される
一体人間の価値がどこにあるのか?それ自体がわからないのである
乞食のような人間が神に認められた人間であることが普通にある
その方が多いのである、宗教に関してはこの世に成功する人は信仰者ではありえないのである、麻生大臣のような人がキリスト者ではありえないのである
巨万の富をもっているからである、まずかえって上級国民はキリスト者とか信仰者にはなれないだろう、ただ富者でも貧者でも区別しないということはある
ただこの世の成功者にはなりにくいことは確かである


人間は成功でも失敗でもない、何か成功は奢りに通じて失敗にいたり、失敗は謙虚になり成功に通じているともなる、国単位でも必ず栄枯盛衰があり一時的に栄えてもいつまでも栄えることがないと同じである、アメリカだって衰退してゆく
それが歴史の法則だともなる
人間は成功を求めることではない、神の国を求めなさいというときそれはこの世の成功ではない、この世のことはすぎてゆく常に変化して無常なのである
つまり結局栄枯盛衰であり成功しても一時的でありたちまち衰退して見る影もなくなる
だからこの世で成功を求めても失敗なのである

人間は学歴で何か価値が決まるわけでもない、有利なことは確かでもそれで価値が決まらない、その後に長い実社会での仕事で決まってくる
仕事ができるかできないかは学歴ではないからだ
ただ勉強していることは悪いことではない、みんな学校をでてもっと勉強していれば良かったと後悔しているからである
自分自身でもそうである、勉強しないから底辺に落ちたというのは本当だからである
なぜ流れ作業のようなことばかりしなければならなかったのか?
それはつくづくもっと勉強していなからこうなったと痛切に感じるからだ
つまり勉強しなければ奴隷にされる、ロボットにされるのである

ただ自分は特別恵まれたからそうならずにすみ大学を出てからも勉強をしつづけていたのである、それが今になってようやく実っているとなる

いづれにしろ

文明自体が失敗に終わる!

ということは個々人も失敗に終わるということになる、つまりこの世での成功は何であれ失敗に通じている、それを証明したのが原発事故だったのである

結局は

成功するのは全能の神だけだ!

あとは部分的に成功したりするけど全体的にみたら失敗である
そして理想社会など人間は作れない

科学技術⇒原発事故

政治⇒治められない

法律⇒守られない

科学技術でもいい面と悪い面がある、それが社会に全部いい面として作用しないのである政治でも治められない、民主主義なども今やどうにもならない、数だけが力となっているからだ、法律も守れない、弁護士自体が不正していることもある
法律をなぜ勉強するのか?金儲けだともなる
いろいろな問題を人間は解決できない、問題は問題をうむ
一つの問題を解決してもまた次の問題が生れてくる、そして永遠に解決できない
そこに人間の限界があるから解決できない、そして遂には破綻するとなるのだ
それで成すことではない、成さないこと天地自然にまかせることが治めることだという老子の思想の逆説になる、そういうことが現実だから共感するのである

boshupic1.jpg
ボッシュの絵

カオスになる人間社会、これも原発事故になったこの辺とにている
ここには人間の快楽を求めるものが露骨に現れている
それもまた人間社会の実相である
それは今でも変わりない、人間社会はいつまでもこうしたし混沌(カオス)なのである

2020年02月20日

人間を作るのは経験である (本読んでもわからない)


人間を作るのは経験である

(本読んでもわからない)

つくづく人間は経験しないとわからないのだ、それで一番わかるのが外国に住んだ人と住まない人の差が大きいことである
留学した人としない人の差が大きい、この差は埋められない
だから知識人となる人はたいがい外国に住んだ経験がありまたさらに上をゆくと外国で仕事をした人である
そうきう経験した人は深いところで外国を理解している
それは日常的に日本との差を意識するからである
そういう経験の積み重ねで外国を理解して日本を理解するからである
これは旅行したくらいではわからないからだ
だから留学というのは相当に価値があることになる

例えばその他地理でもそうである、これは地図を見てもわからない、実際に旅行して実地にその場に立たない限りわからないのである
特に驚くのは太陽が昇る方向が違ってくる
太平洋側だと海から必ず太陽が昇る、でも山側だと山から太陽が昇り山に沈むのである
この感覚は同じ日本がでもそこに住んでみない限りわからない
それで会津は山があれだけあり高い、同じ福島県でもまるで違った世界となる

人生というのも実際は経験しない限りわからない、本を読んでもわからない
それで就職のとき一番重んじられるのはキャリアである
どういう経験したかでその人が判断される
その時資格でも学歴でも採用されない、どういうキャリアを積んだかで判断される
それはどういう経験をしたかということである 
だから学生でも一流大学でも実際に社会に出ると成功するとは限らない
つまり経験して見ない限り人間の力量はわからていからだ
学問はだめでも力を発揮する人はいるからだ
例えは戦争の時とかなればそこで力を発揮する人がでてくる
そういう特殊な場では本当に命をかけて試されるからである
経験とは何かを試されることなのである

ともかく人間はなんらか必ずどんな人でも経験を積んでいる
奇妙だけどニートでも引きこもりでも経験なのである
それは会社に勤めない、働かない、人と接しない、・・・こういうことは普通の社会人になれば経験できないことなのである
それと逆に一般的には会社に勤めて社会人となり経験を積む、それで社会のことを理解するのである
それを経験しないことは大きな欠落を生むことになる
例えば結婚でも経験でありこれを経験しないものとするものにも大きな差が生まれる

ただ経験と言っても人間の経験することが極限られている
だから何でも相手を知ることがむずかしいのである
仕事だって今は無数にありそれも経験しないとわからないからである
私は車を乗らないから車のことがわからない、となると車社会では脱落者となってしまうのである、一方で自転車のことを車ばかり乗っている人はわからなくなるのだ
そしてなぜ江戸時代のことがわからないのか?
その根本は歩いて生活していたということ街道でも一日40キロ歩いて旅していたということが経験しないからわからないのである
そのことからあらゆることが理解できなくなるのだ

経験が人間を作るというときあらゆることがそうである
なぜなら仕事するにしても何かに熟達するにしても経験だからである
こうしてみたがうまくいかなかった、だからこうしたらいいとか実験して経験してゆくことで身につく、農業だって本当に一から始めたら実験である
こうして失敗したこうしてうまくいったとか肥料を与えるにしても何でもそうである
それで農業は親の跡を継ぐのが有利になる、そこで蓄積したノウハウを教えられるからである、その土地のこともそこに生活して教えられるからである
すでに農家に生まれるということは農業を経験しているとなるからだ

とにかく自分には相当に経験が欠けていた、社会的に知らないことが多すぎた
それは社会経験がなかったことによる、もし会社勤めしていればこうはならなかった
それで親が死んでからいろいろなことを経験した、それも遅きに失した
家をやりくたすることはこれ自体が基本的生活の経験だった
家事でも経験であり一人切り盛りすることが大変である
それで常に家事に追われるようになったのである

そしてお手伝いさんなどを雇うことになったがこれも経験だった
日本人は外国で必ず家政婦を雇うようになる、それが強いられる
でも日本人はそうして家政婦を雇う経験がないからうまくいかないというとき
そういう文化がないからである、だからうまく使えないのである
これだって経験なのである、あらゆることが経験なのである
会社の経営でも人を雇うことでありそれで失敗してもやはり経験を積んだとなる
まず裏切られたとか普通にあり人を雇い人と共同することがいかにむずかしいか知る
それで一人で一反の畑で農業していても共同しないというときもそうである

その人の経験したものが人生になる、もちろん本を読むことも必要である
雑学でも意外と後で役に立つ、知識も蓄えることが必要である
でも基本的には経験しないかぎり知識もみにつかない
外国のことをいくら本を読んでもわからない、それで50以降海外旅行したのか良かった
その経験は貴重だった、その前は全く本を読んでも外国のことがわからなかったからである、中国に三回行ったから中国をある程度理解したのである

宗教とかも本を読んでも座禅を組んでも人に教えられてもわからない、もちろんカルト教団に入ってもわからない、結局経験から知るのである
聖書で一番大事なのことは奇跡であり何か事が成ることである
哲学とか思想でない、事実として起きて成ることである
だから奇跡が現実にあり奇跡なくして信仰もありえないのである
奇跡を信じない限りありえないのである、だから聖書に記された奇跡は全部真実であり作り話ではない、もしそうだったら信仰自体成り立たなくなるからだ
これも結局自らの経験で知るほかないのである
その人に必ず奇跡が起きて理解できるからである
信仰でもだからいくら聖書をくまなく読んでもあらゆる本を読んでもわからない
奇跡の経験がないかぎりわからないのである

そてし人生は経験した方が勝ちだった、自分は何か不器用でうまくいかなかった、失敗が多かった、海外旅行では大失敗したがそれでも思いきって行って良かった
なぜなら60になると介護であり何もできなくなったからである
それがつくづく幸運だったとなる、それはすべて親に恵まれたからである
だからやりたいことをやらせてくれた親に感謝して懸命に介護したのである
つまり今や何も経験することちができなくなったとなるからだ
もう老人になれば経験をできない、経験したことを語ることになる
それで金持ちの老人がワインのことをやたら詳しくなったけど無駄だったという
それも経験である、何々したがこうだったとか語るようになる
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日刊現代


会社に勤めたが退職して何が残ったかわかる
でもその経験が人生だったとなる、だから退職した人は会社勤めしていた時をなつかしくふりかえる、その仲間のことでもふりかえる、なぜなら時間が貴重であり
その時間をともにしたことが実は人生をともにしたともなるからだ
それで会社のことが忘れられない愛着がそこに生まれていたのである
というのは人生というのは一回しかないからである
一回しか経験できないからふりかえると時間を費やしたこと経験したことが貴重なものとなるのである
そしてその時間がかえってこないのである、となると余計に貴重なものとして自覚するようになる

カルト教団に入ったこともそれすら経験だった、あらゆるものが経験でありそれが人生を作る、そして老人になるとその経験を語るようになるのである
若者はまだ経験を積んでいない、これから経験を積んでゆくものである
でもどういう経験をすべきかが問題になる、毎日ギャンブルなどしているだけでは何にも残らない、そこで常に時間は浪費されて後年何も残らないとなるのだ

2020年02月17日

時間の間隔の誤差が大きかった (眼鏡を買ったのが4年前だったが一年前と思っていた)


時間の間隔の誤差が大きかった

(眼鏡を買ったのが4年前だったが一年前と思っていた)

今日パリミキで眼鏡を買った
片方のレンズが落ちたからである
片方がなくてもそれなりに見えたのも不思議である

ただこのメガネは一回も踏んでいない、前のメガネは十回くらい踏んでは直してもらい使っていた、だから10年くらい使ったように思っていた
そして新しい眼鏡にしたのが一年前とかと思っていた
でも4年以上過ぎていたのが信じられない
でもパリミキでしかメガネは買っていないはずである
だから間違えないと思う

人間の時間の間隔は何かずれてくる
いつ何あったのかからなくなる
それで歴史でも前後を間違えたりするのである
江戸時代の墓の年号などを見ても間違うのである
時代を前後することが良くあるのだ

本当に今回は一年前くらいだとてっきり思っていた、でも4年前に買った眼鏡だった
なぜそう思ったかと言うと一回も踏んで直してもらっていないからだ
だから一年くらいだとてっきり思っていたいたのである
今でも何かそれが信じられないのである

例えば家族の死んだ年は間違うことはない、いつ死んだか覚えている
一二年のずれはあるかもしれないがたいがい正確に死んだ年とか覚えている
両親がいて父と母がいてどっちが先に死んだかを覚えている
その前後を間違うことはないのである

このメガネで私が覚えていたのは前のメガネは何度も踏んで曲がり十回くらい直してもらい使っていたと記憶する、そのことは良く覚えていたのである
それで見えずらくなったこともあり新しいのを買ったのである
だからそれは相当に長く使っていたと記憶する、でも5年くらいだとすると短かったのかとなる

ここで感じたことは人間の記憶は何でもって記憶するのかというとこの場合はメガネを何度も踏んで曲げて直してもらったという経験を記憶していた
その記憶が脳に刻まれていたがいつの年かという正確な時は明確でなくなっていたのである
だから人間の記憶とはそうして印象になる出来事は記憶している
でも年代とかは忘れているのである
それが十年前でも二十年前でも印象的な何か大きなことがあると記憶に残る
それは20代の時に起こる、20代は何か様々な出来事が起きて印象に残り安いのである
その後は何か体験でも残りにくい、記憶しにくくなる
でも何か大きなこと事件でも体験でもあれば心に記憶される

人間の記憶は年代では記憶されない、その正確な年号とか西暦とかでは記憶されない
何か事が起きてその人にとって忘れられない体験が記憶として残る
あの時は何々があったというときその何々が記憶に残るのでありその時の年代ではないのである
老人になるとそうした自分が経験したことを語る、でもそれが明確な西暦とか元号とか年号とかでは記憶されないのである
それが歴史でもそうである、何か大きな事件があったとき歴史的事件となり記録されるし歴史の別れ道とかとしてみんなが認識するのである
元禄時代となると元禄という年号とかではなく赤穂浪士の討ち入りがあった時代として年号も記録される、また頭の中に記憶される

だから明治は江戸時代が終わり新しく始まった時代であり昭和は太平洋戦争があった時代でありまたアメリカに負けて戦後が始まったとか記憶する
それから高度成長時代がありバブルの崩壊があったとか記憶されるのである
人間の一生も年代という数字ではなくその時々起こった出来事で記憶される
親が死んだとか結婚したとか子供が生まれたとか何か一番印象的な出来事を記憶するのである
結局その記憶が人生だったと最後にはなる

バリミキの支店長なのか?男一人と女性一人いたが若い男性は福島市から通っているというのも驚きである、車でほぼ一時間半くらいかかるのか?一時間なのか
でも遠い、そんなところから通っているというのも現代である
その人は説明がうまかった、前の人は何かあった時必ず点検に来てくださいと言っていたそれも3カ月ごとにくらい来てくださいと言っていた
レンズが前にも落ちていたのだから来るべきだった
でも一年くらいしか過ぎていないから新しいとてっきり思っていたのである
それが大失敗だったとなる
時間が過ぎるのがとにかく早いということである
老人になるとそのことが痛切にわかる、それでがっくりとくる

結局5万近くでレンズが簡単にとれないものを頼んだ、これも思わぬ出費だった
こういうことは必ずある、ただ説明する人が良かった
こうして営業とか説明する人が大事になる
ただメガネとかなるとごまかすことはできない、フレームとかわからないところがあるがレンズなどはごまかすことができない、必ずクレームがくるし事前に試しているから間違うことはないのである
銀行の投資信託など説明されてもわからないからだまされやすいのである

とにかくこれも一騒動だった、でも私の視力は落ちていないから変えなくてすんだ
毎日パソコンを見続けているが視力は落ちず度を変えることをしなくても良かったのである、これも不思議だとなる
ただ自分自身が健康ということではない、何か鼻が悪いから寝ている時呼吸ができず口でしているから口の中が乾くのである、これもまずいと思った
ただ三日つづけて遠くまで自転車で遠くに行っても疲れなかったから何かまた体力がついたのかとも思う、一応十分に寝ているということか良いということがある
夜二時間くらいしか寝れずに昼間寝ているとか言う人は体力的に落ちて来る
また老眼で書類など読めなくなっている70近い女性もいる
だからなんらか60代以降は病気になり弱ってくるのであ

2020年02月05日

余裕がない人は失敗する (追い詰められている人はすでに負けている)


余裕がない人は失敗する

(追い詰められている人はすでに負けている)

富を得ようと急いでいる者は潔白を保てない‐箴言


日本の戦争のことをふりかえるとなぜアメリカのような巨大な国と戦ったのか?
夜郎自大ということもあった、夜朗国は漢に対して漢の国の大きなことを知らない
それで見くびっていた、甘くみていた、小さく見ていた
結果として負けた、青銅器が武器であり相手は鉄器の刀だったとかある
そういうことは日本にもあった
その当時情報が限られている、庶民はアメリカのことを知らないからだ
そこで夜朗自大になっていた

そしてアメリカによる日本は経済封鎖で制裁で石油が入らないということがあった
ここでも経済的に追い詰められていた
戦争にはあらゆるものに戦車でも戦艦でも飛行機でも石油を必要としていたからである
それが動かせなければ勝てない
それを象徴していたのは最後に特攻隊がゼロ戦で戦った時、片道の石油しか燃料がなかった、ということはもう帰れないのである、そのまま燃料がきれたら死ぬほかないのであるその時石油がなかったからそうなった、だから石油がどれほど大事なものか貴重なものかわかる
今でも石油が生命線になっていることで同じなのである
だから中東に自衛隊の戦艦を派遣したともなる
石油が入らなくなったら日本経済は成り立たなくなるからである

石油がなく追い詰められた

余裕がなくなった

そして真珠湾攻撃になった

戦争の見方でもいろいろあるにしてもそういうふうにアメリカによって追い詰められた
その時点で負けていた、経済戦争で負けていたとなる

人間が余裕がないと商売すらなんでもうまくいかないかもしれない
銀行でも窮地にたたされている、すると余裕がないから詐欺まがいの投資信託でも売りつける
営業の人は分散投資だと言ってカナダの国債とアメリカのリートとに投資した
前らか株はもっていた、それはリーマンショックの時株が今のように上がっていた
ただその時の状況があったにしろその株を日本のリートの投資信託に回した

それはなぜか

その営業の人がノルマを課せられていてなんとか投資信託を売りたかった
それで今度Jーreitを買った
その時株が上がっていたのだから私はなぜそうするかとも見ていた
ただ自分は時間がないので営業の人にまかしたのである

つまり地銀は今窮地にたたされて追い詰められている
するとまず銀行の利益が優先されて顧客は二の次三の次になる
銀行が今やつぶれるとかの話ししかきかないからである

こうして追い詰められたものは危険である

とにかく追い詰められた人と出会うと危険である、今日食べるものがないとかの人がうろついていて出会ったらわずかの金でも殺されるということがある
そこまでするのは追い詰められているからである

借金している人も怖い、やはり追い詰められているから余裕がないから相手のこと客のことを考えるより自分のことしか借金のことしか考えられないからだ
そういう人は助けることができない
私が介護とか病気にのとき来た人はそうだった
借金で苦しんでいる相手のことを見るより借金をなんとか返したいとなり自分の苦境などみない、金をとりたいというだけなのである
そういう人が来たのは最悪だったのである

だから余裕がないと本当は事業でも成功しないのではないか?
まず余裕資金がないととても長期間でビジネスだって見れない
また人生でも早く成功しようとしているばかりだと何かを成すことがむずかしくなる
そこで問題なのは今利益を出すことが優先されるからだ
学校でも試験が絶えずありその試験でいい点を今とることがまるで人生を左右するのだと思ってしまう、そこでじっくり自ら勉強するというのではない
点数をとることだけに精力をそそぐことになる

ただ人間の弱点は長期的に見れないことである
何か始めたら今すぐ成功しなければならない、利益をあげねばならないとなっているからだ
ビジネスだったら利益が今上がらなければやめるほかないとなる

ではそういうことで短期的には利益があがりいいようにみえる
でも銀行でそんな詐欺まがいの投資信託を客に売りつけるだけで成り立つのかとなる
いくら窮地にたたされてもそれで地銀などが地域の人に信頼を得られるのか?
もう信頼できないとなり客も離れてゆくともなる

富を得ようと急いでいる者は潔白を保てない‐箴言

一番手っ取り早く金が入るのはギャンブルである、でも何か潔白を保てないとなる
手っ取り早く富を手に入れるには盗むとか奪うことである、そこで不正でもいいとなる
国単位でも中国がアメリカからIT関係の技術を盗むのは不法だとするのもそうである
そういう技術開発には時間と労力がかかっているからそういうようになる
他人の労力と知恵とかを奪って豊かになったとなるからだ

人間はとにかく金でもそうだが時間でもそうである
常に余裕がない、時間にも追われている、旅だったらただ早く早く目的に行くことだとなる、その過程を楽しむ見るということがなくなる
新幹線で平泉まで二時間ちょとだとなるともう旅ではない、移動しているだけである
その過程がないからみちのくの旅もただ移動しただけだとなる
とても歩いて旅した芭蕉のようにいい俳句もできないしその土地についての理解も深まらないのである
だから不便でもどれだけ時間をかけたかでその時間に比例して旅の経験が深化されるのである

ともかく人間は余裕ないと失敗しやすい

これは法則のようなものかもしれない、余裕がないということですでに追い詰められているから無謀なことをしたり何か無理をしたり客のことよりも会社とか自分の利益を優先する、すると一見一時的には利益をあげても信頼を失うとかあとになると失敗だったともなる
つまり余裕がなくてすることはすでに失敗だったとなる
余裕がない時はそうした行動はするなとまでなるのである
要するに潔白を保てないということである

ただすべてがあてはまるともならない、なぜなら信長は窮地に追い詰められていた
でも一か八かの賭けで少人数でも大軍に勝ったということもある
「九死に一生を得る」ということもある
でも余裕がないと失敗することが多い、秀吉の水責めなども秀吉軍に余裕があったからできた、徐々に追い詰めて降参させることができた
すでに城を包囲して水責めになったとき秀吉軍は勝っていたのである
攻める方にそれだけの余裕がありゆとりがあったからである 
そうすれば見方も死ぬ人も出なかったのである

なんであれ時間的余裕がない判断で失敗する
でも一方即断せねばならなと時もある、だからその兼ね合いがむずかしい
コロナウィルスの対処でも早い時期から即断する必要があったからだ
そこに待っている余裕がなかったのである
だから一律には語れない、時と場合によるからである

行動のチャンスが人生には一回しかないとかでもそうである
行動するチャンスは本当に人生では一回二回しかないともなるとするとその行動するチャンスを逃したら永遠にそのチャンスはめぐってこないのである
そういうふうにどうしていいのか悩む、でもそこで決然として行動して物事が開けて解決することもある
そういうことは若い時に起きるがその後はやはり余裕をもってしないと長期的には失敗するとなる

今成功する今金になればいいとなるがそれで長期的には失敗する
今は損でも余裕をもってできるならするとすると成功するともなる
その兼ね合いむずかしいとなる
                                   
富はそもそも一代で築くのはむずかしい、何か急速に金持ちになった人はまた急速に金を失いやすいこともある、遺産をもらうとかするとそうなりやすいのである
例えば富は金があるだけではないからだ、富になるのは土地があっただけでもならない
農業をみればわかる、土地があってもそこに費やす労働力が大きいのである
そしてその家が豊かになるというとき作物を育てるノウハウが富になる
それで農家では果物でもなんでもそのノウハウが子供に伝授されるから豊かになる
つまりそうした売れる作物を作れるノウハウがなければ豊かになれないのである
そういう家はそうして富を生み出すものをもっているから余裕があるともなる
一から富を作り出すことはむずかしい、そこに余裕ある家とない家が生まれる
そうして富がある家は何か始めるにも余裕もって始められるから継続して栄えるということがある 

ただどうして豊かになるのか、金持ちなるのか?
これは常に語られていてそれを商売にする、何々するともうかりますよというのがインタ−ネットでも無数にでている
それはみんな金持ちになりたい、何か簡単にすぐに金持ちになりたいからでありおいしい話にとびつく、そしてかえって損しているのである
富は得は徳でありそんなに簡単に楽に富が手に入るのか?
何か不正して富が手に入るのか?それが疑問なのである

富はだから一代で築けない、その家の何かが積み重ねがあってその跡を継ぎ金持ちになるとか豊かになる、だから何でも時間がかかるのである
株でもうけようとしてもそれを実際にして株の売り買いを経験して失敗でもしてみなければもうけられない、すると時間がかかる
そしてパソコンの画面を一日中株の取引きのために見ていればスキルが身につく
するとそれでもうけたとしても他のスキルは身につかなくなる
何か勉強したいことがあっても他のことができなくなるのである
そして人生が終わって富を得ても人生で何を得たのだろうとなる

結局人生とは

□×時間=実り

これだった、何に時間をかけるかでそれが後年実りとなる、旅でもそうである
旅に時間をかければ旅したことが後年実を結ぶのである
楽器を買うのに金はかかる、しかしそれよりその楽器を学ぶ時間が大事なのである
私は旅したけど確かにホテルに泊まるのに金はかかったがいつも最低の値段の宿を探していた、それで苦労した,食事も最低である、外国に行ってもそうだった
ただ腹をみたせばいいとしかなかった
その後は自転車旅行でありテントで寝たから宿代は無料だったのである
それより時間があったからから自由な旅ができた、もう会社員とかでもなるとできないからだ、とても一か月とか自由に旅行などできないからだ
そういう人は正規のルートからはずれてしまうからである

とにかく何か金持ちになるとか豊かになるというときいろいろある、ただ老人になると記憶に生きるようになるから何を体験したのか経験したのかが大事になる
金持ちでもワインにこって蘊蓄もあったが無駄だったとか言う人がいるからだ
自分もそう思う、そこに時間をと金を費やしても無駄だったということがある
そういうことが人生には本当に多い、とにかく時間を無駄にしたことがみんな後悔している
これだけは共通しているのである、そしてその時間はもうとりもどせないから深刻なのである、百億円あっても青春時代はとりもどせない、女性でも美貌はとりもどせない
これはビジネスでもあらゆることに共通しているのである

食物はお金で買えるが      食欲は買えない
薬はお金で買えるが       健康は買えない
寝台はお金で買えるが      安眠は買えない
化粧品はお金で買えるが     美しさは買えない
別荘はお金で買えるが      心地よさは買えない
快楽はお金で買えるが      喜びは買えない
友達はお金で得られても     友情は得られない
使用人はお金で得られても    忠実さは得られない
静かな日々はお金で得られても  平安は得られない

安眠はやはり大きな部屋とかで眠り安いからこれはあてはまらないかもしれない

使用人は雇えるが忠実さを買えない

これは経験したからそうである、雇われる人は金しか関係しない、だから盗まれるからとして裸にして働かせた金持ちがいるほどである、家で働く人は一番危険なのである

知識だって買えない、なぜなら本をいくら金があって買えても理解することがむずかしいからである
今は私はいくらでも本をアマゾンで買える、でも理解するとなるとわずかの本になる
知識自体が金では得られない、外国に対しての知識でも外国旅行するとか体験がないと身につかないからだ、これも時間がかかるのである

家族の愛とか忠実さを金で買うことはできない、社長がいたとして社長が社員に忠実さを求めても得ることは本当にむずかしい
結局人間は「金の切れ目が縁の切れ目」で終っている
金が必要でも金ですべては買えないのである

2020年01月13日

記録されることの大事


記録されることの大事

(犯罪の記録が消えないことの恐怖)

昨日推理ドラマでAIDの問題を追及していた

AIDとは無精子症など絶対的男性不妊の場合に適用される方法です。 ご主人以外の男性ドナーの精液を使用し人工授精にて妊娠を試みます。

ここで一番問題になったのは誰の子なのかと特定できないことだった
ただ血液型とか顔が似ている似ていないとかで決めることはあった
DNAとか遺伝子でも決め手とはなっていた
だから何か方法がないわけではない、ただそれでも証拠となるものがない

つまり記録がない→証明されない

このことが一番の問題だったのである
それで最後は殺されたその事件にかかわった医者が残したメモが証拠となるから必死で探したのである、それが出てきて証明されたとなる
つまり犯罪には必ず証拠が必要なのである
犯罪も証拠がなければ立証できとないからである
結局証拠がなくて大きな犯罪でも殺人でも見逃されているのがこの世には結構多いのである

もし今後、万引きでパクられたら名前が出る。少年院じゃ済まねえぞ。間違いなく。姓名がきちっと出て「20歳」と書かれる。それだけはぜひ頭に入れて、自分の行動にそれだけ責任が伴うということを、嫌でも世間から知らしめられることになる。それが二十歳だ

麻生大臣が成人式でこう言ったけどそうである
つまりこうして小さな犯罪でも記録されることが怖い、そしてその犯罪の記録が消えないのである
例えば島送りになった人は腕に黒い線の入れ墨を入れられた
それですぐに腕を見ればわかった、それは消すことができないのである
一つの記録なのである
これも怖いことなのである、一生それを消すことができないのである
そういう自覚がない人が多い、成人することがどういうことかわからない人が多い
ここでなんらか責任を持たされるということが成人だともなる  

インタ−ネットの記録も意外と電子だから消えるように思えるがいつまでも犯罪者の記録が消えないから消してくれと裁判にもなった
つまり電子の記録も消えないのである、そして今あらゆるものが電子時代になると記録される時代になったのである
そして人間は本当に忘れやすい、それで自分自身のプログでも自分で書いたものを忘れている
それで我ながら自分の文章を読んで感心しているのも不思議なのである

とにかくこのドラマでも数万で学生が精子を売った、それがあとでとりかえしのつかないことになった、そのために脅迫されたりして金を奪われたからである
必ず若い時でも過ちがありそれが後でカルマとなって現れて苦しむのが人間である

この記録が大事だという時、相馬藩内で今回の津波で大被害になった
過去にそういう津波があり被害がなかったとかと相馬藩政記を調べた
そしたら生波(いくなみ)で700人溺死と記されていた
それも二行だけだったがこれほど貴重な記録もなかったのである
生波とは津波のことであり慶長地震と津波の後に津波という言葉になったのである
それまでは津波という言葉はなかったのである
これほど記録が大事なことを知らしめたことはなかった
なぜなら他に伝説あるとしても一切記録がなかったからである
その記録も全く忘れられていたからである

歴史だって記録されていないければ不明になる
それでエジプトではヒエログリフで石に記した、それで歴史が解明されたのである
もし人間に文字がなかったら歴史はあっても解明できないものとなっていた
確かに柳田国男のように公式の文書の記録より言い伝えが語り継がれたことが大事だということもある、そこに真実があるというのもわかる
それで口碑が大事だとして民俗学を起こした
その功績は大きかった、しかしまた一方で記録も大事なのである
何か文書の記録は信憑性がでてくるから契約は文書になったのである
口約束は記録が残らないから破られることが多いのである

では記録がすべてかというとそうもなりえない、なぜなら犯罪でも殺人でもまた何億という金を会社でごまかしてもわからない人が結構あるからだ
そうしたら細かい金などごまかして盗んでいる人など無数なのである
ただどういうわけか小さい犯罪は万引きでもつかまりやすいのである
巨悪はつかまらない、大盗賊は英雄となり国を奪うものは正当化される
それか世界史でもあった、国を奪うなら人を殺しても罪にならないとまでなっていたのが歴史である

ただ人間の心から見る時、そうした犯罪の記録より恐ろしいのは「神は心を見ている」というときそうした記録のことではない、心に人間の一生のことが記録される、記憶されているのである
あなたが何を求めて何をしてきたのか何を思ったのかなどが記憶されている
だから老人になるとその人の結果が心に現れてくるのである
神は心を見ているというときとても現実社会では偽ることができても神に対してはできないからである
また顔にもその行状とか思いとか何か心の歪みとか罪が現れる
それは別に犯罪ではない、その人はいい人と社会ではされている
でも信じられない女性になっていた
心か曲がり異常化していた、なぜそうなったのか?
別に犯罪は犯していない、金にも恵まれていた、ではなぜそんな人格になったのか?
そういう人もまた多いのである、だから犯罪がすべて人間を歪めるものではないのである

エジプトでは死後にそうしてその人の魂を計りにかけて選別するというときもそうである魂にはその人生の行状とか思いとかが記憶されている
それこそ消えないものなのである、何か簡単に忘れて消えると思っているがそうではないだから犯罪が記録されないつかまらないとしても心に記憶されて消えず良心の呵責に耐えきれず自主した人もいるのはそのためなのである
ただ人間の犯罪は多様であり心悪いことを思っただけで罪だとなると罪を犯さない人はいない、また罪を犯したからと言ってそれで終生消えないというものでもないのである
ただ罪の軽重とか人間には計ることがでときない、裁くこともできない
なぜなら人間はみんななんらかの罪人だからである、
つまり犯罪者であり犯罪者が犯罪者を裁くことはできないからだ
第一この世を生きて嘘つかない人などいない、政治家などは特に嘘ついている、そういうささないことでも守れないのが人間なのである

国でも民族でもそうである、そこに正義があるのかとなるとない、ただ
強い国が弱い国を裁いているだけでありそこに正義などないのである
ただ国家の犯罪となると罰することもできない、アメリカの犯罪は誰もどこの国も罰することができないのである
それは長い歴史で神が裁くとなるしかないのである





2020年01月10日

道を誤ることの怖さー人生は一回限りであり引き返せない (20代で決まる人生)


道を誤ることの怖さー人生は一回限りであり引き返せない

(20代で決まる人生)

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人間の一生とは何なのか?
これもいろいろいうけど実例から見ればわかりやすい
例えば同世代で赤軍というのがいた
その若者は日本航空をハイジャックして北朝鮮に逃亡した
そしてそのまま北朝鮮でずっと暮らすことになったのである
その人たちは親になっていたのである
それで日本がに帰りたいとかなった
帰ってきた人もいるがその行動が決定的結果になった
ではその行動が誤ったとして後で判断しても遅いとなる

なぜ遅いの?

人生は引き返せないということ

人生は二度ないということ

これが恐ろしいことだった、極めて人生の厳粛さであった
若い時だったら人生は長い、暇でしょうがいなと思っている
私自身もそんなものだった、仕事もしないことがありやけに長く感じていたのである
それが老人になるとこんなに早く時間が過ぎたことに驚くのである
まるで人生は一瞬だったと最後はなる

人生で道を誤るというときそれはすでにその人生の出発点の20代で起きていたのである
なぜ会社に入る時、大企業に入ることにこだわるのか?
それはそこで一生の方向が決まるということでそうなる
なぜ一流大学とかにこだわるのか?それが人生の進路を決めるように思えるからである
確かにどこの大学を出たかでその人を見ることがある
それは人間の価値が簡単に見分けられないからである
だから一流大学だったらやはり優れていると評価する
それはぞうでなくてもあくまでも平均的に見てそう判断する他ないからである

そして頭がいい人でも道を誤る
それがオウムだった、理系の頭のいい人が最後に浅原にだまされたとして刑務所に入り死刑にされたからである
これも本当に深刻なことでありその後悔は身にしみる
震撼ともする人生の実例なのである
私自身もそうしてカルト教団で運動していたから身にしみるとなる
カルト教団で人生を奪われてしまったということである
だから道を誤ることは本当に怖いことなのである

ただ人間は何かしら道をはずす誤る、後悔する、そればどんな人でもそうである
自分自身はひきこもりになり「小人閑居して不善を成す」となったのもそうである
ひきこもりとかは今は普通になっているが隠者とかなれるのはかえって優れた人であり
そういう人はめったにいなかったのである
百万人に一人とか特別優れた人しかなれなかった
でも今は経済的に豊かだからそいうことを一般の人でもできるようになったのである

20代で青春時代で何か決まってしまうというとき
例えば結婚でも誰かと結婚する、その人と一生暮らすことになる
それもたいだい20代で決まる、それも怖いことである
たいがい女性を選ぶにしても容姿でありその心を見なかったりするからである
男性にして恰好いいとか外見だけで決めたりするからである
それで三分の一が離婚するようになっているのだ
ただ選んだ人が悪いからと簡単に変えられないということになる

歴史でもあの時こうだったらこうなっていたとか見てもどうにもならない
日本でも戦争で死んだ300万人は返ってこないからである
これも歴史の厳粛な事実である、歴史では道を誤るとそれだけの犠牲が出る恐ろしさである、そこで有為な青年が大量に死んだのである
その人たちは生きたかったが生きられなかったのである

自分自身の人生も実際は30くらいで決まっていたのである
その後は余禄のような人生になっていた、その後は実際に旅ばかりして遊びだったのが自分の人生だったのである
青春時代は激動であり冒険でありそれが大事なのは一生の方向が決まるということなのである
何かすべてが決まるというのではなく方向が決まる
その方向が決まるから間違った方向に行くとそのまま後で間違ったとしても引き返せないのである
人生なんかいくらでも失敗してもやり直せるということもいう
でも方向が間違っていなければ多少の間違えとかあってもやりなおせる
でも根本的に最初に道を誤れば方向が決まってしまうから引き返せない
もう一度もとにもどってやり直すことができないのである

神を知るというとき別に聖書を読まなくても教会に行かなくても知ることができる
聖霊を受ければわかるとなるからだ、それは青春時代しかない
老人になれば誰でも人生はこんなものだったのかと悟ることはできる
でも神を知ることは不可能である
だから若きうちに神を知れということになる
その時期を逃したら神を知るチャンスを逃したことになるからだ
悟りと神を知ることは別なことなのである

もちろん別に無神論者でも立派な人はいる、すでに死んだ都築詠一氏とか武田邦彦氏などもそうである、無神論者でも人格的にも優れている
むしろ宗教者の方がおかしな人間が多いのである、何か一番この世で無用な者が宗教者になっている、それより一番害になっているのが宗教関係者だとまでなっている
その人たちは金を得る手段としてそういう稼業をしている
だからまともなのは市井で職人でも農民でもなんでも働いている人の方がまともなのである
そういう人達が宗教者が多いというときその国は堕落したのではないか?
イスラム教だと宗教者によって政治とかも支配されている
その深いところはわからないにしてもそれで経済的にも発展しなかったのかとなる
キリスト教でもカトリックの政治支配からプロテスタンとなったときマックスウェバーの資本主義の倫理を基にして働くことが奨励されて経済的に発展したとなる

自分も何か人生をふりかえると不思議になる
みんな一生をふりかえると不思議になるのだろう
その人生にしても20代にすべてがありあとの30年は余禄であり別にどうでも良かったとでなっていたのである
とにかく求道は青年の時にしなければもう無駄だとまでなる
確かに老人はみんな悟る、でも神を信じる時期はとっくにすぎている 
あとは諦念しかないのである

2020年01月04日

内村鑑三と明治維新


内村鑑三と明治維新


明治維新が何だったのか今問われている、単なる薩摩長州のク―データーであり権力奪取だったということもあからさまに言う人がいる
吉田松陰がテロリストに過ぎず薩摩長州に何か近代化を志すものがなかったというの確かである
それは後から美化されて作りだされたのである
どうしても西洋の文明とか思想を一挙に理解できないからである

ただ彼らの行動は幕府を倒すということで一致していた
何か主義主張があったとは思えないのである
なぜならとてもその時西欧の文明であれ思想であれ消化できないからである
それでまず西洋の文明の言葉を翻訳するのに苦労した
そこで日本人が漢字に翻訳したのである
その翻訳した漢字を中国人が使っているのである

権利はもともと権理だったとかいろいろに模索しつつ翻訳したのである
未だにそうした言葉は日本語にないとうときその背景にそうした歴史がないのだから実際は訳しようがないのである
市民という言葉の背景にヨ−ロッパの歴史が凝縮されて生まれている
市壁に囲まれて共同で敵から守る場として市がありシティズンがある
それでパスポートにどこの市民かと記すようになっている
日本だったらどこの村に所属していることがアイディンティティになっているから
市民となるとそもそも歴史的にないのだから訳しようがないのである

内村鑑三が侍の出であり薩摩長州の藩閥政治を常に批判していた
また天皇に不敬だとして不敬罪に問われてそのことで国民の敵とされて排斥されて苦しんだ
これも何を物語っているのか?それは明治は天皇というのがあまりにも異常に持ち上げられらた、それは古代の天皇制の先祖帰りだった
だから国家神道になった、なぜ廃仏毀釈が起きたのか?
それもやはり異常な天皇崇拝から起きた、それは不敬罪としてキリスト教への弾圧でもあった
ただキリスト教は明治では西欧化するのに認められた、なぜなら宣教師が多数来て大学もそうしたクリスチャン系が創始者になってできているからである

●異常な天皇崇拝(国家神道)−廃仏毀釈

●廃藩置県(侍の廃止)

●薩摩長州の藩閥政治

●富国強兵(国民皆兵)

これらのことが強圧的に進められた、その結果として日清日露戦争になり太平洋戦争の悲劇と通じていた
ただ国民国家というのは日本だけではない、フランスでもドイツでも世界的に国民国家になったのである、ナポレオンは国民国家にして国民皆兵にして戦争で強くなったのであるつまり世界が国民国家となった結果、国民同士が戦争するようになったのである
それで世界大戦となりその規模が拡大して大被害になったのである
だから国民国家というのはいいようで悪い面もあった
一つの説として国民国家ではなく国民軍など持たない方が良かった
そうならば日本は第二次世界大戦で中国とかまで進出することはなかったという意見もあるのもわかる
国民国家になったら国民全員が兵士になり外国との戦争では全員死ぬということにもなるどちらも国民国家であり国民が総力戦になるから最終的に全員死ぬということもある
もし侍だけの戦争だったら負けたら殿様が切腹して戦争は終わっていたからだ

内村鑑三は日露戦争を批判した、日清戦争は賛成していた
その後非戦論者になった、キリスト者として非戦論者になった
今でも日露戦争を肯定する人は多いが彼は否定したのである
日露戦争に勝ったとはいえなくてもロシアに対等で戦ったということが日本人は評価するでもその評価が奢りが太平洋戦争に通じていたのである
太平洋戦争の原因は明治維新からすでに始まっていた
西郷の征韓論でもそうである、吉田松陰のアジア征服でもそうである
その思想は明治維新からあった、それが大東亜戦争となったのである

歴史とは何かというときいろいろものが複雑に交じり合うから評価するのがむずかしくなる、でも歴史を明治維新でもその後でも一人の人物から見るとわかりやすいとなる
内村鑑三は幕臣でありこの出自が重要な意味をもっていたのである 
都築詠一氏というプログを書いて死んだ人も幕臣だったのである
それで明治維新の偉人を批判していたのである
内村鑑三も常に薩摩長州の腐敗した藩閥政治を批判していたからである
明治維新の元勲をもちあげているのは誰なのか?
今でもやはり薩摩長州の人たちであり山口県から首相になる人が多い
今の阿部首相もそうである、つまり薩摩長州の藩閥政治は継続されているともなるのだ

なぜ日本が大東亜戦争に突入して300百万人も死んだのか?
それは内村鑑三が生きていたらその戦争にも猛烈に反対していた
日露戦争は国民的合意の戦争のようになっていた、それでも反対していたのである
ただ大東亜戦争も評価するのはむずかしい、でも歴史的に継続するものがあり突然に戦争になったのではなく明治維新の時すでに予定されていたともなる
国民国家同士の戦争はすでに世界で用意されていたともなる
国民が全部兵士になるとき国民皆兵になるとその戦争は熾烈になる
現実に日本だけではない、ドイツとロシアの戦争でもここが一番多くも死んだからである日本も大陸の民族同士の熾烈な戦争に巻き込まれたのである
その原因を作ったのは西欧のヨ−ロッパのアジア進出であり植民地化であった
もしヨ−ロッパがアジアに進出しなければアジアで争うことはなかったのである
不干渉であり日本は鎖国して他国とはかかわらなかったからである

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世界史的には国民国家同士の戦争だったからこれだけの被害が出たのである
世界がハルマゲドン最終戦争の様相を呈していたのである

とにかくなぜ明治維新が世界でも奇跡だったとして称賛されるのか?
それは薩摩長州だけの力ではないことは確かだったのである
そこだけをはでに取り上げるのは問題であり否定されつつある
結局薩摩長州の藩閥政治は腐敗したからである
ただ明治維新ではなぜ英傑がキラ星のごとく生まれたのか?
それは日本の江戸時代三百年がありそこに侍がいて幕臣も国造りの中核になり明治時代が築かれた、だから今見直される
その一人が内村鑑三でもある、これだけの強烈なキリスト者が生まれたのはなぜなのかとなる
それは内村鑑三がアメリカに留学して視野を広げたことが関係している
今でも留学したとか外国で生活した人は視野が広くなり日本を相対的に見れる
日本の良い点と悪い点が見えるのである
ただやはり留学とか外国で生活した人であり旅行したくらいではわからないのである

いづれにしろ明治にたいがい実業でも教育でも大学でもみんな創始者になっている
つまりその延長として現代がある、その基は明治に作られたのである
明治は日本では偉大な時代だったとなる
ただ薩摩長州だけの功績とするのは間違いである、庶民にしてもすでに幕末から近代化の用意ができたともしている
なぜなら墓を見ると個人墓でも幕末のものが多いのである
その頃から農民でも経済力がついて個人の墓を建てるようになったのである
それまで村の共同墓地のホトケっポとかに葬られていて個人墓はなかいからである
ただ明治維新が何だったのかはそれを知ることは容易ではない
それは日本国という総体的な力が結集して成されたともなるからだ

とにかく歴史でもミネルバのフクロウは夜に飛び立つというようにそれが百年とか過ぎないとその真実がわからない、それだけ歴史となると評価がむずかしいのである
人物にしてもそうである、ただ死んで百年の後にとりあげられるだけですでにその人は歴史上の人物である、それは歴史に生き続ける人物であり後々まで影響するのである
あとの無数の人間はただ消えてゆくだけだとなっているのだ

明治の預言者(内村鑑三

そは噴火口なり
煮えたぎる溶岩を噴出す
火の言葉、ロゴスがその底より
とめどもなく噴き出す
その熱き岩よ、言葉よ
憤怒となり世を正す
聖書一冊を手中にして
明治の新しい時代の興国の預言者
そはまた堅き岩に身を寄せて
いと細やかなる高山の花を愛ず
そしてかなた遠望す高き峰
大洋を望み世界大に視界を広げる
その湧きあがる力の源泉は
神への信仰にして成りぬ
その清冽な泉の涸れることなく
こんこんと湧きて人を癒しぬ
キリストの霊の宿りその言は強し
その言葉は末代にもひびきわたる
新しき日本に義人一人生まれる
異国の攻めの強くも独立不羈に立つ
新しき世に炎のごとく立ちにけるかも!
得がたきものや神は日本にあらしめる
侍の矜持の高くその節を曲げぬ
誇り高き者にして神の言を伝える
その顔の柔和と見ればしかあらず
憤怒のとなりて世を正す
冷徹にして氷河のように閉ざす
その上に孤高の峰がそびえ立つ 
近寄りがたき者にして俗を排しぬ
江戸幕府三百年は無為にあらじ
侍の志の高くその信の篤し
その刀は邪を切り義を高める
明治になぜかく英傑の生まれしや
綺羅星のごとく生まれしや
真の侍のありてこそかな
日本の歴史の重みなるかな


(反歌)

千歳巌のごとく
国の礎と千代に
その末を見守り
その信の強くも
揺るがざるかな
国の栄の基なれ
そは人物にあれ
国の山河にあれ
その礎の堅くも
国は崩れざりし
天地の支えつも
神の支えるなり
国は盤石にして
毀つ能わざりし
その礎知るべし


2020年01月03日

未来は予測できない (この世は人間は無常、無常ではない永遠の命を知るべき)


未来は予測できない

(この世は人間は無常、無常ではない永遠の命を知るべき)

未来は予測できない、ミネルバのフクロウは夜に飛ぶというとき科学者がこう言っている地震は予測できない、科学的にわかっていないからだ、一日が終わった時その真相を知る、過去になった時その真相を知りえる
科学も万能ではないからだ、わからないことが多くあるのだ
東南海地震が津波が1年以内に起こるとか、5年以内に起こるとか十年以内に起こるとか
20年以内に起こるとか30年以内に起こるとか言うことができる
つまり30年以内といえばその内に起こったとすれば当たったとなるのである
結局地震とか津浪は予測しても無駄だからそうなたっときに備えをしている方が大事だとなる
津波対策としては高台を作り防波堤にして逃げる算段をしておくことである

それは東日本震災の津波で経験しているからである
予測をあてにしても当たらないからである
そんならそんなことに力を予算を使うより実際に津波が来たときの備えに使えばいいとなる
要するに人間は万能ではないという自覚が必要になる
でも科学者とか技術者は万能を望まれている、神のような力をもつことを期待されているのである
         
人間は運命を未来を予測できないから突然運命が変わる
ベ―トベンの運命のように突然運命に左右され翻弄されるのである
自分に起きたことも回りで起きたこともそうである
家族が認知症に突然なったのである
それは何なのか訳わからなかったから恐怖だった
次に地震があり津浪があり原発事故があり自分が病気になりと次々に恐怖が襲ってきたのである、その間に犯罪にもあった
家に来たのは悪鬼のような人たちだった、こうして自分の家は悪鬼につかれたようになったのである
一転して自分の生活はまるっきり変わってしまったのである

運命は予測されずにこのように突然来るのである
第一津波でもそうである、これほど突然なことはない、逃げられないほど突然だから被害があれほど大きかった
もし事前にわかっていれば一日前でも避難するからあんな大被害にはならなったのである逃げる間もなく津波が襲って来たからである
これほどの恐怖はなかったのである

予測できないから運命だとまでなる、もうあきらめるほかないとまでなる
人間が未来を予測することが不可能だというとき未来は神の手中にあるというのもそうである
神のみが人間の未来を決めることができるのであり人間にはできないからそうなっている未来を予測できないがそれに備えることは津波でもできる
ただいつ起きるかは予測不可能なのである

ただ自然災害と人間に起きることはまた違っている
株がどうなるのか、景気がどうなるのか、預金封鎖があるのかないのかという今の心配は自然災害とは違ってある程度は予測できる
預金封鎖でもそれは神がするのではなく人間がする
それは政府で決めればできる、でも秘密裡にするから突然に来るとなる
政府の上層部はそういうことを知っている、もしそれが誰かが知れば事前に対策する
でもその前に対策をする、でも有効な対策が預金封鎖だとないのである
原発事故だってある程度は予測できた
なぜなら東電では10数メートルの津波が来ることを予測していたからである
ただコストを考え対策をしなかっただけなのである

とにかく人間は無力だとなり運まかせだとなる、成功も運不運だとなる
まず時代が変わると価値観が変わるのもそうである
戦前と戦後では価値観が黒から白に変わった、それは何だったのだろうとなる
今の時代もそうである
なぜ高度成長時代は団塊の世代が企業戦士として猛烈社員になって働いていたのに今は
働かないのが勝ちだとか働かない人がこんなに多いのか?
そうしてAI社会になり人間は働かなくても暮らしていける
そして人間は何をするのか?
人間はみんなアーティストになるとか言ってみたりベーシックインカムが今や公然と言われる
こういう価値観の世界は猛烈社員として働いた企業戦士から見れば容認できないのであるそれは戦前の戦争でも一眼となってアメリカと戦った世代が戦争に負けてから全く変わってしまった社会とにているのだ
そこで価値観がまるで変ってしまうのである

自分などは団塊の世代で会社員にもならなかった、働いていない
旅ばかりしていたとか遊びだった、でも学問が好きであり独学したり芸術の分野で勉強して訓練はしていた、でもそういうことを認められたことはないのである
それは一銭も金にはならなかったからである
つまり自分はアリではなくキリギリスだったのである

何かこれはアリとキリギリスに例えると

アリは働いてるばかりいて馬鹿、アリはもういらない、機械とロボットとAIが働いてくれるからいらない

キリギリスは歌っているばかりだけど価値があった、今の時代に必要なのはキリギリスだ
アリのように働く人はいらない、キリギリスのようにアーティストになり歌っている人こそ価値あるとされる
それで歌謡でも素人でも玄人並みになる人もいれば芸術家になればいいとしている
これも猛烈企業戦士の高度成長時代からすると信じられない価値観なのである
だから人間の未来は予測できない、時代時代でまるで価値観が変わるからである
こういうことでも未来は意外なものとなっているのだ
つまり予測できないものとして常に未来がある
70年くらいすぎると時代が必ず代わり価値観も変わるからである
銀行は安定したエリートだったのにもう銀行は不必要だとかなるのも予測できなかった
時代が変わると評価も価値観も変わるからそうなる

そして過去と同じことは起きないのである、似たことは起きる
例えば飢饉で相馬藩で三分の一の人口が減ったその穴埋めに越中などからの移民が働いて回復した、そして同じように原発事故で人口がやはり流出して減った
このように同じようでも違った形でまた同じことを繰り返すことはある
でもそれは違ったものだから予測できなかったのである
現代では飢饉は起こらないとみるが違った形で何かまた起きてくるのである

ともかく今年一年何が起きるから予測できない、運命はまた突然非情にして襲い苦しめるかもしれない、それがどうなるのかなってみなければわからないとなるのだ
第一預金封鎖なるとしたら備えようがないのである
結局あきらめるほかないのかとはなってしまうのである
人間はただ運命に翻弄されるだけなのか?
そうならないためには信仰が必要だとなる
人間社会のことは人間は変わらないしただ世間に翻弄されるだけだとなる
常に社会は時代は変化する、価値観も変わる
そうなると人間はただ時代に翻弄されるだけだとなる

人間社会は無常であり人間も無常である、だから無常でないものは何か追求すべきだとなる、変わらぬもの、永遠なるものは何か追求すべきだとなる
永遠の命を知るべきだとなるのである


2019年12月31日

人間と金の問題 (金は万能ではない、時間の方が大事だった)


人間と金の問題

(金は万能ではない、時間の方が大事だった)

今年も終わりだけどどうしても現代は金の問題が一番話題になる
たいがいyoutubeでも経済の問題が一番見られている
日本の貧困化も深刻だし金ももっていれもっているで銀行がなくなるとか預金封鎖があるとか心配になる
貧困化と同時に一億以上ある人は300万人も日本にいることの驚きである
これも格差社会になったからだともなる
株をもってれば株価が気になる
私は株とかしたけど何もしないでもっていたら上がっていた
それはリーマンショックのとき持っていた株だったのである
それを銀行員が来た別な投資信託に回したから損しないまでももうかることもなかった

というのは株とか投資というのはそれで自分自身だけでもうけるとすると
そこに時間をかけないとできない、デイトレだ―などはいつもパソコンを見ていなければならない、そうすると他のことはできなくなる
それで一億円もらったとして何か実りがあるのか?
金に換算するとあってもではその人を豊かにしただろうか?
何か銀行員とか証券会社で辞めた人はそうして金ばかり追ってそれが何か実際は実りがないということで新しく店を現物を扱う仕事をはじめたとかいうのもわかる
農業は苦しいにしろ収穫する時の喜びは格別だろう
それを金に換算するだけのものだったら喜びがないだろう

金があたかも万能のようになった社会がグロ−バル経済社会である
でも金が万能とはならない、例えば今どこでも耕作放棄地が増えている
その土地は一年数千円で借りられるとしてもそこで農業することは労働が必要なのであるその労働についてプログで書いた
小さな畑で毎日草刈りであり害虫から鳥からネズミとかに野菜が食われる
天候の影響が常にあり実りを得るのが容易ではない、するとその話を聞いただけでもう苦労が並大抵でないとなるかしたくなくなる

一億円やるから耕作放棄地を実りある畑にしてくれといってもそこにそうした苦しい労働がないとできないのである、もし機械とかで楽にできればいいが機械を使ってもまたそれも労働が必要なのである
それで一億円もらったらどうするのか?みんなそれで家を建てたり車を買ったりして農業という労働はしない、そのことは原発事故で誰も田畑での労働をしない、放置されて補償金をもらった若い世代は帰ってこないことでもわかる
もともと農業でも漁業でも跡継ぎがないのはその労働がきついからである
金にならないことがあるとしても労働自体が楽ではないからである

金でなんでもできるというのは消費はできる、でも生産するとなるとなんらかの労働が必要になるのだ
それで武田邦彦氏のような科学技術者の研究者が政府から官僚から研究して成果を出せ、その成果は金を出した方が得るのは理であるというのに反発したのもわかる
研究の成果にも労働が智慧や知識や実験とかが必要になりそうして苦労して出すのが研究者なのである
ただ金を出す人が何かを作り出すのではないのである
なぜ今地銀とか銀行がだめなっているのか?
それは金が余っていても銀行自体では何も作りだせないからである、金を貸すから何か利益を出してくれと頼むだけである
でも今はそうして金を貸してもうける人がいないから株とか投資信託とか外貨の保険とか何かアメリカの国際金融資本家にだまされて金を奪われる
それはゆうちょ銀行でも農林中金でも同じである
今は金が金を産みだしているが何か本当の実りを生み出していないのである
それは金融資本主義では金が金を産みだしても本当の価値は産みだしていない
それでアメリカも衰退してドルの価値はなくなるという人がいるのもわかる

人生でもすべて金で計られるとしたら間違いである
この人は一億円残したから一億円の価値があり金がない人は価値がないとはならない
価値は多様でありその人の価値は金があることだけにない
価値は金だけでは作りだせない、確かに金は必要なのである
それよりも老人になればわかる、いかに時間の方が貴重だったかわかる
だから老人はみんなあの時何かをししていれば良かった、旅行していればよかったとか
勉強していれば良かったとか何かしらみんな後悔しているのは金がないからではない
時間がなくなった、その時すべきことをしないで後悔しているのである
そういう時は時間が消えてしまうからである
そしてその時には青春時代などあっという間に過ぎて老人になっているのである

自分の人生をふりかえると何かお前の人生は遊びだったとかなる、でも電車であれ自転車であれ旅行したことが貯えとなっていた、学問であれ芸術であれ知識であれまずその場を踏まない限りわからない、実感できないからである
まず芭蕉でも「奥の細道」は旅しない限り空想では書けないものだった
外国でもそうである、いくらテレビを見ても本を読んでも外国のことはその地を踏んだ人と踏まない人の差が大きい、百聞一見にしかずになる        
だから外国で暮らした人は日本を外国と対照して見れるからかえって日本のことをわかるのである
それで50歳からバックパッカーで外国旅行したのが本当に大失敗したにしろ良かったとなる、なぜならその後介護とか体力の衰えでできなくなったからである

そうした経験が貯えとなって後で何か書くにしても活きてくる
人間はとにかく何かしら日々貯えているのである
花の名前を覚えるのにも一日ではできない、花を知るには相当な時間が必要である
なぜなら種類も多いし季節で違っているから花に通じることは時間がかかる
それは何でもそうである、この世にある無数の事に詳しくなれないのはそのためである
だから雑学でも後で役にたつのである
ただくだらないことに時間を費やしていると後で何も残らない、知識でも経験でも金を貯金すると同じように蓄えることである
人間は何かを日々貯えている、それは金だけでないのである

もちろん金は必要である、でも時間がそれ以上に大事なのである
旅するにしても自分は金がなかった、だからいつも安い宿を探すのに苦労していた
食事は最低限でおさえてグルメなどしなかった
でもありあまる時間があったからできたのである、会社勤めだったらできないからである外国旅行でも金を使わなかった、それは意外だった、外国は安い宿が多いのである
だからヨ−ロッパなど金がかかるようで基本的に宿代が安いから旅行しやすいのである
ゲストハウスなどが多いのである、日本はホテルでもビジネスホテルでも5000円となると高いと思うからだ
外国旅行はしたとしてもやはり自分は一年くらい外国に住むべきだったと後悔する
自分の時代はあまり外国旅行をしない、また留学もしない時代だった
今はそういう点では留学も安くできる時代である、だからそういう経験が後で活きるのである

とにかく人生で一番後悔するのはその時々に成すべきことをしないことであり時間を無駄にしたことなのである
才能があるなしにしろその一人が成せることはわずかである
楽器でも一つはできてもいくつもはできない、いくら天才でもできない
天才を見ても意外と業績を残していないのはやはりあらゆることに通じることができないのである

いづれにしろ人間は最後はみんな時間切れで終わる
今日は大晦日だけで何かもう時間かない、もう人生も終わりだとなる
今日は生きていたけど明日という時間がないとなる
いかに時間が貴重だったかを最後に知らしめられるのである
青春などあっというまに過ぎる、そして40くらいになってみんなおっさんだよとか白髪でてきたとか語っているのである
それだけ時間が過ぎるのが早いのである
(少年老い易く学成りがたし)である
一つの学を成り立たせるには相当な時間が必要である、雑学でさえそうである
何か一つのことに詳しくなるにはそれだけの時間が必要なのである
でも結局学問でも何か無駄が多い、それは勉強の仕方が悪いとかなる
それでもともとあった才能でも活かせないのである

今年も終わったけどももう人生も終わるとなる、老人になったら先がない
それは生きる時間がなくなることなのである

2019年12月17日

理系と文系の謎 (経営者が理系が向いているのか?)


理系と文系の謎

(経営者が理系が向いているのか?)

その人は理系である、電気の一級の資格をもっていた、だから建築関係の会社をたちあげた
でもその人は経営者では失格者であった、まず経営するにしてもその動機が
「自分は優秀だから、会社経営も簡単にできる、自分の頭のいいことをみせてやろう」
そんな動機だったのである
そこからして間違っていたのではないか?
その人は別に会社で雇われて理系の技術者として働いていれば問題なかったのである
給料も良くて田舎では恵まれていたのである
とにかく今の社会は電気社会だというとき電気関係で働く人が多いのである
それで原発では事故が起きたとき1000人も電気関係者が働いていたということでもわかる
エネルギーが石炭の時は常磐炭鉱のようにそこで大勢の人が働いていたのである

最近IT社会とかAI社会になるとどうしても理系が重んじられて社長にもなっているというでも何か理系というと機械マニアとかいたりして社会にうといというか無関心になる
だからこそそういう人はそういう人で貴重だと言う人がいる
それこそ日本の製造業を支えているのだという
つまりそれはそれで容認されていいとなる

でも経営となると何か違ってくる、細部の機械の部品に異常にこだわったりしている人が経営者になれるのか?
その人は何か経営者になって人格までおかしくなったのかもしれない
経営者というと商売人でもある、その人はだから何かもう頭に金のこたとしかなくなっていた、商売人になった結果として常に・・・したらいくらだという頭になっていたのである
これが技術者として会社に働いていればそういうことにはならなかった

ただ人間を考えると経営者であり商売人であり技術者であるとか学者であるというのもむずかしいと思う
その人の性向が向き不向きが必ずあるからだ
その良い例が学者が経済学をいくら学んでも会社経営とかなると成功しない
経済学という理論を学んでも社会で実践すると全然違ったものとなるからである
学者が株を実際に投資とかしても成功していないのである
ただ理論家であり実践者ではないのである
政治家と政治理論は別物なのである

人間は本当に向き不向きがある、なぜ関西には商売人とか商売に向いている人が多いのか大阪だとそもそも江戸時代から商売の都市だからそこでそういうエトス{精神的雰囲気)が培われた、だから言葉まで「もうかりまっせか」とか挨拶になっている
それが別に不純でもない、商売自体が悪いということはない
商売はただ相手からだまして奪うというものでもないのである
そんなことしたら商売がうまくいくはずがない、一時的にはうまくいっても長続きはしないのである

だから土地によっては人間に向き不向きが作られる
まず東北人は商売に向いていない、根っからの商売人になれないのである
そしてそうして不向きなことをすると失敗する
東北人に向いているのは農業であり職人とかである、研究者とかにも向いているかもしれない、何か内にこもる仕事に向いている
ただ伊達政宗は商売人でもあったし政治家であり演技者でもあったし文と武にも優れていた、それは例外的存在だったのである
そんな多様なものを持っている人などいないのである
別に東北人でもいろいろな人がいるからそういう人は例外的にはいるのである
もし現代でもこれだけの資質がある政治家がいたら驚きだとなる
今の政治家は何かそんな素養もなにもない、政治家もまた何かそうして政治家として育まれ土壌がないと育たないとなる
今は何でもその土壌が大衆が主役なのだからそこからまともな政治家でも何でも生まれるだろうか?みんな大衆にこびているから低級化してゆくのである

なぜ今まで経営者が文系だったかわかる、理系者は経営者に向いていないのだ
経営は機械とか物だけではない、社会が人が関係してくる
理系だと機械とか物にこだわる、でも社会的役割とかその仕事が社会にどのように影響するかなどトータルに見ることも必要になる
だから本当に原発ほどそういう神のような万能の人でしか経営者になれない、社長になれない、会長にもなれないものだったのである
それが自然に地域にどう影響するかなどトータルに見る目が必要になった
それは歴史も郷土史も関係していた、津波のことなどもしらねばならなかった
ただ東電の関係者は津波が来ると計算していたから理系であって優秀な人が相当数いたのである
それは理系でも機械の一部を詳しく知る人がいたとなる、それはあくまでも一部に詳しい人だったのである
第一吉田所長が肝心の復水器のことを知らなかったのである
要するに原発とかなるともう全体を知る人などいない
するともう人間では運営できないものとなっていたのである
そして事故になり成すすべもなく解決もできなくなったのである

いづれにしろ人間は向き不向きがありあらゆることに通じる人間などいないのである
だから理系の経営者だから成功するとは限らないのである
経営という時国家を経営するということで政治家とかも経営者なのである
国家をどうするのか?国家をどう経営するのか?
それが一部の機械とか一部の物質とか一部分をいくら詳しい人でもできない
でもそんなふうにして国家でも大会社でも経営できる万能な人はいないのである
だから遂には老子のように自然にまかせろとか何もするなとかなる
人間は政治にかかわり結果的に混乱しただけだとなるからだ
中国何千年の歴史は政争の歴史でありそれで膨大な死者が犠牲者が生まれたからそうにもなった
結局国家など誰も運営できない代物だとなったのである

そのことは聖書でも言っている

わたしはわらべを立てて彼らの君とし、みどりごに彼らを治めさせる。イザヤ

なぜこんなことが記されているのか?
みどりごがなぜ治めることができるのか?
結局人間はみんな欲の塊りであり政治家でも欲で動くからそうなる
金で動くからうそうなる、これも逆説なのである
人間が優秀だと思うことは優秀ではないのである
優秀なものはある一面危険になる、人間が優秀だというときある一面に優秀なのでありそれは肯定できる
でも万能ではありえないのである
だから国家とかなると誰も経営できないのである

それで日本では天皇を王としたとき天皇が優秀とか関係ないのである
生まれた結果そうなっているだけである、何かしらの優秀さはあっても神のような人でもなんでもないのである
皇室など見てもあの人どんな優秀さがあるのと見る
ただ天皇家に生まれただけなのである、でもそういう人でも国家運営するとなると有効だとなる

天皇は命令してはならない

天皇は権力をもってはならない

天皇象徴制とはこういうことなのである、天皇に権力がないからこそ治められる
それはみどりこに治めさせよとにているのである
それは実質権力をもって命令できるものとは違うのである
生殺与奪の権利を持つ王とは違っている

つまり天皇は国の中心であり国が乱れる時天皇も二人になった
それが南北朝の熾烈な争いとなり日本が全国が二つに分断されたからである
つまり無能であれ国でも家族でも治める人は必ずしも関係ないとなる
一人の天皇をたてるということが大事になる、二人いると分断されたからである
結局人間は人間を治めることができないのである
それで人間社会は結局破綻する運命にある、日本国内であれ世界であれ誰が治めるのか?
誰も治めることがてきないのである、経営できないのである

2019年12月03日

時間とイデア論(時間とはエネルギ―のことである)

  
時間とイデア論(時間とはエネルギ―のことである)

●時間論

ヒンドゥー教では、1劫(カルパ) = 1000マハーユガ (mahayuga)、1マハーユガ = 4ユガ (yuga) = 神々の12000年(4つのユガは不等長で、1ユガ =神々の4800、3600、2400、1200年)、神々の1年 = 360太陽年とされている[1]。

つまり、1劫 = 43億2000万年である。

日常的に使われる億劫(おっくう)や永劫(えいごう)などの言葉は、この「劫」に由来する。億劫は本来「おくこう」と読むが、「おっこう」を経て「おっくう」に転訛したものである。これは百千万億劫の略語で、数式にすると100×1千×1万×1億となる     

星は、生まれたときの重さでほぼその一生が決まります。例えば、太陽の場合には、今45億才くらいですが、あと50億年くらいもすると、水素がたりなくなって、その一生を終えます。


時間は何かというときこれも不可解なのである
つまり決まった答えがなのが時間なのである
その人の考え方で決まるのが時間だとなる
ただ共通なのものとして一年を360日にしている、それは太陽の運行で決めているのである
一日とは太陽が昇り沈むことで一日である
でもその前に太陰歴があり月の変化で時間を決めていた
共通しているのは時間は何かの変化なのである
月が満ち欠けがあり変化があるから時間がある、もしいつも満月が出ていたら変化がないから時間もなくなる

例えば石があるとするとそれは千年とかでも動かないから時間を感じられないのである
植物でも花になっり実になったり20日大根とか40日大根とか時間で計る
それは変化して大きくなるからである、変化しているからなのである
木が成長したりするのもそうである、木が成長するのに50年とかかかるというとき
そうである、でも一年で木が成長したらどうなるのか?
熱帯では木が早く成長するから木の時間の考え方が変わる
いづれにしろ何かしら変化することで時間を感じている
石は変化しないから時間が感じられないのである
だけど君が代のように石も変化すれば苔むす磐となるように変化すれば時間を感じる
それは長い時間をかけて大きくなって苔むしたとなる変化があるからである  

君が代は 千代に八千代に. さざれ石の 巌となりて. 苔のむすまで

さざれ石から巌となり苔むすというまでの変化で長い時間を現しているのである

ピラミッドも一部が崩れているとかで時間を感じる
でも何かそれは4千年前のものでもそんな時間を感じないのである
作られたときとたいして変わらないからである、それは固定して動かないからである
変化がないから時間が感じられない、でも崩れているから時間を感じるのである

いづれにしろなぜインドではそんなにとてつもない長い時間を考えたのか?
そんな時間をまず思いつかない、宇宙的時間を思いつかないのである
それも不思議だとなる
宇宙でも変化するから時間がある、でも宇宙の変化を地球から見えるのか?
星がなくなることなど見えないのである、今なら星が一つ消滅したなど観察できたとかなるけど当時ではできない、でも宇宙の変化から時間を計っているのはなぜだろうとなる

日本に仏教が入ってきているのだからインドの思想が入っているけどわからなくなっている、億劫(おっくう)はこうした時間の長さから日本語化していたのである
他にも仏教が日本語化したのはある
でもその思想内容を深く考察していないのである
何か明治以降は西洋の学問しか検討しなくなったのである
そしてたいがい仏教でも現代では宗教はカルト団体宗教となり組織化政治化してその内容など関係なくなったのである

わかりやすいのは一つの星が生まれて消失する時間が一劫かもしれない
すると無数の星が生まれてまた燃え尽きて消失する、すると一つの星が生まれて消滅するのには一億年なのか十億年なのかとなりわかりやすい、太陽も一つの星だからである
すると宇宙には無数の太陽があり生まれては消えてゆく
そしたらその時間は永劫だともなってしまう     

核融合してもエネルギーを放出できない鉄が生成され、鉄や鉄に近い質量を持つ原子核のみが存在することになり、太陽は燃えなくなります

鉄が残るということは変化しないことかもしれない、鉄が錆びるのは酸素があるからである、でも酸素がない世界だと錆びない、すると石すら変化するが鉄は変化しないから時間を感じないとなる、科学はわからないにしろ常に化学反応でも変化するということが時間を作り出している、変化しない物には時間が感じられないのである
無常だというとき常なきもの、変化する世界だから無常だとなった、科学的にも世界は化学反応であれ物理反応であれ変化するから無常の世界だとなる

そして不思議なのはその星が太陽がなくならない限り時間があるとなる

最初に時間ありきではない、最初に星が太陽がありき

「光あれ」が最初であり時間が生まれた

ここが勘違いしているのである、太陽が変化を産んでいるから時間を感じている
時間を作り出しているのはそうした変化である、物質の変化でもある
そうして時間を考える時、

時間とはエネルギーだともなる

つまり宇宙であれ地球であれエネルギーがあれば時間が生じる

星は太陽は巨大なエネルギーである、でもいつか消滅する
でも宇宙には星がいくつもの太陽があるとするとエネルギーは消滅しないのである
死ぬとは時間が消滅することである、生きられる時間がないということは生きるエネルギーが消滅するからである
もし人間が老いることもなく活動できればエネルギーがあれば時間もなくなるのである
だから永遠の命というときそういう状態になるから人間から時間が消滅するのである
神の世界では時間がないのである、天国でぱみんないつも若いという時そうである
年取らないのが天国になっている、だからそこに無常もなくなる

●イデア論

また不思議なのはイデア論である
人間は花を見ている時花だって咲いて枯れて死ぬ
でもイデア論から花を見る時、花のイデアは永遠なのである
神がそれを地球に作りだしたけど神が示したかったのは具体的に地球に現れる前にイデアとして頭にイメージしたものを地球で現実化したのである
だからその頭に浮かんだものイメージしたものは神であり神はそのイメージを地球が滅んでもまた再現できるともなる
どうして多様な生物でも植物でもあるのかとなる、それはもともと神がイメージしてそれが地球で現実化したからだとなる

例えば何でも何かイメージしたこと想像したことは現実化できる
創造することは想像することと同じである
考えてみたまえ、動物でも象であれタコとかであれ
どうしてそんなものを創造できたのか?
それは神が想像して現実化したのである
どんなことしたって人間の頭では想像できるものではないからだ
そして人間の想像力(創造力)はすべて神に由来している
全くあらたな生物を現実にありえないものを想像することができない
たいがい現実にあったものから二次製作として創造しているだけなのである 
変なのは自分の製作している抽象画も二次製作である
写真であれ絵であれそれをパソコンのソフトで加工しているだけであり自分がイメージしたものではないのである 
でもそれなりりアートになっているのが不思議だとなる

人間は新たな生物の種を作り出していない!

確かに人間はいろいろなものを作り出した、でもそれはあくまでも神が作ったものでありその二次製作である、全く新しい種を作っていない、作れないのである
カーネーションでもいろいろな色のものを作り出したとしてもその種には変化ないのである、果実でも全く新しい種類の果実は作れない、種は作れないのである
果実を大きくするとかうまくするとかはできても全く新しい果実は作れないのである
そこに人間の限界がある

とにかく星が太陽があれば時間は消滅しない、時間とはエネルギーなのである
エネルギーが消滅したとき星が死に宇宙が死ぬということはエネルギーが消失することである
でもまた星が太陽が突然その暗闇の宇宙に生まれる時時間が始まるのである、時間が生じるのである       
つまりエネルギーが永遠であり時間が永遠だともなるのである 

例えば人間はみんな死ぬとしてもそもそも宇宙が消滅しない限り命がありエネルギーがあり時間があるとなる、でももし宇宙が消滅して時間がなくなれば命もありえないとなる
でも命がなくなることはない、永遠の命があり命は消えることはない
エネルギーが消失することはない、だから神の世界は永遠にありうる
そしてイデアが不滅だという時、それは時間と関係ないからである
確かに地球の生物は植物でも花でも枯れる死ぬということがあるがやはりまた同じように咲いているし見ることができる
そこで示しているのは現実の花ではなく神が創造したイデアなのである
そのイデアは消えない、だから地球が滅びてもそのイデアは再現される
イデアか不滅だということはそのことなのである
人間も一種の神が想像(創造)したイデアなのかもしれない、それが地球で現実化したのである

でも人間はイデアを見ない、毎日思うことはそんなことではない、食べることであり生殖でありショーペンハウエルの言うように生きんとする意志の世界に生きている
それが現代の資本主義になると金に転換されている
生きんとする意志は普遍的なものとして金になったのである
イデアを見るより花より団子になっているのである、神の目的は本来はそうして食べることではない、イデアを見ることなのである
それは人間にしかできない、動物にはできない、動物は神のイデアを見ることはできない花を見てもただ食料となっているだけだからである
だから神のイデアを見ない者はある意味で動物の生を生きているだけだともなる





2019年11月13日

人間は時間をかけないと何も育めない (猫も親しくなるのに7年くらいかかった)


人間は時間をかけないと何も育めない

(猫も親しくなるのに7年くらいかかった)


我が家に猫のなつきぬ側にいて78年すぐ冬に入るかな


この猫はあまり自分によりつかなかった、別に私自身がこの猫を飼うということでもなかった、いつのまにいついた猫である
一時汚したりしたから怒ったりした、それで恐れて隠れる
一時は一か月もいなくなった、何か家にいつかない外に出る猫だったのである
しょっちゅう家を留守にしてぶらついては帰ってきていた
今でも触ることはできない、嫌がり逃げるからである
そこまで親しくなっていないのである

ただこの猫は一か月くらいいなくなったときもう帰ってこないと思った
でも帰って来たのは尻尾が誰かによって燃やされたのである
そこで尻尾からずっと血がでていたのである、最近は血はとまっみたいだ
何か猫は家を汚されることがあり嫌な面があった
だからこの猫はいつも縁の下とかで隠れることが多かった
でも餌をやっているから一応家からは離れずにいたということである

猫の不思議は最近は家にいて自分の側にいることが多くなった
するとなついてきたのかと見る、でも触ることはできない、逃げるからである
猫は何か家にいると人間のように思えてくる不思議がある
だから猫や犬を飼う人がいるのは一人で暮らす人が増えたということもある
猫を十匹飼っている女性もいる、それも福祉の世話になっていて金がないのに餌を与えているのである、それは迷惑になる

猫とか犬を飼う人が多いのはなぜか?それは犬とか猫は従順なのである
かえって人間より素直だと感じる、人間はなにかとうるさいし逆らうからである
子供でもそうである、猫と犬は飼い主に従順なのである
それで何か猫や犬をかわいがる人が増えたとなるのかもしれない
つまり現代の人間は従順なものがない、結婚しても夫に従順に仕える女性などいない
だから離婚が多いのである

ただ犬猫でもおそらく子供の時から飼っていれば親しくなる、それは人間でも同じである動物は親がいなくなると何でもいいからついてゆく習性がある
親でないものでも親だと思ってついてゆくからである
だから子供の時から飼っていればなつきやすいことは確かである
私の場合は成長してから飼うようになった、ただそれが自分でぱ積極的に飼うということではなかった、いつのまにいついたという感じなのである

人間は親しくなるには子供の時が大事である、だから兄弟でも姉妹でも一緒に育たないとしたら兄弟という感覚がなくなる、いくら血がつながっていてもそうなる
親しくなるには時間がかかる、猫でも7年くらい自分の場合はかかっている
だから人間は親しくなることは簡単にできない
そてし人間の生きる時間は限られている、だから親しくなれる人間は本当に少ないのである、老人になると旧知の人とか過去に親しく人とか同級生でもまた親しくしようとするのは人間はそんなにいろいすな人と時間をかけて親しくなれないのである

江戸時代辺りだと人間はあまり移動しないから濃密な人間関係があり親しくなっていた
現代人は広域的にグロ−バルに移動する社会である、するとどうしても親密な関係を作りにくいのである
なぜなら江戸時代のように狭い場所で村のようなところで暮らしていれば自ずと時間をかけて親しくなれるからである

だから不思議なのは熟年離婚とか増えるという時ではその後に親しい関係が男女でも作れるのか?それが疑問なのである、第一また親しい関係を作ろうとしたら時間がかかるからである、猫でさえ7年以上もかかったということでもわかる
人間だったらもっと時間がかかる、お手伝いさんだと十年くらい勤めていると家族のようになり信頼できるとされる
それだけ信頼するには親しくなるには時間がかかる

人間の問題は何でも時間がかかることなのである、何かを理解するにも時間がかかる
それで少年老い易く学成りがたし・・・となる
そしてみんな何か成し遂げようとしても時間切れで終わっているのだ
英語でも話せるようにしておけばよかったと後悔してもその時間がなくなっている
つまり人間は金の価値も大きいにしても時間の価値の方がさらに大きいのである
なぜなら百億円あっても時間はもう買えなくなるならからである
あと十年生きる時間をくださいと言っても時間だけは買えないのである
生きる時間は尽きてゆく、実は日々時間は何をするにしても尽きてゆくのである
そして二度とその時間が返ってこないのである

だから認知症になると過去の記憶に生きている、でも現実にそこに共に暮らしていないと離れていて一年に一回とか来る子供のことがわからなくなる
記憶から消えるのである、名前さえわからなくなる
私の場合は60年一緒に暮らしていたから家族がひどい認知症になっても忘れなかったのである人間は離れて暮らしているとその人のことがわからなくなるし信用もてきなくなる何しているかもわからなくなる、去る者は日々に疎しとなってしまうのである

人生の問題は時間が限られていることなのである
若い時は無限に時間があると感じられる、でもすでに30過ぎると急速に老いてゆくことがある、40才すぎると白髪でたりする、そして40になるとおっさんとか呼ばれるようになっいるのである、女性ならおばさんになっているのだ
だから時間が過ぎるのが早いのである

結局人間の問題はいかに時間を有効に使うかの方が大事になる、いくら金があってもその金の使い方で時間を浪費する、時間ほど人間は無駄にしているものはいない
つまり金がなくても時間を有効に使う方法はあった
私が旅したのは別に金がなくてもできた、時間があったからできたのである
自転車旅行になったときはテントだから宿代が無料だから金がなくても時間があれば旅はできる、そして今の旅行は交通費とか宿代にも食事にも金がかかりすぎるのである
その金をかけたわりには旅はなくなっているのである
旅人は現代ではいない、ただ保養とか食事でぜいたくするとかになってしまう

ただ金だと十円でも百円でもそれを失うと何か大きな損したと具体的に思う
でも時間を無駄にしたことを損したと自覚できないのである
時間などいくらでもあるとか若い時は思う、だから時間に対してシビアにならない
そして必ず時間を浪費しているのが人間なのである
老人になるともう時間がない、あとは死ぬだけだとなってしまうのである
最後は時間が切れて万事休すとなるのであく
時間がなくなることが死でもあったのだ、人生百年となると生きる時間をのびるからいい面ではある、でもまたいろいろ問題がある
人生百年ですら短いと思う、もちろんそこまで生きてみないとわからていことがある
時間はやはり限られているのだが人間は時間を一番無駄にしている浪費しているのである

人生は何に時間を費やしたかで決まる

いくら天才でも一人の個人が知ることでも成すことでも限られている
それぞれの人生はみんな違っていてそれは何に時間を費やしたかで決まるのである
その人の才能や向き不向きがあっても仕事でも時間を費やしていれば会得するものがある
それで入社して10年でその将来も決まるというときその若い時の十年間で身につけたものが将来を決めるとなるからである
それで若い日に神を覚えよというときもそうである
若い時しか神を覚える、知る時がないということは今になると恐怖である
なぜなら若い時はたちまち過ぎるからである、享楽にうつつをぬかすのも普通である
そんなことに若いエネルぎー浪費していたら放蕩などしていたらとりかえしつかない
その貴重な時間が浪費されて返ってこなくなるからである




2019年10月10日

人間が相手を理解できないのは何故か? (男女差、世代差、職業、地域の差、家族の差、・・・・)


人間が相手を理解できないのは何故か?

(男女差、世代差、職業、地域の差、家族の差、・・・・)


●男女

●世代の差

●文系と理系

●職業の相違 

●宗教の相違

●育った家族環境

●育った地域の差  



●世代の差

人間はなぜ理解しえないのか?理解できない前提となるものが多様なのである
家族でもそうである、親と子も理解することがむずかしい
そこに世代の差がありむずかしくなる、世代が違うことは本当にむずかしくなる
それは明治生まれと大正生まれと戦前生まれと戦後生まれとかそこに大きな断絶がある
それは江戸時代に生まれたものと明治以降生まれた者は違った国に生まれほど変化したから理解するのがむずかしくなる

時代を見ればまず戦争を経験した世代としない世代は大きなギャップがある
戦争とは異常なことだから人を殺し合うということが理解できないのである
だから戦争のことをいくら聞かされても理解できないということがある
人間は経験しないとわからないことが多いからである

それでギブミチョコレートの世代は団塊の世代より5年前だとしても違っていた
団塊の世代は戦後生まれでありその時生まれたばかりだからそういうことをしていなのである、それはまた都会に住んでいる人が経験していたのかもしれない
アメリカの兵隊にチョコレートをねだっていたのである
その時日本には何も食べるものすらなくなっていたからそうなった
そういうふうにして育った人間はどうなるのか?
子供の時から乞食根性で育っていることアメリカ頼りになっている
鬼畜米英の戦争から正反対の社会で生きたことになるのである
戦後の人間はギブミチョコレートになった、ただ物質欲だけの人間である
アメリカに勝つまでは欲しがりませんからも全く正反対の環境で育ったとういことである

それから団塊の世代は高度成長を経験している、それが失われた時代が30年とかつづき経済が停滞してさらに悪化して日本が貧困化して後進国になるほどだというときも何なのだろうとなる
銀行に預ければ利子がつく時代は終わり銀行でもゆうちょでも金をあずけても利子はつかない、むしろ投資信託とかゆうちょでも保険をすすめられて金は奪われる時代である
そして銀行員はいらない、銀行は消えるというのも時代である

平成に生まれて育った人間は高度成長時代がどういうものだったかを理解できない
またその世代を理解できないとなるのだ、いつも不景気であり非正規のワーキングプア大量にいて上級国民と下級国民の格差社会の中で苦しんでいるだけだとなる
高度成長時代は団塊の世代を中心にして中産階級が大量に生まれた時代である
みんな給料でも毎年のように上がり上昇している経済である
所得倍増の時代でありその時の雰囲気は停滞して下降するだけの経済とは違うしその雰囲気も違っていた、ジャパンアズナンバーワンとかなって日本は凄いとなっていたのであるそれも20年くらいで終わってしまったのである

●職業の相違

そして一番理解しえなくなっているのは職業が違うと基本的に相手を理解できないのである、それはもともと大昔からあったことである、それで海彦山彦の物語が日本では生まれたのである、その職業が生業が違うから理解できなくなる
その差も大きいのである、遊牧民と農耕民は全く違った生活をしていたから理解しえないので戦争になったのである

そういうことは民俗学だと山で暮らす人が木地師とかいて木材を加工してお椀とか日用品を作っていたが神秘化されて伝説化されたのはそういう職業が理解できないから神秘化された、他にも農民からして理解できないものがあり神秘化される
産鉄族などでもそうである、鉄を作る職業というのは理解しにくいからである
今でも無数の職業があり今や隣は何する人ぞとなり田舎でも隣が何をして暮らしているのかわかりにくいのである、子供時代は狭い範囲で生活していたからほとんどわかっていた何をして暮らしていたかわかっていたのである
燃料は炭だし木材をとるキコリがいたり漆塗りの職人がいたり籠や笊を作る竹職人がいたりと身近でその仕事が見られてその仕事が子供でも目にしているからわかりやすいのである

現代は本当に職業がわかりにくいのである、それだけ文明が複雑に無数に部分化しているからである、まず株をしたとして今のグローバル株式市場などわかることは不可能である地銀だと何か地元の経済を発展させるために投資しているのかと見ていたがそういうグローバル経済の株とか投資信託に投資する、投資信託といっても外国人がかかわって株をもったりしているから自ずとグロ−バルになっている
そうするとグロ−バルに思考しなければならなくなりもうどうなっているのかわからないのである、だからギャンブルとなっている
そしてそこでもうけているのは金融を操作する極一部の数パーセントの人たちが世界の富を収奪しているともなっている

人間が理解できないというとき理系と文系がそもそも理解し得ない
この差も大きいのである、だから理系は文系を馬鹿にするというのもわかる
文系にすると理系の人間を理解しにくいのである
理系から見れば文系はどうしても馬鹿に見えるのである
私自身が文系だから理系の人の方が優秀だと見る、高等な数学とか化学式のことがわかるとなると理系は優れているとなる、だから文系の大学は廃止すべきだとなるのもわかる
文系の大学はそもそも遊びだったからである
でも高校野球しかでていない人は大学のことがわからないのである
そこにも互いに理解できないものが生まれる

人間はそもそも家族同士でも世代間の差があり男女の差があり互いに理解できないものとなる、それで男女の行き違いから離婚がもはや二人に一人とかなっているともなる
それだけ男女の差が大きいからそうなっているのである
その他に育った環境にしても家族構成がみんな違っている
どういう家族で育ったのかも違っている、兄弟の多い家族で育ったものと一人っ子とかで育ったものはまた違っている
長女とか長男とか妹と弟は不思議に性格がそれなりのものとして作られてゆくことも不思議である、だから男女でもどういう家族環境で育ったかで違ってくる

それから育った地域の差もある、暑い所と寒い所で育った人間は違っている
沖縄に云ったらなたは東北人だねとか何も話ししないのにわかったというのもそうである東北人には東北人独特の体臭のようなものまである、何か打ち解けないとかある
大阪人とか比べると余りにも違っているとなるからだ
そこでも人間は理解できなくなる、みんな住んでいる場所が違っているからである
そもそも海側に住んでいる人と山側に住んでいる人は感覚的に違ったものになる
地理の影響も差異も大きいのである 

●人間は経験しないことは理解できない

ただ人間は経験したことは理解できるのである、ただ一人の個人の経験は限られているから理解する範囲が狭いのである

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2019−10−10 SPA

きちんとした防寒具や手袋が支給されると思うけどそれでも寒い。極寒の環境で8時間以上作業をするのは超辛いです

手がかじかんで指の感覚が無くなります。寒すぎて気持ちが落ち込みます

 だから長期間続ける人が非常に少ないく、みんなすぐにバイトをやめてしまいます。

零下20度で8時間労働はもう生命の危険になる





こういうことは経験している、20代は底辺労働者だったから寝る所もないことがあったから理解できる

建築現場で4階から落ちそうになった、その時が一番危険だったとふりかえる
建築現場はそれだけ危険なのである
だから誰もやりたくない、日本人はやりたくないとさけて外国人にさせているのであるでも俺は高い所が平気だむしろ好きなんだとかいう鳶がいたのには驚いた
そんな人もいるのかとなる、そういう人間も理解できないとなる

一番厳しかったのは冷凍室のバイトである、これは本当に厳しい
零下20度になるとそれをつづけていたら病気になることは確かである
そういう仕事も社会にはあるということである、そういう場で働くのはやはり追い詰められた人たちかもしれない、そんなところで働きたくないからである
私自身は体力もないのにそういう所で働いていたのである
寝る場所もないような時もあったから喫茶店でいつまでもいたというのもそうである
だからこれは自分自身が経験したから理解できるとなっているのだ
まず冷凍室で働くの本当に危険である、体がどうにかなってしまう
おそらくシベリアとか零下の温度で暮らしている人ならかまわないのかともなる

結局自分の場合は20代は相当に苦しかった、それで20代で老化していたのである
でも不思議なのは30過ぎてから家に帰り仕事もしないで楽に過ごした
そのために体力が回復してきたのである
そうして30年とか長く生活していた、無職として家にいただけだった
後は旅行しているだけだった、登山などもしたが体力ないから辛くてやめたのである
一時死ぬほど疲れたからである

ただ言えることは人間若い時はあえて苦しんでおけというのは本当である
まず若い時楽して高い地位についたり大きな金が入ったりしたらうぬぼれるようになり危険である
でもそういう苦しみの生活が延々と40代とかまでつづくとなると耐えられないとなる
今はそれが問題なのである、いつまでたってもそういう底辺労働者として安定しない苦しむ生活になると別だとなる
私の場合は家族環境に特別恵まれていたから良かったのである
そういう底辺労働をやめることができたからである
あとは自由に生きていた、自分のしたいことをしていたのである
だからこういう一生も不思議だったなと今でもつくづく思う 
奇妙なのはそういうことでニートとか引きこもりと自分は共通の体験をしている
社会からはずれた人間として生きてきたからである
これもそういう生活をした人でないとまた理解できないとなる、私はそういうことで社会からはずれて生きることがどういうことか体験してきたからわかるとなるのも奇妙だがそうなる
普通に社会人生活した人はそういうことを理解できないとなるからだ 

●それぞれの性格の相違

私はそもそも学校でもそうだし団体生活になじめない性格だった
でもなんとか集団生活になじもうと大学でも体育系の部に入った、でも一年でやめた
それかからカルト教団に入ったのもそうである、何か集団になじもうとしていたのである
しかし後は集団とか組織は嫌い一人自由に生きてきたのである
ただここにも問題があった、自由に一人生きられるたとしてもそこには大きな問題があった、社会性が身につかなかったとかあり小人閑居して不善を成すとなったのである
だから一人で自由に生きられるとしてもこれも意外といいように見えても簡単にみんなできないと思った
それにも自由に生きる能力が必要になる、だから天才はニーチェのように社会から離脱して異常化したのである、ただ社会から離脱するとニーチェのように凡人でも成り安いのである、何か引きこもりとかでもおそらく自分が特別優秀だとしている人がいるからだ
仕事をしていないと何か不思議なのだけど自然に没入して自然のリズムに合わせていきるようになる、すると会社とか社畜として生きるのとは相当に違ったものとなる
それは異常化するにしてもそこで芸術とか詩とか作るにはいいと思った

私はもともと人と付き合うのが苦手であるから一人家に籠って沈黙していたのである
すると沈黙するということは自然に没入することなのである
山でも大地でも自然は沈黙しているからその自然の大きな沈黙の中に入ることになるからだ、だからニーチェがなぜあのようになったのか理解できるのである
それもやはり人間は経験しないとわからないのである
自分自身がニーチェのように状態にあったから理解できるのである
誰が一番沈黙したのかと言っているからだ
キリスト教徒になったとしても自分は集団が嫌だから教会に一回も行ったことがない
むしろその生活はニーチェのようにな生活だったのである
社会から離脱した生活をしていたのである、それも30年とか長かったのである
だから異常化していたとなる

ともかく人間は互いに家族すら理解できない、それは世代の差とか男女の差とか育った環境の差とかいろいろあるからそうなる、それで離婚が多いのもわかる
現代はもともと複雑多様な環境でみんな違ったものとして育っている
そして遠く離れた人と結婚するのが普通てある
するとますます育った地域が違うから理解しにくくなる
それで江戸時代は近くの人と村内とか結婚しているし職業も似た人と結婚している
職業でも大工の人は大工の家の人と結婚することが多かったからうまくいっていたのかともみる、それでも江戸時代にやはり離婚が今と同じように多かったのはなぜなのか?
それだけ結婚自体がいかにむずかしいか、理解しえないかを物語っているのである    

では人間はみんな理解できないのか?例えば愛というとき母の愛とか恋愛とか同情とかいろいろある
そいういうものは通じる、でも宗教が違うとこの人はイスラム教だ、キリスト教だとかなりそこに差別が生まれる
そして苦しんでいる時でも助けないとなる、キリスト教徒でもキリスト教でないのものは人間でないとまでか南米ではなった
そういう宗教の差別が厳しいかそうなった、それで血で血を争うにようなったからフランス革命が起きた
そこでは宗教を否定して人権でありヒューマニズムで平等を目指したのである
つまり人間はこうして互いにいろいろな差があって理解することがむずかしいから争いが絶えないのである
いづれにしろ人間から争いがなくなることはない、それは家族自体でも争っているからである
自然は調和しているからそこに平和と美がある、それは神の国を現している
でもそこに住んでいる人間には調和がないのである








2019年10月08日

人の運命を決めるのはその人自身ではない? (事業失敗のカルマ―家のカルマの謎)


人の運命を決めるのはその人自身ではない?

(事業失敗のカルマ―家のカルマの謎)

カルマというとき謎である、運命も謎である、ただその人の運命は誰が決めるのか?
その人自身が決めるのか?また決められるのか?
個々人でも国家という集団の運命は誰が決めるのか?
織田信長は織田信長一人の力で英雄になったのか?
これも不可解なのである、桶狭間の戦いでも信長が奇跡のように勝ったのはなぜなのだろうとなる
駿河の戦国大名である今川義元に奢りがあったことである
圧倒的に兵力が違っていた、その数で奢りになり警戒を怠った
酒を飲まされて兵が泥酔していたところを襲われた
人間はなんでも奢るさとが危険になる

そこには天候が深く関係していた、関ケ原でも霧になりそれが勝敗に関係していた
モンゴル軍が日本に攻めてきて敗れたのも台風が来て沈んだからである
奇妙なのは台風が来てラグビーでスコットランド戦が中止になり引き分けになるからルールでは日本が決勝戦グループに入れると言っている
これも神風だというとき天候が勝敗に関係していると思った

なぜギリシャの神話の時代では戦争は神々の戦争であり神々がそれぞれの国や人を応援していた、神々が戦っていたのである
それは戦争でも何か神々が関与して勝敗が決まるとか見たからだろう
人智を越えたものが戦争にも天候のようにかかわるからそう見た

戦争でも勝敗は一つの原因ではない、複合的な因子があって勝敗を決める
カルマというのはその個人にあるにしても家のカルマとかその地域のカルマとか国のカルマがありその方がカルマとして強く働くのかもしれない
そのカルマには個人で抗うことができないものだからである

だからこそ家のカルマは怖いのである、結婚することはその家のカルマを受けることになるからだ

なぜその人はその女性と結婚したのか?

その女性の家は親が若い時から身体障害者となるような病気だった
それで妻はその夫を生涯世話する立場になってしまった

それもカルマなのかどうかはわからない、でも過酷な現実は逃れようがない
その夫婦から生まれた娘は結婚した
その結婚した相手は実は収入もいい恵まれた相手だったのである

ではなぜその結婚した相手が事業を始めたのか?

これも謎ではある、なぜなら収入がいいのだからその会社にいた方が良かったのだがあえて事業を始めたからである
それはその人は人のとれない資格をもっていて優秀だとされてほめられうらやましがられていたからである

そういうことで自身があり事業を始めれば成功するとその人は確信していたのかもしれない、ただ技術者であったが経営は全く違った才能を必要とされていたのである
そこでつまづいて事業に失敗して借金となってしまった

ただこの辺の事情は良くからないがここで私が問題にするのは

なぜその人は事業をはじめたのか?

それはその人自身が事業をはじめたのではない、その人はある力によって事業をしろとなりはじめたのではないか?
つまりギリシャの神話で戦争するのは神々が強いた神々が戦争をしていたようにである

それは事業をさせて失敗させるためにその人に事業をさせたともなる

だから戦争でもなぜ日本が戦争を起こしたのか?

それはいろいろ言われるが今になると不可解になる
アメリカによって戦争が強いられたのだという経済封鎖されて石油もなくなり追い詰められて戦争になったという理由もわかる
でも何かもう一つ理解しかねるのである

すると戦争を起こさせたのは日本という国自身ではなく神なのかとまでなる
でも負ける戦争をなぜ強いたのか?
ただその戦争がただ無謀だったとは思えないのである
そして勝敗だけにこだわれば日本が負けたのは日本に味方する神が負けたからだともなる日本の神とされた天皇は私は神ではないとして戦後は象徴天皇となったのである

不可解なのは個々人でもそうだが何か神の関与があり運命を決めているのかとなる
すると運命はあらかじめ決められていて変えられないとなる

だから恵まれた環境にある人がなぜあえて事業をはじめたのか、決めたのか?

それが謎なのだけどその人がただ操られて事業をしたわけではない
自らの意志でそうしたのである
人間にはそもそも自由意志があるから自分で決めることができる
これをしていけないと言っても自由意志があるからできる
それを神の力でも抑えることはできないのである
日本が戦争を起こしたのは日本の国民でも戦争しようとした意志が働いたからだとなる
それは上からの命令だけではない、国民の意志が働いたからだとなる

ただ事業を起こして失敗した人をみると何かもともとその人は失敗することに追いやる運命の力があったのかとなる

「あいつは何か傲慢だ、うぬぼれている、みんなから頭がいいとほめられている
それで事業するように自ずからなる、またそうさせる、そして失敗させてうぬぼれを打ち砕く」

そしてその家のカルマが働いた、事業を失敗するカルマをもともともっていたとなる
ただ事業に神がかかわるとかあるのか?これも謎ではある
ただその家のカルマがあり成功させなかったのかとなる
成功していたら相当にうぬぼれてたものになったからである

人間で怖いのは何かで才能でもなんでもうぬぼれる、奢りになることなのである

日本が戦争で負けたのにも奢りがなかったか?

日本はアメリカの強大さを知らなかった、情報が入らなかった
知っていた軍部の指導者はいた、だから山本五十六だったかアメリカとは戦争したくないと言っていたのである
今でも外国を知らない人がいる、でも現代は情報社会でありグロ−バル社会だからそういう偏狭なものにはならないから日本が起こした戦争のようなことは起きないとも思う

人間の奢りは実際は相当に怖いものである、奢れるもの久しからずとか言われてきたのはそのためである、奢ることは滅びに通じているのである
日本が戦争をしたとき奢りがあったことは間違えない、それは原発事故でもそうだった
日本の技術は優秀だから事故が起きない「安全神話」が作られた
それも日本が神の国だから戦争に負けないという奢りになっていたのである
宗教もカルト的になるとそうなるのである
神の国だ仏の国だとなり常勝なんとかとなり奢るようになる
宗教は今やほとんどカルトである、集団化したのはカルトである
そこにまた異常なうぬぼれ、奢りが生まれてくる
仏が味方しているから勝つとか戦争にも勝つとか選挙に勝つとなってしまうからである
そういう過ちを犯さないために政教分離が法律化したが守られていないのである

とにかくカルマというときその家々のカルマが必ずある
その家の家風とかもある、そこには悪い家風もある、そしてその悪い家風に染まるから結婚は怖いのである
昔は家と家の結婚となっていたのはその人を選ぶより家を選んでいたのである
今は人を選ぶからかえってその家のカルマを受けやすいのである
もちろんいいカルマもあるからすべて悪いとはならない、でもカルマとは悪い方に働くのが多いのである

事業を起こすことを問題にしたのは何か事業というのは戦争ともにているのである
戦争も事業だし国家でも経営することだから国家の指導者は経営者になっているのである経営の失敗が戦争の敗北だったとなるからだ
事業を起こすことは20人に1人しか成功していないとかまれなのである
そこには運があったりもする、いくら優秀でも成功するとは限らないのである
だから運命を支配する者が神でありその作用で人間の運命は決まるともなる
人間の運命を決めるのは人間ではできないというとき神が決めるというとき謙虚になる

原発でも科学技術というのは人間が作り出したものであり神が作ったものではないから万全ではないのである、だから事故が起きてとりかえしのつかないことになったのである
つまり人間の奢りが打ち砕かれたのである
そこに神官のようにあった科学技術者も無能化されたのである
その被害があまりにも大きいのでその人たちは高きものだったか卑いものとされたのである、もはや恨まれる者ともなったのである

何か他人の家のカルマと言っているが私自身の家族にもカルマがあった
姉は優秀な女性だった、体力もあり度胸もあり男まさりでありそれで感心していた
でも最後に認知症になり馬鹿になったときほど驚いたことはない
それも不可解でありなぜなのだろうとなった
人間が無能化される、馬鹿になるという驚きである
銀行から金すら下せなくなったからだ
そして(俺は優秀だ)と最後に言って死んだのである
それはニーチェが私は神だと言って死んだのとにている
ただ認知症は今や老人病でありみんながなる
でも人間が無能化される恐怖が認知症にあるのだ

優秀な人→無能化

こういうことが人間に起きる、原発事故で原発で働いていた人たちは科学者でも選ばれた優秀な人たちだったのである
でも事故になり無能化されたのである
人間は万能ではないからそういうことが起きてくる
つまり原発を操作する核を操作する能力が人間にはないからそうなったのである
そして人間が作りあげた文明自体が崩壊してゆく
この辺で起きたことは文明崩壊現象だったのである
なぜなら放射能汚染で住めなくなるということがそれを証明したのである
これは人類の未来を暗示しているのかもしれない
文明は崩壊して自壊して人が住めなくなる、それも人間の奢りからそうなったのかともみるのである

2019年09月25日

人間は出会う人が大事(出会いが決める運命と損得)


人間は出会う人が大事(出会いが決める運命と損得)

人間はつくづく出会いが決める、大学でカルト教団に自分が入ったのもたまたまゼミにいた人がその教団に入っていたからだった
それが最大の理由だったのである
その人と出会わなければ入ることもなかった、ただそれがすべて悪いとはなっていない
なぜなら大学は遊びの場所でありそこでただ遊ぶだけで終っていたかもしれないからだ

最近の自分の苦難を書いてきた、それも出会いが悪かったからだ
前から付き合っていた人が悪かった、事業に失敗して借金していたとかで余裕がなく借金に追われていた、そういう人は自分のことで精一杯であり他者を助ける余裕がない
自分から金をとることしか考えないようになっていた

後に家の手伝いに一時来ていた人は泥棒だった、そこで大金を失った
これもそもそもそういう人と出会ったことでそうなったのである

他に地銀の人が来たがこれもリーマンショックのとき半額になった株が元にもどり上がり調子のとき別な投資信託に株を売ってまわした
結果的に損した、その地銀の人は全く株のことを知らないのに知っている言っていた
私もプロだと思いまかせた
そして自分には株でも何でもそういう投資のことがわからないし時間もないからまかせたのである
地銀の営業の人の頭にあるのはノルマを果たすことだけであり地銀自体が今や余裕がないから客をもうけさせることなどできない、今は客から金をいかにして巻き上げるしかないのである、それはゆうちょでも同じだったのである
時代が変わってそうなっていたのである

なぜ人間はこうして出会いが運命まで決めてしまうのか?
そもそも犯罪に逢うということはそうした犯罪者と出会うからそうなる
犯罪者がそんなに多い訳ではない、でもそこでたまたま出会うことが最悪だったなるのである

大工さんに修理を頼んだが実際は直っていなかった、でも金ばかりとられたというのもそうである、出会いが悪いとなんでも悪い結果になる
病気でもいい医者と悪い医者がいる、いい医者に出会いは病気も直るが下手な医者にかかると病気は悪くなり早く死ぬこにもなるからどういう医者と出会うかが問題になる
でも田舎では医者は限られているから選ぶことはなかなかできないから損になる
それは教育でもそうである、いい先生に出会えばいいが悪い先生に出会いえば影響が大きいのである 

そもそも人間の運命はどんな母親から生まれてどういう家族で育つのか決められている
それも出会いであり出会いは運命だともなる
結婚だって出会う人によって決まる、どういう人と出会い結婚するかで運命が決まる
そして人間は出会うという時、意外と出会う人は限られている
そしてその限られた人の出会いで運命も決まる

良かったのは仙台から来た優創建というユニットバスの会社だった
百万で作ってくれた、地元だとガス会社では200百万かかると言われたからだ
知っている人に頼むとその人はプロではないから300万かかったのである
その会社は良心的であり仙台から来たとしてもそれだけ安くできたのである

人間の運命を決めるのはいろいろある、でも出会う人に左右されるというのも確かである住んでいる場所でもそうである、どうしてもこの辺だと医者自体が少ないのだから都会のように医者を選ぶことができないからいい医者と会えないのである
そういうハンディキャップが田舎にはある
金融機関でも都会のようにいろいろないか相談もできないのである

とにかく人間はどういう人と出会うかが大事になる
出会う人によって運命が決まってしまうことがある
人間の運命を決める要素はいろいろある

●住んでいる場所(故郷)

●生きる時代

●出会う人

この三つが運命を決める、住んでいる生まれた場所の影響が本当に大きい、田舎と東京に生れ育つ人では環境が違い過ぎる、そこにはいい面と悪い面がある
ただ自分は田舎向きであり老人になったら今では人ごみが嫌になり仙台にすら一年に一回とかしか行っていない、老人になるとどうしても田舎がいいとなる、それはその人の性向にもよる

また出会いというというときどんな本に出会い読むかということも大事である
本も人との出会いとにているからである
でも田舎だと本自体が売っていなかった、この差が大きかったのである
仙台まで行かないと専門書も売っていない、売っているのは売れる本だった
「冠婚葬祭」とかの本が百万部売れていた時代である
ベストセラーになった時代である、それはそういう本しか田舎には置いていなかったのである、でも本というのは莫大な量があったのである
それが読めなかったことは相当なハンディキャップを背負わされていたのである
今は古本が安いので集めている、すると知見が拡大してゆくのである
インタ−ネットでも論文が読めるとかなり知識が田舎でも得られるのである

なぜ出会いが大事かというとどこでもそうだろう、会社でもいい上司に逢うのとそうでないとなると苦痛になりやめたりする、でもいい上司に逢えば仕事もはかどるとなる
つまり秀吉でも信長に出会わなければ出世はできなかった
信長が優秀だったから秀吉も才能を活かせたとなる
才能だってそうなのである、それを認める人がいないと伸びないのである

今になっても自分がこんなに俳句とか短歌を作っているけど30過ぎてもいいものが作れなかったし才能がないとされていたからだ
だから才能でもそれを認め伸ばしてくれる人がないなと活かされないのである
それも人の出会いによることが多いともなる

第一出会いが大事だという時そもそも親と出会うということが運命を決めているのである親が悪いとどうしても初めから相当なハンディキャップ負うことになるからだ
私の場合は親が良かったからこうして自由に生きられたとなるからだ
才能も伸ばせたとなるからだ

だから出会いというとき良縁と悪縁がある、それは結婚でもそうである、その縁がいかに影響するか、良縁になればいいが悪縁になると悲惨になる
そして人間の不思議は良縁があっても悪縁を選ぶことが普通にある
良縁があってもそれを切るのが人間なのである

例えば天国があるとする、悪人はそこにはいられなくなり自ら進んで地獄に行くのであるそういう天国にはいられないのである、悪のある場所が住みやすいからそうなっている
だからこの世は悪人にとっては住みやすい場所なのである
天国となるととても住めない、自らこの世に帰りたいとかなる
良縁を切ると悪縁が入ってくるというのもそうである
むしろ悪縁をその人自ら選んでいるのである

結局最後は結果論でありもういろいろ言っても過去は返ってこない、こうすればよかったとかあうすれば良かったとかいってもどうにもならない、すべて結果は老人になれば出てしまったからである、後は死ぬだけだとなってしまったからである
ただこれからの人はこうして生きた人のことを参考すにすべきだとなる
40才になったら何もできない、人生も終わりだと嘆く人もいる
それだけ時間は過ぎるのが早いし出会う人も極限られている、後は「さよならだけが人生だ」となってしまうのである

「若き日に神を覚えよ」というとき若い時を神を知らなければ出会わなければ後は出会うことができないともなる、これも厳粛なことだと思った
若い時はいろいろなことに目を奪われるがそうしているとたちまち青春は過ぎるのであるそして浦島太郎のように白髪の老人になって時は戻ってこないのである
後は死があるだけだとなってしまうのである
玉手箱を開けたら夢のように煙となってすべては消えたとなる
そしてただ茫然としているだけになる、人間はみんなそういう繰り返しだったのである
そういう人間の本質は技術がいかに変わっても変わらないのである
だから諺を今でも活きている、「金の切れ目は縁の切れ目」というのも過去にもあり今はこれが極端になっていることでもわかる
そういうことは時代が変わっても変わらないのである
それは人間の欲とかがなくなるわけではない、いかに人工頭脳が優秀になっても変わらないのである、人間の欲がなくなることはないからである
それで諺が依然として通用していることでもわかるのである




2019年08月23日

「悲しむ者は幸いなり」母は悲しむ人だった (石の涙(詩)−家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」)


「悲しむ者は幸いなり」母は悲しむ人だった

(石の涙(詩)−家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」)


家を建てる者たちが捨てた石。それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ』

家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった
(マタイ21:44)

イザヤ書28章・・・・・・尊い隅の石
「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、固く据えられた礎の、尊い隅の石だ。7」28:16
 
 石の涙 

石が涙を流す
じっと耐えていた
石から涙が流れる
私の中にその石をかかえている
それは死んだ私の母だった
苦労して生きた母だった
目立たぬ母だった
私の中にその母が生きている
百歳まで生きた母だった
人は死んで何を残すのか?
その人生を残す
骨や灰にその人はない
その生きた人生にその人がある
その生はまた誰かの生となる
その人生があなたの力となる
死者は生者の中に生き続ける
死者はあなたを見ている
かくて人はその生をおろそかにできない
人生はあなただけのものではない
必ず周りに後の人に影響する
カルマともなる
あなたは今苦しい
あなたは今悲しい
でも耐えねばならない
ああ 石は涙を流す
しかしその涙は真珠ともなる
「悲しむ者は幸いである」
汝は生きねばならぬ
耐えねばならぬ
苦しみ悲しみ生きた者がいる
その死者があなたを見ている
あなたの生は人生はあなただけのものではない
後の世の人にも影響する
隅の石が後の世の柱となる人生
そして死者はあなたをじっと見ている
安易な生をおくるなかれ
その生はむなしく消える
あなたは恨んではいけない
苦しみと悲しみに生きる生
石の涙を流す人生
その涙が真珠となる人生
そしてあなたは死んでも同じように生き続ける


これは試みを経た石、固く据えられた礎の、尊い隅の石だ

試みを経た石とは人生を悲しみ苦しみ生きた人のことだろう、この世とは楽しむ場所ではなく苦しむ悲しむ場所なのである
だから「悲しむ者は幸いである」という意味を理解できないのである
どうして悲しむ者が幸いなのか?誰もこういうことを望んでいないのである
それは別にキリスト教徒でなくても人生は不可解である、ただ人間は必ずこの世ではいろいろなことで苦しみ悲しむ者としてある
そういうことがさけられないのである
私は楽しみ笑い暮らして人生を終えた、何の苦しみもない悲しみもないという人生があったならどうだろうか?
そういう人生を望むし誰も苦しみ悲しむ人生を送りたくないのである
貧乏な人生だって送りたくないのである

でもこの謎は尊い隅の石だということにある、中心の石ではない、目立つ石ではない、忘れられた石でもある
それがなぜ柱の石となるのか?
つまりこの世では中心となるのは偉い人達であり地位ある人達だと思っている
この世を動かしているのは決して隅の石ではないのである
ところがこの世は実際は大勢の庶民から平民から成り立っている
一部の人ではない、そういう庶民がいてこの社会がありうるのである
だからこそその隅の石が尊い石だとなる、でも現実に常に上級国民がいて下級国民がいて下級国民はただ虐げられるだけだとして不満が大きくなっている。 

高きものが卑(ひく)くされ、卑(ひく)き者が高くされる

これも原発事故であった、「安全神話」を作ったのはみんな高き人たちだったのである
政治家から官僚から科学者から学者からマスコミとか現代社会で権力をもつ人たちだったのである、高級国民だったのである、それが事故でその権威を喪失して卑いものとされたのである、だからこの言葉が現実化したのである

しかしこの世を社会を支えているのは隅の石であり目立たないものでありそれなくして社会はありえないのである
医者がいたとして医者は優遇されているとなるがその下に看護師がいて医者でもありうる
医者だけでは何もできないのである、すると隅の石とは看護師になる
隅の石となって働く人々がいて病院でも成り立つ、病院で掃除する人でもそうである、医者が高級な仕事としてあり掃除などは下級の仕事だとなる、でもやはり病院を支えていることには変わりないのである

明らかなことは経営者とかなるとそうしてただ上に立ち威張るだけではできない、その人は事業を起こしても経営者になっても他者のために物一つを持ちたくない人だったのである
ただ上に立ち威張っていたいだけだった、他者のためにするというより他者より上に立つ優秀なものとして見せたいために事業を起こしたとなる、技術者でもそのこと自体に動機に問題があった
原発事故でもおかしなのは原発が爆発したとき技術者が心配していたのは原子炉でありそこに生活していた人たちではなかった
その時率先してすべきことはそこに住んでいる人たちの安全をすみやかに計ることだったのである
でもそこに住んでいる人たちのことは眼中になかったのである

この世を支える者は隅の石だ

悲しむ者は幸いである

この言葉は理解しにくい、なぜならみんなそんなこと望んでいないからである、ただそういう例が死んだ私の母には言える
それでも母が理想的な人だったかとなるとそうではなかった
苦しみ悲しむ人だったが庭が無駄だと花が無駄だとか一切金にならないものは否定していたのである、そういう生い立ちがありそうなったともなる
働かされつづけていたからである、何か余裕があることをできなかったからである
趣味なども一切ない人だったからである
それも異常化していた、そういう親のもとで育ったらどうなるのか?
この世の美とは関係ない索漠なものとなっていた、だからどうしても苦しみ悲しむだけの人生が肯定できないのである
確実に楽しみ笑う人生も不可欠なのである、もし毎日苦しみと悲しみの人生だったらもう地獄になる
快楽しろというのではない、なんらか健全な楽しみがなかったら人生は息詰まるようなものになる
飲めや歌いやではない、苦しみ悲しむばかりの人生は肯定できないのである 

ただもし苦しみ悲しむこともなければ人間は浅薄になる、だから必ず苦しみと悲しみは人間には必要なのである
だから悲しむことが私にはなかったという人がいたらその人は人生をについて人間について何も知らず終わるとなってしまうのであるそしたらどんな宗教でも理解することは不可能だとなる
飲めや歌いやで何の苦しみ悲しみもない人生だったらそれはかえってむなしく消える
家族でも何か苦しみがあり協力するとき家族になる、それは血縁だからともならない
家族の結びつきは夫婦でもそうして苦しい時があり結ばれ真の家族となる
もしそれがないと家族でも強く結ばれない、夫婦でもそうである、それは家族だけではない、何か苦難があった時、そこで協力したとき強い結びつきが生まれる、だから津波や原発事故でもそうである
苦難がありそこで協力して立ち向かう、そこに強い結びつきが生まれる
でも現実はばらばらになって結びつきが破壊されたともなる
こんなところには住みたくない、補償金をもらって楽した方がいいとなったのが大半でありゴートタウン化したのである
結局自分でもそうだが口では言うのは楽でも現実になるとそれだけ厳しいということなのである

夜のふけて虫の音聴きぬ隅の石


2019年08月12日

家族のカルマで苦しむ (カルマは次の代に受け継がれるから怖い)


家族のカルマで苦しむ

(カルマは次の代に受け継がれるから怖い)


過去に起きた不仲や議論から派生しているこうしたカルマは、原因を見つめ直して和解したり解決すべきであったのに、何世代にもわたりこれまでも無視されたり否定されてきたのであろう。そして次の世代にも同じことが引き継がれて繰り返されてしまうのである。

もし誰かが大きなカルマを抱えていて、その人の人生でカルマを解消し切れない場合は、次の世代へと受け継がれます。

先祖が罪を犯したら、血縁関係がある子供が、その罪を償わなければいけない場合もあるわけです。

兄が交通事故で死んだ、父親が違っていたし私の家にとっては負い目となった兄である
私は大学まで行ったが兄は集団就職で中卒で苦労した
そして結婚したが妻が不倫して離婚して死んだ
その娘がいたが児童相談所とかに一時あづかったとか不幸になった
ただ妻の不倫とか離婚とかになったのは兄の責任もあり私の家の責任に全部はならない
なぜなら別に当時集団就職は多かったからである
その人たちが全部不幸になったわけではないからである

いづれしろなんらかカルマを人は背負う、いい面でも悪い面でもそうである
そして長男長女が家族のカルマを背負うことになる
一応親戚だった人もなぜ今になって夫に苦労しているのか?
それはその母親が夫が若い内から重症の病気になってずっと世話しなせければならなくなったからである
そして娘はいい人と結婚したと思ったのだが夫が事業をはじめて失敗した借金を背負い苦労するようになった
これもだから不思議なのである、なぜなら別に事業など起こす必要もなかったのである
会社では技術者であり資格をもっていたからである
それでいい暮らしをできていたからである
だからそれがわからないし不思議だとなる
結果的に娘も夫で苦しむ結果となったのである

親が夫で苦しむ→娘が夫で苦しむ

まさにこれがカルマなのである

なぜそうなったのか?そうさせられたのか?

それは娘が親と同じ苦しみ負い親の苦しみを体験させるためだとなる?
親が夫のためにどれだけ苦しんだかを自ら体験させられるためにそうなった?
その影響が関係が薄い親戚にも自分にも回ってきたとなる
カルマは必ず波及する、兄弟とかなるともう逃れることはできない
第一事業することは親戚だけではない回りにいいにしろ悪いにしろ影響するから簡単に始めるものではないと思う

ともかく自分自身が自分の家のカルマを背負い介護や病気で十年間苦しんだ
その時助けはない、責められるだけだった
本当に七転八倒してきた、自分一人しかいなかったからだ
つまりそれがカルマだったのである

もう一人の親戚とももともと付き合いがなくうまくいっていなかったからこれもそういう継続で切れた、だから母の実家の墓参りはしない
こうして家族のカルマは必ずなんらか苦しみとなって払わされるのである

例えば金というのもカルマとなる、母の実家の墓を長男にあたる人が墓を守ってくれと
300万円で頼んだ、私は頼まれなかった
それで墓を守ることを頼まれた人はどうなるのか?
その実家の負のカルマも背負うことになったのではないか?
それはわからないにしても私は頼まれなくて良かったとなる

あなたは300万円もらいましたね
その責任を果たしてください

私は金はもらっていません
だから責任はありません

ともかく金もカルマとなり責任となっていたのだ
ドラマだったが金をもらったからとその義理と責任を果たすために殺人をしたヤクザがいたのもそうである
そこまでしなくてもいいがやはり金はわかりやすいカルマとなっているのだ
金とはなんらか具体的なカルマとなる
それは会社単位でもカルマとなる、何かもうけるにしてもそこに正当なものがないとそれがカルマとなり会社はつぶれる
だから地銀などでも苦しくて投資信託など売りつけたり本来の業務から離れてもうけているとカルマとなりそれが会社にかえってきてやがてつぶれるとなる、もうつぶれるようになっているからそうしているともなる

何か母の実家の墓は重いカルマを背負っていたからである
もちろん別に死んだのだからその人が墓を捨てるということもありうる
いづれはそうなるにしろやはりその人になんらかカルマがゆき苦しむとなるかもしれない正直その頼まれた人は異常人格者になっていたので怖くなり母の実家の墓参りもしない
つまり生前に家族でも親戚でもうまくいっていないと死んだ後もうまくいかないということである、その不仲は継続されたカルマとなっていたのである

まずカルマは苦しみとならないかぎり自覚されない、だから私の家族が介護となりその後のいざこざがあり自覚したとなる
そのカルマは過酷なものだったのである

人間は必ず人生でカルマを積んでいる

人間は別に個々人でもカルマを積んでいる、若い時に必ず過ちを犯す、それを軽く見ているが後で後悔する、それだけならいいがそれがカルマとなって現れる
例え法的に罰せられなくても苦しみとなって現れる
カルマの恐ろしさは結婚したりして子供ができるとその子供にカルマが受け継がれることである

カルマは一代で終わらない、子供に次の代に受け継がれる

人間はそれだけ生きることは責任を課せられている、自分だけでそのカルマが終わるならいい、必ず回りに子供にも受け継がれることが怖いのである
それを自覚しないのである、自分だけで終わると思っているのである
でも結局人間のカルマは消滅することはない
遂には人類もそのカルマによって滅びるとまでなる、世界史とはまさに人類のカルマとしかいいようがないからだ
なぜこんなに悲惨な戦争があったのか?それも人間のカルマだったとなる
もうどこの国が正義だなどないのである
アメリカが正義でも何でもないからである、原爆を落としたカルマは必ずアメリカにもいつか回ってくるかもしれない、そういう行為(カルマ)はいつか苦しみとなって現れるからである

ともかく墓をみたら石に赤茶色の垢のようなものをついていた、それを洗い落としたしたりした、唯一親戚となった人が墓参りに来るので一人で用意するのも大変だった
本当はもう切れてもいい親戚だけどやはりなんらかカルマがあり因縁がありつづいているとなるのかもしれない、今では兄の供養するのは自分しかいなくなったからである

お盆にはやはり死んだ人とか結婚した家ののこととかが話題になる
墓のことも話題になる、それがお盆だとなる
私の家は何か複雑すぎたのである、でもなんらか家族にはこうした問題をカルマを背負っていることは確かなのである

2019年08月05日

子供部屋おじさん(変な方向に行きやすい―犯罪化するのも怖い)


子供部屋おじさん(変な方向に行きやすい―犯罪化するのも怖い)

駅と自転車屋でその人と良く会う、その人のことを自転車屋で聞いた
しょっちゅう行っているから仕事も手伝っているようだから自転車のことを学んでいるのかと思った、自転車修理に来た人が番頭さんいないのかと言ったようにいつもいるからである
そしたら自転車屋の人はあの人はだめだ、何もしない、何もできないよと言っていたのは意外だった

何か役所に言って文句言ったとか自分とも関係していたのは駅で良くあっているからインターホンでJRの人と連絡していたという
そしたら駅長がきて何しているのかとなりオタクと言われたことに激怒したという
その人は役所でも文句を言って激怒した
その人がそんな人だと見なかった、何か話しないからおとなしい人だと見ていたからである、私は話していないからである

その人は何もしていない、本当に子供部屋おじさんなのである
他にも仕事しないでニートの人と二人くらいあっている
一人は何か本当に異常的だった、もう常識の世界から離れていた
ただ回りでは異常者と見ているようである、誰もつきあわないのである
何かそういう人はかえって社会から離れていて個性ある人に見える

老人で髪ぼさぼさの人がいる、外見を見ると仙人のように見える
それは原発事故避難してずっといる、スーパーで良く会うのである
でも話してみたら何かつまんない人だった
ただ外見が何か異様だからどんな人だと思ったがくだらない人だった
だから人間はちょっとでも話してみないとわからないと思った
外見が異様でもそれで個性ある人とはならないからである

その人は最初はどういう人かわからなかった、でも良くみると幼い顔しているのである
本当に子供部屋おじさんにふさわしい顔しているのである
ただこの子供部屋おじさんとは40くらいであり豊かな時代に生まれた人である
団塊の世代になると子供部屋をもっていた人はいない、貧乏だから子供部屋を与えられて勉強などさせられないのである
私の家もトタン屋根の雨漏りする家であり家には何もない、飯台一つと裸電球一つだったのである、本も一冊もなかった、知的な環境は何もなかったのである
それはみんな同じだったのである
だから子供部屋がないのだから子供部屋おじさんなどいるわけがないのである
なぜか私の家では店をしていて配達など子供の時一番働いていたのも不思議である
大人になって働くことがなかったから不思議だとなる
農家でも子供はその時労働させられたしそうして労働力として子供をもつということがあった、今でも発展途上国だとそういうことがある

ともかくその子供部屋おじさんは変な方向に行き危険にもなる
上級官僚に殺されたニート、子供部屋おじさんがいた
その人は小学生が運動会で騒ぐので怒っていたという
こういうことはかなり危険な状態なのである、何か変な方向に行く危険がある
それは自分自身がそういうふうにして30年間家にいたからわかるのである
アウトサイダーならニーチェとかヘルダーリンでも狂気にいたるが子供部屋おじさんはそういう天才とは違う、でも社会性が身につかないからまた大人として成長しないから
変な方向にいきやすいのである
だから何か異常に役所に行って文句を言ったり駅で何か駅長とかが来て文句を言っているのもそうである、そこに危険な兆候が出ているのである


ただ何でもいろいろな見方がある、youtubeでは親孝行だからいいとしている
その人は親と会えず分かれて暮らしていたからである
そして親とこれからどれくらい会うだろうと言っていた
これもそうなのかと思った
私は親とはほとんど60年間離れずに暮らしていたから親孝行だとなったとなるのか?
そうは思えないが何か親とそれだけ一緒にいると十分に親といたから悔いはないともなった、親とこうして一緒に暮らせない人はまた違った見方になるのだと思った
何でも人はそれぞれであり見方が違ってくるのである

なぜ上級官僚の親が40くらいの子供部屋おじさんなのかニートなのか殺したのか?
それは小学生が運動会で騒ぐのに激怒していたからである
それは確かに危険な兆候だったかもしれない、それで親が危険を感じたのである
何か社会から離脱して生活しているとずれてくるもてなくなるのである
ただ私があった大学生の子供いる60近くの女性は社会的には何も問題がない
でも異常人格者になっていたからそういう人は結婚して子供もって普通に生活して社会から認められていてもそういう人はいるとなる

ただ例外はあるにしろこういう人は変な方向に行き安いのである
だから役所に行って文句言ったり駅長につっかかって激怒したりするのもそうである
ただ私自身が駅にかかわって文句を言ったことがある
今の高校生の見守り役に前の自転車屋の人も文句を言った
それは異常でも何でもない、見守り役が異常なのである、駅のことは何もしない、高校生の見守り役しかしないというのはありえないからである
だから何か文句を言ったとしても異常とは限らないのである
正当なことで文句を言う人はいくらでもいるしそれを全部否定はできないのである

ただ子供部屋おじさんとかニートとかは何か変な方向に行きやすいのである
小人閑居して不善を成すというときこれも古くからあったことなのである
不善を成すということは犯罪にもなるからだ、人間は暇だとそうなりやすいのである
人間にとって暇は大きな問題なのである、だから暇からスクールになった
スクールは暇から生まれたことが良くそれを示唆しているのである
学問がないと暇を活用できないとなるからだ、ただ学問だけでも象牙の砦に閉じこもりこれも変な人になる、学問と言ってもあくまでも実地の社会を知ることが先にあるからだ
人間はやはり社会で社会的訓練を受けるのがいいとつくづく思う
それがないと何か常識からもはずれた人間になる、そして変な方向に行くこともある
人間とはそもそも何であれ偏り安い、それは何か経験するにしても極わずかしかできないからである

ただ一方で現代社会に適合できない人はいる
それを無理やり適合させる、会社員にさせるとかするのはいいのかとなるとそうはならない、学校でも不登校になる人がいる、でもその人はその人なりの勉強をすれば何か身につくかもしれない、その人は受験とかそうした試験ばかりの勉強が嫌でしないともなる
自分自身がそうだった、学校には適合できなかったからである
そういう人は別に普通にいるのである、学校とか会社でも社畜だとかして適合している人こそ異常だともなるからである
だから今になると団塊の世代がみんな企業戦士となり猛烈社員となったことはおかしいと思う、文系大学だと自由であり講義にもでない、そういう自由な生活をした人が良く会社にみんな就職したと思うからである
もっと会社とか社会からはずれた人がいてもいいと思ったからである
ただその時は経済的にできなかった

なぜこれほどニートとか子供部屋おじさんがいるのか?

それは経済的余裕が親にもあるからなのである
その理由が一番大きいのである、そんなこと貧乏な時代だったら絶対にできない
みんな働かされたのでありそんなことはできない、選択の余地もないからである
だから時代的そういう人達が生まれたのでありそれがただやはり社会性がなく危険なものとなるから騒ぐようになったのである 

こういう人に比べれば非正規でもロスジェネでも派遣でも働いている人は何の問題もないただその人たちにとって給料が安いということだけなのである
そこを解決すればすべて解決するのである、そうすれば結婚もして子供ももつのである
それは金の問題として解決できる
でもニートとか子供部屋おじさんは金では解決できない、そういう生活を変えることであり親が返って金を与えてさらに自立できなくなっているからである

この人たちが十年二十年後にどうなるのか?
それぞれ事情が違ってもそのカルマは恐怖になる
そのことを自分自身が体験してプログに延々と書いていたからである
誰も助けない、責められるだけになる、妻も子供いないのだから過酷になる
それに金もなかったら地獄である、そうして共倒れになり悲惨な人もすでに出ているのである、親が死んでその死体と一か月いたりとか親が子供殺したりする
そういう前兆のような事件が実際はもうすでに起きているのである  
数が多いことが大きな問題であり放っておけないのである

アウトサイダーとかするといるかいないのかわからない人たちであり何か社会の負担になどならないからである
そしてそのまま50でも60にでもすぐなってしまう、そして破綻する人が増えたり問題行動を起こしたり犯罪になったりする、それも何か危険なものとしてなる
京アニはわからないにしろ事件を起こした人はやはり41歳だったのである
この年は本当に厄年であり鬼門の年齢だと思うからである
それは自分自身がそういう経験しているから言っているのである

2019年08月02日

引きこもりから介護から孤独死へ (引きこもり(アウトサイダー)は文明から離れて自然と合一して巨大化する)


引きこもりから介護から孤独死へ

(引きこもり(アウトサイダー)は文明から離れて自然と合一して巨大化する


NHKのテレビで放送していたのは介護のために職場をやめて引きこもりになった
50代くらいでなった、これも悲劇である
なぜならそれまでは普通に仲間と働いていた、でも親が介護状態になりその人は一人っ子だからめんどうみるのが当たり前だと親に言われていた
親にかわいがられたからそう言われた
一見引きこもりは親を困らせるが最後に親を介護するということで恩返しになる
親の世話することができる、だから何もできないとはならないともなる

ただ引きこもりしていてそれが長くつづき親にとがめられても引きこもりがつづく
これは前のとは事情が違う、この引きこもりの方が実際は深刻である
普通にに働いていて介護のために引きこもりになるのは同情に値する
でも引きこもりしていて親を介護するとなるとまた違っている

なぜそもそも引きこもりがこんなに多いのだろうか?
それはロストジェネレーションの非正規雇用の特殊な事情があった
その人たちが引きこもりと重なっていたのである
なぜ引きこもりとかニートとかに私が興味があるのか?
それが自分自身が30年間引きこもりだったことなのである
20代何か放浪状態にあった、肉体労働とかしていた、そこで危険な目にあったが生き延びた、でも30以後は職にもつかず引きこもりになったのである
ただ家に閉じこもってはいない、日本全国を旅していた
最初は鉄道の旅であり次に自転車の旅であり50以降は世界を旅するバックパッカーになって終った、60以降が親の介護になり二人いたので七転八倒して一人で介護した
そして最悪だったのは自分自身も病気になったことである
二回病院に入院したし手術もしたのである

その時のことをプログで延々と書いてきた
一切助けはない、ただ責められるだけだった、そして自分の家に来た人がみんな金に困っていたのである、だから大金を盗まれたり借金している人から金を要求されたり弱った時金で攻められてきた、一切自分が苦しいことなど考慮されなかったのである
それは結局自業自得の自分のカルマだったと思いそのことは恨まない
30以降自分は楽しすぎたのである、三食つきであり食事はいつも出されているし自分は何もしなくても良かったのである
私はだから殿様のようになっていたのである
そういう生活が30年つづいたということもふりかえればこんな人生もないと思った
ただ最近引きこもりのことをしきりに言うので何なのだろうと見ているのである

つまり団塊の世代で引きこもりはいないからだ
それは極わずかのアウトサイダーとなるだろう、みんな高度成長時代で猛烈に働いていたからである
なぜ自分がそうなったのかというと複雑だけど自分の家の特殊な事情でそうなったのである
なぜなら自分はそうして引きこもっていても責められるさとがなかったからである
働けとも言われたことがないのである
こういうことはなかなかありえない、引きこもりの人は家の人から常に言われているからである
だから自分のような人は団塊の世代は本当にまれだった、それができたのは自分の場合は特赦な家族の事情でそうなったのである

引きこもりがマイナスの点ばかり指摘されているけどこれにもプラスの面があった
人間の不思議は何でもマイナスとプラスの点が生まれることである
それが何か人間の不思議であり人間は全く違った視点で見れる
宗教自体が全くこの世の否定から始まっていることでもわかる
第一宗教者は何をしているのか?何か生産活動してきたのか?
毎日なぜ籠って座禅を組んでいるのか?
そんなことが許されるのか?これは明らかに引きこもりではないか?
そういう人たちをなぜ貧乏な時代に養っていたのか?
その時汗水垂らして農民は働いていたからである
そうして生産活動しない僧侶の数が相当に多かったのである
それらの人は引きこもりだったのかとなる

そういう人たちは個人でないが集団で寺に引きこもっていたとなるからだ
そういう生産活動をしない人たちが社会で容認されていたのである
引きこもりの人を何とか働かせようと社会に適合させようと腐心している
でもそもそも働きたくない、働くことを拒否している人をそうするのはかなりの困難がある
それより社会から離れて籠り修行する宗教のようなものとしてみる
なぜそういうことを言うかとなると社会から離れて暮らすことは精神の修養になるからだ沈黙の行をつづけることは精神の修養である
社会では会社勤めるにしろ必ず何かしら悪を成すのである
それがわかりやすいのはまずウソをつかずに社会生活を送れないということである
会社員として勤めると嘘をつくことが必ずある
銀行員などは固い職業でそういうことないと思ったが嘘をついていた
客に投資信託などを売りつけていた、それは客はもうからない銀行が手数料とるためだけのものだったのである
そういう嘘をつくことが常に社会ではある
第一嘘をつかないで生活するとなると僧院のような所に社会から離れて暮らすほかないのである、つまりそれが引きこもりなのである僧院とかは集団で引きこもりしてそれが社会から許された場所だったのである
人間はしゃべりすぎるのである、自然は沈黙しているが人間は絶え間なくしゃべるのである、社交とかでもそうなる
巧言令色になるのである

こんなことを考えるのは時代が変わると過去の見方が変わるからそうなる
ただ引きこもる寺とか僧院がなくなったから家で引きこもるようになったとも見る
そして引きこもりにも大きな効用がある
それは社会から離脱したことにより自然と合一するようになる
禅宗だと沈黙の行をつづける、それはいいことばかり言って客をだまして金融商品でも売りつけることなど社会では普通にある
でもそうして引きこもり社会かは離れて修行していれば嘘をつく必要がないのである
そうすると精神の修養になるのである

何かそして私は文明から離れて大自然と合一するように修行していたとなる
それは引きこもっていた結果自ずとそうなったのである
だからニーチェのようになったともなる
社会自体を文明自体を否定してなきものとして大自然の中に精神を合一させたのであるそうしてそこから詩を作っていたとなる

神の技と人の技

(Human beings unite with the universe and become a Giant)

時に人の技を安め
その技をとめよ
大いなる無用の空間にこそ
神の真の用がある
大いなる山は沈黙して
太陽は静かに輝き移る
人の技は限りなく疲れる
決してその技は完成しない
神の技はすでに完璧に完成している
人はただそれを讃える者としてある
その広大な海、山々、宇宙
そこに自ずから神の歌が響き渡る
精妙にして雄大なる楽が鳴り響きわたる
時に人の技を休めて
大いなる神の歌に耳を傾けよ
荘厳なる沈黙にひびく神の歌を聞け
一大ハーモイのシンホ二ィーを聞け
山は今日も深く黙しつづける
その内に向かって強く堅固に不動に
神の技はすでに完成して与えられている
人よ、なぜなお人の技を付け加えて労するや
無用の用のなかで人は大きくなる
汝は神の子にあらじや
汝に糧は与えられしにあらじや
神を賛美する者なれば・・・

宗教とかは何だったのか?それは精神の修養を修行を大事にした
騒々しい社会から離れる時そこには大いなる沈黙の山岳がある
その山岳と精神も一体化するのである、修験道とかがそうである、山伏とか法印とかが一部落に1人とか必ずいたのである、その人たちも別に働かずに暮らしていたとなる
今でも登山は人気である、昔は修業として登山していたのである
そういう人たちは社会から無用の人たちでもあった

真の神の用は社会にあるのではない、文明にあるのではない
大自然に宇宙にこそある、そこにこそ神の技があり人間の技なる文明には栄光はないのである、それを証明したのが原発事故だったのである
だから社会や文明に使われて疲弊する人間は本来の人間ではない
人間はそうあるべきではない、なぜなら人間に神が与えたものは神の技をほめたたえることだからである、文明に栄光ないのである

東京のような都会に埋もれて蟻のように働かさせられて絶え間なく不満を言っているのを見ているとこっちも苦しくなる
そこに人間の本来の生はないのである
人間は壮大な自然と共鳴して生きる時生きていたのである
文明にそういうものはない、だから文明自体が否定されるべきとなる
働けとかいう時、それは文明に使われて生を消耗させることなのである
そういう逆転の発想も思想もあった、それが宗教であり老子とかの思想なのである
だから働けと強要することは人間を生きることを否定させて奴隷にすることなのである

現実に確かに原発を作った科学者がそうだった、その科学者が働いたことによりこれだけの災いがもたらされたからである、働くということがすべていいものとして肯定できないのである
なぜみんながこれだけ毎日あくせく働いているのにその成果はなになのか?
東京の怪物都市となっているだけなのである、そこに自然にある壮大な美はないのであるそれは結局徒労だったともなるのである
だから引きこもりは実は巨大な人間になるものとしてあったともなる
働かないからと社会に文明人に卑屈になっている姿は情けないとなる
社会性は必要でも人間はそんなものではない
人間は大自然と宇宙と合一して巨大なるものとして成長する
それが神の子たる人間の目指すべきものである

いづれにしろいくら働くとしてもしょせん複雑な巨大な文明の歯車にしかなれない
どんな優秀な人でも歯車にしかなれないのである、科学の発明にしももう一人の力ではどうにもならない
それだけ複雑化しているからそうなる、科学でももう限界に来ているのである
東京のような都会を見ればわかる、用で埋め尽くされている
無用の空間、空地もない、そこで人は消耗されるのである
そこでは余裕がない、絶えず利益を追っている、血走っているともなる
金に追われている、利益を求めているのだがそれが社会にとってどれほど有益なのかもわからないのである
それはあくまでも社会の用であり曽木社会とか文明から離れて無用の空間がありそこにこそ真の神の用があるともなるからだ

社会から離れてひきこもるときそこに文明は消えて巨大な自然と宇宙が現れるのである、その中で人間も巨大なるものとして成長するのである
確かにそれが極端にすすむとニーチェのようになる
ニーチェは神ではない、偶像である、でもなぜ現代人は文明人はニーチェに惹かれるのかそれはあまりにも人間が文明の中で矮小化された結果なのである
それに反発する時エネルギーが普通人とは違う天才はアウトサイダーとなったのである
ただ遂に30年引きこもっていれば普通の人も巨大化することはありうるのだ
そういうことを上野霄里氏が言っていた
彼もニーチェのような天才だったからそう言ったのである
それでも普通の人でも30年も引きこもっていると何か異常化もするのだが巨大化する
それは大自然と合一しようとする力が自ずと働いてくるからである
反作用としてそうなってゆくのである、それを自分自身が経験してきたからである
それでこういう詩を書いているのもそうなのである

ともかく引きこもりが40代以上で50万人とかまた二十代からでも40万人とかいる社会とは何なのだろうか?
これはやはり文明の反作用としてそうなっている
またそうして働かなくても生活できるとはいうこともある
そういう人達から何か巨大な人間が生まれるのか?
みんなが社会からただ病人とか落ちこぼれとか役にただずとか言われるだけなのだろうかそれがなんとも数が多いから何なのだろうとなる
そもそもそれだけの人間が働かないで暮らせたというのも現代である
問題があるにしろ一応暮らしていけたのである、親を頼みにしても暮らしていけたのである、それは法印とか山伏とか寺に引きこもる僧とかもそうである
だから時代が変わってそういう人達が引きこもりなのか?
なぜなら引きこもりの人は結婚もしていないということでも共通しているからである

最近AIとかロボットとか盛んに言い働かなくてもいい社会が来るというのもそうであるそれのいい面はそうなれば人間は別に社畜にならなくてもいいし文明の部品とならなくてもいい、無用の空間で遊び自然と合一する生きるとかなる
無理やり強制されて働かなくてもいい時代が来るとなる
実際は人間はそんなに働かなくてもいいのである、その働く思想がどこからきたのか?
それは農業社会から来たのかもしれない、とにかく農業は畑で野菜を作るにしても暇なく草むしりをすることが強いられる、すると休むことができない、勤勉になるのである
一方で牧畜民とか遊牧民は羊飼いでも何か暇な面がある
それで想像にふけっているとかある、そういう違いがある、農業は勤勉さを生むのである

人間はとにかくなぜこれほど働くことが奨励されるのだろうか?
働くことが必要でもそんなに働く必要があるのか?
それが疑問なのである、だから働かない無職は犯罪者と同じになるのである
ただそれがAIとかロボットとか機械化で働かなくてもいい人が膨大に増えたらどうなるのか?一応ベーシックインカムとかで生活費が供給されるようになったらどうなるのか?もう強制的に働くことはしなくてもいいとなる、その時働かなくてもいい価値を無用の価値を追求できるともなるパラドックスがある
結局これも時代の変化で価値観が変わる、がらりと変わるからそうなるのである
そもそも引きこもりとか無職がこんなにいること自体がやはり社会の変化でそうなった
その人たちが批判されても現実にそれだけ存在している
それが可能な社会だからいるとなる
                                    
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機械は壊れた
機械は機能しなくなった
我々は機械の歯車ではない
我々はもう働かない
我々は歯車として働くことに疲れてしまった
我々は機械の歯車であることをやめたのだ 
我々は一人一人個性ある人間なのだ
その個性を示すことが人間が生きることなのだ・・・・・

引きこもりはわからないにしてもアウトサイダーはまさにこれだった、文明の歯車として機能しなくなった人である
でもそれこそ人間的な人として個性ある人となるという逆説がある
ただ正直ニートとか引きこもりは何か人間的に劣っている人たちが多いのが現実である
子供部屋おじさんとかもいる、これもうまい名付け方だなと思う、ことおじとかなる 
何か子供のような顔していて大人になっていないのである
何か第一社会人でないものは結婚しないとかしていないと何か幼稚なのである
人間的に成熟しないのである、それは自分自身がそうだったのである、大人になれないのである
だから実際はやはり社会性が欠けて人格的に大人になっていないのである
人格的に何かが欠落しているのである、そして小人閑居して不善を成すとなる、何か異常な犯罪者にもなりやすいのである
アウトサイダーというときニーチェもそうだがヘルダーリンとかもそうであり芸術家でも狂気化していることでもわかる
本来社会生活で養われるものが養われずにそうなったともみる、もともと天才にはそういうことがあるからだ
だから私が言うアウトサイダーとはまた別物として引きこもりとかニートはある
ただ自分自身がそういう生活をしていて遂に死ぬとまでなったので何なのだろうとなってこの一文を書いてみたのである




2019年07月29日

祭り(祀り)の起源は死者の供養であり怨霊供養 (神への畏れを無くした現代人の危険)


祭り(祀り)の起源は死者の供養であり怨霊供養

(神への畏れを無くした現代人の危険)


「まつり」や「まつる」という古語が先であり、その後、漢字の流入により「祭り」・「奉り」・「祀り」・「政り」・「纏り」などの文字が充てられた。現在は「祭りと祀り」が同義で「祀りと奉り」が同義ともいわれるが、漢字の由来とともに意味も分かれているので下記に記す。

「祀り」は、神・尊(みこと)に祈ること、またはその儀式を指すものである。これは祀りが、祈りに通じることから神職やそれに順ずる者(福男・福娘や弓矢の神事の矢取り)などが行う「祈祷」や「神との交信の結果としての占い」などであり、いわゆる「神社神道」の本質としての祀りでもある。この祀りは神楽(かぐら)などの巫女の舞や太神楽などの曲芸や獅子舞などであり、広く親しまれるものとして恵比寿講などがある。その起源は古神道などの日本の民間信仰にもあり、古くは神和ぎ(かんなぎ)といい「そこに宿る魂や命が、荒ぶる神にならぬよう」にと祈ることであり、それらが、道祖神や地蔵や祠や塚や供養塔としての建立や、手を合わせ日々の感謝を祈ることであり、また神社神道の神社にて祈願祈念することも同様である。


例えばこの図は1887年頃の大阪の市街地と周辺の村々です。 それぞれに神社や祭りがあります。 他の地域からはあまり祭りを見に来ませんが、 一生懸命祭りをやっています。


祭りとなるとそれは村ごとにあり多様だとなる
とにかく日本にはなぜこれほど祭りがあるのか?
それは共同体が無数に分かれてあった、村単位で生活していたからだとなる
その村村に祭りがあったとなる

祭るとは神を祀るからきている、日本ではその神とは何かとなると先祖になっているのが多い、また死者である、死者が神となってゆく
そのことは各自の家でも家族が死ぬと最初は悲しいと喪に服したとしてもそれが時間たつと家族であっても何か抽象的な存在になる、そしてカミとなり祭りとなる
だから死者を祀りそれが発展して祭りとなった

そのことを象徴しているのが死んだ人がもし怨霊とかなり祟るということを畏れた

「そこに宿る魂や命が、荒ぶる神にならぬよう」にと祈ることであり、

これは本当にそういうことがある、例えば戦死者がそうである、3百万にもの日本人が死んだというときそれをどうしたらいいのか?
それで靖国神社が靖(やす)かれとして慰霊して祀っているのである
だから祭りは基本的に死者を祀ることだとなる
また不遇に死んだ人もこの世に多いからそういう人が荒ぶる神にならないように祈るのである

実際に家族でもそういうことがある、ある人は私に最後に親戚の人が「ひどい娘だわ」と電話で言ってすぐに死んだのである
その家族のことは私の家ともうまくいかず私自身も何十年も関係していないから事情がわからなくなっていた
その事情を語ると長くなるからここでは省くにしろこの母親は実の母親ではなくても一番世話した女性だったことは確かなのである
その母親が病気になったときめんどうもみなかった、でも介護もなにもされなくて白血病ですぐに死んだのである
ただ最後に自分は関係ないと思ったが電話で「ひどい娘だわ」と言い残して死んだのである、それが自分の耳に残っているのだ

それがまたなぜなのかというと私の家の母親はその実家から出ているからだ
そしてその娘は私の母親のところに介護しているとききて
「おばあちゃんは金があるんだから金でめんどうみろ」と血相変えて去って行ったのである、そこまで言えるのか?
ただ5歳まで一緒にいた実の親がいて施設に入っている、認知症になっている
何の情もないのだが金があるから施設に入れているだけなのである
これもだから悲惨だなと思う、そういうことがあり私もその女性を呪うということまである、ただそうされてもしかたがないというか、そういう面があったからあまり恨まない
でもその女性を世話した母親はそうではない、だからこそ悔しいとなり「ひどい娘だわ」と言って死んだのである、本当に信じられないひどい娘だったのである

なぜか不思議なのはこの女性は三人の母親がいてみんな最後は不幸になっている
一番世話になった母親にはそういうことがないと思った、いろいろあってもそこまではありえないと思った、もう60近くになればそんなことありえていと思った
でもその女性はいろいろな事情とは別に異常人格者になっていたのである
何か奇怪な夫婦となっていたのである
なんらか家族でもいろいろありそこに暗い物語が隠されている
それで墓には「怨霊供養」という小さな碑が立っているのを見かけるのである

いづれにしろ祭りとはいろいろあっても基本的に死者を祀ることから来ている
死者を恐れたから祀りがあり祭りと発展した
死者の供養が怨霊を鎮める祭りだともなる、死者を恐れたために供養するためにそうなった
ただ祭りとなると世界中でもあるが特に日本では多い、それは日本では村ごとに祭りがあるからそうなる、それでフランスの人が日本の祭りを全国を旅して見て歩いていたのである、日本の文化の特徴として祭りがあることは確かである
日本ではそれだけ古いものが残されているのである

面白いのは高校野球も一種の祭りとなっているという、日本的な祭りであり儀式だというその見方もやはり野球が単なるスポーツではなく夏の一大祭りであり儀式だとするとき何か高校野球だけは他のスポーツと違っている
勝ち負けがあってもどれだけ誠心誠意戦ったかを評価する
そこで犠牲も要求される、危険なスライディングとか何かそれは犠牲的精神なのである
無駄でもする、特攻とにている、そして投手でも極限まで投げさせる
それで今度大船渡の佐々木投手は体を痛めるからやめさせたのである
それは一つの大きな決断だったとなる
ただ高校野球は儀式だとして祭りの要素があるものとして見ると納得がいく
甲子園はその聖なる場所なのである、そこには穢れがあってはならないのである
それで穢れが拒否される場所であり犠牲がある場だともなる
そうなると何か単なるスポーツで勝敗を決めるものとも違っているのである

ただ必ず世界中で祭りがある、犠牲というとき牛が関係して牛を殺して神に捧げたからである、家畜を羊もでも殺して捧げた、豚でも捧げた、そういうことは世界中である
神に犠牲をささげるのが祭りだったということがある
それは日本でもそういうことから始まっている、神は犠牲を要求してきた
それで聖書ではアブラハムのイサクが神に犠牲として捧げることを命じられたが羊が代わりに犠牲として捧げられたのである
他でも必ず神に犠牲として捧げられる儀式はどこでもあった
それでマヤ文明なのか、そこでもスポーツの競争が走る競争が行われていた
そこで一番早く走ったものは神に犠牲として捧げられた、そうなると普通は参加すらしたくないとなるが競って参加したという
そして競争に勝ちの望んで犠牲になった、それは名誉だったのである
だからその競争に勝つものは強健なものである者であり選ぶ基準だったのである  

宗教とはそもそもこうした神に捧げる犠牲から始まっている
キリスト自体が神に捧げる犠牲だったのである、それで神を和らげるともなる、そうでないと神からの怒りがあり人の世に大きな災いが起きるとなるからだ
何か津波とか原発事故にはそうした神への畏れが科学技術が神のようになり喪失したためかもしれないとも考察した
そもそも海は誰の者なのか?、それは万物は神によって作られたものである。
故にすべては神のものである、漁業者のものでもなかったのである、だから漁業権を東電に売り渡すことなどできないものだった
なぜなら海は神のものであり山でもそうだがあくまでも神のものとしてあるべきものだったからである
とにかく津波とか原発事故には神の祟りがあったのかとまで思うのはあまりにも大きな災いだったからである
神のタブーを破った結果としてこれだけの災いが生まれたと思うからである

いづれにしろ野馬追いも祭りである、これは歴史の再現の祭りである、これもやはり死者をよみがえらせる行事としてある、歴史の再現である
そして怨霊を鎮めるものとしての祀り祭りがある、これも祭りの起源だったことは間違えない、祭りは祀りであり死者と深く関係しているのである

2019年07月25日

ボランティアは偽善であるの議論


 ボランティアは偽善であるの議論


被災地に住んでます ボランティアを見るとイライラします。 
理由→遠くからこんなにたくさんの人が来てるのに地元のあなたはなぜ何もしないの? と怒られました。毎日がれきの中を通学してます 時間も経費も前よりかかってます。津波で流れたアルバイト 新しいところを探しました。勉強も必死にしてます。まだ足りないですか? ボランティアが来てから私はふるさとのために何もしない冷たい人になってしまいました

ボランティア活動というのは「受ける方は深く心から感謝する」そし
てする方は私心がなしでこのような受け手に心から感謝してもらうことで自分自身も喜び
を感じるというお互いが心から喜びあえるところにその本質がある


相手にとって全く役に立たず、かえって手間や害になってしまうことを一方的にやってしまうことかもしれません。

本人は良かれと思ってやっていたとしても、相手にとって必要なことでなければ、お互いが無駄な労力や気遣いをして終わってしまうことになります。



ボランティアは偽善である―キワードで検索したら結構深い議論をしている
それは大学生とかでもそうである、大学生は今だとボランティアをしているからそうなるのだろう

ボランティアに対してなぜ一面こうした偽善だとか批判が大きいのだろうか?
この辺は津波や原発の被害でボランティアがひっきりなしにきていた
原発で避難した仮設に一番来ていた、そこには原発の被害者も津波の被害者もいた
その差も大きいものだった、ただ外から来ると原発避難者と津波の被害者は一緒に見ていたとなる、同じ仮設に入っていたからである

そこにはいろんな人達が来た、宗教団体は多かったろう、それは宣伝のためである
売名行為の芸能人も来ていた、それを批判する人もいる
意外とネットではボランティアを嫌がっていると悪だと断定する人までいるのは意外だった、何か善意の押しつけでありうざいということなのかもしれない
そして何かボランティアは善人でありいいことをしていると見せつける
そして感謝とかでも何か強要する、それを見て嫌な感じになる
いくら無償でも嫌がる人がいる

相手にとって全く役に立たず、かえって手間や害になってしまうことを一方的にやってしまうことかもしれません。

これは確かにある、駅のボランティアでそういうことを経験したからである
別に教えなくてもいいとなる、無人駅でもいいという人がかえって多かったのである
若い人には多い、でも老人はわからないとき教えると素直に感謝している
それは無人駅になってわからないことがあるからだ
若い人はうざいとなる傾向がある
つまり老人は弱者でありそれで教えられると素直にありがたいとなるのである
若い人は弱者ではないからそんなことしてもらわなくてもいいよとなる
つまり若い人には老人とかの弱者の気持ちがわからないのである
それは老人とか弱者にならないとわからないからである

ボランティアで確かにこの辺ではボランティアが働いて肝心の被害者は特に原発避難者は毎日補償金もらってパチンコなどギャンブルに興じていたのである
だから何で働かないのだと怒っていたのである
でも津波の被害者はかえって迷惑にしていたというのも意外だった
震災でも事情が違っていた、まず津波の被害者と原発の避難者は相当に差があった
津波の被害者は家をなくしたり家族が死んだり悲惨だった
でも原発避難者は別に家は損害がないとか家族も死んだりしなかったのである

ただ故郷に住めなくなったということはあった
ただその被害の度合いが相当に違っていたのである
その区別が外から来た人にはできなかったのである
つまりなぜ外から来たボランティアが嫌がられることがあるのかとなるとこうした事情がすぐに呑み込めないからである
するとボランティアでも反感をもつ人がいる
それは自分自身もそうだった、なぜ原発避難者だけが優遇されているのか?
私の住んでいる同じ南相馬市でも避難区域になったところとならない所では補償に差がありすぎたのである、今でも医療費は原町と小高では無料なのである
でも鹿島区だと6か月くらいで打ち切られたのである、この差は大きかったのである
30キロで区切られたこともあるが南相馬市で対策はしなかったこともある
こういう事情は外から来た人にはわからないのである 

何かボランティアというとき善意がうまく合わないことがある
ボランティアが善意でしたことでもそれがそれをされた人には迷惑でさえあるのだ
それは駅で盲人の人の手を引いて電車に乗せたときだった
その人は杖で別に電車の前まで行ける、手をとることを嫌っていたのである
だから電車のドアをあけるボタンをおせばいい、手をとる必要などなかったのである
そういうことは押しつけになっていた、その盲人は自分で行けたからそうなっていたのである
何かボランティアにはそういうことがある、無理やりおしつけて善意をおしつけていい人ぶる、そして強制的に感謝しろとかなる
そういうことを嫌がある人がいるのはわかる、迷惑な場合があるのだ
むしろちゃんと金をもらい働いている人こそほめられるべきだということもある
その人たちは金で報酬を受けていると感謝しないことがある
金が報酬だからである、でもボランティアの報酬は感謝とか善人としてほめられることを望んでいるのである、それが嫌がられるのである
金で払えばいちいち感謝など要求されないからである

だからただより高いものがないというときそれは決まった報酬がないからである
親戚の人が自分が介護で苦しんでいる時そうだった
荷物一つもつのも嫌がっていた、そしてその荷物一つをもったからと無料でしたとなると現実に途方もない金を要求されたようになったからである
その人は金に困っているから暗黙の裡に途方もない金を要求される
普通だったら荷物を運んでもらったからと決まった金をはらってしてくれる方が安心なのである、いくらとられるかわからないとなるからだ
ボランティアなら感謝だけでいいとなればそれは悪いとはならない
でもしてもらう方は決まった金を払ってそれですました方が精神的に楽だとなる
だからこそ現実社会ではすべて金の額で感謝を還元しているのである
その方が楽だからである、つまり無償で無料で何かをしてもらうことはしてもらう方がかなりの負担になるからそうなったのである

ただ道を教えたりするのは別にそういうことはないしそれで何か要求したりしない、
それでもありがとうと言われたときうれしいとなるだけだった
ただ今はスマホを見ているから煩がる人が多い、そこが問題になる
つまり人によって何かを無償ですることを選ぶ必要があったのだ
老人とか障害者とかは弱者であり教えられることを望む、助けられることを望む
でも若い人はそういうことが少ないのである
つまり若い人は傲慢なのである、助けられる必要はないですよとなっている
でも老人とか障害者とか老人は助けてもらいたい人たちなのである

ともかく何か現代はボランティアの時代でもある、だからボランティアは何なのだとなるただ善しあしは経験しないとわからないことがある
人間は何であれ経験しないとわからないのである
私自身がささいなことでも経験したから書いているのである

私と同じことを若い人でも言っているのは感心する

ボランティアは宗教の行為だ

そう書いているプログがあったからである
無償とかなるとそれは宗教の分野だからである、ただ宗教自体がまたほとんど偽善なのである、宗教が一番偽善なのである、なぜならそんな無償の行為ができないからである
それで実際は金儲けだったりするのが普通なのである
そもそもボランティアが宗教だというときもうそんなこと実行できる人はいないとなる
だからいろいろあってもボランティアを容認する心も必要だとなる
ただ嫌がられるということもボランティアで意識する必要がある

だから本当にボランティアはむずかしいと経験から思ったのである
駅では若い人はそういうふうに嫌がっていた、それは助けられなくてもいいとなっているからだ、強者だからである、でも老人とか障害者などはそうではなかった
何か落ち着いて話しもできたのである
だから老人は若者にとって嫌がられるが若者にも嫌な面がある
若いというだけですべて肯定的に見れないと思った
若者は横暴で傲慢なものだからである、そこに深い思慮もないのである 
「俺は助けられなくていい、俺は教えられなくてもいい」とかなると傲慢なのである  

この世はカルマが必ずある

老人をいじめるものはまた老人になりいじめられる

なぜなら若い人でも老人になるからである
つまり因果応報は必ずある、継母で虐待していた老人が死ぬとき悪かったなと悔いた、そしていじめた子供に頼り死んだからである
老人を別に手厚くする必要がないがいじめたりすると必ず今度は老人になったときいじめられる
すぐに誰でも年とる、若いということはほんのわずかの時間でありすぐに過ぎ去るからである
だから若者が無謀になり若きの至りでも必ずそれかあとで後悔する、でも悔いてももうどうにもならない
その時は帰ってこないしその罪は消えないともなるからだ、そしてその報いは必ず受ける
老人になって同じ目にあうカルマとなるのである

ともかくボランティアは無償の無料の行為である

でもただより高いものはない!

無料であり無償だからこそ報酬は実は馬鹿高いものとなる、きりないものとなる
もしそれに見合った金を払えばそれで終わりである、でも無償だということ無料だということは無限に要求されることでもある
だからかえってその仕事に見合った金を払った方が楽だという結論にもなる
つまり人間には無償の行為をすることは一番むずかしいとなる
神は無償で様々なものを与えている、それができるが人間にはできない、人間はそもそも与えることができないものなのかもしれないすべて実際は神に与えられたもので生きているからである
それで何かを無償で与えるということで傲慢になる、実際は人間は与えることはできない存在である
与えたとしてもわずかである、日々生活する中で何か与えているものがあるのか?
食料でも何でも買うとしてもそれは誰かが作ったものであり与えられたものだからである
人間一人で与えるものはほとんどない、そういう謙虚さが必要だとなる
でも何かボランティアは無料で無償で与えているということが全面に出すぎるのである

右の手のしていることを左の手に知られないように
| マタイの福音書

こうはならないから嫌がられるとなる、ただそこまで高尚なものをボランティアに要求することは無理である、聖人にでもなることが要求される
そん要求したら誰もできくなるからだ、ただボランティアのむずかしさは自覚するべきである
俺はボランティアだとして何かおしつけるのは嫌がられるのである、その兼ね合いがむずかしいのである
でもボランティアをこうして否定することは良くない、ただボランティアというだけですべて是認されないことを自覚すべきである
だからボランティアというのは何かむずかしい立場にある、そんなら一層やらない方がいいとかなる、自分自身もして感じた、善意でしてもそれをみんなが受け入れるとは限らないし、それが実際に効果がないときもあるからだ

結論は奇妙だけどボランティアでも金で報酬を与えるべきだともなる、そうすればかえって割り切ってやれるともなる、そうなるとボランティアでなくなるともなるから何か人間のすることは何でもめんどうなのである
そしてどんなことをしても必ず批判がある、ただ批判する人よりボランティアしている人の方がいろいろあっても評価できるともなってしまうのである
ただ現代はボランティアをしたい人が多い、それは高齢化で地域でも生きがいをなくしている人が多いからである
それで正論おじさんとか問題になった、あの人も何か地域に役立ちたいということがあったがかえって迷惑になっていた
その人は司法関係の人でその法律の知識を活かしたいと思ったのだろう、でもそれは迷惑行為だったのである
そういうことがボランティアにはありうる、ただ地域に役に立ちたいという人は多い
でもそれがむずかしいのである


2019年07月24日

利益と金を求めるこの世はサタンが支配する (ボランティアは意味と価値を求める、宗教心があってできる?)


利益と金を求めるこの世はサタンが支配する

(ボランティアは意味と価値を求める、宗教心があってできる?)

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
  そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
   マタイによる福音書     
   
「価値と意味をまず求めなさい、そうすればこれらのものはみな加えられる」

「まず利益と金を求めなさい、そうすれば食べ物でもも着るものでも住まいも与えられるだろう」ーサタン{悪魔}の言葉

人間の矛盾は社会の矛盾は一番ここに現れている、これで悩むのである
それは社会全般でどこでも起きている、別にブラック会社だけのもではない
社会はまず利益と金を求めなさい、そうすれば評価されて価値があるとされる

だからそれは医療とかなると医者は精神的に今では一番価値あるものとして尊敬される
価値あるものとされる、でも医者でも薬でもなんでも必要のない薬を飲ませてすすめてもうけるとかしている、何か必要のないことを金になることをする
手術をしたいというときそれが金になるとしたときしなくてもいいのにしたりする
それが怖いことなのである

つまりこういうことはどこの現場でも起きている、銀行になると何かその悪が生々しいとなる
投資するにしてもサラ金きか闇金融とかにも金をだしている
それは自らはしないにしろ裏でしているとなる
それから大きな銀行だと武器会社とか環境破壊企業とかにも金になるということで投資している、ただ投資はわかりにくいから見えないから批判しにくいのである
この世の暗黒はここに一番現れている、そこに働く者の矛盾が一番現れている
会社でも働く人は不本意でも利益を優先しなければならないからだ

それで不思議なのがボランティアなのである

そもそもボランティアは何を求めているのか?

利益を求めていないとしたら金を求めていないとしたら何を求めているのか

何を求めて働くのか?

それが問題になる、みんな利益を出すために必死になっているからだ
でも退職したとかして金に余裕ができた、でも何もしないではつまらないとか生きがいもないとかなる

ボランティアが求めているのはまさに意味あるもの価値あるもの生きがいとかを求めている、だって利益を出さなくてもいいとしたら当然そうなるのである
そして感謝なども求めている、利益にならなくても感謝されたとか社会とか地域のためになったとかなるからである
でも実際はそういうことには必ずしもならない、何ら価値を認められないとか意味を認められないとか感謝もされない、お前は何しているのだと邪魔者にされてできなくなった。別に利益も金を求めたわけではないが何ら認められるものがなかった
ただ外から来た人は案内したときありがとうとか感謝されただけである 
ボランティアとは何か変だけど宗教的善意の行為なのである、だから宗教にかかわる仕事ともなる
ある宗教団体がトイレを掃除させてくださいとか実行した、それは宗教の行為として無償でしたのとにている

そういう楽なものではない戦場に医者が傷ついたものを治療するとかなると命がけになるからだ
そういうことができるのか?そこには意味と価値があっても簡単にはできないのである、まさに犠牲心がないとできない
すると何か軽く考えるボランティとはそれはまた違っているのである
ボランティアはいうとき何か誰からも認められて善人としてほめたたえられるという感覚になる
でも本当のボランティアはこのように犠牲心が要求されると、そしたら誰も簡単にできるものではない
つまりボランティアの問題はまた簡単に周囲から善人としていいものとして認められるからする
そうされると思ってする、そこにまた問題がある、自分なんかも駅でたまたま案内なとしたけどそうだった
でも結局なんら認知されなかった、ただそれは戦場で治療する命がけのものではないから当然だとなる

社会で働くという時働いたら必ず報酬がある、それは金をもらえるということである
だからともかく金をもらうために働く、不満でも働く、それでで社畜だとか言うようになる
一方で金をもらっても不満がある、この仕事には生きがいがないとか常に嘆いている
ただ一番不満なのは給料が安いということなのである
ただその仕事の価値とか意味とか感謝されたいとかはある
それで不満な人も多い、派遣で働ている人は確かに給料が安いから不満になる
でも働くこと自体にも意味と価値を感じられないのである
そこで二重に不満になる、もし給料が安くても働き甲斐がある、意味と価値が仕事にあるとしたらそうはならない、不満にしても何かそこで耐えられるものがある
でも給料は安い、働き甲斐もない、そこに価値と意味が感じられないとなればただ不満だけだとなる

いづれにしろ社会のこの矛盾は変えられないのではないか?

社会とはそういう所でありこの暗黒は消すことはできない、それがこの世に生きるということである
天国だったら神の国だったらそれが成り立つ、この世ではそれが成り立たないからこの世なのである、それは有史以来そうだったのである
この世はサタンに支配されるのであり神の国には決してならないからである
だからこそ神はこの世を滅ぼすというがこの世を天国に変えるとは言っていないのである
要するにこの世で必ずしも価値あること意味あることに労力が費やされるわけではないのである、それを求めてもサタンが支配しているからそうはならない
この世とはそういう場所でありそれが変わることはないとなる
いくら努力してもそうである、それがこの世だからである 
そうした理想が成るのは神の国でありこの世ではないからだ
それは人間にはできないからこそ神の国なのである、神が備えるのが天国なのである
この世ではそうした矛盾のなかで罪の中で生きるほかないとなっている

天国はどこにあるのか、人の心にあるというときもそうである  
「神の国は汝らの 中 ( うち ) に在るなり」内とはその人の心であり社会ではないのである、個々人の心に神が宿るとなるからだ
社会自体が変革して天国は成ることはない、それが共産主義が信じられない地獄になったことでもわかる、社会全体を変えて天国にすることができない証明だったのである
政教分離というとき宗教と一体化したとき社会が神によって理想の社会になるということだがそれはならない、かえって政教一致になるとカトリックのように権力をもって堕落したとなるからだ、宗教と政治が一体化することは政教一致は結局堕落して腐敗して終わるそれは歴史が証明している、なぜそうなるのか?

それは人間が変わらないからである、人間の心は変わらないからである 
政治化するのはこの世の欲望を政治で達成しようとする試みである
御利益をいくら言ってもそれが現実化しないと支持もなくなる、それで政治で御利益を配分しようとする、政治化するのである
そしてなぜ社会が変えられないのか?それはそもそも人間の欲望が消えることがないからである、それでこの世は欲で滅びるとしている、人間から欲が消えないのだから共産主義でも結果は同じだったとなる

いづれにしろボランティアがかえってむずかしいのはなぜなのか?

それは神の国を求めているからかもしれない、利益を求めない、意味と価値だけを求めるとしてもではそれを与えられるのかとなると与えられない
むしろ利益を求めることこそこの世では第一にされるからである
つまりいくらボランティアしようとしても善意でもそれは実らない
なぜならこの世は利益をあげる金にならないものは無駄だとしているからだ
金によってすべての価値が図られているのがこの世だからである 

「この金貨は神のものか、それともカエサル(ローマ皇帝を指す語)のものとして納めるべきか」と問われた時のエピソードは有名である。当時のユダヤ人はローマに支配されていたので、単純に「神のもの」と答えた場合は権力に歯向かうものとして問題が生じる。逆に「カエサルのもの」と答えた場合でも権力に阿って信仰を曲げたとして宗教的指導者としての沽券が傷つく、つまり非常に答えにくい質問であった。これに対してイエスは、金貨の銘がローマ皇帝であったため「神のものは神のものに、カエサルのものはカエサルに返せ」と答えたとされる。

カエサルのものというときそれはこの世のもののことである、神のものというときこの世に属するものではない
意味とか価値を求める時、それは神のものであり神の国を求めることである、神の義を求めることである
義とか価値とか意味なのである、カエサルものというときそこで得られるものは今の世で得られるものである
それは利益であり金で得られるものになる、金で得られないものがまたある、愛とか意味とか価値とかは金だけで得られないのである根本的にこういう矛盾があるときこの世では解決しえないものだとなる
だからこういう矛盾にみんな苦しむことになるのがこの世だとなる

常に人間は矛盾してくるのは例えば宗教を求めて宗教者になったとしてもではどうして暮らすのか?それも布施にたよるとなるとそこに欲が生まれる
それでカトリックでは免罪符を出して金儲けした、それと同じことはカルトでも仏教でも行われている
それで天からの贈り物としての食料でもマナが必要だとなる
それは神から与えられたものだからである、人の手によって与えられたものではないからそれによってけがされないのである
この世では必ず与えられるとしても汚されるからである
結局この世に生きるかぎりこうした矛盾の中に生きることになる
そういうことを人間は繰り返してきたのである
でも結果的にその矛盾は解決されなかった、それは人間の欲望を消すことができなかったからである



2019年07月19日

何が異常なのか異常でないのか (金に対する態度の相違)


何が異常なのか異常でないのか

(金に対する態度の相違)


私が接した人間は異常である、自分自身も異常だった
でもなぜその人たが異常だったのか結婚して子供もあり普通の人である
女性でその人はなぜあんなに異常になったのか?
その異常性に気づいていない、なぜ気づかないのか?
異常性を認識できないのか?それは正常なものと対象的に見れないからである
例えば四角の石ばかりあれば四角の石しか認識できない
そこに丸い石が一つあればその石は異質なものとなり異常になる
日本人はそうして同質化しやすい、異民族と接した歴史がないから同質化しやすい
以心伝心でわかるとなるのもそうである

私がかかわった人たちは金がなくて困っていた
その人は金には恵まれていたから金で苦しんでいることはない
母親が三人変わったということが異常性をもたらしたのか?
そういうことはあるにしても60近くになってそれを言うのもどうかと思う
ただ長く直接接していないからその間に変質してしまった

金に関する態度は

おばちゃんは金があるんだから金にめんどうみてもらへ

こう言って血相変えて去って行った

もう一人の人は

私が入院している時家が留守になり大金を盗んだ

もう一人の人は事業に失敗して借金していた

金をよこせ、全財産を要求してきた

その額が大きいのである、こうして自分が病気であり介護しているとき責められて家はがたがたになった、ただそこには金を得ることしかなかったのである
相手のことなど全くかまわないのである
だから殺されるとも思った、金がなくて強盗に入り殺す人も普通にいる
わずかの金でもいる、現実に泥棒にも入られた
頑丈なダイヤル式の金庫が開けられていたのも不思議である
そこには金は入っていなかった、その泥棒が家に入ったとき物音がした
だから誰か入っているのかとも思ったがそのままにしていた
もしその人とあって顔を見たりしたら殺されたかもしれない
そういうことが報道されるからだ、金は盗られても殺されるよりはいいとなる
そんな人と争うべきではないと思った
そういう人は何をするかわからないからだ

奇妙だけど最後に来た人はまともなのか?
実際はまともでないにしろ金を要求するにしろこれまで経験した人たちからするとまともなのか?
とにかく一万とか少額を要求する、でもそれに見合った金である
水道が止められたとか電気がとめられたとかなり生活できなくなって助けてくれとなる
そしてその人は頭を畳にすりつけお願いするのである
それも今日食べるものがないからとお願いするのである

これも変なのだけど前の人たちから比べると正常なのかともなる

家にきて大金を盗むとかまた借金して多額の金を要求するのとは違うからだ
第一事業していた人の金の額は百倍も違うのである
そんな金を要求されて払える人がいるのか?
事業者同士で工面し合うことはあっても普通の人はそんな金都合できない
でもその人にとってはそれが普通なのであり正常なのである

もしこの人でも今日食べるものがないとなればわずかだから援助する
でも百万だとなれば簡単に出せるだろうか?
そういう金を普通に要求する、借金しているからそうなる
でももし今日食べるものがないとか電気がとめられて料理できないとなれば援助する
その人はこれまで贅沢をしてきた、そのレベルの生活をするために必要な金なのである
そんな人と付き合っていたらどうなるのか?
何千万とか普通に要求される、そして事業を成功したと見せるのである
そんなことに援助できるだろうか?
これも異常化した人間でありまともに付き合えない人である
ただその人が金がないとういことは周りで気づかないことがある

とにかく金で一身上でもめた、また回りでも原発事故の補償金でもめた
地獄の沙汰も金次第であり金から人間は逃れられない
これからますます日本は貧困化してゆくとき金のことで苦しむ事件も起こる
それはこれまでは日本はぜいたくな暮らしうしていたからそのレベルを落とせないからそうなる
事業した人でもレベルを落とせない、今日食べるものがないから一万貸してくれとかできないのである、プライドもあるからできない
その人はそうしたプライドがないからできるのである

人間はいくら困っていても今日食べるものがないから金を貸してくださいとかなれば一万くらいなら貸す、でも百万貸せとかなるとそれで終わりではないから付き合えないとなるでも事業して高いレベルの生活をしてきた人はそんな一万とかははした金なのである
そしてそんな金で頭を下げることなどしないのである
自分自身も頭を下げることができないのである
金持ちの姉妹が餓死したというときお嬢さんで育ったから他人の家にいってこんなふうにして頼めないのでそうなったのである

そうして頼み金を貸してもらうというのは盗むというよりはましである
何であれ盗むということは犯罪になる
そうして頭を下げて頼み借りることは犯罪ではないからだ
人間の正常と異常がわからないというときこうして人間を対象的に見るとわかりやすいのである、その人間の異常性が浮き彫りにされる
最後にあった人も最初にあったら異常であり付き合えたくない人である
付き合ってもいないだろう

でも異常な人たちとその前に接した時、この人が一番正常だと見えたのは本当に奇妙だとなる、普通はこういう人とは底辺とは付き合うなというのが普通だからである
異常な人と接してもそれが異常とわからないことがある
何か人間でも対象的に見ないとわからないのである
それは善悪でもそうである、善ばかりの世界だったら善を意識しないのである
悪があって対象的に善を意識するのである、だから何でも相対的に世界をみないとわからないとなる 

外交問題でも韓国は異常でも韓国人の方が正常だと思っているから日本を批判してくる
日本人が異常だとなる、何が異常なのか正常なのかの基準がない、ただ対象的に見ると異常だったとなと人間は気づくのである
家族でもいろいろ複雑な事情があって一様ではない、すると家族でも対象的に見ないとわからないのである
正直自分の家族も異常だった、でもその異常の中で自分は家族が死ぬまで暮らしていたのである
だから自分にとっては正常なのである、もうそれだけ長ければそれが家族なのである



2019年07月18日

時間に生きる時代 (空間を拡大して生きる何でも増やす時代は終わった)


時間に生きる時代

(空間を拡大して生きる何でも増やす時代は終わった)


時間は謎である、対象的に見る時、時間があれば空間があるとなる
この二つの軸の中で人間は生きている
空間は地球とか宇宙であり空間は物理的にも移動できる
大陸だと全く次元の違った広大な空間がある
果てしない大地が草原が砂漠がある
大陸では空間を生きるというときそれだけの空間があるからだ
空間をどこまでも広げることができる、それで大帝国が生まれる
どこまでも空間を進んでゆくことにより新しい未知の経験ができる
新しいものに触れることができる
だからこそまず大陸を移動する遊牧民が生まれ次に海を移動するようになったという説もわかる
大航海時代が生まれたのはそうしてまず大陸を移動する人たちがいたからである

一方で日本が時間生きるというときそれは島国として閉ざされていたからである
空間が狭いからである、空にしても大陸の空から比べると狭い感覚になる
そういうふうに狭い所で生きていれば時間を生きる
時間の中で意味を求める定着文明になる
空間を拡大することで大陸で国々の興亡があり歴史となった
日本の空間は島国という一つの宇宙であった
それで最果ての感覚が生まれる、どこに行っても海になりそこで世界が尽きるからである
ともかく時間と空間を考察するとき時間を増やしたり時間を貯えたりできないし時間を
拡大することもできない、空間だったら異次元の世界を現実に見ることができる
外国に行けば異次元の世界だからである
時間は例え外国に行っても異次元の時間など経験できないのである
異次元の時間とは過去にもどることだがそれはできないからだ
だから外国に行っても歴史があってもわかりにくいのはそのためである
空間を移動できても時間を移動できないからである

時間の謎は金より時間が大事だということがある
金は増やしたり貯えたり金をもっと得ようとして働いてできる、それが働く動機となる
一億円を得てももっと欲しいとなり安心もない、金があれば安心になるからあればあるほどいいとか使いたくないとかなる

時間は限られている

空間も確かに限られている、地球は限られている空間と認識されるようになった
それまでは地球は未知の無限の空間だったのである
時間は限られているしそれぞれの人の時間はいつか尽きる
時間が尽きたとき死なのである
この世に生きる時間は限られている
そして時間を増やすことはできない、でも時間を無駄にしたとき時間を減らしている
時間を有効に利用した時に時間は活かせることができる
しかし時間の無駄は浪費はなかなか気付かないのである
若い時は時間はいくらでもあると思う、それで退屈で困るとなる
しかし時間はある年になると消失してゆく、時間がなくなってゆくのだ

現代は時間に生きる時代になる、地球の空間の征服は終わったからだ
地球が一つの村になったというのもそうである
メデアの発達によって世界から情報が絶え間なく流れてくるからである
でも実際は空間でも世界は広いからそれを実地に知ることは今でもむずかしい
やはり一生の間で経験できない空間がいくらでもあるからだ

時間に生きるというとき時間を増やすことも貯えることも拡大することもできない
それが空間との大きな相違である
金は増やすことができる、多くの物をもつことができる、でも時間は何かそうした物として得るものとは違う、それでいくら金をもっていても時間の方が大事だったいう時
時間は限られているしその時々でできることをしないとできなくなる
時間を戻すことができないからそうなる
時間は何かをするために与えられている、その時間を失うことが最大の後悔となるのである
時間は何かを成すためにある、そうなるといくら時間があってもたりないのである
一つの作品をしあげるのに何でも時間がかかるからである

空間の時代から時間の時代になるいうとき金を第一として価値あるものから時間が価値あるものへの変換の時代となる
何故なら資本主義だと金をもうけて貯えて投資して増やしてゆくことだからである
時間には増やしたり貯えることができない
時間を節約はできる、時間を貴重なものとして使うことはできる
でも時間は目に見えないし物としてとらえることはできない、でも一番大事なものとして人生の最後に意識されるのである
なぜなら人間は何でも失ってみてその貴重さを知るからである

おそらく地球を空間的に拡大する時代は終わり時間に生きる時代になる
時間に生きるとは何か常に物を増やしたり金をためてまた投資して増やすという資本主義と合わないのである、それで銀行に金をためても投資する先がなくなって銀行が不用になるのは時代なのである
大航海時代から常に投資して富を得て拡大し経済でも常にGDPを増やすことであった
でもそういう経済成長とか拡大の時代は終わった、もう限界になったのである
これ以上経済規模を拡大すると増大すると地球環境の破壊とかなり限界に達したのである
そこで世界も空間を拡大するとか経済規模を増大するとかではない
時間を生きることにシフトするようになる
時間に生きるということは内省する、内面化する、内に向かう時代だともなる
何か増やすことではない、減らすことである
時間を節約して無駄な浪費を減らし内面を充実させることである
だから中世の時代にもどるということが言われるのである
資本主義の金を貯えて資本として増やしてまた投資するということができなくなったのである、その象徴が銀行が用がなくなったことに現れている
投資先がなくなったからである

そして時間に生きる時代となる

物事を深く知り深く感じて多様に見て感じる

そういう世界になる、一定の場所に定着していても物事を事物でも自然でも深く見て感じることができるからである
内面的に充実させることができるのである
それこそ宗教の世界だともなる、そもそもキリスト教はアジアから生まれたし宗教はアジアからオリエントから生まれたものである
西洋化したキリスト教はまた別物だったのである
それでウェバーの言う資本主義がキリスト教から生まれたというときもそうである
神に奉仕するために働き資本を貯えて増やして富を得ることは人を助けることだということがそうである
でも今やそういうことは不可能になったのである、資本主義の思想はもう通用しないのである、だからこそ銀行は不用になったのである

何でも増やす時代の終わり

減らす節約の時代へ

何かもう増やすということに限界が来ている、人口だって世界的に見れば増えすぎた
日本では明治以降4倍になり中国だって4億が三倍になったとかある
工業化時代になり人口が爆発したのである
とすると人口が減るのは自然の摂理かもしれない、もうこれ以上地球に人口を増やして住めないという警告かもしれない、ただ減らす思想というのはなじまない
貧乏になるからだとかあるし日本では少子高齢化で特にそうなる
でも時代が変わったのでありそうせざるええなくなっている
月給も上がらないし経済は30年間成長していないとか世界的にも日本でも増やすことができないのである

するとどうなるのか?
内面に生きるとか内省するとか無用の用に生きるとかになる
それが東洋的アジア的価値観としてもともとあった、老子の思想でもそうである
インドの思想でもそうである、仏教はそういう時間に生きる思想だったのである
思想的にも西から東へと転換する時代になったのである
だから確かに英語がグロ−バル時代で不可欠だというのもわかる
逆に日本語をもっと知るべきだ、自国の文化をもっと知り深める時代だともなる

日本人はこれまで外来のものを明治以降制限なく入れてきた
でもこれからは日本独自のものを文化を作る時代になる
そしたら日本を知らなければできないことである
国風文化の再興にしてもまず日本語でも日本でも知らなければできないのである
それで日本語は世界で独特のものがあり他の言語と違っていると林秀彦が言う時日本語の独自性を知るべきだとなる
言葉は最大の現存する生きている文化だとなるからだ
資本主義の勤勉に働き資本を貯え増やしてまた投資して増大してゆく思想が通用しなくなったのである
むしろ節約して減らす、時間に生きる時代になる
だから何でも拡大して増大してゆくグロ−バリゼーションとか資本主義の思想とは相いれない時代になる、それは限界に来たからである
ITにしても物を増やすことではない、情報を増やすことでありそれは今までの資本主義とも違っているのである
精神的な面での技術革新だともなるからだ



2019年07月12日

遊ぶとは神聖なことであり神の意にかなうこと? (利害得失から離れた世界が聖なるもの)


遊ぶとは神聖なことであり神の意にかなうこと?

(利害得失から離れた世界が聖なるもの)

チンパンジーは干ブドウがほしくて勉強しているのではないことを示している。干ブドウにつられて勉強しているのならば、やさしい問題が続いて出される場合が一番いいわけでキーボードを押しては干ブドウをどんどん手に入れることができるはずである。やはり、問題を解く楽しさが、チンパンジーを勉強に向かわせているということなのだ。』
 【河合雅雄著「子どもと自然」岩波新書より】


類人猿は描くことで「作品をつくる」という結果を求めているのではなく、「絵を描く過程」がおもしろく、遊びの延長で描いているのだと齋藤先生は言う。これは、お絵かき帳などに自由に線や点を描く人間の幼い子どもと同じだ。


何かチンパージ―に学習させるのにバナナとかを与えたらかえって学習しなくなった
チンパージ―学習するのはまたゲームをするのはそれ自体が面白いからである
ところがバナナとか与えるとバナナを得るためとなりそこに気をとられて学習もゲームでも遊びもやる気がなくなったという


人間の学習でも動機づけが大事になる、動物でも遊びがありそれは餌をえるためではないただ純粋に遊ぶことが楽しいとか興味があるからだ
じゃれるのでもそうである、でも動物に曲芸とかしこむ、サーカス団とかでそうする
それは強制されてしているのではない、人間は金のために猿を使う、猿にとっては苦痛なのである
遊びそのものもを楽しみ追求するのが動物でもそうであり人間もそうである

人間の特質としてこの遊びが大きな要素にある、ところが子供の頃から純粋に遊ぶということがなく学習がおしつけられるのである
それは大人の功利的なものがあり押し付けられる
大人が親がいい学校に入りいい会社に入りとか自分の子供を自慢したいとか大人の功利的都合で子供を操作するのである
それは動物に芸を覚えさせて見世物とするのとにているのである

「遊ぶ」という語は、「古事記」に天若日子の葬儀の時
「日八日夜八日をもちて遊びき」とあるように
死者の魂を呼びもどすための歌舞をすることである
( 谷川健一)

あそぶとあそばされるとかは死者と関係していた、人が死ぬと遊ぶ存在になる
あそぶとはこの世から遊離して神ともなる
遊離の遊もそういうことになる
遊ぶとはこの世の利害にとらわれない自由な存在になる
死者はこの世の利害とかしがらみとか様々なものから解き放たれて自由になる
あそばされる存在になる、それが遊ぶの意味だった
神はこの世の利害得失から遊離した純粋に遊ばされる存在なのである

この世は常に人間の利害得失のなかにありそこで悩み苦しむ、その利害得失から解き放されることがないのである、それで遊ぶとういことはそういう利害得失から解き放たれることである、死者はこの世の利害得失とは関係なくなる、あそばされる存在になる
だから死者と遊ぶということは死者とこの世の利害得失かは離れてともに遊ぶことだとなる
ただ遊部が葬送を司る集団だというのもわかりにくい、なぜなら遊ぶというとき陽気なものに感じるからである、葬送となると陰気なものになるから矛盾している
言葉は長い間に意外なものに変化していることを示している

ただ遊ぶというときそこは利害得失がない純粋な遊びの空間となるとき聖なるものとなる人間は宗教的に考察してもエデンの園ではただ遊んでいたのである
そこは聖なる空間であり利害得失がない、純粋に遊ぶ空間なのである
子供が利害得失を考慮しないで遊ぶように純粋に遊ぶ場でありその時そこは聖なる場所になる
この世は遊星だというときもそうである、遊ぶ星なのだが異常な勤労の星になっている
それを神は良しとしない、勤労は常に歴史的に奨励された、それはやはり勤労がなければ生きていけないので強いられていたからである、だからすべて勤労がいいとはならない、別に原始人でも祭りがあれほど多いということでもかえって遊ぶ時間が多かったのである、だから必ずしも働くことを人間は好んでいるとはならない
資本主義は時は金なりというときそうした働くことが神に奉仕することだということでそうなった
でも逆に遊ぶということが神聖なことだったというもある
この勤労が宗教までになったのは西洋的価値観なのである、キリスト教を西洋的な価値観で変えたということもある

野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。


働きもしない、紡ぎもしないとある、キリストが働くことを奨励することを言ってはいない、むしろ否定しているのである
人が働くことは呪われたことでもあった、人間は労働を罰として与えられたとしているからだ
そうししたら労働がない世界がパラダイスだとなる、あったとしてもそれが遊びとなればパラダイスなのである
でも人間社会にパラダイスには永遠にこない、何か矛盾してきて地獄化してゆくのである

この世はあまりにも利害得失で汚されたのである、インタ−ネットでも前は無料の遊ぶ空間的なものがあったが今は世間と同じである
アフィリエトで宣伝でいくらもうけたとか一億円のブロガーがいるとかyoutubeがいるとか話題になり、利益を追求する場になった
その時インタ−ネットでは何ら世間と変わりない場所になったのである
何か芸術でも学問でも遊ぶということがありそれが利害が関係してくるとそこなわれるのである
遊ぶことと金銭は離れるべきだけど密接に結び付く、すると金をもうけることが第一になり本来の遊びはなくなるのである

それでチンパージ―でも学習でも遊びとして夢中になっていたのがバナナをもらうとその方に気をとられて学習でも遊びとして興味をもっていたが興味を失ったとなる
現代社会はその矛盾が大きくなった、あらゆる場所に利害得失が入ってきている
だからベーシックインカムとかはそうして利害得失の入りこめないものとして純粋に遊びを追及するものとして機能するとすればそれは理想となる
結局自分自身の人生は旅に費やしたというとき一生が遊びだったのである
それが無駄がとなればそうでもない、むしろ高度成長時代に企業戦士と働き詰めの人たちが神から祝福されない人たちだったともなる

老人になって趣味もないとか遊べない人間になっていることでもわかる
老人が用がないというとき遊べないからそうなる
とにかく人間は利害得失の世界から離れられない、金から離れられない、金でしか人間と関係できない、遊ぶことができない存在になった
そもそも資本主義に遊ぶとかのは入りこむ余地はない
それで資本主義自体がもう投資先もなくなり行き詰まっているのである
何か最近おかしいのはベーシックインカムとかAIで人間は仕事がなくなるとかいいみんなアーティストになるとかいうのも不思議である
蟻よりキリギリスになれと奨励しているのである

働きづけの人間が評価されないというのも不思議である
働くということは至上命令でありそれからはずれた人は罪人にもなる
あいつは働いていないとか無職だとなると犯罪人と同じにみられるのである
私は20代をのぞいて働いていない、私の人生は遊びだったとなる
でもそれが無益な人生だったのか?
一方で働き詰めで会社人間として働いた人は今でも社畜だとか言っている
不本意に奴隷にされているということなのである
これからの社会が利害得失から離れた社会になるとは悪いことではない
資本主義がゆきづまったのも悪いことではない、新しい価値観が生まれることは悪いことではない、社会はそれで進歩しているともなる

2019年07月06日

日本人の精神は日本語に継続されていた (戦前にあった日本の美徳がすべて否定されたことの問題)


日本人の精神は日本語に継続されていた

(戦前にあった日本の美徳がすべて否定されことの問題)

お得意さんというときそれは今でもあるし京都だと一元さんはお断りとかある
お得意さんという言葉がなくなる時そういう社会もなくなっている
私の家では店をしていたからお得意さんとかあって良く子供の時配達させられた
その頃御用聞きとかは江戸時代からあった、親しく長く出入りしている商人とかでも職人でもそうである
そういうことは狭い範囲で生活しているときそうなった
いつもなじみの人である、何かそういうことが基本にあった
それは交通が発達しないから狭い範囲が生活していたからである
向こう三軒両隣とかもそうである、日本では世間というとき何なのか?
それは村とか狭い範囲なのである、それでそういう所で生活する基本は争わないことなのである、争いがあるといつも同じ場所に生活するから困るのである

自分も隣の市の人と争って縁を切った、でも実際はその近くに用があって行っている
すると会ったら嫌だなとなるが一応離れているからまだいいとなる
それが村のような所だったら喧嘩してもいつも会っているのだから困るとなる
日本人の人間関係はこうして狭い場所で作られてきた
それは国自体がそうだった、日本人は異民族に攻められ征服されたことがないのである
海に囲まれているから縄文時代から日本は日本人同士で大きな争いを経験せず何千年も生きてきたとなる
それで勝海舟と西郷隆盛が会見したとき「日本人同士だからわかる」となり江戸は無血開城されたのである、日本人ならわかる、通じるということは日本人は民族の争いがなかったことである、大陸では様々な民族同士の興亡がありそれはヨ−ロッパでも中国でも同じである、そこで負ければ奴隷にされたのである
日本語はそういう場で作られてきたから外国語とは異質だとされる
それで林秀彦の日本語論は外国で長く暮らしていたから説得力がある

とにかく戦前にあった日本の言葉が今になると理解できない、消えている
それは国家と一体となり結びついたものだから理解しにくくなる
戦争中に使われた言葉がそうである、戦争後はそうした戦争自体が否定されたからその言葉も死語となったのである、その言葉には日本人が長年伝えたものがあったということを林秀彦は経験から指摘している
でも彼がその日本語を体験したのは小学生の時でありそれでもそれだけその言葉が精神と一体化していたのである、だから戦前で子供の時育ったとしても戦後に育ったものとは大きな差がある、断絶がある
つまりなぜ戦前の言葉が理解できないのか?
そういう日本社会が喪失して消えたからだとなる

そして天皇自体が日本国を背負っていた時代の喪失であった
天皇は日本の国体を背負う象徴だったのである
戦後はしきりに平和とかばかり強調されて天皇の位置づけが戦前でまるで違ったものになったからである

「教育勅語」

 朕惟(ちんこおも)フニ、我カ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ徳(とく)ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ。 
 我カ臣民、克(よ)ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心を一(いち)ニシテ世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ此(こ)レ我カ國體(こくたい)ノ精華(せいか)ニシテ教育の淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス。

 Know ye,Our subjects:Our imperial Anecestors have founded Our Empire on a basisbroad and everlasting have deeply and firmly implanted virture

日本の歴史を背負い国体というとき日本の自然と一体化しての美と徳の顕現を示すものとして格調高く宣べられた
こういう言葉が天皇から出たという時、それは日本の歴史を受け継ぐ象徴として天皇があったからだとなる

ただここに英語でもその格調高さは表現されているが天皇というのは戦後否定されてきたのである
国体というときこれも今では死語になっているが日本の自然のことなのである
日本の徳と自然が合致したものとしてこの荘重な言葉が述べられたのである

それで依然として日本の自然は今もある

(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ此(こ)レ我カ國體(こくたい)ノ精華(せいか)ニシテ教育の淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス

天皇がなくても日本の自然はありその精華はあり実もある、富士山は今も美麗に聳えて日本の象徴としてある 

これは私が詩にしてきた木とか石とか岩のことでもある、つまり天皇というのは否定されたが日本の自然は残りそこに美と徳がありうる、石とは忍耐とかを示して木でも人間の徳と一致させる、日本語の真直(まなお)だとかなる

 The tree has being everlasting have deeply and firmly implanted virture deeply and firmly implanted virture

ただ天皇は否定されたのが戦後である、そして戦後に日本自体が歴史的に継続された国体の美と徳を失った、当然のその言葉も失ったのである
なぜなら戦後民主主義が導入されたとき一番頻繁に利用されたのが権利である、その権利とはもともと英語ではright(正義)であったが権利とは利を求める権である、権は権力なのである、日本人はrightをもとめているのではない、利をえるための権力を求めているだけなのである、権利は最初は権理と訳されていた、となるとリーズンがあるからこっちの方が訳として良かったのかとも思う

民主主義とはまさに日本国民全員がただひたすら利を求めることに変わったのである、他者を蹴落としても利を求める
それは政治でも社会全体でもそうである、教育でもそうである、戦後の教育は受験戦争であり他者を蹴落としても利をえるためにいい会社に入るとか官僚になって地位を得て楽な暮らしをするとしかないのである
そこに同胞という感覚すらなくなったのである、それはそういう言葉がなくなったことでもわかる
友垣とかあってもそういう言葉がひびかないのは社会自体にそういうものがなくなったからである
つまり民主主義は民利主義として訳した方が現実にあっているのである

だから戦後70年経てそうした日本の歴史とか失われた精神を回復することである、民主主義とかは日本に根付かなかった、そして戦前のことは戦争がありすべて否定的なものとして教育されたし国もなった
でも結果として日本から日本人がもっていた徳も美も喪失したのである
戦前を戦争があったとしても日本の歴史を継続したものがありそこにいいものがあった、それで教育勅語でもアメリカでは評価している、つまり民主主義というときそれはヨ−ロッパとかアメリカの価値観でありそれをすべて日本にあてはめることはできずに荒廃したのである
だから国風文化というとき江戸時代であり明治以降は違うとなるが戦前は国風文化として日本がありそれで日本語を歴史として継承されていたのである、だから戦前を戦争のためにすべて否定することは日本が日本でなくなることでありそれで日本語について日本人自身がたずねてその日本人のアイディンティティを再生するべきだとなる

いづれにしろお得意さんがなるなるということはそういう社会がなくなったということである
コンビニに十年間買いに行ってもお得意さんには決してならないしスーパーでも毎日通ってもお得意さんにはならない
多数の中の一人であり客としても認識されない、それでコンビニで100円のパンを間違ってポケットに入れて犯罪者にされた
そこでは決してお得意さんにはならないからである
コンビニに来るのはクルマで遠い所からよる人が多い、地元とはあまり関係ないからである
交通が発達した結果としてクルマ社会になりコンビニが生まれた、それはそういう社会になったときお得意さんときう言葉も消えたのである、ある言葉が社会で通用しなくなる時その実態となるものが社会から喪失したからである
だから戦争から戦争前にあった日本語が通じくなくなったのである



2019年07月05日

人生で一番後悔すること (タイミングが人生を決めるー時間は飛んでたちまち消える)


人生で一番後悔すること

(タイミングが人生を決めるー時間は飛んでたちまち消える)


人生で一番後悔することは何か?
それは卑近なことでも必ずタイミングを逃していることである
例えば婚活というのでいろいろプログで指導する女性がいる
でも本当に結婚とかどうして決まるのだろうか?
いろいろ双方に要望があるし完全な人などいない
そこで選択することは困難を極める

では何によって決まるのか?

それはタイミングだ

第一まず結婚しようとするとき最も大事なのは双方のタイミングなのである
それで婚期を逃すことが結婚するタイミングを逃すことが最大の問題なのである
それは自分自身のことでもあった

誰かを選ぶより会うタイミングである

何か結婚した夫婦を見ていると不釣り合いなものを見る
なぜこんな男が美人であり頭がいい女性と結婚しているのか?
その逆も普通にある

それはその二人があったタイミングにある

ある女性は近くに住んでいる男性が親が死んだことでかかわり結婚した
その家に一人になったからそこに通っているうちに結婚した
それも好き嫌いとかではなくそういう時に出会ったことで結婚になった
その人がどういう人かはあまり関係なかったかもしれない

第一人間の時間は限られている

その時を逃したら遂に何もできなくなる
老人なってもできると思ってもできない
なぜなら何か自分でも旅行しようとしてバッグを買ったり用意した
それから語学を勉強しようともした、でもできない、時間もないし頭もまわらない
語学を身につける時間が過ぎてしまったということなのだ

それはあらゆることに言える、恋愛であれ結婚であれ勉強であれそして最大に重要な求道すらそうだった
宗教とか信仰は老人になってやればいいとかないのである
若い時に求道しないものはもうできないのである
つくづくTime fly(flies)というけど本当にそうである、時間は飛んで消失してしまうのである

人間に与えられた時間が限られている→成すことも限られている

だから男女の出会いでも一番大事なのはタイミングなのである
相手がどうのこうのという前にそのタイミングが婚期を逃したらもう結婚もできないのである、特に婚期を逃すことを親が恐れるのは女性は劣化するのが早いからである

人間には結婚でもそんなに相手を吟味して選んでいる時間がないのである
その内に婚期を逃す、ただそれで離婚も多いのである
つまりじっくり選ぶ時間が人間に与えられていないからである

そして老人になり・・・しておけば良かったとなってみんな終わっているのである

何かをすべき時間がなくなってしまうのである
例え老人でも今は長生きだとしても第一頭が回らなくなる
それで老人はこれまで積み重ねた経験を活かすのである
遂には認知症になると昔のことを千回を語りつづけることになる
それが生きた証だったからである
もう何かを経験するタイミングは時間は失われたのである

だから本当に時間がタイミングだ人間を決める、人間の時間は限られている
たちまち飛んで消えるのである、そして二度と青春でも時間は戻ってこないのである
これが人間にとって一番厳粛なことだったと思う
人生は二度はないことである、時間などいくらでもある、またやり直せばいいとはならない、もうやり直すことは不可能である、ただ後は死があるだけである
だから人間の一生はほぼ30までで決まる
それで最初に20代でも就職とかでつまづき非正規とニートになると一生そうなってしまう、またカルトなどの宗教団体からぬけないと一生ぬけられないとかなる
30までに人生の方向が決まるのである
そしてやり直す時間はない、戻ってこないのである 


1 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、 
2 また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。(聖書ーコレへトの言葉)

この「なんの楽しみもない」というときそれは働きづめの人生を言っているのか?
老人になって何もするものがないという、そういう人の人生は何だったのか自問自答している人もいる
会社という場から離れたとき生きがいも喪失する
例えば村とかで村全体で生きていれば死ぬまでその一員でありそこがアイディンティティを築く場だからそこから離脱して死ぬことはないのである
死んでも今度は先祖となり春の田植えの時は山からおりてくるというふうに継続した生がある
そういう連続性が今の社会にはない、そこで老人は用ないものとされている、それは金があっても用ないものとされる

とにかく人間は老人になると馬鹿でも見えてくるものがある、人生とはこんなものだったのかと悟らせられるからである
永遠に時間は帰ってこない、何かを成すべき時間は失われたのである、そして死があるだけだとなる

2019年06月29日

一本の木の詩(世界的に普遍的なものとして人間の心がある)


一本の木の詩(世界的に普遍的なものとして人間の心がある)

裸の木
真摯な木
真面目な木
実直な木 
素直な木
真直な木
直截なる木
真(まこと)の木
真率なる木
一本気の木
木と木は向き合う
真摯に嘘偽りのなし
真面目なるものは
真面目なるものを要求し
真摯なるものは真摯なるものを求める
何ものを身にまとわない
木は飾るものがない
寒さがじかにしみ入り
風が吹きつける
自然なる神殿の中にあり
汝は堅く口をつつしめ
自然は神の敬虔なる下僕である 
そこは神の住まいなればなり
かくしてその姿勢で木は倒れる
木は倒れて大地に還る
木は静かに強く生を全うした
神の意にそい全うした
故に後悔はなし
まことは天地に通じて不壊なり
再び天の国に神の意によって立つ
その神殿は朽ちざるべし 

(一本のみはしらここにすぐに立ちまことの陽にそ映えるべしかな) 

私が追求してきたアイディンティティとは何か?
それは私は右でも左でもない、自然との一体感、自然とアイディンティティ化することを試みてきた、自然という時、またそれは地球のことである
確かに国はあってもまず自然が地球が宇宙があって神が作って国も存在したのである
ユニーバスというときユニとは一つのことであり一つの宇宙一つの地球のことである
だからどこの国でも自然がある、木もあり石もあり山もあり海もあり自然がある
その自然の様相は違っているがその国々に自然がある

例えばここに私が作った一本の木という詩はこれは日本に生きているからできたというものでもない、木はどこにでもあり木とアイディンティティ化して文化が生まれる
木はエジプト文明にもあり神殿に荘厳な柱がありそれは木を模したものである
ギリシャのパルテノンでもそうである、それは木なのである
大聖堂でも内部の柱は木をイメージしている、一番荘厳なのがゲルマン系のゴシック聖堂でありそれはドイツの樅の木の森をイメージしてできたとされる
でも別に樅の木はどこにでもある、南国にはないにしてもある
それを丸森で見て感動したのである
石でも岩でもどこにでもある、日本は木の文化だとするときむしろ外国ではインかとかマヤ文明でも石の祭壇を作っているから石の文明となる
石という素材から成る文明だとなる、エジプトのピラミッドにそれが象徴されているのである、石は堅牢だから3000年でも残りつづけているのである

ここで私が言いたいのは自然はどこの国でもあり自然を通じてユニバーサルなものの普遍性を作り得るかなのである
もし詩でも外国に理解されないと芸術でも理解されなければ普遍性はない
でも芸術には普遍性があり絵画などはいいものは外国でも見分けられる
詩とかなると言葉の障壁でむずかしくなっている
でも普遍性があるらなんとか訳すことができる、詩は翻訳できないというのもあるがでも全く通じないということでもない、ただ俳句でも短歌でも翻訳は基本的にできないものである

one Bare tree
one Sincere tree
one Serious tree
one Straight tree
one Honest tree
one Straight tree

何か英語では通じないし訳せない、例えば真摯なというとき日本語では強いひびきがあるでも英語にしたらSeriousとかにしても何かもう一つ違っている
そういうことはいくらでもあるからなかなか言葉は翻訳できないことで言葉が壁となり普遍性をもちにくいのである 
紀元節の国のみはしらというときやはり柱は木なのである
自然の中に真(まこと)と美がある、それは日本人が神道として大和言葉で伝えた

豊国の企救(きく)の浜辺の真砂土(まなごつち)真直にしあらば何か嘆かむ

これが日本人の心なのである、真直なるという言葉に集約した日本人の心がある
その真直なる心を日本社会は喪失した、ただ金を求めるだけであり自然の美にすら感嘆しない、それは世界全体に言える、だからなぜ古代でも中世でも神殿であれ大聖堂であれ作れたのか?それは何か真善美というものを建築によって具体化できたということがあるそれは精神的なるものの産物であり現代の建築と比べるとまるで違っている
現代の建築はただビジネスのための機能的な建築だからである
ともかく大陸の文明では建築に感嘆することが多い、日本との根本的相違がそこにある
日本にも城があるのだがそれにしても城は小さいものが多い、大きなものは少ないのである、そこに経済力の差があったともなる

日本文明は大きな文明の一つとされたとしてもそこに世界への普遍性としての文明といえるのか疑問である
これだけグロ−バル化するとどうしてもユニバーサルなものをあらゆる分野で求められるからである、世界に通用しないものは普遍性がないものは認められないとなるからである

いづれにしろ一本の木で現したものは人間そのものもそういうものを求めて生きるべきなのである
つまり真面目さとか何か単純だけどそうした人間の心としてるるべきものが喪失しているのである、身近なもので樹とか岩とか良くみていると一体化するとそうなるのである 
それは普遍的なものであり日本だけのものではない、だから世界で通じるとなるのだが言葉の障壁でむずかしいとなる
ただ世界の人も求めるべきものであり宗教でもキリストの言う清い心というのはそういうものであり世界のどこの国でも共通のものがある

ただ清いというだけでは人間の心は現せない、真面目だとか真摯だと素直だと真直だとかなるのである  
こういう単純なことが社会で実践されない、第一嘘をつかないということをまず実行できない、あらゆる所で嘘がある
その最たるものがマスコミでありテレビであるというとき茶の間にその嘘を垂れ流すものを神坐のように置いていること自体が異常だったのである
テレビはむしろみんなで茶の間で見るべきものではなかったのである、茶の間に置けば家族自体が猥雑になり卑俗になり敬虔さが失われる、それを林秀彦は指摘した、何かテレビというものをあまりにも安易に受け入れてしまったのである
それがどれほど影響したか計り知れないとなる、そこまで考えた人はあまりいなかった
イスラム教ではテレビまで写真まで偶像として拒否したことにも一理あったと今では思う
それが茶の間にあることで汚染されたのである、テレビはそれだけ下卑たものなのだけど何かテレビに出るだけで名声と力をもつようになってしまった、そこでまず日本人の心は失われ社会全体に波及して現在がある


2019年06月04日

引きこもりをプラスに考える、精神の修行に向ける (寺とか修道院とかは引きこもりの場だったのでは?)


引きこもりをプラスに考える、精神の修行に向ける

(寺とか修道院とかは引きこもりの場だったのでは?)

引きこもりに興味があるのは自分自身がそうだったからである
なぜ自分がそうなったのか?
それは何度も言うように特殊な家庭環境でそれが許されたからである
例えば事務次官の40代の引きこもりが殺されたけど別に息子のことを許容して金を与えていれば何にも起こらないかもしれない、事件も起こらないかもしれない
ただ前にも書いたように小人閑居して不善を成すというのが普通にある
いかにそうして暇が与えられたとき別に引きこもりだけではない、この辺では原発避難者が暇になり毎日パチンコにギャンブルに興じて顰蹙をかったようになる
でももし引きこもりでも一人で学問とか芸術に精進していたらどうなるのか?
それが世間に認められないがそうしている人もいるからだ
それは自分自身だったとなる、それが無用の人となるのか?

ただニーチェでもヘルダーリンでも狂気にいたった、でもその思想とか詩は後世に残る素晴らしいものだったのである、ただなかなか認められなかったのである
ヘルダーリンの塔とかありそこに狂気になり閉じこもっていた
それはまさに「引きこもりの塔」だったのである
そこでも詩を書いていたしそれは素晴らしいものだったのである
だから狂気でもそれが狂気なのかともなる

引きこもりを考えると社会不適応者である、そういう人は大人しい人である、今回の川崎登戸殺人のようにな人は少ないのである
おそらく優しい気質の人、暴力的な人はまれである、むしろ暴力的とかになる人は反社会的なもの暴力団とかに入るとなる、そういう人は実は侍になったとかある 
それを言っている人がyoutubeにいた、引きこもりとは市役所でそういうイメージを作ったのだとそれも何かそう思えるのはあまりにも今回の殺人犯は引きこもりの人のイメージと違いすぎるのだ、どちらかいうとひ弱な人が優しい人が引きこもりになっているからだあれほどの暴力性がある、度胸があると感心するのもわかる、変な感心の仕方だけどそれほどに反社会的になりうるのか?
そして実際はカリタス学園には両親の代わりだった兄弟姉妹の二人が入っていたのである
とするとカリタス学園の特定の者を恨みから狙ったという推理もわかる、つまり無差別殺人ではなかったとなる
ではそれほどその一人の小学生を狙ったのかとなるとわからない、不可解だとなる
つまり引きこもりとは必ずも結びつかない、明確に生い立ちとかで恨みがある犯行である引きこもりの人でそうした明確な恨みをもっていないからである
だからこれは特殊であり引きこもり全般にはあてはまらない、私が問題にしているのは引きこもり全般の問題である

そもそも反社会性とは何なのか?宗教とかは極めて反社会的なものである
第一家庭を結婚を否定していること自体反社会的なのである
社会そのものを否定して始まっているのである
そういうものが簡単に受け入れられるだろうか?
受け入れられないから寺とか修道院に隔離して修行したりそこを居場所として世間の価値観とは違うものを追求したのである

不思議なのは禅宗である、禅宗だと悟りのためとか座禅を組んでしゃべらない、沈黙の修行をする、でもそういうことは社会生活したら世間ではできない
なぜなら世間では絶えず社交生活でもしゃべることを会社生活でも営業でもしゃべることを要求される、そして話術で巧みに相手をだまして物を売ったり銀行でも証券会社でもいたるところで口たくみに売りつける、それは詐欺とにているのである
投資信託でも他でもそういうことが多いのである
つまり社会生活するにはそうして嘘をつかねば生活できないとまでなっているのだ
マスコミとかでもそうである、そこでも実際はフィクニュースだとか嘘が横行している
その影響が大きすぎるからその人たちはむしろアナウンサーでもかえって口をつつしまねばならないのである
でも現実はその逆なのである、しゃべるのがうまい人でないと勤まらないのである

引きこもりの人は会社でもブラック会社となるとそこで働きたくないというのは当然なのである、それはわがままもあるがそういうことがある
社会とは働くとか会社でもどこでもそこは利益優先であり利益のためには金のために偽るということは当たり前なのである、それがそもそも社会である
そういう世間から出家するということで引きこもる場を作ったのが寺であり修道院だったともなる
そこでは妻帯はしなかったし禅僧のように無駄口をたたかないとか偽りを言わないとか
身・口・意を修めることをしたのである
社会で禅僧のようにしていたら奇異に見られる、ところが禅寺でそうしていたらあの人は修行しているとかなり喜捨もされていたのである
それを考えると奇妙なのである

だから引きこもりの人は本当は寺とか修道院に入った方がいいともなる
そこで社会に世間とかかわる必要がないからである、ということはそういう引きこもり傾向の人がそういう場に入っていたのかともなる
ブラック会社で働くのが嫌だとかなればそういう場所に行けばいいとなる
侍でも人殺しをするのが嫌だとなればそういう場所に行けばいいとなるからだ
ただ現代ではそういう場所が用意されていないからかもしれないともなる
第一寺は江戸時代には役所と同じであり修行の場ではなくなっていたからである
ただ今の引きこもりはそういう場には厳しいから耐えられないともなる

なぜ引きこもりが批判されるのか?それが社会に役立たないとされているからである
でも寺とか修道院で修行している人はそう見られていないのである
むしろ尊敬されて喜捨までされているのである
この相違は何なのか?これも不思議なのである
ただ一日ゲームをやっているとか何か昔の寺とか修道院で修行している人とは違うから批判されているとなる
自分自身は何かそうして引きこもり精神修養していたとなる
そして詩とか学問とか芸術を追求していたとなる
だから引きこもりがすべて悪いものとして働くことはないのである

それで団塊の世代がみんな猛烈な企業戦士となり全部会社員となったことが疑問だった
何か大学になるとすべてが自由になる、あまりの高校との相違に驚くのである
そこから自分は働くとういことができなくなったということもある
それで良く大学を文系を出た人たちがあんなのに会社にすべてを全精力をささげる人となったのが不思議だとなる
貧乏の時代だったから仕方がない面があるにしてもその中で1000人くらいは会社人間からはずれたものになっても良かったのである
不思議なのは貧乏な時代にあれだけの僧がいたのかということである
一遍の念仏宗の信者が松島で二千人いてそこを浄土して死んだとか言われる
どこでも僧がやたらと多かったのはなぜなのか?その人たちは生産に従事していないのである、貧乏な時代だったらそういう人をそんなに養えないと思うからである
今なら養える、もう働かない人が老人をふくめて三分の一とかになっているからだ
そういうことで引きこもりが100万いるということにもなる
別に食べることができるからそうなっているのである

こういうように歴史をふりかえれば引きこもりは有用なものとなりうる、それは世間的な意味ではない価値観からではない、それと対立する価値観から有用なのである
社会や世間にいる限り偽り言う口になる、そこで意が必ず汚れるのである
身・口・意を修めるには社会から引きこもるほかないのである
だからそういう場を作りそういう人の価値を認めることだとなる
それが昔は貧乏な時の方ができていたというのが不思議なのである
ただ正直現実はそうはならない、それを証明しているのが天才的アウトサイダーだったのである、遂には狂気にいたっているのが多いからである
そういう天才的人間は社会でも自然でも統合することに腐心したのである
それができないから統合失調症になったのである

つまり現代文明は統合できない世界だからそれを統合しようとしてできないから統合失調症になったのである
むしろ遅れた国ではヨ−ロッパでもブタペストか東欧だとなっていないとういことでわかる、一時的になっても回復していたのである
それは江戸時代でもそうした精神障害者は社会の中に受け入れられていたのである
現代ではそうした社会に適応できないのもにレッテルを張り病気にして隔離するのであるその現代文明で正常と見られる人も実は異常だったのである
異常な社会から文明から異常なものが生まれる、カルト教団などもそうである
ナチスもそうである、それが生まれたのは文明という異常なものから生まれたのであり現代文明だからこそ生まれたものなのである
正常に文明生活している人にはどれだけ異常な人たちがいるか、性格が歪んで異常人格化している人がいるか?そういう人は治療すべきなのだが放置されている
そういう人たちこそ隔離すべきだともなるができないから遂にはカルト教団のように手がつけられないものとなりナチスのようになり社会が席巻されて最悪のもの地獄と化すのである

おそらく現代では引きこもりを受け入れる受け皿がない、寺とか修道院がない、そういう所はまた昔の修行の場でもなくなっている、そこも社会的組織の一部と化している
そこで引きこもりが行く場所がないから家に引きこもるとなったのかもしれない
自分自身はそうだった、ただ自分自身は特殊な家庭環境で恵まれたから60まで引きこもりだったのである、家の人に責められることが全くなかったからである
そしてかえって殿様のように自分に何でもしてくれたのである
そこに小人閑居して不善を成すともなったのである
今になったら誰も何もしてくれない、金をくれあとはなにもしないとなっているだけである
誰も思ってくれる人もいない、それもカルマだったとなる

修行としての人生

この世は快楽の場ではない
修行の場と心得よ
口さがなき人
汝を鞭打つ者
汝を虐げる者
汝を蔑む者
冷酷な仕打ち
汝はひたすら耐えよ
この世は修行の場なり
汝の精神を鍛える場なり
鉄の意志もて耐えよ
それぞれに生い立ち環境が違う
不遇な人よ、恨むとて解決せず
この世の理不尽、意にそわぬこと
常にこの世にはある
ただこの世は修行の場なり
内なる力を充実させよ!
深く大地に木の如く根を張れ
内なる力によって横暴に打ち勝つべし

引きこもりの性格としてはビジネス社会であれ現代に会わない人でありどちらかというと内向的な人が多いだろう
現代では外向的なものの価値が評価されて内向的なものの価値が評価されない時代でもある
宗教とは内向的なものであり芸術もそういうものがある
でも内向的なものはビジネス社会では嫌われということもある
ただ正直すべてなんでも外向的なものがいいとはならないしそれで分けることもできない今の社会は内向的なものの価値を認めないということがある
だから不思議なのはなぜ禅寺で座禅をして沈黙の修行をしているのか?
それは内面を充実させるためなのである、でも今のビジネス社会なら無駄だ、何の価値があるのだとなってしまうのである

何かこれだけ引きこもりが生まれた背景はいろいろあっても内向的な人の求める価値が認められない、そういうことが背景にある
いづれにしろ外向的であれ内向的であれいかなる社会であれこの世は修行の場なのである仕事でも修行でありお勤めである、でももし勤めだとしたら何かモラルに反するものがあれば勤められないともなる
それで本当に今の社会に文明に適応することが人間の道なのか?
そうでないとしたら別な場所で修行する場を提供すべきだとなるのである
そういう場がないから家庭に引きこもるとなってしまう
何か変な理屈だとされるかもしれないがやはり人間は歴史的にまた相対的に見ると見えるものがある、今からふりかえるとなぜあんなに貧乏な時代に生産にたずさわらない僧が多かったとういことが謎になる、今のように仕事しない人が三分の一膨大にいる時代ならわかる、かえってそうでない時代が僧が多かったから謎だとなるのである

2019年06月03日

人間はすべて恵まれて終わらない (最後に大きな不運に見舞われる)


人間はすべて恵まれて終わらない

(最後に大きな不運に見舞われる)


人の一生をみているとわからないものだとつくづく思う
人間はどんな人でもどんなに恵まれていても最後になると不幸になり不運になり意外な結果になる
まさか事務次官までした人が殺人罪でつかまるとは思いもよらなかったろう
その本人すらそうである、東大出て高級官僚になり順風満風だったのである
上級国民として勲章までもらった人がやはり90近くで痛ましい交通事故を起こして世間から責められるのもそうだった
何か60歳以降に不幸が起きやすい、それはその人のカルマだとして考察した
60歳以上にカルマの清算が起きてくるからだ

親戚というのでもないが実の親でも5歳で捨てて金持ちと再婚した人もその捨てた娘に頼った、認知症になったからである
でもその娘は全くその実の親に愛情がない、ただ金をもっているから施設にあづけて死ぬのをまっているというだけである、これも恐ろしい不幸なのかもしれない
その娘は前にも書いたけど異常化していた、非情化した人間になっていたからである
なぜなら育ての親にも非情化していた、いろいろあっても病気になっても何のいたわりもないそれで最後に自分のところに「ひどい娘だわ」と言ってきてすぐに死んだのである
それが介護もされずに死んだから良かったのである
介護も何もその娘はできない、私の家にきて「おばちゃんは金があるんだから金にめんどうみてもらへ」と言って血相変えて去って行ったからだ
ただ私の家とはもめていたからそれもありえたが育ての親ともめたとしても一番世話になったのだからそういうことはありえないと思ったからである
そもそもあんな人間になっていることは何なのだろうとなる
引きこもりとかなんとか人間にはいろいろいるが正常と見られる人間でも全く信じられない異常化した人間が普通にいるのである

人間はだから最後まで見ないとわからない、私の姉も最後は信じられない結果となり死んだ、優秀だ優秀だと言っていたが認知症になって死んだ、悲惨なのは死ぬ間際まで「俺は優秀だと」言って死んだことである、でも認知症になり馬鹿になったということも信じられないとなる、これほど意外な結果もなかったのである
正直人間が最後がどうなるのか、人生というのはいかに生きてもわからないのである

人生は意外な結果で終わる

みんな最後にそう思っている見ているかもしれない、人生はもしかしたらその人がいかに努力しても自分自身だけでは決められないものかもしれない

人生を決めるのは神だ、人間では決められない

こうなるかもしれない、人間の運命をにぎっているのは神だとなってしまう
だからみんな意外な結果として終わっている
いくら計画しても計画通りにいかないのが人生である
人生には有為転変がつきものだからである、第一こんな津波とか原発事故で故郷に住めなくなるなど想像すらできなかったからである
もちろん戦争で3百万人死んだとかもそうである
何か人生でも70年とか生きればその間に予期せぬことが起きるからである
だからこそみんな意外な結果で人生が終わっているのである
とすると今の不幸が必ずしも不幸とはならず幸福になるものをもっているとかなる
今の幸福が実は不幸につながるものをもっている
実際にあまりに恵まれると危険になる、なぜなら必ず人生には苦難がつきものだからである、するとあまりにも恵まれると苦難に耐えられなくなるのである
底辺の人はそういうとき切り抜けられるということもある
第一簡単に借金などプライドがあると人はできない、頼めないのである
サラ金とかだと頭を下げることもないから簡単になる
でも面と向かって借金を頼むとなるとなかなかできないからである    

才能があっても発揮されない

成功は失敗である

異常は正常であり正常は異常である

何が有能かわからない 


結局人生は終わりからみればわかりやすいのである、いくら才能があっても発揮されない、そういう環境がないと発揮されない
特別柔道の段をもって医者だった人も病気あえなく若くして死んだとかある
戦争の時は有能な人が相当に死んで才能を発揮されなかったとかそういうことはいくらでもある
才能のあるなしの問題ではなくそういう環境がないことが才能を発揮されないのである

成功が失敗であるというとき成功した人はおごる、会社員としては有能だったが事業を起こして失敗した
それは会社員として働くのと経営者になるのは次元が違うからである
また成功すると失敗するのはそこに奢りが生れる、日本が技術で優秀だったとか吹聴していたけど原発事故をみればわかる
日本の技術は劣っていたのである、また高度成長は幸運だったのであり今になれば中国が優れているとなっていることでもわかる
電機製品は別にどこの国でも作れるものだったのである、もし日本でしか作れないものだったら日本人が優秀だとなっていた
日本はIT分野では中国に完全ぬかれた後進国となっていて貧乏国に転落したことでもわかる
成功したことが失敗に通じることが普通にある

異常というとき引きこもりとか異常というけどでは正常と思われて生活している人が実は異常人格者だったとかいくらでもある
公務員の夫がいて子供もいてその人にどこも異常性はないが実際はその女性が異常人格者だったのである
でも社会では正常と認めているのである、そんな人も普通にいる、だからこの世の中、何が誰が異常なのか正常なのかもわからない
そして何が有能なのか無能なのかもぉわからない、あれだけ優秀だとしていた人が認知症で無能化したことには驚いた
そして800万も認知症になるとしたらみんな人間は無能化されのかという恐怖になる
人間はみんな最後に無能化されるのかとなるからだ

つまり人間とは人生でも先が読めない、今の不幸が実は幸福につながっているかもしれない、今の幸福が不幸につながっているかもしれない、つまり人間の先は誰も読めない、未来は誰も読めないのである
神のみが全能であり未来を知っている、人間は未来を知ることができない、人生の幸不幸もわからない、何が幸いするかしないかもわからない、こつこつ金をためても金はためられない、盗まれたとかある
何もしないのに親の遺産が入ったとかもある、金でも何か不確実なのである
いくら真面目に働いても金が必ずしも入らないのである、努力しても正当に報えられるともならない
社会自体には何か大きな逆転も起きてくる、だから上に立つものが安泰とはならない
そして何が起きるかわからない、上級国民でも78歳と90近くになって大きな災いに見舞われるのである
だからこうして人間で人生でもわからないからそこに神が関与しているのではないかともなる
人間の思い通りにならないからである、それで聖書では強い者が勝つとは限らないとしている
大国が勝つとは限らないのである、そういうことでも世界史でも神が関与しているのかとなる

「人生不可解なり」と華厳の滝で自殺した青年はまだ若い、本当に不可解だと思うのは老人になってからである、若い時はまだ経験がない、でも老人になるとそういう現実を具体的に見るから経験するからそうなる本当に人生は不可解なのだと老人になると実感する
70年も生きると何が起きるかわからないとういことである
それは予測できないものとして現れる、だから意外だった、人生も意外に終わったとうい人が多いのである



2019年05月30日

カルマが返せないとどうなる (いつまでもカルマに苦しめられる―借金と同じ)


カルマが返せないとどうなる

(いつまでもカルマに苦しめられる―借金と同じ)


積んでしまったカルマ(業念)は、返済するまでは、
神様は決して許してくれない

カルマの謎は例えばある人から十万盗む、また百万盗む、千万盗むとする
そるとその分のカルマを背負うことである
そして百万でももう返したくないとなる、十万ならしかたがないとかなりなんとか替え返そうとするが額が大きくなるとできない
だからカルマは軽い内返した方が楽なのである
江戸時代なら十両盗んだら首が飛んだ、額によって罰が決められた

このサイトで借金に例えてカルマを説明しているからわかりやすい、カルマは借金なのである、それを返さないといつまでもカルマを解消できないのである
借金したから自己破産すればいいやとか考えてもそうはいかないのである
一旦カルマとして背負ったものは返すことを要求される

だからもし百万であれ一千万盗んだとすると盗んだ人が額が大きいから返したくなくなるまたそういう人は貧乏なのだから返せなくなくなる
するとカルマをかかえたままカルマを背負ったままになる
でもその人はそんなこを思わない、ただ得したと思う
しかし怖いのはカルマが返せなくなることである
一見得したように見えてカルマはもう返せなくなる
それはその人にとっては額が大きすぎたからである

ただカルマというのは金をもっている人にもある
だからこそ盗まれたということもある、つまり不正をしてとか社会でたいして貢献しないのに金が入る人がいる、そういう地位とか何か金が入る人がいる
そういう人も実はカルマを背負っている
だからそのカルマの故に大金を盗まれたともなる
要するに双方にカルマがあったからそうなったともなる
何か犯罪とは偶然に起こるのか?何か互いのカルマがあって起きてくるのか?
世の中にもしかしたら偶然というのはないのかもしれない
ただ偶然に見えても必然だったともなる

いづれにしろカルマは借金である
神はカルマについては厳しくそれから逃れることを許さない
そうなるとこの世の中に神がいて神が采配しているともなる
神の目を逃れることはできない
神は人の心を見ているというときその行為も見ている、そしてカルマを課すのである
何かごまかして生きれるように思っているが実際はごまかすことができない

そうして現代の資本主義は世界の富を数パーセントの人に収奪されているというとき
そのような人がどうなるのか?そんな莫大な金を集めてそれを有効に使えるのか?
その金で戦争に使うとかしたらどうなるのか?
それは悪魔的なものとなりその家であれ人であれ維持できなくなる
そこには災いのみがある呪われた家となる、そんなカルマを背負いるのかともなるからだだからフランス革命とか中国でも革命が起きて金持ちは無惨に殺されたのである
それは富を有効に利用できなかったからである

大きな犯罪を犯した人はどうなるのか?今回のような川崎登戸殺人事件の犯人はどうなるのか?そのカルマはとてつもなく重いものとなりとても返せないから自殺したとなる
自殺を覚悟でしして自分自身が苦しむのを断ったとなる
でもそのカルマは今世で終わらず来世にもちこまれる
そこでカルマを払わされるかもしれない、それがどういうものになるかわからないのである
余りにも重いカルマになるとそれをどう返すのか見当もつかないともなる

カルマというとき他罰的になるのではない、結局人間は自業自得だよということになる
他人をいろいろせめても自業自得だ、自分のカルマだとして背負う、他人のせいでもないし社会のせいでもない、自分のカルマだとして背負うことになり自分のカルマを自分が苦しみ解消するほか返すほかないと悟ることである
でもまた社会の上級国民でもカルマを背負っているのである
だから今回の事件のようなことになるのかともなる
ただここにカルマがどう作用したのか?とても犯人を許す気にはなれないだろう
つまりこのカルマを返す本人は死んだ、もうカルマは返せないとなるのか?
それとも犯人は来世でまたは今の世でも生まれ代わりカルマを払わされるのか?
そしたら空恐ろしいものとなる

いづれにしろ人間は大きなカルマを背負うと返せなくなる、返せないとどうなるのか?
延々と苦しみから逃れられない、神は許しはしないからだとなる
シーシュポスのように岩をもちあげてはまた一からもちあげて永遠に終わらない罰を与えられる
永劫の罰が与えられるのかとなる
それも恐ろしいとなる、永遠にそのカルマから労苦から逃れられないとなるからだ

ともかく人間はこうしてカルマを背負わないように気をつけるべきである
その時はいいと思っても後で重いカルマとなって返せないカルマとなって永遠に苦しむともなるからだ、カルマを返すことは執拗に迫られるとなればそうである、それは借金とりとにているのだ
カルマは今回の原発事故のようにプルトニウムの毒が2万5千年消えないとか信じられないカルマとなる、カルマはそれだけの年月がたたないと解消できなともなったからだ
そこに原発の罪深さがあった、永劫の罰となったら本当に怖い
原発事故によってそれだけのカルマをこの辺では背負わされたのである
この地域はそうした重いカルマを背負ってしまったのである

そしてカルマは親からも先祖からも受け継ぐのである、つまり一代ではカルマは消滅しないとなる
そこにカルマの怖さがある、ある家でも何か大きなカルマを背負っていて災いがつづくとかある
家は明らかにそれぞれのカルマを背負っているからだ
その中にいいものを受け継いでいるが一般的にカルマというと悪いことを受け継ぐことなのである
だから長男と長女はその家のカルマをいいにし悪いにしろ受けづくのである
そういう宿命にあるのだ、自分自身がそうだったからである



2019年05月21日

40歳の焦燥 (人生は30までで骨格は形成される、あきめるには早すぎるから苦しい)


40歳の焦燥

(人生は30までで骨格は形成される、あきめるには早すぎるから苦しい)

Love & Freedom(底辺労働者)の人がなぜ焦燥感に苦しむのか?
それは盛んに自ら言うように40だともう終わりだがそれまでならなんとか未来がまだあると見る
そういう中途半端な年齢だからだろう
でもすでに30を越えて40になると人間はもう決まってしまう
それでもうスキルもなにもないとか苦しむ
一生底辺労働で後は生活保護だとかFXで一発かけて挽回する他ないと悲壮感を漂わせている

人間は何か意外と20代くらいで決まってしまう、40近くになったからもうその一生は見えてくるとなる
「若き時に神を知れ」というのはそのためだった、この深い意味は若い時わからないのである
20代で求道しないものが30過ぎて40過ぎて求道できなくなっている
そんなことがあるのかというときふりかえるとあった
求道は最も命が盛んな時するものであり力が衰えた老年になってすることができなくなる
普通はこういうことを考えない、青春なら欲望のままに若さを発揮して生きればいいとかなる、そんな求道とか関係ないとなる
ただ求道だけではない、ビジネスでも仕事でも20代に骨格が形成されるから30過ぎると無理だとなる
だから人間は30でほぼ人生行路が決まるとまでなる
その20代があっというまに過ぎてしまうのである
やはりその時期が一番大事だったのかとふりかえるとなる

20代というとき何か人生はとてつもなく長いように感じるのである
永遠につづくようにも思う、だから年齢によって感じる時間は相当に違っていた
60とか過ぎると人生が終わるのがアッという間だったとなる
年齢によって青年と老人の差はこの時間感覚にある
人生が限りなく長いと20代では思っていたが過ぎてみればアッという間だった
そして20代でほぼ人生は決まっていたともなる
そしてすでに若い時は青春はとりもどせなくなっているのだ

ただ30までにほぼ決まるとしてもその先は長いこともある
私の場合は30年間旅に費やして終わったとなる
これも普通はありえないことだが正規のルートからはずれたからそのまま外れたルートを最後まで来たということになる
だから一旦正規のルートからはずれるとそのまま最後まではずれたままになる
20代でも正規のルートからはずれるとフリーターとかニートとかなり正規のルートにはもどれなくなる
時代が変わるにしてもそうなっいる

ただ人生百年という時今までと違った時間感覚をもつ必要がある
つまり成果を出すのはかなり遅くなる、60代とか70代になってもいいとなる
その先さらに百年生きるとなるとそうなるのである
だから長期展望ができる時代になっているのだ
何か成果を出すためにあせる必要はないのである
骨格は20代で決まるとしてもそこに肉付けする時間が長くなるのである

いづれにしろ40代の焦燥感はわかる
でもこれが60とか70とかなると消えてしまうのである
あきらめるから焦燥感が消える、なんとかしようとかもがくこともないのである

なんだ、人生は終わりなのか、これぽっちで終わりなのかと驚くのである
そして何か不思議な感覚になる
この人生は何なのか?人の出会いでもさよならだけが人生だとなる
人間は会ったとしても本当は分かれるだけだとなる
あなたとここで会いましたがすぐお別れです、私はあの世に行きます、あなたとは二度と会いませんとなるのも不思議なのである
例えば嫌な人がいようが常に嫁姑で憎み争っていようがその喧嘩していたのもなつかしくさえなるかもしれない、なぜなら二度と会えなくなるからである
現実に家族が全部死んでそうなったからである

この世にいつまでもいられない、人生はliveはleaveであり去ることだったとなる
とかなり次々に変わるのである、常がない、無常なのである
「I leave A for B.」「I leave B forC.」「I leave C forD.」.....
去ることが人生なら重荷もないのである
何かを重く背負うから背負わされるから人生は苦しくなる 

でももうこの世から去るだけだ、この世とはお別れだとなるとそういう重荷も消えるのである、だから60以上でも警備員とか底辺で仕事している人がいるがそういう人はあきらめているからふっきれているから悟りきったようになっているともみる
40のような焦燥感がないのである

人生はこんなもんだ、人生はこんなで終わりなのかと意外に思うのである
つまり若い時とか40でも何かをしなければならない、何かを達成しなければならないとかで苦しいのである
別に今日一日でも生きていれば得だよとか老人だとそうなる
なぜならすぐに死んでこの世とはお別れだからである
だから焦燥感とかはなくなる、ただ後悔は誰でもある
時間を有効に活かせなかった後悔は誰でもある、巨額の金を残した人でもそうである
青春はもどらないし時間がもどらない、人生をやり直すことはできないからだ
だから金より時間が貴重だったとなる

人生は誰でもなにかしら積み重ねがある、それが60以降に活きてくる
自分自身は文学の才能はあったとしても何か何もないとも見られていたのである
でも60以降とかさらにその後に何か今まで積み重ねたものが活きてきたなと思う
また理解できないことを理解できるようにもなったのである
詩でもそうである、相当に書き溜めたがまだ発表していない
なんとか詩集にしようとはしているがなかなかできない


青春でもその後の壮年でも人間には節制とか心を訓練する必要がある
しないと人間は欲望のままになり怠惰になってゆく
つまり心の鍛錬が必要なのである、それはあらゆる面でそうである
芸術でもそうであり他の仕事でも職人でも技を身に着けるのにはそうなる
それで全く絵の才能がないのに私が抽象画を作れたのはただ訓練してそうなったのであるだからすべて才能だけで決まるわけではないのである
何事か常に積み重ねて節制して鍛錬してゆくことが実りとなってゆく
だから人生百年時代は本当は焦る必要はないのである

自分としては酒とか煙草を30過ぎて一切やめたのが良かった
酒は頭を馬鹿にするし認知症にもなるかもしれない、精神を修行するには酒は良くない
なぜなら頭が一時的馬鹿になってしまうからである、脳と精神を麻痺させるのである
その影響は結構大きいのである、むしろ煙草はそんなに影響がないかもしれない
酒は一時的無意識にして馬鹿になる

いづれにしろ精神の修養と修行はしろ、節制はしろ!

これは別に宗教だけではない、あらゆる面で言えたのである
天才でない限り人間は積み重ねなのである
第一膨大な知識を全部知悉することは不可能である
ほんの一部だけであり天才だって知識的にわずかしか知ることができない
つまりある分野に積み重ねれば凡人だって詳しくなれる
そしてその人に埋もれていた才能が開花することはある
だから修行するとか節制するとかが大事になる
自分は社会からはずれて生きてきたけど修行とか節制をしてきたともなる
旅したのも見聞を広めるためであり何か無駄に浪費したのとも違っていたから今になり書くものがある、そして自分自身は節制してきたし雑学のような知識でも積み重ねてきたのである
それで凡人でも今になり何かしら芸術でも実るものがあったと思う
ただ誰も評価してくれないというだけなのである 




2019年05月05日

カルマを積んでいるから必ず苦しみとなって現れる (国でも会社でも団体でもカルマの清算が強いられる)


 カルマを積んでいるから必ず苦しみとなって現れる

 (国でも会社でも団体でもカルマの清算が強いられる)

良いことをすると良いプラスポイントがたまっていって、いつかポイントが自分に還元されます。

しかしプラスポイントと同様に、悪いことを行うと悪いポイントが貯まっていきます。そして悪いマイナスポイントも悪い出来事として自分に還元されてしまうのです。

自分にカルマのポイントが還元されることを「カルマの精算」と呼びます。


カルマの謎はいいことと悪いことがポイントとなることは確かである
ところが人間社会全体を見ればつくづく個々人だけでない、家族であれ会社であれそもそも国自体がカルマを積んでいる
それがある時何かの大きな事件となって苦しみとなって現れる
つまり時代を変えるような大きな歴史的事件が起きる
それが戦争とか自然災害とか巨大な事故とかである
また金融とかなると資本市主義が崩壊するような深刻な状態に陥ってゆく
金融恐慌などが起きてくる

その周期は60年間70年なのである
個々人でもそうであり国とか世界全体のレベルでもそうなのである
日本だと70年前は戦争でありその70年前は明治維新なのである
その変革は日本全体をまきこむ変革の時代であった
それはカルマの清算も意味していたのである

なぜそういうことが起きてくるのか?
知らずにカルマが積まれてどうにもなくなってくるからである
自分自身の体験したことでもそうである
介護から病気から今度は他者から責められるだけだった
塗炭の苦しみを受けたのである
誰も助ける者もいなかったのである
これも自分自身のカルマだった、別に悪いことしないからとか関係なく人はカルマを生きている限り積んでいるのだ

カルマといってもそれは多様なのである、結婚することもカルマであり結婚しないこともカルマであり子供をもつこともカルマだし持たないのもカルマである
仕事するのもカルマだししないのもカルマである
おそらく何もしなくても人間はカルマを積んでいる
その清算がやがて60以降に確実にカルマとなって苦しみとなって現れて清算を強いられる

それは個々人だけではない、国全体とか世界全体とか会社でもあらゆる団体でも起きてくる、宗教団体などでも起きてくる、宗教などでもそこでは本当に善いことを心の清い人たちの集まりでもなんでもないからだ
むしろ宗教を利用してこの世の欲を追求しているのがほとんどだからである
そこでカルマがそういう団体に現れてくる
そこで派閥争いとか権力闘争が内部でも起こり殺し合いさえ普通に起きる
組織化すること自体人間の業なのである、そこでは熾烈な地位争いとか起きてくる
それでオウムでは有名大学出ていないから幹部になれないとサリンを率先してまいた人がいたのである
そういうことはどこの組織団体でも起きてくる、それがカルマ(業)なのである

原発事故を見ればわかる、そこには東電だけではない、国家自体が国家を担う政治家でも官僚でもマスコミでも今の社会の枢要にある人たちが「安全神話」結託して作ったのである、国家自体がカルマを積みそして破局的な事故を起こしたのである
その時津波とか地震とかも何かカルマを清算するために起きたともなる
何かそこには人間の業(カルマ)が蓄積されて遂に爆発したとなる
戦争などでもそうしてカルマが人類全体に積もり何千万という人間が死ぬ
そして人類滅亡のハルマゲドンが起きるというときもそうである
人類とは人間とはそもそも生きること自体カルマを積む存在だったのである
だからいつか人類滅亡のカルマが破局的なものとして現実化する

例えば世界全体で資本主義がここ二百年くらいつづいたとしてもそれも富が数パーセントの人に握られる、そんな社会が持続すると思うだろうか?
なにかしらでそんな悪魔的なことをしていたら破局が訪れ日がくる、それが世界恐慌なのかもしれない、資本主義の崩壊なのである
その枢要な要の銀行もつぶれる、銀行というのは悪魔的な所があったからだ
それが確かにいい方面に機能していたときは良かった
銀行は兵器産業を推進する会社とか環境破壊の会社とかいろいろな悪い会社に投資している、また最近では地銀レベルでも投資信託とかでかえって投資する先がなくなり利子をとる方になっているのだ、だからもう銀行は半分が潰れるという時、そういうカルマを積んできたからまず資本主義は銀行から破綻してつぶれてゆく
資本主義が長くつづいてカルマを積みそのためにもうどうにもならなくなりつぶれる破産するのである

個々人でもそうだけど何か巨大なカルマが積もり積もった時、もうどうにもならなくなり天変地異とか起きたり巨大事故が原発事故が起きたり戦争が起きる
それはカルマの清算なのである、そのために人類の三分の一は死ぬと聖書でも予言しているのはそのためである
カルマの清算は個々人でもそうだが人類全体でもその規模が巨大になるのである
人類が滅亡することだってありうるのである
人類とは人間とは罪を背負ってカルマを背負って生きていたが遂にもうそのカルマを清算することを強いられる、神の許容限度を越えたとなりそれで世界が滅亡するような破局的現象が起きてくる  

そこには人間の念というのも関係している、思想も関係している、悪念が視界をさえぎるほどに人間からあくことなく放出されてくるすると神はそういう悪念に耐えられなくなりそれを一掃するために天変地異とかが地球規模で宇宙規模でも起きてくる
だから大都会は危険である、そこには悪念が欲念が集積した場所だからである
そこには人間の生き地獄が現れやすいのである、何かそこに美的なものがないことでもわかる
美的なものが生まれないことでもわかる、天才でもヨ−ロッパでも地方都市には生まれてもメガポリスなどからは生まれないのである現代は世界的にもメガポリスの時代でありそこに富が集中している、それが危険なのである

そういう場には文化は生まれない、ただ巨大な欲望の経済都市となっているだけなのである、巨大な胃袋になっているだけなのである
とにかくこの辺に起きたことは必ず全体に波及する、ここだけの問題ではない、津波とか地震は天変地異は起きる、また原発事故もどこかで日本だけではない起きる、そうういカルマが必ず蓄積されていて起きる
中国だってとても何兆もの金を人民から奪っている政権が維持できるのか?
これもカルマが積もり積もって革命が起きてそこで文化革命の時のように膨大な犠牲者が生まれる
だから何かが起きないこと自体ただ猶予期間にすぎないのである
最後に死が来るように避けられないのである、だからこそ易姓革命が起きるのである

戦争から70年過ぎて日本でも今がその大きな変革の時なのである、その変化に大きな痛みが生まれる
会社でも銀行でももう安泰なものはない、国家を担う人たちでも安泰はない
国自体が崩壊するような危機に瀕するからだ
つまり資本主義は終わる、その時新しい生みの苦しみが起きる、それは新しいものが生まれ作るための苦しみなのである

「人間は幼いときから悪をおこなう」(創世記8章21節)

ノアの時代、地上に創造した人間たちが堕落していったのを見た神は、すべてを滅ぼすことを決心した

その時すでに悪がカルマが積もり積もっていたのである、そうならざるをえないのが人間だったのである
それは一人の例外もないのである、そして再びノワの洪水並みの天変地異が起きる
人類がそういう時期にきている、グローバル化とは人類の平和を促進することでもない
悪でも世界規模で実現してくることでもある、多国籍企業などでも世界を舞台にして環境破壊するし世界の貧乏な国を搾取しているのである、つまりグロ−バル化とは世界規模で何か大きな破局が起きることでもあるのだ
そもそも第一次第二次世界大戦もそういうグロ−バル化のために起きた、その前はそんなことがない、日本だったら鎖国で300年戦争していないからである、グロ−バル化とは何かいいように見えても世界的破局をもたらすものともなるのだ
貿易戦争がそうである、貿易の面で国と国が助け合うとういう面があっても熾烈な経済戦争になりまた戦争になる
だから現代では何でも世界規模で大きな事件となり破局が人類的にもなり遂に人類滅亡の危機になる
それは別にSFの小説ではない、現実なのである

自分自身にも起きたことは何か自分のカルマでありまた人間がもうモラルもなにもない、金しかない、人とは金でしかない、情もなにもなくなっている、金のためには人を殺してもいいとまで普通にみんなそういう心情になっていることが怖いのである
そういう地獄人間が今やこの世を形成しているのである、そんな社会が平和でありうるのか?
だからこそ自分自身にもそういう人達が弱った時襲いかかってきたしそれはまた自分が積んだカルマの結果だったともなる
カルマとは別に自分が悪いことをしなくてもいろいろなことで積んでいるのである
知らないでも積んでいて苦しみとなって現れたとき自覚するのである
私は何も悪いことをしていないと私の家族が言って死んだ、それは何かみんな私は悪いことはしていないと死ぬとき言う人が多いのである、そのこと自体最後に死ぬとき罪の呵責に悩まされているからそうなったのだと思う

そうして認知症などという訳のわからない病気になるのも人間のカルマの結果だったともみる
認知症になるといくら優秀な人だとしてもあらゆるものが崩壊する、もう人間でくなったのかという恐怖を味わったからである
そういう大きなカルマが最後にくること自体、人間のカルマがいかに大きいものか最後に苦しみとなって現れるかを如実に示しているのだ、もうカルマから逃れようがないのだ、人間は幼い時からカルマを積んでいかるらである
生れたのもなにかしらカルマがあって生まれたとなる、カルマを清算するために生まれたともなる
なぜなら人間が苦しみなく終わることがないからである、どんな裕福でも病気になったり死ぬから同じだとなるからだ
そういうことでは平等だからである、つまりカルマから逃れられないの宿命なのである
科学技術すらカルマと関係ないようでも人間のカルマなのである

技(わざ)は災いに通じているからだ、科学技術が破局的なものをもたらすことは原発事故で証明されたからである、核戦争が人類を滅ぼすこともありうるからだ
最後に人間は業を尽くしてハルマゲドンの最終戦争で滅びる
つまり人間の業(カルマ)はそのくらいのことがない限り消滅することがないのである

大難を得て罪障消滅するー日蓮

これも個々人にあてはまるし人類全体にもあてはまる

2019年04月07日

神の爆弾に宗教問題をとりあげる (宗教団体はただ数を権力を得るために活動しているだけ)


神の爆弾に宗教問題をとりあげる

(宗教団体はただ数を権力を得るために活動しているだけ)


宗教と宗教団体と違っている、宗教団体とはなんであれ利権を追求する団体である
それは政治団体ともにている、創価などは政治団体化している幸福の科学でもまた他の日蓮宗系統の団体でもそうである
そもそも宗教を職業とすること宗教で飯を食うこと自体が何か誤った方向に導いたのかもしれない、それでパウロはそのことを嫌ってテント作りして自活して布教していた
宗教というとき何か暴力団のように怖いというのは団体化して徒党を組んで威圧してくるからである
そして罰が当たるとかその団体は宗教で脅しをかけたりする、呪うことだってする
そうしたカルト団体では宗教団体はみんな同じなのである
個々人の改心とか心の問題など関係ないのである
会員を増やしてこの世の勢力となり権力と利益を得るためでしかない
エホバなどでもそうである、会員になるのはどんな人でもいいのである
ネコ十匹飼ってまわりに迷惑をかけているとしてもその人がどんな人か問わない

それはどこでも同じなのである、会員を増やすことが第一であり宗教で重んじる改心とか何か精神的なことは一切関係ないのである
だから政治団体に当然なってゆく、議員をたてないにしても政治団体なら当然団体の利益を得るために訴えても正当化されるからである
そして集団化すると何でも許されるとまでなる
みんな創価の会員であれカルト団体の会員化したらそれはナチスになるのである
宗教だと必ずそれが悪用される、敵に罰が当たるとか呪詛するのも普通である
それが何百万で呪詛されたら怖いものとなる、つまりナチスなのである
当然権力を目指しているのだからその人たちが権力がとれば結果はどうなるのか?
それはソビエトとか中国の共産党でもわかる、利権は一分の幹部が一人占めすることになる、なぜならそもそもそうしたイデオロギーなど手段に過ぎないのである
権力を得るための美辞麗句でしかないのである

現実は常に人間の底知れない欲望がありそれが権力を得ればそれを実現しようとする
宗教団体だから清貧だとか今はありえないのである
それはすでに宗教が力をもったとき権力を得た時そうなっていたのである
だから実質の権力者の武士と衝突して信長の焼き討ちがあった
それは信長でも相手がそうしてただ権力を維持して権力をふるうだけの団体とみていたからである、そこに現実に武力をもつ僧兵もいたからそうだったのである
宗教団体は僧兵であり武力をもたないにしろいざとなれば武装すらして権力をふるうことになる、カトリックでもそうだったから政教分離政策をとるようになったのである

つまり宗教も必ず俗化する、巨大な大衆であれそうしたものに飲み込まれて俗化する
そもそも会員だけを増やすことを目的としているのだから必然的にそうなるのである
その人たちは地の塩なんでもないただの俗化した人たちである
ただそうして団体で数で権力化して圧力をかける、そのために宗教も利用されるだけだとなる、寺がつぶれてゆくというときも何か宗教が胡散臭いというのがあるからである、江戸時代から墓を管理するだけのものでありそれが現代までつづいてきただけなのである
大衆にとって宗教はなにか?
それは一つの利権団体として利用するものとしてあるだけである

キリストが二三人集まる所に私がいるとか言っている、たった数人のことなのである
それが何百万とか億人とかなるともうそこには神はいないのである
ただ権力を得るために人々が群がるだけだとなる
オウムの幹部は高学歴でありそれで学歴をもっていない人が地位を得るために幹部になりたくてサリンをまいたと言っていた
その内部でも熾烈な地位争い権力争いがある
そして人間が組織化して集団化するのは人間の変わらない業なのである
会社自体でも必ず派閥を組む、派閥を組むことも人間の業である
それで宗教でも団体化組織化したら同じになる
そこはもう権力を操作する場所でありあとは宗教はそのために利用されるだけだとなる

そもそもでは会員を一人でも増やしたから信者の数を増やしたから神は認めるのか?
数さえ集めればそれで集団で神に訴えて神が仏でもいい認めるのか?
それは世俗ではそうして数が集まれば恐怖するし権力で左右できる
でも数が多いからとその人たちがみんなどんな人たちなのか、その内面は心はどうなるのか?そういうことは一切関係ない、これだけの数が集まりました、みんな成仏させてください、天国に入れてくださいとは宗教ではならないのである
それは世俗の場なら通用するからそうなっているのである

それがイスラム教でも同じだったのである、最近見ている、「オスマン帝国外伝 〜愛と欲望のハレム〜」でイブラヒムという大帝相に反乱する、イスラムにもいろいろ宗教団体があり特別の団体に金を支給できない、多くはできないと断る、それをその宗教団体は怒りデモしたり襲撃までする
それは一重に特別に特定の宗教団体に金を多く出せということでそうなった
それでそこまでするというのはドラマだからだろう 
普通は宗教家だったらそんなことまでしないとなる
それで殺されているのだから割に合わないとなるからだ
でも金がないと生活に困るとかありそうなった、政府からの支援で成り立っていたからだともなる、これも何か政治と宗教の分離がなされておらずこうなった
現実にこれは日本であれ世界であれ共通の問題だと思った
利権のためには金が欲しいとなれば武力で襲うこともある
ただそれだけのことでありそこに何か宗教が関係しているとも思えないのである

宗教団体の会員の頭の中にあるのはとにかく会員を誰でもいい、一人でも増やして勢力を持つことである、権力をもつことである、それしかない
それが権力を得る事だからである、後は馬鹿な会員に適当に罰当たるとか脅していればいいとなる、ただそれでも自分がその罰を当たることを恐れているのである
それは自分が損すること常に恐れている、損することは罰があたることなのである
利益があるもうかる得することが信仰のおかげだとなるだけである
それが宗教の俗化であり大衆化でありもうそこには本来の宗教心など何一つないのであるあるのは人間のむきだしの欲望が集団化したというだけなのである
そこでは一切の精神的なもの真善美もない、そんなものが生まれえようがないからだ
だから宗教でも仏教でも芸術化されたときそこにはやはり今の宗教とは違っていたのである、それは本来の宗教心が信仰心があってこそ生まれたとなるからである

現実に創価だったらカジノなどギャンブルに反対するはずだがしない、自民党のなすがままである、それが庶民の政党なのか?
つまりもともと権力を求めるだけであり権力で得することしか考えないからそうてっても不思議ではないのである
それは結局大衆なら得することしかしない、原発でも得するから積極的に誘致したのである
損得ですべて判断するだけである、いづれにしろそういう団体はなのためにあるのか?
それはただ利権をえるために会員を増やし権力を得るためだとしかいいようがないのである
だからそういう団体が宗教を標榜していることこそ偽善だとなる
でもそういう矛盾がこの世の習いだとなる、それが変わらぬ世の中の姿だとなる
それにしてももっと謙虚ならいいがあからさまに利権のみを追求しているのは異常だとなる
そのために毎日祈っているのも異常だとなるがそれがそうならないのは数が多いことであり権力をもつと是認されることである
そしてまたいつしかナチスの全体主義の再来の悪夢が現実化するのである 

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紙の爆弾は何なのか?左翼系であるがそれなりの論調を出している
でも楽天でその紙の爆弾を出した、楽天の社長は創価系だとしているがそうでもないことがわかる、ここで批判しているからである
とにかくインタ−ネットだとプログだと簡単にこうして評論を加えられる
それは金がかからないからである、マスコミが力をもったのはまず一個人では新聞であれ雑誌であれテレビとなると余計に何も言うこともできない
ただそうした権力をもつマスコミによって牛耳られてきたのである
それがyoutubeで放送するとかインタ−ネットで報道が変わって来たのである
マスコミとyoutubeでも平行化してくる、それは報道するにしても資金がかからないからである、テレビ局すら個人でも作れるともなる
そこで百家争鳴になっている

2019年03月26日

天の時 地の利 人の和 (天の時が一番大事だとも思う所以)


天の時 地の利 人の和

(天の時が一番大事だとも思う所以)

1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 
2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 
3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、 
4 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、 
5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、 
6 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、 
7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、 
8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。 

聖書の言葉


天の時 地の利 人の和はどこでも働く、季節があるとしてその季節にかなったとものとして種を植えそれを育つのを待つ、その時期が問題なのである
種蒔桜があるとして桜の時期に種をまくとか時節にかなって農業がある
そして実りの時を待たねばならない、実りの時もある
実りを急がすことはできないのである、そうすれば失敗する

天の時というときそれは本当にあらゆる所に人にあてはまるのである
天の時というときその時代があり時代が実はその人の力量に関係なく決める
どんなに才能があっても天才でも時代に恵まれなければ変人で終わる
平賀源内などがそうである、また凡才でも時代に恵まれれば英雄にもなる
吉田松陰などでも志士と言われた人たちもあのように若くて英雄になれたのはただ時代がそうさせたのである
それは江戸時代のような平和な時期にはそうした人が生まれないからである

ただそれは何か歴史的な大きなものでも個々の人生に常に起きている
天の時というときそれは何なのか?
少年時代があり青春時代があり壮年時代があり老年時代がある
そこに人の出会いがありいろいろなことを経験する
ところがこの出会いに一番天の時が関係しているのだ
恋愛であれこれも時節がありそれを逃すと2度とできなくなる
つまり誰と会い恋愛するとか結婚するとかではない
そういう時節がありその時節を逃すとそういう機会はは二度とめぐってこないのである
それはその人の時が時節が決めているのであり人が決めているともならないのである
男女ともそういう時節がありその時を逃すと二度とそういう時はめぐってこないのである
地の利も大事だが天の時もつくづく大事である、だから天の時の方が地の利より大事かもしれない、そして時代は常に変わってゆくからだ

私の家は最初は子供相手の小さな駄菓子屋のようなものだった
でもその時は時代が高度成長に向かって進んでいる時代だったのである
物が置けば売れたのである、別に商才があるとかではない、その時は日本では小さな事業主でも店屋でも成功する確率が高かったのである
つまり天の時があったとなる、その小さな店をするのに資金が必要だったがそれも50万だったか5万だったかわずかな金だったが工面するのに苦労したというだけである
その店で別に商才とか商売に向いていたか成功したのではないのである
ただ地の利があったことは確かである
小さな町でも角にあり地の利があった、人が集まり安い場にあったのである
今でも人が集まり安い場所だと売る物が中味はどうあれ売れることがあるからだ
だから経営でも天の時と地の利と人の和が常に影響しているのである

つくづく人生は時をチャンスを逃したら二度ともどってこない
天の時を逃したら二度とチャンスはもどってこない、何回もチャンスは来ないのである
人生は長いから何度も挑戦するチャンスがあるとはならないのである
求道でも若い時を逃すとできない、老人の宗教は慰めとか別なのである
だから青春時代は大事だとなる、そこで人間の基礎が作られるからである
その時放蕩していたりしたら決して老年になって実りとはならないのである

ただ実りというときこれも人生で急ぐと失敗する、どんな人にも実り時がかならやってくる、それは現代では人生百年という時遅くなるのである
大器晩成というのではなく実りは凡人にでもその時になれば実りの時がくる
それは学問でも芸術でも他の仕事でもそうである
たゆまず精進していれば実りの時が来る
でもその時を急がすことはできないのである、何か私は本を読んでもわからなかった
ただ本を買っただけだとなる、でも今はその本の内容を即座に理解して自分なりに消化できる、これも不思議だと思う
理解できないものが理解できるようになるのはやはり老人になってからだとなる
深い読みができるのは老人だとなる

とにかく人間は時代の子なのである、その時代から脱して生きることはできないのであるだから天の時こそ一番大事だともなる、天の時とはやはり季節とも関係しているからだ
春夏秋冬で第一心でも体も変わるからである
そして天の時の最も大事だという時、その時が時代を生きる時でも個々人でも二度と逃すと戻ってこないということなのである
それが老人になると必ず後悔となり否応なくつきつけられるのである
人生は二度ないということもそうである、そこが天の時が最も大事な所以なのである

学問にしても何か身につけるにしてもそうなのである
若い時から職人として修行したりまた勉強でも留学するのは若い時がいいし海外旅行でもそうである、若い時に見聞を広めた方がいいとなる
またそういう時代に恵まれないとできないこともある
今ならそんなに金がなくても海外旅行でも留学さえできるからだ
だから中国人の高校生が日本人と同じようにしゃべれるということに驚いた
中学から4年くらい日本で暮らしていたからそうなった
若い時は柔軟性があり適応力があるからそうなった
でも語学でも30以上とかになると覚えられなくなるのだ
だからこれも時が大事だとなる 

また時というとき人の出会いでもその人がどういう時にあるのかが問題になる
もしその人が健康で金にも余裕があるというとき困ったら頼めば助けられることがある
でもその人が健康を害していたり金に余裕がない、時間にも余裕がないとなればいくら自分が苦しいから助けてくれと頼んでできない相談なのである
でも私の経験では私が健康的にも介護とかで一番苦しい時、事業に失敗した人が来たり金銭に困る人がづけづけと頼みに来たりまた弱者と化した時、恐喝まがいのことをされたりした、大金を盗まれたりもした
それは確かに弱者化したからそうされやすい時だが自分自身にとっては家族と自分自身の体のことで精一杯なのだから他人の相談にのるとか助けることなどできないのである
今は体にも家族の介護もしていないから余裕ができたから助けることができる
でもそういう時に来たら自分自身が困っているのだから助けてもらいたいのに逆に弱者と化したことをいいことに苦しめられただけだったのである
つまりその人がどいう時なのか?状態なのかで接することが必要なのである
でもそんなことを全く考慮しない、その人も助ける余裕がないからそうなっていたのであるもし余裕ある時だったらこうはならなかったのである

いづれにしろ人間にとって人生でもその時が一番大事なのである
もし人生が永遠につづくならいい、それが余りにも短いからその時が大事になる

老人になって何をみんな後悔しているのか?

なすべき時を逃した!

これなのである、なぜならその時が永遠に戻ってこないからである、やり直すこともできないからである、そのことが否応なく気づかされるのである
そして人生は百年時代でも短いのである
だからこそ時の方が大事だとなるのだ

2019年03月17日

人生はなぜ誤算が多いのか? (将来を誰も予測できないから―人生そのものがリスクだ)


人生はなぜ誤算が多いのか?

(将来を誰も予測できないから―人生そのものがリスクだ)


人間個々人でもそうだが社会でも誰も将来を予測できないから誤算になる
こんなはずじゃなかたとみんな人生を終える
そして後悔しない人生はない、誤算がない人生はない
いくら老後に備えても貯金しようがそれで安全にもならないし備えたとはならない
老後にやることなくなり生きがいもなくなり絶望したりする
それから老後にやりたいことをやろうとしてもできなくなる
金はあるが体力がなくなり病気になったとか親の介護で何もできなくなる
そうした誤算が誰にでもあり備えることができない

この辺で津波とか原発事故を誰が予想できたか?
こんなことが起きるなど誰も予測できなかったのである
そうししたことが個々の人生でも社会的にも起きてくる
70年くらいの単位で激変が起きてくる
それにいくら備えようが備えることは不可能なのである

自分の家族をみても一人は突然赤紙が来て4年間従軍看護婦としてシンガポールに行かされて地獄の苦しみの中で生きねばならなかった
それは全く突然なのである、ベ―トベンの運命なのである
一人は東京で結婚したが夫は若くして工場の事故で死んだ
またもう一人は40歳で交通事故で死んだ、そして私の身内は全部死んで残っているのは自分一人になった
なにかしら個々人でも社会的に予測しないことが起きる
もうそれに備えることは不可能である

だから老後を計画しても無駄だともなる、貯金していても病気になったりして何もできなくなる、なにかしたいことがあったら体力あるうちに若いうちに思い切ったことをしろとなる、体力がなくなったら金があっても何もできなくなるからだ
そして時間とたちまちすぎてかえってこないのである
青春はあっというまに過ぎる、そして若い内求道しないものは後はできない
いつでもできると思うができない、せいぜい慰めが宗教になる
だから若い内に神を覚えよとなっていたのである
そのショックは青春が過ぎてしまって後悔するだけだとなっているのである

人間何かいろいろ備えろとか言うがもう人間はリスクから逃れらられない
もう生きていること自体リスクなのだ、株でも何でもリスクがないものはない
私の母は安全志向で冒険などしない人だった
それでも水害にあい、水が来て炬燵の穴に米を運んでいる時落ちて大けがをしたのであるつまり家の中にいても安全はないのである、それは津波でも証明された
この世には安全な場所はどこにもないのだ

だから津波に備えてバカでかい堤防とか高台といろいろ対策したがそんなことでも何が起きるかわらないのである、そういう備えししても今度はそこに住む人がいないとか誤算になったりする、何かも災害でも備えることは不可能である
それで減災という思想が生まれた、なるべく被害を少なくなるする方法である
それは馬鹿でかい堤防とか高台を造成して住むのではなく津波が来たらなるべく早く逃げる算段を日ごろから心がけることである
それも自然災害に備えることであり莫大な金をかけて堤防とか高台を作っても無駄だともなる

要するに人間は何であれ絶対に危険から逃れられられない存在だということを知るべきである、いつの世も火宅の世に生きているのが人間なのだ
だからもう危険を覚悟してあきらめて生きるほかないとなる
運任せだともなる、その方がリスクをかえってさけるということもある
あまりにも戦々恐々として危険を避ける安全策をとっているとかえって危険だったりするかえって危険の中に飛び込んだ方が窮地を逃れることもある
だからといってあえて危険な所に行けというのではない
人間は危険から避けられない存在なのである
それは第一人間は生身の人間でありいつそうした体でも何か壊れやすいからである
つまり人間の体自体が最大のリスクなのである
もう誰でも老化するのが早い、するとみんな病人になるのである

だから人間は備えても必ず思わぬこと予測しないことが起きて誤算になる
でも良い誤算もある、こんな得があったなと良い誤算も起きたりする
どっちかというと普通は悪い誤算でありいくら備えても結局何もならなかったともなる
結局人間はどんなに備えても安全はありえない、リスクは必ずある
あまりにも安全志向の人はかえって危険にもなる
貯金ばかりしていても安全とはならない、現実に今の時代は貯金には利子がつかないから安全ではないからだ
言いたいことはリスクに備えることは不可能だということである

むしろどんな危険にでも備えるとなると信仰しかないのかもれない
あなたが若い内に神を知ればそれでいかなることにも対処できて満足だともなる
それはなぜかとなればどんなに財産があっても津波が来て一瞬にして流されるかもしれないからだ、津波は一瞬にしてすべてを奪い去ったから恐怖だったのだ
そういう人間の手に負えないものに備えること自体不可能だったのである
それは津波だけではないそういうことが何か別のことで起きるかもしれない
70年くらいの周期で時代が激変するからである
それで今頃になってAI化でベーシックインカムで生活するようになる
人間はみんなアーティストなになるとか言っているのか?
みんな日本人は真面目に働くのが勤めだと思っていたのにそんなこと言うこと自体なんなのだとなる、それはニートとか働かないことをすすめていることが信じられないとなるからだ

このように社会の価値観もがらりと変わる、なんで自分は馬鹿真面目に働くばかりだったのだ、その価値を今や否定される、あなたは自由にあなたのしたいことをしなさいと言われてもなにしていいかわからなよとか愕然とする
この社会はある時価値観ががらりと変わる、そして今までしていたことの価値観も否定される、戦争が唯一の国家が唯一の価値だとして命まで捧げたのに何の報奨もない
戦争自体が平和を乱したとか犯罪者のように言われる
戦後はそういう経験をした、そういうことがまた起きる

だから人間はあらゆることに備えることは不可能である
それで若い内に神を知れ永遠の命を知れとなる
そもそもだって死こそ最大のリスクであり別に津波や原発事故でなくてもみんな死んでゆく、人間は死ぬのである、そのことが最大のリスクであり逃れることもできないのであるその死に備えることはいくら財産を貯えてもできない
後は身一つで死んでゆくほかない、財産は何ももってゆこともできないのである
だから地上にいくら財を貯えても無駄だとなるのだ
津波のように一瞬にして流されて消えてしまうとなる
津浪で体育館で身一つで避難したひ人が命だけ助かってもうけものだったということを言っていた、財産に執着して家にもどった人は死んだりした
それもあれだけの災害でそう思ったのである
何もなくても命が助かったということで良かったとなってしまったのである

いづれにしろ人間はあらゆることに備えることは不可能である
必ず誤算に終わる、この世に生きることこそ最大のリスクなのである
壊れやすい体をもって生きていることこそ最大のリスクなのである
たちまち体が老化するということは病気になることでありそして死ぬだけだとなるからだ何もしなくてもどんなに安全を計っても備えても無駄なのである
だからあえて危険の中に飛び込んでゆく方が安全であったともなる
びくびく生きていてもいづれは死ぬからである
人間は死と背中合わせで生きているのである、また生きることを強いられているのであるだから危険を恐れても危険を備えることも無駄だとなる
無謀は良くないにしろ石橋たたいてわたっても無駄だともなる

人間は安全に生きるより命を何かに向かって全身で燃焼させることの方が大事だとなる
それは個々人で時代で何になるかわからない、どっちにしろ短い人生でありいづれはみんな老いて病気になり死ぬ
老人になると毎日死刑台に向かう日を数えているようなものだ
それで最後に大きなことをしたいとか犯罪でも恐れなくなる
有終の美を飾りたいと劇画的に切腹したりする有名人もでてくる
それは老いることを恐れたからである
その心も老人になるとわかる、残されたわずかの人生をどうするかとなるとなんか社会がどうだこうだとか批判などどうでもいい、どうせ死ぬんだからともなるのである



2019年03月01日

人の成果はすべて結果で決められるのか? (神は心を動機を見ているー結果より重んじている)


人の成果はすべて結果で決められるのか?

(神は心を動機を見ているー結果より重んじている)


例えば戦争だと負けるか勝つかの結果で決まる
負けたものは何も価値ないものとされる
だから歴史は勝者の歴史だとなる、負けたものは歴史に記されないともなる
では一体日本が戦争に敗れて300万人も死んだ
でも負けたのだから結果は惨憺たる敗北だったのだから意味がない
世界の歴史には記されないとなっていいのか?
その問いはあまりにも大きなものであり今だにそうなっていないことでもわかる
例え負けたとしてもでは三百万人の死は意味ない無駄な死だったできるのか?
それができないから後の世の人もその評価に苦しんでいるのである

人間社会では事業でもビジネスでも結果を出さない限り評価されない
投資信託を売って銀行員はその時成果をだした、ノルマを果たした、それは銀行に利益をもたらしたから結果から評価される
でも顧客に対しては損させたのだから結果を出してもすべてそれがいいものとして評価されるのかというのも疑問なのである
結果論で言えば金をもうけたものが何でも評価されるとなる
すべての価値は金で評価されるとなる
老人でもどれだけ金を残したのかもうけたのかで評価される
常に年収いくらだとか貯金がいくらだとかで人間は現代では評価される
結果とは金のことなのである

ただ結果を出すにしてもいろいろなことに条件があり左右される
戦争でも天候の影響などが大きいのである、だから勝負は時の運だとかなる
こういう結果を出そうとしてもその時々の条件がいろいろありいい結果が出ないということがある、それは時の運だとなる
つまり結果を出すということはいろいろな条件がありそれは一人の人間であれ会社組織であれ予測できないことが起こり結果が出たり出なかったりする
戦争でもどういう結果を生むかなど予測できないのである
大軍でも敗れることもあり信長の桶狭間のような勝利もある

そもそも人間を結果とか行動とかで評価すると間違うともなる
それで宗教では内面を重んじる、心を見るとなる
「神は心を見ている」というとき人間の成した結果を重んじていないのである
どういう心をもって成したのか?
それがもし不純な心で成したとすればそれが結果をだしても成功したとしても神は評価しない、逆に結果がでない負けたとしてもそこに例えば義があったとしたら神は評価するのである
それは何のことかというと神は動機の方を重んじているのだ
事業でもどういう動機でするのか?それが肝心だとなる
それによって成功という結果はでないかもしれないが動機が良ければまず行動する前にすでに成功していたともなる
動機が不純ならすでに何事かを成す前に失敗していたとなるのだ
たとえ巨万の富を得たとしてもそうなる
だから結果ばかりから判断すると人間は誤る

事業でも何か理系で技術が優秀だからと事業をはじめた、その人は自分が他者に優秀だということを見せるために事業を起こしたともなる
そして失敗したが依然として自分は優秀だと他者に見せたいから借金して隠している
そういう人はそもそも事業を起こす資格がなかったともなる
そんな動機で事業を始められたら周りの人が迷惑だとなるし現実事業に失敗してそうなった、その被害を関係ないと思ったが自分も受けた
その人が成功していたら結果をだしていたらどうなったのか?
今度はさらに自分は優秀だと吹聴して自慢することになる
成功しても結果をだしてもそれはいいものとならないのである
社会にとってもそんな人が成功することは逆に害悪にもなるのだ

どういう動機ではじめるのか?それが肝心だとなる
それは医者になりたいという時でも他でもそうである
ただ医者だと月給がいいとか評判もいいとか尊敬されるとか社会では一番優れた人と認められるとかで医者になる
そこには動機がない、何か親でもガンで死んだからガンを直すために努力したいとか何か動機が必要なのだがそれがない、親の跡を継がねばならないとかありやむなく医者になったとかなる

だから動機というとき犯罪でも故意なのかそうでないのかで有罪と無罪にもなる
なぜその犯罪を犯したのか?その動機を心をみて裁いているのである
殺人という結果があったとしてもそうである、その殺人を犯す動機をみているのである
神が心を見ているという時それと同じなのである
それで意外と思想というものに人は重点を置かない
人間が心でどう思うかということに重点を置かない、どう思うとそんなこと勝手だと思うそれが何か結果となるのかとなるからだ

でも実際は何か思うことは相当なエネルギーでありそれが影響する
誰かを憎いという念というのは相当なエネルギーなのである
一人でも誰かを思うことは相当なエネルギーとなる
そのために個人と直接対話するといインタ−ネットの匿名上でも疲れるのである
それは対話することは相手を思うからである
それで何か自分自身がプログでもコメントしてきても対応できないともなっている
それはその人に対して相当なエネルギーを思うことで使うからだともなる
そしていい加減な人の中傷とかもありインタ−ネット上だと相手がわからないから答えるのに疲れるとなる、エネルギーが消耗するから答えられないともなる
ただプログでも一方的に書いていると疲れないからこうして書いているともなる

このように思うということは相当なエネルギーを消耗するのである
それでインドの思想家が「誰かが憎い殺したい」とただ思うだけでその結果が出るということを教えた、本人が何もしないのにその念がが誰かに伝わりそうさせるというのだ
だからそういう念がもし国民とか会社とか組織とか多数の中に伝播するとなると怖いことになる、それは国家レベルだと戦争になるのである
宗教団体でも何百万人が地獄に落ちるとか罰があたるとか一斉にそうした念をもつことがいかに恐ろしいことになるか?
それが宗教の名のもとにそうした念をもつからである、それが巨大集団になるから空恐ろしいものとなりやがて現実に殺すとかなる

それは中国の文化革命とかカンボジアとかでもそういうことが起きた
巨大集団が一つの念にこりかたまった、それはナチスのようにもなったとなる
その念をあおることでマスメデアが加担するからメデアというのはそうした悪い念でも増幅させるから現代では怖いのである
ナチスがラジオからラジオの広報から生まれたという時いかにラジオですらそういう影響があったとなる

今なら映像である、テレビがどれほど社会に影響したかわかる
そこでまずテレビでとりあげるだけで犯罪者となりリンチ化する
何百万人も見ているとなる一斉にその犯罪者に対して憎悪の念が向けられるからである
マスメデアを通じたリンチなのである、それをあおるのがテレビになっていたのだ
韓国とか中国の危険はそこにあるのだ、現実に戦争にもなりかねない状態になった
毎日韓国では日本を呪詛しているともなるからだ、戦争の恨みを果たすためにそうしている、それが国民全体に伝播してやがて日本に対して戦争をしかけるとまでなる
人の思いとか念は眼に見えない結果として現れないがやがて結果として現れる

宗教の場合は思想となるとそういう方面を重視した、思想とは思でも思うであり想でも思うことである、思いとか念は眼に見えないとしてもそれは強力なものとして伝わる
様々な結果よりこうした人の思いの方が怖いとなるのだ
結果は様々な条件に左右されるしそれは人智を越えて結果がでる
でも思想は心はその前にわかる、どういう動機で行為になったのか?
その方が大事だとなる、それで思想を深めるということも大事になる
つまり結果とか行為にのみに重点を置いても人のことはわからないのである
その結果をみて人間はすべてを判断することはできないのである、評価もできないのである

人間はそもそも思いの中に生きている、生きているとは何かを常に思っていることなのである、意識していることである

無念無想に人はならない

常に何かを思い何かを意識している、一方で植物でも動物でもそうした念が生じていない悪い念が憎悪とか嫉妬とか様々な悪い念が思いが生じない、単純なのである
人間だけが思いとか念が生じてそれが実際に事実として現象として現れる
だから思いとか念を治めるものとして宗教が思想が生まれたのである
ただその宗教にしてもカルト宗教団体とか団体組織化するとそれが悪い念の集合体となる宗教という名で相手を呪詛する、それは宗教と関係ないのだけどその念で思いで一体となり地獄に落ちるとか罰あたるとか呪詛するものとなるから怖いのである
第一そうしたことが宗教のもとに正当化されるからである
そもそも相手を呪ったり何か憎悪したりしないように心の修養を積むのが宗教だからである

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。(マタイ6:33、新共同訳)

これもそうである、最初に求めるべきなのは結果ではない、行為ではない、その動機を重んじることだからである
その動機が悪かったらいくら事業に成功しても神は評価しないとなるからだ
だから事業するにしてもこれとはまた違っていても何を求めてするのかが結果より大事だとなる
もしその求めるものが正しければ結果がでいなとしてもそれは失敗することがないとなるからだ
結果だけで人間の成すことがすべて決められない、評価できないのである
もし戦争で300百万人死んだとしてもその動機が評価されれば無駄とはならない

つまり最初に意味あるものを価値あるものを求める

そうすれば結果にかかわらずすでに成功していたともなるのである
だから意味と価値を求めて働けともなる、結果ではないとなる
そこがただ現実社会では取り違えるし評価が間違うのである

2019年02月21日

固定観念と思い込みと先入観に陥りやすいのはなぜ?


固定観念と思い込みと先入観に陥りやすいのはなぜ?

リンゴは赤い

リンゴは赤いというのは頭に変えられないものとしてインプットされている
でも赤くない青いリンゴでも黄色のリンゴでも実際はある
でもリンゴは赤いということを頭の中で変えられない
それはななぜか?

それは経験でそうなったのである、絶えず赤いリンゴ食べてきた結果そうなった
たまたま青いリンゴとか黄色のリンゴでも食べた見たとしてもその確率は非常に低いからそれが固定観念を作り出すのである

それならば「固定観念」など無くしてしまえば、もっと自由な発想でいられる、と思いますよね?ところが、年齢とともに積み上がり、さらには無くせないのが「固定観念」の難しいところです。なぜなら、それは今までの経験や教育によって積み上げられて作られているからです。

老人の場合は今まで経験したことから判断することが多い、だから頑固になる融通性がなくなる、それはどうしても人間は経験したことが判断の基になっているからである
それはささいなことでもそうである

自分自身が気づいたことは駅から大阪に仙台の空港から飛行機で行ける
それなら時間もかからないし運賃も安くなる
それは駅でそういう人にあったから知っていた                

ところが自分自身の経験では一回も飛行機で大阪に行っていない

電車でしか行っていないから飛行機で行けば簡単に行けるということを聞いて知っていても大阪は遠いななかなか行けないなと思い込んでいたのである
要するに人間の自分が経験したことを基にして判断している
結果的に経験といってもあらゆることを経験できない、社会のほんの一部しか人は経験できない、また知識でもほんの一部しか身につかないから固定観念をもちそれを破ることができないのである

それはあらゆるところに起きる、最近地銀に投資をまかせた、地銀は信用できると思っていたからだ、しかし地銀は証券とか投資のこと株でも投資信託のことは全くの素人だったのである、でも地銀は信用できるという経験からそう思ったのである
現実におばあちゃんが地銀を信用して投資信託を買わされて一千万損ししても依然として地銀を信用していたのである
老人になるとそうして銀行とか地銀でも直接顔合わせて信用できるものとして長年経験しているからそうなったのである

老人は今まで経験したことで判断する、津波でもこの辺ではそうした経験をしている人はない、400年前に大きな津波が来たということは誰も知らなかった
すると老人は津波は来ないという固定観念があり逃げずに死んだ人が多いのである
経験から判断するからそうなるのである
すると経験しないことには対応できないのである

ところが人間の一生は短い、400年単位とかで起きることになるとそれを経験した人がいない、だから対処できなくなる
そして人はそれぞれの経験で判断するけどそれも限られているから新しい事態が起きたら対処できないのである

ただ仙台から沖縄には飛行機で行った、それは沖縄は電車で行ける場所でないから飛行機で行こうとなっていたのである                                              

だから今の時代に大阪に飛行機で一回でも行く体験していたらこうはならなかった

仙台空港までは直通の電車が出ているからだ、それは士っていたけど大阪まで一回も飛行機で行っていないということが未だに大阪には簡単には行けないと思い込んでいたのである

いづれにしろこの固定観念とか先入観とか思い込みはささいなことでも常にある
それで失敗しているのである、これは老人には多いにしろみんなに起きていることである成功体験からぬけられずに失敗したとかいろいろこの固定観念とか先入観で失敗する
それはもう人間の宿命である
そして常に時代は変わる、それも技術でも急速に変わりそれに追いつけない、体験できない、経験しないからわからなくなる

科学の歴史でも技術の歴史でもこうした固定観念を打ち破る歴史だった、コペルニクス展開とかもそうである、地球が動いているということはありえないことだった
飛行機で空を飛べることはありえないことだったが実現した
人間は固定観念にとらわれると失敗する
信長でも最初は奇襲で勝ったがその後はその戦法をとらなかった
常に臨機応変に対処したのである、成功体験にとらわれなかったのである

でも実際に固定観念とか先入観を打ち破ることは本当にむずかしい
単純なことでもそうである
この辺だと太陽が海から山に沈むのだからそればかり毎日見ていたらそれが固定観念になる、でも山から太陽が昇り海に沈むのも日本海だとか普通にあるし山から昇り山に沈むことも普通にある、でもその感覚が理解できないのは地理でもそこに長年住んでいると固定観念化しているからである
だから旅するとその変化が新鮮な体験となるのである
まず方向が例えば飯館とか山に囲まれているとわからなくなるのである
近くでもそうなのである、それで地理を理解することが一番むずかしいのである
それはそうした旅して実際に体験しないとわからないからである
地図を見てもわからないのである

地理の固定観念というときまず日本からしか日本は地理を見ない、でも大陸側から日本を見れば違ったものになる、そういう視点で地図を作った本もある
それは視点を変えると世界は違ったものに見えるからである
地理もだから固定観念化してそれで世界を見誤るのである
なぜなら世界地図を見ただけでは地理はわからないからである
実際に路査すればわかるが世界となると広いからそれができないかち人間の視野は現代でもこれだけ情報社会になっても狭いから判断を誤る

テレビの画面から地理はかわならいし世界もわからない、その映像も誤解が多いのであるそれはその地理の一部分しかパーツしか写さないからである
その周りの状況とか全部を映すことはできないからである
それでイラク戦争の時油まみれの海鳥だけを映していたが周りの状況は写されずそれがイラクが悪いとなったのである
テレビとは映像で誤解を与えるものなのである、映像だと真実だと見るからである
でもそれも幻想だとしているのもわかる
真実は何か事実はなにかもテレビの小さい四角の画面からは判断できないのである
でも映像のインパクトが大きいから映像によって固定観念化されるのである

いづれにしろ人間にとってこの固定観念とか思い込みとか先入観はささいなことでも常にあり判断を間違うのである、それが人間の弱点なのである
だからAIでもかえって人間より判断で間違えないという時、それは膨大な情報を処理しているからなのだ、人間はほんの一部しか情報を得ることができないし理解できないからである、するとその判断が誤るとなるのである
だから固定観念から先入観から思い込みから脱することが大きな問題になる
特に老人はこれまでの人生で経験したことで判断する
それが時代に乗り遅れ判断を誤るのである
時代が急速に変わる時はどうしても追いつけなくなくなるのである

2019年01月16日

世の中は三日見ぬ間の桜かなー三日見ぬ間の枯木かな (老人は時代の変化についていけない)


世の中は三日見ぬ間の桜かなー三日見ぬ間の枯木かな 

(老人は時代の変化についていけない)


人間の一生でも世の中でもこんなに変わるとは想像もできなかった
この辺では特にそうだった
ここ十年で体験したことは変化が激しすぎたのである
第一津波では村がいくつも消失したからである
村ごと消えるなど想像もできなかった
その津波で家族も死んだ人も多数いるし原発事故では故郷に住めなくなった
それもありえないことだった
人生は無常だということを一身上でも家族が認知症になりみんな死んでそうだった
ただ茫然として一人取り残されたとなる

ただ人生とはそういうものだったのである、だから日本でも70年間平和だったということはまれだったし自分自身でも何事もなく暮らしていけたことの方が幸運だったとなる
でも一回は水害などがあったがそれほどの被害ではなかった
床上浸水だったがそれほどの被害ではなく乗り越えられた
それ意外に何か不幸なことはなかったのである

それが一度にここ十年介護やら自分の病気やら回りは津波や原発の被害にあった
それは想像を絶したものだったのである
世の中もそうだが個人的にも家族でも変化が激しいのである
人生とは常に変化なのである、成長してゆくこと自体が変化なのである
大きな変化は30頃まで起きる、そこが青春なのだけどこれもあっというまに過ぎる
青春の若さとか女性なら美とかあっというまに色あせてすぐに老人になる
そして見る影もなくなる、つまり枯木になるのである

世の中は三日見ぬ間の桜かなというときそれは盛りの時期である、また個人的にも世の中でも国でもそうである
中国を見ればわかる、十年二十年をふりかえってみればわかる
どれだけ遅れていたか?物価は日本の十分の一とかであり技術は最低であった
それが今見れば驚くばかりである、給料だって日本とたいして変わらなくなっているし新幹線が走っているしスマホとかの技術では中国が優れている
論文の数では中国が日本を百倍単位で引き離している、それだけ技術が進歩しているのである
でも中国という時、何か依然として右の人は日本がより科学技術でも遅れた国だと見ている、それはあまりにも変わるとそれに追いついていけないのである
三日見ぬ間の桜かな、その三日が十年であり二十年であり同じである
もはや中国は満開に花が咲いているともなった

しかし一方で衰退するのも早いのだ、女性でも若いと思ったらたちまち老人になり若い時の面影もなくなる、三日見ぬ間の枯木になっているのだ
だから国単位でも栄えていたと思ったら枯木になっていたというのはいくらでもある
そのスピードが早いのである、アメリカと中国は今や同等でありアメリカがいつまでも栄える強国ではなくなっている
でも今までのようにアメリカの位置は強国として世界をリードするものとして見ている
でも現実はそうでなくなっている、自分の国が優先だとなっている
それはアメリカがもう衰退しているからである

人間はその変化を見抜けないのである、銀行が地銀が真面目な仕事であり地方ではエリートだと思っていた、でもその地位ももう保てない
それで追い詰められているから収益をあげられないから投資信託をうりつける
これは銀行で売った時点で絶対に損しない商品なのである
手数料が確実に入るから毎月配分とか言って売りつける
だから地銀とかは対面的に営業の人が来てその人を信じるということがある
それでおばあちゃんが投資信託で一千万損しても銀行員を信じていたというのもそのためである
それは老人は急激な変化に対応できないからである
それは自分自身もそうだったのである、銀行というとき信じていたのである
でも世の中の時代の変化が激しいからそれに追いつけず失敗する

つまり三日見ぬ間の桜なのだがまた三日見ぬ間の枯木にもなっている
そういうふうに人間の変化が激しいのである、人間関係でもそうである
常に変化している、60年一緒に生活していても死んでしまうともう帰ってはこない
ただそこで茫然としているだけである
そしてただ過去をふりかえるだけだとなる、最後には同じことを認知症になって千回も話する、それは別に認知症にならなくても老人になると過去のことを嫌になるほど繰り返し語るからである、なぜならそうして語ることが生きたことだからである

ダーウィンは、「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」という考えを示したと言われています

変化に対応できるものというとき時代を見ればわかる、明治時代には本当に激変した社会に変化したものが生き残った
その変化に対応できたのは若者だったのである、とても老人では適応できない
それはいつの時代でもそうである、子供でも若者でも一番その時代の社会に適応する能力がある
でもすでにすぐに40とか50になると適応力がなくなるのである

おそらくなぜ日本が衰退するのかという時、時代の変化に適応する若者がいない、若者が活躍しない、それは老人が多い、高齢化社会になると新陳代謝がなくなる社会になるからだ
明治だったら若者が創始者になって創業者になってやるほかない、だから明治に会社でも大学でなんでも創始者になったのである
そしてなぜ戦後にこれだけ日本が発展できたのか?
それは戦争に負けた結果、既得権者が一掃されて新陳代謝が行われた、強いられた結果なのである
その変化も激しかったのである
高齢化社会はその新陳代謝がうまくいかない、老人がいつまでも権力を握っている社会である
相続でも60とか70になってやっと親の財産でも相続するとかなっている
そうなると下の世代は権力をもたないから自由にできない、自分のやりたいこともできないのである
新陳代謝ができない社会が少子高齢化社会なのである

それで女川辺りでは津波の被害地域でも老人は口出すなと言って若い世代に街作りをまかしたのである
急激に変化する時老人は対応できない、若い世代は40くらいまではまだ適応できる
でもそれ以上になるとむずかしくなる、私が失敗したの50から海外旅行したので遅かったのである
若い世代なら今の時代に適応して新しい未来を目指し作ることができる
時代に適応できるからである、だからこの辺ではそうした若い世代が明治時代のように活躍できる場でもある
何もないところから一から始めねばならないということになったからである

いづれにしろ戦後70年過ぎてまた明治から戦争まで70年であり戦後の高度成長を経て70年でありそこでまた大きな変革の時代に変化の時代になる、それで色々な分野で変革が迫られているのである
ただその激変に老人はついていけないのである
                                            
世の中は三日見ぬ間の桜かなー三日見ぬ間の枯木かな

世の中も人生もこれだった、いつの世もそうだった、常に変化であり無常の世界だったのである


2018年12月31日

人生は二度なし(このことを若い時はわからない)


人生は二度なし(このことを若い時はわからない)


人生二度なしという厳粛な事実を若い時はわからない、青春もたちまちすぎるしたちまち老いる、なんだこれで人生が終わりなのかというとき老人になって愕然とするのである
ええ、たったこれだけだったのかというショックである
それほど人生は短いものだったのである
こういうことは別に優れた人とか哲学者とか宗教家だけではない
普通のありふれた平凡な人もわかるのである
老人になれば否が応でも現実でもって示される

そしてつくづく誰でももし人生が二回あったらなもう一回人生がやり直させたらなと切実に思うのである
ちょっとベトナム人の若い女性がいた、ベトナム人にも美人がいるんだなと思った
財布を落としてそれを知らせたのはベトナム人の若い女性だったのである
そしたらちょっとしたきっかけでもしかしたら仲良くなり結婚していたかもしれない
ちょっとしたきっかけでそうなるたこともありえたなと思った
しかしもう老人になったらありえない、ただ死に向かっているだけなのである
ただ若い人はこれから人生を生きるのだとつくづく思う
でも老人にはもう人生は終わったものなのである
終ったものとして回想しているだけなのである

そして人間はやり直しできない、あの時若い時こうすれば良かったと後悔してもできない若い時選んだことがそのまま人生の最後までつづくということがある
例えば道が二つに分かれたとしていて右を行ったらもう引き返して左に行くことはできないのである、それか人生なのである
だからその分かれ道で誤った方向に行くとそのまま人生の最後までその誤った方向から引き返せないとなる、それも今になると怖いことだと思う
人生はやり直せるというのは甘い考えなのである
そんな時間が人間には与えられていないのである

一回きりの人生しか人間には与えられていない

これは本当に最後になるとショックなことだったと
だからなぜ若い時が大事なのか?
それは方向を決めてしまうからである
その方向が若い時に決まってしまうから怖いことだったのである
ただ若い時そのことを自覚している人はほとんどいない
どっちに行こうがそれほど気にしていないし真剣に考えない
右に行こうが左に行こうが時間はたっぷりあると思っているのだ
人生回り道もあるしそんなことどうでもいいことだとしか思わないのである

「若き時神を覚えよ」というときもそうである
若い時しか本当の求道はできない、すると若い時でその方向が決まってしまうから若い時は人生を決するとまでなってしまうのである
人間はもう30代でもう決まるとまで言える
あとはつけたしであり余得ともなるのである
30からは時間が倍速で早く過ぎるのである
そしてあっというまに60、70となり老いるのである

そして死ぬとどうなるののか、死ぬとどんな人でもすぐに忘れ去られるのである
どんなに有名でも忘れられるのが早いのである
すでに仕事もしない退職した人は社会で用がなくなった人は生きながら忘れられる
それで家族の一人が認知症になったけどそれも無常だった
役所をやめてから役割が家でもなくなり何か生きながら無用の人となっていた
その時社会からもすでに忘れられていたのである
知る人も極わずかであり若い知らない人が増えてその人たちは知らないとなっていたのである
だから退職した人はそうなりやすい、社会で無用のものとなり生きながら忘れられるのである、そして死んだらもうただ忘却されるだけである
そのスピードが早いのである、だから無常迅速と言うのである

ただ現代は長生きになったからその分何か仕事をする残すにはいい、60くらいで死ぬのは早すぎるからである、何か仕事に追われているうちでも終わってしまうからである
長ければやはり何か平凡な人でも仕事をして残すことはできるとなるし才能がたいしてなくても何か積み重ねたもので才能が開花することがあるからだ
才能は第一いくら恵まれていても開発する時間が必要だからである

いづれにしろ自分の人生も終わりに近づいていると思う
旅するにしても何か気力がないから行けない、今は確かに介護が終わって行けるのだから行く気がしない、何か疲れるとなるからだ
だから旅にしてもいつかできなくなる、終わるということである
こんなに旅したのに依然として旅しない所がずいぶんあったし見ていなかったなとつくづく思う、それだけ人間の与えられた時間が短いからそうなっていたのだ
人生は光陰矢の如しであり最後は人生あっというまに終わるとなってしまうのである

今年も終わるが大晦日だけどこのことを若い人は肝に命じるべきだけどどうしてもそう思えないのである、そして老人になって愕然とするのである
そして二度と人生はやり直しできない、二回の人生はないのである
もし若い時でも30代以降でもこうした自覚があればもっと充実した人生になっていた
それはみんな誰でも思っているのだ、とにかく人間は無駄に費やす時間が多すぎるのである
でも何でも雑学でも経験したことは最後に活きてくる、活かせるのである
だから不思議なのは今一番私自身がいろいろなことがわかり活かしている
それを今インタ−ネットのホームページでプログで発表しているのである

ふりむけばすべての足跡が意味あるものとして示される・・・

今NHKの紅白歌合戦での歌詞を見た、福山雅治とかの歌手である
こう最後にこうなる、それは特別な人生だけではない、普通の平凡な人生でもそうなのである
その意味がはっきりと平凡な人でも知らしめられるのである
だから何か過去に悪いことした人も決してそれが心の中で消えることはないてのである
それが最後にまざまざと示される、そして後悔して苦しむ
それも怖いことなのである、ただそう自覚している人はいないからこそ若い時は放埓でもかまわないとなっているのだ
それが青春の特権だとかなってしまうのである

ということで今年も終わり来年もこうしてプログを書き続けます

良いお年を・・・

2018年12月06日

平和と幸福は何もしないで与えられることはない (常に平和と幸福は努力して作り上げてゆかないとない)


平和と幸福は何もしないで与えられることはない

(常に平和と幸福は努力して作り上げてゆかないとない)

平和とはなんだろうと思う、平和平和と叫んでも平和が来るのか?
そもそも平和とは何なのか?
平和の逆を見るといい、極端なのは戦争状態であり飢餓状態とか災害で破壊されたとか事故で苦しむとかいろいろある
平和でない状態は常に歴史的にも個々人でもあった
個々人でも病気とか必ずあるからだ、死もあるし逃れられないのだ

最高にに平和を感じる時は逆に戦争で苦しんでいるとき戦争がないときとかなのである
殺し合いしているのは最悪だからである、だから戦争がない状態にもどったというとき
幸福感を人一倍感じる、それは個々人でも病期が直った時一番感じる
その時生きられんだとかつくづくそれだけで幸福を感じる

平和とか幸福はそこにただあり与えられているものではなかった
何か自分は恵まれていて家族に与えられている存在だった
その家族が介護になり死別がありその時自分は今度は家族のために尽くさねばならなかった、自分が今度は与える側になった
でも何かを与えるということも喜びになる、苦しみもあるが与えることは喜びがともなうただ相手から与えられるだけの存在に平和と幸福はない

平和とか幸福とかはただ与えられるだけでは得られない、人間はそういうふうにできている、何かをただ与えられるだけでは平和も幸福もありえない存在なのだ
幸福になるためにはやはり勉強も必要になる
勉強するということは幸福になるためなのである
ただ受験勉強とはかそうではなかった、勉強するのは人間は才能があったとしても必ず勉強せねばならない、才能を開発しないかぎり天才でない限り生まれないのだ

そして勉強していれば雑学でもなんでも最後に花開くことがある
それも勉強していなかったらありえないのである
ただ何でも努力も勉強もしないで与えられることは人間にはないのである
絵の才能が全然ないのに抽象画でもパソコンのソフトで描けたとなればそれなりにただ見ているよりはそこに自らで作ったという満足感がある
これもやはり才能を開発するという努力の結果で幸福が生まれたとなる

人間という存在はそもそも何か何もしなくて与えられない、平和でも幸福でもそうである家族だってそれも互いに努力するなかで築かれてゆくのであり結婚したときは愛がないというのもわかる、恋愛は愛ではないというのもわかる
愛は結婚して共に生活して子供を育てるという過程を経て家族も作られる
それはただ何もしなくて家族が生まれるわけではなかった
家族はそうして長い間生活してその中で苦労を共にして作られてゆく
家族はもともと与えられるものとも違っていたのである
子供の時は与えられる存在だが大人になれば常に努力して作っていかねば何事成ることはないのである

例えば農業でも何かを実らせるには本当にむずかしい、様々な試行錯誤必要である
そこで練馬大根とか・・・大根とか下仁田葱とか地名がついたブランド品が生まれる
それは特産品となる売れる、それがてきるまでは苦労している
それはどこでもそうである、それで特産品となったときそこに努力の成果がありその土地に幸福をもたらしたのである
それはあらゆる分野でそうである、平和とか幸福は作り出すものでありただ何もしないで与えられるものではなかった

だから復興というときこれもそうなのである、それは不幸な状態でありそこに再び平和と幸福を作ることが要請されている、それでもし復興が成ったらその喜びは何倍もの平和と幸福感を感じる、でも何もしなければもう何も生まれない
ただ荒廃してゆくだけだとなりそこには平和も幸福も生まれないのである
今の所はそうなっている、何か打つ手がないとなり町や村は捨てられたという感じになる
私の住んでいる所は幸いに避難区域でない、かえって外部からの人が集まり増えてにぎやかになったということがある、いろいろな施設も生まれたとかもある
だから避難区域との差が大きすぎるということがある
ただ人間はつくづく何もしなかったら平和も幸福も与えられないようにできている
戦争とは破壊でありだからそこからは平和とか幸福は生まれない
それでも破壊した後に建設がはじまりその時あらためて平和と幸福を感じるのである
それは前より一層平和と幸福を感じる

幸福は何か与えられる得たいということがある、でも人間の幸福は与えることにある
何かを与える時平和と幸福を感じる、神は与えるだけの存在だから幸福だとなる
人間にあらゆるものを与えるのが神だからである
ただ神は人に感謝を求めるが後は一切なにも求めない、人間は何か与えたとてしても必ず見返りを望む、そして恩着せたり俺は与えたからとその何倍を要求する
それは遂に脅迫にすらなる、無償で与える人は一人もいないのである
神は無償で与えている、でもそれを実らせるには人間でも農業に絶えない努力が必要になっているのである

でも一番実りの幸福を感じているのはそうして努力して実らせた人なのである
その時まさに平和と幸福が作り上げられたからである
無人駅でボランティアのまねごとしてもそうである
みんな自動化しているから別に人はいらないとなるがやはり人がそこに手を加えて作り出すものがある、まず機械とかAIだけで平和と幸福は作り出せない
なぜならあくまでも人間が生きるのであり機械とかはAIでも生きるということがないからである、それは人間が生きるということが先にあって活かされるのである
あくまでも人間が生きることであり人間が主人であることには変わりないからである

だから無人駅でも人間はいらないとか他でも機械があるから人間はいらないとはならない必ず人間が必要であり人間が主人公なのである
そもそも機械とAIは何か望むということもない、平和とか幸福とか愛とかも望まない
だから機械だと兵器となり武器と化して人を殺しても何も感じないのである
機械とかはあくまでも人間の道具でしかないのである
だから機械でもAIでも平和とか幸福をもたらすものとは必ずしもならない、それはあくまでも人間の道具だからである、使い方を誤ればやはり不幸をもたらし平和は破壊されるのである

いづれにしろ人間は与えられるだけの存在だと平和も幸福も感じない
それで退職した老人が不幸になりやすいのは何か社会的活動して与えるものがなくなるからである、ただ一日なにすることもなくテレビを見ていたり暇つぶしにギャンブルばかりしていたらそこに幸福は生まれないのである
そういう何も与えない人は膨大に増える時社会自体が不幸になる
それが高齢化の問題だともなっているのである  

人間の信頼関係でも簡単に作れない、俺には金があるからなんでもできる、人も自由に雇い働かせられるとかともならない
家に入れる人は相当に信頼関係がないとできない、金だけではひとを頼むことができないものだった
その人にとって金だけを得ることだとすると危険になるからだ
それじ十年もその家で働いていたとかなると信用できるとなる、でもそれだけの年月が必要であり時間が必要になる
そういうことで金だけで平和とか幸福は得られないのである
それが互いにでも作り上げてゆくものだからそうなっている、研究者に金をやるから一大発明しろといってもできないというときもそうである、研究するのは地道な努力も必要でありいくら金を積んでも一朝一夕にできるものはないからである

ともかく人間の逆説は「悲しむ者は幸いなり」ということもある、なぜ悲しむ人が幸いなのか?
そこに人間の根源的な問いがある、この世は悲しむことなしでありえない、悲しむことによって人間の深いものを理解するからだ
悲しむ者が幸いだという時、悲しむ後に本当の人間の平和と幸福を知るからそうなる
だからこの辺の復興でもそうなのである、悲しむ状態だけだとそこからまた幸いが平和がもどるということがあるということを示ししている、ただそう自覚することはむずかしい、ただ不満だけがあるともなっているのである

タグ:平和と幸福

2018年11月20日

人間は必ず経験を経て教訓を残す (泥棒が残した教訓‐欲をおさえろ)


人間は必ず経験を経て教訓を残す

(泥棒が残した教訓‐欲をおさえろ)

人間は長い間に経験を積み重ねてきた、その経験から諺や教訓が生まれた
三国志などでも戦争の中で教訓が生まれた
それは生きるか死ぬかの経験の中で生まれた教訓なのである
最近そうした諺で教訓でも重い意味があると思った
それはなぜか?それは実人生とか経験の中で生まれていたからである
頭の中でイメージして作ったものではない、事実の経験から生まれたから重みがあるし継続されてそれせ今の社会でも活きているのである
それは地域や時代を越えて普遍的真理ともなる

人間とは科学技術がどれほど進歩しても変わらないのである
様々な欲が根本的に変わらないとしたらやはり科学技術がいくら進歩しても悪がなくならないのである
その人間の業は人間の欲が滅びるまで継続されるのである
若い世代でもやはり同じように犯罪が生まれる、若気の至りでも犯罪になる
そういうことは変わらないのである
それは江戸時代にもあったし現代でも違っているようでも同じなのである
つまり人間の欲が消えないからそうなっているのである

だから私自身が経験したことも不思議だった
泥棒が残す教訓ともあるものだと思った

「その人はある家に入った、そこには…円の金があった、しかしその金はその人にとって目にしたこともいような大きな金だった、その人は貧乏暮らしをつづけていたからであるそれでその金の半分を盗んだ、それでも大きな金だった」

こういう話になるけどなぜこれが教訓になったのか?

半分だけ盗んだということでその人は奇妙だけど救われたとなる
なぜなら全部盗んだとすると裁判沙汰になったりしたかもしれないからだ
盗まれた人は大きな金でもあきらめたからである
それは半分だけ盗まれたとういことで一応まだ余裕があるから訴えることもなかったのである

その盗まれた人にはあきらめたということで恨まないということで互いに何か極端になれば殺し合うとかまでにはならなかった、しかしそうでなければ極端になればそうなったしそういう事件も多いことでわかる
友達に何万とか貸して返さないからと恨みになり事件が起きたりしているからである

ここで何が教訓なのか?

欲をおさえろ!欲を減らせ!

それが災いとかから逃れ徳を積むことになる
人間は欲をおさえられない、欲は限りなく増大してとめられないのである
そこに必ず災いが起きてくるということである
だからどの宗教でも欲をおさえろと説いている、宗教はそういうものである
でもカルト宗教となると欲を限りなく増大させる
煩悩即菩提とかなんとか勝手に解釈して強い煩悩があった方がいいとも説いている
そうしなければ欲をおさえろというとき誰も従わないからである

すべての災いと事件と問題の大半は欲をおさえられないことから起きている
もしこのように欲をおさえれば事件は起きない
それは盗まれた人と盗んだ人双方に言えたなとふりかえる
双方ともに泥棒は大きな金でも半分に盗むのをおさえた
盗まれた方は大きな金でもあきらめた、そこに共に欲をおさえたということである
何か奇妙だけどふりかえるとそうなったのである

原発事故でもそうである、補償金でもめで分断された、それはどっちもどっちだったかもしれない、この経験と同じかもしれない
第一そもそも原発事故も人間の欲と関係してたのである
原発は金になるから誘致した、金になればなんでもいいということで誘致したのである
そこに災いを生まれたのである
金になるなら危険など構わないのである、その欲は限りなく増大してゆく
漁業組合で船主などでは補償金で原発御殿が建つとかなっていた
人間の欲の故に原発が作られたともなるのだ

でも人間の欲をおさえるのが一番むずかしい、それをやめろとか言うとその土地にすら生きていけなくなる、なぜならみんな豊かな贅沢な生活をしたいからである
だから原発には反対できなかったのである

でもなぜ人間は宗教が生まれたのかとなるやはり仏教でもキリスト教でもなんでも欲をおさえるということを説いたのである
資本主義のはじまりも宗教的なものキリスト教の修道院からはじまったというときもそうである
それは欲をおさえて働き神に奉仕する、そこで資本が富が蓄積されて配分されるということだったのである
今の強欲資本主義とはまるで違ったものだったのである
今のグローバル資本主義とか株の世界とは違ったものである、もうここにはモラルは消失しているからである
だから自分自身が株で欲を増大させて失敗したから株も投資も人間の欲がからんでいるから怖いものとなる
別に働いて利益を得ることは悪いことではない、でも何か株とか投資は常に一攫千金とか目指すギャンブルの要素があった
それがモラルにかなった経済活動とは思えないものだった、だから何か資本主義自体がもう維持できない状態になっている
格差が極端になっているから限界になっているのだ

欲がなぜ怖いのか?

それは必ず災いをもたらすからである、人間から災いが消えないのはなぜか?
それは欲があるからだとなる
国の争いでも石油で戦争になったりする、石油というのは絶対に必要だとなりそれのために戦争になる、では石油なしで人間は生きていけないのか?
実際はここ百年ばかりが石油を使用している
それまでは人類は石油を利用していないのである
すると石油なしで生活しえないということはないのである

人間が欲をおさえることが本当に災いを避けさせるとか平和をもたらすということを真剣に思わないのである
例えばもし日本の戦争が石油が入らなくなり戦争になった良くいう
でも別に石油がなくても炭でも薪でも暖房できるのである
ある程度の電気は石油なしでも供給できるのである
そんなことで戦争して人間の命が300百万人も死ぬよりはいいとなる

人間はそもそも欲を真剣におさえることをしないできない

結果的に欲はかぎりなく増大してゆく、借金してまで家がほしい車が欲しい、欲しい、欲しいとなり制限できなくなる
何かを欲を制限することが災いから逃れ平和をもたらすということを考えない
それは真剣に欲がもたらす災いを考慮していないからそうなっているのだ
私自身が経験したことでも双方で殺人事件にまで発展することはありえた
普通にそういう事件は起きているからだ
でも双方に欲をおさえたから何の事件にもならなかったし災いから逃れたのである

そんな殺人事件にならなかったのは奇妙なことだが互いに欲をおさえたことによっていたのである
そういうことは国同士の貿易でも起きてくる、貿易戦争になるのも戦争の原因である
どちらも利益のためにゆずれなくなり戦争になる
それは国同士でも欲をおさえられないからである
自国の欲をおさえられないからそうなる
だから欲をおさえるということが互いに必要なのだけどできなくなり戦争になる

日本でも貧乏になったとか、格差社会になるのはなぜか?
それは金持ちがいても自分たちだけが贅沢したい欲を満たしたいということでそうなる
別に配分すればそうはならないのである、それは金持ちはさらに金を欲しい減らしたくないとなる、それは人間の心理である、増やしたとしても減らしたくないのである
それは自分でも同じだった、自分だって欲をおさえられないのである

平和というのはこうして欲をおさえないかぎり生まれない
剣をもつものは剣で滅びるという時もそうである
人間は何かを断つ捨てるということを真剣に実行しないかぎり互いの平和はない
なぜこの世から災いが争乱が絶えないのか?
それは欲が消えないからである、それで遂に欲でこの世が滅びるというのも理解できる
要するにこの世が滅びないためには欲をおさえろとなるのだ
でもどうしてもおさえられないから滅びるのがこの世なのである

人間の一生は本当にはかない、青春などあっというまにすぎさる
そしてみんな老人になり見る影もなくなる、ただ無常を感じるだけである
もう家族もみんな死んだとか津波原発事故でこの辺は無情だった
私自身も本当にこの世の無常を知った、人間はこの世に束の間生きるだけである
そして消えてゆくだけだとなる
何を成そうが何を得ようが人間の一生ははかない、だから人間の欲もやがては消えてゆく認知症になった母が一円にこだわって使わない母が大金を盗まれて笑っていたのも不思議である、つまりに欲がなくなってそうなったのである
金のことがわからなくなってそうなったのである
その姿を見て不思議だった、最後に欲もなにもなくなったとなる
要するに人間の欲が消えたとき平和が訪れたとなるのか
もしでも正気だったら狂気のようになり騒ぎ殺し合いまでにもなりうるからだ

別に石油がなくても原発がなくても車がなくても生きられる、現実に人類の歴史でここ百年くらいが異常にそうしたものに頼ることになった
それまではそれがなくても生活できていたからである
石油がなくなっても車がなくなっても電気でも今まではなかったのだからそれで世の中は滅びるということはない、むしろ欲で滅びるのが人間なのである
だから欲をおさえるということがいかに大事な教訓であるかそれは宗教が生まれたのである、それは結局実行されていない、科学技術が現代の宗教というときそれは欲と深く関係しているのである、人間の様々な欲が科学技術で実現するとみんな本当に思っているからである、だから科学技術は危険にもなり災いにもなる

なぜなら人間の限りない欲望を実現するものとなるからだ
それで原発でも危険でも作られたからである、結果的に事故となり故郷にすら住めなくなったからだ、科学技術は災いを生むのである
それは科学的精神とかとサイエンスとかと違って人間の欲を実現するものとして魔術的なものとして追求されているからである
何か科学技術は全面的いいものとして肯定されるが果たしてそうなのか?
原発事故の結果をみればわかる、もう故郷にすら住めなくなったからである

2018年11月19日

人間の本性は悪でありその恐ろしさを体験で知る (人間は悪(エゴ)であるがただその機会がないと現れないだけ)


人間の本性は悪でありその恐ろしさを体験で知る

(人間は悪(エゴ)であるがただその機会がないと現れないだけ)


自分自身の過酷な経験から人間の本性を知った、それは恐怖の経験だった
自分を助けると思っていた人が実を自分を食い物にしようとしていた
弱者になった時、自分の思い通りにして金を得ようとしていた
その人は事業に失敗したとかありどのくらいかわからないが借金していた
だから自分が苦しい時確かに多少は助けたにしろ借金を背負っているから
それを返すことで頭がん一杯でそれしかなくなっていた
妻はそのためにパチンコ屋で奴隷のように働かせられていたのである
その妻が来てもなにもする気はないしできない
ただその家の者は全体が借金を要求するように負担となって自分の所に来たのである
私の家ではその家族のことを昔であれ助けたことがあってその人は恩返しだとして来ていた、でも自分自身が借金していることでそれどころではなかったのである
まず自分に余裕がない人は人を助けることなどできないのである

そしてこの経験から人間の本性は悪でありエゴであり他者はただ金とだけ関係しているとものと思った、金がとれないならその人は何の価値もない、近づくこともない
金があるとなり金がとれるとなり接してくるのでありそれ以外何の関心もないのである
極端になれば人間は金の切れ目が縁の切れ目でありそれはどこでも普通に起きている
他人にどんな関心があるのか?利益的関係しかないとなる
そうしてもともと薄い関係だったからみんな去った
そういう人とは二度と会わないのである
この世の他人の縁とかはそんなものかとなりただ無常になるだけだった
それより人間の本性はエゴであり悪であるということを経験で知った

例えば性善説とか唱えているのはまず社会経験がたりないのではないか?
自分もそうだった、でも社会経験している人はそんな説を唱えるはずがないのである
人間の歴史をみてもそうである、弱肉強食の世界が歴史でもあった
戦争の歴史が世界史でもあった
人間も動物の一種でありどうしても他者の命を食べなければ生きていけないということからエゴだとして仏教が生まれた、だからインドでは動物を大事にする、同じ命をるものとして大事にする
ただ動物は弱肉強食でもそれは他の生物を食べなければ生きていけないからそうなっている、人間の場合は別に食べるものがあっても罪を犯すしいろいろなエゴの目的で犯罪を犯すのである

事業に失敗したからといって別に明日から食べられないということはない
ただ自分が成功者として見せたいということなどがあり借金したりそれでその借金を他者に負わせたり虚栄心とかからも人間はエゴになり悪人になる
別にその人でもうまくいっていたときは普通の人でありいい人であり善人だったのである今でも善人として見られているしわからない人は事業で成功した優秀な人として見られているのである
それはたいがい他者は外見しか見ないしわからないからである

人間は悪でありエゴだというとき人間は機会で縁によって悪がエゴが喚起され悪魔になる      

なにもなければこうはならない、ただ事業に失敗するとか例えば目の前に一億円の金があるときそこに何人かいたら奪い合いになり殺し合うとういこともある
そこに美人がいて取り合いになり殺しあいにもなる、そこに人間の欲がエゴがむきだしになる、だからもしそういうことがなければそこにいた人たちは何も争わない
善人なのである、この辺でも原発事故の補償金でももめたがこれも同じなのである
それも額がそれなりに大きいから不満がありそれで協力できなくなったのである
何かの機会で縁で人間の本性のエゴが欲が刺激されてそれが悪となり悪魔に変質するのが人間なのである

だから別に悪を犯さない人で自分は悪人だと言っている宗教家がいる、それは歴史的に知られた人である、親鸞でもそうである、パウロでもそうである
親鸞になると極端になり悪人が往生するというときそれはなぜなのか?
その人は人間のエゴと悪を自覚したから救われるのである
俺はなんて悪人だったのだとなんらかの切っ掛けで機会があり縁があって自覚したのである、女性をものにしたいとなり殺人までするようになるのもそうである
実際にそのことを実行して悪人だったということを自覚して仏門に入ったという武士もいた、親鸞が悪人が成仏するというときそれは自分が悪だエゴだということを自覚した人なのである、「俺はなんて悪人だったのだ」と自覚した人なのである
普通はどんな悪を犯しても人は簡単には自分が悪人だと自覚しないのである
大悪人でも善人だとしか自覚していないのである
だからこそ千人殺してみろと親鸞は言ったのである、それなら自分は悪人だと自覚せざるをえなくなるからである、人間はみんな善人と思っている
でもその本質がエゴであり悪であるからそれがなんらかの機会で現れるのである

そのエゴと欲とか悪は誰にでもあるとなるからそういった
なぜならそもそも人間は動物でも他の生物でも食べなければ生きていけないからである
そこにすでにエゴがあり欲がありそれを否定できないからである
それで仏教ではベジタリアンになり動物は魚すら食べないとなったのである
なぜ自分の家ががたがたになり崩壊するようになったとき
その時同情は一切ない、かえって襲う好機が訪れたとなったのである
家族の一人が認知症になったりしたらもうその家はがたがたになる
そして認知症になったら近所でもどこでも同情などしない、財産を奪うのに最高の好機だとなる、なぜなら銀行から金すらおろせないからである
NHKとかで認知症の人を優しく見守る地域とか言うがそんなものありえないのである
この世の非情さを知っていればそんなことはありえないし実現不可能である
そんな社会があるとしたらそこは天国になっているはずである

このうよに確かに他者が悪人として見るのは容易であるが自分も同じなのだと悪人だとみるのはむずかしい、人間は普通はみんな善人だと思っているからである
何もなければそうである、だから親鸞が自ら悪人だというときそこに真実を見ていたのである、人間の本性は悪でありエゴであり欲だということである
ただこれが何かの機会がないと現れないのである
だから金でもなんでも追い詰められた人間はなんでもする、人を殺すことでもわずかの金でもする、それはもともとそういう時は動物が飢えている状態と同じだからである
そういう状態になったら誰でも犯罪者になり悪人になるのである
ただそういうふうに追い詰められないからこそ善人でいるだけなのである
追い詰められた人間が本当の人間の正体なのである
だからこの世に生きることは人間の中で生きること自体が怖いことだと思った
経験から人間の見方が変わってしまったのである

人間はみんな悪人でありエゴであり欲でありそれは自分も生物であるかぎりそうなのである、人間は悪人なのである、自分だって追い詰められれば悪人になる
ただそういうふうに追い詰められていないから善人のふりをしていられるというだけなのである
この辺で補償金でもめたというときエゴがむきだしになった、それで協力できなくなったでもいち早く故郷を見捨てた人たちもエゴがむきだしになっていたのである
まず補償金をもらったから故郷のことなどより自分のことしか考えなかったからである
みんなでどうしようとかも考えない、自分さえ良ければいいしかなかったのである
だからある機会で人間の悪のエゴの欲の本性が現れるのである
放射能問題があるにしてもただそれは理由になるにしてもそれだけではなかったのである補償金をもらって自分たちだけが家族が良ければそれでいいとなったのである   

宗教は共通している、仏教でもキリスト教でもモラルにかかわれば共通している
だから個人的にも漱石は則天去私でありわたくしを去ることでありエゴと欲の否定でありショーペンハウエルは生きんとする意志の否定になる、それは共通して人間にあるエゴの否定なのである
ショーペンハウエルのまさに生きんとする意志とは人間が本能的に食欲であり性欲であり種族維持自体がエゴになる
そういう欲は否定できない、だから人間が生まれたのは何かしら罪があってこの世に生を受けたとしている
カルマが業があって生まれたとなる、なぜならこの世に生を受けたことはエゴなくして生きられないから生きること自体罪となるからである、どうしたらちエゴとか欲とかから脱出できるのか?それは不可能だとなる
だからこそ人間はこの世に生きることはみんな悪人として生きるとなるのである 

この世がなぜおかしいのかというときこうしてみんな悪人なのに善人社会だと思っている
そういうふうに善人なのはただ機会が与えられないからである
動乱の世界、戦国時代のようになればもうそこはエゴがむきだしの殺し合いになり自らの欲をエゴを達成することになるだけである
だから沖縄で一番怖かったのは隣の人だった、女性を襲ってきたというのである
外から来る人だけではないそうした混乱の時襲ってくるのは隣の人だということである
何か沖縄ではみんな被害者だと騒ぐけど内部でもそういうことが起きていたのである
その詳しい事情はわからないにしろそういうことがこうして自分が経験したことでもそういうことがあった思った

人間の本性がエゴであり悪であり欲だというとき当然そうなっても不思議ではないのである
だから人間は野獣と変わりない恐ろしいものだとなる、ただ他者のみならず自分自身でもその野獣の一人になるとういことである
何か追い詰められたそうなってしまうのである、つまり食うか食われるになってしまうのである
それがこの世の現実である、その現実はいくら科学が進歩しても変わらないのである
だからこそこの世はいくら良くなるとかいうけど絶望的になるのである
それで死がすべて悪いものとは思えない、この世を去ることはこうした食うか食われるかの世界から逃れることだからである
死によって人間のエゴや欲は消滅するからである、それはエゴや欲からの解放ともなるからだ 
そして人間は死ぬまでこうして欲やエゴから解放されない、業がカルマが消滅しないのである