2019年11月13日

人間は時間をかけないと何も育めない (猫も親しくなるのに7年くらいかかった)


人間は時間をかけないと何も育めない

(猫も親しくなるのに7年くらいかかった)


我が家に猫のなつきぬ側にいて78年すぐ冬に入るかな


この猫はあまり自分によりつかなかった、別に私自身がこの猫を飼うということでもなかった、いつのまにいついた猫である
一時汚したりしたから怒ったりした、それで恐れて隠れる
一時は一か月もいなくなった、何か家にいつかない外に出る猫だったのである
しょっちゅう家を留守にしてぶらついては帰ってきていた
今でも触ることはできない、嫌がり逃げるからである
そこまで親しくなっていないのである

ただこの猫は一か月くらいいなくなったときもう帰ってこないと思った
でも帰って来たのは尻尾が誰かによって燃やされたのである
そこで尻尾からずっと血がでていたのである、最近は血はとまっみたいだ
何か猫は家を汚されることがあり嫌な面があった
だからこの猫はいつも縁の下とかで隠れることが多かった
でも餌をやっているから一応家からは離れずにいたということである

猫の不思議は最近は家にいて自分の側にいることが多くなった
するとなついてきたのかと見る、でも触ることはできない、逃げるからである
猫は何か家にいると人間のように思えてくる不思議がある
だから猫や犬を飼う人がいるのは一人で暮らす人が増えたということもある
猫を十匹飼っている女性もいる、それも福祉の世話になっていて金がないのに餌を与えているのである、それは迷惑になる

猫とか犬を飼う人が多いのはなぜか?それは犬とか猫は従順なのである
かえって人間より素直だと感じる、人間はなにかとうるさいし逆らうからである
子供でもそうである、猫と犬は飼い主に従順なのである
それで何か猫や犬をかわいがる人が増えたとなるのかもしれない
つまり現代の人間は従順なものがない、結婚しても夫に従順に仕える女性などいない
だから離婚が多いのである

ただ犬猫でもおそらく子供の時から飼っていれば親しくなる、それは人間でも同じである動物は親がいなくなると何でもいいからついてゆく習性がある
親でないものでも親だと思ってついてゆくからである
だから子供の時から飼っていればなつきやすいことは確かである
私の場合は成長してから飼うようになった、ただそれが自分でぱ積極的に飼うということではなかった、いつのまにいついたという感じなのである

人間は親しくなるには子供の時が大事である、だから兄弟でも姉妹でも一緒に育たないとしたら兄弟という感覚がなくなる、いくら血がつながっていてもそうなる
親しくなるには時間がかかる、猫でも7年くらい自分の場合はかかっている
だから人間は親しくなることは簡単にできない
そてし人間の生きる時間は限られている、だから親しくなれる人間は本当に少ないのである、老人になると旧知の人とか過去に親しく人とか同級生でもまた親しくしようとするのは人間はそんなにいろいすな人と時間をかけて親しくなれないのである

江戸時代辺りだと人間はあまり移動しないから濃密な人間関係があり親しくなっていた
現代人は広域的にグロ−バルに移動する社会である、するとどうしても親密な関係を作りにくいのである
なぜなら江戸時代のように狭い場所で村のようなところで暮らしていれば自ずと時間をかけて親しくなれるからである

だから不思議なのは熟年離婚とか増えるという時ではその後に親しい関係が男女でも作れるのか?それが疑問なのである、第一また親しい関係を作ろうとしたら時間がかかるからである、猫でさえ7年以上もかかったということでもわかる
人間だったらもっと時間がかかる、お手伝いさんだと十年くらい勤めていると家族のようになり信頼できるとされる
それだけ信頼するには親しくなるには時間がかかる

人間の問題は何でも時間がかかることなのである、何かを理解するにも時間がかかる
それで少年老い易く学成りがたし・・・となる
そしてみんな何か成し遂げようとしても時間切れで終わっているのだ
英語でも話せるようにしておけばよかったと後悔してもその時間がなくなっている
つまり人間は金の価値も大きいにしても時間の価値の方がさらに大きいのである
なぜなら百億円あっても時間はもう買えなくなるならからである
あと十年生きる時間をくださいと言っても時間だけは買えないのである
生きる時間は尽きてゆく、実は日々時間は何をするにしても尽きてゆくのである
そして二度とその時間が返ってこないのである

だから認知症になると過去の記憶に生きている、でも現実にそこに共に暮らしていないと離れていて一年に一回とか来る子供のことがわからなくなる
記憶から消えるのである、名前さえわからなくなる
私の場合は60年一緒に暮らしていたから家族がひどい認知症になっても忘れなかったのである人間は離れて暮らしているとその人のことがわからなくなるし信用もてきなくなる何しているかもわからなくなる、去る者は日々に疎しとなってしまうのである

人生の問題は時間が限られていることなのである
若い時は無限に時間があると感じられる、でもすでに30過ぎると急速に老いてゆくことがある、40才すぎると白髪でたりする、そして40になるとおっさんとか呼ばれるようになっいるのである、女性ならおばさんになっているのだ
だから時間が過ぎるのが早いのである

結局人間の問題はいかに時間を有効に使うかの方が大事になる、いくら金があってもその金の使い方で時間を浪費する、時間ほど人間は無駄にしているものはいない
つまり金がなくても時間を有効に使う方法はあった
私が旅したのは別に金がなくてもできた、時間があったからできたのである
自転車旅行になったときはテントだから宿代が無料だから金がなくても時間があれば旅はできる、そして今の旅行は交通費とか宿代にも食事にも金がかかりすぎるのである
その金をかけたわりには旅はなくなっているのである
旅人は現代ではいない、ただ保養とか食事でぜいたくするとかになってしまう

ただ金だと十円でも百円でもそれを失うと何か大きな損したと具体的に思う
でも時間を無駄にしたことを損したと自覚できないのである
時間などいくらでもあるとか若い時は思う、だから時間に対してシビアにならない
そして必ず時間を浪費しているのが人間なのである
老人になるともう時間がない、あとは死ぬだけだとなってしまうのである
最後は時間が切れて万事休すとなるのであく
時間がなくなることが死でもあったのだ、人生百年となると生きる時間をのびるからいい面ではある、でもまたいろいろ問題がある
人生百年ですら短いと思う、もちろんそこまで生きてみないとわからていことがある
時間はやはり限られているのだが人間は時間を一番無駄にしている浪費しているのである

人生は何に時間を費やしたかで決まる

いくら天才でも一人の個人が知ることでも成すことでも限られている
それぞれの人生はみんな違っていてそれは何に時間を費やしたかで決まるのである
その人の才能や向き不向きがあっても仕事でも時間を費やしていれば会得するものがある
それで入社して10年でその将来も決まるというときその若い時の十年間で身につけたものが将来を決めるとなるからである
それで若い日に神を覚えよというときもそうである
若い時しか神を覚える、知る時がないということは今になると恐怖である
なぜなら若い時はたちまち過ぎるからである、享楽にうつつをぬかすのも普通である
そんなことに若いエネルぎー浪費していたら放蕩などしていたらとりかえしつかない
その貴重な時間が浪費されて返ってこなくなるからである




2019年10月10日

人間が相手を理解できないのは何故か? (男女差、世代差、職業、地域の差、家族の差、・・・・)


人間が相手を理解できないのは何故か?

(男女差、世代差、職業、地域の差、家族の差、・・・・)


●男女

●世代の差

●文系と理系

●職業の相違 

●宗教の相違

●育った家族環境

●育った地域の差  



●世代の差

人間はなぜ理解しえないのか?理解できない前提となるものが多様なのである
家族でもそうである、親と子も理解することがむずかしい
そこに世代の差がありむずかしくなる、世代が違うことは本当にむずかしくなる
それは明治生まれと大正生まれと戦前生まれと戦後生まれとかそこに大きな断絶がある
それは江戸時代に生まれたものと明治以降生まれた者は違った国に生まれほど変化したから理解するのがむずかしくなる

時代を見ればまず戦争を経験した世代としない世代は大きなギャップがある
戦争とは異常なことだから人を殺し合うということが理解できないのである
だから戦争のことをいくら聞かされても理解できないということがある
人間は経験しないとわからないことが多いからである

それでギブミチョコレートの世代は団塊の世代より5年前だとしても違っていた
団塊の世代は戦後生まれでありその時生まれたばかりだからそういうことをしていなのである、それはまた都会に住んでいる人が経験していたのかもしれない
アメリカの兵隊にチョコレートをねだっていたのである
その時日本には何も食べるものすらなくなっていたからそうなった
そういうふうにして育った人間はどうなるのか?
子供の時から乞食根性で育っていることアメリカ頼りになっている
鬼畜米英の戦争から正反対の社会で生きたことになるのである
戦後の人間はギブミチョコレートになった、ただ物質欲だけの人間である
アメリカに勝つまでは欲しがりませんからも全く正反対の環境で育ったとういことである

それから団塊の世代は高度成長を経験している、それが失われた時代が30年とかつづき経済が停滞してさらに悪化して日本が貧困化して後進国になるほどだというときも何なのだろうとなる
銀行に預ければ利子がつく時代は終わり銀行でもゆうちょでも金をあずけても利子はつかない、むしろ投資信託とかゆうちょでも保険をすすめられて金は奪われる時代である
そして銀行員はいらない、銀行は消えるというのも時代である

平成に生まれて育った人間は高度成長時代がどういうものだったかを理解できない
またその世代を理解できないとなるのだ、いつも不景気であり非正規のワーキングプア大量にいて上級国民と下級国民の格差社会の中で苦しんでいるだけだとなる
高度成長時代は団塊の世代を中心にして中産階級が大量に生まれた時代である
みんな給料でも毎年のように上がり上昇している経済である
所得倍増の時代でありその時の雰囲気は停滞して下降するだけの経済とは違うしその雰囲気も違っていた、ジャパンアズナンバーワンとかなって日本は凄いとなっていたのであるそれも20年くらいで終わってしまったのである

●職業の相違

そして一番理解しえなくなっているのは職業が違うと基本的に相手を理解できないのである、それはもともと大昔からあったことである、それで海彦山彦の物語が日本では生まれたのである、その職業が生業が違うから理解できなくなる
その差も大きいのである、遊牧民と農耕民は全く違った生活をしていたから理解しえないので戦争になったのである

そういうことは民俗学だと山で暮らす人が木地師とかいて木材を加工してお椀とか日用品を作っていたが神秘化されて伝説化されたのはそういう職業が理解できないから神秘化された、他にも農民からして理解できないものがあり神秘化される
産鉄族などでもそうである、鉄を作る職業というのは理解しにくいからである
今でも無数の職業があり今や隣は何する人ぞとなり田舎でも隣が何をして暮らしているのかわかりにくいのである、子供時代は狭い範囲で生活していたからほとんどわかっていた何をして暮らしていたかわかっていたのである
燃料は炭だし木材をとるキコリがいたり漆塗りの職人がいたり籠や笊を作る竹職人がいたりと身近でその仕事が見られてその仕事が子供でも目にしているからわかりやすいのである

現代は本当に職業がわかりにくいのである、それだけ文明が複雑に無数に部分化しているからである、まず株をしたとして今のグローバル株式市場などわかることは不可能である地銀だと何か地元の経済を発展させるために投資しているのかと見ていたがそういうグローバル経済の株とか投資信託に投資する、投資信託といっても外国人がかかわって株をもったりしているから自ずとグロ−バルになっている
そうするとグロ−バルに思考しなければならなくなりもうどうなっているのかわからないのである、だからギャンブルとなっている
そしてそこでもうけているのは金融を操作する極一部の数パーセントの人たちが世界の富を収奪しているともなっている

人間が理解できないというとき理系と文系がそもそも理解し得ない
この差も大きいのである、だから理系は文系を馬鹿にするというのもわかる
文系にすると理系の人間を理解しにくいのである
理系から見れば文系はどうしても馬鹿に見えるのである
私自身が文系だから理系の人の方が優秀だと見る、高等な数学とか化学式のことがわかるとなると理系は優れているとなる、だから文系の大学は廃止すべきだとなるのもわかる
文系の大学はそもそも遊びだったからである
でも高校野球しかでていない人は大学のことがわからないのである
そこにも互いに理解できないものが生まれる

人間はそもそも家族同士でも世代間の差があり男女の差があり互いに理解できないものとなる、それで男女の行き違いから離婚がもはや二人に一人とかなっているともなる
それだけ男女の差が大きいからそうなっているのである
その他に育った環境にしても家族構成がみんな違っている
どういう家族で育ったのかも違っている、兄弟の多い家族で育ったものと一人っ子とかで育ったものはまた違っている
長女とか長男とか妹と弟は不思議に性格がそれなりのものとして作られてゆくことも不思議である、だから男女でもどういう家族環境で育ったかで違ってくる

それから育った地域の差もある、暑い所と寒い所で育った人間は違っている
沖縄に云ったらなたは東北人だねとか何も話ししないのにわかったというのもそうである東北人には東北人独特の体臭のようなものまである、何か打ち解けないとかある
大阪人とか比べると余りにも違っているとなるからだ
そこでも人間は理解できなくなる、みんな住んでいる場所が違っているからである
そもそも海側に住んでいる人と山側に住んでいる人は感覚的に違ったものになる
地理の影響も差異も大きいのである 

●人間は経験しないことは理解できない

ただ人間は経験したことは理解できるのである、ただ一人の個人の経験は限られているから理解する範囲が狭いのである

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2019−10−10 SPA

きちんとした防寒具や手袋が支給されると思うけどそれでも寒い。極寒の環境で8時間以上作業をするのは超辛いです

手がかじかんで指の感覚が無くなります。寒すぎて気持ちが落ち込みます

 だから長期間続ける人が非常に少ないく、みんなすぐにバイトをやめてしまいます。

零下20度で8時間労働はもう生命の危険になる





こういうことは経験している、20代は底辺労働者だったから寝る所もないことがあったから理解できる

建築現場で4階から落ちそうになった、その時が一番危険だったとふりかえる
建築現場はそれだけ危険なのである
だから誰もやりたくない、日本人はやりたくないとさけて外国人にさせているのであるでも俺は高い所が平気だむしろ好きなんだとかいう鳶がいたのには驚いた
そんな人もいるのかとなる、そういう人間も理解できないとなる

一番厳しかったのは冷凍室のバイトである、これは本当に厳しい
零下20度になるとそれをつづけていたら病気になることは確かである
そういう仕事も社会にはあるということである、そういう場で働くのはやはり追い詰められた人たちかもしれない、そんなところで働きたくないからである
私自身は体力もないのにそういう所で働いていたのである
寝る場所もないような時もあったから喫茶店でいつまでもいたというのもそうである
だからこれは自分自身が経験したから理解できるとなっているのだ
まず冷凍室で働くの本当に危険である、体がどうにかなってしまう
おそらくシベリアとか零下の温度で暮らしている人ならかまわないのかともなる

結局自分の場合は20代は相当に苦しかった、それで20代で老化していたのである
でも不思議なのは30過ぎてから家に帰り仕事もしないで楽に過ごした
そのために体力が回復してきたのである
そうして30年とか長く生活していた、無職として家にいただけだった
後は旅行しているだけだった、登山などもしたが体力ないから辛くてやめたのである
一時死ぬほど疲れたからである

ただ言えることは人間若い時はあえて苦しんでおけというのは本当である
まず若い時楽して高い地位についたり大きな金が入ったりしたらうぬぼれるようになり危険である
でもそういう苦しみの生活が延々と40代とかまでつづくとなると耐えられないとなる
今はそれが問題なのである、いつまでたってもそういう底辺労働者として安定しない苦しむ生活になると別だとなる
私の場合は家族環境に特別恵まれていたから良かったのである
そういう底辺労働をやめることができたからである
あとは自由に生きていた、自分のしたいことをしていたのである
だからこういう一生も不思議だったなと今でもつくづく思う 
奇妙なのはそういうことでニートとか引きこもりと自分は共通の体験をしている
社会からはずれた人間として生きてきたからである
これもそういう生活をした人でないとまた理解できないとなる、私はそういうことで社会からはずれて生きることがどういうことか体験してきたからわかるとなるのも奇妙だがそうなる
普通に社会人生活した人はそういうことを理解できないとなるからだ 

●それぞれの性格の相違

私はそもそも学校でもそうだし団体生活になじめない性格だった
でもなんとか集団生活になじもうと大学でも体育系の部に入った、でも一年でやめた
それかからカルト教団に入ったのもそうである、何か集団になじもうとしていたのである
しかし後は集団とか組織は嫌い一人自由に生きてきたのである
ただここにも問題があった、自由に一人生きられるたとしてもそこには大きな問題があった、社会性が身につかなかったとかあり小人閑居して不善を成すとなったのである
だから一人で自由に生きられるとしてもこれも意外といいように見えても簡単にみんなできないと思った
それにも自由に生きる能力が必要になる、だから天才はニーチェのように社会から離脱して異常化したのである、ただ社会から離脱するとニーチェのように凡人でも成り安いのである、何か引きこもりとかでもおそらく自分が特別優秀だとしている人がいるからだ
仕事をしていないと何か不思議なのだけど自然に没入して自然のリズムに合わせていきるようになる、すると会社とか社畜として生きるのとは相当に違ったものとなる
それは異常化するにしてもそこで芸術とか詩とか作るにはいいと思った

私はもともと人と付き合うのが苦手であるから一人家に籠って沈黙していたのである
すると沈黙するということは自然に没入することなのである
山でも大地でも自然は沈黙しているからその自然の大きな沈黙の中に入ることになるからだ、だからニーチェがなぜあのようになったのか理解できるのである
それもやはり人間は経験しないとわからないのである
自分自身がニーチェのように状態にあったから理解できるのである
誰が一番沈黙したのかと言っているからだ
キリスト教徒になったとしても自分は集団が嫌だから教会に一回も行ったことがない
むしろその生活はニーチェのようにな生活だったのである
社会から離脱した生活をしていたのである、それも30年とか長かったのである
だから異常化していたとなる

ともかく人間は互いに家族すら理解できない、それは世代の差とか男女の差とか育った環境の差とかいろいろあるからそうなる、それで離婚が多いのもわかる
現代はもともと複雑多様な環境でみんな違ったものとして育っている
そして遠く離れた人と結婚するのが普通てある
するとますます育った地域が違うから理解しにくくなる
それで江戸時代は近くの人と村内とか結婚しているし職業も似た人と結婚している
職業でも大工の人は大工の家の人と結婚することが多かったからうまくいっていたのかともみる、それでも江戸時代にやはり離婚が今と同じように多かったのはなぜなのか?
それだけ結婚自体がいかにむずかしいか、理解しえないかを物語っているのである    

では人間はみんな理解できないのか?例えば愛というとき母の愛とか恋愛とか同情とかいろいろある
そいういうものは通じる、でも宗教が違うとこの人はイスラム教だ、キリスト教だとかなりそこに差別が生まれる
そして苦しんでいる時でも助けないとなる、キリスト教徒でもキリスト教でないのものは人間でないとまでか南米ではなった
そういう宗教の差別が厳しいかそうなった、それで血で血を争うにようなったからフランス革命が起きた
そこでは宗教を否定して人権でありヒューマニズムで平等を目指したのである
つまり人間はこうして互いにいろいろな差があって理解することがむずかしいから争いが絶えないのである
いづれにしろ人間から争いがなくなることはない、それは家族自体でも争っているからである
自然は調和しているからそこに平和と美がある、それは神の国を現している
でもそこに住んでいる人間には調和がないのである








2019年10月08日

人の運命を決めるのはその人自身ではない? (事業失敗のカルマ―家のカルマの謎)


人の運命を決めるのはその人自身ではない?

(事業失敗のカルマ―家のカルマの謎)

カルマというとき謎である、運命も謎である、ただその人の運命は誰が決めるのか?
その人自身が決めるのか?また決められるのか?
個々人でも国家という集団の運命は誰が決めるのか?
織田信長は織田信長一人の力で英雄になったのか?
これも不可解なのである、桶狭間の戦いでも信長が奇跡のように勝ったのはなぜなのだろうとなる
駿河の戦国大名である今川義元に奢りがあったことである
圧倒的に兵力が違っていた、その数で奢りになり警戒を怠った
酒を飲まされて兵が泥酔していたところを襲われた
人間はなんでも奢るさとが危険になる

そこには天候が深く関係していた、関ケ原でも霧になりそれが勝敗に関係していた
モンゴル軍が日本に攻めてきて敗れたのも台風が来て沈んだからである
奇妙なのは台風が来てラグビーでスコットランド戦が中止になり引き分けになるからルールでは日本が決勝戦グループに入れると言っている
これも神風だというとき天候が勝敗に関係していると思った

なぜギリシャの神話の時代では戦争は神々の戦争であり神々がそれぞれの国や人を応援していた、神々が戦っていたのである
それは戦争でも何か神々が関与して勝敗が決まるとか見たからだろう
人智を越えたものが戦争にも天候のようにかかわるからそう見た

戦争でも勝敗は一つの原因ではない、複合的な因子があって勝敗を決める
カルマというのはその個人にあるにしても家のカルマとかその地域のカルマとか国のカルマがありその方がカルマとして強く働くのかもしれない
そのカルマには個人で抗うことができないものだからである

だからこそ家のカルマは怖いのである、結婚することはその家のカルマを受けることになるからだ

なぜその人はその女性と結婚したのか?

その女性の家は親が若い時から身体障害者となるような病気だった
それで妻はその夫を生涯世話する立場になってしまった

それもカルマなのかどうかはわからない、でも過酷な現実は逃れようがない
その夫婦から生まれた娘は結婚した
その結婚した相手は実は収入もいい恵まれた相手だったのである

ではなぜその結婚した相手が事業を始めたのか?

これも謎ではある、なぜなら収入がいいのだからその会社にいた方が良かったのだがあえて事業を始めたからである
それはその人は人のとれない資格をもっていて優秀だとされてほめられうらやましがられていたからである

そういうことで自身があり事業を始めれば成功するとその人は確信していたのかもしれない、ただ技術者であったが経営は全く違った才能を必要とされていたのである
そこでつまづいて事業に失敗して借金となってしまった

ただこの辺の事情は良くからないがここで私が問題にするのは

なぜその人は事業をはじめたのか?

それはその人自身が事業をはじめたのではない、その人はある力によって事業をしろとなりはじめたのではないか?
つまりギリシャの神話で戦争するのは神々が強いた神々が戦争をしていたようにである

それは事業をさせて失敗させるためにその人に事業をさせたともなる

だから戦争でもなぜ日本が戦争を起こしたのか?

それはいろいろ言われるが今になると不可解になる
アメリカによって戦争が強いられたのだという経済封鎖されて石油もなくなり追い詰められて戦争になったという理由もわかる
でも何かもう一つ理解しかねるのである

すると戦争を起こさせたのは日本という国自身ではなく神なのかとまでなる
でも負ける戦争をなぜ強いたのか?
ただその戦争がただ無謀だったとは思えないのである
そして勝敗だけにこだわれば日本が負けたのは日本に味方する神が負けたからだともなる日本の神とされた天皇は私は神ではないとして戦後は象徴天皇となったのである

不可解なのは個々人でもそうだが何か神の関与があり運命を決めているのかとなる
すると運命はあらかじめ決められていて変えられないとなる

だから恵まれた環境にある人がなぜあえて事業をはじめたのか、決めたのか?

それが謎なのだけどその人がただ操られて事業をしたわけではない
自らの意志でそうしたのである
人間にはそもそも自由意志があるから自分で決めることができる
これをしていけないと言っても自由意志があるからできる
それを神の力でも抑えることはできないのである
日本が戦争を起こしたのは日本の国民でも戦争しようとした意志が働いたからだとなる
それは上からの命令だけではない、国民の意志が働いたからだとなる

ただ事業を起こして失敗した人をみると何かもともとその人は失敗することに追いやる運命の力があったのかとなる

「あいつは何か傲慢だ、うぬぼれている、みんなから頭がいいとほめられている
それで事業するように自ずからなる、またそうさせる、そして失敗させてうぬぼれを打ち砕く」

そしてその家のカルマが働いた、事業を失敗するカルマをもともともっていたとなる
ただ事業に神がかかわるとかあるのか?これも謎ではある
ただその家のカルマがあり成功させなかったのかとなる
成功していたら相当にうぬぼれてたものになったからである

人間で怖いのは何かで才能でもなんでもうぬぼれる、奢りになることなのである

日本が戦争で負けたのにも奢りがなかったか?

日本はアメリカの強大さを知らなかった、情報が入らなかった
知っていた軍部の指導者はいた、だから山本五十六だったかアメリカとは戦争したくないと言っていたのである
今でも外国を知らない人がいる、でも現代は情報社会でありグロ−バル社会だからそういう偏狭なものにはならないから日本が起こした戦争のようなことは起きないとも思う

人間の奢りは実際は相当に怖いものである、奢れるもの久しからずとか言われてきたのはそのためである、奢ることは滅びに通じているのである
日本が戦争をしたとき奢りがあったことは間違えない、それは原発事故でもそうだった
日本の技術は優秀だから事故が起きない「安全神話」が作られた
それも日本が神の国だから戦争に負けないという奢りになっていたのである
宗教もカルト的になるとそうなるのである
神の国だ仏の国だとなり常勝なんとかとなり奢るようになる
宗教は今やほとんどカルトである、集団化したのはカルトである
そこにまた異常なうぬぼれ、奢りが生まれてくる
仏が味方しているから勝つとか戦争にも勝つとか選挙に勝つとなってしまうからである
そういう過ちを犯さないために政教分離が法律化したが守られていないのである

とにかくカルマというときその家々のカルマが必ずある
その家の家風とかもある、そこには悪い家風もある、そしてその悪い家風に染まるから結婚は怖いのである
昔は家と家の結婚となっていたのはその人を選ぶより家を選んでいたのである
今は人を選ぶからかえってその家のカルマを受けやすいのである
もちろんいいカルマもあるからすべて悪いとはならない、でもカルマとは悪い方に働くのが多いのである

事業を起こすことを問題にしたのは何か事業というのは戦争ともにているのである
戦争も事業だし国家でも経営することだから国家の指導者は経営者になっているのである経営の失敗が戦争の敗北だったとなるからだ
事業を起こすことは20人に1人しか成功していないとかまれなのである
そこには運があったりもする、いくら優秀でも成功するとは限らないのである
だから運命を支配する者が神でありその作用で人間の運命は決まるともなる
人間の運命を決めるのは人間ではできないというとき神が決めるというとき謙虚になる

原発でも科学技術というのは人間が作り出したものであり神が作ったものではないから万全ではないのである、だから事故が起きてとりかえしのつかないことになったのである
つまり人間の奢りが打ち砕かれたのである
そこに神官のようにあった科学技術者も無能化されたのである
その被害があまりにも大きいのでその人たちは高きものだったか卑いものとされたのである、もはや恨まれる者ともなったのである

何か他人の家のカルマと言っているが私自身の家族にもカルマがあった
姉は優秀な女性だった、体力もあり度胸もあり男まさりでありそれで感心していた
でも最後に認知症になり馬鹿になったときほど驚いたことはない
それも不可解でありなぜなのだろうとなった
人間が無能化される、馬鹿になるという驚きである
銀行から金すら下せなくなったからだ
そして(俺は優秀だ)と最後に言って死んだのである
それはニーチェが私は神だと言って死んだのとにている
ただ認知症は今や老人病でありみんながなる
でも人間が無能化される恐怖が認知症にあるのだ

優秀な人→無能化

こういうことが人間に起きる、原発事故で原発で働いていた人たちは科学者でも選ばれた優秀な人たちだったのである
でも事故になり無能化されたのである
人間は万能ではないからそういうことが起きてくる
つまり原発を操作する核を操作する能力が人間にはないからそうなったのである
そして人間が作りあげた文明自体が崩壊してゆく
この辺で起きたことは文明崩壊現象だったのである
なぜなら放射能汚染で住めなくなるということがそれを証明したのである
これは人類の未来を暗示しているのかもしれない
文明は崩壊して自壊して人が住めなくなる、それも人間の奢りからそうなったのかともみるのである

2019年09月25日

人間は出会う人が大事(出会いが決める運命と損得)


人間は出会う人が大事(出会いが決める運命と損得)

人間はつくづく出会いが決める、大学でカルト教団に自分が入ったのもたまたまゼミにいた人がその教団に入っていたからだった
それが最大の理由だったのである
その人と出会わなければ入ることもなかった、ただそれがすべて悪いとはなっていない
なぜなら大学は遊びの場所でありそこでただ遊ぶだけで終っていたかもしれないからだ

最近の自分の苦難を書いてきた、それも出会いが悪かったからだ
前から付き合っていた人が悪かった、事業に失敗して借金していたとかで余裕がなく借金に追われていた、そういう人は自分のことで精一杯であり他者を助ける余裕がない
自分から金をとることしか考えないようになっていた

後に家の手伝いに一時来ていた人は泥棒だった、そこで大金を失った
これもそもそもそういう人と出会ったことでそうなったのである

他に地銀の人が来たがこれもリーマンショックのとき半額になった株が元にもどり上がり調子のとき別な投資信託に株を売ってまわした
結果的に損した、その地銀の人は全く株のことを知らないのに知っている言っていた
私もプロだと思いまかせた
そして自分には株でも何でもそういう投資のことがわからないし時間もないからまかせたのである
地銀の営業の人の頭にあるのはノルマを果たすことだけであり地銀自体が今や余裕がないから客をもうけさせることなどできない、今は客から金をいかにして巻き上げるしかないのである、それはゆうちょでも同じだったのである
時代が変わってそうなっていたのである

なぜ人間はこうして出会いが運命まで決めてしまうのか?
そもそも犯罪に逢うということはそうした犯罪者と出会うからそうなる
犯罪者がそんなに多い訳ではない、でもそこでたまたま出会うことが最悪だったなるのである

大工さんに修理を頼んだが実際は直っていなかった、でも金ばかりとられたというのもそうである、出会いが悪いとなんでも悪い結果になる
病気でもいい医者と悪い医者がいる、いい医者に出会いは病気も直るが下手な医者にかかると病気は悪くなり早く死ぬこにもなるからどういう医者と出会うかが問題になる
でも田舎では医者は限られているから選ぶことはなかなかできないから損になる
それは教育でもそうである、いい先生に出会えばいいが悪い先生に出会いえば影響が大きいのである 

そもそも人間の運命はどんな母親から生まれてどういう家族で育つのか決められている
それも出会いであり出会いは運命だともなる
結婚だって出会う人によって決まる、どういう人と出会い結婚するかで運命が決まる
そして人間は出会うという時、意外と出会う人は限られている
そしてその限られた人の出会いで運命も決まる

良かったのは仙台から来た優創建というユニットバスの会社だった
百万で作ってくれた、地元だとガス会社では200百万かかると言われたからだ
知っている人に頼むとその人はプロではないから300万かかったのである
その会社は良心的であり仙台から来たとしてもそれだけ安くできたのである

人間の運命を決めるのはいろいろある、でも出会う人に左右されるというのも確かである住んでいる場所でもそうである、どうしてもこの辺だと医者自体が少ないのだから都会のように医者を選ぶことができないからいい医者と会えないのである
そういうハンディキャップが田舎にはある
金融機関でも都会のようにいろいろないか相談もできないのである

とにかく人間はどういう人と出会うかが大事になる
出会う人によって運命が決まってしまうことがある
人間の運命を決める要素はいろいろある

●住んでいる場所(故郷)

●生きる時代

●出会う人

この三つが運命を決める、住んでいる生まれた場所の影響が本当に大きい、田舎と東京に生れ育つ人では環境が違い過ぎる、そこにはいい面と悪い面がある
ただ自分は田舎向きであり老人になったら今では人ごみが嫌になり仙台にすら一年に一回とかしか行っていない、老人になるとどうしても田舎がいいとなる、それはその人の性向にもよる

また出会いというというときどんな本に出会い読むかということも大事である
本も人との出会いとにているからである
でも田舎だと本自体が売っていなかった、この差が大きかったのである
仙台まで行かないと専門書も売っていない、売っているのは売れる本だった
「冠婚葬祭」とかの本が百万部売れていた時代である
ベストセラーになった時代である、それはそういう本しか田舎には置いていなかったのである、でも本というのは莫大な量があったのである
それが読めなかったことは相当なハンディキャップを背負わされていたのである
今は古本が安いので集めている、すると知見が拡大してゆくのである
インタ−ネットでも論文が読めるとかなり知識が田舎でも得られるのである

なぜ出会いが大事かというとどこでもそうだろう、会社でもいい上司に逢うのとそうでないとなると苦痛になりやめたりする、でもいい上司に逢えば仕事もはかどるとなる
つまり秀吉でも信長に出会わなければ出世はできなかった
信長が優秀だったから秀吉も才能を活かせたとなる
才能だってそうなのである、それを認める人がいないと伸びないのである

今になっても自分がこんなに俳句とか短歌を作っているけど30過ぎてもいいものが作れなかったし才能がないとされていたからだ
だから才能でもそれを認め伸ばしてくれる人がないなと活かされないのである
それも人の出会いによることが多いともなる

第一出会いが大事だという時そもそも親と出会うということが運命を決めているのである親が悪いとどうしても初めから相当なハンディキャップ負うことになるからだ
私の場合は親が良かったからこうして自由に生きられたとなるからだ
才能も伸ばせたとなるからだ

だから出会いというとき良縁と悪縁がある、それは結婚でもそうである、その縁がいかに影響するか、良縁になればいいが悪縁になると悲惨になる
そして人間の不思議は良縁があっても悪縁を選ぶことが普通にある
良縁があってもそれを切るのが人間なのである

例えば天国があるとする、悪人はそこにはいられなくなり自ら進んで地獄に行くのであるそういう天国にはいられないのである、悪のある場所が住みやすいからそうなっている
だからこの世は悪人にとっては住みやすい場所なのである
天国となるととても住めない、自らこの世に帰りたいとかなる
良縁を切ると悪縁が入ってくるというのもそうである
むしろ悪縁をその人自ら選んでいるのである

結局最後は結果論でありもういろいろ言っても過去は返ってこない、こうすればよかったとかあうすれば良かったとかいってもどうにもならない、すべて結果は老人になれば出てしまったからである、後は死ぬだけだとなってしまったからである
ただこれからの人はこうして生きた人のことを参考すにすべきだとなる
40才になったら何もできない、人生も終わりだと嘆く人もいる
それだけ時間は過ぎるのが早いし出会う人も極限られている、後は「さよならだけが人生だ」となってしまうのである

「若き日に神を覚えよ」というとき若い時を神を知らなければ出会わなければ後は出会うことができないともなる、これも厳粛なことだと思った
若い時はいろいろなことに目を奪われるがそうしているとたちまち青春は過ぎるのであるそして浦島太郎のように白髪の老人になって時は戻ってこないのである
後は死があるだけだとなってしまうのである
玉手箱を開けたら夢のように煙となってすべては消えたとなる
そしてただ茫然としているだけになる、人間はみんなそういう繰り返しだったのである
そういう人間の本質は技術がいかに変わっても変わらないのである
だから諺を今でも活きている、「金の切れ目は縁の切れ目」というのも過去にもあり今はこれが極端になっていることでもわかる
そういうことは時代が変わっても変わらないのである
それは人間の欲とかがなくなるわけではない、いかに人工頭脳が優秀になっても変わらないのである、人間の欲がなくなることはないからである
それで諺が依然として通用していることでもわかるのである




2019年08月23日

「悲しむ者は幸いなり」母は悲しむ人だった (石の涙(詩)−家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」)


「悲しむ者は幸いなり」母は悲しむ人だった

(石の涙(詩)−家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」)


家を建てる者たちが捨てた石。それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ』

家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった
(マタイ21:44)

イザヤ書28章・・・・・・尊い隅の石
「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、固く据えられた礎の、尊い隅の石だ。7」28:16
 
 石の涙 

石が涙を流す
じっと耐えていた
石から涙が流れる
私の中にその石をかかえている
それは死んだ私の母だった
苦労して生きた母だった
目立たぬ母だった
私の中にその母が生きている
百歳まで生きた母だった
人は死んで何を残すのか?
その人生を残す
骨や灰にその人はない
その生きた人生にその人がある
その生はまた誰かの生となる
その人生があなたの力となる
死者は生者の中に生き続ける
死者はあなたを見ている
かくて人はその生をおろそかにできない
人生はあなただけのものではない
必ず周りに後の人に影響する
カルマともなる
あなたは今苦しい
あなたは今悲しい
でも耐えねばならない
ああ 石は涙を流す
しかしその涙は真珠ともなる
「悲しむ者は幸いである」
汝は生きねばならぬ
耐えねばならぬ
苦しみ悲しみ生きた者がいる
その死者があなたを見ている
あなたの生は人生はあなただけのものではない
後の世の人にも影響する
隅の石が後の世の柱となる人生
そして死者はあなたをじっと見ている
安易な生をおくるなかれ
その生はむなしく消える
あなたは恨んではいけない
苦しみと悲しみに生きる生
石の涙を流す人生
その涙が真珠となる人生
そしてあなたは死んでも同じように生き続ける


これは試みを経た石、固く据えられた礎の、尊い隅の石だ

試みを経た石とは人生を悲しみ苦しみ生きた人のことだろう、この世とは楽しむ場所ではなく苦しむ悲しむ場所なのである
だから「悲しむ者は幸いである」という意味を理解できないのである
どうして悲しむ者が幸いなのか?誰もこういうことを望んでいないのである
それは別にキリスト教徒でなくても人生は不可解である、ただ人間は必ずこの世ではいろいろなことで苦しみ悲しむ者としてある
そういうことがさけられないのである
私は楽しみ笑い暮らして人生を終えた、何の苦しみもない悲しみもないという人生があったならどうだろうか?
そういう人生を望むし誰も苦しみ悲しむ人生を送りたくないのである
貧乏な人生だって送りたくないのである

でもこの謎は尊い隅の石だということにある、中心の石ではない、目立つ石ではない、忘れられた石でもある
それがなぜ柱の石となるのか?
つまりこの世では中心となるのは偉い人達であり地位ある人達だと思っている
この世を動かしているのは決して隅の石ではないのである
ところがこの世は実際は大勢の庶民から平民から成り立っている
一部の人ではない、そういう庶民がいてこの社会がありうるのである
だからこそその隅の石が尊い石だとなる、でも現実に常に上級国民がいて下級国民がいて下級国民はただ虐げられるだけだとして不満が大きくなっている。 

高きものが卑(ひく)くされ、卑(ひく)き者が高くされる

これも原発事故であった、「安全神話」を作ったのはみんな高き人たちだったのである
政治家から官僚から科学者から学者からマスコミとか現代社会で権力をもつ人たちだったのである、高級国民だったのである、それが事故でその権威を喪失して卑いものとされたのである、だからこの言葉が現実化したのである

しかしこの世を社会を支えているのは隅の石であり目立たないものでありそれなくして社会はありえないのである
医者がいたとして医者は優遇されているとなるがその下に看護師がいて医者でもありうる
医者だけでは何もできないのである、すると隅の石とは看護師になる
隅の石となって働く人々がいて病院でも成り立つ、病院で掃除する人でもそうである、医者が高級な仕事としてあり掃除などは下級の仕事だとなる、でもやはり病院を支えていることには変わりないのである

明らかなことは経営者とかなるとそうしてただ上に立ち威張るだけではできない、その人は事業を起こしても経営者になっても他者のために物一つを持ちたくない人だったのである
ただ上に立ち威張っていたいだけだった、他者のためにするというより他者より上に立つ優秀なものとして見せたいために事業を起こしたとなる、技術者でもそのこと自体に動機に問題があった
原発事故でもおかしなのは原発が爆発したとき技術者が心配していたのは原子炉でありそこに生活していた人たちではなかった
その時率先してすべきことはそこに住んでいる人たちの安全をすみやかに計ることだったのである
でもそこに住んでいる人たちのことは眼中になかったのである

この世を支える者は隅の石だ

悲しむ者は幸いである

この言葉は理解しにくい、なぜならみんなそんなこと望んでいないからである、ただそういう例が死んだ私の母には言える
それでも母が理想的な人だったかとなるとそうではなかった
苦しみ悲しむ人だったが庭が無駄だと花が無駄だとか一切金にならないものは否定していたのである、そういう生い立ちがありそうなったともなる
働かされつづけていたからである、何か余裕があることをできなかったからである
趣味なども一切ない人だったからである
それも異常化していた、そういう親のもとで育ったらどうなるのか?
この世の美とは関係ない索漠なものとなっていた、だからどうしても苦しみ悲しむだけの人生が肯定できないのである
確実に楽しみ笑う人生も不可欠なのである、もし毎日苦しみと悲しみの人生だったらもう地獄になる
快楽しろというのではない、なんらか健全な楽しみがなかったら人生は息詰まるようなものになる
飲めや歌いやではない、苦しみ悲しむばかりの人生は肯定できないのである 

ただもし苦しみ悲しむこともなければ人間は浅薄になる、だから必ず苦しみと悲しみは人間には必要なのである
だから悲しむことが私にはなかったという人がいたらその人は人生をについて人間について何も知らず終わるとなってしまうのであるそしたらどんな宗教でも理解することは不可能だとなる
飲めや歌いやで何の苦しみ悲しみもない人生だったらそれはかえってむなしく消える
家族でも何か苦しみがあり協力するとき家族になる、それは血縁だからともならない
家族の結びつきは夫婦でもそうして苦しい時があり結ばれ真の家族となる
もしそれがないと家族でも強く結ばれない、夫婦でもそうである、それは家族だけではない、何か苦難があった時、そこで協力したとき強い結びつきが生まれる、だから津波や原発事故でもそうである
苦難がありそこで協力して立ち向かう、そこに強い結びつきが生まれる
でも現実はばらばらになって結びつきが破壊されたともなる
こんなところには住みたくない、補償金をもらって楽した方がいいとなったのが大半でありゴートタウン化したのである
結局自分でもそうだが口では言うのは楽でも現実になるとそれだけ厳しいということなのである

夜のふけて虫の音聴きぬ隅の石


2019年08月12日

家族のカルマで苦しむ (カルマは次の代に受け継がれるから怖い)


家族のカルマで苦しむ

(カルマは次の代に受け継がれるから怖い)


過去に起きた不仲や議論から派生しているこうしたカルマは、原因を見つめ直して和解したり解決すべきであったのに、何世代にもわたりこれまでも無視されたり否定されてきたのであろう。そして次の世代にも同じことが引き継がれて繰り返されてしまうのである。

もし誰かが大きなカルマを抱えていて、その人の人生でカルマを解消し切れない場合は、次の世代へと受け継がれます。

先祖が罪を犯したら、血縁関係がある子供が、その罪を償わなければいけない場合もあるわけです。

兄が交通事故で死んだ、父親が違っていたし私の家にとっては負い目となった兄である
私は大学まで行ったが兄は集団就職で中卒で苦労した
そして結婚したが妻が不倫して離婚して死んだ
その娘がいたが児童相談所とかに一時あづかったとか不幸になった
ただ妻の不倫とか離婚とかになったのは兄の責任もあり私の家の責任に全部はならない
なぜなら別に当時集団就職は多かったからである
その人たちが全部不幸になったわけではないからである

いづれしろなんらかカルマを人は背負う、いい面でも悪い面でもそうである
そして長男長女が家族のカルマを背負うことになる
一応親戚だった人もなぜ今になって夫に苦労しているのか?
それはその母親が夫が若い内から重症の病気になってずっと世話しなせければならなくなったからである
そして娘はいい人と結婚したと思ったのだが夫が事業をはじめて失敗した借金を背負い苦労するようになった
これもだから不思議なのである、なぜなら別に事業など起こす必要もなかったのである
会社では技術者であり資格をもっていたからである
それでいい暮らしをできていたからである
だからそれがわからないし不思議だとなる
結果的に娘も夫で苦しむ結果となったのである

親が夫で苦しむ→娘が夫で苦しむ

まさにこれがカルマなのである

なぜそうなったのか?そうさせられたのか?

それは娘が親と同じ苦しみ負い親の苦しみを体験させるためだとなる?
親が夫のためにどれだけ苦しんだかを自ら体験させられるためにそうなった?
その影響が関係が薄い親戚にも自分にも回ってきたとなる
カルマは必ず波及する、兄弟とかなるともう逃れることはできない
第一事業することは親戚だけではない回りにいいにしろ悪いにしろ影響するから簡単に始めるものではないと思う

ともかく自分自身が自分の家のカルマを背負い介護や病気で十年間苦しんだ
その時助けはない、責められるだけだった
本当に七転八倒してきた、自分一人しかいなかったからだ
つまりそれがカルマだったのである

もう一人の親戚とももともと付き合いがなくうまくいっていなかったからこれもそういう継続で切れた、だから母の実家の墓参りはしない
こうして家族のカルマは必ずなんらか苦しみとなって払わされるのである

例えば金というのもカルマとなる、母の実家の墓を長男にあたる人が墓を守ってくれと
300万円で頼んだ、私は頼まれなかった
それで墓を守ることを頼まれた人はどうなるのか?
その実家の負のカルマも背負うことになったのではないか?
それはわからないにしても私は頼まれなくて良かったとなる

あなたは300万円もらいましたね
その責任を果たしてください

私は金はもらっていません
だから責任はありません

ともかく金もカルマとなり責任となっていたのだ
ドラマだったが金をもらったからとその義理と責任を果たすために殺人をしたヤクザがいたのもそうである
そこまでしなくてもいいがやはり金はわかりやすいカルマとなっているのだ
金とはなんらか具体的なカルマとなる
それは会社単位でもカルマとなる、何かもうけるにしてもそこに正当なものがないとそれがカルマとなり会社はつぶれる
だから地銀などでも苦しくて投資信託など売りつけたり本来の業務から離れてもうけているとカルマとなりそれが会社にかえってきてやがてつぶれるとなる、もうつぶれるようになっているからそうしているともなる

何か母の実家の墓は重いカルマを背負っていたからである
もちろん別に死んだのだからその人が墓を捨てるということもありうる
いづれはそうなるにしろやはりその人になんらかカルマがゆき苦しむとなるかもしれない正直その頼まれた人は異常人格者になっていたので怖くなり母の実家の墓参りもしない
つまり生前に家族でも親戚でもうまくいっていないと死んだ後もうまくいかないということである、その不仲は継続されたカルマとなっていたのである

まずカルマは苦しみとならないかぎり自覚されない、だから私の家族が介護となりその後のいざこざがあり自覚したとなる
そのカルマは過酷なものだったのである

人間は必ず人生でカルマを積んでいる

人間は別に個々人でもカルマを積んでいる、若い時に必ず過ちを犯す、それを軽く見ているが後で後悔する、それだけならいいがそれがカルマとなって現れる
例え法的に罰せられなくても苦しみとなって現れる
カルマの恐ろしさは結婚したりして子供ができるとその子供にカルマが受け継がれることである

カルマは一代で終わらない、子供に次の代に受け継がれる

人間はそれだけ生きることは責任を課せられている、自分だけでそのカルマが終わるならいい、必ず回りに子供にも受け継がれることが怖いのである
それを自覚しないのである、自分だけで終わると思っているのである
でも結局人間のカルマは消滅することはない
遂には人類もそのカルマによって滅びるとまでなる、世界史とはまさに人類のカルマとしかいいようがないからだ
なぜこんなに悲惨な戦争があったのか?それも人間のカルマだったとなる
もうどこの国が正義だなどないのである
アメリカが正義でも何でもないからである、原爆を落としたカルマは必ずアメリカにもいつか回ってくるかもしれない、そういう行為(カルマ)はいつか苦しみとなって現れるからである

ともかく墓をみたら石に赤茶色の垢のようなものをついていた、それを洗い落としたしたりした、唯一親戚となった人が墓参りに来るので一人で用意するのも大変だった
本当はもう切れてもいい親戚だけどやはりなんらかカルマがあり因縁がありつづいているとなるのかもしれない、今では兄の供養するのは自分しかいなくなったからである

お盆にはやはり死んだ人とか結婚した家ののこととかが話題になる
墓のことも話題になる、それがお盆だとなる
私の家は何か複雑すぎたのである、でもなんらか家族にはこうした問題をカルマを背負っていることは確かなのである

2019年08月05日

子供部屋おじさん(変な方向に行きやすい―犯罪化するのも怖い)


子供部屋おじさん(変な方向に行きやすい―犯罪化するのも怖い)

駅と自転車屋でその人と良く会う、その人のことを自転車屋で聞いた
しょっちゅう行っているから仕事も手伝っているようだから自転車のことを学んでいるのかと思った、自転車修理に来た人が番頭さんいないのかと言ったようにいつもいるからである
そしたら自転車屋の人はあの人はだめだ、何もしない、何もできないよと言っていたのは意外だった

何か役所に言って文句言ったとか自分とも関係していたのは駅で良くあっているからインターホンでJRの人と連絡していたという
そしたら駅長がきて何しているのかとなりオタクと言われたことに激怒したという
その人は役所でも文句を言って激怒した
その人がそんな人だと見なかった、何か話しないからおとなしい人だと見ていたからである、私は話していないからである

その人は何もしていない、本当に子供部屋おじさんなのである
他にも仕事しないでニートの人と二人くらいあっている
一人は何か本当に異常的だった、もう常識の世界から離れていた
ただ回りでは異常者と見ているようである、誰もつきあわないのである
何かそういう人はかえって社会から離れていて個性ある人に見える

老人で髪ぼさぼさの人がいる、外見を見ると仙人のように見える
それは原発事故避難してずっといる、スーパーで良く会うのである
でも話してみたら何かつまんない人だった
ただ外見が何か異様だからどんな人だと思ったがくだらない人だった
だから人間はちょっとでも話してみないとわからないと思った
外見が異様でもそれで個性ある人とはならないからである

その人は最初はどういう人かわからなかった、でも良くみると幼い顔しているのである
本当に子供部屋おじさんにふさわしい顔しているのである
ただこの子供部屋おじさんとは40くらいであり豊かな時代に生まれた人である
団塊の世代になると子供部屋をもっていた人はいない、貧乏だから子供部屋を与えられて勉強などさせられないのである
私の家もトタン屋根の雨漏りする家であり家には何もない、飯台一つと裸電球一つだったのである、本も一冊もなかった、知的な環境は何もなかったのである
それはみんな同じだったのである
だから子供部屋がないのだから子供部屋おじさんなどいるわけがないのである
なぜか私の家では店をしていて配達など子供の時一番働いていたのも不思議である
大人になって働くことがなかったから不思議だとなる
農家でも子供はその時労働させられたしそうして労働力として子供をもつということがあった、今でも発展途上国だとそういうことがある

ともかくその子供部屋おじさんは変な方向に行き危険にもなる
上級官僚に殺されたニート、子供部屋おじさんがいた
その人は小学生が運動会で騒ぐので怒っていたという
こういうことはかなり危険な状態なのである、何か変な方向に行く危険がある
それは自分自身がそういうふうにして30年間家にいたからわかるのである
アウトサイダーならニーチェとかヘルダーリンでも狂気にいたるが子供部屋おじさんはそういう天才とは違う、でも社会性が身につかないからまた大人として成長しないから
変な方向にいきやすいのである
だから何か異常に役所に行って文句を言ったり駅で何か駅長とかが来て文句を言っているのもそうである、そこに危険な兆候が出ているのである


ただ何でもいろいろな見方がある、youtubeでは親孝行だからいいとしている
その人は親と会えず分かれて暮らしていたからである
そして親とこれからどれくらい会うだろうと言っていた
これもそうなのかと思った
私は親とはほとんど60年間離れずに暮らしていたから親孝行だとなったとなるのか?
そうは思えないが何か親とそれだけ一緒にいると十分に親といたから悔いはないともなった、親とこうして一緒に暮らせない人はまた違った見方になるのだと思った
何でも人はそれぞれであり見方が違ってくるのである

なぜ上級官僚の親が40くらいの子供部屋おじさんなのかニートなのか殺したのか?
それは小学生が運動会で騒ぐのに激怒していたからである
それは確かに危険な兆候だったかもしれない、それで親が危険を感じたのである
何か社会から離脱して生活しているとずれてくるもてなくなるのである
ただ私があった大学生の子供いる60近くの女性は社会的には何も問題がない
でも異常人格者になっていたからそういう人は結婚して子供もって普通に生活して社会から認められていてもそういう人はいるとなる

ただ例外はあるにしろこういう人は変な方向に行き安いのである
だから役所に行って文句言ったり駅長につっかかって激怒したりするのもそうである
ただ私自身が駅にかかわって文句を言ったことがある
今の高校生の見守り役に前の自転車屋の人も文句を言った
それは異常でも何でもない、見守り役が異常なのである、駅のことは何もしない、高校生の見守り役しかしないというのはありえないからである
だから何か文句を言ったとしても異常とは限らないのである
正当なことで文句を言う人はいくらでもいるしそれを全部否定はできないのである

ただ子供部屋おじさんとかニートとかは何か変な方向に行きやすいのである
小人閑居して不善を成すというときこれも古くからあったことなのである
不善を成すということは犯罪にもなるからだ、人間は暇だとそうなりやすいのである
人間にとって暇は大きな問題なのである、だから暇からスクールになった
スクールは暇から生まれたことが良くそれを示唆しているのである
学問がないと暇を活用できないとなるからだ、ただ学問だけでも象牙の砦に閉じこもりこれも変な人になる、学問と言ってもあくまでも実地の社会を知ることが先にあるからだ
人間はやはり社会で社会的訓練を受けるのがいいとつくづく思う
それがないと何か常識からもはずれた人間になる、そして変な方向に行くこともある
人間とはそもそも何であれ偏り安い、それは何か経験するにしても極わずかしかできないからである

ただ一方で現代社会に適合できない人はいる
それを無理やり適合させる、会社員にさせるとかするのはいいのかとなるとそうはならない、学校でも不登校になる人がいる、でもその人はその人なりの勉強をすれば何か身につくかもしれない、その人は受験とかそうした試験ばかりの勉強が嫌でしないともなる
自分自身がそうだった、学校には適合できなかったからである
そういう人は別に普通にいるのである、学校とか会社でも社畜だとかして適合している人こそ異常だともなるからである
だから今になると団塊の世代がみんな企業戦士となり猛烈社員となったことはおかしいと思う、文系大学だと自由であり講義にもでない、そういう自由な生活をした人が良く会社にみんな就職したと思うからである
もっと会社とか社会からはずれた人がいてもいいと思ったからである
ただその時は経済的にできなかった

なぜこれほどニートとか子供部屋おじさんがいるのか?

それは経済的余裕が親にもあるからなのである
その理由が一番大きいのである、そんなこと貧乏な時代だったら絶対にできない
みんな働かされたのでありそんなことはできない、選択の余地もないからである
だから時代的そういう人達が生まれたのでありそれがただやはり社会性がなく危険なものとなるから騒ぐようになったのである 

こういう人に比べれば非正規でもロスジェネでも派遣でも働いている人は何の問題もないただその人たちにとって給料が安いということだけなのである
そこを解決すればすべて解決するのである、そうすれば結婚もして子供ももつのである
それは金の問題として解決できる
でもニートとか子供部屋おじさんは金では解決できない、そういう生活を変えることであり親が返って金を与えてさらに自立できなくなっているからである

この人たちが十年二十年後にどうなるのか?
それぞれ事情が違ってもそのカルマは恐怖になる
そのことを自分自身が体験してプログに延々と書いていたからである
誰も助けない、責められるだけになる、妻も子供いないのだから過酷になる
それに金もなかったら地獄である、そうして共倒れになり悲惨な人もすでに出ているのである、親が死んでその死体と一か月いたりとか親が子供殺したりする
そういう前兆のような事件が実際はもうすでに起きているのである  
数が多いことが大きな問題であり放っておけないのである

アウトサイダーとかするといるかいないのかわからない人たちであり何か社会の負担になどならないからである
そしてそのまま50でも60にでもすぐなってしまう、そして破綻する人が増えたり問題行動を起こしたり犯罪になったりする、それも何か危険なものとしてなる
京アニはわからないにしろ事件を起こした人はやはり41歳だったのである
この年は本当に厄年であり鬼門の年齢だと思うからである
それは自分自身がそういう経験しているから言っているのである

2019年08月02日

引きこもりから介護から孤独死へ (引きこもり(アウトサイダー)は文明から離れて自然と合一して巨大化する)


引きこもりから介護から孤独死へ

(引きこもり(アウトサイダー)は文明から離れて自然と合一して巨大化する


NHKのテレビで放送していたのは介護のために職場をやめて引きこもりになった
50代くらいでなった、これも悲劇である
なぜならそれまでは普通に仲間と働いていた、でも親が介護状態になりその人は一人っ子だからめんどうみるのが当たり前だと親に言われていた
親にかわいがられたからそう言われた
一見引きこもりは親を困らせるが最後に親を介護するということで恩返しになる
親の世話することができる、だから何もできないとはならないともなる

ただ引きこもりしていてそれが長くつづき親にとがめられても引きこもりがつづく
これは前のとは事情が違う、この引きこもりの方が実際は深刻である
普通にに働いていて介護のために引きこもりになるのは同情に値する
でも引きこもりしていて親を介護するとなるとまた違っている

なぜそもそも引きこもりがこんなに多いのだろうか?
それはロストジェネレーションの非正規雇用の特殊な事情があった
その人たちが引きこもりと重なっていたのである
なぜ引きこもりとかニートとかに私が興味があるのか?
それが自分自身が30年間引きこもりだったことなのである
20代何か放浪状態にあった、肉体労働とかしていた、そこで危険な目にあったが生き延びた、でも30以後は職にもつかず引きこもりになったのである
ただ家に閉じこもってはいない、日本全国を旅していた
最初は鉄道の旅であり次に自転車の旅であり50以降は世界を旅するバックパッカーになって終った、60以降が親の介護になり二人いたので七転八倒して一人で介護した
そして最悪だったのは自分自身も病気になったことである
二回病院に入院したし手術もしたのである

その時のことをプログで延々と書いてきた
一切助けはない、ただ責められるだけだった、そして自分の家に来た人がみんな金に困っていたのである、だから大金を盗まれたり借金している人から金を要求されたり弱った時金で攻められてきた、一切自分が苦しいことなど考慮されなかったのである
それは結局自業自得の自分のカルマだったと思いそのことは恨まない
30以降自分は楽しすぎたのである、三食つきであり食事はいつも出されているし自分は何もしなくても良かったのである
私はだから殿様のようになっていたのである
そういう生活が30年つづいたということもふりかえればこんな人生もないと思った
ただ最近引きこもりのことをしきりに言うので何なのだろうと見ているのである

つまり団塊の世代で引きこもりはいないからだ
それは極わずかのアウトサイダーとなるだろう、みんな高度成長時代で猛烈に働いていたからである
なぜ自分がそうなったのかというと複雑だけど自分の家の特殊な事情でそうなったのである
なぜなら自分はそうして引きこもっていても責められるさとがなかったからである
働けとも言われたことがないのである
こういうことはなかなかありえない、引きこもりの人は家の人から常に言われているからである
だから自分のような人は団塊の世代は本当にまれだった、それができたのは自分の場合は特赦な家族の事情でそうなったのである

引きこもりがマイナスの点ばかり指摘されているけどこれにもプラスの面があった
人間の不思議は何でもマイナスとプラスの点が生まれることである
それが何か人間の不思議であり人間は全く違った視点で見れる
宗教自体が全くこの世の否定から始まっていることでもわかる
第一宗教者は何をしているのか?何か生産活動してきたのか?
毎日なぜ籠って座禅を組んでいるのか?
そんなことが許されるのか?これは明らかに引きこもりではないか?
そういう人たちをなぜ貧乏な時代に養っていたのか?
その時汗水垂らして農民は働いていたからである
そうして生産活動しない僧侶の数が相当に多かったのである
それらの人は引きこもりだったのかとなる

そういう人たちは個人でないが集団で寺に引きこもっていたとなるからだ
そういう生産活動をしない人たちが社会で容認されていたのである
引きこもりの人を何とか働かせようと社会に適合させようと腐心している
でもそもそも働きたくない、働くことを拒否している人をそうするのはかなりの困難がある
それより社会から離れて籠り修行する宗教のようなものとしてみる
なぜそういうことを言うかとなると社会から離れて暮らすことは精神の修養になるからだ沈黙の行をつづけることは精神の修養である
社会では会社勤めるにしろ必ず何かしら悪を成すのである
それがわかりやすいのはまずウソをつかずに社会生活を送れないということである
会社員として勤めると嘘をつくことが必ずある
銀行員などは固い職業でそういうことないと思ったが嘘をついていた
客に投資信託などを売りつけていた、それは客はもうからない銀行が手数料とるためだけのものだったのである
そういう嘘をつくことが常に社会ではある
第一嘘をつかないで生活するとなると僧院のような所に社会から離れて暮らすほかないのである、つまりそれが引きこもりなのである僧院とかは集団で引きこもりしてそれが社会から許された場所だったのである
人間はしゃべりすぎるのである、自然は沈黙しているが人間は絶え間なくしゃべるのである、社交とかでもそうなる
巧言令色になるのである

こんなことを考えるのは時代が変わると過去の見方が変わるからそうなる
ただ引きこもる寺とか僧院がなくなったから家で引きこもるようになったとも見る
そして引きこもりにも大きな効用がある
それは社会から離脱したことにより自然と合一するようになる
禅宗だと沈黙の行をつづける、それはいいことばかり言って客をだまして金融商品でも売りつけることなど社会では普通にある
でもそうして引きこもり社会かは離れて修行していれば嘘をつく必要がないのである
そうすると精神の修養になるのである

何かそして私は文明から離れて大自然と合一するように修行していたとなる
それは引きこもっていた結果自ずとそうなったのである
だからニーチェのようになったともなる
社会自体を文明自体を否定してなきものとして大自然の中に精神を合一させたのであるそうしてそこから詩を作っていたとなる

神の技と人の技

(Human beings unite with the universe and become a Giant)

時に人の技を安め
その技をとめよ
大いなる無用の空間にこそ
神の真の用がある
大いなる山は沈黙して
太陽は静かに輝き移る
人の技は限りなく疲れる
決してその技は完成しない
神の技はすでに完璧に完成している
人はただそれを讃える者としてある
その広大な海、山々、宇宙
そこに自ずから神の歌が響き渡る
精妙にして雄大なる楽が鳴り響きわたる
時に人の技を休めて
大いなる神の歌に耳を傾けよ
荘厳なる沈黙にひびく神の歌を聞け
一大ハーモイのシンホ二ィーを聞け
山は今日も深く黙しつづける
その内に向かって強く堅固に不動に
神の技はすでに完成して与えられている
人よ、なぜなお人の技を付け加えて労するや
無用の用のなかで人は大きくなる
汝は神の子にあらじや
汝に糧は与えられしにあらじや
神を賛美する者なれば・・・

宗教とかは何だったのか?それは精神の修養を修行を大事にした
騒々しい社会から離れる時そこには大いなる沈黙の山岳がある
その山岳と精神も一体化するのである、修験道とかがそうである、山伏とか法印とかが一部落に1人とか必ずいたのである、その人たちも別に働かずに暮らしていたとなる
今でも登山は人気である、昔は修業として登山していたのである
そういう人たちは社会から無用の人たちでもあった

真の神の用は社会にあるのではない、文明にあるのではない
大自然に宇宙にこそある、そこにこそ神の技があり人間の技なる文明には栄光はないのである、それを証明したのが原発事故だったのである
だから社会や文明に使われて疲弊する人間は本来の人間ではない
人間はそうあるべきではない、なぜなら人間に神が与えたものは神の技をほめたたえることだからである、文明に栄光ないのである

東京のような都会に埋もれて蟻のように働かさせられて絶え間なく不満を言っているのを見ているとこっちも苦しくなる
そこに人間の本来の生はないのである
人間は壮大な自然と共鳴して生きる時生きていたのである
文明にそういうものはない、だから文明自体が否定されるべきとなる
働けとかいう時、それは文明に使われて生を消耗させることなのである
そういう逆転の発想も思想もあった、それが宗教であり老子とかの思想なのである
だから働けと強要することは人間を生きることを否定させて奴隷にすることなのである

現実に確かに原発を作った科学者がそうだった、その科学者が働いたことによりこれだけの災いがもたらされたからである、働くということがすべていいものとして肯定できないのである
なぜみんながこれだけ毎日あくせく働いているのにその成果はなになのか?
東京の怪物都市となっているだけなのである、そこに自然にある壮大な美はないのであるそれは結局徒労だったともなるのである
だから引きこもりは実は巨大な人間になるものとしてあったともなる
働かないからと社会に文明人に卑屈になっている姿は情けないとなる
社会性は必要でも人間はそんなものではない
人間は大自然と宇宙と合一して巨大なるものとして成長する
それが神の子たる人間の目指すべきものである

いづれにしろいくら働くとしてもしょせん複雑な巨大な文明の歯車にしかなれない
どんな優秀な人でも歯車にしかなれないのである、科学の発明にしももう一人の力ではどうにもならない
それだけ複雑化しているからそうなる、科学でももう限界に来ているのである
東京のような都会を見ればわかる、用で埋め尽くされている
無用の空間、空地もない、そこで人は消耗されるのである
そこでは余裕がない、絶えず利益を追っている、血走っているともなる
金に追われている、利益を求めているのだがそれが社会にとってどれほど有益なのかもわからないのである
それはあくまでも社会の用であり曽木社会とか文明から離れて無用の空間がありそこにこそ真の神の用があるともなるからだ

社会から離れてひきこもるときそこに文明は消えて巨大な自然と宇宙が現れるのである、その中で人間も巨大なるものとして成長するのである
確かにそれが極端にすすむとニーチェのようになる
ニーチェは神ではない、偶像である、でもなぜ現代人は文明人はニーチェに惹かれるのかそれはあまりにも人間が文明の中で矮小化された結果なのである
それに反発する時エネルギーが普通人とは違う天才はアウトサイダーとなったのである
ただ遂に30年引きこもっていれば普通の人も巨大化することはありうるのだ
そういうことを上野霄里氏が言っていた
彼もニーチェのような天才だったからそう言ったのである
それでも普通の人でも30年も引きこもっていると何か異常化もするのだが巨大化する
それは大自然と合一しようとする力が自ずと働いてくるからである
反作用としてそうなってゆくのである、それを自分自身が経験してきたからである
それでこういう詩を書いているのもそうなのである

ともかく引きこもりが40代以上で50万人とかまた二十代からでも40万人とかいる社会とは何なのだろうか?
これはやはり文明の反作用としてそうなっている
またそうして働かなくても生活できるとはいうこともある
そういう人達から何か巨大な人間が生まれるのか?
みんなが社会からただ病人とか落ちこぼれとか役にただずとか言われるだけなのだろうかそれがなんとも数が多いから何なのだろうとなる
そもそもそれだけの人間が働かないで暮らせたというのも現代である
問題があるにしろ一応暮らしていけたのである、親を頼みにしても暮らしていけたのである、それは法印とか山伏とか寺に引きこもる僧とかもそうである
だから時代が変わってそういう人達が引きこもりなのか?
なぜなら引きこもりの人は結婚もしていないということでも共通しているからである

最近AIとかロボットとか盛んに言い働かなくてもいい社会が来るというのもそうであるそれのいい面はそうなれば人間は別に社畜にならなくてもいいし文明の部品とならなくてもいい、無用の空間で遊び自然と合一する生きるとかなる
無理やり強制されて働かなくてもいい時代が来るとなる
実際は人間はそんなに働かなくてもいいのである、その働く思想がどこからきたのか?
それは農業社会から来たのかもしれない、とにかく農業は畑で野菜を作るにしても暇なく草むしりをすることが強いられる、すると休むことができない、勤勉になるのである
一方で牧畜民とか遊牧民は羊飼いでも何か暇な面がある
それで想像にふけっているとかある、そういう違いがある、農業は勤勉さを生むのである

人間はとにかくなぜこれほど働くことが奨励されるのだろうか?
働くことが必要でもそんなに働く必要があるのか?
それが疑問なのである、だから働かない無職は犯罪者と同じになるのである
ただそれがAIとかロボットとか機械化で働かなくてもいい人が膨大に増えたらどうなるのか?一応ベーシックインカムとかで生活費が供給されるようになったらどうなるのか?もう強制的に働くことはしなくてもいいとなる、その時働かなくてもいい価値を無用の価値を追求できるともなるパラドックスがある
結局これも時代の変化で価値観が変わる、がらりと変わるからそうなるのである
そもそも引きこもりとか無職がこんなにいること自体がやはり社会の変化でそうなった
その人たちが批判されても現実にそれだけ存在している
それが可能な社会だからいるとなる
                                    
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機械は壊れた
機械は機能しなくなった
我々は機械の歯車ではない
我々はもう働かない
我々は歯車として働くことに疲れてしまった
我々は機械の歯車であることをやめたのだ 
我々は一人一人個性ある人間なのだ
その個性を示すことが人間が生きることなのだ・・・・・

引きこもりはわからないにしてもアウトサイダーはまさにこれだった、文明の歯車として機能しなくなった人である
でもそれこそ人間的な人として個性ある人となるという逆説がある
ただ正直ニートとか引きこもりは何か人間的に劣っている人たちが多いのが現実である
子供部屋おじさんとかもいる、これもうまい名付け方だなと思う、ことおじとかなる 
何か子供のような顔していて大人になっていないのである
何か第一社会人でないものは結婚しないとかしていないと何か幼稚なのである
人間的に成熟しないのである、それは自分自身がそうだったのである、大人になれないのである
だから実際はやはり社会性が欠けて人格的に大人になっていないのである
人格的に何かが欠落しているのである、そして小人閑居して不善を成すとなる、何か異常な犯罪者にもなりやすいのである
アウトサイダーというときニーチェもそうだがヘルダーリンとかもそうであり芸術家でも狂気化していることでもわかる
本来社会生活で養われるものが養われずにそうなったともみる、もともと天才にはそういうことがあるからだ
だから私が言うアウトサイダーとはまた別物として引きこもりとかニートはある
ただ自分自身がそういう生活をしていて遂に死ぬとまでなったので何なのだろうとなってこの一文を書いてみたのである




2019年07月29日

祭り(祀り)の起源は死者の供養であり怨霊供養 (神への畏れを無くした現代人の危険)


祭り(祀り)の起源は死者の供養であり怨霊供養

(神への畏れを無くした現代人の危険)


「まつり」や「まつる」という古語が先であり、その後、漢字の流入により「祭り」・「奉り」・「祀り」・「政り」・「纏り」などの文字が充てられた。現在は「祭りと祀り」が同義で「祀りと奉り」が同義ともいわれるが、漢字の由来とともに意味も分かれているので下記に記す。

「祀り」は、神・尊(みこと)に祈ること、またはその儀式を指すものである。これは祀りが、祈りに通じることから神職やそれに順ずる者(福男・福娘や弓矢の神事の矢取り)などが行う「祈祷」や「神との交信の結果としての占い」などであり、いわゆる「神社神道」の本質としての祀りでもある。この祀りは神楽(かぐら)などの巫女の舞や太神楽などの曲芸や獅子舞などであり、広く親しまれるものとして恵比寿講などがある。その起源は古神道などの日本の民間信仰にもあり、古くは神和ぎ(かんなぎ)といい「そこに宿る魂や命が、荒ぶる神にならぬよう」にと祈ることであり、それらが、道祖神や地蔵や祠や塚や供養塔としての建立や、手を合わせ日々の感謝を祈ることであり、また神社神道の神社にて祈願祈念することも同様である。


例えばこの図は1887年頃の大阪の市街地と周辺の村々です。 それぞれに神社や祭りがあります。 他の地域からはあまり祭りを見に来ませんが、 一生懸命祭りをやっています。


祭りとなるとそれは村ごとにあり多様だとなる
とにかく日本にはなぜこれほど祭りがあるのか?
それは共同体が無数に分かれてあった、村単位で生活していたからだとなる
その村村に祭りがあったとなる

祭るとは神を祀るからきている、日本ではその神とは何かとなると先祖になっているのが多い、また死者である、死者が神となってゆく
そのことは各自の家でも家族が死ぬと最初は悲しいと喪に服したとしてもそれが時間たつと家族であっても何か抽象的な存在になる、そしてカミとなり祭りとなる
だから死者を祀りそれが発展して祭りとなった

そのことを象徴しているのが死んだ人がもし怨霊とかなり祟るということを畏れた

「そこに宿る魂や命が、荒ぶる神にならぬよう」にと祈ることであり、

これは本当にそういうことがある、例えば戦死者がそうである、3百万にもの日本人が死んだというときそれをどうしたらいいのか?
それで靖国神社が靖(やす)かれとして慰霊して祀っているのである
だから祭りは基本的に死者を祀ることだとなる
また不遇に死んだ人もこの世に多いからそういう人が荒ぶる神にならないように祈るのである

実際に家族でもそういうことがある、ある人は私に最後に親戚の人が「ひどい娘だわ」と電話で言ってすぐに死んだのである
その家族のことは私の家ともうまくいかず私自身も何十年も関係していないから事情がわからなくなっていた
その事情を語ると長くなるからここでは省くにしろこの母親は実の母親ではなくても一番世話した女性だったことは確かなのである
その母親が病気になったときめんどうもみなかった、でも介護もなにもされなくて白血病ですぐに死んだのである
ただ最後に自分は関係ないと思ったが電話で「ひどい娘だわ」と言い残して死んだのである、それが自分の耳に残っているのだ

それがまたなぜなのかというと私の家の母親はその実家から出ているからだ
そしてその娘は私の母親のところに介護しているとききて
「おばあちゃんは金があるんだから金でめんどうみろ」と血相変えて去って行ったのである、そこまで言えるのか?
ただ5歳まで一緒にいた実の親がいて施設に入っている、認知症になっている
何の情もないのだが金があるから施設に入れているだけなのである
これもだから悲惨だなと思う、そういうことがあり私もその女性を呪うということまである、ただそうされてもしかたがないというか、そういう面があったからあまり恨まない
でもその女性を世話した母親はそうではない、だからこそ悔しいとなり「ひどい娘だわ」と言って死んだのである、本当に信じられないひどい娘だったのである

なぜか不思議なのはこの女性は三人の母親がいてみんな最後は不幸になっている
一番世話になった母親にはそういうことがないと思った、いろいろあってもそこまではありえないと思った、もう60近くになればそんなことありえていと思った
でもその女性はいろいろな事情とは別に異常人格者になっていたのである
何か奇怪な夫婦となっていたのである
なんらか家族でもいろいろありそこに暗い物語が隠されている
それで墓には「怨霊供養」という小さな碑が立っているのを見かけるのである

いづれにしろ祭りとはいろいろあっても基本的に死者を祀ることから来ている
死者を恐れたから祀りがあり祭りと発展した
死者の供養が怨霊を鎮める祭りだともなる、死者を恐れたために供養するためにそうなった
ただ祭りとなると世界中でもあるが特に日本では多い、それは日本では村ごとに祭りがあるからそうなる、それでフランスの人が日本の祭りを全国を旅して見て歩いていたのである、日本の文化の特徴として祭りがあることは確かである
日本ではそれだけ古いものが残されているのである

面白いのは高校野球も一種の祭りとなっているという、日本的な祭りであり儀式だというその見方もやはり野球が単なるスポーツではなく夏の一大祭りであり儀式だとするとき何か高校野球だけは他のスポーツと違っている
勝ち負けがあってもどれだけ誠心誠意戦ったかを評価する
そこで犠牲も要求される、危険なスライディングとか何かそれは犠牲的精神なのである
無駄でもする、特攻とにている、そして投手でも極限まで投げさせる
それで今度大船渡の佐々木投手は体を痛めるからやめさせたのである
それは一つの大きな決断だったとなる
ただ高校野球は儀式だとして祭りの要素があるものとして見ると納得がいく
甲子園はその聖なる場所なのである、そこには穢れがあってはならないのである
それで穢れが拒否される場所であり犠牲がある場だともなる
そうなると何か単なるスポーツで勝敗を決めるものとも違っているのである

ただ必ず世界中で祭りがある、犠牲というとき牛が関係して牛を殺して神に捧げたからである、家畜を羊もでも殺して捧げた、豚でも捧げた、そういうことは世界中である
神に犠牲をささげるのが祭りだったということがある
それは日本でもそういうことから始まっている、神は犠牲を要求してきた
それで聖書ではアブラハムのイサクが神に犠牲として捧げることを命じられたが羊が代わりに犠牲として捧げられたのである
他でも必ず神に犠牲として捧げられる儀式はどこでもあった
それでマヤ文明なのか、そこでもスポーツの競争が走る競争が行われていた
そこで一番早く走ったものは神に犠牲として捧げられた、そうなると普通は参加すらしたくないとなるが競って参加したという
そして競争に勝ちの望んで犠牲になった、それは名誉だったのである
だからその競争に勝つものは強健なものである者であり選ぶ基準だったのである  

宗教とはそもそもこうした神に捧げる犠牲から始まっている
キリスト自体が神に捧げる犠牲だったのである、それで神を和らげるともなる、そうでないと神からの怒りがあり人の世に大きな災いが起きるとなるからだ
何か津波とか原発事故にはそうした神への畏れが科学技術が神のようになり喪失したためかもしれないとも考察した
そもそも海は誰の者なのか?、それは万物は神によって作られたものである。
故にすべては神のものである、漁業者のものでもなかったのである、だから漁業権を東電に売り渡すことなどできないものだった
なぜなら海は神のものであり山でもそうだがあくまでも神のものとしてあるべきものだったからである
とにかく津波とか原発事故には神の祟りがあったのかとまで思うのはあまりにも大きな災いだったからである
神のタブーを破った結果としてこれだけの災いが生まれたと思うからである

いづれにしろ野馬追いも祭りである、これは歴史の再現の祭りである、これもやはり死者をよみがえらせる行事としてある、歴史の再現である
そして怨霊を鎮めるものとしての祀り祭りがある、これも祭りの起源だったことは間違えない、祭りは祀りであり死者と深く関係しているのである

2019年07月25日

ボランティアは偽善であるの議論


 ボランティアは偽善であるの議論


被災地に住んでます ボランティアを見るとイライラします。 
理由→遠くからこんなにたくさんの人が来てるのに地元のあなたはなぜ何もしないの? と怒られました。毎日がれきの中を通学してます 時間も経費も前よりかかってます。津波で流れたアルバイト 新しいところを探しました。勉強も必死にしてます。まだ足りないですか? ボランティアが来てから私はふるさとのために何もしない冷たい人になってしまいました

ボランティア活動というのは「受ける方は深く心から感謝する」そし
てする方は私心がなしでこのような受け手に心から感謝してもらうことで自分自身も喜び
を感じるというお互いが心から喜びあえるところにその本質がある


相手にとって全く役に立たず、かえって手間や害になってしまうことを一方的にやってしまうことかもしれません。

本人は良かれと思ってやっていたとしても、相手にとって必要なことでなければ、お互いが無駄な労力や気遣いをして終わってしまうことになります。



ボランティアは偽善である―キワードで検索したら結構深い議論をしている
それは大学生とかでもそうである、大学生は今だとボランティアをしているからそうなるのだろう

ボランティアに対してなぜ一面こうした偽善だとか批判が大きいのだろうか?
この辺は津波や原発の被害でボランティアがひっきりなしにきていた
原発で避難した仮設に一番来ていた、そこには原発の被害者も津波の被害者もいた
その差も大きいものだった、ただ外から来ると原発避難者と津波の被害者は一緒に見ていたとなる、同じ仮設に入っていたからである

そこにはいろんな人達が来た、宗教団体は多かったろう、それは宣伝のためである
売名行為の芸能人も来ていた、それを批判する人もいる
意外とネットではボランティアを嫌がっていると悪だと断定する人までいるのは意外だった、何か善意の押しつけでありうざいということなのかもしれない
そして何かボランティアは善人でありいいことをしていると見せつける
そして感謝とかでも何か強要する、それを見て嫌な感じになる
いくら無償でも嫌がる人がいる

相手にとって全く役に立たず、かえって手間や害になってしまうことを一方的にやってしまうことかもしれません。

これは確かにある、駅のボランティアでそういうことを経験したからである
別に教えなくてもいいとなる、無人駅でもいいという人がかえって多かったのである
若い人には多い、でも老人はわからないとき教えると素直に感謝している
それは無人駅になってわからないことがあるからだ
若い人はうざいとなる傾向がある
つまり老人は弱者でありそれで教えられると素直にありがたいとなるのである
若い人は弱者ではないからそんなことしてもらわなくてもいいよとなる
つまり若い人には老人とかの弱者の気持ちがわからないのである
それは老人とか弱者にならないとわからないからである

ボランティアで確かにこの辺ではボランティアが働いて肝心の被害者は特に原発避難者は毎日補償金もらってパチンコなどギャンブルに興じていたのである
だから何で働かないのだと怒っていたのである
でも津波の被害者はかえって迷惑にしていたというのも意外だった
震災でも事情が違っていた、まず津波の被害者と原発の避難者は相当に差があった
津波の被害者は家をなくしたり家族が死んだり悲惨だった
でも原発避難者は別に家は損害がないとか家族も死んだりしなかったのである

ただ故郷に住めなくなったということはあった
ただその被害の度合いが相当に違っていたのである
その区別が外から来た人にはできなかったのである
つまりなぜ外から来たボランティアが嫌がられることがあるのかとなるとこうした事情がすぐに呑み込めないからである
するとボランティアでも反感をもつ人がいる
それは自分自身もそうだった、なぜ原発避難者だけが優遇されているのか?
私の住んでいる同じ南相馬市でも避難区域になったところとならない所では補償に差がありすぎたのである、今でも医療費は原町と小高では無料なのである
でも鹿島区だと6か月くらいで打ち切られたのである、この差は大きかったのである
30キロで区切られたこともあるが南相馬市で対策はしなかったこともある
こういう事情は外から来た人にはわからないのである 

何かボランティアというとき善意がうまく合わないことがある
ボランティアが善意でしたことでもそれがそれをされた人には迷惑でさえあるのだ
それは駅で盲人の人の手を引いて電車に乗せたときだった
その人は杖で別に電車の前まで行ける、手をとることを嫌っていたのである
だから電車のドアをあけるボタンをおせばいい、手をとる必要などなかったのである
そういうことは押しつけになっていた、その盲人は自分で行けたからそうなっていたのである
何かボランティアにはそういうことがある、無理やりおしつけて善意をおしつけていい人ぶる、そして強制的に感謝しろとかなる
そういうことを嫌がある人がいるのはわかる、迷惑な場合があるのだ
むしろちゃんと金をもらい働いている人こそほめられるべきだということもある
その人たちは金で報酬を受けていると感謝しないことがある
金が報酬だからである、でもボランティアの報酬は感謝とか善人としてほめられることを望んでいるのである、それが嫌がられるのである
金で払えばいちいち感謝など要求されないからである

だからただより高いものがないというときそれは決まった報酬がないからである
親戚の人が自分が介護で苦しんでいる時そうだった
荷物一つもつのも嫌がっていた、そしてその荷物一つをもったからと無料でしたとなると現実に途方もない金を要求されたようになったからである
その人は金に困っているから暗黙の裡に途方もない金を要求される
普通だったら荷物を運んでもらったからと決まった金をはらってしてくれる方が安心なのである、いくらとられるかわからないとなるからだ
ボランティアなら感謝だけでいいとなればそれは悪いとはならない
でもしてもらう方は決まった金を払ってそれですました方が精神的に楽だとなる
だからこそ現実社会ではすべて金の額で感謝を還元しているのである
その方が楽だからである、つまり無償で無料で何かをしてもらうことはしてもらう方がかなりの負担になるからそうなったのである

ただ道を教えたりするのは別にそういうことはないしそれで何か要求したりしない、
それでもありがとうと言われたときうれしいとなるだけだった
ただ今はスマホを見ているから煩がる人が多い、そこが問題になる
つまり人によって何かを無償ですることを選ぶ必要があったのだ
老人とか障害者とかは弱者であり教えられることを望む、助けられることを望む
でも若い人はそういうことが少ないのである
つまり若い人は傲慢なのである、助けられる必要はないですよとなっている
でも老人とか障害者とか老人は助けてもらいたい人たちなのである

ともかく何か現代はボランティアの時代でもある、だからボランティアは何なのだとなるただ善しあしは経験しないとわからないことがある
人間は何であれ経験しないとわからないのである
私自身がささいなことでも経験したから書いているのである

私と同じことを若い人でも言っているのは感心する

ボランティアは宗教の行為だ

そう書いているプログがあったからである
無償とかなるとそれは宗教の分野だからである、ただ宗教自体がまたほとんど偽善なのである、宗教が一番偽善なのである、なぜならそんな無償の行為ができないからである
それで実際は金儲けだったりするのが普通なのである
そもそもボランティアが宗教だというときもうそんなこと実行できる人はいないとなる
だからいろいろあってもボランティアを容認する心も必要だとなる
ただ嫌がられるということもボランティアで意識する必要がある

だから本当にボランティアはむずかしいと経験から思ったのである
駅では若い人はそういうふうに嫌がっていた、それは助けられなくてもいいとなっているからだ、強者だからである、でも老人とか障害者などはそうではなかった
何か落ち着いて話しもできたのである
だから老人は若者にとって嫌がられるが若者にも嫌な面がある
若いというだけですべて肯定的に見れないと思った
若者は横暴で傲慢なものだからである、そこに深い思慮もないのである 
「俺は助けられなくていい、俺は教えられなくてもいい」とかなると傲慢なのである  

この世はカルマが必ずある

老人をいじめるものはまた老人になりいじめられる

なぜなら若い人でも老人になるからである
つまり因果応報は必ずある、継母で虐待していた老人が死ぬとき悪かったなと悔いた、そしていじめた子供に頼り死んだからである
老人を別に手厚くする必要がないがいじめたりすると必ず今度は老人になったときいじめられる
すぐに誰でも年とる、若いということはほんのわずかの時間でありすぐに過ぎ去るからである
だから若者が無謀になり若きの至りでも必ずそれかあとで後悔する、でも悔いてももうどうにもならない
その時は帰ってこないしその罪は消えないともなるからだ、そしてその報いは必ず受ける
老人になって同じ目にあうカルマとなるのである

ともかくボランティアは無償の無料の行為である

でもただより高いものはない!

無料であり無償だからこそ報酬は実は馬鹿高いものとなる、きりないものとなる
もしそれに見合った金を払えばそれで終わりである、でも無償だということ無料だということは無限に要求されることでもある
だからかえってその仕事に見合った金を払った方が楽だという結論にもなる
つまり人間には無償の行為をすることは一番むずかしいとなる
神は無償で様々なものを与えている、それができるが人間にはできない、人間はそもそも与えることができないものなのかもしれないすべて実際は神に与えられたもので生きているからである
それで何かを無償で与えるということで傲慢になる、実際は人間は与えることはできない存在である
与えたとしてもわずかである、日々生活する中で何か与えているものがあるのか?
食料でも何でも買うとしてもそれは誰かが作ったものであり与えられたものだからである
人間一人で与えるものはほとんどない、そういう謙虚さが必要だとなる
でも何かボランティアは無料で無償で与えているということが全面に出すぎるのである

右の手のしていることを左の手に知られないように
| マタイの福音書

こうはならないから嫌がられるとなる、ただそこまで高尚なものをボランティアに要求することは無理である、聖人にでもなることが要求される
そん要求したら誰もできくなるからだ、ただボランティアのむずかしさは自覚するべきである
俺はボランティアだとして何かおしつけるのは嫌がられるのである、その兼ね合いがむずかしいのである
でもボランティアをこうして否定することは良くない、ただボランティアというだけですべて是認されないことを自覚すべきである
だからボランティアというのは何かむずかしい立場にある、そんなら一層やらない方がいいとかなる、自分自身もして感じた、善意でしてもそれをみんなが受け入れるとは限らないし、それが実際に効果がないときもあるからだ

結論は奇妙だけどボランティアでも金で報酬を与えるべきだともなる、そうすればかえって割り切ってやれるともなる、そうなるとボランティアでなくなるともなるから何か人間のすることは何でもめんどうなのである
そしてどんなことをしても必ず批判がある、ただ批判する人よりボランティアしている人の方がいろいろあっても評価できるともなってしまうのである
ただ現代はボランティアをしたい人が多い、それは高齢化で地域でも生きがいをなくしている人が多いからである
それで正論おじさんとか問題になった、あの人も何か地域に役立ちたいということがあったがかえって迷惑になっていた
その人は司法関係の人でその法律の知識を活かしたいと思ったのだろう、でもそれは迷惑行為だったのである
そういうことがボランティアにはありうる、ただ地域に役に立ちたいという人は多い
でもそれがむずかしいのである


2019年07月24日

利益と金を求めるこの世はサタンが支配する (ボランティアは意味と価値を求める、宗教心があってできる?)


利益と金を求めるこの世はサタンが支配する

(ボランティアは意味と価値を求める、宗教心があってできる?)

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
  そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
   マタイによる福音書     
   
「価値と意味をまず求めなさい、そうすればこれらのものはみな加えられる」

「まず利益と金を求めなさい、そうすれば食べ物でもも着るものでも住まいも与えられるだろう」ーサタン{悪魔}の言葉

人間の矛盾は社会の矛盾は一番ここに現れている、これで悩むのである
それは社会全般でどこでも起きている、別にブラック会社だけのもではない
社会はまず利益と金を求めなさい、そうすれば評価されて価値があるとされる

だからそれは医療とかなると医者は精神的に今では一番価値あるものとして尊敬される
価値あるものとされる、でも医者でも薬でもなんでも必要のない薬を飲ませてすすめてもうけるとかしている、何か必要のないことを金になることをする
手術をしたいというときそれが金になるとしたときしなくてもいいのにしたりする
それが怖いことなのである

つまりこういうことはどこの現場でも起きている、銀行になると何かその悪が生々しいとなる
投資するにしてもサラ金きか闇金融とかにも金をだしている
それは自らはしないにしろ裏でしているとなる
それから大きな銀行だと武器会社とか環境破壊企業とかにも金になるということで投資している、ただ投資はわかりにくいから見えないから批判しにくいのである
この世の暗黒はここに一番現れている、そこに働く者の矛盾が一番現れている
会社でも働く人は不本意でも利益を優先しなければならないからだ

それで不思議なのがボランティアなのである

そもそもボランティアは何を求めているのか?

利益を求めていないとしたら金を求めていないとしたら何を求めているのか

何を求めて働くのか?

それが問題になる、みんな利益を出すために必死になっているからだ
でも退職したとかして金に余裕ができた、でも何もしないではつまらないとか生きがいもないとかなる

ボランティアが求めているのはまさに意味あるもの価値あるもの生きがいとかを求めている、だって利益を出さなくてもいいとしたら当然そうなるのである
そして感謝なども求めている、利益にならなくても感謝されたとか社会とか地域のためになったとかなるからである
でも実際はそういうことには必ずしもならない、何ら価値を認められないとか意味を認められないとか感謝もされない、お前は何しているのだと邪魔者にされてできなくなった。別に利益も金を求めたわけではないが何ら認められるものがなかった
ただ外から来た人は案内したときありがとうとか感謝されただけである 
ボランティアとは何か変だけど宗教的善意の行為なのである、だから宗教にかかわる仕事ともなる
ある宗教団体がトイレを掃除させてくださいとか実行した、それは宗教の行為として無償でしたのとにている

そういう楽なものではない戦場に医者が傷ついたものを治療するとかなると命がけになるからだ
そういうことができるのか?そこには意味と価値があっても簡単にはできないのである、まさに犠牲心がないとできない
すると何か軽く考えるボランティとはそれはまた違っているのである
ボランティアはいうとき何か誰からも認められて善人としてほめたたえられるという感覚になる
でも本当のボランティアはこのように犠牲心が要求されると、そしたら誰も簡単にできるものではない
つまりボランティアの問題はまた簡単に周囲から善人としていいものとして認められるからする
そうされると思ってする、そこにまた問題がある、自分なんかも駅でたまたま案内なとしたけどそうだった
でも結局なんら認知されなかった、ただそれは戦場で治療する命がけのものではないから当然だとなる

社会で働くという時働いたら必ず報酬がある、それは金をもらえるということである
だからともかく金をもらうために働く、不満でも働く、それでで社畜だとか言うようになる
一方で金をもらっても不満がある、この仕事には生きがいがないとか常に嘆いている
ただ一番不満なのは給料が安いということなのである
ただその仕事の価値とか意味とか感謝されたいとかはある
それで不満な人も多い、派遣で働ている人は確かに給料が安いから不満になる
でも働くこと自体にも意味と価値を感じられないのである
そこで二重に不満になる、もし給料が安くても働き甲斐がある、意味と価値が仕事にあるとしたらそうはならない、不満にしても何かそこで耐えられるものがある
でも給料は安い、働き甲斐もない、そこに価値と意味が感じられないとなればただ不満だけだとなる

いづれにしろ社会のこの矛盾は変えられないのではないか?

社会とはそういう所でありこの暗黒は消すことはできない、それがこの世に生きるということである
天国だったら神の国だったらそれが成り立つ、この世ではそれが成り立たないからこの世なのである、それは有史以来そうだったのである
この世はサタンに支配されるのであり神の国には決してならないからである
だからこそ神はこの世を滅ぼすというがこの世を天国に変えるとは言っていないのである
要するにこの世で必ずしも価値あること意味あることに労力が費やされるわけではないのである、それを求めてもサタンが支配しているからそうはならない
この世とはそういう場所でありそれが変わることはないとなる
いくら努力してもそうである、それがこの世だからである 
そうした理想が成るのは神の国でありこの世ではないからだ
それは人間にはできないからこそ神の国なのである、神が備えるのが天国なのである
この世ではそうした矛盾のなかで罪の中で生きるほかないとなっている

天国はどこにあるのか、人の心にあるというときもそうである  
「神の国は汝らの 中 ( うち ) に在るなり」内とはその人の心であり社会ではないのである、個々人の心に神が宿るとなるからだ
社会自体が変革して天国は成ることはない、それが共産主義が信じられない地獄になったことでもわかる、社会全体を変えて天国にすることができない証明だったのである
政教分離というとき宗教と一体化したとき社会が神によって理想の社会になるということだがそれはならない、かえって政教一致になるとカトリックのように権力をもって堕落したとなるからだ、宗教と政治が一体化することは政教一致は結局堕落して腐敗して終わるそれは歴史が証明している、なぜそうなるのか?

それは人間が変わらないからである、人間の心は変わらないからである 
政治化するのはこの世の欲望を政治で達成しようとする試みである
御利益をいくら言ってもそれが現実化しないと支持もなくなる、それで政治で御利益を配分しようとする、政治化するのである
そしてなぜ社会が変えられないのか?それはそもそも人間の欲望が消えることがないからである、それでこの世は欲で滅びるとしている、人間から欲が消えないのだから共産主義でも結果は同じだったとなる

いづれにしろボランティアがかえってむずかしいのはなぜなのか?

それは神の国を求めているからかもしれない、利益を求めない、意味と価値だけを求めるとしてもではそれを与えられるのかとなると与えられない
むしろ利益を求めることこそこの世では第一にされるからである
つまりいくらボランティアしようとしても善意でもそれは実らない
なぜならこの世は利益をあげる金にならないものは無駄だとしているからだ
金によってすべての価値が図られているのがこの世だからである 

「この金貨は神のものか、それともカエサル(ローマ皇帝を指す語)のものとして納めるべきか」と問われた時のエピソードは有名である。当時のユダヤ人はローマに支配されていたので、単純に「神のもの」と答えた場合は権力に歯向かうものとして問題が生じる。逆に「カエサルのもの」と答えた場合でも権力に阿って信仰を曲げたとして宗教的指導者としての沽券が傷つく、つまり非常に答えにくい質問であった。これに対してイエスは、金貨の銘がローマ皇帝であったため「神のものは神のものに、カエサルのものはカエサルに返せ」と答えたとされる。

カエサルのものというときそれはこの世のもののことである、神のものというときこの世に属するものではない
意味とか価値を求める時、それは神のものであり神の国を求めることである、神の義を求めることである
義とか価値とか意味なのである、カエサルものというときそこで得られるものは今の世で得られるものである
それは利益であり金で得られるものになる、金で得られないものがまたある、愛とか意味とか価値とかは金だけで得られないのである根本的にこういう矛盾があるときこの世では解決しえないものだとなる
だからこういう矛盾にみんな苦しむことになるのがこの世だとなる

常に人間は矛盾してくるのは例えば宗教を求めて宗教者になったとしてもではどうして暮らすのか?それも布施にたよるとなるとそこに欲が生まれる
それでカトリックでは免罪符を出して金儲けした、それと同じことはカルトでも仏教でも行われている
それで天からの贈り物としての食料でもマナが必要だとなる
それは神から与えられたものだからである、人の手によって与えられたものではないからそれによってけがされないのである
この世では必ず与えられるとしても汚されるからである
結局この世に生きるかぎりこうした矛盾の中に生きることになる
そういうことを人間は繰り返してきたのである
でも結果的にその矛盾は解決されなかった、それは人間の欲望を消すことができなかったからである



2019年07月19日

何が異常なのか異常でないのか (金に対する態度の相違)


何が異常なのか異常でないのか

(金に対する態度の相違)


私が接した人間は異常である、自分自身も異常だった
でもなぜその人たが異常だったのか結婚して子供もあり普通の人である
女性でその人はなぜあんなに異常になったのか?
その異常性に気づいていない、なぜ気づかないのか?
異常性を認識できないのか?それは正常なものと対象的に見れないからである
例えば四角の石ばかりあれば四角の石しか認識できない
そこに丸い石が一つあればその石は異質なものとなり異常になる
日本人はそうして同質化しやすい、異民族と接した歴史がないから同質化しやすい
以心伝心でわかるとなるのもそうである

私がかかわった人たちは金がなくて困っていた
その人は金には恵まれていたから金で苦しんでいることはない
母親が三人変わったということが異常性をもたらしたのか?
そういうことはあるにしても60近くになってそれを言うのもどうかと思う
ただ長く直接接していないからその間に変質してしまった

金に関する態度は

おばちゃんは金があるんだから金にめんどうみてもらへ

こう言って血相変えて去って行った

もう一人の人は

私が入院している時家が留守になり大金を盗んだ

もう一人の人は事業に失敗して借金していた

金をよこせ、全財産を要求してきた

その額が大きいのである、こうして自分が病気であり介護しているとき責められて家はがたがたになった、ただそこには金を得ることしかなかったのである
相手のことなど全くかまわないのである
だから殺されるとも思った、金がなくて強盗に入り殺す人も普通にいる
わずかの金でもいる、現実に泥棒にも入られた
頑丈なダイヤル式の金庫が開けられていたのも不思議である
そこには金は入っていなかった、その泥棒が家に入ったとき物音がした
だから誰か入っているのかとも思ったがそのままにしていた
もしその人とあって顔を見たりしたら殺されたかもしれない
そういうことが報道されるからだ、金は盗られても殺されるよりはいいとなる
そんな人と争うべきではないと思った
そういう人は何をするかわからないからだ

奇妙だけど最後に来た人はまともなのか?
実際はまともでないにしろ金を要求するにしろこれまで経験した人たちからするとまともなのか?
とにかく一万とか少額を要求する、でもそれに見合った金である
水道が止められたとか電気がとめられたとかなり生活できなくなって助けてくれとなる
そしてその人は頭を畳にすりつけお願いするのである
それも今日食べるものがないからとお願いするのである

これも変なのだけど前の人たちから比べると正常なのかともなる

家にきて大金を盗むとかまた借金して多額の金を要求するのとは違うからだ
第一事業していた人の金の額は百倍も違うのである
そんな金を要求されて払える人がいるのか?
事業者同士で工面し合うことはあっても普通の人はそんな金都合できない
でもその人にとってはそれが普通なのであり正常なのである

もしこの人でも今日食べるものがないとなればわずかだから援助する
でも百万だとなれば簡単に出せるだろうか?
そういう金を普通に要求する、借金しているからそうなる
でももし今日食べるものがないとか電気がとめられて料理できないとなれば援助する
その人はこれまで贅沢をしてきた、そのレベルの生活をするために必要な金なのである
そんな人と付き合っていたらどうなるのか?
何千万とか普通に要求される、そして事業を成功したと見せるのである
そんなことに援助できるだろうか?
これも異常化した人間でありまともに付き合えない人である
ただその人が金がないとういことは周りで気づかないことがある

とにかく金で一身上でもめた、また回りでも原発事故の補償金でもめた
地獄の沙汰も金次第であり金から人間は逃れられない
これからますます日本は貧困化してゆくとき金のことで苦しむ事件も起こる
それはこれまでは日本はぜいたくな暮らしうしていたからそのレベルを落とせないからそうなる
事業した人でもレベルを落とせない、今日食べるものがないから一万貸してくれとかできないのである、プライドもあるからできない
その人はそうしたプライドがないからできるのである

人間はいくら困っていても今日食べるものがないから金を貸してくださいとかなれば一万くらいなら貸す、でも百万貸せとかなるとそれで終わりではないから付き合えないとなるでも事業して高いレベルの生活をしてきた人はそんな一万とかははした金なのである
そしてそんな金で頭を下げることなどしないのである
自分自身も頭を下げることができないのである
金持ちの姉妹が餓死したというときお嬢さんで育ったから他人の家にいってこんなふうにして頼めないのでそうなったのである

そうして頼み金を貸してもらうというのは盗むというよりはましである
何であれ盗むということは犯罪になる
そうして頭を下げて頼み借りることは犯罪ではないからだ
人間の正常と異常がわからないというときこうして人間を対象的に見るとわかりやすいのである、その人間の異常性が浮き彫りにされる
最後にあった人も最初にあったら異常であり付き合えたくない人である
付き合ってもいないだろう

でも異常な人たちとその前に接した時、この人が一番正常だと見えたのは本当に奇妙だとなる、普通はこういう人とは底辺とは付き合うなというのが普通だからである
異常な人と接してもそれが異常とわからないことがある
何か人間でも対象的に見ないとわからないのである
それは善悪でもそうである、善ばかりの世界だったら善を意識しないのである
悪があって対象的に善を意識するのである、だから何でも相対的に世界をみないとわからないとなる 

外交問題でも韓国は異常でも韓国人の方が正常だと思っているから日本を批判してくる
日本人が異常だとなる、何が異常なのか正常なのかの基準がない、ただ対象的に見ると異常だったとなと人間は気づくのである
家族でもいろいろ複雑な事情があって一様ではない、すると家族でも対象的に見ないとわからないのである
正直自分の家族も異常だった、でもその異常の中で自分は家族が死ぬまで暮らしていたのである
だから自分にとっては正常なのである、もうそれだけ長ければそれが家族なのである



2019年07月18日

時間に生きる時代 (空間を拡大して生きる何でも増やす時代は終わった)


時間に生きる時代

(空間を拡大して生きる何でも増やす時代は終わった)


時間は謎である、対象的に見る時、時間があれば空間があるとなる
この二つの軸の中で人間は生きている
空間は地球とか宇宙であり空間は物理的にも移動できる
大陸だと全く次元の違った広大な空間がある
果てしない大地が草原が砂漠がある
大陸では空間を生きるというときそれだけの空間があるからだ
空間をどこまでも広げることができる、それで大帝国が生まれる
どこまでも空間を進んでゆくことにより新しい未知の経験ができる
新しいものに触れることができる
だからこそまず大陸を移動する遊牧民が生まれ次に海を移動するようになったという説もわかる
大航海時代が生まれたのはそうしてまず大陸を移動する人たちがいたからである

一方で日本が時間生きるというときそれは島国として閉ざされていたからである
空間が狭いからである、空にしても大陸の空から比べると狭い感覚になる
そういうふうに狭い所で生きていれば時間を生きる
時間の中で意味を求める定着文明になる
空間を拡大することで大陸で国々の興亡があり歴史となった
日本の空間は島国という一つの宇宙であった
それで最果ての感覚が生まれる、どこに行っても海になりそこで世界が尽きるからである
ともかく時間と空間を考察するとき時間を増やしたり時間を貯えたりできないし時間を
拡大することもできない、空間だったら異次元の世界を現実に見ることができる
外国に行けば異次元の世界だからである
時間は例え外国に行っても異次元の時間など経験できないのである
異次元の時間とは過去にもどることだがそれはできないからだ
だから外国に行っても歴史があってもわかりにくいのはそのためである
空間を移動できても時間を移動できないからである

時間の謎は金より時間が大事だということがある
金は増やしたり貯えたり金をもっと得ようとして働いてできる、それが働く動機となる
一億円を得てももっと欲しいとなり安心もない、金があれば安心になるからあればあるほどいいとか使いたくないとかなる

時間は限られている

空間も確かに限られている、地球は限られている空間と認識されるようになった
それまでは地球は未知の無限の空間だったのである
時間は限られているしそれぞれの人の時間はいつか尽きる
時間が尽きたとき死なのである
この世に生きる時間は限られている
そして時間を増やすことはできない、でも時間を無駄にしたとき時間を減らしている
時間を有効に利用した時に時間は活かせることができる
しかし時間の無駄は浪費はなかなか気付かないのである
若い時は時間はいくらでもあると思う、それで退屈で困るとなる
しかし時間はある年になると消失してゆく、時間がなくなってゆくのだ

現代は時間に生きる時代になる、地球の空間の征服は終わったからだ
地球が一つの村になったというのもそうである
メデアの発達によって世界から情報が絶え間なく流れてくるからである
でも実際は空間でも世界は広いからそれを実地に知ることは今でもむずかしい
やはり一生の間で経験できない空間がいくらでもあるからだ

時間に生きるというとき時間を増やすことも貯えることも拡大することもできない
それが空間との大きな相違である
金は増やすことができる、多くの物をもつことができる、でも時間は何かそうした物として得るものとは違う、それでいくら金をもっていても時間の方が大事だったいう時
時間は限られているしその時々でできることをしないとできなくなる
時間を戻すことができないからそうなる
時間は何かをするために与えられている、その時間を失うことが最大の後悔となるのである
時間は何かを成すためにある、そうなるといくら時間があってもたりないのである
一つの作品をしあげるのに何でも時間がかかるからである

空間の時代から時間の時代になるいうとき金を第一として価値あるものから時間が価値あるものへの変換の時代となる
何故なら資本主義だと金をもうけて貯えて投資して増やしてゆくことだからである
時間には増やしたり貯えることができない
時間を節約はできる、時間を貴重なものとして使うことはできる
でも時間は目に見えないし物としてとらえることはできない、でも一番大事なものとして人生の最後に意識されるのである
なぜなら人間は何でも失ってみてその貴重さを知るからである

おそらく地球を空間的に拡大する時代は終わり時間に生きる時代になる
時間に生きるとは何か常に物を増やしたり金をためてまた投資して増やすという資本主義と合わないのである、それで銀行に金をためても投資する先がなくなって銀行が不用になるのは時代なのである
大航海時代から常に投資して富を得て拡大し経済でも常にGDPを増やすことであった
でもそういう経済成長とか拡大の時代は終わった、もう限界になったのである
これ以上経済規模を拡大すると増大すると地球環境の破壊とかなり限界に達したのである
そこで世界も空間を拡大するとか経済規模を増大するとかではない
時間を生きることにシフトするようになる
時間に生きるということは内省する、内面化する、内に向かう時代だともなる
何か増やすことではない、減らすことである
時間を節約して無駄な浪費を減らし内面を充実させることである
だから中世の時代にもどるということが言われるのである
資本主義の金を貯えて資本として増やしてまた投資するということができなくなったのである、その象徴が銀行が用がなくなったことに現れている
投資先がなくなったからである

そして時間に生きる時代となる

物事を深く知り深く感じて多様に見て感じる

そういう世界になる、一定の場所に定着していても物事を事物でも自然でも深く見て感じることができるからである
内面的に充実させることができるのである
それこそ宗教の世界だともなる、そもそもキリスト教はアジアから生まれたし宗教はアジアからオリエントから生まれたものである
西洋化したキリスト教はまた別物だったのである
それでウェバーの言う資本主義がキリスト教から生まれたというときもそうである
神に奉仕するために働き資本を貯えて増やして富を得ることは人を助けることだということがそうである
でも今やそういうことは不可能になったのである、資本主義の思想はもう通用しないのである、だからこそ銀行は不用になったのである

何でも増やす時代の終わり

減らす節約の時代へ

何かもう増やすということに限界が来ている、人口だって世界的に見れば増えすぎた
日本では明治以降4倍になり中国だって4億が三倍になったとかある
工業化時代になり人口が爆発したのである
とすると人口が減るのは自然の摂理かもしれない、もうこれ以上地球に人口を増やして住めないという警告かもしれない、ただ減らす思想というのはなじまない
貧乏になるからだとかあるし日本では少子高齢化で特にそうなる
でも時代が変わったのでありそうせざるええなくなっている
月給も上がらないし経済は30年間成長していないとか世界的にも日本でも増やすことができないのである

するとどうなるのか?
内面に生きるとか内省するとか無用の用に生きるとかになる
それが東洋的アジア的価値観としてもともとあった、老子の思想でもそうである
インドの思想でもそうである、仏教はそういう時間に生きる思想だったのである
思想的にも西から東へと転換する時代になったのである
だから確かに英語がグロ−バル時代で不可欠だというのもわかる
逆に日本語をもっと知るべきだ、自国の文化をもっと知り深める時代だともなる

日本人はこれまで外来のものを明治以降制限なく入れてきた
でもこれからは日本独自のものを文化を作る時代になる
そしたら日本を知らなければできないことである
国風文化の再興にしてもまず日本語でも日本でも知らなければできないのである
それで日本語は世界で独特のものがあり他の言語と違っていると林秀彦が言う時日本語の独自性を知るべきだとなる
言葉は最大の現存する生きている文化だとなるからだ
資本主義の勤勉に働き資本を貯え増やしてまた投資して増大してゆく思想が通用しなくなったのである
むしろ節約して減らす、時間に生きる時代になる
だから何でも拡大して増大してゆくグロ−バリゼーションとか資本主義の思想とは相いれない時代になる、それは限界に来たからである
ITにしても物を増やすことではない、情報を増やすことでありそれは今までの資本主義とも違っているのである
精神的な面での技術革新だともなるからだ



2019年07月12日

遊ぶとは神聖なことであり神の意にかなうこと? (利害得失から離れた世界が聖なるもの)


遊ぶとは神聖なことであり神の意にかなうこと?

(利害得失から離れた世界が聖なるもの)

チンパンジーは干ブドウがほしくて勉強しているのではないことを示している。干ブドウにつられて勉強しているのならば、やさしい問題が続いて出される場合が一番いいわけでキーボードを押しては干ブドウをどんどん手に入れることができるはずである。やはり、問題を解く楽しさが、チンパンジーを勉強に向かわせているということなのだ。』
 【河合雅雄著「子どもと自然」岩波新書より】


類人猿は描くことで「作品をつくる」という結果を求めているのではなく、「絵を描く過程」がおもしろく、遊びの延長で描いているのだと齋藤先生は言う。これは、お絵かき帳などに自由に線や点を描く人間の幼い子どもと同じだ。


何かチンパージ―に学習させるのにバナナとかを与えたらかえって学習しなくなった
チンパージ―学習するのはまたゲームをするのはそれ自体が面白いからである
ところがバナナとか与えるとバナナを得るためとなりそこに気をとられて学習もゲームでも遊びもやる気がなくなったという


人間の学習でも動機づけが大事になる、動物でも遊びがありそれは餌をえるためではないただ純粋に遊ぶことが楽しいとか興味があるからだ
じゃれるのでもそうである、でも動物に曲芸とかしこむ、サーカス団とかでそうする
それは強制されてしているのではない、人間は金のために猿を使う、猿にとっては苦痛なのである
遊びそのものもを楽しみ追求するのが動物でもそうであり人間もそうである

人間の特質としてこの遊びが大きな要素にある、ところが子供の頃から純粋に遊ぶということがなく学習がおしつけられるのである
それは大人の功利的なものがあり押し付けられる
大人が親がいい学校に入りいい会社に入りとか自分の子供を自慢したいとか大人の功利的都合で子供を操作するのである
それは動物に芸を覚えさせて見世物とするのとにているのである

「遊ぶ」という語は、「古事記」に天若日子の葬儀の時
「日八日夜八日をもちて遊びき」とあるように
死者の魂を呼びもどすための歌舞をすることである
( 谷川健一)

あそぶとあそばされるとかは死者と関係していた、人が死ぬと遊ぶ存在になる
あそぶとはこの世から遊離して神ともなる
遊離の遊もそういうことになる
遊ぶとはこの世の利害にとらわれない自由な存在になる
死者はこの世の利害とかしがらみとか様々なものから解き放たれて自由になる
あそばされる存在になる、それが遊ぶの意味だった
神はこの世の利害得失から遊離した純粋に遊ばされる存在なのである

この世は常に人間の利害得失のなかにありそこで悩み苦しむ、その利害得失から解き放されることがないのである、それで遊ぶとういことはそういう利害得失から解き放たれることである、死者はこの世の利害得失とは関係なくなる、あそばされる存在になる
だから死者と遊ぶということは死者とこの世の利害得失かは離れてともに遊ぶことだとなる
ただ遊部が葬送を司る集団だというのもわかりにくい、なぜなら遊ぶというとき陽気なものに感じるからである、葬送となると陰気なものになるから矛盾している
言葉は長い間に意外なものに変化していることを示している

ただ遊ぶというときそこは利害得失がない純粋な遊びの空間となるとき聖なるものとなる人間は宗教的に考察してもエデンの園ではただ遊んでいたのである
そこは聖なる空間であり利害得失がない、純粋に遊ぶ空間なのである
子供が利害得失を考慮しないで遊ぶように純粋に遊ぶ場でありその時そこは聖なる場所になる
この世は遊星だというときもそうである、遊ぶ星なのだが異常な勤労の星になっている
それを神は良しとしない、勤労は常に歴史的に奨励された、それはやはり勤労がなければ生きていけないので強いられていたからである、だからすべて勤労がいいとはならない、別に原始人でも祭りがあれほど多いということでもかえって遊ぶ時間が多かったのである、だから必ずしも働くことを人間は好んでいるとはならない
資本主義は時は金なりというときそうした働くことが神に奉仕することだということでそうなった
でも逆に遊ぶということが神聖なことだったというもある
この勤労が宗教までになったのは西洋的価値観なのである、キリスト教を西洋的な価値観で変えたということもある

野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。


働きもしない、紡ぎもしないとある、キリストが働くことを奨励することを言ってはいない、むしろ否定しているのである
人が働くことは呪われたことでもあった、人間は労働を罰として与えられたとしているからだ
そうししたら労働がない世界がパラダイスだとなる、あったとしてもそれが遊びとなればパラダイスなのである
でも人間社会にパラダイスには永遠にこない、何か矛盾してきて地獄化してゆくのである

この世はあまりにも利害得失で汚されたのである、インタ−ネットでも前は無料の遊ぶ空間的なものがあったが今は世間と同じである
アフィリエトで宣伝でいくらもうけたとか一億円のブロガーがいるとかyoutubeがいるとか話題になり、利益を追求する場になった
その時インタ−ネットでは何ら世間と変わりない場所になったのである
何か芸術でも学問でも遊ぶということがありそれが利害が関係してくるとそこなわれるのである
遊ぶことと金銭は離れるべきだけど密接に結び付く、すると金をもうけることが第一になり本来の遊びはなくなるのである

それでチンパージ―でも学習でも遊びとして夢中になっていたのがバナナをもらうとその方に気をとられて学習でも遊びとして興味をもっていたが興味を失ったとなる
現代社会はその矛盾が大きくなった、あらゆる場所に利害得失が入ってきている
だからベーシックインカムとかはそうして利害得失の入りこめないものとして純粋に遊びを追及するものとして機能するとすればそれは理想となる
結局自分自身の人生は旅に費やしたというとき一生が遊びだったのである
それが無駄がとなればそうでもない、むしろ高度成長時代に企業戦士と働き詰めの人たちが神から祝福されない人たちだったともなる

老人になって趣味もないとか遊べない人間になっていることでもわかる
老人が用がないというとき遊べないからそうなる
とにかく人間は利害得失の世界から離れられない、金から離れられない、金でしか人間と関係できない、遊ぶことができない存在になった
そもそも資本主義に遊ぶとかのは入りこむ余地はない
それで資本主義自体がもう投資先もなくなり行き詰まっているのである
何か最近おかしいのはベーシックインカムとかAIで人間は仕事がなくなるとかいいみんなアーティストになるとかいうのも不思議である
蟻よりキリギリスになれと奨励しているのである

働きづけの人間が評価されないというのも不思議である
働くということは至上命令でありそれからはずれた人は罪人にもなる
あいつは働いていないとか無職だとなると犯罪人と同じにみられるのである
私は20代をのぞいて働いていない、私の人生は遊びだったとなる
でもそれが無益な人生だったのか?
一方で働き詰めで会社人間として働いた人は今でも社畜だとか言っている
不本意に奴隷にされているということなのである
これからの社会が利害得失から離れた社会になるとは悪いことではない
資本主義がゆきづまったのも悪いことではない、新しい価値観が生まれることは悪いことではない、社会はそれで進歩しているともなる

2019年07月06日

日本人の精神は日本語に継続されていた (戦前にあった日本の美徳がすべて否定されたことの問題)


日本人の精神は日本語に継続されていた

(戦前にあった日本の美徳がすべて否定されことの問題)

お得意さんというときそれは今でもあるし京都だと一元さんはお断りとかある
お得意さんという言葉がなくなる時そういう社会もなくなっている
私の家では店をしていたからお得意さんとかあって良く子供の時配達させられた
その頃御用聞きとかは江戸時代からあった、親しく長く出入りしている商人とかでも職人でもそうである
そういうことは狭い範囲で生活しているときそうなった
いつもなじみの人である、何かそういうことが基本にあった
それは交通が発達しないから狭い範囲が生活していたからである
向こう三軒両隣とかもそうである、日本では世間というとき何なのか?
それは村とか狭い範囲なのである、それでそういう所で生活する基本は争わないことなのである、争いがあるといつも同じ場所に生活するから困るのである

自分も隣の市の人と争って縁を切った、でも実際はその近くに用があって行っている
すると会ったら嫌だなとなるが一応離れているからまだいいとなる
それが村のような所だったら喧嘩してもいつも会っているのだから困るとなる
日本人の人間関係はこうして狭い場所で作られてきた
それは国自体がそうだった、日本人は異民族に攻められ征服されたことがないのである
海に囲まれているから縄文時代から日本は日本人同士で大きな争いを経験せず何千年も生きてきたとなる
それで勝海舟と西郷隆盛が会見したとき「日本人同士だからわかる」となり江戸は無血開城されたのである、日本人ならわかる、通じるということは日本人は民族の争いがなかったことである、大陸では様々な民族同士の興亡がありそれはヨ−ロッパでも中国でも同じである、そこで負ければ奴隷にされたのである
日本語はそういう場で作られてきたから外国語とは異質だとされる
それで林秀彦の日本語論は外国で長く暮らしていたから説得力がある

とにかく戦前にあった日本の言葉が今になると理解できない、消えている
それは国家と一体となり結びついたものだから理解しにくくなる
戦争中に使われた言葉がそうである、戦争後はそうした戦争自体が否定されたからその言葉も死語となったのである、その言葉には日本人が長年伝えたものがあったということを林秀彦は経験から指摘している
でも彼がその日本語を体験したのは小学生の時でありそれでもそれだけその言葉が精神と一体化していたのである、だから戦前で子供の時育ったとしても戦後に育ったものとは大きな差がある、断絶がある
つまりなぜ戦前の言葉が理解できないのか?
そういう日本社会が喪失して消えたからだとなる

そして天皇自体が日本国を背負っていた時代の喪失であった
天皇は日本の国体を背負う象徴だったのである
戦後はしきりに平和とかばかり強調されて天皇の位置づけが戦前でまるで違ったものになったからである

「教育勅語」

 朕惟(ちんこおも)フニ、我カ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ徳(とく)ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ。 
 我カ臣民、克(よ)ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心を一(いち)ニシテ世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ此(こ)レ我カ國體(こくたい)ノ精華(せいか)ニシテ教育の淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス。

 Know ye,Our subjects:Our imperial Anecestors have founded Our Empire on a basisbroad and everlasting have deeply and firmly implanted virture

日本の歴史を背負い国体というとき日本の自然と一体化しての美と徳の顕現を示すものとして格調高く宣べられた
こういう言葉が天皇から出たという時、それは日本の歴史を受け継ぐ象徴として天皇があったからだとなる

ただここに英語でもその格調高さは表現されているが天皇というのは戦後否定されてきたのである
国体というときこれも今では死語になっているが日本の自然のことなのである
日本の徳と自然が合致したものとしてこの荘重な言葉が述べられたのである

それで依然として日本の自然は今もある

(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ此(こ)レ我カ國體(こくたい)ノ精華(せいか)ニシテ教育の淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス

天皇がなくても日本の自然はありその精華はあり実もある、富士山は今も美麗に聳えて日本の象徴としてある 

これは私が詩にしてきた木とか石とか岩のことでもある、つまり天皇というのは否定されたが日本の自然は残りそこに美と徳がありうる、石とは忍耐とかを示して木でも人間の徳と一致させる、日本語の真直(まなお)だとかなる

 The tree has being everlasting have deeply and firmly implanted virture deeply and firmly implanted virture

ただ天皇は否定されたのが戦後である、そして戦後に日本自体が歴史的に継続された国体の美と徳を失った、当然のその言葉も失ったのである
なぜなら戦後民主主義が導入されたとき一番頻繁に利用されたのが権利である、その権利とはもともと英語ではright(正義)であったが権利とは利を求める権である、権は権力なのである、日本人はrightをもとめているのではない、利をえるための権力を求めているだけなのである、権利は最初は権理と訳されていた、となるとリーズンがあるからこっちの方が訳として良かったのかとも思う

民主主義とはまさに日本国民全員がただひたすら利を求めることに変わったのである、他者を蹴落としても利を求める
それは政治でも社会全体でもそうである、教育でもそうである、戦後の教育は受験戦争であり他者を蹴落としても利をえるためにいい会社に入るとか官僚になって地位を得て楽な暮らしをするとしかないのである
そこに同胞という感覚すらなくなったのである、それはそういう言葉がなくなったことでもわかる
友垣とかあってもそういう言葉がひびかないのは社会自体にそういうものがなくなったからである
つまり民主主義は民利主義として訳した方が現実にあっているのである

だから戦後70年経てそうした日本の歴史とか失われた精神を回復することである、民主主義とかは日本に根付かなかった、そして戦前のことは戦争がありすべて否定的なものとして教育されたし国もなった
でも結果として日本から日本人がもっていた徳も美も喪失したのである
戦前を戦争があったとしても日本の歴史を継続したものがありそこにいいものがあった、それで教育勅語でもアメリカでは評価している、つまり民主主義というときそれはヨ−ロッパとかアメリカの価値観でありそれをすべて日本にあてはめることはできずに荒廃したのである
だから国風文化というとき江戸時代であり明治以降は違うとなるが戦前は国風文化として日本がありそれで日本語を歴史として継承されていたのである、だから戦前を戦争のためにすべて否定することは日本が日本でなくなることでありそれで日本語について日本人自身がたずねてその日本人のアイディンティティを再生するべきだとなる

いづれにしろお得意さんがなるなるということはそういう社会がなくなったということである
コンビニに十年間買いに行ってもお得意さんには決してならないしスーパーでも毎日通ってもお得意さんにはならない
多数の中の一人であり客としても認識されない、それでコンビニで100円のパンを間違ってポケットに入れて犯罪者にされた
そこでは決してお得意さんにはならないからである
コンビニに来るのはクルマで遠い所からよる人が多い、地元とはあまり関係ないからである
交通が発達した結果としてクルマ社会になりコンビニが生まれた、それはそういう社会になったときお得意さんときう言葉も消えたのである、ある言葉が社会で通用しなくなる時その実態となるものが社会から喪失したからである
だから戦争から戦争前にあった日本語が通じくなくなったのである



2019年07月05日

人生で一番後悔すること (タイミングが人生を決めるー時間は飛んでたちまち消える)


人生で一番後悔すること

(タイミングが人生を決めるー時間は飛んでたちまち消える)


人生で一番後悔することは何か?
それは卑近なことでも必ずタイミングを逃していることである
例えば婚活というのでいろいろプログで指導する女性がいる
でも本当に結婚とかどうして決まるのだろうか?
いろいろ双方に要望があるし完全な人などいない
そこで選択することは困難を極める

では何によって決まるのか?

それはタイミングだ

第一まず結婚しようとするとき最も大事なのは双方のタイミングなのである
それで婚期を逃すことが結婚するタイミングを逃すことが最大の問題なのである
それは自分自身のことでもあった

誰かを選ぶより会うタイミングである

何か結婚した夫婦を見ていると不釣り合いなものを見る
なぜこんな男が美人であり頭がいい女性と結婚しているのか?
その逆も普通にある

それはその二人があったタイミングにある

ある女性は近くに住んでいる男性が親が死んだことでかかわり結婚した
その家に一人になったからそこに通っているうちに結婚した
それも好き嫌いとかではなくそういう時に出会ったことで結婚になった
その人がどういう人かはあまり関係なかったかもしれない

第一人間の時間は限られている

その時を逃したら遂に何もできなくなる
老人なってもできると思ってもできない
なぜなら何か自分でも旅行しようとしてバッグを買ったり用意した
それから語学を勉強しようともした、でもできない、時間もないし頭もまわらない
語学を身につける時間が過ぎてしまったということなのだ

それはあらゆることに言える、恋愛であれ結婚であれ勉強であれそして最大に重要な求道すらそうだった
宗教とか信仰は老人になってやればいいとかないのである
若い時に求道しないものはもうできないのである
つくづくTime fly(flies)というけど本当にそうである、時間は飛んで消失してしまうのである

人間に与えられた時間が限られている→成すことも限られている

だから男女の出会いでも一番大事なのはタイミングなのである
相手がどうのこうのという前にそのタイミングが婚期を逃したらもう結婚もできないのである、特に婚期を逃すことを親が恐れるのは女性は劣化するのが早いからである

人間には結婚でもそんなに相手を吟味して選んでいる時間がないのである
その内に婚期を逃す、ただそれで離婚も多いのである
つまりじっくり選ぶ時間が人間に与えられていないからである

そして老人になり・・・しておけば良かったとなってみんな終わっているのである

何かをすべき時間がなくなってしまうのである
例え老人でも今は長生きだとしても第一頭が回らなくなる
それで老人はこれまで積み重ねた経験を活かすのである
遂には認知症になると昔のことを千回を語りつづけることになる
それが生きた証だったからである
もう何かを経験するタイミングは時間は失われたのである

だから本当に時間がタイミングだ人間を決める、人間の時間は限られている
たちまち飛んで消えるのである、そして二度と青春でも時間は戻ってこないのである
これが人間にとって一番厳粛なことだったと思う
人生は二度はないことである、時間などいくらでもある、またやり直せばいいとはならない、もうやり直すことは不可能である、ただ後は死があるだけである
だから人間の一生はほぼ30までで決まる
それで最初に20代でも就職とかでつまづき非正規とニートになると一生そうなってしまう、またカルトなどの宗教団体からぬけないと一生ぬけられないとかなる
30までに人生の方向が決まるのである
そしてやり直す時間はない、戻ってこないのである 


1 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、 
2 また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。(聖書ーコレへトの言葉)

この「なんの楽しみもない」というときそれは働きづめの人生を言っているのか?
老人になって何もするものがないという、そういう人の人生は何だったのか自問自答している人もいる
会社という場から離れたとき生きがいも喪失する
例えば村とかで村全体で生きていれば死ぬまでその一員でありそこがアイディンティティを築く場だからそこから離脱して死ぬことはないのである
死んでも今度は先祖となり春の田植えの時は山からおりてくるというふうに継続した生がある
そういう連続性が今の社会にはない、そこで老人は用ないものとされている、それは金があっても用ないものとされる

とにかく人間は老人になると馬鹿でも見えてくるものがある、人生とはこんなものだったのかと悟らせられるからである
永遠に時間は帰ってこない、何かを成すべき時間は失われたのである、そして死があるだけだとなる

2019年06月29日

一本の木の詩(世界的に普遍的なものとして人間の心がある)


一本の木の詩(世界的に普遍的なものとして人間の心がある)

裸の木
真摯な木
真面目な木
実直な木 
素直な木
真直な木
直截なる木
真(まこと)の木
真率なる木
一本気の木
木と木は向き合う
真摯に嘘偽りのなし
真面目なるものは
真面目なるものを要求し
真摯なるものは真摯なるものを求める
何ものを身にまとわない
木は飾るものがない
寒さがじかにしみ入り
風が吹きつける
自然なる神殿の中にあり
汝は堅く口をつつしめ
自然は神の敬虔なる下僕である 
そこは神の住まいなればなり
かくしてその姿勢で木は倒れる
木は倒れて大地に還る
木は静かに強く生を全うした
神の意にそい全うした
故に後悔はなし
まことは天地に通じて不壊なり
再び天の国に神の意によって立つ
その神殿は朽ちざるべし 

(一本のみはしらここにすぐに立ちまことの陽にそ映えるべしかな) 

私が追求してきたアイディンティティとは何か?
それは私は右でも左でもない、自然との一体感、自然とアイディンティティ化することを試みてきた、自然という時、またそれは地球のことである
確かに国はあってもまず自然が地球が宇宙があって神が作って国も存在したのである
ユニーバスというときユニとは一つのことであり一つの宇宙一つの地球のことである
だからどこの国でも自然がある、木もあり石もあり山もあり海もあり自然がある
その自然の様相は違っているがその国々に自然がある

例えばここに私が作った一本の木という詩はこれは日本に生きているからできたというものでもない、木はどこにでもあり木とアイディンティティ化して文化が生まれる
木はエジプト文明にもあり神殿に荘厳な柱がありそれは木を模したものである
ギリシャのパルテノンでもそうである、それは木なのである
大聖堂でも内部の柱は木をイメージしている、一番荘厳なのがゲルマン系のゴシック聖堂でありそれはドイツの樅の木の森をイメージしてできたとされる
でも別に樅の木はどこにでもある、南国にはないにしてもある
それを丸森で見て感動したのである
石でも岩でもどこにでもある、日本は木の文化だとするときむしろ外国ではインかとかマヤ文明でも石の祭壇を作っているから石の文明となる
石という素材から成る文明だとなる、エジプトのピラミッドにそれが象徴されているのである、石は堅牢だから3000年でも残りつづけているのである

ここで私が言いたいのは自然はどこの国でもあり自然を通じてユニバーサルなものの普遍性を作り得るかなのである
もし詩でも外国に理解されないと芸術でも理解されなければ普遍性はない
でも芸術には普遍性があり絵画などはいいものは外国でも見分けられる
詩とかなると言葉の障壁でむずかしくなっている
でも普遍性があるらなんとか訳すことができる、詩は翻訳できないというのもあるがでも全く通じないということでもない、ただ俳句でも短歌でも翻訳は基本的にできないものである

one Bare tree
one Sincere tree
one Serious tree
one Straight tree
one Honest tree
one Straight tree

何か英語では通じないし訳せない、例えば真摯なというとき日本語では強いひびきがあるでも英語にしたらSeriousとかにしても何かもう一つ違っている
そういうことはいくらでもあるからなかなか言葉は翻訳できないことで言葉が壁となり普遍性をもちにくいのである 
紀元節の国のみはしらというときやはり柱は木なのである
自然の中に真(まこと)と美がある、それは日本人が神道として大和言葉で伝えた

豊国の企救(きく)の浜辺の真砂土(まなごつち)真直にしあらば何か嘆かむ

これが日本人の心なのである、真直なるという言葉に集約した日本人の心がある
その真直なる心を日本社会は喪失した、ただ金を求めるだけであり自然の美にすら感嘆しない、それは世界全体に言える、だからなぜ古代でも中世でも神殿であれ大聖堂であれ作れたのか?それは何か真善美というものを建築によって具体化できたということがあるそれは精神的なるものの産物であり現代の建築と比べるとまるで違っている
現代の建築はただビジネスのための機能的な建築だからである
ともかく大陸の文明では建築に感嘆することが多い、日本との根本的相違がそこにある
日本にも城があるのだがそれにしても城は小さいものが多い、大きなものは少ないのである、そこに経済力の差があったともなる

日本文明は大きな文明の一つとされたとしてもそこに世界への普遍性としての文明といえるのか疑問である
これだけグロ−バル化するとどうしてもユニバーサルなものをあらゆる分野で求められるからである、世界に通用しないものは普遍性がないものは認められないとなるからである

いづれにしろ一本の木で現したものは人間そのものもそういうものを求めて生きるべきなのである
つまり真面目さとか何か単純だけどそうした人間の心としてるるべきものが喪失しているのである、身近なもので樹とか岩とか良くみていると一体化するとそうなるのである 
それは普遍的なものであり日本だけのものではない、だから世界で通じるとなるのだが言葉の障壁でむずかしいとなる
ただ世界の人も求めるべきものであり宗教でもキリストの言う清い心というのはそういうものであり世界のどこの国でも共通のものがある

ただ清いというだけでは人間の心は現せない、真面目だとか真摯だと素直だと真直だとかなるのである  
こういう単純なことが社会で実践されない、第一嘘をつかないということをまず実行できない、あらゆる所で嘘がある
その最たるものがマスコミでありテレビであるというとき茶の間にその嘘を垂れ流すものを神坐のように置いていること自体が異常だったのである
テレビはむしろみんなで茶の間で見るべきものではなかったのである、茶の間に置けば家族自体が猥雑になり卑俗になり敬虔さが失われる、それを林秀彦は指摘した、何かテレビというものをあまりにも安易に受け入れてしまったのである
それがどれほど影響したか計り知れないとなる、そこまで考えた人はあまりいなかった
イスラム教ではテレビまで写真まで偶像として拒否したことにも一理あったと今では思う
それが茶の間にあることで汚染されたのである、テレビはそれだけ下卑たものなのだけど何かテレビに出るだけで名声と力をもつようになってしまった、そこでまず日本人の心は失われ社会全体に波及して現在がある


2019年06月04日

引きこもりをプラスに考える、精神の修行に向ける (寺とか修道院とかは引きこもりの場だったのでは?)


引きこもりをプラスに考える、精神の修行に向ける

(寺とか修道院とかは引きこもりの場だったのでは?)

引きこもりに興味があるのは自分自身がそうだったからである
なぜ自分がそうなったのか?
それは何度も言うように特殊な家庭環境でそれが許されたからである
例えば事務次官の40代の引きこもりが殺されたけど別に息子のことを許容して金を与えていれば何にも起こらないかもしれない、事件も起こらないかもしれない
ただ前にも書いたように小人閑居して不善を成すというのが普通にある
いかにそうして暇が与えられたとき別に引きこもりだけではない、この辺では原発避難者が暇になり毎日パチンコにギャンブルに興じて顰蹙をかったようになる
でももし引きこもりでも一人で学問とか芸術に精進していたらどうなるのか?
それが世間に認められないがそうしている人もいるからだ
それは自分自身だったとなる、それが無用の人となるのか?

ただニーチェでもヘルダーリンでも狂気にいたった、でもその思想とか詩は後世に残る素晴らしいものだったのである、ただなかなか認められなかったのである
ヘルダーリンの塔とかありそこに狂気になり閉じこもっていた
それはまさに「引きこもりの塔」だったのである
そこでも詩を書いていたしそれは素晴らしいものだったのである
だから狂気でもそれが狂気なのかともなる

引きこもりを考えると社会不適応者である、そういう人は大人しい人である、今回の川崎登戸殺人のようにな人は少ないのである
おそらく優しい気質の人、暴力的な人はまれである、むしろ暴力的とかになる人は反社会的なもの暴力団とかに入るとなる、そういう人は実は侍になったとかある 
それを言っている人がyoutubeにいた、引きこもりとは市役所でそういうイメージを作ったのだとそれも何かそう思えるのはあまりにも今回の殺人犯は引きこもりの人のイメージと違いすぎるのだ、どちらかいうとひ弱な人が優しい人が引きこもりになっているからだあれほどの暴力性がある、度胸があると感心するのもわかる、変な感心の仕方だけどそれほどに反社会的になりうるのか?
そして実際はカリタス学園には両親の代わりだった兄弟姉妹の二人が入っていたのである
とするとカリタス学園の特定の者を恨みから狙ったという推理もわかる、つまり無差別殺人ではなかったとなる
ではそれほどその一人の小学生を狙ったのかとなるとわからない、不可解だとなる
つまり引きこもりとは必ずも結びつかない、明確に生い立ちとかで恨みがある犯行である引きこもりの人でそうした明確な恨みをもっていないからである
だからこれは特殊であり引きこもり全般にはあてはまらない、私が問題にしているのは引きこもり全般の問題である

そもそも反社会性とは何なのか?宗教とかは極めて反社会的なものである
第一家庭を結婚を否定していること自体反社会的なのである
社会そのものを否定して始まっているのである
そういうものが簡単に受け入れられるだろうか?
受け入れられないから寺とか修道院に隔離して修行したりそこを居場所として世間の価値観とは違うものを追求したのである

不思議なのは禅宗である、禅宗だと悟りのためとか座禅を組んでしゃべらない、沈黙の修行をする、でもそういうことは社会生活したら世間ではできない
なぜなら世間では絶えず社交生活でもしゃべることを会社生活でも営業でもしゃべることを要求される、そして話術で巧みに相手をだまして物を売ったり銀行でも証券会社でもいたるところで口たくみに売りつける、それは詐欺とにているのである
投資信託でも他でもそういうことが多いのである
つまり社会生活するにはそうして嘘をつかねば生活できないとまでなっているのだ
マスコミとかでもそうである、そこでも実際はフィクニュースだとか嘘が横行している
その影響が大きすぎるからその人たちはむしろアナウンサーでもかえって口をつつしまねばならないのである
でも現実はその逆なのである、しゃべるのがうまい人でないと勤まらないのである

引きこもりの人は会社でもブラック会社となるとそこで働きたくないというのは当然なのである、それはわがままもあるがそういうことがある
社会とは働くとか会社でもどこでもそこは利益優先であり利益のためには金のために偽るということは当たり前なのである、それがそもそも社会である
そういう世間から出家するということで引きこもる場を作ったのが寺であり修道院だったともなる
そこでは妻帯はしなかったし禅僧のように無駄口をたたかないとか偽りを言わないとか
身・口・意を修めることをしたのである
社会で禅僧のようにしていたら奇異に見られる、ところが禅寺でそうしていたらあの人は修行しているとかなり喜捨もされていたのである
それを考えると奇妙なのである

だから引きこもりの人は本当は寺とか修道院に入った方がいいともなる
そこで社会に世間とかかわる必要がないからである、ということはそういう引きこもり傾向の人がそういう場に入っていたのかともなる
ブラック会社で働くのが嫌だとかなればそういう場所に行けばいいとなる
侍でも人殺しをするのが嫌だとなればそういう場所に行けばいいとなるからだ
ただ現代ではそういう場所が用意されていないからかもしれないともなる
第一寺は江戸時代には役所と同じであり修行の場ではなくなっていたからである
ただ今の引きこもりはそういう場には厳しいから耐えられないともなる

なぜ引きこもりが批判されるのか?それが社会に役立たないとされているからである
でも寺とか修道院で修行している人はそう見られていないのである
むしろ尊敬されて喜捨までされているのである
この相違は何なのか?これも不思議なのである
ただ一日ゲームをやっているとか何か昔の寺とか修道院で修行している人とは違うから批判されているとなる
自分自身は何かそうして引きこもり精神修養していたとなる
そして詩とか学問とか芸術を追求していたとなる
だから引きこもりがすべて悪いものとして働くことはないのである

それで団塊の世代がみんな猛烈な企業戦士となり全部会社員となったことが疑問だった
何か大学になるとすべてが自由になる、あまりの高校との相違に驚くのである
そこから自分は働くとういことができなくなったということもある
それで良く大学を文系を出た人たちがあんなのに会社にすべてを全精力をささげる人となったのが不思議だとなる
貧乏の時代だったから仕方がない面があるにしてもその中で1000人くらいは会社人間からはずれたものになっても良かったのである
不思議なのは貧乏な時代にあれだけの僧がいたのかということである
一遍の念仏宗の信者が松島で二千人いてそこを浄土して死んだとか言われる
どこでも僧がやたらと多かったのはなぜなのか?その人たちは生産に従事していないのである、貧乏な時代だったらそういう人をそんなに養えないと思うからである
今なら養える、もう働かない人が老人をふくめて三分の一とかになっているからだ
そういうことで引きこもりが100万いるということにもなる
別に食べることができるからそうなっているのである

こういうように歴史をふりかえれば引きこもりは有用なものとなりうる、それは世間的な意味ではない価値観からではない、それと対立する価値観から有用なのである
社会や世間にいる限り偽り言う口になる、そこで意が必ず汚れるのである
身・口・意を修めるには社会から引きこもるほかないのである
だからそういう場を作りそういう人の価値を認めることだとなる
それが昔は貧乏な時の方ができていたというのが不思議なのである
ただ正直現実はそうはならない、それを証明しているのが天才的アウトサイダーだったのである、遂には狂気にいたっているのが多いからである
そういう天才的人間は社会でも自然でも統合することに腐心したのである
それができないから統合失調症になったのである

つまり現代文明は統合できない世界だからそれを統合しようとしてできないから統合失調症になったのである
むしろ遅れた国ではヨ−ロッパでもブタペストか東欧だとなっていないとういことでわかる、一時的になっても回復していたのである
それは江戸時代でもそうした精神障害者は社会の中に受け入れられていたのである
現代ではそうした社会に適応できないのもにレッテルを張り病気にして隔離するのであるその現代文明で正常と見られる人も実は異常だったのである
異常な社会から文明から異常なものが生まれる、カルト教団などもそうである
ナチスもそうである、それが生まれたのは文明という異常なものから生まれたのであり現代文明だからこそ生まれたものなのである
正常に文明生活している人にはどれだけ異常な人たちがいるか、性格が歪んで異常人格化している人がいるか?そういう人は治療すべきなのだが放置されている
そういう人たちこそ隔離すべきだともなるができないから遂にはカルト教団のように手がつけられないものとなりナチスのようになり社会が席巻されて最悪のもの地獄と化すのである

おそらく現代では引きこもりを受け入れる受け皿がない、寺とか修道院がない、そういう所はまた昔の修行の場でもなくなっている、そこも社会的組織の一部と化している
そこで引きこもりが行く場所がないから家に引きこもるとなったのかもしれない
自分自身はそうだった、ただ自分自身は特殊な家庭環境で恵まれたから60まで引きこもりだったのである、家の人に責められることが全くなかったからである
そしてかえって殿様のように自分に何でもしてくれたのである
そこに小人閑居して不善を成すともなったのである
今になったら誰も何もしてくれない、金をくれあとはなにもしないとなっているだけである
誰も思ってくれる人もいない、それもカルマだったとなる

修行としての人生

この世は快楽の場ではない
修行の場と心得よ
口さがなき人
汝を鞭打つ者
汝を虐げる者
汝を蔑む者
冷酷な仕打ち
汝はひたすら耐えよ
この世は修行の場なり
汝の精神を鍛える場なり
鉄の意志もて耐えよ
それぞれに生い立ち環境が違う
不遇な人よ、恨むとて解決せず
この世の理不尽、意にそわぬこと
常にこの世にはある
ただこの世は修行の場なり
内なる力を充実させよ!
深く大地に木の如く根を張れ
内なる力によって横暴に打ち勝つべし

引きこもりの性格としてはビジネス社会であれ現代に会わない人でありどちらかというと内向的な人が多いだろう
現代では外向的なものの価値が評価されて内向的なものの価値が評価されない時代でもある
宗教とは内向的なものであり芸術もそういうものがある
でも内向的なものはビジネス社会では嫌われということもある
ただ正直すべてなんでも外向的なものがいいとはならないしそれで分けることもできない今の社会は内向的なものの価値を認めないということがある
だから不思議なのはなぜ禅寺で座禅をして沈黙の修行をしているのか?
それは内面を充実させるためなのである、でも今のビジネス社会なら無駄だ、何の価値があるのだとなってしまうのである

何かこれだけ引きこもりが生まれた背景はいろいろあっても内向的な人の求める価値が認められない、そういうことが背景にある
いづれにしろ外向的であれ内向的であれいかなる社会であれこの世は修行の場なのである仕事でも修行でありお勤めである、でももし勤めだとしたら何かモラルに反するものがあれば勤められないともなる
それで本当に今の社会に文明に適応することが人間の道なのか?
そうでないとしたら別な場所で修行する場を提供すべきだとなるのである
そういう場がないから家庭に引きこもるとなってしまう
何か変な理屈だとされるかもしれないがやはり人間は歴史的にまた相対的に見ると見えるものがある、今からふりかえるとなぜあんなに貧乏な時代に生産にたずさわらない僧が多かったとういことが謎になる、今のように仕事しない人が三分の一膨大にいる時代ならわかる、かえってそうでない時代が僧が多かったから謎だとなるのである

2019年06月03日

人間はすべて恵まれて終わらない (最後に大きな不運に見舞われる)


人間はすべて恵まれて終わらない

(最後に大きな不運に見舞われる)


人の一生をみているとわからないものだとつくづく思う
人間はどんな人でもどんなに恵まれていても最後になると不幸になり不運になり意外な結果になる
まさか事務次官までした人が殺人罪でつかまるとは思いもよらなかったろう
その本人すらそうである、東大出て高級官僚になり順風満風だったのである
上級国民として勲章までもらった人がやはり90近くで痛ましい交通事故を起こして世間から責められるのもそうだった
何か60歳以降に不幸が起きやすい、それはその人のカルマだとして考察した
60歳以上にカルマの清算が起きてくるからだ

親戚というのでもないが実の親でも5歳で捨てて金持ちと再婚した人もその捨てた娘に頼った、認知症になったからである
でもその娘は全くその実の親に愛情がない、ただ金をもっているから施設にあづけて死ぬのをまっているというだけである、これも恐ろしい不幸なのかもしれない
その娘は前にも書いたけど異常化していた、非情化した人間になっていたからである
なぜなら育ての親にも非情化していた、いろいろあっても病気になっても何のいたわりもないそれで最後に自分のところに「ひどい娘だわ」と言ってきてすぐに死んだのである
それが介護もされずに死んだから良かったのである
介護も何もその娘はできない、私の家にきて「おばちゃんは金があるんだから金にめんどうみてもらへ」と言って血相変えて去って行ったからだ
ただ私の家とはもめていたからそれもありえたが育ての親ともめたとしても一番世話になったのだからそういうことはありえないと思ったからである
そもそもあんな人間になっていることは何なのだろうとなる
引きこもりとかなんとか人間にはいろいろいるが正常と見られる人間でも全く信じられない異常化した人間が普通にいるのである

人間はだから最後まで見ないとわからない、私の姉も最後は信じられない結果となり死んだ、優秀だ優秀だと言っていたが認知症になって死んだ、悲惨なのは死ぬ間際まで「俺は優秀だと」言って死んだことである、でも認知症になり馬鹿になったということも信じられないとなる、これほど意外な結果もなかったのである
正直人間が最後がどうなるのか、人生というのはいかに生きてもわからないのである

人生は意外な結果で終わる

みんな最後にそう思っている見ているかもしれない、人生はもしかしたらその人がいかに努力しても自分自身だけでは決められないものかもしれない

人生を決めるのは神だ、人間では決められない

こうなるかもしれない、人間の運命をにぎっているのは神だとなってしまう
だからみんな意外な結果として終わっている
いくら計画しても計画通りにいかないのが人生である
人生には有為転変がつきものだからである、第一こんな津波とか原発事故で故郷に住めなくなるなど想像すらできなかったからである
もちろん戦争で3百万人死んだとかもそうである
何か人生でも70年とか生きればその間に予期せぬことが起きるからである
だからこそみんな意外な結果で人生が終わっているのである
とすると今の不幸が必ずしも不幸とはならず幸福になるものをもっているとかなる
今の幸福が実は不幸につながるものをもっている
実際にあまりに恵まれると危険になる、なぜなら必ず人生には苦難がつきものだからである、するとあまりにも恵まれると苦難に耐えられなくなるのである
底辺の人はそういうとき切り抜けられるということもある
第一簡単に借金などプライドがあると人はできない、頼めないのである
サラ金とかだと頭を下げることもないから簡単になる
でも面と向かって借金を頼むとなるとなかなかできないからである    

才能があっても発揮されない

成功は失敗である

異常は正常であり正常は異常である

何が有能かわからない 


結局人生は終わりからみればわかりやすいのである、いくら才能があっても発揮されない、そういう環境がないと発揮されない
特別柔道の段をもって医者だった人も病気あえなく若くして死んだとかある
戦争の時は有能な人が相当に死んで才能を発揮されなかったとかそういうことはいくらでもある
才能のあるなしの問題ではなくそういう環境がないことが才能を発揮されないのである

成功が失敗であるというとき成功した人はおごる、会社員としては有能だったが事業を起こして失敗した
それは会社員として働くのと経営者になるのは次元が違うからである
また成功すると失敗するのはそこに奢りが生れる、日本が技術で優秀だったとか吹聴していたけど原発事故をみればわかる
日本の技術は劣っていたのである、また高度成長は幸運だったのであり今になれば中国が優れているとなっていることでもわかる
電機製品は別にどこの国でも作れるものだったのである、もし日本でしか作れないものだったら日本人が優秀だとなっていた
日本はIT分野では中国に完全ぬかれた後進国となっていて貧乏国に転落したことでもわかる
成功したことが失敗に通じることが普通にある

異常というとき引きこもりとか異常というけどでは正常と思われて生活している人が実は異常人格者だったとかいくらでもある
公務員の夫がいて子供もいてその人にどこも異常性はないが実際はその女性が異常人格者だったのである
でも社会では正常と認めているのである、そんな人も普通にいる、だからこの世の中、何が誰が異常なのか正常なのかもわからない
そして何が有能なのか無能なのかもぉわからない、あれだけ優秀だとしていた人が認知症で無能化したことには驚いた
そして800万も認知症になるとしたらみんな人間は無能化されのかという恐怖になる
人間はみんな最後に無能化されるのかとなるからだ

つまり人間とは人生でも先が読めない、今の不幸が実は幸福につながっているかもしれない、今の幸福が不幸につながっているかもしれない、つまり人間の先は誰も読めない、未来は誰も読めないのである
神のみが全能であり未来を知っている、人間は未来を知ることができない、人生の幸不幸もわからない、何が幸いするかしないかもわからない、こつこつ金をためても金はためられない、盗まれたとかある
何もしないのに親の遺産が入ったとかもある、金でも何か不確実なのである
いくら真面目に働いても金が必ずしも入らないのである、努力しても正当に報えられるともならない
社会自体には何か大きな逆転も起きてくる、だから上に立つものが安泰とはならない
そして何が起きるかわからない、上級国民でも78歳と90近くになって大きな災いに見舞われるのである
だからこうして人間で人生でもわからないからそこに神が関与しているのではないかともなる
人間の思い通りにならないからである、それで聖書では強い者が勝つとは限らないとしている
大国が勝つとは限らないのである、そういうことでも世界史でも神が関与しているのかとなる

「人生不可解なり」と華厳の滝で自殺した青年はまだ若い、本当に不可解だと思うのは老人になってからである、若い時はまだ経験がない、でも老人になるとそういう現実を具体的に見るから経験するからそうなる本当に人生は不可解なのだと老人になると実感する
70年も生きると何が起きるかわからないとういことである
それは予測できないものとして現れる、だから意外だった、人生も意外に終わったとうい人が多いのである



2019年05月30日

カルマが返せないとどうなる (いつまでもカルマに苦しめられる―借金と同じ)


カルマが返せないとどうなる

(いつまでもカルマに苦しめられる―借金と同じ)


積んでしまったカルマ(業念)は、返済するまでは、
神様は決して許してくれない

カルマの謎は例えばある人から十万盗む、また百万盗む、千万盗むとする
そるとその分のカルマを背負うことである
そして百万でももう返したくないとなる、十万ならしかたがないとかなりなんとか替え返そうとするが額が大きくなるとできない
だからカルマは軽い内返した方が楽なのである
江戸時代なら十両盗んだら首が飛んだ、額によって罰が決められた

このサイトで借金に例えてカルマを説明しているからわかりやすい、カルマは借金なのである、それを返さないといつまでもカルマを解消できないのである
借金したから自己破産すればいいやとか考えてもそうはいかないのである
一旦カルマとして背負ったものは返すことを要求される

だからもし百万であれ一千万盗んだとすると盗んだ人が額が大きいから返したくなくなるまたそういう人は貧乏なのだから返せなくなくなる
するとカルマをかかえたままカルマを背負ったままになる
でもその人はそんなこを思わない、ただ得したと思う
しかし怖いのはカルマが返せなくなることである
一見得したように見えてカルマはもう返せなくなる
それはその人にとっては額が大きすぎたからである

ただカルマというのは金をもっている人にもある
だからこそ盗まれたということもある、つまり不正をしてとか社会でたいして貢献しないのに金が入る人がいる、そういう地位とか何か金が入る人がいる
そういう人も実はカルマを背負っている
だからそのカルマの故に大金を盗まれたともなる
要するに双方にカルマがあったからそうなったともなる
何か犯罪とは偶然に起こるのか?何か互いのカルマがあって起きてくるのか?
世の中にもしかしたら偶然というのはないのかもしれない
ただ偶然に見えても必然だったともなる

いづれにしろカルマは借金である
神はカルマについては厳しくそれから逃れることを許さない
そうなるとこの世の中に神がいて神が采配しているともなる
神の目を逃れることはできない
神は人の心を見ているというときその行為も見ている、そしてカルマを課すのである
何かごまかして生きれるように思っているが実際はごまかすことができない

そうして現代の資本主義は世界の富を数パーセントの人に収奪されているというとき
そのような人がどうなるのか?そんな莫大な金を集めてそれを有効に使えるのか?
その金で戦争に使うとかしたらどうなるのか?
それは悪魔的なものとなりその家であれ人であれ維持できなくなる
そこには災いのみがある呪われた家となる、そんなカルマを背負いるのかともなるからだだからフランス革命とか中国でも革命が起きて金持ちは無惨に殺されたのである
それは富を有効に利用できなかったからである

大きな犯罪を犯した人はどうなるのか?今回のような川崎登戸殺人事件の犯人はどうなるのか?そのカルマはとてつもなく重いものとなりとても返せないから自殺したとなる
自殺を覚悟でしして自分自身が苦しむのを断ったとなる
でもそのカルマは今世で終わらず来世にもちこまれる
そこでカルマを払わされるかもしれない、それがどういうものになるかわからないのである
余りにも重いカルマになるとそれをどう返すのか見当もつかないともなる

カルマというとき他罰的になるのではない、結局人間は自業自得だよということになる
他人をいろいろせめても自業自得だ、自分のカルマだとして背負う、他人のせいでもないし社会のせいでもない、自分のカルマだとして背負うことになり自分のカルマを自分が苦しみ解消するほか返すほかないと悟ることである
でもまた社会の上級国民でもカルマを背負っているのである
だから今回の事件のようなことになるのかともなる
ただここにカルマがどう作用したのか?とても犯人を許す気にはなれないだろう
つまりこのカルマを返す本人は死んだ、もうカルマは返せないとなるのか?
それとも犯人は来世でまたは今の世でも生まれ代わりカルマを払わされるのか?
そしたら空恐ろしいものとなる

いづれにしろ人間は大きなカルマを背負うと返せなくなる、返せないとどうなるのか?
延々と苦しみから逃れられない、神は許しはしないからだとなる
シーシュポスのように岩をもちあげてはまた一からもちあげて永遠に終わらない罰を与えられる
永劫の罰が与えられるのかとなる
それも恐ろしいとなる、永遠にそのカルマから労苦から逃れられないとなるからだ

ともかく人間はこうしてカルマを背負わないように気をつけるべきである
その時はいいと思っても後で重いカルマとなって返せないカルマとなって永遠に苦しむともなるからだ、カルマを返すことは執拗に迫られるとなればそうである、それは借金とりとにているのだ
カルマは今回の原発事故のようにプルトニウムの毒が2万5千年消えないとか信じられないカルマとなる、カルマはそれだけの年月がたたないと解消できなともなったからだ
そこに原発の罪深さがあった、永劫の罰となったら本当に怖い
原発事故によってそれだけのカルマをこの辺では背負わされたのである
この地域はそうした重いカルマを背負ってしまったのである

そしてカルマは親からも先祖からも受け継ぐのである、つまり一代ではカルマは消滅しないとなる
そこにカルマの怖さがある、ある家でも何か大きなカルマを背負っていて災いがつづくとかある
家は明らかにそれぞれのカルマを背負っているからだ
その中にいいものを受け継いでいるが一般的にカルマというと悪いことを受け継ぐことなのである
だから長男と長女はその家のカルマをいいにし悪いにしろ受けづくのである
そういう宿命にあるのだ、自分自身がそうだったからである



2019年05月21日

40歳の焦燥 (人生は30までで骨格は形成される、あきめるには早すぎるから苦しい)


40歳の焦燥

(人生は30までで骨格は形成される、あきめるには早すぎるから苦しい)

Love & Freedom(底辺労働者)の人がなぜ焦燥感に苦しむのか?
それは盛んに自ら言うように40だともう終わりだがそれまでならなんとか未来がまだあると見る
そういう中途半端な年齢だからだろう
でもすでに30を越えて40になると人間はもう決まってしまう
それでもうスキルもなにもないとか苦しむ
一生底辺労働で後は生活保護だとかFXで一発かけて挽回する他ないと悲壮感を漂わせている

人間は何か意外と20代くらいで決まってしまう、40近くになったからもうその一生は見えてくるとなる
「若き時に神を知れ」というのはそのためだった、この深い意味は若い時わからないのである
20代で求道しないものが30過ぎて40過ぎて求道できなくなっている
そんなことがあるのかというときふりかえるとあった
求道は最も命が盛んな時するものであり力が衰えた老年になってすることができなくなる
普通はこういうことを考えない、青春なら欲望のままに若さを発揮して生きればいいとかなる、そんな求道とか関係ないとなる
ただ求道だけではない、ビジネスでも仕事でも20代に骨格が形成されるから30過ぎると無理だとなる
だから人間は30でほぼ人生行路が決まるとまでなる
その20代があっというまに過ぎてしまうのである
やはりその時期が一番大事だったのかとふりかえるとなる

20代というとき何か人生はとてつもなく長いように感じるのである
永遠につづくようにも思う、だから年齢によって感じる時間は相当に違っていた
60とか過ぎると人生が終わるのがアッという間だったとなる
年齢によって青年と老人の差はこの時間感覚にある
人生が限りなく長いと20代では思っていたが過ぎてみればアッという間だった
そして20代でほぼ人生は決まっていたともなる
そしてすでに若い時は青春はとりもどせなくなっているのだ

ただ30までにほぼ決まるとしてもその先は長いこともある
私の場合は30年間旅に費やして終わったとなる
これも普通はありえないことだが正規のルートからはずれたからそのまま外れたルートを最後まで来たということになる
だから一旦正規のルートからはずれるとそのまま最後まではずれたままになる
20代でも正規のルートからはずれるとフリーターとかニートとかなり正規のルートにはもどれなくなる
時代が変わるにしてもそうなっいる

ただ人生百年という時今までと違った時間感覚をもつ必要がある
つまり成果を出すのはかなり遅くなる、60代とか70代になってもいいとなる
その先さらに百年生きるとなるとそうなるのである
だから長期展望ができる時代になっているのだ
何か成果を出すためにあせる必要はないのである
骨格は20代で決まるとしてもそこに肉付けする時間が長くなるのである

いづれにしろ40代の焦燥感はわかる
でもこれが60とか70とかなると消えてしまうのである
あきらめるから焦燥感が消える、なんとかしようとかもがくこともないのである

なんだ、人生は終わりなのか、これぽっちで終わりなのかと驚くのである
そして何か不思議な感覚になる
この人生は何なのか?人の出会いでもさよならだけが人生だとなる
人間は会ったとしても本当は分かれるだけだとなる
あなたとここで会いましたがすぐお別れです、私はあの世に行きます、あなたとは二度と会いませんとなるのも不思議なのである
例えば嫌な人がいようが常に嫁姑で憎み争っていようがその喧嘩していたのもなつかしくさえなるかもしれない、なぜなら二度と会えなくなるからである
現実に家族が全部死んでそうなったからである

この世にいつまでもいられない、人生はliveはleaveであり去ることだったとなる
とかなり次々に変わるのである、常がない、無常なのである
「I leave A for B.」「I leave B forC.」「I leave C forD.」.....
去ることが人生なら重荷もないのである
何かを重く背負うから背負わされるから人生は苦しくなる 

でももうこの世から去るだけだ、この世とはお別れだとなるとそういう重荷も消えるのである、だから60以上でも警備員とか底辺で仕事している人がいるがそういう人はあきらめているからふっきれているから悟りきったようになっているともみる
40のような焦燥感がないのである

人生はこんなもんだ、人生はこんなで終わりなのかと意外に思うのである
つまり若い時とか40でも何かをしなければならない、何かを達成しなければならないとかで苦しいのである
別に今日一日でも生きていれば得だよとか老人だとそうなる
なぜならすぐに死んでこの世とはお別れだからである
だから焦燥感とかはなくなる、ただ後悔は誰でもある
時間を有効に活かせなかった後悔は誰でもある、巨額の金を残した人でもそうである
青春はもどらないし時間がもどらない、人生をやり直すことはできないからだ
だから金より時間が貴重だったとなる

人生は誰でもなにかしら積み重ねがある、それが60以降に活きてくる
自分自身は文学の才能はあったとしても何か何もないとも見られていたのである
でも60以降とかさらにその後に何か今まで積み重ねたものが活きてきたなと思う
また理解できないことを理解できるようにもなったのである
詩でもそうである、相当に書き溜めたがまだ発表していない
なんとか詩集にしようとはしているがなかなかできない


青春でもその後の壮年でも人間には節制とか心を訓練する必要がある
しないと人間は欲望のままになり怠惰になってゆく
つまり心の鍛錬が必要なのである、それはあらゆる面でそうである
芸術でもそうであり他の仕事でも職人でも技を身に着けるのにはそうなる
それで全く絵の才能がないのに私が抽象画を作れたのはただ訓練してそうなったのであるだからすべて才能だけで決まるわけではないのである
何事か常に積み重ねて節制して鍛錬してゆくことが実りとなってゆく
だから人生百年時代は本当は焦る必要はないのである

自分としては酒とか煙草を30過ぎて一切やめたのが良かった
酒は頭を馬鹿にするし認知症にもなるかもしれない、精神を修行するには酒は良くない
なぜなら頭が一時的馬鹿になってしまうからである、脳と精神を麻痺させるのである
その影響は結構大きいのである、むしろ煙草はそんなに影響がないかもしれない
酒は一時的無意識にして馬鹿になる

いづれにしろ精神の修養と修行はしろ、節制はしろ!

これは別に宗教だけではない、あらゆる面で言えたのである
天才でない限り人間は積み重ねなのである
第一膨大な知識を全部知悉することは不可能である
ほんの一部だけであり天才だって知識的にわずかしか知ることができない
つまりある分野に積み重ねれば凡人だって詳しくなれる
そしてその人に埋もれていた才能が開花することはある
だから修行するとか節制するとかが大事になる
自分は社会からはずれて生きてきたけど修行とか節制をしてきたともなる
旅したのも見聞を広めるためであり何か無駄に浪費したのとも違っていたから今になり書くものがある、そして自分自身は節制してきたし雑学のような知識でも積み重ねてきたのである
それで凡人でも今になり何かしら芸術でも実るものがあったと思う
ただ誰も評価してくれないというだけなのである 




2019年05月05日

カルマを積んでいるから必ず苦しみとなって現れる (国でも会社でも団体でもカルマの清算が強いられる)


 カルマを積んでいるから必ず苦しみとなって現れる

 (国でも会社でも団体でもカルマの清算が強いられる)

良いことをすると良いプラスポイントがたまっていって、いつかポイントが自分に還元されます。

しかしプラスポイントと同様に、悪いことを行うと悪いポイントが貯まっていきます。そして悪いマイナスポイントも悪い出来事として自分に還元されてしまうのです。

自分にカルマのポイントが還元されることを「カルマの精算」と呼びます。


カルマの謎はいいことと悪いことがポイントとなることは確かである
ところが人間社会全体を見ればつくづく個々人だけでない、家族であれ会社であれそもそも国自体がカルマを積んでいる
それがある時何かの大きな事件となって苦しみとなって現れる
つまり時代を変えるような大きな歴史的事件が起きる
それが戦争とか自然災害とか巨大な事故とかである
また金融とかなると資本市主義が崩壊するような深刻な状態に陥ってゆく
金融恐慌などが起きてくる

その周期は60年間70年なのである
個々人でもそうであり国とか世界全体のレベルでもそうなのである
日本だと70年前は戦争でありその70年前は明治維新なのである
その変革は日本全体をまきこむ変革の時代であった
それはカルマの清算も意味していたのである

なぜそういうことが起きてくるのか?
知らずにカルマが積まれてどうにもなくなってくるからである
自分自身の体験したことでもそうである
介護から病気から今度は他者から責められるだけだった
塗炭の苦しみを受けたのである
誰も助ける者もいなかったのである
これも自分自身のカルマだった、別に悪いことしないからとか関係なく人はカルマを生きている限り積んでいるのだ

カルマといってもそれは多様なのである、結婚することもカルマであり結婚しないこともカルマであり子供をもつこともカルマだし持たないのもカルマである
仕事するのもカルマだししないのもカルマである
おそらく何もしなくても人間はカルマを積んでいる
その清算がやがて60以降に確実にカルマとなって苦しみとなって現れて清算を強いられる

それは個々人だけではない、国全体とか世界全体とか会社でもあらゆる団体でも起きてくる、宗教団体などでも起きてくる、宗教などでもそこでは本当に善いことを心の清い人たちの集まりでもなんでもないからだ
むしろ宗教を利用してこの世の欲を追求しているのがほとんどだからである
そこでカルマがそういう団体に現れてくる
そこで派閥争いとか権力闘争が内部でも起こり殺し合いさえ普通に起きる
組織化すること自体人間の業なのである、そこでは熾烈な地位争いとか起きてくる
それでオウムでは有名大学出ていないから幹部になれないとサリンを率先してまいた人がいたのである
そういうことはどこの組織団体でも起きてくる、それがカルマ(業)なのである

原発事故を見ればわかる、そこには東電だけではない、国家自体が国家を担う政治家でも官僚でもマスコミでも今の社会の枢要にある人たちが「安全神話」結託して作ったのである、国家自体がカルマを積みそして破局的な事故を起こしたのである
その時津波とか地震とかも何かカルマを清算するために起きたともなる
何かそこには人間の業(カルマ)が蓄積されて遂に爆発したとなる
戦争などでもそうしてカルマが人類全体に積もり何千万という人間が死ぬ
そして人類滅亡のハルマゲドンが起きるというときもそうである
人類とは人間とはそもそも生きること自体カルマを積む存在だったのである
だからいつか人類滅亡のカルマが破局的なものとして現実化する

例えば世界全体で資本主義がここ二百年くらいつづいたとしてもそれも富が数パーセントの人に握られる、そんな社会が持続すると思うだろうか?
なにかしらでそんな悪魔的なことをしていたら破局が訪れ日がくる、それが世界恐慌なのかもしれない、資本主義の崩壊なのである
その枢要な要の銀行もつぶれる、銀行というのは悪魔的な所があったからだ
それが確かにいい方面に機能していたときは良かった
銀行は兵器産業を推進する会社とか環境破壊の会社とかいろいろな悪い会社に投資している、また最近では地銀レベルでも投資信託とかでかえって投資する先がなくなり利子をとる方になっているのだ、だからもう銀行は半分が潰れるという時、そういうカルマを積んできたからまず資本主義は銀行から破綻してつぶれてゆく
資本主義が長くつづいてカルマを積みそのためにもうどうにもならなくなりつぶれる破産するのである

個々人でもそうだけど何か巨大なカルマが積もり積もった時、もうどうにもならなくなり天変地異とか起きたり巨大事故が原発事故が起きたり戦争が起きる
それはカルマの清算なのである、そのために人類の三分の一は死ぬと聖書でも予言しているのはそのためである
カルマの清算は個々人でもそうだが人類全体でもその規模が巨大になるのである
人類が滅亡することだってありうるのである
人類とは人間とは罪を背負ってカルマを背負って生きていたが遂にもうそのカルマを清算することを強いられる、神の許容限度を越えたとなりそれで世界が滅亡するような破局的現象が起きてくる  

そこには人間の念というのも関係している、思想も関係している、悪念が視界をさえぎるほどに人間からあくことなく放出されてくるすると神はそういう悪念に耐えられなくなりそれを一掃するために天変地異とかが地球規模で宇宙規模でも起きてくる
だから大都会は危険である、そこには悪念が欲念が集積した場所だからである
そこには人間の生き地獄が現れやすいのである、何かそこに美的なものがないことでもわかる
美的なものが生まれないことでもわかる、天才でもヨ−ロッパでも地方都市には生まれてもメガポリスなどからは生まれないのである現代は世界的にもメガポリスの時代でありそこに富が集中している、それが危険なのである

そういう場には文化は生まれない、ただ巨大な欲望の経済都市となっているだけなのである、巨大な胃袋になっているだけなのである
とにかくこの辺に起きたことは必ず全体に波及する、ここだけの問題ではない、津波とか地震は天変地異は起きる、また原発事故もどこかで日本だけではない起きる、そうういカルマが必ず蓄積されていて起きる
中国だってとても何兆もの金を人民から奪っている政権が維持できるのか?
これもカルマが積もり積もって革命が起きてそこで文化革命の時のように膨大な犠牲者が生まれる
だから何かが起きないこと自体ただ猶予期間にすぎないのである
最後に死が来るように避けられないのである、だからこそ易姓革命が起きるのである

戦争から70年過ぎて日本でも今がその大きな変革の時なのである、その変化に大きな痛みが生まれる
会社でも銀行でももう安泰なものはない、国家を担う人たちでも安泰はない
国自体が崩壊するような危機に瀕するからだ
つまり資本主義は終わる、その時新しい生みの苦しみが起きる、それは新しいものが生まれ作るための苦しみなのである

「人間は幼いときから悪をおこなう」(創世記8章21節)

ノアの時代、地上に創造した人間たちが堕落していったのを見た神は、すべてを滅ぼすことを決心した

その時すでに悪がカルマが積もり積もっていたのである、そうならざるをえないのが人間だったのである
それは一人の例外もないのである、そして再びノワの洪水並みの天変地異が起きる
人類がそういう時期にきている、グローバル化とは人類の平和を促進することでもない
悪でも世界規模で実現してくることでもある、多国籍企業などでも世界を舞台にして環境破壊するし世界の貧乏な国を搾取しているのである、つまりグロ−バル化とは世界規模で何か大きな破局が起きることでもあるのだ
そもそも第一次第二次世界大戦もそういうグロ−バル化のために起きた、その前はそんなことがない、日本だったら鎖国で300年戦争していないからである、グロ−バル化とは何かいいように見えても世界的破局をもたらすものともなるのだ
貿易戦争がそうである、貿易の面で国と国が助け合うとういう面があっても熾烈な経済戦争になりまた戦争になる
だから現代では何でも世界規模で大きな事件となり破局が人類的にもなり遂に人類滅亡の危機になる
それは別にSFの小説ではない、現実なのである

自分自身にも起きたことは何か自分のカルマでありまた人間がもうモラルもなにもない、金しかない、人とは金でしかない、情もなにもなくなっている、金のためには人を殺してもいいとまで普通にみんなそういう心情になっていることが怖いのである
そういう地獄人間が今やこの世を形成しているのである、そんな社会が平和でありうるのか?
だからこそ自分自身にもそういう人達が弱った時襲いかかってきたしそれはまた自分が積んだカルマの結果だったともなる
カルマとは別に自分が悪いことをしなくてもいろいろなことで積んでいるのである
知らないでも積んでいて苦しみとなって現れたとき自覚するのである
私は何も悪いことをしていないと私の家族が言って死んだ、それは何かみんな私は悪いことはしていないと死ぬとき言う人が多いのである、そのこと自体最後に死ぬとき罪の呵責に悩まされているからそうなったのだと思う

そうして認知症などという訳のわからない病気になるのも人間のカルマの結果だったともみる
認知症になるといくら優秀な人だとしてもあらゆるものが崩壊する、もう人間でくなったのかという恐怖を味わったからである
そういう大きなカルマが最後にくること自体、人間のカルマがいかに大きいものか最後に苦しみとなって現れるかを如実に示しているのだ、もうカルマから逃れようがないのだ、人間は幼い時からカルマを積んでいかるらである
生れたのもなにかしらカルマがあって生まれたとなる、カルマを清算するために生まれたともなる
なぜなら人間が苦しみなく終わることがないからである、どんな裕福でも病気になったり死ぬから同じだとなるからだ
そういうことでは平等だからである、つまりカルマから逃れられないの宿命なのである
科学技術すらカルマと関係ないようでも人間のカルマなのである

技(わざ)は災いに通じているからだ、科学技術が破局的なものをもたらすことは原発事故で証明されたからである、核戦争が人類を滅ぼすこともありうるからだ
最後に人間は業を尽くしてハルマゲドンの最終戦争で滅びる
つまり人間の業(カルマ)はそのくらいのことがない限り消滅することがないのである

大難を得て罪障消滅するー日蓮

これも個々人にあてはまるし人類全体にもあてはまる

2019年04月07日

神の爆弾に宗教問題をとりあげる (宗教団体はただ数を権力を得るために活動しているだけ)


神の爆弾に宗教問題をとりあげる

(宗教団体はただ数を権力を得るために活動しているだけ)


宗教と宗教団体と違っている、宗教団体とはなんであれ利権を追求する団体である
それは政治団体ともにている、創価などは政治団体化している幸福の科学でもまた他の日蓮宗系統の団体でもそうである
そもそも宗教を職業とすること宗教で飯を食うこと自体が何か誤った方向に導いたのかもしれない、それでパウロはそのことを嫌ってテント作りして自活して布教していた
宗教というとき何か暴力団のように怖いというのは団体化して徒党を組んで威圧してくるからである
そして罰が当たるとかその団体は宗教で脅しをかけたりする、呪うことだってする
そうしたカルト団体では宗教団体はみんな同じなのである
個々人の改心とか心の問題など関係ないのである
会員を増やしてこの世の勢力となり権力と利益を得るためでしかない
エホバなどでもそうである、会員になるのはどんな人でもいいのである
ネコ十匹飼ってまわりに迷惑をかけているとしてもその人がどんな人か問わない

それはどこでも同じなのである、会員を増やすことが第一であり宗教で重んじる改心とか何か精神的なことは一切関係ないのである
だから政治団体に当然なってゆく、議員をたてないにしても政治団体なら当然団体の利益を得るために訴えても正当化されるからである
そして集団化すると何でも許されるとまでなる
みんな創価の会員であれカルト団体の会員化したらそれはナチスになるのである
宗教だと必ずそれが悪用される、敵に罰が当たるとか呪詛するのも普通である
それが何百万で呪詛されたら怖いものとなる、つまりナチスなのである
当然権力を目指しているのだからその人たちが権力がとれば結果はどうなるのか?
それはソビエトとか中国の共産党でもわかる、利権は一分の幹部が一人占めすることになる、なぜならそもそもそうしたイデオロギーなど手段に過ぎないのである
権力を得るための美辞麗句でしかないのである

現実は常に人間の底知れない欲望がありそれが権力を得ればそれを実現しようとする
宗教団体だから清貧だとか今はありえないのである
それはすでに宗教が力をもったとき権力を得た時そうなっていたのである
だから実質の権力者の武士と衝突して信長の焼き討ちがあった
それは信長でも相手がそうしてただ権力を維持して権力をふるうだけの団体とみていたからである、そこに現実に武力をもつ僧兵もいたからそうだったのである
宗教団体は僧兵であり武力をもたないにしろいざとなれば武装すらして権力をふるうことになる、カトリックでもそうだったから政教分離政策をとるようになったのである

つまり宗教も必ず俗化する、巨大な大衆であれそうしたものに飲み込まれて俗化する
そもそも会員だけを増やすことを目的としているのだから必然的にそうなるのである
その人たちは地の塩なんでもないただの俗化した人たちである
ただそうして団体で数で権力化して圧力をかける、そのために宗教も利用されるだけだとなる、寺がつぶれてゆくというときも何か宗教が胡散臭いというのがあるからである、江戸時代から墓を管理するだけのものでありそれが現代までつづいてきただけなのである
大衆にとって宗教はなにか?
それは一つの利権団体として利用するものとしてあるだけである

キリストが二三人集まる所に私がいるとか言っている、たった数人のことなのである
それが何百万とか億人とかなるともうそこには神はいないのである
ただ権力を得るために人々が群がるだけだとなる
オウムの幹部は高学歴でありそれで学歴をもっていない人が地位を得るために幹部になりたくてサリンをまいたと言っていた
その内部でも熾烈な地位争い権力争いがある
そして人間が組織化して集団化するのは人間の変わらない業なのである
会社自体でも必ず派閥を組む、派閥を組むことも人間の業である
それで宗教でも団体化組織化したら同じになる
そこはもう権力を操作する場所でありあとは宗教はそのために利用されるだけだとなる

そもそもでは会員を一人でも増やしたから信者の数を増やしたから神は認めるのか?
数さえ集めればそれで集団で神に訴えて神が仏でもいい認めるのか?
それは世俗ではそうして数が集まれば恐怖するし権力で左右できる
でも数が多いからとその人たちがみんなどんな人たちなのか、その内面は心はどうなるのか?そういうことは一切関係ない、これだけの数が集まりました、みんな成仏させてください、天国に入れてくださいとは宗教ではならないのである
それは世俗の場なら通用するからそうなっているのである

それがイスラム教でも同じだったのである、最近見ている、「オスマン帝国外伝 〜愛と欲望のハレム〜」でイブラヒムという大帝相に反乱する、イスラムにもいろいろ宗教団体があり特別の団体に金を支給できない、多くはできないと断る、それをその宗教団体は怒りデモしたり襲撃までする
それは一重に特別に特定の宗教団体に金を多く出せということでそうなった
それでそこまでするというのはドラマだからだろう 
普通は宗教家だったらそんなことまでしないとなる
それで殺されているのだから割に合わないとなるからだ
でも金がないと生活に困るとかありそうなった、政府からの支援で成り立っていたからだともなる、これも何か政治と宗教の分離がなされておらずこうなった
現実にこれは日本であれ世界であれ共通の問題だと思った
利権のためには金が欲しいとなれば武力で襲うこともある
ただそれだけのことでありそこに何か宗教が関係しているとも思えないのである

宗教団体の会員の頭の中にあるのはとにかく会員を誰でもいい、一人でも増やして勢力を持つことである、権力をもつことである、それしかない
それが権力を得る事だからである、後は馬鹿な会員に適当に罰当たるとか脅していればいいとなる、ただそれでも自分がその罰を当たることを恐れているのである
それは自分が損すること常に恐れている、損することは罰があたることなのである
利益があるもうかる得することが信仰のおかげだとなるだけである
それが宗教の俗化であり大衆化でありもうそこには本来の宗教心など何一つないのであるあるのは人間のむきだしの欲望が集団化したというだけなのである
そこでは一切の精神的なもの真善美もない、そんなものが生まれえようがないからだ
だから宗教でも仏教でも芸術化されたときそこにはやはり今の宗教とは違っていたのである、それは本来の宗教心が信仰心があってこそ生まれたとなるからである

現実に創価だったらカジノなどギャンブルに反対するはずだがしない、自民党のなすがままである、それが庶民の政党なのか?
つまりもともと権力を求めるだけであり権力で得することしか考えないからそうてっても不思議ではないのである
それは結局大衆なら得することしかしない、原発でも得するから積極的に誘致したのである
損得ですべて判断するだけである、いづれにしろそういう団体はなのためにあるのか?
それはただ利権をえるために会員を増やし権力を得るためだとしかいいようがないのである
だからそういう団体が宗教を標榜していることこそ偽善だとなる
でもそういう矛盾がこの世の習いだとなる、それが変わらぬ世の中の姿だとなる
それにしてももっと謙虚ならいいがあからさまに利権のみを追求しているのは異常だとなる
そのために毎日祈っているのも異常だとなるがそれがそうならないのは数が多いことであり権力をもつと是認されることである
そしてまたいつしかナチスの全体主義の再来の悪夢が現実化するのである 

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紙の爆弾は何なのか?左翼系であるがそれなりの論調を出している
でも楽天でその紙の爆弾を出した、楽天の社長は創価系だとしているがそうでもないことがわかる、ここで批判しているからである
とにかくインタ−ネットだとプログだと簡単にこうして評論を加えられる
それは金がかからないからである、マスコミが力をもったのはまず一個人では新聞であれ雑誌であれテレビとなると余計に何も言うこともできない
ただそうした権力をもつマスコミによって牛耳られてきたのである
それがyoutubeで放送するとかインタ−ネットで報道が変わって来たのである
マスコミとyoutubeでも平行化してくる、それは報道するにしても資金がかからないからである、テレビ局すら個人でも作れるともなる
そこで百家争鳴になっている

2019年03月26日

天の時 地の利 人の和 (天の時が一番大事だとも思う所以)


天の時 地の利 人の和

(天の時が一番大事だとも思う所以)

1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 
2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 
3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、 
4 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、 
5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、 
6 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、 
7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、 
8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。 

聖書の言葉


天の時 地の利 人の和はどこでも働く、季節があるとしてその季節にかなったとものとして種を植えそれを育つのを待つ、その時期が問題なのである
種蒔桜があるとして桜の時期に種をまくとか時節にかなって農業がある
そして実りの時を待たねばならない、実りの時もある
実りを急がすことはできないのである、そうすれば失敗する

天の時というときそれは本当にあらゆる所に人にあてはまるのである
天の時というときその時代があり時代が実はその人の力量に関係なく決める
どんなに才能があっても天才でも時代に恵まれなければ変人で終わる
平賀源内などがそうである、また凡才でも時代に恵まれれば英雄にもなる
吉田松陰などでも志士と言われた人たちもあのように若くて英雄になれたのはただ時代がそうさせたのである
それは江戸時代のような平和な時期にはそうした人が生まれないからである

ただそれは何か歴史的な大きなものでも個々の人生に常に起きている
天の時というときそれは何なのか?
少年時代があり青春時代があり壮年時代があり老年時代がある
そこに人の出会いがありいろいろなことを経験する
ところがこの出会いに一番天の時が関係しているのだ
恋愛であれこれも時節がありそれを逃すと2度とできなくなる
つまり誰と会い恋愛するとか結婚するとかではない
そういう時節がありその時節を逃すとそういう機会はは二度とめぐってこないのである
それはその人の時が時節が決めているのであり人が決めているともならないのである
男女ともそういう時節がありその時を逃すと二度とそういう時はめぐってこないのである
地の利も大事だが天の時もつくづく大事である、だから天の時の方が地の利より大事かもしれない、そして時代は常に変わってゆくからだ

私の家は最初は子供相手の小さな駄菓子屋のようなものだった
でもその時は時代が高度成長に向かって進んでいる時代だったのである
物が置けば売れたのである、別に商才があるとかではない、その時は日本では小さな事業主でも店屋でも成功する確率が高かったのである
つまり天の時があったとなる、その小さな店をするのに資金が必要だったがそれも50万だったか5万だったかわずかな金だったが工面するのに苦労したというだけである
その店で別に商才とか商売に向いていたか成功したのではないのである
ただ地の利があったことは確かである
小さな町でも角にあり地の利があった、人が集まり安い場にあったのである
今でも人が集まり安い場所だと売る物が中味はどうあれ売れることがあるからだ
だから経営でも天の時と地の利と人の和が常に影響しているのである

つくづく人生は時をチャンスを逃したら二度ともどってこない
天の時を逃したら二度とチャンスはもどってこない、何回もチャンスは来ないのである
人生は長いから何度も挑戦するチャンスがあるとはならないのである
求道でも若い時を逃すとできない、老人の宗教は慰めとか別なのである
だから青春時代は大事だとなる、そこで人間の基礎が作られるからである
その時放蕩していたりしたら決して老年になって実りとはならないのである

ただ実りというときこれも人生で急ぐと失敗する、どんな人にも実り時がかならやってくる、それは現代では人生百年という時遅くなるのである
大器晩成というのではなく実りは凡人にでもその時になれば実りの時がくる
それは学問でも芸術でも他の仕事でもそうである
たゆまず精進していれば実りの時が来る
でもその時を急がすことはできないのである、何か私は本を読んでもわからなかった
ただ本を買っただけだとなる、でも今はその本の内容を即座に理解して自分なりに消化できる、これも不思議だと思う
理解できないものが理解できるようになるのはやはり老人になってからだとなる
深い読みができるのは老人だとなる

とにかく人間は時代の子なのである、その時代から脱して生きることはできないのであるだから天の時こそ一番大事だともなる、天の時とはやはり季節とも関係しているからだ
春夏秋冬で第一心でも体も変わるからである
そして天の時の最も大事だという時、その時が時代を生きる時でも個々人でも二度と逃すと戻ってこないということなのである
それが老人になると必ず後悔となり否応なくつきつけられるのである
人生は二度ないということもそうである、そこが天の時が最も大事な所以なのである

学問にしても何か身につけるにしてもそうなのである
若い時から職人として修行したりまた勉強でも留学するのは若い時がいいし海外旅行でもそうである、若い時に見聞を広めた方がいいとなる
またそういう時代に恵まれないとできないこともある
今ならそんなに金がなくても海外旅行でも留学さえできるからだ
だから中国人の高校生が日本人と同じようにしゃべれるということに驚いた
中学から4年くらい日本で暮らしていたからそうなった
若い時は柔軟性があり適応力があるからそうなった
でも語学でも30以上とかになると覚えられなくなるのだ
だからこれも時が大事だとなる 

また時というとき人の出会いでもその人がどういう時にあるのかが問題になる
もしその人が健康で金にも余裕があるというとき困ったら頼めば助けられることがある
でもその人が健康を害していたり金に余裕がない、時間にも余裕がないとなればいくら自分が苦しいから助けてくれと頼んでできない相談なのである
でも私の経験では私が健康的にも介護とかで一番苦しい時、事業に失敗した人が来たり金銭に困る人がづけづけと頼みに来たりまた弱者と化した時、恐喝まがいのことをされたりした、大金を盗まれたりもした
それは確かに弱者化したからそうされやすい時だが自分自身にとっては家族と自分自身の体のことで精一杯なのだから他人の相談にのるとか助けることなどできないのである
今は体にも家族の介護もしていないから余裕ができたから助けることができる
でもそういう時に来たら自分自身が困っているのだから助けてもらいたいのに逆に弱者と化したことをいいことに苦しめられただけだったのである
つまりその人がどいう時なのか?状態なのかで接することが必要なのである
でもそんなことを全く考慮しない、その人も助ける余裕がないからそうなっていたのであるもし余裕ある時だったらこうはならなかったのである

いづれにしろ人間にとって人生でもその時が一番大事なのである
もし人生が永遠につづくならいい、それが余りにも短いからその時が大事になる

老人になって何をみんな後悔しているのか?

なすべき時を逃した!

これなのである、なぜならその時が永遠に戻ってこないからである、やり直すこともできないからである、そのことが否応なく気づかされるのである
そして人生は百年時代でも短いのである
だからこそ時の方が大事だとなるのだ

2019年03月17日

人生はなぜ誤算が多いのか? (将来を誰も予測できないから―人生そのものがリスクだ)


人生はなぜ誤算が多いのか?

(将来を誰も予測できないから―人生そのものがリスクだ)


人間個々人でもそうだが社会でも誰も将来を予測できないから誤算になる
こんなはずじゃなかたとみんな人生を終える
そして後悔しない人生はない、誤算がない人生はない
いくら老後に備えても貯金しようがそれで安全にもならないし備えたとはならない
老後にやることなくなり生きがいもなくなり絶望したりする
それから老後にやりたいことをやろうとしてもできなくなる
金はあるが体力がなくなり病気になったとか親の介護で何もできなくなる
そうした誤算が誰にでもあり備えることができない

この辺で津波とか原発事故を誰が予想できたか?
こんなことが起きるなど誰も予測できなかったのである
そうししたことが個々の人生でも社会的にも起きてくる
70年くらいの単位で激変が起きてくる
それにいくら備えようが備えることは不可能なのである

自分の家族をみても一人は突然赤紙が来て4年間従軍看護婦としてシンガポールに行かされて地獄の苦しみの中で生きねばならなかった
それは全く突然なのである、ベ―トベンの運命なのである
一人は東京で結婚したが夫は若くして工場の事故で死んだ
またもう一人は40歳で交通事故で死んだ、そして私の身内は全部死んで残っているのは自分一人になった
なにかしら個々人でも社会的に予測しないことが起きる
もうそれに備えることは不可能である

だから老後を計画しても無駄だともなる、貯金していても病気になったりして何もできなくなる、なにかしたいことがあったら体力あるうちに若いうちに思い切ったことをしろとなる、体力がなくなったら金があっても何もできなくなるからだ
そして時間とたちまちすぎてかえってこないのである
青春はあっというまに過ぎる、そして若い内求道しないものは後はできない
いつでもできると思うができない、せいぜい慰めが宗教になる
だから若い内に神を覚えよとなっていたのである
そのショックは青春が過ぎてしまって後悔するだけだとなっているのである

人間何かいろいろ備えろとか言うがもう人間はリスクから逃れらられない
もう生きていること自体リスクなのだ、株でも何でもリスクがないものはない
私の母は安全志向で冒険などしない人だった
それでも水害にあい、水が来て炬燵の穴に米を運んでいる時落ちて大けがをしたのであるつまり家の中にいても安全はないのである、それは津波でも証明された
この世には安全な場所はどこにもないのだ

だから津波に備えてバカでかい堤防とか高台といろいろ対策したがそんなことでも何が起きるかわらないのである、そういう備えししても今度はそこに住む人がいないとか誤算になったりする、何かも災害でも備えることは不可能である
それで減災という思想が生まれた、なるべく被害を少なくなるする方法である
それは馬鹿でかい堤防とか高台を造成して住むのではなく津波が来たらなるべく早く逃げる算段を日ごろから心がけることである
それも自然災害に備えることであり莫大な金をかけて堤防とか高台を作っても無駄だともなる

要するに人間は何であれ絶対に危険から逃れられられない存在だということを知るべきである、いつの世も火宅の世に生きているのが人間なのだ
だからもう危険を覚悟してあきらめて生きるほかないとなる
運任せだともなる、その方がリスクをかえってさけるということもある
あまりにも戦々恐々として危険を避ける安全策をとっているとかえって危険だったりするかえって危険の中に飛び込んだ方が窮地を逃れることもある
だからといってあえて危険な所に行けというのではない
人間は危険から避けられない存在なのである
それは第一人間は生身の人間でありいつそうした体でも何か壊れやすいからである
つまり人間の体自体が最大のリスクなのである
もう誰でも老化するのが早い、するとみんな病人になるのである

だから人間は備えても必ず思わぬこと予測しないことが起きて誤算になる
でも良い誤算もある、こんな得があったなと良い誤算も起きたりする
どっちかというと普通は悪い誤算でありいくら備えても結局何もならなかったともなる
結局人間はどんなに備えても安全はありえない、リスクは必ずある
あまりにも安全志向の人はかえって危険にもなる
貯金ばかりしていても安全とはならない、現実に今の時代は貯金には利子がつかないから安全ではないからだ
言いたいことはリスクに備えることは不可能だということである

むしろどんな危険にでも備えるとなると信仰しかないのかもれない
あなたが若い内に神を知ればそれでいかなることにも対処できて満足だともなる
それはなぜかとなればどんなに財産があっても津波が来て一瞬にして流されるかもしれないからだ、津波は一瞬にしてすべてを奪い去ったから恐怖だったのだ
そういう人間の手に負えないものに備えること自体不可能だったのである
それは津波だけではないそういうことが何か別のことで起きるかもしれない
70年くらいの周期で時代が激変するからである
それで今頃になってAI化でベーシックインカムで生活するようになる
人間はみんなアーティストなになるとか言っているのか?
みんな日本人は真面目に働くのが勤めだと思っていたのにそんなこと言うこと自体なんなのだとなる、それはニートとか働かないことをすすめていることが信じられないとなるからだ

このように社会の価値観もがらりと変わる、なんで自分は馬鹿真面目に働くばかりだったのだ、その価値を今や否定される、あなたは自由にあなたのしたいことをしなさいと言われてもなにしていいかわからなよとか愕然とする
この社会はある時価値観ががらりと変わる、そして今までしていたことの価値観も否定される、戦争が唯一の国家が唯一の価値だとして命まで捧げたのに何の報奨もない
戦争自体が平和を乱したとか犯罪者のように言われる
戦後はそういう経験をした、そういうことがまた起きる

だから人間はあらゆることに備えることは不可能である
それで若い内に神を知れ永遠の命を知れとなる
そもそもだって死こそ最大のリスクであり別に津波や原発事故でなくてもみんな死んでゆく、人間は死ぬのである、そのことが最大のリスクであり逃れることもできないのであるその死に備えることはいくら財産を貯えてもできない
後は身一つで死んでゆくほかない、財産は何ももってゆこともできないのである
だから地上にいくら財を貯えても無駄だとなるのだ
津波のように一瞬にして流されて消えてしまうとなる
津浪で体育館で身一つで避難したひ人が命だけ助かってもうけものだったということを言っていた、財産に執着して家にもどった人は死んだりした
それもあれだけの災害でそう思ったのである
何もなくても命が助かったということで良かったとなってしまったのである

いづれにしろ人間はあらゆることに備えることは不可能である
必ず誤算に終わる、この世に生きることこそ最大のリスクなのである
壊れやすい体をもって生きていることこそ最大のリスクなのである
たちまち体が老化するということは病気になることでありそして死ぬだけだとなるからだ何もしなくてもどんなに安全を計っても備えても無駄なのである
だからあえて危険の中に飛び込んでゆく方が安全であったともなる
びくびく生きていてもいづれは死ぬからである
人間は死と背中合わせで生きているのである、また生きることを強いられているのであるだから危険を恐れても危険を備えることも無駄だとなる
無謀は良くないにしろ石橋たたいてわたっても無駄だともなる

人間は安全に生きるより命を何かに向かって全身で燃焼させることの方が大事だとなる
それは個々人で時代で何になるかわからない、どっちにしろ短い人生でありいづれはみんな老いて病気になり死ぬ
老人になると毎日死刑台に向かう日を数えているようなものだ
それで最後に大きなことをしたいとか犯罪でも恐れなくなる
有終の美を飾りたいと劇画的に切腹したりする有名人もでてくる
それは老いることを恐れたからである
その心も老人になるとわかる、残されたわずかの人生をどうするかとなるとなんか社会がどうだこうだとか批判などどうでもいい、どうせ死ぬんだからともなるのである



2019年03月01日

人の成果はすべて結果で決められるのか? (神は心を動機を見ているー結果より重んじている)


人の成果はすべて結果で決められるのか?

(神は心を動機を見ているー結果より重んじている)


例えば戦争だと負けるか勝つかの結果で決まる
負けたものは何も価値ないものとされる
だから歴史は勝者の歴史だとなる、負けたものは歴史に記されないともなる
では一体日本が戦争に敗れて300万人も死んだ
でも負けたのだから結果は惨憺たる敗北だったのだから意味がない
世界の歴史には記されないとなっていいのか?
その問いはあまりにも大きなものであり今だにそうなっていないことでもわかる
例え負けたとしてもでは三百万人の死は意味ない無駄な死だったできるのか?
それができないから後の世の人もその評価に苦しんでいるのである

人間社会では事業でもビジネスでも結果を出さない限り評価されない
投資信託を売って銀行員はその時成果をだした、ノルマを果たした、それは銀行に利益をもたらしたから結果から評価される
でも顧客に対しては損させたのだから結果を出してもすべてそれがいいものとして評価されるのかというのも疑問なのである
結果論で言えば金をもうけたものが何でも評価されるとなる
すべての価値は金で評価されるとなる
老人でもどれだけ金を残したのかもうけたのかで評価される
常に年収いくらだとか貯金がいくらだとかで人間は現代では評価される
結果とは金のことなのである

ただ結果を出すにしてもいろいろなことに条件があり左右される
戦争でも天候の影響などが大きいのである、だから勝負は時の運だとかなる
こういう結果を出そうとしてもその時々の条件がいろいろありいい結果が出ないということがある、それは時の運だとなる
つまり結果を出すということはいろいろな条件がありそれは一人の人間であれ会社組織であれ予測できないことが起こり結果が出たり出なかったりする
戦争でもどういう結果を生むかなど予測できないのである
大軍でも敗れることもあり信長の桶狭間のような勝利もある

そもそも人間を結果とか行動とかで評価すると間違うともなる
それで宗教では内面を重んじる、心を見るとなる
「神は心を見ている」というとき人間の成した結果を重んじていないのである
どういう心をもって成したのか?
それがもし不純な心で成したとすればそれが結果をだしても成功したとしても神は評価しない、逆に結果がでない負けたとしてもそこに例えば義があったとしたら神は評価するのである
それは何のことかというと神は動機の方を重んじているのだ
事業でもどういう動機でするのか?それが肝心だとなる
それによって成功という結果はでないかもしれないが動機が良ければまず行動する前にすでに成功していたともなる
動機が不純ならすでに何事かを成す前に失敗していたとなるのだ
たとえ巨万の富を得たとしてもそうなる
だから結果ばかりから判断すると人間は誤る

事業でも何か理系で技術が優秀だからと事業をはじめた、その人は自分が他者に優秀だということを見せるために事業を起こしたともなる
そして失敗したが依然として自分は優秀だと他者に見せたいから借金して隠している
そういう人はそもそも事業を起こす資格がなかったともなる
そんな動機で事業を始められたら周りの人が迷惑だとなるし現実事業に失敗してそうなった、その被害を関係ないと思ったが自分も受けた
その人が成功していたら結果をだしていたらどうなったのか?
今度はさらに自分は優秀だと吹聴して自慢することになる
成功しても結果をだしてもそれはいいものとならないのである
社会にとってもそんな人が成功することは逆に害悪にもなるのだ

どういう動機ではじめるのか?それが肝心だとなる
それは医者になりたいという時でも他でもそうである
ただ医者だと月給がいいとか評判もいいとか尊敬されるとか社会では一番優れた人と認められるとかで医者になる
そこには動機がない、何か親でもガンで死んだからガンを直すために努力したいとか何か動機が必要なのだがそれがない、親の跡を継がねばならないとかありやむなく医者になったとかなる

だから動機というとき犯罪でも故意なのかそうでないのかで有罪と無罪にもなる
なぜその犯罪を犯したのか?その動機を心をみて裁いているのである
殺人という結果があったとしてもそうである、その殺人を犯す動機をみているのである
神が心を見ているという時それと同じなのである
それで意外と思想というものに人は重点を置かない
人間が心でどう思うかということに重点を置かない、どう思うとそんなこと勝手だと思うそれが何か結果となるのかとなるからだ

でも実際は何か思うことは相当なエネルギーでありそれが影響する
誰かを憎いという念というのは相当なエネルギーなのである
一人でも誰かを思うことは相当なエネルギーとなる
そのために個人と直接対話するといインタ−ネットの匿名上でも疲れるのである
それは対話することは相手を思うからである
それで何か自分自身がプログでもコメントしてきても対応できないともなっている
それはその人に対して相当なエネルギーを思うことで使うからだともなる
そしていい加減な人の中傷とかもありインタ−ネット上だと相手がわからないから答えるのに疲れるとなる、エネルギーが消耗するから答えられないともなる
ただプログでも一方的に書いていると疲れないからこうして書いているともなる

このように思うということは相当なエネルギーを消耗するのである
それでインドの思想家が「誰かが憎い殺したい」とただ思うだけでその結果が出るということを教えた、本人が何もしないのにその念がが誰かに伝わりそうさせるというのだ
だからそういう念がもし国民とか会社とか組織とか多数の中に伝播するとなると怖いことになる、それは国家レベルだと戦争になるのである
宗教団体でも何百万人が地獄に落ちるとか罰があたるとか一斉にそうした念をもつことがいかに恐ろしいことになるか?
それが宗教の名のもとにそうした念をもつからである、それが巨大集団になるから空恐ろしいものとなりやがて現実に殺すとかなる

それは中国の文化革命とかカンボジアとかでもそういうことが起きた
巨大集団が一つの念にこりかたまった、それはナチスのようにもなったとなる
その念をあおることでマスメデアが加担するからメデアというのはそうした悪い念でも増幅させるから現代では怖いのである
ナチスがラジオからラジオの広報から生まれたという時いかにラジオですらそういう影響があったとなる

今なら映像である、テレビがどれほど社会に影響したかわかる
そこでまずテレビでとりあげるだけで犯罪者となりリンチ化する
何百万人も見ているとなる一斉にその犯罪者に対して憎悪の念が向けられるからである
マスメデアを通じたリンチなのである、それをあおるのがテレビになっていたのだ
韓国とか中国の危険はそこにあるのだ、現実に戦争にもなりかねない状態になった
毎日韓国では日本を呪詛しているともなるからだ、戦争の恨みを果たすためにそうしている、それが国民全体に伝播してやがて日本に対して戦争をしかけるとまでなる
人の思いとか念は眼に見えない結果として現れないがやがて結果として現れる

宗教の場合は思想となるとそういう方面を重視した、思想とは思でも思うであり想でも思うことである、思いとか念は眼に見えないとしてもそれは強力なものとして伝わる
様々な結果よりこうした人の思いの方が怖いとなるのだ
結果は様々な条件に左右されるしそれは人智を越えて結果がでる
でも思想は心はその前にわかる、どういう動機で行為になったのか?
その方が大事だとなる、それで思想を深めるということも大事になる
つまり結果とか行為にのみに重点を置いても人のことはわからないのである
その結果をみて人間はすべてを判断することはできないのである、評価もできないのである

人間はそもそも思いの中に生きている、生きているとは何かを常に思っていることなのである、意識していることである

無念無想に人はならない

常に何かを思い何かを意識している、一方で植物でも動物でもそうした念が生じていない悪い念が憎悪とか嫉妬とか様々な悪い念が思いが生じない、単純なのである
人間だけが思いとか念が生じてそれが実際に事実として現象として現れる
だから思いとか念を治めるものとして宗教が思想が生まれたのである
ただその宗教にしてもカルト宗教団体とか団体組織化するとそれが悪い念の集合体となる宗教という名で相手を呪詛する、それは宗教と関係ないのだけどその念で思いで一体となり地獄に落ちるとか罰あたるとか呪詛するものとなるから怖いのである
第一そうしたことが宗教のもとに正当化されるからである
そもそも相手を呪ったり何か憎悪したりしないように心の修養を積むのが宗教だからである

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。(マタイ6:33、新共同訳)

これもそうである、最初に求めるべきなのは結果ではない、行為ではない、その動機を重んじることだからである
その動機が悪かったらいくら事業に成功しても神は評価しないとなるからだ
だから事業するにしてもこれとはまた違っていても何を求めてするのかが結果より大事だとなる
もしその求めるものが正しければ結果がでいなとしてもそれは失敗することがないとなるからだ
結果だけで人間の成すことがすべて決められない、評価できないのである
もし戦争で300百万人死んだとしてもその動機が評価されれば無駄とはならない

つまり最初に意味あるものを価値あるものを求める

そうすれば結果にかかわらずすでに成功していたともなるのである
だから意味と価値を求めて働けともなる、結果ではないとなる
そこがただ現実社会では取り違えるし評価が間違うのである

2019年02月21日

固定観念と思い込みと先入観に陥りやすいのはなぜ?


固定観念と思い込みと先入観に陥りやすいのはなぜ?

リンゴは赤い

リンゴは赤いというのは頭に変えられないものとしてインプットされている
でも赤くない青いリンゴでも黄色のリンゴでも実際はある
でもリンゴは赤いということを頭の中で変えられない
それはななぜか?

それは経験でそうなったのである、絶えず赤いリンゴ食べてきた結果そうなった
たまたま青いリンゴとか黄色のリンゴでも食べた見たとしてもその確率は非常に低いからそれが固定観念を作り出すのである

それならば「固定観念」など無くしてしまえば、もっと自由な発想でいられる、と思いますよね?ところが、年齢とともに積み上がり、さらには無くせないのが「固定観念」の難しいところです。なぜなら、それは今までの経験や教育によって積み上げられて作られているからです。

老人の場合は今まで経験したことから判断することが多い、だから頑固になる融通性がなくなる、それはどうしても人間は経験したことが判断の基になっているからである
それはささいなことでもそうである

自分自身が気づいたことは駅から大阪に仙台の空港から飛行機で行ける
それなら時間もかからないし運賃も安くなる
それは駅でそういう人にあったから知っていた                

ところが自分自身の経験では一回も飛行機で大阪に行っていない

電車でしか行っていないから飛行機で行けば簡単に行けるということを聞いて知っていても大阪は遠いななかなか行けないなと思い込んでいたのである
要するに人間の自分が経験したことを基にして判断している
結果的に経験といってもあらゆることを経験できない、社会のほんの一部しか人は経験できない、また知識でもほんの一部しか身につかないから固定観念をもちそれを破ることができないのである

それはあらゆるところに起きる、最近地銀に投資をまかせた、地銀は信用できると思っていたからだ、しかし地銀は証券とか投資のこと株でも投資信託のことは全くの素人だったのである、でも地銀は信用できるという経験からそう思ったのである
現実におばあちゃんが地銀を信用して投資信託を買わされて一千万損ししても依然として地銀を信用していたのである
老人になるとそうして銀行とか地銀でも直接顔合わせて信用できるものとして長年経験しているからそうなったのである

老人は今まで経験したことで判断する、津波でもこの辺ではそうした経験をしている人はない、400年前に大きな津波が来たということは誰も知らなかった
すると老人は津波は来ないという固定観念があり逃げずに死んだ人が多いのである
経験から判断するからそうなるのである
すると経験しないことには対応できないのである

ところが人間の一生は短い、400年単位とかで起きることになるとそれを経験した人がいない、だから対処できなくなる
そして人はそれぞれの経験で判断するけどそれも限られているから新しい事態が起きたら対処できないのである

ただ仙台から沖縄には飛行機で行った、それは沖縄は電車で行ける場所でないから飛行機で行こうとなっていたのである                                              

だから今の時代に大阪に飛行機で一回でも行く体験していたらこうはならなかった

仙台空港までは直通の電車が出ているからだ、それは士っていたけど大阪まで一回も飛行機で行っていないということが未だに大阪には簡単には行けないと思い込んでいたのである

いづれにしろこの固定観念とか先入観とか思い込みはささいなことでも常にある
それで失敗しているのである、これは老人には多いにしろみんなに起きていることである成功体験からぬけられずに失敗したとかいろいろこの固定観念とか先入観で失敗する
それはもう人間の宿命である
そして常に時代は変わる、それも技術でも急速に変わりそれに追いつけない、体験できない、経験しないからわからなくなる

科学の歴史でも技術の歴史でもこうした固定観念を打ち破る歴史だった、コペルニクス展開とかもそうである、地球が動いているということはありえないことだった
飛行機で空を飛べることはありえないことだったが実現した
人間は固定観念にとらわれると失敗する
信長でも最初は奇襲で勝ったがその後はその戦法をとらなかった
常に臨機応変に対処したのである、成功体験にとらわれなかったのである

でも実際に固定観念とか先入観を打ち破ることは本当にむずかしい
単純なことでもそうである
この辺だと太陽が海から山に沈むのだからそればかり毎日見ていたらそれが固定観念になる、でも山から太陽が昇り海に沈むのも日本海だとか普通にあるし山から昇り山に沈むことも普通にある、でもその感覚が理解できないのは地理でもそこに長年住んでいると固定観念化しているからである
だから旅するとその変化が新鮮な体験となるのである
まず方向が例えば飯館とか山に囲まれているとわからなくなるのである
近くでもそうなのである、それで地理を理解することが一番むずかしいのである
それはそうした旅して実際に体験しないとわからないからである
地図を見てもわからないのである

地理の固定観念というときまず日本からしか日本は地理を見ない、でも大陸側から日本を見れば違ったものになる、そういう視点で地図を作った本もある
それは視点を変えると世界は違ったものに見えるからである
地理もだから固定観念化してそれで世界を見誤るのである
なぜなら世界地図を見ただけでは地理はわからないからである
実際に路査すればわかるが世界となると広いからそれができないかち人間の視野は現代でもこれだけ情報社会になっても狭いから判断を誤る

テレビの画面から地理はかわならいし世界もわからない、その映像も誤解が多いのであるそれはその地理の一部分しかパーツしか写さないからである
その周りの状況とか全部を映すことはできないからである
それでイラク戦争の時油まみれの海鳥だけを映していたが周りの状況は写されずそれがイラクが悪いとなったのである
テレビとは映像で誤解を与えるものなのである、映像だと真実だと見るからである
でもそれも幻想だとしているのもわかる
真実は何か事実はなにかもテレビの小さい四角の画面からは判断できないのである
でも映像のインパクトが大きいから映像によって固定観念化されるのである

いづれにしろ人間にとってこの固定観念とか思い込みとか先入観はささいなことでも常にあり判断を間違うのである、それが人間の弱点なのである
だからAIでもかえって人間より判断で間違えないという時、それは膨大な情報を処理しているからなのだ、人間はほんの一部しか情報を得ることができないし理解できないからである、するとその判断が誤るとなるのである
だから固定観念から先入観から思い込みから脱することが大きな問題になる
特に老人はこれまでの人生で経験したことで判断する
それが時代に乗り遅れ判断を誤るのである
時代が急速に変わる時はどうしても追いつけなくなくなるのである

2019年01月16日

世の中は三日見ぬ間の桜かなー三日見ぬ間の枯木かな (老人は時代の変化についていけない)


世の中は三日見ぬ間の桜かなー三日見ぬ間の枯木かな 

(老人は時代の変化についていけない)


人間の一生でも世の中でもこんなに変わるとは想像もできなかった
この辺では特にそうだった
ここ十年で体験したことは変化が激しすぎたのである
第一津波では村がいくつも消失したからである
村ごと消えるなど想像もできなかった
その津波で家族も死んだ人も多数いるし原発事故では故郷に住めなくなった
それもありえないことだった
人生は無常だということを一身上でも家族が認知症になりみんな死んでそうだった
ただ茫然として一人取り残されたとなる

ただ人生とはそういうものだったのである、だから日本でも70年間平和だったということはまれだったし自分自身でも何事もなく暮らしていけたことの方が幸運だったとなる
でも一回は水害などがあったがそれほどの被害ではなかった
床上浸水だったがそれほどの被害ではなく乗り越えられた
それ意外に何か不幸なことはなかったのである

それが一度にここ十年介護やら自分の病気やら回りは津波や原発の被害にあった
それは想像を絶したものだったのである
世の中もそうだが個人的にも家族でも変化が激しいのである
人生とは常に変化なのである、成長してゆくこと自体が変化なのである
大きな変化は30頃まで起きる、そこが青春なのだけどこれもあっというまに過ぎる
青春の若さとか女性なら美とかあっというまに色あせてすぐに老人になる
そして見る影もなくなる、つまり枯木になるのである

世の中は三日見ぬ間の桜かなというときそれは盛りの時期である、また個人的にも世の中でも国でもそうである
中国を見ればわかる、十年二十年をふりかえってみればわかる
どれだけ遅れていたか?物価は日本の十分の一とかであり技術は最低であった
それが今見れば驚くばかりである、給料だって日本とたいして変わらなくなっているし新幹線が走っているしスマホとかの技術では中国が優れている
論文の数では中国が日本を百倍単位で引き離している、それだけ技術が進歩しているのである
でも中国という時、何か依然として右の人は日本がより科学技術でも遅れた国だと見ている、それはあまりにも変わるとそれに追いついていけないのである
三日見ぬ間の桜かな、その三日が十年であり二十年であり同じである
もはや中国は満開に花が咲いているともなった

しかし一方で衰退するのも早いのだ、女性でも若いと思ったらたちまち老人になり若い時の面影もなくなる、三日見ぬ間の枯木になっているのだ
だから国単位でも栄えていたと思ったら枯木になっていたというのはいくらでもある
そのスピードが早いのである、アメリカと中国は今や同等でありアメリカがいつまでも栄える強国ではなくなっている
でも今までのようにアメリカの位置は強国として世界をリードするものとして見ている
でも現実はそうでなくなっている、自分の国が優先だとなっている
それはアメリカがもう衰退しているからである

人間はその変化を見抜けないのである、銀行が地銀が真面目な仕事であり地方ではエリートだと思っていた、でもその地位ももう保てない
それで追い詰められているから収益をあげられないから投資信託をうりつける
これは銀行で売った時点で絶対に損しない商品なのである
手数料が確実に入るから毎月配分とか言って売りつける
だから地銀とかは対面的に営業の人が来てその人を信じるということがある
それでおばあちゃんが投資信託で一千万損しても銀行員を信じていたというのもそのためである
それは老人は急激な変化に対応できないからである
それは自分自身もそうだったのである、銀行というとき信じていたのである
でも世の中の時代の変化が激しいからそれに追いつけず失敗する

つまり三日見ぬ間の桜なのだがまた三日見ぬ間の枯木にもなっている
そういうふうに人間の変化が激しいのである、人間関係でもそうである
常に変化している、60年一緒に生活していても死んでしまうともう帰ってはこない
ただそこで茫然としているだけである
そしてただ過去をふりかえるだけだとなる、最後には同じことを認知症になって千回も話する、それは別に認知症にならなくても老人になると過去のことを嫌になるほど繰り返し語るからである、なぜならそうして語ることが生きたことだからである

ダーウィンは、「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」という考えを示したと言われています

変化に対応できるものというとき時代を見ればわかる、明治時代には本当に激変した社会に変化したものが生き残った
その変化に対応できたのは若者だったのである、とても老人では適応できない
それはいつの時代でもそうである、子供でも若者でも一番その時代の社会に適応する能力がある
でもすでにすぐに40とか50になると適応力がなくなるのである

おそらくなぜ日本が衰退するのかという時、時代の変化に適応する若者がいない、若者が活躍しない、それは老人が多い、高齢化社会になると新陳代謝がなくなる社会になるからだ
明治だったら若者が創始者になって創業者になってやるほかない、だから明治に会社でも大学でなんでも創始者になったのである
そしてなぜ戦後にこれだけ日本が発展できたのか?
それは戦争に負けた結果、既得権者が一掃されて新陳代謝が行われた、強いられた結果なのである
その変化も激しかったのである
高齢化社会はその新陳代謝がうまくいかない、老人がいつまでも権力を握っている社会である
相続でも60とか70になってやっと親の財産でも相続するとかなっている
そうなると下の世代は権力をもたないから自由にできない、自分のやりたいこともできないのである
新陳代謝ができない社会が少子高齢化社会なのである

それで女川辺りでは津波の被害地域でも老人は口出すなと言って若い世代に街作りをまかしたのである
急激に変化する時老人は対応できない、若い世代は40くらいまではまだ適応できる
でもそれ以上になるとむずかしくなる、私が失敗したの50から海外旅行したので遅かったのである
若い世代なら今の時代に適応して新しい未来を目指し作ることができる
時代に適応できるからである、だからこの辺ではそうした若い世代が明治時代のように活躍できる場でもある
何もないところから一から始めねばならないということになったからである

いづれにしろ戦後70年過ぎてまた明治から戦争まで70年であり戦後の高度成長を経て70年でありそこでまた大きな変革の時代に変化の時代になる、それで色々な分野で変革が迫られているのである
ただその激変に老人はついていけないのである
                                            
世の中は三日見ぬ間の桜かなー三日見ぬ間の枯木かな

世の中も人生もこれだった、いつの世もそうだった、常に変化であり無常の世界だったのである


2018年12月31日

人生は二度なし(このことを若い時はわからない)


人生は二度なし(このことを若い時はわからない)


人生二度なしという厳粛な事実を若い時はわからない、青春もたちまちすぎるしたちまち老いる、なんだこれで人生が終わりなのかというとき老人になって愕然とするのである
ええ、たったこれだけだったのかというショックである
それほど人生は短いものだったのである
こういうことは別に優れた人とか哲学者とか宗教家だけではない
普通のありふれた平凡な人もわかるのである
老人になれば否が応でも現実でもって示される

そしてつくづく誰でももし人生が二回あったらなもう一回人生がやり直させたらなと切実に思うのである
ちょっとベトナム人の若い女性がいた、ベトナム人にも美人がいるんだなと思った
財布を落としてそれを知らせたのはベトナム人の若い女性だったのである
そしたらちょっとしたきっかけでもしかしたら仲良くなり結婚していたかもしれない
ちょっとしたきっかけでそうなるたこともありえたなと思った
しかしもう老人になったらありえない、ただ死に向かっているだけなのである
ただ若い人はこれから人生を生きるのだとつくづく思う
でも老人にはもう人生は終わったものなのである
終ったものとして回想しているだけなのである

そして人間はやり直しできない、あの時若い時こうすれば良かったと後悔してもできない若い時選んだことがそのまま人生の最後までつづくということがある
例えば道が二つに分かれたとしていて右を行ったらもう引き返して左に行くことはできないのである、それか人生なのである
だからその分かれ道で誤った方向に行くとそのまま人生の最後までその誤った方向から引き返せないとなる、それも今になると怖いことだと思う
人生はやり直せるというのは甘い考えなのである
そんな時間が人間には与えられていないのである

一回きりの人生しか人間には与えられていない

これは本当に最後になるとショックなことだったと
だからなぜ若い時が大事なのか?
それは方向を決めてしまうからである
その方向が若い時に決まってしまうから怖いことだったのである
ただ若い時そのことを自覚している人はほとんどいない
どっちに行こうがそれほど気にしていないし真剣に考えない
右に行こうが左に行こうが時間はたっぷりあると思っているのだ
人生回り道もあるしそんなことどうでもいいことだとしか思わないのである

「若き時神を覚えよ」というときもそうである
若い時しか本当の求道はできない、すると若い時でその方向が決まってしまうから若い時は人生を決するとまでなってしまうのである
人間はもう30代でもう決まるとまで言える
あとはつけたしであり余得ともなるのである
30からは時間が倍速で早く過ぎるのである
そしてあっというまに60、70となり老いるのである

そして死ぬとどうなるののか、死ぬとどんな人でもすぐに忘れ去られるのである
どんなに有名でも忘れられるのが早いのである
すでに仕事もしない退職した人は社会で用がなくなった人は生きながら忘れられる
それで家族の一人が認知症になったけどそれも無常だった
役所をやめてから役割が家でもなくなり何か生きながら無用の人となっていた
その時社会からもすでに忘れられていたのである
知る人も極わずかであり若い知らない人が増えてその人たちは知らないとなっていたのである
だから退職した人はそうなりやすい、社会で無用のものとなり生きながら忘れられるのである、そして死んだらもうただ忘却されるだけである
そのスピードが早いのである、だから無常迅速と言うのである

ただ現代は長生きになったからその分何か仕事をする残すにはいい、60くらいで死ぬのは早すぎるからである、何か仕事に追われているうちでも終わってしまうからである
長ければやはり何か平凡な人でも仕事をして残すことはできるとなるし才能がたいしてなくても何か積み重ねたもので才能が開花することがあるからだ
才能は第一いくら恵まれていても開発する時間が必要だからである

いづれにしろ自分の人生も終わりに近づいていると思う
旅するにしても何か気力がないから行けない、今は確かに介護が終わって行けるのだから行く気がしない、何か疲れるとなるからだ
だから旅にしてもいつかできなくなる、終わるということである
こんなに旅したのに依然として旅しない所がずいぶんあったし見ていなかったなとつくづく思う、それだけ人間の与えられた時間が短いからそうなっていたのだ
人生は光陰矢の如しであり最後は人生あっというまに終わるとなってしまうのである

今年も終わるが大晦日だけどこのことを若い人は肝に命じるべきだけどどうしてもそう思えないのである、そして老人になって愕然とするのである
そして二度と人生はやり直しできない、二回の人生はないのである
もし若い時でも30代以降でもこうした自覚があればもっと充実した人生になっていた
それはみんな誰でも思っているのだ、とにかく人間は無駄に費やす時間が多すぎるのである
でも何でも雑学でも経験したことは最後に活きてくる、活かせるのである
だから不思議なのは今一番私自身がいろいろなことがわかり活かしている
それを今インタ−ネットのホームページでプログで発表しているのである

ふりむけばすべての足跡が意味あるものとして示される・・・

今NHKの紅白歌合戦での歌詞を見た、福山雅治とかの歌手である
こう最後にこうなる、それは特別な人生だけではない、普通の平凡な人生でもそうなのである
その意味がはっきりと平凡な人でも知らしめられるのである
だから何か過去に悪いことした人も決してそれが心の中で消えることはないてのである
それが最後にまざまざと示される、そして後悔して苦しむ
それも怖いことなのである、ただそう自覚している人はいないからこそ若い時は放埓でもかまわないとなっているのだ
それが青春の特権だとかなってしまうのである

ということで今年も終わり来年もこうしてプログを書き続けます

良いお年を・・・

2018年12月06日

平和と幸福は何もしないで与えられることはない (常に平和と幸福は努力して作り上げてゆかないとない)


平和と幸福は何もしないで与えられることはない

(常に平和と幸福は努力して作り上げてゆかないとない)

平和とはなんだろうと思う、平和平和と叫んでも平和が来るのか?
そもそも平和とは何なのか?
平和の逆を見るといい、極端なのは戦争状態であり飢餓状態とか災害で破壊されたとか事故で苦しむとかいろいろある
平和でない状態は常に歴史的にも個々人でもあった
個々人でも病気とか必ずあるからだ、死もあるし逃れられないのだ

最高にに平和を感じる時は逆に戦争で苦しんでいるとき戦争がないときとかなのである
殺し合いしているのは最悪だからである、だから戦争がない状態にもどったというとき
幸福感を人一倍感じる、それは個々人でも病期が直った時一番感じる
その時生きられんだとかつくづくそれだけで幸福を感じる

平和とか幸福はそこにただあり与えられているものではなかった
何か自分は恵まれていて家族に与えられている存在だった
その家族が介護になり死別がありその時自分は今度は家族のために尽くさねばならなかった、自分が今度は与える側になった
でも何かを与えるということも喜びになる、苦しみもあるが与えることは喜びがともなうただ相手から与えられるだけの存在に平和と幸福はない

平和とか幸福とかはただ与えられるだけでは得られない、人間はそういうふうにできている、何かをただ与えられるだけでは平和も幸福もありえない存在なのだ
幸福になるためにはやはり勉強も必要になる
勉強するということは幸福になるためなのである
ただ受験勉強とはかそうではなかった、勉強するのは人間は才能があったとしても必ず勉強せねばならない、才能を開発しないかぎり天才でない限り生まれないのだ

そして勉強していれば雑学でもなんでも最後に花開くことがある
それも勉強していなかったらありえないのである
ただ何でも努力も勉強もしないで与えられることは人間にはないのである
絵の才能が全然ないのに抽象画でもパソコンのソフトで描けたとなればそれなりにただ見ているよりはそこに自らで作ったという満足感がある
これもやはり才能を開発するという努力の結果で幸福が生まれたとなる

人間という存在はそもそも何か何もしなくて与えられない、平和でも幸福でもそうである家族だってそれも互いに努力するなかで築かれてゆくのであり結婚したときは愛がないというのもわかる、恋愛は愛ではないというのもわかる
愛は結婚して共に生活して子供を育てるという過程を経て家族も作られる
それはただ何もしなくて家族が生まれるわけではなかった
家族はそうして長い間生活してその中で苦労を共にして作られてゆく
家族はもともと与えられるものとも違っていたのである
子供の時は与えられる存在だが大人になれば常に努力して作っていかねば何事成ることはないのである

例えば農業でも何かを実らせるには本当にむずかしい、様々な試行錯誤必要である
そこで練馬大根とか・・・大根とか下仁田葱とか地名がついたブランド品が生まれる
それは特産品となる売れる、それがてきるまでは苦労している
それはどこでもそうである、それで特産品となったときそこに努力の成果がありその土地に幸福をもたらしたのである
それはあらゆる分野でそうである、平和とか幸福は作り出すものでありただ何もしないで与えられるものではなかった

だから復興というときこれもそうなのである、それは不幸な状態でありそこに再び平和と幸福を作ることが要請されている、それでもし復興が成ったらその喜びは何倍もの平和と幸福感を感じる、でも何もしなければもう何も生まれない
ただ荒廃してゆくだけだとなりそこには平和も幸福も生まれないのである
今の所はそうなっている、何か打つ手がないとなり町や村は捨てられたという感じになる
私の住んでいる所は幸いに避難区域でない、かえって外部からの人が集まり増えてにぎやかになったということがある、いろいろな施設も生まれたとかもある
だから避難区域との差が大きすぎるということがある
ただ人間はつくづく何もしなかったら平和も幸福も与えられないようにできている
戦争とは破壊でありだからそこからは平和とか幸福は生まれない
それでも破壊した後に建設がはじまりその時あらためて平和と幸福を感じるのである
それは前より一層平和と幸福を感じる

幸福は何か与えられる得たいということがある、でも人間の幸福は与えることにある
何かを与える時平和と幸福を感じる、神は与えるだけの存在だから幸福だとなる
人間にあらゆるものを与えるのが神だからである
ただ神は人に感謝を求めるが後は一切なにも求めない、人間は何か与えたとてしても必ず見返りを望む、そして恩着せたり俺は与えたからとその何倍を要求する
それは遂に脅迫にすらなる、無償で与える人は一人もいないのである
神は無償で与えている、でもそれを実らせるには人間でも農業に絶えない努力が必要になっているのである

でも一番実りの幸福を感じているのはそうして努力して実らせた人なのである
その時まさに平和と幸福が作り上げられたからである
無人駅でボランティアのまねごとしてもそうである
みんな自動化しているから別に人はいらないとなるがやはり人がそこに手を加えて作り出すものがある、まず機械とかAIだけで平和と幸福は作り出せない
なぜならあくまでも人間が生きるのであり機械とかはAIでも生きるということがないからである、それは人間が生きるということが先にあって活かされるのである
あくまでも人間が生きることであり人間が主人であることには変わりないからである

だから無人駅でも人間はいらないとか他でも機械があるから人間はいらないとはならない必ず人間が必要であり人間が主人公なのである
そもそも機械とAIは何か望むということもない、平和とか幸福とか愛とかも望まない
だから機械だと兵器となり武器と化して人を殺しても何も感じないのである
機械とかはあくまでも人間の道具でしかないのである
だから機械でもAIでも平和とか幸福をもたらすものとは必ずしもならない、それはあくまでも人間の道具だからである、使い方を誤ればやはり不幸をもたらし平和は破壊されるのである

いづれにしろ人間は与えられるだけの存在だと平和も幸福も感じない
それで退職した老人が不幸になりやすいのは何か社会的活動して与えるものがなくなるからである、ただ一日なにすることもなくテレビを見ていたり暇つぶしにギャンブルばかりしていたらそこに幸福は生まれないのである
そういう何も与えない人は膨大に増える時社会自体が不幸になる
それが高齢化の問題だともなっているのである  

人間の信頼関係でも簡単に作れない、俺には金があるからなんでもできる、人も自由に雇い働かせられるとかともならない
家に入れる人は相当に信頼関係がないとできない、金だけではひとを頼むことができないものだった
その人にとって金だけを得ることだとすると危険になるからだ
それじ十年もその家で働いていたとかなると信用できるとなる、でもそれだけの年月が必要であり時間が必要になる
そういうことで金だけで平和とか幸福は得られないのである
それが互いにでも作り上げてゆくものだからそうなっている、研究者に金をやるから一大発明しろといってもできないというときもそうである、研究するのは地道な努力も必要でありいくら金を積んでも一朝一夕にできるものはないからである

ともかく人間の逆説は「悲しむ者は幸いなり」ということもある、なぜ悲しむ人が幸いなのか?
そこに人間の根源的な問いがある、この世は悲しむことなしでありえない、悲しむことによって人間の深いものを理解するからだ
悲しむ者が幸いだという時、悲しむ後に本当の人間の平和と幸福を知るからそうなる
だからこの辺の復興でもそうなのである、悲しむ状態だけだとそこからまた幸いが平和がもどるということがあるということを示ししている、ただそう自覚することはむずかしい、ただ不満だけがあるともなっているのである

タグ:平和と幸福

2018年11月20日

人間は必ず経験を経て教訓を残す (泥棒が残した教訓‐欲をおさえろ)


人間は必ず経験を経て教訓を残す

(泥棒が残した教訓‐欲をおさえろ)

人間は長い間に経験を積み重ねてきた、その経験から諺や教訓が生まれた
三国志などでも戦争の中で教訓が生まれた
それは生きるか死ぬかの経験の中で生まれた教訓なのである
最近そうした諺で教訓でも重い意味があると思った
それはなぜか?それは実人生とか経験の中で生まれていたからである
頭の中でイメージして作ったものではない、事実の経験から生まれたから重みがあるし継続されてそれせ今の社会でも活きているのである
それは地域や時代を越えて普遍的真理ともなる

人間とは科学技術がどれほど進歩しても変わらないのである
様々な欲が根本的に変わらないとしたらやはり科学技術がいくら進歩しても悪がなくならないのである
その人間の業は人間の欲が滅びるまで継続されるのである
若い世代でもやはり同じように犯罪が生まれる、若気の至りでも犯罪になる
そういうことは変わらないのである
それは江戸時代にもあったし現代でも違っているようでも同じなのである
つまり人間の欲が消えないからそうなっているのである

だから私自身が経験したことも不思議だった
泥棒が残す教訓ともあるものだと思った

「その人はある家に入った、そこには…円の金があった、しかしその金はその人にとって目にしたこともいような大きな金だった、その人は貧乏暮らしをつづけていたからであるそれでその金の半分を盗んだ、それでも大きな金だった」

こういう話になるけどなぜこれが教訓になったのか?

半分だけ盗んだということでその人は奇妙だけど救われたとなる
なぜなら全部盗んだとすると裁判沙汰になったりしたかもしれないからだ
盗まれた人は大きな金でもあきらめたからである
それは半分だけ盗まれたとういことで一応まだ余裕があるから訴えることもなかったのである

その盗まれた人にはあきらめたということで恨まないということで互いに何か極端になれば殺し合うとかまでにはならなかった、しかしそうでなければ極端になればそうなったしそういう事件も多いことでわかる
友達に何万とか貸して返さないからと恨みになり事件が起きたりしているからである

ここで何が教訓なのか?

欲をおさえろ!欲を減らせ!

それが災いとかから逃れ徳を積むことになる
人間は欲をおさえられない、欲は限りなく増大してとめられないのである
そこに必ず災いが起きてくるということである
だからどの宗教でも欲をおさえろと説いている、宗教はそういうものである
でもカルト宗教となると欲を限りなく増大させる
煩悩即菩提とかなんとか勝手に解釈して強い煩悩があった方がいいとも説いている
そうしなければ欲をおさえろというとき誰も従わないからである

すべての災いと事件と問題の大半は欲をおさえられないことから起きている
もしこのように欲をおさえれば事件は起きない
それは盗まれた人と盗んだ人双方に言えたなとふりかえる
双方ともに泥棒は大きな金でも半分に盗むのをおさえた
盗まれた方は大きな金でもあきらめた、そこに共に欲をおさえたということである
何か奇妙だけどふりかえるとそうなったのである

原発事故でもそうである、補償金でもめで分断された、それはどっちもどっちだったかもしれない、この経験と同じかもしれない
第一そもそも原発事故も人間の欲と関係してたのである
原発は金になるから誘致した、金になればなんでもいいということで誘致したのである
そこに災いを生まれたのである
金になるなら危険など構わないのである、その欲は限りなく増大してゆく
漁業組合で船主などでは補償金で原発御殿が建つとかなっていた
人間の欲の故に原発が作られたともなるのだ

でも人間の欲をおさえるのが一番むずかしい、それをやめろとか言うとその土地にすら生きていけなくなる、なぜならみんな豊かな贅沢な生活をしたいからである
だから原発には反対できなかったのである

でもなぜ人間は宗教が生まれたのかとなるやはり仏教でもキリスト教でもなんでも欲をおさえるということを説いたのである
資本主義のはじまりも宗教的なものキリスト教の修道院からはじまったというときもそうである
それは欲をおさえて働き神に奉仕する、そこで資本が富が蓄積されて配分されるということだったのである
今の強欲資本主義とはまるで違ったものだったのである
今のグローバル資本主義とか株の世界とは違ったものである、もうここにはモラルは消失しているからである
だから自分自身が株で欲を増大させて失敗したから株も投資も人間の欲がからんでいるから怖いものとなる
別に働いて利益を得ることは悪いことではない、でも何か株とか投資は常に一攫千金とか目指すギャンブルの要素があった
それがモラルにかなった経済活動とは思えないものだった、だから何か資本主義自体がもう維持できない状態になっている
格差が極端になっているから限界になっているのだ

欲がなぜ怖いのか?

それは必ず災いをもたらすからである、人間から災いが消えないのはなぜか?
それは欲があるからだとなる
国の争いでも石油で戦争になったりする、石油というのは絶対に必要だとなりそれのために戦争になる、では石油なしで人間は生きていけないのか?
実際はここ百年ばかりが石油を使用している
それまでは人類は石油を利用していないのである
すると石油なしで生活しえないということはないのである

人間が欲をおさえることが本当に災いを避けさせるとか平和をもたらすということを真剣に思わないのである
例えばもし日本の戦争が石油が入らなくなり戦争になった良くいう
でも別に石油がなくても炭でも薪でも暖房できるのである
ある程度の電気は石油なしでも供給できるのである
そんなことで戦争して人間の命が300百万人も死ぬよりはいいとなる

人間はそもそも欲を真剣におさえることをしないできない

結果的に欲はかぎりなく増大してゆく、借金してまで家がほしい車が欲しい、欲しい、欲しいとなり制限できなくなる
何かを欲を制限することが災いから逃れ平和をもたらすということを考えない
それは真剣に欲がもたらす災いを考慮していないからそうなっているのだ
私自身が経験したことでも双方で殺人事件にまで発展することはありえた
普通にそういう事件は起きているからだ
でも双方に欲をおさえたから何の事件にもならなかったし災いから逃れたのである

そんな殺人事件にならなかったのは奇妙なことだが互いに欲をおさえたことによっていたのである
そういうことは国同士の貿易でも起きてくる、貿易戦争になるのも戦争の原因である
どちらも利益のためにゆずれなくなり戦争になる
それは国同士でも欲をおさえられないからである
自国の欲をおさえられないからそうなる
だから欲をおさえるということが互いに必要なのだけどできなくなり戦争になる

日本でも貧乏になったとか、格差社会になるのはなぜか?
それは金持ちがいても自分たちだけが贅沢したい欲を満たしたいということでそうなる
別に配分すればそうはならないのである、それは金持ちはさらに金を欲しい減らしたくないとなる、それは人間の心理である、増やしたとしても減らしたくないのである
それは自分でも同じだった、自分だって欲をおさえられないのである

平和というのはこうして欲をおさえないかぎり生まれない
剣をもつものは剣で滅びるという時もそうである
人間は何かを断つ捨てるということを真剣に実行しないかぎり互いの平和はない
なぜこの世から災いが争乱が絶えないのか?
それは欲が消えないからである、それで遂に欲でこの世が滅びるというのも理解できる
要するにこの世が滅びないためには欲をおさえろとなるのだ
でもどうしてもおさえられないから滅びるのがこの世なのである

人間の一生は本当にはかない、青春などあっというまにすぎさる
そしてみんな老人になり見る影もなくなる、ただ無常を感じるだけである
もう家族もみんな死んだとか津波原発事故でこの辺は無情だった
私自身も本当にこの世の無常を知った、人間はこの世に束の間生きるだけである
そして消えてゆくだけだとなる
何を成そうが何を得ようが人間の一生ははかない、だから人間の欲もやがては消えてゆく認知症になった母が一円にこだわって使わない母が大金を盗まれて笑っていたのも不思議である、つまりに欲がなくなってそうなったのである
金のことがわからなくなってそうなったのである
その姿を見て不思議だった、最後に欲もなにもなくなったとなる
要するに人間の欲が消えたとき平和が訪れたとなるのか
もしでも正気だったら狂気のようになり騒ぎ殺し合いまでにもなりうるからだ

別に石油がなくても原発がなくても車がなくても生きられる、現実に人類の歴史でここ百年くらいが異常にそうしたものに頼ることになった
それまではそれがなくても生活できていたからである
石油がなくなっても車がなくなっても電気でも今まではなかったのだからそれで世の中は滅びるということはない、むしろ欲で滅びるのが人間なのである
だから欲をおさえるということがいかに大事な教訓であるかそれは宗教が生まれたのである、それは結局実行されていない、科学技術が現代の宗教というときそれは欲と深く関係しているのである、人間の様々な欲が科学技術で実現するとみんな本当に思っているからである、だから科学技術は危険にもなり災いにもなる

なぜなら人間の限りない欲望を実現するものとなるからだ
それで原発でも危険でも作られたからである、結果的に事故となり故郷にすら住めなくなったからだ、科学技術は災いを生むのである
それは科学的精神とかとサイエンスとかと違って人間の欲を実現するものとして魔術的なものとして追求されているからである
何か科学技術は全面的いいものとして肯定されるが果たしてそうなのか?
原発事故の結果をみればわかる、もう故郷にすら住めなくなったからである

2018年11月19日

人間の本性は悪でありその恐ろしさを体験で知る (人間は悪(エゴ)であるがただその機会がないと現れないだけ)


人間の本性は悪でありその恐ろしさを体験で知る

(人間は悪(エゴ)であるがただその機会がないと現れないだけ)


自分自身の過酷な経験から人間の本性を知った、それは恐怖の経験だった
自分を助けると思っていた人が実を自分を食い物にしようとしていた
弱者になった時、自分の思い通りにして金を得ようとしていた
その人は事業に失敗したとかありどのくらいかわからないが借金していた
だから自分が苦しい時確かに多少は助けたにしろ借金を背負っているから
それを返すことで頭がん一杯でそれしかなくなっていた
妻はそのためにパチンコ屋で奴隷のように働かせられていたのである
その妻が来てもなにもする気はないしできない
ただその家の者は全体が借金を要求するように負担となって自分の所に来たのである
私の家ではその家族のことを昔であれ助けたことがあってその人は恩返しだとして来ていた、でも自分自身が借金していることでそれどころではなかったのである
まず自分に余裕がない人は人を助けることなどできないのである

そしてこの経験から人間の本性は悪でありエゴであり他者はただ金とだけ関係しているとものと思った、金がとれないならその人は何の価値もない、近づくこともない
金があるとなり金がとれるとなり接してくるのでありそれ以外何の関心もないのである
極端になれば人間は金の切れ目が縁の切れ目でありそれはどこでも普通に起きている
他人にどんな関心があるのか?利益的関係しかないとなる
そうしてもともと薄い関係だったからみんな去った
そういう人とは二度と会わないのである
この世の他人の縁とかはそんなものかとなりただ無常になるだけだった
それより人間の本性はエゴであり悪であるということを経験で知った

例えば性善説とか唱えているのはまず社会経験がたりないのではないか?
自分もそうだった、でも社会経験している人はそんな説を唱えるはずがないのである
人間の歴史をみてもそうである、弱肉強食の世界が歴史でもあった
戦争の歴史が世界史でもあった
人間も動物の一種でありどうしても他者の命を食べなければ生きていけないということからエゴだとして仏教が生まれた、だからインドでは動物を大事にする、同じ命をるものとして大事にする
ただ動物は弱肉強食でもそれは他の生物を食べなければ生きていけないからそうなっている、人間の場合は別に食べるものがあっても罪を犯すしいろいろなエゴの目的で犯罪を犯すのである

事業に失敗したからといって別に明日から食べられないということはない
ただ自分が成功者として見せたいということなどがあり借金したりそれでその借金を他者に負わせたり虚栄心とかからも人間はエゴになり悪人になる
別にその人でもうまくいっていたときは普通の人でありいい人であり善人だったのである今でも善人として見られているしわからない人は事業で成功した優秀な人として見られているのである
それはたいがい他者は外見しか見ないしわからないからである

人間は悪でありエゴだというとき人間は機会で縁によって悪がエゴが喚起され悪魔になる      

なにもなければこうはならない、ただ事業に失敗するとか例えば目の前に一億円の金があるときそこに何人かいたら奪い合いになり殺し合うとういこともある
そこに美人がいて取り合いになり殺しあいにもなる、そこに人間の欲がエゴがむきだしになる、だからもしそういうことがなければそこにいた人たちは何も争わない
善人なのである、この辺でも原発事故の補償金でももめたがこれも同じなのである
それも額がそれなりに大きいから不満がありそれで協力できなくなったのである
何かの機会で縁で人間の本性のエゴが欲が刺激されてそれが悪となり悪魔に変質するのが人間なのである

だから別に悪を犯さない人で自分は悪人だと言っている宗教家がいる、それは歴史的に知られた人である、親鸞でもそうである、パウロでもそうである
親鸞になると極端になり悪人が往生するというときそれはなぜなのか?
その人は人間のエゴと悪を自覚したから救われるのである
俺はなんて悪人だったのだとなんらかの切っ掛けで機会があり縁があって自覚したのである、女性をものにしたいとなり殺人までするようになるのもそうである
実際にそのことを実行して悪人だったということを自覚して仏門に入ったという武士もいた、親鸞が悪人が成仏するというときそれは自分が悪だエゴだということを自覚した人なのである、「俺はなんて悪人だったのだ」と自覚した人なのである
普通はどんな悪を犯しても人は簡単には自分が悪人だと自覚しないのである
大悪人でも善人だとしか自覚していないのである
だからこそ千人殺してみろと親鸞は言ったのである、それなら自分は悪人だと自覚せざるをえなくなるからである、人間はみんな善人と思っている
でもその本質がエゴであり悪であるからそれがなんらかの機会で現れるのである

そのエゴと欲とか悪は誰にでもあるとなるからそういった
なぜならそもそも人間は動物でも他の生物でも食べなければ生きていけないからである
そこにすでにエゴがあり欲がありそれを否定できないからである
それで仏教ではベジタリアンになり動物は魚すら食べないとなったのである
なぜ自分の家ががたがたになり崩壊するようになったとき
その時同情は一切ない、かえって襲う好機が訪れたとなったのである
家族の一人が認知症になったりしたらもうその家はがたがたになる
そして認知症になったら近所でもどこでも同情などしない、財産を奪うのに最高の好機だとなる、なぜなら銀行から金すらおろせないからである
NHKとかで認知症の人を優しく見守る地域とか言うがそんなものありえないのである
この世の非情さを知っていればそんなことはありえないし実現不可能である
そんな社会があるとしたらそこは天国になっているはずである

このうよに確かに他者が悪人として見るのは容易であるが自分も同じなのだと悪人だとみるのはむずかしい、人間は普通はみんな善人だと思っているからである
何もなければそうである、だから親鸞が自ら悪人だというときそこに真実を見ていたのである、人間の本性は悪でありエゴであり欲だということである
ただこれが何かの機会がないと現れないのである
だから金でもなんでも追い詰められた人間はなんでもする、人を殺すことでもわずかの金でもする、それはもともとそういう時は動物が飢えている状態と同じだからである
そういう状態になったら誰でも犯罪者になり悪人になるのである
ただそういうふうに追い詰められないからこそ善人でいるだけなのである
追い詰められた人間が本当の人間の正体なのである
だからこの世に生きることは人間の中で生きること自体が怖いことだと思った
経験から人間の見方が変わってしまったのである

人間はみんな悪人でありエゴであり欲でありそれは自分も生物であるかぎりそうなのである、人間は悪人なのである、自分だって追い詰められれば悪人になる
ただそういうふうに追い詰められていないから善人のふりをしていられるというだけなのである
この辺で補償金でもめたというときエゴがむきだしになった、それで協力できなくなったでもいち早く故郷を見捨てた人たちもエゴがむきだしになっていたのである
まず補償金をもらったから故郷のことなどより自分のことしか考えなかったからである
みんなでどうしようとかも考えない、自分さえ良ければいいしかなかったのである
だからある機会で人間の悪のエゴの欲の本性が現れるのである
放射能問題があるにしてもただそれは理由になるにしてもそれだけではなかったのである補償金をもらって自分たちだけが家族が良ければそれでいいとなったのである   

宗教は共通している、仏教でもキリスト教でもモラルにかかわれば共通している
だから個人的にも漱石は則天去私でありわたくしを去ることでありエゴと欲の否定でありショーペンハウエルは生きんとする意志の否定になる、それは共通して人間にあるエゴの否定なのである
ショーペンハウエルのまさに生きんとする意志とは人間が本能的に食欲であり性欲であり種族維持自体がエゴになる
そういう欲は否定できない、だから人間が生まれたのは何かしら罪があってこの世に生を受けたとしている
カルマが業があって生まれたとなる、なぜならこの世に生を受けたことはエゴなくして生きられないから生きること自体罪となるからである、どうしたらちエゴとか欲とかから脱出できるのか?それは不可能だとなる
だからこそ人間はこの世に生きることはみんな悪人として生きるとなるのである 

この世がなぜおかしいのかというときこうしてみんな悪人なのに善人社会だと思っている
そういうふうに善人なのはただ機会が与えられないからである
動乱の世界、戦国時代のようになればもうそこはエゴがむきだしの殺し合いになり自らの欲をエゴを達成することになるだけである
だから沖縄で一番怖かったのは隣の人だった、女性を襲ってきたというのである
外から来る人だけではないそうした混乱の時襲ってくるのは隣の人だということである
何か沖縄ではみんな被害者だと騒ぐけど内部でもそういうことが起きていたのである
その詳しい事情はわからないにしろそういうことがこうして自分が経験したことでもそういうことがあった思った

人間の本性がエゴであり悪であり欲だというとき当然そうなっても不思議ではないのである
だから人間は野獣と変わりない恐ろしいものだとなる、ただ他者のみならず自分自身でもその野獣の一人になるとういことである
何か追い詰められたそうなってしまうのである、つまり食うか食われるになってしまうのである
それがこの世の現実である、その現実はいくら科学が進歩しても変わらないのである
だからこそこの世はいくら良くなるとかいうけど絶望的になるのである
それで死がすべて悪いものとは思えない、この世を去ることはこうした食うか食われるかの世界から逃れることだからである
死によって人間のエゴや欲は消滅するからである、それはエゴや欲からの解放ともなるからだ 
そして人間は死ぬまでこうして欲やエゴから解放されない、業がカルマが消滅しないのである




2018年11月18日

反転する人生、運命の謎 (プラスに働くものが一転してマイナスになる)


反転する人生、運命の謎

(プラスに働くものが一転してマイナスになる)

なぜこの辺で原発事故でこんなふうに大被害になったのか?、津波でもそうである
原発はこれまでいいものとしてあった、そこで働いた人がこの辺では多いのである
原発は金になるものでありいいものだったのである
原発は地域に恩恵を与えていたのである
それが一転してマイナスなものとして働く
まず白が真っ黒になったという状態になった
科学技術の信頼は全く失われた、これも科学技術社会なのだから衝撃だった
誰も普通の人は放射線被害がこれほどのものとは思っていなかったのである

ただこういうふうにプラスに働いていたものがマイナスに働くということは歴史でも人生でもある、戦後の歴史でも団塊の世代は数が多いということはプラスに働いていたのである、その数が多いということで労働力になり高度経済成長時代を築いたのである
だから不思議なのは食料もなにもない、戦後の焼け野原からそういうことができたというのも幸運だったとなる
戦争は悲惨だったがその後は経済成長したから戦争の影響を受けたにしろそれが全部マイナスに働かなかったのである

でも今はどうなったか?その団塊の世代など人口が多い世代が今度はマイナスに働く
高齢化社会になりその数も膨大であり認知症が800万人時代とか信じられない時代になりお荷物となりその負担に耐え切れないともう施設に入れないとかなっている
介護難民がすでに出ているのである、特に認知症は嫌われるから追い出されている
それだけの世話する人が確保できない、金も確保できないのである
このプレッシャーはあまりにも大きいものとなって国すら潰れるとまでなる

それは自分自身が一人は認知症でありもう一人も介護した
四苦八苦して介護した、その時誰も助けるものがいない、かえって弱者化して責められてきた、同情もない、そのことを延々と書いてきた
ただこれも自分のカルマだったのである
結局楽した結果としてこれだけ過酷なものとなったということがある
つまり楽することもカルマを積んでいたのである
人間はただ何もしないで生きていてせ何かしらカルマを積んでいるのだ

それ以後人生が一転する、何かの切っ掛けで人生はベ―トベンの運命のように人生は一転する、優秀であった人も事業をはじめて失敗して借金に苦しむ
健康であった人が脳梗塞とかで半身不随になり車椅子生活になる
運命があるとき反転する、白から黒になる、それは大きくは社会でもそうだし個々人でもそうなのである
その変化があまりにも大きいともうそれに対処できなくなる
それがこの辺の状態なのである

だから個々人でも社会でもこのようにプラスに働いていたものが一転してマイナスに働くのか?それはまさに人間の運命だとなる
ただでは今度はプラスからマイナスになったが今度はマイナスからプラスになるということもある
この辺は新地である、駅は大都会並みであり駅前には温泉がでたとか大きな施設ができて人が集まるようになる、このように津波で甚大な被害を受けてもマイナスになってもプラスにまたなる所もある
戦争は悲惨でマイナスだったがその後はプラスに日本は転じたのである

だから人間は社会でもそうした繰り返しだった気かとなる
プラスに働くものがありマイナスに働くものがある
そもそも国自体がプラスに働くものがありマイナスに働くものである
日本は国土が狭いが山が多く水資源には恵まれているとか海に囲まれて海産物には恵まれてきたとかある、狭いから狭い国土で米でも収穫高をあげてうまい米を作ってきたとかある、砂漠になにもないと思ったら石油がでて豊かになっているとかなにかしらマイナスと思える所にもプラスになるものがある
神は砂漠にも恵みを与えていたのである

例えば人間でもいろいろな人がいて性格も性質も体質も違う、体力があるものいて外交的なものがいて内向的な人もいる
外交的な人からみると内向的な人は嫌れる、陰気だとなり社会でも嫌われる
でもそれは生まれつきのものであり外交的にはできない
体力でも生まれつきがあり強いものは強い
でも人間の性格でも弱点と思えるものがかえって長所ともなる
マイナスと思えるものがプラスになりプラスに思えるものがマイナスにもなる
体力的にも強くバリバリ社会で活躍する人も意外と年取ってから弱く早く死んだりする

人間には陰陽の性格があり最近読んだ本で陰の体質の人は人生の後半戦に強いと書いてあった
そうれもそうなのか、何か自分ももしかしたらそうなのか?
後半戦に力を発揮する、何か今自分は一番力を発揮しているように思う
理解力が深まったからである、今までは本を読んでもただ読んでいるというだけだった
今は自分なりに解釈して評論もできる、だからこれも不思議なのである
高齢化社会になると人生百年となると後半戦に強い人が生き残る活躍するともなる
そうなると陰の体質の人が有利だともなる
長期戦でありマラソンに適していて後半戦に力を発揮できるとなればそうである
それは体力でもそうなのだ、後半戦には陽の人はもたないとなる
ただこれも本当は人はいろいろだからわからない、もう同世代でも二割とか死んでいるとなるからだ


だからマイナスになるということは今度は逆にプラスになってゆくということにもなる
それはまた困難がともなうがマイナスばかりには人間個々人でもならない
社会でもマイナスから今度はプラスに転じてゆく
そういうことも歴史でも社会でも人間個々人にでも起きてくる
それでマイナスからプラスになるということもあるからそうなるように努力する
ただ今はこの辺では先が見えない、二重三重苦になっている

今言えることは日本全体でもマイナスの局面に転じている、マイナスに転じるということはそれはあらゆるものがそうである
民主主義でも制度疲労しているし資本主義でもそうである
世界的にも何かマイナスの局面になっている、それで大きな変革の時代になる
その時痛みがある、犠牲もある、それは戦争と同じなのである
世界でも国でもそうしたし大きな変わり目に来ている
つつりそれはマイナスの局面になる、でもそこからまたプラスの局面へと転化する
その時痛みと犠牲が生まれる、明治維新でもそうである
戦争の時もそうである、それを乗り越えたとき再びプラスの局面に転じてゆく
それが人生でもあり歴史でもり、運命だったとなる    

占いでも凶運は強運に転じる、凶運というのはそれを生じさせるものを積んできたからだというのも納得がいく、それが自分のことでもあった
私自身がこの凶運から学んだことが多い、人生の試練だった
人間は何か困難があると学ぶことが多いと思った、楽に過ごしていたら学ばないのである楽に過ごしていることも後でそれがカルマとなり過酷な凶運になり苦しむ
人生が一生楽に終わることがないからだ、それはどんなに恵まれていてもそうである
この辺は全体的にも凶運になったでもまたそれが強運に転じることもありうる
ただそれはこれだけの被害となると今まで経験したことのない放射線被害だからなんともいえない、ただ凶運が強運となる可能性はあるということである

それでも高齢化社会の問題は病気になったり認知症になったり後は死があるだけであり
マイナスになるだけだというとことで問題なのである
それは社会全体でもそうである、死んではじめてプラスになるという問題である
つまり高齢化社会は団塊の世代でもまたその後の世代でも死んだときプラスに転じる
それは50年とか先になるのだ、それまでマイナスとして働くものだから苦しいとなるのだ、ただ個々人でも社会でもそういうプラス→マイナス→プラスというサイクルがあることは確かなのである

2018年11月06日

国際ロマンス詐欺が増える−40歳の女性が被害 (人間の生きる時間が短すぎることが最大の問題だった)


国際ロマンス詐欺が増える−40歳の女性が被害

(人間の生きる時間が短すぎることが最大の問題だった)

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工藤恵子 婚活KOKO 結婚カウンセラー

人生は時間との勝負だ!

このyoutubeは面白いと見た、それはなぜなのか?
それは何かただ結婚のことだけではない、人生を語っていることなのである
それは女性から見た人生とか女性の視点で語っている
なかなか女性のことはわかりにくいがここでは何かわかりやすい、具体的例で説明するからわかりやすいのである

今日のニュースで国際ロマンス詐欺があったが被害者は40歳の女性だった
この婚活のyoutubeではそういう年の人がなぜ結婚できないか語っていた
それはいろいろ実際の相談に乗った人の例で語っていた
そしてもう女性は40歳になると結婚はすごく厳しいものになるというのもわかる
それであせってこんな詐欺にひっかかる
それはインタ−ネット時代で起きたことである
外国人と簡単にやりとりできる時代になったからである
でも英語で話せたのかというのは良くわからない
グーグルの翻訳など使えば意外と話せるのかもしれない

結局人生の最大の問題は何なのか?
生きる時間が限られている、たちまち時間がなくなり老いる
今やそういう人たちをテレビで華やかに活躍した俳優でも病気になった、ええ、あの人が死んだのかと驚く、同年代の人が病気になり死んでゆく
そういうふうに華やかな時代は本当に短いのである
女性も20代が華だけでどその花の盛りもたちまち過ぎるのである
だからあれこれ高望みしている人は婚期を逃すのである
結婚は生活だと割り切る人は結婚できるとしている
あれこれ望みが高すぎる人は結婚できないというのもわかる
それは時間の無駄ということである、時間がいくらでもあるならいいが結婚するにも時間が問題になる

今は誰かが来て無理やり見合いさせたり家同士の結婚でもないから何かいろいろ高望みして結婚が遅れる傾向にある、何か時代的条件で結婚が遅れる
それは自由な社会であり高望みするからそうなる、自由な社会になるといろいろ選択する範囲も広くなるから男性でもいい男性を選ぶとなればそんな男性はいないとなる

結局人生とはなぜ失敗が多いのか、みんな人生を後悔するのか?
それは時間が短いということである、限られていることなのだ
それは結婚だけのことではない、勉強だってそうだしその他技術を習得するにしても
例えばここ十年介護とかで家事をしてきたけど家事を覚えるには時間がかかるなとつくづく思った、そして料理は未だに何もできないのである、まず料理上手になるには相当な時間が必要だと思った、そして向き不向きもある

結局人間は才能や資質があっても時間をどれくらいかけるかで決まる
それも時間をどれだけ有効に効率的に使うかでも決まる
いくら天才でも費やす時間が限られている
楽器でも一つ覚えるだけで時間がかかる、だから二つも三つも覚えられないのである
それはあらゆることに言える、語学だってそうである
何するにも覚えるにも時間がかかるのである
結局みんな時間切れで終わる
結婚でもそうである、選り好みしているうちに結婚も逃す

とにかくなんでもたちまち時間が過ぎてゆくのである
それは男性でも女性でもつくづく同じである
時間は限られている、例えば最も重要なこと求道するにも信仰するにも実は若い時しかない、時間があるから老人になってから求道しよう信仰しようとしてもできなくなっているもっとも血気盛んな時に神を覚えよと聖書にある
その時期を逃すとできない
それは信仰だけではない、スポーツでも例えば武道などは高校生から大学くらいにしないと基礎ができないからその後になると覚えるのがむずかしくなる
それは体で覚えるものだからである
それで空手の師範までなった人は遅くはじめたから苦労したというのもわかる
それは人生は30くらいで何でも決まるという時そこで方向とか決まり基礎ができるからである

だから放蕩などで青春を浪費した人は最も後悔する

時間はそれだけ貴重であり最も貴重な時間は青春時代なのである、30までなのである
でもこのことが若い時はわからないのである
時間が無限にあるような気がする、時間がありすぎて暇で困るとなっていた
暇潰すのに困っていた、でもそれもたちまちすぎて老人になると生きる時間がもうないとなっているのだ、何かするにも病気になったり体力が落ちてできないのである
だからこのyoutubeを見て結婚も同じである、婚期を逃すと男女とも結婚はできない
そしてチャンスは何度もない、この人はだめだからもっといい別ないい人を見つけようとしていたらいくら時間があってもたりないのである
だからあるところであきらめてというか早めに選んだ方がいいともなる

結局私自身が結婚しないということが婚期を逃したということなのである
それは婚期だけでない、何かのチャンスでも人は逃してもう取り戻せないのである
もっと勉強していれば良かったとか逆にもっと旅行していればよかったとか
もっと家庭サービスをしていれ良かったとか後悔だけが人生となっているのが多すぎるのである
それは何か時間が無限にあるように見えるからである、もう非正規とかフリーターなどでも40歳過ぎたらそのままであり収入も低いままでありスキルも身につかない、結婚もしていないとなると老人になったときどうなるのか?
それは相当に悲惨なことになることは眼に見えている、でもそれを考えないのである
それは時間がまだまだあるとみるからである
でもさすがに40になると自覚せざるを得なくなる

そして最も大事なものが金だと思っている、でも老人になると時間なのである
そして時間は金で買えないのである、青春をとりもどしたいとして百億払っても元の青春時代は返ってこない、女性でも20代の美貌に帰れない、いくら化粧してもだめなのである、無常だというとき常に人生は変化だからである
そして最後はただ白髪の老人となり茫然としているだけになる
それは浦島太郎なのである、玉手箱をあけてたら一瞬にして老人になっていた
竜宮城の快楽は夢だったとなる              

人間はそういう繰り返しなのである、これはいくら科学技術が発達しても変わらない
確かに長生きになったとしても十年とか寿命が延びてもそうである
いづれには死ぬ、人生の時間は限られている、その限られている時間をいかに有効に過ごしたかで人生は決まるとなる
そして最後は雑学でも何か知識として活かせる、ただ放蕩しているより雑学でも本を読んでいた方がいいともなる、実際に山ほど本を買ったが読んでいなかったが積読だったが
その本を買っていたことが宝だったとまでなる
今になると理解できるからである、買ったときは読んでも理解できなかったのである
今はたいがい読んですぐ理解できる、そして自分なりに解釈できる
だから老人になると評論に向いているなと思った
それはその内容が即座に理解できるからである

「光陰矢のごとし」「少年学成り難し」とか人生の短いことはいろいろ言われたがどうしても若い時は実感できない、老人になりそれが現実になると否が応でもそれをつきつけられるのである、その時はすでにまさに時遅しとなっているのが人間なのである

2018年10月30日

ひきこもりは異常なのか? (異常と正常とは何なのか?文明人はほとんど異常である?)


ひきこもりは異常なのか?

(異常と正常とは何なのか?文明人はほとんど異常である?)


私自身がひきこもりだった、社会不適応者として遂に人生も終わり死ぬとなる
ふりかえれば異常だったともつくづく思う
何かひきこもりとか一旦社会から外れた人は社会の常識がわからないということがある
簡単なことすらわからないままになってしまうことがある
だから社会人として勤めた方がいいとなる

ただでは異常と正常とは何なのか?
たいがい会社勤め?で適応できないものは今は病気にされて排除される
何かしらの病名をつけるのである、この人は病気なのだとして社会で認定して接することになる
それで深層ニュースでもその関係の人が出てきて話する
医療関係者がいろいろ言うということでもわかる

では社会人として勤めている人がすべて正常なのか?
これもわからないのだ、社会に過度に適応している人はかえって異常なのかもしれない
そうして文明そのもの批判するアウトサイダー生まれた
その対比で文明人が過度に今の社会に適応した人は異常だとなる
本当の人間だったら適応できないのが普通だからである
まず全人間として生きるとしたらかえって特別優秀な天才などはもう社会人にはなれない結局社会人として文明人として生きることは無数のパーツとしてしか生きられないのである、そこですでに文明人は異常化しているのである

それは大きな見方としてあるが本当にではひきこもりはまた違ったものでも異常なのかということはわからない
公務員として勤めて夫婦であり子供も成人している人がいた
その人は異常人格者だった、まず人への同情心がない、それは自分の家系とかの問題があるにしろ異常人格者になっていた
それでも世間から見たら極々普通の模範的な人として見られていたのである
何らそこには異常性は見られない、模範的な社会人なのである
でもその人自身も夫婦も異常な夫婦だと見た

何か変だなという人が社会で成功している人にも普通にいるだろう
事業に失敗した人でもそうである、その人は社会的に認められていた人だったからであるでもその人も人のことなど考えない思いやりもないただ成功していることを世間に見せてやるとかしかない異常人格者だったともなる
でも現実に世間ではそう見てないなのである、ただ多額の借金をかかえこんでいることを知ればまた違ったものになるかもしれない。
一応小さな会社でもは社長のような立場になっているからである

例えばこの文明社会に過度に適応して成功している人間、ほめたたえられている人間がもしかしたら異常人格者かもしれない、良くサイコパスとかいるがそういう人が普通にいるのかもしれない、むしろそういう異常人格にでもならないと今の社会では成功しないかもしれないのだ、ナチスとかいたけどなぜそんな信じられないことが社会を席巻したのか?ナチスは何者だったのか?それが一国を導き多数の人を死にいたらしめたのである
異常人格者に導かれてそうなったとするとそれは文明そのものが異常だったとピカートとかの思想家が指摘したのである

何が異常なのか正常なのか?例えば科学者で優秀でもフランケンシュタインのようになる人もいるだろう、科学でも機械マニアとかいてそういう人は社会適応性が欠けている
人付き合いが苦手でもものすごく機械に通じている優秀な人もいるのである
そういう人も育てることが日本では必要だと科学者も言ったりする
でもそういう人も社会的に適応できない異常者にもなる

正直自分も人生を生きて異常だったと思う
根本的に人付き合いができないということでそうなったともなる
ひきこもりの問題はそういう何かアウトサイダーとかの問題ではない、一般化した問題である、それを可能にしたのは豊かな時代であり別に金を稼がなくても生活できるからそうなったのである、それはそういう時代が生んだものなのである
ひきこもりとか異常になるのは「小人閑居して不善を成す」とか必ずなる
つまり社会生活を勤め人として生きられる人はある意味でロボットとして生きられる人だともなる、一方で社会からはずれて生きる人も特別優秀で天才のようて人でないと必ずこうなる、なにかおかしな方向に行ってしまうことがある
もしひきこもりで不善を成さない人がいたらその人は本当に珍しい人だとなる
それは聖人とか天才とか中国だと君主だとかまれにみる人だとなる
別に自分はそういう人ではない、かえって落ちこぼれであり才能もない普通の人間だった

そういうことがあるから普通は社会に適応して真面目に生きろとなる
でも経済的豊かになれば別に食べていければ会社勤めをしなくてもいいからそうなる人が増えるのである、とても貧乏な時代ならできないからだ
とするとそうして余裕を与えられる社会だからそういう人たちがいても寛容であっていいともなるが現実は親の介護になったり死んだり親がいなくなると塗炭の苦しみにあう
それを私はプログで書いてきた

奇妙なことはそこで自分を苦しめたのは社会的には正常そのものの人たちだったのであるその人たちは本当に犯罪者であったり異常人格者だったのである
そのために自分は苦しめられた、恐怖におとしいれられたのである
だからそもそも何が異常なのか正常なのか?それがわからないのだ
一つの大きな目安としてはその人の人格がどうなっているのかである
例えは社長になっているような人でも非情な人がサイコパスのような人がいるとしたら
その人は異常であり異常であっても社会に認められているとなるのだ
そういうことは社会で結構あると思う
一体社会に適応している人たちがそんなにほめたたえられるものなのか?
会社でももうけのためには人の命など考えない人たちが普通にいるしブラック会社などいくらでもいる、原発事故を起こした人たちも社会では地位ある最も優秀とされた人たちなのである、その人たちは社会的地位から何から社会の模範のような人たちだったのであるそういう人たちも異常化していたのではないか?
「安全神話」を形成していたことは異常ではなかったか?

つまり世間を見れば異常が支配者となり異常人格者が指導者になり社会を席巻することは過去にもあり現代文明の複雑怪奇な社会では普通になる
ではその人たちは異常だとか社会から責められることはない、ただ優秀な人たちだとして認められるだけなのである
そういう根本的な問題がある、別にひきこもりがいいとはならない、それも異常である
でもこの社会で何が異常なのか正常なのかわからないのである

デイトレダ―とかパソコンの画面を一日見ている株でもうけている人は成功者なのである銀行でも投資信託をうりつける人はノルマをかせぎ優秀だとなる
何かそうして社会自体が犯罪を犯すようなことをしていても金をかせげば社会は認める
つまり金を稼ぐ人は異常でも何でもない、この社会にとって最高の成功者なのである
それで世界の富を何パーセントかの人が独占している
これも容認されているし異常である、でもそうした異常は正常だとなるのである
資本主義社会では別にどれだけ金を稼げるかによって価値が決まる
人格など問わないのである、それも異常だとならないか?
つまりこの世自体が異常なのである、何が異常か正常なのか区別はできない
だから社会を異常者が指導者になり席巻することにもなる

だから文明人そのものを批判するアウトサイダーが生まれた、文明そのものを断罪したのである、文明は異常だからこそ断罪したのである,非人間的だから断罪したのである
文明そのものがいかに非人間的で危険で異常なのか?
今回の原発事故でも現れた、戦争でもそうである
文明が起こす戦争であり文明そのものに起因する戦争なのである
石油をめぐって戦争になるならそれは石油文明が起こす戦争である
別に石油がなくても生きることはできるからである 
原発は原子力文明になるから起きた事故なのである
戦争のことをいろいろ言うけど本質的には文明による戦争でありそれは異常な文明だからそうなる
資本主義でも株式社会でも異常である、それは一握りの人間に富が独占される仕組みである、それは異常者を指導者として容認する仕組みだともなるのである

ひきこもりを擁護しているわけではないが社会そのものが異常と正常が区別できない
この社会でもっとも模範となる正常な人間が異常だということもありうるのだ
正直東京のような大都会で生きられる人間は異常ではないか?
本来大自然の中で人間の正常な精神とかアイディンティティが養成される
つまり東京のようにな所に生きられる人間はすでに異常なのではないか?
何をアイディンティティでとして生きるのかとなるからだ
すると文明人はほとど以上てありアウトサイダーが正常だともなるのである

ただ正直そういうことはあってもひきこもりは親が介護になったり死ぬと過酷なものになる、誰も助けるものはいない、その時世間は非情であり責めてくる
そのことはプログで書いてきた、一身にその苦しみを背負うことになる
その時社会の非情さをいやというほど実際に知る
それはすでに冷静に見れば予期できることなのである,共倒れにもなり悲惨な事態になった人もでているからだ、だからひきこもりとアウトサイダーは違ったものとしても何かにている面がある、それで関心をもつということはあったからここで書いたのである

2018年10月23日

人間が最後に問われるのは人生の意味である (歴史でも問われているのは意味である)


人間が最後に問われるのは人生の意味である

(歴史でも問われているのは意味である)


オウムとは何だったのか?
それを考える時怖いのは優秀な青年が無意味に死んだということではないか?
最後は死刑になったときそれが厳しい過酷な現実として示されたのである
その死に直面したとき本気でその生を問うたが遅かったとなる
つまりそれは災いをもたらした他者を勝手な宗教の曲解で殺したことである
だから何であれ人を殺したものは殺されてもしかたがないとなる
その理由がなんであれそうなる

人間はともかく動物のように食べなければ生きていけない、パンなしでは生きていけないでもパンのみでは生きることができないのが人間でもある
そこにジレンマが生まれ葛藤が生まれる
日々の生活はただ食べることに動物のように追われる、利益優先になりそのためにはいちいち意味を考えていたらできない、まずは利益だとなる

でも恐ろしいのは人間が最後に問われるのは求めるのは生きる意味であり生きた意味だとなる、だからこそ一体戦争で三百万人死んだけど今問われているのはその意味なのであるそんなものを無意味だったとなればその生も死も無意味となる
それこそ空恐ろしいことになる、意味がないことのために3百万に死んだのかとなるからだ

カルト教団の怖さは何か複雑な社会で優秀な青年が意味を求めてカルトに入ったりしている、自分もそうだった、でもそこは何か意味を与えるように見える
複雑な社会でそうしたカルト教団に入るのはやはり意味を求めていたからである
つまりオウムに入った青年は純粋だったということを直接接していた記者など言っているからである
それは自分も創価に入っていたから理解できる、何か意味あるものとして錯覚するのである、そういうふうに仕組まれているのだ、だからこそカルトなのである
現実は社会で利益優先にしているのと同じなのである
ただそこに何か巧妙に宗教を利用して一票を得て権力を手中にするのが目的なのだが王仏冥合とか中世時代の思想をもってくる、それで理論的に正当化しようとする

だから矛盾してくる、一票とることが成仏することであり入れなければ罰があたると恐怖におとしこむ手法である、平和の時代は武力で政権を奪取できないから票をとることで政治権力を得ることに奔走する、そこに宗教がかかわると矛盾しているけどそうなる
現実に民主主義の投票でもアフガニスタンでは30人くらいが投票のために殺されているのである、投票という行為で政治を変えるということが本当はむずかしいものなのである中国では民主主義がないからその政治は暗黒なのである
一党独裁であり反対者は闇にほうむられる、サウジアラビアでも批判した記者が暗殺された、それはまた宗教がかかわると怖くなる
オウムのように宗教で正当化されポアされるのである
それでヨ−ロッパではカトリックの政治支配があり政教分離になった
戦後も天皇が現人神(あらひとかみ)となり国家が国家神道となり宗教と一体となったから政教分離になった

いづれにしろ人間は歴史となったとき問われるのは意味である
一体カルト教団がどんな意味があったのか?
それが歴史的に問われる、人生個々人でもそうである
最後に問われるのは意味なのである
だからこそその前から実は意味を求めて人生を生きることが大事だとなる
でも現実社会は利益をもとめるのが最優先なのである、利益が上がればいいとなり是認される、実際銀行などでも何をするところなのか?
それが良くわからない、ただ投資信託を売りつけ手数料をとればいいとなり営業の銀行員はノルマを果たせばほめられていいとなるだけである
でも本来の銀行業にはやはり地域に貢献して意味を求めるものがあった
でも利益優先になるときそれは無視されるのである

意味を求める時それはあらゆる分野にある、ジャーナリズムにもあるしいろいろな職業にもある、ただすべてが利益優先になる、そこで歪められる

でも人間最後に問われるのは意味である

もしオウムのように有為な青年が意味なく死んだとなることを思えばわかる
また戦争で有為な将来有望な青年が死んだというときそれが無意味だったとなればその3百万人の死は何なのだったとなる
それは空恐ろしいことになる、人間はそんな簡単に無意味に死んでいいのかとなるからだただ何が意味があるのかとなるとそれは具体的な利益のように見えない
いくらいくらもうかったとか、議員になれたとか地位を得たとか具体的な御利益とはならない、だから庶民は多数はただ利益になるからと御利益で宗教団体に入る
それは何でもいいとなる、それであれだけの数となり今度はその数が権力となり社会に圧力をかけて利益を得ようとするのである

ただ最後に問われるのは歴史で問われるのは意味である、意義である

例えばナチスに何の意味があったのか?ファシズムに何の意味があったのか?
そういうことがオウムであれ戦争の死者であれまたこれからも問われる
明治維新だっていろいろに問われるている、見直されているのもそのためである
明治維新が礼賛されるだけの時代は終わったのである
そういうふうに歴史が常に見直されるのは意味を問うようになるからである
人間は誰でも哲学的存在なのである
意味がない生や死こそ本当は恐ろしいものなのである
そして意味とか価値は時代によって新しく作られてもゆく
例えばこの辺では津波や原発事故で荒廃した、でもここで復興することがあればそれは新たな価値と意味を創造したことになり後世の人たちに評価される
そして先祖が良かったから今の自分たちがあるとか感謝するようになるのである
でも実際は若い人は流出して故郷を捨てたのである
それはまた先祖が悪かったともなるのである、原発など誘致した先祖が悪かったとなるのである

人間の最後になると何か見えてくるものがある

人間が最後に問われるのは意味である

最後から本当は人生を生きなければならなかった、しかしそうはいかなかったとみんな反省しているのだが遅かったとなるのが人生なのである

2018年10月21日

「文系学部廃止の衝撃」吉田俊哉を読む (大学とは学問とは何なのか)


「文系学部廃止の衝撃」吉田俊哉を読む

(大学とは学問とは何なのか)

大学とは何なのか?戦前はエリート養成の大学であり何か大学とは何かとか悩む必要がなかった、そこでは自ずとエリートとして見られているし自覚が芽生えた
そして寮歌などう歌いエリートとしての青春を謳歌したのである

 デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ 

 あとの半年ねて暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ

こんな生活が大学ではできた、今でも文系は勉強しない,何か勉強することが大学では嫌われていたというのも不思議である
大学でとまどうのはまず授業に出なくてもいいということだった
高校だと毎日嫌でも授業に出るから勉強嫌いになった、勉強するのは自主的にするのではないただ試験だとか受験のためである、何か興味のためでもなかった
せめて興味のためだったら良かったそういう余裕もないのである
だから何か高校までは自主的に考えて何かを追求することがなかった

そもそも学問のはじまりは二つある、学ぶとはまねることである、暗記することでもあるこの二つが高校までは中心になる、そしてあとは試験のためであり受験勉強なのである
だから純粋に学ぶということがない、でももともと学問は問うということがはじまりである、なぜか?この疑問から始まっている
そこに学問のはじまりがありその疑問を解決するために学問があり学ぶのである
だからギリシャからはじまった西洋の学問は文明は最初は理系とか文系とかの区別はない哲学であった、世界の成り立ちを物質でもなんでも探求する哲学になる
そこから今の原子論がうまれた、自然を構成する分割できないもの原子がアトムから自然は成り立っているとかなる
それを哲学的に考察して科学へと発展していったのである

ともかく人間は何するにしても疑問がとめどもなく無数にある、作物を育てるのにも種をまいても良く育たないということが普通にある、するどなぜなのか?
その疑問が必ず生じてくる、それは肥料だとか水の問題とかある、果物が育つのはかえって福島ならそこは扇状地で砂礫であり水はけがいいから桃がうまいものができたとかなるその土壌に適した作物が必ずありそれがブランド品になる
自然のどういう作用で果物でも野菜でもとれるのかわかる
その土地とか風土と密接に関係しているのである
それは学問として発達すれば農学となり化学とも関係してくる
それは理系だと今はなる、理系はどちらかというと実学なのである

ピタゴラスの定理だとどうしても屋根を作るために必要なものとして解かねばならない難問だった、それが解かれたことにより屋根を作るのが容易になったのである
ギリシャにはそうして学問の発祥の地としてあった
実用としてその謎を解くということが学問のはじまりである
それは理系だと今ではなる、ただ不思議なのは建築に興味がある、では建築でもただ機能的に現代的な高層ビルを建てる技術はある、それだけ発展した技術はある

でもそこにピラミッドやギリシャの神殿やゴシックの大聖堂やモスクでも何か精神性を感じるのかというと感じない、だからシュペングラーが数から分析して高度な数学として文明の建築を見た、その精神性を付与するとなると何かそこには文系の眼が必要になる
そもそせ宗教的建造物はそうした精神性がないとしたらただ摩天楼のように高いだけなら意味がない、そこは祈りの空間として意味をもてっいるからである
ただ大きいというだけただ高いというだけの建築には意味がない、精神性がない、ナチスの時にやたら大きな建物が建てられたという時精神性がないからそうなった
ただ大きいだけでは意味がない、その建築が作られるのにも人間の精神性が付与されてはじめて魂を入れたとなる

そもそも学問のはじまりは深刻な疑問に答えることだった
そして最も深刻な疑問はなぜ人間が死ぬのか?
このことが一番の疑問でありそれに答えるものとして宗教も生まれる
なぜ病気になるのかということでもそれに答えていたのは宗教である
結局加持祈祷するほかないから小さな地区でも村でも必ず山伏が法印がいたのである
しかし本当は人間の最大の問題は人間が死ぬということである
その最大の問いに答えるもでなければ宗教もありえない、その答えを出したのはキリストだけだったとなる、永遠の命は人間に宿る、人間は死ない御霊が与えられている
それが信仰の基になったのである

だから大学はもともと修道院とか寺が学問の場であり求道心がある人たちが集まった場所である、大学は中世では神学と法学と医学しかない、法学となると最古の法典としてハムラビ法典がありローマ法がある、西洋の学問が法から成り立つというとき聖書でも信仰は神との契約だというときその契約は法律用語である
日本人に法になじみにくいが仏教でも寺は求道の場であり修行の場だから同じたったのである

そもそも寺子屋があったとしてそこで実業を教えていた、読み書きそろばんを教えていた
それは寺というのがもともと修行の場であり宗教施設である
そこから派生して実業の寺小屋が生まれた
ヨ−ロッパでも修道院が修行の場でありまた様々な実業の場としてもあった、パン作りとか葡萄酒を作るとか菓子作りもして有名な修道院もあった、日本では沢庵和尚となれば沢庵を発明したからである

そもそも大学とは何なのか?
これがわからなくなった、起源をたどれば宗教から派生したものとしてもろもろの学問があり元は神学が主な教科だった
だから大学というのは医学があるとしたらそれは実業としてあった、でも神学となると実業ではない
大学が現代では実業を身につけるものとしてある時それは理系になる、工学系とかでは機械を作るとけであり農学系だと農業技術を学ぶ所であり医学系だと化学とかなる
それが理系であり理系は社会に役にたつとなり文系はいらないとなる、でも大学とかはもともと宗教から派生したものだから実業とは違うものだった
もし大学は実業だけの場だったら職人のように訓練すればいい場所となる、その職につくための訓練をする場だとなる
大学というとき大きく学ぶだからそうした特定された専門の技術を習得する場だけではない、人間として人格を作るとかある
そうなると幅広い教養とか文学などでも学ぶ、そういう場所が大学だったとなる

実際に大学というと仏教でもキリスト教でも宗教系が多いのでもわかる、大学は依然として宗教から派生したものとしての名残を残しているのである
大学とは何か?それは「人間を作る場所」だともなる
何か専門の実業だけではない人間として広く学ぶ場であり人格を作る場所である、だからそこに遊戯も必要でありスポーツも必要であり様々なクラブも必要でありそこで幅広い人間を養成することである、だから大学は人生とか社会全般のことを考える場所でもある、専門技術を習得するだけではない、そのために自由時間が与えられている
ただ自分の場合はカルト教団に入ったから奇妙だけどそこは宗教として求道の場所だったが全く違っていたのである

いづれにしろ大学と高校はあまりにも違いすぎるのである
自由時間がふんだんに与えられているがそれにとまどうのであるそれで変な方向に行く人もでてくる
大学が遊戯の場だというとき本当に遊びの場となってしまう人もいる、毎日麻雀していたり何か怠惰になり遊びほうける場所にもなる、そういう時間を浪費する場にもなる
それで大学は特に文系はそうなるから無駄だとされる
理系は専門技術の習得があり就職もしやすいが文系は社会に出ても何らそうした技術を習得していないから役にたたないとなるのだ
そして不思議なのは大学で遊ぶことを覚えるとまともな職業人になりにくくなる
授業にも出ない、時間にはルーズになる、毎日時間通りに会社に行き勤めるということがしにくくなる
でも実際は団塊の世代でも学生運動した人たちもみんな就職して企業戦士になったのである
自分のようにアウトローとかになった人は本当にまれである
今ならニートとか普通にいるがその時はいない、そんな人いないから誰も話題にもしなかったのである
だから自分にはそのことが理解できないのである

今のようにニートとかもっといても良かったと思う、そんなにみんなが猛烈な企業戦士とかになる必要がなかったと思う
大学で自由な遊びを覚えた人がみんなそうなることが理解できなかったのである
ただそこには時代があり就職もみんなできたしそういう時代だったとなる
そうして正規のルートからはずれた人は本当にまれだった、みんなその時は正社員になれて会社に入れば安泰だとなっていたからである、でもほとんどの人は企業戦士になる必要はなかったと今では思う
そもそも大学は職業人だけではない何か自由人を作る場所でもあったからだ
だからみんな猛烈な企業戦士になったということはもしかしたら大学の趣旨に反するものだったともなる
もっと自由人を出す所が大学だったともなるからだ

2018年10月15日

家から歴史を認識する (人間の根源的なアイディンティティは歴史は家にあった)


家から歴史を認識する

(人間の根源的なアイディンティティは歴史は家にあった)


家というのはみんな誰でも一番身近である、歴史を認識するとしてもそれは広く大きいし認識するにしても無数にある、だからどうして歴史を認識するのかとなる
一番根源的な存在の認識とか確認は家族の中にあるし歴史という時簡単に考えれば
それは親があって子供がありと世代がつづくことである
親が死ぬと祖父でもいいが死ぬとやはりそれは歴史的存在となる
人間は死んでもすべて消えるというわけではない

人間は歴史的存在として継続される

その歴史的存在として一番身近に継続されるものが親であり祖父だとなる
ただその上になるとなかなか普通では認識しにくくなる
最近私の家族がみんな死んだとき死んだ家族をかえって意識することがある
父親はもう死んでから半世紀とか長いから忘れている
でも父親の存在は大きく簡単には消えない、歴史的実在として力強く残っている不思議がある
そもそも自分の家の創始者は祖父でもない、祖父は何もわからない名前だけである
ただ名前の一字が共通している
これは代々名前の一字が共通していることで先祖をたどる
相馬氏だと胤(たね)が必ず名前に入っているからである

他でも代々つづいた家系では名前の一字が共通している
ただ私の家の先祖は父まででありその上がたどれないのである
それだけの家系と言えばそれまでだがそれでも父は明治生まれであり葛尾村(かつろう)村から双葉の新山で酒屋の丁稚になったことはわかる
ただそうした話を直接聞いたことがない、中学の時死んだからである
それが残念だったと今ではなる

酒屋をして暖簾分けをしてこの地に住むようになった
この暖簾分けというのは当時の社会ではかなり重要なことだった
江戸時代からそれははじまっている、今の会社なら暖簾分けして独立することはない
みんな月給とりであり会社をやめると退職金をもらってあとは年金で暮らすとなる
それが戦前でもまず会社員になっている人、サラリーマンは少なかった
江戸時代の商家というのがつづいていたということがある
するとそうして勤めるとは奉公になるがそこで一人前になるには暖簾分けして別に商店を開きそこで生活することである、番頭とかになっても暖簾分けされないと一人前にはならない、そういうシステムの中で生きていたのである

確かなことは父親がこの家の創業者であることを家族がみんな死んでから認識するようになった、父親の役割が大きかったと認識した
父親の存在はそれだけ大きいものなのである
それも不思議だが具体的な血肉を分けた歴史認識だとなる
聖書でもわかるように常に家系を意識していたのである
聖書はまさに神の系統を記した書なのである
その系統から神の子が生まれると予言されて実際にキリストが生まれたのである
歴史とはまさに神の系統の家の歴史だったのである
その系統の歴史の中から神の子が生まれると予言されていたのである

歴史とは何かというときいろいろあっても家系が先祖をたどるのが歴史の基本だとなる
なんらかで日本の歴史でも神というときその先祖のことなのである
天皇が日本の歴史となり皇統の歴史である、天皇の歴代天皇は祖となり神となっているのが日本の歴史である、皇国史観となる、

要するに先祖でも死んでから半世紀とか一世紀とかたつともうその生々しい存在はなくなり神となるのが歴史である
家族でも死んで十年でも二十年でもまだ生々しい生前のことが浮かぶが半世紀とか一世紀も死んでからたつとなるとそれはもう生々しい人間としての感覚もなくなって神となってしまうのである

ただそうであっても人間は死んでも消えない、歴史的存在としては生き続けるのである
その子がいてまた孫がいてやはり家族の中で歴史的存在として生きつづける
動物は一代で終わりであるが人間の特徴は歴史的存在として長く生き続けるのである
遅きに失したが家族が全部死んでそうした認識が芽生えたとなる
親がいて創始者が創業者がいてこの家が成り立っていてその後継いだとなる
それももう自分も老人であるから遅かったのだがそういう意識を認識をもったのである
人間の生は確かにはかない、みんな死ぬ、でも人間は家族でも歴史的存在としては百年とかそれ以上悠に生き続けるのである
だから家族として家系としてではなく人間で大事なのは中国では青史に残ってこそ生の意味があったとなる
そういう長期的な視野が中国では育った、中国は歴史の国だからである
現代は中国に学ばなくってその辺がわからなくなったとういことはある

述懷<ョ山陽>  

十有 三春秋
逝く者は 已に水の如し
天地 始終無く
人生 生死有り
安んぞ 古人に類するを得て
千載 青史に列せん  


人間の存在は青史に残ることにこそ生きる意義があるというのが中国的死生観である
そうでなければ人間の存在はあまりにもはかないとなるからだ
そういうふうに歴史的存在としての人間を認識して生きる、長期的展望の下で生きる
目の前の利にばかり追われて一生を終えるなということになる
その長期的展望とは国家自体でもいえる、現代は忙しくただ目の前の利に追われているだけだとなる
中国から学ぶのはこの歴史感覚である、そこから様々な教訓がそこから生まれた
人間でもだから50年後とか100年後に残る仕事ができるかなのである

現代はただ情報環境が発達しているからただ今目立つことにエネルギ―をそそぐがそうしたものはうたかたのように消えてない、もし50年後に100年後でも残るものなら青史に名を残すとなる
ただ別に一般庶民でも歴史はあり歴史的存在として家系に残り続ける
ただ現代はそうして家というものの紐帯が薄れている、核家族とかなったのもそうである、会社社会工業社会になったとき家というより会社員となり工員となり核家族化したのである
そのアイディンティティが・・・・会社に勤めていますということでわかる、それが名の知れた会社ならその人は一目置かれるとなるからだ、昔は家がアイディンティティの基だったのである、武家では特にそうだった 
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つまり自己のアイディンティティでの認識は先祖をたどる歴史的認識だったのである、こういうアイディンティティは古今東西変わりない人間的存在意識の確認なのである
先祖がどうだとか家系がどうだとか言うのは古いともなるが何かかえって現代では様々なアイディンティティでが喪失して無数の砂粒のようになっている、何か自己のアイディンティティでを確認できなくなる、それで自分のルーツを探る人が増えてくる面もある
何か自分のプログでも家系を姓名からたどる人がいるからである
野馬追いの旗印もそうした家のアイディンティティなのだがそれが不明になった、なぜあんなに旗印が多様なのかたどりえようがなくなったのである、ただここで名乗ったようにこうして先祖をたどるものとして旗印があった印なのである
もう一つは大和国の住人とある時その住んでいる地域がアイディンティティになる、それも江戸時代までは強かった
どこに住んでいるかでその人を見るのである、今はその住んでいる場所よりどこの会社とかに所属していることがアイディンティティでになる、だから故郷でも愛着がなくなって原発事故で避難者は若い世代は流出したともなる
老人は故郷に愛着があり帰ったというのもわかる

ともかく天皇でもそうだがそうして親から子へ孫へと一つの系統として歴史を認識することはわかりやすいとなる
それが父系になるということは東西で同じであり父親の重みが自ずと認識されたためである
別に女性差別ではなく世界中でそうなっているからである、母系はあったが廃れたのである


2018年10月07日

つらぬく、生きぬく、耐えぬく人生


つらぬく、生きぬく、耐えぬく人生
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つらぬく
生きぬく
耐えぬく

生きるということは何か?何か信仰で信念でも仕事でもこの三つが必要になる
そのつらぬくものが何かは人によって違ってくる
どうしても人間は曲がったものになるのはやはりそれだけこの三つが実行できないからである

国家的規模で歴史でもそれができない,それで戦争で負けたら全く日本人はあっさり転向した、アメリカにすべて従い日本人の自主性を失った
だから小野田少尉はジャングルで依然として戦闘状態にあり帰ってきたときがっかりしたのである、日本にはあれだけアメリカとも戦っていたのにアメリカに従うだけの国になっていたからである

そこに一貫性が国としてなくなっていたのである
国にも骨格のようなものがありそれが喪失したら国として一貫性もなにもなくなり成り立つのかともなる、だから戦後はただ経済的豊かさを求めるだけであり日本人としての一貫性は喪失して日本人の独自性も喪失したとなる
民主主義をとりいれてもただ権利だけを主張するエゴ的なものとして主張するようになった

右であれ左であり人間は一貫性があればそれそれで辻褄があってくる
でも転向すると何であれ辻褄があわなくなる
そういうことはすでに青春時代、若い時方向が決まってしまう
若い時妥協して曲がってしまうとその後も曲がったままになりやすい
カルト宗教団体でも何かおかしいのではないか?
そう思ってもずるずるそこにあって脱出できなくなる
若い時何かそうしてそれぞれに違っていても方向を決めるものにぶちあたる

ただ人間の一生は時代によっても違うしいろいろだから家庭環境でも生活する場も性格も違うから外から見て何を貫くは違うものになる
なぜ師がいたとしてもすでに師との世代差があり生きる環境も違うとか生い立ちも違うとかあり必ず師と違ったものとなってゆく
師の人生であり弟子の人生は人生で別に築いてゆくものになる
必ずそこで時代の影響を受けるから違ったものになる   
師とは別個の人間であり師と同じになることではないがカルト教団では師が絶対化して師のコピー人間にされる
大量の奴隷のようにされる、そこに師の危険性がある、師は学ぶとしても否定されるべきなのである
師と同じになることではないのである
正直あまりにも過酷だと自分の場合は耐えられないものとなった
環境に恵まれた結果として今日がある
だからそれぞれの条件は違っているのである                          
もし偉大な人なら過酷な条件でも耐えられるからである。

ただこの三つの戒めがあって人生は何かなしたとか実りが生まれる、満足が生まれる
でもどこかで曲がった方向に行きやすい、そこに強大な力が圧迫がある
それで曲がった方向に行ってしまう、その強大な力に従った方が楽だからである
でも若い時その方向性が決まることが怖いとふりかえり思う
一旦その方向が曲がった方に行くと正しい方向にもどせないのである
カルト教団に入ってもそこから脱出できない、それには相当なエネルギーが必要になるからだ 

それはだいたい30くらいまで決まってしまう、だからその後に変更することはむずかしくなる、ということは若い時にその方向が決まってしまうとなる
「若き日に汝の神を覚えよ」というときそうである  

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。/苦しみの日々が来ないうちに。/『年を重ねることに喜びはない』と/言う年齢にならないうちに。」

その時を逃したら神を知ることができないともなる、だから若い時方向性が決まるから怖いのである、もちろん自分の一生は何か間違っていたしふがいないものだった
何か特別優れたことをしたということはなかった
社会からはずれたものであり参考にはならないかもしれない
ただ若い時の方向は間違っていなかったことは確かである

ともかく人間にはこの三つがないと満足したものとはならない
第一何をするにしても簡単に成ることはないからだ
即席に何かうまくいく成ることはない、するとどうしてもこの三つが必要になる
地道に努力して最後に成功するということがある
でも日の目を見ないとなかなかそうして継続して努力しつづけることが嫌になるだろう
それでも継続してこの三つを守れば最後に実りがあり満足がある

大地に根を張り
まっすぐに伸びた木よ
そはここに力強く根付き
その生は全うされた
そしてここに倒れた
その倒れた木はなおここにに立っている
一つの標としてここに立っている
その姿は不変でありゆるがない
その木はまっすぐに立ち
曲がることなく立ち倒れた
そこに悔いはない
その生は正しく全うされたから

人間はやはり土着的なものとしてある、その土地に木のように根付く
その土地に根を張り生きてゆく、そういう場が必要なのである
あちらこちらと移動していたらそういう強いアイディンティティではもてない
そこから文化も生まれるからだ、だから人間も土着的なものしとてある
だから都会には現代にはこうした土着なものは欠如しているからアイディンティティがもてず浮遊している感じになる
そこに生の充実感が得られないのである

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この最高裁判所の真ん中にあるのは樹の幹である、そして石に囲まれている
これは最高裁判所にふさわしい建築だと思った
木というのが真ん中にあり石という堅固なもので囲まれている
それは正しさを追求する場にふさわしいとなる
建築にも思想が反映されると重みを増すのである

一般的に日本の建築はそうした重みがないのである
現代文明にある建築にはそうした重みがない
ただビジネスする金儲けの場としての建築である
つまり精神性がないのである
精神性が養われない世界なのである
煉瓦作りの盛岡銀行のも何か堅実なものを感じる
高層ビルとかあってもそこに精神性がないからただ高いというだけになっている
ともかく樹の太い幹が柱となり石に囲まれているのは最高裁判所の内部にふさわしい














2018年10月01日

情けは人のためならず (自己責任は必ずある)


 情けは人のためならず

 (自己責任は必ずある)

他者の感情に対し共感する感情の同一性を指す。」
「英語におけるSympathy(同情)の語源としては、ギリシア語より由来し、共に苦しむこと、感情が同一になることを指している。これより転じて、同情とは他者の苦しみに応答して、自らも苦しむような感情を持つ。」

情けが仇(相手にかけた情けが逆に悪い結果を招く、という意味)

情けをかけることは悪いことではない、しかし情けは人のためにならずというとき何なのか?
その人は困窮していることはわかるし障害者をもったりといろいす苦労の連続だったということ雇われた人から金をもらえなかったことなどで同情した
ただそれにも限界があった、次から次と金をせびり要求する
消費者金融から借金していてそれも自分が払って返してやった
でもそれがまたとりたてにきたとかもうここ三年間そのことをいい要求してくる
これで終わりだといっても要求してくる
仕事は実際は何もしないと同じである
ただ金ばかり要求してくる、それじ事情があったから援助していた
でもこうなるときりなくなる、その人はなぜ借金とりにそんなに払わなければならないのか?そのことがわからないのである
ただ百万とかの大きな金でないから一万だ二万だと5千円だとかこまめに要求するから払った、そういう方法はうまいと思った
事業した人などは金の額が大きすぎるからとても借金して要求されてもできない
億の金が必要になるかもしれないからだ
現実に自分が苦しんでいる時自分の全財産を要求してきたからである

情けが人のためにならずというときなぜなのか?
それは同情するにしても人間は必ず自己責任がある、その自己責任とはカルマなのである何かしらカルマを積んで結果的に苦しい目にあう、それは同情に値するにしてもそこには必ず自己責任がその人なりのカルマがありそれを全部肩代わりすることはできない
それを情けをかけるのはいいが負担が全部自分にかかってくる
そうするとその人は自己責任として逃れる、でもその人は援助しても延々と借金しているのかもしれない、歯止めがない
例えばギャンブルなどで金を使って借金して借金を要求されたらたまらないとなる
延々として要求されるしそれでギャンブルをやめるわけでもないからだ
それで覚せい剤中毒の息子がいて有名な芸能人が一か月百万も小遣いを払っていたというその息子は40歳近くになっている、でも薬をたつことができずまた逮捕された
つまり親でも情けは人のためならずとなる、それで更生できるならいいがならないからである

人に同情するというときこれもむずかしい、事業に失敗した人はあまりにも軽い気持ちで事業をはじめた、資格をもっているし技術者で優秀だから事業をはじめたが経営者と技術者は違っている、その人が事業をはじめた理由はただ自分が優秀だからその優秀さを認めさせるためだともなる、何か社会的事業として社会に尽くすということはない
それで失敗して借金を要求してくる
その人は上にたって人を雇うとか導ける人ではなかった、ただ技術者としては優秀だったとなるから会社で技術者をしていればそれなりに優秀な人として通っていたのである
その人はまず人のためになにかすることができない人である
なぜなら自分が苦しんでいる時、軽い荷物一つも持つ気持ちがなかった
ただ金が欲しいというだけである、でも金は百万以上くれたしまた他にも貸したのであるだからただでやらけたわけではなかったのである
ただその人は他者のために軽い荷物一つても持つ気持ちがない人だった

そういう人が上にたてるのか?社長とかになれるのか?
ただ社長とかでもいろいろあるしブラックもあるからそういうものなのかとも思う
でも上にたつ人でも他者に尽くすということが基本にあるから会社を経営できるのかと思った
もちろん自分がそうさせられたのは自分のカルマだったのである
自分の場合は社会から離れて会社に就職していないしそこでカルマを積んでいたから苦しい目にあった、まずニートとかなるとその結末は本当に悲惨なことになる
ただ人間は何もしないにしろ何をするにしろカルマを積んでいるのである
その結果が必ず老人になって苦しみとなって現れるのである
だから人のことは自分も言えないのである

人に情けをかけるというときここで起きた原発避難者のことを批判してきた
そのことで反発があったがこれも情けは人のためならずであった
多額の補償金をもらい仮説に絶えずボランティアがきて応援してかわいそうだとしてNHKからマスコミが同情して応援した
そのことで原発避難者はかわいそうな人たちとして特権化したのである
現実は毎日パチンコ屋通いでありギャンブルにギャンブラーになっていたのである
それは行政とにも問題があった、なぜなら働くとかえって補償金をもらえなくなっていたからである、そうなれば誰も働かないからである

でも全国でもNHKからマスコミがかわいそうな人たちとして応援した
ボランティアも今でも来ていた人がいた
それは悪いことではないにしろ何か原発避難者は被害者意識にこりかたまり同情されるのが当然だとなってしまったのである
それで仮設を提供した地元の人たちは不満だったのである
ただそのことは表立っては言えない、原発避難者からお前は人間の心もないのかとか怒られるからである、それで小高と鹿島の人は分断されたのである
鹿島の奴らはなんなのだと遠くからこんなに応援に来ているのに金のことばかり言っている、NHKでもマスコミでもみんなかわいそうだと応援しているのに何なのだとなり
怒りとなり険悪な関係になってしまったのである

こういうことも情けは人のためならずということがある
情けをかけたためにかえって自立心をなくさせたりただかわいそうな人たちとして他者に要求するだけの人となる、被害者は特権化する、被害者意識が過剰になるとただその被害のために要求するだけの人となる
そしてこの辺ではおそらくプルトニウムが二万年消えない被害のように二万年被害者だとして訴えて要求するだけの人たちになるかもしれない
全部原発事故のためだとなり子供に子孫にもそのことを言い続けるからである
それは韓国と沖縄とかとにたようになる、その被害があったとしてもそれを種にして50年も百年もさらに果てしなく追及されたらたまったものではていからだ
そういう地域はもう退廃してゆくだけだろう、すべて原発事故のためだと言っていれば通るからである

だから人間のむずかしいのは情けをかけるべきことがありまたやたら情けをかけてもそれはその人のためにならないことがある
それがむずかしいのである、ただ金を要求されて払っていてもそれが仇になる
有名な芸能人は金があるから息子に払っていた、でも立ち直ることができなかった
そこになんらか非情になることができなかった
つまり非情になることもまた必要だったとなる
ただそれだってその人によりけりなのである、息子でも別に会社勤めをしなくても真面目に何かを勉強したりしている人はいるからである
私は会社勤めに合わないししていない、親の援助でずっと生きていただけである
でもただ遊んでいただけではない、いろいろと勉強して今その成果を出しているのである

つくづくここ十年の介護やら自分の病気やらで苦労して感じたことは今でも諺がすたれず十分に通用していることは人間そのものが変わっていないからである
確かにテレビを見てインタ−ネットをしてスマホをして車に乗って飛行機に乗ってとかいろいろ技術として科学として変わったとしても人間そのものは変わっていない
特別慈悲深くなるとかもない、情けでもそれがすべていいものとして働かない

金の切れ目が縁の切れ目

これも本当にそうだった、もう今になるとそれが極端になっているのである
みんなそうして別れて行った、これが世間だったとなる
だから諺は庶民から生まれたとしてそれが世渡りしていてみんなが感じたからそれが真理のようにして残ったとなるのだ

2018年09月17日

愛国心とは何なのか? (利他の精神なくしてありえない)


愛国心とは何なのか?


(利他の精神なくしてありえない)


●経営者と愛国心


利己、己を利するために、利益を追求することから離れて、利他、他人をよくしてあげようという優しい思いやりをベースに経営していきますと、会社は本当に繁栄しますよくなります。


会社経営でもこういうことを必ず言っている、つまり自己の利益だけを求めていたら会社は成り立たない、繁栄しない

でも反面ブラック会社というのがある、それはまず雇う人を社員をただのロボットのように見ている、だから非正規社員として雇う、時間給で人を雇う

それはセブンエレブンとかコンビニとかで雇われる人がそうである

会社ではもうそこに人件費を払いたくないから自動化して無人化したいのである

JRでも無人駅を増やしているのもそのためである

人のコストが一番高いからそうなるのである


そしてセブンエレブンなどではチェーン化して出店するオーナーは会社から搾取されるとある、そこでは会社の利益になることだけを追求してオーナーとかやそこに雇う人はロボットの方がいいと考えているのである

そういうところに愛社精神もロイヤルティも育たないだろう

それが高度成長時代の会社とは違ったものになっている

高度成長時代は企業戦士となり愛社精神が強かったのは会社が終身雇用であり家族のことまでめんどうみる共同体のようになっていたからである

時間給などではない、全人生を考慮して雇っていたのである

ただそれが可能だったのは高度成長という経済が成長して給料が毎年上がっている時だったのである。


経営者になるときただ利益をあげることを至上命令とする、利益があがらなければ社長はやめさせられる、そこに利他の精神などがあるのか?

事業に失敗した人はなぜだったのか?

その人は利他の精神が全くなかったのである。なぜ事業を起こしたのか?、自分が優秀だということを見せたいために事業を起こした

技術的には資格をもっていて優秀だったからである

でも利他の精神など全くなかったのである

ただ金持ちを相手にして金をもうけたいというだけだったのである

だから自分が苦しい時その人は一つの荷物をもつ気がなかった

つまり社長でも何かそうして人に尽くす気持ちがないとできないのではないか?

社長とはただ威張って社員をこきつかい利益をあげるだけを目的として

自分が偉いということを見せるだけなのか?

そんな人が社長だったらどうなるのか?

そこに利他の精神が愛など全くないのである

要するに社員は奴隷であり客は金を得るための道具だとなる


「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」


上に立つものはこうならないと指導できないだろう、ただ威張っていたいという人が経営者になれるのかとなる

モラル的にそうでなければ上に立てるのか?ただ人に仕えさせて威張っていたいとなる人が社長になれるのか?

そんな人に人はついてゆくだろうか?


●格差社会は愛国心を喪失させる


愛社精神と愛国精神でも通じるものがある、国家でも富裕層と貧困層とかに二分すると格差社会になると愛国心は喪失する

みんな自分だけの利を求めるとき国は二分化して分裂する

特に官僚とか政治家とか上に立つものが自分たちだけの利益を求めて社員でも国民でも奴隷のようにみるとき国家でも会社でも忠誠心がなくなり衰退してゆく

ローマ帝国が崩壊したのは貴族が贅沢して奴隷を使っていたからだとなる

そこになぜキリスト教が普及したのか?

それは極端な格差社会だから平等の愛を説くキリスト教が普及したのである

格差社会は国を分裂させる、いづれ国民の不満が爆発してフランス革命のようになる

貴族もギロチンにかけられる、そういう恐ろしい反乱が国民から起きてくる

それは中国などの歴史でもそうだった、極端な格差社会になると金持ちが盗賊に襲われて殺される、そして盗賊が皇帝になったのである


このようなことを自分も経験したので書いてきた

極端な格差社会になるとモラルはなくなる、金持ちはみんな不正でもって金持ちになるとみられる、だから奪ってもいいのだとなる、そこには何の罪の意識もなくなるのである

第一上に立つものが雇う人でも時間給でロボットのように扱う

そこに愛社精神とかは生まれない、奴隷なのである。良く俺たちは社畜なんだよなという時そうである、雇われる社員は奴隷だと思っているからだ


国家にしても国民を政治家とか官僚とかが奴隷のように思い扱えば国家への忠誠心とか愛国心は喪失する、中国では民という漢字は目をつぶすというとき怖いものがある

あれだけ人口が多い大国になると人民とかでも支配者は奴隷とみているのである

そこで皇帝が神のようになり国民から税金をとり酒地肉林とかあくなき欲望に走るのが中国の歴史だった、中国の欲望の強さは地下まで死んでまで自らの権力を誇示して生きようとしていたのである。始皇帝の兵馬俑とかがそうである

それが中国の歴史だったのである、だから中国には愛国心が育ちにくいのである

愛国心といっても国を利用して利己的に私的に欲望を満たすことである

その時国民が犠牲になっても大量に死んでもいいのである

それは共産党国家になっても同じだった、何兆もの富を蓄えた共産党幹部がいたからである、それは昔の王侯と皇帝と変わりないのである。

そういう国家が果たして力をもちえるのか?いくら数が多くても愛国心があるようで実際はもちえないのが中国だとなる


アメリカはどうかとなるとアメリカはホイットマンの詩のように平民の国なのである

そこに王様はいないのである、みんな平民なのである

ただ黒人奴隷はいた、そこに人種差別がある、でも平民の国であるから愛国心もあるとなっていた、そこでも対立争いはあったにしてもやはり愛国心があった

でも今はアメリカでも格差社会になる時愛国心は失われる

アメリカの国家は多国籍企業の言いなりに動く、国家は大企業の使用人のようになる

そして株でも金融でも一部の富裕層に富が集まる、その格差が大きすぎるから国としての統一感がなくなる、何パーセントの富裕層が富を独占する、そういう国になると愛国心は喪失するのである

つまり愛国心とは何かとなるといろいろあるにしても利他の精神が基本になるからだ

それが失われたとき愛国心は失われる、だからアメリカでも中国でも愛国心をもつことはむずかしい、国が巨大すぎるからである。

アメリカで富裕層が愛国心を説くのは矛盾している

なぜならアメリカの貧困層が増大していてわずかの富裕層に富が集中している

まず貧困層に富を分け与えるのが先だからである


●宗教が愛国心の基


日本という国は島国であり一つにまとまりやすい国であった

天皇というのは中国の皇帝とは違う、日本の精神的シンボルのようなものであり地下まで帝国を維持しているような強欲なものはない

そんな権力をもちえなかった、天皇とは逆に飾りだともなっていたのである、実質の権力は侍がもっていて天皇はもっていなかったからだ

ともかく愛国心というとき別に宗教に関係なく宗教者は熱烈な愛国者である

日蓮がそうであり内村鑑三でもそうだし手島郁郎もそうである

キリスト者にもいろいろあっても別に日本文化を否定しない

それは宗教はもともと利他の精神から起きて来たからである

仏教でもそうだし宗教は利他の精神を説くから愛国心も利他の精神から成り立つから共通しているのである

国を愛すとなるとそれは大きなものだから利他の精神なくしてありえないからである


現代は愛国心が失ったという時、上も下も利他の精神がなくなったからである、ただ利己的な利益を求めるだけであり金を求めるだけであり

会社でもそうだし組織団体でもカルト宗教団体でもそうである

自分たちの所属する組織団体の利益をもとめひいては自分の利益になる金になることを求めることになったとき愛国心も喪失したのである

だから戦争はいいものではないにしても国のために死んだ若い人たちには愛国心があった、強制された面もあるが愛国心はあったからできたことである,今はそもそも国は常に否定されている

ただ利己的な利益を求める金だけを求めるだけになっているからだ  


旧約聖書:箴言:15章:17節


野菜を食べて互に愛するのは、肥えた牛を食べて互に憎むのにまさる


現実はたらふく肉を食べたい、どんなことをしても食べたい、相手を殺しても食べたいとなっている

つまり肥えた牛がいれば奪い合い争いとなり殺し合いになる

この辺でも補償金でもめたのもそうである、原発は金の産むものでありそれで誘致されたのである

危険性などほとんど問題にしていなかった、ただただたらふく肉食べたい、金が欲しいとなっているだけである

そして今度は補償金で争い憎みあっていたのである

野菜を食べて互いに愛し合うことはかえってむずかしいのである

そもそも歴史でも人間の争いはたらふく肉を食べたいということで起きているからである。

互いに肥えた牛を奪い合うことになって争うからである

肥えた牛とは今では石油とかいろいろある、原発でもそうである、それは金になるからである

だから利他の精神を説いても実際はむずかしい、どうしても事故の利益が優先されるからである。

そして富裕層が自分の富を手放したくない、そこで金でいろいろ工作してくる、政治家に働きかける

政治家も肥えた牛を食べたいから富裕層につくとなる、だからこれを実行することは簡単ではないのである。

原発でも地元でもあまりにも欲が前面に出てそういう人がいたからこそ原発は歓迎された

そして事故になりとりかえしのつかないことになったのである。


●日本精神の新たな復活

   

日本精神に再び立つべし



いさおしく御国のために果てにしを今誰か思ふらむ


大和の国にその英霊の浮かぶも悲し認められざるかな


何故に我が死すをかえりみて嘆くらむ              


今民をかえりみる者なし


ただ我が利のみ追いて金のみが力なり


我が社のみの利を求めて民を思わじ


あらゆるものの上から下も求むるは利のみなりき  


心はたやすく金で買われ心は踏みにじられる


すめらぎの誠の道を再び正しうるわしき国を作らむ


日本は再び立たむ正しきを貫く独立の国として


その誇りをとりもどせ、金に計れぬ誇りをとりもどせ


何を恐れむ神の御意の国に宿らば恐ることなし


さらば霊峰富士のさらに映えて国は栄えむ


国を守るは武器にあらじ日本精神なり


誠の道を貫く古来よりの日本精神なり


核兵器にても国は守れざるなり


日本精神と民の力こそ国を守るなり


その民を虐げる者は国を食いものにする者なり


国の富を貪る者よ、民を貪る者よ、呪わるべし


故にこれらを撃つべし一掃すべし


日本の民の力の再びよみがえり立つべし


再び維新の時なり、改める時なり


心ある者は立て、そして戦い、武器を持つにあらじ


大いなる変革の時は再び来たれり  



日本精神とは何なのか?これも今は明確ではない、日本精神は侍精神だという人もいた、何か日本の歴史の中で伝統的に血肉となったものである、それが失われたのは日本が戦争に負けてアメリカ一辺倒になった、そうさせられたということである

金の価値観しかなくなったためである、何か獣のように欲をむきだしにして貪り食らうというだけである

弱者も貪り食らう対象となる、貧困ビジネスもある、弱者とみればつけ入る、もう日本人の良さは消失しているのである

そして核武装が言われるが武器で国が守れるのか?

もう核戦争になると人類滅亡になる、つまり核武装してもそれは自国でも他国でも滅亡なのである

だから今やそんなことしても無益だとなる


ともかく戦後70年で大変革の時が来ている、それはあらゆる方面に及んでいる

結局戦後70年とは明治維新があり70年過ぎて太平洋戦争があり焼野原になり復興してまた70年過ぎた

大きな変革の時になったのである、それは世界的にもそうである

明治維新と戦後の焼け野原を思えばまだその変化は小さいとなる


確かに東日本大震災でもその被害は大きかった、でも戦後の焼け野原を広島の原爆から立ち直ったのを見ればまだましだとも思う

その時は食べるものすらなかったからである。

かえって戦争では既得権者が一掃されて復興したとも言われる、既得権者が居座っていると改革はできないからである。

それが一掃されたので新しい日本になった、ただそれはアメリカ主導でなったのである

だから今度の改革は日本主導でしなけければならない、それは戦争の時のように独立するとなると厳しいものになる

中国が大国化してアメリカがいてロシアがいるからである、その挟間で日本は苦しむからである

ただそういう時期にきているからもう改革は避けられないしもしそれがでなければ日本は衰退して中国であれロシアであれ今度はアメリカが衰退しても属国化することは変わりないのである。


弱者化すると個人的にもそうだが周りの国が攻めてくる、弱者は奴隷化されやすいのである

あからさまに自分が弱者化したとき借金した人が奴隷にしようとしていた

でもその人もまた借金で奴隷になっているのは因果応報である

奴隷として人間を使おうとするものはやがて奴隷として使われるのもカルマなのである

歴史でも弱者と強者は逆転するからである、それも人間の法則なのである


江戸時代でも隣の藩は敵であり助けたりしないのである

弱体化すると好機になり攻めてきて支配されるのである

日本も弱体化するとロシアが攻めてくるし中国も攻めてくる

その前に日本には耕作放棄地とか使用されない土地があり誰が持ち主かもわからない土地が膨大にある、そういうところは中国に買い占められたりしている

空白地というのはそうなりやすいのである

その土地を使用ししても文句を言う人もいなくなるからだ

そのうちに外国人が住んでそこは日本でなくなるということにもなる

だから日本は少子高齢化でそういう危険性も高くなっている

日本の国力が衰退すれば自ずとそうなってしまうのである




タグ:愛国心とは

2018年09月11日

人間は自由である、でも行為には必ず責任が課せられる (責任から逃れられない、カルマから逃れられない)


人間は自由である、でも行為には必ず責任が課せられる

(責任から逃れられない、カルマから逃れられない)

人間以外の被造物が世界(被造物同士)にたいして責任をもたず、人間だけが世界にたいして責任をもつ。それは、人間だけが神を前にして責任を釈明し、責任をとらされる存在だから、つまり超越と人間との独自の関係ゆえである。

キリスト教と生命科学ー責任概念を中心にして

人間の謎はいろいろあるが人間のみが責任をもち責任を負わされ責任を果たすことを要求される、人間は生まれた時点ですでに重い責任(カルマ)を背負ってくるからだともなる人間はこの世に生きることは責任があるというときもう存在するだけでもそうである
空気を吸い水を飲み動物を植物を食わねば生きていけない、存在ふることは他の生命があって生きられるのである、だから何かを食べるだけで責任が生じている
食べ物でも食料でも大事にせねばならない責任が生まれるている

一体動物であれ植物であれ鉱物であれそれらが何であれ責任を問われることはない、
残酷に他の動物の肉を食べるからとそんな残酷なことをするものは死刑だとはならない、犬猫を飼うものでも犬や猫が勝手に子供を生んでも
そのために野良犬になり野良猫になってもその親に責任があるとはならない、むしろそれを飼う人間の方が責任を社会から問われるのである、生物で責任をとらされるのは人間だけである
それはなぜなのか?その答えはかなりむずかしいものとなる

これまでも原発事故のことで責任のことを書いてきた
一体原発事故の責任は誰にあるのか?
それを追求してきた、また責任をもちうるのは誰なのか?
責任をもちしるのは問われるのは資本主義では金をより多くもっている者であり
金の額に比例して責任が重くなる
だから江戸時代では十両盗むと打ち首になった
金はわかりやすい責任の具体的な指標とるからである

なぜあらゆることに人間は責任を問われるのか?また責任を課せられてそれを負うのか?それはカルマ論ともなり不可解だとなる、それは神学的哲学的問題にになるからだ
人間はあらゆることに責任があるというとき責任をとらされる
借金することは自由である、でも必ず返すことを要求される、責任が借りたときに生じていたのである。返さなければそれ相応の責任を負い江戸時代に遊女に売られたとか現代でも過酷なとりたてにあう
人間は何するにしても責任が問われる、恋愛なら好き嫌いで別れたとしても子供ができれば責任をとらされる、結婚は大きな責任の上に成り立つ、財産があれば離婚すれば金で支払うことになる

人間はあらゆることに責任が課せられ責任を負うことが定めである
人間は極端になれば何でもする自由がある
親鸞のように千人殺してみなさい、それであなたの罪深さを知りなさいともなる
つまり千人を殺す自由がある、でもその責任もある
その責任を果たせる人はそうしてもいいとなるのだ
要するに人間にだけまた自由が与えられているのだ
動物はただ本能的に生きるだけであり自由はない、自らの意志で決断するとかはない
ただ本能に導かれて行動するのであり動物には人間のような自主的に決断するものはない
人間は自由であるから何をしてもいい→人間には責任がある→責任を負わされる

例えばカルト教団に入るのも自由である、ではそのカルト教団がどういうものなのか?
入る人はただみんなが入っているからと容易に入る
でもカルト教団に入った人は必ずその責任を課せられる
自分はそんな責任を負うことはないと思っても課せられる
オウムでもそうだった、そこに入った人は高学歴の優秀な学生であり優秀な人たちだったでも結果的には麻原にだまされたとか逮捕されてからは言うようになった
そして最近幹部がみんな死刑になった
その死刑になる時責任の重さを知らしめられたのである。
その時後悔してもどうにもならなくなっていたのである
だから行為の結果というのはカルマは厳しいものになる
そうしたら安易な行為はできないとなるのだ

人間は自由である、何するにしてもカルトだろうが何だろうがその教義を勝手に解釈して殺人集団になってもいいとなっていたのである
しかし人を闇雲に殺した結果としてみんな幹部は死刑になったのである。
その時その過ちを悔いてもその責任を負わされたのである。
もちろん死刑には疑問があるにしろ実際にそうなったときその責任の重さを自覚したことは確かである、世の中はやはり外から見ても厳しいものだと自覚する
目に目を歯には歯をであり殺したものは殺されて当然だともなる

江戸時代には庶民は侍になりたくなかったという、それは侍は責任のために切腹させられたからである,それが責任の取り方だから庶民はそんなことは嫌だとなり侍になりたくなかったのである。
侍がなぜそれほど責任を課せられていたかというと今のような民主主義などない
身分社会だから侍が模範となる社会でありその模範となるべきものが悪を成したら厳しい処罰として切腹させられたのである
責任者がはっきりしていたのが江戸時代だったとなる

責任というときいろいろある,あらゆることに責任が問われ負わされるのである
原発事故では漁業組合とか船主の責任が問われた、それはそれだけの金を事故前も事故後ももらっていたからである
つまり漁業権をもつ権利があったのだがその権利を行使したのはいいとしてでは原発事故になったら責任が問われた
なぜ漁業権を東電に売り渡したのだ、その責任はどうするのだ
事故後もなぜ手厚い補償金をもらいつづけているのだと問われる
このことは双葉や大熊の町民にも問われたのである。
他にもいろいろな責任が問われた、政府でも官僚でもマスコミでもあらゆるものの責任が問われた、それはなぜなのか?

権力を持っても権利をもつものは責任が問われる負わされる

責任をもつものはまたそれだけのことを行使できる権力をもつものなのである
江戸時代には庶民は何の権力もないから侍が政治を行うのだからその結果の責任は侍がとらされていたのである
だから権力がないものは責任もないのである
報道でもそもそも江戸時代には報道などない、瓦版などがあったとしても報道に値しないだろう、とすると情報でも侍がすべてもっているのだから庶民は何もできない
でも明治以降は新聞でもなんでも報道する権利を与えられた
だからこそ今度は報道する権利をもち権力をもったものには責任が問われる
マスコミに風当たりが強くなったのはテレビでも六局しか報道の権利を与えられなかったからである、出版でも必ずしも自由とはならなかったからである
情報は報道はマスコミが独占していたからである

となれば権力をもつのだから責任が問われ負わされるのである。
でもそういう自覚をもって報道していたマスコミはない
だからこそ政府と官僚とマスコミなどが一体となり強固な安全神話は作られたのである。
責任が誰にあるのか?それはまず権力をもったのもが問われてしかるべきなのである
報道もできないとか何も言う権利もないとかなればその人に責任はないのである
それは江戸時代と同じであり責任をとるべきは侍となりその侍になっていたのが政府であり官僚でありマスコミでありまた電事連とかの労働組合でもあり権力をもつものがみんな一致して安全神話を作ったのである
だから今はこうして権力は団体になり組織になり会社になりその責任が分散されてあいまいになり結局誰も責任はとらないとなったのである。
侍のようになっていたら切腹するべきものだったのである。
でも東電の社長であれ誰も責任はとらなかったのである

責任とは権力ももつものが一番責任がある、その地位にある人が普通は一番責任がある
でも誰も責任はとらないのである
責任はとらなくても必ず人間社会では責任をとらされるのである
原発事故後は人は住めなくなった、荒れ放題になりゴーストタウンになった
その責任はそこに住む人もとらされたのである。
誰かが必ず責任はとらされる、それが人間の宿命である、カルマだとなる 

自己決定権の対極として有している。それは、自ら決定することのできない「偶有性」(contingency)に起因する責任である。ここでは、さしあたりこの責任概念を「偶有的責任」と呼ぶことにする4。自己決定権が、行為者が自らの行為結果の責任を負う、という意味での因果法則あるいは応報主義に強く規定されているのに対し、偶有的責任は因果法則に拘束されていない。なぜなら偶有的責任は、自己決定に基づく責任とは反対に、自分で選ぶことのできなかった、あるいは決定することのできなかった状況から生ずる責任概念だからである

自己決定権というけど銀行で投資信託をうりつける、確実に手数料が入る
でも営業の銀行マンは私たちは金融のプロですからまかせてくださいと言った
そうか、プロならまかせていいのかと思いまかせて失敗だった
地銀などまず証券のことなど素人並みであり知らなかったのである。
適当に選んで投資したのだが分散投資とかするのは方法として間違っていないしそのことを言っていた、でも株が上がったとき投資信託に回した、Jリートに回した
その株をもっていればリ−マンショック以来もっていた株だからかなり利益を出したのである、分散投資のルールを自ら守らなかった
そして責任を問われるのは決めたのは自分であり自分がとることになった
自己決定するにしてもそれが専門でもないし知識がないし経験もないからプロに頼むのである、結局自己決定権を銀行は自らの利益のために奪って他者の金を投資した
その責任はとらない、手数料だけはとるというだけだったのである

ここにも誰が責任あるのか?それが問われる,どこでも責任問題がある
だから契約がこまかく規定しているのは責任を逃れるためなのである
家が雨漏りして直してもらって結構な金をとられた
でも雨漏りは全然直っていなかった
そうならば最初から直らない場合は金は払わないとして仕事させる契約すべきだったとなる、無駄な金を払っただけだとなってしまったからである
それはどこきょ分野でも医者でも常に人間は責任を問われる、そうなると何でも簡単には引き受けられないとと普通はなる、でも原発は恐ろしいものでありそんなものが事故を起こしたらその責任は誰がとるのだとなっていた
現実に補償金は払ったとしても誰もなんらか罰せられることはなかったのである

人間は何かするにも常に責任が問われるとき責任を自覚して仕事をしないと後で責任が問われるから慎重にもなるし真剣にもなる、何でも簡単に引き受けられないともなる
戦争でもどうして起こしたのか?結果として3百万人死んだ、その責任は誰がとるのか?もしそうなら戦争をするには相当な深慮遠謀が必要だったとなる
その結果の重大性を考えれば戦争が強いられとしても簡単にはできない
その犠牲をみれば戦争をしない、もう苦しくても戦争はしないという選択もあったと思うからである、男は戦争で死ぬのが当たり前だという理屈は成り立たない
ともかく行為の結果として必ず責任が問われる、だからこそ簡単に行為に踏み切ることはできないともなる

家族でも何か困りごとがあれば災いがあるとしたら家族の誰かがその責任を問われ負わされる、自分はその責任を負わされたことを介護とかで苦しみそのことを書いてきた
自分はただただ病気になっていても責められるだけだったのである
それも自分のカルマとしてその責任を負わされたのである。
でもそれが宿命でありカルマだったとなるからどうにもならなかったのである。
人間は責任からカルマからのがれられないのである
自由である、権利を主張してもいい、でもそれには責任が課せられる
自由や権利ばかり主張しても重い責任があるということを知るべきである

それはあらゆるところにある、明治以降私有権が認められたが結果として私有する権利はある、でも山でも土地でも所有することには責任が生じる
山は入会権として村人がみんなで管理していた
でも私有権が認められると山は無数に分割される
でもその分割した所有した山の一部分を守るかとなると守れない
なぜなら山とは全体のことでありそうした私的所有だけで守れないものだからである

この辺では荒地になっている所がまだ多い、また全国的に耕作放棄地が増えている
ではそのままにしていいのか?そんな土地を所有していることができるのか?
それは美観的にもいいものではない、何もできずに荒地にしている人には私有する権利があるのかとなる、それは空き家の増大でも言えた
それで法律が変わりそうした放置された空き家には税金が高く課せられることになった
つまりただ放置しておくと税金を高く払わなければならなくなったのである
私有権が与えられたからとそれで何でも自分の利益にしようとするができないのである
疎の私有する権利が与えられてもではその土地を有効に活かして利用できないものは土地をもつ権利がないとなるのだ

ともかく人間はあらゆることに責任が課せられる、負わされる
インタ−ネットとかでも発言が自由になれば責任を負わされる
何を言ってもいい自由である、でもその発言には責任をもてよとなる、負わされるのである、そう自覚しなくても今やそうなりつつある
それは誰でも発言できるようになっから権力を与えられたからだとなる
ただでは無数にあるプログで発言してどれだけの責任があるのかともなる
マスコミだとテレビでは真実が報道されないのは必ず様々な団体から抗議が来るからである、盲人のことを言えば盲人団体から抗議されるしカルト宗教団体を批判すればその団体から抗議がくる、こうしてもう何も真実は報道されなくなったのである
それぞれの団体が権力をもっているからである

でもそれぞれの団体にもただ権力をもつだけではない責任が課せられ負わされているのである、数が多いからとあらゆることが通るのかとなるとそうはならないからだ
だからその団体組織でもあなたたちは誰が責任をとるのかと問われるのである。
あなたたちは数が多いからと責任が免責になることはないのである。 
今は江戸時代と違うから庶民でも民主主義の社会では責任をとらされる
庶民にも権利が与えられれば一票でもそうだし権力をもたさればそれを行使したものには責任が問われるのである。責任が課せられて責任を負わされる社会なのである。
ただ数が多いと責任が分散されるのである
戦争でも国民に責任があったとなると国民全部に責任があるとなる
結果的には誰も責任がないとなっている

原発事故でもそうである、原発を誘致した地元の人にも責任があり原発を選んだのは国民だとなり国民全部に責任があるとなり結果的には誰も責任がないとなる
そういうことは日本では多い、責任の所在を明確にしないのである。
そして日本ではまた同じようなことが起きてくる
どうしても責任あるものとはその権限がある者でありすべての人に等しくあるとは思えないからである。、そして情報でも正しい情報を与えらなければ判断しようがないからである。複雑な社会になればもう自己決定権があるとしてもできないのである
原子力のこと放射能のことがわかるのかと言われればわからないとなりどうにもならないすると専門家にまかせる、まかせられた専門家が責任をとるとなる
でも実際は専門家も責任はとらなかったのである


タグ:責任論

2018年09月01日

最後に家族にも和解が来る (死んだ後の家族の不思議)


最後に家族にも和解が来る

(死んだ後の家族の不思議)

家族がみんな死んだけど今日は夢で父親と母親の夢を見た
父親はもう子供の時死んだから夢にみることはなくなっていた
もう実の父親でも先祖のようなものになっていた

でも夢を見たのは不思議である
母親が笑っていて父親と仲良くしていたのである
母は後妻であり問題があり父とは仲良くなかった

でも夢で見たのは父親は早く死んだのだが母親そのあと百歳まで生きた
父親といた歳月は10年ほどだった、その後の人生が長かったのである
でも今頃なぜそんな夢を見たのだろうか?
夢とは何なのだろうかとなる

夢はカルタシスなのかもしれない、夫婦がいたとして喧嘩ばかりして争ったり離婚するのも多い、すると子供は仲良くしてもらいたいとずっと思っている
そのことは大人になっても潜在意識としてつづく
そこで自分の場合もそういうことがあって母親と父親が長生きしてまだ一緒に暮らして笑っていた夢を見たとなる

ただこの夢を見た時、不思議なのは自分が救われたといえばおおげせだが何か肩の荷がおりた、ほっとしたという感覚になった
これも何とも不思議と言えば不思議である
カルタシスとは魂の浄化のことである、何かそういうことが夢を見て起きたのである
それはなんともいえぬものであり幸福感があった

自分の家は争いの家だった、でも最後に和解があった、ただ一人は和解しているかどうかわからないが恨んではいない、家族はみんな死んだ
人間は争っていても死後に和解がありうる
死が問題を解決することがある、生きているうちは解決しなくても死んで解決することがある

なにがそういうことが夢を見て起きたのかもしれない、なんとも不思議な夢だと思うからである
夫婦でも仲良く年取れば幸福であるがみんなそうにはらない、必ず争いが生まれるのが人間である

自分は家族では苦しんだ、最後は一人が認知症になり家族はばらばらになった
でも最後には死ぬときに正気にもどり和解があり死後にもあった
人間はどんなにしろ争いから逃れられない、家族でもそうだし共同体同士でも国同士でも争う、その争いはやむことがない、でも最後に和解が来る
ただそれは人類がハルマゲドンとかで滅んだ後かもしれない、人類レベルとなるとそうなる
ただ家族と狭い範囲の争いだと和解が来る、和解とは和になって解けることである
私が見た夢はまさ家族が和解した夢だったのである

悲しむ者は幸いである、神はその涙をぬぐってくれる、というキリストの言葉がある

この世には争が絶えない、そこで悲しむ泣く人は絶えないのである。
それは家族レベルでもあるし地域レベルでもあるし大きくは国レベルでもあるしそれが歴史だともなる
でも最後に和解の時がくる、争ったものが手を結び合うのである
ただそれが国レベルとかになると人類レベルとかなるともう人類が滅びる後だとなってしまう
ただ天国でそうして和解した人たちが家族を共同体を築いているのかもしれない
この世とはなぜ悲しむことが多いのか?そして解決しないのか?
人間はこの世でそうした負の部分を体験する、それは来世での天国を築くためだともなるそういう不和とか争いを心底経験するから来世での和解は本物となる
もしそれが安易なものとして和解ならまた争いになるからだ
もう争いたくないということを心底思えば本物に和解になるからである。

2018年08月31日

人間は自分が困らなければ無関心である (犯罪は関心をもたせるためのなか? 常時監視状態にある姑息な陰険な田舎)


人間は自分が困らなければ無関心である

(犯罪は関心をもたせるためのなか?
常時監視状態にある姑息な陰険な田舎)

シリアカーに乗っている人にスーパーで呼びとめられた
家の周りをうろつくなとか言った
どこの家なのと言ったら何も言わず何か不満げに去って行った
私は良く他の家の庭でも花などの写真をとる、するとそれを見ている人がいるのだ
ただ本当に人の気配も感じないのだ、でも田舎では誰かが見ている
ある人は周りから監視されているような状態になっている
一人暮らしになってから特に女性が入るとうるさいのである
それでも回りのことを気遣い何も言えないのである。
だから田舎では村八分があったことを理解できる
日本の閉鎖された村のマイナス点がそこに如実に現れているからだ

畑をしている女性は隣の畑の人と仲が悪い、だから常にその人のことを気にかけて自分の畑に入ってきて困るとかいうしその人自体の悪口を常に自分に言う
確かにそういう人なのだろう、ただ畑で仲良くしている人もいる
その女性はスーパーで財布をもっていないことで何かナイロンの袋に金を入れていたので警察に通報されたのである。それも誰かが通報したのだから陰険である
自分も駅で案内などしていたが怪しいとして通報された
だから何か家の前でうろついていると警察に通報されるかもしれない
見ていないようで見ているからだ
でもただ家を見ているだけでは犯罪にはならないだろう
それで通報するとなると問題があるだろう
駅は一応公共の場だから通報したともなる

その女性はまた市営住宅でも隣の人とかのことで文句を言う、何か気にさわることをしているからだ、そういう隣人がいると隣り合わせだから嫌になる
それで殺人が起きたりするから怖いことがある
何か田舎は実際は住んでみれば陰険であり姑息な所である
田舎がいいという人は工事関係者でも大阪の人でも長くいない、住んでいないからである人間関係のわずらわしさは田舎にあり嫌になる
何か一人になってからそうした嫌なことを自分も経験している
大阪が外国人に好かれるのもわかる、日本人でもわかる
親しみやすいしおせっかいでも人にかかわってくれるからである
大阪だったら困った人がいたらどうしたのと寄ってきて助けてくれることがあるかもしれない、東京とか他ではなかなかないだろう
田舎の人が情が厚いというのは昔のことである。田舎の人がいいというときそれはそこに住んでいないからそう見えるのである

ただなぜそのシニアカーの人がそんなことを自分に言ったのか?
確かに体が悪くシニアカーに乗っている人を見かける、でも別に声もかけたりしない
そんな人がいても無関心なのである
今回は自分に文句を言われてそのシニアカーの人に注目した
なぜ自分にそんなことを言ったのか?
どこの家の人なのか?なぜ身体障害者になったのか?
何かその人のことを気にかけたという不思議があった
そして田舎だとそういう人がいれば後をつければ別にその人の家のことがわかる
そんなに遠くないからである。
でも警察に通報されたら皆目わからないのである
ただ木陰で休んでいて怪しいとなり警察に通報されたのは与那国島だった
そこはら田舎というよりもう閉鎖された島だから江戸時代だったかもしれない
島暮らしになったらそれこそもういい面は家族のようになるのが悪い面となると監獄に一緒にいるようにもなる、プライバシーは全くなくなる

ともかく人間はつくづく近くにいても無関心なのである
その人はシリアカーで見かけたとしても無関心である
すぐ近くで津波で死んだとしても家族でも被害を受けなければ関心があっても深刻にはならないのが人間である

ではどうしたら人間は関心をもつのか?

犯罪に合ったりしたとき一番その人に関心をもつ、それが家族が殺されたとかなるともうその関心は異常になる、その人を延々と恨み呪いつづける
絶対に簡単に許すことなどできないのだ、そういう経験を自分もしている
大金を盗まれてその人を憎みつづけたのである。
犯罪にあった人は不思議なことだがその人を一番関心をもつようになる
それがマイナスの関心でも憎むことでもそうである
これも人間の心理として不思議である

俺に関心をもて、憎むのでもいい関心をもて!

犯罪にあった人はこうして決して被害者はその人のことを忘れないのである。
関心をもちつづけるのである。
でももし犯罪にあわないなら何の関心ももたない
その人が誰かを傷つけても殺したとしてもそんなことがあったのかとニュースを一回見て終わりなのである。でも被害者は延々と犯罪者を憎み関心をもちつづけるのである

だから犯罪とは何なのだろうとなる、その人に関心をもたせるために犯罪になるのかとまでなる、なぜならそうしなければ全くの無関心だからである
その人が今日食べるものがないとしても何もしなければ無関心だがわずかの金でもとられたり傷つけたりされればその人に関心をもつのである。

今なぜ富裕層でも底辺層とう貧乏人に無関心なのか?
それは直接かかわらないし現代では見えにくくなっているからだ
例えば昔なら乞食になって物乞いに来ればこの人は貧乏でそうなったとわかるからである今は着るものも普通に来ているし貧乏が見えにくいのである。
ただ現代の貧乏の特徴は必ず貧乏な人は水道を止められとか、電気をとめられたとかで表面化するのである。それ以外はなかなか見えにくいのである。

富裕層とかが貧乏人のことをわかるには大きくは富裕層に暴動が起きたり個々人でも貧乏人に犯罪にあうときなのである。この時貧乏人のことを自覚させられる
それ以外は直接交わることもないと無関心なのである。
貧乏人など困った人などどこにいるの?こうなっていて無関心なのである。
自分もそうだったからである、それはあらゆることに言える、相手の困ったことには無関心である、ただ自分が困った時なぜ無関心なのかと不満になるのである。
それは介護の時自分がそうだった、誰も助けないし責められるだけだったからである

ただつくづく原発事故でもそうだったが人間は関心を持つべきものに持たない
そのことが原発事故につながった、もっと関心をもっていればそうはならなかった
でも関心を持つということは意外とむずかしいのである。
いくら貧乏のことでも無関心なのは今は見えないからである。
インド辺りだと子供が乞食してたり障害者が街にいて物乞いしたりしていればわかる
今は日本では見えないから貧乏がわからない
ホームレスはわかるが今はネットカフェとかで寝泊まりしているとまた貧乏は見えないのである。

ただ何でも人間が無関心だということは問題を引き起こすようになる
いつか苦しめられて関心をもたされるようにもなる
それが犯罪の被害者になったり自然災害でもそうである
自然災害でも自分にふりかからないかぎり無関心だからである
でも日本は災害が多いからどこかでまた災害で苦しむ人がいる
だから無関心ではいられないのだが自分の身にふりかからないかぎり人間は依然として
無関心なのである

2018年08月25日

好きこそ物の上手なれ (人間向き不向きがある)


好きこそ物の上手なれ

(人間向き不向きがある)


人間にはつくづく生まれつきがあり向き不向きがある、そればとうして作られるのか?
それは必ずしも遺伝とかでもない、家庭の環境とかも大きく作用している
モーツアルトが生まれたのは幼児の時から親が音楽家であり音楽一家だったからである
そういう家に生まれたから感性が自ずと養われたのである。
もちろん才能とか遺伝も関係している
でも才能が生まれつきあったとしてもそういう環境がなかったらその才能は活きてこないのである。
だから才能を活かした人はまれなのである。
時代でも才能は活かされない、戦争では優秀な才能ある人でも天才でも若いうちに戦場の露と消えたのである。

才能というとき何かノーベル賞をもらうとか天才芸術家のようなものをイメージする
でもこの世には無数の職業がある、そこに向き不向きがある
畑をしている女性は農家の生まれである、その女性はつくづく農民として生まれもまた体つきでも力あるから向いていると思った
そうして根っからの農民とかの人がいるのだと思った
その女性は生まれつき環境でせ農民だった、だから本当は農業しているのが向いていたのである。金にならないから農業を継ぐ人がいないと荒地が増えた
でも農業に向いた人はいるから本当は農業をしていた方がいいとなる

大工さんでも知ったがその人の体をみると自分などと全然違うのである。
体がしまっている、柔道の有段者のような体をしていた
きびきびと体が動くのである。その人は一人親方でもあり経営もできる
その人はそうしていろいろなことができる、大工でも庭作りでも壁塗りまでしているとか一人で何でもできるのだ、庭作りもできる
その人は最初は大工でもうまい方ではなかったというが生まれつきだといとき体力も関係している、体力は生まれつきである
その人の欠点は何かということ奇妙だが何でもできること八方美人であり器用貧乏になっている、その人の問題はそうして稼ぐことができるが稼げるならなんでもいいということでなんでもするのだがブラックなことにも手を出している
そんなことをしなくてもその人はそれだけの才能があるのだからする必要がない
でも金がいくらでも欲しいとなりそうなった、原発でも金になるからと賛成していたのである。
その人は大工として大成している、だからそんなにいろいろなことをする必要はなかったのである。

要するに人間は根っからの農民とか職人とか商売人がいる
それはどういう土地で生まれたかにもよる、環境にもよる、大阪とかだったらもうかりまっかとか普通にずけずけいう、それは大阪ではみんなそういう商人の言葉使いになっているからである。それは日常語になっているのだからそうなる
当然商売人に向いている、近江商人の出の人と出会ったが外国でもねぎるのがうまいのである、自分もまねてしてみたがかえって失敗した
そんなに値切る場面ではなかったからだ、そこでしかられたりした
そして東北人はまず商売に向いていない、言葉からしてズーズー弁であり向いていない
東北人は一見見るとわかる、真面目で硬い表情でありうちとけない
だから東北人は農民とか職人とかに向いているが商売人には向いていない

それで知っている人は理系の職人の仕事を会社でしていたが事業起こして借金になり失敗した、事業になると商売人にもなるし職人ではできないからである。
向かないことをすると失敗する、金になるならない前にその人はすでに向かないことをしているということで失敗しているのである
ただ常に例外があるしみんながそうではない、伊達政宗などは商人的気質があったのかもしれない、仙台弁は語尾にだっちゃだっちゃという、これは相馬弁のんだとはかなり違った響きなのである。仙台は繁華な町だったからそうなったのかともなる
そういう土壌があったのかとなる

人間はこうして生まれ育った地域でも向き不向きが生まれる、そして向かないことをやると不幸になる、医者の家に生まれたからとみんな医者に向いてはいない
例え一流大学の医学部を出ても手術がうまいのは手の器用さだとかなり学歴ではない
それは生まれつきなものだろう、だから親が医者だからと医者になるのがみんな向いているわけではない、でもそうなっていることが問題であり結果的に患者がそういう医者にあたると被害まででるから怖いとなる

人間は向かないことをしていたら不幸になる、それがいくら金になるとしても不幸になる性格でも内向的な人間は外交的な営業とかするのは向いていないだろう
政治家などにも向いていない、学者とか職人とか芸術家なら向いているとなる
自分は内向的だから何か学問とか芸術とかを追求するのに向いていた
ただ学問を学校時代は大学でも嫌っていたのである。
もし死ぬ頃になって自分は学問に向いていたなどと知る
人間はこうして本当にその人に向いたもの才能でも開花させることが至難なのである。
それは生まれつきが才能があったとしも活かされないからである

なぜ三分の一が会社に入ってもやめるとか離婚が三分の一とか江戸時代でも多かったのかそれはやはり性格でも違っているし育ちも違っているし会わなくなるである
つまりそれぞれの才能でも性格でも違っているし育った環境も違っているからである
第一才能を活かすにしてもそういう場が与えられる人はまれだからである
自分の場合は特殊であり自分なりのものを追求できたとはなる
それでも自分にはほかにいろいろな可能性があったとか老人になって悔やんでいるのである。それは人間の才能とかは本当に埋もれてしまう、活かされない方が圧倒的に多いからである。
別に数学が得意でなくても何か教育で興味をもつ方法はあった、でも受験勉強だけで本当に興味のあることを追求できなかったとなり後悔しているとかなる

結局諺は今も生きている真理である

好きこそ物の上手なれ

好きでないことを無理やりしてたらいくら金になっても不幸て人生だったとなってしまうのである。

 この諺についての関連したサイト             

ここでは好きだと長続きするが好きでないものは長続きしない、強制されてやることはかえって他者も不幸にする、その人のあったことをしていれば他の人にもいい影響がある
つまりり花でもいろいろな花があり咲くにふさわしい場所がある
生け花をフラワーアレンジメントをしていだかあきて中止している
それはなぜか?
花は野に咲いているのがふさわしいからである。野に山に咲いている花は自然である
生け花は人工化したものだからである。それはそれとして意味があっても野に咲いている花は飽きない、畑に咲いている花でもそうだしもともと花は自然の野に咲いていたからである。自然の光と風と風景の中にマッチして咲いている時一番美しいからである。
人間もまた同じだったのである。その人なりのあった所に生きるのがふさわしいとなる
そして人間社会が不幸なのはみんなそうなっていないからである。
いろいろなことで金になるならないとかで人生が決められたり時代の影響でもその人なりに生きられないから不幸な人が多いのである。


2018年08月15日

人間は二つのものを同時に得られない (得るものがあれば失うものがある)


人間は二つのものを同時に得られない

(得るものがあれば失うものがある)


人間はつくづく二つのものを得られないようにできている
才能だってそうである、一つのことができてもあらゆる才能はない
知能に優秀な人がいても体力がない、体力があるとしても知能に劣るとかなる
一般的にはそうである、でも知能に優れて体力も優れている人もいる
そういう人はうらやましいとなる
なぜそんな人がいるのかと不思議になる

人間はそもそも二つの能力を兼ね備える人はいない、何か優れていることは何かに劣っていることにもなる、知能でも知的なものでも何かに詳しくなれるとしてもいくら天才でもあらゆることに詳しくなれる人はいないのである
なぜ天才でもそれほど成果がでないということもある
それは人間の生きる時間が限られているからである
あらゆることに優れた人はいないのである   
天は二物を与えずである

そしていくら天才でも天分があっても発揮できない人が本当に多い
時代によって環境によってできない、そしてたいした才能もないのに環境とかに恵まれてそれなりに才能を発揮できる人もいる
だからいくらいい天分をもっていたとしても才能があっても発揮できないことがつくづく多い
この人は医者であり文学的才能もあり武道家でもあったが病で病室にとじこめられて最後は早死だった人もいる
どうしてそうなったのかわからない、いくら恵まれてもそうして無念に死ぬ人もある
たいして才能なくても何かそれなりに才能を発揮したとなる人もいる

いづれにしろ何かも備わった人はいない、何かに必ず人は欠けている
神だったらオールマイティである、神だけがそうであり人間は何か欠けている
その人が活きるかどうかはまた時代と環境にも影響される、だから優れた人でも何も力を発揮せずに終わることもある
たいして才能がないのに時代によって英雄にされたりする
明治維新ではそういうことが起きた、その時代が英雄を作ったのでありその人間ではないのである
現実に現代のような社会になるとそんな英雄は生まれ得ようがないからだ

人間は国によっても地理によっても運命づけられている
国によって地理によって恵みも違う、日本は海に囲まれて海の幸に恵まれているとか海が防壁となって侵略されなかったとかなる
でも逆に海によって閉ざされて大きくなれなかったとかともなる
それぞれの国にそうした地理的制限が必ずありその地理的制限の中で生きてきたしそこで歴史や文化を作ってきたのである。
一つの国であらゆるものに恵まれた国はないのである

この辺でつくづく感じたことは漁師がいたとしてその人たちは実は東電に漁業権を売り渡していい生活をしていたのである
それはどういうことなのか?二つのものを得ようとしたのである。
東電に漁業権を売りいい生活をする、もちろん魚もとるのだがそれは別に魚をとることだけに専念することではない、東電の補償金で事故前も事故後も十分だったからである
要するにここでも二つのものを得ようとしていたし実際に得ていたのである
でもそれができななかった、原発事故でそうなった
確かに船主などは事故前も事故後も補償金を十分にもらえるから変わっていない
でも周りからなんで漁業関係者は手厚い補償金がもらえるんだとうらやまれることになった、事故前からそういうことはあったにしてもそれはしかたないものとして容認されていたしそのことについて文句をおおぴらには言えなかったのである。
事故後がそうはいかなかった、周りの目が厳しくなったのである
そんなことが許されるのかとなった、そのことは前にも書いた

この辺では漁業関係者だけではない、二つのものを得ようとしていたのである
原発で金を得て豊かになりたい、その気持ちが非常に強かった
そして原発で豊かになりまた一方で自然とともに生活をするとかなる
両方を得て生活したかったのである
現代人は二つだけではない、ABCDと欲しいものがあればみんな欲しいとなっている
欲が限りないのである。そこに落とし穴があった

人間は何かを得れば必ず何かを失うという法則のようなものがある
江戸時代をふりかえると貧乏だけどそこに景色もいいし車もないからのんびりしていいと今では見る、でも現代は豊かになってもそうした景観は破壊されている
義理人情すらない金だけを求める殺伐とした社会になっている
それは江戸時代にあったものが失われたからである。
その代わりに豊かになった、贅沢できる時代になった
時代的にもなんでも良くなったというのではなく何かを得れば何かを失っているのである原始時代の生活が悪いかとなるとそうでもない、狩猟でも何でもその生活は今と違って興奮するものであり面白いものであったともなる
鹿を獲止めてそれをみんなで食べるとき充実感があったとなる
でもそういう生活を失った時今度米が食べられるとなったがそれで狩猟時代にあったものは失われたとなる

人間は何かを得ると必ず何かを失っているのだ
青春とかはたちまち過ぎて失う、あっというまに白髪の老人老女になっている
でもまた老人になると何でも深い見方ができるとか経験からいろいろなことがわかるとかなる、そういう知恵とか悟りとは若い時は得にくい、だからいくら本読んでも理解できないことが多いのであ

要するに人間は二つのものを同時に得られないようにできている
青春には体力があるが知恵はなく深い見方ができない、それで芸術なども深く鑑賞できないのである。
だから二つのものを同時に得ようとすることが間違っていたのである。
二つのものは得られない、都会で豊かな生活ができるが田舎には田舎の良さがある
自然の中でゆったり暮らすとかある
でも田舎では給料も安いと質素な暮らしする、都会のような贅沢はできないとなるが田舎には田舎の良さがありそれで満足するとなる
しかし今や田舎ではその両方を得ている、でも本当はそういうように世の中はできていない、飯館村などでも原発事故で住めないようになっても多額の補償金をもらった
ありあまる金を得た、でも何かを失った、他の避難区域でもそうである
何か常に二つのものを得られないのである。

でも人間は二つも三つも四つも得ようとしている、その欲が限りないのである
宗教などは本来は世俗に分かれていてこの世のものを得るものは天のものは得られないとなっていた、でもカルト宗教団体でも宗教は世俗でも聖なるものでも一緒になっている
政教分離というとき政治と宗教は別物であり一体化すべきではない
でも人間は世俗的なものと天なるものも得よとしている
この世のものも天国的なものも得たいとなって活動しているのが実体である
この世の欲を認めているし宗教団体の方がこの世の欲を増進させているのだ
だからどこでも何百万人もの会員がいる
それだけ数が多いことは世俗化したことなのである、だからこそ増えるのである

人間は二つの物は得られない、そこにこの辺の問題もあった
原発で豊かになりたい、貧乏は嫌だ、農業とか漁業とかでは今は豊かになれない
ただその二つのものを得ようとしたとき両方失うということもあった
第一人が住めなくなるということはもう最悪である
何でもいい故郷に住めればいいとなる、いくら豊かになっても故郷に住めなくなればもう終わりだとなる、それで事故後は蝋燭でもいいから家族一緒に故郷で暮らしたいとまでなったのである
人間は二つのものを同時に得られない、どんな国でもそこには良いことと悪いことがある貧乏でもそうである、その中で良くしようとするのがいいとなる

本当は漁師は魚をとり供給することで故郷に生きる
農民は米や野菜を作りそれで生活する、農民は米や野菜を漁師に提供して互いに豊かな生活となる、でも魚をとりさらに東電に漁業権を売り渡して富を得る
そこに問題があった、そしてその両方も失うということがある
確かに別に補償金もらって同じように豊かな暮らしができてもそれが回りから許されないものとして見られるようになった

金があってもそれですべてが満たされるない、金があることで失うものがある
人はまずその金に目をつけるからだ、それで本当の愛は得られないとなる
金でなんでも買うことはできないからである。
金がなくていいということではない、金ですべてが得られることはない
愛などでも買うことはできない、金がいくらあっても買うことはできない
人はただその金を求めるのであり愛は関係ないからである
金を得て得るものがありまた失うものもある
つまり両方を得ることはできないのである
今の時代ほどう豊かな生活をしている時代はないがそこにたりないもの失ったものがあるいくら科学技術が進歩したとしてもこれは同じなのである。
進歩とは何か新しいことを得ることだがまた同時に何かを失うことなのである
そうなると進歩がすべていいものとしては働かないことを知るべきである
核を発明したことは科学技術の進歩である
でもそれと同時にその核によって甚大な被害があり核戦争になり人類が滅びることにもなるとしたらそれはいいものではなかったのである。
むしろ進歩しない方が良かったとなるのである 

結局個人の人生でも国でも世界でも歴史が残すのは教訓である、失敗したとしてもそれが教訓として後世に残される
それを鑑みて今生きることの指針にする、人間は過去から学ぶことはできる、そして未来は実は過去からくる
維新とあれば明治維新でありこれは実はもともとあったものを改める新しくするという意味である
全く新しいものではないのだ
ともかくこの辺では津波とか原発事故で後世への教訓を残した
それはここだけではない、他でも世界でも教訓とすべきものとなった
ここでは様々なことが問題となりそれを解決する方法もなくなったからである


2018年07月17日

追い詰められた人間は一番怖い (モラルもなにもなくなる)


追い詰められた人間は一番怖い

(モラルもなにもなくなる)

今日の時代劇である人が子供と旅していて子供が病気になりその時助けられた
金が一両とか与えられて医者に見せられた
その人は名前も言わず去った、助けられた人は名前を言った
これだけだと美談だった

ところがその助けた人がヤクザであり捕らえられて牢屋に入りあと数日とかで獄門打ち首になる予定だった、そして運悪いとなるがその牢番がそのヤクザが助けた人だったのである、そのヤクザは顔を覚えていたし名前も覚えていた
その助けたことを言い牢番に難題をふきかける
それもその牢番に娘がいて仲間に娘を誘拐してとらえて人質にして牢屋から出すことを要求したのである。

こういうことを自分も経験した、これはドラマにしろそれとにたことが今の社会でもある人間社会ではあるのだ、ドラマもそれが江戸時代ならもう現代とは関係ないとなるが人間のやることは同じことをカルマを繰り返すから遠い昔でも理解できるのである

まず借金した人は追い詰められている、なんとか返すことが迫られ金がないからなんでもするともなる、借金している人はすでに犯罪予備軍である
借金することにより追い詰められる、すると金を工面するために何でもすることになる
江戸時代だと娘を女郎として売られたりする、借金のかたにされる

追い詰められた人間は本当に怖い、善悪もなにもなくなる、なぜわずかの金で殺されるのか?その人は明日食べるものがないとすると追い詰められていればそうなる
それはもう善悪の問題ではないのだ、生きるか死ぬかの問題だからである
事件はそうして追い詰められた人が犯すことが多いのである

自分が介護になり病気になったとき来たのがこういうふうに追い詰められた人たちだったのである。だから人を助けることなどできない、余裕も何もないのだ
事業に失敗して借金していたとか何か家族で問題を起こして金がなくて困っていたとか住む場所に苦労していたとかある

そんな人たちが来た時、自分が病気で弱っている、介護で苦しんでいる、そうなるとチャンスとなる、お前を助けてやるから金を出せとあからさまに言わないまでそうなったし犯罪にもあった、こうして家ががたがたになっている所だと弱者化した家は相手の要求をのまざるをえなくなるからだ
それで最初はそうではなかったと思ったが自分を意のままのようにしようとしたのであるそれは自分の金を意のままにしようとした
あからさまに金を全面に出して要求してきたのである
だから病院に入院したときその人を呼ばなかった
ただ結果的には家は荒らされて大金を失った、家の番をしていたのが泥棒だったのである
なにかこういうことがある、三人の不幸な母親のことを書いたが娘は実の母親でも5歳までしか一緒にいないし娘は母親だなと思っていない
なぜならその後に育ての親となって長く住んでいた母親すら病気になっても放置していたそして「ひどい娘だわ」と自分のところに言ってすぐ死んだのである
そういう娘が実の母親を施設に入れたのは金のためである。
その実の母親は金持ちの家に後妻に入ったからである。
それでずっと楽してきたが夫が死んだとかなり一人になって娘を頼ってきたのである
その娘は母親とか思っていない何の情もない、非情な人間と化していた
その実の母親は認知症になっていたのも悲劇である

それは自分も同じだった、自分も泥棒に頼っていたのである。
それも自分のカルマだったのだろう、この時代劇のドラマでも偶然に善意の人に助けられた、その人は名前も言わず消えた
それだけなら美談である、でも相手がヤクザだったのである。
それで最後に本性を現してとんでもないむごい目にあったのである。
しょせんヤクザとかは人は助けられない、一見情あるようでもそうではない
そのことで後でひどいめにあったからである

人間は本当に情とか愛とかいうけどそんなものがあるのかともなる
何か得られれば何かを得る、そうして計算して毎日暮らしてるからだ
無償というのはこの世にありえないのである。
事業に失敗した人は自分のために軽い荷物を一つももちたくなかった
それが態度でわかった、ただ金に困っているからその弱みにつけこんで金が欲しいというだけになっていた、その人も何日かで死刑に獄門打ち首になるのとは違うが追い詰められているからそういうふうにしか人を見なくなったのである。

その人は若い人はいい人だったという、その時は事業に失敗していないし追い詰められてもいない、会社では有能な人間として認められていたのである。月給も高かったのであるただ事業に失敗して借金で追い詰められて人間が悪魔のように変貌してしまったのであるこうして追い詰められた人間に偶然でも出会うということは怖いことである。
人間は追い詰められるとモラルを失う、今食べるものがなければ偶然あった人でも殺すとなる、善悪は関係なくなるのである。
だから追い詰められた人間は一番怖いのである。生きるためにはなんでもするからだ
何日かで獄門打ち首になるとすればもう善悪を言っていられない、俺はこれだけ悪いことしたのだからそれも当然だなどと思わないからである。
生きるためにはその時何でもする、善悪は関係なくなるのである

だから人間は別に金に困らないとか何もなければその人はいい人なのである。善人なのである。でも何かによって金でも追い詰められたら悪魔に変貌する
だから人間をそういう立場にさせられたり自らなると最も危険になるのだ
善悪と関係なく恐るべき犯罪でも平気ですることになる、そういう事件が時代に変わらず人間には起きている、

福島県会津美里町の民家で2012年7月、夫婦が殺害されキャッシュカードなどが奪われた事件で、強盗殺人などの罪に問われた無職高橋(旧姓横倉)明彦被告(46)の裁判員裁判の判決が14日、福島地裁郡山支部であり、有賀貞博裁判長は求刑通り死刑を言い渡した。検察側は論告で、 119番の録音記録などをもとに、高橋被告が、被害者を刺して
キャッシュカードの暗証番号を聞き出し、震える声で「お願い」と繰り返した幸代さんを殺害した。

この悲惨な事件もこの犯罪を犯した人がなぜそうなったのか?
やはりわからないが追い詰められていた、金に困っていた、その犠牲になったのが夫妻だった、震える声で「お願い」と繰り返し言ったのに無惨に殺されたのである。
追い詰められた人間は善悪はない、ただ今自分が生き延びるためにそうしている
ただわからないのは非情化するというとき必ずしも金だけではない、育ての親をなぜあれほど非情にしたのか?すでに成人した子供も二人もいるのにそんなことができるのか?
事情があったとこはわかるがそこまで非情になれるものなのか?

その女性は金には困ったことがない、金には恵まれていたのである。
だから必ずしも金だけで人は非情になるとはならない
ただ一般的に追い詰められた人間は善悪もなくなり怖い、そして人はヤクザのように一見情があり良いことをししているようでもそういうことはできない
悪人は悪人であり善いことはできないのではないか?
だからドラマにしろその恩を受けたことで後で恐ろしい目にあったというのも現実の人間社会であることなのだ、つくづくこの世を生きることは恐ろしいことだと自分の経験で知った 

ここで恐ろしいものは実の母親が認知症になったが金があっても頼る人がいなくなっていたことなのである。それで自分のように泥棒に頼ったりすることになる
でもこれは老人になると普通に起こりやすいのである。
なぜなら金しか目的がなくなるときいくら金があっても金のことがわからなくなる
すると頼るとしても親戚でも実の子供でも金しか見なくなるからもしれないからだ
弁護士などの後見人に頼んでもその弁護士がその金を着服したり容易にできるからだ
現実にそれで逮捕された弁護士もいる

老人は金を持っていても最後は弱者化する、認知症になる人も多いからだ
つまりそうして弱者化したとき人間の恐ろしい本性が現れる
老人はそうしてもう頼る者がなく遂にはそうした金だけを狙う目的とする人に頼る
だから金だけもっていても安心はできない
いづれにしろこの世が人間がこういうものとして変わらないものであるときこの世に救いも何もない、この世に何か期待しても無駄である。
人間の本性は悪であり恐ろしいものをもっているからだ
この世から去る意外に安心はないのである。この世は火宅の世であり災いの世であり平和は永遠にない、だからこそこの世が神によっていつか滅ぼされるのである。

科学技術が発展してこの世が変わるというのも嘘である、現実にインタ−ネットで10人女性が殺されたとか犯罪の温床にもなる
原発事故だって犯罪的要素があり起きたともなるからだ
科学技術で社会が変わる世の中は変わると言ってもそもそも人間の本性は悪であり変わらないとしたらどうして社会が変わるのか?だから共産主義でも2百万にカンボジアで殺戮があっとたなるのである。
根本的に人間の本性が悪でありそれが変わらないからか科学技術でも変わらないのである
宇宙に進出しても宇宙で戦争するのが映画でなくても現実だからである。

2018年07月16日

すべてが金で得られるのか? (最後に鏡に映せないような醜い姿になった恐ろしさ)


すべてが金で得られるのか?

(最後に鏡に映せないような醜い姿になった恐ろしさ)

ダークネス

●真善美を見る目は金では買えない

このサイトで資本主義とは何か?金だということを言っていることはわかる、きれいごとではなく金によってあらゆる価値が図られ決められる、その人がどんな人かとか関係ない、金をもっていればその人は資本主義社会では優遇される
だから一億円持っいる人は投資していれば配当金があり永遠に働かないで暮らせるとなるだから資本を金をもつことが資本主義では一番大事なことであり
きれいごと言っても金なしでは何も得られないとなる
それはそれで筋が通っているからとやくか言うことはない

例えば芸術にしたって金で計られる、どんないい絵を描いたとしても市場に出して売れなければ価値がないとなる、現実に一億円の値段の絵と数万の値段の絵があるとしたら一億円の絵が価値があるとなるからだ
ただ絵の場合は新人などではその絵の価値がわからないから最初は安い値段で買える
あとでそれが馬鹿高くなったりする
でも最初はその絵の価値がわからないのである。
その価値がわかる人ならその絵を買って損はないのである。

ところがここで問題になるのは絵を見る絵の価値を芸術の価値を見分ける人はまれなのである。芸術は創造する人がいるがまた鑑賞する人もいる
その鑑賞する目をもつことが至難なのである
その価値を見分ける鑑賞する目がないとそもそも鑑賞すらできないのである。
ただ投機的に絵を買う人がいる、それはその絵の価値が決まってからそうしている
ではその絵が画家でもわからないことがある,ゴッホの絵は生前は一つも売れていない
その時その絵を見分ける人がいたら億万長者になっていたのである。
安くその時買えたからである、でも誰も買わなかったのである
つまりその価値を見分けることがむずかしいからそうなったのである
芸術というのはそれだけ鑑賞することがむずかしいからそうなる
他の商品だと食品だとかうまいとかうまくないとかわかりやすいから市場化しやすいのである、たいがい高いものはうまいし品質がいいのである
他の商品でも高いものはたいがいいいものであり値段通りになっていることが多いのである

でも芸術に関してはすべて金で買えるとはならない、芸術は鑑賞すること自体むずかしいのである、確かに家にピアノがあれば自ら演奏していれば音楽を鑑賞する力がつく
でもそもそも一つの楽器を習得するには時間がかかる
ピアノがないなら今なら電子楽器があり買える、でもそれを習得できる人とできない人もいるし時間がかかるのである。
だから才能がなくても何か一つの楽器でも時間をかけて覚えれば音楽を深く知ることができる、鑑賞もできる、でもそれには時間が必要になるのだ
その時間はみんな平等に与えられている、金があるからと多くの時間は与えられていないのである。だから時間では平等なのである。
時間も買えるということは確かにある、大金持ちだったら家事を頼めば自由な時間をもてて何かに没頭できるということはある
だから時間は金で買えるということはあるにしてもその時間でも何倍にも増えるとうことはないのである。時間はみんな同じ時間しか与えられていない、多少増減はあってもそうである

だから人生は才能というより何に時間を費やしたかで決まるのである。
それが人生だったとなるのだ、会社勤めするにしても職業でも経験するのは転職したとしてもいくつか限られている、経験することは限られているのである
それは時間がないからなのである。もし無限の時間が与えられていればいろいろなことを経験できるからである。
いくら金があっても金持ちの家でなんでもしていいからは言われてもその人が何か特別な人になるのかというとそうでもないのである一億円で何もしないで暮らせることは本当だとしてもではその時間を何に使うかでその人生も決まる、毎日ギャンブルして暮らせるしゲームしていてもいいし何もしなくてもいいでも時間は確実に過ぎてゆく、それが意外と早いのである
金がなくても社会で会社でも就職して何かスキルを身につけたり会社で働いて社会のことがわかるということもある
でもいくら金があっても何もしなくてもいいとしてもそこで時間を有効に使わない限り何も得られないのである。

確か金があれば留学できたりとか特別な経験を積むことはできる、すると語学も覚えるようになったり国際感覚が身についたりする
学歴も金で買えるとかもなるのは金持ち階級なら本当だろう
でもそうできたとしても本当に何かを身につくということはまた別である
医師の免許をとれて社会で地位があり収入もいい安定した生活を送れるということはある
それで最初から格差社会では階級社会であり資本がある、金がある家に生まれれば将来が約束されたのだとなる

でも人間はみんな医者になることが人生ではない,それも向き不向きがありいくら金になる社会的に評価されるとしても向いていない人がなればその人生は誤ったとなるかもしれない、その人なりの人生を生きればよかったとかなる
それは意外と老人になってからみんな悔やんでいるのである。
老人で過去を人生を悔やまない人は一人もいない
なぜなら人間は意外と何もできない、あれをやりたいとか何かになりたいと希望をもっていてもたいがい何もできずに終わっているのである。
それは人間の時間があまりにも限られているからである。
なんだこれだげで終わりかとなるのである、そのことにみんな愕然としているのである

それは金持ちでも何もしなくて生きることができた人でも同じなのである。
金はもっていたけどその金を活かすこともできなかった
ただ無駄に時間を過ごして何も得られなかった、これなら働いていた方が良かったとかなる、何も経験しないから何も身につかなかったとなるのである
だから金があっても時間を有効に使わないものは何も残らないのである。
まず金があっても芸術に関してはまた学問でも雑学でもそれを習得するには時間がかかり簡単に身につかないのである。
芸術だと絶えず見る目を育てる必要がある、それにはまた時間がかかるのである
別に今はインタ−ネット上にいくらでも写真とか絵が出ているから学べる
でも見る目を育てるには時間がかかるのである 

●モラルを失うことの怖さ

そして人間は金があってもモラル的に堕落するとこの世にある自然でも真善美が見えなくなる、金があるからと放蕩する人もいるがそういう人は何もこの世にある善きものを探求したりできなくなる、見えなくなるのだ
この世の悪に染まってもそうである
だからカルト教団みたいなの所に入っていてもそうである
銀行でも今や何かブラックになっていた、この世は宗教を看板にしていれば崇高なものを求めるているのかと思えば全くそうではないただ数を集めて権力をとり利権を得るためだとなる
拝めばそうした利権が得られるからとすすめている、それは世俗と同じなのである。

だからそういうところに勤めていれば自ずとこの世の汚れに染まってくる
そしてこの世にある自然でも良きものが見えなくなる恐怖があるのだ
ただこのことはあまり考慮しないのである。
月給が高くなればいい、金になればいいとしか考えないのである。
銀行などはそうして地方でも真面目な働き場だと思っていたがそうではなくなっていた
カルト教団もそうだがそういう会社もブラックになっていたのかとなる

そうなるとそんな会社をやめて別なことを追求すればいいともなる
でも金がないからできないのが資本主義だということにもなる
ブラック会社であれ金を得なければ生きていけないからである。
一億円たまれば遺産でもあればそんな会社に勤める必要がないとなるからだ
ただ別にすべてがブラック会社ではない、社会がそもそもそんなブラック会社ばかりだったら成り立つのか?   

今は人手不足になり働く人がいなければ会社もつぶれる、そんなブラック会社には働く人がいなくなる、現実に銀行をやめる人が多いというとき何か疑問を感じたこもある
こんな仕事していいのかと疑問になる人もいてやめる
そうしてブラック会社は消えてゆく、それは社会がモラルなしでは成り立たないからである。不正して人をだましてもうけて栄えるようなことは神も許さないからである。
一時的にはいいとしても世界でもそういうことはありえないのである。
戦争で他国を蹂躙して金持ちになる国は栄えないだろう
アメリカにしてもそういうことがあっても発明したりいろいろと先進技術をせ世界に普及したから金持ち国家となったのであり戦争に強いからとそれだけで世界をリードできないのである。

人間は確かに金は必要だし金の力は大きいから否定はできない、でもそれだけですべてが決まるのか?
モラルに反して金儲けする会社が生き残れるのか? 社会的に認められて繁盛するのか?
そして自分は常に感じてきた、この世の自然でもそうしてモラルに反したことをしていると善きものが見えなくなる、これは本当はかなり怖いことである。
そのことを真剣に考えている人は意外と少ない、ただ金があればいいしか考えない
つまり人間は悪魔に魂を容易に売り渡す存在なのかもしれない
金を得ればいいとして魂を悪魔に売り渡す、ちょっと嘘ついてもいいではないか
そんな固いこと言うなよとかなり容易に魂を売り渡す、そうするとこの世の自然でも良いものが目に見えなくなる、それは濁った水であり花でもなんでも美しいものが映せなくなるのである。

● 真澄鏡(まそかがみ) の意味

なぜ日本では鏡が三種の神器なのか?

真澄鏡(まそかがみ) は「見る・照る・研ぐ・懸く・清き・向ふ・面・影」などにかかる。

『池水に 左の目を洗ひ 日霊に祈り 右の目を洗ひ 月に祈り イシコリトメが マス鏡 鋳造り 進む』4文

鏡は何かを写すというとき実は姿だけではない、心も写すから畏れたとなる
悪しき心も写すからそれで畏れた、鏡は姿だけではない心を写すから畏れたのである
左の眼を洗い右の眼を洗いそして太陽に月に祈るという信仰は自然信仰である
太陽でも月でも清いものであるからだ

あさか山かげさへ見ゆる山の井の浅くは人をおもふものかは

 とよみて、木に書きつけて、庵に来て死にけり。

 とあるが、文中あさか山の歌は早く万葉集巻十六に出るもので、説話はこれにヒントを得て面白く構成されたものであろう。筋は京都の某大納言の娘で世に優れた美女が、男のためかどわかされて陸奥国|安積山《あさかやま》に棲んでいて鏡を持たない儘に過していたが、或る日男の留守中の佗しいままに、山の井の水鏡に姿を写し余りにも変り果てて恐ろしげな己の容姿を歎き恥ぢて、男の帰りも待たないで死んで行くというのである

 この物語はまさにそれを示している、井戸の水も鏡の代わりになっていた
その井戸水に姿を映す、そしたらその姿があまりも恐ろしいものとなっていた
それでショックで死んだとなる
こういう恐れを自分は常に感じてきたのである。何か悪徳に染まりこの世でも自然でも良きものが心に映らなくなることである。
そこで悪魔に魂を売ってもそうなったときその姿まで変わりショックで死んでしまうともなる、それほど恐ろしものとして鏡でも山の井でも神聖視されていたのである。

金の力は資本主義社会では本当に大きいから金がすべてだとなる
それもわかるがだからといって金のために魂まで売っていいのか?
その時自分の姿を心を鏡に山の井に写すことができなくなる、その醜い姿を見てショックで死んでしまうとなる
確かに金でなんでも買えるとしてそうしてたら自分の姿が鏡に山の井に写せないものとなっていたとなる、その罰の方が怖いのではないか?

その罰は確実にある、そんなことを言ったらこの世を生きることすらできないともいう
でもまたどっちが怖いことなのかと人生をふりかえれば真善美が見えなくなる
鏡にも山の井にも写せない姿になる、それが怖いとなる
ただこれは金だけで起きてはいない、別に金だけではない、人間は金があっても金と関係なく変わり果てることには驚く、現実に悪魔のように普通になってしまうのをみんな見ているだろう、自分でもそのことを常に恐れていたし今でもそうである
ただこの世が汚れているというときそれに染まって感じてなくなる
若いときは感じてもやがて感じなくなる、世の中はそんなものだよとなり世渡りする
でも最後にその姿を見れないような恐ろしげな姿になっているとしたら怖いことである
天国だ地獄だというけど地獄とはこのように真善美とかが見えなくなることなのである。
地獄とはそういう場所なのである。それはすでにこの世で始まっている、それが天国まで継続している
この世と天国でも地獄でも断絶しない、継続している

●この世の富は一時的で永続性がない

だからこの世でいくら金持ちになったとしてもこの世で善きものが真善美が見えなくなっていたらその人は地獄に行く
ただカルト教団とかに入っていたとしても教会に入ったとしてもそれは外面的なものであり真実はわからない
ただ目安として何か真善美が創造されるのならそこにはいいものがあるとなる   
そういう外面は宗教となっても中味は教祖でも悪魔の場合が普通にあるからだ
一人の教祖を異常に崇めいてるのはその教祖がサタンの場合がある,偶像にもなる
その教祖のコピ−でありその大量生産だからである
ただ数ばかりであったり数で誇示してもそこから真善美が生まれないとしたらその団体には価値がない
それでルネサンスがあれほどの美を創造したということに驚嘆する
やはりそこには下地となるのもがあり生まれた、なぜなら現代文明からもう生まれないからである。
そういう下地が時代的に喪失したからもう生まれないのである
ただ個々人的には生まれるが全体としての真善美は生まれないのである。

 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むこともなくまた盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
(マタイによる福音書六章19節021節)

この世にいくら宝を積んでも最後は虚しくなる、いくら金があっても老人になると使うことすらできない,病気になって健康を失えば金があっても特等室でも寝たきりで天井を見ているだけになってしまう
そしてこの世に生きる時間が短すぎることである、王様であっても生きるときが短いのである
栄華の時は短いのである。だから豪華な宮殿に住んでいても宮殿は残りそこに住んでいた人は死んでしまうから宮殿が建物の方が寿命が長いのである。この世の栄華はたちまにち消えてしまう、煙のように消えてしまう、人間も死んだら煙のように消えてしまう
人間の作りだした栄華には永続性がないのである。文明でもみんなジャングルに埋もれたり砂に埋もれたりしている
海に沈んだという文明都市もあるらしいとかなる
つまり人間の作り出した富には永続性がないことは致命的なのである
力も富も権力でも女性の美でも永続性がない、たちまち色あせて衰退して見る影もなくなる
人間はいくら力を権力を誇示しても一時的なものにすぎないのである。
地上の富は永続性がない、人間は建築物より寿命が短いがその建築物でも錆びついたりしてやがては朽ちてゆく
ピラミッドは永続性を維持しようとして時間に抵抗したものだという見方もできる
それだけ長い時間でも残っているからだ、人間はせいぜい百年生きてもみんな地上から消えているからである。

2018年07月15日

三人の不幸な母親 (因果応報は必ずある、カルマは最後に苦しみとなって現れる)


三人の不幸な母親

(因果応報は必ずある、カルマは最後に苦しみとなって現れる)

その女性の親は三人いた、5歳までは実の親が育てていた、ただ姑とうまくいかず5歳で家を出た、娘は姑に育てられた、その原因はあまりにも気の強い姑にあったが嫁にもあった、なにか新興宗教にこっていたらしい
その実の親は金持ちの家の後妻になった、何不自由なく暮らしていたのである。

次に姑に育てられていたが新たな嫁が来たがその嫁も姑とはうまくいかず別に暮らすことになっいた、姑ととは別な家で暮らすことになった
だから姑には問題があった、とても一緒に暮らせるような女性ではなかった
その女性自体が後妻に入っていたのである。

そしてその時自分の母親はその後妻に入った継母に育てられたのである。
そのことで聞いた話でひどいなと思ったのは
「継母が弁当を作ったのだがそれを残した、そしたら俺の作ったものは食べれないのか」とその弁当を投げたという、これはひどいなと思った
継母ということがあり何かそういうことが他でもあるだろう
ともかく母の実家は問題の家だったのである。

その後三人目の母親に娘は育てられた、ただその娘はかわいがられたし金には困らない
だから不幸の生い立ちの人はいるからそんなに不幸なのかということもある
両親が死んで施設にあずけられたとかあるからだ
今度はなぜか三人目の母親とはうまくいっていたようだが何かと干渉するので反抗するようになった、自分の家ではあまりその三人目の母親とはうまくいかずつきあっていなかった、ただ娘はうまくいっていると思っていたのである。
別に継母でもない、かえってかわいがりすぎてて問題になった
でも自分の母親のようにひどい継母の仕打ちなどしされていないのである

その後どうなったのか?
最初に5歳まで育てた実の母親は病気になり娘を頼ってきたのである。
それまで長い間会っていないかったのである
でも夫が死んだりして一人になり頼るものがなくて娘に頼ってきた
しかしその時その娘は異常人格者になっていた
自分の家にきて自分の母親に弱って寝ていたのだが
「おばちゃんは金あるんだから金でめんをとみてもらへ」
と言って血相変えて去って行った、その後は会っていない
あんな人間になったことに驚いて声も出なかった

その娘は三番目の一番かわいがられた母親にも病気なったとき何もしない
放置していた、そして自分の家に自分に電話で言ってきた
「ひどい娘だわ」と言って白血病ですぐに死んだのである。
すぐに死んだから良かった、それが介護になったらどうなったのか?
とても介護などできる娘ではないからだ
それが救いだったのである

関係がうまくいっていなかった自分の家でもあるが最後に自分に言った言葉は忘れられないとなる、娘は葬式をちょっとして何か孝行したようなことを言っていたという
全然違う、ある意味で呪いの言葉を残して死んだのである。
いろいろあっても一番世話してくれた母親だったのだからそれが理解できないのだ
まずその娘は異常人格になっていた、血も涙もない人間のようになっていたのか?
長い間会っていなかったから人間は変わるものだと思った
悪魔のようになってしまったとも見た

そして最初の5歳で別れた実の親はアルツハイマーになった、娘は何もしない、金をもっているので金だけに関心がある、後妻に入った家にも息子がいて金で争っているらしい
この娘は実の娘だと母親がたよっているけどそんな感情は微塵もないのだ
現実に最も長く一緒にいてかわいがられた親が病気になっても何もしない、捨てていたからである
そんな娘に頼る実の親も不幸であり怖いと思った、実の親だと自分は思っていても相手そんな感情など微塵もない,ただ金になるから施設に入れているだけなのである。

そして自分の母親の継母だった人は施設に長く入っていたが目が見えなくなって妄想してしいた、性格があまりにも気が強くて回りとうまくいかなかったらしい
そして目が見えなくなり自分の母親を頼ってきたのである。
自分の母親は子供の時そうしてひどいめにあったしその後もいろいろとあまりにも気が強い人だからひどいめにあった
でも自分の母親は親だということで施設に見に行っていたのである。
そして最後に「悪かったな」と言って死んだ、何か反省してそう言ったのだろう
その骨は大学病院で解剖されて自分の家にもってこられて母の実家の墓に収まった
何か自分の母親の実家はいろいろな問題がある家だったのである。
父親が警察署長であっても事業に手を出して失敗して一家離散のようになったり問題があった

人間は結局因果応報でありカルマから逃れられない、必ずそうしたカルマが行為の報いを受けるのである。カルマが苦しみとなって現れる
三人の母親を不幸にしたのは何なのか?
最後の後妻の母親のことはわからない、その娘のことがどうしても理解できない
いくらいろいろあってもそこまでなっていることがわからない
それは娘自体の人格異常でありそうなった原因が最後の母親にだけあるとは思えないのである。

人間は結局カルマから逃れられない、因果応報は必ずある
それが必ず苦しみとなって現れる,そしてカルマを積まないものは一人もいない
何かしらカルマを積みそれが苦しみとなって現れるのである。
その現れるのも死ぬ間際になってとかになる
そうしてカルマを積んだ人がほとんどなのだから人間の死の様相はいいものとならない
断末魔の死が多いのである。
それはカルト教団に入っていても同じある、決してそのカルマはカルト教団に入っても解消はしない、むしろカルマをまた悪い方に積んだいるのである。
自分の母親はいろいろと苦労したけどいつも眠るように死にたいと言っていた
それだけはかなえられた,百歳でそのように死んだからである
でもほとんどの人の死はいいものではない、断末魔の死なのである。

2018年06月17日

誰かが悪さをして自分が苦しむ (猫の尻尾が焼かれまた血が出ていた)


誰かが悪さをして自分が苦しむ

(猫の尻尾が焼かれまた血が出ていた)

誰かが猫にいたずらして尻尾を焼いた、一か月くらいいなくなったので帰らないと思ったそれが尻尾が焼かれて帰ってきた、血が点々とついて汚れる
一時収まったがまた血が出ている、そして家を汚すので嫌になった
何かこの猫は飼うつもりでなかったがいついたのである。

家族が介護になってから何かこうしてめんをとなことが次々に起きてきた
犯罪にもあい、事業に失敗した人が来て金を要求される
自分が苦しいときそうして次々に問題をかかえた人が来た
自分自身のことで精一杯なのに問題をかかえた人が来る

ある人は飲食店で賃金を払われなかったといいその分を自分が払った
その後畑をしていてもキジに食われた、モグラに食われた、虫に食われたとその度に
肥料だとか薬に金をくれといい、払う羽目になる

要するにこの災難つづきは自分が起こしたことではない、でも自分のカルマがあってそうなっているとあきらめた
でもそもそも猫の尻尾を焼いた人こそ重いカルマを負うべきだし猫を世話すべきなのである。
でもいつかその人もカルマを背負わされる運命にある
カルマとは行為であり悪い行為は必ず苦しみとなって現れるからだ

ともかく自分だけではない、なぜこうして家族でも親戚でも災いとなる人が必ずいて苦しむ、それはなぜなのか?
そういう事件は日常的に起きている,家族にそうした人がいると終わりだというのもそのためである。へたすると殺されたりするからだ
実際に兄弟姉妹でもそういうことあった、姉が優秀でも妹はだめだ、弟がだめだとなり殺人までになった
障害者をもって苦しんでいる人もいる

だからこの理不尽は何なのだろう?
悪いのは猫の尻尾を焼いた人であり自分ではない、賃金を払わなかった人が悪いのであり自分ではない,でも自分が払うことになった
猫の尻尾を焼いた人は誰かにそのカルマ(行為)を負わせたとなるのだ
借金した人もまたカルマだけど他者に負わせるのである。
実際他者のカルマによって何の罪もないのに殺されるという事件がある
なぜそうなるのか?それが不可解になる
それもやはり本人にカルマがあってそうなっているのか?

自分は家族がいたとき何かそうした災いとかにあっていないのである。
家族が介護になってからそうした災いが次々に起きてきた
それも終わったかと思ったら猫に苦しんでいるとなる
それはたいしたことがないにしろやっかいだなと思う
自分はペットを世話できる人ではない、ルーズだし自分のことをやるだけで精一杯だからである
家事もやらなければならないしいろんなことができないのである。

いづれにしろ人間は誰かのカルマ(行為)は必ず他者に及ぶ、悪るいことしたら当然だし善の行為でもそうである。
でも悪い行為は誰かが負い償わさせられるというのもどうしてなのだろうとなる
その行為をした本人こそ償わねばならないのだ
それはただいづれ否応なく償わさせられる、それがカルマだからである。
でも何の罪もない人がなぜ償わさせられるのか?
結局キリストが人々の罪をになった死んだというとき犠牲になったというときそのことかもしれない、何か猫とキリストは関係ないにしろそうかもしれない
人々の罪を背負って死んだとされるからだ

この世の災いはどこから生まれてくるのか?
誰かが悪をなす、それでその周りもカルマを負わされて苦しむ
だからこの世でいくら一人が罪を犯さないにしても災いを受けるのである。
災いから逃れようがないのである。
原発事故だって関係ないと所で飯館村とかで一番被害が大きかった
全然関係ないと思っても災いによって苦しみが与えられる
それにしても30年間はこうした災いが自分にはなかった
それは奇跡的なことだったかもしれない,ただその楽なことがカルマになっていたのである。

人間は生きている限り楽していても金をもちすぎてもカルマになる
つまりどう転んでもカルマから逃れられないのである。
それは死ぬことによってしかカルマから逃れられない
たかちいづれこの世は大きなカルマによって滅びるのである。
この世に天国など出現しない、なぜなら自分が罪がないように生きても回りがそうではない、そのために他者のカルマを受けて苦しむのである。
最悪はそのために殺されるとまでなっているのだ
〈地獄の道連れにしてやる)とか言う人がいるからだ
この世に災いは限りなくあり消えることはないのである。