2017年08月18日

金の損得,人生の損得 (あと何年生きるのか?)


金の損得,人生の損得

(あと何年生きるのか?)


年金を早くもらえばすでに400万もらえた,最後までもらわなかったから繰り下げしたからそんなにすでにもらえていたのかという驚きもある。
ただたいした年金ではない,国民年金はたかがしれている
でもその400万をとりかえすのには80越えないと元がとれないというのも良くわからなかった
人間はそもそも金の計算ができない,あと何年生きるかもわからないからだ
親戚の人は60で死んで厚生年金がもらえなかった,そういうこともある
自分の母親は60才で3万もらって失敗したといっていた。
なぜならそれから100才も生きたからである。65才からもらうと5万くらいもらえたのかもしれない,そうなると差が大きくなるからだ。
それでも3万×12×40=14400000になった,千四百万になっていたのである。

自分の母親は趣味もなにもない,働くことがしかない,花さえ無駄だとしていた,田から金は使わない,馬鹿げているのはそのためた金も盗まれたが不思議なのは認知症になっていたためなのかどうかわからないが無頓着になっていたのである。
金のことが良くわからなくなっていたのかもしれない。
姉は本当に認知症になって金のことがまるでわからなくなっていた
いくら自分が金をもっているのかもわからなくなっていたのである。
それで銀行からも金をおろせなくなっていたのである。
このことには本当に驚いた。

人間は終生金に異常にこだわり生きている,普通に生きているときはそうである。自分の親も身内もそうだった,金のために大喧嘩したこともある
でも結果的にどうなったのか?そのこだわっていた金も盗まれたり認知症になり銀行からおろせなくなったのだから金はもう自分のものでなくなったのである。
自分の親は金を盗まれたといったとき笑っていたのである。
頭が正常な時は一円も無駄にしない人だったのになぜ大金を盗まれて笑っていたのか解せないことだったのである。

いづれにしろ人間は金も計算どおりにいかない,人生が計算どおりになった試しがないのだ,何か必ず不測の事態が起きる,津浪や原発事故がそうだった
そこで予定がまるっきり狂ってしまうのである。個々人なら病気になったり事故が起きたりする,それで人生が狂ってしまうのである。

だから人生など計算できないし何か損得なのすらわからない
人間は懸命に得しようとしていきているのだけど結果として何が損得かも最後はわからなくなる
得だったものが損だったり損した思ったことが得だったりもする
人生の損得など誰もわからないのである。

美人と結婚できなくて損したとか何に何しないで損したとかいろいろ老人になって後悔する、でも最後はどうでもいい,それは若い内ならそうなる
人間は結果的に何が損か得なのか,本当にかわらないのである。
結局塵となり灰となってみんな終わるだけだとなる
大金持ち地位ある人も美人も行くつく先は老いることであり死である。
それはみんな平等である。いくら金持ちでも老いを金でみんな補うことはできないからだ失われた美貌は決して帰ってこないのである。

人間はもっとうまいものを食べていれば良かったなどと最後に思わないだろう。
老いて病気になるとますどんなうまいものでも食べたくないからだ
食欲があって健康であってうまさを感じるからである。
健康なくしたらいくら金があってうまいものが買えても何にもならない
それで自分の父親は病気になりサシミを食べれるようになったが食べたくないと言って死んだのである。
明治生れの人であり一生貧乏だったが最後の二三年金持ちになったがその時は病気になっていたのである。

人生の損得など最後になると本当にわからない,何が得したのか?何が損したのか?
それも良くわからないのである。みんな得しようとして懸命に生きてきたはずなのだが最後は金をためても金をおろせなくなったとかの喜劇なのか悲劇なのか
金にそれぼと執着しても何の用もたさなくなったのである。

金は別にないよりある方がいいことは確かである。
ただ人生の損得の計算はできないということである。
結婚して得したのか損したのかそれもわからない
結婚しないで損したのか得したのかもわからない
結婚しない損は実際は自分の経験では大きかった,病気になっても誰もみるものがいないからだ。でも自由に生きたいうことは自分の場合大きな得だったのかともなる
自分の場合は社会に適合できないからそうなっていたのでありそれて得だったともなる
まず自分は無理をしなかった,疲れたら寝ているだけだから体が弱くても生きられたのかもしれない,母も体が細くて力ある仕事などできない,でも百才まで生きたのは無理をしなかったからだと言っていた

でもそれが得した,百才まで生きたのだから得したのか?それも良くわからないのである得したというか俺は生きたとかなるのは実際は危険を乗り越えたり困難を克服したりするときである。その時俺はやったとなり達成感がある
その時こそ本当に生きたことになり生の充実感を得る
でもそれは危険であり死ぬこともある,だからこそ生きたということに価値が生れる
そういう経験を一回もしないとしたら生きたとも言えないのである。

そもそも人生は損得では計れない,損したことが実は大きな得だったこともふりかえればあるだろう。運不運もあり不運にも若くして事故で死んだりする人もいる
ただわかっていることは時間をともかく人間はみんな無駄にしている
金は一円でも無駄にしないように生きているが時間は本当に浪費しているのである。
時間は金のように計算しにくいからそうなる
若いときこの先ずいぶん長いなと思っているとあっというまに時間がすぎてしまう
白髪の老人となりもう死を待つだけだとなる

要するに死を前にして人間の損得などたいしたことではないのかもしれない
大きな家に住めなくて損だったとか,うまいものが食べられなくて損だったとか,美人と結婚できなくて損だったか,いろいろ損なことを考える,でもどうせ死ぬんだとなると
そんなことどうでもいいやと最後はなる。
要するにソロモンのようになるのである。どんな栄華を生きても最後は人生は虚しい,死があるだけだとなる

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ

こうなるのである。ただ自分として後悔しているのはヒマラヤに一回しかいかずその時曇りで8000千メートル級の山が見えなかったことである。
だからヒマラヤにもう何回が行きたかったが行けなくなった
それはなぜか?そもそも外国に行けると自分では思っていなかったからだ
外国でもどこに行くか迷う,やはりヒマラヤは見物である。
十回もヒマラヤに行ったという人がいたがそれだけ行ったら満足だとなる
今の時代でヒマラヤだろうアフリカだろうがどこにでも行ける時代である。
ただ老人になり体力鳴くなと行けない,だから若い内に行くべきだったとなるが時遅しとなってしまったのである。

要するに登山でも旅行でもいつもその機会が与えられているわけではなかった。
これだけ旅行した自分でも外国に関してはそうだった,外国を知らなかったからである。
だから若い人は老人を見て何が失敗したのか後悔しているのか良くしるべきである。
このことは若い人同士ではわからないからだ
後悔しないように生きるためにはどうするのかを良くしるべきなのである。

2017年08月13日

人生とは何かを究めること (道を究めること)


人生とは何かを究めること

(道を究めること)


日本語には道とつく言葉が多い,剣道、柔道、弓道、華道、香道、武士道、茶道、書道とかいろいろある,武道とは単に格闘技ではない,道を究めることである。
道を修めることである。宗教でも神道となり神ながらの道を究めることになる
道は極めて日本的な思想であり宗教にも通じているのだ
道を究めるというときはそれはあらゆる分野に通じている
江戸時代なら職人道があり職人は刀鍛冶でも最高の刀を作るために精進していた
それはあらゆる職業でもそうだった,特別な職業だけではないのである。
英語だとはworkである,作品を作るために精進していたとなる
江戸時代までこうして個々人が道を究めることに生きていたのである。
明治以降は会社組織になり会社がwork(作品)を商品を作るために会社員全部で精進しているとなった,だから個々人の道を感じなくなったのである。

例えば旅でも旅を究めたのが最初は西行であり次に芭蕉とかであり近代では山頭火などになる,旅を究めるというとき芭蕉のように人生自体が旅としてとらえるようになったのである。人生は旅だとしたのである。それこそ旅を究めたとなる
現代では旅というときただ保養する気晴らしという感じしかない
うまいものを食べて違った環境で気晴らしする,旅人はもういない
江戸時代だと歩いて移動するから隣の町まで行くのにも旅になっていたのである。
今は平泉まで二時間半だとかなれば旅とはならない
途中は通過して一挙に平泉につくから深い感懐も抱けないのである。

だから旅人はいない,ただ移動して気晴らしする人であり観光する人である。
旅人となることは実際は容易ではない,今になると余計にそうなる
移動しやすいからそうなる,自分の場合,自転車で旅したときある程度は旅人になっていた,一カ月くらい旅したからである。
その時必要なのは今のようなホテルとか旅館とかではない,江戸時代のような泊まるだけでいい宿なのである。特別土地のうまいものを食べることでもない,そういうものに金をかけることではない,一宿一飯の宿なのである。
木賃宿というときそういうものだった,そういう宿が多かったのは江戸時代は移動することが容易ではないから簡易な宿で良かった,移動するだけで時間がかかるからそうなった今はそういう環境が失われたから旅もなくなり旅人もいなくなったのである

ただ以前として人間には旅をしたい,別な世界を見たいということは変わりなくある,現代だとだから世界旅行が人気になるのである。
常に言っていることだけど学問の基礎は地理にあるというとき旅しなければその地理感覚が身につかないのである。近くですらそうだった
江垂のことを書いたが地理的に誤解していたのである。広い範囲が江垂だったのである。郷土史を究めるというときもやはり地理感覚が基礎にないと究めることができないのである。

いづれにしろどんな分野にしろ一芸に秀でることが生きることになる,そのために日々ある。それはつまらないことでもそうなのである。雑学すらそうである。
地名学があるとする地名など学問なのかとなるがやはり学問になる
雑学にしてもやはりそれを究めるには積み重ねが必要であり地名を究めてゆくことが必要になる,それは人間のあらゆる分野でそうなのである。

医者だったら医道を究める,やはり医者として熟達してゆく,すると神業的な神の手をもった医者になる,手術のうまい先生でそういう人はいる,ただマスコミにもてはやされる人はみんなそうとは限らない,マスコミの人の判断は何か実力ない人でも有名にするからである。
ただ本当にその分野で実力あり神業的な人がいることは確かなのである。
それはどの分野でもいるのである。人間国宝とかなるとそういう人だろう。

現代でも組織の時代でも道を究めるということはある,ただ集団で道を究めることはありえない,カルト宗教など道を究めるなどとは何の関係もない,ただ数を増やして権力をもつというだけだからである。そんてところで道を究めるなどは全くない
現代で道を究める生き方がしにくいのは組織化集団化の時代だからである。
workするにしても一人ではなできない,何か発明するにしても組織で会社でしているからである。道を究めるというとき江戸時代までは個々人で究めていた環境があった
そこに現代で道を究めることのむずかしさがある

道を究めるというときその道を究めた人に弟子入りするということがあった,師が必ずいて習ったのである。現代ではそういう関係は築きにくい,ただその道に優れた人はいる
南相馬市の病院には脳外科で優秀な先生がいてその先生に習いたいために全国から研修生が集まるというときそうである。
そういうことが医療の世界でもいろいろな分野でもある

人間にいろいろな考えがある,いろいろな人がいる,それが一貫してそれぞれの道を追及すると豊かなものになる,ただ自分のしていることが何なのかわからないことがある。
でもわからないなりに学問でも芸術でも職業でも道を究めることをしていると最後に実りがある,郷土史なども雑学のようなところがあるがやはり郷土というのをあらゆる観点から究めようとしているのである。
それが津浪や原発事故などで郷土学というものが必要だったことを知らしめたのである。原発事故では郷土そのものを失うことになり故郷とは何かとか問われたからである。
故郷を失った故郷の意味が追及されたのである。

道を究めるというとき重要なのは雑念とか欲望とかいろいろなものを遮断する必要がある
だからある意味で道を究めることは精進することは修行でもある
この世の欲望にふりまわされていると修行しにくい,精進できないからである。
そして人間に与えられた時間は限られている,たちまち時間はすぎてしまうのである。
でも後で雑学すら役に立っていることがわかる,様々な経験したことも活きてくる
だからどんな職業でも何でも自分は自分のあった道を究めているという自覚が必要なのである。ただ会社人間化しているとい俺たちは社蓄なんだよなというとき一生を奴隷として終わるかもしれない,そうして終わった人生は何なのだろうと悔いるが万事休すとなってしまう。もう人生は一回だけであり取り戻せないからである。

2017年08月11日

強者が弱者となり弱者が強者となる (賢い者が愚か者になり愚かな者が賢い者となる)


強者が弱者となり弱者が強者となる

(賢い者が愚か者になり愚かな者が賢い者となる)


人間はみんな最後に老人になるとこのことを頭ではなく現実問題として実感する
理屈ではない,現実として事実としてつきつけられる
人間はいくら人生論だとか読んでも他人事なのである。
でも現実に家族とか身近な人とか自分自身とかにじかに起きてくることは否応がでも
その事実で知らしめられる,それを自分も実際の事実として家族とかでつきつけられたから驚いたとなる

今でもその死は信じられないとなる,本当に体力的に頭脳的にも優れた人が認知症になって死んだ,それは馬鹿になって死んだともなる
身近に接していたから女性でも男性並であり男性でも怖がっていたのである。
全然人を恐れないことの驚きである。女性でもそういう人はいる
そういう人は実業家とかであり政治家であり何かをできる人間なのである。

それがあえなく認知症になって死んだということが信じられないとなる
一方は愚かと見えた人は実は愚かではなかった
認知症にもならないし正直な人で親切な女性だったのである。
そういう人はただ目立たないし何か優秀なことはないのである。
でも死にざまをみると愚かは見えた人が賢かったとなる

 わずかな人間の知恵の幅である。賢さの中にも愚かさがあり、愚かさの中にも賢さがひそんでいる。

 例えば人生を生きる時,みんな賢く生きたいと思っている,愚かに生きたくないと思っている,でもこの世を生きることは利に聡く賢く生きることが得をする
賢いといってもずる賢いとかもあり賢さがいい方面にだけ働かないのである。
あの女性は馬鹿正直で嘘をついたことがない,愚かだともなっていた
でもそれだけ正直だとなると今の世の中にいないとなる
愚直だという言葉もある,何か筋を通すとなると功利的ではなく愚直を要求される
だから賢くふるまうということは悪い面としては功利的にふるまうことである。
常に利を求めて利でもって判断する,一方でそうしないものは賢くない馬鹿だとなる

また聖書でも高きものは卑くくされるというときもそうである。
自分が偉いとか優秀だと思っている人は地位とか富のある人は卑くくされる
そういうことを身内の死とかで実際まざまざと見たから驚愕した
認知症になることはいかなる優秀な地位ある人でも馬鹿になるという恐怖なのである。
だからあまりにも悲惨だったとなる
その認知症になる人が将来二〇年後くらいに四〇〇万人にもなる
そうなると認知症になことはめずらしいことではない
最後は人間は馬鹿になって死ぬのが定めなのかとまでなる

親戚の人は理系であり常に優秀だとされていた
それで事業を起こしたが失敗した
経営者と技術者とは違うから経営には優れていなかったのである。
理系は文系を馬鹿にするが理系もまた馬鹿なのである。
人間はそもそも賢くなれないからそうなっている

人間は永遠に賢くありえない,個々人でもそうだし人類全体でもそうである。
いくら科学技術が発達しても同じである。
この辺で起きた原発事故をみればわかる,最高に現代では賢いとされた人達が科学技術者が事故を起こしたからである。
その災厄は甚大であり回復不可能までになり人は住めなくなったからである。
原子力発電を核を操作する知能があってもそれが賢さにはならないのである。

逆に核戦争になって人類が滅べば人類ほど愚かな者はいないとなる
それで猿の惑星の映画がそのことをわかりやすく指摘した
猿は人間から見て愚かな知能のない馬鹿と見ていたが人間が核戦争で滅んだのだから
人間は賢いとされた知能故に滅びたとなる

いづれにしろ人間は神のように賢くなることはできない,人間は何が本当に賢いのか賢くないのかわからないからである。
科学技術が人間を賢くするわけではない,それを悪用するのも人間だからである。
すでにドローンが兵器としても活用されてロシアのクリミヤで成果を上げていたのである常に科学技術は戦争に用いられ悪用される,だから常に人間は賢いのだが愚かだとなる

賢さを追及しても結果的に愚かなことになりまた愚かさを愚直を貫いたことが賢さに通じていたともなる,全体的な知恵とか賢さをもつのは神しかもち得ないのである。
そこに人間の限界がある。
科学技術がすべて否定されるものではない,電気でもそうである。
それが人間を賢くするものではない,むしろこの辺で原発を建てるとき金になるからと賛成した,でももしそんなものいらないとか愚直に反対したら今になるとその人が賢かったともなる
山尾三省のようなパンが贅沢などと言っているのは馬鹿だとなる
だが今になると原発事故で見直されるようになったのである。

2017年08月10日

陰(影)なる人間



陰(影)なる人間


日があたれば影ができる,人は陰(影)となり生きる者がある、男の陰は女であり妻である,華々しく注目を集める人の陰に必ず影となる人がいる
政治家でも議員の陰となる者が秘書である,俳優でも主役と脇役がある
注目は主役に集まる,陰は表に出ない,それが定めである。

この世の中に陰となる者が実は多い,多くの普通の労働者は目立たない,陰のような者である,掃除している人は目立たない,陰となり仕事する人は多い
陰の存在は主役が消えたとき意識される
主役を支えた者としての影が浮かび上がる

そして陰は影はいつでもそこにある,それは以前として目立たない,ただ陰は以前として自分を主張しない,それでいいとしている,みんな主役になりたい,目立ちたい,でもなれない,ただ主役になるのはまた風当たりが強くなる,矢面に立つことになる
主役には主役の役があるが主役あり脇役がありこの世は成り立つ

今にして気づく,影のようにいつも寄り添いあったものを,それは目立たない,影でよしとしていた。そういう性格でもあった,その性格に生きた
主役が消えたとき華々しさもまた消えた,でも影はいつまでもそこに残っていた

日があたれば影ができる,それは法則である。人の世もまた同じである。
陰となり働く人は多数である。華々しい主役はまれである。
しかしその陰には陰となり働く人がいる,人間にはまた陽と陰があり調和する
陽は陽の働きがあり陰と陰の働きがあり調和する

内なる人と外なる人がいる,それは人間の性格であり性格に人は生きる
人間にはその両方が必要なのである。
ただ本当に陰なるものは気づきにくい,その存在を意識するのは主役が消えたときであり後になる,でも陰なる存在に気づくときその影はいつまでもやはり寄り添いある感じになる,妻がある時妻は意識しにくい,死んだとき意識される

そういうことはこの世に多い,普通にあるものは当たり前にある者は意識しにくい,それが失われたとき意識する,その存在に気づく,そしてその影はやはりいつも寄り添っている,陰はなかなか消えないのである。主役は華々しいが一旦消えると忘れやすい
ただそれもその人の性格でありその人はそういうふうに生きることを宿命づけられていたのである。

まず陰なる人は主役のようになれない,その能力がないからである。
ただ陰としてのみ生きる,そういう能力しかない,しかしそれもまた不可欠なものとしてこの世にある,主役にはなれないし成りたくない人はいる
みんな社長には向いていない,主役には向いていないからだ

神が男女を造られたのは陽と陰として造られたのである。それは太陽と月のごとくでもある,陰陽の原理がこの世には働いている,太陽は男であり月は女である。
自然にも陰陽の原理が働き世の中にも働く,その定められた宿命を否定することはできない,男には男の役目があり女には女の役目がある,それを越えること否定することはてきない,否定すれば不自然なものとなり世は乱れる

一生陰となり生きた者よ,そなたは今も影としていつまでもある,主役として生きた者があり陰として生きた者がある,その両方によって人は支えられている
この世に生きる者は大方は陰である,目立たない,そう強いられているともなる
しかしそれが世を支えている,目立つ者だけでは世は支えられないのだ
目立つものには目立つもの主役としての責務がありそれを成すからこそ主役なのである。
陰なる者はそれができない,主役のようにできない,だから陰として影となり存在する
でも全く影にすぎないのかというとそうではない,それはいつまでも存在し続ける
それは主役が消えたときその影に気づくのである。
陰になり働いていた者にきづくのである。

ただ人は陰になることは嫌う,でも主役になるにはそれなり技量が必要なのである。
では陰になるものが目立たない者が存在感がないのかというとそうでもない
陰になる人は主役が消えた後々までも存在し続けるのである。
いつも寄り添い陰となり存在しつづける

太陽があり月がある,陰陽がある,それは宿命である。それぞれに補いこの世がある
その原理に逆らうことはできない,陰なるものもまたこの世を支えている
そして大方は陰なるものとして生き陰なるものとして終わるのである。
その存在は影とてし終わるかというとそうでもない,いつまでも陰なる者として支え寄り添いある

台所にたたずみあわれ我が母を思い悲しき一人料理する

この母を妻にしてもいい,毎日自分で家事を全部しているときこのことを感じた
誰も本当に家事をしてくれない,一枚の皿を洗うこともしてくれなかった
今でも実際はそうである。ただ自分が全部を負うようになったのである。

負うべきは我が一人のみ頼れずに日々一人台所に立つ

家とか家事とかは何か全部一人で負うことは容易ではないことを知った
介護の時もそうだけど家は少なくとも二人以上いて家なのである。
なぜなら留守になると誰もいないから不安になるし何か常に不足を感じるからだ
だから一人より集団で生活した方が楽である。
食べ物でも一人だと損である,古くなって食べられなくなるのが多いからである。
だから今の世の中単身で暮らす人や老人が多いことは人間としては異常なのである。
それは社会自体が歪んでしまったからなのである。
自分は自分の特殊な事情でなったのだが他でも同じだったのである。
タグ:目立たぬ人

2017年07月23日

カルマとは責任のことでもあった (カルマは責任をとらされること)


カルマとは責任のことでもあった

(カルマは責任をとらされること)


カルマというとき人間がもっている業のことだけどそれは責任のことである
人間は生まれたときから責任を課せられている、子供のときはその責任がない軽いだけなのである、だんだん成長するにつれてすでに責任が課せられている
なぜ子供が泣いて生まれてくるのか、笑って生まれてきてもいいはずである。
泣いて生まれるのはカルマを背負って生まれてきたから泣いているともなる
この世に生まれて来たことの重みを感じて泣いているともなる
最後には老人になると人生の結果としての責任を否応なくとらされる
そのカルマから責任から逃れることができないようになっている

健康というのも生まれつきのものではなく作られたものという側面もある
30代は20代の運動量で体力が決まるとかその頃から運動が大事になってくる
運動しないものは心臓でも筋肉でも衰えてゆく
生まれながらに体力ある人でも運動しないと衰えるという
自分は体力がないけどずっとデスクワークもしないで運動してきた
登山もしたしあとは自転車で運動していた
それで今に影響しているのかもしれない、ただ自分は実際は今でも体力はない
何か暑さでも寒さでも前もそうだったが弱いのである。
だから今回の暑さでぐったりして衰弱した

ただ自分が30頃登山して死ぬほど疲れた、そして一週間くらい眠りつづけたのである。
そうして疲れたら寝ていたというのも良かった、それでやっと体力が回復していたのである。その後登山はきついからやめた、自転車は今でも乗っているのは疲れたら休むとか激しい運動ではないからできているのである。

人間はなまけているとそれもカルマになる、何でも自己責任だというときそれはやはり
そうしてなまけていた者は貧乏でもそれは本人のせいだとなる
それには問題があるにしろ何か人生も積み重ねだからそうなりやすい
なまけるということの怖さは退職後なまけていると認知症になる割合が大きくなる
体も頭も働かせないと認知症になりやすいことは確かなのである。
何をしても何をしなくてもカルマとなりその結果があとで否応なく現れるのである。
あの人は才能があるからできたのでありそれは生まれつきだとか言う
でも人間の才能はわずかであり何かしら普通は積み重ねがないとできない
天才は例外なのである。だから手本にはできないのである。

雑学などくだらないとなるがそれも知識の積み重ねでありそれを集積していけばプロにもなる、あることを継続して追及していれば素人でもそのことについては詳しくなる
第一人間はあらゆることに詳しくはなれない、天才でもなれないからだ
時間が限られているからそうなっているのだ、特別時間をもたされる人はいない
時間は平等に与えられている、それも活かすも活かさないも本人の責任なのである。
ただ高齢化社会はその時間が伸びたから有利だとはなっている
時間は何か金のように意識できない、だから一番浪費するものなのである。

人間はカルマから責任から逃れられない、何かしらカルマを積み後に責任をとらされる
これは個人的にもそうであり社会的にもそうである。
原発事故でもやはり人間のカルマであり業であり危険な原子力に手をだして責任をとらされた。人間は原子力をあつかう能力がなかったのである。

人間の健康も暴飲暴食したり何か健康に悪いことをしているとあとでそのツケが必ず回ってくる、それはそういうことをしているときは気づかないのである。
気づかないからこそそういうことができる
10代20代なら無理をしてもいいにしろ30代頃になるとそうした無理はあとで健康をそこなうものとてし現れる

自由な方がいいから結婚もしない子供も育てないとなるときあとで老人になって世話するものもいなくなる、親でも楽していると子供はそれを見ているから世話になったとも思わない、その母親は子供の世話は5才くらいまでしかしなかった、実の親でもそういう人は子供は世話しないから頼っても悲惨な結果になっている
ただ金だけも求めているだけなのである。その女性は育ての親にも非情だから異常なことは確かだが楽した親は最後に悲惨なのである。
それもカルマだったとなる、カルマはその時はわからないのである。
ただ親となるのもカルマであり子もないのもカルマである。
結婚するのもカルマでありしないものもカルマである
カルマはどこにでもつきまとっているのである。
楽だなと思っていいなと過ごしていると後でそれがカルマとなりひどい目にあうのである親が苦労して育てるとそれを子がみているから親を世話する気持ちが湧いてくるのである

ただ人間はカルマを積まない人はいないのである。カルマは欲望でもありその欲望は老人になっても消えないである。だから色恋沙汰の争いが老人ホームで起きて殺人まで起きている、そういう本能的業は死ぬまでも消えないということである。
結果的にそれが災いをもたらすのである
罪障消滅など死なない限りないのかもしれない、人間は生きている限り業をつむ
そして責任をとらされる、カルト教団などは罪障とかそんなものは何の関係もない
みんな業のかたまりであり同じように責任をとらされる

つまりカルトなどはかえって罪障を大きくしているのである。
もしその団体がカルマがないとしたらこの世は天国になっているだろう。
この世のどろどろとしたものがカルト宗教団体に集積しているのである。
それは教会でもどこの宗教でも同じなのである。
団体とかもカルマを積んでいるから団体も歴史的には罰せられのである。
会社とかカルト宗教団体でも他の団体でも組織や団体自体が罰せられる
その団体に所属していただけで罰せられる、そこも罪の団体だからである。
団体組織が権力化して横暴になり社会に害をもたらしていたからである。
カトリックの歴史は暗黒の歴史でもあった、だからそれが今でも問われる
責任を言われるのである。

自分自身もカルマがあり罪障消滅していない、結果としてそのカルマの責任をとらされているのである。それはみんなそうなのである。
人間は生まれたことはカルマを積むことである。またカルマを積んだから生まれてきたともなる、すでに生まれてきたことがカルマを責任を課せられて返すことを要求されているともなる、親は親としてのカルマがあり子は子としてのカルマがあり責任が課せられている、そのカルマから逃れられないのである。
キリスト教では人間に原罪があるというときもそうである。
それはカルマのことなのである。それをとりのぞくことは信仰でしかできないとなる
いづれにしろこの世はカルマから解放されない限り平和はない
それは別に戦争ではなく個々人のカルマがありそれが平和を乱すものとなる
その根本のカルマが消滅しないからこの世に平和がないのである。
それは科学技術でもカルマから解放されない、原発のように人間の技(わざ)がかえって災い(わざわい)となるように科学技術の進歩ではカルマは消滅しないのである。

人間のカルマが最後に激しく燃え上がり焦土のように化したのが戦争なのだろう。
どっちに義があるというものでもない、人間のカルマが戦争を作り出すのである。
そして最終戦争ともなりハルマゲドンとかなり人類は消滅してカルマも消滅するともなるこの世は改革もできないし改善でもできない、一見できたようでもまた新たな問題が生まれる、そもそも人間のカルマは消滅しないから同じような問題が起きてくるのである。
結局プルトニウムの毒が二万年のカルマを作り出したように人間は責任をとらされるのである。

2017年07月06日

学歴で形成されない人格 (人間を作るのは体験)


学歴で形成されない人格


(人間を作るのは体験)


東大だとかなれば誰でも一目おく、その人は人格的にも優れていると見る
自分なども劣等生だから特別な人だと見る、何か体力的にも意志的にも性格的にも違っているとみるからうらやましいとなる
そういう人は天才的な人かともみる、現実に相馬地方では東大に入った人は何十年もいないだろう。東北大さえなくなっている
学歴は何か理系と文系はまるで違っているとみる
理系は自分ではFランでも文系よりは優れているとみる、文系の知識は本当にいい加減だからである。

ただ人格形成からみると一流大学の性的な不祥事が連続したようにやはり知識だけからは形成されない、Fラン大学生ではなく一流大学のエリートから起きたということは何かを語っているのかもしれない、Fラン大学は女性にも相手にされないうというからだ
それで謙虚になっているというのも奇妙である。
でも一流大学もそれも医学部だとかなるともう天狗になるだろう。
誰もが一目をおくからである。

人間は若いときうぬぼれる、それは別に大学生とかなると世間を知らないそうなりやすい自分なども苦労をしらなかったからそうなっていた
ただ世間に出て自分の非力を知って底辺層でしかありえなかった
そしてうちのめされたということがかえって謙虚になったのである。
つまり人間は一度でも二度でもうちのめされる、激しくたたかれる
何かそういう失意の経験とかないと傲慢になってゆく
それが一流大学生とかは学生の時から起きているしその後も医者とか高い地位につくと
傲慢になってゆくのである。それが人格をゆがめる

謙虚になれといっても一流大学とか高い地位についたらなるのがむずかしい、いつも持ち上げられている立場になればむずかしい。
だから社会では学歴がすべてではなく通用しないというこを知ることも大事である。
それは人を使う立場になるということは相手の身になることでもある
ところがそういう人はいつも何でもできる学歴もある、知識もある。
でもそういうものがない人のことを知り得ない、それであれほどまでに豊田真由子議員で秘書をもう人間扱いしないのである。
つまりそういう人格形成された人が下々の人の心もわからない、そういう人がどうして指導者になれのかともなる、いくら学歴知識があってもそうである。

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさいーマルコの福音書

上に立つ者の心得である。世の中はこうはなっていない、上に立つ者は露骨に下のものをこき使う、人間とすら見ない、こういうことは使う者と使われ者の間に起きやすい

結局人間の危険は傲慢になることである。奢りになることである。それが身を滅ぼすし国すら滅ぼす、奢れるもの久しからずである。
原発事故だって奢りから生まれた面がある、政治家の奢り官僚の奢り科学者の奢りマスコミの奢りが権力を持つものの奢りが集積して事故につながった
科学者は日本の技術は優秀だから事故は起きないという幻想をいだかせていた
それは原発に関してはそうではなかったがそういう幻想をいだかせていたのである。
その奢りを生むのがこれらの人々が権力をもっていたからである。
だから難であれ権力は奢りをうみ、絶対的に腐敗するとなる

だからどうしても権力者はまともな人格形成が成すことがむずかしい
なぜ「悲しむ者は幸い」なのだろうか?
悲しむ者は常に不満であるのは権力がない、金もないからである。
では権力者が幸いだとは言わない、そこに人間の逆説がある
つまり人間が権力を持つと奢りに陥ることが人格をゆがめるからそう言っている
王様のような人はとても天国に行けるような人ではなかったとなる
権力をもっていて謙虚であることはむずかしいということである。

いづれにしろ若いとき権力ももったり高い地位につくことは最大の危険である
世間的に成功してもそうである。それが奢りになるからである。
ある人は理系で資格をとり優秀だから事業をはじめて失敗した
それも奢りをもったからそうなった
人間の優秀さとといっても多様であり人間は確かにあることには優れている
あらゆることに優れいてる人はいない、理系で仕事しているのと事業を経営するのとはまるで違った才能が必要になる、そこに人間の限界がある。
おそらくその人には理系の能力があっても人間的常識すらもっていなかったのかともなるこの人もただ人をこき使うというか人を使えるような人ではなかった

現代は知識を過度に追求する社会である。すべてが知識だともなる
その他人間の人格などは見ない、学歴には知識に優劣をつけられる点数をつけられる人格というのは何かとなると点数がつけられない、点数がつけられないものは無駄なものとなる、教育自体が点数をつけることであり点数によってすべて評価される
そこに異常な人格が形成されても関係ないのである。
江戸時代だと人格が形成されたというとき知識だけではない社会に生きていたからである現代は膨大な知識を追求する社会である。遂にはもうそれは人間の能力を越えているのでAI化するようになる、AIの判断の方が人間より優れいてるというときもう人間はとても膨大な知識を処理できなくなっているからだ
ただAIにはコンピュターには人格形成はできない、人格はそもそももてない
そのようなものに指導されたらどうなるのか?
それは非情な機械に支配された悪夢の社会となってしまう。

人格形成に失敗するというとき学歴でも知識でもできない、体験を積んで謙虚な心になる奇妙なのは本当は学問すること自体人格形成することが目的だった
まさか悪人にになるために学問しろなどとは言わないが金儲けなら学問しろとなっている金儲けがすべての目的化しているのが現実である。
そういう社会であるとき異常人格者が増えて当然だとなる
人格から見れば今の人間は最低であり異常人格者が目立つ社会かもしれない。
要するに豊田真由子のようなとんでもない人間が生まれやすい社会だとなる
学歴知識偏重社会だからそういう人間が生まれても不思議がないからである。









2017年07月04日

押しつけられた強制された人生 (それでみんな人生を後悔する)


押しつけられた強制された人生


(それでみんな人生を後悔する)


人間は生まれたときから何かおしつけられる、第一親からおしつてされる、何々しなければならない、勉強しなければならないとかいろいろなことをおしつけられる
それは必要なことであるからしかたがない、ただ人間は成長しても以前として何かを押しつけられたものとして生きる、親の押し付けが一番にある
親は別に必ずしも子供のことを思うというけど自分の対面や見栄のために子供に勉強でもおしつける、そもそも勉強とは何かといったら親の対面のために見栄のためにするものでもないのである。

子供にとって大人は何かを常におしつけるものとしてある
あなたのやたたいことをやりなさいという親などいないのである。
だから自分は親に関していい感情をいだいていない、ただあなたの思い通りにしないということが家族の中でありそうなったのである
一般的にこういうことせありえないことである。
医者の家に生まれるともう医者になりなさいという押しつけの中で育つことになる
医者になるしかないとまで人生のコースが決められる
そういう押しつけの中で生きることは相当な圧迫感になる

そもそも人間とは他者に対して絶えず何かをおしつける存在なのである。
年頃だから結婚しなさい、お嫁に行きなさい、就職しなさいとかもそうである。
それは別に本人のために言っているのではない、自分の体面のために言っていることが多い、確かにそういうことは社会的に必要であり否定できないしいいことである。
ただ押しつけられるということが何にでもこの世ではある

例えば働かない奴は生きている価値はないとか働いている人は言う、働かない人は泥棒は同じだ、他人の労働によって生きているからだ、そんな奴は許されないとなる
働くことを否定しているのではない、働くことが強制されておしつけられていることを問題にしている
この世の中で別に働くなくてもいいということがあっても生きがいのために働く人はいるボランティアがそうである。働かなければこの世が成り立たない、働かない人はこの世に生きる資格がないとまでなる
働けという押しつけ圧力がこの世で最大のものなのである

押し付けというときそもそも金がなければ暮らしていけないから金がないということは何かをおしつけられる、嫌な仕事でもしなければならない、だからみんな俺たちは奴隷なんだよ、社蓄なんだよと嘆いている
それは社会の最も大きな圧力、プレッシャーが働けということだからそうなる
でも不思議なのは金があれば親の遺産でもあれば働かなくてもいい人は必ずこの世には少数でもいる、その人は働くことを強制されないのである。
そういう身分の人はいる、でもそういう人に対しても働くことの強制がある
そもそも誰かが働いているということはプレッシャーになっているからだ。

この世に生きるというとき絶えず何かこうして他者のおしつけによって生きているのが普通である。宗教なども他者のおしつけである。カルト団体とか組織になるおしつけなのである。それは大きな押しつける力が働いてそうなっている
そのおしつける力は何なのか?別に本来の宗教の求道とかは全く関係ないのである。
政治的組織としてのおしつけなのである。

それは目に見えて社会で勢力をもっているものはみんな押し付けであり強制なのである。戦争だったみんなが戦争をしたいわげではなかった、もちろん戦争したい人たちもいたし戦争にロマンを感じる人はいるしそれはそれで否定はできない
戦争するなということもまた今や押しつけなのである。
戦争をするなという団体が組織化して行動すればおしつけになるのである。
だから右も左も団体化すれば押し付けなのである。
民主主義はただやむをえないものとして多数決で決める、その多数とは押し付けなのである。少数者は多数によって押しつけられるからである。

人間二人でも必ず双方のおしつけがある、双方の価値観のおしつけがある。
そこに対立が生じる、結婚でも対立が生じる、それは様々な押しつけの結果としてそうなる、何かをおしつけないものはいないしまた押しつけられないものはこの世にはない
そしてこの押しつける力が社会で最大限になるときどうなったのか?
ファシズムとなりナチスとかになる、誰ももう戦争を否定はできない
それは強力の圧力となり死が強制されるのである。
その時戦争するという押し付けが圧倒的になりもうその押しつけに逆らうことはできなくり逆らうと社会から殺されるとまでなる

自由を探求してゆく

あなたの思想でも存在でも他者からおしつけられて作られている

すると個としての自由な存在はない、なぜなら他者から押しつけられたものだかである。押しつけられたもの中で思想形成もしている、その本人の思想は何もないとなるからだ
現実にカルト宗教団体でも左翼系の団体でも右翼系の団体でもそれは強力な押しつけるも権力としてさえ強制するものである。
本当に自分の価値観と思想で行動するならいい、他者からの押しつけがあり行動しているすると結果的に右でも左でも操り人形にすぎないともなるのである。

あなたが行動を起すときそうした押しつけられたものではない
真に自主的なものとして自らその価値を知り思想をもって行動する
そうなればその行為は押しつけられたものではない
その行動の価値と意味はその時ゆるがいがないものとなる
ただ右だ左だとおしつけられるものとして行動していれはどっちにしろ操り人形だとなってしまう。

人間はいくら自由社会だといってもこうした押しつける力によって強いられ生きている
真に自由に生きるとしたら労働だって金のためとかにはならない、そこに費やす労働の真の価値を知って労働するのである。そこまで現代で労働していることに価値を見いだしている人はまれだろう。そこに人間の労働の荒廃がある
理不尽な労働が強いられるのは自ら選んだものではなく押しつけられた強制されたものだからである。
趣味のような畑をしている人はその労働は押しつけられたものではない、でも他人の家事手伝いはおしつけられたものだからしたくないのである。
実際はしなくもいいものだからその畑がつづけられている
でも実りはわずかでありそれで一人分の野菜もとれないのである。
でもその女性はその労働を嫌っていないのである。
ただその畑はマイナスの収入でしかない、普通だったらやめているが援助があってつづけいるのである。

結局人生をふりかえるときただ押しつけられた人生を生きているとどうなるのか?
その本人を生きたのかともなる、ただ押しつけられた人生がすべて悪いとはならない
見合い結婚して押しつけ結婚して幸福になっている人もいるからだ
ただ本当に生きるとは他人や組織の強制に生きるのではなく自主的な思想と意志と判断で生きることである
そうして生きた人は不満がないはずである。
不満があるのは他人の押し付けで強制された人生を生きたという人がほとんどだからである。俺は医者になりたくなかった、でも家が医者だから医者にさせられたのだ
別に医者になりたくてもなれないのが普通だから贅沢だとみる一面もある
ただ何でもあれそうして強制された生を生きると後で後悔する
俺は大芸術家に本当はなれたとかなんとか言ってもどうにもならない、人生は一回しかないからである。

そもそも99パーセントは押しつけられて人生を生きて自主的に選び判断して生きた人生はまれだろう。実際はでは自分と一体何を求めているのか?
それさえ良くわからないからそうなる、自分の才能すらわからない、だから才能を開花させた人もまれである。本当は自分にはもっと才能があったというのは本当でもでは自分の才能を追求した人はまれなのである。
こうして不本意な生に終わる人がこの世ではあまりにも多すぎるのである。
結果的にこの世の中はメタンガスのように不満のみが噴出して空気を汚しているのである
自然だと花でも花は自分の本然を余すことなく出して咲いて散ってゆく
そこに後悔はない、自然には人間界のように押しつけるものがないからだ
すでにどういう花として咲くか定められていてそのように確かに花開くのである。
人間にもそれぞれにこうした個性があり花開くのが理想だけどほとんどできていない
別にそれは才能がなければできないというのではない、自らさえ才能の発見が成されていないのである。

清浄の空気の高みに
清廉の花は開く
高峰を望み
夏の日ざしを受けて
本分を尽くして
花は神の御意にかない
天に向き咲き開く
そして天の園でも花は開く






2017年06月12日

人間関係も外交関係も何でも日々変化している (人間はその変化に気づかない)


人間関係も外交関係も何でも日々変化している


(人間はその変化に気づかない)


人間というのはも日々変化している、その情況も同じではない、家族でもその情況は常に変化している、なぜなら子供が成長するから変化している、いつまでも同じ状態のものはこの世にはないのである。
人間関係も常に変化するのは情況が変化するからである。
自分はこれまで介護とか自分の病気とかで弱い立場にありその弱いが故にそこにつけこまれてひどいめにあってきた、でもその時は何もできない状態だったのである。
でも介護が終わり自分の健康も回復したとき違ってきた
何か頼る必要がなくなったのである。弱い立場ではないのである。
でもそういう変化に気づかず相手は弱いと思いつけこんでくる
それは相手の変化を見ないから察しないからそうなる
そして今度は反撃されることがあるから注意すべきである

つまりこの情況というのはあらゆる所で変わるのである。日々変わっているしそれが良くわからないのである。
外交関係でも常に変わっている、なぜなら中国との関係でも10年前と今では全く違った情況が生まれている、10年前だと中国があんなに発展していないだろう
すると日本ではまだ中国は貧乏国の後進国だと見てしまうのである。
10年すぎる中国はみるみる変わってしまっている
いつまでも世界は同じ情況になっていない、人間はその変化に対応できないのである。
イギリスもいつのまにか衰退してしまっていた、それでも大英帝国がなおあるように錯覚するのである。
日本とアメリカの関係もいつまでも同じではない、そんなにいつまでも日米同盟がつづくとは限らない、どこかですでにその情況は変わっている
それは中国の関係でも韓国の関係でもロシアの関係でもそうである。

ともかく世界は常に変わっている、この辺は津波と津波や原発事故でまるで変わってしまった、ただその変化に対応できないのである。
避難解除になったからといってすぐに帰れるわけではない、その心境とか情況も常に変わっているからだ、仮設に住んで復興住宅に住むことでも変わっている
そういう変化がこの辺は激しいのである。だからどういうふうに対応していいかわからないとなる

科学技術の面でも常に変わっているからこれについてゆくことも年取ればむずかしくなる老人は時代に技術についていけなくなる、だから老人は金をもっていても弱者化してゆくのである。時代の変化に対応できないからである。
車社会になったとき車をもっていないものは弱者になっている、だから老人でも車を80でも90でも運転しようとする、弱者になりたくないからである。

人間関係でも家族関係でもなんでも常に情況が変わってゆくことがわからない、すると突然離婚になったり何か破綻したりする、それは突然そうなったのではなく情況が変わるからそうなる、離婚でも経済的に苦しいからできないとなっていても何かで経済的に自立できるとかなると離婚になる、情況が変わるからそうなる

あらゆるところで情況が変わり変化してゆく、強いと思ったものが弱くなり見る影もなくなる、老人になるとそうなりやすい、そういう親が老化して弱者になることをまざまざと見たとき信じられないとなるのだ。
あらそるものは変化である。その変化に気づかないから相手が弱かったからいつまでも弱いと思っていると強くなっていることがありそのために今度は逆に攻められてひどいめにあうことにもなる

人間関係もいつも同じではない、それはそれぞれの情況が変わっていることに気づかないのである。それで突然変わったとかなる、それは相手がいつも同じ情況、状態にあると思っているからである。
個々人の単位でもそうだが国の単位でもそうである。今の日本は高度成長時代の日本とは違う、子供の貧困が6人に一人もいるとかなるとなんでこんなに貧乏になったのかとなる
そういう情況があることをなかなかのみこめないのである。
それは過去の繁栄を経験した人は余計にそうなる、なんでこんなに日本は落ちぶれたのかとなり信じられないとなるのである。

人間は情況を変化を見誤ることが致命的なにる、夫婦でも友達関係でも何でも情況が変わるからいつまでもつづくとは限らない、友達も結婚すれば別だとなる、
そして結局人間の関係は金の切れ目が縁の切れ目であり仏の顔も三度までとかなり縁も切れるのである。仏の顔が三度までというとき相手はいつまでもその人が仏のような人とと思いつづけている、でも情況が変わるし同じことは何度も聞かれないのである。
もういいかげんにしてくれるとなり切れるのだ。
人間の関係はまず常住なものがない、切れやすいのである。
それがこの世の人間関係だとつくづく思う、ただ家族は60年つづいたからその歳月故に死んでもつづいていることがある。その絆は死んでも切れないのである。
他の人間関係はつくづく金の切れ目が縁の切れ目とかなりやすいのである。
この世の人間関係の無情がある

だから外交のむずかしいのは相手の国でも常に情況が変わり変化していることを見誤るからである。アメリカでもトランプ大統領になったとき変わったがそれがどのように変わるわからない、アメリカの変化がわからないのである。
そのことから外交でも見誤り失敗するのである。
それほど人間はとりまく情況が常に変化している、それに対応できない、相手を察することもできないから失敗する
仏の顔も三度までというとき金を貸してくれたらまた貸してくれるだろうとなる
それも三度まででありそれ以上はないというということを思わない
それで金が貸してくれないというときその人は愕然として怒りにもなるのである。
なぜ変わったのだとなるがそういう情況を作り出していたことに気づかないのである。


何か巨大な勢力でも権力でもいつまでもつづかない、だからいつまでも今ある権力があると思うと失敗する、たちまちそのような権力も雲霧消散するからである。
まるで幻のように消えてゆくのである。そういう変化を人間の歴史はこれまでつづけてきたのである。津波でも原発事故でもそういう大きな変化でありもう対応できなくなっているのだ。
津波でも原発事故でもそれだけが変化ではとない、過去には二度の戦争があったし過酷な変化がありそのために犠牲になった
そういう変化があるのがこの世でありさけられないとみるべきだったのである。
でも平和がつづくとそれがいつまでもつづくと思ってしまうのである。
平和であることこそがまれなことなのである。
むしろ一生の間にはこうした大きな変化に見舞われることこそが人間社会でありそれは歴史をふりえればわかる
その変化こそが人間の歴史であり繰り返しだったのである。


人間万事塞翁が馬  (じんかんばんじさいおうがうま)

「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍(わざわい)へ、また禍(わざわい)から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」という事です。

原発にしてもこの辺では悪いものではなかった、富をもたらすものだった、それが事故になったら一転して大きな災いとなり苦しむだけだとなった
でも見方によっては他に移っていいと思っている人もいるかもしれない、多額の補償金をもらって良かったと思っている人はいる。
原発事故でもすべてが悪いものとして働くだけかとなるとそうでもない面があるかもしれない。この辺などは前よりスーパーが二軒新しくなったりといい面があったからだ。
もちろん悪い面の方が多いのだが町自体が急激に衰退するということはなかった

ともかく人間は情況が常に変わるからこういうことが起きてくる、何か幸福になるのか不幸になるのかわからないのである。まず幸福の原因が不幸になり不幸の原因が幸福になっていることは普通にあるしみんな経験している
自分が幸福だったことが苦しみのどん底に落された。親が二人死んでただ苦しみしかなくなったのである。30年間の幸福は一瞬にして消失したのである。
それは津波や原発事故でもそうだったのである。
有為転変をまねがれえないのがこの世なのである。人間の歴史自体がそうだったのである

2017年06月09日

若い人は自分が何に向いているか知るべき (体力がすべての基礎であるのは変わりない)


若い人は自分が何に向いているか知るべき

(体力がすべての基礎であるのは変わりない)

勉強で上位の大学入るより 
スポーツやその他の手に職系でプロになって飯食う方がよっぽど難しい 
勉強よりスポーツ等の方が下という価値観は子供にとって間違いなくマイナス 
彼らは勉強して学歴はありますよっていう一般人よりは才能も努力の有無も何もかも上の存在なんだよ 
自分に能力がないって奴こそ勉強しないと駄目 
スポーツとかは逃げ道に全くならないし、むしろ勉強する事よりも厳しい道だと教えないといけない

人間は自分のことがわからない、自分がどんな人間なのかわからない、それがわかるのは老人になって死ぬ時やっとわかるとかなる
そこが人間の弱点である。人間は若い内はなんでもできるような錯覚になる

自分が何に向かって努力していいいのかわからない

それが致命的なのかもしれない、中学生で花に興味があり農業関係の高校に入るという中学生は目的意識があるからそれに向かって努力することができる
しかしそういう明確な目的意識がもてないで高校でも大学でも入る
ただ上から受験戦争で勝ち抜きいい大学に入れば大企業に入れるとかで勉強が強いられる何に向かって努力していいかわからないから学問も職業でも身につかないとなる
それはまた自分自身がどんな人間だかわからないからそうなる

勉強よりスポーツ等の方が下という価値観は子供にとって間違いなくマイナス 
彼らは勉強して学歴はありますよっていう一般人よりは才能も努力の有無も何もかも上の存在なんだよ 

まず人間は体力なんだよ、何をするにも体力が先にある、先天的に体力の差が大きい、
スポーツができる人はやはり生まれつき体力に恵まれている、その差が知力などより大きい、知力がある程度は努力すれば平均的なものは身につく、でも体力は身につかないのである。
だからスポーツできる体力ある人は学校でも最初から恵まれているのだ。
体力ある人はすでに意志と根性が備わっているからだ
第一人間の歴史でなぜ軍人が兵隊が高い地位についたのか?
ローマ帝国でもそうだがコロッセウムなどでも強い人間が選ばれた人間となったのか?
それは体力が戦争するには一番必要だからである。
日本だって侍は体力があるものがなるのでありそれは最初の支配階級になった
官僚は知力の人だが武士は体力がある人がなっていたのである。
武芸に秀でたものが重んじられていたのである。

自分に能力がないって奴こそ勉強しないと駄目 

本当にそうである、インターネットではいろいろな経験談を聞けるし似たようなことを言う人がいるので参考になる
自分は体力がないと自分を知ることが大事だった
そこが出発点としてではどうするのか?知力をつけることだ、そうしないと社会では自分は生きていけないと自覚することだった

体力というとき職人でも建築関係でも体力がないと勤まらないのだ。
大工なんかもそうである。自分が知った大工さんは体が自分などと全然違っていた
ちょうど柔道何段かの体である。太っていないが体の強さが違うのである。
だからうらやましいと思った。農業だってそうである。趣味的農業だって体力がいるのである。女性は耕すことを男に頼んでいるのである。つまり基本的に肉体労働は体力が基礎としてないとできない、もちろん機械化しているから力仕事はなくなるということもある
でも人間はやはり体力がないと人生を生き抜けないだろ。
なぜ男女差別が生まれたのか?男が体力的に勝っていたからである。
まず戦争できるのは男であり女はできない、世界史的にも戦争の繰り返しでありその戦争に勝ち残らなければ民族も滅びる、それに打ち勝つには基本的に体力が必要になる
女はそれができないから男が戦争で勝つことにより女は守られてきたのである。

人間は文明が発達すると体力ではない、機械の時代になると知力が優位になる
肉体労働は低いものとして見られる、それも確かだがやはり人間は体力があって何かをできる、遊ぶにしてもそうなのである。
登山とか自転車旅行とかでもそうである。これも体力ないとできないのだ
世界旅行でもそうである、これもバックパッカーになるときつくなる
自分は登山は途中であきらめた,負担が大きすぎるのである。自転車旅行は休み休み行けるからやれた、それでもやっとしてきたのである。

自分の姉は体力があった、全然違ったタイプだった、だからこそシンガポールで四年間従軍看護婦として勤めることができたのである。
それから家で店をやっていたとき古い自転車で農家から野菜を積んだ来たのだけどそれがかなり重いのである。でもそれを持ち上げ運ぶことができたのである。
昔になればやはり女性でも体力ないと生活できないのである。
農家などは特にそうであり美人より体力がないと仕事ができないから困るのである。
それで美人は遊女にされて美人でなく体力が女性は紙漉きにされたという、紙漉きは過酷な労働だったからである。
常に人間が生きる基礎になっているのが体力なのである。


知力には向いている人と向いていない人がいるとかある
でもむしろ体力がありスポーツに向いている人はまれだということもある
スポーツに秀でることこそまれだともなる
そうなると知力でもって生きることになるから勉強しなければならないとなる
知力はある程度は努力して積み重ねればつくことがある。
自分はその成果を今出している、それは天才でもない能力がなくても積み重ねたものがあるからだ。旅などでもこれも積み重ねなのである。だって本当の旅をするには時間がかかるからだ。するとそれだけの時間が必要になるからだ。
一気に全国を旅はできない、そうして旅をして知見を広めることができるのである。

とにかく人間は何かを蓄積している、雑学でもそうである。経験でもそうである。
一人の一生を見れば必ず何かを蓄積している、だから知見とか洞察力とかなると老人が優れいているのだ、若い人は体力があっても知力はつかないのである。
自分も若いとき本を読んでも理解できなかったのである。今になればすぐに理解できるのでてある。そして独自の見解を述べることができる
それは積み重ねたものが蓄積したものがあるからできるのである。

結局今度は老人になっても体力勝負になる、老人の体力は若いときの激しいスボーツをする体力ではない、健康を維持する体力なのである。
もう60代で病気になり脱落する人もある、その人は激しいスポーツをできた人でもそうである。必ず病気になり体力あった人もたちたち死んだり病気になり何もできなくなる
自分は何か姿勢でもいいし若く見られるのも不思議だとなる
20代で老成化して60歳くらいに見えていたからである。だから20代と今の姿が変わらないのである。

自分がなぜ体力がないのにそうなったのか?
それは環境に恵まれた結果なのだ、勤めていないし疲れたときは寝ていたし無理をしなかったからだ、会社に勤めていれば無理しても働くから鬱病にもなるのである。
人間は環境因子が遺伝とかよりその人を左右することは確かである。
才能ある人も環境恵まれなかったら貧乏でピアノもないとかパソコンもないとかなると才能が伸ばせるはずがないののである。
一方たいして才能がなくても自分のようなものでもそれなりのものが身につくことがある環境というとき時代もある、戦争の時代になったらもう才能もなにもない、ただ兵隊の駒として過酷な戦地で戦わされたからである。人間は必ず時代の影響を受けるのである。
これはどうにもならない、みんなその時代時代必死で生きる他ないのである。

いづれにしろもう老人は結果がでたのである。もう人生をやり直すことができないことを知り愕然としているのだ。時間は返ってこない、いろいろ嘆いてもそうである。
時間だけは後戻りできない、例え10億円もらっても若い時には帰れないのである
貧乏でも何か積み重ねて蓄積されることはある、でも老人はもう10億円あろうができないのである。経験だってできないのである
自分も50代に海外旅行していなければ今になるとできない、退職してから自由になりできると思ってもできなくなる、何か60代以降病気になったり介護になったりできなくなることが多いのである。確かに60代のパックパッカーもいたけど何かそぐわないのである。
バックパッカーは40代までが限度でありやはり若いときにするべきものなのである。
若いときしかできないことが多い、登山などもきついからそうである。
そして若いとき求道しないものは信仰にはいたらない、老人から宗教を求めるのは遅いのである。それはただの慰めにしかならない、若いときできることをしないともう遂に何もできない、後悔だけが残り終わるのである。

いづれにしろ今の時代は一流大学とか入っても意味がない、文系だったら東大さえ変わらない、それより何か目的意識をもって勉強すれば身につく
それはいろいろな勉強方法が生まれたからインターネットなどや豊富な映像でも学べるからである。大学の価値はもうないような気がする、文系の場合は独学力をつけることである。そういう環境がすでに調っているからである。大学という名にこだわる時代は終わったのである。知力の面からすると大学は文系の場合は無駄だとなる
ただ大学には何か別なものが友達を作るとか遊びで人間の幅を作るとかスポーツで体を鍛えるとか知力だけでないものを培う場所としてもある。
だから教育は変わってゆく、大学の名は一流もなにもない、文系なら特にそうである。
むしろ一流の料理人でも目指した方が得策となるのが現代である
時代が変わると価値観もがらりと変わるからだ、ただ体力だけはやはりどんな時代でも基礎として一番必要なものなのである。






2017年04月12日

地獄から天国へ(詩)



地獄から天国へ(詩)

 いづれの行もおよびがたき身なれば、 とても地獄は 一 定すみかぞかし (親鸞)

死は苦しみからの解放
心の病,脳の病
最後に断末魔の苦しみ、叫び
人と人は憎しみ争う
人間の恐るべきエゴ
弱者として責められた恐怖
自らの病気と他者の責め苦
非情な人間の社会
それは地獄だった
人間の恐るべき業(カルマ)
業の欲の炎が燃え上がる
この世に現れたまぎれもない地獄
人は人にとって狼
人間は悪鬼ともなり夜叉ともなる
しかし死はこの世の地獄からの解放
もはや苦しみはない
人と人は争わない
和やかに手を握りあっている
やさしさが顔にあふれている
業(カルマ)から解放された仏
己自身も身内の苦しみをになった
しかしその苦しみからも解放された
自らの病気で苦しんだが
それも今はなく他者に脅かされることはない
今他者に頼ることがない
頼られても頼ることない幸せ
人が人に頼るとき不幸になる
その時弱みがありつけこまれる
そういう悪質なるものが人間
だから今は死者も安らかであり
自分もまた安らかになる
平和とは何か?
自分の病気であれ家族の病気であれ
苦しみのないこと
弱者となりて責められないこと
人と人が争わないこと
その時人は平和を感じる
なぜなら人と人の争いは終わらないから
死は必ずしも悪いものではない
苦しみからの解放であり
他者に頼ることからの解放であり
他者に責められることからの解放であり
業と欲からの解放である
酷い戦乱を戦争を生きたものは
ただ戦争のない世界を望む
人と人の酷い争いを見たものは
ただ争わないことを望む
しかしこの世に争いは消えない
そういうふうに憎しみ争うのはなぜなのか?
それはこの世の地獄を身にしみて経験して
天国の平和を望むようになること
もう二度と争いたくない
そういう気持ちをいだき天に昇るとき
そこに真の平和が実現している
天国にあるためはにこの世の地獄を経験する
この世は試練の場であり地獄の場でもある
その地獄を生きぬいたものに真の平和が訪れる
灼熱の地獄から涼しいパラダイスに
もう人と人は争わない
その顔から苦しみはとりされらて
安らかな慈悲に満ちた顔になる
業の炎は消えて安らかになる
だから死は悪いものではない
死を持ってしか解決しないことがある
それは苦しみからの解放である
争いからの解放である。
責め苦からの解放である。
そういう苦しみと地獄を経験して
真の天国が訪れる時がくる


地獄というとき来世にあるのではなくこの世にある。地獄の世に生れてきたのが人間なのだ。親鸞の言っていることは親鸞自体が地獄を経験したから言っている。
地獄の世を生きたから言っている、とても地獄から逃れられないのが人間なのである。
そういう地獄を経験したのがこの十年間の家族の介護と自らの病気とかであった。
自分の家の状態がまさに地獄の状態になったのである。
一人は重傷の認知症になって一人は介護が5年ほどつづきとか今度はその間に自分が病気になり二回入院した、そして自分一人しかみるものがなく苦しんだ
その時助けはなかった、それよりその弱さにつけこまれて大金を盗まれたり借金の強要をされたり恐怖の時を過ごした
自分の所に来た人も余裕がない、金もないから自分を責めるチャンスになったのである。そのことはプログでずっと書いてきた

認知症というのも過酷である。それはその人だけではない、それをみる人も過酷になる
精神を病んだ人をみると自分も病んでくる、そして病気というのは本人も苦しい
だから苦しみから解放されたいというだけが願いとなる、でも死の病となると死ぬ意外解放されることがないのである。
認知症でも馬鹿は死ななきゃ直らないとなる、直ることがないのである。
老人の病気はもう直らない、死に向かっているからである。
だから最大の願いはその苦しみから解放されることなのだ
それは死しかないのである。だから死がすべて悪いものとはならない
そういう状態になったら死にたいと思うのが自然なのである。

人間は最後は断末魔の苦しみを受ける、それで業(カルマ)が消滅する、死んだら地獄に行くのではなく今世が地獄なのである。
そして現実にもっとむごたらしい地獄が生々しくこの世にある、アフガニスタンでもシリアでもまさに地獄そのものである。
そしてそういう地獄で生きている人は戦争のないことがどれだけ平和かと切に思うようになる
自分の姉も四年間シンガポールで今のマレーシアのジョホールバルで従軍看護婦で辛酸をなめた。だから死ぬときまでそのことにうなされつづけていたのである。
だから戦争は余りにも悲惨でありそのことが忘れられなかったとなる

いづれにしろ人間の恐怖は弱者になることである。弱者というとき金のないのも弱者だがその時江戸時代だったら借金で遊女にされたり今でも同じようなことがある。
その弱みにつけこまれることが常にある。それも自分も受けたし憤りを感じた
でもみんな最後は老人になると弱者化する、強いものでも弱者化してゆく
子供の世話にならざるをえない状態になったとき親でも弱者化するのである。
だから老人になることは病気とかになりやすいから怖いのである。

医者であれ看護師であれ他者に頼るとき地獄になる、なぜか他者は別に愛をもって接するわけではない、機械的に接するし患者が虐待されることもある、そういうことも経験した老人は特に老人ホームでも邪魔者として虐待されやすいのである。
でも自分が病気になったりしたらどうしても医者だけではない、他者に頼らざるを得なくなる、それが家族がいないことの最大の恐怖だと経験したのである。
それもまた自業自得、カルマなことは確かである

ともかくもし天国だけにいたら天国の価値はわからない、地獄を経験したものが本当の天国の価値を知るのである。戦争で苦しんでいる人たちは戦争のない世界がどれだけ平和なのか心から感じる、でもそういう経験をしていない人は天国にいても感じないのである。だからこの世は地獄でありそれは天国を行くために必要だともなるのである。

人間が業をカルマをもつというとき欲がありその欲が消えないからまた自らも苦しむ
男女でも愛憎の炎が燃え上がる、何かそこには平和がない、争いになる。
戦争がなくても普通の生活のなかでも平和がない、自分の家もずっとそうだった
争いがつづいていて死んで争いがなくなったのである。死んで平和が訪れたとなる
だからすべて死が悪いものではないと今では思う
死というのは一つの浄化作用なのかとも思う、つまり罪業が消滅するのかと思う

大難を得て罪障消滅するー日蓮

これは別に信仰とは関係ない、みんな最後は大難にあう、死は最大の大難だからである。まず創価のようなカルトは法華経を批判することは最大の罪だとかいうけどそれが政教分離していないから怖いのである。創価とか公明を批判するものは罰があたるとなり何もいえないから好都合になる。政治の世界に宗教をもってくるとどうしてもイスラムでもそうだが問題が起きる、要するに創価を批判することは誰もできなくなる
マスメデアがしないのは創価が権力をもっているからであり別に宗教が怖いからではない巨大な権力集団だから誰も批判しないとなるだけである。
そういうことはカトリックで嫌というほどヨーロッパで経験しているから政教分離の法律ができたのである。

別に宗教者でなくてもみんな最後は死という大難を経験する、それは誰も逃れることはできない、「大難を得て罪障消滅する」というとき死をもって罪障消滅するということなのだろう。死は救いだともなるのである。

死はあらゆる善きものの中で最高の善きものかも知れない


タグ:地獄と天国

2017年01月27日

逃れられないカルマの怖さ (事業失敗のカルマを受けた自分)


逃れられないカルマの怖さ

(事業失敗のカルマを受けた自分)


カルマというときそもそもアダムの原罪というカルマがありプロメテウスがゼウスから火を盗んで過酷な刑罰を受けたなど人類的なものとしてあった。
だから今でもそういうカルマは継続していて解消しないのである。

●個々人のカルマ
●家族のカルマ
●地域のカルマ
●国のカルマ
●人類のカルマ

普通カルマというとき個々人もあるが家族のカルマ、家のカルマを一番意識しやすいかもしれない、家にはどんな家でもプラスの面とマイナスの面がある。
そういうカルマを業をもったものがカルマである。
人間個人にしてもみんなカルマを業をもっている、それから逃れられないのである。
つまり人間は罪を犯すものとしてあり罪を犯さず生きることはできない
なぜなら殺傷を禁止するといっても動物を食べることはやはり業となっている
動物を犠牲にして人間は生きているのである。そういうところから仏教は生れてきた。

カルマというときそれぞれの家がもっているカルマがあることはまちがいない、それで昔は結婚というとき家といえの結婚だったのである。
家柄がいいとかその家がどんな家かで親が結婚を決めていたのである。
それが意外とかえって離婚が少ないし互いに幸福だったということもある。
ただ女性だけでは生活できないとか今とは違っているから一概には言えない
問題は昔から伝統的なものには何かしら意味があり価値があり継続されてきたのであるそこには必ずいい面があり何かを守るものとしてあった。

家同士の結婚が古いとかなるときでは恋愛結婚になったときみんなうまくいっているかとなると離婚が増えた、三分の一は離婚しているのである。
恋愛結婚がいいようでもこれもうまくいっていないことでわかる。
家のカルマの怖さはなかなかわかりにくい、でも結婚の怖さは必ずその家のカルマを受けざるを得ないことなのである。それは親戚にも及ぶから怖いのである。家風というものもあり悪い家風もありそれに染まるのである。
そして長男と長女はその家のカルマを一身に受け継ぐ、そのカルマから逃れられないから怖いのである。

自分の家もいい面と悪い面のカルマを受け継いでいた。
それは事業失敗のカルマである。父親でも親戚といってもそれほどでもない、兄弟関係というものでもない、でもやはりそのカルマの影響があった。
二つの家が事業に失敗したということはあまりないだろう。今でもそこは更地になっている。事業で失敗して家は売られたのである。
もう一軒これまで書いてきたが自分に最も影響した。そのカルマを身をもって受けた。
自分が苦しいときその人も事業に失敗して借金をかかえていた。
そういう人が来たことで最悪のときに自分が苦しいときに関係した、それで自分はそのために恐怖を味わった。

自分もそういうカルマを受けざるを得ない家系としてあったのかとなる
母方でも父親が機織りの事業を失敗して一家離散になった。
ただ事業失敗というときそれは20人に一人しか成功していないというとき珍しくはない
だからなんらかそういうことで回りにも影響してくる
連帯保証人で苦しみ自殺した人とかめずらしくないとかある。
だからこの事業失敗はめずらいことではないのかもしれない、それにしても自分の家の関係は事業失敗が多い、自分の父親自体が酒屋に勤めてその酒屋が倒産してもめたのであるこれほど事業失敗が家の関係にあることは自分もそのカルマを受けざる得なかったのかとなる

いづれにしろカルマは逃れられない、そのカルマを誰かに肩代わりもできない、長男、長女が一番受ける、もし肩代わりして誰かにそのカルマ肩代わりさせようとするとかえってカルマが重くなる。カルマは他人に責任転嫁できないのである。
借金とそれはにていたのである。借金もカルマを作ったことなのである。
その借金の肩代わりをしようとすることはできない、自分でその家族で負うほか払う他ないとなる
自分はこの十年で家族のカルマを負い清算したように思う、ただまだカルマが残っていることはある。
結婚の怖さは必ず結婚相手のカルマを背負うことになることにある。
それは60以降とかにそういうカルマが現れて苦しむことがあるのだ。
60以降は個人的にも家族的にもカルマの清算を強いられるからである。

カルマは地域的なものでも起きてくる、現実にこの辺では津波や原発事故でカルマを作ったからである。もともと津波でもこの辺では400年前に起きていたのである。
そのカルマが今になって現れたのである。だから地域的カルマとして津波のことをもっと知るべきだったのである。
地域的カルマというときとこに地の利がありいい面と悪い面に働く、雪国が嫌だなと思うときでもキャベツが雪の下であまくなるということがありいい面としても働いていたのである。青森では寒くてもリンゴがうまいとかいい面として働くから地域にもカルマがある
ともかくカルマの怖さは人類的なものとしてあり人間は生れたときみんなカルマを背負うことになる。そしてまた人間は新たなカルマを作るのである。

この辺では原発事故でプルトニウムが二万年も消えないというカルマを背負った。
カルマの恐ろしさがここにあった。子孫はそのカルマを背負わされたのである。
それは地域的だけではなく日本自体のカルマともなっていたのである。
20兆円も廃炉作業に税金がかかるということでもわかる。
そのカルマは簡単には消えないから怖いのである。
タグ:カルマ

2016年11月08日

人生はタイミング、チャンスは二度と来ない,時間ももどらない


人生はタイミング、チャンスは二度と来ない,時間ももどらない



1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 
2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 
3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、 
7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、 
8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。 

伝道の書(口語訳)は新共同訳聖書では「コヘレトの言葉」



人間は何でもタイミングである。植えるに時がるというときその時期を逃すと実りがなくなる。死ぬるに時があるというとき今では死期を医療で無理やり伸ばして苦しんでいる。その人にはそれぞれ死期がある。死ぬにも時期がある、もし死ぬ時期を逃すとただ無益であり苦しむだけだともなる。ただその時期は人によって違うからわからない。

何か植える時というとき、少年とか思春期とか青春時代は植える時であり最も大事なときだった。この時代を良く過ごした人はのちにも思い出となり残る。
自分は学校に適応できないからこの時代はいいものではなかった。
この若いときは必ず老年まで尾をくのである。この時はどうししても若気の至りになる
それがその時だけのことであり消えてしまうと思っているが消えないのである。
それがあとで大きな誤算だったことになる。

仕事でも新卒として大企業が採用するのはその会社になじむ、その会社に適合して仕事を覚えるのはその時期だからである。そこで仕事を覚えれば会社に適合させるから会社では新卒を採用する、それで一生が決められてしまうというときそれも若いとき一生が決められてしまうということである。
それはいいにしろ悪いにしろそうである。そんなことで一生を決められてたまるかと反発する人もいるのは当然である。
ただ30くらいまでに一生の方向が決まってしまう
そこから別な方向を目指すことはむずかしくなる、若いときはそんなことがあるか、時間などいくらでもある、暇で暇でしょうがないんだよな、時間がなくなることなど思う人は一人もいないのである。
実際は「光陰矢の如し」あっとういまに人生が終わったと最後はなる。

だから人間にとってタイミングが一番大事なのである。タイミングを逃すとそのチャンスは二度とこない゛チャンスなんかいくらでもある、一回失敗しても誤ってもまたやるチャンスはあるとか思う、それもあったとしてもタイミングと時間は人間にそんなに与えられていないのである。
学ぶにしても学ぶ時がありその時学ばないとあとでもう学べない、本などでもいくらでも読めるとか思ってもできない、ええ、これしか読めなかったのかと驚くのである。
みんな人生これで終わりかこれっぽちの人生かとなってしまうのである。

 焼き捨てて日記の灰のこれだけか 山頭火

こんなものになる、一生が若いときはとてつもなく長く感じられるが老人になるとあっというまに終わるとなる。その違いが大きいのである。
植えるときとは若いときだがその時を逃せばあとは学ぼうとしても学べないともなる
もちろん学ぶことはできても本でも厚い本などは読めなくなる、そしてくだらない本を読んでいたなと後悔するのである。こうして老人で悔いてない人はいないのである。
今になるともっと何かを学び何かをしていればいいと思ってもできない、これからいくらでも時間があるからできると思っていてもたちまち「光陰矢の如し」であり少年学成りがたしなのである。

どんな人生でも数回重要な決断がある、それもタイミングなのである。
自分のような平凡な人間でもそうだった、親元を離れ東京の大学に入ったこととかそうである。それは親元から離れるということで意味があった決断だった。
創価とかカルト宗教団体もやめたのも決断だった。師を否定して去ったのも決断だった。その時そうしていなければずるずるひきづられてしまうのである。
何しても無益なことはないこともいえる、なぜなら人間の経験する時間があまりにも短いからである。経験したことはやはり血となり肉となるからである。何か青春時代は一番事が起こりやすいのである。多くの人に出会うのもそうである。
あとは意外と人とも出会いがないのである。それもタイミングを逃しているのである。

タイミングというときあらゆることがタイミングなのである。株でも投資信託でもこれもまさにタイミングだった。買ったときの値段でもうけが決まる、わかりやすいのは為替の値段の差益である。110円の時買ったが100円に円安になり損になり回復するのに時間がかかる。もし100円の時買えば今なら105円とかから売れば即もうかるということなのである。それは株とか全模範に言えることなのである。

求道でも青春時代にしないとできない、宗教は老人になってからかえって傾倒する人が多いかがそれはまた違ったものである。
「若いとき、造り主を覚えよ」というときその時を逃したらできないのである。
そしてその時はチャンスは永遠にないし将来もないのである。
だから貴重な時間と数回のタイミングでチャンスをものにするかどうかで人生は決まる
チャンスも何回も来ないのである。人が困ったときたその時大きなチャンスなのである。その時ともかく動機が不純でも助ければ恩に着せておこうとでも思って助ければやはりチャンスをいかしたことになりその人に恩を着せてもそれは返してもらうことがありうるのだ。そういう動機ですら人間は活かしていないのである。
困っている人がいても何もしないしかえって自分のように苦しめられただけだともなる
津波でもそうだが火事場泥棒とかは常にそういうとき出てくる、自分もそういう目にあったからである。

要するに人間はいかに時間を無駄にしてチャンスを逃しているかということである。
誰にでもそういうチャンスは巡ってくるがそれを活かせないのである。
悪を成すチャンスもありその悪を成すことの方が多いともなる、善を成すチャンスが悪を成すチャンスになる。若いときは悪を成すことが多いのもそのためである。
いづれにしろあらゆることに国政とか経営とかそうした世俗の活動でもタイミングとチャンスをいかにものにするかなのである。
タイミングがあやまるとすべてが狂ってしまうのである。奇襲が大きな成功をおさめるのはやはりタイミングを活かすからである。でも逆にそのタイミングを誤るとその結果は惨たんたるものになる。でもそのタイミングにチャンスに賭けない限り勝利はないのである歴史でもそういうふうにいかにタイミングを活かすかチャンスを活かすかで勝敗が分かれるのである。

タイミングを活かしたものが歴史に名を残すともなる、義経であり信長であれ秀吉でもそうである。吉田松陰も明確ではないがやはりタイミングを明治維新の動乱に活かしたとなる。そうでなければただ作られたテロリストにはすぎないともならないだろう。
一方でいくら英雄になろうとしても時代が英雄を作るからなれない、三島由紀夫がそうだった。時代にぞぐわないタイミングが良くなかったから歴史には残らない、いくら無理しても英雄にはなりえない、どうしても時代をは越えられないのである。

原発事故にしたって事故の前にはもう戻らない、それでそれぞれが決断を強いられる,もう帰らないと決断した若い人もいるし人生が無理やり変えられてしまったのである。
それを嘆いてもどうにもならない、時間を元にもどすことができないからである。
戦争で300百万人死んで戦争がどうだったこうだったと今言ってもその時代はすぎたのであり時間をもどすわけにはいかない、ただ300百万人の死者の重みが後世に残されたし
原発事故だって一万年プルトニウムの毒が消えないというのもそうである。
一度起きたことは時間をもどして元にもどすことができないことが深刻なのである。
だから原発などは危険なのだからよほど慎重にして是非を考えるべきものだったのであるこれだけの甚大な被害が出てから遅いということである。
それはここの人生でも同じだったのである。

2016年09月13日

国レベルでもカルマの法則が成り立つ (他者であれ他国であれとばっちりを受けるのが怖い)


国レベルでもカルマの法則が成り立つ


(他者であれ他国であれとばっちりを受けるのが怖い)


カルマ(業)というとき個人→家族→小地域→国→大地域(アジア、ヨーロッパ、中東など)→人類となる
なぜ戦争が起きるのか、なぜ近代化した以降大規模な戦争が起きたのか?
今までにない多数の人が死なねばならなかったのか?

ソ連 2000万人
中国 1000万人
ポーランド 540万人
ドイツ 530万人
日本 290万人

ソ連は軍人の死者が多い、中国人は民間人が多い、ドイツや日本も軍人が多い。
なぜこれだけの人間が死なねばならなかったのか?
それには理由があったのか?ソ連はなぜ2000万人も死んだのだろうか?
中国は内戦の結果死んだ数も多いだろう。それから粛清があり死んだ
ポーランドはナチスの虐殺があった。

こういう大規模な戦争となるとやはりその大地域のまたは国のカルマが関係しているのかとなる、日本だったらアジアのカルマがありそのカルマを背負ったとかなる
ヨーロッパは複雑でありソ連もまた歴史的対立とかカルマがあり犠牲が大きかった。
第二次世界大戦は世界的カルマの総決算の様子を示していたのかもしれない
ハルマゲドン的な戦争だったのかもしれない、なぜなら人類的にこんな大きな戦争は経験していないからである。またこれだけの犠牲者を出したこともなかったからである。
国民国家が世界で生れたとき大規模な戦争に発展したのである。
だから日本の戦争の責任論でいろいろ言われるけど大局的にみると人類の業としてのハルマゲドンだったのかもしれない、日本はアジアと日本のカルマを背負い約300万人が死んだ。
ただアメリカはなぜこれらの国からすると犠牲者が少ない、ということはアメリカだけが人類的カルマを背負わない国だともなる、でもその後アメリカは戦争したのでありやがてそのカルマが返り何か大きな犠牲が出るかもしれない、その将来はわからないがアメリカのカルマも日本に原爆落としたようにかなり重いからである。
だからそれに見合うカルマを受けるかからもしれないのだ。カルマとは因果応報だからである。

なぜカルマを考えるよになったかというとここ十年の家族の介護やら自分の病気やらで自分がさんざんな目にあったからである。
それでこれは何なのだろうと考えざるをえなくなった。するとこれは自分のカルマであり家族のカルマだったのかとして納得する他ない、いくら相手を責めても自分が背負ったカルマ(業)だったのかと思う。
それは家族のカルマであったがまたカルマというとき必ずしもその本人家族だけでなくても他人のカルマも受ける、例えば犯罪は毎日起きているけどそのために苦しんでいるのは何なのだろうとなる、ある人はなぜ強盗が入り殺されたとかある、その家は金持ちであり家政婦を二人も雇っていたのである。でも家政婦は殺されない、主人が殺されたのである金をもっているが故にカルマをもちその人は殺されたとなる、金をないこともカルマであり苦しいが金を持ちすぎることも実際は怖いことなのである。

遺産争いがあり骨肉の争いがあり金があるところには権力をもつ所ではその奪い合いで争いになる、そういうことが自分にも起きたから怖かったとなる
他者のカルマも自分は受けたがこれも怖いことである。強盗だったら殺されている人もいるからその身になれば怖いことである。
必ず何か事件があり当事者でなくてもかならず親戚とか近くの人にとばっちりがゆく、隣が火事になれば自分の家も危険になる、だからこのとばっちりも怖いのである。
国でも北朝鮮のような国があると必ずとばっちりがあり何かの調子でミサイルが飛んでくる恐怖がある。他者のカルマを受けることは本当に怖いことなのである。

カルマを積まない人はいない、家族も地域も、国もカルマを積んでいる。
地域というときなぜ相馬藩内の地域に津波や原発事故が起きて人が住めなくなるほどの被害にあったのか?
これも地域のカルマがあったのだろう。原発となると別に相馬藩内だけではない東京も関係しているし国も関係しているし原発は世界中にあるのだから人類的カルマとして原発があるのだからここだけの問題ではない、カルマではない、でもここがカルマを具体的に受ける場となってしまった。
例えば飯館村などは原発とは関係していない、それなのにとばっちりを受けたのである。カルマの怖さは関係ないと見えてもそうした他者であれとばっちりをうけることなのである。
誰かが借金してそれが犯罪につながりその犠牲者になる人もいる。他者が借金したのが悪いといっても誰がそのためにとばっちりを受けるから怖いのである。

ただカルマというのは誰でもどの国でも地域でもありカルマを清算するとそのあと平和が訪れる、戦争の犠牲もそのあとに生れたものにはさほど影響しないしかえって日本はその後高度成長をすることになった。それで団塊の世代は恵まれた時代だったし自分も恵まれたのである。それは戦争でアジアの国のカルマを清算したからかもしれない
ただその犠牲者が300百万人だったからあまりにも大きかった。
でもその結果として日本はその後70年間は平和が保てて経済発展して今日にいたっているのである。
そして今度は戦後70年過ぎて今度はそのカルマを後の世に残すことになる、それもいい面と悪い面がある。膨大な借金を残したとか団塊の世代は経済的に得しているとか若者から批判を浴びるときそうである。団塊の世代もカルマを残し若い世代がそのカルマを受けているのである。
それが親でも必ずカルマを残しているのと同じである。
親のカルマで子供が必ず苦しむことになるのである。
親の因果が子に報いになるのである。

人間が生きることはカルマを背負い生きることである。すべてのカルマから解放されるのは死ぬときしかないだろう、カルマというときある人のカルマが重くある人のカルマは軽いとかもならないのかもしれない、なぜなら金持ちの家に生れて楽してもそれがいつまでつづくかわからない、ある時家が没落することも良くある、すると貧乏になると辛いことになる、もともと貧乏ならいいが金持ちから貧乏人になるのは辛いのである。
それが今貧乏人が増えたというとき中産階級が没落したとき言うときそれが起きているのである。物があふれているのにその物も買えないという餓鬼のような貧乏が起きている。戦後十年くらいは物そのものがない貧乏だったが物があふれていて買えない貧乏というのも辛いとなる、目の前にうまいものがいくらでもあるのに買えない食べられないというのも餓鬼地獄みたくなる

ともかくある時カルマを個人であれ家族であれ地域であれ国であれ清算するときがくる
その一つが大規模な戦争だったり何か国家的破産だったりする、日本だっていつまでも膨大な借金をかかえて成り立つのかとも言われるからだ。
何か借金でも積もり積もってどうにもならなくなり破産として清算される、その時国民は塗炭の苦しみを味わうのである。
借金している人はカルマにカルマを積みどうにもならなくり犯罪になったりするから怖いのである。国家的破産になるとこれも怖い、それは戦争にもるなからだ。
その突破口として戦争が選ばれるのである。
北朝鮮などが怖いのは破産したりするとミサイルを日本に打ち込んでくる、そういう非常に危ない国家である。近いか必ずそのとばっちりを受けるから怖いのである。
それは親戚に事業を失敗したとかなるとやはりとばっちりを受ける、何らか他者のとばっちりを受ける、それが怖いのである。それは国レベルでも同じなのである。

タグ:国のカルマ

2016年09月09日

的を得た行動のチャンスは若いとき一二回しかない (何に時間を費やしたかで決まる人生)


的を得た行動のチャンスは若いとき一二回しかない


(何に時間を費やしたかで決まる人生)


5分しか働かない奴よりも1時間働いた奴の方が偉いみたいな考え方の奴いるな 
その時間でどれだけのことをしたのかが重要なのに

人生80年の時代でもでは人生80年生きてその人が真に生きたかとなるとそうでもない
ただ芸術になると作品を作るのに時間がかかる、芸術家などの場合は長く時間をかけなければ作品は完成しない
ただ歴史的人物とかなるとその行動が別に長い時間をかけたからといって功績があったとはならない、だから明治維新で若者があれだけ活躍したのは時代でありその中で短い人生でも歴史的に大きな役割を果たしたとなる
坂本龍馬の真意は分からないにしても誇大化されるているにしても薩長同盟を成したことで歴史が動いたことは確かである。
歴史の中で一時でも的を得た行動すれば歴史が動かしたとなる、その判断は後世になってもむずかしくなる
当時を生きた人はいなくなってしまっているからである。

個々人の人生でも青春時代30歳くらいまでは行動の時代である。それは必ずエネルギーが悪い方に爆発して犯罪を犯すことにもなる、若気の至りでありそれが老年まで尾がひくとは思っていない、それで推理ドラマでは必ずその若気の至りのことが老年まで尾をひいてその罪が暴かれることがテーマになる
それはなかなか隠すことができなくなり暴露されるし良心的にも内面的に苦しむ
過去のことで亡霊が出てきて悩まされる、もちろん殺人したような人はとても刑罰を受けなくてもその亡霊から逃れることができないだろう。

結局自分も若気の至りがありカルト宗教団体などで貴重な時間を費やしてしまった。
ただ自分にとっては無駄だったとは言えない、要するに人生で経験することは最後はどんなことでも無駄なものはない、誤った行動でも無駄ではない、なぜなら人間が生きる時間が短すぎるからそうなるのだ。
もし人生が二百年とかなればそうはならない、二百年はあれば様々なことが経験できるからである。百年でも経験することは一個人では少ないのである。
だからどんな経験も無駄にはならない、なにかしらのたしになるようにできている

ただ的を得た行動は一生の間で一二回しかない、それは30歳まで青春時代に起きる、何かそのあとはだらだらとした延長である。
要するに野球でも9回ある間にそこで劇的なホームランとか一回くらいしかないのと同じである。人生でもホームランを打つの一回くらいしかないのである。
人生でチャンスはそうして一回くらいしかない、あとは何かだらだらと回を重ねてゆくのが多いのである。
自分にとっては東京の大学に故郷を出るということや大学で一年体育系の部に入ったとかそのあとカルト教団創価に入ったとか
次にまた放浪して家を出て死に目にあったとかある。普通の人はたいしたこでなくても自分にとっては体力もないから苦労だった。
この時は一番行動的な時代だったがあとは30年間は平凡だったし楽だったのである。 

ただ芸術とかの分野だとホームランとかは天才でないかぎりない、芸術でも学問でもこうした分野は積み重ねなのである。
そもそも学問というけどその分野はものすごく広い、本にしたって天文学的な量があり何を読んでいいかもわからないだろう、そしてまず百冊本を読めればいい方である。
そんなに人間は頭に入りきれないのである。すると知識的には限られたものになってしまう、あらゆることに詳しくなれる人間はいないのである。
インターネットととか通販がない時代だとどうしても田舎だと読みたい本、読むべき本が手に入らなかったことが不利だったのである
だから芸術とか学問などの分野は時間をかければかけるほど比例して成果を出すことができる、それは普通の人でもそうなのである。

いくら天才でもあらゆることに通じる人間などありえないからである。
人間はあることには詳しくなれるのである。
最近毛沢東のことを研究している女性は中国生れであり中学一年まで中国で過ごしたからこそあれだけ詳しくなった、日本軍に毛沢東が感謝していたというのも意外だったのである。
こういうことは雑学関係でもありうるのである。人生の時間を無益だとしてもある事を追求していたらその分野で一流となる、それはやはりそれだけの時間を費やしたとうことであり時間をそれに使ったということなのである。それは特別な才能でもないのである。
なぜなら結局何度も言うように人生は何に時間を使ったかで決まるのである。
それぞれの時間は限られている、あらゆることに時間をかけられないからである。

何か感性を磨くにしても俳句でも短歌でもそうだけど70年間生きたら季節のめぐりを経験して感性を磨き深めているのである。季語なども今でわからない季語、使わない季語が多いのである。それだけすべての季語に通じる時間が人間にはないということなのである。何か理解するにしても時間がかかる、だから退職して趣味として俳句でもやるかなとなるとそんなに簡単にはできない、その人にはそうした積み重ねがないからできないのである。
グローバル化すれば外国の一国でも理解することは時間がかかる、二カ国になったらさらに時間がかかる、これだけ世界が広がるとまた比例して時間が必要なのだが時間は限られているから理解できずに終わるのである。
そもそも日本の歴史となると相馬藩であれ福島県内であれそれが詳しく知るとなると相当な時間がかかり結局一部しか知らずに終わる
ましてや全国的な歴史となるともうお手上げだとなってしまうのである。

いづれにしろ的を得た行動は人生に一二回くらいしかない、チャンスもそうである。
カルト教団などで行動していたのは意味ないし行動とは言えない
人生を浪費するだけだとなる、戦争でもやはりそれが的を得た行動であったのか?
ただ強制されたものだけだったのか?カルト教団などで行動している人は強制されたものと同じであり奴隷として行動していたのである。
そういうところでは必ず個人崇拝となり偶像崇拝となっているからである。

人生はそもそも劇的なことはそんなにない、確かに戦争を経験した人は経験しないことを経験した、でも戦後はそんな劇的なことはない、やはり平凡な日常があっただけだとなる平凡な平和な日常がなければなんであれ実りなどない、戦争ばかり災害ばかりつづいているようなところでは何か芸術とか学問とかであれ実りなどありようがないのである。
だからここ十年は自分は非日常のことを介護であれ自分の病気であれ後を継ぐということであり津波や原発事故でも信じられない激動を生きたとなる
それまでの30年間は平和だったな楽だったなとつくづくふりかえるのである。

インターネットは何かマスメデアからすると馬鹿にされるけどいいことを言う人はいる
ただ今までそういう人はマスコミに取り上げられないから注目されなかっただけなのである。
こういうことを言う人は例えば仕事でも本当に有益な仕事をする人はだらだら時間をかけてはない、的を得て仕事をしている人である。それは大きな仕事するとき別に時間をかけない、何か営業でも大きな仕事を引き受ければ会社に大きな利益をもたらす、銀行でも証券会社でも一億とかを引き受ければ手数料だけでも一パーセントでも百万になるしそれが定期的に入ることにもなる、それが株とかの投資になるとその利益も大きくなるからだ。だから百万くらいの金を引き受けるより一億をもっている投資してくれ人と契約すれば
仕事の成果からすればそんな人に時間をかけても無駄だとなる

それはいい悪いは別にして計算的にはそうなる、それが仕事なのかという問題はあるにしても効率から考えればそうなる、時間をかけたからそれで成果が出せるとは限らないのである。
そもそも株とか投資のグローバル経済は大きな金を集める投資信託はそういうことで成り立っているからだ。
現代は時間の節約、効率化が極限まですすめられる、家でも組立式であり二週間で完成する、自分の家は昔の家は地元の人が半年もかけて作ったとかある。それだけ時間がかかっていたのである。インターネットでも何か通信でも知的作業でも効率化が前より計られている、文章を原稿で書いていたらそれを印刷して本のように全国に配達していたらいたら時間がかかるからである。今書いたものを即座に発信すれば一番効率的なのである。
こうして時間を節約できれば他に時間をさくこともできる、家事を全部してでもこれだけのことをプログで書いているからである。

2016年09月06日

なぜ学歴にそんなにこだわるのか? (プライドは認知症になっても消えない、人間の存在意義になるから)


なぜ学歴にそんなにこだわるのか?


(プライドは認知症になっても消えない、人間の存在意義になるから)

ニーチェは、「人間的な、あまりに人間的な」で、“病人への忠告”;『病人に忠告を与える者は、それが受け入れられようが、聞き捨てられようが、相手に対して一種の優越感を覚えるものだ

病人への忠告者は、病人を支配する優越感を楽しんでいる。忠告は言うなれば、婉曲な命令であり、人間にとってもっとも不愉快なことは、他人に支配されることだ。

福島市から来たボランティアの人のことを書いたけど福島高校出身で同窓会に行くと「お前は法政大学出だから恥だ」と言われると聞いた。
同世代くらいだとするとその頃第一大学に入るだけで相当恵まれていたはずである。
なぜなら団塊の世代となると中卒が半分であり集団就職の時代だったからである。
一クラスで大学に行けたの数人だった、自分は四人くらいだった。
自分は高校で授業についていけないし卒業もできないほどだった。でも三流でも大学に行けたのも不思議だとなる
今振り返ると自分は本当は相当に学問向きだったことがわかった。
ただ理系関係が苦手で学校嫌いと勉強嫌いになり大学でほとんど勉強していない。
結局自分はその後まともな職にもつかず遊んでいただけだとなる
ただどういうわけか二十代は相当に苦しんでいたのである。
それで30になるころもう相当に老け込んで老人に見えていたのである。
ただその後30代以降楽をした結果、体力も回復してこれまで生きてきた。
人間は何か苦労とか心労が重なるとふけこむ、60代の女性の人は苦労が多くて10歳は老けて見えるのである。
何かもの凄い津波とかでも苦労が心労が重なると一挙に白髪となり老け込むのが人間である。
これは別に苦労しなくても浦島太郎のように快楽にふけっいてもたちまちそれも消えて白髪の老人になっているのである
老人になるとそれが現実となりみんな愕然としているのである。

人間はなぜ学歴にこだわるのかというと人間はそもそもがプライドをもつことが人間の存在意義になっている、人と比べて自分が優秀だということを何であれ示したいのである。それが生きる意義である。それは体力でもそうでありスポーツ競技はまさにその優劣を競うものだし知的な分野でもあらゆる分野で他者と自分と比べて優れているということをプライドをもち競うのが人間なのである。
人間はどんな人もプライドももっている、もっていない人はいない、底辺で働く人でも掃除している人でもどんな人でもプライドはもっているのである。
そのプライドを傷つけられることが最も人を傷つけるのである。
金がなくてとか物質面で人と争うということがあるがプライドを傷つけられただけでも人を殺すということは普通にあるし戦争すら国と国のプライドの戦いなのである。
戦争に勝てば優越感をもてるし負ければ屈辱感をもつ
そしてプライドは認知症の人にも消えないのである。
そのことは福祉医療関係で書いてきた、実際に介護もしてきたので書いてきた
認知症の人はプライドを傷つけられると怒り暴力までになる
この人は馬鹿になったのだから馬鹿にされるけど家族に対しては自分はこの家で何々してきたとか盛んに言いそれが本当だから馬鹿だとは言えないのである。
人間は最後までプライドは消えないのである。ただ人一倍プライドが強い人はいる、自分の家族の一人は最後まで自分は優秀だと言って遺言のようにしてまで言って死んだ。
それはニーチエのように自分は超人だというプライドをもって狂人になったとにていたのである。
それまで人間はプライドをもつものである。

別に学歴だけではない、人間は何か他者と比べて優秀だということを示したいのである。80歳くらいの人なのか、自分に対してお前は年齢が低いから劣っているとあからさまに言うのにも驚いた。年齢で差別して優秀だとしている、でも80過ぎてから年齢など関係ないのである。老人の個々人を見ればその差は余りにも大きいのである。
老人になると今まで積み上げてきた生きてきたことが歴然と現れるからである。
ただ自分にしても自分より年齢が下になるとそういう傾向はある、でも60過ぎたら年齢は関係ないのである。
要するに学歴にこだわるというのは年齢にこだわるとか何か様々なもので差別して優越感にひたるものとして目安として機能しているのである。
社会に出てからは東大出も通用しないものは通用しない、だいたい仕事ができるかできないかで決まる、むしろ学歴ではない、職人だったら職人の腕がいいとかで評価は決まる
もし職人として腕がいいなら一流大学卒より上ということがある。
東大出でも仕事に使えないとしたら中卒より下とすらなるのが社会なのである。

大学出とかなると団塊の世代とか高度成長時代なら通用していた。まだ大学出が少ない時代だったからである。今や50パーセントとなるもう学歴は通用しない
会社でも一応目安にしても会社自体が昔と変わり終身雇用ではないとか学歴ではない会社で仕事できる人間を求めている、学歴を見ても仕事できるかどうかは決められない時代になっている。
もう一つはグローバル化して世界的競争になり日本が落ち目になっていることも影響している。何か特別優れた人、スキルをもつ人でないともう学歴だけでは通用しない時代に入っている。
だから文系になる何大学出たからなどでその人物を判断できないのである。


優越感をプライドをもつというとき奇妙なのだけど自分が病人になったとき自分に対して親戚の人は優越感をもって自分を奴隷のようにしようとしていたから悪質でありそれも人間の本性が現れたとなる、人間は弱いものに対して優越感をもつのである
それは病人だけではない、障害者でも知的障害者がいたとするとそんな人まで比べて優越感をもつのが人間なのである。
こいつはなんなのだ、人間じゃない、こんなやつが何でいるのだ、こんな奴は社会にいらない」
こうして知的障害者を介護していた人が19人も殺したというからなんなのだろうとなるがこれも相当に人間の屈折したプライドが関係していた。
お前らは人間の屑であり生きている資格もないとしたときそこに障害者に対して優越感をもっていることの故の犯罪だったのである。
お前らより俺は優秀だとなるがその若者は社会からの落ちこぼれでありそれがそんな屈折した感情をもって犯罪になった。

人間とは何か対してとにかくなんであれ優越感をもちたい

このことが強烈にあり消すことができないのである。それが人間の存在意義になるから消すことができないしそのために生きるともなる、何でもいい、今までは男女で女は劣っているとかなっていた。男女は能力で区別してもしょうがない、役割が違っているからである。
そして人間はだからこそ優越感をプライドももつとともに必ず劣等感をもっている
障害者を殺りくした犯人もやはり社会のおちこぼれであり劣等感をもっていて屈折した感情が犯罪になったともみれる。
ヒットラーなどでも画家になりたかったがなれなくて独裁者になったとか池田大作でも異常に学歴にこだわるのはやはり劣等感をもっていた。
麻原も目が見えないことで劣等感をもつとか劣等感が屈折して犯罪に結びつく

社会に対して恐ろしい牙を向きそういう人が権力をもつと自分のプライドを満たすために恐ろしいことして社会の大きな害悪となってゆく
そういう人が社会のトップに立ち権力をもつときそれに従わされる人々は奴隷にされるのである。
それは自分が弱者になってたとき病気になったとき責めてきて奴隷のようにしようとした奴と同じである。それが人間の本性なのである。
でも強者だったら権力者にはそういう人はへいこらしているだけである。
でもそれは権力に金があるとかで奴隷のようになっているというときそれもいつかは復讐される、権力をその人から奪って自分が上に立とうするからでありそのために人間社会には権力闘争が絶えないのである。

「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」」
マルコによる福音書10章43節

これが実行できない、自分が一番偉いものとして仕えさせたいというのが人間の本性なのである。そのためにこの世はまたブラックになっているのだ。
この世がブラックだというとき外部の社会を見ているが実は内部の闇、人間のそうした本性が改善されない限りブラックでありつづける
人に仕えさせるために人は日夜努力しているからでてある。人の上に立ちたくて勉強もする、下にいて人に仕えるために勉強したり努力する人がいるのかとなる
有能な人であれば余計に知的に劣るとなると馬鹿にする、それが現実の社会なのである。
だから福島高校で驚きは40人も東北大学に入っているとか仙台二校では90人も東北大学に入っていることで驚く、そういうレベルになると法政大学では恥だというのもわかる
でもそういう同級生も傲慢だと思う、学歴で差をつけるのは傲慢である。
別に卒業したら学歴ではその人を判断できない、どう生きてきたかが問題になる
いづれにしろ社会では学問とかではなく多能な能力が必要でありとても学歴だけではどうにもならないのである。
学校は人間の多様な能力を開花させるにはあまりにも不十分なのである。
別に中卒だろうがなんだろうが一人一人を見ればそれなりにいいものをもっている
またそれは悪いものともなるが人間の能力は実際は多様すぎるのである。
だから介護とかでも介護士とかでもやさしさをもつ人が向いている、それも能力である。建築現場になるとやはり体力が必要となるとそれも能力でありコミニケーション能力に優れている人もいるし芸術に向いている人もいるとかあまりにも多様なのである。

その多様性があってこそ人間であり男女がいるときそれはたがいにたりないものを補いあうものとしてある。どっちが優秀だとか差別するべきではなく、それぞれの能力で補いあうとすればそんな優劣感は生れないのである。
インターネットでは普通の人も発言しているがそれなりに様々な発言があって面白いとなる、テレビとかマスコミとかだと一方的に専門家だけが発言しているから洗脳されやすいだから自分はインターネットの発言を利用しているのである。
ただ2ちゃんねるとかなると表面的で一回限りであり面白い発言していてもそれを深化できない、意味を深められないのである。
プログの方が意味ある発言している人が多いがなかなか発見するのがむずかしいのが難である






タグ:学歴

2016年08月21日

過酷な人生は何のために 苦しめば相手の苦しみに同情する


過酷な人生は何のために


苦しめば相手の苦しみに同情する


人は誰しも母から生まれとき母の苦しみを通じて生れる
苦しみを通してすでにこの世に生れている
その後も親の生活の苦しみがあり子は育つ
戦争で苦しみ生き残りそして自分が育てられた
若いときすでに母は糸取りで十年働き苦労してた。
戦前はみんな貧乏であり苦しみ生きていた。
食べるものも粗末であった。沢庵と味噌汁が主でありあとは梅干しである。
そんなもので労働に耐えていた。
人の一生は結局苦しみなのだ。それから逃れることはできない

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし 家康

子供の頃から苦労していたからこうなった。人間に苦労は尽きることはないのだ
なぜなら人間は苦の存在だというとき病気にならない人がいないからである。
死もまねがれないから死なない限り苦から逃れることができない
苦というとき貧乏も苦だが病気は誰にでもなる、金持ちでも病人になったらただ苦があるだけなのである。
億万長者でも寝たきりになったりしたらその金も何の力もない、ただ歩けたらどれだけ幸せだろうとなるだけである。

ただ人間は人の苦はわからないのである。貧乏を経験していない人は貧乏がどういうものかわからない、実際今の時代の貧乏は戦後まもなくとか戦前の貧乏から比べると貧乏とも言えない、時々貧乏を話題にするけどそれはみんな貧乏を知らないから珍しいものとして貧乏を話題にする、だから何か極端であり実際で学生の貧乏を話題にしたのがやらせだったのであ。実際はぜいたくしていたのである。
現代の貧乏は何かそういうことが多いからそのままに話題にしても特にマスコミで話題にしても信じられないとなる
今では生活保護者でも食べ物だけはぜいたくしている、自分よりぜいたくしている、サシミを生きのいい店で買っている、スーパーでは買わないのである。
自分の父親は明治生れで貧乏のままに終わった、最後の方で豊かになったが病気になりサシミを食えるようになったが食いたくないと言って死んだ
病気になったらどんなうまいものでも食欲がないのだから食べたくないとなる

自分は介護のとき病気でありその病気のとき借金だとなんだと犯罪にあったり苦しめられたの辛かった。でも病気でもやはり責められたり苦しめられたりすることがある

「病」としては、大別して「瘡(かさ=梅毒)」と「労咳(肺結核)」でしたが、働きが良かった(客を大勢取った)遊女は、その妓楼の別宅で養生させてもらえましたが、大部分の遊女は、微熱があろうと、喀血をしながらも、多くの客を取らされました。
そして、いよいよ「ダメだな」となると、妓楼内の日当たりも良くない、薄暗い納戸のようなところへ閉じ込められ、食事もほとんど与えられずに遊女の「死」を待つだけでした。
遊女が死ぬと、腰巻一枚の丸裸にして、菰(こも)に包んで銭200文を付けて「投げ込み寺」へ。
寺では、「総墓」と呼ばれる大きな穴に投げ込み、簡単なお経を読んで供養を済ませました。
従って、小石川養生所などはもとより、医者にかかることさえできませんでした。

遊女も借金のカタにとられてこんなに悲惨に死んだのかとなる、借金というのは江戸時代でも過酷であり江戸時代の暗黒面をここにみる。
今だったら自分でも病気ということが免罪符になる、生活保護も軽いものでも精神が病んだとでも受けられるし、身体の障害者でも特別かえって保護されて同情される
それが特権までなっている。それが現代の恵まれている点である。
自分も常に介護とか病気で思ったことが自分は病気なのになぜこんなに責められるのかということだった
それでこれは自分より悲惨だったなと同情した。結局苦しむことはそうした過去の人でも苦しんだ人に同情することになる、苦しむことで他者にを同情するということはある。

ある女性と話したら貧乏な人がいるんですよと話したらそんな話したくない、そんな人はいないよと言っていた、その人は貧乏な人と接しないから自分が貧乏を経験しないからそう言っているのだ。自分も前はそうだった。自分が苦しんだ結果そういう人の苦しみがわかり同情するようになった。
人間の苦しみはその人が苦しんでみないかぎりわからないのである。
なぜそういう遊女に同情がなかったのか?
当時はやはりみんなが貧乏であり同情しても借金も払えないからそうなった。
まだ逆にそういう過酷な非情な目にあいつづけると人間は非情になる
全く同情しない人間にもなる、心が歪んでしまうい冷酷になる
だから人間あまりにも過酷なことには苦しみには耐えられないのである。


ともかく喀血しながら客をとるというのは悲惨である。それも同情されないのである。
自分もこれよりは楽だったとなるが同情されないということでは同じだった。
だからどうしても比べるのもどうかと思うが津波ではない原発避難者は確かに部屋は狭いけど楽だなと見えるのである。
江戸時代と現代は比べようがないにしろこんな悲惨なことが借金のためにあった
だいたい今の借金している人は何か病気のためとかは少ないだろう
見栄をはる、贅沢をする、ギャンブルするそれがやめられなくて借金する人も多い
そして自分が苦しいとき借金で責めてくる、そんな人が何なのだとなる
原発避難者もギャンブルとパチンコ屋通いになったのそうである。
現代の苦しみは個々に事情があってもそれほどの苦しみとは言えない場合が多いのである
江戸時代は病気になってもまともに医者にかかれる人は少ない、そして医療も発達していないからまともな医療は受けられないから病気になったら死んでゆくのが多いとなる
一方逆に現代は医療過剰で胃ろうまでして胃に穴あけてまで栄養をやり活かしている
このことも実際は地獄的な苦痛なのである。苦しみを与えるために生かしているということにもなっている、これもまた成す術もなく苦しんで死んだ者が多い江戸時代と比べると奇妙だとなる。同じように苦しみを与えていることは間違いないからである。
現代の医療が作り出した苦しみなのである。

いづれにしろ他人の苦しみがわるというとき自分も苦しんでみないとわからない、貧乏な人の苦労をわかるのには自らも貧乏にならないとわからない
現代では本当の貧乏がないから装う貧乏になっているのである。
現代人はそれだけ贅沢なことが当たり前でありそれになれているからちょっとした不便でも貧乏でも耐えられないとなる、貧乏といっても昔からすると相当に贅沢しているからである。

自分はなぜ病気なのに責められたのか、その弱さにつけこまれたのか、そのことが憤りになっている、でも江戸時代の遊女はどんな気持ちで死んでいったのだろうか?
病気でも同情されない、ただ借金を払うために物ののように使われて死んでゆく
江戸時代は義理人情の世界というけどここに一番の暗黒があった。
ここには人情がなかったのかとなる、ただそれぞれの事情がありその当時だと白いご飯が食べられるといい着物が着られるとか当時の価値観ではあった。何かしらそうした地獄でもその当時にしたら人間的なものがあり救いはあったとなる
今は贅沢するために借金してそれで同情しろというのは無理である。ただ現代ではそういう人が多いのである。
これとにたことは現代でも貧乏な国で起きている
目をおおうようなことをdarkness duaのプログで話題にしている、だから昔あったことは今もやはりあることはある。ただその事情は違っている

「なぜこんなに苦しんで死ぬだけなのか」

その不条理に泣いて死んでいった。その人生の過酷さは何であったのかとなる。そこになんらかの慰めがあったのかとなる、その恨みは相当に深いと思うからだ。




タグ:過酷な人生

2016年08月17日

借金している人の心が悪魔に変身する怖さ


借金している人の心が悪魔に変身する怖さ

借金している人の怖さ


前のつづきだけど今日深層ニュースで芸能人のカンニング竹山という人が借金の体験を言っていた。
そのことで一番生々しく感じたのが借金していると強盗とかしているニュースあるけどあれもありかなあってもいいなとかなっている怖さである。
昼も夜も心が晴れない、借金の重さで心が晴れない、四六時中借金のことしか頭になく
夢の中まで借金のことを考えている
借金を返すまで青空を見ても心が晴れなかったが返してはじめて晴々とした青空を感じたという。

借金をしている人の心理がどうなっているのかわかる。
借金したことによりその心が悪魔に変身しているのだ。
これは自分が体験したから本当に怖い
その時自分は自分の病気から介護で苦しんでいたからである
そしてお前は身寄りがないからどうだこうだと責めてきたのである。
世話してやるからどうだとかなんとかそれも借金を返すために自分から借金するためだった。

相手は借金のために強盗とかのニュースを見てそれもありかなと思ったということが怖いのである。たいがい借金している人が犯罪の動機なのが多いのである。
借金に追い詰められて殺人までになる、それはドラマだけではない、現実の社会で常に起きていることだから怖い、自分が借金しなくても親戚であれ友達であれそういう人が来たら怖いとなるからだ。
自分が特に病気であり介護としなければならず助けがないときだったから怖かった。
借金をするために脅迫されていたのである。

つまり借金の怖さはその心が悪魔に変身する、相手のことなど同情するもなにもない
こいつが死ねばこいつには身寄りがないから金が入るなとかまで思っていたのである。
まさにこの人の心は借金に追い詰められて実際は犯罪者になっていたのである。
だから人間はつくづく恐ろしいと思った。
今でもその恐怖は消えないのである。その額が十万とかならいい、底辺層はそういう借金で苦しんでいるのである。
それが事業失敗したとなると百万など軽く要求するし10億あってもたりないだろう
なぜならそんな人に金貸していたらいくらでも要求されるからである。
お前をめんどうみてやるから金を貸せとか上から目線で恐喝していた
その人は別に若いときは悪い人ではない、頭がいい、いい人だと知っている人は言っていた。でも人間は変わるのだ。同級生でもまるで人間が変わってしまったという顔まで変わってしまということを言う人がいる

この世を生きるということは人間が悪魔にもなるということである。
そういうふうに金とがで追い詰められる、借金で追い詰められると悪魔に変身するのだ。
その時に火事場泥棒のようになり大金を失ったのもそうである。こんな人間が近くにいるのかというのも恐怖になった。
ただそういうことも今ふりかえると親が残したカルマだったということであきらめた。
金をめぐる問題も親が遺産の場合は深くかかわっているのである。
そのカルマを受けたのがいい面でも悪い面でも自分だったのである。
借金することの怖さはこのように人間の心が悪魔に変身するという怖さである。
心が借金のために晴れることがない、四六時中寝ても借金のことを考える
そして強盗した人のニュースを見てそれもありかなという怖さである。
人間がすでに心に思うことが実行に移される、誰かを殺したいと思えばそれが心で思った時、すでに実行しているのである。
だから宗教ではそうしたこと思っただけで罪になるのである。


津波でも原発事故でもその前に起きた自分の一身上のことでも信じられないことの連続だったのである。だからこれは一体何なのだろうと今でも思う
そんな人が自分の所に来たという因縁は何なのだろうとなる
それは親から受け継いだカルマだったのである。
親から必ずカルマを受け継ぐ、いい面と悪い面で受け継ぐのである。
ともかくこれだけの恐怖を与えたのだからその人も恐怖が与えられる
それもカルマなのである。恐怖を与えたものは恐怖が与えられるのである。
相手はどれだけ自分が恐怖したか借金しているから全く感じない
ただひたすら借金をして借金を返したいということしかない
だから自分が死ねば金が入るかもしれないとまで思うようになった
つまりそのときすでに殺意があり殺人者になっていたから怖いのである。
ただ相手は何にも感じていない、借金のことしか頭にないからである。
もう何も見えないのである。相手が人間であることも見えない
相手が金にしか見えなくなっている怖さなのである。

タグ:借金

2016年08月07日

借金している人の怖さ (弱みにつけこまれ借金を要求される)



借金している人の怖さ


(弱みにつけこまれ借金を要求される)


今までの古い考え方や価値観、生活様式など、それに固執しているとなかなか借金問題の確信にせまる事は出来ません。要するに、今までの自分を手放せずにいるんです。



自分が借金に苦しんだわけではない、他人の借金に苦しみ借金を考えるようになった。
人間はかわいそうな人には同情すべきだということを盛んに言う。
では本当に同情すべき人なのか?何に同情すべきなのかわからないことが多い
この辺で起きたことがそうだった、津波の被害にあった人でも家族を亡くした人、家を亡くした人、原発事故で避難してきた人、それぞれ事情が違っていた。
一番わかりやすいのは津波の被害者だった。原発事故の避難者は最初は同情したけどあとからあんなに補償金もらっていたのと見方が変わった
なぜなら自分もその時、病気だ介護だと苦しんでいたからである。
原発の避難者だけが特別かわいそうだと同情されたけど避難してきた回りの人も苦しんでいた人はいたが同情もされなかったのである。

普通は家族で苦しんでいても同情はされないし放置されているのである。
だから同情するというとき相手が本当に同情されるべきものなのか?
かえって原発避難者は毎日パチンコだ、風俗とかまで遠くに遊んでいた人が全部ではないにしろいたのである。そんな人が同情されるべきだったのかとなる。
むしろ補償金で金がたまって喜んでいた人も多いのである。それは普通は手にしない大金をもらったからである。
そんなに同情するなら避難してきた回りの人たちにも目を向けてくれたらいいだろうとも思った。そして最初の二年くらいは何かわからないからしかたないにしろなぜ回りの人にも避難者自体が遊んでいるのだから目を向けないのかと今では思う
自分も同情されるべきだったが全く同情されない、介護とかで苦しんでいる人はそんな家族でやれしかないのである。

自分の親戚の人は前の代から関係があった。病気の時世話したこともあった。だから恩義を感じて何もしないということでない多少は助けてくれた。そのことには感謝しているし金としてお礼もした
しかしその人はどのくらいの借金をしているかわからない、事業をしていたのだからその額は大きいだろう、でも借金というとき500万以下が多くそれでも月に5,6万とか利子を払い続けて5年くらいかかるというときそれは相当な負担である。
だから借金は割に合わないことなのである。
それでもあえて借金するのはやむにやまれぬことがあるのだろう
第一病気になったりしたどうにもならないしそういう事情を知ればその借金でもそういうことかと同情する

問題は借金した事情にある、その人は普通の人より贅沢していた、なぜなら自分は事業で成功していたと外にも言っていたし家族に言っていたし家族すら借金していることを知らなかったのである。そして確かにむずかしい一級の免許をもっていたからあの人は頭のいい人として回りを見ていたのである。そして見栄を張る生活をしていた。
そういうふうに回りから頭がいいとか事業の成功者だとか見られていたがその内実は借金でやりくりしていたのである。
だから借金を解決するにまずこの人は解決できない、自分は頭がいい成功者でありそれも世間に認められている、とても事業の失敗者だとなるわけにはいかない、それをとりつくろうために借金していたのである。
それも別に自分と関係ないならいい、自分がそのために苦しんだからこうして自分を苦しめたものへの怒りともなる。

なぜなら病気と介護の時、恐喝まがいのことをされてきたからである。
病院に入院するのに保証人が必要だとかいろいろなものが自分に兄弟もないからそうなった。それをいいことに弱みにつけこんで借金をしようとしてきたのである。
その額も十万とかなら何も言わない、軽く百万からさらに大きくなる、それは限度がなくなる、一千万でもそれ以上要求するだろう。
事業している人の借金は大きいからである。ただ自分は弱みをもっていたから何も言えなかった。その人の親の代では自分の家ではかなり世話したのである
そのことはもう関係なくなっていた。
第一そんなことより借金している人に恩返すとか何か同情するとか余裕がないのである。いかにして借金を返すしか頭になくなる、それで推理ドラマでは必ず犯罪の動機が借金である。借金があるかどうか調べるのである。
借金していること自体すでに犯罪者になっているのである。
それが借金の恐ろしさである。

だからこそ相手のことなどかまわない、この際弱みにつけこんで借金を要求すれば通るとなる、それで自分は恐怖して手を切ろうとしたが病気のこともありできなかった。
ただ相手は全くそんなことを感じていない、借金のことが頭が一杯であり他人のことなど考える余裕もないのである。借金した人には恩も義理もなにもなくなる、モラルが崩壊するから怖いのである。
意外と人間は弱者のことがわからないのである。もちろん相手も借金しているのだから弱者だった。大金を盗まれたとことも相手が追い詰められていたからだともなる。
弱者が弱者を襲うというとき襲い安いからである。相手が健康で強面の人だったら簡単にできない、あとが怖いとなるからである。
弱者は襲い安いから弱者が弱者を襲う犯罪が多いのである。

その人は実際はプログで書いていた人のように借金は返せるのだが返せない
なぜならそもそもの生活を変えないからである。自分は頭が良くて事業も成功している
それも世間に認められている、それを維持する生活を変えない、同じように見栄を張る生活をしている、車もいい車を使っているとかなる
節約することもない、でも現実はパチンコ屋で妻が働いているとかそれなり過酷だとなるしそういう生活がつづくのかとなる、いづれはそんなことをしていたら破綻するだろう。そういうことは自分たちだけの問題ならいい、回りの人に借金を要求して迷惑をかける
そんな見栄を維持するために金を貸す方もやりきれないんとなるだろう。
だからその人には金を貸すべきではないのである。ただ自分は弱みをにつけこまれたらしかたなかったとなる

要するにこういう人には何を言っても無駄なのだろう。現実でしか理解できないのである借金取りが家におしかけるとか家までとられるとか何か極端なことにならないかぎり理解しない、できないのである。
また誰からか借金すればいいくらいにしか考えないからである。
そして相手の弱みにつけ込むような奴だからそんな奴とつきあっていることは危険になるし一緒に事業をするのも危険だと思う。
そもそもその人は頭がいいとして事業者としてふさわしくない人だったのである。
自分の家の因縁としてなぜか母方も事業に失敗して一家離散になり辛酸をなめた。
父方も二つの家の親戚も事業に失敗した。
そういうカルマがあるのか?それとも二十人一人しか事業に成功しないというときそれだけ事業に失敗する人が多いということなのか?

いづれにしろカルマは実際に現実として現れないかぎり自覚できない、何でこんなに苦しむのだと言うときカルマを考える、何もなければ考えないのである。
人はともかくこうして弱者の時に苦しめられたことは忘れることはできないのである。
それで間違っていても反日がやまないのはそのためである。
こういう恨みは深く潜行して晴れることがないのである。
ただ自分は世間知らずでありそれが世間だと言うことを今ころ知ったともなる
人間の現実はあらゆるものがブラックなのである。
それは利益とかかわり金とかかわりブラックと化してゆく、それはどこでも起きている問題である。


人間は直接被害を受けない限り他者のことを真剣に考えない
犯罪でも毎日起きているけど自分に被害なければ他人ごとになる
でも一旦自分の身に及んだらはそうはならない
相手のことを真剣に考えるようになる
例えば北朝鮮からのミサイルが日本海に落ちているうちはいい、現実に日本の国内に落ちたら北朝鮮はもうをとでもいいとはならない
北朝鮮のことを深刻に考えて対処するようになる
直接被害者になるとき人間は相手のことを真剣に考える
北朝鮮が挑発しているのはそのためだという人もいる
「俺たちのことを忘れてくれるなよ、お前らに被害を及ぶことをな」
犯罪者にも同じような主張がある、犯罪によって自分の存在を知らしめるということである。それが例え間違っていてもそうなのである
でなければ世間は無関心だからである。テロもそうして関心を引くために起きているのである。

タグ:借金

2016年08月04日

金に人々の感情がこもりカルマとなる (親の因果は子に報いはさけられないカルマである。)


金に人々の感情がこもりカルマとなる


(親の因果は子に報いはさけられないカルマである。)

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金にも色がある、ただ同じ一万なのだからそれを見分けることができない
笑っている一万なのか、悲しんでいる一万なのか?



相続、保険、土地や不動産の売却など、まとまったお金が入ってくる時、とくに注意が必要です。

過去にそのお金を支払った人、受け取った人、貯めた人のネガティブなカルマが、お金と一緒にまとめて流れてくる可能性があるからです

Aさんは、生命保険の受取人になっていた為、先日、保険会社から、少しまとまったお金が振り込まれました。

同じ時期、飼っていた犬が病気になり、娘さんが、階段から転んで骨折するという出来事が起こりました。

宝くじで1億円手に入れる為には、
宝くじを購入して外れた人達のネガティブな感情の総和、
おそらく何十億円分のネガティブな感情が流れてきても

ここのプログでは金のことをカルマで説明しているからわかりやすい。カルマというときいろいろ複雑でわかりにくいのである。
でも金の貸し借りとかなると具体的にカルマが関係していることがわかる
百円にも百円のカルマとなって現れる。
人生はカルマから読み解くと何か複雑な不可解な人生が解かれるような気分になることは確かなのである。
人間には何か不可解なことが多すぎるからだ。

ではなぜそうなるのかととうときその明確な答えがないのである。
いろいろな事件が毎日のように起きている,ではなぜその人が犯罪にあうのか?
なぜ殺されたりするのだろうか?そんなことが偶然に起きるのか?
この世に起きることは偶然なのかという深刻な問題がある。
このカルマを考えるようになったのは自分に起きたことからである。
なぜこんな苦しみにあうのだろうかということで悩んだからである。
十年間自分に起きたことをプログで書いてきたけど本当になぜ自分がこんな苦しみ合わねばならなかったのか問いつづけたのである。

その大きな原因が親の因果が子に報いであった。カルマはどんなことしても親と密接かかわる。親の因果が子に報いるというのはさけられない。
いい面も悪い面も受ける、その悪い面を受けたためにこれほど自分は苦しんだのである。ここに書いてあるようにまとまった金が遺産として入ってきたときから問題が起きた。
親が残した金がどういうものだったのか問題になる。
人を苦しめて残した金にはその苦しめた人たちのネガティブなマイナスの感情がその金についている。ブラック会社で働かしてもうけたような人たちがそうである。
半年も飲食店で働いたのに給料をもらいなかったとするとそのもらえなかった人の怒りは大きかった。その感情がその店にカルマとしてのしかかる。
だからそういう店が会社がとても長く繁盛するように思えないのである。
一方で従業員と会社の社長でも幹部でも一致協力して働くような場合は繁盛する

自分が家族の二人の介護から死までに様々な苦難を味わったのはなぜだったのか?
それは親のカルマをいい面と悪い面でひきついだからである。
こういうときやはり大きな事件が起きるというのもそうだった。
何か大きな金、遺産相続のような時にカルマが具体的に現れるからである。
別に自分の家に残された金はブラック企業でもうけたようなものではなかった。
こつこつ働いて残されたものではある。ただ一方で一人は公務員であり公務員は何かと金では得したということがあった。
そういう金が遺産で入ってきたのである。そこでその金をめぐって大金を盗まれたとか借金を要求されたとか起きた、今でもやはりその金のことで問題は継続しているのである。金には確かにネガティブな感情のこもったものとポジティブな感情の籠もったものがあるということを解説している。ただ金というのは本当に人間関係の中で複雑なのである。

テレビのドラマで浪人が遊女が病気になり見受けするとかで5両を借りて支払った
その浪人には金はなく用心棒となり殺人まで請け負ったのである。
その殺人を請け負った者は悪い奴だった。でも5両をもらったから裏切ることができなかった。それで5両を他からもらったときそれを返して悪人を征伐した。
そもそも人間は金もないのに人を助けることなどできないのだからするべきではないという見方もある。一方でそれがどんな金でも人を助けたからいいではないかという意見もある。このことだっていかに金にまつわることが複雑になっているかわかる
ネガティブな感情のこもった金は受け取らない方がいいというときその金を受け取ることにより災いを生むからである。
遺産にはそういうことが具体的に現れやすいのである。
自分したわけではないが親がそうして受け取った金があったときそれは必ず子に報える
親の因果が子に報うになることは確かなのである。親のカルマを具体的に金で受けるのである。
だからカルマ論からすれば人に起きることはカルマから解けば何か納得するのである。
ただ例外もあり不可解なものがありすべては解けない、それは人間の限界なのである。
神がなんらかでかかわっているということもあるからだ。

金はだから簡単に遺産でも本当は受け取ることは危険がある。何か濡れて粟のように受け取る金にはネガティブな感情があり危険だとなる、その金で災いが起きてくるという怖さが現実にあるし経験している人は多いのである。
この世の中のことを金をめぐって起きることがほとんである。これだけははっきりしている。ということは金について無知でいることもできないし金にどう対処するのかを知らないとひどい目にあうとういことである。
自分は否が応でもそれを身をもって体験させられた、苦しみを受けたからである。
遺産として入った金はそれほど大きくなくてもなんらかそういうネガティブなものがあったのだろう。それで奪われたり借金を要求されたりしたのである。

事業に失敗したような多額の借金をした人がなぜ自分の家の親戚だったのかともなる。
そんな人は助けようも何もできない、毎日パチンコ屋で働いて奴隷化されるていた人が
何もできない、そんな人ばかり来たということが親の因果が子に報いだともなる
そしてまこの辺で起きたことは津波であれ原発事故であれこれもカルマだった。
原発事故の補償金でもめて南相馬市では分裂した、一見暇なのだからパチンコしてもいいではないかという意見もある。
でもその人たちは避難してきたけどその避難した人でも自分でも苦しんでいた人がいたのである。
でも避難民だけが何でも優先になりかわいそうだかわいそうだと外から援助されていたのである。
もちろん避難民でも津波の被害者とか原発事故の被害者とかいろいろいる。
その事情は違っているからいちがいには言えない
でも避難した人たちのみがかわいそうだとか援助されるべきだということが余りにも強く主張されたのである。別に仮設でもかえって長屋のように親しくなり悪いものではなかったという人もいるからである。そのことで南相馬市は感情的しこりが残ったのである。
つまりここでも金が何でもいいものとして働くとは限らない、その金に感情がこもるからだとなる
もしその金でもうまく配分できればこうはならなかった、でも補償するにも限度があるからとてもみんなが満足するとはならなかったのである。


金を使うというとき国のレベルでも使うときオリンピックでもそんなに金を使っていいのかということで東京都知事選挙があり問題になった。
本当にそもそもオリンピックを開くことを国民が心から賛成しているのか?民意なのかというと疑問なのである。オリンピックに関心がないというのが50パーセントもいるからだこれは前の東京オリンピックとは心情的に違ったものとなっているのだ。
オリンピックはゼネコンとか都議会の議員やスポーツ関係の会社の宣伝の場だとか利権化している。その金をめぐってもネガティブな感情が強くなっている
だからこそ金の問題が大きくクローズアップされている、他にいくらでも金は使う所があるということである。そういう金に対する感情を問題にすべきなのである。
国民が心から賛同しないものに金を使うべきではないのである。
オリンピックはただ会社とか議員とか官僚やマスコミの利権となっているから賛同できないのである。

いづれにしろ宝くじであたったような人ははずれた人がその十万倍もいるとしたらその十万人のネガティブな感情を受けることになる、なんであいつだけあたったのだとなるからだ。それで宝くじにあたった人は災いが起きるというのもそのためである。
政治の場でも巨額の金が動くがそれは国民の税金でありサラリーマンにしたらどういう気持ちでその税金を払っているかとなる。わずかな給料から税金をひかれる気持ちを知らないとその税金を無駄に使うとなると政治家も官僚も許されない
金というのがどういうふうにして得て使うということが一番の日々の生活で問題になっているのである。
だから金は金としていちいちそれがどんな金なのかどんな感情がこもっているかなど詮索しない感じないということも問題なのである。
金というのはだからグローバル経済になると今度は世界的に金がどういう金なのか問題になる、世界の富を数パーセントの金持ちがもっていること自体、どれだけ世界から搾取して得た金なのか?それを放置していたら搾取された人が黙ってはいない、反乱になりそうした金持ちは革命で殺されるまでになる。
金にはそういう怖さがある。金があればいいというのはわかるが何かそうした金にまつわるものを感じないということは危険なのである。
結果的にその金をめぐってカルマがめぐり自分でもそうだが苦しみを受けることは確かなのである。





タグ:金のカルマ

2016年06月28日

女性が貧乏底辺化する原因 人間の幸不幸は最後までわからない



女性が貧乏底辺化する原因


人間の幸不幸は最後までわからない


●夫に恵まれない

●離婚している

●容姿が悪い

●その人の資質

●実家とか資産や遺産がない

●子供に恵まれない


女性が幸不幸になる原因は何か?女性の場合どうしても容姿とかが大きく作用しているだろう。女性で見た目が良いといい男性とめぐりあう度合いが大きくなる
自分は人と接していないから実際はそういう方面ではうとい
ただ最近知った女性をみるとこの条件があてはまっているように見える
女性はやはり夫に恵まれないと貧乏になり底辺化しやすい
それは容姿が大きく関係しているかもしれない、自分のあった女性は容姿が良くない
そして離婚している、ともかく現代は離婚している人が本当に多い
三分の一は離婚している、戦前などは離婚しても離婚できない、生活できないからであるだから人間はそもそも他人が一緒になれば離婚も増える
離婚してすぐ生活保護を受けていた人もいた。子供がいたので女性は生活保護を受けやすい、これも離婚を促進しているのだろう。
今は女性はいろいろと社会的にも援助されるからである。

人間は貧乏になるというときその人の資質が関係している。それは学歴とかも関係ない、その人の資質が大きく関係している、人間は頭脳でも体力でもそもそも差が大きいのである、自分などは体力も頭脳もだめだった。だから普通であれば底辺化していた。
ただ自分が恵まれたのは家族に恵まれたから底辺化しなかっただけである。
家に資産があるとか金持ちだと資質が悪くても底辺化しない
まず学歴があっても東大出ても高卒の方が仕事ができるとかあり現実の社会で活躍できるかはその人の資質なのである。

近くのトラック運転手は若いときに家を建てた。30代で建てた、なぜできたかというとトラックは一台運んでいくらと歩合制である。それを人よりも多く運んだから金をためた。ただその時は高度成長時代であり給料も常に上がっていた時代である。
その時は事業をしてもたいがいうまくいっていた時代なのである。
その人は何か人を指導する親分肌の人ということもあり会社で上に立つようになった。
それはその人の資質なのである。もう一人同じ仕事でも働いても役にたたず生活保護になった。どんな仕事でも資質がないとものにならない、大工とかでも何でもそうである
男は仕事ができるということは資質なのだろう。女性は容姿が大きく作用する

女性の場合はまた生んだ子供にも幸不幸が作用する、その人は障害者をもったことで子供にも苦労した。他の人をみると子供が事業して贅沢な暮らしをしているとかある。
頭のいい子が生れるといい所に就職すると親は楽になるし贅沢もできる
現代はできの悪い子が生れるとその影響も大きい、ニートなどがどこにでもいて増えているからである。するといつまでも子供の世話をせざるをえなくなるのである。
その人が底辺化したのは上に書いたことがみんなあてはまっていたのである。
ただその女性の資質をみると悪くはない、考え方がしっかりしているし体は丈夫だし資質が悪くはない、ただ容姿は悪い、太っていて不細工で若いときだと嫌だとはなっていただろう。ただ精神的な面を見るとしっかりしているのである。
女性でも容姿が良くても精神的薄弱な人が結構いる、そういう人は苦難に弱い、苦難をのりきれないことがあるだろう。自分もそうだが社会的適応性がないとなる
その女性はとにかく人に頼むことやたよることがうまい、交渉力がある。
女性だからとはなるがそれだけでもない、だから男性には好かれるタイプのように見えるでも容姿が悪いから若かったら嫌だとなってしまう。

その人は飲食店で働いていたが給料を半年分もらいなかった。そこは元暴力団員とかが関係していた。要するに飲食業にはブラックが多いというときそうだった。
給料未払いというのもそういう所にはあるのだろう。
そういう底辺にはブラックが多いのである。今だと派遣とかかそうである。底辺化することはブラックな所で働かせられるということでもある
そしてブラックな所を転々とするということがありぬけられないのである。
その女性は底辺化する条件がみんなあてはまっていた。ただ資質として容姿が悪くても精神的には悪いとはなっていない、心がひどく曲がってしまった女性もいるがそうはなっていないのである。


ただつくづく人間の幸不幸はわからない、女性で容姿が悪いから必ず不幸になるとも限らない、美人だから幸福になるとも限らない、あんな美人で結婚してすぐに乳ガンになった芸能人がいたりいろいろある。人間は最後になるまで何が幸不幸かわからないのである。幸福の原因と思えたもが不幸の原因にもなったりする、金持ちの姉妹が餓死したとかいろいろあるだろう。老人になるとそのカルマが結果として現れる
つまり幸福の原因が不幸になる原因だったともなる。苦労していればそんなことにはならなかった。何の苦労もしないから苦難をのりきれなかったとなる
金持ちの家がみんな幸福といえばそうでもない、何か不幸をかかえているというのも多いからだ。
鳩山邦夫氏なども大金持ちであり大臣にもなったが67才で死んだのかとなる。それもはかないとなる。大金持ちでもみんな死ぬから同じじゃないかともなる
死というのは誰にでも平等なのである。結局なんであれ人間はみんな死ぬとなる
自分も同じ世代の人が近くで結構死んでいるから死が身近になる
だから大きな家とか財産でもいらないとなる、かえって負担になる。
金があればいいがこれももし遺産とか相続になると子供がいたらもめるし金が災いを呼ぶことは普通にある。だから何が幸不幸なのかわほからなくなるのだ。

人間いろいろ不幸があっても健康がそこなわれると最大の不幸になる。大金持ちでも徳州会の徳田氏のように大病院をもっていても身動きがとれない口もきけないとなると最も不幸にしか見えないのである。これも何か皮肉だなとつくづく思う。
どんな高価な治療を受けられるにしても優秀な医者に看護師に囲まれていてもあれを見ただけで不幸だなとなる、何か人生は最後までの見ないとわからない
自分の姉は資質的に優れていたけど最後は認知症になり悲惨だった。
自分は優秀だったと最後まで言って死んだ、いくら優秀だったとと言っても認知症になることは馬鹿になる痴呆になることだから悲惨だったのである。
ただ人間の最後は認知症になる人も多いのである。90以上になると半分はなる。
だから長生きすることもみんないいとはならないリスクがある。
だから人間の幸不幸は最後までわからないのである。運不運もある。
津波で死んだ人たちもやはり運不運かあった。事故で死ぬということも不運である。
要するに人間の幸不幸も幸福の原因が不幸の原因ともなるし不幸の原因が幸福の原因ともなるからわからないのである。

若い人と老人を比べるとその差は歴然とする、老人にとって若さはあまりにもまぶしいものである。もう絶対に手にいれることができないものとなっているからだ。
若いときは当り前にあるその貴重なものを感じない、失ってみてはじめていかに青春などあっという間にすぎるから思い知らされる、そしてその時は二度と帰ってこないのであるそしてみんな必ず後悔している、どんな人も老人になって後悔しない人はいないのである有効に活かされなかった時間や様様なもことで悔いているのである。
でもまた老人が不幸かとなるとそうでもない、前にも書いてきたけど本を読むにしても今までわからなかったことがすぐにわかる、理解力とか洞察力とかかえって創造力さえ老人の方があるともなる、それはいろいろ個々人によって積み重ねたものが華開くからである自分は才能がなくても我ながらいいものが俳句とか短歌とか詩でも作れたなと自分で感心しているのが不思議である。
ともかく老人になとその時何が幸福で不幸だったかもわかる、不幸と思えたが幸福になったり幸福だと思っていたことが不幸だったともなる、確かに自分の場合も自分を幸福にしていたものが不幸の原因になった。家族に恵まれたが家族の介護になってひどいめにあった。
幸福にしていたものが反転して不幸の原因になっていたともなる

結婚しない人が増えているけどそれも若いときはいい、年取ってくると誰も頼る者がいない、現代のような情のない社会では特にそうである。
金があったとしても病気になったらその金をとってやうとする人しか来ないのである。
実際そのことで自分がいかに悲惨なものになったかを経験して書いた。
つまり若いときは将来どうなるか見えないからのんきにしているのである。
今がいいけりゃいいとなっているらだ、人間は将来の不幸をリアルにイメージできないのである、だからこそノン日りしているともなる。
津波だってもし想像力を働かせていたら危険な海岸沿いには住まなかったろう。
今になるとそんなことも批判されるがやはり個々人の人生でもそうなのである。
将来いかに悲惨なことになるか想像できないからのんびりしている。


だから人間の幸不幸は最後までみないとわからないのである。
原発事故にしても実際は原発で回りの人は恩恵を受けていたが事故になり反転した。
恩恵と思えたもが不幸の原因となったのである。そういうことはいろいろ社会的にも個人的にせある。社会的にも何か幸福になり不幸になるかわからないのである。
江戸時代がし貧乏でもそこには幸福なものがありみんないい顔をしていたというとき何か時代的なものの影響があった。現代人と比べるとそうになる、これだけ豊でも現代人は鬱病だとかみんな不幸な顔しているのかとなる、豊になっても幸福とも言えないとなるのである。だから貧乏がいいというわけではない、極端にして考えるべきではない、
人間の幸不幸がわからないということなのである。

2016年05月13日

人間は失ってみて真の価値を知る (人間は今あるありふれたものの価値を認めない)


人間は失ってみて真の価値を知る  


(人間は今あるありふれたものの価値を認めない)
      

健康を失って健康の大事さを知る
青春を失って青春の大事さを知る
時間を失って時間の大事さを知る
親を失って親の価値を知る
人の価値は死んではじめて現れる
故郷を失ってはじめて故郷の価値を知る
人は今あるものに価値を認めない
ただ今あるものに不満のみを言う
そこに価値あるものでも認めない
ありふれたものに価値を認めない 
故に感謝もしない
その価値に気づいたとそのものはすでにない
二度と帰ってこない 
汝をはぐくみしものに感謝せよ
もはや帰らざるもの
その価値のいかに尊きものなりしかを
人がこの世ある時間は短い
人は束の間出会い別れて永遠に会わない
この世に生きる真の価値は何なのか
その価値を追及すべし
巨万の富を積めど真の価値を見失えば
あなたの人生に実りはなきしを
それは雲散霧消してしまうだろう
真に価値あるものは不滅なり
それは心に永遠に残るだろう
それは天にたずえもちゆくもの 
人は失ってみてはじめて真の価値を知る
それまでは真の価値を知ることができない 
それ故感謝もしないのである
そこに人間の不幸がある



人間の弱点というか不備というかいろいろあるけど人間は真の価値がわからない
今ある当たり前のものの価値がわからない、価値を認識できないのである。
親がいるとすると親がいるとき親の価値がわからない 
それは当たり前にいるものであり尽くしてくれるものだと思っている
親が死んでみて親の価値がわかる、失ってみて本当の価値がわかる 
その価値を知らないから感謝もしないのである。
人間が感謝をしないのはそのもっているものの価値を知らないからである。
価値を認識できないのである


時間というものもそうである、若いときは時間などいくらでもある、ありあまって困っている、暇をどうつぶすか困るとなっている
でもそういうふうに思うのは意外と短いのである。
だから青春というのはあっというまにすぎる、その輝かしい貴重な時間はあっという間にすぎる、たちまち白髪となり体も老いてくるのである 
女性にしても輝かしいときは一時なんだと思う。醜悪な老婆になるのも早い
この世が無常だというとき常に変化してやまないからそうなる
同じ状態を保つことができないのである。

だから不変的な価値を追及しろとなる、不変的なものは普遍的なものにも通じている
それはユニバーサルなものの価値であり世界共通の価値である
人間は何が本当に価値あるものか知ることは容易ではない
失ってみてはじめて知るようにそういうふうに神が定めているとまでなっているからかもしれない
神は何が価値あるものかを教えてくれない
ただその価値を教えるのは失った時なのである。その時失ったものは二度と帰ってこないのである。ただ心の中にその価値あるものは残されるのである。

そして人間が一番後悔するのがそうして失われたものなのである。
青春でも時間でも何でも失われたものが多くありもはや二度ととりもどすことができない様々な経験すらできない、馬鹿げたこともできなくなる
それは青春の特権だとかもなるがこれもあとで必ず悔恨に悩まされる
若気のいたりですまされないのである。 

いづれにしろ最後は老人になれば何でも失ってゆくのが人生である。
何かいろいろ得ようとして働いたとしても失うだけなのである
同世代の人も死んでゆく、あの人も死んだな、あっけなく死んだなとかなり新聞の死亡欄を見るようになる、必ず60代で死ぬ人がいることに驚くのである。
60代でも十人には一人は死ぬとなると当然だとなる
ただ失ったからといって必ずしもそれが完全な空虚になるとは限らない
8年前なのか妻を失った人はその妻のことを相当に愛していたのだろう。
一人暮らしになっても毎日あたたかいご飯を仏壇にあげているという。
何かと供養しているのである。これも問題があるがともかく妻を死んだ後も思いつづけいるのである。
死んでその人の大事さを知ることがある、いつも食事は与えられるものだと思っていたという、「飯」とか言っていれば良かったという、死んでから全部自分でするほかなくなったという。

そのことは全く自分と同じだったのである。自分は親が死んで最悪の状態になったからである。特殊な事情の家庭だったこともあるが自分は楽だったなと思い楽させてくれたのは親がいたからだとつくづく思った。
そこには問題があるにしろやはり死んでみてはじめてその大事さを価値を知ったのであるだから生きているとき当たり前だと思ったことを今は感謝している
死んでもその価値は消えないし強くなることさえあると思う
でも親の価値は死んでみないとわからないのである、それだけではない失ってみないと価値がわからないことが人間には多すぎるのである。
もし親が生きている時その価値がわかっていれば対処の仕方が全く違ったものになるからである。

それはあらゆるものにおいてそうなのである。今あるものの価値が人間にはわからないのである。 
例えば大きく見れば日本という国が先祖が代々作り上げてきた国を意識する人はほとんどないだろう。国とは何かとなると意識しにくいからである。
でもシリアとか見ればわかる、国がなくなることはどうなることなのか?
流浪の民となり国を逃れて死を決して脱出してゆく、そんなことがありうるのかというが世界史ではそういうことがあった、日本にはそんなことがないとは言えない
その時日本ははじめて国のあることを意識して感謝するとなる
国を失ってみてはじめて国のありがたさをしるとなる

この辺で故郷すら失ったというときまさに故郷は何なのかとかその価値が問われたのもそのためである。
故郷が失うなどありえないのである。イメージすらできなかったろう。
それは当然あるものだったからである。この時故郷の価値をはじめて意識したのもそうである。
人間がなぜ人生を後悔するのか?それはあまりにもありふれたものの価値を認めないということである。
人間は何か価値というときありふれたものではなく特別なありえないものを価値としているのである。
そんなもの当たり前にあるものであり何の価値があるのかとなる
そういうことは自然とかにもあるし人間関係であるだろう。
いつも食事が出されて当たり前だと子供を思うのである。
今になれば一切何か料理を作ってくれる人はいないし何にもしてくれる人はいなくなったとなるのである。
だからは余計に失ったもの親であれ妻であれその他感謝しないものに感謝するようになるのである。だからそういう価値は不滅なのである。

一方でこの世にあるもの家でもそれは不滅ではない、消えゆく無常のものである。
津波であれだけの家が流されたこともそうである。家があるとしてもそれは形あるものは消える、でも家の中で通じあった愛とかは消えないのである。
「天に宝を積め」というとき地上にあるものはみな一時で消える、しかし天に積む宝は消えない、それは真に価値あるものである。
人はみな地上に宝を積んでいるしそのために努力している
でも財産を天をにもってゆくわけにはいかない、天に積む宝こそ真に価値あるものであり不滅のものである、だから地上の世間との価値観が大きく違ってくる

タグ:価値とは

2016年05月11日

人間はどうして記憶するのか? つながりの中で記憶する


 人間はどうして記憶するのか?


つながりの中で記憶する

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旅していて記憶に残すということが大事である。では人間はどうして記憶するのか?
記憶のメカニズムのようなものがあるのかとなる
旅というのは一地点に行くのが旅ではない、そこまで行く過程が旅だということもある。たいがい今は旅がつまらないというとき有名な一地点の観光名所に行くからである。
東京から新幹線で平泉に行く、そこにはもう過程がぬけている。
有名な一地点に行くことでありそれで目的が達せられたとなる
すると過程が欠けているから旅というものがただ一地点を目指すものとなり旅の中味は浅薄なものになる
というより現代では旅人もいないし旅自体がなくなったと思う。
単なる便利乗り物での移動であり一地点に行って目的が達成されたとなる

人間が記憶するというとき一連のつながりのなかで記憶しているのである。
例えは北海道の遠軽という所から坂を上るとオボーツクに出る、そこで何か開かれた感じになる、坂や峠を上ったとき別世界に来たように思える。
だからそこでその一連の過程の中で記憶される゛地形でも記憶される
ABCというつながりの中で記憶される、単体だけで記憶するのはむずかしい
英語でも一つの単語だけから覚えようとすると記憶されない、やはた文脈の中で単語も記憶されてゆく 
Aという単語を覚えるのではなくABCDEFと連関して覚える、要するにこの世の中は単体で存在するものはない、それで心の青雲では水は他の惑星には存在しないという
水という単体では何も存在し得ない、水素と酸素があれば水が存在するわけではないというのもそうてのかもしれない。水が存在するには水を産む環境が必要だったとなる


鉄道とかなると駅名を記憶したりするが一連のつながりのあるものとして記憶されない
地形も記憶されない、前後が逆になったりもする
ただ鉄道でもトンネルをぬけたとき新しい世界に入ってゆく感じになる
「トンネルをぬけると雪国だった」というのもそうである。
最上町の温泉からトンネルぬけると新庄にでる、それは広い地帯であり記憶される
これも一連のつながりのなかで記憶されているのである。
伊勢から奈良に旅したときはその長い行程の中で記憶されたのである。
一地点ではないつながりのなかで記憶される、そもそもこの地球はつながりをもって存在している、つながりと相互浸透の中で存在している


人間は何か記憶するとき必ず何かと関連させて記憶している
あらゆる物質も単体では存在しないというときそうである
つまりAを思いだせばBがでてくる、Cもでてくる、人でも何でも単体で記憶されることはなく関連の中で記憶される
いづれにしろ人間は最後は記憶されたことが人生となる
何が最も印象に残り記憶されたのか?それが人生だったとなる
でも記憶がだんだん薄れてゆく、曖昧模糊になってゆく

現代は旅でも記憶に残らないことが多いのである。
一地点を目指す旅であり過程を飛び越えているからである。
そこでは地形も記憶しにくい、坂であれ峠であれそういう地形も省かれるからである
そこで旅でも印象に残らないものとなってしまう。
おそらく車よりバイクの方が地形は記憶するだろう。バイクは風も感じるからである
ただ若い人がバイクで旅しているのを見たとき楽だなと見る
自転車に比べると本当に楽だとみてしまうのである。  


結局現代生活は便利になったのけど経験することが浅薄にもなっている
旅というのもそうである。そこには人との出会いもないしただ過ぎてゆつだけである。
「旅は道連れ」というのもなくなった、バイクであれ車であれ早いから一時出会っても
あとはすぐ別れてゆくだけだとなる
そこに何か濃密な時間がもてないのである。今会ったまたすぐに別れてゆく、それは歩く旅とはあまりに違ってしまったからである。

2016年05月02日

カルマは必ず清算することを要求される (人間の奢りには必ず罰が与えられる)


カルマは必ず清算することを要求される


(人間の奢りには必ず罰が与えられる)


その人間にメグリなくしてもメグリ負うことあるぞ。人類のメグリは人類の誰かが負わねばならん。一家のメグリは一家の誰かが負わねばならん。果たさねばならん。善人が苦しむ一つの原因であるぞ。神の大きな恵みであり、試練であるぞ。(ひふみ神示)

一家のメグリは一家の誰かが負わねばならん。

このメグリを負うのは家だったら長男、長女になりやすい、まさに自分がそうだった。
実際に自分の家の血縁関係で家族で残っているのは自分一人になったからである。
最後に供養しなければないなのは自分だけなのである。

それぞれの家が何らかのカルマを背負っている、良い面と悪い面のカルマを背負っているそしてカルマは悪い面に現れるときカルマを意識する、現れないとき意識しないのであるなぜこんなひどいことになったのかとかこんなに苦しむのかとカルマを意識するのである
ここ十年の間に起きたことは自分の家のカルマであり自分自身のカルマであり地域のカルマであり国のカルマであり天変地異が津波などもあったからこれもカルマでありあらゆるカルマが自分を襲った。
原発事故も起こるべくして起こったカルマなのである。
事故もカルマであり起こるべくして起こる、偶然ではないのである。

不思議なのはなぜある人が理不尽な犯罪にあうのかということである。なぜその人だけに犯罪にしうのか?これも不思議である。
強盗にあいわずかなの金で殺されたりする人もいる、これはなぜなのか不可解としか外から見ればなる、でもなんらかそこには必然性があるのかもしれない、なぜその人だけがそんなひどい目にあうのか納得がいかないからである。

例えば強欲な人が強盗に襲われて殺された、そこに働いていた家政婦は助かった。
それは外から見るとあまり同情されないかもしれない、極端になるとい気味たと見る人もでてくる。
その人は金をためすぎてそのカルマとして強盗にあい殺されたのかとなる
こういうことはかなり確率的に起きやすい、金持ちの家は危険なのである。
金がないこともカルマであり金があることもカルマなのである。
そしていつカルマの清算を強いられるのである。

はっきりカルマが目に見えてわかるのは必ず親のカルマを受ける、いいにしろ悪いにしろ受けることは逃れられないのである。
それは長男と長女が受けやすいのである。
なぜあの人は今になって夫の借金とかで苦しんでいるのか?その親は夫が身体障害者でさんざん苦しんだ、そしてやはりまた夫でその子供が苦しんでいる
何か親の苦しみをカルマをその長男長女が引き継ぐ、それは自分もそうだったのである。

その苦しみを書いてきたけどさんざんな目にあったのはなぜだったのか?
やはり自分の家の親のカルマを清算するために苦しんだのである。
金がないにしろあるにしろカルマを受ける、親が強欲で金を子供に残してもそのことがカルマになり子供がそのカルマを清算することになる
それは強盗のような目にあったことがそうだった、それは悪い面のカルマだったのであるだから金があるこからとすべていい方面に働くとは限らないのである。
もちろんないはないで大きな問題をかかえる、ないということもいいわけではない。

熊本地震でもなぜ東日本大震災とが原発事故でガレキを熊本県が受け入れなかった、そして東北や北海道は地震地帯であり自分の所は地震が起きないからと企業を誘致する宣伝を県単位でしていたことが批判された。そのカルマとして地震が起きたのかともなる。
地震とか巨大な津波とかはもう人知を越えたものだからそこに神というのでもなくても大自然の地球を調整する働きであるという人もいる。
そして必ず何かカルマを受けるとき罰のようなものを受けるとき人間の奢りと関係している、熊本県もそうだった、地震が来ないと奢っていたのである

それは個々人にも言える、人間が奢るとき非常に危険なものとなる
原発は事故が起こらないとか、自分は優秀だとか何かそうした奢りが危険であり必ずそういう奢りは打ち砕かれる、親戚の人も誰もとれない資格をもっていて優秀だと奢っていたでも事業して失敗した。何か奢る人は他者を馬鹿にしているのである。
それは自分の家族でもそうだった、死ぬまで自分は優秀だったと言って死ぬのも異常である。
実家の祖父にあたる人も警察署長とかして事業に失敗した。これも奢りだった。
ただ逆に働くことしかなく貯めることしかしないうかな親もどうなったのか?
それも盗まれたというのはカルマだったのかもしれない、ただためるだけで有効に使わなかっただけだったからである。
だから金というのは何かカルマとしてはわかりやすいのである。
そうした親のカルマを自分は引き継ぎ苦しんで清算したのである。

いづれにしろ個人単位でも地域単位でも国レベルでも奢りは身を国も滅ぼすのである。
日本は神国だから戦争に負けないというのも奢りだったのである。
神は高いものを低くするというときそうである。
それは国レベルでも起きてくる、大国が強国が必ずしも強いとはならないのである。
そこには神の采配が働くのである。
アメリカとか中国は大国だけどなんかの調子で弱体化することがある

聖書でも常に奢りは戒められてきた。そして人間の奢りに罰が与えられてきた
それは歴史的にも国レベルでもそういうことがある。
いくら強固でも大国でも小国を勝手にできないということもベトナム戦争であった。
あのような小国をどうしてアメリカが勝てないのかということかあった
ゴリアテはダビデの投げた小石の一撃で死んだ
イラク戦争でもアメリカが勝ったわけでもなかった、かえってイスラム国を産みシリア難民を産み混乱と苦しみを与えただけだとなる、その原因はアメリカにあったともなる
イラク戦争がその原因になっていたからである。
つまりアメリカというのは世界的にも相当なカルマを国として背負っている
日本に原爆を落としたのもそうだしアメリカのカルマもいつか清算を強いられるかもしれない、ハルマゲドンも人間のカルマの清算として起こるとされているのである。
人間がどれだけの罪をカルマを積んでいるからそれ歴史的にふりかえれば目がくらむだろう。
その清算にはハルマゲドンのようなことで清算するほかないとまでなっているのである。

自分にも自分の家にもカルマがあったが自分に対して非情にしたものたちもカルマを逆に受ける、別に自分は恨まないにしてもカルマを作ったからカルマを相乗して受ける、かえってゆくことになる
それがカルマの法則なのである。その法則から誰も逃れられないのである。
カルマはある時一定期間は受けざるををえないし逃れることができない、その苦しみが清算されると逆にカルマは関係したものに返ってゆく
だから良いカルマを積めばいいのだが悪いカルマをそこで積むとカルマは何倍にもなり清算することが容易でなくなるのである。
恩を仇で返したりしたらそうなる、そのカルマは過酷になることは確かである。

2016年04月15日

他者のカルマを受ける怖さ (事業失敗のカルマを受けた怖さ)


他者のカルマを受ける怖さ


(事業失敗のカルマを受けた怖さ)


その人は事業に失敗した。でも最近までその人は成功していたと見られていた、あの人は誰でもとれない資格をとっていたから回りから優秀な人だと見られていたし自分もそう思っていた。
現実は事業に失敗して多額の借金をかかえていたのである。
その人の事業は全国を相手にして金持ちをターゲットにした建築関係の仕事である。
別荘のようなものを提供することだった。
資格をもっていたからはじめたのである。
でもそもそもそれには無理があった。大きな設備投資もしたこともありそれも重荷になった。
自分は別にその人とは家族とも関係してない、でも親の代から深い関係があった。
親というのではないが自分の家族はその人の家族が病気になったとき看護婦ということで助けたのである。それを恩に思ってくれたので自分の家族が病気になったときは多少は助けてくれた。


でも今度は自分が病気になったときは別である。直接自分が助けたりしていないしそれよりその人にはもう自分を助ける余裕も何もないのである。
多額の借金をかかえているから自分が病気になり弱体化したときチャンスになった。
借金を要求するのには好都合だったのである。
自分は自分自身のカルマもあった、それは両親ともいえる家族には自分は一番良くされてきたから介護とか世話するのは当然であり懸命に介護した。
一人は認知症だったからひどかった。そのことを延々とプログで書いてきた。
自分自身のカルマは自分で清算するしかなかった。
でも他人のカルマまで背負うことは本当に加重であり恐怖である。
病気のとき責められることは辛い、でも相手は何も感じていない
自分だけの借金のことしか頭にないからである。
その時相手がどう思っているかというとこれも怖いことだが自分が死ねば財産がえられるとか思っていたのである。
それは殺人までいかなくてもそういう動機があり意志が生じていたことはそれに匹敵するのである。


何もそういうことはこの世の中で兄弟でも財産争いで普通に起きていることである。
それが推理小説のテーマである。遺産争いが一番そのテーマになっているからだ。
要するにこの世に起きることで自分が当事者にならないかぎりその恐怖を知ることはできない、ドラマを見ていればただ面白いとなるだけなのである。
それはあれだけの津波の被害でもこの辺で身近に起きていてもそうだったのである。
自分の親が子供が死んだらその悲しみは深いものとなる、でも近くにいてもその被害にあわない人は感じないのである。
家も流されたわけでもないし家族を失ったわけでもないからである。
これは別に自分が非情だからではない、みんな他人の不幸でも無関心なのである。
ただ自分の身にふりかかったときは全く違うのである。


今回は自分の身に直接ふりかかったからその痛みと恐怖は今でも消えないのである。
そして他人のカルマを受けることは本当に怖いことである。
自分の家族が自分自身が病気で苦しんでいるとき多額の借金をかかえた人が来たらどうなるのか?
また金がない人がきて被害にあったらどうなるのか?強盗にあい殺された人も普通にいる
それもやはり他人のカルマを受けることなのだろう。
自分が犯罪にあったのもそうである。そしてそういう不満のある人は必ずやつあたりする、それで死んでいる人もいるのが普通である。
つまり他人のカルマによって死ぬということさえあるのがこの世である。
しかしそうした相手が意外と他人に恐怖を与えても感じていないのである。
実際は笑っていたのである。これは借金するのに好都合だと笑っていたのである。
そして死ねば財産が自分の物になるとなるから死ねばいいとさえ思う
それは保険金殺人と同じである。それは親戚でも財産争いで普通に起きていることなのである。

結婚すると好きだとか愛だとか甘いものでしてもあとで相手の家族のカルマを負うこと強いられるから怖いということがある。
もちろん結婚する前にもそういうカルマがあるということを知ることもある
家族の中に良からぬ人がいるということも知る、でもわからないこともある。
それが隠されていることもあるから怖い、それが表面化したのは老人になってからだったということも普通にある
いづれにしろ60代以降になると病気になりやすいしカルマが逃れがたく現れる
カルマの総決算が強いられるのである。それがまさに自分にも起きたのである。


なぜか自分の家系をたどると父方の方で二軒も事業に失敗している、兄弟という関係ではない遠い親戚といものでもそうである。
その家の跡は今では駐車場になり何もない、もう一軒もやはり60代以降になり事業に失敗して自分がそのカルマを受けることになった。
そして母方の方も事業で失敗したことが一家離散の悲惨な結果になったのである。
事業の失敗というとき第一20人に一人くらいしか成功していないのである。
するどどれだけの人が事業に失敗して悲惨な結果になっているか?
事業の怖さは親戚だとかなると否応なく連帯保証人とかにさせられる
これも共同責任になるから怖い、その悲劇はいくらでも現実にあるからめですらしくないただこういうことも実際に自分の身にふりかからない限り常に他人事なのである。
シリアであれだけ悲惨でも同じである。
もし日本人が難民化したらどうなるのか?それすらありえる。
将来アメリカと中国とロシアの板挟みになり日本が分裂したりしてシリアのようにならないとも限らないからだ。


とにかくカルマは他人に負わせるとさらにその人のカルマは重いものとなる
自分のカルマは自分で清算するほかないのである。
自分に事業の失敗のカルマを負わせる、それも自分が病気であり弱いときそういうことしたらさらにカルマは重いものとなってゆく
結婚でも必ず嫁いだ先の家のカルマを背負うことになるし逃れられないから怖いのである昔は家同士の結婚だったというときそれも家がもっているカルマがありそれを考慮すればその方が安全だとなる、どうしても結婚では家のカルマを受けざるをえないからである。親のカルマを子が受け継ぐのも普通にある、親と同じような運命になる不思議がある。
それはカルマの法則といってもいい、例外があっても法則のようにそうなっている
ただ誰でもカルマは背負っている、カルマのない人はいないのである。
金持ちで恵まれているのも危険である。何か困難があったとき耐えられないとなる
切り抜ける術もないとなり破綻してしまうだろう。


自分のカルマもあるが他者のカルマを背負わされることも怖い、自分には自分のカルマを背負うことと他者のカルマを受けることの二つが同時に起きた。
悪いことは重なるし良いことも重なる、だからこの十年間は辛酸をなめた。
カルマの法則はこれは確かにありそれは現実としてあることを誰でも人生経験で知る
誰かを苦しめたものはまた誰かに苦しめられるのである。
これはまちがいなくあることでありカルマの法則なのである。

2016年04月06日

良くも悪くもカルマはめぐる (恵み(めぐみ)はめぐるである


良くも悪くもカルマはめぐる


(恵み(めぐみ)はめぐるである


カルマというとき悪いものをイメージするけどそもそもカルマが災いだとするとき災い転じて福となるとかある。
原発事故でもこれもみんな損したわけではない、補償金もらって得したと思っている人もいる、ニートとか遊び人のような人は喜んでいたのである。
いつもなら見向きもされないがかわいそうでもないのにかわいそですねとか常に同情されているのも変だった、そういう人は病気でもなんでもないからである
一方普通の生活ではどんなに苦しんでいても同情されない人も多い、ただ放っておかれるのも普通なのである。
だから今回の原発事故ではかわいそうでない人もかわいそうだとされたから変な面があった
結果的にその人たちは同情されるべきだとなりそれを要求できるとなった。


つまり何か悪いことでもそれがすべてに悪いものとして働かない、カルマも悪いカルマだとしてもそのカルマに耐えていれば災いも良いものになってゆくかもしれない
確かに原発事故は最悪だったがその最悪を最善のものに変えるということもありうる。
そもそも何が幸福で何が不幸かも人間は最後まで見ないとわからないのである。
意外と最後に不幸に見舞われる人間がいる、自分の家族でもそうだった
病気もしないし頭もいいしと幸運に恵まれていた人が最後は最悪の認知症になってしまったからである。
人間は最後に不幸になる人が結構多いのである。それはどんな金持ちでもまねがれないのである。金持ちはか家族関係などで問題が多いことはありうる


カルマとは日本語だ恵みにもなる、恵みはめぐるなのであ。幸も不幸も回りめぐってゆく、金も天下の回りものだというのともにている。
幸福が幸福の基と必ずしもならない、不幸が幸福の基になることが普通にある。
病気から快癒したときなどは最高の幸福を味わうからである。
そういう不幸を経験していなければ本当の幸福は得られないともなる

だから金持ちで何でも恵まれていることも危険である。
それで金持ちの土地持ちの姉妹が餓死したというのもうそうである
いろいろと社会経験とか苦労していないからそうなる
お嬢さんとして育つ人もいつどうなるかわからないから危険なのである。
親がいつまでも生きていないし守ってくれないからである。
その幸福が恵まれた環境がかえって後の災いの元とともなっていたのである。
それは自分も経験したからわかる
恵まれすぎることも後の災いとなるのである。


カルマがめぐるというとき具体的な自分が経験したというかなぜ自分がその人に代償的役割をしているのかということもそうである
その人は70万くらいの働いた金をもらいなかったのである。
そのことを延々と自分にくどいていた。でもなぜかその分を自分が支払っていたのである自分が余裕があるからそうしている、その人に自分は払う義務もなにもなかったのだけど払っている、つまりその人に恩もなにもないのに払っている
70万という金が未払いになった分を自分が払っていたのである
カルマとは別にカルマを受けた災いをもたらした人自身が払うことでもない
全然関係ない人がカルマを負って償ってくれるということがある

運も不運も金もめぐりめぐってゆくのが人間社会である。だから何が幸福になるかはわからない、幸福だと思っていたものが不幸の因になるし不幸と思っていたものが幸福の因になっていたなど普通にあることなのだ。
例えは誰か死ぬということは不幸だけど何か人間が一人死ぬとその分幸福になる人がいる財産をもらったりして貧乏な人が一挙に金持ちになったりするのである。
いつまでも生きていて災いになる人も人間には多いということがある
そういう災いをもたらすものがいなくなったとき時代が変わるということもある
人間は生きている限り財産でも金でも地位でも放さない、それで老人が長生きすると社会に弊害が起きる
人間が死ぬというとき新陳代謝が社会全体に起きる
だから高齢化社会の問題は60代とかで親の財産をもらことなのだ。
もっと早くもらっていたら死んでいたらいい面としてはその金で自分のしたいことができるということである。
いつまでも高齢の親が財産をもっていたらまず何かしようにもできないのである。


めぐみ(恵み)はめぐるである。水は流れてめぐりめぐって潤して実りをもたらす、恵みはめぐることで起きてくる、金も一カ所にとどまらず巡り巡ってくときグローバルに恵みをもたらす、グローバル資本主義社会というのは悪い面も大きいがいい面としては富が世界をめぐれば幸福をもたらす、でも少数に金が独占さされば格差社会となり不幸になることが問題なのである。
めぐるは英語ではrollでありrollには役割という意味があり俳優の役の意味がある
人間も年によって役割が変わってくる、だから若いとき美人ではないとか不幸に思っている人が多い、ところが老人になれば美人だと関係ない、みんな皺が増えていくら装ってもどうにもならなくなり美が基準でなくなる
かえって美人でなくても話が面白いとか何か別な要素に価値が出てくるのである。
役回りが年とともに変わる、その役回りをうまくこなせないと今度は美人だったけど不幸だったとかなる
だから若いときは不幸でも老人になって幸福になっている人もいるのである。

いづれにしろカルマは逃れられない、不幸は逃れられない、カルト宗教団体に入っても逃れられない、誰かが代わってカルマを背負ってくれる人がいるかとなると逆にそういう場所には不幸な人が多いから悪いカルマを背負わされるのである。
そこが助け合う場所というより不幸な人たちがさらにブラックな所にゆき苦しむことになるのと同じである。
そういう場所でカルマを落とせるならみんな入るだろう、かえって悪いカルマを受けやすくなる場所なのである。


なぜ家系とかがカルマに影響するかというと結婚すればどうしても相手の家系の影響を受ける、いいカルマを受ければいいのだが悪いカルマもその家系内でめぐるから危険なのである。カルマを否が応でも結婚したりしたら相手の家系のカルマを受けるから怖いのである、それは結婚したりして長い時間が過ぎてはじめて問題が起きてわかったとかなる
その女性は実際はいい人と結婚した、金にも恵まれた人と結婚したのだけど最後になり
60代になり事業の失敗が明らかになったのである。
それがカルマなのかどうかわからないにしてもやはりカルマはいつかめぐりめぐってくる自分にしてもそうだったからだ。それは誰でもそうでありカルマからは逃れられない
カルマは死をもって消滅するとかある、死は一つの救いでもある
もし死ななかったら延々のカルマを背負い生きなければならないとなると地獄だからである、それはまさにシンジホスの神話のように重い岩を延々と持ち上げていなければならない、カルマがきれなかったらそうなる


タグ:カルマ

2016年03月26日

嘘をつかないということがこの世で一番むずかしい (それができないから社会は変わらない)


嘘をつかないということがこの世で一番むずかしい


(それができないから社会は変わらない)



正直の木に
正直の実のなる
何事のなけれど
この世にまれなることなり

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馬鹿正直な女性が眠る墓



人間で一番むずかしいのは実際は一番単純なことである。
「嘘をつくな」というけどこれが一番実行しにくい、なぜなら生涯で嘘つかなかった人がいるかとなるといなだろう。女性は弱者だから嘘で防衛しているんだから許される苫でなっている、嘘ついてもいいんだよとまでなっている
人間は複雑でありその悪徳もかぎりなくある、自然は単純であり嘘はつかないというより嘘をつけないようにできている
動物でも何でも嘘がつきようがない、ただありのままに生きているだけである。
自然によって癒されというときそこには嘘がないからである。真実しかないからである。自然からは何らか悪徳が生まれないし産まないようにできている
人間から限りなく悪徳が生まれてくる。


 ――巧言令色、鮮なし仁。(巧言令色鮮矣仁。)(「論語」学而篇・陽貨篇)

 というのは、孔子の言葉で、「口先が巧みで、角のない表情をするも
のに、誠実な人間はほとんどない」という意味である。

 これを裏返して、孔子はまた、

 ――剛毅木訥、仁に近し。(剛毅木訥近仁。)(「論語」子路篇)

 すなわち、「剛毅で飾らぬ人間は、(誠実なのだから)完成した徳をそ
なえたものに近い」とも言っている。利己的な打算がなければ《飾る》
必要がないのだから、当然《木訥》になるであろうし、みずから正しい
と信ずるものの前には、その生命さえ惜しまぬなら、当然《剛毅》にな
るであろう。

話がうまいというときその人は何か人をだますのもうまいとなる。だから話がうまい人に気をつけろともなる

そして嘘が多いというときこの社会自体が嘘が多いことなのである。例えばカルト宗教団体でも宗教を表看板にしていても実際は全く正反対のこの世の欲望を追及する世俗と全く同じでありむしろ俗社会より俗的になっている、
するとなぜ宗教を表看板にしているのか?それ自体が不可解だかそれを批判すると今度は宗教を批判するのか罰あたるなどと集団で脅してくる
それはカルト宗教団体だけではないあらゆる分野でそうした嘘がまかりとおっているのである。
東電だって科学者がいて日本の頭脳集団だったのかもしれないが嘘ついていたのである。科学者も嘘をつくから信用できなくなった。
嘘をつくというとき一番嘘をついてはならないのが政治家のはずだが政治家が一番嘘つく商売なのである。それは政治家自身が大衆にこびをうるために嘘もつく、おべっかも言うとか言っているからわかる、そうしないと票が集まらないからである。
こうして社会自体が嘘が多いというときどうして嘘をつかないでいられるのか?

社会はそもそもそうした嘘つかないことなど求めているのかというのも疑問である。
社会の反対は会社だけど会社が求めているのは嘘をつかないということではないだろう。それを奨励しないにしろ利益をあげることを第一として入社するとき面接でもお前は嘘つかないから選ぶなどありえないのである。
この人が将来会社にとって利益をあげる人物かどうかで判断するといっている。
会社というとき会社自体が嘘つくこともある。会社が人を選ぶというのは会社の利益をまずあげることができる人間だとなる
その選ぶ権利は権力は会社が絶対的にもっている、その人間が嘘をつくとか嘘をつかないとかを基準になどしていないのである。
これは学校でもそんなこと教えられたこともないのも不思議である。
ただ成績が良くなること試験が通ることなどしか教えられていない


そもそもおかしいと思うのは人間は会社のために生きるのかとなる、でも実際はそうなっている、大企業に入社するかできないかで人生が決まる、有名大学に入るかどうかで人生が決まるなどと常に言われているし実際に社会の価値観がそうなっているからみんなもそうなる
でも実際は会社のために人間があるのか?会社とは何のだろうとなると会社にそんなことが決められるのかとなる。
でも現実社会では会社がすべてだということにまでなってきたのが日本である。
世界的にそうなってんる。
戦前は国がすべてとなっていたのと同じである。
会社は直接生活と結びつくから会社を首にされたら食べれなくなるから会社に忠誠を誓うのである。
でも考えてみると人間が会社のためにあるのではなく会社が人間のためにあるべきなのである。
「私は会社に尽くすために働くことはしません、社会をよりよりくするために働くのです」会社も社会のためにあるのだから当然そうなるのである。
ある特定の会社のためにだけ働くのではない、社会全体のために働くというのが理屈になる、それは理屈だけで実際はある特定の会社のために働く、そもそも会社でも自分の会社のために尽くせというのはおかしいのである。
なぜなら個々の会社自体が社会に尽くすためにあるからである。
国のために尽くせというときは個々の会社を越えたものに尽くしていたのである。
だから多国籍企業が国の代わりになるときそこにも問題が生まれる
多国籍企業は利益しか求めていない、世界はその多国籍企業に支配されれば利益にならないものは排除される、そこで大規模な環境破壊も起きてくる。
国々の文化も破壊される、郷土愛とか愛国心も必要ないとなる
それは盛んにここで言っている。こういう価値観の世界も相当に危険である。
これは国々の文化と歴史を破壊してゆくからである。

多国籍企業が国家を破壊して資本主義の世界に君臨してゆく

社会のために尽くせというとき嘘をついたりしては社会のためにならないということがある
嘘をつくことは社会を害するものだからそう言われる、でも会社に入るときはまず利益をあげることが先決でありそういう人が選ぶのである。
嘘をつくような人は選ばないなどありえないのである。嘘をつかなてれば学歴も関係なくつきあうと言っても現実社会ではそういうこを最初から入社するときでも要求されないのである。利益をあげるには嘘ついてもしかたないとかということが会社にはある
政府とか官僚でも東電とかマスコミでも「安全神話」を作っていたがこれも嘘だったということがいかに嘘つかないというけど実行できないものか如実に示していたのである。
コストを優先して利益をあげるために嘘ついていたということがある
会社自体の最優先課題は利益を上げることだからである。


社会に尽くすとか社会をよりよくするためには「嘘をつかない」ことだなどと言ったら誰も聞かないだろう。利益をあげること豊になることだったら誰でも聞くのである。
社会を良くするには社会を正すには嘘をつかないことだなるが言っていることは簡単でも実行することが不可能になる、嘘をつかない世の中があったらそこは天国しかないしこの世にはないとなる、自然は嘘をつかないからまさに天国なのである。
会社ではとにかく有能な人を求める、嘘をつかない人ではない、そんなことを基準にしていない、社会自体もみんな有能な人を求めている、でも有能な人が嘘をつかないということはない、かえって無能と言われる人が嘘つかない場合もある
人間社会は嘘をつくなといってもそのことが特別な価値にはならない、いろいろな面で有能な人こそ求められているのである。でも有能な人でも嘘はつくのである。


その人は有能ではなかった、馬鹿正直だった、10万とか借りてもなんとか返そうとしていた。今はまず百万借りても返さない、借りたものはもらったものでありあとは盗んでも反省もしない、だからその人は例外であり馬鹿正直となる、つまりその人は馬鹿としか見られていなかったのである。
この世ではそうして馬鹿にならない限り正直にはなれないのである。
一方家族のことだからいいにくいけど如才なくふるまって嘘をつくことに平気な人もいる家族だから家と自分には尽くしてくれたから言いにくいけどそういうことが馬鹿正直なものに対して対比させられた。
つまり善とか悪はこうして対比するとき明確にわかるのである。
そのために善と悪がある、善だけの世界は天国にしかない、その時善に気づかないのである。悪があると対称的に善が強く意識されるのである。
ただ一般的にはこういう馬鹿正直な人はまれである。現代ではほとんどいないだろう。
大正生まれとかに稀少動物か植物のように残されているだけだとなる
あらゆる人が現代では功利的になり生きているからである。
大正生まれでもそういうことはまねがれなかったのである。それは田舎の人間が素朴だなどと言われた時があった。それと同じだが今は田舎も都会も人間に変わりない
資本主義社会が浸透すればどこでも人間は同じだとなる、金が大きな力をもつ社会だからである。牧歌的な時代はもうすでに世界でもほとんどないだろう。
アフリカの果てまで一ドルくれとか子供が言っている世界になっているからである。

この世に正直なることがまれでありその単純なことが実行されていない
正直の木に正直の実がなるということが実行されていないのである。



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2016年01月18日

記憶する場や時間がなくなっている (人間は記憶されたことが人生にもなるから記憶が大事)


記憶する場や時間がなくなっている


(人間は記憶されたことが人生にもなるから記憶が大事)


人間は意外と記憶すること記録することが大事である。だから学問でも江戸時代から教育というとき暗唱することだった。
墓地になっている所は寺子屋だった。そこに碑があり「暗唱せよ」ということが記されているみたいだ。それはどこでも教育というのは暗唱がまず教育なのである。
何らか暗記することであり記憶することである、読書百編自ずから意の通じというのもそうである。
99でも暗記であり算数も数学も最初は暗記である。
ただ意味もわからず暗記するというのは子供では意味を知ることがむずかしいからである

算数でも数学でもこれは暗記するだけでは覚えにくい、今になると自分なりに工夫して割り算などは図形化する、像として覚えれば興味をもち覚えやすいとなっていた。
ただ丸暗記は限界がくる、それで試験でいい点数をとっても学問としては限界が来る
学校が嫌なのは暗記を強制するからだという面もある。
自分は学校の勉強で好きになったこともないし何か自分で考える工夫して勉強したこともない、毎日何か暗記であり試験であり強制されたということしかない
もちろん自分はどうしても秀才でもないからだった。
ほとんど試験のために勉強してきたがこれは勉強ではなかった。
学ぶはまねるからきているからこれも暗記である。studyは研究するという意味があるからまねるとは違うものがある


ともかく人間が生きることは記憶することであるということもある。それだけ記憶が大事なのである。なぜなら人生をふりかえって何を覚えているのかとなるとその記憶したことが人生だったとなる
たいがいのことを人間は人物でも何をしてきたかでも忘れるのである。
ほとんど何も浮かばないともなりそれが認知症なのである。認知症の人は今の記憶が欠落している。今が記憶できない、今ここに置いたものをすぐ忘れる、そして誰かが盗ったとしてしまうのである。
ただ昔のことは若いときのことを覚えているから戦争のことを姉から千回も聞かされたのである。
それは死ぬ直前まで戦争のことを話していた。シンガポールで従軍看護婦をしていたからである。その記憶したことが人生だったとなる

記憶がなぜ大事なのか、それは旅行するときでも記憶していないとしたら旅行に行ったことにもならない、どこに行ってきたの、そこがどういう場所だったのかとかもわからなくなる、旅行が忘れやすいのはそこが一回しか行かないとか印象に残りにくいからである。ともかくあらゆるものが記憶から消えてゆくのが老人になるとわかる。
認知症というのは病気なのだけどやはり老化が極端化した現象でもある
子供は何でも認識してゆくが認知症になると何でも認識できなくなる、過去に認識した記憶のみが生きた証拠となる


記憶するというとき金の出し入れで例えば千円をやるのに千円を炬燵の上にしばらく置いておく、するとそれが記憶になっている、でも即座に千円を払うと忘れやすいのである。払ったから払わないのか良く店で問題になるのは即座に出し入れするからである。
それでお釣りを払うとき確かめるように千円札をみせて支払うと記憶として残る
即座の金の出し入れは記憶しにくいということである。
今日一万払ったと思わなかった。それは前の記憶として5千円札が入っていたからであるつまり前の記憶と今の記憶が混同していたのである。
何かそういうことがよく人間にはある。前の日に五千円入っていたから実際はそれを使って一万入れていたのだかそれを忘れて前の5千円を記憶していたためにそうなった。
金は出し入れが頻繁だから忘れやすいのである。
これは人でも多数の人は覚えにくい、金のようにしょっちゅう出し入れしていたら覚えられないのである。大衆とか群衆化している現代とそうした人は覚えていないのである。

旅行でも記憶するというとき例えば電車が来るのを待っている、その時間が記憶する時間だったのである。何かバスにはそうして待っている時間があっても記憶されにくい
電車はレールが伸びていて電車を来るの待っている、その時間が記憶される時間になる
だから待つ時間も貴重なのである。今は待つ時間がない、だから旅情もないとなる
新幹線になると全く待つ時間がないから旅情もないのである。
旅をふりかえると記憶がよみがえるときそこに旅に行ったと感じるが忘れると本当にそこに行ったのかどうかもわからなくなる
だから記憶されない旅は旅にならない、団体旅行などは周りの自然でも記憶しにくい。
自然でもある時間がない限り記憶できないのである。
それである場所に何回も行った方がこれからはいいかもしれない、なぜならもう新しい場所を旅するより一度行ったところで記憶を確かめる、一回行った所でもそこは新鮮である季節も変わるし見方も変わるからである。
なるべくそこに長くいることがまた記憶することになる。


現代とは何か記憶することがむずかしい時代である。電車であれ車であれ便利なものを利用していると記憶しにくい、五感で感じるものがなくなる、車だったら外の空気とか風でも感じない、冬でも寒さも感じない、そのことがまた記憶しにくくしている。
坂だって峠でもそこが峠ということも感じにくい、だから空間でも記憶しない、まず都会とかなると記憶しにくい、混雑しているから余計にそうなる
東京などほとんど何も記憶していない、どこに行ったかどこを通ったかも記憶していない記憶する空間ではないしとても人間の記憶する範囲を越えているからそうなる
だから人間も集団でありマスであり大衆であり群衆であり一つ一つの顔として人間として記憶されないのである。
ただ人間というより物にしか見えない、そうなると人間は危険になる
人間が物ののようにしか見えないということは大量殺戮になっても感じない
殺していることも感じない、空爆すれば人間を人間と見ないからできる
空から見ればそこに見えるのは建物だけであり人間はいないのである。
パリのテロで130人が死んだというとき何かその悲惨さが具体的に感じる
でも空爆だったら何も感じないとなる怖さがあるのだ。
もし人間同士が見えて殺していたら殺すことにちゅうちょすることがあるだろう
パリでも最初は無差別に殺したがあとで人質にした人は殺さなかったのは何かしらそこに人間がいることを感じて躊躇したのだろうと生き残った人が言っていたのもうなづける
人間とみる時間がそこに生れていたからだともなる


今や都会では人間は無数の影のように消えてゆく、存在感がないものとなっている
都会には仕事があり田舎にはないとか田舎を常にネガティブに言うが人間の存在感は田舎の方にある。
俳句にしたように一本の木でも存在感がある、そして大地に根付いていかにも充実していると最近見る。
それはそもそも当たり前でも大地に根付いているからである。大地があるからその樹も不動であり存在感がある。
都会だと大地というのが関係ないのである。養分は大地からとっているのではない
すべて外から外国からでも食料はとっているし大地というのは都会にはないのである。


そしてそこは何か記憶する場がない、希薄な生が消耗する場となる
記憶というときそれは記憶される場が必要なのである。日本の神社はその場の記憶としてあるという見方もある。神社にとって場が大事なのである。
場の記憶だともなる、都会にはそうした記憶する場が消失している。
特に東京に巨大になるともう記憶する場が消失している
都会に生きることは記憶も消えるということにもなる
都会では生は記憶されない、無数の大衆群衆として消えてゆくだけだともなる
例えばもし東京が廃墟になったら何か記憶されているのかともなる
なぜ現代が廃墟趣味になるかというと廃墟になるとそこ人間的なものが残る
廃墟の中に何か人間的なものを感じる、それが廃墟でないときは巨大なビルとして人間を圧迫するものとして感じていたが廃墟になるとそれがやはり存在の無常を感じる
それが何か愛おしいものにもなる
ああ、ここに人が生活していたんだなとなつかしくなるのである。
それが現実に活きている時は圧迫するものとしてあった
めまぐるしく人間が動き交差して人間は無数の顔なき群衆にすぎなかったのである。


2016年01月15日

人間の奢りにはなんらかの罰が課せられる (個々人でも原発事故も認知症もそういう面があった)


人間の奢りにはなんらかの罰が課せられる

(個々人でも原発事故も認知症もそういう面があった)

「高い者は低くされ、低い者は高くされる」エゼキル

「貧しきは高められ、富む者は低められる」(ヤコブ1章9−11節)

そもそも人間が堕落したのはエデンの園から追放されたのはなぜなのか?
知恵の実なるリンゴを食べたからだとある。
それで善悪を知るものとなったと聖書にある。
神が全能で知恵を司るものだったが人間が神をしのいで自分で知恵あるものとなったことが奢りでありそれでエデンの園から追放されたのである。

人間が神をしのいで知恵あるものとなったというときそれが文明を作り出したのである。それは最初から神しか全能でないのに人間が全能を目指しているのが文明なのである。
その一つが科学技術なのである。科学技術は万能であるということが信仰にまでなっている、科学技術がすべてを解決するというふうに現実に信仰までなっているからである。
癌が直らないとしても新薬が発明されて直るようになるというとみんな信じるだろう。
そんなことを宗教では今はできないから科学技術が万能として宗教になっているのが現代である。

つまりそれこそが人間の奢りでありその奢りが神によって打ち砕かれる
原発事故もそうだった。原子力はまさに人間の知恵が科学技術が作り出したものであり
原子力文明となるものだったのである。それが事故になり打ち砕かれてそこに住めなくなったというのもそうである。それは明らかに人間に対する罰だったのである。
人間の奢りに対する罰だったのである。
ギリシャ神話のプロメテウスが火をゼウスから盗んだというのもそうであり何かしら人間は人間が生れ時から罰がある、その罰からは逃れられない、仏教で言えばカルマになる。人間は生きている限りカルマを積んでいる、カルマを積まないで生きられるものはいないのである。日々食べることでも肉食すれば動物を犠牲にしているのだからカルマを積んでいる。
何かしらカルマを積まない人間などいないのである。


そして大きく人類史的にもそうなのだが身近な個々人でも奢りは罰せられる
姉はいつも自分は優秀だと最後まで死ぬ間際まで言っていた。
そのことにこだわったのはやはり自分が認知症になり馬鹿になったということがあり自分が優秀だったということにこだわったからそういいつづけたのかもしれない
でも優秀だったということが全く認知症になってもろくも崩れ去った驚きである。
銀行からは金をおろせない、財布を隠してわからなくなり泣いている。
今ふりかえると本当に悲惨でありこんなことをなぜ神がするのかと自分はいきどおりを感じた
それは津波の犠牲にも感じた、神も仏もあるものかと呪う人もいたがそれもわかる。
なぜこんな酷いことを神はするのだろうかということが解せなかったのである。
それはやはり人間の奢りに対する厳しい罰だったのである。

ただ認知症とは何なのか未だわからない、それは病気であり罰とは関係ないということもある
ただ姉の場合は一面そうした奢りがあったことは確かなのである。
だからといって姉は自分に一番良くしたのだから必死になって介護したのである。
それはプログでその経過を書いてきた。自分は姉を愛していたからそうしたのである。
人間は必ずいい面と悪い面があるから姉を奢りがあったとしても責められないのである。

第一優秀なことが悪いことがないのである。誰でも優秀な人に頼るだろう、医者でも大工さんでも看護師でも何でも優秀な人に仕事をまかせる、だから優秀なことが悪いはずはない、みんな必死になって優秀な人になるために勉強もしているし努力をもしているのである。
だから優秀な人がいなかったらこの社会は成り立たないのである。
ただ優秀な人は普通の人でも大工さんでも看護師でも他でもいる。それは特別な人ではないのである。
そういう優秀な人は奢りに陥りやすいのである。
事業に失敗した人も一級の免許をもっていて常にみんなに優秀だと言われてきた。
そして事業に失敗しても自分は成功していると装っていたのである。
その人も相当に奢りがあったのである。
でも実際にそういう優秀な人には何か奢りが生れる、そして優秀でない人を見下すのである。
自分はそういう人たちをみて常にうらやましく思っていたのである。
自分には優秀なものがないと思っていたからである。

優秀な人は何か冷たい人多い、自分は優秀なんだというとき他者を見下してしまうからだでもその優秀なことが悪いわけではないのだ。
どうしてもそこに奢りが生れるから危険になる。だから何か優秀でないというか平凡でも愛のある正直な人間はいる。
そういう人は優秀な人ではない、姉の場合は優秀なのだけど見下していたことそのことが罰せられたのかもしれない、ただ認知症にな人は多いのだからみんながそうとはいえない自分にとってはどうあれ姉は家に尽くした人だから懸命に認知症でも介護したのである。

人間でいましむべきは奢りと偶像崇拝である。だから若いとき裕福で何も苦労をしらないとか地位があるとかなると危険である。
自分も一時はそうだった。それが打ち砕かれたから謙遜になった。
ただその後30才以降は楽していたのである。
若いとき頭がいいとかなんとかほめられるばかりだった人はどうしても奢りになる。
若いときから社会でほめられる人間は危険である。
有名になることも金持ちになることも地位があったりしたら余計危険である。
その気になっていると神が罰を与えることになる


ネブカドネザル大王が王がエホバの言によって「人から離れて牛のように草を食い、 髪の毛が鷲のように、爪は馬のようになって」はじめて神を認めたという。 

これとなにか認知症とがにている、本当にこれは神の刑罰だった。認知症は多くの人がなるからこれとも違っているだろう。でも王として傲慢になった結果の刑罰だったのである聖書では人間の力で成したというとき何でも危険なことになる、すべては神が成したのであり人間ではない、人間が成した誇るとき厳しい罰が課せられているのだ。
奇跡でもそれは人間が成すことではなく神が成したことなのである。
文明の危険性は原発でもそうだが人間が人間の力で成したことを栄光としているからである。だから今回の原発事故のように明らかにこれは神からの罰だったのである。

いづれにしろ強い者が強いとは限らない、アメリカだって今は強いとしてもいつまでもそうではない、強いものも神の前にもろくもくずれさるときがくる
高いものは必ず卑くくされる、だから高い地位にあるもの、強いものは、権力をもち奢るものは危険なのである。
そして逆に卑(ひく)いものが高くされる、それで天国には平凡でも愛のある正直な人たちがいるというのはそのことなのだろう。

聖書の言葉でもこれは誰でも言うことは簡単なのである。では実行するとなると本当にむずかしい、高い地位をもとめ金持ちになることを求めて日々懸命に働いているのが現実である。
だから「悲しむ者は幸いなり」と大金持ちが貧乏や低い地位のものに語るほど矛盾したことはない、あなたたちが貧しいのは幸いなのだ、あなたたちが悲しむのは幸いなのだと言っていたらこれほど矛盾したことはない
あなたたちは貧乏でいい、苦しんでいなさい、それが神に従うことだ、そんなことを金持ちが地位ある人が言っていたらこれほどのブラックユーモアはないのである。
現実にそういうことをアメリカでは黒人奴隷にたいしてしてきたのである。
またそういうことがこの社会では普通にあるから矛盾なのである。
ともかくこの世の中で何か人に教えようとするときその人自身が矛盾してこない人はいない、悔い改めなさいとか牧師が言ったとしてその牧師が罪がないとはいえないからであるそういう人が罪を問うこと自体矛盾である。だから牧師ではなく神に直接対して懺悔せよとしたのがプロテスタントだったのである。
そしてまた自分が悪いことをしていないと威張って言う人も多い、おそらく悪いことをしてきたからそれを認めたくないからそう言っている。
継母だった女性が最後に目が見えなくなりそのことを反省した。
目が見えなくなることも罰だったのである。
人間には必ずカルマがあり罰がある、それは悪いことではない、その罰がなければ神があることも知ることがない、ネブカドネザル大王は罰を受けて神を認めたとあるからである。



タグ:神の罰

2016年01月03日

危機感をもたないことが滅びに通じる (平和はつづかない、必ず危機がやってくる)


危機感をもたないことが滅びに通じる

(平和はつづかない、必ず危機がやってくる)


人間、このままでいいと思えば、改革の必要性は感じない、このままではいけない、危ないという危機意識を持つから、改革への重い腰を上げるのである。

優れたビジョンの条件の筆頭に「将来のイメージが明確であること」を挙げている


人間は安きに流れる、甘い見通しをするのが常である。それは個人的にもそうであり組織でもそうである。
事業を起こすにしても失敗した人は相当に甘い見通しをしていた。根拠なくして事業を起こしたのではないにしろ見通しが甘かった
失敗してからも借金していても自分に甘いので変わらなかった。
誰かから借金すればいいとしてその生活すら改めていないし前と同じような贅沢な暮らしをしようとしている。
要するに相当な借金があっても危機感がないのである。だから節約もしない、また借金すればいいとかなり自分がその標的になったのである。


人間は危機意識がもつようになるのは厳しい現実をつきつけられないともていない
つまり借金で家も土地も売るようになるとか何かそうした現実をつきつけられないかぎり以前として甘い見通しでいる
どこからか金が入ってくるという感覚なのかもしれない。
人間は何も起こらなければ平和ならその平和がずっとつづくと思う
それは国単位でも個人単位でもそうである。
「災害は忘れたころにてくる」というのはまさにそのことだったのである。
今回の津波でもそうだった。こんな津波が400年すぎて忘れたころにやってきた。
それは三陸では100年前にあったのに忘れていたのである。
人間の特徴は忘れやすいことにある。それで老人になると何か覚えられない、記憶するのが苦手になる、そしてそれが極端化したのが認知症なのである。
子供の名前とか顔すら忘れてしまうように極端化するのである。
自分の書いたものでも忘れているのが多いから記録として何か書いていた方がいいとなる

危機意識の欠如から何が起きてくるのか?今回の天変地異の津波とか原発事故とか大きくは国が滅亡することもある
日本は海で囲まれているから海が防壁になっているから他国から侵略されないという危機をもてない国である。
外国では陸続きだから絶えず国が侵略して興亡しているから他国が責めてくるという危機感をもっている。
そして民族が滅ぼされることもありうる恐怖を危機感をもっている。
日本の国にはそうした危機感に欠けている、神風が吹いてモンゴルの船が沈没したとか危機感に欠けるのである。


そういう自分も危機感に欠けていた。何か平和だったから甘い見通ししかしていない、自分は実際は今回の十年間の苦しい体験は将来をイメージすれば賢い人だったら予想できたただどんなに賢い人でも将来がどうなるか予想はできない
つまり将来は想定外になるのが多いのである。実際津波でも自分の個人体験でもそうだった。想定外のものに対処することになったから苦しかった。
まず認知症が何なのかなど理解しようがない全く想定外のことだったからである。
もちろん原発事故もそうだった。
原発事故もこれも危機感に欠けていた、その証拠が「安全神話」を政府と東電とマスコミとか県とか地元住民でも一体となり作り上げられていたのである。
原発は安全でないというと地元では非国民のようにされたということもある
なぜなら原発で働き利益を得ているからそうなった。
人間は根本的には利益利権で動いているからである。


危機感というときアメリカの危機感と日本の危機感は違っている
アメリカの自然への危機感は竜巻とかにあった。それで電源を地下に置いた。
日本では地震とか津波があり自然への危機感は違っていた。
自然でも国によって場所によって危機感は違ってくる
国となると歴史とか風土が違うから技術でもそれに適合するように作らねばならない
だからアメリカの押しつけに言う通りになったことも危険だった
アメリカでは日本の風土を考慮していないからである。
ただアメリカでも西海岸には原発を作らず東の方に原発をほとんど作っていた。
西海岸は地震を考慮して作らなかったのである。
いづれにしろ「安全神話」を作り上げたときすでに危機感は喪失していた。
安全神話が危機感を喪失させていたのである。
安全、安全と唱えていれば安全だとさえ錯覚していたのである。
それは何事かあれ題目を唱えている日蓮宗とか真宗系統の信仰と同じである。
科学技術者がそうした安全信仰に安全神話のために点検を怠り危機感が喪失していた。
事故の前にも安全の不備が指摘されても軽くあしらうだけであり本気になっていない
それは「安全神話」を権力で作り出していたからである。


ただ危機感をもていないというときそれは人間の弱点であり心理的なものとしてそうなりやすい、人間は常時危機をもって暮らせない、そんなことしていたら生きるのも嫌になるだろう。だから人間は突然の危機に弱い、奇襲に弱い、突然無防備の所に攻められるのが弱いから相手の意表を突くことが成功しやすいのである。
そして危機意識は常に一時的にもっていてもすぐに忘れる
何かすでに自分は十年間そうして苦しみ危機意識をもたされて過ごしてきた。
何かいつも緊張状態にあった。それが母が死んで介護も終わり気がぬけたようになった
危機感というのがそれと同時にまた元のように何か弛緩したような状態になった
でも危機感をもたない国でも会社でも家族でも地域でもそれが大被害に通じる
原発に対して危機感をもっていないから地域が崩壊したのもそうである。
東芝でも大会社でも人事で内部で権力争いしていて会社自体が危機にさらされる
リストラされる人が膨大になるのだから危機感がないことで社員も犠牲になる


原発事故でも避難した人たちが仮設にすでに小高など5年もすぎようとしている
しかしその一人の女性ではあるがほとんど何の危機感ももっていなかった。
補償金で鹿島区の人が不満なことも知らない、鹿島の人は小高の人が金を使ってくれているんだから良かったのよとかのんきなことを言っていた。
そしてこれから小高に帰るのは嫌だ、どこかで働く所がないかとか聞いてきた。
これも補償金て仮設暮らしでのんびりすごしていた結果危機感もなもるなくなっていたのである。
ただ5年間は補償されて何でもかわいそうだと支援されたきたから支援されるものだとなってしまった。
そこに将来の危機感は全く喪失してしまっていたのである。
将来を危機感をもってイメージすればそんなことでいいはずがなかったのである
つまり人間はどうしても安きに流れるのである。
困難のことを敢えてしたくない、望まない、実際はそうなのはしかたがない
人間は強いられない限り困難なことは苦しいことをしたくない、それを否定できない
でもそのことがのちの災いとなるのである。


例えば求道にしても若い内しなければもうできない、年取ってから信心するのは別であるもう死が近づいたとき死という最大の危機を乗り越える信仰をもつことはできない
それは若いときするべきものでありその時危機感をもって求道して行動しなければあとはできない、年取ってからでは時すでに遅しなのである。
人は若いときは遊んでいればいいとか危機感をもたない、そして享楽の内に青春は浪費されるのでてある。
人間はそもそも常に人が死んでいるのだからそのことに対して危機感をもつ
でも死について危機感をもたないから求道もしない、そしてカルト宗教団体などに時間を浪費して終わる、そこは宗教とは何ら関係ない政治団体なのである。
カルト宗教団体はパンの危機感であり死とか精神的な危機感はゼロである。
いかにこの世のパンを得るかの危機感なのである。パンをもっとよこせというパンの配分の問題である。
そんなことより人間は死ぬ、消滅してしまうということの方が怖いことでもある
でもそういうことより日々の生活のパンのことの方を追及しているのが現実である。


ともかくあらゆる場面で危機感の欠如があり弛緩がありそれが致命的になってゆく
時間がいつまでもあるとか若いときは思っているがたちまち老人になっている
それも危機感がないからそういうふうに考える
時間などあっというまに喪失する、時間に対しても危機感をもっていないのである。
人間は極限られた時間しか与えられていないのである。
とすればその限られた時間の中で何をするかというのが問題になる
享楽的遊んでばかりいていいのかと自問する
時間が無限に与えられていれば緊張感もないし危機感ももていなのである。
そして営業でもビジネスチャンスは生涯で一回しかないと本に書いてあった。
その一回のチャンスをものにしないとあとはビジネスチャンスが巡ってこないというのも本当だろう
人生においてなにごとビジネスでも何でもチャンスは一回しかない
それが人生だった、一回のチャンスに賭けた人が成功してあとはしない
一回失敗したからまたあとがあるというのは危機感がないからそうなる
もしこれ一回切りだとしたら何でも危機感を持ち対処する
そういうふうに危機感をもたないことがかえって危険なものになってゆく
危機感をもたないために国も会社も地域でも滅んでゆくということがある
だからふりかえると危機感をもたないということ自体がそういう生活自体が危機をまねいていたと自分でもふりかえるのである。

タグ:危機感

2015年12月20日

この世の最大の無常は死 (死を克服するには信仰しかないーそれもキリスト教しかない)


この世の最大の無常は死

(死を克服するには信仰しかないーそれもキリスト教しかない)


今回の母の死もショックだった。すでに家族で三人の死を経験した。一番のショックは自分が中学生のとき死んだ父の時だった。それが野辺送りであり薪を積んで焼いたからすさまじかった。それ以来自分は死の恐怖にとりつかれた
それが求道のはじまりだった。もちろんどう求道していいかもわからなかった
死の解決方法がわからなかった。それで失敗したのはカルト宗教団体に入ったことであるそういう所は政治団体でありそうした死の問題は関係ないのである。
つまりこの世のパンの問題が最大の問題でありそのために政治的便宜を提供するものとしてあれだけ数を獲得したのである。
どうししても集団化すればたいがい共通しているのは利害で団体化する、それは宗教とは関係ないのである。
天草四郎とかキリシタンの反乱なども政治的なものであり権力争いであり浪人がそこに集結して徳川幕府の転覆を計った。だからこそ徳川幕府は敵対したのでありり信長も比叡山を敵対したのはそれは権力に敵対するものとして団体化していたからである。
別に予言者のように日蓮のように一人戦うものならそんなことはない、その一人が迫害にあうだけど団体化組織化した宗教団体は政治団体化して時の政権奪取を目指すのだから争うことになる


そして本当は人間の最大の問題は何かという問うとき、それこそ人間には無数の問題をかかえている、第一問題がないということがまた問題になっているのだ。
問題がないということはそれだけ恵まれているということはのちのちまた災いになるのである。何か苦難の時が来たらばあまりにも恵まれた人間は対処できないのである。
それで資産家の姉妹が餓死したというのもそのためなのである。
つまり恵まれすぎたことが後の災いを生んだのである。
いづれにしろ人間が死ぬということが最大の問題として宗教がある
一番のショックは人間が死んで骨になり灰となり形も何もなくなってしまうことなのである
だから骨を拾うとかは本当に酷だと思う、いちいち骨がどうだったとかこの骨はどうだとか説明されるのが何か嫌なのである。これは太い骨ですねとか太った人だと言われるだろう。そんなことを想像するだけでも嫌だろう。
何か人間の解剖に立ち会っているようで嫌なのである。実際の解剖なら医学に役たつのだからいい、骨を拾うというのはそんなこともないのである。
だから骨壺に入れて渡された方がいいともなる、ただ無常観を感じさせるには骨を拾うことは一番効果あることは言える。
人間は結局は骨となり灰となるものであるとういうことをまざまざと見るからである。
それが人間として生きてきた最大のショックなのである。
要するに人間の壊滅状態を見るのである。何もなくなってしまう無をまざまざとみる
それでショックになり何か食欲までなくなり気力も喪失して立ち直れなくもなる


この死のショックはいかに慰められようと慰めることは人間にはできない、そして死に関しても平等である。どんな金持ちでも権力者でも有能な人でも必ず死に骨となり灰となるこの世にいかに権勢を誇っても行き着く先は骨であり灰になるという現実が死である。
それは美人でも女性でも最後は同じである。その前に皺くちゃになり醜悪な顔にもなる
それが女性の現実でもある。
そうした老人とか死の時点から人生を考えるときこの世の様々なことが虚しくなるだろうこの世のことに人はみんな必死で追われている姿が虚しいとなる
文学者でも感受性の強い人は芥川でも川端康成でも太宰でも他にも自殺している
それは死を克服できないからである。どんなに栄誉栄華を誇っても死があるだけであり
骨となり灰となるだけだとなる、死とは人間の壊滅状態なのである。


死はまた宗教でも仏教でもイスラム教でも克服できない、お釈迦様も死んだからである。死ななかったのはキリストだけだとなる、その前に聖書には人が骨から蘇るとかそうした奇跡が記されていることは人間の死に関して特別な見方をもっていた。
すでにエホバというときそれは見えないが神と認識されていて人を蘇らせる神としてみていた。だからそういう宗教は他にないのである。
でも実際は蘇ったのキリストだけでありその後にいかなる偉大な聖人も蘇っていない、みんなやはり死んでいるのである。では死を克服されてはいないではないかとなる
やっばりみんな死ぬには変わりないとなると言われるのもわかる。
でも聖霊は死なない霊でありこれは肉体を越えたものとして授けられる
聖霊は永遠の命であり死なない霊なのである。でも実際は聖人でも人間は死んで骨になり灰になっている。
でも来世では生命の書に記されたものは蘇るということは確かである。それは契約であり今世では確かに骨となり灰となる無惨がある。だからこの世での肉体をもった姿は仮の姿だともなる
永遠の命があることこれを信じる意外救いがない、
そうでない限りどんな栄光かあるのか?結局は骨となり灰となるだけだとなってしまう。
キリストに栄光があるというとき死なないからであり死んだら栄光はない
死ぬものに栄光はない、神がいたとしても死があるなら神の力もないとなる
医者でも結局死に対しては無力である。どんなに科学技術が発達しても死を克服できないそれは神にしかできないのである。科学技術の栄光も限界があり死は克服できない
どんなに文明が栄えても死は克服できない、それが人間の限界なのである。


いづれにしろこの世のいかなる力をもってしても死は克服できない、この世のことならできる、貧乏でも克服できるときはくるだろう。無数の問題があるがそれも克服できるだろう。しかし死だげは人間の力では解決できない、ただこの世では死がどうのこうのというより日々のパンのことの方が大事でありそのためにあらゆる労力は費やされているのである。カルト宗教団体でもそうであり団体となればみんなそうである。
死の問題は普遍的であっても個別的なのである。
それは団体に頼っても友人に頼っても親族に頼っても科学技術に頼っても解決できない
だから教会に行っても解決できない、団体に入ることではない、個々人の問題として死があるからだ。その個が神と結びついて解決される問題であり団体化しても解決しない
だから団体とは肉でありパンのことである。
bodyは団体[人],統一体,組織体,法人でもある
ところが聖霊は個々人に授けられるのであり団体には授けられない、bodyには授けられない、教会もbodyでありその団体には授けられないのである。
別に教会に行かなくても授けられるのである。教会は否定できないとしても信仰は別である。


むしろ個々人の求道のなかで人生の中で紆余曲折して神の信仰にいたる、そして教会で説教を聞いてもそれはヒントみたいなものを得るだけである。
そして前にも書いたが誰であれ牧師であれ誰であれ教えられるもの説教するものによって奴隷の霊を与えられることが危険なのである。
四国の遍路であった人は金をやると言ったら経文を唱えた、あれも何なのかわからないで接していたが危険だった。あの人はただホームレス化した遍路でありそれが遍路だからお経を唱えた、それは食う手段として宗教をまねる人物となった。
そうなれば乞食ではない、尊敬される師ともなるからである。
そういうものにお経をとなえてもらったら心も支配されるのである。
何か今は僧侶とかは誰も尊敬していない、そして自分でお経を習って唱えるような時代になっている。
それも時代でも危険だなと思った。でもまたそれがキケルゴールの言う民主主義であり水平化の時代なのである。すべての面で精神的なもの宗教でも個々に追及して平等化してくる、もう師など従う人などいない、従うとしたらカルト宗教団体に入りそこで利害を一致させて政治運動することになる
要するに宗教も自己責任の時代となる、何を信じてもいい、唱えてもいい、しかし他人にそれをおしつけるなとなる、その教える人が師となれば弟子となる人がいて支配されるからである。師はまた偶像崇拝化されるのである。
だから民主主義とは何でも自己責任になる。あなたが何を信じようがいい、それは自己責任でありあなたの自己責任で解決して他者にそれをおしつけてはならないとなる
団体化したものはすでに宗教をその数で団体化して権力でおしつけているから危険なのである。



2015年12月10日

老人は男女を生きることができる (男女の神秘の考察ー東西文明論としても)


老人は男女を生きることができる


(男女の神秘の考察ー東西文明論としても)


主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。『ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。』こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。(創世記2:18-25)」


主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。

そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。

人間はまず男かつくられた、それがmanであり女はwomanになった。wobmとは子宮のことである。女には子宮を与え子供を生むようにした。
最初が男だということは男を女に変化できることなのである。
現実的に男性の生殖機能から女性の子宮とか他の女性の生殖器に作り替えられるという、それは科学的にも説明できるし構造的にそうなっている
女性とは男性の変化したものである。女性にも睾丸とにたクリストフがあることでもわかる。

生過程の性分化は、あらゆる場面において男性への分化の方が時期が早い。その時期を過ぎて男性への分化が起こらなければ、女性として形成される。

陰茎と陰核に限らず、男女の外性器は発生上は同じ構造である。元々持っている男性器の外性器は、原則的にはそれぞれ各部がそれに対応する女性器に作り替えられる。例えば上に挙げた陰茎の場合には、その亀頭部を陰核に作り直す。表陰嚢は大陰唇に相当するが、これは膣の内壁としても利用されるらしい。

これなども男性が先に作られ女性が男性の変容したものとして作られたことを証明している
ここでは女性の方が先に作られたとしている、男性と女性に分化する過程にその秘密を解いている。生殖器は一体なものが二つに分かれて変容した。それは一つのものだったのであるから両性具有になっても不思議はない、それは肉体的だけではない、心でも両性具有となる、老人になると一般的にそうなりやすい、男性は攻撃な性から女性の受容的な性に変わり穏やかに丸みを帯びたものとなる、でも男性的なものは持続している

ただなぜ骨から作られたのかということである。骨は人間を焼けば最後に残るものだし骨は肉がなくなっても残る、だから骨が人間の体で重要なものと認識した。
骨から人間が再生できる、骨から生命体が作られる、骨に肉をつけ霊をふきこむと生き返る、男の肋骨から女性が作られたように骨から人間が再生できる
ともかく聖書の語りの残したものも謎に満ちている、ただ科学的に見てそれがまるっきり架空の作り事ではない、科学的にも説明出来ることに聖書の不思議がある
聖書はそもそも奇跡を信じなければ成り立たない、そして奇跡が人間に起こるのだ
科学では絶対説明ができない奇跡が現実にあるしそれを記したのが聖書である。
だからただ人間はみんな死んで終わりだと考えてはならないのだ。
そんなだったら人間に何の栄光もないとなるかららだ。

「あばら骨のような比較的短い骨の骨髄は(骨の芯のやわらかい部分)は赤色骨髄であって盛んに裁縫分裂して急激に増殖する骨髄細胞をふくんでいる
骨髄細胞を盛んに分裂増殖すれば細胞培養によって人ひとりの数の細胞ぐらいわけなくできる」(創造論の世界、久保有政)

考えてみれば人間の肉はすぐに腐りなくなる、でも骨はいつまでも残っている
その骨を基にして生命の再生を計ることは科学的なのである。
また女性を肉の肉だというとき男性の肉が変化して女性の肉になったのである
だから肉の肉なのである。女性が男性に求めるのは肉だけではない、子宮があり子供を生むことでありそれが最大の相違である。

人間は男女があっても女性でも男性的な人がいるし男性でも女性的な人がいる。
両性具有というのもいるそうだから肉体的にもそうであり精神の面ではみんな両性具有である。
そして「柔和な人達は、幸いである、彼らは地を受け継ぐであろうと言われるのか?
それは男性的なものではなく女性的なものなのである。父と呼んだエホバなるものは男性でありだからこそまずその似姿として男性を作った。次ぎにその助けてとして女性を男性から作ったというのはまさに神の業である。
肉食獣は獰猛であり草食獣は柔和である。肉食獣は神の御意になく草食獣が神の御意にあるのか?肉食するものを神は嫌う、柔和なものを神の御意にかなうものとしている
それは不思議に女性的なものに柔和なもの優しさがある
それは男性にあるとしても女性に体となり具現化したものとして存在させた。
女性は男性を柔和にさせる、その体は優しさに満ちている


ただ女性にも男性的な女性がいてその人は女性を友達にするより男性がいいとしている
体つきもそういう人は肉食系であり今の若者は草食系だとして批判している
ヨーロッパは狩猟民族であり肉食系でありアジアは穀物を食べるから草食系だとなる
ヨーロッパ文明は獰猛な戦争好きの男性原理から成り立つ、アングロサクソン系とかアーリア人は特にそうである。相手を暴力でもってでも征服する。それ故に武器の発達があり機械の発達があった。これほどの機械文明になったのは西欧型の狩猟文明が基にあったからである。
ヨーロッパとか西と東と分けるがアジアというときイスラエルはアジアなのである。ヨーロッハは地中海をわたった方向をヨーロッパと呼んでいたのである。
宗教はアジアからはじまった、アジアのものであり東のものである。
ヨーロッパ文明がキリスト教文明だというがそのキリスト教はアジアのものであった。
だからローマ教会化した、政治化したのはヨーロッパ文明であった
宗教はアジアのものであり科学や機械や法律とかはヨーロッパ文明である。


資本主義とかもヨーロッパ文明から発展したものでありアジア文明ではない
そこに男性的原理が強烈に働く文明である。競走原理とか上下の支配の強固さとか階級制とかでもそうである。支配するものと支配されるものに二分化されるのもそうである
過度な機械文明であり環境を破壊する文明である。それはもう限界に来ている。
その結果としてこの辺の放射能汚染で住めなくなった現実がある
過度な機械文明は危険であり制御すべきものとなる
ヨーロッパ文明の延長としてアメリカ文明がありその挑戦を受けたのが日本であり明治維新だったのである。
だからアジアが復興するルネサンスになるというときそれは日本が再興することなのである。
それは資本主義とか競走原理の弱肉強食の男性的原理から柔和なる優しに満ちたアジア的原理に回帰することになる
つまりそれが宗教たからである。それはキリスト教でも仏教でも同じだからである。老子の教えでも思想的にはにているからである。
ただアジアというとき何なのか?それは広すぎて今なお不明確である。
ただ西欧文明と延長のアメリカ文明はもう限界に来て衰退してアジアが再び勃興することはまちがいない、そこには欧米の原理ではない新しい文明が再興するのである。


男性的なものと女性的なものは補完するものであり不思議なのは老人になると両性具有となり精神的にそうなる、荒っぽい男性からたいがい柔和な男性に丸み帯びたものとなる
それは性欲の減退とかと関係してホルモンのせいもある。
だから老人になってからは中性化するからかえって女性と男性を若いときのように取り合うとかより融和的になるのが一般的なのである
もちろん個人差があり若いとき同じように血気盛んな人はいる。ただ一般的には男女の区別がない幼児のような子供のような時代に逆戻りするのである。
その時美人とか容姿もあまり関係なくなる、それより話が面白いと別なものが注目されるその女性は若いときだったら近づくのも嫌だったろう、体型でもあまりにも無様なのである。でも何か話してみると違っている、面白いのである。
美人は三日みればあきるというのは本当である。何かそれより精神的なもの話が面白いとか性格がいいとか何か別な精神的なものが重要になってくることは若いときからあったが老人になると外見とか容姿よりそうした内面的なものなどが重要になっている
老人は外見はみすぼらしくても内面は若いときと違った充実しているのである。
若い人が老人なんか無駄だというが早く死ねというが若い人は内面が精神が充実していない、ただ血気盛んな肉体があるだけだともなる
だから何か芸術でも深いものは創作出来ないのである。精神的に成熟できないからそうなる


老人になることを嫌うのは肉体的衰えがあり外見からだけみるからである。
精神は全く違ったものとして充実している、若い人はどうしても精神的には成熟できないいくら背伸びしてもそうである。それには時間がかかるからである。
自分の創作でも若いときに経験した旅でも今になるとその意味を深くして創造でる。
つまり旅でも旅しているときはその意味とかがわからないがあとでわほかるときがある
その場について後で深い洞察ができてくる。あちゆる経験でもそうである。
なかなか若いときでも体験しているときは夢中でありその意味を深く洞察できないのである。
老人になってはじめて本当の実りの季がくる、だがら自分も今は創作的にも充実している本を読んでも深く読めるのである。若いとき本は買うだけであり読んでもわからないのが多かった。今だと深く読めるから批評に向いていると思うようになった。
批評はやはり一段上の高みにたたないとできない、,人物批評でもそうである。
批評はだから老人に向いているのである。


若い日の熱情と火花が燃え上がる
一人の人間に男女があり
老人になると二つの性を生きる
老木は大地に根付いて深い知恵を語る
人間は以前として解明されていない
神秘であり謎である
自分自身すら謎であり謎を生きている
青春を生き壮年を生き老人を生きる
若者は老いがいかなるものか知らない
私の心は何になったのだろう
私の体は枯れてゆくのか
私の体も枯れてはいない
人間は死ぬその時まで神秘体験をする
旅した私の心は世界を駆け巡っている
郷土を生きて世界を生きている
人間は奇跡的な存在である
私は死ぬとき奇跡の変容を遂げる
風雲の中に私は轟き去ってゆく
その時来世への約束の虹がかかる








2015年12月02日

宗教の危険性は心を支配されこと (師すら従うことは心が奴隷化される)


宗教の危険性は心を支配されこと


(師すら従うことは心が奴隷化される)


あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。(詩篇51篇)

 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。(ローマの信徒への手紙)


現代の宗教ではこれを守ることが大事になっている、宗教の最大の危険は必ず奴隷の霊を受けることになっているからだ。
人間は経済的に困窮すれば借金などすると奴隷のように働かされる、昔だったら借金のカタとして遊女にされたとかなる
もうその時有意義に働くなど考えることもできない、身は奴隷にされる
もちろんそうでなくても今は金の力で俺たちは奴隷なんだよと働いている人が多数になった。それは望んでいない働き方だからである。


そして意外と軽く考えているのが霊的に奴隷になることである。霊的だとかあまり重大に普通は考えない、日々の生活では日々のパンを得ることの方が大事でありそうして毎日働いているのが現実である
だから人間は容易に霊的な奴隷になってゆく、例えばなぜこれほどカルト宗教団体に入る人が多いのかということである。
それは何か利得があり利益があるということで入る、でもそこは宗教が関係しているから精神まで奴隷化されるのである。
宗教になるとあらゆることに宗教をあてはめる、お前が貧乏なのは信心がたりないだとかお前が病気なのも信心がたりないのだとか、相手に対しても罰が当たるだとかなんだとか宗教を利用する、それがカルトである。
カルトが怖いのは精神が支配されるからである。
オウムが最もその宗教の怖さを現実化した、殺人することも宗教で肯定された、イスラム教でも殺人も神のために肯定されてテロになる
宗教の怖さは殺人でも肯定されて正しいことをしているとなるから怖い
そういうふうに心が支配されることが怖いのである。
そして心が支配されるからたえずおびえるようになるのだ。
罰あたるとか地獄に落ちるとかそういうことを頻繁に言うようになりおびえるようになるそれは心が支配されるからである。


そういうことを別にカルト団体だけではない、個人でもあったのである。
自分が病気で苦しんでいる時、借金している人が脅迫してきたりそうした不安状態につけこんで支配しようとしてきた。
つまり弱者化すると容易にそうされやすいのである。様々な困難に直面して苦しんでいるときカルト宗教団体の餌食になりやすいのである。
そういうことはまた団体だけではない、個々人にもあるのだ
四国の遍路で出会った人はホームレス化して遍路している人だった。
その人に金が余っていたので一万とかくれることにした。
そしたら簡単には受け取らない、何か人間はくれるとなると素直に受け取れない心理がある、貸してくれというときは返すから貸してくれと言っているのである。
でも実際は貸してくれと言ってまともに返す人はほとんどいないのである。
でも自分は返すから貸してくれと言っている。金をくれろとは言えないのである。
でも借りることは金をくれろとほとんど同じなのである。


そのホームレス遍路はそうなってからまもない人だった、そしてその金をもらうと言う
そしてお経のようなものを唱えたのである。
それはお返しのためであり、それは一つの御布施のようにしてもらったとなる
となるとただもらったのではない、御布施として与えられたとなるからである
それもその人は何かでホームレスになったのであり宗教など何の関係もないのである。
ただ切羽詰まって宗教を遍路している内覚えて唱えるようになった
これも実際危険なことである。その人はそうして信仰など関係ないのに何か与えられたらもらい信仰もないのに相手にお経を唱える
その相手はかえってそのために感謝までしてければならなくなってしまうだろう
そして何よりそうしたなら心がお経を唱えられることによって支配されることになのである。
何か昔から僧となり行脚する人にはそういう人たちが相当いたことは確かである。
修行僧とか禅宗にはそうして全国を歩き回る人たちがいた。


でも別にその家々で個々人でもそんな信仰もないとしたらお経を勝手にあげられることも迷惑だとなる
そういう人は宗教とは何ら関係なく日々の糧を得るためにそうして乞食ではない、自分は尊敬される僧であり布施をもらうのが当然だとなっていたのである。
そして何か布施しないものの家は悪いことが起こるとか呪うようなこともしていたのである。
とにかく何か宗教というのは何が真の宗教なのかわかりにくい、何かうさん臭いの宗教である宗教者になる
戒名などでもうける檀家宗教もそうである。それもそれなりに有効なのは宗教は来世でも何かわからないからおびえるからそうなる、その不安につけ込んで商売している
そういうことは先祖の霊が悪さしているとか先祖供養しろとか除霊だとかいうのも心を支配して商売にならかである
人間は弱いものだし様々な不安をかかえるから心まで支配される


そして宗教というとき必ず師についてまず学ぶ、これもまた現代では危険になる
師が絶対化して服従するだけになる、師弟不二とか言うことになりそれは師のためなら命までささげることになるから怖いのである。
池田大作とかオウムの浅原のような異形の妖怪のような人間を仏とか神とかまで祭り上げる、つまり偶像崇拝になることが宗教では一番危険なのである。
イスラムで絶えず偶像を否定しているのはそれなりに宗教の本筋をついているのである。師というとき師と同じになることではない、師はあくまでも今は一つの指標であり越えてゆくべきものである。
師に学ぶべきものがあってもそれは一つの一時的な過程にあるものであり絶対化はできない、師はむしろ弟子によって否定されて弟子が新たなものを作りだすことである
それは教会とかの牧師でもそうでありそういうふうに何であれ師にすることは危険なのである。
奴隷の霊を受けることになるからだ。だから教会にもゆくべきではないとなる
だから自分は一回も教会に行ったこともないし説教を聞いたこともないし聖書すらまともに読んでいないのである
何かの団体の会員になること自体が奴隷化しているのだ。会員だということはもうそこには個はない、同じユニホームを来た団体化したロボット化した会員である
そういうものにはもう誇りもなにもないだろう。ただ右向けといえば右むくだけであり
それがボアしろとか言われて殺人までになるから怖いのである。


一方で現代はもう師など求めない時代でもある。水平化の時代でありみんな同等だ同じだという社会でありそれが民主主義だとなる、それはキケルゴールが言ったことである。
しかし大衆とか優れていない普通の人が師なくして自立することは相当にむずかしい
どうしても何かに人でも頼らざるを得ないから結局カルト宗教団体がなくならないのである。
宗教の怖さは何であれ間違っているにしろそれが人間の心を支配するからである。
ホームレス遍路でも食いつなぐためにお経を唱えて糊口をしのぐことをしている
そんなものでも唱えられることによって心が支配される
だから宗教は金をとることによって成り立つこと自体が邪道だともなる
それで平民宗教を内村鑑三などが唱えた、牧師とかではない僧侶ではない、普通に社会で働いて信仰することが推奨されたのである。


ともかく人間は切羽詰まってくると危険なものとなる、たいがい推理小説のドラマで借金に追い詰められて犯罪になっている。
借金に追われた人間は何でもするようになる、モラルも何も喪失してしまうから怖いのである。
追い詰められて信仰心もなにもないのに他人にお経を唱えること時代相当な宗教的罪だろう。この罪も相当に大きいかもしれないがあまり問題にされない
宗教が悪とか犯罪にかかわると何かややこしくなる、それは戦争でも宗教戦争になるとややこしくなると同じである。
日本の戦争にしても天皇を神とする宗教的なものがあった、御国のために死ぬものは英霊になる、神になるといういのも信仰である。
成仏するとか創価がこだわるのもそうである。アラーアクバルとなかて自爆するものそうである。
宗教の誤謬が謝った信仰が看過できないのは非常に危険な要素をはらんでいるからであるつまり誤ったものでもそれが大きな力ももつことができるから怖いのである。

だからフランスの革命は宗教色を払拭しようとした、「博愛、自由、平等」には宗教色がないのである。
それは二千年のヨーロッバの歴史がカトリックの政治化で宗教支配にこりたしその悪弊があまりにも大きかったからである。
本当は間違った宗教は禁止されなければならないのかもしれない、そうなると信教の自由の弾圧だとなるがそれもまた逆にカルト宗教団体は相手の信教の自由など認めない
思想的宗教的にもかえって弾圧する方になっている、第一何百万の会員の圧力がすでにそうなっているのである。
それが政治的圧力ならいい、宗教的圧力となっているから心まで支配しようとしているから近代の社会に適合しないのである。
宗教と政治と経済でも分離すべきものなのだろう。
政治的権力を得て経済的権力を得てカルト教団に入れとか就職斡旋するから入れとかそうした強要は信教の自由に反している
信教の自由が保証されているというときなぜかるとカルト教団が信教の自由の故に公認されているかを知るべきである。
本当はそうした政治的権力や経済的権力を行使できるものは信教の自由に反するのである。
民主主義だからといって何でも自由ということではないのである。
それがなぜ言うかとなると必ず後の災いとなるから守らねばならないのである。



タグ:宗教の危険

2015年11月14日

推理小説に興味をもった訳 (自分も犯罪にあって経験してわかったー人類の歴史は罪の継続)



推理小説のドラマに興味をもった訳


(自分も犯罪にあって経験してわかったー人類の歴史は罪の継続)


自分は推理小説とか読んだことないしテレビでも見ていない、何か馬鹿にしていたのである。
なぜ興味をもったかというと自分自身が深刻な犯罪にあったからである。
犯罪にしてもテレビとかニュースで毎日みている限りそれはただ面白いというだけであるところが一旦自分の身にふりかかれば自分自身が甚大な損害を受けるのだから全く違ったものとなる。
テレビでもマスコミは犯罪を絶え間なく報道しているのは犯罪というのが人間にとって一番興味深いのである。
ただ幸福な家庭の風景を写しても誰も興味を覚えないのである。
「不幸な家族はみんなそれぞれ違っている」が「幸福な家族はみんな同じ」だとトルストイが言うのもわかる。
犯罪でも様々な犯罪があり同じものがない、ただ動機には人間はじまってから同じものが延々として継続されている。
そもそも聖書でも犯罪の記録というのが一面あったのである。
カインが犯罪を犯したことが人類最初の犯罪の記録である。それは兄弟殺しだったということはすでに兄弟間で起きたというとき家族が不和になることはどこでもあるのだ。
調和した家族があったのかというと何か家族そのものが調和しないものがある。
だからそもそもキリスト教でも仏教でも家族を否定することからはじまっていることでもわかる。それはもともと肉の結びつきだから否定されたのである。
どんな家族でもだから何かしらそうした兄弟殺しでなくても何か問題が起こりやすいのである。


推理小説でテレビドラマでも犯罪が起きたとき必ず動機を重んじる。
なぜ殺人になったのか盗みになったのか、なぜそんなことをしたのか問題になる。
犯罪動機が問題になる。それはカインの犯罪から共通したものがある。
カインの犯罪の動機は宗教がからんでいるから複雑だけどこれもまた自分の捧げ物
カインは地の実り野菜や果実をアベルは羊を捧げたということにあったが神が認めたのはアベルの捧げ物だった。

お前の弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいる」というのです。「わたしに叫んでいる」というのです。殺されたアベルの血は殺したカインに向かって叫ぶのではなく、神に向かって叫んでいるというのです。

ただカインへの復讐を求めての血の叫びではないだうろと思います。そうではなくて、殺された者は殺した者に対して直接復讐しないで、それを神に訴えよ、神に復讐を任せなさい、それが神に向かってのアベルの血の叫びであり、それが「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」ということなのではないかと思います。


このサイトではカインに徴(しるし)をつけたのはカインが殺されないように守るためだったと書いてある。神は復讐を禁じたのである。
神が復讐する、人は復讐をしてはいけいない、神が裁き神が罰を与える、人を裁くなというとき人間にとても裁く力ももっていないからである。
何が正義かなにが悪か善かも本当のところはわからない、この世では悪が善になり善が悪にもなにからである。
世界になるとイスラム国の問題があるけどそれももともとアメリカがイラクを攻撃した結果として生れた。アメリカが善でもない、日本とアメリカの戦争もアメリカがすべて正しいとならない、それを裁けるの神しかいないとなる。だから裁くなとなる。
でもアメリカは世界は日本を敗者となったとき裁いたのである。戦犯として裁いたのである。


神が裁くなというとき江戸時代までは仇討ちが許されていたが公認されていたが明治以降は禁止された。それは復讐を拒否する宗教的なものが実は法律にあったからである。
法律が生れたのは宗教が基でありたいがい直接的な復讐を禁じる。
西欧文明が文明が日本では技術とか機械に注目したがそれ以外に宗教もかかわっていた。キリスト教が西欧文明の基だというとき内村鑑三はそう見たのである。
つまり西欧文明にはキリスト教を根幹としているからキリスト教なしではありえないとしたのである。


カインの罪は捧げ物が神に拒否された理由は一つは自分を義としたことにあったのかもしれない、人間は自分を義とすることはできない、義とするのは神しかないのである。
そこに人間の過ちが以前として継続されている。アメリカは常に自分が正しい、義としていることでもわかる。義とするのは神であって人ではありえないからである。
このカインの罪はまた宗教的問題でもある。カルト宗教団体はその団体自体を義としている。だからオウムではポアしてもいいとなる信仰になった。
そういう宗派的なことはイスラム教でも起きている、自分たちだけを信仰で義としてそうでないものは殺してもいいという思想である。それはカインのアベル殺しからはじまっていたのである。それは宗教戦争のはじまりでもあったのだ。
人類とは歴史とはつくづく罪の継続なのである。延々と罪の継続なことは変わりなかったのである。


推理小説でもドラマでもまず殺人があったとき、動機が問題にされる。なぜ殺したのかということである。それにはいろいろ動機がある。金が欲しくて一万くらいでも殺人がある他に男女関係でもありそういうことは人類の歴史では延々と継続された歴史である。
ただ人間はあまりにも複雑だから殺人の動機でも面白いから殺人するとかまであり複雑なのである。動物はただ飢えているから他の生き物を殺すだけであり人間のような複雑なものはないのである。
今回の推理ドラマで殺人する動機に強いものがないとして刑事が疑った。これも深い洞察だと思った。動機がそれだけ大事なのである。
ある人が犯罪を犯す強い動機があればまず最初に疑われる
自分も犯罪にあったからそのことがわかった。犯罪にあった人が今でも近くにいるから殺したいと思った、他にも自分が苦しめたものに何か復讐の念さえ起きた。
いじめられるたりしたらそれで復讐しようとするだろう。そういう念が起きたしそれは長く消えないのである。


しかし今は復讐する気持はなくなった。犯罪の不思議は犯罪を犯した人と犯された人との間に深刻なものが生れる、もちろん殺人を犯した人が普通ではいられないだろうことはイメージする。しかしまた身内を殺されたとか何か甚大な被害を受けた人もまた深く傷つくのである。その傷痕は深く残るのである。
だからこれ許すというなると容易なことではないのである。
だからそういう被害を受けたものは殺したものは殺されるべきであり目には目を歯には歯をとイスラム教国では今でも実行している。
宗教で復讐しないで許しなさいということが言われても実際に犯罪を受けたら誰でもそうはならないのである。
それがいくらそれがキリスト教信者でも何かの信仰をもっていてもそうである。
何か犯罪を受けたら許しなさいとは簡単にならないのである。


ただ自分の経験では不思議なのは許しとは犯罪の相手を許すということではない
その犯罪者を前にしてその人が謝ったとしても決して許さない人もいる
とても許せないのである。だから許しとは何なのかとなるとこれも複雑である。
許しとは犯罪を犯した相手を許すことではない、自分自身の心の中で許すことにより
自分自身が救われる、心が平和になるということである。
なぜならそうした犯罪者に激しい憎しみをもちつづけたら心の平安が延々と得られないからである。
その犯罪者を前にして許すというとき本当に許すいうのは心の中で起きてくることなのである。
心の中で許すとなれば平安が得られるからである。
一方で犯罪を犯した人の許しはどうなるのか?
犯罪の被害者が許せば許されるのか?
この犯罪者の方が罪の問題として深刻になる
それは被害者ではない、その良心が問題になるからである。


私は罪を犯しましたといって誰が許すのかとなる
それは被害者ではないとしたら誰が許してくれるのかとなるからである。
それは誰に求めればいいのかともなるからだ
そして簡単に許されて心の平安が得られるのか、それも犯罪を受けた人より深刻になる
でも全くそんな罪を感じない人もいる、それも何なのだろうとなる
ただ殺人を犯した人はどうしても深刻なものとなるからそこで罪を感じないことはありえないと思う、その罪を消されないということで延々と苦しむことになる。
そっちの方が過酷だとなるからそれは神が許さなければ許しがないとなるから深刻である犯罪の被害者は心の中で許せば許されるからである。


何かこの感覚はそうした経験を得ないかぎりわからない、人間はとにかく経験しない限りわからないことがあらゆることで多すぎるのである。
だからニュースで絶え間なく犯罪が報道されてもドラマとして面白がっているだけなのである。
例えば宗教を説くにしてもただ教義を説く人でもわかっていない、それが学問でも同じである。現実の問題でどう活きるかが問題なのである。
それはこの辺の津波とか原発事故でも同じだった。この窮地を問題をどう解決していいのかなど未だにわからないからである。


ともかく許しということは犯罪を犯した相手を許すということに見えてそうではなかった自分自身の心の中でまず許すのでありそれは心がそれにより愛に満ちて平安を得るからである。延々と憎しみと呪いになっていたら平安がなく自分自身が不幸になる。
例え復讐しても決して平安は訪れないしさらに自分自身が犯罪者になるという恐怖であるそれが推理小説ドラマのテーマとなっていることでもわかる。
必ず復讐が動機となって犯罪を犯された人がまた犯罪者になるという悪循環が生れるからである。
その復讐の連鎖を断ち切らない限り人類に平和はないのである。
それは個々人でもそうである。
人間は他人の罪を追及する人が多いが自分が罪人だと自覚する人はまれである。
何も犯罪も犯していないのにそういう人はかえって宗教的である。


親鸞はだから悪人が往生するというときそのことだったのだろう。これは誤解されやすいが自分を悪人だと自覚する人がまれだからそう言っている
たいがい自分は悪いことをしていないと言っている、自分は善人だとしているからであるそういう自分もそうである。それはほとんどの人がそうなのである。
自分か悪人だと思っている人はおそらく殺人犯でもそうかもしれない
殺したとしてもあいつは殺されて当然の奴だ、神に代わって俺が殺してやったのだとかと思っている人さえいるかもしれない、だから自分が悪人などと思う人がいないからそう言ったのだろう。
それは宗教関係の牧師とか僧侶でもそうである。その人たちは自分が罪がないとしていて人の上に立っているからである。
あたかも罪がないようにふるまっているけどそういう人が最悪の罪人だということもあるカルト宗教団体の長になっているような人はみんなそうである。
自分には罪はないとして聖人だなどとしているのは一番罪深いともなる。
だから宗教団体とは教会ですらかかわらない方がいい、自分は一回も教会に行ったことがない、教えを乞うたこともない、カルト宗教団体で活動していて時間を浪費してからかかわっていない。
宗教自体が誰かに頼ったり団体にかかわること自体が危険なのである。


とにかく今日見た推理小説はドラマは相当に人間を洞察したものであり感心した。
それは犯罪の動機を深く追及したものだったからである。
いくら過去に殺す動機があってもそれが強いものとはならないとして犯人を探したからである。
実際は簡単に殺人があるのも確かだが普通はか殺人まで簡単にはならないということでもある。
結局人間の一生はドラマであり神が作ったドラマである、そのシナリオは神が作っているのである。だからその結末は本人も誰もわからないのである。
死んでみてやっとわかったとかなるし歴史の真実も百年たってもわからないこともある。それだけ人間を理解することはむずかしいということである。



2015年11月14日(土)12:00〜13:52
火曜サスペンス劇場
刑事 鬼貫八郎6 「十六年目の殺人」

これはドラマ的にも深いものがあった。一六年目前のことが尾をひいている。
でもその一六年前に帰れないということがテーマだった。
人間はもう青春時代でも何でも帰りたいと思っても帰れない
なぜあの時戦わなかったのかと親の言いなりの結婚したことを反省している
従順なこともいいとは限らない、一旦そこで行動しなければ全生涯にわたって影響するしもうその時点にもどれないことが致命的なのである。
このことを人は必ずあとでふりかえり悔いるのである。
でも時間はもどらない、永遠にもどらないのである。
人生は一回であり二回を経験することができないからである。
そうした過去の因縁にこだわり事件を起こしたのである。
そもそも過去の因縁にこだわったことがいけなかった。
今は成功していたのだからそんな過去にこだわる必要もなかったのである。






2015年11月05日

人間の経験は限られているから困難に対処できない (相手のことを理解できないから同情もしない)



人間の経験は限られているから困難に対処できない

(相手のことを理解できないから同情もしない)


人間の老人になればわかる、個々人で経験することが極めて限られている
ほんのわずかなことしか人生では経験できない、それぞれの一生でもそうである。
だから原発事故のとき、吉田所長が肝心の復水器のことを知らなかったというのは
外部から見ればそいなことがあるのかと思った。
普通だったら外部から見れば所長となれば全体を指揮するものだからそれを知らなければ指揮しようがないからだ。
管首相が理系の大学をでて原発も知っていたから「自分は原発を知っている」と叱咤して命令した。でも実際は原発のことをすべて知っていたわけでないから過ちがあった。
旭化成の社長でも薬学部出身であり建築のことは門外漢だとなって指揮はできない
もう今の社会はそうして分野が違うとわからないとなる
それでふくきょうこう手術で十人とかの死者を病院で出したがそれも手術する人の分野が違っていてうまく意志疎通できなかったと言っている
そもそも複雑に分化した細分化した社会は意志疎通ができなくなる社会である。
それはますますそうなってきてもう互いが異星人のようになってくる。
それは常に起きてきたことだけど社会そのものが互いが異星人化しているのは現代である

職業でもあいつは何をやっているんだとかなかなか理解できない、簡単なものは理解できる、原発で働いている技術者のことなど理解できない、そこは秘密のベールに閉ざされた世界である。理系と文系の分離も極端になったのも現代である。
人間と人間が意志疎通できない時代だから人間疎外とう言うことが言われる。
相手の立場にたって意志疎通できない、理解できない社会である。
何か仕事するにしても一人一人のお客さんの顔が浮かんでくるとか従業員の一人一人の顔が浮かんでくるとかないだろう。
一人一人はロボットが機械のように見えているという方が適切だろう。
だからこそ非正規の社員が膨大に増えたのである。それは部品のように取り付けてまた切り離すだけである。それは一個の人間として見ないから見れないからそうなる
便利な道具であり部品でありいつでも部品としてとりつけてまた新しいのを取り付けるとかいうのが雇用になっている
特に終身雇用がなくなれば余計にそうである。


そもそも人間が生きることは時間をきりうりすることではない、時間をその人の人生のために使われるべきであり会社の部品化として時間を消費させるべきではないというのが理想である。
それぞれの時間はその人のためにその人の人生を生きるために与えられているというのが理想なのである。
ただそれだからといって会社で働く時間が無駄だとはならない、そこで経験するものはやはり人生を作るからである。
社会で何も仕事を経験しない人は何か欠けているようになる
ただ人間は完全な人間はいない、必ず何か欠けている、それは人間は経験することがわずかだからである。ほんの一部しか経験できないからである。
どうしても人間の視野は必ず狭くなっているのだ。
都会に住む人は田舎に住む人を理解できない、漁師と山に住む人は海彦山彦のように古代から理解できないことがあった。それは人間として常にあったことである。
そういう物語が伝説でも神話でも昔話でも多いのはそのためである。
柳田国男の「遠野物語」でもそうした理解できない人が神秘化されていることでもわかる

例えば世界情勢でもいくら解説されても理解しにくい、要するに外国になると実際に経験することが少ない、本を読んだとしてもわかりにくい解説されてもわかりにくい。
自分がシリアで関心をもったのはトルコの宿で中年の日本人がいてその人が実際にシリアに行って盛んにシリアの人はいい、素朴だと言っていたことである。
それはその場で聞いたことでありシリアについては全く知らなかった。
それはラオスについて同じことを言う人がいた。それはなぜなのかというと日本で言えば江戸時代のようになっている。
外国の悪いものが入ってこない、貧しいけど素朴な人間が暮らしているからそうなる
つまり江戸時代が外国の人が見たとき平和な幸福そうな顔していたというときそれは別に日本だ下ではなかった、文明人が入ってきたときそうした素朴さは失われた。
ブータンなどもそういう素朴な社会が残っていることで人気があった。
文明とは様々な物欲を刺激する社会である。すると金が唯一の価値になってしまう社会なのである。その時人間はもう金しかないとなっているのが現状である。
田舎が素朴などということはもうとっくにない、この辺では原発があるときも金のことしかないし原発の後も補償金でもめているだけなのである。


その人はあらゆることをどう見るかは極めて限られた経験と視野でみているのである。
世界情勢になるとますますわからないからテレビなどで一方的に洗脳されやすいのであるなぜならシリアでなぜあんなに難民が出ているのだ、シリアって何なのだとなるとほとんどわからないからである。たまたま自分はトルコでそういうことを聞いていたからどうしてだろうとなった。
社会主義政権で外と余り交わらず欧米の文化が入らないから素朴な人が多いと今では思う欧米の文明がすべていいものではない、悪いものも大量に入ってきたのである。
トルコだろうがインドだろうが中国人だろうが外国人の観光客となる普通に金をふっかける、それは貧乏だからでありでも何か素朴ではないとなる。
観光地になると余計にそうなるのである。だまされるのが普通だとなる。


人間は経験で学ぶのが一番体で覚える、でも本とか知識が間接的なるとなかなか理解できない、外国でもいくら本を読んでもわからない、その土地の広さとか川の大きさとかいろいろテレビとか本だけでみてはわからないのだ
だから百聞は一見にしかずなのである。自分は外国に行ったのが50代だから遅かった。
それが大失敗だったとなる。外国に行ったことがない人が外国を語ることはできないのである。
でもなんとか要所は回ることができた、もう介護になったら行くことすらできなくなっていた。
外国では実際にアルジェリアの日本人が油田で働いていてテロで十人くらい死んだのには驚いた。そこにスヘインから船で入って働いていた人を知っていたからである。
今はそういう外国とかかわる人は日本人でも多いのである。
そういう人と直接会ったということは関心が違ってくる。これも経験である。
この十年間は一身上で病気とか介護で経験を積んだ。これも病院は何かとなると経験しないとわからないのである。
自分は病院を自分は身寄りがないから恐怖を覚えるようになった。家族もいない人が入院したら悲惨なことを身をもって経験したのである。
これも経験しないとわからない、人間はつくづく経験しない限りのんびりしているのである。
津波だってこんな経験して家族を失った人は一生忘れられない、その経験から何もいらないとか欲すらなくなった、それは死んで人たちがこれだけいて自分が助かったことだけで良かったとなってしまったのである。これも普通に経験できないことを経験したのであるともかく人は経験したことからあらゆるものをみて判断することが多い。
何かを経験しない限り人間は理解できないから視野狭窄に陥るのである。


頼るってのは、何もお金のことじゃない。 
病院まで送り迎えしてもらったり、施設の見学に付き合ってもらったり、 
入院の保証人になってもらったり家から着替えを持ってきてもらったり 
というようなこと。独身だったら、すべてお金で解決せねばならず、 
それが高くつくんだよ。


このことを痛切に経験した。結果的には病気になり独り身で大金を失った。
いかに人間が非情か、他人が信用できないか知ったのである。
そんなことお前は世の中のことを知らないからのんびりしていたんだと言われればそうである。
でも人間は体験しない限りあらゆることを理解できないのである。
ただこういうふうに考えがある人はやはり賢いというか人間を知っているとなる
人間はこういうことは家族なら当たり前だが他人になれば全く違ったものとなる
金で頼むにしてもそれは高価なものとなる、結果的に自分の場合は大金を失った。
もう金だけではこういうときはどうにもならないのである。
だからニートとか何か独身者が増えているがこの人たち最後に悲惨なものとなる
この世で家族がいないことはどれだけ悲惨なのものか知る。
もちろん家族があっても悲惨なことはあるがやはり家族のない悲惨はこの世を生きるのには最も厳しいことかもしれない。
ただそういう覚悟をしている人は独身者には少ないのである。


この辺で起きた原発事故でもそうである。補償金でもめているが「前の仕事仲間に仕事くれ」と言ったらあなたは補償金もらっているから仕事なくてもいいだろうと仕事をくれなかったというのもそうである。
確かにその金は事業していればかるく億の金になるからそう頼まれた人はうらやましいとなるだけである。
そういうことは他にもいくらでも起きているのがこの辺である。
かえって金が互いに理解させなくさせているのである。
極端になると「金でめんどうみてもらへ」とすべてなりやすいのが今の社会である。
そういうこともこの辺では極端なものとして起きている
金があるからいいじゃないかということで互いに理解できない、同情もしない、心は離反しているのである。
金がたがいを理解させない、離反させるものとなっている。
金の問題がなければお前困っているのか、一緒にしごとした仲間だから仕事を与えてやるよとかなり協力関係になったことは確かである。


2015年10月30日

事業失敗に家系の因縁はあるのか? (結婚すればやはり相手の因縁を事業でも受ける?)



事業失敗に家系の因縁はあるのか?


(結婚すればやはり相手の因縁を事業でも受ける?)


いろいろな因縁を問題にする、事故の因縁もそうだし病気の因縁もそうである。
そして事業失敗の因縁というのがあるのか?
これは自分の実家の母と父方とも言えないが関係した親戚が二軒がすでにある。
もう一軒を事業に製鋼していたと思っていたが失敗していた。
母方の実家は警察所長までしていた機織り産業が盛んなときで事業に手を出して失敗して一家離散になった。
おじいさんになる人だったが母が威張っている人だというときそううい人でそもそも事業ができる人ではなかった。
もう一軒は町工場をしていた人が経営不振で借金で倒産して土地も家もとられた。そこは更地になり駐車場になった。
もう一軒はこの人はもともと一級の免許をもっているから優秀な人であり事業できるものはもっていた。それがなぜか60頃になって失敗していたことが判明した。
借金をしていたので判明したのである。その額はわからないにしろかなり大きいと思う。なぜなら自分に要求するのが一千万とか百万とかは軽くするからである。
だから貧乏人が一万とか二万をやりくりして借金しているのとは違う。
こういう人とつきあったら本当に怖い,何か恩着せて保証人とかになってくれとかなるからである。
それが病気のとき入院保証人とかになるとき恩きせられたのである。
これも相手の弱いところついてくる非情化した人間になっていた。
借金で追い詰められる人は怖い、犯罪の動機で多いのが借金なのである。
もう相手のことを考える余裕などない、もちろん助ける余裕もない、相手から金を奪おうという考えしかないから怖い、保険金殺人とかあるからそういうものに近くなる。


ただ事業とかに失敗する人はこの世ではいくらでもいる。第一二〇人に一人くらいしか事業に成功していない、それだけ厳しい世界だということである。
自殺する人も借金とか事業で失敗する人が多いだろう。
事業というのは相当なリスクなのである。
だから家系の影響なのか本人の自己責任なのかはわからない、母方の実家には奢りがあった。警察所長ということで俺は偉いんだということで通っていたからである。
だから事業しても成功するんだという考えになっていた。
でも実際は警察所長と会社経営することは全く関係ないことだったのである。
今なら警備会社関係となら警察関係なら何かしらつながりがあるが全くなかったのである奢りが失敗の原因になることは多々ある


もう一人は事業をできる人だったがこの人も奢りがあったのだろう。
先の見通しも甘かった。ただやはりそれなりに実績がある人だから事業をしても成功することはありえた
それがなぜ失敗したのか、その詳細はわからない、そしてなぜ家系とかに関係あるのか?
その人自身の家系について皆目わからないが親戚と関係していた人の家系というか家族がどういうものか知っていた。
妻は若いとき夫が身体障害者となりずーっと世話する役目にをになわされてしまった。
それは不幸だったのだが結婚した娘の夫は優秀であり給料も高かったので恵まれていたと思っていた。それは端からみて恵まれた結婚だったのである。
それが今になってなぜその優秀な夫が事業に失敗したのか?
それは結婚した相手の妻の家系に家族にその家風とかが問題だったのかもしれない
夫で苦労するとか何かその家系と家族に問題があった。
それは知っていたことだが結婚した娘の相手はそうではなかったのである。
それが事業に失敗したことで妻の家系の影響を受けてそうなったのかとなる
夫がしっかりしていて大黒柱になっていれば問題なかった。
事業に失敗した結果夫は頼りない人になりその負担が妻とか同居する母とかにかかってきた。
必ず長男長女は何かその家系の家族のプラス面でありマイナス面であり一身に背負う運命にある。
自分が今や大黒柱といっても女性だったが家族をなくした結果全部自分一人で家族のことを背負う結果になったのである。
長男でない場合は長女が背負うことになる。長男長女はそういう宿命を背負っていたのである。


相手の家系の因縁を受けるというとき結婚がそれだけ単なる好きだ嫌いだというだけではない重みがある。家系の宿縁を背負わされるのが結婚にもなる。
それは悪いものだけでなくないいものを受け継ぐが悪いものも受け継ぐ
事業の失敗はその人個人の奢りがあったものだが結果的には妻の家系のマイナスの面を引き継いでその悪い面に同化したとなるのか?
家系というときその家が形作る運命的なものもあるが家風というのももあるだろう。
家風があわないから結婚しないとかもある、あまりに金持ちの家と貧乏人とかの家だとあわないこともあるしあわないことは職業でもあるだろう


その点江戸時代は同じ家風の人同士が結婚していたからうまくいっていたのではないか
侍は侍同士の結婚であり職人は職人同士で農民は農民同士とかが多いからである。
今は多種多様な人々が入り交じっているから家風でもわからないし思わぬことでそのずれが大きくなりやすいのである。だから離婚が三分の一と多くなったとも言える。
好き同士で結婚してもあとあと60になってからでもその家系の影響がでてくる怖さであるただその人が事業に手を出さなかったらこんなことにはならなかった。
恵まれたものとして老後もなっていた、それでも今は何かやと下流老人が増えているのだから別にこういう人はいくらでもいるからいちがいに家系とか家風とかから見ることもてきない
客観的に見た場合その人は知っているから家系の家風とかの影響を受けてそうなったのかと思った。
家のことはそれぞれ複雑でありわかりにくい、でも親戚関係だとやはり具体的に見えてくるから自分のこととも関係して被害を受けたから深刻になるから考える
その家系とか家族を傍観しているならいいができない、災いでも具体的に及んでくる
その事業のことなどわからなかったが今回は自分の家に自分にも被害となったから考えたのである。


ともかく小さな会社でも大きな会社でもいかに経営というのがずかしいかわかる。
東電がそうだったし旭化成でもあれだけの大企業がいくつもかかわってもそうだった。
事業というのは大会社でも経営するのがむずかしいのである。
ここにもやはり大会社だという奢りがあったことは確かである。
大会社だから安心だということで内部でも油断と奢りがあった。
何らか常に人間は奢るとき失敗に通じる、奢れるもの久しからずというのが常にあったからである。奢ること自体が危険になってくる。それは国単位でもそうである。
大きな国でも奢りから衰退してゆくこともある。
ただ人間には思わぬ落とし穴が常にある。津波もそうだし原発事故もそうだったしそういう大事故でなくても常に思わぬ落とし穴があり人生が狂ってしまう。
思わぬ落とし穴だからこそ予想がつかないからその穴に落ちるのである。
思わぬ幸福もあるにしろ思わぬ不幸もまた人間には多いのである。


ここ十年の介護や自分の病気などはそうだった。そこに思わぬ幸運というかそういうものあった。ただそれ以上に不運が不幸が大きくのしかかってきたのである。
結局自分の不運とか不幸は恵まれすぎたということにもあった。
恵まれすぎると苦難に対処できない、例えば美人の妻をもっても意外と苦難が来たとき役にたたないということがある。だから妻の良し悪しも見栄えだけからは判断できないのである。苦難に強い女性もいるからである。
人間は結局何が思わぬ落とし穴になるからわからないということである。
それに備えようにも備えられないということもあるのだ。
いくら金をためて備えてもそれが役立たないということもありうる、かえってその金が遺産争いのようにまた強盗のような人がきて奪われるとか殺されることにもなる
そういうことを自ら経験したから金は怖いとつくづく思った。
何か落とし穴になるかわからないというのは備えようがないということでもある。


家系とかの問題で何かその相談などで金をとるとか除霊とか先祖をなんとかとかで商売にするのは危険である。それなりにいいことを言っていても危険である。
宗教とかそうした相談にのる人は相手の弱さがあってそれに対して金をとる
弱いものに対してその弱さにつけこんで商売にするのは何か危険である
そこに何か人間性がそこなわれるし悪魔的にもなる
だから医者とか看護師とかでも常に病人を弱者を相手にしているから一歩間違えば悪魔的になる。
いらない薬でも金のために飲ませるとかいろいろある。弱者に対してはそういうことが簡単にできるからある。
宗教でもカルト団体などに頼るのも危険である。人間が弱者化するとき危険なのはその弱さにつけこんでくる人が必ずいるしそれが多いということである。
宗教などはむしろ生きのいい病人でもなんでもない健康な人を相手にすべきなのである。弱者になるときいくら金持ちでも必ず優位にたてる、自分もそういうふうに借金していた人から病気の時脅迫まがいのことをされたし現実に大金を失った。
そういうことは老人に対してやりやすいからそうなる。


ともかく相手の弱みにつけこんで脅したりするのは人間として最低ではないか?
でも相手も窮迫していたのだからそんなことを言っていられない
それは弱肉強食のまさに自然界とも同じだった。食うか食われるかの世界である。
飢えていれば子供とか弱ったものが先に獲物にしやすいから狙うのである。
そういう経験をしたから人間界も動物界と同じだったのである。
人間は弱者に対して本当に同情心がもてるのかということさえ思う
カルト宗教団体などでは同情心は全くない、ただ一つの政治団体として権力を得るために人を集めるためにある。
そうはいってもそういう底辺の人たちはどこにも頼る場がない、頼る人がいないからそういう場所でも安易に入ってゆく、だから生活保護関係とかそういうことを斡旋してくれる政党とかカルト宗教団体は必要悪として否定できないのである。


つまりそこに弱者の悲しさがある。
上級階級だとコネがあったりいろいろ得するが底辺層は保証人になってくれる人もいないなど常に不利になり損するからである。
そういうコネも得られないとなるとそういう政党でもカルト宗教団体でもなんでもかまわない頼れる所に頼るというのが庶民なのである。そこでは宗教など関係ない
何か得することがあるから入るのでありそれ以外何もない、コネとか金がない人はそういう場所に頼る他ないのである。
ただ人間は金があっても権力があっても弱者化することがまねがれない、必ず病気になり老人になり弱者化するからである。
「悲しむものは幸いである」という意味は何なのだろうか
それは悲しまない立場にある人はすでになんらか奢りにありこの世で得をしているが実はそのことは下々のものがいて苦労していてその人たちのおかげで悲しまない立場にある
だから上にたつ人はそういう弱者のことを考えねばならないだがほとんど無関心である
そして弱者になってみないと弱者の気持すらわからないことなのである。
だから上に立つ人は悲しまない立場にある人はある意味で天国に行けないというとき
かえって小さい人やそうしてこの世で悲しんだ人たちの方が天国にいたともなる。
この世であまりにも得する強者になっていること自体が罪なことだともなってしまうのである。


いづれにしろ家系の因縁はそれぞれの家族で違っているから複雑であり外から見てわかりにくい、家系というよりその人自身の人間性とかも関係しているからすべて家系の問題でもない、何かの犯罪であれこうした不幸であり必ずいろいろな要因が重なっているのである。家系もその一つであり家系がすべてとはならない
ただ家系も家風も確実に影響している、家系とか家族とかが形成する家風には癖がありそれも影響している
商家だったらやはり商家の家風を受け継いで成功することもある。
一からはじめると商売で成功するのはむずかしくなる


タグ:事業の失敗

2015年10月15日

「金の切れ目が縁の切れ目」「ただより高いものはない」「地獄の沙汰も金しだい」 (金でのことでも意志疎通できないから問題起きる)


「金の切れ目が縁の切れ目」「地獄の沙汰も金しだい」「ただより高いものはない」

 
(金でのことでも意志疎通できないから問題起きる)


今日もまた駆けずり回って疲れた。手押し車を一つ自転車に積んでリサイクルセンターまで行き投げた。リサイクルセンターは近いからできた。
自転車も他も一緒に処理しようとしたがそうなると車を頼まねばならない
タクシーに聞いたらなんかめんどうなことを言って頼めなかった。
知っている人がいるから頼めばいいのだが結局かえって礼しなければならないから高くつく、自分に対しては高く要求する
それから便利屋というのにも頼むことはできる、それも値段の問題になる。
つまり金の問題なのである。別にここで金にこだわったわけではない
何か自分でやれることはしてみたいと思った。
何でも金かけていることは良くないと思ったからだ。

実際車を頼まれた方も車は維持費がかかるものだから無料では誰もやってくれない
やってくれるとなると余程親しいか余裕のある人だろう。
車のない人は買い物などを頼むとき親しい人に2000円とか3000円で頼むようにしている人がいる。
これも車を維持するのは金がかかるからそうなる
それをどうこういうことはできない、
要するに車をもつことは金のかかることなのである。
だから車のない人はそれなりの負担しなければならないのは当然なのである。
何をあなたはいちいちそんなこと理屈を言っているのだとなる

ただどうしたら安くするかということを考えるとどうなるかということである。
親しい人に頼むと普通の倍以上とかとられる
自分はずっと金のことでいろいろ体験してきた。
今までは金のことも世間のこととも何もしていない
全部家の人がやってくれてきたからである。
金は実際は食費は三食付きであり本代とか旅行代とかその他にほとんど使っていないし
金持ちの息子とは違っていた。
ただ時間だけがふんだんに与えられていたのである。
だから自分が金持ちの気分はないし金はいつも不足していたのである。

そして自分は本当に世間知らずだった。世間知らずの方が良かったという面があった
これほど人間が醜いのか、これほど金しかない人になってしまったのかということを痛切に感じた。それだけ金に窮している人が今は多いということである。
ただ別にそういう人と直接交わらなければわからないのである。
最初に来た親戚の人は「おばちゃんは金あるんだから金にめんどうみてもらへ」と言って寝ていた母をどなりつけてきれた。
その人だけは金があまるくらいあり不思議に何か遺産が入る人だったのである。
金がなくてこう言ったのではない、病人とか介護にかかわりたくないから言った
別にその人とは付き合いがほとんどないのだからその人はかかわらなくてもなにかすることもないのである。
だから別に何も言わず来なくなればいいだけである。
でも今考えるとつくづく「金でめんどうみてもらへ」というのが現代だと思った。
金で何でも解決しろというのが現代の社会なのである。
介護でもそうだしもう何でもそうなのである。
この辺で原発避難者が仮設に住んでいるが補償金問題でもめていることを何度も書いた
これも結局どうなるのか「お前ら避難者は金を多くもらったの
だから「金でめんどうみてもらへ」と極端になればそうなる
「俺たちはもらっても少なかった」だから協力はしないとなる

金は人間を協力させるものとして働かない、離反させるものとなる。
そして金が万能でもない、でも万能化しているのである。
それで浪江の工場経営者が前の仲間に仕事を回してくれと頼んだらあなたは高額な補償金もらっているのだから仕事がなくてもいいだろうと言って断れたという。
これもちらっと本音をテレビでもらしたのである。
実際工場とかの経営者や牧場の経営者が大熊辺りで5億円もらったというのは本当だろう
その額が大きくなるのである。
そうなるとお前らは補償金でもう一生暮らせるんだから仕事などしなくていいだろうとなる
これも金をめぐる人間の問題であり今の社会の問題だった。

次は自分の家に「金をくれ」と入ってきた人である。それは冗談だと思っていたのであるそううい大胆な人だったからそう言って気にしなかった。
ざっくばらんな人だと思っていた。
実際この通りの人だった。自分が突然病気になったとき本当に家捜しされて大金を失ったその通りに実行したという驚きである。
そんな人いるのかという驚きである。
でもその人は金に窮していたのである。それほど金に窮していたのである。
金に余裕ある人は家の手伝いなどしない、たいがい問題ある人である。
だから金にまつわることで必ずというほど問題が起きやすいのである。
現代は金に困っている人が本当に多くなったのだろう。
下流老人とかフリーターとかシングルマザーとか日本人は貧乏になったのである。
格差社会のこともいろいろ言われる
金に余裕ある人は少ないのである。
もう切羽詰まっている人が多いのである。

もう一人の親戚はこの人は一級の資格をもっていたから金に余裕ある頭のいい人だと思い込んでいた。
この人は一番金に困っていた。もう金がなくて窮迫していた。
それが最初はわからなかった。家族の人もその時はわからなかったのだ。
多額の借金をして自分は事業の成功者だと装っていた、嘘ついていたのである。
この人はまずなんというかすべてのことについて金を要求してきた。
頭の中が金しかないのである。それだけもう金に追い詰められていたのである。
事業しているから一千万の機械を買ってくれとか最初言っていた、自分には成功した人だから何のことがわからなかった。
その事業のことも良くわからなかったのである。
ただいつも成功している金はいくらでも入ってくるようなことを言っていた。
別に深くつきあったわけではない、死んだ身内が深くつきあっただけである。
自分はほとんど何も関与していないのである。

その人は何するにも頭には金しかない、入院して手術をするとき保証人になるから
書類に書いてくれと言ったらなにかそれを非常に恩きせまがしくしていた。
その人はまず最初から何かしてもらいたいなら金を出してからにしてくれということを暗黙に要請していたのである。
一つの商売として自分に要求してきたのである。
自分が病気だということを何の考慮もしなかった
おそらく自分が弱い立場にあり苦しい立場になっているからかえって弱者になったから
要求しやすいわけである。
その人が若いときいい人だと仕事仲間が言っていたがそれは30年前とかのことである。
だから人間は変わるものである。同窓会でもみんな全く人間が変わってしまったというのが普通らしい、自分は一度も出ていない
その人は若いときはそうではなかった、事業に失敗してモラルも何も喪失していたのである。
頭の中が金しかなくなってしまった。
自分が頼んだことはたいしたことではない、でも手術の保証人というが大手術でもないし何の保証も要求されない、金には困っていないからである。それで負担をかけることなどなかったのである。
ただそういうことで自分に金を要求してきたのである。
なんか逆に今になると借金の連帯保証人にでも自分になってくれという感覚になった。
その人は切羽つまっていた。

結局みんな金で切羽詰まっていたのである。
もう今金が入らなければ強盗にでもなる他ないというほどまで極端化すれば切羽詰まっていた。
現実借金の形にブラックな所で働かざるを得ないのもそのためだった。
借金している人は本当に怖い、全くモラルがなくなり常に犯罪の動機になっている
借金自体がもうすでに犯罪者となることに限りなくなっている
だから借金のために犯罪になることがいかに多いか納得する
そんな人が病気のとききたのだから最悪だったのである。
自分にとってこれほど恐ろしいことはなかった。
相手はなんにも感じていない、自分の借金のことしか頭にない
借金している人はみんなそうである。

その人はもともと商売には向いていなかったのだろう。理系で技術のことだけしていれば会社に勤めていれば借金などしなくてすんだ
商売というときただそんなふうに病気の人に対してまで商売して金を要求することではないだろう。
損して得をしろとか相手のことを思って商売するということもあるだろう。
そういうことが全くない人であった。
まず自分が10をとる、そうしたら3か4をやる、絶対に10をまず与えて損なことをはじめからしないのである。「損して得をしろ」とは絶対にならない
そういうことを病人にしたのはかえって要求しやすいからそうなった。
商売相手としてはのみやすから要求してきたのである。
相手のことを全く考えないし考える余裕もなかったのである
そういう人が商売に成功するだろうか?
まず東北人は商売には向いていない、職人に向いているのは本当である。
自分も家で小商いしていても経験しているが全く向いていない、自分は何もしていない
商売に向いているのは関西の人である。
あんなに韓国まで行って買い物してねぎることができる
交渉がうまいのである。自分はかえってそれをまねして失敗した
中国人も商売上手である。それは近江商人とかの場所だっからDNAでそうもなっていた
東北人は農民であり商人のDNAに遺伝子にない、ただ伊達政宗は例外だったのである。

いづれにしろ現代は自分だけではない、金にはじまり金に終わっている社会である。
この辺で補償金でもめて分断されたのもそうである。
あらゆることが金にまつわるものとして問題が生じているのだ。
金がいいとか悪いとかではない、金がとにかく社会を人間を動かす社会である。
そんなこと昔もそうではなかったかといえば確かにそういうことはあった。

「金の切れ目が縁の切れ目」「ただより高いものはない」「地獄の沙汰も金しだい」

この諺を身をもって経験したからである。

現実にすべてこうして金にかかわって縁は切れたからである。
金しか要求しないものは金しかつながりがないものは縁は切れる
金でめんどうみてもらへ」と切れた人もそうである。
金でしかつながりがないからそうなる。
これは極端にしても極端なことにつくづく人間の真実がある。
本音が現れたところに人間の真実がある。
その本音の部分がマスコミできれいごとで隠されて言わないのである。

だから「心に青雲」とかネットで本音を語りやすいからわかりやすいとなる
難民をかわいそうだからと受け入れると国までのっとられるから受け入れるなというとき非情にも見えるが難民も必死であり相手のことをなど考慮する余裕がないからである。
どんどん要求だけしてくるしその責任を受け入れる側が負えるのかあとでまたそのことで国内でもめることになる
それはもう意思疎通できていない暴力的侵入である。
平和の時の移民は意志疎通して双方納得の上に移民を一応受け入れている
シリア難民はもうそんな意思疎通も何もない、相手は生きるか死ぬかの瀬戸際になると受け入れ側のことなど考えられないのである。
でも受け入れる方でも何か必ず慈善でもかわいそうだ思っても難民を受け入れる側でも責任が課せられるからそうなる。
捨てられた猫をかわいそうだとエサをやることでもそうである。
そうなると必ず野良猫が増えて回りに迷惑になるとかなりエサやりを禁止した市もあったそれも難民ともにているのである。
かわいそうならお前がめんどうみろとかなる。そうなると責任が課せられるから嫌だとなる
ともかく金にまつわる諺がこれほど身にしみたことはない
それは今も昔も同じ問題としてあったからそうなる
そうなると人間の世の中が今が特別そうではなく金というものはそういうものだとなる
ただ自分が世間というものがどういうものか社会とかかわらないからわからなかったのである。
そしてむしろ社会とかかわらなければこうした醜い人間のことを知らないから人間はみんないい人だと思ってしまっていたのである。
子供は人間の醜い面を知らない、知ることができないから幸せだった。
自分はカルト教団で学生のときかかわって以来ほとんど社会とかかわらない隠者だったからそうなった。
そこで反発したのがなぜそれほどまでに権力を宗教なのに追及するのかということ出てあった。それはまた金を追及していることでもあったのだ。

世間でもまれた人はこんなことは人間の醜い面は嫌というほど現実社会で経験している。なぜならビジネスではまさに常に金のやりとりだから金にまつわり人間の醜い面を嫌というほど経験しているからそうなる
「金とは何か」と考えるときこういう現実から金のことを考えねばならないのである。
金の最大の問題は金のために心まで売り渡す悪魔に売り渡していることなのだ。
それは政党でも組織でも団体でも会社でも東電でもそうだった
マスコミもそうであり金によってモラルを喪失してしまう。
弁護士でも認知症の後見人になった人がキャバクラで遊ぶために金を使ったとか
まさに具体的にこの事件などはわかりやすい
他ではなかなかこうしたことは隠されているからわからないのである。
金がなくてもいいとか金が悪いとかではない、金によって人間の心があやつられることなのである。
ではそうさせられないためにはどうするかということを考えねばならない
金が必要でも金に支配され心まで売り渡すようにならないためにはどうするかとなる
このことが現実社会では至難だから常に事件でも起きてくるのである。
まず欲をある程度はおさえないと金に心まで支配される
そのある程度は問題だけどやはり欲をおさえないと心も支配される
別に事業に失敗しても成功を装い借金する必要はない、でも見栄とか世間体とかいろいろあってそうなりモラルが喪失してゆく、それが一番怖いのだけどそういうものより金の魅力が大きいからみんな悪魔に金を通して心を売り渡しているのである。

意志疎通できない社会のことを書いたけど金でもそうである。
「金をくれ」とか家に入ってきていうことをそのまま実行する
そこに意志疎通がない、ともかく金が欲しいから金をよこせ、よこさなければ奪うまでだとなる
ところが

「私はこういう事情で金が必要なんです、、、、金を貸してください」
「そうですが、あなたの事情はわかりました、嘘ではないようです、考えてみましょう」

とかなる
金を貸さない方がいいというがやはり一応聞いてみるし離してみる、そこで互いの意志疎通があり了解して金を貸すなりなんなり対処する
それが一方的に金を出せばいいんだとあとは関係ないとなるとき強盗のようになってしまう。
意志疎通がないとき必ず人間は問題が起きる
金の問題でも双方で何かしら意志疎通が必要なのである。
江戸時代あたりになると狭い範囲で親密に暮らしていると日頃から意志疎通ができていたただその狭い範囲内、村の内とかであり村から離れると意志疎通ができないから隣村から来た麦つきの若者が大蛇だったとかなる
江戸時代には見知らぬ他者と交わらないことが多いが外部に村の外になると意志疎通ができないことが問題だったけど狭い範囲で暮らしていたから問題が起きにくかった。
今は膨大な見知らぬ他者は接する時代である。
だからあらゆるところで意志疎通ができないのである。
ニュースでもマスコミから流される情報はほんの一部だけどそこが拡大化されて報道される、そこに必ず誤解が生まれる、そういうことは現代で日常的に起きているのだ。
金が暴力的に働くのは意志疎通の問題がある。
金さえもらえばいい、金を出せ、理由はない、金を出さないなら殺すとなるとき強盗になり意志疎通が全くない状態でそうなる
だからテレビから流される情報は一方的であり誤解が非常に多いのである。
金は何かというとき互いに意志疎通させるものその媒介をするものとしてもある
一つのメデアでもある。それがかえって意志疎通をはばむものとなっている
「お前はなぜそんなに金をもっているんだ、俺は全くないんだ、働いても働いても金がたまらないんだ」
「自分はその金で贅沢などしていない、この金は親が苦労して自分に残したものだ
自分は親を介護したし今も介護している、そのためにも金を使っているし学問のためにも金を使っている、別に贅沢しているわけではない、、、、」
「そんなことしるかよ、俺に金がなくお前に金があること自体が不公平なんだよ」
「そうはいってもあなたにも何か金にならない、貧乏な原因があるんじゃないかな」

なんかこんなことでも金について話し合えば意志疎通ができてくる
それが全くないとき強盗になり殺人になるのである。
問答無用となるのではない民主主義とは互いの意思疎通のことである。それが基本にある。
いろいろ不満があってもともかく相手と話して相手を理解して意思疎通する
そこにはどんなことしても公平はないし不満が残るし犠牲もでる
でも暴力になるよりは殺し合いになるよりはいいという制度なのである。


タグ:金の諺

2015年10月14日

人間は意志疎通できないとどうなるか (暴力的解決になるー武力、金、技術(科学)は暴力となる)


人間は意志疎通できないとどうなるか

 
(暴力的解決になるー武力、金、技術(科学)は暴力となる)


猫とは言葉が通じない、だから猫をしつけることが嫌になる。排泄をどこでもするとかかってに台所のものを食べるとか嫌になるからはたいたりする
それは言葉が通じないからしつけできないから暴力でしつける
それは子供でも同じだろう、しつけようとしても言葉できなければ暴力的になる
人間が言葉をもったのは意志疎通するためである。でなければ行動で意志疎通させねばならなくなる。
意志疎通ができなくなるとき暴力的な解決になる。
それは個々人の間でも常に起きている、俺の言うことがわかんねえのか、と叩いたり度を越すと激しい暴力として爆発して殺人になっていることは毎日の報道できりがなく起こっている。
互いに意志疎通ができないとき暴力になり力の強いものが言うことを聞かせる服従させるとなる。
国と国の戦争でも互いに意志疎通ができない、だから暴力で解決することになり強い方が弱い方を服従させるとなる。
それでも強い方が正しいということはない、アメリカがすべて正しいとはなっていない
ただ強いから服従させることができたということになる。

明治維新でも佐幕派が勤皇派が正しいのかなになのか混沌としてわからなくなった。
結局は最後は暴力で武力で解決したのである。それは毛沢東は革命は銃口から生まれというのもそうである。共産革命も暴力で成されたのである。
それが正しいとかではない、暴力で革命が正しいとされただけである。
だから中国でも権力を手中にしてからは腐敗したのである。
民主主義はそうした暴力で解決するのではなく平和的手段で解決するために投票という手段を採用した。た暴力は人が死ぬのだからそれよりはいいとなる。
民主主義は最善ではなく最悪をさけるために生まれた制度であるからこれも政治的なものとして不満が大きいのである。
でも暴力革命よりはいいから採用された。そうなると別にどんな団体でも選挙で力をもつことは権力を得ることは許される制度だとなる
共産党でも創価でも武力も辞さず権力を得る武闘派的団体だった。
でも民主主義になり平和革命と無血革命で権力を得ることを目指すようになったのである
ただ暴力というとき今でも武力は最後のやむをえぬものとして実行される。
しかし現代の暴力は武力だけではない、別なものに変わったのである。
暴力的なものとは数の暴力というとき民主主義は数さえ集めればそれが正義となり権力となる。
すると権力をとるために革命でも数を集めることだとなりカルト宗教団体ならともかく頭数を集めることか革命だとなる。宗教もその一つの手段となった。
数はもはや暴力である。どんなに正しいことを言っても一票の力しかもちえないから社会では相手にしない、ところがカルト宗教団体でも創価でもなんでも信者の数で社会に影響するから数が暴力的なものとして社会で働く、そしてこの暴力的な数によってマスコミも支配される、マスコミはテレビでも視聴率がないと広告費も入らないからいかに多くの人にみられるかが最大の問題になる。
だからそうした団体を批判したりはどこもしないのである。
民主主義は数で決まる。南相馬市でも三〇キロ圏外は補償金が少なかった。もらったのはもらったけど少なかった。もちろん全くもらえない方が多かったから不満が広い範囲になった。
南相馬市の場合は市長選挙でも小高区と原町区に補償金を多く与えれば票は原町区が五万とかの人口があったのだから原町に恩恵があればそれで市長は当選できたとなる。
だから合併して損したのは鹿島区だとなってしまった。
これも民主主義はともかく数で何でも決まるかである。
若者が不満でも老人票が多いから老人に有利な政策になり結果的に若者は老人のために苦労するだけだと不満が大きくなる。
民主主義は武力とかではない、数で決まるから数が暴力の代わりになるからである。
それで不満を言ってもそういう制度なのだからどうにもならない、他にいい制度があるのかというとなかなかないだろう。

ただ民主主義は選挙だけではない、報道の自由とか言論の自由とか方の法律によって決まるとかいろいろある。法律が大事なのはそれも意志疎通の問題なのである。
常に争いが起きたとき武力で解決していたら個々人でも暴力で解決していたら平和保てない、だから明治維新後は仇討ちは禁止された。
法律にのっとて平和的に成されるのであり暴力は禁止されたのである。
それでも不満だった武士は家族を無惨に殺された侍は暴力で復讐したということがあった法律だけでは納得できないことは今でもあり暴力で復讐する人はいる。
なぜなら法律は絶対に公平なものでもない、それも暴力をさけるために最悪にならないものとして民主主義の制度の中で作られたものである。
この世に最善となる社会などありえないからである。
法律も万能でもないし民主主義も万能でもありえない、ただ暴力、武力にならないための最悪をさけるものとしてあるだけである。
だから国同士では国際法などは通用しない、結局国同士になると暴力が戦争で優劣を決めるだけだとなる。どっちが正義ということはない、太平洋戦争でもアメリカが別に正義というわけではない、ただ強いものが弱いものを服従させたというだけなのである。
日本には日本の義があったともなる。
それは世界紛争とは今でもそういうものでありどっちにも義があり強い方にすべて義があるわけでもない、世界紛争になると法律は通用しないから未だに武力で解決しているのである。

暴力というとき何か武器とか武力をイメージするが現代では別なものに変わった。
武力は金に代わり技術力科学に代行される、技術でも今は巨大であり森林でもどこでも機械で破壊してしまう、機械が暴力的であり科学もそうである。科学技術力は自然と人間が意志疎通させることしない、何か自然のリズムのように徐々に変えるということもしない、急速に科学技術力げ自然を破壊して変えてしまうのも暴力的なのである。
原発でもそうである。それは恐るべき自然を破壊し汚染する暴力装置だったのである。
この技術力も制御することができない、すると自然は破壊され人も住めなくなった。
科学技術力が自然であれ社会であれ暴力的に働いたからである。
そして現代のグローバル社会で最も暴力的なものが金になっている。
グローバル資本主義では金が最も暴力的なものとして力をふるっている。
金によって世界は支配できる、その金を支配しているのが世界の金であるドルだとなりアメリカが世界の支配者となる。

金の力がグローバルに働くからそうなる,巨額の金が株式市場で動く,それで株で何百億をもうけたとかとなると金の暴力的なものとしてグローバルに働いている。
国でも個々人でも世界的にもはや金の支配から逃れることができない、だから不思議だったのはシリアにはロスチャイルド系の銀行がなくIMFがなかったということである。
それはアメリカに支配されないためにそうなっていたとなる
金でも百億円株でせうけて俺はもっているとなるとそれが暴利となり暴力的になる。
その金で何でも買えるとかなり金に魅せられたら悪魔的にもなるだろう。
新聞社でもテレビ局でも何でも金で買えるとなる。現実社会では金で買えないものはないとまでなっている。
民主主義でも票でも金で買えるともなる。そうなると金の力がすべてを決定するとまでなる。
金は武力とちがって武器でもないから外に現れにくい、でも武器を買うためには金が必要であり戦争には必ず金がかかわっている。それで金で戦争させるとなると金が実際は暴力になる。

東電が安全神話を作り得たのは金の力でもあった。国家並みの金をもっていたのである。
グローバル資本主義は暴力的なものとして機能する。それは金が世界を支配するからである。金にもの言わせる、金に従わせるとなる。金で心を買うということにもなる。
その力がグローバル社会になったとき資本主義になったとき有効になる。
だからグローバル経済というものが果たして人間にとっていいものかどうかは疑問になる金によってすべてが支配されるより金では支配されないということもまた人間社会には必要である。
金の力がグローバルに力をもつと人間的なものを逸脱してしまうのである。
それで人間の経済とかが志向されることにもなったのである。
それが金がすべての価値基準でない社会がかつてあったからである。
現代は確かに露骨な暴力は否定されるがそれに代わるものが暴力的に働いている
人間的経済のようにそこには互いに意志疎通させるものではない
ただ一方的に金の力で支配されてしまうのである。

民主主義とは根幹お思想はいろいろあるけどともかく武力に暴力ではなく話し合いで意志疎通して平和裡にもめごとを対立を解消しようとすることが根底にある。
だからここにも不満がある完全なものではない、でも暴力になったらあまりにもどこでも悲惨なのである。戦争でどれだけ死んだか?それは国同士の争いになると暴力しかないからである。国際法なども通用しないから力が強いものが決めるとなってしまうからであるともかくこの社会は絶対に公平にはなりえない、個々でもそうであり国と国でもそうである。
それは神しかできないことである。

主は地をさばくために来られるからである。主は義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれる。

あなたがた力ある者よ、まことにあなたがたは正しい事を語り、公平をもって人の子らをさばくのか。

アメリカが力あるものだけど公平をもってさばけるのかとなるとならない、日本の敗戦はアメリカの力によるものでありそれで
公平にさばかれたかとなるとならないのである

永遠の平和は神によらなければこない、その時は一端この世が滅びるときなのである。
民主主義とは何かというとき話し合いであり議論でもそうである。
武力ではなく暴力ではないことで意志疎通させて解決させようとする制度である。
そこには不満がある、仇討ちでも私的復讐を許したらそれはまた復讐された方が恨みつづけて怨念の連鎖をとめられないのである。それは子供にまた負担をかけることなのである国同士の戦争となると正義などどこの国にもない、それは今のシリアの混乱をみれば一体何で争っているのかもわからないのである。
それは太平洋戦争でも起きていたのである。中国の内乱がありロシアも加わり大国の思惑のなかでシリアが犠牲になり難民化したのである。

2015年10月13日

社会全般に意志疎通ができなくなった時代 (トータルに考えられない社会ー郷土史はトータルな学問である)


社会全般に意志疎通ができなくなった時代

(トータルに考えられない社会ー郷土史はトータルな学問である)


意思疎通というとき互いに何事かの共通認識である。それができなくなったのは明治維新後である。西欧化した結果として江戸時代からつづいた共通認識は失われた。
だから明治維新の混乱は今でもつづいている。
民主主義という言葉一つとってもそれを理解することが非常にむずかしい、西欧文明が入ってきたとき日本人は漢字でそれを訳した。
それは新しく造語した努力がある。権利とはRIGHTだけど英語だったら正義ということになる。権利は何かしら正義があって権利が要求できる。
それで権利は権理だったのである。この方が役として良かった。権利となると利の方に重点が置かれらである。
ともかく西欧文明の概念自体を日本語で訳すことは至難であった。
今でも本当はその概念を理解していない、それは仏教でも中国の文化でも取り入れたときその概念を理解することはむずかしかった
日本語には仏教用語もあり中国文化の漢字によって多彩なものになった。
それにまた英語が加わって言語が重層的になったということはそれだけ日本語は世界の文明文化を取り入れた言葉なのである。
それは大和言葉だけでは取り入れることができず漢字で取り入れたのである。
意思疎通するというときまさに言語の面でもそうだった。外国人と意思疎通するというときも言語が中心となっていたからである。
他国の文化を理解するときどうしても言語がわからないと根本的に理解できないからである。
意思疎通というときそれは明治維新から近代化したときあらゆる面で起きてきたのである江戸時代は日本人が日本的環境と生活の中で意思疎通できていた時代である。

なぜなら基本的にはその土地土地で狭い範囲で生活していたから共通認識ができやすい社会だったのである。
そして時間軸で考えると江戸時代は親の仕事を受け継ぐことが多いから世代間の分離もない社会である。
つまり侍は侍になり農民は農民になり職人ば職人になると親の仕事を受け継ぐから世代間の分離がない、職人でも十代以上もつづくとかそれだけ変わらない社会が基盤としてあった。それが可能なのは社会が江戸時代はあまり変化しないことだったのである。
現代ではもう二代でも仕事は継続されない、めまぐるしく変わってゆくからである。
すると当然世代間の分離が起きてくる。親の仕事を受け継がないのだから親との分離が精神的にも物質的にも起きてくる。
また大家族だったのは農業でもそもそも大家族でしていたからである。
すると家族が会社になっているようなものである。家内工業でもある。
それが土地と結びついているから土地と一体化して分離しないのである。
現代の特徴は何か、それはあらゆることで分離されてしまうことなのである。
家族でも大家族から核家族へ、世代間でも親は親、子は子となり所帯も分離してゆく
仕事もみんな別々であり分離してゆく、そして単身所帯が膨大に増えてゆく
次の世代に継承されないということが書いたがそれは社会の構造が変わりすぎたからである。それは江戸時代と比べると明確になるのである。

意思疎通ができないというときそれは家族内だけではない、家族の世代間でもそうであり故郷という場を共有するものでも意思疎通できにくいのである。
なぜ原発事故で故郷も失い、家族でも簡単に分離したのか?それを探求してきたがそれが原発事故だけに由来するのではない、そもそも家族も故郷も土に根ざした農民社会ではない、みんな会社員である、そしたらその土地に執着する生き方とは違ったものとなる
人間はふでに故郷という土地から分離していたのである。
だから原発事故が契機となっただけでその前からそういう状態にあったから家族も解体して故郷も喪失して分離したとなる。
別に金がもらえるからどこに住んでもいいという状態になっていたのである。
その土地にこだわっているのは農民くらいだとなっていたのである。
それで親が農業の跡など継ぐなとその子供を殴ったというから驚く、それだけ農業は現代では割に合わないものとなっていた。
その人は原発でも働き全国の工事現場で働いた人だった。そして七町あった田んぼはもうないという。

別に人間は意思疎通できないということは常にあった。江戸時代でも職業が違うと神秘的なものになっていたのはそのためである。木地師とか産鉄族は神秘化されるのはその仕事が理解しにくかいらそうなる。
そして江戸時代で意志疎通がしにくいのは空間的なものである。隣の村同士すら空間的に離れていると意志疎通できなくなる、それで隣から麦つきに来た若者が大蛇だったとかなる。何かそうした天狗だとか河童だとか動物とかの妖怪伝説になるのはその人と意志疎通できないからそうなる。明治維新では外人が天狗になったり火山の爆発を起こしたとかまで押しつけられている。そういう異形のものとされるのは意志疎通ができないからであるそういう意志疎通できないことが社会全般に家族でも故郷でも起きているのが現代である原発事故でもそもそも東電の社員のことを原発を放射線のことを知ることなどあっても理解できない、そのことからすでに意志疎通できないものとなっていた。
現代ではそうして意志疎通できないことから様々な問題が起きてくる。
もし意志疎通できていたら原発事故も起こらないしそんな危険なものを土地の人が賛成しないのである。

現代はあらゆることで意志疎通できない社会である。職業も複雑であり無数にありどういう役割をしているのかどんなことをしているのかもわからない、それぞれの職業で意志疎通できない、江戸時代だから家内工業で何でもその土地に根付いてその延長に仕事があり意志疎通できた。今は職業が無数にあり高度に専門家してできない
例えば弁護士がいたとしても医者でも専門用語を使われるともう意志疎通できない、
もちろん放射線のことを言われたら何も意志疎通できない、お前ら素人は何もわからないから何も言うなで終わりなのである。
そうすると専門家の言うなりになり事故も今回のような原発事故も起きてくる。
そもそもそれは政治家でもマスコミでも原発のことなどわからないから金になるからいいというくらいの認識しかもてない、政治家とかマスコミは文系が多いということもある。放射線のことなどわからないのである。ここでも意志疎通ができない、理系と文系では意志疎通ができない、ノーベル賞でニュートリノが中性子がどうのうこうのと言っても理解できるのはまれだろう。科学者と素人は意志疎通できない
それは化学が錬金術からはじまったことでもわかる、何か怪しいことをしている、不気味だとされていたことでもわかる。
その時も一般の人と化学を科学を扱う人は意志疎通できないからそうなっていった。

グローバル社会になるとますます一見物が自由に入ってきて世界が理解できるように思えるけど実際は物が入っているだけであり世界のことを外国人を理解しているわけではない外国人と意志疎通できているかとなるとできない、そしてますます人間は互いに意志疎通できないものとなり他者との共通認識をもつことができなくなる
現実に身近なことでも例えば銀行とは何なのか理解できますか?
何かこの銀行を理解することは本当にむずかしい、銀行は何をしている所なのかわかりにくいのである。ましてや株でもあれ世界経済のことを理解できるのかとなるとできない
江戸時代だったら確かに理解できないもの意志疎通できないものがあったが今の時代とはレベルが違う、現代はますます他者と意志疎通できなくなる時代である。
未来もますます社会は分化してパーツ化して互いに意志疎通ができなくなる
ともかく社会をトータルに理解できないのが現代である。

郷土史は実際はトータルな学問だった。その範囲はあらゆるものに及んでいたのである。だからとても一人でできるものではなかった。地理学であり地質学も科学も関係していたしあらゆる学問が関係するトータルなものだった。
細分化した学問が郷土史ではない、それは自然と人間と全般にかかわるものだったのである。
だからそれを自分なりに追及してきた。郷土史とは人間復活再生の学問である。
なぜならそれは自然と土地とか社会と歴史とかトータルに探求するものだからである。
文化がculture(耕す)というときまさにそうだった。文化の再興は郷土史にあった。
郷土史は全般的なものだから芸術もその中に入る。
しかし今はなぜ文化がないかというと自然に根ざしたアイディンティティが欠落した社会だからである。
つまり詩語が喪失したというときそれを一番物語っていたのである。
経済用語、科学用語、法律用語、、、、しか言葉は使われない、詩語を使う人は異形のものとなりアウトサイダーとなってしまうのである。
自分も山とか石とか樹とか自分の住んでいる土地からも主に追及してきたがそれは理解されない、都会の人に石を理解することはむずかしい。
ただ材料としての石を理解することはできなるが文化としての石を理解することはむずかしい

そもそも田舎と都会人でも意志疎通はできなくなっているのだ。
ビルに囲まれて暮らしている人とはもはや自然のことはわからない、詩語はそこで死んでいてただ数字化した言葉を使っているだけなのである。
それはシュペングラーやニーチェや上野霄里氏などが指摘してきたことである。
アウトサイダー化してゆくのはもうそうした個人でしか一つのトータルな世界観を価値観をもちえない、作りえないからそうなったしまった。
マスコミは大衆の価値観でありそこから真実の価値観は作りえない、だからマスコミに紹介されたり有名なにる人は大衆的価値観の浅薄な人たちである。
新しい文化を創造することはマスコミではできない、大衆はもはや文化を創造できない
大衆と民衆は違う、民衆は文化を作っていたが大衆は作らないからである。
それで文化創造を目指すものはアウトサイダー化するのである。
そしてその人はまさに天狗とか河童とか山姥とか異様なものとされてこれまた大衆とは意志疎通できないものとなる。
まず言葉が通じない、詩語が理解できないからそうなる。
言葉が意志疎通の基礎にあるときその言葉時代が存在感を失っているのはその基盤となるコミニュティとか自然が失われているからである。
それで田舎人と都会人は意志疎通できない、では田舎人が意志疎通できているかとなるとできない、第一次産業に従事しているのは一割にもみたないからである。
その土地に根ざして生きているのではいなやはり会社員がほとんどだからである。
田舎でも隣は何をする人ぞとなってしまっているのである。


タグ:分離る人間

2015年09月10日

記憶したものが人生となる (人間の脳の大事な機能は記憶すること-罪も記憶され消えない)


記憶したものが人生となる

(人間の脳の大事な機能は記憶すること−罪も記憶され消えない)


人間の快楽を追及するのは性だけではない、様々なもので快楽を追及する、食でもそうだし誰も苦になるもの不快なことはさけるのである
それは人間の本能である。人間の本能は快を求めるようにできている。
人間の不思議は一旦快を覚えると脳に記憶される
そしてまた快を求めるようになる。
だから麻薬であれ酒であれ快を覚えるからやめられなくなる、中毒になる。
この中毒をとめることがむずかしいのは節制とか禁欲がむずかしいのはそれが本能だからである。
苦行など誰もしたくないのである。欲望を否定することは誰もできない
人間の欲望は性だけではない、様々な欲望があり否定できない
人間の欲望をおさえることができればこの世は楽園になるだろう。
あらゆる問題が人間の欲望とかかわっているからだ
子供はまだそうしした大人のような様々な欲望がないから純真でいられる
それでも子供で快を求めていている、一度うまいものをたべるとまた食べたくなる
何か人間はうまいということを脳で感じて記憶される
そして一旦覚えた快はまた味わいたいとなる
性は最も強い快だからあくことなく求めてきた、老人になっても脳がその快楽を記憶しているから求めているのである。
体ではなく脳の快の記憶が求めているのである。

脳には体の神経のすべてが集まる、体にはりめぐらされた無数の神経が脳で感じる
風が涼しいとか冷たいとか感じるのは体の神経であり脳が記憶する
それは生まれたときから風を感じているし夏には涼しい風を感じている
だから涼しい風をまた感じようとしている
もし神経だけで感じていたら脳に記憶されなかったら涼しい風を求めないだろう。
認知症になると涼しいとか寒いとか暑いとかの感覚がなくなっていた
それは脳が麻痺してそうなっていたのである。
寒いところでも薄着で外出していたから脳が感じなくなったということである。
そのことは何らか危険な状態にもなっていた。
認知症の人が寒さも暑さを感じないということ外でそのまま凍死したりすることになる
寒いということを感じなければ外にいつまでもいるとなるからだ。

人間の能力意外と大事なのは脳で様々なものを記憶されるからではないか?
人間の一生も終わりになる何を記憶したかが生きた証拠のうよになってしまう。
老人が何度も何度も過去を語るのはその記憶が生きた証だからである。
自分の姉は従軍看護婦としてシンガポールに四年間とかいて辛酸をなめた。
そのことがどうしても忘れられないから死の直前までそのことを語りつづけていたし
認知症になると同じことを百回とか千回も言う、前言ったのを忘れていることもある。
ただ人間は一番人生で印象に残ったことを語りつづけるのである。
つまり記憶されないものはないものと同然になってしまわないか?

40年前とかにともに過ごしたとしてもその人のことは忘れてしまう。
認知症になると息子や娘でも「あなたは誰ですか」とかなるともうその人自体が記憶にないということは存在しなくなることである。
人間にとって記憶が記録などでも意外と大事なのは人間は何でも忘れやすい、40年とか過ぎる何でも忘れてしまうのである。
そしてこの辺で避難区域になり村や町に人が住まなくなった所がある
例えば飯館村には人が住まなくても家が残っている
すると錯覚していたのは家があるから人がいると思っていたのである。
つまり家というのは一つの記憶として形あるものとして残っていたからそう思ったのである。

一方で全くこの辺では磯部とか海老と烏崎村では家もなにもない、全く何もなくなった。残ったのは土台だけでありそうなると何も記憶するものがなくなった。
それは本宇とに空恐ろしいことだった。
そこには幽霊すら住んでいないとまでなる
まだ山の村の幽霊屋敷とか童話にしたけどあそこにはまだ人が住んでいるという気配が残っていたからそんな物語も書けた
しかし磯部とか海老とか烏崎とか他でも津波の恐ろしいのは記憶させるものがなにもなくなっていたことなのである。
幽霊すらそこには住んでいないという恐ろしさだった。
廃屋でもそこには人の気配が以前としてあるが津波で壊滅した村には何も記憶を呼び出すものがないのである。
村の歴史でも何でも避難して人が住まなくなればその記憶が失われることなのだ。
そうするともうその村の存在すら消えてしまう。
古い碑とか墓とか地蔵とか神社とか祠は何かその村の歴史を記憶を維持しているものでありそれも村人が消えればその記憶もやがては埋もれてしまうのである。

記憶と記録はまた違っている。記録になくても記憶に残ることはある。記録は文書とか何か形あるものであるが記憶が何かまた形にならないものである。
家族があるとするとそれは愛情でもって成り立つのでありその愛情というのは記録されない、記憶されても記録はされないとなる
だからすべてが記録されることはできない、記録という点では機械がコンピューターの方が優れている
最近近くのスーバーでレジを機械化した。これが意外と便利なのである。
お釣りを十円のこしていたとすると機械が教えてくれる
そこでは金を払ったとか払わないとかのミスがなくなる
確実にいくら入っていくらお釣りを出したということが記録されお釣りが残っていたら警告して教えてくれるからこれなら人間のミスはなくせる
つまり記録する点では機械の方が優れているのである。
デジカメでも次々に旅行した現場をとっていってあとでそれを記録したものからふりかえることができる。

でもそうして記録しないと人間の思い出すことは限られていてあらゆるものを思い出すことができなくなる
こういうことは歴史でも資料があればそこから過去をたどることができるからにたものはある。
ただ記憶と記録は違っている。人間はあらゆることを記録できないが記録したものの意味と価値を与えるのは人間にしかできないのである。
自分は膨大なものをプログとかに書いているけど自分の書いたものを読んでいてこれが自分が書いたものかと不思議になる。
自分の書いたものすら忘れていたのである。だから記録することは人間にとって大事だともなる。記録したものから過去を読み解く作業ができるからである。

老人が若者より優れていることがあるのは人生で記憶したことが多いからである。
一時代でも生きているとその長さから時代をみることができる
若い人はそれができない、これから記憶することになるからである。
戦前から生きている人はやはり記憶しているのものがあるから違った見方ができる
ともかく脳の機能で大事なのは記憶していることである。
記録したものはまだ別であり記憶したものがその人間を作っている
記憶はまた消えやすいのだけど若いときのことなどの記憶は消えないことがある
若いときの奔放な無謀な欲にまかせた行動などの記憶がよみがえり消えない
なんであんなことしたんだろうとか後悔しても消えないことが怖いのである。
悪い記憶も消えないのである。罪として記憶される刻印されているということも怖いことである。
それは別に警察につかまるとかではない、脳に心に記憶されたことなのである。
悪行は明らかに脳に心に記憶される刻印されるから怖いのである。
カインのように額に徴しをつけられたということもそのことを言っていたのである。

若いときはそういうことを考えない、欲望のおもむくままに生きるし老人になってどうだこうだなど考えないのである。
だから推理ドラマのテーマは必ず若きの到りとか若いときた悪行が老人になって暴かれるとかがテーマになる。
それはたいがい若い時はそういうことが多いからテーマになる
それがのちのちまでも老人になっても影響しているのである。

「耄碌した好色家は接吻することができないのになお接吻したがり少しでも味わいたいと思うのです」チョーサーーカンタベリー物語

これは脳科学から考えれば一度覚えた快は忘れられないのである。
だからうまいものの味を覚えたらまた食べてみたいとなる。
嗜好品というのはそういうものである。
そういう脳に記憶された快の記憶は肉体が衰えても消えないのである。
自分の場合は何か体力もないし欲望も強くないからそうした罪からはまねがれた
それでも罪は犯している
でも優秀な体力ある人間は大きな罪を犯す、この世で大きなことを成す人間はまたそれだけ欲望が強いともなるのである。

聖ペルナルドゥスはこうおしっています「人はこの世で自分に与えられたいっさいのもについて決算を提出せねばならぬ、それらのものをいかに費やしたかを報告せねばならぬ、それであるからほんのとうはつ毛一筋を失ってもまた生涯のうちのほんの一瞬を時を失ってもそれについて計算を提出しなければならないのである」
チョーサーーカンタベリー物語

人間は老人になったらすべての決算を否応なく決算を強いられる。
それはカルマもそうであり様々なカルマを人は積んできた、だからカルマの清算を強いられる

なぜ自分に起きた苦難はカルマだったのである。
なぜなら60年間も母は自分のために食事を用意してくれた。それのカルマ返すことを要求されている。毎日ともかく食事を出し続けねばならなくなったのである。
そして人はカルマがあるが恩があったら必ず返さねばならない、それを怠るととうなるのか?
さらなるカルマが重なりもう返せなくなり破綻することにもなる
その人は恩など何も感じない、それは親の代とも関係している
親の代のカルマは二代くらいはつづいているのである。
その人は全くのそのことも意識していない、だからまたカルマを積んで窮地に追い込まれたりする、恩とかは明らかにカルマなのである。
それを無視したりするとさらなるカルマが負わされることになる
親との関係もまた恩でありそれは返さねばならない、親は愛情があるからだとかにならない、やはり恩というのは返すことが強いられるのである。
それをしないものは親子ではなくなるし親子の縁も実際はきれるのである。

ともかくたいがいの人はは「俺は悪いことはしなかった」とか自分に威張って言う
ところがそれを自分に威張って言うことではない、神に向かってそういえばいいのであるそんなことを自分に言われてもそうですかと言えないだろう。
人に悪くした人は最後に必ず後悔する
継母だった人は最後に「悪かったな」と言って盲目になり苦しんで死んだ。
ただ最後に頼るものもなくなり継母にいじめられた母が後始末をしたからである。
別に優しくしていればそんなことはなかったのである。

生涯のうちのほんの一瞬を時を失ってもそれについて計算を提出しなければならないのである

これは老人になればわかる。いかに時間が大事でありそこで記憶するものかが大事であるかを言っている。
この世の時間はたちまち過ぎる、その時間を何に使うかは最後に問われるのである。
つまりいかに時間を無駄にしているか、時間を失ってはじめてわかる。
故郷を失ってはじめて故郷の大事さが価値がわかる。
愛する人を失ってはじめてその人の大事さがわかったとか人間の弱点は失ってみないとわからないことなのである。
何かありふれたものでも実は尊い価値あるものだったとかは失った時わかるのである。
だから人間は結局みんな老人になって後悔しない人はいないのである。
特に時間の大事さがわからないのが人間の最大の弱点だったのである。





タグ:脳と記憶

2015年07月19日

男性的なものと女性的なものの探求 (岩と甘い声(詩)


男性的なものと女性的なものの探求

( 岩と甘い声(詩)


岩と甘い声

a rock and sweet gentle voices

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その女性の声は甘くやさしく
我が心にひびき癒される
大輪の花のように
悪びれることなく
馥郁と香りを放つ
その声は若々しく
新緑が風にそよぐように
その中に小鳥は伸びやかに
さえづりは森にひびきわたる
その余韻は森に木霊する
一方一つの古びた岩は
冬の寒さと雨の冷たさ
唸り吹く風の冷たさ
その辛さを語る
年老いて刻まれた深い皺
老人のように語る
人生の織りなす四季
人はこの岩を見ず
美しい花と甘い声を求める
岩は何を語るのか
岩は風雪を帯びて
威厳のある相貌
人生の辛さを耐えた沈黙
それもまた森に不可欠なもの
女性と男性に別れた性
自然もまた二つに分かれる
女性的なものと男性的なもの
その二つがありて調和する
妙なるハーモニィを奏でる



女性と男性は永遠に神秘である。そもそも人間は女性を男性は体験できないし男性を女性は体験できない、だから相互にわかりあうことがむずかしいとなる。
男性は子供を産めないし産む経験がないのだから子供を産むということが根本的に理解できない
快楽でも男性と女性は根本的に違っている。
そこに必ず行き違いが生まれるから離婚が三分の一とかになる。

ヨーロッパ系の言語がフランス語でもイタリア語でもドイツ語でもスペイン語でも男女を別にしているのはなぜだろうとなる。
自然を男性的なものと女性的なものとして分けて見ていた。中性というのもあるが男性的なものと女性的なものと分けた。
中国は陰陽に分けた。それはやはり動物だと雄と雌がいて成り立つように世界が作られていたからである。
猫でも雌より雄は外を出歩くというのも何かそもそも動物と人間はいろいろな面でにているのである。
それはペットとして飼うとわかるのである。
男性的なもの女性的なものというとき別に男性だから女性だからというのではなく
男性の中に女性的なものがあり女性の中にも男性的なものがある。
草食系男性とか肉食系女性というのがいるし女性的なもの男性的なものが実際に明確に別れるものでもない

でも一般的には女性なら癒し的な要素が大きく男性は闘争的とか逞しいとか強いのが男性である。
でも男性でも女性的な側面は内面的に精神的にもっている。
それも個人差が大きい、自分は何か女性的であり男性的に強さに欠けている
芸術家でも男性的タイプと女性的タイプがあり作品に現れている。
そもそも人間はもともと一つでありアダムの肋骨から作られたのが女性である。
だからこそ男性と女性は一体化しようとするのである。
もともと一つのものが二つ分かれたのだから実際は別れても一つなのである。
肉体的にも男性にも女性となり女性も男性となる作りがあるのでもわかる。
肉体という面だけが強調されるが精神的な面の相違も神秘である。

その女性は不運だった。結婚して障害児をもち、離婚して貧乏がつづき、苦労の連続でふけてしまった。
もともと見栄えが良くない、岩長姫だった。
ただ苦労しているから話は面白い、同世代だから話が合うとういことはある。
それはこの女性だけではない、そもそも女性だと若い時は余りに違うし別人のようにさえ思うだろう。
女性の華は若いときである。でも今は40でも50でも60でも若くなっている
それは男性にも言えるし個人差も大きい、
老人になると生気が衰えてくる、若い人には生気がありそこが根本的に違っている
だから老人は若い人と接すると若い人の生気を受けるからいいとなるが若い人でもいろいろいるから全部がいいというわけではない。
ただ女性というと肉体的なことにだけ注目するが声も大きな要素である。

それでホメーロスの『オデュッセイア』でセーレンの声に魅了されてしまう神話は何か生々しいのである。
それが肉体ではなく声だったことなのである。
人間は肉体ではなくても延々と女性的なものにひかれているのである。
そして人間の求めているものは心地よいもの快なのである。
何か性でもうまいものを食べたときでもそれが心地よいものとして脳に記憶されて消えないのである。
そしてその快楽をまた味わいたいというなる。
だから老人になってもたとえ肉体的なものでなくても老人が女性を求めることは変わりない
近くでイタリアンジェラードというソフトクリームを売っているけどこれもうまいから高くてもやめられなくなった。
快楽はつくづく食べ物でも中毒になるのだ。誰も苦しみを求めたりしない、それはやむをえないものとしてある。
だから麻薬ても快楽は脳に記憶されて習慣化されやすくたつことができなくなる。
それは別に麻薬でなくてもこのソフトクリームを毎日食べたくなったことでもわかる。
脳に快楽として記憶されたものはまた同じ快楽を味わいたいとなるのである。


いづれにしろ詩とか芸術になると女性ぬきでは語れない、だから詩となると若い時は恋愛詩になる。でもこれも浅薄なものとして終わる。
ダンテがベアトチェーリに憧れたということはわかる。
女性だとどうしても花に例えられる。岩とか男性に例えられる
花をテーマに自分がしたとき自分は女性的だがまた同時に石や岩もテーマとしてきた。
芸術になると理想は男性的なものと女性的なものの両方があるといいがどうしてもそんな性格をもつ人はまれである。
人間の個性でも限られている、あらゆる面をもつ人などありえないのてある。
それはまさに神のようになってしまうたろう。
ただ詩となると自然と人間も不可分に結びついている。
小説になると自然より人間中心になるが詩となると自然と結びついたものとして表現する自然から離れると人間だけだと芸術はそもそもありえないのである。



ホメーロスの『オデュッセイア』に登場する。オデュッセウスの帰路の際、彼は歌を聞いて楽しみたいと思い、船員には蝋で耳栓をさせ、自身をマストに縛り付け決して解かないよう船員に命じた。歌が聞こえると、オデュッセウスはセイレーンのもとへ行こうと暴れたが、船員はますます強く彼を縛った。船が遠ざかり歌が聞こえなくなると、落ち着いたオデュッセウスは初めて船員に耳栓を外すよう命じた。ホメーロスはセイレーンのその後を語らないが、『神話物語集』によれば、セイレーンが歌を聞かせて生き残った人間が現れた時にはセイレーンは死ぬ運命となっていたため、海に身を投げて自殺した。死体は岩となり、岩礁の一部になったという。しかし声だけは死なず、現在でもある時期になるとセイレーンの歌声が聞こえ、船員がその声を聞いた船は沈没すると言われる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B3


タグ:男性と女性

2015年07月13日

土着的なものになって文化は興隆する (「心に青雲」には土着的なものが欠如している)


土着的なものになって文化は興隆する

(「心に青雲」には土着的なものが欠如している)

「『鎌倉仏教』は、日本の土着世界観の幾世紀もの持続に、深くうち込まれた楔であった。」(280ページ)、「土着世界観の著しい特徴の一つ、抽象的な全体の秩序へではなく、具体的な部分の詳細への鋭い関心……」
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/taguchikosou.htm
 
仏教は土着的ではない、一つの思想でありそれは世界的に通じる普遍的な理論である。
だからはこそ国が変わっても通じるものがなりそれが中国的なものとして土着して
韓国的なものとして土着して日本的なものとして土着した。
日本でも時代が変わると鎌倉時代には武士の仏教として禅を中心に土着化した。
土着化するということはまさにその土地と一体化することなのである。
ゲルマンの森と大地と一体化してゴシックの石の大聖堂が作られた。
土着化とはその土地と自然と一体化することなのである。
宗教にはそういうことがあったがマルキシズムは世界的普遍的なものとして受け入れられるたとしてもそれが土着化するということはなかった
一つの科学的理論と同じである。それは民主主義とか資本主義とかも主義でありそれが土着化するということはなかった。
ただ資本主義のはじまりが北のドイツなどの修道院からはじまったというときそれは宗教的なものとしてはじまった。
神に奉仕するということで勤勉の哲学がありそれはエトスとして庶民にも共有された。
日本でも武士の精神は武士道は庶民にも影響していたのである。

そもそも民族とか国というのは必ず土着化したある地域からはじまっている。
日本の民族の国のはじまりがヤマトだというときそれは奈良の一地域にヤマトがありそこが国のはじまりだったのである。

抽象的な全体の秩序へではなく、具体的な部分の詳細への鋭い関心

奈良が山に囲まれているというとき「やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし・・」その青山でありその山でも個々に山がありその山と一体化してゆく。万葉集もそうした明確な像となるオブジェクト、対象があって歌われたものである。
まだ架空のもの、詩のように空想化されたものは歌われていない。その土地の像と不可分に結びついていたのである。
日本人の精神の源流として山自体が信仰の対象となる、三輪山がそうである。御神体が山なのである。つまり抽象的なものではない、山とか石が御神体になるのである。
これはユダヤ教とかイスラム教とかキリスト教でも偶像崇拝とはなる。
それ自体を神として崇めることには問題がある。
ただ山とか石とかがもっている原生質を人間が精神化するモラル化することは別に偶像崇拝でもないのである。仏像でもそれを神ではなく精神的なものの表象として見れば偶像とはならない、ただ常にどうしても人間は偶像崇拝に陥るからそれを厳しく戒めたのであるカルト教団でもほとんど教祖が偶像化していることでわかる
具体的なものとして人がいないと理論だけでは庶民でも理解できないからである。
だからつまらない人間でも現代では偶像化しやすいのである。
特にマスメデアは常に偶像を作り出しているからである。
それでイスラムではテレビとか写真に人間の顔が写ることを拒否することまでしているのである。

「心に青雲」の著者が像で考えろというときまさにその具体的な像がないと人間は実感できない、ところが都会になると山もない樹もない、石もない、自然がなくビルだけを見ていたらどういう像が形成されるのかとなる。
都会に土着的になるものがない、それは仙台でも都会化東京化すると土着的なものはなくなる
だから仙台には賢治とか啄木のような土着的な詩人が生まれなかったと言う人もいる。
つまり詩人は芸術家でも土着的でなければ詩も絵にもならないだろう。
毎日高層ビルを見ていても深い精神性は養われない、ただそこにあるのは損得を毎日計算しているビジネスマンがいるだけだとなる。
「心に青雲」の言っていることはまともなのだけどでは純なる日本はどこにあるのかとなる。純なる日本はやはり日本の自然にあり神道はその純なる日本の自然にあった。
その大和言葉にあった。
罪(つみ)とはつつむでありつつみかくすでありつつしむとか日本の自然は余りに美しいのでその自然に罪をつつみかくすということがあった。
それは犠牲の小羊で血を流して罪を清めるという文化とはあまりにも違っていたのである日本ではそもそも馬とか牛とか羊がいないと魏志倭人伝にあるように動物を犠牲にするという文化がないかち理解できないのである。

「心の青雲」でしきりに徴兵制を復活して若者を鍛えなおすべきだというのもわかる。
やはり人間の精神形成は30代までほとんど完成してしまうからである。
青春時代を放蕩していたりしたら何らもはや人間的な精神形成が不可能になる。
青春時代を浪費することはそれはのちのちまでたたりとりかえしつかなくなるから怖いのである。
ただそういうふうに青春時代を思う人はまれである。
青春時代がいつまでもつづくと思っているのが人間でありそれは世代が変わって変わらないのである。
青春時代はたちまち過ぎて老人になっているのが人間なのである。
青春時代に精神形成ができてそのあとは何か余祿みたいになるのが人生なのである。
ただその後も紆余曲折があっても青春時代に悟り突破するものがあれば確かに精神を病むとかなくなるのは確かである。
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」である
人間は一度狂わなければ逆に狂ってしまうのも人間なのである。
吉田松陰が狂いと言ったのは正しかったしそうしなければ乗り切れない時代だった。
ただその狂いもただ狂っていたのでは効果はない、的を得ないと本当に狂気になって終わる。

ともかく青春時代はいろんな面で二度とない、自分もカルト教団などで青春を浪費したが自分が追及していたのは権力などではなかった。でもカルト教団はすでに世俗より俗世化したものだから権力御利益しか目指すものがなかったのである。
精神形成として若者を鍛えるべきだというのはわかるがそれが国家のために戦争の時のように仕向けるのには疑問がある
別に国家を第一にしなくても精神形成とか求道はありうる。
ただ国家に奉仕するのが生きる目的でもないからである。
国家的ヒロイズムとしての「心に青雲」の主張は疑問がある。
アレキサンダーの時代ならそれもあっても現代の戦争は全く違ったものでありただ人間の無駄な殺戮だけあり人間が殺戮マシーンになっているだけだとなる
日本兵は確かに粗末な食でも戦場で耐えたということはわかる。
その苦労はなみたいていなことではないし今の飽食の日本人には耐えられないことであるでも実際に従軍看護婦をした人が家族にいたので聞いたがもう耐えられなくで病院の窓から飛び下りたとか自殺した人がかなりいたのである。
それほど過酷だったのである。
だからそういう日本兵をみんな英雄視できるかは疑問なのである。

そして教育にしても土着性が喪失した結果として荒廃がある。
それは明治維新後急激な過度な富国強兵の欧米列強に伍するための中央集権になったからである。
廃藩置県というのも今になると土地の土着性を無視した結果であり問題が起きている。
やはり土地に根ざして人間の精神が形成されるというとき江戸時代の方が貧乏でも人間の精神はまともだった。
教育でも武士が中心でも藩校とかあり土着的でありそこから明治維新の逸材が生まれた。明治維新には混乱して評価が定まらないがやはりわれだけ若いのにあれだけのことをやれたという驚きがある。
今の若者でも団塊の世代でもそうしたことをまねてもできない、全学連などは全く腰砕けで終わったからである。

団塊の世代はその後はただ企業戦士として高度成長時代を築いたのである。
ただこれは評価されないし若い人の反発をかっているだけだとなる
戦後70年たって国際情勢でも変わったし国内でも変わったから教育にしても何でも変換を求められている。
今回の津波とか原発事故もそうした変わり目に起きたのである。
つまり復古というときやはり日本の土着性の復古でありどうしても都会的な所から起きてこない
仙台が何か東京化しているから土着的なものを喪失しているから詩人が生まれないというときそうである。
自然がないと土着的な創造は生まれないのである。
その土着的なものを破壊したのが原発事故でもあった。
第一次産業があって土着的なものが育まれるからである。それがなくなったらどうなるのかということを書いてきた。
田んぼがない田園社会がイメージできなくなったということである。
東京のような大都会だと田んぼがもともとないのだから米がどうしてできるのか像として具体的にイメージできないのである。具体的な像となるべきものがないのである。


タグ:土着の思想

2015年06月16日

エマーソンの「償い」の思想はカルマの理論と同じことを言っている (与えたものが一方的に損することはありえない)


エマーソンの「償い」の思想はカルマの理論と同じことを言っている

(与えたものが一方的に損することはありえない)



わたしのためにはなっても相手のためにならぬ益を少しでも求めようとすれば、とたんにわたしの隣人はその不当な仕打ちを感じてしまう
わたしは身を引いただけ、枯れもわたしから身をひいてしまう。
彼の目はもはやわたしを求めず、われわれのあいだに戦いがはじまり、彼の内部には敵意が生じる

人々を歩駒のように扱えば、扱ったこちらまでが彼らと同様きっと苦しむことになる

百を数える恩恵を受けながら会えた恩恵は皆無だという人は果たして何が得したのだろう。
いつも支払っていたまえ、いづれは負債を所詮自分で支払わねばならない
失ったものがあればその代償として必ず何かほかのものが手に入っており、手にはいったものがあれば必ずその代償として何かを失う
集めるものが集めすぎたら「自然」は彼の金庫のなかにいれてやるだけのものを彼自身から奪い取る



人間の世界に何をするにも償いが働く、その償いは仏教で言うとカルマ論になる。
それは現世だけではない、前世にも及ぶからエマーソンより深遠なものがある。
カルマのことをエマーソンが言わなかったのは仏教を知らなかったからである。
つくづくこの自分のこの七年間の苦しみはまさに償いを強いられた。カルマの清算を強いられた。カルマの清算ということは「償い」のことである。
親には世話になったから介護を強いられたというのもそうである。
遺産が入ってきたときそのために大きな災いが生じたのもエマーソンの言う通りだった。富が集まりすぎるとそこに災いが生じるのだ。
なぜ中東で常に熾烈な争いがあるかとなれば石油という巨大な富があるためなのだ。
あまりに金をためこむとそこにはよからぬ人も金目あてに集まってくる
そのために殺されるとういことも常に人間の社会ではある。
その人相応の金ならいいがそれを越えると災いが生じるのである。

とにかく人間の関係は

わたしのためにはなっても相手のためにならぬ益を少しでも求めようとすれば、とたんにわたしの隣人はその不当な仕打ちを感じてしまう
わたしは身を引いただけ、枯れもわたしから身をひいてしまう。
彼の目はもはやわたしを求めず、われわれのあいだに戦いがはじまり、彼の内部には敵意が生じる

このことは日常的に誰でも経験している。無償で与えるものは一人もいない
そしてただより高いものはないということも経験している。
自分のつきあった人はこれを徹底していた。その人は事業を商売をはじめたけと失敗した理系で技術者で頭がいいのだけど何か経営とか商売には不向きだったのだろう。
それより東北人はつくづく商売には向いていない、それがただ如才ないとかではない、
農民体質だから臨機応変でないとかでもなく、商売がどういうものわかっていないのである。
近江商人はそういうことがわかっていたから成功したのである。

売り手よし 買い手よし 世間よし
http://www.mahoroba.co.jp/saying.php?itemid=2644

商売は一方的に相手から利益を得るというものではない、利他的精神がないと成功しない、何も得られないものに金を払ったり社会が認めたりしないのである。
資本主義が修道院からはじまったというときもそれこそ信仰に基づいた利他的精神だった商売はもともとそういうものでありとても今のように株で暴利をむさぼるようなことはありえなかった。
その人は商売をはじめてからもの凄く計算高くなったのかもしれない、まず売ったら五分はもらほねばならぬ、何かしたら五分はもらう、でも与えるのは一分でいいという精神である。
それが自分が病気のときもそういうことを実行して借金を求めてきた。
多額の借金している人はすでにモラルは喪失しているから危険である。
そんな人が病気のとき来たのだから最悪だった。
相手が弱者でも病人でもかまわない、今金がとれるということで借金をその弱みにつけこんで借金を請求してきた。

推理小説ではテレビのドラマでも事件でも必ず借金が犯罪の動機になっているのが多いのである。借金していることを調べれば犯罪の大きな動機をもつからそこから犯人を探す。まず動機から犯人探しになる。
そうなった人はもう他者に対する同情もなにもない、ただ利益を得ればいいというだけになっている。かえって相手が弱者化したとき恐喝すれば効果的である。
そうして保険金殺人にもる、それとにた恐怖感を味わったのである。
そういう恐怖を与えたものはすでに刑がなくても犯罪者なのである。
別に刑を受けなくても犯罪を犯している人など無数にこの世にはいる。
むしろ刑を受けている人はカルマを負って清算しているのだから救われているともなる
ともかく借金はすでに大きなカルマを積んだことになり返還を要求されるのである。

そういう自分またカルマを背負っていたからこういうことにあったともなる。
何か積もり積もったものが必ず六〇代以降に清算を要求されるのである。
その人は借金のために風俗とまではいかないが働かせられるているからこれもカルマだったとなる。
ブラック企業とかが繁栄することはないだろう。人を人とも思わないような働かせ方をしたら繁栄するとは思えない、だから倒産したブラック企業がありざまあみろとかなってしまう。
もし利他的な行為としての商売ならそういうことはならないだろう。

つまり世の中は公平の原理が働くというとき「償い」の思想はそれを言っているしカルマ論はそのカルマを借りを返すことを強いられるということである。
それは共通した思想であるがカルマ論の方がより深いインドの思想なのである。
だからなぜ自分はこんな不幸なのだろうとかなぜ不運なことばかりなのだとか悩む人はいくらでもいる。
そううい不運なことはただ偶然なのかと疑問になるりカルマを知りたいとなる
自分に起きた不運とか災いは本当にここに書いていたようにそうしたカルマが重なって起きたのである。
六〇代以降は何かカルマの清算が誰でも要求される。
親にも子供としての償いをしなければならないし介護しなければならないとか社会にも償いをしなければならないとか必ずある。

その人はなぜか不幸だった、その不幸は他にもいる、障害者をかかえた人などがいてそれとにている。
でもそれも今はその人のカルマだったと思う。その人は弱者を虐待するような人だった。もちろん自分も虐待されるカルマがあったのかもしれない、例えは猫などでも虐待していたりするとそれがカルマとなるからペットを飼うのも怖い面はある。
虐待したものは虐待されるし盗んだものは盗まれるし殺したものは殺されとかそうした因果応報カルマ論はここの人生で納得いく理論なのである。
つまり殺すものと殺されるものは偶然なのか?それにも因果関係がカルマが働いているのではないかとなる。
親が子供を虐待すると子供が親になったとき子供を虐待するということもカルマとしてある。親の因果が子に報いというのは現実にそういう例が多いから常に言われるのである。
もちろんあまりにも人間は複雑だから謎であり不明なのも多い、ただ一般論として確率としてはカルマ論はあてはまるからこそカルマにこだわるのである。
インドでカースト制が生まれたのもそうした簡単に差別というのではなくしれだけ古い国だからこそそうした身分制も必然的に生まれてきた。
その土地で裕福になるのは勤勉に働いたとか何か理由があってなっている。
怠け者だったら裕福にはならないから金持ちをうらやむのは間違っている。
ただ今はそうした公平の原理が働かないということで資本主義が否定されつつある。
公平でないということはやはりその社会の危機であり社会自体が崩壊に向かっているともなる
格差で不満が増大してそれか革命につてがってゆくからである。

いづれにしろ与える時は与えるがいい、それが一見無駄なように見えても与えることは幸せだからである。
自分もなぜこの人にこんなに与えるばかりなのか?相手はさほど感謝もしないようにも見える、でも与える力があるときは与えていた方がいいとなる。
むしろ金持ちだったらそういうカルマをもっているのであり与えないとかえって災いが生じ安い、だから金持ちになることもむずかしいのである。
宗教はそもそも利他的なのもだから損することを厭わない、ただ与えることをすすめる。そんなことして自分に何の得があるのということになる
なぜならエマーソンの言うように少しでも自分の利益にならなければもうこの人とはつきあわないとなるのが普通だからである。
それほど利に聡いのが人間であり人間社会の普通のありさまなのである。

だからエマーソンでも例え損に見えてもかえって損であれば損であるほど与えないというのはそこに「償い」があるからだとなる。
その損は決して損はなく償いが必ずある、また何か得したとしても不正なら必ずカルマを積んでいるからその借りは返すことが要求されるのである。
とにかくなぜに人間は自分だけが不当な仕打ちをされるのだろうという不公平感におちいりやすい、それが犯罪にもなる。
でもそうした不満でも自分にも何らかの落度はあるのが普通である。
でもそれを否定して不運だ不公平だと言うとき納得できないのである。
人間は生まれた家で決まるんだよな,努力しても無駄だよともなる。
でも本当にそうなるのか?、人間は何かしら努力しないなら積み重ねがなければ何も成らないだろう。
だからどうしてもそうした不公平感も例えはあったとしても全部は肯定できないのである

虐待したものは虐待される
金持ちは与えないと奪われる
貧乏人もにも非はある
世は公正を求めるしのぎあいである
とても暴利を得る社会はつづかない
富は独占できない
そこにアメリカの危険がある
金持ち国の危険がある

ともかく人間は運不運があるにしろ公正を求めてる。だから公正でないことは許されない、だから公務員だけが得しているというときいづれはそれも正されるだろう。
官僚も得しているというときそれも社会は許さなくなる。
そういう公平を求める力が常に働いているからいづれはそうなる。
公平でないことは誰も許さないのである。


2015年05月17日

この世に起きることは事故でも事件でも何でもカルマが関係している (両親や祖父母のカルマは必ず受ける)


この世に起きることは事故でも事件でも何でもカルマが関係している

(両親のカルマは必ず受ける)


なんでこんなことが起きるのだということが誰でも経験している
なぜよりによって自分がこんな目にあうんだとかなる
カルマというとそれは親のカルマは目にみえてはっきりと受ける。
でもカルマは4百年前とかまで歴史的カルマになると受ける
津波でも相馬藩内で一行700人溺死とあったから被害があった。
それは全く忘れられて今回の津波で大被害になった
そうした風土や歴史のカルマがあっても忘れられていたのである。
カルマというのは忘れられ意識されないことが多いのである。
ただ何かその個々人の身に直接起きたとき何でこうなるんだとかなる

例えば歴史的カルマとなると相馬藩の歴史的カルマもあるかもしれない
相馬藩は天明の飢饉で越中からの移民などを受け入れた
三分の一の人口が消失したからだ。
そういうとき移民してくる人がいたということはその時代の貧しさがあったからだ。
そういう荒廃地になるところが多かった
移民してきた人たちの住んでいる所もそうだった
何か移民せざるをえない状態があった
移動が自由でない時代は藩を出ることは命がけだった。
だから移民する人にもそれだけの事情があった。
それで相馬藩内に移住して苦労した。
それで「加賀泣き」という言葉が残っている。
よほど移住して苦労したから加賀の人が泣いたということである。

これがカルマとなんの関係があるのか?
それはなぜ今回のように相馬藩から原発事故で避難民になって他の土地で暮らさねばならなくなったのか?
そしてやはり相馬藩に移住した人たちのようによそ者としてあつかわれ嫌な目にあう
まさにそのことは移民した人たちが相馬藩でされたことと形は違っても同じことをされている
実際は相当恵まれたものだけど何かよその土地に暮らすということで形見の狭い経験はしている
かなり楽な方でもよその土地で暮らすということがどういうことか身をもって知ったともなる
なかなかよその土地で集団で暮らすということがどういうことか理解できないからである戦争でも戦争の苦しみなどわからなくなっている、でもまた戦争になったらそのカルマがめぐり戦争の苦しみを知ることになる

カルマで確実なのは親のカルマから逃れられないことである。
自分の一身上のことでも書いてきたけどなぜこんな苦しみを受けねばならなかったかというと親のカルマを自分が清算するような立場になっていたのである。
長男長女はその家のカルマを一身に引き継ぐことになることは間違いない
それは悪いカルマだけではない良いカルマうも受け継ぐのである。
良いカルマも悪いカルマも受け継ぐのである。
なぜならどんな人でも良いことばかりしてるなどありえないからである。
例えば財産を残すにしてもそれが必ずしも良い金とは限らない
太宰治の斜陽館などは小作から搾取してできていた。
だからそういう家にはやはり小作の呪いのようなものが受ける
ただ江戸時代の庄屋とかなると別である、それは農民とともに一揆では戦い死んだ人もいるからである。

カルマは両親のカルマを必ず受ける。自分にしてもなぜこんなに介護しつづけねばならないのか?
それは60年間自分に食事を出し続けてくれたからお前もそれをしなければならないというカルマを受けたのである。それは逃れることができないカルマとなっていた。
百歳まで生きたことはそのカルマを自分に受けさせるために生きていたともなるのだ
両親というとき母がいて父がいる。その父のカルマも受ける
それは財産を残したことで災いが生じた、財産がカルマになっていた。
その財産はすべて良いものとして残されていたわけではない、
太宰の斜陽館のようにあからさまのものではないにしろ公務員という恵まれた境遇で残された
それで自分がそのカルマを受けたのである。
いいことであってもやはりその金が元で犯罪にあったり病気の時金を要求されて苦しめられたのはそのためだったかと思う
金にはなにか具体的なカルマとして現実的だからわかりやすいのである。
金がないのもカルマだけど金をもっているのもカルマなのである。

家系に起きてくるカルマは本当に不思議である。
ある人が収入もいい人と結婚した。その人は頭が良くて優秀だった
だからいい人と結婚したと外から見られていたのである。
それがなぜ事業で失敗した結果60過ぎて苦しむことになった。
まず60以上になると人生の総決算のようなことが誰にでも起きてくる
若いときの不品行であれ何であれ悪行であれそういうことは決して消えるわけではない
60以上になるとそうした若いときのことまで生々しく蘇りその悪に苦しめられる
要するに人間はどんなことしても何かしらカルマを積む
両親でも先祖でもそうでありその国でも歴史的カルマをつむ、それで今も責められているだから先祖供養しないとだめだというがそれでカルマが解消するわけではない
どうしたらカルマが解消するのか?
それは善行を積むほかない、残された財産があったら困った人に分けてやるとかになる
そうすれば金にまつわるカルマはだんだん消えてゆくことになる
ますます強欲になって金をためたらカルマをまた積むことになるからだ

とにかくカルマは何もなければ意識されないものなのである。
何か事故とか犯罪とか何か悪いことが起きるときカルマを否応なく意識される
なぜこんなことが自分に起きたのだろうとなる
それは理不尽な犯罪だったこの世には多い、ではなぜその人だけがその犯罪の犠牲者になったのだろうというのが謎なのである。
よりによってその人にそんなことが起きたというのが謎なのである。
それでカルマが意識される、家系も意識される
家系も謎でもその時家系の問題してカルマが意識される
会社に勤めていれば優秀で終わったのになぜ事業をはじめて失敗したのか?
そういう人にまた嫁いだのうかというのも謎である。
まず結婚するときそんなことなどわかりようがないからである。
それは嫁になった方のカルマが家系が関係していたのかとなる
実際に嫁になった女性の家族は普通の家族ではなく問題があった
その家系のカルマを受け継いで夫も失敗したのかとまでなる
昔は戦前までは家と家の結婚であった。
すると家系というのが問題になる
今は個人間の結婚で家系なんか関係ないよ二人が愛し合えばいいんだとなった
ところがなぜそうであればいいが家系の影響を受けるのかということである。
結婚は個人の問題でなく家系がかかわるからあとあとそのカルマを受けることなにる
でも家系でもその家庭のことはわかりにくい、だから今はあまり考えないのである。
家系にはやはり徳を積んだ家とそうでない家と明確にある
徳を積んだ家と結ばれることはやはりあまり悪いことは起こらないとなる

聖書ではその家系のことなのである。アダムから生まれた神の子孫のことを記したものであることでもわかる。
神の家系としてユダヤ人は神から選ばれたものとなっている。
だから家系を一番重んじていて異民族とは交わらなかったのである。
神の家系が汚されるからそういうふうになっていた。
家系がそれだけ重みをもっていたのである。
つまり最強の家系は神の子となるべき選ばれた民であり
それでユダヤ人がいろいろなことを言われても滅んでいない、
他は3000年前とかなればその時の人種はどこも残っていない
そして運の強い人につけというときそれもやはり運の悪いというのは何か
例え能力があってもうまくいかないのはなぜだろうとなるからだ
天才でも能力かあってもそれだけでは何かは成らない
そこに神の力が働かないと成らない、だからそれは運だともなる
運の悪い人につけば同じように結果が悪くなる
何かで失敗したり事故を起きたりうまくいかないのはなぜだろうとなる

だから結婚というのは二人があえばいいことだともならないのである。
むしろ家と家の結婚でもうまくいっている方が多かったかもしれない
それだけ人間は謎であり人生問題でも解きあかせないから悪いカルト宗教団体でもこれだけ増えたのである。
それは人生に不可解なことが多すぎるから何かに神仏に頼るようになる
ただそれもたいがいは間違ったものでありかえって悪いカルマを積んでいるのである。
それは神仏に頼っているのではなく本当はこの世の力に人に頼っているからである。
最終的にはカルマからは真の信仰によってしか脱せられないともなる
カルマはともかく逃れることができないから厳しいものとなる

ギリシャ神話の「シーシュポスの岩」のように延々と石を持ち上げていなければならない要するに延々と持ち上げる岩はカルマなのである。
介護などもいつ果てるのかわからない、百歳になってもわからない
延々と介護からから脱することができない
カルマは人間の業であり人類が消滅しない限り終わることがない
つまりこの世でカルマが消滅することはないのである。
ハルマゲドンで最終戦で人類が滅びるというのもそうである。
業が積み重なって最後に最悪の結果となる。
人類のカルマはどれだけあるのか?
もう計りしれない悪行が歴史でもある
その総決算が最後に来る、それが人類が滅びるということである。
この辺で原発事故で積んだカルマも恐ろしいものだった。
プルトニウムの毒が二万年消えないという恐るべきカルマを追わされたのである。
それはまるで二万年間岩をもちあげるようなカルマともにていたのである。
原発事故によってもたらされたカルマだったのである。
その放射能から解放されるのが二万年後としたらその罰も過酷だったとなる

「シーシュポスの岩」

肩にずっしりと重い岩よ
いつまでこれを持ち上げねばならないのだ
いつになったら解放されのだ
今日もずっしりと岩が重い
休むことなく岩を持ち上げねばならぬ
これは与えられた罰(カルマ)なのだ
怠け者にも様々な悪徳を積めば
それは必ずカルマとなって負わされる
その刑罰を解かれるのはいつなのか
それぞれの人生にカルマがある
カルマからは誰も逃れられない
蟻は蟻のカルマを猫は猫のカルマを生きる
なぜ蟻として生きねばならぬのか
野良猫になり餌をあさらねばならないのか
人間もまた同じそのカルマは複雑だけれど
それぞれにカルマを負わされるのが人生だ
・・・・・・・


タグ:カルマ

2015年01月07日

時間の謎 (時間の感覚は環境により変化させられている)



時間の謎

(時間の感覚は環境により変化させられている)


時間のことを考えると本当に理解できない、時間が何かという定義はできない
時間はそれぞれの人の解釈だともなる。
なぜ現代は時間が急速に流れていると感じるのか?
その一つの大きな原因が乗り物、運送するものが変わったからである。
人間は江戸時代でも歩いて移動していたし荷物も運んでもいた。
それをみていたらゆっくりしたものを感じたろう。
でも歩いている人からみれば長い距離をゆくのには急いで歩いていたのである。
旅人は早立ちである。40キロ一日歩くとしたら朝早く起きて早足で歩かねばならなかった歩いている人は急いでいたが見ている側からする早いとは見えない

のろのろと汽車が行く
ここは山のふもと
あたりいちめんのなのはな
まえへうしろへでさへづるひばり
そのなかをのろのろと
汽車はゆく
その汽車の後からついてゆく私の幻想よ
鱒は泥田に身を隠した
それをとろうとした子供は腹をたて
小石をひろい
汽車をめがけてなげた
それをみてだるそうな
汽車は汽笛を吹き鳴らした
この汽車はどこへゆくのか知れたものか
なんという長いレールだ

山村暮鳥

だから不思議なのは明治大正時代でも汽車がのろのろと走っていたという表現があったことである。
汽車がのろのろと行くなど考えられない、その当時の汽車はそういう感覚だったのであるもちろん急行もないから遅かった。でも汽車だったら馬などよりずっと早いのにのろのろという表現を使っているから不思議である。

子供は長い長い貨物列車を見ていた
その貨物列車はいつまでも尽きるように見えなかった
いつまでも貨物列車を見ていた

子供の頃まだ長い貨物列車が通っていた、それは長かった、子供にとっては余計長く見えた。その時間感覚が消えた。あのころは輸送の主役が貨物列車だったからである。確かに今も貨物列車は時々通る。

長々と貨物列車の通りゆく老人寝ている病院に見ゆ

貨物列車と高齢化社会の老人、それが重なって見えた。貨物列車は何か重い、老人もそうした荷物に見えるから重なって見えたのも現代である。何でも時代によって見え方が変わってくるのである。
乗り物でもゆっくり走っていれば時間もっくりとすぎてゆく
現代は電車でも新幹線になり車になり飛行機になり何でも早い、車だと毎日目まぐるしくすぎてゆく、ぐるぐる時計が回っているように時間がすきてゆく
一方で徒歩とか馬だとかはゆっくり進んでいる、自転車も遅いのだがこれも徒歩からすると早いのである。
車社会になると毎日めまぐるしく時間がすぎてゆくようになる。
時間に追われてすぎている感じになる。
だから環境が時間感覚を作っている。
汽車もなかった江戸時代に住んでいればさらに時間感覚は遅いものとなる。


カチカチカチ
時計の歯車が刻む音
古い柱時計がボーンボーンと時を打つ
裸電球一つの
トタン屋根のがらんとした古い家
外では北風が唸っている


子供の頃の時間感覚は遅く長かった。それは子供ではみんな同じである。
そしていつのまにか急速に時間はすぎてしまった。
そんなところにいたことさえ定かでなくなった。
柱時計の時間感覚は今とは違っている。おじいさんの古時計という歌が流行したがあんな感じであった。江戸時代なら寺の鐘が時間感覚になる。
この差も大きいのである。その時間感覚だけはもう経験することができないのである。

もう一つは処理する情報量と時間感覚は関係している。グローバル化した世界ではニュースに目を通すだけで時間がかかる。世界のニュースの量は莫大なものでありそれを知るとなると時間がかかる、江戸時代の百倍とか千倍の情報を処理するとなるとそれだけで時間がかかるから時間が早くすぎる。学習にしても江戸時代の千倍の量を学ばねばならないとなると時間が必要になる。
江戸時代には漢字を習っていても英語など習っていないからである。
英語に費やす時間だけでも膨大になる。
江戸時代の学習は詠み、書き、そろばんであり学ぶ量が極端に少ないのである。
だから時間がかからないから一生で学ぶものが少ないから時間がゆっくりすすむのであるつまり時間的に余裕がある社会である。
それは農耕社会とか自然に則した生活にあっていた。
例えば林業でも50年で木が育つとしたらとても一代では仕事にならない
次の代で収穫があるとしたらそれだけの長い時間感覚もたねばならない
すると時間感覚も相当違ってくる
現代はそうした先を見通した長い時間感覚をもていなのである。
スピードが第一になるとき早く仕事を達成しなければならない、成果を出せねばならないからである
それで現代人は絶えず何かに追われていて落ち着かなく余裕がないのである。
人と人も対話しない、車の人と人も対話しない、一瞬にすれ違い去ってゆく
時々危ないとかどなりちらす声を発して去ってゆく
徒歩だったら互いに歩きながらコミニケーションもありうる
旅は道連れになるが車だったらないのである


時間の不思議は回りの環境に時間の感覚が左右されている、エジプト文明の時代はさらに時間の感覚も違っている。それはとても今では経験しえない時間感覚で生きていた。
第一人力でピラミッドなど作るのはそういう時間感覚があったからだろう。
機械もない時代にあれだけのものを作るのは相当な時間感覚の相違があった。
時間感覚は機械によっても変わったのである。
時間が時計によって計られ時も変わった
昔の柱時計だと時間がゆっくり進んでいた
それはネジ回しの機械だからそうなっていた。
今は電気式になり何か機械も何が動かしているかもわからないのである。
時間感覚は環境によって作られている。
だから江戸時代の時間感覚はそこに生きている人しかわからなかったのである。
時代が違うというとき何が変わったかというとき時間の感覚だということがあまり指摘されていない


時間をゆっくりしたいなら逆にその環境を変える他ない、それが一番むずかしい。
なぜなら環境自体か変えられないからである。
車社会も変えられない、もし車が走っていないと時間感覚が昔にもどる
江戸時代にもどる、一時原発事故でそうなった。
車が走らない環境はまさに江戸時代なのである。
そして遠くにゆくことにはめったにない、近くで過ごすことになる
生活も戦後十年のように回りにある薪とか炭とかを燃料として自給自足的生活となる。
そうすると時間はむっくりとすぎて時間に余裕ができるのである。
そうなると刺激も少ないからいろいろと情報とかにふりまわされなくてもいいともなる
株をししていると外国まで常に気になりニュースを追っていなければならないのである。
現代はだから長生きの時代でも老人にとっては住みにくいのである。
老人になると環境も変化しない、長いゆっくりした時間感覚の方が安定する
なぜ盆栽趣味が江戸時代に発達したのか?
それは盆栽も育てる時間感覚があったからである。
盆栽は最低5年くらい手入れしてみていないと育たない、意外だったのは江戸時代からの盆栽があり樹齢5百年とかもあるのに驚いた。
そんなに長く生きているのがあるという驚きである
盆栽は小さいから寿命が短いと思っていたからである。
盆栽は時間感覚が長いゆったりした江戸時代に向いていたのである。
江戸時代の時間感覚から生まれた趣味だった。
だから実際は現代にあっていないのである。

いづれにしろ時間にしても本来の人間的時間をとりもどそうとしたらやはりそうした環境を恣意的に作るほかない、それは一番むずかしいものとなる。
ただこれからの高齢化社会では明らかに時間感覚も変わる
老人の時間感覚は遅久手からである。遅い方を好む、だから現代の早すぎる時間感覚の歯止め役にもなる。
それは車社会にはあわない、老人は危ないから運転するなとかなる。
すると老人は別な方向に向かう、運輸手段でも昔のバスとか利用したり近くを大事にして近くで用をたしうるようなものを指向する。
そういうことはすでにはじまっている。東京辺りでは老人人口が多いから配達してくれるとか近くで何でも用がたせて車も利用しないで生活できる。
田舎ではかえって広範囲に住んでるから車がないと生活できない
ともく高齢化社会は社会の環境を変える、それは時間感覚を遅くするのである。
それは昔にもどることになる。
また老人の仕事は昔を回想することでもある。
その回想することが精神生活になる。それも絶えず新しいものを経験している若いときは相当違うのである。
過去の経験を生きるということもありうるのだ。
それでじっくり読書するとか自分の場合だと日本を世界を旅行したことをふりかえり
やはり回想で旅がつづいている不思議があるのだ。
それもまた旅だったのである。
この七年間は介護とかで本当に遠くに行かなかった、旅もしなかった。
すると回りが大事なになる。近くで用足すことが大事になる。
それは江戸時代でありそれが人間として正常であり現代の時間感覚は異常だとなるのである。


おじいさんは冬の日がさして
ひなたぼっこしている
隣に猫がいる
石のようにじっとしていて
冬の日がさしている
そうして動かない
外は枯野である
故郷に長く暮らし歳月
おじいさんは石のように
そこを動かない
人間も生物だから木のように石のようになる


だから老人になると移動したり変化することが苦手になるのである。
それで原発でも津波でも避難した老人には辛いのである。

2014年10月22日

心に青雲のユダヤ、キリスト教批判の疑問 (宗教団体自体がユダヤと同じではないか?)


心に青雲のユダヤ、キリスト教批判の疑問

(宗教団体自体がユダヤと同じではないか?)


バウハウストの創設した秘密結社イルミナティは、18世紀のことではあるが、それ以前にもユダヤは黒い貴族だとか悪魔主義だとかの秘密結社活動を行なってきた。それらがユダヤ教やキリスト教をつくりだしたものと思う。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/(黒死病の闇)

プログの主催者の言っていることは共感することが多い。ただそれがすべてユダヤやキリスト教批判になり悪の根源はユダヤとなっている。
確かにアメリカを動かしているのはユダヤだとかなり今の資本主義はユダヤ人が作り出したのだという説もいろいろ調べればそういうことはありうる。
ユダヤ人とは何かとなれば純粋の旧約聖書のユダヤ人ではないだろう。
ローマ帝国に敗れて離散してからはその末裔だとかではない、ユダヤ教を信仰する一団だとなる。
最近読んだ本で「一万年の進化爆発」で今の金融を担うユダヤ人はアシュケナージユダヤ人だという。これはドイツのユダヤ人という意味である。ドイツから東欧やロシアに移り住んだ人たちである。
その人たちはホワイトカラーになった。


ボーランド人のユダヤ人も金貸し業であり通行料取り立て人請負人、不動産管理人、工場や居酒屋の経営者になるものがでてきた。
14世紀の中頃、賃金や給料や報酬によって生計をたてたのは約15パーセントであり残りは独立した事業者であり彼らはポーランド、リトアニア共和国の管理階級だった。
読み書き能力に加え専門職であるにはビジネスマンと同じく複雑な取引の技能を必要とした。


つまりブルカラーではなくビジネスマン、ホワイトカラーであり頭脳労働者になっていたのである。それは官僚と同じように国の中枢を占めるようになるから移民でもその国に重きをなすようになる。ところがイスラム系のユダヤ人はそういう頭脳労働者ではなくブルカラーの肉体労働の下層民になっていたという。だからユダヤ人がどうのこうのというとこのアシュケナージユダヤ人のことなのである。
アメリカに移住した人たちもそうである。その人たちはそういう頭脳労働集団を形成していった結果、ノーベル賞をとる科学者を輩出してきたという、その原因が歴史的にたずさわった頭脳労働集団として形成された結果そうなったという分析も興味深い。
農業とか職人集団だったらそうはならなかったのかとなる。


天才がなぜ生まれるのか?とか問われるけど一人の天才が生まれるにはその背景にその天才を生み出す文化的パックグランドがあって生まれる。ヨーロッパに音楽の天才が生まれるのはそれだけの生まれる素地があったからである。そういう天才を生み出す集団が形成されているかだという。だからアシュケナージユダヤ人はそういう頭脳集団を形成しやすかったのかとなる。知能指数が他と比べて明確に高いとかそれは歴史的後天的に獲得されたものであったとなる。イスラム系ユダヤ人は全くそうなっていない、下層階級にしかならなかったのである。つまりユダヤ人だから頭脳的に優秀になるということではなかったのである。
これを日本で考えるとノーベル賞をとっているのは西がほとんどだというとき、大阪京都とかはもともと日本の文化の中心でありそういう頭脳集団を形成しやすかったからそうなっているともなる。大阪は商人の街であり京都は文化の中心だからである。
アシューケナーユダヤ人のように一つの歴史的文化的集団が形成されてそれが受け継がれてノーヘル賞級の科学者も生まれたのかともなる。なぜなら同じユダヤ人でもイスラム系は全くそうはならなかったからである。


イスラム教も一神教だからアブラハムから別れて生まれた宗教だからユダヤ教の基の旧約聖書から生まれたのである。だから同系統の宗教である。結局イスラム系でも分派したように宗教は分派してまた争うことになった。カトリックとプロテスタントでもそうである。仏教でもそうである。ともかく宗教は集団化したとき負として作用したことが大きくなりすぎたのである。それはキリスト教だけではない、仏教だってそうであり結局政治化して世俗化して権力とかかわることで問題が起きてきた。だから政教分離の法律がヨーロッパから生まれたのは必然だったのである。
日本の神道だって神社本庁が戦前の天皇制の復帰を唱えている。それも天皇教は宗教でありカルトでありそのために300万人も死んだともなる。そうした恐るべき災いが宗教から生まれたとなるから政教分離が生まれたのである。
宗教の悪しき利用は国を滅ぼすと日蓮が言っていたけどまさに今も創価をはじめカルト宗教は国を滅ぼすものであることは変わりないのである。


内村鑑三は明治にキリスト教が解禁されたとき日本はヨーロッパのキリスト教文明を根幹にすえないと日本は崩壊すると言っていた。つまり西欧文明を明治にどう解釈したのか?
日本では便利なものとして科学技術として取り入れた。キリスト教は取り入れなかった。西欧文明の基がキリスト教であるということを否定したのである。西欧文明を取り入れるにしてキリスト教を取り入れなかったら成り立たないと言っていた。
それはなせイスラムであれだけ宗教にこだわっているのかともにている。イスラム教がなければ国も成り立たないからあれだけ主張している。
ただキリスト教でもカトリックやプロテスタントがあるように一つではないのである。
内村鑑三は武士道的キリスト教を唱えたり手島郁朗氏は神道的キリスト教を唱えたのもわかりにくいのである。


ユダヤ人が世界を支配している、金融で支配しているというのは資本主義を牛耳っているというのはやはり金融業に従事する人が多いからだろう。マスコミ関係もそうである。
何か現代の中枢にかかわるからそういわれるのだろう。
それは創価でも裏で金で支配しているというのとにている。実際ほとんどの地方新聞が聖教新聞をすっているからユダヤの支配とされるのとにているのである。
でも創価だって結局自民党に使われているということもありとても世界を支配てきるような力をもつことはありえないのである。
宗教が一つの政治的集団と化したとき世俗化したのでありそれは何の宗教でも間違いの元ととなる。イスラム教でもそうである。政治は権力を行使できる。宗教がカトリックのように政治化したとき堕落した。宗教が権力をもてば権力として工作して日本も支配するようになる。それはカルト宗教団体はそこに莫大な金を集まることでその金を利用して国を支配できるとなるからである。
そういうことが目に見えているから宗教が嫌悪され危険視されるのは当然なのである。
だから内村鑑三が無教会を唱えたのはそううい集団宗教を拒否したからである。


どんな宗教にしてももともと人を殺すことは否定している。そしたら戦争などできないはずである。でも宗教の名のもとに神の名のもとに戦争でも人を殺してきたのだからそれは宗教のせいではない、人間のせいなのである。神もそんなことを命じてはいない、だから宗教が悪いのではなく人間が争いの元を作り出している。その原因はあくなきこの世に対する欲望だったり不満だったりであり宗教そのものがそうしているのではない、悪人が宗教に触れると最悪になるともいわれる。
なぜなら自分の欲望を達成するためであり怨念であり不満であり神や仏の名によって断罪して殺すこともできるからである。
正義の名のもとに膨大な人間が戦争で死んだのと同じである。
だから人間の悪意から発したものでも神の名のもとにカトリックでも死刑にしてきた歴史がある。カルト宗教はほとんどそうなのである。
「あいつは地獄に落ちる」とか絶えず言っているけどその本人がどんな人間が見ればわかる。それは普通の俗人となんらかわりない、どろどろした欲望の持ち主でありその本人が地獄に落ちるような人柄なのである。ただ宗教はそうして恐怖を与えるだけだとなるから拒絶反応だけがでるようになる。悪人が宗教をもつとき最悪になるというのはそのことである。サタンが宗教を巧みに利用するというのもそのことである。
カルト宗教団体もこの世からなくならないのは必ず不満分子がいてそれに頼る人がいるからである。それを利用して政治化して権力を左右しようとする野心家が常にいるからそうなる。またそこには大衆の大きな無知も作用しているからなくならないのである。


タグ:ユダヤ人

2014年10月19日

習慣が人を作る (悪い習慣は悪い人を作る)



習慣が人を作る


(悪い習慣は悪い人を作る)



―― 一流の人は習慣を重視する ――

一流の人は、習慣とは成功への道だと考えている。
だから絶えず習慣を強化する。
たとえば運動や摂生、早い出社がそうだ。
一流の人は習慣に秘められた大きな力に畏敬の念を抱いている。
だから1日でも気をゆるめると、自分が墜落すると考えている。
彼らは習慣の力を人生のすべての領域で活用する。
二流の人は成功の土台となる習慣の力に気づいていない。

まず人間が習慣をつくり、次に習慣が人間をつくる。
ジョン・ドライデン(17世紀のイギリスの詩人)

優れた道徳心は習慣からしか生まれない。私たちは、自分でつくった習慣のようにしかならないのだ。節制している人は節度のある人となる
アリストテレス (古代ギリシアの哲学者)

結局のところ、人間というのが習慣に基づいて、毎日どんな行動をしているか?という事の積み上がったものが、人生になっていくものですから、もちろんですが悪い習慣を毎日積み上げて入れば、その結果として芽生える人生というのも、良いものにはなりません
http://www.108-fineart.com/entry7.html




まず人間が習慣をつくり、次に習慣が人間をつくる。


習慣は人間の資質を越えてその人の意志で作られてゆく。習慣はまずその人の意志があり習慣になり習慣が人間を作ることになる。飲酒や喫煙をやめようとする意志がなければまず習慣化しない。やがてつづけているうちに習慣が人間を作ることになる。
自分は30頃酒ばタバコもやめた。タバコは早い内にやめた。それが体に良かったことは確かであり頭にも良かった。会社勤めをしないし付き合いゼロの生活だったから宴会などにも出ていない。酒はからだだけではない脳を麻痺させるものでありそれが一番良くないことが今になるとわかる。

習慣が人間を作るというとき酔うと思考が停止するし理性も失う。酔うことにいいことはなかったのである。酒は麻薬と同じである。麻薬も酒も習慣化しやすいのである。
やめることができなくなる。そして人間の快楽をあくことなく求める。それは性でも何でも終わることがないのである。それも習慣化するから怖いのである。
一方で禁欲も全面的にではなく習慣化する。だから修道院では労働勤勉によって習慣化したのである。それが資本主義の基になったというのも逆説だったのである。

人間にとって習慣の力ほど強いもの影響あるものはない。認知症になっても習慣の力は活きていたのである。布団の上で農家の女性が田植えしていたというのはそのためである。人力で田植えし続けていたからそれをしていたのである。自分の家族も認知症になったけど魚をさばいたりしていたからそういうことができた、洗濯が機械を使えなくても洗濯板でしていたから奇妙だった。今までしていたこと習慣化していたことは認知症になってもできる。それがいい効果を生んだのである。習慣化したことはもう体が自然と動くようになっていることなのだ。

だから習慣はいい方向に作用すればそれだけの力を発揮するが悪い方に作用するとその影響も大きいのである。例えば盗みでもちょっとした盗みでも癖になるから習慣化するから本当に怖い。時代劇でスリの人がどうしても手が出るんだよといって手を切ったがそれほどにしないと習慣をとめられないのである。だから本当に悪い習慣は怖いものなのであるだからそもそも仕事が習慣化する。毎日仕事にたずさわること自体習慣化しているのである。仕事をしないと怠けることが習慣化することが怖いのである。
仮設に三年もいたらもう体がなまって仕事はできないと農家の人が言っていたけど習慣化することは悪い方に作用するとその影響が大きすぎるのである。

自分が東京の大学に入って学んだことは遊ぶことだったというのも奇妙だった。
もともと勉強が嫌いだったし興味を覚えなかった。特に理系が苦手であり数学がだめだったから余計にそうだった。大学に入ったら授業に出る必要もないとういのも不思議だっただからこれ幸いと授業にもほとんど出なかった。実際一日昼間からマージャンしていた人もいたのであり学んだのはマージャンだったという人も多いのである。
だから文系大学は廃止しろというのもわかるのである。なにしにきたんだということになり学んだのは遊ぶことだった。そのこと自分には大きな影響があった。その遊び癖がついてしまったことである。だからなぜ大学で遊び癖がついた人が企業戦士とかになっていったことが今でも理解できないのである。

その後まともに職についていない。流れ作業ばかりのアルバイトでやる気がなくなったこともある。
ただ幸運で仕事しなくても生活ができていてその後は旅に時間を費やしたのである。
かなり読書は好きだったのでした。でも読書すら基本的なものすら読んでいないことに気づいた。読書は本は厚いから読むのに負担なのである。若いときはまず理解できないから余計に苦労なのである。でも読書百編自ずから意の通じるというのは本当である。
理解しなくても本を読んでいる必要があるのだ。それは後年理解できるようになるからだあの本にあんなこと書いてあったなと思い出してあとで読書が有効になるのである。

人間が習慣化するというときあらゆることが習慣化するから怖いのである。体もその資質の差は大きくても習慣によって作られる。不摂生な生活をすれば必ず体が丈夫な人でも習慣化して60代になると必ず体に影響する。病気は必ず生活習慣病だというのはそのためである。もちろん全部ではないにしろそうなりやすいのである。
これも奇妙だけど旅も習慣化するといつも旅している気分になるのである。
自転車にのって風を受けて走っているのである。それはデスクワークとは違い自然の風を感じるから健康的なのである。車では風を感じないからそうとはならない。だから自分の場合は何か工場とか会社で事務ばかりしていより健康的だったともなる。

ただマイナスの点として仕事を覚えない仕事を習慣化しないことで社会人として大きく欠けたものとなった。今は家事とか介護しているけどこれもつくづく仕事であり習慣だと思った。一つの奉仕の仕事としてあったのである。家事は金にならないから仕事にならないというがこれも明らかに仕事なのである。家事をこなすには相当な熟練が必要なのである
いづれにしろ何でも習慣化するのが人間である。貧乏もあまり長くつづくと習慣化しているのだ。大金入ってきても使えないのである。チビチビ生活してきた人の生活感覚は習慣化しているから大金は使えない、だから秀吉が貧乏な百姓からあれだけ豪華な生活に転換したことことが理解できないのである。
貧乏も習慣化する千円でもちょろまかすということなど習慣化していたりするから怖いのである。いかに底辺が千円借りたとか貸したとか千円レベルでこだわり生活しているかわかるだろう。自分もそうだったのであり千円レベルで常に苦労していたのである。
そういうのはもう習慣化しているからぬけだせないのである。
一方で金持ちも習慣化するから浪費から逃れられないとなる。また借金でも習慣化するとから借金癖がつくと何でも人間は習慣化するから怖いのである。
タグ:習慣

2014年10月03日

人生はタイミングが大事、運命も決める (御嶽山で死んだのはタイミングが悪かったため)


人生はタイミングが大事、運命も決める

(御嶽山で死んだのはタイミングが悪かったため)


人間はタイミングが大事である。おそらくはこれは人生のあらゆる場面でそうである。
人と人が出会うことでもどういうタイミングで出会うかが運命さえ決めてしまう。
人の出会いでもタイミングによって人生が決まるとしたら怖いことである。
今回の御嶽山の噴火による不運な死者はタイミングが悪かったのである。
山が怒っている、爆発する状態のとき、山に登ったから不運だった。
山が静穏なのが普通なのだがよりによって山が怒って爆発するような時に登ったから不運だった。
それは人にも言えることである。その人がどんな状態の時、出会うかが重要になる。
相手がどんな状態にあるかを知らないと災いを受ける。例えば相手が明日食べるものがない、もうこの人から金を奪って食べるものを確保しないといけないとか切羽詰まっていたら恐怖である。
そういう切羽詰まった状態の人に出会うこと自体危険なのである。


会津美里で外部から入ってきた人に夫婦が残酷に殺されたのはなぜか?
出会うタイミングが悪かったのである。相手がどれだけ切羽詰まっていたかを判断できなかった。
普通の人のように接していたのかもしれない、知らない人だから借金を要求してきたので簡単に断った。それが命取りになった恐怖である。
借金をかかえている人や切羽詰まっている人は何をするかわからないのである。
その人が善人も悪人もない、切羽詰まった人は何でもする。殺人さえするように追い込まれているのだ。
要するに御嶽山のように爆発寸前になっていたのである。


タイミングが悪いとビジネスも成功しない、営業でも成功しないだろう。
相手の状態がどういうふうになっているのか知らないと成功しない
闇雲に契約をとろうとしてもできない、相手がそういう状態にないからである。
それは人にはそれぞれ様々事情があり成功しない。
つまり影響でもその人と出会うタイミングがよければさほど能力がなくても契約をとれるということがある。それも一つの運だとなる。
つまり人間には能力だけではない、常に運が不運が作用しているのである。
だからさほど能力がなくても成功する人はするのかもしれていのだ。


例えばカルト宗教でも勧誘に成功するのは相手が病気になったり何かで苦しんでいる時、勧誘されやすい、なぜこんなに苦しい目にあうのかとなり不可解になるからだ。
その時先祖が悪いとかあなたの運命を宗教で変えて見ませんかなどとなるとそれにのりやすいのである。
ちょうどガンが直る薬があるというとき、それが偽物でも藁をもつかむようにだまされまいきしてもだまされるのが人間である。もう一心で直りたいと思っているからそうなる。
そういうタイミングをねらっていれば相手をだましやすいのである。
そういうことを自分が家族が弱ったとき経験したから人間不信になったし人間は本当にむごいものだと思った。

相手が弱っているからとそこにつけこみ金がある人なら金をしぼりとろうとする。
ただそれはそういうタイミングで出会うから成功しやすいのである。
現実に自分は金は奪われるは借金に苦しむ人にも金を要求されてつけこまれた。
もし家族に何もなく自分も病気になっていなければそんなことはありえなかったのである。


人間は相手が余裕がある時だったら困った人がきても相談にのれる。余裕がないと相手の人のことなどより自分のことで精一杯だから相談も助けることもできないのである。
借金している人は相手が病気だろうがなんだろうが関係ない、なんとか金を工面しなければならないとしかない、そうして病気だろうが相手からしぼりとろうとする。
恐ろしいのは相手が死んだら金はいるとかなると死んだ方がいいとさえ思うのである。
現実にそういうことを自分はこの六年間の苦しみで経験してきたし事件でも保険金殺人にもなる。
そういう人はまず余裕がないのだから人を助けることはできないのである。


ともかくタイミングが悪いことは致命的なのである。恋愛だってただ若いなら欲望だけでそうなることもあるが年取ると男女の出会いは別なものになる。成熟して精神的なものになってゆく。
価値観もまるで変わってしまうことがあるのだ。
だからどういうセチューションで出会うかが大事になる。
例えば金がないとき、金がほしいというときは金のある男性の方に目を向きやすい、でも金に余裕があれば別な観点から男性を見ることになる。
出会うタイミングがそうした運命を決めているのである。


庭を作ってもらったのもその時なぜかちょうど仕事がほしい人が大工さんが庭師が自分の家に来たのである。相手も金で困りどうしても仕事が欲しかったのである
その人は一人親方で腕が良かった。庭で大工でも壁ぬりでも何でもできたから驚いた。
自分も遺産が入ったので金に余裕があり庭を作ってみたいと思っていたから作った。
そういうことでもいつでもできるとは限らないのだ。庭なんかいつでも頼めばできるじゃないかというが今になると介護して家に寝ている人がいるとできない、何か周りが忙しくてできない。
その時は庭を作るのにタイミングが良かったのである。
ビジネスでも営業でも何ら努力なしで成功するときがあるだろう。それは相手がそうしてもらいたいという状態になっているからなのだ。
大金が入ってきたら投資を進める人があればのってくる。それが危険でもそうなるのである。
金はいつでもあるものではない、でも遺産とかあるとき金がはいる時がある。
そういうときは金を使いたいのだからビジネスも営業も契約をとりやすい状態にあるのだ。


今回困った人の相談にのれたのは自分に病気も一段落して直ったからできた。
もし病気のままであり介護などでもっと苦しんでいたらできない。
そしてこちらで頼むこともありお互いが助け合うこともありできた。
相手も苦しい状態だったからこちらのことを思う余裕はなかった。
だから出会うタイミングが良かったのである。相手にとってそうであり運が良かったとなる。
つまり人間の出会いでもそうだが何でも人間には運が働いている。
ただ人間はいつも運がいいとは限らない必ず不運に見舞われるのである。
運が良かったり運が悪かったりを誰でも経験している。

 

人間万事塞翁が馬なるのが人間である

運が悪いことが運が良いことにもつながる。運が悪いことも運がいいことにはつながらない。
例えば悪運が強いとかあるのは本当である。たまたま泥棒にはいった家に大金があった。
しかしその大金が災いを生むということもある。
それは泥棒にとっては運が良かったが実際は運が悪い方になることもある。
病気は運が悪いことだが直れば健康を第一に考えるからそのあと病気しなくなったということもありうる。


ともかく爆発寸前のような御嶽山に上り実際に爆発して死んだのはタイミングが悪かったのである。人間にもそういう状態の人がいるから気をつけるべきである。
なにやかにや苦労が重なって爆発寸前の人がいてそういう人と接すると出会うと被害にあう。
だから火山は危険なのだからその危険を察知するための設備をしておくことが大事だとなる。
それで山の状態をみておくというのが必要になる。
今回もそういう兆候があったが警告を出さなかった。それが被害が大きいから問われることになったのである。普通の人はとても御嶽山が危険だと知り得ようがないからだ。
この山が爆発寸前の状態などと判定しようがないからだ。


でも人間の関係では相手がどういう状態にあるか見ることが必要である。
そのタイミングが悪いと最悪は殺されることもあるし被害が大きくなる。
健康な人に薬を進めても買わないが病気になればきかない薬でも売れるのとにているのだ。
薬を売るにしても健康な人にすすめている人が結構いるから売れないのである。
薬は例えでありその人にあったもの欲しいものがありそれを提供すればつまらないものでも売れることがあるのだ。要するにタイミングでありみんなの要求もそれぞれ違ったものだからものあまりの時代は余計に売れないとなるのだ。
そしてその人の要望は時々刻々変わっているのである。
ある時欲しいものは今は欲しくなくなり欲しくなかったものが欲しくなるとか年齢によっても場所によっても時々刻々要求するものが欲しいものが変わってくるのである。



タグ:出会い

2014年08月02日

福沢諭吉の文明論は弱肉強食の世界となり現実化した (文明は利害得失しかない世界になった)



福沢諭吉の文明論は弱肉強食の世界となり現実化した


(文明は利害得失しかない世界になった)


「天下衆人の発達」とは「民情一新」と言い換えることがで
きる。蒸気船車、電信、郵便、印刷の四つの発明が民情を一
新させた。

西洋諸国の文明開化は、徳教にあるのでなく、
文学にあるのでもなく、また理論にあるのでもない。どこにあるのか。
私がこれを見ると、その人民交通の便にあると言わざるを得ない
(福沢諭吉)


江戸時代は村単位で生活していたから境界が大事だった。一つの関所のようになっていて人々が簡単に他の村に出向くことはない、よそものとして隣同士の村でも扱われたのである。だから明治になり村が合併するとき常に民情が違うので合併しなかったとある。飯館村辺りでも大倉村と佐須村が民情が違うので合併しなかったとなる。

江戸時代から明治になる時の変化は激しかった。だからその変化に対応するために言葉も変わったし新しい言葉も生れた。その新しい西欧の概念を漢字で翻訳したのが日本人でありそれを中国で使用するようになった。
だから民情というのもその意味は何なのだろうとなる。おそらく江戸時代にはなかった言葉なのだろう。民衆とか大衆とか民間とか人民とか自由民権とか民主主義とか・・・何か民とつく合成語は明治以降作られたものだろう。日本には民(たみ)という言葉はあっても民衆という言葉はなかったからである。つまり民とつく字が増えたことはそれだけ民が主役になってきたから増えたのである。

そもそも民情という言葉は実際は死語になっていて理解しにくい。民権とか民主とかは理解できる。それは常に今でも用いられる言葉だからである。常に民の権利を主張するのが現代だからである。だから民情という言葉は何を意味しているのかわかりにくい。
そもそもなぜ大倉村と佐須村は山の中で隣り合っている村である。
それが民情が違うから合併できないというのがわかりにくいのである。何か利害があって合併できないというのはわかる。入会権で山の木材をとる権利を失うからだとなればわかる。民情が違うから合併できないということが今では理解できないのである。
現代の人間はすべて個々人であろうが市町村であろうが利害得失で動いている。
何かもめる争いがあるとしたらたいがい利害得失なのである。
原発事故でも補償金でもめるのは利害得失が原因しているからである。

宗教さえ集団化権利化して利害得失なのである。カルト宗教団体は創価でも政治化しているように利害得失しかない、世界平和だとなんだとか言うけどそんなことは何の関係もない、つまり個々人の御利益追求があってあれだけ増えたのである。
では他の宗教が利害得失と関係ないかというとみんな同じである。
京都の寺は観光利権で組合化して力をもっている。それはすでに奈良時代からはじまっているから根深い、他の宗派でも戒名利権とかでありいかにも戒名が大事かと説くのは利権のためである。第一釈迦は一言もそんなことを言っていないからである。
だからそんな意味のないものがもうつづくとは思えないから檀家も衰退してゆくだけになる。

現代は民情などでは動かない、すべて利害得失でありあらゆることが得か損かで動いている。日常の生活そのものがその繰り返しである。
だから原発を作るにしても地元でも官僚でもマスコミでもそれが自分たちに得か損かで決まった。その利害があまりにも巨大なものになっていたからすべての人が目がくらんでしまったのである。それで富岡町長の五億円の金庫が流れたとか噂になったのもそのためである。今でもこれだけの巨額の賠償ができるということが驚きだった。
今や原発事故の避難区域や30キロ圏内とか飯館村などはただ補償金交渉の場となってしまったのである。

文明とは何か?それは交通の発達の影響も甚大だがすべては利害得失でありそれ意外の規範はモラルはなくなったということである。資本主義でも民主主義でも個々の欲望の全面的解放であり自由とはあらゆる欲望が得られる自由なのである。
その欲望と利害で一致して協力して団結して組合化する。それが民主主義である。
宗教団体も同じである。

西洋諸国の文明開化は、徳教にあるのでなく、

まさに文明とは利害得失意外何もないということが明治維新からすでに150年になろうとして現実化したのである。しかし人間が利害得失だけになったら野獣になる。
人間は人間にとって狼になる。自分があった人間はそうして狼になった人間たちだった。眼中には利害得失しかなくなればその人が弱った時が最大のチャンスとなる。
弱いものは餌食になり子供でも食べられてしまうのが自然界だからである。
そこにいたわる気持もなにもない、金でめんどうみてもらい、金をくれ、裁判にしてやる・・ついには大金を盗み自分の欲望と利のためには相手も平気で殺すことになる。

これが文明人なのかとなればまさに福沢諭吉の見た西欧文明であり現実化したのである。文明とは最大の野獣化野蛮化であり人間が互いに狼になっているとしたらいかに豊かでも心安らかになってはいられないのである。
だから富裕層はアメリカのように塀をめぐらして貧乏人とはつきあわないようになる。
そんな文明社会に住んでも安心も得られない、かえって貧乏でも安心社会の方がよかったともなる。ただどうしてもこれだけの欲望があふれているときそれを制御することは至難になっているのだ。誰だって金があった方がいいし金がなくてもいいなどとは言えない、その限度はあるにしても清貧などという生活はありえないのである。
自分でも毎日買い物に追われていることでもわかる。買うことが生活になっているからだ


蒸気船車、電信、郵便、印刷の四つの発明が民情を一新させた。


確かにそれはさらにインターネットかと進歩しつづけているからそうである。でも一方で無限に欲望も拡大してその欲望も留まることも知らないものとなりそれが原発でも生み出して危険なも省みないものとなった。グローバル化とは欲望の無限の拡大ともなったのである。その欲望は知的視野の拡大などいい面もあるが一般的には物欲の拡大化であり
その欲望に歯止めがないから原発も作られ故郷にすら住めなくなったということも現実化したのである。

文明の利器が発達しても人間の欲望がグローバルに無限に拡大して人を殺してもその欲望を得るのだという文明人は野獣であり最大の野蛮人でしかないのである。そういう人間に囲まれていたらいくら豊かでも金があっても心は一瞬たりとも休まらない地獄にいると同じなのである。現実自分はそういうこと身をもって一身上のことで経験してきたのである。金のためなら自分の利害得失のためには相手のことなどどうでもいい、むしろ相手が弱った時こそチャンスだとなる、人間は人間にとって狼だというのが現代の文明でありそういう社会にいることは地獄にいるのも同じだとなる。
常に牙をむきだして相手を威嚇していないと食われるかも知れないという恐怖の中で生きているということなのだ。

2014年06月21日

時間の哲学 (時間は人間が作り出した様々な概念であるー時間によってすべてが消えることはない)


時間の哲学

(時間は人間が作り出した様々な概念であるー時間によってすべてが消えることはない)

●機械によって節約された時間


D=MX


Dはdistanceで距離である。Mはmachineで機械である。Xは運ぶ量である。

例えば距離が2D=2MXとはならない、なぜならMが変化するからである。電車だったら普通車から急行へ新幹線となり2D=MXとなりうるのはmachineの能力が倍になっているからである。運ぶ量が二倍三倍となってもMが変われば距離に関係ない

Xが三倍になったとしてもmachineの能力が技術が進めば二分の一三分の一となりるから労力を減らせる。要するに機械の能力の進歩によって距離にかかる負担は距離が伸びてもふえることにはならないのである。

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そういうことはすべての労働にあてはまる。機械によって労働の負担が減ってゆく。
すると能率をよくするためにはさらなる機械の開発が必要でありそこにエネルギーが注がれる

それは技術者や頭脳集団が進めるのであり普通の労働者はできない
だからそういう開発をする技術集団が収入が多くなる
本一冊を流通させるには電子本やインターネットより十倍以上のコストがかかった。
活字を組んだり製本したり一冊一冊書店に並べるのすら手間だった。
そういものが全部はぶかれことはそこに働く人たちも失業するとういことである。

ではその人たちがどこで働くのかとなるとその関連業者にゆくにも
簡単にIT業界にゆくわけにいかないから失業してしまうのである。

農業まで機械化されて労働の負担がへった。今は農家に嫁いでも重労働をしていない、
田の縁(へり)を田植えしていたというのは機械でできないところを人手でしていた。
それは中国でも麦刈りは人力でしていた。ところがコンバインになった時、機械は人手でやるより千倍とかの効率でする。その差はあまりにも大きいとなる。
その時出稼ぎで麦刈りしていた人たちは相当な数が職を失うことになった。

でもコンバインでできない複雑な地形のところを人手でしていた。
つまり田の縁を田植えしていたと同じなのである。
いくら機械化しても人間でしかできないことが残る。
でも機械のおこぼれを人の手でしているというのも主役が機械になり脇役が人間になる。人間様が機械に使われ機械の補助役のようになるのも奇妙である。


機械が主役になるというのも人類の歴史である。機械が時間まで変えた。
江戸時代は時計がないから時間感覚も大雑把であり日の出、日の入りとか太陽の運行に合わせていた。時計ができたとき、時計という機械に時間を合わせるようになった。
機械に合わせた時間が生れて現代の文明社会が生れたのである。
機械の時計により世界共通の時間が生れたのである。
時間はそもそも日本でも江戸時代はその土地の暦があったように違っていた。
ましてや国が違えばもう時間も違ってくる。

時間が労働量で決まった時代もあった。

牛で耕作してどれくらい畑をうなったかなどで時間が決まる。
それは牛の時間になる。牛が機械の代わりをしていたときは牛のリズムなのである。
だから牛のように今からするとゆっくりした時間になるのだ。
その時、牛は重みのある欠かせないものとして人間にあった。

トラックは一台運んでいくらという請け負い勘定になる。一台で一回運べばいくらである。その運んだ回数で金がもらえる。運んだ回数が時間であり量も時間になる。
ところがトラックが大きいとかスピードが出るとかなると一回で倍の量が運ぶことできる。そうなると小さいトラックより時間が短縮できる。そこで時間が短くできたとなのだ。それは人間で決めた時間なのである。


●機械に追われる文明の時間


結局現代人が余裕がなくなったというとき、機械に追われる時間になったからである。
時計という機械に追われる時間なのである。一秒一秒刻まれる時間に追われているのだ。牛には牛の時間があったが車には車の時間がある。
車はまず停止することができない、遅くすることもできない、一定の速さで走ることが要求されている。車という機械の時間に合わせねばならない
ところが自転車は遅く走ることができる。これがなんとも不思議なことである。
遅く走ったとき何か心にゆとりが生れたのである。
時間を遅くすると景色すら違ったものとして見えるだろう。
そこに時間の不思議があった。

時間を早くしたり遅くしたりするのは自然ではない、人間なのである。
自然が時間を早くしたり遅くしたりしない
太陽が一時間で沈んだりはしないのである。

矛盾しているのは機械により時間が奪われたということもあるが機械により時間も作り出されていることである。なぜなら家事も機械化すればそれだけ余裕が時間が生れる。
だから一番時間を節約できるのは外食して弁当食べることなのである。
そしたら皿を並べたり洗ったりする時間も必要なくなる
まず家事の最大の手間は食事の用意と料理になるからだ。
さらに金があればお手伝いさんを家政婦を雇えばまるごと時間を得ることになる
だから文明社会は機械によって労働力がはぶかれたから失業するとかまた金によって奴隷的に働かせられるが一方で金があれば時間を得るということもある
時間に関してもそういう両面の働きをしているのである。


ただ皮肉なことはD=MXなのである。距離を2倍にすることは一見機械の発達によって
労働量が減らないように見えるが実際は数学のようにはなっていない
世界から物を運ぶときの負担は実際は大きいのである。

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現代文明の特徴は運ぶ文明でもある。世界中から物と人を運ぶのが文明である。
その負担が確かに減ったのだがそのコストが大きいのである。
ただ運ぶことが麻痺するとき、現代文明は崩壊の危機にたたされる。
原発事故で外から物が入ってこないとき、ガソリンなくて車が動かなくなったとき、
食料すら入らなくなり危機にひんしたのである。


要するに現代は江戸時代などから比べたら千倍の量を物を運ぶ文明なのである。
その運ばれた物を売り買いするようになるから金が力をもつ、自給自足のような社会ではそもそも買うものがない、納豆まで農家で作っていたら買う必要かない、労働でも村の中で協働していたらそんなに金は必要ない、現代は常に外から運ぶ文明なのだから金が必要になり金が力を持つ用地なったのである。
その金を得るにはとをするかというとこれも常に今度は外に向かって外国までも物を運び売る必要が出てくる。そのためにいくら機械化されても労働力は増加して絶えず時間に追われる文明なのである。


時間はそもそも概念でありだからいろんなこと言うが結局時間のことはわからないし定義できない、一方空間はわかりやすい、距離であり距離は計れる。
時間は考えるとき、常にAからB地点へゆくの物を運ぶのにどれくらいかかるとか何かするための時間なのである。何かを移動したり何かを仕上げるのにいくら時間がかるとか
または距離がありその距離をどのくらいの時間で行けるとかなる。
電車だったら何時間、車だったら何時間とか新幹線で何時間とか飛行機で何時間とか
考える。


●時間とは何かをする仕上げる時間である


だから何もしない時間とか時間を遅くするという志向から時間を考えることはない
時間を遅くすることなどできない、地球の時間を遅くしてやろうとしてもできない
実際は早くすることもできない、時間自体がそんなふうに距離ではないから空間でないからできない、だから時間はもともと計れないのである。
時間は実際は具体的あるものではない、空間でもない、時間はそもそも人間が作り出したものである。空間はもともと神が作り出したものである。
空間は共通認識されやすいが時間はそれぞれの時間であり共通ではないのだ。
時計は共通にしたようでも時間はそれぞれの時間であり共通していないのである。

だから一時間の内に何々をしなさいしあげなさいというとき、その時間とは時計が刻む時間である。でも機械によって仕事を早くできたりもできるし長い距離でも機械で早く到達できる。すると一時間でできる到達できることが30分でもできたとしたら時間が30分ちちぷたことになるのた。
だから時間を伸ばしたり縮めたりすることがそもそもできるのかとなる。
時間というのはそもそもないしただ人間で決めた一つの概念だということでもわかる。


だから何もしない時間とか時間を遅くするということ何なのかとなる。
何かをして何かを達成するのが時間の概念としてある。
でも何もしない、達成しない時間とは何になるのかとなる。
それは何かを仕上げる達成する距離をゆくという時間ではない
何もしない時間などももともとない、常に何かを仕上げる達成する距離をゆくのが時間としたとき人間がそう決めたとき、何もしない時間が生れたのである。
何かする時間があって何もしない時間が生れたのでありそもそも何もしない時間そものもがないのである。時間とは常に何かするための時間であり何もしないための時間はただ何かをするために何もしない時間が生れたのである。

石が何もしないというとき、それは何もしない時間ではない、ただ石が在るということである。だから千歳の岩とかいう表現は本当はないのだろう。

I am waitaing for.....という時、誰かを待っている時間である。目的があって待っている。恋人を待っているかもしれないし、仕事するために人を待っているかもしれない。電車にfor Tokyoとある時、何々行きであり目的地につくための電車でありただ漠然として待っているのではない、明確にその時間は目的化して時間がある。
でも岩にはそんな時間はない、誰かを待っているとか何かを待っているとかいう時間はない、そういうふうに思う時は人間が思っているのである。

岩自体には時間はない、ただ在るだけなのである。

時間は関係なく岩が在るということなのだ。つまり在るということは時間に左右されないのである。
石が何もしていないというとき、人間は絶えず何かをしているから何もしないという時間が石に例えられているだけであり石が長い時間をもっているということでもない、ただ一カ所に石が変わらず存在しているというだけである。
要するに人間は絶えず変化するから無常の世である、石は変化しないいつもそこに在るということで時間の変化からまねがれているのである。
石は変化しないから無常からまねがれている。


老子が何も成さずして成る・・というとき、それは自然界は物質は生まれ時、人間が成してなくても何もしなくても在ったのであり成っていたのである。自然界とか物資界は人間が何かを成したからと言って何かなるわけではないという意味である。
すでに成ったものとして在るのでありそれを手を加える成す必要ないという意味である。

木が成長したり果物が実ったり稲が米になったり野菜が成長する花が咲くには時間がかるというとき、それは時間があるからではない、時間によってそうなるのではない
木が成長するのは成長する力が大地から環境から与えられているからである。
果物が実るのもそうである。時間のせいで実ったりするのではない。
時間があってももし大地とか土の栄養分がなければ実ったりしないだろう。
成長してゆるのは時間があるからではない、実るための環境があるからなのだ。

時間というのはそもそも人間が作り出した概念であり時間は自然界にはないのである。
いくらじかんがあっても成長する環境がなければ成長しないのである。

つまり時間だけがある世界はない、何か作用する世界があって時間がある。
木が成長して野菜や果物が実り稲が実りとなるからそこに時間が生れているのだ。
時間とは常に単独では存在せず何かに付随して時間が生れているのである。
もし人間だっていつまでも体力があり若いようになっていれば時間など感じない
時間などなくなるということもない。

だから天国では時間はない、それはいつまでも若いからだとういう。
病気にも老化にもならない体になっているから時間もなくなっているのだ。
時間によって消耗することもないのである。


●時間がたてばすべて忘れる時間が解決するとはならない


人間は確かに百年前とか四〇〇年前とか千年前とかの時間で計るけどそれも人間が作った時間であり変化したから時間がある。
なぜなら太古の自然の状態のままにあったら何ら千年たっても時間の変化を感じられないのである。それでも時間というのは人間が作り出したものでありもともと自然界には時間はないのである。
だから時間がなくなるということは自然界にはいな、ただあるところ在る物が移動したり砕けたりすることはある。ただ時間はそもそもないのだから時間がなくなるということはないのである。年とったとき時間がないというとき、何かをするための時間がないということである。若い人なら一万回できることが百回しかできない、仕事量のことなのである。時間があるないではなく何々ができるできないことが若者と老人の差なのである。
若者には一万回やれる体力と知力があるが老人には百回しかやる力しかないのである。


四〇〇年前の慶長津浪のことを最近盛んに言われているけどそれがどういものかよくわからない、それは四〇〇年の時間が過ぎたからではない、その津浪がどういうふうに作用したかわからないということである。だから時間がたっても当時のことが詳しく記録されていたり何か証拠があれば今でも生々しくイメージできるのだ。
それは時間と関係ないということもできる。作用した現象が大事であり時間がたっても
そうした作用した事実が痕跡として残り記録されていれば時間によって忘れたり消耗されこともないのである。
だから時間が経っても千年たっても二千年たっても歴史の重要な事件が忘れらず昨日のことのように語られるのはその作用したものが時間で消耗しないからである。
だから時間より人間はその作用したことをどうみるかなのである。

相馬藩では一行七〇〇人溺死としか記されないないから慶長津浪のことは探りようがない。それは四〇〇年という時間が過ぎたからではない、その津浪に関してどう見たかということである。それが語られなかったのはどうしてだったのかその時社会状況が問題になる。

要するに人間の問題でもすべてを時間のせいにすることはできない、もう時間が過ぎたら嫌なことは忘れればよいとなれば人間は忘れる、そういうことは津浪の被害で起きている。いつまでもそういう悲しいことにはこだわりたくないという心情が働く、だからついにそういう事実が自然の作用があったということまで忘れる。
それは時間の問題ではなく人間側の態度であり時間がたったからではない
みんな時間のせいにしたら何があっても嫌なことだったら忘れろとかなり時間が解決してくれるとなってしまうからだ。

もちろん時間の浄化作用があり嫌なことも恨んだこと忘れるのはいいとなる。
そういうことをいつまでも根にもっていたら生きるのも苦しいだけだとなる。

すべてを覚えている必要はない、でも時間のせいにしてみんな忘れていいのかとなるとそうはならない。だから時効制度はただ時間を制限しないと処理できないので事務的に決めただけである。それで殺人が時効になるわけではない、それは来世にすらその罪はもってゆくものだとすると消えないともなる。時間で忘れられるならすべてが時間で消失するならそんな罪のことなど深刻に考える必要もないだろう。
時間がたてば消えるんだから時間しだいだとなる。時間がたったらすべては許されるともなる。時間に効用があっても時間にそんな万能性があるのかとなる。


レイテの水を飲んで忘れ生れ変わるというのもわかる。それは時間で忘れるのではない、忘れる水を飲むからである。何かによって作用したことは時間では消えない、それは忘れる水を飲む、薬を飲むことであり時間がたつからすべてを忘れるということではないのだともかく時間のことはいくら語っても語り尽くせない、それは時間は物ではなく人間が作り出した概念だからいくらでもどんなことでも言えるからそうなっているのだ。



参考になるもの

ブラックホールでは時間は止まっていると言われます。
つまり、変化がなければ時間は生まれないのです

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php;_ylt=A2RAEEB_wKVTDCoAHBVoAPR7?page=2&qid=1189635431

時間そのものが多様に解釈される。
ブラックホールには時間がないというとき、時間がない世界あっても不思議ではない
何も変化しないいつまでたっても暗闇しかなければ時間もないとなる
そこにもし光が生れれば時間が生れる、物が現れれば時間が生れる
暗闇一色の世界に変化が生れたからである。

ここはの説明はわかりやすい、物理学と数式になるとわかりにくい
ただ文系でも理系的思考を取り入れることは可能である
そうすると物事を多面的に見れることも確かである
ただそれは自分にはむずかしい、科学的な知識の差が大きすぎるからである。

2014年06月19日

金より時間が貴重だった (その人の能力は人生は何かについやした時間で決まる)


金より時間が貴重だった

(その人の能力は人生は何かについやした時間で決まる)

●金ではすべては充たされない


現代はほとんどの事件が金にまつわるものである。毎日が金、金,金である。
人間は空気を呼吸しいるように金を呼吸して生きている感じになる。
金があればすべてが充たされるという感覚になる。
こうして不遇なのはすべて金がないから金さえあれば充たされる願いがかなえられる
そう思っている人が大半である。
何かできないのは貧乏だったからであり金持ちの家に生れていればこんなことはなかった金持ちの家に生れれば勉強もできたとか常に言われる。

しかし金があっても勉強などできないし頭が良くなるわけでもない、
ある人は金持ちで二人も家庭教師をつけていても一向に頭か良くならないと言っていた。要するにその人の生まれつきもあるしいくら教えようとしても学ぼうとする意欲がないと勉強はできないだろう。

自分なんかもまず勉強は嫌いだったし興味を覚えなかった。
それは性格的な甘えもあるのと能力がないというより他の何か欠けていたのである。
能力というとき人間は頭脳だけではない体力と性格とか総合的なものが影響してくるのだ体力が充実していれば頭脳だって働くのである。

だから天才的な人は柔道何段で東大で医学部出たとかの人がいる
そういう人は生まれつきに優れているのだと思った。
ただこの人はこれだけ生れつきが恵まれていても45歳くらいで病気で死んだというのも不思議である。
こんなに恵まれても最後は病気に呻吟して死んだのである。
つくづく人間の運命はわからないと感じる

自分の姉も体力的にも性格的にも強く優れていた。
だから自分で優秀だと最後まで言っていたが実際認知症になり痴呆になり死んだから
これも信じられない最後だった。
認知症になることはどんな優秀な人でもなり最後は痴呆になるのだから信じられないことなのだ。
だから人間は最後までみていないとわからないものだとつくづく思った。


人生は、長い長い台本の演劇です。
どんな悪役も、あなたのドラマに必要な配役であり、
とくに家族は、重要な役回りです。


http://yuriel88.exblog.jp/19395620/

これなんかうまい表現である。人間は死ぬまで最後までわからない長い長いドラマなのである。最後にどんでんがえしもある。だから死ぬまで人間のことはわからないとなる。

金持ちになりたいと金がほしい、金さえあればこの世の中どうにでもなる、能力も金しだいだとなる。
能力も生まれつきもあるがやはり能力とは天才でない限り積み重ねであり努力がものを言うのである。
何度も言っているが自分は俳句とか短歌を若い時作っていたけどただ五七五とか子供のように言葉を並べたくらいにすぎなかった。
だから今になると啄木のような感性をあんなに若くしてもちえたのか不思議である。
啄木は相当にいいかげんな遊び人的なところがありそれでも自然への感性を若くしてもっていたことの不思議である。
だから自分にはその辺がどうしても理解できないのである。
天才は普通の人には理解できないものをもっているのだ。


でも人間の使う時間はみんな同じであり限られているのだ。金持ちは確かに金をもっている。ほしいものは買うことができるかもしれない、でも特別時間を長くもつことはできない。時間はみんな限られていて特別長くもちえる人はない。
百年生きても百年で時間は尽きるのである。天才だって時間を長くもてずに早世した人も多い、天才も凡才と時間は同じくしか与え散られていないからなんでもできるとはならないのである。その間にやれることは限られているのである。

●能力より何に時間を費やしたかで人生は決まる


自分が旅できたのは金があったからではない、自由な時間を与えられたからである。
旅するにしても宿泊費はかかったが最低限しか使っていない、だから安宿を探すのに苦労した。それは外国旅行までつづいていたのである。
だから旅行先でうまいものなど食べたことがない、腹を充たせばいいというだけである。泊まった宿では食事しないで安い外食ですましていた。

だから貧乏旅行だったけど時間が与えられたから長い旅ができたのである。
単に観光旅行するならいいが旅人となると一カ月くらいきままに旅する人である

だから現代では観光旅行の保養の旅行になるから食べ物にこだわる。二三日だったら旅にならないからだ。
旅人になるには金よりそうした時間が与えられないとできない
それで鹿児島から青森まで歩いて旅していた人には驚いた。
退職して自由な時間を持てたから憧れの自由な旅に出たのである。
ところが意外と退職して自由になったから何でもできるように思えるができない
気力も体力も病気になったりまたは介護になったりと時間が奪われる
現実に自分は家族の介護になってから自分ひとりで全部家事をまかせられて一日たりともそれより一日も自由にでかけられなくなったのである。
つまり完全に自由を奪われたから近くすら自由に行く時間を奪われたのである。
だからつくづくどこにでも自由に行けた時がめぐまれていたなと思った。
それは金に恵まれていたということではない、時間に恵まれていたということである。

他の人は会社勤めになれば自由な時間は会社にささげるからすでに奪われているのだ。
家族をもってもそうである。ただそれはそれなりの時間を費やすからそこに価値を認めて費やしているとなる。
だからすべての人が旅に時間を費やすのがいいとはならない。

ともかく何かするにしても何か学ぶにしてもすぐに時間がすぎてしまうのである。
楽器一つをものにしようとしてもそれも時間がかかるからたちまちすぎてもうできなくなる。いろんなことをものにする時間など人間にはない
どんな才能のない人でも江戸時代になぜ親の職業をつくことができたのか
すべての人が継げないにしても親のやることを身近に見ていて時間を費やせばむき不向きがあっても時間をかけるから会得するものがあったとなる


つまり


成果=xtである。ある人は成果=atとなる。ある人は成果=bt・・・となる。
t=timeである。abcd・・・は様々な分野に時間を費やすということなのである。


●時間についての格言

[三年飛ばず鳴かず]

会社でも事業でも何でも一からはじめるのはむずかしい
会社を事業をはじめた、すぐに成功だなんていかない
いろいろなことを学び試行錯誤して成長してゆくから
そこにも時間がかかる、何かを会得するにはともかく時間がかかる


三年くらいは事業起こしても何ら利益もないし何ら得る所がないかもしれない
ところが自分もそうだったが急いで成功しようとしている
事業をはじめたら成功すると思っているからうまくいかないのだ
現代にはそうした時間の余裕をもてないのである。


若者と老人の最大の違いは何か?
若者はこれから何かをするできる時間と体力や気力などがある
老人は金があっても何かをする時間や体力や気力がなくなることである。
でも若い時このように時間の貴重さを意識してい人はまれである。
時間などいくらでもある、暇でしょうがないんだよ、どうしたら暇つぶせるんだ
そういうふうに思っている若者が多い、自分も若い時そうだった
会社勤めもしないと暇で暇でしょうがなかった。
そこからどうしても小人は不善を成すになるのである。
ところが老人になるといかに時間が貴重だったかを知る
何かをすべき何かを学ぶべき時間がなくなってしまうのである。


[少年老い易く学成り難し]


これも全くそうだった、勉強などいくらでもできると思った。本などいくらでも読めると思った。そのうち時間が過ぎて読んだ本もわずかであり語学もものにならなかった
つまり勉強する範囲が実は膨大なものでありとても一人が学ぶ範囲は本のわずかなのである。古典にしたって無数にありそれだってわずかしか読んでいないのである。


時間だけは神様が平等に与えて下さった。

これをいかに有効に使うかはその人の才覚であって、
うまく利用した人がこの世の中の成功者なんだ。

- 本田宗一郎 -

何かをやって
時間を損するということは絶対にない。
貧乏旅をすれば、
大学を二つ出たようなものだ。
- 永倉万治 -

人間何をしようと時間がすぎる。その費やした時間が人生である。
貧乏旅行でも旅には変わりがない、そこで見聞したものが後の糧になる。
本を読むより実地に旅した方が何かを学べるということで共感する

何かをやって時間を損するということは絶対にない。

これもそうなんだよ、何かを必ず人はする、その費やした時間が人生である。
たとえ雑学でも一分野に時間をかければ独自の学が成ることはある

今になるとつくづく旅でもできないから余計にそう思うようになったのである。
いづれにしろ時間を費やしている時は意外とその意味がわからない
老人になるとこういうことに時間を費やしてこういうことを自分が学んだのだとわかる
例えばカルト宗教団体に入ったことは間違っていてもそれも経験なのである。
そんなこと長くやっていれば別だが人生の一過程として時間を費やしたのが無駄だとは言えない
若い時のやったことアルバイトだろうが馬鹿げたことに見えても無駄にはならない
それは人生の一つの経験だということである。
そして人間は経験できることが極めて限られているからそうなる
出会う人も実際は極めて限られている
馬鹿でも最後にはこれが人生だったのかとわかるしわからさられるのである。


だから労働する時間は貴重である。その労働時間が意義あるものとならないと人生自体無駄だったともなる。俺たちはただ奴隷なんだよなとか金のために働かせられているんだよなとなるとまさにそこに働く意義を見いだしていないのに貴重な時間を費やしていることになる。
時給いくらとか時間を切り売りするような働き方は何か人間を時間的にも部品化しているのである。
それで時給を高くしても今度は人が来ない、労働環境が大事だとなるのは当然である。
そこで働く仲間とか何かの目的に向かって働くとかが大事になる。
ただ時給いくらで使い捨てのようにされるのでは馬鹿らしいとなるのだ。

人生は何が有意義かは個々人でも違っているのだ。

自分が病気で介護で苦しんでいる時、全く助けることもなくパチンコ屋で働きエステが忙しいからと一時間だけいて金をくれとだけ言って東京に去った遠い親戚とか何かおかしいのである。そういう人は強制されてそうなってもいるのだがどっちが今大事なのか?
そういう人は要するに何か苦しい時はその働いている所で人に助けてもらえとならないだろうか?
働くこととはそれだけ貴重な時間を費やすことなのである。
「バチンコ屋がエステでこっちは忙しいんだよ、休むこともできないよ、お前のことなど知らないよ」と吐き捨てるようにして金だけくれと去って行った。
こっちは病気で介護で困っていても何の配慮もないのである。
その人にとってどんなことがあってもパチンコ屋やエステが大事なのであり休むことはできない、自分が死ぬようになってもそうである。
だからそういう人はそれだけしてそこで働くのだからそこが一番大事な場所なのだから何かあったら助けてもらうのもその会社とかになる。
つまり働くことはそれだけ人生の貴重な時間を費やすことなのである。
だからソローは森の生活をした時、そこに人生の貴重な時間を費やすべきものとしてそこで過ごした。労働はみないいものではなく金持ちに働かせられているとか拒否したことでもわかる。