2018年02月20日

高度成長グローバル資本主義の終わり (宗教,哲学,芸術などの内面化意味を求める社会に)


高度成長グローバル資本主義の終わり

(宗教,哲学,芸術などの内面化意味を求める社会に)


小さな庭

沈黙の深く
一人一人の
意味あるものと
顕れるべしかな
一人一人の声を聞き
雑多なる声は
騒音語となり消えぬ
小さな庭の
一つ一つの石は
確かに組まれて
意味を深める
人は意味なき世界に
生きることあたわず
小さなる世界に
その意味を求め安しも
経済のための社会にあらず
社会のための経済
その小さな世界に具現化す
グローバル経済には意味は求めがたし
ただ経済のため金のために翻弄されるだけ

今の時代は何なのか?それは実際は今の人にはわからないのである,歴史は一時代が終わったとき冷静に見れるし評価も定まってゆく,人間も生きている内は評価しにくいのである。
今の時代は何か?それがしきりに言われるようになったのが中世にもどるということである。
ただ中世とは何かというとこれまた見方がありいろいろである
日本の中世はかえって動乱の時代だったからヨーロッパの中世とは違う
ヨーロッパの中世はグローバル社会とはまるで違った閉鎖された江戸時代のような世界である。だから暗黒社会だとも言われる

ではなぜ中世なのか?それは資本主義がグローバルに展開した時代が終わったとういことである。グローバル資本主義がありえたのは投資先が常にあって成り立っていたのであるそれがなくなったとき銀行に金をあづけても利子がつかない,むしろ金をあづけると事務費とかはられることになる
そのことが何か資本主義の終焉を象徴していたのである。

日本は戦後焼け野原から何もない世界から急速に高度成長したのである。
中国とにている,中国の二十年前は再貧困国のようになっていた
それが二十年すぎたら新幹線のようなものも走るしとか日本の高度成長と同じだったのである。世界も十年単位とか20ねん単位急速に変わるものだと思った
だからその変わりように追いつけなくなるのである。
人生もまた70年単位にして急速に変化してその変化に対応できなくなる
現代は変化のスピードが早いのである。

日本が敗戦になったのはこの変化についていけないとういことがあった
戦艦大和のような船の時代は終わり飛行機の時代になったときそれは無用化されて海の藻屑と消えたのである。
20世紀は科学技術の時代である。科学技術が社会を席巻した時代である。
それと高度成長とグローバル資本主義の時代だった
そしてもう日本ではインフラ整備も終わりかえって道路でも橋でもトンネルでも老朽化して修復する時代である。また無用な道路なども作りすぎた時代にもなった
高度成長が終わり長く経済が停滞するしグローバル資本主義でも投資先がなく金融資本主義になった
金融資本主義とは本来の資本主義とは違う,ただ金を右から左とながしてし利ざやを稼ぐのであり投資しているのではないのである。
投資する先がなくなっていたのである。
地銀なども地元の企業に投資して育てるという役割があったがそれないから証券会社の支店化して投資信託とかで利ざやをかせぐだけの商売である
銀行の役割はもうなくなり消えるという時代になっていた

こういう時代は何なのか?
物理的空間的拡大の時代であったのも現代である。それは交通面で飛行機とか車社会とかなり人間は外へ外へ向かうようになった
広域社会化でありグローバル化社会である。人も物も自由に行き来することが可能になったからである。
ただそのグローバル化も移民問題などで世界的にゆきづまった
それがアメリカでもそうでありグローバル化は失敗してもうこれ以上できないとなった
資本主義も投資先がなく銀行に利子がつかないようにもうゆきづまり終わるとされているビットコインバブルなどもそれを象徴している
資本主義は必ずバブル化して破綻しやすいからである。

そして次なる時代は何なのか?ITとかAI,通信時代になった,この特徴は物の流通ではない,物理的リアル空間の拡大ではない,その中心が頭脳に左右するものであり心の世界に向かう,内面世界に向かうものである。
だから今までも物理的物の豊かさを目指すものではないのである。
その技術は精神に影響してくるものである。
そもそもインターネットを介して物の流通があってもそれよりそこで人間が情報をやりとりしていることが主だとするとそれは情報も精神の世界なのである。
膨大な情報のやりとり交通の世界になったのである。

インターネットでもその発信方法が変わる,最近youtubeを見ているとこれは学習能力がある,テレビとは違うメデアである。それも誰でも簡単にテレビのように放送できることが強みである。それでユーチュバーが生まれたのもわかる
ただそのユーチュバーが稼いでいるのはテレビと同じ手法である。
何か刺激的な映像を出して視聴率をとるのである。
でもその他にも多様であり学べるものがある
インターネットのメデアは一方的でなく対話的な面がある
だから引用して議論しやすいのである。本とも違ったメデアなのである。
どちらかというと広く浅い知識を得るメデアである。
現代は多様な複雑なの社会だから広く浅い知識も必要なのである。
それには要点をついたyoutubeが向いているなと最近思った

ただ現代はこうしてインターネットとか世界的につながるとしてもそのアイディンティティを得る場はどこなのか,それはやはりリアルに自然とか社会と結びついている場なのである。
小さな庭というときそれが拡大したのが故郷かなる,リアルな自然があり村があり町があり市がある所である
そこで意味を探求して進化させるのが人間的なのである。
だから像で考えよというときその像が都会にはない,自然がないから像として考えられないのである。毎日高層ビルを見上げていかなる像が浮かぶのかとなる
ヨーロッパでは都市が歴史的に作られそこが一つの世界となり世界観を作る
地方都市が充実しているからミクロコスモスとなり文化が興隆した
フィレンツでも4万くらいの人口だった,小都市にすぎなかったのである。
ヨーロッパではそうした小都市が歴史的に作れらて文化が育まれたのである。
日本にはそうした小都市は歴史的に少ない,城下町は都市とは違うからである。
だからこれから地方の小都市の充実がかえって望まれている
東京一極集中は文化的に不毛なのである。

自分は田舎で石とか樹とか森とか山とかのアイディンティティ化することをしてきた
そこに意味を求めてきた,それを短歌や詩にしたりした,それは意味を求めていたのである。自然の意味を求めていたのである。
それは科学技術とかとは違う芸術とか哲学とか宗教の分野にもなる
今の時代は経済一辺倒の世界が収束して宗教,哲学,芸術とか内面的な精神的価値を求める時代になる
グローバル経済社会ではとても意味など求められないのである。
それは非人間的な世界であり株の世界でも世界の賭博場のようにしている
ただ人間はそこで経済に金にふりまわされているだけなのである。
そしてそこでもうけるのは極一部の人しかなく後は世界的格差社会になったのである。

人間的な世界を求めるとき小さな庭のように狭い世界でないと一つの区切られた世界でないとできない,例えば会津は万葉時代から一つの国として意識されていたからそこで意味を深めるアイディンティティ化しやすいのである。
今の県は廃藩置県後にできたのもであり風土とか地理を歴史を考慮していないから一体感がないのである。
例えは北海道は広いのだけど原始性が残っていて一つの国と見れる
それで榎本たけようが蝦夷共和国を目指したのが理解できるのである。
北海道は自然でも原始性が残りそこに日本では別個の一つの世界を作り出すことができると明治維新の時も思われていたのである。
北海道はだから今でも蝦夷共和国を目指し得るのである。

結局戦後焼け野原から高度成長時代へと発展したが日本は高齢化したように老人になると過去をふりかえるようになる,そういう時代になった
過去をふりかえるということは老人ならどんな人でもしている,そしてその意味を求めるようになる,俺の人生はこうだったとあれも失敗だったとか悔いるのである。
そういう反省の時代でありそこから若い人も学ぶものがある
若い人だけで議論していると何か深いものの見方ができないのである。

いづれにしろ今の時代はもうグローバル経済とか金だけに経済だけに翻弄される時代は終わったという認識をもつべきである。
だから株とか投資とかで期待してそうした狂騒の世界に巻き込まれるべきではない
それは自分も最後にしたがもうやめた,結局投資信託でも手数料をとられだけであり銀行の最後のあがきとしてすすめているだけなのである。
銀行がなくなるということがまさにグローバル経済の終焉の時代を告げていたのである。ただすぐにはグローバル経済とか資本主義はなくならない,ただ傾向としてはもうそういう経済だけの世界は終焉に向かっているのである。
そういう時代認識をしないと何かまた過去の幻影にふりまわされるのである。
時代というのは社会でも常に変化しているけどその変化に対応できないのである。

とにかく小さな世界だと意味を求めやすい,禅宗だとその小さな庭に一つの宇宙をも世界を見たのと同じである。大きな世界になると社会でも自然でも意味づけることがむずかしくなるからだ,そこに自然を庭化する日本的なものがあるといえばそうである。
ただ世界的にも意味を求める時代は宗教は哲学,芸術などの時代になるのである。
インターネットとかはそういう精神世界の追及に向いているものがある
いろいろな人からの情報とか知識を得やすいからである。また対話的にもなっているからである。ただ草創期だと日常のささいなことの対話になるがだんだん成熟すると深いものの見方をする人などもインターネットに現れてきている
そして死んだ人が「心の青雲」のプログの著者の都築詠一氏だったのである。
なぜならその人はインターネットでプログを書いただけで本には出ていないからである。そういう人も出てきたのだと驚いたのである。
インターネットで発表することは発信する方にすると楽なのである
publishとはpublicであり公表するということであり公(おおやけ)にすることである。
今なら本は簡単に安く作れる,でも公表するとなると簡単にはできない
その公表するということでインターネットでは気軽なのである。
そして人間は書きながら文章で思考することがあるなと思った
文章を書くことで思考を深めている,思考を具体化しているのである。
だから自分はこうして毎日書いているのはそういうことをインターネットではしやすいからなのである。だから現代はインターネットでも文章の時代だともなる
自分はしゃべることは苦手だから文章を書く方がいいとなりプログなどは向いているのである。
文章の方が深いものを探求できる,しゃべるだけではできない,ただ広く浅くなる知識や情報だとしゃべるyoutubeの放送が向いているなと思った




2018年02月18日

人間の歴史は挫折の歴史だった (個人的にも挫折があり未来がある)


 人間の歴史は挫折の歴史だった

 (個人的にも挫折があり未来がある)


大鳥の飛翔の挫折

大鳥は
果てなき大空へ
その真澄みの空に
飛びたとうとする
大いなる志
大いなる野望
大いなる希望
大地に海に果てなし
大鳥よ
その翼を張れ
大鳥の志の良しも
そはストレートに飛び立ちぬ
あとをふりかえず飛び立てり
しかし大鳥のその半ば墜ちぬ
その志の良しも悲し
大鳥は墜ちぬ
されど大鳥は翔けぬ
かなたへと遠く高く
例え墜ちしも
大鳥はかなたに向かい
希望の地に向かい
幻となり翔りゆく
大いなる挫折
そは挫折にあらじ
次なる未来に向かう
次なる未来を作るもの
大いなる希望の飛翔なりしも
挫折を恐れざれ
高き大いなる志をもて
その実る必ず来たらむ


人間の歴史をふりかえるとき必ず挫折がある,すんなりと何でもうまくいかないのであるそれはあらゆる分野でそうなっている,政治でも経済でも科学でも技術分野でもあらゆる分野でそうである。
科学技術関係でも神話にあるようにイカロスが墜落がある

蝋で固めた翼によって自由自在に飛翔する能力を得るが、太陽に接近し過ぎたことで蝋が溶けて翼がなくなり、墜落して死を迎えた。

これも技術的なものの人間の奢りとして語られる,科学技術でもそれが発明され開発される過程で必ず挫折がある,そういう実験がつづけられて科学技術は発展してきた
常に挫折があり越えられない壁があり人間はそれに挑戦し続けてきたのである。
この神話が科学技術の奢りに対しての警告だったというのもわかる
最近では小保方が万能細胞を発明したとか話題になったがこれも実際にはなく研究の挫折だった,そういうことは他にもいろいろある,どこかで挫折してゆく
それは人間が万能ではないからでてある。
神は全能であり不可能なことはない,人間の力は神に及ばないからそうなる

政治的にも常に挫折がある,信長でも最期は本能寺の乱で野望は挫折したし秀吉でも朝鮮半島の征服は挫折した,政治でも挫折の歴史なのである。
二本の戦争でも敗戦してその野望は挫折したのである。
何かを目指しても必ず挫折する,そういうことは歴史にいくらでもある
そもそもいろいろ文明があってもその文明も最後は挫折する
例え長く栄えてもつづいてもいつかは挫折して衰退して終わる
エジプト文明でもローマ帝国でもマヤ文明でも挫折してその繁栄は終わる
挫折は宿命としてある,挫折は人間の成すことに避けられないのである。

津浪の被害でも原発事故でも大いなる挫折だった,原発神話が作られたがそれも事故で一挙に崩壊した,挫折したのである。
反れば文明の挫折にも匹敵していたのである
人間の成すことは挫折がつきものなのである。個人的にそうである。
例えば事業を起す人で成功している人は二〇人に一人なのである。
これからみればいかに事業に失敗した人がどれだけ多いかわかる
それは自分も実際にそういう人に接しているからわかった
事業を起こして成功している人はまれなのである。

では挫折したから何をしても無駄なのかとなる,個人的にも人間の成すこと挫折が多いから一層何もしない方がいいともなるからだ
ここで取り上げるのは北海道開墾に挑んで挫折した一人の詩人の猪狩満直である。
四〇歳くらいで北海道の開墾に挑んで死んだのである。
だから常に戦いだ,戦いだとして呪って死んだのである。

火のような呪いがある

そういって無念に死んだのである。そういう無念に死んだ人もまた人間の歴史では多い
なぜなら人間はそもそも挫折が宿命づけられているからである。
人間とは挫折するものだという宿命である。みんななんでもすんなりと成功などしないのである。キリスト自体が成功はしていない,十字架で終わって挫折して死んだとなる
偉人がいたとしてもみんな成功して終わるとは限らない,必ず挫折がある
ただ挫折があるとしてもではその人生とか科学の研究でも政治上のことでも無駄だったのかとなるとそうはならない
人間はやはり困難に挑戦して新たな未来を開いてゆく,それが人間の歴史だったからである。大航海時代でもやはり海を渡ることは最大の難関でありそれが成功したがそれで沈没したり挫折したものは多いのである。
みんなが挑んでも成功するわけではないのである。

人間はそもそもなぜ挫折するのかというと人間がみな死ぬということは挫折なのである。だから挫折が宿命づけられている,何をしようと人間は最後は死ぬのだから挫折なのである。そしてなかなか仕事でも完成できずに死ぬ
特に寿命が短い時は芸術家でも十分な成果は上げられずに死ぬ,啄木も病気で挫折したりと挫折が多いのである。
人間は百歳まで生きても最後は死ぬから挫折なのである。何かやり残したことがそれでもあるのが人間である。人間に限界があり挫折するのである。

だから挫折しても挫折がすべて無駄ととはならない
それより何を目指して何を残したのかが問題になる
それは挫折したからといってそれですべて無意味だとはならないからだ
かえって成功して失敗したともなるからだ
原発などは最初成功していて原発と共に未来ある街となっていた
その成功がかえって事故で挫折して無に帰したのである。

猪狩満直は北海道の開拓に挑んで失敗した,病気で挫折してもその目指したこと残したものがあり後世に伝えるものがあった
挫折したからといってそれで終わっていなかった
一方でこの辺では原発で成功したがあとで挫折して悲惨な結果になったのである。

こう考えると人間は何を目指すかが大事である,志が大事だとなる,動機も大事だとなる仕事でもその人の目指しているのは何なのか?それが問われる
ただ成功すればいいもうければいいというときそれが成功したとしても成功と言えるのかとなる,でも挫折しても失敗しても目指すものが間違っていなければそのことは時間がたって見直されることがある
確かにみんな成功を目指しているし成功しないものは認められない
でもその成功したことが悪いものとして成功することもある
カルト宗教団体などは大成功したがその成功したことが社会にとって悪であり害を及ぼすものにもなる,だから社会にとって成功が失敗だったということもある
事業をするにも何を目指しているのか志は何なのかということが問題になる
その人は事業に失敗したのは志もなにもない,ただ自分が頭がいい,有能だからそれを示したいためにまたはもうけるたげに事業を起こしたのである。
それが挫折したがもともと志も何もないのである。
だから失敗しても挫折してもそれだけのことだとなってしまうのである。
もしそこに何か高い志があればそうはなっていないのである。
例え挫折しても失敗してもそうである。

「心に青雲」のプログの著者都築詠一氏のように志を高くもてということは言える
この人の志は何であったのか?ともかく志をもっていてプログで語り死んだのである。
ここでもやはり挫折したのである。もっと語れることがあったが中途で病気で挫折したのである。
こういうことは人間である限りありふれていることなのだ
なぜなら人間の命は有限であり寿命があるのだからその内に何でもできないからである。だから大芸術家でもみんな未完に終わるのである。
何かもっと成し得たが成し得ないということで終わっているのだ
それが人間の宿命なのである。完全に成功しえるのは全能の神しかえないのである。
人間は挫折して失敗することに定められているのだ
だから問題は挫折することでも失敗することでもないのである。

猪狩満直は北海道に開墾に挑み挫折して失敗して死んだけど後世に伝えるものがあった
それを次の世代の人はくみとる必要がある
農業しか仕事がない時代であった,でもなぜ今農業が無視されているのか?
原発があった周辺でもそうである。それは全国でそうなったのが時代である。
だからこそ原発が建てられたのである。
そこで確かに成功したのである。収入も多くなったが結果的には故郷に住めなくなったのである。
農業などで暮らしていけるか,農業など誰もやりたくないと金にならないとしていたのである。だから農業をそれほど軽視することが拒否することがそもそも間違っていたのかともなる,みんな現代の贅沢を享受したいとなりそうなった
でもそこに落とし穴があった,原発の危険性はその甘い誘惑に無視されたのである。

ただ人間は誰でも楽をしたいのである。求めて苦しむ人はいないのである。
猪狩満直でも三野混沌でもそうである。それは時代で強いられたのである。
一方で山尾三省は求めて苦難に生きて六二歳で死に妻はもっと早く死んだのである。
そういうことは何か不自然に見えるのはやはり人間は強いられてしか苦しまないからである。みんな楽な道を選ぶのである。
なぜこの辺で避難区域になったところに若い人でも脱出したのかというと楽な方を求めて去ったのである。それは時代であり誰も強いられなければ苦しむのは嫌だからである。
楽な道があればそっちの方を人間は選ぶからである。
ただ楽なことだけを求めて未来が開けるのかというとそれはわからない
長い目で見ればわからない,そうして苦しんだ人は未来を開き後世の人から見直されてその価値を高めるかもしれない,一方で楽な道を選んだ人は後世の人からどう見られるのかそれは時代が変わると価値が変わるしその人生は評価されないとなる
三野混沌などはあれだけ苦しんで来てきたのにさらに最後に困難な道を行けと遺言している
たいだいこれ異常御免だとなる,猪狩満直の場合は若くて死んだから呪詛になっていたのである。

それで人間はいろいろ仕事していても未来に通じているのか?
後世の人に評価されるのか?
そういう視点から仕事しているのかとなると目前の利益だけを求めている人が多いのである。それは今の時点で成果となり利益となり評価されるが未来に通じているのか?
それはわからないのである。かえって成功して失敗していることがあるのだ
それは成功しているが故に失敗しているともなる
だから未来を見据えて仕事することが肝要にもなるが若い人にはそれが見えないのであるただがむしゃらに成果を上げる利益を上げることに費やされるのである。



タグ:挫折の人生

2018年02月12日

人間は有能だから成功するのか? (有能な人間が危険にもなる-文明は有能な集団により作られたが滅びる)


人間は有能だから成功するのか?

(有能な人間が危険にもなる-文明は有能な集団により作られたが滅びる)

人間の社会は謎である。なぜ老子とかの思想家が生まれたのか?
文明社会のアンチテーゼとして生まれた
人間が道具をもつこと自体否定した
なぜなら人間は道具をもてば道具に使われる
それも今になると人間は機械に使われるというときそうなっている
道具にしか過ぎないものが道具に使われている

人間はまた有能になることを求めている,それも荘子になると否定している
無用の大木を称賛しているのはそのためである。
人材とか材は森全体ではなく木をその一部を材料として切り取ることである。
そういう意味があるとき人間は今や無数の材として一本の木であるものが森であるものが材として切り取られて使われる,部品化して使われているともなる

そして足の悪い人や障害者が戦争に行かずにすんだがかえって丈夫な人は戦争に兵隊としてとられて死んだ,障害をもった人は生き残った
それは日本の戦争でも言える,甲種合格とか体の丈夫な人は率先して兵隊としてとられ死んだ,それでわざわざ病気になり戦争に行くことをまねそがれた人もいる
それは非国民なのだけど戦争が終わると日本人はほとんど戦争を否定するようになった
その価値を認めなくなったからそういう人を非国民とも言わなくなったのである。
むしろ戦争した人が悪いとされる方が多かったのである。
だから別に戦争に病気を装い行かなかった人を今では責めないのである。

そもそも戦争になると戦争に有能な人が偉いとなる,戦争に有能ということは人殺しが平気でできる人間でもある,冷酷な人間が戦争に適しているし有能なのである。
だから有能だということは一面怖いことにもなる
何かブラック会社でも営業で成績をあげるのは有能だとなるがそういう人は果たして推薦できる人間なのか?あくどいやり方で成績をあげている人もいるかもしれないからだ
でもノルマを課せられているから営業成績をあげる人が有能だとされる
それは社会にとってもいいものでもない場合がある
銀行でも投資信託を強引にすすめて成績をあげれば銀行では有能な人としてみる
でもそれをすすめられて損している人も多いから社会にとってはいいとはならないのである。

人間が有能だということは一面危険なことなのである。
科学者がそうである。科学者は今では一番有能な人でありエリートであり支配者にもなる政治家とか他は今は低く見られるが科学者は聖職者のように今では見ているからだ
でも有能だということは歴史をふりかえっても強力な殺戮兵器を産み出すことにもなる
それは技術者とか科学者のすることである。
そして現代の核に結びつく結果となった,核兵器を発明したのはアイシュタインとか科学者であり最高の知性をもつ有能な人だったとなるからである。
原発を作ったのもそうした有能な優秀な科学技術集団だったともなる
だから有能だということは一面危険なのである。

人間の歴史をふりかえるとなぜ宗教が生まれたのか?
宗教とは何であったのか?そもそもなぜ東西の宗教,キリスト教でも仏教でも聖職者は僧侶でも出家して社会から離れ社会的には無能集団のように暮らしたのか?
生産活動をしない集団になった,乞食が一つの行となる
生産活動をせず布施といえば乞食ではない,僧職につくものは食料を無料で与えられるのである。社会的に見れば何の生産活動もしないのだから否定されるはずなのである。
そういう人が社会的に偉いとどうしてなったのか?
今では僧侶とかはさげすまされている,牧師だってそうである。
なんの生産活動もしない無能だとされている,宗教は世俗的価値を否定するが故にそうなったのである。

人間がそもそも有能だということは何なのか?
それ自体がわからないのである。
だから宗教ではキリスト教でも仏教でも人間が有能であることを疑問をもち否定している人間が有能であるとうことは神から見れば奢りになるからである。
その奢り故に人間の成したことは罰せられる,道具を作ることは人間として優秀なことであり有能だからできたことだがその道具によって核のように人類自体が滅亡するとまでなる

要するに道具といってもそれは最初は石器である,でもその石器でも自然界ではありえないものであり強力なものなのである。それで動物と対抗できたからである。
石の斧でも槍でも動物を殺せた,それに動物は負けたのである。
だからどれほどそうした最低の道具でも強力なものであったか知るべきである。
ヨーロッパとか西の石器は最初から大きかった,ということは歴史の出発点からして西洋は殺傷能力を高いものを作っていたともなる,兵器も西洋では発達したのである。大砲が城の時代を終わらせたというのもそうである,鉄砲でもそうである。
それが石器が鉄となり現代の核兵器までになったのである。
石器でも強力なものでありそれが核兵器までになる,そして人類はその有能さの故に滅びるともなる


一身上のことになるが自分の姉は従軍看護婦になって4年間シンガポールで働いた
戦前は看護婦になること自体相当優秀でないとなれない,それで東京まで行って試験に受かりなることができた,体も健康優良児のようであり頭も太っていたが切れていた
なんでもパキパキとする行動的な女性であった
だからいつも感心して自分はいろいろ劣っているから見ていたのである
でも最後は認知症になり無惨に死んだ,最後の言葉は「自分は優秀だった」ということを今の際まで言って死んだのである。
何か優秀なことにこだわっていたのである。事実優秀だからこそそういうことができたことは確かである。この家を作ったということも確かである。
でも最後は無能化されて死んだということがショックだった

一方で馬鹿にしていた人は正直で情の厚い親切な人だったのである。
その人は姉が認知症になっても受け入れてくれた
他の人は誰も来なくなったし嫌がったその人だけは受け入れてくれたのである。
それを見たとき何が人間にとって優秀なのかもわからなちなったのである。
優秀だと見られた人が無能化されて愚かな者だと見えた人が実は優秀だったともなる
それは何か能力かあるとかないとかではない,人間としてかえってその愚かに見えたものが人間として評価されるものだったともなる

だからこうして人間の評価もわからないのである。それは人間の歴史でも有能な人間が必ずしも成功するとは限らない,いくら有能でも時代が違うとその有能さも埋もれたりして発揮されないのである。天才でもその天才が時代によって発揮されないのである。
事業を起こして成功する人が必ずしも有能な人ではない,知っている人が事業に失敗したのは理系であり技術者でも会社を経営するとなると様々な別な能力が必要になるから失敗した,その時代の影響もある
誰も今銀行がなくなるなど思いもよらなかったからである。
事業が成功するということはいろいな条件が幸運に恵まれることも必要なのだろう。
いづれにしろいくら有能でも成功するとは限らないのである。

文明とは優秀な有能な集団が実際は作ったともなる,マヤ文明でも技能集団は支配階級になった,それは高度な知能集団だったのである。
でも最後は太陽の力が弱るとか人間が人身御供にされた
何かそうして太陽の力がなくなり滅びる日にちまで特定してカルト宗教のようになり森に放置されて埋もれたのである。
何かそれは原発とにているのだ,現代最高の有能な科学技術集団が原発を作った
それは今やその回りには人が住まない地域となり放置されて荒野化して森林に埋もれる
チェルノブエリではそこは野生が復活してノロジカとか狼まで住むようになったのとにている
人間の知性が有能さが一挙に崩壊したのである。つまり無能化されたのである。

結局人間は有能だとか優秀だとかいうけどそういうことを決めるのは全能の神しかない
人間がいくら有能でも文明を作ったとしてもそれも最後は限界にきて放置され森に埋もれる,人間は無能化されるのである。
人間がすでに有能だというとき何かそこに奢りがありそれが砕かれるのである。高きものは卑(ひく)くされ卑くいものが高くされるというのはそのことである。
そういう価値判断とか評価は人間だけでは決められないのである。

タグ:有能と無能

2018年02月07日

時代時代の苦しみを人は負う (70年周期で時代が大きく変わる)


時代時代の苦しみを人は負う

(70年周期で時代が大きく変わる)

時代が変わる時人は苦しみ負う
江戸時代には飢饉の苦しみを負う
越中などの移民が苦労して働く
明治になると侍の世は終わり
北海道に開拓に入る農民となり
いろいろな職につく
慣れない職につく
侍は苦しみを負った
戦前は貧乏で苦しむ
女性は紡績工場で過酷な労働に苦しむ
戦争の時は戦争の苦しみを負った
多くの人が戦場で苦しみ死んだ
戦争が終わり引揚者は
不便な所に開墾に入った
その苦しみを負った
団塊の世代でも中卒で集団就職
その人たちは苦しみを負った
常に時代の苦しみを負い
時代が変わると苦しみを負わされる
それが人間の歴史だ
それぞれの時代を生きるのは宿命
今また大きく時代が変わる
原発事故で避難して苦しみを負う
人は生きる限り苦しみを負う
時代時代の苦しみを負う
そうして積み重ねられたのが歴史
国々の歴史も苦しみの歴史
今の時代は苦しみつ作られてきた
人間は苦しみから逃れることができない
時代時代に苦しみがある
苦しみを逃れる者は後の世に残す物がない
苦しみによって作られてきたものだから
それが尊いのだ
楽した親を金持ちの親を直接子供は世話しない
金で他人が世話する老人ホームにあづける
苦労した親を見ていたら世話する
苦労して育てたから親がありがたいと・・・
そこに育てられた価値が生まれる
苦しみを負うことによって価値は生まれる
ただ血のつながりの父母は父母ではない
苦しみつつ作られたものを残したもの
それが父母であり先祖となる
苦しみが人間を作り歴史を作る
だから苦しみから逃れてはいけない
そうすると後世に残す物がない
そういう人は先祖として尊ばれないだろう
苦しむ者よ,その人は尊い
苦しみ耐える者が後の世を作る

相馬藩だと越中からなどの移民があり飢饉から立ち直れた,その時越中などの移民は相当に苦しんだ,土地でもいい土地は与えられなかったのである。それで加賀泣きとかが伝えられている,この土地で新参者として苦しんだのである。
その苦しみと涙があって相馬藩は飢饉で三分の一に人口が減ったが立ち直ったのである。そしてこの地の先祖となったのである。

時代が自然にそれぞれの時代があるのか?時代は例えば明治時代だと外からの圧力で開国して明治維新になったがそれも自然と生まれた時代ではない
そこで時代を作った人達がいた,それはその時代を生きた若者だったのである。
そうした混乱と変革の時代を生きて命を落した人達がいる,でもそういう人達が新しい時代を作ったのである,その人たちは時代の犠牲だったとなる
江戸時代から明治時代に変わる時産みの苦しみがあって犠牲になった

明治になったとき侍は特権を失った,それで北海道に開墾に入った,伊達藩などでも侍が一体となり伊達町を築いたのである。そこに苦労があったがその時苦しみ時代を築いたのである。つまり時代は自然と生まれるのではない,人の苦労によって作られるのである。
ともかく歴史を見れば必ず時代の苦しみがある,戦国時代なら戦争の苦しみがあったし太平洋戦争でも戦争の苦しみがあった,常に時代の苦しみがある
でもその苦しみ故に新しい時代が作られる,時代は自然発生的に生まれていないのである時代はその時々時代に生きる人達が作り上げたものなのである。
戦後の引揚者もまたいたるところにいて不便な所に入り苦労したのである。
そういう場所が本当にいたるところにある,この辺では津島とかでもそうだし飯館村でもそうだし鹿島の小池にも引揚者が働く場がなくて開墾に入ったのである。
戦後そういう苦しみを負ったのである。

団塊の世代は評判悪い,楽した世代だというとき評判が悪いのはそのためなのである。
何か苦しんで作り出したものがない,楽した世代だと常に言われるからである。
そういう時代に生まれたのもまた時代だったとなる

いづれにしろこれから生きる人はどうなるのか?
資本主義が終わるとか銀行がなくなるとか激変の時代になる
でもこれからの時代もまたこれから生きる人々が作るのである
時代は自然に生まれるのではない,次に生きるものが作り上げるのである。
それが人間の歴史でありただ何もしないで新しい時代は生まれないのである。
確かに団塊の世代は楽だった,これからは激変して日本は苦しくなる
それぞれの場でも苦しくなる,苦しみを背負うことになる
それは次の時代を作るための苦しみだとなる
そういうことは歴史で常にあったからである。

歴史は決められたものではない,ふりかえれば歴史は固定化している,過去をふりかえればそうなる,でも歴史は固定していない,未来は固定していない,絶えず作り上げられるものとしてあるから固定していない,次代が未来がわからないのは過去と違って固定していないからである,それと今から生きる人達が作り上げるものだから固定しないしわからないのである。

津浪や原発事故でもそうである,この辺は苦しみを背負わされたのである。
ただそれを担うのを嫌い故郷は捨てられたともなる
そこには確かにもう住みたくないというのはわかる
でも何かそういう苦しみの場であってもやはりそれを担うことがあれば未来が開かれるかもしれない,もうただ故郷を捨てて他で住めばいいとなった
でもそこで苦しみを背負い生きればやはり未来が開かれるかもしれない
そういうことは過去にも歴史としてあったしそれが歴史だったからである。
そして故郷の未来はなくなったともなる
子供がいないとか若い人がいないということ自体がすでにその地域の未来がくなっているのだ,老人だけではもう死ぬだけであり何もできないからである。

ただ未来という時,それはこの世だけではない,来世こそ未来なのである
そこに神の約束された理想世界がある,その未来こそ本当の未来である。
だから若い時に求道してその未来を確信することが大事なのである。
その未来なくしてこの世をいくら変えようとしても絶望になるのである。
未来は神によって約束されている,そういう確信のもとに生きない限りこの世を克服できない,結局絶望挫折に終わる

未来はどこにあるのか?例えばカルト教団にいるような人はもう未来がないしすでにこの世の悪に染まったような人も未来はない,でもこの世がそうした悪に満ちているとき悪に染まる,やがてそれを感じなくなる,これはおかしいのじゃないかと思ってもそういう場で惰性でいたりして悪に染まってゆく
その時決然としてそういう場から離脱することが必要になる
そうしないとそこで未来はないとなる
若い時にそうした方向が決まるから大事だとなる
ただここの事情は違ってくる,同じ事情の人はいない,だから人の真似をしてもだめである。境遇とかがみんな違っているからその運命も違ってくるのである。
そういう時,お前は楽だったといえば楽だったがまたそれも宿命だったのである。
その楽があって自分は体力がなのにこれまで生きてこられた,そうでなかった死んでいたのである。過酷な生活を強いられて死んだ人が過去に多いからである。
その楽なことから自分の病気とか介護で苦しんだことを書いてきたのである。
人間は楽に終わることはないのである。どこかで苦しむようになっている
それが人生なのである。金持ちの家に生まれたとしても一生楽に終わることはないのである

いづれにしろ明治維新から太平洋戦争から戦後70年で大きく時代が変わる
津浪原発はそういう時代の変革の時に起きたのである。
そしてこれから若い人は相当に苦しむ,日本の経済は衰退してゆく,もう東南アジアであれ中国であれ物価もさほど変わらなくなっている
中国など10数年前とまるで変わってしまった,物価が10倍差があったが今は日本とさほど変わらないのである。タイでも富裕層がいて日本人より金持ちの人が多くなっているのだ日本人の底辺層の人達の方が貧乏になっている時代なのである。
これも時代であり逃れようがない,そして時代の産みの苦しみを担わされるのである。

2018年01月27日

青年に与える詩 (未来を担う若者よ(詩)


青年に与える詩

(未来を担う若者よ(詩)

若者は竹のように真っ直ぐに伸び
柔軟に風にしなりゆれて伸びる
青々と竹は空に伸びようとしている
老木はその地に深く根を張り
その土地のことを語り朽ちようとしている
様々なものが交じり生きる
子供も若者も老いも老若男女が
若者よ,素直に伸びよこの大地に
その未来を築くは若者なり
汝のすることを省みて正せ
その成すことの良しや
ただ唯々諾々と上の者に従うや
欲にまみれ世知にたけた保身者に
時に雷雲となり電光となり
この世に睥睨する者を震撼ならしめよ
若き力は未来に向かって噴出する
老人は過去を語り死んでゆく
若者はこの地の未来をにない生きる
しかしたちまち若者は老いる
若者よ,悔いなきを生きよ
汝らが未来を築く者にして
今上にあるものにあらじ
この地をいつくしめ
汝らが生きる地をいつくしめ
金のみならず誠と美のある地
今苦しくも若者は未来を担う
その苦しみはやがて喜びになるらむ

森には老木あり多様な樹の種類がある,森は杉だったら杉だけの森はなかったのである。杉林になったのは家の材料などとして使うのに良かったから杉という人工林にしたのである。
松でも海岸の松原は稲作で潮風から防ぐものだった,これも人工林だったのである。
それで津浪で根こそぎ流された,松は根を強く張らないものだったのである。
津浪には弱かったのである。竹の方が強かった
それは人工林になっていたから根こそぎ津浪で流された

森に老木がある,それもまた人間社会とにている,若い樹だけではない,老木も森にあるそしてそれは何かを語るのである。その老木も森に朽ちてゆき森に還る
人間の一生をふりかえると若いときは大事だった
ここをきりぬけないとその後もうまくいかない,つまり若いときはその後の人生の方向を決めてしまうからである。
人生は長いといったけ実は30までで人生は決まってしまう
仕事している人でも20代で身につかなければ仕事をできる人にならないというのもわかるそれからチャンスなど何度でも人生が長いから来ると思っているが実際は一回だとなる
一回のチャンスで人生が決まる

だから青春時代をどう生きるかで人生は決まるともなる,その後の人生は余祿みたくなってしまう。
ただ一方で若いとのエネルギーは無益に消耗しやすいのである。
ありあまるエネルギーがあってもそれが欲望も大きくなるからそれに費やされてしまう。そのうちエネルギーが消失してしまうのである。
まず若い内に宗教だったら求道しなければあとはできない,老人になって求道はできないその時はすでに時遅しになっている

その時大事なことは不純な動機をもたないことである。若い内は一途に求める
それもそこに打算とかそうしたものがない,まっしぐらに突き進む
確かにそこは汚れた場でもそうした真っ直ぐな心をもっていれば汚されない
つまり人間は動機が大事なのである。宗教になれば特にそうである。

この世は暗黒の世界である。それは今だけではない,常にそうだったのである。
この世は変わらないというとき人間は変わらないからである。
確かに技術的に進歩したとしても人間そのものは変わっていない,だからこそ諺が未だに生きていることでもわかる,金の切れ目が縁の切れ目というとき全く今と変わりないからである。進歩したからといって人間の欲が消えるわけではない,それで電子空間でも犯罪が起きてくる,技術が進歩しても戦争はなくならなかった,弱肉強食の世界は変わらなかったのである。

若いときどうせ世の中とはこんなものだと悪に染まっても平気になることである。
銀行員でも何か投資信託などをすすめるのが客にとっていいものなのか?
そういう疑問をもつ,それはいろんな場でそういう疑問をもつ
カルト教団などに入ってもこれが宗教なのか?そういう疑問は若いとき必ずもつ
でもそんなものだと悪があっても正さないし染まってゆく
そうなるともうそこで人生は曲がり曲がった方向に向かってゆく
そこで時間はたちまち過ぎてすぐに老人になって後悔するだけだとなる

まず人間で一番無駄にしているのは時間である。時間などいくらでもあると思ったがたちまちなくなる,何してもなくなる,後は死だけが残されるとなる
もし老人の視点からふりかえれば時間を無駄にしなければ何者かになっていたなとみんな思う,時間の使い方が悪かったから何も意義あるものを残せなかったとなる
何か研究するにしてもそうである。時間がなくて成果があげられないで終わる
みんな金,金,金だけど時間をの大切を感じている人は少ないのである。
そして過ぎ去った時間は取り戻せないのである。

これからは日本は苦しい立場になる,それにしても人間はその時代時代を生きるのでありそれは宿命である。戦争の時代は若くても死ぬほかなかった
江戸時代は江戸時代を生きた,貧乏でもその時代を生きた
戦争が終わり高度成長時代の団塊の世代は恵まれたと言われるのも時代なのである。
この辺が津浪や原発事故で苦難を強いられたのも時代だったとなる
それをになってこれからの人は生きる他ないのである。
ただそれがすべて悪い方向に行くかどうかはわからないのである。
なぜならこれからの若い人が地域を国を担い生きるからである。
その若い人たちが作ってゆくものだからである。
今は苦しくてもその苦しみを担うことで未来が開けるかもしれない
それで原発事故で町や村から避難した人達でもそこに残った若者はそういう苦難を強いられてもそこで踏ん張れば未来を作るものとなるかもしれない
それができるのも若い者であり老人にはできないのである。
老人は昔を語るだけだとなるがそれも後の者に教訓を残してゆく
そういう繰り返しが人生であり歴史だったともなる

タグ:青春時代

2018年01月18日

自分の失われた金 (カルマの清算のために金は失った)


自分の失われた金

(カルマの清算のために金は失った)

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今貯金を計算したら相当へった,それはこれらの人に使ったからである。
その額は大きい,事業失敗者にも払った
盗難の額が一番大きかった,これは痛手だった
親戚の遺産分配もそれなりに大きかった
困窮者が来て援助するはめになった,これもそれなりに要求されて大きかった
そして地銀もまた同じようにもうけ話をもってきても結果は銀行や証券会社に手数料とかとられるだけだった

結果としてずいぶん減ったと思う,ただ助かったのは介護は手間だったけどそれほど金がかからなかった,それは自分一人でのりきったからである
ただその間に自分が病気になったりして盗難にあったり苦しい目にあった
介護は本当は二人だからもっと金がかかっているのが普通である。
でもここで金がかかっていないから残ったともなるかもしれない
病院に入院して治療代とか安いし自宅で介護していてもベッド代にしても安いから意外と金はかからなっかた,手間はかかったがかからなかった
ここで金を使っていたら残らなかった
介護とか病気とかで金がかかると思っているが意外と保険があるからかからない
ただ保険金を払うことにかかるだけである。
だからそこを心配する人がいるが自分の場合介護医療には意外とかからなかった
ただ私的に介護する人をたのんだら月三〇万とか一千万くらいかかったともなる
つまり自宅介護で自力でできるなら金は意外とかからないのである

ともかく金は要求されて出ていったとなる,それもしかたない面はあるがここでわかることは困窮者が多いからこうなっているのである。
一見銀行が関係しないようでも銀行も地銀などが困窮会社になる
もうけることができない,金を貸さない金貸しがいるのかと揶揄されたことでもわかる
金を貸してもうけるのが銀行だけどそれができないから銀行の役割はなくなり消滅してゆく危機である。

事業失敗者の要求も追い詰められているから余裕がないから介護する自分の家にきても助けることなどできない,ただ重荷となって自分に事業失敗の金をなんとかしてくれとくるだけである。それはだんだん自分が死んだら金が入るのではないかとすら思うようになる保険金殺人のようになるから怖い
人間はみんな金に追い詰められればそうなる
わずかの金でも殺すし借金が犯罪の動機になるのが普通である

なぜ自分がこんなに金で責められたのか?
それはみんな金に余裕がないからである。
差し迫ったものがありそれが強盗のようなものにもなり脅迫めいたものにもなり自分は苦しめられたのである。こういう人は他人に同情する余裕もなにもなくなっているから
そういう人が自分が苦しい時に来ればかえって苦しめるだけだったともなる

ただこうなったのも自分の親のカルマと自分のカルマだったのである。
ふりかえるとカルマの清算を強いられたのである。
必ずカルマの清算時期がある,遺産相続したりすると必ずこうした金のことでもめる
だからカルマの清算は過酷なのである。
必ずそのカルマの清算の時はやってくる
へたすると殺されるということさえカルマが重ければなる
それは自分だけではない,例えば親が金があってもその金がブラックな金だとカルマの清算が強いられる,金があればすべていいとはならない,そのブラックな金のためにカルマがまわってきて苦しめられる
それは人生の法則のようなものである。若いときの過ちもそのままでは終わらない
必ずカルマとなり後年責められる苦しむことになる

ただここで銀行に苦しめられというのは無知だからだろう,銀行に責任があるわけではない,それはただ知識がない経験がないことでのってしまっただけだとなる
ただ銀行も今は困窮者になっているから余裕がないから証券会社化したのである。銀行もまた困窮者だから苦しめる側になったともなる
困窮者になれば明日食べるものがなければ相手を襲ってでも奪っても殺してまで得ようとするだろう。そこまで追い詰められている人間は善悪はなくなるからだ
そういう人に出くわすのもカルマだとなるかもしれない
自分がそうだったとなる,でないとなぜある人がなぜ事件にあい,苦しめられるのか理不尽だとなるからだ,

もう自分は自分の親とか自分でもカルマを清算したとしてくれとなる
これ以上金はもうない,それで許してくれともなる
つまり金をもつことはこうしてカルマになるから気をつけろとなる
金の額にもよるが平均的にしても上回る金だと今は貧困者が多いから責められる
田舎では特にそうである。田舎では大金持ちなどは住めない
なぜあいつは金をもっているんだとなるからだ
ともかく金というのはどこまでもついてまわる,そして地獄の沙汰も金しだいになる
金の恐ろしさがわかる,金をめぐって人生も変転する
だから人間は金から解放されたいと心底願うようになる
そして強欲資本主義とか金融資本主義がやがては成り立たなくなる,そして別なシステムが生まれるのか?そういう時代が来ることを願うほかない

ただ天に宝を積めというときこの世に積んだ宝も金もそれは腐れる,死ぬときは結局そんなものは意味がなくなる,天国ではこの世の金で生きるのではない
天に積んだ宝で生きる,金にふりまわされることはもうないのである。

カルマの精算期にきたら

本当にこういうことがある,もうこれは法則のようなものである。
人はカルマから逃れられないのである。ただ苦しみがないと自覚できないのである。
なんらか苦しみがともなうときカルマを自覚するのである

自分はカルマ消すことをしてきた,だからもう金ではめんどう起さないでくれとなる
金のカルマから解放されたいとなる






2018年01月10日

記憶されることの大事 (記憶は場所と深く関係していた)


記憶されることの大事

(記憶は場所と深く関係していた)

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毎日特定の場所に一つ記されているのを見ると記憶しやすい,頭に残る



人生をふりかえると意外と大事なものが記憶だったなとなる
なぜなら最後は人間は本当に記憶だけに生きることになるからだ
認知症になったら本当に生きることは記憶していたことになる
それで家族の一人がその記憶したことを千回も聞かされたのである。
そして遂に死んだが今になると死んだ人の千回も語ったことが
それがその人の人生だったとなる
老人はみんな人生をふりかえり語る,それは記憶が人生になっているからである。

現実に記憶されないものは本当に存在したのか?
記憶から消えたものは存在したのかとなる
いろいろな人にあってもやがて忘れる
忘れたときその人は存在しないものとなるからだ
とにかく人間は忘れやすいのだ、昨日何かあったことも忘れる

そして人間は死ぬとたちまち忘れられその人が存在していたのかどうかもわからなくなる死んで百年も過ぎてその人が覚えられている人は相当な人物でないといない
墓が一つ墓地に倒れている,そこに名前が記されている,でもいつかこの墓も捨てられてなくなる,その時この人がいたということは誰もわからなくなる
この世に存在したことすらわからなくなるのである。忘れられるのである。

記憶と関係しているのはその場所とか何か一つのものではない
例えばパソコンに付箋がありそこに買い物するものなど書いておく
するとそこを毎日見ているから頭に記憶される
それは毎日見ることで記憶されるのである
そしてそれだけが実は目立つから記憶されやすい
その場所が関係していたのである。

一つの場所→毎日見る→記憶に残る・・・となる
だから英語の単語でも覚える場合,ここに一つの単語を書いて毎日見ると記憶しやすいことがわかった
買い物でも忘れるからここに書いておくと忘れないのである。
勉強でも記憶することが大事でありでもその記憶するにしてもそれが簡単にできない
膨大に記憶するものがありそれでできない
毎日見るものがパソコンの隅にありふれに一語とか書いてあれば記憶しやすいのである。その記憶するものがどこにどの場所にあるか明確だったからである。
つまり記憶は場所と関係していたのである。
それと毎日見ることで確認してゆくと記憶に残る

都会だとどこに何があるかわからない、それはいろいろなものがありすぎてそうなっているのである。本だってありすぎて同じ本を買ったことが何回かある
千冊あったとしたらそんな本を読んでいることを記憶されていなかったのである。
ありすぎることは記憶できないことに通じている
誰も千人の人と会って覚える人などいないのである。
それは数でしかない,統計的数字となってしまうのである。
民主主義だと一見公平なようでもただ数で決まるから顔が見えないから数ですべて決められるとそこに問題が起きる

ともかく人間は何かを記憶してゆく,記憶されなければ何もなかった存在しなかったことになる,それで都会ではなんでも記憶しにくい,膨大な人が流れてゆき,いちいち一人一人を記憶しにくいし過去でももう都会だとわからないのである。
田舎だと墓でも古い碑でも道端の木でも一つ一つが記憶されやすい
それは場所と関係していた
それがどこにあるかとして記憶している

パソコンの隅に付箋がありそこに書かれたものを毎日見て記憶しているのと似ているのだ
一本の松が五本松の松は枯れたが倒れずにありその時も生きていた感じになる
枯松とかの地名があるのもそこに松が枯れてもあったということで地名化する
そして松が枯れて遂に倒れてしまった,でもそれでもなおそこに松があったということを記憶させる,これがかたずけられたときここに松があったことがわからなくなる
でもその場所で見ていたものは記憶しているのである。
その松の記憶はなかなか消えないのである。
それは家族の死とにていたのである。枯れた松は老人でありやがて死んでゆくが以前として家にはいるような感じになる
相馬市の道の駅の五本松も日本は枯れて切られたけど三本は残っている
ここに五本あったときを記憶しているから五本松だということはリアルなのである。

いづれにしろ去る者日々に疎しという時,親戚で離れていると疎遠になる,むしろ毎日顔合わせる人こそ大事になる,その人は毎日見ているし会っているから大事になる
都会になるとどうしても人間の存在は希薄化する,みんな一時的忘れやすい
でも一つの場所に生きていると故郷などに生きているとそこが記憶の場所になる
故郷とは家族であれ記憶の場所なのである。
つまり記憶するには場所が不可欠なのである。
場所とともに記憶されることが多いのである。場所は具体的であるからだ
パソコンの付箋でもこれがテキストとかなって隠れているとわかりにくくなる
一つの場所に記されているということで毎日見ていることで記憶に残るのである。

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一本の松の枯れて立ちにしも遂に倒れて冬の日暮れぬ
タグ:記憶術

2018年01月09日

20代で人生は決まる (人生のチャンスは一回しかない)


20代で人生は決まる

(人生のチャンスは一回しかない)


あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。伝道者の書 12章1節

20代という期間はその1年1年が数千万、数億円くらいの価値があると思います。

正社員就職を目指すなら、まず優先すべきは1年でも若いうちに勝負をつけることです

人が最も良いパフォーマンスを発揮するのは、「最適な環境」で、「最も得意なこと」にコミットしたときである。

●青春時代は必ず過ちを犯す
●人生を決めるチャンスは一回しかない
●60代以降はカルマの清算が強いられる
●光陰矢のごとし 無常迅速

人生のバターンは決まっている,それは推理ドラマのテーマとなる,若い内は必ず過ちを犯す,そのエネルギーがあふれて無謀になり過ちを犯す,そして後で悔いる
若いときは暴走しやすいのである。それだけエネルギーが噴出するからである。

そして20代で30代で人生の勝負はついてしまうというのは本当だと思う
ここでビジネスとかで言われるが人生そのものでも20代で勝負がつく,人生は長いから
そんなことないと思っているがみんな年とればわかる
たちまち時間は過ぎてあとは死だけが現実になる

肝心な求道でも20代にしないならもうできない,神を知ることはできないのだ
これは重大なことである。神を求めるのは年取ってからはできないのである。
そしてチャンスは一回しかない,人生は長いから何度もチャンスが来て立ち直れるとか言われるがそれほど人生は長くはない
一回の賭けで決まる,自分もそうは思っていなかったがふりかえればそうである。

また人間は経験を積むにしてもいろいろなことができない,自分は50代で海外旅行していなければできなくなっていた,なぜならその後は介護とか病気になり十年は費やされて時間は消失したからである。自分のように会社に勤めもせず自由に生きたものでも人生は短い,これくらいのことしかできないのかとつくづく思った。
人生は長いから後でやれると思うとできない,老後は自由に生活してやりたいことをやるとか計画するとできない,病気になったり介護になったりまた新しいことについていけないとかなる

人間の時間は限られている,どんなに自由時間が与えられてもたちまち消失するのが時間だったのである。だから時間に万金の値があることを年をとれば知る
金があっても時間がなければあらゆることは身につかない,学習するにしても時間が必要であり金だけではないからでてある。時間が貴重なのである。
そして若いときでないと体力を使うことはできない,登山でもなかなかできなくなる
つまり冒険するのは若いときしかできない,それだけ若いときの価値は大きかったとなる
だから10代から20代は本当に大事だった,その時間を活かした人は成功したのであり幸福だったとなる,若いとき臨んでも苦労しろというのもそうである。
そういう経験が人間を作る,人間はあまりにも恵まれていたら後で苦労する
だから人間は金とかでは金持ちと貧乏人の差がある
でも時間は平等に与えられている,金持ちが特別長い時間を与えられているわけではないだから時間を活かせば貧乏人でも何かしら身につくし一角の人間になりうる
金持ちでも時間を活かせなければ浪費すれば放蕩などしていればもう人間は作るチャンスは消失するのである。

そして60代以降はカルマの清算が強いられる,若いとき成した過ちでも清算を強いられる時間がたってもそういうことは消えないからだ,そこで悔いるのだが遅いとなる
カルマとして苦しみとして現れるのである。
それはどんな人でもカルマを積まない人はいないから60代以降は過酷になる
自分の十年間はそうだったからである。
人生とはこのように同じ道をみんな歩む,それは人間にカルマとして課せられたものだからである。例外はないのである。
ほとんど数式ともなっているのだ,
結局それは人間が今だけではない、長い間そうして綿々とつづいてきたのが人間の生である。そこに教訓が生まれて格言が生まれ宗教哲学が生まれたのである。
庶民の諺でもそうである。そこに普遍的な真理があったことに感嘆するからである。
それは今も通用していることは人間の本性は今も環境が変わっても変わらないからである人間の欲が消えたわけではないから同じことをくりかえすのである。

タグ:20代

2017年12月16日

人間の不可解 (有能でも成功しない-神が関与しているためか?)


人間の不可解

(有能でも成功しない-神が関与しているためか?)

人間はそもそも不可解である。普通だったら有能な人間が成功するはずなのである。みんな有能なことを望んでいる,有能になるために努力している
では世の中で本当に有能な人が成功しているかとなるとしない
かえって有能すぎて失敗している人もいる

一人親方だった人は有能である。大工でも優秀である。庭仕事もできる,あの人はなんでもできる,体力も柔道の有段者のように強い,しゃべるのもうまい,だから人と接するのがうまいから営業で成功するから事業したら成功する
その他いろんなアルバイトもできる,焼き芋売りとかもしたとか何でもできるのである。だから自分は感心して見ていたのである。

でもこの人はあらゆる面で有能すぎていろいろなものに手を出しすぎていたのである。
ブラックなものにも手を出していた,そういう方面でも有能だったのである。
とにかく交渉力もあるから何でもできる,でもなんでもできることがいろいろなことをしすぎることでブラックなことにも平気で手を出す
ただもうければいいというだけになる,それだけ有能だったらブラックなものに手を出す必要もないのにさらに金儲けのためにやる
原発が建つとなると景気良くなると賛成していたのである。
その人は金儲けのことしか見ていない,だからいくら有能でもその人は有能なのかともなる

器用貧乏の特徴

なんでもそつなくこなす,対応力がある,でも一つのことを守り通すことなどができない何でもできるから手を出さなくてもいいものまでする,能力がありすぎてそうなっ,ているのも皮肉である。

有能だというとき時と所によっても違ってくる,戦場では戦争がうまい人を平気で殺すような人が有能とされる,それは非日常の現場でありそういう所で力を発揮する人はまた有能なのかともなる
人間はあらゆる面で有能な人はいない,人間が有能だというとき何かに限定して有能なのである。事業を起こした人は電気関係では有能だった
でも自ら事業を起こしたとき失敗した,経営とかまた別な能力が必要だからである。
経営は商売人になることでもある,経営と機械関係に詳しいとかは別な能力なのである。でも理系で電気関係で有能だから経営もできると自分では思って失敗した

何かそうして人間の有能さは神のような万能ではない,ある一分野でしか有能になれない天才だってそうである。生まれつき恵まれた天分をもって生まれてきたからといってそれが社会で有能にされるとは限らないのである。
なんかそれだけ天才であっても十分に能力が発揮されなかったなともなる
例えば英雄だってまず平和な時代だったらいくら有能でもその能力を発揮できない
そういう場を与えられない限り発揮できないのである。

家康が天下をとったのは別に家康が有能というわけではなかった,天才だったのは信長と秀吉だった,家康は平凡だったとされる,ただ長生きしたことと運が作用してそうなったといわれる,信長は本能寺の変で死に秀吉も死んで残されたのが家康だけだったからだと言われる,そういう運に恵まれていたからだともなる
武田信玄も病気で死んだとかいろいろ家康の時代になるまでにあって最終的に家康が天下を治めたとなる
家康が別に特別の天才でもなかったのにそうなったのである。

人間有能であることにこしたことはない,みんな有能になりたいのである。体力で強くありたいのである。自分も無能だから体力もないから有能でありたいと願って来たのであるただ人間は何か強いと思ってももろいなとつくづく思った
一人の身内は本当に女性でも男が恐れるほど強かった,でも認知症になり信じられない弱者と化してあえなく死んだ,これも信じられない死だった
最後の言葉は「俺は優秀だった」と言って死んだのも悲惨だった

人間は例えどんなに有能であっても無能化される恐怖を感じたのである。
人間が有能だというとき原発を作ってそれを運営した人達は科学者であり今の世の中では一番優秀なエリート集団だったのである。
でも事故で無能化されたのである。
そもそも人間の有能さとは賢さとは何なのか?それ自体が疑問になる
人間は賢いから原子力を作り核兵器を作った,でも核戦争で滅びたとなると最高に馬鹿だった愚かだったのが人間だったとなる

人間は神から離れて絶対に賢くも有能にもなれない宿命がある

全能の神なら賢くなれる,有能になれが人間はなれない,いくら有能だと思っても極一部のことで有能にすぎないのである。
そして何でもできる器用な人も器用貧乏とかなる,なんでもできるからとブラックなことにも手を出すのは疑問なのである。なぜならそんなことしなくてもその人は有能なのだから稼ぐことができるからである。
ただその人は金をもうけることしか考えていないのである。
そんなことみんなそうではないといえばそうなる,でも何が欠けていたのか?
肝心なモラルが欠けていたのかもしれない,いくら有能だってモラルが欠けていたらそれは人間として大きなものを欠けることになる
核を発明して原発を作り核兵器を作る有能さがあるがそれで人を殺すのにつかったら科学者は有能だったのかとなる,人類は核戦争によって滅亡させるからである。

人間は有能であることが無能に通じている
人間は強いことは弱さに通じている

人間はいくら有能になろうとしてもなれない,有能だと思ってもそれが無能に通じている認知症になれば人間は無能化される恐怖をまざまざと見たからである。
いくら体が強くても病気になれば全くはかなく死んでゆく
人間はどんなことをしても絶対的に有能な人間になりえない,超人を唱えてもニーチェは無能人間になった,つまりなんらかで人間の奢りは神によって砕かれる運命にあるのだ
人間は神なしでは有能になれないのである。
人間はいかにもろいものか様々な死を見ていたら実感するからだ

そういうことは聖書で説かれている

『旧約聖書』「コヘレトの言葉(伝道の書)」(9・11)に見られることば。「足の速い者が競争に、強い者が戦いに必ずしも勝つとは言えない」。まじめな人が報われるとは、限らない。善人が、幸福をつかめるとは限らない。知恵のある者が、勝利をつかむとは限らない。

見よ、主、万軍の主は/エルサレムとユダから/ささえとなり、頼みとなるもの――すべてささえとなるパン、すべてささえとなる水――を取り去られる。

 すなわち勇士と軍人、裁判官と預言者、占い師と長老、 五十人の長と身分の高い人、議官と巧みな魔術師、老練なまじない師を取り去られる。 わたしはわらべを立てて彼らの君とし、みどりごに彼らを治めさせる。 

あなたを導く者は/かえって、あなたを迷わせ、あなたの行くべき道を混乱させる。 (イザヤ)

だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする 者は高くされるであろう。
( 箴言16)
高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ 。 ダニエル
高ぶり歩む者は低くされる。

これは何を意味しているのか?現代に合わせればやはりこの言葉を活きている

すなわち勇士と軍人、裁判官と預言者、占い師と長老、 
 五十人の長と身分の高い人、議官と巧みな魔術師、老練なまじない師を取り去られる。 わたしはわらべを立てて彼らの君とし、みどりごに彼らを治めさせる。

 なぜこんなことが言われるのか?要するに上に立つものは有能とされてもあてにならない有能だからこそあてにならない,軍人とか裁判官とか予言者でも偽りの予言者がいる
身分の高い人はあてにならない,その人たちが民を守ってはくれない
今は政治家などは自分のことは考えても民のことは考えない
偽りの予言者はカルト教団なども取り去られる,現代なら科学者もこの中に入ってくる
科学者が今の世の中では一番有能とされているからだ

そしてみどりごに治めさせる

これはなんなのだろうか?みどりごにどんな能力があるのかとなる
神が指導者にしたのはみどりごだということである,それは最も無能なものなのである。その意味するものはなになのか?
人間はいくら有能でも有能でありえない,だから人間が有能だと思うとき無能にされるのである。みどりごは何の有能さもない,無能だから治められるともなる逆説がある
みどゃごは高ぶることはない,この世で高き地位あるものは卑くくされる
だから意外とこの世で地位ある者は天国に行けないという逆説がまたある
天国にはこの世で卑くくされた者がいるとなるのである。

こういうことは老子とか荘子の思想にもあった,無用の用というとき有能なものを否定していたのである。無用の中にこそ用があるという逆説である。
だから老子は政治を否定したアナキーになったのである。
人を治めようとする有能なものがかえって害になる,かえって治めない方がいいというときその逆説を語っているのである。
だからここには東洋思想との共通性がある。そもそも宗教は東洋から生まれた
イスラエルまでは東洋なのである。アジアなのである。
宗教の淵源はアジアにあるから共通性があるとなる
インドの思想でもなぜ座禅とかするのか,無用者になっているのか?
禅宗では大愚とか愚かなることを悟りのように見るのも不思議だとなる
禅宗とかでもヨーロッパのキリスト教から見ると理解しがたいものになる
ヨーロッパのキリスト教だと修道院から資本主義が生まれたというとき常に勤勉なもの働くものとしての思想があったからである。
瞑想があったとしてもそれはアジアのものでありヨーロッパでは勤勉に神のために働くという思想になったのである。

ともかく人間はどんなに有能だと思っても無能化する,どんなに体でも何でも強いと思っても弱者化する,それは国でも同じである。アメリカが大国が強いとは限らない
いつも大国が強いものが勝つとは限らない,だからそこに世界史にも神が関与していると聖書では見ている
国も栄枯盛衰がありいつまでも栄えた国はないからである。

人間が不可解だというときそこに人間だけでは解きあかせないものが必ずあるからだ
それは科学的なものでも人体でも何でも科学者が解きあかしたわけではない
常に不可解なものが残る,塩分が悪い高血圧になるというのもその説も嘘だったとかなる個々の人生でも不可解なのである。自分なども危険な所で死んでいたかもしれない
でも生きていたのは神の関与があったからだったとのかともなる
それでも死んでいる人は死んでいる,それはなぜだろうとなる
ふういう不可解は個々人ではいくらでもあり解明されないのである。
神の関与があるとするときそれとは結局神しかわからないかそうなる
来世のこともわからない,それは神のみぞ知るとなるからである。
タグ:有能と無能

2017年12月15日

強いられるカルマの清算 (金でもなんでもカルマから逃れられない人間)


強いられるカルマの清算

(金でもなんでもカルマから逃れられない人間)


カルマというとき金になると具体的でわかりやすい,借金になれば事情はいろいろあるにしろ具体的にカルマを背負ったことになる,その借金を他人に負わせることはできない
カルマは責任のことでもあるからだ
一旦何であれ金をもらえば責任が生じる,だから浪人は金をもらって人を殺すとかなる
ヤクザでも金をもらったから嫌だけ金をもらっているからなと人を殺すことまでする
つまりそれもカルマを金で背負わされたのである。

ここ介護などで苦しんだ自分はカルマの清算を強いられたのである。
カルマというとき自分のカルマもあるが家のカルマもある
家には必ずプラスのカルマとマイナスのカルマがありマイナスのカルマは苦しみとして現れるのである。それでなぜ自分はこんなに苦しむのか?
苦しむことによってカルマを自覚するのである。

家のカルマを背負うの長男長女になりやすいのでてある。
その家にどういうカルマがあるのか外から見ればわかりにくい,でも何の原因もなく人間はただ偶然に何かが起きるのか,事件でも何でも起きるのかも疑問なのである。
例えばなぜある人が金を盗まれたとか強盗にあうとか殺されることまである
なぜその人はそういう目にあわなければならなかったのか?
ただの偶然なのか?それもなかなかわかりにくいけどそこにもカルマの必然性があるかもしれない。

自分の場合あったのかもしれない,大金を盗まれた,それは一見自分に責任がないように見える,でも家の長男だとするとその家のカルマを背負うことになる
何か金で得したということが自分の家にあったからかもしれない,別に普通に働いて遺産を残したのだが一人は公務員でありそれで他より金が入ったということはある
公務員はみんなからたいして仕事もしないのに給料が高い恵まれていると常に批判されているからだ,確かにそういうことは公務員に実際にある,いろいろな特典が公務員にはあるからだ,それを自分は知っている

なぜそういう人が自分の家に来たのか?それもカルマだったのかともなる
人の出会いにもなんらかカルマが関係しているのかとなる
金はあればいいたまればいい,なんであれいいと思う人が多いが金に怖さがある。
金は具体的なカルマだからである。
まず自分はわからなかったが事故で死んだ人の保険金などをもらったりしたら後で災いになる,その怖さを今になると感じる,保険金が額が多いから危険なのである。
遺産でもそうである。金の額を関係している,金が大きいものとなればカルマも大きくなる
それで富岡八幡神社の清算な事件が起きた,その遺産であれ収入が桁違いに大きいものだったからともなる
そんな金が神社に集まること自体何かすでに災いとなるべきものがあった
だからカルト教団などに莫大な金があり土地でも財産があるから凄惨な争いになる

別に金があることが悪いわけではない,ただ分相応の金があれば問題が起きないのかもしれない,富岡八幡神社でもカルト教団でもあるところに莫大な金がありそれが災いとなるだから金が欲しいというけど金には何か怖いものがある
例えば宝くじで何億円とかあたった人がいるとする,するとそれに当たらない人がほとんどである。すると当たらない人の羨望が当たった人に向けられる,なぜあいつだけがクジにあたって自分はあたらないのだという不満がその人に向けられるのである。
その数も多いからその金が災いになる,それで宝くじにあたってもその後いいことなかったともなる

カルマというき家だけではない,他者のカルマも関係してくる,なぜその人がまた来たのか?その人は飲食店で働き70万とかの給料をもらえなかったのである。
その時津浪や原発事故でこの辺の仮設とかで繁盛したのである。
でもそうして働いた分がもらえなかったことを自分の所に来て嘆いていた
その飲食店は暴力団関係の人が経営していたのである。
これも本当に理不尽なことだった
結果的に自分がその金を払うことになったのである。
それは自分の家のカルマとはなんの関係もないのにそうなったのである。
その時自分も困っていることで払うようになったということもある

だから家だけではないなんらかカルマの清算が強いられる,それは他者もかかわっているそれでもう一人の親戚にあたる人にも金を払った,それもやはりカルマだったから清算したとなる,それで金は結構使ったが気持ちが楽になった
死者を恐れるのはなぜかというとき良心がとがめられるからである。
なにか死者に対してやましいことがありそうなる
それは死者に対しては偽ることができないということで深刻なものとなるのである。
だから金額まで指定して死ぬ一カ月前に母に言われたことは守った
認知症になってわからなくなったと思ったが正気にもどって大声で言ったことは忘れられないからだ,それを守らないとすると本当に怖いものとなる

いづれにしろ金に関しては自分の家であれカルマを清算したという感じになる
これからまたどうなるかわからないがそういう感じはある
この世の問題はほとんど金をめぐる問題である。
だからカルマもそこに現れのが一番多いのである。
そしてカルマとは因縁でありその因縁を切るということも悪いカルマを断つということになる
結婚でもそうであり離婚することは相手との因縁をたつことだがそれが一旦結婚するとなかなかできなくなる,つまり因縁を断つということカルマを断つということは相当なエネルギーがまた必要になるのである。

母の実家との因縁はあるが兄の墓を自分の家に建てたので因縁が切れたのかとも思う
実家の墓参りしていればやはり因縁(カルマ)はつづく,その因縁を背負うことは苦しいとなる,その因縁(カルマ)は3百万円で墓を守ってくれと頼まれた人にある
3百万受け取ったことと実家で育った人なのだからカルマを因縁を受け継ぐのである。
だから安易に金をもらうものではないと思った
そんな因縁を受け継ぐということは楽なものじゃないからだ
ただそれももし半分でも自分がもらっていたら責任がカルマが生じていた
だから墓は一人ではなく何人かで守るのがいいとなる,責任が分担されるからである。
しかし金は一人じめしようとする人が多いのである。

カルマは別に金だけではない,因縁のことでもある,悪い因縁はなかてか切れないのである。そのカルマを断つには相当なエネルギーが必要になる
結婚したり何か男女間でも縁を結ぶと縁を切るために殺されることまでなることが事件としても結構ある,縁切り寺も神社もあるのもわかる
神社は縁を結ぶ所でもまた縁を結び災いとなることもある
ともかく自分はカルマを清算して楽になったという感じはある
ただ金の問題は生涯つきまとう,金のカルマが本当に清算されるのは死んでからとなるかもしれない,死んでようやく清算されるのかともなる

我がカルマ清算して楽や年の暮

年の暮になると借金とかなんとか清算が強いられる,60以降は必ずカルマの清算が強いられる,それは苦しみとなって現れるのである。

2017年12月14日

金と宗教の問題 (宗教も金をとる口実としてある)


金と宗教の問題

(宗教も金をとる口実としてある)

金には何か必ず責任がついて回っている,金もらえばいい,もらったらどう使うとか関係ないとも考える
でも時代劇で良く浪人がいて金をもらうと誰でもいいから殺すということをする
ヤクザでも金をもらったからなと本当は喧嘩に参加したくなくても殺したくなくても殺すそれは金をもらったから責任が課せられてそうなっているのである

ではなぜそうなるのか?別に金があれば金がなくて追い詰められなければそうはならないのである。人間は金で変わる,何でも金をもらえばいいともなる,遂には犯罪を犯しても金をとればいいとなる
それは金に追い詰められれば誰でもそうなるのである。
明日食べるものがない,金がないとなればわずかの金をとるために人を殺すことだってありニュースとなる,それは追い詰められているからである。
浪人などは定収入がないからそうなりやすいのである。

人間は別に悪人でなくても追い詰められると犯罪者になる,もしそうして金にでも追い詰められなかったら犯罪者にもならない,普通の人として終わっていたとなる
だから借金に追い詰められた人は必ず犯罪予備軍なのである。
借金によって人は追い詰められているから他人のことなど考えない
どんなことであれ借金を返さねばならないとなり犯罪にもなる
そういう人が自分が困ったとき来たから恐怖だった
自分が殺されるのではないかというまでの恐怖になる
別にその人ももともと悪い人ではない,うまくいっていたときいい人と見られていたのである。

ただ人間は追い詰められると変わる,悪魔にもなる,ある人はホームレスだけど遍路のようになっていた,そして自分が金があまっていたので大きな金をやると言ったら素直に受け取らなかった,そしてではお礼に経文を唱えさせてくれといういう
その時良くそのことがのみこめなかった,経文を唱えることができるのかと思った
その人は何かホームレスとなり遍路のまねごとを覚え経文を唱えるようになった
その人は僧の修行もなにもしたわけではない,でも追い詰められているから金をもらえるならと即席で僧になり経文を唱えたのである。
その人は追い詰められてそんなことをするとなると悪人になったとなる
僧を偽り金をもらう人となった,その人は金欲しいだけであり何か修行するわけでないからである。

宗教もただ世渡りだけのものなのである。そういうことはカルト教団にもある
宗教法人になると税金もかからないしそれで収入になるし御布施でも賽銭でも金が入る
それで富岡八幡宮の宮司殺人事件では土地を所有しているから駐車場にしたりかなりの収入がありその財産争いであのような凄惨な事件になった
結果的にはあまりにも金がありすぎてその財産をめぐって凄惨な争いになった
兄弟の遺産争いならいくらでもありそれが宗教がからんでいたが実際は財産争いになっていたのである。
もともと寺とか神社でもそういう利権化した場所としてあった。
それはカトリックなどでは顕著であり土地を所有しているから権力をもっていたのであるそして世襲制であり同じようなことが起きてルターの宗教革命になったのである。

だから宗教と経済を考えるとき宗教は本来なるべくそうした利権とかかわらない,金とかかわらないことが純粋性を保てるとなる,世俗的にかかわると汚れてしまうのである。
それで出家して世俗とかかわらず僧侶は質素な生活をしていた
ただそうして出家してもそこもこの世からは離れられず世俗化しして利権化したのである
金となると何か金をもらうと必ず責任が生じている,だから責任も果たせないのに金をもらうと問題が起きる,なぜ弁護士が何もしないで百万もらったのか?
裁判もなにもしない,当事者と交渉もしない,何もしないのに百万が転がりこんだとなるそれはもめごとになり頼まれたのだからもらっていい金だともなる
でも何もしないのに交渉もしないのに受け取れる金だったのかとなると疑問になる
最初に百万とるということ自体が変だったのである。
そして何の責任も果たさないのに金をだけを受け取ったのである。

「これこれで今困っているんです」
「では百万を先にもらいます」
「それで相談にのってもらいるのですか」
「そういうことです」

しかしその弁護士は何もしていない,本当に何もしていなのに金をもらっただけなのである。実際の交渉は運送会社と保険会社で行われただけであり何もしていない
そしたらなぜその金を受け取れるのか?第一何もしないのに最初から相談料として百万も受け取るのか,要求するのか?
そしてなぜそれで金を払ったのかとなると今ふりかえると変だなと気づいた
自分はその時何かわからないから気にもしなかった

つまり金には責任が生じている,何もしないのに金をもらうことは責任を果たさないのにそうしたことは納得がいかないとなる
ただ相談料として10万くらいとられてもそれはいいとなる,百万となれば百万の責任が生じているのである。
だから何か弁護士でも推理ドラマで理不尽でもクライアントの味方として働く,それはクライアントから金をもらうから責任があるからそうなる
それは浪人が金をもらって何でもする,人殺しでも請け負うとにているのである。
弁護士はだからブラックになりやすいのである。
そんなこといったらあらゆるものがそうなりやすいし金など得られないともなる

まず飲食業があるとする,それらの仕事は簡単に百円でもごまかせない,多くは金はとれない,その仕事に見合ったものしかとれない,千円の料理を作るのにごまかせないからである。材料にしても料理するにしても千円の値段によって決まる,それを百円だけですませて利益を得ることが不可能である。そんなことしたらすぐにわかるからである。
その店は誰も次から来なくなるからである。
物を売るにしてもそんなにごまかせないのである。値段なりにしか売れないしもうけられないのである。

ただ宗教とかで金が入るのはそれだけで宗教とはまるで違った場所になっている,利権化した場所なのである。金儲けの宗教だとなる
カルト教団でもそうだし今回の富岡八幡宮事件ではあまりにも露骨に凄惨なものとして現れたから驚いたのである。

そんなことを言ったって人間は金から離れてありえないのである。自分だってそうであるただ富岡八幡神社の宮司の家族は異常である。賽銭とか土地の所有で豪遊していた,歓楽街で散財していたからだ,宗教によって神社が食い物にされていたのである。
そもそも賽銭とかオミクジとかあるがそこに願う人も祈る人もそもそも不浄なのである。何か賽銭とかにはこの世の汚れた欲をかなえてほしいという願いがこびりついていいないか?御神籤にしてもそうである。神社は何かとなるとそんな神聖な場ではもともとなかった,良く近くでクジを買う人がいつもけっこういるなと見ている
なにか一攫千金をねらう庶民が結構いることに驚く,そんなもの当たる確率からしたらほんとんどないのにクジを買っているのである。
神社でもいろいろあってもそこも何か世俗的な場である,祭りとかを継承しているから神社はまた違ったものとしてある

とにかく賽銭をもらう,その金で豪遊する,賽銭をもらうことはやはり責任が生じている何にでも使っていいとはならない,ただ宗教の不思議は遍路の真似してお経を上げていたホームレスのようにそれだけで金をもらうことが正当化される
お経を上げたのだからもらうのは当然だとなる,その人はそうして乞食ではないと威張ることにもっないたのである。
その人は乞食としてもらうことを嫌っていたのである。人間にはプライドがあるからそうなる,そしてお経をあげてやったから高額な金をもらうのも当然だとなり逆に金をやったのに礼をしろとまでなっていたのである。
こういうことはカルト教団で寺でも神社でも普通にある世界なのである。
その宮司は賽銭であれ女遊びで豪遊していたのである。

タグ:金と宗教

2017年12月07日

金に働くカルマ (後で意識される怖いものとなる金もあるので注意)


金に働くカルマ

(後で意識される怖いものとなる金もあるので注意)


金にどうしてカルマになるのか?それはわからない,金というとき何かカルマが働くとしてたら大きな金である。
百万以上の金だろう,その他の金は日常的なものに使うのだからいちいちカルマがあるとか気にかけていたら生活もできなくなる

ただ金にはなんらかカルマがつきまとっている,それも意識しなくてもそれがいつか意識させられる,その金は親から受けるカルマもある,自分だけのことではない,遺産とかなると親も必ず関係しているからである。

ふりかえると例えばなぜ弁護士は裁判もしない,何もしなくても百万の金が転がりこんだのか?職業柄そうなったともなる
運送会社に兄が勤めて死んだときそこに保険金がおりることになった
自分は車をもっていないのだからそれすらわからなかった
でもなぜ骨を置いておけとかいろいろいいふくめていたのか?
休業補償など書類でもなかなか書いてもらえずでもめた

それで困って弁護士に頼んだのがそれは仙台である。事故は静岡で起きたのだから弁護士は何もしない,本当に何もしない,裁判にもならない,保険会社の人が何度も運送会社の人に頼み書類を書いてもらったのである。
弁護士は何もしていないのに百万円が労さず入ってきたのである。

ただ頼みに行ったら報酬として百万円必要だとして払った,でもその弁護士は何もしないのである。何か裁判の結果として払うならいい,何もしないのにもらったのである。
ではこの弁護士が悪いかとなるとそうともならないだろう。
第一頼みに行ったのだからそうなった,ただそれが事前の報酬として必要なものだったのか?なぜなら何もしないし実際に手続きしたのは保険会社の人だったからである。

ただ何もしないで漁夫の利を得たとなる,弁護士という職業自体そういう争いごとがあり利益を得る,職業柄そうなったということである。
でもそれは十万くらいならいいがなぜ百万も必要だったのか疑問なのである。
弁護士も何かブラックな職業だというときこういうことがあるからかもしれない。
つまり報酬費用として払うなら最初から百万を払う必要はなかったか要求すべきではなかったからだ

ただそうして別にその金は今度は離婚した親が病気になったとかで子供がまだ中学生だったりして実際は使われたのである。離婚しなかったら保険金は妻に全額入っていたのである。ところが事故を起す数カ月前とかに離婚していたからもらえなかった
でも実質は親が使っていたのである。

そして同じようにその娘も子供のために使うと言っても自分のために使っていた
高校を卒業して学校に入るために使うというがその人は金が入るとぱっぱっと使う女性である。それは父親とにていたのである。
だから母が最後に金をやれとして遺言した金をやったが実際はすでに使っていた

だからその娘も同じカルマを金でくりかえしているのである。
ただ事故で死んだ人や不孝で死んだ人の金は本当は非常に危険なものだった
人の不孝があり残された金だからである。
子供は無駄に使うにしろ使う権利があった,その他はなかったのである。

まず金もこんなふうに厳格に考えたら金はたまらないだろう。
ただ金には本当に受け取ってはならない金があることは確かである。
それがその時は意識しないで金があればいいとなり受け取る
でもそれが後でカルマになるから怖いのである。

そもそもこの世で毎日事件が起きている,強盗だって起きている,それはただの偶然なのだろうか?
このことはいちいちその人のことなどわからないから知り得ようがない
ただ何か偶然として事件が犯罪が起きているように見えてもそうではないのかもしれない何かの必然性があって起きているのかもしれない
自分も犯罪にあって大金を失ったとしても何か冷静にふりかえるとそれももしかしたら自分が親から受けたカルマだったのかともなる
なぜそういう人が自分の家に来たのか?それも不思議だとなるからだ

カルマはその時は意識しなくてもいつか意識させられる,その時カルマに気づくのである親のカルマも受け継ぎカルマを意識するのである。カルマは自分だけではない伝えられるからだ
カルマは悪いことばかりではない,ここで損したけどここで得したというとき何か金の帳尻が合う,そういうことを経験している人が結構いると思う
損ばかりしているとは限らないからである。

いづれにしろ金は別に正当な理由があれば大金でももらってもカルマとはならない,悪いとはならない,何か正当な理由なしでもらう金が災いを生む
一千万でも拾って幸運だったとはならないのである。そこにその金をもらう正当な理由がないからだ,法律はなんでも理由を追及しているのである

巨大の遺産分けでも苦労して介護した人がもらえないというのは理不尽だとなる
それでただ血のつながりだけから遺産分けするのも不公平になる
ただそうしているのは原則として公平だからそうしているだけであり何でもみんな公平にはなりえないのである。

ともかく金は怖いものをもっている,何でも金ならもらえるならもらえばいいとはならない,何らかの理由が必要でありそれならいい,ただ問題が起きるのは百万以上だろう。
その他いちいち金についてカルマだとか考えていたら生活もできなくなるからだ
ただ受け取っていい金といけない金は確実にあるのだ
それが災いをその時は意識しなくても後で意識させられるから怖いのである。

タグ:金のカルマ

2017年12月06日

力を与える死者(詩) (人間の命や人生は自分だけのものではない)


力を与える死者(詩)

(人間の命や人生は自分だけのものではない)

母の面影
時にして浮かびぬ
その残せし家に
石一つ
目立たざるも
辛抱強き人かな
かつて姉はおおらかに笑いぬ
母はやさしく微笑みぬ
我はこの家にはぐくまれしも
母こそあれ
姉こそあれ
今我を思う人の一人だになし
何故か責めらるのみ
冷たき無情の世よ
時にして浮かびぬ面影や
姉死して八年
母死して三年
時はたちまち過ぎゆきぬ
我はなおこの家にありて偲び住む
今年もはや暮れんとす
力強く生きた人
誠を生きた人
辛抱強く生きた人
その人は死んでも
家の国々の霊となり
国々を見守りぬ
死者はその家の人とともに
国々の人と共に生きている
そういう家は国は強い
力は祖先からも与えられる故に
力は神から天から地から与えられるもの
汝一人にしては成せず
力は与えられものなれば・・
姉はおおらかに笑いぬ
山のごとしかも
母はやさしく微笑みぬ
石のごとしかも
二人は我を支えにしを・・・


感覚を鋭くすれば、亡くなった愛する人があなたに寄り添ってくれるのを感じることもできるのです。

そういうことは確かにあるのかもしれない,何か面影が浮かんでくるというのもそうである。つまりそこにいるような感じである。見えないがいるような感じである。
自分の場合は六十年間一緒にいたということの影響が大きいのである。

死者とは何かというとき死者とはその人の生前の継続として死者がある,死者となっても全く別なものに死を境にしてなるのか?
人間は死でもってすべてが断絶するように思う
死が骨と灰にしてしまうからである。するとどうな生き方をしようと金持ちであれ貧乏人であれ悪人であれなんであれみんな死ぬとなればそんなことに意味がないともなる

でも死者は生前が全く切り離して考えることはできない,極悪人がいたとして死んだから全く生前のことと関係ないように見る人はいないのである。
子供でも親でも毒親だったら死んだからと供養すらしないのである。

人間の一生など自分勝手に生きればいい,一回限りの人生だ,その人の自由に勝手にいきればいいとはならない,それが子とか子孫とか周りに必ずなんらか影響するからである。
人間の一生とか人生とか命とかは自分だけのものではない

みんな自分さえ良ければいいんだ,自分の人生は命は自分だけのものだということにとらわれている,他人は関係ないことだと思ってもその人生とか一生が他人に影響を与える
特に子や子孫に必ず影響を与えるのである。
すると自分の一生や命も自分だけのもではないとなるのである。

考えてみると自分だけを自分のためにだけ生きているとなるとかえって疲れる,自分のエゴのためにだけ生きていると疲れる,力も出ないのである。
母親は子供を生むとかわるというとき自分より子供のために生きるとなるからである。
だから母は強いとなる,自分のだけにため生きることは力が出ないのである。

要するに死者といっても死者を感じる人と感じない人とがいる,何かそこにいるなと感じる人もいれば感じない人もいる,それは生きている人にもよるじ死んだ人がどういう人だったかにもよっている
自分はあまり母のことは思ったことはないが死んでから何か思うようになったのも不思議である。生きているとき主役ではなかったから思わなかったのである。

人間が生きたというときいろいろある,でも死者はどうしたら喜ぶのか?死んだ人は喜ぶことがあるのか?それもわからないが死者は讃えられれば喜ぶと感じる
卑しめられれば喜ばないということがある,だから戦争で死んだ人達が貶(おとし)められれば死者は喜ばないのである。そこに英霊とか崇めることの問題が生じてくる

ただどんな人間でも完全な人間はいない,マイナスな負の部分が必ずある,だから死者は異常に美化して神のようにするのは問題なのである。
死んだからといって生前の継続であることは変わりないのである。
でたらめな生き方をした人が死んで突然変わることはないのである。

別に自分の家族が理想的なものではない,誠を生きたともならない,マイナスの部分も大きかったのである。ただ自分にとっては概していいものとして働いたから偲んでいるのである。そして力を与えられているのである。

まずひどい娘だわとか言って死んだ母がいるけどそういうのは子供でも死者が力を与えないだろう。恨んで死んだからである。そこに介護とかが苦しくても無情にできない切実な問題がある,親子関係でもいろいろあるからその辺の事情は外からわかりにくいのである。

本当に誠に生きた人は後世の人に力を与える,それは家族でなくてもそういう人はいる,だから人間はそういう人に習い努力すべきだとなる
ただ人間は死んで終わるわけではない,何か死者でも時間がたって家族でもそんな人だったのかと気づくことがあるからである。
生きているときはわからないが死んで気づくことが結構あるのである。
だから人間は死んですべて終わりにならないことだけは確かである。

2017年12月05日

人間の最後のメッセージ (人間が死んで残すものは何なのか?)


人間の最後のメッセージ

(人間が死んで残すものは何なのか?)


人間はみんな死ぬ,そしてどんな平凡な人でも何かを残して死ぬ,そしてその一生を残された人がふりかえるようになる,自分の家族はみんな死んだ
最後にやはりそれぞれメーセージを残したのである。

母の場合は認知症になり金のことがわからないのに金額まで指定して最後の力をふりしぼるようにして大声で自分に言った
それには驚いたので孫を家に泊めてその金を支払った

その金は金だけのことではなかったのだ,孫に母の気持ちを伝えるものだったのである。孫はいろいろ不孝だったけど母は孫を思っていたということである。
他に誰も孫を思うものはなくなっていたからだ

でもその孫は金が使ったとかでたらめな生活をしている,だから金をやってもその金は活きていないのである。
そして母が金だけでない,孫に伝えるものがあったのだ
孫の行く末を思っていたということである。誰も思う人がいなくなったが母は思っていたそのことを孫は受け止めていないのである。

人間が残すことは何のなのか?それは芸術家なら作品とかなる,でも普通の人でも何かを残してゆく,その人の人生そのものが後世に残すものとなる
母の一生は苦労の一生だったとかなる,ただ戦後は食べ物とか贅沢はしていた
楽な面はあった,戦前はみんな貧乏だったから母だけではない,大正生まれとなるとみんなそうである。だから一般的に大正生まれは辛抱強い人が多いのである。

人間はどんな人でも何かしら伝えるものがある,ただ自分の家のことだと関心をもつが他人の家のこととなるとわかりにくいから関心がもていないのである。
なかなか事情がわかりにくいのである。

母が最後に残した誰かだす草稿の手紙は宝物になった,家宝というとき物に注目するが実際はその家に残されたものは物とか財産だけではないのだ
何か家訓とか残る家はそれなりに精神的財産を残しているのである。
そういう家は栄えるとなる

いづれにしろ人間最後に残す言葉は重いものとなる,キリストの死はあまりにも壮絶だったのである。でもそこで最後の愛をその最大の苦痛の中で示したとなる
それは普通の人にはとてもまねできるものではなかったのである。

それは別として普通の人でも最後に残す言葉は重い,認知症になっても最後は正気にもどるというのも不思議だがやはり人間は最後になれば違うのかともなる
ただ無惨に死んでゆくものもあるからみんなそうとは限らない,ただ人間最後に残す言葉は重いものとなる

そしてそれは後世のものに家族なら遺族に伝え残される,人間はみんな死んでゆく
では何を残すのだろうか?財産にみんな注目しているがそうではない
その人の人生を後世に残す,でたらめな人生を送ったもの親でも家族は供養したりしなくなる,それはただ苦しめられた人でしかなくなるのである。

人間がどう生きるかは別に自分の人生だから自分勝手に生きればいいとはならない,別に平凡な人でもそうである。その子供に孫に影響するのである。
ただその子供にしてもそんなことを言ってもそれを重く受け止めないでいい加減に生きる人はいる,最後のメッセージでもそれを重いものとして受け止めないのである。

人間は歴史をもつというときそれは家族に歴史がありそこから何かを教訓としてくみ取り後世に伝えるということがある,だから歴史というとき何かむずかしいのだが家族にも歴史がありそこから親や祖父母の人生を知ることも歴史を知ることなのである。

自分の家族の歴史でも一人は離婚したて交通事故で若くして死に悲惨だった,確かに不遇だった,でも不遇だからといってそれがその人の人生を決めてしまうのか?
もし不遇な運命でもそれなりに普通でも生きたとなれば家族に残すものがあった
つまり不遇な人だと不遇を普通に生きただけで称賛すべきものとなるからだ

とにかく人間は最後からふりかえり考えると人生でもいろいろなことが理解しやすい,若いときなど無我夢中で生きているからわからないのである。
でも人生をどう生きるべきなのか?それはいろいろあるから個々人で別になるから簡単には言えない

でも何か不遇でもなんでも辛抱強くあれというのも基本的に生きることにはある
不遇でも辛抱強く生きろということが大正生まれとかの人からは学ぶのである。
今の人は文句ばかり言うことが多い,近くの障害児を六十以上まで世話した人はそのことについて他者には口を閉ざしていた
一方で障害者をもって人は延々と人にその不満を言う,だからなぜあの人は不満を言わなかったのか?ただ耐えていたのかとなる,それも普通はできないことである。

こうしてただ教訓を残すというとき楽な人生を送ったら残らないのも逆説である。
苦しいけど生きたというとき後世に残すものがある,子は親の背を見て育つというときもそうである。楽に過ごす親を見ていたら楽に生きるのがいいとなるからだ
苦労はしたくないとなるからだ,ただ苦労でもすべてがいいとはならない,母の場合は苦労ばかりで花でもなんにも興味をもたなかったからである。
だから索漠とした人生でありマイナスの面があった

母の三周忌は命日は十二月十二日である,これも一生90過ぎても忙しく働いていた母にふさわしかったなとなる

2017年11月30日

なぜ死者が美化されるのか? (エゴや欲が消失するため)


なぜ死者が美化されるのか?

(エゴや欲が消失するため)

死者とは何か謎である、だからいろいろなことを生きている人は言う、死者が実際に何か存在しているものなのか?肉体が消失しても何か依然として存在しているものなのか?
それは謎でありわからはない、わからないからこそいろいろ言える

ただ死者に対して確実なこと死者にはこの世から離脱したのだからこの世に対する欲がないのである。
そのことが死者が生者と根本的に違う点である。
だから遺影を見ていると何か心が浄化されるようなけ不思議な気分になる

それは死んだ人にはもうこの世の欲はないことによっていたのである。
人間の問題は限りない欲がら生まれてくる
欲は老人になってもなくならないのである。
人間の欲は食うことだけではない,性欲だけでもない,様々な欲がある,名誉欲とか名声欲とかもある,

ある人は老後に俳句を作りそれでその人は俳人になった、俳句で一角の芸術家となったと思いこんで自慢していたのである。俳句はそうして簡単に作れるかそういう思う人がかなりいるのである。
それも結局人間の欲なのである。何かしら欲があり欲が消えないのである。

人間が欲であるというときカルト宗教団体をみればわかる,そこで人間は巨大な欲の塊りとなっている
あらゆ欲がそこで肯定されて拝めばその欲がかなえられるとなる
そんな教祖を信じているのはなぜなのか?それは自分たちもその欲がありその欲を肯定されるからあがめるのである
もしそうした人間の限りない欲を否定したら誰もついてこないのである。釈迦のように洞窟にこもって修行しろと言ったら誰もついてこないのである。
だからそういう人が宗教を説いていること自体宗教としてありえないことなのである
だから宗教もサタンに支配されるのである。

人間は死者を考えるとき死なない限り欲は消滅しない,死んだならどんな人でもどんな悪人でも欲やエゴが完全に消滅する,だから死者の不思議は遺影を前にするとその死者にはこの世にあった欲やエゴがないので死者は浄化されて見える、まさに仏さまのように見えて先祖崇拝になる、先祖が神となる
つまり死に浄化の作用がある、それで何かそのエゴも欲もない遺影に向かうとき浄化される不思議なの気分になるのである。
いづれにしろ宗教は簡単に人には説けない、なぜならその宗教を説く本人がエゴと欲の塊りだからである。
口で言うことは簡単である,では実際に宗教を実行するとなると不可能になる
まず財産だってもつことはできなくなる、なぜなら貧しい人がいて苦しんでいるとき贅沢ができるはずがないからである。
ただその時代の平均的生活は許されるがそれ以上の贅沢はできるはずがないのである。
結局共産主義でも本当は宗教のように平等の社会を目指したが幹部が大金持ちとなり贅沢をする,権力を手中にしてこの世の欲を満たすだけになったのである。
宗教は口で言うのは簡単である、でも実際に実行するとなると至難になる
だからそもそも安易に宗教を説いて勧誘しているのはそれはこの世の勢力を成すためであり宗教とは何の関係もないのである。

死者は日々浄化されてゆく
この世を離れてこの世の欲から解放される
ただますます純度を増して清らかに星となり
世を離れてかなたに輝く
もう穢されることのないかなたに清冽に輝くのみ

この世は欲で滅びるというとき人間の欲が様々であり深いし消し去ることができないからだ
だから遂にその欲で滅びるのである。原発事故だって欲からこの辺で誘致された
金になるということで誘致された
そして災いがもたらされたのである。もともとは欲があってそうなったのである
つまり人間の欲が消滅しないかぎり天国などこの世に来ることはないのである。
だからこそ欲で滅びると聖書ではなったのである。

人間は一見善を成していきるようでも自分の名声とか欲がからんでいる
純粋に善を成す人はまれである。人間はそもそも善を成しえないのである。
それは欲を絶つことができないからである。
だからいづれこの世の終わりがくる,そして欲が消滅したとき神の国が自ずと現れるのである。

2017年11月29日

感謝に欠けていた自分 (なぜ今自分が親に感謝するようになったのか?)


感謝に欠けていた自分

(なぜ今自分が親に感謝するようになったのか?)

人間は感謝するというときそんなに普通はしない,ちょっとしたことでありがとうというのは感謝とは違う,感謝は深いものである。
だから感謝の基本はもともとは創造者と神と人間の関係のなかでの感謝である。
感謝というとき人間に対しての感謝を言うのが多いからである。

例えばリンゴを例にすればリンゴという種を造ったのは神である。すると最初に感謝を捧げるのはリンゴを造った神であって人間ではない,確かに人間は手を加えて労働して与えている,でも本質的には感謝は神があってリンゴが食べられるのだから創造主に感謝を捧げて次に人間に感謝するのが順序なのである。

そしてリンゴがどうして作られるのか?それはリンゴだけがあるのではない,リンゴになるためには大地の栄養が必要なのである。他にも天候とかいろいろな要素が働いてリンゴがなる,それは自然の恵みであり神の恵みなのである。人間はあくまでも補助役なのである。リンゴを作るものは神であり自然である。


でもそうしている人はほとんどいない,ただ人間に対して感謝しろとなっているのだ
そしてあらゆるものが人間が与えたものだとなるとをとなるのか?
人間が神になってしまうのである。そこに肝心の創造した神がないがしろにされているのである。

それは偶像崇拝にも通じている,人間は自然にあるありとあらゆるものを神にした
でも肝心のそのありとあらゆる自然のものを造った神はないがしろにされていたのであるそれが神は怒ったのである。
作り主であり神を崇拝しろとなったのである。ある時は木が神ともなり石が神ともなり山が神ともなる,そして人間も神となった,でもそれらを造ったのは神なのである。

その神というものが何なのか?聖書では教えた
偶像崇拝とは目に見えるものを崇拝することである,でも目に見えないものこそ神だったのである。
神といっても目に見えて具体的なものとして現れれば必ず汚されるからだ
だから神は人の目にも触れられない,見えないものとっな存在したのである。

ともかく感謝しろというとき人間にばかり感謝していたらそれは偶像崇拝になるのである肝心の神がないがしろにされているからである。
正直毎日買い物しているけどいちいちその買った物にありがとうなど感謝しないのであるただ逆に買ってやっているとう感覚になっているのだ
ありがとうと言われるのは買ってるほうであり作ったり売っている方ではないのである。
人間はよほどのないかぎり本当に感謝するのだろうか?
ありがとうと言うのと感謝はにていても違っている
感謝は深いものであり一時的なものでもない,あるものに継続的に感謝するのである。
自分は感謝が欠けていた,感謝したことがほとんどなかった

そして今一番感謝しているのが死んだ親だったのである。
なぜそうなったのか?それは六十年間食事の用意したり家事をしてくれたり家のことをしてくれたからである。
それでなぜ深く感謝するようになったのかというとここ十年間は介護となり自分のために何かをしてくれる人は皆無でありなかった,それより自分に対して金欲しいとかしかなくなったのである。
だから自分のために二三枚の皿洗う人も皆無である。その二三枚の皿を洗ってもらうのに高額な金を払わねばならない,そうして十年間過ごした結果,六十年間食事の用意をしてくれたり家事をしてくれたり自分を世話してくれた親に感謝するようになったのである。
あとは鉄道旅行が長いから鉄道の人には世話になったとかあり無人駅でボランティアしたりする,それからずいぶん旅行して泊めてもらったから人を泊めて接待したりした
それもカルマだったとなる,現実にそうして海外旅行して世話になったからと外人を格安で泊めている人がいた,それは感謝の心がありそうなった

感謝しろというけどよほどのことがないと親でも感謝しないと思う
ただ親でも妻でも死んでみるとそのありがたみがわかる
空気のようにあるものに人は感謝しないのである。当たり前にあるものに感謝しないのである。そういうことが原発事故の避難区域で起きた
故郷に住めなくなるなど思いも寄らなかったからである。
故郷があるということに感謝することにもなったのである。

とにかく自分の場合,親の遺影の前にいることが不思議である。
何か心が浄化されるような気分になる
なぜ死者が美化されるのかというと生きていれば醜い面が必ずあり生きている人に感謝しにくい,でも一旦死ぬとそうした醜い面は消える,そして死者は何か浄化されてまさに仏様のようになる,それが先祖崇拝になり先祖が神ともなる宗教となった
この感覚は奇妙であり何か言葉では説明しにくいのである。

親とか妻は一番身近な存在である。そう身近な存在だった人が死んだとき感謝の気持ちが湧かないのは共に不幸である。
そういう人間関係は失敗だったことになる,自分の家は複雑で別に仲のいいものではなかった,絶えず争いがありもめていたのである。
でも一旦死んだら争うこともない,醜い面も見えない,すると何か今は美化されてゆくのも不思議なのである。
二人はこの家で生を全うしたのである。離婚した人は全うしていないのである。
その差も大きいのかもしれない,六十年間一緒に暮らしたことの意味が重いのである。
別に途中で分離することもありえたからである。それがなかったことが大きな意味をもったともなる

姉と母との遺影の前に
我がありて感謝の絶えぬかも
大地より湧く泉のように
感謝の心は自ずと湧きぬ
巌のように硬くありて
感謝を献ぐべきかな
我に尽くす人なし故に
その感謝の心は深まりぬ

これは自分の家族の場合特殊な事情でこうなった,他ではならないだろう。
父が早く死んだことなどでそうなったのである。

タグ:親への感謝

感謝することが生きる力になる (感謝しないと逆に罰がくだる)


感謝することが生きる力になる

(感謝しないと逆に罰がくだる)

今の世の中人はめったに感謝しない,自然の恵みに感謝したりもしない,だからそうした祭りもなくなる,神というのも関係ないとなる,神の代行約が科学者である
だから科学者が神のようにもなる,一番今でも尊敬されているのは医者であるのもそうである。医者は万能でなくてもやはり命を救うことができる,病気も直せると信じるからなる

でも実際は人間の体にしても全部わかったわけではない,
人間の体がなぜわからないのか?それは人間の体はこの自然界と宇宙ともあらゆる元素とも関係しているからわからないのである。
それは相互浸透しているからわからないともなる,人間の体も自然の様々な元素が栄養として必要であり自然界と一体となってあるからわからない,人間の体がわからないのは自然がすべて解明されないと同じなのである。

でも何か科学者はそういうこともわかっていると思われるので科学者が神のようになるのである。でも実際は科学者もみんなわかっているわけではない,でも何か現代は科学者に幻想を抱いている,科学者がこの世のことでも体のことでも解明してくれると思っている科学が現代の信仰に近い,科学者は現代の聖職者になっているのだ
そして牧師とか僧侶とが昔の権威ある人達は力がない,信じられない,ただ無駄飯食っていると見られるのが多い,それは何か社会に実行力を示さないからである。

宗教でもキリスト教でも初期なら奇跡を示して宗教の力を示していたのである。
今はその奇跡の力は科学に期待しているのである。
ip細胞ができれば病気は直せる画期的だ,もう老いることもないとかそれが過剰に期待されているのである。それでスタップ細胞の騒ぎ起きたのである
科学が万能のように見させている,そうなら神が科学者になるからである。
そうなると感謝すべきは本来のこの世界を人間を作った神でなくなる,科学者に感謝しろとなる,科学者が神となるからである。

でも結局原発事故のように科学者の地位も事故で低くされた,科学者に対して信用できなくなった,それだけの技術力もないと知られたのである。
そしてこれだけの災禍をこの辺にもたらした,科学者はその地位を急速に失ったのである科学者に石なげてもいいくらいになったのである。科学者はペテン師になりさがったのである。科学者は原子力を操作できなかったのである。
でも操作できると安全神話まで作っていたのである。それが事故で一挙に崩壊してしまったのである。

人間は今あらゆることに感謝しない,食物にも感謝しない,ただたりないたりないというだけである,親に感謝しないし先祖にも感謝しない,食料を得るにも金を出せば買える,金を出して買っている方が偉いのだとなっている
「金を出せばいいんじゃないか」それでなんでも手に入るとなっている
感謝すべきは金を払った方だとなり消費者は王様だとなってしまったのである。
本当は生産者こそ王様であり感謝すべき方だったとういこともある
食料を作り出して与えてくれる人達だからである。

ではこうして何物にも感謝しない社会はどうなるのか?
感謝しないことは人間に力が湧いてこないのである。人間は親でも感謝すれば生きる力が湧いてくる,親は苦労して育ててくれたとなれば親に感謝して生きる力がでてくる
母は苦労して百才生きた,自分も生きようとなるのである。
俺は自分一人で生きている,誰にも感謝する必要はない,もちろん神にも感謝などしないみんな自分の力で得るのだとなったらどうなるのか?
そういうふうに生きていたら傲慢であり神から罰せられるだろう。
現代人は感謝するとういことがない傲慢がある

ただいくら感謝しろといっても人間は簡単には感謝しない,それは強制できないのであるでも感謝しないということは何かそれが神の意向にも反するものだから恐ろしいことが起きてくる,津浪でもそうである。
一匹の魚を軽んじたとき津浪が起きた,不思議なのはこの世にあるものはみんな神が作ったものである。確かに人間の労働が加わってできても本質的に神が作ったものである。
つまり原発がいいものであり補償金をもらった方がいいとなり事故が起きたのである。
その時魚などとっても金にならないとか常に言われていたのである。
農業でもそうである。農業では金にならない,原発の方がいいとなり事故が起きた,一粒の米を軽んじた結果として起きたともなるのだ
そういうことを反省しないし何が悪かったのかも良く考えない
そうして感謝を失ったから罰が下ったともなる

人間は何かあらきゆるものを人間が作っていると錯覚しているのである。でも人間は何も作れない,なぜなら人間は全く新しい種は植物でも作れないからである。
そこに人間の限界がある,創造主が作り与えるが人間は作れないのである。
リンゴでもそれを作ったのは神であり人間が手を加えて与えられている
でも人間が手を加えてもリンゴを作ったのは神なのである。
でもその神そのものにリンゴを食べているからといって感謝する人はいないのである。
「神様リンゴを与えくれてありがとうございます,とてもおいしいです,リンゴは健康にいい栄養に満ちています,こんなおしいしものを与えてくれて神様ありがとうございます」こんなふうに感謝して食べている人などいないのである。
このリンゴは高いと安いとしかないのである。

ただ現代人は親でもそうだし先祖でもそうだし基本的なものに感謝しない,ただ金があれば何でも手に入る,何かに感謝するなどより金があり金が欲しいとなる
金を遺さない親は用はない,感謝などする必要はないとなる
そしてあらゆる人がただ不満だけを言う,足りないことを金持ちでも貧乏人なればなおさら言う,足りない,足りないという不満だけになる
感謝する人はいないのである。
そういう人間を見て神をどう思うのだろうか?

神は遂に怒りになってしまうだろう。そのために津浪が襲ったのかもしれないのだ
感謝すれば神も喜びさらに良きものを与える,しかし神の与えたものに満足して感謝しないものには神は怒り罰を与えることになる
何かたりないたりない欲しい欲しいというより与えられたものに感謝すると生きる力が湧くのである,これは不思議なことでもある
何かたたないというのではなく欲しいというのではなく与えてくださってありがとうございますと感謝すれば神も喜びその人自身も生きる力が湧くのである。
でもそう思う人はほとんどいない,あらゆる人が金持ちでも不満であり足りないとなっているのだ
だからこ現代には大きな災いが起きたりする,そして豊かになろうとしても貧乏になってゆくのである。それは感謝しないからだともなるのである。

とにかく何か感謝するとさらなる力が与えられることは確かである。
例えば親でも先祖にでも感謝すればその家はさらに栄えると思う,感謝されない親は問題があった人である。
だからどういう親をもつかもその人の運命を左右してしまう,親にはそれだけの責任があるとなる,親にひどいめにあった人は親に対して何の感情もなくなる
ただひどいめにあったというだけになってしまうのである。
自分の場合は特別な思いを親にもっている,感謝している,自分がありえたのは親がいたからだと思っているからだ,それは特別な事情でそうなったのである。

なぜ感謝が大事かというとあまりにも人間はあれほしい何かほしいとか欲しい欲しいしかなく感謝する人がまれだからである。
いくら欲しい欲しいと得てもさらに欲しい欲しいとなりきりがないのである。
感謝するということはそこにない,もちろんいろいろ与えてくれる神に感謝など今はしない,すると与える方にしても神でも人間でも嫌になる
これほど与えているのに感謝もしないのか?そういう気持ちになり災いが与えられるということもあるのだ
そういうことが津浪や原発事故で起きたことを書いた
漁業関係者も一匹の魚に感謝している人などいない,もう漁業では暮らしていけないとかしかなかった,農業でも一粒の米に感謝している人などいない,農業ではやっていけないとか不満だけだったのである。
そして金になる原発を誘致したのである。
結果的にそのことで神は罰を与えたともとれる,感謝することは力を得るがしなければ災いが与えられるから怖いのである。

タグ:感謝

2017年11月25日

外交的な人と内向的な人の評価の問題 (人間関係で一番大事なのは誠実さである)


外交的な人と内向的な人の評価の問題

(人間関係で一番大事なのは誠実さである)

内向的な人の12個の特徴や困ったこと


自己顕示型は自慢話がおおく、外交的な人です。

「人間は一人では生きていけないんだ! いつも一人でいたら社会ではやっていけないぞ!」

などとよく言われる。これは「外向的な性格は治す必要ないが、内向的な性格は治す必要がある」と多くの人が思っているからだろう。
内向的な人は、物づくりに向いていると思っています。
高い芸術性や、熟練の技などが必要な職業に就くには、外交的である必要はありません。
プレゼンは、他の人になってもらって、自分はコツコツと自分の仕事に打ち込めばいいのですから。

また、芸術や研究の分野で成功する人は
何でも深く突きつめて考える内向型の人が圧倒的に多いのです。


人間は何でも一長一短である。内向的性格は損であることも確かである,ただ人間は内向的だとか外交的だとか血液型だとか類型化されくけど人間はそんなに色分けはできない,内向的な人間でも外交的な面もあるし外交的な人間でも内向的な面をもっている
外交的な人のいい点もあるし悪い点もある,だから人間は性格で類型化できない
ただ外交的な人間と内向的な人間はいる,それはイヌとネコとにないるのだ
犬は感情を全面的に出して接してくる,ネコはそういうことはない,だからネコは何か冷たくよそよそしく何考えているのわからないとなる

外交的な人間は世の中をわたるには得である。そういう人を身近で接したからわかる,自信家でありどんどん自分を外に向かってだしてゆく,いつも笑っていて陽気なのである。だから人にも好かれるし人の上に立つ,人を導くリーダーになりやすいのである。
そのためにそういう人は何かを成すことができる,内向的な人は何か成すことができない外交的な人は強気で自信家であり他者を話術でも何でも圧倒する
ぐいぐいと人を引っ張ってゆく,だから実業とか政治とかに向いている

では外交的な人が社会では成功しやすいことがあってもそうはならない,自分の家族は外交的な女性と内向的な女性がいた,それははっきりと対称的な性格の女性だった
でも評価はどうしても外交的な性格の女性にあった,自分でもそうだった
内向的な女性だけだったら自分の家はありえなかった,もう家自体が成り立たなくなっていた,だから外交的な女性がいて家が栄えたとなる
でも夫婦ではないが内助の功というのが内向的な女性にあったのである。
それは死んでからわかったのである。

それは誰かに出すつもりだった手紙の草稿にあった,それは拙いものでも母になるが内面を文章にしていたのである,こんな文章を書いていたということに自分は感激して泣いたのである。母の内面の心が文章ににじみでていたからである。
つまり一人は外交的口達者だったが内面性は欠けていた
そして外交的な人にも欠点がある,自分のみを表に出して謙虚さがなくなる
それでそういう女性も他に知っているが口だけはとにかくうまいのである,でも何か実行することはできない,口だけでうまいことを言っているだけなのである。
ただ外交的な人でもまたいろいろいる,自分の家族は口だけではない実行する女性だったからまた違っていた,その女性は口だけなのである。口だけはうまいのである。
でも何か実行することがないのである。

最後に外交的な女性は姉になるが認知症になり悲惨な死に方をした,あれだたけ外交的な自信家だった女性は誰も寄りつかない,話すこともできないので友達が一杯いてもよりつかなくなったのである。そうなると外交的な人は悲惨である。
外交的な自信家は認知症になると暴力になったりする,不満をかかえてそれを外に出すからである。内向的な人はひたすら内にこもるから忍耐強いから暴力にはめったにならないのである。だから最後は外交的な人と内向的な人の価値の逆転が起きたのである。

要するに人間の評価は外交的とか内向的で決まる訳ではないのである,外交的な人がすべていいとはならない,もちろん内向的な人もそうである。
人間関係で何が大事かというと外交的なことでもなく内向的なことでもない
確かに押しが強いと営業でも成績を上げるかもしれない,それは一時的になるだろう。

人間関係で一番大事なのは何か?

それが口をうまく接することではないのである。
巧言令色鮮し仁とは、言葉巧みで、人から好かれようと愛想を振りまく者には、誠実な人間が少なく、人として最も大事な徳である仁の心が欠けているものだということ。

つまり人間関係で最も大事なのは誠実さなのである。それは外交的な人であれ内向的な人であれ関係ないのないのである,むしろ外交的な人は「巧言令色鮮し仁」になっている
政治家などは特にそうなっていることでもわかる,ほとんど公約を実行していないし嘘つきだとなるからだ,実行できないことは言うべきではない公約にすべきではないのである
不思議なのはだからこの人は口がうまいとか明るく外交的でいいとかだけで外面的なことだけでその人を判断することである。もちろん自分もあの女性は明るくてはきはきしていいと見る,それは地域を明るくしている,そういうこと現実にあるし社会では明るい人が好まれる,自分でもそうである。

ただそれはあっても人間で大事なのは誠実なのである。
営業でも本当はいいことばかり言う,巧言令色鮮し仁となってしまう
それは後であいつは口うまいだけだとなる,最近は銀行員や証券関係の営業マンとなるとそういう傾向がある,他にも口うまいというだけでいいのかということは社会ではいくらでもあるのだ,だから口うまいだけ成功するするのか?
商品でも誇大宣伝して本当に売れるのか?評価が得られるのか?得られたとしても一時的になるのではないか?
ソニーのアクションカメラが不良品だったとわかった,するとソニーでもそういうことがあるというので会社の評価が落ちる怖さがある,それは大企業でもそういうことが起きているからだ。だから口だけうまくても成功するとはならないのである。

物作りにも誠実さが必要なのである。日本の製品はそれで信用を得てきたからである。
信用が誠実さとかなくなると一挙に崩壊するのである。
もう信用されないとなると世界で日本の製品は売れなくなるのである
信用を一旦失うと回復するのがむずかしくなるのである。
誠実さが必要だというときカルト宗教団体などになぜ人は信用してだまされるのか?
なぜそれほどの数の人がだまされるのか?
これも外交的人間がトップに立ち導いているからなのか?

もし自己の内面を追及する内向的な人間だったからそうはならないだろ
ただ口がうまいいいことばかりいって誠実さが欠けているからこそ人がだまされて集めるともなる,なぜならカルト宗教団体では内向的な人が嫌われているからである。
宗教というとき内面の追及なのだが実際は政治化して外面の追及になっているからである
だから一見,外交的な仕事でも内面的なものの徳が必要になる,誠実さが必要になる
約束を守るということもやはり誠実だからこそできる,借りたものを返さないとかは約束を守らないから信用できないとなる


口がうまいだけで成功することができるのか?一時的には成功しても物作りにしても成功するはずがないだろう。それはいつか化けの皮がはがれる
製品は正直だから壊れたり何かするのである。
とにかく外交的な人間にも欠点があり内向的な人に見習うことがあるのだ
それは誠実さなど内面的なものをもつ必要があるだ
もちろん内面的な人の欠点もあり人は両方を必要としているのである。

自分のことを言うと自分は内向的でありそれが極端化すると異常化することも自分でわかった,引きこもりになるからだ,でも宗教とか特に禅とかなると内面化して修行することになる,沈黙の行をすることが修行なのである。
ぺらぺらしゃべらない,そのために社会から離脱したのである。
何か自分は社会に適合できないで自ずとそうなっていたのである。
普通だったら社会の落伍者であり不適格者となる,でも沈黙の行をすることは人間の徳を高めることになる,人間は無駄なことをしゃべりすぎるから徳を汚すからである。

口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。 
というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのである、 これらのものが人を汚すのである。(マタイ)

人間は口から出るものによって一番心を汚しているのである。だから沈黙守ることは心を清めることなのである。でも社会生活をしていると必ず社会的にすでに心を汚すようになる,そもそも絶えず行われている売るための宣伝がそうである。
マスコミが不誠実なのである。それでもって金をもらっているから社会は常に汚されているとなる,社会そのものが誠実さがないというとき個々人で誠実であることもむずかしくなる,大企業の不正はそうして起こる,原発事故だってただ技術的なものかというとそうでもない,そこに誠実さが嘘をつかないということなどが守れなかったからだともなる
近くの事業に失敗した人も何か誠実さに欠けていたのである。その人の経営に問題があった,それは技術とは別な問題だったのである。

こういう自分も内向的だからこうして文章を書くのは得意なのである。しゃべるとなると自分はできない,それは内向的な人の特徴になる,ただしゃべることは必要でもより深いものを知るためには表現するためには文章なのである。
だから文は人なりと言われるのである。だから人がその人の書いた文章から評価し判断すると間違いないかもしれない,しゃべることだけからは判断しにくいからである。
自分は人としゃべるとか接すると異常に疲れる,こうして文章を書いていると人と接しないから疲れないのである。だから自分にとってプログなどは合っていたからこうて書きつづけているのである。

2017年11月03日

もらっていい金とそうでない金がある (金もカルマとなり後で苦しむ人がいる)


もらっていい金とそうでない金がある

(金もカルマとなり後で苦しむ人がいる)

金に人々の感情がこもりカルマとなる (親の因果は子に報うはさけられないカルマである。)

金はもらっていい金ともらってはいけない金が確かにある
もらってはいけない金はそれがカルマになりあとで悪い影響がでてくる
自分の経験では自分がもらったのではないが親が交渉でもらった金はもらうべきではない金だった
それは人の不幸によってもたらさこれた金だったからである。
交通事故で死んだ結果もたらされた金だったからである。

その金をめぐってもめた,そのとき弁護士を頼んだが弁護士は何もしなかった
百万払ったが何もしなかった、実際に交渉したのは保険会社の人だった
結局弁護士は漁夫の利を得たのである。実際に本当に何もしない,交渉すらしない、裁判にもならなかったからである。となると一体弁護士はそんな金を受け取っていいのかとなる?
それは悪い金でありそれがカルマとなる、弁護士は何かそうしした紛争になるときにかかわる
だから弁護士という職業もなにかブラックなものとなりやすいかもしれない。

それはどこにでもある,医者でも金持ちから礼金をもらうことは普通にあるし普通に良くしてもらいたいと金を払うことがある、第一医者になるには莫大な金がかかる、だからこそ医者は跡を継がせるために金が必要となる医者は今やいらない薬を与えたりいろいろと患者に無駄な金を使わせる、子供に跡を継がせるだけに金を使うとかなるのもどうかなと思う
なぜなら医者に向いていないものもいるからだ、そうした人も無理やり医者にするのは社会にとっても良くない、それは政治家にも言える、二世議員が多くなるのとにている、職業の適正はそこで損なわれ社会にとっても歪めたものになる
そうしてもうけた金がいいものかどうか疑問になる、医者は仁術だというとき何か人助けがありそうなったが今は医者は算術なのである。あらゆるものがそうなっているから医者だけには言えないがそれで社会が歪んだものとなってしまったのである。

ともかく金はすべていいものではない,何か怖いものがあるのだ、でも人は自分でもそうだが金はあればあるほどいいものだと思っているのだ。金があればこしたことがないしなければいいことはない
現実社会ではそうである。だから金をいらないとか否定しにくいのである。
でも明らかにもらってはならない金はある、人を殺してまで得た金だったらもうそれは恐ろしいカルマとなってゆくだろう。
百万でも拾った金だとそれもどういう金かわからないから危険がある
得たいの知れない金だからである。

例えば株でもうけるというのは資本主義社会では容認される、だから悪いとはならない、でもそれが巨額になると何か悪魔的になる、現実に資本主義社会では極少数のものに巨額の金が流れている、それで世界を支配しているのはそうした金持ちだという陰謀論になるのである。
その金はどうして得られたのか?ただ株に投資して得られた、一方で汗水垂らしてわずかの金を稼いでいる人もいる、それが社会の大半である。そしてグローバル社会では貧乏な国が富裕な国のために低賃金で働かせるとかなりそれが国のカルマともなる
カルマは国だけではない組織とか団体にもカルマとなる、会社でもそうである。
カルト宗教団体でもそうである。そういうところに属しているだけでカルマとなっている
おかしなのはそういう団体に属しているからこそ救われるとか成仏する信じている人たちがいる
でもいづれはそれがカルマとなりその悪が暴かれるときがくる、その責任が問われる
責任が必ず問われる、カルマとは責任のことだからである。
団体にいればみんなでいるから安心だと思っていてもいづれは一人一人がその責任を問われる
みんなが入っているからいいものなんだよとはならないのである。

原発事故でもそうだった、これほど重い責任があるとは思っていなかったろう、原発を金のために誘致した
地元の人たちもそうである。それを運営した政府とか東電とかでもそうである。そこにはあまりにも大きな責任が課せられていたのである。その責任はとらされるが政府でも官僚でも東電の幹部でもとっていないのである。でも誰かが責任をとらされるのである。責任をとらされたのは地元の人だったのである。
空気も水も土地も放射能で汚染されて住めなくなったからである。遺伝子も傷つき子孫すら残せないとかなったからである。
責任は必ず責任があった人がとらされるとは限らない、全然責任もない関係もない人だってその被害を受ける
人間は責任から逃れられないようにできているのである。

ただ地元の人でも金になればいいと政府と東電からも金を受け取ってきたのである。
だからそうした金はカルマとなり事故となり責任が問われた、そして地元の人たちも責任を言われる
お前たちは恩恵を受けていたのだから責任をとれとなるのである。
つまり金ならなんでもいいとはならないのである。
でももう金ならなんでもいいとなるのが今の社会である。
つまりもらっていい金ともらってはならない金があることは確かなのである。
そこに金の怖さが隠されているのである。

この辺では今は船主が批判の矢面にたたされている,原発事故前から補償金で潤っていたからである。
事故後も船主には一番補償金が手厚いのである。だからいち早く立派な家を建てたのは船主だったとなる
でもまわりの人たちは良く思っていない、それは事故前もそうだったのである。
みんなが船主ではないからである。
金をもらっているときは漁業関係者はもらって当然の金だと思っていたのである。
それは海が汚されたら魚も売れなくなるからだ、そのときは周りでも文句も言えないのである。
それは当然の権利だったからである。でもその金はいいものではないもらってはならない金でもあった
だからこそ今になると批判されるのである。

金はともかくなんでもいい、悪い金もいい金もないとかありえないのである。
もらってはならない金は確かにある、それがカルマとなり後で苦しむことになる
それは自分がもらわなくても親がもらっていたりしたらそのカルマを受ける、自分がそうだったともなる
別に親が不正してもらった金ではないにしろ何かそういうものが一部あったことは確かである。
自分もは恩恵を受けているのだから金は怖いものがあると感じたのである。

でもこんなふうに金に敏感になったら金はたまらないだろう、どうしても貧乏になる
金そのものが不潔なものになり金に触れたくないともなる、そうしてインドの修行者は暮らしている人がいる
金をいちいちそうして悪い金だといい金だとか区別しにくいからである。
小さい金はそういうことはない、大きな金になるとそうなりやすい、遺産関係などがそうである。
だから必ずもめるのである。
そんな大きな金をあなただけがもらう権利があるのか?
それもそうなのである。だから親がどうして遺産を残したのかも問題になるのである。
自分の遺産は親が店をやったりこつこつ働いたものである。でも母は年金を一銭も払わないのに月3万もらい
60歳から百歳まで40年間もらって一千万以上になっていたのである。その金は一銭も使わなかったがその大半は盗まれたともなる,だからこれも何なのだったとなる
それはもともと国の金でありみんなが働いて出した金ともなるからだ

ともかく金はもらっていい金ともらってはならない金がある、これは間違いない、でもそんなことをいちいち考える人はいない、でもそうでも後でそれがカルマとなり親でなくても子とかそのほかの人を苦しめることがあるのだ、濡れ手で粟のように入ってくる金はいいものではないのかもしれない、そこには呪いが隠されているかもしれない、そこに金の怖さがある
ただカルマはつぐづくある、その人は子供のために使う金を親が使っていた、今度は子供が親になったときやはり子供のために使う金を親が使うようになったのである。何か間違いなくカルマとは人間が繰り返される業なのである。
ともかくこの世の問題の多くは金にまつわるものである。それだけ金の力が大きくなったのである
タグ:金の呪い

2017年09月25日

なぜ人は利を越えられないのか? (人間は何も変わっていない-犠牲が強いられるから)


なぜ人は利を越えられないのか?

(人間は何も変わっていない-犠牲が強いられるから)


この世の中すべて利の活動であり利を求めて日々仕事している,会社でも利を求めて共同している,人間の関係も利なしではありえない,金が第一だというときもそうである。
人間の関係は金だとなる,それが資本主義社会になり極端になったのである。
そもそも資本主義が利他的行動として宗教に由来してはじまった
勤勉に働き他者のためになるためになるとして生まれたというとき今ではそんなことをイメージすらできない,利を求めて弱肉強食の世界になっている
だから利のためには相手のことなどかまわないのである。
自分が苦しんでいたときもそんなことより相手から金をとる借金するチャンスだとなる
その人たちもまた金で追い詰められていたからである。
金で追い詰められていた人は例えばわずかの金で人を殺すのである。
明日食べるものがないとしたら殺すこともするのが人間である。
それは追い詰められているからそうなる
それが人間社会だとなる
だから結局人間社会は金の切れ目が縁の切れ目となる,こいつとつきあって何になるんだなんの得もない,金にならないとしたら付き合いも切れる
それが資本主義社会では極端化したのである。

座頭市でも親分が訳ありで役所からおたずねものになる,子分が一人ついてきたが賞金かせぎにねらわれるとか疲れ果ててしまった,それで親分を殺すことを一宿一飯の他の親分と相談して殺すことにした,そうすると役所からもほめられるし賞金ももらえるとか得になるからである。
ではなぜそうなったかというとその子分は逃避行に疲れ果てていた,そういう生活が嫌になったのである。
そういう生活に耐えるには相当な動機がないとできないともなる
その親分が義賊みたいなところがあり貧民を助けたということがあったとか言っていた
するとそういう親分のために尽くしたいとなるとかある
でもそこまで尽くすとなるとやはり相当な動機がないとできない
介護でも苦しいとなると肉親でも殺すことが普通に起きてくる
自分の場合は一番良くされたということで動機があり介護していたのである。

人間はともかく生きることは利の追及である。利しかないともなる
利とはそれぞれのエゴから発する,エゴというとき人間の欲望は限りなくある
男女の関係でも利がからんでくるし欲望がからんでいるから利と離れられない
家族関係にも利がからんでくるし夫婦でも利がからんでくる
だから遺産相続となると骨肉の争いになる
人間が利を求めるのは恐ろしいことになる
動物でも腹が減れば他の動物を襲い食べる,それと同じことが人間もしているのである。ただそれが他の動物を殺して食べるということではなく何か人間の場合はあからさまに残酷ではないように隠されているだけである。

利を越えるというとき例えば親分-子分というの関係はなくなる,同じ目的をもち思想をもつ同士となる,そういうことはカルト宗教団体とか共産主義団体とかでも同士となり
表向きは利を越えた団体のように装う,では内実はどうか?
創価で共産党でも他の様々な右翼団体でもなんでも利がかかわる,革命というのでも利がかかっている,もっと俺たちにも富を分けろとか地位をよこせとかが目的となる
そのために毎日祈っているのだからまさにご利益を求めることしかなくなっている
共産党でも幹部は贅沢して豪邸に住んでいるとかなるし何かそういう美名のもとに贅沢している人も相当いる,アグネスとか世界の貧民に援助をと言っているが実際は豪邸に住んでいるのである。寄付金で自分は贅沢な生活をしているとか普通にある

明治維新でも一体何を求めて行動したのかを見るとわかりやすくなるかもしれない,下級武士とかなると今の低い地位から脱して上に上りたいとか何かそうした利を求めた野心がある人もかなりいた,下賤の身から成り上がった人達はそういう人達であったともなる
今そういうことが指摘されるのは革命といってもいろいろな人間の欲望が渦巻き複雑になっていたからである。ただ人間は美名を装うのである。
戦争でもそれは様々な欲望が渦巻いていたかもしれない,戦争でもうけた人もいるし地位を得た人もいるしその当時軍人は一番威張っていたというのも真実である。
一方で戦争というのは生きるか死ぬかであり死ぬことを強いられる
死ぬことを強いられるということは犠牲を強いられることなのである。
それは利を越えないとできない,日本のためにと最後に死んだ特攻隊などはそうである。これから生きる命を日本のために犠牲にされたのである。
それは日本を守るためという大きな使命をになっていて死んだのである。
戦争は死ぬから利を越えたものを要求されるのである。
戦争で日本の悠久の大義とかいうのもそのためである。
義があり義のために死ぬというとき利を越えたものとして義があるとなる

宗教というときキリスト教でも仏教でもやはりいかにしてこの人間の利から離れるか克服するかということが課題だったのである。
その利を越えるには離れるために出家するというのもそのためである。
恋愛であれ家族であれ否定するのはそれが利であり人間の欲望から結ばれるからである。家族もエゴなのである。なぜなら自分の家族意外は人間は虫けらのようにも考える
自分達の家族さえよければあとは関係ない,金だけとれば他人は関係ないともなる
それで肉の家族は否定されたのである。

宗教はエゴ,自我とか欲望の否定で共通しているのである。なぜそうなるかというと俗世間では利しか求めることがないからである。利のために相手も殺すとかしかないからである。そういう弱肉強食の世界に生きているからである。
利を越えるためにはそういう自我の欲望を否定しないとできない
現実にカルト宗教団体でも左翼の団体でもそうした自我の欲望など否定していない
革命でも自分たちの自我,欲望が満たされない不満から起きているからだ
だから組織団体とか多数の団体は宗教を装っても中味は普通の利を求めて活動しているものと同じなのである。ただ宗教とか思想とか主義とかで装うのが人間なのである。

要するに人間は犠牲になることが一番本能的にむずかしいのである。
人間はそもそも生物は自己保存を求める,それは本能であり否定できない,
長生きするなとか言っても無駄である。人間は生物だから自己保存をもつ,すると死にたくないとなる,お前ら老人は若い者のために早く死ねといってもできない
それは自己保存が本能的にあるから死にたくないからそうなる
だから宗教はそうした本能の否定からはじまった
自我とかエゴとか欲望がある限り利他的行動は無理だとなりそうなったのである。
人間はだから犠牲になることは一番むずかしい
それは利を自我を越えるものだからむずかしいのである。
その利を自我を越えるものがないと本当は利他的行動はできない
するとしても装った偽善になっている
宗教団体などがなぜ全く利他的行動にならないのか?それは個々人がやはり自我や欲望から逃れられないからである。
ただ集団化組織化して自分たちのエゴを利を実現するためにそうしているのである。
そこでは絶対に犠牲になるようなことはしないのである。

人間は利を越えるのがむずかしいというとき自我が自己保存が自らの利から離れることができないからである。愛もむずかしいのはそもそも自我や欲望から離れられない限り否定しない限り本質的にはありえないからである。
愛にしても恋愛もあり夫婦愛もあり家族愛もあり実際はいろいろある,ただ本当に利他的愛があるとしたらまず自らの欲望とかを否定しないとできない
それが人間には本能があり自己保存を求めるし欲望があるのだからできないのである。
要するに人間の本能がどれだけ強いかとなると老人になったからといって人間は枯れる訳でもない,ますます欲望が強くなるということもある:残り火でも最後に燃え上がる
人間の本能的欲望は死ぬまで消えることがないとまでなる
人間はそれだけではない,様々な欲望がありそのために人間社会は本質的には何千年前と何ら変わりないともなる,いろいろな面で変わったとしても人間の本質は変わらない
だから「金の切れ目が縁の切れ目」とか庶民が残した諺が今も生きていることでもわかるそれはどんなに社会が変わっても人間の本質は本能は変わったりしないからである。

2017年08月22日

母親が三人変わり異常化した女性? (血縁の家族に平和はない?)


母親が三人変わり異常化した女性?


(血縁の家族に平和はない?)


母の実家はママ母が入ってきて異常化した,その継母が異常に気性が荒かったからまた混乱した,一人の母親は追い出されたとか次の母親は水から出てゆくとか分離したのであるだから娘は三人の母親をもったことになる
ただ三人の母親にかわいがられたのだから経済的な面では苦しむことはなかった恵まれたものだった。実際にこの世ではもっと苦しい境遇で生まれ育つ人がいるからである。
だからその人が特別境遇が悪かったともいえない

ただ三人の親にもそれぞれ非があった,それがあとでそれぞれにカルマ受けた,罰を受けたとなる,生みの親は5才くらいまでしか一緒にいず出て行った
今この人は最後にその娘に頼って老人ホームに入ったが認知症になって苦しんでいて何がなんだかわからなくなっている,その娘と再婚した先の息子は実の子ではなく愛情はなく金目あてだけなのである。
その親は恵まれたの人の後妻になったので金がある,でも金があってもその実の娘も全く愛情などないのである。そんな人に頼らざるを得ないのが悲劇だったのである。
ドラマで子供を手放すなというがそのことなのだろう。
子供を手放して自分は裕福な人の後妻になったのは勝手だとなるから当然娘も愛情などないとなったのである。

それは他人事ではない,自分もそうだった,頼ったのが泥棒だったのである。
だから大金を失ったのである。それはたまたまそういう事情が生れてそうなった
何か困ったとき頼る人がいないと悲惨なことになる
だから結婚しないとかまたニートとかは悲惨な結果になる
人間は先がどうなるのかわからないからそうなるのである。
しかしどんな人も必ずカルマが60以降に現れやすい,なぜなら人生の総決算みたいなことが起こる,それは最期の時に起こるからだ。

どんな強い人でも弱者化するのが老人である。金があっても認知症になったりしたらどうにもならない,第一金のことがわからなくなるからである。
そしてそこに金の亡者が集まってくるのだから地獄となる
人間は愛情がある家族がいなかったから金ほしいだけになる
金をとったら捨てられるということである。

結果的にどうなったとかというと異常に気性の荒い継母は最後は老人ホームで目が見えなくなり自分の母親に看取られて死んだのである。
自分の母親はその継母にいじめられていたのである。でも母は最期を看取ったのである。そして悪かったなと言って死んだのである。

母親が三人いた娘は三人目の母は実の母ではないがずっと一緒にいた。
でも反発して娘は病気になったときもめんどうみなかった。
それがわかったのは「ひどい娘だわ」といって白血病で死んだ
ただ救われたのは介護もないしあっけなく死んだから良かった
もし介護状態になったら最悪だった

ただ自分から見てわからないのはその母親は一番長く一緒にいて娘を世話していた
だからそんな冷たいことをできるのかわからない,別に自分の母親のように継母としていじめたわけでもしいからである。
何かいろいろあっても普通の人なら愛情をもつからである。

ただその娘は実際は異常人間と化していたことがわかった
それも何十年と接していないのだから自分にはどうこういえない,ただ明らかに普通の人間ではない,自分の母親になぜ
「おばちゃんは金あるんだから金でめんどうみてもらへ」と
血相変えて去って行った,それは狂気だった
別にめんどうみなくても何もする必要がないから来なくなればいいことだからである。
別に世話してくれとも言っていないからである。

ともかく前にも書いたが自分の家系は何か不和をもたらす家系だったということはある
ただそもそも家族というのは本当に理想的な家族があるのか?
何かしら問題が生れてはないか?
人間の家族は理想的なものなのだろうかとなる
自分もそうだが血縁とかにこだわることも問題を起す,血縁で結ばれるのが果たして人間としていいものかという疑問がある。

だからキリストは結婚すること,血縁の家族を否定したのである。
仏教でも同じである。出家することが宗教の基本にあったからである。
血縁とかには結婚とかには根本的に平和がない
それは肉の結合だからである。精神の結合ではないからである。
肉の結合たる家族が理想的なものではなく不和をもたらす,そういう宿命が家族にはあるし親子にもある,人間が本当に結ばれるのは血縁ではないというのがその教えなのであるだから家族には自分でもそうだが常になんらかの問題が生じる,理想的になりえないのである。
天国で結ばれるのは血縁ではない,愛で結ばれた人達が作る国だからである。

2017年08月18日

金の損得,人生の損得 (あと何年生きるのか?)


金の損得,人生の損得

(あと何年生きるのか?)


年金を早くもらえばすでに400万もらえた,最後までもらわなかったから繰り下げしたからそんなにすでにもらえていたのかという驚きもある。
ただたいした年金ではない,国民年金はたかがしれている
でもその400万をとりかえすのには80越えないと元がとれないというのも良くわからなかった
人間はそもそも金の計算ができない,あと何年生きるかもわからないからだ
親戚の人は60で死んで厚生年金がもらえなかった,そういうこともある
自分の母親は60才で3万もらって失敗したといっていた。
なぜならそれから100才も生きたからである。65才からもらうと5万くらいもらえたのかもしれない,そうなると差が大きくなるからだ。
それでも3万×12×40=14400000になった,千四百万になっていたのである。

自分の母親は趣味もなにもない,働くことがしかない,花さえ無駄だとしていた,田から金は使わない,馬鹿げているのはそのためた金も盗まれたが不思議なのは認知症になっていたためなのかどうかわからないが無頓着になっていたのである。
金のことが良くわからなくなっていたのかもしれない。
姉は本当に認知症になって金のことがまるでわからなくなっていた
いくら自分が金をもっているのかもわからなくなっていたのである。
それで銀行からも金をおろせなくなっていたのである。
このことには本当に驚いた。

人間は終生金に異常にこだわり生きている,普通に生きているときはそうである。自分の親も身内もそうだった,金のために大喧嘩したこともある
でも結果的にどうなったのか?そのこだわっていた金も盗まれたり認知症になり銀行からおろせなくなったのだから金はもう自分のものでなくなったのである。
自分の親は金を盗まれたといったとき笑っていたのである。
頭が正常な時は一円も無駄にしない人だったのになぜ大金を盗まれて笑っていたのか解せないことだったのである。

いづれにしろ人間は金も計算どおりにいかない,人生が計算どおりになった試しがないのだ,何か必ず不測の事態が起きる,津浪や原発事故がそうだった
そこで予定がまるっきり狂ってしまうのである。個々人なら病気になったり事故が起きたりする,それで人生が狂ってしまうのである。

だから人生など計算できないし何か損得なのすらわからない
人間は懸命に得しようとしていきているのだけど結果として何が損得かも最後はわからなくなる
得だったものが損だったり損した思ったことが得だったりもする
人生の損得など誰もわからないのである。

美人と結婚できなくて損したとか何に何しないで損したとかいろいろ老人になって後悔する、でも最後はどうでもいい,それは若い内ならそうなる
人間は結果的に何が損か得なのか,本当にかわらないのである。
結局塵となり灰となってみんな終わるだけだとなる
大金持ち地位ある人も美人も行くつく先は老いることであり死である。
それはみんな平等である。いくら金持ちでも老いを金でみんな補うことはできないからだ失われた美貌は決して帰ってこないのである。

人間はもっとうまいものを食べていれば良かったなどと最後に思わないだろう。
老いて病気になるとますどんなうまいものでも食べたくないからだ
食欲があって健康であってうまさを感じるからである。
健康なくしたらいくら金があってうまいものが買えても何にもならない
それで自分の父親は病気になりサシミを食べれるようになったが食べたくないと言って死んだのである。
明治生れの人であり一生貧乏だったが最後の二三年金持ちになったがその時は病気になっていたのである。

人生の損得など最後になると本当にわからない,何が得したのか?何が損したのか?
それも良くわからないのである。みんな得しようとして懸命に生きてきたはずなのだが最後は金をためても金をおろせなくなったとかの喜劇なのか悲劇なのか
金にそれぼと執着しても何の用もたさなくなったのである。

金は別にないよりある方がいいことは確かである。
ただ人生の損得の計算はできないということである。
結婚して得したのか損したのかそれもわからない
結婚しないで損したのか得したのかもわからない
結婚しない損は実際は自分の経験では大きかった,病気になっても誰もみるものがいないからだ。でも自由に生きたいうことは自分の場合大きな得だったのかともなる
自分の場合は社会に適合できないからそうなっていたのでありそれて得だったともなる
まず自分は無理をしなかった,疲れたら寝ているだけだから体が弱くても生きられたのかもしれない,母も体が細くて力ある仕事などできない,でも百才まで生きたのは無理をしなかったからだと言っていた

でもそれが得した,百才まで生きたのだから得したのか?それも良くわからないのである得したというか俺は生きたとかなるのは実際は危険を乗り越えたり困難を克服したりするときである。その時俺はやったとなり達成感がある
その時こそ本当に生きたことになり生の充実感を得る
でもそれは危険であり死ぬこともある,だからこそ生きたということに価値が生れる
そういう経験を一回もしないとしたら生きたとも言えないのである。

そもそも人生は損得では計れない,損したことが実は大きな得だったこともふりかえればあるだろう。運不運もあり不運にも若くして事故で死んだりする人もいる
ただわかっていることは時間をともかく人間はみんな無駄にしている
金は一円でも無駄にしないように生きているが時間は本当に浪費しているのである。
時間は金のように計算しにくいからそうなる
若いときこの先ずいぶん長いなと思っているとあっというまに時間がすぎてしまう
白髪の老人となりもう死を待つだけだとなる

要するに死を前にして人間の損得などたいしたことではないのかもしれない
大きな家に住めなくて損だったとか,うまいものが食べられなくて損だったとか,美人と結婚できなくて損だったか,いろいろ損なことを考える,でもどうせ死ぬんだとなると
そんなことどうでもいいやと最後はなる。
要するにソロモンのようになるのである。どんな栄華を生きても最後は人生は虚しい,死があるだけだとなる

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ

こうなるのである。ただ自分として後悔しているのはヒマラヤに一回しかいかずその時曇りで8000千メートル級の山が見えなかったことである。
だからヒマラヤにもう何回が行きたかったが行けなくなった
それはなぜか?そもそも外国に行けると自分では思っていなかったからだ
外国でもどこに行くか迷う,やはりヒマラヤは見物である。
十回もヒマラヤに行ったという人がいたがそれだけ行ったら満足だとなる
今の時代でヒマラヤだろうアフリカだろうがどこにでも行ける時代である。
ただ老人になり体力鳴くなと行けない,だから若い内に行くべきだったとなるが時遅しとなってしまったのである。

要するに登山でも旅行でもいつもその機会が与えられているわけではなかった。
これだけ旅行した自分でも外国に関してはそうだった,外国を知らなかったからである。
だから若い人は老人を見て何が失敗したのか後悔しているのか良くしるべきである。
このことは若い人同士ではわからないからだ
後悔しないように生きるためにはどうするのかを良くしるべきなのである。

2017年08月13日

人生とは何かを究めること (道を究めること)


人生とは何かを究めること

(道を究めること)


日本語には道とつく言葉が多い,剣道、柔道、弓道、華道、香道、武士道、茶道、書道とかいろいろある,武道とは単に格闘技ではない,道を究めることである。
道を修めることである。宗教でも神道となり神ながらの道を究めることになる
道は極めて日本的な思想であり宗教にも通じているのだ
道を究めるというときはそれはあらゆる分野に通じている
江戸時代なら職人道があり職人は刀鍛冶でも最高の刀を作るために精進していた
それはあらゆる職業でもそうだった,特別な職業だけではないのである。
英語だとはworkである,作品を作るために精進していたとなる
江戸時代までこうして個々人が道を究めることに生きていたのである。
明治以降は会社組織になり会社がwork(作品)を商品を作るために会社員全部で精進しているとなった,だから個々人の道を感じなくなったのである。

例えば旅でも旅を究めたのが最初は西行であり次に芭蕉とかであり近代では山頭火などになる,旅を究めるというとき芭蕉のように人生自体が旅としてとらえるようになったのである。人生は旅だとしたのである。それこそ旅を究めたとなる
現代では旅というときただ保養する気晴らしという感じしかない
うまいものを食べて違った環境で気晴らしする,旅人はもういない
江戸時代だと歩いて移動するから隣の町まで行くのにも旅になっていたのである。
今は平泉まで二時間半だとかなれば旅とはならない
途中は通過して一挙に平泉につくから深い感懐も抱けないのである。

だから旅人はいない,ただ移動して気晴らしする人であり観光する人である。
旅人となることは実際は容易ではない,今になると余計にそうなる
移動しやすいからそうなる,自分の場合,自転車で旅したときある程度は旅人になっていた,一カ月くらい旅したからである。
その時必要なのは今のようなホテルとか旅館とかではない,江戸時代のような泊まるだけでいい宿なのである。特別土地のうまいものを食べることでもない,そういうものに金をかけることではない,一宿一飯の宿なのである。
木賃宿というときそういうものだった,そういう宿が多かったのは江戸時代は移動することが容易ではないから簡易な宿で良かった,移動するだけで時間がかかるからそうなった今はそういう環境が失われたから旅もなくなり旅人もいなくなったのである

ただ以前として人間には旅をしたい,別な世界を見たいということは変わりなくある,現代だとだから世界旅行が人気になるのである。
常に言っていることだけど学問の基礎は地理にあるというとき旅しなければその地理感覚が身につかないのである。近くですらそうだった
江垂のことを書いたが地理的に誤解していたのである。広い範囲が江垂だったのである。郷土史を究めるというときもやはり地理感覚が基礎にないと究めることができないのである。

いづれにしろどんな分野にしろ一芸に秀でることが生きることになる,そのために日々ある。それはつまらないことでもそうなのである。雑学すらそうである。
地名学があるとする地名など学問なのかとなるがやはり学問になる
雑学にしてもやはりそれを究めるには積み重ねが必要であり地名を究めてゆくことが必要になる,それは人間のあらゆる分野でそうなのである。

医者だったら医道を究める,やはり医者として熟達してゆく,すると神業的な神の手をもった医者になる,手術のうまい先生でそういう人はいる,ただマスコミにもてはやされる人はみんなそうとは限らない,マスコミの人の判断は何か実力ない人でも有名にするからである。
ただ本当にその分野で実力あり神業的な人がいることは確かなのである。
それはどの分野でもいるのである。人間国宝とかなるとそういう人だろう。

現代でも組織の時代でも道を究めるということはある,ただ集団で道を究めることはありえない,カルト宗教など道を究めるなどとは何の関係もない,ただ数を増やして権力をもつというだけだからである。そんてところで道を究めるなどは全くない
現代で道を究める生き方がしにくいのは組織化集団化の時代だからである。
workするにしても一人ではなできない,何か発明するにしても組織で会社でしているからである。道を究めるというとき江戸時代までは個々人で究めていた環境があった
そこに現代で道を究めることのむずかしさがある

道を究めるというときその道を究めた人に弟子入りするということがあった,師が必ずいて習ったのである。現代ではそういう関係は築きにくい,ただその道に優れた人はいる
南相馬市の病院には脳外科で優秀な先生がいてその先生に習いたいために全国から研修生が集まるというときそうである。
そういうことが医療の世界でもいろいろな分野でもある

人間にいろいろな考えがある,いろいろな人がいる,それが一貫してそれぞれの道を追及すると豊かなものになる,ただ自分のしていることが何なのかわからないことがある。
でもわからないなりに学問でも芸術でも職業でも道を究めることをしていると最後に実りがある,郷土史なども雑学のようなところがあるがやはり郷土というのをあらゆる観点から究めようとしているのである。
それが津浪や原発事故などで郷土学というものが必要だったことを知らしめたのである。原発事故では郷土そのものを失うことになり故郷とは何かとか問われたからである。
故郷を失った故郷の意味が追及されたのである。

道を究めるというとき重要なのは雑念とか欲望とかいろいろなものを遮断する必要がある
だからある意味で道を究めることは精進することは修行でもある
この世の欲望にふりまわされていると修行しにくい,精進できないからである。
そして人間に与えられた時間は限られている,たちまち時間はすぎてしまうのである。
でも後で雑学すら役に立っていることがわかる,様々な経験したことも活きてくる
だからどんな職業でも何でも自分は自分のあった道を究めているという自覚が必要なのである。ただ会社人間化しているとい俺たちは社蓄なんだよなというとき一生を奴隷として終わるかもしれない,そうして終わった人生は何なのだろうと悔いるが万事休すとなってしまう。もう人生は一回だけであり取り戻せないからである。

2017年08月11日

強者が弱者となり弱者が強者となる (賢い者が愚か者になり愚かな者が賢い者となる)


強者が弱者となり弱者が強者となる

(賢い者が愚か者になり愚かな者が賢い者となる)


人間はみんな最後に老人になるとこのことを頭ではなく現実問題として実感する
理屈ではない,現実として事実としてつきつけられる
人間はいくら人生論だとか読んでも他人事なのである。
でも現実に家族とか身近な人とか自分自身とかにじかに起きてくることは否応がでも
その事実で知らしめられる,それを自分も実際の事実として家族とかでつきつけられたから驚いたとなる

今でもその死は信じられないとなる,本当に体力的に頭脳的にも優れた人が認知症になって死んだ,それは馬鹿になって死んだともなる
身近に接していたから女性でも男性並であり男性でも怖がっていたのである。
全然人を恐れないことの驚きである。女性でもそういう人はいる
そういう人は実業家とかであり政治家であり何かをできる人間なのである。

それがあえなく認知症になって死んだということが信じられないとなる
一方は愚かと見えた人は実は愚かではなかった
認知症にもならないし正直な人で親切な女性だったのである。
そういう人はただ目立たないし何か優秀なことはないのである。
でも死にざまをみると愚かは見えた人が賢かったとなる

 わずかな人間の知恵の幅である。賢さの中にも愚かさがあり、愚かさの中にも賢さがひそんでいる。

 例えば人生を生きる時,みんな賢く生きたいと思っている,愚かに生きたくないと思っている,でもこの世を生きることは利に聡く賢く生きることが得をする
賢いといってもずる賢いとかもあり賢さがいい方面にだけ働かないのである。
あの女性は馬鹿正直で嘘をついたことがない,愚かだともなっていた
でもそれだけ正直だとなると今の世の中にいないとなる
愚直だという言葉もある,何か筋を通すとなると功利的ではなく愚直を要求される
だから賢くふるまうということは悪い面としては功利的にふるまうことである。
常に利を求めて利でもって判断する,一方でそうしないものは賢くない馬鹿だとなる

また聖書でも高きものは卑くくされるというときもそうである。
自分が偉いとか優秀だと思っている人は地位とか富のある人は卑くくされる
そういうことを身内の死とかで実際まざまざと見たから驚愕した
認知症になることはいかなる優秀な地位ある人でも馬鹿になるという恐怖なのである。
だからあまりにも悲惨だったとなる
その認知症になる人が将来二〇年後くらいに四〇〇万人にもなる
そうなると認知症になことはめずらしいことではない
最後は人間は馬鹿になって死ぬのが定めなのかとまでなる

親戚の人は理系であり常に優秀だとされていた
それで事業を起こしたが失敗した
経営者と技術者とは違うから経営には優れていなかったのである。
理系は文系を馬鹿にするが理系もまた馬鹿なのである。
人間はそもそも賢くなれないからそうなっている

人間は永遠に賢くありえない,個々人でもそうだし人類全体でもそうである。
いくら科学技術が発達しても同じである。
この辺で起きた原発事故をみればわかる,最高に現代では賢いとされた人達が科学技術者が事故を起こしたからである。
その災厄は甚大であり回復不可能までになり人は住めなくなったからである。
原子力発電を核を操作する知能があってもそれが賢さにはならないのである。

逆に核戦争になって人類が滅べば人類ほど愚かな者はいないとなる
それで猿の惑星の映画がそのことをわかりやすく指摘した
猿は人間から見て愚かな知能のない馬鹿と見ていたが人間が核戦争で滅んだのだから
人間は賢いとされた知能故に滅びたとなる

いづれにしろ人間は神のように賢くなることはできない,人間は何が本当に賢いのか賢くないのかわからないからである。
科学技術が人間を賢くするわけではない,それを悪用するのも人間だからである。
すでにドローンが兵器としても活用されてロシアのクリミヤで成果を上げていたのである常に科学技術は戦争に用いられ悪用される,だから常に人間は賢いのだが愚かだとなる

賢さを追及しても結果的に愚かなことになりまた愚かさを愚直を貫いたことが賢さに通じていたともなる,全体的な知恵とか賢さをもつのは神しかもち得ないのである。
そこに人間の限界がある。
科学技術がすべて否定されるものではない,電気でもそうである。
それが人間を賢くするものではない,むしろこの辺で原発を建てるとき金になるからと賛成した,でももしそんなものいらないとか愚直に反対したら今になるとその人が賢かったともなる
山尾三省のようなパンが贅沢などと言っているのは馬鹿だとなる
だが今になると原発事故で見直されるようになったのである。

2017年08月10日

陰(影)なる人間



陰(影)なる人間


日があたれば影ができる,人は陰(影)となり生きる者がある、男の陰は女であり妻である,華々しく注目を集める人の陰に必ず影となる人がいる
政治家でも議員の陰となる者が秘書である,俳優でも主役と脇役がある
注目は主役に集まる,陰は表に出ない,それが定めである。

この世の中に陰となる者が実は多い,多くの普通の労働者は目立たない,陰のような者である,掃除している人は目立たない,陰となり仕事する人は多い
陰の存在は主役が消えたとき意識される
主役を支えた者としての影が浮かび上がる

そして陰は影はいつでもそこにある,それは以前として目立たない,ただ陰は以前として自分を主張しない,それでいいとしている,みんな主役になりたい,目立ちたい,でもなれない,ただ主役になるのはまた風当たりが強くなる,矢面に立つことになる
主役には主役の役があるが主役あり脇役がありこの世は成り立つ

今にして気づく,影のようにいつも寄り添いあったものを,それは目立たない,影でよしとしていた。そういう性格でもあった,その性格に生きた
主役が消えたとき華々しさもまた消えた,でも影はいつまでもそこに残っていた

日があたれば影ができる,それは法則である。人の世もまた同じである。
陰となり働く人は多数である。華々しい主役はまれである。
しかしその陰には陰となり働く人がいる,人間にはまた陽と陰があり調和する
陽は陽の働きがあり陰と陰の働きがあり調和する

内なる人と外なる人がいる,それは人間の性格であり性格に人は生きる
人間にはその両方が必要なのである。
ただ本当に陰なるものは気づきにくい,その存在を意識するのは主役が消えたときであり後になる,でも陰なる存在に気づくときその影はいつまでもやはり寄り添いある感じになる,妻がある時妻は意識しにくい,死んだとき意識される

そういうことはこの世に多い,普通にあるものは当たり前にある者は意識しにくい,それが失われたとき意識する,その存在に気づく,そしてその影はやはりいつも寄り添っている,陰はなかなか消えないのである。主役は華々しいが一旦消えると忘れやすい
ただそれもその人の性格でありその人はそういうふうに生きることを宿命づけられていたのである。

まず陰なる人は主役のようになれない,その能力がないからである。
ただ陰としてのみ生きる,そういう能力しかない,しかしそれもまた不可欠なものとしてこの世にある,主役にはなれないし成りたくない人はいる
みんな社長には向いていない,主役には向いていないからだ

神が男女を造られたのは陽と陰として造られたのである。それは太陽と月のごとくでもある,陰陽の原理がこの世には働いている,太陽は男であり月は女である。
自然にも陰陽の原理が働き世の中にも働く,その定められた宿命を否定することはできない,男には男の役目があり女には女の役目がある,それを越えること否定することはてきない,否定すれば不自然なものとなり世は乱れる

一生陰となり生きた者よ,そなたは今も影としていつまでもある,主役として生きた者があり陰として生きた者がある,その両方によって人は支えられている
この世に生きる者は大方は陰である,目立たない,そう強いられているともなる
しかしそれが世を支えている,目立つ者だけでは世は支えられないのだ
目立つものには目立つもの主役としての責務がありそれを成すからこそ主役なのである。
陰なる者はそれができない,主役のようにできない,だから陰として影となり存在する
でも全く影にすぎないのかというとそうではない,それはいつまでも存在し続ける
それは主役が消えたときその影に気づくのである。
陰になり働いていた者にきづくのである。

ただ人は陰になることは嫌う,でも主役になるにはそれなり技量が必要なのである。
では陰になるものが目立たない者が存在感がないのかというとそうでもない
陰になる人は主役が消えた後々までも存在し続けるのである。
いつも寄り添い陰となり存在しつづける

太陽があり月がある,陰陽がある,それは宿命である。それぞれに補いこの世がある
その原理に逆らうことはできない,陰なるものもまたこの世を支えている
そして大方は陰なるものとして生き陰なるものとして終わるのである。
その存在は影とてし終わるかというとそうでもない,いつまでも陰なる者として支え寄り添いある

台所にたたずみあわれ我が母を思い悲しき一人料理する

この母を妻にしてもいい,毎日自分で家事を全部しているときこのことを感じた
誰も本当に家事をしてくれない,一枚の皿を洗うこともしてくれなかった
今でも実際はそうである。ただ自分が全部を負うようになったのである。

負うべきは我が一人のみ頼れずに日々一人台所に立つ

家とか家事とかは何か全部一人で負うことは容易ではないことを知った
介護の時もそうだけど家は少なくとも二人以上いて家なのである。
なぜなら留守になると誰もいないから不安になるし何か常に不足を感じるからだ
だから一人より集団で生活した方が楽である。
食べ物でも一人だと損である,古くなって食べられなくなるのが多いからである。
だから今の世の中単身で暮らす人や老人が多いことは人間としては異常なのである。
それは社会自体が歪んでしまったからなのである。
自分は自分の特殊な事情でなったのだが他でも同じだったのである。
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2017年07月23日

カルマとは責任のことでもあった (カルマは責任をとらされること)


カルマとは責任のことでもあった

(カルマは責任をとらされること)


カルマというとき人間がもっている業のことだけどそれは責任のことである
人間は生まれたときから責任を課せられている、子供のときはその責任がない軽いだけなのである、だんだん成長するにつれてすでに責任が課せられている
なぜ子供が泣いて生まれてくるのか、笑って生まれてきてもいいはずである。
泣いて生まれるのはカルマを背負って生まれてきたから泣いているともなる
この世に生まれて来たことの重みを感じて泣いているともなる
最後には老人になると人生の結果としての責任を否応なくとらされる
そのカルマから責任から逃れることができないようになっている

健康というのも生まれつきのものではなく作られたものという側面もある
30代は20代の運動量で体力が決まるとかその頃から運動が大事になってくる
運動しないものは心臓でも筋肉でも衰えてゆく
生まれながらに体力ある人でも運動しないと衰えるという
自分は体力がないけどずっとデスクワークもしないで運動してきた
登山もしたしあとは自転車で運動していた
それで今に影響しているのかもしれない、ただ自分は実際は今でも体力はない
何か暑さでも寒さでも前もそうだったが弱いのである。
だから今回の暑さでぐったりして衰弱した

ただ自分が30頃登山して死ぬほど疲れた、そして一週間くらい眠りつづけたのである。
そうして疲れたら寝ていたというのも良かった、それでやっと体力が回復していたのである。その後登山はきついからやめた、自転車は今でも乗っているのは疲れたら休むとか激しい運動ではないからできているのである。

人間はなまけているとそれもカルマになる、何でも自己責任だというときそれはやはり
そうしてなまけていた者は貧乏でもそれは本人のせいだとなる
それには問題があるにしろ何か人生も積み重ねだからそうなりやすい
なまけるということの怖さは退職後なまけていると認知症になる割合が大きくなる
体も頭も働かせないと認知症になりやすいことは確かなのである。
何をしても何をしなくてもカルマとなりその結果があとで否応なく現れるのである。
あの人は才能があるからできたのでありそれは生まれつきだとか言う
でも人間の才能はわずかであり何かしら普通は積み重ねがないとできない
天才は例外なのである。だから手本にはできないのである。

雑学などくだらないとなるがそれも知識の積み重ねでありそれを集積していけばプロにもなる、あることを継続して追及していれば素人でもそのことについては詳しくなる
第一人間はあらゆることに詳しくはなれない、天才でもなれないからだ
時間が限られているからそうなっているのだ、特別時間をもたされる人はいない
時間は平等に与えられている、それも活かすも活かさないも本人の責任なのである。
ただ高齢化社会はその時間が伸びたから有利だとはなっている
時間は何か金のように意識できない、だから一番浪費するものなのである。

人間はカルマから責任から逃れられない、何かしらカルマを積み後に責任をとらされる
これは個人的にもそうであり社会的にもそうである。
原発事故でもやはり人間のカルマであり業であり危険な原子力に手をだして責任をとらされた。人間は原子力をあつかう能力がなかったのである。

人間の健康も暴飲暴食したり何か健康に悪いことをしているとあとでそのツケが必ず回ってくる、それはそういうことをしているときは気づかないのである。
気づかないからこそそういうことができる
10代20代なら無理をしてもいいにしろ30代頃になるとそうした無理はあとで健康をそこなうものとてし現れる

自由な方がいいから結婚もしない子供も育てないとなるときあとで老人になって世話するものもいなくなる、親でも楽していると子供はそれを見ているから世話になったとも思わない、その母親は子供の世話は5才くらいまでしかしなかった、実の親でもそういう人は子供は世話しないから頼っても悲惨な結果になっている
ただ金だけも求めているだけなのである。その女性は育ての親にも非情だから異常なことは確かだが楽した親は最後に悲惨なのである。
それもカルマだったとなる、カルマはその時はわからないのである。
ただ親となるのもカルマであり子もないのもカルマである。
結婚するのもカルマでありしないものもカルマである
カルマはどこにでもつきまとっているのである。
楽だなと思っていいなと過ごしていると後でそれがカルマとなりひどい目にあうのである親が苦労して育てるとそれを子がみているから親を世話する気持ちが湧いてくるのである

ただ人間はカルマを積まない人はいないのである。カルマは欲望でもありその欲望は老人になっても消えないである。だから色恋沙汰の争いが老人ホームで起きて殺人まで起きている、そういう本能的業は死ぬまでも消えないということである。
結果的にそれが災いをもたらすのである
罪障消滅など死なない限りないのかもしれない、人間は生きている限り業をつむ
そして責任をとらされる、カルト教団などは罪障とかそんなものは何の関係もない
みんな業のかたまりであり同じように責任をとらされる

つまりカルトなどはかえって罪障を大きくしているのである。
もしその団体がカルマがないとしたらこの世は天国になっているだろう。
この世のどろどろとしたものがカルト宗教団体に集積しているのである。
それは教会でもどこの宗教でも同じなのである。
団体とかもカルマを積んでいるから団体も歴史的には罰せられのである。
会社とかカルト宗教団体でも他の団体でも組織や団体自体が罰せられる
その団体に所属していただけで罰せられる、そこも罪の団体だからである。
団体組織が権力化して横暴になり社会に害をもたらしていたからである。
カトリックの歴史は暗黒の歴史でもあった、だからそれが今でも問われる
責任を言われるのである。

自分自身もカルマがあり罪障消滅していない、結果としてそのカルマの責任をとらされているのである。それはみんなそうなのである。
人間は生まれたことはカルマを積むことである。またカルマを積んだから生まれてきたともなる、すでに生まれてきたことがカルマを責任を課せられて返すことを要求されているともなる、親は親としてのカルマがあり子は子としてのカルマがあり責任が課せられている、そのカルマから逃れられないのである。
キリスト教では人間に原罪があるというときもそうである。
それはカルマのことなのである。それをとりのぞくことは信仰でしかできないとなる
いづれにしろこの世はカルマから解放されない限り平和はない
それは別に戦争ではなく個々人のカルマがありそれが平和を乱すものとなる
その根本のカルマが消滅しないからこの世に平和がないのである。
それは科学技術でもカルマから解放されない、原発のように人間の技(わざ)がかえって災い(わざわい)となるように科学技術の進歩ではカルマは消滅しないのである。

人間のカルマが最後に激しく燃え上がり焦土のように化したのが戦争なのだろう。
どっちに義があるというものでもない、人間のカルマが戦争を作り出すのである。
そして最終戦争ともなりハルマゲドンとかなり人類は消滅してカルマも消滅するともなるこの世は改革もできないし改善でもできない、一見できたようでもまた新たな問題が生まれる、そもそも人間のカルマは消滅しないから同じような問題が起きてくるのである。
結局プルトニウムの毒が二万年のカルマを作り出したように人間は責任をとらされるのである。

2017年07月06日

学歴で形成されない人格 (人間を作るのは体験)


学歴で形成されない人格


(人間を作るのは体験)


東大だとかなれば誰でも一目おく、その人は人格的にも優れていると見る
自分なども劣等生だから特別な人だと見る、何か体力的にも意志的にも性格的にも違っているとみるからうらやましいとなる
そういう人は天才的な人かともみる、現実に相馬地方では東大に入った人は何十年もいないだろう。東北大さえなくなっている
学歴は何か理系と文系はまるで違っているとみる
理系は自分ではFランでも文系よりは優れているとみる、文系の知識は本当にいい加減だからである。

ただ人格形成からみると一流大学の性的な不祥事が連続したようにやはり知識だけからは形成されない、Fラン大学生ではなく一流大学のエリートから起きたということは何かを語っているのかもしれない、Fラン大学は女性にも相手にされないうというからだ
それで謙虚になっているというのも奇妙である。
でも一流大学もそれも医学部だとかなるともう天狗になるだろう。
誰もが一目をおくからである。

人間は若いときうぬぼれる、それは別に大学生とかなると世間を知らないそうなりやすい自分なども苦労をしらなかったからそうなっていた
ただ世間に出て自分の非力を知って底辺層でしかありえなかった
そしてうちのめされたということがかえって謙虚になったのである。
つまり人間は一度でも二度でもうちのめされる、激しくたたかれる
何かそういう失意の経験とかないと傲慢になってゆく
それが一流大学生とかは学生の時から起きているしその後も医者とか高い地位につくと
傲慢になってゆくのである。それが人格をゆがめる

謙虚になれといっても一流大学とか高い地位についたらなるのがむずかしい、いつも持ち上げられている立場になればむずかしい。
だから社会では学歴がすべてではなく通用しないというこを知ることも大事である。
それは人を使う立場になるということは相手の身になることでもある
ところがそういう人はいつも何でもできる学歴もある、知識もある。
でもそういうものがない人のことを知り得ない、それであれほどまでに豊田真由子議員で秘書をもう人間扱いしないのである。
つまりそういう人格形成された人が下々の人の心もわからない、そういう人がどうして指導者になれのかともなる、いくら学歴知識があってもそうである。

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさいーマルコの福音書

上に立つ者の心得である。世の中はこうはなっていない、上に立つ者は露骨に下のものをこき使う、人間とすら見ない、こういうことは使う者と使われ者の間に起きやすい

結局人間の危険は傲慢になることである。奢りになることである。それが身を滅ぼすし国すら滅ぼす、奢れるもの久しからずである。
原発事故だって奢りから生まれた面がある、政治家の奢り官僚の奢り科学者の奢りマスコミの奢りが権力を持つものの奢りが集積して事故につながった
科学者は日本の技術は優秀だから事故は起きないという幻想をいだかせていた
それは原発に関してはそうではなかったがそういう幻想をいだかせていたのである。
その奢りを生むのがこれらの人々が権力をもっていたからである。
だから難であれ権力は奢りをうみ、絶対的に腐敗するとなる

だからどうしても権力者はまともな人格形成が成すことがむずかしい
なぜ「悲しむ者は幸い」なのだろうか?
悲しむ者は常に不満であるのは権力がない、金もないからである。
では権力者が幸いだとは言わない、そこに人間の逆説がある
つまり人間が権力を持つと奢りに陥ることが人格をゆがめるからそう言っている
王様のような人はとても天国に行けるような人ではなかったとなる
権力をもっていて謙虚であることはむずかしいということである。

いづれにしろ若いとき権力ももったり高い地位につくことは最大の危険である
世間的に成功してもそうである。それが奢りになるからである。
ある人は理系で資格をとり優秀だから事業をはじめて失敗した
それも奢りをもったからそうなった
人間の優秀さとといっても多様であり人間は確かにあることには優れている
あらゆることに優れいてる人はいない、理系で仕事しているのと事業を経営するのとはまるで違った才能が必要になる、そこに人間の限界がある。
おそらくその人には理系の能力があっても人間的常識すらもっていなかったのかともなるこの人もただ人をこき使うというか人を使えるような人ではなかった

現代は知識を過度に追求する社会である。すべてが知識だともなる
その他人間の人格などは見ない、学歴には知識に優劣をつけられる点数をつけられる人格というのは何かとなると点数がつけられない、点数がつけられないものは無駄なものとなる、教育自体が点数をつけることであり点数によってすべて評価される
そこに異常な人格が形成されても関係ないのである。
江戸時代だと人格が形成されたというとき知識だけではない社会に生きていたからである現代は膨大な知識を追求する社会である。遂にはもうそれは人間の能力を越えているのでAI化するようになる、AIの判断の方が人間より優れいてるというときもう人間はとても膨大な知識を処理できなくなっているからだ
ただAIにはコンピュターには人格形成はできない、人格はそもそももてない
そのようなものに指導されたらどうなるのか?
それは非情な機械に支配された悪夢の社会となってしまう。

人格形成に失敗するというとき学歴でも知識でもできない、体験を積んで謙虚な心になる奇妙なのは本当は学問すること自体人格形成することが目的だった
まさか悪人にになるために学問しろなどとは言わないが金儲けなら学問しろとなっている金儲けがすべての目的化しているのが現実である。
そういう社会であるとき異常人格者が増えて当然だとなる
人格から見れば今の人間は最低であり異常人格者が目立つ社会かもしれない。
要するに豊田真由子のようなとんでもない人間が生まれやすい社会だとなる
学歴知識偏重社会だからそういう人間が生まれても不思議がないからである。









2017年07月04日

押しつけられた強制された人生 (それでみんな人生を後悔する)


押しつけられた強制された人生


(それでみんな人生を後悔する)


人間は生まれたときから何かおしつけられる、第一親からおしつてされる、何々しなければならない、勉強しなければならないとかいろいろなことをおしつけられる
それは必要なことであるからしかたがない、ただ人間は成長しても以前として何かを押しつけられたものとして生きる、親の押し付けが一番にある
親は別に必ずしも子供のことを思うというけど自分の対面や見栄のために子供に勉強でもおしつける、そもそも勉強とは何かといったら親の対面のために見栄のためにするものでもないのである。

子供にとって大人は何かを常におしつけるものとしてある
あなたのやたたいことをやりなさいという親などいないのである。
だから自分は親に関していい感情をいだいていない、ただあなたの思い通りにしないということが家族の中でありそうなったのである
一般的にこういうことせありえないことである。
医者の家に生まれるともう医者になりなさいという押しつけの中で育つことになる
医者になるしかないとまで人生のコースが決められる
そういう押しつけの中で生きることは相当な圧迫感になる

そもそも人間とは他者に対して絶えず何かをおしつける存在なのである。
年頃だから結婚しなさい、お嫁に行きなさい、就職しなさいとかもそうである。
それは別に本人のために言っているのではない、自分の体面のために言っていることが多い、確かにそういうことは社会的に必要であり否定できないしいいことである。
ただ押しつけられるということが何にでもこの世ではある

例えば働かない奴は生きている価値はないとか働いている人は言う、働かない人は泥棒は同じだ、他人の労働によって生きているからだ、そんな奴は許されないとなる
働くことを否定しているのではない、働くことが強制されておしつけられていることを問題にしている
この世の中で別に働くなくてもいいということがあっても生きがいのために働く人はいるボランティアがそうである。働かなければこの世が成り立たない、働かない人はこの世に生きる資格がないとまでなる
働けという押しつけ圧力がこの世で最大のものなのである

押し付けというときそもそも金がなければ暮らしていけないから金がないということは何かをおしつけられる、嫌な仕事でもしなければならない、だからみんな俺たちは奴隷なんだよ、社蓄なんだよと嘆いている
それは社会の最も大きな圧力、プレッシャーが働けということだからそうなる
でも不思議なのは金があれば親の遺産でもあれば働かなくてもいい人は必ずこの世には少数でもいる、その人は働くことを強制されないのである。
そういう身分の人はいる、でもそういう人に対しても働くことの強制がある
そもそも誰かが働いているということはプレッシャーになっているからだ。

この世に生きるというとき絶えず何かこうして他者のおしつけによって生きているのが普通である。宗教なども他者のおしつけである。カルト団体とか組織になるおしつけなのである。それは大きな押しつける力が働いてそうなっている
そのおしつける力は何なのか?別に本来の宗教の求道とかは全く関係ないのである。
政治的組織としてのおしつけなのである。

それは目に見えて社会で勢力をもっているものはみんな押し付けであり強制なのである。戦争だったみんなが戦争をしたいわげではなかった、もちろん戦争したい人たちもいたし戦争にロマンを感じる人はいるしそれはそれで否定はできない
戦争するなということもまた今や押しつけなのである。
戦争をするなという団体が組織化して行動すればおしつけになるのである。
だから右も左も団体化すれば押し付けなのである。
民主主義はただやむをえないものとして多数決で決める、その多数とは押し付けなのである。少数者は多数によって押しつけられるからである。

人間二人でも必ず双方のおしつけがある、双方の価値観のおしつけがある。
そこに対立が生じる、結婚でも対立が生じる、それは様々な押しつけの結果としてそうなる、何かをおしつけないものはいないしまた押しつけられないものはこの世にはない
そしてこの押しつける力が社会で最大限になるときどうなったのか?
ファシズムとなりナチスとかになる、誰ももう戦争を否定はできない
それは強力の圧力となり死が強制されるのである。
その時戦争するという押し付けが圧倒的になりもうその押しつけに逆らうことはできなくり逆らうと社会から殺されるとまでなる

自由を探求してゆく

あなたの思想でも存在でも他者からおしつけられて作られている

すると個としての自由な存在はない、なぜなら他者から押しつけられたものだかである。押しつけられたもの中で思想形成もしている、その本人の思想は何もないとなるからだ
現実にカルト宗教団体でも左翼系の団体でも右翼系の団体でもそれは強力な押しつけるも権力としてさえ強制するものである。
本当に自分の価値観と思想で行動するならいい、他者からの押しつけがあり行動しているすると結果的に右でも左でも操り人形にすぎないともなるのである。

あなたが行動を起すときそうした押しつけられたものではない
真に自主的なものとして自らその価値を知り思想をもって行動する
そうなればその行為は押しつけられたものではない
その行動の価値と意味はその時ゆるがいがないものとなる
ただ右だ左だとおしつけられるものとして行動していれはどっちにしろ操り人形だとなってしまう。

人間はいくら自由社会だといってもこうした押しつける力によって強いられ生きている
真に自由に生きるとしたら労働だって金のためとかにはならない、そこに費やす労働の真の価値を知って労働するのである。そこまで現代で労働していることに価値を見いだしている人はまれだろう。そこに人間の労働の荒廃がある
理不尽な労働が強いられるのは自ら選んだものではなく押しつけられた強制されたものだからである。
趣味のような畑をしている人はその労働は押しつけられたものではない、でも他人の家事手伝いはおしつけられたものだからしたくないのである。
実際はしなくもいいものだからその畑がつづけられている
でも実りはわずかでありそれで一人分の野菜もとれないのである。
でもその女性はその労働を嫌っていないのである。
ただその畑はマイナスの収入でしかない、普通だったらやめているが援助があってつづけいるのである。

結局人生をふりかえるときただ押しつけられた人生を生きているとどうなるのか?
その本人を生きたのかともなる、ただ押しつけられた人生がすべて悪いとはならない
見合い結婚して押しつけ結婚して幸福になっている人もいるからだ
ただ本当に生きるとは他人や組織の強制に生きるのではなく自主的な思想と意志と判断で生きることである
そうして生きた人は不満がないはずである。
不満があるのは他人の押し付けで強制された人生を生きたという人がほとんどだからである。俺は医者になりたくなかった、でも家が医者だから医者にさせられたのだ
別に医者になりたくてもなれないのが普通だから贅沢だとみる一面もある
ただ何でもあれそうして強制された生を生きると後で後悔する
俺は大芸術家に本当はなれたとかなんとか言ってもどうにもならない、人生は一回しかないからである。

そもそも99パーセントは押しつけられて人生を生きて自主的に選び判断して生きた人生はまれだろう。実際はでは自分と一体何を求めているのか?
それさえ良くわからないからそうなる、自分の才能すらわからない、だから才能を開花させた人もまれである。本当は自分にはもっと才能があったというのは本当でもでは自分の才能を追求した人はまれなのである。
こうして不本意な生に終わる人がこの世ではあまりにも多すぎるのである。
結果的にこの世の中はメタンガスのように不満のみが噴出して空気を汚しているのである
自然だと花でも花は自分の本然を余すことなく出して咲いて散ってゆく
そこに後悔はない、自然には人間界のように押しつけるものがないからだ
すでにどういう花として咲くか定められていてそのように確かに花開くのである。
人間にもそれぞれにこうした個性があり花開くのが理想だけどほとんどできていない
別にそれは才能がなければできないというのではない、自らさえ才能の発見が成されていないのである。

清浄の空気の高みに
清廉の花は開く
高峰を望み
夏の日ざしを受けて
本分を尽くして
花は神の御意にかない
天に向き咲き開く
そして天の園でも花は開く






2017年06月12日

人間関係も外交関係も何でも日々変化している (人間はその変化に気づかない)


人間関係も外交関係も何でも日々変化している


(人間はその変化に気づかない)


人間というのはも日々変化している、その情況も同じではない、家族でもその情況は常に変化している、なぜなら子供が成長するから変化している、いつまでも同じ状態のものはこの世にはないのである。
人間関係も常に変化するのは情況が変化するからである。
自分はこれまで介護とか自分の病気とかで弱い立場にありその弱いが故にそこにつけこまれてひどいめにあってきた、でもその時は何もできない状態だったのである。
でも介護が終わり自分の健康も回復したとき違ってきた
何か頼る必要がなくなったのである。弱い立場ではないのである。
でもそういう変化に気づかず相手は弱いと思いつけこんでくる
それは相手の変化を見ないから察しないからそうなる
そして今度は反撃されることがあるから注意すべきである

つまりこの情況というのはあらゆる所で変わるのである。日々変わっているしそれが良くわからないのである。
外交関係でも常に変わっている、なぜなら中国との関係でも10年前と今では全く違った情況が生まれている、10年前だと中国があんなに発展していないだろう
すると日本ではまだ中国は貧乏国の後進国だと見てしまうのである。
10年すぎる中国はみるみる変わってしまっている
いつまでも世界は同じ情況になっていない、人間はその変化に対応できないのである。
イギリスもいつのまにか衰退してしまっていた、それでも大英帝国がなおあるように錯覚するのである。
日本とアメリカの関係もいつまでも同じではない、そんなにいつまでも日米同盟がつづくとは限らない、どこかですでにその情況は変わっている
それは中国の関係でも韓国の関係でもロシアの関係でもそうである。

ともかく世界は常に変わっている、この辺は津波と津波や原発事故でまるで変わってしまった、ただその変化に対応できないのである。
避難解除になったからといってすぐに帰れるわけではない、その心境とか情況も常に変わっているからだ、仮設に住んで復興住宅に住むことでも変わっている
そういう変化がこの辺は激しいのである。だからどういうふうに対応していいかわからないとなる

科学技術の面でも常に変わっているからこれについてゆくことも年取ればむずかしくなる老人は時代に技術についていけなくなる、だから老人は金をもっていても弱者化してゆくのである。時代の変化に対応できないからである。
車社会になったとき車をもっていないものは弱者になっている、だから老人でも車を80でも90でも運転しようとする、弱者になりたくないからである。

人間関係でも家族関係でもなんでも常に情況が変わってゆくことがわからない、すると突然離婚になったり何か破綻したりする、それは突然そうなったのではなく情況が変わるからそうなる、離婚でも経済的に苦しいからできないとなっていても何かで経済的に自立できるとかなると離婚になる、情況が変わるからそうなる

あらゆるところで情況が変わり変化してゆく、強いと思ったものが弱くなり見る影もなくなる、老人になるとそうなりやすい、そういう親が老化して弱者になることをまざまざと見たとき信じられないとなるのだ。
あらそるものは変化である。その変化に気づかないから相手が弱かったからいつまでも弱いと思っていると強くなっていることがありそのために今度は逆に攻められてひどいめにあうことにもなる

人間関係もいつも同じではない、それはそれぞれの情況が変わっていることに気づかないのである。それで突然変わったとかなる、それは相手がいつも同じ情況、状態にあると思っているからである。
個々人の単位でもそうだが国の単位でもそうである。今の日本は高度成長時代の日本とは違う、子供の貧困が6人に一人もいるとかなるとなんでこんなに貧乏になったのかとなる
そういう情況があることをなかなかのみこめないのである。
それは過去の繁栄を経験した人は余計にそうなる、なんでこんなに日本は落ちぶれたのかとなり信じられないとなるのである。

人間は情況を変化を見誤ることが致命的なにる、夫婦でも友達関係でも何でも情況が変わるからいつまでもつづくとは限らない、友達も結婚すれば別だとなる、
そして結局人間の関係は金の切れ目が縁の切れ目であり仏の顔も三度までとかなり縁も切れるのである。仏の顔が三度までというとき相手はいつまでもその人が仏のような人とと思いつづけている、でも情況が変わるし同じことは何度も聞かれないのである。
もういいかげんにしてくれるとなり切れるのだ。
人間の関係はまず常住なものがない、切れやすいのである。
それがこの世の人間関係だとつくづく思う、ただ家族は60年つづいたからその歳月故に死んでもつづいていることがある。その絆は死んでも切れないのである。
他の人間関係はつくづく金の切れ目が縁の切れ目とかなりやすいのである。
この世の人間関係の無情がある

だから外交のむずかしいのは相手の国でも常に情況が変わり変化していることを見誤るからである。アメリカでもトランプ大統領になったとき変わったがそれがどのように変わるわからない、アメリカの変化がわからないのである。
そのことから外交でも見誤り失敗するのである。
それほど人間はとりまく情況が常に変化している、それに対応できない、相手を察することもできないから失敗する
仏の顔も三度までというとき金を貸してくれたらまた貸してくれるだろうとなる
それも三度まででありそれ以上はないというということを思わない
それで金が貸してくれないというときその人は愕然として怒りにもなるのである。
なぜ変わったのだとなるがそういう情況を作り出していたことに気づかないのである。


何か巨大な勢力でも権力でもいつまでもつづかない、だからいつまでも今ある権力があると思うと失敗する、たちまちそのような権力も雲霧消散するからである。
まるで幻のように消えてゆくのである。そういう変化を人間の歴史はこれまでつづけてきたのである。津波でも原発事故でもそういう大きな変化でありもう対応できなくなっているのだ。
津波でも原発事故でもそれだけが変化ではとない、過去には二度の戦争があったし過酷な変化がありそのために犠牲になった
そういう変化があるのがこの世でありさけられないとみるべきだったのである。
でも平和がつづくとそれがいつまでもつづくと思ってしまうのである。
平和であることこそがまれなことなのである。
むしろ一生の間にはこうした大きな変化に見舞われることこそが人間社会でありそれは歴史をふりえればわかる
その変化こそが人間の歴史であり繰り返しだったのである。


人間万事塞翁が馬  (じんかんばんじさいおうがうま)

「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍(わざわい)へ、また禍(わざわい)から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」という事です。

原発にしてもこの辺では悪いものではなかった、富をもたらすものだった、それが事故になったら一転して大きな災いとなり苦しむだけだとなった
でも見方によっては他に移っていいと思っている人もいるかもしれない、多額の補償金をもらって良かったと思っている人はいる。
原発事故でもすべてが悪いものとして働くだけかとなるとそうでもない面があるかもしれない。この辺などは前よりスーパーが二軒新しくなったりといい面があったからだ。
もちろん悪い面の方が多いのだが町自体が急激に衰退するということはなかった

ともかく人間は情況が常に変わるからこういうことが起きてくる、何か幸福になるのか不幸になるのかわからないのである。まず幸福の原因が不幸になり不幸の原因が幸福になっていることは普通にあるしみんな経験している
自分が幸福だったことが苦しみのどん底に落された。親が二人死んでただ苦しみしかなくなったのである。30年間の幸福は一瞬にして消失したのである。
それは津波や原発事故でもそうだったのである。
有為転変をまねがれえないのがこの世なのである。人間の歴史自体がそうだったのである

2017年06月09日

若い人は自分が何に向いているか知るべき (体力がすべての基礎であるのは変わりない)


若い人は自分が何に向いているか知るべき

(体力がすべての基礎であるのは変わりない)

勉強で上位の大学入るより 
スポーツやその他の手に職系でプロになって飯食う方がよっぽど難しい 
勉強よりスポーツ等の方が下という価値観は子供にとって間違いなくマイナス 
彼らは勉強して学歴はありますよっていう一般人よりは才能も努力の有無も何もかも上の存在なんだよ 
自分に能力がないって奴こそ勉強しないと駄目 
スポーツとかは逃げ道に全くならないし、むしろ勉強する事よりも厳しい道だと教えないといけない

人間は自分のことがわからない、自分がどんな人間なのかわからない、それがわかるのは老人になって死ぬ時やっとわかるとかなる
そこが人間の弱点である。人間は若い内はなんでもできるような錯覚になる

自分が何に向かって努力していいいのかわからない

それが致命的なのかもしれない、中学生で花に興味があり農業関係の高校に入るという中学生は目的意識があるからそれに向かって努力することができる
しかしそういう明確な目的意識がもてないで高校でも大学でも入る
ただ上から受験戦争で勝ち抜きいい大学に入れば大企業に入れるとかで勉強が強いられる何に向かって努力していいかわからないから学問も職業でも身につかないとなる
それはまた自分自身がどんな人間だかわからないからそうなる

勉強よりスポーツ等の方が下という価値観は子供にとって間違いなくマイナス 
彼らは勉強して学歴はありますよっていう一般人よりは才能も努力の有無も何もかも上の存在なんだよ 

まず人間は体力なんだよ、何をするにも体力が先にある、先天的に体力の差が大きい、
スポーツができる人はやはり生まれつき体力に恵まれている、その差が知力などより大きい、知力がある程度は努力すれば平均的なものは身につく、でも体力は身につかないのである。
だからスポーツできる体力ある人は学校でも最初から恵まれているのだ。
体力ある人はすでに意志と根性が備わっているからだ
第一人間の歴史でなぜ軍人が兵隊が高い地位についたのか?
ローマ帝国でもそうだがコロッセウムなどでも強い人間が選ばれた人間となったのか?
それは体力が戦争するには一番必要だからである。
日本だって侍は体力があるものがなるのでありそれは最初の支配階級になった
官僚は知力の人だが武士は体力がある人がなっていたのである。
武芸に秀でたものが重んじられていたのである。

自分に能力がないって奴こそ勉強しないと駄目 

本当にそうである、インターネットではいろいろな経験談を聞けるし似たようなことを言う人がいるので参考になる
自分は体力がないと自分を知ることが大事だった
そこが出発点としてではどうするのか?知力をつけることだ、そうしないと社会では自分は生きていけないと自覚することだった

体力というとき職人でも建築関係でも体力がないと勤まらないのだ。
大工なんかもそうである。自分が知った大工さんは体が自分などと全然違っていた
ちょうど柔道何段かの体である。太っていないが体の強さが違うのである。
だからうらやましいと思った。農業だってそうである。趣味的農業だって体力がいるのである。女性は耕すことを男に頼んでいるのである。つまり基本的に肉体労働は体力が基礎としてないとできない、もちろん機械化しているから力仕事はなくなるということもある
でも人間はやはり体力がないと人生を生き抜けないだろ。
なぜ男女差別が生まれたのか?男が体力的に勝っていたからである。
まず戦争できるのは男であり女はできない、世界史的にも戦争の繰り返しでありその戦争に勝ち残らなければ民族も滅びる、それに打ち勝つには基本的に体力が必要になる
女はそれができないから男が戦争で勝つことにより女は守られてきたのである。

人間は文明が発達すると体力ではない、機械の時代になると知力が優位になる
肉体労働は低いものとして見られる、それも確かだがやはり人間は体力があって何かをできる、遊ぶにしてもそうなのである。
登山とか自転車旅行とかでもそうである。これも体力ないとできないのだ
世界旅行でもそうである、これもバックパッカーになるときつくなる
自分は登山は途中であきらめた,負担が大きすぎるのである。自転車旅行は休み休み行けるからやれた、それでもやっとしてきたのである。

自分の姉は体力があった、全然違ったタイプだった、だからこそシンガポールで四年間従軍看護婦として勤めることができたのである。
それから家で店をやっていたとき古い自転車で農家から野菜を積んだ来たのだけどそれがかなり重いのである。でもそれを持ち上げ運ぶことができたのである。
昔になればやはり女性でも体力ないと生活できないのである。
農家などは特にそうであり美人より体力がないと仕事ができないから困るのである。
それで美人は遊女にされて美人でなく体力が女性は紙漉きにされたという、紙漉きは過酷な労働だったからである。
常に人間が生きる基礎になっているのが体力なのである。


知力には向いている人と向いていない人がいるとかある
でもむしろ体力がありスポーツに向いている人はまれだということもある
スポーツに秀でることこそまれだともなる
そうなると知力でもって生きることになるから勉強しなければならないとなる
知力はある程度は努力して積み重ねればつくことがある。
自分はその成果を今出している、それは天才でもない能力がなくても積み重ねたものがあるからだ。旅などでもこれも積み重ねなのである。だって本当の旅をするには時間がかかるからだ。するとそれだけの時間が必要になるからだ。
一気に全国を旅はできない、そうして旅をして知見を広めることができるのである。

とにかく人間は何かを蓄積している、雑学でもそうである。経験でもそうである。
一人の一生を見れば必ず何かを蓄積している、だから知見とか洞察力とかなると老人が優れいているのだ、若い人は体力があっても知力はつかないのである。
自分も若いとき本を読んでも理解できなかったのである。今になればすぐに理解できるのでてある。そして独自の見解を述べることができる
それは積み重ねたものが蓄積したものがあるからできるのである。

結局今度は老人になっても体力勝負になる、老人の体力は若いときの激しいスボーツをする体力ではない、健康を維持する体力なのである。
もう60代で病気になり脱落する人もある、その人は激しいスポーツをできた人でもそうである。必ず病気になり体力あった人もたちたち死んだり病気になり何もできなくなる
自分は何か姿勢でもいいし若く見られるのも不思議だとなる
20代で老成化して60歳くらいに見えていたからである。だから20代と今の姿が変わらないのである。

自分がなぜ体力がないのにそうなったのか?
それは環境に恵まれた結果なのだ、勤めていないし疲れたときは寝ていたし無理をしなかったからだ、会社に勤めていれば無理しても働くから鬱病にもなるのである。
人間は環境因子が遺伝とかよりその人を左右することは確かである。
才能ある人も環境恵まれなかったら貧乏でピアノもないとかパソコンもないとかなると才能が伸ばせるはずがないののである。
一方たいして才能がなくても自分のようなものでもそれなりのものが身につくことがある環境というとき時代もある、戦争の時代になったらもう才能もなにもない、ただ兵隊の駒として過酷な戦地で戦わされたからである。人間は必ず時代の影響を受けるのである。
これはどうにもならない、みんなその時代時代必死で生きる他ないのである。

いづれにしろもう老人は結果がでたのである。もう人生をやり直すことができないことを知り愕然としているのだ。時間は返ってこない、いろいろ嘆いてもそうである。
時間だけは後戻りできない、例え10億円もらっても若い時には帰れないのである
貧乏でも何か積み重ねて蓄積されることはある、でも老人はもう10億円あろうができないのである。経験だってできないのである
自分も50代に海外旅行していなければ今になるとできない、退職してから自由になりできると思ってもできなくなる、何か60代以降病気になったり介護になったりできなくなることが多いのである。確かに60代のパックパッカーもいたけど何かそぐわないのである。
バックパッカーは40代までが限度でありやはり若いときにするべきものなのである。
若いときしかできないことが多い、登山などもきついからそうである。
そして若いとき求道しないものは信仰にはいたらない、老人から宗教を求めるのは遅いのである。それはただの慰めにしかならない、若いときできることをしないともう遂に何もできない、後悔だけが残り終わるのである。

いづれにしろ今の時代は一流大学とか入っても意味がない、文系だったら東大さえ変わらない、それより何か目的意識をもって勉強すれば身につく
それはいろいろな勉強方法が生まれたからインターネットなどや豊富な映像でも学べるからである。大学の価値はもうないような気がする、文系の場合は独学力をつけることである。そういう環境がすでに調っているからである。大学という名にこだわる時代は終わったのである。知力の面からすると大学は文系の場合は無駄だとなる
ただ大学には何か別なものが友達を作るとか遊びで人間の幅を作るとかスポーツで体を鍛えるとか知力だけでないものを培う場所としてもある。
だから教育は変わってゆく、大学の名は一流もなにもない、文系なら特にそうである。
むしろ一流の料理人でも目指した方が得策となるのが現代である
時代が変わると価値観もがらりと変わるからだ、ただ体力だけはやはりどんな時代でも基礎として一番必要なものなのである。






2017年04月12日

地獄から天国へ(詩)



地獄から天国へ(詩)

 いづれの行もおよびがたき身なれば、 とても地獄は 一 定すみかぞかし (親鸞)

死は苦しみからの解放
心の病,脳の病
最後に断末魔の苦しみ、叫び
人と人は憎しみ争う
人間の恐るべきエゴ
弱者として責められた恐怖
自らの病気と他者の責め苦
非情な人間の社会
それは地獄だった
人間の恐るべき業(カルマ)
業の欲の炎が燃え上がる
この世に現れたまぎれもない地獄
人は人にとって狼
人間は悪鬼ともなり夜叉ともなる
しかし死はこの世の地獄からの解放
もはや苦しみはない
人と人は争わない
和やかに手を握りあっている
やさしさが顔にあふれている
業(カルマ)から解放された仏
己自身も身内の苦しみをになった
しかしその苦しみからも解放された
自らの病気で苦しんだが
それも今はなく他者に脅かされることはない
今他者に頼ることがない
頼られても頼ることない幸せ
人が人に頼るとき不幸になる
その時弱みがありつけこまれる
そういう悪質なるものが人間
だから今は死者も安らかであり
自分もまた安らかになる
平和とは何か?
自分の病気であれ家族の病気であれ
苦しみのないこと
弱者となりて責められないこと
人と人が争わないこと
その時人は平和を感じる
なぜなら人と人の争いは終わらないから
死は必ずしも悪いものではない
苦しみからの解放であり
他者に頼ることからの解放であり
他者に責められることからの解放であり
業と欲からの解放である
酷い戦乱を戦争を生きたものは
ただ戦争のない世界を望む
人と人の酷い争いを見たものは
ただ争わないことを望む
しかしこの世に争いは消えない
そういうふうに憎しみ争うのはなぜなのか?
それはこの世の地獄を身にしみて経験して
天国の平和を望むようになること
もう二度と争いたくない
そういう気持ちをいだき天に昇るとき
そこに真の平和が実現している
天国にあるためはにこの世の地獄を経験する
この世は試練の場であり地獄の場でもある
その地獄を生きぬいたものに真の平和が訪れる
灼熱の地獄から涼しいパラダイスに
もう人と人は争わない
その顔から苦しみはとりされらて
安らかな慈悲に満ちた顔になる
業の炎は消えて安らかになる
だから死は悪いものではない
死を持ってしか解決しないことがある
それは苦しみからの解放である
争いからの解放である。
責め苦からの解放である。
そういう苦しみと地獄を経験して
真の天国が訪れる時がくる


地獄というとき来世にあるのではなくこの世にある。地獄の世に生れてきたのが人間なのだ。親鸞の言っていることは親鸞自体が地獄を経験したから言っている。
地獄の世を生きたから言っている、とても地獄から逃れられないのが人間なのである。
そういう地獄を経験したのがこの十年間の家族の介護と自らの病気とかであった。
自分の家の状態がまさに地獄の状態になったのである。
一人は重傷の認知症になって一人は介護が5年ほどつづきとか今度はその間に自分が病気になり二回入院した、そして自分一人しかみるものがなく苦しんだ
その時助けはなかった、それよりその弱さにつけこまれて大金を盗まれたり借金の強要をされたり恐怖の時を過ごした
自分の所に来た人も余裕がない、金もないから自分を責めるチャンスになったのである。そのことはプログでずっと書いてきた

認知症というのも過酷である。それはその人だけではない、それをみる人も過酷になる
精神を病んだ人をみると自分も病んでくる、そして病気というのは本人も苦しい
だから苦しみから解放されたいというだけが願いとなる、でも死の病となると死ぬ意外解放されることがないのである。
認知症でも馬鹿は死ななきゃ直らないとなる、直ることがないのである。
老人の病気はもう直らない、死に向かっているからである。
だから最大の願いはその苦しみから解放されることなのだ
それは死しかないのである。だから死がすべて悪いものとはならない
そういう状態になったら死にたいと思うのが自然なのである。

人間は最後は断末魔の苦しみを受ける、それで業(カルマ)が消滅する、死んだら地獄に行くのではなく今世が地獄なのである。
そして現実にもっとむごたらしい地獄が生々しくこの世にある、アフガニスタンでもシリアでもまさに地獄そのものである。
そしてそういう地獄で生きている人は戦争のないことがどれだけ平和かと切に思うようになる
自分の姉も四年間シンガポールで今のマレーシアのジョホールバルで従軍看護婦で辛酸をなめた。だから死ぬときまでそのことにうなされつづけていたのである。
だから戦争は余りにも悲惨でありそのことが忘れられなかったとなる

いづれにしろ人間の恐怖は弱者になることである。弱者というとき金のないのも弱者だがその時江戸時代だったら借金で遊女にされたり今でも同じようなことがある。
その弱みにつけこまれることが常にある。それも自分も受けたし憤りを感じた
でもみんな最後は老人になると弱者化する、強いものでも弱者化してゆく
子供の世話にならざるをえない状態になったとき親でも弱者化するのである。
だから老人になることは病気とかになりやすいから怖いのである。

医者であれ看護師であれ他者に頼るとき地獄になる、なぜか他者は別に愛をもって接するわけではない、機械的に接するし患者が虐待されることもある、そういうことも経験した老人は特に老人ホームでも邪魔者として虐待されやすいのである。
でも自分が病気になったりしたらどうしても医者だけではない、他者に頼らざるを得なくなる、それが家族がいないことの最大の恐怖だと経験したのである。
それもまた自業自得、カルマなことは確かである

ともかくもし天国だけにいたら天国の価値はわからない、地獄を経験したものが本当の天国の価値を知るのである。戦争で苦しんでいる人たちは戦争のない世界がどれだけ平和なのか心から感じる、でもそういう経験をしていない人は天国にいても感じないのである。だからこの世は地獄でありそれは天国を行くために必要だともなるのである。

人間が業をカルマをもつというとき欲がありその欲が消えないからまた自らも苦しむ
男女でも愛憎の炎が燃え上がる、何かそこには平和がない、争いになる。
戦争がなくても普通の生活のなかでも平和がない、自分の家もずっとそうだった
争いがつづいていて死んで争いがなくなったのである。死んで平和が訪れたとなる
だからすべて死が悪いものではないと今では思う
死というのは一つの浄化作用なのかとも思う、つまり罪業が消滅するのかと思う

大難を得て罪障消滅するー日蓮

これは別に信仰とは関係ない、みんな最後は大難にあう、死は最大の大難だからである。まず創価のようなカルトは法華経を批判することは最大の罪だとかいうけどそれが政教分離していないから怖いのである。創価とか公明を批判するものは罰があたるとなり何もいえないから好都合になる。政治の世界に宗教をもってくるとどうしてもイスラムでもそうだが問題が起きる、要するに創価を批判することは誰もできなくなる
マスメデアがしないのは創価が権力をもっているからであり別に宗教が怖いからではない巨大な権力集団だから誰も批判しないとなるだけである。
そういうことはカトリックで嫌というほどヨーロッパで経験しているから政教分離の法律ができたのである。

別に宗教者でなくてもみんな最後は死という大難を経験する、それは誰も逃れることはできない、「大難を得て罪障消滅する」というとき死をもって罪障消滅するということなのだろう。死は救いだともなるのである。

死はあらゆる善きものの中で最高の善きものかも知れない


タグ:地獄と天国

2017年01月27日

逃れられないカルマの怖さ (事業失敗のカルマを受けた自分)


逃れられないカルマの怖さ

(事業失敗のカルマを受けた自分)


カルマというときそもそもアダムの原罪というカルマがありプロメテウスがゼウスから火を盗んで過酷な刑罰を受けたなど人類的なものとしてあった。
だから今でもそういうカルマは継続していて解消しないのである。

●個々人のカルマ
●家族のカルマ
●地域のカルマ
●国のカルマ
●人類のカルマ

普通カルマというとき個々人もあるが家族のカルマ、家のカルマを一番意識しやすいかもしれない、家にはどんな家でもプラスの面とマイナスの面がある。
そういうカルマを業をもったものがカルマである。
人間個人にしてもみんなカルマを業をもっている、それから逃れられないのである。
つまり人間は罪を犯すものとしてあり罪を犯さず生きることはできない
なぜなら殺傷を禁止するといっても動物を食べることはやはり業となっている
動物を犠牲にして人間は生きているのである。そういうところから仏教は生れてきた。

カルマというときそれぞれの家がもっているカルマがあることはまちがいない、それで昔は結婚というとき家といえの結婚だったのである。
家柄がいいとかその家がどんな家かで親が結婚を決めていたのである。
それが意外とかえって離婚が少ないし互いに幸福だったということもある。
ただ女性だけでは生活できないとか今とは違っているから一概には言えない
問題は昔から伝統的なものには何かしら意味があり価値があり継続されてきたのであるそこには必ずいい面があり何かを守るものとしてあった。

家同士の結婚が古いとかなるときでは恋愛結婚になったときみんなうまくいっているかとなると離婚が増えた、三分の一は離婚しているのである。
恋愛結婚がいいようでもこれもうまくいっていないことでわかる。
家のカルマの怖さはなかなかわかりにくい、でも結婚の怖さは必ずその家のカルマを受けざるを得ないことなのである。それは親戚にも及ぶから怖いのである。家風というものもあり悪い家風もありそれに染まるのである。
そして長男と長女はその家のカルマを一身に受け継ぐ、そのカルマから逃れられないから怖いのである。

自分の家もいい面と悪い面のカルマを受け継いでいた。
それは事業失敗のカルマである。父親でも親戚といってもそれほどでもない、兄弟関係というものでもない、でもやはりそのカルマの影響があった。
二つの家が事業に失敗したということはあまりないだろう。今でもそこは更地になっている。事業で失敗して家は売られたのである。
もう一軒これまで書いてきたが自分に最も影響した。そのカルマを身をもって受けた。
自分が苦しいときその人も事業に失敗して借金をかかえていた。
そういう人が来たことで最悪のときに自分が苦しいときに関係した、それで自分はそのために恐怖を味わった。

自分もそういうカルマを受けざるを得ない家系としてあったのかとなる
母方でも父親が機織りの事業を失敗して一家離散になった。
ただ事業失敗というときそれは20人に一人しか成功していないというとき珍しくはない
だからなんらかそういうことで回りにも影響してくる
連帯保証人で苦しみ自殺した人とかめずらしくないとかある。
だからこの事業失敗はめずらいことではないのかもしれない、それにしても自分の家の関係は事業失敗が多い、自分の父親自体が酒屋に勤めてその酒屋が倒産してもめたのであるこれほど事業失敗が家の関係にあることは自分もそのカルマを受けざる得なかったのかとなる

いづれにしろカルマは逃れられない、そのカルマを誰かに肩代わりもできない、長男、長女が一番受ける、もし肩代わりして誰かにそのカルマ肩代わりさせようとするとかえってカルマが重くなる。カルマは他人に責任転嫁できないのである。
借金とそれはにていたのである。借金もカルマを作ったことなのである。
その借金の肩代わりをしようとすることはできない、自分でその家族で負うほか払う他ないとなる
自分はこの十年で家族のカルマを負い清算したように思う、ただまだカルマが残っていることはある。
結婚の怖さは必ず結婚相手のカルマを背負うことになることにある。
それは60以降とかにそういうカルマが現れて苦しむことがあるのだ。
60以降は個人的にも家族的にもカルマの清算を強いられるからである。

カルマは地域的なものでも起きてくる、現実にこの辺では津波や原発事故でカルマを作ったからである。もともと津波でもこの辺では400年前に起きていたのである。
そのカルマが今になって現れたのである。だから地域的カルマとして津波のことをもっと知るべきだったのである。
地域的カルマというときとこに地の利がありいい面と悪い面に働く、雪国が嫌だなと思うときでもキャベツが雪の下であまくなるということがありいい面としても働いていたのである。青森では寒くてもリンゴがうまいとかいい面として働くから地域にもカルマがある
ともかくカルマの怖さは人類的なものとしてあり人間は生れたときみんなカルマを背負うことになる。そしてまた人間は新たなカルマを作るのである。

この辺では原発事故でプルトニウムが二万年も消えないというカルマを背負った。
カルマの恐ろしさがここにあった。子孫はそのカルマを背負わされたのである。
それは地域的だけではなく日本自体のカルマともなっていたのである。
20兆円も廃炉作業に税金がかかるということでもわかる。
そのカルマは簡単には消えないから怖いのである。
タグ:カルマ

2016年11月08日

人生はタイミング、チャンスは二度と来ない,時間ももどらない


人生はタイミング、チャンスは二度と来ない,時間ももどらない



1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 
2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 
3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、 
7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、 
8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。 

伝道の書(口語訳)は新共同訳聖書では「コヘレトの言葉」



人間は何でもタイミングである。植えるに時がるというときその時期を逃すと実りがなくなる。死ぬるに時があるというとき今では死期を医療で無理やり伸ばして苦しんでいる。その人にはそれぞれ死期がある。死ぬにも時期がある、もし死ぬ時期を逃すとただ無益であり苦しむだけだともなる。ただその時期は人によって違うからわからない。

何か植える時というとき、少年とか思春期とか青春時代は植える時であり最も大事なときだった。この時代を良く過ごした人はのちにも思い出となり残る。
自分は学校に適応できないからこの時代はいいものではなかった。
この若いときは必ず老年まで尾をくのである。この時はどうししても若気の至りになる
それがその時だけのことであり消えてしまうと思っているが消えないのである。
それがあとで大きな誤算だったことになる。

仕事でも新卒として大企業が採用するのはその会社になじむ、その会社に適合して仕事を覚えるのはその時期だからである。そこで仕事を覚えれば会社に適合させるから会社では新卒を採用する、それで一生が決められてしまうというときそれも若いとき一生が決められてしまうということである。
それはいいにしろ悪いにしろそうである。そんなことで一生を決められてたまるかと反発する人もいるのは当然である。
ただ30くらいまでに一生の方向が決まってしまう
そこから別な方向を目指すことはむずかしくなる、若いときはそんなことがあるか、時間などいくらでもある、暇で暇でしょうがないんだよな、時間がなくなることなど思う人は一人もいないのである。
実際は「光陰矢の如し」あっとういまに人生が終わったと最後はなる。

だから人間にとってタイミングが一番大事なのである。タイミングを逃すとそのチャンスは二度とこない゛チャンスなんかいくらでもある、一回失敗しても誤ってもまたやるチャンスはあるとか思う、それもあったとしてもタイミングと時間は人間にそんなに与えられていないのである。
学ぶにしても学ぶ時がありその時学ばないとあとでもう学べない、本などでもいくらでも読めるとか思ってもできない、ええ、これしか読めなかったのかと驚くのである。
みんな人生これで終わりかこれっぽちの人生かとなってしまうのである。

 焼き捨てて日記の灰のこれだけか 山頭火

こんなものになる、一生が若いときはとてつもなく長く感じられるが老人になるとあっというまに終わるとなる。その違いが大きいのである。
植えるときとは若いときだがその時を逃せばあとは学ぼうとしても学べないともなる
もちろん学ぶことはできても本でも厚い本などは読めなくなる、そしてくだらない本を読んでいたなと後悔するのである。こうして老人で悔いてない人はいないのである。
今になるともっと何かを学び何かをしていればいいと思ってもできない、これからいくらでも時間があるからできると思っていてもたちまち「光陰矢の如し」であり少年学成りがたしなのである。

どんな人生でも数回重要な決断がある、それもタイミングなのである。
自分のような平凡な人間でもそうだった、親元を離れ東京の大学に入ったこととかそうである。それは親元から離れるということで意味があった決断だった。
創価とかカルト宗教団体もやめたのも決断だった。師を否定して去ったのも決断だった。その時そうしていなければずるずるひきづられてしまうのである。
何しても無益なことはないこともいえる、なぜなら人間の経験する時間があまりにも短いからである。経験したことはやはり血となり肉となるからである。何か青春時代は一番事が起こりやすいのである。多くの人に出会うのもそうである。
あとは意外と人とも出会いがないのである。それもタイミングを逃しているのである。

タイミングというときあらゆることがタイミングなのである。株でも投資信託でもこれもまさにタイミングだった。買ったときの値段でもうけが決まる、わかりやすいのは為替の値段の差益である。110円の時買ったが100円に円安になり損になり回復するのに時間がかかる。もし100円の時買えば今なら105円とかから売れば即もうかるということなのである。それは株とか全模範に言えることなのである。

求道でも青春時代にしないとできない、宗教は老人になってからかえって傾倒する人が多いかがそれはまた違ったものである。
「若いとき、造り主を覚えよ」というときその時を逃したらできないのである。
そしてその時はチャンスは永遠にないし将来もないのである。
だから貴重な時間と数回のタイミングでチャンスをものにするかどうかで人生は決まる
チャンスも何回も来ないのである。人が困ったときたその時大きなチャンスなのである。その時ともかく動機が不純でも助ければ恩に着せておこうとでも思って助ければやはりチャンスをいかしたことになりその人に恩を着せてもそれは返してもらうことがありうるのだ。そういう動機ですら人間は活かしていないのである。
困っている人がいても何もしないしかえって自分のように苦しめられただけだともなる
津波でもそうだが火事場泥棒とかは常にそういうとき出てくる、自分もそういう目にあったからである。

要するに人間はいかに時間を無駄にしてチャンスを逃しているかということである。
誰にでもそういうチャンスは巡ってくるがそれを活かせないのである。
悪を成すチャンスもありその悪を成すことの方が多いともなる、善を成すチャンスが悪を成すチャンスになる。若いときは悪を成すことが多いのもそのためである。
いづれにしろあらゆることに国政とか経営とかそうした世俗の活動でもタイミングとチャンスをいかにものにするかなのである。
タイミングがあやまるとすべてが狂ってしまうのである。奇襲が大きな成功をおさめるのはやはりタイミングを活かすからである。でも逆にそのタイミングを誤るとその結果は惨たんたるものになる。でもそのタイミングにチャンスに賭けない限り勝利はないのである歴史でもそういうふうにいかにタイミングを活かすかチャンスを活かすかで勝敗が分かれるのである。

タイミングを活かしたものが歴史に名を残すともなる、義経であり信長であれ秀吉でもそうである。吉田松陰も明確ではないがやはりタイミングを明治維新の動乱に活かしたとなる。そうでなければただ作られたテロリストにはすぎないともならないだろう。
一方でいくら英雄になろうとしても時代が英雄を作るからなれない、三島由紀夫がそうだった。時代にぞぐわないタイミングが良くなかったから歴史には残らない、いくら無理しても英雄にはなりえない、どうしても時代をは越えられないのである。

原発事故にしたって事故の前にはもう戻らない、それでそれぞれが決断を強いられる,もう帰らないと決断した若い人もいるし人生が無理やり変えられてしまったのである。
それを嘆いてもどうにもならない、時間を元にもどすことができないからである。
戦争で300百万人死んで戦争がどうだったこうだったと今言ってもその時代はすぎたのであり時間をもどすわけにはいかない、ただ300百万人の死者の重みが後世に残されたし
原発事故だって一万年プルトニウムの毒が消えないというのもそうである。
一度起きたことは時間をもどして元にもどすことができないことが深刻なのである。
だから原発などは危険なのだからよほど慎重にして是非を考えるべきものだったのであるこれだけの甚大な被害が出てから遅いということである。
それはここの人生でも同じだったのである。

2016年09月13日

国レベルでもカルマの法則が成り立つ (他者であれ他国であれとばっちりを受けるのが怖い)


国レベルでもカルマの法則が成り立つ


(他者であれ他国であれとばっちりを受けるのが怖い)


カルマ(業)というとき個人→家族→小地域→国→大地域(アジア、ヨーロッパ、中東など)→人類となる
なぜ戦争が起きるのか、なぜ近代化した以降大規模な戦争が起きたのか?
今までにない多数の人が死なねばならなかったのか?

ソ連 2000万人
中国 1000万人
ポーランド 540万人
ドイツ 530万人
日本 290万人

ソ連は軍人の死者が多い、中国人は民間人が多い、ドイツや日本も軍人が多い。
なぜこれだけの人間が死なねばならなかったのか?
それには理由があったのか?ソ連はなぜ2000万人も死んだのだろうか?
中国は内戦の結果死んだ数も多いだろう。それから粛清があり死んだ
ポーランドはナチスの虐殺があった。

こういう大規模な戦争となるとやはりその大地域のまたは国のカルマが関係しているのかとなる、日本だったらアジアのカルマがありそのカルマを背負ったとかなる
ヨーロッパは複雑でありソ連もまた歴史的対立とかカルマがあり犠牲が大きかった。
第二次世界大戦は世界的カルマの総決算の様子を示していたのかもしれない
ハルマゲドン的な戦争だったのかもしれない、なぜなら人類的にこんな大きな戦争は経験していないからである。またこれだけの犠牲者を出したこともなかったからである。
国民国家が世界で生れたとき大規模な戦争に発展したのである。
だから日本の戦争の責任論でいろいろ言われるけど大局的にみると人類の業としてのハルマゲドンだったのかもしれない、日本はアジアと日本のカルマを背負い約300万人が死んだ。
ただアメリカはなぜこれらの国からすると犠牲者が少ない、ということはアメリカだけが人類的カルマを背負わない国だともなる、でもその後アメリカは戦争したのでありやがてそのカルマが返り何か大きな犠牲が出るかもしれない、その将来はわからないがアメリカのカルマも日本に原爆落としたようにかなり重いからである。
だからそれに見合うカルマを受けるかからもしれないのだ。カルマとは因果応報だからである。

なぜカルマを考えるよになったかというとここ十年の家族の介護やら自分の病気やらで自分がさんざんな目にあったからである。
それでこれは何なのだろうと考えざるをえなくなった。するとこれは自分のカルマであり家族のカルマだったのかとして納得する他ない、いくら相手を責めても自分が背負ったカルマ(業)だったのかと思う。
それは家族のカルマであったがまたカルマというとき必ずしもその本人家族だけでなくても他人のカルマも受ける、例えば犯罪は毎日起きているけどそのために苦しんでいるのは何なのだろうとなる、ある人はなぜ強盗が入り殺されたとかある、その家は金持ちであり家政婦を二人も雇っていたのである。でも家政婦は殺されない、主人が殺されたのである金をもっているが故にカルマをもちその人は殺されたとなる、金をないこともカルマであり苦しいが金を持ちすぎることも実際は怖いことなのである。

遺産争いがあり骨肉の争いがあり金があるところには権力をもつ所ではその奪い合いで争いになる、そういうことが自分にも起きたから怖かったとなる
他者のカルマも自分は受けたがこれも怖いことである。強盗だったら殺されている人もいるからその身になれば怖いことである。
必ず何か事件があり当事者でなくてもかならず親戚とか近くの人にとばっちりがゆく、隣が火事になれば自分の家も危険になる、だからこのとばっちりも怖いのである。
国でも北朝鮮のような国があると必ずとばっちりがあり何かの調子でミサイルが飛んでくる恐怖がある。他者のカルマを受けることは本当に怖いことなのである。

カルマを積まない人はいない、家族も地域も、国もカルマを積んでいる。
地域というときなぜ相馬藩内の地域に津波や原発事故が起きて人が住めなくなるほどの被害にあったのか?
これも地域のカルマがあったのだろう。原発となると別に相馬藩内だけではない東京も関係しているし国も関係しているし原発は世界中にあるのだから人類的カルマとして原発があるのだからここだけの問題ではない、カルマではない、でもここがカルマを具体的に受ける場となってしまった。
例えば飯館村などは原発とは関係していない、それなのにとばっちりを受けたのである。カルマの怖さは関係ないと見えてもそうした他者であれとばっちりをうけることなのである。
誰かが借金してそれが犯罪につながりその犠牲者になる人もいる。他者が借金したのが悪いといっても誰がそのためにとばっちりを受けるから怖いのである。

ただカルマというのは誰でもどの国でも地域でもありカルマを清算するとそのあと平和が訪れる、戦争の犠牲もそのあとに生れたものにはさほど影響しないしかえって日本はその後高度成長をすることになった。それで団塊の世代は恵まれた時代だったし自分も恵まれたのである。それは戦争でアジアの国のカルマを清算したからかもしれない
ただその犠牲者が300百万人だったからあまりにも大きかった。
でもその結果として日本はその後70年間は平和が保てて経済発展して今日にいたっているのである。
そして今度は戦後70年過ぎて今度はそのカルマを後の世に残すことになる、それもいい面と悪い面がある。膨大な借金を残したとか団塊の世代は経済的に得しているとか若者から批判を浴びるときそうである。団塊の世代もカルマを残し若い世代がそのカルマを受けているのである。
それが親でも必ずカルマを残しているのと同じである。
親のカルマで子供が必ず苦しむことになるのである。
親の因果が子に報いになるのである。

人間が生きることはカルマを背負い生きることである。すべてのカルマから解放されるのは死ぬときしかないだろう、カルマというときある人のカルマが重くある人のカルマは軽いとかもならないのかもしれない、なぜなら金持ちの家に生れて楽してもそれがいつまでつづくかわからない、ある時家が没落することも良くある、すると貧乏になると辛いことになる、もともと貧乏ならいいが金持ちから貧乏人になるのは辛いのである。
それが今貧乏人が増えたというとき中産階級が没落したとき言うときそれが起きているのである。物があふれているのにその物も買えないという餓鬼のような貧乏が起きている。戦後十年くらいは物そのものがない貧乏だったが物があふれていて買えない貧乏というのも辛いとなる、目の前にうまいものがいくらでもあるのに買えない食べられないというのも餓鬼地獄みたくなる

ともかくある時カルマを個人であれ家族であれ地域であれ国であれ清算するときがくる
その一つが大規模な戦争だったり何か国家的破産だったりする、日本だっていつまでも膨大な借金をかかえて成り立つのかとも言われるからだ。
何か借金でも積もり積もってどうにもならなくなり破産として清算される、その時国民は塗炭の苦しみを味わうのである。
借金している人はカルマにカルマを積みどうにもならなくり犯罪になったりするから怖いのである。国家的破産になるとこれも怖い、それは戦争にもるなからだ。
その突破口として戦争が選ばれるのである。
北朝鮮などが怖いのは破産したりするとミサイルを日本に打ち込んでくる、そういう非常に危ない国家である。近いか必ずそのとばっちりを受けるから怖いのである。
それは親戚に事業を失敗したとかなるとやはりとばっちりを受ける、何らか他者のとばっちりを受ける、それが怖いのである。それは国レベルでも同じなのである。

タグ:国のカルマ

2016年09月09日

的を得た行動のチャンスは若いとき一二回しかない (何に時間を費やしたかで決まる人生)


的を得た行動のチャンスは若いとき一二回しかない


(何に時間を費やしたかで決まる人生)


5分しか働かない奴よりも1時間働いた奴の方が偉いみたいな考え方の奴いるな 
その時間でどれだけのことをしたのかが重要なのに

人生80年の時代でもでは人生80年生きてその人が真に生きたかとなるとそうでもない
ただ芸術になると作品を作るのに時間がかかる、芸術家などの場合は長く時間をかけなければ作品は完成しない
ただ歴史的人物とかなるとその行動が別に長い時間をかけたからといって功績があったとはならない、だから明治維新で若者があれだけ活躍したのは時代でありその中で短い人生でも歴史的に大きな役割を果たしたとなる
坂本龍馬の真意は分からないにしても誇大化されるているにしても薩長同盟を成したことで歴史が動いたことは確かである。
歴史の中で一時でも的を得た行動すれば歴史が動かしたとなる、その判断は後世になってもむずかしくなる
当時を生きた人はいなくなってしまっているからである。

個々人の人生でも青春時代30歳くらいまでは行動の時代である。それは必ずエネルギーが悪い方に爆発して犯罪を犯すことにもなる、若気の至りでありそれが老年まで尾がひくとは思っていない、それで推理ドラマでは必ずその若気の至りのことが老年まで尾をひいてその罪が暴かれることがテーマになる
それはなかなか隠すことができなくなり暴露されるし良心的にも内面的に苦しむ
過去のことで亡霊が出てきて悩まされる、もちろん殺人したような人はとても刑罰を受けなくてもその亡霊から逃れることができないだろう。

結局自分も若気の至りがありカルト宗教団体などで貴重な時間を費やしてしまった。
ただ自分にとっては無駄だったとは言えない、要するに人生で経験することは最後はどんなことでも無駄なものはない、誤った行動でも無駄ではない、なぜなら人間が生きる時間が短すぎるからそうなるのだ。
もし人生が二百年とかなればそうはならない、二百年はあれば様々なことが経験できるからである。百年でも経験することは一個人では少ないのである。
だからどんな経験も無駄にはならない、なにかしらのたしになるようにできている

ただ的を得た行動は一生の間で一二回しかない、それは30歳まで青春時代に起きる、何かそのあとはだらだらとした延長である。
要するに野球でも9回ある間にそこで劇的なホームランとか一回くらいしかないのと同じである。人生でもホームランを打つの一回くらいしかないのである。
人生でチャンスはそうして一回くらいしかない、あとは何かだらだらと回を重ねてゆくのが多いのである。
自分にとっては東京の大学に故郷を出るということや大学で一年体育系の部に入ったとかそのあとカルト教団創価に入ったとか
次にまた放浪して家を出て死に目にあったとかある。普通の人はたいしたこでなくても自分にとっては体力もないから苦労だった。
この時は一番行動的な時代だったがあとは30年間は平凡だったし楽だったのである。 

ただ芸術とかの分野だとホームランとかは天才でないかぎりない、芸術でも学問でもこうした分野は積み重ねなのである。
そもそも学問というけどその分野はものすごく広い、本にしたって天文学的な量があり何を読んでいいかもわからないだろう、そしてまず百冊本を読めればいい方である。
そんなに人間は頭に入りきれないのである。すると知識的には限られたものになってしまう、あらゆることに詳しくなれる人間はいないのである。
インターネットととか通販がない時代だとどうしても田舎だと読みたい本、読むべき本が手に入らなかったことが不利だったのである
だから芸術とか学問などの分野は時間をかければかけるほど比例して成果を出すことができる、それは普通の人でもそうなのである。

いくら天才でもあらゆることに通じる人間などありえないからである。
人間はあることには詳しくなれるのである。
最近毛沢東のことを研究している女性は中国生れであり中学一年まで中国で過ごしたからこそあれだけ詳しくなった、日本軍に毛沢東が感謝していたというのも意外だったのである。
こういうことは雑学関係でもありうるのである。人生の時間を無益だとしてもある事を追求していたらその分野で一流となる、それはやはりそれだけの時間を費やしたとうことであり時間をそれに使ったということなのである。それは特別な才能でもないのである。
なぜなら結局何度も言うように人生は何に時間を使ったかで決まるのである。
それぞれの時間は限られている、あらゆることに時間をかけられないからである。

何か感性を磨くにしても俳句でも短歌でもそうだけど70年間生きたら季節のめぐりを経験して感性を磨き深めているのである。季語なども今でわからない季語、使わない季語が多いのである。それだけすべての季語に通じる時間が人間にはないということなのである。何か理解するにしても時間がかかる、だから退職して趣味として俳句でもやるかなとなるとそんなに簡単にはできない、その人にはそうした積み重ねがないからできないのである。
グローバル化すれば外国の一国でも理解することは時間がかかる、二カ国になったらさらに時間がかかる、これだけ世界が広がるとまた比例して時間が必要なのだが時間は限られているから理解できずに終わるのである。
そもそも日本の歴史となると相馬藩であれ福島県内であれそれが詳しく知るとなると相当な時間がかかり結局一部しか知らずに終わる
ましてや全国的な歴史となるともうお手上げだとなってしまうのである。

いづれにしろ的を得た行動は人生に一二回くらいしかない、チャンスもそうである。
カルト教団などで行動していたのは意味ないし行動とは言えない
人生を浪費するだけだとなる、戦争でもやはりそれが的を得た行動であったのか?
ただ強制されたものだけだったのか?カルト教団などで行動している人は強制されたものと同じであり奴隷として行動していたのである。
そういうところでは必ず個人崇拝となり偶像崇拝となっているからである。

人生はそもそも劇的なことはそんなにない、確かに戦争を経験した人は経験しないことを経験した、でも戦後はそんな劇的なことはない、やはり平凡な日常があっただけだとなる平凡な平和な日常がなければなんであれ実りなどない、戦争ばかり災害ばかりつづいているようなところでは何か芸術とか学問とかであれ実りなどありようがないのである。
だからここ十年は自分は非日常のことを介護であれ自分の病気であれ後を継ぐということであり津波や原発事故でも信じられない激動を生きたとなる
それまでの30年間は平和だったな楽だったなとつくづくふりかえるのである。

インターネットは何かマスメデアからすると馬鹿にされるけどいいことを言う人はいる
ただ今までそういう人はマスコミに取り上げられないから注目されなかっただけなのである。
こういうことを言う人は例えば仕事でも本当に有益な仕事をする人はだらだら時間をかけてはない、的を得て仕事をしている人である。それは大きな仕事するとき別に時間をかけない、何か営業でも大きな仕事を引き受ければ会社に大きな利益をもたらす、銀行でも証券会社でも一億とかを引き受ければ手数料だけでも一パーセントでも百万になるしそれが定期的に入ることにもなる、それが株とかの投資になるとその利益も大きくなるからだ。だから百万くらいの金を引き受けるより一億をもっている投資してくれ人と契約すれば
仕事の成果からすればそんな人に時間をかけても無駄だとなる

それはいい悪いは別にして計算的にはそうなる、それが仕事なのかという問題はあるにしても効率から考えればそうなる、時間をかけたからそれで成果が出せるとは限らないのである。
そもそも株とか投資のグローバル経済は大きな金を集める投資信託はそういうことで成り立っているからだ。
現代は時間の節約、効率化が極限まですすめられる、家でも組立式であり二週間で完成する、自分の家は昔の家は地元の人が半年もかけて作ったとかある。それだけ時間がかかっていたのである。インターネットでも何か通信でも知的作業でも効率化が前より計られている、文章を原稿で書いていたらそれを印刷して本のように全国に配達していたらいたら時間がかかるからである。今書いたものを即座に発信すれば一番効率的なのである。
こうして時間を節約できれば他に時間をさくこともできる、家事を全部してでもこれだけのことをプログで書いているからである。

2016年09月06日

なぜ学歴にそんなにこだわるのか? (プライドは認知症になっても消えない、人間の存在意義になるから)


なぜ学歴にそんなにこだわるのか?


(プライドは認知症になっても消えない、人間の存在意義になるから)

ニーチェは、「人間的な、あまりに人間的な」で、“病人への忠告”;『病人に忠告を与える者は、それが受け入れられようが、聞き捨てられようが、相手に対して一種の優越感を覚えるものだ

病人への忠告者は、病人を支配する優越感を楽しんでいる。忠告は言うなれば、婉曲な命令であり、人間にとってもっとも不愉快なことは、他人に支配されることだ。

福島市から来たボランティアの人のことを書いたけど福島高校出身で同窓会に行くと「お前は法政大学出だから恥だ」と言われると聞いた。
同世代くらいだとするとその頃第一大学に入るだけで相当恵まれていたはずである。
なぜなら団塊の世代となると中卒が半分であり集団就職の時代だったからである。
一クラスで大学に行けたの数人だった、自分は四人くらいだった。
自分は高校で授業についていけないし卒業もできないほどだった。でも三流でも大学に行けたのも不思議だとなる
今振り返ると自分は本当は相当に学問向きだったことがわかった。
ただ理系関係が苦手で学校嫌いと勉強嫌いになり大学でほとんど勉強していない。
結局自分はその後まともな職にもつかず遊んでいただけだとなる
ただどういうわけか二十代は相当に苦しんでいたのである。
それで30になるころもう相当に老け込んで老人に見えていたのである。
ただその後30代以降楽をした結果、体力も回復してこれまで生きてきた。
人間は何か苦労とか心労が重なるとふけこむ、60代の女性の人は苦労が多くて10歳は老けて見えるのである。
何かもの凄い津波とかでも苦労が心労が重なると一挙に白髪となり老け込むのが人間である。
これは別に苦労しなくても浦島太郎のように快楽にふけっいてもたちまちそれも消えて白髪の老人になっているのである
老人になるとそれが現実となりみんな愕然としているのである。

人間はなぜ学歴にこだわるのかというと人間はそもそもがプライドをもつことが人間の存在意義になっている、人と比べて自分が優秀だということを何であれ示したいのである。それが生きる意義である。それは体力でもそうでありスポーツ競技はまさにその優劣を競うものだし知的な分野でもあらゆる分野で他者と自分と比べて優れているということをプライドをもち競うのが人間なのである。
人間はどんな人もプライドももっている、もっていない人はいない、底辺で働く人でも掃除している人でもどんな人でもプライドはもっているのである。
そのプライドを傷つけられることが最も人を傷つけるのである。
金がなくてとか物質面で人と争うということがあるがプライドを傷つけられただけでも人を殺すということは普通にあるし戦争すら国と国のプライドの戦いなのである。
戦争に勝てば優越感をもてるし負ければ屈辱感をもつ
そしてプライドは認知症の人にも消えないのである。
そのことは福祉医療関係で書いてきた、実際に介護もしてきたので書いてきた
認知症の人はプライドを傷つけられると怒り暴力までになる
この人は馬鹿になったのだから馬鹿にされるけど家族に対しては自分はこの家で何々してきたとか盛んに言いそれが本当だから馬鹿だとは言えないのである。
人間は最後までプライドは消えないのである。ただ人一倍プライドが強い人はいる、自分の家族の一人は最後まで自分は優秀だと言って遺言のようにしてまで言って死んだ。
それはニーチエのように自分は超人だというプライドをもって狂人になったとにていたのである。
それまで人間はプライドをもつものである。

別に学歴だけではない、人間は何か他者と比べて優秀だということを示したいのである。80歳くらいの人なのか、自分に対してお前は年齢が低いから劣っているとあからさまに言うのにも驚いた。年齢で差別して優秀だとしている、でも80過ぎてから年齢など関係ないのである。老人の個々人を見ればその差は余りにも大きいのである。
老人になると今まで積み上げてきた生きてきたことが歴然と現れるからである。
ただ自分にしても自分より年齢が下になるとそういう傾向はある、でも60過ぎたら年齢は関係ないのである。
要するに学歴にこだわるというのは年齢にこだわるとか何か様々なもので差別して優越感にひたるものとして目安として機能しているのである。
社会に出てからは東大出も通用しないものは通用しない、だいたい仕事ができるかできないかで決まる、むしろ学歴ではない、職人だったら職人の腕がいいとかで評価は決まる
もし職人として腕がいいなら一流大学卒より上ということがある。
東大出でも仕事に使えないとしたら中卒より下とすらなるのが社会なのである。

大学出とかなると団塊の世代とか高度成長時代なら通用していた。まだ大学出が少ない時代だったからである。今や50パーセントとなるもう学歴は通用しない
会社でも一応目安にしても会社自体が昔と変わり終身雇用ではないとか学歴ではない会社で仕事できる人間を求めている、学歴を見ても仕事できるかどうかは決められない時代になっている。
もう一つはグローバル化して世界的競争になり日本が落ち目になっていることも影響している。何か特別優れた人、スキルをもつ人でないともう学歴だけでは通用しない時代に入っている。
だから文系になる何大学出たからなどでその人物を判断できないのである。


優越感をプライドをもつというとき奇妙なのだけど自分が病人になったとき自分に対して親戚の人は優越感をもって自分を奴隷のようにしようとしていたから悪質でありそれも人間の本性が現れたとなる、人間は弱いものに対して優越感をもつのである
それは病人だけではない、障害者でも知的障害者がいたとするとそんな人まで比べて優越感をもつのが人間なのである。
こいつはなんなのだ、人間じゃない、こんなやつが何でいるのだ、こんな奴は社会にいらない」
こうして知的障害者を介護していた人が19人も殺したというからなんなのだろうとなるがこれも相当に人間の屈折したプライドが関係していた。
お前らは人間の屑であり生きている資格もないとしたときそこに障害者に対して優越感をもっていることの故の犯罪だったのである。
お前らより俺は優秀だとなるがその若者は社会からの落ちこぼれでありそれがそんな屈折した感情をもって犯罪になった。

人間とは何か対してとにかくなんであれ優越感をもちたい

このことが強烈にあり消すことができないのである。それが人間の存在意義になるから消すことができないしそのために生きるともなる、何でもいい、今までは男女で女は劣っているとかなっていた。男女は能力で区別してもしょうがない、役割が違っているからである。
そして人間はだからこそ優越感をプライドももつとともに必ず劣等感をもっている
障害者を殺りくした犯人もやはり社会のおちこぼれであり劣等感をもっていて屈折した感情が犯罪になったともみれる。
ヒットラーなどでも画家になりたかったがなれなくて独裁者になったとか池田大作でも異常に学歴にこだわるのはやはり劣等感をもっていた。
麻原も目が見えないことで劣等感をもつとか劣等感が屈折して犯罪に結びつく

社会に対して恐ろしい牙を向きそういう人が権力をもつと自分のプライドを満たすために恐ろしいことして社会の大きな害悪となってゆく
そういう人が社会のトップに立ち権力をもつときそれに従わされる人々は奴隷にされるのである。
それは自分が弱者になってたとき病気になったとき責めてきて奴隷のようにしようとした奴と同じである。それが人間の本性なのである。
でも強者だったら権力者にはそういう人はへいこらしているだけである。
でもそれは権力に金があるとかで奴隷のようになっているというときそれもいつかは復讐される、権力をその人から奪って自分が上に立とうするからでありそのために人間社会には権力闘争が絶えないのである。

「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」」
マルコによる福音書10章43節

これが実行できない、自分が一番偉いものとして仕えさせたいというのが人間の本性なのである。そのためにこの世はまたブラックになっているのだ。
この世がブラックだというとき外部の社会を見ているが実は内部の闇、人間のそうした本性が改善されない限りブラックでありつづける
人に仕えさせるために人は日夜努力しているからでてある。人の上に立ちたくて勉強もする、下にいて人に仕えるために勉強したり努力する人がいるのかとなる
有能な人であれば余計に知的に劣るとなると馬鹿にする、それが現実の社会なのである。
だから福島高校で驚きは40人も東北大学に入っているとか仙台二校では90人も東北大学に入っていることで驚く、そういうレベルになると法政大学では恥だというのもわかる
でもそういう同級生も傲慢だと思う、学歴で差をつけるのは傲慢である。
別に卒業したら学歴ではその人を判断できない、どう生きてきたかが問題になる
いづれにしろ社会では学問とかではなく多能な能力が必要でありとても学歴だけではどうにもならないのである。
学校は人間の多様な能力を開花させるにはあまりにも不十分なのである。
別に中卒だろうがなんだろうが一人一人を見ればそれなりにいいものをもっている
またそれは悪いものともなるが人間の能力は実際は多様すぎるのである。
だから介護とかでも介護士とかでもやさしさをもつ人が向いている、それも能力である。建築現場になるとやはり体力が必要となるとそれも能力でありコミニケーション能力に優れている人もいるし芸術に向いている人もいるとかあまりにも多様なのである。

その多様性があってこそ人間であり男女がいるときそれはたがいにたりないものを補いあうものとしてある。どっちが優秀だとか差別するべきではなく、それぞれの能力で補いあうとすればそんな優劣感は生れないのである。
インターネットでは普通の人も発言しているがそれなりに様々な発言があって面白いとなる、テレビとかマスコミとかだと一方的に専門家だけが発言しているから洗脳されやすいだから自分はインターネットの発言を利用しているのである。
ただ2ちゃんねるとかなると表面的で一回限りであり面白い発言していてもそれを深化できない、意味を深められないのである。
プログの方が意味ある発言している人が多いがなかなか発見するのがむずかしいのが難である






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2016年08月21日

過酷な人生は何のために 苦しめば相手の苦しみに同情する


過酷な人生は何のために


苦しめば相手の苦しみに同情する


人は誰しも母から生まれとき母の苦しみを通じて生れる
苦しみを通してすでにこの世に生れている
その後も親の生活の苦しみがあり子は育つ
戦争で苦しみ生き残りそして自分が育てられた
若いときすでに母は糸取りで十年働き苦労してた。
戦前はみんな貧乏であり苦しみ生きていた。
食べるものも粗末であった。沢庵と味噌汁が主でありあとは梅干しである。
そんなもので労働に耐えていた。
人の一生は結局苦しみなのだ。それから逃れることはできない

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし 家康

子供の頃から苦労していたからこうなった。人間に苦労は尽きることはないのだ
なぜなら人間は苦の存在だというとき病気にならない人がいないからである。
死もまねがれないから死なない限り苦から逃れることができない
苦というとき貧乏も苦だが病気は誰にでもなる、金持ちでも病人になったらただ苦があるだけなのである。
億万長者でも寝たきりになったりしたらその金も何の力もない、ただ歩けたらどれだけ幸せだろうとなるだけである。

ただ人間は人の苦はわからないのである。貧乏を経験していない人は貧乏がどういうものかわからない、実際今の時代の貧乏は戦後まもなくとか戦前の貧乏から比べると貧乏とも言えない、時々貧乏を話題にするけどそれはみんな貧乏を知らないから珍しいものとして貧乏を話題にする、だから何か極端であり実際で学生の貧乏を話題にしたのがやらせだったのであ。実際はぜいたくしていたのである。
現代の貧乏は何かそういうことが多いからそのままに話題にしても特にマスコミで話題にしても信じられないとなる
今では生活保護者でも食べ物だけはぜいたくしている、自分よりぜいたくしている、サシミを生きのいい店で買っている、スーパーでは買わないのである。
自分の父親は明治生れで貧乏のままに終わった、最後の方で豊かになったが病気になりサシミを食えるようになったが食いたくないと言って死んだ
病気になったらどんなうまいものでも食欲がないのだから食べたくないとなる

自分は介護のとき病気でありその病気のとき借金だとなんだと犯罪にあったり苦しめられたの辛かった。でも病気でもやはり責められたり苦しめられたりすることがある

「病」としては、大別して「瘡(かさ=梅毒)」と「労咳(肺結核)」でしたが、働きが良かった(客を大勢取った)遊女は、その妓楼の別宅で養生させてもらえましたが、大部分の遊女は、微熱があろうと、喀血をしながらも、多くの客を取らされました。
そして、いよいよ「ダメだな」となると、妓楼内の日当たりも良くない、薄暗い納戸のようなところへ閉じ込められ、食事もほとんど与えられずに遊女の「死」を待つだけでした。
遊女が死ぬと、腰巻一枚の丸裸にして、菰(こも)に包んで銭200文を付けて「投げ込み寺」へ。
寺では、「総墓」と呼ばれる大きな穴に投げ込み、簡単なお経を読んで供養を済ませました。
従って、小石川養生所などはもとより、医者にかかることさえできませんでした。

遊女も借金のカタにとられてこんなに悲惨に死んだのかとなる、借金というのは江戸時代でも過酷であり江戸時代の暗黒面をここにみる。
今だったら自分でも病気ということが免罪符になる、生活保護も軽いものでも精神が病んだとでも受けられるし、身体の障害者でも特別かえって保護されて同情される
それが特権までなっている。それが現代の恵まれている点である。
自分も常に介護とか病気で思ったことが自分は病気なのになぜこんなに責められるのかということだった
それでこれは自分より悲惨だったなと同情した。結局苦しむことはそうした過去の人でも苦しんだ人に同情することになる、苦しむことで他者にを同情するということはある。

ある女性と話したら貧乏な人がいるんですよと話したらそんな話したくない、そんな人はいないよと言っていた、その人は貧乏な人と接しないから自分が貧乏を経験しないからそう言っているのだ。自分も前はそうだった。自分が苦しんだ結果そういう人の苦しみがわかり同情するようになった。
人間の苦しみはその人が苦しんでみないかぎりわからないのである。
なぜそういう遊女に同情がなかったのか?
当時はやはりみんなが貧乏であり同情しても借金も払えないからそうなった。
まだ逆にそういう過酷な非情な目にあいつづけると人間は非情になる
全く同情しない人間にもなる、心が歪んでしまうい冷酷になる
だから人間あまりにも過酷なことには苦しみには耐えられないのである。


ともかく喀血しながら客をとるというのは悲惨である。それも同情されないのである。
自分もこれよりは楽だったとなるが同情されないということでは同じだった。
だからどうしても比べるのもどうかと思うが津波ではない原発避難者は確かに部屋は狭いけど楽だなと見えるのである。
江戸時代と現代は比べようがないにしろこんな悲惨なことが借金のためにあった
だいたい今の借金している人は何か病気のためとかは少ないだろう
見栄をはる、贅沢をする、ギャンブルするそれがやめられなくて借金する人も多い
そして自分が苦しいとき借金で責めてくる、そんな人が何なのだとなる
原発避難者もギャンブルとパチンコ屋通いになったのそうである。
現代の苦しみは個々に事情があってもそれほどの苦しみとは言えない場合が多いのである
江戸時代は病気になってもまともに医者にかかれる人は少ない、そして医療も発達していないからまともな医療は受けられないから病気になったら死んでゆくのが多いとなる
一方逆に現代は医療過剰で胃ろうまでして胃に穴あけてまで栄養をやり活かしている
このことも実際は地獄的な苦痛なのである。苦しみを与えるために生かしているということにもなっている、これもまた成す術もなく苦しんで死んだ者が多い江戸時代と比べると奇妙だとなる。同じように苦しみを与えていることは間違いないからである。
現代の医療が作り出した苦しみなのである。

いづれにしろ他人の苦しみがわるというとき自分も苦しんでみないとわからない、貧乏な人の苦労をわかるのには自らも貧乏にならないとわからない
現代では本当の貧乏がないから装う貧乏になっているのである。
現代人はそれだけ贅沢なことが当たり前でありそれになれているからちょっとした不便でも貧乏でも耐えられないとなる、貧乏といっても昔からすると相当に贅沢しているからである。

自分はなぜ病気なのに責められたのか、その弱さにつけこまれたのか、そのことが憤りになっている、でも江戸時代の遊女はどんな気持ちで死んでいったのだろうか?
病気でも同情されない、ただ借金を払うために物ののように使われて死んでゆく
江戸時代は義理人情の世界というけどここに一番の暗黒があった。
ここには人情がなかったのかとなる、ただそれぞれの事情がありその当時だと白いご飯が食べられるといい着物が着られるとか当時の価値観ではあった。何かしらそうした地獄でもその当時にしたら人間的なものがあり救いはあったとなる
今は贅沢するために借金してそれで同情しろというのは無理である。ただ現代ではそういう人が多いのである。
これとにたことは現代でも貧乏な国で起きている
目をおおうようなことをdarkness duaのプログで話題にしている、だから昔あったことは今もやはりあることはある。ただその事情は違っている

「なぜこんなに苦しんで死ぬだけなのか」

その不条理に泣いて死んでいった。その人生の過酷さは何であったのかとなる。そこになんらかの慰めがあったのかとなる、その恨みは相当に深いと思うからだ。




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2016年08月17日

借金している人の心が悪魔に変身する怖さ


借金している人の心が悪魔に変身する怖さ

借金している人の怖さ


前のつづきだけど今日深層ニュースで芸能人のカンニング竹山という人が借金の体験を言っていた。
そのことで一番生々しく感じたのが借金していると強盗とかしているニュースあるけどあれもありかなあってもいいなとかなっている怖さである。
昼も夜も心が晴れない、借金の重さで心が晴れない、四六時中借金のことしか頭になく
夢の中まで借金のことを考えている
借金を返すまで青空を見ても心が晴れなかったが返してはじめて晴々とした青空を感じたという。

借金をしている人の心理がどうなっているのかわかる。
借金したことによりその心が悪魔に変身しているのだ。
これは自分が体験したから本当に怖い
その時自分は自分の病気から介護で苦しんでいたからである
そしてお前は身寄りがないからどうだこうだと責めてきたのである。
世話してやるからどうだとかなんとかそれも借金を返すために自分から借金するためだった。

相手は借金のために強盗とかのニュースを見てそれもありかなと思ったということが怖いのである。たいがい借金している人が犯罪の動機なのが多いのである。
借金に追い詰められて殺人までになる、それはドラマだけではない、現実の社会で常に起きていることだから怖い、自分が借金しなくても親戚であれ友達であれそういう人が来たら怖いとなるからだ。
自分が特に病気であり介護としなければならず助けがないときだったから怖かった。
借金をするために脅迫されていたのである。

つまり借金の怖さはその心が悪魔に変身する、相手のことなど同情するもなにもない
こいつが死ねばこいつには身寄りがないから金が入るなとかまで思っていたのである。
まさにこの人の心は借金に追い詰められて実際は犯罪者になっていたのである。
だから人間はつくづく恐ろしいと思った。
今でもその恐怖は消えないのである。その額が十万とかならいい、底辺層はそういう借金で苦しんでいるのである。
それが事業失敗したとなると百万など軽く要求するし10億あってもたりないだろう
なぜならそんな人に金貸していたらいくらでも要求されるからである。
お前をめんどうみてやるから金を貸せとか上から目線で恐喝していた
その人は別に若いときは悪い人ではない、頭がいい、いい人だと知っている人は言っていた。でも人間は変わるのだ。同級生でもまるで人間が変わってしまったという顔まで変わってしまということを言う人がいる

この世を生きるということは人間が悪魔にもなるということである。
そういうふうに金とがで追い詰められる、借金で追い詰められると悪魔に変身するのだ。
その時に火事場泥棒のようになり大金を失ったのもそうである。こんな人間が近くにいるのかというのも恐怖になった。
ただそういうことも今ふりかえると親が残したカルマだったということであきらめた。
金をめぐる問題も親が遺産の場合は深くかかわっているのである。
そのカルマを受けたのがいい面でも悪い面でも自分だったのである。
借金することの怖さはこのように人間の心が悪魔に変身するという怖さである。
心が借金のために晴れることがない、四六時中寝ても借金のことを考える
そして強盗した人のニュースを見てそれもありかなという怖さである。
人間がすでに心に思うことが実行に移される、誰かを殺したいと思えばそれが心で思った時、すでに実行しているのである。
だから宗教ではそうしたこと思っただけで罪になるのである。


津波でも原発事故でもその前に起きた自分の一身上のことでも信じられないことの連続だったのである。だからこれは一体何なのだろうと今でも思う
そんな人が自分の所に来たという因縁は何なのだろうとなる
それは親から受け継いだカルマだったのである。
親から必ずカルマを受け継ぐ、いい面と悪い面で受け継ぐのである。
ともかくこれだけの恐怖を与えたのだからその人も恐怖が与えられる
それもカルマなのである。恐怖を与えたものは恐怖が与えられるのである。
相手はどれだけ自分が恐怖したか借金しているから全く感じない
ただひたすら借金をして借金を返したいということしかない
だから自分が死ねば金が入るかもしれないとまで思うようになった
つまりそのときすでに殺意があり殺人者になっていたから怖いのである。
ただ相手は何にも感じていない、借金のことしか頭にないからである。
もう何も見えないのである。相手が人間であることも見えない
相手が金にしか見えなくなっている怖さなのである。

タグ:借金

2016年08月07日

借金している人の怖さ (弱みにつけこまれ借金を要求される)



借金している人の怖さ


(弱みにつけこまれ借金を要求される)


今までの古い考え方や価値観、生活様式など、それに固執しているとなかなか借金問題の確信にせまる事は出来ません。要するに、今までの自分を手放せずにいるんです。



自分が借金に苦しんだわけではない、他人の借金に苦しみ借金を考えるようになった。
人間はかわいそうな人には同情すべきだということを盛んに言う。
では本当に同情すべき人なのか?何に同情すべきなのかわからないことが多い
この辺で起きたことがそうだった、津波の被害にあった人でも家族を亡くした人、家を亡くした人、原発事故で避難してきた人、それぞれ事情が違っていた。
一番わかりやすいのは津波の被害者だった。原発事故の避難者は最初は同情したけどあとからあんなに補償金もらっていたのと見方が変わった
なぜなら自分もその時、病気だ介護だと苦しんでいたからである。
原発の避難者だけが特別かわいそうだと同情されたけど避難してきた回りの人も苦しんでいた人はいたが同情もされなかったのである。

普通は家族で苦しんでいても同情はされないし放置されているのである。
だから同情するというとき相手が本当に同情されるべきものなのか?
かえって原発避難者は毎日パチンコだ、風俗とかまで遠くに遊んでいた人が全部ではないにしろいたのである。そんな人が同情されるべきだったのかとなる。
むしろ補償金で金がたまって喜んでいた人も多いのである。それは普通は手にしない大金をもらったからである。
そんなに同情するなら避難してきた回りの人たちにも目を向けてくれたらいいだろうとも思った。そして最初の二年くらいは何かわからないからしかたないにしろなぜ回りの人にも避難者自体が遊んでいるのだから目を向けないのかと今では思う
自分も同情されるべきだったが全く同情されない、介護とかで苦しんでいる人はそんな家族でやれしかないのである。

自分の親戚の人は前の代から関係があった。病気の時世話したこともあった。だから恩義を感じて何もしないということでない多少は助けてくれた。そのことには感謝しているし金としてお礼もした
しかしその人はどのくらいの借金をしているかわからない、事業をしていたのだからその額は大きいだろう、でも借金というとき500万以下が多くそれでも月に5,6万とか利子を払い続けて5年くらいかかるというときそれは相当な負担である。
だから借金は割に合わないことなのである。
それでもあえて借金するのはやむにやまれぬことがあるのだろう
第一病気になったりしたどうにもならないしそういう事情を知ればその借金でもそういうことかと同情する

問題は借金した事情にある、その人は普通の人より贅沢していた、なぜなら自分は事業で成功していたと外にも言っていたし家族に言っていたし家族すら借金していることを知らなかったのである。そして確かにむずかしい一級の免許をもっていたからあの人は頭のいい人として回りを見ていたのである。そして見栄を張る生活をしていた。
そういうふうに回りから頭がいいとか事業の成功者だとか見られていたがその内実は借金でやりくりしていたのである。
だから借金を解決するにまずこの人は解決できない、自分は頭がいい成功者でありそれも世間に認められている、とても事業の失敗者だとなるわけにはいかない、それをとりつくろうために借金していたのである。
それも別に自分と関係ないならいい、自分がそのために苦しんだからこうして自分を苦しめたものへの怒りともなる。

なぜなら病気と介護の時、恐喝まがいのことをされてきたからである。
病院に入院するのに保証人が必要だとかいろいろなものが自分に兄弟もないからそうなった。それをいいことに弱みにつけこんで借金をしようとしてきたのである。
その額も十万とかなら何も言わない、軽く百万からさらに大きくなる、それは限度がなくなる、一千万でもそれ以上要求するだろう。
事業している人の借金は大きいからである。ただ自分は弱みをもっていたから何も言えなかった。その人の親の代では自分の家ではかなり世話したのである
そのことはもう関係なくなっていた。
第一そんなことより借金している人に恩返すとか何か同情するとか余裕がないのである。いかにして借金を返すしか頭になくなる、それで推理ドラマでは必ず犯罪の動機が借金である。借金があるかどうか調べるのである。
借金していること自体すでに犯罪者になっているのである。
それが借金の恐ろしさである。

だからこそ相手のことなどかまわない、この際弱みにつけこんで借金を要求すれば通るとなる、それで自分は恐怖して手を切ろうとしたが病気のこともありできなかった。
ただ相手は全くそんなことを感じていない、借金のことが頭が一杯であり他人のことなど考える余裕もないのである。借金した人には恩も義理もなにもなくなる、モラルが崩壊するから怖いのである。
意外と人間は弱者のことがわからないのである。もちろん相手も借金しているのだから弱者だった。大金を盗まれたとことも相手が追い詰められていたからだともなる。
弱者が弱者を襲うというとき襲い安いからである。相手が健康で強面の人だったら簡単にできない、あとが怖いとなるからである。
弱者は襲い安いから弱者が弱者を襲う犯罪が多いのである。

その人は実際はプログで書いていた人のように借金は返せるのだが返せない
なぜならそもそもの生活を変えないからである。自分は頭が良くて事業も成功している
それも世間に認められている、それを維持する生活を変えない、同じように見栄を張る生活をしている、車もいい車を使っているとかなる
節約することもない、でも現実はパチンコ屋で妻が働いているとかそれなり過酷だとなるしそういう生活がつづくのかとなる、いづれはそんなことをしていたら破綻するだろう。そういうことは自分たちだけの問題ならいい、回りの人に借金を要求して迷惑をかける
そんな見栄を維持するために金を貸す方もやりきれないんとなるだろう。
だからその人には金を貸すべきではないのである。ただ自分は弱みをにつけこまれたらしかたなかったとなる

要するにこういう人には何を言っても無駄なのだろう。現実でしか理解できないのである借金取りが家におしかけるとか家までとられるとか何か極端なことにならないかぎり理解しない、できないのである。
また誰からか借金すればいいくらいにしか考えないからである。
そして相手の弱みにつけ込むような奴だからそんな奴とつきあっていることは危険になるし一緒に事業をするのも危険だと思う。
そもそもその人は頭がいいとして事業者としてふさわしくない人だったのである。
自分の家の因縁としてなぜか母方も事業に失敗して一家離散になり辛酸をなめた。
父方も二つの家の親戚も事業に失敗した。
そういうカルマがあるのか?それとも二十人一人しか事業に成功しないというときそれだけ事業に失敗する人が多いということなのか?

いづれにしろカルマは実際に現実として現れないかぎり自覚できない、何でこんなに苦しむのだと言うときカルマを考える、何もなければ考えないのである。
人はともかくこうして弱者の時に苦しめられたことは忘れることはできないのである。
それで間違っていても反日がやまないのはそのためである。
こういう恨みは深く潜行して晴れることがないのである。
ただ自分は世間知らずでありそれが世間だと言うことを今ころ知ったともなる
人間の現実はあらゆるものがブラックなのである。
それは利益とかかわり金とかかわりブラックと化してゆく、それはどこでも起きている問題である。


人間は直接被害を受けない限り他者のことを真剣に考えない
犯罪でも毎日起きているけど自分に被害なければ他人ごとになる
でも一旦自分の身に及んだらはそうはならない
相手のことを真剣に考えるようになる
例えば北朝鮮からのミサイルが日本海に落ちているうちはいい、現実に日本の国内に落ちたら北朝鮮はもうをとでもいいとはならない
北朝鮮のことを深刻に考えて対処するようになる
直接被害者になるとき人間は相手のことを真剣に考える
北朝鮮が挑発しているのはそのためだという人もいる
「俺たちのことを忘れてくれるなよ、お前らに被害を及ぶことをな」
犯罪者にも同じような主張がある、犯罪によって自分の存在を知らしめるということである。それが例え間違っていてもそうなのである
でなければ世間は無関心だからである。テロもそうして関心を引くために起きているのである。

タグ:借金

2016年08月04日

金に人々の感情がこもりカルマとなる (親の因果は子に報いはさけられないカルマである。)


金に人々の感情がこもりカルマとなる


(親の因果は子に報いはさけられないカルマである。)

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金にも色がある、ただ同じ一万なのだからそれを見分けることができない
笑っている一万なのか、悲しんでいる一万なのか?



相続、保険、土地や不動産の売却など、まとまったお金が入ってくる時、とくに注意が必要です。

過去にそのお金を支払った人、受け取った人、貯めた人のネガティブなカルマが、お金と一緒にまとめて流れてくる可能性があるからです

Aさんは、生命保険の受取人になっていた為、先日、保険会社から、少しまとまったお金が振り込まれました。

同じ時期、飼っていた犬が病気になり、娘さんが、階段から転んで骨折するという出来事が起こりました。

宝くじで1億円手に入れる為には、
宝くじを購入して外れた人達のネガティブな感情の総和、
おそらく何十億円分のネガティブな感情が流れてきても

ここのプログでは金のことをカルマで説明しているからわかりやすい。カルマというときいろいろ複雑でわかりにくいのである。
でも金の貸し借りとかなると具体的にカルマが関係していることがわかる
百円にも百円のカルマとなって現れる。
人生はカルマから読み解くと何か複雑な不可解な人生が解かれるような気分になることは確かなのである。
人間には何か不可解なことが多すぎるからだ。

ではなぜそうなるのかととうときその明確な答えがないのである。
いろいろな事件が毎日のように起きている,ではなぜその人が犯罪にあうのか?
なぜ殺されたりするのだろうか?そんなことが偶然に起きるのか?
この世に起きることは偶然なのかという深刻な問題がある。
このカルマを考えるようになったのは自分に起きたことからである。
なぜこんな苦しみにあうのだろうかということで悩んだからである。
十年間自分に起きたことをプログで書いてきたけど本当になぜ自分がこんな苦しみ合わねばならなかったのか問いつづけたのである。

その大きな原因が親の因果が子に報いであった。カルマはどんなことしても親と密接かかわる。親の因果が子に報いるというのはさけられない。
いい面も悪い面も受ける、その悪い面を受けたためにこれほど自分は苦しんだのである。ここに書いてあるようにまとまった金が遺産として入ってきたときから問題が起きた。
親が残した金がどういうものだったのか問題になる。
人を苦しめて残した金にはその苦しめた人たちのネガティブなマイナスの感情がその金についている。ブラック会社で働かしてもうけたような人たちがそうである。
半年も飲食店で働いたのに給料をもらいなかったとするとそのもらえなかった人の怒りは大きかった。その感情がその店にカルマとしてのしかかる。
だからそういう店が会社がとても長く繁盛するように思えないのである。
一方で従業員と会社の社長でも幹部でも一致協力して働くような場合は繁盛する

自分が家族の二人の介護から死までに様々な苦難を味わったのはなぜだったのか?
それは親のカルマをいい面と悪い面でひきついだからである。
こういうときやはり大きな事件が起きるというのもそうだった。
何か大きな金、遺産相続のような時にカルマが具体的に現れるからである。
別に自分の家に残された金はブラック企業でもうけたようなものではなかった。
こつこつ働いて残されたものではある。ただ一方で一人は公務員であり公務員は何かと金では得したということがあった。
そういう金が遺産で入ってきたのである。そこでその金をめぐって大金を盗まれたとか借金を要求されたとか起きた、今でもやはりその金のことで問題は継続しているのである。金には確かにネガティブな感情のこもったものとポジティブな感情の籠もったものがあるということを解説している。ただ金というのは本当に人間関係の中で複雑なのである。

テレビのドラマで浪人が遊女が病気になり見受けするとかで5両を借りて支払った
その浪人には金はなく用心棒となり殺人まで請け負ったのである。
その殺人を請け負った者は悪い奴だった。でも5両をもらったから裏切ることができなかった。それで5両を他からもらったときそれを返して悪人を征伐した。
そもそも人間は金もないのに人を助けることなどできないのだからするべきではないという見方もある。一方でそれがどんな金でも人を助けたからいいではないかという意見もある。このことだっていかに金にまつわることが複雑になっているかわかる
ネガティブな感情のこもった金は受け取らない方がいいというときその金を受け取ることにより災いを生むからである。
遺産にはそういうことが具体的に現れやすいのである。
自分したわけではないが親がそうして受け取った金があったときそれは必ず子に報える
親の因果が子に報うになることは確かなのである。親のカルマを具体的に金で受けるのである。
だからカルマ論からすれば人に起きることはカルマから解けば何か納得するのである。
ただ例外もあり不可解なものがありすべては解けない、それは人間の限界なのである。
神がなんらかでかかわっているということもあるからだ。

金はだから簡単に遺産でも本当は受け取ることは危険がある。何か濡れて粟のように受け取る金にはネガティブな感情があり危険だとなる、その金で災いが起きてくるという怖さが現実にあるし経験している人は多いのである。
この世の中のことを金をめぐって起きることがほとんである。これだけははっきりしている。ということは金について無知でいることもできないし金にどう対処するのかを知らないとひどい目にあうとういことである。
自分は否が応でもそれを身をもって体験させられた、苦しみを受けたからである。
遺産として入った金はそれほど大きくなくてもなんらかそういうネガティブなものがあったのだろう。それで奪われたり借金を要求されたりしたのである。

事業に失敗したような多額の借金をした人がなぜ自分の家の親戚だったのかともなる。
そんな人は助けようも何もできない、毎日パチンコ屋で働いて奴隷化されるていた人が
何もできない、そんな人ばかり来たということが親の因果が子に報いだともなる
そしてまこの辺で起きたことは津波であれ原発事故であれこれもカルマだった。
原発事故の補償金でもめて南相馬市では分裂した、一見暇なのだからパチンコしてもいいではないかという意見もある。
でもその人たちは避難してきたけどその避難した人でも自分でも苦しんでいた人がいたのである。
でも避難民だけが何でも優先になりかわいそうだかわいそうだと外から援助されていたのである。
もちろん避難民でも津波の被害者とか原発事故の被害者とかいろいろいる。
その事情は違っているからいちがいには言えない
でも避難した人たちのみがかわいそうだとか援助されるべきだということが余りにも強く主張されたのである。別に仮設でもかえって長屋のように親しくなり悪いものではなかったという人もいるからである。そのことで南相馬市は感情的しこりが残ったのである。
つまりここでも金が何でもいいものとして働くとは限らない、その金に感情がこもるからだとなる
もしその金でもうまく配分できればこうはならなかった、でも補償するにも限度があるからとてもみんなが満足するとはならなかったのである。


金を使うというとき国のレベルでも使うときオリンピックでもそんなに金を使っていいのかということで東京都知事選挙があり問題になった。
本当にそもそもオリンピックを開くことを国民が心から賛成しているのか?民意なのかというと疑問なのである。オリンピックに関心がないというのが50パーセントもいるからだこれは前の東京オリンピックとは心情的に違ったものとなっているのだ。
オリンピックはゼネコンとか都議会の議員やスポーツ関係の会社の宣伝の場だとか利権化している。その金をめぐってもネガティブな感情が強くなっている
だからこそ金の問題が大きくクローズアップされている、他にいくらでも金は使う所があるということである。そういう金に対する感情を問題にすべきなのである。
国民が心から賛同しないものに金を使うべきではないのである。
オリンピックはただ会社とか議員とか官僚やマスコミの利権となっているから賛同できないのである。

いづれにしろ宝くじであたったような人ははずれた人がその十万倍もいるとしたらその十万人のネガティブな感情を受けることになる、なんであいつだけあたったのだとなるからだ。それで宝くじにあたった人は災いが起きるというのもそのためである。
政治の場でも巨額の金が動くがそれは国民の税金でありサラリーマンにしたらどういう気持ちでその税金を払っているかとなる。わずかな給料から税金をひかれる気持ちを知らないとその税金を無駄に使うとなると政治家も官僚も許されない
金というのがどういうふうにして得て使うということが一番の日々の生活で問題になっているのである。
だから金は金としていちいちそれがどんな金なのかどんな感情がこもっているかなど詮索しない感じないということも問題なのである。
金というのはだからグローバル経済になると今度は世界的に金がどういう金なのか問題になる、世界の富を数パーセントの金持ちがもっていること自体、どれだけ世界から搾取して得た金なのか?それを放置していたら搾取された人が黙ってはいない、反乱になりそうした金持ちは革命で殺されるまでになる。
金にはそういう怖さがある。金があればいいというのはわかるが何かそうした金にまつわるものを感じないということは危険なのである。
結果的にその金をめぐってカルマがめぐり自分でもそうだが苦しみを受けることは確かなのである。





タグ:金のカルマ

2016年06月28日

女性が貧乏底辺化する原因 人間の幸不幸は最後までわからない



女性が貧乏底辺化する原因


人間の幸不幸は最後までわからない


●夫に恵まれない

●離婚している

●容姿が悪い

●その人の資質

●実家とか資産や遺産がない

●子供に恵まれない


女性が幸不幸になる原因は何か?女性の場合どうしても容姿とかが大きく作用しているだろう。女性で見た目が良いといい男性とめぐりあう度合いが大きくなる
自分は人と接していないから実際はそういう方面ではうとい
ただ最近知った女性をみるとこの条件があてはまっているように見える
女性はやはり夫に恵まれないと貧乏になり底辺化しやすい
それは容姿が大きく関係しているかもしれない、自分のあった女性は容姿が良くない
そして離婚している、ともかく現代は離婚している人が本当に多い
三分の一は離婚している、戦前などは離婚しても離婚できない、生活できないからであるだから人間はそもそも他人が一緒になれば離婚も増える
離婚してすぐ生活保護を受けていた人もいた。子供がいたので女性は生活保護を受けやすい、これも離婚を促進しているのだろう。
今は女性はいろいろと社会的にも援助されるからである。

人間は貧乏になるというときその人の資質が関係している。それは学歴とかも関係ない、その人の資質が大きく関係している、人間は頭脳でも体力でもそもそも差が大きいのである、自分などは体力も頭脳もだめだった。だから普通であれば底辺化していた。
ただ自分が恵まれたのは家族に恵まれたから底辺化しなかっただけである。
家に資産があるとか金持ちだと資質が悪くても底辺化しない
まず学歴があっても東大出ても高卒の方が仕事ができるとかあり現実の社会で活躍できるかはその人の資質なのである。

近くのトラック運転手は若いときに家を建てた。30代で建てた、なぜできたかというとトラックは一台運んでいくらと歩合制である。それを人よりも多く運んだから金をためた。ただその時は高度成長時代であり給料も常に上がっていた時代である。
その時は事業をしてもたいがいうまくいっていた時代なのである。
その人は何か人を指導する親分肌の人ということもあり会社で上に立つようになった。
それはその人の資質なのである。もう一人同じ仕事でも働いても役にたたず生活保護になった。どんな仕事でも資質がないとものにならない、大工とかでも何でもそうである
男は仕事ができるということは資質なのだろう。女性は容姿が大きく作用する

女性の場合はまた生んだ子供にも幸不幸が作用する、その人は障害者をもったことで子供にも苦労した。他の人をみると子供が事業して贅沢な暮らしをしているとかある。
頭のいい子が生れるといい所に就職すると親は楽になるし贅沢もできる
現代はできの悪い子が生れるとその影響も大きい、ニートなどがどこにでもいて増えているからである。するといつまでも子供の世話をせざるをえなくなるのである。
その人が底辺化したのは上に書いたことがみんなあてはまっていたのである。
ただその女性の資質をみると悪くはない、考え方がしっかりしているし体は丈夫だし資質が悪くはない、ただ容姿は悪い、太っていて不細工で若いときだと嫌だとはなっていただろう。ただ精神的な面を見るとしっかりしているのである。
女性でも容姿が良くても精神的薄弱な人が結構いる、そういう人は苦難に弱い、苦難をのりきれないことがあるだろう。自分もそうだが社会的適応性がないとなる
その女性はとにかく人に頼むことやたよることがうまい、交渉力がある。
女性だからとはなるがそれだけでもない、だから男性には好かれるタイプのように見えるでも容姿が悪いから若かったら嫌だとなってしまう。

その人は飲食店で働いていたが給料を半年分もらいなかった。そこは元暴力団員とかが関係していた。要するに飲食業にはブラックが多いというときそうだった。
給料未払いというのもそういう所にはあるのだろう。
そういう底辺にはブラックが多いのである。今だと派遣とかかそうである。底辺化することはブラックな所で働かせられるということでもある
そしてブラックな所を転々とするということがありぬけられないのである。
その女性は底辺化する条件がみんなあてはまっていた。ただ資質として容姿が悪くても精神的には悪いとはなっていない、心がひどく曲がってしまった女性もいるがそうはなっていないのである。


ただつくづく人間の幸不幸はわからない、女性で容姿が悪いから必ず不幸になるとも限らない、美人だから幸福になるとも限らない、あんな美人で結婚してすぐに乳ガンになった芸能人がいたりいろいろある。人間は最後になるまで何が幸不幸かわからないのである。幸福の原因と思えたもが不幸の原因にもなったりする、金持ちの姉妹が餓死したとかいろいろあるだろう。老人になるとそのカルマが結果として現れる
つまり幸福の原因が不幸になる原因だったともなる。苦労していればそんなことにはならなかった。何の苦労もしないから苦難をのりきれなかったとなる
金持ちの家がみんな幸福といえばそうでもない、何か不幸をかかえているというのも多いからだ。
鳩山邦夫氏なども大金持ちであり大臣にもなったが67才で死んだのかとなる。それもはかないとなる。大金持ちでもみんな死ぬから同じじゃないかともなる
死というのは誰にでも平等なのである。結局なんであれ人間はみんな死ぬとなる
自分も同じ世代の人が近くで結構死んでいるから死が身近になる
だから大きな家とか財産でもいらないとなる、かえって負担になる。
金があればいいがこれももし遺産とか相続になると子供がいたらもめるし金が災いを呼ぶことは普通にある。だから何が幸不幸なのかわほからなくなるのだ。

人間いろいろ不幸があっても健康がそこなわれると最大の不幸になる。大金持ちでも徳州会の徳田氏のように大病院をもっていても身動きがとれない口もきけないとなると最も不幸にしか見えないのである。これも何か皮肉だなとつくづく思う。
どんな高価な治療を受けられるにしても優秀な医者に看護師に囲まれていてもあれを見ただけで不幸だなとなる、何か人生は最後までの見ないとわからない
自分の姉は資質的に優れていたけど最後は認知症になり悲惨だった。
自分は優秀だったと最後まで言って死んだ、いくら優秀だったとと言っても認知症になることは馬鹿になる痴呆になることだから悲惨だったのである。
ただ人間の最後は認知症になる人も多いのである。90以上になると半分はなる。
だから長生きすることもみんないいとはならないリスクがある。
だから人間の幸不幸は最後までわからないのである。運不運もある。
津波で死んだ人たちもやはり運不運かあった。事故で死ぬということも不運である。
要するに人間の幸不幸も幸福の原因が不幸の原因ともなるし不幸の原因が幸福の原因ともなるからわからないのである。

若い人と老人を比べるとその差は歴然とする、老人にとって若さはあまりにもまぶしいものである。もう絶対に手にいれることができないものとなっているからだ。
若いときは当り前にあるその貴重なものを感じない、失ってみてはじめていかに青春などあっという間にすぎるから思い知らされる、そしてその時は二度と帰ってこないのであるそしてみんな必ず後悔している、どんな人も老人になって後悔しない人はいないのである有効に活かされなかった時間や様様なもことで悔いているのである。
でもまた老人が不幸かとなるとそうでもない、前にも書いてきたけど本を読むにしても今までわからなかったことがすぐにわかる、理解力とか洞察力とかかえって創造力さえ老人の方があるともなる、それはいろいろ個々人によって積み重ねたものが華開くからである自分は才能がなくても我ながらいいものが俳句とか短歌とか詩でも作れたなと自分で感心しているのが不思議である。
ともかく老人になとその時何が幸福で不幸だったかもわかる、不幸と思えたが幸福になったり幸福だと思っていたことが不幸だったともなる、確かに自分の場合も自分を幸福にしていたものが不幸の原因になった。家族に恵まれたが家族の介護になってひどいめにあった。
幸福にしていたものが反転して不幸の原因になっていたともなる

結婚しない人が増えているけどそれも若いときはいい、年取ってくると誰も頼る者がいない、現代のような情のない社会では特にそうである。
金があったとしても病気になったらその金をとってやうとする人しか来ないのである。
実際そのことで自分がいかに悲惨なものになったかを経験して書いた。
つまり若いときは将来どうなるか見えないからのんきにしているのである。
今がいいけりゃいいとなっているらだ、人間は将来の不幸をリアルにイメージできないのである、だからこそノン日りしているともなる。
津波だってもし想像力を働かせていたら危険な海岸沿いには住まなかったろう。
今になるとそんなことも批判されるがやはり個々人の人生でもそうなのである。
将来いかに悲惨なことになるか想像できないからのんびりしている。


だから人間の幸不幸は最後までみないとわからないのである。
原発事故にしても実際は原発で回りの人は恩恵を受けていたが事故になり反転した。
恩恵と思えたもが不幸の原因となったのである。そういうことはいろいろ社会的にも個人的にせある。社会的にも何か幸福になり不幸になるかわからないのである。
江戸時代がし貧乏でもそこには幸福なものがありみんないい顔をしていたというとき何か時代的なものの影響があった。現代人と比べるとそうになる、これだけ豊でも現代人は鬱病だとかみんな不幸な顔しているのかとなる、豊になっても幸福とも言えないとなるのである。だから貧乏がいいというわけではない、極端にして考えるべきではない、
人間の幸不幸がわからないということなのである。

2016年05月13日

人間は失ってみて真の価値を知る (人間は今あるありふれたものの価値を認めない)


人間は失ってみて真の価値を知る  


(人間は今あるありふれたものの価値を認めない)
      

健康を失って健康の大事さを知る
青春を失って青春の大事さを知る
時間を失って時間の大事さを知る
親を失って親の価値を知る
人の価値は死んではじめて現れる
故郷を失ってはじめて故郷の価値を知る
人は今あるものに価値を認めない
ただ今あるものに不満のみを言う
そこに価値あるものでも認めない
ありふれたものに価値を認めない 
故に感謝もしない
その価値に気づいたとそのものはすでにない
二度と帰ってこない 
汝をはぐくみしものに感謝せよ
もはや帰らざるもの
その価値のいかに尊きものなりしかを
人がこの世ある時間は短い
人は束の間出会い別れて永遠に会わない
この世に生きる真の価値は何なのか
その価値を追及すべし
巨万の富を積めど真の価値を見失えば
あなたの人生に実りはなきしを
それは雲散霧消してしまうだろう
真に価値あるものは不滅なり
それは心に永遠に残るだろう
それは天にたずえもちゆくもの 
人は失ってみてはじめて真の価値を知る
それまでは真の価値を知ることができない 
それ故感謝もしないのである
そこに人間の不幸がある



人間の弱点というか不備というかいろいろあるけど人間は真の価値がわからない
今ある当たり前のものの価値がわからない、価値を認識できないのである。
親がいるとすると親がいるとき親の価値がわからない 
それは当たり前にいるものであり尽くしてくれるものだと思っている
親が死んでみて親の価値がわかる、失ってみて本当の価値がわかる 
その価値を知らないから感謝もしないのである。
人間が感謝をしないのはそのもっているものの価値を知らないからである。
価値を認識できないのである


時間というものもそうである、若いときは時間などいくらでもある、ありあまって困っている、暇をどうつぶすか困るとなっている
でもそういうふうに思うのは意外と短いのである。
だから青春というのはあっというまにすぎる、その輝かしい貴重な時間はあっという間にすぎる、たちまち白髪となり体も老いてくるのである 
女性にしても輝かしいときは一時なんだと思う。醜悪な老婆になるのも早い
この世が無常だというとき常に変化してやまないからそうなる
同じ状態を保つことができないのである。

だから不変的な価値を追及しろとなる、不変的なものは普遍的なものにも通じている
それはユニバーサルなものの価値であり世界共通の価値である
人間は何が本当に価値あるものか知ることは容易ではない
失ってみてはじめて知るようにそういうふうに神が定めているとまでなっているからかもしれない
神は何が価値あるものかを教えてくれない
ただその価値を教えるのは失った時なのである。その時失ったものは二度と帰ってこないのである。ただ心の中にその価値あるものは残されるのである。

そして人間が一番後悔するのがそうして失われたものなのである。
青春でも時間でも何でも失われたものが多くありもはや二度ととりもどすことができない様々な経験すらできない、馬鹿げたこともできなくなる
それは青春の特権だとかもなるがこれもあとで必ず悔恨に悩まされる
若気のいたりですまされないのである。 

いづれにしろ最後は老人になれば何でも失ってゆくのが人生である。
何かいろいろ得ようとして働いたとしても失うだけなのである
同世代の人も死んでゆく、あの人も死んだな、あっけなく死んだなとかなり新聞の死亡欄を見るようになる、必ず60代で死ぬ人がいることに驚くのである。
60代でも十人には一人は死ぬとなると当然だとなる
ただ失ったからといって必ずしもそれが完全な空虚になるとは限らない
8年前なのか妻を失った人はその妻のことを相当に愛していたのだろう。
一人暮らしになっても毎日あたたかいご飯を仏壇にあげているという。
何かと供養しているのである。これも問題があるがともかく妻を死んだ後も思いつづけいるのである。
死んでその人の大事さを知ることがある、いつも食事は与えられるものだと思っていたという、「飯」とか言っていれば良かったという、死んでから全部自分でするほかなくなったという。

そのことは全く自分と同じだったのである。自分は親が死んで最悪の状態になったからである。特殊な事情の家庭だったこともあるが自分は楽だったなと思い楽させてくれたのは親がいたからだとつくづく思った。
そこには問題があるにしろやはり死んでみてはじめてその大事さを価値を知ったのであるだから生きているとき当たり前だと思ったことを今は感謝している
死んでもその価値は消えないし強くなることさえあると思う
でも親の価値は死んでみないとわからないのである、それだけではない失ってみないと価値がわからないことが人間には多すぎるのである。
もし親が生きている時その価値がわかっていれば対処の仕方が全く違ったものになるからである。

それはあらゆるものにおいてそうなのである。今あるものの価値が人間にはわからないのである。 
例えば大きく見れば日本という国が先祖が代々作り上げてきた国を意識する人はほとんどないだろう。国とは何かとなると意識しにくいからである。
でもシリアとか見ればわかる、国がなくなることはどうなることなのか?
流浪の民となり国を逃れて死を決して脱出してゆく、そんなことがありうるのかというが世界史ではそういうことがあった、日本にはそんなことがないとは言えない
その時日本ははじめて国のあることを意識して感謝するとなる
国を失ってみてはじめて国のありがたさをしるとなる

この辺で故郷すら失ったというときまさに故郷は何なのかとかその価値が問われたのもそのためである。
故郷が失うなどありえないのである。イメージすらできなかったろう。
それは当然あるものだったからである。この時故郷の価値をはじめて意識したのもそうである。
人間がなぜ人生を後悔するのか?それはあまりにもありふれたものの価値を認めないということである。
人間は何か価値というときありふれたものではなく特別なありえないものを価値としているのである。
そんなもの当たり前にあるものであり何の価値があるのかとなる
そういうことは自然とかにもあるし人間関係であるだろう。
いつも食事が出されて当たり前だと子供を思うのである。
今になれば一切何か料理を作ってくれる人はいないし何にもしてくれる人はいなくなったとなるのである。
だからは余計に失ったもの親であれ妻であれその他感謝しないものに感謝するようになるのである。だからそういう価値は不滅なのである。

一方でこの世にあるもの家でもそれは不滅ではない、消えゆく無常のものである。
津波であれだけの家が流されたこともそうである。家があるとしてもそれは形あるものは消える、でも家の中で通じあった愛とかは消えないのである。
「天に宝を積め」というとき地上にあるものはみな一時で消える、しかし天に積む宝は消えない、それは真に価値あるものである。
人はみな地上に宝を積んでいるしそのために努力している
でも財産を天をにもってゆくわけにはいかない、天に積む宝こそ真に価値あるものであり不滅のものである、だから地上の世間との価値観が大きく違ってくる

タグ:価値とは

2016年05月11日

人間はどうして記憶するのか? つながりの中で記憶する


 人間はどうして記憶するのか?


つながりの中で記憶する

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旅していて記憶に残すということが大事である。では人間はどうして記憶するのか?
記憶のメカニズムのようなものがあるのかとなる
旅というのは一地点に行くのが旅ではない、そこまで行く過程が旅だということもある。たいがい今は旅がつまらないというとき有名な一地点の観光名所に行くからである。
東京から新幹線で平泉に行く、そこにはもう過程がぬけている。
有名な一地点に行くことでありそれで目的が達せられたとなる
すると過程が欠けているから旅というものがただ一地点を目指すものとなり旅の中味は浅薄なものになる
というより現代では旅人もいないし旅自体がなくなったと思う。
単なる便利乗り物での移動であり一地点に行って目的が達成されたとなる

人間が記憶するというとき一連のつながりのなかで記憶しているのである。
例えは北海道の遠軽という所から坂を上るとオボーツクに出る、そこで何か開かれた感じになる、坂や峠を上ったとき別世界に来たように思える。
だからそこでその一連の過程の中で記憶される゛地形でも記憶される
ABCというつながりの中で記憶される、単体だけで記憶するのはむずかしい
英語でも一つの単語だけから覚えようとすると記憶されない、やはた文脈の中で単語も記憶されてゆく 
Aという単語を覚えるのではなくABCDEFと連関して覚える、要するにこの世の中は単体で存在するものはない、それで心の青雲では水は他の惑星には存在しないという
水という単体では何も存在し得ない、水素と酸素があれば水が存在するわけではないというのもそうてのかもしれない。水が存在するには水を産む環境が必要だったとなる


鉄道とかなると駅名を記憶したりするが一連のつながりのあるものとして記憶されない
地形も記憶されない、前後が逆になったりもする
ただ鉄道でもトンネルをぬけたとき新しい世界に入ってゆく感じになる
「トンネルをぬけると雪国だった」というのもそうである。
最上町の温泉からトンネルぬけると新庄にでる、それは広い地帯であり記憶される
これも一連のつながりのなかで記憶されているのである。
伊勢から奈良に旅したときはその長い行程の中で記憶されたのである。
一地点ではないつながりのなかで記憶される、そもそもこの地球はつながりをもって存在している、つながりと相互浸透の中で存在している


人間は何か記憶するとき必ず何かと関連させて記憶している
あらゆる物質も単体では存在しないというときそうである
つまりAを思いだせばBがでてくる、Cもでてくる、人でも何でも単体で記憶されることはなく関連の中で記憶される
いづれにしろ人間は最後は記憶されたことが人生となる
何が最も印象に残り記憶されたのか?それが人生だったとなる
でも記憶がだんだん薄れてゆく、曖昧模糊になってゆく

現代は旅でも記憶に残らないことが多いのである。
一地点を目指す旅であり過程を飛び越えているからである。
そこでは地形も記憶しにくい、坂であれ峠であれそういう地形も省かれるからである
そこで旅でも印象に残らないものとなってしまう。
おそらく車よりバイクの方が地形は記憶するだろう。バイクは風も感じるからである
ただ若い人がバイクで旅しているのを見たとき楽だなと見る
自転車に比べると本当に楽だとみてしまうのである。  


結局現代生活は便利になったのけど経験することが浅薄にもなっている
旅というのもそうである。そこには人との出会いもないしただ過ぎてゆつだけである。
「旅は道連れ」というのもなくなった、バイクであれ車であれ早いから一時出会っても
あとはすぐ別れてゆくだけだとなる
そこに何か濃密な時間がもてないのである。今会ったまたすぐに別れてゆく、それは歩く旅とはあまりに違ってしまったからである。

2016年05月02日

カルマは必ず清算することを要求される (人間の奢りには必ず罰が与えられる)


カルマは必ず清算することを要求される


(人間の奢りには必ず罰が与えられる)


その人間にメグリなくしてもメグリ負うことあるぞ。人類のメグリは人類の誰かが負わねばならん。一家のメグリは一家の誰かが負わねばならん。果たさねばならん。善人が苦しむ一つの原因であるぞ。神の大きな恵みであり、試練であるぞ。(ひふみ神示)

一家のメグリは一家の誰かが負わねばならん。

このメグリを負うのは家だったら長男、長女になりやすい、まさに自分がそうだった。
実際に自分の家の血縁関係で家族で残っているのは自分一人になったからである。
最後に供養しなければないなのは自分だけなのである。

それぞれの家が何らかのカルマを背負っている、良い面と悪い面のカルマを背負っているそしてカルマは悪い面に現れるときカルマを意識する、現れないとき意識しないのであるなぜこんなひどいことになったのかとかこんなに苦しむのかとカルマを意識するのである
ここ十年の間に起きたことは自分の家のカルマであり自分自身のカルマであり地域のカルマであり国のカルマであり天変地異が津波などもあったからこれもカルマでありあらゆるカルマが自分を襲った。
原発事故も起こるべくして起こったカルマなのである。
事故もカルマであり起こるべくして起こる、偶然ではないのである。

不思議なのはなぜある人が理不尽な犯罪にあうのかということである。なぜその人だけに犯罪にしうのか?これも不思議である。
強盗にあいわずかなの金で殺されたりする人もいる、これはなぜなのか不可解としか外から見ればなる、でもなんらかそこには必然性があるのかもしれない、なぜその人だけがそんなひどい目にあうのか納得がいかないからである。

例えば強欲な人が強盗に襲われて殺された、そこに働いていた家政婦は助かった。
それは外から見るとあまり同情されないかもしれない、極端になるとい気味たと見る人もでてくる。
その人は金をためすぎてそのカルマとして強盗にあい殺されたのかとなる
こういうことはかなり確率的に起きやすい、金持ちの家は危険なのである。
金がないこともカルマであり金があることもカルマなのである。
そしていつカルマの清算を強いられるのである。

はっきりカルマが目に見えてわかるのは必ず親のカルマを受ける、いいにしろ悪いにしろ受けることは逃れられないのである。
それは長男と長女が受けやすいのである。
なぜあの人は今になって夫の借金とかで苦しんでいるのか?その親は夫が身体障害者でさんざん苦しんだ、そしてやはりまた夫でその子供が苦しんでいる
何か親の苦しみをカルマをその長男長女が引き継ぐ、それは自分もそうだったのである。

その苦しみを書いてきたけどさんざんな目にあったのはなぜだったのか?
やはり自分の家の親のカルマを清算するために苦しんだのである。
金がないにしろあるにしろカルマを受ける、親が強欲で金を子供に残してもそのことがカルマになり子供がそのカルマを清算することになる
それは強盗のような目にあったことがそうだった、それは悪い面のカルマだったのであるだから金があるこからとすべていい方面に働くとは限らないのである。
もちろんないはないで大きな問題をかかえる、ないということもいいわけではない。

熊本地震でもなぜ東日本大震災とが原発事故でガレキを熊本県が受け入れなかった、そして東北や北海道は地震地帯であり自分の所は地震が起きないからと企業を誘致する宣伝を県単位でしていたことが批判された。そのカルマとして地震が起きたのかともなる。
地震とか巨大な津波とかはもう人知を越えたものだからそこに神というのでもなくても大自然の地球を調整する働きであるという人もいる。
そして必ず何かカルマを受けるとき罰のようなものを受けるとき人間の奢りと関係している、熊本県もそうだった、地震が来ないと奢っていたのである

それは個々人にも言える、人間が奢るとき非常に危険なものとなる
原発は事故が起こらないとか、自分は優秀だとか何かそうした奢りが危険であり必ずそういう奢りは打ち砕かれる、親戚の人も誰もとれない資格をもっていて優秀だと奢っていたでも事業して失敗した。何か奢る人は他者を馬鹿にしているのである。
それは自分の家族でもそうだった、死ぬまで自分は優秀だったと言って死ぬのも異常である。
実家の祖父にあたる人も警察署長とかして事業に失敗した。これも奢りだった。
ただ逆に働くことしかなく貯めることしかしないうかな親もどうなったのか?
それも盗まれたというのはカルマだったのかもしれない、ただためるだけで有効に使わなかっただけだったからである。
だから金というのは何かカルマとしてはわかりやすいのである。
そうした親のカルマを自分は引き継ぎ苦しんで清算したのである。

いづれにしろ個人単位でも地域単位でも国レベルでも奢りは身を国も滅ぼすのである。
日本は神国だから戦争に負けないというのも奢りだったのである。
神は高いものを低くするというときそうである。
それは国レベルでも起きてくる、大国が強国が必ずしも強いとはならないのである。
そこには神の采配が働くのである。
アメリカとか中国は大国だけどなんかの調子で弱体化することがある

聖書でも常に奢りは戒められてきた。そして人間の奢りに罰が与えられてきた
それは歴史的にも国レベルでもそういうことがある。
いくら強固でも大国でも小国を勝手にできないということもベトナム戦争であった。
あのような小国をどうしてアメリカが勝てないのかということかあった
ゴリアテはダビデの投げた小石の一撃で死んだ
イラク戦争でもアメリカが勝ったわけでもなかった、かえってイスラム国を産みシリア難民を産み混乱と苦しみを与えただけだとなる、その原因はアメリカにあったともなる
イラク戦争がその原因になっていたからである。
つまりアメリカというのは世界的にも相当なカルマを国として背負っている
日本に原爆を落としたのもそうだしアメリカのカルマもいつか清算を強いられるかもしれない、ハルマゲドンも人間のカルマの清算として起こるとされているのである。
人間がどれだけの罪をカルマを積んでいるからそれ歴史的にふりかえれば目がくらむだろう。
その清算にはハルマゲドンのようなことで清算するほかないとまでなっているのである。

自分にも自分の家にもカルマがあったが自分に対して非情にしたものたちもカルマを逆に受ける、別に自分は恨まないにしてもカルマを作ったからカルマを相乗して受ける、かえってゆくことになる
それがカルマの法則なのである。その法則から誰も逃れられないのである。
カルマはある時一定期間は受けざるををえないし逃れることができない、その苦しみが清算されると逆にカルマは関係したものに返ってゆく
だから良いカルマを積めばいいのだが悪いカルマをそこで積むとカルマは何倍にもなり清算することが容易でなくなるのである。
恩を仇で返したりしたらそうなる、そのカルマは過酷になることは確かである。

2016年04月15日

他者のカルマを受ける怖さ (事業失敗のカルマを受けた怖さ)


他者のカルマを受ける怖さ


(事業失敗のカルマを受けた怖さ)


その人は事業に失敗した。でも最近までその人は成功していたと見られていた、あの人は誰でもとれない資格をとっていたから回りから優秀な人だと見られていたし自分もそう思っていた。
現実は事業に失敗して多額の借金をかかえていたのである。
その人の事業は全国を相手にして金持ちをターゲットにした建築関係の仕事である。
別荘のようなものを提供することだった。
資格をもっていたからはじめたのである。
でもそもそもそれには無理があった。大きな設備投資もしたこともありそれも重荷になった。
自分は別にその人とは家族とも関係してない、でも親の代から深い関係があった。
親というのではないが自分の家族はその人の家族が病気になったとき看護婦ということで助けたのである。それを恩に思ってくれたので自分の家族が病気になったときは多少は助けてくれた。


でも今度は自分が病気になったときは別である。直接自分が助けたりしていないしそれよりその人にはもう自分を助ける余裕も何もないのである。
多額の借金をかかえているから自分が病気になり弱体化したときチャンスになった。
借金を要求するのには好都合だったのである。
自分は自分自身のカルマもあった、それは両親ともいえる家族には自分は一番良くされてきたから介護とか世話するのは当然であり懸命に介護した。
一人は認知症だったからひどかった。そのことを延々とプログで書いてきた。
自分自身のカルマは自分で清算するしかなかった。
でも他人のカルマまで背負うことは本当に加重であり恐怖である。
病気のとき責められることは辛い、でも相手は何も感じていない
自分だけの借金のことしか頭にないからである。
その時相手がどう思っているかというとこれも怖いことだが自分が死ねば財産がえられるとか思っていたのである。
それは殺人までいかなくてもそういう動機があり意志が生じていたことはそれに匹敵するのである。


何もそういうことはこの世の中で兄弟でも財産争いで普通に起きていることである。
それが推理小説のテーマである。遺産争いが一番そのテーマになっているからだ。
要するにこの世に起きることで自分が当事者にならないかぎりその恐怖を知ることはできない、ドラマを見ていればただ面白いとなるだけなのである。
それはあれだけの津波の被害でもこの辺で身近に起きていてもそうだったのである。
自分の親が子供が死んだらその悲しみは深いものとなる、でも近くにいてもその被害にあわない人は感じないのである。
家も流されたわけでもないし家族を失ったわけでもないからである。
これは別に自分が非情だからではない、みんな他人の不幸でも無関心なのである。
ただ自分の身にふりかかったときは全く違うのである。


今回は自分の身に直接ふりかかったからその痛みと恐怖は今でも消えないのである。
そして他人のカルマを受けることは本当に怖いことである。
自分の家族が自分自身が病気で苦しんでいるとき多額の借金をかかえた人が来たらどうなるのか?
また金がない人がきて被害にあったらどうなるのか?強盗にあい殺された人も普通にいる
それもやはり他人のカルマを受けることなのだろう。
自分が犯罪にあったのもそうである。そしてそういう不満のある人は必ずやつあたりする、それで死んでいる人もいるのが普通である。
つまり他人のカルマによって死ぬということさえあるのがこの世である。
しかしそうした相手が意外と他人に恐怖を与えても感じていないのである。
実際は笑っていたのである。これは借金するのに好都合だと笑っていたのである。
そして死ねば財産が自分の物になるとなるから死ねばいいとさえ思う
それは保険金殺人と同じである。それは親戚でも財産争いで普通に起きていることなのである。

結婚すると好きだとか愛だとか甘いものでしてもあとで相手の家族のカルマを負うこと強いられるから怖いということがある。
もちろん結婚する前にもそういうカルマがあるということを知ることもある
家族の中に良からぬ人がいるということも知る、でもわからないこともある。
それが隠されていることもあるから怖い、それが表面化したのは老人になってからだったということも普通にある
いづれにしろ60代以降になると病気になりやすいしカルマが逃れがたく現れる
カルマの総決算が強いられるのである。それがまさに自分にも起きたのである。


なぜか自分の家系をたどると父方の方で二軒も事業に失敗している、兄弟という関係ではない遠い親戚といものでもそうである。
その家の跡は今では駐車場になり何もない、もう一軒もやはり60代以降になり事業に失敗して自分がそのカルマを受けることになった。
そして母方の方も事業で失敗したことが一家離散の悲惨な結果になったのである。
事業の失敗というとき第一20人に一人くらいしか成功していないのである。
するどどれだけの人が事業に失敗して悲惨な結果になっているか?
事業の怖さは親戚だとかなると否応なく連帯保証人とかにさせられる
これも共同責任になるから怖い、その悲劇はいくらでも現実にあるからめですらしくないただこういうことも実際に自分の身にふりかからない限り常に他人事なのである。
シリアであれだけ悲惨でも同じである。
もし日本人が難民化したらどうなるのか?それすらありえる。
将来アメリカと中国とロシアの板挟みになり日本が分裂したりしてシリアのようにならないとも限らないからだ。


とにかくカルマは他人に負わせるとさらにその人のカルマは重いものとなる
自分のカルマは自分で清算するほかないのである。
自分に事業の失敗のカルマを負わせる、それも自分が病気であり弱いときそういうことしたらさらにカルマは重いものとなってゆく
結婚でも必ず嫁いだ先の家のカルマを背負うことになるし逃れられないから怖いのである昔は家同士の結婚だったというときそれも家がもっているカルマがありそれを考慮すればその方が安全だとなる、どうしても結婚では家のカルマを受けざるをえないからである。親のカルマを子が受け継ぐのも普通にある、親と同じような運命になる不思議がある。
それはカルマの法則といってもいい、例外があっても法則のようにそうなっている
ただ誰でもカルマは背負っている、カルマのない人はいないのである。
金持ちで恵まれているのも危険である。何か困難があったとき耐えられないとなる
切り抜ける術もないとなり破綻してしまうだろう。


自分のカルマもあるが他者のカルマを背負わされることも怖い、自分には自分のカルマを背負うことと他者のカルマを受けることの二つが同時に起きた。
悪いことは重なるし良いことも重なる、だからこの十年間は辛酸をなめた。
カルマの法則はこれは確かにありそれは現実としてあることを誰でも人生経験で知る
誰かを苦しめたものはまた誰かに苦しめられるのである。
これはまちがいなくあることでありカルマの法則なのである。

2016年04月06日

良くも悪くもカルマはめぐる (恵み(めぐみ)はめぐるである


良くも悪くもカルマはめぐる


(恵み(めぐみ)はめぐるである


カルマというとき悪いものをイメージするけどそもそもカルマが災いだとするとき災い転じて福となるとかある。
原発事故でもこれもみんな損したわけではない、補償金もらって得したと思っている人もいる、ニートとか遊び人のような人は喜んでいたのである。
いつもなら見向きもされないがかわいそうでもないのにかわいそですねとか常に同情されているのも変だった、そういう人は病気でもなんでもないからである
一方普通の生活ではどんなに苦しんでいても同情されない人も多い、ただ放っておかれるのも普通なのである。
だから今回の原発事故ではかわいそうでない人もかわいそうだとされたから変な面があった
結果的にその人たちは同情されるべきだとなりそれを要求できるとなった。


つまり何か悪いことでもそれがすべてに悪いものとして働かない、カルマも悪いカルマだとしてもそのカルマに耐えていれば災いも良いものになってゆくかもしれない
確かに原発事故は最悪だったがその最悪を最善のものに変えるということもありうる。
そもそも何が幸福で何が不幸かも人間は最後まで見ないとわからないのである。
意外と最後に不幸に見舞われる人間がいる、自分の家族でもそうだった
病気もしないし頭もいいしと幸運に恵まれていた人が最後は最悪の認知症になってしまったからである。
人間は最後に不幸になる人が結構多いのである。それはどんな金持ちでもまねがれないのである。金持ちはか家族関係などで問題が多いことはありうる


カルマとは日本語だ恵みにもなる、恵みはめぐるなのであ。幸も不幸も回りめぐってゆく、金も天下の回りものだというのともにている。
幸福が幸福の基と必ずしもならない、不幸が幸福の基になることが普通にある。
病気から快癒したときなどは最高の幸福を味わうからである。
そういう不幸を経験していなければ本当の幸福は得られないともなる

だから金持ちで何でも恵まれていることも危険である。
それで金持ちの土地持ちの姉妹が餓死したというのもうそうである
いろいろと社会経験とか苦労していないからそうなる
お嬢さんとして育つ人もいつどうなるかわからないから危険なのである。
親がいつまでも生きていないし守ってくれないからである。
その幸福が恵まれた環境がかえって後の災いの元とともなっていたのである。
それは自分も経験したからわかる
恵まれすぎることも後の災いとなるのである。


カルマがめぐるというとき具体的な自分が経験したというかなぜ自分がその人に代償的役割をしているのかということもそうである
その人は70万くらいの働いた金をもらいなかったのである。
そのことを延々と自分にくどいていた。でもなぜかその分を自分が支払っていたのである自分が余裕があるからそうしている、その人に自分は払う義務もなにもなかったのだけど払っている、つまりその人に恩もなにもないのに払っている
70万という金が未払いになった分を自分が払っていたのである
カルマとは別にカルマを受けた災いをもたらした人自身が払うことでもない
全然関係ない人がカルマを負って償ってくれるということがある

運も不運も金もめぐりめぐってゆくのが人間社会である。だから何が幸福になるかはわからない、幸福だと思っていたものが不幸の因になるし不幸と思っていたものが幸福の因になっていたなど普通にあることなのだ。
例えは誰か死ぬということは不幸だけど何か人間が一人死ぬとその分幸福になる人がいる財産をもらったりして貧乏な人が一挙に金持ちになったりするのである。
いつまでも生きていて災いになる人も人間には多いということがある
そういう災いをもたらすものがいなくなったとき時代が変わるということもある
人間は生きている限り財産でも金でも地位でも放さない、それで老人が長生きすると社会に弊害が起きる
人間が死ぬというとき新陳代謝が社会全体に起きる
だから高齢化社会の問題は60代とかで親の財産をもらことなのだ。
もっと早くもらっていたら死んでいたらいい面としてはその金で自分のしたいことができるということである。
いつまでも高齢の親が財産をもっていたらまず何かしようにもできないのである。


めぐみ(恵み)はめぐるである。水は流れてめぐりめぐって潤して実りをもたらす、恵みはめぐることで起きてくる、金も一カ所にとどまらず巡り巡ってくときグローバルに恵みをもたらす、グローバル資本主義社会というのは悪い面も大きいがいい面としては富が世界をめぐれば幸福をもたらす、でも少数に金が独占さされば格差社会となり不幸になることが問題なのである。
めぐるは英語ではrollでありrollには役割という意味があり俳優の役の意味がある
人間も年によって役割が変わってくる、だから若いとき美人ではないとか不幸に思っている人が多い、ところが老人になれば美人だと関係ない、みんな皺が増えていくら装ってもどうにもならなくなり美が基準でなくなる
かえって美人でなくても話が面白いとか何か別な要素に価値が出てくるのである。
役回りが年とともに変わる、その役回りをうまくこなせないと今度は美人だったけど不幸だったとかなる
だから若いときは不幸でも老人になって幸福になっている人もいるのである。

いづれにしろカルマは逃れられない、不幸は逃れられない、カルト宗教団体に入っても逃れられない、誰かが代わってカルマを背負ってくれる人がいるかとなると逆にそういう場所には不幸な人が多いから悪いカルマを背負わされるのである。
そこが助け合う場所というより不幸な人たちがさらにブラックな所にゆき苦しむことになるのと同じである。
そういう場所でカルマを落とせるならみんな入るだろう、かえって悪いカルマを受けやすくなる場所なのである。


なぜ家系とかがカルマに影響するかというと結婚すればどうしても相手の家系の影響を受ける、いいカルマを受ければいいのだが悪いカルマもその家系内でめぐるから危険なのである。カルマを否が応でも結婚したりしたら相手の家系のカルマを受けるから怖いのである、それは結婚したりして長い時間が過ぎてはじめて問題が起きてわかったとかなる
その女性は実際はいい人と結婚した、金にも恵まれた人と結婚したのだけど最後になり
60代になり事業の失敗が明らかになったのである。
それがカルマなのかどうかわからないにしてもやはりカルマはいつかめぐりめぐってくる自分にしてもそうだったからだ。それは誰でもそうでありカルマからは逃れられない
カルマは死をもって消滅するとかある、死は一つの救いでもある
もし死ななかったら延々のカルマを背負い生きなければならないとなると地獄だからである、それはまさにシンジホスの神話のように重い岩を延々と持ち上げていなければならない、カルマがきれなかったらそうなる


タグ:カルマ

2016年03月26日

嘘をつかないということがこの世で一番むずかしい (それができないから社会は変わらない)


嘘をつかないということがこの世で一番むずかしい


(それができないから社会は変わらない)



正直の木に
正直の実のなる
何事のなけれど
この世にまれなることなり

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馬鹿正直な女性が眠る墓



人間で一番むずかしいのは実際は一番単純なことである。
「嘘をつくな」というけどこれが一番実行しにくい、なぜなら生涯で嘘つかなかった人がいるかとなるといなだろう。女性は弱者だから嘘で防衛しているんだから許される苫でなっている、嘘ついてもいいんだよとまでなっている
人間は複雑でありその悪徳もかぎりなくある、自然は単純であり嘘はつかないというより嘘をつけないようにできている
動物でも何でも嘘がつきようがない、ただありのままに生きているだけである。
自然によって癒されというときそこには嘘がないからである。真実しかないからである。自然からは何らか悪徳が生まれないし産まないようにできている
人間から限りなく悪徳が生まれてくる。


 ――巧言令色、鮮なし仁。(巧言令色鮮矣仁。)(「論語」学而篇・陽貨篇)

 というのは、孔子の言葉で、「口先が巧みで、角のない表情をするも
のに、誠実な人間はほとんどない」という意味である。

 これを裏返して、孔子はまた、

 ――剛毅木訥、仁に近し。(剛毅木訥近仁。)(「論語」子路篇)

 すなわち、「剛毅で飾らぬ人間は、(誠実なのだから)完成した徳をそ
なえたものに近い」とも言っている。利己的な打算がなければ《飾る》
必要がないのだから、当然《木訥》になるであろうし、みずから正しい
と信ずるものの前には、その生命さえ惜しまぬなら、当然《剛毅》にな
るであろう。

話がうまいというときその人は何か人をだますのもうまいとなる。だから話がうまい人に気をつけろともなる

そして嘘が多いというときこの社会自体が嘘が多いことなのである。例えばカルト宗教団体でも宗教を表看板にしていても実際は全く正反対のこの世の欲望を追及する世俗と全く同じでありむしろ俗社会より俗的になっている、
するとなぜ宗教を表看板にしているのか?それ自体が不可解だかそれを批判すると今度は宗教を批判するのか罰あたるなどと集団で脅してくる
それはカルト宗教団体だけではないあらゆる分野でそうした嘘がまかりとおっているのである。
東電だって科学者がいて日本の頭脳集団だったのかもしれないが嘘ついていたのである。科学者も嘘をつくから信用できなくなった。
嘘をつくというとき一番嘘をついてはならないのが政治家のはずだが政治家が一番嘘つく商売なのである。それは政治家自身が大衆にこびをうるために嘘もつく、おべっかも言うとか言っているからわかる、そうしないと票が集まらないからである。
こうして社会自体が嘘が多いというときどうして嘘をつかないでいられるのか?

社会はそもそもそうした嘘つかないことなど求めているのかというのも疑問である。
社会の反対は会社だけど会社が求めているのは嘘をつかないということではないだろう。それを奨励しないにしろ利益をあげることを第一として入社するとき面接でもお前は嘘つかないから選ぶなどありえないのである。
この人が将来会社にとって利益をあげる人物かどうかで判断するといっている。
会社というとき会社自体が嘘つくこともある。会社が人を選ぶというのは会社の利益をまずあげることができる人間だとなる
その選ぶ権利は権力は会社が絶対的にもっている、その人間が嘘をつくとか嘘をつかないとかを基準になどしていないのである。
これは学校でもそんなこと教えられたこともないのも不思議である。
ただ成績が良くなること試験が通ることなどしか教えられていない


そもそもおかしいと思うのは人間は会社のために生きるのかとなる、でも実際はそうなっている、大企業に入社するかできないかで人生が決まる、有名大学に入るかどうかで人生が決まるなどと常に言われているし実際に社会の価値観がそうなっているからみんなもそうなる
でも実際は会社のために人間があるのか?会社とは何のだろうとなると会社にそんなことが決められるのかとなる。
でも現実社会では会社がすべてだということにまでなってきたのが日本である。
世界的にそうなってんる。
戦前は国がすべてとなっていたのと同じである。
会社は直接生活と結びつくから会社を首にされたら食べれなくなるから会社に忠誠を誓うのである。
でも考えてみると人間が会社のためにあるのではなく会社が人間のためにあるべきなのである。
「私は会社に尽くすために働くことはしません、社会をよりよりくするために働くのです」会社も社会のためにあるのだから当然そうなるのである。
ある特定の会社のためにだけ働くのではない、社会全体のために働くというのが理屈になる、それは理屈だけで実際はある特定の会社のために働く、そもそも会社でも自分の会社のために尽くせというのはおかしいのである。
なぜなら個々の会社自体が社会に尽くすためにあるからである。
国のために尽くせというときは個々の会社を越えたものに尽くしていたのである。
だから多国籍企業が国の代わりになるときそこにも問題が生まれる
多国籍企業は利益しか求めていない、世界はその多国籍企業に支配されれば利益にならないものは排除される、そこで大規模な環境破壊も起きてくる。
国々の文化も破壊される、郷土愛とか愛国心も必要ないとなる
それは盛んにここで言っている。こういう価値観の世界も相当に危険である。
これは国々の文化と歴史を破壊してゆくからである。

多国籍企業が国家を破壊して資本主義の世界に君臨してゆく

社会のために尽くせというとき嘘をついたりしては社会のためにならないということがある
嘘をつくことは社会を害するものだからそう言われる、でも会社に入るときはまず利益をあげることが先決でありそういう人が選ぶのである。
嘘をつくような人は選ばないなどありえないのである。嘘をつかなてれば学歴も関係なくつきあうと言っても現実社会ではそういうこを最初から入社するときでも要求されないのである。利益をあげるには嘘ついてもしかたないとかということが会社にはある
政府とか官僚でも東電とかマスコミでも「安全神話」を作っていたがこれも嘘だったということがいかに嘘つかないというけど実行できないものか如実に示していたのである。
コストを優先して利益をあげるために嘘ついていたということがある
会社自体の最優先課題は利益を上げることだからである。


社会に尽くすとか社会をよりよくするためには「嘘をつかない」ことだなどと言ったら誰も聞かないだろう。利益をあげること豊になることだったら誰でも聞くのである。
社会を良くするには社会を正すには嘘をつかないことだなるが言っていることは簡単でも実行することが不可能になる、嘘をつかない世の中があったらそこは天国しかないしこの世にはないとなる、自然は嘘をつかないからまさに天国なのである。
会社ではとにかく有能な人を求める、嘘をつかない人ではない、そんなことを基準にしていない、社会自体もみんな有能な人を求めている、でも有能な人が嘘をつかないということはない、かえって無能と言われる人が嘘つかない場合もある
人間社会は嘘をつくなといってもそのことが特別な価値にはならない、いろいろな面で有能な人こそ求められているのである。でも有能な人でも嘘はつくのである。


その人は有能ではなかった、馬鹿正直だった、10万とか借りてもなんとか返そうとしていた。今はまず百万借りても返さない、借りたものはもらったものでありあとは盗んでも反省もしない、だからその人は例外であり馬鹿正直となる、つまりその人は馬鹿としか見られていなかったのである。
この世ではそうして馬鹿にならない限り正直にはなれないのである。
一方家族のことだからいいにくいけど如才なくふるまって嘘をつくことに平気な人もいる家族だから家と自分には尽くしてくれたから言いにくいけどそういうことが馬鹿正直なものに対して対比させられた。
つまり善とか悪はこうして対比するとき明確にわかるのである。
そのために善と悪がある、善だけの世界は天国にしかない、その時善に気づかないのである。悪があると対称的に善が強く意識されるのである。
ただ一般的にはこういう馬鹿正直な人はまれである。現代ではほとんどいないだろう。
大正生まれとかに稀少動物か植物のように残されているだけだとなる
あらゆる人が現代では功利的になり生きているからである。
大正生まれでもそういうことはまねがれなかったのである。それは田舎の人間が素朴だなどと言われた時があった。それと同じだが今は田舎も都会も人間に変わりない
資本主義社会が浸透すればどこでも人間は同じだとなる、金が大きな力をもつ社会だからである。牧歌的な時代はもうすでに世界でもほとんどないだろう。
アフリカの果てまで一ドルくれとか子供が言っている世界になっているからである。

この世に正直なることがまれでありその単純なことが実行されていない
正直の木に正直の実がなるということが実行されていないのである。



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2016年01月18日

記憶する場や時間がなくなっている (人間は記憶されたことが人生にもなるから記憶が大事)


記憶する場や時間がなくなっている


(人間は記憶されたことが人生にもなるから記憶が大事)


人間は意外と記憶すること記録することが大事である。だから学問でも江戸時代から教育というとき暗唱することだった。
墓地になっている所は寺子屋だった。そこに碑があり「暗唱せよ」ということが記されているみたいだ。それはどこでも教育というのは暗唱がまず教育なのである。
何らか暗記することであり記憶することである、読書百編自ずから意の通じというのもそうである。
99でも暗記であり算数も数学も最初は暗記である。
ただ意味もわからず暗記するというのは子供では意味を知ることがむずかしいからである

算数でも数学でもこれは暗記するだけでは覚えにくい、今になると自分なりに工夫して割り算などは図形化する、像として覚えれば興味をもち覚えやすいとなっていた。
ただ丸暗記は限界がくる、それで試験でいい点数をとっても学問としては限界が来る
学校が嫌なのは暗記を強制するからだという面もある。
自分は学校の勉強で好きになったこともないし何か自分で考える工夫して勉強したこともない、毎日何か暗記であり試験であり強制されたということしかない
もちろん自分はどうしても秀才でもないからだった。
ほとんど試験のために勉強してきたがこれは勉強ではなかった。
学ぶはまねるからきているからこれも暗記である。studyは研究するという意味があるからまねるとは違うものがある


ともかく人間が生きることは記憶することであるということもある。それだけ記憶が大事なのである。なぜなら人生をふりかえって何を覚えているのかとなるとその記憶したことが人生だったとなる
たいがいのことを人間は人物でも何をしてきたかでも忘れるのである。
ほとんど何も浮かばないともなりそれが認知症なのである。認知症の人は今の記憶が欠落している。今が記憶できない、今ここに置いたものをすぐ忘れる、そして誰かが盗ったとしてしまうのである。
ただ昔のことは若いときのことを覚えているから戦争のことを姉から千回も聞かされたのである。
それは死ぬ直前まで戦争のことを話していた。シンガポールで従軍看護婦をしていたからである。その記憶したことが人生だったとなる

記憶がなぜ大事なのか、それは旅行するときでも記憶していないとしたら旅行に行ったことにもならない、どこに行ってきたの、そこがどういう場所だったのかとかもわからなくなる、旅行が忘れやすいのはそこが一回しか行かないとか印象に残りにくいからである。ともかくあらゆるものが記憶から消えてゆくのが老人になるとわかる。
認知症というのは病気なのだけどやはり老化が極端化した現象でもある
子供は何でも認識してゆくが認知症になると何でも認識できなくなる、過去に認識した記憶のみが生きた証拠となる


記憶するというとき金の出し入れで例えば千円をやるのに千円を炬燵の上にしばらく置いておく、するとそれが記憶になっている、でも即座に千円を払うと忘れやすいのである。払ったから払わないのか良く店で問題になるのは即座に出し入れするからである。
それでお釣りを払うとき確かめるように千円札をみせて支払うと記憶として残る
即座の金の出し入れは記憶しにくいということである。
今日一万払ったと思わなかった。それは前の記憶として5千円札が入っていたからであるつまり前の記憶と今の記憶が混同していたのである。
何かそういうことがよく人間にはある。前の日に五千円入っていたから実際はそれを使って一万入れていたのだかそれを忘れて前の5千円を記憶していたためにそうなった。
金は出し入れが頻繁だから忘れやすいのである。
これは人でも多数の人は覚えにくい、金のようにしょっちゅう出し入れしていたら覚えられないのである。大衆とか群衆化している現代とそうした人は覚えていないのである。

旅行でも記憶するというとき例えば電車が来るのを待っている、その時間が記憶する時間だったのである。何かバスにはそうして待っている時間があっても記憶されにくい
電車はレールが伸びていて電車を来るの待っている、その時間が記憶される時間になる
だから待つ時間も貴重なのである。今は待つ時間がない、だから旅情もないとなる
新幹線になると全く待つ時間がないから旅情もないのである。
旅をふりかえると記憶がよみがえるときそこに旅に行ったと感じるが忘れると本当にそこに行ったのかどうかもわからなくなる
だから記憶されない旅は旅にならない、団体旅行などは周りの自然でも記憶しにくい。
自然でもある時間がない限り記憶できないのである。
それである場所に何回も行った方がこれからはいいかもしれない、なぜならもう新しい場所を旅するより一度行ったところで記憶を確かめる、一回行った所でもそこは新鮮である季節も変わるし見方も変わるからである。
なるべくそこに長くいることがまた記憶することになる。


現代とは何か記憶することがむずかしい時代である。電車であれ車であれ便利なものを利用していると記憶しにくい、五感で感じるものがなくなる、車だったら外の空気とか風でも感じない、冬でも寒さも感じない、そのことがまた記憶しにくくしている。
坂だって峠でもそこが峠ということも感じにくい、だから空間でも記憶しない、まず都会とかなると記憶しにくい、混雑しているから余計にそうなる
東京などほとんど何も記憶していない、どこに行ったかどこを通ったかも記憶していない記憶する空間ではないしとても人間の記憶する範囲を越えているからそうなる
だから人間も集団でありマスであり大衆であり群衆であり一つ一つの顔として人間として記憶されないのである。
ただ人間というより物にしか見えない、そうなると人間は危険になる
人間が物ののようにしか見えないということは大量殺戮になっても感じない
殺していることも感じない、空爆すれば人間を人間と見ないからできる
空から見ればそこに見えるのは建物だけであり人間はいないのである。
パリのテロで130人が死んだというとき何かその悲惨さが具体的に感じる
でも空爆だったら何も感じないとなる怖さがあるのだ。
もし人間同士が見えて殺していたら殺すことにちゅうちょすることがあるだろう
パリでも最初は無差別に殺したがあとで人質にした人は殺さなかったのは何かしらそこに人間がいることを感じて躊躇したのだろうと生き残った人が言っていたのもうなづける
人間とみる時間がそこに生れていたからだともなる


今や都会では人間は無数の影のように消えてゆく、存在感がないものとなっている
都会には仕事があり田舎にはないとか田舎を常にネガティブに言うが人間の存在感は田舎の方にある。
俳句にしたように一本の木でも存在感がある、そして大地に根付いていかにも充実していると最近見る。
それはそもそも当たり前でも大地に根付いているからである。大地があるからその樹も不動であり存在感がある。
都会だと大地というのが関係ないのである。養分は大地からとっているのではない
すべて外から外国からでも食料はとっているし大地というのは都会にはないのである。


そしてそこは何か記憶する場がない、希薄な生が消耗する場となる
記憶というときそれは記憶される場が必要なのである。日本の神社はその場の記憶としてあるという見方もある。神社にとって場が大事なのである。
場の記憶だともなる、都会にはそうした記憶する場が消失している。
特に東京に巨大になるともう記憶する場が消失している
都会に生きることは記憶も消えるということにもなる
都会では生は記憶されない、無数の大衆群衆として消えてゆくだけだともなる
例えばもし東京が廃墟になったら何か記憶されているのかともなる
なぜ現代が廃墟趣味になるかというと廃墟になるとそこ人間的なものが残る
廃墟の中に何か人間的なものを感じる、それが廃墟でないときは巨大なビルとして人間を圧迫するものとして感じていたが廃墟になるとそれがやはり存在の無常を感じる
それが何か愛おしいものにもなる
ああ、ここに人が生活していたんだなとなつかしくなるのである。
それが現実に活きている時は圧迫するものとしてあった
めまぐるしく人間が動き交差して人間は無数の顔なき群衆にすぎなかったのである。


2016年01月15日

人間の奢りにはなんらかの罰が課せられる (個々人でも原発事故も認知症もそういう面があった)


人間の奢りにはなんらかの罰が課せられる

(個々人でも原発事故も認知症もそういう面があった)

「高い者は低くされ、低い者は高くされる」エゼキル

「貧しきは高められ、富む者は低められる」(ヤコブ1章9−11節)

そもそも人間が堕落したのはエデンの園から追放されたのはなぜなのか?
知恵の実なるリンゴを食べたからだとある。
それで善悪を知るものとなったと聖書にある。
神が全能で知恵を司るものだったが人間が神をしのいで自分で知恵あるものとなったことが奢りでありそれでエデンの園から追放されたのである。

人間が神をしのいで知恵あるものとなったというときそれが文明を作り出したのである。それは最初から神しか全能でないのに人間が全能を目指しているのが文明なのである。
その一つが科学技術なのである。科学技術は万能であるということが信仰にまでなっている、科学技術がすべてを解決するというふうに現実に信仰までなっているからである。
癌が直らないとしても新薬が発明されて直るようになるというとみんな信じるだろう。
そんなことを宗教では今はできないから科学技術が万能として宗教になっているのが現代である。

つまりそれこそが人間の奢りでありその奢りが神によって打ち砕かれる
原発事故もそうだった。原子力はまさに人間の知恵が科学技術が作り出したものであり
原子力文明となるものだったのである。それが事故になり打ち砕かれてそこに住めなくなったというのもそうである。それは明らかに人間に対する罰だったのである。
人間の奢りに対する罰だったのである。
ギリシャ神話のプロメテウスが火をゼウスから盗んだというのもそうであり何かしら人間は人間が生れ時から罰がある、その罰からは逃れられない、仏教で言えばカルマになる。人間は生きている限りカルマを積んでいる、カルマを積まないで生きられるものはいないのである。日々食べることでも肉食すれば動物を犠牲にしているのだからカルマを積んでいる。
何かしらカルマを積まない人間などいないのである。


そして大きく人類史的にもそうなのだが身近な個々人でも奢りは罰せられる
姉はいつも自分は優秀だと最後まで死ぬ間際まで言っていた。
そのことにこだわったのはやはり自分が認知症になり馬鹿になったということがあり自分が優秀だったということにこだわったからそういいつづけたのかもしれない
でも優秀だったということが全く認知症になってもろくも崩れ去った驚きである。
銀行からは金をおろせない、財布を隠してわからなくなり泣いている。
今ふりかえると本当に悲惨でありこんなことをなぜ神がするのかと自分はいきどおりを感じた
それは津波の犠牲にも感じた、神も仏もあるものかと呪う人もいたがそれもわかる。
なぜこんな酷いことを神はするのだろうかということが解せなかったのである。
それはやはり人間の奢りに対する厳しい罰だったのである。

ただ認知症とは何なのか未だわからない、それは病気であり罰とは関係ないということもある
ただ姉の場合は一面そうした奢りがあったことは確かなのである。
だからといって姉は自分に一番良くしたのだから必死になって介護したのである。
それはプログでその経過を書いてきた。自分は姉を愛していたからそうしたのである。
人間は必ずいい面と悪い面があるから姉を奢りがあったとしても責められないのである。

第一優秀なことが悪いことがないのである。誰でも優秀な人に頼るだろう、医者でも大工さんでも看護師でも何でも優秀な人に仕事をまかせる、だから優秀なことが悪いはずはない、みんな必死になって優秀な人になるために勉強もしているし努力をもしているのである。
だから優秀な人がいなかったらこの社会は成り立たないのである。
ただ優秀な人は普通の人でも大工さんでも看護師でも他でもいる。それは特別な人ではないのである。
そういう優秀な人は奢りに陥りやすいのである。
事業に失敗した人も一級の免許をもっていて常にみんなに優秀だと言われてきた。
そして事業に失敗しても自分は成功していると装っていたのである。
その人も相当に奢りがあったのである。
でも実際にそういう優秀な人には何か奢りが生れる、そして優秀でない人を見下すのである。
自分はそういう人たちをみて常にうらやましく思っていたのである。
自分には優秀なものがないと思っていたからである。

優秀な人は何か冷たい人多い、自分は優秀なんだというとき他者を見下してしまうからだでもその優秀なことが悪いわけではないのだ。
どうしてもそこに奢りが生れるから危険になる。だから何か優秀でないというか平凡でも愛のある正直な人間はいる。
そういう人は優秀な人ではない、姉の場合は優秀なのだけど見下していたことそのことが罰せられたのかもしれない、ただ認知症にな人は多いのだからみんながそうとはいえない自分にとってはどうあれ姉は家に尽くした人だから懸命に認知症でも介護したのである。

人間でいましむべきは奢りと偶像崇拝である。だから若いとき裕福で何も苦労をしらないとか地位があるとかなると危険である。
自分も一時はそうだった。それが打ち砕かれたから謙遜になった。
ただその後30才以降は楽していたのである。
若いとき頭がいいとかなんとかほめられるばかりだった人はどうしても奢りになる。
若いときから社会でほめられる人間は危険である。
有名になることも金持ちになることも地位があったりしたら余計危険である。
その気になっていると神が罰を与えることになる


ネブカドネザル大王が王がエホバの言によって「人から離れて牛のように草を食い、 髪の毛が鷲のように、爪は馬のようになって」はじめて神を認めたという。 

これとなにか認知症とがにている、本当にこれは神の刑罰だった。認知症は多くの人がなるからこれとも違っているだろう。でも王として傲慢になった結果の刑罰だったのである聖書では人間の力で成したというとき何でも危険なことになる、すべては神が成したのであり人間ではない、人間が成した誇るとき厳しい罰が課せられているのだ。
奇跡でもそれは人間が成すことではなく神が成したことなのである。
文明の危険性は原発でもそうだが人間が人間の力で成したことを栄光としているからである。だから今回の原発事故のように明らかにこれは神からの罰だったのである。

いづれにしろ強い者が強いとは限らない、アメリカだって今は強いとしてもいつまでもそうではない、強いものも神の前にもろくもくずれさるときがくる
高いものは必ず卑くくされる、だから高い地位にあるもの、強いものは、権力をもち奢るものは危険なのである。
そして逆に卑(ひく)いものが高くされる、それで天国には平凡でも愛のある正直な人たちがいるというのはそのことなのだろう。

聖書の言葉でもこれは誰でも言うことは簡単なのである。では実行するとなると本当にむずかしい、高い地位をもとめ金持ちになることを求めて日々懸命に働いているのが現実である。
だから「悲しむ者は幸いなり」と大金持ちが貧乏や低い地位のものに語るほど矛盾したことはない、あなたたちが貧しいのは幸いなのだ、あなたたちが悲しむのは幸いなのだと言っていたらこれほど矛盾したことはない
あなたたちは貧乏でいい、苦しんでいなさい、それが神に従うことだ、そんなことを金持ちが地位ある人が言っていたらこれほどのブラックユーモアはないのである。
現実にそういうことをアメリカでは黒人奴隷にたいしてしてきたのである。
またそういうことがこの社会では普通にあるから矛盾なのである。
ともかくこの世の中で何か人に教えようとするときその人自身が矛盾してこない人はいない、悔い改めなさいとか牧師が言ったとしてその牧師が罪がないとはいえないからであるそういう人が罪を問うこと自体矛盾である。だから牧師ではなく神に直接対して懺悔せよとしたのがプロテスタントだったのである。
そしてまた自分が悪いことをしていないと威張って言う人も多い、おそらく悪いことをしてきたからそれを認めたくないからそう言っている。
継母だった女性が最後に目が見えなくなりそのことを反省した。
目が見えなくなることも罰だったのである。
人間には必ずカルマがあり罰がある、それは悪いことではない、その罰がなければ神があることも知ることがない、ネブカドネザル大王は罰を受けて神を認めたとあるからである。



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2016年01月03日

危機感をもたないことが滅びに通じる (平和はつづかない、必ず危機がやってくる)


危機感をもたないことが滅びに通じる

(平和はつづかない、必ず危機がやってくる)


人間、このままでいいと思えば、改革の必要性は感じない、このままではいけない、危ないという危機意識を持つから、改革への重い腰を上げるのである。

優れたビジョンの条件の筆頭に「将来のイメージが明確であること」を挙げている


人間は安きに流れる、甘い見通しをするのが常である。それは個人的にもそうであり組織でもそうである。
事業を起こすにしても失敗した人は相当に甘い見通しをしていた。根拠なくして事業を起こしたのではないにしろ見通しが甘かった
失敗してからも借金していても自分に甘いので変わらなかった。
誰かから借金すればいいとしてその生活すら改めていないし前と同じような贅沢な暮らしをしようとしている。
要するに相当な借金があっても危機感がないのである。だから節約もしない、また借金すればいいとかなり自分がその標的になったのである。


人間は危機意識がもつようになるのは厳しい現実をつきつけられないともていない
つまり借金で家も土地も売るようになるとか何かそうした現実をつきつけられないかぎり以前として甘い見通しでいる
どこからか金が入ってくるという感覚なのかもしれない。
人間は何も起こらなければ平和ならその平和がずっとつづくと思う
それは国単位でも個人単位でもそうである。
「災害は忘れたころにてくる」というのはまさにそのことだったのである。
今回の津波でもそうだった。こんな津波が400年すぎて忘れたころにやってきた。
それは三陸では100年前にあったのに忘れていたのである。
人間の特徴は忘れやすいことにある。それで老人になると何か覚えられない、記憶するのが苦手になる、そしてそれが極端化したのが認知症なのである。
子供の名前とか顔すら忘れてしまうように極端化するのである。
自分の書いたものでも忘れているのが多いから記録として何か書いていた方がいいとなる

危機意識の欠如から何が起きてくるのか?今回の天変地異の津波とか原発事故とか大きくは国が滅亡することもある
日本は海で囲まれているから海が防壁になっているから他国から侵略されないという危機をもてない国である。
外国では陸続きだから絶えず国が侵略して興亡しているから他国が責めてくるという危機感をもっている。
そして民族が滅ぼされることもありうる恐怖を危機感をもっている。
日本の国にはそうした危機感に欠けている、神風が吹いてモンゴルの船が沈没したとか危機感に欠けるのである。


そういう自分も危機感に欠けていた。何か平和だったから甘い見通ししかしていない、自分は実際は今回の十年間の苦しい体験は将来をイメージすれば賢い人だったら予想できたただどんなに賢い人でも将来がどうなるか予想はできない
つまり将来は想定外になるのが多いのである。実際津波でも自分の個人体験でもそうだった。想定外のものに対処することになったから苦しかった。
まず認知症が何なのかなど理解しようがない全く想定外のことだったからである。
もちろん原発事故もそうだった。
原発事故もこれも危機感に欠けていた、その証拠が「安全神話」を政府と東電とマスコミとか県とか地元住民でも一体となり作り上げられていたのである。
原発は安全でないというと地元では非国民のようにされたということもある
なぜなら原発で働き利益を得ているからそうなった。
人間は根本的には利益利権で動いているからである。


危機感というときアメリカの危機感と日本の危機感は違っている
アメリカの自然への危機感は竜巻とかにあった。それで電源を地下に置いた。
日本では地震とか津波があり自然への危機感は違っていた。
自然でも国によって場所によって危機感は違ってくる
国となると歴史とか風土が違うから技術でもそれに適合するように作らねばならない
だからアメリカの押しつけに言う通りになったことも危険だった
アメリカでは日本の風土を考慮していないからである。
ただアメリカでも西海岸には原発を作らず東の方に原発をほとんど作っていた。
西海岸は地震を考慮して作らなかったのである。
いづれにしろ「安全神話」を作り上げたときすでに危機感は喪失していた。
安全神話が危機感を喪失させていたのである。
安全、安全と唱えていれば安全だとさえ錯覚していたのである。
それは何事かあれ題目を唱えている日蓮宗とか真宗系統の信仰と同じである。
科学技術者がそうした安全信仰に安全神話のために点検を怠り危機感が喪失していた。
事故の前にも安全の不備が指摘されても軽くあしらうだけであり本気になっていない
それは「安全神話」を権力で作り出していたからである。


ただ危機感をもていないというときそれは人間の弱点であり心理的なものとしてそうなりやすい、人間は常時危機をもって暮らせない、そんなことしていたら生きるのも嫌になるだろう。だから人間は突然の危機に弱い、奇襲に弱い、突然無防備の所に攻められるのが弱いから相手の意表を突くことが成功しやすいのである。
そして危機意識は常に一時的にもっていてもすぐに忘れる
何かすでに自分は十年間そうして苦しみ危機意識をもたされて過ごしてきた。
何かいつも緊張状態にあった。それが母が死んで介護も終わり気がぬけたようになった
危機感というのがそれと同時にまた元のように何か弛緩したような状態になった
でも危機感をもたない国でも会社でも家族でも地域でもそれが大被害に通じる
原発に対して危機感をもっていないから地域が崩壊したのもそうである。
東芝でも大会社でも人事で内部で権力争いしていて会社自体が危機にさらされる
リストラされる人が膨大になるのだから危機感がないことで社員も犠牲になる


原発事故でも避難した人たちが仮設にすでに小高など5年もすぎようとしている
しかしその一人の女性ではあるがほとんど何の危機感ももっていなかった。
補償金で鹿島区の人が不満なことも知らない、鹿島の人は小高の人が金を使ってくれているんだから良かったのよとかのんきなことを言っていた。
そしてこれから小高に帰るのは嫌だ、どこかで働く所がないかとか聞いてきた。
これも補償金て仮設暮らしでのんびりすごしていた結果危機感もなもるなくなっていたのである。
ただ5年間は補償されて何でもかわいそうだと支援されたきたから支援されるものだとなってしまった。
そこに将来の危機感は全く喪失してしまっていたのである。
将来を危機感をもってイメージすればそんなことでいいはずがなかったのである
つまり人間はどうしても安きに流れるのである。
困難のことを敢えてしたくない、望まない、実際はそうなのはしかたがない
人間は強いられない限り困難なことは苦しいことをしたくない、それを否定できない
でもそのことがのちの災いとなるのである。


例えば求道にしても若い内しなければもうできない、年取ってから信心するのは別であるもう死が近づいたとき死という最大の危機を乗り越える信仰をもつことはできない
それは若いときするべきものでありその時危機感をもって求道して行動しなければあとはできない、年取ってからでは時すでに遅しなのである。
人は若いときは遊んでいればいいとか危機感をもたない、そして享楽の内に青春は浪費されるのでてある。
人間はそもそも常に人が死んでいるのだからそのことに対して危機感をもつ
でも死について危機感をもたないから求道もしない、そしてカルト宗教団体などに時間を浪費して終わる、そこは宗教とは何ら関係ない政治団体なのである。
カルト宗教団体はパンの危機感であり死とか精神的な危機感はゼロである。
いかにこの世のパンを得るかの危機感なのである。パンをもっとよこせというパンの配分の問題である。
そんなことより人間は死ぬ、消滅してしまうということの方が怖いことでもある
でもそういうことより日々の生活のパンのことの方を追及しているのが現実である。


ともかくあらゆる場面で危機感の欠如があり弛緩がありそれが致命的になってゆく
時間がいつまでもあるとか若いときは思っているがたちまち老人になっている
それも危機感がないからそういうふうに考える
時間などあっというまに喪失する、時間に対しても危機感をもっていないのである。
人間は極限られた時間しか与えられていないのである。
とすればその限られた時間の中で何をするかというのが問題になる
享楽的遊んでばかりいていいのかと自問する
時間が無限に与えられていれば緊張感もないし危機感ももていなのである。
そして営業でもビジネスチャンスは生涯で一回しかないと本に書いてあった。
その一回のチャンスをものにしないとあとはビジネスチャンスが巡ってこないというのも本当だろう
人生においてなにごとビジネスでも何でもチャンスは一回しかない
それが人生だった、一回のチャンスに賭けた人が成功してあとはしない
一回失敗したからまたあとがあるというのは危機感がないからそうなる
もしこれ一回切りだとしたら何でも危機感を持ち対処する
そういうふうに危機感をもたないことがかえって危険なものになってゆく
危機感をもたないために国も会社も地域でも滅んでゆくということがある
だからふりかえると危機感をもたないということ自体がそういう生活自体が危機をまねいていたと自分でもふりかえるのである。

タグ:危機感