2015年10月30日

事業失敗に家系の因縁はあるのか? (結婚すればやはり相手の因縁を事業でも受ける?)



事業失敗に家系の因縁はあるのか?


(結婚すればやはり相手の因縁を事業でも受ける?)


いろいろな因縁を問題にする、事故の因縁もそうだし病気の因縁もそうである。
そして事業失敗の因縁というのがあるのか?
これは自分の実家の母と父方とも言えないが関係した親戚が二軒がすでにある。
もう一軒を事業に製鋼していたと思っていたが失敗していた。
母方の実家は警察所長までしていた機織り産業が盛んなときで事業に手を出して失敗して一家離散になった。
おじいさんになる人だったが母が威張っている人だというときそううい人でそもそも事業ができる人ではなかった。
もう一軒は町工場をしていた人が経営不振で借金で倒産して土地も家もとられた。そこは更地になり駐車場になった。
もう一軒はこの人はもともと一級の免許をもっているから優秀な人であり事業できるものはもっていた。それがなぜか60頃になって失敗していたことが判明した。
借金をしていたので判明したのである。その額はわからないにしろかなり大きいと思う。なぜなら自分に要求するのが一千万とか百万とかは軽くするからである。
だから貧乏人が一万とか二万をやりくりして借金しているのとは違う。
こういう人とつきあったら本当に怖い,何か恩着せて保証人とかになってくれとかなるからである。
それが病気のとき入院保証人とかになるとき恩きせられたのである。
これも相手の弱いところついてくる非情化した人間になっていた。
借金で追い詰められる人は怖い、犯罪の動機で多いのが借金なのである。
もう相手のことを考える余裕などない、もちろん助ける余裕もない、相手から金を奪おうという考えしかないから怖い、保険金殺人とかあるからそういうものに近くなる。


ただ事業とかに失敗する人はこの世ではいくらでもいる。第一二〇人に一人くらいしか事業に成功していない、それだけ厳しい世界だということである。
自殺する人も借金とか事業で失敗する人が多いだろう。
事業というのは相当なリスクなのである。
だから家系の影響なのか本人の自己責任なのかはわからない、母方の実家には奢りがあった。警察所長ということで俺は偉いんだということで通っていたからである。
だから事業しても成功するんだという考えになっていた。
でも実際は警察所長と会社経営することは全く関係ないことだったのである。
今なら警備会社関係となら警察関係なら何かしらつながりがあるが全くなかったのである奢りが失敗の原因になることは多々ある


もう一人は事業をできる人だったがこの人も奢りがあったのだろう。
先の見通しも甘かった。ただやはりそれなりに実績がある人だから事業をしても成功することはありえた
それがなぜ失敗したのか、その詳細はわからない、そしてなぜ家系とかに関係あるのか?
その人自身の家系について皆目わからないが親戚と関係していた人の家系というか家族がどういうものか知っていた。
妻は若いとき夫が身体障害者となりずーっと世話する役目にをになわされてしまった。
それは不幸だったのだが結婚した娘の夫は優秀であり給料も高かったので恵まれていたと思っていた。それは端からみて恵まれた結婚だったのである。
それが今になってなぜその優秀な夫が事業に失敗したのか?
それは結婚した相手の妻の家系に家族にその家風とかが問題だったのかもしれない
夫で苦労するとか何かその家系と家族に問題があった。
それは知っていたことだが結婚した娘の相手はそうではなかったのである。
それが事業に失敗したことで妻の家系の影響を受けてそうなったのかとなる
夫がしっかりしていて大黒柱になっていれば問題なかった。
事業に失敗した結果夫は頼りない人になりその負担が妻とか同居する母とかにかかってきた。
必ず長男長女は何かその家系の家族のプラス面でありマイナス面であり一身に背負う運命にある。
自分が今や大黒柱といっても女性だったが家族をなくした結果全部自分一人で家族のことを背負う結果になったのである。
長男でない場合は長女が背負うことになる。長男長女はそういう宿命を背負っていたのである。


相手の家系の因縁を受けるというとき結婚がそれだけ単なる好きだ嫌いだというだけではない重みがある。家系の宿縁を背負わされるのが結婚にもなる。
それは悪いものだけでなくないいものを受け継ぐが悪いものも受け継ぐ
事業の失敗はその人個人の奢りがあったものだが結果的には妻の家系のマイナスの面を引き継いでその悪い面に同化したとなるのか?
家系というときその家が形作る運命的なものもあるが家風というのももあるだろう。
家風があわないから結婚しないとかもある、あまりに金持ちの家と貧乏人とかの家だとあわないこともあるしあわないことは職業でもあるだろう


その点江戸時代は同じ家風の人同士が結婚していたからうまくいっていたのではないか
侍は侍同士の結婚であり職人は職人同士で農民は農民同士とかが多いからである。
今は多種多様な人々が入り交じっているから家風でもわからないし思わぬことでそのずれが大きくなりやすいのである。だから離婚が三分の一と多くなったとも言える。
好き同士で結婚してもあとあと60になってからでもその家系の影響がでてくる怖さであるただその人が事業に手を出さなかったらこんなことにはならなかった。
恵まれたものとして老後もなっていた、それでも今は何かやと下流老人が増えているのだから別にこういう人はいくらでもいるからいちがいに家系とか家風とかから見ることもてきない
客観的に見た場合その人は知っているから家系の家風とかの影響を受けてそうなったのかと思った。
家のことはそれぞれ複雑でありわかりにくい、でも親戚関係だとやはり具体的に見えてくるから自分のこととも関係して被害を受けたから深刻になるから考える
その家系とか家族を傍観しているならいいができない、災いでも具体的に及んでくる
その事業のことなどわからなかったが今回は自分の家に自分にも被害となったから考えたのである。


ともかく小さな会社でも大きな会社でもいかに経営というのがずかしいかわかる。
東電がそうだったし旭化成でもあれだけの大企業がいくつもかかわってもそうだった。
事業というのは大会社でも経営するのがむずかしいのである。
ここにもやはり大会社だという奢りがあったことは確かである。
大会社だから安心だということで内部でも油断と奢りがあった。
何らか常に人間は奢るとき失敗に通じる、奢れるもの久しからずというのが常にあったからである。奢ること自体が危険になってくる。それは国単位でもそうである。
大きな国でも奢りから衰退してゆくこともある。
ただ人間には思わぬ落とし穴が常にある。津波もそうだし原発事故もそうだったしそういう大事故でなくても常に思わぬ落とし穴があり人生が狂ってしまう。
思わぬ落とし穴だからこそ予想がつかないからその穴に落ちるのである。
思わぬ幸福もあるにしろ思わぬ不幸もまた人間には多いのである。


ここ十年の介護や自分の病気などはそうだった。そこに思わぬ幸運というかそういうものあった。ただそれ以上に不運が不幸が大きくのしかかってきたのである。
結局自分の不運とか不幸は恵まれすぎたということにもあった。
恵まれすぎると苦難に対処できない、例えば美人の妻をもっても意外と苦難が来たとき役にたたないということがある。だから妻の良し悪しも見栄えだけからは判断できないのである。苦難に強い女性もいるからである。
人間は結局何が思わぬ落とし穴になるからわからないということである。
それに備えようにも備えられないということもあるのだ。
いくら金をためて備えてもそれが役立たないということもありうる、かえってその金が遺産争いのようにまた強盗のような人がきて奪われるとか殺されることにもなる
そういうことを自ら経験したから金は怖いとつくづく思った。
何か落とし穴になるかわからないというのは備えようがないということでもある。


家系とかの問題で何かその相談などで金をとるとか除霊とか先祖をなんとかとかで商売にするのは危険である。それなりにいいことを言っていても危険である。
宗教とかそうした相談にのる人は相手の弱さがあってそれに対して金をとる
弱いものに対してその弱さにつけこんで商売にするのは何か危険である
そこに何か人間性がそこなわれるし悪魔的にもなる
だから医者とか看護師とかでも常に病人を弱者を相手にしているから一歩間違えば悪魔的になる。
いらない薬でも金のために飲ませるとかいろいろある。弱者に対してはそういうことが簡単にできるからある。
宗教でもカルト団体などに頼るのも危険である。人間が弱者化するとき危険なのはその弱さにつけこんでくる人が必ずいるしそれが多いということである。
宗教などはむしろ生きのいい病人でもなんでもない健康な人を相手にすべきなのである。弱者になるときいくら金持ちでも必ず優位にたてる、自分もそういうふうに借金していた人から病気の時脅迫まがいのことをされたし現実に大金を失った。
そういうことは老人に対してやりやすいからそうなる。


ともかく相手の弱みにつけこんで脅したりするのは人間として最低ではないか?
でも相手も窮迫していたのだからそんなことを言っていられない
それは弱肉強食のまさに自然界とも同じだった。食うか食われるかの世界である。
飢えていれば子供とか弱ったものが先に獲物にしやすいから狙うのである。
そういう経験をしたから人間界も動物界と同じだったのである。
人間は弱者に対して本当に同情心がもてるのかということさえ思う
カルト宗教団体などでは同情心は全くない、ただ一つの政治団体として権力を得るために人を集めるためにある。
そうはいってもそういう底辺の人たちはどこにも頼る場がない、頼る人がいないからそういう場所でも安易に入ってゆく、だから生活保護関係とかそういうことを斡旋してくれる政党とかカルト宗教団体は必要悪として否定できないのである。


つまりそこに弱者の悲しさがある。
上級階級だとコネがあったりいろいろ得するが底辺層は保証人になってくれる人もいないなど常に不利になり損するからである。
そういうコネも得られないとなるとそういう政党でもカルト宗教団体でもなんでもかまわない頼れる所に頼るというのが庶民なのである。そこでは宗教など関係ない
何か得することがあるから入るのでありそれ以外何もない、コネとか金がない人はそういう場所に頼る他ないのである。
ただ人間は金があっても権力があっても弱者化することがまねがれない、必ず病気になり老人になり弱者化するからである。
「悲しむものは幸いである」という意味は何なのだろうか
それは悲しまない立場にある人はすでになんらか奢りにありこの世で得をしているが実はそのことは下々のものがいて苦労していてその人たちのおかげで悲しまない立場にある
だから上にたつ人はそういう弱者のことを考えねばならないだがほとんど無関心である
そして弱者になってみないと弱者の気持すらわからないことなのである。
だから上に立つ人は悲しまない立場にある人はある意味で天国に行けないというとき
かえって小さい人やそうしてこの世で悲しんだ人たちの方が天国にいたともなる。
この世であまりにも得する強者になっていること自体が罪なことだともなってしまうのである。


いづれにしろ家系の因縁はそれぞれの家族で違っているから複雑であり外から見てわかりにくい、家系というよりその人自身の人間性とかも関係しているからすべて家系の問題でもない、何かの犯罪であれこうした不幸であり必ずいろいろな要因が重なっているのである。家系もその一つであり家系がすべてとはならない
ただ家系も家風も確実に影響している、家系とか家族とかが形成する家風には癖がありそれも影響している
商家だったらやはり商家の家風を受け継いで成功することもある。
一からはじめると商売で成功するのはむずかしくなる


タグ:事業の失敗

2015年10月15日

「金の切れ目が縁の切れ目」「ただより高いものはない」「地獄の沙汰も金しだい」 (金でのことでも意志疎通できないから問題起きる)


「金の切れ目が縁の切れ目」「地獄の沙汰も金しだい」「ただより高いものはない」

 
(金でのことでも意志疎通できないから問題起きる)


今日もまた駆けずり回って疲れた。手押し車を一つ自転車に積んでリサイクルセンターまで行き投げた。リサイクルセンターは近いからできた。
自転車も他も一緒に処理しようとしたがそうなると車を頼まねばならない
タクシーに聞いたらなんかめんどうなことを言って頼めなかった。
知っている人がいるから頼めばいいのだが結局かえって礼しなければならないから高くつく、自分に対しては高く要求する
それから便利屋というのにも頼むことはできる、それも値段の問題になる。
つまり金の問題なのである。別にここで金にこだわったわけではない
何か自分でやれることはしてみたいと思った。
何でも金かけていることは良くないと思ったからだ。

実際車を頼まれた方も車は維持費がかかるものだから無料では誰もやってくれない
やってくれるとなると余程親しいか余裕のある人だろう。
車のない人は買い物などを頼むとき親しい人に2000円とか3000円で頼むようにしている人がいる。
これも車を維持するのは金がかかるからそうなる
それをどうこういうことはできない、
要するに車をもつことは金のかかることなのである。
だから車のない人はそれなりの負担しなければならないのは当然なのである。
何をあなたはいちいちそんなこと理屈を言っているのだとなる

ただどうしたら安くするかということを考えるとどうなるかということである。
親しい人に頼むと普通の倍以上とかとられる
自分はずっと金のことでいろいろ体験してきた。
今までは金のことも世間のこととも何もしていない
全部家の人がやってくれてきたからである。
金は実際は食費は三食付きであり本代とか旅行代とかその他にほとんど使っていないし
金持ちの息子とは違っていた。
ただ時間だけがふんだんに与えられていたのである。
だから自分が金持ちの気分はないし金はいつも不足していたのである。

そして自分は本当に世間知らずだった。世間知らずの方が良かったという面があった
これほど人間が醜いのか、これほど金しかない人になってしまったのかということを痛切に感じた。それだけ金に窮している人が今は多いということである。
ただ別にそういう人と直接交わらなければわからないのである。
最初に来た親戚の人は「おばちゃんは金あるんだから金にめんどうみてもらへ」と言って寝ていた母をどなりつけてきれた。
その人だけは金があまるくらいあり不思議に何か遺産が入る人だったのである。
金がなくてこう言ったのではない、病人とか介護にかかわりたくないから言った
別にその人とは付き合いがほとんどないのだからその人はかかわらなくてもなにかすることもないのである。
だから別に何も言わず来なくなればいいだけである。
でも今考えるとつくづく「金でめんどうみてもらへ」というのが現代だと思った。
金で何でも解決しろというのが現代の社会なのである。
介護でもそうだしもう何でもそうなのである。
この辺で原発避難者が仮設に住んでいるが補償金問題でもめていることを何度も書いた
これも結局どうなるのか「お前ら避難者は金を多くもらったの
だから「金でめんどうみてもらへ」と極端になればそうなる
「俺たちはもらっても少なかった」だから協力はしないとなる

金は人間を協力させるものとして働かない、離反させるものとなる。
そして金が万能でもない、でも万能化しているのである。
それで浪江の工場経営者が前の仲間に仕事を回してくれと頼んだらあなたは高額な補償金もらっているのだから仕事がなくてもいいだろうと言って断れたという。
これもちらっと本音をテレビでもらしたのである。
実際工場とかの経営者や牧場の経営者が大熊辺りで5億円もらったというのは本当だろう
その額が大きくなるのである。
そうなるとお前らは補償金でもう一生暮らせるんだから仕事などしなくていいだろうとなる
これも金をめぐる人間の問題であり今の社会の問題だった。

次は自分の家に「金をくれ」と入ってきた人である。それは冗談だと思っていたのであるそううい大胆な人だったからそう言って気にしなかった。
ざっくばらんな人だと思っていた。
実際この通りの人だった。自分が突然病気になったとき本当に家捜しされて大金を失ったその通りに実行したという驚きである。
そんな人いるのかという驚きである。
でもその人は金に窮していたのである。それほど金に窮していたのである。
金に余裕ある人は家の手伝いなどしない、たいがい問題ある人である。
だから金にまつわることで必ずというほど問題が起きやすいのである。
現代は金に困っている人が本当に多くなったのだろう。
下流老人とかフリーターとかシングルマザーとか日本人は貧乏になったのである。
格差社会のこともいろいろ言われる
金に余裕ある人は少ないのである。
もう切羽詰まっている人が多いのである。

もう一人の親戚はこの人は一級の資格をもっていたから金に余裕ある頭のいい人だと思い込んでいた。
この人は一番金に困っていた。もう金がなくて窮迫していた。
それが最初はわからなかった。家族の人もその時はわからなかったのだ。
多額の借金をして自分は事業の成功者だと装っていた、嘘ついていたのである。
この人はまずなんというかすべてのことについて金を要求してきた。
頭の中が金しかないのである。それだけもう金に追い詰められていたのである。
事業しているから一千万の機械を買ってくれとか最初言っていた、自分には成功した人だから何のことがわからなかった。
その事業のことも良くわからなかったのである。
ただいつも成功している金はいくらでも入ってくるようなことを言っていた。
別に深くつきあったわけではない、死んだ身内が深くつきあっただけである。
自分はほとんど何も関与していないのである。

その人は何するにも頭には金しかない、入院して手術をするとき保証人になるから
書類に書いてくれと言ったらなにかそれを非常に恩きせまがしくしていた。
その人はまず最初から何かしてもらいたいなら金を出してからにしてくれということを暗黙に要請していたのである。
一つの商売として自分に要求してきたのである。
自分が病気だということを何の考慮もしなかった
おそらく自分が弱い立場にあり苦しい立場になっているからかえって弱者になったから
要求しやすいわけである。
その人が若いときいい人だと仕事仲間が言っていたがそれは30年前とかのことである。
だから人間は変わるものである。同窓会でもみんな全く人間が変わってしまったというのが普通らしい、自分は一度も出ていない
その人は若いときはそうではなかった、事業に失敗してモラルも何も喪失していたのである。
頭の中が金しかなくなってしまった。
自分が頼んだことはたいしたことではない、でも手術の保証人というが大手術でもないし何の保証も要求されない、金には困っていないからである。それで負担をかけることなどなかったのである。
ただそういうことで自分に金を要求してきたのである。
なんか逆に今になると借金の連帯保証人にでも自分になってくれという感覚になった。
その人は切羽つまっていた。

結局みんな金で切羽詰まっていたのである。
もう今金が入らなければ強盗にでもなる他ないというほどまで極端化すれば切羽詰まっていた。
現実借金の形にブラックな所で働かざるを得ないのもそのためだった。
借金している人は本当に怖い、全くモラルがなくなり常に犯罪の動機になっている
借金自体がもうすでに犯罪者となることに限りなくなっている
だから借金のために犯罪になることがいかに多いか納得する
そんな人が病気のとききたのだから最悪だったのである。
自分にとってこれほど恐ろしいことはなかった。
相手はなんにも感じていない、自分の借金のことしか頭にない
借金している人はみんなそうである。

その人はもともと商売には向いていなかったのだろう。理系で技術のことだけしていれば会社に勤めていれば借金などしなくてすんだ
商売というときただそんなふうに病気の人に対してまで商売して金を要求することではないだろう。
損して得をしろとか相手のことを思って商売するということもあるだろう。
そういうことが全くない人であった。
まず自分が10をとる、そうしたら3か4をやる、絶対に10をまず与えて損なことをはじめからしないのである。「損して得をしろ」とは絶対にならない
そういうことを病人にしたのはかえって要求しやすいからそうなった。
商売相手としてはのみやすから要求してきたのである。
相手のことを全く考えないし考える余裕もなかったのである
そういう人が商売に成功するだろうか?
まず東北人は商売には向いていない、職人に向いているのは本当である。
自分も家で小商いしていても経験しているが全く向いていない、自分は何もしていない
商売に向いているのは関西の人である。
あんなに韓国まで行って買い物してねぎることができる
交渉がうまいのである。自分はかえってそれをまねして失敗した
中国人も商売上手である。それは近江商人とかの場所だっからDNAでそうもなっていた
東北人は農民であり商人のDNAに遺伝子にない、ただ伊達政宗は例外だったのである。

いづれにしろ現代は自分だけではない、金にはじまり金に終わっている社会である。
この辺で補償金でもめて分断されたのもそうである。
あらゆることが金にまつわるものとして問題が生じているのだ。
金がいいとか悪いとかではない、金がとにかく社会を人間を動かす社会である。
そんなこと昔もそうではなかったかといえば確かにそういうことはあった。

「金の切れ目が縁の切れ目」「ただより高いものはない」「地獄の沙汰も金しだい」

この諺を身をもって経験したからである。

現実にすべてこうして金にかかわって縁は切れたからである。
金しか要求しないものは金しかつながりがないものは縁は切れる
金でめんどうみてもらへ」と切れた人もそうである。
金でしかつながりがないからそうなる。
これは極端にしても極端なことにつくづく人間の真実がある。
本音が現れたところに人間の真実がある。
その本音の部分がマスコミできれいごとで隠されて言わないのである。

だから「心に青雲」とかネットで本音を語りやすいからわかりやすいとなる
難民をかわいそうだからと受け入れると国までのっとられるから受け入れるなというとき非情にも見えるが難民も必死であり相手のことをなど考慮する余裕がないからである。
どんどん要求だけしてくるしその責任を受け入れる側が負えるのかあとでまたそのことで国内でもめることになる
それはもう意思疎通できていない暴力的侵入である。
平和の時の移民は意志疎通して双方納得の上に移民を一応受け入れている
シリア難民はもうそんな意思疎通も何もない、相手は生きるか死ぬかの瀬戸際になると受け入れ側のことなど考えられないのである。
でも受け入れる方でも何か必ず慈善でもかわいそうだ思っても難民を受け入れる側でも責任が課せられるからそうなる。
捨てられた猫をかわいそうだとエサをやることでもそうである。
そうなると必ず野良猫が増えて回りに迷惑になるとかなりエサやりを禁止した市もあったそれも難民ともにているのである。
かわいそうならお前がめんどうみろとかなる。そうなると責任が課せられるから嫌だとなる
ともかく金にまつわる諺がこれほど身にしみたことはない
それは今も昔も同じ問題としてあったからそうなる
そうなると人間の世の中が今が特別そうではなく金というものはそういうものだとなる
ただ自分が世間というものがどういうものか社会とかかわらないからわからなかったのである。
そしてむしろ社会とかかわらなければこうした醜い人間のことを知らないから人間はみんないい人だと思ってしまっていたのである。
子供は人間の醜い面を知らない、知ることができないから幸せだった。
自分はカルト教団で学生のときかかわって以来ほとんど社会とかかわらない隠者だったからそうなった。
そこで反発したのがなぜそれほどまでに権力を宗教なのに追及するのかということ出てあった。それはまた金を追及していることでもあったのだ。

世間でもまれた人はこんなことは人間の醜い面は嫌というほど現実社会で経験している。なぜならビジネスではまさに常に金のやりとりだから金にまつわり人間の醜い面を嫌というほど経験しているからそうなる
「金とは何か」と考えるときこういう現実から金のことを考えねばならないのである。
金の最大の問題は金のために心まで売り渡す悪魔に売り渡していることなのだ。
それは政党でも組織でも団体でも会社でも東電でもそうだった
マスコミもそうであり金によってモラルを喪失してしまう。
弁護士でも認知症の後見人になった人がキャバクラで遊ぶために金を使ったとか
まさに具体的にこの事件などはわかりやすい
他ではなかなかこうしたことは隠されているからわからないのである。
金がなくてもいいとか金が悪いとかではない、金によって人間の心があやつられることなのである。
ではそうさせられないためにはどうするかということを考えねばならない
金が必要でも金に支配され心まで売り渡すようにならないためにはどうするかとなる
このことが現実社会では至難だから常に事件でも起きてくるのである。
まず欲をある程度はおさえないと金に心まで支配される
そのある程度は問題だけどやはり欲をおさえないと心も支配される
別に事業に失敗しても成功を装い借金する必要はない、でも見栄とか世間体とかいろいろあってそうなりモラルが喪失してゆく、それが一番怖いのだけどそういうものより金の魅力が大きいからみんな悪魔に金を通して心を売り渡しているのである。

意志疎通できない社会のことを書いたけど金でもそうである。
「金をくれ」とか家に入ってきていうことをそのまま実行する
そこに意志疎通がない、ともかく金が欲しいから金をよこせ、よこさなければ奪うまでだとなる
ところが

「私はこういう事情で金が必要なんです、、、、金を貸してください」
「そうですが、あなたの事情はわかりました、嘘ではないようです、考えてみましょう」

とかなる
金を貸さない方がいいというがやはり一応聞いてみるし離してみる、そこで互いの意志疎通があり了解して金を貸すなりなんなり対処する
それが一方的に金を出せばいいんだとあとは関係ないとなるとき強盗のようになってしまう。
意志疎通がないとき必ず人間は問題が起きる
金の問題でも双方で何かしら意志疎通が必要なのである。
江戸時代あたりになると狭い範囲で親密に暮らしていると日頃から意志疎通ができていたただその狭い範囲内、村の内とかであり村から離れると意志疎通ができないから隣村から来た麦つきの若者が大蛇だったとかなる
江戸時代には見知らぬ他者と交わらないことが多いが外部に村の外になると意志疎通ができないことが問題だったけど狭い範囲で暮らしていたから問題が起きにくかった。
今は膨大な見知らぬ他者は接する時代である。
だからあらゆるところで意志疎通ができないのである。
ニュースでもマスコミから流される情報はほんの一部だけどそこが拡大化されて報道される、そこに必ず誤解が生まれる、そういうことは現代で日常的に起きているのだ。
金が暴力的に働くのは意志疎通の問題がある。
金さえもらえばいい、金を出せ、理由はない、金を出さないなら殺すとなるとき強盗になり意志疎通が全くない状態でそうなる
だからテレビから流される情報は一方的であり誤解が非常に多いのである。
金は何かというとき互いに意志疎通させるものその媒介をするものとしてもある
一つのメデアでもある。それがかえって意志疎通をはばむものとなっている
「お前はなぜそんなに金をもっているんだ、俺は全くないんだ、働いても働いても金がたまらないんだ」
「自分はその金で贅沢などしていない、この金は親が苦労して自分に残したものだ
自分は親を介護したし今も介護している、そのためにも金を使っているし学問のためにも金を使っている、別に贅沢しているわけではない、、、、」
「そんなことしるかよ、俺に金がなくお前に金があること自体が不公平なんだよ」
「そうはいってもあなたにも何か金にならない、貧乏な原因があるんじゃないかな」

なんかこんなことでも金について話し合えば意志疎通ができてくる
それが全くないとき強盗になり殺人になるのである。
問答無用となるのではない民主主義とは互いの意思疎通のことである。それが基本にある。
いろいろ不満があってもともかく相手と話して相手を理解して意思疎通する
そこにはどんなことしても公平はないし不満が残るし犠牲もでる
でも暴力になるよりは殺し合いになるよりはいいという制度なのである。


タグ:金の諺

2015年10月14日

人間は意志疎通できないとどうなるか (暴力的解決になるー武力、金、技術(科学)は暴力となる)


人間は意志疎通できないとどうなるか

 
(暴力的解決になるー武力、金、技術(科学)は暴力となる)


猫とは言葉が通じない、だから猫をしつけることが嫌になる。排泄をどこでもするとかかってに台所のものを食べるとか嫌になるからはたいたりする
それは言葉が通じないからしつけできないから暴力でしつける
それは子供でも同じだろう、しつけようとしても言葉できなければ暴力的になる
人間が言葉をもったのは意志疎通するためである。でなければ行動で意志疎通させねばならなくなる。
意志疎通ができなくなるとき暴力的な解決になる。
それは個々人の間でも常に起きている、俺の言うことがわかんねえのか、と叩いたり度を越すと激しい暴力として爆発して殺人になっていることは毎日の報道できりがなく起こっている。
互いに意志疎通ができないとき暴力になり力の強いものが言うことを聞かせる服従させるとなる。
国と国の戦争でも互いに意志疎通ができない、だから暴力で解決することになり強い方が弱い方を服従させるとなる。
それでも強い方が正しいということはない、アメリカがすべて正しいとはなっていない
ただ強いから服従させることができたということになる。

明治維新でも佐幕派が勤皇派が正しいのかなになのか混沌としてわからなくなった。
結局は最後は暴力で武力で解決したのである。それは毛沢東は革命は銃口から生まれというのもそうである。共産革命も暴力で成されたのである。
それが正しいとかではない、暴力で革命が正しいとされただけである。
だから中国でも権力を手中にしてからは腐敗したのである。
民主主義はそうした暴力で解決するのではなく平和的手段で解決するために投票という手段を採用した。た暴力は人が死ぬのだからそれよりはいいとなる。
民主主義は最善ではなく最悪をさけるために生まれた制度であるからこれも政治的なものとして不満が大きいのである。
でも暴力革命よりはいいから採用された。そうなると別にどんな団体でも選挙で力をもつことは権力を得ることは許される制度だとなる
共産党でも創価でも武力も辞さず権力を得る武闘派的団体だった。
でも民主主義になり平和革命と無血革命で権力を得ることを目指すようになったのである
ただ暴力というとき今でも武力は最後のやむをえぬものとして実行される。
しかし現代の暴力は武力だけではない、別なものに変わったのである。
暴力的なものとは数の暴力というとき民主主義は数さえ集めればそれが正義となり権力となる。
すると権力をとるために革命でも数を集めることだとなりカルト宗教団体ならともかく頭数を集めることか革命だとなる。宗教もその一つの手段となった。
数はもはや暴力である。どんなに正しいことを言っても一票の力しかもちえないから社会では相手にしない、ところがカルト宗教団体でも創価でもなんでも信者の数で社会に影響するから数が暴力的なものとして社会で働く、そしてこの暴力的な数によってマスコミも支配される、マスコミはテレビでも視聴率がないと広告費も入らないからいかに多くの人にみられるかが最大の問題になる。
だからそうした団体を批判したりはどこもしないのである。
民主主義は数で決まる。南相馬市でも三〇キロ圏外は補償金が少なかった。もらったのはもらったけど少なかった。もちろん全くもらえない方が多かったから不満が広い範囲になった。
南相馬市の場合は市長選挙でも小高区と原町区に補償金を多く与えれば票は原町区が五万とかの人口があったのだから原町に恩恵があればそれで市長は当選できたとなる。
だから合併して損したのは鹿島区だとなってしまった。
これも民主主義はともかく数で何でも決まるかである。
若者が不満でも老人票が多いから老人に有利な政策になり結果的に若者は老人のために苦労するだけだと不満が大きくなる。
民主主義は武力とかではない、数で決まるから数が暴力の代わりになるからである。
それで不満を言ってもそういう制度なのだからどうにもならない、他にいい制度があるのかというとなかなかないだろう。

ただ民主主義は選挙だけではない、報道の自由とか言論の自由とか方の法律によって決まるとかいろいろある。法律が大事なのはそれも意志疎通の問題なのである。
常に争いが起きたとき武力で解決していたら個々人でも暴力で解決していたら平和保てない、だから明治維新後は仇討ちは禁止された。
法律にのっとて平和的に成されるのであり暴力は禁止されたのである。
それでも不満だった武士は家族を無惨に殺された侍は暴力で復讐したということがあった法律だけでは納得できないことは今でもあり暴力で復讐する人はいる。
なぜなら法律は絶対に公平なものでもない、それも暴力をさけるために最悪にならないものとして民主主義の制度の中で作られたものである。
この世に最善となる社会などありえないからである。
法律も万能でもないし民主主義も万能でもありえない、ただ暴力、武力にならないための最悪をさけるものとしてあるだけである。
だから国同士では国際法などは通用しない、結局国同士になると暴力が戦争で優劣を決めるだけだとなる。どっちが正義ということはない、太平洋戦争でもアメリカが別に正義というわけではない、ただ強いものが弱いものを服従させたというだけなのである。
日本には日本の義があったともなる。
それは世界紛争とは今でもそういうものでありどっちにも義があり強い方にすべて義があるわけでもない、世界紛争になると法律は通用しないから未だに武力で解決しているのである。

暴力というとき何か武器とか武力をイメージするが現代では別なものに変わった。
武力は金に代わり技術力科学に代行される、技術でも今は巨大であり森林でもどこでも機械で破壊してしまう、機械が暴力的であり科学もそうである。科学技術力は自然と人間が意志疎通させることしない、何か自然のリズムのように徐々に変えるということもしない、急速に科学技術力げ自然を破壊して変えてしまうのも暴力的なのである。
原発でもそうである。それは恐るべき自然を破壊し汚染する暴力装置だったのである。
この技術力も制御することができない、すると自然は破壊され人も住めなくなった。
科学技術力が自然であれ社会であれ暴力的に働いたからである。
そして現代のグローバル社会で最も暴力的なものが金になっている。
グローバル資本主義では金が最も暴力的なものとして力をふるっている。
金によって世界は支配できる、その金を支配しているのが世界の金であるドルだとなりアメリカが世界の支配者となる。

金の力がグローバルに働くからそうなる,巨額の金が株式市場で動く,それで株で何百億をもうけたとかとなると金の暴力的なものとしてグローバルに働いている。
国でも個々人でも世界的にもはや金の支配から逃れることができない、だから不思議だったのはシリアにはロスチャイルド系の銀行がなくIMFがなかったということである。
それはアメリカに支配されないためにそうなっていたとなる
金でも百億円株でせうけて俺はもっているとなるとそれが暴利となり暴力的になる。
その金で何でも買えるとかなり金に魅せられたら悪魔的にもなるだろう。
新聞社でもテレビ局でも何でも金で買えるとなる。現実社会では金で買えないものはないとまでなっている。
民主主義でも票でも金で買えるともなる。そうなると金の力がすべてを決定するとまでなる。
金は武力とちがって武器でもないから外に現れにくい、でも武器を買うためには金が必要であり戦争には必ず金がかかわっている。それで金で戦争させるとなると金が実際は暴力になる。

東電が安全神話を作り得たのは金の力でもあった。国家並みの金をもっていたのである。
グローバル資本主義は暴力的なものとして機能する。それは金が世界を支配するからである。金にもの言わせる、金に従わせるとなる。金で心を買うということにもなる。
その力がグローバル社会になったとき資本主義になったとき有効になる。
だからグローバル経済というものが果たして人間にとっていいものかどうかは疑問になる金によってすべてが支配されるより金では支配されないということもまた人間社会には必要である。
金の力がグローバルに力をもつと人間的なものを逸脱してしまうのである。
それで人間の経済とかが志向されることにもなったのである。
それが金がすべての価値基準でない社会がかつてあったからである。
現代は確かに露骨な暴力は否定されるがそれに代わるものが暴力的に働いている
人間的経済のようにそこには互いに意志疎通させるものではない
ただ一方的に金の力で支配されてしまうのである。

民主主義とは根幹お思想はいろいろあるけどともかく武力に暴力ではなく話し合いで意志疎通して平和裡にもめごとを対立を解消しようとすることが根底にある。
だからここにも不満がある完全なものではない、でも暴力になったらあまりにもどこでも悲惨なのである。戦争でどれだけ死んだか?それは国同士の争いになると暴力しかないからである。国際法なども通用しないから力が強いものが決めるとなってしまうからであるともかくこの社会は絶対に公平にはなりえない、個々でもそうであり国と国でもそうである。
それは神しかできないことである。

主は地をさばくために来られるからである。主は義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれる。

あなたがた力ある者よ、まことにあなたがたは正しい事を語り、公平をもって人の子らをさばくのか。

アメリカが力あるものだけど公平をもってさばけるのかとなるとならない、日本の敗戦はアメリカの力によるものでありそれで
公平にさばかれたかとなるとならないのである

永遠の平和は神によらなければこない、その時は一端この世が滅びるときなのである。
民主主義とは何かというとき話し合いであり議論でもそうである。
武力ではなく暴力ではないことで意志疎通させて解決させようとする制度である。
そこには不満がある、仇討ちでも私的復讐を許したらそれはまた復讐された方が恨みつづけて怨念の連鎖をとめられないのである。それは子供にまた負担をかけることなのである国同士の戦争となると正義などどこの国にもない、それは今のシリアの混乱をみれば一体何で争っているのかもわからないのである。
それは太平洋戦争でも起きていたのである。中国の内乱がありロシアも加わり大国の思惑のなかでシリアが犠牲になり難民化したのである。

2015年10月13日

社会全般に意志疎通ができなくなった時代 (トータルに考えられない社会ー郷土史はトータルな学問である)


社会全般に意志疎通ができなくなった時代

(トータルに考えられない社会ー郷土史はトータルな学問である)


意思疎通というとき互いに何事かの共通認識である。それができなくなったのは明治維新後である。西欧化した結果として江戸時代からつづいた共通認識は失われた。
だから明治維新の混乱は今でもつづいている。
民主主義という言葉一つとってもそれを理解することが非常にむずかしい、西欧文明が入ってきたとき日本人は漢字でそれを訳した。
それは新しく造語した努力がある。権利とはRIGHTだけど英語だったら正義ということになる。権利は何かしら正義があって権利が要求できる。
それで権利は権理だったのである。この方が役として良かった。権利となると利の方に重点が置かれらである。
ともかく西欧文明の概念自体を日本語で訳すことは至難であった。
今でも本当はその概念を理解していない、それは仏教でも中国の文化でも取り入れたときその概念を理解することはむずかしかった
日本語には仏教用語もあり中国文化の漢字によって多彩なものになった。
それにまた英語が加わって言語が重層的になったということはそれだけ日本語は世界の文明文化を取り入れた言葉なのである。
それは大和言葉だけでは取り入れることができず漢字で取り入れたのである。
意思疎通するというときまさに言語の面でもそうだった。外国人と意思疎通するというときも言語が中心となっていたからである。
他国の文化を理解するときどうしても言語がわからないと根本的に理解できないからである。
意思疎通というときそれは明治維新から近代化したときあらゆる面で起きてきたのである江戸時代は日本人が日本的環境と生活の中で意思疎通できていた時代である。

なぜなら基本的にはその土地土地で狭い範囲で生活していたから共通認識ができやすい社会だったのである。
そして時間軸で考えると江戸時代は親の仕事を受け継ぐことが多いから世代間の分離もない社会である。
つまり侍は侍になり農民は農民になり職人ば職人になると親の仕事を受け継ぐから世代間の分離がない、職人でも十代以上もつづくとかそれだけ変わらない社会が基盤としてあった。それが可能なのは社会が江戸時代はあまり変化しないことだったのである。
現代ではもう二代でも仕事は継続されない、めまぐるしく変わってゆくからである。
すると当然世代間の分離が起きてくる。親の仕事を受け継がないのだから親との分離が精神的にも物質的にも起きてくる。
また大家族だったのは農業でもそもそも大家族でしていたからである。
すると家族が会社になっているようなものである。家内工業でもある。
それが土地と結びついているから土地と一体化して分離しないのである。
現代の特徴は何か、それはあらゆることで分離されてしまうことなのである。
家族でも大家族から核家族へ、世代間でも親は親、子は子となり所帯も分離してゆく
仕事もみんな別々であり分離してゆく、そして単身所帯が膨大に増えてゆく
次の世代に継承されないということが書いたがそれは社会の構造が変わりすぎたからである。それは江戸時代と比べると明確になるのである。

意思疎通ができないというときそれは家族内だけではない、家族の世代間でもそうであり故郷という場を共有するものでも意思疎通できにくいのである。
なぜ原発事故で故郷も失い、家族でも簡単に分離したのか?それを探求してきたがそれが原発事故だけに由来するのではない、そもそも家族も故郷も土に根ざした農民社会ではない、みんな会社員である、そしたらその土地に執着する生き方とは違ったものとなる
人間はふでに故郷という土地から分離していたのである。
だから原発事故が契機となっただけでその前からそういう状態にあったから家族も解体して故郷も喪失して分離したとなる。
別に金がもらえるからどこに住んでもいいという状態になっていたのである。
その土地にこだわっているのは農民くらいだとなっていたのである。
それで親が農業の跡など継ぐなとその子供を殴ったというから驚く、それだけ農業は現代では割に合わないものとなっていた。
その人は原発でも働き全国の工事現場で働いた人だった。そして七町あった田んぼはもうないという。

別に人間は意思疎通できないということは常にあった。江戸時代でも職業が違うと神秘的なものになっていたのはそのためである。木地師とか産鉄族は神秘化されるのはその仕事が理解しにくかいらそうなる。
そして江戸時代で意志疎通がしにくいのは空間的なものである。隣の村同士すら空間的に離れていると意志疎通できなくなる、それで隣から麦つきに来た若者が大蛇だったとかなる。何かそうした天狗だとか河童だとか動物とかの妖怪伝説になるのはその人と意志疎通できないからそうなる。明治維新では外人が天狗になったり火山の爆発を起こしたとかまで押しつけられている。そういう異形のものとされるのは意志疎通ができないからであるそういう意志疎通できないことが社会全般に家族でも故郷でも起きているのが現代である原発事故でもそもそも東電の社員のことを原発を放射線のことを知ることなどあっても理解できない、そのことからすでに意志疎通できないものとなっていた。
現代ではそうして意志疎通できないことから様々な問題が起きてくる。
もし意志疎通できていたら原発事故も起こらないしそんな危険なものを土地の人が賛成しないのである。

現代はあらゆることで意志疎通できない社会である。職業も複雑であり無数にありどういう役割をしているのかどんなことをしているのかもわからない、それぞれの職業で意志疎通できない、江戸時代だから家内工業で何でもその土地に根付いてその延長に仕事があり意志疎通できた。今は職業が無数にあり高度に専門家してできない
例えば弁護士がいたとしても医者でも専門用語を使われるともう意志疎通できない、
もちろん放射線のことを言われたら何も意志疎通できない、お前ら素人は何もわからないから何も言うなで終わりなのである。
そうすると専門家の言うなりになり事故も今回のような原発事故も起きてくる。
そもそもそれは政治家でもマスコミでも原発のことなどわからないから金になるからいいというくらいの認識しかもてない、政治家とかマスコミは文系が多いということもある。放射線のことなどわからないのである。ここでも意志疎通ができない、理系と文系では意志疎通ができない、ノーベル賞でニュートリノが中性子がどうのうこうのと言っても理解できるのはまれだろう。科学者と素人は意志疎通できない
それは化学が錬金術からはじまったことでもわかる、何か怪しいことをしている、不気味だとされていたことでもわかる。
その時も一般の人と化学を科学を扱う人は意志疎通できないからそうなっていった。

グローバル社会になるとますます一見物が自由に入ってきて世界が理解できるように思えるけど実際は物が入っているだけであり世界のことを外国人を理解しているわけではない外国人と意志疎通できているかとなるとできない、そしてますます人間は互いに意志疎通できないものとなり他者との共通認識をもつことができなくなる
現実に身近なことでも例えば銀行とは何なのか理解できますか?
何かこの銀行を理解することは本当にむずかしい、銀行は何をしている所なのかわかりにくいのである。ましてや株でもあれ世界経済のことを理解できるのかとなるとできない
江戸時代だったら確かに理解できないもの意志疎通できないものがあったが今の時代とはレベルが違う、現代はますます他者と意志疎通できなくなる時代である。
未来もますます社会は分化してパーツ化して互いに意志疎通ができなくなる
ともかく社会をトータルに理解できないのが現代である。

郷土史は実際はトータルな学問だった。その範囲はあらゆるものに及んでいたのである。だからとても一人でできるものではなかった。地理学であり地質学も科学も関係していたしあらゆる学問が関係するトータルなものだった。
細分化した学問が郷土史ではない、それは自然と人間と全般にかかわるものだったのである。
だからそれを自分なりに追及してきた。郷土史とは人間復活再生の学問である。
なぜならそれは自然と土地とか社会と歴史とかトータルに探求するものだからである。
文化がculture(耕す)というときまさにそうだった。文化の再興は郷土史にあった。
郷土史は全般的なものだから芸術もその中に入る。
しかし今はなぜ文化がないかというと自然に根ざしたアイディンティティが欠落した社会だからである。
つまり詩語が喪失したというときそれを一番物語っていたのである。
経済用語、科学用語、法律用語、、、、しか言葉は使われない、詩語を使う人は異形のものとなりアウトサイダーとなってしまうのである。
自分も山とか石とか樹とか自分の住んでいる土地からも主に追及してきたがそれは理解されない、都会の人に石を理解することはむずかしい。
ただ材料としての石を理解することはできなるが文化としての石を理解することはむずかしい

そもそも田舎と都会人でも意志疎通はできなくなっているのだ。
ビルに囲まれて暮らしている人とはもはや自然のことはわからない、詩語はそこで死んでいてただ数字化した言葉を使っているだけなのである。
それはシュペングラーやニーチェや上野霄里氏などが指摘してきたことである。
アウトサイダー化してゆくのはもうそうした個人でしか一つのトータルな世界観を価値観をもちえない、作りえないからそうなったしまった。
マスコミは大衆の価値観でありそこから真実の価値観は作りえない、だからマスコミに紹介されたり有名なにる人は大衆的価値観の浅薄な人たちである。
新しい文化を創造することはマスコミではできない、大衆はもはや文化を創造できない
大衆と民衆は違う、民衆は文化を作っていたが大衆は作らないからである。
それで文化創造を目指すものはアウトサイダー化するのである。
そしてその人はまさに天狗とか河童とか山姥とか異様なものとされてこれまた大衆とは意志疎通できないものとなる。
まず言葉が通じない、詩語が理解できないからそうなる。
言葉が意志疎通の基礎にあるときその言葉時代が存在感を失っているのはその基盤となるコミニュティとか自然が失われているからである。
それで田舎人と都会人は意志疎通できない、では田舎人が意志疎通できているかとなるとできない、第一次産業に従事しているのは一割にもみたないからである。
その土地に根ざして生きているのではいなやはり会社員がほとんどだからである。
田舎でも隣は何をする人ぞとなってしまっているのである。


タグ:分離る人間

2015年09月10日

記憶したものが人生となる (人間の脳の大事な機能は記憶すること-罪も記憶され消えない)


記憶したものが人生となる

(人間の脳の大事な機能は記憶すること−罪も記憶され消えない)


人間の快楽を追及するのは性だけではない、様々なもので快楽を追及する、食でもそうだし誰も苦になるもの不快なことはさけるのである
それは人間の本能である。人間の本能は快を求めるようにできている。
人間の不思議は一旦快を覚えると脳に記憶される
そしてまた快を求めるようになる。
だから麻薬であれ酒であれ快を覚えるからやめられなくなる、中毒になる。
この中毒をとめることがむずかしいのは節制とか禁欲がむずかしいのはそれが本能だからである。
苦行など誰もしたくないのである。欲望を否定することは誰もできない
人間の欲望は性だけではない、様々な欲望があり否定できない
人間の欲望をおさえることができればこの世は楽園になるだろう。
あらゆる問題が人間の欲望とかかわっているからだ
子供はまだそうしした大人のような様々な欲望がないから純真でいられる
それでも子供で快を求めていている、一度うまいものをたべるとまた食べたくなる
何か人間はうまいということを脳で感じて記憶される
そして一旦覚えた快はまた味わいたいとなる
性は最も強い快だからあくことなく求めてきた、老人になっても脳がその快楽を記憶しているから求めているのである。
体ではなく脳の快の記憶が求めているのである。

脳には体の神経のすべてが集まる、体にはりめぐらされた無数の神経が脳で感じる
風が涼しいとか冷たいとか感じるのは体の神経であり脳が記憶する
それは生まれたときから風を感じているし夏には涼しい風を感じている
だから涼しい風をまた感じようとしている
もし神経だけで感じていたら脳に記憶されなかったら涼しい風を求めないだろう。
認知症になると涼しいとか寒いとか暑いとかの感覚がなくなっていた
それは脳が麻痺してそうなっていたのである。
寒いところでも薄着で外出していたから脳が感じなくなったということである。
そのことは何らか危険な状態にもなっていた。
認知症の人が寒さも暑さを感じないということ外でそのまま凍死したりすることになる
寒いということを感じなければ外にいつまでもいるとなるからだ。

人間の能力意外と大事なのは脳で様々なものを記憶されるからではないか?
人間の一生も終わりになる何を記憶したかが生きた証拠のうよになってしまう。
老人が何度も何度も過去を語るのはその記憶が生きた証だからである。
自分の姉は従軍看護婦としてシンガポールに四年間とかいて辛酸をなめた。
そのことがどうしても忘れられないから死の直前までそのことを語りつづけていたし
認知症になると同じことを百回とか千回も言う、前言ったのを忘れていることもある。
ただ人間は一番人生で印象に残ったことを語りつづけるのである。
つまり記憶されないものはないものと同然になってしまわないか?

40年前とかにともに過ごしたとしてもその人のことは忘れてしまう。
認知症になると息子や娘でも「あなたは誰ですか」とかなるともうその人自体が記憶にないということは存在しなくなることである。
人間にとって記憶が記録などでも意外と大事なのは人間は何でも忘れやすい、40年とか過ぎる何でも忘れてしまうのである。
そしてこの辺で避難区域になり村や町に人が住まなくなった所がある
例えば飯館村には人が住まなくても家が残っている
すると錯覚していたのは家があるから人がいると思っていたのである。
つまり家というのは一つの記憶として形あるものとして残っていたからそう思ったのである。

一方で全くこの辺では磯部とか海老と烏崎村では家もなにもない、全く何もなくなった。残ったのは土台だけでありそうなると何も記憶するものがなくなった。
それは本宇とに空恐ろしいことだった。
そこには幽霊すら住んでいないとまでなる
まだ山の村の幽霊屋敷とか童話にしたけどあそこにはまだ人が住んでいるという気配が残っていたからそんな物語も書けた
しかし磯部とか海老とか烏崎とか他でも津波の恐ろしいのは記憶させるものがなにもなくなっていたことなのである。
幽霊すらそこには住んでいないという恐ろしさだった。
廃屋でもそこには人の気配が以前としてあるが津波で壊滅した村には何も記憶を呼び出すものがないのである。
村の歴史でも何でも避難して人が住まなくなればその記憶が失われることなのだ。
そうするともうその村の存在すら消えてしまう。
古い碑とか墓とか地蔵とか神社とか祠は何かその村の歴史を記憶を維持しているものでありそれも村人が消えればその記憶もやがては埋もれてしまうのである。

記憶と記録はまた違っている。記録になくても記憶に残ることはある。記録は文書とか何か形あるものであるが記憶が何かまた形にならないものである。
家族があるとするとそれは愛情でもって成り立つのでありその愛情というのは記録されない、記憶されても記録はされないとなる
だからすべてが記録されることはできない、記録という点では機械がコンピューターの方が優れている
最近近くのスーバーでレジを機械化した。これが意外と便利なのである。
お釣りを十円のこしていたとすると機械が教えてくれる
そこでは金を払ったとか払わないとかのミスがなくなる
確実にいくら入っていくらお釣りを出したということが記録されお釣りが残っていたら警告して教えてくれるからこれなら人間のミスはなくせる
つまり記録する点では機械の方が優れているのである。
デジカメでも次々に旅行した現場をとっていってあとでそれを記録したものからふりかえることができる。

でもそうして記録しないと人間の思い出すことは限られていてあらゆるものを思い出すことができなくなる
こういうことは歴史でも資料があればそこから過去をたどることができるからにたものはある。
ただ記憶と記録は違っている。人間はあらゆることを記録できないが記録したものの意味と価値を与えるのは人間にしかできないのである。
自分は膨大なものをプログとかに書いているけど自分の書いたものを読んでいてこれが自分が書いたものかと不思議になる。
自分の書いたものすら忘れていたのである。だから記録することは人間にとって大事だともなる。記録したものから過去を読み解く作業ができるからである。

老人が若者より優れていることがあるのは人生で記憶したことが多いからである。
一時代でも生きているとその長さから時代をみることができる
若い人はそれができない、これから記憶することになるからである。
戦前から生きている人はやはり記憶しているのものがあるから違った見方ができる
ともかく脳の機能で大事なのは記憶していることである。
記録したものはまだ別であり記憶したものがその人間を作っている
記憶はまた消えやすいのだけど若いときのことなどの記憶は消えないことがある
若いときの奔放な無謀な欲にまかせた行動などの記憶がよみがえり消えない
なんであんなことしたんだろうとか後悔しても消えないことが怖いのである。
悪い記憶も消えないのである。罪として記憶される刻印されているということも怖いことである。
それは別に警察につかまるとかではない、脳に心に記憶されたことなのである。
悪行は明らかに脳に心に記憶される刻印されるから怖いのである。
カインのように額に徴しをつけられたということもそのことを言っていたのである。

若いときはそういうことを考えない、欲望のおもむくままに生きるし老人になってどうだこうだなど考えないのである。
だから推理ドラマのテーマは必ず若きの到りとか若いときた悪行が老人になって暴かれるとかがテーマになる。
それはたいがい若い時はそういうことが多いからテーマになる
それがのちのちまでも老人になっても影響しているのである。

「耄碌した好色家は接吻することができないのになお接吻したがり少しでも味わいたいと思うのです」チョーサーーカンタベリー物語

これは脳科学から考えれば一度覚えた快は忘れられないのである。
だからうまいものの味を覚えたらまた食べてみたいとなる。
嗜好品というのはそういうものである。
そういう脳に記憶された快の記憶は肉体が衰えても消えないのである。
自分の場合は何か体力もないし欲望も強くないからそうした罪からはまねがれた
それでも罪は犯している
でも優秀な体力ある人間は大きな罪を犯す、この世で大きなことを成す人間はまたそれだけ欲望が強いともなるのである。

聖ペルナルドゥスはこうおしっています「人はこの世で自分に与えられたいっさいのもについて決算を提出せねばならぬ、それらのものをいかに費やしたかを報告せねばならぬ、それであるからほんのとうはつ毛一筋を失ってもまた生涯のうちのほんの一瞬を時を失ってもそれについて計算を提出しなければならないのである」
チョーサーーカンタベリー物語

人間は老人になったらすべての決算を否応なく決算を強いられる。
それはカルマもそうであり様々なカルマを人は積んできた、だからカルマの清算を強いられる

なぜ自分に起きた苦難はカルマだったのである。
なぜなら60年間も母は自分のために食事を用意してくれた。それのカルマ返すことを要求されている。毎日ともかく食事を出し続けねばならなくなったのである。
そして人はカルマがあるが恩があったら必ず返さねばならない、それを怠るととうなるのか?
さらなるカルマが重なりもう返せなくなり破綻することにもなる
その人は恩など何も感じない、それは親の代とも関係している
親の代のカルマは二代くらいはつづいているのである。
その人は全くのそのことも意識していない、だからまたカルマを積んで窮地に追い込まれたりする、恩とかは明らかにカルマなのである。
それを無視したりするとさらなるカルマが負わされることになる
親との関係もまた恩でありそれは返さねばならない、親は愛情があるからだとかにならない、やはり恩というのは返すことが強いられるのである。
それをしないものは親子ではなくなるし親子の縁も実際はきれるのである。

ともかくたいがいの人はは「俺は悪いことはしなかった」とか自分に威張って言う
ところがそれを自分に威張って言うことではない、神に向かってそういえばいいのであるそんなことを自分に言われてもそうですかと言えないだろう。
人に悪くした人は最後に必ず後悔する
継母だった人は最後に「悪かったな」と言って盲目になり苦しんで死んだ。
ただ最後に頼るものもなくなり継母にいじめられた母が後始末をしたからである。
別に優しくしていればそんなことはなかったのである。

生涯のうちのほんの一瞬を時を失ってもそれについて計算を提出しなければならないのである

これは老人になればわかる。いかに時間が大事でありそこで記憶するものかが大事であるかを言っている。
この世の時間はたちまち過ぎる、その時間を何に使うかは最後に問われるのである。
つまりいかに時間を無駄にしているか、時間を失ってはじめてわかる。
故郷を失ってはじめて故郷の大事さが価値がわかる。
愛する人を失ってはじめてその人の大事さがわかったとか人間の弱点は失ってみないとわからないことなのである。
何かありふれたものでも実は尊い価値あるものだったとかは失った時わかるのである。
だから人間は結局みんな老人になって後悔しない人はいないのである。
特に時間の大事さがわからないのが人間の最大の弱点だったのである。





タグ:脳と記憶

2015年07月19日

男性的なものと女性的なものの探求 (岩と甘い声(詩)


男性的なものと女性的なものの探求

( 岩と甘い声(詩)


岩と甘い声

a rock and sweet gentle voices

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その女性の声は甘くやさしく
我が心にひびき癒される
大輪の花のように
悪びれることなく
馥郁と香りを放つ
その声は若々しく
新緑が風にそよぐように
その中に小鳥は伸びやかに
さえづりは森にひびきわたる
その余韻は森に木霊する
一方一つの古びた岩は
冬の寒さと雨の冷たさ
唸り吹く風の冷たさ
その辛さを語る
年老いて刻まれた深い皺
老人のように語る
人生の織りなす四季
人はこの岩を見ず
美しい花と甘い声を求める
岩は何を語るのか
岩は風雪を帯びて
威厳のある相貌
人生の辛さを耐えた沈黙
それもまた森に不可欠なもの
女性と男性に別れた性
自然もまた二つに分かれる
女性的なものと男性的なもの
その二つがありて調和する
妙なるハーモニィを奏でる



女性と男性は永遠に神秘である。そもそも人間は女性を男性は体験できないし男性を女性は体験できない、だから相互にわかりあうことがむずかしいとなる。
男性は子供を産めないし産む経験がないのだから子供を産むということが根本的に理解できない
快楽でも男性と女性は根本的に違っている。
そこに必ず行き違いが生まれるから離婚が三分の一とかになる。

ヨーロッパ系の言語がフランス語でもイタリア語でもドイツ語でもスペイン語でも男女を別にしているのはなぜだろうとなる。
自然を男性的なものと女性的なものとして分けて見ていた。中性というのもあるが男性的なものと女性的なものと分けた。
中国は陰陽に分けた。それはやはり動物だと雄と雌がいて成り立つように世界が作られていたからである。
猫でも雌より雄は外を出歩くというのも何かそもそも動物と人間はいろいろな面でにているのである。
それはペットとして飼うとわかるのである。
男性的なもの女性的なものというとき別に男性だから女性だからというのではなく
男性の中に女性的なものがあり女性の中にも男性的なものがある。
草食系男性とか肉食系女性というのがいるし女性的なもの男性的なものが実際に明確に別れるものでもない

でも一般的には女性なら癒し的な要素が大きく男性は闘争的とか逞しいとか強いのが男性である。
でも男性でも女性的な側面は内面的に精神的にもっている。
それも個人差が大きい、自分は何か女性的であり男性的に強さに欠けている
芸術家でも男性的タイプと女性的タイプがあり作品に現れている。
そもそも人間はもともと一つでありアダムの肋骨から作られたのが女性である。
だからこそ男性と女性は一体化しようとするのである。
もともと一つのものが二つ分かれたのだから実際は別れても一つなのである。
肉体的にも男性にも女性となり女性も男性となる作りがあるのでもわかる。
肉体という面だけが強調されるが精神的な面の相違も神秘である。

その女性は不運だった。結婚して障害児をもち、離婚して貧乏がつづき、苦労の連続でふけてしまった。
もともと見栄えが良くない、岩長姫だった。
ただ苦労しているから話は面白い、同世代だから話が合うとういことはある。
それはこの女性だけではない、そもそも女性だと若い時は余りに違うし別人のようにさえ思うだろう。
女性の華は若いときである。でも今は40でも50でも60でも若くなっている
それは男性にも言えるし個人差も大きい、
老人になると生気が衰えてくる、若い人には生気がありそこが根本的に違っている
だから老人は若い人と接すると若い人の生気を受けるからいいとなるが若い人でもいろいろいるから全部がいいというわけではない。
ただ女性というと肉体的なことにだけ注目するが声も大きな要素である。

それでホメーロスの『オデュッセイア』でセーレンの声に魅了されてしまう神話は何か生々しいのである。
それが肉体ではなく声だったことなのである。
人間は肉体ではなくても延々と女性的なものにひかれているのである。
そして人間の求めているものは心地よいもの快なのである。
何か性でもうまいものを食べたときでもそれが心地よいものとして脳に記憶されて消えないのである。
そしてその快楽をまた味わいたいというなる。
だから老人になってもたとえ肉体的なものでなくても老人が女性を求めることは変わりない
近くでイタリアンジェラードというソフトクリームを売っているけどこれもうまいから高くてもやめられなくなった。
快楽はつくづく食べ物でも中毒になるのだ。誰も苦しみを求めたりしない、それはやむをえないものとしてある。
だから麻薬ても快楽は脳に記憶されて習慣化されやすくたつことができなくなる。
それは別に麻薬でなくてもこのソフトクリームを毎日食べたくなったことでもわかる。
脳に快楽として記憶されたものはまた同じ快楽を味わいたいとなるのである。


いづれにしろ詩とか芸術になると女性ぬきでは語れない、だから詩となると若い時は恋愛詩になる。でもこれも浅薄なものとして終わる。
ダンテがベアトチェーリに憧れたということはわかる。
女性だとどうしても花に例えられる。岩とか男性に例えられる
花をテーマに自分がしたとき自分は女性的だがまた同時に石や岩もテーマとしてきた。
芸術になると理想は男性的なものと女性的なものの両方があるといいがどうしてもそんな性格をもつ人はまれである。
人間の個性でも限られている、あらゆる面をもつ人などありえないのてある。
それはまさに神のようになってしまうたろう。
ただ詩となると自然と人間も不可分に結びついている。
小説になると自然より人間中心になるが詩となると自然と結びついたものとして表現する自然から離れると人間だけだと芸術はそもそもありえないのである。



ホメーロスの『オデュッセイア』に登場する。オデュッセウスの帰路の際、彼は歌を聞いて楽しみたいと思い、船員には蝋で耳栓をさせ、自身をマストに縛り付け決して解かないよう船員に命じた。歌が聞こえると、オデュッセウスはセイレーンのもとへ行こうと暴れたが、船員はますます強く彼を縛った。船が遠ざかり歌が聞こえなくなると、落ち着いたオデュッセウスは初めて船員に耳栓を外すよう命じた。ホメーロスはセイレーンのその後を語らないが、『神話物語集』によれば、セイレーンが歌を聞かせて生き残った人間が現れた時にはセイレーンは死ぬ運命となっていたため、海に身を投げて自殺した。死体は岩となり、岩礁の一部になったという。しかし声だけは死なず、現在でもある時期になるとセイレーンの歌声が聞こえ、船員がその声を聞いた船は沈没すると言われる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B3


タグ:男性と女性

2015年07月13日

土着的なものになって文化は興隆する (「心に青雲」には土着的なものが欠如している)


土着的なものになって文化は興隆する

(「心に青雲」には土着的なものが欠如している)

「『鎌倉仏教』は、日本の土着世界観の幾世紀もの持続に、深くうち込まれた楔であった。」(280ページ)、「土着世界観の著しい特徴の一つ、抽象的な全体の秩序へではなく、具体的な部分の詳細への鋭い関心……」
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/taguchikosou.htm
 
仏教は土着的ではない、一つの思想でありそれは世界的に通じる普遍的な理論である。
だからはこそ国が変わっても通じるものがなりそれが中国的なものとして土着して
韓国的なものとして土着して日本的なものとして土着した。
日本でも時代が変わると鎌倉時代には武士の仏教として禅を中心に土着化した。
土着化するということはまさにその土地と一体化することなのである。
ゲルマンの森と大地と一体化してゴシックの石の大聖堂が作られた。
土着化とはその土地と自然と一体化することなのである。
宗教にはそういうことがあったがマルキシズムは世界的普遍的なものとして受け入れられるたとしてもそれが土着化するということはなかった
一つの科学的理論と同じである。それは民主主義とか資本主義とかも主義でありそれが土着化するということはなかった。
ただ資本主義のはじまりが北のドイツなどの修道院からはじまったというときそれは宗教的なものとしてはじまった。
神に奉仕するということで勤勉の哲学がありそれはエトスとして庶民にも共有された。
日本でも武士の精神は武士道は庶民にも影響していたのである。

そもそも民族とか国というのは必ず土着化したある地域からはじまっている。
日本の民族の国のはじまりがヤマトだというときそれは奈良の一地域にヤマトがありそこが国のはじまりだったのである。

抽象的な全体の秩序へではなく、具体的な部分の詳細への鋭い関心

奈良が山に囲まれているというとき「やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし・・」その青山でありその山でも個々に山がありその山と一体化してゆく。万葉集もそうした明確な像となるオブジェクト、対象があって歌われたものである。
まだ架空のもの、詩のように空想化されたものは歌われていない。その土地の像と不可分に結びついていたのである。
日本人の精神の源流として山自体が信仰の対象となる、三輪山がそうである。御神体が山なのである。つまり抽象的なものではない、山とか石が御神体になるのである。
これはユダヤ教とかイスラム教とかキリスト教でも偶像崇拝とはなる。
それ自体を神として崇めることには問題がある。
ただ山とか石とかがもっている原生質を人間が精神化するモラル化することは別に偶像崇拝でもないのである。仏像でもそれを神ではなく精神的なものの表象として見れば偶像とはならない、ただ常にどうしても人間は偶像崇拝に陥るからそれを厳しく戒めたのであるカルト教団でもほとんど教祖が偶像化していることでわかる
具体的なものとして人がいないと理論だけでは庶民でも理解できないからである。
だからつまらない人間でも現代では偶像化しやすいのである。
特にマスメデアは常に偶像を作り出しているからである。
それでイスラムではテレビとか写真に人間の顔が写ることを拒否することまでしているのである。

「心に青雲」の著者が像で考えろというときまさにその具体的な像がないと人間は実感できない、ところが都会になると山もない樹もない、石もない、自然がなくビルだけを見ていたらどういう像が形成されるのかとなる。
都会に土着的になるものがない、それは仙台でも都会化東京化すると土着的なものはなくなる
だから仙台には賢治とか啄木のような土着的な詩人が生まれなかったと言う人もいる。
つまり詩人は芸術家でも土着的でなければ詩も絵にもならないだろう。
毎日高層ビルを見ていても深い精神性は養われない、ただそこにあるのは損得を毎日計算しているビジネスマンがいるだけだとなる。
「心に青雲」の言っていることはまともなのだけどでは純なる日本はどこにあるのかとなる。純なる日本はやはり日本の自然にあり神道はその純なる日本の自然にあった。
その大和言葉にあった。
罪(つみ)とはつつむでありつつみかくすでありつつしむとか日本の自然は余りに美しいのでその自然に罪をつつみかくすということがあった。
それは犠牲の小羊で血を流して罪を清めるという文化とはあまりにも違っていたのである日本ではそもそも馬とか牛とか羊がいないと魏志倭人伝にあるように動物を犠牲にするという文化がないかち理解できないのである。

「心の青雲」でしきりに徴兵制を復活して若者を鍛えなおすべきだというのもわかる。
やはり人間の精神形成は30代までほとんど完成してしまうからである。
青春時代を放蕩していたりしたら何らもはや人間的な精神形成が不可能になる。
青春時代を浪費することはそれはのちのちまでたたりとりかえしつかなくなるから怖いのである。
ただそういうふうに青春時代を思う人はまれである。
青春時代がいつまでもつづくと思っているのが人間でありそれは世代が変わって変わらないのである。
青春時代はたちまち過ぎて老人になっているのが人間なのである。
青春時代に精神形成ができてそのあとは何か余祿みたいになるのが人生なのである。
ただその後も紆余曲折があっても青春時代に悟り突破するものがあれば確かに精神を病むとかなくなるのは確かである。
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」である
人間は一度狂わなければ逆に狂ってしまうのも人間なのである。
吉田松陰が狂いと言ったのは正しかったしそうしなければ乗り切れない時代だった。
ただその狂いもただ狂っていたのでは効果はない、的を得ないと本当に狂気になって終わる。

ともかく青春時代はいろんな面で二度とない、自分もカルト教団などで青春を浪費したが自分が追及していたのは権力などではなかった。でもカルト教団はすでに世俗より俗世化したものだから権力御利益しか目指すものがなかったのである。
精神形成として若者を鍛えるべきだというのはわかるがそれが国家のために戦争の時のように仕向けるのには疑問がある
別に国家を第一にしなくても精神形成とか求道はありうる。
ただ国家に奉仕するのが生きる目的でもないからである。
国家的ヒロイズムとしての「心に青雲」の主張は疑問がある。
アレキサンダーの時代ならそれもあっても現代の戦争は全く違ったものでありただ人間の無駄な殺戮だけあり人間が殺戮マシーンになっているだけだとなる
日本兵は確かに粗末な食でも戦場で耐えたということはわかる。
その苦労はなみたいていなことではないし今の飽食の日本人には耐えられないことであるでも実際に従軍看護婦をした人が家族にいたので聞いたがもう耐えられなくで病院の窓から飛び下りたとか自殺した人がかなりいたのである。
それほど過酷だったのである。
だからそういう日本兵をみんな英雄視できるかは疑問なのである。

そして教育にしても土着性が喪失した結果として荒廃がある。
それは明治維新後急激な過度な富国強兵の欧米列強に伍するための中央集権になったからである。
廃藩置県というのも今になると土地の土着性を無視した結果であり問題が起きている。
やはり土地に根ざして人間の精神が形成されるというとき江戸時代の方が貧乏でも人間の精神はまともだった。
教育でも武士が中心でも藩校とかあり土着的でありそこから明治維新の逸材が生まれた。明治維新には混乱して評価が定まらないがやはりわれだけ若いのにあれだけのことをやれたという驚きがある。
今の若者でも団塊の世代でもそうしたことをまねてもできない、全学連などは全く腰砕けで終わったからである。

団塊の世代はその後はただ企業戦士として高度成長時代を築いたのである。
ただこれは評価されないし若い人の反発をかっているだけだとなる
戦後70年たって国際情勢でも変わったし国内でも変わったから教育にしても何でも変換を求められている。
今回の津波とか原発事故もそうした変わり目に起きたのである。
つまり復古というときやはり日本の土着性の復古でありどうしても都会的な所から起きてこない
仙台が何か東京化しているから土着的なものを喪失しているから詩人が生まれないというときそうである。
自然がないと土着的な創造は生まれないのである。
その土着的なものを破壊したのが原発事故でもあった。
第一次産業があって土着的なものが育まれるからである。それがなくなったらどうなるのかということを書いてきた。
田んぼがない田園社会がイメージできなくなったということである。
東京のような大都会だと田んぼがもともとないのだから米がどうしてできるのか像として具体的にイメージできないのである。具体的な像となるべきものがないのである。


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2015年06月16日

エマーソンの「償い」の思想はカルマの理論と同じことを言っている (与えたものが一方的に損することはありえない)


エマーソンの「償い」の思想はカルマの理論と同じことを言っている

(与えたものが一方的に損することはありえない)



わたしのためにはなっても相手のためにならぬ益を少しでも求めようとすれば、とたんにわたしの隣人はその不当な仕打ちを感じてしまう
わたしは身を引いただけ、枯れもわたしから身をひいてしまう。
彼の目はもはやわたしを求めず、われわれのあいだに戦いがはじまり、彼の内部には敵意が生じる

人々を歩駒のように扱えば、扱ったこちらまでが彼らと同様きっと苦しむことになる

百を数える恩恵を受けながら会えた恩恵は皆無だという人は果たして何が得したのだろう。
いつも支払っていたまえ、いづれは負債を所詮自分で支払わねばならない
失ったものがあればその代償として必ず何かほかのものが手に入っており、手にはいったものがあれば必ずその代償として何かを失う
集めるものが集めすぎたら「自然」は彼の金庫のなかにいれてやるだけのものを彼自身から奪い取る



人間の世界に何をするにも償いが働く、その償いは仏教で言うとカルマ論になる。
それは現世だけではない、前世にも及ぶからエマーソンより深遠なものがある。
カルマのことをエマーソンが言わなかったのは仏教を知らなかったからである。
つくづくこの自分のこの七年間の苦しみはまさに償いを強いられた。カルマの清算を強いられた。カルマの清算ということは「償い」のことである。
親には世話になったから介護を強いられたというのもそうである。
遺産が入ってきたときそのために大きな災いが生じたのもエマーソンの言う通りだった。富が集まりすぎるとそこに災いが生じるのだ。
なぜ中東で常に熾烈な争いがあるかとなれば石油という巨大な富があるためなのだ。
あまりに金をためこむとそこにはよからぬ人も金目あてに集まってくる
そのために殺されるとういことも常に人間の社会ではある。
その人相応の金ならいいがそれを越えると災いが生じるのである。

とにかく人間の関係は

わたしのためにはなっても相手のためにならぬ益を少しでも求めようとすれば、とたんにわたしの隣人はその不当な仕打ちを感じてしまう
わたしは身を引いただけ、枯れもわたしから身をひいてしまう。
彼の目はもはやわたしを求めず、われわれのあいだに戦いがはじまり、彼の内部には敵意が生じる

このことは日常的に誰でも経験している。無償で与えるものは一人もいない
そしてただより高いものはないということも経験している。
自分のつきあった人はこれを徹底していた。その人は事業を商売をはじめたけと失敗した理系で技術者で頭がいいのだけど何か経営とか商売には不向きだったのだろう。
それより東北人はつくづく商売には向いていない、それがただ如才ないとかではない、
農民体質だから臨機応変でないとかでもなく、商売がどういうものわかっていないのである。
近江商人はそういうことがわかっていたから成功したのである。

売り手よし 買い手よし 世間よし
http://www.mahoroba.co.jp/saying.php?itemid=2644

商売は一方的に相手から利益を得るというものではない、利他的精神がないと成功しない、何も得られないものに金を払ったり社会が認めたりしないのである。
資本主義が修道院からはじまったというときもそれこそ信仰に基づいた利他的精神だった商売はもともとそういうものでありとても今のように株で暴利をむさぼるようなことはありえなかった。
その人は商売をはじめてからもの凄く計算高くなったのかもしれない、まず売ったら五分はもらほねばならぬ、何かしたら五分はもらう、でも与えるのは一分でいいという精神である。
それが自分が病気のときもそういうことを実行して借金を求めてきた。
多額の借金している人はすでにモラルは喪失しているから危険である。
そんな人が病気のとき来たのだから最悪だった。
相手が弱者でも病人でもかまわない、今金がとれるということで借金をその弱みにつけこんで借金を請求してきた。

推理小説ではテレビのドラマでも事件でも必ず借金が犯罪の動機になっているのが多いのである。借金していることを調べれば犯罪の大きな動機をもつからそこから犯人を探す。まず動機から犯人探しになる。
そうなった人はもう他者に対する同情もなにもない、ただ利益を得ればいいというだけになっている。かえって相手が弱者化したとき恐喝すれば効果的である。
そうして保険金殺人にもる、それとにた恐怖感を味わったのである。
そういう恐怖を与えたものはすでに刑がなくても犯罪者なのである。
別に刑を受けなくても犯罪を犯している人など無数にこの世にはいる。
むしろ刑を受けている人はカルマを負って清算しているのだから救われているともなる
ともかく借金はすでに大きなカルマを積んだことになり返還を要求されるのである。

そういう自分またカルマを背負っていたからこういうことにあったともなる。
何か積もり積もったものが必ず六〇代以降に清算を要求されるのである。
その人は借金のために風俗とまではいかないが働かせられるているからこれもカルマだったとなる。
ブラック企業とかが繁栄することはないだろう。人を人とも思わないような働かせ方をしたら繁栄するとは思えない、だから倒産したブラック企業がありざまあみろとかなってしまう。
もし利他的な行為としての商売ならそういうことはならないだろう。

つまり世の中は公平の原理が働くというとき「償い」の思想はそれを言っているしカルマ論はそのカルマを借りを返すことを強いられるということである。
それは共通した思想であるがカルマ論の方がより深いインドの思想なのである。
だからなぜ自分はこんな不幸なのだろうとかなぜ不運なことばかりなのだとか悩む人はいくらでもいる。
そううい不運なことはただ偶然なのかと疑問になるりカルマを知りたいとなる
自分に起きた不運とか災いは本当にここに書いていたようにそうしたカルマが重なって起きたのである。
六〇代以降は何かカルマの清算が誰でも要求される。
親にも子供としての償いをしなければならないし介護しなければならないとか社会にも償いをしなければならないとか必ずある。

その人はなぜか不幸だった、その不幸は他にもいる、障害者をかかえた人などがいてそれとにている。
でもそれも今はその人のカルマだったと思う。その人は弱者を虐待するような人だった。もちろん自分も虐待されるカルマがあったのかもしれない、例えは猫などでも虐待していたりするとそれがカルマとなるからペットを飼うのも怖い面はある。
虐待したものは虐待されるし盗んだものは盗まれるし殺したものは殺されとかそうした因果応報カルマ論はここの人生で納得いく理論なのである。
つまり殺すものと殺されるものは偶然なのか?それにも因果関係がカルマが働いているのではないかとなる。
親が子供を虐待すると子供が親になったとき子供を虐待するということもカルマとしてある。親の因果が子に報いというのは現実にそういう例が多いから常に言われるのである。
もちろんあまりにも人間は複雑だから謎であり不明なのも多い、ただ一般論として確率としてはカルマ論はあてはまるからこそカルマにこだわるのである。
インドでカースト制が生まれたのもそうした簡単に差別というのではなくしれだけ古い国だからこそそうした身分制も必然的に生まれてきた。
その土地で裕福になるのは勤勉に働いたとか何か理由があってなっている。
怠け者だったら裕福にはならないから金持ちをうらやむのは間違っている。
ただ今はそうした公平の原理が働かないということで資本主義が否定されつつある。
公平でないということはやはりその社会の危機であり社会自体が崩壊に向かっているともなる
格差で不満が増大してそれか革命につてがってゆくからである。

いづれにしろ与える時は与えるがいい、それが一見無駄なように見えても与えることは幸せだからである。
自分もなぜこの人にこんなに与えるばかりなのか?相手はさほど感謝もしないようにも見える、でも与える力があるときは与えていた方がいいとなる。
むしろ金持ちだったらそういうカルマをもっているのであり与えないとかえって災いが生じ安い、だから金持ちになることもむずかしいのである。
宗教はそもそも利他的なのもだから損することを厭わない、ただ与えることをすすめる。そんなことして自分に何の得があるのということになる
なぜならエマーソンの言うように少しでも自分の利益にならなければもうこの人とはつきあわないとなるのが普通だからである。
それほど利に聡いのが人間であり人間社会の普通のありさまなのである。

だからエマーソンでも例え損に見えてもかえって損であれば損であるほど与えないというのはそこに「償い」があるからだとなる。
その損は決して損はなく償いが必ずある、また何か得したとしても不正なら必ずカルマを積んでいるからその借りは返すことが要求されるのである。
とにかくなぜに人間は自分だけが不当な仕打ちをされるのだろうという不公平感におちいりやすい、それが犯罪にもなる。
でもそうした不満でも自分にも何らかの落度はあるのが普通である。
でもそれを否定して不運だ不公平だと言うとき納得できないのである。
人間は生まれた家で決まるんだよな,努力しても無駄だよともなる。
でも本当にそうなるのか?、人間は何かしら努力しないなら積み重ねがなければ何も成らないだろう。
だからどうしてもそうした不公平感も例えはあったとしても全部は肯定できないのである

虐待したものは虐待される
金持ちは与えないと奪われる
貧乏人もにも非はある
世は公正を求めるしのぎあいである
とても暴利を得る社会はつづかない
富は独占できない
そこにアメリカの危険がある
金持ち国の危険がある

ともかく人間は運不運があるにしろ公正を求めてる。だから公正でないことは許されない、だから公務員だけが得しているというときいづれはそれも正されるだろう。
官僚も得しているというときそれも社会は許さなくなる。
そういう公平を求める力が常に働いているからいづれはそうなる。
公平でないことは誰も許さないのである。


2015年05月17日

この世に起きることは事故でも事件でも何でもカルマが関係している (両親や祖父母のカルマは必ず受ける)


この世に起きることは事故でも事件でも何でもカルマが関係している

(両親のカルマは必ず受ける)


なんでこんなことが起きるのだということが誰でも経験している
なぜよりによって自分がこんな目にあうんだとかなる
カルマというとそれは親のカルマは目にみえてはっきりと受ける。
でもカルマは4百年前とかまで歴史的カルマになると受ける
津波でも相馬藩内で一行700人溺死とあったから被害があった。
それは全く忘れられて今回の津波で大被害になった
そうした風土や歴史のカルマがあっても忘れられていたのである。
カルマというのは忘れられ意識されないことが多いのである。
ただ何かその個々人の身に直接起きたとき何でこうなるんだとかなる

例えば歴史的カルマとなると相馬藩の歴史的カルマもあるかもしれない
相馬藩は天明の飢饉で越中からの移民などを受け入れた
三分の一の人口が消失したからだ。
そういうとき移民してくる人がいたということはその時代の貧しさがあったからだ。
そういう荒廃地になるところが多かった
移民してきた人たちの住んでいる所もそうだった
何か移民せざるをえない状態があった
移動が自由でない時代は藩を出ることは命がけだった。
だから移民する人にもそれだけの事情があった。
それで相馬藩内に移住して苦労した。
それで「加賀泣き」という言葉が残っている。
よほど移住して苦労したから加賀の人が泣いたということである。

これがカルマとなんの関係があるのか?
それはなぜ今回のように相馬藩から原発事故で避難民になって他の土地で暮らさねばならなくなったのか?
そしてやはり相馬藩に移住した人たちのようによそ者としてあつかわれ嫌な目にあう
まさにそのことは移民した人たちが相馬藩でされたことと形は違っても同じことをされている
実際は相当恵まれたものだけど何かよその土地に暮らすということで形見の狭い経験はしている
かなり楽な方でもよその土地で暮らすということがどういうことか身をもって知ったともなる
なかなかよその土地で集団で暮らすということがどういうことか理解できないからである戦争でも戦争の苦しみなどわからなくなっている、でもまた戦争になったらそのカルマがめぐり戦争の苦しみを知ることになる

カルマで確実なのは親のカルマから逃れられないことである。
自分の一身上のことでも書いてきたけどなぜこんな苦しみを受けねばならなかったかというと親のカルマを自分が清算するような立場になっていたのである。
長男長女はその家のカルマを一身に引き継ぐことになることは間違いない
それは悪いカルマだけではない良いカルマうも受け継ぐのである。
良いカルマも悪いカルマも受け継ぐのである。
なぜならどんな人でも良いことばかりしてるなどありえないからである。
例えば財産を残すにしてもそれが必ずしも良い金とは限らない
太宰治の斜陽館などは小作から搾取してできていた。
だからそういう家にはやはり小作の呪いのようなものが受ける
ただ江戸時代の庄屋とかなると別である、それは農民とともに一揆では戦い死んだ人もいるからである。

カルマは両親のカルマを必ず受ける。自分にしてもなぜこんなに介護しつづけねばならないのか?
それは60年間自分に食事を出し続けてくれたからお前もそれをしなければならないというカルマを受けたのである。それは逃れることができないカルマとなっていた。
百歳まで生きたことはそのカルマを自分に受けさせるために生きていたともなるのだ
両親というとき母がいて父がいる。その父のカルマも受ける
それは財産を残したことで災いが生じた、財産がカルマになっていた。
その財産はすべて良いものとして残されていたわけではない、
太宰の斜陽館のようにあからさまのものではないにしろ公務員という恵まれた境遇で残された
それで自分がそのカルマを受けたのである。
いいことであってもやはりその金が元で犯罪にあったり病気の時金を要求されて苦しめられたのはそのためだったかと思う
金にはなにか具体的なカルマとして現実的だからわかりやすいのである。
金がないのもカルマだけど金をもっているのもカルマなのである。

家系に起きてくるカルマは本当に不思議である。
ある人が収入もいい人と結婚した。その人は頭が良くて優秀だった
だからいい人と結婚したと外から見られていたのである。
それがなぜ事業で失敗した結果60過ぎて苦しむことになった。
まず60以上になると人生の総決算のようなことが誰にでも起きてくる
若いときの不品行であれ何であれ悪行であれそういうことは決して消えるわけではない
60以上になるとそうした若いときのことまで生々しく蘇りその悪に苦しめられる
要するに人間はどんなことしても何かしらカルマを積む
両親でも先祖でもそうでありその国でも歴史的カルマをつむ、それで今も責められているだから先祖供養しないとだめだというがそれでカルマが解消するわけではない
どうしたらカルマが解消するのか?
それは善行を積むほかない、残された財産があったら困った人に分けてやるとかになる
そうすれば金にまつわるカルマはだんだん消えてゆくことになる
ますます強欲になって金をためたらカルマをまた積むことになるからだ

とにかくカルマは何もなければ意識されないものなのである。
何か事故とか犯罪とか何か悪いことが起きるときカルマを否応なく意識される
なぜこんなことが自分に起きたのだろうとなる
それは理不尽な犯罪だったこの世には多い、ではなぜその人だけがその犯罪の犠牲者になったのだろうというのが謎なのである。
よりによってその人にそんなことが起きたというのが謎なのである。
それでカルマが意識される、家系も意識される
家系も謎でもその時家系の問題してカルマが意識される
会社に勤めていれば優秀で終わったのになぜ事業をはじめて失敗したのか?
そういう人にまた嫁いだのうかというのも謎である。
まず結婚するときそんなことなどわかりようがないからである。
それは嫁になった方のカルマが家系が関係していたのかとなる
実際に嫁になった女性の家族は普通の家族ではなく問題があった
その家系のカルマを受け継いで夫も失敗したのかとまでなる
昔は戦前までは家と家の結婚であった。
すると家系というのが問題になる
今は個人間の結婚で家系なんか関係ないよ二人が愛し合えばいいんだとなった
ところがなぜそうであればいいが家系の影響を受けるのかということである。
結婚は個人の問題でなく家系がかかわるからあとあとそのカルマを受けることなにる
でも家系でもその家庭のことはわかりにくい、だから今はあまり考えないのである。
家系にはやはり徳を積んだ家とそうでない家と明確にある
徳を積んだ家と結ばれることはやはりあまり悪いことは起こらないとなる

聖書ではその家系のことなのである。アダムから生まれた神の子孫のことを記したものであることでもわかる。
神の家系としてユダヤ人は神から選ばれたものとなっている。
だから家系を一番重んじていて異民族とは交わらなかったのである。
神の家系が汚されるからそういうふうになっていた。
家系がそれだけ重みをもっていたのである。
つまり最強の家系は神の子となるべき選ばれた民であり
それでユダヤ人がいろいろなことを言われても滅んでいない、
他は3000年前とかなればその時の人種はどこも残っていない
そして運の強い人につけというときそれもやはり運の悪いというのは何か
例え能力があってもうまくいかないのはなぜだろうとなるからだ
天才でも能力かあってもそれだけでは何かは成らない
そこに神の力が働かないと成らない、だからそれは運だともなる
運の悪い人につけば同じように結果が悪くなる
何かで失敗したり事故を起きたりうまくいかないのはなぜだろうとなる

だから結婚というのは二人があえばいいことだともならないのである。
むしろ家と家の結婚でもうまくいっている方が多かったかもしれない
それだけ人間は謎であり人生問題でも解きあかせないから悪いカルト宗教団体でもこれだけ増えたのである。
それは人生に不可解なことが多すぎるから何かに神仏に頼るようになる
ただそれもたいがいは間違ったものでありかえって悪いカルマを積んでいるのである。
それは神仏に頼っているのではなく本当はこの世の力に人に頼っているからである。
最終的にはカルマからは真の信仰によってしか脱せられないともなる
カルマはともかく逃れることができないから厳しいものとなる

ギリシャ神話の「シーシュポスの岩」のように延々と石を持ち上げていなければならない要するに延々と持ち上げる岩はカルマなのである。
介護などもいつ果てるのかわからない、百歳になってもわからない
延々と介護からから脱することができない
カルマは人間の業であり人類が消滅しない限り終わることがない
つまりこの世でカルマが消滅することはないのである。
ハルマゲドンで最終戦で人類が滅びるというのもそうである。
業が積み重なって最後に最悪の結果となる。
人類のカルマはどれだけあるのか?
もう計りしれない悪行が歴史でもある
その総決算が最後に来る、それが人類が滅びるということである。
この辺で原発事故で積んだカルマも恐ろしいものだった。
プルトニウムの毒が二万年消えないという恐るべきカルマを追わされたのである。
それはまるで二万年間岩をもちあげるようなカルマともにていたのである。
原発事故によってもたらされたカルマだったのである。
その放射能から解放されるのが二万年後としたらその罰も過酷だったとなる

「シーシュポスの岩」

肩にずっしりと重い岩よ
いつまでこれを持ち上げねばならないのだ
いつになったら解放されのだ
今日もずっしりと岩が重い
休むことなく岩を持ち上げねばならぬ
これは与えられた罰(カルマ)なのだ
怠け者にも様々な悪徳を積めば
それは必ずカルマとなって負わされる
その刑罰を解かれるのはいつなのか
それぞれの人生にカルマがある
カルマからは誰も逃れられない
蟻は蟻のカルマを猫は猫のカルマを生きる
なぜ蟻として生きねばならぬのか
野良猫になり餌をあさらねばならないのか
人間もまた同じそのカルマは複雑だけれど
それぞれにカルマを負わされるのが人生だ
・・・・・・・


タグ:カルマ

2015年01月07日

時間の謎 (時間の感覚は環境により変化させられている)



時間の謎

(時間の感覚は環境により変化させられている)


時間のことを考えると本当に理解できない、時間が何かという定義はできない
時間はそれぞれの人の解釈だともなる。
なぜ現代は時間が急速に流れていると感じるのか?
その一つの大きな原因が乗り物、運送するものが変わったからである。
人間は江戸時代でも歩いて移動していたし荷物も運んでもいた。
それをみていたらゆっくりしたものを感じたろう。
でも歩いている人からみれば長い距離をゆくのには急いで歩いていたのである。
旅人は早立ちである。40キロ一日歩くとしたら朝早く起きて早足で歩かねばならなかった歩いている人は急いでいたが見ている側からする早いとは見えない

のろのろと汽車が行く
ここは山のふもと
あたりいちめんのなのはな
まえへうしろへでさへづるひばり
そのなかをのろのろと
汽車はゆく
その汽車の後からついてゆく私の幻想よ
鱒は泥田に身を隠した
それをとろうとした子供は腹をたて
小石をひろい
汽車をめがけてなげた
それをみてだるそうな
汽車は汽笛を吹き鳴らした
この汽車はどこへゆくのか知れたものか
なんという長いレールだ

山村暮鳥

だから不思議なのは明治大正時代でも汽車がのろのろと走っていたという表現があったことである。
汽車がのろのろと行くなど考えられない、その当時の汽車はそういう感覚だったのであるもちろん急行もないから遅かった。でも汽車だったら馬などよりずっと早いのにのろのろという表現を使っているから不思議である。

子供は長い長い貨物列車を見ていた
その貨物列車はいつまでも尽きるように見えなかった
いつまでも貨物列車を見ていた

子供の頃まだ長い貨物列車が通っていた、それは長かった、子供にとっては余計長く見えた。その時間感覚が消えた。あのころは輸送の主役が貨物列車だったからである。確かに今も貨物列車は時々通る。

長々と貨物列車の通りゆく老人寝ている病院に見ゆ

貨物列車と高齢化社会の老人、それが重なって見えた。貨物列車は何か重い、老人もそうした荷物に見えるから重なって見えたのも現代である。何でも時代によって見え方が変わってくるのである。
乗り物でもゆっくり走っていれば時間もっくりとすぎてゆく
現代は電車でも新幹線になり車になり飛行機になり何でも早い、車だと毎日目まぐるしくすぎてゆく、ぐるぐる時計が回っているように時間がすきてゆく
一方で徒歩とか馬だとかはゆっくり進んでいる、自転車も遅いのだがこれも徒歩からすると早いのである。
車社会になると毎日めまぐるしく時間がすぎてゆくようになる。
時間に追われてすぎている感じになる。
だから環境が時間感覚を作っている。
汽車もなかった江戸時代に住んでいればさらに時間感覚は遅いものとなる。


カチカチカチ
時計の歯車が刻む音
古い柱時計がボーンボーンと時を打つ
裸電球一つの
トタン屋根のがらんとした古い家
外では北風が唸っている


子供の頃の時間感覚は遅く長かった。それは子供ではみんな同じである。
そしていつのまにか急速に時間はすぎてしまった。
そんなところにいたことさえ定かでなくなった。
柱時計の時間感覚は今とは違っている。おじいさんの古時計という歌が流行したがあんな感じであった。江戸時代なら寺の鐘が時間感覚になる。
この差も大きいのである。その時間感覚だけはもう経験することができないのである。

もう一つは処理する情報量と時間感覚は関係している。グローバル化した世界ではニュースに目を通すだけで時間がかかる。世界のニュースの量は莫大なものでありそれを知るとなると時間がかかる、江戸時代の百倍とか千倍の情報を処理するとなるとそれだけで時間がかかるから時間が早くすぎる。学習にしても江戸時代の千倍の量を学ばねばならないとなると時間が必要になる。
江戸時代には漢字を習っていても英語など習っていないからである。
英語に費やす時間だけでも膨大になる。
江戸時代の学習は詠み、書き、そろばんであり学ぶ量が極端に少ないのである。
だから時間がかからないから一生で学ぶものが少ないから時間がゆっくりすすむのであるつまり時間的に余裕がある社会である。
それは農耕社会とか自然に則した生活にあっていた。
例えば林業でも50年で木が育つとしたらとても一代では仕事にならない
次の代で収穫があるとしたらそれだけの長い時間感覚もたねばならない
すると時間感覚も相当違ってくる
現代はそうした先を見通した長い時間感覚をもていなのである。
スピードが第一になるとき早く仕事を達成しなければならない、成果を出せねばならないからである
それで現代人は絶えず何かに追われていて落ち着かなく余裕がないのである。
人と人も対話しない、車の人と人も対話しない、一瞬にすれ違い去ってゆく
時々危ないとかどなりちらす声を発して去ってゆく
徒歩だったら互いに歩きながらコミニケーションもありうる
旅は道連れになるが車だったらないのである


時間の不思議は回りの環境に時間の感覚が左右されている、エジプト文明の時代はさらに時間の感覚も違っている。それはとても今では経験しえない時間感覚で生きていた。
第一人力でピラミッドなど作るのはそういう時間感覚があったからだろう。
機械もない時代にあれだけのものを作るのは相当な時間感覚の相違があった。
時間感覚は機械によっても変わったのである。
時間が時計によって計られ時も変わった
昔の柱時計だと時間がゆっくり進んでいた
それはネジ回しの機械だからそうなっていた。
今は電気式になり何か機械も何が動かしているかもわからないのである。
時間感覚は環境によって作られている。
だから江戸時代の時間感覚はそこに生きている人しかわからなかったのである。
時代が違うというとき何が変わったかというとき時間の感覚だということがあまり指摘されていない


時間をゆっくりしたいなら逆にその環境を変える他ない、それが一番むずかしい。
なぜなら環境自体か変えられないからである。
車社会も変えられない、もし車が走っていないと時間感覚が昔にもどる
江戸時代にもどる、一時原発事故でそうなった。
車が走らない環境はまさに江戸時代なのである。
そして遠くにゆくことにはめったにない、近くで過ごすことになる
生活も戦後十年のように回りにある薪とか炭とかを燃料として自給自足的生活となる。
そうすると時間はむっくりとすぎて時間に余裕ができるのである。
そうなると刺激も少ないからいろいろと情報とかにふりまわされなくてもいいともなる
株をししていると外国まで常に気になりニュースを追っていなければならないのである。
現代はだから長生きの時代でも老人にとっては住みにくいのである。
老人になると環境も変化しない、長いゆっくりした時間感覚の方が安定する
なぜ盆栽趣味が江戸時代に発達したのか?
それは盆栽も育てる時間感覚があったからである。
盆栽は最低5年くらい手入れしてみていないと育たない、意外だったのは江戸時代からの盆栽があり樹齢5百年とかもあるのに驚いた。
そんなに長く生きているのがあるという驚きである
盆栽は小さいから寿命が短いと思っていたからである。
盆栽は時間感覚が長いゆったりした江戸時代に向いていたのである。
江戸時代の時間感覚から生まれた趣味だった。
だから実際は現代にあっていないのである。

いづれにしろ時間にしても本来の人間的時間をとりもどそうとしたらやはりそうした環境を恣意的に作るほかない、それは一番むずかしいものとなる。
ただこれからの高齢化社会では明らかに時間感覚も変わる
老人の時間感覚は遅久手からである。遅い方を好む、だから現代の早すぎる時間感覚の歯止め役にもなる。
それは車社会にはあわない、老人は危ないから運転するなとかなる。
すると老人は別な方向に向かう、運輸手段でも昔のバスとか利用したり近くを大事にして近くで用をたしうるようなものを指向する。
そういうことはすでにはじまっている。東京辺りでは老人人口が多いから配達してくれるとか近くで何でも用がたせて車も利用しないで生活できる。
田舎ではかえって広範囲に住んでるから車がないと生活できない
ともく高齢化社会は社会の環境を変える、それは時間感覚を遅くするのである。
それは昔にもどることになる。
また老人の仕事は昔を回想することでもある。
その回想することが精神生活になる。それも絶えず新しいものを経験している若いときは相当違うのである。
過去の経験を生きるということもありうるのだ。
それでじっくり読書するとか自分の場合だと日本を世界を旅行したことをふりかえり
やはり回想で旅がつづいている不思議があるのだ。
それもまた旅だったのである。
この七年間は介護とかで本当に遠くに行かなかった、旅もしなかった。
すると回りが大事なになる。近くで用足すことが大事になる。
それは江戸時代でありそれが人間として正常であり現代の時間感覚は異常だとなるのである。


おじいさんは冬の日がさして
ひなたぼっこしている
隣に猫がいる
石のようにじっとしていて
冬の日がさしている
そうして動かない
外は枯野である
故郷に長く暮らし歳月
おじいさんは石のように
そこを動かない
人間も生物だから木のように石のようになる


だから老人になると移動したり変化することが苦手になるのである。
それで原発でも津波でも避難した老人には辛いのである。

2014年10月19日

習慣が人を作る (悪い習慣は悪い人を作る)



習慣が人を作る


(悪い習慣は悪い人を作る)



―― 一流の人は習慣を重視する ――

一流の人は、習慣とは成功への道だと考えている。
だから絶えず習慣を強化する。
たとえば運動や摂生、早い出社がそうだ。
一流の人は習慣に秘められた大きな力に畏敬の念を抱いている。
だから1日でも気をゆるめると、自分が墜落すると考えている。
彼らは習慣の力を人生のすべての領域で活用する。
二流の人は成功の土台となる習慣の力に気づいていない。

まず人間が習慣をつくり、次に習慣が人間をつくる。
ジョン・ドライデン(17世紀のイギリスの詩人)

優れた道徳心は習慣からしか生まれない。私たちは、自分でつくった習慣のようにしかならないのだ。節制している人は節度のある人となる
アリストテレス (古代ギリシアの哲学者)

結局のところ、人間というのが習慣に基づいて、毎日どんな行動をしているか?という事の積み上がったものが、人生になっていくものですから、もちろんですが悪い習慣を毎日積み上げて入れば、その結果として芽生える人生というのも、良いものにはなりません
http://www.108-fineart.com/entry7.html




まず人間が習慣をつくり、次に習慣が人間をつくる。


習慣は人間の資質を越えてその人の意志で作られてゆく。習慣はまずその人の意志があり習慣になり習慣が人間を作ることになる。飲酒や喫煙をやめようとする意志がなければまず習慣化しない。やがてつづけているうちに習慣が人間を作ることになる。
自分は30頃酒ばタバコもやめた。タバコは早い内にやめた。それが体に良かったことは確かであり頭にも良かった。会社勤めをしないし付き合いゼロの生活だったから宴会などにも出ていない。酒はからだだけではない脳を麻痺させるものでありそれが一番良くないことが今になるとわかる。

習慣が人間を作るというとき酔うと思考が停止するし理性も失う。酔うことにいいことはなかったのである。酒は麻薬と同じである。麻薬も酒も習慣化しやすいのである。
やめることができなくなる。そして人間の快楽をあくことなく求める。それは性でも何でも終わることがないのである。それも習慣化するから怖いのである。
一方で禁欲も全面的にではなく習慣化する。だから修道院では労働勤勉によって習慣化したのである。それが資本主義の基になったというのも逆説だったのである。

人間にとって習慣の力ほど強いもの影響あるものはない。認知症になっても習慣の力は活きていたのである。布団の上で農家の女性が田植えしていたというのはそのためである。人力で田植えし続けていたからそれをしていたのである。自分の家族も認知症になったけど魚をさばいたりしていたからそういうことができた、洗濯が機械を使えなくても洗濯板でしていたから奇妙だった。今までしていたこと習慣化していたことは認知症になってもできる。それがいい効果を生んだのである。習慣化したことはもう体が自然と動くようになっていることなのだ。

だから習慣はいい方向に作用すればそれだけの力を発揮するが悪い方に作用するとその影響も大きいのである。例えば盗みでもちょっとした盗みでも癖になるから習慣化するから本当に怖い。時代劇でスリの人がどうしても手が出るんだよといって手を切ったがそれほどにしないと習慣をとめられないのである。だから本当に悪い習慣は怖いものなのであるだからそもそも仕事が習慣化する。毎日仕事にたずさわること自体習慣化しているのである。仕事をしないと怠けることが習慣化することが怖いのである。
仮設に三年もいたらもう体がなまって仕事はできないと農家の人が言っていたけど習慣化することは悪い方に作用するとその影響が大きすぎるのである。

自分が東京の大学に入って学んだことは遊ぶことだったというのも奇妙だった。
もともと勉強が嫌いだったし興味を覚えなかった。特に理系が苦手であり数学がだめだったから余計にそうだった。大学に入ったら授業に出る必要もないとういのも不思議だっただからこれ幸いと授業にもほとんど出なかった。実際一日昼間からマージャンしていた人もいたのであり学んだのはマージャンだったという人も多いのである。
だから文系大学は廃止しろというのもわかるのである。なにしにきたんだということになり学んだのは遊ぶことだった。そのこと自分には大きな影響があった。その遊び癖がついてしまったことである。だからなぜ大学で遊び癖がついた人が企業戦士とかになっていったことが今でも理解できないのである。

その後まともに職についていない。流れ作業ばかりのアルバイトでやる気がなくなったこともある。
ただ幸運で仕事しなくても生活ができていてその後は旅に時間を費やしたのである。
かなり読書は好きだったのでした。でも読書すら基本的なものすら読んでいないことに気づいた。読書は本は厚いから読むのに負担なのである。若いときはまず理解できないから余計に苦労なのである。でも読書百編自ずから意の通じるというのは本当である。
理解しなくても本を読んでいる必要があるのだ。それは後年理解できるようになるからだあの本にあんなこと書いてあったなと思い出してあとで読書が有効になるのである。

人間が習慣化するというときあらゆることが習慣化するから怖いのである。体もその資質の差は大きくても習慣によって作られる。不摂生な生活をすれば必ず体が丈夫な人でも習慣化して60代になると必ず体に影響する。病気は必ず生活習慣病だというのはそのためである。もちろん全部ではないにしろそうなりやすいのである。
これも奇妙だけど旅も習慣化するといつも旅している気分になるのである。
自転車にのって風を受けて走っているのである。それはデスクワークとは違い自然の風を感じるから健康的なのである。車では風を感じないからそうとはならない。だから自分の場合は何か工場とか会社で事務ばかりしていより健康的だったともなる。

ただマイナスの点として仕事を覚えない仕事を習慣化しないことで社会人として大きく欠けたものとなった。今は家事とか介護しているけどこれもつくづく仕事であり習慣だと思った。一つの奉仕の仕事としてあったのである。家事は金にならないから仕事にならないというがこれも明らかに仕事なのである。家事をこなすには相当な熟練が必要なのである
いづれにしろ何でも習慣化するのが人間である。貧乏もあまり長くつづくと習慣化しているのだ。大金入ってきても使えないのである。チビチビ生活してきた人の生活感覚は習慣化しているから大金は使えない、だから秀吉が貧乏な百姓からあれだけ豪華な生活に転換したことことが理解できないのである。
貧乏も習慣化する千円でもちょろまかすということなど習慣化していたりするから怖いのである。いかに底辺が千円借りたとか貸したとか千円レベルでこだわり生活しているかわかるだろう。自分もそうだったのであり千円レベルで常に苦労していたのである。
そういうのはもう習慣化しているからぬけだせないのである。
一方で金持ちも習慣化するから浪費から逃れられないとなる。また借金でも習慣化するとから借金癖がつくと何でも人間は習慣化するから怖いのである。
タグ:習慣

2014年10月03日

人生はタイミングが大事、運命も決める (御嶽山で死んだのはタイミングが悪かったため)


人生はタイミングが大事、運命も決める

(御嶽山で死んだのはタイミングが悪かったため)


人間はタイミングが大事である。おそらくはこれは人生のあらゆる場面でそうである。
人と人が出会うことでもどういうタイミングで出会うかが運命さえ決めてしまう。
人の出会いでもタイミングによって人生が決まるとしたら怖いことである。
今回の御嶽山の噴火による不運な死者はタイミングが悪かったのである。
山が怒っている、爆発する状態のとき、山に登ったから不運だった。
山が静穏なのが普通なのだがよりによって山が怒って爆発するような時に登ったから不運だった。
それは人にも言えることである。その人がどんな状態の時、出会うかが重要になる。
相手がどんな状態にあるかを知らないと災いを受ける。例えば相手が明日食べるものがない、もうこの人から金を奪って食べるものを確保しないといけないとか切羽詰まっていたら恐怖である。
そういう切羽詰まった状態の人に出会うこと自体危険なのである。


会津美里で外部から入ってきた人に夫婦が残酷に殺されたのはなぜか?
出会うタイミングが悪かったのである。相手がどれだけ切羽詰まっていたかを判断できなかった。
普通の人のように接していたのかもしれない、知らない人だから借金を要求してきたので簡単に断った。それが命取りになった恐怖である。
借金をかかえている人や切羽詰まっている人は何をするかわからないのである。
その人が善人も悪人もない、切羽詰まった人は何でもする。殺人さえするように追い込まれているのだ。
要するに御嶽山のように爆発寸前になっていたのである。


タイミングが悪いとビジネスも成功しない、営業でも成功しないだろう。
相手の状態がどういうふうになっているのか知らないと成功しない
闇雲に契約をとろうとしてもできない、相手がそういう状態にないからである。
それは人にはそれぞれ様々事情があり成功しない。
つまり影響でもその人と出会うタイミングがよければさほど能力がなくても契約をとれるということがある。それも一つの運だとなる。
つまり人間には能力だけではない、常に運が不運が作用しているのである。
だからさほど能力がなくても成功する人はするのかもしれていのだ。


例えばカルト宗教でも勧誘に成功するのは相手が病気になったり何かで苦しんでいる時、勧誘されやすい、なぜこんなに苦しい目にあうのかとなり不可解になるからだ。
その時先祖が悪いとかあなたの運命を宗教で変えて見ませんかなどとなるとそれにのりやすいのである。
ちょうどガンが直る薬があるというとき、それが偽物でも藁をもつかむようにだまされまいきしてもだまされるのが人間である。もう一心で直りたいと思っているからそうなる。
そういうタイミングをねらっていれば相手をだましやすいのである。
そういうことを自分が家族が弱ったとき経験したから人間不信になったし人間は本当にむごいものだと思った。

相手が弱っているからとそこにつけこみ金がある人なら金をしぼりとろうとする。
ただそれはそういうタイミングで出会うから成功しやすいのである。
現実に自分は金は奪われるは借金に苦しむ人にも金を要求されてつけこまれた。
もし家族に何もなく自分も病気になっていなければそんなことはありえなかったのである。


人間は相手が余裕がある時だったら困った人がきても相談にのれる。余裕がないと相手の人のことなどより自分のことで精一杯だから相談も助けることもできないのである。
借金している人は相手が病気だろうがなんだろうが関係ない、なんとか金を工面しなければならないとしかない、そうして病気だろうが相手からしぼりとろうとする。
恐ろしいのは相手が死んだら金はいるとかなると死んだ方がいいとさえ思うのである。
現実にそういうことを自分はこの六年間の苦しみで経験してきたし事件でも保険金殺人にもなる。
そういう人はまず余裕がないのだから人を助けることはできないのである。


ともかくタイミングが悪いことは致命的なのである。恋愛だってただ若いなら欲望だけでそうなることもあるが年取ると男女の出会いは別なものになる。成熟して精神的なものになってゆく。
価値観もまるで変わってしまうことがあるのだ。
だからどういうセチューションで出会うかが大事になる。
例えば金がないとき、金がほしいというときは金のある男性の方に目を向きやすい、でも金に余裕があれば別な観点から男性を見ることになる。
出会うタイミングがそうした運命を決めているのである。


庭を作ってもらったのもその時なぜかちょうど仕事がほしい人が大工さんが庭師が自分の家に来たのである。相手も金で困りどうしても仕事が欲しかったのである
その人は一人親方で腕が良かった。庭で大工でも壁ぬりでも何でもできたから驚いた。
自分も遺産が入ったので金に余裕があり庭を作ってみたいと思っていたから作った。
そういうことでもいつでもできるとは限らないのだ。庭なんかいつでも頼めばできるじゃないかというが今になると介護して家に寝ている人がいるとできない、何か周りが忙しくてできない。
その時は庭を作るのにタイミングが良かったのである。
ビジネスでも営業でも何ら努力なしで成功するときがあるだろう。それは相手がそうしてもらいたいという状態になっているからなのだ。
大金が入ってきたら投資を進める人があればのってくる。それが危険でもそうなるのである。
金はいつでもあるものではない、でも遺産とかあるとき金がはいる時がある。
そういうときは金を使いたいのだからビジネスも営業も契約をとりやすい状態にあるのだ。


今回困った人の相談にのれたのは自分に病気も一段落して直ったからできた。
もし病気のままであり介護などでもっと苦しんでいたらできない。
そしてこちらで頼むこともありお互いが助け合うこともありできた。
相手も苦しい状態だったからこちらのことを思う余裕はなかった。
だから出会うタイミングが良かったのである。相手にとってそうであり運が良かったとなる。
つまり人間の出会いでもそうだが何でも人間には運が働いている。
ただ人間はいつも運がいいとは限らない必ず不運に見舞われるのである。
運が良かったり運が悪かったりを誰でも経験している。

 

人間万事塞翁が馬なるのが人間である

運が悪いことが運が良いことにもつながる。運が悪いことも運がいいことにはつながらない。
例えば悪運が強いとかあるのは本当である。たまたま泥棒にはいった家に大金があった。
しかしその大金が災いを生むということもある。
それは泥棒にとっては運が良かったが実際は運が悪い方になることもある。
病気は運が悪いことだが直れば健康を第一に考えるからそのあと病気しなくなったということもありうる。


ともかく爆発寸前のような御嶽山に上り実際に爆発して死んだのはタイミングが悪かったのである。人間にもそういう状態の人がいるから気をつけるべきである。
なにやかにや苦労が重なって爆発寸前の人がいてそういう人と接すると出会うと被害にあう。
だから火山は危険なのだからその危険を察知するための設備をしておくことが大事だとなる。
それで山の状態をみておくというのが必要になる。
今回もそういう兆候があったが警告を出さなかった。それが被害が大きいから問われることになったのである。普通の人はとても御嶽山が危険だと知り得ようがないからだ。
この山が爆発寸前の状態などと判定しようがないからだ。


でも人間の関係では相手がどういう状態にあるか見ることが必要である。
そのタイミングが悪いと最悪は殺されることもあるし被害が大きくなる。
健康な人に薬を進めても買わないが病気になればきかない薬でも売れるのとにているのだ。
薬を売るにしても健康な人にすすめている人が結構いるから売れないのである。
薬は例えでありその人にあったもの欲しいものがありそれを提供すればつまらないものでも売れることがあるのだ。要するにタイミングでありみんなの要求もそれぞれ違ったものだからものあまりの時代は余計に売れないとなるのだ。
そしてその人の要望は時々刻々変わっているのである。
ある時欲しいものは今は欲しくなくなり欲しくなかったものが欲しくなるとか年齢によっても場所によっても時々刻々要求するものが欲しいものが変わってくるのである。



タグ:出会い

2014年08月02日

福沢諭吉の文明論は弱肉強食の世界となり現実化した (文明は利害得失しかない世界になった)



福沢諭吉の文明論は弱肉強食の世界となり現実化した


(文明は利害得失しかない世界になった)


「天下衆人の発達」とは「民情一新」と言い換えることがで
きる。蒸気船車、電信、郵便、印刷の四つの発明が民情を一
新させた。

西洋諸国の文明開化は、徳教にあるのでなく、
文学にあるのでもなく、また理論にあるのでもない。どこにあるのか。
私がこれを見ると、その人民交通の便にあると言わざるを得ない
(福沢諭吉)


江戸時代は村単位で生活していたから境界が大事だった。一つの関所のようになっていて人々が簡単に他の村に出向くことはない、よそものとして隣同士の村でも扱われたのである。だから明治になり村が合併するとき常に民情が違うので合併しなかったとある。飯館村辺りでも大倉村と佐須村が民情が違うので合併しなかったとなる。

江戸時代から明治になる時の変化は激しかった。だからその変化に対応するために言葉も変わったし新しい言葉も生れた。その新しい西欧の概念を漢字で翻訳したのが日本人でありそれを中国で使用するようになった。
だから民情というのもその意味は何なのだろうとなる。おそらく江戸時代にはなかった言葉なのだろう。民衆とか大衆とか民間とか人民とか自由民権とか民主主義とか・・・何か民とつく合成語は明治以降作られたものだろう。日本には民(たみ)という言葉はあっても民衆という言葉はなかったからである。つまり民とつく字が増えたことはそれだけ民が主役になってきたから増えたのである。

そもそも民情という言葉は実際は死語になっていて理解しにくい。民権とか民主とかは理解できる。それは常に今でも用いられる言葉だからである。常に民の権利を主張するのが現代だからである。だから民情という言葉は何を意味しているのかわかりにくい。
そもそもなぜ大倉村と佐須村は山の中で隣り合っている村である。
それが民情が違うから合併できないというのがわかりにくいのである。何か利害があって合併できないというのはわかる。入会権で山の木材をとる権利を失うからだとなればわかる。民情が違うから合併できないということが今では理解できないのである。
現代の人間はすべて個々人であろうが市町村であろうが利害得失で動いている。
何かもめる争いがあるとしたらたいがい利害得失なのである。
原発事故でも補償金でもめるのは利害得失が原因しているからである。

宗教さえ集団化権利化して利害得失なのである。カルト宗教団体は創価でも政治化しているように利害得失しかない、世界平和だとなんだとか言うけどそんなことは何の関係もない、つまり個々人の御利益追求があってあれだけ増えたのである。
では他の宗教が利害得失と関係ないかというとみんな同じである。
京都の寺は観光利権で組合化して力をもっている。それはすでに奈良時代からはじまっているから根深い、他の宗派でも戒名利権とかでありいかにも戒名が大事かと説くのは利権のためである。第一釈迦は一言もそんなことを言っていないからである。
だからそんな意味のないものがもうつづくとは思えないから檀家も衰退してゆくだけになる。

現代は民情などでは動かない、すべて利害得失でありあらゆることが得か損かで動いている。日常の生活そのものがその繰り返しである。
だから原発を作るにしても地元でも官僚でもマスコミでもそれが自分たちに得か損かで決まった。その利害があまりにも巨大なものになっていたからすべての人が目がくらんでしまったのである。それで富岡町長の五億円の金庫が流れたとか噂になったのもそのためである。今でもこれだけの巨額の賠償ができるということが驚きだった。
今や原発事故の避難区域や30キロ圏内とか飯館村などはただ補償金交渉の場となってしまったのである。

文明とは何か?それは交通の発達の影響も甚大だがすべては利害得失でありそれ意外の規範はモラルはなくなったということである。資本主義でも民主主義でも個々の欲望の全面的解放であり自由とはあらゆる欲望が得られる自由なのである。
その欲望と利害で一致して協力して団結して組合化する。それが民主主義である。
宗教団体も同じである。

西洋諸国の文明開化は、徳教にあるのでなく、

まさに文明とは利害得失意外何もないということが明治維新からすでに150年になろうとして現実化したのである。しかし人間が利害得失だけになったら野獣になる。
人間は人間にとって狼になる。自分があった人間はそうして狼になった人間たちだった。眼中には利害得失しかなくなればその人が弱った時が最大のチャンスとなる。
弱いものは餌食になり子供でも食べられてしまうのが自然界だからである。
そこにいたわる気持もなにもない、金でめんどうみてもらい、金をくれ、裁判にしてやる・・ついには大金を盗み自分の欲望と利のためには相手も平気で殺すことになる。

これが文明人なのかとなればまさに福沢諭吉の見た西欧文明であり現実化したのである。文明とは最大の野獣化野蛮化であり人間が互いに狼になっているとしたらいかに豊かでも心安らかになってはいられないのである。
だから富裕層はアメリカのように塀をめぐらして貧乏人とはつきあわないようになる。
そんな文明社会に住んでも安心も得られない、かえって貧乏でも安心社会の方がよかったともなる。ただどうしてもこれだけの欲望があふれているときそれを制御することは至難になっているのだ。誰だって金があった方がいいし金がなくてもいいなどとは言えない、その限度はあるにしても清貧などという生活はありえないのである。
自分でも毎日買い物に追われていることでもわかる。買うことが生活になっているからだ


蒸気船車、電信、郵便、印刷の四つの発明が民情を一新させた。


確かにそれはさらにインターネットかと進歩しつづけているからそうである。でも一方で無限に欲望も拡大してその欲望も留まることも知らないものとなりそれが原発でも生み出して危険なも省みないものとなった。グローバル化とは欲望の無限の拡大ともなったのである。その欲望は知的視野の拡大などいい面もあるが一般的には物欲の拡大化であり
その欲望に歯止めがないから原発も作られ故郷にすら住めなくなったということも現実化したのである。

文明の利器が発達しても人間の欲望がグローバルに無限に拡大して人を殺してもその欲望を得るのだという文明人は野獣であり最大の野蛮人でしかないのである。そういう人間に囲まれていたらいくら豊かでも金があっても心は一瞬たりとも休まらない地獄にいると同じなのである。現実自分はそういうこと身をもって一身上のことで経験してきたのである。金のためなら自分の利害得失のためには相手のことなどどうでもいい、むしろ相手が弱った時こそチャンスだとなる、人間は人間にとって狼だというのが現代の文明でありそういう社会にいることは地獄にいるのも同じだとなる。
常に牙をむきだして相手を威嚇していないと食われるかも知れないという恐怖の中で生きているということなのだ。

2014年06月21日

時間の哲学 (時間は人間が作り出した様々な概念であるー時間によってすべてが消えることはない)


時間の哲学

(時間は人間が作り出した様々な概念であるー時間によってすべてが消えることはない)

●機械によって節約された時間


D=MX


Dはdistanceで距離である。Mはmachineで機械である。Xは運ぶ量である。

例えば距離が2D=2MXとはならない、なぜならMが変化するからである。電車だったら普通車から急行へ新幹線となり2D=MXとなりうるのはmachineの能力が倍になっているからである。運ぶ量が二倍三倍となってもMが変われば距離に関係ない

Xが三倍になったとしてもmachineの能力が技術が進めば二分の一三分の一となりるから労力を減らせる。要するに機械の能力の進歩によって距離にかかる負担は距離が伸びてもふえることにはならないのである。

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そういうことはすべての労働にあてはまる。機械によって労働の負担が減ってゆく。
すると能率をよくするためにはさらなる機械の開発が必要でありそこにエネルギーが注がれる

それは技術者や頭脳集団が進めるのであり普通の労働者はできない
だからそういう開発をする技術集団が収入が多くなる
本一冊を流通させるには電子本やインターネットより十倍以上のコストがかかった。
活字を組んだり製本したり一冊一冊書店に並べるのすら手間だった。
そういものが全部はぶかれことはそこに働く人たちも失業するとういことである。

ではその人たちがどこで働くのかとなるとその関連業者にゆくにも
簡単にIT業界にゆくわけにいかないから失業してしまうのである。

農業まで機械化されて労働の負担がへった。今は農家に嫁いでも重労働をしていない、
田の縁(へり)を田植えしていたというのは機械でできないところを人手でしていた。
それは中国でも麦刈りは人力でしていた。ところがコンバインになった時、機械は人手でやるより千倍とかの効率でする。その差はあまりにも大きいとなる。
その時出稼ぎで麦刈りしていた人たちは相当な数が職を失うことになった。

でもコンバインでできない複雑な地形のところを人手でしていた。
つまり田の縁を田植えしていたと同じなのである。
いくら機械化しても人間でしかできないことが残る。
でも機械のおこぼれを人の手でしているというのも主役が機械になり脇役が人間になる。人間様が機械に使われ機械の補助役のようになるのも奇妙である。


機械が主役になるというのも人類の歴史である。機械が時間まで変えた。
江戸時代は時計がないから時間感覚も大雑把であり日の出、日の入りとか太陽の運行に合わせていた。時計ができたとき、時計という機械に時間を合わせるようになった。
機械に合わせた時間が生れて現代の文明社会が生れたのである。
機械の時計により世界共通の時間が生れたのである。
時間はそもそも日本でも江戸時代はその土地の暦があったように違っていた。
ましてや国が違えばもう時間も違ってくる。

時間が労働量で決まった時代もあった。

牛で耕作してどれくらい畑をうなったかなどで時間が決まる。
それは牛の時間になる。牛が機械の代わりをしていたときは牛のリズムなのである。
だから牛のように今からするとゆっくりした時間になるのだ。
その時、牛は重みのある欠かせないものとして人間にあった。

トラックは一台運んでいくらという請け負い勘定になる。一台で一回運べばいくらである。その運んだ回数で金がもらえる。運んだ回数が時間であり量も時間になる。
ところがトラックが大きいとかスピードが出るとかなると一回で倍の量が運ぶことできる。そうなると小さいトラックより時間が短縮できる。そこで時間が短くできたとなのだ。それは人間で決めた時間なのである。


●機械に追われる文明の時間


結局現代人が余裕がなくなったというとき、機械に追われる時間になったからである。
時計という機械に追われる時間なのである。一秒一秒刻まれる時間に追われているのだ。牛には牛の時間があったが車には車の時間がある。
車はまず停止することができない、遅くすることもできない、一定の速さで走ることが要求されている。車という機械の時間に合わせねばならない
ところが自転車は遅く走ることができる。これがなんとも不思議なことである。
遅く走ったとき何か心にゆとりが生れたのである。
時間を遅くすると景色すら違ったものとして見えるだろう。
そこに時間の不思議があった。

時間を早くしたり遅くしたりするのは自然ではない、人間なのである。
自然が時間を早くしたり遅くしたりしない
太陽が一時間で沈んだりはしないのである。

矛盾しているのは機械により時間が奪われたということもあるが機械により時間も作り出されていることである。なぜなら家事も機械化すればそれだけ余裕が時間が生れる。
だから一番時間を節約できるのは外食して弁当食べることなのである。
そしたら皿を並べたり洗ったりする時間も必要なくなる
まず家事の最大の手間は食事の用意と料理になるからだ。
さらに金があればお手伝いさんを家政婦を雇えばまるごと時間を得ることになる
だから文明社会は機械によって労働力がはぶかれたから失業するとかまた金によって奴隷的に働かせられるが一方で金があれば時間を得るということもある
時間に関してもそういう両面の働きをしているのである。


ただ皮肉なことはD=MXなのである。距離を2倍にすることは一見機械の発達によって
労働量が減らないように見えるが実際は数学のようにはなっていない
世界から物を運ぶときの負担は実際は大きいのである。

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現代文明の特徴は運ぶ文明でもある。世界中から物と人を運ぶのが文明である。
その負担が確かに減ったのだがそのコストが大きいのである。
ただ運ぶことが麻痺するとき、現代文明は崩壊の危機にたたされる。
原発事故で外から物が入ってこないとき、ガソリンなくて車が動かなくなったとき、
食料すら入らなくなり危機にひんしたのである。


要するに現代は江戸時代などから比べたら千倍の量を物を運ぶ文明なのである。
その運ばれた物を売り買いするようになるから金が力をもつ、自給自足のような社会ではそもそも買うものがない、納豆まで農家で作っていたら買う必要かない、労働でも村の中で協働していたらそんなに金は必要ない、現代は常に外から運ぶ文明なのだから金が必要になり金が力を持つ用地なったのである。
その金を得るにはとをするかというとこれも常に今度は外に向かって外国までも物を運び売る必要が出てくる。そのためにいくら機械化されても労働力は増加して絶えず時間に追われる文明なのである。


時間はそもそも概念でありだからいろんなこと言うが結局時間のことはわからないし定義できない、一方空間はわかりやすい、距離であり距離は計れる。
時間は考えるとき、常にAからB地点へゆくの物を運ぶのにどれくらいかかるとか何かするための時間なのである。何かを移動したり何かを仕上げるのにいくら時間がかるとか
または距離がありその距離をどのくらいの時間で行けるとかなる。
電車だったら何時間、車だったら何時間とか新幹線で何時間とか飛行機で何時間とか
考える。


●時間とは何かをする仕上げる時間である


だから何もしない時間とか時間を遅くするという志向から時間を考えることはない
時間を遅くすることなどできない、地球の時間を遅くしてやろうとしてもできない
実際は早くすることもできない、時間自体がそんなふうに距離ではないから空間でないからできない、だから時間はもともと計れないのである。
時間は実際は具体的あるものではない、空間でもない、時間はそもそも人間が作り出したものである。空間はもともと神が作り出したものである。
空間は共通認識されやすいが時間はそれぞれの時間であり共通ではないのだ。
時計は共通にしたようでも時間はそれぞれの時間であり共通していないのである。

だから一時間の内に何々をしなさいしあげなさいというとき、その時間とは時計が刻む時間である。でも機械によって仕事を早くできたりもできるし長い距離でも機械で早く到達できる。すると一時間でできる到達できることが30分でもできたとしたら時間が30分ちちぷたことになるのた。
だから時間を伸ばしたり縮めたりすることがそもそもできるのかとなる。
時間というのはそもそもないしただ人間で決めた一つの概念だということでもわかる。


だから何もしない時間とか時間を遅くするということ何なのかとなる。
何かをして何かを達成するのが時間の概念としてある。
でも何もしない、達成しない時間とは何になるのかとなる。
それは何かを仕上げる達成する距離をゆくという時間ではない
何もしない時間などももともとない、常に何かを仕上げる達成する距離をゆくのが時間としたとき人間がそう決めたとき、何もしない時間が生れたのである。
何かする時間があって何もしない時間が生れたのでありそもそも何もしない時間そものもがないのである。時間とは常に何かするための時間であり何もしないための時間はただ何かをするために何もしない時間が生れたのである。

石が何もしないというとき、それは何もしない時間ではない、ただ石が在るということである。だから千歳の岩とかいう表現は本当はないのだろう。

I am waitaing for.....という時、誰かを待っている時間である。目的があって待っている。恋人を待っているかもしれないし、仕事するために人を待っているかもしれない。電車にfor Tokyoとある時、何々行きであり目的地につくための電車でありただ漠然として待っているのではない、明確にその時間は目的化して時間がある。
でも岩にはそんな時間はない、誰かを待っているとか何かを待っているとかいう時間はない、そういうふうに思う時は人間が思っているのである。

岩自体には時間はない、ただ在るだけなのである。

時間は関係なく岩が在るということなのだ。つまり在るということは時間に左右されないのである。
石が何もしていないというとき、人間は絶えず何かをしているから何もしないという時間が石に例えられているだけであり石が長い時間をもっているということでもない、ただ一カ所に石が変わらず存在しているというだけである。
要するに人間は絶えず変化するから無常の世である、石は変化しないいつもそこに在るということで時間の変化からまねがれているのである。
石は変化しないから無常からまねがれている。


老子が何も成さずして成る・・というとき、それは自然界は物質は生まれ時、人間が成してなくても何もしなくても在ったのであり成っていたのである。自然界とか物資界は人間が何かを成したからと言って何かなるわけではないという意味である。
すでに成ったものとして在るのでありそれを手を加える成す必要ないという意味である。

木が成長したり果物が実ったり稲が米になったり野菜が成長する花が咲くには時間がかるというとき、それは時間があるからではない、時間によってそうなるのではない
木が成長するのは成長する力が大地から環境から与えられているからである。
果物が実るのもそうである。時間のせいで実ったりするのではない。
時間があってももし大地とか土の栄養分がなければ実ったりしないだろう。
成長してゆるのは時間があるからではない、実るための環境があるからなのだ。

時間というのはそもそも人間が作り出した概念であり時間は自然界にはないのである。
いくらじかんがあっても成長する環境がなければ成長しないのである。

つまり時間だけがある世界はない、何か作用する世界があって時間がある。
木が成長して野菜や果物が実り稲が実りとなるからそこに時間が生れているのだ。
時間とは常に単独では存在せず何かに付随して時間が生れているのである。
もし人間だっていつまでも体力があり若いようになっていれば時間など感じない
時間などなくなるということもない。

だから天国では時間はない、それはいつまでも若いからだとういう。
病気にも老化にもならない体になっているから時間もなくなっているのだ。
時間によって消耗することもないのである。


●時間がたてばすべて忘れる時間が解決するとはならない


人間は確かに百年前とか四〇〇年前とか千年前とかの時間で計るけどそれも人間が作った時間であり変化したから時間がある。
なぜなら太古の自然の状態のままにあったら何ら千年たっても時間の変化を感じられないのである。それでも時間というのは人間が作り出したものでありもともと自然界には時間はないのである。
だから時間がなくなるということは自然界にはいな、ただあるところ在る物が移動したり砕けたりすることはある。ただ時間はそもそもないのだから時間がなくなるということはないのである。年とったとき時間がないというとき、何かをするための時間がないということである。若い人なら一万回できることが百回しかできない、仕事量のことなのである。時間があるないではなく何々ができるできないことが若者と老人の差なのである。
若者には一万回やれる体力と知力があるが老人には百回しかやる力しかないのである。


四〇〇年前の慶長津浪のことを最近盛んに言われているけどそれがどういものかよくわからない、それは四〇〇年の時間が過ぎたからではない、その津浪がどういうふうに作用したかわからないということである。だから時間がたっても当時のことが詳しく記録されていたり何か証拠があれば今でも生々しくイメージできるのだ。
それは時間と関係ないということもできる。作用した現象が大事であり時間がたっても
そうした作用した事実が痕跡として残り記録されていれば時間によって忘れたり消耗されこともないのである。
だから時間が経っても千年たっても二千年たっても歴史の重要な事件が忘れらず昨日のことのように語られるのはその作用したものが時間で消耗しないからである。
だから時間より人間はその作用したことをどうみるかなのである。

相馬藩では一行七〇〇人溺死としか記されないないから慶長津浪のことは探りようがない。それは四〇〇年という時間が過ぎたからではない、その津浪に関してどう見たかということである。それが語られなかったのはどうしてだったのかその時社会状況が問題になる。

要するに人間の問題でもすべてを時間のせいにすることはできない、もう時間が過ぎたら嫌なことは忘れればよいとなれば人間は忘れる、そういうことは津浪の被害で起きている。いつまでもそういう悲しいことにはこだわりたくないという心情が働く、だからついにそういう事実が自然の作用があったということまで忘れる。
それは時間の問題ではなく人間側の態度であり時間がたったからではない
みんな時間のせいにしたら何があっても嫌なことだったら忘れろとかなり時間が解決してくれるとなってしまうからだ。

もちろん時間の浄化作用があり嫌なことも恨んだこと忘れるのはいいとなる。
そういうことをいつまでも根にもっていたら生きるのも苦しいだけだとなる。

すべてを覚えている必要はない、でも時間のせいにしてみんな忘れていいのかとなるとそうはならない。だから時効制度はただ時間を制限しないと処理できないので事務的に決めただけである。それで殺人が時効になるわけではない、それは来世にすらその罪はもってゆくものだとすると消えないともなる。時間で忘れられるならすべてが時間で消失するならそんな罪のことなど深刻に考える必要もないだろう。
時間がたてば消えるんだから時間しだいだとなる。時間がたったらすべては許されるともなる。時間に効用があっても時間にそんな万能性があるのかとなる。


レイテの水を飲んで忘れ生れ変わるというのもわかる。それは時間で忘れるのではない、忘れる水を飲むからである。何かによって作用したことは時間では消えない、それは忘れる水を飲む、薬を飲むことであり時間がたつからすべてを忘れるということではないのだともかく時間のことはいくら語っても語り尽くせない、それは時間は物ではなく人間が作り出した概念だからいくらでもどんなことでも言えるからそうなっているのだ。



参考になるもの

ブラックホールでは時間は止まっていると言われます。
つまり、変化がなければ時間は生まれないのです

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php;_ylt=A2RAEEB_wKVTDCoAHBVoAPR7?page=2&qid=1189635431

時間そのものが多様に解釈される。
ブラックホールには時間がないというとき、時間がない世界あっても不思議ではない
何も変化しないいつまでたっても暗闇しかなければ時間もないとなる
そこにもし光が生れれば時間が生れる、物が現れれば時間が生れる
暗闇一色の世界に変化が生れたからである。

ここはの説明はわかりやすい、物理学と数式になるとわかりにくい
ただ文系でも理系的思考を取り入れることは可能である
そうすると物事を多面的に見れることも確かである
ただそれは自分にはむずかしい、科学的な知識の差が大きすぎるからである。

2014年06月19日

金より時間が貴重だった (その人の能力は人生は何かについやした時間で決まる)


金より時間が貴重だった

(その人の能力は人生は何かについやした時間で決まる)

●金ではすべては充たされない


現代はほとんどの事件が金にまつわるものである。毎日が金、金,金である。
人間は空気を呼吸しいるように金を呼吸して生きている感じになる。
金があればすべてが充たされるという感覚になる。
こうして不遇なのはすべて金がないから金さえあれば充たされる願いがかなえられる
そう思っている人が大半である。
何かできないのは貧乏だったからであり金持ちの家に生れていればこんなことはなかった金持ちの家に生れれば勉強もできたとか常に言われる。

しかし金があっても勉強などできないし頭が良くなるわけでもない、
ある人は金持ちで二人も家庭教師をつけていても一向に頭か良くならないと言っていた。要するにその人の生まれつきもあるしいくら教えようとしても学ぼうとする意欲がないと勉強はできないだろう。

自分なんかもまず勉強は嫌いだったし興味を覚えなかった。
それは性格的な甘えもあるのと能力がないというより他の何か欠けていたのである。
能力というとき人間は頭脳だけではない体力と性格とか総合的なものが影響してくるのだ体力が充実していれば頭脳だって働くのである。

だから天才的な人は柔道何段で東大で医学部出たとかの人がいる
そういう人は生まれつきに優れているのだと思った。
ただこの人はこれだけ生れつきが恵まれていても45歳くらいで病気で死んだというのも不思議である。
こんなに恵まれても最後は病気に呻吟して死んだのである。
つくづく人間の運命はわからないと感じる

自分の姉も体力的にも性格的にも強く優れていた。
だから自分で優秀だと最後まで言っていたが実際認知症になり痴呆になり死んだから
これも信じられない最後だった。
認知症になることはどんな優秀な人でもなり最後は痴呆になるのだから信じられないことなのだ。
だから人間は最後までみていないとわからないものだとつくづく思った。


人生は、長い長い台本の演劇です。
どんな悪役も、あなたのドラマに必要な配役であり、
とくに家族は、重要な役回りです。


http://yuriel88.exblog.jp/19395620/

これなんかうまい表現である。人間は死ぬまで最後までわからない長い長いドラマなのである。最後にどんでんがえしもある。だから死ぬまで人間のことはわからないとなる。

金持ちになりたいと金がほしい、金さえあればこの世の中どうにでもなる、能力も金しだいだとなる。
能力も生まれつきもあるがやはり能力とは天才でない限り積み重ねであり努力がものを言うのである。
何度も言っているが自分は俳句とか短歌を若い時作っていたけどただ五七五とか子供のように言葉を並べたくらいにすぎなかった。
だから今になると啄木のような感性をあんなに若くしてもちえたのか不思議である。
啄木は相当にいいかげんな遊び人的なところがありそれでも自然への感性を若くしてもっていたことの不思議である。
だから自分にはその辺がどうしても理解できないのである。
天才は普通の人には理解できないものをもっているのだ。


でも人間の使う時間はみんな同じであり限られているのだ。金持ちは確かに金をもっている。ほしいものは買うことができるかもしれない、でも特別時間を長くもつことはできない。時間はみんな限られていて特別長くもちえる人はない。
百年生きても百年で時間は尽きるのである。天才だって時間を長くもてずに早世した人も多い、天才も凡才と時間は同じくしか与え散られていないからなんでもできるとはならないのである。その間にやれることは限られているのである。

●能力より何に時間を費やしたかで人生は決まる


自分が旅できたのは金があったからではない、自由な時間を与えられたからである。
旅するにしても宿泊費はかかったが最低限しか使っていない、だから安宿を探すのに苦労した。それは外国旅行までつづいていたのである。
だから旅行先でうまいものなど食べたことがない、腹を充たせばいいというだけである。泊まった宿では食事しないで安い外食ですましていた。

だから貧乏旅行だったけど時間が与えられたから長い旅ができたのである。
単に観光旅行するならいいが旅人となると一カ月くらいきままに旅する人である

だから現代では観光旅行の保養の旅行になるから食べ物にこだわる。二三日だったら旅にならないからだ。
旅人になるには金よりそうした時間が与えられないとできない
それで鹿児島から青森まで歩いて旅していた人には驚いた。
退職して自由な時間を持てたから憧れの自由な旅に出たのである。
ところが意外と退職して自由になったから何でもできるように思えるができない
気力も体力も病気になったりまたは介護になったりと時間が奪われる
現実に自分は家族の介護になってから自分ひとりで全部家事をまかせられて一日たりともそれより一日も自由にでかけられなくなったのである。
つまり完全に自由を奪われたから近くすら自由に行く時間を奪われたのである。
だからつくづくどこにでも自由に行けた時がめぐまれていたなと思った。
それは金に恵まれていたということではない、時間に恵まれていたということである。

他の人は会社勤めになれば自由な時間は会社にささげるからすでに奪われているのだ。
家族をもってもそうである。ただそれはそれなりの時間を費やすからそこに価値を認めて費やしているとなる。
だからすべての人が旅に時間を費やすのがいいとはならない。

ともかく何かするにしても何か学ぶにしてもすぐに時間がすぎてしまうのである。
楽器一つをものにしようとしてもそれも時間がかかるからたちまちすぎてもうできなくなる。いろんなことをものにする時間など人間にはない
どんな才能のない人でも江戸時代になぜ親の職業をつくことができたのか
すべての人が継げないにしても親のやることを身近に見ていて時間を費やせばむき不向きがあっても時間をかけるから会得するものがあったとなる


つまり


成果=xtである。ある人は成果=atとなる。ある人は成果=bt・・・となる。
t=timeである。abcd・・・は様々な分野に時間を費やすということなのである。


●時間についての格言

[三年飛ばず鳴かず]

会社でも事業でも何でも一からはじめるのはむずかしい
会社を事業をはじめた、すぐに成功だなんていかない
いろいろなことを学び試行錯誤して成長してゆくから
そこにも時間がかかる、何かを会得するにはともかく時間がかかる


三年くらいは事業起こしても何ら利益もないし何ら得る所がないかもしれない
ところが自分もそうだったが急いで成功しようとしている
事業をはじめたら成功すると思っているからうまくいかないのだ
現代にはそうした時間の余裕をもてないのである。


若者と老人の最大の違いは何か?
若者はこれから何かをするできる時間と体力や気力などがある
老人は金があっても何かをする時間や体力や気力がなくなることである。
でも若い時このように時間の貴重さを意識してい人はまれである。
時間などいくらでもある、暇でしょうがないんだよ、どうしたら暇つぶせるんだ
そういうふうに思っている若者が多い、自分も若い時そうだった
会社勤めもしないと暇で暇でしょうがなかった。
そこからどうしても小人は不善を成すになるのである。
ところが老人になるといかに時間が貴重だったかを知る
何かをすべき何かを学ぶべき時間がなくなってしまうのである。


[少年老い易く学成り難し]


これも全くそうだった、勉強などいくらでもできると思った。本などいくらでも読めると思った。そのうち時間が過ぎて読んだ本もわずかであり語学もものにならなかった
つまり勉強する範囲が実は膨大なものでありとても一人が学ぶ範囲は本のわずかなのである。古典にしたって無数にありそれだってわずかしか読んでいないのである。


時間だけは神様が平等に与えて下さった。

これをいかに有効に使うかはその人の才覚であって、
うまく利用した人がこの世の中の成功者なんだ。

- 本田宗一郎 -

何かをやって
時間を損するということは絶対にない。
貧乏旅をすれば、
大学を二つ出たようなものだ。
- 永倉万治 -

人間何をしようと時間がすぎる。その費やした時間が人生である。
貧乏旅行でも旅には変わりがない、そこで見聞したものが後の糧になる。
本を読むより実地に旅した方が何かを学べるということで共感する

何かをやって時間を損するということは絶対にない。

これもそうなんだよ、何かを必ず人はする、その費やした時間が人生である。
たとえ雑学でも一分野に時間をかければ独自の学が成ることはある

今になるとつくづく旅でもできないから余計にそう思うようになったのである。
いづれにしろ時間を費やしている時は意外とその意味がわからない
老人になるとこういうことに時間を費やしてこういうことを自分が学んだのだとわかる
例えばカルト宗教団体に入ったことは間違っていてもそれも経験なのである。
そんなこと長くやっていれば別だが人生の一過程として時間を費やしたのが無駄だとは言えない
若い時のやったことアルバイトだろうが馬鹿げたことに見えても無駄にはならない
それは人生の一つの経験だということである。
そして人間は経験できることが極めて限られているからそうなる
出会う人も実際は極めて限られている
馬鹿でも最後にはこれが人生だったのかとわかるしわからさられるのである。


だから労働する時間は貴重である。その労働時間が意義あるものとならないと人生自体無駄だったともなる。俺たちはただ奴隷なんだよなとか金のために働かせられているんだよなとなるとまさにそこに働く意義を見いだしていないのに貴重な時間を費やしていることになる。
時給いくらとか時間を切り売りするような働き方は何か人間を時間的にも部品化しているのである。
それで時給を高くしても今度は人が来ない、労働環境が大事だとなるのは当然である。
そこで働く仲間とか何かの目的に向かって働くとかが大事になる。
ただ時給いくらで使い捨てのようにされるのでは馬鹿らしいとなるのだ。

人生は何が有意義かは個々人でも違っているのだ。

自分が病気で介護で苦しんでいる時、全く助けることもなくパチンコ屋で働きエステが忙しいからと一時間だけいて金をくれとだけ言って東京に去った遠い親戚とか何かおかしいのである。そういう人は強制されてそうなってもいるのだがどっちが今大事なのか?
そういう人は要するに何か苦しい時はその働いている所で人に助けてもらえとならないだろうか?
働くこととはそれだけ貴重な時間を費やすことなのである。
「バチンコ屋がエステでこっちは忙しいんだよ、休むこともできないよ、お前のことなど知らないよ」と吐き捨てるようにして金だけくれと去って行った。
こっちは病気で介護で困っていても何の配慮もないのである。
その人にとってどんなことがあってもパチンコ屋やエステが大事なのであり休むことはできない、自分が死ぬようになってもそうである。
だからそういう人はそれだけしてそこで働くのだからそこが一番大事な場所なのだから何かあったら助けてもらうのもその会社とかになる。
つまり働くことはそれだけ人生の貴重な時間を費やすことなのである。
だからソローは森の生活をした時、そこに人生の貴重な時間を費やすべきものとしてそこで過ごした。労働はみないいものではなく金持ちに働かせられているとか拒否したことでもわかる。

2014年05月24日

老子の思想と石の心 (2千年前に警告されていた文明の災い)


老子の思想と石の心

(2千年前に警告されていた文明の災い)


●科学者(賢なるものが)が災いをもたらした


賢(けん)を尚(たっと)ばざれば、民をして争わざしむ。得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗みを為さざしむ。欲すべきを見(しめ)さざれば、民の心をして乱れざらしむ。
 是を以って聖人は、其の心を虚しくし、其の実を満たし、其の志(のぞみ)を弱くして、その骨を強くす。常に民を無知無欲ならしめ、夫(そ)の知者をして敢えて為さざらしむ。
 無為を為せば、即ち治まらず無し。(老子・3章)

現代はこの正反対の世界になっていた。賢を求めても人は賢たりえない、この賢の解釈にもいろいろある。科学も賢であり賢が肥大化したものでもあった。人間は賢たらむとしても賢になりえないのだ。何が賢で何が愚かもわからない。愚なるものが賢であったりする。禅では大愚は智者である。人は大愚になりえない、いつまでも小賢しい知恵でたちまわる。老子の思想は禅に通じていたのである。
得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗みを為さざしむ。欲すべきを見(しめ)さざれば、民の心をして乱れざらしむ。


資本主義とはこの正反対の世界をあくなく追求しているのだ。あくことなく欲望をいらぬ欲望まで刺激されて消費させられる。その時消費とはまさに虚しく消えるものに使っているということである。そういう自分も現代社会に生きることはその中でその体制の中で
強いられるのである。様々な欲望をおさえることがいかにむずかしいか、それは身近な買い物でわかった。毎日買うことに追われている。今や料理でも家事でもいかに買うかでありいかに工夫して自給自足するかではない、農家では納豆まで作っていた時代があった。その時はいかに自給自足するかであり買うということは極力なかったのである。

なぜこんなに買うものがあるのだろうとなるとき、そういうふうに社会が仕向けているということもある。それは資本主義でもある。だからこそ金が現代では命より大事だとなる。そして買うために借金してまで買っている。借金して無理してやり繰りしていることが非常に多いのである。

都会にいれば田舎よりもっと欲望が刺激されるから金が必要になる。現代では金が限りなく必要になるようにできているのである。
自分のつきあった人たちも一見裕福だと見えた人たちもみんな無理していた。多額の借金で成功を装っていたものやいい職人の腕があるのにブラックなものに手を出すとかそこには限りない欲があった。原発もまたこうした限りない欲から生れたのである。
原発の危険性より金、金,金となっているからこそ地元に金がおりるとなればそん危険など考慮するものはいない、小高でも原発できれば金になると歓迎していてすでに工事がはじまるところだったのである。

現代の欲望資本主義は老子の時代からすると百倍千倍とかの贅沢をししているだろう。
それでも足りることはない、足りない足りないと金がない金がないと世界中でそうなっているのだ。
だからどうして2000年前にこうした欲望を制止する思想が生れたのか不思議である。
逆にその時代ならもっと欲望を刺激するほかが理にかなっていたのである。
それでもそういう思想が生れたことは人類の普遍的な警鐘となっているから見直されるのである。


常に民を無知無欲ならしめ、夫(そ)の知者をして敢えて為さざらしむ


この知者とは今では科学者にもなるだろう。科学者は実際は恐ろしいものがあったのだ。原発を元となる放射線を生み出すものを作り出したのも科学者である。その知者はまた人類に最大の害を及ぼすものを作ったともなる。なぜなら核が発明されて現実に日本では原爆が落とされたからでる。そして人類は核戦争で滅亡するだろうとまで言われるようになったのである。


●兵は不祥の器にして、君子の器にあらず

老子の思想にはそうした文明そのものを否定するものがあった。ただ哲学としてもあり個々人に適用される。「何も成すなというとき人間にとってそのことが一番むずかしいことなのである。人間は成さなくていいことを成して失敗している。それは個々人でもそうであり社会的にもそうである。原発など作らねば良かった、成さねば良かったと今ではなっていることでもわかる。人間は何であれ成すことをとめられないのだ。それは欲望に発していて欲望がとめられないということもある。資本主義はさらに欲望を刺激して欲望を増大させるからさらにそうなる。なぜこんなに食べるのもが増えてくるのか?
豚から牛から鶏から何でこんなに食べねばならないのか?
日本人はもともと魚介類で満足していたのである。その結果として様々な病気や伝染病も起きてくるのである。

それは動物でも同じだった。ネコに自分が食べている魚の余ったものとかサミシまで一切れなど食わせたらその味を覚えたのでまたねだる。市販の猫の餌だけでは満足できない、いろいろな味を覚えたから欲望を刺激されたからそれを食べたいとなる。
その味を知らなければないなりに満足していたのである。

いづれにしても人間はどんなことをしても成さなくてもいいことを成すように宿命づけられているのだ。それは個々人の人生でもそうである。青春はまさに狂気の時であり若気の至りにならない人はいない、無謀と横暴と狂気になるのが青春である。自分でもカルト宗教団体に青春を浪費したのもそうである。一生を浪費して犯罪者として死刑となりオウムではなったから優秀な人材のなんという浪費だろうと思う。それは過去にも戦争で起きた。優秀な人材は若くして戦場に消えた。その数はまた途方もないのである。
それは成さなくてもいい戦争を成したからである。その善悪は別にして戦争ほど無益なものはないのに人類は戦争をやめられないのである。
兵隊とか警察官などない方が一番いいのである。それこそ無用なものである。自衛隊でも警察でも何も成さない時、一番平和な時だということである。兵隊とか警察官に用がある時は平和ではない、兵隊とか警察官は使われない時平和なのである。

兵は不祥の器にして、君子の器にあらず。已(や)むを得ずしてこれを用うれば、恬?(てんたん)なるを上なす。勝ちて而(しか)も美ならず、而るにこれを美とする者は、これ人を殺すを楽しむなり。夫れ人を殺すを楽しむ者は、則ち以(も)って志を天下に得べからず

兵隊は警察官などはやむをえずしてあるものでありそれらを積極的に活用するようなことは平和な時代ではない、だから戦争を賛美することなどあってはならないことなのである。兵隊がやむをえずあるとうときやむをえず戦うということはありうるからある程度は肯定している。しかし積極的には肯定はしない、やむをえないというとき兵隊をもち得るのである。人間はやむを得ないという時行動する。あえて善を主張し行動するのはかえって社会を乱すし個人的にもそうなる。行動でもなにか間違った行動が多過ぎるのである。
「なぜそんなことをするのか、しなければいいのに」ということが犯罪でも日々ありすぎるのである。それは欲望をおさえられないとか石のような心をもてないことにあったのだ。だから結局石のような心をももつことが至難なのである。
それはようやく死に近くなって悟り石の心をもつことがきるとなる。
ようやく成さなくてもいいことを成さないという境地にいたる。

いづれにしろ原発問題は個々人の思想の生活の問題でもあった。

欲望資本主義の問題でもあり個々人の欲を制御しないかぎり原発はとめることができないということもあった。
「お前は電気なしで暮らせるのか、山なのかで霞でも食って生きていけ、江戸時代に帰れ」とかなるがそんなことはもう非現実的であり今は時代が違うとなるがではこのまま欲望に歯止めがかからないとどうなるのか?
そんなことどうて もいい、社会なんかどうでもいい、俺は俺の欲望を充たすだけだととなっていいのかとなる。そうしたらいつまでも原発は必要だとなりこの問題も解決しないのである。つまり個々人の生活を見直すことが原発をなくす社会に通じる。
社会的に原発をやめても個々人の心が以前として限りない欲望を求めていたら結果的に同じなになる。根本的解決にはならないのである。


●石の心をもて(詩)


石の心

石とは何なのか?
石とは愚かなことをしないこと
石には正心がある
人の心は乱れている
人は必ず愚かなことを成す
人は罪を犯す定め
人の心は鎮まらぬ
人の心は容易に狂気と化してゆく
人の心は感情的に燃え上がり
正気を失い過ちを犯す
青春の狂気と横暴と爆発よ
誰しも若気ののいたりがある
愚かなことを成さぬものはいない
小人閑居して不善を成す
石のようにその身を正してはいられない
集団に理性はなく感情的に動く
そこに思慮深さはなく
容易に煽動されて地獄へも道連れにする
ああ 愚かなること成さぬ石よ
山の奥処にそは千歳鎮まっている
威厳に満ちて傷なくそこに在る
その傍らに延齢草がそっと咲いている
その岩に寄り添うものは可憐な花
謙虚な花である
愚かなることを成さぬ石よ
そは世を離れて山の奥処に在る
そこに所を得て世を忘れる
そこにこぞ幸いのあるを知るべし
その他は世はただ災いと乱れのみ
それはこの世の終わりまで継続される
汝はそこを動かざれ
神しろしめぬその石よ
狂気の世を離れてそこにあれ
人の世の狂気は決して収まることなし
それは次の代も延々とつづく
人はカルマの繰り返し
人は決して愚かさから脱せられぬ
それ故に諺とて変わらぬ人間の真理
人間とは科学が発達しても変わらぬ
科学は原発のようなものを作るも
それ故に破滅するような愚かさになる
何も成さすにいられのぬが人
何も成さぬが良い
老子はついに函谷関に人知れず消えにしを・・・

 

2014年05月10日

人生は時間を何に費やしたかで決まる (人間の脳は日々の経験努力が刻印されて後天的に作られたもの)


人生は時間を何に費やしたかで決まる

(人間の脳は日々の経験努力が刻印されて後天的に作られたもの)

●語学の習得は脳に記憶を刻印させること


人生というのはどんな平凡な人でも才能がなくても最後に60代にその一生が自ずと明らかになる。
つまり人間は決して60代になる人生の最終章になることをリアルにイメージできない、
その歳になるとどういうことになるのかイメージできない。
みんな時間など無限にあると思っていたし時間をつぶすのに苦労していた。
時間なくなることが一番イメージできないのである。

金がなくなるきことは若い時でも俺はフリーターだからニートだから老後は金がないから悲惨だろうなとか、
親の資産があるから俺は大丈夫だろうとか予想している。
金は具体的だから予想しやすいのである。
時間は具体的にもっているものではない、土地がある家がある金があるとか何か具体性に欠けている。
だから金だったら節約もするが時間を節約するということは具体的でないからできない。
そこで時間は常に知らずに失われているのだ。


何に時間を費やすかで人生が決まるというとき、わかりやすいのは語学の修得である。
これは天才は別にして語学の修得には非常に時間がかかる。
英語を日本人は中高校大学で学んでも習得できないことでもわかる。
それはまず学び方が悪いということもある。英語に日常的に触れられないということもある。
そういう悪条件があるのだがやはり語学の修得には時間がかかるということである。
一般的に学問自体が時間がかかるものなのである。
「それで少年老いやすく学なりがたし」となっている
語学はやはり嫌でも暗記だったり苦しくても無理して読んだり書いたりと訓練する度合いが強い。
もちろん他の学問もそうなのだが語学が一番努力を要するものなのである。
だから二カ国語の外国語をものにできる人は極めてまれになる。
一カ国語すら無理なのだからそうなる。

そしてわかったことは記憶は脳は日々の生活の学びの中で作られてゆく度合いが大きいのである。
天才は生まれつき体力的にも能力的にも恵まれているからそういう人は例にできない。
一般的に脳は日頃の訓練で作られてゆくのである。
脳の記録の回路も何も作られていないが時間を重ねて作られてゆく。
だからその人が記憶されることも作られていたのである。


個々人の脳は努力の結果記憶が刻印されたものである


記憶すら長年の積み重ねで作られたものだった。それが語学の場合顕著に現れる。
語学だとどうしても単語を覚えねばならない、母国語のように自然には頭に入らない。
つまり恣意的に意志でもって無理にしてもでも脳に記憶を刻印させねばならなかった。
そういう努力を常にしていなければならないのが語学の習得には必要である。
だから語学の修得には時間がかかる。語学は何か数学などと違い特別な才能というより
時間をかければ習得できるという感覚をもつ、でもその時間は膨大になってしまうのである。
だからとても普通の人は一生かかっても一つの外国語も修得できないのである。


●人間の脳は日々の生活の努力で刻印されたもの


ともかく語学で例えると時間がいかに大事かわかる。今になると時間がないから
語学にさく時間がないからもう英語すら自分は学べないしもうかえって忘れてゆくから語学能力は減退してゆく。
ただそれでも脳に記憶されたものがあるからまだ全然わからないということではないのだ。


人生とは数式化すると

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まず時間を何費やすかがある。abcdef・・・と費やすべき時間がある。
でもaに時間をかけたら時間は100とか一定だからbcdefには時間をかけられない。
aに50をかけたらbcdefで50を割らねばならなくなる。
人間は与えられた時間が限定されているからあらゆることに均等に時間をかけることはできない。
普通語学ばかりに時間をかけることはできないから英語でもものにしている人は少なくなる。

そしてもう一つは金を何にかけるかが問題になる。費やす金によっても人生は決まってくる。
現代は特に金が大事になるのは時間を金で買うことや金で効率的に暮らせるということである。
金があればもし語学でも専任の講師を雇えばいいとなる。そういことを大金持ちはできる。
すると語学修得の時間の節約にはなる。

それにしてもやはり語学修得には努力が必要であり時間がかかりすぎるのである。
金があっても時間は限られているから金がなくてもその人なり価値あるものに時間を費やせば
人生の最後に収穫、実りをかりとることができる。

その例として本でも若いときはいくらでも読めると思っている。
ところが本はむずかしいのになると若いとき理解するのがむずかしい。
それでもむずかしくてもなんとか理解しようとして読むことが必要になってくる。それは語学の修得とにている。
なぜなら老人になると読む時間とエネルギーもなくなってくるからだ。
そして実際に読んだ本はわずかでありその読んだ本にしても理解できたのはわずかだったとなる。
でも読まないよりは良かったとなる。
そしてくだらない本を読んで時間を費やして失敗したとなる。なぜなら有益な本は読めなくなっているからだ。
本というのは厚いし何度も読まないとわからないことがある。
何度も読んでいる本はいい本なのである。そういう本にしてもなんか何十冊くらいしか残らないだろう。
それほど本も読めなかったのである。

結局自分の場合、青春はカルト宗教団体に浪費された。ただこれもすべてが無駄だとはいえない。
なぜならどんな無駄なことでもそれは経験になっているからだ。
何かをどんなことでも経験することがついには老人になるとできなくなる。
だから馬鹿げたことでも経験することは限られているから貴重だったとなる。
だから自分はカルト宗教団体については内部にいたから批判できる。
つまり内部告発できるのはあることに詳しくなれるのは内部で経験を積んだ人なのである。
官僚だって内部で時間をついやした人が詳しくなれる。
でも一人の人間の経験はわずかだからあらゆることに詳しくはなれないのである。


いづれにしろ青春でもあっというまに終わってしまう。ただではすべて消えてしまったかというと消えていない、
心に脳に記憶された刻印されたものが残りつづけるのである。
だから60過ぎると過去が生々しく甦ってくることが実際になる。
それは青春時代がそうなりやすい、だから自分の姉は死ぬときまで戦争のことを語り死んでいった。
四年間従軍看護婦で働いたからそのことが忘れられないのである。
それも青春時代だったから忘れられない、だから今も生き残っている戦争経験者は90になっても忘れられないのである。
それが生々しく甦ってくることがあるからだ。
戦友の顔だって生々しくよみがえってくることがあるだろう。
もちろん青春時代に悪いことしたことも刻印されて消えないのも怖いことである。

老人になると何でも結果として現れてくる。
それは一人一人違っているにしてもそうである。

自分は旅に費やした時間が100の内、60くらいになっていたかもしれない。だから今になると全く旅ができない、
するとただ思い出す旅になる。その旅も忘れいるのが多いのだが時々よみがえる。
何十年前でもよみがえることがある。何でも時間がたったからといって消えるわけではない、
経験したものがよみがえってくることがあるのだ。

花を覚えるにしても名前を覚えるだけで大変であり季節的にいつ咲くとか名前だけではない
その花がどんなものかイメージする必要がある。
花の名前だけでも百くらい覚えるとなると大変になる。
それが俳句を作る基本にもなる
その花をしるのも毎年毎年花を見ている必要があるのだ
毎年毎年見ていても花は新鮮に見えるし新たな花も知る
花の種類だけでも外国産もあるし品種改良したものもあるしと
花の世界も広大なのである
だからくだらないものに時間を費やしていると花の世界もしりえない
時間がまたたくまにすぎてしまうからである


●石の貨幣の価値を決めるのはその経歴だった


面白いのは石の貨幣の話である。


個々の石貨には価値が厳密に設定されているわけではない。石貨の価値を決めるのは個々の石貨の来歴であり、それを所有している者とそれを譲られる者の話し合いによって譲渡の条件が決定される
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%83%E3%83%97%E5%B3%B6


海中に沈んだ石貨があった。それを取り出して舟でカヌーで運ぶの苦労した。
その苦労を語ることによってその石貨の価値が決められたというのも面白い。
だから一億円の金は同じ価値があるとは限らない、デイトレーダーとかが一日でパソコンを操作してかぜぐことができる。
同じ一億円でも命懸けの仕事で稼いだという人もいるだろう。
その話しを聞く時、命懸けで稼いだ人の話しは価値があり同じ一億円でも中味は全く違っているのである。
要するにその経験の方に価値がある。
俺はあの危険をのりこえて金を残したとか自慢できるのである。
その経験もただ金を残したというだけではない、実際はその人の人生を豊かにして力となっているのであてる。
あんな苦難を乗り越えたということが自信にもなるのである。

電気関係の電設工事の人が財を築いたのは請け負いであり会社員ではなかった。
個人が請け負いもらっていた。だから仕事を増やせば働けば働くほど金になる。
そうして財を築いた。会社員だったら決められているからそんなに財は築けない
ただその時は電設工事でも高度成長時代だからいくらでも仕事があり時代の影響でも
一代で財を残した人が団塊から上の人には多いのである。


ともかく時間がいかに大事かを知らないとあとで後悔してもあとの祭りになってしまう。
インターネットなどでも無料が多い、それはいいことなのである。
なぜなら何であれ時間を費やすものが価値を決めるのである。
本でもインターネットでも金を払うから価値を決めるのではない
そこに貴重な時間を費やすから価値がありうる。
だから無料でもすべて質が悪く読むに値しないということはない
なぜなら無料でもそこに時間が費やされたものに価値があるのだ
もちろんくだらないものに時間を費やせば本でもインターネットでも結果的に何も残らないのは同じなのである。

2014年04月04日

人間の最大の危険は奢りにあった (優秀な人でも奢りで失敗するー人間は結末まで見ないとわからない)


人間の最大の危険は奢りにあった

(優秀な人でも奢りで失敗するー人間は結末まで見ないとわからない)

●技術者として優秀だった人が事業主になり経営に失敗


その人については誰もとれない建築関係の免許をとっていた。
だからそういう免許をとっているから教えてもらいたいということで訪ねる人もあった。
その人は頭が本当に良かった。まずそうしたむずかしい第一級の免許をとることは普通できない
だから建築の設計でもその人にみてもらっていた人がいた。
そううい技術的な面で一番上に立つ人だったのである。
だからこそ独立して事業をはじめた。

そういう技術をもっているから独立しても事業をはじめ成功すると思っていたのである。
でも実際は事業に失敗したいた。
借金していことが最近わかったからである。
でもまだそのことは回りでは知らないし家族でも知らなかったのである。
そうした最高のむずかしい免許を取得していても独立して事業をはじめて一人でも
事業をはじめて経営するとなるとその経営能力は別物なのである。
それは別に理系だから文系だからできないものでもない
経営能力とは戦国時代なら信長とか秀吉とか家康のような能力が必要になる
それは鉄砲を作る技術者とも違うのである。


おそらく東電では優秀な人達の集まりでも経営に失敗したのである。
原子力という高度な技術を操作する集団でも経営能力が欠如していた
経営能力はトータルな能力であり相当にむずかしいものになる
技術的には優れていてそこに奢りがあって失敗した。
それは個々人でも俺は優秀なんだというとき奢りが生まれ失敗に通じる。
東電がいかに奢っていたか、何度もプルサーマルで危険を前の知事が
警告しても聞く耳をもたなかったし津波の研究がすすんで
貞観津波のことで警告しても聞くこともなかった
それだけ独善的になりうる権力があったからである。
権力をもつと人でも集団でも独善的になり暴走する
東電はあらゆる権力を操作する力をもっていた。
政治家から官僚(検察)からマスメディアから権力を有して操作できた。
それだけの金を産む産業だったのである。

●高い地位の人が事業して失敗


奢りが失敗に通じるという時、自分の母方の実家がその例だったのである。
自分の祖父にあたる人はあってもいないし全く人となりも知らない
でも警察署長だったのである。
そして絹織物の工場をはじめた。
その工場が倒産して一家離散の悲惨な状態になった。
それで自分の母親そこら苦労の連続となってしまった。
子供の時は裕福な暮らしをしていたのだが苦労の連続しかなくなった
その当時はみんながそういう苦労を背負わされたから特別ではなかったにしても
やはりそうした苦労を背負わせたのは父親だったのである。
その父親は工場の経営など何も知らなかったのだろう

ただ警察所長として偉い立場にありいつも威張っていたから
工場経営もできると思っていたのである。
だから母は父は威張り屋だったと言っている
威張るだけの人だったのである。
警察所長になっていもそれが特別能力があるからなっていたわけではなかった
ただそういう地位にあった結果、自分は特別な能力があると思ったに違いない
そういう地位についていて奢りが生まれた。
だから会社を経営しても成功すると思ったのだろう。
ただその経緯はよくわからないから詳しくは言えない
会社経営で失敗している人などありふれていることなのだ
経営に成功するのは20人に一人だということでもわかる
だからそううい事例はこの世にいくらでもあるのだ
そのために実家はなく墓だけが残っている

人間が優秀なこと頭がいいことが成功に通じていないことである。
普通はそんなことがないと思うだろう。
頭がいいことに越したことはない、みんなそのことで一番悩んでいるのである。
体力だってあった方がいいし頭も良くなりたいとみんな思っている
そうして優秀な人の頭がいいという人の一番の問題は奢ることなのである。
謙虚さが失われることである。それが落とし穴になる
技術的に優秀でも経営は別なものでありその能力は技術の能力とは違っている
でも一つのことに優秀なら他のこともできると奢りが生まれていた。
その奢りが失敗に通じていたのである。

●優秀な人が認知症になり痴呆になった驚愕


自分の姉も特別に頭もよく体力もあり人間的にも優秀だった
学校も一番であり太っていても体が機敏なのである。
だから看護婦になりシンガポールで4年間も戦争で辛酸をなめた
その苦労は並大抵なものではないし普通の人には耐えられない苦難だった
だから死ぬ直前までその戦争のことを語りつづけていたのである。
ちょうど青春時代をそこで過ごしたからそれが忘れられなかったのである。
その後保健婦とか役場になり公務員になった
そして自分はいつも優秀だと言って自慢していた
手術して生死の境にあったときも「俺は優秀だ」と言ったのをなんとか自分は聞き取った
そんなに優秀なことにこだわるというのも自分のようなあらゆることに不出来な人間には理解できなかったのである
これだけ心身ともに優秀な人も最後は認知症になり馬鹿に痴呆になってしまったということが未だに信じられないのである

人間の結末は本当に意外でありわからない
そんなに優秀な人はが本当の馬鹿にな痴呆になり死んでゆくことがあるのだろうかと思った
現実はしかし否定できないのである。
家族ではあるが客観的に見ればそうなる

一方で姉が優秀であり他者を馬鹿にしていることがあった。
それは身内でもありまた近くの親しい人でもあった。
近くの人は何か馬鹿のように見えた女性である。
でもその女性は実際は情に厚い親切な人であった
それで馬鹿になった姉のことを嫌わずにみてくれていたのである。
それもなんとも不思議な光景だった

あれだけ優秀な人が本当に馬鹿になり馬鹿のように見えた人に世話になっている
それも実に不思議な人間模様だった
人間は最後の結末を見ない限り人間のことはわからない
どんなに優秀な人でも最後に認知症になったら悲惨である。
これまでの優秀さはなきものになってしまう恐怖だった

一方で母は体も細く頭も悪いとされていたから自分と同じである
しかし不思議なことに認知症でも軽く金のことなどまるでわからないことは共通しているが
その他のことはわかっている
反応がまだあり病院にいること、老人保健病院でもそこがいいと言う時、正常な反応をしている
これも99になっているのだからまだそうして正常な反応していること自体凄いことだと思うようになった。

母には何か優秀なものはなかった。控えめなおとなしい女性だったからである
だから奢りをもつようなものは何もない、そもそも何かに奢るということがありえないのである
それは近所の情の厚い女性もそうだったのである。

でも今になるとこの愚かなものと見えて優秀なものがない女性の方が
人生の結末から見たら優秀だったとも見える
そうは言っても優秀な人がいないなら高度な文明など築きようがない
優秀な人は何をできて成すことができる
そういう人達がいなければ社会はそもそも成り立たないのである

ただ人間の落とし穴は奢ることにありそこから墓穴をほる
それが失敗につながり終わっているのだ
原発事故も人間の奢りから起きたことはまちがいないのである
人間はあることについては優秀でも他のことについては優秀だとはならない
一つのことが優秀でもすべてのことに通じることはできないのである
技術が優秀でも経営はまた別なものでありその能力をかねそなえることはむずかしい
いづれにしろ人間の危険は奢りにありそして人間のことはその結末までみないとわからないということであった

歴史でも奢れるもの久しからずでありそれは人間個々人にもあてはまるのである。
 

2014年04月02日

人は人を理解できない (相手の身になることができないから)


人は人を理解できない
(相手の身になることができないから)



人は人を理解できない
男は女を理解できない
女は男を理解できない
大人は子供理解できない
子供は大人を理解できない
若い者は老人を理解できない
老人は若い者を理解できない
性格が違うと人は理解できない
理系は文系を理解できない
文系は理系を理解できない
職業が違うと理解できない
無数の職業があり理解できない
医者は看護師の気持が理解できない
看護師は医者の気持を理解できない
親は子の気持を理解できない
子は親の気持を理解できない
与えられているばかりの人は
与える人の気持が理解できない
人に与えてみてその気持が理解できる
野菜を苦労して作る農家の人を消費者は理解できない
立場が違うと理解できない
住む場所が違うと理解できない
千円二千円を大きな金としている
貧乏人を金持ちは理解できない
一万円くらいを借り貸ししている
貧乏人を金持ちは理解できない
毎日その日暮らしの人を理解できない
なぜそんな小さな物に金にこだわるのか?
その人にとってみればその日の金に事欠いているから
一方で十万もはした金になっている人もいる
一万を貸し借りしてもめている貧乏人のことは理解できない
貸している人は借りている人の気持を理解できない
借りている人は貸している人のことを理解できない
人を雇い働かせている事業主は
働いている人のことが理解できない
働いている人は経営者のことが理解できない
外国人になるとさらに理解できない
言葉が理解できない
習慣が理解できない
宗教が理解できない
理解できない、理解できない、
互いにその人の立場になることができない
互いに理解できないことが分裂を産む



なぜ離婚がこんなに多いかのか?それはそもそも男女が根本的に理解しにくいことが根底にある。男性でも女性でも互いにかみ合わないものを根本的にもっているから理解できずに離婚が多くなる。人の性格もまちまちでありそれは男女関係なく大きな障害となっている。人間関係ほどむずかしいものはない、理解できないものの方が無数にあり理解し合うものは少ない、社会がこれだけ複雑化するとさらに理解できない、隣が何をしているのかもわからない、だからまず理解できないものとしてこの世はありいかにして理解するようにするか?それが問題なのである。

人は人を理解できないのは立場が違うと考え方違ってくるからだ。金を貸す者と借りる者は立場が違っていて理解しあわない。貸す方にすればなぜ貸したのに返さないのかと思うのは当然であるが借りた方にすると何かもらったような気分になっているのだ。
だから一旦借りたものは自分のように思っているのだ。だかさ返せと言われると理不尽にさえ思っているのである。だから人は金を貸すことはしたくない、借りた方がそういう気持になっているのが人間の心理だからである。貸した方が馬鹿みたいな感じになるのだ。だから金は貸すな貸すならくれろとなる。


貧乏人の気持も今はわからない、なぜその人千円とか二千円にこだわっているのか?
わずかのモノにこだわっているのか、昔ならもったいないというのは自然でありわかる。
でもその人は貧乏暮らしが長いからそうなっている。
毎日の暮らしに事欠いているからそうなっているのは自然なのである。
普通に今の標準で暮らしていればそういうことはない
それでもそうした貧乏な人はこの豊かな社会にもいる
なんでそんなにせこいのだ、考え方もせこいと嫌悪感を感じるがその人にとっては違う
その人は日銭が欲しいというのもそのためである。
それほど困っているのだが雇う人はそのことを見ていない
そうして働いたのに金をもらえなかったのに憤っているのもわかる
ただ外から見るとなんかせこいというかいつまでもそんなことにこだわっているのかとみるが
その人にとっては日々の生活費がなくなるから深刻なのである。


人間はこうして無数に理解できないものを互いにもっている。
その理解できないものがあるということをまず理解する。
知らないいうことが無数にあることを理解することから理解がはじまる
何でも知っている自分は正しいと思っていると理解できない
相手の言うことが何でそんなに責めるのだともなる
そこには性格の相違も大きく作用してくる。

こんなにしつこいのが女性にもいるのかとなる
女性は従順なのがかわいいとかなる
でもその女性にしたらそれでは生活ができないとなりしつこくなる
一片のパンにさえこだわっているのである。
今の時代にずいぶんせこいなと思うが本人にすればそうは思わない
日々の生活費に事欠いているから小さい金にうるさくなっているだけなのである


人間はまず自分だけを理解されたいと思っている
不遇の人でも貧乏の人でも自分のことを延々と語る
でも理解されたい相手もまた自分のことを理解されたいと思っているのだ。
病気の時、苦しい時、なぜその苦しさを理解するのではない
自分たちの苦しいことを借金を要求してくるのか
または自分が苦しんでいる時、相手はその苦しみをともにしようとはしない
ただその人から利益を楽を得ようとしている

それはいいとして苦しんでいる期間は相手を思う余裕さらないのだ

相手を理解するには本当に余裕がないとできない
余裕があればじっくりと聞くこともできる
ゆったりと反応することもできる
自分が病人でさらに介護までしているとき他人の困った相談にはのれない
しかし切羽詰まっているからそんなことおかまいなしになる
それがエスカレートすると一種の身勝手な強盗や殺人にもなる
実際そういう目にあってきたのが自分だったのである

 
 

2014年02月17日

カルマについつての考察 (個々人の人生の謎がカルマで解けるから?)


カルマについつての考察

(個々人の人生の謎がカルマで解けるから?)


●なぜカルマの思想が生れたのか?


人間が輪廻のサイクルにあることを“苦”と考え、そこからの“解脱”を宗教による救いの最終目的と考えています。インド人にとって救いとは、苦しみの輪廻から逃れることに他なりません。

輪廻は「カルマ(業)」によって引き起こされるとされます。カルマとは、前世の行為が目に見えない潜在力となったものです
http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-7/sp-thought1-7-01.htm


仏教では、生前での生き方、為してきたことの結果によって生まれ変わる世界が決まると説いています。それは「自分の為したことが返る」というカルマの法則に基づいています。

カルマというとき宿命とかもなりいろいろな解釈がある。ただなぜインドでこういう思想が生れたのかということである。それは百年とかの単位で生れたものではない、仏教の思想はヒンズー教に由来している。キリスト教は旧約聖書に由来している。
その歴史は人類かはじまりから生れた思想である。
だから仏教でもヒンズー教に由来しているという時、ヒンズー教を知らないと本当は深く知ることはできない、キリスト教でも同じである。
そして何の宗教であれ思想であれ慣習のようなトーテムの原始宗教であれいちがいにそれらを古いとして近代的な思想で批判はてきない、奇妙なことは現代思想こそ実際は百年単位とかで生れたもので人類史をさかのぼれば一時期の異様化したものとして後世にふりかえられる。

カースト制が古いし差別だという時もそうである。それが成り立つ伝統社会があって生れた。だからそれはそれなりに合理性があり社会を形成する。差別だという時それは現代からみてそうなのであり当時は別に当然であり社会的合理性があったともなる。

奴隷すら人類史では進歩したものだったという。なぜなら戦争で負けたら皆殺しにされたけと奴隷として生かすことは進歩だったとなる。だからカースト制にもそれがなりたつ歴史があり否定するにも簡単に一言ではできないものをもっている。

江戸時代の士農工商も差別だとなるがこれも江戸時代の社会ではその社会を成り立たせる基盤でありこれを否定したら社会は成り立たない、侍は別に支配階級でぜいたくしていたとはいえない、ヨーロッパの貴族でもそれなりの役割があり社会を維持していた。
だからマルクス的階級論は歴史的現実社会に適用されないで失敗したのである。


●カルマの思想で解ける人生の謎


カルマというのにキーワードでも関心をもつのは人間というものがその人間関係でも家族でも結婚因縁でもそうした諸々の人間の事象が不可解だからカルマとは何なのかと関心をもつ、それぞれの人生でなぜある人はある人と結婚する。それは好きだと嫌いだとかあるにしてもただそれだけではない、何か前世からでも結婚する因縁があったのではないかとまでなる。結婚は好きだから結婚しても三分の一は離婚している。別に見合い結婚でもうまくいっている。それはなぜなのか?見合い結婚は家と家同士の結婚だから意外とうまくいっている場合が多いかもしれない、かえって恋愛結婚は離婚している割合が多いかもしれない、そこに家系とか家がもっているカルマなども関係してそうなっているのかもしれない。家系がもっているカルマなど恋愛結婚ではわかりえようがないからだ。

そのカルマがわかるのは何十年もたってとか人生の終わりに自覚したとまでなるからむずかしいのである。結婚などはただ相手の姿形だけを見ているから失敗するのかもしれない。それ以上に家系やその人がもっているカルマなど見ないからそうなっているのかもしれない。それはまた見ることも簡単にできないから結婚して失敗したとなる人が多いともいえる。


そもそもこの世に生を得たということはすでに業(カルマ)があって生を受けた。何らかのカルマがあったから今の生がある。だからそのカルマを解消しないとまた生まれ代わりカルマを解消しなければならないとなる。人類全体でもそうではとないか、その個々の人生でもそうである。同じカルマを延々と繰り返し活きている。人類でも同じカルマを繰り返す、戦争でもそうだし今回の原発事故でもやはり一つのカルマであり火を盗んだプロメティウスの過酷な罰を受けた神話的場にすらなってしまった。神話が現実化して個々人がその刑罰を担うことになったのである。人類的歴史的カルマが現実化した驚愕があったのである。

具体的には個々人では常に訴える人がいる

「なぜ自分はこんなに苦しまねばならないのか」
「なぜ自分はこんなに貧乏なのか」
・・・・・・・・・・・・・・


それは障害者をもった人なども言うしなぜ自分は自分の子供でこんなに苦労しなければならないのかとか訴える。
ある人は結婚した相手が20代で大病にかかり一生世話させられる羽目に陥りそのことを延々と嘆いてきた。
確かにそれは同情すべきことであった。
でもそれがなせなのか?というとき不可解になる。
なぜその人だけがそんな苦しみを受けねばならないのかとなるからである。
それはなぜなのかと問うとき謎になる。

よりもよってなぜ自分だけが若い時から身体障害者や知的障害者など世話しなければならないのか?

そういうことも謎であり納得する人はいないから他者にその不満を訴える。
そうするとそれがなぜなのだろうとなりカルマだったということが一つの解答になる。
つまり前世に由来していてあなたはそうした病人や身体障害者や知的障害者を世話しなければならない因果をもったのだとなる。


●カルマは社会やた他人の生ではない前世のカルマ(行為)に由来している


それも何か合理的に最近納得した。そういう不幸な人は不幸になる因縁があったと思うようにもなった。なぜならその人と深くつきあってわかった。
その人は他者を弱者を虐待するような人だったのである。
だから自分が病気の時、弱った時いろいろ責めてきたことでわかった。
その人は前世は弱者などを虐待したことがありそれで今世でそうした弱者を身体障害者世話し続けねばならない運命に陥った。
だから前世の悪行で今世になり報いのためにそうなった。
どうしてそうなったのか他に説明つかないから前世の因縁だとなってしまうのである。
親もそうならその妻となった人も夫で苦労する運命にあった。
もちろんそれは最近わかったことでありすでに還暦など過ぎてわかることがある。

ともかく親と同じように夫で苦労する運命にあった。しかし今まで表面化していないから隠されていただけである。

前世の行為が目に見えない潜在力となったものです。

潜在力として長くひそんで現れなくてもいつか必ずその行為(カルマ)は現れるのである。
例えば団体とか組織の罪は権力で隠されやすいし闇に葬られやすい。
でもいつかは必ずその団体や組織のカルマも表面に現れて隠すことができない。
それはカルト宗教団体のようなものでもそうでありいづれはその悪が否応なく現れてくる。
原発事故も東電の組織的犯罪とまで言えるものだったが政府までとりこむほどの
巨大な権力だったから隠されていたにすぎなかったのである。
それが津波によって暴露されたのである。


なぜ自分は不幸なのだろう
なぜ自分は貧乏なのだろう


そういう問いは常にある。それを社会の不公正として糾弾する。それが一般的でありそれが団体化組織化すると様々な団体組織党派となる。カルト宗教団体でもそうである。
仏教系統の宗教団体でもそれは前世の宿縁でかたづけられない。
「あなたは不孝になることはない、貧乏になることはない、それは社会のせいである」と団体で運動することになる。
ところが社会のせいだというとき、それは結局他人のせいだということになるのである。
前世の宿縁だとしたら自分の悪行,業(カルマ、行為)によって現在があるとしたらそれは社会のせいではない、
そんなことを考えたくない、自分には何の責任もない、社会のせいであり他人のせいだとする方が楽であるからだ。

そうにしたって結局なぜ自分だけが苦しむのか貧乏なのかとか問うと解答にはならない。
自分の中にあるのではなく社会に他者にあるとすれば楽なのである。

借金する人も明らかに自分に責任がある。普通借金はいろいろ事情あっても簡単にはしない。
でも借金する人は簡単に借金している。それはやはりカルマを作っているのである。
そのカルマの故に家族が一家離散したり具体的に悪い結果が現れるのは因果の法則でありわかりすい。
そして金を借りにくるのは他者に責任をおしつけることになる。
借金する人はそういうふうに他者に責任をおしつけるのである。
自分が病気の時もそうして借金している人に苦しめられたからそのカルマはさらに大きなものとなりその本人にのしかかってくる。
でも以前として他者まで苦しめたことをきづいていないのである。


カルマは気付かないことが多いのである。
他人を傷つけたり虐待したり苦しめた人は意外とそのことに気付いていない、
一体私は何をしましたかむしろ助けていたんですよとかさえなっているのだ。
それほどに他者に対した悪行でも気付かない、気付かないからカルマを受けて苦しむことになってもどうしてなのだろうとなってしまうのである。
でも潜在力となってその人に絶えず働いているのだ
個々人の人生でも人間関係でもあまりにも不可解だからカルマの思想が生れた。
それが何か一番納得がいくから生れた。
その他にそうした人生の不可解を合理的に解けるものがないから生れた思想なのである。

2013年12月22日

公務員はそんなにいいものなのか? (人生は何に時間を費やしたかで決まる)


公務員はそんなにいいものなのか?

(人生は何に時間を費やしたかで決まる)


●公務員はリスクがないが生きがいもない

特定独立行政法人の役員及び職員には国家公務員の身分が与えられる

公務員は何なのか?それは良く公務員が待遇がいいのは身分だからがという。それは侍とにている。身分として固定しているから一つの階級制となりその身分を否定することはできない、ちょうど明治維新の時、侍を否定するような革命が起こさない限り公務員という身分はなくならないとまでなる。民間人がいろいろ文句を言っても身分制なのだからその身分を剥奪するには革命しかないとなる。
ただ公務員は嘘をつかないというのは本当かもしれない、民間人は成績をあげることを会社から絶えず要求されるしノルマがありそれで嘘もつく、TOPPAというプロバイダーがNTT関係の会社ですとか電話一本で解約できるというのは嘘だった。これはたいした金銭的被害がないにしても嘘だった。これがかいいん増やす手であるというのもわかる。
二三分で遠隔操作で何の支障もなく変えられることにも問題があった。
ただ解約はめんどうだったのである。

公務員が嘘をつかないというと侍もモラルを重んじていたからにている。商人は嘘ついても侍は嘘をつかないということがモラルがありそれが矜持となり「武士は食わねど高楊枝」になった。公務員は腹は一杯なのは違っているが嘘をつかないというときそれだけの身分が与えられているからである。民間人と公務員ではその働き方が相当に違っている。
民間人はもうけるために嘘をつく、必死になりもうけを増やさなければならないからそうなる。公務員は別にもうけを増やすために必死になる必要はないのである。民間人は生きることが厳しい、公務員は楽なのに身分が保証されつぶれることもなく安泰だとなり不景気の時代がつづくと一番の憧れは公務員だとなっている。

公務員の仕事など誰がやっても同じだとというのは本当だろう。いつも簡単な書類の作成しているだけだともなる。売るために頭を下げて必死になっている民間人とは大違いだともなる。

これも確かにそうなんだけど本当に公務員という職業が仕事が人生をふりかえったときいいものだろうか?公務員には仕事の醍醐味がないだろう。何かイチカバチカの大仕事するということがない、失敗は国で背負ってくれる。ただミスを犯さないように失敗しないようにこつこつ目立たず生きる。それで身分は保証され生活は安泰になる。
もちろんそこには冒険はない、金持ちになるには冒険が必要だという、決断力がないものは商売人には向かないという、株でも大きな儲けを得るために大きな金を賭けなければならない、金が大きいほど株が上がればその儲けが大きいのである。でも下がればゼロにもなり自殺する人もでてくる。でも大きく金を元手にして賭けなければ決断しなければ大金は得られないのだ。だからなんであれ大金持ちになるのはリスクが大きい。


●資本主義で成功するのは冒険した人


大金持ちになったのは国単位でみればわかる。コロンブスが太平洋を渡り命懸けの冒険をしたことにより巨額の富がもたらされるものとなった。特にスペインがインカなど南アメリカ大陸に一握りの荒くれ男たちが入ってゆきたちまち黄金など巨額の富を手に入れた。それは略奪であり泥棒だったのである。ヨーロッバが豊かになったのはそうして世界から富を略奪したからである。それは世界大航海時代に冒険したからでありそうでなければなかなか巨額の富は手に入らないのである。ただそれにはリスクも大きかったのである。
そのリスクに投資した結果として富を手に入れた。資本主義もそうした所に投資して富を得るのが手法である。資本主義は社会主義と根本的に違っている。平等とか安全を計るものではない、だから成功した人は巨額の富があり冒険しない人には入らないのである。それは一つのギャンブルにもなる。保証されないからそうなる。

でも実際事業して成功する人が20人に一人というから事業で成功することはよほどの人でないと成功しないのが普通なのである。テレビなどにでてくるのはみんな成功者である。でも失敗者の方がだんとつに多いのだ。そういう人がでてこないから成功者を安易にまねる人もでてくるだろう。そもそも自分の母方の実家は事業の失敗から悲惨な家族離散とか苦労の連続になってしまった。父親が警察所長をしていたときは裕福でお嬢さんだった。でも機織り工場の経営に失敗して一家離散とかなり過酷な運命を背負わされることになった。警察所長をしていたから自分が偉いだという感覚があった。母も威張ってばっかりいたといっている。何も事業を起こし成功するものをもっていなかったのである。
警察所長では上から命令していれば良かっただけだからである。

いろいろ技術をもっていても知識をもっていても事業で成功している人は20人一人となると一割も成功していないのである。それだけ厳しい世界なのである。
ただ成功すれば見返りは大きい、失敗すればゼロになり自分の実家のように悲惨なものとなり子供も辛酸をなめる。そういうリスクが事業にはあるからそれを踏まえてやらないと大損失になるだろう。

経営者になることは技術者とは違う。そこを勘違いして失敗する人もいた。
その人は技術的には優秀でも頭脳が優秀でも失敗している。だから経営とは別に理系とか技術がないとできないというものでもない。
東電の原発事故は技術的な失敗というより経営に失敗したのである。
経営には単に技術的な要素だけでない、さまざまな要素がある。

それは市町村でも国家でも経営するのとにている。

長期的ビジョンをもつとかもそうである。国家百年の計とかがそうである。
目先の利益をあげることではない、株を一時期にあげることではない
経営とは別な資質が必要なのである。国家を経営するとなると余計にそうなる。
国家は会社のように簡単につぶされないものだからである。
東電だって目先の利益を追ってコストカットして失敗したということがある。
安全は長期的な視野が必要であり目先の利益を追っていたらできない。
津波がいつくるかわからない、400年前にあったこたとなど考えられるかなど無視して大事故になったことでもわかる。目先の利益に追われればみんなそうなる。

●人生は費やした時間で決まる


時間は短くても、お金は時給制の仕事以上に稼ぐことができます。
それが本当の自分の魅力なのです。
時間を売って仕事をしているかぎり「自分」ではなく「時間」でお金をもらっているのです

http://happylifestyle.com/4576
時間を切り売りしていることは自分が生きる時間を失っている。自分が自分のように生きる時間を生きることとこそ大損失なのである。最後は金では人生は買えない、なぜなら人生と限られた時間の中で何をなし何を生きるからにあるだ。

公務員だとともかく事業を起こした人のように失敗して悲惨なことにはならない、でも人生の醍醐味みたいなものは味わえないだろう。あまりにも平穏無事だとそうなる。
あまりにも平穏無事だということにもリスクがあるのだ。
自分の家族の一人は公務員であった。ただ公務員でも保健婦とかであり仕事はかなりきついものがあった。一軒一軒自転車で回っていたりして体力が必要だった。
その頃は生きがいがあった。でもあとは事務の方に回り楽をするようになった。
それから早めに退職して家事すらしなくなり認知症になって死んだ。
公務員とか先生とか裁判官とかが認知症になるのは多いのはなぜか?

やはり決まりきった創造性のない職業だからだという。創造性がなくてもこなせる仕事だからという。創造性とか別に才能と関係あるわけではない、つまり創造性を発揮させられる場所にいると才能だけではない、人間は現れていなかった才能が現れることがあるのだ。人間の才能はあらかじめ決められてはいない、才能は何らかの契機で刺激され啓発されて出されることがある。
だから明治維新の時は若者があれだけのことができたのはそういう環境に置かれて強いられたからできたとなる。今の時代はそうした才能を発揮させられる環境がないから若者の才能も現れないだけなのである。

三島由紀夫なども自ら演技して狂気の演技者になり自殺するように死んだ。
いくら英雄になろうとしてもなれない、英雄は時代が作るのである。時代に強いられて作られるのであり自ら作ることができないのである。

結局人生とは何に時間を費やしたかで決まる。人間の時間は限られている。才能を発揮するにしてもどれだけ時間を費やしたかで決まる。なぜならあらゆることに時間は費やされない、限られているのだからあらゆることに詳しくなれることはできない、雑学でもそこに多くの時間を費やせばそれなりの専門家になれる。それは才能というのではなく時間をそれに費やしたということで決まるのである。ただ効率的に時間を費やすことは必要である。時間を無駄にしないようにすることが何事肝心なのである。どれだけ自分でも時間を浪費してしまったか、時間は何をしようがしまいが確実に過ぎてゆく、そして何に時間を費やしたかで人生は決まる。

例えば家族でもそこに費やす時間は限られている。夫婦として子供をもち費やす時間は限られている。もしその時間をのがしてしまいばいくら血のつながりがあっても子供と一緒に過ごす時間がなかったら子供にもならない、それは時間が限られているからそうなる。夫婦になるにしても時間が限られているから夫婦としての時間をもつことは普通は一人である。何人とも夫婦のうよな時間は過ごせない、だから熟年夫婦の離婚は相当な損失だと思う。なぜならもうそうした夫婦としての時間をもつことはできなくなるからだ。
一緒に過ごした時間が長ければそれなりに分かり合い愛し合うということがある。
それも一重に時間があればできなるのだ。老人になるとあらゆる時間が喪失してただかつて過ごした時間を思い出すだけなのである。


だから公務員という役所勤めも果たしてそこで過ごした時間が人生にとっていいものだったのか?俺は生きたな、やったなという満足感があとで得られるかとなると疑問である。
「俺は生きた、やった」というものがないと人生を生きた人とは言えないだろう。
一回だけでもそういうことがあれば生きたとなる。それは天才とか凡人でも関係ない、
凡人だって決断して俺はやったとかいう体験はできるのである。
公務員とか会社員にはそういうことがない、だから老後も保証されても何か不満が残る。でも時間は喪失するからもう何かをすることはできない、過ぎ去った時間を戻すことはできない、何か決断することもできない、その時間が過ぎ去ってしまったからである。
そこでみんな誰でも後悔しているのだ。
人生で一番後悔するのは「やりたいことをやらなかった」このことである。
旅をしたかったがしなかった・・・したかったができなかった、しなかったとかなる。

自分の場合、旅をしている内にいつのまにか人生も終わりに近づいた。でもこれだけ旅をしても旅をまだまだしていなかったともなるのだ。それだけ人間は何をするにも時間切れになる。時間がたりないのである。今や家事だ介護だとか近間しか行けない、ここ六年間はそうである。自由気ままに外にでて旅していたのにできないことが信じられない、何とかしようとしてもできないのである。これまた一つの自分の背負わされたカルマだった。でもこれだけ旅をしているといつも旅をしなくても旅をしている感覚になるのだ。
だから思い出してた詩とか短歌にしている。
旅ばかりしていたら人生そのものが旅になる。西行もそうだし芭蕉もそうだし山頭火もそうなったしそういう人は死んでも旅をしつづけているのだ。

退職してから何か別なものに生きがいを見いだすことはむずかしい。
今までしてきたことの延長しか残されていないのである。

年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山 西行

旅したものの最後はこうなる。旅に死ぬのが本望になる。そして死んでも旅をつづけているのだ。


旅人に風雲が起こり
遠くへ連れ去る
そしてまた新しい世界が開け
旅人は永遠に旅をつづける

こんなふうになってしまうのである。

2013年11月26日

カルマはめぐりめぐって返すことを要求される (誰でもカルマを背負わないものはいない)


カルマはめぐりめぐって返すことを要求される

(誰でもカルマを背負わないものはいない)

●自分がサイフを落とした時は必ず返ってきたから今度は拾って届けた


カルマについて家系の因縁とかを気にしている人は多いみたいだ。なんか今日サイフをめずらしく拾った。中味は千円しか入っていなかった。カードが十枚くらい入っていた。
保険証が入っていたから名前もわかっているしカードがあれば警察で名前が割り出される。本当は警察にゆくとめんどうだから届けたくなかった。
でもなぜ届けたかというと自分は田舎で暮らして十回くらいサイフを忘れているがもどってこないことはなかった。これだけは不思議だと思った。
サイフを盗られたという人がいたから田舎ではそんなことあるのかと疑問に思った。
田舎ではサイフだけは届けられる。サイフは普通あまり金が入っていなことが影響しているかもしれない、ただ一万でももちいたいという人もいるからわからない。
自分がカードをなくして困るのはキャッシュで金を下ろすカードである。
これはなくすとカード会社に連絡しないとならないからめんどうである。
三回以上そういう手続きをしたから嫌なのである。
それもすぐしないとまずいからめんどうである。

今回はそうして自分のサイフがいつも返ってきたから今度はサイフを拾ったので警察に届けた。前は仙台で落としたのも警察に届いた。あとから連絡が来た。日本ではサイフを落としても返ってくる割合が大きい。80パーセントくらい返ってくるだろう。名前が書いてあり住所が特定できれば警察から必ず連絡がくる。カードだけでも住所や名前も割り出せるようである。だから都会でも落としても警察に届けられると返ってくる割合も多いのかもしれない、忘れたところがスーバーだとスーバーやコンビニでもとっておいてくれて連絡がくる。だから仙台は遠いにしろ近くでサイフを落として返ってこないことはなかった。その点は安心だった。金よりハンコなどが入っていたときそれがなくなると本当にめんどうになる。全部貯金通帳を書き換えるようにさえなる。ハンコはなくすことがありめんどうである。サインだったらこんなめんどうなことはないのだ。


結局これもカルマだった。十回もなくしてサイフがもどってきたのだから自分も返さねばならないと思った。だから警察に届けた。つまりそれだけすでにカルマを積んでいたのである。だからどこかで返さねばならなくなっていたのだ。もちろんサイフも拾ったりして中味の金を使ったりしたら犯罪になるらしい。それで監視カメラからサイフを拾った人が犯罪者にされたというのも驚く。そんなことあるのか、どこで見ているかわからないというが監視カメラ見ていた。人間は生きている間に必ずこうしたサイフを落とすということでもカルマを積んでいるのだ。もちろん落とさなければそのカルマを意識はしない。
でも長い間生きていればそうしたカルマを積むのが人間なのである。


●カルマはどんな人でも積んでいる


カルマというのは人生をふりかえれば必ずそれぞれが積んでいる。自分の家は店屋でありスーバーがない前は繁盛していた。その時母は食事する暇もなく働いていた。どうしても食事中にお客さん来てたたなければならないからだ。それを子供の時から見ていて何でそんなにしてまで働かなければならないのかと嫌だった。
それが今母を介護しているけど必ず食事中に食べ物を運んだりするし料理もしているから食事の途中で必ずたたなければならない、だから何かゆっくりと食事できないのである。子育てしている母親もそういう経験をしている。
今になり自分は楽だったけど様々な災難に見舞われた。誰も助けるものもいなかった。
それもはカルマだと思うようになった。楽しすぎたことが今の苦しいカルマを作り出していたのである。そしてカルマは返すことが必ず要求されるのだ。

具体的にカルマはそれぞれの人生で違ったものとなるからわかりにくいが個々の人生を紐解けばそれぞれのカルマが明確に認識できるだろう。

まず人はどんな人でも必ずカルマを積んでいる
人は必ず誰かに親でも世話になっているし誰かの労働によって活かされてもいる
だからカルマなしで生きられる人はいないのである。
カルマはすでに意識しなくても背負わされたもの、チャージされたものなのだ
ただそれを感じなかったのは親であれ兄弟であれ他人であれ背負ってくれていたから
自らカルマを返さなくてもいいという面があった。
誰かがカルマを背負ってくれればカルマを背負わずにすんでいるということがあった。

親の世代とか祖父母の世代とかがカルマを背負ってくれて次代のものが楽をしているということがある。また逆に親や祖父母の世代のカルマが次の世代のカルマとなり苦しみを背負わされるということがある。それはこの辺の原発事故が次代のものに多大なカルマを背負わせたことでもわかる。放射能という毒は消えないということでそのカルマが大きすぎたのである。まだ結果はわからないにしろそういうカルマを今の時代の人が作り出して背負わせたのである。だからこのカルマを解消するにはとてつもない時間がかかる。
プルトニウムの毒が二万年消えないということがそれを証明している。


●金がたまりすぎるとカルマも返せなくなり悪となる危険


こういう大きなカルマもあるが個々人の人生でもカルマは負わされる。
今は格差社会だけどなぜこんなに貧乏な人がいてまた裕福な人もいるのかということがある。一万とかの金に苦労している人もいる。一方で一万とかはした金になっている人もいる。百万すら落としても平気な人もいるだろう。
億の金をもっていればそうなる。だから金に対する感覚は金持ちと貧乏人では相当に今は違う。でも金持ちも実はカルマを背負っていたのである。
貧乏な人がこれだけ増えているということは金持ちも安穏として金持ちではいられない、金を多くもっていることもカルマなのである。すでに多すぎる活用できない金はカルマになっているから返さねばならないとかなる。
こんなふうに意識する人は少ない、でも何らかそうした金は貧乏人に対してであれ社会にであれ返さねばならないものとなる。それを返さないと借りになり返還を要求されるだろう。


こうしてカルマを返さないとそれが社会の中で巨大な悪として膨張して成長してそれが社会自体に大きく影響するから怖いのである。徳州会などもその志は最初がよかった。それが政治にその巨額の金を使うようになって堕落した。つまり金がたまりすぎてそれを使う術が間違っていたのである。そうした巨額の金を社会に有効に使うとなるとすでに使いきれなくなる。だからカルマを積み金自体が巨大なカルマとなっているのだ。

カルト宗教団体でも会社でもあまりにも金が集まりすぎるともうその金を社会に有効に還元できなくなりかえって悪いものに使うようになる。東電なども3兆円とか巨額な資産がありそれがマスコミ対策とか天下り先の提供とかに使われたことでもわかる。金も一つのカルマなのである。

もちろん借金も明確に目に見えるカルマである。返しきれないほどの借金をしている人はすでにカルマのためにつぶれる。そのカルマは他人にも転嫁される。返しきれないからそうなる。そういうことを自分は経験している。病気の時も借金を要求される。さらに極端化してくると借金のために家族まで生命保険にかけて殺されるとまでなる。借金から起きる犯罪が一番多いように見えるからだ。借金は具体的に目に見えるカルマなのである。
まずそういうカルマを背負う人は見栄があり節約しない、金を使い自分は金がないということを見せない、成功者のように装うのである。でもそうしたみせけもいつか露呈する。その時はすでに返せないほどの借金になり他者にそのカルマをおしつける。それが犯罪までになるから怖いのである。


神々がシシューポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった

まさにこの石を絶え間なく運ぶことがカルマだった。このカルマは有益なことをしていないために課せられたのである。
この有益なことは実際は個々の人生ではわからない、でも有益なことをしないものはこの罰が課せられる
延々と石を持ち上げる作業を続けねばならない、まさにこれがカルマなのである。
自分もこうして料理して運ぶことをすでに六年間くらいしている。これもカルマだから逃れることができないのだ。
これまでは自由に旅もできた。いつ帰るかなど心配したこともない、今や六時ころまで帰らねばならないとか
近くにもゆっくり外出すらできないのだ。そして代わりを探したがしてくれる人はいない、金でも解決できない
結果的は大損害になった。家の中を他人に簡単にまかせることはできないからだ。
これも結局自分の人生で積んだカルマだったのであり返すことを要求されたのである。

2013年10月05日

カルト宗教が簡単に消えない理由 (人間の弱み、不安が消えないから)



カルト宗教が簡単に消えない理由

(人間の弱み、不安が消えないから)

●「悲しむのは幸いである」と思っている人はいない


カルト宗教というといろいろある。なぜカルトがこれほど世の中に跋扈して消えないのか?そこには深い人間の不安と恐怖に根ざしているからである。カルトという時、あらゆるのがカルトになりうる。カルト宗教団体だけがカルトではない。宗教団体になると権力を持つカルトだから悪質になる。宗教が権力を持つと最悪になるのだ。
宗教はそもそも権力否定がありあらゆる宗教でも根本にある。


心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである


聖書にこう書いてあるのは誰でも知っている。しかしこの意味が何なのか知っている人は非常に少ない。なぜなら世の中の一般の人が求めているのはこの正反対のことである。
心の貧しいものにはなりたくない、心の豊かな人になりたい、それより物質的に豊かになりたい、とにかく金が欲しい、それが先決だとして毎日必死で働いている。
貧しいとはここでは心の問題になっているけど物質的にも貧しくなりたくないためにどこの国でも必死に経済成長を計る。人間か貧しさ肯定して生きてきたことは歴史上ないのだ。ただ様々な事情で豊かになれないだけだったのである。

悲しむ人は幸いである・・・

これもまた何なのか?人間はなぜ悲しむことが幸いなのか?これも全く世の中の常識とはあまりにも違っている。この世の中で悲しむことが多ければ多いほど幸いである。
ええ、そんなことがありうるのか?これほど理解できないものはないのである。

この世の中まず金かない、貧乏だと悲しむことが多い、いろいろと不自由になるし金がないということて悲しい思いをすることが多いし馬鹿にされたり相手にされないこともあるからみんな必死で金持ちになろうと毎日あくせく働いているのだ。
こういう教えをまともに受ける人はこの世ではほとんどいないのである。

人間は貧しいもの弱いもの悲しむものがまた多数いる。だからこそ宗教が生まれた。
宗教はそうした根本的には解決できない弱さから生まれている。なぜならあらゆる人が絶対的に強者にはなれない、そう願ってもなれない、ニーチェは狂気になって死んだ。
ただ人間は病人のようになるようにあのように自然の中で健康に生きたいと思うのは自然なのである。だから自分も上野里氏などにあこがれたしそういうことは人間にとって別に変わったことではない、人間は強く健康に生きたいと思うのが普通なのである。
ところが現実にはそういうふうに生きられないから宗教が生まれた。


●誰も社会的弱者にはなりたくない


カルト宗教団体に入る人はいろいろ理由はあっても社会的弱者の人が多いわけである。
生活保護者が多いというのもそのためである。そういう人は弱者なるが故に「悲しむものは幸い」だなどと心理的に精神的に肯定などしない、この悲しみは何なのだ、なぜ自分かこんなにしこんなに社会的に貧しく損ばかりしているのか、金にもならずは底辺で働かせられているのか?一方で上を見れば楽して悠々暮らしている人たちがいる。あぜあの人たちはあんなに社会的に得しているのか?そういう不満がものすごく渦巻いている。
その不満がカルト宗教団体に入る動機になる。


例えば就職するにも保証人が必要でありそれて苦しんでいる人たちもいる。この保証人問題も実は社会的弱者であることの証明なのである。保証人もいない人は社会的弱者と認定されまともな会社に就職することもできないことになる。自分もその一人になってわかった。就職するにも保証人が必要だということは社会の有力者だったらコネ入社とか他にも公務員の親戚がいたり大企業の親類がいたりとか何か社会的ステータスのある人が保証人になってくれれば社会もその人を信用して就職もスムーズにいくことがある。そういう面でも社会は必ず差別してくるから悲しい思いをすることか弱者は多くなるのだ。そういうことて「悲しむの幸い」だなと納得するものはいないのである。
なぜこんなに弱者は損するのだと憤りになるのだ。だから保証人問題でも弱者いじめなことがわかった。


ではこうした弱者でなくなるためにはどうするのかとなるときそういう不満の捌け口がない、そこでカルト宗教団体がありそこに入ると創価でもそうだがあれだけの大きな団体になると弱者も強者になれだろうと思ってしまう。つまり弱者でも助けてくれるだろうと思う。現実にそういう面は確かにあるのだ。何か現代は親密な村のようなコミニュティすら家族の紐帯も弱くなる時、そういう団体に頼り安いのである。コミニュティの中心に神社があたというときその神社も明治以降は激減したことでもわかる。明治以降は社会が激変した。明治以降からやはりカルト宗教団体というものが増えていた。自分の考えではカルトとは宗教でも団体化した者かカルトである。団体化することは権力化することなのである。社会では一人は相手にしない、二人以上になれば団体であり二人で訴えれば何かしら社会ではとりあげる。だからこそ何か不満があれば団体化して訴えるのが民主主義でもある。要するにただ悲しむものは幸いなり・・そんなことより悲しまないように団体化して社会に抗議しして自分たちの不満をはらすことだとなる。


個人的にはオームの浅原も池田大作もものすごい劣等感の塊だったということを書いた。ヒットラーも芸術家になりたかったがなれないのて政治家になりあのような独裁者になった。そこに歪んだ性格が形成された。それで仏教に学んだがそれは社会に宗教で団体化して復讐するためだった。見ろ、自分には800万の仲間かいる。この人たちを俺の一声で動かすことができる。見ろ、金は一兆円もある。銀行に積んであるから銀行の幹部が頭を下げる。銀行も金を持っている人は優遇する。自分もたいした金でないにしろ投資信託などは申し込んだら歓迎される。あれも今や銀行の収入源になっているのだ。
警察も官僚もそうだが銀行も権力的な場所になっている。だから創価ではそうした権力的な場所をおさえようとしている。警察にもにらみをきかしている。警察も怖いからそうした団体にはあまりかかわらないようになる。それはまさに東電ともにていたのである。
あそこも資産が三兆円とかあるとなっていたから驚きである。


実際に現実社会は権力で動いている。だから現実的になればこの世の権力的場所をおさえることだとなる。池田大作を批判するもの世から抹殺するほどの権力をもったのである。マスコミも政治家も官僚も銀行も彼の前にひれふす、巨大な権力集団の前にひれふすようになったのである。
ともかくカルト宗教団体に入っている人はそういう社会に不満があり恨みをもっている人が多い。それを晴らすために権力を得たいがために運動することになる。権力さえ得ればこんなに悲しい目にあわずにすむとなって運動している。怨念の宗教でありそこに何かに感謝している人など一人もいないのである。


確かにこの世で弱いものは相手にされない、金のないものも相手にされない、みじめな思いをするからこそ金を得るために必死になる。例えば保証人問題でもそうだが警察も権力集団だから権力あるものにはこびる。社会的有力者なら事件でも動く、ところが社会的弱者は犯罪にあっても警察は捜査しないということもあるのだ。現実になぜ東電の会長であれ幹部であれ何の罰も受けないのかわからない、外国の東電の会社に以前として留まり暮らしている。これも以前として東電の幹部は大企業の幹部であり社会的強者になっているからだ。検察も実際は東電の天下り先であるからグルでもあったともなる。官僚とか大企業の幹部はいい思いだけをする。あれだけの犯罪を犯しても罰せられることもないのだ。一方で百円盗んでも刑務所に入れられ人もいる。そういう不公平が公然とまかり通っているのがこの世の中である。


だからこそみんなカルト宗教団体だけではない、社会的強者になりたい、権力を持つ側になりたいとなる。それでカルト宗教団体はすべてそういう人々の欲望を知っているからこそ今は底辺の生活でみじめでも創価が社会の枢軸をおさえて支配するようになる時、権力を行使する側になりいい暮らしができるようになると説いて毎日票集めに必死になっているのだ。それは多分に共産党もそうした底辺層を相手にしているから同じ傾向がある。中国でも不満分子が相当いるからそういう人たちを宗教で集めた。カルト宗教団体というのはすでにそれだけ古いし人間そのものがやはり変わらないから形を変えて似たものが生まれてくるのでてある。


死の病から人を救う宗教団体は、圧政に苦しむ庶民の不満と結合して、黄巾賊と呼ばれる一揆集団へと発展していく。張宝(ちょ一つほう)張梁(ちょうりよう)張角の弟たち。彼らの死後も、漢朝の政治に不満を持っ民衆は、黄色い布で髮を結い、度々、蜂起した。


人間の最大の弱点は今でも病気である。医者でも直らない病気があり以前として宗教に頼る。創価に入る人の動機も最初はそういう人が多かった。不治の病になったら直るとなればどんなものでも信じるようになるのが人間の心理なのである。これだけ科学が宗教のようになってもやはり直らない病気が多いからそうなる。それたけカルト宗教団体が跋扈するのは古い歴史がある。というよりは人間の根本的問題として人間の弱さや社会的差別や不満が解消しないからそうなる。創価は武力革命さえ一時は目指していたからにたものだったのである。
結局権力を目指すものは宗教であれ社会主義のようなイデオロギーであれ何であれみんな同じである。まさに黄巾賊であり三色旗とかもシンボルにしてるからにているのだ。

信長に反抗した念仏宗の真宗の集団もそうだった。大坂城の前進はその寺院の跡に建てられたことでもわかる。宗教的集団は政治的集団と化しやすいのである。カトリックも権力をもったから政治的集団と化して腐敗した。

ともかくカルト宗教団体を否定してもこうした人間の根本的問題がある時、いくら否定してもまた形を変えて社会を席巻する。これも人間社会のカルマだったとなる。歴史を繰り返すとは団体でも社会全体でもそうであり個人的にもカルマは解消されず延々とつづいているのだ。人間の最後は罪の最後の審判であり滅亡に定められているのだ。その滅亡はノアの洪水の再来かもしれないし核戦争かも知れないし今回の放射能汚染で水も空気も汚されいつのまにか人類は死滅していたとなるかもしれないがこの世はいつか必ず滅亡するのである。ただその時期はわからない、おそかれ早かれそれは神が成すことであり必ず人類滅亡の日は来る。


●人間はみんな最後は弱者になる


自分が経験した身内のことでもあれだけ健康で優秀そのものだった女性が最後は認知症になり本当に馬鹿になってしまったということを書いてきた。これも信じられないことであり人間かいくら優秀だと言ってもいかにもろいものか?一転して百の評価だったものかゼロになり人生の落第生になってしまった。これも人間というものはいくら強く健康に生きたいと思っても最後はみんな老いて体もだめになり頭もだめになり人間そのものが崩壊してしまう恐怖がある。だから三島由紀夫も老いることの恐怖でボディビルダーのような体を作り自殺のようにして死んだ。老いることは男性でも女性でも恐怖なのである。
それはこれまでもっていたものをすべて失うことに通じているのだ。

その恐怖から誰も逃れることができないのである。老人になるとなぜかえって権力や金に執着するのか?なぜ老人は金を持っているのに使わないのかとかいろいろ若い世代に責められている。でも一体誰が今老人を敬う人がいますか?金がない老人は死ねと叫んでいる。そういう時当然老人は若さもないのだから権力や金に執着するようになる。その権力も金もない人間は死ねといわれれば当然そうなるのではないか?金がなくなったり何の価値もないとなれば金は使わないし執着する。金意外の価値は何も認めないということになっているからだ。でももし若い世代が決起すれば老人など弱者だから金など奪うことができるのだ。若い者の方が老人より実際は力があるからだ。ただ本気でそうしないだけなのである。


前にも書いたけどカルトは別に団体化したものにだけあるのではない、個々人がカルト的体質をもっていたのである。自分が身内に障害者をかかえたときや自分が病気になったとき明らかに自分も弱者になり個人的に脅されたときほど恐怖を感じたことはない。
結局自分のこの六年間の苦難でいかに弱者が悲惨なことになるか身をもって経験した。
あらゆることで弱者化していたのである。これは金があっても病気になったりしたら誰でもどうにもならない、弱者化するのである。そのとき例えばカルト宗教が入りこんでくる。先祖がどうのこうのとか何が悪いのとかどうかと言われる時信じやすくなるのだ。
それは権力をもった団体だけではない、個人でも弱者を恐怖におとしいれる。


親戚の人はもともと弱者だった。それで創価など一時入っていた。その人間が実は弱者をいじめるカルトになっていたのである。自分が病気になったことをいいことに入院している時も脅してきた。借金しているからいろいろと金が欲しくて脅迫のようなことをしてきたのである。借金している人は普通に殺人まで追い詰められるから怖いのだ。自分を苦しめた人間も実は弱者だったのである。一人は病気の時、火事場泥棒をしたがその人も金に困っていて弱者でありおいつめられていた。だからこそ自分が弱者になったとことをいいことにそういうことをした。津波の被害の時もそういうことがあった。そういうことをするのは金に困っているからそういうことをするのである。金に困らない人はそんなことをしないのである。弱者は弱者を助けるのではない、弱者化するときそこをついてきて襲ってくる、それか戦国時代でもあった。それが人間の真相でもあった。


結局人間は弱者に甘んじる人は一人もいない、悲しむ人は幸いである・・などと満足している人はいないのである。そうして弱者としてひどいめにあった人は余計にそうである。まさに自分の経験したのは食うか食われるかの世界だった。食わねばこっちが食われるという極限の状態になれば人間はみんなそうなる。そういう弱者になる体験をしない人は人間はみんないい人だとか思っている。現実の厳しさに直面すればそんな甘い考えは吹っ飛んでしまう。この世はまさに修羅場だとなる。


カルト宗教団体がなくならないというときまさに人間の根本的問題として社会的弱者が常に存在するしその弱みを解決できないからそうなる。絶対的強者になれないからこそ悲劇になる。いくら優秀でも認知症になり本当に馬鹿になって死んだということも信じられない、人間は確かに権力を求めて地位と金と名声とかあらゆるものを手に入れてもやはり弱者としての人間からはまねかれない、王様もやっぱり最後は病気になりあえなく死んでゆく。人間は結局どんな人でも最後は弱者として死んでゆく、権力が求めて得たとしても同じである。この世の矛盾はこの世では解決しない、いら努力しても解決しないのである。
だから天に望みがありこの世には望みがないのである。常にキリストか説いたのは天のことでありこの世のことではない、この世のことは絶対に解決しないのだ。


悲しむ者は幸いなりとは・・・そもそもこの世の中は悲しまないで生きられないところなのである。悲しむことに人間の真実がありより多く悲しむものは実は人間として何か重大なものを知るとなる。何にも悲しまないものはかえって人間としては何か重大なものに気づかない浅薄なものとしてこの世を終わる。悲しむ人は純粋なのである。涙は真珠のように尊いのである。神はそのために泣くことができるようにしたのである。悲しみ泣いているときカルタシスになる。何か心が清められたような気分にならないか?涙にはそういう効用があることは確かである。シェークスピアが悲劇がテーマだったということは人間はそもそも悲劇的存在だったということである。ドラマでもハッピエンドで終わればつまらないとなる。悲劇的なことに人間存在の重みがある。キリストも十字架で死んだからこそ影響力があった。人間はなぜこんなに苦しみ悲しむのだというとき、実際は恵まれて悲しみもしない人よりより人間として生きているのかもしれない、まずあまりにも恵まれて幸福だったら文学も生まれない、それは浅薄な一生になってしまうだろう。それでも人間あえてそんな苦しみや悲しみを受けたくないのである。

実際に人間は一方で求めているのは快である。人間の求める快楽がどれだけ強いか?その快を求めるからこそこれだけの文明社会になった。性のような本能的快楽も個人差が大きいにしろ死ぬまで消えない人も多いのである。その欲望故に人間も継続できたともなる。人間はあえて苦しみなど求めない、快楽を求めるのが普通である。たた強制されてそうなるだけなのである。図らずもみんなそうされてしまうことなのだ。

ともかくそうした悲しみや社会的弱者化するときどうしても涙を流して来るべき天を望むようなことよた現世で権力を得たいということになるのが人間だったのである。そのこ
とはカルマは変わることがない、たから人間の問題はそうした根本的なことが変わらないから歴史もカルマであり個人的にカルマを繰り返すだけであり世の中は何か変わったようでも何も変わっていなかったとなるのだ。

2013年08月19日

カルマとはそもそも何なのか? (カルマは借りであり必ず返すことを要求される)


カルマとはそもそも何なのか?

(カルマは借りであり必ず返すことを要求される)


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●借りは金銭だけではない、必ず返すことを要求される


貸し借りをしたということがハッキリとは分からないこと、「まさか!そんなことが貸し借りになってしまうの?!」

誰にいくらの借り(負債)があるのかということが、生きている時に顕在意識ではあなたには分からないというところです。


「あなたにはいつこれだけの貸しがあったよね。今それを○○の方法で返してね」とどこかの誰かに言われてしまう可能性が大きいということを意味します。


AさんはBさんに1億エネルギーの借りがあったので、Bさんに借金のかたにあなたへの1億エネルギーの貸しを渡す。

世の中には偶然もなければラッキーもアンラッキーもない。

必ず貸し借りは精算されるようになっている。

貸しはいつか必ず返ってきます。あなたが返してねと求めなくても返ってきます。なぜならそういう法則が存在するから。
http://www.circulation.co.jp/bhs/column/column37.html


ここのサイトは不思議である。人間の借りは必ず返さねばならない、借りとはカルマなのだ。親子の間では別に子が親に借りがないというけど実際はある。自分の親は子供のときだけではない大人になってからもさらに六〇頃まで食事の用意をしてくれた。それを自分は当たり前だと思っていた。

そういう人は今の時代にはニートとか結構いる。子供のときはやむをえないとしてもそれからいい大人になっても食事の用意とかをしてくれるとなると相当な借りができていたのである。だからその借り(カルマ)は返すことを要求される。今や介護に追われているのもそのためである。毎日食事を作って出している。自分がゆっくり食事できないこともある。食事は運ぶだけで結構手間なのである。
食堂がなく台所と食事するところは離れていることで運ぶことが手間になっているのだ。
自分の場合は明らかに借りを返すことを要求されてそれをしている。そのカルマの借りの自覚がこの年だからわかってやっている。普通はこの人の言うように何か借りなのかわからないのだ。

どこでそんな借りを作りましたか?借りが何か自覚できないのである。でもいづれその借りをカルマを否応なく自覚させられるときがくる。それが60以降から明確に現れてくる。否応なく自覚させられるのである。六〇代の人を見ればわかる。人生の総決算のようなことが現実として結果としてカルマでも課せられて拒否することができなくなる。ただ自分に何の借りがあるのか自覚できないのである。それが否応なく六〇代になれば自覚させられるのが恐いのである。その前に手をうっておけばこんなふうにはならなかったと後悔しても遅いのである。


●大きすぎる借り(カルマ)はもう返せない


まず生活保護の人などは一見今や恵まれている。この貧乏時代になり生活保護の方が恵まれているのが批判されるようになった。でも実際本当にそうなのだろうか?生活保護って一切が借りになっていないか?国民から膨大な借り(カルマ)を作っている。でも生活保護者にはそうした意識がないのである。当然の特権だと思ってい人もいる。でも生涯生活保護になると一億円以上の金が国民から使われることになる。一億円借りたらもう返せないのだ。もうカルマは借りは返せないのだ。そしたら結果的にどうなるのか?かえって一億円得したではないかと思っているが実際は返せないために人生が破綻する人が多いのではないか?あまりにも借金が借りが大きくなると返せなくなる。積もり積もって返せなくなる。そういう人がいてその借りを自分にも要求してきた。だから自分が病気で苦しんでいることも借金の要求するにはチャンスとまでなって迫ってきたのである。借りを返せなくなると逸れか犯罪者に近くなってくる。そして人生が最後に破綻してくる。生活保護者の子供の四割がまた生活保護者になっているということでもわかる。借りが大きすぎるからもう子供でも返せないのである。せいぜい一割から二割くらいの特別優秀な人しか返せないように思う。

生活保護がすべて悪いとはいえない。老人の生活保護は違っているし障害者も違っている。老人は別に一律に一〇万とか年金を支給した方がいいようにも思う。ただ生活保護が長びくと借りが大きくなりすぎるから人生そのものが破綻する人が増えてくるのではないか?そういうふうに自覚している人も少ないのである。
借りそのものカルマが自覚できないからまたカルマが輪廻してゆく、その借りとはどんなものなのか自覚できないのである。カルマは図のようにBがAにカルマを負っていたとしても返せば逆にBがAにカルマを負う夜討ちなっていても気づかずにカルマを要求してくることがある。いつもカルマは一方的な関係ではない、変化しているが変化していることにもカルマはきづきにくい。だからそこで理不尽に思う。こっちがこんなに尽くしているのに相手は何もしてくれないとかなる。そういうことは人間関係では日常的に起きているのだ。


例えば変な話だけど自分は旅ばかりしていた。すると「お前はどれだけ旅館やホテルに泊まり世話されたか?それがお前のカルマだ、借りだ」とまでなる。だからお前は今度は旅人をもてなすことで借りを返さねばならないとかなるかもしれない、まだ生きる時間が長いとするとそうなるかもしれない、実際に世界を旅して世話になったからとボランティアで一室を世界の旅人に提供している人がいた。旅でも借りを作っていたのである。あまりにも病弱で医者や看護師に世話になったりするとその借りも相当に大きくなっているかもしれない、そしてその借りを返すことを要求されるかもしれない、医者になった人が看護師でも前世では医者や看護師の世話になることが多かったから今自分は恩返し借りを返すために医者や看護師をしているという人もいた。人間は借りをもたない、カルマをもたない人はいないのである。そのカルマが借りが大きくなりすぎるともう担いきれないのである。
莫大な借金をしているともう担いきれないから人生が破綻する。回りにも多大な迷惑をかけて破綻する。生活保護者はそういう危険があるけど自覚している人は少ない、もし自覚したら必死でそんな借りのカルマの生活をしようとはしないだろう。カルマは借りが自覚できなくても必ず最後は自覚させられる、借りを返すことを要求される。


●金銭的な貸し借りも神の帳簿に記されてごまかすことができない?


金銭的にも何か不思議なのだけどそこには神がかかわっている感覚がある。自分が経験したことではそうである。大金を盗まれて失ったのもやはり自分の借りがあったからかもしれない、ただ盗んだ方からすると大きな借りを作りカルマを作ったからその借りを自分はしなくても誰かから厳しく請求される。その金額にみあった額が厳しく請求される。でも生活保護者のようにその借りが自覚できないのである。一億円盗んだら誰も絶対に返せないからその借りは払うこともできずに残る。それは地獄までその借りをもってゆくことが恐いことなになる。10万だったら返せるだろう。でも一億円となると誰も返せないから、その借りをカルマを担い死んでゆくからまた生まれて輪廻してそのカルマを返す生を送るとなる過酷なことになる。この借りは例えば知らず担っている人もいるのだ。多額の収入を得ている人もそうである。そもそもそんな一人でそんな多額の収入を得ることは不可能だからである。みんなの協力があってもうけることができるからだ。その収入が身に余るものとなるときそれはその国だけではない全世界へのカルマに借りになっているのだ。だからすでに大金持ちは世界を支配するサタンと化しているともなる。

常に言われるロックフェラーやロスチャイルドがユダヤが金融を支配して世界を牛耳っているとかなる。要するにその操作する金がすでに天文学のような数字になっているからであある。何か巨大な権力化するところ金の集まるところはサタン的になっていないか?
カルト宗教団体でもそうであり政府でもそうであり官僚でもそうであり東電のような大会社でもそうであった。その巨額な金が借りなにっていて返せなくなっているからそういわれるのである。金がありすぎても借りになっている。借りは返せねばならなくなっている。


この借りを返さねばならないというときこれは自然界でもあるかもしれない、なぜ津波でこれほどの被害が犠牲があったのか?やはり海の恵みがあり恩恵お大きかった。人間は自然にも大きな借りがあった。その借りを返すことを自然界からも要求される。自然に何を返すのだとなるがそれは海の恵みに対して感謝の気持ちをもつことだった。常に海の恵みなど農業と同じ様に足りない足りないとばかりになっていた。もう漁師とか農民になる人はいない、後継者はいない、もちろん自然界に恵みを感謝するような人もいなくなった。ただ足りない足りないというだけであった。それで原発を誘致した方がいいとなりその原発が津波で破壊された。それは自然界からの罰だったかもしれないのだ。

借りをカルマを返さないものには恐ろしい罰が与えられる。卑近なところでも金銭の貸し借りでもそれもごまかすことができないように借りは返さねばならない、変な話だけど大金を盗まれたとしても別な方からもどってくることもある。盗んだ本人は返さないとしても他の人から厳しく取り立てられたりする。その盗んだ分が他から補てんされたりもする。金銭の貸し借りも公正でありごまかせないところがある。貸し借りでは金銭が具体的でわかりやすいのである。金銭のやりとりのなかに神が関与しているのではないか?何かそういうことを自分の経験で感じたのである。


●神話も人間への借りへのカルマとしての罰を伝えていた


シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。


これもまたカルマだったのである。何か人生で有意義なことをしないものは借りができてカルマとなりそれが罰となり無意味なことを延々とさせられる。有意義なことをしなかった罰としてそうなっているのだ。人生何も苦労しないで遊んで暮らせればいいというのもある。ただ働くことだけが有意義なことではとない、働きすぎた人はただ蟻のようよ働くばかりで花にも自然の美に感じることがなかった。これも異常なことだったのである。だからただ働くことだけが意義あることではない、働く意義は他人に押しつけられるものではなく自分が見いだしてゆくものである。それが自由社会では特にそうなる。そのために働かない時間も与えられるのが自由社会であり豊かな社会なのである。でも結果的にその自由が遂に何も働かずに働くことを見いださずに終わるということもある。なぜならなかなか自分で働く意義を見いだすことがむずかしいからである。働く現場にあって働いていると働く意義も見いだしやすいのである。家事でも働く意義がありそれは働いてみないとわからないのである。労働の意味は自分で働いてみないとわからないことが問題だったのである。


ともかくカルマというとき人間は何かしら必ず借りがある。すでに生まれたら親の世話になるし地域の世話になるし国の世話にもる。すると国のカルマも借りも背負うことにもなる。そういう大きなカルマの借りの自覚をもつ人はよほど優れた人だろう。普通は狭い身近なカルマしか意識しないからである。大きな国となるとそれぞれカルマを背負うことになる。戦争でもいろいろ言うがアメリカの原爆はもうぬぐいされない大きなカルマを借りを日本に作ってしまったのである。それは日本だけではない世界にそんな世界を破滅させるほどの武器を作ったことでカルマを作ったのである。だからアメリカはこのことで未来永劫このカルマから逃れることはできない、だから日本を守ることはこのカルマの故に要求できるのである。どんな言い訳してもこんな大きなカルマをのがれることはできないのだ。だから日本の戦争が悪いものとして中国や韓国にアメリカの正当性を主張させているのも矛盾なのである。アメリカは原爆を落としたことで日本は必ず復讐するとして恐れたという今も恐れているというのは本当だろう。それは良心の恐れでもある。その恐れから呪縛からは逃れることができないのである。それだけ原爆の罪は大きかったのである。

2013年06月11日

因果はめぐる (カルマを断てないのはなぜ?-親と同じ人生を歩む不思議)


因果はめぐる

(カルマを断てないのはなぜ?-親と同じ人生を歩む不思議)


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因果がめぐるというとき必ず親の代からつづいているのだ。親の因果が子にめぐってくる。
これは迷信でも何でもない、数学のように確実なものである。避けようにも避けられない宿命としてみんな負わされている。


なぜ親が夫で苦労したものはその結婚した娘もその夫で苦労している
夫に苦労する運命にある不思議である。


因果がめぐるとしてもその本人はなぜそうなったとか気づいていない、因果は冷静になって客観的にみると見えてくる。ある程度偶然のいたずらでなく合理的に判断できることである。

ただ本人はなぜこうなっているのか?なぜ自分だけが不幸を負わされているのか?それで神仏に頼ったりする。でも神仏に頼っても解決しない、なぜか?
それはギャンブルで借金して困って神仏にいのるのとにている。
そんな勝手なことを誰も神仏だって聞いてくれないのである。
でも人間は勝手だから自分の不幸の原因を合理的に考えない
仏教には何かわかりにくいのだけど合理的に人生を考えるものがある。
一種の積み重ねられた人生の謎を問題を長い時間の中で何代もの時間の中で考えたのである。
それがインドに起こったということはそれだけインドではすでに数千年とか長い時間を人間が生きていたからその長い時間で人間はなぜこうなるのかということを思索して生み出されたのが
インドの哲学であり宗教だった。


つまりカルマという考え方もそうである。カルマ返しというのがあるのもまたそうであった。
必ず人はカルマを積んでゆく、カルマは因果はめぐるでくりかえされてゆく・・・
そういう例を身近で親族の中で見られる
カルマは決して一代で終わらない、その子に孫にとひきつがれてゆく、ただすべてが悪いものとして引き継がれるのでもない、一般的には悪いものとして引き継がれるのが多いのだ。

だからどこかでカルマをたちカルマ返しをしなければ延々とそのカルマは子孫に受け継がれることになる。

ある人は自分が母親に捨てられたと思い母親をうらんでいた、でも自分も施設に自分の子供をあづけるはめになった・・

親と同じような結果になった。そういうことが身近で常に起こっている。カルマが延々と人間の生があるかぎりつづいてゆくのだ。どこかで断とうとしても断てないのが人間のカルマなのだ。
だからカルマとは業でありキリスト教なら罪であり原罪だともなる。


親を批判して恨んだりしている子供も親になり同じ親になってるのだ!


そういうことは人間はあくことなく延々とつづけてきたのだ。だからインドのような長い時間を積み重ねたところではカルマの思想が生まれたのである。人に害を与えたらカルマをもつ、そのカルマをどこかで返さねばならない、そういうカルマをもったことになるのだ。一方で良いことをしたら善のカルマをもちその人に返ってくる。でもそれが自覚できない、だから恩を受けた人にもその恩をカルマを返さないからまだカルマを積むことになりカルマから脱せられないのである。

恩を仇で返すということもありそうなると二十三重にカルマを積み逃れなくなるのだ。
そして自分はそのことに気づいていない、自分はやることはやっている、非はないと思っているからこそ神仏に頼り祈るわけである。そういう身勝手が人間には常にある。

つまりカルマを指摘しても人は聞かないのだ、聞く耳をもたない、自分はやることはやっているとみんな思っている。もちろん恩も返していると思っているし第一恩すら感じない人もいる。
だからそれを言ってもなんにもしないしかえって必ず怒ったりするのである。

人は自分の非を認めないし罪を犯しても自分は悪いと思う人は少ない、反省したり悔い改める人は少ないのである。ただただ親でも他者の非を責める人が多すぎるのである。
カルト宗教団体ではたいがいそういう人が集まっている。
身勝手な人がいて神仏に祈り自分の勝手な願いを神仏に要求している。
そういうことを許すのは指導する人もただそういう身勝手な人たちを利用して自分たちの欲望を達成することしか眼中にないからどうでもいいわけである。


カルマの法則というときそれは数式のように確実になっている。だからインドの宗教は合理的宗教であり極めて哲学的なのである。ただやたらむずかしくしたのは僧侶階級が形成されて宗教の独占からそうなった。それで逆にあまりにも簡単な題目だけを唱えれば救われるとか日蓮宗や真宗が普及した。それは文字も読めない時代の人を対象だった。今は庶民でも文字は読める、だから合理的哲学的に探求する仏教や宗教が必要ともなる。いろいろわからないにしてもカルマということについては具体的にあまりにも回りにその具体的例がみられるから理解しやすいのである。
題目をやたら唱えてもカルマは消滅しない、カルマを理解してカルマを断つ具体的なも行動が必要になっているのだ。


カルマの法則は現実にある
http://musubu.sblo.jp/article/64859154.html

2013年05月01日

常識のない人が増えている (若者にも大人にも老人にも共通している)


常識のない人が増えている

(若者にも大人にも老人にも共通している)


昨今では勉学を学ぶことよりも、「常識」を学ぶことの大切さの方が強調されている感じすらあります。一般社会においてはどれほど頭脳が優秀でも「常識」のない人間は問題視され、評価もされません(あくまで一般社会ではね)。
http://www.kuro14.net/2013/04/blog-post_11.html


「気づきがない、無頓着、理解力がない」
「基本を知らない、マナーを知らない、常識がない」
「気配りがない、気遣いがない、対応が悪い」
「機転が利かない、臨機応変に対応してくれない」などなど。


企業は困っている、悩んでいる
http://www.manavinet.com/special/0801/no16.html


周りの人が右を向いているときに、左を向いてしまう
周りの人が当たり前にできる事が、全く出来ない
その結果、周りからは、
「あの人は変わり者」と思われてしまいます!

相手のことを意識できないので、仕事にならない

仕事というのは、相手が気持ちよくならないと
商品を買ってくれたり、契約を結んでくれたりしません。
お世辞や愛想笑いなどが出来ないと、仕事にならないわけです。


ただ、大人のアスペルガー症候群の人は、
他人のことを意識することが出来ません。


どういった言葉を言えば、相手の気分が良くなり、
どういった言葉を言ってしまうと、相手が不機嫌になるのか
全く理解できないのです。


そのため、物を売ったり、契約をまとめるような仕事は、
ほとんどできないわけです。


相手からは過激な性格だと思われてしまう

上記のような状況でも、
本人は悪気があって言っているつもりはありません。
自分の考えていることや思ったことを、
素直に表現しているだけで、
他に深い意味はないのです。
http://アスペルガー大人特徴.net/asupe1/page5.html


子供は、言って聞かせれば解りますが年寄りは絶対に自分の非を認めません。
その場で言い争いになれば尚、悔しい思いをしたと思います。



常識とは何かというとき定義するのがむずかしい。非常識が何かも定義するのがむずかしい。だからいちがいにすべて常識-非常識では計れない、ただみんな今の社会では常識そのものが若い者だけではないいい大人でも老人でも増えている。そう感じている人が多い社会ではないか?
若い者ならしかたない面があるだろう。でもいい大人が老人が常識を身につけていないというのはどういうことなのだろうと疑問に思う人がいる。これはなんなんなのだという非常識な人間に出くわすことが増えているのではないか?

病院であった人はそうだった。職人として家で働いてくれたことがあった人なのでそのおくさんに声をかけた。その人は重症にその時見えたのだ。そのあともどうしたのかと気づかった。同じ病気ということで情報交換もしたかった。この前話ししたら
「あんた困っているの今はディサ-ビスに通っているよ、自分のことは自分でやっているよ、あんたなにかしてもらいたいの」
これまでは確かに自分は困っていた。今も困っていることはある。でも手術してからは余裕できてほとんど困っていないのだ。その時声をかけたのは自分のことを思ってしたのではない、自分が何かしてもらいたくて声かけたのではない、でもその女性は何かしてもらいたくて魂胆があって声かけたととりうざいから声かけるなと言ったと同じである。こんな人のことを気にもかけない気遣いも常識もない人間は何なのだろうと思った。その人は60くらいになっているかもしれないし老人である。

今や老人でも常識のない切れる老人とか暴走老人とか増えている。ただこれも人によりけりでありすべてではない。これは別に人を思いやる心がないとか宗教でいう愛がないとかそうした高等なものではない、人間として最低の常識がないということなのだろう。この女性をどう理解していいかわからない。四人の人と自分は家のごたごたでかかわった。一人は犯罪者であった。一人は会社経営者だけど嘘ついて成功を装って借金をかかえていた。もう一人は夫が公務員だったけど異常な行動をした。犯罪者と異常な行動した女性はもはや常識では語れない、異常者ということになる。他は別に普通に社会生活している人たちである。


常識がない人間がふえたというときこれは若者だけではない、社会人全般に常識がない人間が増えたのである。現代は常識が養成されにくい社会なのかもしれない、常識を養成されるのは今では家族でも地域でもない会社になる。だから会社で社員教育するわてけである。会社組織に入らない人は常識が欠けやすいかもしれない、例えば職人でも職人気質と昔言って悪いものとして言われなかった。しかし現代のような社会が複雑になると人との接触もふえると対人的には非常識な人が増えるかもしれない、職人はただその技術をみがけばいいとかになはならななる。そういう職人の家族はまた非常識になっているかもしれない、でも一人親方のような職人は契約をとるために社会性があることに驚いた。技術力もあり優秀であり人との対応も知り尽くしていたのである。その人と接して自分が常識がないとなった。それは仕事上そういうふうに社会性を身につけたのである。

そもそも他人と接触することの前提として宗教と関係なく他人を思いやることが前提にある。そうでないと仕事もうまくはかどらないだろう。モノを売るにしてもその人が心をこめて売るのとでは同じモノでも違っているのだ。東北人は自分もそうだけど人との対応がへたである。関西人はつまり京都のように文化の蓄積があるところは人との洗練した対応が生まれる。それは本心でなくてもやんわりと断るとかの文化が京言葉に現れる。それが他から来た人にはわかりにくいのである。京言葉自体東北の言葉とはあまりにも違いすぎるのだ。人に対応するやんわりとした言葉なのである。


一般的に常識があるというとき人と接する職業はどうしても常識が必要とされるから常識が社会性が身につく。職人だけをやっている人や農業の力仕事やっているだけの人や工事関係でも現場で肉体労働だけしている人とかは人と対応しない仕事であり社会的常識が身につきにくいかもしれない、結局人間はその人の職業が習慣性を作る。職業はそれだけ人間を作るものなのである。だからニ-トとかはまず社会性がないから常識が身につかないから人と対応できないから職につけないともなる。

自分もそうだったから社会性がないから職業についていないからそうだった。ただ変な話だけど創価にいたとき毎日社会的に人と接していたから人と対応する言葉使いができたともなる。人間はまず集団に帰属して社会性と常識を身につけるのである。人間は何であれあらゆることを経験できないカルト宗教団体でもそれは一つの経験であり間違っていてもそれなりに得るものがある。一人の人間の経験することは極めて限られているのだ。だからこそ常識自体を身につけることがそもそもむずかしいのである。教員が常識がないとか医者が横柄で常識がないというときそれはその職業がそうさせているのだ。学者バカというのもそうである。マニアックな理系馬鹿、研究一筋の人も社会性が身につかないとかなるか。現実はとても理論通りにはいかない、複雑怪奇なのである。上からの目線ばかりで人をみる立場にあれば常識もなくなる。そして夫婦が一体だというときその夫の職業の影響を妻も必ず受けるのである。


つまり医者であれ教師であれその仕事ばかりしていれは世界を社会をその職業から見てしまうのである。この世には様々な仕事がありそれは体験できない、だから他の職業に従事するもののことをなかなか理解できないのである。こういうことはこれだけ多様な社会になると特にそうである。
原発に従事している東電の人が何をしているのかなど地元の人がしりえようもないのと同じだったのである。そうなると東電では相手が何もしらないし反論もできないとなるからやり放題になった。
絶えず不具合、故障があっても隠せる。だからそれが習慣化していたのである。どうせ誰にも追求などできない、みんな金で抑えている。こうしてしそれが大事故につながったのである。

無数の職種ごとに常識も違っているとなれば常識自体何を基準にしていいかわからないとさえなるのだ。常識がない・・というときカルト宗教
団体でもその権力を背景に誰も責められないとなり警察も味方だとなれば非常識なことでも社会に通るとなる。検察官僚組織でも非常識なことが権力で隠される。警察関係もどうしても権力をバックに横柄になり常識が欠けてくる職業だとなる。
常識非常識というときそれは個人の問題でもあるがその所属している会社や組織や団体の問題でもある。


今回自分が経験したの非常識な女性は個人的要素が大きいだろう。ディサ-ビスに通っていて自分のことは自分でやっています・・それだけ言えばいいことだった。そうですかと言ってこちらも終わりであり傷つくことはなかったのである。お前はオレに何かしてもらいたいのかという言いぐさがあまりにも人との対応で非常識だったのである。田舎の人間はあけすけにモノを言うにしてもちょっとひどいと思った。そこには嫌であってもやんわりと京言葉のように言えば傷つかなかったともいえる。
こういう人は全く他人は無視であり気づかっていないのだろう。自分がきらいだからということでないみたいだ。
人間は人をみないで接すると大変なことになる。ただ非常識な人であれ犯罪人であれ人間はこの世にいる限り否応なく接触する。
それがさけられないのだ。ただ人間がいかに人を見ることが大事か思い知らされた。
ちょっと声かけるにしても素直でない人も嫌う人もいる。こっちが善意でも相手は悪意にとる。そいうことは常に起きてくる。
結婚も結局人を見分けられないから離婚が三分の一とかふえる。家と家の結構、どういう家で育ったか見て結婚した方がうまくいっていたともなる。女性などはどういう家で育ったかでかなり影響されているかもしれない、余りにも顔とか外形だけ判断すると失敗する。
あとになって顔などさほど問題でなく人間は気持ちだとかなる。顔見ただけでも人間はわからないのである。

2013年04月30日

人間は近くのことを見逃している (時間軸の歴史を知ることはむずかしい)


人間は近くのことを見逃している

(時間軸の歴史を知ることはむずかしい)



今年も桜が散り桜の季節も終わりつつある。今年も意外だったのは桜はいたるところに咲いているものだと思った。去年見た桜と今年見た発見した桜は相馬藩内でも違っていた。そんなに桜が咲いているのとなるけどここにも桜咲いていたなと身近なところではじめて見る桜があった。それもいつも行き来している六号線沿いにあった。イオンの前の一木の山桜はあれは街道の近くにあっても隠れている。街道からは見えないからわからなかった。唐神の堤の桜も前見たのとまた違っていたのが松にそえて咲いていた。これだけこの辺で桜が咲いていることが意外だったのである。
日立木の薬師堂の桜などは目立つから毎年見ている。でもまた何か違ったものとして見えてくるのも不思議なのである。それはやはり人間の心境が一年一年変わっているからなのだろうか?
心境は若いときと老人になったら全く違ったものとなる。価値観がまるで変わってしまうのである。

自分は桜は全国を旅して見ていた。その時は関西の方を中心に見ていたのである。京都の桜も見た。 そこで感慨深かったのは関西の桜を見て散ったときみちのくに帰れば咲きはじめていた。そういう空間移動で桜前線の旅をしていた。これは今やいかに贅沢なことだったか恵まれたことだったか知った。一日も旅ができなようになってわかった。自分の30年間は世間と没交渉であり旅ばかりしていたとなる。その報いがこの六年間の苦しみとなった。そして近くを行ったり来たりしていると退屈かとなるとそうでもなくなった。自分は若いとき相当に退屈していたから旅をしていたのである。

故郷にいることが平凡で退屈だったのである。東京の大学に行ったのもただ故郷から脱出したいというだけだった。勉強したいということなかった。高校でも自分は落第に近いし学校にはなじめなかったし友達つきあいもできなかった。要するに脱出願望しかなかったのである。その後そういう意識はつづいた。50才になって世界旅行したのも今度は日本から脱出願望でそうなった。日本なんか狭いから嫌だと若い者は世界へ脱出するのがトレンドとなった。バックパッカ-時代になった。


確かに日本には空がない、東京には空がないのではない、日本には空がない、広い空かないということを外国を広大な大陸を旅したとき感じた。日本の空は山が多いから区切られた空のようになっているのだ。大陸の空は山がないからどこまでも平坦な土地に空がかぎりなく広がっている。そこで天の思想や星を国旗にする感覚が生まれた。日本は空を仰いでも大陸のような無限に広がる空ではないのだ。また人間的にも大陸はおおらかだということがあって若者が外国でアルバイトして帰りたくないと言っていたのは日本は島国であり人間関係も狭苦しい、姑息になっているからだろう。
大陸的風土はおおらかでのびのびしたものになる。それはやはり風土の影響なのである。


そして今故郷から出れないとなったとき退屈になるかというとそうでもない、確かに狭い風土だし人間関係も姑息だし褊狭であり嫌である。それでも狭いといっても鹿島から相馬市まで昔の浜街道を頻繁に通っているから飽きたともならない、それは俳句や短歌にしていたことでわかる。こんなに俳句や短歌にするものがあるのかと我ながら不思議に思う。つまり広い空間軸でみたものが狭い領域でも内面的に時間軸で深く見ればどこに住んでも豊かな精神生活が送れるのだ。時間軸の歴史を掘り下げることでその住んでいる場所の意味を理解することで人間の心が豊かなものになる。外国を空間的に旅行してもわかりにくいのは印象に残らないのは長い歴史の時間の積み重ねを理解できないからである。時間軸ではまず一時よったくらいでは理解できない。だからまた忘れやすいのである。

結局鑑賞するというとき深く鑑賞するには絵画でも壺でも何度も毎日のように生活の一部のように見ていれば自ずと理解するものがある。自然とか人間の生活もそうなのである。

つまりどんなところに住んでいようがそれなりの自然と歴史が人間の住むところにある。東京などはないが地方ならある。そこで人間は時間軸で堀さ下げる、感受性を見いだし作ってゆくのである。
この感受性すら自然にその人間に備わっているものではなかった。時間軸で積み重ねで作られてゆくものだったのである。脳でも体でも天才は別にして普通の人は積み重ねで作られてゆくのである。

脳の細胞はその人の日頃の積み重ねで人工的に作られてゆくという不思議があるのだ。常に美しいものに接しようとしていないと汚いものにまぎれて見えなくなってしまうのだ。脳の細胞はその人の日頃の積み重ねによって脳を構築しているのだ。それは例えば雑学のようなものでもそうなのである。地名に興味をもったとしてもそれは雑学にすぎないとなるがそれも知識を実地に歩いたりして脳を地名学として構築していたのである。雑学ですら馬鹿にするが積み重ねがないと理解できないのである。雑学すらものにするには相当な時間の積み重ねが必要なのである。いろいろなものに心が散ってまたたくまに時間はすぎるからだ。


時間は実際は老人になればわかるけどかなり限られたものだった。もはや60代以降は新しいことを学ぶことがむずかしくなる。ただ今まで体験したこと学んだことを深化することが仕事なのである。狭い土地でもだから時間軸で見ればそこに深い意味を見い出すことができる。相馬市の新田というところを時間軸で深化するとき別なように見えてきた。江戸時代から長い時間軸の追体験をするとその土地に対してまた愛着を覚えるということがある。
それは何気ない場所でも道でもそうだったのである。
今の時間に心を奪われているとどうしても物の見方が浅薄になってしまうのである。
極端な極貧の生活が江戸時代からありそこから現代の豊かさをみるときこれは何なんだ、あまりにも贅沢じゃないかとかなぜこんなに贅沢しているのに不満なのかとか見方が違ったものとなるのだ。

花咲くは都にのみ咲くにあらじいたるところに装い咲きぬ

2013年04月13日

カルマの法則は現実にある (なぜ子は親と同じような人生になりやすいのか?)


カルマの法則は現実にある

(なぜ子は親と同じような人生になりやすいのか?)



カルマの法則・・・前世での行為の清算のために、あるときは義務を負う側に、
あるときはそれを受け取る側に身を置き、何度も何度も繰り返す。


ある人が何かの出来事で人の命を奪ってしまったら、その後には、同情を覚えるほどの
辛い状況が待っているでしょう。
もしかしたら、来世では医者になって、人の命を助ける仕事について、全身全霊で人(生命)を
愛し、その生涯を捧げるかもしれない。



知人に、自分の前世を、昨日の事のように覚えている看護婦がいる。
その人は、戦国時代に「山賊」であったという。戦いで傷を負って落ち延びた武者を襲い、
金品を奪い、手を切り落としたり、足を切り落としたり、時には、命まで奪っていたという。
そんなことを全部覚えているという。


そして今、勤めている病院に、自分が前世で殺した人が診察を受けに来ることもあると言う。
前世で足を切った人が、足が不自由なままに入院したり、自分が「刀」で切りつけた人が
背中に傷跡がそのまま残っていたりするという。「今は姿・顔形は違うけど、魂が同じなので、
すぐ分かるという」。


そんな人を見るたびに、「すみません、すみません」という思いでいっぱいで、
ただひたすら心の中で詫びるという。


他の看護婦さんが、あの患者さんはわがまま、扱いにくいと言う人もいるけど、
「私はとてもじゃないけど、そんなことは言えない。自分のやってきたことを考えたら、
そんな事を言える資格はない」。今はすべての人を愛したい、出会うすべての人に
ありったけの愛を注ぎ、全身全霊で人に奉仕をしたいという。
そして、休みの日には、ボランティア活動に励んでいる。
http://www.ne.jp/asahi/aquarius/messenger/books_008.htm



カルマというときそもそも前世の因縁があるのかどうかということがある。前世での悪行を今償うために医者や看護師の仕事など福祉やボランティアをしている。それが動機になるというのも不思議である。しかしこの動機は全く根拠もないものでもないし悪いとは言えない、それだけの善行を行う動機づけになっているのだ。そんなものないよと否定するのもいいが実際の動機となり善行になっているからだ。ここまで前世のことを真剣に考える人は普通はいない、医者だって看護師だって種々雑多でありこんなにしてまでこんな動機でやる人は極わずかである。そして医者や看護師でも結構性格の悪い人だって金だけを求める人だって天使が変じて悪魔にもなりやすい職業でありきれいごとはこの世はすべてすすまない。だから前世のことをこれだけ真剣に考えることは特殊であり動機が悪いとはならない、いい動機になっているのだ。でもこの前世で悪いことしたからそれを現世で償わねばならないというのはすべて否定することもできないむしろ事実なのである。


たいがいなぜ親と同じ様な人生を送りやすいのか?親の因果が子に報いとかなるのか?親が離婚していると子も離婚しやすい、親が苦労したことを子も同じ様な苦労をする。借金で親が苦労したらやはり子供も借金で苦労する。親に捨てられたという人は自分が親になったら子供捨てていたということもある。何かそういう因果がある。それはほとんど一部にあてはまるのではなく統計的な数字として確実なのである。だから家系の研究している人はそうした一つの法則があることを割り出した。親が悪いことをしていたらその因果は子に受け継がれる。それは仏教でも聖書でも同じである。三代四代までその因果が継続されたたるともなる。その罪の報いは一見関係ない子供が受けることになる。これも理不尽と言えば理不尽なのだがそれが因果の法則なのである。悪行はそれだけ恐ろしいことなのである。しかし軽い気持ちで悪は常に行うのも人間なのである。

この看護師は極端にしてもこういうことはありうるのだ。前世でないにしろ今世でもそうである。

例えば恩を受けたら恩を返すことが要求されているのだ。恩を返すことなど別にするしないは自由であると考える。でも恩を受けたことがカルマとなっているのが人間なのである。だからそのカルマが生まれたのだから返さねばならない、それをしないとどうなるのか?その人はそのカルマを返さないからカルマは解消せず自分自身を不幸におとしいれる。そういうことは現実にみている。恩を返す機会がありまざまざとみていたのに何もしなかった。ただ見て笑っていただけだったとなればその人は何だったのかとなる。それで今の不幸があるとしか言いようがない、それは自分にも起きたことだった。もちろんそれは一方的な見方だということもある。悪行の結果はすでに必ず別に死ぬ前に現れるのである。カルマ(業)をそれぞれ背負っているからこの看護師のように極端ではないにしろカルマを解消するためにはカルマは罪障でありそれが行為として示さないと消えないというのが現実としてある。


例えばここにホ-ムレスがいたとする。この人は自分とは何の関係もない、この人はよほどでたらめな人生を送ったのだろうとか思いその人の苦しみなど全く無視するのが普通である。ところが逆に人間は会社が急に倒産したりして自らがホ-ムレスにならないとも限らないのだ。そして人間は結局決して自分が苦しまない限り他者には同情しない、病気になった人は病気の人に同情するようになる。ホ-ムレスの苦しみはホ-ムレスにならない限りわからない。病気の苦しみも同じである。貧乏の苦しみもそうである。現代ではどうしても貧乏の苦しみを実感することが普通はできない、過去の貧乏とはあまりにも違っているからだ。だから医者とか看護師は別に病気などしていない人が多いから意外と病気はみていても同情しない人が多いのである。だから病人を残酷に扱う悪魔にもなりうる職業だということである。

ところがそういう人も医者でも看護師でもいつか病気に必ずなる。するとなんであのとき患者にあんな冷たい扱いをしたのかと反省する。そういうカルマの繰り返しが人間なのである。だからこの看護師は極端にしてもカルマを解消するためにはそれくらいすることも異常ではないのである。
普通はこの逆であったり全然していないからである。その結果として自らに不幸を招く、でも自分自身のことは反省しないで他人のせいにしたする。そのことは自分自身もこの六年間こんなに苦しむのはなぜだろうと考えたがやはり自分のカルマだったのである。それは今も継続中なのである。


そして仏教でもキリスト教でもシャカやキリストがどういう人生を送ったか?それが忘れているのだ。それは大伽藍に飾られて大聖堂に祭られたりしているからシャカは洞窟で暮らした乞食だったしキリストは枕するところなしというホ-ムレスだったということを全く忘れている、感じられないのである。大伽藍や大聖堂の主がそんなことがありえないとなる。でも現実は二人ともホ-ムレスだったのである。この世では住む家すら与えられなかった。今の宗教者はこの正反対である。清貧の生活すらしている人はまれだとなる。それは江戸時代からそうであった。だから宗教者ということ自体何なのかともなる。袈裟を来ているだけの見せかけだとなる。ともかく人間はいくら言葉で説教しようが自分自身が同じ苦しみを受けない限り同情することはないのだ。ホ-ムレスの苦しみはホ-ムレスになってみなければわからないし病気や貧乏もそうである。そういう同じ苦しみを受けると同情するようになるのである。そうでないと口だけになってしまうのである。だからかえって人の苦しみをみて他人の不幸は蜜の味となっているのが普通である。自分が苦しまないから実際は関係ないとなる。金持ちは貧乏人に同情しないし無関心である。

また自分が苦しんできたから他人も同じ苦しみを受けるべきだともなりざまあみろとなって同情しない人もいる。こういう人もまた多いのである。そういう人は他人の不幸を心から願っているのである。自分と同じ様に不幸になればいいと暗黙の内に願っているのだ。そういう人とつきあうことも危険である。だから現代では特に同情する人はまれである。そもそも前世のことをこれほど思ってカルマを解消しようとしているのは特殊でありほとんどないから貴重だともなる。
そういう立場の人を理解できないのである。
自分のこの六年間の苦しみもやはりカルマだった。そしてこのカルマは未だ解消していないのである

結局人間は罪の故に業(カルマ)の故にカルマを誰でも背負っている。だからこの世でカルマを消滅させる必要がある。でもかえって必ずまたこの世でそんなカルマの自覚より新たにカルマ(罪と業)を積んでゆく。するとまたカルマが消滅していないから生まれ変わり苦しむことになる。その因果の繰り返しだともなる。ただこの看護婦の場合は強制されたものでなく自らそう思ってカルマを消滅させるために人の看護をする。逆にカ-スト制はカルマによって身分制化したもので強制されてしまっているからいいとはいえない。強制されてやるのと自らが悟ってやるのでは相当にちがう。
前世など関係ないというけど現世ですでに誰でもカルマを背負わされている。そして自らもカルマを積んでゆく宿命にある。殺人を犯したような人はすでにこの世ではそのカルマを消滅することなどできない。とすると来世でまた生まれ変わりそのカルマを消滅させるために生きることになるというのも不思議ではない、殺人したから今度は医者となり他人の命を救うために働くというのもわかる。
なぜこの人はこんなに懸命に働くのだろう。金のためだけではない、本当に他人に尽くすために働いているとなるとその動機が何なのだろうとなる。それは前世からの因縁でそうなったというのも一つの解釈にはなる。


ただ人間は決して自分のカルマを認めたりしない、だからこの看護師の言うことは特殊でありまれである。逆に自分の犯した積んだカルマを他人のせいにするのだ。他人に自分のカルマを負わせようとする。それもまた普通にある。自分で自覚してカルマを消滅させようとしないで他人に押しつけるのである。借金というのがそうかもしれない、自分が贅沢するために遊ぶために見栄のために借金していてそれを他人のせいにして借金する。カルマが関係ない第三者にも負わされるのである。結局この世はそうしたカルマが充満して解消しないのがこの世だとなる。それはどなんことしたって永遠に解消しない、変わらずにカルマを積んでゆく、その大きな原因が欲望があるからになる。欲望はどんなことしたって断つことができない、そこからカルマが生まれてくる。そういう因果の繰り返しなのである。カルマが消滅するのはいつなのか、それはこの世が滅び新たにされるときしかない。人間という種が滅び新しい種になる。それはこの世ではありえないからこの世は欲で滅びるとなる。
最後の審判があり人間の欲が滅ぼされてようやくカルマが消滅するとなる。

2013年02月28日

人間はなぜ歪んでしまのか? (その原因の根底に育った家庭があった)


人間はなぜ歪んでしまのか?

(その原因の根底に育った家庭があった)

子供は夫婦の会話や態度を鏡のように映す存在。例えば奥さんから誕生日に『おめでとう』と言われプレゼントをもらったときに、どんな反応をしていますか。奥さんが喜ぶような言葉や態度で感謝を表現できているでしょうか。素っ気ない態度で感謝の気持ちをごまかして、きちんと伝えていないと、子供はそれを感じ取り、男の子は特に父親をまねて極端な形で表してしまいやすいのです」


 つまり日ごろから夫婦間で『ありがとう』の会話がないと、それがわが子にも伝播(でんぱ)して、友達の心が理解できない感受性の鈍い子供となる。その結果、当然のことながら感謝の表現ができなくなるというのだ。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130227-00000001-pfamily-soci


自分がここ6年介護とがで接した人間はまともなものがいなかった。主に親戚だが他人もいた。そもそも自分の家族が異常な家族だった。それは家族が悪いというのではない成り行きでやむをえないことからそうなったのだから自分は家族が異常でも家族を責めないし自分で言うのも変だがそれなりに手厚い介護しているし親には感謝している。こういう家庭環境になったのは本人が悪いというのではなかったからだ。それぞれの家庭を知ることは複雑であり他者が知り得ないものがある。


まず自分の母親などは悲惨だった。継母に育てられたのである。だから小学生のとき弁当を作ってくれたのだがそれを残したとき「オレの作ったものを食えないのか」とその弁当を投げつけたというからひどい。その継母は異常なほど気性が荒い女性だった。最期は養老院で眼が見えなくなり死んだ。もう一人は連れ子になり心が歪んでしまった、またもう一人は子供のとき三人母親が変わった。これもかなり影響したろうがその三人は愛情がないとういのではない、特別可愛がったのである。でもその影響が大きかったかもしれない、それで50才くらいになってその女性は異常な人間になっていた。そのとばっちりを自分の家で受けた。あとは子供のころは極端な貧乏とか苦しみを味わい結婚してから夫がすぐに重病となりその世話に明け暮れた女性も心が歪んでしまった。もう一人は生まれたとき母親の乳で育たず親戚のものが乳を与えて育てた。兄弟姉妹も多くそんなふうになったのだろうがこれも最後は犯罪者になった。自分がここ6年であった人はこんな人しかいない。自分自身の家庭環境が異常であったこともあるがその回りもすべて異常だった。


そういう人ばかりみていると家庭とはそもそもそういうものだと思ってしまうのだ。まともな家庭、家族で育たないものはまともな家庭がどういうものか知らないのである。毎日夫婦喧嘩しているのが普通だと思ってしまうのである。家庭とはそういうものだと思ってしまいまともな家庭があるなどわからないのである。ともかく人間は家庭環境が致命的に影響することがまちがいない、やはり家庭環境が悪ければまともに育たないということはある。ただ環境因子がすべてではないし生まれつきがすべてでないしそれは複雑に相互作用しているのだ。悪い環境でもいい子は育つ、親がなくても子は育つと同じである。一般的には確率的にはどうしても人間は育った家庭環境に大きく影響される。
だから就職のとき家庭環境を見て採用するというのはやむをえないかもしれない、協調してやれるかどうか性格がどうかとか見るのには家庭環境を見るのが基本になるのかもしれない、自分はまず他人と協調してやれるようなことはなかった。それでも逆に家庭環境で会社にも就職せず無職でも遂に人生の最後までも困ることもなかったのである。


ただ世の中は広い、人間の接する範囲は極めて限られているのだ。だからそこから判定することはできない、一般化することはできない、最近あった女性を見ていていつも不思議だった。その感じとか受け答えとか本当に気持ちよく素直であり態度がいいのである。それは何だろうと不思議だった。異常な人間ばかりとあっていたから地獄で仏にあったような気がした。この女性はまともだとつくづく思った。心も歪んでいないしまともなのである。そのことに感動したというのも変だけどまずこれだけ歪んだ人間を相手にしていればそうなる。その女性は男一人と女一人と三人兄弟姉妹であり夫婦仲は良かったという。なるほどこれくらいまともだとやはり家庭環境もいいのだなとつくづく思った。まともな家庭環境で育った人もいるのだなと感心した。こういう家庭に育てば気立てのいい優しい女性に育つと思った。ただ金持ちの家だって夫婦仲が悪かったりすべてがいいわけではない、貧乏でも夫婦仲が良かったりするし貧乏がすべて悪いとはならないから貧乏から家庭を判断することはできない、ただ家庭は人間形成の基の場であり影響が大きすぎるのである。だから家庭環境をみればそれなりにその人物を判定できるかもしれない、ただその後の大人になってからすべてを家庭環境の原因にすることはできない、どんな不遇な環境でもみんなが犯罪者になるわけではないからだ。


結婚が昔は家と家の結婚だというときそれは家庭環境がその人間に大きく影響しているからだ。家と家の結婚だというときその結婚する本人より家庭環境を見ている。その方がまちがいないかもしれない、なぜ戦後に三分の一も離婚しているのか?それはその人ばかり見ていてもなかなか人がわからない、家庭環境を見ればその人がわかるということもある。家と家の結婚なら離婚も少なくなるかもしれない、だから自由恋愛というのも離婚が非常に多いのである。そこで古いものが何でも悪いとしたことにも問題があった。新しいものは新しい価値観は簡単に身につかない、それより何代にもわたった価値観にも習慣にもそれなりの人間の知恵が働いていたから軽んじるのが問題だったのである。


「オマエを育てるのに苦労した。」
「この食事の支度に苦労した。」
「あんな人と結婚するんじゃなかった。」・・・等々。
個々の事例については、以前より配信しております。


じゃあ、このようにグチばかり聞かされてきた子供がどうなってしまうの?
その一例として、「苦労自慢や不幸自慢」の人間になったりする例が多くあります。
そもそも、その親から不幸話や苦労話以外の話を聞いたことがないんだから、子供だって、自分の不幸を語るしかないじゃないの?
皆様の周囲にも、不幸自慢や苦労自慢ばかりの人もいるでしょ?

まさに、当人の親と同じように、被害というか、苦労というか、不幸を語り、そして、被害者という立場でもって自分のアイデンティティを設定するわけ。
被害者として、自分の被害を語り、被害を語ることという行為によって、「被害者としての自分」という立ち居地を自己確認するわけ。
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/04-04/04-04-19.htm


こういう人を知っている。本当に信じられない苦労の連続だから苦労を他人に語ることが人生になってしまった。そして他人の不幸を喜ぶような歪んだ性格になった。そんな人と付き合わされた自分は最大の不幸だった。最初はその人間についてはわからなかった。こうして歪んだ性格の人とつきあうことは何らか大きな害を受ける。この女性はついに弱者だったが弱者を虐待して喜ぶまでになった。
だめだめ家庭は実際にいたるところに普通にいるしそういう家庭と接して生きざるをえないのだ。
ただそういう家庭と接するとなんらかの害を受けざるをえない、ある意味で恐いことでもある。
病気になり弱者になって抵抗できないからこんな女性に助けてもらったらあとあと大変なことになる。家庭が崩壊させられるしそういう事件もあったから恐いのである。


だめだめ家庭の目次録
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/index_original.html


ここはかなり参考になる。

2013年02月08日

良い姿勢も生活習慣で作られる (人を見るとき姿勢が大事なのはなぜ!)


良い姿勢も生活習慣で作られる

(人を見るとき姿勢が大事なのはなぜ!)

姿勢というとき言葉をはればまさに姿の勢いなのである。その姿に勢いがあるかどうかが姿勢なのである。living attitude なのである。


figuratioを遡ると、「姿」「形」の意のfigura(フィグーラ)や、「つくり上げる」の動詞fingere(フィンゲレ)になり、同じ語源では英語のfigure(フィギュア)があります。
このfigureの概念は、ギリシア語で「形」を意味するschema(スケーマ)の翻訳語ともされていますが、このschemaから来ているのが英語のscheme(スキーム)で、「企画」「枠組み」などで訳されています。


figureにはいろいろ意味があってももともとは形にすることであり解決するということはfigure outである。

人間を見るときまず顔を見るということがある。顔も大事なのだが実際体全体が大事であり姿勢が大事なことがわかった。姿勢がいい人は見ていて気持ちいいのだ。なぜ老人が醜く見えるのか?
顔も肌も老いて醜くなるのだが姿勢が悪い人が多いからではないか、それは肉体的衰えもあるが姿勢から精神が歪んでいる感じも受けるからだろう。回りを見回しても60代くらいになると姿勢が悪くなる人が多い、体型も悪くなり歪んでくる。自分も痩せ型なのに腹がでていたりする。どうしても年とともにそういう人が多くなってくることが印象を悪くしているのだ。


美人の要件として姿勢がいい、スタイルがいいことである。顔よりスタイルが大事だという人もいる。人間は体全体から何かを発している。同級生で背の高い人だったがせむしのようになっていたのには驚いた。あの人は表に出れないだろう。人に見られないように家にひきこもっている他ないだろう。ある人はぶよぶよに太っている。ある人は脚が曲がったように見える。ある人は体が太鼓腹であり脚が短く体型自体が生まれつき悪いのだろう。それに加えて心も曲がっているから体と心が一致してしまった。ダンテの地獄編では体が変形した人が良くでてくるけど悪しき心が変形して歪んだ体となったのである。ただ若い内はたいがい体に生気があふれ姿勢がいいから若い人と接することは老人に接するより気持ちいいのである。若い人はまだ世の汚れにもそまっていないから気持ちいい人が多い。若い人のすべてがそうでないにしろ一般的にはそうである。
姿勢はそもそも生まれつきではなく作られるのである。人間なんでも生まれつきだと思っているけど違う。双子がいたけど筋骨隆々になったのは重量挙げをしていたからみたいだ。双子でも全然違った体型になってしまったのだ。その後訓練で双子でもまるで違ったものになっている。その生活習慣でもそうである。人間を決めるのは生活習慣だというのも本当である。もちろん生来のものもある。

自分の場合、体も弱く心も弱く能力もまるでなかった。でも結局長い人生で生活習慣でなんとかさほど病気もせずにここまで生きられた。体力的にも知的にも優れた人はいる。若いときスポ-ツができて知的能力も高い人がいる。高校生のときから柔道ができるとか体力がある人がいる。そういう人を見ているとうらやましいとなる。知的に勉強できる人は体力がないように見えるからだ。でも実際は勉強もできて体力もある人がいる。そういう人はやはり社会的に上のクラスに自ずとつく。やっぱり人間は頭脳が大事だといっても体力もその基礎にある。芸術だと本当は体力がないと巨大な芸術家にも哲学者にもなれないだろう。なぜならこの大自然を詩にするにしろそれ相応の体力かないと健康でないととても詩にできない。だから巨大な芸術家は超弩級の体力かあった。牛という詩を作った高村光太郎、その体自体が牛のようにさえ見える。頑丈な体だったのである。彼は彫刻家でも彫刻家は頑丈な体の人が多いかもしれない、それはかなりの肉体労働になるからだ。牛になるきるには牛のような体力が必要だとなる。虎の詩を書いたブレ-クも異常な体力の持ち主だった。天才はそういう人が多い、上野霄里氏とかニ-チェもそうである。体力がなければあれだけのものも書けないのである。


一般的に詩人薄命だとかいうように詩人には柔弱な人が多い、自分もその一人である。ただ人間の不思議そうした柔弱でも生活習慣でそれなりの体力を身につけることができるのだ。もちろんそれには限界があるにしろ生活習慣でできる。酒を飲まないとかタバコを吸わないとか日頃運動しているとかはできるのだ。現代の生活は昔のように第一次産業に従事する人が少ない、工場とか会社のデスクワ-クとか不健康なのが多いから姿勢も悪くなるし人間に生気がなくなるということがある。人間の姿勢は一生の間で作られるのだ。奇妙な話だけど自分の場合は常に自転車にのっていたから自転車に乗る姿勢になっていた。自転車は極めて自然を感じるものである。風を必ず受ける、風に向かって走るのである。そうすると風に向かう姿勢になるのだ。車はそういうことがない、自然をさえぎるからそうした姿勢になりにくいだろう。だから姿勢も長年の習慣で作られる。商売人でもしょっちゅうおじぎばかりしていたらそういう姿勢にならないだろうか?デスクワ-クの人はどうしても前かがみにならないだろうか?現代人の仕事はそういうのが多いから姿勢が悪い人が多いともなる。

高橋英吉の彫刻の漁師は潮風に向かって胸を反って立っている。あの姿勢は漁師だからこそあのようになる。漁師も常に潮風を受けて働いているからそうなる。高橋英吉も自らも漁船にのって遠洋航海で働いたというからそれだけの体力がありあれだけのものをあの若さで作ったのである。これも天才だったが戦争で死んでしまったのである。あの彫刻には広い海からの風を常に受け波の音を聞き常に海に向かっている男の姿を見事に形にしているのだ。日本ではヨ-ロッパのように人間を彫塑にする芸術があまりなかった。自然を立体的にとらえる力が不足していた。だから立体的な建築も発達しなかった。だから姿勢の芸術たる人間の彫刻力がなかった。


ともかく姿勢が生活習慣からつくられるというとき現代は生活習慣がその仕事上も悪いから悪い姿勢になる。職人でも自分が接した人はもともとすでに柔道しなくても柔道何段かの体力があるような人だった。見ているだけでうらやましくなった。職人でも体力かないとできない、それに加えて技術力やセンスもないと一流にはなれない、だから優れた職人も長年の生活習慣でその姿勢が作られる。だから昔は姿勢のいい人が多かったかもしれない、肉体労働がどうしても多かったからである。
一般的にスポ-ツできる人は姿勢がいい、武道をする人は姿勢がいい、背筋が伸びていい姿勢が作られる。だからもともと武道は姿勢を重んじていたのだ。姿勢が人間を作ると思っていたから姿勢を良くするものとして発達した。剣道でも柔道でも武道をする人は姿勢がいいのである。

ただ人間は生活習慣で作られる。生まれつきがあっても長年の生活習慣か人間を作る。病気も生活習慣からなるのが多いとしたとき健康も生活習慣によって作られるとなる。どうしても生まれつきが影響しても現代のように体力がなくても長生きができる時代なのは環境のためである。栄養もとれるし過重な労苦を強いられないということもある。自分の場合は生まれつき弱くてもそういう環境と生活習慣でこれまで生きられたとなるから恵まれていたとなる。昔だと無惨に才能があっても死んだ人が多いのである。まず自転車にのることが人生だったなどということは昔ならありえない、現代のような恵まれた時代からそんな人もありえたのである。ニ-トなどありえないのが昔である。


漁師の像


漁師は常に大海に向かって立つ
筋骨隆々として波がその体を洗う
波はその体全体に轟いている
直射日光が体に射しつけ
その眼は海のかなたを見つめ
遠方から来るもの望んでいる
胸は希望にふくらみ常に潮風を受けている
常に大海から吹いてくる風に向かって立つ
あたかも岩壁のように打ちつける波に向かって立つ
その姿は凛々しく自然が人間を造形したように
大海に向かって立ち波と光と風のなかに立つ


石巻-潮音-漁師の像が立っている
http://ishinomakinews.blogspot.jp/2012/11/hibi1120.html

2013年01月10日

人間の罪の基は口にあった (口からすべての汚れがでてくる-現代社会の嘘は見抜くことがむずかしい)


人間の罪の基は口にあった

(口からすべての汚れがでてくる-現代社会の嘘は見抜くことがむずかしい)


口は災いの元

そのうわついた口はぺらぺらあることなきこと
しゃべりつづけて嘘もつく
口は災いのもと
口はつつしむべし
特に女性の口は軽すぎる
その口の恐ろしさを知るべし
その口よりいでしものが他者を殺す
愛なくば愛を語るべからじ
真実の一言は重し
真実の言葉に力が宿る
石の如くに真実の言葉は重し
浮ついたる口よ
そは地獄にてその舌の焼かれむ
その口は呪われるべし


人間は簡単に言葉を日常的に使っている。言葉などなんの影響があるのかと普通は思う。しかし言葉を通じて人間の心が表に出るということが人間の人間たる所以なのである。身、口、意で悪を犯すというとき人間は口から一番悪が出やすい。意というときその心が言葉となって現れる。人は言葉を軽んじているけど言葉を通じて心が表出されるから言葉は恐ろしい害毒をふりまく、自然界のものは樹でも石でも山でも動植物でもは言葉をもっていない、言葉がでてこないからこそそこにいかなる悪も表出してこないのだ。だから人間でも沈黙の行をしていれば樹や石や山のようになれば悪は表出しないし罪を犯さない、罪というとき具体的な犯罪として罰せられる罪を罪だと思っているが人間は日常的に言葉で相手も殺しているのである。人間の言葉の害毒は計り知れないほどこの世を汚している。
そしてこの世とは嘘と偽りの世界である。それは権力者から下々まで嘘と偽りの世界に汚染されているのだ。現代では嘘というとき個々人のあからさまな嘘もあるけど会社とか組織や種々の団体が嘘をつく。するとそれは権力を持っているから大々的社会に宣伝されてその嘘が嘘でなくなるのだ。

マスコミがこの頃盛んにネットなどで批判されるのは真実を報道していない、嘘だというときそうだった。マスコミも宣伝費をもらっているから大きな会社の意向に従う、東電など電事連が一番宣伝費を出すときその意向に従うほかない、そうして安全でなくても原発の安全神話は作られた。これは嘘だったのである。それは政府自体もその嘘に加担していたのである。政府と会社が一体化して嘘をついていたのである。戦争中でも政府と軍部とマスコミが一体化して実際は負けた場合でも勝っていると嘘をついていたのである。政府もマスコミも一体化して嘘をつく、その嘘が人の判断を誤らせていたし結果として300百万人も死に犠牲にされていた。


まずこの世で嘘をつかないで人生を終えた人など一人もいないだろう。現代では特に嘘をつかないということは会社とか団体と組織化の中で生きていると個人が嘘をつかないように思ってもできないのである。会社ぐるみで団体で行動しているのだから一個人の意向は無視される。だから除染にしてもごまかしていても会社の支持でやっている、政府の支持でやっているとなり個人はその大きな権力の意向に従わざるをえないのである。つまり現代は江戸時代などより偽りと嘘が天文学的に増大した時代である。組織ぐるみの嘘が莫大なものとなっているからだ。例えば江戸時代だったら職人であっても一人一人で職人気質で仕事していたのだから嘘をつくようなことはない、すると全体的に嘘は極めて少ない、だからみんな江戸時代の人は貧乏でもいい顔していたというときそういう社会の違いがあった。現代はまた嘘を見分けにくいのである。マスコミの嘘などでも見分けるのがむずかしい。もちろん政府が嘘ついていたら余計にそうである。宗教だってカルトとなると巨大な組織集団だから宗教を看板にしていること自体嘘と偽りなのである。そもそも宗教は自らが犠牲になるような崇高なものだった。するとカルト宗教団体などはまるでその正反対だし誰も自分が犠牲になるような宗教を実践することが不可能だからその看板をかかげていること自体、嘘であり偽りだとなる。ただ別に宗教ではなくてあなたたちの欲望をかなえてやりますとあればかまわない、それは法華経とか虎に自分の食わせるとかの宗教を実践できるものはいないからそもそも宗教を看板にしていること自体が嘘と偽りになってしまう。この世全体がそもそも嘘と偽りの世界だとなってしまっているのだ。


現代はなぜ嘘がこれほど蔓延してしまうのか?それは薬でも医学でもその他いろいろなことが専門化して素人にわかりにくい社会だからである。何か宣伝している人は金をもらってしているのだからそれがいいとか悪いとか真実なのかどうかなど関係ないわけである。それを自分で確かめるわけにもいかない、原子力発電とか放射能問題でもそれらは目にも見えないしわからないから嘘が一番つきやすいとなる。放射能が低いならかえって体にいいといわれればそうかなと思って信じてしまう。それは専門家しかわからないから嘘をつかれてもわからないのである。個人的嘘なら具体的でわかりやすいけどこうした科学でも組織的集団的なことになるとその嘘を見抜くことは不可能になってしまう。
建築関係の仕事をしている人が一億円資産があるもうかっていると言われたときその方面の知識がないからそういう仕事もあるのだと思っていたら嘘だった。そういうことは現代は数限りなくある。
何が嘘なのか本当なのか社会が嘘と偽りにおおわれていたら見抜くことはできなくなる。宗教を看板にしているのだから宗教を追求しているのかと思ったらそこはどろどろした現世欲望を追求している団体だったカルトだとかなる。その嘘が偽りは巨大組織化集団化されると社会に公認されるから余計わからなくなるのだ。社会でその嘘と偽りを糾弾できなくなっているのだ。


おそらく嘘をつかずに一生過ごせるとしたら奇跡的だろう。社会とかかわること自体嘘をつき偽りに生きることになる確率が大である。だからこそ出家してこの世とかかわらないことが身、口、意を汚さないようにすることだったことがこれからも理解できる。でも出家してもまたそこが嘘と偽りの場になることもありうる。宗教というのも嘘が多すぎるのである。だからこの世で人間社会で嘘と偽りから逃れようとしたら不可能になる。石と樹とか山とか動植物、自然は嘘をつかない、偽りがない世界である。だからこそ自然にひかれるのであり自然に安らぐのであり人間社会ではそういうことがありえないのだ。その社会は複雑怪奇になっていてとても何が嘘で真実なのかもわかりにくい、原発事故でもそうだった。ただ原発事故の原因は嘘にあった。必ず権力でもって嘘が隠蔽されていたのである。その嘘は政府の権力もかかわり隠されていたのである。それが事故につながっていた。原発の技術的問題として安全かどうかの前に正直にその内部の情報を出していない、嘘で隠していたことが事故につながったのである。だから原発が技術的問題よりそうした嘘をつくことにあったのだ。


ともかく愛がないのに愛という言葉を口にする人が多すぎる。それは宗教団体であろうがいたるところで愛を言うがそんな愛を簡単に実践することはできない、すると愛ということばを余り語らない方がいいとなる。いや簡単に語れないということでもある。政治家などは愛想のいい大衆受けをすることを盛んに言うけどそれはみんな自分の欲望のためであり他者の犠牲になるなどないから嘘なのである。それは政治家自身が言っているのだからおべっかと言っているのだからまちがいない、政治家はそもそも嘘を言うことで公認された職業でもある。だから公約などもほとんど実現されないのである。選挙のときだけいいことを言ってあとは実現されないのである。政治家だから相当な罪の職業だともなる。嘘をつけないではやれない職業だということである。そういう職業が結構多いのも現代社会なのである。江戸時代の職人や農民でも侍でも嘘をつく職業ではなかったろう。現代は膨大な嘘が蔓延した社会なのである。その嘘もみぬくことがむずかしい社会なのである。
女性の水商売などもどうしても嘘が商売になっている。それも相当な罪な職業なのかもしれない、今なら別に地味な職業でも食えないことはないからである。強制的にされるのではなく自ら選ぶということもあるからだ。そんなことに出入りすることは嘘の世界に自らも汚すし汚されることになる。
でも社会ではそんな堅いことでは通じないとかなり接待が普通にある。


口から入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのでる


口が人間の罪の一番の出口なことには変わっていなかった。口をつつしむことが宗教の修行の第一にあった。口をつつしめば罪を犯すことからまねがれる。だから社会とあまりかかわらず口をつつしむ禅宗の修行があった。現代社会生活で嘘をつかないで暮らすことはむずかしいからである。
ともかく心にもないことを次と次と言って恥ないのにはあきれた。女性は嘘つくのが当たり前だと弱い女性には嘘は許されるというがそんなことはないと思う。やはりその口は罰せられるだろう。それは男女に関係ないだろう。人間の謎は罪から生まれ罪を犯すために生まれた来たのだろうか?
結果的にはみなそうなる。なぜなら自然界には善悪がないから罪もないのである。人間だけが善悪をしる。人間が知恵の樹の実を食べて善悪を知るようになった。だから人間だけに善と悪がある。
嘘をつくということも悪であり真実であることは嘘のないことでありこの二つは分けられるのである。悪があって善を知り善の意味を知るということがある。山や樹や石など動植物でも嘘をつくことなど偽ることなどないからである。人間だけに悪あり嘘も悪であり嘘をつかない人など一人もいないから人は罪を犯すために生まれてきたということでもある。

2012年09月09日

食べものが料理が人間にもたらすもの (神に自然に感謝しないものは呪われる)


食べものが料理が人間にもたらすもの

(神に自然に感謝しないものは呪われる)

料理一つとってもそこには複雑な要素があった。自分一人で料理してみてわかった。料理はまず素材として野菜であれ肉であれ用意する、それからそれを運び並べるのが結構手間なのである。それらを全部一人でやることが手間なのである。だから病院などで食堂でもそういう手間がないからその手間に感謝するということがある。しかしそんなことを注目している人はあまりいない、この料理がうまいかとうかで価値は決められる。料理人の腕が注目される。しかし料理の素材として提供されるものにもあまり注目されていない、なぜ米が野菜がとれるのか肉が食べれるのか注目されていないしその行程も見えないのが現代世界である。田舎では米がどうしてとれるか現実に見ているから農家でなくても実感として理解できる。東京辺りでは田んぼがないから米がもたらされてもそれがどうして作られるのか理解しにくい。ス-パ-に行けば米はあるよとなる。金さえあればいつも食料は買えるよとなり誰も食料を感謝してなど食べないだろう。金の悪弊として人は金の力が余りにも今は大きいから金が神のようになっているから食料となるものに感謝しない。金によってあらゆるものがもたらされると錯覚する。でも金は金属であり紙でしかないのだ。そこに現代の盲点がある。


病院で経験したことは全く受け身となり料理が毎日もたらされたことである。そこには運ぶ手間がありその手間にも感謝する。病院は運んできてくれた看護師にありがとうとみんな言って感謝している。そんなことレストランでは言わないし感謝もしない、当たり前である。常に「俺は金をはらっているんだ、もっと愛想よくしろ」となりもっとサ-ビスしろよとなる。でも不思議なのは病院では料理を運んできてくれた看護師にみんなありがとうと感謝しているのは不思議である。病院の悪い点を書いてきたがいい点もある。人と人が互いにあれほど気づかっているのも不思議だった。病気だから互いに気づかうということはある。病気が軽いからまだ相手を気づかう余裕があるといえばそうである。重度になれば相手を気づかうことなどできなくなる。病院ほど労働に感謝している場はない、掃除婦にもありがとうと言っている。みんな病人で世話になるからそうなっているのか?他では掃除している人などに感謝している人などいないだろう。


ただ人間は感謝するとき本当は肝心なものに感謝していない、料理の基となる米とか野菜でもどうして作られるのだろうか?そこまで考察する人はいないだろう。米でも根本的には土があり光があり水がなければ作れない、その恵みは誰が与えたものなのか?すると地球を作った神がいてすべての食物は与えられたから地球を作った神に感謝すべきだとなる。そこまで思いをはせる人は少ない、食物を作るにはどんなに人間の手を加えようが根本的に土や水や光がなければ作れないのである。食料を作ってくださる農家の人の手間には感謝する。だが農家の人だけ食料は作れない、それを一番知っているのは農家の人である。なぜなら自ら作付けして育てたものを収穫するとき、人は自然とまさに神がその実りを与えてくださったと理屈ではないものとして会得している。だから水をもたらす山に信仰が生まれたのだろう。米でも米の神様に祈り祭っていたこともわかる。


動物の肉を食べるにしても動物はなぜ育つのか?肉食動物があるにしろ動物は草食動物であり草を食べて肉を作っているのだ。その草は土と水と光がないと作れない、そこに感謝している人はいない、人間は文明が高度に発達すると自然から遊離してくるからますます食物がどうしてもたらされるのか実感できなくなる。東京のように一千万人の食卓に提供する食料があること自体不思議である。
回りには田んぼもなにもない、コンクリ-トジャングルであり土も水も見えない世界である。そういう世界に人は普通に今は住んでいる。田舎だったら農家の人は以前として食料を生産しているのだから自然からもたらされるものが何か理屈ではなく感じている。


人間の命の基は土であり水であり光である。そして魚でも動物でも食べるときはやはり食べられる方は犠牲になっている。特に動物は血を流して犠牲になっている。魚さえ血を流している。だから植物を食べるよりより感謝せねばならない、宗教的にはインドのように肉が食べない方が理想的である。人間はこうして当たり前だった世界から離れ自然がみえなくなったとき災いが自然から神からもたらされる。今ほどあらゆるものを食べている時代はない、それ自体が異常なことだと気づくべきである。そういうところから原発事故も生まれてきた。電気はそもそも自然の光とかとは違う。原発を神のように崇拝するという映画あったけどまさにそこに危険があったのだ。崇拝すべきものは原発を作り出すものであり科学者はそこで司祭となり権力となるから政治家も民衆もあらゆる人が仕えることになる。しかしそこに呪いが隠されていたのである。


原子力を崇めることを神が偶像のように拒否したのかもしれない、それで破壊したのかもしれない、感謝すべきものは原子力ではない、電気でもない、土であり光であり水なのである。人間の技ではない、直接神の業なるものから作られたものなのである。それに感謝しないものは呪われるのである。

2012年08月17日

「親切心の養成」(家族にすら親切心がない現実)


「親切心」の養成


(家族にすら親切心がない現実)

例えば福祉関係の仕事、看護師とか介護士とか他者に直接働きかける仕事は「親切心」が自ずと養われる。仕事なの中で「親切心」意外と大事である。嫁に来た人はその家の墓に入りたくないという人が30パ-セントくらいいる。夫婦の墓がいいとかが多い。それは何なのか?それは姑と嫁の対立にあるのではないか?姑はどうしても嫁に親切心をもてない、そのことが恨みともなっているからそうなる。たいがいは赤の他人でも親切心でもって接すればこころよく勤めるということがある。それができないのは家族のなかでも親切心をもって接し得ないからである。


そういうことは家族の中で社会の中で働いていないと実感しえないのである。現代は一番この「親切心」が欠けた時代なのだろう。人を思いやる心が一番欠けている。ただ金だけを求めている。親切心も金をくれからやっているのだとなり愛想笑いとなって心から親切にするわけではない、ただ相手に親切にすることは自分も親切にされるというのが基本にある。姑が嫁に親切にできないから一緒の墓に入りたくないとなるのだ。ただだからといって姑がすべて悪いとはならない、嫁が悪いかもしれないし家族のことはあまりにも複雑なのである。今は姑より嫁の方が強く親切心が欠けていることがありうる。家族には外から見てわからないことが必ずある。それほど家族関係は複雑なのである。

だから家族の中に立ち入れることはよほどのことでないとできない、理解しがたいものがかなりあるからだ。自分の家族など自分すら理解できないほど複雑だった。一人が死んでやっと何なのか理解した。60年一緒にいてもそうだったのである。それほど人間は複雑なのである。

親切心はまた感じる人と感じない人がいるのだ。例えば身寄りがないとか家族がないとかひどいことばかりされてきたとかそういう人は親切にすると人一倍親切をありがたいと思う、感じるのだ。いつも家族の中で親切にされていると感じないのである。それが自分にもあった。親切にされるのが当たり前になっているときそのとき人は親切にされても感じないのである。ホ-ムレスの人か病院で実験台にされても看護師などに親切にされるからいいというとき、まさにそうなのである。路上で寝て全くもののようにしか扱われない、病院では看護師が名前を呼んでくれて人間扱いしてくれるからだ。家族のないものにとって病院すら家庭的に感じていいものになってしまうのである。

それだけこの世が非情になってしまったからともいえる。そして病院とかでは家族がいて有力者だと看護師も親切にするが身寄りのないものを親切にしないということもある。家族の監視があると見かけ上親切にせざるをえないということもある。本当は身寄りのない人は親切にされるべきなのである。

また不思議なのは親切に自らしないものは親切が何か実感しにくい、親切にしてみて親切が何かわかるのである。親切にされているばかりだとそれが当たり前になり親切にされても感じないのである。人間は仕事の中でただ金を求めて金さえ得ればいいと思っている。しかし人間社会で「親切心」は欠かせない潤滑油である。

働く場でも親切にされれば働く意欲も普通はでてくる。私に親切にしてくれた、だからここでは尽くそうという気持ちになる。姑と嫁には敵対関係がありそうした親切が通じ合わないから同じ墓に入りたくないとまでなっているのだ。親切心というのはいろいろな事件があるけどちょっとした親切心があれば事件にならないということがあるかもしれない、冷たくされて事件になるということがある。金のことで事件が起きるがこれも余りにも金に非情だとそうなるのかもしれない、相手がもう明日食べるものがないというとき、誰も助けてくれないとなれば殺人にもなる。でももしそのことを知り食べさせたりしていればそうならないかもしれない、現代は昔のようにそうした情がない社会になっている。自分の場合、家族でさえ情が通じ合わない所だったのだからさらに社会になるとそうなりやすい。


ただこの世が非情だというときこの親切心が全く通ぜず踏みにじられることがある。そういうことを自ら経験した。親切にしても全然感じない、むしろ親切をいいことに恩を仇で返すのも人間である。中国人の留学生に事情あって親切にしていた人が金のために殺された。金が欲しいとなったとき小さな親切は無視される。逆に見かけを親切にして老人から金を奪うとういう事件が実際はひんぱんに現代では起きている。親切というものが全く通じない非情化している人間もふえているのだ。確かに冷たくされたとかが原因にある、そして非情な人間化した。そして親切にする人があってもその親切は通じなくなった。そういう人もいる。それでも家族が複雑なように人間が起こす事件は本当は複雑である。報道だけをみればなんという人だとなるがやはり人間である限り何か犯罪を起こす原因があり残酷な事件であればあるほどそういうふうに考えいたいの人間なのである。人間なのだからそんなことまでしない、何かそれだけのことを起こす事情があったのだろうとかになる。人間だからということがやはり前提にある。良心をもっている人間なのだからそこまでやるのはそれだけの事情があるだろうと犯罪者を思うのである。会津の事件などでもなぜそこまでしなければならなかったのか?
その背景を考えその人がどうしてそれほどの犯罪を起こしたのか?この犯罪者は絶対に許せないというそれでもそこまでやる背景とか事情とかを考える、考えたいのが人間なのである。


いづれにしろ今の世の中、そんな親切心など説くお前は甘いとなる。世の中は食うか食われるかの修羅場だ。そんな甘いことでは生きていけない、お前は恵まれたから世の中の厳しさを知らないのだとなる。これは事実である。だからお前みたいなやつは格好な犯罪の餌食になったのだとなる。それは言えるし本当だった。この世はそんな親切心などを言ったら生きていけない、そんなものを殺してこそ成功するんだとなる。いちいち相手のことを考え同情していたら商売にならないよともなる、それが現実だともなる。だからこそちょっとした親切さえこの世では実行できない、善行というと大きなことをするものばかりと思っているが実際は小さな善行がその前にできないのである。

小さなことができないから大きなこともできないのである。人間は家族であれどんな場であれ親切にされると気持ちいいからその場で勤め尽くし働こうとなる。田舎でもそういう親切な人がいるところだったから自分も一緒に生活したいとなる。しかし田舎でも人間に関して都会とさほど変わりがない、いい人はまれである。むしろ田舎の人は排他的で他者に冷たいというのが一般的にあり会津の凶悪事件も背景にそういうことがあったかもしれない、最初の入った家ではいい人だとされていた。ただこの事件はあまりに残酷なので想像の範囲を越えているから簡単には言えない、それでも人間なのだから人間的に考えるからそう思うことになる。殺された人に何の非もないのだということが一般的であり死罪になるだろう。ただ田舎で起こった犯罪なので興味をもったのである。


親切心の養成


あなたに向かって花は咲いている
誰でもない、あなたに向かって花は咲いている
あなたに向かって花は喜び咲いている
あなたは他者に向かって親切にしてみよう
あなたも親切にされるだろう
親切は誰にでもできること
あなたはその人の名を呼んであげよう
忘れられた人の名を呼んであげよう
それだけで人は喜ぶだろう
大勢ではない、親切は一人一人になされもの
集団を相手にするとき人は人として扱われない
そこで「親切」の徳は忘れ去られる
親切はちょうどスミレのようなもの
目立たない花であるが喜びがある
親切は社会の潤滑油
親切はただ一言の言葉かもしれぬ
しかし感じるものには感じる
私は親切にされた
だからあなたのためにみんなのために働こう
そういう気持ちにさせるのが親切の徳
小さい目立たぬ徳なれどその力は大きい
大きなものだけが社会を支えるのか
小さなものに愛そそごう
神はそを見ているだろう
目立たぬ「親切」も社会を支える
ああ しかしその親切も無惨に裏切られ無視される
それもまた人間社会の真実
それでも親切に励まねばならぬ
自らの徳の養成のためにである


親切は集団的ではない、個々にある。だからカルト宗教団体にはその親切心すらない、集団として権力拡大維持を第一にするから親切心は無視される。助け合うとしても権力維持が前提にある。
「親切心」は本当は無償的なものかもしれない、確かに親切にすれば親切にされる、でもそうされない場合も多いとすると虚しいともなるからだ。親切心は見返りを期待しない愛なのかもしれない、そんなもの普通は実行できないとなる。たいがいこうしたものは否定される。社会はともかく家族の中で親切心がなかったので書いたまでである。

2012年07月22日

女神山の伝説 (人間の一生は夢-みな伝説化する)


女神山の伝説

(人間の一生は夢-みな伝説化する)

女神山


穏やかなる春の日
気ままにゆく山間の道
その道の分かれぬ
いづこに行かむ
春の日さして
誘われるままに
我は行きにしを
その知らざる道
知らざる僻村
女神山とあり
我かしこに春の日
苦もなくに眠りてあらむ
我に添うものありて
我が生を長らく楽しむ
しかしそも夢なれ
その長き日もまこと
槿花一朝の夢
たちまち散りし花
ただ夢の日にあれ
そは幻なれや
浦島の伝説や
はかなき煙と消えぬ
まことしやかに
浦島の釣り竿はこれと
山中に残るもいぶかし
すでにはるかなる昔なりしを
ああ されどふくよかに
女神山微笑みて
我をつつみぬ
我に苦を強いざるもの
そは常に微笑みて
我のそばに長くもありしも
ここに春の雲は流れきて
春日さす石や
鄙人の翁の座りぬ
時に共に昔を語り笑いぬ
この地の良しと神も笑わむ

今になると人間の一生は誰しも夢である。どんな一生も夢である。そういうことは老人になると本当に実感としてわかるし現実なのである。夫婦であれ家族であれそれがなくなったときそれは夢の世界だったとしる。人間の一生は夢であり謎であり最後はみな伝説化して終わる。別に特別な人でなくても普通の人でもその人生は夢であり伝説である。夫婦のともにする歳月は長いとしてもいつかはどちらかが死ぬとそれが夢のように思えるだろう。しかし人間の夢は本当に深い、いくら夢だと言ってもその夢は余りにも深いのである。旅したところも今思い出せば夢を見ていたようだとなる。その夢は時々よみがえり詩にしている。しかし旅だけではない、それぞれの人生そのものがみな夢なのである。どんなに豊かな恵まれた人生でも終われば夢であり貧乏でも同じである。人生はどっちにしろ夢だったとなる。みんな最後は浦島太郎になっている。ただその夢にしても一生のことだから長いからその夢はさめきれないほど深いのである。だからその夢は容易に生きている限り消え去らない、老人になると本当に夢の中に生きることになる。終わってしまった人生が夢でもその記憶を夢を生きるのである。これも不思議なことである。


この辺はまさに個々の人生ではない、町や村が津浪や原発事故で消失して夢のようになってしまったことである。津浪の跡でもこれが一体現実なのかと未だに夢うつつになっている。おそらく津浪の被害で家族を失った人たちはそれ以上にそう思っている。これが現実なのか夢なのか、今まであった長く暮らした家もなくなり家族もいなくなりとか一瞬にして夢のようになってしまった。普通だったら人生の最後にそうなるのだがこの場合は突然にそうなってしまったのである。だからこの辺の状態はまさに個々人ではない全体が夢のようになっているのだ。全体が夢うつつになっている不思議である。魔法に操られたような奇妙な感覚になる。怪しく紫の烟をくゆらせてその中に人は夢を見させられている。それも実に深い夢なのである。だからとてもそれが夢とは思えない、でも現実も遂には夢と化してしまう。快楽にふけるのも一時の深い夢である。それもたちまち消え去る。そしてただ最後は夢を綴(つづ)っているだけになる。あんなことしたこんなことしたとか思い出すだけが人生となる。でも自分のしたことが簡単に消え去るのかと言えば消え去らない、ちょっとしたことでも思い出すことがある。青春時代の浅はかなこと罪なことはあとで必ず思い出して苦しむことになる。過ちや罪の行為は消えないのである。その時はなんのことなく軽い気持ちでしていたことでもそうなのである。そういうことがあとで苦しめるものとなる。


青春時代であれ若いときであれいくらこの世ははかないとか夢だとか言ってもそれを実感しえない、目の前の華やかな生に心は奪われる。人はそこで深い夢を見せられる。そして最後に人は夢からさめる。しかしその深い夢は簡単には消えないのである。いづれにしろ人間は老人になれば誰でも哲学者になる傾向がある。人生とはこんなものかと否応なく悟らせられるからである。若いときは生きることに正に夢中でありそれが夢であることを覚らないのである。だからさも重大なことにのようにその夢に真剣に没頭する。この世で成功するも失敗するも夢となる。成功した人も結局夢の人生だったとなる。しかし人生は余りにも長すぎた夢だったからその夢からさめられないである。人生を本当にこれは夢なのだと若いときから覚ればそれほど苦しいものとは思えないだろう。人間は何者かによって操られ深い夢を見せられているのである。それは何なのかわからない、たぶらかされているのである。サタンといえばそうなのかもしれない、そして社会自体もこの世自体もそうした夢にたぶらかされている。ありもしない夢を現実化すると思っている。カルト宗教団体などがそうである。オウム王国だとか創価王国だとか幸福実現王国だとか夢をみて夢にかられている。


歴史をふりかえればソロモンの栄華の夢がありすべては夢としてあったのが歴史ではないか?歴史は現実だったにしろ終わって見れば夢となる。そんなこと本当にあったのか?そんな人本当に生きていたのかとなる。だからこそ伝説化している。一人一人の人生も伝説化する。人生は不可解であり謎だとなってしまう。ただ津浪や原発で町や村自体が消失して伝説化することは想像すらできなかった。しかし今やそれが現実なのである。


阿武隈高原に女神山がある、阿武隈は比較的道が平坦だから自転車では行きやすい、そして道が分かれている。その道をどこへ行くともなく行っていたのが自分だった。その日はあまりにも長かったのである。それでとがめられることもなかった。そういうふうに恵まれた生活が長くつづいた。でもそれも遂に夢となった。家族の一人も死んだ。そして回りも家も苦しみの場となった。でもその夢はあまりにも長いが故に簡単には消えない深い夢として語られるのである。ただ労苦の人生もあった。今の80代はそういう人が多い。ただ働くこと苦しむことが人生だった。そういう人生も何か哀しい。

花一つも愛でない人生は荒寥としていた。自分は春爛漫として花々の中を逍遥した人生だった。その思い出は限りなく我が心にありそれを今詩にしたりしている。労苦だけが人生だったというのもやはり悲惨である。ただ語られるのは労苦だけなのである。幸せな日がなかったというのはやはりその人生に接したとき息苦しくなってしまうだろう。ただ今そのつけを支払わせられているのかもしれない、あまりにも楽な人生のつけを支払わせられているのかもしれない、実際人間の境遇は不可解なのである。境遇は選びようがない、宿命でありそれを生きざるをえないのである。


魔法使いがその手を使い自在に人間を操る
今だ、もっと楽しめ、楽しめ
ハッハッハッ、楽しめ、楽しめ


魔法使いに操られ狐にだまされていたのが人間である。一見自分が生きているようでも実際は人間には欲があればその欲望の故にだまされ操られることになる。欲があるからだまされるのである。
人間は欲によって操られるものである。カルト宗教団体もその欲でもって人間を操る、社会そのものがそうではないか?原発事故だってそもそもみんな欲の故に危険を無視して操られたのである。そこに人間の深い欲がからんでいたから操られることになる。人間の欲は限りないものである。その欲を人間は絶つことはできないから様々にだまされ操られるのである。

輪廻の欲

まだ色濃くにおう紫の香の烟
醒めやらぬ夢の名残り
その深き夢の微睡み
人は欲に操られ正体を失う
醒めてみればただみな白髪の老人
死神は汝の齢を数えて
黄泉に送りその生は幻
ただ後悔と罪の汝を責めぬ
人の欲を断つことの硬し
故に人はその欲故に輪廻する

阿武隈の魅力は道にある
http://www.musubu.jp/abukumichimiryoku.htm

2012年06月22日

白鷺の詩から現代文明を考える (文明人が喪失した自然への感受性)


白鷺の詩から現代文明を考える

(文明人が喪失した自然への感受性)

白鷺の脚


白鷺の川の岸辺に一羽
悠然として優美なる姿
何か加えるものありや
何もなしかも完璧な姿
その翼と脚と嘴と
過不足なく与えられ
神の御園生に生かしめられぬ
夏の日太陽に一段と白くまばゆく
その天然の衣は映えぬ
夕風そよぎそのしなやかなる脚
その脚に絶えず水が流れている
水にひたひたと浸されている
いづこかへまた軽やかに飛びたち
白鷺は風を光を身に感じている
常に明るい光と風の中にある
その他は何も知らない
何も得ようとはしていない
完璧に神の業の賜物
エジプトの神殿の守り神
静謐なる純白の衣をまとい
水辺に菖蒲は咲きてひそまり
神にかしづき自然に調和する
いかなる災いももたらされず
神の御園生に生かしめられぬ


アオサギは定期的に蘇る命の象徴、つまり再生の象徴でもありました。というのは、浸水期になるとナイル川に必ず戻ってくるのがアオサギだったからです。アオサギはエジプトではベヌウ(bnw)と呼ばれてきましたが、一説では「昇る」とか「輝く」を表すwbenから転訛したものとされています。
http://www.lookandlearn.com/history-images/XB175586?.jpg


エジプト文明が何かというとこれも謎になった。アニミズムというのは何か?別にこれは人間が進歩しない科学的でないものの迷信的な宗教だとかなる。実際に神と崇めるのは間違っている。
しかし現代というのがこれだけ科学技術化した社会が進歩したものなのだろうかいうとき疑問がある。原発事故で科学技術もまた迷信的な宗教とも化していたのだ。安全神話が科学者によって強固に作られた。科学によってだまされていた。科学が宗教までなっていたからだまされた。

人間は意外とある面の感受性が衰退している。それは自然に対する感受性が喪失している。田舎に住んでいれば農家でなくても自然にまだ直接ふれられる。だから自然を肌で観察している。しかし都会だともう自然とは断絶している。ということは自然への感受性が喪失してしまったいることなのだ。そういう自然から遊離した文明の中で生きていること自体がすべての問題の根底にある。
アイディンティティ(自己同一化)というとき人間はもともと自然とアイディンティティ化してきたのだ。それはどこの国でも同じである。最初は密接な自然とのアイディンティティの中に生きていた。生きざるを得なかったから自然への感受性は自ずと身についていた。そうでなければ自然の中で生きられなかったのである。最初の信仰がアニミズム的になることは自然だったのである。それが偶像崇拝になっても自然なことだったのである。人間が自然から遊離するとき、現代の科学技術文明化は自然と遊離するから人間はどこにアイディンティティを求めていいかわからなくなる。そこでカルト宗教団体が都会から繁茂してくる。カルトは社会とも自然ともアイディンティティ化、自己同一化できないところから生まれてくるからだ。ビルと車の狭間で何とアイディンティティ化していいかわからない。スカイツリ-などもくだらないものでもそこに人は集中する。それも一つのアイディンティティ化を求めて都会ではそうなる。一つの山のようなものとして登山の感覚みたいなものが人工的に作られたから集中する。人は高いところに上りたいということが本能的にあるからだ。


人間の危機があまりにも人工的なものに囲まれてアイディンティティ化できないとういことから起きている。津浪でも人間の感ではない、テレビの報道に頼っているからテレビの警報に頼っているから命を失ったということもありえた。6メ-トルの津浪がくると言っても感じなかったのである。そういうときは人間の直感に頼っていた方が助かる率が大きかったかもしれない、あの地震では大阪から地震警報がでていた、そこで警報出す人が直観的にこの地震は普通ではない、震度の感覚では数字以上より大きなものに感じていたという。実際はその人間の感覚の方があたっていたとなる。すべてを機械で計れるわけがないのだ。人間の感の方があたる場合がある。人間はその感をあまりにも機械に技術にたよすぎてしまうようになった。人間の社会は今やあらゆるものが機械に頼っているから機械に頼れなくなればパニックになるのである。だから過去のアニミズムが迷信的だとかエジプト文明も動物を神とする非科学的文明だとかは言えないのである。それは自然とアイディンティティ化-自己同一化した文明の体系化だから今の科学技術文明のアイディンティティ化よりまともだとなる。科学技術文明からはまともな自己同一化、アイディンティティが作り得ないことでもわかる。


人間の言葉そのものが自然とアイディンティティ化する過程で生まれてきたのだ。日常的に使う言葉そうなっているとき自然から離れた人間の言葉自体がすでに自然と遊離しているから言葉自体が死んでいる。言葉が最初に詩だったというのは本当である。万葉時代はそうだった。大和言葉は日本の自然と同一化、アイディンティティ化する過程で生まれたのである。それが神道にも通じていた。
大和言葉は縄文時代からすでに使われていたのである。


苔むせる千歳の岩に年古りて何事問わむかしこまりあれ


千歳の岩に向かうときこの岩と自己同一化、アイディンティティ化しようとしているのだ。それが人間を作るのである。現代の宗教がカルト化するの正常な感覚をもてないのは自然から遊離しているからである。このかしこまる-かしこ-かしこい-これは何の意味だろうとなる。それは神道の祈りでも良く使われる。しかしその意味は何かわからなくなっている。でも自然に対する畏敬の念から生まれた言葉なのだろう。


世のため 人のために 尽くさしめ給へと畏(かしこ)み畏みも 申(まを)す


ここの世のため、人のために・・・ということが現代の宗教の根本的に間違っていることなのだ。

それがカルトになっているのである。神があって自然があり人間がある。自然を作ったのは神でありそういうものが実在するというのが宗教である。世とか社会とか人を第一にしていたら現代の文明こそ最もいいものだとかなる。かしこむとはすべての創造主なる神であり自然にかしこむことなのである。人は結局、権力にかしこみ、人間の作った科学技術にかしこみ、そして自然に対する感受性を喪失するとき自然の今回のような大災害にあい原発事故にもなったのである。。それはすでに予定されていたのである。


夕風や水青鷺の脛を打つ 蕪村


これはやはり鷺の脚に注目したことで同じ発想だった。あのしなやかな脚に魅力を感じる。なんともいえぬ優雅さがあそこにある。青鷺より白鷺の方が夏は一段とまぶしく映える。ただこの辺では川には白鷺がいるが田んぼがないのだから白鷺がいない、白鷺は水と一体になって存在していた。田んぼには蛙などの餌も豊富だったからである。


白鷺の飛翔(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/4710434.html


夕べの白鷺(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/14960452.html

2012年06月07日

教育とは能力を引き出すこと (人間の脳は生涯で二割くらいしか使われていない)


教育とは能力を引き出すこと

(人間の脳は生涯で二割くらいしか使われていない)


education 教育
[語源] L.educatio = e-(=out)+doctus = 子供の資質を引き出す行為


ローマ時代には、この石橋の上の溝に水を通して生活に使っていたのです。aqueduct の溝の部分が、水を導くための duct です。現在の duct は建物の換気、液体を流すための大きな管のことですね。このイメージをしっかりつかんでください



プログに出している抽象画だと思うがほめられた。美しいですねとコメントがあった。何度も書いてきたけどこの抽象画は芸術になっているかどうか疑問だった。ただ見ている人がいるのだから全く無視されていないのだから芸術として認められていたのかもしれない、抽象画は本当に芸術なのだろうかという疑問がある。でも抽象化が人間の精神的活動の根底にあった。文字も数字も抽象化した結果である。タ-ナ-のような大画家でも最後は抽象画になったということでも人間の精神と抽象化は密接な関係があるのだ。

educationが資質を能力を引き出すというとき、そもそも人間の能力は大方引き出さない限り眠っている。生涯で使う脳は割り程度というのは本当だろう。あとは能力が引き出されず眠っているということである。つまりどんな人でも能力はある。ただ引き出されないだけなのである。人間の能力というとき知的なことばかり言っているが社会を見ればいかに多様かわかる。人間には無数の能力をひきだすことによって社会が成り立っている。手伝いとかヘルパ-とか何かそんなものに能力が必要なのか、誰でもできるではないかとか見えるけどこれもその人に備わった能力があり向いている人といない人がいる。介護関係の仕事は力より優しさが求められるから今までにない男でも気質が要求されることになる。戦国時代だったらただ剛のものの能力が要求される。要求される能力も時代によって違ってくるのだ。


能力のない人はこの世にいない、ただ能力が引き出されないだけなのだ。芸術的感性などでも磨くにしてもそういう環境に恵まれていないと
そういう方面の感受性は身につかない、クラシック音楽などは生のオ-ケストラの演奏などをしょっちゅう聞いている人と聞けない人の差は大きいだろう。生の演奏を聞いて感動することが本当に感動することになるからだ。また自ら一つの楽器でもこなせれば音楽の関心が高まる。でもそれにはそれなりの時間が必要になるのだ。環境も必要になる。つまり能力を引き出す環境と時間に恵まれる必要があるのだ。ところが実際は貧乏な時代はほとんどそういう環境と時間に恵まれないから芸術的を鑑賞するセンスがみがけないのである。もちろん創造するのにもあくまでも自らの能力を引き出すことが創造につながる。


そして人間は能力がない人はいない、ただあらゆる方面で引き出されないというだけなのである。人間には何かしらの能力が備わっているが引き出されないのである。隠れている使われない能力が大きいのである。また能力を引き出すのには脳の状態を健全に保たないとできない、酒飲むことは脳を退化させる。一時的に脳が麻痺状態になるから能力が低下するのだ。能力を引き出せなくなるのだ。脳の潜在的力を引き出すためには節制が必要なのである。過度な酒や過度なセックスやそういうものに溺れたらどんなに潜在力があっても能力は引きだせなくなる。能力がわずかでも節制して長年努力していれば能力を引き出せるのが人間なのである。素質的に天才であっても能力を引き出すのに失敗する場合がある。一方わずかな能力でも節制していて引き出せることがあるのだ。それは別に年齢に関係なくそうできる。現実にパソコンの抽象画に目覚めたのは最近のことでありすでに60すぎてからである。60以降も引き出せる能力はいくらでもあるのだ。それもやはりそういう節制した状態でないとできないのである。


その一つの例がパソコンの抽象画だった。絵の才能が全くない自分でも抽象画が作れたという不思議がある。それはただ化学反応のようにしてパソコンのソフトから作り出したのである。パソコンのソフトは高価なものを買うより使いなれることが大事だというときまさにそのソフトを自分なりに使いこなせない方が多いのである。様々な機能があってもそれを引き出していない、ソフトの能力が引き出されていないということがパソコンをしている人は気づく。ええ、こんな機能があってこんなことできたなということが多すぎるのだ。これは脳を使いこなせないと同じである。脳の二割くらいしか使わず死んでゆく、ソフトの機能もすべてを使いこなすことはできない、何割しか使わない、そしてもともと備わっている機能を知らないことも多いのである。最近ではJ=Trimのテキスチャ-を使っていないかった。これを大理石に変換するとまた一味違ったものが作れていたのである。人間の能力もこれも使われていない、引き出されていないのだ。例えば文章を書くにしても本当は今や普通の人でも膨大なものをインタ-ネットで発表できる。すると文章を書く能力が増大するのだ。文章を書けば書くほどその能力が引き出されてくるのである。


artはもともと技術の意味だった。新しい技術が生まれたとき新しいartが生まれた。そもそも文字を書くにしても墨とか筆の発明なくしてありえないし紙の発明もそうである。


画材道具がどんどん改良されていきますが1840年にチューブ入り絵具が発明されたのです。
 それまで、画家たちは自分で絵具を作成していました。絵具の作成は画家にとって重要な技術の一つであり、その技術は画家の個性の一つでありました。良い画家とは、良い絵具を作る職人でもあったわけです。
http://foo-d.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-e66a.html


印象画はチューブ入り絵具が生まれて作られたのである。それまでは画家が絵の具を作り出していた。だから逆に今の時代にはない色が作り出されていたのである。必ずしも絵の具の発達が美術を発展させたとも限らない、時代時代により絵の具を作り出していて独特の色合いを絵に出していた。その色は今に作れないものとなってもいるのだ。染料なども時代時代によって作り出されていて過去の草木染めなどは再現できないということもある。その時代によってしか再現されない芸術がありそれは価値がなくならないものとなる。

この文章を書くにしてもやはり他者のものをインタ-ネットでは利用しやすいからそういうものを編集して書いている。インタ-ネットは常に編集しながら書くものなのである。だからインタ-ネットも能力をひきだす新しいツ-ルとなっているのだ。出版社では作家の能力を引き出していたのとにているのだ。編集者はそういう役目を果たしていた。でも今は出版社の役割は作家自身に移ってゆく、
作家自身が編集する方が効率的だしインタ-ネットからは引用が簡単だから膨大な文章が書けるし発表できる。なかなかインタ-ネットでは認められないにしてもそういうことができるツ-ルではある。だからこれからは出版社はよほど創造的なことをしないと生き残れないだろう。作家自身が創造の源であったしその作家が編集して出版までできるとなると出版社の役割がなくなるからだ。


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人間が認識する色は実はどのくらいあるのかわからない、同じ青でも何百種類の青があるかもしない、それらの色が認識されないように人間の隠された機能、能力を使われていない、ソフトの能力が機能がすべて使いこなせないととにているのだ。ペインタ-12とかなると使いこなすこと自体がむずかしすぎる。機能がありすぎるからだ。自分が使ったのは二千円のペイントグラッフィックだった。これだけでも使いこなすことがむずかしい。その機能を全部使いこなすことが手間になる。ソフトはどんないいソフトでも使いこなす方が手間でありむずかしいのである。

2011年01月01日

新年に若者への戒め-少年老いやすく学なりがたし


新年に若者への戒め



少年老い易く学成り難し

あなたはもっと勉強できた
あなたはもはや勉強できない
その残された時間が少ない
あなたは英語すら良く読めない
英語すらものにしていない
時間はたちまち過ぎ去った
あなたはいかに勉強していなかったか
それは老人になればわかる
基本的な教養の本すら読んでいない
あなたの思慮はいかに浅薄か
あなたは肝心の古典も読んでいなかった
あなたの読める本も一生でわずか
人はいかに時間を浪費するものか
それに気付いたときは遅い
青春は一時であり
あっというまに過ぎ去る
時間はたちまちに飛び去る
あなたはあっというまに老いてしまった
何かを成そうとしたがその時間がなくなった
もう死はまじかであり墓が身近になる
あなたはもっと勉強できた
しかし英語すら読めない
もう語学をものにすることはできない
あなたの読んだ本はわずか
読まなかった本が無数に積まれている
もはや読むこともできない
その時間がなくなった
人の一生は時間切れで終わる
ただ後悔だけが残るのが人生
勤め励む時間は限られている
その時間はたちまちすぎさる
だから心して若きうちに勤めよ
時間は限られた時間しか与えられていない
何でも勉強する時間は短い
時間は常に浪費されている
時間はいくらでもあると錯覚する
しかし時間は限られている
あなたは何も成せず時間切れで終わる
勉強したい努力したい勤めたい
そう嘆いても後悔してもできない
快楽の日は虚しく消えて
白髪の老人のみが悄然としてあるのみ



老人は人生の結果である。最終地点に老人は到達した。そこで過去をふりかえると必ず後悔する。それは老人にはもう何かをする時間がない、特に学問は手間がかかり実際は骨のおれるものでこつこつとした積み重ねが大事だったのである。学問は能力だけでない、なぜなら人間が知りうることは天才だってすべてに通じることは絶対にできない、みんな一部分しか詳しくなれないのである。だから誰しもある分野でこつこつ何かを極めていけばその分野では詳しくてなれるのである。自分はもともと才能がなかった。才能というより何か人格的に人間的しっかりしていないから学問もだめだった。そもそも学問する意欲が出てこなかったのである。受験勉強はしても学問そのものに興味をもったことがなかった。また自分の性格とか育ちが甘い環境にあったことも影響した。学校に適応できなかったしまた社会にも適応できない我が儘な性格だった。それで遂に30年間旅することになったのである。これは自分の家庭環境が偶然そういうことができる環境にあったからである。これは特殊なことであり今になるとそうした自由に生きられた代わりに苦しんでいることがわかった。


学問も何か興味をもたないとやる気がしない、旅行するようになって地名に興味をもつようになりそこから自分なりの学問がはじまった。地名などなんの意味があるのだ、学問になるのかともなるが、学問はまず何でもいいのだ。興味をもたないかぎりそもそもやる気がしないからである。ただ今になると語学なんか相当に集中的に勉強しないとものにできない、それだけ語学の修得は大変だから若いときものできなかったらもうできない、勉強する時間など若い内はいくらでもあると思うが実際に本当にない、時間はまたたくまに過ぎてしまうのである。光陰矢のごとしである。個々に与えられた時間は限られている。その中で人生は雑事に追われるから純粋に学問を追求することができなくなる。生活にも追われるから学者の地位でもなければ普通の人は学問は縁遠くなるのである。やはり学問の基礎はある程度の量の本を読んでいないとできないだろう。その読める本も実際はわずかなのである。百冊読んだらいい方だとなる。だからくだらない本を読んでいたらそれだけで時間を失ってしまう。根本的に教養の基礎となる本を読んでいないとしたら書くことも浅薄になる。もちろん人間は経験しない限り真実の理解力は生まれない、でも経験だけでもだめである。経験したものを表現する力か必要になる。それにはある程度知識が必要なのである。それが本の中にあるのだがその本も読めるのがわずかなのであり、そのわずかの貴重な本さえ人間は読まずに終わるのである。


「相馬郷土史研究」などもこれも学問の一部なのだけどやはりその基礎となる資料などかなり読んでいなと書けないだろう。これも積み重ねなのである。どんな分野でも積み重ねがないとそれなりものは書けない、相馬郷土史でも狭い範囲でもその中でもそれぞれに見出すもの、新発見がある。たいがい歴史は埋もれているからだ。でもそれを発掘するには根気よくつづけないとできないのである。つくづく人間は才能ではない、そもそも人間一人に与えられた時間が同じであり、ある一人の天才がいてもやはり時間が何倍も与えられているわけではない、その時間を効率的に利用して活かした人がそれぞれの分野で一級の人となっているだけなのである。俳句を今これだけ書いているがこれも若い内はほとんど小学生なみのものであり30才ころまでそうだった。短歌もそうであり才能はないがやはりこの年まで継続してやっていたらそれなりのものができるようになったのである。「継続は力なり」であることはまちがいない、プログもやはり継続しないとだめである。ただ書くことによって新しい発見があるからだ。書くことは創造につながっているからだ。だからプログでもいくら書いてもいいというのは書く方にとっては便利なのである。

そういうわけで今年も「今日の一句一首」も「相馬郷土史研究」も書き続けるのでよろしくお願いします

2010年06月30日

貧乏人と金持ちは永遠に調和しない(生きることは苦である)


貧乏人と金持ちは永遠に調和しない(生きることは苦である)

 

●お手伝いさんや召使などから考える

自分はここ三〇年他人と直接かかわったことがなかった。かかわる必要がなかった。家族にはそれなりにもめごとがあっても外部の人とかかわらないから自分が恵まれていても責められることもなかった。それが家族の一人が死んだとき外部の人と接することになりいろいろ考えさせられた。前にも書いたけど親戚というほどでもないがそれもみんなうまくいかなかった。ここも結局金の問題だった。金の切れ目が縁の切れ目となっていた。家族の一人が死んで人間の醜い面にもろに接するようになったのだ。お手伝いさんにしても実際は本当のお手伝いさんではない、本当のお手伝いさんは一日勤めるような人であり住み込みのお手伝いさんが本当のお手伝いさんであろう。前は女中と言っていたが差別用語で禁止された。貧乏人と金持ちが調和しないというときなぜなのか?ここに人間に平和がない調和がない根本問題があるからだ。一般的にお手伝いさんとかなると金持ちの家で勤めることが多い、今はそれほどの金持ちでなくても一時間くらい頼む人がいるが本来は金持ちに雇われるのである。するとどうなるのかその経済的差が大きすぎるから問題になるのだ。アメリカでは極端な話、お手伝いさんに盗まれて困るから裸にして仕事する人を頼むとまで広告を出した。これも金持ちの家に来れば欲しいものがありその経済的差が大きすぎるからそうなるのだ。すでにそこには調和はない、お手伝いさんにしてみれば「なぜこんなに金持ちで自分は貧乏なのか?」そういうことが常に思うようになる。これが貧乏人だけで生活していればそうならないのだ。だからつくづくインドのカ-スト制とかがいちがいに悪いとも言えない、江戸時代の階級制も悪いともいえない、逆に極端な経済的差の人が一緒に暮らせばそこにもはや根本的な調和はないのである。別にお手伝いさんだからといって軽蔑したり手荒く扱ったりしなくてもそうである。そもそも経済的差が大きいだけで調和しないのだ。今はお手伝いさんでもいろいろだから昔とは違うが一般的に下積みであり苦労している。そして貧乏だとなるとなぜこの家は金持ちでありこの人の家は楽をして贅沢をしているのだろうかとなる。それを毎日の生活の中で見てしまう立場にあるからどうしても怨嗟の感情が大きくなるのだ。

●極端な経済的格差は必ず犯罪の原因

お手伝いさんをテ-マにした昔の映画をテレビで見たが貴族の家に召使に雇われた青年がいた。そこに他にも召使が何人かいて共同で仕事していた。そこでそこの貴族の家の人が殺された。あとで犯人は誰だったかわからずじまいにドラマは終わった。でもそこに勤めていた老人の召使の女性がいてその青年はその女性の息子でありその息子はその貴族の家の主人らしい人に生ませられた子供だった。そしてその子供は施設にあづけられたのだ。それでその青年はこの貴族の家に復讐に来たということを暗示した。ただその青年が犯人だったかどうかは言わず終わった。このドラマもまさに極端な経済的差から生まれた恨みをテ-マにしているのだ。「太陽が一杯」というのもこれとにていた。その経済的差が大きすぎる。一方は貧乏人であり一方は大金持ちであり放蕩息子である。その怨嗟が殺人にまでなった。これも極端な経済的差をテ-マにしていたのだ。極端な差があるからわかりやすいから映画化されたのである。


貧乏人と金持ちの問題は人間が生まれて以来あり解決していない、世界的にも問題が起きるのは貧乏な国と金持ちの国があるからでありそこが根本の問題としてある。まだ飢えてやっと生きている人が多いのにその百倍ものいい暮らしをしいる人がいれば世界に戦争がなくても平和は調和は来ないのである。世界的に考えてもそうであるように狭い世界、社会でも貧乏人と金持ちは調和しない、それをわかりやすく示したのが金持ちの召使とか昔なら女中とか今ならお手伝いさんとかである。そして現在も不景気や日本経済が衰退してゆくときこうした社会は金持ちと貧乏人の差を大きくするのだ。それは今までのような金持ちではない、若者はワ-キングプアとなりいくら働いても働いても暮らしが楽にならない、その不満は経済的に恵まれている人たちへ向けられる。公務員は恵まれすぎている、老人は金をもっていて恵まれている、若者は老人のために働かされている奴隷だとか絶えず怨嗟が起こり攻撃される。それが極端になると暴動になるかもしれない、確かに公務員など本当に恵まれている。年金だけで夫婦で五〇万とかもらっていればとをしてもこうした下り坂の経済では怨嗟の対象になるのだ。上り坂の高度成長時代だったらこうはならなかった。自分たちも努力すればマイホ-ムがもてる時代だったからである。今のような時代こうして恵まれている公務員などは相当に多数の貧乏人の怨嗟を意識しないと無頓着でいると非常に危険な状態になってくる。

●人間は生きることは苦でり幸福はない

なぜか自分は若いときからショ-ペンハウエルを読んでいた。性分的にあっていたからだろう。人間は生きることは苦であり快楽と見えるものははかなく消える。そして苦だけが現実だと何度も書いてあり読んでいた。これは何もショ-ペンハウエルだけが言っていることではない、仏教でも生老病死であり結局は苦のみが現実であり快楽や楽はこの世にないと説いていた。そのことを自分の体験からつくづく実感したのがここ五年間の家族の認知症の介護とか他人とのじかの接触で感じた。そして今年は病気の年だった。胃腸が弱いにしても一週間くらいで直っていたが今回すでに三カ月くらい直っていない、まともに食事ができない、そうなると腹減って普通にうまいと食べていたときは本当に幸福だったなとつくづく思った。健康が幸福の基であることをつくづく感じた。今までは体が弱いにしてもこういうことはなかった。普通に食欲があり食べられることは幸福だったのだと今さらながら感じた。病気の人から見ると健康である人はその人はどうであれ幸福だと思ってしまうのだ。普通に食欲があり食べられるのは幸福だなと思ってしまうのだ。でも別にそんなことが当たり前だと今健康であることに感謝している人はいないのである。寝たきりの人は歩ける人をどれだけうらやましがっているか、自分自身そうなってみないと人間はわからないのである。人間はそもそも健康であることに感謝している人もいないし、自分に満足している人もいない、貧乏人はもちろんそうだが金持ちもそうである。地位ある人も東大出た人も天皇陛下も自分に満足している人などいないのだ。何かしら不満を抱いているのが人間である。才能あるにしてもいくら才能があるといってもあらゆる才能などもてない、ほんのわずかの才能しか与えられていないから満足する人などいないのである。そして最近幸福を平和を感じるのは我を忘れて眠っている時だけだった。なぜならその時嫌なことを病気のことや

いろいろなこと嫌な他人と接することなど忘れてしまっているからだ。どんな人も他人との接触、付き合いで不幸になる要因をかかえるのだ。この世にいい人などいない、苦痛を与えるのが他人であるし今や家族自体がそうなってしまったとき介護かなてしまったとき家族にも平安はなくなる。被害を与える人、極端なのはストカ-とかに苦しめられる人もいるがそういう人がコメントしてきたけどまさにその人はそういう悪質な人から逃れられないのだ。だからその人にとって幸福とはそういう人から逃れそういう人を意識しないとき幸福になる。眠っていて忘れればそうなるのだ。夢でもそういう人、ストカ-につけ回されるならばまたそうならない、結局死ぬことはそれほど不幸でないかもしれない、死ぬ前に人は無意識になる。無意識になることは嫌なことを忘れることだから幸福だとなるのだ。いづれにしろ人間の実体は苦だということを今更ながら実感しているのが現在の自分の状態だった。

2009年02月13日

死は愚かさの一つの終わり

 


死は愚かさの一つの終わり

 

死とは何か

一つの愚かさの終わり

石は愚かを成さず

石は誤謬を犯さない

石は何も成さず

人は成して成して

愚かさを重ねて

遂に死して一つの愚かさが終る

集団も愚かさの集約

無益な労働、戦争の人命の消費

死体の山を築き終る

人類の大いなる誤謬

壮大な愚かさの終わり

人間のように無益を成さぬもの

自然には壮大な愚行はない

ただ己が分を守り生きる

神の定めし法則からはずれない

それぞれの分を尽くして終る

雀は雀、鴨は鴨、白鳥は白鳥

それぞれは争うことはない

無益な争い、消耗は自然にはない

内面と外面が一致して

単純にして明快

石は何も成さず

無益な愚行はなく留まる

人間は死して愚行が終る

死もまた幸いなるかな

死者は賢く生者を見守れ

死者はもはや愚行を成さず

故に死者も幸いなり

死は一つの愚かさの終わり

しかし人間の愚かさは終ることがない

愚かさは人類が滅ぶまでつづく

一つの愚かさが終わり

さらに何万何十万何百万のの愚かさの始まり

ああ 人類はかくしてつづく・・・・

 

老人のゆくつく先はみな死である。老人の研究の行き着き先も死である。死でもってすべては終る。死者はもう迷惑をかけない、でも死別の悲しみやら死後のことをいろいろ考えた。
ただ一つの愚かさが終った。認知症にしても病気だから愚かさとはいえないがやはり愚かさが終った。もう死者は愚かではない、愚行はしない、迷惑もかけない、死者は愚かさから完全に脱した。人間は死なない限り愚かさから脱することはできない、石のように賢くなることはできない、無益なこと、罪なこと、愚かなこと、犯罪は延々とつづく、人間の愚行はやむことがないのだ。これだけ愚行をしたのだからやむだろうとはならない、個々人でも集団でもやはり愚行はつづく、それが人間の宿命ではないか、自然にはそうした愚かさはない、無益な争いはしない、莫大な浪費もない、神の知恵の下に生きているからだ。石一つある。その石には愚行がない、人間は必ず無益な愚行がある。石一つに無駄がない、全く無駄がないということが驚異ではないか?本当に自然には無駄がないのだ。自然は質素簡素でありいかなる無駄もない、今やその簡素さにひかれる。それは老子の思想に通じているのだ。

2009年02月04日

地球環境史観や原生人間史観 と老荘思想は共通している -原生環境の大地の回復(詩)-


地球環境史観や原生人間史観 と老荘思想は共通している
-原生環境の大地の回復(詩)-
http://www.musubu.jp/jijimondaiueno.htm#ecohuman

 

グロ-バル化は経済の分野だけではない、視界が拡大化して地球環境史観とか上野霄里氏の原生人間史観とか空間的時間的にも巨視化したのである。日本とか国の枠内で歴史を考えることは限界がある。またその枠内にとどまって是非を論じても限界がある。日本の戦争は正義の戦争だ、アジア解放の戦争だといいつづけても解決ができない、それは日本という国の枠を離れられないからだ。文明とは何なのかというとき文明を相対的客観的に見れる巨視的視点が必要になるのだ。それが文明の中で生活している限り困難を究める。文明的価値観から離れることができない、日本の枠内からも離れることができないから世界的に容認されるものとはいつまでたってもならない、老荘思想は二千年前に文明を否定して戦争も否定して過剰な労働も否定していた。これはやはり今になると驚くべき思想だった。ルソ-の自然に帰れという思想は近代に起こったことだしそれよりはるか前にそうした思想があったこと自体驚きなのである。
上野霄里氏の原生人間の思想も老荘思想の人物に近いのである。最近起きた地球環境史観も老荘思想としてあったものである。今はエコがキ-ワ-ドになっているがエコカ-とかモノに重点をおいてエコなのだがエコヒュ-マンこそ究極のエコなのかもしれない、エコヒュ-マンは原生人間に通じているからだ。