2013年12月22日

公務員はそんなにいいものなのか? (人生は何に時間を費やしたかで決まる)


公務員はそんなにいいものなのか?

(人生は何に時間を費やしたかで決まる)


●公務員はリスクがないが生きがいもない

特定独立行政法人の役員及び職員には国家公務員の身分が与えられる

公務員は何なのか?それは良く公務員が待遇がいいのは身分だからがという。それは侍とにている。身分として固定しているから一つの階級制となりその身分を否定することはできない、ちょうど明治維新の時、侍を否定するような革命が起こさない限り公務員という身分はなくならないとまでなる。民間人がいろいろ文句を言っても身分制なのだからその身分を剥奪するには革命しかないとなる。
ただ公務員は嘘をつかないというのは本当かもしれない、民間人は成績をあげることを会社から絶えず要求されるしノルマがありそれで嘘もつく、TOPPAというプロバイダーがNTT関係の会社ですとか電話一本で解約できるというのは嘘だった。これはたいした金銭的被害がないにしても嘘だった。これがかいいん増やす手であるというのもわかる。
二三分で遠隔操作で何の支障もなく変えられることにも問題があった。
ただ解約はめんどうだったのである。

公務員が嘘をつかないというと侍もモラルを重んじていたからにている。商人は嘘ついても侍は嘘をつかないということがモラルがありそれが矜持となり「武士は食わねど高楊枝」になった。公務員は腹は一杯なのは違っているが嘘をつかないというときそれだけの身分が与えられているからである。民間人と公務員ではその働き方が相当に違っている。
民間人はもうけるために嘘をつく、必死になりもうけを増やさなければならないからそうなる。公務員は別にもうけを増やすために必死になる必要はないのである。民間人は生きることが厳しい、公務員は楽なのに身分が保証されつぶれることもなく安泰だとなり不景気の時代がつづくと一番の憧れは公務員だとなっている。

公務員の仕事など誰がやっても同じだとというのは本当だろう。いつも簡単な書類の作成しているだけだともなる。売るために頭を下げて必死になっている民間人とは大違いだともなる。

これも確かにそうなんだけど本当に公務員という職業が仕事が人生をふりかえったときいいものだろうか?公務員には仕事の醍醐味がないだろう。何かイチカバチカの大仕事するということがない、失敗は国で背負ってくれる。ただミスを犯さないように失敗しないようにこつこつ目立たず生きる。それで身分は保証され生活は安泰になる。
もちろんそこには冒険はない、金持ちになるには冒険が必要だという、決断力がないものは商売人には向かないという、株でも大きな儲けを得るために大きな金を賭けなければならない、金が大きいほど株が上がればその儲けが大きいのである。でも下がればゼロにもなり自殺する人もでてくる。でも大きく金を元手にして賭けなければ決断しなければ大金は得られないのだ。だからなんであれ大金持ちになるのはリスクが大きい。


●資本主義で成功するのは冒険した人


大金持ちになったのは国単位でみればわかる。コロンブスが太平洋を渡り命懸けの冒険をしたことにより巨額の富がもたらされるものとなった。特にスペインがインカなど南アメリカ大陸に一握りの荒くれ男たちが入ってゆきたちまち黄金など巨額の富を手に入れた。それは略奪であり泥棒だったのである。ヨーロッバが豊かになったのはそうして世界から富を略奪したからである。それは世界大航海時代に冒険したからでありそうでなければなかなか巨額の富は手に入らないのである。ただそれにはリスクも大きかったのである。
そのリスクに投資した結果として富を手に入れた。資本主義もそうした所に投資して富を得るのが手法である。資本主義は社会主義と根本的に違っている。平等とか安全を計るものではない、だから成功した人は巨額の富があり冒険しない人には入らないのである。それは一つのギャンブルにもなる。保証されないからそうなる。

でも実際事業して成功する人が20人に一人というから事業で成功することはよほどの人でないと成功しないのが普通なのである。テレビなどにでてくるのはみんな成功者である。でも失敗者の方がだんとつに多いのだ。そういう人がでてこないから成功者を安易にまねる人もでてくるだろう。そもそも自分の母方の実家は事業の失敗から悲惨な家族離散とか苦労の連続になってしまった。父親が警察所長をしていたときは裕福でお嬢さんだった。でも機織り工場の経営に失敗して一家離散とかなり過酷な運命を背負わされることになった。警察所長をしていたから自分が偉いだという感覚があった。母も威張ってばっかりいたといっている。何も事業を起こし成功するものをもっていなかったのである。
警察所長では上から命令していれば良かっただけだからである。

いろいろ技術をもっていても知識をもっていても事業で成功している人は20人一人となると一割も成功していないのである。それだけ厳しい世界なのである。
ただ成功すれば見返りは大きい、失敗すればゼロになり自分の実家のように悲惨なものとなり子供も辛酸をなめる。そういうリスクが事業にはあるからそれを踏まえてやらないと大損失になるだろう。

経営者になることは技術者とは違う。そこを勘違いして失敗する人もいた。
その人は技術的には優秀でも頭脳が優秀でも失敗している。だから経営とは別に理系とか技術がないとできないというものでもない。
東電の原発事故は技術的な失敗というより経営に失敗したのである。
経営には単に技術的な要素だけでない、さまざまな要素がある。

それは市町村でも国家でも経営するのとにている。

長期的ビジョンをもつとかもそうである。国家百年の計とかがそうである。
目先の利益をあげることではない、株を一時期にあげることではない
経営とは別な資質が必要なのである。国家を経営するとなると余計にそうなる。
国家は会社のように簡単につぶされないものだからである。
東電だって目先の利益を追ってコストカットして失敗したということがある。
安全は長期的な視野が必要であり目先の利益を追っていたらできない。
津波がいつくるかわからない、400年前にあったこたとなど考えられるかなど無視して大事故になったことでもわかる。目先の利益に追われればみんなそうなる。

●人生は費やした時間で決まる


時間は短くても、お金は時給制の仕事以上に稼ぐことができます。
それが本当の自分の魅力なのです。
時間を売って仕事をしているかぎり「自分」ではなく「時間」でお金をもらっているのです

http://happylifestyle.com/4576
時間を切り売りしていることは自分が生きる時間を失っている。自分が自分のように生きる時間を生きることとこそ大損失なのである。最後は金では人生は買えない、なぜなら人生と限られた時間の中で何をなし何を生きるからにあるだ。

公務員だとともかく事業を起こした人のように失敗して悲惨なことにはならない、でも人生の醍醐味みたいなものは味わえないだろう。あまりにも平穏無事だとそうなる。
あまりにも平穏無事だということにもリスクがあるのだ。
自分の家族の一人は公務員であった。ただ公務員でも保健婦とかであり仕事はかなりきついものがあった。一軒一軒自転車で回っていたりして体力が必要だった。
その頃は生きがいがあった。でもあとは事務の方に回り楽をするようになった。
それから早めに退職して家事すらしなくなり認知症になって死んだ。
公務員とか先生とか裁判官とかが認知症になるのは多いのはなぜか?

やはり決まりきった創造性のない職業だからだという。創造性がなくてもこなせる仕事だからという。創造性とか別に才能と関係あるわけではない、つまり創造性を発揮させられる場所にいると才能だけではない、人間は現れていなかった才能が現れることがあるのだ。人間の才能はあらかじめ決められてはいない、才能は何らかの契機で刺激され啓発されて出されることがある。
だから明治維新の時は若者があれだけのことができたのはそういう環境に置かれて強いられたからできたとなる。今の時代はそうした才能を発揮させられる環境がないから若者の才能も現れないだけなのである。

三島由紀夫なども自ら演技して狂気の演技者になり自殺するように死んだ。
いくら英雄になろうとしてもなれない、英雄は時代が作るのである。時代に強いられて作られるのであり自ら作ることができないのである。

結局人生とは何に時間を費やしたかで決まる。人間の時間は限られている。才能を発揮するにしてもどれだけ時間を費やしたかで決まる。なぜならあらゆることに時間は費やされない、限られているのだからあらゆることに詳しくなれることはできない、雑学でもそこに多くの時間を費やせばそれなりの専門家になれる。それは才能というのではなく時間をそれに費やしたということで決まるのである。ただ効率的に時間を費やすことは必要である。時間を無駄にしないようにすることが何事肝心なのである。どれだけ自分でも時間を浪費してしまったか、時間は何をしようがしまいが確実に過ぎてゆく、そして何に時間を費やしたかで人生は決まる。

例えば家族でもそこに費やす時間は限られている。夫婦として子供をもち費やす時間は限られている。もしその時間をのがしてしまいばいくら血のつながりがあっても子供と一緒に過ごす時間がなかったら子供にもならない、それは時間が限られているからそうなる。夫婦になるにしても時間が限られているから夫婦としての時間をもつことは普通は一人である。何人とも夫婦のうよな時間は過ごせない、だから熟年夫婦の離婚は相当な損失だと思う。なぜならもうそうした夫婦としての時間をもつことはできなくなるからだ。
一緒に過ごした時間が長ければそれなりに分かり合い愛し合うということがある。
それも一重に時間があればできなるのだ。老人になるとあらゆる時間が喪失してただかつて過ごした時間を思い出すだけなのである。


だから公務員という役所勤めも果たしてそこで過ごした時間が人生にとっていいものだったのか?俺は生きたな、やったなという満足感があとで得られるかとなると疑問である。
「俺は生きた、やった」というものがないと人生を生きた人とは言えないだろう。
一回だけでもそういうことがあれば生きたとなる。それは天才とか凡人でも関係ない、
凡人だって決断して俺はやったとかいう体験はできるのである。
公務員とか会社員にはそういうことがない、だから老後も保証されても何か不満が残る。でも時間は喪失するからもう何かをすることはできない、過ぎ去った時間を戻すことはできない、何か決断することもできない、その時間が過ぎ去ってしまったからである。
そこでみんな誰でも後悔しているのだ。
人生で一番後悔するのは「やりたいことをやらなかった」このことである。
旅をしたかったがしなかった・・・したかったができなかった、しなかったとかなる。

自分の場合、旅をしている内にいつのまにか人生も終わりに近づいた。でもこれだけ旅をしても旅をまだまだしていなかったともなるのだ。それだけ人間は何をするにも時間切れになる。時間がたりないのである。今や家事だ介護だとか近間しか行けない、ここ六年間はそうである。自由気ままに外にでて旅していたのにできないことが信じられない、何とかしようとしてもできないのである。これまた一つの自分の背負わされたカルマだった。でもこれだけ旅をしているといつも旅をしなくても旅をしている感覚になるのだ。
だから思い出してた詩とか短歌にしている。
旅ばかりしていたら人生そのものが旅になる。西行もそうだし芭蕉もそうだし山頭火もそうなったしそういう人は死んでも旅をしつづけているのだ。

退職してから何か別なものに生きがいを見いだすことはむずかしい。
今までしてきたことの延長しか残されていないのである。

年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山 西行

旅したものの最後はこうなる。旅に死ぬのが本望になる。そして死んでも旅をつづけているのだ。


旅人に風雲が起こり
遠くへ連れ去る
そしてまた新しい世界が開け
旅人は永遠に旅をつづける

こんなふうになってしまうのである。

2013年11月26日

カルマはめぐりめぐって返すことを要求される (誰でもカルマを背負わないものはいない)


カルマはめぐりめぐって返すことを要求される

(誰でもカルマを背負わないものはいない)

●自分がサイフを落とした時は必ず返ってきたから今度は拾って届けた


カルマについて家系の因縁とかを気にしている人は多いみたいだ。なんか今日サイフをめずらしく拾った。中味は千円しか入っていなかった。カードが十枚くらい入っていた。
保険証が入っていたから名前もわかっているしカードがあれば警察で名前が割り出される。本当は警察にゆくとめんどうだから届けたくなかった。
でもなぜ届けたかというと自分は田舎で暮らして十回くらいサイフを忘れているがもどってこないことはなかった。これだけは不思議だと思った。
サイフを盗られたという人がいたから田舎ではそんなことあるのかと疑問に思った。
田舎ではサイフだけは届けられる。サイフは普通あまり金が入っていなことが影響しているかもしれない、ただ一万でももちいたいという人もいるからわからない。
自分がカードをなくして困るのはキャッシュで金を下ろすカードである。
これはなくすとカード会社に連絡しないとならないからめんどうである。
三回以上そういう手続きをしたから嫌なのである。
それもすぐしないとまずいからめんどうである。

今回はそうして自分のサイフがいつも返ってきたから今度はサイフを拾ったので警察に届けた。前は仙台で落としたのも警察に届いた。あとから連絡が来た。日本ではサイフを落としても返ってくる割合が大きい。80パーセントくらい返ってくるだろう。名前が書いてあり住所が特定できれば警察から必ず連絡がくる。カードだけでも住所や名前も割り出せるようである。だから都会でも落としても警察に届けられると返ってくる割合も多いのかもしれない、忘れたところがスーバーだとスーバーやコンビニでもとっておいてくれて連絡がくる。だから仙台は遠いにしろ近くでサイフを落として返ってこないことはなかった。その点は安心だった。金よりハンコなどが入っていたときそれがなくなると本当にめんどうになる。全部貯金通帳を書き換えるようにさえなる。ハンコはなくすことがありめんどうである。サインだったらこんなめんどうなことはないのだ。


結局これもカルマだった。十回もなくしてサイフがもどってきたのだから自分も返さねばならないと思った。だから警察に届けた。つまりそれだけすでにカルマを積んでいたのである。だからどこかで返さねばならなくなっていたのだ。もちろんサイフも拾ったりして中味の金を使ったりしたら犯罪になるらしい。それで監視カメラからサイフを拾った人が犯罪者にされたというのも驚く。そんなことあるのか、どこで見ているかわからないというが監視カメラ見ていた。人間は生きている間に必ずこうしたサイフを落とすということでもカルマを積んでいるのだ。もちろん落とさなければそのカルマを意識はしない。
でも長い間生きていればそうしたカルマを積むのが人間なのである。


●カルマはどんな人でも積んでいる


カルマというのは人生をふりかえれば必ずそれぞれが積んでいる。自分の家は店屋でありスーバーがない前は繁盛していた。その時母は食事する暇もなく働いていた。どうしても食事中にお客さん来てたたなければならないからだ。それを子供の時から見ていて何でそんなにしてまで働かなければならないのかと嫌だった。
それが今母を介護しているけど必ず食事中に食べ物を運んだりするし料理もしているから食事の途中で必ずたたなければならない、だから何かゆっくりと食事できないのである。子育てしている母親もそういう経験をしている。
今になり自分は楽だったけど様々な災難に見舞われた。誰も助けるものもいなかった。
それもはカルマだと思うようになった。楽しすぎたことが今の苦しいカルマを作り出していたのである。そしてカルマは返すことが必ず要求されるのだ。

具体的にカルマはそれぞれの人生で違ったものとなるからわかりにくいが個々の人生を紐解けばそれぞれのカルマが明確に認識できるだろう。

まず人はどんな人でも必ずカルマを積んでいる
人は必ず誰かに親でも世話になっているし誰かの労働によって活かされてもいる
だからカルマなしで生きられる人はいないのである。
カルマはすでに意識しなくても背負わされたもの、チャージされたものなのだ
ただそれを感じなかったのは親であれ兄弟であれ他人であれ背負ってくれていたから
自らカルマを返さなくてもいいという面があった。
誰かがカルマを背負ってくれればカルマを背負わずにすんでいるということがあった。

親の世代とか祖父母の世代とかがカルマを背負ってくれて次代のものが楽をしているということがある。また逆に親や祖父母の世代のカルマが次の世代のカルマとなり苦しみを背負わされるということがある。それはこの辺の原発事故が次代のものに多大なカルマを背負わせたことでもわかる。放射能という毒は消えないということでそのカルマが大きすぎたのである。まだ結果はわからないにしろそういうカルマを今の時代の人が作り出して背負わせたのである。だからこのカルマを解消するにはとてつもない時間がかかる。
プルトニウムの毒が二万年消えないということがそれを証明している。


●金がたまりすぎるとカルマも返せなくなり悪となる危険


こういう大きなカルマもあるが個々人の人生でもカルマは負わされる。
今は格差社会だけどなぜこんなに貧乏な人がいてまた裕福な人もいるのかということがある。一万とかの金に苦労している人もいる。一方で一万とかはした金になっている人もいる。百万すら落としても平気な人もいるだろう。
億の金をもっていればそうなる。だから金に対する感覚は金持ちと貧乏人では相当に今は違う。でも金持ちも実はカルマを背負っていたのである。
貧乏な人がこれだけ増えているということは金持ちも安穏として金持ちではいられない、金を多くもっていることもカルマなのである。すでに多すぎる活用できない金はカルマになっているから返さねばならないとかなる。
こんなふうに意識する人は少ない、でも何らかそうした金は貧乏人に対してであれ社会にであれ返さねばならないものとなる。それを返さないと借りになり返還を要求されるだろう。


こうしてカルマを返さないとそれが社会の中で巨大な悪として膨張して成長してそれが社会自体に大きく影響するから怖いのである。徳州会などもその志は最初がよかった。それが政治にその巨額の金を使うようになって堕落した。つまり金がたまりすぎてそれを使う術が間違っていたのである。そうした巨額の金を社会に有効に使うとなるとすでに使いきれなくなる。だからカルマを積み金自体が巨大なカルマとなっているのだ。

カルト宗教団体でも会社でもあまりにも金が集まりすぎるともうその金を社会に有効に還元できなくなりかえって悪いものに使うようになる。東電なども3兆円とか巨額な資産がありそれがマスコミ対策とか天下り先の提供とかに使われたことでもわかる。金も一つのカルマなのである。

もちろん借金も明確に目に見えるカルマである。返しきれないほどの借金をしている人はすでにカルマのためにつぶれる。そのカルマは他人にも転嫁される。返しきれないからそうなる。そういうことを自分は経験している。病気の時も借金を要求される。さらに極端化してくると借金のために家族まで生命保険にかけて殺されるとまでなる。借金から起きる犯罪が一番多いように見えるからだ。借金は具体的に目に見えるカルマなのである。
まずそういうカルマを背負う人は見栄があり節約しない、金を使い自分は金がないということを見せない、成功者のように装うのである。でもそうしたみせけもいつか露呈する。その時はすでに返せないほどの借金になり他者にそのカルマをおしつける。それが犯罪までになるから怖いのである。


神々がシシューポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった

まさにこの石を絶え間なく運ぶことがカルマだった。このカルマは有益なことをしていないために課せられたのである。
この有益なことは実際は個々の人生ではわからない、でも有益なことをしないものはこの罰が課せられる
延々と石を持ち上げる作業を続けねばならない、まさにこれがカルマなのである。
自分もこうして料理して運ぶことをすでに六年間くらいしている。これもカルマだから逃れることができないのだ。
これまでは自由に旅もできた。いつ帰るかなど心配したこともない、今や六時ころまで帰らねばならないとか
近くにもゆっくり外出すらできないのだ。そして代わりを探したがしてくれる人はいない、金でも解決できない
結果的は大損害になった。家の中を他人に簡単にまかせることはできないからだ。
これも結局自分の人生で積んだカルマだったのであり返すことを要求されたのである。

2013年10月05日

カルト宗教が簡単に消えない理由 (人間の弱み、不安が消えないから)



カルト宗教が簡単に消えない理由

(人間の弱み、不安が消えないから)

●「悲しむのは幸いである」と思っている人はいない


カルト宗教というといろいろある。なぜカルトがこれほど世の中に跋扈して消えないのか?そこには深い人間の不安と恐怖に根ざしているからである。カルトという時、あらゆるのがカルトになりうる。カルト宗教団体だけがカルトではない。宗教団体になると権力を持つカルトだから悪質になる。宗教が権力を持つと最悪になるのだ。
宗教はそもそも権力否定がありあらゆる宗教でも根本にある。


心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである


聖書にこう書いてあるのは誰でも知っている。しかしこの意味が何なのか知っている人は非常に少ない。なぜなら世の中の一般の人が求めているのはこの正反対のことである。
心の貧しいものにはなりたくない、心の豊かな人になりたい、それより物質的に豊かになりたい、とにかく金が欲しい、それが先決だとして毎日必死で働いている。
貧しいとはここでは心の問題になっているけど物質的にも貧しくなりたくないためにどこの国でも必死に経済成長を計る。人間か貧しさ肯定して生きてきたことは歴史上ないのだ。ただ様々な事情で豊かになれないだけだったのである。

悲しむ人は幸いである・・・

これもまた何なのか?人間はなぜ悲しむことが幸いなのか?これも全く世の中の常識とはあまりにも違っている。この世の中で悲しむことが多ければ多いほど幸いである。
ええ、そんなことがありうるのか?これほど理解できないものはないのである。

この世の中まず金かない、貧乏だと悲しむことが多い、いろいろと不自由になるし金がないということて悲しい思いをすることが多いし馬鹿にされたり相手にされないこともあるからみんな必死で金持ちになろうと毎日あくせく働いているのだ。
こういう教えをまともに受ける人はこの世ではほとんどいないのである。

人間は貧しいもの弱いもの悲しむものがまた多数いる。だからこそ宗教が生まれた。
宗教はそうした根本的には解決できない弱さから生まれている。なぜならあらゆる人が絶対的に強者にはなれない、そう願ってもなれない、ニーチェは狂気になって死んだ。
ただ人間は病人のようになるようにあのように自然の中で健康に生きたいと思うのは自然なのである。だから自分も上野里氏などにあこがれたしそういうことは人間にとって別に変わったことではない、人間は強く健康に生きたいと思うのが普通なのである。
ところが現実にはそういうふうに生きられないから宗教が生まれた。


●誰も社会的弱者にはなりたくない


カルト宗教団体に入る人はいろいろ理由はあっても社会的弱者の人が多いわけである。
生活保護者が多いというのもそのためである。そういう人は弱者なるが故に「悲しむものは幸い」だなどと心理的に精神的に肯定などしない、この悲しみは何なのだ、なぜ自分かこんなにしこんなに社会的に貧しく損ばかりしているのか、金にもならずは底辺で働かせられているのか?一方で上を見れば楽して悠々暮らしている人たちがいる。あぜあの人たちはあんなに社会的に得しているのか?そういう不満がものすごく渦巻いている。
その不満がカルト宗教団体に入る動機になる。


例えば就職するにも保証人が必要でありそれて苦しんでいる人たちもいる。この保証人問題も実は社会的弱者であることの証明なのである。保証人もいない人は社会的弱者と認定されまともな会社に就職することもできないことになる。自分もその一人になってわかった。就職するにも保証人が必要だということは社会の有力者だったらコネ入社とか他にも公務員の親戚がいたり大企業の親類がいたりとか何か社会的ステータスのある人が保証人になってくれれば社会もその人を信用して就職もスムーズにいくことがある。そういう面でも社会は必ず差別してくるから悲しい思いをすることか弱者は多くなるのだ。そういうことて「悲しむの幸い」だなと納得するものはいないのである。
なぜこんなに弱者は損するのだと憤りになるのだ。だから保証人問題でも弱者いじめなことがわかった。


ではこうした弱者でなくなるためにはどうするのかとなるときそういう不満の捌け口がない、そこでカルト宗教団体がありそこに入ると創価でもそうだがあれだけの大きな団体になると弱者も強者になれだろうと思ってしまう。つまり弱者でも助けてくれるだろうと思う。現実にそういう面は確かにあるのだ。何か現代は親密な村のようなコミニュティすら家族の紐帯も弱くなる時、そういう団体に頼り安いのである。コミニュティの中心に神社があたというときその神社も明治以降は激減したことでもわかる。明治以降は社会が激変した。明治以降からやはりカルト宗教団体というものが増えていた。自分の考えではカルトとは宗教でも団体化した者かカルトである。団体化することは権力化することなのである。社会では一人は相手にしない、二人以上になれば団体であり二人で訴えれば何かしら社会ではとりあげる。だからこそ何か不満があれば団体化して訴えるのが民主主義でもある。要するにただ悲しむものは幸いなり・・そんなことより悲しまないように団体化して社会に抗議しして自分たちの不満をはらすことだとなる。


個人的にはオームの浅原も池田大作もものすごい劣等感の塊だったということを書いた。ヒットラーも芸術家になりたかったがなれないのて政治家になりあのような独裁者になった。そこに歪んだ性格が形成された。それで仏教に学んだがそれは社会に宗教で団体化して復讐するためだった。見ろ、自分には800万の仲間かいる。この人たちを俺の一声で動かすことができる。見ろ、金は一兆円もある。銀行に積んであるから銀行の幹部が頭を下げる。銀行も金を持っている人は優遇する。自分もたいした金でないにしろ投資信託などは申し込んだら歓迎される。あれも今や銀行の収入源になっているのだ。
警察も官僚もそうだが銀行も権力的な場所になっている。だから創価ではそうした権力的な場所をおさえようとしている。警察にもにらみをきかしている。警察も怖いからそうした団体にはあまりかかわらないようになる。それはまさに東電ともにていたのである。
あそこも資産が三兆円とかあるとなっていたから驚きである。


実際に現実社会は権力で動いている。だから現実的になればこの世の権力的場所をおさえることだとなる。池田大作を批判するもの世から抹殺するほどの権力をもったのである。マスコミも政治家も官僚も銀行も彼の前にひれふす、巨大な権力集団の前にひれふすようになったのである。
ともかくカルト宗教団体に入っている人はそういう社会に不満があり恨みをもっている人が多い。それを晴らすために権力を得たいがために運動することになる。権力さえ得ればこんなに悲しい目にあわずにすむとなって運動している。怨念の宗教でありそこに何かに感謝している人など一人もいないのである。


確かにこの世で弱いものは相手にされない、金のないものも相手にされない、みじめな思いをするからこそ金を得るために必死になる。例えば保証人問題でもそうだが警察も権力集団だから権力あるものにはこびる。社会的有力者なら事件でも動く、ところが社会的弱者は犯罪にあっても警察は捜査しないということもあるのだ。現実になぜ東電の会長であれ幹部であれ何の罰も受けないのかわからない、外国の東電の会社に以前として留まり暮らしている。これも以前として東電の幹部は大企業の幹部であり社会的強者になっているからだ。検察も実際は東電の天下り先であるからグルでもあったともなる。官僚とか大企業の幹部はいい思いだけをする。あれだけの犯罪を犯しても罰せられることもないのだ。一方で百円盗んでも刑務所に入れられ人もいる。そういう不公平が公然とまかり通っているのがこの世の中である。


だからこそみんなカルト宗教団体だけではない、社会的強者になりたい、権力を持つ側になりたいとなる。それでカルト宗教団体はすべてそういう人々の欲望を知っているからこそ今は底辺の生活でみじめでも創価が社会の枢軸をおさえて支配するようになる時、権力を行使する側になりいい暮らしができるようになると説いて毎日票集めに必死になっているのだ。それは多分に共産党もそうした底辺層を相手にしているから同じ傾向がある。中国でも不満分子が相当いるからそういう人たちを宗教で集めた。カルト宗教団体というのはすでにそれだけ古いし人間そのものがやはり変わらないから形を変えて似たものが生まれてくるのでてある。


死の病から人を救う宗教団体は、圧政に苦しむ庶民の不満と結合して、黄巾賊と呼ばれる一揆集団へと発展していく。張宝(ちょ一つほう)張梁(ちょうりよう)張角の弟たち。彼らの死後も、漢朝の政治に不満を持っ民衆は、黄色い布で髮を結い、度々、蜂起した。


人間の最大の弱点は今でも病気である。医者でも直らない病気があり以前として宗教に頼る。創価に入る人の動機も最初はそういう人が多かった。不治の病になったら直るとなればどんなものでも信じるようになるのが人間の心理なのである。これだけ科学が宗教のようになってもやはり直らない病気が多いからそうなる。それたけカルト宗教団体が跋扈するのは古い歴史がある。というよりは人間の根本的問題として人間の弱さや社会的差別や不満が解消しないからそうなる。創価は武力革命さえ一時は目指していたからにたものだったのである。
結局権力を目指すものは宗教であれ社会主義のようなイデオロギーであれ何であれみんな同じである。まさに黄巾賊であり三色旗とかもシンボルにしてるからにているのだ。

信長に反抗した念仏宗の真宗の集団もそうだった。大坂城の前進はその寺院の跡に建てられたことでもわかる。宗教的集団は政治的集団と化しやすいのである。カトリックも権力をもったから政治的集団と化して腐敗した。

ともかくカルト宗教団体を否定してもこうした人間の根本的問題がある時、いくら否定してもまた形を変えて社会を席巻する。これも人間社会のカルマだったとなる。歴史を繰り返すとは団体でも社会全体でもそうであり個人的にもカルマは解消されず延々とつづいているのだ。人間の最後は罪の最後の審判であり滅亡に定められているのだ。その滅亡はノアの洪水の再来かもしれないし核戦争かも知れないし今回の放射能汚染で水も空気も汚されいつのまにか人類は死滅していたとなるかもしれないがこの世はいつか必ず滅亡するのである。ただその時期はわからない、おそかれ早かれそれは神が成すことであり必ず人類滅亡の日は来る。


●人間はみんな最後は弱者になる


自分が経験した身内のことでもあれだけ健康で優秀そのものだった女性が最後は認知症になり本当に馬鹿になってしまったということを書いてきた。これも信じられないことであり人間かいくら優秀だと言ってもいかにもろいものか?一転して百の評価だったものかゼロになり人生の落第生になってしまった。これも人間というものはいくら強く健康に生きたいと思っても最後はみんな老いて体もだめになり頭もだめになり人間そのものが崩壊してしまう恐怖がある。だから三島由紀夫も老いることの恐怖でボディビルダーのような体を作り自殺のようにして死んだ。老いることは男性でも女性でも恐怖なのである。
それはこれまでもっていたものをすべて失うことに通じているのだ。

その恐怖から誰も逃れることができないのである。老人になるとなぜかえって権力や金に執着するのか?なぜ老人は金を持っているのに使わないのかとかいろいろ若い世代に責められている。でも一体誰が今老人を敬う人がいますか?金がない老人は死ねと叫んでいる。そういう時当然老人は若さもないのだから権力や金に執着するようになる。その権力も金もない人間は死ねといわれれば当然そうなるのではないか?金がなくなったり何の価値もないとなれば金は使わないし執着する。金意外の価値は何も認めないということになっているからだ。でももし若い世代が決起すれば老人など弱者だから金など奪うことができるのだ。若い者の方が老人より実際は力があるからだ。ただ本気でそうしないだけなのである。


前にも書いたけどカルトは別に団体化したものにだけあるのではない、個々人がカルト的体質をもっていたのである。自分が身内に障害者をかかえたときや自分が病気になったとき明らかに自分も弱者になり個人的に脅されたときほど恐怖を感じたことはない。
結局自分のこの六年間の苦難でいかに弱者が悲惨なことになるか身をもって経験した。
あらゆることで弱者化していたのである。これは金があっても病気になったりしたら誰でもどうにもならない、弱者化するのである。そのとき例えばカルト宗教が入りこんでくる。先祖がどうのこうのとか何が悪いのとかどうかと言われる時信じやすくなるのだ。
それは権力をもった団体だけではない、個人でも弱者を恐怖におとしいれる。


親戚の人はもともと弱者だった。それで創価など一時入っていた。その人間が実は弱者をいじめるカルトになっていたのである。自分が病気になったことをいいことに入院している時も脅してきた。借金しているからいろいろと金が欲しくて脅迫のようなことをしてきたのである。借金している人は普通に殺人まで追い詰められるから怖いのだ。自分を苦しめた人間も実は弱者だったのである。一人は病気の時、火事場泥棒をしたがその人も金に困っていて弱者でありおいつめられていた。だからこそ自分が弱者になったとことをいいことにそういうことをした。津波の被害の時もそういうことがあった。そういうことをするのは金に困っているからそういうことをするのである。金に困らない人はそんなことをしないのである。弱者は弱者を助けるのではない、弱者化するときそこをついてきて襲ってくる、それか戦国時代でもあった。それが人間の真相でもあった。


結局人間は弱者に甘んじる人は一人もいない、悲しむ人は幸いである・・などと満足している人はいないのである。そうして弱者としてひどいめにあった人は余計にそうである。まさに自分の経験したのは食うか食われるかの世界だった。食わねばこっちが食われるという極限の状態になれば人間はみんなそうなる。そういう弱者になる体験をしない人は人間はみんないい人だとか思っている。現実の厳しさに直面すればそんな甘い考えは吹っ飛んでしまう。この世はまさに修羅場だとなる。


カルト宗教団体がなくならないというときまさに人間の根本的問題として社会的弱者が常に存在するしその弱みを解決できないからそうなる。絶対的強者になれないからこそ悲劇になる。いくら優秀でも認知症になり本当に馬鹿になって死んだということも信じられない、人間は確かに権力を求めて地位と金と名声とかあらゆるものを手に入れてもやはり弱者としての人間からはまねかれない、王様もやっぱり最後は病気になりあえなく死んでゆく。人間は結局どんな人でも最後は弱者として死んでゆく、権力が求めて得たとしても同じである。この世の矛盾はこの世では解決しない、いら努力しても解決しないのである。
だから天に望みがありこの世には望みがないのである。常にキリストか説いたのは天のことでありこの世のことではない、この世のことは絶対に解決しないのだ。


悲しむ者は幸いなりとは・・・そもそもこの世の中は悲しまないで生きられないところなのである。悲しむことに人間の真実がありより多く悲しむものは実は人間として何か重大なものを知るとなる。何にも悲しまないものはかえって人間としては何か重大なものに気づかない浅薄なものとしてこの世を終わる。悲しむ人は純粋なのである。涙は真珠のように尊いのである。神はそのために泣くことができるようにしたのである。悲しみ泣いているときカルタシスになる。何か心が清められたような気分にならないか?涙にはそういう効用があることは確かである。シェークスピアが悲劇がテーマだったということは人間はそもそも悲劇的存在だったということである。ドラマでもハッピエンドで終わればつまらないとなる。悲劇的なことに人間存在の重みがある。キリストも十字架で死んだからこそ影響力があった。人間はなぜこんなに苦しみ悲しむのだというとき、実際は恵まれて悲しみもしない人よりより人間として生きているのかもしれない、まずあまりにも恵まれて幸福だったら文学も生まれない、それは浅薄な一生になってしまうだろう。それでも人間あえてそんな苦しみや悲しみを受けたくないのである。

実際に人間は一方で求めているのは快である。人間の求める快楽がどれだけ強いか?その快を求めるからこそこれだけの文明社会になった。性のような本能的快楽も個人差が大きいにしろ死ぬまで消えない人も多いのである。その欲望故に人間も継続できたともなる。人間はあえて苦しみなど求めない、快楽を求めるのが普通である。たた強制されてそうなるだけなのである。図らずもみんなそうされてしまうことなのだ。

ともかくそうした悲しみや社会的弱者化するときどうしても涙を流して来るべき天を望むようなことよた現世で権力を得たいということになるのが人間だったのである。そのこ
とはカルマは変わることがない、たから人間の問題はそうした根本的なことが変わらないから歴史もカルマであり個人的にカルマを繰り返すだけであり世の中は何か変わったようでも何も変わっていなかったとなるのだ。

2013年08月19日

カルマとはそもそも何なのか? (カルマは借りであり必ず返すことを要求される)


カルマとはそもそも何なのか?

(カルマは借りであり必ず返すことを要求される)


karuma11111.jpg
●借りは金銭だけではない、必ず返すことを要求される


貸し借りをしたということがハッキリとは分からないこと、「まさか!そんなことが貸し借りになってしまうの?!」

誰にいくらの借り(負債)があるのかということが、生きている時に顕在意識ではあなたには分からないというところです。


「あなたにはいつこれだけの貸しがあったよね。今それを○○の方法で返してね」とどこかの誰かに言われてしまう可能性が大きいということを意味します。


AさんはBさんに1億エネルギーの借りがあったので、Bさんに借金のかたにあなたへの1億エネルギーの貸しを渡す。

世の中には偶然もなければラッキーもアンラッキーもない。

必ず貸し借りは精算されるようになっている。

貸しはいつか必ず返ってきます。あなたが返してねと求めなくても返ってきます。なぜならそういう法則が存在するから。
http://www.circulation.co.jp/bhs/column/column37.html


ここのサイトは不思議である。人間の借りは必ず返さねばならない、借りとはカルマなのだ。親子の間では別に子が親に借りがないというけど実際はある。自分の親は子供のときだけではない大人になってからもさらに六〇頃まで食事の用意をしてくれた。それを自分は当たり前だと思っていた。

そういう人は今の時代にはニートとか結構いる。子供のときはやむをえないとしてもそれからいい大人になっても食事の用意とかをしてくれるとなると相当な借りができていたのである。だからその借り(カルマ)は返すことを要求される。今や介護に追われているのもそのためである。毎日食事を作って出している。自分がゆっくり食事できないこともある。食事は運ぶだけで結構手間なのである。
食堂がなく台所と食事するところは離れていることで運ぶことが手間になっているのだ。
自分の場合は明らかに借りを返すことを要求されてそれをしている。そのカルマの借りの自覚がこの年だからわかってやっている。普通はこの人の言うように何か借りなのかわからないのだ。

どこでそんな借りを作りましたか?借りが何か自覚できないのである。でもいづれその借りをカルマを否応なく自覚させられるときがくる。それが60以降から明確に現れてくる。否応なく自覚させられるのである。六〇代の人を見ればわかる。人生の総決算のようなことが現実として結果としてカルマでも課せられて拒否することができなくなる。ただ自分に何の借りがあるのか自覚できないのである。それが否応なく六〇代になれば自覚させられるのが恐いのである。その前に手をうっておけばこんなふうにはならなかったと後悔しても遅いのである。


●大きすぎる借り(カルマ)はもう返せない


まず生活保護の人などは一見今や恵まれている。この貧乏時代になり生活保護の方が恵まれているのが批判されるようになった。でも実際本当にそうなのだろうか?生活保護って一切が借りになっていないか?国民から膨大な借り(カルマ)を作っている。でも生活保護者にはそうした意識がないのである。当然の特権だと思ってい人もいる。でも生涯生活保護になると一億円以上の金が国民から使われることになる。一億円借りたらもう返せないのだ。もうカルマは借りは返せないのだ。そしたら結果的にどうなるのか?かえって一億円得したではないかと思っているが実際は返せないために人生が破綻する人が多いのではないか?あまりにも借金が借りが大きくなると返せなくなる。積もり積もって返せなくなる。そういう人がいてその借りを自分にも要求してきた。だから自分が病気で苦しんでいることも借金の要求するにはチャンスとまでなって迫ってきたのである。借りを返せなくなると逸れか犯罪者に近くなってくる。そして人生が最後に破綻してくる。生活保護者の子供の四割がまた生活保護者になっているということでもわかる。借りが大きすぎるからもう子供でも返せないのである。せいぜい一割から二割くらいの特別優秀な人しか返せないように思う。

生活保護がすべて悪いとはいえない。老人の生活保護は違っているし障害者も違っている。老人は別に一律に一〇万とか年金を支給した方がいいようにも思う。ただ生活保護が長びくと借りが大きくなりすぎるから人生そのものが破綻する人が増えてくるのではないか?そういうふうに自覚している人も少ないのである。
借りそのものカルマが自覚できないからまたカルマが輪廻してゆく、その借りとはどんなものなのか自覚できないのである。カルマは図のようにBがAにカルマを負っていたとしても返せば逆にBがAにカルマを負う夜討ちなっていても気づかずにカルマを要求してくることがある。いつもカルマは一方的な関係ではない、変化しているが変化していることにもカルマはきづきにくい。だからそこで理不尽に思う。こっちがこんなに尽くしているのに相手は何もしてくれないとかなる。そういうことは人間関係では日常的に起きているのだ。


例えば変な話だけど自分は旅ばかりしていた。すると「お前はどれだけ旅館やホテルに泊まり世話されたか?それがお前のカルマだ、借りだ」とまでなる。だからお前は今度は旅人をもてなすことで借りを返さねばならないとかなるかもしれない、まだ生きる時間が長いとするとそうなるかもしれない、実際に世界を旅して世話になったからとボランティアで一室を世界の旅人に提供している人がいた。旅でも借りを作っていたのである。あまりにも病弱で医者や看護師に世話になったりするとその借りも相当に大きくなっているかもしれない、そしてその借りを返すことを要求されるかもしれない、医者になった人が看護師でも前世では医者や看護師の世話になることが多かったから今自分は恩返し借りを返すために医者や看護師をしているという人もいた。人間は借りをもたない、カルマをもたない人はいないのである。そのカルマが借りが大きくなりすぎるともう担いきれないのである。
莫大な借金をしているともう担いきれないから人生が破綻する。回りにも多大な迷惑をかけて破綻する。生活保護者はそういう危険があるけど自覚している人は少ない、もし自覚したら必死でそんな借りのカルマの生活をしようとはしないだろう。カルマは借りが自覚できなくても必ず最後は自覚させられる、借りを返すことを要求される。


●金銭的な貸し借りも神の帳簿に記されてごまかすことができない?


金銭的にも何か不思議なのだけどそこには神がかかわっている感覚がある。自分が経験したことではそうである。大金を盗まれて失ったのもやはり自分の借りがあったからかもしれない、ただ盗んだ方からすると大きな借りを作りカルマを作ったからその借りを自分はしなくても誰かから厳しく請求される。その金額にみあった額が厳しく請求される。でも生活保護者のようにその借りが自覚できないのである。一億円盗んだら誰も絶対に返せないからその借りは払うこともできずに残る。それは地獄までその借りをもってゆくことが恐いことなになる。10万だったら返せるだろう。でも一億円となると誰も返せないから、その借りをカルマを担い死んでゆくからまた生まれて輪廻してそのカルマを返す生を送るとなる過酷なことになる。この借りは例えば知らず担っている人もいるのだ。多額の収入を得ている人もそうである。そもそもそんな一人でそんな多額の収入を得ることは不可能だからである。みんなの協力があってもうけることができるからだ。その収入が身に余るものとなるときそれはその国だけではない全世界へのカルマに借りになっているのだ。だからすでに大金持ちは世界を支配するサタンと化しているともなる。

常に言われるロックフェラーやロスチャイルドがユダヤが金融を支配して世界を牛耳っているとかなる。要するにその操作する金がすでに天文学のような数字になっているからであある。何か巨大な権力化するところ金の集まるところはサタン的になっていないか?
カルト宗教団体でもそうであり政府でもそうであり官僚でもそうであり東電のような大会社でもそうであった。その巨額な金が借りなにっていて返せなくなっているからそういわれるのである。金がありすぎても借りになっている。借りは返せねばならなくなっている。


この借りを返さねばならないというときこれは自然界でもあるかもしれない、なぜ津波でこれほどの被害が犠牲があったのか?やはり海の恵みがあり恩恵お大きかった。人間は自然にも大きな借りがあった。その借りを返すことを自然界からも要求される。自然に何を返すのだとなるがそれは海の恵みに対して感謝の気持ちをもつことだった。常に海の恵みなど農業と同じ様に足りない足りないとばかりになっていた。もう漁師とか農民になる人はいない、後継者はいない、もちろん自然界に恵みを感謝するような人もいなくなった。ただ足りない足りないというだけであった。それで原発を誘致した方がいいとなりその原発が津波で破壊された。それは自然界からの罰だったかもしれないのだ。

借りをカルマを返さないものには恐ろしい罰が与えられる。卑近なところでも金銭の貸し借りでもそれもごまかすことができないように借りは返さねばならない、変な話だけど大金を盗まれたとしても別な方からもどってくることもある。盗んだ本人は返さないとしても他の人から厳しく取り立てられたりする。その盗んだ分が他から補てんされたりもする。金銭の貸し借りも公正でありごまかせないところがある。貸し借りでは金銭が具体的でわかりやすいのである。金銭のやりとりのなかに神が関与しているのではないか?何かそういうことを自分の経験で感じたのである。


●神話も人間への借りへのカルマとしての罰を伝えていた


シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。


これもまたカルマだったのである。何か人生で有意義なことをしないものは借りができてカルマとなりそれが罰となり無意味なことを延々とさせられる。有意義なことをしなかった罰としてそうなっているのだ。人生何も苦労しないで遊んで暮らせればいいというのもある。ただ働くことだけが有意義なことではとない、働きすぎた人はただ蟻のようよ働くばかりで花にも自然の美に感じることがなかった。これも異常なことだったのである。だからただ働くことだけが意義あることではない、働く意義は他人に押しつけられるものではなく自分が見いだしてゆくものである。それが自由社会では特にそうなる。そのために働かない時間も与えられるのが自由社会であり豊かな社会なのである。でも結果的にその自由が遂に何も働かずに働くことを見いださずに終わるということもある。なぜならなかなか自分で働く意義を見いだすことがむずかしいからである。働く現場にあって働いていると働く意義も見いだしやすいのである。家事でも働く意義がありそれは働いてみないとわからないのである。労働の意味は自分で働いてみないとわからないことが問題だったのである。


ともかくカルマというとき人間は何かしら必ず借りがある。すでに生まれたら親の世話になるし地域の世話になるし国の世話にもる。すると国のカルマも借りも背負うことにもなる。そういう大きなカルマの借りの自覚をもつ人はよほど優れた人だろう。普通は狭い身近なカルマしか意識しないからである。大きな国となるとそれぞれカルマを背負うことになる。戦争でもいろいろ言うがアメリカの原爆はもうぬぐいされない大きなカルマを借りを日本に作ってしまったのである。それは日本だけではない世界にそんな世界を破滅させるほどの武器を作ったことでカルマを作ったのである。だからアメリカはこのことで未来永劫このカルマから逃れることはできない、だから日本を守ることはこのカルマの故に要求できるのである。どんな言い訳してもこんな大きなカルマをのがれることはできないのだ。だから日本の戦争が悪いものとして中国や韓国にアメリカの正当性を主張させているのも矛盾なのである。アメリカは原爆を落としたことで日本は必ず復讐するとして恐れたという今も恐れているというのは本当だろう。それは良心の恐れでもある。その恐れから呪縛からは逃れることができないのである。それだけ原爆の罪は大きかったのである。

2013年06月11日

因果はめぐる (カルマを断てないのはなぜ?-親と同じ人生を歩む不思議)


因果はめぐる

(カルマを断てないのはなぜ?-親と同じ人生を歩む不思議)


karuma123.jpg

因果がめぐるというとき必ず親の代からつづいているのだ。親の因果が子にめぐってくる。
これは迷信でも何でもない、数学のように確実なものである。避けようにも避けられない宿命としてみんな負わされている。


なぜ親が夫で苦労したものはその結婚した娘もその夫で苦労している
夫に苦労する運命にある不思議である。


因果がめぐるとしてもその本人はなぜそうなったとか気づいていない、因果は冷静になって客観的にみると見えてくる。ある程度偶然のいたずらでなく合理的に判断できることである。

ただ本人はなぜこうなっているのか?なぜ自分だけが不幸を負わされているのか?それで神仏に頼ったりする。でも神仏に頼っても解決しない、なぜか?
それはギャンブルで借金して困って神仏にいのるのとにている。
そんな勝手なことを誰も神仏だって聞いてくれないのである。
でも人間は勝手だから自分の不幸の原因を合理的に考えない
仏教には何かわかりにくいのだけど合理的に人生を考えるものがある。
一種の積み重ねられた人生の謎を問題を長い時間の中で何代もの時間の中で考えたのである。
それがインドに起こったということはそれだけインドではすでに数千年とか長い時間を人間が生きていたからその長い時間で人間はなぜこうなるのかということを思索して生み出されたのが
インドの哲学であり宗教だった。


つまりカルマという考え方もそうである。カルマ返しというのがあるのもまたそうであった。
必ず人はカルマを積んでゆく、カルマは因果はめぐるでくりかえされてゆく・・・
そういう例を身近で親族の中で見られる
カルマは決して一代で終わらない、その子に孫にとひきつがれてゆく、ただすべてが悪いものとして引き継がれるのでもない、一般的には悪いものとして引き継がれるのが多いのだ。

だからどこかでカルマをたちカルマ返しをしなければ延々とそのカルマは子孫に受け継がれることになる。

ある人は自分が母親に捨てられたと思い母親をうらんでいた、でも自分も施設に自分の子供をあづけるはめになった・・

親と同じような結果になった。そういうことが身近で常に起こっている。カルマが延々と人間の生があるかぎりつづいてゆくのだ。どこかで断とうとしても断てないのが人間のカルマなのだ。
だからカルマとは業でありキリスト教なら罪であり原罪だともなる。


親を批判して恨んだりしている子供も親になり同じ親になってるのだ!


そういうことは人間はあくことなく延々とつづけてきたのだ。だからインドのような長い時間を積み重ねたところではカルマの思想が生まれたのである。人に害を与えたらカルマをもつ、そのカルマをどこかで返さねばならない、そういうカルマをもったことになるのだ。一方で良いことをしたら善のカルマをもちその人に返ってくる。でもそれが自覚できない、だから恩を受けた人にもその恩をカルマを返さないからまだカルマを積むことになりカルマから脱せられないのである。

恩を仇で返すということもありそうなると二十三重にカルマを積み逃れなくなるのだ。
そして自分はそのことに気づいていない、自分はやることはやっている、非はないと思っているからこそ神仏に頼り祈るわけである。そういう身勝手が人間には常にある。

つまりカルマを指摘しても人は聞かないのだ、聞く耳をもたない、自分はやることはやっているとみんな思っている。もちろん恩も返していると思っているし第一恩すら感じない人もいる。
だからそれを言ってもなんにもしないしかえって必ず怒ったりするのである。

人は自分の非を認めないし罪を犯しても自分は悪いと思う人は少ない、反省したり悔い改める人は少ないのである。ただただ親でも他者の非を責める人が多すぎるのである。
カルト宗教団体ではたいがいそういう人が集まっている。
身勝手な人がいて神仏に祈り自分の勝手な願いを神仏に要求している。
そういうことを許すのは指導する人もただそういう身勝手な人たちを利用して自分たちの欲望を達成することしか眼中にないからどうでもいいわけである。


カルマの法則というときそれは数式のように確実になっている。だからインドの宗教は合理的宗教であり極めて哲学的なのである。ただやたらむずかしくしたのは僧侶階級が形成されて宗教の独占からそうなった。それで逆にあまりにも簡単な題目だけを唱えれば救われるとか日蓮宗や真宗が普及した。それは文字も読めない時代の人を対象だった。今は庶民でも文字は読める、だから合理的哲学的に探求する仏教や宗教が必要ともなる。いろいろわからないにしてもカルマということについては具体的にあまりにも回りにその具体的例がみられるから理解しやすいのである。
題目をやたら唱えてもカルマは消滅しない、カルマを理解してカルマを断つ具体的なも行動が必要になっているのだ。


カルマの法則は現実にある
http://musubu.sblo.jp/article/64859154.html

2013年05月01日

常識のない人が増えている (若者にも大人にも老人にも共通している)


常識のない人が増えている

(若者にも大人にも老人にも共通している)


昨今では勉学を学ぶことよりも、「常識」を学ぶことの大切さの方が強調されている感じすらあります。一般社会においてはどれほど頭脳が優秀でも「常識」のない人間は問題視され、評価もされません(あくまで一般社会ではね)。
http://www.kuro14.net/2013/04/blog-post_11.html


「気づきがない、無頓着、理解力がない」
「基本を知らない、マナーを知らない、常識がない」
「気配りがない、気遣いがない、対応が悪い」
「機転が利かない、臨機応変に対応してくれない」などなど。


企業は困っている、悩んでいる
http://www.manavinet.com/special/0801/no16.html


周りの人が右を向いているときに、左を向いてしまう
周りの人が当たり前にできる事が、全く出来ない
その結果、周りからは、
「あの人は変わり者」と思われてしまいます!

相手のことを意識できないので、仕事にならない

仕事というのは、相手が気持ちよくならないと
商品を買ってくれたり、契約を結んでくれたりしません。
お世辞や愛想笑いなどが出来ないと、仕事にならないわけです。


ただ、大人のアスペルガー症候群の人は、
他人のことを意識することが出来ません。


どういった言葉を言えば、相手の気分が良くなり、
どういった言葉を言ってしまうと、相手が不機嫌になるのか
全く理解できないのです。


そのため、物を売ったり、契約をまとめるような仕事は、
ほとんどできないわけです。


相手からは過激な性格だと思われてしまう

上記のような状況でも、
本人は悪気があって言っているつもりはありません。
自分の考えていることや思ったことを、
素直に表現しているだけで、
他に深い意味はないのです。
http://アスペルガー大人特徴.net/asupe1/page5.html


子供は、言って聞かせれば解りますが年寄りは絶対に自分の非を認めません。
その場で言い争いになれば尚、悔しい思いをしたと思います。



常識とは何かというとき定義するのがむずかしい。非常識が何かも定義するのがむずかしい。だからいちがいにすべて常識-非常識では計れない、ただみんな今の社会では常識そのものが若い者だけではないいい大人でも老人でも増えている。そう感じている人が多い社会ではないか?
若い者ならしかたない面があるだろう。でもいい大人が老人が常識を身につけていないというのはどういうことなのだろうと疑問に思う人がいる。これはなんなんなのだという非常識な人間に出くわすことが増えているのではないか?

病院であった人はそうだった。職人として家で働いてくれたことがあった人なのでそのおくさんに声をかけた。その人は重症にその時見えたのだ。そのあともどうしたのかと気づかった。同じ病気ということで情報交換もしたかった。この前話ししたら
「あんた困っているの今はディサ-ビスに通っているよ、自分のことは自分でやっているよ、あんたなにかしてもらいたいの」
これまでは確かに自分は困っていた。今も困っていることはある。でも手術してからは余裕できてほとんど困っていないのだ。その時声をかけたのは自分のことを思ってしたのではない、自分が何かしてもらいたくて声かけたのではない、でもその女性は何かしてもらいたくて魂胆があって声かけたととりうざいから声かけるなと言ったと同じである。こんな人のことを気にもかけない気遣いも常識もない人間は何なのだろうと思った。その人は60くらいになっているかもしれないし老人である。

今や老人でも常識のない切れる老人とか暴走老人とか増えている。ただこれも人によりけりでありすべてではない。これは別に人を思いやる心がないとか宗教でいう愛がないとかそうした高等なものではない、人間として最低の常識がないということなのだろう。この女性をどう理解していいかわからない。四人の人と自分は家のごたごたでかかわった。一人は犯罪者であった。一人は会社経営者だけど嘘ついて成功を装って借金をかかえていた。もう一人は夫が公務員だったけど異常な行動をした。犯罪者と異常な行動した女性はもはや常識では語れない、異常者ということになる。他は別に普通に社会生活している人たちである。


常識がない人間がふえたというときこれは若者だけではない、社会人全般に常識がない人間が増えたのである。現代は常識が養成されにくい社会なのかもしれない、常識を養成されるのは今では家族でも地域でもない会社になる。だから会社で社員教育するわてけである。会社組織に入らない人は常識が欠けやすいかもしれない、例えば職人でも職人気質と昔言って悪いものとして言われなかった。しかし現代のような社会が複雑になると人との接触もふえると対人的には非常識な人が増えるかもしれない、職人はただその技術をみがけばいいとかになはならななる。そういう職人の家族はまた非常識になっているかもしれない、でも一人親方のような職人は契約をとるために社会性があることに驚いた。技術力もあり優秀であり人との対応も知り尽くしていたのである。その人と接して自分が常識がないとなった。それは仕事上そういうふうに社会性を身につけたのである。

そもそも他人と接触することの前提として宗教と関係なく他人を思いやることが前提にある。そうでないと仕事もうまくはかどらないだろう。モノを売るにしてもその人が心をこめて売るのとでは同じモノでも違っているのだ。東北人は自分もそうだけど人との対応がへたである。関西人はつまり京都のように文化の蓄積があるところは人との洗練した対応が生まれる。それは本心でなくてもやんわりと断るとかの文化が京言葉に現れる。それが他から来た人にはわかりにくいのである。京言葉自体東北の言葉とはあまりにも違いすぎるのだ。人に対応するやんわりとした言葉なのである。


一般的に常識があるというとき人と接する職業はどうしても常識が必要とされるから常識が社会性が身につく。職人だけをやっている人や農業の力仕事やっているだけの人や工事関係でも現場で肉体労働だけしている人とかは人と対応しない仕事であり社会的常識が身につきにくいかもしれない、結局人間はその人の職業が習慣性を作る。職業はそれだけ人間を作るものなのである。だからニ-トとかはまず社会性がないから常識が身につかないから人と対応できないから職につけないともなる。

自分もそうだったから社会性がないから職業についていないからそうだった。ただ変な話だけど創価にいたとき毎日社会的に人と接していたから人と対応する言葉使いができたともなる。人間はまず集団に帰属して社会性と常識を身につけるのである。人間は何であれあらゆることを経験できないカルト宗教団体でもそれは一つの経験であり間違っていてもそれなりに得るものがある。一人の人間の経験することは極めて限られているのだ。だからこそ常識自体を身につけることがそもそもむずかしいのである。教員が常識がないとか医者が横柄で常識がないというときそれはその職業がそうさせているのだ。学者バカというのもそうである。マニアックな理系馬鹿、研究一筋の人も社会性が身につかないとかなるか。現実はとても理論通りにはいかない、複雑怪奇なのである。上からの目線ばかりで人をみる立場にあれば常識もなくなる。そして夫婦が一体だというときその夫の職業の影響を妻も必ず受けるのである。


つまり医者であれ教師であれその仕事ばかりしていれは世界を社会をその職業から見てしまうのである。この世には様々な仕事がありそれは体験できない、だから他の職業に従事するもののことをなかなか理解できないのである。こういうことはこれだけ多様な社会になると特にそうである。
原発に従事している東電の人が何をしているのかなど地元の人がしりえようもないのと同じだったのである。そうなると東電では相手が何もしらないし反論もできないとなるからやり放題になった。
絶えず不具合、故障があっても隠せる。だからそれが習慣化していたのである。どうせ誰にも追求などできない、みんな金で抑えている。こうしてしそれが大事故につながったのである。

無数の職種ごとに常識も違っているとなれば常識自体何を基準にしていいかわからないとさえなるのだ。常識がない・・というときカルト宗教
団体でもその権力を背景に誰も責められないとなり警察も味方だとなれば非常識なことでも社会に通るとなる。検察官僚組織でも非常識なことが権力で隠される。警察関係もどうしても権力をバックに横柄になり常識が欠けてくる職業だとなる。
常識非常識というときそれは個人の問題でもあるがその所属している会社や組織や団体の問題でもある。


今回自分が経験したの非常識な女性は個人的要素が大きいだろう。ディサ-ビスに通っていて自分のことは自分でやっています・・それだけ言えばいいことだった。そうですかと言ってこちらも終わりであり傷つくことはなかったのである。お前はオレに何かしてもらいたいのかという言いぐさがあまりにも人との対応で非常識だったのである。田舎の人間はあけすけにモノを言うにしてもちょっとひどいと思った。そこには嫌であってもやんわりと京言葉のように言えば傷つかなかったともいえる。
こういう人は全く他人は無視であり気づかっていないのだろう。自分がきらいだからということでないみたいだ。
人間は人をみないで接すると大変なことになる。ただ非常識な人であれ犯罪人であれ人間はこの世にいる限り否応なく接触する。
それがさけられないのだ。ただ人間がいかに人を見ることが大事か思い知らされた。
ちょっと声かけるにしても素直でない人も嫌う人もいる。こっちが善意でも相手は悪意にとる。そいうことは常に起きてくる。
結婚も結局人を見分けられないから離婚が三分の一とかふえる。家と家の結構、どういう家で育ったか見て結婚した方がうまくいっていたともなる。女性などはどういう家で育ったかでかなり影響されているかもしれない、余りにも顔とか外形だけ判断すると失敗する。
あとになって顔などさほど問題でなく人間は気持ちだとかなる。顔見ただけでも人間はわからないのである。

2013年04月30日

人間は近くのことを見逃している (時間軸の歴史を知ることはむずかしい)


人間は近くのことを見逃している

(時間軸の歴史を知ることはむずかしい)



今年も桜が散り桜の季節も終わりつつある。今年も意外だったのは桜はいたるところに咲いているものだと思った。去年見た桜と今年見た発見した桜は相馬藩内でも違っていた。そんなに桜が咲いているのとなるけどここにも桜咲いていたなと身近なところではじめて見る桜があった。それもいつも行き来している六号線沿いにあった。イオンの前の一木の山桜はあれは街道の近くにあっても隠れている。街道からは見えないからわからなかった。唐神の堤の桜も前見たのとまた違っていたのが松にそえて咲いていた。これだけこの辺で桜が咲いていることが意外だったのである。
日立木の薬師堂の桜などは目立つから毎年見ている。でもまた何か違ったものとして見えてくるのも不思議なのである。それはやはり人間の心境が一年一年変わっているからなのだろうか?
心境は若いときと老人になったら全く違ったものとなる。価値観がまるで変わってしまうのである。

自分は桜は全国を旅して見ていた。その時は関西の方を中心に見ていたのである。京都の桜も見た。 そこで感慨深かったのは関西の桜を見て散ったときみちのくに帰れば咲きはじめていた。そういう空間移動で桜前線の旅をしていた。これは今やいかに贅沢なことだったか恵まれたことだったか知った。一日も旅ができなようになってわかった。自分の30年間は世間と没交渉であり旅ばかりしていたとなる。その報いがこの六年間の苦しみとなった。そして近くを行ったり来たりしていると退屈かとなるとそうでもなくなった。自分は若いとき相当に退屈していたから旅をしていたのである。

故郷にいることが平凡で退屈だったのである。東京の大学に行ったのもただ故郷から脱出したいというだけだった。勉強したいということなかった。高校でも自分は落第に近いし学校にはなじめなかったし友達つきあいもできなかった。要するに脱出願望しかなかったのである。その後そういう意識はつづいた。50才になって世界旅行したのも今度は日本から脱出願望でそうなった。日本なんか狭いから嫌だと若い者は世界へ脱出するのがトレンドとなった。バックパッカ-時代になった。


確かに日本には空がない、東京には空がないのではない、日本には空がない、広い空かないということを外国を広大な大陸を旅したとき感じた。日本の空は山が多いから区切られた空のようになっているのだ。大陸の空は山がないからどこまでも平坦な土地に空がかぎりなく広がっている。そこで天の思想や星を国旗にする感覚が生まれた。日本は空を仰いでも大陸のような無限に広がる空ではないのだ。また人間的にも大陸はおおらかだということがあって若者が外国でアルバイトして帰りたくないと言っていたのは日本は島国であり人間関係も狭苦しい、姑息になっているからだろう。
大陸的風土はおおらかでのびのびしたものになる。それはやはり風土の影響なのである。


そして今故郷から出れないとなったとき退屈になるかというとそうでもない、確かに狭い風土だし人間関係も姑息だし褊狭であり嫌である。それでも狭いといっても鹿島から相馬市まで昔の浜街道を頻繁に通っているから飽きたともならない、それは俳句や短歌にしていたことでわかる。こんなに俳句や短歌にするものがあるのかと我ながら不思議に思う。つまり広い空間軸でみたものが狭い領域でも内面的に時間軸で深く見ればどこに住んでも豊かな精神生活が送れるのだ。時間軸の歴史を掘り下げることでその住んでいる場所の意味を理解することで人間の心が豊かなものになる。外国を空間的に旅行してもわかりにくいのは印象に残らないのは長い歴史の時間の積み重ねを理解できないからである。時間軸ではまず一時よったくらいでは理解できない。だからまた忘れやすいのである。

結局鑑賞するというとき深く鑑賞するには絵画でも壺でも何度も毎日のように生活の一部のように見ていれば自ずと理解するものがある。自然とか人間の生活もそうなのである。

つまりどんなところに住んでいようがそれなりの自然と歴史が人間の住むところにある。東京などはないが地方ならある。そこで人間は時間軸で堀さ下げる、感受性を見いだし作ってゆくのである。
この感受性すら自然にその人間に備わっているものではなかった。時間軸で積み重ねで作られてゆくものだったのである。脳でも体でも天才は別にして普通の人は積み重ねで作られてゆくのである。

脳の細胞はその人の日頃の積み重ねで人工的に作られてゆくという不思議があるのだ。常に美しいものに接しようとしていないと汚いものにまぎれて見えなくなってしまうのだ。脳の細胞はその人の日頃の積み重ねによって脳を構築しているのだ。それは例えば雑学のようなものでもそうなのである。地名に興味をもったとしてもそれは雑学にすぎないとなるがそれも知識を実地に歩いたりして脳を地名学として構築していたのである。雑学ですら馬鹿にするが積み重ねがないと理解できないのである。雑学すらものにするには相当な時間の積み重ねが必要なのである。いろいろなものに心が散ってまたたくまに時間はすぎるからだ。


時間は実際は老人になればわかるけどかなり限られたものだった。もはや60代以降は新しいことを学ぶことがむずかしくなる。ただ今まで体験したこと学んだことを深化することが仕事なのである。狭い土地でもだから時間軸で見ればそこに深い意味を見い出すことができる。相馬市の新田というところを時間軸で深化するとき別なように見えてきた。江戸時代から長い時間軸の追体験をするとその土地に対してまた愛着を覚えるということがある。
それは何気ない場所でも道でもそうだったのである。
今の時間に心を奪われているとどうしても物の見方が浅薄になってしまうのである。
極端な極貧の生活が江戸時代からありそこから現代の豊かさをみるときこれは何なんだ、あまりにも贅沢じゃないかとかなぜこんなに贅沢しているのに不満なのかとか見方が違ったものとなるのだ。

花咲くは都にのみ咲くにあらじいたるところに装い咲きぬ

2013年04月13日

カルマの法則は現実にある (なぜ子は親と同じような人生になりやすいのか?)


カルマの法則は現実にある

(なぜ子は親と同じような人生になりやすいのか?)



カルマの法則・・・前世での行為の清算のために、あるときは義務を負う側に、
あるときはそれを受け取る側に身を置き、何度も何度も繰り返す。


ある人が何かの出来事で人の命を奪ってしまったら、その後には、同情を覚えるほどの
辛い状況が待っているでしょう。
もしかしたら、来世では医者になって、人の命を助ける仕事について、全身全霊で人(生命)を
愛し、その生涯を捧げるかもしれない。



知人に、自分の前世を、昨日の事のように覚えている看護婦がいる。
その人は、戦国時代に「山賊」であったという。戦いで傷を負って落ち延びた武者を襲い、
金品を奪い、手を切り落としたり、足を切り落としたり、時には、命まで奪っていたという。
そんなことを全部覚えているという。


そして今、勤めている病院に、自分が前世で殺した人が診察を受けに来ることもあると言う。
前世で足を切った人が、足が不自由なままに入院したり、自分が「刀」で切りつけた人が
背中に傷跡がそのまま残っていたりするという。「今は姿・顔形は違うけど、魂が同じなので、
すぐ分かるという」。


そんな人を見るたびに、「すみません、すみません」という思いでいっぱいで、
ただひたすら心の中で詫びるという。


他の看護婦さんが、あの患者さんはわがまま、扱いにくいと言う人もいるけど、
「私はとてもじゃないけど、そんなことは言えない。自分のやってきたことを考えたら、
そんな事を言える資格はない」。今はすべての人を愛したい、出会うすべての人に
ありったけの愛を注ぎ、全身全霊で人に奉仕をしたいという。
そして、休みの日には、ボランティア活動に励んでいる。
http://www.ne.jp/asahi/aquarius/messenger/books_008.htm



カルマというときそもそも前世の因縁があるのかどうかということがある。前世での悪行を今償うために医者や看護師の仕事など福祉やボランティアをしている。それが動機になるというのも不思議である。しかしこの動機は全く根拠もないものでもないし悪いとは言えない、それだけの善行を行う動機づけになっているのだ。そんなものないよと否定するのもいいが実際の動機となり善行になっているからだ。ここまで前世のことを真剣に考える人は普通はいない、医者だって看護師だって種々雑多でありこんなにしてまでこんな動機でやる人は極わずかである。そして医者や看護師でも結構性格の悪い人だって金だけを求める人だって天使が変じて悪魔にもなりやすい職業でありきれいごとはこの世はすべてすすまない。だから前世のことをこれだけ真剣に考えることは特殊であり動機が悪いとはならない、いい動機になっているのだ。でもこの前世で悪いことしたからそれを現世で償わねばならないというのはすべて否定することもできないむしろ事実なのである。


たいがいなぜ親と同じ様な人生を送りやすいのか?親の因果が子に報いとかなるのか?親が離婚していると子も離婚しやすい、親が苦労したことを子も同じ様な苦労をする。借金で親が苦労したらやはり子供も借金で苦労する。親に捨てられたという人は自分が親になったら子供捨てていたということもある。何かそういう因果がある。それはほとんど一部にあてはまるのではなく統計的な数字として確実なのである。だから家系の研究している人はそうした一つの法則があることを割り出した。親が悪いことをしていたらその因果は子に受け継がれる。それは仏教でも聖書でも同じである。三代四代までその因果が継続されたたるともなる。その罪の報いは一見関係ない子供が受けることになる。これも理不尽と言えば理不尽なのだがそれが因果の法則なのである。悪行はそれだけ恐ろしいことなのである。しかし軽い気持ちで悪は常に行うのも人間なのである。

この看護師は極端にしてもこういうことはありうるのだ。前世でないにしろ今世でもそうである。

例えば恩を受けたら恩を返すことが要求されているのだ。恩を返すことなど別にするしないは自由であると考える。でも恩を受けたことがカルマとなっているのが人間なのである。だからそのカルマが生まれたのだから返さねばならない、それをしないとどうなるのか?その人はそのカルマを返さないからカルマは解消せず自分自身を不幸におとしいれる。そういうことは現実にみている。恩を返す機会がありまざまざとみていたのに何もしなかった。ただ見て笑っていただけだったとなればその人は何だったのかとなる。それで今の不幸があるとしか言いようがない、それは自分にも起きたことだった。もちろんそれは一方的な見方だということもある。悪行の結果はすでに必ず別に死ぬ前に現れるのである。カルマ(業)をそれぞれ背負っているからこの看護師のように極端ではないにしろカルマを解消するためにはカルマは罪障でありそれが行為として示さないと消えないというのが現実としてある。


例えばここにホ-ムレスがいたとする。この人は自分とは何の関係もない、この人はよほどでたらめな人生を送ったのだろうとか思いその人の苦しみなど全く無視するのが普通である。ところが逆に人間は会社が急に倒産したりして自らがホ-ムレスにならないとも限らないのだ。そして人間は結局決して自分が苦しまない限り他者には同情しない、病気になった人は病気の人に同情するようになる。ホ-ムレスの苦しみはホ-ムレスにならない限りわからない。病気の苦しみも同じである。貧乏の苦しみもそうである。現代ではどうしても貧乏の苦しみを実感することが普通はできない、過去の貧乏とはあまりにも違っているからだ。だから医者とか看護師は別に病気などしていない人が多いから意外と病気はみていても同情しない人が多いのである。だから病人を残酷に扱う悪魔にもなりうる職業だということである。

ところがそういう人も医者でも看護師でもいつか病気に必ずなる。するとなんであのとき患者にあんな冷たい扱いをしたのかと反省する。そういうカルマの繰り返しが人間なのである。だからこの看護師は極端にしてもカルマを解消するためにはそれくらいすることも異常ではないのである。
普通はこの逆であったり全然していないからである。その結果として自らに不幸を招く、でも自分自身のことは反省しないで他人のせいにしたする。そのことは自分自身もこの六年間こんなに苦しむのはなぜだろうと考えたがやはり自分のカルマだったのである。それは今も継続中なのである。


そして仏教でもキリスト教でもシャカやキリストがどういう人生を送ったか?それが忘れているのだ。それは大伽藍に飾られて大聖堂に祭られたりしているからシャカは洞窟で暮らした乞食だったしキリストは枕するところなしというホ-ムレスだったということを全く忘れている、感じられないのである。大伽藍や大聖堂の主がそんなことがありえないとなる。でも現実は二人ともホ-ムレスだったのである。この世では住む家すら与えられなかった。今の宗教者はこの正反対である。清貧の生活すらしている人はまれだとなる。それは江戸時代からそうであった。だから宗教者ということ自体何なのかともなる。袈裟を来ているだけの見せかけだとなる。ともかく人間はいくら言葉で説教しようが自分自身が同じ苦しみを受けない限り同情することはないのだ。ホ-ムレスの苦しみはホ-ムレスになってみなければわからないし病気や貧乏もそうである。そういう同じ苦しみを受けると同情するようになるのである。そうでないと口だけになってしまうのである。だからかえって人の苦しみをみて他人の不幸は蜜の味となっているのが普通である。自分が苦しまないから実際は関係ないとなる。金持ちは貧乏人に同情しないし無関心である。

また自分が苦しんできたから他人も同じ苦しみを受けるべきだともなりざまあみろとなって同情しない人もいる。こういう人もまた多いのである。そういう人は他人の不幸を心から願っているのである。自分と同じ様に不幸になればいいと暗黙の内に願っているのだ。そういう人とつきあうことも危険である。だから現代では特に同情する人はまれである。そもそも前世のことをこれほど思ってカルマを解消しようとしているのは特殊でありほとんどないから貴重だともなる。
そういう立場の人を理解できないのである。
自分のこの六年間の苦しみもやはりカルマだった。そしてこのカルマは未だ解消していないのである

結局人間は罪の故に業(カルマ)の故にカルマを誰でも背負っている。だからこの世でカルマを消滅させる必要がある。でもかえって必ずまたこの世でそんなカルマの自覚より新たにカルマ(罪と業)を積んでゆく。するとまたカルマが消滅していないから生まれ変わり苦しむことになる。その因果の繰り返しだともなる。ただこの看護婦の場合は強制されたものでなく自らそう思ってカルマを消滅させるために人の看護をする。逆にカ-スト制はカルマによって身分制化したもので強制されてしまっているからいいとはいえない。強制されてやるのと自らが悟ってやるのでは相当にちがう。
前世など関係ないというけど現世ですでに誰でもカルマを背負わされている。そして自らもカルマを積んでゆく宿命にある。殺人を犯したような人はすでにこの世ではそのカルマを消滅することなどできない。とすると来世でまた生まれ変わりそのカルマを消滅させるために生きることになるというのも不思議ではない、殺人したから今度は医者となり他人の命を救うために働くというのもわかる。
なぜこの人はこんなに懸命に働くのだろう。金のためだけではない、本当に他人に尽くすために働いているとなるとその動機が何なのだろうとなる。それは前世からの因縁でそうなったというのも一つの解釈にはなる。


ただ人間は決して自分のカルマを認めたりしない、だからこの看護師の言うことは特殊でありまれである。逆に自分の犯した積んだカルマを他人のせいにするのだ。他人に自分のカルマを負わせようとする。それもまた普通にある。自分で自覚してカルマを消滅させようとしないで他人に押しつけるのである。借金というのがそうかもしれない、自分が贅沢するために遊ぶために見栄のために借金していてそれを他人のせいにして借金する。カルマが関係ない第三者にも負わされるのである。結局この世はそうしたカルマが充満して解消しないのがこの世だとなる。それはどなんことしたって永遠に解消しない、変わらずにカルマを積んでゆく、その大きな原因が欲望があるからになる。欲望はどんなことしたって断つことができない、そこからカルマが生まれてくる。そういう因果の繰り返しなのである。カルマが消滅するのはいつなのか、それはこの世が滅び新たにされるときしかない。人間という種が滅び新しい種になる。それはこの世ではありえないからこの世は欲で滅びるとなる。
最後の審判があり人間の欲が滅ぼされてようやくカルマが消滅するとなる。

2013年02月28日

人間はなぜ歪んでしまのか? (その原因の根底に育った家庭があった)


人間はなぜ歪んでしまのか?

(その原因の根底に育った家庭があった)

子供は夫婦の会話や態度を鏡のように映す存在。例えば奥さんから誕生日に『おめでとう』と言われプレゼントをもらったときに、どんな反応をしていますか。奥さんが喜ぶような言葉や態度で感謝を表現できているでしょうか。素っ気ない態度で感謝の気持ちをごまかして、きちんと伝えていないと、子供はそれを感じ取り、男の子は特に父親をまねて極端な形で表してしまいやすいのです」


 つまり日ごろから夫婦間で『ありがとう』の会話がないと、それがわが子にも伝播(でんぱ)して、友達の心が理解できない感受性の鈍い子供となる。その結果、当然のことながら感謝の表現ができなくなるというのだ。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130227-00000001-pfamily-soci


自分がここ6年介護とがで接した人間はまともなものがいなかった。主に親戚だが他人もいた。そもそも自分の家族が異常な家族だった。それは家族が悪いというのではない成り行きでやむをえないことからそうなったのだから自分は家族が異常でも家族を責めないし自分で言うのも変だがそれなりに手厚い介護しているし親には感謝している。こういう家庭環境になったのは本人が悪いというのではなかったからだ。それぞれの家庭を知ることは複雑であり他者が知り得ないものがある。


まず自分の母親などは悲惨だった。継母に育てられたのである。だから小学生のとき弁当を作ってくれたのだがそれを残したとき「オレの作ったものを食えないのか」とその弁当を投げつけたというからひどい。その継母は異常なほど気性が荒い女性だった。最期は養老院で眼が見えなくなり死んだ。もう一人は連れ子になり心が歪んでしまった、またもう一人は子供のとき三人母親が変わった。これもかなり影響したろうがその三人は愛情がないとういのではない、特別可愛がったのである。でもその影響が大きかったかもしれない、それで50才くらいになってその女性は異常な人間になっていた。そのとばっちりを自分の家で受けた。あとは子供のころは極端な貧乏とか苦しみを味わい結婚してから夫がすぐに重病となりその世話に明け暮れた女性も心が歪んでしまった。もう一人は生まれたとき母親の乳で育たず親戚のものが乳を与えて育てた。兄弟姉妹も多くそんなふうになったのだろうがこれも最後は犯罪者になった。自分がここ6年であった人はこんな人しかいない。自分自身の家庭環境が異常であったこともあるがその回りもすべて異常だった。


そういう人ばかりみていると家庭とはそもそもそういうものだと思ってしまうのだ。まともな家庭、家族で育たないものはまともな家庭がどういうものか知らないのである。毎日夫婦喧嘩しているのが普通だと思ってしまうのである。家庭とはそういうものだと思ってしまいまともな家庭があるなどわからないのである。ともかく人間は家庭環境が致命的に影響することがまちがいない、やはり家庭環境が悪ければまともに育たないということはある。ただ環境因子がすべてではないし生まれつきがすべてでないしそれは複雑に相互作用しているのだ。悪い環境でもいい子は育つ、親がなくても子は育つと同じである。一般的には確率的にはどうしても人間は育った家庭環境に大きく影響される。
だから就職のとき家庭環境を見て採用するというのはやむをえないかもしれない、協調してやれるかどうか性格がどうかとか見るのには家庭環境を見るのが基本になるのかもしれない、自分はまず他人と協調してやれるようなことはなかった。それでも逆に家庭環境で会社にも就職せず無職でも遂に人生の最後までも困ることもなかったのである。


ただ世の中は広い、人間の接する範囲は極めて限られているのだ。だからそこから判定することはできない、一般化することはできない、最近あった女性を見ていていつも不思議だった。その感じとか受け答えとか本当に気持ちよく素直であり態度がいいのである。それは何だろうと不思議だった。異常な人間ばかりとあっていたから地獄で仏にあったような気がした。この女性はまともだとつくづく思った。心も歪んでいないしまともなのである。そのことに感動したというのも変だけどまずこれだけ歪んだ人間を相手にしていればそうなる。その女性は男一人と女一人と三人兄弟姉妹であり夫婦仲は良かったという。なるほどこれくらいまともだとやはり家庭環境もいいのだなとつくづく思った。まともな家庭環境で育った人もいるのだなと感心した。こういう家庭に育てば気立てのいい優しい女性に育つと思った。ただ金持ちの家だって夫婦仲が悪かったりすべてがいいわけではない、貧乏でも夫婦仲が良かったりするし貧乏がすべて悪いとはならないから貧乏から家庭を判断することはできない、ただ家庭は人間形成の基の場であり影響が大きすぎるのである。だから家庭環境をみればそれなりにその人物を判定できるかもしれない、ただその後の大人になってからすべてを家庭環境の原因にすることはできない、どんな不遇な環境でもみんなが犯罪者になるわけではないからだ。


結婚が昔は家と家の結婚だというときそれは家庭環境がその人間に大きく影響しているからだ。家と家の結婚だというときその結婚する本人より家庭環境を見ている。その方がまちがいないかもしれない、なぜ戦後に三分の一も離婚しているのか?それはその人ばかり見ていてもなかなか人がわからない、家庭環境を見ればその人がわかるということもある。家と家の結婚なら離婚も少なくなるかもしれない、だから自由恋愛というのも離婚が非常に多いのである。そこで古いものが何でも悪いとしたことにも問題があった。新しいものは新しい価値観は簡単に身につかない、それより何代にもわたった価値観にも習慣にもそれなりの人間の知恵が働いていたから軽んじるのが問題だったのである。


「オマエを育てるのに苦労した。」
「この食事の支度に苦労した。」
「あんな人と結婚するんじゃなかった。」・・・等々。
個々の事例については、以前より配信しております。


じゃあ、このようにグチばかり聞かされてきた子供がどうなってしまうの?
その一例として、「苦労自慢や不幸自慢」の人間になったりする例が多くあります。
そもそも、その親から不幸話や苦労話以外の話を聞いたことがないんだから、子供だって、自分の不幸を語るしかないじゃないの?
皆様の周囲にも、不幸自慢や苦労自慢ばかりの人もいるでしょ?

まさに、当人の親と同じように、被害というか、苦労というか、不幸を語り、そして、被害者という立場でもって自分のアイデンティティを設定するわけ。
被害者として、自分の被害を語り、被害を語ることという行為によって、「被害者としての自分」という立ち居地を自己確認するわけ。
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/04-04/04-04-19.htm


こういう人を知っている。本当に信じられない苦労の連続だから苦労を他人に語ることが人生になってしまった。そして他人の不幸を喜ぶような歪んだ性格になった。そんな人と付き合わされた自分は最大の不幸だった。最初はその人間についてはわからなかった。こうして歪んだ性格の人とつきあうことは何らか大きな害を受ける。この女性はついに弱者だったが弱者を虐待して喜ぶまでになった。
だめだめ家庭は実際にいたるところに普通にいるしそういう家庭と接して生きざるをえないのだ。
ただそういう家庭と接するとなんらかの害を受けざるをえない、ある意味で恐いことでもある。
病気になり弱者になって抵抗できないからこんな女性に助けてもらったらあとあと大変なことになる。家庭が崩壊させられるしそういう事件もあったから恐いのである。


だめだめ家庭の目次録
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/index_original.html


ここはかなり参考になる。

2013年02月08日

良い姿勢も生活習慣で作られる (人を見るとき姿勢が大事なのはなぜ!)


良い姿勢も生活習慣で作られる

(人を見るとき姿勢が大事なのはなぜ!)

姿勢というとき言葉をはればまさに姿の勢いなのである。その姿に勢いがあるかどうかが姿勢なのである。living attitude なのである。


figuratioを遡ると、「姿」「形」の意のfigura(フィグーラ)や、「つくり上げる」の動詞fingere(フィンゲレ)になり、同じ語源では英語のfigure(フィギュア)があります。
このfigureの概念は、ギリシア語で「形」を意味するschema(スケーマ)の翻訳語ともされていますが、このschemaから来ているのが英語のscheme(スキーム)で、「企画」「枠組み」などで訳されています。


figureにはいろいろ意味があってももともとは形にすることであり解決するということはfigure outである。

人間を見るときまず顔を見るということがある。顔も大事なのだが実際体全体が大事であり姿勢が大事なことがわかった。姿勢がいい人は見ていて気持ちいいのだ。なぜ老人が醜く見えるのか?
顔も肌も老いて醜くなるのだが姿勢が悪い人が多いからではないか、それは肉体的衰えもあるが姿勢から精神が歪んでいる感じも受けるからだろう。回りを見回しても60代くらいになると姿勢が悪くなる人が多い、体型も悪くなり歪んでくる。自分も痩せ型なのに腹がでていたりする。どうしても年とともにそういう人が多くなってくることが印象を悪くしているのだ。


美人の要件として姿勢がいい、スタイルがいいことである。顔よりスタイルが大事だという人もいる。人間は体全体から何かを発している。同級生で背の高い人だったがせむしのようになっていたのには驚いた。あの人は表に出れないだろう。人に見られないように家にひきこもっている他ないだろう。ある人はぶよぶよに太っている。ある人は脚が曲がったように見える。ある人は体が太鼓腹であり脚が短く体型自体が生まれつき悪いのだろう。それに加えて心も曲がっているから体と心が一致してしまった。ダンテの地獄編では体が変形した人が良くでてくるけど悪しき心が変形して歪んだ体となったのである。ただ若い内はたいがい体に生気があふれ姿勢がいいから若い人と接することは老人に接するより気持ちいいのである。若い人はまだ世の汚れにもそまっていないから気持ちいい人が多い。若い人のすべてがそうでないにしろ一般的にはそうである。
姿勢はそもそも生まれつきではなく作られるのである。人間なんでも生まれつきだと思っているけど違う。双子がいたけど筋骨隆々になったのは重量挙げをしていたからみたいだ。双子でも全然違った体型になってしまったのだ。その後訓練で双子でもまるで違ったものになっている。その生活習慣でもそうである。人間を決めるのは生活習慣だというのも本当である。もちろん生来のものもある。

自分の場合、体も弱く心も弱く能力もまるでなかった。でも結局長い人生で生活習慣でなんとかさほど病気もせずにここまで生きられた。体力的にも知的にも優れた人はいる。若いときスポ-ツができて知的能力も高い人がいる。高校生のときから柔道ができるとか体力がある人がいる。そういう人を見ているとうらやましいとなる。知的に勉強できる人は体力がないように見えるからだ。でも実際は勉強もできて体力もある人がいる。そういう人はやはり社会的に上のクラスに自ずとつく。やっぱり人間は頭脳が大事だといっても体力もその基礎にある。芸術だと本当は体力がないと巨大な芸術家にも哲学者にもなれないだろう。なぜならこの大自然を詩にするにしろそれ相応の体力かないと健康でないととても詩にできない。だから巨大な芸術家は超弩級の体力かあった。牛という詩を作った高村光太郎、その体自体が牛のようにさえ見える。頑丈な体だったのである。彼は彫刻家でも彫刻家は頑丈な体の人が多いかもしれない、それはかなりの肉体労働になるからだ。牛になるきるには牛のような体力が必要だとなる。虎の詩を書いたブレ-クも異常な体力の持ち主だった。天才はそういう人が多い、上野霄里氏とかニ-チェもそうである。体力がなければあれだけのものも書けないのである。


一般的に詩人薄命だとかいうように詩人には柔弱な人が多い、自分もその一人である。ただ人間の不思議そうした柔弱でも生活習慣でそれなりの体力を身につけることができるのだ。もちろんそれには限界があるにしろ生活習慣でできる。酒を飲まないとかタバコを吸わないとか日頃運動しているとかはできるのだ。現代の生活は昔のように第一次産業に従事する人が少ない、工場とか会社のデスクワ-クとか不健康なのが多いから姿勢も悪くなるし人間に生気がなくなるということがある。人間の姿勢は一生の間で作られるのだ。奇妙な話だけど自分の場合は常に自転車にのっていたから自転車に乗る姿勢になっていた。自転車は極めて自然を感じるものである。風を必ず受ける、風に向かって走るのである。そうすると風に向かう姿勢になるのだ。車はそういうことがない、自然をさえぎるからそうした姿勢になりにくいだろう。だから姿勢も長年の習慣で作られる。商売人でもしょっちゅうおじぎばかりしていたらそういう姿勢にならないだろうか?デスクワ-クの人はどうしても前かがみにならないだろうか?現代人の仕事はそういうのが多いから姿勢が悪い人が多いともなる。

高橋英吉の彫刻の漁師は潮風に向かって胸を反って立っている。あの姿勢は漁師だからこそあのようになる。漁師も常に潮風を受けて働いているからそうなる。高橋英吉も自らも漁船にのって遠洋航海で働いたというからそれだけの体力がありあれだけのものをあの若さで作ったのである。これも天才だったが戦争で死んでしまったのである。あの彫刻には広い海からの風を常に受け波の音を聞き常に海に向かっている男の姿を見事に形にしているのだ。日本ではヨ-ロッパのように人間を彫塑にする芸術があまりなかった。自然を立体的にとらえる力が不足していた。だから立体的な建築も発達しなかった。だから姿勢の芸術たる人間の彫刻力がなかった。


ともかく姿勢が生活習慣からつくられるというとき現代は生活習慣がその仕事上も悪いから悪い姿勢になる。職人でも自分が接した人はもともとすでに柔道しなくても柔道何段かの体力があるような人だった。見ているだけでうらやましくなった。職人でも体力かないとできない、それに加えて技術力やセンスもないと一流にはなれない、だから優れた職人も長年の生活習慣でその姿勢が作られる。だから昔は姿勢のいい人が多かったかもしれない、肉体労働がどうしても多かったからである。
一般的にスポ-ツできる人は姿勢がいい、武道をする人は姿勢がいい、背筋が伸びていい姿勢が作られる。だからもともと武道は姿勢を重んじていたのだ。姿勢が人間を作ると思っていたから姿勢を良くするものとして発達した。剣道でも柔道でも武道をする人は姿勢がいいのである。

ただ人間は生活習慣で作られる。生まれつきがあっても長年の生活習慣か人間を作る。病気も生活習慣からなるのが多いとしたとき健康も生活習慣によって作られるとなる。どうしても生まれつきが影響しても現代のように体力がなくても長生きができる時代なのは環境のためである。栄養もとれるし過重な労苦を強いられないということもある。自分の場合は生まれつき弱くてもそういう環境と生活習慣でこれまで生きられたとなるから恵まれていたとなる。昔だと無惨に才能があっても死んだ人が多いのである。まず自転車にのることが人生だったなどということは昔ならありえない、現代のような恵まれた時代からそんな人もありえたのである。ニ-トなどありえないのが昔である。


漁師の像


漁師は常に大海に向かって立つ
筋骨隆々として波がその体を洗う
波はその体全体に轟いている
直射日光が体に射しつけ
その眼は海のかなたを見つめ
遠方から来るもの望んでいる
胸は希望にふくらみ常に潮風を受けている
常に大海から吹いてくる風に向かって立つ
あたかも岩壁のように打ちつける波に向かって立つ
その姿は凛々しく自然が人間を造形したように
大海に向かって立ち波と光と風のなかに立つ


石巻-潮音-漁師の像が立っている
http://ishinomakinews.blogspot.jp/2012/11/hibi1120.html

2013年01月10日

人間の罪の基は口にあった (口からすべての汚れがでてくる-現代社会の嘘は見抜くことがむずかしい)


人間の罪の基は口にあった

(口からすべての汚れがでてくる-現代社会の嘘は見抜くことがむずかしい)


口は災いの元

そのうわついた口はぺらぺらあることなきこと
しゃべりつづけて嘘もつく
口は災いのもと
口はつつしむべし
特に女性の口は軽すぎる
その口の恐ろしさを知るべし
その口よりいでしものが他者を殺す
愛なくば愛を語るべからじ
真実の一言は重し
真実の言葉に力が宿る
石の如くに真実の言葉は重し
浮ついたる口よ
そは地獄にてその舌の焼かれむ
その口は呪われるべし


人間は簡単に言葉を日常的に使っている。言葉などなんの影響があるのかと普通は思う。しかし言葉を通じて人間の心が表に出るということが人間の人間たる所以なのである。身、口、意で悪を犯すというとき人間は口から一番悪が出やすい。意というときその心が言葉となって現れる。人は言葉を軽んじているけど言葉を通じて心が表出されるから言葉は恐ろしい害毒をふりまく、自然界のものは樹でも石でも山でも動植物でもは言葉をもっていない、言葉がでてこないからこそそこにいかなる悪も表出してこないのだ。だから人間でも沈黙の行をしていれば樹や石や山のようになれば悪は表出しないし罪を犯さない、罪というとき具体的な犯罪として罰せられる罪を罪だと思っているが人間は日常的に言葉で相手も殺しているのである。人間の言葉の害毒は計り知れないほどこの世を汚している。
そしてこの世とは嘘と偽りの世界である。それは権力者から下々まで嘘と偽りの世界に汚染されているのだ。現代では嘘というとき個々人のあからさまな嘘もあるけど会社とか組織や種々の団体が嘘をつく。するとそれは権力を持っているから大々的社会に宣伝されてその嘘が嘘でなくなるのだ。

マスコミがこの頃盛んにネットなどで批判されるのは真実を報道していない、嘘だというときそうだった。マスコミも宣伝費をもらっているから大きな会社の意向に従う、東電など電事連が一番宣伝費を出すときその意向に従うほかない、そうして安全でなくても原発の安全神話は作られた。これは嘘だったのである。それは政府自体もその嘘に加担していたのである。政府と会社が一体化して嘘をついていたのである。戦争中でも政府と軍部とマスコミが一体化して実際は負けた場合でも勝っていると嘘をついていたのである。政府もマスコミも一体化して嘘をつく、その嘘が人の判断を誤らせていたし結果として300百万人も死に犠牲にされていた。


まずこの世で嘘をつかないで人生を終えた人など一人もいないだろう。現代では特に嘘をつかないということは会社とか団体と組織化の中で生きていると個人が嘘をつかないように思ってもできないのである。会社ぐるみで団体で行動しているのだから一個人の意向は無視される。だから除染にしてもごまかしていても会社の支持でやっている、政府の支持でやっているとなり個人はその大きな権力の意向に従わざるをえないのである。つまり現代は江戸時代などより偽りと嘘が天文学的に増大した時代である。組織ぐるみの嘘が莫大なものとなっているからだ。例えば江戸時代だったら職人であっても一人一人で職人気質で仕事していたのだから嘘をつくようなことはない、すると全体的に嘘は極めて少ない、だからみんな江戸時代の人は貧乏でもいい顔していたというときそういう社会の違いがあった。現代はまた嘘を見分けにくいのである。マスコミの嘘などでも見分けるのがむずかしい。もちろん政府が嘘ついていたら余計にそうである。宗教だってカルトとなると巨大な組織集団だから宗教を看板にしていること自体嘘と偽りなのである。そもそも宗教は自らが犠牲になるような崇高なものだった。するとカルト宗教団体などはまるでその正反対だし誰も自分が犠牲になるような宗教を実践することが不可能だからその看板をかかげていること自体、嘘であり偽りだとなる。ただ別に宗教ではなくてあなたたちの欲望をかなえてやりますとあればかまわない、それは法華経とか虎に自分の食わせるとかの宗教を実践できるものはいないからそもそも宗教を看板にしていること自体が嘘と偽りになってしまう。この世全体がそもそも嘘と偽りの世界だとなってしまっているのだ。


現代はなぜ嘘がこれほど蔓延してしまうのか?それは薬でも医学でもその他いろいろなことが専門化して素人にわかりにくい社会だからである。何か宣伝している人は金をもらってしているのだからそれがいいとか悪いとか真実なのかどうかなど関係ないわけである。それを自分で確かめるわけにもいかない、原子力発電とか放射能問題でもそれらは目にも見えないしわからないから嘘が一番つきやすいとなる。放射能が低いならかえって体にいいといわれればそうかなと思って信じてしまう。それは専門家しかわからないから嘘をつかれてもわからないのである。個人的嘘なら具体的でわかりやすいけどこうした科学でも組織的集団的なことになるとその嘘を見抜くことは不可能になってしまう。
建築関係の仕事をしている人が一億円資産があるもうかっていると言われたときその方面の知識がないからそういう仕事もあるのだと思っていたら嘘だった。そういうことは現代は数限りなくある。
何が嘘なのか本当なのか社会が嘘と偽りにおおわれていたら見抜くことはできなくなる。宗教を看板にしているのだから宗教を追求しているのかと思ったらそこはどろどろした現世欲望を追求している団体だったカルトだとかなる。その嘘が偽りは巨大組織化集団化されると社会に公認されるから余計わからなくなるのだ。社会でその嘘と偽りを糾弾できなくなっているのだ。


おそらく嘘をつかずに一生過ごせるとしたら奇跡的だろう。社会とかかわること自体嘘をつき偽りに生きることになる確率が大である。だからこそ出家してこの世とかかわらないことが身、口、意を汚さないようにすることだったことがこれからも理解できる。でも出家してもまたそこが嘘と偽りの場になることもありうる。宗教というのも嘘が多すぎるのである。だからこの世で人間社会で嘘と偽りから逃れようとしたら不可能になる。石と樹とか山とか動植物、自然は嘘をつかない、偽りがない世界である。だからこそ自然にひかれるのであり自然に安らぐのであり人間社会ではそういうことがありえないのだ。その社会は複雑怪奇になっていてとても何が嘘で真実なのかもわかりにくい、原発事故でもそうだった。ただ原発事故の原因は嘘にあった。必ず権力でもって嘘が隠蔽されていたのである。その嘘は政府の権力もかかわり隠されていたのである。それが事故につながっていた。原発の技術的問題として安全かどうかの前に正直にその内部の情報を出していない、嘘で隠していたことが事故につながったのである。だから原発が技術的問題よりそうした嘘をつくことにあったのだ。


ともかく愛がないのに愛という言葉を口にする人が多すぎる。それは宗教団体であろうがいたるところで愛を言うがそんな愛を簡単に実践することはできない、すると愛ということばを余り語らない方がいいとなる。いや簡単に語れないということでもある。政治家などは愛想のいい大衆受けをすることを盛んに言うけどそれはみんな自分の欲望のためであり他者の犠牲になるなどないから嘘なのである。それは政治家自身が言っているのだからおべっかと言っているのだからまちがいない、政治家はそもそも嘘を言うことで公認された職業でもある。だから公約などもほとんど実現されないのである。選挙のときだけいいことを言ってあとは実現されないのである。政治家だから相当な罪の職業だともなる。嘘をつけないではやれない職業だということである。そういう職業が結構多いのも現代社会なのである。江戸時代の職人や農民でも侍でも嘘をつく職業ではなかったろう。現代は膨大な嘘が蔓延した社会なのである。その嘘もみぬくことがむずかしい社会なのである。
女性の水商売などもどうしても嘘が商売になっている。それも相当な罪な職業なのかもしれない、今なら別に地味な職業でも食えないことはないからである。強制的にされるのではなく自ら選ぶということもあるからだ。そんなことに出入りすることは嘘の世界に自らも汚すし汚されることになる。
でも社会ではそんな堅いことでは通じないとかなり接待が普通にある。


口から入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのでる


口が人間の罪の一番の出口なことには変わっていなかった。口をつつしむことが宗教の修行の第一にあった。口をつつしめば罪を犯すことからまねがれる。だから社会とあまりかかわらず口をつつしむ禅宗の修行があった。現代社会生活で嘘をつかないで暮らすことはむずかしいからである。
ともかく心にもないことを次と次と言って恥ないのにはあきれた。女性は嘘つくのが当たり前だと弱い女性には嘘は許されるというがそんなことはないと思う。やはりその口は罰せられるだろう。それは男女に関係ないだろう。人間の謎は罪から生まれ罪を犯すために生まれた来たのだろうか?
結果的にはみなそうなる。なぜなら自然界には善悪がないから罪もないのである。人間だけが善悪をしる。人間が知恵の樹の実を食べて善悪を知るようになった。だから人間だけに善と悪がある。
嘘をつくということも悪であり真実であることは嘘のないことでありこの二つは分けられるのである。悪があって善を知り善の意味を知るということがある。山や樹や石など動植物でも嘘をつくことなど偽ることなどないからである。人間だけに悪あり嘘も悪であり嘘をつかない人など一人もいないから人は罪を犯すために生まれてきたということでもある。

2012年09月09日

食べものが料理が人間にもたらすもの (神に自然に感謝しないものは呪われる)


食べものが料理が人間にもたらすもの

(神に自然に感謝しないものは呪われる)

料理一つとってもそこには複雑な要素があった。自分一人で料理してみてわかった。料理はまず素材として野菜であれ肉であれ用意する、それからそれを運び並べるのが結構手間なのである。それらを全部一人でやることが手間なのである。だから病院などで食堂でもそういう手間がないからその手間に感謝するということがある。しかしそんなことを注目している人はあまりいない、この料理がうまいかとうかで価値は決められる。料理人の腕が注目される。しかし料理の素材として提供されるものにもあまり注目されていない、なぜ米が野菜がとれるのか肉が食べれるのか注目されていないしその行程も見えないのが現代世界である。田舎では米がどうしてとれるか現実に見ているから農家でなくても実感として理解できる。東京辺りでは田んぼがないから米がもたらされてもそれがどうして作られるのか理解しにくい。ス-パ-に行けば米はあるよとなる。金さえあればいつも食料は買えるよとなり誰も食料を感謝してなど食べないだろう。金の悪弊として人は金の力が余りにも今は大きいから金が神のようになっているから食料となるものに感謝しない。金によってあらゆるものがもたらされると錯覚する。でも金は金属であり紙でしかないのだ。そこに現代の盲点がある。


病院で経験したことは全く受け身となり料理が毎日もたらされたことである。そこには運ぶ手間がありその手間にも感謝する。病院は運んできてくれた看護師にありがとうとみんな言って感謝している。そんなことレストランでは言わないし感謝もしない、当たり前である。常に「俺は金をはらっているんだ、もっと愛想よくしろ」となりもっとサ-ビスしろよとなる。でも不思議なのは病院では料理を運んできてくれた看護師にみんなありがとうと感謝しているのは不思議である。病院の悪い点を書いてきたがいい点もある。人と人が互いにあれほど気づかっているのも不思議だった。病気だから互いに気づかうということはある。病気が軽いからまだ相手を気づかう余裕があるといえばそうである。重度になれば相手を気づかうことなどできなくなる。病院ほど労働に感謝している場はない、掃除婦にもありがとうと言っている。みんな病人で世話になるからそうなっているのか?他では掃除している人などに感謝している人などいないだろう。


ただ人間は感謝するとき本当は肝心なものに感謝していない、料理の基となる米とか野菜でもどうして作られるのだろうか?そこまで考察する人はいないだろう。米でも根本的には土があり光があり水がなければ作れない、その恵みは誰が与えたものなのか?すると地球を作った神がいてすべての食物は与えられたから地球を作った神に感謝すべきだとなる。そこまで思いをはせる人は少ない、食物を作るにはどんなに人間の手を加えようが根本的に土や水や光がなければ作れないのである。食料を作ってくださる農家の人の手間には感謝する。だが農家の人だけ食料は作れない、それを一番知っているのは農家の人である。なぜなら自ら作付けして育てたものを収穫するとき、人は自然とまさに神がその実りを与えてくださったと理屈ではないものとして会得している。だから水をもたらす山に信仰が生まれたのだろう。米でも米の神様に祈り祭っていたこともわかる。


動物の肉を食べるにしても動物はなぜ育つのか?肉食動物があるにしろ動物は草食動物であり草を食べて肉を作っているのだ。その草は土と水と光がないと作れない、そこに感謝している人はいない、人間は文明が高度に発達すると自然から遊離してくるからますます食物がどうしてもたらされるのか実感できなくなる。東京のように一千万人の食卓に提供する食料があること自体不思議である。
回りには田んぼもなにもない、コンクリ-トジャングルであり土も水も見えない世界である。そういう世界に人は普通に今は住んでいる。田舎だったら農家の人は以前として食料を生産しているのだから自然からもたらされるものが何か理屈ではなく感じている。


人間の命の基は土であり水であり光である。そして魚でも動物でも食べるときはやはり食べられる方は犠牲になっている。特に動物は血を流して犠牲になっている。魚さえ血を流している。だから植物を食べるよりより感謝せねばならない、宗教的にはインドのように肉が食べない方が理想的である。人間はこうして当たり前だった世界から離れ自然がみえなくなったとき災いが自然から神からもたらされる。今ほどあらゆるものを食べている時代はない、それ自体が異常なことだと気づくべきである。そういうところから原発事故も生まれてきた。電気はそもそも自然の光とかとは違う。原発を神のように崇拝するという映画あったけどまさにそこに危険があったのだ。崇拝すべきものは原発を作り出すものであり科学者はそこで司祭となり権力となるから政治家も民衆もあらゆる人が仕えることになる。しかしそこに呪いが隠されていたのである。


原子力を崇めることを神が偶像のように拒否したのかもしれない、それで破壊したのかもしれない、感謝すべきものは原子力ではない、電気でもない、土であり光であり水なのである。人間の技ではない、直接神の業なるものから作られたものなのである。それに感謝しないものは呪われるのである。

2012年08月17日

「親切心の養成」(家族にすら親切心がない現実)


「親切心」の養成


(家族にすら親切心がない現実)

例えば福祉関係の仕事、看護師とか介護士とか他者に直接働きかける仕事は「親切心」が自ずと養われる。仕事なの中で「親切心」意外と大事である。嫁に来た人はその家の墓に入りたくないという人が30パ-セントくらいいる。夫婦の墓がいいとかが多い。それは何なのか?それは姑と嫁の対立にあるのではないか?姑はどうしても嫁に親切心をもてない、そのことが恨みともなっているからそうなる。たいがいは赤の他人でも親切心でもって接すればこころよく勤めるということがある。それができないのは家族のなかでも親切心をもって接し得ないからである。


そういうことは家族の中で社会の中で働いていないと実感しえないのである。現代は一番この「親切心」が欠けた時代なのだろう。人を思いやる心が一番欠けている。ただ金だけを求めている。親切心も金をくれからやっているのだとなり愛想笑いとなって心から親切にするわけではない、ただ相手に親切にすることは自分も親切にされるというのが基本にある。姑が嫁に親切にできないから一緒の墓に入りたくないとなるのだ。ただだからといって姑がすべて悪いとはならない、嫁が悪いかもしれないし家族のことはあまりにも複雑なのである。今は姑より嫁の方が強く親切心が欠けていることがありうる。家族には外から見てわからないことが必ずある。それほど家族関係は複雑なのである。

だから家族の中に立ち入れることはよほどのことでないとできない、理解しがたいものがかなりあるからだ。自分の家族など自分すら理解できないほど複雑だった。一人が死んでやっと何なのか理解した。60年一緒にいてもそうだったのである。それほど人間は複雑なのである。

親切心はまた感じる人と感じない人がいるのだ。例えば身寄りがないとか家族がないとかひどいことばかりされてきたとかそういう人は親切にすると人一倍親切をありがたいと思う、感じるのだ。いつも家族の中で親切にされていると感じないのである。それが自分にもあった。親切にされるのが当たり前になっているときそのとき人は親切にされても感じないのである。ホ-ムレスの人か病院で実験台にされても看護師などに親切にされるからいいというとき、まさにそうなのである。路上で寝て全くもののようにしか扱われない、病院では看護師が名前を呼んでくれて人間扱いしてくれるからだ。家族のないものにとって病院すら家庭的に感じていいものになってしまうのである。

それだけこの世が非情になってしまったからともいえる。そして病院とかでは家族がいて有力者だと看護師も親切にするが身寄りのないものを親切にしないということもある。家族の監視があると見かけ上親切にせざるをえないということもある。本当は身寄りのない人は親切にされるべきなのである。

また不思議なのは親切に自らしないものは親切が何か実感しにくい、親切にしてみて親切が何かわかるのである。親切にされているばかりだとそれが当たり前になり親切にされても感じないのである。人間は仕事の中でただ金を求めて金さえ得ればいいと思っている。しかし人間社会で「親切心」は欠かせない潤滑油である。

働く場でも親切にされれば働く意欲も普通はでてくる。私に親切にしてくれた、だからここでは尽くそうという気持ちになる。姑と嫁には敵対関係がありそうした親切が通じ合わないから同じ墓に入りたくないとまでなっているのだ。親切心というのはいろいろな事件があるけどちょっとした親切心があれば事件にならないということがあるかもしれない、冷たくされて事件になるということがある。金のことで事件が起きるがこれも余りにも金に非情だとそうなるのかもしれない、相手がもう明日食べるものがないというとき、誰も助けてくれないとなれば殺人にもなる。でももしそのことを知り食べさせたりしていればそうならないかもしれない、現代は昔のようにそうした情がない社会になっている。自分の場合、家族でさえ情が通じ合わない所だったのだからさらに社会になるとそうなりやすい。


ただこの世が非情だというときこの親切心が全く通ぜず踏みにじられることがある。そういうことを自ら経験した。親切にしても全然感じない、むしろ親切をいいことに恩を仇で返すのも人間である。中国人の留学生に事情あって親切にしていた人が金のために殺された。金が欲しいとなったとき小さな親切は無視される。逆に見かけを親切にして老人から金を奪うとういう事件が実際はひんぱんに現代では起きている。親切というものが全く通じない非情化している人間もふえているのだ。確かに冷たくされたとかが原因にある、そして非情な人間化した。そして親切にする人があってもその親切は通じなくなった。そういう人もいる。それでも家族が複雑なように人間が起こす事件は本当は複雑である。報道だけをみればなんという人だとなるがやはり人間である限り何か犯罪を起こす原因があり残酷な事件であればあるほどそういうふうに考えいたいの人間なのである。人間なのだからそんなことまでしない、何かそれだけのことを起こす事情があったのだろうとかになる。人間だからということがやはり前提にある。良心をもっている人間なのだからそこまでやるのはそれだけの事情があるだろうと犯罪者を思うのである。会津の事件などでもなぜそこまでしなければならなかったのか?
その背景を考えその人がどうしてそれほどの犯罪を起こしたのか?この犯罪者は絶対に許せないというそれでもそこまでやる背景とか事情とかを考える、考えたいのが人間なのである。


いづれにしろ今の世の中、そんな親切心など説くお前は甘いとなる。世の中は食うか食われるかの修羅場だ。そんな甘いことでは生きていけない、お前は恵まれたから世の中の厳しさを知らないのだとなる。これは事実である。だからお前みたいなやつは格好な犯罪の餌食になったのだとなる。それは言えるし本当だった。この世はそんな親切心などを言ったら生きていけない、そんなものを殺してこそ成功するんだとなる。いちいち相手のことを考え同情していたら商売にならないよともなる、それが現実だともなる。だからこそちょっとした親切さえこの世では実行できない、善行というと大きなことをするものばかりと思っているが実際は小さな善行がその前にできないのである。

小さなことができないから大きなこともできないのである。人間は家族であれどんな場であれ親切にされると気持ちいいからその場で勤め尽くし働こうとなる。田舎でもそういう親切な人がいるところだったから自分も一緒に生活したいとなる。しかし田舎でも人間に関して都会とさほど変わりがない、いい人はまれである。むしろ田舎の人は排他的で他者に冷たいというのが一般的にあり会津の凶悪事件も背景にそういうことがあったかもしれない、最初の入った家ではいい人だとされていた。ただこの事件はあまりに残酷なので想像の範囲を越えているから簡単には言えない、それでも人間なのだから人間的に考えるからそう思うことになる。殺された人に何の非もないのだということが一般的であり死罪になるだろう。ただ田舎で起こった犯罪なので興味をもったのである。


親切心の養成


あなたに向かって花は咲いている
誰でもない、あなたに向かって花は咲いている
あなたに向かって花は喜び咲いている
あなたは他者に向かって親切にしてみよう
あなたも親切にされるだろう
親切は誰にでもできること
あなたはその人の名を呼んであげよう
忘れられた人の名を呼んであげよう
それだけで人は喜ぶだろう
大勢ではない、親切は一人一人になされもの
集団を相手にするとき人は人として扱われない
そこで「親切」の徳は忘れ去られる
親切はちょうどスミレのようなもの
目立たない花であるが喜びがある
親切は社会の潤滑油
親切はただ一言の言葉かもしれぬ
しかし感じるものには感じる
私は親切にされた
だからあなたのためにみんなのために働こう
そういう気持ちにさせるのが親切の徳
小さい目立たぬ徳なれどその力は大きい
大きなものだけが社会を支えるのか
小さなものに愛そそごう
神はそを見ているだろう
目立たぬ「親切」も社会を支える
ああ しかしその親切も無惨に裏切られ無視される
それもまた人間社会の真実
それでも親切に励まねばならぬ
自らの徳の養成のためにである


親切は集団的ではない、個々にある。だからカルト宗教団体にはその親切心すらない、集団として権力拡大維持を第一にするから親切心は無視される。助け合うとしても権力維持が前提にある。
「親切心」は本当は無償的なものかもしれない、確かに親切にすれば親切にされる、でもそうされない場合も多いとすると虚しいともなるからだ。親切心は見返りを期待しない愛なのかもしれない、そんなもの普通は実行できないとなる。たいがいこうしたものは否定される。社会はともかく家族の中で親切心がなかったので書いたまでである。

2012年07月22日

女神山の伝説 (人間の一生は夢-みな伝説化する)


女神山の伝説

(人間の一生は夢-みな伝説化する)

女神山


穏やかなる春の日
気ままにゆく山間の道
その道の分かれぬ
いづこに行かむ
春の日さして
誘われるままに
我は行きにしを
その知らざる道
知らざる僻村
女神山とあり
我かしこに春の日
苦もなくに眠りてあらむ
我に添うものありて
我が生を長らく楽しむ
しかしそも夢なれ
その長き日もまこと
槿花一朝の夢
たちまち散りし花
ただ夢の日にあれ
そは幻なれや
浦島の伝説や
はかなき煙と消えぬ
まことしやかに
浦島の釣り竿はこれと
山中に残るもいぶかし
すでにはるかなる昔なりしを
ああ されどふくよかに
女神山微笑みて
我をつつみぬ
我に苦を強いざるもの
そは常に微笑みて
我のそばに長くもありしも
ここに春の雲は流れきて
春日さす石や
鄙人の翁の座りぬ
時に共に昔を語り笑いぬ
この地の良しと神も笑わむ

今になると人間の一生は誰しも夢である。どんな一生も夢である。そういうことは老人になると本当に実感としてわかるし現実なのである。夫婦であれ家族であれそれがなくなったときそれは夢の世界だったとしる。人間の一生は夢であり謎であり最後はみな伝説化して終わる。別に特別な人でなくても普通の人でもその人生は夢であり伝説である。夫婦のともにする歳月は長いとしてもいつかはどちらかが死ぬとそれが夢のように思えるだろう。しかし人間の夢は本当に深い、いくら夢だと言ってもその夢は余りにも深いのである。旅したところも今思い出せば夢を見ていたようだとなる。その夢は時々よみがえり詩にしている。しかし旅だけではない、それぞれの人生そのものがみな夢なのである。どんなに豊かな恵まれた人生でも終われば夢であり貧乏でも同じである。人生はどっちにしろ夢だったとなる。みんな最後は浦島太郎になっている。ただその夢にしても一生のことだから長いからその夢はさめきれないほど深いのである。だからその夢は容易に生きている限り消え去らない、老人になると本当に夢の中に生きることになる。終わってしまった人生が夢でもその記憶を夢を生きるのである。これも不思議なことである。


この辺はまさに個々の人生ではない、町や村が津浪や原発事故で消失して夢のようになってしまったことである。津浪の跡でもこれが一体現実なのかと未だに夢うつつになっている。おそらく津浪の被害で家族を失った人たちはそれ以上にそう思っている。これが現実なのか夢なのか、今まであった長く暮らした家もなくなり家族もいなくなりとか一瞬にして夢のようになってしまった。普通だったら人生の最後にそうなるのだがこの場合は突然にそうなってしまったのである。だからこの辺の状態はまさに個々人ではない全体が夢のようになっているのだ。全体が夢うつつになっている不思議である。魔法に操られたような奇妙な感覚になる。怪しく紫の烟をくゆらせてその中に人は夢を見させられている。それも実に深い夢なのである。だからとてもそれが夢とは思えない、でも現実も遂には夢と化してしまう。快楽にふけるのも一時の深い夢である。それもたちまち消え去る。そしてただ最後は夢を綴(つづ)っているだけになる。あんなことしたこんなことしたとか思い出すだけが人生となる。でも自分のしたことが簡単に消え去るのかと言えば消え去らない、ちょっとしたことでも思い出すことがある。青春時代の浅はかなこと罪なことはあとで必ず思い出して苦しむことになる。過ちや罪の行為は消えないのである。その時はなんのことなく軽い気持ちでしていたことでもそうなのである。そういうことがあとで苦しめるものとなる。


青春時代であれ若いときであれいくらこの世ははかないとか夢だとか言ってもそれを実感しえない、目の前の華やかな生に心は奪われる。人はそこで深い夢を見せられる。そして最後に人は夢からさめる。しかしその深い夢は簡単には消えないのである。いづれにしろ人間は老人になれば誰でも哲学者になる傾向がある。人生とはこんなものかと否応なく悟らせられるからである。若いときは生きることに正に夢中でありそれが夢であることを覚らないのである。だからさも重大なことにのようにその夢に真剣に没頭する。この世で成功するも失敗するも夢となる。成功した人も結局夢の人生だったとなる。しかし人生は余りにも長すぎた夢だったからその夢からさめられないである。人生を本当にこれは夢なのだと若いときから覚ればそれほど苦しいものとは思えないだろう。人間は何者かによって操られ深い夢を見せられているのである。それは何なのかわからない、たぶらかされているのである。サタンといえばそうなのかもしれない、そして社会自体もこの世自体もそうした夢にたぶらかされている。ありもしない夢を現実化すると思っている。カルト宗教団体などがそうである。オウム王国だとか創価王国だとか幸福実現王国だとか夢をみて夢にかられている。


歴史をふりかえればソロモンの栄華の夢がありすべては夢としてあったのが歴史ではないか?歴史は現実だったにしろ終わって見れば夢となる。そんなこと本当にあったのか?そんな人本当に生きていたのかとなる。だからこそ伝説化している。一人一人の人生も伝説化する。人生は不可解であり謎だとなってしまう。ただ津浪や原発で町や村自体が消失して伝説化することは想像すらできなかった。しかし今やそれが現実なのである。


阿武隈高原に女神山がある、阿武隈は比較的道が平坦だから自転車では行きやすい、そして道が分かれている。その道をどこへ行くともなく行っていたのが自分だった。その日はあまりにも長かったのである。それでとがめられることもなかった。そういうふうに恵まれた生活が長くつづいた。でもそれも遂に夢となった。家族の一人も死んだ。そして回りも家も苦しみの場となった。でもその夢はあまりにも長いが故に簡単には消えない深い夢として語られるのである。ただ労苦の人生もあった。今の80代はそういう人が多い。ただ働くこと苦しむことが人生だった。そういう人生も何か哀しい。

花一つも愛でない人生は荒寥としていた。自分は春爛漫として花々の中を逍遥した人生だった。その思い出は限りなく我が心にありそれを今詩にしたりしている。労苦だけが人生だったというのもやはり悲惨である。ただ語られるのは労苦だけなのである。幸せな日がなかったというのはやはりその人生に接したとき息苦しくなってしまうだろう。ただ今そのつけを支払わせられているのかもしれない、あまりにも楽な人生のつけを支払わせられているのかもしれない、実際人間の境遇は不可解なのである。境遇は選びようがない、宿命でありそれを生きざるをえないのである。


魔法使いがその手を使い自在に人間を操る
今だ、もっと楽しめ、楽しめ
ハッハッハッ、楽しめ、楽しめ


魔法使いに操られ狐にだまされていたのが人間である。一見自分が生きているようでも実際は人間には欲があればその欲望の故にだまされ操られることになる。欲があるからだまされるのである。
人間は欲によって操られるものである。カルト宗教団体もその欲でもって人間を操る、社会そのものがそうではないか?原発事故だってそもそもみんな欲の故に危険を無視して操られたのである。そこに人間の深い欲がからんでいたから操られることになる。人間の欲は限りないものである。その欲を人間は絶つことはできないから様々にだまされ操られるのである。

輪廻の欲

まだ色濃くにおう紫の香の烟
醒めやらぬ夢の名残り
その深き夢の微睡み
人は欲に操られ正体を失う
醒めてみればただみな白髪の老人
死神は汝の齢を数えて
黄泉に送りその生は幻
ただ後悔と罪の汝を責めぬ
人の欲を断つことの硬し
故に人はその欲故に輪廻する

阿武隈の魅力は道にある
http://www.musubu.jp/abukumichimiryoku.htm

2012年06月22日

白鷺の詩から現代文明を考える (文明人が喪失した自然への感受性)


白鷺の詩から現代文明を考える

(文明人が喪失した自然への感受性)

白鷺の脚


白鷺の川の岸辺に一羽
悠然として優美なる姿
何か加えるものありや
何もなしかも完璧な姿
その翼と脚と嘴と
過不足なく与えられ
神の御園生に生かしめられぬ
夏の日太陽に一段と白くまばゆく
その天然の衣は映えぬ
夕風そよぎそのしなやかなる脚
その脚に絶えず水が流れている
水にひたひたと浸されている
いづこかへまた軽やかに飛びたち
白鷺は風を光を身に感じている
常に明るい光と風の中にある
その他は何も知らない
何も得ようとはしていない
完璧に神の業の賜物
エジプトの神殿の守り神
静謐なる純白の衣をまとい
水辺に菖蒲は咲きてひそまり
神にかしづき自然に調和する
いかなる災いももたらされず
神の御園生に生かしめられぬ


アオサギは定期的に蘇る命の象徴、つまり再生の象徴でもありました。というのは、浸水期になるとナイル川に必ず戻ってくるのがアオサギだったからです。アオサギはエジプトではベヌウ(bnw)と呼ばれてきましたが、一説では「昇る」とか「輝く」を表すwbenから転訛したものとされています。
http://www.lookandlearn.com/history-images/XB175586?.jpg


エジプト文明が何かというとこれも謎になった。アニミズムというのは何か?別にこれは人間が進歩しない科学的でないものの迷信的な宗教だとかなる。実際に神と崇めるのは間違っている。
しかし現代というのがこれだけ科学技術化した社会が進歩したものなのだろうかいうとき疑問がある。原発事故で科学技術もまた迷信的な宗教とも化していたのだ。安全神話が科学者によって強固に作られた。科学によってだまされていた。科学が宗教までなっていたからだまされた。

人間は意外とある面の感受性が衰退している。それは自然に対する感受性が喪失している。田舎に住んでいれば農家でなくても自然にまだ直接ふれられる。だから自然を肌で観察している。しかし都会だともう自然とは断絶している。ということは自然への感受性が喪失してしまったいることなのだ。そういう自然から遊離した文明の中で生きていること自体がすべての問題の根底にある。
アイディンティティ(自己同一化)というとき人間はもともと自然とアイディンティティ化してきたのだ。それはどこの国でも同じである。最初は密接な自然とのアイディンティティの中に生きていた。生きざるを得なかったから自然への感受性は自ずと身についていた。そうでなければ自然の中で生きられなかったのである。最初の信仰がアニミズム的になることは自然だったのである。それが偶像崇拝になっても自然なことだったのである。人間が自然から遊離するとき、現代の科学技術文明化は自然と遊離するから人間はどこにアイディンティティを求めていいかわからなくなる。そこでカルト宗教団体が都会から繁茂してくる。カルトは社会とも自然ともアイディンティティ化、自己同一化できないところから生まれてくるからだ。ビルと車の狭間で何とアイディンティティ化していいかわからない。スカイツリ-などもくだらないものでもそこに人は集中する。それも一つのアイディンティティ化を求めて都会ではそうなる。一つの山のようなものとして登山の感覚みたいなものが人工的に作られたから集中する。人は高いところに上りたいということが本能的にあるからだ。


人間の危機があまりにも人工的なものに囲まれてアイディンティティ化できないとういことから起きている。津浪でも人間の感ではない、テレビの報道に頼っているからテレビの警報に頼っているから命を失ったということもありえた。6メ-トルの津浪がくると言っても感じなかったのである。そういうときは人間の直感に頼っていた方が助かる率が大きかったかもしれない、あの地震では大阪から地震警報がでていた、そこで警報出す人が直観的にこの地震は普通ではない、震度の感覚では数字以上より大きなものに感じていたという。実際はその人間の感覚の方があたっていたとなる。すべてを機械で計れるわけがないのだ。人間の感の方があたる場合がある。人間はその感をあまりにも機械に技術にたよすぎてしまうようになった。人間の社会は今やあらゆるものが機械に頼っているから機械に頼れなくなればパニックになるのである。だから過去のアニミズムが迷信的だとかエジプト文明も動物を神とする非科学的文明だとかは言えないのである。それは自然とアイディンティティ化-自己同一化した文明の体系化だから今の科学技術文明のアイディンティティ化よりまともだとなる。科学技術文明からはまともな自己同一化、アイディンティティが作り得ないことでもわかる。


人間の言葉そのものが自然とアイディンティティ化する過程で生まれてきたのだ。日常的に使う言葉そうなっているとき自然から離れた人間の言葉自体がすでに自然と遊離しているから言葉自体が死んでいる。言葉が最初に詩だったというのは本当である。万葉時代はそうだった。大和言葉は日本の自然と同一化、アイディンティティ化する過程で生まれたのである。それが神道にも通じていた。
大和言葉は縄文時代からすでに使われていたのである。


苔むせる千歳の岩に年古りて何事問わむかしこまりあれ


千歳の岩に向かうときこの岩と自己同一化、アイディンティティ化しようとしているのだ。それが人間を作るのである。現代の宗教がカルト化するの正常な感覚をもてないのは自然から遊離しているからである。このかしこまる-かしこ-かしこい-これは何の意味だろうとなる。それは神道の祈りでも良く使われる。しかしその意味は何かわからなくなっている。でも自然に対する畏敬の念から生まれた言葉なのだろう。


世のため 人のために 尽くさしめ給へと畏(かしこ)み畏みも 申(まを)す


ここの世のため、人のために・・・ということが現代の宗教の根本的に間違っていることなのだ。

それがカルトになっているのである。神があって自然があり人間がある。自然を作ったのは神でありそういうものが実在するというのが宗教である。世とか社会とか人を第一にしていたら現代の文明こそ最もいいものだとかなる。かしこむとはすべての創造主なる神であり自然にかしこむことなのである。人は結局、権力にかしこみ、人間の作った科学技術にかしこみ、そして自然に対する感受性を喪失するとき自然の今回のような大災害にあい原発事故にもなったのである。。それはすでに予定されていたのである。


夕風や水青鷺の脛を打つ 蕪村


これはやはり鷺の脚に注目したことで同じ発想だった。あのしなやかな脚に魅力を感じる。なんともいえぬ優雅さがあそこにある。青鷺より白鷺の方が夏は一段とまぶしく映える。ただこの辺では川には白鷺がいるが田んぼがないのだから白鷺がいない、白鷺は水と一体になって存在していた。田んぼには蛙などの餌も豊富だったからである。


白鷺の飛翔(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/4710434.html


夕べの白鷺(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/14960452.html

2012年06月07日

教育とは能力を引き出すこと (人間の脳は生涯で二割くらいしか使われていない)


教育とは能力を引き出すこと

(人間の脳は生涯で二割くらいしか使われていない)


education 教育
[語源] L.educatio = e-(=out)+doctus = 子供の資質を引き出す行為


ローマ時代には、この石橋の上の溝に水を通して生活に使っていたのです。aqueduct の溝の部分が、水を導くための duct です。現在の duct は建物の換気、液体を流すための大きな管のことですね。このイメージをしっかりつかんでください



プログに出している抽象画だと思うがほめられた。美しいですねとコメントがあった。何度も書いてきたけどこの抽象画は芸術になっているかどうか疑問だった。ただ見ている人がいるのだから全く無視されていないのだから芸術として認められていたのかもしれない、抽象画は本当に芸術なのだろうかという疑問がある。でも抽象化が人間の精神的活動の根底にあった。文字も数字も抽象化した結果である。タ-ナ-のような大画家でも最後は抽象画になったということでも人間の精神と抽象化は密接な関係があるのだ。

educationが資質を能力を引き出すというとき、そもそも人間の能力は大方引き出さない限り眠っている。生涯で使う脳は割り程度というのは本当だろう。あとは能力が引き出されず眠っているということである。つまりどんな人でも能力はある。ただ引き出されないだけなのである。人間の能力というとき知的なことばかり言っているが社会を見ればいかに多様かわかる。人間には無数の能力をひきだすことによって社会が成り立っている。手伝いとかヘルパ-とか何かそんなものに能力が必要なのか、誰でもできるではないかとか見えるけどこれもその人に備わった能力があり向いている人といない人がいる。介護関係の仕事は力より優しさが求められるから今までにない男でも気質が要求されることになる。戦国時代だったらただ剛のものの能力が要求される。要求される能力も時代によって違ってくるのだ。


能力のない人はこの世にいない、ただ能力が引き出されないだけなのだ。芸術的感性などでも磨くにしてもそういう環境に恵まれていないと
そういう方面の感受性は身につかない、クラシック音楽などは生のオ-ケストラの演奏などをしょっちゅう聞いている人と聞けない人の差は大きいだろう。生の演奏を聞いて感動することが本当に感動することになるからだ。また自ら一つの楽器でもこなせれば音楽の関心が高まる。でもそれにはそれなりの時間が必要になるのだ。環境も必要になる。つまり能力を引き出す環境と時間に恵まれる必要があるのだ。ところが実際は貧乏な時代はほとんどそういう環境と時間に恵まれないから芸術的を鑑賞するセンスがみがけないのである。もちろん創造するのにもあくまでも自らの能力を引き出すことが創造につながる。


そして人間は能力がない人はいない、ただあらゆる方面で引き出されないというだけなのである。人間には何かしらの能力が備わっているが引き出されないのである。隠れている使われない能力が大きいのである。また能力を引き出すのには脳の状態を健全に保たないとできない、酒飲むことは脳を退化させる。一時的に脳が麻痺状態になるから能力が低下するのだ。能力を引き出せなくなるのだ。脳の潜在的力を引き出すためには節制が必要なのである。過度な酒や過度なセックスやそういうものに溺れたらどんなに潜在力があっても能力は引きだせなくなる。能力がわずかでも節制して長年努力していれば能力を引き出せるのが人間なのである。素質的に天才であっても能力を引き出すのに失敗する場合がある。一方わずかな能力でも節制していて引き出せることがあるのだ。それは別に年齢に関係なくそうできる。現実にパソコンの抽象画に目覚めたのは最近のことでありすでに60すぎてからである。60以降も引き出せる能力はいくらでもあるのだ。それもやはりそういう節制した状態でないとできないのである。


その一つの例がパソコンの抽象画だった。絵の才能が全くない自分でも抽象画が作れたという不思議がある。それはただ化学反応のようにしてパソコンのソフトから作り出したのである。パソコンのソフトは高価なものを買うより使いなれることが大事だというときまさにそのソフトを自分なりに使いこなせない方が多いのである。様々な機能があってもそれを引き出していない、ソフトの能力が引き出されていないということがパソコンをしている人は気づく。ええ、こんな機能があってこんなことできたなということが多すぎるのだ。これは脳を使いこなせないと同じである。脳の二割くらいしか使わず死んでゆく、ソフトの機能もすべてを使いこなすことはできない、何割しか使わない、そしてもともと備わっている機能を知らないことも多いのである。最近ではJ=Trimのテキスチャ-を使っていないかった。これを大理石に変換するとまた一味違ったものが作れていたのである。人間の能力もこれも使われていない、引き出されていないのだ。例えば文章を書くにしても本当は今や普通の人でも膨大なものをインタ-ネットで発表できる。すると文章を書く能力が増大するのだ。文章を書けば書くほどその能力が引き出されてくるのである。


artはもともと技術の意味だった。新しい技術が生まれたとき新しいartが生まれた。そもそも文字を書くにしても墨とか筆の発明なくしてありえないし紙の発明もそうである。


画材道具がどんどん改良されていきますが1840年にチューブ入り絵具が発明されたのです。
 それまで、画家たちは自分で絵具を作成していました。絵具の作成は画家にとって重要な技術の一つであり、その技術は画家の個性の一つでありました。良い画家とは、良い絵具を作る職人でもあったわけです。
http://foo-d.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-e66a.html


印象画はチューブ入り絵具が生まれて作られたのである。それまでは画家が絵の具を作り出していた。だから逆に今の時代にはない色が作り出されていたのである。必ずしも絵の具の発達が美術を発展させたとも限らない、時代時代により絵の具を作り出していて独特の色合いを絵に出していた。その色は今に作れないものとなってもいるのだ。染料なども時代時代によって作り出されていて過去の草木染めなどは再現できないということもある。その時代によってしか再現されない芸術がありそれは価値がなくならないものとなる。

この文章を書くにしてもやはり他者のものをインタ-ネットでは利用しやすいからそういうものを編集して書いている。インタ-ネットは常に編集しながら書くものなのである。だからインタ-ネットも能力をひきだす新しいツ-ルとなっているのだ。出版社では作家の能力を引き出していたのとにているのだ。編集者はそういう役目を果たしていた。でも今は出版社の役割は作家自身に移ってゆく、
作家自身が編集する方が効率的だしインタ-ネットからは引用が簡単だから膨大な文章が書けるし発表できる。なかなかインタ-ネットでは認められないにしてもそういうことができるツ-ルではある。だからこれからは出版社はよほど創造的なことをしないと生き残れないだろう。作家自身が創造の源であったしその作家が編集して出版までできるとなると出版社の役割がなくなるからだ。


colour1111111111.jpg




人間が認識する色は実はどのくらいあるのかわからない、同じ青でも何百種類の青があるかもしない、それらの色が認識されないように人間の隠された機能、能力を使われていない、ソフトの能力が機能がすべて使いこなせないととにているのだ。ペインタ-12とかなると使いこなすこと自体がむずかしすぎる。機能がありすぎるからだ。自分が使ったのは二千円のペイントグラッフィックだった。これだけでも使いこなすことがむずかしい。その機能を全部使いこなすことが手間になる。ソフトはどんないいソフトでも使いこなす方が手間でありむずかしいのである。

2011年01月01日

新年に若者への戒め-少年老いやすく学なりがたし


新年に若者への戒め



少年老い易く学成り難し

あなたはもっと勉強できた
あなたはもはや勉強できない
その残された時間が少ない
あなたは英語すら良く読めない
英語すらものにしていない
時間はたちまち過ぎ去った
あなたはいかに勉強していなかったか
それは老人になればわかる
基本的な教養の本すら読んでいない
あなたの思慮はいかに浅薄か
あなたは肝心の古典も読んでいなかった
あなたの読める本も一生でわずか
人はいかに時間を浪費するものか
それに気付いたときは遅い
青春は一時であり
あっというまに過ぎ去る
時間はたちまちに飛び去る
あなたはあっというまに老いてしまった
何かを成そうとしたがその時間がなくなった
もう死はまじかであり墓が身近になる
あなたはもっと勉強できた
しかし英語すら読めない
もう語学をものにすることはできない
あなたの読んだ本はわずか
読まなかった本が無数に積まれている
もはや読むこともできない
その時間がなくなった
人の一生は時間切れで終わる
ただ後悔だけが残るのが人生
勤め励む時間は限られている
その時間はたちまちすぎさる
だから心して若きうちに勤めよ
時間は限られた時間しか与えられていない
何でも勉強する時間は短い
時間は常に浪費されている
時間はいくらでもあると錯覚する
しかし時間は限られている
あなたは何も成せず時間切れで終わる
勉強したい努力したい勤めたい
そう嘆いても後悔してもできない
快楽の日は虚しく消えて
白髪の老人のみが悄然としてあるのみ



老人は人生の結果である。最終地点に老人は到達した。そこで過去をふりかえると必ず後悔する。それは老人にはもう何かをする時間がない、特に学問は手間がかかり実際は骨のおれるものでこつこつとした積み重ねが大事だったのである。学問は能力だけでない、なぜなら人間が知りうることは天才だってすべてに通じることは絶対にできない、みんな一部分しか詳しくなれないのである。だから誰しもある分野でこつこつ何かを極めていけばその分野では詳しくてなれるのである。自分はもともと才能がなかった。才能というより何か人格的に人間的しっかりしていないから学問もだめだった。そもそも学問する意欲が出てこなかったのである。受験勉強はしても学問そのものに興味をもったことがなかった。また自分の性格とか育ちが甘い環境にあったことも影響した。学校に適応できなかったしまた社会にも適応できない我が儘な性格だった。それで遂に30年間旅することになったのである。これは自分の家庭環境が偶然そういうことができる環境にあったからである。これは特殊なことであり今になるとそうした自由に生きられた代わりに苦しんでいることがわかった。


学問も何か興味をもたないとやる気がしない、旅行するようになって地名に興味をもつようになりそこから自分なりの学問がはじまった。地名などなんの意味があるのだ、学問になるのかともなるが、学問はまず何でもいいのだ。興味をもたないかぎりそもそもやる気がしないからである。ただ今になると語学なんか相当に集中的に勉強しないとものにできない、それだけ語学の修得は大変だから若いときものできなかったらもうできない、勉強する時間など若い内はいくらでもあると思うが実際に本当にない、時間はまたたくまに過ぎてしまうのである。光陰矢のごとしである。個々に与えられた時間は限られている。その中で人生は雑事に追われるから純粋に学問を追求することができなくなる。生活にも追われるから学者の地位でもなければ普通の人は学問は縁遠くなるのである。やはり学問の基礎はある程度の量の本を読んでいないとできないだろう。その読める本も実際はわずかなのである。百冊読んだらいい方だとなる。だからくだらない本を読んでいたらそれだけで時間を失ってしまう。根本的に教養の基礎となる本を読んでいないとしたら書くことも浅薄になる。もちろん人間は経験しない限り真実の理解力は生まれない、でも経験だけでもだめである。経験したものを表現する力か必要になる。それにはある程度知識が必要なのである。それが本の中にあるのだがその本も読めるのがわずかなのであり、そのわずかの貴重な本さえ人間は読まずに終わるのである。


「相馬郷土史研究」などもこれも学問の一部なのだけどやはりその基礎となる資料などかなり読んでいなと書けないだろう。これも積み重ねなのである。どんな分野でも積み重ねがないとそれなりものは書けない、相馬郷土史でも狭い範囲でもその中でもそれぞれに見出すもの、新発見がある。たいがい歴史は埋もれているからだ。でもそれを発掘するには根気よくつづけないとできないのである。つくづく人間は才能ではない、そもそも人間一人に与えられた時間が同じであり、ある一人の天才がいてもやはり時間が何倍も与えられているわけではない、その時間を効率的に利用して活かした人がそれぞれの分野で一級の人となっているだけなのである。俳句を今これだけ書いているがこれも若い内はほとんど小学生なみのものであり30才ころまでそうだった。短歌もそうであり才能はないがやはりこの年まで継続してやっていたらそれなりのものができるようになったのである。「継続は力なり」であることはまちがいない、プログもやはり継続しないとだめである。ただ書くことによって新しい発見があるからだ。書くことは創造につながっているからだ。だからプログでもいくら書いてもいいというのは書く方にとっては便利なのである。

そういうわけで今年も「今日の一句一首」も「相馬郷土史研究」も書き続けるのでよろしくお願いします

2010年06月30日

貧乏人と金持ちは永遠に調和しない(生きることは苦である)


貧乏人と金持ちは永遠に調和しない(生きることは苦である)

 

●お手伝いさんや召使などから考える

自分はここ三〇年他人と直接かかわったことがなかった。かかわる必要がなかった。家族にはそれなりにもめごとがあっても外部の人とかかわらないから自分が恵まれていても責められることもなかった。それが家族の一人が死んだとき外部の人と接することになりいろいろ考えさせられた。前にも書いたけど親戚というほどでもないがそれもみんなうまくいかなかった。ここも結局金の問題だった。金の切れ目が縁の切れ目となっていた。家族の一人が死んで人間の醜い面にもろに接するようになったのだ。お手伝いさんにしても実際は本当のお手伝いさんではない、本当のお手伝いさんは一日勤めるような人であり住み込みのお手伝いさんが本当のお手伝いさんであろう。前は女中と言っていたが差別用語で禁止された。貧乏人と金持ちが調和しないというときなぜなのか?ここに人間に平和がない調和がない根本問題があるからだ。一般的にお手伝いさんとかなると金持ちの家で勤めることが多い、今はそれほどの金持ちでなくても一時間くらい頼む人がいるが本来は金持ちに雇われるのである。するとどうなるのかその経済的差が大きすぎるから問題になるのだ。アメリカでは極端な話、お手伝いさんに盗まれて困るから裸にして仕事する人を頼むとまで広告を出した。これも金持ちの家に来れば欲しいものがありその経済的差が大きすぎるからそうなるのだ。すでにそこには調和はない、お手伝いさんにしてみれば「なぜこんなに金持ちで自分は貧乏なのか?」そういうことが常に思うようになる。これが貧乏人だけで生活していればそうならないのだ。だからつくづくインドのカ-スト制とかがいちがいに悪いとも言えない、江戸時代の階級制も悪いともいえない、逆に極端な経済的差の人が一緒に暮らせばそこにもはや根本的な調和はないのである。別にお手伝いさんだからといって軽蔑したり手荒く扱ったりしなくてもそうである。そもそも経済的差が大きいだけで調和しないのだ。今はお手伝いさんでもいろいろだから昔とは違うが一般的に下積みであり苦労している。そして貧乏だとなるとなぜこの家は金持ちでありこの人の家は楽をして贅沢をしているのだろうかとなる。それを毎日の生活の中で見てしまう立場にあるからどうしても怨嗟の感情が大きくなるのだ。

●極端な経済的格差は必ず犯罪の原因

お手伝いさんをテ-マにした昔の映画をテレビで見たが貴族の家に召使に雇われた青年がいた。そこに他にも召使が何人かいて共同で仕事していた。そこでそこの貴族の家の人が殺された。あとで犯人は誰だったかわからずじまいにドラマは終わった。でもそこに勤めていた老人の召使の女性がいてその青年はその女性の息子でありその息子はその貴族の家の主人らしい人に生ませられた子供だった。そしてその子供は施設にあづけられたのだ。それでその青年はこの貴族の家に復讐に来たということを暗示した。ただその青年が犯人だったかどうかは言わず終わった。このドラマもまさに極端な経済的差から生まれた恨みをテ-マにしているのだ。「太陽が一杯」というのもこれとにていた。その経済的差が大きすぎる。一方は貧乏人であり一方は大金持ちであり放蕩息子である。その怨嗟が殺人にまでなった。これも極端な経済的差をテ-マにしていたのだ。極端な差があるからわかりやすいから映画化されたのである。


貧乏人と金持ちの問題は人間が生まれて以来あり解決していない、世界的にも問題が起きるのは貧乏な国と金持ちの国があるからでありそこが根本の問題としてある。まだ飢えてやっと生きている人が多いのにその百倍ものいい暮らしをしいる人がいれば世界に戦争がなくても平和は調和は来ないのである。世界的に考えてもそうであるように狭い世界、社会でも貧乏人と金持ちは調和しない、それをわかりやすく示したのが金持ちの召使とか昔なら女中とか今ならお手伝いさんとかである。そして現在も不景気や日本経済が衰退してゆくときこうした社会は金持ちと貧乏人の差を大きくするのだ。それは今までのような金持ちではない、若者はワ-キングプアとなりいくら働いても働いても暮らしが楽にならない、その不満は経済的に恵まれている人たちへ向けられる。公務員は恵まれすぎている、老人は金をもっていて恵まれている、若者は老人のために働かされている奴隷だとか絶えず怨嗟が起こり攻撃される。それが極端になると暴動になるかもしれない、確かに公務員など本当に恵まれている。年金だけで夫婦で五〇万とかもらっていればとをしてもこうした下り坂の経済では怨嗟の対象になるのだ。上り坂の高度成長時代だったらこうはならなかった。自分たちも努力すればマイホ-ムがもてる時代だったからである。今のような時代こうして恵まれている公務員などは相当に多数の貧乏人の怨嗟を意識しないと無頓着でいると非常に危険な状態になってくる。

●人間は生きることは苦でり幸福はない

なぜか自分は若いときからショ-ペンハウエルを読んでいた。性分的にあっていたからだろう。人間は生きることは苦であり快楽と見えるものははかなく消える。そして苦だけが現実だと何度も書いてあり読んでいた。これは何もショ-ペンハウエルだけが言っていることではない、仏教でも生老病死であり結局は苦のみが現実であり快楽や楽はこの世にないと説いていた。そのことを自分の体験からつくづく実感したのがここ五年間の家族の認知症の介護とか他人とのじかの接触で感じた。そして今年は病気の年だった。胃腸が弱いにしても一週間くらいで直っていたが今回すでに三カ月くらい直っていない、まともに食事ができない、そうなると腹減って普通にうまいと食べていたときは本当に幸福だったなとつくづく思った。健康が幸福の基であることをつくづく感じた。今までは体が弱いにしてもこういうことはなかった。普通に食欲があり食べられることは幸福だったのだと今さらながら感じた。病気の人から見ると健康である人はその人はどうであれ幸福だと思ってしまうのだ。普通に食欲があり食べられるのは幸福だなと思ってしまうのだ。でも別にそんなことが当たり前だと今健康であることに感謝している人はいないのである。寝たきりの人は歩ける人をどれだけうらやましがっているか、自分自身そうなってみないと人間はわからないのである。人間はそもそも健康であることに感謝している人もいないし、自分に満足している人もいない、貧乏人はもちろんそうだが金持ちもそうである。地位ある人も東大出た人も天皇陛下も自分に満足している人などいないのだ。何かしら不満を抱いているのが人間である。才能あるにしてもいくら才能があるといってもあらゆる才能などもてない、ほんのわずかの才能しか与えられていないから満足する人などいないのである。そして最近幸福を平和を感じるのは我を忘れて眠っている時だけだった。なぜならその時嫌なことを病気のことや

いろいろなこと嫌な他人と接することなど忘れてしまっているからだ。どんな人も他人との接触、付き合いで不幸になる要因をかかえるのだ。この世にいい人などいない、苦痛を与えるのが他人であるし今や家族自体がそうなってしまったとき介護かなてしまったとき家族にも平安はなくなる。被害を与える人、極端なのはストカ-とかに苦しめられる人もいるがそういう人がコメントしてきたけどまさにその人はそういう悪質な人から逃れられないのだ。だからその人にとって幸福とはそういう人から逃れそういう人を意識しないとき幸福になる。眠っていて忘れればそうなるのだ。夢でもそういう人、ストカ-につけ回されるならばまたそうならない、結局死ぬことはそれほど不幸でないかもしれない、死ぬ前に人は無意識になる。無意識になることは嫌なことを忘れることだから幸福だとなるのだ。いづれにしろ人間の実体は苦だということを今更ながら実感しているのが現在の自分の状態だった。

2009年02月13日

死は愚かさの一つの終わり

 


死は愚かさの一つの終わり

 

死とは何か

一つの愚かさの終わり

石は愚かを成さず

石は誤謬を犯さない

石は何も成さず

人は成して成して

愚かさを重ねて

遂に死して一つの愚かさが終る

集団も愚かさの集約

無益な労働、戦争の人命の消費

死体の山を築き終る

人類の大いなる誤謬

壮大な愚かさの終わり

人間のように無益を成さぬもの

自然には壮大な愚行はない

ただ己が分を守り生きる

神の定めし法則からはずれない

それぞれの分を尽くして終る

雀は雀、鴨は鴨、白鳥は白鳥

それぞれは争うことはない

無益な争い、消耗は自然にはない

内面と外面が一致して

単純にして明快

石は何も成さず

無益な愚行はなく留まる

人間は死して愚行が終る

死もまた幸いなるかな

死者は賢く生者を見守れ

死者はもはや愚行を成さず

故に死者も幸いなり

死は一つの愚かさの終わり

しかし人間の愚かさは終ることがない

愚かさは人類が滅ぶまでつづく

一つの愚かさが終わり

さらに何万何十万何百万のの愚かさの始まり

ああ 人類はかくしてつづく・・・・

 

老人のゆくつく先はみな死である。老人の研究の行き着き先も死である。死でもってすべては終る。死者はもう迷惑をかけない、でも死別の悲しみやら死後のことをいろいろ考えた。
ただ一つの愚かさが終った。認知症にしても病気だから愚かさとはいえないがやはり愚かさが終った。もう死者は愚かではない、愚行はしない、迷惑もかけない、死者は愚かさから完全に脱した。人間は死なない限り愚かさから脱することはできない、石のように賢くなることはできない、無益なこと、罪なこと、愚かなこと、犯罪は延々とつづく、人間の愚行はやむことがないのだ。これだけ愚行をしたのだからやむだろうとはならない、個々人でも集団でもやはり愚行はつづく、それが人間の宿命ではないか、自然にはそうした愚かさはない、無益な争いはしない、莫大な浪費もない、神の知恵の下に生きているからだ。石一つある。その石には愚行がない、人間は必ず無益な愚行がある。石一つに無駄がない、全く無駄がないということが驚異ではないか?本当に自然には無駄がないのだ。自然は質素簡素でありいかなる無駄もない、今やその簡素さにひかれる。それは老子の思想に通じているのだ。

2009年02月04日

地球環境史観や原生人間史観 と老荘思想は共通している -原生環境の大地の回復(詩)-


地球環境史観や原生人間史観 と老荘思想は共通している
-原生環境の大地の回復(詩)-
http://www.musubu.jp/jijimondaiueno.htm#ecohuman

 

グロ-バル化は経済の分野だけではない、視界が拡大化して地球環境史観とか上野霄里氏の原生人間史観とか空間的時間的にも巨視化したのである。日本とか国の枠内で歴史を考えることは限界がある。またその枠内にとどまって是非を論じても限界がある。日本の戦争は正義の戦争だ、アジア解放の戦争だといいつづけても解決ができない、それは日本という国の枠を離れられないからだ。文明とは何なのかというとき文明を相対的客観的に見れる巨視的視点が必要になるのだ。それが文明の中で生活している限り困難を究める。文明的価値観から離れることができない、日本の枠内からも離れることができないから世界的に容認されるものとはいつまでたってもならない、老荘思想は二千年前に文明を否定して戦争も否定して過剰な労働も否定していた。これはやはり今になると驚くべき思想だった。ルソ-の自然に帰れという思想は近代に起こったことだしそれよりはるか前にそうした思想があったこと自体驚きなのである。
上野霄里氏の原生人間の思想も老荘思想の人物に近いのである。最近起きた地球環境史観も老荘思想としてあったものである。今はエコがキ-ワ-ドになっているがエコカ-とかモノに重点をおいてエコなのだがエコヒュ-マンこそ究極のエコなのかもしれない、エコヒュ-マンは原生人間に通じているからだ。