2015年10月08日

みちのくの要所ー白河の歴史の要約


みちのくの要所ー白河の歴史の要約

shimap1.jpg

ssssssssmap111111.jpg


白河の関が機能していた古代には白河郡の政庁である白河郡衙は現在の白河市中心部より9キロほど
東方の西白河郡泉崎村関和久(せきわく)に置かれており、現在の白河市街地域が発展するのは鎌倉時代以降、結城氏が支配するようになってからのことである。

白河藩が設立されたのは徳川秀忠の時代、1627年のことで、石高は十万石、初代藩主は隣の棚倉藩から移封となった丹羽重家だが、まもなく重家は幕府から小峰城の大規模な改修と町割り整備を命じられる。これは幕藩体制の確立にあたり、白河藩を奥州の外様大名に対する戦略拠点とするのが目的だったと思
われる。
この城郭の改修事業は1629年から4年がかりで完成。現在のJR白河駅の南側まで含む約60万uの大規模な城郭が完成した。
ところで、その丹羽重家自身も外様大名であるうえ、関ヶ原では西軍とみなされて一度は領地を没収され、後に許されて棚倉五万石を与えられた経緯を持っている。そのような経歴の重家が、奥州の要衝である
白河藩主に抜擢されるのは不思議な気もするが、それは丹羽氏が築城技術に長けていたからだと云われている。もともと丹羽家は織田信長の家老挌の重臣で、重家の父長秀は安土城築城の普請を担当して力量を発揮し、家臣の中にも優秀な土木・建築技術を持つ者が多かったことを買われたようだ。
小峰城築城の大事業を果たした丹羽氏は次の光重の代にまたもや二本松へ移封となり、親子二代の間に棚倉・白河・二本松と三度もの築城を行わなくてはならなかったが、その労苦が報われたのか、その後は国替えもなく、幕末まで二本松を領している。


●白川城と小峰城で本家と分家で跡目相続で争い

文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐に参加し,功名をたてた結城朝光は、その恩賞として白河庄の地頭職(じとうしき)を与えられた。その後、朝光の孫の祐広(すけひろ)が正応2年(1289)頃、下総結城より移住して、この白川城を本拠としたと伝えられている
一四世紀の南北朝騒乱の時、四代目の宗広が奥州南朝軍の総大将となった。
一五世紀になると八代目直朝、九代目の政朝が一つの絶頂期を作った。
例えば政朝は文明三年(1471)に相馬高胤と一揆契約を結び「なにごとも助け合う」と同盟した。岩城氏とも兄弟の契約を交わした。
栃木の宇都宮氏とも保護する条約を交わし会津芦名氏からは自分の後妻を迎えて婚姻関係を作った。

後妻の子をかわいがりすぎて跡継ぎ問題が起きて本家と分家の争いが起きた。
それで政朝は小峰城の分家に滅ぼされてその後は衰退した。
これは良くある話である。ここで相馬藩も関係していた。白河ははり要所であり様々な勢力がここに集結したからである。

●石垣からみた小峰城の歴史

ishen1.jpg

白河は相馬からになるとなかなか行きにくい場所で行っていなかった。
小峰城には天守がない城がないとき行ったことがあった。
あそこの石垣が見物である。
地震で半円状の石垣は総崩れになった。白河でも十人以上が山崩れで死んだというのも意外だった。地震の被害はここにもありまた白河でも除染していた。
白河も風の関係で放射線に汚染されていたのである。
白河となる郡山からまた遠いから意外だった。郡山でも放射線量が高いとニュースでは騒いだ。地震から五年で石垣はようやく再建されたのである。
この石垣で興味深いのは

丹羽家は織田信長の家老挌の重臣で、重家の父長秀は安土城築城の普請を担当して力量を発揮し、家臣の中にも優秀な土木・建築技術を持つ者が多かったことを買われたようだ。
丹羽氏は二本松城を築いた、築城にかかわる家臣をかかえていた。丹羽氏は棚倉藩の城代ともなり白河城の城主とも一時なっていた。
丹羽氏と織田家は関係が深くそれは安土城とのかかわりがあった。
やはり城というのは石垣を組むこと城を造る事は一大事業だからそうなった。
「半円」は新しく現代風に作ったものだと思っていた。何か現代的だからである。
あれを復元するのは容易ではなかった。7000千個もの石を組み直したというからその苦労は大変なものだった。

穴太衆積み」と呼ばれる技術は個々の石それぞれが振動を吸収して揺れを抑え、地震や風雪に強いのが特徴。信長が延暦寺焼き打ちの後、残った石垣の堅固さに感心し、安土城の石垣を任せたとされる。その後、各地の築城に関わり、技術は豊臣秀吉が築いた大坂城(現・大阪城)や名古屋城などで用いられた。

石垣を作る技術集団がいて力をもった。ヨーロッパでも聖堂を建てた石工の集団が組織化され代々技術を伝えてフリーメーソンとして現代でも影の支配者だとか言われるのもそのためである。
二本松では茶をだした女性が「丹羽様」とか言っていたから住民には親しいものとして残っている。丹羽氏は小田家と関係が深い、次ぎに蒲生氏郷が会津の領主となり白河を支配した。
だから会津門があり会津町があった。会津町というとき会津の人が集団的に住んだから地名化した。
そこで興味深いのは蒲生氏郷はキリシタンであり白河城の石垣に十字が彫られているという、地元の女性が歴女というか大阪の女性であり説明してくれた。
その60代くらいの女性は城めぐりしていたのである。歴史に詳しい女性だった。
歴女というとき若い女性と思ったが今では60代くらいの女性でも言える。
城めぐりの旅をしていたのである。
この話は知らない人が多いだろう。何でも城に向かって祈っていたのはその十字架が彫られていた石垣に向かって祈っていたのだという。
会津の蒲生氏郷が支配していたからここにもキリシタンがいたのである。
会津にはキリシタンの墓がある。迫害もあった。
白河には会津町があり城には会津門がある。これで思い出したのがドイツの
秀吉の時代になると石田三成が相馬藩をたずねている。それは自分のすぐ近くにある田中城をたずねていたのである。
それで相馬藩に三成の旗印が野馬追いに出ていたし相馬の殿様は三成の一字をもらって名前としている。
秀吉は白河街道を通って会津に来ている。

●明治維新の激戦地だった白河

bbbsssmap1.jpg

白河から会津は勢至堂を通り会津にゆく白河街道である。この道が旧街道である。



白河口の攻防戦は、会津藩、仙台藩の両藩を主力とした奥羽列藩同盟軍と薩摩藩、長州藩を主力とした新政府軍との間で、およそ100日間にも渡って繰り広げられ、両軍合わせて800名を超える戦死者が出た、東北の戊辰戦争の中でも最大の激戦であった。

白河はみちのくの入り口であり要所だったから様々な勢力がしのぎを削る場所になった。茨城県とも境を接していて那須連峰も見えた。
こうした境が歴史が知るにはいい場所である。
郡山も万葉集の歌が残っているのだから古いし今では会津にも通じる鉄道が通るから郡山が交通の要所となっているが白河がもともと交通の要所でありここからみちのくの領域に入る場所で重要だったのである。
それで戊辰戦争では熾烈な争いの場所となり千人死んだとかなり白河の遊女の悲話が語られている。

棚倉でも戦いがありそれでは相馬藩士も死んでいる。棚倉藩は東白川郡になり今の白河は西白川郡である。
西白川郡には郡役所が置かれた。それが南湖公園に移築されていので知った。
福島県は明治維新に二本松県となり磐城県となった。白河県とならなかったのはやはり勢力的に二本松や磐城からすると小さいからそうなった。
古代では白河軍団がありこれも大きい勢力であり多賀城に木簡が残されている。
古代から要所の地であり福島県の玄関であり福島県を知るには白河から知るべきだとなるただ現代ではどうしても郡山から入る、そして白河が新幹線では新白河になっているのもややこしい、それで南湖から新白河駅へタクシーで行って仙台に行き日帰りで帰ってきたのである。
なぜ新白河駅を作ったのか?そこには一つの街になりホテルがいくつか建っている。
でも観光するには不便である。
ともかく新幹線だとかなり遠くても日帰りで行けることがわかった。
十年くらい旅していないから何か距離感だとかがわからなくなっていた。
十年もすれば時代は変わってゆく,特に新幹線で変わっていたことを実感したのである。

 
 

タグ:白河

2015年09月18日

みちのくの文化圏の探求 (まず地理的でも政治的でも境界を知ること)


みちのくの文化圏の探求

(まず地理的でも政治的でも境界を知ること)


江戸時代(1603年〜1867年)には津軽地方は弘前藩、 南部地方は南部領八戸藩として別々の統治の下に置かれました
http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/kokugo/tugarunanbu1.html

地理的境界として奥羽山脈があった。それは新幹線で新青森から奥羽山脈をぬけて浪岡に出た時わかった。
方言から地域を区別するのは昔からあった。人間の地域性はまず地理で地形で区切られて方言で区切られてそれたら政治で区切られる、青森でも弘前藩と南部藩と対立して影響していた。関所があるとそこで二つの地域に分けられて違った文化をもつようになった。

伊達藩は今の宮城県であり新地は伊達藩でありその新地出身の人がだっちゃという方言を使っていた。ただこの女性は名取にも住んでいたから仙台弁になった。
新地はまぎらわしい地域だった。明治以降は相馬郡になったが江戸時代は伊達藩だったのである。
明治以降の廃藩置県は地形とか考慮しなかった。江戸時代は地形が地理が一つの国として封建制の中で確立していた。ただ伊達藩となると広いからそれは政治的支配であり地理を越えたものとして成立した。

廃藩置県になってからは地理的に県を理解することはむずかしくなった。だから前に県からイメージすることができないと書いた。
つまり青森だったら弘前藩と南部藩は地理的に政治的にも別だったのである。
福島県でも広いから一つの地理から理解できない、会津地域はもともと万葉集の残っているように一つの別個の国だったのである。
「会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結ばさね」
ここで嶺となっていることがまさにその国が会津嶺でありその嶺は複数の嶺なのである。一つの嶺ではないのである。
岩手山だったち岩木山でも鳥海山でも一つの嶺としてあるが会津は多数の嶺のことなのである。
福島県の福島の由来を探求している人がいるがこれせ複雑であり何かわからなくなる。
大阪とかにその由来を求めているが何かしっくりしない。
なぜ福島県なのかその由来がわからないのである。
福島県というのは名前は何か歴史的でも地理的でもない、ただ二本松県とか会津県とすると統合した名前にはふさわしくないから福島県としたのかとなる


まず世界を理解するのは地理からはじまる。岩手県でも区界(くざかい)という高地があるそこで岩手県は二つに分かれている。そこには春になっても雪が残り冬だと厚い雪に埋もれるのである。
そして今回の津波の被害を受けた地域は太平洋海岸線として一体であった。
海岸線とか大河の流域とかが一つの共同の地域を形成することは交通からありうる。
ヨーロッパでは川が縦横に流れ運河ともなり交通がありハイザ同盟とか一つの都市のネットワークを作った。
日本は大河がないから海岸線のネットワークを作った。
都からは鉄の材料が浪江の請戸港に運ばれて葛尾村で製鉄されて葛尾大臣が栄えた。
宮古と相馬はかえって海の道で結ばれていたのである。
地理を知るときはやはり区界(くざかい)でもそうだが地理的でも政治的境界でも知ることが第一になる。
福島県ではハマ、ナカ、アイヅとあるとハマと浜通りとか中通りは阿武隈山地で区切られているから地理的に隔絶してるのである。
ただ今回の放射能汚染では風で中通りの福島市とか郡山市まで放射性物質が運ばれたので皮肉だが地理的一体だったと感じたのである。
風はどうしても峠でも山でも越えてゆくからそうなったのである。

福島県はまず会津は地理的にも別個の世界である。2000メートル級の山がひしめいているからそこが全く違った山国の世界なのである。
そして阿賀野川を通じて新潟方面と交流があり浜通りからすると遠いのである。
だから福島県と言ってもそこを一つの国としてイメージするものがててこないのである。
文化はやはり一つの地理的なミクロコスモスの世界観が形成された場所から生まれる。
だから会津には会津の文化があり福島県の文化ではない。
そこには歴史の厚みがあり風土に形成された歴史と文化が蓄積されている。
会津も広いし奥深い世界だから地理的にも究めることはむずかしい。
福島県を知るだけで相当旅行しないとわからないだろう。
東北でもそうだがここも地理的歴史的一体感がどこまであるのかわかりにくい。
要するに東北でも広いからそうなる。
ただ常陸が関東圏であり白河関からはみちのくになったのは地理的にも政治的にもそうなった。

文化の形成はやはり地理がらはじまる。それは相馬藩という狭い地域でもそうでありそのミクロの世界でも一つの世界観をもつことにより文化がcultivate(耕して)されて形成される。耕すというとき土を耕すというだけではないすでに土を耕し実りを得ること自体が文化なのである。
地方創生というとき文化の再生こそが地方創生である。経済的なものだけではない、政治経済のように人工的なものではなくその土地土地から形成されるのが文化なのである。
現代はグローバル資本主義から国単位でも県単位でもさらに江戸時代の藩単位になり文化の再生の時代になる。
文化の個性はその土地なくしてはありえないからである。だから東京に政治経済はあるのだけど文化がないのである。
奈良や京都には大阪でも文化があったが東京にはないのである。
文化が興隆しない限り栄えたとはならない、たいがい政治都市でも鎌倉でも平泉でもやはり文化が興隆したことで歴史をみるからである。

東北文化圏とかその中でも会津文化圏とか相馬文化圏とか青森でも弘前文化圏とか岩手でも地域的に分かれた文化圏かある。それは全国的でもそうである。
この文化圏の再構築することによって日本の文化も多彩なものとなる。
日本は国土は狭いのだが地勢が複雑であり変化に富んでいる。南国から北国からある。
だから一つの世界観を形成しやすいとなり日本文明が形成されたのである。
全国的だと琵琶湖を中心とした近江文化圏とか瀬戸内海文化圏とかはわかりやすい。
地理がわかりやすいところが旅してもわかりやすい。
琵琶湖があり瀬戸内海がありそこからイメージできるからである。
ただ岡山県だとか広島県だとか県単位になるとイメージすることができないのである。

東北などの雪の俳句

kkkkkkkkza111.jpg

区界に雪の溶けずに厚しかな

クリック拡大
タグ:東北文化圏

2015年07月11日

石巻の歴史 (東北の港でもあり様々なテーマがあった)


石巻の歴史

(東北の港でもあり様々なテーマがあった)



雄勝の硯
この石は玄昌石(げんしょうせき)とよばれています
http://www.mediaship.ne.jp/~elsoshu/my%20home%20p/suzuri.htm


ほまち

「帆待ち」「外待ち」と書く。
このあたりでは「ほまちかせぎ」と使われることが多く、「ほまづ」と濁ります。方言ではなく、国語辞典にも「出帆を待つ間の船頭さんの稼ぎ」「臨時の収入」「へそくり」と載っています。多く東北地方で言われてきた言葉と但し書きがついて。相馬に行くと「小遣い」「駄賃」の意味となるそうです。
 http://archive.ishinomaki-support.com/index.php?gid=10161

この難破船事故の積荷には仙台藩の城米が主力では有ったのですが、その他には荒銅、堅炭、辛子、大豆、和薬等も積んでいたのですが
http://red.ap.teacup.com/hangui/1498.html

仙台藩は 石巻、 気仙沼などの良港にめぐまれ あわび ふかひれ
などの高級海産物を長崎を通じて 輸出して 外貨を稼いだ。 さらに 鉄、
金などの鉱山を持っていた。 仙台藩の経済力は 幕府にとっては 脅威
であった。


石巻の人がしきり言っていたのは「雄勝の硯」のことだった。この職人の一団が住んでいたところに津波が来てその職人の一団が死んで困ったという。
スレートという材料が出てこの硯の歴史は相当に古い、それで石巻から江戸に出していたのかと思ったらそういう記録はない、すると伊達藩とかで使われていたのか東北中心に使われていた硯だったのかとなる。
スレートでは新しい東京駅の屋根に使われたとかテレビで放送されていた。
石巻で興味をもつのはそこは東北の港ともなっていることだった。
北上川は平泉に通じてそこからいろいろな品物が運ばれたと言われる
特に名古屋の常滑焼が多いのである。
他に象牙などはどういう径路で入ってきたのか未だに謎にされている。
江戸時代は北上川が交通路になり盛岡の方まで通じていて物資が運ばれた。
だから石巻は東北の港とも言える、一伊達藩の港ではない、そこも魅力なのである。
石巻の港には南部・八戸・一関といった東北諸藩の蔵が次々と建てられ、
だから穀町とか千石町とかの地名がある。主に米を積み出したからである。

 
彼は、薩摩藩士で安政年間に東北を歴訪し、見聞をもとに『東北風談』(風譚とする写本もあり)を著し、東北諸藩の藩政と海防について的確な批評をした。
肝付兼武は仙台について、広い平野に水田が広がり、諸藩に冠たる米の大産地だが、米以外にみるべき産物がなく、およそ衣服器材はみな他国に求めている、と産業の実情を述べている。
 これ自体、現在にも通じる宮城の産業構造を的確に捉えているが、もっとビックリするのは、次の民情の批評だ。
 http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/200604020000/
 
江戸に送られたのは主に米であり江戸の米相場まで左右したというから仙台米はそれだけ江戸で食べられていたのである。
北上川沿いとか仙台平野は米倉となった。それは広いからそれだけの米がとれたが米ばかり作って飢饉のときに米がとれなくなり苦しんだとなる。
コーヒーだけ作っている国が飢饉になれば苦しむのと同じである。
米は商品作物となっていたのである。

もう一つ面白いのは鋳銭場があったことである。仙台藩で経済が困窮したとき「寛永通宝」が作られた。それによって一時的に藩の財政を支えた。
でもそのことが日本経済全体に影響した。これも何か経済学のテーマだった。
ここから探求すれば一つの論文が書けるだろう。
つまり学問は必ず一つのテーマをもって追及することからはじまるのである。
そういうテーマは身近にいくらでもあるのだが見いだされないだけなのである。
海の民、漁師の影響は日本では海に囲まれているのだから古くからあった。
「ほまち」というのが帆待ちから来ていたのか?
シケているというのは海が荒れているということで伝わっていることはわかる。
他にも漁師の言葉が他にも伝わっているのである。

石巻はいろいろ探求することがある。
そこで聞いた話で自分の母親は山形の人で北海道に船に向かう途中船酔いで石巻におりてそこで嫁になってしまったという。
これも嘘のような話だが人間の運命はみんな数奇なものなのである。
どうしてその人と結婚するようになったかとなるとそれも数奇であり不思議としか言いようがないことが多いのである。
特に戦後になると広域化して全国の人が交わり結婚するからこういうことも今ではめずらしくなくなったことでもわかる。
ただ石巻は港であり他国の人の出入りが多いからそうなりやすかったことは昔からあったことはわかる。

石巻に関してのネットの情報はかなりある。、仙台藩についてもあった。
やはり大藩だから歴史の集積があるからそうなる。
ただ広すぎてなにかしぼれないということで仙台では郷土史に興味を持つ人は少ないとなる。
でも石巻とかにしぼればそこから興味が広がるのである。
仙台はどうしても大藩だから東北とも関係して江戸とも関係して全国的に伊達政宗の時代からなっていたのである。
伊達政宗にしてもその歴史の裏話としては伊達政宗だけが脚光をあびるが伊達政宗によって滅ぼされた武家もいる。葛西氏は石巻を支配していたが伊達政宗に滅ぼされた。
その逸話も残っている。月鑑斎(げっかんさい)などもそうである。
相馬氏は伊達政宗に滅ぼされなかったのはなぜかというのもまた歴史のテーマになる。
石巻から登米(とめ)には行ったことがないのは鉄道が通っていないためだった。
行きたいと思っても行けないのである。車がないと行けない場所だったのである。
自転車で旅するにしてもそれは一部しかできないからぬける所が多い
鉄道が通っていれば何度でも行けるのである。

葛西氏の伊達に追われて殿入沢逃れざるかなここに果てにき
鉄道の通じざるかな登米遠くなお行かじ我が齢も尽きむとすも
万石浦浦宿すぎて女川や百羽の鴎夏に舞ふかな
石巻津波の被害なおあらわ空地のめだち夏も淋しき
石巻ここに住み着く親のこと語るも奇しき海風の吹く


タグ:石巻の歴史

2015年06月25日

んだちゃーは仙台弁だった (新地の人はんだちゃと言っていたのはそのためか?)


んだちゃーは仙台弁だった

(新地の人はんだちゃと言っていたのはそのためか?)

Tohoku_dialects[1].png

方言の地域図



相馬市を含む相双地区には氷柱のことをさすシガという方言が分布しています。これが一歩新地町に足を踏み入れると,タレヒという全然別の方言に変わってしまいます(ちなみにタレヒは平安時代に京都で使われていた「垂氷」ということばに由来するものです)。同様に,内出血によるあざのことを新地町ではクロチ(クロジ)と呼ぶのに対し,相馬市以南ではクロナジという別のことばが使われます。相双地区に広く見られるカーマシ(川の増水)やカンカチ(火傷)は新地町ではほとんど聞かれませんでした。


カーマシという方言がないのは新地には大きな川がないからかもしれない
相馬には真野川は大きな川であり自分の家は二回も水害で浸水した。
カーマシという表現はやはりその土地特有の気候とか災害でもあるからそれを強調するために方言になったのか?

水運の発達した北上川沿いなどでは、太平洋岸の水運で江戸と繋がっていたために、江戸言葉と共通する特徴もよく見られる。これは、東北地方の日本海側の港町が、西廻り航路 (北前船) で関西と繋がっていたために、京言葉や大阪弁の影響を受けているのと対照をなしている。
浜通りの北端にある新地町は、江戸時代に仙台藩の亘理城主・伊達藤五郎の所領であったため、隣接する宮城県亘理郡と同じく仙台弁が使用されている


んだげんちょも(そうだけども…)(相馬弁)

仙台弁の特徴はやたら語尾にだっちゃがつくことである。相馬弁ではんだになる
だから丸森の人がんだちゃといったときそれは相馬弁と仙台弁が一緒になったのかと思った。
んだちゃは仙台弁でもあった。

んだげんちょも→んだちゃ

縮めるとこうなる、ただ方言というのは地元の人でもなかなかいろいろしゃべらなくなったのでわからなくなったのである。
新地で仙台弁を聞けばここはやはり伊達藩なのかと国が変わったことを意識する。
新地は平坦な所であり相馬から地形の変化がないのである。
だから地形的に別な国に行くということが全く感じないのである。
それで常磐線でも亘理までは変化がないのでつまらないのである。
ただ阿武隈川を渡り蔵王を見るとき変化があり別な国に行くという感覚になる。
そして丸森は必ず峠を越えてゆくから別な国に行くことをはっきり意識する。
風景もがらりと変わる、蔵王が見えて大きな阿武隈川が流れているからだ。



「んだがらー」
訛り?
じゃなくて、
いちいち、同意したよと同じ言葉を話すより、
この一言で済むという便利さ。
「さっぱり、わがんなくてー」
「んだがらー、言ったべー」なんてね。

んだがらーというのは相馬弁ではない、がらーとは言わない

語尾につける「ちゃ」、
これも最近、めっきり減ってきました。
「どうですか?、そうでしょうー」なんて言うとき、
「んだっちゃー、んだからさー」で済みます。
http://sendai-satouya.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-7c04.html


んだっちゃーは明らかに仙台弁であり丸森だけではない、ただんだというのは東北弁の語尾に多い。それが基幹語としてありそのあとにまた地域で変化したのである
相馬でも仙台方面と結婚したがしきりに「ちゃっこい」と言っていたのは仙台弁をしゃべるようになったためだろう。
相馬で「ちゃっこい」と聞いていないからである。
結婚すると相手の言葉の方言の影響を長くいるから受けやすいことは確かである。
方言はだから地域的な文化的な境界として区別されるのである。
今でもなまりはなかなかなくならない、国の手形が訛りである。
推理小説でもなまりは消えないからそこから地域を特定して推理してゆく。
ただなまりと方言はまた違っている。同じ言葉でも音のイントネーションとか発音の相違である。
英語とかは音で主に表現するから普通の言葉でも音で違った意味になる。
人間の言葉は音が最初にあり音で表現していた。
同じ音でも「これたかい」というのと「これたかい」でも
イントネーションが違うと本当にそれがたかいように思えるのである。
低い声で普通の音で言うのと「これたかい」というのは伝える感じが相当違ってくるのだ音を文字に買えたときそうしたニュアンスがなくなったから何か一様化して数式のようになったのである。
いづれにしろ方言は直接の会話で活きてくる。そういう場が今はもてない
ほとんど地方でも標準語でしゃっべっているからである。
ただ関西では標準語ではなく関西弁だからその相違がはっきりする
関西に来たというとき言葉からすぐわかるのである。

方言は文化交流の痕跡を残したものである。たいがい古語は辺境で沖縄とか青森などに残って使われていたというのもそうである。
それは古くから交流があった証拠である。
だから地図でも関西の影響を受けたのは日本海側であり青森などもそうである。
そもそもそうした方言が関西のでも土地の方言に入ってくるというのは相当な人の流入が長い期間ないと定着しないと思う。
英語などの言葉をカタカナにしているのも一つの文化流入である。日本語化したものだからやはり新しい言葉はそうなりやすい、ただ方言はまた違っている。
語尾の変化とかイントネーションの変化であり単語そのもののことではない
同じ単語でも発音の相違が生じているのである。

考えてみると知った人は新地の人だった。やたらだっちゃといっていたのは名取に住んでいたからだと思っていた。
そもそも新地だとなるとそこは伊達藩でありだっちゃを使っていたのである。
でも今新地でだっちゃという言葉をつかっているかどうかわからない
なぜなら相馬郡になっていたし明治以降は相馬の影響の方が強くなっていたからである。婚姻関係でも新地は相馬藩内の人とと多くなっているのである。
もちろん宮城県も多いが江戸時代は相馬藩内の人とは婚姻関係はまれだろう。
明治以降の変化もまた方言に影響しているということはありうるのだ。

いづれにしろ今は方言は普通はどこでもしゃべらない
だから何か地域性とか失われているし標準語になるとあたたかみがないということもある。
何か言葉が数式のようになったのが標準語である。
土地の人さえ方言でしゃべらないとなると地域のつながりも薄れているのである。
外国まで交わる時代は反面日本国の文化すら失われているのである。
それで日本文化のことを探り新たに発見する試みを万葉集などからしてきたのである。
つまり日本語は大和言葉にありそこに日本人の文化が言葉に純粋に残されているからである。
旅をするなら江戸時代の方が断然面白かった。
言葉も違うし関所を越えると外国になったからである。
地方創生が話題になっても何か地域的特色あるものが作り出せなくなっている。
なんでも一様化してしまうのが現代だからである。
タグ:仙台弁

2015年04月13日

二本松城は山城から平城へ移る過渡期の城 (福島県では一番魅力ある城)


二本松城は山城から平城へ移る過渡期の城

 
(福島県では一番魅力ある城)

nnnnnnnnnnn2345556.jpg

洗心亭で抹茶を飲んだ。

「この洗心亭は江戸時代に作られたものでぼっしん戦争で消失したのですがこれだけは焼けなかったのです」
そうですか、日本の城はほとんど残っていません、石垣だけが残っているだけです
あとで新しく建てたのがほとんどですね
「これは江戸時代に作られたものだから貴重です」
「そういえば何か茶室風の作りですね」

茶室といってももともと民家を基にしたわびさびの作りは農民がそういう環境で生活していた。その時農民はわび、さびなど意識しない、そのわび、さびは豪勢な建築物が豊かさが生れたとき意識されたのである。

「この城で気になっていたのが何であんな高い所に城を築いたかなのです」
「それはここはもともと畠山氏が建てた山城だったからですよ」
「ああ、そうか、最初は城は防衛のために山城からはじまっていましたからあんなに高い所に建てた」
「畠山氏のあとは丹羽様が城を築いたんですよ、丹羽様が信長様と縁故があったんです」「信長が出てくるのは古いですね、東北では秀吉は会津にも来ていますし
石田三成は相馬に来ていて野馬追いの旗印の三成のものを残したんずすよ」

なぜその抹茶を出した年配の女性がしきりに信長のことを言うのがわからなかった。
ただ畠山氏は南朝で霊山の大将になっていたから古い氏族である。
二本松城では伊達政宗と激しい攻防戦があった.相馬氏もこの攻防戦に深くかかっていた。


畠山氏を救援するため、佐竹・芦名・岩城・二階堂・石川・白河・相馬氏の反伊達連合軍約三万の軍勢は一旦須賀川に集結したのち安積郡に進撃した。

 同年七月四日相馬義胤が伊達実元・白石宗実を介して二本松城の無血開城を申し入れてきた。その夜家臣と談合した伊達政宗はその申し入れを受け入れることにした。
 同月十四日畠山主従の安全が保障されるよう相馬勢が二本松城に入城し、同月十六日畠山国王丸は二本松城本丸に自ら火を放って城を退去し会津の芦名氏を頼り、ここに戦国大名畠山氏は滅亡した。
 
 城の歴史
 http://bit.ly/1aWnMXR

秀吉のもう一つの一夜城、石垣城の謎

このサイトの絵が二本松城とぴったりなのである。これと同じ配置なのである。

城の歴史をふりかかると中世の館(たて)と呼ばれた山城から城が発展した。
地名で館(たて)とつく地名は多くそこは中世の城でもあった。
それは平地には少なく自然の山によって敵から身を守っていたのである。
だから二本松城ももともとは山城だったからあんなに高い所に畠山氏が城を築きそのあとに丹羽氏が天守台をそこに建てた。
興味深いの二本松城は山城から平城へ移る過渡期の城であり石垣でもそれがわかった。
曲輪(くるわ)というのが城内にあり家臣はそこに家を構えそれが敵が攻めてくるのを防ぐ役割を果たしていた。
山城のその手前には家臣たちの屋敷がありそれが敵を守るものとなっていた。
平城でも相馬藩の中村城は岡田館がありそれは家臣でも敵を守るものとしてあった。
二本松城の位置もまた防衛のために選ばれた。
鎌倉のような切り通しがあり城に入りにくいような地勢を選んで城が作られた。
たしかに城のある場所に駅から行くのがわかりにくいのである。

戦国時代にはまだ平城は少ない、安土城でもあんな高い所に城を信長が作ったのはこの二本松の山城の天守台とにている。信長の時代はまだ防衛を第一に城を作ろうとしていた。城を見るときその過渡期の城、中世の館の延長としての山城と平城の過渡期の城の形態である。小浜城などもそうである。丸森の金山城もそうである。
家臣の屋敷は守るために城のすぐ下に曲輪(くるわ)として作られていたのである。
相馬藩で麓給人という人たちがいたのももともと山城がありその麓を守るものとして仕えていたから麓給人となった。
だから歴史はつくづく何か必ず連続したものであり段階的に発展しているのだ。
前の時代の継続が常にあるのだ。全く新しいものは作れないのである。
明治維新でも日本的なものが継続していたことでもわかる。
天皇を中心にしたのがそうである。これは変えることがてきなかったのである。
歴史は本当は飛躍したりしない、前にあったもの作られたものを再構築するのである。
山城から急に平城にはならない、その中間段階として山城と平城へ移る前の状態の城が二本松城なのである。


今回も船岡城をたずねて一目千本桜を見たが石垣も残っていないので城に思えなかった。中世の館(たて)が基であり二本松城と同じように平城へ移る過渡期の城だったようだ。
何か旅をしても城がないと何かが欠けている。どうしても過去への歴史のイメージがふくらまないのである。相馬の中村城は一応野面積みでも石垣が残っている。
船岡城には何も残っていない、だから歴史を感じられない、イメージできないということがある。外から来た人はあとから作られたものでも城があるとわかりやすいのである。
だから亘理駅を城にしたのはあそこに城がなかったにしろ伊達藩として亘理があり歴史があったから観光用に作ったものてはない、観光でも城がある所とない所は相当に違ってくる。ただ会津の城は平城であり山城ではない、何か平凡に感じてしまう。
ただ前にあった黒川城は七層でありあの城を見たら感動する。

亘理駅の城は遠くから映える、見えやすいのである。ビルなどないから目印になりやすいのである。
大坂城ですら建ったとき回りには高い建物がないし平野の中に高く目立ったものとしてあった。城はどこでも中心としてあった。
だから今でも城がないということは中心がないという感覚になるのである。
天守閣というのはそもそもなかったというとき信長の安土城からはじまったというとき
遠くから見ても目立つものとして作られた。安土城は琵琶湖に接近していて見られるように作っていたという。
建築物は必ずその時代の象徴として中心的役割を果すのである。

ともかく歴史に興味をもつには土地の人とその場でなんでもじかに話すると興味をもつ。なぜ年配の女性が丹羽様とか様をつけていっていたのか?
それは尊敬のためなのか?やはり丹羽様というとき二本松の人にとっては特別な感情をまだもっているとかなる。普通だったら丹羽氏という、相馬藩だって相馬様などと言う人はまれだろう。
それは特別な意味がないにしろあそこで山城から発展した城だということはその場で聞くと実感するのである。
だから歴史はその場を踏んで土地の人とじかに話すと何かそこがただ本を読むのとは違った土地に根ざしたものを感じるのである。
歴史とはそもそも何か継続してきたものでありそれは今にも通じているのである。

ともかく二本松城の魅力は自然と一体化していることなのである。
今でもその庭は野趣あふれていて山城と一体化している。
そして天守台に登ると安達太良や吾妻山や蔵王や・・・・なども一望できるのである。
二本松県として明治のとき構想されたというのも立地条件からしてわかる。
ただわからないのは平地が少ないのに十万石になっていたのか?
郡山市とか福島市の方が平地が多いから都市として発展した。二本松には平地が見えない、そしたら米でもそれほど作れないとなる。
ただ実際は米を作る土地はあるから十万石になっている。外から見てそういうことかわからないことがある。
飯館村でも山の村でも平地がかなり広い所があるのを実地に行って知っているからわかる飯館村はもともと米も相当とれていたのである。
だからおそらく米がとれる土地が二本松にあるとなる。

今回も絵になる写真が二本松城でとれた。それは俳句とか短歌と一緒にあとでだそう。
それにしても奇妙なのは城がつくられたとき江戸時代でも桜はそんなに咲いていなかったという、桜はあとから明治以降公園化して植えられて咲くようになった。
城があったとき桜は城に映えていない、でも今は城に映える桜をあたかも城が作られて侍がいたときもその桜を見ていたような錯覚に陥っているのだ。
だから確かに俳句でも短歌でも城と桜を歌ったものはないのである。
これもやはり現代から見ているから過去は常に錯覚して見ていることのわかりやすい例なのである。

「武士道の象徴としての桜」は明治時代以降の感覚。特に各地の城址に在郷軍人会が桜を植樹するようになってから、「城・武士=桜」というイメージが定着した

桜と城とか武士とは関係ないものだった。いさぎよく散るというのは戦争の時に作られたのである。
戦国時代の武士でも桜のようにいさぎよく若くても死ぬのがいいとかならない。
武士が望んだのは報償だった。だから手柄をたてて出世するために戦った。
簡単に死ぬのではない、あくまでも戦で勝って上に昇りたいという上昇志向が働いていたのである。
桜のようにいさぎよく散るというとき武士には全くなかったのに戦争のときのイメージが現代の人にも影響しているのである。
だから桜が城ににあうというときそれは城と一体化していた武士にはなかったことも奇妙なのである。
ただ美的にはそういうことが関係なく確かに城と桜はあっている。ただそれは城が作られたときは桜もないのだから武士が桜と城を歌ったということはないのである。

要するに歴史は過去はないことでも美化されることがある。
自分も桜を見て二本松城に登城していたとイメージしていたのである。
むしろ武士のイメージは松である。松は忠臣とか誠意とかイメージされるからである。
江戸時代の城の屏風絵はたいがい松である。桜など描いていないからである。
それにしても二本松少年隊にしても何か桜のようにいさぎよく散ったというふうに美化される。それは後世の人が特に太平洋戦争と関係してそうさせた。
しきりに若くても桜のように散るのはすばらしいこだとされた。
それは武士とは何ら関係ないことだったのである。
桜のように散るというときただ早く死ぬということが奨励され美化される。
そこに何のためにかとかはない、ただ早く死ぬのがいいのだとなっているからである。

花と散る二本松少年隊・・・・
とにかく早く死ぬことが美しいということになる。それは危険な思想にもなっていたのである。



タグ:二本松城

2015年04月06日

東北文化論 (わび、さびは豪勢な豊かさのアンチテーゼとしてありえた)


東北文化論


 
(わび、さびは豪勢な豊かさのアンチテーゼとしてありえた)



アントワネットはこのプチ・トリアノンに接した狩猟場に「王妃の村里」と呼ばれる農村風の庭園を創りあげた。農家風の建物を建て、家畜を飼い、野菜を植え、農婦ごっこや芝居に興じた。
外観をわざとボロく創っているが、・・・・
http://www.dokodemo-bessou.com/france/page5/page5-4.htm

信長や秀吉ばかりでなく、松永久秀にも近しく、武家権力の中枢に接近しながらも宮廷文化とは対極的な独自の価値観を生み出した利休の独創性は、こうした利休周辺の環境や人間関係が大きく影響したものだろうと思います。
http://www.osenkou.com/skaori1.html

「伊達者」、「伊達な振る舞い」等「ダテする」とは政宗以前から「タテる」または「タタせる」という言葉があり(際立つの意に繋がる)、よって、その言葉の意味合いが政宗の言動と見事に合致した



わび、さび、しおり・・とかいう美意識がどうして生れたのか?
それは秀吉の黄金の茶室と対称化された美意識である。東西の歴史で権力者は黄金を求め黄金で飾るのが通例である。スペインはインカなどから黄金を奪い教会を黄金でちりばめた。人間の富の象徴として黄金があったことは昔から代わりない、黄金の特徴はまた腐食しないということも価値が変わらないものにした。
だから秀吉が農民の出で黄金の茶室を作ったのは別に特別なことではない、古今東西の権力者はみんなしているからだ。

わび、さびの美意識が日本特有と思っているがそうでもない、例えばベルサイユ宮殿はもともと王の狩猟場としての森だったのである。ということはパリの中に大きな森があったということになる。そういうことも今は想像できない、だから歴史は何か常に現代から見るから間違った見方をしている。
あの豪勢な宮殿にいたらかえって疲れるというのはわかる。それで「王妃の村里」という村の風景を故意に作り出したのである。そこか王妃の癒しの場となったのである。
そのことと秀吉の豪勢な黄金の茶室とかその他の醍醐の花見とか絢爛豪華な安土桃山文化を築いた。

だからわび、さびを素朴なものを求めるものは人間の心性として共通しているのである。そのわび、さびが堺という当時一番栄えた自治体都市から生れたのかというのも不思議に思うがつまりわび、さびの美意識はそうした栄えた都市文化のアンチテーゼとして生れたのである。
なぜならみちのくにはそもそも西のように栄えた歴史がない、豪商などもいない、東北はそうして栄えた歴史がないのである。平泉は確かに栄えたとしてもそれも一時の夢として焼失してしまったのである。だから江戸時代もみちのくは辺境でありみちのくそのものがわび、さびの世界でありそれで芭蕉はその世界に憧れて奥の細道を残した。

わび、さびの美意識はわび,さびが日常であり日々の生活の場だったら意識しない、それが当たり前であり絢爛豪華ものなどないからである。そこにわび、さびを特別意識することはない、日常がわび,さびに暮らしているからである。
利休のわび、さびの美意識はむしろそういうわび、さびがない文化的環境で故意にプチ・トリアノンのように生れたのであり別にそれは人間の心性として理解できるのである。
文化というのはまず自然がありそれが人工化してゆく、そしてベルサイユ宮殿のようなものができる。その反動として素朴なものを求めるのは人間として不思議ではないのであるつまり豊かさとは人工的なものとして贅を尽くす豊かさと自然の素朴さがあるとき豊かな文化が育まれる。

それは京都にある金閣寺と銀閣寺の対処性でも即座にわかる。京都には金閣的なものと銀閣的なものがあるから日本の文化都市になる。
東北にはそうした歴史がないから未だ文化不毛地帯なのである。
それだけの栄える財力が貯えられなかったからである。
文化というのは財力と関係してくる、富がないところには文化は栄えない、ただその文化の基もまた富があるからだけでは生れない、その背景に純自然というバックグランドがないと文化は生れない、なぜ今東京から文化が生れないかというとその自然が森でも山でも何でも消失して人工化だけの空間になってしまっているからである。
みちのくは伊達政宗の時代も実際は西に比べると相当に貧しかった。
そこで伊達政宗は背伸びしなければならなかった、それで何か秀吉とか西に対抗するために豪勢なことを装ったのである。それが伊達者の起源だったのである。
みちのくはわび、さび・・そのものの世界だった。そうじゃない豪勢なものがみちのくにもあると威勢を張らなければならなかったのである。
つまり豊かであり富裕であるならわび、さび・・をまず人間は求めない、豪勢な黄金を求めるというのが普通なのである。
そのあとにわび、さびの世界を求めるのである。

そもそも文化は実があって大地に根付くものがあって花が咲く、花とは文化のことであるても東北ではまだ花は咲いていない、商業とかでも西のように栄えたことを経験していなのである。
そして最近つくづく感じたことはこの辺では田畑が津浪や原発事故で喪失したとき、もう文化的なものを追及できないという感覚になった。その余裕がないという感覚になった。文化でも田畑がない田舎の生活がない所で文化を追及できなくなる、だから何か補償金などが入ってきてもさらに精神的には荒廃した感じになった。
花が咲くにはその生活基盤が充実していない咲かないのである。
それは一身上でもそうである。毎日家事に追われていたら文化的なものを余裕をもって追及できないのである。
だから今になと自由に旅できた時間は相当に恵まれていたと思うようになった。
自由な時間を与えらることは相当に恵まれたことなのである。
それが特別なことと意識していなかったが今になると意識するようになった。
なぜなら毎日時間に追われて10キロ四方から出れない閉ざされた生活になったことで意識したのである。

タグ:わびさび

2015年01月14日

平泉四季の俳句連作(新春ー2015) (平泉に集約されたみちのくの歴史)


 
平泉四季の俳句連作(詩)(新春ー2015)


(平泉に集約されたみちのくの歴史)



konjikiii123.jpg

gashunnnnnn123.jpg


春の虹切れ端残る平泉
一陣の風に花ゆる義経堂
平泉花の盛りに荒れる風
時は過ぐ無量光院跡花の影

杉林木陰の深く金色堂

平泉旅人去りぬ秋の蝉
三代の栄華の跡や秋の蝉
みちのくに秋草の花曲水の跡
平泉旅人とまる夕紅葉

三代の栄華の跡や冬の雨
みちのくや冬の雨ぬる弁慶松
金色の御仏雪に光るかな
池凍り金色堂の光輝かな
大泉が池百羽の鴨の騒ぎけり
柱跡苔に雪ふる平泉
金色堂ミイラ眠りぬ冬深む


hiraizumpoem1.jpg

冬の平泉

平泉激しく炎上してのち
みちのく遠く忘れられるかも
観自在王院の池は雪に閉ざされ凍りけり
飄々と樹々は風邪に鳴り
我がその雪踏みてたずねぬ
みちのくの京よりいかに遠きや
西行の歌は心に凍みて残れり
平泉藤原一族は滅びて
残りし千歳の形見なれ
その栄華の日の夢の跡
贅を尽くして匠を残しぬ
螺鈿の巻柱、瑠璃の玉、象牙に硝子
須弥壇の孔雀の生き生きと
はるか富はここに集められぬ
三体の黄金の仏はかがよい
ミイラは納まり眠りにつきぬ
みちのく遠く栄華の日も三代の間
雪に閉ざして凍れる池や
みちのく遠くさらに冷えてあれ
その空気は張りつめ澄みて
塵もあがらず雪も凍りぬ
ただしんしんとみ空より
雪の結晶は舞いつつ浄められぬ
黄金の御仏遠つ世の徴し
みちのくの金色堂形見なるかな

kkkkkssss123.jpg

kkkkkssss1235555.jpg


みちのくというときやはりそこには歴史がありその歴史を背景として自然が映える。
原生の自然とは違い人間の歴史的なものが反映される美となる。
北海道には歴史がない、原生の自然があるのが魅力である。
でもやはり歴史があるのとないのとはかなり違っている。
近江の魅力は様々な歴史に彩れて自然があることである。
京都もそうなのだが都会化しているから意外とその魅力を感じることがむずかしい。
ただ人間には共有された地域地域に歴史がある。
それは相馬藩という小さな単位でも400年くらいの歴史が刻まれている。
それで今回のように避難して人が住めなくなったとき歴史が問題になる。
人間は歴史を共有して自然を共有するのである。
それが生きるアィディンティティとなる

みちのくと言っても広いからなかなか共有しにくい
ただ平泉が古都でありそこに歴史を共有するものがあることは確かである。
最初のみちのくの統一国家の象徴としてあった
つまりみちのくの王として藤原氏があった。
ただそれもはかなく三代で終わってしまった。
それでも単なる夢ではなくみちのくの統一国家としてあったからこそリアリティがある
ともかく地元でも相馬藩でもその歴史を理解するのには時間がかかるのである。
近くだと四季を通じて行けるから理解が時間的に深めることができる
旅だと一回くらいしか行けないとあとで忘れ安いのである。
ただ芭蕉が優れていたのは一回の旅でみちのくの歴史を知り自然を知り俳句を残したことである。
その俳句が極めて深く陸奥的なものになっていたのである。
みちのくの歴史と自然の特徴を一回の旅で会得したというのも不思議である。

もちろん元禄だから今の時代とは違い鎌倉時代もまだ違ったものと感じていたのだろう。ただ時代をリアルに感じるのは自分の生きている百年くらいかもしれない
今だと明治維新からは祖父母が生きていたということで身近である。
江戸時代になるとなにかイメージできないから誤解が多くなるのである。
芭蕉はただみちのくだけではない、中山道でもその特徴を俳句にしていた。
「月の友」とかいうのもそうである。中山道は月がにあっていたのである。
自分も中山道を旅してふりかえると月があっていたしその時期に旅したので会得したのである。
俳句はそもそも一句だけではあまり芸術としては短かすぎるから現すことがむずかしい
ただ連作として読むとそれなりのつながりがあり読みごたえがてくる
芭蕉の句も奥の細道として連続として読むから一つの文学古典となったのである。
ただそれがみちのくを特徴づけるものとして後世に残った。
芭蕉によってみちのく的なものが顕著にされたというのも不思議である。
みちのくというと必ず奥の細道をイメージしていることでもわかる
それほど芭蕉の旅の俳句でみちのくがイメージ化されるようなったのである。

みちのくというと寒い辺境なのだから冬がふさわしいともなる。
冬のみちのくはまたみちのく的になる。それでもみちのくは広いからどこがみちのくかがわかりににくい、福島県はみちのくと感じるものが今はない、会津の方はまだ雪国になっているから違っている。中通りには奥の細道を感じるものがないのである。
新幹線が通っているのもそうだし宮城県もそうである。
平泉とか山寺には感じる。要するに現代が旅がつまらないというとき遠さの感覚がなくなったからである。
みちのくが江戸時代でもどれほど遠かったということが実感できない
新幹線で二時間ちょっとかとなる、はい行ってきたよ帰ってきたよでは何も旅にならないし印象にも残らないのである。
だから石巻の方の石捲線を来るとその電車の便も不便だからみちのくの広さを感じるのもいいのである。早く着きすぎることによってその土地のことがわからなくなっている
それをするにはつくづく自分がふりかえってみて時間が暇が必要だったなと思う。
余程の暇人でないとできないことだったなと本当に思う。
今や近くすら介護とかで行けなくなりわかった。
一日旅することができない、旅は金より時間だったのである。


みちのくは冬にふさわしいとなると岩手県はより寒いし辺境になるから雪もふるからいいと思う。福島県はまだあたたかいということもあり雪も中通りでもそれほどふらないからである。冬は空気も澄んで雪におおわれると浄化された世界になる。
そこに金色堂が映えるのもいい、四季に金色堂は映える。
ただ金色堂は金閣寺とは違い外にないから自然に映えないのである。
みちのくの冬はやはり他の冬とは違う。
みちのくは何か霊場として眠る場所としてふさわしいのかもしれない
そういう歴史的風土であり何か産業や商業の土地ではない

その土地がもっているものがありそれにあったものとして文化もあるのがいいのである。その土地の役割があるのがいいのである。みんな同じだったらつまらなくなる。
だからみちのくは騒々しい活動の場となるのも問題なのである。
だから癒しの場とか霊場、安らぐ場所としてあるのがふさわしい。
みちのくといってもすべてがそうではない、みちのく全体の特徴としてであり個々にはまた違っている。
ともかく回想の旅というのはあることに気づいた。
旅しなくてもこれだけ旅していれば以前として旅がつづいていることに気づいたのである芭蕉のように生きているそこにあることも旅であり旅の一過程一行路になってしまうのである。





タグ:平泉

2013年10月02日

宮城県人と福島県人の違いは何なの? (宮城県人は東北人ではない?)


宮城県人と福島県人の違いは何なの?

(宮城県人は東北人ではない?)

宮城県人は、東北人でいて東北人ではない。福島県より東京には遠いのだが、100万都市・仙台はもちろん、そうでなくても、かなり都会っぽいのである。なにせ、「仙台の如きは当時繁昌の地なる故、風儀上国に習へり」(『新人国記』)とあるように、江戸時代初期からすでに、上国(京都に近い畿内の国々)に似たところだったのだ。気質も、淡白でさっぱりしている。
http://www.k2.dion.ne.jp/~nipoon1/miyagi.htm


県民性は明治維新から作られたものだから歴史が浅い、江戸時代だったらその気質もその土地に密着しているから相当に違っていた。飯館村とかが明治以降合併したとき佐須村と大倉村は民情が一致しないから合併しないと村誌に書いてあった。なに、大倉と佐須はすぐ近くだ、民情が一致しないとは何なのだろうか?
詳しいことはわからないが人間が何かしら違っていた。それにしても同じ山の村でありなぜそうなったのだろうか?それだけ隣り合う村でも交流がないから違和感を感じていたし
付き合うということもしなかったのかもしれない、つまり江戸時代はいかにそれぞれの村が小単位で自給自足していたかである。今の時代にはそこが理解できなくなっている。
そんな狭い村でどうして生活できたのか?それが理解できないのである。


ただ最近南相馬市では小高区の人がどうのこうの鹿島区の人がどうのこうのとか言うのは原発避難民が押し寄せてきたために目立つからそう言われるようになった。双葉町の人はあつかましいとか批判されたりするのもそのためである。別に原発事故がなかったらそんなこと言われなかったろう。ただ原発で金が入ってくるのでうらやましがられただけなのである。それが今になるとただ金に汚い奴らだとか批判されるだけになったのである。
小高の人は人がいい人が多いとか鹿島の人は人が悪いとか言われるのもそのためだった。全然気質が違うという。そんなこと考えもしなかったが何かそういうことがあったのかもしれない、今でも隣り合っても民情が違うことがありうる。
でもそもそもそうした民情とか気質とかはわかりにくい、ただそういうことは常に話題になる。


福島県では特に浜通りでは相馬地方では仙台のつながりが強いから宮城県人とかかわる人の数が多いのである。結婚する人も宮城県の人が多いのである。それで面白いのは新地に伊達氏の家系の武士出身の人がいて相馬市との合併を頑固に反対していたという。
なぜ新地が相馬市と合併してもいいようでもそうなっていないわけがこんなところにもある。新地は伊達藩と相馬藩の境目だから特殊なのである。あそこに文禄の碑があったことでも伊達藩は相馬藩より古いのである。その碑はやはり伊達政宗の朝鮮出兵と関係して記念に建てられたのかもしれない、なぜなら新地は伊達領にもなっていたからである。
わざわざ文禄の碑とか記念に残すのはそのためだったかもしれないのだ。

伊達政宗は本当に東北人とはそもそも思えないのだ。それはやはり仙台がすでに繁華な都会でありそこでそうした気質が養われたとなる。本当に宮城県は東北ではないというときその気質がそうなのである。東北人は鈍重で真面目であり融通がきかいなとかず-ず-弁で世渡りが下手だとかが常にイメージされる。宮城県人にはそういうことがないのである。伊達政宗は現代に現れてもたいして違和感がない人間だったのである。
ただそうした都会人的気質が福島県人からすると嫌われるということがある。
それはなぜか?福島県人はまだ宮城県人より素朴なものが残っているためだという。
そんなことあるのかと思うがそういうことは類型的にある。宮城県人は仙台を中心にして拡散した都会なのである。岩沼や亘理あたりまでも仙台の延長なのである。だから仙台中心の県なのである。工業都市であり商業都市であり東北の中心の交通の要である。
それが江戸時代よりそうだったのである。仙台平野の米は石巻から船で江戸に送られていた。そういう商業都市として江戸時代からあったことが違っていた。
商業的だということは人と渡り合うことに優れている。それは関西と似た気質を形成する。


人間は不思議に国の訛りでおさとが知れるというのは変わっていないところがある。
なぜか、宮城県に住んだり宮城県人とかかわった人が・・だっちゃ・・だっちゃと語尾になる。この言葉でまずこの人は宮城県人だとわかる。相馬ではんだ、んだでありだっちゃは異質なのである。それで丸森になるとんだちゃになっていた。これも丸森が一時期相馬藩になっていたから相馬とかかわりが深いからそうなった。んだ-ちゃと宮城県と福島県の方言が一緒になってしまったのである。方言は山形でも青森でも相当に違っている。
訛りが強いと聞き取れないことがある。秋田弁でも山形弁でもなまりが違うのである。
雪国の方言はなまりは何か内にこもるような鈍重な声になっているみたいだ。

宮城県のだっちゃは何か明るい感じがしたのである。方言はまず何か地域で育った人間を感じさせるのである。江戸っ子になればあれだけの都会で生きるのだからぐずぐずしては生きられないからはっきり物言う言葉になる。それは都会だから仙台と宮城県人とにているのだ。んだんだ・・というのは何か鈍重で機敏性がないのである。
京都弁だと言い方やけにやんわりしているのである。女性的でありなるほど京都なら常に人ととかかわるからそうなったし大阪だともうかりまっかとかが挨拶になる。それは商業都市だからそうなる。京都弁は政治都市だから本音と建前を分けた言葉となる。
本音を簡単に出したら権力者に抹殺されるという恐怖があったのだろう。


結局言葉にも常にその地域性が現れていたのである。京都ではどうしても権力者の天皇も住んでいた都市だからそうなった。上のものに気づかうためにあのようなやんわりとした言葉になっていた。そのやんわりとした言葉は表向きで実際は刺があり本当の心は表に出さないのが京都人だとなる。権力者と絶えず接していればそうなってしまいそういう気質と言葉が生まれたともなる。
福島県というとき広いから一様化できない、会津はまた山国であり別個の世界である。でも山国であり強情だとか融通性がないというのも地理的歴史的に培われて気質が育てられたのである。福島県は宮城県と比べると素朴なところがまだ残っている。それは保守的な気質にもなっている。ただ浜通りとか会津ではまた違っている。


祖先につながりを感じる(全国統計)
http://i.imgur.com/MahLH.jpg

これでみると宮城県だけがあまり感じていない、福島県は一番祖先とのつながりを感じている。島根県とか宮崎県もそうである。結婚は当たり前とかいうのも東北では多く宮城県だけがここは違っている。どうしても跡継ぎなどを重視すると結婚は当たり前という風土になる。つまり宮城県は東北ではとないということがこの地図からもわかるのだ。福島県は保守的な県である。これは会津があるから統計的に余計にそうなる。一般化すると会津の影響でそうなる。ただ先祖を重んじるという時相馬藩でもそういう傾向がある。なぜなら野馬追いがあるからそれは先祖の祭りでもあるからだ。それでなかなか原発事故でも他所に移りにくいということもある。福島県はまだ素朴で土着的傾向が維持されている。ただ浜通りはまた違っている。イワキになるとここは東京の湘南だとか言われ東京と通勤電車も直結しているからここの風土も人間も浜通りでも相当違ったものとなっているのだ。

2013年07月13日

三陸町の波伝谷は津浪の伝承を伝える名前 (古代史は真野の草原の歌から石巻からさらに三陸まで結ばれていた)


三陸町の波伝谷は津浪の伝承を伝える名前

(古代史は真野の草原の歌から石巻からさらに三陸まで結ばれていた)

oceannnn111.jpg



三陸の伝統文化を伝える波伝谷(はでんや)は、戸倉神社を残しすべて、津波に流された。
神社が丘に打上げられ、神社を信奉したという伝説と同じ歴史が繰り返された。

●渡来人がかかわっていた船の伝承


三陸の伝統文化を伝える波伝谷(はでんや)は、戸倉神社を残しすべて、津波に流された。
神社が丘に打上げられ、神社を信奉したという伝説と同じ歴史が繰り返された。


常陸国で造船された大型船が海底の隆起で座礁し、波で船が転んだ谷、
最近七世紀後半の水軍による蝦夷征伐に関する古代史でも注目されている。

「安永風土記」にある水戸辺村の村名の由来として「当村は当郡北沢村不動尊百済国より御渡波成候節塩釜津浦へ御到着岸に付往古は塩津浦と申候」


戸倉神社及び神社下の船沈池がある。百済よりの船は、嵐にあい塩津浦にて風待ちしていたところ波が押し寄せ船が沈んだ、この場所を沈船池(明神池)であり船にあった宝物と共に祀ったのが戸倉神社だという。


戸倉大明神縁起


常陸国の一つの宮鹿島神宮に迎い奉りその神宮に配祀してある所の天児屋根命を守護神として二神を小型の船に奉遷し・・・・供奉の人々は神慮を畏こみて別に大形の船に乗り東海に回航して波伝谷にいたり碇を下した揚陸の機の到来するを待て滞留数旬に渉る然るに一夜海底隆起して丘陵となり海波荒み立ち上がり波に轉しられて船は遠く水面を離れて戸倉山の谷に在り供奉の人々驚きて引き下すんとなすとも船動かずこれにてここに宮殿を造営して三神を相殿に祀りこれを小鋭神社と称して波伝谷という名称もままたここより始まると


波伝谷の民族

http://www.thm.pref.miyagi.jp/archives/book_pdf/minzoku/hadennya_minzoku.pdf



この縁起は相当に歴史的に意義深いものがあるかもしれない、今回の津浪で意識されたのは福島県の浜通りから岩手県の宮古から海岸地帯が実は一つの海洋文化圏であったことが共通認識された。
岩手県とか宮城県はリアス式海岸であり明治にも津浪があったから津浪地帯だと意識していたが実は仙台の沿岸地帯や名取とかから亘理-山元町から浜通りは一つの海岸を共有した海への歴史をもつ共通の場であったことを知ったのである。福島県というとき中通りと会津があるけど海とは関係ない、山との関係が深い。だから地理的歴史的になかなか一体感がもてない地域だった。
今回の津浪で明瞭になったのは宮城県から岩手県とその海岸地帯は津浪の被害にあい共通の海の文化圏に庵たことを意識させられたのである。
大和朝廷の水軍による蝦夷制服はまず常陸からはじまり徐々に塩釜から三陸方面と伸びていた。常陸の鹿島神社は船と関係していた神である。船の操作にたけた人々が祀った神ともとれる。その船の建造や操作にかかわったのは渡来人の技術者であり百済国の人がまず塩釜に来て戸倉に移って来たとか百済の船が沈んだという池の伝説などがあったのも何か百済と関係していた。百済王敬福が宮城県遠田郡涌谷町の黄金の採掘に来たことは有名である。「すめろぎの御世栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲く 大伴家持」は有名である。

この歌によってみちのくが黄金の国であることの伝説が生まれた。それとと同時に古代において大和朝廷が水軍の蝦夷制服がありそれが伝説化して残っている。それが「みちのくの真野の草原・・」の草原は萱が繁っている場所ではなく地名説を出して前に書いた。草(かや)は伽耶(かや)の国に通じるとも書いた。ここでは百済であるが伽耶は後に百済国になった。その前は伽耶だったのである。

そして今回の津浪で塩崎の船着とか市庭と地名が残るところまで津浪が押し寄せたのである。常磐線の線路をくぐり津浪が押し寄せたことには驚いた。船も六号線まで流されてきた。だから万葉時代は海だったことを明確に意識させられたのである。真野の草原と歌われたのが南相馬市の鹿島区の真野郷だとされるが一方で石巻に真野があり萱原という地名が今も残っているからそこが真野の草原だとしていた。ただ歴史的遺物や文献からは南相馬市の鹿島区の真野が有力だとされている。唐神という地名が残っているのもそうである。唐は韓(から)であり朝鮮半島のことである。それでも三陸の波伝谷というと石巻からさらに奥でありそこにもこうした伝承が残っていることがそれを示している。現実に石巻からは真野公という木簡も発見されているから明かに常陸から真野一族の製鉄族とみられる一団が海沿いを移動していたのでありそれは三陸の方にも伸びていたのである。
だから津浪によって古代史も見直されるということがあった。常陸から福島県の浜通りから宮城県から岩手県の海岸地帯は一つの共通の場として海を通じて古代史も形成されたのである。そこには深く渡来人がかかわっていたのである。唐神という地名が残っているのもそうである。


●波伝谷の津の宮村はまさに津浪の村だった

tunomiyaaa11.JPG

さらに津浪で注目すべきは波伝谷では津の宮神社がありそれは一つの村を形成していた。津の宮村となっていた。これは津浪があって祀られた神である。でも津の宮神社を中心にして村が形成されることはなかった。それは津浪に由来する村となるからだ。だから三陸は津浪に度々襲われているのだからそういう村があっても不自然ではないのである。ただ南相馬市の鹿島区の烏崎に津神社があった。これは結構大きな神社だった。だけどその由来は津浪であったことが忘れられていたのだ。なけぜなら鯨の祭りをしていて鯨の碑があったり金比羅の碑があったから津浪を記念した神社とは地元の人も思っていなかったのである。

松川浦の津の宮神社はまだ津浪を意識していたらしい。なぜなら津の宮神社に逃れれば助かると実際に逃げた人がいた。ちょうと津浪を逃れる高台にあった。でも烏崎の神社は平地にあり今回の津浪で完全に消滅した。一方家が集中していた烏崎の集落の高台にあった八龍神社はぎりぎりで残った。その石段は急でありあぜあのような高台に作られたのか不思議である。

そもそも平地に作られた津神社のあったところと家が密集していた烏崎はどっちが古かったのかとなる。地形からするとどうしても真野川の沿岸であり河口が広がっていたからその川岸の袋村が江戸時代になくなったように津神社があるところが八龍神社より古いとも思えない、もともと浜町とあるから家が集中していたところが古い町だったのか?港ははあとからできた。南相馬市でも実際に津神社は12もあったのだ。それが津浪に由来していることも忘れていたのである。福島県かち宮城県から岩手県の海岸沿いに津神社があれば400年前の慶長津浪に由来していたのである。ただそれを意識的に学問として警告していた人はまれだろうしいなかった。今回の津浪でみんな意識させられたのである。

岩沼でも津浪で押し上げられた船の伝説が残っていてそれを聞いた東北電力の人が津浪を恐れ女川で高くして原発を造り助かったのである。もちろん津浪は岩沼辺りではそんなに襲っていないが女川では津浪は400年前でなくても経験している。その相違の方が大きく危機感を作り出していたともなる。福島県の浜通りではまず津浪の危機意識がほとんどなかったのである。それが東電の原発を一旦高くして作ったのにコストカットとして知られた清水社長とかの意向があり低くして津浪の被害にあったのだ。自然災害も日本では度々あり歴史そのものが自然災害史のような所があり天皇がその自然を畏れ災害をないことを祈る役割があった。自然災害は天皇の責任だとまでなっていたのである。

それほど日本では津浪でもそうだが自然災害が国をゆるがすものとなるから歴史的にそうなったのである。それがこれだけ文明化したとき自然の恐ろしさを忘れてしまっていたのである。科学文明が自然を征服したような奢りになっていたのである。数学の確率で百万年に一回しか事故は起こらないとか真面目に言う科学者がいた。その根拠がどこにあったのか?全く科学者も科学的だとなり全能の神のようなことを言っていたのである。ともかく奢りとか油断が原発事故を引き起こした。
日本の土地がどういう土地だかも忘れていたのである。地震や津浪がどれほど恐ろしものか?
それは神戸地震で知っていたが津浪は忘れていたのである。


ともかく波伝谷の民俗というのは興味深い、いかにそこに暮らしが形成されてきたか?その村の全容が記されている。その村が今回の津浪で壊滅的被害にあった。もはや村が消滅するような危機になった。志津川町のちの三陸町は湾が穏やかでいい所だと思っていた。何回か電車で行った。岩礁に大きな浜菊が咲いていたのが印象的だった。三陸とか岩手県のリアス式海岸の町は湾があるから穏やかに感じていた。陸前高田市でも広田湾がありあの湾が穏やかに感じる。福島県の浜通りとか荒い波が打ちつけるのとは違っているからである。だからあんなふうに壊滅的被害を受けたのは余りにも悲惨であった。女川もそうだった。湾があって穏やかだと思っていたところがみんな壊滅的被害を受けたのである。なぜなら町が海岸に密着してあったからそうなったのである。村とは違い街があったから被害が大きくなったのである。


●志津川町は(三陸町)は浜菊が印象に残っていた


岩礁に浜菊大きく湾暮れぬ


志津川の湾の巌に大輪の浜菊咲きて夕べ明るし


わが国の本州、茨城県から青森県の太平洋側に分布しています。日当たりの良い断崖や砂浜に自生し、高さは50〜80センチになります

茨城県から青森県というとき今回の津浪の被害にあった地域の範囲だった。ただ函館にも津浪が押し寄せていたことには驚いた。函館を津浪が襲ったらどうなるのか?何か今回の津浪はそうした恐怖が現実化したのである。


この花は南には咲かない北方系なのか?南方系と北方系で花を分けるのもいい、文化圏も植生と同じく別れることがある。浜通りの地域が真野の草原地域が植生的にはマルハシャリンバイが奄美大島から流れてきて南相馬市の鹿島区の海老の浜が南限の地だというように地理と文化的歴史が一致していることがあるのだ。福島県の浜通り南方的植生であり最近をナギという木の苗のうようなものを相馬市の駅前の花屋で買ったけどこれは熊野神社の御神木にもなっている。凪ぎ(なぎ)草原をきる、なぎるでありナギになった。それが海のことをいうのに凪ぎとなった。草原と海が通じている言葉なのである。津浪でなぎ倒されて海岸近くが草原化しているの風景とも一致する。草原は人為的なぎ倒す、刈っていないと森化してゆくのが日本の風土である。なぐ、なぎという行為は草原を維持するために常に必要だったのである。

歴史は自然から始まっていてその自然に人間がいかにかかわってきたかが歴史でもある。だから常陸から茨城県から宮城県から岩手県、青森まで一つの自然的歴史的文化圏として見直す作業が必要なのである。福島県は会津があってもそこは山国文化圏であり異質なのである。むしろ福島県の浜通りは常陸から宮城県や岩手県の海岸地帯と共通の文化圏を形成していたのである。

2013年04月10日

みちのくのアイディンティティは何か (今も霊場的なものがあるのではないか?)


みちのくのアイディンティティは何か

(今も霊場的なものがあるのではないか?)


みちのくにともに死なむや花曇り


みちのくのアイディンティティはどういうものなのか?アイディンティティには風土的、地理的、政治的、文化的、歴史的アイディンティティとか重層化しているから一つのアイディンティティで一体化はない、基本的には地理的風土的アイディンティティが基本である。地理的風土的アイディンティティからみると会津と浜通りは全く異次元の世界なのである。山のアイディンティティと海のアイディンティティでありその文化も根本的に違ったものとなる。みちのくといっても広いから一くくりにできない、相馬藩のアイディンティティ歴史的地理的にある。地理的に見ると水境峠を越えて川俣に出ると安達太良山が見えるから山の領域に入ったことになる。浜通りにはあのような大きな山がないからだ。そして川俣から飯館の方をみると山がさえぎっていてあれではなかなかこの峠を越えてゆくのは難儀だなと実感した。それは自転車だから余計にそうだった。かなりの坂を上らねばならないからだ。だから自然的地理的境界線があの山になっていることは理屈ではない、地形によってあらかじめ定められていたのである。

ただ飯館村が相馬藩になったのは経済的理由かもしれない、川俣から飯館に行くより険しい山を越えねばならない、八木沢峠を上ってみればわかる。飯館村は標高が高いから夏でも涼しいし冬は寒い、だから飢饉もあった。稲作には適していなかったのである。塩の道があり松川浦の原釜から塩を運んだということで飯館村は中継所になっていたから経済的役割が大きかったかもしれない、ともかく相馬藩に組み入れられたのである。相馬藩は六万石だけどアイディンティティをもつには適度の広さであった。あまりに広いとアイディンティティをもちにくい、中国のような国がどうしてアイディンティティをもつのか?それは日本だって広いのにあれだけ馬鹿でかかったら同胞だという感覚もなくなる。だから三国志になり熾烈な争いとなったのである。もともとあれだけ広い国をまとめること自体今でも無理なのである。


みちのくというとき伊達藩は伊達政宗の時一番政治的結合があった。政宗という英雄が出たためにそうなった。それからみちのくは政治的結合はなかった。それがわかったのは明治維新のとき戊辰戦争のとき東北連合を目指してもばらばらになってたちまち西軍に制圧されてことでもわかる。内部分裂して連合できなかったのである。みちのくは最初は日高見国としてアラハバキ族がその子孫だったかもしれない、それが蝦夷の一部としてあったのかもしれないが大和朝廷に征服されて不明となった。みちのくといっても実際はあまりに広すぎるのである。今回の津浪で意識されたことは津浪に襲われた海岸線が海の文化としてのアイディンティティをもつ地域ではなかったかと再認識した。海のことは忘れられていたけど海によってつながっていた同じ文化圏であったと思えたのである。海の交通などは遺跡としても残りにくく船も沈むから忘れられやすいのである。伊達政宗はヨ-ロッパに使節を派遣したのものやはり松島辺りが石巻でも一つの海の文化圏としてあったからできたことである。

だから明治維新のとき榎本の咸臨丸が寒風沢島によって函館に脱出した。そして函館の五稜郭で蝦夷共和国を作ろうとしていた。だから東北連合ができて榎本が指揮すれば西軍と対抗できたかもしれない、西軍は薩摩長州連合ができたから幕府に対抗できたのである。ただ東北にはもともと政治的には結合するものがなかったのかもしれない、会津はどこまでも会津だったし他も一体化しなかったのだろう。

地理的には仙山線で行くと山形の山寺にでる。そこにトンネルがあり春でも山に雪が見える。トホネルをぬけると雪国だったというのにぴったりなのである。山寺は霊場であり「静けさや岩にしみいる蝉の声-芭蕉」となる場だった。あそこも境界線としてわかりやすいのである。

日本ではあまり川が境界線とはなりにくい、大きな長い川がないからである。ドイツだったらライン川はロ-マとゲルマンの明確な境界線であり風土も文化もそこで線が引かれたからわかりやすいのである。大陸には平坦な地が多いから川が境界線の役目をにないやすい、日本は山が多いから山が境界線となる。ただ仙台から平泉や盛岡方面に行くのにはあまり境界線を意識しない、高い山にさえぎられるわけでもないからだ。みちのくをふたわけ・・・この蔵王が境界線になるとは思えない、ただ相馬から蔵王は見えるからそれなりに蔵王は東北の象徴であるが境界線となっているのともちがう。そもそもみちのくというのはやはり平泉までの芭蕉の奥の細道の旅の行程がみちのくという感覚なのだろう。するとみちのくのアイディンティティは平泉までとなるのか?青森となると遠すぎるのである。


みちのくの特徴というと山寺や恐山などあるが霊場だったかもしれない、霊が眠る場所としてふさわしい場だったのかもしれない、奈良だと吉野山のような性格があった。大阪とか江戸は極めて政治的経済的場だった。みちのくの辺境はそうした政治的場となったことがない、伊達政宗のときだけ一時的になった。政治経済的場として日本の役目をになっていなかったのである。だからみちのくは霊場的性格がありそれにふさわしい場だともなる。確かに政治的経済的には後進の地域なのだが霊的になにか日本の故郷のような感覚があるかもしれない、大阪のような商人の世界とはあまりにも違っている。人間もまた違いすぎるのである。東北人はまず自分もそうだが商人には全くあわない、みんな無口な農民的気質なのである。いろいろ変わっていろいろ人がいるにしろ以前として東北人気質は変わらないところがある。東北にはまだ辺境意識がある。それは悪い方にとれば遅れているが現代の文明から逃れた場所として安らぎを与える場所としての役目をになうのには良かった。ただ原発事故などによりそがれてしまった。


日本でもやはり地域地域で違った文化を醸成されてきたしそれを基にして発展するべきなのだ。
九州は外国の窓口で役割になったのは地理的位置からだった。四国が霊場となったのはやはり峻険な山が多いことにもあった。多少みちのくとにている。山が多いから経済的発展をはばまれたのである。ともかくみちのくは霊場的な所がありここでだからともに死なむ・・という感覚にもなる。
死に場所ふさわしい場だともなる。ということは老後にふさわしい場だともなる。ともに死ぬ場所だということでアイディンティティがもてる場だともなる。だからここであまり世俗の競争を持ち込むことは向いていない、大阪のようになることは地域的特色がなくなる。人間は60すぎると死を絶えず意識する。すでに一割は死んでいる。すると死ぬ場所が大事になるのだ。原発事故で避難した老人はどうしても故郷に帰り死にたいと言っていた。それはまさに根源的アイディンティティの場所が故郷になっているからだ。みちのく全体をアイディンティティとしてあるがやはりまたさらに濃厚なアイディンティティの場所がそれぞれの狭い故郷なのだろう。


やはり東京とか大阪とかあういう場所で人は死にたいと思うだろうか?人間も自然の一部であるから死ぬなら自然に帰りたいという願望が自然に芽生える。ビルの谷間で死ぬのは嫌だとなるのが正常な感覚ではないだろうか?ともに死なむ・・という場所はやはり共同のアイディンティティの場であり連帯を生むのである。みちのくという同じ大地に眠る、死ぬということは何か安らぎを覚えるのである。ただみちのくといっても果たして会津の人はどういう感覚になるのか?また山形の人はどうなるのか?盛岡の人はどうなるのか?青森の人はどうなるのか?やはりそれぞれ違っていてみちのくで一くくりにはできない問題もある。でも歴史的アイディンティティとして形成されたものはやはり根強くある。だから陸奥から生まれのはみちのくらしいとなる。宮沢賢治の文学などは別にみちのくらしいともならない、みちのくの大地とどうつながるのか、天才だからそういう土地の感覚から逸脱している。自分の場合は普通だからみちのく的になっているのかもしれない、いづれにしろ歴史は地理だというとき地理がわからないとあらゆるものがわからないのだ。ただ地理とか風土の問題は相当奥深いからなかなかわかりにくいのである。福島県で会津に住まないものは会津のことはなかなかわかりにくいのである。あれだけの山国でありその山のことがわかりにくいから別世界になってしまうのである。


桜の季節に春に死ぬのは気持ちいいことなのだろう。


ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃 西行


春死ぬということは願ったのはやはり花を心に死にたいという日本人的美意識が西行によって生まれた。寒いとき死ぬのは何か荒寥としている。春に死ぬとなにか華やかだともなる。春の光につつまれて痛みもなく眠るように死んだら最高だとなる。ただともに死なむ・という感覚はここにはいない、個人的なものである。ただ死には個人的なものと共同的なものが必ずある。墓地自体が共同性をもっていることは確かである。江戸時代では庶民は墓がなくホトケッポとか共同墓地に一緒に葬られていたことでもわかる。もともと共同性の中で生きていたから一緒に葬られることは自然だったのである。今は共同性が得られにくいから死ぬ場所をどうしたらいいとか悩む時代なのである。

2012年12月05日

忘れられた川や海への視覚 (津浪で海が意識された-多賀城の近くにも津浪-相馬藩の中村へ城の移転の謎)


忘れられた川や海への視覚

(津浪で海が意識された-多賀城の近くにも津浪-相馬藩の中村へ城の移転の謎)


●多賀城跡に吹いた海の風


陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる壷の碑外の浜風 西行


多賀城の壺のいしぶみに立って外の浜風を感じることは普通はない、そこが海への視覚が失われたためだった。岩切のことで書いたけど鴎が七北田川にそい飛んできてそのことを俳句にした。そしてそこで冬だったけど海から吹いてくる風を感じたのだ。川をさかのぼって吹いてくる風である。鴎も意外と川をさかのぼって川を道として上流に飛んでくる。多賀城駅の側を流れる砂押川がありそこにも鴎が飛んできたのである。多賀城のあったところの近くにも砂押川が流れていた。これは小さく感じるが古代ならそれなりに広いものだったかもしれない、堤防もないから古代の川は広く流れていたのである。多賀城辺りで今は市街地化してほとんど海を感じられない、完全に都市の景観の中に海は遮られて見えない、まず海を感じることがないのだ。だから多賀城で感じたのはむしろ遠くに見えた蔵王とか泉が岳とか連なるみちのくの冬の山だった。そこにすでに雪の冠雪がありここから大和を奈良を望んだら古代ではどれだけ遠いかと感じた。


冬の山さえぎ遠くは大和かな


こんなふうになる。そこに海の視覚は全く欠落しているのだ。そこでどうして西行が外の浜風を感じたのかと今なら思うだろう。ところが今回の津波でわかったことは海が実際は近く古代は海は近くに望まれていたのだ。多賀城でも海は近い感覚の場所だった。市街地化した建物などがなければ海の風を吹くのを感じられる場所だった。海は江戸時代までは北前船などや塩田を作ったりと生産交通の場であり漁業も盛んだから海は生活と密着していた。縄文時代から海は豊かな漁場であり松島辺りだと貝が大量にとれる住みやすい場所だったのである。東北博物館でもいかに多くの種類の魚をとって暮らしていたかわかる。縄文人が食にまずしいということは一概に言えない。新鮮な魚や貝には恵まれていたのだ。日本自体が縄文時代は海の幸に恵まれていた。今回津波に襲われた所は実際は海の幸が豊富な所であり縄文人がその幸に恵まれて暮らしていたのである。


tunamitaga222.jpg

●忘れられた海や川の交通


江戸時代までは海や川の交通が大きなものとなっていた。明治になると鉄道になり交通としても忘れられてしまった。陸の交通はいろいろ山などが障害となりむずかしかったから川や海の交通が欠かせなかった。飛鳥でも奈良でも大和川とか大阪の難波の海と通じて交通があった。それは万葉集にも歌として残されている。

泊瀬川 夕渡り来て 我妹子が 家の金門に 近づきにけり


万葉集巻九・1775

と、万葉集にも詠まれている初瀬川だ。
古くは泊瀬川と書くことが多かったが、これは大和川を溯ってきた舟がここで停泊する瀬であったことに由来するのであろう。事実、仏教伝来の地とも言われているこの場所は、大和川を通じ瀬戸内海、ひいては大陸ともつながる交易の地であったと推定されている

後に「つばいち」と呼ばれるようになったこの場所ではあるが、万葉集の時代以前は「つばきいち・つばきち」と呼ばれていたであろうと考えられている。「山辺の道」「上つ道」「泊瀬道」「山田道」「横大道」といった古の主要道が交わる立地に恵まれたこの地は水上交通の要衝であっただけではなく陸上交通の要でもあった。
http://soramitu.net/zakki/?p=543


川の交通は大和川となると難波の海まで通じていたから長距離であった。でも川の交通は短い距離でもあった。むしろ短い距離が多く水駅がもうけられた。水駅は川の駅だった。南相馬市の泉官衙跡、廃跡も新田川と結ぶ運河があったことが発掘でわかった。新田川を利用するとしてもその距離は短い、さらに運河まで作ったというから荷物を運ぶのには川は古代ではどうしても必要だったのだ。泉官衙跡には米などが結構大量に運ばれていたのである。それで神火騒ぎがあったことでもわかる。米などを貯える倉もかなりあったのである。水駅というとき中世にもそれが継がれていた。

岩切で考察したように河原市場があったということでもわかる。舟が湊浜を通じて昔の冠川(かむり)から荷が運ばれていた。海を結ぶのが中世までは川だったのである。交通における海と川の役割は現代になり全く見えなくなっていた。交通が変わり時代が変わるのである。江戸時代は鉄道ができて交通が変わり栄えた港は過去のものとなり歴史を偲ぶだけになってしまったのである。鉄道から車になったらよけいにそうである。川でも海でも交通として死んでしまった。ただ自分は旅をしたとき船旅を相当した。北海道に行くとき必ず太平洋フェリ-で苫小牧に行き北海道を回ったのである。
一日泊まっても北海道に行くには便利だった。船の交通は陸よりずっと便利なのである。もちろん昔の船は今の船とは大違いにしろ危険にしろ船だとかえって便利だから北前船で栄えたのである。


●相馬藩の成立にも船の交通が関係していた


小高から中村へ(戦国武将相馬義胤の転換点) 岡田清一
http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2011/pdf/bk2011no09_01.pdf

をインタ-ネットで読んで面白かった。中村に相馬義胤が城を移動した理由を考察している。小高を根拠としていたが海岸の村上に城を移動して
原町の牛越城に移動したりとしたのはなぜか?それは一つは在地に根を張る一族の権力を弱めるためだったという。その一つの証拠として泉官衙跡があった泉田氏を改易したことにあった。ということはここでは何か湊が古代から中世とかまであり海との交通があった。何らか海との関係が継続していた。桜井古墳も海に近く新田川の川岸にあった。川と海が交わる要所にあったのが桜井古墳だったのである。津波は桜井古墳のすぐ近くまできていた。何か津波を想定していたような場所にあったのである。そもそもなぜ泉官衙跡があんなに海に近い場所にあるのか?それが疑問なのだがやはり何らか海との交通があったのかもしれないととるのが自然になる。そこで古代から開け泉長者とかその継続として泉田氏が勢力をもっていたのである。それでそれをそぐために牛越城を相馬氏が構えた。相馬氏はまだ在地の勢力をまとめるまでにはなっていなかったのである。

それから小高でも塚原とかに湊があり交通があった。

murakami111.JPG

クリック拡大!

村上に城を作ろうとしたのは湊があったからともとれる。海への視点があった。海は塩田であり漁業であれ交通であれ古代から重要なものであった。松川浦の宇多の湊は知られていたらしい。磯部も重要な湊の役割があった。南相馬市の鹿島区の海老も今生きている90才の人が言っていた。海老から帆掛船が出ていたとか湊があった。確かにそれは江戸時代である。江戸時代になると新田開発が盛んになるから海側へ干拓して住む土地が広がっていった。だから中世からの湊がありそこに交通があり物資や人が往来するということが想像しにくい、むしろ村が拡大したのは新しい村ができたのは米を作る開拓ができるようになったからである。それで青松白砂の風景ができた。田んぼを塩害から防ぐために防潮林の松林が海岸線に延々と作られたのである。それが今回の津波でほとんどなぎ倒されたことは衝撃だった。400年前にも今回と同じ慶長の大津波があった。その時の被害も大きかったが相馬藩から宮城県の六郷に移住している武士がいた。そこは津波の被害が大きい所だった。相馬の和田で津波の被害にあった農家の人が言っていたが塩害でも米は育っているという、意外と津波でもそれなりに回復して米は作れたから伊達藩ではどうしても江戸に米を売る必要があり津波の後も米作りをしたから相馬藩の人もそこで必要とされたのである。
いづれにしろ海の交通とかは忘れられ安いのである。古代になると特にそうである。みちのくの真野の草原(かやはら)は湊だった、地名だったと自分が解釈したが塩崎の船着とか市庭とかの地名が将にそれを示していたのだ。多賀城でも市街地化しているけど船塚とかあり海が奥まで入りこんでいたし沼も多かった。多賀城下まで砂押川をさかのほって津波がおしよせたのである。歌枕の末の松山が当時の津波と関係していたことがその時有名になったのは今回の津波でも証明された。


相馬藩では中村に城を築いたのは伊達に対抗するためだという説が大方をしめていた。それだけではない内部の時代の変化に適応するためでもあった。もし海の視点があり船の交通のために中村に城を築いたことが一つの要因とするとこれも意外だなと思う。
それは義胤が


najima1111.JPG

この見聞が影響したというのも面白い。でも宇多の湊は中村城下からは遠い、それでも当時はもっと内陸に海が入っていたのでそうでもなかったかもしれない、ただ海の視覚から中村城を築いたとは地理的には地元の人でも思えない、むしろ背後の山を防御として意識したとか思う。松川浦でも中村城だと遠く感じる。小高はむしろ海が近いし津波が小高駅まできて小高城まても近い距離にあった。不思議なのは慶長の津波の一か月後に中村城が築かれているのだからなんらか津波の影響があり中村城を作った。内部的事情があり津浪があったのだから小高では危険だとなり中村に移動した。

2012年01月11日

焼畑時代の名残りの万葉集の歌 (安達太良の雪形-粟蒔入道)


焼畑時代の名残りの万葉集の歌

(安達太良の雪形-粟蒔入道)

●春日野は焼畑だった


ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野辺に粟蒔かましを


梨棗黍に粟次ぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く


あしがらの箱根山はこねのやま粟蒔きて実とは成れるを逢無くも怪し


よみ: 春日野(かすがの)に、粟(あは)蒔(ま)けりせば、鹿(しか)待ちに、継ぎて行(ゆ)かましを、社(やしろ)し恨(うら)めし

春日野とあるのも野は元は焼畑と考えた方がよい。焼畑があり鹿がいる。そういう光景があの春日野の光景だったのだ。今はあそこから巨大な大仏殿が見えるのだからいかにあそこが文明化したかわかる。

http://www.musubu.jp/chimeitouwa1.htm


この歌が何を意味してるのかわかりにくい、神の社とは何の社なのか?焼畑から稲作に移る過程でできた社なのか?稲作の神が祭られたのか?粟と鹿というとき焼畑時代のものだろう。鹿の血を畑に蒔くとか田んぼに蒔いて豊作を祈るという風習も焼畑時代のものである。月見の行事に芋や団子を供えるのも焼き畑時代のものである。太陽より月が信仰になっていたのが焼き畑時代だった。天照神になったのは太陽神になったのは稲作になってからである。ここに何か春日野辺りに大きな時代の変化が稲作への変化が起きてこの歌が生まれた。大仏殿ができたところだかちら社からさらにあれだけ巨大なものができたのだからあの辺は変化が激しかったのである。鹿待ちにということ鹿を待ち伏せるとは鹿を刈りしていた狩猟時代の感覚である。万葉集時代はまだ狩猟時代が継続されていた所がある。だから狩りの歌も残っている。生々してものとして残っている。稲作がはじまると焼畑は否定的に見られる傾向になりその神や風習も軽んじられる。天照神が第一位の神となった。ただ焼畑時代のものはその後も祭りとかでいろいろ残されているのだ。その一つは月見の行事である。焼畑の地名も全国的に多い。焼畑は稲作のように余り技術を擁しない粗放な原始的農業だった?だからいたるところで最初に焼畑が行われた。燃やして灰が肥料になるからだ。海辺の村でも漁港の後ろが焼畑地名になっいる。牡鹿半島辺りでも山が佐須とか焼畑地名があり飯館村にも佐須がありいかにも焼畑が行われていたという奥地なのでてある。


宮地の文章によれば、神饌御進供で、天皇はまず米飯を3箸、つぎに粟飯を3箸、枚手(ひらで)に盛り、陪膳の采女に返し、陪膳はこれを神食薦(かみのすごも)のうえに置きます。御飯の枚手は10枚、供せられます。

その後、4種の鮮物、4種の干物、海藻汁漬、鮑汁漬、4種の果物が供され、さらに白酒黒酒が供され、そのあとに米の御粥、粟の御粥が供されます
http://izasaito.iza.ne.jp/blog/entry/2543033/


日本では米を重点に語られるけ実際はこのように海の産物から粟とか雑穀から多様な食があった。それは戦前までつづいてきたのである。戦後十年後くらいから白米だけになった。雑穀は忘れられていったのである。


●安達太良山の雪形、「粟蒔入道」


これも何のことかと思った。山の中に分け入り粟をまいている姿が雪形として残る。それを目安として農作業をはじめた。
http://blogs.yahoo.co.jp/wmoth155/19417639.html


「種まき」「豆まき」「粟まき」「代掻き」「田打ち」などをしている人物や馬、牛、鳥など身近な動植物、文字、農具類等がある


雪形は農民の生活と密着していた。普通だったらこんなふうには見ない、日頃こういう仕事をしているから実感として自然になったのである。農民の命名の仕方は美的なもなどない、地名も便利なものとして生活に密着してつけられていたのだ。そこが勘違いしやすいのである。


 安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)の ありつつも
   我(あ)れは至らむ 寝処(ねど)な去りそね 」 
          巻14−3428 作者未詳


これなども狩猟時代を彷彿とさせるものである。鹿や猪の寝床になっている所を知っているというのは山を相当に知っていないとこのような歌は生まれない、熊を狩猟するのも春でありその冬眠している穴を知っているからできるし危険なことである。安達太良というとき飯館村との境の水鏡神社を越えると川俣に入ると安達太良山が見える。あそこを境にして中通りであり安達太良の見える領域になる。だから農作業をしながら安達太良山が見える。安達太良の大きな影が消えるのは川俣から水鏡神社を越えて飯館の方に入った時なのである。山というとき蔵王は南相馬市の鹿島区の八沢浦とか岩沼の海岸線とかからも見えた。阿武隈川が海に出る辺りにも残雪の蔵王が見えて美しかった。安達太良は浜通りからは飯館からも見えないのである。だから水鏡神社を越えたとき二本松を意識する。日本は山で峠で境界を意識するのである。


吾も休み農夫も休む道端に安達太良望む秋の夕暮


農作業しながら安達太良が見えるのが川俣だった。川俣は二本松の領域なのである。

2010年01月12日

松島瑞巌寺の歴史的背景(伊達政宗について)

matushimakanshi12345.jpg


松島瑞巌寺の歴史的背景(伊達政宗について)

●政宗の松島を賞す漢詩

中秋月を松島に賞す   政宗
  
今宵月を待って吟きょうに倚(よ)れば
  
蒼海茫々一気濃(こまや)かなり
  
思ひ見る清光佳興しきりにして
  
道人も緩く打たん五更の鐘

この漢詩も佳作なのだろう。五更の鐘とは朝四時頃とある。蒼海茫々としてあるごとく瑞巌寺は海に面した寺だった。BSの朝日テレビで放映してたように瑞巌寺は政宗が建立したものであり伊達家の菩提を禅宗の寺だった。武者隠しなどがあるからそもそも戦国時代から寺は武士の菩提を弔うことを第一とした建てられていた。また金沢の寺町とかあるけど要塞としての役割もあった。城の延長として寺があった。だから戦国時代が終わると役所の役割も果たしたのである。瑞巌寺がどうして青葉城近くに建てられなかったのか、海に面して建てられたのか?やはり政宗はスペインに支倉常長を派遣したように海を意識していた東北ではめずらしい英傑だった。戦国武将で漢詩を作ったのは政宗くらいしかいないということでもいかに文武両道の達人だったかわかる。文に優れていれば武に劣るし武に優れていれば文に劣るのが普通だからだ。

●瑞巌寺は第二の城だった

例えば、参道が途中で屈折して本堂が見通せないことや、庫裏の「煙出」は事実上の望楼であること、巨大な武者隠しの存在や矢弾の貫通を防ぐ厚い畳など、単なる菩提寺とは思えない防御が整えられている
http://golog.nifty.com/cs/catalog/golog_article/catalog_002888_1.htm?page=2


大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし」(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)。(『東奥老子夜話』

ここは寺というより第二の城郭だった。しきり民衆の安寧を祈ったというのも違うだろう。東北の民は貧乏だったし伊達家が華々しく装ったのは無理をしていた。それは参勤交代が影響していた。江戸では見すぼらしくしたくない、諸国の大名と威勢を張らないとならない、伊達者というとき派手にしたその裏はかえって東北の貧しさ故だった。これは宮本常一の指摘である。これは別に一国のことではない、個々人でも家族でも見栄を張るのは普通である。近親者にそういう人いたしそういう人は普通にいる。実際に金がないと思えなかったのである。実際に見栄を張って家業が倒産したとかもある。つまり江戸で伊達者とか派手な姿をみていれば事情を知らない人は豊かな暮らししているのかと錯覚するだろう。その頃情報が不足している。でも実際に東北に来た人は仙台でも貧しい街だったと驚いている。実際に東北を見た人はすぐに貧乏だとわかったのである。東北の民衆は疲弊していたのである。東北にはそもそも関西のように豪商が育つことはなかった地域である。中産階級が育たない、侍と貧乏な農民しかいなかったのである。だから会津が薩長に攻められても町民は傍観していたしかえって歓迎したというのはそのためである。会津の北にむしろ喜多方が町人の商人の街として栄えることになったのである。喜多方-喜び多い町になったのである。

大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし」(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)。(『東奥老子夜話』
瑞巌寺も豪壮なものにししてもやはり民衆の犠牲があった。殿様の間を作るのは普通だがその臣下の集る間まで作るのはまれだろう。ここは伊達家の重臣が集る場でもあった。だから仏教的色彩より武家的な豪壮なものとして作られている。安土桃山文化の華やかな色彩が黄金の襖に残された。それ以上にここが第二の城だからこそここで政宗が家康の幕府に攻められたら自害まで覚悟していたのだからやはり第二の城のような作りになったのである。

いづれにしろやはり民衆的な寺ではなかった。そもそも寺は民衆的な場所ではないのだ。武士にはたいした戒名をさずけるが民衆は姓も戒名も格が落ちるとか差別があった。それで明治時代になり民衆が豊になり立派な墓を造りたいとか武士と並ぶ格の高い戒名をさずけてもらいたいとかなった。これも馬鹿げているのだ。また廃仏毀釈が起こったのは神社側が江戸時代に武士社会で不遇だったからその恨みだったというのもやはりそれだけ寺が武家の菩提寺として優遇されていたからである。だから瑞巌寺に参るとき伊達家の菩提に参るのかということにもなる。歴史的にそういう性格の寺になっているからだ。純粋に僧が修行する寺とも違うのである。仙台の定禅寺通りも有名で度々書いてきたけどやはりここも政宗が禅宗を学んだから禅寺があったところである。宮城県には禅宗が多いのもそのためである。

●伊達政宗の側室に朝鮮人?

伊達政宗にしても歴史的人物ならいろいろな見方がでてくる。政宗の側室は多い。
新造の方、飯坂の局(松森御前)、塙直之女、阿山方、弘子姫、香の前(お種)、勝女姫、妙伴、
朝鮮人女子某
朝鮮人側室とともに、隠居所である若林城(現宮城刑務所)と政宗が再建した松島、瑞厳寺に、朝鮮から持ち帰らせた「臥龍梅」が残っている

政宗正室。三春城主田村清顕の女。母は相馬氏である。文禄・慶長の役で秀吉は朝鮮が陶工を連れてきたことは知られている。女性も連れてきていたのだ。女性は戦国時代では戦利品の一つだったのである。側室というのも政治の道具として女性が使われていたから多かった。必ずしも色欲からではない、戦国時代の習わしだったのである。ただ今からすると和歌もうまいし漢詩もたしなみ武将として優れているし政治家としても抜群だとなるとそういう人は今の時代にはいないのだからいかにその当時は総合的人間として育つ環境があったことを証明している。現代ではこうした総合的人間が育たない、育てられないということにかえって後退しているのである。武士の教養はやはりその生活そのもの城の中で武家の屋敷で自ずと育つ環境に庵たのである。学校とかでは養われないものが日々の生活の中で養われていたから違っていたのだ。安土桃山時代は国際的な時代でもあった。武士の間では絢爛豪華なものが好まれたのである。

滴水瓦が日本に普及するのは16世紀末で、文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)に従軍した武将が帰国後に城郭建築に使い始めた。これは異国趣味がブームとなった桃山時代の気風を反映しており、それ以前の日本建築にはこのような異国的な瓦は受容されていない。高麗瓦とも呼ばれている
http://musubu2.sblo.jp/article/29286555.html

相馬藩の大手門は大手高麗門と呼ばれているから明らかに伊達藩から朝鮮出兵の折りその技術が伝わり作られたのである。伊達藩と相馬藩は常に密接な関係があったことの証明である。
松島は古くは中世は霊場であった。

だから鎌倉後期にこの島を訪れた一遍上人(時宗の開祖)の高弟、他阿弥陀仏(たあみだぶつ)は

紫の雲の迎いを松島や仏みるてふ名さへなつかし

と詠んでいる。

(松島三句)

みちのくの松島に満つ淑気かな

松島に鴨の百羽や暮れにけり

冬の海鐘鳴り暮れぬ瑞巌寺

冬の短歌十首-東北の歴史的地政学

http://musubu2.sblo.jp/article/33693754.html



雪の松島-俳句、短歌-政宗のこと http://musubu.sblo.jp/article/35083956.html



2009年11月17日

みちのく冬の短歌十首(東北の歴史的地政学)


みちのく冬の短歌十首(東北の歴史的地政学)


伊達の領広がる春や海の風

霊山に木枯らしうなり木の葉舞う南朝滅び逃れし裔かな

山国の城にしあれや会津藩雪に埋もれて京は遠しも

政宗も天下を狙う青葉城夢はついいて北風唸る

政宗の陣を張りたる名護屋城韓国望み冬の海見ゆ

義経も政宗もまた会津藩も無念を残すみちのくの冬

政宗の大軍率い繰り出しぬ天下制覇も春の夢かな

支倉を欧州に派遣その船に夢をたくして望む海かな

みちのくに蝦夷の恨みや木枯らしのうなり吹きつつ森の鎮まる

みちのくに南部藩あり一国や城跡静か冬に入るかな

伊達藩に相馬は抗い境の木北風唸り木の葉舞い散る

(丸森-戊辰戦争の碑)
伊達藩の防ぐもあえなく討ち死にや墓に無念や木の葉舞い散る


弘前に朝雪の降り最果ての城跡訪ね我が去りにけり

朔北の蝦夷の地なれや浄らかに雪はふるかな弘前の朝

 


東北でも弘前までとなると相当遠い、弘前城は最果ての城である。雪でも信濃の雪でも会津の雪でも越前越後の雪でも京都の雪でもみな違っている。一茶の生まれた信濃はどんよりと曇って雪に閉ざされる陰鬱な所だった。それとは対照的に弘前の雪は明るかった。朝に降った雪の光景は忘れることができない、本当に雪に浄化された光景だった。雪の感覚も場所と時で相当みな違っているのだ。旅をするときやはりその場所を歴史的見地から見ないと印象に残る旅はできない、日本だとその人にもよるがそれなりに歴史をさかのぼり見ることができる。一応城があればここは江戸時代にさかのぼる。それにしても津軽とか弘前になるとみちのくでも最果てである。実際青森県は最果てであり秋田県でも東北では遠い、みちのくというとき福島県と宮城県の範囲でありそれ以外は本当に化外の地域だった。それがわかるのは伊達政宗が日本歴史上はじめて中央の政治に影響力を及ぼしたことでもわかる。秀吉と渡り合ったがかなわなかった。それでも伊達藩の領域は東北では最大になった。伊達藩から東北を見るときどうなるのか、相馬に住んでいれば相馬藩として見るのだが伊達藩から見るとまた視点が違ってくる。伊達藩が拡大化したとき最初伊達郡でありここでは海を望んでいない、政宗は若いとき海を望むことがなかった。山国の人だった。やがて領地が松島や石巻に拡大したときそこが東北で唯一の内海と島があり太平洋に開けていた。それで太平洋をわたり支倉常長を欧州に派遣する事業を計画しえた。


そういう壮大な世界的視野をもつことができたのも海を望み船を作り得る内海と島を持つようになったからである。相馬から仙台まではそうした大きな内海がない、入江がない、だから太平洋だけが荒寥として広がりそこから太平洋に乗り出して欧州まで渡る視野がもてないのだ。もちろんそこには宣教師の力を借りたからできたことでもあった。ともかく政宗がそれだけの大きな視野をもち得たのは松島などの内海に領地を広げたからである。会津を見ればわかる、山国に閉ざされて海を見ることがないから閉鎖的になり時代から遅れて最後は悲劇となった。海でも太平洋と瀬戸内海を比べるとあまりにも違いすぎている。それから伊達藩は一見大藩でも実際は商人は力をもちえなかった。豪商とかは東北ではいなかった。西では豪商がかなりいて明治維新を応援したのである。東北はそれだけの経済力がなかった。薩摩も中国の貿易で経済力があったのだ。やはり経済力が基盤にないと大きな力となりにくい、実際個人的なことになるが百万円という金を今まで自分は自由に使ったことがなかった貧乏性である。それで自分の自由に庭作りした。金があれば小規模でも文化は作れる。個人的には家作りでも庭作りでも最大の事業だからである。その個人的なものを拡大化したのが大きな文化、ルネサンスを起こしたのである。フィレンツェのメジチ家がそうである。財を蓄えて文化に費やしたからあれだけのものが作りえた。それは天才の成果だけではない、そのバックに蓄えられた財とか技術とかを運用する力があったためである。だから豪商は立派な庭を残したりするのもそのためである。一個人でも何億とかあれば自分なりの庭作りができるからやはり東北には財がないからルネサンスは起こらなかったのである。

いづれにしろ東北は権力争いに敗れたものが逃れる場所であり中央の政治で覇を唱えることが遂にできなかった。そういう風土でもあった。だから芭蕉のような敗者に同情をよせる詩人には合った場所だったのである。

月さびよ明智が妻の話せん   義仲の寝覚めの山か月悲し 芭蕉

木曽殿と 背中合せの 寒さかな  又玄

東北には古代からそうした敗者が葬られた場所だった。蝦夷森と各地にある。これは東北だけではないがやはり東北には多い、いづれにしろ東北にしても実際は相当広いのだ。とても一くくりで語れるものではない、すでに福島県自体が大きい、会津は山国であり古代から別の一国であるから福島県を歴史的に一つの国と見ることができないのである。

2009年10月28日

秋から冬(霊山近辺(大石について)-短歌十首)


秋から冬(霊山近辺-短歌十首)



筆甫へとこの道つづく知らざりき鳥けたたまし秋の朝かな

秋となる伊達と相馬の境かな興亡終えてひそかなるかも

霊山の秋こそあわれ南朝の夢は潰(つい)えぬ木の葉散るかな

霊山に寥々と鳴る風の音滅びの跡や冬に入るかも

古霊山奥に巌のものさびて落葉を踏みて陽の落ちにけり

大磐に清流響き大石や稲の刈られて虫の鳴くかな

大石に楮畑(こうぞ)の名の残る昔の暮らし思いやるかな

大石の細道上り下りして高きに棲むや吾妻峰望む

行合道あとにし坂越え佐須にきて大倉に下る秋の夕暮

霊山ゆこの道遠し真野へ行く落武者思ふ秋の夕暮

故郷の大地の上にともに住み冬に入るなり分かち合うべし



霊山へ向かう途中の玉野までの坂は結構きつい、その途中に落合があり川が落合ところでありそこで松房ダムへ向かう道がありそこから丸森の筆甫と出る道があった。ええ、こんなところから丸森へ行けるのかと思い地図を調べた。すると確かに筆甫へ出る道だった。山深いからこんなところから筆甫へは普通は行かないだろう。この筆甫から夫婦岩がありあれここから夫婦岩に上れるのかと思った。この道はまだ行っていないから次に行ってみよう。最近霊山の方は行っていなかった。前は霊山にも何回か上った。霊山の大石にも何回か行った。細道を上る高いところにある。あそこの場所もかなり高い場所になるのでどうしてあんな不便なところに人が住むようになったのか?人間は不便な山の中でも山の高いところでも住んでいる。むしろ不便な所に人はあえて土地を求めて住むようになる。チベットではなぜ家が高い所高い所に移っているのか、それはやはり不便な所に土地を求めて住んでいるからだ。外国に出稼ぎに出るわけにも行かない時代である。今はインドに出稼ぎに行っている人が多い。ともかく上に拡大するほかなかった。南相馬市鹿島区の栃窪の上萱もそうなのだ。あんな高い所に不便な所になぜ人は住んだのか、わずかの土地を求めて住んだのである。大倉でも奥の方に住んでいた人は戦後になって開拓に入った人だったのかもしれない、それだけ新しいのであり奥地に住んでいる人が昔から住んでいたとは限らないのだ。大石でもあのような高いところでわずかな田畑にしかならない、どうして生活していたのだろうかとなる。楮畑(こうぞ)とかあるから和紙の材料を提供していたのか、ここには江戸時代から生活があったのだろう。大石というときあそこには実際に大きな石が多い、霊山から流れが落ちひびく気持ちのいい場所である。 入高野とかの地名もふさわしい地名である。ここでも問題になるのは村の新旧なのである。ここがかなり古い村であった。霊山に由来するからその頃から人が住んでいたからである。根小屋遺跡などがあるのもそのためである。

昔と今考えるとその相違が大きすぎて単純なことすらわからなくなっている。世界中と貿易して世界中の物産が入ってくる時代と村の単位で自給自足していた時代は余りにも違いすぎるからだ。そういう不便な狭い地域でどうして暮らしていたのか、でもそれは車がない時代にしても50年前とかでありそんな古い時代ではないのだ。そういう交通の発達しない狭い地域で生きることが想像できなくなっている。霊山も養蚕が盛んだったのだから現金収入の道はあった。でもあんな高いところに車もない時代に行き来するのは大変である。となると自ずと村は協力しなければ生きていけない、秋から冬となり冬ごもりとなる。やはり貧しい村では協力が必然的に行われていた。そうしなければ生きていけいなのが昔だった。貧しいからこそ人は協力し合う、豊になると協力し合わない、豊になれば協力する必要がないのだ。貨幣経済がこのように発達すれば金があれば何でも買える、人さえ金で買える、金で介護でも何でもやってもらえるとなる。金がなければ互いに協力するほかないが豊かな時代は金がすべてとなりやすいのである。

人間はもともと大地の上で生きている。ところが東京を見ればわかるように大地から全く遊離したのが大都会である。そこに住んでいる人は大地とかどこから食料が供給されるのかとか意識する必要がないのだ。日本の国土すら意識しない、食料は安い中国産でいい、高い日本産はいらない、日本の地方は過疎地に都会の税金を投入するな過疎地はいらないとか日本の国土としての一体感すらないのだ。コンクリ-トの人工の島からしかイメ-ジできない、日本はもう破産するから外国に逃げるべきだとかもなる。日本国土があり日本人があるんだがそういう思考すらなくなる。金だけが頼りの金融資本主義のユダヤ人的思考になる。人間のまともな思考は大地と結びついた田舎からしか起こらない、奇怪に巨大化した大都会から起こり得ようがないのだ。





大石の写真
http://zuiunzi.net/igu/bsrisuto.g1/3.html

2009年05月02日

井戸の話(沢庵和尚の春雨庵から・・・)


井戸の話(沢庵和尚の春雨庵から・・・)


寛永六年、紫衣事件に連座して徳川幕府によって京都大徳寺を追はれた沢庵禅師は、出羽国に配流の身となった。山里の春雨庵と名づけた庵で、茶や歌に親しみつつひっそりと暮らした。この庵に山乃井といふ井戸があり、マサといふ名の里の娘がよく水汲みに来た。時折り娘が届けてくれる里の花や、彼岸のときのおはぎや、また村里の話題は、老僧のなぐさめであった。

沢庵和尚はここに上山に流罪になり春雨庵に三年住んだ。その詳細はわからないが井戸に注目した。昔は水はもらうことが多かったのだ。これは前にも書いた。町では「水をください」ともらう人が多かった。また水は場所によっていい水と悪い水がありいい水の出るところにもらいに行った。今でもいい清水が出るところには車で水を運んでくるのと同じである。水は生活の基本でありかかせないから井戸は生活の中心としてあった。だから井戸をめぐる話は無数にある

海に近い五島町一帯などは 塩水で特に水質が悪く、山手の井戸からもらい水をしていたので「五島町の水乞食」とまで いわれた。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/character/kurata/kurata.html

三年を過ごしてここに井戸の水もらいし娘心に残りぬ

朝顔に(や) つるべとられて もらい水 千代女


名所旧蹟を訪れるときはこうしたちょっとした話が大事である。そこからイメ-ジをふくらませる作業が必要になってくる。あまり井戸に水もらいにきた娘のことに注目する人は少ないだろう。でもそこに一つの物語があり昔を偲ぶことができる。昔を偲ぶということはそれなりに努力が必要なのである。漠然としても浮かんでこない、想像力が必要になる。ここを訪れたのは実に三〇年前以上だろう。でも覚えていて今思い出し書いている不思議がある。この時は冬であり雪だった。


竹に雪沢庵和尚の庵の跡


今思い出して一句作ったのである。


「堀兼=ほりかね」とは, 井戸を掘るのに困難を極めたため「掘りかねる」の意味でつけられた, と言われているそうです。
http://hamad.web.infoseek.co.jp/0311/maimaizu-com.html

江戸時代になって縦に掘る井戸が作られた。その前は湧き水が中心だった。江戸時代はまさに井戸時代だったのだ。だから井戸を掘るのに苦労した物語が生まれる。井戸は水は生活の要だからそうなった。

「神田の水で産湯を使い…」「玉川の水で産湯を使い…」とは江戸っ子が啖呵(たんか)をきるときの決まり文句。 実は「神田の水」というのは、神田上水の水ということ。同じく玉川の水は、玉川上水。現在、JRに水道橋という駅がありますが、この「道」が、まさしく、その上水道です。江戸っ子は、川の水や井戸の水などではなく、水道水を使っていることを自慢しているわけで、そうした近代設備のない田舎者を見くだす文句として、この言葉を使ったのです。
 http://www.norenkai.net/shinise/jien/main04sa.html

江戸は海であったところを埋め立てた地で水に苦労した。水売りも商売になった。水道橋はまさに江戸時代、文明の象徴的なものだった。ロ-マの水道橋と同じであった。それはとても田舎ではありえないものだったのだ。水道橋は江戸時代を象徴した駅名であったのだ。

水売り
http://www.cleanup.co.jp/life/edo/05.shtml

下町一帯の神田上水、多摩川上水、千川上水も、みな土中の伏樋を堀り捨てて鉄管にしてからは神田児(かんだっこ)の産湯の水もなくなったわけで江戸っ子と移住人との限界の崩れてきたのも上水によって暗示されているのはおもしろい、(折口信夫)

もともと水はその土地土地で違っていた。それが水道管から流せば一様になる。みんな同じ水を飲むようになる。印半纏なども地域によって違った模様だったが明治以降制服になり一様化した。江戸時代の方がみんな土地に根ざしているから多様だった。文明は交通の発達で一様化規格化されることなのだ。とにかく水は生活の要であり水なくして一日ははじまらない、だから文明自体、川の側とか水の辺り、一番水の利用しやすい所に生まれたのである。

「白井宿」という呼称だが、厳密な意味での宿場町ではない。
古文書には「白衣」の記述も見られるが(この地の領主の奥方が白い衣をまとっていたこと
に由来するとか)、井戸への羨望から「井」の字を当てるようになったという。

これなどもいかにいい水がほしいか、井戸がほしいかで名前まで変えた。井戸にまつわる話や泉にまいわる話が多いのはそのためである。