2025年04月12日

桜咲く梁川から丸森へ歴史の道−短歌十首【丸森の金山城の歴史、伊達政宗から伊達市になる歴史】


桜咲く梁川から丸森へ歴史の道−短歌十首【丸森の金山城の歴史、伊達政宗から伊達市になる歴史】

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梁川に攻防ありぬ要衝の地そも古りにしや春に訪ねぬ

攻防の拠点にあれや訪ぬれば何かありなむ春の梁川

阿武隈川蛇行し流れ渦巻きぬ桜の咲くやはるか来たりぬ

阿武隈川流れたぎちぬかなたにそ吾妻山望み春の日暮れぬ

大張や桜の咲きて白石へその道知りぬ夕暮るるかな

正宗の初陣の地なり丸森を治めて名づく筆甫なるかな

正宗の海を望むや磯山に椿の赤く映えにけるかな

金山城春の夕暮れ伊達思い相馬思いぬ我が帰るかな

丸森や夕べ桜の心染むともしびあわれ相馬に帰りぬ

桜咲く伊達と相馬の境かな玉野の家々古りにけるかな



伊達氏は源頼朝の奥州征伐で功を立て、源頼朝に伊達郡を賜った関東武士で、伊達郡に入植して伊達氏を名乗るようになった。伊達郡は鎌倉時代以降、豊臣秀吉によって17代伊達政宗が転封するまで伊達氏の本拠地だった。梁川城は、4代伊達政依のころから、天文元年(1532年)に伊達稙宗が桑折西山城へ移るまで、300年弱にわたって伊達氏の本城だったと考えられている[4]。城の北方には伊達氏の氏神の梁川八幡宮があり、また、近隣には京都五山に倣って伊達政依が創建したとされる伊達五山と称される寺院があった

伊達氏が本拠を米沢に移してからの梁川は、蒲生氏を経て上杉氏の領地となります。上杉氏支配の段階に梁川城跡は、上杉景勝と軋轢を増す伊達政宗への対策として大規模な改修が加えられました(図1)。北三の丸に残る桝形虎口や大規模な堀跡・土塁などは、この当時の姿を良く残しています


なお伊達政宗の初陣は伊具郡(宮城県丸森町)での相馬氏との戦いであったが、その時に伊達軍の拠点となったのが梁川城で、政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をしたといわれている。



梁川は地理的に要衝の地だからこのように会津の蒲生氏と上杉氏と伊達氏がかかわったのである。その館があった所に池があったとか鎌倉時代にさかのぼる古いものである。ただ今はその遺跡でも土手くらいしか残っていないのである

ともかく伊達氏の起こりは福島県の伊達市である。宮城県ではないのである。だから正宗初陣の地は丸森なのである
金山城は相馬氏と伊達氏が交代で城主となった歴史がある。だから相馬藩の一部であったのである
それで相馬総合病院にその丸森の人が私が入院して同室だった。
その人がんだちゃと言った


東北人のずーずー弁は共通している
んだが語尾になる、

んだ
んだす 秋田県
んだちゃ 宮城県
んだは共通している、東北は蝦夷の地域である
ただ宮城県は仙台は商都でありそれでその語尾は

だっちゃ、だっちゃ、

となる、この語尾が特殊なのだ、これは大阪弁のように押しが強い語尾なのである
んだは口ごもるような言葉である、そういう傾向が東北人にはある
宮城県は伊達藩は正宗が出たように特殊なのである
あのような芝居かっかたような人はいないからである

んだちゃはんだ+だっちゃなのである。それは金山城の下に住んでいれば二つの方言が合体してできた方言だとなる
新地の人もだっちゃというとき新地は伊達領だったからである。それで訛りは国の手形となった
どこの土地の出身か訛りでわかる。


ともかく梁川では会津でも米沢藩でも伊達氏もかかわった。それは地理的要衝の地だったからである
丸森の木材資源でやはり米沢藩と伊達氏と相馬藩は三つ巴の争いがあったのもそのためである。
現実に丸森の金山城は相馬藩と伊達氏が交互に城主になっているからである

1564年(永禄7年)または65年(永禄8年)に相馬氏の家臣井戸川将監、藤橋胤泰が築城したと言われる。その後伊達氏と相馬氏の争奪戦が展開された。

天正9年(1581年)には伊達政宗が初陣を飾り、同12年(1584年)に伊達氏の領有となった。

そして、金山城は政宗の家臣中島宗求が2千石で拝領した。江戸時代は元和の一国一城令により金山要害と称し、引き続き中島氏が明治維新まで居住した。

伊達政宗が領内検地した際、最初に記入した土地である由縁で「筆の甫(はじめ)」を意味して名付けられたとされる。

ともかく丸森は相馬の延長上にもある。梁川となると相馬藩からすれば遠くなるが丸森は相馬藩と一体ともなる地理なのである
だから正宗が丸森が初陣の地となりさらに海に出て山元町の磯山に正宗が休んだ場がある。その時正宗は広い海を見たのである
でも仙台とか松島とかそっちの方が伊達藩になったので伊達市になっていることがピンとこないのである

また伊達と相馬の境となっているのが玉野村でありそこは相馬藩なのである。それはやはり伊達氏と早い時期から対立してそうなったのである



丸森町】筆甫(ひっぽ)キリシタンを守ったマリア観音堂(2016)

ここが詳しいので参照

角田から丸森へ阿武隈川を行き大張村から梁川へ 
(新緑と残雪の蔵王と阿武隈川―短歌連作)











2025年04月09日

春の平泉の短歌連作ーみちのくの都の跡には自然があり美がある


春の平泉の短歌連作ーみちのくの都の跡には自然があり美がある

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春日さし昔大路と我が歩み古思ふ都の跡かな

春の日や無量光院跡その池に映す影や夢にしあらむ

御池にそ春の陽まぶし影映す無量光院夢の跡かな

みちのくの浄土にあれや大池に春日耀ふ仏いますらむ

大池に映りきらめく春の星いくつや美し浄土なるかな

大泉が池岸辺広く礎石かな柱太しも春の日暮れぬ

みちのくの都の跡の大池に映す桜やたちまち消えぬ

みちのくの都の跡や若草に春の光や虹の切れ端

みちのくの都の跡や我が歩み古思ふ春の暮かな

藤原の三代の栄華金色堂まばゆく映えて春の夢かな

金色堂螺鈿の光り御柱に細工こまやか仏輝く

風荒れて義経堂の桜かな波乱の一生みちのくに死す

春の日にはなやぐ女なお若く桜に映えて大和撫子

(北上川)

北上川流れや遠く石巻海にそい出や春の風吹く

北上川蛇行し流るその岸の広々として春の日さしぬ

北上川広き岸にそ遊ばんや春の雲浮き心なごみぬ



平泉だと近くだから何回も行ける、それで四季に行っている。春には虹の切れ端が残ったのを見たのが印象的である
平泉の魅力は堂塔伽藍が焼失してもそのあとに何か残されたものが自然の中にありそれが美となっている
大都会だと自然の中に映えないのである。だから残されたのは無量光院跡であれば何もないのである
でも前に池があったことをイメ――ジする。それがかえって美しく見える
平泉は都だったしてもイメージしないと浮かんでこないのである

ともかく美は自然と調和するところにあり、大都会のビルの谷間や雑踏には映えないのである
いくら人間が人工的美を作り出してもやはり自然のなかにこそ本来の美がある
不思議なのはなぜ太平洋戦争とかで300万人死んだのにそれが語られないのか?
でも会津の悲劇は語られるのはなぜかとなる。それは美があったからかもしれない
悲劇であっても人一人の悲劇が語られる、そしてその後は純白の雪に覆われたのである

太平洋戦争とかでは原爆の悲惨な跡とか東京の焼野原とか言葉を失う情景である、そこでは言葉にできない余りにも無残なものになっている。失礼にはなるが会津の場合は確かに悲惨なのだがそれが語られるのは美しい自然がありそこで繰り広げられた悲劇だったからともなる、そしてその戦の後はまた純白の雪に包まれたのである

人間の暮らしを神が隠したという時そうした悲惨な悲劇でも自然があれば純白の雪に包まれ消されるということがある
それが救いとまなる。でも現代の戦争はそういうことがない、東京の焼け野原は余りの無惨でありそこには自然がないから
自然に包み隠されることがないから醜悪なものがむき出しになった無惨がある
そもそも大都会は美は消失した場でありそれで空襲でさらに無惨なものとなったのである

まず大都会はそもそも美は消失した場所でありそこには醜悪なものがむき出しになっている
つまり自然に包み隠されているとき本来の美がある。だから大都会から生まれてくるのは醜いものとなる
カルト教団でもそうである。そういう場所には美は全く生まれない、山で修行した僧とは余りにも違っている
そこではだから美がなく心も浄めらえることはない、殺伐とした世界なのである

それと比べると平泉は確かに堂塔伽藍は消失したのだがそこに自然があり自然の美が映えているのである
都会でも盛岡市とか岩手山が映え弘前市だと岩木山が映える、そこには美がある。仙台市とかなると大きくなり美が消失する
それでも広瀬川とかありそれが潤いを与えているのである

北上川は大きな川である。その全容はわからない、ただ北上川は石巻まで通じて舟運もあった。それは陸奥を貫き流れているとなる。








2023年10月03日

遠野の地名由来 (地理は地形を知り境界を知るー関ケ原、区界(くさかい)など)


遠野の地名由来

(地理は地形を知り境界を知るー関ケ原、区界(くさかい)など)


●遠野の地名

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(1) 閉伊の先、閉伊の奥の意味で呼んだ汎称「遠閉伊」の野原という意味
(2) 山間の遠い野
(3) アイヌ語のト(沼)ヌプ(野)
(4) 「東野」の意味で東方の野
(5) 「撓野(タワノ)」の転訛で、たわんだ地形の盆地  

「遠閉伊(とほのへい)」の下略形という。または「タヲ(ゆがんだ地形)」+「ノ(野)」の転か

こちらは閉伊という地域にあって、さらに遠い閉伊・・・閉伊の奥地という意味もありそうですが、遠い閉伊の野・・・から遠野となったという説も語られてはいる。


 遠野の語源に関しては「東方の野」からきた説や、たわんだ地形の盆地である「撓野(たわの)」の変化、など諸説ある。日本地名研究所の谷川健一所長(89)は、村崎説を支持した上で、平安時代に編まれた日本の正史の一つ「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」とみている。
上遠野郷の由来 上遠野郷の歴史」に「福島県石城郡の『今昔我等の郷土』によればー岩城氏の一族上遠野滝氏の領であったとい

平安時代に編まれた日本の正史の一つ「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」とみている。

これが有力である。なぜなら正史にも記されているからである。
閉伊郡ありこれは宮古を中心に広い範囲である。宮古が早く開けたが遠野となるとかなり奥地になるからである。
それは地形として理解できる。地形を基にしたものが地名であり地形と一致しているからわかりやすい。日本で野というとき野原とか平地をイメージするが実際は山の斜面であり平なところではない、平の地名は別なのである。日本で平らな所は湿地帯とか沼と湖になっていて住めなかったのである。
だから田でも最初は山の斜面に作っていた。それで県(あがた)が最初の国になったのである。
入野とか遠野とかの地名は平らな場所ではないのである。

吾が恋は まさかも悲し 草枕 多胡(たご)の入野の 奥も悲しも
(万葉集 東歌)

この歌は山に挟まれた奥の地域ということである。日本にはそういう場所が多いからである。

いわき市の遠野町は

上遠野郷の由来 上遠野郷の歴史」に「福島県石城郡の『今昔我等の郷土』によればー岩城氏の一族上遠野滝氏の領であったとい


地名で混同するのは地形と姓が一体化する。もともと地形を基にしていたのが村の名が姓となりその姓が移動して村の名になる
いわき市の遠野がそうである。遠野氏が支配して遠野となったとしいる。それはもともと中村村だったのが相馬氏が支配して相馬市になった。でもそれは最近のことだったのである。
やはり地名と地形が一致する時地理はわかりやすくなる。

私は御斎所を街道下り遠野に出た。その時稲は刈られて刈田になっていた。だから淋しい風景だった、地形から見ればまさに遠野だったのである。それが遠野氏が支配して遠野になったというとき何かがっかりしたともなる。
でも遠野はその地形と合っていたのである。

刈田なれ遠野に来たり農夫に会う

●地理は境を知るとわかりやすい

地理を知るには境を知ることである。どこが境となるのかそれも人為的行政的な境ではなく地形の境を知ることである。人為的なとは例えば戦国時代でも新地は相馬藩ではない伊達藩である。そこは別に地形と関係ないのである。遮る川も山もないからである。
ただ伊達政宗の領地になったからでありそういう地名は地形と関係ないのである。だから参考にならないのである。

そして必ずしも境は地形と一致してあるわけではない。地形と一致している時わかりやすくなる。例えば山形県と宮城県は面白山トンネルがありそのトンネルを抜けると山形県になる。その山が明らかに境界となる。現実に面白山のトンネルを抜けると依然として春なのに雪がなお厚く山に残っている。トンネルを抜けると雪国だったとなる。

陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ・斎藤茂吉

これは陸奥となれば福島県、宮城県、岩手県と広大である。でも二つに分けるとはならない、蔵王は山脈ではないし蔵王という一つの山だからである。ただ福島県の南相馬市の鹿島区まで蔵王は明確に見える。だから陸奥の象徴的山にはなっている。
でも陸奥を二つに分ける山ではない、それより私の住んでいる阿武隈山脈はいわき市まで続いているから中通りの吾妻山は見えない、だからこの山脈こそ福島県を分けているのである。
この阿武隈山脈があることで浜通りは地理的一体感がないのである。でも近くの山に登ると牡鹿半島から金華山が大きく見えたのである。だから地形的には宮城県の方が一体感があるとなる。
とにかく人間に心の面でも地理と風土は一番影響する。そして地形は人間の力で変えることができない。阿武隈山脈を平らにすることはできないからこれはいくら交通が発達しても地形そのものは変えられないのである。

大陸だとヨーロッパならライン川がありそこがゲルマンの境でありローマ帝国が侵略できない地帯になっていた。大陸だとこうした大河が境になる。それはロシアとウクライナの戦争でもそうだった。ドニエプル川が境となりその川を渡って攻撃することが難しいのである。川を渡り攻め入ることが危険になる。だから川をめぐって攻防があり現代でも同じだったとなる。つまり地理の地形のカルマがありかわらないから依然として河をめぐって攻防がある
そして今年は異常に暑く干ばつにもなりライン川の水が減り船で物資を運べないとして苦しんでいる。大陸では今も川が交通路となり物資を運んでいるのである。

●地歴を知るには境を知る

地歴というとき地は地形のことである。歴史も地形から作られから地歴となったのである。
関ケ原でなぜ天下分け目の戦いがあったのか、地形と地理が関係していた。関ケ原は東西を分ける境目だったのである。
気候的にもそうである。関ケ原を電車で行くと雪が残っている。まだ冬を感じる。でも関ケ原を抜けると近江になりそこは春となっている。景色も何か穏やかに感じる。
不思議だったのは琵琶湖の湖西線が通る高島から関ケ原の方を見るとそこから朝日が昇ってきたことである。それが意外だった
それで東でありそこから東(あずま)となっていたのである。

雪残る関ケ原を出て近江かな
近江に出穏やかなれや春の山
近江なれ蓮華の野を見て三上山

●みちのくの真野の草原も境のことだった

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎

この歌も境の歌だった。そのこと追求してきた。この歌は大和王権に属する陸奥の辺境のことだった。それはやはり気候としても南となりマルハシャリンバイの自生の地として南相馬市の鹿島区の海老浜が指定されていたからである。そのことは書いてきた
ただ津波で海老村は消失してしまった

これらの山を詠んだ歌は、生駒山は三例、竜田山は三例、奈良山は真土山といった、大和国を越えていく地点を詠むことが多い。『万葉集』では関より、次のように生駒山・竜田山・奈良山・真土山は六例を数える。

遠き山関も越え来ぬ今更に逢ふべきよしのなきがさぶしさ
(中臣宅守)

(徒に関険を設け、防禦を用ふ
の往来、毎に稽留の苦を致す。『続日本紀』延暦八年七月甲寅条)
遂に中外をして隔絶せしむ。既に通利の便を失い、公私と、わずか四例のみである。以下に二例のみ挙げる。
対して『万葉集』では、次の歌をはじめとして、 

遠き山関も越え来ぬ今更に逢ふべきよしのなきがさぶしさ
夕さればひぐらし来鳴く生駒山越えてそ我が来る妹が目を欲り
白雲の竜田の山の露霜に色付く時にうち越えて旅行く君は

五百重山い行きさくみ賊守る筑紫に至り
これらから、意識の上では、関を越えることよりも山々を越え
りことなのである。


『万葉集』にみる「みやこ」と「ひな」への意識
file:///C:/Users/KOBAYASHI/Downloads/nike_061_137.pdf



奈良時代は関所より障壁となる山とか川が意識された。特に日本では山が多いから山を越えることに難儀したから山はまた国の境ともなり峠をこえることが異郷に行くことだった。それで峠という漢字は日本人が作った国字なのである。

山が境になる時今は車とか電車でも行くとわかりにくくなった。歩いて苦労して旅することがなくなったからである。
でも岩手県の宮古市から電車で区界(くざかい)という地点はかなり標高が高い
だからそこに電車が止まったとき雪が春でも厚く消えずに残っていたのである。

区界駅雪厚く残り一時を電車の止まり越えて行くかな

まさに区界(くざかい)境界だったのである。

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2023年09月13日

なぜ会津が古代から東北で大きな勢力となっていたのか (山側から発展した日本−地形から見る日本)


なぜ会津が古代から東北で大きな勢力となっていたのか

(山側から発展した日本−地形から見る日本)

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秀吉の文禄時代に日本全国で検地が行われた。新地にある文禄の碑は伊達藩で記念に建てた。




会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね (「万葉集」

秀吉の奥州仕置により
蒲生氏郷に広い与えられし会津の領土
七層の黒川城の威容映えぬれ
近江より来る才智優れた武将の氏郷
戦国の世悲しくも若くして花とちり
会津若松の栄の礎となる

東北歴史を見るときなぜ会津を古代でも大塚山古墳から三角神獣鏡は唯一発見されたのか?会津が古代でなぜ大きな勢力を持っていたのか。それはやはり縄文時代からの継続として日本では山の方が生活はしやすいからだった。
日本では平地の方が暮らしやすいと見えるは実際は平地は湿地帯であり暮らしにくかった。だからなぜ飛鳥が最初の日本の国の起こる場所だったのかとなる。

天皇の、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌

大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は

それはの歌のようにかもめが飛んでくるところでありその前は奈良盆地は湖になっていた。そして大阪湾でも広くそれが奈良盆地までも海として通じていた。
つまり平地あったとしてもそこは湿地帯であり住むことができなかった。するとどうしても生活する場所は山の方になるのである。そして山では焼き畑が行はれていた。
そのために秀吉の奥州仕置で厳しい検地が行はれた。会津ではそのとき焼き畑が行はれていてその焼畑にも検地があって税が課せられていたのである。それに反抗して一揆があり農民がかなり死んでいるのである。その焼畑に税をかけられることは非常に厳しいものとなるからそうなった。だから検地というのは歴史的に大きな出来事だったのである。その検地によって日本は戦国時代終はりにして日本を統一して一つの国家として形成されたともなる。そこには農民の犠牲の上に成り立っていたのである。

秀吉の時代はこうして奥州仕置きで検地が行はれた。それでなぜ伊達藩の領地であった新地に文禄の碑があるのか。文禄時代に秀吉によって厳しい検地が行はれたからである。その記念として文禄の日が遺されたのである。他にも全国隅々に検地が厳しく行はれて税がは徴集されたのである
ただその厳しい見地から逃れて税金を納めないようにと隠田が行くられた。日本は山が多いからそういう場所が隠れた田を作りやすかったのである。こんな所に田があるのかとあり隠田が多いのである。するとそこで検地から逃れた隠田にもなる。でもそれが見つけられると厳しい罰が課せられたと言うことがあった。
信長は武力によって天下布武を成し遂げた。秀吉は検地とかでて財政基盤を築き日本統一を成し遂げた。それは必ずしも武力だけではなく財政面での日本国家の統一を成し遂げた。そして朝鮮出兵するということは日本国家の統一をなしてそれだけの財政基盤ができたからそういうこともできた。

秀吉の時代に相馬藩と石田三成が関係して実際に相馬藩内にきていた。そこは自分の住んでいる近くだった田中城があった所である。

相馬 利胤 は、江戸時代前期の大名。相馬義胤(第16代)の長男。陸奥相馬中村藩初代藩主。初名は三胤、のち蜜胤、利胤

相馬藩主初代となる利胤は、天正9年(1581年)に相馬氏十五代相馬義胤の長男として陸奥国行方郡小高城で生まれた。
烏帽子親であった石田三成の一字を賜って初名を三胤といったが、これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、それ以来三成と昵懇であったためであった。

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野馬追いに出ていた石田三成の旗印


ともかく今から考えるとなぜあ山の国の会津は東北で最初に大きな国になったのかということである。それは群馬や栃木の毛野が大きな勢力を持ったこととも通じている。
南相馬市の鹿島区に浮田国造が置かれたのもそうである。それは毛野氏系統だったのである。だから会津でも毛野氏でも山を生活基盤としてそこが大きな力を持ったのである。それは日本は平地があったとしてもそこは湿地帯であり沼地であれ湖でもあり住むことができなかったからである。

福島市でも盆地があり平地が広いなそこは湖であったとされる。だから広い平地があってもそれを今のように田にして利用はできなかった。だから日本の地形からして田んぼでも山の斜面に棚田は作られた。それが県(あがた)となったのである。そして日本で野とは山の斜面のことであり平地のことではない。それが日本の地形の特徴なのである。飛鳥も広い平地ではない段々畑のような地形でもある。ただ藤原宮となると平地になってくる。そして平城宮となると国のまほろばになり広大な平地となる。

いずれにしろ会津は山また山が重なっているのでその地理が分かりにくい。山にしても2000m級の山もありこの辺の地形とはあまりにも違っているので。その奥に尾瀬のように湿地帯があり花々が咲いていたりする。また古い沼にはり神秘的な花が咲いている。そういう風景はこの辺では見られないのである。だから山が多くて地理がわかりにくいのである。会津の地理をしることはそれだけ難しいのである。

会津なる山々重なり奥深し秀麗なる一つ秋のくれかな

福島県というときその半分が氏郷の時代に会津量になっていた。ただ伊達政宗の領地が今の中通りに拡大した。それで伊達市となっている。そしてなぜ福島県になったのかそれも明確でないというのも不思議である。福島県になる前は会津県二本県磐城県が予定されていた。福島市は関係なかったのであるが福島に県庁が置かれた。その理由はやはり広い平野があり盆地になっていたからである。それもやはり地形的な理由だったともなる。なぜなら二本松の城は十万石であり山城でありそこに上ればその天守閣は高く一望すると安達太良吾妻山蔵王でも高い山々がつまりつらなりそこは一つの大きな国と地理的には意識する。だからこそ二本松県に予定されていたということが地理的に直感するのである。

二本松城の景

古風山城偲
天守一望景
桜椿錦染也
陸奥連峰観
安達太良迫
松寄信深情
太古重鎮成

磐城県は浜通りになるともともと古代から相馬まで磐城国だったのである。だからこそ南相馬市内に磐城太田という駅がある。それは古代からの延長としてその名が残ったのである。また浪江の高瀬川を上った葛尾村(かつらお)に磐城落合とかあり磐城とつく地名があるのは古代からので延長なのである。
浜道りは地形的には阿武隈山脈高原に遮られていて別な国となっている。ただ相馬藩と磐城藩に分かれている。新地が伊達藩でありそれも福島県になった。だからすべて地形によって国の作られるということはない。伊達政宗が支配したということで今でも伊達市がありそれは地形と必ずしも関係していないのである。

いずれにしろ福島県はもともと会津が国の始まりであり会津は一つの別個の大きな国だったのである。廃藩置県によってそうした地理的なもの地形的なもの歴史的に作られたものは一つにしたからそこに無理がありアイデンティティーが作れないということがある。やはり国の基本はその地形にあり形作られるからである。その地形を無視することはいくら科学技術が発達してもできない阿武隈山脈を取り除くことはできないからである。だから浜通りになるとどうしても太平洋側とつながり仙台の方位も交通が便利だからつながり福島市の方は交通の便も悪く電車もないから一つの国として意識しにくいのであ
ただ東北中央道が出来て車があれば福島市まで行きやすくなったから便利になったから今は違っているともなる。とにかく福島県は広すぎる。やはり国として意識するのはアイデンティ化するのは江戸時代の藩がそうしやすい。相馬6万石とかなると一体化しやす。でも伊達藩のように60万石となるとその範囲が広くなりい一体化しにくくなるのである。だからこそ日本では小国という地名が多いのは小さなせまい地域で人間でも一体化して住んでいたからそういう地名が生まれたのである。



2023年09月11日

福島県の地理(会津)から韓半島の地理 (地理は現実にその場に立たない限り実感できない)


福島県の地理(会津)から韓半島の地理

(地理は現実にその場に立たない限り実感できない)

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●地理は基本的に変えられない

地理を分かるにはその場に立たない限り分からない。地理は地図をいくら見てもわからない。つまり地理はその場に一度でも立つとき実感する。ただ世界はあまりに広すぎるからとてもその場に立ったとしても実感することは本当に難しい。
例えば私の住んでいる福島県の浜通りは阿武隈山脈というか高原に遮られて福島市の方はまったく見えないのである。だから地理的一体感を持てないのである。むしろ男鹿半島とか金華山とか原町市からも鹿島区からも山に登ると見えるのである。
そして鹿島区の山に登ってみたとき近くに大きく男鹿半島は迫って見えたのである。すると男鹿半島とか金華山は身近なものと感じるのである。でも阿武隈山脈と高原に遮られてて福島市は見えない。だから吾妻山も見えないのである。するとどうなるかというと何か常に阿武隈高原に遮られて一体感が感じないのである一体感がもてないのである。
でも阿武隈山脈を取り除くことはできない。結果的に人間はいくら文明が発達しても地理は変えることができないのである。

地理的制約を克服できないのである。ただ山があればトンネルを掘り川があれば橋を渡しどこその地理的制約を克服することはできる。でも基本的に阿武隈山脈取り除くことはできないのでどうしても福島県とあっても地理的一体感を感じないのである。人間はやはり基本的にその土地と一体感を持つのはやはり狭い範囲なのである。だからこそ日本に小国という地名が多いのである。その狭い範囲が一つの国と認識していたのである。

どうしても範囲が広くなると地理的一体感は持てない。だから人間は基本的に地理的一体感を持つところが国となっていたことは確かである。だから福島県はハマナカアイズと三つ分かれている。でもそれが地理的一体感を持てないのである。そこで福島県は何か地理的に分断されて意識的にも一体感が持てない。それは明治維新で無理やりに行政区域として人工的に県を作ったからそうなったのである。

●会津は地理的歴史的にも別な国

だから会津はもともと一つの別な大きな国だった。だから会津県がありまた二本松県がありまた浜通りの磐城県があったということになる。それそれを無理やりに福島県にしたのである。だから福島県は広すぎて一体感を持てないのである。
福島県だけでなく明治維新後は県にしたがそれが地理的一体感など関係なく区切ったからそこに問題が起きた。ただ山形県とかなると面白山でトンネルをくぐると山形県に出る。山寺に出るがそこは山形県なのである。また山形市から峠駅ありりそこを下ると福島市福島盆地に出る。それは境としてわかりやすいのである。でも宮城県と岩手県の境はわかりにくくなる。平泉が岩手県になっても宮城県から平地になっているから境を感じないのであ
る。
地理で大事なのは境界である。なぜなら境界があって地理を認識するからである。それで大陸でわは川が境界となる。ローマ帝国はゲルマン民族の住んでいるドイツ侵攻したがそこにドイツの父なる川としてのライン川がありそこが境界となり遮られて侵略できなかった。そのことが現代のにも通じていた。クライナ戦争で理解した。
ドニエプル川を挟んで攻防があったからである。その川を渡り進行すれば支配地を拡大できる。でもその川を渡るのは難儀でありさえぎられるのである。それは現代の科学技術が発達しても同じだったのである。ドニエプル川を挟んでとロシアは対立してその川を越えて支配地をを広げる。川は境界となっていたのである

このように地理は戦争でもそうだが日々の生活でも地理から離れて人間の生活はないのである。例えば峠という漢字は日本の国字であり中国などにはないのである。というのは日本というのは山が多く当然そのために峠が多いからそれが国字となったのである。

●海がない山国の会津の地理の不利

例えば会津になるとなぜあそこに東北で最大の大塚山古墳があり三角縁神獣鏡金が唯一出土したとしたのかとなるとやはり日本海と関係ありまた山伝いで信州からの影響はあった。また毛野氏が大きな勢力を持ったのか。その毛野氏が私の住んでいる南相馬市の鹿島区浮田国造が置かれた場だったらである。だから常磐高速道の道路のSAにその神社はが祀られている。
でもなぜ毛野氏がこの地に関係したのか。なぜ毛野氏が大きな勢力を持ったのか。それは縄文時代は山の方が生活の根拠でありそれで勢力を持っていたとなる。飯館村に縄文中期の古い遺跡があるという時もそうである。山側のほうは日本では古い。
関東平野があっても湿地帯になっていてそこで米を作ることが最初できなかった。大概日本では平地は湿地帯になっていたからであうる。それで米作りでも山の斜面の県(あがた)で作っていたのである。
例えば会津と言う時山国であり明治維新になぜ薩摩長州に攻められて苦しめられたのか。それはやはり地理的要因が大きかったので。なぜなら明治維新は実際は七つの海を支配した大英帝国は深く関わっていてその後押しがあって明治維新がなされた加治将一氏は書いている。

明治維新はアメリカの黒船が来てイギリスは薩摩と海戦を行ないイギリスの船が日本列島回遊して行っていた。そして太平洋を回り函館に来てそれから新潟の方に回った。新潟も函館と同じく外国船が入る港になる予定だったのである。

1867年まず倒幕工作はし上がってゆく。起動させたのはやはり軍艦だった。イギリスの二隻の軍艦が宮城沖を北上しそこから東北の沿岸を丹念に睥睨しながら秋田沖を南下新潟港に入港した海洋新潟あたりをうろついたのは東北北陸諸藩に対するプレッシャーもさることながら新潟の背後に居る幕府の番犬会津藩をにらんでにことである。地方に軍艦お見せの庶民に衝撃が与えるのは一つだ(加治将一あやつられた龍馬)


会津は海に面していないからそのイギリスの船も観ていない。そのために時勢を知ることができなかったとなる。ただプロイセンと一体化して北海道で会津藩が防備することはあった。だから外国と関係しないということでわなかった。プロイセンはドイツであり陸の国ランドパワーの国だった。でも地理的要因で時勢を見ることは誤ったともなる。それは二本松藩とかでもそうだった。だから明治維新でも地理的要因が大きく作用したのである。だから歴史を見るとき地理を知らないと具体的に実感できないのである。

明治維新は最初に黒船が来たように海をめぐってのめぐって外国と戦い外国人を入れてそれで明治維新がなったのである。それを象徴しているのは船中八策とか船の中で坂本龍馬が考えた新しい日本の羅針盤となるものであった。つまり何か常に明治になっ海に囲まれた日本がその海は江戸時代は鎖国で閉ざされていたがその海を通じてまた外国開け外国人受け入れて明治維新がなったのである。

つまり大航海時代から既にシーパワーは世界を導くものとなりそのシーパワーの先導役の船だったのでだから薩摩でもイギリスの海軍と軍艦と戦ってイギリスの力を身をもって知ったのである。でも会津となると海もないし新潟までイギリスの船が来てもそれを見ることもできなかったのである。そして山に閉ざされた世界で日本から日本も外国も見ていたから遅れたとなる。だから地理的要因がそうさせたと思う。ただこれまで明治維新というのは日本人の力だけで成し遂げたとかして日本人はすごいということがここから始まっていた。でも実際はイギリスとかは深くかかわって成し遂げられたものだったのである。でもほかの国はみんな植民地化されたのだからやはり日本は外国の影響があっても独立していた唯一のアジアの国だったともなる

●済州島の漢拏山の位置

ともかく地理を実感として知るにはその場に立つことである。一回でもその場に立てば地理をある程度実感できる。そして地理を実感するというときその範囲は限られている。
旅してわかったことは日本だといかに韓半島があたかも日本国の延長のようにも感じた。例えば済州島の漢拏山は2000mもの高さがありそこには登れなかったがもしそこに登れば中国を望み韓半島を望み日本を望むことになる。その時意外と韓半島は日本の延長のように思うしまた韓半島から見れば日本は海に遮られても陸続きのようにも感じるのである。そこに韓半島の不思議があった。

済州島漢拏山より

済州島の漢拏山に春風吹き
その高き山を仰ぎ見る
中国を望み韓半島を望み
日本を望み一体となる
地理は神が創り歴史を作る
地理を知らずして世界を知り得ない
汝は今春風を受け海を望み
済州島に立ちアジア創世の地理を体得す
視界を広げよ世界に東西南北に
太陽は未だ知らざる所より昇り沈む

A spring breeze blows over Jeju's Hallasan
I look up at that lofty mountain
Looking toward China and the Korean peninsula
I look to Japan and become one with it
Geography is God's creation and history's making
You cannot know the world without knowing geography
You now catch the spring breeze and see the sea
Stand on Jeju Island and learn the geography of Asia's creation
Expand your vision to the world, east, west, south, north and south
The sun rises and sets from places yet unknown


●百済武寧王陵を訪ねる

「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」

と記され、王の生没年が判明する貴重な史料となっている。古墳は王妃を合葬した磚室墳で、棺材が日本にしか自生しないコウヤマキ(高野槙)と判明したことも大きな話題となった。このほか、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土し
武寧王は第25代の百済の王(在位501〜523年)。名前は斯麻、又は隆。
『三国史記』によると百済第24代東城王(479−501)の二男。
『日本書紀』によると、倭の加唐島生まれで東城王の異母兄。
異説では第21代蓋鹵(こうろ)王(455−475)の息子。
殺害された東城王の後を継ぎ40歳で即位。
高句麗に攻められて滅亡寸前の百済を建て直し、
民生安定、国力伸長の成果を挙げた百済中興の王です。

武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の昆支王を倭国に貢る際、自身のすでに妊娠した婦を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王であるとしている[2]。また、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には百済の末多王(牟大、東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王としたとしている

春武寧王陵

日本征人来
武寧王陵立
大河岸春草
銀匙使優雅
煉瓦精緻組
中国南朝産
百済栄交流

武寧王陵は大きな河の岸辺にあった。その煉瓦造りであり銀製の匙とかが残っていた。武寧王と日本の関係は伝説化しているが事実である。その大河のの岸辺に立ったとき中国の方を望み地理的に通じ合っていること実感したのである。
それは中国が南朝の時であり中国の文化が入ってきて煉瓦造りの墓がここに作られていたのである。つまり韓半島というのは地理的にも日本と一体感を感じてそれが中国への通じている。だからいかに韓半島が日本にとっても中国にとってもそれが一つの橋のようになっていたのである。そこで日本と唐が争ったというのも理解できるしその後もなぜ韓半島が日本であれアメリカであり対立の場になったか地理的要因が大きいものだったのである。

地理というのはあくまでもその場に立ち実感することが大事なのである。ただ世界になるとあまりにも広すぎて実感することは不可能である。それゆえに地理に関しては常に誤解は生まれるのである。

2023年04月23日

花爛漫霞城の詩―山形市の歴史をたどる


花爛漫霞城の詩―山形市の歴史をたどる

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伏見城に伊達政宗の屋敷と最上氏の屋敷があり並んである、最上通りとあるのも存在感があったからだろう

秀陸伏伊市月残優一桜堀城桜 桜
吉奥見達中山雪艶本不巡門花 花
承大城併往秀峰姫枝尽城石爛 爛
認藩下存時麗々一垂万内垣漫 漫
日英威最栄神屏服桜来広高霞 霞
本雄振上地妙風茶長客大花城 城
春有也大名美映献哉満也影入  



花爛漫霞城

彼方山形へ電車は一路走る
残雪の峰々を望み海走る
面白山の長いトンネルを抜けて
山寺へ山形へ入り霞む残雪の連峰
若草は映え桜の盛りに
花爛漫や山形城(霞城)入る
その堀長く囲み平城の大なり
その内城の広々として往時の栄を偲ぶ
天下を制す秀吉の時代伏見城下に
伊達60万石と最上57万石の屋敷
相並び陸奥の威勢を示すかな
三日町六日町七日町八日町十日町旅籠町・・。
城下に商人集い市は立つ
最上川の水運ありて紅花の京都に運び売る
その栄いし時や今桜は盛りに錦かな
月山のなお雪厚しや美秀神霊の宿る山
春の霞に浮かび花に覆われ花に良い夢心地かな
一木城内に枝垂桜の古木や優艶に
ここに陸奥の広くも一国あり栄えぬ
伊達と並びて栄しものちに跡目争いに小藩となる
これもまた世の習いや悲しも往時の堺栄いを偲び
城主は度々変わり商人の街として栄えぬ
また湯殿山などの信仰の宿場として人を集めぬ
我は仙台をまわり相馬に帰りけるかな

山形県の歴史は何か明確な特徴がない、それは確かに最上義光の時に57万石に統一したがあとは跡目争いがあり分裂して小藩になった、また他藩の領主が治め幕府領ぬなり一貫した歴史が築けなかった、そこが伊達氏とか会津とかと違って何か歴史が一貫したものとして形成されなかった。
相馬氏は一貫して相馬藩を維持して代々相馬氏が治めた、それで相馬藩政記は外部のものでも参考にしている
最上義光の騎馬像があっても伊達政宗のような存在感はなかったとなる。

ただ城跡は長い堀に囲まれている。その城内広いからやはり57万石の大藩だったと感じる。
でも実際は城下町というよりは商業都市であり武家の城下町という感じではなかった。だからこそ市が立ちそれが城の周りに地名化したのである。
その主な商品が紅花であり最上川を通じて京都に運ばれたのである。
それから月山とか湯殿山参りの宿場町にもなっていあた
なぜなら本当に東北のいたるところに湯殿山の碑wあるからである。なぜこんなに多いのかとなる。湯殿山は湯治にも農民が村の仲間と行った、そこで日ごろの労働と苦労を癒す場になっていたのである。それは東北全体にありそれだけ湯殿山は信仰の場にもなっていた。

語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな 芭蕉

この句でも不思議なのはみちのくを旅してそこに住む人たちの心に通じていたことである。奥の細道の魅力は東北という地域に深く一体化したことである。それが一度の旅で成しえたことの謎がある。旅をしても今でもこれだけ交通が発達してもその土地と一体化できないからである。車の旅だとただ通りすぎるだけにもなるからである。
おそらくかえって交通が不便だからこそその土地と一体化したともなる。そこに逆説がある。現代の旅はあまりにも交通が便利になったかえってその土地土地のことが深く感じれなくなったのである。

2022年10月10日

会津がなぜ福島県で一番古い場所なのか (日本海側が先に開けたためー船の交通から見た歴史)


会津がなぜ福島県で一番古い場所なのか

(日本海側が先に開けたためー船の交通から見た歴史)

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10人くらい乗った船の絵が南相馬市鹿島区の寺内古墳から発見された
この地域まで船が使われていた、それも結構大きな船だったのである


大毘古命は先の命のまにまに、高志国にまかり行きき。ここに東の方より遣はさえし建沼河別、その父大毘古命と共に相津に往き遭ひき。かれ、そこを相津と謂ふ。

(現代語訳)
ところでオホビコノ命は、先の詔に従って越国の平定に下って行った。ところが東方に遣わされたタケヌナカハワケは、その父のオホビコノ命と会津で行き会った。そこでそこを会津というのである。


何か錯覚しやすいのは時間軸で見ることなのである、例えば江戸時代であれば元号があるその後先を間違うのである、元禄時代とか幕末となると天保とかあるが離れていると違ったものとみる、でも江戸時代は間違い安いのである、元号でも十年くらいで終わりになったりするからである
だから昭和があり平成があり令和がある、今なら時代を間違えない、昭和の次は平成だとなる、でも昭和は戦前もあるから戦争を経験した世代と戦後を生きた人達はまるで違った社会を生きたのである、戦争のことは余りにも異常なことだから戦後生まれはいくら聞かされても理解しにくいのである
それでも親から戦争のことを聞いた人がいるから団塊の世代とまた直接話しも聴くことがない人の差も大きくなるのである

それに比べて歴史を見る時必ず地理からみる、地理は変化していない、だから地理から見る歴史もむずかしいにしろ変化しないからわかりやすい、川であれ山であれ変わらないからである、この時代順で誤解しているのは会津でもそうである
太平洋側から見ると会津は福島県でも遠い、そして会津は遅れた地域のようにも見る
でも会津は福島県では一番古いのである

大毘古命は先の命のまにまに、高志国にまかり行きき。ここに東の方より遣はさえし建沼河別、その父大毘古命と共に相津に往き遭ひき。かれ、そこを相津と謂ふ。

(現代語訳)
ところでオホビコノ命は、先の詔に従って越国の平定に下って行った。ところが東方に遣わされたタケヌナカハワケは、その父のオホビコノ命と会津で行き会った。そこでそこを会津というのである。古事記

会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね

この歌で国(くに)として自覚されていたのは福島県では会津だけである
そして大塚山古墳には三角神獣鏡が唯一東北で発見されている、これは吉備で発見されたものと同はんであり吉備国が関係していたとなる

ではなぜ会津は古い場所なのか?

それは日本海側が古代から船で交通があったからである、見逃されているのは日本海側が先に開けたということである、奈良とかの大和からの進出も太平洋側より早かったとなるそれは日本海側が冬をのぞいて比較的穏やかな海だったから交通に適していたからである

●船が古代に交通路になり大きな力を持った

阿倍氏は古くから越・北陸道方面の計略で活躍した氏族である。複姓が多く見られ、阿倍引田臣もその一つ。引田臣の性格については、比羅夫の活動にも関連して二説ある。一つは中央豪族である阿倍氏の一支族とするもの、もう一つは越国の地方豪族とするものである

斉明天皇4年(658年)4月に船軍180隻を率いて蝦夷を討ち、飽田・渟代二郡の蝦夷を降伏させる。降伏した蝦夷の酋長・恩荷に小乙上の冠位を与えるとともに、渟代・津軽二郡の郡領に定めた。また、有間浜で渡島の蝦夷を饗応している

これで安倍氏の遠征であった、高志の国、越の国、今の富山県とか新潟県とかの地域の支配者だったのだから比較的距離的にも短いから行けたとなる
地理からみれば出雲が大和王権と互角の地位にもあったのは鳥取とか島根は韓半島に近いからである、そこで国引き神話が生まれた、日本海側は力を持ったのは韓半島に近い地理的条件でそうなった、そして大和王権と出雲は争った、国譲り神話が生まれた
そして諏訪神社が多いのタケミナカタを祀っているのは争いで敗れたため東北地方に逃れたためだとしている、そして東北弁と島根県の方言が似ているというのもそのためだとしている

ここからもわかるように日本海側が時代的に先であり太平洋側は遅れて大和王権に組み入れられたのである、それは太平洋側が海が荒くて航行できないことにあった
それでも太平洋側でもヤマトタケルの東征で東北の沿岸に進出した神話が残っているのはやはり当時は森が多く道がないので船が交通の手段になっていたのである

日本武尊は上総(かみつふさ)より転じて、陸奥国みちのくにに入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦あしのうらを廻り、玉浦を横切って蝦夷(えみし)の支配地に入られた。蝦夷の首領島津神(しまつかみ・国津神(くにつかみたち)が、竹水門(たけのみなと)に集まって防ごうとしていた。しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで、「君のお顔を拝見すると、人よりすぐれておられます。きっと神でありましょう

この竹水門が南相馬市の原町区らしいとなる、多珂神社(たか)とかあり竹は高らしいからだ、そこには海側に大きな桜井古墳があるからだ、また玉浦だとうい説もある
そして南相馬市だと原町区から小高区にかけて多数の20くらいの綿津見神社がある
おそらくこの遠征の物語は海人族の安曇氏系統の人達の移住に由来しているのかもしれない、こんなに多いということはそうなる
つまりこの辺までは大和王権の支配地域として早い時期に組み入れられた
そして

●真野の草原と陸奥磐城国は黒潮と親潮の交わる南国的地域

みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

この歌は自然境界でもあり政治的境界ともなったのである、草原(かやはら)は地名であり萱のことではないのである

なぜなら磐城に朽ちた大船のことが語られているから磐城から辺りだと浦が多かったから入江になっていたからそこに休み休み船で来たとも思われる

祭神は住吉大神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)および神功皇后の四座。A航海守護神とする信仰が最もよく知られる。B同様の航海守護神である宗像大神が宗像氏の氏神であるのに対し、住吉大神は特定氏族の氏神ではないと考えられている

軽野の東、大海の浜辺に、流れ着いた大船があって、長さは十五丈、内幅は一丈余りである。朽ち砕かれて砂に埋もれ、今もなお残っている。淡海の世に国秤(くにまぎ)に遣わそうとして、陸奥国石城の船大工に大船を作らせたところ、ここまで来て岸に着き、ただちに壊れたという。

古代造船の建材としてはクスノキが重要です。クスノキは暖地系の常緑高木で、大きいものは20メートル以上。いわき市内にはクスノキの大木が多く、理学博士の湯澤陽一によれば、その自生北限はいわき市小浜町であるとされています

楠(くすのき)は南の木である、漢字でもそうなっている、磐城は今でも親潮と黒潮の交わる地点である、それで波立海岸で熱帯魚を探していた千葉県の人がいたのである
小さいものだが熱帯魚が来るということは黒潮に乗ってきたとなる
いわき市は南国的な場所なのである、そして南相馬市の鹿島区の海老浜には自生した
シャリンバイが南限の地とされている、この花は奄美大島に自生していて南限の地とされている、またスダシイ神社もありこれも沖縄の山原の原生林に自生しているのである

ここで日本海側と比べて太平洋側は船の航行には適していない、でも古代だと最初は船が交通の最適な手段となる、陸には道がない、森とか山に遮られて歩くことも容易ではないからである、すると海人族の安曇氏系統が船の操作ができて南相馬市の原町区に進出してきたとなる、そこに大きな桜井古墳が作られたとなるのである
これは物部系とか安曇氏系統が関係していたともみる

遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで

こういうことは技術力で支配することに通じている、太平洋戦争でもアメリカに原爆を落とされて日本が降伏したのとにている、科学技術力によって権力を持つことは歴史にある明治維新の黒船でもそうである、大航海時代でも船が大きな力となったからである
だから船というものが世界を変えたということを知らねばならない

●日本海側が先に開けたからそこから歴史も見る

ともかく時間軸で空間軸で見ることが歴史では不可欠である、でも時間軸だとわかりにくいのである、空間軸だと韓半島に出雲は近いから当然その延長として越の国がありそこから今度は阿賀野川があり会津に大和王権の勢力が伸びてきた
それで会津は福島県でも一番古い地域だとなる
だから歴史を見る場合交通も大事なのである、その交通は海の交通と川の交通がある
大陸だと川が長大だからそこが道ともなったのである
ただ時代が変わると遅れた地域となるのは交通が変わりそれで港でも栄えていても衰退する、それは北前船が明治になり鉄道ができて廃れた結果としてそうなったのである
北前船はやはり日本海側を青森から山形県の最上川まで通じて交通が盛んになり紅花(べにばな)が作られて京都に送られて加工されて口紅などの化粧に使われたのである

なぜ紅花の大産地が形成されたのでしょうか。気候・土壌が栽培に適していたということもありますが、山形の他に、奥州福島・奥州仙台・奥州三春・西国肥後・尾張・遠江・相模などで生産されていましたので、気候・土壌が決定的な要因だったというわけではなさそうです。むしろ、最上川の舟運で山形と京都や大阪が深く結びつき、紅花商人たちが活躍したことが、産地の拡大に繋がったと考えたほうがいいかもしれません。

この指摘は重要である、なぜなら交通があってまた消費地があって経済も発展することを示唆しているからである、京都は消費地でありそれと最上川が結びついて一大生産地となったのである、江戸でもそうである、江戸は巨大な消費地であり参勤交代があり発展したとなるからだ
でも明治以降は中国産とかの紅花が入り衰退したのである

福島県でわかりにくいのは南相馬市の鹿島区に浮田国造が置かれたことである
これは奈良の中央政権から派遣され宮っ子であり官吏のような人だった
その系統が毛野氏になっている、この毛野氏は栃木県とか群馬県とかを支配地域としていた、地盤としていた、ではなぜ毛野氏が福島県の浜通り進出したのかとなる
それは最初に栄えたのは交通が便利な日本海側であったからなのだ
ただ毛野氏となると山側だからそうなのかとなる、でも茨城県は遅れて大和王権に組み入れられたのである、とにかく日本海側が日本の歴史では先んじて発展していたとなる
そして会津は日本海側と越の国と関係していて早くから奈良に知られた場所にもなっていた

島根、鳥取⇒越の国⇒(毛野)⇒会津

毛野は浜通りの南相馬市の浮田国造の祖となっているのである

吉弥侯部氏(きみこべうじ、姓は不明)で、上毛野氏、下毛野氏、針間鴨国造などと同族神護景雲元年(767年)7月19日には宇多郡人の外正六位上勳十等吉弥侯部石麻呂が上毛野陸奥公を賜姓されている

つまり交通から見ると京都大阪があり瀬戸内海から日本海をめぐる航路があり日本海側が先に発展した、日本海側から順序として歴史を見る必要がある
ただ毛野氏というのは栃木県とか群馬県でありそこは山国であるから謎が残る

ただその後も越の国は上杉謙信が出て戦国時代は大きな勢力だったのである
一時は上杉が山形県の米沢に拠点を置いた上杉氏が福島県全体を支配したのである
それで丸森の森林資源の木材をめぐって争ったのが伊達氏と上杉氏と相馬藩だったのである、三つ巴の資源をめぐる争いかあった
上杉とは今の石川県とか富山県と新潟県を勢力圏としていたのである
ということは越の国は戦国時代でも大きな力をもっていたとなる
そこが誤解する、なぜなら日本海側は遅れた地域に見てしまうからである
それは交通の変化でそうなったのである

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福島県の大部分が上杉氏の領地になった時があった
だからこそ丸森で森林資源の木材の取り合いになって争いになった










2021年12月07日

東北弁のんだについて

東北弁のんだについて

人間は地域地域で言葉も違ってくる
日本だと山にさいぎられて交流がないと互いに意思疎通が難しくなる
それで飯館村の大倉村と佐須村が民情が違うと合併しなかった
五六キロくらいしかはなれていないのである
ただそれでも歩くとそれなりに遠いのである
言葉にしても日本語が共通語になるのは相当時間がかかったのである
そして沖縄と青森に平安時代の言葉が残っている
何か化石のように辺境に残ったのである

東北人のずーずー弁は共通している
んだが語尾になる、

んだ
んだす 秋田県
んだちゃ 宮城県
んだは共通している、東北は蝦夷の地域である
ただ宮城県は仙台は商都でありそれで

だっちゃ、だっちゃ、

となる、この語尾が特殊なのだ、これは大阪弁のように押しが強い語尾なのである
んだは口ごもるような言葉である、そういう傾向が東北人にはある
宮城県は伊達藩は正宗が出たように特殊なのである
あのような芝居かっかたような人はいないからである

ともかく言葉は国の訛りでありそれが面白いのである
現代は地域性がなくなっている、だから方言からその地域性みる
方言は国の訛りでありそれは文化なのである







2021年11月06日

霊山から下り霊山町の石戸へ歴史を偲ぶ (時雨の短歌に俳句)


霊山から下り霊山町の石戸へ歴史を偲ぶ

(時雨の短歌に俳句)

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ーーーー霊山町石戸村ーーーーー



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伊達市は柿で有名である、だから柿が多くなっていた
それで放射線被害で作れないとして騒いだのである

蔵が二つある家がある、やはりそれは栄えた家だと見る

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旅に老ゆ霊山の麓時雨かな

柿あまた十数軒の石戸かな

石戸なれ家十数軒時雨かな

犬飼のバス停残りしぐれかな

山茶花や土蔵に日さし石戸かな

秋あざみ草の花あわれ石戸かな


霊山を我が下り行く落ち延ぶや風に吹き散り木の葉の舞いぬ

一時に木の葉のともに散りにけり南朝亡ぶ霊山暗し

霊山を下ればたちまち打ち曇り時雨にぬるや旅路急ぎぬ

奥深く霊山神社の隠されて南朝伝ゆ秋深まりぬ


飯館村の佐須から霊山に上り「りょうぜん紅彩館」で芋煮を食べた、あと蜂蜜ユズサイダーを飲んだ、それが飯坂で作っていたのである、飯坂は温泉街でも寂れた
だから何かこういうものを作っているのかとも思った
芋煮は1000円で安かった、他にうどんと天ぷらがついていたからだ
私は一人暮らしで料理に困っている、食堂でも同じものであきるからだ
だから芋煮は食べられて得した、それも安かったからである

今回は霊山から福島市の方に下って霊山町の方に出た、今回はバッテリーを二つ備えることができたので余裕があって行けた、対かいバッテリーが切れるからである
でも一つで90キロとか行けるから二つになると余裕がある
それで霊山から坂を下った、この坂が結構長かったのである
前は良くこっちの方まで行っていたがもう数十年も行っていない、特に介護になってから本当に遠くに行っていない、だから地理でもからなくなっていた

霊山神社に行ったことがあってもあんなに奥深い所だったのかといぶかった
人間はとにかく地理でも何十年も過ぎるとわからなくなる、近くでもそうなのである
ましてや遠くになればさらにわからなくなる
近くだと何回も行けば記憶が蘇るからだ
ただ今回失敗したのはカメラに記録するカードを入れるのを忘れたことである
二つもっていて一つにcardか入っていなかったのは失敗だった

何か今回結構長い距離だったので旅をした感じになった、前は阿武隈高原を自由に思いのままに自転車で目的もなく回っていたのである
だからつくづく自分は恵まれていたのである、20代で苦しんでも後は旅に明け暮れるだけだった
ただ旅とも遠ざかり旅の感覚を忘れていた
それで霊山から石戸に出たとき時雨になった、そこで旅情を感じた
時雨というとき山頭火が有名であゃ時雨の俳人となっていた
ただ山頭火の場合は本当の旅人だった、あれだけの旅をしたということは驚嘆する
とても自分にはできないからだ、歩いて旅した最後の人だったとなる

旅する時歩くのと車ではまるで違ったものになる、まず車では旅はありえない
ただ移動なのである、なぜなら今回のように時雨など感じないからである
時雨とか風を感じるのには歩くか自転車である、バイクでも早すぎるからだめなのである一応風くらいは感じるが早すぎる、その早すぎることは人間の五感が働かないとなる
だから俳句とか短歌でも作れないとなる

今回霊山を下り石戸に出たとき不思議だった、そこは前に通ったとしても見慣れない初めて来た場所のようになっていた、ここはどこだろうといぶかった
家も少ない、そこに古い土蔵があったり犬飼というバス停が残っていたりして印象に残った、まだバス停があるのかと見た、ただ他でもバス停がありそこに地名が記されているから興味を持つのである、何か一つの記念碑のようになっているのだ
そしてこの石戸という名前が良かったのである、石の部落ともなりそれが良かったのである、地名は何か日本だとその場所を象徴するものとなるからだ、それで旅するとどうしても地名に興味をもったのである、そこから私は歴史にも興味をもち地理にも今日を見もったとなる、ただ旅するにしてももはやその時間は限られている
急ぐ旅ともなり時雨に濡れたということが象徴している、時雨はなにか死をイメージするからである

霊山はまず歴史を知らないとつまらないともなる、霊山は南朝の城でありそこが大事なのである、南朝系統と北朝系統は日本全国を二分した、その歴史は日本の隅々まで残っている、辺鄙な村にも残っている、それだけ二分した争いだったのである
そもそも相馬市とか南相馬市とか鹿島区になるとその霊山から逃れた落武者の末裔が住んだ所だからである、つまり先祖にもなっている
それが只野氏だったのである、只野氏とは郡山市の多田野村から発していたのである
同級生の一人が真野の江垂のお浜下りのおつづら馬という役で荷物を運ぶものとして重要な役目としてあった、ともかく只野という姓が鹿島区だけで50人くらいいるし近辺にもいたそれは南朝の末裔なのである

霊山はそうして歴史の町なのである、霊山神社には顕家の像があり二十代の若さで戦死したからだ、この南朝系統の神社は相当にある、そして大事なのは明治天皇は南朝系統だとしている、明治維新で重んじられたのは南朝なのである
だから明治でも南北朝の歴史が影響していたのである
だから日本の歴史でこの南北朝の争いがどれだけ影響したかは計り知れないとなる
その重要な歴史の拠点となっているのが霊山城だったのである
その規模は仏教の修行者の寺となることから南朝の城になったのである
ただ遺跡としてあまり残っていないからなかなか偲べないとはなるがその歴史はこの辺では相当に主要なものとなっている
それで野馬追の旗にその南朝の菊印が出ていたのである、それは鹿島区から出ていたのである

ともかく自転車でバッテリーを二つにしたら結構遠くに行ける、それでまた次は飯館村の佐須から霊山を下り丸森の方に行くことにした、ここは歴史の道でもある
バッテリが二つあると180キロ行けるから余裕になる、ただ坂でかなり消耗するからこの通りにはならない、今回思った以上疲れなかったのでまた近々行くことにした
やはり秋は涼しいからサイクリングには適している
ともかく旅はやめられない、それでまた長距離用の電動自転車を買った
でも部品がないとかでそれがいつ使えるのかわからない、来年になってしまうしいつ乗れるかわからない、今の自転車が荷台がないので長距離には向いていないからだ

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鹿島区に南朝系統の旗がある、天皇の菊の紋だからである

では次回をご期待!



2021年05月01日

梁川は地理的要衝の地 (会津と米沢と伊達正宗が争った地)


梁川は地理的要衝の地

(会津と米沢と伊達正宗が争った地)

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伊達政宗の初陣は伊具郡(宮城県丸森町)での相馬氏との戦いであったが、その時に伊達軍の拠点となったのが梁川城で、政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をしたといわれている。また、その政宗が田村郡の田村氏から愛姫(めごひめ)を正室として迎えたとき、花嫁の受け渡しがおこなわれたのも梁川だった。

奥州仕置によって伊達氏が岩出山城へ移ると、梁川城は蒲生氏郷の領地となり、氏郷の死後は、上杉景勝の領地となって、梁川城には須田長義が置かれた。現在の梁川城の遺構は基本的にこの時代の城主(蒲生氏郷家臣の蒲生喜内か上杉景勝家臣の須田長義)によるものと考えられる

寛文4年(1664年)、上杉綱勝が後継者を決めぬまま急死し、本来ならば改易になるところを吉良義央の長男・綱憲を養子に迎えることによって上杉家の存続が認められるという騒動の際に、上杉領は30万石から15万石となり、梁川城を含む伊達郡(および信夫郡と置賜郡屋代)は没収され、天領(約20万石)となった。この時、梁川城は廃城となった。


なぜ梁川城をめぐって伊達と米沢と会津がみつどもえで争ったのか?
そこが。地理的要衝だったからである
その城自体が前に広瀬川があり阿武隈川があり後ろが山であり要衝の地に作られていた
だからここは前々から地理的要衝の地だったのである
それで私が阿武隈川にそって丸森の大張とか耕野から出ると梁川に出て平野が拓ける
そこが春野となっていて気持ちいい光景になる
山に閉ざされたところから出てきて平野に出たなと解放された気分になる

つまりそういう所に梁川城があったということがまさに地理的要衝になっていたのであるだからこそ会津藩でも米沢藩でも伊達藩でもここを支配したいとなったのである
そうなるとここで覇権争いも起きてくる
そのことで丸森の木材をめぐって米沢藩と伊達藩と相馬藩が争ったのである
そういう要衝の地だからこそここが中世から重要な地点となり城がすでに築かれていたのである
そういうことで本当に歴史でも地理がわからないと理解できない、地歴なのである
その地理を理解するには電車だけではわからない、車でもわからないのである
閉ざされた丸森の山間の部落から出てきて峠を越えてそれが体で理解できる
電車だとトンネルをくぐるから峠の感覚がわからないのである

伊達正宗はまずこの梁川をおさえた、それから丸森に入り筆甫に入り相馬氏と戦う
初陣の地が筆甫だったとなる、相馬氏も金山城の城主となっていた、相馬氏も丸森の木材をめぐって争っていた、そういう場所だったのである

梁川城は古い城下町なのである、足軽町とかある、こんなに足軽が住んでいたのかともなる、なぜなら相馬藩だと中村城は城下町でも足軽町とかないのである
城跡があっても何かそうした城を囲んで足軽町がない
それは相馬氏では野馬追いに見られるように農業をして侍だった郷士が多いからである
城勤めではない、もともと農民であり侍であり給金を支給されていてもその土地に土着する農民だったからだとなる
だから野馬追いには農家から出るのがほとんどであり街内から出ないのである

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ともかく伊達氏だと白石には伊達政宗の片腕の片倉氏がいて補佐した
それで白石城がある、白石にも丸森から道が通じて近いとなる
そして白石市の菓子屋には足軽まんじゅうを売っていた
足軽が食べた饅頭だからとなる

足軽の庭は、観賞用ではなく

主に生活のため

果樹を植え、畑もしていたそう

下級武士でも内職していたし庭には必ず柿の木などを植えていた、それは食べるためのものであり鑑賞用ではない、柿は果物がない時代には貴重だったのである
それで大正生まれの母の好物は柿であり干し柿だったのである
果物というときその頃柿を主に食べていたとなる
みかんなどは東北ではとれこないから簡単には食べられないからである
伊達市があんぽ柿で有名である、柿は干し柿として御菓子にもなっていた
それで私の家の庭にも渋柿だけど柿の木があったことを思い出した
農家では今でも柿の木はあるけど街内ではめずらしいとなるがやはり食料として植えていたとなるのかもしれない、とにかく何でも自給しないと生活できない時代が長くつづいていたからである

江戸時代の暮らし
http://hiariya.com/asigaru-haken

ここは結構江戸時代を語っているから面白い、何かあらゆることにいろいろな見方がありそれで検索するとそれなりのものに当たりそれで今はインタ−ネットで編集する
出版社の編集者のようなことができるようになったのである
知識のネットワークができているからそういうことができる

いづれにしろ昔を偲ぶというとき何か手がかりが必要になる、戦前の暮らしとか戦後十年は燃料は炭であり山では炭焼きをして暮らしていた
それから全国的にも養蚕が盛んであり生糸を作ってアメリカなどに輸出していた
それは戦後の日本が電器製品を外国に売り高度成長した時代と同じである
生糸を輸出することでそれが日本の財力となり軍事にもその金を使い拡張したのである
そういう時代が戦前だったのである、梁川でもそうして生糸生産で豊かになったということがある
山の中でも養蚕が行われていてそれで金になり山の中でも暮らしていけたということがある、時代が変わり山で暮らすことが容易でなくなり過疎化している
材木でも外国から輸入するから森があっても木材があっても活用されないからである

ともかく時間軸でその土地を知るのと空間軸で地理からその土地を知る
この二つがあってその土地の理解を深めることができる
だから地歴だとなる、それでできれば歩いて旅するとか最低限でも自転車で旅するとかすると地理がわかる、電車でも車でも峠を越えるという感覚がもてない
電車だとトンネルをくぐるということでトンネルの向こうは雪国だったとかなる
でも江戸時代ならみんな峠を歩いて越えたのである
そういう旅は体で記憶しているから忘れないのである
私の場合は飯館村へ長い坂をのぼり峠を越えることをしているから峠を意識する
丸森だとやはり必ず峠を越えて相馬の方に帰る、その時春だといつも夕桜になっていて
心に染みるとなる
山に遮られているから山を歩いてでも越えるということでその地理を体で理解す


相馬藩玉野村の境界争いはなぜ起こった?
相馬藩、伊達藩、会津藩の攻防
http://musubu.sblo.jp/article/33335256.html

2021年04月29日

阿武隈川船運の論文を読む (石巻の寒風沢から船を代えて江戸に運ぶ)


阿武隈川船運の論文を読む

(石巻の寒風沢から船を代えて江戸に運ぶ)

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それによると'阿武隈川水系には亘理( 現宮城県亘理郡( 7 艘)
丸森町) 、川張( 同)( =高野壱岐守分)に五艘、ある程度利用されていたことが確かめられるのである。
慶長五年の時点で既に仙台藩領内の藩米輸送に阿武隈川舟運があった
慶長五年の時点で既に仙台藩領内の藩米輸送に阿武隈川舟運が開始されていた

天和二( 一 六八二)年八月'江戸の商人で福島に店を持つ 商人上総屋
荒浜の武者宗三とが伊具郡耕野村( 現宮城県伊具郡丸森町)の改修しなければならなかっ たのであろう。
 旦水害が起こると'再び通航不可能となってその都度改修しな
修を行っている。藩境付近の難所は'一 応友以らによって開整されたち

阿武隈川の下流と上流それぞれの舟運の性格の相違は、ほぽこの二点
こうした地域的特性によるところが大きいのは事実である。
各々の舟運発展における格差は、は米不足に悩む幕府が信連両郡を天領とすることにより、その産米を城れたからであろうし、寛文年間、下流において舟運が急速に発展したの
は、滝や急流等の航路障害の為に領主米廻漕には利用できないと考えら
二百年以上の開きがあるが、上流で近世初期に舟運が行われなかったのに集約されるであろう。

又、 城米を江戸へ 廻漕する際の積み換えについては' 「 文化十二年御廻( 6 3 )れられた米は'小廻船( 一 五浜の蔵に入れられる。ここでは出役の浦役人が受け止める。更に蔵に入た米は、水沢・ 沼ノ上で 肺船に積み換えられ'肺船で荒浜迄運ばれ'荒する詳細な説明がある。まず'信連地方の諸河岸から小鵜飼船に積まれ米拘仕方」に、水沢・ 荒浜・ 寒風沢での積み換えの際の請払の手順に関
〇 0二三〇石程度を積む)に積まれ'寒風沢(さぶさわ)溜所があり'ここで俵検査を外海用の元船に積まれるのである

安永八年「 風土記御用書出」によれば'阿武隈川沿岸には'藩の穀蔵( 6 7 )( 6 8 )( 6 9 )が岩沼郷藤場に五棟'荒浜に十三棟'雑穀蔵が伊具郡尾山村に五棟、同( 7 0 )( 7 1 )
館山村に五棟'城米蔵が同耕野村に一 棟あっ た。
れは'正徳元年十二月'伊具郡金山郷の領主中島氏の迄の間、藤場穀蔵を1 時借り受けたいと願い出たものである。
蔵で引渡されるという取引であり'大文字屋の指配で江戸へ 出荷される 

近世舟運の研究
-阿武隈川舟運の開始と展開ー斎藤賢之

(リンクできないがこの題でインタ−ネットで読める)


阿武隈川に船運があった、それも慶長5年とかから始まったとすると古い
江戸時代の前だからである、福島市の板倉藩に属してそこに蔵があり船着き場があった
ただ二本松の方へは船で通れない難所があった
そこは東和町に行った時見た、滝になっていて段差がありとても船は通れない
だから船運は福島市から下流に向かう地域、丸森とか岩沼とかに港があった
特に岩沼に船を扱う人たちが集中していたのも地理からわかる
阿武隈川は丸森までくると川幅が広くなり海に向かっていることがイメージできる
海が近いのである、岩沼になれば特にそうである

ただ荒浜から直接荷物が米でも運ばれたのではない、一旦塩釜の寒風沢(さべさわ)によってそこで外洋に行ける船に変えて荷物を積みこんだ
江戸まで行く大きな船がなかったからそうなった、でも荒浜から塩釜までは遠いともなる運河があったにしてもそれを利用したより小型の船で塩釜まで行ったとなる
塩釜とか石巻からは伊達藩が江戸に大量に米を送っていたからだ
そして太平洋をわたりメキシコ経由で欧州にまで伊達政宗は派遣していたからだ
それだけの造船技術があった、それはスペインのキリスト教徒がいて技術を伝播したからできたともされる

船運でも川をそのまま日本では行けない、途中に難所があり通れないとなり工事が必要になる、外国だったら川は運河と同じであり急流とかないし船運が発達して都市間の交通網ができて商人のハンザ同盟とかできた、それは川が運河の役割りを果たしたからである
日本ではそうした川がない、海が交通路になってもその海は大平洋だと荒いから発達しなかったのである、日本海だと北前船の交通路ができた、冬をのぞいて穏やかだからである
何か私はこれだけ旅しているのだから交通に興味をもつようになった
寒風沢にも行った、塩釜の入江の入り口にある島である
たいがい日本なら実地に行ってからイメージできるのである
でも一旦塩釜の方に行くのは難儀である、でも造船技術がなかったらそこまで行くほかないとなる、だから船運というのは交通は大きな役割を担うのである
金山城がある所からも

伊具郡金山郷の領主中島氏の迄の間、藤場穀蔵(岩沼)を一時借り受けたいと願い出たものである。

中島氏というのは筆甫にも墓があり有力な氏族でありそれが船運にかかわっていたとなる船運にかかわることはそこで農業以外でも仕事ができて収入になる
それは経済的にも重要なことである、なぜなら農業だけの収入では限られているからである、積み荷も最初は米だったがそのあとは米以外の商品になった
つまりそこで商品として売れるものを作り収入でも増えるとなる
つまりか船運が発達すれば商品化する作物でも作ることになる
もともと伊達藩では江戸に米を送るために石巻に大きな港を作り伊達藩の米は商品化していたのである、そきために米がとれない飢饉になったとき他の作物がとれなくなったのが飢饉の要因だったとしている
それはグロ−バル経済の中で起きている、コーヒーばかり作っている国では他の作物がとれない、するとコーヒーが売れなくなると値段が下がったりすると影響が大きくなる
地元ではコーヒーしか作っていないからである
そういうふうにグロ−バル経済の危険はその土地土地でとれるものをもっていないとそうなる

それで大張とか耕野とかに迷って今回入ったがそこでも船をもっていて船運に関係していた、ということはなんらか山仕事農業だけではない仕事がもてたともなる
川張でも一掃船を所有していたとか書いてあるからだ
どうしても川が長いと中継地点が必要になる、それが川の港なのである
最上川でもそういう川の駅のような所があった、ただそこは秋で虫が鳴いているだけで
何もなかった
川張りとか阿武隈沿いに兜の渡しとかあった、そういえば阿武隈川のように川幅が広いと橋をかけることができない、そこで渡しが生まれた
そして橋は頑丈なものが作れないので流されやすいのである
そこで八島屋という店がありそこは結構高い場所だが去年の台風で被害があった
水がその店の高い所まで来ていたのである 

それで一部被害があったがインタ−ネットで寄付を集めて修復したとある
あれだけこ高くても水があふれて入ってきた
そこはやはり川幅が狭い場所だったからあふれたのである
丸森の街の方では川幅が広くなるからあふれることはなかった
あふれたのは山の方からの支流だったのである
ともかく去年の台風の被害は思った以上大きかった
いたるところ相馬地域でも道が崩れて未だに直されていない、交通止めになったままなのである、ただ阿武隈沿いの道は直していた、でも新しい道はトンネルが多かった
ずいぶん前に通ったが記憶がないが何か細い道がつづいてトンネルはなかったように記憶する,道も絶えず変化しているからわからなくなる
大型のトラックも通れたのかとも見た、やはり道は改善している 

私は地理とか交通に興味をもったのはこれだけ旅したからである、当然旅は地理とか交通と一番深く関係しているからだ
地理はやはり地図見ただけではわからない、実地にそこに行かない限りわからないのである
だから外国もある程度旅したから地理をわかる範囲が増えた
それがいいのは外国と日本を比べたりできるからである、それで日本を知る人は実は外国で実際に住んでいた人たちなのである
つまりそういう経験は日本を比較して良く見えるようになるからだ
それは地理でもそうである、外国の河と日本の河はまるで違っているからだ
第一世界の四大文明の発祥地が大河の側で生まれたというときもそうである
その大河が日本にはないから根本的に外国を理解できないものにしている




                                                                    

2019年12月11日

相馬藩と伊達藩の境界の新地 (廃藩置県で福島県になった複雑な経緯)


 相馬藩と伊達藩の境界の新地

(廃藩置県で福島県になった複雑な経緯)

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境界を見ることが一つの地理の目安になるし歴史の目安になる
相馬藩だと伊達藩の境が新地になる
新地はもともと伊達藩に属していた
駒ヶ嶺城は伊達藩の城である、だから相馬藩との争いがあり興亡があった
でもそこは平地だから自然境界ではない
ただ相馬藩と伊達藩は飯館村でも争っていたし丸森でも争っていた
それは木材資源をめぐっての争いだった
丸森では米沢はんも加わって三つの藩で木材資源で争ったので知られている
それだけあの辺は森林地帯であり木材が多くとれた地域だったのである

丸森の金山城は峠を越えて入った所にありその城は一時は相馬藩の人が治めていた
それから伊達藩の侍が治めるようになった
だから一時は相馬藩領だったのである
それで面白いのは方言である
新地の人がだっちゃだっちゃという、仙台でぱ語尾にだっちゃというからわかりやすい
だっちゃという方言の語勢が何か攻撃的なのである
一方で相馬地域はんだんだであり口ごもるずーずー弁になる
だからちこのだっちゃは東北弁のズーズー弁と異質なのである
それで宮城県は東北ではない東北人ではないというのもわかる

第一伊達政宗のような国際人というか演技力まであり英雄は東北人ではないとなるからだそんな外交力が東北人にないからである
何か一般的に陰気で口ごもるとか口達者ではないからである
ただ相馬総合病院で入院して同室だった人が丸森の金山の人だったのである
それてんだちゃと言っていた
相馬ではんだんだというがんだちゃとは言わない、それは金山に城があり一時相馬藩の侍が城主ともなっていた
するとそこで仙台弁と相馬弁が合体したと推測できる
方言は訛りはお国の手形だともなり地域性を感じやすいのである
それで青森の津軽藩と南部藩の言葉は違っていてすぐにわかるという
ただ津軽藩と南部藩の境目に山があり自然境界として分かれている
丸森も峠を越えると相馬藩になり峠を下ると丸森に出る
自然境界としてある  

不思議なのは福島県と宮城県に分かれた経緯である

新政府は東北の広大な地域を分割して支配するために明治12年に磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥の五か国に分割した
角田県は磐城国に属した、今でも宮城県の南に入る名取郡各郡に,磐城○○という地名があるのはこのためである(新地史)

磐城太田駅があるけどそれももともと古代に磐城国があり名付けられた
ただそれは明治以降に名付けられた、最初は高駅であり古代の高郷に由来しているし近くに多珂神社がある
ただ磐城とつく地名は葛尾村の落合とかにもあり磐城落合となっているのだ
だから磐城国は広い範囲でありその名がついた
でも古代からある国名でもそれは明治になって名付けられたのである
磐城とあるとき地名だけども姓ともにている、姓は一人のことではない一族を示しているからである

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とにかく宮城県内に磐城とつく地名があるのはこうした経緯がある
新地は相馬藩内と伊達藩として分断されていた福島県に入った
でも境界地域として複雑な経緯をへて福島県になったのである

境界でも山とか川とかで自然境界になっているのはわかりやすい
でも政治的行政区域になるとわかりにくい、廃藩置県でそういうのが多くなったから県単位では県としての歴史とかでも地理でも一体感がないのである
ただ伊達藩と相馬藩は戦国時代は争ってもその後は隣り合っているから協力した
伊達藩から神様も勧請された、小牛田の山神信仰とかその他いろいろな仏教信仰とかも入ってきた、相馬から妙見信仰が勧請された
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こんなふうに協力して栄えたとなるからどうしても相馬藩は福島県ということに違和感がある、そもそも福島県は本当に一つの県にすることは無理だった
地理的にも歴史的にも無理だった
むしろ宮城県に属していた方が良かったかもしれない、廃藩置県になるとその範囲が広すぎたのである、だから人為的人工的行政区分であり未だに違和感があるのだ
それで今回の津波で太平洋に面しているから南相馬市の片倉のフラワーランドから見えたから牡鹿半島と金華山が見えたから一体感を感じた
相馬藩内には金華山信仰がありその碑もある、何か福島市となるとつながりがない
ただ霊山になると吾妻山が見えるから地理的一体感が生まれてくるのである

ともかく伊達藩は相馬藩より古いから歴史的に学ぶことが多い
新地にあった文禄の碑は私が見た碑では古い、他にも墓地とか碑を見れば古いものがある宮城県に関してはなかなかそこまで見ていない

屍骸骨山のいたるところに横たわり、鳥獣の餌となれり、屍を運び骨を拾い、累々これを一穴に埋める、これを戦死塚と称す

駒ヶ嶺城では町屋も火事になりかなり消失して数十名が戦死した、つまり民家も被害があり悲惨だった、丸森には伊達藩が大砲を備えて戦った跡が残されている
相馬藩は薩摩長州軍に早めに帰属して伊達藩と戦ったのである
駒ヶ嶺城は境の城だからそうなったのである
ただ新地になるとまだ地理的にわからない面が多い、この地理がわかるのが近くても容易ではないのだ

新地で印象に残ったのは街内の神社にあった「文禄の碑」である
それは明らかに検地のためだったのである、年号だけを記しているのはたいがい検地の記念だったのである、伊達藩では大規模に文禄に検地をしていたからである

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2019年12月07日

地理の不思議 (平面的ではなく立体であるから地図にできない―南相馬市の位置)


地理の不思議

(平面的ではなく立体であるから地図にできない―南相馬市の位置)

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南相馬市の位置

南相馬市の丘から冬晴れの日に
牡鹿半島と金華山が見えた
すると心はそっちに向き
心は海に向かって開ける
でも太平洋は広く荒い
いつも波が荒く打ちよせる
そして津波の記憶がまだ生々しい
多くの命が無情に奪われた
心はまた海に開けても
心は閉ざされる
阿武隈高原に視界が閉ざされる
福島市の方は見えず
心はそっちの方に向かない
心は常に海の方に向く
伊達政宗が太平洋を渡るべく
メキシコを経由してはるか
ヨ−ロッパに視界を広げた  
それは東北ではありえぬ快挙なり
常に海に向かう土地がそうさせたのか
ただ太平洋は荒々しく
冬の海に鴎が一羽とんでゆく
そして東北の海は閉ざされている


人間はその人の住んでいる位置が大事である、そこをベースとして起点として世界を見るからである、だから同じ地域でも山側から見るのと海側に住んでいる人とはかなり感覚が違ってくる、その地理からアイディンティティが作られてゆく
人間はまず初対面ならどこに住んでいるかを聞く、どこの出身かを聞く、そこからその人のことを推察する、私の場合は日本だと全国を旅したからだいたいどんなところか推察できる、外国になるとまだまだわからないが一応主な所を回った
外国にうとかったがそこで見聞を広めることが50からでもできたので良かった

まず自分の住んでいる所はどうしても一番影響しているのが阿武隈山脈というより高原となっている、ここで中通りと福島市とさえぎられている、視界に入らない
すると福島県は横に広く地理的一体感を感じないのである
詩にしたようにむしろ仙台の方に視界が開けているし交通でも常磐線があり仙台に通じている
そして津波でわかったように石巻辺りが震源地になっていた
その石巻の牡鹿半島と金華山が片倉のフラワーランドから見えたのは意外だった
新地から見えていたがあそこから見えるとは思わなかったからである
そこまで見えるということは地理的一体感を福島県より宮城県に感じることになる

そして宮城県に津浪伝説があり津浪が来ると警告していた市井の学者がいたことでもわかる、海に面していて地理として一体感があったのは宮城県の方だったのである
でも行政区分としては宮城県と福島県は歴史的に相馬藩と伊達藩に分かれて争っていて継続して相馬藩は福島県に属した
ただそれはあくまでも廃藩置県で無理やりに分けたから不自然なのである
地理的な自然境界がありそういうものを考慮していなかったからである

宮城県だと本当に海に面している面積が大きい、そしてそこは海産物が豊富であり縄文人が前期には多く住んでいたことが理解できる、海の方が住みやすかったとなるからだ
ただそこは津波などが来る場所だったのである

いづれにしろいつも海を見ている人と山に囲まれて毎日過ごしている人では相当に感覚的に違ってくる、海は何か心を解放する気分になるが山だとどうしても閉ざされた感覚になる、だから阿武隈高原によって浜通りは閉ざされるのである
おそらく双葉や大熊辺りに原発が建っていても見えないし無関心だったのかもしれない
全く見えないし阿武隈高原に閉ざされているから見えないし危機感を感じなかった
これは別に浜通りでも30キロ離れた私の住んでいる場所でも危機感がなかった
そういうふうに何でも地理が影響するのが人間なのである

ただ一方で太平洋は荒々しいから何かここを渡って行けるその向こうに国があるとなど思えない
だから伊達政宗がヨ−ロッパまで船を作って送り出したのは快挙だった
そんな視界を普通はもていない、海もまたこの辺では閉ざす世界である
津浪でもわかったように海は本当に恐ろしいものだったからである
太平洋は心を閉ざす海なのである、日本海は比較的冬以外は穏やかだから青森の方まで縄文時代でも行き来があったことでもわかる、太平洋だととてもありえない海であり閉ざされていたのである

そして地理で不思議なのは地理が平面ではない、立体だということである
だからどんなにしてもこの立体感覚は地図では経験できない
なぜなら土地の高低を実感できないからである
だから自転車で狭い地域を回る時、一つの球体を上ったり下りたりして回っている感じになる
それは原町でも鹿島でも相馬市でもそこが一つの球体に感じるミクロコスモスに感じる
それはとても地図を見てもわからないのである
地理はまずこの高低とか隈なくその土地を行き来しないと実感できない、体得できないのである、だから未だに故郷でも狭くてもわからない所がある
そして車だと乗っていないからわからないが土地の高低など坂を上る感覚もなくなるからわからなくなる
鉄道でも坂の感覚がわからないのである

結局学問というときなぜ面白くないのか、それは学校だと記号の勉強でありただ地理でも紙の上でしか見れないからである、あとは受験勉強になる
現実世界から隔離された記号だけの世界で学ぶから興味がなくなる
まず地域でも回っていたら地理に興味をもつ
第一今になってやっと片倉のフラワーランドから牡鹿半島と金華山が見えたことを発見したからである
それだけ地元に住んでいても地理のことがわからないのである
丸森の絶景ポイントも最近発見した
そこからは大平洋を一望にできるし蔵王を見えたのである
阿武隈川も流れているから丸森は景観が一番いい場所である

地理がわからないというとき世界が理解できないのはまず広すぎて地理がわからない
中国なども理解できないのは地理がまずわからない
それであるゆる世界のことでも基本がわからないから理解しにくい
それでなぜ香港であのような激しいデモが起きたのか?
その説明で面白かったのはそもそも中国は南と北では違った国であり北は軍事力の騎馬民族が支配して南はその北京などの騎馬民族に支配されて搾取されつづけてきたという
また言葉も違っていて別な世界を形成していたという
それを読んでなるほどなと思った
南船北馬というのは聞いていたけど北は馬であり騎馬民族が支配した国だとなる
そういうことが根底にあり中国は対立しているのかとなる
そして北に黄河あるとしてもそこは不毛の地だという、ヤオトンとか洞窟の中に住んでいるとか貧しいのである、第一木もない黄土高原を見たらとても豊かになれないと見る
でも南は揚子江はそれとは別な世界である
それで世界でもtake place(起きる)は場所が大事なのである

いづれにしろ地理を知るには机上の学問では不可能である
旅しない限り実感して知ることはできないのである
だから世界旅行は必ずしないと何もわからないままで終わる
ただ一回くらいしてもまた地理はわからない、それだけ地理を理解することはむずかしいのである
それがわかるのは狭い地元すらわからなかった、それが如実に示しているのである

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原町でも鹿島でも相馬市でもそこは一つの別々の球体という感じになる






2018年10月25日

戊辰戦争白河口の戦い (東北列藩の敗北)


戊辰戦争白河口の戦い

(東北列藩の敗北)

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火縄銃とか弓で東北列藩は戦っている、その武器の差が大きく負けたとなる


「明治の精神」とは何か。私に言わせれば、薩長中心政府の野蛮な国権主義と対外拡張主義による「大日本主義」のことである。


そもそもなぜ薩摩長州軍が江戸無血開城したのに東北まで進軍してきたのか?
その必要がなかったのである、雌雄は決していたからである
そして東北列藩では穏便に治めるように嘆願していた
会津にもそれを言っていたのである
おそらく会津藩が京都で新選組と一緒になり討幕派の志士を殺害したとかを恨みに思っていた、何か血に飢えていたとか血気を抑えることができず暴挙になった
別にすでに東北列藩は降伏するとしていたからである

明治維新はクーデーター説が普及している、テロをしたのは薩摩長州であり幕臣はしていない、吉田松陰がテロリストだったというのもそうである
最初は薩摩長州で政権奪取を狙ったものである、ただのクーデーターであり武力による政権交代をねらっていたのである
ただその後の結果として廃藩置県とか別な方向に進んだのである
それは予期されたことではなかった、だから士族を残す西南戦争になったのである

明治維新を美化するのは阿部首相が長州出身であり長州出身者が首相になるということが多かった、それは明治のつづきであり影響していたのである
戦争になると怨念のようなものが生まれてくる、仲間が殺されたとなり会津を憎んだ、
そして血気にはやる青年たちを止めることができなかったのかもしれない
江戸で無血開城したのだから東北でもそれができるはずだったからである

ただ会津は東北列藩が薩摩長州に穏便にすますよう願いを出してくれと頼んだがしなかった、ここにも譲れないもはのがあり東北全体に影響した
結局薩摩長州軍が700人に対して東北列藩が2500人でも旧式でありまとまりもなく敗れた、絵では火縄銃とか弓だ戦っている、薩摩長州軍は外国と通じて新式の兵器で戦ったから負けたとなる、また戦いに慣れていないから負けたともなる
やはり戦争は経験していないと実践していないと強くなれないのである

それにしても江戸の無血開城のようにこの戦いはする必要がないものだったのである
それは薩摩長州にも非があったが会津とにも非があった
どうしても譲れないものがあり負けるとわかるような戦いでもあえてしたともなる
武器の差が大きかったからである、また士気も薩摩長州軍の方が高かった
この戦いは無駄な面があった、そして白河では一般の人も死んでいる
巻き込まれて死んでいる、それで遊女シゲは会津藩士に殺された
薩摩長州藩士の慰み者になったと殺されたのである
これも非情なことであった、そんなこと遊女には関係ないからである
他にも庶民もまきぞえになり殺された、流れ弾にあたって死んだとか敵に通じているのかとかで殺された
そういうことは戦争で常にある、戦争でなくても夫婦喧嘩でも離婚でも親戚みんなが巻き込まれるのである
暴力団抗争でも流れ弾にあたって死んだりするのである
つまり庶民は戦争で必ず犠牲になるのである

白河の妓楼坂田屋の志げは、長州藩士で奥羽鎮撫総督下参謀・世良修蔵にひいきにされていました。奥羽列藩同盟軍から命を狙われていた世良は、白河にとどまることは危険と察し、慶応4年閏4月18日に白河を脱出しました。(その後、4月20日に福島で斬首)
時は、明治2年。戊辰戦争の敗北を逆恨みした会津藩士が志げを殺害。その会津藩士は坂田屋の用心棒に殺害されて、その仇を討たれたと伝えられています。

東軍が大敗北を喫した 5 月 1 日の夕刻、農民大竹繁三郎は野に放した馬を迎えに行く途中、東軍の間者と間違われ殺害されました。西軍はこれを陳謝し、慰撫するために官軍待遇として墓碑を建立し

庶民もこの戦争の犠牲になった、ただ薩摩長州の戦死者も供養されて碑がたてられているそれは日本特有のものである、それを見た中国人はありえないと感心している
中国人は墓を暴いても敵を罰するからである

「顧みるに昔日もまた今日のごとく国民誰か朝廷に弓引く者あらんや。戊辰戦役は政権の移動のみ。勝てば官軍、負くれば賊軍の俗謡あり。その真相をかたるものなり」

こういうことだったのか?結局何か戦争では無駄な血が流される、太平洋戦争で3百万人も死んだけどそれも無駄な血が多かったとなるとやりきれないとなる
だからとにかく江戸の無血開城は称賛するべきものだとなる、無駄な血が流されなかったからである、まず世界を見てもいかに戦争で無駄な血が流されているかみればわかるからである
相馬藩は官軍に降伏して仙台藩と丸森で戦った、丸森の木の大砲の砲台がある
それだけ武器で遅れていた、それは薩摩長州はいち早くイギリス軍とかとも戦いそのヨ−ロッパの実力を肌で知っていたからである
そして武器も輸入できていた、その差があって東北列藩はあえなく敗れたのである

伊達藩鴉組 斉理屋敷に展示の「木製大砲と陶磁弾」

2018年08月21日

なぜ地理がわからないのか? (鉄道ではなく城と城を結びつける地理)


 なぜ地理がわからないのか?

 (鉄道ではなく城と城を結びつける地理)

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 なぜ地理がわかりにくいのか?
それは鉄道を利用した地理は本来の地理と異なるからである。
例えば相馬から岩沼に行き福島市に行くことは本来ありえないことである
鉄道がなければ阿武隈高原を越えねばならない、江戸時代までは街道があり宿場町があり宿場と宿場を結ぶ道としてあった
その街道が鉄道によってすたれたのである
白河街道は会津と結ぶ道だが鉄道ができたらそこを通らないから忘れられた道となる
そこは芒の原の中に街道があり埋もれていたのである
七ヶ宿街道でもそうである、鉄道で行けばそこは通らなしいからだ
つまり鉄道からはずれた所は廃れたのである
それによって本来の地理がわからなくなったのである。

まず地理を知るにはもともとの地形があるが歴史としての道がありそこから知る必要がある,だから城があったところを結ぶことで地理と歴史の感覚を身につける
丸森には金山城がありそこで伊達と相馬氏の領地争いがあったからである
それから地理を知るには川とかの役割も大きい、阿武隈川をたどり地理を知る
川が目安として地理を把握する,外国だと川が地理の中心になる
川が国境にもなり運河の役割があるから交通路になっていたからである
日本の場合は川が交通路になりにくかったから川が地理の目印になりにくい
でも阿武隈川は大きい長い川だから目安になりやすいのである
丸森から亘理の荒浜までは大きな川であり交通路になる
ただ福島市からでも米が船で運ばれていた、でも途中難所がありむずかしかった

とにかく江戸時代の街道が主要な交通路として知ることが地理を知るには大事である
七ヶ宿街道もわかりにくいしさびれていた
それがどうして上山城に通じているのかわかりにくかった
それはかなりの急峻な山を越えるからである、そこはもう幹線道路からも鉄道からも隔離されたような所になったからである。
みんな東北本線とか東北高速道路とかから地理を意識する
確かにそこが奥の細道の幹線道路だった
でも白河街道とか七ヶ宿街道も幹線道路だったが忘れられたのである。

旅する時自転車などだとどうしても今の幹線道路を行く、浜通りだったら6号線を行く
でも本当は城と城を結びつける昔の街道を行くと歴史の道と自然の道が合体してイメージできるようになる、でも遠くからだとめんどうになるから行けない、近くだとなんとか行けるとなり自転車で自分は行った
ただふりかえると上山城とかに行った経路は七ヶ宿街道だけどどういうふうな経路をたどって行ったのかわからなくなる
旅は意外と記憶が大事だと言ってきたけど記憶するというのは鉄道になると線路をあるところしか行けない、でも江戸時代は鉄道がないのだから道をたどる旅になる
道は山の中でも通じている、それで何か昔の街道はさびれたものになった
でもまたそれで地理がわかりにくくなったのである。
地理というのは一部分を切り取るように見るとわかりにくい
全体としてみる、全体として知ることが必要である
この辺だと相馬藩を基点として丸森とか白石城とか上山城とかと結びつける
すると地理が具体的に全体としてとらえることができる
江戸時代は城と城とを結ぶのが道でありそこで交流があったからである

いづれにしろ地理が具体的にわかるのはこの辺ではこの地図に記した範囲になる
福島県は広すぎるからわからない、まず会津は広すぎて山が多いからわからなかった
ただふりかえると自分は自転車で相当に回った、それで地理的感覚が身についたとはなるある意味でそれが仕事だったのである。その時家族が留守を守ってくれたとかしたからできたと今では思う
今になると介護十年とかなり今度は家族がみんな死んだが留守する人がいないということで出かけられない体力的にもきついとなってしまった
ただ記憶をたどる旅ができるのはこうして自転車で旅したことによっていたのである
鉄道の旅はそれなりに役にたつにしても決められたルートしか行けないし地理感覚は身につかないのである 

2015年10月08日

みちのくの要所ー白河の歴史の要約


みちのくの要所ー白河の歴史の要約

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白河の関が機能していた古代には白河郡の政庁である白河郡衙は現在の白河市中心部より9キロほど
東方の西白河郡泉崎村関和久(せきわく)に置かれており、現在の白河市街地域が発展するのは鎌倉時代以降、結城氏が支配するようになってからのことである。

白河藩が設立されたのは徳川秀忠の時代、1627年のことで、石高は十万石、初代藩主は隣の棚倉藩から移封となった丹羽重家だが、まもなく重家は幕府から小峰城の大規模な改修と町割り整備を命じられる。これは幕藩体制の確立にあたり、白河藩を奥州の外様大名に対する戦略拠点とするのが目的だったと思
われる。
この城郭の改修事業は1629年から4年がかりで完成。現在のJR白河駅の南側まで含む約60万uの大規模な城郭が完成した。
ところで、その丹羽重家自身も外様大名であるうえ、関ヶ原では西軍とみなされて一度は領地を没収され、後に許されて棚倉五万石を与えられた経緯を持っている。そのような経歴の重家が、奥州の要衝である
白河藩主に抜擢されるのは不思議な気もするが、それは丹羽氏が築城技術に長けていたからだと云われている。もともと丹羽家は織田信長の家老挌の重臣で、重家の父長秀は安土城築城の普請を担当して力量を発揮し、家臣の中にも優秀な土木・建築技術を持つ者が多かったことを買われたようだ。
小峰城築城の大事業を果たした丹羽氏は次の光重の代にまたもや二本松へ移封となり、親子二代の間に棚倉・白河・二本松と三度もの築城を行わなくてはならなかったが、その労苦が報われたのか、その後は国替えもなく、幕末まで二本松を領している。


●白川城と小峰城で本家と分家で跡目相続で争い

文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐に参加し,功名をたてた結城朝光は、その恩賞として白河庄の地頭職(じとうしき)を与えられた。その後、朝光の孫の祐広(すけひろ)が正応2年(1289)頃、下総結城より移住して、この白川城を本拠としたと伝えられている
一四世紀の南北朝騒乱の時、四代目の宗広が奥州南朝軍の総大将となった。
一五世紀になると八代目直朝、九代目の政朝が一つの絶頂期を作った。
例えば政朝は文明三年(1471)に相馬高胤と一揆契約を結び「なにごとも助け合う」と同盟した。岩城氏とも兄弟の契約を交わした。
栃木の宇都宮氏とも保護する条約を交わし会津芦名氏からは自分の後妻を迎えて婚姻関係を作った。

後妻の子をかわいがりすぎて跡継ぎ問題が起きて本家と分家の争いが起きた。
それで政朝は小峰城の分家に滅ぼされてその後は衰退した。
これは良くある話である。ここで相馬藩も関係していた。白河ははり要所であり様々な勢力がここに集結したからである。

●石垣からみた小峰城の歴史

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白河は相馬からになるとなかなか行きにくい場所で行っていなかった。
小峰城には天守がない城がないとき行ったことがあった。
あそこの石垣が見物である。
地震で半円状の石垣は総崩れになった。白河でも十人以上が山崩れで死んだというのも意外だった。地震の被害はここにもありまた白河でも除染していた。
白河も風の関係で放射線に汚染されていたのである。
白河となる郡山からまた遠いから意外だった。郡山でも放射線量が高いとニュースでは騒いだ。地震から五年で石垣はようやく再建されたのである。
この石垣で興味深いのは

丹羽家は織田信長の家老挌の重臣で、重家の父長秀は安土城築城の普請を担当して力量を発揮し、家臣の中にも優秀な土木・建築技術を持つ者が多かったことを買われたようだ。
丹羽氏は二本松城を築いた、築城にかかわる家臣をかかえていた。丹羽氏は棚倉藩の城代ともなり白河城の城主とも一時なっていた。
丹羽氏と織田家は関係が深くそれは安土城とのかかわりがあった。
やはり城というのは石垣を組むこと城を造る事は一大事業だからそうなった。
「半円」は新しく現代風に作ったものだと思っていた。何か現代的だからである。
あれを復元するのは容易ではなかった。7000千個もの石を組み直したというからその苦労は大変なものだった。

穴太衆積み」と呼ばれる技術は個々の石それぞれが振動を吸収して揺れを抑え、地震や風雪に強いのが特徴。信長が延暦寺焼き打ちの後、残った石垣の堅固さに感心し、安土城の石垣を任せたとされる。その後、各地の築城に関わり、技術は豊臣秀吉が築いた大坂城(現・大阪城)や名古屋城などで用いられた。

石垣を作る技術集団がいて力をもった。ヨーロッパでも聖堂を建てた石工の集団が組織化され代々技術を伝えてフリーメーソンとして現代でも影の支配者だとか言われるのもそのためである。
二本松では茶をだした女性が「丹羽様」とか言っていたから住民には親しいものとして残っている。丹羽氏は小田家と関係が深い、次ぎに蒲生氏郷が会津の領主となり白河を支配した。
だから会津門があり会津町があった。会津町というとき会津の人が集団的に住んだから地名化した。
そこで興味深いのは蒲生氏郷はキリシタンであり白河城の石垣に十字が彫られているという、地元の女性が歴女というか大阪の女性であり説明してくれた。
その60代くらいの女性は城めぐりしていたのである。歴史に詳しい女性だった。
歴女というとき若い女性と思ったが今では60代くらいの女性でも言える。
城めぐりの旅をしていたのである。
この話は知らない人が多いだろう。何でも城に向かって祈っていたのはその十字架が彫られていた石垣に向かって祈っていたのだという。
会津の蒲生氏郷が支配していたからここにもキリシタンがいたのである。
会津にはキリシタンの墓がある。迫害もあった。
白河には会津町があり城には会津門がある。これで思い出したのがドイツの
秀吉の時代になると石田三成が相馬藩をたずねている。それは自分のすぐ近くにある田中城をたずねていたのである。
それで相馬藩に三成の旗印が野馬追いに出ていたし相馬の殿様は三成の一字をもらって名前としている。
秀吉は白河街道を通って会津に来ている。

●明治維新の激戦地だった白河

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白河から会津は勢至堂を通り会津にゆく白河街道である。この道が旧街道である。



白河口の攻防戦は、会津藩、仙台藩の両藩を主力とした奥羽列藩同盟軍と薩摩藩、長州藩を主力とした新政府軍との間で、およそ100日間にも渡って繰り広げられ、両軍合わせて800名を超える戦死者が出た、東北の戊辰戦争の中でも最大の激戦であった。

白河はみちのくの入り口であり要所だったから様々な勢力がしのぎを削る場所になった。茨城県とも境を接していて那須連峰も見えた。
こうした境が歴史が知るにはいい場所である。
郡山も万葉集の歌が残っているのだから古いし今では会津にも通じる鉄道が通るから郡山が交通の要所となっているが白河がもともと交通の要所でありここからみちのくの領域に入る場所で重要だったのである。
それで戊辰戦争では熾烈な争いの場所となり千人死んだとかなり白河の遊女の悲話が語られている。

棚倉でも戦いがありそれでは相馬藩士も死んでいる。棚倉藩は東白川郡になり今の白河は西白川郡である。
西白川郡には郡役所が置かれた。それが南湖公園に移築されていので知った。
福島県は明治維新に二本松県となり磐城県となった。白河県とならなかったのはやはり勢力的に二本松や磐城からすると小さいからそうなった。
古代では白河軍団がありこれも大きい勢力であり多賀城に木簡が残されている。
古代から要所の地であり福島県の玄関であり福島県を知るには白河から知るべきだとなるただ現代ではどうしても郡山から入る、そして白河が新幹線では新白河になっているのもややこしい、それで南湖から新白河駅へタクシーで行って仙台に行き日帰りで帰ってきたのである。
なぜ新白河駅を作ったのか?そこには一つの街になりホテルがいくつか建っている。
でも観光するには不便である。
ともかく新幹線だとかなり遠くても日帰りで行けることがわかった。
十年くらい旅していないから何か距離感だとかがわからなくなっていた。
十年もすれば時代は変わってゆく,特に新幹線で変わっていたことを実感したのである。

 
 

タグ:白河

2015年09月18日

みちのくの文化圏の探求 (まず地理的でも政治的でも境界を知ること)


みちのくの文化圏の探求

(まず地理的でも政治的でも境界を知ること)


江戸時代(1603年〜1867年)には津軽地方は弘前藩、 南部地方は南部領八戸藩として別々の統治の下に置かれました
http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/kokugo/tugarunanbu1.html

地理的境界として奥羽山脈があった。それは新幹線で新青森から奥羽山脈をぬけて浪岡に出た時わかった。
方言から地域を区別するのは昔からあった。人間の地域性はまず地理で地形で区切られて方言で区切られてそれたら政治で区切られる、青森でも弘前藩と南部藩と対立して影響していた。関所があるとそこで二つの地域に分けられて違った文化をもつようになった。

伊達藩は今の宮城県であり新地は伊達藩でありその新地出身の人がだっちゃという方言を使っていた。ただこの女性は名取にも住んでいたから仙台弁になった。
新地はまぎらわしい地域だった。明治以降は相馬郡になったが江戸時代は伊達藩だったのである。
明治以降の廃藩置県は地形とか考慮しなかった。江戸時代は地形が地理が一つの国として封建制の中で確立していた。ただ伊達藩となると広いからそれは政治的支配であり地理を越えたものとして成立した。

廃藩置県になってからは地理的に県を理解することはむずかしくなった。だから前に県からイメージすることができないと書いた。
つまり青森だったら弘前藩と南部藩は地理的に政治的にも別だったのである。
福島県でも広いから一つの地理から理解できない、会津地域はもともと万葉集の残っているように一つの別個の国だったのである。
「会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結ばさね」
ここで嶺となっていることがまさにその国が会津嶺でありその嶺は複数の嶺なのである。一つの嶺ではないのである。
岩手山だったち岩木山でも鳥海山でも一つの嶺としてあるが会津は多数の嶺のことなのである。
福島県の福島の由来を探求している人がいるがこれせ複雑であり何かわからなくなる。
大阪とかにその由来を求めているが何かしっくりしない。
なぜ福島県なのかその由来がわからないのである。
福島県というのは名前は何か歴史的でも地理的でもない、ただ二本松県とか会津県とすると統合した名前にはふさわしくないから福島県としたのかとなる


まず世界を理解するのは地理からはじまる。岩手県でも区界(くざかい)という高地があるそこで岩手県は二つに分かれている。そこには春になっても雪が残り冬だと厚い雪に埋もれるのである。
そして今回の津波の被害を受けた地域は太平洋海岸線として一体であった。
海岸線とか大河の流域とかが一つの共同の地域を形成することは交通からありうる。
ヨーロッパでは川が縦横に流れ運河ともなり交通がありハイザ同盟とか一つの都市のネットワークを作った。
日本は大河がないから海岸線のネットワークを作った。
都からは鉄の材料が浪江の請戸港に運ばれて葛尾村で製鉄されて葛尾大臣が栄えた。
宮古と相馬はかえって海の道で結ばれていたのである。
地理を知るときはやはり区界(くざかい)でもそうだが地理的でも政治的境界でも知ることが第一になる。
福島県ではハマ、ナカ、アイヅとあるとハマと浜通りとか中通りは阿武隈山地で区切られているから地理的に隔絶してるのである。
ただ今回の放射能汚染では風で中通りの福島市とか郡山市まで放射性物質が運ばれたので皮肉だが地理的一体だったと感じたのである。
風はどうしても峠でも山でも越えてゆくからそうなったのである。

福島県はまず会津は地理的にも別個の世界である。2000メートル級の山がひしめいているからそこが全く違った山国の世界なのである。
そして阿賀野川を通じて新潟方面と交流があり浜通りからすると遠いのである。
だから福島県と言ってもそこを一つの国としてイメージするものがててこないのである。
文化はやはり一つの地理的なミクロコスモスの世界観が形成された場所から生まれる。
だから会津には会津の文化があり福島県の文化ではない。
そこには歴史の厚みがあり風土に形成された歴史と文化が蓄積されている。
会津も広いし奥深い世界だから地理的にも究めることはむずかしい。
福島県を知るだけで相当旅行しないとわからないだろう。
東北でもそうだがここも地理的歴史的一体感がどこまであるのかわかりにくい。
要するに東北でも広いからそうなる。
ただ常陸が関東圏であり白河関からはみちのくになったのは地理的にも政治的にもそうなった。

文化の形成はやはり地理がらはじまる。それは相馬藩という狭い地域でもそうでありそのミクロの世界でも一つの世界観をもつことにより文化がcultivate(耕して)されて形成される。耕すというとき土を耕すというだけではないすでに土を耕し実りを得ること自体が文化なのである。
地方創生というとき文化の再生こそが地方創生である。経済的なものだけではない、政治経済のように人工的なものではなくその土地土地から形成されるのが文化なのである。
現代はグローバル資本主義から国単位でも県単位でもさらに江戸時代の藩単位になり文化の再生の時代になる。
文化の個性はその土地なくしてはありえないからである。だから東京に政治経済はあるのだけど文化がないのである。
奈良や京都には大阪でも文化があったが東京にはないのである。
文化が興隆しない限り栄えたとはならない、たいがい政治都市でも鎌倉でも平泉でもやはり文化が興隆したことで歴史をみるからである。

東北文化圏とかその中でも会津文化圏とか相馬文化圏とか青森でも弘前文化圏とか岩手でも地域的に分かれた文化圏かある。それは全国的でもそうである。
この文化圏の再構築することによって日本の文化も多彩なものとなる。
日本は国土は狭いのだが地勢が複雑であり変化に富んでいる。南国から北国からある。
だから一つの世界観を形成しやすいとなり日本文明が形成されたのである。
全国的だと琵琶湖を中心とした近江文化圏とか瀬戸内海文化圏とかはわかりやすい。
地理がわかりやすいところが旅してもわかりやすい。
琵琶湖があり瀬戸内海がありそこからイメージできるからである。
ただ岡山県だとか広島県だとか県単位になるとイメージすることができないのである。

東北などの雪の俳句

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区界に雪の溶けずに厚しかな

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タグ:東北文化圏

2015年07月11日

石巻の歴史 (東北の港でもあり様々なテーマがあった)


石巻の歴史

(東北の港でもあり様々なテーマがあった)



雄勝の硯
この石は玄昌石(げんしょうせき)とよばれています
http://www.mediaship.ne.jp/~elsoshu/my%20home%20p/suzuri.htm


ほまち

「帆待ち」「外待ち」と書く。
このあたりでは「ほまちかせぎ」と使われることが多く、「ほまづ」と濁ります。方言ではなく、国語辞典にも「出帆を待つ間の船頭さんの稼ぎ」「臨時の収入」「へそくり」と載っています。多く東北地方で言われてきた言葉と但し書きがついて。相馬に行くと「小遣い」「駄賃」の意味となるそうです。
 http://archive.ishinomaki-support.com/index.php?gid=10161

この難破船事故の積荷には仙台藩の城米が主力では有ったのですが、その他には荒銅、堅炭、辛子、大豆、和薬等も積んでいたのですが
http://red.ap.teacup.com/hangui/1498.html

仙台藩は 石巻、 気仙沼などの良港にめぐまれ あわび ふかひれ
などの高級海産物を長崎を通じて 輸出して 外貨を稼いだ。 さらに 鉄、
金などの鉱山を持っていた。 仙台藩の経済力は 幕府にとっては 脅威
であった。


石巻の人がしきり言っていたのは「雄勝の硯」のことだった。この職人の一団が住んでいたところに津波が来てその職人の一団が死んで困ったという。
スレートという材料が出てこの硯の歴史は相当に古い、それで石巻から江戸に出していたのかと思ったらそういう記録はない、すると伊達藩とかで使われていたのか東北中心に使われていた硯だったのかとなる。
スレートでは新しい東京駅の屋根に使われたとかテレビで放送されていた。
石巻で興味をもつのはそこは東北の港ともなっていることだった。
北上川は平泉に通じてそこからいろいろな品物が運ばれたと言われる
特に名古屋の常滑焼が多いのである。
他に象牙などはどういう径路で入ってきたのか未だに謎にされている。
江戸時代は北上川が交通路になり盛岡の方まで通じていて物資が運ばれた。
だから石巻は東北の港とも言える、一伊達藩の港ではない、そこも魅力なのである。
石巻の港には南部・八戸・一関といった東北諸藩の蔵が次々と建てられ、
だから穀町とか千石町とかの地名がある。主に米を積み出したからである。

 
彼は、薩摩藩士で安政年間に東北を歴訪し、見聞をもとに『東北風談』(風譚とする写本もあり)を著し、東北諸藩の藩政と海防について的確な批評をした。
肝付兼武は仙台について、広い平野に水田が広がり、諸藩に冠たる米の大産地だが、米以外にみるべき産物がなく、およそ衣服器材はみな他国に求めている、と産業の実情を述べている。
 これ自体、現在にも通じる宮城の産業構造を的確に捉えているが、もっとビックリするのは、次の民情の批評だ。
 http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/200604020000/
 
江戸に送られたのは主に米であり江戸の米相場まで左右したというから仙台米はそれだけ江戸で食べられていたのである。
北上川沿いとか仙台平野は米倉となった。それは広いからそれだけの米がとれたが米ばかり作って飢饉のときに米がとれなくなり苦しんだとなる。
コーヒーだけ作っている国が飢饉になれば苦しむのと同じである。
米は商品作物となっていたのである。

もう一つ面白いのは鋳銭場があったことである。仙台藩で経済が困窮したとき「寛永通宝」が作られた。それによって一時的に藩の財政を支えた。
でもそのことが日本経済全体に影響した。これも何か経済学のテーマだった。
ここから探求すれば一つの論文が書けるだろう。
つまり学問は必ず一つのテーマをもって追及することからはじまるのである。
そういうテーマは身近にいくらでもあるのだが見いだされないだけなのである。
海の民、漁師の影響は日本では海に囲まれているのだから古くからあった。
「ほまち」というのが帆待ちから来ていたのか?
シケているというのは海が荒れているということで伝わっていることはわかる。
他にも漁師の言葉が他にも伝わっているのである。

石巻はいろいろ探求することがある。
そこで聞いた話で自分の母親は山形の人で北海道に船に向かう途中船酔いで石巻におりてそこで嫁になってしまったという。
これも嘘のような話だが人間の運命はみんな数奇なものなのである。
どうしてその人と結婚するようになったかとなるとそれも数奇であり不思議としか言いようがないことが多いのである。
特に戦後になると広域化して全国の人が交わり結婚するからこういうことも今ではめずらしくなくなったことでもわかる。
ただ石巻は港であり他国の人の出入りが多いからそうなりやすかったことは昔からあったことはわかる。

石巻に関してのネットの情報はかなりある。、仙台藩についてもあった。
やはり大藩だから歴史の集積があるからそうなる。
ただ広すぎてなにかしぼれないということで仙台では郷土史に興味を持つ人は少ないとなる。
でも石巻とかにしぼればそこから興味が広がるのである。
仙台はどうしても大藩だから東北とも関係して江戸とも関係して全国的に伊達政宗の時代からなっていたのである。
伊達政宗にしてもその歴史の裏話としては伊達政宗だけが脚光をあびるが伊達政宗によって滅ぼされた武家もいる。葛西氏は石巻を支配していたが伊達政宗に滅ぼされた。
その逸話も残っている。月鑑斎(げっかんさい)などもそうである。
相馬氏は伊達政宗に滅ぼされなかったのはなぜかというのもまた歴史のテーマになる。
石巻から登米(とめ)には行ったことがないのは鉄道が通っていないためだった。
行きたいと思っても行けないのである。車がないと行けない場所だったのである。
自転車で旅するにしてもそれは一部しかできないからぬける所が多い
鉄道が通っていれば何度でも行けるのである。

葛西氏の伊達に追われて殿入沢逃れざるかなここに果てにき
鉄道の通じざるかな登米遠くなお行かじ我が齢も尽きむとすも
万石浦浦宿すぎて女川や百羽の鴎夏に舞ふかな
石巻津波の被害なおあらわ空地のめだち夏も淋しき
石巻ここに住み着く親のこと語るも奇しき海風の吹く


タグ:石巻の歴史

2015年06月25日

んだちゃーは仙台弁だった (新地の人はんだちゃと言っていたのはそのためか?)


んだちゃーは仙台弁だった

(新地の人はんだちゃと言っていたのはそのためか?)

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方言の地域図



相馬市を含む相双地区には氷柱のことをさすシガという方言が分布しています。これが一歩新地町に足を踏み入れると,タレヒという全然別の方言に変わってしまいます(ちなみにタレヒは平安時代に京都で使われていた「垂氷」ということばに由来するものです)。同様に,内出血によるあざのことを新地町ではクロチ(クロジ)と呼ぶのに対し,相馬市以南ではクロナジという別のことばが使われます。相双地区に広く見られるカーマシ(川の増水)やカンカチ(火傷)は新地町ではほとんど聞かれませんでした。


カーマシという方言がないのは新地には大きな川がないからかもしれない
相馬には真野川は大きな川であり自分の家は二回も水害で浸水した。
カーマシという表現はやはりその土地特有の気候とか災害でもあるからそれを強調するために方言になったのか?

水運の発達した北上川沿いなどでは、太平洋岸の水運で江戸と繋がっていたために、江戸言葉と共通する特徴もよく見られる。これは、東北地方の日本海側の港町が、西廻り航路 (北前船) で関西と繋がっていたために、京言葉や大阪弁の影響を受けているのと対照をなしている。
浜通りの北端にある新地町は、江戸時代に仙台藩の亘理城主・伊達藤五郎の所領であったため、隣接する宮城県亘理郡と同じく仙台弁が使用されている


んだげんちょも(そうだけども…)(相馬弁)

仙台弁の特徴はやたら語尾にだっちゃがつくことである。相馬弁ではんだになる
だから丸森の人がんだちゃといったときそれは相馬弁と仙台弁が一緒になったのかと思った。
んだちゃは仙台弁でもあった。

んだげんちょも→んだちゃ

縮めるとこうなる、ただ方言というのは地元の人でもなかなかいろいろしゃべらなくなったのでわからなくなったのである。
新地で仙台弁を聞けばここはやはり伊達藩なのかと国が変わったことを意識する。
新地は平坦な所であり相馬から地形の変化がないのである。
だから地形的に別な国に行くということが全く感じないのである。
それで常磐線でも亘理までは変化がないのでつまらないのである。
ただ阿武隈川を渡り蔵王を見るとき変化があり別な国に行くという感覚になる。
そして丸森は必ず峠を越えてゆくから別な国に行くことをはっきり意識する。
風景もがらりと変わる、蔵王が見えて大きな阿武隈川が流れているからだ。



「んだがらー」
訛り?
じゃなくて、
いちいち、同意したよと同じ言葉を話すより、
この一言で済むという便利さ。
「さっぱり、わがんなくてー」
「んだがらー、言ったべー」なんてね。

んだがらーというのは相馬弁ではない、がらーとは言わない

語尾につける「ちゃ」、
これも最近、めっきり減ってきました。
「どうですか?、そうでしょうー」なんて言うとき、
「んだっちゃー、んだからさー」で済みます。
http://sendai-satouya.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-7c04.html


んだっちゃーは明らかに仙台弁であり丸森だけではない、ただんだというのは東北弁の語尾に多い。それが基幹語としてありそのあとにまた地域で変化したのである
相馬でも仙台方面と結婚したがしきりに「ちゃっこい」と言っていたのは仙台弁をしゃべるようになったためだろう。
相馬で「ちゃっこい」と聞いていないからである。
結婚すると相手の言葉の方言の影響を長くいるから受けやすいことは確かである。
方言はだから地域的な文化的な境界として区別されるのである。
今でもなまりはなかなかなくならない、国の手形が訛りである。
推理小説でもなまりは消えないからそこから地域を特定して推理してゆく。
ただなまりと方言はまた違っている。同じ言葉でも音のイントネーションとか発音の相違である。
英語とかは音で主に表現するから普通の言葉でも音で違った意味になる。
人間の言葉は音が最初にあり音で表現していた。
同じ音でも「これたかい」というのと「これたかい」でも
イントネーションが違うと本当にそれがたかいように思えるのである。
低い声で普通の音で言うのと「これたかい」というのは伝える感じが相当違ってくるのだ音を文字に買えたときそうしたニュアンスがなくなったから何か一様化して数式のようになったのである。
いづれにしろ方言は直接の会話で活きてくる。そういう場が今はもてない
ほとんど地方でも標準語でしゃっべっているからである。
ただ関西では標準語ではなく関西弁だからその相違がはっきりする
関西に来たというとき言葉からすぐわかるのである。

方言は文化交流の痕跡を残したものである。たいがい古語は辺境で沖縄とか青森などに残って使われていたというのもそうである。
それは古くから交流があった証拠である。
だから地図でも関西の影響を受けたのは日本海側であり青森などもそうである。
そもそもそうした方言が関西のでも土地の方言に入ってくるというのは相当な人の流入が長い期間ないと定着しないと思う。
英語などの言葉をカタカナにしているのも一つの文化流入である。日本語化したものだからやはり新しい言葉はそうなりやすい、ただ方言はまた違っている。
語尾の変化とかイントネーションの変化であり単語そのもののことではない
同じ単語でも発音の相違が生じているのである。

考えてみると知った人は新地の人だった。やたらだっちゃといっていたのは名取に住んでいたからだと思っていた。
そもそも新地だとなるとそこは伊達藩でありだっちゃを使っていたのである。
でも今新地でだっちゃという言葉をつかっているかどうかわからない
なぜなら相馬郡になっていたし明治以降は相馬の影響の方が強くなっていたからである。婚姻関係でも新地は相馬藩内の人とと多くなっているのである。
もちろん宮城県も多いが江戸時代は相馬藩内の人とは婚姻関係はまれだろう。
明治以降の変化もまた方言に影響しているということはありうるのだ。

いづれにしろ今は方言は普通はどこでもしゃべらない
だから何か地域性とか失われているし標準語になるとあたたかみがないということもある。
何か言葉が数式のようになったのが標準語である。
土地の人さえ方言でしゃべらないとなると地域のつながりも薄れているのである。
外国まで交わる時代は反面日本国の文化すら失われているのである。
それで日本文化のことを探り新たに発見する試みを万葉集などからしてきたのである。
つまり日本語は大和言葉にありそこに日本人の文化が言葉に純粋に残されているからである。
旅をするなら江戸時代の方が断然面白かった。
言葉も違うし関所を越えると外国になったからである。
地方創生が話題になっても何か地域的特色あるものが作り出せなくなっている。
なんでも一様化してしまうのが現代だからである。
タグ:仙台弁

2015年04月13日

二本松城は山城から平城へ移る過渡期の城 (福島県では一番魅力ある城)


二本松城は山城から平城へ移る過渡期の城

 
(福島県では一番魅力ある城)

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洗心亭で抹茶を飲んだ。

「この洗心亭は江戸時代に作られたものでぼっしん戦争で消失したのですがこれだけは焼けなかったのです」
そうですか、日本の城はほとんど残っていません、石垣だけが残っているだけです
あとで新しく建てたのがほとんどですね
「これは江戸時代に作られたものだから貴重です」
「そういえば何か茶室風の作りですね」

茶室といってももともと民家を基にしたわびさびの作りは農民がそういう環境で生活していた。その時農民はわび、さびなど意識しない、そのわび、さびは豪勢な建築物が豊かさが生れたとき意識されたのである。

「この城で気になっていたのが何であんな高い所に城を築いたかなのです」
「それはここはもともと畠山氏が建てた山城だったからですよ」
「ああ、そうか、最初は城は防衛のために山城からはじまっていましたからあんなに高い所に建てた」
「畠山氏のあとは丹羽様が城を築いたんですよ、丹羽様が信長様と縁故があったんです」「信長が出てくるのは古いですね、東北では秀吉は会津にも来ていますし
石田三成は相馬に来ていて野馬追いの旗印の三成のものを残したんずすよ」

なぜその抹茶を出した年配の女性がしきりに信長のことを言うのがわからなかった。
ただ畠山氏は南朝で霊山の大将になっていたから古い氏族である。
二本松城では伊達政宗と激しい攻防戦があった.相馬氏もこの攻防戦に深くかかっていた。


畠山氏を救援するため、佐竹・芦名・岩城・二階堂・石川・白河・相馬氏の反伊達連合軍約三万の軍勢は一旦須賀川に集結したのち安積郡に進撃した。

 同年七月四日相馬義胤が伊達実元・白石宗実を介して二本松城の無血開城を申し入れてきた。その夜家臣と談合した伊達政宗はその申し入れを受け入れることにした。
 同月十四日畠山主従の安全が保障されるよう相馬勢が二本松城に入城し、同月十六日畠山国王丸は二本松城本丸に自ら火を放って城を退去し会津の芦名氏を頼り、ここに戦国大名畠山氏は滅亡した。
 
 城の歴史
 http://bit.ly/1aWnMXR

秀吉のもう一つの一夜城、石垣城の謎

このサイトの絵が二本松城とぴったりなのである。これと同じ配置なのである。

城の歴史をふりかかると中世の館(たて)と呼ばれた山城から城が発展した。
地名で館(たて)とつく地名は多くそこは中世の城でもあった。
それは平地には少なく自然の山によって敵から身を守っていたのである。
だから二本松城ももともとは山城だったからあんなに高い所に畠山氏が城を築きそのあとに丹羽氏が天守台をそこに建てた。
興味深いの二本松城は山城から平城へ移る過渡期の城であり石垣でもそれがわかった。
曲輪(くるわ)というのが城内にあり家臣はそこに家を構えそれが敵が攻めてくるのを防ぐ役割を果たしていた。
山城のその手前には家臣たちの屋敷がありそれが敵を守るものとなっていた。
平城でも相馬藩の中村城は岡田館がありそれは家臣でも敵を守るものとしてあった。
二本松城の位置もまた防衛のために選ばれた。
鎌倉のような切り通しがあり城に入りにくいような地勢を選んで城が作られた。
たしかに城のある場所に駅から行くのがわかりにくいのである。

戦国時代にはまだ平城は少ない、安土城でもあんな高い所に城を信長が作ったのはこの二本松の山城の天守台とにている。信長の時代はまだ防衛を第一に城を作ろうとしていた。城を見るときその過渡期の城、中世の館の延長としての山城と平城の過渡期の城の形態である。小浜城などもそうである。丸森の金山城もそうである。
家臣の屋敷は守るために城のすぐ下に曲輪(くるわ)として作られていたのである。
相馬藩で麓給人という人たちがいたのももともと山城がありその麓を守るものとして仕えていたから麓給人となった。
だから歴史はつくづく何か必ず連続したものであり段階的に発展しているのだ。
前の時代の継続が常にあるのだ。全く新しいものは作れないのである。
明治維新でも日本的なものが継続していたことでもわかる。
天皇を中心にしたのがそうである。これは変えることがてきなかったのである。
歴史は本当は飛躍したりしない、前にあったもの作られたものを再構築するのである。
山城から急に平城にはならない、その中間段階として山城と平城へ移る前の状態の城が二本松城なのである。


今回も船岡城をたずねて一目千本桜を見たが石垣も残っていないので城に思えなかった。中世の館(たて)が基であり二本松城と同じように平城へ移る過渡期の城だったようだ。
何か旅をしても城がないと何かが欠けている。どうしても過去への歴史のイメージがふくらまないのである。相馬の中村城は一応野面積みでも石垣が残っている。
船岡城には何も残っていない、だから歴史を感じられない、イメージできないということがある。外から来た人はあとから作られたものでも城があるとわかりやすいのである。
だから亘理駅を城にしたのはあそこに城がなかったにしろ伊達藩として亘理があり歴史があったから観光用に作ったものてはない、観光でも城がある所とない所は相当に違ってくる。ただ会津の城は平城であり山城ではない、何か平凡に感じてしまう。
ただ前にあった黒川城は七層でありあの城を見たら感動する。

亘理駅の城は遠くから映える、見えやすいのである。ビルなどないから目印になりやすいのである。
大坂城ですら建ったとき回りには高い建物がないし平野の中に高く目立ったものとしてあった。城はどこでも中心としてあった。
だから今でも城がないということは中心がないという感覚になるのである。
天守閣というのはそもそもなかったというとき信長の安土城からはじまったというとき
遠くから見ても目立つものとして作られた。安土城は琵琶湖に接近していて見られるように作っていたという。
建築物は必ずその時代の象徴として中心的役割を果すのである。

ともかく歴史に興味をもつには土地の人とその場でなんでもじかに話すると興味をもつ。なぜ年配の女性が丹羽様とか様をつけていっていたのか?
それは尊敬のためなのか?やはり丹羽様というとき二本松の人にとっては特別な感情をまだもっているとかなる。普通だったら丹羽氏という、相馬藩だって相馬様などと言う人はまれだろう。
それは特別な意味がないにしろあそこで山城から発展した城だということはその場で聞くと実感するのである。
だから歴史はその場を踏んで土地の人とじかに話すと何かそこがただ本を読むのとは違った土地に根ざしたものを感じるのである。
歴史とはそもそも何か継続してきたものでありそれは今にも通じているのである。

ともかく二本松城の魅力は自然と一体化していることなのである。
今でもその庭は野趣あふれていて山城と一体化している。
そして天守台に登ると安達太良や吾妻山や蔵王や・・・・なども一望できるのである。
二本松県として明治のとき構想されたというのも立地条件からしてわかる。
ただわからないのは平地が少ないのに十万石になっていたのか?
郡山市とか福島市の方が平地が多いから都市として発展した。二本松には平地が見えない、そしたら米でもそれほど作れないとなる。
ただ実際は米を作る土地はあるから十万石になっている。外から見てそういうことかわからないことがある。
飯館村でも山の村でも平地がかなり広い所があるのを実地に行って知っているからわかる飯館村はもともと米も相当とれていたのである。
だからおそらく米がとれる土地が二本松にあるとなる。

今回も絵になる写真が二本松城でとれた。それは俳句とか短歌と一緒にあとでだそう。
それにしても奇妙なのは城がつくられたとき江戸時代でも桜はそんなに咲いていなかったという、桜はあとから明治以降公園化して植えられて咲くようになった。
城があったとき桜は城に映えていない、でも今は城に映える桜をあたかも城が作られて侍がいたときもその桜を見ていたような錯覚に陥っているのだ。
だから確かに俳句でも短歌でも城と桜を歌ったものはないのである。
これもやはり現代から見ているから過去は常に錯覚して見ていることのわかりやすい例なのである。

「武士道の象徴としての桜」は明治時代以降の感覚。特に各地の城址に在郷軍人会が桜を植樹するようになってから、「城・武士=桜」というイメージが定着した

桜と城とか武士とは関係ないものだった。いさぎよく散るというのは戦争の時に作られたのである。
戦国時代の武士でも桜のようにいさぎよく若くても死ぬのがいいとかならない。
武士が望んだのは報償だった。だから手柄をたてて出世するために戦った。
簡単に死ぬのではない、あくまでも戦で勝って上に昇りたいという上昇志向が働いていたのである。
桜のようにいさぎよく散るというとき武士には全くなかったのに戦争のときのイメージが現代の人にも影響しているのである。
だから桜が城ににあうというときそれは城と一体化していた武士にはなかったことも奇妙なのである。
ただ美的にはそういうことが関係なく確かに城と桜はあっている。ただそれは城が作られたときは桜もないのだから武士が桜と城を歌ったということはないのである。

要するに歴史は過去はないことでも美化されることがある。
自分も桜を見て二本松城に登城していたとイメージしていたのである。
むしろ武士のイメージは松である。松は忠臣とか誠意とかイメージされるからである。
江戸時代の城の屏風絵はたいがい松である。桜など描いていないからである。
それにしても二本松少年隊にしても何か桜のようにいさぎよく散ったというふうに美化される。それは後世の人が特に太平洋戦争と関係してそうさせた。
しきりに若くても桜のように散るのはすばらしいこだとされた。
それは武士とは何ら関係ないことだったのである。
桜のように散るというときただ早く死ぬということが奨励され美化される。
そこに何のためにかとかはない、ただ早く死ぬのがいいのだとなっているからである。

花と散る二本松少年隊・・・・
とにかく早く死ぬことが美しいということになる。それは危険な思想にもなっていたのである。



タグ:二本松城

2015年04月06日

東北文化論 (わび、さびは豪勢な豊かさのアンチテーゼとしてありえた)


東北文化論


 
(わび、さびは豪勢な豊かさのアンチテーゼとしてありえた)



アントワネットはこのプチ・トリアノンに接した狩猟場に「王妃の村里」と呼ばれる農村風の庭園を創りあげた。農家風の建物を建て、家畜を飼い、野菜を植え、農婦ごっこや芝居に興じた。
外観をわざとボロく創っているが、・・・・
http://www.dokodemo-bessou.com/france/page5/page5-4.htm

信長や秀吉ばかりでなく、松永久秀にも近しく、武家権力の中枢に接近しながらも宮廷文化とは対極的な独自の価値観を生み出した利休の独創性は、こうした利休周辺の環境や人間関係が大きく影響したものだろうと思います。
http://www.osenkou.com/skaori1.html

「伊達者」、「伊達な振る舞い」等「ダテする」とは政宗以前から「タテる」または「タタせる」という言葉があり(際立つの意に繋がる)、よって、その言葉の意味合いが政宗の言動と見事に合致した



わび、さび、しおり・・とかいう美意識がどうして生れたのか?
それは秀吉の黄金の茶室と対称化された美意識である。東西の歴史で権力者は黄金を求め黄金で飾るのが通例である。スペインはインカなどから黄金を奪い教会を黄金でちりばめた。人間の富の象徴として黄金があったことは昔から代わりない、黄金の特徴はまた腐食しないということも価値が変わらないものにした。
だから秀吉が農民の出で黄金の茶室を作ったのは別に特別なことではない、古今東西の権力者はみんなしているからだ。

わび、さびの美意識が日本特有と思っているがそうでもない、例えばベルサイユ宮殿はもともと王の狩猟場としての森だったのである。ということはパリの中に大きな森があったということになる。そういうことも今は想像できない、だから歴史は何か常に現代から見るから間違った見方をしている。
あの豪勢な宮殿にいたらかえって疲れるというのはわかる。それで「王妃の村里」という村の風景を故意に作り出したのである。そこか王妃の癒しの場となったのである。
そのことと秀吉の豪勢な黄金の茶室とかその他の醍醐の花見とか絢爛豪華な安土桃山文化を築いた。

だからわび、さびを素朴なものを求めるものは人間の心性として共通しているのである。そのわび、さびが堺という当時一番栄えた自治体都市から生れたのかというのも不思議に思うがつまりわび、さびの美意識はそうした栄えた都市文化のアンチテーゼとして生れたのである。
なぜならみちのくにはそもそも西のように栄えた歴史がない、豪商などもいない、東北はそうして栄えた歴史がないのである。平泉は確かに栄えたとしてもそれも一時の夢として焼失してしまったのである。だから江戸時代もみちのくは辺境でありみちのくそのものがわび、さびの世界でありそれで芭蕉はその世界に憧れて奥の細道を残した。

わび、さびの美意識はわび,さびが日常であり日々の生活の場だったら意識しない、それが当たり前であり絢爛豪華ものなどないからである。そこにわび、さびを特別意識することはない、日常がわび,さびに暮らしているからである。
利休のわび、さびの美意識はむしろそういうわび、さびがない文化的環境で故意にプチ・トリアノンのように生れたのであり別にそれは人間の心性として理解できるのである。
文化というのはまず自然がありそれが人工化してゆく、そしてベルサイユ宮殿のようなものができる。その反動として素朴なものを求めるのは人間として不思議ではないのであるつまり豊かさとは人工的なものとして贅を尽くす豊かさと自然の素朴さがあるとき豊かな文化が育まれる。

それは京都にある金閣寺と銀閣寺の対処性でも即座にわかる。京都には金閣的なものと銀閣的なものがあるから日本の文化都市になる。
東北にはそうした歴史がないから未だ文化不毛地帯なのである。
それだけの栄える財力が貯えられなかったからである。
文化というのは財力と関係してくる、富がないところには文化は栄えない、ただその文化の基もまた富があるからだけでは生れない、その背景に純自然というバックグランドがないと文化は生れない、なぜ今東京から文化が生れないかというとその自然が森でも山でも何でも消失して人工化だけの空間になってしまっているからである。
みちのくは伊達政宗の時代も実際は西に比べると相当に貧しかった。
そこで伊達政宗は背伸びしなければならなかった、それで何か秀吉とか西に対抗するために豪勢なことを装ったのである。それが伊達者の起源だったのである。
みちのくはわび、さび・・そのものの世界だった。そうじゃない豪勢なものがみちのくにもあると威勢を張らなければならなかったのである。
つまり豊かであり富裕であるならわび、さび・・をまず人間は求めない、豪勢な黄金を求めるというのが普通なのである。
そのあとにわび、さびの世界を求めるのである。

そもそも文化は実があって大地に根付くものがあって花が咲く、花とは文化のことであるても東北ではまだ花は咲いていない、商業とかでも西のように栄えたことを経験していなのである。
そして最近つくづく感じたことはこの辺では田畑が津浪や原発事故で喪失したとき、もう文化的なものを追及できないという感覚になった。その余裕がないという感覚になった。文化でも田畑がない田舎の生活がない所で文化を追及できなくなる、だから何か補償金などが入ってきてもさらに精神的には荒廃した感じになった。
花が咲くにはその生活基盤が充実していない咲かないのである。
それは一身上でもそうである。毎日家事に追われていたら文化的なものを余裕をもって追及できないのである。
だから今になと自由に旅できた時間は相当に恵まれていたと思うようになった。
自由な時間を与えらることは相当に恵まれたことなのである。
それが特別なことと意識していなかったが今になると意識するようになった。
なぜなら毎日時間に追われて10キロ四方から出れない閉ざされた生活になったことで意識したのである。

タグ:わびさび

2015年01月14日

平泉四季の俳句連作(新春ー2015) (平泉に集約されたみちのくの歴史)


 
平泉四季の俳句連作(詩)(新春ー2015)


(平泉に集約されたみちのくの歴史)



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春の虹切れ端残る平泉
一陣の風に花ゆる義経堂
平泉花の盛りに荒れる風
時は過ぐ無量光院跡花の影

杉林木陰の深く金色堂

平泉旅人去りぬ秋の蝉
三代の栄華の跡や秋の蝉
みちのくに秋草の花曲水の跡
平泉旅人とまる夕紅葉

三代の栄華の跡や冬の雨
みちのくや冬の雨ぬる弁慶松
金色の御仏雪に光るかな
池凍り金色堂の光輝かな
大泉が池百羽の鴨の騒ぎけり
柱跡苔に雪ふる平泉
金色堂ミイラ眠りぬ冬深む


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冬の平泉

平泉激しく炎上してのち
みちのく遠く忘れられるかも
観自在王院の池は雪に閉ざされ凍りけり
飄々と樹々は風邪に鳴り
我がその雪踏みてたずねぬ
みちのくの京よりいかに遠きや
西行の歌は心に凍みて残れり
平泉藤原一族は滅びて
残りし千歳の形見なれ
その栄華の日の夢の跡
贅を尽くして匠を残しぬ
螺鈿の巻柱、瑠璃の玉、象牙に硝子
須弥壇の孔雀の生き生きと
はるか富はここに集められぬ
三体の黄金の仏はかがよい
ミイラは納まり眠りにつきぬ
みちのく遠く栄華の日も三代の間
雪に閉ざして凍れる池や
みちのく遠くさらに冷えてあれ
その空気は張りつめ澄みて
塵もあがらず雪も凍りぬ
ただしんしんとみ空より
雪の結晶は舞いつつ浄められぬ
黄金の御仏遠つ世の徴し
みちのくの金色堂形見なるかな

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みちのくというときやはりそこには歴史がありその歴史を背景として自然が映える。
原生の自然とは違い人間の歴史的なものが反映される美となる。
北海道には歴史がない、原生の自然があるのが魅力である。
でもやはり歴史があるのとないのとはかなり違っている。
近江の魅力は様々な歴史に彩れて自然があることである。
京都もそうなのだが都会化しているから意外とその魅力を感じることがむずかしい。
ただ人間には共有された地域地域に歴史がある。
それは相馬藩という小さな単位でも400年くらいの歴史が刻まれている。
それで今回のように避難して人が住めなくなったとき歴史が問題になる。
人間は歴史を共有して自然を共有するのである。
それが生きるアィディンティティとなる

みちのくと言っても広いからなかなか共有しにくい
ただ平泉が古都でありそこに歴史を共有するものがあることは確かである。
最初のみちのくの統一国家の象徴としてあった
つまりみちのくの王として藤原氏があった。
ただそれもはかなく三代で終わってしまった。
それでも単なる夢ではなくみちのくの統一国家としてあったからこそリアリティがある
ともかく地元でも相馬藩でもその歴史を理解するのには時間がかかるのである。
近くだと四季を通じて行けるから理解が時間的に深めることができる
旅だと一回くらいしか行けないとあとで忘れ安いのである。
ただ芭蕉が優れていたのは一回の旅でみちのくの歴史を知り自然を知り俳句を残したことである。
その俳句が極めて深く陸奥的なものになっていたのである。
みちのくの歴史と自然の特徴を一回の旅で会得したというのも不思議である。

もちろん元禄だから今の時代とは違い鎌倉時代もまだ違ったものと感じていたのだろう。ただ時代をリアルに感じるのは自分の生きている百年くらいかもしれない
今だと明治維新からは祖父母が生きていたということで身近である。
江戸時代になるとなにかイメージできないから誤解が多くなるのである。
芭蕉はただみちのくだけではない、中山道でもその特徴を俳句にしていた。
「月の友」とかいうのもそうである。中山道は月がにあっていたのである。
自分も中山道を旅してふりかえると月があっていたしその時期に旅したので会得したのである。
俳句はそもそも一句だけではあまり芸術としては短かすぎるから現すことがむずかしい
ただ連作として読むとそれなりのつながりがあり読みごたえがてくる
芭蕉の句も奥の細道として連続として読むから一つの文学古典となったのである。
ただそれがみちのくを特徴づけるものとして後世に残った。
芭蕉によってみちのく的なものが顕著にされたというのも不思議である。
みちのくというと必ず奥の細道をイメージしていることでもわかる
それほど芭蕉の旅の俳句でみちのくがイメージ化されるようなったのである。

みちのくというと寒い辺境なのだから冬がふさわしいともなる。
冬のみちのくはまたみちのく的になる。それでもみちのくは広いからどこがみちのくかがわかりににくい、福島県はみちのくと感じるものが今はない、会津の方はまだ雪国になっているから違っている。中通りには奥の細道を感じるものがないのである。
新幹線が通っているのもそうだし宮城県もそうである。
平泉とか山寺には感じる。要するに現代が旅がつまらないというとき遠さの感覚がなくなったからである。
みちのくが江戸時代でもどれほど遠かったということが実感できない
新幹線で二時間ちょっとかとなる、はい行ってきたよ帰ってきたよでは何も旅にならないし印象にも残らないのである。
だから石巻の方の石捲線を来るとその電車の便も不便だからみちのくの広さを感じるのもいいのである。早く着きすぎることによってその土地のことがわからなくなっている
それをするにはつくづく自分がふりかえってみて時間が暇が必要だったなと思う。
余程の暇人でないとできないことだったなと本当に思う。
今や近くすら介護とかで行けなくなりわかった。
一日旅することができない、旅は金より時間だったのである。


みちのくは冬にふさわしいとなると岩手県はより寒いし辺境になるから雪もふるからいいと思う。福島県はまだあたたかいということもあり雪も中通りでもそれほどふらないからである。冬は空気も澄んで雪におおわれると浄化された世界になる。
そこに金色堂が映えるのもいい、四季に金色堂は映える。
ただ金色堂は金閣寺とは違い外にないから自然に映えないのである。
みちのくの冬はやはり他の冬とは違う。
みちのくは何か霊場として眠る場所としてふさわしいのかもしれない
そういう歴史的風土であり何か産業や商業の土地ではない

その土地がもっているものがありそれにあったものとして文化もあるのがいいのである。その土地の役割があるのがいいのである。みんな同じだったらつまらなくなる。
だからみちのくは騒々しい活動の場となるのも問題なのである。
だから癒しの場とか霊場、安らぐ場所としてあるのがふさわしい。
みちのくといってもすべてがそうではない、みちのく全体の特徴としてであり個々にはまた違っている。
ともかく回想の旅というのはあることに気づいた。
旅しなくてもこれだけ旅していれば以前として旅がつづいていることに気づいたのである芭蕉のように生きているそこにあることも旅であり旅の一過程一行路になってしまうのである。





タグ:平泉

2013年10月02日

宮城県人と福島県人の違いは何なの? (宮城県人は東北人ではない?)


宮城県人と福島県人の違いは何なの?

(宮城県人は東北人ではない?)

宮城県人は、東北人でいて東北人ではない。福島県より東京には遠いのだが、100万都市・仙台はもちろん、そうでなくても、かなり都会っぽいのである。なにせ、「仙台の如きは当時繁昌の地なる故、風儀上国に習へり」(『新人国記』)とあるように、江戸時代初期からすでに、上国(京都に近い畿内の国々)に似たところだったのだ。気質も、淡白でさっぱりしている。
http://www.k2.dion.ne.jp/~nipoon1/miyagi.htm


県民性は明治維新から作られたものだから歴史が浅い、江戸時代だったらその気質もその土地に密着しているから相当に違っていた。飯館村とかが明治以降合併したとき佐須村と大倉村は民情が一致しないから合併しないと村誌に書いてあった。なに、大倉と佐須はすぐ近くだ、民情が一致しないとは何なのだろうか?
詳しいことはわからないが人間が何かしら違っていた。それにしても同じ山の村でありなぜそうなったのだろうか?それだけ隣り合う村でも交流がないから違和感を感じていたし
付き合うということもしなかったのかもしれない、つまり江戸時代はいかにそれぞれの村が小単位で自給自足していたかである。今の時代にはそこが理解できなくなっている。
そんな狭い村でどうして生活できたのか?それが理解できないのである。


ただ最近南相馬市では小高区の人がどうのこうの鹿島区の人がどうのこうのとか言うのは原発避難民が押し寄せてきたために目立つからそう言われるようになった。双葉町の人はあつかましいとか批判されたりするのもそのためである。別に原発事故がなかったらそんなこと言われなかったろう。ただ原発で金が入ってくるのでうらやましがられただけなのである。それが今になるとただ金に汚い奴らだとか批判されるだけになったのである。
小高の人は人がいい人が多いとか鹿島の人は人が悪いとか言われるのもそのためだった。全然気質が違うという。そんなこと考えもしなかったが何かそういうことがあったのかもしれない、今でも隣り合っても民情が違うことがありうる。
でもそもそもそうした民情とか気質とかはわかりにくい、ただそういうことは常に話題になる。


福島県では特に浜通りでは相馬地方では仙台のつながりが強いから宮城県人とかかわる人の数が多いのである。結婚する人も宮城県の人が多いのである。それで面白いのは新地に伊達氏の家系の武士出身の人がいて相馬市との合併を頑固に反対していたという。
なぜ新地が相馬市と合併してもいいようでもそうなっていないわけがこんなところにもある。新地は伊達藩と相馬藩の境目だから特殊なのである。あそこに文禄の碑があったことでも伊達藩は相馬藩より古いのである。その碑はやはり伊達政宗の朝鮮出兵と関係して記念に建てられたのかもしれない、なぜなら新地は伊達領にもなっていたからである。
わざわざ文禄の碑とか記念に残すのはそのためだったかもしれないのだ。

伊達政宗は本当に東北人とはそもそも思えないのだ。それはやはり仙台がすでに繁華な都会でありそこでそうした気質が養われたとなる。本当に宮城県は東北ではないというときその気質がそうなのである。東北人は鈍重で真面目であり融通がきかいなとかず-ず-弁で世渡りが下手だとかが常にイメージされる。宮城県人にはそういうことがないのである。伊達政宗は現代に現れてもたいして違和感がない人間だったのである。
ただそうした都会人的気質が福島県人からすると嫌われるということがある。
それはなぜか?福島県人はまだ宮城県人より素朴なものが残っているためだという。
そんなことあるのかと思うがそういうことは類型的にある。宮城県人は仙台を中心にして拡散した都会なのである。岩沼や亘理あたりまでも仙台の延長なのである。だから仙台中心の県なのである。工業都市であり商業都市であり東北の中心の交通の要である。
それが江戸時代よりそうだったのである。仙台平野の米は石巻から船で江戸に送られていた。そういう商業都市として江戸時代からあったことが違っていた。
商業的だということは人と渡り合うことに優れている。それは関西と似た気質を形成する。


人間は不思議に国の訛りでおさとが知れるというのは変わっていないところがある。
なぜか、宮城県に住んだり宮城県人とかかわった人が・・だっちゃ・・だっちゃと語尾になる。この言葉でまずこの人は宮城県人だとわかる。相馬ではんだ、んだでありだっちゃは異質なのである。それで丸森になるとんだちゃになっていた。これも丸森が一時期相馬藩になっていたから相馬とかかわりが深いからそうなった。んだ-ちゃと宮城県と福島県の方言が一緒になってしまったのである。方言は山形でも青森でも相当に違っている。
訛りが強いと聞き取れないことがある。秋田弁でも山形弁でもなまりが違うのである。
雪国の方言はなまりは何か内にこもるような鈍重な声になっているみたいだ。

宮城県のだっちゃは何か明るい感じがしたのである。方言はまず何か地域で育った人間を感じさせるのである。江戸っ子になればあれだけの都会で生きるのだからぐずぐずしては生きられないからはっきり物言う言葉になる。それは都会だから仙台と宮城県人とにているのだ。んだんだ・・というのは何か鈍重で機敏性がないのである。
京都弁だと言い方やけにやんわりしているのである。女性的でありなるほど京都なら常に人ととかかわるからそうなったし大阪だともうかりまっかとかが挨拶になる。それは商業都市だからそうなる。京都弁は政治都市だから本音と建前を分けた言葉となる。
本音を簡単に出したら権力者に抹殺されるという恐怖があったのだろう。


結局言葉にも常にその地域性が現れていたのである。京都ではどうしても権力者の天皇も住んでいた都市だからそうなった。上のものに気づかうためにあのようなやんわりとした言葉になっていた。そのやんわりとした言葉は表向きで実際は刺があり本当の心は表に出さないのが京都人だとなる。権力者と絶えず接していればそうなってしまいそういう気質と言葉が生まれたともなる。
福島県というとき広いから一様化できない、会津はまた山国であり別個の世界である。でも山国であり強情だとか融通性がないというのも地理的歴史的に培われて気質が育てられたのである。福島県は宮城県と比べると素朴なところがまだ残っている。それは保守的な気質にもなっている。ただ浜通りとか会津ではまた違っている。


祖先につながりを感じる(全国統計)
http://i.imgur.com/MahLH.jpg

これでみると宮城県だけがあまり感じていない、福島県は一番祖先とのつながりを感じている。島根県とか宮崎県もそうである。結婚は当たり前とかいうのも東北では多く宮城県だけがここは違っている。どうしても跡継ぎなどを重視すると結婚は当たり前という風土になる。つまり宮城県は東北ではとないということがこの地図からもわかるのだ。福島県は保守的な県である。これは会津があるから統計的に余計にそうなる。一般化すると会津の影響でそうなる。ただ先祖を重んじるという時相馬藩でもそういう傾向がある。なぜなら野馬追いがあるからそれは先祖の祭りでもあるからだ。それでなかなか原発事故でも他所に移りにくいということもある。福島県はまだ素朴で土着的傾向が維持されている。ただ浜通りはまた違っている。イワキになるとここは東京の湘南だとか言われ東京と通勤電車も直結しているからここの風土も人間も浜通りでも相当違ったものとなっているのだ。

2013年07月13日

三陸町の波伝谷は津浪の伝承を伝える名前 (古代史は真野の草原の歌から石巻からさらに三陸まで結ばれていた)


三陸町の波伝谷は津浪の伝承を伝える名前

(古代史は真野の草原の歌から石巻からさらに三陸まで結ばれていた)

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三陸の伝統文化を伝える波伝谷(はでんや)は、戸倉神社を残しすべて、津波に流された。
神社が丘に打上げられ、神社を信奉したという伝説と同じ歴史が繰り返された。

●渡来人がかかわっていた船の伝承


三陸の伝統文化を伝える波伝谷(はでんや)は、戸倉神社を残しすべて、津波に流された。
神社が丘に打上げられ、神社を信奉したという伝説と同じ歴史が繰り返された。


常陸国で造船された大型船が海底の隆起で座礁し、波で船が転んだ谷、
最近七世紀後半の水軍による蝦夷征伐に関する古代史でも注目されている。

「安永風土記」にある水戸辺村の村名の由来として「当村は当郡北沢村不動尊百済国より御渡波成候節塩釜津浦へ御到着岸に付往古は塩津浦と申候」


戸倉神社及び神社下の船沈池がある。百済よりの船は、嵐にあい塩津浦にて風待ちしていたところ波が押し寄せ船が沈んだ、この場所を沈船池(明神池)であり船にあった宝物と共に祀ったのが戸倉神社だという。


戸倉大明神縁起


常陸国の一つの宮鹿島神宮に迎い奉りその神宮に配祀してある所の天児屋根命を守護神として二神を小型の船に奉遷し・・・・供奉の人々は神慮を畏こみて別に大形の船に乗り東海に回航して波伝谷にいたり碇を下した揚陸の機の到来するを待て滞留数旬に渉る然るに一夜海底隆起して丘陵となり海波荒み立ち上がり波に轉しられて船は遠く水面を離れて戸倉山の谷に在り供奉の人々驚きて引き下すんとなすとも船動かずこれにてここに宮殿を造営して三神を相殿に祀りこれを小鋭神社と称して波伝谷という名称もままたここより始まると


波伝谷の民族

http://www.thm.pref.miyagi.jp/archives/book_pdf/minzoku/hadennya_minzoku.pdf



この縁起は相当に歴史的に意義深いものがあるかもしれない、今回の津浪で意識されたのは福島県の浜通りから岩手県の宮古から海岸地帯が実は一つの海洋文化圏であったことが共通認識された。
岩手県とか宮城県はリアス式海岸であり明治にも津浪があったから津浪地帯だと意識していたが実は仙台の沿岸地帯や名取とかから亘理-山元町から浜通りは一つの海岸を共有した海への歴史をもつ共通の場であったことを知ったのである。福島県というとき中通りと会津があるけど海とは関係ない、山との関係が深い。だから地理的歴史的になかなか一体感がもてない地域だった。
今回の津浪で明瞭になったのは宮城県から岩手県とその海岸地帯は津浪の被害にあい共通の海の文化圏に庵たことを意識させられたのである。
大和朝廷の水軍による蝦夷制服はまず常陸からはじまり徐々に塩釜から三陸方面と伸びていた。常陸の鹿島神社は船と関係していた神である。船の操作にたけた人々が祀った神ともとれる。その船の建造や操作にかかわったのは渡来人の技術者であり百済国の人がまず塩釜に来て戸倉に移って来たとか百済の船が沈んだという池の伝説などがあったのも何か百済と関係していた。百済王敬福が宮城県遠田郡涌谷町の黄金の採掘に来たことは有名である。「すめろぎの御世栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲く 大伴家持」は有名である。

この歌によってみちのくが黄金の国であることの伝説が生まれた。それとと同時に古代において大和朝廷が水軍の蝦夷制服がありそれが伝説化して残っている。それが「みちのくの真野の草原・・」の草原は萱が繁っている場所ではなく地名説を出して前に書いた。草(かや)は伽耶(かや)の国に通じるとも書いた。ここでは百済であるが伽耶は後に百済国になった。その前は伽耶だったのである。

そして今回の津浪で塩崎の船着とか市庭と地名が残るところまで津浪が押し寄せたのである。常磐線の線路をくぐり津浪が押し寄せたことには驚いた。船も六号線まで流されてきた。だから万葉時代は海だったことを明確に意識させられたのである。真野の草原と歌われたのが南相馬市の鹿島区の真野郷だとされるが一方で石巻に真野があり萱原という地名が今も残っているからそこが真野の草原だとしていた。ただ歴史的遺物や文献からは南相馬市の鹿島区の真野が有力だとされている。唐神という地名が残っているのもそうである。唐は韓(から)であり朝鮮半島のことである。それでも三陸の波伝谷というと石巻からさらに奥でありそこにもこうした伝承が残っていることがそれを示している。現実に石巻からは真野公という木簡も発見されているから明かに常陸から真野一族の製鉄族とみられる一団が海沿いを移動していたのでありそれは三陸の方にも伸びていたのである。
だから津浪によって古代史も見直されるということがあった。常陸から福島県の浜通りから宮城県から岩手県の海岸地帯は一つの共通の場として海を通じて古代史も形成されたのである。そこには深く渡来人がかかわっていたのである。唐神という地名が残っているのもそうである。


●波伝谷の津の宮村はまさに津浪の村だった

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さらに津浪で注目すべきは波伝谷では津の宮神社がありそれは一つの村を形成していた。津の宮村となっていた。これは津浪があって祀られた神である。でも津の宮神社を中心にして村が形成されることはなかった。それは津浪に由来する村となるからだ。だから三陸は津浪に度々襲われているのだからそういう村があっても不自然ではないのである。ただ南相馬市の鹿島区の烏崎に津神社があった。これは結構大きな神社だった。だけどその由来は津浪であったことが忘れられていたのだ。なけぜなら鯨の祭りをしていて鯨の碑があったり金比羅の碑があったから津浪を記念した神社とは地元の人も思っていなかったのである。

松川浦の津の宮神社はまだ津浪を意識していたらしい。なぜなら津の宮神社に逃れれば助かると実際に逃げた人がいた。ちょうと津浪を逃れる高台にあった。でも烏崎の神社は平地にあり今回の津浪で完全に消滅した。一方家が集中していた烏崎の集落の高台にあった八龍神社はぎりぎりで残った。その石段は急でありあぜあのような高台に作られたのか不思議である。

そもそも平地に作られた津神社のあったところと家が密集していた烏崎はどっちが古かったのかとなる。地形からするとどうしても真野川の沿岸であり河口が広がっていたからその川岸の袋村が江戸時代になくなったように津神社があるところが八龍神社より古いとも思えない、もともと浜町とあるから家が集中していたところが古い町だったのか?港ははあとからできた。南相馬市でも実際に津神社は12もあったのだ。それが津浪に由来していることも忘れていたのである。福島県かち宮城県から岩手県の海岸沿いに津神社があれば400年前の慶長津浪に由来していたのである。ただそれを意識的に学問として警告していた人はまれだろうしいなかった。今回の津浪でみんな意識させられたのである。

岩沼でも津浪で押し上げられた船の伝説が残っていてそれを聞いた東北電力の人が津浪を恐れ女川で高くして原発を造り助かったのである。もちろん津浪は岩沼辺りではそんなに襲っていないが女川では津浪は400年前でなくても経験している。その相違の方が大きく危機感を作り出していたともなる。福島県の浜通りではまず津浪の危機意識がほとんどなかったのである。それが東電の原発を一旦高くして作ったのにコストカットとして知られた清水社長とかの意向があり低くして津浪の被害にあったのだ。自然災害も日本では度々あり歴史そのものが自然災害史のような所があり天皇がその自然を畏れ災害をないことを祈る役割があった。自然災害は天皇の責任だとまでなっていたのである。

それほど日本では津浪でもそうだが自然災害が国をゆるがすものとなるから歴史的にそうなったのである。それがこれだけ文明化したとき自然の恐ろしさを忘れてしまっていたのである。科学文明が自然を征服したような奢りになっていたのである。数学の確率で百万年に一回しか事故は起こらないとか真面目に言う科学者がいた。その根拠がどこにあったのか?全く科学者も科学的だとなり全能の神のようなことを言っていたのである。ともかく奢りとか油断が原発事故を引き起こした。
日本の土地がどういう土地だかも忘れていたのである。地震や津浪がどれほど恐ろしものか?
それは神戸地震で知っていたが津浪は忘れていたのである。


ともかく波伝谷の民俗というのは興味深い、いかにそこに暮らしが形成されてきたか?その村の全容が記されている。その村が今回の津浪で壊滅的被害にあった。もはや村が消滅するような危機になった。志津川町のちの三陸町は湾が穏やかでいい所だと思っていた。何回か電車で行った。岩礁に大きな浜菊が咲いていたのが印象的だった。三陸とか岩手県のリアス式海岸の町は湾があるから穏やかに感じていた。陸前高田市でも広田湾がありあの湾が穏やかに感じる。福島県の浜通りとか荒い波が打ちつけるのとは違っているからである。だからあんなふうに壊滅的被害を受けたのは余りにも悲惨であった。女川もそうだった。湾があって穏やかだと思っていたところがみんな壊滅的被害を受けたのである。なぜなら町が海岸に密着してあったからそうなったのである。村とは違い街があったから被害が大きくなったのである。


●志津川町は(三陸町)は浜菊が印象に残っていた


岩礁に浜菊大きく湾暮れぬ


志津川の湾の巌に大輪の浜菊咲きて夕べ明るし


わが国の本州、茨城県から青森県の太平洋側に分布しています。日当たりの良い断崖や砂浜に自生し、高さは50〜80センチになります

茨城県から青森県というとき今回の津浪の被害にあった地域の範囲だった。ただ函館にも津浪が押し寄せていたことには驚いた。函館を津浪が襲ったらどうなるのか?何か今回の津浪はそうした恐怖が現実化したのである。


この花は南には咲かない北方系なのか?南方系と北方系で花を分けるのもいい、文化圏も植生と同じく別れることがある。浜通りの地域が真野の草原地域が植生的にはマルハシャリンバイが奄美大島から流れてきて南相馬市の鹿島区の海老の浜が南限の地だというように地理と文化的歴史が一致していることがあるのだ。福島県の浜通り南方的植生であり最近をナギという木の苗のうようなものを相馬市の駅前の花屋で買ったけどこれは熊野神社の御神木にもなっている。凪ぎ(なぎ)草原をきる、なぎるでありナギになった。それが海のことをいうのに凪ぎとなった。草原と海が通じている言葉なのである。津浪でなぎ倒されて海岸近くが草原化しているの風景とも一致する。草原は人為的なぎ倒す、刈っていないと森化してゆくのが日本の風土である。なぐ、なぎという行為は草原を維持するために常に必要だったのである。

歴史は自然から始まっていてその自然に人間がいかにかかわってきたかが歴史でもある。だから常陸から茨城県から宮城県から岩手県、青森まで一つの自然的歴史的文化圏として見直す作業が必要なのである。福島県は会津があってもそこは山国文化圏であり異質なのである。むしろ福島県の浜通りは常陸から宮城県や岩手県の海岸地帯と共通の文化圏を形成していたのである。

2013年04月10日

みちのくのアイディンティティは何か (今も霊場的なものがあるのではないか?)


みちのくのアイディンティティは何か

(今も霊場的なものがあるのではないか?)


みちのくにともに死なむや花曇り


みちのくのアイディンティティはどういうものなのか?アイディンティティには風土的、地理的、政治的、文化的、歴史的アイディンティティとか重層化しているから一つのアイディンティティで一体化はない、基本的には地理的風土的アイディンティティが基本である。地理的風土的アイディンティティからみると会津と浜通りは全く異次元の世界なのである。山のアイディンティティと海のアイディンティティでありその文化も根本的に違ったものとなる。みちのくといっても広いから一くくりにできない、相馬藩のアイディンティティ歴史的地理的にある。地理的に見ると水境峠を越えて川俣に出ると安達太良山が見えるから山の領域に入ったことになる。浜通りにはあのような大きな山がないからだ。そして川俣から飯館の方をみると山がさえぎっていてあれではなかなかこの峠を越えてゆくのは難儀だなと実感した。それは自転車だから余計にそうだった。かなりの坂を上らねばならないからだ。だから自然的地理的境界線があの山になっていることは理屈ではない、地形によってあらかじめ定められていたのである。

ただ飯館村が相馬藩になったのは経済的理由かもしれない、川俣から飯館に行くより険しい山を越えねばならない、八木沢峠を上ってみればわかる。飯館村は標高が高いから夏でも涼しいし冬は寒い、だから飢饉もあった。稲作には適していなかったのである。塩の道があり松川浦の原釜から塩を運んだということで飯館村は中継所になっていたから経済的役割が大きかったかもしれない、ともかく相馬藩に組み入れられたのである。相馬藩は六万石だけどアイディンティティをもつには適度の広さであった。あまりに広いとアイディンティティをもちにくい、中国のような国がどうしてアイディンティティをもつのか?それは日本だって広いのにあれだけ馬鹿でかかったら同胞だという感覚もなくなる。だから三国志になり熾烈な争いとなったのである。もともとあれだけ広い国をまとめること自体今でも無理なのである。


みちのくというとき伊達藩は伊達政宗の時一番政治的結合があった。政宗という英雄が出たためにそうなった。それからみちのくは政治的結合はなかった。それがわかったのは明治維新のとき戊辰戦争のとき東北連合を目指してもばらばらになってたちまち西軍に制圧されてことでもわかる。内部分裂して連合できなかったのである。みちのくは最初は日高見国としてアラハバキ族がその子孫だったかもしれない、それが蝦夷の一部としてあったのかもしれないが大和朝廷に征服されて不明となった。みちのくといっても実際はあまりに広すぎるのである。今回の津浪で意識されたことは津浪に襲われた海岸線が海の文化としてのアイディンティティをもつ地域ではなかったかと再認識した。海のことは忘れられていたけど海によってつながっていた同じ文化圏であったと思えたのである。海の交通などは遺跡としても残りにくく船も沈むから忘れられやすいのである。伊達政宗はヨ-ロッパに使節を派遣したのものやはり松島辺りが石巻でも一つの海の文化圏としてあったからできたことである。

だから明治維新のとき榎本の咸臨丸が寒風沢島によって函館に脱出した。そして函館の五稜郭で蝦夷共和国を作ろうとしていた。だから東北連合ができて榎本が指揮すれば西軍と対抗できたかもしれない、西軍は薩摩長州連合ができたから幕府に対抗できたのである。ただ東北にはもともと政治的には結合するものがなかったのかもしれない、会津はどこまでも会津だったし他も一体化しなかったのだろう。

地理的には仙山線で行くと山形の山寺にでる。そこにトンネルがあり春でも山に雪が見える。トホネルをぬけると雪国だったというのにぴったりなのである。山寺は霊場であり「静けさや岩にしみいる蝉の声-芭蕉」となる場だった。あそこも境界線としてわかりやすいのである。

日本ではあまり川が境界線とはなりにくい、大きな長い川がないからである。ドイツだったらライン川はロ-マとゲルマンの明確な境界線であり風土も文化もそこで線が引かれたからわかりやすいのである。大陸には平坦な地が多いから川が境界線の役目をにないやすい、日本は山が多いから山が境界線となる。ただ仙台から平泉や盛岡方面に行くのにはあまり境界線を意識しない、高い山にさえぎられるわけでもないからだ。みちのくをふたわけ・・・この蔵王が境界線になるとは思えない、ただ相馬から蔵王は見えるからそれなりに蔵王は東北の象徴であるが境界線となっているのともちがう。そもそもみちのくというのはやはり平泉までの芭蕉の奥の細道の旅の行程がみちのくという感覚なのだろう。するとみちのくのアイディンティティは平泉までとなるのか?青森となると遠すぎるのである。


みちのくの特徴というと山寺や恐山などあるが霊場だったかもしれない、霊が眠る場所としてふさわしい場だったのかもしれない、奈良だと吉野山のような性格があった。大阪とか江戸は極めて政治的経済的場だった。みちのくの辺境はそうした政治的場となったことがない、伊達政宗のときだけ一時的になった。政治経済的場として日本の役目をになっていなかったのである。だからみちのくは霊場的性格がありそれにふさわしい場だともなる。確かに政治的経済的には後進の地域なのだが霊的になにか日本の故郷のような感覚があるかもしれない、大阪のような商人の世界とはあまりにも違っている。人間もまた違いすぎるのである。東北人はまず自分もそうだが商人には全くあわない、みんな無口な農民的気質なのである。いろいろ変わっていろいろ人がいるにしろ以前として東北人気質は変わらないところがある。東北にはまだ辺境意識がある。それは悪い方にとれば遅れているが現代の文明から逃れた場所として安らぎを与える場所としての役目をになうのには良かった。ただ原発事故などによりそがれてしまった。


日本でもやはり地域地域で違った文化を醸成されてきたしそれを基にして発展するべきなのだ。
九州は外国の窓口で役割になったのは地理的位置からだった。四国が霊場となったのはやはり峻険な山が多いことにもあった。多少みちのくとにている。山が多いから経済的発展をはばまれたのである。ともかくみちのくは霊場的な所がありここでだからともに死なむ・・という感覚にもなる。
死に場所ふさわしい場だともなる。ということは老後にふさわしい場だともなる。ともに死ぬ場所だということでアイディンティティがもてる場だともなる。だからここであまり世俗の競争を持ち込むことは向いていない、大阪のようになることは地域的特色がなくなる。人間は60すぎると死を絶えず意識する。すでに一割は死んでいる。すると死ぬ場所が大事になるのだ。原発事故で避難した老人はどうしても故郷に帰り死にたいと言っていた。それはまさに根源的アイディンティティの場所が故郷になっているからだ。みちのく全体をアイディンティティとしてあるがやはりまたさらに濃厚なアイディンティティの場所がそれぞれの狭い故郷なのだろう。


やはり東京とか大阪とかあういう場所で人は死にたいと思うだろうか?人間も自然の一部であるから死ぬなら自然に帰りたいという願望が自然に芽生える。ビルの谷間で死ぬのは嫌だとなるのが正常な感覚ではないだろうか?ともに死なむ・・という場所はやはり共同のアイディンティティの場であり連帯を生むのである。みちのくという同じ大地に眠る、死ぬということは何か安らぎを覚えるのである。ただみちのくといっても果たして会津の人はどういう感覚になるのか?また山形の人はどうなるのか?盛岡の人はどうなるのか?青森の人はどうなるのか?やはりそれぞれ違っていてみちのくで一くくりにはできない問題もある。でも歴史的アイディンティティとして形成されたものはやはり根強くある。だから陸奥から生まれのはみちのくらしいとなる。宮沢賢治の文学などは別にみちのくらしいともならない、みちのくの大地とどうつながるのか、天才だからそういう土地の感覚から逸脱している。自分の場合は普通だからみちのく的になっているのかもしれない、いづれにしろ歴史は地理だというとき地理がわからないとあらゆるものがわからないのだ。ただ地理とか風土の問題は相当奥深いからなかなかわかりにくいのである。福島県で会津に住まないものは会津のことはなかなかわかりにくいのである。あれだけの山国でありその山のことがわかりにくいから別世界になってしまうのである。


桜の季節に春に死ぬのは気持ちいいことなのだろう。


ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃 西行


春死ぬということは願ったのはやはり花を心に死にたいという日本人的美意識が西行によって生まれた。寒いとき死ぬのは何か荒寥としている。春に死ぬとなにか華やかだともなる。春の光につつまれて痛みもなく眠るように死んだら最高だとなる。ただともに死なむ・という感覚はここにはいない、個人的なものである。ただ死には個人的なものと共同的なものが必ずある。墓地自体が共同性をもっていることは確かである。江戸時代では庶民は墓がなくホトケッポとか共同墓地に一緒に葬られていたことでもわかる。もともと共同性の中で生きていたから一緒に葬られることは自然だったのである。今は共同性が得られにくいから死ぬ場所をどうしたらいいとか悩む時代なのである。

2012年12月05日

忘れられた川や海への視覚 (津浪で海が意識された-多賀城の近くにも津浪-相馬藩の中村へ城の移転の謎)


忘れられた川や海への視覚

(津浪で海が意識された-多賀城の近くにも津浪-相馬藩の中村へ城の移転の謎)


●多賀城跡に吹いた海の風


陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる壷の碑外の浜風 西行


多賀城の壺のいしぶみに立って外の浜風を感じることは普通はない、そこが海への視覚が失われたためだった。岩切のことで書いたけど鴎が七北田川にそい飛んできてそのことを俳句にした。そしてそこで冬だったけど海から吹いてくる風を感じたのだ。川をさかのぼって吹いてくる風である。鴎も意外と川をさかのぼって川を道として上流に飛んでくる。多賀城駅の側を流れる砂押川がありそこにも鴎が飛んできたのである。多賀城のあったところの近くにも砂押川が流れていた。これは小さく感じるが古代ならそれなりに広いものだったかもしれない、堤防もないから古代の川は広く流れていたのである。多賀城辺りで今は市街地化してほとんど海を感じられない、完全に都市の景観の中に海は遮られて見えない、まず海を感じることがないのだ。だから多賀城で感じたのはむしろ遠くに見えた蔵王とか泉が岳とか連なるみちのくの冬の山だった。そこにすでに雪の冠雪がありここから大和を奈良を望んだら古代ではどれだけ遠いかと感じた。


冬の山さえぎ遠くは大和かな


こんなふうになる。そこに海の視覚は全く欠落しているのだ。そこでどうして西行が外の浜風を感じたのかと今なら思うだろう。ところが今回の津波でわかったことは海が実際は近く古代は海は近くに望まれていたのだ。多賀城でも海は近い感覚の場所だった。市街地化した建物などがなければ海の風を吹くのを感じられる場所だった。海は江戸時代までは北前船などや塩田を作ったりと生産交通の場であり漁業も盛んだから海は生活と密着していた。縄文時代から海は豊かな漁場であり松島辺りだと貝が大量にとれる住みやすい場所だったのである。東北博物館でもいかに多くの種類の魚をとって暮らしていたかわかる。縄文人が食にまずしいということは一概に言えない。新鮮な魚や貝には恵まれていたのだ。日本自体が縄文時代は海の幸に恵まれていた。今回津波に襲われた所は実際は海の幸が豊富な所であり縄文人がその幸に恵まれて暮らしていたのである。


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●忘れられた海や川の交通


江戸時代までは海や川の交通が大きなものとなっていた。明治になると鉄道になり交通としても忘れられてしまった。陸の交通はいろいろ山などが障害となりむずかしかったから川や海の交通が欠かせなかった。飛鳥でも奈良でも大和川とか大阪の難波の海と通じて交通があった。それは万葉集にも歌として残されている。

泊瀬川 夕渡り来て 我妹子が 家の金門に 近づきにけり


万葉集巻九・1775

と、万葉集にも詠まれている初瀬川だ。
古くは泊瀬川と書くことが多かったが、これは大和川を溯ってきた舟がここで停泊する瀬であったことに由来するのであろう。事実、仏教伝来の地とも言われているこの場所は、大和川を通じ瀬戸内海、ひいては大陸ともつながる交易の地であったと推定されている

後に「つばいち」と呼ばれるようになったこの場所ではあるが、万葉集の時代以前は「つばきいち・つばきち」と呼ばれていたであろうと考えられている。「山辺の道」「上つ道」「泊瀬道」「山田道」「横大道」といった古の主要道が交わる立地に恵まれたこの地は水上交通の要衝であっただけではなく陸上交通の要でもあった。
http://soramitu.net/zakki/?p=543


川の交通は大和川となると難波の海まで通じていたから長距離であった。でも川の交通は短い距離でもあった。むしろ短い距離が多く水駅がもうけられた。水駅は川の駅だった。南相馬市の泉官衙跡、廃跡も新田川と結ぶ運河があったことが発掘でわかった。新田川を利用するとしてもその距離は短い、さらに運河まで作ったというから荷物を運ぶのには川は古代ではどうしても必要だったのだ。泉官衙跡には米などが結構大量に運ばれていたのである。それで神火騒ぎがあったことでもわかる。米などを貯える倉もかなりあったのである。水駅というとき中世にもそれが継がれていた。

岩切で考察したように河原市場があったということでもわかる。舟が湊浜を通じて昔の冠川(かむり)から荷が運ばれていた。海を結ぶのが中世までは川だったのである。交通における海と川の役割は現代になり全く見えなくなっていた。交通が変わり時代が変わるのである。江戸時代は鉄道ができて交通が変わり栄えた港は過去のものとなり歴史を偲ぶだけになってしまったのである。鉄道から車になったらよけいにそうである。川でも海でも交通として死んでしまった。ただ自分は旅をしたとき船旅を相当した。北海道に行くとき必ず太平洋フェリ-で苫小牧に行き北海道を回ったのである。
一日泊まっても北海道に行くには便利だった。船の交通は陸よりずっと便利なのである。もちろん昔の船は今の船とは大違いにしろ危険にしろ船だとかえって便利だから北前船で栄えたのである。


●相馬藩の成立にも船の交通が関係していた


小高から中村へ(戦国武将相馬義胤の転換点) 岡田清一
http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2011/pdf/bk2011no09_01.pdf

をインタ-ネットで読んで面白かった。中村に相馬義胤が城を移動した理由を考察している。小高を根拠としていたが海岸の村上に城を移動して
原町の牛越城に移動したりとしたのはなぜか?それは一つは在地に根を張る一族の権力を弱めるためだったという。その一つの証拠として泉官衙跡があった泉田氏を改易したことにあった。ということはここでは何か湊が古代から中世とかまであり海との交通があった。何らか海との関係が継続していた。桜井古墳も海に近く新田川の川岸にあった。川と海が交わる要所にあったのが桜井古墳だったのである。津波は桜井古墳のすぐ近くまできていた。何か津波を想定していたような場所にあったのである。そもそもなぜ泉官衙跡があんなに海に近い場所にあるのか?それが疑問なのだがやはり何らか海との交通があったのかもしれないととるのが自然になる。そこで古代から開け泉長者とかその継続として泉田氏が勢力をもっていたのである。それでそれをそぐために牛越城を相馬氏が構えた。相馬氏はまだ在地の勢力をまとめるまでにはなっていなかったのである。

それから小高でも塚原とかに湊があり交通があった。

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村上に城を作ろうとしたのは湊があったからともとれる。海への視点があった。海は塩田であり漁業であれ交通であれ古代から重要なものであった。松川浦の宇多の湊は知られていたらしい。磯部も重要な湊の役割があった。南相馬市の鹿島区の海老も今生きている90才の人が言っていた。海老から帆掛船が出ていたとか湊があった。確かにそれは江戸時代である。江戸時代になると新田開発が盛んになるから海側へ干拓して住む土地が広がっていった。だから中世からの湊がありそこに交通があり物資や人が往来するということが想像しにくい、むしろ村が拡大したのは新しい村ができたのは米を作る開拓ができるようになったからである。それで青松白砂の風景ができた。田んぼを塩害から防ぐために防潮林の松林が海岸線に延々と作られたのである。それが今回の津波でほとんどなぎ倒されたことは衝撃だった。400年前にも今回と同じ慶長の大津波があった。その時の被害も大きかったが相馬藩から宮城県の六郷に移住している武士がいた。そこは津波の被害が大きい所だった。相馬の和田で津波の被害にあった農家の人が言っていたが塩害でも米は育っているという、意外と津波でもそれなりに回復して米は作れたから伊達藩ではどうしても江戸に米を売る必要があり津波の後も米作りをしたから相馬藩の人もそこで必要とされたのである。
いづれにしろ海の交通とかは忘れられ安いのである。古代になると特にそうである。みちのくの真野の草原(かやはら)は湊だった、地名だったと自分が解釈したが塩崎の船着とか市庭とかの地名が将にそれを示していたのだ。多賀城でも市街地化しているけど船塚とかあり海が奥まで入りこんでいたし沼も多かった。多賀城下まで砂押川をさかのほって津波がおしよせたのである。歌枕の末の松山が当時の津波と関係していたことがその時有名になったのは今回の津波でも証明された。


相馬藩では中村に城を築いたのは伊達に対抗するためだという説が大方をしめていた。それだけではない内部の時代の変化に適応するためでもあった。もし海の視点があり船の交通のために中村に城を築いたことが一つの要因とするとこれも意外だなと思う。
それは義胤が


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この見聞が影響したというのも面白い。でも宇多の湊は中村城下からは遠い、それでも当時はもっと内陸に海が入っていたのでそうでもなかったかもしれない、ただ海の視覚から中村城を築いたとは地理的には地元の人でも思えない、むしろ背後の山を防御として意識したとか思う。松川浦でも中村城だと遠く感じる。小高はむしろ海が近いし津波が小高駅まできて小高城まても近い距離にあった。不思議なのは慶長の津波の一か月後に中村城が築かれているのだからなんらか津波の影響があり中村城を作った。内部的事情があり津浪があったのだから小高では危険だとなり中村に移動した。

2012年01月11日

焼畑時代の名残りの万葉集の歌 (安達太良の雪形-粟蒔入道)


焼畑時代の名残りの万葉集の歌

(安達太良の雪形-粟蒔入道)

●春日野は焼畑だった


ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野辺に粟蒔かましを


梨棗黍に粟次ぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く


あしがらの箱根山はこねのやま粟蒔きて実とは成れるを逢無くも怪し


よみ: 春日野(かすがの)に、粟(あは)蒔(ま)けりせば、鹿(しか)待ちに、継ぎて行(ゆ)かましを、社(やしろ)し恨(うら)めし

春日野とあるのも野は元は焼畑と考えた方がよい。焼畑があり鹿がいる。そういう光景があの春日野の光景だったのだ。今はあそこから巨大な大仏殿が見えるのだからいかにあそこが文明化したかわかる。

http://www.musubu.jp/chimeitouwa1.htm


この歌が何を意味してるのかわかりにくい、神の社とは何の社なのか?焼畑から稲作に移る過程でできた社なのか?稲作の神が祭られたのか?粟と鹿というとき焼畑時代のものだろう。鹿の血を畑に蒔くとか田んぼに蒔いて豊作を祈るという風習も焼畑時代のものである。月見の行事に芋や団子を供えるのも焼き畑時代のものである。太陽より月が信仰になっていたのが焼き畑時代だった。天照神になったのは太陽神になったのは稲作になってからである。ここに何か春日野辺りに大きな時代の変化が稲作への変化が起きてこの歌が生まれた。大仏殿ができたところだかちら社からさらにあれだけ巨大なものができたのだからあの辺は変化が激しかったのである。鹿待ちにということ鹿を待ち伏せるとは鹿を刈りしていた狩猟時代の感覚である。万葉集時代はまだ狩猟時代が継続されていた所がある。だから狩りの歌も残っている。生々してものとして残っている。稲作がはじまると焼畑は否定的に見られる傾向になりその神や風習も軽んじられる。天照神が第一位の神となった。ただ焼畑時代のものはその後も祭りとかでいろいろ残されているのだ。その一つは月見の行事である。焼畑の地名も全国的に多い。焼畑は稲作のように余り技術を擁しない粗放な原始的農業だった?だからいたるところで最初に焼畑が行われた。燃やして灰が肥料になるからだ。海辺の村でも漁港の後ろが焼畑地名になっいる。牡鹿半島辺りでも山が佐須とか焼畑地名があり飯館村にも佐須がありいかにも焼畑が行われていたという奥地なのでてある。


宮地の文章によれば、神饌御進供で、天皇はまず米飯を3箸、つぎに粟飯を3箸、枚手(ひらで)に盛り、陪膳の采女に返し、陪膳はこれを神食薦(かみのすごも)のうえに置きます。御飯の枚手は10枚、供せられます。

その後、4種の鮮物、4種の干物、海藻汁漬、鮑汁漬、4種の果物が供され、さらに白酒黒酒が供され、そのあとに米の御粥、粟の御粥が供されます
http://izasaito.iza.ne.jp/blog/entry/2543033/


日本では米を重点に語られるけ実際はこのように海の産物から粟とか雑穀から多様な食があった。それは戦前までつづいてきたのである。戦後十年後くらいから白米だけになった。雑穀は忘れられていったのである。


●安達太良山の雪形、「粟蒔入道」


これも何のことかと思った。山の中に分け入り粟をまいている姿が雪形として残る。それを目安として農作業をはじめた。
http://blogs.yahoo.co.jp/wmoth155/19417639.html


「種まき」「豆まき」「粟まき」「代掻き」「田打ち」などをしている人物や馬、牛、鳥など身近な動植物、文字、農具類等がある


雪形は農民の生活と密着していた。普通だったらこんなふうには見ない、日頃こういう仕事をしているから実感として自然になったのである。農民の命名の仕方は美的なもなどない、地名も便利なものとして生活に密着してつけられていたのだ。そこが勘違いしやすいのである。


 安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)の ありつつも
   我(あ)れは至らむ 寝処(ねど)な去りそね 」 
          巻14−3428 作者未詳


これなども狩猟時代を彷彿とさせるものである。鹿や猪の寝床になっている所を知っているというのは山を相当に知っていないとこのような歌は生まれない、熊を狩猟するのも春でありその冬眠している穴を知っているからできるし危険なことである。安達太良というとき飯館村との境の水鏡神社を越えると川俣に入ると安達太良山が見える。あそこを境にして中通りであり安達太良の見える領域になる。だから農作業をしながら安達太良山が見える。安達太良の大きな影が消えるのは川俣から水鏡神社を越えて飯館の方に入った時なのである。山というとき蔵王は南相馬市の鹿島区の八沢浦とか岩沼の海岸線とかからも見えた。阿武隈川が海に出る辺りにも残雪の蔵王が見えて美しかった。安達太良は浜通りからは飯館からも見えないのである。だから水鏡神社を越えたとき二本松を意識する。日本は山で峠で境界を意識するのである。


吾も休み農夫も休む道端に安達太良望む秋の夕暮


農作業しながら安達太良が見えるのが川俣だった。川俣は二本松の領域なのである。

2010年01月12日

松島瑞巌寺の歴史的背景(伊達政宗について)

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松島瑞巌寺の歴史的背景(伊達政宗について)

●政宗の松島を賞す漢詩

中秋月を松島に賞す   政宗
  
今宵月を待って吟きょうに倚(よ)れば
  
蒼海茫々一気濃(こまや)かなり
  
思ひ見る清光佳興しきりにして
  
道人も緩く打たん五更の鐘

この漢詩も佳作なのだろう。五更の鐘とは朝四時頃とある。蒼海茫々としてあるごとく瑞巌寺は海に面した寺だった。BSの朝日テレビで放映してたように瑞巌寺は政宗が建立したものであり伊達家の菩提を禅宗の寺だった。武者隠しなどがあるからそもそも戦国時代から寺は武士の菩提を弔うことを第一とした建てられていた。また金沢の寺町とかあるけど要塞としての役割もあった。城の延長として寺があった。だから戦国時代が終わると役所の役割も果たしたのである。瑞巌寺がどうして青葉城近くに建てられなかったのか、海に面して建てられたのか?やはり政宗はスペインに支倉常長を派遣したように海を意識していた東北ではめずらしい英傑だった。戦国武将で漢詩を作ったのは政宗くらいしかいないということでもいかに文武両道の達人だったかわかる。文に優れていれば武に劣るし武に優れていれば文に劣るのが普通だからだ。

●瑞巌寺は第二の城だった

例えば、参道が途中で屈折して本堂が見通せないことや、庫裏の「煙出」は事実上の望楼であること、巨大な武者隠しの存在や矢弾の貫通を防ぐ厚い畳など、単なる菩提寺とは思えない防御が整えられている
http://golog.nifty.com/cs/catalog/golog_article/catalog_002888_1.htm?page=2


大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし」(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)。(『東奥老子夜話』

ここは寺というより第二の城郭だった。しきり民衆の安寧を祈ったというのも違うだろう。東北の民は貧乏だったし伊達家が華々しく装ったのは無理をしていた。それは参勤交代が影響していた。江戸では見すぼらしくしたくない、諸国の大名と威勢を張らないとならない、伊達者というとき派手にしたその裏はかえって東北の貧しさ故だった。これは宮本常一の指摘である。これは別に一国のことではない、個々人でも家族でも見栄を張るのは普通である。近親者にそういう人いたしそういう人は普通にいる。実際に金がないと思えなかったのである。実際に見栄を張って家業が倒産したとかもある。つまり江戸で伊達者とか派手な姿をみていれば事情を知らない人は豊かな暮らししているのかと錯覚するだろう。その頃情報が不足している。でも実際に東北に来た人は仙台でも貧しい街だったと驚いている。実際に東北を見た人はすぐに貧乏だとわかったのである。東北の民衆は疲弊していたのである。東北にはそもそも関西のように豪商が育つことはなかった地域である。中産階級が育たない、侍と貧乏な農民しかいなかったのである。だから会津が薩長に攻められても町民は傍観していたしかえって歓迎したというのはそのためである。会津の北にむしろ喜多方が町人の商人の街として栄えることになったのである。喜多方-喜び多い町になったのである。

大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし」(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)。(『東奥老子夜話』
瑞巌寺も豪壮なものにししてもやはり民衆の犠牲があった。殿様の間を作るのは普通だがその臣下の集る間まで作るのはまれだろう。ここは伊達家の重臣が集る場でもあった。だから仏教的色彩より武家的な豪壮なものとして作られている。安土桃山文化の華やかな色彩が黄金の襖に残された。それ以上にここが第二の城だからこそここで政宗が家康の幕府に攻められたら自害まで覚悟していたのだからやはり第二の城のような作りになったのである。

いづれにしろやはり民衆的な寺ではなかった。そもそも寺は民衆的な場所ではないのだ。武士にはたいした戒名をさずけるが民衆は姓も戒名も格が落ちるとか差別があった。それで明治時代になり民衆が豊になり立派な墓を造りたいとか武士と並ぶ格の高い戒名をさずけてもらいたいとかなった。これも馬鹿げているのだ。また廃仏毀釈が起こったのは神社側が江戸時代に武士社会で不遇だったからその恨みだったというのもやはりそれだけ寺が武家の菩提寺として優遇されていたからである。だから瑞巌寺に参るとき伊達家の菩提に参るのかということにもなる。歴史的にそういう性格の寺になっているからだ。純粋に僧が修行する寺とも違うのである。仙台の定禅寺通りも有名で度々書いてきたけどやはりここも政宗が禅宗を学んだから禅寺があったところである。宮城県には禅宗が多いのもそのためである。

●伊達政宗の側室に朝鮮人?

伊達政宗にしても歴史的人物ならいろいろな見方がでてくる。政宗の側室は多い。
新造の方、飯坂の局(松森御前)、塙直之女、阿山方、弘子姫、香の前(お種)、勝女姫、妙伴、
朝鮮人女子某
朝鮮人側室とともに、隠居所である若林城(現宮城刑務所)と政宗が再建した松島、瑞厳寺に、朝鮮から持ち帰らせた「臥龍梅」が残っている

政宗正室。三春城主田村清顕の女。母は相馬氏である。文禄・慶長の役で秀吉は朝鮮が陶工を連れてきたことは知られている。女性も連れてきていたのだ。女性は戦国時代では戦利品の一つだったのである。側室というのも政治の道具として女性が使われていたから多かった。必ずしも色欲からではない、戦国時代の習わしだったのである。ただ今からすると和歌もうまいし漢詩もたしなみ武将として優れているし政治家としても抜群だとなるとそういう人は今の時代にはいないのだからいかにその当時は総合的人間として育つ環境があったことを証明している。現代ではこうした総合的人間が育たない、育てられないということにかえって後退しているのである。武士の教養はやはりその生活そのもの城の中で武家の屋敷で自ずと育つ環境に庵たのである。学校とかでは養われないものが日々の生活の中で養われていたから違っていたのだ。安土桃山時代は国際的な時代でもあった。武士の間では絢爛豪華なものが好まれたのである。

滴水瓦が日本に普及するのは16世紀末で、文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)に従軍した武将が帰国後に城郭建築に使い始めた。これは異国趣味がブームとなった桃山時代の気風を反映しており、それ以前の日本建築にはこのような異国的な瓦は受容されていない。高麗瓦とも呼ばれている
http://musubu2.sblo.jp/article/29286555.html

相馬藩の大手門は大手高麗門と呼ばれているから明らかに伊達藩から朝鮮出兵の折りその技術が伝わり作られたのである。伊達藩と相馬藩は常に密接な関係があったことの証明である。
松島は古くは中世は霊場であった。

だから鎌倉後期にこの島を訪れた一遍上人(時宗の開祖)の高弟、他阿弥陀仏(たあみだぶつ)は

紫の雲の迎いを松島や仏みるてふ名さへなつかし

と詠んでいる。

(松島三句)

みちのくの松島に満つ淑気かな

松島に鴨の百羽や暮れにけり

冬の海鐘鳴り暮れぬ瑞巌寺

冬の短歌十首-東北の歴史的地政学

http://musubu2.sblo.jp/article/33693754.html



雪の松島-俳句、短歌-政宗のこと http://musubu.sblo.jp/article/35083956.html



2009年11月17日

みちのく冬の短歌十首(東北の歴史的地政学)


みちのく冬の短歌十首(東北の歴史的地政学)


伊達の領広がる春や海の風

霊山に木枯らしうなり木の葉舞う南朝滅び逃れし裔かな

山国の城にしあれや会津藩雪に埋もれて京は遠しも

政宗も天下を狙う青葉城夢はついいて北風唸る

政宗の陣を張りたる名護屋城韓国望み冬の海見ゆ

義経も政宗もまた会津藩も無念を残すみちのくの冬

政宗の大軍率い繰り出しぬ天下制覇も春の夢かな

支倉を欧州に派遣その船に夢をたくして望む海かな

みちのくに蝦夷の恨みや木枯らしのうなり吹きつつ森の鎮まる

みちのくに南部藩あり一国や城跡静か冬に入るかな

伊達藩に相馬は抗い境の木北風唸り木の葉舞い散る

(丸森-戊辰戦争の碑)
伊達藩の防ぐもあえなく討ち死にや墓に無念や木の葉舞い散る


弘前に朝雪の降り最果ての城跡訪ね我が去りにけり

朔北の蝦夷の地なれや浄らかに雪はふるかな弘前の朝

 


東北でも弘前までとなると相当遠い、弘前城は最果ての城である。雪でも信濃の雪でも会津の雪でも越前越後の雪でも京都の雪でもみな違っている。一茶の生まれた信濃はどんよりと曇って雪に閉ざされる陰鬱な所だった。それとは対照的に弘前の雪は明るかった。朝に降った雪の光景は忘れることができない、本当に雪に浄化された光景だった。雪の感覚も場所と時で相当みな違っているのだ。旅をするときやはりその場所を歴史的見地から見ないと印象に残る旅はできない、日本だとその人にもよるがそれなりに歴史をさかのぼり見ることができる。一応城があればここは江戸時代にさかのぼる。それにしても津軽とか弘前になるとみちのくでも最果てである。実際青森県は最果てであり秋田県でも東北では遠い、みちのくというとき福島県と宮城県の範囲でありそれ以外は本当に化外の地域だった。それがわかるのは伊達政宗が日本歴史上はじめて中央の政治に影響力を及ぼしたことでもわかる。秀吉と渡り合ったがかなわなかった。それでも伊達藩の領域は東北では最大になった。伊達藩から東北を見るときどうなるのか、相馬に住んでいれば相馬藩として見るのだが伊達藩から見るとまた視点が違ってくる。伊達藩が拡大化したとき最初伊達郡でありここでは海を望んでいない、政宗は若いとき海を望むことがなかった。山国の人だった。やがて領地が松島や石巻に拡大したときそこが東北で唯一の内海と島があり太平洋に開けていた。それで太平洋をわたり支倉常長を欧州に派遣する事業を計画しえた。


そういう壮大な世界的視野をもつことができたのも海を望み船を作り得る内海と島を持つようになったからである。相馬から仙台まではそうした大きな内海がない、入江がない、だから太平洋だけが荒寥として広がりそこから太平洋に乗り出して欧州まで渡る視野がもてないのだ。もちろんそこには宣教師の力を借りたからできたことでもあった。ともかく政宗がそれだけの大きな視野をもち得たのは松島などの内海に領地を広げたからである。会津を見ればわかる、山国に閉ざされて海を見ることがないから閉鎖的になり時代から遅れて最後は悲劇となった。海でも太平洋と瀬戸内海を比べるとあまりにも違いすぎている。それから伊達藩は一見大藩でも実際は商人は力をもちえなかった。豪商とかは東北ではいなかった。西では豪商がかなりいて明治維新を応援したのである。東北はそれだけの経済力がなかった。薩摩も中国の貿易で経済力があったのだ。やはり経済力が基盤にないと大きな力となりにくい、実際個人的なことになるが百万円という金を今まで自分は自由に使ったことがなかった貧乏性である。それで自分の自由に庭作りした。金があれば小規模でも文化は作れる。個人的には家作りでも庭作りでも最大の事業だからである。その個人的なものを拡大化したのが大きな文化、ルネサンスを起こしたのである。フィレンツェのメジチ家がそうである。財を蓄えて文化に費やしたからあれだけのものが作りえた。それは天才の成果だけではない、そのバックに蓄えられた財とか技術とかを運用する力があったためである。だから豪商は立派な庭を残したりするのもそのためである。一個人でも何億とかあれば自分なりの庭作りができるからやはり東北には財がないからルネサンスは起こらなかったのである。

いづれにしろ東北は権力争いに敗れたものが逃れる場所であり中央の政治で覇を唱えることが遂にできなかった。そういう風土でもあった。だから芭蕉のような敗者に同情をよせる詩人には合った場所だったのである。

月さびよ明智が妻の話せん   義仲の寝覚めの山か月悲し 芭蕉

木曽殿と 背中合せの 寒さかな  又玄

東北には古代からそうした敗者が葬られた場所だった。蝦夷森と各地にある。これは東北だけではないがやはり東北には多い、いづれにしろ東北にしても実際は相当広いのだ。とても一くくりで語れるものではない、すでに福島県自体が大きい、会津は山国であり古代から別の一国であるから福島県を歴史的に一つの国と見ることができないのである。

2009年10月28日

秋から冬(霊山近辺(大石について)-短歌十首)


秋から冬(霊山近辺-短歌十首)



筆甫へとこの道つづく知らざりき鳥けたたまし秋の朝かな

秋となる伊達と相馬の境かな興亡終えてひそかなるかも

霊山の秋こそあわれ南朝の夢は潰(つい)えぬ木の葉散るかな

霊山に寥々と鳴る風の音滅びの跡や冬に入るかも

古霊山奥に巌のものさびて落葉を踏みて陽の落ちにけり

大磐に清流響き大石や稲の刈られて虫の鳴くかな

大石に楮畑(こうぞ)の名の残る昔の暮らし思いやるかな

大石の細道上り下りして高きに棲むや吾妻峰望む

行合道あとにし坂越え佐須にきて大倉に下る秋の夕暮

霊山ゆこの道遠し真野へ行く落武者思ふ秋の夕暮

故郷の大地の上にともに住み冬に入るなり分かち合うべし



霊山へ向かう途中の玉野までの坂は結構きつい、その途中に落合があり川が落合ところでありそこで松房ダムへ向かう道がありそこから丸森の筆甫と出る道があった。ええ、こんなところから丸森へ行けるのかと思い地図を調べた。すると確かに筆甫へ出る道だった。山深いからこんなところから筆甫へは普通は行かないだろう。この筆甫から夫婦岩がありあれここから夫婦岩に上れるのかと思った。この道はまだ行っていないから次に行ってみよう。最近霊山の方は行っていなかった。前は霊山にも何回か上った。霊山の大石にも何回か行った。細道を上る高いところにある。あそこの場所もかなり高い場所になるのでどうしてあんな不便なところに人が住むようになったのか?人間は不便な山の中でも山の高いところでも住んでいる。むしろ不便な所に人はあえて土地を求めて住むようになる。チベットではなぜ家が高い所高い所に移っているのか、それはやはり不便な所に土地を求めて住んでいるからだ。外国に出稼ぎに出るわけにも行かない時代である。今はインドに出稼ぎに行っている人が多い。ともかく上に拡大するほかなかった。南相馬市鹿島区の栃窪の上萱もそうなのだ。あんな高い所に不便な所になぜ人は住んだのか、わずかの土地を求めて住んだのである。大倉でも奥の方に住んでいた人は戦後になって開拓に入った人だったのかもしれない、それだけ新しいのであり奥地に住んでいる人が昔から住んでいたとは限らないのだ。大石でもあのような高いところでわずかな田畑にしかならない、どうして生活していたのだろうかとなる。楮畑(こうぞ)とかあるから和紙の材料を提供していたのか、ここには江戸時代から生活があったのだろう。大石というときあそこには実際に大きな石が多い、霊山から流れが落ちひびく気持ちのいい場所である。 入高野とかの地名もふさわしい地名である。ここでも問題になるのは村の新旧なのである。ここがかなり古い村であった。霊山に由来するからその頃から人が住んでいたからである。根小屋遺跡などがあるのもそのためである。

昔と今考えるとその相違が大きすぎて単純なことすらわからなくなっている。世界中と貿易して世界中の物産が入ってくる時代と村の単位で自給自足していた時代は余りにも違いすぎるからだ。そういう不便な狭い地域でどうして暮らしていたのか、でもそれは車がない時代にしても50年前とかでありそんな古い時代ではないのだ。そういう交通の発達しない狭い地域で生きることが想像できなくなっている。霊山も養蚕が盛んだったのだから現金収入の道はあった。でもあんな高いところに車もない時代に行き来するのは大変である。となると自ずと村は協力しなければ生きていけない、秋から冬となり冬ごもりとなる。やはり貧しい村では協力が必然的に行われていた。そうしなければ生きていけいなのが昔だった。貧しいからこそ人は協力し合う、豊になると協力し合わない、豊になれば協力する必要がないのだ。貨幣経済がこのように発達すれば金があれば何でも買える、人さえ金で買える、金で介護でも何でもやってもらえるとなる。金がなければ互いに協力するほかないが豊かな時代は金がすべてとなりやすいのである。

人間はもともと大地の上で生きている。ところが東京を見ればわかるように大地から全く遊離したのが大都会である。そこに住んでいる人は大地とかどこから食料が供給されるのかとか意識する必要がないのだ。日本の国土すら意識しない、食料は安い中国産でいい、高い日本産はいらない、日本の地方は過疎地に都会の税金を投入するな過疎地はいらないとか日本の国土としての一体感すらないのだ。コンクリ-トの人工の島からしかイメ-ジできない、日本はもう破産するから外国に逃げるべきだとかもなる。日本国土があり日本人があるんだがそういう思考すらなくなる。金だけが頼りの金融資本主義のユダヤ人的思考になる。人間のまともな思考は大地と結びついた田舎からしか起こらない、奇怪に巨大化した大都会から起こり得ようがないのだ。





大石の写真
http://zuiunzi.net/igu/bsrisuto.g1/3.html

2009年05月02日

井戸の話(沢庵和尚の春雨庵から・・・)


井戸の話(沢庵和尚の春雨庵から・・・)


寛永六年、紫衣事件に連座して徳川幕府によって京都大徳寺を追はれた沢庵禅師は、出羽国に配流の身となった。山里の春雨庵と名づけた庵で、茶や歌に親しみつつひっそりと暮らした。この庵に山乃井といふ井戸があり、マサといふ名の里の娘がよく水汲みに来た。時折り娘が届けてくれる里の花や、彼岸のときのおはぎや、また村里の話題は、老僧のなぐさめであった。

沢庵和尚はここに上山に流罪になり春雨庵に三年住んだ。その詳細はわからないが井戸に注目した。昔は水はもらうことが多かったのだ。これは前にも書いた。町では「水をください」ともらう人が多かった。また水は場所によっていい水と悪い水がありいい水の出るところにもらいに行った。今でもいい清水が出るところには車で水を運んでくるのと同じである。水は生活の基本でありかかせないから井戸は生活の中心としてあった。だから井戸をめぐる話は無数にある

海に近い五島町一帯などは 塩水で特に水質が悪く、山手の井戸からもらい水をしていたので「五島町の水乞食」とまで いわれた。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/character/kurata/kurata.html

三年を過ごしてここに井戸の水もらいし娘心に残りぬ

朝顔に(や) つるべとられて もらい水 千代女


名所旧蹟を訪れるときはこうしたちょっとした話が大事である。そこからイメ-ジをふくらませる作業が必要になってくる。あまり井戸に水もらいにきた娘のことに注目する人は少ないだろう。でもそこに一つの物語があり昔を偲ぶことができる。昔を偲ぶということはそれなりに努力が必要なのである。漠然としても浮かんでこない、想像力が必要になる。ここを訪れたのは実に三〇年前以上だろう。でも覚えていて今思い出し書いている不思議がある。この時は冬であり雪だった。


竹に雪沢庵和尚の庵の跡


今思い出して一句作ったのである。


「堀兼=ほりかね」とは, 井戸を掘るのに困難を極めたため「掘りかねる」の意味でつけられた, と言われているそうです。
http://hamad.web.infoseek.co.jp/0311/maimaizu-com.html

江戸時代になって縦に掘る井戸が作られた。その前は湧き水が中心だった。江戸時代はまさに井戸時代だったのだ。だから井戸を掘るのに苦労した物語が生まれる。井戸は水は生活の要だからそうなった。

「神田の水で産湯を使い…」「玉川の水で産湯を使い…」とは江戸っ子が啖呵(たんか)をきるときの決まり文句。 実は「神田の水」というのは、神田上水の水ということ。同じく玉川の水は、玉川上水。現在、JRに水道橋という駅がありますが、この「道」が、まさしく、その上水道です。江戸っ子は、川の水や井戸の水などではなく、水道水を使っていることを自慢しているわけで、そうした近代設備のない田舎者を見くだす文句として、この言葉を使ったのです。
 http://www.norenkai.net/shinise/jien/main04sa.html

江戸は海であったところを埋め立てた地で水に苦労した。水売りも商売になった。水道橋はまさに江戸時代、文明の象徴的なものだった。ロ-マの水道橋と同じであった。それはとても田舎ではありえないものだったのだ。水道橋は江戸時代を象徴した駅名であったのだ。

水売り
http://www.cleanup.co.jp/life/edo/05.shtml

下町一帯の神田上水、多摩川上水、千川上水も、みな土中の伏樋を堀り捨てて鉄管にしてからは神田児(かんだっこ)の産湯の水もなくなったわけで江戸っ子と移住人との限界の崩れてきたのも上水によって暗示されているのはおもしろい、(折口信夫)

もともと水はその土地土地で違っていた。それが水道管から流せば一様になる。みんな同じ水を飲むようになる。印半纏なども地域によって違った模様だったが明治以降制服になり一様化した。江戸時代の方がみんな土地に根ざしているから多様だった。文明は交通の発達で一様化規格化されることなのだ。とにかく水は生活の要であり水なくして一日ははじまらない、だから文明自体、川の側とか水の辺り、一番水の利用しやすい所に生まれたのである。

「白井宿」という呼称だが、厳密な意味での宿場町ではない。
古文書には「白衣」の記述も見られるが(この地の領主の奥方が白い衣をまとっていたこと
に由来するとか)、井戸への羨望から「井」の字を当てるようになったという。

これなどもいかにいい水がほしいか、井戸がほしいかで名前まで変えた。井戸にまつわる話や泉にまいわる話が多いのはそのためである。