2023年05月16日

相模武蔵の古代史から解明される中央政権との深い結びつき (続日本書記に記されていたので判明したー歴史の記録の大事)

相模武蔵の古代史から解明される中央政権との深い結びつき

(続日本書記に記されていたので判明したー歴史の記録の大事)

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久良岐郡(くらきぐん)は、神奈川県(武蔵国)にあった郡

奈良時代の人々の暮らし/小宮まゆみ/第51回港南歴史講座

歴史は記録されることと中央政府と結びつくことから過去が解明される。そのことがこのユーチューブで理解した。
戸籍がなぜ作られたのかそれは班田収授法で国民に土地を天皇から与えるそして税を取るために作った。つまり日本の土地はもともと天皇のものであり天皇から与えられたものであった。
なぜ戸籍が作られたのかそして現代まで日本で戸籍があり続けているのかそれは基本的には国民から税を取るためのものであった。なぜ日本で世界ではなくなった戸籍があるのかそれが古代から始まり現在まで続いているというのはなぜなのか
それはと天皇制と深く関係していたのである。
戸籍でもって国民のを支配するためだったのである。そこには家族の一人一人の年齢とか男女別とか記されていて何歳になれば税を納めるまた兵士に徴兵することができる
これは今のマイナンバー制度とも似ている。そこから国民の財産を全て国で管理して税金を取ることになるからである。

相模とか武蔵国関東の一地域のすでに飛鳥時代からも平城宮時代からも深く関係していた。
それは一つの木簡から明らかになったのである。飛鳥から発見された木簡に記されたものから明らかにされたのである。飛鳥時代からというとずいぶん古い時代からすでに中央の支配があり租庸調があり調として米とか布で納めていたのである。
でも奈良といえば相当に遠い。どうして運んだかとなるとやはり東海道に道が作られていて荷物を背負って運んでいた。
その道幅は12mもあったというこれはその後からできた鎌倉道とかより広いのである。それはあたかもローマ帝国の道にも似ていたのである。だから思ったより日本はすでに中央政権の強力な国家が生まれていたのである。
その頃貨幣は和同開珎ばどが作られていたが流通していない、でも平城宮とかでは貨幣は流通していた
でも地方では流通していないから調として麻の生地などが貨幣代わりになっていたのである。

そして平城宮の一部に久良郡の税を納める倉があった。それは豊臣秀吉の政権の伏見城に最上と伊達の屋敷があったようにすでに中央政権と深くかかわっていたのである。
飛鳥というと平城宮とか藤原宮の前なのである。関東はすでに東海道を通じて奈良と結ばれていたのである。それは京都と大阪と今でも東海道で結ばれていることに通じている。
もともと武蔵国というと埼玉の行田に近い、そこは稲荷山鉄剣が発見されたことで有名である。それだけ飛鳥時代以前からでも大和朝廷の建国前から中央と深い関係にあったのである。

ただ史実として正式に国の歴史として続日本書紀に記されるいたので証明したということは大きい。
歴史というときどうして解明するのかとなるとやはり明確な証拠となるものが欲しい。それがやはり文字として記録されたことに頼ってしまうのである。文字が明らかな証拠として残り証明されやすいのである。
でも柳田国男はそうした文字に頼らないで口から口へ伝えられたものを重視する民俗学を起こしたのである。
だからすべて文字から歴史が解明されるわけではない。でも古代とかなると何か言い伝えがあるとしてもそれはそれが真実かどうか曖昧なものとなる。すると文字が強力な証拠になる。
そして庶民でも文字を漢字でも理解してたという。それで土器に文字らしいものが記されていた。それは文字の練習だったらしい。中央から奈良から国司が役人が派遣され地域の人に文字を教えていた。また国分寺などを必ず建てたから僧侶が役人の代わりに文字を教えたとなる。

万葉集に庶民の歌が載っているのはやはり文字を理解していた人がそれなりにいたということを証明している。
いずれにしろ意外と飛鳥時代からでも東海道地域関東地域はすでに奈良の中央政権と深く結びついていた。
それを一地域から解き明かしたこのユーチューブは参考になった。
ではなぜ東北となるとみちのくとなると歴史として分かりにくいのかそれは中央政権との結びつきが明確にわからない。続日本書紀に記されてもいない。でも東北にも中央政権と関係した役所である郡衙があった、ただ中央との関係が明確ではない、日本書記には載っていないからである。

南相馬市原町区の泉官衛跡は有名であり木簡も出ている。でもそれをこのようにわかりやすく説明されていないのである。またそれだけの資料がないということで説明されていない。この相模は武蔵のように中央政権との結びつきが明確ではないのである。
続日本書紀であれ明確な証拠として残されていないのである。
それで想像になってしまうのである。
ただみちのくの真野の草原の万葉の歌は明らかにこの辺までが奈良の中央政権とは支配した地域であり真野の草原とはその境界のをさしていて奈良の中央政権が認定した地域でもあった
でも明確に奈良の中央政権とのつながりが正式の国の記録に載っていないので想像になってしまうのである。

つまり歴史というのは時代がさかのぼれば遡るほど明確なものはわからなくなる。そこで記録された国の正式の文書は証拠となってしまうのである。その証拠があり関東の一地域の古代が明確にされたのである。
例えばこの辺で起きた津波のことでも相馬藩政記に二行だけ生波(いくなみ)で700人が溺死したという記録が載っていた。それは津波が来てからわかったのでありそれまで忘れ去られていたのである。学者すら知らなかったのである。もしこの二行のことをみんなにしらされていれば来ないなど思わなかったろう。いかにこの記録が重要であったか思い知らされたのである。
だから歴史というのは文字から頼ることがどうしても多くなる。それで誤解が生じることもあるがが文字というのはそれだけ大きな役割があったともなる。



youtubeで説明されるとわかりやすくなる。説明でもうまい人は人気がでる。また郷土史でもこうして全国の人と結ばれる。
こうした一地域のことはわかりにくいからである。
でも地域からでもインターネットで個人放送局となり発信できる
それも専門的なことでもできる、小数者相手でもできるし金もかからないからである。
ただ手間は省けない、win11にして親指シフトが使いないので音声入力にしたがうまくいかない。
youtubeをしてみようとしても手間なのである。
ただ居ながらにして大学の先生であれ講義を聴ける時代である、いちいち学校に行く時代も終わるのかもしれない、何か関心があれば知識を深めることができるからである。



2022年10月23日

南相馬市鹿島区浮田国造の謎 (地名から探る古代史ー物部、安曇、草(かや)部ー毛野氏の跡をたどる)


南相馬市鹿島区浮田国造の謎

(地名から探る古代史ー物部、安曇、草(かや)部ー毛野氏の跡をたどる)

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●浮田国造(うきたくにのみやっこ)の由来

『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、成務朝に崇神天皇の五世孫の賀我別王を国造に定めたとされる。
氏族
吉弥侯部氏(きみこべうじ、姓は不明)で、上毛野氏、下毛野氏、針間鴨国造などと同族神護景雲元年(767年)7月19日には宇多郡人の外正六位上勳十等吉弥侯部石麻呂が上毛野陸奥公を賜姓されている。

東界と北界にはそれぞれ大きな山があって、境界をつくっている。その山の向こう側が、毛深い人の住む国なのである。

「毛人(蝦夷)」説
「蝦夷」を古くは「毛人」と記したことから、「毛の国」、二字表記にして「毛野」の字が当てられたとする説。『宋書』倭国伝の倭王武の上表文には「東に毛人を征すること五十五国」という記述があり[原 1]、この「毛人」との関係が指摘される[6]。


地名と言うのは相当に古い、そして地名は古代に由来する、なぜなら最初に地名もない土地があるとしたら最初に来た人たちが名付けるからである
それで古代由来の地名が多い、その地名の多くは渡来人に由来する時、渡来人が最初に名付けたらかそうなった
確かにもともと住んでいた原住民がいた、ヨ−ロッパだとケルト人とかいてその人達が名付けた地名が今の地名でもある
日本だったら縄文人が一番古いから地名もその時代に基づくものとなるが言葉が明確ではないので実際の地名は渡来人が来て名付けたものが多い

そして南相馬市の古代史で一番の問題は一体桜井古墳には誰が埋められているのか?

これが問題なのである、賀我別王(かがわけ)が埋められているとのの説だとなぜ浮田国造の地域に真野地域に大きな古墳が作られなかったのか?
時代的には桜井古墳は古いからである、真野古墳群は大和王権に組み入れられたもので
大伴氏が派遣された支配した地域となる、つまり浮田国造は毛野氏が入ってきて国造(くにのみやっこ)が置かれたのである、ただすでにその前に大きな勢力が桜井古墳を作った人達がいた、それは物部氏だとなる、それは物部吉名という人がいて吉名郷ができたからである、真野郷も真野氏が入ってきて地名化したのである
一族の名前だということである、古代は人命とか氏族名が地名化しているからである

物部氏族にもいろいろあり

浮田物部

馬見物部

などがある、ここで馬見とはなになのか、それは鹿島区の浮田地区内に馬見がある
馬見塚となっている、それは上真野地区にあり上浮田の領域なのである
つまり上真野地区までも浮田の領域に入っている
この馬見はマミアナとして狸の字があてられている

信太の馬見山には小字名で駒込があり隣接して馬掛(まがき)があり駒込は馬を追い込んだ放牧地、馬駆けで馬場のことか、馬見山とかあるがマミアナは牧とか古墳などで馬に関係していることが多い、
(常陸風土記と古代地名ー鈴木健)

浮田国造がある地域に馬見がありその浮田国造は真野郷に編入されたともなる
馬見塚とは古墳があったからなのか、真野郷の寺内から小池には真野古墳群で有名であるただ横手にも古墳があるが上真野地区となると残っていない、ただ馬見はやはり古代に由来した地名なのである

最近できた高速道路のSAにも浮田神社が作った
この浮田は浮田国造として最も古い地区として歴史の正史に記されている
その浮田国造は毛野氏系統なのである
毛野とは栃木県とか群馬県を本貫とした氏族であり鬼怒(きぬ)川は毛野川だったのである

ここで注目すべきはなぜ浮田国造が毛野系統なのかということである
それを地理からみればまず一番古い地域は会津であることは歴史書に記されている
山側の方が古いというときもともと日本人は縄文人から始まっている
この縄文人は山を根拠として生活していた、この辺でも意外と一番古いのは飯館村でありそこから縄文中期の遺跡が土器とかが発見されている
もちろん海側にも縄文人は貝をとってとか暮らしていた、でも山でも暮していたし海側より山側が古いともなる、すると日本全体で見た時、山の方により古い時代は人々が住んでいたとなる、採集狩猟で生活していた、だから毛野というときここから遠いとなるがなぜそんな遠くから浮田国造として大和王権から官吏が派遣されたのかとなる
つまり毛野氏の勢力がその時大きいものだったからそうなった
そして毛野氏にも物部氏が進出していて一体化していた

毛野氏族はその分布からみて、大阪湾岸の茅渟地方にその起源をもち、血沼之別の流れとみられる。御諸別命より以前の系譜は難解であるが、三輪君一族との同質性がかなり濃く見られる。
 
毛野氏族の分布は、起源地の茅渟地方を出て摂津・河内に入り、近江から北陸道(特に能登)、信濃を経て毛野地方(上野、下野の両国)に到る経路をとって、畿内から東国へと続いていたとみられる。
 東国では、両毛に限らず、隣接する常陸西部や信濃における一族の分布も濃く、さらに下総にも分布が及んでいた。毛野では鈴鏡・鈴杏葉など鈴をつけた祭祀具が用いられ、古墳の埋葬品や埴輪にみられるが、この鈴文化圏は両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部にも及んでいたことがしられる。

○ 毛野氏族は東国第一の大族であり、上毛野君をその宗族とする。朝廷の命をうけ東北の蝦夷を討伐し経営に当たったものであり、大和朝廷から独立した東国の存在とすることは

毛野氏族は東国第一の大族であり、上毛野君をその宗族とする。朝廷の命をうけ東北の蝦夷を討伐し経営に当たったものであり、大和朝廷から独立した東国の存在とすることは無理である。その部曲を吉弥侯部(公子部、君子部)としており、その関係氏族には本来の毛野氏族と血縁のない蝦夷の人々も組み入れられか付合されている可能性が強い。
 また、朝鮮半島にも出兵していることから、渡来系の色彩のある毛野一族(田辺史に代表される)も多く、その中には実際には血縁のない帰化人系統が上毛野君姓等を冒姓している可能性もないではない。これら蝦夷系・渡来系で本来は他姓であった氏族も、その判別が極めて困難であるので、ここであわせてとりあげざるを得ない。
 https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12103720558.html

  毛野氏族から出た地方の国造としては、上毛野国造、下毛野国造、針間鴨国造、浮田国造(及び能登国造)があげられる。この氏族奉斎の神社としては、下野国河内郡宇都宮の二荒山神社(宇都宮大明神)及び豊城入彦命を祭る示現太郎宮があげられる。また、駒形神(駒弓神、子眉嶺神、子檀嶺神)や豊受比売神(保食神)を奉斎したが、これは陸奥で顕著に見られる。

(4) 東北地方……陸奥国宇多郡の浮田国造の一族が、駒形神を奉じてさらに北方に展開したのが主な流れとみられる。ただ、毛野に属した蝦夷が混入したものも一部あろう。
 吉弥侯部(君子部。録・左京)、上毛野陸奥公(浮田国造の姓氏とみられる。中村、黒木−陸奥宇多郡仲村郷に起る)、吉彦宿祢(斑目、荒川−出羽仙北郡人。山口−下野人、越中にも分る。西沢−濃州石津郡人)、名取公(名取−陸奥国名取郡人、後甲州に遷)、名取朝臣(名取郡の菅井は族裔と伝える)、上毛野名取朝臣、上毛野遠田公(遠田−陸奥国遠田郡人)、上毛野中村公(中村−甲斐国山梨郡人)、、置井出公、上毛野緑野直(同上の改姓。出羽の田夷とされる)、上毛野賀茂君。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/kenu1g.htm

  また、出羽国秋田郡の金成(嘉成)氏は陸奥栗原郡に起っており、栗原郡の吉弥侯部の族裔(上毛野栗原公という姓氏があったか)とみられる。陸奥宇多郡黒木の諏訪神社祠官桃井は、同郡の物部末流か。
 下毛野俯見公(陸奥玉作郡の吉弥侯部の改姓)、下毛野静戸公(陸奥信夫郡の同)、下毛野陸奥公(陸奥柴田郡の丈部の改姓)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%BE%8E%E4%BE%AF%E9%83%A8

毛野氏一族の吉弥侯部氏(君子、浮田国造)がその伴造だったと考えられており[4]、賜姓の際には多く「上毛野」某公、「下毛野」某公の氏名を賜っている。一例としては陸奥国信夫郡の外従八位吉弥侯部足山守(きみこべのあしやまもり)が上毛野鍬山公(かみつけのくわやまのきみ)を賜ったことがある[2]。吉弥侯部のうち、一部の者は中央に貢進され、朝廷や貴族などに仕えて雑役に従事した。吉美侯部(吉弥侯部)が東北地方以外にも各地に広く分布するのは、律令国家が俘囚を全国に配して内民化をはかったためだと考えられる[3]。奈良時代後半の吉弥侯横刀(きみこのたち)は近衛府の判官(近衛将監)から上野介へと昇進し、「下毛野朝臣」を賜姓されている

陸奥国宇多郡の浮田国造の一族が、駒形神を奉じてさらに北方に展開したのが主な流れとみられる。

この吉弥侯部は相馬地域では相馬市に配置された、つまり真野の草原とは真野郷のことであり相馬市は古代でぱ毛野氏の吉美侯部が支配していたのである、なぜなら宇多郡に相馬市に駒ヶ嶺がありこれは駒形神であり高麗にも通じているのであるそしてここは境界ともなっていた、毛野氏の勢力は相馬市から名取の方へ拡大したのであり、物部氏とか安曇氏の支配する原町区の桜井古墳がある方には拡大しなかったのである
泉かんが跡は大和王権の官営のものであり真野郷が大和王権に大伴氏などによって組み入れられたのである、ただ毛野氏に入ったのが物部氏であるから何か対立したとはならない物部氏が最初に大きな勢力となり桜井古墳を造り安曇氏と一体化していたのである
鹿島区には安曇氏の綿津見神社がないからである

毛野氏は大きな勢力として古代にあった、蝦夷というときこの毛野氏のことだという学者もいる、

陸奥宇多郡黒木の諏訪神社祠官桃井は、同郡の物部末流か。これは物部氏と毛野氏が結びついていてそう推測した

『古事記』によれば、10代崇神天皇は12人の御子がいたとありますが、そのひとり
豊木入日子命(トヨキイリヒコノミコト)について、

 「豊木入日子命は、上毛野、下毛野君等の始祖」
 
●埼玉県稲荷山鉄剣が意味するものー毛野氏がかかわっていた 
 
埼玉稲荷山鉄剣から発見された鉄剣に「獲加多支鹵大王」、「斯鬼宮」の文字があ
り、これをワカタケル大王、すなわち雄略天皇のことと、磯城宮のことだとする説があ
りますが、解読をめぐっては決着をみません)

 ただし、関東の氏族たちは大和王権の勢力圏に加えられながらも、6世紀に至っても
なお半独立性を保っていたとも考えられます。
 おそらく上毛野の東部の氏族たちも同様だったでしょう。
 それに対して、武蔵の紛争に介入する形で東国に進出してきた大和王権はその支配体制をより強力なものにしようとしたと思われます。
 
1意富比抔 おほひこ
2多加利足尼 たかりのすくね
3弖已加利獲居 てよかりわけ
4多加披次獲居 たかひ(は)しわけ
5多沙鬼獲居 たさきわけ
6半弖比 はてひ
7加差披余 かさひ(は)よ
8乎獲居臣 をわけのおみ

意富比抔 おほひこは多(オウ)氏であり神八井天皇に連なる大きな氏族である
笠は加佐であり韓国の地名なのである,笠とは当て字にすぎないのである
埼玉古墳群の南方10km程の所に、笠原という地名があり、使主はここを拠点とした豪族であるとされている。

『日本書紀』安閑天皇元年(534年?)条に記載されている。同条によると、武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたい おみ、おぬし[2])と同族の小杵(おき・おぎ)[注 1]は、武蔵国造の地位を巡って長年争っていた。小杵は性格険悪であったため、密かに上毛野君小熊(かみつけののきみ おぐま)の助けを借り、使主を殺害しようとした。小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上り、朝廷に助けを求めた。そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅した。これを受け、使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉として献上したという。

武蔵国造の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E9%80%A0%E3%81%AE%E4%B9%B1

ここに内乱があり上毛野君小熊の助けがありと記されていて毛野氏が大きな勢力であったことを示している
その前に毛野氏と物部氏が結びついていた、そのことは南相馬市相馬市の領域にもあったなぜなら南相馬市の原町区でも桜井古墳は誰が葬られていたのか?
それは毛野氏と一体化した物部氏になるのが有力だからである
それは大和王権が全国を統一する前に物部氏が大きな勢力となっていて古墳も作られた
それが東海地域と関連しているとかなると物部氏なのかとなる
ただ東海地域としてもその時は海伝いではなく毛野氏の支配地域の山伝いに物部氏が進出してそれがこの地域に及んだとなる
ただここで大事なのは毛野氏が関東東北の古代で大きな勢力でありそれを見ないと理解できないのである

●たかは高句麗、高麗に由来していて物部氏は筑後国の高良山を祭神としている

有名な稲荷山鉄剣銘に

2多加利足尼 たかりのすくね
3弖已加利獲居 てよかりわけ
4多加披次獲居 たかひ(は)しわけ

このタカは高句麗や高麗のことであり九州の壁画古墳は高句麗系統のものである
「肥前風土記高来郡」とは高来の峰とある山であり「和名しょう」に郡名として(高来多可久とありタカクと読む、高句麗は紀元前一世紀中ごろから668年までつづいた高句麗のことである、今の北朝鮮地域である、918年に建国されたの高麗である高来とは高麗から来た人達の意味である、

肥人の額髪結へる染木綿(しめゆふ)の染(し)めにしこころ、我忘れめや)

万葉集の肥人(こまひと)とは高麗人でありこれは高句麗のことである、熊本とかある熊はコマだクマとなまったものだとしている

この本に相当に詳しくこのことを書いている、そもそもその常陸から移住して作られたのが行方郡であったから地名も移動しているのである、地名は最初に移住した人達が名付けたのである、その前に原住民とも言える蝦夷が住んでいた
海老のエヒはそうである
だから常陸からそっくり地名まで移動しているのである、高倉とかあり信太とか駒ヶ岳とか相馬市にあるがこの駒はコマは高句麗のことである
物部氏は高句麗から来たのでありだからこそ馬にも乗り船も操作する技術ももっていたのである
多珂神社は大きな神社であり格式ある神社である、その隣に綿津見神社神社がある

それで九州に見られる装飾古墳は高句麗由来のものでありその九州の物部氏が最初は毛野氏に入りそれがこの相馬地域にも入ってきて浮田国造になった
なぜ毛野氏がこの地に関係したのかというと地理的にもともと奈良から大阪地域から日本海側に出て越の国から加賀に勢力を伸ばした、日本海側の方から進出したから浮田国造が加賀別王になっているのである
常陸から移住した人達は毛野氏より後なのである、だから毛野氏はもともと蝦夷であり一番古い氏族だったとなる、最初に大和王権が遭遇したのは毛野氏であり毛野氏は蝦夷でもあったが大和王権に組み入れられたのである

七国の高麗人(こまひと)、1799人を以って武蔵国に遷し高麗郡置く(続日本記)高麗川があり高萩も由来であり高来(たかき)から高萩になった
高萩には駒形山弥勒寺があったしここを一体として高麗原と称していた
高萩に駒木原、呉坪があり高句麗の句麗(くれ)である、高句麗系統の地名の伝播がある相馬市の駒が峰もそうである、駒をあてたがもともと高句麗のことである
ただ高句麗は北方の騎馬民族であり馬に乗るのにたけていた、また船を操作する技術も持っていた、だから装飾古墳とかに馬に乗った武人が描かれているのである
(常陸風土記と古代地名ー鈴木健)

この本は詳しいからそれを読むとなるほどと得心する

神武天皇の東征の神話も多氏の事跡を基に作られたとか神武天皇の前に神八井耳命(多臣の始祖)が支配する国造の系譜がある。これは全国に及び道奧石城國造もそうである出雲国に「阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)があり大隈国−蛤羅郡に阿多小崎君(古事記)がいて鹿屋郷がある。それがそのまま出雲−伯耆国(安曇郷 鹿屋郷)→国→因幡国に移動しているのだ。この伽耶に由来する地名は関東になると埼玉郡に草原郷があるだけで少ない、それがなぜ陸奥真野の草原郷にあったのか?

●桜井古墳は物部氏が作った

この地のに最初は物部氏が入り桜井古墳が作られた、それは大和王権より物部氏のものだったとなる次に大きな謎なのは綿津見神社が原町区から小高区でも多いことである
本当にいかに綿津見神社が多いから20近くあるようにも思う、それも格式が高いものなのである、だからなぜこんなに綿津見神社が多くまた対になった山津見神社が多いのか
飯館村の山津見神社は綿津見神社と一体となっている大きな神社なのである
それは安曇氏系統が入ってきてこの地を開拓したからだとなる
焼畑とか農業の技術もあり船を作る技術ももたらされたからである

この辺では物部氏が先であり次に綿津見神社を建てた安曇氏の後継者が入り最後に大和王権の直属の大伴氏が真野地域に入った、そして前方後円墳に金銅双魚佩を残したのであるただ謎は一体時代順序がわからないのである、物部は一番古いとわかる、次に毛野氏とかになり安倍氏でもそうである、でも安曇氏に関しては歴史書に記されていないのである
それが謎なのである、でも地名として安曇族の系統の八木氏とか犬飼氏が地名化しているそれは八木沢峠がそうであり霊山をおりた所に犬飼というバス停があるのもそうである
犬飼(犬養)は安曇族の系統だからである、安曇氏の後継者だったからである
また吾妻山は安曇(あづみ)のなまったものだというのもそうである

ただ安曇族は太平洋側から入ってきたのである
なぜなら松川浦に和田と山津見という地名があるからだ、和田とは綿津見(わたつみ)の和田(わた)なのである、それが対になっていて飯館村の方に移動している
栃窪村に山津見神社があり宇多川をさかのぼった所に山津見の社が隠されるようになったまた八木原というのもあり明らかに八木氏なのである
だからこの安曇族のことはただ神社があるだけで正史に記されていないから謎なのであるでもなぜこんなに多く神社があるのかとなる、それが解明されていないのである

でもこの安曇族は九州の福岡から出て移動してきた海人族であり古事記にも記されている有力な氏族だった、でも安曇族のことは後にその存在感が消失してゆく
でもなぜこんなに綿津見神社が多いのか、特に南相馬市の原町区に多いのかとなる
最近では大原にも綿津見神社があったことを発見した
つまり大原を通り飯館へ八木沢を峠を越えて入ったということである
それで安曇族の後継の八木氏が入ってきて八木沢峠になったのである
三方向から飯館村に入った、一つは松川浦であり一つは真野川をさかのぼった栃窪村から入った、おそらく栃窪村は塩の道の通り道でありそこは古代も通り道だったとなる
もう一つは大原から八木沢峠を越えて飯館村に入ったのである

そして物部氏は歴史書に余り記されていないが物部吉名という人がいて小高は吉名郷という古代の大和王権の領域として支配された、だから確実に物部氏が大和王権の前に支配していた、ただ綿津見神社や山津見神社を残した安曇氏については歴史書に記されていることがわずかなのでわからないのである
物部氏というとき右田の御刀神社が右田にある、その前は湿地帯になっていて江戸時代に開拓されて田になったのである
海老はエヒでありこれは蝦夷のことである、海老には津波で30人が死んだ高台にも古墳が最近発見された、弥生時代から人はそこに住んでいたのである
右田は江戸時代から住んでいたから新しいのである
なぜ右田に御刀神社があるのか、それは海老は蝦夷でありそこで争いがあり物部氏と戦うこともあり刀を使うからそうなったのである
つまり最初に蝦夷と戦ったのは鹿島区では物部氏だったとなる
その後に大和王権が蝦夷と戦い鹿島御子神社を創建したのである

つまり一番古いのは桜井古墳がある原町区であり物部氏が最初の移住者であり入ってきた次に毛野氏が入り浮田国造に大和王権から官吏が派遣された
その後に本格的に大和王権が直接的にかかわり真野地域に前方後円墳が作られた
そこに金銅双魚佩が発見されたのである、それは大和王権から大伴氏が覇権されてこの地の支配者に贈与されたものである
だからその古墳は大伴氏が葬られたのかもしれない、その大伴氏を慕った笠女郎がみちのく真野の万葉集に歌を残したのである

桜井古墳(物部氏)⇒(安曇族(綿津見神社)?⇒毛野氏(浮田国造)⇒大和王権(大伴氏)(真野古墳群)⇒真野の草原の歌

こういう順序になる、ただ綿津見神社を多数残した安曇族がどこに入るのかその順序がどうなるのかわかりくいのである、毛野氏の前なのか、毛野氏の後なのかわかりにくい
ただ歴史書に記されている安曇氏は古い氏族である、だから物部氏の後か同時期なのかとなる

神武天皇の東征の神話も多氏の事跡を基に作られたとか神武天皇の前に神八井耳命(多臣の始祖)が支配する国造の系譜がある。これは全国に及び道奧石城國造もそうである出雲国に「阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)があり大隈国−蛤羅郡に阿多小崎君(古事記)がいて鹿屋郷がある。それがそのまま出雲−伯耆国(安曇郷 鹿屋郷)→国→因幡国に移動しているのだ。この伽耶に由来する地名は関東になると埼玉郡に草原郷があるだけで少ない、それがなぜ陸奥真野の草原郷にあったのか?

●物部 安曇部、草(かや)部

高良神社の祭神五姓とは丹波、物部 安曇部、草部、百済という

高麗に属するものとして物部があり安曇部があり草部がある、ただ草部はカヤ部ともあてられるが草部はクサ部と読むと違ったものにはなる
カヤと読めば伽耶の国のことになるからだ、物部、安曇部と連なっている時、原町区の桜井古墳はこの二つの氏族が関係している、というのは二つの棺があったとかなるとやはり物部氏と安曇氏の首長が葬られたのかとなるからだ

東界と北界にはそれぞれ大きな山があって、境界をつくっている。その山の向こう側が、毛深い人の住む国なのである。

「毛人(蝦夷)」説
「蝦夷」を古くは「毛人」と記したことから、「毛の国」、二字表記にして「毛野」の字が当てられたとする説。『宋書』倭国伝の倭王武の上表文には「東に毛人を征すること五十五国」という記述があり[原 1]、この「毛人」との関係が指摘される[6]。

古墳時代前期には東海地方由来の前方後方墳が多く築かれたほか、同地方由来の「S字甕」と呼ばれる土器も多く出土しており、畿内に対する独自性が見る説がある[20]。一方この墳丘形式について、墳丘規模がどの地域においても前方後円墳が前方後方墳を上回ること、東国においても前方後円墳と前方後方墳が併存していること
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E9%87%8E

九州が出雲より古く出雲をあけ渡す前に、おそらく安曇部族が入っていた
その験しとして安曇族の信仰や伝来物が包囲した形跡がある

阿部氏(安倍)はアヅミのなまったものである

福島県の吾妻山とか安積(あさか)とかも安曇(あづみ)のなまったものだという
http://musubu2.sblo.jp/article/189571236.html


これは九州のことであるがこれが不思議にこの辺と関係している
なぜなら桜井古墳は物部と関係して安曇となるととにかく綿津見神社が原町区には本当に多すぎるからである、20もあるとしたら本当に多い、この三つの部は明らかにこの辺にもあてはまるのである
ただ百済は違うとしても伽耶国とか唐(から)は関係している、唐は中国のことではなく韓国の韓(から)である
原町区には物部と対になって安曇氏がかかわっていたのである
ただなぜか安曇氏は正史の記録として残らなかった、でも神社は多く残した不思議がある物部系の神社が見あたらないからである
何らか物部氏は歴史から消されたとなる、安曇氏も消されたのである
残ったのは大伴氏でありそれは寺内古墳群を形成したのである

鹿屋野比売 顕宗即位前記 取葦草葉

<日本書記 神代上81>

草祖草野姫

この草祖草野姫(かやのひめ)は不思議に寺内に祀られている、この草とあてているがカヤであり伽耶国の姫ともなるのである、何らかで伽耶の国の人が葬られていくいる墓だったのかもしれない、それで真野の草原はこのカヤに由来しているのかとなる
萱が茂っていたから憧れの地とかなったとはありえないのである

黒樹取 草毛苅乍 仕目利 勤知気登 将誉十万不有

黒木とり 草(かや)もかりつつ 仕へめど 勤いそしき奴わけと 褒めむともあらず

皮のついたままの丸太。製材してない皮付きの材木。くれ。くろぼく。⇔赤木。
※正倉院文書‐天平宝字六年(762)三月九日・造石山寺所告朔「採黒木百八十物〈柱桁間度之類〉」
A 三〇センチメートルぐらいに切った生木をかまどで蒸し焼きにして黒くしたもの。たきぎとして用いる。京都の八瀬、大原あたりでつくられ、大原女(おはらめ)が頭にのせて京都市中を売り歩いた。江戸中期(天明ごろ)にはすでに名ばかりで、普通の粗朶(そだ)であったらしい。大原木(おはらぎ)。

黒木という地名が相馬市にありこの由来も古いとなる

阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)がありこの阿太は安達太良や安達の地名と同源である。安積は安曇族と関係しているとなると海人族の宗像市などともに九州から出雲、瀬戸内海と海人族の跡は残っているからそれらと一緒に草原の地名も移動したのである。意富(オオ)氏と「阿太加夜神社」は草(カヤ)原という地名はセットととなって武蔵に移動して陸奥の真野郷に移動した。
http://musubu.jp/manokayagimotoketa.html

金銅双魚佩が発見された寺内の前方後円墳の下に草野姫(かやのひめ)が祀られている真野明神がある。ここはかなり重要な場所である
この草野姫とは伽耶から来た姫ともなる、つまり単なる草のことではない、伽耶国にまつわるものでありそれが祭られていたとなる

ともかく物部氏ー安曇族ー毛野氏吉弥侯部)ーは一体としてありこの地に関係した
ただ物部氏は一応物部吉名とあり吉名郷があり名前を残しているがその外神社がないのである
でも安曇族の残した神社は綿津見神社は多いのである、これも謎なのである
正史には記録がないことも不思議なのである、ただ他でも伽耶がかかわったとしてもそれも正史には残されていない、大和王権が最後にかかわった大伴氏族は正史に記されているし万葉にも残されているし大伴氏となれば天皇に仕えた大豪族だったのである
それで真野の草原の歌を残したとなる、浮田国造は毛野氏の系統でありその隣の相馬市の宇多郡が毛野氏系統の君子部が支配した、つまりここも一つの境界となっていたのである原町区の方が先に物部氏とか安曇氏が入ってきて開拓して桜井古墳を作った
でも大和王権は最初に毛野氏を通じて浮田国造を置き浮田地区が最初の拠点となった
その後にここに大和王権直属の大伴氏が入り支配したのである
そして金銅双魚佩はその首長に贈与されたのである

2022年09月17日

只野氏が語る家の歴史 (安積氏と平景政に連なる歴史ー安積は安曇(あづみ)なのか)


只野氏が語る家の歴史

(安積氏と平景政に連なる歴史ー安積は安曇(あづみ)なのか)

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福島県宮城県岩手県など只野氏が多い、東北地方に多い
ただ広島県とかに広がっているのはわかりにくい

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閏正月11日、聖武天皇の鹵簿(ろぼ)は恭仁京から難波へ向かった。天皇の皇子、県犬養広刀自(あがたいぬかいひろとじ)夫人を母とする安積(あさか)親王も扈従(こじゅう)したが、河内の桜井頓宮(現、東大阪市六万字)で脚の病のため恭仁京へ引き返した。翌々日、薨去する

祖父:文武天皇(母方の祖父は県犬養唐
父:聖武天皇
母:県犬養広刀自

安積親王という名に気がついてからこの作品に取り組んでみて、はじめて安積親王と葛城王との関係を知りました。葛城王は、のちに橘諸兄と名を変えますから、同一人物です。その上、安積という地名と郡山に伝わる采女伝説のなかの葛城王(橘諸兄)が、安積親王と深く関連する事実に驚かされました。

 郡山で葛城王と言えば、『安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに』
 
 https://plaza.rakuten.co.jp/qiriya/diary/?ctgy=30
 
 天平十六年(744)、春二月に、安積皇子の死去に際して大伴家持が詠んだ歌(03/0475 )には、現在安積親王墓がある和束山を「和豆香山」としています。

さらに、古今集仮名序に、難波津の歌とともに「歌の父母のようにして、手習いする人の最初に習うもの」という安積山の歌では、「安積山」の原文が「安積香山」になっています。

木簡の両面が古今和歌集の序文の2首とまさに同じセット。
紀貫之は『古今和歌集』仮名序(延喜5年(905))で、
「・・・この二歌(ふたうた)は、歌の父母(ちちはは)のやうにてぞ手習ふ人の初めにもしける。」と、
初心者が最初に習う一対の歌として紹介している。
2首をセットにしたのは貫之の独創とも思われていたものが、
実はその150年前からセットとして認識されていたことになるという。
難波津の歌はいわば公の歌。
宮廷の歌会に出席した人物が、この歌が書かれた木簡を持ち帰り、
裏に安積香山の歌を書き加えたのでは」と推測し、
「難波津の歌」と「安積香山の歌」がセットであると認識していた人が、少なくとも一人はいたことになる。
2首を手本とする考え方はその150年前から、いや、それ以前からずっと存在していて、
「子供の頃に手習いで書いたなぁ」ということで、持ち帰った木簡の裏に書いたのではないか。
とのこと。

出土した歌木簡の復元ー滋賀県甲賀市の紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる宮町遺跡(8世紀中ごろ)から、
万葉集と古今和歌集に収められている2つの和歌が記された木簡が見つか
 木簡の片面に書かれてあった上記の「安積山・・・」の万葉集の歌を万葉仮名に復元すると、
赤字部分が今回出土した部分。

阿    佐    可    夜    麻    加    氣    佐    閇    美    由    流    夜    真    乃    井    能    安    佐    伎    己    々    呂    乎    和    可    於    母    波    奈    久    尓
あ    さ    か    や    ま    か    げ    さ    へ    み    ゆ    る    や    ま    の    ゐ    の    あ    さ    き    こ    こ    ろ    を    わ    が    お    も    は    な    く    に

反対側の面

奈    迩    波    ツ    尓    佐    久    夜    己    能    波    奈    布    由    己    母    理    伊    麻    波    々    流    倍    等    佐    久    夜    己    乃    波    奈
な    に    は    つ    に    さ    く    や    こ    の    は    な    ふ    ゆ    ご    も    り    い    ま    は    は    る    べ    と    さ    く    や    こ    の    は    な
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/kana/105.htm

アサカ 【浅香】5 , アサカ 【浅賀】5 , アサカ 【朝香】4 , アサカ 【朝賀】4 , アサカ 【安坂】4 , アサカ 【阿坂】3 , アサカ 【浅加】3 , アサカ 【朝加】3 , アサカ 【淺賀】2 , アサカ 【淺香】2 , アサカ 【阿阪】2 , アサカ 【浅積】2 , アサカ 【東日下】1 , アサカ 【朝下】1 , アザカ 【安坂】4 , アツミ 【渥美】5 , アツミ 【熱海】5 , アツミ 【厚見】4 , アツミ 【安海】4 , アツミ 【厚海】4 , アツミ 【渥見】3 , アツミ 【厚美】3 , アツミ 【厚味】3 , アツミ 【敦見】3 , アツミ 【渥実】2 , アツミ 【渥味】2 , アツミ 【渥海】2 , アツミ 【安津見】2 , アツミ 【熱見】2 , アツミ 【篤美】2 , アツミ 【渥實】1 , アツミ 【温海】1



桓武平氏の鎌倉氏、清和源氏の和賀氏などに見られる。

# 只の(普通の)野原という意味。また「只」には「一面の」とか「まっすぐな」という意味もあり、どこまでも野原が続いているさまを表す。

# 只野(ただの): 「普通(ただ)の野」。多田野や但野に転じた。

# 宮城県:177位、福島県:439位、岩手県:647位、北海道:814位など。

# 陸奥国安積郡只野村(福島県郡山市)をルーツとし、桓武平氏の鎌倉氏の支流。

鎌倉時代末期に下総国相馬郡から陸奥国行方郡へ移っていった相馬一族。南北朝時代は北朝=足利氏に属して南朝の北畠氏と合戦している。室町時代は行方郡内の領主として勢力をもち、奥州の群雄の一家に成長した。室町後期には伊達氏と交戦して互角の戦いを見せる

諸国に景政の後裔のだんだんに現れてきたことである
その中にめぼしきものは上州白井の長尾氏、これは系図にも景政景政の後と書いて熱心に御霊を祀っていた、信州南安曇の温(ゆたか)村にはその一派が居住し,後に越後に移って謙信を出したのである
奥州二本松領の多田野村に於いても御霊を祀ったのも長尾氏である、只野油井などの苗字に分かれて今も地方に栄えている
子孫五流ありという説なども彼らから出たのである
長州藩の名家香川氏もまた景政の後といい、その郷里安曇の沼田郡八木村く景政社があった

柳田国男全集5巻

師常の子孫は代々相馬氏を名乗り、相馬御厨を中心に発展していくこととなる。師常の子六郎常家は「矢木」を称し

鎌倉景政(景正とも)は桓武平氏の一族。相模南部の鎌倉郡一帯を治めていました。源頼朝から遡ること3代、武神と崇められる源義家に仕え、鎌倉武士の鑑とされる程勇敢な武士でした。鎌倉権五郎景政は鎌倉氏を最も興隆させた勇士として知られ、現在も鎌倉氏坂ノ下の御霊神社に祀られています

 16歳の頃、源義家の陣営に連なって後三年の役(1083年 - 1087年)に従軍した景政が、片目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている
 
只野氏は安積から出たというとき安積は郡山で古代に関係して古い、それで万葉集の歌にも残された、采女が饗応した歌が残っている
でも地名に安積山の安積は何なのか?これがわかりにくい、国造りのあしゃくから出ているという言うがそれもピンと来ない、それは地名を漢字にしたのは当て字だからである
そのために漢字からイメージするようになったから誤解が生まれた
安積を安曇ともしている人もいる、すると安曇族の後裔として安積氏があったのか
安積親王がいるということは安曇氏系統の人が安積親王になったのかとなる
私は南相馬市に特に原町区異常に綿津見神社が多いことを指摘した
山津見神社は松川浦の和田が綿津見でありそこに接して山津見という地名があり
松川浦から霊山の方に上ってゆき坂をおりると犬飼という地名のバス停がある
この犬飼は安曇氏の後裔なのである、あとは八木氏がそうである

祖父:文武天皇(母方の祖父は県犬養唐)
父:聖武天皇
母:県犬養広刀自

安積親王祖父に当たる文武天皇がをり母方の祖父は県犬養唐となっている
この名前が不思議なのである、犬養は犬飼でありこれは安曇氏の後裔なのである
また唐となっているときこれは中国の唐なのか朝鮮半島の唐なのか、普通は早い時期になると朝鮮半島が唐になっていた、加羅、とか韓なのである
鹿島区の唐神という地名はそうである、これは韓なのである、中国の唐ではないのであるただ只野という姓が安積から出たという時、安積は多田野村より古いからである
南北朝時代に多田野(只野)村があったとして万葉集に歌われたのは古代であり古いのである、それで安積から只野氏が出たというときそこが古いからだとなる

安積というのは安積親王時代から存在したのだから古い、奈良時代にさかのぼるからである、その安積の由来が安曇(あづみ)となれば安曇は海人族で有名であり古事記にもでてくる日本の国家形成で下支えした氏族なのである
そして地名をさかのぼると古代になるのが多い、だから安積山とか采女という地名は奈良時代になさかのぼるのである
ただ福島県の南相馬市の鹿島区だと浮田国造があったがその時はすでに浮田という地名があり国造(クニノミヤッコ)が中央から奈良から派遣されていたとなる
真野という地名も移動地名であるから安積も移動地名なのかとなる
真野の草原(かやはら)の歌がありまた安積の歌も有名である
なぜなら紫香楽宮で木簡として発見されたからである

安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに

安積を浅きにかけたのか、葛城王を橘諸兄を饗応するのに采女が歌ったとされる
私の心は浅い心であなたを思っていませんよとかこの歌は歌を作りなれた人の作である
これは簡単には作れない歌である、つまり采女としても教養がある女性である
まず花魁(おいらん)とかでも教養があり歌を作ったとすればそれとも似ている
とてもこんなしゃれた歌を作れるとなると相当に教養を積んだ女性だとなるからだ
そういう女性が地元にいたということでもないかもしれない、これは何か儀礼的な歌としてもてはやされていた、だから手習いの歌として学んでいたのである

只野氏というのが多田野村から出たことは確かである、それで霊山で南北朝の争そいがあり落ち延びてきた、その中心人物が鹿島区の只野氏である
ただこの只野氏にも二つの系統があるという、相馬氏系統にも只野氏があるという
これもわかりにくくなる、平景政ー鎌倉景政にも系譜をたどるとたどりつく


諸国に景政の後裔のだんだんに現れてきたことである
その中にめぼしきものは上州白井の長尾氏、これは系図にも景政景政の後と書いて熱心に御霊を祀っていた、信州南安曇の温(ゆたか)村にはその一派が居住し,後に越後に移って謙信を出したのである
奥州二本松領の多田野村に於いても御霊を祀ったのも長尾氏である、只野油井などの苗字に分かれて今も地方に栄えている
子孫五流ありという説なども彼らから出たのである
長州藩の名家香川氏もまた景政の後といい、その郷里安曇の沼田郡八木村く景政社があった

柳田国男全集5巻)


ここに信州南北朝安曇のとありまた安曇の沼田郡八木村に景政神社がある
八木とは安曇氏の後継の八木氏なのである、飯館村には八木沢峠を越える、これも八木氏が地名化したのである、だからこれらの一連の引用からなぜか安曇族関係が色濃く出ているのが不思議だとなる、安曇氏は安曇だけではないその後裔の八木氏とか犬飼(犬養)を注目しないといけない、その氏族が地名化しているからである

同級生の只野氏が言うには南北朝争いがあり相馬氏が北朝側についたので隠れるようにして暮らしていたという、それは伝えられた話しだが南朝側だとすると相馬氏が北朝についたからそうなるのは当然だとなる
でも野馬追いの旗には菊の御紋を旗印としているのが出ているそれは菊池氏だとなる
菊池という姓は菊の御紋から生まれたのかともなる
その旗印は二騎ほど野馬追で鹿島から出陣したのを見ている
また鹿島街内でもその旗印を野馬追いに立つのを見ている

何でも只野氏の戸籍をたどると天保までたどれるという、天保というと江戸時代でも明治まで人は生きている、天保生まれて明治維新で活躍した人はいる、だから天保生れというとき明治も生きた人達だとなる
私の父親は葛尾村生れであり戸籍をたどると江戸時代までたどれる、でも姓はなく名前だけしか書かれていなかった
そして只野氏の墓は街中の陽山寺にありその墓に確かに安永と記されているという
安政だと鹿島神社のとなりの墓地に仏教関係の石碑がある
安永は天明の前だから古い、墓だとなかなかそれだけ古いものはない、墓ではなく碑としてはある

そして士族とは戸籍になっていないという、相馬氏に仕えて侍になったら士族になっている、只野氏は中心的家でも相馬氏に仕えないから平民となっていたのか?
南北朝の争いで肩身の狭い思いをしたということは本当だろう
北朝が相馬氏になっていたからである、でもこれも複雑であり相馬氏でも南朝に味方した人もいたとか南北朝の争そいは日本全国に村々にも及び伝説が残されている
それが南北朝でも完全に分かれて争ったというものでもなく入り交じり複雑だったのである、ただこの南北朝の争そいの傷痕はあとあとまで尾を引いたのである
それで明治天皇は南朝だったということを言うのもそのためである
今の天皇は南朝系統だったとなるのである

いづれにしろ直接人から歴史を語られ聞くと歴史も生々しいものになる
何かそして推理小説だと祖先の祟りだとかなることもある、それも問題だか生々しくなると怨念を残して死んだ人もいるからそうなるのである
ともかく二年ぶりとかで会った、病気になったと思ったがそうでもなかった
郷土史となると一軒一軒の家の歴史が基本になる
それで郷土史で大事なのは古い家をまず知ること新旧を知ることが大事になる
なぜなら古いと思っても新しい場合がある、例えば元の栃窪村の上萱(うえがや)は古いとみる、でも明治時代からだから古いともなるが江戸時代のものではない
江戸時代からつづいている家だと古いし墓でも江戸時代のものがあれば古いと見るのである、でも不便な場所に部落があってもそこが戦後の引揚者の部落だったりする
飯館村の木戸木など山に塞がれた不便な場所だがそこは新しいのである

2022年05月31日

安曇氏が鉄生産にかかわり日本列島開拓した先駆者 (南相馬市に多い綿津見神社と安曇族の跡をたどるー原日本考ー福士幸次郎より)


安曇氏が鉄生産にかかわり日本列島開拓した先駆者

(南相馬市に多い綿津見神社と安曇族の跡をたどるー原日本考ー福士幸次郎より)

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農業を後代において大いに拓いた地域はことごとく鉄の生産地であった
これは鉄というものを知らぬ先住民族の居住地に対して、侵入して行った
我が民族の地歩の実に強みがあった点であり
またこの日本列島といふところはほとんどいたるところ海岸の河口地、潟、沼など砂鉄層が堆積しているといってよいぼどで、鉄を求めて東へ東へと移動移住した

日本の文明は海岸から開けた、そして次に山地に入った
我が姓氏で最も最初に現れ、日向海岸に濃厚な所縁を持つ安曇族である
全国海岸に足跡を残し,後に山地深くまでも入った形跡を示す


コロは生鉄、純鉄を意味する

天照大御神の後裔

タケミコロ(建彌己呂命) - 津島縣直の祖[注釈 4]
タケオシコリ(武忍凝命) - 多氏の祖
イツコリ(伊都許利命) - 印波国造の祖
タケコロサカ(建許呂坂命) - 石城国造の祖
アケコロ(安居許呂命) - 伊賀須知稲置の祖
オシコリミ(忍凝見命) - 筑波国造の祖
クシヌコリ(櫛努古理命) - 三上氏の祖
ヒコソノコリ(比古曽乃凝命) - 針間国賀毛郡山氏の祖
イコロト(伊己侶止命) - 伊甚国造の祖
タケコロ(建許呂命) - 東国造の祖
オトコリミ(弟凝見命) - 桑名氏の祖
タケコリヒトノキミ(武凝人乃君) - 阿蘇国造の祖
ウラコリ(浦凝別命) - 苑県主(吉備氏)の祖
イワコリワケ(伊波己里和氣) - 三尾氏の祖
オシコロミ(押許呂見命) - 山守部氏の祖
タケクニコリワケ(武国凝別皇子) - 伊予三村別の祖
ウタコリヒメ(歌凝比売命) - 丹波道主命の娘

鹿島の郡は古くは香島とも書き、ここの大神と並んで「香取」のそれと同じである
おそらく古くは前者はガシマ,後者はカガトリ、すなわち「金のある島」「金を掘る所」と言ったものだろう、カガは鉄を意味する

民族的特技として注目すべきものは航海と製鉄であった
この航海の習熟があればこそ我らの祖先は、その始め海岸から海岸へと移住地点を転出して奥部地帯の侵入や経営を行う前に、日本列島の先まで進出したのである

クロクワは原初の農耕時代の特徴を残す自然地域において、その先頭に立つ耕地開墾の専業者である、特にその耕地はほとんど山地において着手されるのだから土中の石や岩を処置することがまず主要な仕事である
クロクワの仕事は石を相手の仕事が先でありツルハシのごとく先のとがった土に打ち込む道具、石や岩を割るものとして楔(くさび)などが大事である
くさびのサビは鉄を意味する

さびる⇒さびしいとなる、それは錆びるからきた鉄生産の用語からきたものである
その語源は鉄製かんにかかわっている

高良神社の祭神五姓とは丹波、物部 安曇部、草部、百済という

この草部というのはかや部であり真野の草原に通じている、草は伽耶国に由来しているからである、またカヤは何らか鉄生産と関係している言葉なのである
つまり真野の草原(かやはら)とは鉄がとれる場所として奈良の大和王権から認識された場所であり宮城県の涌谷は黄金のとれる場所として奈良の都から認識された場所なのである

物部 安曇部、草(かや)部

これは九州のことであるがこれが不思議にこの辺と関係している
なぜなら桜井古墳は物部と関係して安曇となるととにかく綿津見神社が原町区には本当に多すぎるからである、20もあるとしたら本当に多い、この三つの部は明らかにこの辺にもあてはまるのである
ただ百済は違うとしても伽耶国とか唐(から)は関係している、唐は中国のことではなく韓国の韓(から)である

九州が出雲より古く出雲をあけ渡す前に、おそらく安曇部族が入っていた
その験しとして安曇族の信仰や伝来物が包囲した形跡がある

阿部氏(安倍)はアヅミのなまったものである

福島県の吾妻山とか安積(あさか)とかも安曇(あづみ)のなまったものだという


なぜこれほど鉄生産が重要なものとして歴史に記されたのか、第一地名にしても鉄の生産にか関するのが膨大なのである、これは何を意味しているのか?
それは日本全国を鉄を求めてきた鉄生産の技術者がいてそこで鉄が発見されると地名となった、そこに鉄があるということで地名化した、鉄はそれだけ貴重なものだからである

そして鉄と稲作は不可分に結びついていた、なぜならます稲作は山地で行われていた
そこは平ではないし石垣を作る、その石はその山地から掘り出したものである
それをするには鉄の道具が不可欠だった、それがクロクワとかなる
それまで石器であった、事実石器で稲刈りもしていた、でも石器となると鉄の道具のようにはならない、相当にその差がある
だから鉄がこれほどに尊ばれたのである、鉄の道具なしでは稲作もあり得なかったのである、田んぼでもそれは最初土木作業になる、すると道具が必要になり鉄が必要になった
だから稲荷とは鋳成りなのである、鉄の道具を祭っていたのである

そして日本列島が最初に開墾したのは海人族の安曇氏であり海岸沿いに航海して海岸から山地に入っていた、それが明確にわかるのは松川浦に山津見と和田という地名がある
和田は綿津見のことである、つまりここから山地に入って行った
川を伝い道として上って行った、事実宇多川をさかのぼり玉野村から平坦な地帯になると八木原という地名があり霊山を越えると犬飼(養)という地名がありそれは安曇族の後継者であり綿津見神を奉じる安曇族なのである

また真野川をさかのぼり飯館村へ向かった、栃窪にも山津見神社があるからだ
原町となると海岸からさかのぼり高倉にも綿津見神社があり大原にも綿津見神社神社があった、そして八木沢峠の八木沢とは安曇氏の後継者の八木氏の姓なのである
だから原町区の海岸から真野川の海岸から松川浦から安曇氏の同族の八木氏が入ってきたのである、それがさらに霊山を越えて石戸村に至りそして福島市の吾妻山にいたり安曇(あづみ)がなまった吾妻(あづま)山になったのかとなる、この辺は定かでないにしろ
これだけ安曇氏の同族の八木氏の跡が地名化して残っている
犬飼氏も安曇氏の同族である

これは明確にその跡が記されている、何か推理ドラマにすると確実な証拠なのである
山に入ると山津見神社になる、これは綿津見神社と一体なのである
海人族でも山で暮らす術をもっていた、焼畑であれ稲作であれもっていた
だから山でも暮らすことができたのである、その大きな要因が鉄を生産して鉄の道具を作れたことによっていたのである
鉄というのが文明を作ったとまでなる、なぜならタタールとチムールとかでも鉄から由来しているとかあり野郎自大国と漢が戦って野郎自大国が負けたのは漢が鉄の武器で戦い野郎自大国が銅の武器で戦い負けたからである、武器の優劣で勝負を決した
信長が銃を使い武田氏の騎馬軍団を破ったのと似ている




石川に飛鳥川が合流する三角州の所が厚味というのです

天平神護元年(765)に古市郡の人、馬の夷人が厚味連の姓を賜っている
この厚味に居住していたのではないか

真野臣は姓録に神功皇后に従って渡った将軍が韓国にとどまって国王の娘をめとって子を産み、その子の子孫が真野氏を称した
真野造は百済王の後とあるから間違いなく渡来系だと思います
(日本の渡来文化ー司馬遼太郎などの対話)

厚味という地名は明らかに安曇氏のことである、安曇氏が居住してその地名化した
つまり奈良でも安曇氏が海から入ってきていたのである
地名化することはそれごけ古いということである

安曇氏に関する地名は相当に多い、でもそれが全部解読されたわけではない、知らないままにもなっている
特に安曇氏の同族で後継者となると八木氏とか犬飼(犬養)がいる、それも相馬市と伊達氏の霊山町の石戸とかで地名化している
ただ吾妻山があづみのなまったものなのか?あづま⇒あづみとなるからそうかもしれない、となると海から福島市の方に安曇氏やその同族や後継者が入っていたとなる


2022年05月16日

南相馬市の原町区に綿津見神社が多いのはなぜか? (千葉県からの移住があり安曇氏と蘇我氏は一体だった)


南相馬市の原町区に綿津見神社が多いのはなぜか?

(千葉県からの移住があり安曇氏と蘇我氏は一体だった)

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那珂と言う福岡県福岡市あたりの地名が目に入る。実は、蘇我蝦夷、入鹿親子を殺した乙巳の変(645年)までは、北九州あたりを本拠地とした蘇我氏ゆかりの人々(海人族安曇氏)が入植して開拓していたのである。近くの千葉市中央区の蘇我は正に蘇我氏ゆかりの土地であった

蘇我氏の祖先の武内宿禰の一族の海人族安曇氏は日本列島全体で水田開発、交易を行っていた(参考)

弥生時代初期あたりから、海人族安曇氏は九州地方から東北地方まで稲作の水田開発、物産の交易などの活動を行っていた。東日本では、在来系弥生人、すなわち縄文人が海人族安曇氏の最新知識による水稲と条里制地割の水田を導入したと考えられる。これにより、海幸と山幸の交換が可能になった。さらに、塩の生産・流通も海人族安曇氏が管理したようだ。

東国の開拓は百済人などの渡来人の前に既に海人族安曇氏が行っていた!
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12277257480.html


甘楽郡・多胡郡・緑野郡・群馬郡・新田郡など上野国一字物マ子成」という文字瓦がある。物部氏の分布は、のちと刻まれた紡錘車が出土し、前橋市上野国分寺跡にも「山
字資料であるが、高崎市矢田遺跡では、 「物部郷長」 「物部」手を伸ばしていく。八世紀以降の年代が充てられる出土文、こうした混乱の過程で、王権の実力者・物部氏が毛野へ触手を伸ばした、

物部氏は、五世紀後半に台頭し、大王の道の広範囲に分布す任務に就いた豪族で、のちの令制国・五十二ヶ国、五畿七側近として仕え、軍事・警察と在来の神々の祭祀に関わる


この結末は、 「使主―王権」大きくそがれよって、南武蔵まで力を及ぼしていた上毛野一族の勢力はの四ヶ所とともに毛野にも緑野屯倉を設ける。このことにが勝利し、使主は国造に就任、王権は南武蔵の多摩川流域

躍進を支えた軍事力に必要な鉄などの資源を東北に求だのである。物部氏は、上毛野氏からの情報をもとにしつ沿いに、奥深くまで踏み込み、北上川中上流域にまで及んだ

教の祭祀権を握った蘇我氏は、物部氏にも増飾金具・鈴などの金製品が見つかってい
是歳条) 。そして、飛鳥寺の塔心礎から玉類・耳飾・延板・本格的に建設に着手する( 『日本書紀』崇峻元年(五八八)
立を発願する。 翌年には、 百済から僧 ・ 技術者などを招聘し、馬子は、用明二年(五八七) 、法興寺(飛鳥寺)の建して、より一層、東北の資源や特産物を欲したと考えられる

蘇我氏と七世紀前半の東北経営ー新井隆一
https://core.ac.uk/download/pdf/233058675.pdf



相馬地方の古代史の謎は南相馬市の原町区に大きな桜井古墳があり原町区に異常に綿津見神社が多いことである、またそれと対となった山津見神社が多く飯館村では綿津見神社と山津見神社が対となってあり山津見神社は有名である
その謎を時系列で見ると最初は毛野氏が勢力をもっていた、それは武蔵国でも毛野氏が勢力をもっていたが物部氏と争い衰退した、次に蘇我氏と一体化した安曇氏一族が進出したそれは海人族である、順序としてそうなる
桜井古墳は物部氏が作ったのかとなる、なぜなら安曇氏が進出するより古い、四世紀とかなると相当に古いのである
そして中央で物部氏と蘇我氏が宗教争いがあった、物部氏は神道派であり蘇我氏は仏教派である、勝利したのは蘇我氏の仏教派になる
ただ安曇氏の綿津見神社とかは仏教ではない、神道なのかとなる
それは安曇氏の祖先の神であり蘇我氏と一体化して安曇氏一族が原町区を支配した
物部氏は衰退して安曇氏の綿津見神社と山津見神社がこれほど多く建てられたのである

時系列では毛野氏⇒物部氏⇒蘇我氏(安曇氏)⇒大伴氏となる

毛野氏は南相馬市の鹿島区の浮田国造となっていた、それが物部氏に代わり次に蘇我氏が安曇氏と一体となり進出した、でも浮田国造のある鹿島区には進出できなかった
さらに後に大和王権が確立すると鹿島区に大伴氏などが進出して前方後円墳を作り金銅双魚佩を残した、また寺内に多数の円墳などを作ったのである
蘇我氏というと東北でなじみがないが跡は残している

曰理郡の宗何部(そがべ)池守ら3人には湯坐曰理連

いづれにしろ毛野氏も物部氏も一時は勢力があったが衰退した、蘇我氏と安曇氏が興隆して多くの綿津見神社を残した、仏教遺跡も蘇我氏がかかわって残された
今の東北電力が建つ前に大規模な製鉄遺跡の発掘があった
その時の説明で武器より仏教の道具類が多かったという、それは蘇我氏がかかわって仏教が伝播されたからだともなる
またと蘇我氏自体が渡来人だとされて渡来人と一体となり仏教を伝えた
唐神という鹿島区の地名は韓(から)の神であり仏教のことである
また奈良の大仏殿の大仏の鍍金のために大量の黄金が必要とされて宮城県の涌谷で黄金がとれたので進出してきたのである

天皇(すめろぎ)の 御代栄えむと 東なる
       みちのく山に 黄金(くがね)花咲く 大伴家持
       
とにかくこの辺の最大の謎は桜井古墳は誰が建造したのか?そこに眠っている棺があり二人のものだというのも謎である
そして原町区に異常に綿津見神社が多いのである、最近では大原にも綿津見神社があったそれだけ多いのである、でも鹿島区となると見かけないのである
小高にも綿津見神社が海岸にあった、それは津波にも残っていた不思議があった
海岸でも高い所にあったからだ
歴史は時系列で見るのがむずかしい、まるで地層のように時々の権勢をふるった一族であれ交代している、物部氏はわかっていたが蘇我氏も関係していてそれが安曇族と一体となっていた、そして物部氏と蘇我氏は神道派であり仏教派と渡来系と一体化していた
桜井古墳は四世紀とか古いとなると物部氏系統が作ったものでありその後に蘇我氏と一体化した安曇氏が進出して多数の綿津見神社や山津見神社を残したとなる
安曇氏一族に後に八木氏とか犬飼(養護)がいて八木沢峠で地名化して霊山を越えた石戸村にその地名がある、飯館村などの佐須では佐須は焼畑地名であり安曇氏がその技術を伝えたとなる




インタ−ネットでは古代史では相当詳しいものが出ている、すると素人でも参考にできるから専門家にもなれる、まず図書館では調べるのもめんどうであるしできない
キーワードで検索できないからである、だから私はここ十年くらい図書館には行っていないのである、調べること自体めんどうでありその時間がなくなったのである
家事からあらゆることを一人でしているからできなくなったのである
でも家にいながらにしてインタ−ネットだとこのように調べることができるのである


2022年02月20日

真野の草原は大和王権の蝦夷征服の前進基地 (日本府任那と似ていた―毛野氏ー安曇氏ー物部氏ー大伴氏がかかわる)


真野の草原は大和王権の蝦夷征服の前進基地

(日本府任那と似ていた―毛野氏ー安曇氏ー物部氏ー大伴氏がかかわる)

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陸奥 (みちのく) の 真野 (まの) の 草原 (かやはら) 遠けども面影にして見ゆといふものを 笠女郎

真野の草原という時、草原が萱原であり萱がなびいている荒寥とした辺境の地として解釈されてイメージされてきた
でも実際はそんな地域とは裏腹の地域だった、それは伽耶国があった日本府任那と類似していた、なぜそう思ったかというと伽耶国はそもそも日本の国だったから日本府が置かれていたのである、そこは鉄資源が豊富であり日本が必要としたからである
第一萱がなびいているだけの何もない所に国家単位では魅力が感じない
詩的なイメージとして国家単位ではみない、実用的なものとして国家でなくても普通は見る、だから地名は詩的なものとして命名されていない、その土地に欠かせない実用的なものとして名付けられる、だから方角地名が多いのはそのためである
南相馬市などでもそうである、相馬六万石の城がある所を中心にして南だということで名付けられた、そういう名付け方が多いのである、地名は無味乾燥なのが多いのである

天皇(すめろき)の 御代栄(さか)えむと 東(あづま)なる 
陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲く
大伴家持

これも黄金がとれるということで中央の大和王権から注目された、それはアフガニスタンとかでも何もないようでも中国でも外国からみると鉱物資源があることで注目されているのと同じである、単なる草(かや)が茂っている場所など注目されないのである
鉄がとれる、黄金がとれる、石油がとれる、ガスがとれるとかで注目されるのである

だから真野の草原を萱原としたのは歴史を見れば実用的観点からすれば全然違ったものとなっている、ただこれが笠女郎の大伴家持を慕う恋の歌としたことで誤解が生じたのである、確かにそれはあったにしろその背景が古代史全体に韓半島の伽耶国まで関係していたのである
伽耶国は日本の一部であり最近前方後円墳が伽耶国内から十数個発見されたことでも裏付けができたのである、前方後円墳は極めて日本的なものであり韓国にはありえないものだったからである、円墳は大量にあっても前方後円墳は全くない国だったのである

そしてこの真野郷がなぜ日本府任那と似ているのか?
それが「任那から読み解く古代史―大平祐」読んでわかった
この題名は陸奥真野郷から読み解く古代史と題を変えても同じようなものになっていた
それでいかに伽耶国(かや)が日本建国に深くかかわった地域だったかもわかる
そして古代では最初に入植者でも入るから地名化しやすいのである
それで伽耶国の地名がここにも移っていたのである
草原(かやはら)の草は萱ではない、伽耶国とかの国名なのである、原とははらっぱのことではない、国のことである、何もない所ではない、国としてあった場所である
だから多多羅原とかあり多多の国であり多々良とは多田羅とは鉄生産の場だったとなる
そして安達太良とあるとき伽耶国内に安多(あた)という地名があり太良は多々良でありやはり鉄生産と関係していたともなる
つまり伽耶国内にある地名が移っていることはそこに住んでいた人達が移住してきたとなる、そうでなければ地名化しないだろう

九州の「〜原(ばる・はる)」地名は、古代の三韓で「城、集落」を表した「伐(Pur,Por)」と同語源ではないか
https://www.shochian.com/harubaru2.htm

駒原とかはコマとつけばそこに高麗の人が住みついた地域であり栗原だったら高句麗の
句麗(くり)だとなる、この高麗系に原が付くのが多い、伽耶系の人から高句麗の高麗系の人が移住してきたのである

草原はかやはらはやはり伽耶に由来してそうした村とか国とか城があるとか館があるとかの意味となる、だからただ荒寥と萱が茂っているとは正反対でありむしろ人々が集落を形成してむしろ繁華な場所だったともなる
笠女郎はただ遠い所としての真野を言っていたのでありそこがどういう場所が明らかではない、面影にして見ゆというものというのはあくまでも大伴家持のことをさしている
ここが本当に誤解しやすかったのである

●任那での近江毛野氏ー安曇氏の活躍

新羅が遣使して調を進った(たてまつった)、あわせて多多羅、須奈羅、和陀、発鬼(はちき)の四つの邑の調をたて進った

この四つの邑とは継体天皇二三年、新羅が占領した金官、背、安多、委陀(わだ)を意味する、この全体を南加羅の分として調を進っつた

ここに和陀、委陀(わだ)は綿津見の和田なのである、なぜ綿津見の邑があったのか
それは海人族の安曇族の邑だったとなる
安曇氏は日本府任那で船を操作して運ぶ役割をしていた
その技術を買われて重宝された
そして毛野系統の国造が南相馬市の鹿島区の浮田に置かれた、なぜ毛野なのかわかりにくいが海の方より山の方が縄文時代として早い時期に住みついたとなる
なぜなら飯館村も古く縄文中期の遺跡が発見されているからである
それは海側より古いのである、
そこで福島県となる会津が一番古い地域となっていて大塚山古墳から三角神獣鏡が発見された、それは東北ではここからしか発見されていないのである
それは吉備から発見されたものと同はんとされている、同じものだとなる
太平洋側は大和王権でも進出するのがかえって遅かったのである
ただ縄文人は海側でも貝とか魚をとって暮らしていたのである

また任那の安羅と耕地の境界をめぐって争いがあったことから洛東江流域の東方で新羅領と任那領の中間に位置した国、卓淳国がありそこに369年に荒田別、鹿我別を将軍として百済の死者とともに卓淳国に集まり新羅を撃破した

浮田国造は毛野氏の鹿我別が治めたとしている、なじみがないが毛野氏は大きな勢力であり日本府任那にかかわっていた、でもその政争で失敗したとしている
こうして日本府任那とこの陸奥真野郷が似ている
なぜなら綿津見神社がやたら多く安曇氏系統の八木氏が地名化している
八木国造というのもある、物部氏も任那でかかわり原町にある桜井古墳とも関係していたらしい、ただ物部系の神社はない、その理由が何なのかわからない
そもそも安曇系の綿津見神社がこれほど多いということが何なのか、それが問題なのである

地名の移動にしても真野は近江からの移動かもしれない、近江毛野臣ともあるからだ
そのことは鉄の生産のことで書いた、また真野郷の地名として唐神とかありこれは加羅の国のことであり神とは仏のことである
その他ツノガアラシトとは伽耶の加羅の王子でありつのみやとか角部とかツノのつくのはそれが地名化したのである、相馬氏の松川浦のツノミツ神社もそうである
鉄を求めてこの一団は石巻の北上川を上り登米までその跡をとどめている
石巻は和邇山とかあり真野の萱原という地名もある、だからここが陸奥の真野の説があるでも距離的に遠すぎるとういことで否定される、みちのく真野が相馬地域の歴史を知ればここがやはり桜井古墳がありまた真野地域に古墳が多い、それから寺内の前方円墳から金銅双魚佩が発見されたのも大和王権がこの地を支配してそれを賜ったこの地の有力者がいたということである、それは大伴系だともなる
そして笠女郎というときこの笠は韓国の加佐地名から来ていて笠とは何の関係もない

埼玉県行田市の稲荷山古墳から発見された鉄剣の銘文に

「其の児、名はカサヒヨ[3](カサハラ[4])。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人[5]の首と為り、奉事し来り今に至る。

このカサなのである、カサという苗字も韓国由来であり韓国にある地名である
そして伽耶郷と安曇郷があるのも興味深い、こうして何か日本府任那と真野の草原が類似しているのである、蝦夷の辺境として奈良の都の人達に認識された
そして多賀城に向かう前進基地となったのがこの辺である、ただここでは武力で制圧するということはなかったのかもしれないが桜田山に第六天の祠があり鹿島神社があるから
やはり大和王権に逆らう蝦夷がいて反乱があったともなる
鹿島神社とは大和王権に組み入れられた場所に建てられた軍神でもあったからだ

●伽耶地域に和陀(和田)の邑あり

綿津見のワダというのも伽耶国内にありそこに綿津見神社を祭る安曇族などが関係していたのかとなる、任那では近江毛野氏が指揮をとり軍事を司っていた
そして真野郷の前進は「浮田国造」でありこれが鹿我別とか荒田別となっていてその人たちも任那にかかわっていたのである
安曇の連(むらじ)もかかわっていた、また物部氏もかかわっていた
そしてなぜ原町地区に綿津見神社が異常に多いのか?
最近大原にも綿津見神社があったことを発展した、こんな所にもあったのかと驚いた
でもそれでわかることはこの道を飯館村に行くと八木沢峠がありこの八木沢が安曇族の一族の系統に連なる八木氏のことだったのである
それは相馬市の松川浦に和田と山津見神社が祭られている、そこから上陸して宇多川をさかのぼり途中に八木原とあるのもそうである、そして霊山町に出ると犬飼(犬養)がありこれも安曇族の系統なのである

『新撰姓氏録』には後裔として右京神別の安曇宿禰と河内国神別の安曇連が記録されている。支族としては阿曇犬養(犬飼い連、辛犬甘氏、凡海宿禰、海犬養氏等が伝わる
最初に縄文人がいたとしてもこの地域を拓いたのは安曇族系であったとなる
そして物部系もかかわったがその跡は明確ではない、物部神社などないからである
物部吉名という人がいて小高に吉名郷があるから物部氏がかかわったことは確かである
そこで桜井古墳がなぜあるのか、あれだけ大きな古墳が原町にあるのか?
それはなぜ原町区に綿津見神社が多いのかということにつながる
その古墳を作った人たちは安曇系の入植者であり物部氏もかかわったとかなる
それしか考えられないともなる
なぜなら大和王権が入ってきたのはこの安曇系入植者の後である
それで桜井古墳のある原町区にはやたら綿津見神社が多い

でも真野郷の鹿島区にはない!

山津見神社が栃窪村にあるが綿津見神社が見かけないのである
それはここが毛野氏の支配地域であり原町区の綿津見神を祭る安曇氏とは別な領域であった、最初に原町区に安曇系が入ってきた、そして土着した
そこで桜井古墳を作ったとなる
その後に真野郷を大和王権が支配した、それは大伴系でありその大伴一族として大伴家持がいて笠女郎が真野の草原の歌を残したとなる、
ただこれらは古代史の正史として記録されていない、ただ神社がそれを記録している
なぜこんなに綿津見神社があるのかそれが解き明かされていない、資料も伝説すら残っていないのが不思議なのである
それは大和王権が政権をとりそうした歴史が消されたためだともなる
伽耶国派滅亡してその跡がわからなくなりわずかな地名とかからしか探る手立てがなくなった、ただ綿津見神社神社がこれだけ多いのだからその謂れを語られてもいいが伝えられていないのである、ただ綿津見神社がいたるところにある
だからそれが語られないということが謎なのである

●海人の安曇氏の日本列島の分布

『新撰姓氏録』には後裔として右京神別の安曇宿禰と河内国神別の安曇連が記録されている。支族としては阿曇犬養連、辛犬甘氏、凡海宿禰、海犬養氏等が伝わる。

安曇磯良は志賀島大明神と呼ばれ、磯良の墓は対馬の和多津美 神社にあることからしても、志賀海神社と和多津美神社は、その創設者が同族であると考えられます。

 対馬には合計4社の和多津美神社であるだけでなく、綿津見神を祀る古社は、対馬から壱岐、志賀島にかけて島や九州の沿岸に集中して鎮座されています。つ まり朝鮮半島の狗邪韓国から北九州の末盧国、すなわち邪馬台国に至る海上航路沿いの要所周辺は「ワタツミ」というキーワードで繋がっていたのです
 https://lifeskills.amebaownd.com/posts/11211578
 
 新羅出征に際し神功皇后は「阿曇連磯良丸命に舟師を率いさせて出征した。九月には諸国に令した船が集
まったので、磯鹿海人(しかあま)名草を水先案内人として壱岐経由して、十月三日、対馬
の和珥津(わにつ)を出港して新羅の南岸へ迫ったとされている」

十二通門
平城宮・平安宮内裏の周囲に12の門がある。その一つに海犬養門がある。蘇我入鹿誅伐に参
加した氏族の功を永久に記念するために門号に氏族名をつけたという説(井上薫氏)がある。

662 年(天智元年)
5 月 「大将軍(おほきいくさのきみ)大錦中阿曇連比邏夫連等、船師(ふないくさ)一百七
十艘を率て、豊璋等を百済国に送りて、宣勅(みことのり)して、豊璋等を以て其の位
を継がしむ。」(すでに前年に送って行ったはず?)
http://azuminorekishi.sakura.ne.jp/siryou.pdf


環太平洋文明圏縄文王国(安曇氏)→後期縄文王国(和田橘氏)→弥生時代
(海部氏・徐福系物部氏、邪馬台国)→大和朝廷(応神以降、秦氏)

<縄文海人(あま)と弥生海人>
http://g-village.net/iyasaka369/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%B5%B7%E4%BA%BA%E3%81%A8%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%B5%B7%E4%BA%BA.pdf

環太平洋文明圏縄文王国(安曇氏)→後期縄文王国(和田橘氏)

こういう大きなスケールで海人族が安曇族などが日本列島に分布した
縄文王国とは安曇氏のことだともある、その後に物部氏が日本列島の支配者となった
そうなるとこの辺では安曇氏系統が最初の始祖ともなる
次に物部氏となった、後期縄文王国が和田橘氏というとき和田とは綿津見神社から来ている、つまり日本列島に海人族の安曇氏が拡散して大きな力をもったとなる
ただその後に物部氏が支配して次に大和王権が支配するようになった
その主役となるのが大伴氏だった、その日本の国家形成が相馬地域の東北の蝦夷の辺境にもありそれを物語っているのが綿津見神社が異常に多いことなのである
ただこれは正史に記されないし伝承としても何か残っていないのでなぜなのだろうとなるつまり安曇氏とか物部氏は大和王権が成立するとその記録も消されたとなる
でも神社とか地名とかは残されたのである
地名を考えるとなかなか消されるものではない、地名が古代から古いものでもその地に石のように残っているからだ、地名は一旦決められると変えにくいのである

●春に洛東江を下る

春日さす洛東江を沿い下る
滔々と流れる大河
大地を潤し米麦の豊に実る
金官伽耶は鉄の国
豊富な鉄資源に恵まれて
日本府任那のここに置かれぬ
ここに興亡あり北に高句麗
新羅ありて伽耶諸国を脅かす
しかし今春の日は穏やかに
河は人の争いを知らず
悠々と流れて海にいでるも
そのかなたに日本のありしも
かくて対岸に伽耶山の歌われぬ
ここに栄えし国をし思ふ
大和と一つとなりし国なり
陸奥の真野にもその跡残しぬ
同じく鉄を求めて来たれり
かくて大和王権の知らしめる地となる
辺境にあれど奈良にその地の歌われる
真野の草原は憧れの地ともなりぬ

草枕旅を苦しみ恋ひ居れば可也の山辺にさ男鹿鳴くも

洛東江は大きな河である、韓国でも河は大陸の一部だから大きいのである
そして伽耶とか南になると照葉樹林帯になりあたたかいのである
韓国は北朝鮮になると寒い、日本より寒い国である、だからオンドルが作られた
これは日本でも作られた、その跡が発見されたが根付かなかった
つまり日本では西の方近江から西だとあたたかいから根付かなかったとなる
オンドルは下からあたためるから体全体があたたまる、寒い国にとって部屋全体も暖かくなるから暖房には優れている

ともかく伽耶は日本と一つであり日本の一部にもなった、だから最近前方後円墳が十数基発見されたのである、明らかに日本の支配地域になったから日本の前方後円墳が作られたとなる、必ず外国と交流すると文化がもちこまれるからである
土葬から火葬になったことなどもそうである

いづれにしろ韓半島の興亡は日本と密接に関係している、ただ日本府任那が日本がであるように日本と一体化した地域だったのである

洛東江の写真
https://onl.la/mVq85nu

2022年01月28日

南相馬市の古代史ー浮田国造(毛野氏)から大和政権へ (桜井古墳は物部ー安曇族の墓ー真野の草原は大和政権支配の確立地域)


南相馬市の古代史ー浮田国造(毛野氏)から大和政権へ

(桜井古墳は物部ー安曇族の墓ー真野の草原は大和政権支配の確立地域)

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今の福島県から北は道奥(みちのく)と言われた。そのためか、助川(茨城県日立市の宮田川か?)あたりは『道の前(みちのくの入り口の意)』と呼ばれ、陸奥国苦麻村(福島県双葉郡大熊町熊)は『道の尻』と呼ばれていた。古代、この間は常陸の多可評(たかのこおり)であった。その後それが常陸と磐城に分割されたのである

国造の支配領域は当時浮田国と呼ばれた地域、後の律令国の陸奥国宇多郡、行方郡、現在の福島県相馬市、南相馬市、相馬郡新地町、同郡飯舘村に相当する。浮田国造が設置された同時代には、北西部に伊久国造(伊具郡)、南部に染羽国造(標葉郡)が置かれた。

立地や築造時期から浮田国造の初祖・鹿我別命の墓と見る説がある

養老2年5月、陸奥国の石城郡・標葉郡・行方郡・宇太郡・曰理郡の5郡と常陸国の菊田郡を石城国、陸奥国の白河郡・石背郡・会津郡・安積郡・信夫郡の5郡を石背国とした


古代の国というとき大和政権に認められない前の国があった、何かしら人々が連帯して一つの国という意識をもっていた、その一体感があった国の上に大和政権が国造(くにのみやっこ)を送ってきた、それは官人であり中央から知られた支配が形式的にはあったとなる

問題なのは国の範囲とはどのくらいなのかということである、それは地域の広さと関係している、人口密度もあるがそもそもその土地に依拠して生活していたから土地で食料をまかなっていたのだから土地の広さが問題になる
土地の広さによって食料を供給する人を養う人数が決まるからである
その頃都とか都市とかはないからである

相馬地域では国というとき最初は南相馬市の浮田地区が中心となった浮田国造が置かれた地域である、それは新地から南相馬市の小高区と飯館村が入っていた
それは丁度相馬藩内が一つの国として意識されていたとなる、それは今に続いているとなる
その後国が郡にこおりに分割された、だから郡山市とか桑折(こおり)とか地名として各地に残る、それはもともとの国ではない、大和政権によって行政地域が分割されたのである
相馬地域だと基本的には原町区に国見山がありそこから見える範囲が国として意識されたとなる、それが新地と小高までだとなる、確かにその辺までは見えるがあとは視界からはずれるのである

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ただ謎なのはなぜ南相馬市の鹿島区の浮田が中心であったのかということである
それが謎なのは古墳からみると桜井古墳が大きくそこが中心だったとも見るからである
そこに浮田国造の鹿我別王の墓だというとき地理的に一致しないのである

歴史でも空間軸と時間軸で構成される、空間軸だと地理だと古代とか地形とかは変わらないのである、ただ歴史でむずかしいのは時間軸なのである
いつの時代なのかそれが特定しにくい、だから奇妙なのは時代を逆に見たりする
古い時代のものが新しい時代とみたりする、まず明治以降だったら明治を大正と昭和とか見ない、親が明治生まれだとか母が大正生れたとかなる、その時代を逆には見ない
でも江戸時代となると年号があるがその後先がわからなくなるのだ
だから時代的にいろいろな時代があっても後先が間違って見ることがある
いろいろなことが時代時代に起きていてもその後先が間違えるのである
明治以降はこういうことはありえないのである

だから桜井古墳が浮田国造の鹿我王の墓だというときもそうである
国造制ができてからのものだとすると毛野系のものがかかわり桜井古墳も作られたとなるそして毛野系というのもわかりにくいのである
なぜなら毛野系というとき栃木県とか群馬県とかてありなぜそうした遠くから山の方から海岸の方に勢力を伸ばしたのかとなるからだ
その理由は会津がすでに大きな国であり山側の方が勢力があり海側の方に進出した
会津が大きな国となっていたのは水が山に囲まれて良質であり米の生産に適していたからだとしている、今でも会津とか新潟の米はうまいのはそのためである
その後に大和王権が浜通りに進出してその支配下に入った

志賀島から出土した漢委奴国王の金印は安曇族の王に送られた可能性が高いようです。また我が国最古の舞踊、筑紫舞において極秘伝として最重要とされる「浮神(磯良舞、細男舞、鞨鼓舞)」のモデル、安曇磯良は正史には現れませんが、その存在は古代史において非常に重要な王であると確信しています。

記事の中で、安曇族は古代中国においては「倭人」と呼ばれた人たちだったのではないかという仮説も書きました。また徐福を日本へ連れてきた海人族かもしれないことや、いくつかの系図から徐福の血筋と関わりがあるとみえ、姻族の可能性が高いとも書きました。つまり古来より北九州を根拠地とする海洋民族がいて、大陸との交易を自在に行い、そのうちに徐福渡来と関わることで親族となっていったという見方です。古代においては航海を掌握する者こそが権力を握るともいえ、徐福は古代日本の海人族である安曇族、宗像族(出雲系)を真っ先に手中に収めたと思われます。

そして安曇磯良とは何者なのかを調べれば調べるほど、出雲伝承の伝える徐福の息子、五十猛(のちの香語山)に繋がっていきました。実際、丹後の海部氏(籠神社宮司家)と博多志賀島の志賀海神社宮司家の安曇氏は親族ということです。一方物部氏とは非常に近い存在でした。武力の物部氏と航海を司る安曇族が協力して九州を支配していたようです。海部氏も物部氏もどちらも徐福の直系です。

出雲伝承では、徐福の連れてきた海童たち(少年少女)は漁業を営む者が多く、彼らは綿津見の神(海神)を信仰していたと伝えています。彼らはやがて出雲の竜神も拝むようになり、両方の神が合体して竜宮信仰が生まれたのだといわれます。

新撰姓氏録によると、安曇氏は海神・綿積豊玉彦命の子、穂高見命の後とあります。ワタツミ信仰が海童たちのものであるなら、安曇族が九州古来の倭人であるとするのは難しいですね。3000年前から中国で倭人と呼ばれていた人々の中に、ある時期から安曇族が含まれたという見方なら可能かもしれませんが。(中国史書に記された「倭人」という存在を無視することができず、しつこく拘っています‥‥)
https://somosora.hateblo.jp/entry/2020/09/25/%E5%AE%89%E6%9B%87%E6%97%8F%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8

大和政権が全国を支配する前は物部氏が支配していてその物部氏と安曇族が一体化したようにあった、倭人とは安曇族のことだったというのもそうである
この安曇族とか物部氏は正史に記されていないからわかりにくいのである

関ヶ原の不破関以東が当時の東国で、尾張国、三河国、遠江国、駿河国と続く。尾張国、三河国、遠江国は「物部王国」として知られる

ではなぜ原町区に異常に綿津見神社が多いのか?

これが最大の謎なのである、そしてそれはいつの時代なのかもはっきりしないのである
こんなに綿津見神社が多いということはこの辺の先祖となれば安曇族系統になってしまうのである
海人族の安曇族は内陸部に山の方にも入ってきた、長野県の安曇は有名である
そこでは今でも船の祭りをしている、また安曇族は会津の方にも入っている、綿津見神社があればそうである
原町区だと飯館村の山津見神社は綿津見神社と対なすものである、だから飯館村の途中の栃窪村にも山津見神社があり松川浦には山津見という地名とか和田という地名があるがそれは綿津見のことである、それが宇多川を遡ってゆくと山津見神社が隠されるようにありそれは八木原とかは安曇族の八木氏のことである、原町から飯館村に行く八木沢峠でもそうである、霊山を越えて霊山町に入ると犬飼という地名がありこれも安曇族の後継なのである、地名化することは古代に多いのである、最初の開拓者が地名を名付けるとなるからだ

どうしても浮田国造が大和政権によって支配下に入り官人か中央から派遣される前に桜井古墳はすでに作られていたと見る
ただそれは一代か二代で終わり続かなかった、なぜなら古墳は地域に密集して小古墳も後から作られるからだ、それは浮田国造のある真野古墳群がそうである
ここでは代々人が受け継ぎ住んでいたとなるからだ
桜井古墳は一つだけが特に大きく小古墳は前の古墳一つくらいである
ということは一時的に興隆したがその後はつづかなかったとなる
それは物部氏と安曇族がここに来て土着したが一時的なものだったとなる

問題は時代的区分なのである、それは浮田国造が配置される前のことであり桜井古墳は
東海系のものだというときもそうである、東海系というとき静岡県に綿津見神社が多いのである、するとそこから移住してきた人達がいて桜井古墳を作ったとなる
でもそれは一時的なものとして終わった
でも飯館村だったら焼畑の地名として佐須とかがありその技術を教えたのは安曇族だったとなる、それはその後継の八木氏とか犬飼(犬養)が地名化しているからである

そして安曇族は海人族であっても製鉄とか焼畑とか稲作でも様々な技術をもった集団でありこの土地に定着したのである
でも製鉄だけだったら渡来人のツノガノアラシト系の津神社(つの)が点々と海岸沿いにあ松川浦の津神社でもツノミツ神社でありツノガノアラシト系だとなりこの産鉄族の一団は大平洋の海岸沿いを石巻まで行き北上川を渡り登米までその跡を残している
それは明確なのである、でもこの産鉄族はその土地に定着したとはならない
ただ鉄の材料求めて北進したとなる

一方安曇族は綿津見神社とか山津見神社は面的に広がっている、ある土地に土着したのである、だから面的に綿津見神社と対成す山津見神社がやたら多いのである
飯館村の山津見神社は総本山のようになっているが佐須にありこれは焼畑地名なのであるただこの安曇族のことは良くわからないのである、物部氏でもそうである
それは歴史的には大和政権が成立したとき正式の文書には残らなかったとなる
でも神社としてはこれだけ多く残されているのである
それも原町地区に多いのである

日本武尊は上総かみつふさより転じて、陸奥国に入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷えみしの支配地に入られた。蝦夷の首領島津神しまつかみ・国津神(くにつかみたち)が、竹水門(たけのみなと)に集まって防ごうとしていた。しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで、「君のお顔を拝見すると、人よりすぐれておられます

このヤマトタケルの東征伝説は安曇族の移住を下敷きにしている、安曇族が入り定着した地域なのである、東海地域に多く相馬地区でも原町地区に綿津見神社が眼だって多いからである、それは物部氏と一体化してこの地に勢力をもったのである
竹水門が(たけみなと)が原町だとふる説もある

淡路島・四国・隠岐島・九州・壱岐島・対馬・佐渡島・本州を生み、それから六つの小島を生み、その後に今度はさまざまな神々を生んだ

底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神の「三柱の綿津見神」について、『古事記』の本文には、阿曇連が祖神として奉斎する神で、阿曇連は綿津見神の子、宇都志日金析命の子孫であると記されている。この三柱は同時に生まれた上箇之男命・中箇之男命・底箇之男命の「墨江之三前大神」(住吉大社の祭神)と対称をなしている。

島を産んだというとき島を渡る海人族をイメージする、船を操作できる技術をもっていたのが海人族であり安曇族だったのである
海中にくぐり潜水して海の物をとるのが海人族である、だから海を三分割していた
それは海人族でしかありえない神話である
日本建国神話の下敷きとして海人族の安曇族などが深くかかわっていたのである
竹水門とはタカであり多珂神社がありこれは主要な神社であり原町区の海岸の方にある

阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)がありこの阿太は安達太良や安達の地名と同源である。安積は安曇族と関係しているとなると海人族の宗像市などともに九州から出雲瀬戸内海と海人族の跡は残っているからそれらと一緒に草原の地名も移動したのである。意富(オオ)氏と「阿太加夜神社」は草(カヤ)原という地名はセットととなって武蔵に移動して陸奥の真野郷に移動した。
http://musubu.jp/manokayagimotoketa.html

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ここに鹿屋(伽耶)と安曇がある




讃岐の那加郡に良野(吉野)真野郷があり行方郡にも吉名郷と真野郷がある。吉野と吉名はにている。物部吉名と言う人がいたからこれから名をとっている。安芸国の佐伯郡に山懸(やまがた)郡に宇岐郷がありこれは山形県の置賜(オキタマ)郡と関係があるのか置賜は浮田だという説がある

ここの吉名郷は小高区あり真野郷ではない、とすると桜井古墳には物部系の首長のような人が葬られているのかとなる
安曇族のことを前に書いたが原町区とかに綿津見神社が多すぎる、そして物部氏と一体だというとき物部吉名という人がいて吉名郷がある

そして鹿島地区(真野)には綿津見神社が見ていない!

一つくらいはあったかもしれないが見かけないのである、これはなぜなのか?
それは大和政権の毛野系の前からあり物部と安曇族が一体化していて対立していたのか?そして大和政権が本格的に進出してきたとき浮田国造が中央から配置されて官人も派遣された、その中に大伴一族がいた、それは中央政権を担う部族であった
そこで鹿島区の真野の前方後円墳が作られた、そこに中央から派遣されて服属するということで金銅双魚佩がその土地の支配者に賜ったとなる
つまり大和政権が進出するとき原町区ではなくまず浮田国造が置かれた所を拠点として
支配下に置いたのである、桜井古墳のある原町区は後で支配地域に入った
そこはすぐには支配地域に入れなかった、何か蝦夷なのか在地勢力があり入れなかったとなる、そこで真野地区に浮田国造の後継としての真野地区に進出して支配したのである
もう一つは今の原町区と真野地区にまたがる所に一大鉄生産場がありその麓に泉廃寺跡があり大和政権の官人が管理した、鉄をとるために管理したとなる

みちのくの真野の草原(かやはら)遠ければ面影にして見ゆというものを 笠女郎

この歌はまさに真野地区までが大和政権の支配下に入ったと境界を示すものとして歌われたのである

そしてまた草原(かやはら)の不思議は葦から鉄がとれるということなのである

その製鉄材料は、葦や芳の根に 鈴状に付着した カッ鉄鉱(高師小僧)で、その融解温度は 400度から始まるが、諏訪地方は 縄文土器の産地であり、その焼成温度は 800度を 4時間以上必要としたから、製鉄に必要な 諸条件は 十分満たしているというのだ。

諏訪大社の縁起書に『諏訪大明神絵詞(えことば)』という絵巻があり、その詞書(ことばがき)に「洩矢(もりや)の悪賊神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持してあらそひ、明神は藤の枝を取りて是を伏し給ふ」とある

建御名方神は諏訪に逃げて来たのではなく、「諏訪」が「鉄の場」であること。また、古くからの製鉄を行っている洩矢神がいることも知っていて、やって来たのであろう

http://tokyox.matrix.jp/forum/discussion/373/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%81%AE%E8%A3%BD%E9%89%84%E9%81%BA%E8%B7%A1-%E9%89%84%E3%81%AE%E6%B0%8F%E6%97%8F/p3

諏訪神社もまた多い、これも鉄に由来している
その草原というとき萱とはまた葦であり鉄と関係していたのである
それは猪苗代湖畔にも白河街道の福良とから地名として残されている
鉄を求めて渡来人とかが来て地名にしたものが多いのである

そして草原というときカヤハラになるがカヤは伽耶国に通じていて国名だとなる
なぜなら駒原とか栗原とかあれば栗とは高句麗の句麗になるからである
新地の駒が岳もそうである、だから草原の草がカヤが伽耶国に由来しているといっても不自然ではないのである

東日本には高句麗からの渡来人に関する遺跡が多く残り、高句麗の墓制である積石塚が長野県や山梨県、群馬県に多く見られる。リンク特に長野県の大室古墳群は積石塚の一大集積地である。東日本は大和朝廷から命ぜられて渡来人が開墾したところも多い。埼玉県には716年に高麗郡が作られ高麗神社、聖天院(高麗王若光の墓)などが残る。また、神奈川県にはその高麗王若光が上陸したとされる高麗山、高来神社がある。関東南部の古墳からも高句麗系の遺跡が多く出る。

だから草原とはただ萱が茂っている場所ではない、それは鉄を意味していたり国も意味していたりしていたのである
こうして真野の草原は大和政権の支配地域に編入された地位として中央の奈良に知られたのである、一つの政治的意味ある歌だったのである
それは桜井古墳のある原町地区は大和政権の支配地域にならず抵抗があった
そこには物部氏と安曇族が一体化した地域であった、先住民の勢力がありそこで真野地区が浮田国造としてまず中央の官人を送り大伴氏が有力な支配者となった
中央と結びついた地域となった、だからこそ真野の草原の歌はこの地域が大和政権の支配地域になったという宣言の歌でもあったとなる

苦麻以南である多珂国は常陸国に編入され、長塚以北は陸奥国に編入された

苦麻(くま)村までは道の尻でありその向こうは浪江町であり染羽国造の領域であった
つまりまだ大和政権の支配下に入っていない地域だった
だから集中的に真野郷に中央で力をそそいだ、そこが大伴氏が中心になっていた
そして浮田国造が宇多郡に分割されたときそこは毛野氏の支配が残った
でも桜井古墳がある方には毛野氏の勢力が及ばないで賜姓もなかったとなる
何か桜井古墳には在地の勢力があり中央から毛野氏系統を任命しても宇多郡には及んだが原町区の方には及ばなかったとなる
ただ桜井古墳には誰が葬られているのかはわからない、二人だとすると親子説があり二代でもその地域の首長だったともなる

倭建命東征に関して史料に見えるわけでもないが、吉備本宗の吉備武彦と同様に、吉備一族として同東征に随行して陸奥まで行き、その途上、陸奥国宇多(宇太)郡あたりに定着して浮田国造の祖になったとみられる

浮田につながる宇多郡のウタは、上野国西南部の甘楽郡有只郷と同訓だと『古代地名語源辞典』は指摘する。これは、浮田国造の出自からいって納得ができよう
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/kimikobe1.htm

吉備津彦は会津にも入っているから会津から浜通りの方に入ってきたともみる
日本海側から山の方が先進地域であり交通の便がいいから古代にはそっちの方から浜通りに入ってきたとなる、茨城県その後に大和政権が入り武力で支配した
毛野氏がかえって浮田国造でも宇多郡の方に支配して原町の桜井古墳の方ではなかった
そこで賜姓されているからである

真野の草原は境界として歌われた、境界となるのは重要である
地理的境界があり行政的境界もあるが地理的境界は自然境界であり行政境界と一致することがある、ライン河は地理的境界であり行政的境界にもなる
なぜならライン河を挟んでゲルマン人が蟠踞して異質な世界があったからである
大陸では河が境界になりやすい、平坦な地で区切るものがないからである
そして川を渡ることは難儀であり防衛線になっていたのである



ここからのつづきです


陸奥真野の草原の歌の謎
(草原は本当に萱原だったのか、その疑問を解明)
http://www.musubu.jp/kashimakayaharagimon1.htm

2021年12月12日

南相馬市の多珂神社の隣のスダシイ神社について (綿津見神社と多珂神社とスダシイ神社の関係)


南相馬市の多珂神社の隣のスダシイ神社について

(綿津見神社と多珂神社とスダシイ神社の関係)

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近接して三つの神社がある

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相馬地域辺りに縄文前期の土器は発見されていない、空白地域になっている
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真野古墳群から船の線刻画が発見された
その船は十人以上乗れる大きなものである
これは縄文時代に作れたのかとなるとできない、すると安曇族系統のものが
ここに定着して作ったのかもしれない、その材料のスダシイもあったからである




スダジイはブナ科の常緑広葉樹である。暖地性照葉樹林を代表する樹種の一つで、佐世保市ではごく一般的に見られる。船ノ村のスダジイは地面より130cmのところで434cmと522cmの二股に分かれる。姿も良く樹勢も盛んである。

スダジイ(ナガジイ、イタジイ、C. sieboldii)- シイ属の中では最も北に進出してきた種であり、大きな木では、樹皮に縦の割れ目を生じる。福島県、新潟県の佐渡島にまで生育地がある、

<家に在れば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る>とあります。

椎の木は古来日本を代表する樹種であり、高さ20m以上、幹周りは1mを超える照葉樹林を構成する主要な樹木である。

「すだじい」であると提言する。結局、「スダジイ」の名前は、「素台木」を語源とし、シイタケ造りの基礎となる台木的な椎(しい)の木という意味を表わすものであると言える。

船の村のスダジイ(ふねのむらのすだじい)は長崎県佐世保市にあります。ここは自然景観です。「植物」などとなっています。
スダジイはブナ科の常緑広葉樹である。暖地性照葉樹林を代表する樹種の一つで、佐世保市ではごく一般的に見られる。船ノ村のスダジイは地面より130cmのところで434cmと522cmの二股に分かれる。姿も良く樹勢も盛んである。(*1)

近くの住所には、鹿町町中野(398 m)、鹿町町船ノ村(1.03 Km) などがあります。近

日本の暖帯林の最重要樹種で、東北南部以西の本州から九州の丘陵・山野の広範囲に分布します。

磯の上の都万麻を見れば根を延へて年深からし神さびにけり 大伴家持 巻十九4159


初めに生んだのが淡路島、
次に生んだのが四国、
三番目に生んだのが隠岐。
そして九州、壱岐、対馬、佐渡と生み、
ついに本州を生みました。
この八つの島を大八島国といいます。

スダシイとかタブの木(都万麻)は照葉樹林帯の南国性の木であり船を作る木としてあった
硬い木だとそうなる、なぜここにスダシイ神社があるのかやはり安曇族が船材として利用したからだとなる、またシイタケを作る台として利用したとあるときそういう農業技術をもっていた人が来て教えたとなる、焼畑にしても縄文時代なら日本ではしていない
他から入って来た人達が教えられてできたのである
縄文時代と弥生時代ではその差が大きいのである、様々な技術が鉄作りでも農業技術でもいろいろな技術が渡来人によってもたらされたのである
ここでも船を作っていたのかもしれない、船の線刻画が最近発見されたからである

水の底で身体を洗ったときに生まれた神が底津綿津身神(ソコツワタツミノカミ)。次に底筒之男命(ソコツツノオノミコト)。
中ほどで成った神が中津綿津身神(ナカツワタツミノカミ)。次に中筒之男命(ナカツツノオノミコト)。
水の上のほうで身体を洗ったときに生まれた神が上津綿津身神(ウワツワタツミノカミ)。次に上筒之男命(ウワツツノオノミコト)。

ワダツミ神の宮殿へ
(塩椎神は言いました)
「わたしが今から、この船を押して流します。
しばらくそのまま進んで行ってください。
味し御路(良い海流?)があり、その海流に乗って行けば、
魚の鱗(ウロコ)のように家を並べた宮殿があります。
それは綿津見神(ワダツミ神)の宮殿です……
https://nihonsinwa.com/page/1827.html

国生み神話でも底津とあるのは海の中をくぐって生活していた漁労民の安曇族だったからこそである、中津でもそうである、海の底までくぐるとか中まで見るとかは海人(あま)でないかぎり出てこない言葉である、それほど海とかかわっていたから生まれた神話である

国生み神話でも島が中心であり本州が最後に生まれている、そして佐渡島まである
つまり安曇族が船で渡った航路をたどっているのである
海洋民の神話でありそもそも日本の神話は縄文人の神話ではないのである
ただ縄文人と混交した神話は海彦山彦の物語である、それは安曇族とも関係していて
綿津見神社と山津見神社がそうなのである
安曇族などの海洋民は様々な農業技術とか鉄作りの加工とか鵜飼とか養蚕とかの高度な技術をもった人達でありその人たちが弥生文化を日本にもたらしたのである

ただなぜ南相馬市と相馬市とかに綿津見神社と山津見神社がこれほど多いのか?

その謎はここが照葉樹林帯の南限の地であスダシイも北限の地としてあり海老のマルハ
シャリンバイも奄美大島から種が流れ着いて根付いたのである
それは東北でも温暖な地域だからである、つまり照葉樹林帯の南限の地だからこそであるそしてここが地質学とか気候でも境目なのである
万葉集の真野の草原はそうした気候的南限の地として境目として意識された

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この地図のように古い縄文遺跡がないことでもそうである、なぜか空白地域になっているつまりこの辺は縄文人がそれほど住んでいない地域だったのかとなる、住んでいても希薄な地域だったとなる、ただこれは謎である
かえって宮城県とか北の方から縄文前期の遺跡がありそこに安曇族系の海洋民が進出しにくかったのかもしれない
この辺の綿津見神社が多すぎるからだ、ここに相当数の安曇族系の海洋民が入植したとなるからだ

新地になると縄文人が住んでいた

鹿狼山には「手長足長」という神様が通っていたと伝わります。
ここからその長い手を伸ばして海の貝を拾っては食べ、その貝殻を新地町方面に投げていたために、海から少し内陸部に「小川貝塚」ができたという伝説です

ここではかなりの人数の縄文人が貝を食べて暮らしていた、ただ相馬地域でもここだけに伝説が残っている
貝塚もここだけである、だから縄文人がここで相当数住んでいたが他は希薄な地域だったのかともみる
だからこの空白地域に安曇族が入ってきて農業技術とか焼畑とか船造りとか鉄作りとかいろいろ技術をもたらしたのである
これだけ綿津見神社や山津見神社があるのはそのためである

またヤマトタケルの東征神話で上陸した地点が南相馬市の原町区かもしれない

ヤマトタケルが「竹水門」に至る経路を確認しますと、「海路うみつちより葦浦あしのうらに廻めぐる。横よこしまに玉浦たまのうらに渡りて、蝦夷えみしの境さかひに至る。」とあります。

つまり、葦浦・玉浦を経て、竹水門(蝦夷の境)に着いたと考えられます

「竹水門」は多珂郡のどのあたりか? という問題になります。「和名抄」によれば、多珂郡内には「多珂郷」が含まれており、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」によれば、多珂郷は現在の茨城県高萩たかはぎ市の北部から北茨城市の南部にかけてがその郷域と推定されています
https://japanknowledge.com/articles/blogjournal/interest_chimei/entry.html?entryid=97

竹水門(たかみなと)(蝦夷の境)は南相馬市の多珂神社でもありその後に真野郷になった、それで真野の草原の歌ができたのである
桜井古墳は海に面してあり港の役割もあったかもしれない、海が入りこんでいたからである
こうした神話が生まれたのはそもそもの下敷きになったのが安曇族とか海洋民が早い時期に土着した結果である、特に原町区に綿津見神社が多いのである
それは普通ではない、多すぎるのである、でも浮田国造があり真野郷があった地域は意外と綿津見神社を見ていないのである
そこにも大きな謎がある、原町区に綿津見神社が密集しているともなっているのは安曇族が定住した結果なのである
ただ正式の文書とかでも伝えられていないし伝説とかも何かいい伝いでも残っていない
綿津見神社だけが歴史を語っているとなる

だからこれがこの辺で話題にもならない、何か物語でも伝えられれば関心がもつがただ綿津見神社だけが伝承すらなく残されているからだ
ただ明確なのは安曇氏と同族の犬養(犬飼)とか八木平いう地名は残っている
それも八木沢峠がありこれが氏族名だと気づかなかった
それから相馬市の玉野村から霊山町の方に行くと犬飼というバス停が残っていた
犬養という地名も残っている

だから安曇族の系譜の人達が綿津見神を信仰を受け継いで移住してきたのである
真野古墳群から発見された船の線刻画でもそれは十人以上乗れる船である
そうなると縄文時代ではなくやはり安曇族が残した物なのかとなる
この綿津見神社はこの辺では重要な歴史を語っている、でもなんら注目もされない
解明されないのである、資料も残っていないからだとなる

何か神社には不明なのが多いのである、でもこれだけの綿津見神社山津見神社が残っているとしたら何かしら注目されていいはずである、だから歴史でも古くなると埋もれるとういことである、何か解明しようがなくなっているのである
でも神社があるとお参りするのである、でも何にお参りしているかもわからないとなる
これも奇妙なのである、ただ神社は相当に古いものであり歴史を語っていることは確かである
それとともに地名も本当に古いのである、化石のように古いのである
だから八木沢でも八木平でも犬養(犬飼)でも残っていたのである
それに気づかなかったのである、これは明らかな歴史の証拠だったのである

2021年11月20日

なぜ南相馬市と相馬市に綿津見神社と山津見神社が多いのか?(1ー前編) ( 八木沢峠ー八木平ー犬養(犬飼)(いぬかい)は姓名であり安曇氏と同族だった)


なぜ南相馬市と相馬市に綿津見神社と山津見神社が多いのか?(1ー前編)

( 八木沢峠ー八木平ー犬養(犬飼)(いぬかい)は姓名であり安曇氏と同族だった)

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八木沢峠
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犬養⇒犬飼(霊山町)

●古事記の神話を作ったのは海人族の安曇氏などである

名前にワタツミとつく神を祖神としている氏族は、阿曇連に限らず、安曇宿禰、海犬養、凡海連、凡海連といった海人の氏族がいる(『新撰姓氏録』)。ワタツミの神が海人の諸氏族によって広範囲にわたって信仰されていたことがうかがわれる。

践祚大嘗祭において阿曇氏が神膳奉仕の職掌を担っていることの由来を物語るものと捉える説もある。また、綿津見神が火遠理命に娘の二柱の神を献上する話は、山(地上)を支配する大山津見神が天孫・邇々芸命に娘の二柱の神を献上する話と対応しており、この二つの神話は、山(地上)と海との両者の呪力あるいは統治の権威が、天孫に併合されることを示す構想に基づくものと解されている。
http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/shinmei/watatsuminokami/

水の底で身体を洗ったときに生まれた神が底津綿津身神(ソコツワタツミノカミ)。次に底筒之男命(ソコツツノオノミコト)。
中ほどで成った神が中津綿津身神(ナカツワタツミノカミ)。次に中筒之男命(ナカツツノオノミコト)。
水の上のほうで身体を洗ったときに生まれた神が上津綿津身神(ウワツワタツミノカミ)。次に上筒之男命(ウワツツノオノミコト)。

ワダツミ神の宮殿へ
(塩椎神は言いました)
「わたしが今から、この船を押して流します。
しばらくそのまま進んで行ってください。
味し御路(良い海流?)があり、その海流に乗って行けば、
魚の鱗(ウロコ)のように家を並べた宮殿があります。
それは綿津見神(ワダツミ神)の宮殿です……
https://nihonsinwa.com/page/1827.html

伊邪那岐命と伊邪那美命の二人は引き続き神をお生みになります。

風の神、名は志那都比古神(シナツヒコの神)をお生みになり、
次に木の神、名は久久能智神(ククノチの神)をお生みになり、
次に山の神、名は大山津見神(オホヤマツミの神)をお生みになり、
次に野の神、名は鹿屋野比賣神(カヤノヒメの神)をお生みになられました。

鹿屋野比賣神は、草の神です。名前の通り「萱」を神格化したものと思われます。「萱」は、油分を含むので水をはじきます。そして軽い。屋根の材料として便利な植物です

鳥飼、鵜飼、馬飼などの地名は、大和朝廷の時代に朝廷が飼っている動物の世話役が住んでいた所。当時の犬は愛玩用では無く警備のためだった。鳥飼とは愛玩用の白鳥を飼うこと。

 大王の身辺の警備をする豪族を門号氏族(もんごうしぞく)と言い、大伴氏などの武芸に秀でた豪族が努めた。門号氏族のなかに、三系統の犬飼の家が見られ、県(あがた)犬養氏、稚(わか)犬養氏、海(あま)犬養氏である。

 六世紀には朝廷は諸国に犬飼部をおかせた。これは諸国の皇室領地の屯倉の警備のため。奈良時代のはじめに朝廷の犬養は廃止。

古代豪族の八木氏は安曇氏と同族

海人族、海洋民族が渡ってきて日本の国造りの神話を作った
国生み神話などでもいかに海洋民が作ったか明確である

底津綿津身神(ソコツワタツミノカミ)。次に底筒之男命(ソコツツノオノミコト)。
中ほどで成った神が中津綿津身神(ナカツワタツミノカミ)。次に中筒之男命(ナカツツノオノミコト)。
水の上のほうで身体を洗ったときに生まれた神が上津綿津身神(ウワツワタツミノカミ)。次に上筒之男命(ウワツツノオノミコト)。



海の底を三つに分ける発想は海の中に潜り海の産物をとって生活していたからこそであるここには現実体験から生まれた生々しいものがあるからだ

海人族が海洋民がこうした径路で広がり日本に定着した、島伝いに来たことを示している小さな島を産んだというのはやはり島伝いに渡ってきた海人族だったからである
この海人族は世界に広げると世界の海岸沿いを渡ってきたともなる
陸の海岸沿いを渡りめぐりめぐって日本まで来たとなる
それは雄大な発想になるが海岸沿いだったら船で渡って行ける、そこに大きな川があるとその川を上って行く、長江とかなるとその上はチベットとかなるのである
山岳民族がいるとしたらまず海から川を上って定着したとなる
つまり海は古代では道であり川も道なのである
なぜなら古代では鬱蒼としたジャングルとか森でおおわれていて道がなかったからだ
だから海を道として川を道として渡る人々、海人族が海洋民が世界に広がったのである

●霊山町の八木ー犬養(犬飼)の地名は安曇族の関係である

大王の身辺の警備をする豪族を門号氏族(もんごうしぞく)と言い、大伴氏などの武芸に秀でた豪族が努めた。門号氏族のなかに、三系統の犬飼の家が見られ、県(あがた)犬養氏、稚(わか)犬養氏、海(あま)犬養氏である。

 六世紀には朝廷は諸国に犬飼部をおかせた。これは諸国の皇室領地の屯倉の警備のため奈良時代のはじめに朝廷の犬養は廃止

古代豪族の八木氏は安曇氏と同族

川が道にっていたという時真野川をさかのぼって行った海人族がいる、その径路に海人族が定着した、なぜなら栃窪村に山津見神社があり山の方に行くと山津見神社になる
宇多川沿いの山にも山津見神社が隠れるようにしてあった、それは小さい社である
鳥居だけあって隠されるように山津見の神の社があった
真野川をさかのぼる終点に山津見神社がありここは有名である
でも綿津見神社も飯館村にありこれは対になっている神社である

だから不思議だったのは松川浦に山津見という地名があり和田という地名がある
なぜここで二つが地名化しているのか?ここが海人族の上陸地点だったからである
なかなか地名になるのは記念となる場所であり地名の起源は古代にさかのぼることが多いからだ
綿津見神社が多いのは南相馬市の原町区と小高にもあるし相馬市にもある

綿津見神社の分布.jpg


この図で福島県の綿津見神社は南相馬市と相馬市が大半である、何かもっと多い感じがする、とにかくここも綿津見神社なのかと神社を見ると実感的に多いからである
山津見神社は山の方に行くと多いのである
もう一つ注意すべきは静岡県が多いのである、そして桜井古墳の発掘された物に静岡県由来のものがある



ヤマトタケルが駿河で敵に欺かれ野原に連れ出されて焼き討ちにあうが、火打ち石で向火をつけて難を逃れたとする有名な説話である。欺かれたことを知ったヤマトタケルは、敵を焼き滅ぼしたので、この地が「焼津」」とよばれたことや、身につけていた剣が自然に鞘から抜け、草を薙ぎ払ったので、その剣を「草薙」と名付けた地名起源説話を
伝えている。



この説話は焼畑と関係している、野を焼き払うとか焼畑をイメージさせるからである
ヤマトタケルの伝説には安曇族の海人族が船で渡って入植したことから生まれている
古事記でももともと安曇族の海人族が作ったものであるからそもを基にヤマトタケルの神話が作られたのである
焼畑というとき海人族がもたらした農耕技術であったからだ
飯館村の佐須が焼畑地名だというのもそうである

この松川浦から霊山への道で重要なのは一族の姓が地名化していることである
なぜこれが重要かとなると安曇族が来たとしてその姓もないし伝承すらないのである
ただやたら神社だけが残されていて海人族のことが不明になったからである
神社にしてもただ神社だけがあり伝承がないからである
おそらく安曇氏の後継として犬養(いぬかい)氏がいて八木氏がいてそれが地名化した
犬養は間違いないのである、犬を飼うということも一つの技術であり羊とか馬とか家畜化するのと似ている

●安曇氏系統の犬養氏と八木氏の探求


八木沢神社ヤギサワジンジャ
新町の観音様
挿絵
全国
秋田の神社・寺院
横手市
御祭神※
大山祇命オオヤマヅミノミコ

駅から歩いて5分ほどの場所に八木沢神社がある。「帆船女神像の里」とも言われる神社だ。航海練習船の帆船日本丸の船首像「藍青(らんじょう)」と、姉妹船の海王丸の「紺青(こんじょう)」は、境内にあったご神木のケヤキが使われている。
https://www.asahi.com/articles/ASM2V52WWM2VUTIL02T.html

阿曇犬養連は、「海神大和多罪(おおわたつみ)命の三世孫(みつぎのひこ)、穂己都久
(ほこつく)命の後なり」

阿曇氏の発祥の地

筑前国糟屋郡安曇郷(福岡市東区和白・福岡県粕屋郡新宮町あたり)、志珂郷(福岡市東区
志賀島)を中心とした地域

式内名神大社志加海(しかわた)神社があり、神職は阿曇氏

安曇氏族の系列

阿曇連(あずみのむらじ)(または阿曇宿禰)
海犬養連(あまのいぬかいむらじ
凡海連(おおしあまのむらじ)
八木造(やぎのみやつこ)
阿曇犬養連(あづみのいぬかいのむらじ)

日本書紀によると「蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子(もろもろのみこたち)と群臣(まえつきみ
たち)とに勧めて、物部守屋大連を滅ぼさむことを謀る」とある。
589 年(当時の蝦夷との勢力関係において安曇氏は登場しない)
http://azuminorekishi.sakura.ne.jp/siryou.pdf

yagishurain1.jpg
大阪府岸和田市中井町

夜疑(やぎ)神社であり当て字でありこの字の方が古いのかもしれない、夜疑⇒八木になった

当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、当地は『倭名類聚抄』にある和泉国和泉郡の「八木郷」と推定され、当地に居住した「八木氏」が祖神を祀ったのが当社であると考えられています。

『新撰姓氏録』右京神別に和多罪豊玉彦命の子、布留多摩乃命の後裔であるという「八木造」が登載されており、和泉国には見えないもののこの氏族が当社を奉斎したものと思われます。

八木氏の祖神であり当社の御祭神である「布留多摩命」は海神である豊玉彦命の子であり、豊玉姫命と兄弟姉妹の関係にあたります。このことから八木氏は、同様に豊玉彦命を祖とする海人族「安曇氏」と同族であることが示唆されています。

『倭名類聚抄』にある和泉国和泉郡の「掃守郷」は「八木郷」に隣接していたと見られ、かつて掃守郷の氏神だった「兵主神社」(西之内町に鎮座)には境内社に豊玉姫命が祀られています。
https://jun-yu-roku.com/izumi-minami-nakai-yagi/

安曇族

477 右京 神別 地祇 安曇宿祢 宿祢   海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也
478 右京 神別 地祇 海犬養     海神綿積命之後也     236
479 右京 神別 地祇 凡海連 連   同神男穂高見命之後也     236
678 河内国 神別 地祇 安曇連 連   綿積神命児穂高見命之後也
611 摂津国 神別 地祇 阿曇犬養連 連   海神大和多羅命三世孫穂己都久命之後也  
610 摂津国 神別 地祇 凡海連 連 安曇宿祢同祖 綿積命六世孫小栲梨命之後也

宗像族

476 右京 神別 地祇 宗形朝臣 朝臣 大神朝臣同祖 吾田片隅命之後也     235
677 河内国 神別 地祇 宗形君     大国主命六世孫吾田片隅命之後也

素盞鳴尊八世孫、和邇君の租神。大国主神の六世の孫裔ともいう
宗像三女神の七代孫とする説もあり、 「新撰姓氏録」では「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」とあり、宗形朝臣の祖。大神朝臣の祖。

阿雲犬養・倉海の息子は、穂高神社社家となっていて信州にいる

河内国には安曇氏族の八木造か゛いたことか゛分かっている。八木造は新撰姓氏録によると「和多罪豊玉彦命の児の布留多摩乃命の後」とあり、安曇氏の一族とされている。八木氏は河内国和泉郡八木郷(現 在の岸和田市八木地区)を本拠地としていたとのことて゛ある。この地域に式内社て゛ある夜疑(やき゛)神社 か゛あり、主祭神は布留多摩命て゛ある。布留多摩命は綿津見命の次男て゛あり、八木氏は安曇氏の一族と考 えて良いと思われる。しかし八木氏と安曇氏の関係は詳細不明て゛ある。また淡路島の八木村か゛八木氏の 故地て゛あるという説もある
http://www.tokyox.matrix.jp/forum/discussion/407/%E5%AE%89%E6%9B%87-%E7%B6%BF%E6%B4%A5%E8%A6%8B-%E5%BF%97%E8%B3%80%E6%B5%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE

安曇氏族の系列
  阿曇連(あずみのむらじ)(または阿曇宿禰)
  海犬養連(あまのいぬかいむらじ)
  凡海連(おおしあまのむらじ)
  八木造(やぎのみやつこ)
  阿曇犬養連(あづみのいぬかいのむらじ)
  
安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、安曇が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達する。

C長門国(安曇族)
  下関市安園町富任 長門国豊浦團五十長凡海我孫2
  大津郡向津具村 八木家所有の畑地から有柄銅剣
  
  子市上安曇(かみあづま)・下安曇(しもあずま)
和名抄に會見郡安曇郷の記載あり、現在でもその地名が残る。
近隣には式内社宗像神社、高良神社があり、九州との関連が考えられる遺跡も散在する。
また上安曇には楽楽福神社があり、当社は鉄との関連が深い神社であることから、安曇氏と産鉄との関係も考慮できるかもしれない。
  http://houki.yonago-kodaisi.com/F-BG-azumi.html
  
安曇族は2〜3世紀の物部東征とともに大和へ進出。やがて物部の力が衰退して神功皇后の時代になると、安曇氏も新権力のもとで朝廷に服従する側にまわったと考えられます。綿津見三神が住吉三神という呼び名に変わったことがそれを象徴しているように思います。

安曇氏は朝廷に仕えながら各地の海人族を統率していましたが、401年に安曇連浜子が天皇暗殺を謀った罪によりその地位を追われます。律令時代には天皇の食事を司る内膳司長官を務め、また660年頃に安曇比羅夫が水軍を率いて百済救援へ向かい、白村江の戦いで戦死。その後安曇氏は中央から消えていきまし


その古墳時代の前期後半(4世紀頃)
に「大和」を支配したのは、弥生終末期に(2世紀後半)、「前方後方墳勢力」、すなわち「ワニ族」によって
駆逐された「奴国系倭人」、すなわち「安曇族集団」であったということである?!その「安曇族集団」が、「大
和」(と朝鮮半島南部)で蘇ったということか?!穿った見方かもしれないが、それが、例の「物部氏」、すなわ
ち、「日神(太陽)信仰」の「饒速日集団」であったのではないか?!そうとも、思われるのである?!

祭神が「木花咲耶姫」(伊予大三島の「大山祇神社」の祭神「大山積(祇)命」の子?)である
「富士山本宮浅間せんげん大社」等は、その「和邇氏(族)」の、東方への進出の事績
http://www.gakuyou.jp/doumotosan/sisakubannimukete2-7.pdf

この「倭国」ですが、一般には「安曇(あずみ)氏」といわれる日本列島先住民である縄文海人族で、「磐余彦(イワレヒコ)」、すなわち、のちの「神武天皇」の出身母体である氏族ですが、後に「磐井の乱」を起こして大和朝と対立した地方支国です。

環太平洋文明圏縄文王国(安曇氏)→後期縄文王国(和田橘氏)→弥生時代
(海部氏・徐福系物部氏、邪馬台国)→大和朝廷(応神以降、秦氏)。

前期縄文王家の安曇氏の中

核は、後に東北側の寒冷化に伴い、列島の中心で黒曜石が取れ、自然の恵み豊
かな土地だった諏訪に隠れた。これが、国譲りに於いて、タケミナカタが諏訪
に追いやられたこととして暗示されている。
http://g-village.net/iyasaka369/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%B5%B7%E4%BA%BA%E3%81%A8%E5
%BC%A5%E7%94%9F%E6%B5%B7%E4%BA%BA.pdf

安曇族は熊襲、隼人、宗像、出雲、阿蘇多氏と血縁であろう。さらに秦氏、尾張氏、多氏、中臣氏、物部氏とも海運業の上で提携していたであろう。
天武朝の役人ともなった。阿曇連が記録に見える。右京神別。宿禰。
また同じ宿禰に海犬養連(あまいぬかいむらじ)、凡海(おほしあま)連がいる。
海犬養連はおそらく隼人である。隼人は出自として証せないので安曇氏を名乗った
http://www.oct-net.ne.jp/hatahata/azumino.html

和邇氏の実際の始祖は和邇日子押人命だと思われ(孝昭天皇後裔は後世の仮冒)、元々の姓は「鰐積」(安曇、穂積、出雲積などと同じ)だったと思われます。だからこそ、春日臣から和邇を名乗る者が出たのだと思います。「鰐」をシンボルとする海神系の氏族集団でしたので、本来は安曇同族で、綿津見豊玉彦が遠祖であったはずです。

まず、海の民は「まっすぐ伸びた巨木」を求めていたということだ。もちろん、木を刳(く)り抜いて船(丸木舟)を造るためだ。また、海の民は山を目印に航海をした(山アテ)ので、山の神を大切に祀ってきた。

海人族はこの辰砂を始め鉄や銅などの産出地を見極める技術や冶金術(鉱物から金属を取り出し精製する技術)をもっていたと考えられます。安曇の祖は穂高見命またの名を宇都志日金析命とあり、金カネの字があてられています。後裔の凡海氏はその冶金の技術を買われて陸奥国に派遣されています。
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/11146489

『新撰姓氏録』によれば、和多罪豊玉彦命(わたつみとよたまひこのみこと)の児神、布留多摩乃命(ふるたまのみこと)の後裔とされる。一族の始祖は布留多摩命の孫で、椎根津彦とは兄弟関係にある八玉彦命。

やぎ神社

「八木」の氏名(うじな)は河内国和泉郡(後に和泉国和泉郡)八木郷(現大阪府岸和田市八木地区)の地名に基づくとされるが、現奈良県橿原市八木町に八木寺(廃寺)があり、その創建は奈良時代に遡るものと見られるので、これを八木氏の氏寺と見て同地一帯に一族が蟠踞した可能性を説く説もある。また、一族で東大寺の写経生であった八木宮主が氏神の祭りを理由に休暇を請うた記録が『正倉院文書』に残されており、この氏神を鴨大神(現高鴨神社)と見て、その鎮座地である大和国葛上郡(現奈良県御所市)及びその南隣の同国宇智郡(現同県五條市)に住した一族がいた可能性も指摘されている。




安曇氏は早い時期に歴史から消えた、それは謎であるがこの辺では伝承もなく何も伝えられていない

しかし地名がその歴史を記していた、飯館村に行く八木沢峠とか霊山の八木平とか犬養は安曇氏と同族であり姓名だった、古代には姓名がそのまま地名化することがある
安曇は長野県で安曇として地名を残している
ただ南相馬市とか相馬市では安曇氏の関連は見いだせないがその後続として同族の八木氏とか犬養氏がこの辺に移住して農業などにたづさわっていたのである
明確なのは松川浦に山津見神社があり和田があるこの和田は綿津見(わたつみ)のことである、つまりそこが上陸地点だったことがわかる、そこから宇多川を上り玉野に出て
霊山町まで行った、途中に八木平があり霊山を越えると犬養がある
佐須までは真野川をさかのぼり行った、途中の栃窪村に山津見神社があり大倉に山津見神社がある、また原町の方から八木沢峠がありこれは八木氏と関係していて名付けられた
地形地名とは違っていたのである

ともかくなぜこれほど綿津見神社神社や山津見神社が多いのにこのことが見逃されていたそれは安曇氏とかの歴史が途絶えたからである、そして神社だけは伝承もなくこの辺に多く残されたのである
つまり神社だけが歴史の証拠として残されていたのである
そして地名が歴史の証拠であった、その外に解明する方法がないのである

2021年07月21日

真野の草原は自然境界でもあった (ゲノム解析で判明した縄文人のルーツ)


真野の草原は自然境界でもあった

(ゲノム解析で判明した縄文人のルーツ)

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●自然境界ー天候、地形(山や川)

●人為的境界、政治的境界

境界がどうして作られたかとなると自然の作用で作られた、山があり川があればそこを越えたり渡ることが困難になる
それで自ずと自然境界となる、だから実際は境界は神が決めたものである
その後に人為的境界が作られた、だから歴史でも自然から見ることが大事になる
つまり歴史とは地歴なのである、地理がありその上に人為的な人間の歴史がある
古代とかなる自然が大きな力をもっていたからその境界は自ずと原始自然状態に左右されるのである
自然の動植物の分布でもそうである、暑さ寒さに天候に左右されて分布する
それで南相馬市の鹿島区の海老村がマルハシャリンバイの南限の地となっていた
それは南国産であり奄美大島辺りから種が流れついて自生したとなる
つまりここはそうした南と北の自然境界線だったのである

これは草原(かやはら)とあっても萱のことではない、伽耶の国とも関係したとして考察した、ただそれは明確に証明はできない、確かなことはカヤと発音されても当て字なのである、なぜそうなったかというと伽耶というのが日本と深く関係して渡来人が鉄の生産の技術者が鉄を求めて海外沿いを来て地名を残した
真野というのもそうである、真野氏一族が石巻から北上川をさかのぼって登米まで行って地名を残しているからである
真野郷とは真野氏一族だとなり近江にも関係している、工人が直接真野郷から近江の栗原郡まで行き来していたからである

そして今回発見したのがDNA研究から明らかになったことである
それをyoutubeで見てわかった、ここではアイヌ人と沖縄人がDNAで近接していて同類の割合が強いとしている、また青森県の人と沖縄人がDNAで共通しているとしている
これは興味深いことである、青森はアイヌ語由来の地名が多くあることで知られているからである
また沖縄人とアイヌ人の顔が何か似ている、それは縄文人だとしている
そして日本列島のヤマトとは北海道に入らなかった、アイヌは江戸時代まで存続していたのである、その人たちが縄文人の末裔だとしている
確かに沖縄人とアイヌ人は顔が彫りが深く似ている

ただ疑問なのはそしたらアイヌ語は明らかに縄文語になる、そのアイヌの言葉が今の日本語と縁戚関係になるがそういうことは見えないのである、アイヌ語は日本語と共通性がない、アイヌ語は語彙も日本語からすると少なすぎる、何か表現するにしても余りにも単純すぎる、幼稚な言葉なのである、でももし縄文人だったら何かしら今の日本語に通じるものがあるはずだが何か見られない、アイヌは何かヨ−ロッパ系統にも見えるのである
なぜならhave動詞は似たようなものを使っているからこれはアーリアン人系統の印欧語族に由来するとなるからだ
だからアイヌ人は比較的新しい民族にも見えるのである
ただDNAいうとき私は理系でもないしわからないからどう判断していいかわからない
でも言語的に見るとアイヌ語が日本語の祖語には思えないのである

縄文人が韓国人に一番近いというのはわかる、その次が漢人だとなる、ただ地理的に日本に入って来たのが一番近いのが樺太から渡ってきたのと韓国から渡って来た人たちであるそれは地理を見れば一目瞭然だからである
あとは台湾を経由して沖縄諸島を渡って来た人たちである、それも島伝いに来ると渡り安いからである、船にしても今のものとは違う、丸太舟とか筏の船とともなれば島伝いに行くから途中に島がないと海は渡れないからである
だからこれは地理的に理解しやすいのである

そもそも青森の地域、津軽の地域は特異であり東北でも異色なのである
丸山三内の縄文遺跡とかでもそうである、亀ヶ岡土器文化があり縄文文化が早めに発達した地域であり先進国だったからである、漆塗りの土器などもある
青森が遅れた県として今は見るが縄文時代は先進国だったのである
東北も遅れた国とみているが縄文時代は先進国だったのである、西が遅れていたのであるただ西は渡来人が来て稲作が広範囲にはじまり弥生文化の中心地になったのである

aomorimap11.jpg

青森は津軽海峡に隔てられているが北海道の植物も育つ、動物では津軽海峡でさえぎられてニホンザルの住む限界となる、ブラキストン線がある

このyoutubeで一番注目したのが青森のDNAが沖縄と近く青森と秋田、宮城がDNAで共通している

ここに福島県が入っていない!

つまり真野の草原はまさに宮城県との境界でありそこに入っていない、すると人種的には福島県は縄文人時代があったとしても早めに渡来人とかと混血していたのかとなる
ただ青森の津軽にしてもツガルがツノガノアラシトの系統なのかともみる
ツノガノアラシトが縮まってツガルとなったかともみる

それで不思議なのは棚倉でヤマトタケルの皇子と戦った蝦夷軍にツガルの蝦夷が援軍として来ていたことである、なぜそんなに遠くから援軍に来たのか?
つまりなんらか同盟関係がありそんな遠くから来たとなる
ただその時代にここの蝦夷は青森、秋田、宮城からすると別な人種だともなっていたのである

陸奥国風土記逸文に『磐城の国造磐城彦が福島県石城郡棚倉町八槻の蝦夷に敗れたので日本武尊が征討軍としてやってきた そこで蝦夷は津軽の蝦夷の援護を要請したので日本武尊は非常に苦戦した』とある

一番遠くにあってそして一番強いのが津軽の蝦夷=都加留で上津野の蝦夷も都加留に属していたろう。矢立峠・坂梨峠を越えれば直ぐ出羽でも陸奥でも未だ国名もない漠とした津軽なのだ。その強さは大和朝廷圧制に耐えがたきを耐え忍び難きを忍んだ末のやむにやまれぬ末の抵抗だったのです。

元慶の乱に於いて鎮守将軍小野春風は七時雨道(鹿角街道)と言うわざわざ岩手県を迂回して最初に『言向けて和(やわ)し』たのも鹿角蝦夷なのだ

鹿角蝦夷(かづのえぞ)とはかずのとはかーつのでありツノガノアラシトなのである
相馬市松川浦の津神社もつのみや神社のである
ここで誤解しやすいのは津神社となっていてツノミヤ神社となっている
これはつつげてツノ神社となりつのみやとなった、ツノガノアラシトのツノなのである
ここがまぎらわしいのである、かづのもだからかづのとあっても明らかに角(つの)とありツノガノアラシトアラシトなのである、これは伽耶国の王子なのである


八槻の伝説-----------------------

都々古別神社の伝説から。

倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という

「八目の鳴鏑矢で賊を射たおしたとあり、
その矢が落ちたところを矢著、正倉がある矢著を八槻となった。

その八槻とは、八人の土蜘蛛で、

@里鷲A神衣姫B草野灰C保々吉灰
DあざになひめEたく猪F神石かやGさしな、

が八か所の石室にいたが王に従わずヤマトタケルは土蜘蛛を討伐した。

草野灰、神石萱のかやのはいとかみいしかやの萱は必ずしも萱とはならない
萱は伽耶に通じている、渡来人集団が蝦夷にもなっていたのである
ヤマトタケルと敵対する蝦夷となっていたのである
それがなぜ津軽の蝦夷に援軍を依頼したのとなる、そこは遠いからである
でも津軽まで同盟関係がありできたとなる、そして津軽は一番蝦夷の根拠地にもなる

その強さは大和朝廷圧制に耐えがたきを耐え忍び難きを忍んだ末のやむにやまれぬ末の抵抗だったのです。

たがらこそ遠くからでも援軍を頼んだのである、ただ福島県の浜通り辺りは棚倉でヤマトタケルと戦い大和に早めに服属した地域になっていた
その歌が

の強さは大和朝廷圧制に耐えがたきを耐え忍び難きを忍んだ末のやむにやまれぬ末の抵抗だったのです。
この歌は単なる笠女郎が大伴家持慕う恋の歌ではない、大和朝廷に服属した地域となった境界線だから歌われたのである、それで青森と秋田と宮城県がDNAで共通していて沖縄人と同類に近いと分析されたのである、ただここで岩手県は出ていない

みちのくの真野の草原(かやはら)遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

明らかなことは真野の草原は明らかに自然の境界でありまたその後に人種的にも宮城県とか秋田県とか青森県とも違うものともなり早くから大和朝廷に服属した蝦夷の地域ともなっていたのである
そこに二人の恋の歌ではない、古代の歴史的背景がありそこを読まないと鑑賞できないのである、万葉集にはその背景が古代の歴史と深く関係していて単なる恋の歌ではないのが多いのである、だからその背後にある古代の歴史を知らないと浅薄なものとしてしか鑑賞できないのである


ツノガノアラシトについて

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都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は、『日本書紀』では「都怒我阿羅斯等」、他文献では「都怒賀阿羅斯止」「都怒何阿羅志止」「都奴加阿羅志等」とも表記される。また『日本書紀』では別名を「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」とする。

意富加羅国(大加耶/大加羅、おほからのくに、現在の韓国南部)の王子で、地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。

敦賀からツノガノアラシトが入ってきた、敦賀(つるがーつがる)ともなり似ているのである、まぎらわしいのが津神社となっているとき津神社はつの神社と呼ぶからまぎらわしいのである
とにかくこのツノガノアラシトは伽耶国の王子でありその渡来人の一団が製鉄の技術者として地名までになったのである
ただその後にこの事実は歴史から隠されて来たのである
ただ伽耶国とヤマトは一体であり日本がの一部として日本府がありそこから天皇が出たという説もあるのだ

2021年02月25日

陸奥の真野の草原が地質的にも境目だった (鶴岡から相馬地域は共通した地質を形成)


陸奥の真野の草原が地質的にも境目だった

(鶴岡から相馬地域は共通した地質を形成)

manoborder2.jpg

歴史に見る東北の方位(東北学文庫1)


陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを ...

笠女郎(かさのいらつめ)の大伴宿禰家持(おほとものすくねやかもち)に贈れる歌三首
陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを

ここは確かに地形的にも地質学でも鶴岡から相馬地域で区切られた場所である
その自然の境界がまた歴史的境界ともなっていた
南限の地としてマルハシャリンバイ自生の知とされるのもそうである
ここは照葉樹林帯の南限の地だともなるからだ

こうして真野の草原は自然の境界でもある、気候とか地質でも境界になっている
だから石巻説になると遠すぎるのである
不思議なのはここでも地図を見るとなぜぴったりと相馬地域まで明確に地形や地質の差があり境界になっていることなのである

ここは気候でもそうだうし地形でも地質でも境界になっていてそれでこの場所が西から来た人々に意識されるようになった
境界というのは意識されやすいのである
大陸では大きな川である、ライン河をローマ帝国をはばんだ、そこは異民族のゲルマンの地だったからである、ライン河を境にして風土も文化も歴史も違っていたからである

ここでは河ではないが地質的にも気候的にも境となっていて真野の草原として知られるようになったのである、草原(かやはら)は地名なのである
もし草原(かやはら)だったら別に萱などはどこにでも日本では茂っている
もし植物相でも変わったものになっていたら別である
草原が萱は南でも西でも東でも関係なく日本ならどこでも茂っているからそれが何か特別の目印にはならないからである
ただこれは本当にまぎらわしいものとなっていたのである

2021年01月23日

真野の草原は気候の境目 (石巻説は気候からみると無理)


真野の草原は気候の境目

(石巻説は気候からみると無理)

michinokuborder1.jpg

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを 笠女郎

天気予報を見ていると何か必ず真野の草原と万葉集に歌われた地点が境界になっている
この図では仙台辺りにもなるかもしれないがやはり真野の草原という地点にもなる

第一石巻説だと遠すぎるというのが他の人の意見でもある
そんな遠くとなると無理なのである、どうしても歴史的にも地理的にも天候でも合わないのである
雪降るにしても東京が降ったときここも雪がふる、かえって東北の北から雪がふるようで降らない
関東の方が雪るとここもふりやすいのである
それが気候のパタ―ンとなっている、それは変わらないとなる

確かに地名からするとそれに符号したものがありそれなりのものとして証明されることはある
でもやはりみちのくの真野の草原は奈良から大和朝廷が進出したみちのくの最果ての境目になる
地理と天候と歴史的なものから南相馬市の鹿島町が有力だとなる

それでも縄文時代の天候がどうだったかとなるとまた違っている
なぜなら縄文海進の時代であり海は奥深く入っていた
それで南相馬市の鹿島区の塩崎が入江となり海となっていた
塩崎という地名自体が海だったからついた
船が入ってきたので船着という地名が残っている
そのすぐ近くまで津波が来ていたことに驚いたのである
そこは低い場所だから津波か奥まで来たのである

そこには市庭とかの地名もあり市が開かれていた
それは今東北電子力の火力発電所のある所で鉄を生産していた、砂鉄をとり生産していてそれを船で運んだようである
そのために大内村に曽我船という地名が残っている、曽我(そが)とは遡るという意味である、そこを頻繁に往き来した船があり名付けられた

そして坂上田村麻呂が建てたという薬師堂が残っている、それは800年とあり古いのである、大内村はそれだけ古い場所だったのである 

ともかくもともと海だった所が今回の津波で本当に海になったのである
ただ意外だったのは海老村は高い場所にあり避難場所にも指定されていたのに村が消滅したことである、そこには最近古墳が二つ発見されたのである
だから相当に古くから人が住んでいたのである

すると大きな津波がそこにあったとも推測できるがその証拠はない
その伝説もない、ただ八沢浦の奥の方に津波が来たという伝説は残っていた
だから津波の経験を語っていたのだがそれを注目している人はいなかった

津浪によって歴史が解明されたことがあった、地史も歴史でありその間隔が数百年とか長いから記録もなく忘れていたのである  

笠女郎の歌は錯覚しやすいのである、真野の草原はやはり萱原ではなく地名だと思う
大伴家持を慕ったとしてもそこに萱原をイメージすることはない
ただ遠い果てまで行っても慕っています、面影に見えますよという解釈になる
どうしても草原が萱原に思えないのである
現実に大伴家持は多賀城に赴任した説があり本当にみちのくに来たということがあるともなるからだ、大伴氏一族がみちのくに来て跡を残しているからである

その証拠となるがここが気候的な境目になっていることである
マルハシャリンバイの南限の地となっていたのもそうである
比較的暖かい土地だからである、今でもその気候は変わっていないからである
気候は確かに変わるが代わるにしてもその期間は数千年単位とかにもなる、万年単位にもなるし億年単位にもなる
ただ地形とかは変わらないのである、だから縄文海進状態が津波で再現されたのである



2020年12月12日

俘囚とされた蝦夷(エソ)が大量に全国に移住 (真野郷の製鉄にかかわる栗太郡にも移住していた)


俘囚とされた蝦夷(エソ)が大量に全国に移住

(真野郷の製鉄にかかわる栗太郡にも移住していた)

●近江に移住させられていた蝦夷(エソ)の資料発見

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滋賀県栗東市は、律令期の近江国栗太郡(粟田)にあたり、かねてから武井・金沢製鉄遺跡群の技術体系の故地とされる官営製鉄所=瀬田丘陵生産遺跡群を抱えたところ

『六国史』(『類聚国史』の補分を含む)には吉弥侯部や吉弥侯(君子部、君子)を氏とする人物の記述が時折見られる。『続日本紀』では公民や官人としての君子氏や君子部氏、吉弥侯部氏、吉弥侯氏が記載されているが、類聚国史の「俘囚」の項には多くの吉弥侯部氏や吉弥侯氏が俘囚として記録されており、『続日本後紀』以降では俘囚以外にも賊首や賊主としての吉弥侯部氏、吉弥侯氏の記録がある。これら六国史の実際の記載としては「陸奥国俘囚」「陸奥国賊首」「出羽国俘囚」「常陸国俘囚」「甲斐国俘囚」「甲斐国賊主」「越中国俘囚」「摂津国俘囚」「播磨国俘囚」「伊予国俘囚」「安芸国俘囚長」「因幡国俘囚」「出雲国俘囚」「豊前国俘囚」「豊後国俘囚」とされているが、その殆どは何らかの功を挙げ位階を賜った記事となっている。これらの人物の中には、尾張国、駿河国、阿波国へ移配された者もあった

毛野氏一族の吉弥侯部氏(君子、浮田国造)がその伴造だったと考えられており[5]、賜姓の際には多く「上毛野」某公、「下毛野」某公の氏名を賜っている。一例としては陸奥国信夫郡の外従八位吉弥侯部足山守(きみこべのあしやまもり)が上毛野鍬山公(かみつけのくわやまのきみ)を賜ったことがある


蝦夷とは何かとなればそもそも大和王権が成立する前の日本は先住民がいて蝦夷だったのである、縄文人が先住民でありその後出雲王国があり出雲は蝦夷だったとされる
蝦夷というとき伽耶国とかからその王子のツノガノアラシトが鉄生産技術をもって蝦夷の国に入り先住民化していたのである、だから大和王権が戦った蝦夷とは手こわいものだった、渡来人がもたらした技術をもっていたからである
鉄生産もしていたからである、だからここに書かれている俘囚にしても全国に移住させられた、それで俘囚の反乱もあった
そもそも防人などに兵士として徴集されるのを嫌い反乱したというのもわかる
第一その時代に国という意識がない、狭い範囲しか認識できない、それが突然大和王権の配下になり戦地にでも送られるとしたら抵抗があった
これだけ全国に俘囚がいるとしたらそもそも大和朝廷として全国を治めたとしても不安定になる、それだけ蝦夷制定には苦労したとなる

みちのくの真野の草原(かやはら) 遠けども面影にして見ゆといふものを 笠女郎

この歌はここまでが大和王権に朝廷に服属した地として知られたものとしての歌だったのである、ここから奥はまだ大和朝廷に服属した地ではなかったのである

吉弥侯部(きみこべ)というとき毛野氏と同族関係にあり浮田国造(うきこくにのみやっこ)は南相馬市の鹿島区にあった、毛野国の支配下にあったともなる

そして

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近江粟田郡の鉄生産地と陸奥行方郡真野郷の密接なつながり (直接鉄生産の工人が行き来していた)

ここで考察したように永治二年(1142)の造立で玉桂寺の阿弥陀仏より70年前の資料である、そのように古くからエソが蝦夷がここに移住していたとなる
蝦夷の問題はそれだけ古いし終わることなく鎌倉時代までもつづき江戸時代になると征夷大将軍というのは夷を制するものとして残されたのである
それは鎌倉時代までそういうことが知られていて資料が残ったとなる
実際に真野郷と工人が直接行き来していたのでありそこに定着した人もいるともなる
その継続として今度は蝦夷が俘囚として全国各地に移住させられて管理されていたともなる、つまり歴史の継続が鎌倉時代までつづいていたのである

●阿波の忌部の祭祀集団が千葉県に移住

古語拾遺』(大同2年(807年)成立)[原 11]や『先代旧事本紀』[原 12]の説話によれば、忌部氏遠祖の天富命(天太玉命の孫)は各地の斎部を率いて種々の祭祀具を作っていたが、さらに良い土地を求めようと阿波の斎部を率いて東に赴き、そこに麻(アサ)・穀(カジノキ)を植えたという[5][6]。

同書では続けて、天富命が植えた麻が良く育ったのでその地を「総国(ふさのくに)」というようになり、また穀の木が育った地を「結城郡」というようになったとし(分注に、麻は「総(ふさ)」の古語とし、また上総国・下総国の2国がこれにあたるとする)、阿波斎部が移住した地は「安房郡」と名付けられたとする(分注に、これが安房国の国名になったとする)。また、同地には「太玉命社」を建てられ、これが「安房社」(現在の安房神社(千葉県館山市)に比定)にあたり、その神戸(神社付属の民戸)には斎部氏があるとも伝えている[5][6]

                                                           
阿波忌部ー織物の技術集団

さたみつとかあるのは忌部氏と関係している、阿波に織物の技術者集団がいてそれは千葉県に移住した、千葉県はもともと総国(ふさのくに)であり下総と上総があったからである、つまり移住するというとき何かしら技術をもった人たちがいると技術が伝えられるとなる、何か越中などの移民が紙漉きの技術を相馬地方に伝えたというのもそうである
さたみつという貞光町がありそこに行ったことがある
そこはうだつの屋並で有名である、ただ屋根に苔むしたり草が生えたりして相当に古くなっていた、その後は煙草の産地として大阪とかに煙草を売ることで栄えたのである
さたみつというのはそれだけ古い由来がある名前だとなる

初燕うだつの屋並貞光町

こんな所まで旅していたのが自分だった、地名でも阿波は安房とかなり移動しているし真野郷とあるときこれも近江に真野があり移動したとなる


 あとがき

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毛野氏一族の吉弥侯部氏(君子、浮田国造)がその伴造だったと考えられており、賜姓の際には多く「上毛野」某公、「下毛野」某公の氏名を賜っている


浮田国造は毛野氏一族の吉弥侯部氏である、毛野系統の支配下にあった
そして賜姓では毛野になっているのはその証拠である
ただ行方郡とかは大伴氏になっているのは注意が必要である
大伴氏が毛野の支配下に入ってきてそうなった
それは大和朝廷の進出を物語っている、そしてそれが真野の草原の歌とも関係している
大伴氏を慕ったのが笠女郎であるからだ
行方郡の真野郷は大和朝廷の支配下に入ったということを示している

毛野氏一族の吉弥侯部氏(君子、浮田国造)はその前のに支配していたのであり大伴氏は後から大和朝廷の進出とともに勢力を伸ばしてきた氏族なのである


2020年11月12日

国(くに)とは何なのか? (古代から国造(くにのみやっこ)から考察)


国(くに)とは何なのか?

(古代から国造(くにのみやっこ)から考察)


くに‐の‐みやつこ【国▽造】 の解説
《国の御奴 (みやつこ) の意》大化の改新以前における世襲制の地方官。地方の豪族で、朝廷から任命されてその地方を統治した。大化の改新以後は廃止されたが、多くは郡司となってその国の神事もつかさどった。くにつこ。こくぞう。

東の毛野(けぬ)、西の筑紫・豊・肥の君姓国造などさまざまであり、一律に行われた編成ではないことが分かる。

国造はそれぞれの国造の祖神たる神祇の祭祀を司り、部民や屯倉の管理なども行った。国造族の子女を舎人や釆女として朝廷に出仕させており、紀国造や上毛野国造などのように外交に従事したりもした。また、筑紫の国造(筑紫国造)のように北九州を勢力下に入れ朝廷に反抗する者や、闘鶏国造のように解体された国造も存在する。


国(くに)を考察するときそこが最小の国からの行政単位としてあった
だから国造(くにのみやっこ)が中央から派遣された
ただもともとそこに何らか国が形成されていないとそれもできない、その地域に国が形成されていて国造が中央から派遣された、第一荒野のような所だったら派遣しようがないだろう

浜通りでは石城(いわき)、染羽(しめは)、浮田が国造りが置かれた地域である
染羽(しめは)は浪江辺りであり浮田は南相馬市の鹿島区である
だから古代になるとこの三つの地域はすでに一つの国が形成されていたとなる
そこに何らか国となる人口があり人々がそれなりに住んでいたとなる
一番古い国があったとなる 、これは毛野系統なのである

ただクニというとき県(あがた)がありムラがありマチがありミヤコがある、クニというのがどれくらいの範囲なのか明確ではない、国造りのクニは狭い範囲なのである、浮田などになるとそこは相当に狭い、一つの村くらいなのである
だからクニという今の感覚では狭すぎるとなる

会津嶺の国をさ遠み逢わなはば偲びにせもと紐結ばさね

万葉集にのっている国では会津が一番古いとなる、でも会津というとき広いのである
それだけの広い所が国として意識されていたとなる
だから国造(くにのみやっこ)が置かれた国とも違って大きいとなる

そもそも国意識がどうして生まれたのか?

それは何か風土と密接に関係している、どちらかとうと四方山に囲まれた地域が国として意識されやすい、だから会津が国として古代から意識されていた
そして日本は地形的に山が多く山に囲まれている、そこに小国(おぐに)という地名が多い、阿武隈山中にも小国がありそういう場所なのである
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山超えて小国とあれや春の日やバスにおりたち一時ありぬ

福島市に行くのだがここでバスで降りた記憶があるからだ
それから小国町もありそこは遠かった、さらに青森県の黒石市から温湯(ぬるゆ)温泉へ雪が積もっている時バスで行った、トンネルをぬけるとそこにも小国とあった
こんな奥に小国があるのかと不思議だった、そこは十和田湖に近い場所でもあった
つまりこのように日本に小国という地名が多くそこを一つの国として意識していたのである、だからもともと国はそうして小さい隔絶した山に囲まれた辺鄙な所だった
そこで自給自足して暮らしていたとなる
それにしてもそこまで行くのはバスしかないのだから難儀する、車があれば別だがバスは不便だからである

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クニというとき村とも違う、村は群れるからきているから人の匂いがする
クニは区切られたとか一つの区切られた地域であり自然をイメージする
でも国というときその範囲が拡大して来た、すでに会津嶺の国でもそうである
だから日本全体が国となったのもそうである、でももともと国造りが派遣された場所でありそこは何か狭い場所なのである
今の意識とは相当に違ったものと感じる   

柳田は〈ヲグニ〉の特徴として「生活品は塩さえも土地に産することがあり、武陵桃源の隠れ里のごとく、彼らが自得自讃の根拠あることを感ぜしめる」と記しました

日本は山が多いからそういう隔絶した場所にも住んだ、だからそこで小国という意識が生まれた、そこで自給自足して生活していたからである
飯館村などがそういう地理にあり海側からすると峠を越えるのが容易ではない、地理的に隔絶されている、そこは貧しい地域だったともなる、ただ森が多いから炭焼きなどで豊かになった人もいる、木材が豊富だからそれで伊達との争いもあった

いづれろにしろ私は国にこだわるのはその土地と一体化してアイディンティティ化するのが国だからである、ただ故郷ととなると古い里なのだから狭すぎるのである
国というときもっと大きな自然がありそこでアイディンティティ化する場なのである
だからこそ日本国となるのもそれだけクニが広い範囲として国土として意識されたからそうなった、ただ行政的単位ではない、クニとはだから福島県だったら会津とは一体化できない、浜通りと会津とは全く違った風土と地域だからである
だからそれを国として意識することは無理なのである、ただ一応福島県内にあるから親密感はあるとはなる、でも地理的には相馬地域なら宮城県と仙台方面と一体感が海を通じてあったのだ、それは津波で意識された、だから宮城県の津浪の歴史を地理的一体のものとしてもっと郷土史で探求していればよかったとなる

ただ一時私はスマトラ津波の時相馬市に松川浦から津波が来て奥まで砂がボーリングで発見されたとありそのことを書いた、それは貞観津浪のものであった
慶長津波のことは何ら記録されていなかったのである、相馬藩政史に二行700人生波(いくなみ)で溺死としるされていただけなのである
それも津波の以後に発見されたのである、だからここは津浪の記録の空白地帯になっていたのである                              

ともかく地理と歴史は不可分に結びついている、だから地歴なのである
それで日本国内なら隈なく私は旅行しているから地理はわかるのである

2020年11月10日

山津見神⇒羽山津見神(羽山戸神)の関係 (なぜ羽山神社が多いのか?)


山津見神⇒羽山津見神(羽山戸神)の関係

(なぜ羽山神社が多いのか?)



よく似た名前の神…ハヤマツミ(麓山祇・羽山津見神)

死んだカグツチの体から生まれた神の1柱が「ハヤマツミ神」です。ハヤマは「山の端」という意味で、山の麓、山の入り口という意味です。「ハヤマツミ神」と「ハヤマト神」はほぼ性質が同じがかなり近い神と考えていいでしょう。

日本では山に穀物神が住んでいて、その神が里の畑に下りて、畑に宿って穀物を育てると考えていました。だから山は異世界の入り口であり、良い穀物神を宿す山は特別視したわけです。それが「ハヤマト神」だと思います。

『古事記』だけに出てくるマイナーな神に羽山戸神という神がいる。系譜は大年神(オオトシ。『古事記』において須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた)と天知迦流美豆比売(アメチカルミズヒメ)の間に生まれた神と言う。

羽山戸と羽山津見(麓山祇)は「羽山」の部分を同じくし、『日本書紀』訓注に「麓、山足を麓と曰ふ。此に簸耶磨(はやま)と云ふ」とある。よって、「羽山津見」のハヤマは端山の意で、山の麓に解され、奥山津見に対応する、と言う。地名には、羽山、葉山、早馬等があり、「は(端)、やま(山)で、平地に接する山のこと」とか、「山の端」の意



相馬地域に多いのは綿津見神社である、それと対となった山津見神社がある
それは飯館村までつづいている、飯館村の佐須にある山津見神社は有名である
また綿津見神社も対なしてあり小社ではない、なぜこの神社がこの辺で特別多いのか?
それがこの辺の古代の特徴である

そして次にわかったことは羽山神社というのがまた多いのである
これは山津見の神から生まれたものとしての系統である
山津見と羽山は一体である、なぜなら羽山津見神というのもあるからだ
山津見のの前に羽を置けばそうなる
それで「本邦小祠の研究ー岩崎敏夫」があるのもそのためである
それだけ羽山神社が多い、また地名としても多いから研究の対象となった

それは山津見神と一体のものであり元来は山津見神から派生した神であった
この羽山神が多いのは稲作と深く関係していたからである
山が水の供給源であり稲作には水が欠かせないから信仰の対象になった
それが奥山ではない里山となっていたのはそこが生活の拠点となっていたからだろう

ただ水の不思議は奥山だと平地で水がないときも水が流れている、山には水が絶えることがないのである、その水が里に流れて来て春には田植えがある、それで先祖が春には山からおりてきて実りをもたらすという信仰が生まれた

とにかく日本の神社の淵源をたどると古いのである、古事記まで連なる古いものなのである、そしてこれらの神が出雲系だというのも不思議である
神々の由来をかずねると出雲にある、そして蝦夷と呼ばれた人たちは出雲系だとしている大和より先に出雲があったとなる  
丸森町にも山津見神社があり羽山神社があり祭りが行われるている
これは全国的にも多い神社なのである、一地域のものではない、その系統をたどってゆくと古事記の記述にたどりつく、

羽山戸(端谷間門)は羽山(端谷間)か山戸(谷間門)に分けられてもおかしくはない。おそらく後世になり、山と谷間(やま)が混同するようになり、ヤマは「山」に一本化され、谷間(たにま)は苗字が多少残っているようだ。

Tomのスペース

このサイトの説明が的を得ているのか?
山(やま)とあるがこれは当て字である、日本人がヤマと言った時、山を発見したのは谷間のことだったのである、谷間からは水が流れて来る、それは稲作に欠かせないものだったからである、高い山を意識したのではない、生活に密接なものとして谷間(やま)を発見したとなる、そこから羽山信仰が生まれた、奥山は別なな世界だった
南相馬市の鹿島区の栃窪村にも羽山神社がある、それは奥山ではない、村の入り口であるただ奥山から水が平地に流れて来る地点でもある

なぜこの神に注目するというと第一大和(やまと)というとき山戸であり山の入り口なのである、そして大和と言ってもそれが生まれたのは小さな一地域のことでありそれが日本を意味するようになった、つまり日本にとって山の入り口とか羽山の地域が重要な地域だったのはそこから水が流れてきて稲作に欠かせないものだったからである

いづれにしろなぜ綿津見神社と山津見神社とそれに連なる羽山神社が多いのか?
これは日本がの成り立ちと深く関係しているのだ、綿津見神社とは海の神であり海を離れて日本はありえないし、また山津見神社があるとして山を離れて日本はありえないのである、海彦山彦の神話もそこから生まれて来た

その生業(なりわい)を 雨降らず 日の重(かさ)なれば 植ゑし田も 蒔(ま)きし畑も 朝ごとに 凋(しぼ)み枯れ行く そを見れば 心を痛み みどり子(こ)の 乳(ち)乞(こ)ふがごとく 天(あま)つ水 仰ぎてそ待つ あしひきの 山のたをりに この見ゆる 天(あま)の白雲 わたつみの 沖つ宮辺(みやへ)に 立ち渡り との曇(ぐも)りあひて 雨も賜(たま)はね

ここでは山だけでない海にも祈っている、それは綿津見神なのでる、山だけでは、海に向かっても祈っていたのである

2020年09月02日

真野の草原(かやはら)は境界線 (海水温も境界になっていたー台風でわかる)


真野の草原(かやはら)は境界線

(海水温も境界になっていたー台風でわかる)

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本当にこさも不思議である
真野の草原が海水温の境界になっている
海水温まで関係していたのかともなる


今日のテレビの天気予報で台風が来て海水温を出していた
海水温が高くなると台風が発生しやすい
それでわかったことがその海水温でもみちのくの真野の草原の万葉集の歌が歌われた南相馬市の鹿島区がその境界線になっていた
これも不思議だとなる、天気予報を見ていると何か前も何回も境界線になっていることを報告した

今回もそうだった、ちょうと南相馬当りが境界線になっている
マルハシャリンバイの南限の地としてあるのはいかに植物が気候と関係しているかである照葉樹林帯というのは温帯でありこれが亜寒帯だとそうはならない、それはやはりこの辺が境界線なのである、つまり温帯とか亜寒帯の境界線なのである
それが海水温まで関係していたのである

つくづくだから真野の草原(かやはら)が実は萱ではない、むしろマルハシャリンバイが自生していた南限の地でありむしろ萱とかの寒々しい風景ではない
照葉樹林帯の温帯地域にある、すると何か南として温帯地域として意識されていたのである、つまり草原(かやはら)というイメージにあわないのである
それでやはり草原が地名説とした私の説が正しいとなる
何かみちのくだから草原が寒々しい風景が似合うように詩的にイメージしたのである
そこが錯覚の元になったのである

私自身は詩を作ったりしているからそうしして空想的にイメージしやすいのである
でも俳句は正岡子規に習った写生俳句だからそうはならない、それで写生俳句は写真と相性がいいのである

いづれにしろ科学的思考が歴史にも欠かせない、それで天候から温度の変化とかから古代を調べる人もでてくる、そうなると理系になり私にはできないとなる
ただこうして天候を見ていると必ずこの辺が南と北の境界線になっていることは間違えないのである
つまり大和朝廷の支配領域は天候と関係していたのである
気候と一致して境界線があったとなる、つまり人間が作った歴史と自然の境界線が一致していたとなる、境界となる場所の要素として何か自然の地勢とか天候でも関係している
ライン川のように川が境界になったりするのが普通である
そしてこの境界線は歴史でも自然を知る上でも大事な要素なのである

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎

要するにこの歌は大和朝廷の支配領域になった地として境界として奈良時代に知られていた、実際にこの歌にして慕った大伴家持は陸奥に赴任したともされている
ただそれは明確な証拠がないがそれを論文で出している学者もいる
だからこの歌はとにかく大和朝廷のみちのくの進出がありその境界線として歌われたものだとなる

2020年08月23日

鉄の産地だった猪苗代湖の湖南地域 (葦から鉄が作れたー会津に荒巾木神社がある-梓 今来の謎)

      
日本海から会津の古代の歴史(1)

(地理が歴史の基礎ー逆さ地図で見る)

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人間はその住んでいる場所が中心になり支点になる、場所が変わると見方も変わってしまう、そこに地理を見ると誤解が生れる
まず日本だけではない、アジアでも世界となれば地理を理解することは神にしかできない地理は例えば実際その地を踏んだとしてもまたわからないのである
地理は俯瞰しないとまたわからない、それで山形県の小国町に行ったのだがその隣が喜多方がとはわからなかった、それは地図で俯瞰して見た時わかった
こんなに近いのだとわかった、でも小国に一時滞在してもその周りの地理のことはわからないのである、日本は特に山が多くて隣でも山に閉ざされているから山が壁となって地理がわからなくなるのだ

会津を見る時でもやはり地理が大事になる、それが歴史と一体化してし地歴となる
では会津をどういうふうにして見るのか?
それはここに示したようにアジアから逆さ地図でみる、すると会津はアジア大陸から
日本海側から会津が通じている、福島県でも会津は新潟県とか越の国と通じている 

「崇神天皇は諸国平定のため4人の皇族将軍をそれぞれ北陸・東海・西道(山陽)・丹波(山陰)の4方面へ派遣した。このうち、北陸道へは大彦命、東海道へは武渟川別命(大彦命の子)が派遣され、それぞれ日本海と太平洋沿いを北進しながら諸国の豪族を征服していった。やがて2人はそれぞれ東と西に折れ、再び出会うことができた。この出会った地を「相津」(あいづ)と名付けた」

大毘古命は先の命のまにまに、高志国にまかり行きき。ここに東の方より遣はさえし建沼河別、その父大毘古命と共に相津に往き遭ひき。かれ、そこを相津と謂ふ。
                                
ここで大毘古命(おおひこ)とは出雲の有力者である、それは蝦夷征服にも大きくかかわった人物であり天皇にも連なる族長である
出雲から高志(越国)へと大和朝廷の支配領域に組み込まれてきた、会津の名の起こりがそこから来ている、また会津とは水が会う場所だという意味もある
いくつもの川があり水に恵まれた山国である
それでもう一つ大事なことは交通から見ることである
人間の社会と交通は密接な関係がある、人が行き来することで交通があって統一国家も生れて来る、もし人間が全く交通ができないとしたら何か文明でも生まれなかったろう
なぜなら川があるとするとそれが道になりやすい、それで四大文明が必ず川の側に生まれている、つまり川の港に生まれている
エジプト文明でもピラミッドはナイル河の岸辺から港があり通じていたのである
そうなれば物資もナイル河通じて運ばれることになる
メソポタミア文明もユーフラテス川の交通があり生まれたとなる
外国の川は日本とは違い、運河のようになっている、交通には適していたのである
 ローマ帝国が成立したのも「すべての道はローマに通じる」となり道を作ったことにあった
日本でも外国の玄関口になった横浜が東京より人口が明治の時多かった
つまり横浜から文明開化が始まったのである
横浜から全国の養蚕で作った絹織物が輸出されたからである

だから地理を見る時まず場所を変える支点を変えるとまるで違ったものになる
それで逆さ地図を見ると日本がどう見えるかである
まず日本海があり日本海側にそって交通が最初にあったことが見える
大平洋は見えないのである、日本海でも韓国からみれば東海なのである
日本海は日本側から見ると夕陽が沈む地域だが韓国から見れば朝日が昇る地域なのであるこの相違は大きいから地理から誤解が必ず生まれる
人間は結局自分の住んでいる場所を中心にして見ているのである
それは狭い範囲でもそうなのである
海に面した地域から相馬藩でもありでも飯館村は山に囲まれているからその場所の差は相当に大きなものとなるのだ
見えたが違っているのである
まず山に囲まれた盆地と海に面した地域ではまるで違った世界観になる
日本は海に囲まれているのだがまた山に囲まれた盆地が多い
大和は奈良だけどそこも盆地である、会津も盆地である

そして交通から見る時、韓半島から見ればアジア大陸からみれば交通としてまず日本海側が見える、現実に日本海をわたれば日本に到達するから渡来人が来れたのである
また最初は伽耶(かや)の国から福岡に渡来人が渡って来た、日本からも渡って行った
それでかや山というのが万葉集に歌われた、かやの人たちが渡ってきて住んだからであるまた綿津見神社の綿は渡るから来ている、つまり海を渡ってきた人たちのことなのである次に渡来人が来たのは国引き神話のある出雲だった、その出雲から日本海側を通って越の国へと行き阿賀野川を通じて会津に入る
つまり日本海側と交通で結びついていたのが会津なのである
阿賀野川というと日本では道になりにくいとかある、外国の川のように運河のようになっていないからである
でも古代をイメージしたとき道などないのである、鬱蒼とした森が覆っていて道がない
するとやはり川をたどって行った方が楽なのである
川はやはり道になりやすいのである、小舟でも川を行った方が鬱蒼した森を行くより楽だとなるからだ
それで日本海が比較的冬を除いておだやかだから道となり古代でも阿部氏が船で到達したのがアギタであり秋田となった

出雲から高志(高志)へと出雲勢力が広がった、そして出雲がもともと日本の最初の国でありそれが蝦夷となった、蝦夷は出雲だというのもそのためである
今でも島根県と東北弁がズーズー弁だというとき共通しているとなるからだ
ただ大和勢力が出雲に進出して国譲りがあり出雲の人たちは出雲から逃れて信州に長野県に逃れた、それで諏訪神社の祭神はタケミナカタなのである
そしてこの諏訪神社がどこにでも多いのである
それで鹿島神社はこの出雲に攻めてきて国譲りした建御雷(たけみかづち)の神である
それで島根県に鹿島とあるとき鹿島神社はこの建御雷(たけみかづち)の神なのである
だから全国に鹿島神社が多いのである

建御名方神は、大国主命と高志(越)の奴奈川姫の間の子とされ、書紀、風土記には出てこない神である。出雲の国譲りの際に、天孫側の武神、武御雷(たけみかづち)神と戦って敗れ、諏訪に逃げ込んだ、と古事記にのみ記述されている。諏訪の側の伝承によると、建御名方神は侵入者であり、先住者の洩矢(守矢)神との領有争いに勝ち諏訪を支配したとされる


とにかく地理を見る時この交通を同時に見る必要がある

例えば棚倉町の

とあるときなぜここがヤマトタケルと蝦夷軍の戦争の場所となったのか?
それも交通と関係していた、

久慈川は幸(さけ)くあり待て潮船(しほぶね)に真楫繁貫(まかぢしじぬ)き吾(わ)は帰り来(こ)む」[丸子部佐壮(まるこべのすけを)

この久慈川から潮船で海に出たとなる、日本海でもそうでありそれは江戸時代の北前船となり継続していた、ただここでどういう航路をたどったのか不明である
このように川は交通の道としてあることを古代なら見るべきである

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「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。

ここで佐伯(さえき)とあるが 

佐伯部は日本武尊が東征で捕虜にした蝦夷を伊勢神宮に献上したが無礼を働いたりするので播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのがその祖とされています。

佐伯部は平安時代以来、「叫ぶ」に由来するとされてきたみたいでが、『常陸国風土記』に、土着民である「山の佐伯、野の佐伯」が王権に反抗したことが記されているので、「障(さへ)ぎる者(き)」で、朝廷の命に反抗する者の意味の説もあるみたいです。
又、外敵からの攻撃を「遮(さへ)ぎる者」という意味で「さへき」と呼ばれるようになったとの説があるみたいです。

こういう伝説でもいかにも当時の自然状態を示している、茨(いばら)に覆われていて道をさえぎるような状態が多かった、まず道があるいうことはめったにないのである
ところどころ日常の短い道はあっても遠くから長く通うじている道はない
常に遮られる状態だったのである
それて飯館村に行く八木沢峠に薔薇坂とかあるがこの薔薇は茨のことである
これは棘があるからまた遮るにはいいのである
一時薔薇坂に牛を飼う家があったがそこが原発事故で捨てられて原野化した
そこに茨が生えるようになった、茨があることはこれも通りにくい、茨にひっかかり通りにくくなる、そういう原初的な風景があり当時を物語るのである

会津の謎は大塚山古墳に東北で唯一の三角縁神獣鏡が発見された、それは吉備のものと同はんなのである、ここに吉備が関係していたという時吉備は大きな国であり大和朝廷が生まれる前は日本を分割して支配するほどの力をもっていたのである
だからこそ鬼退治伝説が生まれた、大和朝廷によって手ごわい相手だったから鬼とされて征伐されたのである、蝦夷でもアテルイとか大和朝廷に逆らうものは鬼とされたのである会津はすでに吉備国とかと関係して交流があり日本海から阿賀野川を通じてそうした物品ももたらされた、吉備国の支配の標として鏡が授与されたともなる 
吉備が力をもったのは伽耶(かや)から来た渡来人が集中して住んだ場所だった
そこで技術を取り入れたりして大きな国となった
それは瀬戸内海が交通路となりそれで港となり強力な国となった
その後も村上一族とか水軍が生れて力をもったから歴史は継続している

いづれにしろ歴史を見る場合、地理が先にあり地歴となる
会津は福島県では最初に国として認識された場所である、会津は山国として大きいのである、だからまずこの地理を知ることが容易ではないのだ
それで必ず会津に行くと方角がわからなくなるのである

会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね

会津はすでに奈良時代以前から国として存在していた唯一の場所なのである
ということはそれだけ古いのであり国がすでに成り立っていたのである
浜通りのみちのくの真野の草原(かやはら)は奈良から蝦夷の境界として認識されていた700年頃まではそうである、でもそこに会津のような独自な国は存在しなかったのである
また高志の国も出雲に治水のために移り住んだというとき地名としても出雲に高志というのが三つくらいあり高志も独自の国を作ったいた証拠である
継体天皇も越から生まれていることでも大きな国であり古い国であることがわかる
そして会津には気多神社とか高志国の神社があるから古代は日本海を通じて交流があったまたなぜ山形県に高志神社が多いのか?
それは大和朝廷が古紙を服属させてそれから山形県に移った
その時山形県の方に高志の人たちが移住したのかもしれない、神社はその土地の人が移住してもたらされることが多いからである

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確かなことは福島県でも会津を浜通りからまたは中通りからでも見る見方が違ってくる、磐梯山は浜通りからは全く見えない、吾妻山も全く見えない
阿武隈山脈、高原に遮られて見えないのである
この影響は物心に相当に影響する、だから福島市でも阿武隈高原遮られてた見えないから一体感が生れにくいのである
むしろ宮城県の仙台の方に地理的には一体感を感じる、交通でも電車が通っているから余計にそうなるのである


紀行・聖地巡歴・古道・古社を歩く

ここは実際にその地を踏んで神社から古代史を見ているから参考になる
一つの本のようになっているから読みごたえがある

鉄の産地だった猪苗代湖南地域 
(葦から鉄が作れたー会津にアラハバキ神社がある-梓 今来の謎)































2020年08月22日

日本海から会津の古代の歴史(1) (地理が歴史の基礎ー逆さ地図で見る)

      
日本海から会津の古代の歴史(1)

(地理が歴史の基礎ー逆さ地図で見る)

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人間はその住んでいる場所が中心になり支点になる、場所が変わると見方も変わってしまう、そこに地理を見ると誤解が生れる
まず日本だけではない、アジアでも世界となれば地理を理解することは神にしかできない地理は例えば実際その地を踏んだとしてもまたわからないのである
地理は俯瞰しないとまたわからない、それで山形県の小国町に行ったのだがその隣が喜多方がとはわからなかった、それは地図で俯瞰して見た時わかった
こんなに近いのだとわかった、でも小国に一時滞在してもその周りの地理のことはわからないのである、日本は特に山が多くて隣でも山に閉ざされているから山が壁となって地理がわからなくなるのだ

会津を見る時でもやはり地理が大事になる、それが歴史と一体化してし地歴となる
では会津をどういうふうにして見るのか?
それはここに示したようにアジアから逆さ地図でみる、すると会津はアジア大陸から
日本海側から会津が通じている、福島県でも会津は新潟県とか越の国と通じている 

「崇神天皇は諸国平定のため4人の皇族将軍をそれぞれ北陸・東海・西道(山陽)・丹波(山陰)の4方面へ派遣した。このうち、北陸道へは大彦命、東海道へは武渟川別命(大彦命の子)が派遣され、それぞれ日本海と太平洋沿いを北進しながら諸国の豪族を征服していった。やがて2人はそれぞれ東と西に折れ、再び出会うことができた。この出会った地を「相津」(あいづ)と名付けた」

大毘古命は先の命のまにまに、高志国にまかり行きき。ここに東の方より遣はさえし建沼河別、その父大毘古命と共に相津に往き遭ひき。かれ、そこを相津と謂ふ。
                                
ここで大毘古命(おおひこ)とは出雲の有力者である、それは蝦夷征服にも大きくかかわった人物であり天皇にも連なる族長である
出雲から高志(越国)へと大和朝廷の支配領域に組み込まれてきた、会津の名の起こりがそこから来ている、また会津とは水が会う場所だという意味もある
いくつもの川があり水に恵まれた山国である
それでもう一つ大事なことは交通から見ることである
人間の社会と交通は密接な関係がある、人が行き来することで交通があって統一国家も生れて来る、もし人間が全く交通ができないとしたら何か文明でも生まれなかったろう
なぜなら川があるとするとそれが道になりやすい、それで四大文明が必ず川の側に生まれている、つまり川の港に生まれている
エジプト文明でもピラミッドはナイル河の岸辺から港があり通じていたのである
そうなれば物資もナイル河通じて運ばれることになる
メソポタミア文明もユーフラテス川の交通があり生まれたとなる
外国の川は日本とは違い、運河のようになっている、交通には適していたのである
 ローマ帝国が成立したのも「すべての道はローマに通じる」となり道を作ったことにあった
日本でも外国の玄関口になった横浜が東京より人口が明治の時多かった
つまり横浜から文明開化が始まったのである
横浜から全国の養蚕で作った絹織物が輸出されたからである

だから地理を見る時まず場所を変える支点を変えるとまるで違ったものになる
それで逆さ地図を見ると日本がどう見えるかである
まず日本海があり日本海側にそって交通が最初にあったことが見える
大平洋は見えないのである、日本海でも韓国からみれば東海なのである
日本海は日本側から見ると夕陽が沈む地域だが韓国から見れば朝日が昇る地域なのであるこの相違は大きいから地理から誤解が必ず生まれる
人間は結局自分の住んでいる場所を中心にして見ているのである
それは狭い範囲でもそうなのである
海に面した地域から相馬藩でもありでも飯館村は山に囲まれているからその場所の差は相当に大きなものとなるのだ
見えたが違っているのである
まず山に囲まれた盆地と海に面した地域ではまるで違った世界観になる
日本は海に囲まれているのだがまた山に囲まれた盆地が多い
大和は奈良だけどそこも盆地である、会津も盆地である

そして交通から見る時、韓半島から見ればアジア大陸からみれば交通としてまず日本海側が見える、現実に日本海をわたれば日本に到達するから渡来人が来れたのである
また最初は伽耶(かや)の国から福岡に渡来人が渡って来た、日本からも渡って行った
それでかや山というのが万葉集に歌われた、かやの人たちが渡ってきて住んだからであるまた綿津見神社の綿は渡るから来ている、つまり海を渡ってきた人たちのことなのである次に渡来人が来たのは国引き神話のある出雲だった、その出雲から日本海側を通って越の国へと行き阿賀野川を通じて会津に入る
つまり日本海側と交通で結びついていたのが会津なのである
阿賀野川というと日本では道になりにくいとかある、外国の川のように運河のようになっていないからである
でも古代をイメージしたとき道などないのである、鬱蒼とした森が覆っていて道がない
するとやはり川をたどって行った方が楽なのである
川はやはり道になりやすいのである、小舟でも川を行った方が鬱蒼した森を行くより楽だとなるからだ
それで日本海が比較的冬を除いておだやかだから道となり古代でも阿部氏が船で到達したのがアギタであり秋田となった

出雲から高志(高志)へと出雲勢力が広がった、そして出雲がもともと日本の最初の国でありそれが蝦夷となった、蝦夷は出雲だというのもそのためである
今でも島根県と東北弁がズーズー弁だというとき共通しているとなるからだ
ただ大和勢力が出雲に進出して国譲りがあり出雲の人たちは出雲から逃れて信州に長野県に逃れた、それで諏訪神社の祭神はタケミナカタなのである
そしてこの諏訪神社がどこにでも多いのである
それで鹿島神社はこの出雲に攻めてきて国譲りした建御雷(たけみかづち)の神である
それで島根県に鹿島とあるとき鹿島神社はこの建御雷(たけみかづち)の神なのである
だから全国に鹿島神社が多いのである

建御名方神は、大国主命と高志(越)の奴奈川姫の間の子とされ、書紀、風土記には出てこない神である。出雲の国譲りの際に、天孫側の武神、武御雷(たけみかづち)神と戦って敗れ、諏訪に逃げ込んだ、と古事記にのみ記述されている。諏訪の側の伝承によると、建御名方神は侵入者であり、先住者の洩矢(守矢)神との領有争いに勝ち諏訪を支配したとされる


とにかく地理を見る時この交通を同時に見る必要がある

例えば棚倉町の

とあるときなぜここがヤマトタケルと蝦夷軍の戦争の場所となったのか?
それも交通と関係していた、

久慈川は幸(さけ)くあり待て潮船(しほぶね)に真楫繁貫(まかぢしじぬ)き吾(わ)は帰り来(こ)む」[丸子部佐壮(まるこべのすけを)

この久慈川から潮船で海に出たとなる、日本海でもそうでありそれは江戸時代の北前船となり継続していた、ただここでどういう航路をたどったのか不明である
このように川は交通の道としてあることを古代なら見るべきである

tanakura123.jpg

「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。

ここで佐伯(さえき)とあるが 

佐伯部は日本武尊が東征で捕虜にした蝦夷を伊勢神宮に献上したが無礼を働いたりするので播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのがその祖とされています。

佐伯部は平安時代以来、「叫ぶ」に由来するとされてきたみたいでが、『常陸国風土記』に、土着民である「山の佐伯、野の佐伯」が王権に反抗したことが記されているので、「障(さへ)ぎる者(き)」で、朝廷の命に反抗する者の意味の説もあるみたいです。
又、外敵からの攻撃を「遮(さへ)ぎる者」という意味で「さへき」と呼ばれるようになったとの説があるみたいです。

こういう伝説でもいかにも当時の自然状態を示している、茨(いばら)に覆われていて道をさえぎるような状態が多かった、まず道があるいうことはめったにないのである
ところどころ日常の短い道はあっても遠くから長く通うじている道はない
常に遮られる状態だったのである
それて飯館村に行く八木沢峠に薔薇坂とかあるがこの薔薇は茨のことである
これは棘があるからまた遮るにはいいのである
一時薔薇坂に牛を飼う家があったがそこが原発事故で捨てられて原野化した
そこに茨が生えるようになった、茨があることはこれも通りにくい、茨にひっかかり通りにくくなる、そういう原初的な風景があり当時を物語るのである

会津の謎は大塚山古墳に東北で唯一の三角縁神獣鏡が発見された、それは吉備のものと同はんなのである、ここに吉備が関係していたという時吉備は大きな国であり大和朝廷が生まれる前は日本を分割して支配するほどの力をもっていたのである
だからこそ鬼退治伝説が生まれた、大和朝廷によって手ごわい相手だったから鬼とされて征伐されたのである、蝦夷でもアテルイとか大和朝廷に逆らうものは鬼とされたのである会津はすでに吉備国とかと関係して交流があり日本海から阿賀野川を通じてそうした物品ももたらされた、吉備国の支配の標として鏡が授与されたともなる 
吉備が力をもったのは伽耶(かや)から来た渡来人が集中して住んだ場所だった
そこで技術を取り入れたりして大きな国となった
それは瀬戸内海が交通路となりそれで港となり強力な国となった
その後も村上一族とか水軍が生れて力をもったから歴史は継続している

いづれにしろ歴史を見る場合、地理が先にあり地歴となる
会津は福島県では最初に国として認識された場所である、会津は山国として大きいのである、だからまずこの地理を知ることが容易ではないのだ
それで必ず会津に行くと方角がわからなくなるのである

会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね

会津はすでに奈良時代以前から国として存在していた唯一の場所なのである
ということはそれだけ古いのであり国がすでに成り立っていたのである
浜通りのみちのくの真野の草原(かやはら)は奈良から蝦夷の境界として認識されていた700年頃まではそうである、でもそこに会津のような独自な国は存在しなかったのである
また高志の国も出雲に治水のために移り住んだというとき地名としても出雲に高志というのが三つくらいあり高志も独自の国を作ったいた証拠である
継体天皇も越から生まれていることでも大きな国であり古い国であることがわかる
そして会津には気多神社とか高志国の神社があるから古代は日本海を通じて交流があったまたなぜ山形県に高志神社が多いのか?
それは大和朝廷が古紙を服属させてそれから山形県に移った
その時山形県の方に高志の人たちが移住したのかもしれない、神社はその土地の人が移住してもたらされることが多いからである

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確かなことは福島県でも会津を浜通りからまたは中通りからでも見る見方が違ってくる、磐梯山は浜通りからは全く見えない、吾妻山も全く見えない
阿武隈山脈、高原に遮られて見えないのである
この影響は物心に相当に影響する、だから福島市でも阿武隈高原遮られてた見えないから一体感が生れにくいのである
むしろ宮城県の仙台の方に地理的には一体感を感じる、交通でも電車が通っているから余計にそうなるのである


紀行・聖地巡歴・古道・古社を歩く

ここは実際にその地を踏んで神社から古代史を見ているから参考になる
一つの本のようになっているから読みごたえがある































2020年08月20日

みちのく真野の草原は気候の境界 (シャリンバイは南限であり今日の暑さも境界になっている)


みちのく真野の草原は気候の境界

(シャリンバイは南限であり今日の暑さも境界になっている)

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暑いけど真野の草原の万葉集の歌は境界だった
暑さ寒さの限界地点なのである
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大和王権に服属した地域である、ちょうど真野の草原辺りがそうだった
つまりここが大和王権の支配の境界だったのである
気候でもそうであり歴史的にも大和にその境界として知られたのである
そこに真野の草原の意味がある
この歌はそういう歴史的背景がありただの恋の歌ではないのである
真野の草原の草原(かやはら)まで大和王権の支配地域となりましたという宣言の歌でもあった
そういう境界の場所として奈良の都では認識していたのである


万葉集のみちのくの真野の草原(かやはら)のことを追及して来た
何か前も寒さでもここを境界にして寒さがやわらぐ
今回でも猛暑だけどここを境にしてほぼ温度が低くなっている
ただ中通りはそもそも盆地になっているから暑いのである

それで阿武隈高原を越えて浜通りに帰る時、海から涼しい風が吹いてきたとき
本当に気持ちよくなりほっとした
自転車だと風を感じるのである
浜通りは海から風がふくから涼しいし冬は温かいのである
それが取り柄なのである、福島市とかは夏は暑いし冬は冷えるのである
だから気候からすると中通りと会津には住みたくないのである

それで海老浜が車輪梅の南限の地として有名だった
このマルハシャリンバイは奄美大島が原産地でありここが南限の地として咲くのである
つまり気候と深く関係して植物でも花でも咲くのである
北海道になると高山植物が平地で咲くというときやはり気候の関係でそうなる
植物は気候に敏感なのである 

そしてもう一つ気候の境界線が東北では平泉辺りになる、そこまでは東北でも芭蕉が旅したみちのくの領域になる、さらに北上すると青森とかなり別な世界になるかもしれない
やはとり平泉も一つの気候の境界でありそこに東北の都となったとなる
気候の影響は大きい、照葉樹林文化のことでも追及したがその温帯系文化が中国とか東南アジアとかにつづいていてそれで安曇系統の綿津見神社が南相馬市近辺に多いのである
スダシイ神社が原町区の高地区の多珂神社の隣にあるのもそのためである

ともかく気候の影響は大きい、植物の分布でも気候によって分布する
人間も時代をさかのぼればのぼるほど気候の影響を受ける
ただ南相馬市でも熱帯化した時期がありそれでサンゴの化石が真野川の上流などで発見されたのである,フタバスズキリュウなどは熱帯化した海で生きることができたが寒流では生きられなかったろう

ともかく世界をみるとき気候から見ることは欠かせないのである
気候の変動があり世界が変わるということがある
ただこの暑さは異常である、ヒートアイランドとかクーラーとかの熱とか人工的に暑くなっている、玄関の前がアスファルトであり熱気がこもって外に出れなかった
何か現代は都会のように人工化して暑くなるのである
おそらく風車とかソーラーパネルでも熱くすることがあるだろう
だから家の前にソーラーパネルがあると反射熱とかで暑くなるから嫌である
人工化したものは必ず自然に影響する、つまり風車もソーラーパネルも自然エネルギーではないのである、だから明らかに植物に影響する、葉から水分を蒸発したりすることが過度になったりして影響する

つまりコロナウィルスでも何か人間側に自然に対して人工的に人為的に作用してウィルスが人間にうつってくる、この世に起きることは自然災害でもそれは自然が悪意があってしているのではない、自然には自然の法則がありその法則をさまたげることをすると不自然となり自然災害が起きて来る
ダムでも水が流れているのが自然であり水の流れを止めるのは不自然だから洪水になったりする、つまり人間の技術はなんらか自然にとっては不自然になり問題が起きる

歴史でも天候は常に関係して来た、古代とかなると自然は原始のままの所がまだ多かったすると天候でも自然をより反映したものとなっていた
ただ天気図を見ると確かにこの辺が気候の境界線だということが変わっていないのである暑さでも寒さでも天気図を見ると境界線になっている
だから万葉集の真野の草原は明らかに南の境界線だったのである
そのために奈良の都にでも知られていたとなる


2020年07月18日

温暖化でネッタイシマカが東北で生息する範囲 (真野の草原と真野氏の登米までの進出の地図と一致)


温暖化でネッタイシマカが東北で生息する範囲

(真野の草原と真野氏の登米までの進出の地図と一致)

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赤は関東であり温暖化が著しい
薄茶色は東北で温暖化してネッタイシマカが生息できる範囲


真野の草原は境界線である、気候的に歴史的にも



ウイルスを媒介したのは、熱帯地域に生息するネッタイシマカ。感染した人を蚊が刺すとウイルスが蚊の体内に取り込まれて増殖。その蚊がウイルスを運び、他の人に感染を広げる。これまで感染が拡大した地域は赤道付近に限られていたが、温暖化の影響でネッタイシマカが生息しない日本でも感染リスクが高まっていることが分かってきた。

ここに地図のオリジナルがでている、コピーできないので参照してください


このウィルスが温暖化で広まってゆくことを警告している
もともと熱帯産だけど東北地方でも温暖化で広まってゆくとしている
つまりウィルスは温度とか湿度とかの影響を受ける
寒い所に生息するものもいる、シベリアの凍土にもウィルスが生息していて最近発見されたのである、だから温暖化で凍土が溶けるとそのウィルスが現れて人にもうつるのかと心配しているがそれは起りえないとしている
でもなぜそんな凍土の中でもウィルスが一つの最小生命体が生きられるのか謎である

ここで注目したのは万葉集の歌が残された南相馬市の鹿島区のことである
その海老浜はシャリンバイの北限地として有名である
この辺ではいたるところにシャリンバイを植えているし見られるのである
ただ津波で海老村は消失した
このシャリンバイは奄美大島産であり熱帯性である
だから真野の草原の万葉集の歌が残された地点は気候の境界線だったことを追及して来た東北でもあたたかい場所でありそれでここが南の植物が生息できる限界地点であり境界になっていた

これはまた歴史的境界線にもなっていた、歴史をは地歴であるしまた風土とも関係している、特に気候は注意すべきである、緯度に注意すべきである
緯度が違うと暑さ寒さが違ってくる、それで文化も違ってくる
阿武隈山脈の地域が温暖化してもこの蚊が住めない地域になっているのは例えば飯館村になると400メートルの標高差が平地とあるからだ、寒いからこの蚊は生息できないとなる

とにかく照葉樹林帯というのは緯度と深く関係している、この緯度上に共通の文化をもっていたのである
そしてなぜこの辺にやたら綿津見神社と山津見神社が多いのかということである
それは飯館村まで綿津見神社と山津見神社が主要な神社なのである
それは相当に古いのである、それで佐須とは明らかに焼畑地名である、他にも飯館村には焼畑地名があるからだ、そこは森がおおっていて焼畑に適していたのである
その焼畑の技術は照葉樹林帯に住む人たちがもっていてできたのである
それが安曇族とか海洋民族でありその人たちが日本に船で渡ってきたのである

そしてもう一つの渡来人がツノガノアラシトの伽耶国の王子の名前でありそれが産鉄族であり砂鉄で鉄作りをする人たちだった
ツノとつく地名は点々とあり津神社となっているのは読み方はツノ神社である
相馬市の松川浦の津神社はツノミツ神社でありこれもツノガノアラシトである
そして大和王権がその後に鉄作りに関与してきた
それが真野氏なのである、南相馬市の鹿島区の真野郷の由来ではないかというのもそのためである

その真野氏が石巻に到達してやはり和邇山(わに)とか地名を残しているし木簡にも真野と記されたものが発見されたのである
そこに萱原という地名があり真野という地名も残っているのである
これは真野氏の移動の跡なのである
そしてこの真野氏は北上を上り登米まで行って製鉄業にたづさわっていた
なぜならそこにも真野という木簡が発見されたからである
そして不思議なのは温暖化で気温が上がりネッタイシマカが生息する場所になるとしている

そしてこの地図の不思議はその登米から平泉が近いのである
つまり平泉がみちのくの古都となったが今は岩手県内になるが何かその位置が地理がこうして古代から中世にみちのくの都になったことを暗示している
すでに古代から黄金の道があり湧谷に黄金が出て奈良の大仏の鍍金に使われた
それで

天皇(すめろき)の御代栄(みよさか)えむと東(あづま)なる
 陸奥山(みちのくやま)に金(くがね)花咲く

という歌が歌われた、鉄と黄金を求めた道があった、北上川はその道になっていたのである
でも平泉から北になると温暖化しにくい場所になる、寒い場所になりネッタイシマカ生息できないと地図ではなっている

とにかく動植物でもそうだが生物が生息できる緯度はその文化が違うのである
そして照葉樹林帯文化がその文化を共有するものとして日本にその跡を残したのである
温暖化すると関東地方は本当に熱帯化する
ただ温暖化というのはないという学者もいるからそれはわからない
ただもともと南相馬市でも栃窪とかから真野川をさかのぼってサンゴの化石が発見されたから熱帯であった、フタバスズキリュウが生息できたのも熱帯だったからである
古生代になると相当に暑かった熱帯だったのである
そうした気候の変化がありこれも歴史に影響している

ともかくこのコロナウィルスはいろいろなことを導きだした
だから不思議だとなる、私は生物学などわからなにしても何かこれも文系でも地歴と関係してくる、地理と歴史と関係してくる
私は地理に興味がある、日本でも世界でも旅したからである
それでウィルスは地理と関係が深いことを知った、つまり地理の通り感染者が増えたのである
最初は東京から感染者が増えてその隣県に広まる、そして最初から仙台市は危険だと思っていたらやはり最近になって仙台市が増えてきた
それも地方では東京と関係して感染しているのが多いのである
これも交通と深く関係して起きていることなのである
ただ北海道は例外である、あそこは中国人が大量に観光に来ていた結果なのである

ウィルスは風土と深く関係している、だからもともと一地域の風土病だったが人間が行き来すると人とともにウィルスが伝染する、それでモンゴル軍がペストをヨ−ロッパに運んだ、クリミヤの港から今度はベニスに伝染した
そしてヨ−ロッパの三分の一がペストで死んだから恐ろしいとなる
今回も中国と関係を深めたイタリアからヨ−ロッパにたちまち拡散した
だからウィルスでも歴史は繰り返すというのは本当である
津浪でも自然災害でも繰り返して起きてきたことなのである
ただ人間は忘れやすいので忘れたころに災害が来るとなる

ともかく津波がきて津波のことを関心をもつ、ウィルスでも異常なほど関心をもつ
それは結局生命にかかわるからである、何か素人でわからないにしても恐怖になりその正体を知りたいとなるのである
そういう契機になったことは確かである 


manotome222.jpg
登米市(とめ)の登米(とよま)まで製鉄集団の真野氏が移動した (奈女加多(行方)が移動している)

こうしてインタ−ネットでも情報とか研究がでていると素人でも研究に参加できる
今回はNHKだった、他でも津波の学者の論文を読めたことは参考になった
こうして素人でも学術的なことにも参加できるようになったのである

そもそも資料が読めないとしたらどうにもならない、図書館は調べることがしにくいのである
いちいちコピーしたりめんどうなのである
そして時間がかるから何年も行っていない、家事とかで忙しいし時間をとられるから行かなくなったのである


2020年07月13日

コロナウィルスに東アジアがすでに抗体をもっていた (日本人のルーツとも関係していたコロナウィルス?)

コロナウィルスに東アジアがすでに抗体をもっていた

(日本人のルーツとも関係していたコロナウィルス?)

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神王TVでここがリスクで注意すべきだとしていた
でも逆にここの民族が感染者が少なく死者数も少なかったのである
欧米人と比べるとその差が大きかった

colonaviirud111.jpg

人種は大きくこの三つである、イスラム系はアーリアン人(白人)系がまじっている
ペルシャ人は古い民族である、アラブ人は新しい人種である
エジプト人は謎でありアフリカ人の黒人の血とヨ−ロッパ人の混血だとしている



最初神王TVで漢民族とベトナムとかがコロナウィルスのリスクが大きく感染しやすいとしていた、それは受容体が同型でありそれで重症化しやいし感染しやいと警告していた

それははずれていた、ただ何か系統としてこのグループは逆に感染者が少なかった
ただ遺伝子系統として同族グロープを形成したということは確かだった

それから時間が経てこのグループがかえって感染しにくいことが判明した

なぜ日本人は感染者が少ないのか、また死亡者がすくないのか?

それがヨ−ロッパとかに急速に広がり死者数も増えたからなぜだろうと疑問になった
アメリカも白人でありヨ−ロッパ系統である
そしてニューヨークでは白人とアジア系を比べるとやはりアジア系統は半分くらいだという、ただアジア系が感染者が少ないのはすでにコロナウィルスに抗体をもっていたからだという、それは十年くらいの間に渡米した人たちでありその前の人は抗体をもっていないという、そこを調べると人種間でなぜ差があるのかわかるという

推測しているのはなぜ東アジアの人種が東南アジアでも少ないし死者数も少ないのはなぜなのかということである
なぜヨ−ロッパでもアメリカでもあんなに増えて死んでいるのか?
それはなんらかここ十年くらいでコロナウィルスに対しての抗体が作られていた
そのために感染者でもこんなに少ないしまた死者数も少ないとしている

これに興味をもったのは日本人のルーツがどこにあるのか?

古代史とかに興味をもっていたから人種的なものとして同系なのが東アジアから東南アジアである、そこは稲作地帯の文化を共有しているのである
照葉樹林帯の文化がありそれが日本列島とつながり一つの共有した文化圏を形成していた

日本人の起源がわかりにくいのはとにかく縄文人の歴史が古いからである
一万年とかあるとその間に混血をくりかえしてきたともなる
縄文人がどこからきたのかわからていにしろ東南アジアとか中国の漢族が住んだ東アジアとかに連なる地域は人種的にDNAでも共通している
それで今回のコロナウィルスでも抗体をもち感染者が広がらないし軽くすんでいるのかとなる、ただ今後の展開はわからない、重症化して死者も増えるかもしれないからだ

コロナウィルスに関しては様々な情報がすでに出ている、ただ私は理系ではないし遺伝子となるとほとんどわからない、でもインタ−ネットで素人なりに推測できるものがありしているだけである

もともと縄文人と渡来人が結合して日本人になったということは通説である
ただこれも単純ではなく複雑な交差をしている、その中で韓国が実は縄文人の後継者であるとういのもそうかもしれない、つまり日本の縄文人が韓国の祖先の一つだともなる
韓国はそうした地理に位置していたからである、ただこれを言うと相当な反発が起きる

ウィルスは風土病だったというときその独自な風土から生まれた
その独特の風土を共有していたのが東アジアであり東南アジアとなるが気候的には東南アジアは熱帯である、中国などは漢族の地域は温帯なのである
気候的には日本は温帯である、だから風土的には東南アジアより漢族の地域が共通している

とにかくなぜ相馬地域に綿津見神社と山津見神社がやたら多いのかということである
これは海洋民族の安曇氏とかが移住してきたからだとなる
これは明らかに縄文人ではなく渡来人の大きな一団が入ってきた
鉄生産の渡来人は点であるが照葉樹林文化圏に連なる焼畑などの技術でももたらしたからその土地に土着した人たちだったのである

いづれにしろコロナウィルスはいろいろな問題を提起した、人種論にもなる
人種はやはりアフリカ人と白人のヨ−ロッパ人とアジア人になるだろう
アジア人も一つではない、でも人種には類型がある
ただ人種でもその生活形態が違うと全然共通性もなくなる
遊牧民と稲作民は根本的に共有しないからである
でも中国は始皇帝が生れたのは遊牧民の地域でありそれで始皇帝陵兵馬俑からあれだけの馬の陶が現れたのである
そこに砂漠から西アジア系統の人たちが来ていた、だから中国は最初は遊牧民が国家を作ったともなる

ただ日本人の系統は東アジアと東南アジアでありそれに稲作と焼畑の技術をもった人たちが移り住み混血したのである
だからこそコロナウィルスに抵抗する抗体をもっていたともなる
ただ私にはDNAとなるとむずかしくなり理解不可能である

ただどうしても欧米にあれほど蔓延して死者数も多い、その差の説明は人種的なものがあると科学者でなくても推測すると納得する

インタ−ネットを調べればこのコロナウィルスの情報は大量に出るようになった
ただ推測でありまだ謎なのである

2020年05月13日

済州島を中継地として日本に来た渡来人集団 (相馬地域に多い綿津見神社の由来)


済州島を中継地として日本に来た渡来人集団

(相馬地域に多い綿津見神社の由来)

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例えば長江の河口を出発点とすれば舳を東に向けて一心に漕ぎ続ければやがて黒潮に乗り海流が北向きに運んでくれるから九州の西岸あるいは長崎県五島列島の辺りに到達する
五島列島辺りから舳を西に向けて漕ぎつづければ黒潮を乗り切った後に済州島または
朝鮮半島西南岸辺辺りに着くから、そこから先は黄海を横断して中国沿岸に到達する

第二回の渡航集団は済州島の中継基地を経由して大村湾から有明海に入りそ北部沿岸、
現在の佐賀市の近辺に上陸してその地を最初の生活拠点とした

徐福の集団は居住地として選んだ済州島ならびに日本列島の各地方で土木技術、水田灌漑技術、養蚕技術、製紙技術、医薬など知識をもちこみ先住民の心をつかんだ

兄(先の渡来民)弟(後の渡来民)である山幸(農耕民を基盤とする亡命民)の物語として長く語り継がれるようになった

古代水辺民の物語(太陽の生まれる楽土を求めて)−倉富春成

済州島は中継地点となったということはこういう歴史を知らなくてもその場に私が立った時、直感したのである、まず地理はその場に立たない限りわからない
頭でわかっても体でわかることが必要なのである
だから必ずしも地図を見てもわからないのである
済州島のカンナさんを仰いだときそれは2000メートルとなれば高いのである
そこに上らないにしてもそこに上った中国大陸と韓半島と日本を望む場に立つのである
だからそこが中継点になっていたことで済州島が重要な役割を果たしていたのである

黒潮というとき与那国島辺りからその流れが生じている、その黒潮の流れに乗って日本列島に到達するようになっている、与那国島まで行ったからそこは台湾に近いのである
むしろ日本より本州より台湾が身近になる、そこは国境の島であり自衛隊が駐屯するようになった要の島だともなる

日本に到達した人たちは中国本土からもあり韓半島からもあり南太平洋のパラオとかもありそういう移民たちが海を渡ってきて日本と縁を結んだのである
だから江西(えにし)は縁(えにし)であり日下石(にっけし)は西の意味である
また日下石の日をあてたのは太陽の下になる、太陽の沈む場所だからである
海から見る時、日下石は太陽の沈む場所だった
それが津波で証明されたのである、その日下石近くまで津波が押しよせて海になったからである
それで確かに海とかした湾となった岸が日下石であることが実感としてわかったからである

徐福伝説でもそうだが日本には海から渡ってきた人たちが作った歴史がある
日本の建国神話も古事記でも海洋民の神話であり海を渡り日本に移住した人たちが作ったのである
なぜやたらに相馬地域に綿津見神社が多いのか、それと並行して山津見神社が多い
飯館村にも綿津見神社神社と山津見神社があり対をなしている

海彦は兄(先の渡来民)弟(後の渡来民)である山幸(農耕民を基盤とする亡命民)の物語として長く語り継がれるようになった

海彦と山彦の物語はそれを示している、海彦が咲きであり山彦は後であるというとき綿津見神社が先でありそれが相馬地域に多いのである
松川浦でも山津見という地名が和田とあるのは綿津見(わたつみ)から来ている
そこが二つ対になり地名化している、そこが上陸地点だったからである
ただ安曇氏(あづみ)という一族が長野県に入って跡を残している
そこで舟の祭りを伝えている、山の中でそういう祭りがあるのは海洋民が移動して伝えたからである

移動してものとして伽耶(かや)国からツノガノアラシトのがいる、それは伽耶国の王子でありその跡も福島県の浜通りに点々と残されている
それは線として海岸沿いに残している、津神社はツノ神社でありツノガノアラシト系である
その一団は砂鉄を用いて鉄を作る技術者集団だった 
松川浦の津神社はつのみつ神社でありツノ神社である
この二つの集団があるとしてツノガノアラシト系は線として跡を残している

一方綿津見神社とか山津見神社を残した渡来人は線としての跡ではなく面としての跡を残している
つまりその渡来人はこの土地に広く土着したのである、だから面として広く神社を残している、例えば飯館村に山津見神社があるがその近くに佐須があるとしてこの佐須(さす)は焼畑のことでありその技術は渡来人がもたらしたものである
渡来人は種々の技術をもたらしたからである
ただ先住民として縄文人がいてその人たちと合体したのである
だからそれは大和王権ができる前に蝦夷として大きな勢力として日本列島にあった
その蝦夷とは出雲族のことだったのである  

天照大御神が八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、思金神と八百万の神々は「伊都尾羽張神(いつのおはばり、天尾羽張神)か、その子の建御雷之男神(たけみかづちのお)を遣わすべき」と答えた。天尾羽張神は「建御雷神を遣わすべき」と答えたので、建御雷神に天鳥船神(あめのとりふね)を副えて葦原中国に遣わした。

建御雷神と天鳥船神は、出雲国の伊那佐之小浜(いなさのおはま)[注釈 4]に降り至って、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主神に「この国は我が御子が治めるべきであると天照大御神は仰せられた。それをどう思うか」と訊ねた。大国主神は、自分の前に息子の八重事代主神(やえことしろぬし)に訊ねるよう言った。事代主神はその時、鳥や魚を獲りに出かけていたため、天鳥船神が事代主神を連れて帰り、国譲りを迫った。これに対して事代主神が「恐れ多いことです。言葉通りこの国を差し上げましょう」と答えると、船をひっくり返し、逆手を打って船の上に青柴垣(あおふしがき)を作って、その中に隠れた。

建御名方神の服従

諏訪湖     

建御雷神が「事代主神は承知したが、他に意見を言う子はいるか」と大国主神に訊ねると、大国主神はもう一人の息子の建御名方神(たけみなかた)にも訊くよう言った。その時、建御名方神が千引石(ちびきのいわ)[注釈 5]を手の先で持ち上げながらやって来て、「ここでひそひそ話すのは誰だ。それならば力競べをしようではないか」と建御雷神の手を掴んだ。建御雷神は手をつららに変えて、さらに剣に変化させた。逆に建御雷神が建御名方神の手を掴むと、若い葦を摘むように握りつぶして放り投げたので、建御名方神は逃げ出した。建御雷神は建御名方神を追いかけ、科野国の州羽の海まで追い詰めて殺そうとした

この建御雷神が南相馬市の鹿島区の鹿島神社に由来している
つまり蝦夷とは出雲族のことでありまたは渡来人集団と一体化した人たちのことである
だから技術をもっていたから大和王権にとって手ごわい相手となった

そして神社をみる場合は古いのか新しいのかがわからない、郷土史の基本が村の新旧を見ることだという時、新旧が問題になる
だから一体津神社と綿津見神社がどっちが古いのかとなる
どっちも渡来系の神社にしてもどっちが新しいのか古いのかわからない
ただ綿津見神社系統がこの地に土着したことは間違えないのである
ツノガノアラシトの津神社系統は一時的に鉄の生産にたずさわりさらに石巻の北上川をさかのぼり登米に移動したのである

そこで真野氏がかかわっていたのだがこの真野氏はどこから来たのか?
これも渡来系であるのか?吉備に真野という地名がありそれが伽耶系と連なる一族だったともなる
それで真野の草原(かやはら)の万葉集の歌を残したともなる
草原のカヤは萱ではなく伽耶国に由来するとも私は推察した
古代史はこのように中国とか韓半島とか南太平洋諸島ともつながり範囲が広いのである

いづれにしろ歴史は地理であり地歴なのである、だから地理がわからないと基本的なものがわからないのだ
この逆さ地図で日本の立ち位置を説明した、これを見れば感覚的に相当に違ったものになる、視点が逆転して見える
すると出雲のある島根県から日本海を伝わり今の長野県に至り諏訪神社がありそれは大国主神はもう一人の息子の建御名方神(たけみなかた)を祭っているのだ
それから常磐線に末続がありそれは島根県の出雲由来なのである
末は須恵であり須恵器を作る渡来人集団が移住した跡だともなる

そして不思議なのはなぜ草原(かやはら)とあり原町の萱浜がある、この萱がもともとはカイだとしている、そのカイとはアイヌのことだともなる
北海道の北海(ほっかい)とあるがもともとカイ族のことでありアイヌのごとだったとしている、そのカイが甲斐になりその伝説がここに伝わっている
それもやはり地理的なものとして解明すると何か関係が見えて来る
つまり太平洋側からではなく中国から韓半島から日本を見るとそのつながりが可視化されるのである


米中対立の時代で日本が危機になる (アジアの地図の見方ー地図で錯覚される世界)

海に囲まれた日本の地理が日本を作った (日本とアジアの地政学―太平洋戦争の意味)



2020年05月03日

福島県浜通りの津神社はツノガノアラシトの跡 (蝦夷は出雲族であり伽耶(かや)と連合した)


福島県浜通りの津神社はツノガノアラシトの跡

(蝦夷は出雲族であり伽耶(かや)と連合した)

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原町区雫(しどけ)の津神社


「出雲の国譲り」のあと、畿内から遠い九州あるいは東北方面に逃れた。
東北に安住した者は蝦夷(えみし)と呼ばれ、九州に安住した人は隼人(はやと)と呼ばれるようになった。
だから東北に暮らす我々は、蝦夷の末裔ということになる。

大国主命に従っていた国つ神たち、つまり日本の先住民はの首領たちは、出雲を追われてどこに行ったのか?
長野の諏訪神社の御神体は蛇=竜だ。
諏訪大社に祀られている建御名方神(たけみなかたのかみ)は大国主の子で、国譲りを迫る天照の使者建御雷(たけみかずち)と力競べをして敗れ諏訪へ逃げた。 のちに様々な祟りをなしたので、朝廷は大和に三輪神社{大神神社)を建立する。


坂上田村麻呂が東夷征伐の勅命をうけて進軍してきた際、苕野神社にて戦勝を祈願し、無事近隣の山を支配下に置く賊徒を平定した後に、神恩への報賽として神殿を建てたという
苕野神社は往古は請戸地区の沖にあった「苕野小島」という島に鎮座していた。その後、波浪などで島が崩壊したため、現在の鎮座地に遷座したという。また、2011年3月11日発生した東北地方太平洋沖地震により、浪江町の沿岸部は津波の被害を受けた。海のそばに鎮座する苕野神社も社殿がすべて流出、前宮司の家族も犠牲となった

末続駅の末続も渡来人の跡か? (地名に残した渡来人の跡ーツノガノアラシトの跡)

これを前に考察した、それで図に書き加えた、これだけ一連ものとしてつながりがあったことは明確である
草野神社もそうである、鹿島区の大内村の薬師堂は元は坂上田村麻呂由来である
諏訪神社系統ももともと出雲であり蝦夷というとき出雲でありそれが建御雷(たけみかづち)の戦いで神ゆずりしたとされる
鹿島神社はそこに由来している
そして鹿島区の海老はエヒであり蝦夷のことである、その蝦夷と戦ったのが物部であり
御刀神社があそこに祀られたのはそのためである、なぜなら海老村をにらむ地点にあったからである、第一刀神社とは刀をそこに突き刺したことに由来しているから刀で征服したということである

それで問題は原町の萱浜である、もともとカイハマといっていた
そのカイとは北海道の名の起こりが北海(ほっかい)であるがアイヌはカイと呼ばれていたのである、また甲斐はアイヌに由来するのか?
なぜかここのカイが武田信玄と関係づけられているのもなぜだろうとなる
そのカイがカヤとなったのはなぜなのか?
そこで真野の草原(かやはら)のことで探求し続けたのが自分だった

ここで気になったのが浪江の苕野神社(くさの)神社がもともとは草の小島という場所にありそれがは波浪で流されたという時、それは津波のことなのか?
そして今回も請戸の宮司が津波に流されて死んだのである
鹿島の烏崎の津神社も津波で流された、あれはもともと高い場所にあった
それが低い場所に移された
また原町の雫〈しどけ)の津神社も高い奥まった所にあった、あんなに高い所にあるのも不思議である
そして相馬市の松川浦の津神社(つのみつ)は辛うじて津波から逃れた
そこに逃げれば津波から助かるという伝承があったという
でもすれすれだったのである
もともと神社は低い場所にない、なぜなら日本の低い場所は湿地帯だったからである
今回も海岸地帯は湿地帯となった、田んぼが湿地帯になったのである

ともかく図にしたこの浜通り一体はツノガノアラシトの進出した跡である
砂鉄を求めて進出した跡である、それが地名化したというとき先住民の蝦夷が住んでいたとしてもそれが大和朝廷の全国征服で歴史から消された、でも神社とか地名は残っていたでもその由来がわからなくなった、伽耶国のツノガノアラシトが関係していたとしても
伽耶自体が歴史で不明となったからである
ただ伽耶は日本と密接な関係にあった、天皇が伽耶国に由来しているいう時もそうである
そしてもう一つ朝鮮半島の突端の伽耶国が照葉樹林帯の中に入っていたのである
つまりこの照葉樹林帯は温暖な風土から生まれた地帯として文化があった
朝鮮半島は大陸であり寒い系統にあるがその突端の伽耶国は比較的温暖だから照葉樹林帯の中に辛うじて入っていた
常盤(ときわ)とか常葉(とこは)というとき常に緑をたたえた常緑の森なのである

初発神社の境内は、スダシイが主となる自然林です。スダシイは暖かい地方に生えるブナ科の植物で、この場所はスダシイの北限の地として知られています。
多珂神社の隣にある神社である、それと並んで綿津見神社がある
これは安曇族などの神であり海洋民の神である、ここも照葉樹林帯文化に属する人たちがここに移住してきてその人たちの神を祭ったのである   



2020年03月06日

コロナウィルスが感染しやすい人種がDNA解析で判明 (日本人のルーツ解明の重要な情報)


コロナウィルスが感染しやすい人種がDNA解析で判明

(日本人のルーツ解明の重要な情報)

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青い四角の中は90パーセントの感染率である


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この情報は日本人のルーツを知る重要な情報と思った
これは明らかに日本人がどこから来たのかということで言われても来た
江南地方であり長江をさかのぼった雲南とかと文化が共通している
照葉樹林帯文化としてつながりがあるとされる

根栽類の水さらし利用、絹、焼畑農業、陸稲の栽培、モチ食、麹酒、納豆[1]など発酵食品の利用、鵜飼い、漆器製作、歌垣、お歯黒、入れ墨、家屋の構造、服飾などが照葉樹林文化圏の特徴として挙げられる。照葉樹林文化論を肉付けする形で稲作文化や畑作文化なども考証されている。

栽培イネの発祥地は、一時、雲南地域とされたが、近年の考古学や分子生物学の知見は稲作が長江文明の湿地帯に始まった事を明らかにした。稲作文化の多くの要素は、後から照葉樹林文化の要素を包摂した。
              

綿津見神社が相馬地方に多い謎の解明(2) (照葉樹林帯の南限の地だったから・・)

安曇族などの海洋民、綿津見神社や山津見神社をもたらした一群の人たちがここから移動して来た
福島県浜通りには綿津見神社と山津見神社が密集しているのである

照葉樹林文化というとき

多珂神社は大きく格式が高い立派な神社である
綿津見神社は小さいのである、スダシイ神社はこの辺が照葉樹林帯にあることを示している、安曇系の海洋民が中国の江南だとされるがそういう一帯が照葉樹林文化であり焼畑なども行われていたのである
山津見神社があるとき山で焼畑が行われていたからそれもセットになっていたのである

とにかく福島県の浜通りは温暖な地域であり照葉樹林地帯になっていた
その浜通りに綿津見神社とその系統の山津見神社が本当に多いのである
その数からして明確にこの辺が同じ先祖であり文化圏としてあった
一方縄文人の末裔は楢樹林帯でありドングリとか食べる北方系なのである

つまり長江流域から雲南とかベトナムとかまで照葉樹林帯としてあり文化の共通性があるコロナウィルスの発祥の地の武漢はそうした中間地域にある、気候的には温暖なのであるそして真野の草原の万葉集の歌は明らかに浜通りが照葉樹林帯にありその気候の境目として奈良の中央の官吏などに知られた場所だったのである
マルハシャリンバイが奄美大島から種が流れ着いて根付いた南限の地だったということもそうである
古代になると自然の境界が国の境界ともなっていた

それから韓半島の不思議である、照葉樹林帯として古代の伽耶国がありそこは日本と密接につながっていた、まるで一つの国と思えるほどであった
食文化でも韓国に肉料理が入ったのはモンゴルに支配されてからだとしている
その前は精進料理のような質素なものだったという
その料理をみれば日本の料理とにていたろう、日本も海に囲まれているから海産物が主なものとしてあったからである
伽耶は大陸から見るより海から見るとわかりやすい、そこは海として長江河口とかとつながっていたのである、また新羅商人が宋の時代に行き来したということもある
陸でつながるのではなく古代には海で通じた商人国家貿易国家だったのである
そして鉄がとれたということでそれが商品となっていた
インドに由来する説もとっているのは商人が海を通じて来ていたとういことで荒唐無稽ではないのである

とにかくここで日本人の起源はルーツはコロナウィルスにかかりやすい体質で共有しているというのはかなりの有力な証拠になった
そこは同じDNAであり体質的にも同系だということになるからだ
日本を見る時地理的に海からの視点が必要である
東南アジアでも海の視点から見るとわかりやすいのである
中国も巨大だが海の視点と陸の視点とに分けてみると地理的にも歴史もわかりやすくなる
ここのyoutubeは何かふざけているのかとも見たが意外とyoutubeには参考になる情報が多い、それはなかなかテレビでは放送されないのである
この情報は日本のルーツ解明に貴重なものだった
情報社会というとき一つの事件でも様々な見方があり多角的に多様的に考察する
でもそうなると膨大な情報を追うだけで時間がとられる

だから簡単でわかりやすいテレビで要約してサマリーとして見ていた
でも詳しく知ろうとするときテレビではわからない、この情報を知れば日本は意外とコロナウィルスに感染しやすい体質をもっていて危険だとも見る
それで東京に蔓延するとも警告しているのである
何か科学的に説明すると説得力が出てくるのが現代である
実際科学無しでは社会事象を知ることはできない時代である
それで文系はだめだとなるが原発事故でもコロナウィルスでも政治と社会の問題として全体として対処しないと解決しない
それで様々な学問でも総動員することになる

ただ感染の結果を見ればイランとかイタリアで被害が大きい、それはなぜだろうかとまた疑問になる、コロナウィルスの正体でわかっているのは子供や若い世代は重症にならない風邪くらいの軽症で終わるということである、これは結果的に統計的に明確なのであるその他はまだまだ研究の途中なのである


2019年12月02日

みちのくの真野の草原(かやはら)の境界地図 (なぜ北と南の境界になっているのかの謎-船の線刻画)


みちのくの真野の草原(かやはら)の境界地図

(なぜ北と南の境界になっているのかの謎)

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この図もちょうど真野の草原の地点が縄文時代前期で境界の地点になっている
それは前は気候でもそうだった、ここが気候的に南と北の分かれ目になっていた
シベリアから寒さがこの地点までおりてくる
そしてマルハシャリンバイが奄美大島から種が流れ着いて根付いたとかされる
南限の地としてあるとされる、それが海老村だった
そして海老とはエヒであり蝦夷のことだった
そこは古くから人が住んでいた、それでその先端に最近古墳が発見されたのである
だから弥生時代から人は住んでいたのである

ではなぜこの図を見たとき北の方に縄文時代前期に人がかえって多く住んでいたのか?
宮城県の海岸線の方に人が多く住んでいたのは海産物がとれたからだろう
それで新地の手長明神の伝説が残された
長い手を伸ばして貝をとっていたという伝説である
その伝説は全く架空のものではない、高台に貝塚があり貝を食べていた
貝を主食としていたのである、海産物が豊富にとれていたのである
そこは高台であり新地の地形は海に近くても高台になっている
だから何か津波とかでもその高台に住んでいれば被害にあわないのである
松川浦はその頃海とか湿地帯とになっていて広い地域である
だから住みにくいことがあったかもしれない、その頃海が深く陸に入りこんでいたからである

この図からみたとき明らかに新地辺りまではかえって人が多く住んでいた
宮城県の海岸線は人が住みやすい地域だった
ただなぜ寒い地域に人が多く住み始めたのか?それが良くわからないがなんらか食料でもかえって多くあったのかとなる
とにかく日本列島は最初は北の方に人口が多く西は空白地帯だった
それで青森に三内丸山遺跡がありそこが縄文時代の国として認識された
そこから日高見の国があった、荒脛(アラハバキ)の国があった

「まつろわぬ民」であった日本東部の民・蝦夷(えみし、えびす、えぞ)がヤマト王権によって東北地方へと追いやられながらも守り続けた伝承とするもの。荒脛巾神(あらはばきがみ)ではなく「アラハバキカムイ」といい、遮光器土偶の絵が付されている(遮光器土偶は、『東日流外三郡誌』の地元である津軽の亀ヶ岡遺跡のそれが特に有名である)。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%90%E3%82%AD

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本来のご祀神は、アラハバキノ大神威。

大宮氷川神社の、門客人神社
(大宮)中山神社の、荒脛(アラハバキ)神社
の、ご祀神と同一。

出雲が本来の場所なのに、
天孫族から追われた、東北の土着神…国津神。
西アジア発生の、製鉄の一族とも
いわれている。

この神社は猪苗代湖畔にある、これが神社として残っているのはまれである
ただ氷川神社は多い、その元は荒脛(アラハバキ)神だとされる
その氷川神社は南相馬市の原町区の高平にもある
氷川神社は相当に多い、荒脛(アラハバキ)神はあるにしてもまれである
それは多賀城跡にもあり何かしらこれは蝦夷が祀っていた神である
つまりこの神は関東にも残されていて伝えられていたから関東まで広がりがある
実は出雲と蝦夷は同盟関係にあったとか蝦夷は出雲であったとか言われる
東北弁と島根とかの言葉がズーズー弁として共通性があるとかも言われる
その出雲からなぜ渡来人が関係しているのか?
そこは新羅とか韓半島に近かったからである
それで伽耶の王子のツノガノアラシトがやってきた
その渡来人は製鉄の技術もっていて東北にやってきたのである
末続(すえつぐ)という駅があるがそこも出雲系統のものである
小高の角部(つのべ)というのもツノガノアラシトのツノなのである
浪江の苕野神社(くさの神社)の起こりもツノガノアラシトなのである

元禄年間に藤橋月船という者が記した「標葉記」によれば、古老の話では、苕野の神は新羅国からやってきて請戸の小島に現れた女神であるという。この時初めて、阿部氏と荒氏はこの女神を信仰し、阿部氏は特に何もしなかったが、荒氏は小島に社を設けて女神を祀った

つまり蝦夷とは(出雲+渡来人+物部系統+東北の原住民(縄文人)+アイヌ・・・)とかの連合体だったのである
だから大和朝廷に対抗する強力なものとなっていたのである、鉄製の武器も作れていたからである、蕨刀とか自前で作っていたのである
それは製鉄技術のある渡来人が連合体の中にいたからである

棚倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という 

福島県の歴史の道の旅の回想 (棚倉→白河→会津ー(白河街道)

8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した

つまり津軽の蝦夷とあり蝦夷連合が津軽までありだから日高見の国とか荒脛(アラハバキ)国があったとされる、、そうでなければそんな遠くから援軍が来るのか?
道のない時代にどうしてそんなところまで来れたのかとなるからだ
この意味しているのは広範囲な連合体があった、日高見の国、荒脛(アラハバキ)の国があったからできたとなる
そして津軽(つがる)はツノガノアラシトのなまった言葉だとも推測した
ツノガノアラシトはこうして広範囲にその跡を残している
ただそれは伽耶というのが必ずしも外国というのではなく日本と一体化した国だったからそうなった、その主導権はむしろ日本の方にあったともされるからだ
日本府の任那があったとされるからだ
蝦夷が強敵だったのはそうした連合がすでにできあがっていたからである

そして真野の草原(かやはら)の地点がその境目であり大和朝廷下に服属する北の境目となっていたのである
なぜなら地図を見れば宮城県まで縄文人がすでに多く住んでいて真野の草原から南に人が住まない空白地帯になっている
とすると空白地帯だから大和朝廷でもそこに入りやすいとなる
宮城県のように先住民が多く住んでいれば簡単には入りこめないからである

とにかく真野の草原の地点はそうした境目であることで奈良の人たちに知られていたのである、そして多賀城の周辺はもともと縄文人が住みやすい場所として多数住んでいたのである、それは海産物が豊富にとれるから住んでいたのである
ただ岩手県の方は北上山地辺りに多く住んでいたのかその辺は良くわからない
ただ北の方に栗とかどんぐりとか何か木の実でも豊富にとれていたからだともなる
西が優勢になったのは稲作が導入されてからである、それは気候があたたかいから向いていたからである、ただ北は稲作と関係しないからその時代はかえって北が狩猟でも動物が多いとか鹿でもなんでも食料になるものが多かったためだと推測する
ただこの辺はまだよくわからないことがある

南相馬市教育委員会は、線刻で「船」を描いた古墳時代前期(4世紀)の土器が同市鹿島区八幡林で出土したことを明らかにした。同時代の線刻絵画土器の出土は西日本中心で、船の絵は東北で初めて

これは男山八幡神社の辺りとなる、そこは寺内であり古墳が多い地域として知られている
でも4世紀となると古い、そんな時代にこうした船の絵が描かれたものが発見されたことは貴重であり驚く
この辺は前から海が深く入り込んでいて船の行き来があった
それは塩崎の方であり船着の地名が残っていて船が頻繁に行き来していたのである
それは入江内で今の東北電力のある所に大規模な製鉄遺跡があり鉄を運んでいたらしい
だからそうした船の絵がそんなに前にあったということは早くから技術が伝わった地域だったのである
それだけ古いということはここにすでに文化の積み重ねがあったとなる
それも真野の草原として万葉集に歌われた証拠ともなりうるのである
それは寺内の前方後円墳から金銅双魚佩が発見されたと同じである
なかなかこうした船の線刻画のようなものは東北では発見されないからである


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ここはやはり古代の先進地域であった
前方後円墳がありそこに金銅双魚佩が発見されてその隣り合う地域に船の線刻画が発見された
棒状の線は(かい)のようでありそうだとすると数が8くらい見えるからそれだけの人数が乗れた船となれば
それなりに大きい船だとなる

真野明神は古代のものであり古い謂れがある、この三つとなり合う地区にあったからここが最初に開かれた場所であった
とにかく寺内から小池には古墳が多いのである、だからここは古墳の町になっている




2019年11月20日

里は何なのかー故郷(ふるさと)の考察〈古代史より)


里は何なのかー故郷(ふるさと)の考察〈古代史より)

「地域」の「地」は、蛇がうねる土地を指すそうです。「域」の「或」は国を指す。地域や自治体は、ある意味、小さな国家なのかもしれません。小さな国家をどう再生していくのかが、みなさんの今日的課題です

限界集落の真実―過疎の村は消えるか?―過疎の村は消えるか?
http://www.jamp.gr.jp/academia/pdf/115/115_04.pdf


古代日本において郡の下に置かれた里(郷)のおさ。〈りちょう〉とも読み,また〈郷長〉と書き,〈ごうちょう〉とも読む。官人には属さないが,律令制下の地方行政機構の最末端に位置した。戸令によれば,50戸をもって里とし,里ごとに長1人を置いた

「五十戸良」とあって「さとおさ(里長)」の意味であり、万2251では「守部乃五十戸」と書いて「守部のさと(里)」と読ませている。


法師の報ふる歌一首

檀越(だんおち)やしかもな言ひそ里長(さとをさ)(五十戸長)が課役はたらば汝も泣かむ(巻16・三八四七)

檀越とは後で檀家になった、里長が一つの租税の単位としてあった
この意味は檀越が租税の対象にはならず免除されていた、でも租税されたらあなたも泣くだろうという意味である

私腹を肥やしていたことが窺える。当時の仏教界は、信仰心によって維持されたのではなく、食封を有するという特別待遇を保持するために三十年間存在していたことが分った
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/62/5/62_20/_pdf

耶麻郡猪苗代町大字堅田字壇越

山王宮再興大壇越  中務大蔵朝臣種照

猪苗代にもその言葉が地名として残っているのはそれだけ古いのかとなる
神社でも壇越という言葉があるのも仏教が神社に影響してなったか?

宗教とはヨ−ロッパでもカトリックが土地を所有していたように権力を得るために利権団体となったのである、それは檀家もそうでありカルト教団でもそうである
権力を得るために宗教があるだけになっていたのである
だからここの論文でぱ平城宮とか奈良の大仏とかでも民衆が批判していたともなる

仏(ほとけ)造る、ま朱(そほ)足らずは、水溜まる、池田の朝臣(あそみ)が、鼻の上を掘れ
これも皮肉である、僧侶が朱がたりないなら僧侶の赤い鼻を掘れということは僧侶が憎々しく民衆が思っていたのである、僧侶は利権化して私益を得るためのものになっていた批判が奈良時代からすでにあった

ここでは里が最初の生活する者の単位であった、村ではないのである
村はもっと大きな範囲なのである、日本人の生活は基本は里だったのである
それは50戸くらいが住んでいる範囲だったのである

村とは群れるから来ている、これは外来語らしい、そこには人の数を意味しているのかもしれない、人が村にいくらいるのかということになる
その数は相当に多いのである、里とは土地と切り離されずある、50戸が生活できる土地があるということになるのが里である

「地域」の「地」は、蛇がうねる土地を指すそうです

地とは土地のことであり地は里に通じている、国となると区切るから来ているから囲む土地ともなり境界が生まれる

さと、むら、くに、いち、みやことかある、その言葉の背景にはその国の歴史がある
市民ということば国民という言葉が明治以降作られた、でも日本にはその言葉がなかったということはそういう言葉の実体となるものがなかったからだとなる
なぜcitizen(市民)という言葉にヨ−ロッパではこだわるのか?
その言葉の背景に歴史があり歴史的に形成されたアイディンティティがあるからこだわるパスポートにどこの市民なのか記さねばならないのはそのためである
日本だったら市(いち)はあったとしても市民はいなかったからである

地域の域となると人工的なものとなり境が行政的権力で決められる
郡(こおり)でも郡は軍隊から来ているからである
例えば真野郷と真野里がある、郷里名ではなく里として表現している
それは真野郷となると広い範囲である、鹿島区の真野という地域は上真野まであり広いのである、でも真野里とあれば50戸が住む範囲だとなる
それは古代の常陸に真野里とありその人たちがこの地に移住して来たと思われるからである

いづれにしろ村ではなく里が日本の最小の生活単位でありコミニュティの場だったのである、その里はその土地で生活できる範囲の小世界だった、それで小国というときそういう最小単位の里が延長したような世界だったとなる

現代はもう里は失われている、その大きな単位の村でも失われつつある
それは農業社会から工業社会になったとき失われたのである
でも不思議なのは故郷というとき古里であり里なのである
すると人間はみんな故郷を失ったともなる、故郷はもうないとなる
原発事故で避難地域になった所は故郷が喪失した

でももともと浪江町の原発で働いていた人が言っていたように里とか村とかに住んでいたわけではない、東電の会社員となって2万人も住んでいられたとなっていた
だからその人は周りの田畑が草ぼうぼうになっても関心がなかった
都会人と同じとなっていたからである、だから故郷(ふるさと)とは何かとなればそこに執着するものもないとまでなる
なぜなら生活が第一であり東電で働いて生活できればいいとなるから都会に移って住んでも違和感がないとなる
そういうふうに故郷の里にこだわることはない社会になっていたのである
だから多額の補償金をもらったときその金の方が大事であり故郷には里には帰らなくなったのである






2019年09月27日

綿津見神社がなぜ相馬地域に多いのか (時代を知る、新旧を知ることが歴史)

                                              
綿津見神社がなぜ相馬地域に多いのか

(時代を知る、新旧を知ることが歴史)


●縄文時代

●綿津見神社−山津見神社(古事記、神話の世界)

●ツノガノアラシト系神社ー津(つの)神社、ツノミツ神社・・・・

●桜井古墳→鹿島区の古墳群

地域の歴史でもいかに新旧が大事かである、時代を知ることが大事かである
歴史を調べると江戸時代ですら年号があるけど新旧がわからなくなる
これが大事なのは例えば年号でも明治ー大正ー昭和とあるけど明治ー昭和ー大正とはならない、でも江戸時代になるとこうして年号の新旧を見るにしてもこういうことが起きる
どうして時代を知るのか?これができなくなる
江戸時代は300年は変化がないから余計にほかりにくくなる

だから歴史は事跡で何かその時代に重大な事が起きたのかでみるのも必要である
例えば戦争の前と後で全然違ったものになる
だから昭和という時代は一つにできないのである、戦前と戦後の昭和はまるで違っていたからである

このことはさらに時代をさかのぼるとわからなくなる
最近気づいたことは相馬地域には本当に綿津見神社が多い、それと対になった山津見神社が多い、でもこれはいつの時代のものなのか?
何かこれを新しいものとして見ている人も普通にいるだろう
この神社がどれだけ古いものなのか?それがわからないのである
でも古代史を調べると時代を見ることがいかに大事かわかる

綿津見神社があり山津見神社があるとしてまたツノガノアラシト系神社がある
それではこの神社はどっちが古いのか新しいのか?
それが問題になる、つまり先にこの地に移住した人たちはどっちなのかとなる
なぜならすでに綿津見神社を祀った人たちが先に来ていたのか?
それともその後にツノガノアラシト系の人たちが来たのか?
それを知ることが大事になるからだ
どうもツノガノアラシト系は後であり綿津見神社系が先のようにである
なぜなら安曇系の綿津見神社はすでに古事記の国造り神話に出ているからである
それだけ古い時代から安曇系は日本に欠かせない国造りにかかわった人たちだったとなっているからだ
ただその勢力は安曇氏というのはこの辺で出てこない、ただ綿津見神社と山津見神社が多いからそれがその跡を示しているとなる、安曇氏の痕跡がなくてもその神を奉じるものが神社を残したとなる
最初は安曇氏でもその綿津見神社というのは一つの信仰となり広がった 

次に生まれた六柱の神は、いずれも海の神です。

海の底で身体を洗われた時に生まれたソコツワタツミノカミ(底津綿津見神)
海中で身体を洗われた時に生まれたナカツワタツミノカミ(中津綿津見神)
海面で身体を洗われた時に生まれたウエツワタツミノカミ(上津綿津見神)

以上のうち三柱のワタツミノカミ(綿津見神)は、安曇氏(あずみうじ)たちの祖先の神です。
また、ソコツツ、ナカツツ、ウエツツの三柱の神は、住吉神社に祭られている神です

海を三つに分けている、それは潜水行で魚や貝をとっていた一団だっからである
海人の一団でありそれは安曇系の江南系の移民だったとなる
底と中と上に分けることは潜水行している民でないとこうはならないからだ
そして国産み神話でも島を中心にしていることは島ではそうした海にくぐり魚や貝をとることを生業としていたからである、また島伝いに渡ってきた人たちだということである
海彦と山彦の神話もまた日本独特のものである
ただインドネシアでもクジラをとる民と山の民がいて山の民にクジラの肉をもってゆき豊漁を祈る、そこで山の民と海の民が和合する祭りが行われていた
つまり経済とはもともとそうした異なる地域に民族が和合するものとして貿易でも行われていた、現代のような金だけを紙幣だけを唯一の交換の手段として用いることはなかった貿易は交易にはまず民の融合が和合を計ることが先である
現実にグローバル化しても必ず国と国は対立してうまくいかなくなるからである   

その生業を、雨降らず、日の重なれば、植ゑし田も、蒔きし畑も、朝ごとに、しぼみ枯れゆく、
そを見れば、心を痛(いた)み みどり子の、乳(ち)乞(こ)ふがごとく、天(あま)つ水、仰(あふ)ぎてぞ待(ま)つ、あしひきの、山のたをりに、この見ゆる、天の白雲、海神(わたつみ)の、沖つ宮辺に、立ちわたり、との曇(ぐも)りあひて、雨も賜(たま)はね  

この歌は雨乞いの歌である、でもその範囲は山から平地から海にまで及んでいる
普通は海にまで雨乞いすることはないだろう、やはり海洋民が海と深く関係していたからだともなる

ともかく相馬地域の古代とかその前の縄文時代とかなると九州の福岡とかの歴史をみる必要があるし大和の歴史をみる必要もある
つまり日本の歴史とか中国や韓国の歴史と不可分に結びついていたからである
中国でも江南から大量に海を渡り移住してきたというときそれが綿津見神社を残した安曇系だとか宗像系だとかなる
それが古事記の神話の世界を構成した、海の民によって作られたということが重大なことなのである
ただその前に日本の原住民の縄文人がいた、でもそれが歴史として未だに謎である
言葉でも解き明かせない謎となっている

漁業にしてもこれは船を造るとか操るとかなると技術が必要になる
縄文人には丸木舟のようなものを作っても魚をとる技術には欠けていたろう
ただ湾のようなところでは魚をとっていた、縄文海進で入江が多かったからである
ただこの辺で新地の手の長い神がその手を伸ばして貝を食べて貝を捨てたところが貝塚になったという伝説は貝を中心とした食料とした生活だったとなる
だから海洋民とは違った局地的な海の生活だったのである

とにかく歴史は時系列でみるのが本当にむずかしい
何が先で何が後なのかが見分けるのが何でもむずかしい
だから江戸時代だと年号が記されていればわかりやすいのである
その前になると年号が記されていないからわかりにくくなる
つまり歴史はそうした記録がないと時代もわからないとなる
ただ石器を使っていて次に鉄器を使ったというとか稲の栽培が始まったとかの技術の進歩で時代を見たりするのである

この辺の地理的空間的古代史は述べた、でも時系列になるとわかりにくいのである
大和王朝の前に物部王朝があり出雲王朝があったとするのもそうである
神武天皇が初代の大和朝廷の天皇だとしているがその前に物部王朝があり出雲王朝がありそれをひきづっているしその跡も残って継続されているからである
だから一体綿津見神社と山津見神社はいつの時代になるのか?
古事記にまで記されている海洋民は安曇系などはいつこの地に来てこれだけの神社を残したのかとなる
ツノガノアラシトになると浪江の
苕野(くさの)神社
は715年だとしている

起源・創立年代は不明だが、社伝によれば第12代天皇である景行天皇の御世に勧請され、元正天皇(715年)の御代には社殿を創建したという。桓武天皇の時代、坂上田村麻呂が東夷征伐の勅命をうけて進軍してきた際、苕野神社にて戦勝を祈願し、無事近隣の山を支配下に置く賊徒を平定した後に、神恩への報賽として神殿を建てたという。

その頃にツノガノアラシト系の鉄生産の技術者が韓半島の伽耶から来た、ツノガノアラシトとは伽耶の王子のことだからである
それが津(つの)神社として跡を残した
700年に来たとするとどうしても綿津見神社が古いとなる
なぜなら鉄生産ではその後大和朝廷の官人とかがかかわってきたからである
それは近江の粟田郡にその鉄生産の基地があり直接行き来していたからである
そういうふうに行き来していたことで真野の草原の歌が残ったとなるからだ
それは石巻でもやはり真野氏系統の鉄生産技術者がかかわっていたから同じである

ヤマトタケルの伝説があるとしてもその前に物部氏がこの地に来て支配した
どこでも物部王朝と出雲王朝の跡を残しているからだ
不思議なのは原町区の多珂神社の脇に綿津見神社がある、その近くにスダシイ神社があるすると綿津見神社と多珂神社はどちらが古いのかとなる
多珂神社は大きく格式が高い立派な神社である
綿津見神社は小さいのである、スダシイ神社はこの辺が照葉樹林帯にあることを示している、安曇系の海洋民が中国の江南だとされるがそういう一帯が照葉樹林文化であり焼畑なども行われていたのである
山津見神社があるとき山で焼畑が行われていたからそれもセットになっていたのである

縄文時代→綿津見神社(山津見神社)→物部氏(物部王朝+出雲王朝)→大和王朝

こういう順序になるのだが何か綿津見神社とか山津見神社が新しいと見る人がいるだろう私自身がそうだった、それだけ時系列で歴史を観るのが難しいのである

確かなことは桜井古墳は鹿島区の寺内小池の古墳群より古い、だからすでに原町区一帯は物部氏とかの支配権として確立していた
鹿島区の寺内とか小池とかはその後に支配されようになった
つまり物部氏が原町区一帯を支配して巨大な桜井古墳を作った
次に鹿島区に進出したのである、そこで争いがあり建御雷(タケミカズチ)の神が鹿島に祭られた、この神は物部氏系だともされているからである
ヤマトタケルがエゾを征服するという前に物部氏が支配していた
その前に安曇氏系の綿津見神社を奉じる人たちがすでにこの地に入って漁業や焼畑などをしていたとなる
ただこの時系列の私の見解は間違っていることがある
自分自身が綿津見神社のことが全部わかっていないからである
最近なぜこんなに綿津見神社がこの辺に多いのかということが疑問になったからである

mapaamutu1.jpg
山野河海の列島(森浩一)

この図をみるとこれも海岸線に海洋民が綿津見神社を残した安曇系が入ってきた領域と重なる、いわきの方にも猪苗代の岸の方にも入ってきていたからである
そこにも綿津見神社があるとなるからだ
これは大和王朝になってからのものだがこの辺は海洋民が入ってきた場所と重なるのである
道嶋氏とは石巻でありそこに真野とかの地名が残っていて真野の萱原という地名が残っているからここが江戸時代までは真野の
草原だとしていた、この地図の意味するのはわからないにしても綿津見神社系統が入った所と重なるのである


参考にした年表(福岡中心)

BC320 水稲耕作、北部九州に確立 弥生時代の始まり。江南起源倭人多数渡来
 BC221 (中国)秦始皇帝、中国を統一
 BC209 始皇帝、徐福に命じ、東方に不死の薬を求めさす。
 徐福、有明海から筑紫平野に上陸(三千人)、一団が吉野ヶ里・奴国・葛
 城邑・早良邑などを作る。
この頃日本全体の人口はわずか60万人で九州は特に希薄。
 BC202 (中国)劉邦、帝位につき漢王朝始まる。
 BC200 北部九州で小国の成立、末露国など
 BC100-0 玄界灘に面した九州北岸に古代朝鮮より多数のツングース系渡来人、その
中に天孫族も含まれ物部族を引き連れ上陸
BC100-0 「奴国」がいち早く頭角を現し、北九州の覇を唱える。(須玖遺跡)
 この頃、倭国は既に「百余国」に分かれていた。
BC37 朝鮮半島では高句麗建国
紀元前後 百余国のうち,一部は前漢の楽浪郡に朝貢していた。
  25 (中国)光武帝即位、後漢王朝始まる
57 中元二年春正月、東夷の倭奴国王、使いを遣わして奉献す。(奴国)
 (光武帝紀・後漢書)光武賜に印綬を以てす。(東夷列伝)
 「漢委奴国王」印(志賀島出土)
210 卑弥呼を倭国女王に共立し、「倭国乱」終わる。物部族が主導権を握る
 夜須「邪馬台国」の成立
215 出雲の国譲り神話(遠賀川物部が大国主と国譲りを交渉)
216 (中国)曹操魏王となる。
 葛城氏などの徐福集団は、邪馬台国連合のー員とはなるが、主導権は奪われ
 る。葛城氏は邪馬台国の先遣隊として奈良へ移動させられる。秦氏はその移
 動に豊前まで同行し、そこに前線基地を設ける(中津・宇佐)。
 234 (中国)公孫淵、魏より楽浪公に封じられる。崇神誕生、台与もこの頃。
238 (中国)魏、公孫淵を殺し公孫氏滅亡、楽浪帯方の二郡接収
239 邪馬台国の女王卑弥呼,魏へ朝貢し,明帝より親魏倭王の金印下賜さる
 245 九州邪馬台国、魏から軍旗を授かる。孝霊帝(葛城氏)大和中央に都を遷す
247 魏の軍使一行の来朝
248 女王卑弥呼の死





2019年09月24日

南相馬市の古代の歴史ー鹿島区の新旧 (新旧と場所を知ることが歴史を知る基本)


南相馬市の古代の歴史ー鹿島区の新旧

(新旧と場所を知ることが歴史を知る基本)

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歴史をみるとき大事なのは新旧をみることである、村でも新しいのか古いのかが問題になる、だから村でもこの家は古いのか新しいのか問題になる
田舎でも飯館村とかでも古い家と新しい家がある
戦後は開墾に入った人たちが多い、20パーセントくらいいたとかなり相馬地方では特に多かったという、小池にまで開墾に入った人がいた
戦後の引揚者だったのである、あんなところに土地があったのかとなる
その人はかなりの貧乏だったのである

飯館村の大倉から坂を越えた木戸木となると閉鎖された土地である
草野に行くのにも七曲の坂を上らねばならない、あんな不便な土地だから開墾に入った
でも一見するとここは古い部落なのかとも思うのである
つまり村でも新旧を見ることが大事なのである

例えば鹿島区だと烏ア村とか海老村は古い、でも右田村は江戸時代にあったとしても海老村とか烏崎村からすれば新しいのである
そこは後から開拓された土地だったからである
海老村は最近その突端に古墳が発見されたから古いことがわかる
それだけ古い時代から人が住んでいたのである
そうなるとそこで大きな津波を経験していたかもしれない、でもそれはわからない
弥生時代の住居跡も発見されている

古墳があるということはそこが古い場所である目印になる
それで韓半島に前方後円墳が発見されている、それが最近の研究では日本より古いから韓国から日本に前方後円墳が伝わったという、何でも韓国起源にするのが韓国である
でもその古墳が日本より新しいものだったのである
ここでもいかに新旧が大事になるか証明している
それが古いのか新しいのかが決め手になっているからだ

それで鹿島区だと塩崎の船着近くに前方後円墳があった、鹿島区で前方後円墳があるのは金銅双魚佩の発見された寺内と二つだけである
それで問題になるのがどっち古いのか新しいのかなのである
なぜならそれが鹿島区の歴史をみるとき重要になるからだ

塩崎には船着と市庭という地名があり古い、船が通っていたことは書いた
それも今の火力発電所があるところから鉄などを運んでいた
そして大内には800年に奉納された薬師堂が残っていた、それは坂上田村麻呂が奉納したものとされる、大内村はそれだけ古いということである
でも古墳時代になるとさらに古いのである
でもいつそこに前方後円墳が作られたのか?
それが問題になる、なぜならそれがわからないと鹿島区の歴史を解き明かせないからである

私の見解では塩崎の前方後円墳が古いのだろと思う
それは鹿島区の歴史の形成がどうして行われたか?
古代になるとまず東北電力の火力発電所がある場所で大規模に鉄の生産が行われた
その時この地が奈良の朝廷に知られるようになった
鉄の生産のために韓(から)から特に伽耶から技術者が入ってきた
それが津神社でありツノガノアラシトである、、浪江の苕野(くさの)神社もそうである
津神社とはツノ神社でありまぎらわしい、ツ神社とはいわない
ツノ神社である、松川浦の津浪をまねがれたツノミツ神社もそうである
感じは当て字であるから注意する必要がある
ツノガノアラシトのツノがつく神社や地名があるから注意すべきである

ではこの辺にある神社でも新旧が大事になる、綿津見神社は相馬地域とか浜通りでは多いツノガノアラシト系は点であり韓半島の技術者が入ってきた
綿津見神社は安曇系の海洋民が大勢移民として入ってきた
それを物語っているのは飯館村まで綿津見神社と山祇(山津見)神社が多い
それも面としての広がりがある、飯館村の山津見神社を終点としてその前に栃窪村にも山津見神社がある、他に相馬の松川浦にも海岸に山津見と和田という地名があり和田は綿津見のことである
そこから川をさかのぼってゆくと途中に隠されたように山津見神社がある
このことは綿津見神社と山津見神社を神として奉じる人たちが移動した跡なのである
ではこの人たちはいつここに来たのか?
これが大きな問題になるのである
古墳にしてもそれが一体古いのか新しいのか問題になる

ツノガノアラシト系とかの鉄の生産技術者は点としてその後神社とか地名に残した
綿津見神社系はこの地に大勢来て面として移民として住んだのである
ではこの人たちはその鉄の生産の技術者より古いのか新しいのか?
これが大きな問題になるのである

これがツノガノアラシト系より古いとなると最初にこの地に来た人たちは綿津見(山津見)系だとなるからである
その後に鉄の生産技術者が韓半島から来た、そこに大和王権系が指導権をにぎってゆくことになる
真野の草原はそういう事情で大和王権系がかかわり奈良に知られたとなる
そしてでは原町の桜井古墳が鹿島区の古墳と比べて古いのか新しいのかが問題になる
あれだけ大きいのだから古いとみる
そこにすでに統一された大きな勢力がある集団が存在したとなる
それは物部氏系とされる

位置関係を見ればたどれば鹿島区の歴史はわかりやすい
蝦夷が存在したという時、それは物部系とかツノガノアラシトとかが関係していた
そこに大和王権系がかかわり真野郷として中央の大和王権から認定されたとなる
それで小池の前方後円墳が作られ金銅双魚佩とともに埋葬された地元の有力者がいたとなる、それは中央政権の大和王権からもたらされたものだとなる

そして桜田山に古代の城がありそこの丘を越える所で先住民と争いがあった
そこから石の武器が数多く発見されたとあるからだ
そこで先住民と大和王権側が衝突して桜田山下の大六天の祠のあるところで争いがあったそこからは縄文人が生活していた跡が発見されている
魚とか鹿の骨が発見されている、つまりそこで蝦夷と戦った人たちがいた
そこで蝦夷は大和王権側に殺されたともみる
そこから大和王権側が進撃して鹿島神社に至ったのである
そこに鹿島神社が今でもある、その祭神はタケミカヅチの神である
これは武の神であり出雲でもこの神が現れて征服している

つまり神社は場所が大事なのである、なぜその場所にあるかが歴史を語っているのであるそれから右田の御刀神社がありなせそこにあるのかが問題になる
それは海老というのはエヒであり蝦夷のことだったのである
そこはもともと古墳が発見されたように古い場所だったのである
右田に御刀神社があるのは刀はまさにこれも武の神であることがわかる
刀を使って蝦夷を切ったり殺したり征服した場所になるからだ
古代では御刀神社の前は海だった、それは津波で証明された

歴史で大事なのはこうして新旧を知ることと場所を知ることなのである
この二つから歴史をみることが大事になる、つまり何でも空間軸と時間軸で見ることなのである、空間軸はその場が今でも残っているからわかりやすいが時間軸はわかりにくいのである、江戸時代でも年号があったとしてもその新旧がわからないのである
時代をみるときどうして見るのか?
例えば戦前だと戦争があったとか、戦後だと高度成長時代があったとかなる
そして戦後十年くらいは街中の生活でも水道がないし燃料は炭だったということを知ることが大事である、それは江戸時代の続きだったからである

基本的にそういう生活を知らないければ過去を知り得ないのである
それは石器時代から鉄器時代へ移行したときそれが歴史の大きな転換点だったということでも同じである、戦後の電気の生活変革もそうである
その延長として原発事故があったからである




2019年09月18日

綿津見神社が相馬地方に多い謎の解明(2) (照葉樹林帯の南限の地だったから・・)


綿津見神社が相馬地方に多い謎の解明(2)

(照葉樹林帯の南限の地だったから・・)

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外来系と土器と称される喜納東海・北陸地方の土器、あるいはその影響受けた土器が関東や東北地方から発見されると政治社会体制の変革によって各地に古墳が出始めることは
極めて関連があって、場合によっては東北地方の古墳年代も関東地方の古墳年代とほとんど変化がないことがあるだろう
今や〈未開の地)(辺境の古墳)という意識では学問姿勢でぱ史実の古代史研究は進まないだろう 

東北における古墳文化の成立と展開)
大塚発重   

古墳時代の海洋民について 西川修一

豪族とは安曇族である
さて、新聞記事の中で西谷正氏は被葬者に関して
「この地域の有力者・宗像氏と並ぶ豪族」と指摘されています。

この地域の豪族って言ったら、安曇族ですよね。
新宮あたりを中心に、阿曇郷があったほどですし…。

Q その安曇族と宗像氏の関係は?
A 両族は共存共栄していました。

その証しとして、荒雄の遭難事件が今でも志賀島では語り継がれています。

荒雄らを 来むか来じかと 飯盛りて 門に出て立ち 待てど来まさじ 
ほか九首                           <山上憶良>
(略)
荒雄の遭難事件は、官から対馬向けの食糧の運搬を請負った宗像部津麿が老齢を理由に志賀村の荒雄に交替を頼んだことに端を発する。荒雄は現在の長崎の五島から対馬に向け出航したのであるが、途中嵐にあって遭難、帰らぬ人となったのである。

四世紀の初頭、「邪馬台国」の東遷によって、それまで河内、大和にわだかまっていた物部氏族の一派が、近江を経て東海地方に東進を余儀なくさせられたのではないかということです。物部氏の一部は、おそらくナガスネヒコに代表される蝦夷と共に東を目指したと考えられるのです。 

大和王権が成立する前に物部氏とかが大きな勢力でありその物部氏がナガスネヒコと結び大和王権と対立した、蝦夷とは物部氏とかまた海洋民の安曇族とかでも古い氏族でありそれが東北地方に居住していた
そこに渡来人も混じっていた、伽耶の国のカヤ族もいた、そういう様々な人たちの連合体が蝦夷だったのである
だから大和王権にとって強敵となったのである

ただ相馬地方では物部氏の伝承があるにても明確ではない、物部氏系の神社もわからない、わかっているのはとにかく綿津見神社と山祇(山津見)神社がやたら多いのである
となると明らかに相馬地方は安曇族とかの海洋民がやってきた開いた土地だとなる、これだけ綿津見神社が多いことが証拠なのである
桜井古墳はその海洋民と関係しているのか?東海地方と似た様式であるとか東海地方と同じものが何か遺物として発見されたとかあり東海地方に特に静岡県に安曇氏の痕跡を多く残しているからその辺から移住した
ただ船といっても当時の船は遠洋航海は無理だとしても航海民は海を通じて海岸線にネットワークを持ちやすいのである
今でも船は他の港を利用しているし人間として関係を築いている、ネットワークがある
遠くでも港を利用するから関係が生まれる、つまり海というのは航海する道であり港は一時的に休憩する場となりやすいのである

それでいわき市から途中に港がありそこを経由して移動することは可能である
それよりネットワークが生まれるというときその港々に住みついているからその住みついた人の援護があり新しく安曇族でも一族として連帯があり案内もされるから海岸線に広がったとなる
その基は九州にあったが何らか東北地方に移動せざるをえない状況が生まれたのかもしれない、物部氏は仏教派の蘇我氏と争ったりして東北地方に逃れた、物部氏が一時は日本を支配していたと言われるからその痕跡を日本全国に残している
ただ物部氏系の神社は残っていてもわからない、綿津見神社と山津見神社は飯館まで残っている
山津見とあっても山の神社とは限らない、飯館村には綿津見神社もあるからだ、これは対になった安曇族などの神社なのである

安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、安曇が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し(古代難波の入り江に、阿曇江(あずみのえ、または、あどのえ)との地名があったと続日本紀に記録される)、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達する。この他に「志賀」や「滋賀」を志賀島由来の地名として、安曇族との関連を指摘する説がある

渥美半島は知られている、それは安曇族が定住した場所だからその名がついた、宗像(むなかた)も出雲から逃れて来たタケミナカタだとされている、出雲で国譲りして東北に逃れて来た、東北のズーズー弁と似ているというとき同じ系統だったのかとなる
相馬地方に綿津見神社がこれだけあるということは安曇族など海洋民がここに移住して飯館村の山の中に入り住みついた
海洋民は船の操作にたけていただけでなく様々な技術を要していた
だから農耕にも従事で来たとなる、佐須は焼畑地名であり焼畑を行ったのも海洋民であり安曇族だったのかとなる
縄文人は焼畑をしていないからである、そうした技術がもっていなかったからである
これは重要である、焼畑、鉄の生産とか農耕から航海術とかは海洋民によってもたらされたものなのである

一方、耕地利用率の低い焼畑農耕は耕作適地の不足をもたらす。そこで、この水辺民集団は組織的な植民活動を思いついて行動計画を作った。今からおよそ一万三千年前にその計画は実行に移され、突出した二つの技術、すなわち焼畑農耕技術と製鉄技術を独占する植民集団が、ランナ型植民方式による東進を!   

宮崎氏は南部朝鮮と北部九州を往来していた漁労民は海人族である穂積・安積(阿曇)であるとしている。半農半漁からその一部が水稲栽培に専門化した海人族は、未開拓だった海岸線のデルタをほとんど利用しつくし、しだいに川をさかのぼり、耕作可能な地を求めて日本全土に散っていった。その歴史は、穂積・安積(阿曇)の全国的散らばり方や、諏訪湖畔までさかのぼっていった実例が物語っている。

稲作伝播以前の日本は、文化的にはマレー・ポリネシア文化圏とつながっていたのです。イネが伝播する以前から日本では焼畑農業を行なっていましたが、そこで重要な作物だったのは里芋(タロイモ)と山芋(ヤムイモ)だったはずです。
 タロイモもヤムイモも、その栽培種は東南アジアが原産のものです。東南アジアの熱帯林に入ると、野生のタロイモやヤムイモを見ることができます。稲作開始以前の日本の農業文化は、マレー・ポリネシア地域の作物と農業技術が伝わって形成されたものと思われます。
 ちなみにマレー・ポリネシアの文化圏では、ヤムイモのことを共通して「ウベ」とか「ウビ」などと呼んでいます。日本語の「イモ」という単語は、「ウベ」が「ウモ」になまって伝わり、さらにそれが「イモ」に変化したものと思われます

具体的には、根栽類の水さらし利用、絹、焼畑農業、陸稲の栽培、モチ食、麹酒、納豆など発酵食品の利用、鵜飼い、漆器製作、歌垣、お歯黒、入れ墨、家屋の構造、服飾などが照葉樹林文化圏の特徴として挙げられる。照葉樹林文化論を肉付けする形で稲作文化や畑作文化なども考証されている。

日本の文化は照葉樹林帯から入ってきた人たちがいた、その人たちと密接な共通性がある、だから言葉でもそういう人達が住んだ地域と深く関係して伝えられた、朝鮮半島に榊(さかき)とか樒(しきみ)とかが生えていない、寒い地域だからオンドルが生れた
そして魚がいても魚をとることができないからと倭人が魚をとることを生業としているからわざわざ韓国で招いて魚をとらせたという記録がある、韓国は遊牧民系であり照葉樹林帯の文化とは根本的に相違しているのである 、今でも海苔を韓国で作っているがもともとその技術はない、日本からまねたものなのである、そして韓国由来のものより日本由来のものが多い、韓国の伽耶地域にある前方後円墳は日本由来なのである、ということは逆に伽耶地域は日本府の任那があったように日本の支店のような地域だったのである
確かに一部には製鉄技術者などが入ってきたとしてもそれにまつわる神社があるにしても相馬地方だとむしろ安曇族系の綿津見神社が圧倒的に多いのである、だからここに注目せざるをえないのである、
そしてなぜ相馬地域に綿津見神社が多いのか?それはここが照葉樹林帯の南限の地だったからだろう
車輪梅(マルハシャリンバイ)が自生していた、それは奄美大島に見られるものだったからである
原町の多珂神社のすぐ近くにスダシイがあり神社があるのもそうである、南方系の植生の南限の地だったからだともなる

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列島東部における古墳時代の海洋民文化の重層性

この図のように海洋民というときそれは漁業だけではな、鉄の生産にかかわったり、農耕にもかかわる一集団でありそれらの集団が大挙この辺に入って住みついたとしか思えないのである、その証拠が綿津見神社や山津見神社が多いからである
その神社があるのは先祖を祀るから多いのである
そして海を渡り海からやってきたのだから海岸に上陸するから海岸が重要な場所となる
それで海岸沿いにある古墳は安曇族のものかもしれない、それは海から見える目印となるからである
そして当時の海は海が深く入りこんでいた、今回の津波でわかったように相当に陸地の奥まで海だったのである
するとその海が生活の糧となる、魚や貝類を食べる、鹿島区の桜田山の下では魚の骨とか鹿の骨が発見されている
江垂とは海が迫っていた場所だったことがこれも津波で明らかにされたのである

横手古墳群でもそこに縄文時代や弥生時代の遺跡が密集していた、つまりもともと縄文人や弥生人が住んでその上に安曇族とか渡来人が来て住みついた場所だったとなる、そこは海が相当に入り込んでいた場所であり海岸でもあった
鹿島区にはまた本当に古墳が多いのである、古墳の町なのである、桜井古墳は大きいのはやはりそこで大きな集団をまとめるものがあった、それがどういう集団だったのか?海洋民の安曇族と物部氏だったとなる
二つの石棺はその首長となるものが和合するものとして桜井古墳が作られたともなる
大田神社のある奥の多珂神社は多賀神社とは違う系統でありヤマトタケルが東征した伝説のタケミナトである
それは安曇族の海洋民がベースとなって作られていたのである  

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鹿島区で前方後円墳は二つしかないというとき一つは金銅双魚佩が出た寺内でありもう一つは塩アの船着にあった
ここは重要な場所だったのである、交易がおこなわれた市庭という地名もあるからだ
この船着のすぐ近くまで鉄道のトンネルをくぐり津浪が来ていたのである
ただ前方後円墳のある正確な地点はわからないが近くにあったことは間違いないのである  

なぜ日本が最初海洋民が入ってきたのは

森林深く道路は禽鹿の道のごとし(魏志倭人伝)

こういう状態でありすると海が交通にはいいのである、確かに海は危険なのだけど海岸線には入江が多い、だから湊がありそこから内陸部に入ってくる、だからなぜ鹿島区の塩崎に船着がありそこまで船が通っていたのか?
それは頻繁に通っていたのである、なぜなら曽我舟という大内の地名は船が遡ってゆくという地名だったからである
その船はどこから来たかとなると鉄を生産していた今の東北電力がある場所なのである
すると余りにも近いとなるが近くても日本は道がない、うっそうとした森に覆われていた
それから海岸は湿地帯である、すると船が交通には便利なのである
それで泉官衙跡まで新田川があるのに運河を作っていた、それも今なら短い距離なのである
でも湿地帯になっているから船で行くほかないのである
だから日本は原始の状態だと山あり森ありで通行しにくい、閉ざされた世界になってしまう
森というけどそこは鬱蒼とした森であり真っ暗な闇だったのである
そこに縄文人が住んでいた、でも縄文人は海岸にも住んでいた、魚や貝がとれたからである
そこは森とは違って明るい場所だったのである

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遮光土器の謎は目が大きいのだから大きな目をして見ようとすることだったかもしれない他に目が大きくしたものが中国でも残っている
目はやはり人間の中心なのである、目に力がないものは目を直視できないものは心も直視できない、汚れているとなる
そしてうっそうとした暗い森では余計に大きな目をもって見ようとするからそれで目が大きくなったともとれる
ただそれは森の中である、海岸だと海が見えて見晴らしがいいからそういうことがないともみる
でも大きな目はやはり原始的人間が自然でも見ようとする、見ることが大事だから目が大きくなった

いづれにしろ古墳時代は福島県から宮城県辺りまで巨大化した、数も多い
古墳時代は弥生時代であり稲作も行われたから東北が今までの辺境だという観念は見直すべきだというのはわかる

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相馬市史3(民俗編)

富岡でも綿津見神社が四八社とかあるとか港は船を通じて遠くでも人を結ぶ
相州浦賀は横浜であり伊豆の伊東であり久慈浜とも関係していたことでもわかる

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みちのくの真野の草原(かやはら)は気候の境界線

(照葉樹林の南限の地点)

2019年09月17日

綿津見神社が相馬地方に多い謎の解明(1) (海洋民族のネットワークができていて海岸沿いを渡り移住した)


綿津見神社が相馬地方に多い謎の解明(1)

(海洋民族のネットワークができていて海岸沿いを渡り移住した)

●ポリネシアの海洋民が安曇族のルーツか?
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水辺の古代史(小野寺公)より引用

陸奥(むつ)は古代ポリネシア語で陸地、岬、端をさす
これはマオリ族の言葉ででも同様で終点を示すという
むっは東北訛りで奈良朝にひどい訛りが移っていたことになる

安田徳太郎は安曇(アヅミ)族についてサンタル族から航海術を学んでチベットやベンガル地方と交易したモン族がこれにあたると説いている
彼らの日本列島進出は紀元前二世紀頃という
二世紀の朝鮮の書に「韓海に魚多ければトル術なく倭人は網漁を良くすると聞き二千戸を招きこれをとらしむ」とある

綿津見族を始めとする南方族は瀬戸内海から難波に入り拠点を作り黒潮沿岸沿いの椀に定着して鹿島、香取、住吉、宗像、
墨江 安波大杉などの神々を祀ったと言われる

大田地名に見られる特徴として第一に渡来人が関係が深い

第二に国内の主要通路に位置する

第3に背景に鉱山をひかえているのが多い

記紀の伝承で三輪氏や加茂氏の始祖とされく大田根子は彼らを統括する立場にあったと言われる

古事記では鹿島神宮の祭神タケミカズチミコトの子が意富多多泥古(オオタタネコ)とされている、それは多(おう)氏の始祖である

徳川政次郎教授は安曇族と隼人族は同族で(安曇隼人族は中国中南部の民族で紀元前二世紀頃、いわゆるトカラ馬やトカラ豚を携え、黒潮にのって日本に来た
鵜飼いは中国中南部に上陸したのが隼人族であり北部に上陸したのが安曇族である
日本古代に朝廷に仕えた猪甘部は豚を飼っていた人民であり鵜養部は鵜飼いをして朝廷に仕えた

◎先祖たちが海のかなたからやってきたという神話伝承をもつ
◎流し鄙灯篭流しを思わせる〈船葬)の民族儀礼をもつ
◎韓国済州島経由で伝播したと思われる南方海人系の石像文化が見られる

 飛鳥にある石像は南方系由来なのか、済州島にあるから経由してきたとなる

 船葬というとき真野の古墳に石棺に船型のものがあったが船に乗って遠くに去る考えた古代の観念だろう
(本邦祠の研究ー岩崎敏夫)  

 新地村の大戸浜の安波の現在の祭神は綿津見の神である

 安波というのも海洋民に由来したものであり綿津見と関係している、もともとは安曇族などと関係していてそれが祭りになった

 太田というのはまぎらわしいが大きい田ではない、多(おう)氏のことでありそこから太田となった、だからそこはもともと相馬氏が入って来た時古い場所だったのである,多(おう)氏はいわき市に勢力をもった大豪族であった、それは天皇とも関係していたのである

●古事記の国産み神話は安曇族とか海洋民族に由来している

日本武尊は上総かみつふさより転じて、陸奥国みちのくにに入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦(あしのうら)を廻り、玉浦を横切って蝦夷(えみし)の支配地に入られた。蝦夷の首領島津神(しまつかみ)国津神くにつかみたちが、竹水門(たけのみなと)に集まって防ごうとしていた。しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで、「君のお顔を拝見すると、人よりすぐれておられます。きっと神でありましょう。お名前を承りたいのですが」と申し上げた。皇子はお答えになって、「われは現人神(あらひとがみ)(天皇)の皇子である」と言われた。蝦夷らはすっかり畏かしこまって、着物をつまみあげ、波をかきわけて、王船を助けて岸に着けた。そして、自ら両手を後に縛って降伏した。そこで、日本武尊は、その罪を許された。こうして、その首領を俘とりことして、手下にされた。蝦夷を平らげられ、日高見国(ひたかみのくに)から帰り、常陸ひたちを経て、甲斐国(かいのくに)に至り、酒折宮さかおりのみや(甲府市酒折)においでになった。

竹水門(たけみなと)とは原町なのかもしれない、そこに多珂神社がありタケはタカなのかもしれない、そしてこの伝承の背景となったのは安曇族とかの海洋民が大量に移住したことが下敷きになっいている
それも前二世紀とかなると古いのである、日本列島には最初縄文人が住んだとしてその後に様々な民族が海を渡ってきて住みついたのである
だから日本語のルーツはポリネシアとかにもあるし中国にもあるし韓国にもある
ただそれが解き明かすことができないのは様々な民族が混交してしまったからだと思う
するとどうしても複雑に民族の言葉がまじりあい一つのルーツでないからわからなくなったのである

陸奥(ムツ)という言葉がポリネシア語として奈良朝廷に伝わったというときもそうである、奈良朝廷ではそこを陸奥(ムツ)として地名として意識したのである
身体語が頭とか鼻とか手とか足とかがポリネシア語に由来するとしたらその後の社会を表す語は中国系統とか韓国系統とかになるのもわかる
村とかは韓国語系統だとするとき後から韓国系統が日本列島に入って来たとなるからだ

原ポリネシア語を基幹祖語とする縄文語の上に古代朝鮮語またはアルタイ語系統の言語がかぶさって成立したと思われる弥生語または古代日本語で育ち、古代朝鮮語はある程度理解し、中国語および漢字文化に精通はしていたが、原ポリネシア語はほとんど理解することができなかった世代でしょう
   
ポリネシア語で解く日本語

何かポリネシア語説はアイヌ説より説得力がある感じにもなる、アイヌ語説は何かおしつけが多い、信用できないのである
アイヌ民族自体が謎でありそれほど古い民族でもない、新しい民族だとも見れるからである

それでそもそも日本では安曇族とか隼人族が九州に移住して魚をとっていた、その技術があった、それで韓国ではそれで魚がいるけどとれないとして招いたのである
そのことからもわかるように日本に渡ってきて漁労民となった安曇族とか隼人族がいて
その人たちが海洋民であり船を操作する技術をもっていたからそうなったとなる
韓国は遊牧民系統であり船を操作できなかったのである 
日本とはそもそも漁労民族が住みつくのに適していたから海洋民族が渡って住みついたとなる
それで古事記の国造りの神話も極めて海洋民族の国造りになっている  

イザナキ神とイザナミ神の男女二神に
「この漂っている国をつくり固めよ」と命じて、
天の沼矛(ぬほこ)を授けて、
国づくりをお任せになりました。

イザナキ神とイザナミ神は、
天の浮橋という空に浮かんだ橋に立って、
その沼矛を指し下ろしてかきまわしました。

潮をかき鳴らして、引き上げた時、
その矛からしたたり落ちた潮が
積もり重なって島になりました。
この島をオノゴロ島*1と言います。

初めに生んだのが淡路島、
次に生んだのが四国、
三番目に生んだのが隠岐。
そして九州、壱岐、対馬、佐渡と生み、
ついに本州を生みました。
この八つの島を大八島国といいます 

こういう神話は海洋民族のポリネシアとかに由来することは確かである、島があるのは島を中継点として船で移住したということになるからだ

日本列島は今でもそうだが森が多い、そして海に囲まれているから湿地帯が多い、これが日本列島の風土の地理の特徴なのである
津浪で一時海が深く奥まで入り込んで湿地帯化した、それは釧路湿原と同じようになったのである
日本の海岸線は太古は釧路湿原のようになっていたのである
そして砂州が磯部の方にできていてそこに人が密集して住むようになったが津波で壊滅したのである 

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釧路湿原と同じく砂丘できたのが磯部だった














2019年09月12日

縁(えにし)とは海洋民族が縁を結んだ海岸のこと? (日本の海岸線が日本のアイディンティティを作った場所)


縁(えにし)とは海洋民族が縁を結んだ海岸のこと? 

(日本の海岸線が日本のアイディンティティを作った場所)

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津浪で海となった、その先が太陽の落ちる方向が日下石

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縄文時代を通じて切れ間なく大陸から人が漂着しており、そのいずれもが長い航海を経てたどり着いていることからして、列島に流れ着いた人は総じて航海技術に長けており、それらの技術を生かしてネットワーク形成を担った運輸集団になっていった可能性もあります。
その一つが縄文晩期に北九州に漂着してその後長野から東北に移動した安曇族であり、古墳時代を通じて日本中にネットワークを広げた物部氏です。


日本語の謎は深い、それを解き明かすことは不可能である
ただどういう人たちがその言葉を最初に創りだしたのか?
それは日本に渡って来た人たちがいてそれがもともとあった縄文語と混合した

海岸が西になることはありえない、でも今回の津波でわかったことは日下石(にっけし)という地名がにし(西)なのである
その近くまで津波が来ていたのである
そして津浪で海になった所をみたら日下石(にっけし)の方に輝き沈んでいった
そこから山は見えないのである海から見たとき海岸に太陽が沈むのである
そして日下石に古墳がありそこの近くまで津浪が迫った
その辺まで人が住んでいた

つまり船で来た海洋民族が安曇族などが上陸した海岸は日下石だったのである
それを名付けたのはアイヌなどではない、安曇族とか外来の民族である
なぜならこの辺に綿津見神社と山祇(山津見)神社がどれだけ多いか
特に相馬藩内に異常に多いのである、これは特筆すべきことでありこの辺の特徴なのである

それはなぜなのか?おそらくこの辺は今は海岸線に入江がないけれど奈良時代まで海が深く入っていたからである
その証拠となるのが鹿島区の塩アに船着という地名がありそこに船が来て交易をしていたそれで市庭という地名も残している
その船着のすぐ近くまで津波が来ていたからである
そこに今の東北電力の発電所があり鉄の一大生産基地でありそこから鉄などが運ばれていたのである

船で来て海から見れば海岸が西になるのである、そして東は陽{日}が上る岸になる
それは陸地から見たものであり海岸で見たものではないのである
海岸から見れば海の方から陽が上ることになるからだ
そしたら陽が上る岸とはならない、岸は陸地だからである
それは陸地から見て東として海から見たとき海岸は西だったのである

それで縁とは江西でもある、名古屋の愛西はエニシである、太陽は伊勢湾から昇る
その辺は海が入り込んでいた、だからそこも昔海岸であり西となったかもしれない
ただ方角はどこを中心にして東西南北を決めるか大事になる
その中心が変わると違ったものになるからめんどうなのである
南相馬市自体がそうである、相馬市の南相馬市になったからである
もし小高が中心だったら北相馬になっていた、現実鹿島は北郷となっていたのは小高に前に相馬氏が最初に城を築いたところだったのでそこから北ということ北郷になったからである  
また日本海とかでも瀬戸内海でも方角は変わる、太陽が海の方に落ちてゆくようにも見える
日本海になれば太陽は山から上り海に沈むから逆になる

いづれにしろこの辺で注意すべきは綿津見神社と山津見神社がやたら多いことなのである
それはここに海洋民族の安曇族とかが入植したために多いのである

私の魂は子の風景のもとに安んじて帰ってくるだろう、それはかつてこの島影にたどりついた民族の心象というものがあったからだろう
「海やまのあいだ」にある狭い土地ーそれを海岸線と言ってもいいだろうーにこそ我が民族の「ふるさと」があったのである
海岸線の歴史ー松本健一

日本は古来地理的に海に囲まれているから海岸線が重要だった、そこが生業の拠点ともなった
海老村で二日前に町があったところから坂を上っておりた崖の上に古墳が発見された、それも二も発見されたとなるとそれだけ海老村は人が弥生時代から人がかなり住んでいたからである
そこで魚や貝などをとって暮らしていたのである、また日本では海岸線は奈良時代とかその前になると入江になっているところが多いのである、津とつく地名はつづくからきていて海は陸地にはいりこみ海がつづいている場所だったのである
そこで交易も行われていたのである

だから海岸線は海岸は日本人が縁(えにし)となる場所だったのである、また入江が多いということはそこで魚とか貝をとりやすいのである、生活の場として適地なのである、それで新地の手の長い巨人が貝をとっていたというのはそのためである
松川浦のような入江がありそこで貝がとれたからである、そこが暮らすには適地だったからである
ただ海を海岸線を日本のアイディンティティとすることはなくなった、というよりは海というのはアイディンティティにしにくいのである、海と自己同一化するとしてもできない、海は固定していないからである、それは広大な平原とかともにている
また今回の津波のように恐ろしいものが海なのである

それよりアイディンティティ化しやすいのは固定しているもの山なのである、それに付随する木とか石なのである
だからこそ日本は大和(やまと)山が原点となり故郷となり国になったともなる
ただ最初は神話にもあるように海洋民族が安曇族のように日本の海岸線に上陸して山の方に入植したのである
だから松川浦に山津見という地名があり和田というのも綿津見であり地名化しているし栃窪にも山津見神社があり
その最終地点が飯館村の山津見神社であり綿津見神社なのである

ともかく津波は日本の海岸線が陸地の奥まで入り込んで入江になっていたことを証明した
それはわかっていたことでも驚きだったのである、入江は港でも生活の場にもなりやすいのである
だからみちのくの草原という万葉集の歌は草原(かやはら)は萱ではない、人が出入りして物が入る港だったのである
そういうふうに栄えた場所でありただ萱原が茂っている淋しい場所ではなかったのである
ただ原始の状態だったらその当時はそういう風景はありふれている、むしろ人と物が出入りする港だったとなる
みちのくの真野の草原遠けれどというとき遠いという場所の比喩となっていたのである
草原が茂っている場所ではなかった、ただそれが江戸時代まで石巻の萱原がその地だとされていた
それもまた地名として残されているからそうなった
そして真野の草原にきたとして萱をお土産のようにしてもっていったというのも記されている
それもなぞのなのだが考古学がない時代だからそうなっていたのである

ここには海洋民族の安曇族をはじめとしてツノガノアラシト系の鉄の生産技術をもった渡来人とか集中して来た場所だった
そういう背景があってみちのく真野の草原の万葉集の歌が生まれたのである



2019年09月10日

福島県の文化財課の人が海老の高台を調査して古墳を二つ発見!


福島県の文化財課の人が海老の高台を調査して古墳を二つ発見! 

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沖に船が行く

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津浪のあとに残された松がまだある

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松が密生してかなり高く伸びていた

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ここは避難所に指定されたが30人ほど死んだ

うしろの森に逃げて助かった人がいた



海老に行ったら福島県の文化財課の人が調査していて古墳を二つ発見したという
そこは高台であり津波の避難地域として指定されていた場所である
でもそこに逃げた結果30人くらいが死んだ場所なのである
高台であり避難場所に指定されていたからである
これも大失敗だった、なぜならちょっと歩くだけで津波の被害をまねがれたからである
別に海老の通りの道をまっすぐ山の方にちょっと歩けば助かったからである

ただ海老村は高い場所であり昔から弥生時代から人が住んでいた
その住居跡も津波で人が住まなくなり発見されたからである
ただなぜそれより高い崖の上に古墳があったのか?
そんなところまで人が住んでいたというのが意外だった
確かに屋形から海老の山沿いに古墳がある、だからその延長として古墳があっても不思議ではない

それにしても高台の崖の上となるとそんなところに人が住んでいたのが意外だった
おそらく海老村には相当に人が昔から住んでいた場所なのである
それは高台であり海老の家が密集したところは港でもあり魚もとっていた
右田村は江戸時代から人が住み始めた地域だからである
その江戸時代からあったといわれる松原は津波で全部なくなったのが残念だった

海老村が古いというきと海老はエヒでありまた恵比寿(エビス)からも来ている
蝦夷(エゾ、エミシ)のことだからである
そういう名がつくほどにここは集中的に人が住んでいたのである
それで外来の人がここに来たとき衝突があったとなる
それはかなりの人々がここに住んでいたから衝突した場だからとなる
それで海老(エヒ、エビス)の名がついたのである、蝦夷が集中して住んでいる場所だったのである
だからこそあの高台に崖の上に古墳が二つも発見されたとなる
そういう歴史的背景があって発見されたのである
だから確かに意外だがそういうこともありえたともなる

ただ海側に古墳があるといそこに人が住んでいたのは貝と魚とかとれるからである
食料になるものがとれるからこそ海側に住んだとなる
それで日下石にも古墳があった、それは今回の津波が迫って来た場所だったのである
ただそこまでは津波は来なかったがそれなりに近くに津波が迫ってきていたのである
ただ慶長津波とかの何か証拠となる痕跡が発見されていない
それが一番の問題なのである
貞観津波のことは相馬市のボーリング調査で発見されている
松川浦のかなり奥まで津波で運ばれた砂が発見されたからである
慶長津波ではそうして何か証拠となるものが発見されないのである
だからどうしても謎になり証明できないということである

ただ海老の家が密集した地点から坂を上った崖の上に古墳が発見されたということは
あの辺一体に相当数の人が住んでいたのである、それは弥生時代からそうであり古墳がそれを示している
第一古墳が二もあるとしたら一つではないのだから倍の人数が住んでいたと推測できるからである

南相馬市の鹿島区は古墳の町!

寺内から小池にも古墳が本当に多い、それで金銅双魚佩が寺内の前方後円墳から発見されたことで有名になった、今回も海老村の高台から発見されたことは意外だった
海老千軒とか言った人がいたけどそれも嘘ともいえない、それだけの人が昔から住んでいたからそう伝えられたのかもしれない、ただ・・・千軒というきは各地にある
でもなんらかで津波とかでも消えてしまったとなることはありうる
それこは今回の大津波で実感したのである

海老村にはマルハシャリンバイがまた自生していた、それから松も繁茂していた
津波から8年半とか過ぎているからそうなるが松は成長が早いと思った
あそこの高台は南相馬市では景色のいい場所である
一時は八沢浦の方が入江になったときは本当に驚いた
今日も沖に船が見えて釣りする人がいた
あそこは悲劇の場所たけど眺めのいい場所なのには変わりがない
ただあそこを何に利用するのかわからない、ゲートボール場にするにも人が住んでいないそれをどうするかはわからないが整地していた


2019年07月13日

近江粟田郡の鉄生産地と陸奥行方郡真野郷の密接なつながり (直接鉄生産の工人が行き来していた)


近江粟田郡の鉄生産地と陸奥行方郡真野郷の密接なつながり

(直接鉄生産の工人が行き来していた)

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宇多郡行方郡と近江の鉄生産 

●鉄生産の技術習得のために近江の粟田郡まで直接陸奥行方郡などから人が行く

東北系土器の出土地点

滋賀県栗東市は、律令期の近江国栗太郡にあたり、かねてから武井・金沢製鉄遺跡群の技術
体系の故地とされる官営製鉄所=瀬田丘陵生産遺跡群を抱えたところ

高野・ 岩畑遺跡と下鉤東遺跡の位置は、この官営製鉄所の北東5〜7kmの範囲に広がる官衙関連遺  東北系土器の出土地点 − 45 − 跡群内にあり(図 14)、周囲には、8世紀中葉の鉄生産に関与した宇多郡官人の火葬墓に影響 を与えた終末期古墳(菅原 2010 a)が、分布している)。 また雨森智美氏によると、
高野・岩畑遺跡は、古墳時代から継続する伝統的な技術者集団の 居住域であり、中核となる高野神社の摂社(八重釜・敏釜神社)は、鉄生産に伴う神とも関連 付けられ(図 15)、8 世紀前半には瀬田丘陵生産遺跡群に人材を提供したという(雨森 2007)(註 10)。当然、その関係は、7世紀後半に遡る可能性を十分に有している。 こうした複数の状況証拠から、

3点の東北系土器は、宇多・行方郡から近江へ技術習得に派 遣された工人が、現地に残した痕跡とみるのが最も合理的な解釈と考えられる

古墳時代には、地方から畿内への上番という形(帰郷・帰郷指導型)が一般的に存在しそれが技術伝播の契機になった」のに対し、「律令期になると、基本的に伝達者が東国に来て教習活動(「玉突き」型、巡回・指導型)を行った」として、工人の動きが逆向きに変化したことを明快に述べた

周囲には、8世紀中葉の鉄生産に関与した宇多郡官人の火葬墓に影響を与えた終末期古墳(菅原 2010 a)が、分布してい
鹿島町真野寺内 20 号墳(図2−8)出土の金銅製双魚佩(図 17)は、6世紀前半に比定され、同年代の類例の分布が、いずれも近江出自の継体王朝と関係が深い墳に集中している(穴沢味光)

●金銅双魚佩の伝播径路

真野氏は近江国滋賀郡郡真野郷(滋賀郡堅田町真野)に本貫があった
継体政権と近江の豪族との関係については先に述べたが同じ滋賀郡内に和邇氏と密接な関係のある漢人渡来人氏族が集住しており、真野20号ににた正方形プランの横穴式石室が盛行した、真野20号の主体のモデルになった横穴式石室は、案外こんなルートで東北の一角に伝播したのではないだろうか

おそらく六朝の製品の(魚袋)と考えられる双魚佩の一つが武寧王陵の出土鏡と同はんの獣帯鏡に誘着していた、これらの双魚佩も獣帯鏡と同じように、南朝から百済を経て継体朝の日本に伝来し、継体朝の関係の深い豪族に分与されたのではないだろうか

この古墳は6世紀中ごろであると思う


金銅双魚佩出土例


(滋賀県野洲郡三上山古墳出土例)

この金銅双魚佩が付着していた唐草文薄肉刻七獣帯鏡が韓国公州の百済武寧王陵出土の鏡と群馬県観音山古墳出土の鏡と同型である
この獣帯鏡は中国の漢代の鏡を六朝時代に踏み返したもので、百済を経て日本にもたらされたものであると樋口隆康氏せ言う

やはり六朝時代のの踏み返し鋳造と思われる銅梁獣帯鏡の日本が出土の三面の同型品のうち二面は継体天皇陵と考えられ大阪府高槻市郡家の今城塚からあまり遠からぬ茨木阿部野土室石塚と豊中市桜塚古墳群から出土しているのでこの種の鏡は継体王朝と密接な関係が推定される

千葉県長須賀古墳出土例

長須賀古墳の所在する上総望田(陀)郡の国造は馬来田国造であるが記紀によると継体には馬来田皇女があり馬来田国造家の女が乳母になっていたためと思われる

日本後記延暦一六年(797年)陸奥行方郡人に大伴行方蓮の賜姓の記事があることから継体推戴運動の強力な担い手であった、大伴と真野の関係が十分に考えられる

六朝の製品(魚袋)と考えられる双魚佩の一つが武寧王陵の出土鏡と同はんの獣帯鏡に付着していたことはこれらの双魚佩も獣帯鏡と同じように、南朝から百済をへて継体朝の日本に伝来し直接間接に継体朝に関係の深い豪族の間に分与されたとか推定される
  
(金銅双魚佩考―真野古墳出土例にして―穴沢味光)
   
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 古墳時代における琵琶湖およびその周辺地域(細川修平)

粟田郡は古墳が多く琵琶湖の交通の要所になっていた、そこから大阪とか奈良に通じている交通の要所だったのである

●真野の草原(かやはら)の歌は日本の古代の歴史があり生まれた

古墳時代はかえって鉄生産の本拠地との交流があった、近江粟田郡が本拠地でありここの行方郡と宇多郡でも地元の人が直接鉄の技術を習いにおもむいたとなる
ここでは人の行き来が近江粟田郡と直接あった
地元の人もそこで鉄生産の技術を習っていたとなる
それでお土産としてなのか東北形土器が発見されている、つまり近江粟田郡にもたらされたとなる
ただ直接人が行き来したことは陸奥の真野の草原(かやはら)を伝えられたとなる
でも律令時代になると巡回型の技術の伝播になる
中央から直接技術者が巡回して鉄生産を伝えた
この意味するところは何か?中央の指導が強まったということである
中央の大和王権がかかわってきたとなる
それで真野古墳群の前方後円墳に金銅双魚佩が発見されたのである
それはいつの時代なのか?継体天皇の時代だとなる

直接行き来したのは時代が古いということは地元の工人が直接技術を習わないと習得できないということがあったかもしれなんい、今でも技能実習という名目でベトナム人であれ外国人が来ているからである
日本で技能を身に着けて本国に帰り伝える、それでネパールなのかそこには受け入れる工場がないとういことで日本人が工場を建てるようになったとかある
つまりそんな遠くとも技術を通じての交流が生じたとなる
ただ当時は近江と陸奥は相当に離れているのでどのようにして直接そこまで行ったのか?その疑問はあるにしても人が直接行き来していたことは重要である
それで陸奥の真野の草原は知られたということになるからだ
だから草原(かやはら)とは地名なのである、草原は鉄が生産される生産拠点であり萱原が茂っているなどと関係ないのである
鉄がとれる場所として真野の草原が近江に知られて中央の奈良の都に知られたのである

日本後記延暦一六年(797年)陸奥行方郡人に大伴行方蓮の賜姓の記事があることから継体推戴運動の強力な担い手であった、
大伴と真野の関係が十分に考えられる

大伴氏の一族がかかわり和邇氏の中の真野氏がかかわってここに真野という名を遺したのである、それで笠女朗は大伴家持を慕い歌に残したのである

みちのくの真野の草原(かやはら)遠ければ面影にして見ゆとういものを 笠女郎

大伴家持を慕った歌だが草原(かやはら)とはこうした背景がある場所であり何もない
草原(萱原)が茂っている場所ではなかったのである
つまりここに住んでいる人も近江に直接行きこの場所を伝えてそれが奈良の都に知られて笠女郎が大伴家持を慕い歌にしたのである、大伴家持が現実に陸奥に来たとして考証している学者もいる
実際は交流は人が直接行き来していたとなるとリアルになる、直接人の交わりから陸奥の真野の草原が奈良に知られて全国に知られたとなる

次は継体天皇と武寧王陵についてー金銅双魚佩の径路は中国まで通じていた

2019年04月27日

みちのくの真野の草原(かやはら)は気候の境界線 (照葉樹林の南限の地点)


みちのくの真野の草原(かやはら)は気候の境界線

(照葉樹林の南限の地点)




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4月に寒気がおりてきたがそれがやはりみちのくの真野が境になっている
寒気はここまでしかおりないから照葉樹林でありえた
これ以上寒くなると温帯の生物は植物でも維持できないからだ

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これも森林植生で南と北の境目が真野の草原の地点なのである

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これも真野の地点が境目になっている

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これも温度の境目でありそれが真野の地点になっている

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海の水温でも真野の草原の地点が境目である
あたたかいのである
黒潮の関係でそうなっている

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原町の多珂神社の近くのスダシイである、これも照葉樹林帯なのである

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みちのくの真野の草原遠けれど面影にしてみというものを 笠女郎

この歌の真野の草原を考察してきたが石巻の真野の萱原が江戸時代まではこの歌の地点だとなっていた、それは地名があったからそうなったのである
ただそこはあまりにも遠いからありえないとなった
ただこれまで考察したようにそれなりの根拠があった
真野氏が産鉄族でありその木簡も発見されているし鰐山というとき和邇(ワニ)氏の一族に真野氏がいたからである、だからそこが全く根拠がないものではない

ここで考察するのは真野という地域が何か気候の境界になっている
それは南相馬市の鹿島区の海老村がマルハシャリンバイの南限の地として自生する場所となっているからだ
つまりここは暖かいから奄美大島に自生しているマルハシャリンバイの種がが黒潮にのって流れ着いたとなる
でも気候に影響されるから温かくなければ育たないのである
その限界地点が真野の草原の地点だとみる
草原(かやはら)は萱(かや)とは関係ない、一つの地名である、それは追求してきた

縄文海進とかありさらに古生代になるとフタバスズキ竜が海をお泳いでいたという時暖かい地域としてあった、また黒潮と親潮の境目でもあった
海の温度でも地図をみると丁度この地点が境目になっている

森林分布でも温暖地帯にある照葉樹林帯にありそれら中国と連なり同じ文化圏にあるという指摘でもそうである、人間にとって生物にとっても気候の影響が大きいのである
だからその気候によって植生も違ってくる
ただ現代から過去をみるとき気候も違っている、縄文海進時代は相当に今より暖かい時代だったのである、だからこそ海が奥までは入りこんでいた
この辺では塩崎に船着とあるようにあそこまで実際に今回の津波で海になったことでもわかる、船着とあるのはまさにあそこまで船が来ていたことを津波が証明したのである
この地名は化石地名のようになっていたのである、それだけ地名は古いのである  

真野の草原の地点が南系統の照葉樹林と亜寒帯の樹林帯の境目になっていることは地図から明確

真野の草原の石巻説があるが気候から地質学的に見たときここが有力だとなる証拠なのである
橲原とか真野川の奥にサンゴの化石とかいわき方面でアンモナイトの化石とか久ノ浜から奥で発見されていてそこで保存されている
フタバスズキ竜でも暖かいから生きられたのである
ともかく郷土史は総合的な学問でありそこには地質学からあらゆる学問が関係しているのである
ただそうなると一人の手には負えないとなる

この裏付けが地質学とか気候から何か科学的証拠となっている、それでこの裏付けは科学が関係しているから信じられるとなる
やはり歴史でも科学的裏付けがないと今はなかなか証拠となりにくい、その辺は苦手だがこういうふうに地図でもそろえてゆくと
何か具体的に見えてくるのもがある

なぜこれほど真野の草原の地点と一致しているのか?

これはただの偶然なのか?そうではない、それがこの地点が真野の草原が南と北の境目にありそれが真野の草原を示す地点だという有力な裏付けとなるのである
  
綾の照葉樹林帯

2019年04月20日

南相馬市の高平の西殿の地名は泉官衙跡に由来するのか? (方角地名はどこが中心で方角が決められるのかが肝心)


南相馬市の高平の西殿の地名は泉官衙跡に由来するのか?

(方角地名はどこが中心で方角が決められるのかが肝心)

●方角地名が世界的にも基本

方角地名が地名でベースになるのは人間にとって見知らぬ土地に行ったとき必ず方角がわからなくなる、それで太陽の昇る方向とか沈む方向とかみる、または星を見る
星がなぜイスラム圏とか大陸で大事になるかというと北極星信仰が生まれたか?
北極星は変わらない定点になっていたからである
それで妙見信仰も生れた、それは北極星信仰であり大陸から入ってきた信仰なのである
遊牧民地帯では常に移動するから目印となるものが必要になる
それが北極星になっていたからイスラムとか砂漠の国や草原とか大陸の国の国旗は星印になる

太陽でも東は日向う(ひゅうが)とからきている、西はイニシで去る方向なのである
それで日立木に日下石」にっけし)があるがそこが西の意味としたときそこが一時津波で海が迫ってきた場だった
ではなぜ海側が西になるのか?それは海から来た人たちがそこに海が迫っていたとき太陽が沈む方向だとして西と名付けたと予測する
なぜならこの辺でなぜこれほど綿津見神社が多いのか?
それは安曇族などの海人族が移動してきたからである、それは海を渡る渡津見の神だったのである、渡ることを海を移動する民だったのである
そういう人たちが来たときそういう名前がついたと予測される
それは一つの説にしてもそういう説明になる

                          
●西殿の起源は泉官衙跡から来ているのか?

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泉官衙(南相馬市に躍動する古代の郡役所ー泉官衙遺跡)より
ここは相当に大きな郡役所だった、ただ方角的に西殿が今の西殿の方面にあたるかどうかはわかりにくい


方角地名で一番の問題はでは南とか北とか東とか西とあるときどこを中心にしてそう決めるのか?それが一番の問題なのである
南相馬市の高平の西殿というのもそうである
もし西殿よりさらに西になれば東殿ともなるからである、現実にそういうことはある


御屋敷、堀、上の坪、中の坪、東殿、西殿、上屋敷、国府殿、四郎殿とな っている 。  宝永 4(1707)年10月14日、紀州沖地擬により 、
大津波が押し寄せ、部落のほとんどが被害をこうむり田畑は砂で埋没したため、年貢米は 5年間赦免されている。 さらに、安政元年 (1854)11月 4日、遠州灘地擬による津波は高さ 10mにも及ぴ、堤防は全壊し部落はほとんど水没した。 しかし、道路が整備され、屋敷囲に根を植えている国府では死人はなく、家屋の被害はすくなかった。国府の歴史は、津波との戦いの歴史ではなかったのではなかろうか。津波の後は、その恐れから、家屋を小高い丘に移し、また便利な平坦地にもどる。その繰り返しをして、部落の移動がたぴたぴ行われていたものと思われる 。

ここに国府があり国府となる所に役所となる建物があり東殿―西殿と地名化した
国府となると正殿がありその東と西に脇殿として建物が建てられた
西脇殿とか東脇殿とかなる


溜池を挟んで東側の台地上にも周囲に土塁を巡らせた城館がある。こちらが西殿という場所であるらしい。60m×80mほどの長方形の郭であるが、所々土塁が分断されている。しかし、旧状を想像することは容易である。溜池側には2段ほどの腰曲輪的な削平地がある。城塁を削っているので、これらの部分も城郭遺構であると思われる。この2つはどちらも、戦国以の初期の居館というイメージである。


つまり原町区の西殿という地名はいつ頃から生まれたのか?
それは鎌倉時代時代以降と推測した、それは相馬氏が古くからが住んだ記録に残るからである
でも泉泉官衙跡が海に近くありそこに古代の役所があった、するとここにあるように国府がありそこに写真のように中心の建物があり西脇殿と東脇殿があってその名があって古代から西殿と名付けられたともなる、ただ西殿はその時は今の地点ではない
これは考古学の発見がありそれを調べないとわからない
ただ西殿とか東殿は戦国時代にもあるがインタ−ネットで調べた城でもあった
だから古代から西殿という名が伝えられたということでもない
国府とか郡衙になるとそういうことがありうる、事実いわき市にはそうした地名が残っている

(根岸郡衙跡)
郡の政治を行う中心の場所です。根岸遺跡では、正殿(せいでん)・東脇殿(ひがしわきでん)・西脇殿(にしわきでん)の三つの建物が中心の広場を囲むように建てられていました。

いわき市にも西殿がある、西殿は殿は古代の政庁跡にある、殿から館になったとき中世に変わったが依然として殿が使われていた

つまり地名の起源は古代にまでさかのぼり古い!

南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)

●なぜ南柚木(みなみゆのき)というのか?
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村の名で検索すると村の領域がグーグルで表示されるから便利

「この辺は何村ですか」
「坪田です」
「なかなかどの辺までは坪田村なのかわかりにくいです」
「坪田があり八幡があり成田がある、八幡は八幡神社があるからだよ」

なぜ村の範囲がわかりにくいのか?それは江戸時代なら村ごとに年貢を納めていたし村が行政の単位であり村ごとに人は結束して生活していた
それがなくなったとき村の範囲はあいまいになったのである

「柚木(ゆぬき)は南柚木と北柚木がある」
「柚木が相馬市でも鹿島のように思う人もいる、まぎらわしい」
「柚木は南柚木と言って北柚木とは言わない」
「方角地名となるとどこが中心かで方角が変わる、相馬藩は小高にまず相馬氏が城を置いた、だから小高から北が北郷になる、相馬市に(中村に)城を移した時、その城が中心になって南になるから南柚木となった、北柚木とは言わない」
「そういうことか」
「それで鹿島は北郷であり北郷と宇多郷が野馬追の時、雲雀が原に出陣するとき一体化して合流して向かうことになった
南相馬市となったのは相馬市の城から南だからそうなった」
「なるほど・・・」  

方角地名で問題なのはどこを中心にして南北朝とか北としているのかである
歴史的にも中心が変わるからである、鹿島区は北郷(きたごう)であるがなぜなのか?
それはもともと小高に相馬氏の城が置かれてそこから北になっていたからなのである
となると歴史を知らないとまた方角地名はわからない、単に南北とあっても歴史によって方角が違ってくる

どこが中心かというとき韓国では日本海は東海なのである、韓国側から見ると東の海になる、それこは韓国中心で見るからである
日本がを中心にして見れば日本海なのである
だからどこを中心にして方角地名が名付けられるのかが問題になる、それは歴史的なものとも関係している
韓国側にすると日本海となれば日本の海だとなりそのことで世界的にそれは違うと訴えて裁判までになる
地名でも国際問題になるのである

南柚木が北柚木と言わないという時、それは相馬市に城がありそこから見て南になるからである
方角地名で大事なのはどこが中心にして東西南北になるかなのである
相馬氏が進出したとき北郷はさけて大原とか小池から相馬市地域、前の中村地域に進出して城を建てた
柚木(ゆぬき)もそうして相馬氏の領地となった、その時北郷は相馬氏の領地にならなかった、支配地にならなかった経緯がある
そういう歴史的経緯があって方角地名が名付けられている、単に南北とかではないのである
だからなぜ南相馬市と合併したのか?
それはすでに相馬市に相馬氏の城がありそこを中心にして名付けられたのである
それで南相馬市はやがて相馬市として合併するとも言われたのである
ただ歴史的北郷(きたごう)は変わらず残っているのである、でもその歴史を知らないと理解できないのである




2019年04月04日

真野の草原の歌の笠女郎は近江出身説が有力になった (草津と栗東市内にある地名の移動が顕著)

              
真野の草原の歌の笠女郎は近江出身説が有力になった

(草津と栗東市内にある地名の移動が顕著)

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遺跡出土地点
鉄生産のセンター、本拠地(行方郡(真野郷)宇多郡と深く関係)

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●地名は伝播する

地名はいろいろあるにしろ古代の地名は伝播した地名が多い
縄文人が住んでいたとしてインディアンのようにアイヌ語の地名があるとしてそれもあるでも古代においては地名は遠くから韓国からの渡来民もいて伝播して地名化する
だから何か類似の地名が日本全国に生まれる
地名も他所から人が移ってきてもたらされたのである
神でも風習でも元を正せば他から移動している
神話とかいろいろな昔話でも元をたどると日本だけではない世界共通なものが見られのはそのためである、羽衣伝説などがそうである
渡来人がもたらしたものが技術でもそうでありそれに神々も人と一緒に移動してくるのである


大鳥神社は、全国の大鳥神社の本社とされる。式内社(名神大)、和泉国一宮で、旧社格は官幣大社(現、神社本庁の別表神社)。「延喜式」神名帳には「大鳥神社名神大、月次新嘗」と見え、和泉国唯一の神名大社となっている。延喜22年(922年)の奥付を持ち内容的には鎌倉時代の様子を表したものと推定される『大鳥神社流記帳』には、同郡の式内社の大鳥美波比神社・大鳥鍬靫神社・大鳥井瀬神社・大鳥浜神社とともに「大鳥五社」の集合が見られる

大鳥北浜(鍬靱)神社:吉備穴戸武媛命 (日本武尊の妃)
大鳥羽衣浜神社  :両道入媛命 (日本武尊の妃)
大鳥井瀬神社   :弟橘姫命 (日本武尊の妃)

和邇氏諸氏とは都怒山臣(角山つのやま君)・小野臣・近淡海国造の三氏であり、いずれも継体擁立に深く関わる重要氏族である。

その本来の出自としては、海神族(海祇族)の祖神綿津見豊玉彦命の嫡統で阿曇連と同族であり(奴国王の後裔でその嫡流ではないかと推される)、「ワニ」は鰐(トーテム集団の象徴)を意味するものと考えている。これが、和邇氏が長期間にわたって多くの后妃を輩出し、天武十三年十一月の朝臣賜姓五十二氏において、大三輪君(旧来の大和地方の支配者大物主命の後裔)に次いで第二番目にこの氏族の本宗家とみられる大春日臣が挙げられている主因の一つであろう。

近江国 近江栗太 安羅神社「天日槍命」滋賀県草津市穴村町

日本書紀に「素戔鳴尊、新羅国に到り、埴土を以て舟に作りて、出雲国に到る」とあり。埴土(はにつち)は鉄を含んだ赤い土で製鉄の原料である。埴土で鉄器(丸)を作り、その鉄器で舟を作ることから、船に「□□丸」と名付ける。刀剣の「□□丸」などの名にも用いられる。また、丸は両刃の刀と合口の意味で、鰐(わに)の歯に似ていることから丸(わに)と称す。古事記に「日子穂穂手見命は鰐の背に乗って海神宮から帰ったが、その鰐に紐小刀をつけて送り返したので、鰐を佐比持神(さひもちのかみ)と称した」と。日本書紀に「神武天皇の兄の稲飯命は、剣を抜いて海に入り、鋤持神(さひもちのかみ)となった」とあり。サヒは古代朝鮮語で鋤(すき)または剣を意味するが、同時に鋭い歯をもった鰐を意味する。対馬国鰐浦村は海洋民鍛人の渡来地にて、古くは和珥津(わにのつ)、和邇津(わにのつ)、鰐乃津(わにのつ)と称した。≫

南相馬市の鹿島区に烏崎があるけどもともとは烏浜(からすはま)だった、とするとこれも近江から移動してきたのかもしれない、烏アはあとから名付けられたからである
そして石巻にある鰐山がある、それは和邇氏のことである
そこにも真野という地名があり萱原の地名がある
南相馬市鹿島区の海老村があるがこれも移動地名だったかもしれない
エヒであり蝦夷のことだと前に指摘した

でも行方郡は常陸国行方郡と同一名であり、両地域間には多数の同一字
名があることも重要である(鈴木 2009)。→小鶴・島田・馬場・宮田・井田・根本・海老沢・鹿島・太田・太田和・大谷大野・小高・大甕・泉・牛渡・村上・大井・岡田・石上・五台・真野・信太・小池」 

小鶴があり馬場があり石上があり真野があり海老沢がある、その地名も鹿島区だと海老沢→海老村になり小池→小池村となりとその地名移動だとなる、大谷村もありこれらの地名は移動したともなるのか?井田があれば井田川があるからである
そして島田というのは泉官が跡から木簡として字が書かれていたのである
ただ南相馬市にはその郷名はなかったが常陸の島田郷から移動してきた人がいて記したとるのは間違いないとなるからだ

そして近江の地名を調べると秋田城木簡に秘めた万葉集 大伴家持と笠女郎」吉田金彦が笠女郎(かさのいらつめ)が近江の出身だということを地名から解き明かしている
それも地名だけではない裏付けが考古学的な発見であった

となると近江から地名が移動したともなる、つまり草原(かやはら)は移動地名だったのかとなる、

萱野神社

彦坐王命の第四世にあたる治田の連が、栗太郡一円の開発にあたり雄略天皇六年、遠祖の開化天皇を祀ったことに始まると伝えられています。

萱野というときこれは由緒ある神社があり地名であるからこれは伽耶国と関係しているかもしれない、他に大萱とかあるがこれも大草郷があり何かそこも伽耶と関係していることもある
角山(つのやま)となれば伽耶国の王子ツノガノアラシトをとった名だとなる
近江だとそういうことは色濃く反映して残っている
それだけ歴史の層が厚いし渡来人の足跡が深く刻まれているからである

ただ地名だと裏付けがなくただイメージだけで推察するからかなりの過ちが起きる、でも今回その裏付けが考古学的は発見で得たのである
つまり近江の栗東市の栗太郡衙があるまた大津周辺地域の考古学的発掘で宇多郡と行方郡そして真野郷地域が密接な関係があった
鉄の生産を通じて工人がその地域と行き来していたのである
つまりその近江の栗太郡は笠という地名がありそれは広い範囲をさすものであり吉備からの笠氏が移動して勢力を広めた地域だったとしている

この草津と隣の栗東市は交通の要所であり古代でもそうだった、そこに鉄生産のセンターが本拠地があり現実に工人が行き来していたのである
そうなれば当然、みちのくの真野の草原(かやはら)は遠い地としてもこの辺では十分に知られた土地だったのである
なぜなら生きた人間が行き来していたからである


それで笠女郎はここが故郷でありここの出身だとなればそれが裏付けられることになる
地名だけではない次と考古学的に裏付けられたものを検討する    

行方郡に

吉名郷、大江(大井)郷、多珂郷、子鶴郷、真吹郷、真野郷 

大江郷がありこれも栗東市の草津市の中にありそういう地名が移動してきて行方郡の郷名になった、また常陸国から移動してきて名付けられた、吉名とは小高とされているが物部吉名という人が現実にいたのである、だからこれは物部氏が支配した地域となる
そして原町の桜井古墳の主は物部氏とされているのである
高野郷というとき高野新笠がいて高野神社があり製鉄にかかわった、新笠だからやはり笠氏一族なのである

高野朝臣姓は、乙継と新笠の父娘2人にのみ賜姓されたとみられ、一族は朝臣姓とはなったものの、高野朝臣姓にはならなかった。乙継は続紀に生前の記事はないことから既に没しており、生者は新笠のみが賜姓された可能性もある。夫である天皇から妻への稀有な賜姓の例といえる[12]。天皇の妃嬪である新笠の姓は子孫に継がれなかった。

高野」の字(あざな)は、現在の奈良市高の原に比定される。高野近傍には土師氏の本拠地である菅原伏見、また秋篠がある。新笠に賜姓が行われたという宝亀年間、この地に孝謙・称徳天皇の陵(高野陵)がおかれたばかりであり、孝謙・称徳天皇はこの陵の地により「高野天皇」、「高野姫天皇」と称されている。瀧浪貞子によれば、高野朝臣への改賜姓は、宝亀3年(772年)に聖武天皇の血統である皇后・井上内親王、皇太子・他戸親王が廃され、山部親王(桓武天皇)立太子されたことに係るもので、新たな皇太子の母・新笠が聖武天皇嫡女の孝謙・称徳天皇に縁の姓に改めることは、皇太子を正当化するための措置、すなわち母を介して聖武皇統に繋がるための擬制的な作為だったのではないか、としている[12]。

大枝陵と母方への大枝賜姓

新笠の陵所と、母・真妹及び一族へ与えられた姓が同じ「大枝」であることから、真妹の居住地は山背国乙訓郡大枝であり、当時の招婿婚の習慣から新笠もそこで生まれ育ち、それが桓武天皇の山背国への遷都、特に大枝に近い長岡京への遷都の誘因となったとの説がある

吉名郷、大江郷、多珂郷、真野郷は近江に関係している、吉名は不明でも物部氏と関係している、大江はやはり近江の瀬田地域に関係している、つまり地名の移動が栗東市と草津市にあるのが多いのである
そうなると真野の草原という地名も移動したとなる     
滋賀県栗東市苅原があり苅をカイと発音するともある

すると原町区の萱浜がカイハマが同じ発音だから草原(かやはら)に通じているのかとなる
確かなことは地名の移動がありそして濃厚に近江の草津と栗東近辺にある
そしてその辺に笠地名が多いということはやはりそこと行方郡とか宇多郡が鉄の生産で密接に結びついて現実に生身の人間が行き来していたとなると何かこの真野の草原がリアルにイメージされてくるのである 
萱が伽耶に通じ駒は高麗ー高句麗に通じている、それで常陸国に高麗原がある、だから伽耶国から草原(かやはら)となっても不思議ではない、ただ地名としてはここには萱浜はあるがもともとカイと発音していたからどうなるのかともなる
その場所も真野郷内ではないからだ

次はその考古学で発見されたものからの裏付けになる、その論文もでていたので解読することになる 

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(秋田城木簡に秘めた万葉集ー大伴家持と笠女郎ー吉田金彦)

ここで吉備から笠氏がこの地に移動して勢力を広げた結果としてこれだけこ笠地名があり広い範囲で支配していた証拠としている
その辺の地名が陸奥の行方郡に移動ししてきたのである、それは常陸国経由にもなる

2019年03月30日

万葉集の真野の草原の草は鉄の意味だった! (松川浦の飯豊と津(つのみつ)神社の関係)


万葉集の真野の草原の草は鉄の意味だった!

(松川浦の飯豊と津(つのみつ)神社の関係)

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福島県白河市に「飯豊比売神社」があり、御祭神が飯豊比売神である。
福井県大飯郡高浜町の「青海神社」には、飯豊女王が禊をしたという池があり、伝承にまつわる神事が伝わる。

奈良県葛城市の「角刺神社」は飯豊女王の跡と伝えられ境内に飯豊王女が鏡として使ったという池がある。

上記の福島県の飯豊山には「飯豊山神社」がある。
宮城県加美郡加美町の「飯豊神社」は巨石を御神体とする。
福島県田村郡小野町の「飯豊神社」は秋祭の11月3日に獅子舞が奉納される。

関連項目
        
 卑弥呼・・・神功皇后
 壱与・・・飯豊皇女

 卑弥呼の後を継いで邪馬台国の女王となった壱与(いよ)については台与(とよ)という説

つまり邪馬台国までさかのぼる歴史が東北にも伝播したのである、「角刺宮」とは伽耶国の王子のツノガノアラシトを祭ったものなのである、確かにそこは新羅の渡来人のことが記されているがその前に伽耶国の王子のツノガノアラシトが最初に来たからこそその宮が生まれた、そして飛鳥には伽耶国の人たちがほとんどだったというときそこは伽耶国でもあったとなるのである
ただこの伽耶国は日本と一体化していて日本でもあったというとき天皇が伽耶国から出たというとき鉄の生産があり鉄によって力をもち権力をもち日本国が誕生したともなる、その時綿津見神を奉じる
安曇氏とか海洋民が国造りに深くかかわっていたのである 

松川浦の津波をまねがれた津神社はツノミツ神社でありツ一字では言わない、他でも津神社とあればツ一字では呼ばない、つの神社なのである
それはツノガノアラシトのことなのである、ここがまぎらわしいのである、なぜなら伽耶国とか安曇氏とか物部氏は大和王権が生まれたとき消されたからである、でもそれが地名とか神社に残されている、その地名にしても何か伽耶国とかをイメージできないものになっていたのであ

 
 「大泊瀬皇子(後の雄略)は、10月に押磐皇子を近江の蚊屋野
かやの、現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か)へ狩猟に誘い出し、
「猪がいる」と偽って皇子を射殺した。」

「蚊屋野」は、萱の鹿野姫でね?
「猪がいる」は、白猪にのった鹿野姫が想像される。

つまり、封じられてきた勿来とは、物部氏、葛城氏、刑部氏や佐伯部(忌部氏も?)
などの、部民の人達である。その中心にいた女性は、母系社会として位置づけられ、
「草」を用いた祈祷(たすきのようにして祈祷していた)「トベ」たちの風習による。  

タタラ場が流行り草から鉄へ。

その鉄のたすきを金連注(かなじめ)というが、それを体中に巻きつけて、
祈祷をしたのは、名取老女だった。

鹿野姫は、草や野の精霊というのは、その意味があって。
要するに、絹の養蚕ではなく、麻の植物。
だから、青麻神社の青は、飯豊青皇女の青と同じ意味があると思う。

 秩父、仙台、まほろばの道

ここのサイトは相当に東北の神社巡りをして詳しい、参考になる  

「草」を用いた祈祷(たすきのようにして祈祷していた)「トベ」たちの風習による。
タタラ場が流行り草から鉄へ。
その鉄のたすきを金連注(かなじめ)というが、それを体中に巻きつけて、
祈祷をしたのは、名取老女だった。

砂鉄を中心とした鉄の生産は古代真野郷で盛んであった、今の東北電力のある所で一大鉄の生産地が発掘された 
                                                                                      
真金吹く 丹生の真朱の 色に出て 言はなくのみそ 吾が恋ふらくは   万葉集14-3560

謎の真吹郷の所在地が初めて明らかになったのは昭和63年である。南相馬市原町区(古代行方郡)新田川 鹿島真野川の間にあるその名も金沢地区の小高い丘陵地一帯が当時日本一の製鉄所群があったのです。なんとその数発見されてだけで製鉄炉123基、木炭窯149基、竪穴式住居133軒、掘立柱建物29棟の一大製鉄工場群なのです。
恐らくその夜空をを焦がす真っ赤な炎は大化の改新頃から約200年に渡り燃えつずけたのでしょう。つまり古代製鉄のメッカだったのです。それが都でも噂になったのは ここに行方郡衙(泉廃寺跡)とゆう国の役所がおかれ、且つ行方軍団なる当時約1000名の駐屯地まであったからだ。その為都との人的往来は相当ありその燃える炎と灼熱の色が噂の種になってもおかしくない。だからこそ言いたくても言いだせない灼熱の恋の炎でわが胸を焦がすこの恋の歌に詠まれたのも至極当然な事なのである。でき、生かす人が少ないのは残念なことではある。
 (平成14年4月1日)(参考 東北電力パンフ・白河市史資料編・ 律令国家の対蝦夷政策相馬の製鉄遺跡群 新泉社 相馬双葉の歴史株文泉閣)    

  蝦夷陸奥歌枕

真野郷というこういう場所だったというときとても真野の草原が萱が茂っている場とはイメージすらできないのである
そこは萱が茂っている北海道のような淋しい場所ではないのである、それで錯覚していたのである 

岩手県一関の舞草(もうくさ)は古鍛冶の舞草刀の発祥地として
知られているが舞草の「草」は砂鉄を意味する

真野の草原に萱ではなく草をあてたのはなぜだろうか?
他でも大草郷とかがある、草とは砂鉄のことなのである、自然の草とか萱ではないのだ
だから石巻が真野の萱原だというのは疑問なのである
なぜなら万葉集では草原となっいるからだ、それがまぎらわしいのである

ただ石巻はその背景となるものが残っている
鰐山があるとすると鰐は和邇であり和邇氏一族に小野真野氏がいたからである
石巻には真野と記された木簡もと発見されたからである
さらに真野氏一族は鉄を求めて北上川を渡り登米にまで移動していた
そこに行方(なめかた)という木簡が発見されたからである
行方とは相馬地方の古代の郡である、行方郡である  

この草原(かやはら)は何か錯覚しやすいのである、カヤをどう発音していたのか?
その当時の発音はわからない、だからそこに漢字をあてたとき北海道のようなアイヌ語地名のようになる
それで漢字というのには音だけではない、意味がある
草とあてれば草をイメージする、萱をあてれば萱草をイメージする、

 諫早市多良見町(喜々津村、大草村、伊木力村が合併)の喜々津には面白い地名の字(あざ)が存在する。多良見町で最も人口の多い地区である「化屋」である。最初から「ケヤ」と正確に読める人は稀有であり、大方は「バケヤ」と読んでしまう

化屋の由来について

カヤはケヤとかにもなる、草とか萱は漢字をあてたものでありこの化屋もそうである、だから真野の草原(かやはら)をどう発音していたかは不明なのである
ここのサイトでは安曇氏などの海人族の綿津見神についても考察している、九州の安曇族が伽耶国の王子のツノガノアラシトと関係して東北に移住してきたのである、つまりそういう渡来人の移住が相当数あったから綿津見神社が多いのである



2019年03月19日

綿津見神社と山津見神社 (松川浦からその跡をたどる)


綿津見神社と山津見神社

(松川浦からその跡をたどる)

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山津見神社と和田=綿=綿津見神社


大山祇神社の住所は愛媛県今治市大三島宮浦で主祭神は「和多志の大神」の異名をとる
大山祇(おおやまづみ)神である
この一帯の海賊衆の親分のような神様である                  
一六代仁徳天皇の時代、百済の国から渡ってきた、津の国の御島(大阪府高槻市三島江の式内社三島鴨神社)にはじめいたのだという

古事記にニニギは野間岬で美女に出会う、名を問いば木花之佐久夜毘目売(このはなさくやびめ)で、ニニギは結婚しようともちかけた
すると木花之佐久夜毘目売「父、大山津見神に相談します」
という、大山津見神は姉の岩長比売をそえて差し出したのだった

大阪の三島神社でもそうなのだが「大山祇神」には物部韓国連(ものべからくにのむらじ)が百済から大山祇神を奉斎してきたと伝えられる
東海地方では目を転じれば静岡県三島市には三嶋大社があり大山祇神社祭られている
この一帯の国造は昔物部系の人物が勤めていた
(消えた海洋王国ー吉備物部一族の正体ー関祐二)

飯館村の佐須にある神は狼ともされているが実はもっと古い古代にさかのぼるのである
その由来は古事記にも記されている神であり古いのである
ではなぜこういう神が遠くみちのくにもたらされたのか?
つまりその神を奉じていた祭っていた人たちが移動してきたから神様も一緒に移動してきたのである

なぜ松川浦に和田があるのか?これは綿津見の綿が和田になったのである
その源は大山祇神社の住所は愛媛県今治市大三島宮浦で主祭神は「和多志の大神」なのである
和多志とは渡しであり渡ることかきている、海を渡る人たちだからそうなったのである
渡部の姓でもそうである、渡るからきている、海であれ陸であり運送を生業とする人たちだったのである
三島神社というとき原町にもある、これは百済系なのかとなる
その基はここに記されたものにさかのぼるのである

この大山祇神社神社と綿津見神社は対になっている、瀬戸内海の三島では対になって祭られている、兄弟の神だともなる
大山祇神社というとき山がつくから山をイメージするがこれは海の民の神になっている
一方綿津見神社は海をイメージする、でも二つは海彦と山彦のように一体なのである
だから松川浦にこの二つの神が並んでいることがそれを象徴している
二つは対になりか一体だからこうして並んで痕跡を残している
一方は山津見神社であり一方は綿津見神社でありその綿が和田になったのである

そして神社は綿津見神社神社でも山津見神社でも海から移動してきた、海から入ってきたのである、それで玉野から霊山に行く途中にも山津見の社が岩場をよじのぼったところに祭られていた、それは小さな社であり隠されていてわからない所にあった
それはやはり松川浦から人が移動してきてそこに祭った
そして飯館村の佐須に祭られた、飯館村には綿津見神社もあるからだ 
錯覚しやすいのは佐須に山津見神社がありそこから海の方へ移動したように見ることである
南北朝時代だと霊山の城が炎上して海の方へ落ち延びてきたからその人たちが祭っていた神社も移動した
山王神社とか日吉神社である、でもそれは時代が違うのである

まず日本の国造りは海側からはじまっていたのである
例えば今回の津波で日下石(にっけし)という所まで海になった
ニッケシとはニは西でありそれは海から見たとき西の方向にあったからである
海から見た方向感覚で西となったのである、そこはそもそも山側ではない、海に近い場所なのに西となるのは不自然だからである、海の民は漁師でも船から山を目印とする、そこに山の信仰が起きる
山は海から見たものとして意味があり名付けられるとなる
そこに海の民が最初に日本を支配したともなる、それがヤマトタケルの伝説となったのである
そういう下地を安曇氏とか宗像氏(むなかた)とがが実際に船を操作して移動したからそれがヤマトタケルに受け継がれて神話化したのである 
それで瀬戸内海の要所を抑えて吉備がまたはそれと同系の物部氏が大きな勢力をもっていたというのは理解できるのである

日本武尊(やまとたけるのみこと)、すなわち上総(かみつふさ)よりうつりて、
陸奥(みちのく)の国に入りたまふ。

時に大きなる鏡を王船(みふね)に掛けて、海路(うみつぢ)より……
蝦夷(えみし=大和政権に従わない人々)の境に到る。

蝦夷(えみし)の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神(しまつかみ)、
国津神(くにつかみ)、竹水門(たかのみなと)に屯(たむろ)して、防がむとす。

しかるに、遥(はる)かに王船(みふね)を視(み)て、
予(あらかじ)め其(そ)の威勢(いきおい)を怖(お)じて、
心の裏(うち)に、え勝ちまつるまじきことを知りて、

悉(ふつく)に弓矢を捨てて、望み拝みて………
蝦夷(えみし)ども、悉(ふつく)に慄(かしこま)りて、

すなわち裳(きもの)をかかげ、浪を分けて、
自(みずか)ら王船(みふね)を扶(たす)けて岸に着く。

よりて面縛(ゆわ)いて服罪(したが)う。

その罪を免(ゆる)したまう。

よりて、その首師(ひとごのかみ)を俘(とりこ)にして、
従身(みともにつか)えまつらしむ。

蝦夷すでに平(む)けて日高見国より還(かえ)る。   

竹水門(たかのみなと)とは南相馬市の磐城大田地区の多珂神社神社のことなのである
そこから海が見えるしその当時海は深く山側に入っていたからである
相当奥深くまで海だった、それが津波で証明されたからだ
鹿島区の塩崎(しおのさき)の船着まで津波が来たのである、そこは低地だっからそんな奥まで来ていたのである
だから多珂神社のあるところは港のような場所だったともなる

そのヤマトタケルの伝説の基は綿津見神社と山津見神社があるように安曇氏とかは綿津見神社であり山津見神社もついにしてある
宗像氏とか海の民と深く関係していたのである、そういう人たちがここに最初に入ってきたのである
物部氏が吉備氏と一体だという時もそうである
瀬戸内海で交通の要所あり力をもったからである
南相馬市でも物部氏に由来しているものが多いのである、古代の郷では小高に吉名郷があるが物部吉名という人物名があるから具体的にその氏族名と名前があるということは物部氏がヤマトタケルの前にこの地を支配していたのである
それで原町の桜井古墳は物部氏系統のものである、なぜなら東海地方から出てくるものと同じものが古墳から出たとされるからだ
東海地方には物部氏が勢力を持ったところだからである

表からみても東海地方に静岡県に綿津見神社が50とかぬきんでて多いことでもわかる、そして相馬地域に20というのは本当に多い他は少ないからだ、この辺ではとにかく綿津見神社が目立つのである
ただでは安曇氏の痕跡が残っているかというとない、ただ神社だけがその跡を示して残っているとなる
伽耶(かや)とかもその痕跡が消されたように安曇氏の痕跡も大和王権成立して消されたとなる

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静岡に綿津見神社が50あり福島県に20あるがこのほとんどは相馬地域にある
ただこの数は正確なのかどうかわからない、綿津見神社神社はもっと多いように思うからだ



2019年03月17日

万葉集の「遠妻し、多珂にありせば・・」の歌から多珂神社の謎に迫る


万葉集の「遠妻し、多珂にありせば・・」の歌から多珂神社の謎に迫る

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「遠妻し、多珂にありせば、知らずとも、手綱の浜の尋ね来なまし」

 この歌の意味を訳すと、「遠くに居る妻が、せめてこの多珂の里の付近にでもおったならば、道はよく訣らないでも(知らなくても)、手綱の浜で、尋ねて来ようものを」(折口信夫訳)

 多珂にありせばの多珂である。奈良時代(723年頃)にできた「常陸風土記」によると、大化改新(645年)以前の常陸(現在の茨城)は、新治、筑波、茨城、那賀(伸)、久慈(久自)、多珂(高)の6つの国に分けられており、それぞれの国に、朝延から地方の国を統治する役人「国造」(くにのみやっこ)が配置されていた。

 また、これより古い書物「国造本記」に、大倭国に始まり、その後の約130の国造を任命した記録があり、国の設置年代が記されている。これによる今の茨城県の国は、下総、新治、筑波、茨城、仲、久自、高となっている。ここに出てくる国名の久慈(久自)は、現在の日立地方で、多珂(高)の国ば、現在の日立市北部から十王町、高萩市、北茨城市を含む範囲にあった。この多珂(高)の国の中に、「手綱」という地名のあるのは高萩市であり、他にない。

 
ここに多珂という字になっている、なぜこの字をあてたのか?
それがなぞなのだけど常陸の国から行方郡(なめかた)であり郡が移動している
真野里すらあった、この辺の古代で氏族名が明確なのは真野氏だけである
それで真野郷となった、それは石巻からも真野と記された木簡が発見されていて真野という地名があり北上川をさかのぼった登米にも行方と真野と記されたものが出ている
だから真野氏というのはこの辺では氏族名として残しているのである

高神社 
京都府綴喜郡井手町多賀天王山1

元明天皇の和銅4年(西暦711年)東村宮として多賀明神社が字川辺に建立され、次いで神亀2年(西暦725年)字西畑に久保村宮が、神亀3年(西暦726年)字綾の木に谷村宮が、それぞれ建立されました。聖武天皇の天平3年(西暦731年)勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に「多賀村」を「高村」と名称が変更されました

式内社である石勝神社は御朱印地を持った神社として
有名で、祭神は天石勝命である。社伝によると神亀二年
(七二五)に創建され、

社伝によると、聖武天皇神亀二年の創建。
上古、大和よりこの地に移住してきた春日族が
その祖神を祀ったものであるという。

染羽国造 Simefa   標葉郡  福島県双葉郡浪江町苅宿     標葉神社、標葉郷

染羽成務阿岐国造同祖10世孫足彦命(たらしひこのみこと)
陸奥標葉.志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に阿岐国造の先祖の十世の孫の足彦命を国造に定められた


多珂神社というのはもともとは多賀神社由来であったことは確かである
多賀神社は近江にあり伊勢神社より前には一番参拝客も多い神社だったのである
つまり多賀神社は伊勢神宮より古い神社である、伊勢神社は新興勢力なのである

浪江の染羽(標葉)はシメハでありここに連なっているのである

ともかく行方郡が置かれたのは常陸から軍団が移動したのである
郡とはもともと軍の意味だからである、軍が支配したからそうなる
その行方郡内に真野郷があり多珂郷があるということはこれも常陸から移動してきたからである
万葉集にも多珂郷があることでもわかる、遠くにいる妻とは奈良から移動してきた官人だとするとその妻をはるか離れた常陸の地で偲んでいることになる

では綿津見神社は何を語っているのか?
安曇氏が奉じた神だとしても安曇氏というのはこの辺にはほとんど浮かばない
地名化しているのは近江と長野県の安曇である、そこでは船の祭りが残っていて安曇氏が船を操作する海人だったことを伝えている
伽耶の王子のツノガノアラシトはツノとしてその地名を残している
津神社とは松川浦でも津(ツ)一字ではいわない、ツノミツ神社とかツノミヤ神社なのである、ツノガノアラシトのツノなのである
それから相馬地方に荒(あら)という姓が多いのかということを尋ねる人がいる
その荒とはツノガノアラシトのアラなのである
だから地名化しているとかなるとその痕跡は残している
でも安曇氏はただ綿津見神社というのがそうだとしてもそうした痕跡がないのである
ただ相馬地域でなぜこれほど綿津見神社が多いのか?
多珂神社の近くにもあるしこの神社が一番相馬地域では目立つのである

ウィキペディア(Wikipedia)の多珂神社の説明では多珂を鷹として伝説を伝えている
それは高倉でもそうである、でも鷹と何の関係があるのか?
これは地名伝説が後から創作が多いように作られたものが多いと同じでそうなったのか?多珂神社とは多賀神社に由来していて鷹とは関係ないからである
高倉も多珂郷がありそれが波及して名付けられたのだろうとなる

それにしても多珂神社は立派である、式内神社として指定されたことでもわかる
鹿島神社とかも立派だかそれに劣らず立派だし大きいのである
だからそこも何かこの地域で古代に中心的な役割を果たした場なのかとなる
磐城大田の駅の近くであり電車からいつもあの鳥居を見ていたのだがそこに多珂神社があることを知らなかったのである
灯台下暗しとなるのが郷土史でも多い、それと私は自転車だから坂を避けていて行かなかったということはある、最近買った電動自転車は坂でも上りやすいのと機動力があり行動範囲が広がったのである、ただ年で疲れるのは同じである
でもそれを補うものがこの電動自転車にはあったから行けたとなる

2019年03月15日

綿津見神社の謎(言葉の起源の小話)


綿津見神社の謎(言葉の起源の小話)

神社を子供が訪ねてその由来をたずねる

「何かこの辺で綿津見神社が多いですがなぜですか」
「それは時代をずっとさかのぼる、日本の国がまだできていない時のことじゃ」
「綿は何の意味ですか、ただの綿なのかな」

こんな疑問を子供が思うのは当然である
綿とは綿のことではない、大洋をわたという、それでこういう話になった

「あなたはどこから来たのですか」
「わたしは渡ってきたものです」
「どこからですか」
「呉(くれ)の国からです」
「それはどこにあるのですか」
「その国は太陽の沈む方です」
「なるほど暮れる方角にある国ですか」
「そうです」

この渡ってきた人たちが来たのでその地に祭られたのが綿津見神社じんである
綿は渡ることである、わたしとは渡ってきた人が言った言葉である
つまり渡来人のことである

綿津見神社は多い、それは日本の国が成立する前に海を越えて渡ってきた人たちが多いからである、そしてその人たちがその土地の先祖となった故にその人たちを記念する神社が多い、綿津見神社とは大洋をおおわたというごとく海を現すがその海は渡る海として意識していたからそうなった

そして綿津見はワタツミでありワタのツミはツノガノアラシトという韓国系の渡来人のことである、津神社とあるがそれはツノミヤとかツノミツとか言い一字でツとは言わないからである
つまり中国の呉から渡ってきた安曇族とかと韓国系のツノガノアラシトが合体した神社なのだ

綿がなぜこの字になったのか?

沙弥満誓、綿を詠む歌一首

しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ(万3-336)

万葉集にあるように綿とは韓国からの輸入品だったのである、当時は韓国はカラの国と呼ばれていた、それは伽耶の国でもあった、半島の端の先の国だったのだ
そこは日本の国の一部でもあったのだ、つまり海を渡ってきたものだから綿になったのだ、わたる→綿(わた)となる

そういうことでこの疑問に答えたがまだまだ謎が多いのが歴史である
それはあまりにも古い時代のことだからである

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安曇族と綿津見神社 (真野の草原は南と北の境界線だった)

 安曇族と綿津見神社
(真野の草原は南と北の境界線だった)


●安曇族の浜通りへの進出

カヤナルミは出雲の大物主命(おおものぬしみこと)(ニギハヤ)と伽耶の宗像神の間にできた女人、出雲王朝にとってこの女性こそが南部伽耶との同盟関係を象徴する者だった
大国主の子の建御名方は出雲から追われ信州諏訪の地へ落ち延び二度と外に出ないことで助命された 

建御名方の正体はタケムナカタでありカヤナルミの母は宗像(むなかた)神である

建御名方「古事記」の中で越の国の人、沼河姫とこれに求婚した大国主との間にできた子と記されている越の国には伽耶国の王子ツノガノアラシトが来日したのもキ気比神社で建てられた

出雲に樋川(ひのかわ)

海流を考慮した領地の取り合いになっていることから海洋民族的とみなして安曇氏を呼んだことからも言える
南部伽耶族の神々が宗像住吉神として海の神であった 

苕野神社福島県双葉郡浪江町請戸東迎 38)

式内社(延喜式神名帳記載神社:927 年編纂)
祭神:闇淤加美(くらおかみ)神 、五十猛神 、大屋津姫命 、抓津姫命 ただし本来の祭神は不明
創建:養老元年(717 年)に荒氏が請戸小島に社を建てて奉齋したのに始まり、その後島が海没した
ため、これを現在地に遷座した(この島は現在海中に暗礁として残っている)。
縁起に関する伝承に、海から流れ着いた女神を祀ったという内容の話が幾つかある。近世において
は貴布根大明神と呼ばれていた。

鳥取県の神社(神社数 21社)

和名類聚抄によると米子市付近には伯耆国合見郡安曇郷があった。現在は上安曇と下安曇の二つの村
がある。これらは「あずま」と呼ぶがこれは住民が「あづみ」を訛ったことによるらしい。これらのことからこの地域は安曇族ゆかりの地といえる。

徳島県の神社では「綿」の代わりに「和田」、「和多」と表記する場合が多い。安曇氏族との関連を思わせる神社はない。

イザナキが行った禊で、イザナキから成った底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の3柱。海をつかさどる神としてはイザナキ、イザナミによる神生みで、すでに大綿津見神が生まれており、底津、中津、上津の3神で海を垂直に分けて治める意味があると考えられる。
 海幸山幸の神話では「綿津見大神」として登場。兄の釣り針をなくしたヤマサチビコのため、大小の魚を集め、タイののどに刺さった釣り針を見つけ出す。
阿曇氏の移住先の穂高神社(長野県安曇野市)などにも祭られている。


「秩父・仙台まほろばの道」九州とか瀬戸内海とかから海人族が渡ってきたという指摘は重要である
なぜなら安曇族は有名だけどそういう海人族が日本の国造りに深くかかわっていたからである
その証拠としてなぜこれほど南相馬市内でもやたらと綿津見神社が多いのだろうか?
こんなに多いということはそれが何を意味しているのか?
やはり海人族の一団が移動してきて移住してきた証拠なのである
安曇族は浜通りを北上してきている

安曇族と志賀島(9)呉から来た安曇族・九州王朝の場所を伝えていた

綿津見神社 (小倉南区) - 福岡県北九州市小倉南区石田鎮座
綿津見神社 (古賀市) - 福岡県古賀市庄鎮座
綿津見神社 (東区) - 福岡県福岡市東区三苫鎮座
綿津見神社 (糟屋郡) - 福岡県糟屋郡新宮町湊鎮座
綿津美神社 - 福岡県北九州市小倉北区萩崎町鎮座
綿積神社 - 福岡県糸島郡志摩町鎮座
大綿津見神社 - 新潟県佐渡市小木鎮座
吉田綿都美神社 - 福岡県北九州市小倉南区吉田鎮座
新田綿都美神社 - 福岡県北九州市小倉南区新田鎮座
手鎌綿積神社 - 福岡県大牟田市恵比須町鎮座
      

海とか和多都見(美)とか漢字の表現が違うのである
松川浦に和田がありかこれは綿津見と関係あるのかもしれない
四国では和田は綿津見と関係していたからである
あそこも地理的には松川浦の入江の奥にありそういう場所である
それから原釜にも津波で流されたがその津波記念館の前に龍神社があった
これも安曇系統の神社らしい、特に相馬藩地域には綿津見神社が多い


志賀神社内にもワタツミ神社が祭られているとか志賀との関係も深いのである
つまりこの辺に来たのは九州系の海人族だったのかとなる
綿の字で共通していたからである
ただではそんな遠くから来たのかとなるとそんな航海術があったのかとなると疑問になるただ船を操作するのににたけた一族だった、それは中国からわたってきた人たちだったからである、古代でも短い距離の航海だったら海でできたのである
いづれにしろ古代はその前でも国が確定していなければいろんな人たちが外国からでも入りやすいし日本の国をかえって移動したり移住しやすいのである
なぜならそこには確かに原住民が住んでいても広大な荒野が広がっていたからである
もしそこに強力な国家が形成されていたらできないからである、入り込めないからであるそれで日本の国が大和朝廷ができる前までは国というものも成立していなかったから渡来人が技術をもって入ってきたのである、無政府状態だったともなる

● 真野の草原は気候的に南と北の境界線だった

なぜこれほど渡来人が日本に来たのか?
それはまだその時統一国家がないから自由に出入りできたからである、パスポートがないとか何かそうした制限もないから自由に入って来た、ただ地方には地域の勢力がありそれでそうした人たちがその地に根を張って力をもっていた
それで多数の古墳が作られた、それは先祖を祭るものとして作られたがやがてそうした厚葬は禁止された
大和朝廷が成立したときそうして蝦夷が出雲と対立した
その蝦夷とはただ大和朝廷に対立するものでありそこに伽耶族のツノガノアラシトとか安曇族とか宗像族とか様々な人が群居していたのである、そこには原住民の縄文人の末裔も住んでいた
そういう様々な人は大和朝廷に統合されてはいなかったのである
それで海人の安曇族も日本に入ってきた
ただそういう人たちの勢力が衰えたとき歴史から消えたとなる
また隠されたとなる、それで地名がわずかに残っていてその時をイメージしている、地名というのは消えないからである

こういう古代史の流れを見ないと万葉集の真野の草原の歌が何を意味していたのかわからないのである
そして歴史は地理を見なければわからない、どうしてまずこの歌ができたのか?
それは地理と深くかかわっていたからだ
なぜ綿津見神社がこれほど相馬地域に多いのか?
それはこの辺までは気候的にまだあたたかいということも関係していた
それはここ二三日寒い、寒気がシベリアからおりてきた
その天気図を何回か見た、すると丁度浜通りのこの辺がその寒気のおりる境目になっていた
つまりここは海老村が車輪梅の南限の地としてあったようにそうした南と北の境目にあった
それ以北になるとさらに寒くなるから住むのに適した地とはならないからだ
それでこの辺までは安曇族も進出して稲作とかの技術をもってきて土着した

それは評価らでもわかる、綿津見神社が不和もある乃は本当に多いし現実にやたらこの辺では綿津見神社が目に付くのである
真野の草原の歌の意味しているのは真野の草原は地名でありこの地点までは安曇族でも進出して土着できた
たから気候的にみても石巻の万葉集の草原→萱原だとはありえない、それは遠すぎるからだ、現実問題として真野郷から以北は寒くなりさらに石巻だと遠いし寒くなる
ここが進出する限界点でありそれで真野の草原の歌が生まれたのである
だから綿津見神社がこの辺にふわもあることがそのことを示しているのである

●地図から見る境界線だった真野の草原

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福島県でも綿津見神社は相馬地域にほとんどある!

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須恵器の発見場所 森浩市

末続(すえつぐ)は須恵器のことである

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寒気は丁度真野の草原地域が境界になっておりてくる

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植物の分布とか気候の関係で自然の影響で境界線が生まれる
国でもそうである、ライン河があれば境界線になる
そこは気候的にも南から寒い北国になるとかある
そうして歴史の始まりはそうた自然の影響が大きかった
なぜなら飛行機のように地理を克服できないからである
必ず地理とか気候によって制限されていたからである
だから真野の草原もそういう境界の地点としてあり古代に知られていたのである
だから真野の草原(かやはら)は萱(かや)ではない
大和朝廷国家が成立した時点でそこが境界線として記憶されていたのである






2019年03月14日

南相馬市の古代史(高村にある多珂神社の由来の謎)



南相馬市の古代史(高村にある多珂神社の由来の謎)


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益田神社もありこれは一体なのである
つまり地名もこうして移住した人たちが名付けたものであることを証明している



高神社 
京都府綴喜郡井手町多賀天王山1

元明天皇の和銅4年(西暦711年)東村宮として多賀明神社が字川辺に建立され、次いで神亀2年(西暦725年)字西畑に久保村宮が、神亀3年(西暦726年)字綾の木に谷村宮が、それぞれ建立されました。聖武天皇の天平3年(西暦731年)勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に「多賀村」を「高村」と名称が変更されました

島根県益田市にある。
益田駅の東2Kmほどの染羽町鎮座。
益田川の北側、高校のグラウンドの横が参道。

北西に延びる参道の途中に鳥居が建ち、
鳥居の脇には、「式内 縣社 染羽天石勝神社」と刻まれた社号標。
参道の灯籠には、「瀧蔵大権現」と刻まれている。

式内社である石勝神社は御朱印地を持った神社として
有名で、祭神は天石勝命である。社伝によると神亀二年
(七二五)に創建され、瀧蔵権現と称して、承平元年(
九三一)には別当寺勝達寺を建立し、中世には益田氏の
庇護を受けて発展した

社伝によると、聖武天皇神亀二年の創建。
上古、大和よりこの地に移住してきた春日族が
その祖神を祀ったものであるという。

染羽国造 Simefa   標葉郡  福島県双葉郡浪江町苅宿     標葉神社、標葉郷

染羽成務阿岐国造同祖10世孫足彦命(たらしひこのみこと)
陸奥標葉.志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に阿岐国造の先祖の十世の孫の足彦命を国造に定められた

浮田成務崇神の五世孫賀我別王(かがわけのおおきみ)

陸奥宇田志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に瑞籬の帝(崇神天皇)の五世の孫の賀我別王を国造に定められた。

信夫成務阿岐国造同祖久志伊麻命孫久麻直陸奥国信夫郡

福島市志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に阿岐国造の同祖の久志伊麻命(くしいまのみこと)の孫の久麻直(くまのあたい)を国造に定められた。

 標葉が染羽を由来とし、志波(しは)と訓読みする。
続日本紀に標葉と記し、先代旧事本紀では、成務天皇(13代)阿岐(安岐)
国造の飽速玉男命(あきはや)を10世紀足彦命を国造に定めたと。
信夫国と同系、後に石城国となる。

広島は、阿岐(安岐)とよばれ宮島がある所。
厳島神社より格が上だったという!
ということで、標葉の祖は、鹿児島〜愛媛〜広島の水軍=海賊だったかもしれない

大和の蝦夷地へ政権として五国を治めていたのは、
阿尺国、思(太)国、伊久国、染羽国、信夫国。
これが鉄であり、九州から鉄を求めて開拓をした。

染羽の地を開いた春日族が、石神(いわがみ)として祀ったそうで、
やはり春日神なのだ。
春日神とは、藤原氏(中臣氏)の守護神である武甕槌命(鹿島神宮)と経津主命(香取神宮)、
祖神である天児屋根命と比売神を祀る。四神をもって春日神と総称される。

秩父・仙台まほろばの道

インタ−ネットで調べたら詳しい
春日族には真野氏と小野氏が入っている

これらを総合的に連携している、この一帯にかかわった氏族がどういう人たちだったのかわかる

志賀高穴穂の帝(成務天皇)というのが染羽=標葉(しめは)にかかわっている
浮田国造とは南相馬市鹿島区にある

真野氏とかの製鉄族が渡来人とともに入ってきた、真野氏自体が渡来人ともされるからだそれから日本の国造には最初出雲が大きな勢力としてありその出雲の正体は蝦夷だったということもある、だから出雲がある島根県とか鳥取県が深く関係している
それで末続とか常磐線にある駅名は出雲大社とか島根県と関係していた
ともかくなんらかの技術者が製鉄関係でこの地にやってきて神社を建てた   

南相馬市小高区の奈良、平安時代の「横大道よこだいどう製鉄遺跡」(国史跡)にあった製鉄炉を復元し、当時の製法で鉄を作る実験が、考古学研究者らによって福島市で進んでいる。年内には、その鉄を使って刀鍛冶、藤安正博さん(67)(福島市)が古刀を再現する計画だ。

行方郡多珂郷(福島県)を今の高平にしているけど地理的に合わない
多珂神社があるところは磐城大田の地域なのである
高平は離れているのである、だからそれは間違いである
この多珂神社は海が見えるとしても高い丘にあるからだ
この近辺が多珂郷なのである

次回は綿津見神社がなぜ南相馬市に多いのか?(安曇族の謎)

2019年03月06日

「謎の出雲、伽耶王朝」〈関佑二)を読む (出雲が蝦夷で伽耶から天皇が生まれた)


 「謎の出雲、伽耶王朝」〈関佑二)を読む 

  (出雲が蝦夷で伽耶から天皇が生まれた)
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 ●出雲はスサノオが始祖

春は種を重ね播きし、田の畦を壊したりした。秋には馬を放って、田の中を荒らした。またアマテラスが新嘗祭(新穀を神に供える祭事)を行っているときには、その部屋に糞をした。またアマテラスが機殿で神衣を織っているところに、馬の皮を剥いで、屋根に穴を開けて投げ入れた。

このような行動を木の神スサノオがとったのは、当然のことのように思えます。
森が田畑によって侵食されていく様は、スサノオにとって腹立たしい限りであったのではないでしょうか。
スサノオは日本国中に木々を茂らせた木の神様です。自分が育てた森を伐られて怒らぬはずがない、と思います。

蝦夷とは何ものなのか?それはただ大和王権に逆らった人たちの意味であり蝦夷というのは何か特別の決まった人たちではない
日本が建国される前に縄文人が生活していた、そこに外来の人たちが侵入してきた
だから出雲神社のスサノオは稲作する者たちに嫌がらせをした
それは生活形態が違っていてそれが争いになった、それは遊牧民と農耕民の争いと共通している、万里長城ができたのはそのためだったからである
世界史を見ればそういうことは人間共通の問題としてすでにあった
それで人種の相違とかよりそうした生活形態の相違が人間にとって大きな軋轢を生むものだったのである
日本が建国する大和朝廷ができる前にそこに韓国がとりわけ伽耶国が深くかかわった
それで天皇は伽耶国から出たという説がある
それだけ伽耶というのは日本と一体化して不可分な存在だったのである
ただ百済とか新羅とかなると伽耶国の後に日本にかかわったのであり日本が建国する大和王権ができる前は伽耶国が日本に深くかかわっていた

それはこの本で解き明かしている、蝦夷は何かとなれば縄文人でありそこに伽耶国から来た渡来人がありその人たちが共同して大和王権に逆らったのであり他に物部氏とかもそうである、仏教を取り入れたのは大和王権を作った人たちであり物部氏は神道派だからである、仏教というのもそれは仏像は鉄で作るし寺でも建築技術が必要だし技術と一体化して入ってきたのである
それは伽耶から最初入ってきたのである

●長野県の諏訪神社は出雲系

そしてもう一つ大事なことは長野県の諏訪神社もタケミナカタの神が由来であり出雲系統でありその長野県辺りから甲斐国がありそこから蝦夷の地域に移住している人たちがいた諏訪神社というのは非常に多いのである、そこで南相馬市の萱浜(かやはま)はもともとカイ浜と呼ばれていた、そのカイは甲斐から来ているという伝説があるがそもそもカイというとき北海道のことでありカイ族のいた地域でありカイとはアイヌのことでもあった
それも謎のなのだが出雲系は縄文人の勢力圏であり長野県ふ山梨県辺りは甲斐であり武田氏の支配地である
萱浜となっていればカヤハマだったら萱原にもなる、でももともとはカイだったのである縄文語やアイヌ後も地名として残っているという時それはアイヌ語なのか?
縄文語なのか判別できないしアイヌがどれほど縄文人とかかわっていたのかもわからない実際どうしても縄文人が日本人の古層としてありアイヌは比較的新しいものとして見ている、鎌倉時代まではさかのぼれるにしてもそれ以上は歴史を遡れないとかなる
その論争はなかなか決着がつかないのである
ただ確かなことは蝦夷と出雲は一体であり鳥取でもずーず―弁だとかなるとそうした古層と通じているからそうなっているのか?
この本はそれを解き明かすものとして一読の価値はある   

「荒覇覇吐王国」
「日高見王国」
「邪馬台王国」
「吉備王国」
「出雲王国」
「不弥王国」
「投馬王国」
「伊都王国」
「熊襲王国」

古代では大和朝廷で統一される前はこうしたクニがあった、会津も大きなクニだったがここまで大きなクニとはならなかった

●出雲系の神社が多い訳(氷川神社もそうである)

出雲系の神社は日本に本当に多いのである、最近氷川神社が高平にあることに気づいた
これも古い神社であり埼玉県の大宮を中心にして多いのである
この祭神はスサノオであり出雲系統なのである
氷川神社は「素戔嗚(スサノオ)」を祀っている。
大国主命(オオクニヌシ)と櫛稲田姫(クシイナダヒメ)を合祀しているところもある。
埼玉県さいたま市の大宮にある、武蔵一之宮、氷川神社がそうである。
が、いずれにしても「出雲系の神々」「国つ神」である。
隣接する千葉や茨城になると、違ってくる。

簸川郡斐川町」といった。簸川も斐川もともに「ひかわ」と読む。これは出雲平野を流れる「斐伊川」のことであり、簸川も斐川も斐伊川の古称である。
そしてこの埼玉県にある「氷川神社」は名前の由来は、出雲のヒカワ(簸川・斐川)から来ているのだという。
アラハバキの「ハハ」は古語で蛇のことであり、「ハハキ」とは「蛇木」あるいは「龍木」を意味し、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来は祭りの中核にあったという。
実は出雲地方では大樹の周りを藁縄を蛇体のように巻き付ける風習があり、あちこちの神社で見かけるのでこの説には納得する

このアラハバキも渡来人の伽耶国のツノガノアラシトから来ているきではないか?アラがまず韓国にある、伽耶国にある阿羅国のことである、ハバキは良くわからないにしても土着の民族であり縄文人でありそれと合体したのがアラハバキだともなる

阿羅国(阿羅伽耶)は、やはり加羅(伽耶)諸国のうちの一つで慶尚南道(キョンサンナンドウ)咸安郡市(ハマングン)にあった国のようです。
意富加羅国(金官伽耶国)の王子は、名はツノガノアラシトです 

韓神祭り(からのかみのまつり)上代においては二月十一日に行われていた
宮内省の内に祭られる韓神社の祭り、中世以後衰え廃絶した

伽耶は韓であり加羅であり後に唐ともなった、唐神と南相馬市の古代真野郷地域にあるのは唐に変化したのである
何か加羅とか伽耶とかは大和朝廷に統一されてから隠されてきたのである、それは統一の過程で伽耶国の人が犠牲にされたためだという、それでもともと伽耶とあったのが草原(カヤハラ)萱になった、それで漢字をあてたから日本の地名は誤解しやすいのである 
             
その解釈はいろいろある、アラハバキ神社は猪苗代湖畔の湖南から行った所にもある、ただこの辺ではめずらしいのである
私が見た限りではここしか見たことがないのである

島根県益田市に染羽天石勝神社があり、祭神の天石勝命(アメノイワカツ)と
多数の天津神を祀っている。
ここに弁天池があり、イワクラ信仰があり、かつては滝があったそうです。
725年天石勝命を祀ったと考えられ、この神々の由来には、
元国津神を天津神として祀ったようです。

染羽(しめは)は標葉であり浪江の古代の郷の名前である、これも出雲系に由来している

鹿島」や「香取」など、「ヤマト系」というか「天つ神」の神社が多くなる。
 面白いことに、千葉・茨城と東京・埼玉の境界あたり、荒川流域には「久伊豆(ひさいず)神社」という神社がたくさんある。
これも「出雲系」「国つ神」の神社であるが、見事に「氷川勢力」と「鹿島・香取勢力」との境界に集中している

出雲地方から直接勧請された神社は「須賀神社」「八雲神社」「出雲神社」などと称している場合が多く、これに対し、かつて牛頭天王を祭っていた祇園信仰の系譜を引く神社は明治以降「八坂神社」「祇園神社」「津島神社」等と称したところが多い。同じスサノオ信仰でも、氷川神社と称している諸社はそれら両系統とも異なり独自の信仰圏を形成している。

つまり出雲系統の神社がある地域はもともと縄文人が住んでいてそうなった
その祭神が出雲系統なのである
ただ今の茨城県とかは常陸(ひたち)の国であり違っていた
つまり埼玉県の氷川神社がある地域はもともと出雲系が縄文人が蝦夷の勢力が強い場所だった
氷川神社は南相馬市の原町区の高平にもある

だからこそ稲荷山古墳から発見された鉄剣の銘文にこの地を支配した族の名前が記されている、その中にカサヒヨ カサハラと記されているのは渡来人である
カサとは韓国にある地名である、笠原というときこの地に残された万葉の笠女郎の真野の草原(かやはら)の歌がある、その笠女郎の父親は

笠 麻呂(かさ の まろ)。姓は朝臣で、吉備笠垂の子とする系図がある

吉備津神社の社伝に、中山の麓に茅葺宮を営み、吉備津彦神を加夜臣奈留美命(かやのおみなるみみこと)が祀ったのが神社の起こりという事で、加夜臣奈留美命(かやのおみなるみみこと)とは、飛鳥の神名備に坐せた、加夜奈流美(かやなるみのこと)ことで、この賀陽氏の始祖神です。吉備津神社の主祭神は、大吉備津彦命ら八柱で、二柱は賀陽氏の祭祀神で、他は吉備臣の先祖とされる孝霊天皇の子神。

この「温羅(うら)伝説」の温羅こそ、「吉備伽耶王国」という巨大勢力を代表する人物で、吉備賀陽氏自身であり「温羅(うら)伝説」は、古代「吉備伽耶王国」の始祖伝承を伝えた話
後に、百済勢力が進出してきて吉備津彦と争うこととなる。

吉備は大和王権として日本が統一する前に大きな国だった、それで会津の大塚山古墳から三角縁神獣鏡が発見された、これは吉備の古墳から発見されたものと同型である
『同笵鏡』(どうはんきょう)又は『 同型鏡』(どうけいきょう)に関するお話です。三角縁神獣鏡は、前述した通り、同じ物ではなく、沢山の形が存在しますが、同じ鋳型から鋳造された鏡を 同笵鏡または同型鏡 と言います。黒塚古墳出土の32枚の分析は、整理された情報が、私にはありませんので、それ以前までの分析では、 『88組』、『275枚』が、同笵鏡だそうである
ただこの同型鏡は全国に分布している、九州にも分布している、でもなんらか会津まで及んでいたことは注意すべきである、なぜなら東北地方ではここにしか発見されていない


●出雲系の神社が多い訳

出雲系の神社は日本に本当に多いのである、最近氷川神社が高平にあることに気づいた
これも古い神社であり埼玉県の大宮を中心にして多いのである
この祭神はスサノオであり出雲系統なのである

氷川神社は「素戔嗚(スサノオ)」を祀っている。
大国主命(オオクニヌシ)と櫛稲田姫(クシイナダヒメ)を合祀しているところもある。
埼玉県さいたま市の大宮にある、武蔵一之宮、氷川神社がそうである。
が、いずれにしても「出雲系の神々」「国つ神」である。
隣接する千葉や茨城になると、違ってくる。

「鹿島」や「香取」など、「ヤマト系」というか「天つ神」の神社が多くなる。
 面白いことに、千葉・茨城と東京・埼玉の境界あたり、荒川流域には「久伊豆(ひさいず)神社」という神社がたくさんある。
これも「出雲系」「国つ神」の神社であるが、見事に「氷川勢力」と「鹿島・香取勢力」との境界に集中している。

出雲地方から直接勧請された神社は「須賀神社」「八雲神社」「出雲神社」などと称している場合が多く、これに対し、かつて牛頭天王を祭っていた祇園信仰の系譜を引く神社は明治以降「八坂神社」「祇園神社」「津島神社」等と称したところが多い。同じスサノオ信仰でも、氷川神社と称している諸社はそれら両系統とも異なり独自の信仰圏を形成している

つまり出雲系統の神社がある地域はもともと縄文人が住んでいてそうなった
その祭神が出雲系統なのである
ただ今の茨城県とかは常陸(ひたち)の国であり違っていた
つまり埼玉県の氷川神社がある地域はもともと出雲系が縄文人が蝦夷の勢力が強い場所だった
だからこそ稲荷山古墳から発見された鉄剣の銘文にこの地を支配した族の名前が記されている、その中にカサヒヨ カサハラと記されているのは渡来人である
カサとは韓国にある地名である、笠原というときこの地に残された万葉の笠女郎の真野の草原(かやはら)の歌がある、その笠女郎の父親は

笠 麻呂(かさ の まろ)。姓は朝臣で、吉備笠垂の子とする系図がある

吉備津神社の社伝に、中山の麓に茅葺宮を営み、吉備津彦神を加夜臣奈留美命(かやのおみなるみみこと)が祀ったのが神社の起こりという事で、加夜臣奈留美命(かやのおみなるみみこと)とは、飛鳥の神名備に坐せた、加夜奈流美(かやなるみのこと)ことで、この賀陽氏の始祖神です。吉備津神社の主祭神は、大吉備津彦命ら八柱で、二柱は賀陽氏の祭祀神で、他は吉備臣の先祖とされる孝霊天皇の子神。
この「温羅(うら)伝説」の温羅こそ、「吉備伽耶王国」という巨大勢力を代表する人物で、吉備賀陽氏自身であり「温羅(うら)伝説」は、古代「吉備伽耶王国」の始祖伝承を伝えた話

後に、百済勢力が進出してきて吉備津彦と争うこととなる。

●伽耶国の王子のツノガノアラシトの東北地方に残した跡
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それが東北からはみちのくからは遠い世界のことのように思うがそうではない
そもそも地名が残るということはその土地と深くかかわらなければ生まれないし定着しないはずなのである、それが神社でも地名でも伽耶国とか韓国系統のものが多いのである
神社は先祖を祭る時その先祖は伽耶系統なのかともなる
津浪で話題になった津神社は実際はツノミツとかツノミヤとか言われる
津浪とは何の関係もなかったのである
小高の角部(つのべ)でもそうである、それがツノガノアラシトに由来しているのである縄文人が住んでいた地帯にこうした伽耶国の鉄を生産する技術や須恵器を作る集団が入ってきた、それで常磐線に末続(すえづく)駅があるがこれももとは出雲系の神社が基になっいたのである    

岩手県奥州市胆沢南都田に角塚(つのつか)古墳がありこれもツノガノアラシトのツノだとすると宮城県の北上川をさかのぼり登米に真野氏一族が鉄を求めて上ってきている、するとさらに一関を越えて北上川を上りそこまで達したのか
そして津軽とはこれもツノガノアラシトがなまったものだと推測したときそれだけの広がりを蝦夷の地域東北に影響力があったのかとなる、津軽は離れているとしても一つの連合体としてあり棚倉で蝦夷とヤマトタケル軍が衝突したとき津軽からの応援があったというとき蝦夷はツノガノアラシトなどの渡来人が連合していたともなる

登米市(とめ)の登米(とよま)まで製鉄集団の真野氏が移動した (奈女加多(行方)が移動している)

その渡来人は鉄を生産して力をもち蝦夷と一体となりヤマトタケル軍と戦ったとなるからだ
この本でもそういうことを書いている、蝦夷が強力だったのはツノガノアラシトとかの渡来人一族を敵としていたからである
物部氏もその中に混じっていて混成部隊であり強力だったのであ
吉備は大和王権として日本が統一する前に大きな国だった、それで会津の大塚山古墳から三角縁神獣鏡が発見された、これは吉備の古墳から発見されたものと同型である
ただこの同型鏡は全国に分布している、九州にも分布している、でもなんらか会津まで及んでいたことは注意すべきである、なぜなら東北地方ではここにしか発見されていない

●万葉集に残された歌の背景

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その裏付けになるのが万葉集の歌だったのである

会津嶺《あいづね》の 国をさ遠《どお》み 逢はなはば 
偲《しの》ひにせもと 紐結ばさね
     〜作者未詳(東歌) 『万葉集』 巻14-3426 相聞歌

つまり会津だけがクニであった、東北地方ではクニとして認定されている場所はないからである

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎

この歌の草原(かやはら)は地名としてきたがそこはただ港のような交易があった一地点と推測する
では船が来たとしてそれが太平洋を渡り来たかどうかはわからない、もしかしたら入江内だけを行き来していたのかもしれない、焼津には確かに奈良から大船が来ていた

そこより入り幸でまして、走水海を渡りたまひし時、その渡の神浪を興し、船を廻らして得進み渡りたまはざりき。こにその后、名は弟橘比売命白したまひしく、「妾御子に易りて海の中に入らむ。御子は遣はさえし政遂げて復奏したまふべし」とまをしたまひて、海に入りたまはむとする時に、菅疊八重・皮疊八重・絹疊八重を波の上に敷きて、その上に下りましき。是に其の暴自ら伏ぎて、御船得進みき。ここに其の后歌曰ひまひしく、

 さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも

とうたひたまひき。かれ、七日の後、その后の御櫛海辺に依りき。すなわちその櫛を取りて、御陵を作りて治め置きき
この伝説も信憑性がある、なぜならそうして荒れた海を鎮めるために人身御供が行われていたからである

とにかく相模湾辺りまでは大和健(やまとたける)は船で来ていたとなる
そこから関東とか東北になるとまた遠いから信憑性がなく伝説的になる
真野の入江が縄文海進でありそこに船が行き来したとしてもそれは入江内だけのことかもしれない、そこには船着とか市庭という地名は確かに残っている

 焼津辺にわが行しかば駿河なる 安倍の市道に逢ひし児らはも

  ここでは明らかに市が開かれていたのである
 いづれれにしろなぜ万葉集の歌が日本の歴史にとって重要なものになっているのか?
それを今のような個人的な恋愛の歌ではない、そうであってもその背景には日本の歴史がかかわって形成されている
つまり一私人の歌ではないからその背景をよむとることが必要になる
するとそこから日本だけではない韓国の伽耶とかも深く関係してくる
日本建国神話にかかわるものとなる
つまり一地点のことではない、韓国とかその範囲が拡大してゆくのである
そこに万葉集だけは日本建国と深くかかわるものを歌い収めているとなるから貴重なのである
それは物的証拠としては会津の大塚山古墳から三角縁ち神獣鏡が出たことや南相馬市の鹿島区の真野地域の小池の古墳群の一つから金銅双魚佩が出たことでもわかる
これもかなり珍しいものなのである、それが物的証拠となっている




2019年02月18日

万葉集の真野の草原(かやはら)の歌を自らの短歌を創作して再考察 (やはり真野の草原は地名説とするのが有力)


万葉集の真野の草原(かやはら)の歌を自らの短歌を創作して再考察 

(やはり真野の草原は地名説とするのが有力)

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ここには古い石碑もあるがこれは寺があったときのものである
大同のものは残っていない、ただ言い伝えだけが残されたのである



古(いにしえ)に船の来たりて船着きや春満月の照らしけるかな

市庭と古の人や商いぬ春満月の海よりいでぬ 


今日は春満月がでていた、昨日はまだ厳しい寒さだっからなごんだ
そして原町からの帰りに六号線を通るが今回の津波でそこは本当に海になった
実際に烏浜の港から六号線に船が流れてきたのにも驚いた
そして塩崎には船着と市庭という地名がある
その船着の前まで本当に津波が来て海になっていたのである
実際に古代にはそこまで海が入りこんでいて船が来ていたのである
それで大内には曾賀船(田)という地名があり船がさかのぼるということでつけられた地名とされる、海だったがそこは田になって地名が残った
それはまるで地名の化石地名である
大内から頻繁に船が来るのを見たからそういう名前をつけた
それを立証するのか?
800年代の御堂が大内にあった、そんな古い御堂があるのか?それも発見だった

薬師堂 寺域にあり、平地堂方二間、縁日7月8日、伝えに曰く、大同二丁亥年創建、
本尊聖徳太子製作仏胎

大同二年(丁亥)807−808となるとそんなに古いものなのか?
それは訪ねてみたが本当に古い感じになる、寺の領域にあったが寺はなくなっていた
土地の人が薬師堂として祭っていた


坂上田村麻呂の蝦夷征伐の時代でもあることに注目し、両者が混ざりあっているのではないかと言う(遠野物語24話)。

 大同とは大和朝廷が東北を侵攻した時期全体をいうのではないかともいわれている。
東北地方に田村麻呂創建と伝えられる寺社が多いのは、「化外の地」東北を経営するために政治的な意図によって歴史が作りかえられたのだろうか。


坂上田村麻呂の建立とされる寺社や奉納したとされる寺社伝説はゆかりの深い東北の岩手県、宮城県、福島県を中心に残されている。また彼が通過したと考えられる茨城県、長野県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県にも残されている。しかし、田村麻呂が直接行ったとは考えられない山形県、秋田県、青森県さらに西日本の和歌山県や岡山県にも伝説が残る。特に多くの伝説が残されているのは福島県田村地方であり、生誕伝説から地名伝説そして寺社伝説に至るまで約80種類(うち30種類は寺社伝説)を数える。次に多いのが宮城県で約40種類(うち25種類は寺社伝説)の伝説が残されている。


三春は田村市である、坂上田村麻呂に由来している、そこから真野の地は遠くはないのである、大同年間に坂上田村麻呂の活躍があり伝説化したのである

いづれにしろ

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを (笠女郎)

この歌は真野の草原(かやはら)とするとき誤解が大きくなる
萱(かや)が茂っている真野となればそれは秋から冬に季節が限定されるのである
もし地名なら私が歌にしたように四季に歌われる場所となる
春でも夏でもいいのである、だから何か草原(かやはら)で限定するとおかしくなる
船着とか市庭という場は船が着いて商いがあったにぎやかな場だったのである
するとそういう場にただ萱原が茂っている場所とするのはそぐわないのである

もう一つの石巻説になるとこれは遠いのである、まさに辺境そのものである
そんな所に萱原という地名があるにしてもそこがなぜ笠女郎が歌ったのだろうかとなる

●真野の草原を萱原とする説

●真野の草原を地名とする説

この二つに分ける時大きな差が生まれるのである
これを私が単価したように地名なら港だとすると船は春にも入ってくるから満月の時にも船は来ていたとかなりイメージすると何かそこが栄えていた遠い昔が偲ばれるのである
でも草原をただ萱原が茂っている原野のようにイメージすると春とは無関係になるからだ
これは笠女郎が大伴家持を慕って歌ったものである
どんな遠い所に行っても私はあなたのことはわすれませんよということである
そしてみちのくの真野の草原は地名であり遠い場所として奈良の都の人たちに知られていたとなる
それは春にもふさわしい場だとなるのである
でも草原が萱原としてしかイメージしないとそれは何か春とは無縁な淋しい場になるからだ
だからこれをどちらにするかは大きな問題なのである

いづれにしろ大内にこれだけ古い堂があるということは一つの証明である、大同年間に坂上田村麻呂がかかわりこの辺にも来て御堂が祭られた、もしかしたら蝦夷を撃ったため原住民を殺したためにそれを慰霊するために祭ったのかもしれない
そういうのも東北に多いからだ、その最たるものが奈良の大仏だったのである
大和王権が日本国を征服して一つの国としたときあの大きな大仏が作られた、鎮護国家の仏として作られたからだ
それは地方でもみちのくでも建てられたとなる
海老村ははエヒであり蝦夷のことであったからだ

とにかく地名は本当に化石のように古い、船着の手前まで津波が来たということでそれを証明したのである
市庭はそれより奥にある、そうした位置関係もやはりそこに市が開かれたという現実を証明している
あまりにも海に近いのでは危険にもなるからだ
当時は防波堤など作れないからである、そこは船が着く場所でありそこから離れて市が開かれた
それにしても入江がこれだけ奥まで入っていたことに驚くし津波で現実化したことにも驚いた
その時この辺は本当に美しい入江となっていたし塩崎(しおのさき)というのもまさに海に面していたからである
ただ真野の草原を笠女郎が歌ったのは750年とかの説がありそうなると大内の薬師堂は800年になるから新しいともなる
ただここが入江だったのは平安時代辺りまでだろう、だから750年にも真野の草原があり地名として知られていたのかとなる
するとそれより前にも知られていたとなる
浪江の棚塩から出たのはツノガノアラシト系統であり一番古い

津(ツノ) 神社


(宇多郷) 尾浜3 原釜1
(北郷)烏崎
(中郷)堤谷 金沢、萱浜、小浜、泉
(小高郷)角部内 
(北標葉郷)棚塩

これがツノガノアラシト系であり棚塩は700年だとすると一番古いからだ

結局真野の草原の謎は尽きない、でもどうしても私は地名説をとるのである、地名だとしたら別に萱原ではない、萱が茂っていたと限定されないから春の歌にもできるのである、そういうふうに二つの説で変わってしまうのである
だからこそどちらにするかが問題であり解決しないと後の人もイメージできないとなっているのである









2018年10月20日

南相馬市の原町の泉官衙跡から発見された木簡の嶋□をたどる (宮城県小田郡嶋田郷なのか?)


南相馬市の原町の泉官衙跡から発見された木簡の嶋□をたどる

(宮城県小田郡嶋田郷なのか?)

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大崎平野の江合川のラインの南岸が前方後円墳の北限と考えていいです。
つまり古墳時代半ばの5世紀までにヤマト王権の影響力が及んだ範囲は、江合川までといえるのです。



 オモテ面には貢進者である「嶋□郷□□里」(地名)の「□□白人」(人名)という名が記されており、裏面には、ほとんど判読できないが、進上された物品の種類や量が記されていたものと思われる。

ここにも確かに郡衙があった。ではこの嶋□郷 □□白人とは何を意味しているのか、□□里は久慈郡に真野里あったように草原というのも真野郷草原里だったかもしれない、里は文献にのらなくてもかなりあったのだ。それが地名として残っているかもしれない、原町に郷としてなくても大田とあればここでは大田里になったのかもしれない、久慈郡に真野郷があり真野里があった。同じ郡内にあったとすると真野という広がりが各地にあったのか不明である。

神護景雲三年
十一月二十五日 陸奥国牡鹿郡の俘囚、少初位上・勲七等の大伴部押人が次のように言上した。
 伝え聞くところによりますと、押人らの先祖はもと紀伊国名草郡片岡里の人ということです。昔、先祖の大伴部直が蝦夷征伐の時、陸奥国小田郡嶋田村に至り、住みつきました。その後、子孫は蝦夷の捕虜となり、数代を経て俘囚とされました。幸い尊い朝廷が天下を治められるめぐり合わせとなり、優れた武威が辺境を制圧しているのを頼みとして、あの蝦夷の地を抜け出てから、すでに久しく天皇の徳化のもとにある民となっています。そこで俘囚の名を除き、調庸を納める公民になることを申請します、と。
これを許可した。

この人は遠田郡の人である。遠田郡の隣の登米郡に行方郷があったからこれは明らかに相馬の行方郡の人が移動したのだ。黄金がとれたのは遠田郡の小田である。その小田に嶋田村があったということは泉廃寺跡の嶋□郷は嶋田かもしれない、その他遠田郡には真野公遠田郡で真野公営山47人が賜姓された。こう考えると嶋□郷は嶋田郷であり□□白人は高麗白人かもしれない、高麗福信という人がいたからだ。つまり製鉄や黄金をとる人々が渡来人中心にして移動してきたのだ。



嶋田神社−神八井耳命(奈良)

神武天皇の子の神八井耳命について、意冨臣・道奥石城国造等の祖と記されており、石城国造は皇別で多臣の一族という系譜を持つことになります。

神武天皇−神八井耳命の系統に嶋田神社がありそれが陸奥の真野郷に関係していた
嶋田郷とするとここから出ているからである
多(おお)氏は渡来人とされ神武天皇の系譜にあり大和朝廷の統一の大きな力となった

日本国統一大和王権の成立前には日本には国がない、すると渡来人でも自由に入ってきたそれが後に蝦夷(えみし)となって大和王権に対立するようになった
ともかく蝦夷というのは異民族という感覚になる、大和王権が成立した奈良辺りには規制の勢力が存在して渡来人は入りにくかった
でも蝦夷の地域は入りやすかったとかなるし移民として開墾に従事させられたということがある、もともと日本の原住民は縄文人でありそれに異民族の渡来人が入りその渡来人でも日本で二分化したのである

東(あづま)の国の陸奥(みちのく)の小田なる山に 
    金ありと奏(まう)し賜へれ御心を明らめ賜ひ 
    
すめろきの御代栄えむと東(あづま)なる陸奥山に金(くがね)花咲く 

  天平感宝元年五月の十二日、越中国の守の館にて、 
  大伴宿禰家持がよめる。
  
小田郡は後に遠田郡となる、その遠田郡に真野公遠田郡で真野公営山47人が賜姓されたその小田郡に嶋田郷があること、そして石巻に真野公と記された木簡が発見されたこと
北上川をさかのぼり登米(とよま)に奈女(なめ)が行方(なめかた)郷があったことなど産鉄族の真野氏の移動があった、真野氏も渡来人だとされている
製鉄関係では渡来人が技術者であり深くかかわっていたからである
そして前方後円墳の北限が今の小牛田の京銭塚古墳だとするときその辺は大和王権に組み入れられた、それは史書に記されているから歴史としても中央で把握していたのである

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この大伴家持が陸奥に実際に来たのかどうかは不明である
ただ笠女郎(かさのいらつめ)は家持に恋して慕っていた

陸奥(みちのく)の真野の草原(かやはら)遠けども面影にして見ゆといふものを
(笠女郎)

ではこれが一体どこなのか?それを考察してきた
南相馬市の鹿島区には真野郷という古代郷名がある、でも石巻の真野には真野という地名があっても古代の郷名としては記されていない,とはいか真野公という木簡が発見されたし萱原という地名もある、江戸時代から石巻の真野の萱原がその場所とされていたのである、それには何か根拠があってそうなっていた
南相馬市の鹿島区の真野は最近になって発掘があり金銅双魚佩などが発見されてここが真野の草原だということが言われるようになった
ただそれは確定されたものではない、鉄道だと石巻線で涌谷がありそこから砂金がでた
天平という字も発見された、桃生郡からは貞観という碑が残っている
多賀城が陸奥への蝦夷の平定の最前線基地としてあった

ただ間違いないことは草原−萱原はカヤハラは萱が茂っている場ではない、地名なのである,第一日本の古代はその頃は一面がどこでも萱原の景色でありそんなもの珍しくもないのである、だからわざわざ萱が茂っている所だと面影に見ることはないのである
ただ慕う人を真野の草原という遠い地に行っても面影に見えますよということである
それは大伴家持のことなのである

そもそも笠女郎の笠は渡来人であり沙弥満誓の娘なのである
ともかく古代史では大和王権統一の過程には渡来人が深くかかわっていたのである
大和王権ではそうした渡来人を陸奥に移動させた入植させたのである
それは製鉄の技術者であったからだ、湧谷の小田で砂金がとれたというときもその砂金をとる技術をもっていたのは渡来人だったからである

奈良の都で聖武天皇が大仏建立を進めていた時のこと、鋳造は終わったが表面に鍍金する黄金が不足して、その完成がおぼつかなくなり、天皇が日夜悩んでいた天平二十一年、陸奥守であった百済王敬福が陸奥国小田郡で、我が国で初めて産出された黄金九百両を献上した。天皇は大いに喜び、敬福を従五位上から一躍七階級昇進させて従三位に任じ、宮内卿とし河内守を兼ねさせ、河内国交野郡内にも広大な土地を与えた。現在枚方市域にある百済寺跡や百済王神社は、こうして交野に営まれた百済王家の居館群の跡をとどめるものである。

百済の王家の出に連なる者だがその前は伽耶国があり伽耶は百済に併合された
伽耶からはツノガノアラシトが日本に入ってきた、これは伝説的人物だがその足跡は津軽まで記していた、なぜならツノガノアラシトのツノガとは敦賀(つるが)とか津軽はなまったものである、そして相馬藩内に荒氏が多いというときその系統のものなのである
伽耶(かや)の系統はあとで消されて歴史から消された、それでその系統の神社が祭られていたがそれも不明になった
相馬市の松川浦の津波からも残った津神社はつのみつ神社も渡来系の産鉄族のツノガノアラシト系統だったのである、ただそれは不明にされてその出自が隠されたのである

ただ真野の草原がどこかというと小牛田とか湧谷の小田とか桃生郡とか石巻の真野の萱原とかは大和王権に服した地域でありだから真野の草原は石巻だと遠いとなるがそこが湧谷とか桃生郡とか小牛田の京銭塚古墳とか前方後円墳の北限となっていることでもその線が丁度大和王権に服した地域ということで史書にも記されているから遠いとあるがありえないことではない、ただ多賀城の更に北になりそんなに遠くではありえないとういのもわかる 
距離からするとどうしても南相馬市の真野郷の草原なのかとなるがここには地名がないのでそれで確定しないのである

2018年10月18日

登米市(とめ)の登米(とよま)まで製鉄集団の真野氏が移動した (奈女加多(行方)が移動している)


登米市(とめ)の登米(とよま)まで製鉄集団の真野氏が移動した

(奈女加多(行方)が移動している)
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石巻市で発見された真野公の木簡

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古代の行方郡衙の場所は新田川の河口付近、現在の南相馬市原町区泉にある泉廃寺跡と推定されています。また和名類聚抄には「奈女加多(なめかた)郡」とあり、

奈女とあるのは奈女加多(なめかた)郡のことである、ここから真野氏が来たと記してあったとなる

鹿嶋御児神社 石巻市真野
8世紀後半から 9世紀前半にかけ、ヤマト朝廷と蝦夷との間で、桃生城への蝦夷の襲撃を皮切りに38年間の動乱が発生 しました。
ヤマト朝廷が東国蝦夷の地での支配地域を拡大 図る過程で、常陸国・鹿島神宮の末社が政治的な動きを果たしたと言われています。(石巻の歴史 第1巻上)

その末社のひとつが祭神・建御雷神の「鹿島御児神社」でした。 
建御雷神は大国主に国譲りを迫った神です。(古事記) 

古代の石巻地方の中心地は真野である!!

牡鹿郡の中心はどこなのか。石巻市真野が政治的中心地であった可能性が大である。(石巻の歴史 第1巻)。
石巻市田道町遺跡からは延暦11年(792)の年紀を持つ「真野公」と墨書された出挙木簡が発見されているが

承平元年(931)の『和名類聚抄』(わめいるいじゅしょう)に「登米郡は、登米・行方の二郷あり、登米は止与米・行方は奈女加多と訓む」とあります。登米(とよま)郡には2つの郷があって、さらに郷も複数の村で構成されていました。村を里(り)とも呼んでいました。

 止与米や奈女加多は古代中国・漢の時代に文字を輸入したので漢字と言いますが、その文字を日本独自で使い方を考案し、仮名として「止」を「と」、「与」を「よ」、「米」を「ま」と読むようになり、さらにこれを崩して崩して、今の仮名文字が出来たと言われます。この止与米の文字を仮名文字の元字「母字」(ぼじ)と言います。



茨城県の常陸(ひたち)に行方があり福島県の南相馬市の鹿島町に古代の真野郷があり
鹿島御子神社がある
もともと石巻は「みちのくの真野の草原(かやはら)」とされていた
なぜならそこに萱原という地名もあるからだ
それが根拠がないものではない、木簡で真野公と記されたのが発見されたしそれから
奈女(なめ)という字も木簡に記されているがこれは 

「登米郡は、登米・行方の二郷あり、登米は止与米・行方は奈女加多と訓む」

奈女加多であり行方(なめかた)なのである

これは真野氏一団が北上川をさかのぼり移動した、製鉄集団であった
真野氏は渡来人説があり技術集団であり鉄を求めて北上川をさかのぼっていったともなる
いづれにしろ仙台まで行って登米市に行こうとしたがそこで聞いたら登米(とめ)と登米(とよま)があり同じ字でありまぎらわしいと思った
登米(とよま)が古くそこに二万石の伊達氏の城があった
そこに北上川があり米を石巻まで江戸時代に運んでいた
登米(とよま)までのバスは出ている、乗る人がいた、登米市の市役所までは一時間起きにでているが登米(とよま)まではそんなに出ていないから行きずらいのである
ここで混乱して結局今回は行かなかった、次に行ってみよう。




2018年09月02日

日本語の起源 (狩猟民と農耕民の言葉がまじりあったものか?)


日本語の起源

(狩猟民と農耕民の言葉がまじりあったものか?)

日本人起源説として最近バイカル湖畔のブリヤートが顔が似ているのと遺伝子に共通性があるとして注目されている、マンモス追って北海道に渡ってきた人たちだという
それは二万年前だが4万年前に南方から船で渡ってきた人たちの説がある
あとは朝鮮半島経由で渡ってきた人たちである

なぜ日本語の起源が解き明かされないのか?
それは日本語が相当に古いし日本民族の起源もまた何万年かとさかのぼる古い民族だからである、そのために言葉も古いからである

これも仮説だがどうしてもこじつけになるが前にも江(え)の地名の不思議で書いた
なぜか(え)とつく地名が海岸線に多い、この辺の海老はエヒであり海老のことではない蝦夷(えみし)にもエがつく、このエとは何なのだろうとなる

える(得る、獲る)とかあてられる、これは英語のgetと同じように基本となる言葉である、動詞である、える→獲物になる、得たものが獲物なのである
これは狩猟民の言葉なのである。
だから縄文語は狩猟民の言葉でありそこから言葉を考察する

例えば狩り(かり)とは狩りすることだがここから刈るということに変わる
狩浜(かりはま)とかあり魚をとることも狩りだった
もともとはマンモスを狩りしていたとして魚をとるときも狩りすることと同じなので狩浜となったともとれる
つまり狩りというとき魚をとることが先にあるのではなくマンモスがいたとしたらマンモスを狩りすることからその言葉がうまれて次に魚をとることにも利用されたとなる

ただ文法としては英語だったら印欧語だったら最初に主語がきて次に動詞がくる
それは狩猟民とか牧畜民の生活からそうなった、でもアジア系は主語の次に動詞がこない

私は森の中にいる鹿を狩りする   

I hunt a deer in the forest

英語だと動詞が最初にくるが日本語だと風景がきて獲物をとるとなる
それはなぜなのだろうとなる、ここに自然でも外界でも意識する差がある
森とかに囲まれて住んでいれば森というのを最初に意識するからそうなるったのか?
平原のようなところだと最初に動くものが目につくからそれを追いかける
でも森とかが豊かにある世界では最初に目につくのは森だから森がくるのか?

ともかく文法にしても日本語は英語など印欧語と違う、中国語も主語の後に動詞が来る
同じ狩猟民の言葉でも違っているとなる

エの言葉が基本にあるとするときイ−エ(家)はどうしてこうなったのか?
エは獲物(えもの)であり獲物を置いておくところが家(イーエ)となったのかもしれない、ただ南方語ではイは接頭語になる、これは南方特有なものである
日本語には接頭語がついた言葉が多いのである
ということは北方の狩猟民の言葉と南方語が合体したのが日本語なのかとなる
不思議なのは森(もり)ともるとかもりあがるとか朝鮮語らしいとなるときではなぜ森だけが朝鮮語なのか?
朝鮮系統の人たちが入ってきてその言葉が生まれたのかとなる

日本語の成り立ちが相当に古いというときアイヌ語も謎だがアイヌ語よりずっと古いとなる、だからこそアイヌ語は縄文語より新しいから連続性がなく比較的新しい民族だともなる、それは謎にしても今使っている日本語とアイヌ語は違いすぎるからわからない
朝鮮語にしてもそうである、わずかに共通語があるとしてもほとんどないに等しいのである、ではどこの言葉と共通性があるのか明確にならないのである

ただエに注目するとこの辺で江垂(えたり)という地名がある
それは実は津波でわかたっように6号線まで江垂でありそこまで津波が来ていたのであるとすると江垂は江というのは獲物の江であり江というのはただ当て字である
獲物のとれる所に江という地名がついたのかもしれない、なぜなら獲物をとることが人間にとって一番大事な場所であり重要なことだからである
日々獲物をとることで生活しているからである。
つまり江垂とは獲物が足りる場所だったともなる
それを後から地名伝説でこじつけた説明をしたからさ地名伝説はあてにならないのである

不思議なのは植える(うえる)という言葉がありこれはウ−エるでありエにウが接頭語としてついたものなのである。
もともとは狩猟民の獲るが植える(うえる)になったともとれる
これは接頭語ではなく生む(うむ)と得るが合体した言葉ととるのが理屈に合う
生む+得る=うえるとなった
海(うみ)はうむ+み(みず)となる

なんらかで南方系統の言葉と北方系統の狩猟民の言葉が結びついてそうなったのだろうか日本語の謎はこうして合成語のためなのだがまたその基本語となるものが他の言葉にないからである
ただ狩猟民の言葉が基本にありそれに南方からまたは農耕をもたらした人たちが一緒に住んで合体した言葉となった
ただいくらでも言葉でも地名でもこじつけできるから言葉だけからでは証明できない
考古学とか遺伝子とかいろいろな分野の人たちが研究してそれでその謎を解く
ただ日本語はもし二万年であれ4万年前であれ使われていたものが今も使われているとなると他はみんなすたれても継続しているものだから興味をもつのである。


2018年08月23日

古墳時代中後期の集落発見、 渡来人〈伽耶)と日本人が一緒に暮らした証し (牡鹿半島の名の由来−そこにも真野氏がかかわっていた)


古墳時代中後期の集落発見、 渡来人〈伽耶)と日本人が一緒に暮らした証し 

(牡鹿半島の名の由来−そこにも真野氏がかかわっていた)

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洛東江の上流に伽耶国の本体があり河を通じて下流に鉄の資材が運ばれたのか?
河口で金官とあるとき加工したりしたのか?
黄色の部分が伽耶とか日本府任那であった
多羅とはタタラであり日本の地名に多い、つまり製鉄遺跡である

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真野公(まのぎみ)の木簡が石巻の真野地区から出た

古代の行方郡衙の場所は新田川の河口付近、現在の南相馬市原町区泉にある泉廃寺跡と推定されています。また和名類聚抄には「奈女加多(なめかた)郡」とあり、

奈女とあるのは奈女加多(なめかた)郡のことである、ここから真野氏が来たと記してあったとなる



兵庫県教育委員会は22日、姫路市網干区高田の前田遺跡と中筋遺跡で、古墳時代中後期の集落跡が見つかったと発表した。古墳中期(5世紀)の前田遺跡には竪穴住居跡が少なくとも12カ所あり、朝鮮半島から流入した渡来人の居住を示す須恵器も多く出土。

 集落跡は県道整備に伴う5月からの発掘調査で発見された。前田遺跡の須恵器はくし状の工具で模様が付けられており、京都橘大学の中久保辰夫准教授(東アジア考古学)によると、朝鮮半島南東部の「加耶」から伝わった技術という。



須恵器と関連したものが地名でも姓名でも多い、常磐線の末続がそうである。


須衛都久(すゑつく)の社

(主祭神)
 伊弉冉尊(いざなみのみこと)
 素戔嗚尊(すさのおのみこと)

<由来>(神國島根より)
 往古は末次亀田山(現在の城山)にあったが、慶長年間の築城の際に末次茶町へ移転、延宝年間に洪水で倒壊し現在地へと移った。

 <由来>(神國島根より)
 往古は末次亀田山(現在の城山)にあったが、慶長年間の築城の際に末次茶町へ移転、延宝年間に洪水で倒壊し現在地へと移った。

昔、宍道湖と中海を望む末次(すえつぐ=松江の古名)は農耕も適さない湿地帯でした。そこで、里人は現在松江城のある末次山に農耕の守護神として
「宇賀御魂神」を、文武の徳によって郷内の秩序を整えるため「誉田別命」を祀りました
現在「須衛都久(すゑつく)の社」は松江市西茶町に祀られている。また、松江市内のあちこちに「末次」と付く地名が残っている

松江は渡来人の国だった、

意宇郡(おうぐん)

意宇郡(おうぐん)の神社

韓国伊太神社(からくにいたてじんじゃ)
阿太加夜神社(あだかやじんじゃ)

中国山地と瀬戸内をつないだ「縦の道」である主要河川の発達は、さらに山陰の豊富で高品質な砂鉄や鉄鉱石など鉄素材の開拓を呼び、瀬戸内に注ぐ河川と日本海に注ぐ河川をつなぐ「陰陽連絡路」を開拓し、山陰地方の製鉄開拓に拍車がかかった。

古代の日本と加耶(田中俊明)

陸奥のオホ氏は、おそらく同族の信濃國造の縁で、浅間山の火山灰で壊滅させられた信濃を逃れ栗原に移住したであろう高句麗系騎馬民とも密接であったと考えます。
 オホ氏は、三輪山祭祀に代表される神と天皇を結び付ける“中ツ臣氏族”としての座をかなり早い段階でワニ氏に上塗りされていたかに思われ、辺境に散ったオホ氏の多くも、徐々にワニ色に染められていったのではないでしょうか。

 ワニ氏は、人皇五代「孝昭天皇」の子、すなわち六代「孝安天皇」の兄弟「天足彦国押人命――天押帯日子命――」の子、「和爾日子押人命――稚押彦命――」が始祖とされているわけですが、
 ワニ氏初祖の「天足彦国押人命」の母である孝昭皇后「世襲足媛(よそたらしひめ)命」の父は「天忍男命」でありますが、「押媛(おしひめ)」の又の名が「忍鹿比売(おしかひめ)」であることから、この「忍」も「押」と同韻であったと推察されます。

意宇氏は渡来系でありこの氏族が天皇に直結する氏族となった
それだけの力をもっていた、ただこれは伽耶国出身でありのちに和邇(ワニ)氏に属するようになったという説をここで書いている
この和邇氏の一族となったのが真野氏だから真野氏はもともと吉備から発して渡来人だった、伽耶の出だったのである。
牡鹿(おしか)半島の名の由来が和邇氏と関係している「忍鹿比売(おしかひめ)」だというのは納得がいく
なぜなら考古学の証拠として真野という記された木簡が石巻で発見されたからである。
だから真野の草原がどこかというとき石巻には萱原という地名があり江戸時代まではそこが真野の草原(かやはら)だとされていたのである。
全く裏付けがないということではなかったのである。

出雲に伽耶が入りそこから信州とかにも渡来人が入り長野県に積石塚古墳とか作ったりして福島県の浜通りに砂鉄を求めて産鉄集団が移住してきた
その経路にみちのく真野の草原の歌が万葉集に残った、それは牡鹿半島まで続いていた
なぜなら牡鹿(おしか)とは和邇氏系統であり和邇氏に意宇氏(オホ)がとりこまれたからである。その和邇氏の一族として真野氏もとりこまれたのである。
製鉄技術集団の真野氏が石巻に移住して行ったことは確かなのである。





2018年08月22日

みちのくの真野の草原の歌を日本の古代史と伽耶の関係で解く(2)


みちのくの真野の草原の歌を日本の古代史と伽耶の関係で解く(2)
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●真野氏とは渡来系であり伽耶と関係している?

和邇氏(崇神天皇にみる大王家〜雄略まで)→継体天皇(昆支の孫・百済王権、ただし奥様は和邇氏系〜敏達まで)→用明天皇(蘇我氏、ただしこの氏族は和邇氏の支族で朝鮮半島・伽耶にいて、滅亡とともに百済に亡命、または年代的に、蘇我稲目として渡来し、直前までは金管伽耶の宰であったかも)


金管伽耶での、宰(吉氏)と、大伽耶(狗耶韓国)の王子ソナカシチ(ツヌガアラシト)の現地での関係はわかりません。おそらく、伊都国の一大率と伊都国王のような関係かもしれません     

また吉田連は、神亀元年に吉宜や吉智主が賜わった氏姓で(『続日本紀』 ・ 『新撰姓氏録』)、 『姓氏録』や『続日本後紀』によれば、塩垂津彦(天帯彦国押人命の商) が、崇神朝に己紋(嶋津江流域にあった伽耶諸国中の小国、のち百済に併合)に派遣され、その子孫の達率吉大尚とその弟の吉少尚らが来朝したとし、 『姓氏録』は旧姓の「吉」 (キチ)を、己没で「宰」を称する言葉であるとするが、吉大(太)尚が『日本書紀』や『懐風藻』に見える天智朝頃の実在の人物で、達率という百済の官位を帯び、キチ・キシが首長を表す朝鮮語にもとづくことから、この氏の実態は7世紀後半の百済の役後に渡来した亡命百済人(己抜糸)と見て差し支えない。 さらに『姓氏録』右京皇別下に天足彦国押人命の三世孫彦国茸命の商と記す真野臣は、彦国茸命の曾孫の大矢田相称が神功皇后の新羅征伐に従軍し新羅国王の女を要って生んだ佐久命の子 孫で、その九世孫の和珂部臣鳥と忍勝らが近江国志賀郡真野村に居住したために、庚寅年籍で真野臣の姓を負ったとするが、貞観5年9月、真野臣永徳らが宿祢姓を賜わった時に百済系渡来氏族 の民首の一族の者が、これと同視と称して真野臣の氏姓を与えられており(『三代実録』)、真野氏ももとは渡来系であったと推断することができる。 

真野氏とは何者なのか?この辺で真野郷があり石巻にも真野氏の木簡が発見されている、製鉄の技術をもった集団だった、その真野氏の起こりは吉備にあった
真野とはその前に味真野が基である、味鋺(あじま)をあてている、芦の間の忌なのか
あじまとは漢字をあてているが開墾した地域ともなる


吉備津神社の社伝に、中山の麓に茅葺宮を営み、吉備津彦神を加夜臣奈留美命(かやのおみなるみみこと)が祀ったのが神社の起こりという事で、加夜臣奈留美命(かやのおみなるみみこと)とは、飛鳥の神名備に坐せた、加夜奈流美(かやなるみのこと)ことで、この賀陽氏の始祖神です。吉備津神社の主祭神は、大吉備津彦命ら八柱で、二柱は賀陽氏の祭祀神で、他は吉備臣の先祖とされる孝霊天皇の子神。

この「温羅(うら)伝説」の温羅こそ、「吉備伽耶王国」という巨大勢力を代表する人物で、吉備賀陽氏自身であり「温羅(うら)伝説」は、古代「吉備伽耶王国」の始祖伝承を伝えた話
後に、百済勢力が進出してきて吉備津彦と争うこととなる。

郎女、女郎は、身分の高い女性に用いる敬称で、
娘子は一般的な女性の呼称として使われる。

郎女、女郎は、高官のいる家の女性に対して使う。
郎女は女郎より、高い官位官職(大納言以上)の家の女性に用いる。
 
  
沙弥満誓は笠氏だから笠女郎の父親であり笠女郎の故郷は吉備の萱(カヤ郷)の出で笠氏は賀陽(かや)からの帰化人だったという説である 吉備笠垂の子とする系図がある 
笠女郎は帰化人だという説にもなる、というのは真野氏でもそうだが伽耶との関係があり吉備は伽耶の人々が移り住んだことが明確な国である、それは伽耶が製鉄の技術をもっていたので吉備は伽耶の技術者を受け入れて強国となったのである
それは大和王権を支えるものだったがやがて対立して鬼の国となり鬼退治の伝説が生まれた国なのである。
こういうふうに伽耶とかの渡来人をたどるとなぜ真野の草原という地域が実は伽耶からの渡来人のネットワークがあり笠女郎がそうした渡来人のネットワークの中にあって真野の草原という地を知っていたのである
大伴家持も涌谷で黄金を発見されたことを言祝ぐ歌を万葉集で残しているのもそうした渡来人、伽耶の人々のネットワークがあり歌われたのである、笠女郎が近江説を出している学者がいたがそれはありえないと思う
真野氏というのは吉備の出であり味鋺(あじま)野が基になっているからである。この真野氏も伽耶国から出ていたのである

●邪馬台国は伊都国にあった、そこに可也山(かややま)−伽耶山があった

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糸島市志摩には、可也山があり、万葉集にも詠まれた歌があるそうです。

巻第十五 3674 壬生宇太麿(みぶのうだまろ)の歌

草枕(くさまくら)旅を苦しみ恋ひ居(を)れば可也(かや)の山辺(やまへ)にさを鹿鳴くも  

糸島というとき伊都国があったところである 
もともと「漢委奴國王印」は伊都国に授与されたものだとしている、またこれは偽物だという説もある
魏志倭人伝には金印のことは記されていないからである。

東南至奴國百里 官曰UQ馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸

これを見る限り、抑々(そもそも) 奴国 には 王 すら存在しない
寧(むし)ろ王が いるのは 伊都国 の方で ある 

東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰謨觚,柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

私は これに より、金印を下賜されたのは 伊都国王の先祖で あろうと解したので ある

これは地理的にも伊都国に可也山(かややま)があり伽耶の国から移った人々が定住した
それはなぜなのか?それはそこが邪馬台国であり伽耶と密接な交流があったからだとなる
そこに官吏も常駐していた、 奴(ぬ)とはノの意味であり別称ではないとされるのもそうである
奴国とは関係ないのである。
そして考古学的にも支石墓とかが伽耶国にあり積石塚古墳も長野県とかに伝播している
これは極めて渡来系の人たちのものである、前方後円墳は伽耶国内に発見されたとしてもそれは大和の人たちが作ったものだとされる見方がありそうだと思う

●大和王権確立の過程でみちのくの真野の草原が詠まれた

会津で四道将軍が出会ったというときそれが会津の名の起こりだとするとき

会津大塚山古墳の三角縁神獣鏡は岡山県備前市の鶴山丸山古墳のものと同じ鋳型である。
吉備がここでも関係している、大和王権の成立する前は吉備は大国でありその支配領域を拡大しようとしていたのである。
真野の草原もそうした吉備勢力と伽耶の製鉄技術者の移住がありその後に大和王権が成立した 

卑弥呼の墓との説もある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市、3世紀中ごろ〜後半)の後円部から出土した葬送儀礼用の土器「特殊器台」と「特殊壺(つぼ)」が、岡山・吉備地方から完成品として持ち込まれた可能性が高い

これも吉備が大和王権成立過程で深くかかわり敵対化して鬼退治の伝説が生まれたのである,それが蝦夷が大和王権と対立した過程ともにているのである

福島県では会津はすでに大きな国(くに)を形成していた
だから防人に出された人が
会津嶺(あいづね)の 国をさ遠(どお)み 逢はなはば偲(しの)ひにせもと 紐結ばさね」と歌ったのである。
福島県とか宮城県とかでもそうして国(くに)とは意識していない
茨城県の常陸(ひたち)でもそうである
会津だけがすでに国を形成していたのである。
だからこそ会津を臣従させようとして三角縁神獣鏡が贈られたのである。
ただ多賀城が蝦夷征服の拠点となるとき浜通りから進んだからその途中にみちのく真野があり涌谷の黄金でる山がありその資源があり伽耶の技術者などが早い時期から陸奥にかかわっていたのである。

ただ伽耶の人たちがなぜ大和王権に逆らうようになったのか?
それは出雲が縄文人の国でありそれは東北に連なるものであり長野県とかの諏訪神社系統はそうである、縄文王国があり出雲はその本拠地だったのである。
蝦夷とは縄文人とか二分した伽耶の人たちとか神道を受け継ぐ物部氏などの混成軍だったのである。
稲作民だった弥生人と狩猟や採集民族の争いでもあった、生活形態が違うと中国とモンゴルのように理解しえないから争いになる、それで万里長城が作られたからである。
もともと日本人の人口分布は西は少なかった、東が多かった、東中心の縄文勢力があり東は西とは異質な世界だったのである
西は新しい稲作技術をもたらしてできた国だったのである。

縄文人は消えたがその痕跡は地名に残されている、海老はエヒであり蝦夷である
恵比寿(えびす)であるとかその痕跡は残されている
海老の地域から弥生時代にも住んだ痕跡が発見されたというときそれだけそこは古い地域だったのである。右田とか江戸時代になったとしても烏崎も鎌倉時代にあった
でも海老はそれだけ古い地域だったとなる
そこはやはり右田とかの低地ではなく高台だったからだとなる
それでも今回の津波で壊滅したのも驚きである、津波が来たという伝承八沢浦の奥の柚木にに残っていたが海老には残っていなかった
それもなぜなのかとなる、ただ不明だが津波のことかもしれないという伝承が鹿島町誌にあったがこれは証明できない        

こういうふうにみちのくの真野の草原はただ個人的な恋の歌ではない、日本の古代史と深くかかわり歌われたのである、この一首のもつ意味は大きいのである。

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みちのくの真野の草原の歌を日本の古代史と伽耶の関係で解く(1)



2018年08月21日

みちのくの真野の草原の歌を日本の古代史と伽耶の関係で解く


みちのくの真野の草原の歌を日本の古代史と伽耶の関係で解く

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インドと仏教でこの金銅双魚佩は関係していたのか?


●草原(かや)原は萱(かや)のことではない

みちのくの真野の草原(かやはら)遠けれど面影にして見ゆというものを(笠女郎)

この万葉集の歌は邪馬台国の成立から中国と韓半島の国際情勢とか歴史から見ないとわからない、この歌はみちのくの辺境の一地域の歌ではない
古代国家成立の歴史の関係の中で作られたのである。
その場所は二つある、石巻に萱原という地名があるからそこが江戸時代までは真野の草原となっていた
現実に真野と記された木簡も発見されたりしている
でも地理から見るとどうしても真野があり多賀城がありその線の中に黄金が発見された涌谷がありその歌は万葉集に記されている
だからみちのくの真野は考古学的にも古墳が多く前方後円墳がありそこから金銅双魚佩とかが発見されたことでここは中央の奈良の大和政権と関係かある場として認識された

これまで書いてきたようにこの歌の謎を解き明かすにはそうした中国とか韓半島の情勢が深く関係していている、一地域のことではないのである
古代国家成立と深く関係している,すると大和王権成立までの過程も知らなければならないとなる、それは骨の折れる作業なのである。
古代史は複雑怪奇になっているからだ
これまで伽耶(かや)について度々書いてきた
それはなぜか?それは福島県の海岸線にその跡があるからだ
伽耶は鉄を生産して技術をもった国であり韓半島で新羅とか内部でも争いがありその一団が福島県の海岸線をさかのぼりその跡を記したからである

末続の地名は須恵のことであり須恵器を作る渡来人が移動して移住して名付けられた
それが鳥取の末続神社と関係しているのは出雲由来で渡来人が伽耶の国の人たちが日本に移民となって入ってきたからである
天皇が伽耶から来たというとき伽耶は日本の国の大和王権の発祥の地となっている
大和王権の前の邪馬台国でもそうである


金=kasi(カシ)  宮=palli(ハル) 
駕洛国(任那)の王姓である金官-金海 のことである。

26代の継体天皇(507〜531)の後、27代安閑天皇は在位2年、宣化天皇が4年で崩御、そして29代が欽明天皇(539年即位)である。
そして、この時代に「仏教伝来」となる,,,,,,,,,,,,,。
https://tokatu1.at.webry.info/201009/article_1.html                             

ここでも橿原(かしはら)とあっても原はは韓国語でハルであり宮だとある
つまり草原はカヤハラは誰も人が住んでいない草原ではないのである
そこには宮なのある、むしろ新しく人が移り住んで宮を作った所なのである。
それは橿原と草原は同じなのである。カシというとき木をあてていてもそうではないからだ カシはカサでありそれは韓国語になる、ここでもまきらわしいものとなる

駕洛国(任那)の王姓である金官-金海 のことである

カラとは伽耶国のことであり唐神と真野にも地名があるが実は伽耶の神のことである
それは仏様になる
伽耶というのはなじみがないというか正史に記されない、それは伽耶は史実から消されたからである。何か不都合があって消されたのである。
でも地名をたどるとそれが記されているのである
飛鳥とかもスカヤとか伽耶国にありその名からとったのである。
だからそうして伽耶がかかわったとすると飛鳥王朝時代までは伽耶が深く関係していたのかとなる
その後の藤原宮から平城宮の奈良時代となるとそうした伽耶とか渡来人勢力は大和王権にとりこまれて伽耶は消滅したのである。

ツノガノアラシトとは伽耶の王子のことである、そのツノガノアラシトの角(つの)のつく地名が小高にある、角部(つのべ)がそうである
他に津神社とあるときツノミヤ神社でありツノガノアラシト神社のことである。
それは伽耶の王子のことなのである。
相馬市の松川浦にも津神社(ツノミヤ)神社があるがこれはツノガノアラシトからきている、他にも津神社はこの辺の海岸線とか他にも多いのである。
津軽(つがる)もツノガノアラシトがなまったものである
正史から伽耶は消されたが地名に日本の大地に地名として記したとなる
その地名は消すことができなかったのである。

草原(かやはら)の歌はただの萱が茂っている場所ではないことは間違いない
ただ不思議なのは萱浜と原町にありこれはカイ浜と呼ばれていた
それで甲斐と関係していてその伝説が残された、それはもともとここがカイと呼ばれていたからだろう
甲斐とあるとき武田信玄だがこの甲斐もカイに由来している、すると二つの説があることになる

●草原(かやはら)はカイでありこれは蝦夷とアイヌと関係している

●草原(かやはら)は伽耶(かや)と関係している

この二つの説になる、北海道の海はカイのことでありアイヌ族のことである
でもこの二つの説を考えるともしカイであればそれは蝦夷とかアイヌに由来している
ところが蝦夷には伽耶(かや)が関係していた
出雲は伽耶が二分した勢力があり九州と出雲に分かれたという説がある
出雲は縄文人が形成したのであり出雲は大和王権と対立した大きな勢力だった
その出雲は縄文人の勢力として残った、その勢力が強力だったのは伽耶がその中に入っていたからである、伽耶の人たちは鉄を作る技術をもっていたから強力な敵となったのである。

ずーずー弁が出雲地方で鳥取とかで聞かれるというときもそうである
なまえとか方言はなかなか消えないのである。
それで面白かったのは丸森の金山城の麓に住んでいる人が病院で一緒になった
その人はんだちゃと言っていた、相馬弁では語尾はんだになる
でも伊達藩とか宮城県になるとだっちゃになる
新地は伊達藩でありその人がだっちゃと言っていたのはそのためかもしれない
新地は相馬藩ではないからだ
つまり相馬藩内の方言と伊達藩の方言が合体した言葉になる
それは金山城では一時相馬藩が支配していたからその影響でそうなった
伽耶というのは出雲にも縄文人とも関係していた、出雲は蝦夷であり大和王権と対立した勢力だからである。
長野県でも諏訪神社が多いがこれは出雲と関係している、タケミナカタの神とは出雲の神だからである。

いづれにしろこの伽耶が関係していることで古代史は複雑怪奇になっている
ただ真野の草原をただ萱(かや)がなびいている場として見るのは間違っていることは確かである
真野の草原は遠いけど開かれた場所として奈良の人たち知られていたのである。
遠い場所にある知られた場所だったのである。
だから地名なことは確かである。
それは遠い場所にあるということで恋の歌として喩えになったのである。
真野の草原は遠い地だけど恋するあなたを私は偲びます、あなたは大伴家持は面影に見えますという意味なのである。
これは単なる恋の歌ではない、その背景を考えると中国や韓半島の歴史と日本の大和王権成立する過程の中で作られた歌なのである。

天皇(すめろき)の 御代栄(さか)えむと 東(あづま)なる 
陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲く
(大伴家持)

みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを(笠女郎)

この二つの歌は多賀城への経路にあり関係ないとも言えない、ここの真野と黄金が発掘された涌谷はそれほど遠くない、ただ石巻に萱原の地名があっても遠いのである。
だから江戸時代までは石巻の萱原だったが考古学が発展してここがこの歌の地域だとなったのである。
ただここに伽耶がからんでくると複雑になる、それは中国や韓半島とかの情勢と深く関係して大和王権成立を読み込まなければならないからだ



謎の出雲伽耶王朝(天皇家朝鮮渡来の妄説を撃つ)関祐二

この本は面白かった、伽耶が何だったのかわかりやすい、本元は出雲であり大和であり縄文人であったことを解き明かしている
伽耶はそこにかかわったとしても主勢力ではない、日本ではすでに大きな勢力が出雲を中心とした縄文人の勢力や奈良を中心とした勢力があった、それが日本の基であり伽耶は外来の渡来人であり主勢力ではなかったのである。
ただ伽耶が二分されたということは複雑である、大和王権が成立する過程でそうなった