2025年03月01日

アズミ、イズモ、アズマ,イズミ【安曇、出雲、東、泉】は同源 【真野の草原の草〔カヤ〕は伽耶国ー笠は韓国の村の加佐】

アズミ、イズモ、アズマ,イズミ【安曇、出雲、東、泉】は同源
【真野の草原の草〔カヤ〕は伽耶国ー笠は韓国の村の加佐】

●私説風土記−松本清張の海人族の安曇氏の考察

安曇野漁撈種族は本州の沿岸の至るところに漁場の拠点を持ったと思われる。たいていが入江や湾であった。魚をって海を転々とする彼らは会場のジプシー的な生活であったろうが漁場の拠点の根拠地となりやがて陸上に上がって半農生活にも入るようになった。

出雲の国譲りに反抗したためタケミナカタ神が諏訪の海に逃げたという説話も出雲と筑紫の安曇郷との関係を示している
タケミナカタのはムナカタであり宗像である。

あずみが泉と同語原なら泉もそうかもしれない、摂津に安曇江があれば大阪湾南沿岸にイズミ【和泉ー泉】があっても不思議ではない、泉とはもともと海人のことである。

綿津見のツミもアズミ、イズモ、アズマ,イズミと同じ語源である

肥前風土記の【香春の郷】にふれ川の瀬清いので清河原の村と名づけた。新羅の国の神が自ら渡来して名づけた。
香春はカハルではなくカハラである。
春をハラといい原をハルと言っているのが九州のと特徴である
前原【まえばら】春田【はるた】・・・

カハラは朝鮮語のコホㇼ〔群村の意〕
これは朝鮮語のKoparu〔郡、村〕の同源である
コホㇼ、カヘルの例として越前国敦賀鹿蒜郷〔カヘル〕伊予国越智郡給理郷〔こほり〕、薩摩国日置分合郷〔かわち〕などがある。
この香春岳の南山麓に辛国息長大姫大目神社がある。
辛国息長比め神を祭神とする。辛国とは韓国(からくに)である。
私説風土記−松本清張

●地名でも本来は音でも漢字化して誤解された

地名は音を基にしているがそれが漢字にすると必ず漢字からイメージするから全く本来の意味がわからなくなる。また音だと変化する。訛りとかにも変化する。漢字は変化しにくいが音だと常に聞き取る方でも違って受け取り変化する。
だから確かに

アズミ、イズモ、アズマ,イズミ 

これらが同じ発音だったが変化したなるのも飛躍ではない、一つの発音が変化したのである。
ただ泉〔イズミ〕もそうなのかとなるのか、この辺の南相馬市の原町の海岸に泉という地名があり泉氏が勢力を持っていた
するとその基は海人族の安曇氏とかに連なるものかともなる。
でも泉となればいくらでも地名としてはある。それがすべて安曇系に由来するとは思えない。

確かなことは松川浦に和田があり山津見という地名がありそこは松川浦の奥になりそこから海人族が定着して魚や貝をとり生活していた。それは確かである。そして宇多川をさかのぼり霊山の麓の道を越えて石戸村にでると犬飼という地名がある。
それは犬養であり安曇氏系統に連なる氏族でありまた玉野村の境界近くに八木原がある。その八木原は安曇氏系統の氏族であり
八木沢でもそうであり八木氏が焼畑に入った地域である

焼畑の跡が地名化したのである。たいがいはこの海人族は川をさかのぼる、川を道として奥に入って行く。なぜなら鬱蒼した原始の森に覆われて道がないからである。すると川が道になるからである。だから伊豆の下田でも川をさかのぼると八木山がある。そこでも焼畑が行われた跡だとなる、その焼畑の跡が地名化したのである。飯館村の佐須がまさに焼畑地名であり焼畑地名が多い、小林のコバも焼畑なのである。
ただ栃窪村から塩の道をたどる処にも山津見神社がありそれはかなり古い道だとなる、もしかしたら縄文時代からあったのかとなる。

●出雲と安曇族〔海人族〕が一体化していた

出雲がなぜ日本で強力な国となていたのか、それは韓国と新羅などと深く結びつく場所にあった。それで国引き神話が生まれた
そこに大和王権がかかわり国譲り神話が生まれた

出雲の国譲りに反抗したためタケミナカタ神が諏訪の海に逃げたという説話も出雲と筑紫の安曇郷との関係を示している
タケミナカタのはムナカタであり宗像である。

このタケミナカタ系の神社が諏訪神社などが本当に全国的に多いのである。東北にも多い、山元町の海岸に八雲神社がある。これは明らかに出雲なのである。また諏訪神社はこの辺でもあり多いのである。それは宗像〔ムナカタ〕だとなれば安曇族などの海人族が関与していたとなる。

ともかく日本は海で囲まれているのだから海から人が入り安い。そして川が道となり山の奥に入って焼畑をはじめまた稲作を始めた。山だと段々の田にして水を利用しやすい、それでそこに県
〔あがた〕が生まれ最初の行政の単位となった。その前は焼畑であり十五夜の祭りでも米ではなく野菜など献げるのはそのためである。ともかく焼畑が地名化しているのが多いのは最初の農業が焼畑さったからである。

●万葉集の真野の草原(かやはら)の意味は群とか村の意味

陸奥(みちのく)の、真野の草原(かやはら)、遠けども、面影にして、見ゆといふものを 笠女郎

カハラは朝鮮語のコホㇼ〔群村の意〕
これは朝鮮語のKoparu〔郡、村〕の同源である

原とはカハラは朝鮮語のコホㇼ〔群村の意〕ある
ここが誤解しやすかったのである。だから草〔かや〕は伽耶国の意味である。草八国として伽耶の国があり草の字をあてているからである。唐神という地名も南相馬市鹿島区にありこの唐は韓であり韓国の神だとなる。

つまりこれまで私が考察してきたように真野の草原は萱が茂っている場所として歌われたのではない、誤解しやすいのは地名でも漢字を当てるから本来の意味が分からなくなる
漢字は強くその字からイメージされる。音は関係なくなる、それでアイヌ語に漢字を当てた地名が全く本来の意味とは違ったものとしてイメージされるよyになった。。それが誤解を産んだのである。

つまり草原とは伽耶国の一つの村だとなる、郡だともなる。
その誤解は余りにも大きなものだったのである。第一萱原がなびいている風景に憧れることなどありえないのである。
それは一つの地名であり草原とは関係なかったのである
そして笠女郎の笠は加佐であり韓国の地名なのである
埼玉の稲荷山鉄剣の加差披余 かさひ(は)よ・・・カサヒヨとあるのもそうである。
この加差とは韓国の村のことである。
笠は漢字の当て字である、笠とは関係なかったのである
つまり笠は渡来人であり笠女郎とはその系統の女性であった。だからこそまた真野の草原が因縁深い地として意識したのである

2025年02月28日

なぜ下田なのか―その港の地名由来 【川をさかのぼり八木山があるー安曇氏系統の八木氏の地名化】


なぜ下田なのか―その港の地名由来
【川をさかのぼり八木山があるー安曇氏系統の八木氏の地名化】

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横川という地名は本流の川から横に流れる支流である
それは相馬氏の宇多川上流の山上の横川がそうである

下田の地名の由来は,本郷(旧稲生沢(いのうざわ))に対して下手の海辺にあたり,〈低田〉の意味から〈下田〉になったといわれる。

)平城京(奈良時代)跡から出土した木簡(木製荷札)に「天平7年(735)伊豆国賀茂郡稲梓郷稲梓里の占部石麻呂が荒堅魚(鰹なまり節)を貢納した」とある。稲梓郷稲梓里は現在の下田市宇土金・上箕作・須郷地区(椎原も含むか?)ではないかと推察されている。

下田という地名は1300年頃につけられた。
本郷(旧稲生沢(いのうざわ))に対して下手の海辺にあたり,〈低田〉の意味から〈下田〉になったといわれる。

つまりもともとは本郷(旧稲生沢(いのうざわ))がありその下手にある田が地名の基になった。港とあれば漁港でありなぜ田の地名になったのか
それは稲作が中心であり貢納するのも米だからとなる
でも中央の奈良に貢納したのは荒堅魚だった。魚だったから漁業をしていたからそうなった。魚を捕っていても稲作が中心であり稲生沢(いのうざあ)が本郷であり川を中心として水利の良い場所に元もと拓けたとなる。

川に沿って稲作がありその川を上って行くと八木山がある
これは安曇氏系統の八木氏であり相馬地域でも八木沢とか地名化して残っている。海人族が川をさかのぼり焼畑などをした跡である。その焼畑の後に水田が作られて奈良の都に貢納した
日本の歴史はこうして最初は海人族の人達が焼畑をして山の中に入って行った。それは相馬地域で考察した、原町の三島神社も大山祇神由来である。つまり海人族の神社である。

大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。日本総鎮守とも称される。

全国にある大山積神を祭る神社の総本社である[1]。主祭神の大山積神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する

これは山津見神社のことである。とにかく日本全国に海人族の跡がみられる。それが地名化している。

万葉集にも「防人の堀江こぎ出る伊豆手船、楫取る間なく恋は繁けむ(大伴家持)」とあるように、伊豆は古くから造船が盛んであったことが伺える。伊豆は東方海上交通の要所で、多くの湊があったことだろう

ただ下田が港として知られたのは明治維新の時ペリーが来た時である。もともとは地形的に入江の湾になっていて風待ちの港として利用されていた。
ともかく下田というといきどうしても田をイメージする
地名はそうしてその土地を喚起させるものがある。まずその地名からその土地を見る。下田は田なのかとみる。また上田は条件のいい田であり下田は悪い田なのである。
でも港として発展すればそうした田より米より港として商売できればそちらが中心になる。
下田に春に行った時岬の山に登ると春風が吹いた。

春風の強く吹きつけ下田かな

ここは吉田松陰が密航したとか明治にペリーが来たとか歴史的港ととなった。
こうした地域の歴史がインターネットで調べてわかる。
つまり郷土史にも役立つのである。

2025年02月10日

真野の草原の歌が日本の建国神話を知らなければ理解できない 【伽耶国がかかわり物部氏宗像氏安曇氏がかかわる】


真野の草原の歌が日本の建国神話を知らなければ理解できない
【伽耶国がかかわり物部氏宗像氏安曇氏がかかわる】

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ここはかなり長いけど中味が濃い

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みちのくの真野の草原遠けれど面影にしてゆというものを 笠女郎

●真野地域と伽耶国の密接な関係

この歌を解き明かすには真野の草原の草原は萱のことではなく伽耶の国だということである。ここが最大のポイントなのである
となると伽耶とはなになのかとなる。それは最初の邪馬台国の建国神話にもかかある。その建国に伽耶が重要な役割を果たしていたからである。ところが様々の事情で伽耶が滅亡したので伽耶のことは史実から消えてわかりにくくなった
ただ明かなことはこの真野の草原の歌とこの地域がこうした伽耶が日本建国の歴史の場となっていたことである
だから出雲王国と伽耶の結びつきがあり出雲王国と縄文人の結びつきがあり出雲王国があり九州王朝がのちの邪馬台国とも結びつくのだる

山元町に八重垣神社がある、この由来は明確である

八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を

出雲系統の神社なのである

そもそもなぜ伽耶が重要な役割をになったのかとなれば伽耶は鉄の産地であり鉄を加工できる技術をもっていた。それ故にその鉄を通じて通商国家となり倭とかかわることになった。
でもその時日本に統一国家はない、出雲王朝が最初の日本を代表するものでありその出雲王朝が何であったのかを知るべきだとなる。それが伽耶と深く関係していたしまた物部氏とか海洋民族の宗像氏であれ安曇氏でもかかわっていた。
邪馬台国とか大和王権が成立する前に出雲王国がありそれは縄文人の国家と渡来人の伽耶国と一体化したものでもあった。
ただこの辺の事情は関氏の本で解明しているが複雑である

明かなことは伽耶国の事情が日本に反映されていた
伽耶国が鉄の産地でありまた河口の技術をもつということで力を持ったのである。それは今でも資源とか石油であれ重要であり争いがある。トランプがデールを最も大事にするというときビジネスマンだからそうなる。政治もまたそうしたデールとなる
鉄というものを資源を持つことでデールする。それは今日までも続いている。

●出雲王国は縄文人と伽耶王国などの合体した国

日本の最初の王国は出雲であり伽耶と一体化して存在した
そこに物部氏とか宗像氏とか海洋民族がかかわっていた。なぜならそもそも伽耶から日本に来るには船が必要である。すると船を操作する海洋民が不可欠である。それが宗像氏であれ安曇氏とかなる。だからこの真野の草原という知られたこの地域に物部氏がかかわりまた伽耶がかかわり海洋民族の安曇氏の後継者の八木氏がかかわったのかということでも出雲王国の成り立ちと大和王権の成り立ちと深く関係する
国引き神話はまさに伽耶の国を引っ張てくることであった。

確かなことはこの地域一帯が伽耶国の支配地域のようにもなっていた。それは地名からもわかる。まず真野の草原の歌の草原はカヤハラは伽耶国を意味している。
つまりこの歌はみちのくの真野の草原は伽耶国は遠いけど私の恋する大伴家持氏はそんな遠くでもあってもその面影は見えますよということである
この辺は伽耶国ともなる地域だったのである。ただカヤに草を当てたことで誤解することになった。
伽耶国に草八国があったというとき伽耶に草を当てていたことでもわかる。あくまでも当て字でありそれが誤解のもとになったのである。また天皇家が伽耶出身だというとき伽耶国との密接なかかわりのなかで誕生したのである。

韓神祭ーからのかみまつり 上代において2月11日に行われた。宮内省のまつられる韓神社の祭。中世以降衰えた

まさに紀元節の2月11日は韓神【からかみ】を祭る行事であったというのだ。カラー=カヤのことである、このことから伽耶が日本国誕生にかかわっていたと推理するのである

南相馬市の鹿島区にも唐神という地名がある。それは伽耶に由来する。津神社も鹿島区に右田浜にあったし相馬市の原釜にあるツノミツ神社もツノガにアラシト系統なのである、津というときまぎらえあしいのは津の神社ではなくツノであり角神社なのである
ツノガノアラシトは伽耶の王子だから伽耶の国が移動してきたともなる。その人達は鉄生産にかかわる人でもあった。浜から砂鉄がとれていたからである。小高の角部の地名も明らかにツノガノアラシトの角である

●物部氏が桜井古墳を作り安曇系の八木氏が後に入植

ともかく出雲王国が大和王権の前に日本にありその勢力の争いが実は伽耶国に起きていて日本が二分された
つまり伽耶国が日本の建国に深くかかわっていた。出雲は縄文人からでてきていて田を荒らしたスサノオは縄文人である
また大和王権とのタケミカズチと争いタケミナカタ神が追われて全国に逃れた。特に東北地方に諏訪神社が多いというときそうである。島根がズーズー弁で東北と共通性があるというのもそうである。そもそも縄文時代が一万年続いたというときその痕跡を簡単いは消せない、何かそこに日本に継続したものが残る、それが出雲王国に残ったとなる。蝦夷というのは何者だったかというと
大和王権に敵対する者であり蝦夷という単一のものではなく縄文人と伽耶国が合体したものでもあった。確かなことは大和王権に敵対する人達でありそこに伽耶とかの渡来人が加わっていた。

だからこの地域でもその構図が反映されている。桜井古墳は物部氏系統であり真野地域は大伴氏などが派遣されて大和王権の支配地域になった、だから浮田国造が鹿島区に置かれた。
一方原町区は桜井古墳がありそこは物部氏の支配地域であり最初にこの地を支配したのは物部氏である。
それで鹿島区の御刀神社は物部氏が刀をもって蝦夷を土地の原住民を支配する地域だった。そこは海老に対している。海老と海老と関係ないエヒであり蝦夷なのである

ただわからないのは原町区になぜ綿津見神社が多いのかということである。異常に多いのである。それがなぞなのである。ただ伽耶国には鉄が取れたとしても船で日本まで運ばねばならない、そこで海洋民の宗像氏がかかわった。タケミナカタとはタケムナカタ神だというと納得がいく。また海洋民の安曇氏がかかわりその後継者の八木氏がかかわり綿津見神社が異常に多いとなる
八木氏は時代的には奈良ではなく平安時代とかなりその後もここに入植したとなる。ただ鹿島区の真野に綿津見神社が見かけないのは謎であるが大和王権に組み入れられて入りにくかったのか謎である。時代的には奈良時代ではなくその後に入って来た。

●日立は日高見の国に由来する

いずれにしろ蝦夷とは何なのか解明されていない、縄文人主体の日高見の国がありそれが最初の日本の国としている説もある

「日高」は「日立」(日の出)の意味を持つので、『常陸国風土記』にある信太郡については、日の出(鹿島神宮の方向)を見る(拝む)地、ということではないかともされ、旧国名の「常陸」(ヒタチ)は、「日高見道」(ヒタカミミチ)の転訛ともいわれる

日高見の中心は日立にあり茨城県の鹿島神宮がその根拠地でありタケミカズチは日高見と関係している説が田中英道氏が主張している。最初の日本国は日高見の国であり飛騨とかでも日高見から来ているとかなる、つまり日本の原住民が縄文人でありそれが出雲王国の基であるとしている
日本の基層というか根底に縄文一万年の歴史がありそれが消えることはないとなる。

その証拠となるのが

棚倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、
神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という 
なぜ棚倉で争いが起きたのか、それはヤマトタケルの東征神話にあるようにまず茨城県に入って来た。

8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した

なぜぜ津軽というと遠い地の人がヤマトタケルの軍と戦うためにわざわざ来たのか?それは日高見の国があり連合国があり戦ったとなる。そうでなければそんな遠くから来るはずがない、連絡するだけで大変な距離になる。だから青森まで日高見の国としてあり一体感があってできたとなる。

神石萱(かみいしかや)とは何者なのか?萱とあるときこれも伽耶に通じるのかとなる。出雲と伽耶も密接に結びつきヤマトタケルの大和王権と戦ったとなる

ともかく伽耶とは何なのか、古代史では重要なのだけど伽耶は滅亡して正史に記されなくなった。それでわかりにくくなったのである。それでも最近は韓国での発掘作業がすすみ伽耶国のことが解明されつつある、そこは明らかに日本が深くかかわっていた日本製の土器などあが発見されたり前方後円墳でも発掘されている
そこには現実に倭国があった。任那がありそこは明らかに日本にもなっていたのである。だから天皇が韓の神,カヤの神を祭っていたのはというのはそのためである。

真野の草原の歌の謎ー毛野氏と伽耶国ー安曇氏系統の八木氏と犬養氏の関係 
【真野古墳群の船の線刻画の謎】

福島県浜通りの津神社はツノガノアラシトの跡 
(蝦夷は出雲族であり伽耶(かや)と連合した)










2024年12月06日

真野の草原の歌の謎ー毛野氏と伽耶国ー安曇氏系統の八木氏と犬養氏の関係 【真野古墳群の船の線刻画の謎】


真野の草原の歌の謎ー毛野氏と伽耶国ー安曇氏系統の八木氏と犬養氏の関係

【真野古墳群の船の線刻画の謎】

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●なぜ浮田国造が毛野氏になったのか?

毛野国は相馬地域からかなり遠い、だからどうして毛野氏の鹿我別王が浮田国造になっていたのか、今の栃木県とか群馬県になると遠い、ただ常陸国に毛野氏の勢力が拡大して常陸国からこの地に来たという説がある。地理的にはそれがなっとくがいく

毛野氏を考えると任那の安羅と耕地の争いがあり洛東江流域の東方で新羅領と任那領の中間に位置した国とも記している。神功49(369)年荒田別、鹿我別を将軍として百済の死者と共に卓淳国に集まり新羅を撃破した

卓淳国の地は二説ある。軍隊を動員して比只(ひし)国、多伐国、
草八国―慶南国を討伐してここを併合したという記録がある

この草というのは伽耶(かや)のことであり草(くさ)ではない
音が基でありそれに漢字を当てたからまぎらえあしくなる。それは北海道のアイヌ語に漢字を当てたのと同じである

伽耶(かや、伽倻または加耶とも)、加羅(から)、または加羅諸国(からしょこく)は、1世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国々を指す。

毛野氏の浮田国造鹿我別王が将軍として派遣されていたことが重要である。なぜならなぜこの相馬地域に浮田国造が置かれたのか
それはまた伽耶国と関係していた。それが重要なのである

みちのくの真野お草原遠けれど面影にして見ゆというものを(笠女郎)

この歌の草原とはカヤハラのことでありカヤに草を当てるからわかりにくくなった。つまり草八国とは伽倻八国のことである。
となれば草原は単なる草でもないし萱が茂っている地でもない
国名だとなる。それは毛野氏が伽耶国と深くかかわっていたからだとなる。

とにかく伽耶とは日本が支配した日本の一部であり密接な関係がある。最近前方後円墳が伽耶地域から発見されたことでもそうである、任那に日本府があったし天皇も伽耶の出だというのもそうでらる。
だからこそこの地域が深く伽耶と関係して真野の草原の歌が生まれたのでありその背景は伽耶と密接に関係していたのである
韓国伽耶地域の地名が日本にも移されている。近江の真野とかの地名も移されている。笠とあるはこれも漢字を当てたのでわかりにくくなる。笠とは加佐という韓国の地名なのである。
埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣に
加差披余となっている。カサヒヨは元の音でそれに漢字の当て字になるから誤解しやすいのである

だから笠女郎は渡来人系だともなる。伽耶の王子のツノガノアラシトノアラシトでもアラは阿羅国があり地名から出て荒になり毛野のかが別と荒田別がいたとしてこのアラからきている。つまり渡来人系統伽耶国からでているとなる
また唐神という地名がここの真野郷にあるが唐は韓であり中国ではないのである。仏教が韓国を通じて入って来たからである。
とにかく日本の古代史は伽耶と密接関係がありそこが起源になるから伽耶を知ることが大事にになる
洛東江は大河でありそこを電車で下ってきたことがある、この流域に伽耶の国があったのかと春の日に思ったのである。一つの日本の故地でもあったとなる

●長野県の安曇野の八木氏犬養犬飼氏の跡

新撰姓氏録に安曇宿禰(あずみのすくね)海神綿積豊玉彦神の子、穂高見命の末なりとある
その穂高神社の神官に犬養犬飼がいた。新撰姓氏録を参照すると
安曇犬養連がありそれは海神大和多罪(おおわたつみ)の三世孫
穂己都久命の後なりと記されている。ワタツミの子がホタカミその孫がホコツクということになる
穂高神社の神官でもう一つ注目すべきは和田氏である
本姓は倭太(わた)である。

犬飼の地名として下高井郡の野沢温泉は犬飼の湯と呼ばれ郡内に犬飼の地名がありその他八木、波田、畑、、、、は海洋民に由来する

信濃川を下流から上流までたどってみると河口付近から源流近くまで海洋民ゆかりの地名が点々と連なっている

全国を見渡すと福浦、福良,吹浦とあり海人族とかんけいあるらしい。三原郡阿万(あま)に福良駅がある。三原郡には養宜(やぎ)
郷もありこれは安曇氏の八木造と幡多郷があり幡多(はた)は魚の総称のことであり朝鮮語のパタに通じ海人族の居住地名と考えられる
波多、波多、波太、幡太、八多、八太、飯田、半田・・・さらに北部九州では畑の地名が海人関係と並んで多数存在する、これは海を意味するかもしれない。

丹後の海部については丹後加佐郡に海人関係の式内社として与謝郡龍神社(この神社).宇良神社が鎮座する
海人関係を拾えば舞鶴市(和田、加佐郡)に和田、八田、大江町、宮津市に由良、畑、加悦(かや)町・・・とかある

龍神社(この神社)が『延喜式』で山陰道唯一の官幣大社に指定された丹後国一之を宮で総社を兼ねるようになったのも同社の古さを物語る
この社を奉斎した祝部海部直に代表される丹後地方の海人集団の実力が想定されなえばならない

海人の伝統ー日本の古代ー中央公論社ー大林太良編


犬飼(犬養)の地名について考察した。それは安曇氏系統の犬飼(犬養)であり海人族である。また龍神社でも松川浦の原釜にあった。つまり海人族の跡が濃厚に残されたのがこの辺である
その基は九州の福岡にあったとしてもその後拡散して瀬戸内海から大阪から尾張の名古屋から静岡県と拡散したのである。
小高に角部(つのべ)とあるときこれは伽耶国の王子ツノガのアラシトからきているし福良も福浦と小高に地名がありそれも海人族の跡さとなる。そもそも畑がパタであり朝鮮語で海だというときそれは海人族でしか発想できない、海で魚捕ることで食料を得られるから畑で食料が得られるから畑でも海と同じだとなった

そしてなぜ犬飼なのかとなると犬に魚を与えて養ったからだというのも何か納得する。
ともかくなぜこれほどか海人族が日本列島にかかわったのかそれは四方が海に囲まれていたから海を渡ってきた人が入ってきたのである。その人達が内陸の山の中にも入って来たのである

「厳々(みつみつ)し 久米の子らが 粟生(あわふ)には 香韮一本(らみらひともと) 其根(そね)がもと 其根芽認(そねめつな)ぎて 撃ちてし止まむ」

「厳々(みつみつ)し 久米の子らが 垣下(かきもと)に 植ゑ山椒(はじかみ) 口疼(くちひひ)く 吾は忘れじ 撃ちてし止まむ」

「神風の 伊勢の海の 大石に 這(は)ひ廻(もとほ)ろふ 細螺(しただみ)の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ」

この歌は焼畑でとれるものであり日常生活で親しいものであった
生業として焼畑があり漁業もしていた人たちが海人族である
細螺(しただみ)いうのは漁業とか海で生活する人がかかわるもである。つまり久米族は海人族であり神武天皇軍の東征は海人族が先導したのである
それに安曇族が関係していた。だから神武東征とは海人族の安曇族の移動が下敷きになっていた。それで日本尾いたる所にその跡を残したのである。

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海人の伝統ー日本の古代ー中央公論社ー大林太良編

●真野古墳群から発掘された20人ほど乗る船の絵の謎

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こちらから草に火をつけて敵の方に火勢をしりぞかせた。そこを脱出してからその国造どもをみな斬り殺して、そして死体に火をつけてお焼きになった。それゆえ、今日その地を焼津やきつというのである。
 さねさし 相武さがむの小野に 燃ゆる火の 火中ほなかに立ちて 問ひし君はも

(さねさし)の相模の野原に燃え立つ火の、その炎の中に立って、私の安否を尋ねてくださったわが夫せの君よ)
その后の弟橘比売命おとたちばなひめのみことという方が、「神の怒りをしずめるために、私が皇子みこの身代わりとなって海にはいりましょう。皇子みこは命じられた東征の任務を成し遂げて、天皇に御報告なさいませ。」と進言して、海にはいろうとなさり、


日本武尊は上総かみつふさより転じて、陸奥国みちのくにに入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦あしのうらを廻り、玉浦を横切って蝦夷えみしの支配地に入られた。蝦夷の首領島津神しまつかみ・国津神くにつかみたちが、竹水門たけのみなとに集まって防ごうとしていた。しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで、従った。

竹水門がタカ港ともされる、式内社の多可神社があり高倉神社が南相馬市の奥の山の方にある。
そしてなぜ南相馬市の原町区に綿津見神社がこれほど多いのか、これは何なのかとなる。それで海人族の安曇氏の後裔の八木氏と犬養氏がこの地で地名化していることで明らかに安曇氏ではないにしろその後八木氏とか犬養氏が関わったことは確かである
ヤマトタケルの神話は安曇氏など海人族が日本全国に移動したことが下敷きになり後にヤマトタケルの遠征として創作されたともなる。

それでなぜ20人も乗る船の線刻画がこの地に残されたのか、それは誰が描いたのかとなる、海人族であることはたしかである
ただ
海人族でも物部氏でも船を作り操作する軍事氏族であった。それが安曇氏系統なのかどうかわからない、何故なら時代的に合わない、古墳から発見されたことは相当に前になり安曇氏の後裔の八木氏とか犬養氏が進出するのはその後になる。
ただ南相馬市の原町区であれ鹿島区であれ小高区であれ海人族であれ渡来人が深く関係していた。だからこそ20人も乗る船の絵が発見された。20人も乗るということはかなり大きな船であり外洋でも航海できるともなる。

古代では無理だとされているがつまり真野の草原は大和王権が蝦夷征服した北の境界戦でありそれで真野の草原は中央の奈良に知られたからである。ただここが船で来る限界地点であったかもしれない。気候的にも相馬地域は温暖であり奄美大島から種が流れ着いてマルハシャリンバイが海老村に自生した南限の地でもありそれで気候的境界戦になっていたこともある。
だからヤマトタケルの神話も全部想像で作られたのではなく何らかの事実があって作られたとなる。



引用が長くまた図も載せた、これは著作権違反になるのか?
でも和歌山県の和田の地名を大文字で和田として20くらいあると書けば著作権違反にならないかもしれない、ともかく著作権はめんどうである













2024年11月29日

相馬地方の横穴古墳の謎 【鎧兜に馬を操作する渡来人集団の移住】


相馬地方の横穴古墳の謎
【鎧兜に馬を操作する渡来人集団の移住】

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都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと、生没年不詳)は、『日本書紀』に伝わる古代朝鮮の人物で、加羅国王の息子と言う。

『日本書紀』では「都怒我阿羅斯等」、他文献では「都怒賀阿羅斯止」「都怒何阿羅志止」「都奴加阿羅志等」とも表記される。また『日本書紀』では別名を「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」とする。

意富加羅国(大加耶/大加羅、おほからのくに、現在の韓国南部)の王子で、地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。

〈御間城天皇(=後述する崇神の名)の世に、額に角のある人が一つの船に乗って、越国の笥飯の浦に着いた。ゆえに、そこを名づけて角鹿という。〉
 「どこの国の人か?」と尋ねると、「額に角のある人」は答えます。
〈大加羅の国の王の子、名は都怒我阿羅斯等。〉…。
 「牛頭の冠」をかぶっていたので角に見えたのでしょう。それが地名の由来で、角鹿は敦賀の古名。笥飯の浦とは敦賀湾の気比の松原あたりです。

 1世紀から6世紀ごろまで朝鮮半島南部にあった小さな国の連合体を伽耶または加羅といい、なかでも有力な国を「大加羅」と称しました。加羅や新羅の最高の官位が「角干」で、訓読みだと「ツヌカン」。これが「ツヌガ」の意味のようです。

相馬地方の蝦夷の謎 (渡来人地名は蝦夷と混血したためか?)

横穴墓の壁画は群馬栃木埼玉などのいわゆる毛野文化圏にはほとんど存在していない、しかもそれらは日本列島の中央部にはあまり見られず九州と山陰それに関東と東北の太平洋岸のみに分布しているものだという。
つまり横穴壁画文化を携えた人間たちは九州から集団移住してきた形跡がある。その移動経路は当然海路であったろう。各地の横穴壁画に船の絵が多いという事実がそのことを物語っている。
横浜墓を営んだのは侵攻の有力農民層であり彼らは濃厚集団とあると同時に武力集団騎馬集団であったことはすでにふれたが彼等はまたこう航海集団水軍集団でもあったのである

こうした横穴墓は普通数体の遺骸が納められていることから家父長個人の墓ではなく家族墓であったと推定される。副葬品には従来の古墳のような銅鏡は見当たらないが玉類や金は見られ特に目立つのは鉄製の窯、斧、直刀、矢じり、轡、鐙金具などの農具である。
彼ら群衆墓に葬られた人々は農民層であったと同時に日常的に武装した武力集団騎馬集団であった様がうかがわれる。

彼らは大和政権の覇権が北関東東北の浜通りに及ぶずっと以前からこのうち根付いたパイオニアだったのだだから彼らとても大和政権の支配者に言わせれば単なる野蛮な蝦夷でしかなかった
【古代東国物語ー永岡治】

横穴系の埋葬施設は、中国大陸(塼槨墓)の影響下に、その波は朝鮮半島の高句麗から南下し百済・加耶、そして日本列島へと伝播した。4世紀後半から5世紀初頭に石積みの石室に現れ、北部九州において横口の石室を生み出し、横穴式石室へと整備され、5世紀は畿内も含み限定的な展開に留まるが、6世紀には列島各地で採用されるに至る。

埋葬思想の独自性〜多様な墓制〜

古墳時代、5世紀後半の九州北部の豊前地域に淵源を持つと考えられている。おもに6世紀中葉に山陰・山陽・近畿・東海地方まで盛行した。7世紀初頭までには北陸・関東・東北南部まで分布した

年代的には4世紀後半から5世紀初頭が想定される。埋葬された人物は、古墳の立地や築造年代からも新田川流域を治めていた浮田国造の初祖・鹿我別命だったと考えられる。しかし、2箇所の棺の痕跡は何を意味するのかなど今後究明すべき点も多い。

そして物部軍はヤマト国に進軍し、出雲王家の分家である磯城王朝を滅ぼし、ここに物部王朝が誕生します。
この武勲により、豊国物部氏には三河の地(愛知県)が与えられます。
なので愛知県には「豊」がつく地名が多いのです。

宝田氏によると、群馬県富岡市にある貫前神社の神官である物部公と浮田国造(鹿我別(かがわけ)王)は同族であるそうです。

北関東に追いやられた豊国物部氏

学会では福島県に安曇氏が来ていたことは否定されています。
福島県の綿津見神社の創建は、中世に建てられたのがほとんどだそうで、古代安曇氏との関連はないそうです

南相馬市にあるほぼ全ての綿津見神社は、江戸時代幕末まで「八竜神」「八竜権現」という社名だったのです!
つまり、南相馬市では竜神信仰、「アラハバキ信仰」が江戸時代幕末まで行われていたのです!




桜井古墳は東海から来た物部氏がかかわった。最初に物部氏がこの地にかかわった。物部吉名という人がいて小高に吉名郷がある。
また鹿島の右田の御刀神社は明らかに物部氏のものである
だから物部氏が一番古く氏族としてかかわったことは確かである。
その割にはなぜ物部氏の跡がないのかとなる、神社もないのである
それでなぜまた綿津見神社がこんなに南相馬市の原町区に多いのかとなる、それは古代ではなく学会では中世のものとしているという、その論文も誰が書いているのかもわからない、綿津見神社と山津見神社はこれだけ多いということ古代に安曇氏が来たという証拠になるとしても確かなことは安曇氏の後継者の八木氏とか犬養氏が開拓に入ったのである。
それが八木沢峠とか相馬市から宇多川を上った玉野村から霊山に行く道に八木原があり石戸村に犬飼という地名がある。だから地名化するくらいだから古い、でもそれがいつの時代になるのかそれが問題なのである。それは古代ではなく中世だとなるのか?八木氏とか犬飼(養)氏は平安時代からでも大きな氏族として継続している

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でも疑問なのはたか神社の脇に綿津見神社が残されてその脇に式内社の立派な多珂神社(たか)神社がある。するともともとそこは綿津見神社がありそこに後から多珂神社が建てられたともみる
第一立派な多珂神社の隣に綿津見神社を作ることはない、つまり綿津見神社の方が古いから新しく立派な多珂神社が作られたと見るのが普通である。
綿津見神社がこれだけ多いのはなぜなのか、いつの時代に建てられたのかが問題である、そもそも古代からこんなに多く綿津見神社が建てられことはない、それを考慮すると古代ではなく平安時代以降となっても不思議ではない、安曇氏自体は消失してもその後継者の
八木氏とか犬養氏は継続して現代まで存続しているからである。

ただ大和王権の支配下に入ったのは南相馬市の鹿島区であり真野郷なのである。真野郷は古代の官製の正式に記録に残されたもである。鹿島の鹿島御子神社は武御雷の神を奉る大和王権の武神である
鹿島区には大和王権がかかわり支配した。だから原町区に桜井古墳があっても真野郷に浮田国造が置かれた。それは大和王権が最初に支配したからである。それで寺内の前方後円墳に金銅双魚佩が発見された。それは中央の政府から有力な氏族から贈与され双魚佩たのである。
だから大和王権に最初に従属した支配したのは真野郷であり鹿島区であり原町区ではない、だからなぜ綿津見神社が原町区に多いのか

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また桜井古墳はなぜあれだけ大きいのか、つまり物部氏がこの地に最初に来て支配して桜井古墳を作る首長が存在した
二つの棺があったというときそれは原町区の勢力の首長と大和王権の真野郷の首長なるものが埋葬されたとなる。
宝田氏によると、群馬県富岡市にある貫前神社の神官である物部公と浮田国造(鹿我別(かがわけ)王)は同族であるそうです。
これは重要な指摘である、つまり桜井古墳の埋葬された二つの木の棺は物部氏と浮田国造の鹿我別王(かがわけ)となる

ただわからないのは安曇氏系統の八木氏であれその人達がこの地に入って来たのはいつなのかとなる。それは古代ではなく中世だとすると確かにこれだけ神社があるのだから中世とかにならないと建てられないとなる。ただ最初は小祠であり神社になったのは後だともなる。

ただ古代の伽耶と海人族の安曇氏とかは一体化していた。伽耶の王子がツノガノアラシトでありこのツノは地名化している
小高の角部(ツノベ)相馬市の松川浦の津神社はツノミツ神社でありツノガノアラシトなのである。それは間違いなく古代に遡る
また横穴古墳に描かれたもの渡来人のものであり鎧に兜をかぶる刀も持っていて馬を操る人でありそれは縄文人とかとはまるで違った先進文化を持った武人である。ではこの人たちは何者なのかとなる。それは韓半島系統の渡来人であり横穴古墳を作った人達である
でも桜井古墳の方が古くそれは物部氏がかあったとなる

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この船は相当に大きい船である。前に8人が確認されるが破片であり全体になると
十数人20人くらいになるのか?梶でも20くらいになる、これは内海だけではない
外洋にも乗り出したのかもしれない、何故なら人数が多いからである

安曇海人ー宗像(宗像)海人、大山祇(わたし)和邇氏

安曇海人ー宗像(宗像)海人、大山祇(わたし)和邇氏は海人族であり和邇氏でもその系統に真野氏が存在していたのである。
つまり航海にたけた氏族である。だからこそ真野古墳群から20人くらいが乗る船の絵が発見された。20人も乗れるということはそれだけ大きな船である。それだけの技術と航海術も持っていたとなる
だから焼畑の技術であれ鉄作りの技術であれ船を作る航海できる技術であれ鎧兜をみにまとい馬を操る人達は縄文人とかとはまるで違った異質な人達だった。だから縄文人は圧倒されて従属させられたことが明確に見える
ただ時代的に時間軸でみるとわからなくなる。

つまり横穴古墳にこのような絵を描いたのは誰なのかとなる。それは物部氏ではなくその後に来た人達であ安曇族系統の人たちになるのかとなる
最初に大きな古墳が作られて次に群集古墳となる小さな古墳が作られる、横穴古墳も家族とか小さな単位の集団が作った
大きな古墳となる桜井古墳でも大きな集団をまとめるものとして作られた、だから二つの棺があったというときそれは誰なのか、物部氏でありもう一人は誰なのかとなる、浮田国造の加賀分け王なのかとなる。大和王権が今の鹿島区の真野地区を支配して原町区の物部氏の勢力と合体した、そこにまた安曇氏系統の海人族がどのようにかかわったのか、海人氏系統の八木氏とか犬養氏は古代から後の平安時代以後にかかわったのかとなる。時間軸で見るのがわかりにくいのである。

そして大和王権が真野郷を支配して真野の草原の万葉集の歌が作られた。その真野の草原(かやはら)とどうしても草原ー萱の原にはならない。

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものをー笠女郎

陸奥の真野の草原のように遠いけれど私にはあなたの面影が見えるというのに…
草原ーかやはらは萱が茂っている所ではない、確かなことは遠い場所であり地名なのである。つまり大和王権に反抗する蝦夷の地域が服属したということで知られるようになった。

笠女郎もまた加佐でありこれは韓国の地名であり笠は当て字であり各地にある。

稲荷山古墳出土鉄剣は、1968年に埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣。
カサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る

カサヒヨ(カサハラ)があり渡来人の名のである。
その前にすでに渡来人がかかわりその渡来人が実は大和王権に反抗していた。それで蝦夷とは大和王権に反抗する人達のことでありすでに縄文人は先進文化をもった渡来人と一体化して鎧兜を身に着けた馬を操る人達がいたなら手ごわい相手になったのである。

南相馬市の原町区と鹿島区の古代史の相違
 (鹿島区が大和王権に先に従属した理由−真野の草原の歌の意味)



2024年10月07日

なぜみちのくは福島県(棚倉)が境界なのか 【ヤマトタケルの東征伝説があり境界だった】

なぜみちのくは福島県(棚倉)が境界なのか
【ヤマトタケルの東征伝説があり境界だった】

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福島県の歴史の道の旅の回想 (棚倉→白河→会津ー(白河街道)

日本は森の国‐飯館村も丸森町も森が深い 
【八溝山を自転車で白河の関に来た記憶


棚倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という 
なぜ棚倉で争いが起きたのか、それはヤマトタケルの東征神話にあるようにまず茨城県に入って来た。

茨(いばら/うばら)の生えた地域」を指した呼称と見る説もある。

『和名抄』によれば、この茨城郡内には特に「茨城郷」が存在している。この茨城郷の比定地は石岡市茨城(ばらき)とする説が有力で、同地は常陸国の古国府や茨城郡の郡家も置かれたと推定される政治的中心地でもある。また付近の茨城廃寺跡(ばらきはいじあと)からは「茨木寺」の墨書を持つ土器が出土しており、「茨城」が古くは「茨木」とも記されたことが知られる[3]。

賊を討つため、野の茨で城を築いたという古書の伝説。常陸国_風土記によると、「むかし、『国巣(くず)』や『山の佐伯』や『野の佐伯』と言った盗賊がいて、普段は穴の中で生活していた。そして、隙をみて盗みを働いた。この話を聞いた黒坂命(くろさかのみこと)が盗賊を退治しようとした。黒坂命は盗賊が穴から出ている隙に、穴の入り口をいばらで塞いだ。その後盗賊退治の兵を出した。逃げる盗賊は穴に逃げ込もうとしたが、いばらに阻まれ皆打ち取られた。そのため、『いばらぎ』の地名ができた。

この伝説のようにいばらぎは野薔薇のことであり南相馬市原町区の大原から八木沢峠に行くところに薔薇坂とかありこの薔薇は
イバラ(野茨)のことである。それは棘をもっているのでそれが密生していったら通りにくくなる。そこに原発事故で原野化して一軒の農家は牛を飼っていたが空家化した、あの辺は一時放射線量がかなり高い地域となりその他の家も空家化したのである。
そこにカモシカが出てきたのには驚いた。人間がいなくなるとそのためにに里に下りてこない動物でも降りてくる

草野灰(かやのはい)、保々吉灰というのは焼畑をしていた人達である。森の木を焼いて灰にしてその灰を肥料にしていたからである。

さねさし   相模の小野に   燃ゆる火の   火中(ほなか)に立ちて   問ひし君はも

これはヤマトタケルの妻オトタチバナヒメが歌ったもの
タケルとヒメ達一行は東の方の大和朝廷に服従していない者達を服従させるための旅をしていた
焼津は焼き畑が行われた地域でありその名がついた。焼畑の地名は全国に多いからである。この辺では飯館村の佐須がそうである。それは海洋民の安曇族の後裔の八木氏などが入って来て焼畑を教えたのである、だからヤマトタケルの遠征伝説はその下敷きとして綿津見神社として残ってる安曇族などがその基となっているともなる。

ともかく棚倉という地域はかなり古くから何か要所となっていた。それは地理的にそういう場所だったからである。八溝山を源として久慈川があり山でも平地でも茨が覆っていてそこ行くのはむずかしい。すると川をさかのぼって来たと推測できる。川が道となる、
古代では川は道であった。アイヌでも川は道であり身体になぞらえて川口は頭であり川上は尻になる。その名づけ方は川を上流から下るのではなく下流から上ってゆくからそうなった
つまり川上に上る道だったのである。

棚倉の場所が久慈川をさかのぼり山を分け入りそこが盆地のようになっている。だからそこで争いが起きた。関ケ原も東西の境目でありだからこそ天下分け目の争いが起きた、日本を二分する争いが起きた。つまり地理から歴史を見ることが基本にある
ともかく勿来の関があり白河の関があり棚倉でも福島県と茨城県の境界になる、つまり茨城県との境界は古代にも由来しているのである。そこはみちのくの境界だからこそ大和王権の軍と衝突して争いになったのである。また棚倉は水戸街道に通じた場でもあり要衝の地だったのである、だからこそそこで戊辰戦争があり相馬藩でもそこに集結して薩長軍と争った。そして相馬藩でも水戸の天狗党の影響を受けたというときそういう地理的な場所にあったからである。

8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した

ただ不思議なのは津軽の蝦夷と言えば相当に遠い、そこからどうして道もまともにない時代に来れたのかとなる
津軽はツノガノアラシトから名ずけられてと考察した。蝦夷というのは大和王権に逆らう人達でありその連合体であった。だからそこに渡来人がかかわっていたのである。
でも津軽の青森までかかわり連合体が形成されていたかとなる
確かなことはみちのくというとき福島県が境界になっていたのである。またむしろ文化的に優れていて独自の連合体が形成されていた。それが日高見の国だと言われる

歴史を見るときまず地理を見る。そして境界になる場所が大事なのである。

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎

これはここが自然的歴史的境界だったことを考察して来た、だからこそ大事な地域となり奈良の役人でも知られた地になっていたのである。だから歴史を見るとき地理を見て境界を見ることが基本になるのである。



棚倉町の秋の暮

都々古別神社や八槻都々古別神社
その謂れも古りて秋の暮
水戸街道の通じて水戸を思ふ
ここは古代よりみちのくの境
故に大和王権と蝦夷の争いの伝説
ヤマトタケルの伝説の語られる
福島県と茨城県の境はみちのくの境
我はここに一夜の宿をとる


2024年08月28日

南相馬市の原町区と鹿島区の古代史の相違 (鹿島区が大和王権に先に従属した理由−真野の草原の歌の意味)

南相馬市の原町区と鹿島区の古代史の相違

(鹿島区が大和王権に先に従属した理由−真野の草原の歌の意味)

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貞観 6 年 8 月(866 年)の記事に「阿波 国名方郡の人、二品治部卿兼常陸太守賀陽親王家令正六位上安曇部粟麻呂、部字を改め宿 禰を賜ふ。粟麻呂自ら言ひけらく、
安曇は百足宿禰の苗裔
安曇宿禰(連)、海犬養、凡海連、八木造、阿曇犬養連 
の 5 氏族が実在していたことが分かる。

賀陽親王家令正六位上安曇部粟麻呂、

賀陽(かや)親王家とあり安曇部粟麻呂とある、この賀陽(かや)とは伽耶の国のことである。天皇家には明治以降でも賀陽(かや)親王家は受け継がれて存在している。
ただ相馬地域に関わったのは犬養氏と八木氏である。

河内国には安曇氏族の八木造がいたことが分かっている。八木造は『録』によると「和多罪豊玉彦命の児の布留多摩乃命の後」とあり、安曇氏族の一族とされている。八木氏は河内国和泉郡八木郷(現在の岸和田市八木地区)を本拠地としていたとのことである。その地に古代から式内社である夜疑(やぎ)神社があった。

その本拠地は大阪であり九州の福岡市とかでない、でも大阪から移動するとなると船で移動したのかそれもよくわからないのである。確かに9人乗りの丸木船の線刻画が南相馬市の鹿島区の寺内の古墳から発見された。でもそいう船で太平洋を渡って来れるのかとなると厳しい。入江とか近海なら可能である。近海でも危険になる。

確かなことは犬養氏と八木氏が相馬地域と深くかかわっている。
綿津見神社が原町区20もあるということがそれは何を意味しているのかとなる。それはその一族がこの地の開拓者になっていたということである。それは地名化しているから紛れもない事実である。安曇氏はあくまで祖先であり直接は関係なくなっていた。
むしろ犬養氏と八木氏は深くかかわっていた。

安曇氏が海人族として誇張化されたというとき何か明確な文献とかに残っていないからである。むしろその後裔の犬養氏と八木氏は明確なものを残している。
安曇というとき地名化しても真実は地名から証明しにくいこともある。でも相馬地域は綿津見神社がこれほど多いということでそれがなぜなのかとなる。八木沢峠であれ八木原であれ犬養が伊達市でも地名化している。最初に開拓者として入ったから命名者となり氏族名が地名化したのである。

そのとき大和王権は成立していないから正式な歴史書に記されなかったとなる。ただ綿津見神社と山津見神社が残されたのである。

縄文時代→綿津見神社(安曇系)→物部氏(物部王朝+出雲王朝)→大和王朝

前に考察したがこれは間違っていた。

縄文時代→物部氏(物部王朝+出雲王朝)→綿津見神社(安曇系)→大和王朝

ここで問題なのは物部氏の痕跡が見いだせないことである
原町区に綿津見神社が20とか多すぎる。それは安曇氏系統の犬養、八木氏がかかわり建てられたのかとなる、そもそも物部神社など一つもない、地名化もしてない、物部川と他ではある
それも何故なのかとなると不明なのである。

益多嶺神社福島県相馬郡小高町大井字宮前144第十二代景行天皇の御代、日本武尊東夷平定の際、出雲太社より御分霊を勧請された神社で、昔から甲子大国社と尊称される。
多珂神社福島県原町市高字城ノ内112景行天皇の40年7月日本書紀皇子日本武尊東夷征伐の勅命を奉じ、陸奥に下り各地に転戦し給い軍を太田川のほとりに進められ戦勝祈願のために大明神川原(大明神橋の名も今に残る)の近く玉形山に神殿を創建し給ふ。
鹿島御子神社福島県相馬郡鹿島町鹿島字町199第12代景行天皇の御宇(西暦917)日本武尊命御東征の時此の鹿島御子神社に武運長久の祈願ありて、其の霊験に依り、乱臣賊子は速やかに征服し得て、其后益々御子神社は特に軍神として武人崇敬の神となれり。

陸奥国みちのくにに入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷(えみし)の支配地に入られた。蝦夷の首領島津神(しまつかみ・国津神くにつかみたちが()、竹水門(たけのみなと)に集まって防ごうとしていた。しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで降伏した

この竹水門はどこなのか?竹とは高(たか)であり多可神社が原町のあり高倉があり高倉には綿津見神社がある。それは奥まった山の方である。
そもそもこのヤマトタケル遠征の神話は何を根拠にしているのかわからない、それは安曇氏であれ海神人族の移住に由来したのが神話化したのかもしれない、実際の証拠としてなぜ原町区に20もの綿津見神社があるのか、それが証拠として見るとそうなる

そして確かに原町に多珂神社神社がありこれは大和王権の官製の神社となる。鹿島区の鹿島御子神社はまさに建御雷神(たけみかづちのかみ)の神であり大和王権が支配した地として全国に建てられた。

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多珂神社は広く立派なのである。その隣に隠されたように綿津見神社があった。でも社殿のないのである。
ここはもともとは綿津見神社がありそこに新しく大和王権系の多珂神社が建てられたのである。
なぜなら他の綿津見神社は立派なものも多いからである。

大和王権に征服される前に物部氏とか安曇系統の人たちが開拓に入りそのために綿津見神社が原町区に20もある。そして大和王権が必ずしもその人たちと争っとのではなく平和的に恐れて従属したのである。それもすでに安曇族系統の犬養八木氏が住んでいてそれがヤマトタケル神話に取り入れられたともなる

確かなことは原町区と鹿島区では明確な相違がある。まず桜井古墳が原町区にあり綿津見神社が多い、でも鹿島区には綿津見神社がなく鹿島御子神社のように大和王権直轄の神社がありまた浮田国造が置かれたことでも原町区とは違っている。
最初に大和王権の支配下に入ったのは鹿島区でありそれを象徴しているのが真野の草原の万葉集の歌である。笠女郎が大伴家持を慕う恋の歌でもそれはこの地が原町区ではない真野郷として大和王の支配下に入ったと中央の歴史書に記されたのである。
そして寺内に前方後円墳があ金銅製双魚佩が大和王権から下賜されたのである。

何かこういうことは常にある、ロシアとウクライナが争いロシア領地のクリルをウクライナが占領して支配したと宣言する、それでロシアの旗を捨てウクライナの旗を行政府に飾る。つまり郡とは軍のことでもある。軍隊がまず入り占領して支配するのである。ただ大和王権の軍が入って来た時争わず従属したなる。
いずれにしろ物部氏であれ安曇系であれ原町区は在地の勢力があり大和王権が進出しにくいから鹿島区は大和王権の方が支配したとなる。それは桜井古墳が大きなものでありまた綿津見神社が多いということがその証拠なのである


2024年08月26日

南相馬市の古代史ー海人族(安曇氏系)と大和王権の支配 原町区(物部―安曇系海人族)と鹿島区(大和王権)


南相馬市の古代史ー海人族(安曇氏系)と大和王権の支配

原町区(物部―安曇系海人族)と鹿島区(大和王権)

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海人族に属すと考えられる氏族としては安曇氏、海犬養氏、宗像氏などが代表的である。ほかに海部氏(籠神社宮司家)や津守氏、和珥氏も元は海人族であったとする説がある。
竹取物語(かぐや姫)の原型となった作品「羽衣説話」や浦島太郎の原型「浦嶋子伝承(浦島伝説)」は、海人族によって日本各地に伝えられたと推測されている
これらの話は京都の籠神社(このじんじゃ)に伝わる書物「丹後国風土記逸文」の中でも語られている伝承であり、さらにこの神社は「海部(かいふ)氏」という海人族の末裔が宮司(神職)を努めてきた神社でもあるのだ。

海人族は古くから日本に定住しており、弥生時代には既に日本列島で暮らしていた可能性もあるといわれている。

彼らは後に様々な一族(氏族)へと分裂していき、中には川や谷に沿って日本列島の奥深くへと移住する者たちも少なくなかった。

日本の海を支配した集団とは?海人族の歴史や安曇野開拓などを徹底解説

山津見神社(やまつみじんじゃ)は、福島県相馬郡飯舘村に鎮座する神社。別名虎捕山津見神社とも呼ばれる。
頼義の夢の中に山の神が現れ「もし墨虎を捕まえたいと思うなら、白狼の足跡を踏み追うといい」という神託を得た。頼義は直ちに臣下である藤原景道に墨虎の追跡を命じた。藤原景道は、里人である菅野蔵人と今神助右エ門を道案内役として山へと分け入り、険しい山嶺や荊棘の中を踏み分けて捜索をしていると

山津見神社

『古事記』では大山津見神、『日本書紀』では大山祇神、他に大山積神、大山罪神とも表記される

『古事記』では、神産みにおいて伊邪那岐命と伊邪那美命との間に生まれた。その後、草と野の神である鹿屋野比売神(野椎神)との間に以下の四対八柱の神を生んでいる。

全国の大山祇神社(山積神社/大山積神社/大山津見神社含む)の他、三島神社(三嶋神社)や山神社(山神神社)の多くでも主祭神として祀られている。

1973年1月大三島大社講(大山祇神社)発行の『大三島宮』によると、その数はそれぞれ897社、402社、3075社である(次項以降の神社数を含め、『大三島宮』(大山祇神社発行)に記載されている、1972年8月の神社本庁調査に基づく[注釈 1])。なお、この集計では三島神社や山神社を称していても、主祭神が大山祇神でない神社は除外されている。


なぜ海人族に関する神社が多いのか、三島神社は南相馬市原町区にある目立つ神社である。この神社も大山祇神社であり山津見神社になる。それは浪江町の津島に行く途中にも大山祇神社があった。そこは津島へ行く道だから津島の方に最初に入って来たのは安曇系の海人族だったのかとなる。

また京都の籠神社(このじんじゃ)に伝わる書物「丹後国風土記逸文」の中でも語られている伝承であり、さらにこの神社は「海部(かいふ)氏」という海人族の末裔が宮司(神職)を努めてきた神社でもあるのだ。

籠神社は相馬市の松川浦の原釜の海岸にある。また松川浦の和田は綿津見であり対になって山津見神社があった。地名化しているからである。
ともかく相馬地域なぜこれほで海人族と大山祇神社があるのか、
特に綿津見神社が多いのである。原町区の大原にも綿津見神社があった。ただ山に入ると山津見神社になる。山津見神社は山の神でもあるからだ。栃窪にも山津見神社がありそこから塩の道となっていて途中に山津見神社がある。
そして八木沢峠の八木は安曇系の八木氏の八木から地名化した
地名化するということはもともと名づけられていない所に初めて名づけられたとなる。

つまり安曇系の海人族が最初の命名者なのである。長野県安曇は有名である。そこで船の祭りがあり祭りに使う船を作っている人はいた。もともと船を作り操作する人達だったからである。それで南相馬市の鹿島区の寺内古墳から船の線刻画が発見された。それは9人くらいが乗って漕いでいる絵ななおである。だからそれなりに大きな船でもあった
また海人族は船を操作するだけではない農業技術も持っていた
焼畑農業の技術を持っていた。だから飯館村の佐須は焼畑のことであり山津見神社がある。そこは相馬地域の山津見神社の本山にもなっている。

山津見神社(やまつみじんじゃ)は、福島県相馬郡飯舘村に鎮座する神社。別名虎捕山津見神社とも呼ばれる。
頼義の夢の中に山の神が現れ「もし墨虎を捕まえたいと思うなら、白狼の足跡を踏み追うといい」という神託を得た。頼義は直ちに臣下である藤原景道に墨虎の追跡を命じた。藤原景道は、里人である菅野蔵人と今神助右エ門を道案内役として山へと分け入り、険しい山嶺や荊棘の中を踏み分けて捜索をしている

これは墨虎とは海人族の安曇系の神社であり源頼義や藤原景道は後から入って来た人達でありそこで争いがあった
それを案内したのは菅野蔵人とありこれは佐須に菅野一族が早い時期から住んでいたとなる。飯館村の前の村長は菅野氏だったからである。つまり菅野というのは相当に古くから住んでいたとなる。

そして相馬地域の最大の謎は万葉集に残された

みちのく真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

真野郷がありその真野郷は明らかに移動地名である。また真野氏が存在して関わったからなずけられた。
和珥氏も元は海人族であったとする説があるというとき和珥氏の同族系統として真野氏が存在したからである。確かなことは真野氏とは吉備とか近江が発祥地でありその地名が真野氏と姓にもなりこの地に名づけられた。

とにかく最初に相馬地域を開拓したのは海人族の安曇系であるから綿津見神社が多いのである。ただその前に物部氏が支配していた。原町区の桜井古墳は物部氏が関係していた。4世紀のものであり寺内の古墳群は古墳の数は多いにしても桜井古墳のような大きなものはない。ただ寺内に前方後円墳があり金銅製双魚佩(そうぎょはい)が発見された。

ただ時代的に見れば桜井古墳が古い。それは物部氏がかかわったともなる。寺内古墳群になると小さくなっているからである。
それは大和王権が進出した結果であり原町には物部系がいて安曇系の海人族がすでにこの地に根を張っていた
だから大和王権の浮田国造は鹿島区の浮田に置かれたのである。
それは大和王権が直接かかわる官営のものだったからである。
それは毛野氏が関わっていたがそのあとに大伴氏がかかわるようになった。大伴氏は大和王権を支えた大氏族だからである

その大伴家持に恋したのが笠女郎である。つまり真野郷に大伴氏がかかわりそのとき真野の草原のことが伝えられたのである。
その草原(かやはら)は謎であるが地名のことであり萱が茂っている荒野のような地域ではない、新しく開かれた港だったとなる。
この歌を誤解するのは真野の草原を面影にみるというとき陸奥にはるか遠い地でも面影に見るように大伴家持様のことは離れていてもその面影が見えますということである。陸奥の真野は遠い地として奈良の人々にも知られていたのである。だから地名でありただ萱が茂っている場所ではないことだったことは確かである。

カヤノヒメは、日本神話に登場する草の神である。 『古事記』では鹿屋野比売神、『日本書紀』では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ。草祖は草の祖神の意味)と表記し、『古事記』では別名が野椎神(のづちのかみ)であると記している。

神話での記述
神産みにおいて伊邪那岐命 (いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみ)の間に生まれた。 『古事記』においては、山の神である大山津見神との間に、4対8柱の神を生んだ。

次に風の神、名は志那都比古しなつひこの神を生みます。次に木の神、名は久久能智くくのちの神を生みます。次に山の神、名は大山津見おほやまつみの神を生みます。次の野の神、名は鹿屋野比売かやのひめの神を生みます。亦またの名は野椎のづちの神と謂まをす。志那都比古神より野椎神までせて四神柱


「かや」の音のある名前を列記して置きますと:

「阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)出雲神社リスト@#59
「加夜神社」   (出雲風土記、神門郡)出雲神社リスト@#282
「阿太加夜努志多伎吉比賣」 (出雲風土記、神門郡)
「賀野里」 (かや)(播磨風土記、飾磨郡)
「鹿屋野比賣神」 (古事記、野神の名前。岩波ではp58)
「加悦郡」 かや、と読む、丹後の一地方 
「草野灰」(かやのはひ) (陸奥風土記、八槻郷)
「神石萱」(かむいしかや)(陸奥風土記、八槻郷)参照:神prefix
「市鹿文」(いちかや)他、(景行紀)参照:景行紀の蝦夷
「韓人山村等上祖 柞巨智賀那」(参考)(播磨風土記、飾磨郡)
「賀奈良知姫」(参考)(先代旧事本紀p107、葛木土神の剣根命の娘)

カヤナルミ考・1
草野神社のご祭神は加夜奴比女命、配神は南八幡宮でご歳神誉田別命です。


「草野灰」(かやのはひ) (陸奥風土記、八槻郷)
「神石萱」(かむいしかや)(陸奥風土記、八槻郷)参照:

8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という

草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)

ここに草野灰とか保々吉灰とか ありこれは焼畑と関係している。灰は焼畑で肥料になっていたからであるただ。神石萱(かみいしかや)とは何なのだろうとなる。

市鹿文」(いちかや)他、(景行紀)参照:景行紀の蝦夷

萱というのは当て字であり伽耶にもなる。この市鹿文は蝦夷とあり蝦夷になったのである。大和王権が成立する前に存在して大和王権にお逆らうものとしてあった。
ここで明確なのは灰というとき焼畑をしていた人達がかなりいたということである。その焼畑の技術をもたらしたのは海人族の安曇族系統だった。その安曇系統の八木氏は八木沢峠とか玉野村から霊山に行く道に八木原があり焼畑が行われて地名化した
さらに霊山から石戸村の入り口に犬飼(犬養)があり明確に地名をとなり残されている飯館村の佐須村に山津見神社の本山がありそれは焼畑と関係した神社だった。狼が祭神となるのは焼畑で動物に野菜が食べられ荒らされる。その動物を追い払うから祭神となったのである。

ともかく万葉集の草原の謎は草という字にこだわることにもある。あくまでも万葉集は中国から漢字が入って来た時当て字なのである。音に漢字をあてたのである。それで本来の意味が誤解するようになった。北海道のアイヌ語の地名に漢字を当てたと同じである。だからどうしても音でなく漢字から解釈することで誤解するようになった。

いずれにしろ南相馬市の原町区に桜井古墳がありそこが一番古い
鹿島区の寺内古墳群は大和王権が直接かかわり支配地域になった。浮田国造は鹿島区に置かれたからである。

草原という地名はどこにあったのか?

これも謎である。原町区の萱浜(かいはま)がカヤになったのか、場所的に見ると違っている。なぜならカヤの神が祀られているのは鹿島区の寺内だからである。ただすでに大伴氏の大和王権が関係しているというときすでに草原という地名があったはずだが草原という地名はない。でも石巻には草原という地名があるからそこだという説もある。
鹿島区に唐神とあるときこれは唐は韓であり韓の神として最初に仏教を受け入れたのである。それが地名化して残っているのに草原は残っていない、それはなぜなのかとなる。
確かに伽耶国が日本と深くかかわっていた。でもその伽耶の影響は薄れて返って伽耶の痕跡を大和王権は消そうとしていた。だから伽耶に関するものは消失したとなる。

とにかく陸奥の真野の草原とは単なる恋の歌ではなく大和王権が南相馬市の鹿島区の寺内に深くかかわりそこに前方後円墳が作られ土地の首長クラスに金銅製双魚佩は贈与されたのである
だから陸奥の真野の歌は大和王権の支配地域い入った確定されたものとして奈良の人々に認識されたのである。

先住の中国南部から流入してきた人々(海人族)が後に打ち立てたのが、邪馬台国の卑弥呼を盟主とする倭国連合で、主として九州の中〜北部を支配。

その結束が強かったため、新興勢力である朝鮮半島からの渡来人たちは立ち入る隙(新たな開拓地)もなかった。彼らにはじき出されるかのように、九州南部に定住していく。先住民(ヤマツミに代表される縄文人やワタツミに代表される海人族か)と婚姻関係を結びながら、南九州一帯に勢力を拡大した。

天皇の祖先」はどこから来た? ルーツは「朝鮮半島」!? 日本と韓国の「神話の共通点」とは【古代史ミステリー】

大和王権は天孫族であり天から天下るとなり遊牧民系統でありそれが縄文(山津見)人と一体化した海人族(綿津見)を支配するようになった。だから大和王権が鹿島区浮田に国造(くにのみやっこ)を置き支配したのである。その大和王権の軍事顧問である大伴氏がかかわりそれで陸奥の真野の歌が生まれた。
だから萱浜(かいはま)が草原の説は合わないとなる
なぜこうして草原が問題になるのはそもそも地名ならば残っている。でも地名が残らないから探りようがなくなり誤解も生まれてのである。

九州だけではない日本全国に海人族と大和王権の天孫族の争いがありそれが南相馬市にも濃厚に歴史として残されている
南相馬市の原町区には綿津見神社が20とか本当に多い
だから大和王権は原町区には入れず鹿島区真野郷に大伴氏を派遣して治めた、原町区はまた物部氏が支配していたから入りにくかった。小高の吉名郷は物部吉名という人がいて物部氏の支配地域だったからである。



2024年04月20日

焼畑から県(あがた)となり米を税として取り大和王権が生まれた 【塩手山から小平、長平の地名考察】


焼畑から県(あがた)となり米を税として取り大和王権が生まれた

【塩手山から小平、長平の地名考察】

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平の地形

●塩手山周辺の地形ー塩はしおれる、しぼむ地形

塩手山とあるがなぜ塩手とついたのか?それが不思議になる
これは塩とは関係がなく地形と推測した。なぜなら塩はしぼむからきているまたしおれるというのも共通している。地形をみると広い平な土地がなくまさにしぼむ地形なのである。そのなかに小平とか長平とかある。そこはそれなりに平なのである。こういう山間の地形は平の所が少ない、ただ山が多い日本にこういう地形が多い、だから日本で野というとき山の斜面のことである。原はそれなりに広い平地となる。

我が恋は まさかも悲し 草枕 多胡の入野の おくもかなしも (万葉集)

この入野は山間の斜面の野を奥に入る地域である。そういう地形が日本には多い。

日本の地形はそもそも山が多く平らなところが少ない。となると山の斜面でも平らにしてそこ畑なり田んぼにする必要があった。
それで飯館村の大倉から木戸木(ことぎ)ではそこも狭い土地しかない、そこで土地を平らにするのに苦労したとそこに住んでる老人が畑を耕して言っていた。
つまり日本ではこうして平な土地が少ない。すると平らにしなければ畑も田んぼも作れないのである。そのために平という地名は各地にあるがそれは人間が生活するために平にした人為的に人間の力で作られたものだとなる。だから平氏というときまさに平にしてそこで畑を作り人たちが得て大氏族ななったとなる。

●焼畑から水田が生まれ県【あがた】となる

そして火+田となっているのはそもそも畑は焼畑であり火が関係していたからである。
そして注意しなければならないのはその焼畑を教えたのは安曇族の系統でありこの辺ではその後裔の八木氏である。この八木氏は地名化している。八木原とか八木沢峠は八木氏のことである。
つまり人名が地名化したのである。また石戸村に犬飼があり他にも犬養という地名がありその跡を残している。安曇族とは航海術もももっていたしまた焼畑の技術も持っていて最初にこの地に入植したのである。山津見神社と綿津見神社は安曇族の祭る神なのである。これは対になって各地に残っているからである。
佐須村の佐須とは焼畑のことである。他にも飯館村には焼畑関係の地名が残っている。とにかくあれだけ森が多いのだから焼畑には適していたのである。

3〜4年作物をつくると耕作を放棄して休閑するのが普通で、1戸当たり全体で15〜20ha程度、入会地などに占有している土地の中を、常に1.5ha内外の畑が転々と移動していくのである。
 そこで栽培される作物は、アワ・ヒエ・ソバ・ダイズ・アズキをはじめ、イモ類・麦類・カブ類・トウモロコシ・ナタネ・エゴマなどときわめて多種におよぶ。

平安後期には水田はほとんど例外なく小さな谷ごとに拓けた谷地田で、湧水や雨水などを利用しており、下流のやや開けた沖積低地では開発は進んでいなかったことが、現在の地名などに当時の文書に記された名(権利が確立した土地の占有者の名前)が残っているところから明らかになっている。

大地の刻印

古代、大和(やまと)国家の地方制度。国造(くにのみやつこ)の支配する国よりも、普通は狭い領域をさし、国の下の単位となる地方もあり、県主(あがたぬし)の支配下にあった。県がいつごろ成立したかについては、大和王権が成立した4世紀から5世紀とみる説、および大和王権が、強大な吉備(きび)(岡山県)、大和(奈良県)、筑紫(つくし)などの豪族を打倒した5世紀から6世紀とみる説がある

水田根菜稲作のほうが、焼畑に比べて豊凶が極めて小さく、安定した収穫が得られた
という点から、稲作につながったのではないかと思う。
何年も続けて栽培できる水田のほうが場所を変えなくてすむので、メリットが大きい
と思う。肥料が必要ないという点から、水田根菜栽培のほうだと思う。なぜなら、最初においては肥料という発想はあまり出てこないと思うからである

稲作の起源について、焼畑雑穀栽培と水田根菜栽培のどちらが、関係深いと思いましたか

●焼畑は定着せず移動するからその跡に八木氏が地名化する

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焼畑は森の木を燃やしてその灰を肥料とする。だから移動してゆく。なぜなら木を燃やさなければ肥料にできないからである
それで安曇族の後継の八木氏の跡をたどるとやはり焼き畑をして移動していたのかもしれない。点々と八木氏の地名が残っているからである。犬飼というのもそうである。飯館村の佐須村はまさに焼畑地名である。その一団が石戸村の方に移動してきたのである。つまり転々と安曇族の後裔の八木氏とか犬飼(犬養)氏が焼畑の地を求めて移動したのである。
県犬養東人(あがたいぬかいのあずまびと)こういう人がいた。犬養とは安曇族の後裔であり八木氏もそうである。東人というとき蝦夷の領域であり東北地方に派遣されたのでその名がついた

何年も続けて栽培できる水田のほうが場所を変えなくてすむので、メリットが大きい

これは水田が定着をうながしたということはそこで一つの村を形成して県(あがた)となり国へのまとまりになる前提条件を作ったということである。つまり日本は山が多く最初は山を根拠として発展した。また平地や原があっても湿地帯が多いから山の方が最初の生活の場となった。
相馬藩でも南相馬市の最初の国造は浮田国造でありそれは毛野系統なのである。それは栃木県とか群馬県とか毛野国の領域の勢力だったのである。また飯館村に縄文中期の遺跡が発見されたとき山側に先に人が住んでいたとなり古いとなるからだ

曽布(添)縣・・・奈良市・生駒市・・・添御縣坐神社(論社2社)
山辺縣・・・天理市あたり・・・山邊御縣坐神社(論社2社)
磯城縣・・・桜井市あたり・・・磯城御縣坐神社
高市縣・・・橿原市今井町あたり・・・高市御縣坐神社
十市縣・・・橿原市北部・・・十市御縣坐神社
葛城縣・・・葛城市から御所市・・・葛木御縣神社

大和朝廷の直轄地などの名。この「あがた」という言葉から、(中央への献納物、後世における税、を「あが」と表現することがあったと思われます(「あがた」は「あが(税・租)」の「た(田)」ということ)。

「諸(もろもろ)の国(くにぐに)に令(のりこと)して……県(あがた)邑(さと)に稲置(いなき)を置(た)つ」(『日本書紀』成務天皇五年)

県となると大和朝廷がすでに税を納めるものとして管理された地域だとなる。

ともかく焼畑は税として納めることはなじまなかった。でも稲作になると税をとして取り安かったのは焼畑は一か所にとどまらず移動するか税が撮りにくい、定着すると税として取り安いとなる
それで国に管理されることになった。東北地域は県が置かれる前に国の直轄領になった。西では県があっても国造(くにのみやっこ)が置かれたからだる。南相馬市の浮田国造がそうである。なぜなら焼畑というときそこから税をとることがむずかしい。

結局今作水田の稲作になったときそれは定着して定期的に税金を取れるようになったとなる。結果的にそうして稲作によってそれが拡大したとき大和朝廷であれ国の大きな国が作られてきたとなる。つまり焼畑とか狩猟採集経済だとなかなか大きな統一国家は造りにくかった。蝦夷という地域は狩猟採集していた人たちでありそれが化外の民とされたその原因が稲作をするものと狩猟採集したいた人たちの相違から対立もしたのである。その人達が蝦夷であり大和朝廷からすればまつろわぬ人たちとなり抵抗したとなる。それは遊牧民と農耕民の対立と似ていたのである。

秋田縣の北部より青森縣に亘るマタギ聚落に嶢畑が多いのはマタギを主生業とし焼畑を副とした時代の名残とも見られる。
北上山地の名子と焼畑とは密接な關係がある。この關係は山形縣や幅島縣の一 部に於てもみられた。貧窮者が山小作にて一 部を
焼畑とし,凶作に供へ、生活を支へるのである。

東北地方の焼畑

そして安曇族の後裔の八木氏とか犬飼(犬養)が地名化しているのはそこで焼畑が行われて跡として残されたのである。

みちのくの山形あがたより東京へ帰り来きたりて虹をいまだ見ず
斎藤茂吉『つきかげ』

なぜここにあがたがでてきたのか、茂吉には古代的志向があったのか原始的心情もあったという不思議がある。


焼畑に由来する地名と姓の多さ

カノ・カンノ
 官ノ屋式(魚ノ川)
5.その他
 「コバ」は九州地方の焼畑呼称である。
▽コバ・キバ・木場
 大木場(東川角)、大木場(西川角)、大コバ(米奥)、コバサコ(平野

:地名文化財(その3月) 「焼畑」

佐須村に飯館村の町長の菅野氏の姓がああるし小林のコバは焼畑由来だったのである、ともかくこれだけ焼畑に関する地名に姓が多いのである。それだけ焼畑がどこでも行われていたからである。




2024年03月31日

真野の草原の歌は境界の歌 【蝦夷は狩猟民族で帰化人と伽耶族とかの混成された集団】

真野の草原の歌は境界の歌

【蝦夷は狩猟民族で帰化人と伽耶族とかの混成された集団】

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●安曇族が相馬地域に深くかかわった歴史

真野の草原の万葉集の歌を追求してきたが過去のホームページで書いたもの読みかえした。我ながら随分詳しく調べていたなと感心する。
ただそこからも探求研究し続けて来た。それで新たな発見ととしては相馬地域が安曇族の一団が入植した地域でありそれが意外と見逃されていた。そのことについて語る人もいなかったというのも不思議である。なぜならやたら特に南相馬市の原町区に綿津見神社が多いしそれと対になった山津見神社が多い。
高倉にも綿津見神社があり大原にも神社そのものはなくなっていたがかつてはりその記念として石碑がある。
この綿津見神社は松川浦にもあった。和田は綿津見なのである。それが地名化したのである。それと対になり山津見というのが地名化している。そして宇多川をさかのぼると山津見の社が隠されるように残っている。それは安曇族が開拓者として進出した経路なのである。
それは原町でも同じである。高倉に綿津見神社があり大原に綿津見神社があった。そして八木沢というのは安曇氏の後裔であり八木とはその姓だったのである。そして霊山を下ると犬飼【犬養】という地名がありこれは安曇族の同族であり後裔なのである。
飯館村の山津見神社は有名だが綿津見神社もあり対になってある。また佐須とあるときこれは焼畑をした所であり安曇族が焼畑をして定着したのである。

そしてなぜ安曇氏がここに入って来たかというとこの地域が気候的にも照葉樹林帯の南限の地であり住みやすい場所だったからである。稲作は遅れて取り入れたにしても焼畑は原始的農耕であり焼畑から農業がはじまったのである。ただその前に確かに縄文人は原住民として住んでいた。でも焼畑のことは知らないし農業も知らない、つまり狩猟採集はしていても農耕はしていなかったからである。

●蝦夷は弓にたけた狩猟民族

ともかく安曇族がこの地に深くかかわったことが忘れれていた。不思議なのはこれほど綿津見神社とか山津見神社があるのにその由来も語る人がいなかったのは不思議である。なぜなら神社の由来は相当に古いからである。そして原町のたか神社の隣に綿津見神社が社として一応ある。でもたか神社は立派なのである。

遠妻(とおづま)し高(たか)にありせば知らずとも手綱の浜の尋ね来(き)なまし
 ※「高」常陸国多珂郡。茨城県高萩市・北茨城市と日立市の大部分。

高とはここに由来している。高倉も同じである。高というときなになのか?タカ族というのが存在した。それは狩猟民族かもしれない。高とはたかるとなる。みんながたかって狩りをすることにもなる。

『日本書紀』斉明天皇5年(659年)には朝廷に従った蝦夷が遣唐使に同行し唐の高宗に紹介されている。ここで引用された『伊吉連博徳書』によると、熟蝦夷(にきえみし、にぎえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つかる、つがる。津軽)がおり、連れてきたのは毎年入貢している熟蝦夷であること、蝦夷は肉食で五穀を食べず、家を建てずに樹の下に住んでいるなどを説明したところ、高宗は珍しく思ったと感想を述べたとしている

蝦夷とエミシと弓を使い動物を射て生業としていた。

陸奥(みちのく)の安達太良真弓(あだたらまゆみ)弦(つら)着(は)けて引かばか人の我(わ)を言(こと)なさむ

    陸奥(むつ)の安達太良山産の
    真弓に弦(つる)張り引くように
    私があなたの気を引けば
    人の噂になるかしら

この真弓という地名が新地にありこれもやはり狩猟を生業としていた人たちが蝦夷がエミシがいたのである。だから農業はしていないし稲作もしていない、でも焼畑はしていていたるところにその痕跡として焼畑の地名が残っているのである。
その焼畑を伝いたのは海人族の安曇族だったのである。
そのい証拠が南相馬市の寺内の古墳から発見された。8人くらいが船に乗っていた絵が発見されたからである。それは安曇族のものっだったともなる。

真野の草原の歌の背景にこの地域が自然的人為的境界になっていた。そのことを追求してきた。自然的境界というとき南相馬相馬市地域がちょうど照葉樹林帯の南限の地となっていて車輪梅(しゃりんばい)の南限の地として自生していたことである。
それが海老なのだがこの海老は当て字でありエヒでありこれは蝦夷がエミシが住んでいた地だとなる。
またたか神社の近くにスダシイ神社がありこのスダシイは南方系の木であり沖縄の山原(やんばる)いジャングルに自生している。
また縄文語のことが話題になったがその言語学でもここは言葉の面でも境界になっていたのである。

「北加伊道」案はアイヌが自らを「カイ」と呼んでいることから考案したと説明している。青森県の伝承を集めた中道等の『奥隅奇譚』では「蝦夷崎」のルビを「かいざき」としている。

「えび」の古い日本語「えみ」が「えみし」に通じるとして付けたとする説を唱えた

●アイヌ語と蝦夷の原住民(神石萱)

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方言の境界

つまり真野の草原の歌はここが「自然的境界であり文化的境界としてあり大和王権が奈良の中央の人は認識した境界だったからこそ万葉集に歌われたのである。
ただもう一つ不明なのがアイヌ語がありそれとここが関係していたのかとなる。真野の草原というとき原町に萱浜がありこれはカイ浜と呼ぶからカヤ浜ではない、でもカイ⇒カヤとなり草原(かやはら)となったのか?カイについては山梨県に甲斐(かい)がありそれと関連づけた地名伝説がここに残っている。それも良く解せないのである。

youtubeで南方からアイヌ語は入って来たのでありやがて縄文語になり駆逐された。この見方は平泉より北にアイヌ語地名が多いのは北へ原日本人が縄文人が追いやられてそうなったとなる。
確かにそうなると元々はアイヌ語は縄文語でありそれが新しい新しい侵入者によって駆逐されたが平泉以北には依然としてアイヌ語を話す民族がいたからアイヌ語地名が多いとなる。アイヌは北方から来た民族ではない、ただ不思議なのはなぜ単数と複数形で動詞が変化することがアイヌ語にありまたhave動詞のようなものもある、それは印欧語の系統なのである。それも謎なのである。

そもそもアイヌ語地名が多いのはやはり岩手県までであり平泉がその境界となっている。だから平泉という地域がやはり境界としてあた。この平ーヒラとうのがアイヌ語のピラー崖からきているのかどうかわからない。高平という地名でもタカはたただ高いというのではなくタカ族が住んでいたとかヒラは開くでありタカ族が住んで開いた土地だともなる。ただここがアイヌ語由来としたとき萱浜(カイ浜)と一体化したアイヌ語地名だともなればアイヌが関係していたのかとなる。

ともかく原住民としてタカ族とかカイ族が存在したのかとなる。
なぜならヤマトタケルが戦った原住民に棚倉で残された伝説がある。

8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という

草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)

ここに草野灰とか保々吉灰とか ありこれは焼畑と関係している。灰は焼畑で肥料になっていたからであるただ。神石萱(かみいしかや)とは何なのだろうとなる。カヤとあり伽耶の国と関係しているのかとなる。

●鹿屋郷(かや)と安曇郷があった

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(出雲風土記、意宇郡)があり大隈国−蛤羅郡に阿多小崎君(古事記)がいて鹿屋郷がある。それがそのまま出雲−伯耆国(安曇郷 鹿屋郷)→国→因幡国に移動しているのだ。この伽耶に由来する地名は関東になると埼玉郡に草原郷があるだけで少ない
石渡先生は・・・『崇神王朝の時代の倭国は、筑紫・吉備・出雲・毛野などの日本列島各地の諸伽耶国系王国と朝鮮半島南部の伽耶諸国からなる、ゆるやかな政治的連合体でした』

伽耶国の影響は日本の建国時には大きかったのであるがその後その跡が化石のようになってしまった。草原(かやはら)という地名もその一つだったのである
出雲−伯耆国(安曇郷 鹿屋郷)安曇郷と鹿屋(かや)郷が並んであることに注目する
この相馬地域でも安曇と鹿屋(伽耶)があっても不思議ではないからである。それの裏づけとしてやたら綿津見神社と山津見神社が多いことなのである。これは全国的に波及したものであり安曇族が開拓者でありその南限の地が真野であり真野の草原だったのである。

地名で言うと愛知県刈谷(かり「や」)市とかどうでしょうね。台地の谷間地形なのでアイヌ語系「ヤ」であるように思えます。このあたりは稲作の東漸に抵抗した「中部の壁」のラインにもあたるので、縄文語系地名であってしてもおかしくない気がします。

これをカヤと読むときやはり伽耶と関係している。日本には当て字が多いから漢字から判断するから地名では誤解しているのである。
確かなことは南方系が日本列島を北に向かい定着した。そこに蝦夷がうたのだがその先住民が実は帰化人もいて伽耶出身者もいて蝦夷と一体化したのである。そもそも蝦夷とは大和王権に逆らう者の総称であり特定の部族とか集団をさしていないからである。
いずれにしろ歴史を知る時境界を知ることが大事なのである。
それは地形とか山であれ川であれどうしても技術が発達しないと生涯になり交流ができなkなる。そもそもそうでなくても歩いて生活すると5,6キロ離れていても村人は交わらない生活をしていたからである。
真野の草原も境界であり平泉も明らかにアイヌ語圏との境界だったのである。


陸奥の真野の草原の歌の謎が解けた!











2023年05月16日

相模武蔵の古代史から解明される中央政権との深い結びつき (続日本書記に記されていたので判明したー歴史の記録の大事)

相模武蔵の古代史から解明される中央政権との深い結びつき

(続日本書記に記されていたので判明したー歴史の記録の大事)

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久良岐郡(くらきぐん)は、神奈川県(武蔵国)にあった郡

奈良時代の人々の暮らし/小宮まゆみ/第51回港南歴史講座

歴史は記録されることと中央政府と結びつくことから過去が解明される。そのことがこのユーチューブで理解した。
戸籍がなぜ作られたのかそれは班田収授法で国民に土地を天皇から与えるそして税を取るために作った。つまり日本の土地はもともと天皇のものであり天皇から与えられたものであった。
なぜ戸籍が作られたのかそして現代まで日本で戸籍があり続けているのかそれは基本的には国民から税を取るためのものであった。なぜ日本で世界ではなくなった戸籍があるのかそれが古代から始まり現在まで続いているというのはなぜなのか
それはと天皇制と深く関係していたのである。
戸籍でもって国民のを支配するためだったのである。そこには家族の一人一人の年齢とか男女別とか記されていて何歳になれば税を納めるまた兵士に徴兵することができる
これは今のマイナンバー制度とも似ている。そこから国民の財産を全て国で管理して税金を取ることになるからである。

相模とか武蔵国関東の一地域のすでに飛鳥時代からも平城宮時代からも深く関係していた。
それは一つの木簡から明らかになったのである。飛鳥から発見された木簡に記されたものから明らかにされたのである。飛鳥時代からというとずいぶん古い時代からすでに中央の支配があり租庸調があり調として米とか布で納めていたのである。
でも奈良といえば相当に遠い。どうして運んだかとなるとやはり東海道に道が作られていて荷物を背負って運んでいた。
その道幅は12mもあったというこれはその後からできた鎌倉道とかより広いのである。それはあたかもローマ帝国の道にも似ていたのである。だから思ったより日本はすでに中央政権の強力な国家が生まれていたのである。
その頃貨幣は和同開珎ばどが作られていたが流通していない、でも平城宮とかでは貨幣は流通していた
でも地方では流通していないから調として麻の生地などが貨幣代わりになっていたのである。

そして平城宮の一部に久良郡の税を納める倉があった。それは豊臣秀吉の政権の伏見城に最上と伊達の屋敷があったようにすでに中央政権と深くかかわっていたのである。
飛鳥というと平城宮とか藤原宮の前なのである。関東はすでに東海道を通じて奈良と結ばれていたのである。それは京都と大阪と今でも東海道で結ばれていることに通じている。
もともと武蔵国というと埼玉の行田に近い、そこは稲荷山鉄剣が発見されたことで有名である。それだけ飛鳥時代以前からでも大和朝廷の建国前から中央と深い関係にあったのである。

ただ史実として正式に国の歴史として続日本書紀に記されるいたので証明したということは大きい。
歴史というときどうして解明するのかとなるとやはり明確な証拠となるものが欲しい。それがやはり文字として記録されたことに頼ってしまうのである。文字が明らかな証拠として残り証明されやすいのである。
でも柳田国男はそうした文字に頼らないで口から口へ伝えられたものを重視する民俗学を起こしたのである。
だからすべて文字から歴史が解明されるわけではない。でも古代とかなると何か言い伝えがあるとしてもそれはそれが真実かどうか曖昧なものとなる。すると文字が強力な証拠になる。
そして庶民でも文字を漢字でも理解してたという。それで土器に文字らしいものが記されていた。それは文字の練習だったらしい。中央から奈良から国司が役人が派遣され地域の人に文字を教えていた。また国分寺などを必ず建てたから僧侶が役人の代わりに文字を教えたとなる。

万葉集に庶民の歌が載っているのはやはり文字を理解していた人がそれなりにいたということを証明している。
いずれにしろ意外と飛鳥時代からでも東海道地域関東地域はすでに奈良の中央政権と深く結びついていた。
それを一地域から解き明かしたこのユーチューブは参考になった。
ではなぜ東北となるとみちのくとなると歴史として分かりにくいのかそれは中央政権との結びつきが明確にわからない。続日本書紀に記されてもいない。でも東北にも中央政権と関係した役所である郡衙があった、ただ中央との関係が明確ではない、日本書記には載っていないからである。

南相馬市原町区の泉官衛跡は有名であり木簡も出ている。でもそれをこのようにわかりやすく説明されていないのである。またそれだけの資料がないということで説明されていない。この相模は武蔵のように中央政権との結びつきが明確ではないのである。
続日本書紀であれ明確な証拠として残されていないのである。
それで想像になってしまうのである。
ただみちのくの真野の草原の万葉の歌は明らかにこの辺までが奈良の中央政権とは支配した地域であり真野の草原とはその境界のをさしていて奈良の中央政権が認定した地域でもあった
でも明確に奈良の中央政権とのつながりが正式の国の記録に載っていないので想像になってしまうのである。

つまり歴史というのは時代がさかのぼれば遡るほど明確なものはわからなくなる。そこで記録された国の正式の文書は証拠となってしまうのである。その証拠があり関東の一地域の古代が明確にされたのである。
例えばこの辺で起きた津波のことでも相馬藩政記に二行だけ生波(いくなみ)で700人が溺死したという記録が載っていた。それは津波が来てからわかったのでありそれまで忘れ去られていたのである。学者すら知らなかったのである。もしこの二行のことをみんなにしらされていれば来ないなど思わなかったろう。いかにこの記録が重要であったか思い知らされたのである。
だから歴史というのは文字から頼ることがどうしても多くなる。それで誤解が生じることもあるがが文字というのはそれだけ大きな役割があったともなる。



youtubeで説明されるとわかりやすくなる。説明でもうまい人は人気がでる。また郷土史でもこうして全国の人と結ばれる。
こうした一地域のことはわかりにくいからである。
でも地域からでもインターネットで個人放送局となり発信できる
それも専門的なことでもできる、小数者相手でもできるし金もかからないからである。
ただ手間は省けない、win11にして親指シフトが使いないので音声入力にしたがうまくいかない。
youtubeをしてみようとしても手間なのである。
ただ居ながらにして大学の先生であれ講義を聴ける時代である、いちいち学校に行く時代も終わるのかもしれない、何か関心があれば知識を深めることができるからである。



2022年10月23日

南相馬市鹿島区浮田国造の謎 (地名から探る古代史ー物部、安曇、草(かや)部ー毛野氏の跡をたどる)


南相馬市鹿島区浮田国造の謎

(地名から探る古代史ー物部、安曇、草(かや)部ー毛野氏の跡をたどる)

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●浮田国造(うきたくにのみやっこ)の由来

『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、成務朝に崇神天皇の五世孫の賀我別王を国造に定めたとされる。
氏族
吉弥侯部氏(きみこべうじ、姓は不明)で、上毛野氏、下毛野氏、針間鴨国造などと同族神護景雲元年(767年)7月19日には宇多郡人の外正六位上勳十等吉弥侯部石麻呂が上毛野陸奥公を賜姓されている。

東界と北界にはそれぞれ大きな山があって、境界をつくっている。その山の向こう側が、毛深い人の住む国なのである。

「毛人(蝦夷)」説
「蝦夷」を古くは「毛人」と記したことから、「毛の国」、二字表記にして「毛野」の字が当てられたとする説。『宋書』倭国伝の倭王武の上表文には「東に毛人を征すること五十五国」という記述があり[原 1]、この「毛人」との関係が指摘される[6]。


地名と言うのは相当に古い、そして地名は古代に由来する、なぜなら最初に地名もない土地があるとしたら最初に来た人たちが名付けるからである
それで古代由来の地名が多い、その地名の多くは渡来人に由来する時、渡来人が最初に名付けたらかそうなった
確かにもともと住んでいた原住民がいた、ヨ−ロッパだとケルト人とかいてその人達が名付けた地名が今の地名でもある
日本だったら縄文人が一番古いから地名もその時代に基づくものとなるが言葉が明確ではないので実際の地名は渡来人が来て名付けたものが多い

そして南相馬市の古代史で一番の問題は一体桜井古墳には誰が埋められているのか?

これが問題なのである、賀我別王(かがわけ)が埋められているとのの説だとなぜ浮田国造の地域に真野地域に大きな古墳が作られなかったのか?
時代的には桜井古墳は古いからである、真野古墳群は大和王権に組み入れられたもので
大伴氏が派遣された支配した地域となる、つまり浮田国造は毛野氏が入ってきて国造(くにのみやっこ)が置かれたのである、ただすでにその前に大きな勢力が桜井古墳を作った人達がいた、それは物部氏だとなる、それは物部吉名という人がいて吉名郷ができたからである、真野郷も真野氏が入ってきて地名化したのである
一族の名前だということである、古代は人命とか氏族名が地名化しているからである

物部氏族にもいろいろあり

浮田物部

馬見物部

などがある、ここで馬見とはなになのか、それは鹿島区の浮田地区内に馬見がある
馬見塚となっている、それは上真野地区にあり上浮田の領域なのである
つまり上真野地区までも浮田の領域に入っている
この馬見はマミアナとして狸の字があてられている

信太の馬見山には小字名で駒込があり隣接して馬掛(まがき)があり駒込は馬を追い込んだ放牧地、馬駆けで馬場のことか、馬見山とかあるがマミアナは牧とか古墳などで馬に関係していることが多い、
(常陸風土記と古代地名ー鈴木健)

浮田国造がある地域に馬見がありその浮田国造は真野郷に編入されたともなる
馬見塚とは古墳があったからなのか、真野郷の寺内から小池には真野古墳群で有名であるただ横手にも古墳があるが上真野地区となると残っていない、ただ馬見はやはり古代に由来した地名なのである

最近できた高速道路のSAにも浮田神社が作った
この浮田は浮田国造として最も古い地区として歴史の正史に記されている
その浮田国造は毛野氏系統なのである
毛野とは栃木県とか群馬県を本貫とした氏族であり鬼怒(きぬ)川は毛野川だったのである

ここで注目すべきはなぜ浮田国造が毛野系統なのかということである
それを地理からみればまず一番古い地域は会津であることは歴史書に記されている
山側の方が古いというときもともと日本人は縄文人から始まっている
この縄文人は山を根拠として生活していた、この辺でも意外と一番古いのは飯館村でありそこから縄文中期の遺跡が土器とかが発見されている
もちろん海側にも縄文人は貝をとってとか暮らしていた、でも山でも暮していたし海側より山側が古いともなる、すると日本全体で見た時、山の方により古い時代は人々が住んでいたとなる、採集狩猟で生活していた、だから毛野というときここから遠いとなるがなぜそんな遠くから浮田国造として大和王権から官吏が派遣されたのかとなる
つまり毛野氏の勢力がその時大きいものだったからそうなった
そして毛野氏にも物部氏が進出していて一体化していた

毛野氏族はその分布からみて、大阪湾岸の茅渟地方にその起源をもち、血沼之別の流れとみられる。御諸別命より以前の系譜は難解であるが、三輪君一族との同質性がかなり濃く見られる。
 
毛野氏族の分布は、起源地の茅渟地方を出て摂津・河内に入り、近江から北陸道(特に能登)、信濃を経て毛野地方(上野、下野の両国)に到る経路をとって、畿内から東国へと続いていたとみられる。
 東国では、両毛に限らず、隣接する常陸西部や信濃における一族の分布も濃く、さらに下総にも分布が及んでいた。毛野では鈴鏡・鈴杏葉など鈴をつけた祭祀具が用いられ、古墳の埋葬品や埴輪にみられるが、この鈴文化圏は両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部にも及んでいたことがしられる。

○ 毛野氏族は東国第一の大族であり、上毛野君をその宗族とする。朝廷の命をうけ東北の蝦夷を討伐し経営に当たったものであり、大和朝廷から独立した東国の存在とすることは

毛野氏族は東国第一の大族であり、上毛野君をその宗族とする。朝廷の命をうけ東北の蝦夷を討伐し経営に当たったものであり、大和朝廷から独立した東国の存在とすることは無理である。その部曲を吉弥侯部(公子部、君子部)としており、その関係氏族には本来の毛野氏族と血縁のない蝦夷の人々も組み入れられか付合されている可能性が強い。
 また、朝鮮半島にも出兵していることから、渡来系の色彩のある毛野一族(田辺史に代表される)も多く、その中には実際には血縁のない帰化人系統が上毛野君姓等を冒姓している可能性もないではない。これら蝦夷系・渡来系で本来は他姓であった氏族も、その判別が極めて困難であるので、ここであわせてとりあげざるを得ない。
 https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12103720558.html

  毛野氏族から出た地方の国造としては、上毛野国造、下毛野国造、針間鴨国造、浮田国造(及び能登国造)があげられる。この氏族奉斎の神社としては、下野国河内郡宇都宮の二荒山神社(宇都宮大明神)及び豊城入彦命を祭る示現太郎宮があげられる。また、駒形神(駒弓神、子眉嶺神、子檀嶺神)や豊受比売神(保食神)を奉斎したが、これは陸奥で顕著に見られる。

(4) 東北地方……陸奥国宇多郡の浮田国造の一族が、駒形神を奉じてさらに北方に展開したのが主な流れとみられる。ただ、毛野に属した蝦夷が混入したものも一部あろう。
 吉弥侯部(君子部。録・左京)、上毛野陸奥公(浮田国造の姓氏とみられる。中村、黒木−陸奥宇多郡仲村郷に起る)、吉彦宿祢(斑目、荒川−出羽仙北郡人。山口−下野人、越中にも分る。西沢−濃州石津郡人)、名取公(名取−陸奥国名取郡人、後甲州に遷)、名取朝臣(名取郡の菅井は族裔と伝える)、上毛野名取朝臣、上毛野遠田公(遠田−陸奥国遠田郡人)、上毛野中村公(中村−甲斐国山梨郡人)、、置井出公、上毛野緑野直(同上の改姓。出羽の田夷とされる)、上毛野賀茂君。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/kenu1g.htm

  また、出羽国秋田郡の金成(嘉成)氏は陸奥栗原郡に起っており、栗原郡の吉弥侯部の族裔(上毛野栗原公という姓氏があったか)とみられる。陸奥宇多郡黒木の諏訪神社祠官桃井は、同郡の物部末流か。
 下毛野俯見公(陸奥玉作郡の吉弥侯部の改姓)、下毛野静戸公(陸奥信夫郡の同)、下毛野陸奥公(陸奥柴田郡の丈部の改姓)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%BE%8E%E4%BE%AF%E9%83%A8

毛野氏一族の吉弥侯部氏(君子、浮田国造)がその伴造だったと考えられており[4]、賜姓の際には多く「上毛野」某公、「下毛野」某公の氏名を賜っている。一例としては陸奥国信夫郡の外従八位吉弥侯部足山守(きみこべのあしやまもり)が上毛野鍬山公(かみつけのくわやまのきみ)を賜ったことがある[2]。吉弥侯部のうち、一部の者は中央に貢進され、朝廷や貴族などに仕えて雑役に従事した。吉美侯部(吉弥侯部)が東北地方以外にも各地に広く分布するのは、律令国家が俘囚を全国に配して内民化をはかったためだと考えられる[3]。奈良時代後半の吉弥侯横刀(きみこのたち)は近衛府の判官(近衛将監)から上野介へと昇進し、「下毛野朝臣」を賜姓されている

陸奥国宇多郡の浮田国造の一族が、駒形神を奉じてさらに北方に展開したのが主な流れとみられる。

この吉弥侯部は相馬地域では相馬市に配置された、つまり真野の草原とは真野郷のことであり相馬市は古代でぱ毛野氏の吉美侯部が支配していたのである、なぜなら宇多郡に相馬市に駒ヶ嶺がありこれは駒形神であり高麗にも通じているのであるそしてここは境界ともなっていた、毛野氏の勢力は相馬市から名取の方へ拡大したのであり、物部氏とか安曇氏の支配する原町区の桜井古墳がある方には拡大しなかったのである
泉かんが跡は大和王権の官営のものであり真野郷が大和王権に大伴氏などによって組み入れられたのである、ただ毛野氏に入ったのが物部氏であるから何か対立したとはならない物部氏が最初に大きな勢力となり桜井古墳を造り安曇氏と一体化していたのである
鹿島区には安曇氏の綿津見神社がないからである

毛野氏は大きな勢力として古代にあった、蝦夷というときこの毛野氏のことだという学者もいる、

陸奥宇多郡黒木の諏訪神社祠官桃井は、同郡の物部末流か。これは物部氏と毛野氏が結びついていてそう推測した

『古事記』によれば、10代崇神天皇は12人の御子がいたとありますが、そのひとり
豊木入日子命(トヨキイリヒコノミコト)について、

 「豊木入日子命は、上毛野、下毛野君等の始祖」
 
●埼玉県稲荷山鉄剣が意味するものー毛野氏がかかわっていた 
 
埼玉稲荷山鉄剣から発見された鉄剣に「獲加多支鹵大王」、「斯鬼宮」の文字があ
り、これをワカタケル大王、すなわち雄略天皇のことと、磯城宮のことだとする説があ
りますが、解読をめぐっては決着をみません)

 ただし、関東の氏族たちは大和王権の勢力圏に加えられながらも、6世紀に至っても
なお半独立性を保っていたとも考えられます。
 おそらく上毛野の東部の氏族たちも同様だったでしょう。
 それに対して、武蔵の紛争に介入する形で東国に進出してきた大和王権はその支配体制をより強力なものにしようとしたと思われます。
 
1意富比抔 おほひこ
2多加利足尼 たかりのすくね
3弖已加利獲居 てよかりわけ
4多加披次獲居 たかひ(は)しわけ
5多沙鬼獲居 たさきわけ
6半弖比 はてひ
7加差披余 かさひ(は)よ
8乎獲居臣 をわけのおみ

意富比抔 おほひこは多(オウ)氏であり神八井天皇に連なる大きな氏族である
笠は加佐であり韓国の地名なのである,笠とは当て字にすぎないのである
埼玉古墳群の南方10km程の所に、笠原という地名があり、使主はここを拠点とした豪族であるとされている。

『日本書紀』安閑天皇元年(534年?)条に記載されている。同条によると、武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたい おみ、おぬし[2])と同族の小杵(おき・おぎ)[注 1]は、武蔵国造の地位を巡って長年争っていた。小杵は性格険悪であったため、密かに上毛野君小熊(かみつけののきみ おぐま)の助けを借り、使主を殺害しようとした。小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上り、朝廷に助けを求めた。そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅した。これを受け、使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉として献上したという。

武蔵国造の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E9%80%A0%E3%81%AE%E4%B9%B1

ここに内乱があり上毛野君小熊の助けがありと記されていて毛野氏が大きな勢力であったことを示している
その前に毛野氏と物部氏が結びついていた、そのことは南相馬市相馬市の領域にもあったなぜなら南相馬市の原町区でも桜井古墳は誰が葬られていたのか?
それは毛野氏と一体化した物部氏になるのが有力だからである
それは大和王権が全国を統一する前に物部氏が大きな勢力となっていて古墳も作られた
それが東海地域と関連しているとかなると物部氏なのかとなる
ただ東海地域としてもその時は海伝いではなく毛野氏の支配地域の山伝いに物部氏が進出してそれがこの地域に及んだとなる
ただここで大事なのは毛野氏が関東東北の古代で大きな勢力でありそれを見ないと理解できないのである

●たかは高句麗、高麗に由来していて物部氏は筑後国の高良山を祭神としている

有名な稲荷山鉄剣銘に

2多加利足尼 たかりのすくね
3弖已加利獲居 てよかりわけ
4多加披次獲居 たかひ(は)しわけ

このタカは高句麗や高麗のことであり九州の壁画古墳は高句麗系統のものである
「肥前風土記高来郡」とは高来の峰とある山であり「和名しょう」に郡名として(高来多可久とありタカクと読む、高句麗は紀元前一世紀中ごろから668年までつづいた高句麗のことである、今の北朝鮮地域である、918年に建国されたの高麗である高来とは高麗から来た人達の意味である、

肥人の額髪結へる染木綿(しめゆふ)の染(し)めにしこころ、我忘れめや)

万葉集の肥人(こまひと)とは高麗人でありこれは高句麗のことである、熊本とかある熊はコマだクマとなまったものだとしている

この本に相当に詳しくこのことを書いている、そもそもその常陸から移住して作られたのが行方郡であったから地名も移動しているのである、地名は最初に移住した人達が名付けたのである、その前に原住民とも言える蝦夷が住んでいた
海老のエヒはそうである
だから常陸からそっくり地名まで移動しているのである、高倉とかあり信太とか駒ヶ岳とか相馬市にあるがこの駒はコマは高句麗のことである
物部氏は高句麗から来たのでありだからこそ馬にも乗り船も操作する技術ももっていたのである
多珂神社は大きな神社であり格式ある神社である、その隣に綿津見神社神社がある

それで九州に見られる装飾古墳は高句麗由来のものでありその九州の物部氏が最初は毛野氏に入りそれがこの相馬地域にも入ってきて浮田国造になった
なぜ毛野氏がこの地に関係したのかというと地理的にもともと奈良から大阪地域から日本海側に出て越の国から加賀に勢力を伸ばした、日本海側の方から進出したから浮田国造が加賀別王になっているのである
常陸から移住した人達は毛野氏より後なのである、だから毛野氏はもともと蝦夷であり一番古い氏族だったとなる、最初に大和王権が遭遇したのは毛野氏であり毛野氏は蝦夷でもあったが大和王権に組み入れられたのである

七国の高麗人(こまひと)、1799人を以って武蔵国に遷し高麗郡置く(続日本記)高麗川があり高萩も由来であり高来(たかき)から高萩になった
高萩には駒形山弥勒寺があったしここを一体として高麗原と称していた
高萩に駒木原、呉坪があり高句麗の句麗(くれ)である、高句麗系統の地名の伝播がある相馬市の駒が峰もそうである、駒をあてたがもともと高句麗のことである
ただ高句麗は北方の騎馬民族であり馬に乗るのにたけていた、また船を操作する技術も持っていた、だから装飾古墳とかに馬に乗った武人が描かれているのである
(常陸風土記と古代地名ー鈴木健)

この本は詳しいからそれを読むとなるほどと得心する

神武天皇の東征の神話も多氏の事跡を基に作られたとか神武天皇の前に神八井耳命(多臣の始祖)が支配する国造の系譜がある。これは全国に及び道奧石城國造もそうである出雲国に「阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)があり大隈国−蛤羅郡に阿多小崎君(古事記)がいて鹿屋郷がある。それがそのまま出雲−伯耆国(安曇郷 鹿屋郷)→国→因幡国に移動しているのだ。この伽耶に由来する地名は関東になると埼玉郡に草原郷があるだけで少ない、それがなぜ陸奥真野の草原郷にあったのか?

●桜井古墳は物部氏が作った

この地のに最初は物部氏が入り桜井古墳が作られた、それは大和王権より物部氏のものだったとなる次に大きな謎なのは綿津見神社が原町区から小高区でも多いことである
本当にいかに綿津見神社が多いから20近くあるようにも思う、それも格式が高いものなのである、だからなぜこんなに綿津見神社が多くまた対になった山津見神社が多いのか
飯館村の山津見神社は綿津見神社と一体となっている大きな神社なのである
それは安曇氏系統が入ってきてこの地を開拓したからだとなる
焼畑とか農業の技術もあり船を作る技術ももたらされたからである

この辺では物部氏が先であり次に綿津見神社を建てた安曇氏の後継者が入り最後に大和王権の直属の大伴氏が真野地域に入った、そして前方後円墳に金銅双魚佩を残したのであるただ謎は一体時代順序がわからないのである、物部は一番古いとわかる、次に毛野氏とかになり安倍氏でもそうである、でも安曇氏に関しては歴史書に記されていないのである
それが謎なのである、でも地名として安曇族の系統の八木氏とか犬飼氏が地名化しているそれは八木沢峠がそうであり霊山をおりた所に犬飼というバス停があるのもそうである
犬飼(犬養)は安曇族の系統だからである、安曇氏の後継者だったからである
また吾妻山は安曇(あづみ)のなまったものだというのもそうである

ただ安曇族は太平洋側から入ってきたのである
なぜなら松川浦に和田と山津見という地名があるからだ、和田とは綿津見(わたつみ)の和田(わた)なのである、それが対になっていて飯館村の方に移動している
栃窪村に山津見神社があり宇多川をさかのぼった所に山津見の社が隠されるようになったまた八木原というのもあり明らかに八木氏なのである
だからこの安曇族のことはただ神社があるだけで正史に記されていないから謎なのであるでもなぜこんなに多く神社があるのかとなる、それが解明されていないのである

でもこの安曇族は九州の福岡から出て移動してきた海人族であり古事記にも記されている有力な氏族だった、でも安曇族のことは後にその存在感が消失してゆく
でもなぜこんなに綿津見神社が多いのか、特に南相馬市の原町区に多いのかとなる
最近では大原にも綿津見神社があったことを発見した
つまり大原を通り飯館へ八木沢を峠を越えて入ったということである
それで安曇族の後継の八木氏が入ってきて八木沢峠になったのである
三方向から飯館村に入った、一つは松川浦であり一つは真野川をさかのぼった栃窪村から入った、おそらく栃窪村は塩の道の通り道でありそこは古代も通り道だったとなる
もう一つは大原から八木沢峠を越えて飯館村に入ったのである

そして物部氏は歴史書に余り記されていないが物部吉名という人がいて小高は吉名郷という古代の大和王権の領域として支配された、だから確実に物部氏が大和王権の前に支配していた、ただ綿津見神社や山津見神社を残した安曇氏については歴史書に記されていることがわずかなのでわからないのである
物部氏というとき右田の御刀神社が右田にある、その前は湿地帯になっていて江戸時代に開拓されて田になったのである
海老はエヒでありこれは蝦夷のことである、海老には津波で30人が死んだ高台にも古墳が最近発見された、弥生時代から人はそこに住んでいたのである
右田は江戸時代から住んでいたから新しいのである
なぜ右田に御刀神社があるのか、それは海老は蝦夷でありそこで争いがあり物部氏と戦うこともあり刀を使うからそうなったのである
つまり最初に蝦夷と戦ったのは鹿島区では物部氏だったとなる
その後に大和王権が蝦夷と戦い鹿島御子神社を創建したのである

つまり一番古いのは桜井古墳がある原町区であり物部氏が最初の移住者であり入ってきた次に毛野氏が入り浮田国造に大和王権から官吏が派遣された
その後に本格的に大和王権が直接的にかかわり真野地域に前方後円墳が作られた
そこに金銅双魚佩が発見されたのである、それは大和王権から大伴氏が覇権されてこの地の支配者に贈与されたものである
だからその古墳は大伴氏が葬られたのかもしれない、その大伴氏を慕った笠女郎がみちのく真野の万葉集に歌を残したのである

桜井古墳(物部氏)⇒(安曇族(綿津見神社)?⇒毛野氏(浮田国造)⇒大和王権(大伴氏)(真野古墳群)⇒真野の草原の歌

こういう順序になる、ただ綿津見神社を多数残した安曇族がどこに入るのかその順序がどうなるのかわかりくいのである、毛野氏の前なのか、毛野氏の後なのかわかりにくい
ただ歴史書に記されている安曇氏は古い氏族である、だから物部氏の後か同時期なのかとなる

神武天皇の東征の神話も多氏の事跡を基に作られたとか神武天皇の前に神八井耳命(多臣の始祖)が支配する国造の系譜がある。これは全国に及び道奧石城國造もそうである出雲国に「阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)があり大隈国−蛤羅郡に阿多小崎君(古事記)がいて鹿屋郷がある。それがそのまま出雲−伯耆国(安曇郷 鹿屋郷)→国→因幡国に移動しているのだ。この伽耶に由来する地名は関東になると埼玉郡に草原郷があるだけで少ない、それがなぜ陸奥真野の草原郷にあったのか?

●物部 安曇部、草(かや)部

高良神社の祭神五姓とは丹波、物部 安曇部、草部、百済という

高麗に属するものとして物部があり安曇部があり草部がある、ただ草部はカヤ部ともあてられるが草部はクサ部と読むと違ったものにはなる
カヤと読めば伽耶の国のことになるからだ、物部、安曇部と連なっている時、原町区の桜井古墳はこの二つの氏族が関係している、というのは二つの棺があったとかなるとやはり物部氏と安曇氏の首長が葬られたのかとなるからだ

東界と北界にはそれぞれ大きな山があって、境界をつくっている。その山の向こう側が、毛深い人の住む国なのである。

「毛人(蝦夷)」説
「蝦夷」を古くは「毛人」と記したことから、「毛の国」、二字表記にして「毛野」の字が当てられたとする説。『宋書』倭国伝の倭王武の上表文には「東に毛人を征すること五十五国」という記述があり[原 1]、この「毛人」との関係が指摘される[6]。

古墳時代前期には東海地方由来の前方後方墳が多く築かれたほか、同地方由来の「S字甕」と呼ばれる土器も多く出土しており、畿内に対する独自性が見る説がある[20]。一方この墳丘形式について、墳丘規模がどの地域においても前方後円墳が前方後方墳を上回ること、東国においても前方後円墳と前方後方墳が併存していること
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E9%87%8E

九州が出雲より古く出雲をあけ渡す前に、おそらく安曇部族が入っていた
その験しとして安曇族の信仰や伝来物が包囲した形跡がある

阿部氏(安倍)はアヅミのなまったものである

福島県の吾妻山とか安積(あさか)とかも安曇(あづみ)のなまったものだという
http://musubu2.sblo.jp/article/189571236.html


これは九州のことであるがこれが不思議にこの辺と関係している
なぜなら桜井古墳は物部と関係して安曇となるととにかく綿津見神社が原町区には本当に多すぎるからである、20もあるとしたら本当に多い、この三つの部は明らかにこの辺にもあてはまるのである
ただ百済は違うとしても伽耶国とか唐(から)は関係している、唐は中国のことではなく韓国の韓(から)である
原町区には物部と対になって安曇氏がかかわっていたのである
ただなぜか安曇氏は正史の記録として残らなかった、でも神社は多く残した不思議がある物部系の神社が見あたらないからである
何らか物部氏は歴史から消されたとなる、安曇氏も消されたのである
残ったのは大伴氏でありそれは寺内古墳群を形成したのである

鹿屋野比売 顕宗即位前記 取葦草葉

<日本書記 神代上81>

草祖草野姫

この草祖草野姫(かやのひめ)は不思議に寺内に祀られている、この草とあてているがカヤであり伽耶国の姫ともなるのである、何らかで伽耶の国の人が葬られていくいる墓だったのかもしれない、それで真野の草原はこのカヤに由来しているのかとなる
萱が茂っていたから憧れの地とかなったとはありえないのである

黒樹取 草毛苅乍 仕目利 勤知気登 将誉十万不有

黒木とり 草(かや)もかりつつ 仕へめど 勤いそしき奴わけと 褒めむともあらず

皮のついたままの丸太。製材してない皮付きの材木。くれ。くろぼく。⇔赤木。
※正倉院文書‐天平宝字六年(762)三月九日・造石山寺所告朔「採黒木百八十物〈柱桁間度之類〉」
A 三〇センチメートルぐらいに切った生木をかまどで蒸し焼きにして黒くしたもの。たきぎとして用いる。京都の八瀬、大原あたりでつくられ、大原女(おはらめ)が頭にのせて京都市中を売り歩いた。江戸中期(天明ごろ)にはすでに名ばかりで、普通の粗朶(そだ)であったらしい。大原木(おはらぎ)。

黒木という地名が相馬市にありこの由来も古いとなる

阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)がありこの阿太は安達太良や安達の地名と同源である。安積は安曇族と関係しているとなると海人族の宗像市などともに九州から出雲、瀬戸内海と海人族の跡は残っているからそれらと一緒に草原の地名も移動したのである。意富(オオ)氏と「阿太加夜神社」は草(カヤ)原という地名はセットととなって武蔵に移動して陸奥の真野郷に移動した。
http://musubu.jp/manokayagimotoketa.html

金銅双魚佩が発見された寺内の前方後円墳の下に草野姫(かやのひめ)が祀られている真野明神がある。ここはかなり重要な場所である
この草野姫とは伽耶から来た姫ともなる、つまり単なる草のことではない、伽耶国にまつわるものでありそれが祭られていたとなる

ともかく物部氏ー安曇族ー毛野氏吉弥侯部)ーは一体としてありこの地に関係した
ただ物部氏は一応物部吉名とあり吉名郷があり名前を残しているがその外神社がないのである
でも安曇族の残した神社は綿津見神社は多いのである、これも謎なのである
正史には記録がないことも不思議なのである、ただ他でも伽耶がかかわったとしてもそれも正史には残されていない、大和王権が最後にかかわった大伴氏族は正史に記されているし万葉にも残されているし大伴氏となれば天皇に仕えた大豪族だったのである
それで真野の草原の歌を残したとなる、浮田国造は毛野氏の系統でありその隣の相馬市の宇多郡が毛野氏系統の君子部が支配した、つまりここも一つの境界となっていたのである原町区の方が先に物部氏とか安曇氏が入ってきて開拓して桜井古墳を作った
でも大和王権は最初に毛野氏を通じて浮田国造を置き浮田地区が最初の拠点となった
その後にここに大和王権直属の大伴氏が入り支配したのである
そして金銅双魚佩はその首長に贈与されたのである

2022年09月17日

只野氏が語る家の歴史 (安積氏と平景政に連なる歴史ー安積は安曇(あづみ)なのか)


只野氏が語る家の歴史

(安積氏と平景政に連なる歴史ー安積は安曇(あづみ)なのか)

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福島県宮城県岩手県など只野氏が多い、東北地方に多い
ただ広島県とかに広がっているのはわかりにくい

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閏正月11日、聖武天皇の鹵簿(ろぼ)は恭仁京から難波へ向かった。天皇の皇子、県犬養広刀自(あがたいぬかいひろとじ)夫人を母とする安積(あさか)親王も扈従(こじゅう)したが、河内の桜井頓宮(現、東大阪市六万字)で脚の病のため恭仁京へ引き返した。翌々日、薨去する

祖父:文武天皇(母方の祖父は県犬養唐
父:聖武天皇
母:県犬養広刀自

安積親王という名に気がついてからこの作品に取り組んでみて、はじめて安積親王と葛城王との関係を知りました。葛城王は、のちに橘諸兄と名を変えますから、同一人物です。その上、安積という地名と郡山に伝わる采女伝説のなかの葛城王(橘諸兄)が、安積親王と深く関連する事実に驚かされました。

 郡山で葛城王と言えば、『安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに』
 
 https://plaza.rakuten.co.jp/qiriya/diary/?ctgy=30
 
 天平十六年(744)、春二月に、安積皇子の死去に際して大伴家持が詠んだ歌(03/0475 )には、現在安積親王墓がある和束山を「和豆香山」としています。

さらに、古今集仮名序に、難波津の歌とともに「歌の父母のようにして、手習いする人の最初に習うもの」という安積山の歌では、「安積山」の原文が「安積香山」になっています。

木簡の両面が古今和歌集の序文の2首とまさに同じセット。
紀貫之は『古今和歌集』仮名序(延喜5年(905))で、
「・・・この二歌(ふたうた)は、歌の父母(ちちはは)のやうにてぞ手習ふ人の初めにもしける。」と、
初心者が最初に習う一対の歌として紹介している。
2首をセットにしたのは貫之の独創とも思われていたものが、
実はその150年前からセットとして認識されていたことになるという。
難波津の歌はいわば公の歌。
宮廷の歌会に出席した人物が、この歌が書かれた木簡を持ち帰り、
裏に安積香山の歌を書き加えたのでは」と推測し、
「難波津の歌」と「安積香山の歌」がセットであると認識していた人が、少なくとも一人はいたことになる。
2首を手本とする考え方はその150年前から、いや、それ以前からずっと存在していて、
「子供の頃に手習いで書いたなぁ」ということで、持ち帰った木簡の裏に書いたのではないか。
とのこと。

出土した歌木簡の復元ー滋賀県甲賀市の紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる宮町遺跡(8世紀中ごろ)から、
万葉集と古今和歌集に収められている2つの和歌が記された木簡が見つか
 木簡の片面に書かれてあった上記の「安積山・・・」の万葉集の歌を万葉仮名に復元すると、
赤字部分が今回出土した部分。

阿    佐    可    夜    麻    加    氣    佐    閇    美    由    流    夜    真    乃    井    能    安    佐    伎    己    々    呂    乎    和    可    於    母    波    奈    久    尓
あ    さ    か    や    ま    か    げ    さ    へ    み    ゆ    る    や    ま    の    ゐ    の    あ    さ    き    こ    こ    ろ    を    わ    が    お    も    は    な    く    に

反対側の面

奈    迩    波    ツ    尓    佐    久    夜    己    能    波    奈    布    由    己    母    理    伊    麻    波    々    流    倍    等    佐    久    夜    己    乃    波    奈
な    に    は    つ    に    さ    く    や    こ    の    は    な    ふ    ゆ    ご    も    り    い    ま    は    は    る    べ    と    さ    く    や    こ    の    は    な
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/kana/105.htm

アサカ 【浅香】5 , アサカ 【浅賀】5 , アサカ 【朝香】4 , アサカ 【朝賀】4 , アサカ 【安坂】4 , アサカ 【阿坂】3 , アサカ 【浅加】3 , アサカ 【朝加】3 , アサカ 【淺賀】2 , アサカ 【淺香】2 , アサカ 【阿阪】2 , アサカ 【浅積】2 , アサカ 【東日下】1 , アサカ 【朝下】1 , アザカ 【安坂】4 , アツミ 【渥美】5 , アツミ 【熱海】5 , アツミ 【厚見】4 , アツミ 【安海】4 , アツミ 【厚海】4 , アツミ 【渥見】3 , アツミ 【厚美】3 , アツミ 【厚味】3 , アツミ 【敦見】3 , アツミ 【渥実】2 , アツミ 【渥味】2 , アツミ 【渥海】2 , アツミ 【安津見】2 , アツミ 【熱見】2 , アツミ 【篤美】2 , アツミ 【渥實】1 , アツミ 【温海】1



桓武平氏の鎌倉氏、清和源氏の和賀氏などに見られる。

# 只の(普通の)野原という意味。また「只」には「一面の」とか「まっすぐな」という意味もあり、どこまでも野原が続いているさまを表す。

# 只野(ただの): 「普通(ただ)の野」。多田野や但野に転じた。

# 宮城県:177位、福島県:439位、岩手県:647位、北海道:814位など。

# 陸奥国安積郡只野村(福島県郡山市)をルーツとし、桓武平氏の鎌倉氏の支流。

鎌倉時代末期に下総国相馬郡から陸奥国行方郡へ移っていった相馬一族。南北朝時代は北朝=足利氏に属して南朝の北畠氏と合戦している。室町時代は行方郡内の領主として勢力をもち、奥州の群雄の一家に成長した。室町後期には伊達氏と交戦して互角の戦いを見せる

諸国に景政の後裔のだんだんに現れてきたことである
その中にめぼしきものは上州白井の長尾氏、これは系図にも景政景政の後と書いて熱心に御霊を祀っていた、信州南安曇の温(ゆたか)村にはその一派が居住し,後に越後に移って謙信を出したのである
奥州二本松領の多田野村に於いても御霊を祀ったのも長尾氏である、只野油井などの苗字に分かれて今も地方に栄えている
子孫五流ありという説なども彼らから出たのである
長州藩の名家香川氏もまた景政の後といい、その郷里安曇の沼田郡八木村く景政社があった

柳田国男全集5巻

師常の子孫は代々相馬氏を名乗り、相馬御厨を中心に発展していくこととなる。師常の子六郎常家は「矢木」を称し

鎌倉景政(景正とも)は桓武平氏の一族。相模南部の鎌倉郡一帯を治めていました。源頼朝から遡ること3代、武神と崇められる源義家に仕え、鎌倉武士の鑑とされる程勇敢な武士でした。鎌倉権五郎景政は鎌倉氏を最も興隆させた勇士として知られ、現在も鎌倉氏坂ノ下の御霊神社に祀られています

 16歳の頃、源義家の陣営に連なって後三年の役(1083年 - 1087年)に従軍した景政が、片目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている
 
只野氏は安積から出たというとき安積は郡山で古代に関係して古い、それで万葉集の歌にも残された、采女が饗応した歌が残っている
でも地名に安積山の安積は何なのか?これがわかりにくい、国造りのあしゃくから出ているという言うがそれもピンと来ない、それは地名を漢字にしたのは当て字だからである
そのために漢字からイメージするようになったから誤解が生まれた
安積を安曇ともしている人もいる、すると安曇族の後裔として安積氏があったのか
安積親王がいるということは安曇氏系統の人が安積親王になったのかとなる
私は南相馬市に特に原町区異常に綿津見神社が多いことを指摘した
山津見神社は松川浦の和田が綿津見でありそこに接して山津見という地名があり
松川浦から霊山の方に上ってゆき坂をおりると犬飼という地名のバス停がある
この犬飼は安曇氏の後裔なのである、あとは八木氏がそうである

祖父:文武天皇(母方の祖父は県犬養唐)
父:聖武天皇
母:県犬養広刀自

安積親王祖父に当たる文武天皇がをり母方の祖父は県犬養唐となっている
この名前が不思議なのである、犬養は犬飼でありこれは安曇氏の後裔なのである
また唐となっているときこれは中国の唐なのか朝鮮半島の唐なのか、普通は早い時期になると朝鮮半島が唐になっていた、加羅、とか韓なのである
鹿島区の唐神という地名はそうである、これは韓なのである、中国の唐ではないのであるただ只野という姓が安積から出たという時、安積は多田野村より古いからである
南北朝時代に多田野(只野)村があったとして万葉集に歌われたのは古代であり古いのである、それで安積から只野氏が出たというときそこが古いからだとなる

安積というのは安積親王時代から存在したのだから古い、奈良時代にさかのぼるからである、その安積の由来が安曇(あづみ)となれば安曇は海人族で有名であり古事記にもでてくる日本の国家形成で下支えした氏族なのである
そして地名をさかのぼると古代になるのが多い、だから安積山とか采女という地名は奈良時代になさかのぼるのである
ただ福島県の南相馬市の鹿島区だと浮田国造があったがその時はすでに浮田という地名があり国造(クニノミヤッコ)が中央から奈良から派遣されていたとなる
真野という地名も移動地名であるから安積も移動地名なのかとなる
真野の草原(かやはら)の歌がありまた安積の歌も有名である
なぜなら紫香楽宮で木簡として発見されたからである

安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに

安積を浅きにかけたのか、葛城王を橘諸兄を饗応するのに采女が歌ったとされる
私の心は浅い心であなたを思っていませんよとかこの歌は歌を作りなれた人の作である
これは簡単には作れない歌である、つまり采女としても教養がある女性である
まず花魁(おいらん)とかでも教養があり歌を作ったとすればそれとも似ている
とてもこんなしゃれた歌を作れるとなると相当に教養を積んだ女性だとなるからだ
そういう女性が地元にいたということでもないかもしれない、これは何か儀礼的な歌としてもてはやされていた、だから手習いの歌として学んでいたのである

只野氏というのが多田野村から出たことは確かである、それで霊山で南北朝の争そいがあり落ち延びてきた、その中心人物が鹿島区の只野氏である
ただこの只野氏にも二つの系統があるという、相馬氏系統にも只野氏があるという
これもわかりにくくなる、平景政ー鎌倉景政にも系譜をたどるとたどりつく


諸国に景政の後裔のだんだんに現れてきたことである
その中にめぼしきものは上州白井の長尾氏、これは系図にも景政景政の後と書いて熱心に御霊を祀っていた、信州南安曇の温(ゆたか)村にはその一派が居住し,後に越後に移って謙信を出したのである
奥州二本松領の多田野村に於いても御霊を祀ったのも長尾氏である、只野油井などの苗字に分かれて今も地方に栄えている
子孫五流ありという説なども彼らから出たのである
長州藩の名家香川氏もまた景政の後といい、その郷里安曇の沼田郡八木村く景政社があった

柳田国男全集5巻)


ここに信州南北朝安曇のとありまた安曇の沼田郡八木村に景政神社がある
八木とは安曇氏の後継の八木氏なのである、飯館村には八木沢峠を越える、これも八木氏が地名化したのである、だからこれらの一連の引用からなぜか安曇族関係が色濃く出ているのが不思議だとなる、安曇氏は安曇だけではないその後裔の八木氏とか犬飼(犬養)を注目しないといけない、その氏族が地名化しているからである

同級生の只野氏が言うには南北朝争いがあり相馬氏が北朝側についたので隠れるようにして暮らしていたという、それは伝えられた話しだが南朝側だとすると相馬氏が北朝についたからそうなるのは当然だとなる
でも野馬追いの旗には菊の御紋を旗印としているのが出ているそれは菊池氏だとなる
菊池という姓は菊の御紋から生まれたのかともなる
その旗印は二騎ほど野馬追で鹿島から出陣したのを見ている
また鹿島街内でもその旗印を野馬追いに立つのを見ている

何でも只野氏の戸籍をたどると天保までたどれるという、天保というと江戸時代でも明治まで人は生きている、天保生まれて明治維新で活躍した人はいる、だから天保生れというとき明治も生きた人達だとなる
私の父親は葛尾村生れであり戸籍をたどると江戸時代までたどれる、でも姓はなく名前だけしか書かれていなかった
そして只野氏の墓は街中の陽山寺にありその墓に確かに安永と記されているという
安政だと鹿島神社のとなりの墓地に仏教関係の石碑がある
安永は天明の前だから古い、墓だとなかなかそれだけ古いものはない、墓ではなく碑としてはある

そして士族とは戸籍になっていないという、相馬氏に仕えて侍になったら士族になっている、只野氏は中心的家でも相馬氏に仕えないから平民となっていたのか?
南北朝の争いで肩身の狭い思いをしたということは本当だろう
北朝が相馬氏になっていたからである、でもこれも複雑であり相馬氏でも南朝に味方した人もいたとか南北朝の争そいは日本全国に村々にも及び伝説が残されている
それが南北朝でも完全に分かれて争ったというものでもなく入り交じり複雑だったのである、ただこの南北朝の争そいの傷痕はあとあとまで尾を引いたのである
それで明治天皇は南朝だったということを言うのもそのためである
今の天皇は南朝系統だったとなるのである

いづれにしろ直接人から歴史を語られ聞くと歴史も生々しいものになる
何かそして推理小説だと祖先の祟りだとかなることもある、それも問題だか生々しくなると怨念を残して死んだ人もいるからそうなるのである
ともかく二年ぶりとかで会った、病気になったと思ったがそうでもなかった
郷土史となると一軒一軒の家の歴史が基本になる
それで郷土史で大事なのは古い家をまず知ること新旧を知ることが大事になる
なぜなら古いと思っても新しい場合がある、例えば元の栃窪村の上萱(うえがや)は古いとみる、でも明治時代からだから古いともなるが江戸時代のものではない
江戸時代からつづいている家だと古いし墓でも江戸時代のものがあれば古いと見るのである、でも不便な場所に部落があってもそこが戦後の引揚者の部落だったりする
飯館村の木戸木など山に塞がれた不便な場所だがそこは新しいのである

2022年05月31日

安曇氏が鉄生産にかかわり日本列島開拓した先駆者 (南相馬市に多い綿津見神社と安曇族の跡をたどるー原日本考ー福士幸次郎より)


安曇氏が鉄生産にかかわり日本列島開拓した先駆者

(南相馬市に多い綿津見神社と安曇族の跡をたどるー原日本考ー福士幸次郎より)

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農業を後代において大いに拓いた地域はことごとく鉄の生産地であった
これは鉄というものを知らぬ先住民族の居住地に対して、侵入して行った
我が民族の地歩の実に強みがあった点であり
またこの日本列島といふところはほとんどいたるところ海岸の河口地、潟、沼など砂鉄層が堆積しているといってよいぼどで、鉄を求めて東へ東へと移動移住した

日本の文明は海岸から開けた、そして次に山地に入った
我が姓氏で最も最初に現れ、日向海岸に濃厚な所縁を持つ安曇族である
全国海岸に足跡を残し,後に山地深くまでも入った形跡を示す


コロは生鉄、純鉄を意味する

天照大御神の後裔

タケミコロ(建彌己呂命) - 津島縣直の祖[注釈 4]
タケオシコリ(武忍凝命) - 多氏の祖
イツコリ(伊都許利命) - 印波国造の祖
タケコロサカ(建許呂坂命) - 石城国造の祖
アケコロ(安居許呂命) - 伊賀須知稲置の祖
オシコリミ(忍凝見命) - 筑波国造の祖
クシヌコリ(櫛努古理命) - 三上氏の祖
ヒコソノコリ(比古曽乃凝命) - 針間国賀毛郡山氏の祖
イコロト(伊己侶止命) - 伊甚国造の祖
タケコロ(建許呂命) - 東国造の祖
オトコリミ(弟凝見命) - 桑名氏の祖
タケコリヒトノキミ(武凝人乃君) - 阿蘇国造の祖
ウラコリ(浦凝別命) - 苑県主(吉備氏)の祖
イワコリワケ(伊波己里和氣) - 三尾氏の祖
オシコロミ(押許呂見命) - 山守部氏の祖
タケクニコリワケ(武国凝別皇子) - 伊予三村別の祖
ウタコリヒメ(歌凝比売命) - 丹波道主命の娘

鹿島の郡は古くは香島とも書き、ここの大神と並んで「香取」のそれと同じである
おそらく古くは前者はガシマ,後者はカガトリ、すなわち「金のある島」「金を掘る所」と言ったものだろう、カガは鉄を意味する

民族的特技として注目すべきものは航海と製鉄であった
この航海の習熟があればこそ我らの祖先は、その始め海岸から海岸へと移住地点を転出して奥部地帯の侵入や経営を行う前に、日本列島の先まで進出したのである

クロクワは原初の農耕時代の特徴を残す自然地域において、その先頭に立つ耕地開墾の専業者である、特にその耕地はほとんど山地において着手されるのだから土中の石や岩を処置することがまず主要な仕事である
クロクワの仕事は石を相手の仕事が先でありツルハシのごとく先のとがった土に打ち込む道具、石や岩を割るものとして楔(くさび)などが大事である
くさびのサビは鉄を意味する

さびる⇒さびしいとなる、それは錆びるからきた鉄生産の用語からきたものである
その語源は鉄製かんにかかわっている

高良神社の祭神五姓とは丹波、物部 安曇部、草部、百済という

この草部というのはかや部であり真野の草原に通じている、草は伽耶国に由来しているからである、またカヤは何らか鉄生産と関係している言葉なのである
つまり真野の草原(かやはら)とは鉄がとれる場所として奈良の大和王権から認識された場所であり宮城県の涌谷は黄金のとれる場所として奈良の都から認識された場所なのである

物部 安曇部、草(かや)部

これは九州のことであるがこれが不思議にこの辺と関係している
なぜなら桜井古墳は物部と関係して安曇となるととにかく綿津見神社が原町区には本当に多すぎるからである、20もあるとしたら本当に多い、この三つの部は明らかにこの辺にもあてはまるのである
ただ百済は違うとしても伽耶国とか唐(から)は関係している、唐は中国のことではなく韓国の韓(から)である

九州が出雲より古く出雲をあけ渡す前に、おそらく安曇部族が入っていた
その験しとして安曇族の信仰や伝来物が包囲した形跡がある

阿部氏(安倍)はアヅミのなまったものである

福島県の吾妻山とか安積(あさか)とかも安曇(あづみ)のなまったものだという


なぜこれほど鉄生産が重要なものとして歴史に記されたのか、第一地名にしても鉄の生産にか関するのが膨大なのである、これは何を意味しているのか?
それは日本全国を鉄を求めてきた鉄生産の技術者がいてそこで鉄が発見されると地名となった、そこに鉄があるということで地名化した、鉄はそれだけ貴重なものだからである

そして鉄と稲作は不可分に結びついていた、なぜならます稲作は山地で行われていた
そこは平ではないし石垣を作る、その石はその山地から掘り出したものである
それをするには鉄の道具が不可欠だった、それがクロクワとかなる
それまで石器であった、事実石器で稲刈りもしていた、でも石器となると鉄の道具のようにはならない、相当にその差がある
だから鉄がこれほどに尊ばれたのである、鉄の道具なしでは稲作もあり得なかったのである、田んぼでもそれは最初土木作業になる、すると道具が必要になり鉄が必要になった
だから稲荷とは鋳成りなのである、鉄の道具を祭っていたのである

そして日本列島が最初に開墾したのは海人族の安曇氏であり海岸沿いに航海して海岸から山地に入っていた、それが明確にわかるのは松川浦に山津見と和田という地名がある
和田は綿津見のことである、つまりここから山地に入って行った
川を伝い道として上って行った、事実宇多川をさかのぼり玉野村から平坦な地帯になると八木原という地名があり霊山を越えると犬飼(養)という地名がありそれは安曇族の後継者であり綿津見神を奉じる安曇族なのである

また真野川をさかのぼり飯館村へ向かった、栃窪にも山津見神社があるからだ
原町となると海岸からさかのぼり高倉にも綿津見神社があり大原にも綿津見神社神社があった、そして八木沢峠の八木沢とは安曇氏の後継者の八木氏の姓なのである
だから原町区の海岸から真野川の海岸から松川浦から安曇氏の同族の八木氏が入ってきたのである、それがさらに霊山を越えて石戸村に至りそして福島市の吾妻山にいたり安曇(あづみ)がなまった吾妻(あづま)山になったのかとなる、この辺は定かでないにしろ
これだけ安曇氏の同族の八木氏の跡が地名化して残っている
犬飼氏も安曇氏の同族である

これは明確にその跡が記されている、何か推理ドラマにすると確実な証拠なのである
山に入ると山津見神社になる、これは綿津見神社と一体なのである
海人族でも山で暮らす術をもっていた、焼畑であれ稲作であれもっていた
だから山でも暮らすことができたのである、その大きな要因が鉄を生産して鉄の道具を作れたことによっていたのである
鉄というのが文明を作ったとまでなる、なぜならタタールとチムールとかでも鉄から由来しているとかあり野郎自大国と漢が戦って野郎自大国が負けたのは漢が鉄の武器で戦い野郎自大国が銅の武器で戦い負けたからである、武器の優劣で勝負を決した
信長が銃を使い武田氏の騎馬軍団を破ったのと似ている




石川に飛鳥川が合流する三角州の所が厚味というのです

天平神護元年(765)に古市郡の人、馬の夷人が厚味連の姓を賜っている
この厚味に居住していたのではないか

真野臣は姓録に神功皇后に従って渡った将軍が韓国にとどまって国王の娘をめとって子を産み、その子の子孫が真野氏を称した
真野造は百済王の後とあるから間違いなく渡来系だと思います
(日本の渡来文化ー司馬遼太郎などの対話)

厚味という地名は明らかに安曇氏のことである、安曇氏が居住してその地名化した
つまり奈良でも安曇氏が海から入ってきていたのである
地名化することはそれごけ古いということである

安曇氏に関する地名は相当に多い、でもそれが全部解読されたわけではない、知らないままにもなっている
特に安曇氏の同族で後継者となると八木氏とか犬飼(犬養)がいる、それも相馬市と伊達氏の霊山町の石戸とかで地名化している
ただ吾妻山があづみのなまったものなのか?あづま⇒あづみとなるからそうかもしれない、となると海から福島市の方に安曇氏やその同族や後継者が入っていたとなる


2022年05月16日

南相馬市の原町区に綿津見神社が多いのはなぜか? (千葉県からの移住があり安曇氏と蘇我氏は一体だった)


南相馬市の原町区に綿津見神社が多いのはなぜか?

(千葉県からの移住があり安曇氏と蘇我氏は一体だった)

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那珂と言う福岡県福岡市あたりの地名が目に入る。実は、蘇我蝦夷、入鹿親子を殺した乙巳の変(645年)までは、北九州あたりを本拠地とした蘇我氏ゆかりの人々(海人族安曇氏)が入植して開拓していたのである。近くの千葉市中央区の蘇我は正に蘇我氏ゆかりの土地であった

蘇我氏の祖先の武内宿禰の一族の海人族安曇氏は日本列島全体で水田開発、交易を行っていた(参考)

弥生時代初期あたりから、海人族安曇氏は九州地方から東北地方まで稲作の水田開発、物産の交易などの活動を行っていた。東日本では、在来系弥生人、すなわち縄文人が海人族安曇氏の最新知識による水稲と条里制地割の水田を導入したと考えられる。これにより、海幸と山幸の交換が可能になった。さらに、塩の生産・流通も海人族安曇氏が管理したようだ。

東国の開拓は百済人などの渡来人の前に既に海人族安曇氏が行っていた!
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12277257480.html


甘楽郡・多胡郡・緑野郡・群馬郡・新田郡など上野国一字物マ子成」という文字瓦がある。物部氏の分布は、のちと刻まれた紡錘車が出土し、前橋市上野国分寺跡にも「山
字資料であるが、高崎市矢田遺跡では、 「物部郷長」 「物部」手を伸ばしていく。八世紀以降の年代が充てられる出土文、こうした混乱の過程で、王権の実力者・物部氏が毛野へ触手を伸ばした、

物部氏は、五世紀後半に台頭し、大王の道の広範囲に分布す任務に就いた豪族で、のちの令制国・五十二ヶ国、五畿七側近として仕え、軍事・警察と在来の神々の祭祀に関わる


この結末は、 「使主―王権」大きくそがれよって、南武蔵まで力を及ぼしていた上毛野一族の勢力はの四ヶ所とともに毛野にも緑野屯倉を設ける。このことにが勝利し、使主は国造に就任、王権は南武蔵の多摩川流域

躍進を支えた軍事力に必要な鉄などの資源を東北に求だのである。物部氏は、上毛野氏からの情報をもとにしつ沿いに、奥深くまで踏み込み、北上川中上流域にまで及んだ

教の祭祀権を握った蘇我氏は、物部氏にも増飾金具・鈴などの金製品が見つかってい
是歳条) 。そして、飛鳥寺の塔心礎から玉類・耳飾・延板・本格的に建設に着手する( 『日本書紀』崇峻元年(五八八)
立を発願する。 翌年には、 百済から僧 ・ 技術者などを招聘し、馬子は、用明二年(五八七) 、法興寺(飛鳥寺)の建して、より一層、東北の資源や特産物を欲したと考えられる

蘇我氏と七世紀前半の東北経営ー新井隆一
https://core.ac.uk/download/pdf/233058675.pdf



相馬地方の古代史の謎は南相馬市の原町区に大きな桜井古墳があり原町区に異常に綿津見神社が多いことである、またそれと対となった山津見神社が多く飯館村では綿津見神社と山津見神社が対となってあり山津見神社は有名である
その謎を時系列で見ると最初は毛野氏が勢力をもっていた、それは武蔵国でも毛野氏が勢力をもっていたが物部氏と争い衰退した、次に蘇我氏と一体化した安曇氏一族が進出したそれは海人族である、順序としてそうなる
桜井古墳は物部氏が作ったのかとなる、なぜなら安曇氏が進出するより古い、四世紀とかなると相当に古いのである
そして中央で物部氏と蘇我氏が宗教争いがあった、物部氏は神道派であり蘇我氏は仏教派である、勝利したのは蘇我氏の仏教派になる
ただ安曇氏の綿津見神社とかは仏教ではない、神道なのかとなる
それは安曇氏の祖先の神であり蘇我氏と一体化して安曇氏一族が原町区を支配した
物部氏は衰退して安曇氏の綿津見神社と山津見神社がこれほど多く建てられたのである

時系列では毛野氏⇒物部氏⇒蘇我氏(安曇氏)⇒大伴氏となる

毛野氏は南相馬市の鹿島区の浮田国造となっていた、それが物部氏に代わり次に蘇我氏が安曇氏と一体となり進出した、でも浮田国造のある鹿島区には進出できなかった
さらに後に大和王権が確立すると鹿島区に大伴氏などが進出して前方後円墳を作り金銅双魚佩を残した、また寺内に多数の円墳などを作ったのである
蘇我氏というと東北でなじみがないが跡は残している

曰理郡の宗何部(そがべ)池守ら3人には湯坐曰理連

いづれにしろ毛野氏も物部氏も一時は勢力があったが衰退した、蘇我氏と安曇氏が興隆して多くの綿津見神社を残した、仏教遺跡も蘇我氏がかかわって残された
今の東北電力が建つ前に大規模な製鉄遺跡の発掘があった
その時の説明で武器より仏教の道具類が多かったという、それは蘇我氏がかかわって仏教が伝播されたからだともなる
またと蘇我氏自体が渡来人だとされて渡来人と一体となり仏教を伝えた
唐神という鹿島区の地名は韓(から)の神であり仏教のことである
また奈良の大仏殿の大仏の鍍金のために大量の黄金が必要とされて宮城県の涌谷で黄金がとれたので進出してきたのである

天皇(すめろぎ)の 御代栄えむと 東なる
       みちのく山に 黄金(くがね)花咲く 大伴家持
       
とにかくこの辺の最大の謎は桜井古墳は誰が建造したのか?そこに眠っている棺があり二人のものだというのも謎である
そして原町区に異常に綿津見神社が多いのである、最近では大原にも綿津見神社があったそれだけ多いのである、でも鹿島区となると見かけないのである
小高にも綿津見神社が海岸にあった、それは津波にも残っていた不思議があった
海岸でも高い所にあったからだ
歴史は時系列で見るのがむずかしい、まるで地層のように時々の権勢をふるった一族であれ交代している、物部氏はわかっていたが蘇我氏も関係していてそれが安曇族と一体となっていた、そして物部氏と蘇我氏は神道派であり仏教派と渡来系と一体化していた
桜井古墳は四世紀とか古いとなると物部氏系統が作ったものでありその後に蘇我氏と一体化した安曇氏が進出して多数の綿津見神社や山津見神社を残したとなる
安曇氏一族に後に八木氏とか犬飼(養護)がいて八木沢峠で地名化して霊山を越えた石戸村にその地名がある、飯館村などの佐須では佐須は焼畑地名であり安曇氏がその技術を伝えたとなる




インタ−ネットでは古代史では相当詳しいものが出ている、すると素人でも参考にできるから専門家にもなれる、まず図書館では調べるのもめんどうであるしできない
キーワードで検索できないからである、だから私はここ十年くらい図書館には行っていないのである、調べること自体めんどうでありその時間がなくなったのである
家事からあらゆることを一人でしているからできなくなったのである
でも家にいながらにしてインタ−ネットだとこのように調べることができるのである


2022年02月20日

真野の草原は大和王権の蝦夷征服の前進基地 (日本府任那と似ていた―毛野氏ー安曇氏ー物部氏ー大伴氏がかかわる)


真野の草原は大和王権の蝦夷征服の前進基地

(日本府任那と似ていた―毛野氏ー安曇氏ー物部氏ー大伴氏がかかわる)

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陸奥 (みちのく) の 真野 (まの) の 草原 (かやはら) 遠けども面影にして見ゆといふものを 笠女郎

真野の草原という時、草原が萱原であり萱がなびいている荒寥とした辺境の地として解釈されてイメージされてきた
でも実際はそんな地域とは裏腹の地域だった、それは伽耶国があった日本府任那と類似していた、なぜそう思ったかというと伽耶国はそもそも日本の国だったから日本府が置かれていたのである、そこは鉄資源が豊富であり日本が必要としたからである
第一萱がなびいているだけの何もない所に国家単位では魅力が感じない
詩的なイメージとして国家単位ではみない、実用的なものとして国家でなくても普通は見る、だから地名は詩的なものとして命名されていない、その土地に欠かせない実用的なものとして名付けられる、だから方角地名が多いのはそのためである
南相馬市などでもそうである、相馬六万石の城がある所を中心にして南だということで名付けられた、そういう名付け方が多いのである、地名は無味乾燥なのが多いのである

天皇(すめろき)の 御代栄(さか)えむと 東(あづま)なる 
陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲く
大伴家持

これも黄金がとれるということで中央の大和王権から注目された、それはアフガニスタンとかでも何もないようでも中国でも外国からみると鉱物資源があることで注目されているのと同じである、単なる草(かや)が茂っている場所など注目されないのである
鉄がとれる、黄金がとれる、石油がとれる、ガスがとれるとかで注目されるのである

だから真野の草原を萱原としたのは歴史を見れば実用的観点からすれば全然違ったものとなっている、ただこれが笠女郎の大伴家持を慕う恋の歌としたことで誤解が生じたのである、確かにそれはあったにしろその背景が古代史全体に韓半島の伽耶国まで関係していたのである
伽耶国は日本の一部であり最近前方後円墳が伽耶国内から十数個発見されたことでも裏付けができたのである、前方後円墳は極めて日本的なものであり韓国にはありえないものだったからである、円墳は大量にあっても前方後円墳は全くない国だったのである

そしてこの真野郷がなぜ日本府任那と似ているのか?
それが「任那から読み解く古代史―大平祐」読んでわかった
この題名は陸奥真野郷から読み解く古代史と題を変えても同じようなものになっていた
それでいかに伽耶国(かや)が日本建国に深くかかわった地域だったかもわかる
そして古代では最初に入植者でも入るから地名化しやすいのである
それで伽耶国の地名がここにも移っていたのである
草原(かやはら)の草は萱ではない、伽耶国とかの国名なのである、原とははらっぱのことではない、国のことである、何もない所ではない、国としてあった場所である
だから多多羅原とかあり多多の国であり多々良とは多田羅とは鉄生産の場だったとなる
そして安達太良とあるとき伽耶国内に安多(あた)という地名があり太良は多々良でありやはり鉄生産と関係していたともなる
つまり伽耶国内にある地名が移っていることはそこに住んでいた人達が移住してきたとなる、そうでなければ地名化しないだろう

九州の「〜原(ばる・はる)」地名は、古代の三韓で「城、集落」を表した「伐(Pur,Por)」と同語源ではないか
https://www.shochian.com/harubaru2.htm

駒原とかはコマとつけばそこに高麗の人が住みついた地域であり栗原だったら高句麗の
句麗(くり)だとなる、この高麗系に原が付くのが多い、伽耶系の人から高句麗の高麗系の人が移住してきたのである

草原はかやはらはやはり伽耶に由来してそうした村とか国とか城があるとか館があるとかの意味となる、だからただ荒寥と萱が茂っているとは正反対でありむしろ人々が集落を形成してむしろ繁華な場所だったともなる
笠女郎はただ遠い所としての真野を言っていたのでありそこがどういう場所が明らかではない、面影にして見ゆというものというのはあくまでも大伴家持のことをさしている
ここが本当に誤解しやすかったのである

●任那での近江毛野氏ー安曇氏の活躍

新羅が遣使して調を進った(たてまつった)、あわせて多多羅、須奈羅、和陀、発鬼(はちき)の四つの邑の調をたて進った

この四つの邑とは継体天皇二三年、新羅が占領した金官、背、安多、委陀(わだ)を意味する、この全体を南加羅の分として調を進っつた

ここに和陀、委陀(わだ)は綿津見の和田なのである、なぜ綿津見の邑があったのか
それは海人族の安曇族の邑だったとなる
安曇氏は日本府任那で船を操作して運ぶ役割をしていた
その技術を買われて重宝された
そして毛野系統の国造が南相馬市の鹿島区の浮田に置かれた、なぜ毛野なのかわかりにくいが海の方より山の方が縄文時代として早い時期に住みついたとなる
なぜなら飯館村も古く縄文中期の遺跡が発見されているからである
それは海側より古いのである、
そこで福島県となる会津が一番古い地域となっていて大塚山古墳から三角神獣鏡が発見された、それは東北ではここからしか発見されていないのである
それは吉備から発見されたものと同はんとされている、同じものだとなる
太平洋側は大和王権でも進出するのがかえって遅かったのである
ただ縄文人は海側でも貝とか魚をとって暮らしていたのである

また任那の安羅と耕地の境界をめぐって争いがあったことから洛東江流域の東方で新羅領と任那領の中間に位置した国、卓淳国がありそこに369年に荒田別、鹿我別を将軍として百済の死者とともに卓淳国に集まり新羅を撃破した

浮田国造は毛野氏の鹿我別が治めたとしている、なじみがないが毛野氏は大きな勢力であり日本府任那にかかわっていた、でもその政争で失敗したとしている
こうして日本府任那とこの陸奥真野郷が似ている
なぜなら綿津見神社がやたら多く安曇氏系統の八木氏が地名化している
八木国造というのもある、物部氏も任那でかかわり原町にある桜井古墳とも関係していたらしい、ただ物部系の神社はない、その理由が何なのかわからない
そもそも安曇系の綿津見神社がこれほど多いということが何なのか、それが問題なのである

地名の移動にしても真野は近江からの移動かもしれない、近江毛野臣ともあるからだ
そのことは鉄の生産のことで書いた、また真野郷の地名として唐神とかありこれは加羅の国のことであり神とは仏のことである
その他ツノガアラシトとは伽耶の加羅の王子でありつのみやとか角部とかツノのつくのはそれが地名化したのである、相馬氏の松川浦のツノミツ神社もそうである
鉄を求めてこの一団は石巻の北上川を上り登米までその跡をとどめている
石巻は和邇山とかあり真野の萱原という地名もある、だからここが陸奥の真野の説があるでも距離的に遠すぎるとういことで否定される、みちのく真野が相馬地域の歴史を知ればここがやはり桜井古墳がありまた真野地域に古墳が多い、それから寺内の前方円墳から金銅双魚佩が発見されたのも大和王権がこの地を支配してそれを賜ったこの地の有力者がいたということである、それは大伴系だともなる
そして笠女郎というときこの笠は韓国の加佐地名から来ていて笠とは何の関係もない

埼玉県行田市の稲荷山古墳から発見された鉄剣の銘文に

「其の児、名はカサヒヨ[3](カサハラ[4])。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人[5]の首と為り、奉事し来り今に至る。

このカサなのである、カサという苗字も韓国由来であり韓国にある地名である
そして伽耶郷と安曇郷があるのも興味深い、こうして何か日本府任那と真野の草原が類似しているのである、蝦夷の辺境として奈良の都の人達に認識された
そして多賀城に向かう前進基地となったのがこの辺である、ただここでは武力で制圧するということはなかったのかもしれないが桜田山に第六天の祠があり鹿島神社があるから
やはり大和王権に逆らう蝦夷がいて反乱があったともなる
鹿島神社とは大和王権に組み入れられた場所に建てられた軍神でもあったからだ

●伽耶地域に和陀(和田)の邑あり

綿津見のワダというのも伽耶国内にありそこに綿津見神社を祭る安曇族などが関係していたのかとなる、任那では近江毛野氏が指揮をとり軍事を司っていた
そして真野郷の前進は「浮田国造」でありこれが鹿我別とか荒田別となっていてその人たちも任那にかかわっていたのである
安曇の連(むらじ)もかかわっていた、また物部氏もかかわっていた
そしてなぜ原町地区に綿津見神社が異常に多いのか?
最近大原にも綿津見神社があったことを発展した、こんな所にもあったのかと驚いた
でもそれでわかることはこの道を飯館村に行くと八木沢峠がありこの八木沢が安曇族の一族の系統に連なる八木氏のことだったのである
それは相馬市の松川浦に和田と山津見神社が祭られている、そこから上陸して宇多川をさかのぼり途中に八木原とあるのもそうである、そして霊山町に出ると犬飼(犬養)がありこれも安曇族の系統なのである

『新撰姓氏録』には後裔として右京神別の安曇宿禰と河内国神別の安曇連が記録されている。支族としては阿曇犬養(犬飼い連、辛犬甘氏、凡海宿禰、海犬養氏等が伝わる
最初に縄文人がいたとしてもこの地域を拓いたのは安曇族系であったとなる
そして物部系もかかわったがその跡は明確ではない、物部神社などないからである
物部吉名という人がいて小高に吉名郷があるから物部氏がかかわったことは確かである
そこで桜井古墳がなぜあるのか、あれだけ大きな古墳が原町にあるのか?
それはなぜ原町区に綿津見神社が多いのかということにつながる
その古墳を作った人たちは安曇系の入植者であり物部氏もかかわったとかなる
それしか考えられないともなる
なぜなら大和王権が入ってきたのはこの安曇系入植者の後である
それで桜井古墳のある原町区にはやたら綿津見神社が多い

でも真野郷の鹿島区にはない!

山津見神社が栃窪村にあるが綿津見神社が見かけないのである
それはここが毛野氏の支配地域であり原町区の綿津見神を祭る安曇氏とは別な領域であった、最初に原町区に安曇系が入ってきた、そして土着した
そこで桜井古墳を作ったとなる
その後に真野郷を大和王権が支配した、それは大伴系でありその大伴一族として大伴家持がいて笠女郎が真野の草原の歌を残したとなる、
ただこれらは古代史の正史として記録されていない、ただ神社がそれを記録している
なぜこんなに綿津見神社があるのかそれが解き明かされていない、資料も伝説すら残っていないのが不思議なのである
それは大和王権が政権をとりそうした歴史が消されたためだともなる
伽耶国派滅亡してその跡がわからなくなりわずかな地名とかからしか探る手立てがなくなった、ただ綿津見神社神社がこれだけ多いのだからその謂れを語られてもいいが伝えられていないのである、ただ綿津見神社がいたるところにある
だからそれが語られないということが謎なのである

●海人の安曇氏の日本列島の分布

『新撰姓氏録』には後裔として右京神別の安曇宿禰と河内国神別の安曇連が記録されている。支族としては阿曇犬養連、辛犬甘氏、凡海宿禰、海犬養氏等が伝わる。

安曇磯良は志賀島大明神と呼ばれ、磯良の墓は対馬の和多津美 神社にあることからしても、志賀海神社と和多津美神社は、その創設者が同族であると考えられます。

 対馬には合計4社の和多津美神社であるだけでなく、綿津見神を祀る古社は、対馬から壱岐、志賀島にかけて島や九州の沿岸に集中して鎮座されています。つ まり朝鮮半島の狗邪韓国から北九州の末盧国、すなわち邪馬台国に至る海上航路沿いの要所周辺は「ワタツミ」というキーワードで繋がっていたのです
 https://lifeskills.amebaownd.com/posts/11211578
 
 新羅出征に際し神功皇后は「阿曇連磯良丸命に舟師を率いさせて出征した。九月には諸国に令した船が集
まったので、磯鹿海人(しかあま)名草を水先案内人として壱岐経由して、十月三日、対馬
の和珥津(わにつ)を出港して新羅の南岸へ迫ったとされている」

十二通門
平城宮・平安宮内裏の周囲に12の門がある。その一つに海犬養門がある。蘇我入鹿誅伐に参
加した氏族の功を永久に記念するために門号に氏族名をつけたという説(井上薫氏)がある。

662 年(天智元年)
5 月 「大将軍(おほきいくさのきみ)大錦中阿曇連比邏夫連等、船師(ふないくさ)一百七
十艘を率て、豊璋等を百済国に送りて、宣勅(みことのり)して、豊璋等を以て其の位
を継がしむ。」(すでに前年に送って行ったはず?)
http://azuminorekishi.sakura.ne.jp/siryou.pdf


環太平洋文明圏縄文王国(安曇氏)→後期縄文王国(和田橘氏)→弥生時代
(海部氏・徐福系物部氏、邪馬台国)→大和朝廷(応神以降、秦氏)

<縄文海人(あま)と弥生海人>
http://g-village.net/iyasaka369/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%B5%B7%E4%BA%BA%E3%81%A8%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%B5%B7%E4%BA%BA.pdf

環太平洋文明圏縄文王国(安曇氏)→後期縄文王国(和田橘氏)

こういう大きなスケールで海人族が安曇族などが日本列島に分布した
縄文王国とは安曇氏のことだともある、その後に物部氏が日本列島の支配者となった
そうなるとこの辺では安曇氏系統が最初の始祖ともなる
次に物部氏となった、後期縄文王国が和田橘氏というとき和田とは綿津見神社から来ている、つまり日本列島に海人族の安曇氏が拡散して大きな力をもったとなる
ただその後に物部氏が支配して次に大和王権が支配するようになった
その主役となるのが大伴氏だった、その日本の国家形成が相馬地域の東北の蝦夷の辺境にもありそれを物語っているのが綿津見神社が異常に多いことなのである
ただこれは正史に記されないし伝承としても何か残っていないのでなぜなのだろうとなるつまり安曇氏とか物部氏は大和王権が成立するとその記録も消されたとなる
でも神社とか地名とかは残されたのである
地名を考えるとなかなか消されるものではない、地名が古代から古いものでもその地に石のように残っているからだ、地名は一旦決められると変えにくいのである

●春に洛東江を下る

春日さす洛東江を沿い下る
滔々と流れる大河
大地を潤し米麦の豊に実る
金官伽耶は鉄の国
豊富な鉄資源に恵まれて
日本府任那のここに置かれぬ
ここに興亡あり北に高句麗
新羅ありて伽耶諸国を脅かす
しかし今春の日は穏やかに
河は人の争いを知らず
悠々と流れて海にいでるも
そのかなたに日本のありしも
かくて対岸に伽耶山の歌われぬ
ここに栄えし国をし思ふ
大和と一つとなりし国なり
陸奥の真野にもその跡残しぬ
同じく鉄を求めて来たれり
かくて大和王権の知らしめる地となる
辺境にあれど奈良にその地の歌われる
真野の草原は憧れの地ともなりぬ

草枕旅を苦しみ恋ひ居れば可也の山辺にさ男鹿鳴くも

洛東江は大きな河である、韓国でも河は大陸の一部だから大きいのである
そして伽耶とか南になると照葉樹林帯になりあたたかいのである
韓国は北朝鮮になると寒い、日本より寒い国である、だからオンドルが作られた
これは日本でも作られた、その跡が発見されたが根付かなかった
つまり日本では西の方近江から西だとあたたかいから根付かなかったとなる
オンドルは下からあたためるから体全体があたたまる、寒い国にとって部屋全体も暖かくなるから暖房には優れている

ともかく伽耶は日本と一つであり日本の一部にもなった、だから最近前方後円墳が十数基発見されたのである、明らかに日本の支配地域になったから日本の前方後円墳が作られたとなる、必ず外国と交流すると文化がもちこまれるからである
土葬から火葬になったことなどもそうである

いづれにしろ韓半島の興亡は日本と密接に関係している、ただ日本府任那が日本がであるように日本と一体化した地域だったのである

洛東江の写真
https://onl.la/mVq85nu

2022年01月28日

南相馬市の古代史ー浮田国造(毛野氏)から大和政権へ (桜井古墳は物部ー安曇族の墓ー真野の草原は大和政権支配の確立地域)


南相馬市の古代史ー浮田国造(毛野氏)から大和政権へ

(桜井古墳は物部ー安曇族の墓ー真野の草原は大和政権支配の確立地域)

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今の福島県から北は道奥(みちのく)と言われた。そのためか、助川(茨城県日立市の宮田川か?)あたりは『道の前(みちのくの入り口の意)』と呼ばれ、陸奥国苦麻村(福島県双葉郡大熊町熊)は『道の尻』と呼ばれていた。古代、この間は常陸の多可評(たかのこおり)であった。その後それが常陸と磐城に分割されたのである

国造の支配領域は当時浮田国と呼ばれた地域、後の律令国の陸奥国宇多郡、行方郡、現在の福島県相馬市、南相馬市、相馬郡新地町、同郡飯舘村に相当する。浮田国造が設置された同時代には、北西部に伊久国造(伊具郡)、南部に染羽国造(標葉郡)が置かれた。

立地や築造時期から浮田国造の初祖・鹿我別命の墓と見る説がある

養老2年5月、陸奥国の石城郡・標葉郡・行方郡・宇太郡・曰理郡の5郡と常陸国の菊田郡を石城国、陸奥国の白河郡・石背郡・会津郡・安積郡・信夫郡の5郡を石背国とした


古代の国というとき大和政権に認められない前の国があった、何かしら人々が連帯して一つの国という意識をもっていた、その一体感があった国の上に大和政権が国造(くにのみやっこ)を送ってきた、それは官人であり中央から知られた支配が形式的にはあったとなる

問題なのは国の範囲とはどのくらいなのかということである、それは地域の広さと関係している、人口密度もあるがそもそもその土地に依拠して生活していたから土地で食料をまかなっていたのだから土地の広さが問題になる
土地の広さによって食料を供給する人を養う人数が決まるからである
その頃都とか都市とかはないからである

相馬地域では国というとき最初は南相馬市の浮田地区が中心となった浮田国造が置かれた地域である、それは新地から南相馬市の小高区と飯館村が入っていた
それは丁度相馬藩内が一つの国として意識されていたとなる、それは今に続いているとなる
その後国が郡にこおりに分割された、だから郡山市とか桑折(こおり)とか地名として各地に残る、それはもともとの国ではない、大和政権によって行政地域が分割されたのである
相馬地域だと基本的には原町区に国見山がありそこから見える範囲が国として意識されたとなる、それが新地と小高までだとなる、確かにその辺までは見えるがあとは視界からはずれるのである

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ただ謎なのはなぜ南相馬市の鹿島区の浮田が中心であったのかということである
それが謎なのは古墳からみると桜井古墳が大きくそこが中心だったとも見るからである
そこに浮田国造の鹿我別王の墓だというとき地理的に一致しないのである

歴史でも空間軸と時間軸で構成される、空間軸だと地理だと古代とか地形とかは変わらないのである、ただ歴史でむずかしいのは時間軸なのである
いつの時代なのかそれが特定しにくい、だから奇妙なのは時代を逆に見たりする
古い時代のものが新しい時代とみたりする、まず明治以降だったら明治を大正と昭和とか見ない、親が明治生まれだとか母が大正生れたとかなる、その時代を逆には見ない
でも江戸時代となると年号があるがその後先がわからなくなるのだ
だから時代的にいろいろな時代があっても後先が間違って見ることがある
いろいろなことが時代時代に起きていてもその後先が間違えるのである
明治以降はこういうことはありえないのである

だから桜井古墳が浮田国造の鹿我王の墓だというときもそうである
国造制ができてからのものだとすると毛野系のものがかかわり桜井古墳も作られたとなるそして毛野系というのもわかりにくいのである
なぜなら毛野系というとき栃木県とか群馬県とかてありなぜそうした遠くから山の方から海岸の方に勢力を伸ばしたのかとなるからだ
その理由は会津がすでに大きな国であり山側の方が勢力があり海側の方に進出した
会津が大きな国となっていたのは水が山に囲まれて良質であり米の生産に適していたからだとしている、今でも会津とか新潟の米はうまいのはそのためである
その後に大和王権が浜通りに進出してその支配下に入った

志賀島から出土した漢委奴国王の金印は安曇族の王に送られた可能性が高いようです。また我が国最古の舞踊、筑紫舞において極秘伝として最重要とされる「浮神(磯良舞、細男舞、鞨鼓舞)」のモデル、安曇磯良は正史には現れませんが、その存在は古代史において非常に重要な王であると確信しています。

記事の中で、安曇族は古代中国においては「倭人」と呼ばれた人たちだったのではないかという仮説も書きました。また徐福を日本へ連れてきた海人族かもしれないことや、いくつかの系図から徐福の血筋と関わりがあるとみえ、姻族の可能性が高いとも書きました。つまり古来より北九州を根拠地とする海洋民族がいて、大陸との交易を自在に行い、そのうちに徐福渡来と関わることで親族となっていったという見方です。古代においては航海を掌握する者こそが権力を握るともいえ、徐福は古代日本の海人族である安曇族、宗像族(出雲系)を真っ先に手中に収めたと思われます。

そして安曇磯良とは何者なのかを調べれば調べるほど、出雲伝承の伝える徐福の息子、五十猛(のちの香語山)に繋がっていきました。実際、丹後の海部氏(籠神社宮司家)と博多志賀島の志賀海神社宮司家の安曇氏は親族ということです。一方物部氏とは非常に近い存在でした。武力の物部氏と航海を司る安曇族が協力して九州を支配していたようです。海部氏も物部氏もどちらも徐福の直系です。

出雲伝承では、徐福の連れてきた海童たち(少年少女)は漁業を営む者が多く、彼らは綿津見の神(海神)を信仰していたと伝えています。彼らはやがて出雲の竜神も拝むようになり、両方の神が合体して竜宮信仰が生まれたのだといわれます。

新撰姓氏録によると、安曇氏は海神・綿積豊玉彦命の子、穂高見命の後とあります。ワタツミ信仰が海童たちのものであるなら、安曇族が九州古来の倭人であるとするのは難しいですね。3000年前から中国で倭人と呼ばれていた人々の中に、ある時期から安曇族が含まれたという見方なら可能かもしれませんが。(中国史書に記された「倭人」という存在を無視することができず、しつこく拘っています‥‥)
https://somosora.hateblo.jp/entry/2020/09/25/%E5%AE%89%E6%9B%87%E6%97%8F%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8

大和政権が全国を支配する前は物部氏が支配していてその物部氏と安曇族が一体化したようにあった、倭人とは安曇族のことだったというのもそうである
この安曇族とか物部氏は正史に記されていないからわかりにくいのである

関ヶ原の不破関以東が当時の東国で、尾張国、三河国、遠江国、駿河国と続く。尾張国、三河国、遠江国は「物部王国」として知られる

ではなぜ原町区に異常に綿津見神社が多いのか?

これが最大の謎なのである、そしてそれはいつの時代なのかもはっきりしないのである
こんなに綿津見神社が多いということはこの辺の先祖となれば安曇族系統になってしまうのである
海人族の安曇族は内陸部に山の方にも入ってきた、長野県の安曇は有名である
そこでは今でも船の祭りをしている、また安曇族は会津の方にも入っている、綿津見神社があればそうである
原町区だと飯館村の山津見神社は綿津見神社と対なすものである、だから飯館村の途中の栃窪村にも山津見神社があり松川浦には山津見という地名とか和田という地名があるがそれは綿津見のことである、それが宇多川を遡ってゆくと山津見神社が隠されるようにありそれは八木原とかは安曇族の八木氏のことである、原町から飯館村に行く八木沢峠でもそうである、霊山を越えて霊山町に入ると犬飼という地名がありこれも安曇族の後継なのである、地名化することは古代に多いのである、最初の開拓者が地名を名付けるとなるからだ

どうしても浮田国造が大和政権によって支配下に入り官人か中央から派遣される前に桜井古墳はすでに作られていたと見る
ただそれは一代か二代で終わり続かなかった、なぜなら古墳は地域に密集して小古墳も後から作られるからだ、それは浮田国造のある真野古墳群がそうである
ここでは代々人が受け継ぎ住んでいたとなるからだ
桜井古墳は一つだけが特に大きく小古墳は前の古墳一つくらいである
ということは一時的に興隆したがその後はつづかなかったとなる
それは物部氏と安曇族がここに来て土着したが一時的なものだったとなる

問題は時代的区分なのである、それは浮田国造が配置される前のことであり桜井古墳は
東海系のものだというときもそうである、東海系というとき静岡県に綿津見神社が多いのである、するとそこから移住してきた人達がいて桜井古墳を作ったとなる
でもそれは一時的なものとして終わった
でも飯館村だったら焼畑の地名として佐須とかがありその技術を教えたのは安曇族だったとなる、それはその後継の八木氏とか犬飼(犬養)が地名化しているからである

そして安曇族は海人族であっても製鉄とか焼畑とか稲作でも様々な技術をもった集団でありこの土地に定着したのである
でも製鉄だけだったら渡来人のツノガノアラシト系の津神社(つの)が点々と海岸沿いにあ松川浦の津神社でもツノミツ神社でありツノガノアラシト系だとなりこの産鉄族の一団は大平洋の海岸沿いを石巻まで行き北上川を渡り登米までその跡を残している
それは明確なのである、でもこの産鉄族はその土地に定着したとはならない
ただ鉄の材料求めて北進したとなる

一方安曇族は綿津見神社とか山津見神社は面的に広がっている、ある土地に土着したのである、だから面的に綿津見神社と対成す山津見神社がやたら多いのである
飯館村の山津見神社は総本山のようになっているが佐須にありこれは焼畑地名なのであるただこの安曇族のことは良くわからないのである、物部氏でもそうである
それは歴史的には大和政権が成立したとき正式の文書には残らなかったとなる
でも神社としてはこれだけ多く残されているのである
それも原町地区に多いのである

日本武尊は上総かみつふさより転じて、陸奥国に入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷えみしの支配地に入られた。蝦夷の首領島津神しまつかみ・国津神(くにつかみたち)が、竹水門(たけのみなと)に集まって防ごうとしていた。しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで、「君のお顔を拝見すると、人よりすぐれておられます

このヤマトタケルの東征伝説は安曇族の移住を下敷きにしている、安曇族が入り定着した地域なのである、東海地域に多く相馬地区でも原町地区に綿津見神社が眼だって多いからである、それは物部氏と一体化してこの地に勢力をもったのである
竹水門が(たけみなと)が原町だとふる説もある

淡路島・四国・隠岐島・九州・壱岐島・対馬・佐渡島・本州を生み、それから六つの小島を生み、その後に今度はさまざまな神々を生んだ

底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神の「三柱の綿津見神」について、『古事記』の本文には、阿曇連が祖神として奉斎する神で、阿曇連は綿津見神の子、宇都志日金析命の子孫であると記されている。この三柱は同時に生まれた上箇之男命・中箇之男命・底箇之男命の「墨江之三前大神」(住吉大社の祭神)と対称をなしている。

島を産んだというとき島を渡る海人族をイメージする、船を操作できる技術をもっていたのが海人族であり安曇族だったのである
海中にくぐり潜水して海の物をとるのが海人族である、だから海を三分割していた
それは海人族でしかありえない神話である
日本建国神話の下敷きとして海人族の安曇族などが深くかかわっていたのである
竹水門とはタカであり多珂神社がありこれは主要な神社であり原町区の海岸の方にある

阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)がありこの阿太は安達太良や安達の地名と同源である。安積は安曇族と関係しているとなると海人族の宗像市などともに九州から出雲瀬戸内海と海人族の跡は残っているからそれらと一緒に草原の地名も移動したのである。意富(オオ)氏と「阿太加夜神社」は草(カヤ)原という地名はセットととなって武蔵に移動して陸奥の真野郷に移動した。
http://musubu.jp/manokayagimotoketa.html

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ここに鹿屋(伽耶)と安曇がある




讃岐の那加郡に良野(吉野)真野郷があり行方郡にも吉名郷と真野郷がある。吉野と吉名はにている。物部吉名と言う人がいたからこれから名をとっている。安芸国の佐伯郡に山懸(やまがた)郡に宇岐郷がありこれは山形県の置賜(オキタマ)郡と関係があるのか置賜は浮田だという説がある

ここの吉名郷は小高区あり真野郷ではない、とすると桜井古墳には物部系の首長のような人が葬られているのかとなる
安曇族のことを前に書いたが原町区とかに綿津見神社が多すぎる、そして物部氏と一体だというとき物部吉名という人がいて吉名郷がある

そして鹿島地区(真野)には綿津見神社が見ていない!

一つくらいはあったかもしれないが見かけないのである、これはなぜなのか?
それは大和政権の毛野系の前からあり物部と安曇族が一体化していて対立していたのか?そして大和政権が本格的に進出してきたとき浮田国造が中央から配置されて官人も派遣された、その中に大伴一族がいた、それは中央政権を担う部族であった
そこで鹿島区の真野の前方後円墳が作られた、そこに中央から派遣されて服属するということで金銅双魚佩がその土地の支配者に賜ったとなる
つまり大和政権が進出するとき原町区ではなくまず浮田国造が置かれた所を拠点として
支配下に置いたのである、桜井古墳のある原町区は後で支配地域に入った
そこはすぐには支配地域に入れなかった、何か蝦夷なのか在地勢力があり入れなかったとなる、そこで真野地区に浮田国造の後継としての真野地区に進出して支配したのである
もう一つは今の原町区と真野地区にまたがる所に一大鉄生産場がありその麓に泉廃寺跡があり大和政権の官人が管理した、鉄をとるために管理したとなる

みちのくの真野の草原(かやはら)遠ければ面影にして見ゆというものを 笠女郎

この歌はまさに真野地区までが大和政権の支配下に入ったと境界を示すものとして歌われたのである

そしてまた草原(かやはら)の不思議は葦から鉄がとれるということなのである

その製鉄材料は、葦や芳の根に 鈴状に付着した カッ鉄鉱(高師小僧)で、その融解温度は 400度から始まるが、諏訪地方は 縄文土器の産地であり、その焼成温度は 800度を 4時間以上必要としたから、製鉄に必要な 諸条件は 十分満たしているというのだ。

諏訪大社の縁起書に『諏訪大明神絵詞(えことば)』という絵巻があり、その詞書(ことばがき)に「洩矢(もりや)の悪賊神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持してあらそひ、明神は藤の枝を取りて是を伏し給ふ」とある

建御名方神は諏訪に逃げて来たのではなく、「諏訪」が「鉄の場」であること。また、古くからの製鉄を行っている洩矢神がいることも知っていて、やって来たのであろう

http://tokyox.matrix.jp/forum/discussion/373/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%81%AE%E8%A3%BD%E9%89%84%E9%81%BA%E8%B7%A1-%E9%89%84%E3%81%AE%E6%B0%8F%E6%97%8F/p3

諏訪神社もまた多い、これも鉄に由来している
その草原というとき萱とはまた葦であり鉄と関係していたのである
それは猪苗代湖畔にも白河街道の福良とから地名として残されている
鉄を求めて渡来人とかが来て地名にしたものが多いのである

そして草原というときカヤハラになるがカヤは伽耶国に通じていて国名だとなる
なぜなら駒原とか栗原とかあれば栗とは高句麗の句麗になるからである
新地の駒が岳もそうである、だから草原の草がカヤが伽耶国に由来しているといっても不自然ではないのである

東日本には高句麗からの渡来人に関する遺跡が多く残り、高句麗の墓制である積石塚が長野県や山梨県、群馬県に多く見られる。リンク特に長野県の大室古墳群は積石塚の一大集積地である。東日本は大和朝廷から命ぜられて渡来人が開墾したところも多い。埼玉県には716年に高麗郡が作られ高麗神社、聖天院(高麗王若光の墓)などが残る。また、神奈川県にはその高麗王若光が上陸したとされる高麗山、高来神社がある。関東南部の古墳からも高句麗系の遺跡が多く出る。

だから草原とはただ萱が茂っている場所ではない、それは鉄を意味していたり国も意味していたりしていたのである
こうして真野の草原は大和政権の支配地域に編入された地位として中央の奈良に知られたのである、一つの政治的意味ある歌だったのである
それは桜井古墳のある原町地区は大和政権の支配地域にならず抵抗があった
そこには物部氏と安曇族が一体化した地域であった、先住民の勢力がありそこで真野地区が浮田国造としてまず中央の官人を送り大伴氏が有力な支配者となった
中央と結びついた地域となった、だからこそ真野の草原の歌はこの地域が大和政権の支配地域になったという宣言の歌でもあったとなる

苦麻以南である多珂国は常陸国に編入され、長塚以北は陸奥国に編入された

苦麻(くま)村までは道の尻でありその向こうは浪江町であり染羽国造の領域であった
つまりまだ大和政権の支配下に入っていない地域だった
だから集中的に真野郷に中央で力をそそいだ、そこが大伴氏が中心になっていた
そして浮田国造が宇多郡に分割されたときそこは毛野氏の支配が残った
でも桜井古墳がある方には毛野氏の勢力が及ばないで賜姓もなかったとなる
何か桜井古墳には在地の勢力があり中央から毛野氏系統を任命しても宇多郡には及んだが原町区の方には及ばなかったとなる
ただ桜井古墳には誰が葬られているのかはわからない、二人だとすると親子説があり二代でもその地域の首長だったともなる

倭建命東征に関して史料に見えるわけでもないが、吉備本宗の吉備武彦と同様に、吉備一族として同東征に随行して陸奥まで行き、その途上、陸奥国宇多(宇太)郡あたりに定着して浮田国造の祖になったとみられる

浮田につながる宇多郡のウタは、上野国西南部の甘楽郡有只郷と同訓だと『古代地名語源辞典』は指摘する。これは、浮田国造の出自からいって納得ができよう
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/kimikobe1.htm

吉備津彦は会津にも入っているから会津から浜通りの方に入ってきたともみる
日本海側から山の方が先進地域であり交通の便がいいから古代にはそっちの方から浜通りに入ってきたとなる、茨城県その後に大和政権が入り武力で支配した
毛野氏がかえって浮田国造でも宇多郡の方に支配して原町の桜井古墳の方ではなかった
そこで賜姓されているからである

真野の草原は境界として歌われた、境界となるのは重要である
地理的境界があり行政的境界もあるが地理的境界は自然境界であり行政境界と一致することがある、ライン河は地理的境界であり行政的境界にもなる
なぜならライン河を挟んでゲルマン人が蟠踞して異質な世界があったからである
大陸では河が境界になりやすい、平坦な地で区切るものがないからである
そして川を渡ることは難儀であり防衛線になっていたのである



ここからのつづきです


陸奥真野の草原の歌の謎
(草原は本当に萱原だったのか、その疑問を解明)
http://www.musubu.jp/kashimakayaharagimon1.htm

2021年12月12日

南相馬市の多珂神社の隣のスダシイ神社について (綿津見神社と多珂神社とスダシイ神社の関係)


南相馬市の多珂神社の隣のスダシイ神社について

(綿津見神社と多珂神社とスダシイ神社の関係)

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近接して三つの神社がある

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相馬地域辺りに縄文前期の土器は発見されていない、空白地域になっている
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真野古墳群から船の線刻画が発見された
その船は十人以上乗れる大きなものである
これは縄文時代に作れたのかとなるとできない、すると安曇族系統のものが
ここに定着して作ったのかもしれない、その材料のスダシイもあったからである




スダジイはブナ科の常緑広葉樹である。暖地性照葉樹林を代表する樹種の一つで、佐世保市ではごく一般的に見られる。船ノ村のスダジイは地面より130cmのところで434cmと522cmの二股に分かれる。姿も良く樹勢も盛んである。

スダジイ(ナガジイ、イタジイ、C. sieboldii)- シイ属の中では最も北に進出してきた種であり、大きな木では、樹皮に縦の割れ目を生じる。福島県、新潟県の佐渡島にまで生育地がある、

<家に在れば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る>とあります。

椎の木は古来日本を代表する樹種であり、高さ20m以上、幹周りは1mを超える照葉樹林を構成する主要な樹木である。

「すだじい」であると提言する。結局、「スダジイ」の名前は、「素台木」を語源とし、シイタケ造りの基礎となる台木的な椎(しい)の木という意味を表わすものであると言える。

船の村のスダジイ(ふねのむらのすだじい)は長崎県佐世保市にあります。ここは自然景観です。「植物」などとなっています。
スダジイはブナ科の常緑広葉樹である。暖地性照葉樹林を代表する樹種の一つで、佐世保市ではごく一般的に見られる。船ノ村のスダジイは地面より130cmのところで434cmと522cmの二股に分かれる。姿も良く樹勢も盛んである。(*1)

近くの住所には、鹿町町中野(398 m)、鹿町町船ノ村(1.03 Km) などがあります。近

日本の暖帯林の最重要樹種で、東北南部以西の本州から九州の丘陵・山野の広範囲に分布します。

磯の上の都万麻を見れば根を延へて年深からし神さびにけり 大伴家持 巻十九4159


初めに生んだのが淡路島、
次に生んだのが四国、
三番目に生んだのが隠岐。
そして九州、壱岐、対馬、佐渡と生み、
ついに本州を生みました。
この八つの島を大八島国といいます。

スダシイとかタブの木(都万麻)は照葉樹林帯の南国性の木であり船を作る木としてあった
硬い木だとそうなる、なぜここにスダシイ神社があるのかやはり安曇族が船材として利用したからだとなる、またシイタケを作る台として利用したとあるときそういう農業技術をもっていた人が来て教えたとなる、焼畑にしても縄文時代なら日本ではしていない
他から入って来た人達が教えられてできたのである
縄文時代と弥生時代ではその差が大きいのである、様々な技術が鉄作りでも農業技術でもいろいろな技術が渡来人によってもたらされたのである
ここでも船を作っていたのかもしれない、船の線刻画が最近発見されたからである

水の底で身体を洗ったときに生まれた神が底津綿津身神(ソコツワタツミノカミ)。次に底筒之男命(ソコツツノオノミコト)。
中ほどで成った神が中津綿津身神(ナカツワタツミノカミ)。次に中筒之男命(ナカツツノオノミコト)。
水の上のほうで身体を洗ったときに生まれた神が上津綿津身神(ウワツワタツミノカミ)。次に上筒之男命(ウワツツノオノミコト)。

ワダツミ神の宮殿へ
(塩椎神は言いました)
「わたしが今から、この船を押して流します。
しばらくそのまま進んで行ってください。
味し御路(良い海流?)があり、その海流に乗って行けば、
魚の鱗(ウロコ)のように家を並べた宮殿があります。
それは綿津見神(ワダツミ神)の宮殿です……
https://nihonsinwa.com/page/1827.html

国生み神話でも底津とあるのは海の中をくぐって生活していた漁労民の安曇族だったからこそである、中津でもそうである、海の底までくぐるとか中まで見るとかは海人(あま)でないかぎり出てこない言葉である、それほど海とかかわっていたから生まれた神話である

国生み神話でも島が中心であり本州が最後に生まれている、そして佐渡島まである
つまり安曇族が船で渡った航路をたどっているのである
海洋民の神話でありそもそも日本の神話は縄文人の神話ではないのである
ただ縄文人と混交した神話は海彦山彦の物語である、それは安曇族とも関係していて
綿津見神社と山津見神社がそうなのである
安曇族などの海洋民は様々な農業技術とか鉄作りの加工とか鵜飼とか養蚕とかの高度な技術をもった人達でありその人たちが弥生文化を日本にもたらしたのである

ただなぜ南相馬市と相馬市とかに綿津見神社と山津見神社がこれほど多いのか?

その謎はここが照葉樹林帯の南限の地であスダシイも北限の地としてあり海老のマルハ
シャリンバイも奄美大島から種が流れ着いて根付いたのである
それは東北でも温暖な地域だからである、つまり照葉樹林帯の南限の地だからこそであるそしてここが地質学とか気候でも境目なのである
万葉集の真野の草原はそうした気候的南限の地として境目として意識された

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この地図のように古い縄文遺跡がないことでもそうである、なぜか空白地域になっているつまりこの辺は縄文人がそれほど住んでいない地域だったのかとなる、住んでいても希薄な地域だったとなる、ただこれは謎である
かえって宮城県とか北の方から縄文前期の遺跡がありそこに安曇族系の海洋民が進出しにくかったのかもしれない
この辺の綿津見神社が多すぎるからだ、ここに相当数の安曇族系の海洋民が入植したとなるからだ

新地になると縄文人が住んでいた

鹿狼山には「手長足長」という神様が通っていたと伝わります。
ここからその長い手を伸ばして海の貝を拾っては食べ、その貝殻を新地町方面に投げていたために、海から少し内陸部に「小川貝塚」ができたという伝説です

ここではかなりの人数の縄文人が貝を食べて暮らしていた、ただ相馬地域でもここだけに伝説が残っている
貝塚もここだけである、だから縄文人がここで相当数住んでいたが他は希薄な地域だったのかともみる
だからこの空白地域に安曇族が入ってきて農業技術とか焼畑とか船造りとか鉄作りとかいろいろ技術をもたらしたのである
これだけ綿津見神社や山津見神社があるのはそのためである

またヤマトタケルの東征神話で上陸した地点が南相馬市の原町区かもしれない

ヤマトタケルが「竹水門」に至る経路を確認しますと、「海路うみつちより葦浦あしのうらに廻めぐる。横よこしまに玉浦たまのうらに渡りて、蝦夷えみしの境さかひに至る。」とあります。

つまり、葦浦・玉浦を経て、竹水門(蝦夷の境)に着いたと考えられます

「竹水門」は多珂郡のどのあたりか? という問題になります。「和名抄」によれば、多珂郡内には「多珂郷」が含まれており、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」によれば、多珂郷は現在の茨城県高萩たかはぎ市の北部から北茨城市の南部にかけてがその郷域と推定されています
https://japanknowledge.com/articles/blogjournal/interest_chimei/entry.html?entryid=97

竹水門(たかみなと)(蝦夷の境)は南相馬市の多珂神社でもありその後に真野郷になった、それで真野の草原の歌ができたのである
桜井古墳は海に面してあり港の役割もあったかもしれない、海が入りこんでいたからである
こうした神話が生まれたのはそもそもの下敷きになったのが安曇族とか海洋民が早い時期に土着した結果である、特に原町区に綿津見神社が多いのである
それは普通ではない、多すぎるのである、でも浮田国造があり真野郷があった地域は意外と綿津見神社を見ていないのである
そこにも大きな謎がある、原町区に綿津見神社が密集しているともなっているのは安曇族が定住した結果なのである
ただ正式の文書とかでも伝えられていないし伝説とかも何かいい伝いでも残っていない
綿津見神社だけが歴史を語っているとなる

だからこれがこの辺で話題にもならない、何か物語でも伝えられれば関心がもつがただ綿津見神社だけが伝承すらなく残されているからだ
ただ明確なのは安曇氏と同族の犬養(犬飼)とか八木平いう地名は残っている
それも八木沢峠がありこれが氏族名だと気づかなかった
それから相馬市の玉野村から霊山町の方に行くと犬飼というバス停が残っていた
犬養という地名も残っている

だから安曇族の系譜の人達が綿津見神を信仰を受け継いで移住してきたのである
真野古墳群から発見された船の線刻画でもそれは十人以上乗れる船である
そうなると縄文時代ではなくやはり安曇族が残した物なのかとなる
この綿津見神社はこの辺では重要な歴史を語っている、でもなんら注目もされない
解明されないのである、資料も残っていないからだとなる

何か神社には不明なのが多いのである、でもこれだけの綿津見神社山津見神社が残っているとしたら何かしら注目されていいはずである、だから歴史でも古くなると埋もれるとういことである、何か解明しようがなくなっているのである
でも神社があるとお参りするのである、でも何にお参りしているかもわからないとなる
これも奇妙なのである、ただ神社は相当に古いものであり歴史を語っていることは確かである
それとともに地名も本当に古いのである、化石のように古いのである
だから八木沢でも八木平でも犬養(犬飼)でも残っていたのである
それに気づかなかったのである、これは明らかな歴史の証拠だったのである

2021年11月20日

なぜ南相馬市と相馬市に綿津見神社と山津見神社が多いのか?(1ー前編) ( 八木沢峠ー八木平ー犬養(犬飼)(いぬかい)は姓名であり安曇氏と同族だった)


なぜ南相馬市と相馬市に綿津見神社と山津見神社が多いのか?(1ー前編)

( 八木沢峠ー八木平ー犬養(犬飼)(いぬかい)は姓名であり安曇氏と同族だった)

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八木沢峠
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犬養⇒犬飼(霊山町)

●古事記の神話を作ったのは海人族の安曇氏などである

名前にワタツミとつく神を祖神としている氏族は、阿曇連に限らず、安曇宿禰、海犬養、凡海連、凡海連といった海人の氏族がいる(『新撰姓氏録』)。ワタツミの神が海人の諸氏族によって広範囲にわたって信仰されていたことがうかがわれる。

践祚大嘗祭において阿曇氏が神膳奉仕の職掌を担っていることの由来を物語るものと捉える説もある。また、綿津見神が火遠理命に娘の二柱の神を献上する話は、山(地上)を支配する大山津見神が天孫・邇々芸命に娘の二柱の神を献上する話と対応しており、この二つの神話は、山(地上)と海との両者の呪力あるいは統治の権威が、天孫に併合されることを示す構想に基づくものと解されている。
http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/shinmei/watatsuminokami/

水の底で身体を洗ったときに生まれた神が底津綿津身神(ソコツワタツミノカミ)。次に底筒之男命(ソコツツノオノミコト)。
中ほどで成った神が中津綿津身神(ナカツワタツミノカミ)。次に中筒之男命(ナカツツノオノミコト)。
水の上のほうで身体を洗ったときに生まれた神が上津綿津身神(ウワツワタツミノカミ)。次に上筒之男命(ウワツツノオノミコト)。

ワダツミ神の宮殿へ
(塩椎神は言いました)
「わたしが今から、この船を押して流します。
しばらくそのまま進んで行ってください。
味し御路(良い海流?)があり、その海流に乗って行けば、
魚の鱗(ウロコ)のように家を並べた宮殿があります。
それは綿津見神(ワダツミ神)の宮殿です……
https://nihonsinwa.com/page/1827.html

伊邪那岐命と伊邪那美命の二人は引き続き神をお生みになります。

風の神、名は志那都比古神(シナツヒコの神)をお生みになり、
次に木の神、名は久久能智神(ククノチの神)をお生みになり、
次に山の神、名は大山津見神(オホヤマツミの神)をお生みになり、
次に野の神、名は鹿屋野比賣神(カヤノヒメの神)をお生みになられました。

鹿屋野比賣神は、草の神です。名前の通り「萱」を神格化したものと思われます。「萱」は、油分を含むので水をはじきます。そして軽い。屋根の材料として便利な植物です

鳥飼、鵜飼、馬飼などの地名は、大和朝廷の時代に朝廷が飼っている動物の世話役が住んでいた所。当時の犬は愛玩用では無く警備のためだった。鳥飼とは愛玩用の白鳥を飼うこと。

 大王の身辺の警備をする豪族を門号氏族(もんごうしぞく)と言い、大伴氏などの武芸に秀でた豪族が努めた。門号氏族のなかに、三系統の犬飼の家が見られ、県(あがた)犬養氏、稚(わか)犬養氏、海(あま)犬養氏である。

 六世紀には朝廷は諸国に犬飼部をおかせた。これは諸国の皇室領地の屯倉の警備のため。奈良時代のはじめに朝廷の犬養は廃止。

古代豪族の八木氏は安曇氏と同族

海人族、海洋民族が渡ってきて日本の国造りの神話を作った
国生み神話などでもいかに海洋民が作ったか明確である

底津綿津身神(ソコツワタツミノカミ)。次に底筒之男命(ソコツツノオノミコト)。
中ほどで成った神が中津綿津身神(ナカツワタツミノカミ)。次に中筒之男命(ナカツツノオノミコト)。
水の上のほうで身体を洗ったときに生まれた神が上津綿津身神(ウワツワタツミノカミ)。次に上筒之男命(ウワツツノオノミコト)。



海の底を三つに分ける発想は海の中に潜り海の産物をとって生活していたからこそであるここには現実体験から生まれた生々しいものがあるからだ

海人族が海洋民がこうした径路で広がり日本に定着した、島伝いに来たことを示している小さな島を産んだというのはやはり島伝いに渡ってきた海人族だったからである
この海人族は世界に広げると世界の海岸沿いを渡ってきたともなる
陸の海岸沿いを渡りめぐりめぐって日本まで来たとなる
それは雄大な発想になるが海岸沿いだったら船で渡って行ける、そこに大きな川があるとその川を上って行く、長江とかなるとその上はチベットとかなるのである
山岳民族がいるとしたらまず海から川を上って定着したとなる
つまり海は古代では道であり川も道なのである
なぜなら古代では鬱蒼としたジャングルとか森でおおわれていて道がなかったからだ
だから海を道として川を道として渡る人々、海人族が海洋民が世界に広がったのである

●霊山町の八木ー犬養(犬飼)の地名は安曇族の関係である

大王の身辺の警備をする豪族を門号氏族(もんごうしぞく)と言い、大伴氏などの武芸に秀でた豪族が努めた。門号氏族のなかに、三系統の犬飼の家が見られ、県(あがた)犬養氏、稚(わか)犬養氏、海(あま)犬養氏である。

 六世紀には朝廷は諸国に犬飼部をおかせた。これは諸国の皇室領地の屯倉の警備のため奈良時代のはじめに朝廷の犬養は廃止

古代豪族の八木氏は安曇氏と同族

川が道にっていたという時真野川をさかのぼって行った海人族がいる、その径路に海人族が定着した、なぜなら栃窪村に山津見神社があり山の方に行くと山津見神社になる
宇多川沿いの山にも山津見神社が隠れるようにしてあった、それは小さい社である
鳥居だけあって隠されるように山津見の神の社があった
真野川をさかのぼる終点に山津見神社がありここは有名である
でも綿津見神社も飯館村にありこれは対になっている神社である

だから不思議だったのは松川浦に山津見という地名があり和田という地名がある
なぜここで二つが地名化しているのか?ここが海人族の上陸地点だったからである
なかなか地名になるのは記念となる場所であり地名の起源は古代にさかのぼることが多いからだ
綿津見神社が多いのは南相馬市の原町区と小高にもあるし相馬市にもある

綿津見神社の分布.jpg


この図で福島県の綿津見神社は南相馬市と相馬市が大半である、何かもっと多い感じがする、とにかくここも綿津見神社なのかと神社を見ると実感的に多いからである
山津見神社は山の方に行くと多いのである
もう一つ注意すべきは静岡県が多いのである、そして桜井古墳の発掘された物に静岡県由来のものがある



ヤマトタケルが駿河で敵に欺かれ野原に連れ出されて焼き討ちにあうが、火打ち石で向火をつけて難を逃れたとする有名な説話である。欺かれたことを知ったヤマトタケルは、敵を焼き滅ぼしたので、この地が「焼津」」とよばれたことや、身につけていた剣が自然に鞘から抜け、草を薙ぎ払ったので、その剣を「草薙」と名付けた地名起源説話を
伝えている。



この説話は焼畑と関係している、野を焼き払うとか焼畑をイメージさせるからである
ヤマトタケルの伝説には安曇族の海人族が船で渡って入植したことから生まれている
古事記でももともと安曇族の海人族が作ったものであるからそもを基にヤマトタケルの神話が作られたのである
焼畑というとき海人族がもたらした農耕技術であったからだ
飯館村の佐須が焼畑地名だというのもそうである

この松川浦から霊山への道で重要なのは一族の姓が地名化していることである
なぜこれが重要かとなると安曇族が来たとしてその姓もないし伝承すらないのである
ただやたら神社だけが残されていて海人族のことが不明になったからである
神社にしてもただ神社だけがあり伝承がないからである
おそらく安曇氏の後継として犬養(いぬかい)氏がいて八木氏がいてそれが地名化した
犬養は間違いないのである、犬を飼うということも一つの技術であり羊とか馬とか家畜化するのと似ている

●安曇氏系統の犬養氏と八木氏の探求


八木沢神社ヤギサワジンジャ
新町の観音様
挿絵
全国
秋田の神社・寺院
横手市
御祭神※
大山祇命オオヤマヅミノミコ

駅から歩いて5分ほどの場所に八木沢神社がある。「帆船女神像の里」とも言われる神社だ。航海練習船の帆船日本丸の船首像「藍青(らんじょう)」と、姉妹船の海王丸の「紺青(こんじょう)」は、境内にあったご神木のケヤキが使われている。
https://www.asahi.com/articles/ASM2V52WWM2VUTIL02T.html

阿曇犬養連は、「海神大和多罪(おおわたつみ)命の三世孫(みつぎのひこ)、穂己都久
(ほこつく)命の後なり」

阿曇氏の発祥の地

筑前国糟屋郡安曇郷(福岡市東区和白・福岡県粕屋郡新宮町あたり)、志珂郷(福岡市東区
志賀島)を中心とした地域

式内名神大社志加海(しかわた)神社があり、神職は阿曇氏

安曇氏族の系列

阿曇連(あずみのむらじ)(または阿曇宿禰)
海犬養連(あまのいぬかいむらじ
凡海連(おおしあまのむらじ)
八木造(やぎのみやつこ)
阿曇犬養連(あづみのいぬかいのむらじ)

日本書紀によると「蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子(もろもろのみこたち)と群臣(まえつきみ
たち)とに勧めて、物部守屋大連を滅ぼさむことを謀る」とある。
589 年(当時の蝦夷との勢力関係において安曇氏は登場しない)
http://azuminorekishi.sakura.ne.jp/siryou.pdf

yagishurain1.jpg
大阪府岸和田市中井町

夜疑(やぎ)神社であり当て字でありこの字の方が古いのかもしれない、夜疑⇒八木になった

当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、当地は『倭名類聚抄』にある和泉国和泉郡の「八木郷」と推定され、当地に居住した「八木氏」が祖神を祀ったのが当社であると考えられています。

『新撰姓氏録』右京神別に和多罪豊玉彦命の子、布留多摩乃命の後裔であるという「八木造」が登載されており、和泉国には見えないもののこの氏族が当社を奉斎したものと思われます。

八木氏の祖神であり当社の御祭神である「布留多摩命」は海神である豊玉彦命の子であり、豊玉姫命と兄弟姉妹の関係にあたります。このことから八木氏は、同様に豊玉彦命を祖とする海人族「安曇氏」と同族であることが示唆されています。

『倭名類聚抄』にある和泉国和泉郡の「掃守郷」は「八木郷」に隣接していたと見られ、かつて掃守郷の氏神だった「兵主神社」(西之内町に鎮座)には境内社に豊玉姫命が祀られています。
https://jun-yu-roku.com/izumi-minami-nakai-yagi/

安曇族

477 右京 神別 地祇 安曇宿祢 宿祢   海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也
478 右京 神別 地祇 海犬養     海神綿積命之後也     236
479 右京 神別 地祇 凡海連 連   同神男穂高見命之後也     236
678 河内国 神別 地祇 安曇連 連   綿積神命児穂高見命之後也
611 摂津国 神別 地祇 阿曇犬養連 連   海神大和多羅命三世孫穂己都久命之後也  
610 摂津国 神別 地祇 凡海連 連 安曇宿祢同祖 綿積命六世孫小栲梨命之後也

宗像族

476 右京 神別 地祇 宗形朝臣 朝臣 大神朝臣同祖 吾田片隅命之後也     235
677 河内国 神別 地祇 宗形君     大国主命六世孫吾田片隅命之後也

素盞鳴尊八世孫、和邇君の租神。大国主神の六世の孫裔ともいう
宗像三女神の七代孫とする説もあり、 「新撰姓氏録」では「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」とあり、宗形朝臣の祖。大神朝臣の祖。

阿雲犬養・倉海の息子は、穂高神社社家となっていて信州にいる

河内国には安曇氏族の八木造か゛いたことか゛分かっている。八木造は新撰姓氏録によると「和多罪豊玉彦命の児の布留多摩乃命の後」とあり、安曇氏の一族とされている。八木氏は河内国和泉郡八木郷(現 在の岸和田市八木地区)を本拠地としていたとのことて゛ある。この地域に式内社て゛ある夜疑(やき゛)神社 か゛あり、主祭神は布留多摩命て゛ある。布留多摩命は綿津見命の次男て゛あり、八木氏は安曇氏の一族と考 えて良いと思われる。しかし八木氏と安曇氏の関係は詳細不明て゛ある。また淡路島の八木村か゛八木氏の 故地て゛あるという説もある
http://www.tokyox.matrix.jp/forum/discussion/407/%E5%AE%89%E6%9B%87-%E7%B6%BF%E6%B4%A5%E8%A6%8B-%E5%BF%97%E8%B3%80%E6%B5%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE

安曇氏族の系列
  阿曇連(あずみのむらじ)(または阿曇宿禰)
  海犬養連(あまのいぬかいむらじ)
  凡海連(おおしあまのむらじ)
  八木造(やぎのみやつこ)
  阿曇犬養連(あづみのいぬかいのむらじ)
  
安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、安曇が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達する。

C長門国(安曇族)
  下関市安園町富任 長門国豊浦團五十長凡海我孫2
  大津郡向津具村 八木家所有の畑地から有柄銅剣
  
  子市上安曇(かみあづま)・下安曇(しもあずま)
和名抄に會見郡安曇郷の記載あり、現在でもその地名が残る。
近隣には式内社宗像神社、高良神社があり、九州との関連が考えられる遺跡も散在する。
また上安曇には楽楽福神社があり、当社は鉄との関連が深い神社であることから、安曇氏と産鉄との関係も考慮できるかもしれない。
  http://houki.yonago-kodaisi.com/F-BG-azumi.html
  
安曇族は2〜3世紀の物部東征とともに大和へ進出。やがて物部の力が衰退して神功皇后の時代になると、安曇氏も新権力のもとで朝廷に服従する側にまわったと考えられます。綿津見三神が住吉三神という呼び名に変わったことがそれを象徴しているように思います。

安曇氏は朝廷に仕えながら各地の海人族を統率していましたが、401年に安曇連浜子が天皇暗殺を謀った罪によりその地位を追われます。律令時代には天皇の食事を司る内膳司長官を務め、また660年頃に安曇比羅夫が水軍を率いて百済救援へ向かい、白村江の戦いで戦死。その後安曇氏は中央から消えていきまし


その古墳時代の前期後半(4世紀頃)
に「大和」を支配したのは、弥生終末期に(2世紀後半)、「前方後方墳勢力」、すなわち「ワニ族」によって
駆逐された「奴国系倭人」、すなわち「安曇族集団」であったということである?!その「安曇族集団」が、「大
和」(と朝鮮半島南部)で蘇ったということか?!穿った見方かもしれないが、それが、例の「物部氏」、すなわ
ち、「日神(太陽)信仰」の「饒速日集団」であったのではないか?!そうとも、思われるのである?!

祭神が「木花咲耶姫」(伊予大三島の「大山祇神社」の祭神「大山積(祇)命」の子?)である
「富士山本宮浅間せんげん大社」等は、その「和邇氏(族)」の、東方への進出の事績
http://www.gakuyou.jp/doumotosan/sisakubannimukete2-7.pdf

この「倭国」ですが、一般には「安曇(あずみ)氏」といわれる日本列島先住民である縄文海人族で、「磐余彦(イワレヒコ)」、すなわち、のちの「神武天皇」の出身母体である氏族ですが、後に「磐井の乱」を起こして大和朝と対立した地方支国です。

環太平洋文明圏縄文王国(安曇氏)→後期縄文王国(和田橘氏)→弥生時代
(海部氏・徐福系物部氏、邪馬台国)→大和朝廷(応神以降、秦氏)。

前期縄文王家の安曇氏の中

核は、後に東北側の寒冷化に伴い、列島の中心で黒曜石が取れ、自然の恵み豊
かな土地だった諏訪に隠れた。これが、国譲りに於いて、タケミナカタが諏訪
に追いやられたこととして暗示されている。
http://g-village.net/iyasaka369/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%B5%B7%E4%BA%BA%E3%81%A8%E5
%BC%A5%E7%94%9F%E6%B5%B7%E4%BA%BA.pdf

安曇族は熊襲、隼人、宗像、出雲、阿蘇多氏と血縁であろう。さらに秦氏、尾張氏、多氏、中臣氏、物部氏とも海運業の上で提携していたであろう。
天武朝の役人ともなった。阿曇連が記録に見える。右京神別。宿禰。
また同じ宿禰に海犬養連(あまいぬかいむらじ)、凡海(おほしあま)連がいる。
海犬養連はおそらく隼人である。隼人は出自として証せないので安曇氏を名乗った
http://www.oct-net.ne.jp/hatahata/azumino.html

和邇氏の実際の始祖は和邇日子押人命だと思われ(孝昭天皇後裔は後世の仮冒)、元々の姓は「鰐積」(安曇、穂積、出雲積などと同じ)だったと思われます。だからこそ、春日臣から和邇を名乗る者が出たのだと思います。「鰐」をシンボルとする海神系の氏族集団でしたので、本来は安曇同族で、綿津見豊玉彦が遠祖であったはずです。

まず、海の民は「まっすぐ伸びた巨木」を求めていたということだ。もちろん、木を刳(く)り抜いて船(丸木舟)を造るためだ。また、海の民は山を目印に航海をした(山アテ)ので、山の神を大切に祀ってきた。

海人族はこの辰砂を始め鉄や銅などの産出地を見極める技術や冶金術(鉱物から金属を取り出し精製する技術)をもっていたと考えられます。安曇の祖は穂高見命またの名を宇都志日金析命とあり、金カネの字があてられています。後裔の凡海氏はその冶金の技術を買われて陸奥国に派遣されています。
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/11146489

『新撰姓氏録』によれば、和多罪豊玉彦命(わたつみとよたまひこのみこと)の児神、布留多摩乃命(ふるたまのみこと)の後裔とされる。一族の始祖は布留多摩命の孫で、椎根津彦とは兄弟関係にある八玉彦命。

やぎ神社

「八木」の氏名(うじな)は河内国和泉郡(後に和泉国和泉郡)八木郷(現大阪府岸和田市八木地区)の地名に基づくとされるが、現奈良県橿原市八木町に八木寺(廃寺)があり、その創建は奈良時代に遡るものと見られるので、これを八木氏の氏寺と見て同地一帯に一族が蟠踞した可能性を説く説もある。また、一族で東大寺の写経生であった八木宮主が氏神の祭りを理由に休暇を請うた記録が『正倉院文書』に残されており、この氏神を鴨大神(現高鴨神社)と見て、その鎮座地である大和国葛上郡(現奈良県御所市)及びその南隣の同国宇智郡(現同県五條市)に住した一族がいた可能性も指摘されている。




安曇氏は早い時期に歴史から消えた、それは謎であるがこの辺では伝承もなく何も伝えられていない

しかし地名がその歴史を記していた、飯館村に行く八木沢峠とか霊山の八木平とか犬養は安曇氏と同族であり姓名だった、古代には姓名がそのまま地名化することがある
安曇は長野県で安曇として地名を残している
ただ南相馬市とか相馬市では安曇氏の関連は見いだせないがその後続として同族の八木氏とか犬養氏がこの辺に移住して農業などにたづさわっていたのである
明確なのは松川浦に山津見神社があり和田があるこの和田は綿津見(わたつみ)のことである、つまりそこが上陸地点だったことがわかる、そこから宇多川を上り玉野に出て
霊山町まで行った、途中に八木平があり霊山を越えると犬養がある
佐須までは真野川をさかのぼり行った、途中の栃窪村に山津見神社があり大倉に山津見神社がある、また原町の方から八木沢峠がありこれは八木氏と関係していて名付けられた
地形地名とは違っていたのである

ともかくなぜこれほど綿津見神社神社や山津見神社が多いのにこのことが見逃されていたそれは安曇氏とかの歴史が途絶えたからである、そして神社だけは伝承もなくこの辺に多く残されたのである
つまり神社だけが歴史の証拠として残されていたのである
そして地名が歴史の証拠であった、その外に解明する方法がないのである

2021年07月21日

真野の草原は自然境界でもあった (ゲノム解析で判明した縄文人のルーツ)


真野の草原は自然境界でもあった

(ゲノム解析で判明した縄文人のルーツ)

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●自然境界ー天候、地形(山や川)

●人為的境界、政治的境界

境界がどうして作られたかとなると自然の作用で作られた、山があり川があればそこを越えたり渡ることが困難になる
それで自ずと自然境界となる、だから実際は境界は神が決めたものである
その後に人為的境界が作られた、だから歴史でも自然から見ることが大事になる
つまり歴史とは地歴なのである、地理がありその上に人為的な人間の歴史がある
古代とかなる自然が大きな力をもっていたからその境界は自ずと原始自然状態に左右されるのである
自然の動植物の分布でもそうである、暑さ寒さに天候に左右されて分布する
それで南相馬市の鹿島区の海老村がマルハシャリンバイの南限の地となっていた
それは南国産であり奄美大島辺りから種が流れついて自生したとなる
つまりここはそうした南と北の自然境界線だったのである

これは草原(かやはら)とあっても萱のことではない、伽耶の国とも関係したとして考察した、ただそれは明確に証明はできない、確かなことはカヤと発音されても当て字なのである、なぜそうなったかというと伽耶というのが日本と深く関係して渡来人が鉄の生産の技術者が鉄を求めて海外沿いを来て地名を残した
真野というのもそうである、真野氏一族が石巻から北上川をさかのぼって登米まで行って地名を残しているからである
真野郷とは真野氏一族だとなり近江にも関係している、工人が直接真野郷から近江の栗原郡まで行き来していたからである

そして今回発見したのがDNA研究から明らかになったことである
それをyoutubeで見てわかった、ここではアイヌ人と沖縄人がDNAで近接していて同類の割合が強いとしている、また青森県の人と沖縄人がDNAで共通しているとしている
これは興味深いことである、青森はアイヌ語由来の地名が多くあることで知られているからである
また沖縄人とアイヌ人の顔が何か似ている、それは縄文人だとしている
そして日本列島のヤマトとは北海道に入らなかった、アイヌは江戸時代まで存続していたのである、その人たちが縄文人の末裔だとしている
確かに沖縄人とアイヌ人は顔が彫りが深く似ている

ただ疑問なのはそしたらアイヌ語は明らかに縄文語になる、そのアイヌの言葉が今の日本語と縁戚関係になるがそういうことは見えないのである、アイヌ語は日本語と共通性がない、アイヌ語は語彙も日本語からすると少なすぎる、何か表現するにしても余りにも単純すぎる、幼稚な言葉なのである、でももし縄文人だったら何かしら今の日本語に通じるものがあるはずだが何か見られない、アイヌは何かヨ−ロッパ系統にも見えるのである
なぜならhave動詞は似たようなものを使っているからこれはアーリアン人系統の印欧語族に由来するとなるからだ
だからアイヌ人は比較的新しい民族にも見えるのである
ただDNAいうとき私は理系でもないしわからないからどう判断していいかわからない
でも言語的に見るとアイヌ語が日本語の祖語には思えないのである

縄文人が韓国人に一番近いというのはわかる、その次が漢人だとなる、ただ地理的に日本に入って来たのが一番近いのが樺太から渡ってきたのと韓国から渡って来た人たちであるそれは地理を見れば一目瞭然だからである
あとは台湾を経由して沖縄諸島を渡って来た人たちである、それも島伝いに来ると渡り安いからである、船にしても今のものとは違う、丸太舟とか筏の船とともなれば島伝いに行くから途中に島がないと海は渡れないからである
だからこれは地理的に理解しやすいのである

そもそも青森の地域、津軽の地域は特異であり東北でも異色なのである
丸山三内の縄文遺跡とかでもそうである、亀ヶ岡土器文化があり縄文文化が早めに発達した地域であり先進国だったからである、漆塗りの土器などもある
青森が遅れた県として今は見るが縄文時代は先進国だったのである
東北も遅れた国とみているが縄文時代は先進国だったのである、西が遅れていたのであるただ西は渡来人が来て稲作が広範囲にはじまり弥生文化の中心地になったのである

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青森は津軽海峡に隔てられているが北海道の植物も育つ、動物では津軽海峡でさえぎられてニホンザルの住む限界となる、ブラキストン線がある

このyoutubeで一番注目したのが青森のDNAが沖縄と近く青森と秋田、宮城がDNAで共通している

ここに福島県が入っていない!

つまり真野の草原はまさに宮城県との境界でありそこに入っていない、すると人種的には福島県は縄文人時代があったとしても早めに渡来人とかと混血していたのかとなる
ただ青森の津軽にしてもツガルがツノガノアラシトの系統なのかともみる
ツノガノアラシトが縮まってツガルとなったかともみる

それで不思議なのは棚倉でヤマトタケルの皇子と戦った蝦夷軍にツガルの蝦夷が援軍として来ていたことである、なぜそんなに遠くから援軍に来たのか?
つまりなんらか同盟関係がありそんな遠くから来たとなる
ただその時代にここの蝦夷は青森、秋田、宮城からすると別な人種だともなっていたのである

陸奥国風土記逸文に『磐城の国造磐城彦が福島県石城郡棚倉町八槻の蝦夷に敗れたので日本武尊が征討軍としてやってきた そこで蝦夷は津軽の蝦夷の援護を要請したので日本武尊は非常に苦戦した』とある

一番遠くにあってそして一番強いのが津軽の蝦夷=都加留で上津野の蝦夷も都加留に属していたろう。矢立峠・坂梨峠を越えれば直ぐ出羽でも陸奥でも未だ国名もない漠とした津軽なのだ。その強さは大和朝廷圧制に耐えがたきを耐え忍び難きを忍んだ末のやむにやまれぬ末の抵抗だったのです。

元慶の乱に於いて鎮守将軍小野春風は七時雨道(鹿角街道)と言うわざわざ岩手県を迂回して最初に『言向けて和(やわ)し』たのも鹿角蝦夷なのだ

鹿角蝦夷(かづのえぞ)とはかずのとはかーつのでありツノガノアラシトなのである
相馬市松川浦の津神社もつのみや神社のである
ここで誤解しやすいのは津神社となっていてツノミヤ神社となっている
これはつつげてツノ神社となりつのみやとなった、ツノガノアラシトのツノなのである
ここがまぎらわしいのである、かづのもだからかづのとあっても明らかに角(つの)とありツノガノアラシトアラシトなのである、これは伽耶国の王子なのである


八槻の伝説-----------------------

都々古別神社の伝説から。

倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という

「八目の鳴鏑矢で賊を射たおしたとあり、
その矢が落ちたところを矢著、正倉がある矢著を八槻となった。

その八槻とは、八人の土蜘蛛で、

@里鷲A神衣姫B草野灰C保々吉灰
DあざになひめEたく猪F神石かやGさしな、

が八か所の石室にいたが王に従わずヤマトタケルは土蜘蛛を討伐した。

草野灰、神石萱のかやのはいとかみいしかやの萱は必ずしも萱とはならない
萱は伽耶に通じている、渡来人集団が蝦夷にもなっていたのである
ヤマトタケルと敵対する蝦夷となっていたのである
それがなぜ津軽の蝦夷に援軍を依頼したのとなる、そこは遠いからである
でも津軽まで同盟関係がありできたとなる、そして津軽は一番蝦夷の根拠地にもなる

その強さは大和朝廷圧制に耐えがたきを耐え忍び難きを忍んだ末のやむにやまれぬ末の抵抗だったのです。

たがらこそ遠くからでも援軍を頼んだのである、ただ福島県の浜通り辺りは棚倉でヤマトタケルと戦い大和に早めに服属した地域になっていた
その歌が

の強さは大和朝廷圧制に耐えがたきを耐え忍び難きを忍んだ末のやむにやまれぬ末の抵抗だったのです。
この歌は単なる笠女郎が大伴家持慕う恋の歌ではない、大和朝廷に服属した地域となった境界線だから歌われたのである、それで青森と秋田と宮城県がDNAで共通していて沖縄人と同類に近いと分析されたのである、ただここで岩手県は出ていない

みちのくの真野の草原(かやはら)遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

明らかなことは真野の草原は明らかに自然の境界でありまたその後に人種的にも宮城県とか秋田県とか青森県とも違うものともなり早くから大和朝廷に服属した蝦夷の地域ともなっていたのである
そこに二人の恋の歌ではない、古代の歴史的背景がありそこを読まないと鑑賞できないのである、万葉集にはその背景が古代の歴史と深く関係していて単なる恋の歌ではないのが多いのである、だからその背後にある古代の歴史を知らないと浅薄なものとしてしか鑑賞できないのである


ツノガノアラシトについて

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都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は、『日本書紀』では「都怒我阿羅斯等」、他文献では「都怒賀阿羅斯止」「都怒何阿羅志止」「都奴加阿羅志等」とも表記される。また『日本書紀』では別名を「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」とする。

意富加羅国(大加耶/大加羅、おほからのくに、現在の韓国南部)の王子で、地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。

敦賀からツノガノアラシトが入ってきた、敦賀(つるがーつがる)ともなり似ているのである、まぎらわしいのが津神社となっているとき津神社はつの神社と呼ぶからまぎらわしいのである
とにかくこのツノガノアラシトは伽耶国の王子でありその渡来人の一団が製鉄の技術者として地名までになったのである
ただその後にこの事実は歴史から隠されて来たのである
ただ伽耶国とヤマトは一体であり日本がの一部として日本府がありそこから天皇が出たという説もあるのだ

2021年02月25日

陸奥の真野の草原が地質的にも境目だった (鶴岡から相馬地域は共通した地質を形成)


陸奥の真野の草原が地質的にも境目だった

(鶴岡から相馬地域は共通した地質を形成)

manoborder2.jpg

歴史に見る東北の方位(東北学文庫1)


陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを ...

笠女郎(かさのいらつめ)の大伴宿禰家持(おほとものすくねやかもち)に贈れる歌三首
陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを

ここは確かに地形的にも地質学でも鶴岡から相馬地域で区切られた場所である
その自然の境界がまた歴史的境界ともなっていた
南限の地としてマルハシャリンバイ自生の知とされるのもそうである
ここは照葉樹林帯の南限の地だともなるからだ

こうして真野の草原は自然の境界でもある、気候とか地質でも境界になっている
だから石巻説になると遠すぎるのである
不思議なのはここでも地図を見るとなぜぴったりと相馬地域まで明確に地形や地質の差があり境界になっていることなのである

ここは気候でもそうだうし地形でも地質でも境界になっていてそれでこの場所が西から来た人々に意識されるようになった
境界というのは意識されやすいのである
大陸では大きな川である、ライン河をローマ帝国をはばんだ、そこは異民族のゲルマンの地だったからである、ライン河を境にして風土も文化も歴史も違っていたからである

ここでは河ではないが地質的にも気候的にも境となっていて真野の草原として知られるようになったのである、草原(かやはら)は地名なのである
もし草原(かやはら)だったら別に萱などはどこにでも日本では茂っている
もし植物相でも変わったものになっていたら別である
草原が萱は南でも西でも東でも関係なく日本ならどこでも茂っているからそれが何か特別の目印にはならないからである
ただこれは本当にまぎらわしいものとなっていたのである

2021年01月23日

真野の草原は気候の境目 (石巻説は気候からみると無理)


真野の草原は気候の境目

(石巻説は気候からみると無理)

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陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを 笠女郎

天気予報を見ていると何か必ず真野の草原と万葉集に歌われた地点が境界になっている
この図では仙台辺りにもなるかもしれないがやはり真野の草原という地点にもなる

第一石巻説だと遠すぎるというのが他の人の意見でもある
そんな遠くとなると無理なのである、どうしても歴史的にも地理的にも天候でも合わないのである
雪降るにしても東京が降ったときここも雪がふる、かえって東北の北から雪がふるようで降らない
関東の方が雪るとここもふりやすいのである
それが気候のパタ―ンとなっている、それは変わらないとなる

確かに地名からするとそれに符号したものがありそれなりのものとして証明されることはある
でもやはりみちのくの真野の草原は奈良から大和朝廷が進出したみちのくの最果ての境目になる
地理と天候と歴史的なものから南相馬市の鹿島町が有力だとなる

それでも縄文時代の天候がどうだったかとなるとまた違っている
なぜなら縄文海進の時代であり海は奥深く入っていた
それで南相馬市の鹿島区の塩崎が入江となり海となっていた
塩崎という地名自体が海だったからついた
船が入ってきたので船着という地名が残っている
そのすぐ近くまで津波が来ていたことに驚いたのである
そこは低い場所だから津波か奥まで来たのである

そこには市庭とかの地名もあり市が開かれていた
それは今東北電子力の火力発電所のある所で鉄を生産していた、砂鉄をとり生産していてそれを船で運んだようである
そのために大内村に曽我船という地名が残っている、曽我(そが)とは遡るという意味である、そこを頻繁に往き来した船があり名付けられた

そして坂上田村麻呂が建てたという薬師堂が残っている、それは800年とあり古いのである、大内村はそれだけ古い場所だったのである 

ともかくもともと海だった所が今回の津波で本当に海になったのである
ただ意外だったのは海老村は高い場所にあり避難場所にも指定されていたのに村が消滅したことである、そこには最近古墳が二つ発見されたのである
だから相当に古くから人が住んでいたのである

すると大きな津波がそこにあったとも推測できるがその証拠はない
その伝説もない、ただ八沢浦の奥の方に津波が来たという伝説は残っていた
だから津波の経験を語っていたのだがそれを注目している人はいなかった

津浪によって歴史が解明されたことがあった、地史も歴史でありその間隔が数百年とか長いから記録もなく忘れていたのである  

笠女郎の歌は錯覚しやすいのである、真野の草原はやはり萱原ではなく地名だと思う
大伴家持を慕ったとしてもそこに萱原をイメージすることはない
ただ遠い果てまで行っても慕っています、面影に見えますよという解釈になる
どうしても草原が萱原に思えないのである
現実に大伴家持は多賀城に赴任した説があり本当にみちのくに来たということがあるともなるからだ、大伴氏一族がみちのくに来て跡を残しているからである

その証拠となるがここが気候的な境目になっていることである
マルハシャリンバイの南限の地となっていたのもそうである
比較的暖かい土地だからである、今でもその気候は変わっていないからである
気候は確かに変わるが代わるにしてもその期間は数千年単位とかにもなる、万年単位にもなるし億年単位にもなる
ただ地形とかは変わらないのである、だから縄文海進状態が津波で再現されたのである



2020年12月12日

俘囚とされた蝦夷(エソ)が大量に全国に移住 (真野郷の製鉄にかかわる栗太郡にも移住していた)


俘囚とされた蝦夷(エソ)が大量に全国に移住

(真野郷の製鉄にかかわる栗太郡にも移住していた)

●近江に移住させられていた蝦夷(エソ)の資料発見

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滋賀県栗東市は、律令期の近江国栗太郡(粟田)にあたり、かねてから武井・金沢製鉄遺跡群の技術体系の故地とされる官営製鉄所=瀬田丘陵生産遺跡群を抱えたところ

『六国史』(『類聚国史』の補分を含む)には吉弥侯部や吉弥侯(君子部、君子)を氏とする人物の記述が時折見られる。『続日本紀』では公民や官人としての君子氏や君子部氏、吉弥侯部氏、吉弥侯氏が記載されているが、類聚国史の「俘囚」の項には多くの吉弥侯部氏や吉弥侯氏が俘囚として記録されており、『続日本後紀』以降では俘囚以外にも賊首や賊主としての吉弥侯部氏、吉弥侯氏の記録がある。これら六国史の実際の記載としては「陸奥国俘囚」「陸奥国賊首」「出羽国俘囚」「常陸国俘囚」「甲斐国俘囚」「甲斐国賊主」「越中国俘囚」「摂津国俘囚」「播磨国俘囚」「伊予国俘囚」「安芸国俘囚長」「因幡国俘囚」「出雲国俘囚」「豊前国俘囚」「豊後国俘囚」とされているが、その殆どは何らかの功を挙げ位階を賜った記事となっている。これらの人物の中には、尾張国、駿河国、阿波国へ移配された者もあった

毛野氏一族の吉弥侯部氏(君子、浮田国造)がその伴造だったと考えられており[5]、賜姓の際には多く「上毛野」某公、「下毛野」某公の氏名を賜っている。一例としては陸奥国信夫郡の外従八位吉弥侯部足山守(きみこべのあしやまもり)が上毛野鍬山公(かみつけのくわやまのきみ)を賜ったことがある


蝦夷とは何かとなればそもそも大和王権が成立する前の日本は先住民がいて蝦夷だったのである、縄文人が先住民でありその後出雲王国があり出雲は蝦夷だったとされる
蝦夷というとき伽耶国とかからその王子のツノガノアラシトが鉄生産技術をもって蝦夷の国に入り先住民化していたのである、だから大和王権が戦った蝦夷とは手こわいものだった、渡来人がもたらした技術をもっていたからである
鉄生産もしていたからである、だからここに書かれている俘囚にしても全国に移住させられた、それで俘囚の反乱もあった
そもそも防人などに兵士として徴集されるのを嫌い反乱したというのもわかる
第一その時代に国という意識がない、狭い範囲しか認識できない、それが突然大和王権の配下になり戦地にでも送られるとしたら抵抗があった
これだけ全国に俘囚がいるとしたらそもそも大和朝廷として全国を治めたとしても不安定になる、それだけ蝦夷制定には苦労したとなる

みちのくの真野の草原(かやはら) 遠けども面影にして見ゆといふものを 笠女郎

この歌はここまでが大和王権に朝廷に服属した地として知られたものとしての歌だったのである、ここから奥はまだ大和朝廷に服属した地ではなかったのである

吉弥侯部(きみこべ)というとき毛野氏と同族関係にあり浮田国造(うきこくにのみやっこ)は南相馬市の鹿島区にあった、毛野国の支配下にあったともなる

そして

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近江粟田郡の鉄生産地と陸奥行方郡真野郷の密接なつながり (直接鉄生産の工人が行き来していた)

ここで考察したように永治二年(1142)の造立で玉桂寺の阿弥陀仏より70年前の資料である、そのように古くからエソが蝦夷がここに移住していたとなる
蝦夷の問題はそれだけ古いし終わることなく鎌倉時代までもつづき江戸時代になると征夷大将軍というのは夷を制するものとして残されたのである
それは鎌倉時代までそういうことが知られていて資料が残ったとなる
実際に真野郷と工人が直接行き来していたのでありそこに定着した人もいるともなる
その継続として今度は蝦夷が俘囚として全国各地に移住させられて管理されていたともなる、つまり歴史の継続が鎌倉時代までつづいていたのである

●阿波の忌部の祭祀集団が千葉県に移住

古語拾遺』(大同2年(807年)成立)[原 11]や『先代旧事本紀』[原 12]の説話によれば、忌部氏遠祖の天富命(天太玉命の孫)は各地の斎部を率いて種々の祭祀具を作っていたが、さらに良い土地を求めようと阿波の斎部を率いて東に赴き、そこに麻(アサ)・穀(カジノキ)を植えたという[5][6]。

同書では続けて、天富命が植えた麻が良く育ったのでその地を「総国(ふさのくに)」というようになり、また穀の木が育った地を「結城郡」というようになったとし(分注に、麻は「総(ふさ)」の古語とし、また上総国・下総国の2国がこれにあたるとする)、阿波斎部が移住した地は「安房郡」と名付けられたとする(分注に、これが安房国の国名になったとする)。また、同地には「太玉命社」を建てられ、これが「安房社」(現在の安房神社(千葉県館山市)に比定)にあたり、その神戸(神社付属の民戸)には斎部氏があるとも伝えている[5][6]

                                                           
阿波忌部ー織物の技術集団

さたみつとかあるのは忌部氏と関係している、阿波に織物の技術者集団がいてそれは千葉県に移住した、千葉県はもともと総国(ふさのくに)であり下総と上総があったからである、つまり移住するというとき何かしら技術をもった人たちがいると技術が伝えられるとなる、何か越中などの移民が紙漉きの技術を相馬地方に伝えたというのもそうである
さたみつという貞光町がありそこに行ったことがある
そこはうだつの屋並で有名である、ただ屋根に苔むしたり草が生えたりして相当に古くなっていた、その後は煙草の産地として大阪とかに煙草を売ることで栄えたのである
さたみつというのはそれだけ古い由来がある名前だとなる

初燕うだつの屋並貞光町

こんな所まで旅していたのが自分だった、地名でも阿波は安房とかなり移動しているし真野郷とあるときこれも近江に真野があり移動したとなる


 あとがき

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毛野氏一族の吉弥侯部氏(君子、浮田国造)がその伴造だったと考えられており、賜姓の際には多く「上毛野」某公、「下毛野」某公の氏名を賜っている


浮田国造は毛野氏一族の吉弥侯部氏である、毛野系統の支配下にあった
そして賜姓では毛野になっているのはその証拠である
ただ行方郡とかは大伴氏になっているのは注意が必要である
大伴氏が毛野の支配下に入ってきてそうなった
それは大和朝廷の進出を物語っている、そしてそれが真野の草原の歌とも関係している
大伴氏を慕ったのが笠女郎であるからだ
行方郡の真野郷は大和朝廷の支配下に入ったということを示している

毛野氏一族の吉弥侯部氏(君子、浮田国造)はその前のに支配していたのであり大伴氏は後から大和朝廷の進出とともに勢力を伸ばしてきた氏族なのである


2020年11月12日

国(くに)とは何なのか? (古代から国造(くにのみやっこ)から考察)


国(くに)とは何なのか?

(古代から国造(くにのみやっこ)から考察)


くに‐の‐みやつこ【国▽造】 の解説
《国の御奴 (みやつこ) の意》大化の改新以前における世襲制の地方官。地方の豪族で、朝廷から任命されてその地方を統治した。大化の改新以後は廃止されたが、多くは郡司となってその国の神事もつかさどった。くにつこ。こくぞう。

東の毛野(けぬ)、西の筑紫・豊・肥の君姓国造などさまざまであり、一律に行われた編成ではないことが分かる。

国造はそれぞれの国造の祖神たる神祇の祭祀を司り、部民や屯倉の管理なども行った。国造族の子女を舎人や釆女として朝廷に出仕させており、紀国造や上毛野国造などのように外交に従事したりもした。また、筑紫の国造(筑紫国造)のように北九州を勢力下に入れ朝廷に反抗する者や、闘鶏国造のように解体された国造も存在する。


国(くに)を考察するときそこが最小の国からの行政単位としてあった
だから国造(くにのみやっこ)が中央から派遣された
ただもともとそこに何らか国が形成されていないとそれもできない、その地域に国が形成されていて国造が中央から派遣された、第一荒野のような所だったら派遣しようがないだろう

浜通りでは石城(いわき)、染羽(しめは)、浮田が国造りが置かれた地域である
染羽(しめは)は浪江辺りであり浮田は南相馬市の鹿島区である
だから古代になるとこの三つの地域はすでに一つの国が形成されていたとなる
そこに何らか国となる人口があり人々がそれなりに住んでいたとなる
一番古い国があったとなる 、これは毛野系統なのである

ただクニというとき県(あがた)がありムラがありマチがありミヤコがある、クニというのがどれくらいの範囲なのか明確ではない、国造りのクニは狭い範囲なのである、浮田などになるとそこは相当に狭い、一つの村くらいなのである
だからクニという今の感覚では狭すぎるとなる

会津嶺の国をさ遠み逢わなはば偲びにせもと紐結ばさね

万葉集にのっている国では会津が一番古いとなる、でも会津というとき広いのである
それだけの広い所が国として意識されていたとなる
だから国造(くにのみやっこ)が置かれた国とも違って大きいとなる

そもそも国意識がどうして生まれたのか?

それは何か風土と密接に関係している、どちらかとうと四方山に囲まれた地域が国として意識されやすい、だから会津が国として古代から意識されていた
そして日本は地形的に山が多く山に囲まれている、そこに小国(おぐに)という地名が多い、阿武隈山中にも小国がありそういう場所なのである
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山超えて小国とあれや春の日やバスにおりたち一時ありぬ

福島市に行くのだがここでバスで降りた記憶があるからだ
それから小国町もありそこは遠かった、さらに青森県の黒石市から温湯(ぬるゆ)温泉へ雪が積もっている時バスで行った、トンネルをぬけるとそこにも小国とあった
こんな奥に小国があるのかと不思議だった、そこは十和田湖に近い場所でもあった
つまりこのように日本に小国という地名が多くそこを一つの国として意識していたのである、だからもともと国はそうして小さい隔絶した山に囲まれた辺鄙な所だった
そこで自給自足して暮らしていたとなる
それにしてもそこまで行くのはバスしかないのだから難儀する、車があれば別だがバスは不便だからである

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クニというとき村とも違う、村は群れるからきているから人の匂いがする
クニは区切られたとか一つの区切られた地域であり自然をイメージする
でも国というときその範囲が拡大して来た、すでに会津嶺の国でもそうである
だから日本全体が国となったのもそうである、でももともと国造りが派遣された場所でありそこは何か狭い場所なのである
今の意識とは相当に違ったものと感じる   

柳田は〈ヲグニ〉の特徴として「生活品は塩さえも土地に産することがあり、武陵桃源の隠れ里のごとく、彼らが自得自讃の根拠あることを感ぜしめる」と記しました

日本は山が多いからそういう隔絶した場所にも住んだ、だからそこで小国という意識が生まれた、そこで自給自足して生活していたからである
飯館村などがそういう地理にあり海側からすると峠を越えるのが容易ではない、地理的に隔絶されている、そこは貧しい地域だったともなる、ただ森が多いから炭焼きなどで豊かになった人もいる、木材が豊富だからそれで伊達との争いもあった

いづれろにしろ私は国にこだわるのはその土地と一体化してアイディンティティ化するのが国だからである、ただ故郷ととなると古い里なのだから狭すぎるのである
国というときもっと大きな自然がありそこでアイディンティティ化する場なのである
だからこそ日本国となるのもそれだけクニが広い範囲として国土として意識されたからそうなった、ただ行政的単位ではない、クニとはだから福島県だったら会津とは一体化できない、浜通りと会津とは全く違った風土と地域だからである
だからそれを国として意識することは無理なのである、ただ一応福島県内にあるから親密感はあるとはなる、でも地理的には相馬地域なら宮城県と仙台方面と一体感が海を通じてあったのだ、それは津波で意識された、だから宮城県の津浪の歴史を地理的一体のものとしてもっと郷土史で探求していればよかったとなる

ただ一時私はスマトラ津波の時相馬市に松川浦から津波が来て奥まで砂がボーリングで発見されたとありそのことを書いた、それは貞観津浪のものであった
慶長津波のことは何ら記録されていなかったのである、相馬藩政史に二行700人生波(いくなみ)で溺死としるされていただけなのである
それも津波の以後に発見されたのである、だからここは津浪の記録の空白地帯になっていたのである                              

ともかく地理と歴史は不可分に結びついている、だから地歴なのである
それで日本国内なら隈なく私は旅行しているから地理はわかるのである

2020年11月10日

山津見神⇒羽山津見神(羽山戸神)の関係 (なぜ羽山神社が多いのか?)


山津見神⇒羽山津見神(羽山戸神)の関係

(なぜ羽山神社が多いのか?)



よく似た名前の神…ハヤマツミ(麓山祇・羽山津見神)

死んだカグツチの体から生まれた神の1柱が「ハヤマツミ神」です。ハヤマは「山の端」という意味で、山の麓、山の入り口という意味です。「ハヤマツミ神」と「ハヤマト神」はほぼ性質が同じがかなり近い神と考えていいでしょう。

日本では山に穀物神が住んでいて、その神が里の畑に下りて、畑に宿って穀物を育てると考えていました。だから山は異世界の入り口であり、良い穀物神を宿す山は特別視したわけです。それが「ハヤマト神」だと思います。

『古事記』だけに出てくるマイナーな神に羽山戸神という神がいる。系譜は大年神(オオトシ。『古事記』において須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた)と天知迦流美豆比売(アメチカルミズヒメ)の間に生まれた神と言う。

羽山戸と羽山津見(麓山祇)は「羽山」の部分を同じくし、『日本書紀』訓注に「麓、山足を麓と曰ふ。此に簸耶磨(はやま)と云ふ」とある。よって、「羽山津見」のハヤマは端山の意で、山の麓に解され、奥山津見に対応する、と言う。地名には、羽山、葉山、早馬等があり、「は(端)、やま(山)で、平地に接する山のこと」とか、「山の端」の意



相馬地域に多いのは綿津見神社である、それと対となった山津見神社がある
それは飯館村までつづいている、飯館村の佐須にある山津見神社は有名である
また綿津見神社も対なしてあり小社ではない、なぜこの神社がこの辺で特別多いのか?
それがこの辺の古代の特徴である

そして次にわかったことは羽山神社というのがまた多いのである
これは山津見の神から生まれたものとしての系統である
山津見と羽山は一体である、なぜなら羽山津見神というのもあるからだ
山津見のの前に羽を置けばそうなる
それで「本邦小祠の研究ー岩崎敏夫」があるのもそのためである
それだけ羽山神社が多い、また地名としても多いから研究の対象となった

それは山津見神と一体のものであり元来は山津見神から派生した神であった
この羽山神が多いのは稲作と深く関係していたからである
山が水の供給源であり稲作には水が欠かせないから信仰の対象になった
それが奥山ではない里山となっていたのはそこが生活の拠点となっていたからだろう

ただ水の不思議は奥山だと平地で水がないときも水が流れている、山には水が絶えることがないのである、その水が里に流れて来て春には田植えがある、それで先祖が春には山からおりてきて実りをもたらすという信仰が生まれた

とにかく日本の神社の淵源をたどると古いのである、古事記まで連なる古いものなのである、そしてこれらの神が出雲系だというのも不思議である
神々の由来をかずねると出雲にある、そして蝦夷と呼ばれた人たちは出雲系だとしている大和より先に出雲があったとなる  
丸森町にも山津見神社があり羽山神社があり祭りが行われるている
これは全国的にも多い神社なのである、一地域のものではない、その系統をたどってゆくと古事記の記述にたどりつく、

羽山戸(端谷間門)は羽山(端谷間)か山戸(谷間門)に分けられてもおかしくはない。おそらく後世になり、山と谷間(やま)が混同するようになり、ヤマは「山」に一本化され、谷間(たにま)は苗字が多少残っているようだ。

Tomのスペース

このサイトの説明が的を得ているのか?
山(やま)とあるがこれは当て字である、日本人がヤマと言った時、山を発見したのは谷間のことだったのである、谷間からは水が流れて来る、それは稲作に欠かせないものだったからである、高い山を意識したのではない、生活に密接なものとして谷間(やま)を発見したとなる、そこから羽山信仰が生まれた、奥山は別なな世界だった
南相馬市の鹿島区の栃窪村にも羽山神社がある、それは奥山ではない、村の入り口であるただ奥山から水が平地に流れて来る地点でもある

なぜこの神に注目するというと第一大和(やまと)というとき山戸であり山の入り口なのである、そして大和と言ってもそれが生まれたのは小さな一地域のことでありそれが日本を意味するようになった、つまり日本にとって山の入り口とか羽山の地域が重要な地域だったのはそこから水が流れてきて稲作に欠かせないものだったからである

いづれにしろなぜ綿津見神社と山津見神社とそれに連なる羽山神社が多いのか?
これは日本がの成り立ちと深く関係しているのだ、綿津見神社とは海の神であり海を離れて日本はありえないし、また山津見神社があるとして山を離れて日本はありえないのである、海彦山彦の神話もそこから生まれて来た

その生業(なりわい)を 雨降らず 日の重(かさ)なれば 植ゑし田も 蒔(ま)きし畑も 朝ごとに 凋(しぼ)み枯れ行く そを見れば 心を痛み みどり子(こ)の 乳(ち)乞(こ)ふがごとく 天(あま)つ水 仰ぎてそ待つ あしひきの 山のたをりに この見ゆる 天(あま)の白雲 わたつみの 沖つ宮辺(みやへ)に 立ち渡り との曇(ぐも)りあひて 雨も賜(たま)はね

ここでは山だけでない海にも祈っている、それは綿津見神なのでる、山だけでは、海に向かっても祈っていたのである

2020年09月02日

真野の草原(かやはら)は境界線 (海水温も境界になっていたー台風でわかる)


真野の草原(かやはら)は境界線

(海水温も境界になっていたー台風でわかる)

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本当にこさも不思議である
真野の草原が海水温の境界になっている
海水温まで関係していたのかともなる


今日のテレビの天気予報で台風が来て海水温を出していた
海水温が高くなると台風が発生しやすい
それでわかったことがその海水温でもみちのくの真野の草原の万葉集の歌が歌われた南相馬市の鹿島区がその境界線になっていた
これも不思議だとなる、天気予報を見ていると何か前も何回も境界線になっていることを報告した

今回もそうだった、ちょうと南相馬当りが境界線になっている
マルハシャリンバイの南限の地としてあるのはいかに植物が気候と関係しているかである照葉樹林帯というのは温帯でありこれが亜寒帯だとそうはならない、それはやはりこの辺が境界線なのである、つまり温帯とか亜寒帯の境界線なのである
それが海水温まで関係していたのである

つくづくだから真野の草原(かやはら)が実は萱ではない、むしろマルハシャリンバイが自生していた南限の地でありむしろ萱とかの寒々しい風景ではない
照葉樹林帯の温帯地域にある、すると何か南として温帯地域として意識されていたのである、つまり草原(かやはら)というイメージにあわないのである
それでやはり草原が地名説とした私の説が正しいとなる
何かみちのくだから草原が寒々しい風景が似合うように詩的にイメージしたのである
そこが錯覚の元になったのである

私自身は詩を作ったりしているからそうしして空想的にイメージしやすいのである
でも俳句は正岡子規に習った写生俳句だからそうはならない、それで写生俳句は写真と相性がいいのである

いづれにしろ科学的思考が歴史にも欠かせない、それで天候から温度の変化とかから古代を調べる人もでてくる、そうなると理系になり私にはできないとなる
ただこうして天候を見ていると必ずこの辺が南と北の境界線になっていることは間違えないのである
つまり大和朝廷の支配領域は天候と関係していたのである
気候と一致して境界線があったとなる、つまり人間が作った歴史と自然の境界線が一致していたとなる、境界となる場所の要素として何か自然の地勢とか天候でも関係している
ライン川のように川が境界になったりするのが普通である
そしてこの境界線は歴史でも自然を知る上でも大事な要素なのである

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎

要するにこの歌は大和朝廷の支配領域になった地として境界として奈良時代に知られていた、実際にこの歌にして慕った大伴家持は陸奥に赴任したともされている
ただそれは明確な証拠がないがそれを論文で出している学者もいる
だからこの歌はとにかく大和朝廷のみちのくの進出がありその境界線として歌われたものだとなる

2020年08月23日

鉄の産地だった猪苗代湖の湖南地域 (葦から鉄が作れたー会津に荒巾木神社がある-梓 今来の謎)

      
日本海から会津の古代の歴史(1)

(地理が歴史の基礎ー逆さ地図で見る)

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人間はその住んでいる場所が中心になり支点になる、場所が変わると見方も変わってしまう、そこに地理を見ると誤解が生れる
まず日本だけではない、アジアでも世界となれば地理を理解することは神にしかできない地理は例えば実際その地を踏んだとしてもまたわからないのである
地理は俯瞰しないとまたわからない、それで山形県の小国町に行ったのだがその隣が喜多方がとはわからなかった、それは地図で俯瞰して見た時わかった
こんなに近いのだとわかった、でも小国に一時滞在してもその周りの地理のことはわからないのである、日本は特に山が多くて隣でも山に閉ざされているから山が壁となって地理がわからなくなるのだ

会津を見る時でもやはり地理が大事になる、それが歴史と一体化してし地歴となる
では会津をどういうふうにして見るのか?
それはここに示したようにアジアから逆さ地図でみる、すると会津はアジア大陸から
日本海側から会津が通じている、福島県でも会津は新潟県とか越の国と通じている 

「崇神天皇は諸国平定のため4人の皇族将軍をそれぞれ北陸・東海・西道(山陽)・丹波(山陰)の4方面へ派遣した。このうち、北陸道へは大彦命、東海道へは武渟川別命(大彦命の子)が派遣され、それぞれ日本海と太平洋沿いを北進しながら諸国の豪族を征服していった。やがて2人はそれぞれ東と西に折れ、再び出会うことができた。この出会った地を「相津」(あいづ)と名付けた」

大毘古命は先の命のまにまに、高志国にまかり行きき。ここに東の方より遣はさえし建沼河別、その父大毘古命と共に相津に往き遭ひき。かれ、そこを相津と謂ふ。
                                
ここで大毘古命(おおひこ)とは出雲の有力者である、それは蝦夷征服にも大きくかかわった人物であり天皇にも連なる族長である
出雲から高志(越国)へと大和朝廷の支配領域に組み込まれてきた、会津の名の起こりがそこから来ている、また会津とは水が会う場所だという意味もある
いくつもの川があり水に恵まれた山国である
それでもう一つ大事なことは交通から見ることである
人間の社会と交通は密接な関係がある、人が行き来することで交通があって統一国家も生れて来る、もし人間が全く交通ができないとしたら何か文明でも生まれなかったろう
なぜなら川があるとするとそれが道になりやすい、それで四大文明が必ず川の側に生まれている、つまり川の港に生まれている
エジプト文明でもピラミッドはナイル河の岸辺から港があり通じていたのである
そうなれば物資もナイル河通じて運ばれることになる
メソポタミア文明もユーフラテス川の交通があり生まれたとなる
外国の川は日本とは違い、運河のようになっている、交通には適していたのである
 ローマ帝国が成立したのも「すべての道はローマに通じる」となり道を作ったことにあった
日本でも外国の玄関口になった横浜が東京より人口が明治の時多かった
つまり横浜から文明開化が始まったのである
横浜から全国の養蚕で作った絹織物が輸出されたからである

だから地理を見る時まず場所を変える支点を変えるとまるで違ったものになる
それで逆さ地図を見ると日本がどう見えるかである
まず日本海があり日本海側にそって交通が最初にあったことが見える
大平洋は見えないのである、日本海でも韓国からみれば東海なのである
日本海は日本側から見ると夕陽が沈む地域だが韓国から見れば朝日が昇る地域なのであるこの相違は大きいから地理から誤解が必ず生まれる
人間は結局自分の住んでいる場所を中心にして見ているのである
それは狭い範囲でもそうなのである
海に面した地域から相馬藩でもありでも飯館村は山に囲まれているからその場所の差は相当に大きなものとなるのだ
見えたが違っているのである
まず山に囲まれた盆地と海に面した地域ではまるで違った世界観になる
日本は海に囲まれているのだがまた山に囲まれた盆地が多い
大和は奈良だけどそこも盆地である、会津も盆地である

そして交通から見る時、韓半島から見ればアジア大陸からみれば交通としてまず日本海側が見える、現実に日本海をわたれば日本に到達するから渡来人が来れたのである
また最初は伽耶(かや)の国から福岡に渡来人が渡って来た、日本からも渡って行った
それでかや山というのが万葉集に歌われた、かやの人たちが渡ってきて住んだからであるまた綿津見神社の綿は渡るから来ている、つまり海を渡ってきた人たちのことなのである次に渡来人が来たのは国引き神話のある出雲だった、その出雲から日本海側を通って越の国へと行き阿賀野川を通じて会津に入る
つまり日本海側と交通で結びついていたのが会津なのである
阿賀野川というと日本では道になりにくいとかある、外国の川のように運河のようになっていないからである
でも古代をイメージしたとき道などないのである、鬱蒼とした森が覆っていて道がない
するとやはり川をたどって行った方が楽なのである
川はやはり道になりやすいのである、小舟でも川を行った方が鬱蒼した森を行くより楽だとなるからだ
それで日本海が比較的冬を除いておだやかだから道となり古代でも阿部氏が船で到達したのがアギタであり秋田となった

出雲から高志(高志)へと出雲勢力が広がった、そして出雲がもともと日本の最初の国でありそれが蝦夷となった、蝦夷は出雲だというのもそのためである
今でも島根県と東北弁がズーズー弁だというとき共通しているとなるからだ
ただ大和勢力が出雲に進出して国譲りがあり出雲の人たちは出雲から逃れて信州に長野県に逃れた、それで諏訪神社の祭神はタケミナカタなのである
そしてこの諏訪神社がどこにでも多いのである
それで鹿島神社はこの出雲に攻めてきて国譲りした建御雷(たけみかづち)の神である
それで島根県に鹿島とあるとき鹿島神社はこの建御雷(たけみかづち)の神なのである
だから全国に鹿島神社が多いのである

建御名方神は、大国主命と高志(越)の奴奈川姫の間の子とされ、書紀、風土記には出てこない神である。出雲の国譲りの際に、天孫側の武神、武御雷(たけみかづち)神と戦って敗れ、諏訪に逃げ込んだ、と古事記にのみ記述されている。諏訪の側の伝承によると、建御名方神は侵入者であり、先住者の洩矢(守矢)神との領有争いに勝ち諏訪を支配したとされる


とにかく地理を見る時この交通を同時に見る必要がある

例えば棚倉町の

とあるときなぜここがヤマトタケルと蝦夷軍の戦争の場所となったのか?
それも交通と関係していた、

久慈川は幸(さけ)くあり待て潮船(しほぶね)に真楫繁貫(まかぢしじぬ)き吾(わ)は帰り来(こ)む」[丸子部佐壮(まるこべのすけを)

この久慈川から潮船で海に出たとなる、日本海でもそうでありそれは江戸時代の北前船となり継続していた、ただここでどういう航路をたどったのか不明である
このように川は交通の道としてあることを古代なら見るべきである

tanakura123.jpg

「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。

ここで佐伯(さえき)とあるが 

佐伯部は日本武尊が東征で捕虜にした蝦夷を伊勢神宮に献上したが無礼を働いたりするので播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのがその祖とされています。

佐伯部は平安時代以来、「叫ぶ」に由来するとされてきたみたいでが、『常陸国風土記』に、土着民である「山の佐伯、野の佐伯」が王権に反抗したことが記されているので、「障(さへ)ぎる者(き)」で、朝廷の命に反抗する者の意味の説もあるみたいです。
又、外敵からの攻撃を「遮(さへ)ぎる者」という意味で「さへき」と呼ばれるようになったとの説があるみたいです。

こういう伝説でもいかにも当時の自然状態を示している、茨(いばら)に覆われていて道をさえぎるような状態が多かった、まず道があるいうことはめったにないのである
ところどころ日常の短い道はあっても遠くから長く通うじている道はない
常に遮られる状態だったのである
それて飯館村に行く八木沢峠に薔薇坂とかあるがこの薔薇は茨のことである
これは棘があるからまた遮るにはいいのである
一時薔薇坂に牛を飼う家があったがそこが原発事故で捨てられて原野化した
そこに茨が生えるようになった、茨があることはこれも通りにくい、茨にひっかかり通りにくくなる、そういう原初的な風景があり当時を物語るのである

会津の謎は大塚山古墳に東北で唯一の三角縁神獣鏡が発見された、それは吉備のものと同はんなのである、ここに吉備が関係していたという時吉備は大きな国であり大和朝廷が生まれる前は日本を分割して支配するほどの力をもっていたのである
だからこそ鬼退治伝説が生まれた、大和朝廷によって手ごわい相手だったから鬼とされて征伐されたのである、蝦夷でもアテルイとか大和朝廷に逆らうものは鬼とされたのである会津はすでに吉備国とかと関係して交流があり日本海から阿賀野川を通じてそうした物品ももたらされた、吉備国の支配の標として鏡が授与されたともなる 
吉備が力をもったのは伽耶(かや)から来た渡来人が集中して住んだ場所だった
そこで技術を取り入れたりして大きな国となった
それは瀬戸内海が交通路となりそれで港となり強力な国となった
その後も村上一族とか水軍が生れて力をもったから歴史は継続している

いづれにしろ歴史を見る場合、地理が先にあり地歴となる
会津は福島県では最初に国として認識された場所である、会津は山国として大きいのである、だからまずこの地理を知ることが容易ではないのだ
それで必ず会津に行くと方角がわからなくなるのである

会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね

会津はすでに奈良時代以前から国として存在していた唯一の場所なのである
ということはそれだけ古いのであり国がすでに成り立っていたのである
浜通りのみちのくの真野の草原(かやはら)は奈良から蝦夷の境界として認識されていた700年頃まではそうである、でもそこに会津のような独自な国は存在しなかったのである
また高志の国も出雲に治水のために移り住んだというとき地名としても出雲に高志というのが三つくらいあり高志も独自の国を作ったいた証拠である
継体天皇も越から生まれていることでも大きな国であり古い国であることがわかる
そして会津には気多神社とか高志国の神社があるから古代は日本海を通じて交流があったまたなぜ山形県に高志神社が多いのか?
それは大和朝廷が古紙を服属させてそれから山形県に移った
その時山形県の方に高志の人たちが移住したのかもしれない、神社はその土地の人が移住してもたらされることが多いからである

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確かなことは福島県でも会津を浜通りからまたは中通りからでも見る見方が違ってくる、磐梯山は浜通りからは全く見えない、吾妻山も全く見えない
阿武隈山脈、高原に遮られて見えないのである
この影響は物心に相当に影響する、だから福島市でも阿武隈高原遮られてた見えないから一体感が生れにくいのである
むしろ宮城県の仙台の方に地理的には一体感を感じる、交通でも電車が通っているから余計にそうなるのである


紀行・聖地巡歴・古道・古社を歩く

ここは実際にその地を踏んで神社から古代史を見ているから参考になる
一つの本のようになっているから読みごたえがある

鉄の産地だった猪苗代湖南地域 
(葦から鉄が作れたー会津にアラハバキ神社がある-梓 今来の謎)































2020年08月22日

日本海から会津の古代の歴史(1) (地理が歴史の基礎ー逆さ地図で見る)

      
日本海から会津の古代の歴史(1)

(地理が歴史の基礎ー逆さ地図で見る)

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人間はその住んでいる場所が中心になり支点になる、場所が変わると見方も変わってしまう、そこに地理を見ると誤解が生れる
まず日本だけではない、アジアでも世界となれば地理を理解することは神にしかできない地理は例えば実際その地を踏んだとしてもまたわからないのである
地理は俯瞰しないとまたわからない、それで山形県の小国町に行ったのだがその隣が喜多方がとはわからなかった、それは地図で俯瞰して見た時わかった
こんなに近いのだとわかった、でも小国に一時滞在してもその周りの地理のことはわからないのである、日本は特に山が多くて隣でも山に閉ざされているから山が壁となって地理がわからなくなるのだ

会津を見る時でもやはり地理が大事になる、それが歴史と一体化してし地歴となる
では会津をどういうふうにして見るのか?
それはここに示したようにアジアから逆さ地図でみる、すると会津はアジア大陸から
日本海側から会津が通じている、福島県でも会津は新潟県とか越の国と通じている 

「崇神天皇は諸国平定のため4人の皇族将軍をそれぞれ北陸・東海・西道(山陽)・丹波(山陰)の4方面へ派遣した。このうち、北陸道へは大彦命、東海道へは武渟川別命(大彦命の子)が派遣され、それぞれ日本海と太平洋沿いを北進しながら諸国の豪族を征服していった。やがて2人はそれぞれ東と西に折れ、再び出会うことができた。この出会った地を「相津」(あいづ)と名付けた」

大毘古命は先の命のまにまに、高志国にまかり行きき。ここに東の方より遣はさえし建沼河別、その父大毘古命と共に相津に往き遭ひき。かれ、そこを相津と謂ふ。
                                
ここで大毘古命(おおひこ)とは出雲の有力者である、それは蝦夷征服にも大きくかかわった人物であり天皇にも連なる族長である
出雲から高志(越国)へと大和朝廷の支配領域に組み込まれてきた、会津の名の起こりがそこから来ている、また会津とは水が会う場所だという意味もある
いくつもの川があり水に恵まれた山国である
それでもう一つ大事なことは交通から見ることである
人間の社会と交通は密接な関係がある、人が行き来することで交通があって統一国家も生れて来る、もし人間が全く交通ができないとしたら何か文明でも生まれなかったろう
なぜなら川があるとするとそれが道になりやすい、それで四大文明が必ず川の側に生まれている、つまり川の港に生まれている
エジプト文明でもピラミッドはナイル河の岸辺から港があり通じていたのである
そうなれば物資もナイル河通じて運ばれることになる
メソポタミア文明もユーフラテス川の交通があり生まれたとなる
外国の川は日本とは違い、運河のようになっている、交通には適していたのである
 ローマ帝国が成立したのも「すべての道はローマに通じる」となり道を作ったことにあった
日本でも外国の玄関口になった横浜が東京より人口が明治の時多かった
つまり横浜から文明開化が始まったのである
横浜から全国の養蚕で作った絹織物が輸出されたからである

だから地理を見る時まず場所を変える支点を変えるとまるで違ったものになる
それで逆さ地図を見ると日本がどう見えるかである
まず日本海があり日本海側にそって交通が最初にあったことが見える
大平洋は見えないのである、日本海でも韓国からみれば東海なのである
日本海は日本側から見ると夕陽が沈む地域だが韓国から見れば朝日が昇る地域なのであるこの相違は大きいから地理から誤解が必ず生まれる
人間は結局自分の住んでいる場所を中心にして見ているのである
それは狭い範囲でもそうなのである
海に面した地域から相馬藩でもありでも飯館村は山に囲まれているからその場所の差は相当に大きなものとなるのだ
見えたが違っているのである
まず山に囲まれた盆地と海に面した地域ではまるで違った世界観になる
日本は海に囲まれているのだがまた山に囲まれた盆地が多い
大和は奈良だけどそこも盆地である、会津も盆地である

そして交通から見る時、韓半島から見ればアジア大陸からみれば交通としてまず日本海側が見える、現実に日本海をわたれば日本に到達するから渡来人が来れたのである
また最初は伽耶(かや)の国から福岡に渡来人が渡って来た、日本からも渡って行った
それでかや山というのが万葉集に歌われた、かやの人たちが渡ってきて住んだからであるまた綿津見神社の綿は渡るから来ている、つまり海を渡ってきた人たちのことなのである次に渡来人が来たのは国引き神話のある出雲だった、その出雲から日本海側を通って越の国へと行き阿賀野川を通じて会津に入る
つまり日本海側と交通で結びついていたのが会津なのである
阿賀野川というと日本では道になりにくいとかある、外国の川のように運河のようになっていないからである
でも古代をイメージしたとき道などないのである、鬱蒼とした森が覆っていて道がない
するとやはり川をたどって行った方が楽なのである
川はやはり道になりやすいのである、小舟でも川を行った方が鬱蒼した森を行くより楽だとなるからだ
それで日本海が比較的冬を除いておだやかだから道となり古代でも阿部氏が船で到達したのがアギタであり秋田となった

出雲から高志(高志)へと出雲勢力が広がった、そして出雲がもともと日本の最初の国でありそれが蝦夷となった、蝦夷は出雲だというのもそのためである
今でも島根県と東北弁がズーズー弁だというとき共通しているとなるからだ
ただ大和勢力が出雲に進出して国譲りがあり出雲の人たちは出雲から逃れて信州に長野県に逃れた、それで諏訪神社の祭神はタケミナカタなのである
そしてこの諏訪神社がどこにでも多いのである
それで鹿島神社はこの出雲に攻めてきて国譲りした建御雷(たけみかづち)の神である
それで島根県に鹿島とあるとき鹿島神社はこの建御雷(たけみかづち)の神なのである
だから全国に鹿島神社が多いのである

建御名方神は、大国主命と高志(越)の奴奈川姫の間の子とされ、書紀、風土記には出てこない神である。出雲の国譲りの際に、天孫側の武神、武御雷(たけみかづち)神と戦って敗れ、諏訪に逃げ込んだ、と古事記にのみ記述されている。諏訪の側の伝承によると、建御名方神は侵入者であり、先住者の洩矢(守矢)神との領有争いに勝ち諏訪を支配したとされる


とにかく地理を見る時この交通を同時に見る必要がある

例えば棚倉町の

とあるときなぜここがヤマトタケルと蝦夷軍の戦争の場所となったのか?
それも交通と関係していた、

久慈川は幸(さけ)くあり待て潮船(しほぶね)に真楫繁貫(まかぢしじぬ)き吾(わ)は帰り来(こ)む」[丸子部佐壮(まるこべのすけを)

この久慈川から潮船で海に出たとなる、日本海でもそうでありそれは江戸時代の北前船となり継続していた、ただここでどういう航路をたどったのか不明である
このように川は交通の道としてあることを古代なら見るべきである

tanakura123.jpg

「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。

ここで佐伯(さえき)とあるが 

佐伯部は日本武尊が東征で捕虜にした蝦夷を伊勢神宮に献上したが無礼を働いたりするので播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのがその祖とされています。

佐伯部は平安時代以来、「叫ぶ」に由来するとされてきたみたいでが、『常陸国風土記』に、土着民である「山の佐伯、野の佐伯」が王権に反抗したことが記されているので、「障(さへ)ぎる者(き)」で、朝廷の命に反抗する者の意味の説もあるみたいです。
又、外敵からの攻撃を「遮(さへ)ぎる者」という意味で「さへき」と呼ばれるようになったとの説があるみたいです。

こういう伝説でもいかにも当時の自然状態を示している、茨(いばら)に覆われていて道をさえぎるような状態が多かった、まず道があるいうことはめったにないのである
ところどころ日常の短い道はあっても遠くから長く通うじている道はない
常に遮られる状態だったのである
それて飯館村に行く八木沢峠に薔薇坂とかあるがこの薔薇は茨のことである
これは棘があるからまた遮るにはいいのである
一時薔薇坂に牛を飼う家があったがそこが原発事故で捨てられて原野化した
そこに茨が生えるようになった、茨があることはこれも通りにくい、茨にひっかかり通りにくくなる、そういう原初的な風景があり当時を物語るのである

会津の謎は大塚山古墳に東北で唯一の三角縁神獣鏡が発見された、それは吉備のものと同はんなのである、ここに吉備が関係していたという時吉備は大きな国であり大和朝廷が生まれる前は日本を分割して支配するほどの力をもっていたのである
だからこそ鬼退治伝説が生まれた、大和朝廷によって手ごわい相手だったから鬼とされて征伐されたのである、蝦夷でもアテルイとか大和朝廷に逆らうものは鬼とされたのである会津はすでに吉備国とかと関係して交流があり日本海から阿賀野川を通じてそうした物品ももたらされた、吉備国の支配の標として鏡が授与されたともなる 
吉備が力をもったのは伽耶(かや)から来た渡来人が集中して住んだ場所だった
そこで技術を取り入れたりして大きな国となった
それは瀬戸内海が交通路となりそれで港となり強力な国となった
その後も村上一族とか水軍が生れて力をもったから歴史は継続している

いづれにしろ歴史を見る場合、地理が先にあり地歴となる
会津は福島県では最初に国として認識された場所である、会津は山国として大きいのである、だからまずこの地理を知ることが容易ではないのだ
それで必ず会津に行くと方角がわからなくなるのである

会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね

会津はすでに奈良時代以前から国として存在していた唯一の場所なのである
ということはそれだけ古いのであり国がすでに成り立っていたのである
浜通りのみちのくの真野の草原(かやはら)は奈良から蝦夷の境界として認識されていた700年頃まではそうである、でもそこに会津のような独自な国は存在しなかったのである
また高志の国も出雲に治水のために移り住んだというとき地名としても出雲に高志というのが三つくらいあり高志も独自の国を作ったいた証拠である
継体天皇も越から生まれていることでも大きな国であり古い国であることがわかる
そして会津には気多神社とか高志国の神社があるから古代は日本海を通じて交流があったまたなぜ山形県に高志神社が多いのか?
それは大和朝廷が古紙を服属させてそれから山形県に移った
その時山形県の方に高志の人たちが移住したのかもしれない、神社はその土地の人が移住してもたらされることが多いからである

koshioushrain11.jpg

確かなことは福島県でも会津を浜通りからまたは中通りからでも見る見方が違ってくる、磐梯山は浜通りからは全く見えない、吾妻山も全く見えない
阿武隈山脈、高原に遮られて見えないのである
この影響は物心に相当に影響する、だから福島市でも阿武隈高原遮られてた見えないから一体感が生れにくいのである
むしろ宮城県の仙台の方に地理的には一体感を感じる、交通でも電車が通っているから余計にそうなるのである


紀行・聖地巡歴・古道・古社を歩く

ここは実際にその地を踏んで神社から古代史を見ているから参考になる
一つの本のようになっているから読みごたえがある































2020年08月20日

みちのく真野の草原は気候の境界 (シャリンバイは南限であり今日の暑さも境界になっている)


みちのく真野の草原は気候の境界

(シャリンバイは南限であり今日の暑さも境界になっている)

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暑いけど真野の草原の万葉集の歌は境界だった
暑さ寒さの限界地点なのである
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大和王権に服属した地域である、ちょうど真野の草原辺りがそうだった
つまりここが大和王権の支配の境界だったのである
気候でもそうであり歴史的にも大和にその境界として知られたのである
そこに真野の草原の意味がある
この歌はそういう歴史的背景がありただの恋の歌ではないのである
真野の草原の草原(かやはら)まで大和王権の支配地域となりましたという宣言の歌でもあった
そういう境界の場所として奈良の都では認識していたのである


万葉集のみちのくの真野の草原(かやはら)のことを追及して来た
何か前も寒さでもここを境界にして寒さがやわらぐ
今回でも猛暑だけどここを境にしてほぼ温度が低くなっている
ただ中通りはそもそも盆地になっているから暑いのである

それで阿武隈高原を越えて浜通りに帰る時、海から涼しい風が吹いてきたとき
本当に気持ちよくなりほっとした
自転車だと風を感じるのである
浜通りは海から風がふくから涼しいし冬は温かいのである
それが取り柄なのである、福島市とかは夏は暑いし冬は冷えるのである
だから気候からすると中通りと会津には住みたくないのである

それで海老浜が車輪梅の南限の地として有名だった
このマルハシャリンバイは奄美大島が原産地でありここが南限の地として咲くのである
つまり気候と深く関係して植物でも花でも咲くのである
北海道になると高山植物が平地で咲くというときやはり気候の関係でそうなる
植物は気候に敏感なのである 

そしてもう一つ気候の境界線が東北では平泉辺りになる、そこまでは東北でも芭蕉が旅したみちのくの領域になる、さらに北上すると青森とかなり別な世界になるかもしれない
やはとり平泉も一つの気候の境界でありそこに東北の都となったとなる
気候の影響は大きい、照葉樹林文化のことでも追及したがその温帯系文化が中国とか東南アジアとかにつづいていてそれで安曇系統の綿津見神社が南相馬市近辺に多いのである
スダシイ神社が原町区の高地区の多珂神社の隣にあるのもそのためである

ともかく気候の影響は大きい、植物の分布でも気候によって分布する
人間も時代をさかのぼればのぼるほど気候の影響を受ける
ただ南相馬市でも熱帯化した時期がありそれでサンゴの化石が真野川の上流などで発見されたのである,フタバスズキリュウなどは熱帯化した海で生きることができたが寒流では生きられなかったろう

ともかく世界をみるとき気候から見ることは欠かせないのである
気候の変動があり世界が変わるということがある
ただこの暑さは異常である、ヒートアイランドとかクーラーとかの熱とか人工的に暑くなっている、玄関の前がアスファルトであり熱気がこもって外に出れなかった
何か現代は都会のように人工化して暑くなるのである
おそらく風車とかソーラーパネルでも熱くすることがあるだろう
だから家の前にソーラーパネルがあると反射熱とかで暑くなるから嫌である
人工化したものは必ず自然に影響する、つまり風車もソーラーパネルも自然エネルギーではないのである、だから明らかに植物に影響する、葉から水分を蒸発したりすることが過度になったりして影響する

つまりコロナウィルスでも何か人間側に自然に対して人工的に人為的に作用してウィルスが人間にうつってくる、この世に起きることは自然災害でもそれは自然が悪意があってしているのではない、自然には自然の法則がありその法則をさまたげることをすると不自然となり自然災害が起きて来る
ダムでも水が流れているのが自然であり水の流れを止めるのは不自然だから洪水になったりする、つまり人間の技術はなんらか自然にとっては不自然になり問題が起きる

歴史でも天候は常に関係して来た、古代とかなると自然は原始のままの所がまだ多かったすると天候でも自然をより反映したものとなっていた
ただ天気図を見ると確かにこの辺が気候の境界線だということが変わっていないのである暑さでも寒さでも天気図を見ると境界線になっている
だから万葉集の真野の草原は明らかに南の境界線だったのである
そのために奈良の都にでも知られていたとなる


2020年07月18日

温暖化でネッタイシマカが東北で生息する範囲 (真野の草原と真野氏の登米までの進出の地図と一致)


温暖化でネッタイシマカが東北で生息する範囲

(真野の草原と真野氏の登米までの進出の地図と一致)

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赤は関東であり温暖化が著しい
薄茶色は東北で温暖化してネッタイシマカが生息できる範囲


真野の草原は境界線である、気候的に歴史的にも



ウイルスを媒介したのは、熱帯地域に生息するネッタイシマカ。感染した人を蚊が刺すとウイルスが蚊の体内に取り込まれて増殖。その蚊がウイルスを運び、他の人に感染を広げる。これまで感染が拡大した地域は赤道付近に限られていたが、温暖化の影響でネッタイシマカが生息しない日本でも感染リスクが高まっていることが分かってきた。

ここに地図のオリジナルがでている、コピーできないので参照してください


このウィルスが温暖化で広まってゆくことを警告している
もともと熱帯産だけど東北地方でも温暖化で広まってゆくとしている
つまりウィルスは温度とか湿度とかの影響を受ける
寒い所に生息するものもいる、シベリアの凍土にもウィルスが生息していて最近発見されたのである、だから温暖化で凍土が溶けるとそのウィルスが現れて人にもうつるのかと心配しているがそれは起りえないとしている
でもなぜそんな凍土の中でもウィルスが一つの最小生命体が生きられるのか謎である

ここで注目したのは万葉集の歌が残された南相馬市の鹿島区のことである
その海老浜はシャリンバイの北限地として有名である
この辺ではいたるところにシャリンバイを植えているし見られるのである
ただ津波で海老村は消失した
このシャリンバイは奄美大島産であり熱帯性である
だから真野の草原の万葉集の歌が残された地点は気候の境界線だったことを追及して来た東北でもあたたかい場所でありそれでここが南の植物が生息できる限界地点であり境界になっていた

これはまた歴史的境界線にもなっていた、歴史をは地歴であるしまた風土とも関係している、特に気候は注意すべきである、緯度に注意すべきである
緯度が違うと暑さ寒さが違ってくる、それで文化も違ってくる
阿武隈山脈の地域が温暖化してもこの蚊が住めない地域になっているのは例えば飯館村になると400メートルの標高差が平地とあるからだ、寒いからこの蚊は生息できないとなる

とにかく照葉樹林帯というのは緯度と深く関係している、この緯度上に共通の文化をもっていたのである
そしてなぜこの辺にやたら綿津見神社と山津見神社が多いのかということである
それは飯館村まで綿津見神社と山津見神社が主要な神社なのである
それは相当に古いのである、それで佐須とは明らかに焼畑地名である、他にも飯館村には焼畑地名があるからだ、そこは森がおおっていて焼畑に適していたのである
その焼畑の技術は照葉樹林帯に住む人たちがもっていてできたのである
それが安曇族とか海洋民族でありその人たちが日本に船で渡ってきたのである

そしてもう一つの渡来人がツノガノアラシトの伽耶国の王子の名前でありそれが産鉄族であり砂鉄で鉄作りをする人たちだった
ツノとつく地名は点々とあり津神社となっているのは読み方はツノ神社である
相馬市の松川浦の津神社はツノミツ神社でありこれもツノガノアラシトである
そして大和王権がその後に鉄作りに関与してきた
それが真野氏なのである、南相馬市の鹿島区の真野郷の由来ではないかというのもそのためである

その真野氏が石巻に到達してやはり和邇山(わに)とか地名を残しているし木簡にも真野と記されたものが発見されたのである
そこに萱原という地名があり真野という地名も残っているのである
これは真野氏の移動の跡なのである
そしてこの真野氏は北上を上り登米まで行って製鉄業にたづさわっていた
なぜならそこにも真野という木簡が発見されたからである
そして不思議なのは温暖化で気温が上がりネッタイシマカが生息する場所になるとしている

そしてこの地図の不思議はその登米から平泉が近いのである
つまり平泉がみちのくの古都となったが今は岩手県内になるが何かその位置が地理がこうして古代から中世にみちのくの都になったことを暗示している
すでに古代から黄金の道があり湧谷に黄金が出て奈良の大仏の鍍金に使われた
それで

天皇(すめろき)の御代栄(みよさか)えむと東(あづま)なる
 陸奥山(みちのくやま)に金(くがね)花咲く

という歌が歌われた、鉄と黄金を求めた道があった、北上川はその道になっていたのである
でも平泉から北になると温暖化しにくい場所になる、寒い場所になりネッタイシマカ生息できないと地図ではなっている

とにかく動植物でもそうだが生物が生息できる緯度はその文化が違うのである
そして照葉樹林帯文化がその文化を共有するものとして日本にその跡を残したのである
温暖化すると関東地方は本当に熱帯化する
ただ温暖化というのはないという学者もいるからそれはわからない
ただもともと南相馬市でも栃窪とかから真野川をさかのぼってサンゴの化石が発見されたから熱帯であった、フタバスズキリュウが生息できたのも熱帯だったからである
古生代になると相当に暑かった熱帯だったのである
そうした気候の変化がありこれも歴史に影響している

ともかくこのコロナウィルスはいろいろなことを導きだした
だから不思議だとなる、私は生物学などわからなにしても何かこれも文系でも地歴と関係してくる、地理と歴史と関係してくる
私は地理に興味がある、日本でも世界でも旅したからである
それでウィルスは地理と関係が深いことを知った、つまり地理の通り感染者が増えたのである
最初は東京から感染者が増えてその隣県に広まる、そして最初から仙台市は危険だと思っていたらやはり最近になって仙台市が増えてきた
それも地方では東京と関係して感染しているのが多いのである
これも交通と深く関係して起きていることなのである
ただ北海道は例外である、あそこは中国人が大量に観光に来ていた結果なのである

ウィルスは風土と深く関係している、だからもともと一地域の風土病だったが人間が行き来すると人とともにウィルスが伝染する、それでモンゴル軍がペストをヨ−ロッパに運んだ、クリミヤの港から今度はベニスに伝染した
そしてヨ−ロッパの三分の一がペストで死んだから恐ろしいとなる
今回も中国と関係を深めたイタリアからヨ−ロッパにたちまち拡散した
だからウィルスでも歴史は繰り返すというのは本当である
津浪でも自然災害でも繰り返して起きてきたことなのである
ただ人間は忘れやすいので忘れたころに災害が来るとなる

ともかく津波がきて津波のことを関心をもつ、ウィルスでも異常なほど関心をもつ
それは結局生命にかかわるからである、何か素人でわからないにしても恐怖になりその正体を知りたいとなるのである
そういう契機になったことは確かである 


manotome222.jpg
登米市(とめ)の登米(とよま)まで製鉄集団の真野氏が移動した (奈女加多(行方)が移動している)

こうしてインタ−ネットでも情報とか研究がでていると素人でも研究に参加できる
今回はNHKだった、他でも津波の学者の論文を読めたことは参考になった
こうして素人でも学術的なことにも参加できるようになったのである

そもそも資料が読めないとしたらどうにもならない、図書館は調べることがしにくいのである
いちいちコピーしたりめんどうなのである
そして時間がかるから何年も行っていない、家事とかで忙しいし時間をとられるから行かなくなったのである


2020年07月13日

コロナウィルスに東アジアがすでに抗体をもっていた (日本人のルーツとも関係していたコロナウィルス?)

コロナウィルスに東アジアがすでに抗体をもっていた

(日本人のルーツとも関係していたコロナウィルス?)

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神王TVでここがリスクで注意すべきだとしていた
でも逆にここの民族が感染者が少なく死者数も少なかったのである
欧米人と比べるとその差が大きかった

colonaviirud111.jpg

人種は大きくこの三つである、イスラム系はアーリアン人(白人)系がまじっている
ペルシャ人は古い民族である、アラブ人は新しい人種である
エジプト人は謎でありアフリカ人の黒人の血とヨ−ロッパ人の混血だとしている



最初神王TVで漢民族とベトナムとかがコロナウィルスのリスクが大きく感染しやすいとしていた、それは受容体が同型でありそれで重症化しやいし感染しやいと警告していた

それははずれていた、ただ何か系統としてこのグループは逆に感染者が少なかった
ただ遺伝子系統として同族グロープを形成したということは確かだった

それから時間が経てこのグループがかえって感染しにくいことが判明した

なぜ日本人は感染者が少ないのか、また死亡者がすくないのか?

それがヨ−ロッパとかに急速に広がり死者数も増えたからなぜだろうと疑問になった
アメリカも白人でありヨ−ロッパ系統である
そしてニューヨークでは白人とアジア系を比べるとやはりアジア系統は半分くらいだという、ただアジア系が感染者が少ないのはすでにコロナウィルスに抗体をもっていたからだという、それは十年くらいの間に渡米した人たちでありその前の人は抗体をもっていないという、そこを調べると人種間でなぜ差があるのかわかるという

推測しているのはなぜ東アジアの人種が東南アジアでも少ないし死者数も少ないのはなぜなのかということである
なぜヨ−ロッパでもアメリカでもあんなに増えて死んでいるのか?
それはなんらかここ十年くらいでコロナウィルスに対しての抗体が作られていた
そのために感染者でもこんなに少ないしまた死者数も少ないとしている

これに興味をもったのは日本人のルーツがどこにあるのか?

古代史とかに興味をもっていたから人種的なものとして同系なのが東アジアから東南アジアである、そこは稲作地帯の文化を共有しているのである
照葉樹林帯の文化がありそれが日本列島とつながり一つの共有した文化圏を形成していた

日本人の起源がわかりにくいのはとにかく縄文人の歴史が古いからである
一万年とかあるとその間に混血をくりかえしてきたともなる
縄文人がどこからきたのかわからていにしろ東南アジアとか中国の漢族が住んだ東アジアとかに連なる地域は人種的にDNAでも共通している
それで今回のコロナウィルスでも抗体をもち感染者が広がらないし軽くすんでいるのかとなる、ただ今後の展開はわからない、重症化して死者も増えるかもしれないからだ

コロナウィルスに関しては様々な情報がすでに出ている、ただ私は理系ではないし遺伝子となるとほとんどわからない、でもインタ−ネットで素人なりに推測できるものがありしているだけである

もともと縄文人と渡来人が結合して日本人になったということは通説である
ただこれも単純ではなく複雑な交差をしている、その中で韓国が実は縄文人の後継者であるとういのもそうかもしれない、つまり日本の縄文人が韓国の祖先の一つだともなる
韓国はそうした地理に位置していたからである、ただこれを言うと相当な反発が起きる

ウィルスは風土病だったというときその独自な風土から生まれた
その独特の風土を共有していたのが東アジアであり東南アジアとなるが気候的には東南アジアは熱帯である、中国などは漢族の地域は温帯なのである
気候的には日本は温帯である、だから風土的には東南アジアより漢族の地域が共通している

とにかくなぜ相馬地域に綿津見神社と山津見神社がやたら多いのかということである
これは海洋民族の安曇氏とかが移住してきたからだとなる
これは明らかに縄文人ではなく渡来人の大きな一団が入ってきた
鉄生産の渡来人は点であるが照葉樹林文化圏に連なる焼畑などの技術でももたらしたからその土地に土着した人たちだったのである

いづれにしろコロナウィルスはいろいろな問題を提起した、人種論にもなる
人種はやはりアフリカ人と白人のヨ−ロッパ人とアジア人になるだろう
アジア人も一つではない、でも人種には類型がある
ただ人種でもその生活形態が違うと全然共通性もなくなる
遊牧民と稲作民は根本的に共有しないからである
でも中国は始皇帝が生れたのは遊牧民の地域でありそれで始皇帝陵兵馬俑からあれだけの馬の陶が現れたのである
そこに砂漠から西アジア系統の人たちが来ていた、だから中国は最初は遊牧民が国家を作ったともなる

ただ日本人の系統は東アジアと東南アジアでありそれに稲作と焼畑の技術をもった人たちが移り住み混血したのである
だからこそコロナウィルスに抵抗する抗体をもっていたともなる
ただ私にはDNAとなるとむずかしくなり理解不可能である

ただどうしても欧米にあれほど蔓延して死者数も多い、その差の説明は人種的なものがあると科学者でなくても推測すると納得する

インタ−ネットを調べればこのコロナウィルスの情報は大量に出るようになった
ただ推測でありまだ謎なのである

2020年05月13日

済州島を中継地として日本に来た渡来人集団 (相馬地域に多い綿津見神社の由来)


済州島を中継地として日本に来た渡来人集団

(相馬地域に多い綿津見神社の由来)

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例えば長江の河口を出発点とすれば舳を東に向けて一心に漕ぎ続ければやがて黒潮に乗り海流が北向きに運んでくれるから九州の西岸あるいは長崎県五島列島の辺りに到達する
五島列島辺りから舳を西に向けて漕ぎつづければ黒潮を乗り切った後に済州島または
朝鮮半島西南岸辺辺りに着くから、そこから先は黄海を横断して中国沿岸に到達する

第二回の渡航集団は済州島の中継基地を経由して大村湾から有明海に入りそ北部沿岸、
現在の佐賀市の近辺に上陸してその地を最初の生活拠点とした

徐福の集団は居住地として選んだ済州島ならびに日本列島の各地方で土木技術、水田灌漑技術、養蚕技術、製紙技術、医薬など知識をもちこみ先住民の心をつかんだ

兄(先の渡来民)弟(後の渡来民)である山幸(農耕民を基盤とする亡命民)の物語として長く語り継がれるようになった

古代水辺民の物語(太陽の生まれる楽土を求めて)−倉富春成

済州島は中継地点となったということはこういう歴史を知らなくてもその場に私が立った時、直感したのである、まず地理はその場に立たない限りわからない
頭でわかっても体でわかることが必要なのである
だから必ずしも地図を見てもわからないのである
済州島のカンナさんを仰いだときそれは2000メートルとなれば高いのである
そこに上らないにしてもそこに上った中国大陸と韓半島と日本を望む場に立つのである
だからそこが中継点になっていたことで済州島が重要な役割を果たしていたのである

黒潮というとき与那国島辺りからその流れが生じている、その黒潮の流れに乗って日本列島に到達するようになっている、与那国島まで行ったからそこは台湾に近いのである
むしろ日本より本州より台湾が身近になる、そこは国境の島であり自衛隊が駐屯するようになった要の島だともなる

日本に到達した人たちは中国本土からもあり韓半島からもあり南太平洋のパラオとかもありそういう移民たちが海を渡ってきて日本と縁を結んだのである
だから江西(えにし)は縁(えにし)であり日下石(にっけし)は西の意味である
また日下石の日をあてたのは太陽の下になる、太陽の沈む場所だからである
海から見る時、日下石は太陽の沈む場所だった
それが津波で証明されたのである、その日下石近くまで津波が押しよせて海になったからである
それで確かに海とかした湾となった岸が日下石であることが実感としてわかったからである

徐福伝説でもそうだが日本には海から渡ってきた人たちが作った歴史がある
日本の建国神話も古事記でも海洋民の神話であり海を渡り日本に移住した人たちが作ったのである
なぜやたらに相馬地域に綿津見神社が多いのか、それと並行して山津見神社が多い
飯館村にも綿津見神社神社と山津見神社があり対をなしている

海彦は兄(先の渡来民)弟(後の渡来民)である山幸(農耕民を基盤とする亡命民)の物語として長く語り継がれるようになった

海彦と山彦の物語はそれを示している、海彦が咲きであり山彦は後であるというとき綿津見神社が先でありそれが相馬地域に多いのである
松川浦でも山津見という地名が和田とあるのは綿津見(わたつみ)から来ている
そこが二つ対になり地名化している、そこが上陸地点だったからである
ただ安曇氏(あづみ)という一族が長野県に入って跡を残している
そこで舟の祭りを伝えている、山の中でそういう祭りがあるのは海洋民が移動して伝えたからである

移動してものとして伽耶(かや)国からツノガノアラシトのがいる、それは伽耶国の王子でありその跡も福島県の浜通りに点々と残されている
それは線として海岸沿いに残している、津神社はツノ神社でありツノガノアラシト系である
その一団は砂鉄を用いて鉄を作る技術者集団だった 
松川浦の津神社はつのみつ神社でありツノ神社である
この二つの集団があるとしてツノガノアラシト系は線として跡を残している

一方綿津見神社とか山津見神社を残した渡来人は線としての跡ではなく面としての跡を残している
つまりその渡来人はこの土地に広く土着したのである、だから面として広く神社を残している、例えば飯館村に山津見神社があるがその近くに佐須があるとしてこの佐須(さす)は焼畑のことでありその技術は渡来人がもたらしたものである
渡来人は種々の技術をもたらしたからである
ただ先住民として縄文人がいてその人たちと合体したのである
だからそれは大和王権ができる前に蝦夷として大きな勢力として日本列島にあった
その蝦夷とは出雲族のことだったのである  

天照大御神が八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、思金神と八百万の神々は「伊都尾羽張神(いつのおはばり、天尾羽張神)か、その子の建御雷之男神(たけみかづちのお)を遣わすべき」と答えた。天尾羽張神は「建御雷神を遣わすべき」と答えたので、建御雷神に天鳥船神(あめのとりふね)を副えて葦原中国に遣わした。

建御雷神と天鳥船神は、出雲国の伊那佐之小浜(いなさのおはま)[注釈 4]に降り至って、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主神に「この国は我が御子が治めるべきであると天照大御神は仰せられた。それをどう思うか」と訊ねた。大国主神は、自分の前に息子の八重事代主神(やえことしろぬし)に訊ねるよう言った。事代主神はその時、鳥や魚を獲りに出かけていたため、天鳥船神が事代主神を連れて帰り、国譲りを迫った。これに対して事代主神が「恐れ多いことです。言葉通りこの国を差し上げましょう」と答えると、船をひっくり返し、逆手を打って船の上に青柴垣(あおふしがき)を作って、その中に隠れた。

建御名方神の服従

諏訪湖     

建御雷神が「事代主神は承知したが、他に意見を言う子はいるか」と大国主神に訊ねると、大国主神はもう一人の息子の建御名方神(たけみなかた)にも訊くよう言った。その時、建御名方神が千引石(ちびきのいわ)[注釈 5]を手の先で持ち上げながらやって来て、「ここでひそひそ話すのは誰だ。それならば力競べをしようではないか」と建御雷神の手を掴んだ。建御雷神は手をつららに変えて、さらに剣に変化させた。逆に建御雷神が建御名方神の手を掴むと、若い葦を摘むように握りつぶして放り投げたので、建御名方神は逃げ出した。建御雷神は建御名方神を追いかけ、科野国の州羽の海まで追い詰めて殺そうとした

この建御雷神が南相馬市の鹿島区の鹿島神社に由来している
つまり蝦夷とは出雲族のことでありまたは渡来人集団と一体化した人たちのことである
だから技術をもっていたから大和王権にとって手ごわい相手となった

そして神社をみる場合は古いのか新しいのかがわからない、郷土史の基本が村の新旧を見ることだという時、新旧が問題になる
だから一体津神社と綿津見神社がどっちが古いのかとなる
どっちも渡来系の神社にしてもどっちが新しいのか古いのかわからない
ただ綿津見神社系統がこの地に土着したことは間違えないのである
ツノガノアラシトの津神社系統は一時的に鉄の生産にたずさわりさらに石巻の北上川をさかのぼり登米に移動したのである

そこで真野氏がかかわっていたのだがこの真野氏はどこから来たのか?
これも渡来系であるのか?吉備に真野という地名がありそれが伽耶系と連なる一族だったともなる
それで真野の草原(かやはら)の万葉集の歌を残したともなる
草原のカヤは萱ではなく伽耶国に由来するとも私は推察した
古代史はこのように中国とか韓半島とか南太平洋諸島ともつながり範囲が広いのである

いづれにしろ歴史は地理であり地歴なのである、だから地理がわからないと基本的なものがわからないのだ
この逆さ地図で日本の立ち位置を説明した、これを見れば感覚的に相当に違ったものになる、視点が逆転して見える
すると出雲のある島根県から日本海を伝わり今の長野県に至り諏訪神社がありそれは大国主神はもう一人の息子の建御名方神(たけみなかた)を祭っているのだ
それから常磐線に末続がありそれは島根県の出雲由来なのである
末は須恵であり須恵器を作る渡来人集団が移住した跡だともなる

そして不思議なのはなぜ草原(かやはら)とあり原町の萱浜がある、この萱がもともとはカイだとしている、そのカイとはアイヌのことだともなる
北海道の北海(ほっかい)とあるがもともとカイ族のことでありアイヌのごとだったとしている、そのカイが甲斐になりその伝説がここに伝わっている
それもやはり地理的なものとして解明すると何か関係が見えて来る
つまり太平洋側からではなく中国から韓半島から日本を見るとそのつながりが可視化されるのである


米中対立の時代で日本が危機になる (アジアの地図の見方ー地図で錯覚される世界)

海に囲まれた日本の地理が日本を作った (日本とアジアの地政学―太平洋戦争の意味)



2020年05月03日

福島県浜通りの津神社はツノガノアラシトの跡 (蝦夷は出雲族であり伽耶(かや)と連合した)


福島県浜通りの津神社はツノガノアラシトの跡

(蝦夷は出雲族であり伽耶(かや)と連合した)

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原町区雫(しどけ)の津神社


「出雲の国譲り」のあと、畿内から遠い九州あるいは東北方面に逃れた。
東北に安住した者は蝦夷(えみし)と呼ばれ、九州に安住した人は隼人(はやと)と呼ばれるようになった。
だから東北に暮らす我々は、蝦夷の末裔ということになる。

大国主命に従っていた国つ神たち、つまり日本の先住民はの首領たちは、出雲を追われてどこに行ったのか?
長野の諏訪神社の御神体は蛇=竜だ。
諏訪大社に祀られている建御名方神(たけみなかたのかみ)は大国主の子で、国譲りを迫る天照の使者建御雷(たけみかずち)と力競べをして敗れ諏訪へ逃げた。 のちに様々な祟りをなしたので、朝廷は大和に三輪神社{大神神社)を建立する。


坂上田村麻呂が東夷征伐の勅命をうけて進軍してきた際、苕野神社にて戦勝を祈願し、無事近隣の山を支配下に置く賊徒を平定した後に、神恩への報賽として神殿を建てたという
苕野神社は往古は請戸地区の沖にあった「苕野小島」という島に鎮座していた。その後、波浪などで島が崩壊したため、現在の鎮座地に遷座したという。また、2011年3月11日発生した東北地方太平洋沖地震により、浪江町の沿岸部は津波の被害を受けた。海のそばに鎮座する苕野神社も社殿がすべて流出、前宮司の家族も犠牲となった

末続駅の末続も渡来人の跡か? (地名に残した渡来人の跡ーツノガノアラシトの跡)

これを前に考察した、それで図に書き加えた、これだけ一連ものとしてつながりがあったことは明確である
草野神社もそうである、鹿島区の大内村の薬師堂は元は坂上田村麻呂由来である
諏訪神社系統ももともと出雲であり蝦夷というとき出雲でありそれが建御雷(たけみかづち)の戦いで神ゆずりしたとされる
鹿島神社はそこに由来している
そして鹿島区の海老はエヒであり蝦夷のことである、その蝦夷と戦ったのが物部であり
御刀神社があそこに祀られたのはそのためである、なぜなら海老村をにらむ地点にあったからである、第一刀神社とは刀をそこに突き刺したことに由来しているから刀で征服したということである

それで問題は原町の萱浜である、もともとカイハマといっていた
そのカイとは北海道の名の起こりが北海(ほっかい)であるがアイヌはカイと呼ばれていたのである、また甲斐はアイヌに由来するのか?
なぜかここのカイが武田信玄と関係づけられているのもなぜだろうとなる
そのカイがカヤとなったのはなぜなのか?
そこで真野の草原(かやはら)のことで探求し続けたのが自分だった

ここで気になったのが浪江の苕野神社(くさの)神社がもともとは草の小島という場所にありそれがは波浪で流されたという時、それは津波のことなのか?
そして今回も請戸の宮司が津波に流されて死んだのである
鹿島の烏崎の津神社も津波で流された、あれはもともと高い場所にあった
それが低い場所に移された
また原町の雫〈しどけ)の津神社も高い奥まった所にあった、あんなに高い所にあるのも不思議である
そして相馬市の松川浦の津神社(つのみつ)は辛うじて津波から逃れた
そこに逃げれば津波から助かるという伝承があったという
でもすれすれだったのである
もともと神社は低い場所にない、なぜなら日本の低い場所は湿地帯だったからである
今回も海岸地帯は湿地帯となった、田んぼが湿地帯になったのである

ともかく図にしたこの浜通り一体はツノガノアラシトの進出した跡である
砂鉄を求めて進出した跡である、それが地名化したというとき先住民の蝦夷が住んでいたとしてもそれが大和朝廷の全国征服で歴史から消された、でも神社とか地名は残っていたでもその由来がわからなくなった、伽耶国のツノガノアラシトが関係していたとしても
伽耶自体が歴史で不明となったからである
ただ伽耶は日本と密接な関係にあった、天皇が伽耶国に由来しているいう時もそうである
そしてもう一つ朝鮮半島の突端の伽耶国が照葉樹林帯の中に入っていたのである
つまりこの照葉樹林帯は温暖な風土から生まれた地帯として文化があった
朝鮮半島は大陸であり寒い系統にあるがその突端の伽耶国は比較的温暖だから照葉樹林帯の中に辛うじて入っていた
常盤(ときわ)とか常葉(とこは)というとき常に緑をたたえた常緑の森なのである

初発神社の境内は、スダシイが主となる自然林です。スダシイは暖かい地方に生えるブナ科の植物で、この場所はスダシイの北限の地として知られています。
多珂神社の隣にある神社である、それと並んで綿津見神社がある
これは安曇族などの神であり海洋民の神である、ここも照葉樹林帯文化に属する人たちがここに移住してきてその人たちの神を祭ったのである   



2020年03月06日

コロナウィルスが感染しやすい人種がDNA解析で判明 (日本人のルーツ解明の重要な情報)


コロナウィルスが感染しやすい人種がDNA解析で判明

(日本人のルーツ解明の重要な情報)

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青い四角の中は90パーセントの感染率である


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この情報は日本人のルーツを知る重要な情報と思った
これは明らかに日本人がどこから来たのかということで言われても来た
江南地方であり長江をさかのぼった雲南とかと文化が共通している
照葉樹林帯文化としてつながりがあるとされる

根栽類の水さらし利用、絹、焼畑農業、陸稲の栽培、モチ食、麹酒、納豆[1]など発酵食品の利用、鵜飼い、漆器製作、歌垣、お歯黒、入れ墨、家屋の構造、服飾などが照葉樹林文化圏の特徴として挙げられる。照葉樹林文化論を肉付けする形で稲作文化や畑作文化なども考証されている。

栽培イネの発祥地は、一時、雲南地域とされたが、近年の考古学や分子生物学の知見は稲作が長江文明の湿地帯に始まった事を明らかにした。稲作文化の多くの要素は、後から照葉樹林文化の要素を包摂した。
              

綿津見神社が相馬地方に多い謎の解明(2) (照葉樹林帯の南限の地だったから・・)

安曇族などの海洋民、綿津見神社や山津見神社をもたらした一群の人たちがここから移動して来た
福島県浜通りには綿津見神社と山津見神社が密集しているのである

照葉樹林文化というとき

多珂神社は大きく格式が高い立派な神社である
綿津見神社は小さいのである、スダシイ神社はこの辺が照葉樹林帯にあることを示している、安曇系の海洋民が中国の江南だとされるがそういう一帯が照葉樹林文化であり焼畑なども行われていたのである
山津見神社があるとき山で焼畑が行われていたからそれもセットになっていたのである

とにかく福島県の浜通りは温暖な地域であり照葉樹林地帯になっていた
その浜通りに綿津見神社とその系統の山津見神社が本当に多いのである
その数からして明確にこの辺が同じ先祖であり文化圏としてあった
一方縄文人の末裔は楢樹林帯でありドングリとか食べる北方系なのである

つまり長江流域から雲南とかベトナムとかまで照葉樹林帯としてあり文化の共通性があるコロナウィルスの発祥の地の武漢はそうした中間地域にある、気候的には温暖なのであるそして真野の草原の万葉集の歌は明らかに浜通りが照葉樹林帯にありその気候の境目として奈良の中央の官吏などに知られた場所だったのである
マルハシャリンバイが奄美大島から種が流れ着いて根付いた南限の地だったということもそうである
古代になると自然の境界が国の境界ともなっていた

それから韓半島の不思議である、照葉樹林帯として古代の伽耶国がありそこは日本と密接につながっていた、まるで一つの国と思えるほどであった
食文化でも韓国に肉料理が入ったのはモンゴルに支配されてからだとしている
その前は精進料理のような質素なものだったという
その料理をみれば日本の料理とにていたろう、日本も海に囲まれているから海産物が主なものとしてあったからである
伽耶は大陸から見るより海から見るとわかりやすい、そこは海として長江河口とかとつながっていたのである、また新羅商人が宋の時代に行き来したということもある
陸でつながるのではなく古代には海で通じた商人国家貿易国家だったのである
そして鉄がとれたということでそれが商品となっていた
インドに由来する説もとっているのは商人が海を通じて来ていたとういことで荒唐無稽ではないのである

とにかくここで日本人の起源はルーツはコロナウィルスにかかりやすい体質で共有しているというのはかなりの有力な証拠になった
そこは同じDNAであり体質的にも同系だということになるからだ
日本を見る時地理的に海からの視点が必要である
東南アジアでも海の視点から見るとわかりやすいのである
中国も巨大だが海の視点と陸の視点とに分けてみると地理的にも歴史もわかりやすくなる
ここのyoutubeは何かふざけているのかとも見たが意外とyoutubeには参考になる情報が多い、それはなかなかテレビでは放送されないのである
この情報は日本のルーツ解明に貴重なものだった
情報社会というとき一つの事件でも様々な見方があり多角的に多様的に考察する
でもそうなると膨大な情報を追うだけで時間がとられる

だから簡単でわかりやすいテレビで要約してサマリーとして見ていた
でも詳しく知ろうとするときテレビではわからない、この情報を知れば日本は意外とコロナウィルスに感染しやすい体質をもっていて危険だとも見る
それで東京に蔓延するとも警告しているのである
何か科学的に説明すると説得力が出てくるのが現代である
実際科学無しでは社会事象を知ることはできない時代である
それで文系はだめだとなるが原発事故でもコロナウィルスでも政治と社会の問題として全体として対処しないと解決しない
それで様々な学問でも総動員することになる

ただ感染の結果を見ればイランとかイタリアで被害が大きい、それはなぜだろうかとまた疑問になる、コロナウィルスの正体でわかっているのは子供や若い世代は重症にならない風邪くらいの軽症で終わるということである、これは結果的に統計的に明確なのであるその他はまだまだ研究の途中なのである


2019年12月02日

みちのくの真野の草原(かやはら)の境界地図 (なぜ北と南の境界になっているのかの謎-船の線刻画)


みちのくの真野の草原(かやはら)の境界地図

(なぜ北と南の境界になっているのかの謎)

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この図もちょうど真野の草原の地点が縄文時代前期で境界の地点になっている
それは前は気候でもそうだった、ここが気候的に南と北の分かれ目になっていた
シベリアから寒さがこの地点までおりてくる
そしてマルハシャリンバイが奄美大島から種が流れ着いて根付いたとかされる
南限の地としてあるとされる、それが海老村だった
そして海老とはエヒであり蝦夷のことだった
そこは古くから人が住んでいた、それでその先端に最近古墳が発見されたのである
だから弥生時代から人は住んでいたのである

ではなぜこの図を見たとき北の方に縄文時代前期に人がかえって多く住んでいたのか?
宮城県の海岸線の方に人が多く住んでいたのは海産物がとれたからだろう
それで新地の手長明神の伝説が残された
長い手を伸ばして貝をとっていたという伝説である
その伝説は全く架空のものではない、高台に貝塚があり貝を食べていた
貝を主食としていたのである、海産物が豊富にとれていたのである
そこは高台であり新地の地形は海に近くても高台になっている
だから何か津波とかでもその高台に住んでいれば被害にあわないのである
松川浦はその頃海とか湿地帯とになっていて広い地域である
だから住みにくいことがあったかもしれない、その頃海が深く陸に入りこんでいたからである

この図からみたとき明らかに新地辺りまではかえって人が多く住んでいた
宮城県の海岸線は人が住みやすい地域だった
ただなぜ寒い地域に人が多く住み始めたのか?それが良くわからないがなんらか食料でもかえって多くあったのかとなる
とにかく日本列島は最初は北の方に人口が多く西は空白地帯だった
それで青森に三内丸山遺跡がありそこが縄文時代の国として認識された
そこから日高見の国があった、荒脛(アラハバキ)の国があった

「まつろわぬ民」であった日本東部の民・蝦夷(えみし、えびす、えぞ)がヤマト王権によって東北地方へと追いやられながらも守り続けた伝承とするもの。荒脛巾神(あらはばきがみ)ではなく「アラハバキカムイ」といい、遮光器土偶の絵が付されている(遮光器土偶は、『東日流外三郡誌』の地元である津軽の亀ヶ岡遺跡のそれが特に有名である)。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%90%E3%82%AD

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本来のご祀神は、アラハバキノ大神威。

大宮氷川神社の、門客人神社
(大宮)中山神社の、荒脛(アラハバキ)神社
の、ご祀神と同一。

出雲が本来の場所なのに、
天孫族から追われた、東北の土着神…国津神。
西アジア発生の、製鉄の一族とも
いわれている。

この神社は猪苗代湖畔にある、これが神社として残っているのはまれである
ただ氷川神社は多い、その元は荒脛(アラハバキ)神だとされる
その氷川神社は南相馬市の原町区の高平にもある
氷川神社は相当に多い、荒脛(アラハバキ)神はあるにしてもまれである
それは多賀城跡にもあり何かしらこれは蝦夷が祀っていた神である
つまりこの神は関東にも残されていて伝えられていたから関東まで広がりがある
実は出雲と蝦夷は同盟関係にあったとか蝦夷は出雲であったとか言われる
東北弁と島根とかの言葉がズーズー弁として共通性があるとかも言われる
その出雲からなぜ渡来人が関係しているのか?
そこは新羅とか韓半島に近かったからである
それで伽耶の王子のツノガノアラシトがやってきた
その渡来人は製鉄の技術もっていて東北にやってきたのである
末続(すえつぐ)という駅があるがそこも出雲系統のものである
小高の角部(つのべ)というのもツノガノアラシトのツノなのである
浪江の苕野神社(くさの神社)の起こりもツノガノアラシトなのである

元禄年間に藤橋月船という者が記した「標葉記」によれば、古老の話では、苕野の神は新羅国からやってきて請戸の小島に現れた女神であるという。この時初めて、阿部氏と荒氏はこの女神を信仰し、阿部氏は特に何もしなかったが、荒氏は小島に社を設けて女神を祀った

つまり蝦夷とは(出雲+渡来人+物部系統+東北の原住民(縄文人)+アイヌ・・・)とかの連合体だったのである
だから大和朝廷に対抗する強力なものとなっていたのである、鉄製の武器も作れていたからである、蕨刀とか自前で作っていたのである
それは製鉄技術のある渡来人が連合体の中にいたからである

棚倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という 

福島県の歴史の道の旅の回想 (棚倉→白河→会津ー(白河街道)

8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した

つまり津軽の蝦夷とあり蝦夷連合が津軽までありだから日高見の国とか荒脛(アラハバキ)国があったとされる、、そうでなければそんな遠くから援軍が来るのか?
道のない時代にどうしてそんなところまで来れたのかとなるからだ
この意味しているのは広範囲な連合体があった、日高見の国、荒脛(アラハバキ)の国があったからできたとなる
そして津軽(つがる)はツノガノアラシトのなまった言葉だとも推測した
ツノガノアラシトはこうして広範囲にその跡を残している
ただそれは伽耶というのが必ずしも外国というのではなく日本と一体化した国だったからそうなった、その主導権はむしろ日本の方にあったともされるからだ
日本府の任那があったとされるからだ
蝦夷が強敵だったのはそうした連合がすでにできあがっていたからである

そして真野の草原(かやはら)の地点がその境目であり大和朝廷下に服属する北の境目となっていたのである
なぜなら地図を見れば宮城県まで縄文人がすでに多く住んでいて真野の草原から南に人が住まない空白地帯になっている
とすると空白地帯だから大和朝廷でもそこに入りやすいとなる
宮城県のように先住民が多く住んでいれば簡単には入りこめないからである

とにかく真野の草原の地点はそうした境目であることで奈良の人たちに知られていたのである、そして多賀城の周辺はもともと縄文人が住みやすい場所として多数住んでいたのである、それは海産物が豊富にとれるから住んでいたのである
ただ岩手県の方は北上山地辺りに多く住んでいたのかその辺は良くわからない
ただ北の方に栗とかどんぐりとか何か木の実でも豊富にとれていたからだともなる
西が優勢になったのは稲作が導入されてからである、それは気候があたたかいから向いていたからである、ただ北は稲作と関係しないからその時代はかえって北が狩猟でも動物が多いとか鹿でもなんでも食料になるものが多かったためだと推測する
ただこの辺はまだよくわからないことがある

南相馬市教育委員会は、線刻で「船」を描いた古墳時代前期(4世紀)の土器が同市鹿島区八幡林で出土したことを明らかにした。同時代の線刻絵画土器の出土は西日本中心で、船の絵は東北で初めて

これは男山八幡神社の辺りとなる、そこは寺内であり古墳が多い地域として知られている
でも4世紀となると古い、そんな時代にこうした船の絵が描かれたものが発見されたことは貴重であり驚く
この辺は前から海が深く入り込んでいて船の行き来があった
それは塩崎の方であり船着の地名が残っていて船が頻繁に行き来していたのである
それは入江内で今の東北電力のある所に大規模な製鉄遺跡があり鉄を運んでいたらしい
だからそうした船の絵がそんなに前にあったということは早くから技術が伝わった地域だったのである
それだけ古いということはここにすでに文化の積み重ねがあったとなる
それも真野の草原として万葉集に歌われた証拠ともなりうるのである
それは寺内の前方後円墳から金銅双魚佩が発見されたと同じである
なかなかこうした船の線刻画のようなものは東北では発見されないからである


terauchiship11.jpg


ここはやはり古代の先進地域であった
前方後円墳がありそこに金銅双魚佩が発見されてその隣り合う地域に船の線刻画が発見された
棒状の線は(かい)のようでありそうだとすると数が8くらい見えるからそれだけの人数が乗れた船となれば
それなりに大きい船だとなる

真野明神は古代のものであり古い謂れがある、この三つとなり合う地区にあったからここが最初に開かれた場所であった
とにかく寺内から小池には古墳が多いのである、だからここは古墳の町になっている




2019年11月20日

里は何なのかー故郷(ふるさと)の考察〈古代史より)


里は何なのかー故郷(ふるさと)の考察〈古代史より)

「地域」の「地」は、蛇がうねる土地を指すそうです。「域」の「或」は国を指す。地域や自治体は、ある意味、小さな国家なのかもしれません。小さな国家をどう再生していくのかが、みなさんの今日的課題です

限界集落の真実―過疎の村は消えるか?―過疎の村は消えるか?
http://www.jamp.gr.jp/academia/pdf/115/115_04.pdf


古代日本において郡の下に置かれた里(郷)のおさ。〈りちょう〉とも読み,また〈郷長〉と書き,〈ごうちょう〉とも読む。官人には属さないが,律令制下の地方行政機構の最末端に位置した。戸令によれば,50戸をもって里とし,里ごとに長1人を置いた

「五十戸良」とあって「さとおさ(里長)」の意味であり、万2251では「守部乃五十戸」と書いて「守部のさと(里)」と読ませている。


法師の報ふる歌一首

檀越(だんおち)やしかもな言ひそ里長(さとをさ)(五十戸長)が課役はたらば汝も泣かむ(巻16・三八四七)

檀越とは後で檀家になった、里長が一つの租税の単位としてあった
この意味は檀越が租税の対象にはならず免除されていた、でも租税されたらあなたも泣くだろうという意味である

私腹を肥やしていたことが窺える。当時の仏教界は、信仰心によって維持されたのではなく、食封を有するという特別待遇を保持するために三十年間存在していたことが分った
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/62/5/62_20/_pdf

耶麻郡猪苗代町大字堅田字壇越

山王宮再興大壇越  中務大蔵朝臣種照

猪苗代にもその言葉が地名として残っているのはそれだけ古いのかとなる
神社でも壇越という言葉があるのも仏教が神社に影響してなったか?

宗教とはヨ−ロッパでもカトリックが土地を所有していたように権力を得るために利権団体となったのである、それは檀家もそうでありカルト教団でもそうである
権力を得るために宗教があるだけになっていたのである
だからここの論文でぱ平城宮とか奈良の大仏とかでも民衆が批判していたともなる

仏(ほとけ)造る、ま朱(そほ)足らずは、水溜まる、池田の朝臣(あそみ)が、鼻の上を掘れ
これも皮肉である、僧侶が朱がたりないなら僧侶の赤い鼻を掘れということは僧侶が憎々しく民衆が思っていたのである、僧侶は利権化して私益を得るためのものになっていた批判が奈良時代からすでにあった

ここでは里が最初の生活する者の単位であった、村ではないのである
村はもっと大きな範囲なのである、日本人の生活は基本は里だったのである
それは50戸くらいが住んでいる範囲だったのである

村とは群れるから来ている、これは外来語らしい、そこには人の数を意味しているのかもしれない、人が村にいくらいるのかということになる
その数は相当に多いのである、里とは土地と切り離されずある、50戸が生活できる土地があるということになるのが里である

「地域」の「地」は、蛇がうねる土地を指すそうです

地とは土地のことであり地は里に通じている、国となると区切るから来ているから囲む土地ともなり境界が生まれる

さと、むら、くに、いち、みやことかある、その言葉の背景にはその国の歴史がある
市民ということば国民という言葉が明治以降作られた、でも日本にはその言葉がなかったということはそういう言葉の実体となるものがなかったからだとなる
なぜcitizen(市民)という言葉にヨ−ロッパではこだわるのか?
その言葉の背景に歴史があり歴史的に形成されたアイディンティティがあるからこだわるパスポートにどこの市民なのか記さねばならないのはそのためである
日本だったら市(いち)はあったとしても市民はいなかったからである

地域の域となると人工的なものとなり境が行政的権力で決められる
郡(こおり)でも郡は軍隊から来ているからである
例えば真野郷と真野里がある、郷里名ではなく里として表現している
それは真野郷となると広い範囲である、鹿島区の真野という地域は上真野まであり広いのである、でも真野里とあれば50戸が住む範囲だとなる
それは古代の常陸に真野里とありその人たちがこの地に移住して来たと思われるからである

いづれにしろ村ではなく里が日本の最小の生活単位でありコミニュティの場だったのである、その里はその土地で生活できる範囲の小世界だった、それで小国というときそういう最小単位の里が延長したような世界だったとなる

現代はもう里は失われている、その大きな単位の村でも失われつつある
それは農業社会から工業社会になったとき失われたのである
でも不思議なのは故郷というとき古里であり里なのである
すると人間はみんな故郷を失ったともなる、故郷はもうないとなる
原発事故で避難地域になった所は故郷が喪失した

でももともと浪江町の原発で働いていた人が言っていたように里とか村とかに住んでいたわけではない、東電の会社員となって2万人も住んでいられたとなっていた
だからその人は周りの田畑が草ぼうぼうになっても関心がなかった
都会人と同じとなっていたからである、だから故郷(ふるさと)とは何かとなればそこに執着するものもないとまでなる
なぜなら生活が第一であり東電で働いて生活できればいいとなるから都会に移って住んでも違和感がないとなる
そういうふうに故郷の里にこだわることはない社会になっていたのである
だから多額の補償金をもらったときその金の方が大事であり故郷には里には帰らなくなったのである






2019年09月27日

綿津見神社がなぜ相馬地域に多いのか (時代を知る、新旧を知ることが歴史)

                                              
綿津見神社がなぜ相馬地域に多いのか

(時代を知る、新旧を知ることが歴史)


●縄文時代

●綿津見神社−山津見神社(古事記、神話の世界)

●ツノガノアラシト系神社ー津(つの)神社、ツノミツ神社・・・・

●桜井古墳→鹿島区の古墳群

地域の歴史でもいかに新旧が大事かである、時代を知ることが大事かである
歴史を調べると江戸時代ですら年号があるけど新旧がわからなくなる
これが大事なのは例えば年号でも明治ー大正ー昭和とあるけど明治ー昭和ー大正とはならない、でも江戸時代になるとこうして年号の新旧を見るにしてもこういうことが起きる
どうして時代を知るのか?これができなくなる
江戸時代は300年は変化がないから余計にほかりにくくなる

だから歴史は事跡で何かその時代に重大な事が起きたのかでみるのも必要である
例えば戦争の前と後で全然違ったものになる
だから昭和という時代は一つにできないのである、戦前と戦後の昭和はまるで違っていたからである

このことはさらに時代をさかのぼるとわからなくなる
最近気づいたことは相馬地域には本当に綿津見神社が多い、それと対になった山津見神社が多い、でもこれはいつの時代のものなのか?
何かこれを新しいものとして見ている人も普通にいるだろう
この神社がどれだけ古いものなのか?それがわからないのである
でも古代史を調べると時代を見ることがいかに大事かわかる

綿津見神社があり山津見神社があるとしてまたツノガノアラシト系神社がある
それではこの神社はどっちが古いのか新しいのか?
それが問題になる、つまり先にこの地に移住した人たちはどっちなのかとなる
なぜならすでに綿津見神社を祀った人たちが先に来ていたのか?
それともその後にツノガノアラシト系の人たちが来たのか?
それを知ることが大事になるからだ
どうもツノガノアラシト系は後であり綿津見神社系が先のようにである
なぜなら安曇系の綿津見神社はすでに古事記の国造り神話に出ているからである
それだけ古い時代から安曇系は日本に欠かせない国造りにかかわった人たちだったとなっているからだ
ただその勢力は安曇氏というのはこの辺で出てこない、ただ綿津見神社と山津見神社が多いからそれがその跡を示しているとなる、安曇氏の痕跡がなくてもその神を奉じるものが神社を残したとなる
最初は安曇氏でもその綿津見神社というのは一つの信仰となり広がった 

次に生まれた六柱の神は、いずれも海の神です。

海の底で身体を洗われた時に生まれたソコツワタツミノカミ(底津綿津見神)
海中で身体を洗われた時に生まれたナカツワタツミノカミ(中津綿津見神)
海面で身体を洗われた時に生まれたウエツワタツミノカミ(上津綿津見神)

以上のうち三柱のワタツミノカミ(綿津見神)は、安曇氏(あずみうじ)たちの祖先の神です。
また、ソコツツ、ナカツツ、ウエツツの三柱の神は、住吉神社に祭られている神です

海を三つに分けている、それは潜水行で魚や貝をとっていた一団だっからである
海人の一団でありそれは安曇系の江南系の移民だったとなる
底と中と上に分けることは潜水行している民でないとこうはならないからだ
そして国産み神話でも島を中心にしていることは島ではそうした海にくぐり魚や貝をとることを生業としていたからである、また島伝いに渡ってきた人たちだということである
海彦と山彦の神話もまた日本独特のものである
ただインドネシアでもクジラをとる民と山の民がいて山の民にクジラの肉をもってゆき豊漁を祈る、そこで山の民と海の民が和合する祭りが行われていた
つまり経済とはもともとそうした異なる地域に民族が和合するものとして貿易でも行われていた、現代のような金だけを紙幣だけを唯一の交換の手段として用いることはなかった貿易は交易にはまず民の融合が和合を計ることが先である
現実にグローバル化しても必ず国と国は対立してうまくいかなくなるからである   

その生業を、雨降らず、日の重なれば、植ゑし田も、蒔きし畑も、朝ごとに、しぼみ枯れゆく、
そを見れば、心を痛(いた)み みどり子の、乳(ち)乞(こ)ふがごとく、天(あま)つ水、仰(あふ)ぎてぞ待(ま)つ、あしひきの、山のたをりに、この見ゆる、天の白雲、海神(わたつみ)の、沖つ宮辺に、立ちわたり、との曇(ぐも)りあひて、雨も賜(たま)はね  

この歌は雨乞いの歌である、でもその範囲は山から平地から海にまで及んでいる
普通は海にまで雨乞いすることはないだろう、やはり海洋民が海と深く関係していたからだともなる

ともかく相馬地域の古代とかその前の縄文時代とかなると九州の福岡とかの歴史をみる必要があるし大和の歴史をみる必要もある
つまり日本の歴史とか中国や韓国の歴史と不可分に結びついていたからである
中国でも江南から大量に海を渡り移住してきたというときそれが綿津見神社を残した安曇系だとか宗像系だとかなる
それが古事記の神話の世界を構成した、海の民によって作られたということが重大なことなのである
ただその前に日本の原住民の縄文人がいた、でもそれが歴史として未だに謎である
言葉でも解き明かせない謎となっている

漁業にしてもこれは船を造るとか操るとかなると技術が必要になる
縄文人には丸木舟のようなものを作っても魚をとる技術には欠けていたろう
ただ湾のようなところでは魚をとっていた、縄文海進で入江が多かったからである
ただこの辺で新地の手の長い神がその手を伸ばして貝を食べて貝を捨てたところが貝塚になったという伝説は貝を中心とした食料とした生活だったとなる
だから海洋民とは違った局地的な海の生活だったのである

とにかく歴史は時系列でみるのが本当にむずかしい
何が先で何が後なのかが見分けるのが何でもむずかしい
だから江戸時代だと年号が記されていればわかりやすいのである
その前になると年号が記されていないからわかりにくくなる
つまり歴史はそうした記録がないと時代もわからないとなる
ただ石器を使っていて次に鉄器を使ったというとか稲の栽培が始まったとかの技術の進歩で時代を見たりするのである

この辺の地理的空間的古代史は述べた、でも時系列になるとわかりにくいのである
大和王朝の前に物部王朝があり出雲王朝があったとするのもそうである
神武天皇が初代の大和朝廷の天皇だとしているがその前に物部王朝があり出雲王朝がありそれをひきづっているしその跡も残って継続されているからである
だから一体綿津見神社と山津見神社はいつの時代になるのか?
古事記にまで記されている海洋民は安曇系などはいつこの地に来てこれだけの神社を残したのかとなる
ツノガノアラシトになると浪江の
苕野(くさの)神社
は715年だとしている

起源・創立年代は不明だが、社伝によれば第12代天皇である景行天皇の御世に勧請され、元正天皇(715年)の御代には社殿を創建したという。桓武天皇の時代、坂上田村麻呂が東夷征伐の勅命をうけて進軍してきた際、苕野神社にて戦勝を祈願し、無事近隣の山を支配下に置く賊徒を平定した後に、神恩への報賽として神殿を建てたという。

その頃にツノガノアラシト系の鉄生産の技術者が韓半島の伽耶から来た、ツノガノアラシトとは伽耶の王子のことだからである
それが津(つの)神社として跡を残した
700年に来たとするとどうしても綿津見神社が古いとなる
なぜなら鉄生産ではその後大和朝廷の官人とかがかかわってきたからである
それは近江の粟田郡にその鉄生産の基地があり直接行き来していたからである
そういうふうに行き来していたことで真野の草原の歌が残ったとなるからだ
それは石巻でもやはり真野氏系統の鉄生産技術者がかかわっていたから同じである

ヤマトタケルの伝説があるとしてもその前に物部氏がこの地に来て支配した
どこでも物部王朝と出雲王朝の跡を残しているからだ
不思議なのは原町区の多珂神社の脇に綿津見神社がある、その近くにスダシイ神社があるすると綿津見神社と多珂神社はどちらが古いのかとなる
多珂神社は大きく格式が高い立派な神社である
綿津見神社は小さいのである、スダシイ神社はこの辺が照葉樹林帯にあることを示している、安曇系の海洋民が中国の江南だとされるがそういう一帯が照葉樹林文化であり焼畑なども行われていたのである
山津見神社があるとき山で焼畑が行われていたからそれもセットになっていたのである

縄文時代→綿津見神社(山津見神社)→物部氏(物部王朝+出雲王朝)→大和王朝

こういう順序になるのだが何か綿津見神社とか山津見神社が新しいと見る人がいるだろう私自身がそうだった、それだけ時系列で歴史を観るのが難しいのである

確かなことは桜井古墳は鹿島区の寺内小池の古墳群より古い、だからすでに原町区一帯は物部氏とかの支配権として確立していた
鹿島区の寺内とか小池とかはその後に支配されようになった
つまり物部氏が原町区一帯を支配して巨大な桜井古墳を作った
次に鹿島区に進出したのである、そこで争いがあり建御雷(タケミカズチ)の神が鹿島に祭られた、この神は物部氏系だともされているからである
ヤマトタケルがエゾを征服するという前に物部氏が支配していた
その前に安曇氏系の綿津見神社を奉じる人たちがすでにこの地に入って漁業や焼畑などをしていたとなる
ただこの時系列の私の見解は間違っていることがある
自分自身が綿津見神社のことが全部わかっていないからである
最近なぜこんなに綿津見神社がこの辺に多いのかということが疑問になったからである

mapaamutu1.jpg
山野河海の列島(森浩一)

この図をみるとこれも海岸線に海洋民が綿津見神社を残した安曇系が入ってきた領域と重なる、いわきの方にも猪苗代の岸の方にも入ってきていたからである
そこにも綿津見神社があるとなるからだ
これは大和王朝になってからのものだがこの辺は海洋民が入ってきた場所と重なるのである
道嶋氏とは石巻でありそこに真野とかの地名が残っていて真野の萱原という地名が残っているからここが江戸時代までは真野の
草原だとしていた、この地図の意味するのはわからないにしても綿津見神社系統が入った所と重なるのである


参考にした年表(福岡中心)

BC320 水稲耕作、北部九州に確立 弥生時代の始まり。江南起源倭人多数渡来
 BC221 (中国)秦始皇帝、中国を統一
 BC209 始皇帝、徐福に命じ、東方に不死の薬を求めさす。
 徐福、有明海から筑紫平野に上陸(三千人)、一団が吉野ヶ里・奴国・葛
 城邑・早良邑などを作る。
この頃日本全体の人口はわずか60万人で九州は特に希薄。
 BC202 (中国)劉邦、帝位につき漢王朝始まる。
 BC200 北部九州で小国の成立、末露国など
 BC100-0 玄界灘に面した九州北岸に古代朝鮮より多数のツングース系渡来人、その
中に天孫族も含まれ物部族を引き連れ上陸
BC100-0 「奴国」がいち早く頭角を現し、北九州の覇を唱える。(須玖遺跡)
 この頃、倭国は既に「百余国」に分かれていた。
BC37 朝鮮半島では高句麗建国
紀元前後 百余国のうち,一部は前漢の楽浪郡に朝貢していた。
  25 (中国)光武帝即位、後漢王朝始まる
57 中元二年春正月、東夷の倭奴国王、使いを遣わして奉献す。(奴国)
 (光武帝紀・後漢書)光武賜に印綬を以てす。(東夷列伝)
 「漢委奴国王」印(志賀島出土)
210 卑弥呼を倭国女王に共立し、「倭国乱」終わる。物部族が主導権を握る
 夜須「邪馬台国」の成立
215 出雲の国譲り神話(遠賀川物部が大国主と国譲りを交渉)
216 (中国)曹操魏王となる。
 葛城氏などの徐福集団は、邪馬台国連合のー員とはなるが、主導権は奪われ
 る。葛城氏は邪馬台国の先遣隊として奈良へ移動させられる。秦氏はその移
 動に豊前まで同行し、そこに前線基地を設ける(中津・宇佐)。
 234 (中国)公孫淵、魏より楽浪公に封じられる。崇神誕生、台与もこの頃。
238 (中国)魏、公孫淵を殺し公孫氏滅亡、楽浪帯方の二郡接収
239 邪馬台国の女王卑弥呼,魏へ朝貢し,明帝より親魏倭王の金印下賜さる
 245 九州邪馬台国、魏から軍旗を授かる。孝霊帝(葛城氏)大和中央に都を遷す
247 魏の軍使一行の来朝
248 女王卑弥呼の死





2019年09月24日

南相馬市の古代の歴史ー鹿島区の新旧 (新旧と場所を知ることが歴史を知る基本)


南相馬市の古代の歴史ー鹿島区の新旧

(新旧と場所を知ることが歴史を知る基本)

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歴史をみるとき大事なのは新旧をみることである、村でも新しいのか古いのかが問題になる、だから村でもこの家は古いのか新しいのか問題になる
田舎でも飯館村とかでも古い家と新しい家がある
戦後は開墾に入った人たちが多い、20パーセントくらいいたとかなり相馬地方では特に多かったという、小池にまで開墾に入った人がいた
戦後の引揚者だったのである、あんなところに土地があったのかとなる
その人はかなりの貧乏だったのである

飯館村の大倉から坂を越えた木戸木となると閉鎖された土地である
草野に行くのにも七曲の坂を上らねばならない、あんな不便な土地だから開墾に入った
でも一見するとここは古い部落なのかとも思うのである
つまり村でも新旧を見ることが大事なのである

例えば鹿島区だと烏ア村とか海老村は古い、でも右田村は江戸時代にあったとしても海老村とか烏崎村からすれば新しいのである
そこは後から開拓された土地だったからである
海老村は最近その突端に古墳が発見されたから古いことがわかる
それだけ古い時代から人が住んでいたのである
そうなるとそこで大きな津波を経験していたかもしれない、でもそれはわからない
弥生時代の住居跡も発見されている

古墳があるということはそこが古い場所である目印になる
それで韓半島に前方後円墳が発見されている、それが最近の研究では日本より古いから韓国から日本に前方後円墳が伝わったという、何でも韓国起源にするのが韓国である
でもその古墳が日本より新しいものだったのである
ここでもいかに新旧が大事になるか証明している
それが古いのか新しいのかが決め手になっているからだ

それで鹿島区だと塩崎の船着近くに前方後円墳があった、鹿島区で前方後円墳があるのは金銅双魚佩の発見された寺内と二つだけである
それで問題になるのがどっち古いのか新しいのかなのである
なぜならそれが鹿島区の歴史をみるとき重要になるからだ

塩崎には船着と市庭という地名があり古い、船が通っていたことは書いた
それも今の火力発電所があるところから鉄などを運んでいた
そして大内には800年に奉納された薬師堂が残っていた、それは坂上田村麻呂が奉納したものとされる、大内村はそれだけ古いということである
でも古墳時代になるとさらに古いのである
でもいつそこに前方後円墳が作られたのか?
それが問題になる、なぜならそれがわからないと鹿島区の歴史を解き明かせないからである

私の見解では塩崎の前方後円墳が古いのだろと思う
それは鹿島区の歴史の形成がどうして行われたか?
古代になるとまず東北電力の火力発電所がある場所で大規模に鉄の生産が行われた
その時この地が奈良の朝廷に知られるようになった
鉄の生産のために韓(から)から特に伽耶から技術者が入ってきた
それが津神社でありツノガノアラシトである、、浪江の苕野(くさの)神社もそうである
津神社とはツノ神社でありまぎらわしい、ツ神社とはいわない
ツノ神社である、松川浦の津浪をまねがれたツノミツ神社もそうである
感じは当て字であるから注意する必要がある
ツノガノアラシトのツノがつく神社や地名があるから注意すべきである

ではこの辺にある神社でも新旧が大事になる、綿津見神社は相馬地域とか浜通りでは多いツノガノアラシト系は点であり韓半島の技術者が入ってきた
綿津見神社は安曇系の海洋民が大勢移民として入ってきた
それを物語っているのは飯館村まで綿津見神社と山祇(山津見)神社が多い
それも面としての広がりがある、飯館村の山津見神社を終点としてその前に栃窪村にも山津見神社がある、他に相馬の松川浦にも海岸に山津見と和田という地名があり和田は綿津見のことである
そこから川をさかのぼってゆくと途中に隠されたように山津見神社がある
このことは綿津見神社と山津見神社を神として奉じる人たちが移動した跡なのである
ではこの人たちはいつここに来たのか?
これが大きな問題になるのである
古墳にしてもそれが一体古いのか新しいのか問題になる

ツノガノアラシト系とかの鉄の生産技術者は点としてその後神社とか地名に残した
綿津見神社系はこの地に大勢来て面として移民として住んだのである
ではこの人たちはその鉄の生産の技術者より古いのか新しいのか?
これが大きな問題になるのである

これがツノガノアラシト系より古いとなると最初にこの地に来た人たちは綿津見(山津見)系だとなるからである
その後に鉄の生産技術者が韓半島から来た、そこに大和王権系が指導権をにぎってゆくことになる
真野の草原はそういう事情で大和王権系がかかわり奈良に知られたとなる
そしてでは原町の桜井古墳が鹿島区の古墳と比べて古いのか新しいのかが問題になる
あれだけ大きいのだから古いとみる
そこにすでに統一された大きな勢力がある集団が存在したとなる
それは物部氏系とされる

位置関係を見ればたどれば鹿島区の歴史はわかりやすい
蝦夷が存在したという時、それは物部系とかツノガノアラシトとかが関係していた
そこに大和王権系がかかわり真野郷として中央の大和王権から認定されたとなる
それで小池の前方後円墳が作られ金銅双魚佩とともに埋葬された地元の有力者がいたとなる、それは中央政権の大和王権からもたらされたものだとなる

そして桜田山に古代の城がありそこの丘を越える所で先住民と争いがあった
そこから石の武器が数多く発見されたとあるからだ
そこで先住民と大和王権側が衝突して桜田山下の大六天の祠のあるところで争いがあったそこからは縄文人が生活していた跡が発見されている
魚とか鹿の骨が発見されている、つまりそこで蝦夷と戦った人たちがいた
そこで蝦夷は大和王権側に殺されたともみる
そこから大和王権側が進撃して鹿島神社に至ったのである
そこに鹿島神社が今でもある、その祭神はタケミカヅチの神である
これは武の神であり出雲でもこの神が現れて征服している

つまり神社は場所が大事なのである、なぜその場所にあるかが歴史を語っているのであるそれから右田の御刀神社がありなせそこにあるのかが問題になる
それは海老というのはエヒであり蝦夷のことだったのである
そこはもともと古墳が発見されたように古い場所だったのである
右田に御刀神社があるのは刀はまさにこれも武の神であることがわかる
刀を使って蝦夷を切ったり殺したり征服した場所になるからだ
古代では御刀神社の前は海だった、それは津波で証明された

歴史で大事なのはこうして新旧を知ることと場所を知ることなのである
この二つから歴史をみることが大事になる、つまり何でも空間軸と時間軸で見ることなのである、空間軸はその場が今でも残っているからわかりやすいが時間軸はわかりにくいのである、江戸時代でも年号があったとしてもその新旧がわからないのである
時代をみるときどうして見るのか?
例えば戦前だと戦争があったとか、戦後だと高度成長時代があったとかなる
そして戦後十年くらいは街中の生活でも水道がないし燃料は炭だったということを知ることが大事である、それは江戸時代の続きだったからである

基本的にそういう生活を知らないければ過去を知り得ないのである
それは石器時代から鉄器時代へ移行したときそれが歴史の大きな転換点だったということでも同じである、戦後の電気の生活変革もそうである
その延長として原発事故があったからである




2019年09月18日

綿津見神社が相馬地方に多い謎の解明(2) (照葉樹林帯の南限の地だったから・・)


綿津見神社が相馬地方に多い謎の解明(2)

(照葉樹林帯の南限の地だったから・・)

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外来系と土器と称される喜納東海・北陸地方の土器、あるいはその影響受けた土器が関東や東北地方から発見されると政治社会体制の変革によって各地に古墳が出始めることは
極めて関連があって、場合によっては東北地方の古墳年代も関東地方の古墳年代とほとんど変化がないことがあるだろう
今や〈未開の地)(辺境の古墳)という意識では学問姿勢でぱ史実の古代史研究は進まないだろう 

東北における古墳文化の成立と展開)
大塚発重   

古墳時代の海洋民について 西川修一

豪族とは安曇族である
さて、新聞記事の中で西谷正氏は被葬者に関して
「この地域の有力者・宗像氏と並ぶ豪族」と指摘されています。

この地域の豪族って言ったら、安曇族ですよね。
新宮あたりを中心に、阿曇郷があったほどですし…。

Q その安曇族と宗像氏の関係は?
A 両族は共存共栄していました。

その証しとして、荒雄の遭難事件が今でも志賀島では語り継がれています。

荒雄らを 来むか来じかと 飯盛りて 門に出て立ち 待てど来まさじ 
ほか九首                           <山上憶良>
(略)
荒雄の遭難事件は、官から対馬向けの食糧の運搬を請負った宗像部津麿が老齢を理由に志賀村の荒雄に交替を頼んだことに端を発する。荒雄は現在の長崎の五島から対馬に向け出航したのであるが、途中嵐にあって遭難、帰らぬ人となったのである。

四世紀の初頭、「邪馬台国」の東遷によって、それまで河内、大和にわだかまっていた物部氏族の一派が、近江を経て東海地方に東進を余儀なくさせられたのではないかということです。物部氏の一部は、おそらくナガスネヒコに代表される蝦夷と共に東を目指したと考えられるのです。 

大和王権が成立する前に物部氏とかが大きな勢力でありその物部氏がナガスネヒコと結び大和王権と対立した、蝦夷とは物部氏とかまた海洋民の安曇族とかでも古い氏族でありそれが東北地方に居住していた
そこに渡来人も混じっていた、伽耶の国のカヤ族もいた、そういう様々な人たちの連合体が蝦夷だったのである
だから大和王権にとって強敵となったのである

ただ相馬地方では物部氏の伝承があるにても明確ではない、物部氏系の神社もわからない、わかっているのはとにかく綿津見神社と山祇(山津見)神社がやたら多いのである
となると明らかに相馬地方は安曇族とかの海洋民がやってきた開いた土地だとなる、これだけ綿津見神社が多いことが証拠なのである
桜井古墳はその海洋民と関係しているのか?東海地方と似た様式であるとか東海地方と同じものが何か遺物として発見されたとかあり東海地方に特に静岡県に安曇氏の痕跡を多く残しているからその辺から移住した
ただ船といっても当時の船は遠洋航海は無理だとしても航海民は海を通じて海岸線にネットワークを持ちやすいのである
今でも船は他の港を利用しているし人間として関係を築いている、ネットワークがある
遠くでも港を利用するから関係が生まれる、つまり海というのは航海する道であり港は一時的に休憩する場となりやすいのである

それでいわき市から途中に港がありそこを経由して移動することは可能である
それよりネットワークが生まれるというときその港々に住みついているからその住みついた人の援護があり新しく安曇族でも一族として連帯があり案内もされるから海岸線に広がったとなる
その基は九州にあったが何らか東北地方に移動せざるをえない状況が生まれたのかもしれない、物部氏は仏教派の蘇我氏と争ったりして東北地方に逃れた、物部氏が一時は日本を支配していたと言われるからその痕跡を日本全国に残している
ただ物部氏系の神社は残っていてもわからない、綿津見神社と山津見神社は飯館まで残っている
山津見とあっても山の神社とは限らない、飯館村には綿津見神社もあるからだ、これは対になった安曇族などの神社なのである

安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、安曇が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し(古代難波の入り江に、阿曇江(あずみのえ、または、あどのえ)との地名があったと続日本紀に記録される)、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達する。この他に「志賀」や「滋賀」を志賀島由来の地名として、安曇族との関連を指摘する説がある

渥美半島は知られている、それは安曇族が定住した場所だからその名がついた、宗像(むなかた)も出雲から逃れて来たタケミナカタだとされている、出雲で国譲りして東北に逃れて来た、東北のズーズー弁と似ているというとき同じ系統だったのかとなる
相馬地方に綿津見神社がこれだけあるということは安曇族など海洋民がここに移住して飯館村の山の中に入り住みついた
海洋民は船の操作にたけていただけでなく様々な技術を要していた
だから農耕にも従事で来たとなる、佐須は焼畑地名であり焼畑を行ったのも海洋民であり安曇族だったのかとなる
縄文人は焼畑をしていないからである、そうした技術がもっていなかったからである
これは重要である、焼畑、鉄の生産とか農耕から航海術とかは海洋民によってもたらされたものなのである

一方、耕地利用率の低い焼畑農耕は耕作適地の不足をもたらす。そこで、この水辺民集団は組織的な植民活動を思いついて行動計画を作った。今からおよそ一万三千年前にその計画は実行に移され、突出した二つの技術、すなわち焼畑農耕技術と製鉄技術を独占する植民集団が、ランナ型植民方式による東進を!   

宮崎氏は南部朝鮮と北部九州を往来していた漁労民は海人族である穂積・安積(阿曇)であるとしている。半農半漁からその一部が水稲栽培に専門化した海人族は、未開拓だった海岸線のデルタをほとんど利用しつくし、しだいに川をさかのぼり、耕作可能な地を求めて日本全土に散っていった。その歴史は、穂積・安積(阿曇)の全国的散らばり方や、諏訪湖畔までさかのぼっていった実例が物語っている。

稲作伝播以前の日本は、文化的にはマレー・ポリネシア文化圏とつながっていたのです。イネが伝播する以前から日本では焼畑農業を行なっていましたが、そこで重要な作物だったのは里芋(タロイモ)と山芋(ヤムイモ)だったはずです。
 タロイモもヤムイモも、その栽培種は東南アジアが原産のものです。東南アジアの熱帯林に入ると、野生のタロイモやヤムイモを見ることができます。稲作開始以前の日本の農業文化は、マレー・ポリネシア地域の作物と農業技術が伝わって形成されたものと思われます。
 ちなみにマレー・ポリネシアの文化圏では、ヤムイモのことを共通して「ウベ」とか「ウビ」などと呼んでいます。日本語の「イモ」という単語は、「ウベ」が「ウモ」になまって伝わり、さらにそれが「イモ」に変化したものと思われます

具体的には、根栽類の水さらし利用、絹、焼畑農業、陸稲の栽培、モチ食、麹酒、納豆など発酵食品の利用、鵜飼い、漆器製作、歌垣、お歯黒、入れ墨、家屋の構造、服飾などが照葉樹林文化圏の特徴として挙げられる。照葉樹林文化論を肉付けする形で稲作文化や畑作文化なども考証されている。

日本の文化は照葉樹林帯から入ってきた人たちがいた、その人たちと密接な共通性がある、だから言葉でもそういう人達が住んだ地域と深く関係して伝えられた、朝鮮半島に榊(さかき)とか樒(しきみ)とかが生えていない、寒い地域だからオンドルが生れた
そして魚がいても魚をとることができないからと倭人が魚をとることを生業としているからわざわざ韓国で招いて魚をとらせたという記録がある、韓国は遊牧民系であり照葉樹林帯の文化とは根本的に相違しているのである 、今でも海苔を韓国で作っているがもともとその技術はない、日本からまねたものなのである、そして韓国由来のものより日本由来のものが多い、韓国の伽耶地域にある前方後円墳は日本由来なのである、ということは逆に伽耶地域は日本府の任那があったように日本の支店のような地域だったのである
確かに一部には製鉄技術者などが入ってきたとしてもそれにまつわる神社があるにしても相馬地方だとむしろ安曇族系の綿津見神社が圧倒的に多いのである、だからここに注目せざるをえないのである、
そしてなぜ相馬地域に綿津見神社が多いのか?それはここが照葉樹林帯の南限の地だったからだろう
車輪梅(マルハシャリンバイ)が自生していた、それは奄美大島に見られるものだったからである
原町の多珂神社のすぐ近くにスダシイがあり神社があるのもそうである、南方系の植生の南限の地だったからだともなる

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列島東部における古墳時代の海洋民文化の重層性

この図のように海洋民というときそれは漁業だけではな、鉄の生産にかかわったり、農耕にもかかわる一集団でありそれらの集団が大挙この辺に入って住みついたとしか思えないのである、その証拠が綿津見神社や山津見神社が多いからである
その神社があるのは先祖を祀るから多いのである
そして海を渡り海からやってきたのだから海岸に上陸するから海岸が重要な場所となる
それで海岸沿いにある古墳は安曇族のものかもしれない、それは海から見える目印となるからである
そして当時の海は海が深く入りこんでいた、今回の津波でわかったように相当に陸地の奥まで海だったのである
するとその海が生活の糧となる、魚や貝類を食べる、鹿島区の桜田山の下では魚の骨とか鹿の骨が発見されている
江垂とは海が迫っていた場所だったことがこれも津波で明らかにされたのである

横手古墳群でもそこに縄文時代や弥生時代の遺跡が密集していた、つまりもともと縄文人や弥生人が住んでその上に安曇族とか渡来人が来て住みついた場所だったとなる、そこは海が相当に入り込んでいた場所であり海岸でもあった
鹿島区にはまた本当に古墳が多いのである、古墳の町なのである、桜井古墳は大きいのはやはりそこで大きな集団をまとめるものがあった、それがどういう集団だったのか?海洋民の安曇族と物部氏だったとなる
二つの石棺はその首長となるものが和合するものとして桜井古墳が作られたともなる
大田神社のある奥の多珂神社は多賀神社とは違う系統でありヤマトタケルが東征した伝説のタケミナトである
それは安曇族の海洋民がベースとなって作られていたのである  

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鹿島区で前方後円墳は二つしかないというとき一つは金銅双魚佩が出た寺内でありもう一つは塩アの船着にあった
ここは重要な場所だったのである、交易がおこなわれた市庭という地名もあるからだ
この船着のすぐ近くまで鉄道のトンネルをくぐり津浪が来ていたのである
ただ前方後円墳のある正確な地点はわからないが近くにあったことは間違いないのである  

なぜ日本が最初海洋民が入ってきたのは

森林深く道路は禽鹿の道のごとし(魏志倭人伝)

こういう状態でありすると海が交通にはいいのである、確かに海は危険なのだけど海岸線には入江が多い、だから湊がありそこから内陸部に入ってくる、だからなぜ鹿島区の塩崎に船着がありそこまで船が通っていたのか?
それは頻繁に通っていたのである、なぜなら曽我舟という大内の地名は船が遡ってゆくという地名だったからである
その船はどこから来たかとなると鉄を生産していた今の東北電力がある場所なのである
すると余りにも近いとなるが近くても日本は道がない、うっそうとした森に覆われていた
それから海岸は湿地帯である、すると船が交通には便利なのである
それで泉官衙跡まで新田川があるのに運河を作っていた、それも今なら短い距離なのである
でも湿地帯になっているから船で行くほかないのである
だから日本は原始の状態だと山あり森ありで通行しにくい、閉ざされた世界になってしまう
森というけどそこは鬱蒼とした森であり真っ暗な闇だったのである
そこに縄文人が住んでいた、でも縄文人は海岸にも住んでいた、魚や貝がとれたからである
そこは森とは違って明るい場所だったのである

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遮光土器の謎は目が大きいのだから大きな目をして見ようとすることだったかもしれない他に目が大きくしたものが中国でも残っている
目はやはり人間の中心なのである、目に力がないものは目を直視できないものは心も直視できない、汚れているとなる
そしてうっそうとした暗い森では余計に大きな目をもって見ようとするからそれで目が大きくなったともとれる
ただそれは森の中である、海岸だと海が見えて見晴らしがいいからそういうことがないともみる
でも大きな目はやはり原始的人間が自然でも見ようとする、見ることが大事だから目が大きくなった

いづれにしろ古墳時代は福島県から宮城県辺りまで巨大化した、数も多い
古墳時代は弥生時代であり稲作も行われたから東北が今までの辺境だという観念は見直すべきだというのはわかる

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相馬市史3(民俗編)

富岡でも綿津見神社が四八社とかあるとか港は船を通じて遠くでも人を結ぶ
相州浦賀は横浜であり伊豆の伊東であり久慈浜とも関係していたことでもわかる

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みちのくの真野の草原(かやはら)は気候の境界線

(照葉樹林の南限の地点)

2019年09月17日

綿津見神社が相馬地方に多い謎の解明(1) (海洋民族のネットワークができていて海岸沿いを渡り移住した)


綿津見神社が相馬地方に多い謎の解明(1)

(海洋民族のネットワークができていて海岸沿いを渡り移住した)

●ポリネシアの海洋民が安曇族のルーツか?
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水辺の古代史(小野寺公)より引用

陸奥(むつ)は古代ポリネシア語で陸地、岬、端をさす
これはマオリ族の言葉ででも同様で終点を示すという
むっは東北訛りで奈良朝にひどい訛りが移っていたことになる

安田徳太郎は安曇(アヅミ)族についてサンタル族から航海術を学んでチベットやベンガル地方と交易したモン族がこれにあたると説いている
彼らの日本列島進出は紀元前二世紀頃という
二世紀の朝鮮の書に「韓海に魚多ければトル術なく倭人は網漁を良くすると聞き二千戸を招きこれをとらしむ」とある

綿津見族を始めとする南方族は瀬戸内海から難波に入り拠点を作り黒潮沿岸沿いの椀に定着して鹿島、香取、住吉、宗像、
墨江 安波大杉などの神々を祀ったと言われる

大田地名に見られる特徴として第一に渡来人が関係が深い

第二に国内の主要通路に位置する

第3に背景に鉱山をひかえているのが多い

記紀の伝承で三輪氏や加茂氏の始祖とされく大田根子は彼らを統括する立場にあったと言われる

古事記では鹿島神宮の祭神タケミカズチミコトの子が意富多多泥古(オオタタネコ)とされている、それは多(おう)氏の始祖である

徳川政次郎教授は安曇族と隼人族は同族で(安曇隼人族は中国中南部の民族で紀元前二世紀頃、いわゆるトカラ馬やトカラ豚を携え、黒潮にのって日本に来た
鵜飼いは中国中南部に上陸したのが隼人族であり北部に上陸したのが安曇族である
日本古代に朝廷に仕えた猪甘部は豚を飼っていた人民であり鵜養部は鵜飼いをして朝廷に仕えた

◎先祖たちが海のかなたからやってきたという神話伝承をもつ
◎流し鄙灯篭流しを思わせる〈船葬)の民族儀礼をもつ
◎韓国済州島経由で伝播したと思われる南方海人系の石像文化が見られる

 飛鳥にある石像は南方系由来なのか、済州島にあるから経由してきたとなる

 船葬というとき真野の古墳に石棺に船型のものがあったが船に乗って遠くに去る考えた古代の観念だろう
(本邦祠の研究ー岩崎敏夫)  

 新地村の大戸浜の安波の現在の祭神は綿津見の神である

 安波というのも海洋民に由来したものであり綿津見と関係している、もともとは安曇族などと関係していてそれが祭りになった

 太田というのはまぎらわしいが大きい田ではない、多(おう)氏のことでありそこから太田となった、だからそこはもともと相馬氏が入って来た時古い場所だったのである,多(おう)氏はいわき市に勢力をもった大豪族であった、それは天皇とも関係していたのである

●古事記の国産み神話は安曇族とか海洋民族に由来している

日本武尊は上総かみつふさより転じて、陸奥国みちのくにに入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦(あしのうら)を廻り、玉浦を横切って蝦夷(えみし)の支配地に入られた。蝦夷の首領島津神(しまつかみ)国津神くにつかみたちが、竹水門(たけのみなと)に集まって防ごうとしていた。しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで、「君のお顔を拝見すると、人よりすぐれておられます。きっと神でありましょう。お名前を承りたいのですが」と申し上げた。皇子はお答えになって、「われは現人神(あらひとがみ)(天皇)の皇子である」と言われた。蝦夷らはすっかり畏かしこまって、着物をつまみあげ、波をかきわけて、王船を助けて岸に着けた。そして、自ら両手を後に縛って降伏した。そこで、日本武尊は、その罪を許された。こうして、その首領を俘とりことして、手下にされた。蝦夷を平らげられ、日高見国(ひたかみのくに)から帰り、常陸ひたちを経て、甲斐国(かいのくに)に至り、酒折宮さかおりのみや(甲府市酒折)においでになった。

竹水門(たけみなと)とは原町なのかもしれない、そこに多珂神社がありタケはタカなのかもしれない、そしてこの伝承の背景となったのは安曇族とかの海洋民が大量に移住したことが下敷きになっいている
それも前二世紀とかなると古いのである、日本列島には最初縄文人が住んだとしてその後に様々な民族が海を渡ってきて住みついたのである
だから日本語のルーツはポリネシアとかにもあるし中国にもあるし韓国にもある
ただそれが解き明かすことができないのは様々な民族が混交してしまったからだと思う
するとどうしても複雑に民族の言葉がまじりあい一つのルーツでないからわからなくなったのである

陸奥(ムツ)という言葉がポリネシア語として奈良朝廷に伝わったというときもそうである、奈良朝廷ではそこを陸奥(ムツ)として地名として意識したのである
身体語が頭とか鼻とか手とか足とかがポリネシア語に由来するとしたらその後の社会を表す語は中国系統とか韓国系統とかになるのもわかる
村とかは韓国語系統だとするとき後から韓国系統が日本列島に入って来たとなるからだ

原ポリネシア語を基幹祖語とする縄文語の上に古代朝鮮語またはアルタイ語系統の言語がかぶさって成立したと思われる弥生語または古代日本語で育ち、古代朝鮮語はある程度理解し、中国語および漢字文化に精通はしていたが、原ポリネシア語はほとんど理解することができなかった世代でしょう
   
ポリネシア語で解く日本語

何かポリネシア語説はアイヌ説より説得力がある感じにもなる、アイヌ語説は何かおしつけが多い、信用できないのである
アイヌ民族自体が謎でありそれほど古い民族でもない、新しい民族だとも見れるからである

それでそもそも日本では安曇族とか隼人族が九州に移住して魚をとっていた、その技術があった、それで韓国ではそれで魚がいるけどとれないとして招いたのである
そのことからもわかるように日本に渡ってきて漁労民となった安曇族とか隼人族がいて
その人たちが海洋民であり船を操作する技術をもっていたからそうなったとなる
韓国は遊牧民系統であり船を操作できなかったのである 
日本とはそもそも漁労民族が住みつくのに適していたから海洋民族が渡って住みついたとなる
それで古事記の国造りの神話も極めて海洋民族の国造りになっている  

イザナキ神とイザナミ神の男女二神に
「この漂っている国をつくり固めよ」と命じて、
天の沼矛(ぬほこ)を授けて、
国づくりをお任せになりました。

イザナキ神とイザナミ神は、
天の浮橋という空に浮かんだ橋に立って、
その沼矛を指し下ろしてかきまわしました。

潮をかき鳴らして、引き上げた時、
その矛からしたたり落ちた潮が
積もり重なって島になりました。
この島をオノゴロ島*1と言います。

初めに生んだのが淡路島、
次に生んだのが四国、
三番目に生んだのが隠岐。
そして九州、壱岐、対馬、佐渡と生み、
ついに本州を生みました。
この八つの島を大八島国といいます 

こういう神話は海洋民族のポリネシアとかに由来することは確かである、島があるのは島を中継点として船で移住したということになるからだ

日本列島は今でもそうだが森が多い、そして海に囲まれているから湿地帯が多い、これが日本列島の風土の地理の特徴なのである
津浪で一時海が深く奥まで入り込んで湿地帯化した、それは釧路湿原と同じようになったのである
日本の海岸線は太古は釧路湿原のようになっていたのである
そして砂州が磯部の方にできていてそこに人が密集して住むようになったが津波で壊滅したのである 

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釧路湿原と同じく砂丘できたのが磯部だった














2019年09月12日

縁(えにし)とは海洋民族が縁を結んだ海岸のこと? (日本の海岸線が日本のアイディンティティを作った場所)


縁(えにし)とは海洋民族が縁を結んだ海岸のこと? 

(日本の海岸線が日本のアイディンティティを作った場所)

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津浪で海となった、その先が太陽の落ちる方向が日下石

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縄文時代を通じて切れ間なく大陸から人が漂着しており、そのいずれもが長い航海を経てたどり着いていることからして、列島に流れ着いた人は総じて航海技術に長けており、それらの技術を生かしてネットワーク形成を担った運輸集団になっていった可能性もあります。
その一つが縄文晩期に北九州に漂着してその後長野から東北に移動した安曇族であり、古墳時代を通じて日本中にネットワークを広げた物部氏です。


日本語の謎は深い、それを解き明かすことは不可能である
ただどういう人たちがその言葉を最初に創りだしたのか?
それは日本に渡って来た人たちがいてそれがもともとあった縄文語と混合した

海岸が西になることはありえない、でも今回の津波でわかったことは日下石(にっけし)という地名がにし(西)なのである
その近くまで津波が来ていたのである
そして津浪で海になった所をみたら日下石(にっけし)の方に輝き沈んでいった
そこから山は見えないのである海から見たとき海岸に太陽が沈むのである
そして日下石に古墳がありそこの近くまで津浪が迫った
その辺まで人が住んでいた

つまり船で来た海洋民族が安曇族などが上陸した海岸は日下石だったのである
それを名付けたのはアイヌなどではない、安曇族とか外来の民族である
なぜならこの辺に綿津見神社と山祇(山津見)神社がどれだけ多いか
特に相馬藩内に異常に多いのである、これは特筆すべきことでありこの辺の特徴なのである

それはなぜなのか?おそらくこの辺は今は海岸線に入江がないけれど奈良時代まで海が深く入っていたからである
その証拠となるのが鹿島区の塩アに船着という地名がありそこに船が来て交易をしていたそれで市庭という地名も残している
その船着のすぐ近くまで津波が来ていたからである
そこに今の東北電力の発電所があり鉄の一大生産基地でありそこから鉄などが運ばれていたのである

船で来て海から見れば海岸が西になるのである、そして東は陽{日}が上る岸になる
それは陸地から見たものであり海岸で見たものではないのである
海岸から見れば海の方から陽が上ることになるからだ
そしたら陽が上る岸とはならない、岸は陸地だからである
それは陸地から見て東として海から見たとき海岸は西だったのである

それで縁とは江西でもある、名古屋の愛西はエニシである、太陽は伊勢湾から昇る
その辺は海が入り込んでいた、だからそこも昔海岸であり西となったかもしれない
ただ方角はどこを中心にして東西南北を決めるか大事になる
その中心が変わると違ったものになるからめんどうなのである
南相馬市自体がそうである、相馬市の南相馬市になったからである
もし小高が中心だったら北相馬になっていた、現実鹿島は北郷となっていたのは小高に前に相馬氏が最初に城を築いたところだったのでそこから北ということ北郷になったからである  
また日本海とかでも瀬戸内海でも方角は変わる、太陽が海の方に落ちてゆくようにも見える
日本海になれば太陽は山から上り海に沈むから逆になる

いづれにしろこの辺で注意すべきは綿津見神社と山津見神社がやたら多いことなのである
それはここに海洋民族の安曇族とかが入植したために多いのである

私の魂は子の風景のもとに安んじて帰ってくるだろう、それはかつてこの島影にたどりついた民族の心象というものがあったからだろう
「海やまのあいだ」にある狭い土地ーそれを海岸線と言ってもいいだろうーにこそ我が民族の「ふるさと」があったのである
海岸線の歴史ー松本健一

日本は古来地理的に海に囲まれているから海岸線が重要だった、そこが生業の拠点ともなった
海老村で二日前に町があったところから坂を上っておりた崖の上に古墳が発見された、それも二も発見されたとなるとそれだけ海老村は人が弥生時代から人がかなり住んでいたからである
そこで魚や貝などをとって暮らしていたのである、また日本では海岸線は奈良時代とかその前になると入江になっているところが多いのである、津とつく地名はつづくからきていて海は陸地にはいりこみ海がつづいている場所だったのである
そこで交易も行われていたのである

だから海岸線は海岸は日本人が縁(えにし)となる場所だったのである、また入江が多いということはそこで魚とか貝をとりやすいのである、生活の場として適地なのである、それで新地の手の長い巨人が貝をとっていたというのはそのためである
松川浦のような入江がありそこで貝がとれたからである、そこが暮らすには適地だったからである
ただ海を海岸線を日本のアイディンティティとすることはなくなった、というよりは海というのはアイディンティティにしにくいのである、海と自己同一化するとしてもできない、海は固定していないからである、それは広大な平原とかともにている
また今回の津波のように恐ろしいものが海なのである

それよりアイディンティティ化しやすいのは固定しているもの山なのである、それに付随する木とか石なのである
だからこそ日本は大和(やまと)山が原点となり故郷となり国になったともなる
ただ最初は神話にもあるように海洋民族が安曇族のように日本の海岸線に上陸して山の方に入植したのである
だから松川浦に山津見という地名があり和田というのも綿津見であり地名化しているし栃窪にも山津見神社があり
その最終地点が飯館村の山津見神社であり綿津見神社なのである

ともかく津波は日本の海岸線が陸地の奥まで入り込んで入江になっていたことを証明した
それはわかっていたことでも驚きだったのである、入江は港でも生活の場にもなりやすいのである
だからみちのくの草原という万葉集の歌は草原(かやはら)は萱ではない、人が出入りして物が入る港だったのである
そういうふうに栄えた場所でありただ萱原が茂っている淋しい場所ではなかったのである
ただ原始の状態だったらその当時はそういう風景はありふれている、むしろ人と物が出入りする港だったとなる
みちのくの真野の草原遠けれどというとき遠いという場所の比喩となっていたのである
草原が茂っている場所ではなかった、ただそれが江戸時代まで石巻の萱原がその地だとされていた
それもまた地名として残されているからそうなった
そして真野の草原にきたとして萱をお土産のようにしてもっていったというのも記されている
それもなぞのなのだが考古学がない時代だからそうなっていたのである

ここには海洋民族の安曇族をはじめとしてツノガノアラシト系の鉄の生産技術をもった渡来人とか集中して来た場所だった
そういう背景があってみちのく真野の草原の万葉集の歌が生まれたのである



2019年09月10日

福島県の文化財課の人が海老の高台を調査して古墳を二つ発見!


福島県の文化財課の人が海老の高台を調査して古墳を二つ発見! 

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沖に船が行く

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津浪のあとに残された松がまだある

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松が密生してかなり高く伸びていた

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ここは避難所に指定されたが30人ほど死んだ

うしろの森に逃げて助かった人がいた



海老に行ったら福島県の文化財課の人が調査していて古墳を二つ発見したという
そこは高台であり津波の避難地域として指定されていた場所である
でもそこに逃げた結果30人くらいが死んだ場所なのである
高台であり避難場所に指定されていたからである
これも大失敗だった、なぜならちょっと歩くだけで津波の被害をまねがれたからである
別に海老の通りの道をまっすぐ山の方にちょっと歩けば助かったからである

ただ海老村は高い場所であり昔から弥生時代から人が住んでいた
その住居跡も津波で人が住まなくなり発見されたからである
ただなぜそれより高い崖の上に古墳があったのか?
そんなところまで人が住んでいたというのが意外だった
確かに屋形から海老の山沿いに古墳がある、だからその延長として古墳があっても不思議ではない

それにしても高台の崖の上となるとそんなところに人が住んでいたのが意外だった
おそらく海老村には相当に人が昔から住んでいた場所なのである
それは高台であり海老の家が密集したところは港でもあり魚もとっていた
右田村は江戸時代から人が住み始めた地域だからである
その江戸時代からあったといわれる松原は津波で全部なくなったのが残念だった

海老村が古いというきと海老はエヒでありまた恵比寿(エビス)からも来ている
蝦夷(エゾ、エミシ)のことだからである
そういう名がつくほどにここは集中的に人が住んでいたのである
それで外来の人がここに来たとき衝突があったとなる
それはかなりの人々がここに住んでいたから衝突した場だからとなる
それで海老(エヒ、エビス)の名がついたのである、蝦夷が集中して住んでいる場所だったのである
だからこそあの高台に崖の上に古墳が二つも発見されたとなる
そういう歴史的背景があって発見されたのである
だから確かに意外だがそういうこともありえたともなる

ただ海側に古墳があるといそこに人が住んでいたのは貝と魚とかとれるからである
食料になるものがとれるからこそ海側に住んだとなる
それで日下石にも古墳があった、それは今回の津波が迫って来た場所だったのである
ただそこまでは津波は来なかったがそれなりに近くに津波が迫ってきていたのである
ただ慶長津波とかの何か証拠となる痕跡が発見されていない
それが一番の問題なのである
貞観津波のことは相馬市のボーリング調査で発見されている
松川浦のかなり奥まで津波で運ばれた砂が発見されたからである
慶長津波ではそうして何か証拠となるものが発見されないのである
だからどうしても謎になり証明できないということである

ただ海老の家が密集した地点から坂を上った崖の上に古墳が発見されたということは
あの辺一体に相当数の人が住んでいたのである、それは弥生時代からそうであり古墳がそれを示している
第一古墳が二もあるとしたら一つではないのだから倍の人数が住んでいたと推測できるからである

南相馬市の鹿島区は古墳の町!

寺内から小池にも古墳が本当に多い、それで金銅双魚佩が寺内の前方後円墳から発見されたことで有名になった、今回も海老村の高台から発見されたことは意外だった
海老千軒とか言った人がいたけどそれも嘘ともいえない、それだけの人が昔から住んでいたからそう伝えられたのかもしれない、ただ・・・千軒というきは各地にある
でもなんらかで津波とかでも消えてしまったとなることはありうる
それこは今回の大津波で実感したのである

海老村にはマルハシャリンバイがまた自生していた、それから松も繁茂していた
津波から8年半とか過ぎているからそうなるが松は成長が早いと思った
あそこの高台は南相馬市では景色のいい場所である
一時は八沢浦の方が入江になったときは本当に驚いた
今日も沖に船が見えて釣りする人がいた
あそこは悲劇の場所たけど眺めのいい場所なのには変わりがない
ただあそこを何に利用するのかわからない、ゲートボール場にするにも人が住んでいないそれをどうするかはわからないが整地していた


2019年07月13日

近江粟田郡の鉄生産地と陸奥行方郡真野郷の密接なつながり (直接鉄生産の工人が行き来していた)


近江粟田郡の鉄生産地と陸奥行方郡真野郷の密接なつながり

(直接鉄生産の工人が行き来していた)

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宇多郡行方郡と近江の鉄生産 

●鉄生産の技術習得のために近江の粟田郡まで直接陸奥行方郡などから人が行く

東北系土器の出土地点

滋賀県栗東市は、律令期の近江国栗太郡にあたり、かねてから武井・金沢製鉄遺跡群の技術
体系の故地とされる官営製鉄所=瀬田丘陵生産遺跡群を抱えたところ

高野・ 岩畑遺跡と下鉤東遺跡の位置は、この官営製鉄所の北東5〜7kmの範囲に広がる官衙関連遺  東北系土器の出土地点 − 45 − 跡群内にあり(図 14)、周囲には、8世紀中葉の鉄生産に関与した宇多郡官人の火葬墓に影響 を与えた終末期古墳(菅原 2010 a)が、分布している)。 また雨森智美氏によると、
高野・岩畑遺跡は、古墳時代から継続する伝統的な技術者集団の 居住域であり、中核となる高野神社の摂社(八重釜・敏釜神社)は、鉄生産に伴う神とも関連 付けられ(図 15)、8 世紀前半には瀬田丘陵生産遺跡群に人材を提供したという(雨森 2007)(註 10)。当然、その関係は、7世紀後半に遡る可能性を十分に有している。 こうした複数の状況証拠から、

3点の東北系土器は、宇多・行方郡から近江へ技術習得に派 遣された工人が、現地に残した痕跡とみるのが最も合理的な解釈と考えられる

古墳時代には、地方から畿内への上番という形(帰郷・帰郷指導型)が一般的に存在しそれが技術伝播の契機になった」のに対し、「律令期になると、基本的に伝達者が東国に来て教習活動(「玉突き」型、巡回・指導型)を行った」として、工人の動きが逆向きに変化したことを明快に述べた

周囲には、8世紀中葉の鉄生産に関与した宇多郡官人の火葬墓に影響を与えた終末期古墳(菅原 2010 a)が、分布してい
鹿島町真野寺内 20 号墳(図2−8)出土の金銅製双魚佩(図 17)は、6世紀前半に比定され、同年代の類例の分布が、いずれも近江出自の継体王朝と関係が深い墳に集中している(穴沢味光)

●金銅双魚佩の伝播径路

真野氏は近江国滋賀郡郡真野郷(滋賀郡堅田町真野)に本貫があった
継体政権と近江の豪族との関係については先に述べたが同じ滋賀郡内に和邇氏と密接な関係のある漢人渡来人氏族が集住しており、真野20号ににた正方形プランの横穴式石室が盛行した、真野20号の主体のモデルになった横穴式石室は、案外こんなルートで東北の一角に伝播したのではないだろうか

おそらく六朝の製品の(魚袋)と考えられる双魚佩の一つが武寧王陵の出土鏡と同はんの獣帯鏡に誘着していた、これらの双魚佩も獣帯鏡と同じように、南朝から百済を経て継体朝の日本に伝来し、継体朝の関係の深い豪族に分与されたのではないだろうか

この古墳は6世紀中ごろであると思う


金銅双魚佩出土例


(滋賀県野洲郡三上山古墳出土例)

この金銅双魚佩が付着していた唐草文薄肉刻七獣帯鏡が韓国公州の百済武寧王陵出土の鏡と群馬県観音山古墳出土の鏡と同型である
この獣帯鏡は中国の漢代の鏡を六朝時代に踏み返したもので、百済を経て日本にもたらされたものであると樋口隆康氏せ言う

やはり六朝時代のの踏み返し鋳造と思われる銅梁獣帯鏡の日本が出土の三面の同型品のうち二面は継体天皇陵と考えられ大阪府高槻市郡家の今城塚からあまり遠からぬ茨木阿部野土室石塚と豊中市桜塚古墳群から出土しているのでこの種の鏡は継体王朝と密接な関係が推定される

千葉県長須賀古墳出土例

長須賀古墳の所在する上総望田(陀)郡の国造は馬来田国造であるが記紀によると継体には馬来田皇女があり馬来田国造家の女が乳母になっていたためと思われる

日本後記延暦一六年(797年)陸奥行方郡人に大伴行方蓮の賜姓の記事があることから継体推戴運動の強力な担い手であった、大伴と真野の関係が十分に考えられる

六朝の製品(魚袋)と考えられる双魚佩の一つが武寧王陵の出土鏡と同はんの獣帯鏡に付着していたことはこれらの双魚佩も獣帯鏡と同じように、南朝から百済をへて継体朝の日本に伝来し直接間接に継体朝に関係の深い豪族の間に分与されたとか推定される
  
(金銅双魚佩考―真野古墳出土例にして―穴沢味光)
   
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 古墳時代における琵琶湖およびその周辺地域(細川修平)

粟田郡は古墳が多く琵琶湖の交通の要所になっていた、そこから大阪とか奈良に通じている交通の要所だったのである

●真野の草原(かやはら)の歌は日本の古代の歴史があり生まれた

古墳時代はかえって鉄生産の本拠地との交流があった、近江粟田郡が本拠地でありここの行方郡と宇多郡でも地元の人が直接鉄の技術を習いにおもむいたとなる
ここでは人の行き来が近江粟田郡と直接あった
地元の人もそこで鉄生産の技術を習っていたとなる
それでお土産としてなのか東北形土器が発見されている、つまり近江粟田郡にもたらされたとなる
ただ直接人が行き来したことは陸奥の真野の草原(かやはら)を伝えられたとなる
でも律令時代になると巡回型の技術の伝播になる
中央から直接技術者が巡回して鉄生産を伝えた
この意味するところは何か?中央の指導が強まったということである
中央の大和王権がかかわってきたとなる
それで真野古墳群の前方後円墳に金銅双魚佩が発見されたのである
それはいつの時代なのか?継体天皇の時代だとなる

直接行き来したのは時代が古いということは地元の工人が直接技術を習わないと習得できないということがあったかもしれなんい、今でも技能実習という名目でベトナム人であれ外国人が来ているからである
日本で技能を身に着けて本国に帰り伝える、それでネパールなのかそこには受け入れる工場がないとういことで日本人が工場を建てるようになったとかある
つまりそんな遠くとも技術を通じての交流が生じたとなる
ただ当時は近江と陸奥は相当に離れているのでどのようにして直接そこまで行ったのか?その疑問はあるにしても人が直接行き来していたことは重要である
それで陸奥の真野の草原は知られたということになるからだ
だから草原(かやはら)とは地名なのである、草原は鉄が生産される生産拠点であり萱原が茂っているなどと関係ないのである
鉄がとれる場所として真野の草原が近江に知られて中央の奈良の都に知られたのである

日本後記延暦一六年(797年)陸奥行方郡人に大伴行方蓮の賜姓の記事があることから継体推戴運動の強力な担い手であった、
大伴と真野の関係が十分に考えられる

大伴氏の一族がかかわり和邇氏の中の真野氏がかかわってここに真野という名を遺したのである、それで笠女朗は大伴家持を慕い歌に残したのである

みちのくの真野の草原(かやはら)遠ければ面影にして見ゆとういものを 笠女郎

大伴家持を慕った歌だが草原(かやはら)とはこうした背景がある場所であり何もない
草原(萱原)が茂っている場所ではなかったのである
つまりここに住んでいる人も近江に直接行きこの場所を伝えてそれが奈良の都に知られて笠女郎が大伴家持を慕い歌にしたのである、大伴家持が現実に陸奥に来たとして考証している学者もいる
実際は交流は人が直接行き来していたとなるとリアルになる、直接人の交わりから陸奥の真野の草原が奈良に知られて全国に知られたとなる

次は継体天皇と武寧王陵についてー金銅双魚佩の径路は中国まで通じていた

2019年04月27日

みちのくの真野の草原(かやはら)は気候の境界線 (照葉樹林の南限の地点)


みちのくの真野の草原(かやはら)は気候の境界線

(照葉樹林の南限の地点)




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4月に寒気がおりてきたがそれがやはりみちのくの真野が境になっている
寒気はここまでしかおりないから照葉樹林でありえた
これ以上寒くなると温帯の生物は植物でも維持できないからだ

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これも森林植生で南と北の境目が真野の草原の地点なのである

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これも真野の地点が境目になっている

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これも温度の境目でありそれが真野の地点になっている

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海の水温でも真野の草原の地点が境目である
あたたかいのである
黒潮の関係でそうなっている

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原町の多珂神社の近くのスダシイである、これも照葉樹林帯なのである

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みちのくの真野の草原遠けれど面影にしてみというものを 笠女郎

この歌の真野の草原を考察してきたが石巻の真野の萱原が江戸時代まではこの歌の地点だとなっていた、それは地名があったからそうなったのである
ただそこはあまりにも遠いからありえないとなった
ただこれまで考察したようにそれなりの根拠があった
真野氏が産鉄族でありその木簡も発見されているし鰐山というとき和邇(ワニ)氏の一族に真野氏がいたからである、だからそこが全く根拠がないものではない

ここで考察するのは真野という地域が何か気候の境界になっている
それは南相馬市の鹿島区の海老村がマルハシャリンバイの南限の地として自生する場所となっているからだ
つまりここは暖かいから奄美大島に自生しているマルハシャリンバイの種がが黒潮にのって流れ着いたとなる
でも気候に影響されるから温かくなければ育たないのである
その限界地点が真野の草原の地点だとみる
草原(かやはら)は萱(かや)とは関係ない、一つの地名である、それは追求してきた

縄文海進とかありさらに古生代になるとフタバスズキ竜が海をお泳いでいたという時暖かい地域としてあった、また黒潮と親潮の境目でもあった
海の温度でも地図をみると丁度この地点が境目になっている

森林分布でも温暖地帯にある照葉樹林帯にありそれら中国と連なり同じ文化圏にあるという指摘でもそうである、人間にとって生物にとっても気候の影響が大きいのである
だからその気候によって植生も違ってくる
ただ現代から過去をみるとき気候も違っている、縄文海進時代は相当に今より暖かい時代だったのである、だからこそ海が奥までは入りこんでいた
この辺では塩崎に船着とあるようにあそこまで実際に今回の津波で海になったことでもわかる、船着とあるのはまさにあそこまで船が来ていたことを津波が証明したのである
この地名は化石地名のようになっていたのである、それだけ地名は古いのである  

真野の草原の地点が南系統の照葉樹林と亜寒帯の樹林帯の境目になっていることは地図から明確

真野の草原の石巻説があるが気候から地質学的に見たときここが有力だとなる証拠なのである
橲原とか真野川の奥にサンゴの化石とかいわき方面でアンモナイトの化石とか久ノ浜から奥で発見されていてそこで保存されている
フタバスズキ竜でも暖かいから生きられたのである
ともかく郷土史は総合的な学問でありそこには地質学からあらゆる学問が関係しているのである
ただそうなると一人の手には負えないとなる

この裏付けが地質学とか気候から何か科学的証拠となっている、それでこの裏付けは科学が関係しているから信じられるとなる
やはり歴史でも科学的裏付けがないと今はなかなか証拠となりにくい、その辺は苦手だがこういうふうに地図でもそろえてゆくと
何か具体的に見えてくるのもがある

なぜこれほど真野の草原の地点と一致しているのか?

これはただの偶然なのか?そうではない、それがこの地点が真野の草原が南と北の境目にありそれが真野の草原を示す地点だという有力な裏付けとなるのである
  
綾の照葉樹林帯

2019年04月20日

南相馬市の高平の西殿の地名は泉官衙跡に由来するのか? (方角地名はどこが中心で方角が決められるのかが肝心)


南相馬市の高平の西殿の地名は泉官衙跡に由来するのか?

(方角地名はどこが中心で方角が決められるのかが肝心)

●方角地名が世界的にも基本

方角地名が地名でベースになるのは人間にとって見知らぬ土地に行ったとき必ず方角がわからなくなる、それで太陽の昇る方向とか沈む方向とかみる、または星を見る
星がなぜイスラム圏とか大陸で大事になるかというと北極星信仰が生まれたか?
北極星は変わらない定点になっていたからである
それで妙見信仰も生れた、それは北極星信仰であり大陸から入ってきた信仰なのである
遊牧民地帯では常に移動するから目印となるものが必要になる
それが北極星になっていたからイスラムとか砂漠の国や草原とか大陸の国の国旗は星印になる

太陽でも東は日向う(ひゅうが)とからきている、西はイニシで去る方向なのである
それで日立木に日下石」にっけし)があるがそこが西の意味としたときそこが一時津波で海が迫ってきた場だった
ではなぜ海側が西になるのか?それは海から来た人たちがそこに海が迫っていたとき太陽が沈む方向だとして西と名付けたと予測する
なぜならこの辺でなぜこれほど綿津見神社が多いのか?
それは安曇族などの海人族が移動してきたからである、それは海を渡る渡津見の神だったのである、渡ることを海を移動する民だったのである
そういう人たちが来たときそういう名前がついたと予測される
それは一つの説にしてもそういう説明になる

                          
●西殿の起源は泉官衙跡から来ているのか?

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泉官衙(南相馬市に躍動する古代の郡役所ー泉官衙遺跡)より
ここは相当に大きな郡役所だった、ただ方角的に西殿が今の西殿の方面にあたるかどうかはわかりにくい


方角地名で一番の問題はでは南とか北とか東とか西とあるときどこを中心にしてそう決めるのか?それが一番の問題なのである
南相馬市の高平の西殿というのもそうである
もし西殿よりさらに西になれば東殿ともなるからである、現実にそういうことはある


御屋敷、堀、上の坪、中の坪、東殿、西殿、上屋敷、国府殿、四郎殿とな っている 。  宝永 4(1707)年10月14日、紀州沖地擬により 、
大津波が押し寄せ、部落のほとんどが被害をこうむり田畑は砂で埋没したため、年貢米は 5年間赦免されている。 さらに、安政元年 (1854)11月 4日、遠州灘地擬による津波は高さ 10mにも及ぴ、堤防は全壊し部落はほとんど水没した。 しかし、道路が整備され、屋敷囲に根を植えている国府では死人はなく、家屋の被害はすくなかった。国府の歴史は、津波との戦いの歴史ではなかったのではなかろうか。津波の後は、その恐れから、家屋を小高い丘に移し、また便利な平坦地にもどる。その繰り返しをして、部落の移動がたぴたぴ行われていたものと思われる 。

ここに国府があり国府となる所に役所となる建物があり東殿―西殿と地名化した
国府となると正殿がありその東と西に脇殿として建物が建てられた
西脇殿とか東脇殿とかなる


溜池を挟んで東側の台地上にも周囲に土塁を巡らせた城館がある。こちらが西殿という場所であるらしい。60m×80mほどの長方形の郭であるが、所々土塁が分断されている。しかし、旧状を想像することは容易である。溜池側には2段ほどの腰曲輪的な削平地がある。城塁を削っているので、これらの部分も城郭遺構であると思われる。この2つはどちらも、戦国以の初期の居館というイメージである。


つまり原町区の西殿という地名はいつ頃から生まれたのか?
それは鎌倉時代時代以降と推測した、それは相馬氏が古くからが住んだ記録に残るからである
でも泉泉官衙跡が海に近くありそこに古代の役所があった、するとここにあるように国府がありそこに写真のように中心の建物があり西脇殿と東脇殿があってその名があって古代から西殿と名付けられたともなる、ただ西殿はその時は今の地点ではない
これは考古学の発見がありそれを調べないとわからない
ただ西殿とか東殿は戦国時代にもあるがインタ−ネットで調べた城でもあった
だから古代から西殿という名が伝えられたということでもない
国府とか郡衙になるとそういうことがありうる、事実いわき市にはそうした地名が残っている

(根岸郡衙跡)
郡の政治を行う中心の場所です。根岸遺跡では、正殿(せいでん)・東脇殿(ひがしわきでん)・西脇殿(にしわきでん)の三つの建物が中心の広場を囲むように建てられていました。

いわき市にも西殿がある、西殿は殿は古代の政庁跡にある、殿から館になったとき中世に変わったが依然として殿が使われていた

つまり地名の起源は古代にまでさかのぼり古い!

南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)

●なぜ南柚木(みなみゆのき)というのか?
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村の名で検索すると村の領域がグーグルで表示されるから便利

「この辺は何村ですか」
「坪田です」
「なかなかどの辺までは坪田村なのかわかりにくいです」
「坪田があり八幡があり成田がある、八幡は八幡神社があるからだよ」

なぜ村の範囲がわかりにくいのか?それは江戸時代なら村ごとに年貢を納めていたし村が行政の単位であり村ごとに人は結束して生活していた
それがなくなったとき村の範囲はあいまいになったのである

「柚木(ゆぬき)は南柚木と北柚木がある」
「柚木が相馬市でも鹿島のように思う人もいる、まぎらわしい」
「柚木は南柚木と言って北柚木とは言わない」
「方角地名となるとどこが中心かで方角が変わる、相馬藩は小高にまず相馬氏が城を置いた、だから小高から北が北郷になる、相馬市に(中村に)城を移した時、その城が中心になって南になるから南柚木となった、北柚木とは言わない」
「そういうことか」
「それで鹿島は北郷であり北郷と宇多郷が野馬追の時、雲雀が原に出陣するとき一体化して合流して向かうことになった
南相馬市となったのは相馬市の城から南だからそうなった」
「なるほど・・・」  

方角地名で問題なのはどこを中心にして南北朝とか北としているのかである
歴史的にも中心が変わるからである、鹿島区は北郷(きたごう)であるがなぜなのか?
それはもともと小高に相馬氏の城が置かれてそこから北になっていたからなのである
となると歴史を知らないとまた方角地名はわからない、単に南北とあっても歴史によって方角が違ってくる

どこが中心かというとき韓国では日本海は東海なのである、韓国側から見ると東の海になる、それこは韓国中心で見るからである
日本がを中心にして見れば日本海なのである
だからどこを中心にして方角地名が名付けられるのかが問題になる、それは歴史的なものとも関係している
韓国側にすると日本海となれば日本の海だとなりそのことで世界的にそれは違うと訴えて裁判までになる
地名でも国際問題になるのである

南柚木が北柚木と言わないという時、それは相馬市に城がありそこから見て南になるからである
方角地名で大事なのはどこが中心にして東西南北になるかなのである
相馬氏が進出したとき北郷はさけて大原とか小池から相馬市地域、前の中村地域に進出して城を建てた
柚木(ゆぬき)もそうして相馬氏の領地となった、その時北郷は相馬氏の領地にならなかった、支配地にならなかった経緯がある
そういう歴史的経緯があって方角地名が名付けられている、単に南北とかではないのである
だからなぜ南相馬市と合併したのか?
それはすでに相馬市に相馬氏の城がありそこを中心にして名付けられたのである
それで南相馬市はやがて相馬市として合併するとも言われたのである
ただ歴史的北郷(きたごう)は変わらず残っているのである、でもその歴史を知らないと理解できないのである




2019年04月04日

真野の草原の歌の笠女郎は近江出身説が有力になった (草津と栗東市内にある地名の移動が顕著)

              
真野の草原の歌の笠女郎は近江出身説が有力になった

(草津と栗東市内にある地名の移動が顕著)

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遺跡出土地点
鉄生産のセンター、本拠地(行方郡(真野郷)宇多郡と深く関係)

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●地名は伝播する

地名はいろいろあるにしろ古代の地名は伝播した地名が多い
縄文人が住んでいたとしてインディアンのようにアイヌ語の地名があるとしてそれもあるでも古代においては地名は遠くから韓国からの渡来民もいて伝播して地名化する
だから何か類似の地名が日本全国に生まれる
地名も他所から人が移ってきてもたらされたのである
神でも風習でも元を正せば他から移動している
神話とかいろいろな昔話でも元をたどると日本だけではない世界共通なものが見られのはそのためである、羽衣伝説などがそうである
渡来人がもたらしたものが技術でもそうでありそれに神々も人と一緒に移動してくるのである


大鳥神社は、全国の大鳥神社の本社とされる。式内社(名神大)、和泉国一宮で、旧社格は官幣大社(現、神社本庁の別表神社)。「延喜式」神名帳には「大鳥神社名神大、月次新嘗」と見え、和泉国唯一の神名大社となっている。延喜22年(922年)の奥付を持ち内容的には鎌倉時代の様子を表したものと推定される『大鳥神社流記帳』には、同郡の式内社の大鳥美波比神社・大鳥鍬靫神社・大鳥井瀬神社・大鳥浜神社とともに「大鳥五社」の集合が見られる

大鳥北浜(鍬靱)神社:吉備穴戸武媛命 (日本武尊の妃)
大鳥羽衣浜神社  :両道入媛命 (日本武尊の妃)
大鳥井瀬神社   :弟橘姫命 (日本武尊の妃)

和邇氏諸氏とは都怒山臣(角山つのやま君)・小野臣・近淡海国造の三氏であり、いずれも継体擁立に深く関わる重要氏族である。

その本来の出自としては、海神族(海祇族)の祖神綿津見豊玉彦命の嫡統で阿曇連と同族であり(奴国王の後裔でその嫡流ではないかと推される)、「ワニ」は鰐(トーテム集団の象徴)を意味するものと考えている。これが、和邇氏が長期間にわたって多くの后妃を輩出し、天武十三年十一月の朝臣賜姓五十二氏において、大三輪君(旧来の大和地方の支配者大物主命の後裔)に次いで第二番目にこの氏族の本宗家とみられる大春日臣が挙げられている主因の一つであろう。

近江国 近江栗太 安羅神社「天日槍命」滋賀県草津市穴村町

日本書紀に「素戔鳴尊、新羅国に到り、埴土を以て舟に作りて、出雲国に到る」とあり。埴土(はにつち)は鉄を含んだ赤い土で製鉄の原料である。埴土で鉄器(丸)を作り、その鉄器で舟を作ることから、船に「□□丸」と名付ける。刀剣の「□□丸」などの名にも用いられる。また、丸は両刃の刀と合口の意味で、鰐(わに)の歯に似ていることから丸(わに)と称す。古事記に「日子穂穂手見命は鰐の背に乗って海神宮から帰ったが、その鰐に紐小刀をつけて送り返したので、鰐を佐比持神(さひもちのかみ)と称した」と。日本書紀に「神武天皇の兄の稲飯命は、剣を抜いて海に入り、鋤持神(さひもちのかみ)となった」とあり。サヒは古代朝鮮語で鋤(すき)または剣を意味するが、同時に鋭い歯をもった鰐を意味する。対馬国鰐浦村は海洋民鍛人の渡来地にて、古くは和珥津(わにのつ)、和邇津(わにのつ)、鰐乃津(わにのつ)と称した。≫

南相馬市の鹿島区に烏崎があるけどもともとは烏浜(からすはま)だった、とするとこれも近江から移動してきたのかもしれない、烏アはあとから名付けられたからである
そして石巻にある鰐山がある、それは和邇氏のことである
そこにも真野という地名があり萱原の地名がある
南相馬市鹿島区の海老村があるがこれも移動地名だったかもしれない
エヒであり蝦夷のことだと前に指摘した

でも行方郡は常陸国行方郡と同一名であり、両地域間には多数の同一字
名があることも重要である(鈴木 2009)。→小鶴・島田・馬場・宮田・井田・根本・海老沢・鹿島・太田・太田和・大谷大野・小高・大甕・泉・牛渡・村上・大井・岡田・石上・五台・真野・信太・小池」 

小鶴があり馬場があり石上があり真野があり海老沢がある、その地名も鹿島区だと海老沢→海老村になり小池→小池村となりとその地名移動だとなる、大谷村もありこれらの地名は移動したともなるのか?井田があれば井田川があるからである
そして島田というのは泉官が跡から木簡として字が書かれていたのである
ただ南相馬市にはその郷名はなかったが常陸の島田郷から移動してきた人がいて記したとるのは間違いないとなるからだ

そして近江の地名を調べると秋田城木簡に秘めた万葉集 大伴家持と笠女郎」吉田金彦が笠女郎(かさのいらつめ)が近江の出身だということを地名から解き明かしている
それも地名だけではない裏付けが考古学的な発見であった

となると近江から地名が移動したともなる、つまり草原(かやはら)は移動地名だったのかとなる、

萱野神社

彦坐王命の第四世にあたる治田の連が、栗太郡一円の開発にあたり雄略天皇六年、遠祖の開化天皇を祀ったことに始まると伝えられています。

萱野というときこれは由緒ある神社があり地名であるからこれは伽耶国と関係しているかもしれない、他に大萱とかあるがこれも大草郷があり何かそこも伽耶と関係していることもある
角山(つのやま)となれば伽耶国の王子ツノガノアラシトをとった名だとなる
近江だとそういうことは色濃く反映して残っている
それだけ歴史の層が厚いし渡来人の足跡が深く刻まれているからである

ただ地名だと裏付けがなくただイメージだけで推察するからかなりの過ちが起きる、でも今回その裏付けが考古学的は発見で得たのである
つまり近江の栗東市の栗太郡衙があるまた大津周辺地域の考古学的発掘で宇多郡と行方郡そして真野郷地域が密接な関係があった
鉄の生産を通じて工人がその地域と行き来していたのである
つまりその近江の栗太郡は笠という地名がありそれは広い範囲をさすものであり吉備からの笠氏が移動して勢力を広めた地域だったとしている

この草津と隣の栗東市は交通の要所であり古代でもそうだった、そこに鉄生産のセンターが本拠地があり現実に工人が行き来していたのである
そうなれば当然、みちのくの真野の草原(かやはら)は遠い地としてもこの辺では十分に知られた土地だったのである
なぜなら生きた人間が行き来していたからである


それで笠女郎はここが故郷でありここの出身だとなればそれが裏付けられることになる
地名だけではない次と考古学的に裏付けられたものを検討する    

行方郡に

吉名郷、大江(大井)郷、多珂郷、子鶴郷、真吹郷、真野郷 

大江郷がありこれも栗東市の草津市の中にありそういう地名が移動してきて行方郡の郷名になった、また常陸国から移動してきて名付けられた、吉名とは小高とされているが物部吉名という人が現実にいたのである、だからこれは物部氏が支配した地域となる
そして原町の桜井古墳の主は物部氏とされているのである
高野郷というとき高野新笠がいて高野神社があり製鉄にかかわった、新笠だからやはり笠氏一族なのである

高野朝臣姓は、乙継と新笠の父娘2人にのみ賜姓されたとみられ、一族は朝臣姓とはなったものの、高野朝臣姓にはならなかった。乙継は続紀に生前の記事はないことから既に没しており、生者は新笠のみが賜姓された可能性もある。夫である天皇から妻への稀有な賜姓の例といえる[12]。天皇の妃嬪である新笠の姓は子孫に継がれなかった。

高野」の字(あざな)は、現在の奈良市高の原に比定される。高野近傍には土師氏の本拠地である菅原伏見、また秋篠がある。新笠に賜姓が行われたという宝亀年間、この地に孝謙・称徳天皇の陵(高野陵)がおかれたばかりであり、孝謙・称徳天皇はこの陵の地により「高野天皇」、「高野姫天皇」と称されている。瀧浪貞子によれば、高野朝臣への改賜姓は、宝亀3年(772年)に聖武天皇の血統である皇后・井上内親王、皇太子・他戸親王が廃され、山部親王(桓武天皇)立太子されたことに係るもので、新たな皇太子の母・新笠が聖武天皇嫡女の孝謙・称徳天皇に縁の姓に改めることは、皇太子を正当化するための措置、すなわち母を介して聖武皇統に繋がるための擬制的な作為だったのではないか、としている[12]。

大枝陵と母方への大枝賜姓

新笠の陵所と、母・真妹及び一族へ与えられた姓が同じ「大枝」であることから、真妹の居住地は山背国乙訓郡大枝であり、当時の招婿婚の習慣から新笠もそこで生まれ育ち、それが桓武天皇の山背国への遷都、特に大枝に近い長岡京への遷都の誘因となったとの説がある

吉名郷、大江郷、多珂郷、真野郷は近江に関係している、吉名は不明でも物部氏と関係している、大江はやはり近江の瀬田地域に関係している、つまり地名の移動が栗東市と草津市にあるのが多いのである
そうなると真野の草原という地名も移動したとなる     
滋賀県栗東市苅原があり苅をカイと発音するともある

すると原町区の萱浜がカイハマが同じ発音だから草原(かやはら)に通じているのかとなる
確かなことは地名の移動がありそして濃厚に近江の草津と栗東近辺にある
そしてその辺に笠地名が多いということはやはりそこと行方郡とか宇多郡が鉄の生産で密接に結びついて現実に生身の人間が行き来していたとなると何かこの真野の草原がリアルにイメージされてくるのである 
萱が伽耶に通じ駒は高麗ー高句麗に通じている、それで常陸国に高麗原がある、だから伽耶国から草原(かやはら)となっても不思議ではない、ただ地名としてはここには萱浜はあるがもともとカイと発音していたからどうなるのかともなる
その場所も真野郷内ではないからだ

次はその考古学で発見されたものからの裏付けになる、その論文もでていたので解読することになる 

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(秋田城木簡に秘めた万葉集ー大伴家持と笠女郎ー吉田金彦)

ここで吉備から笠氏がこの地に移動して勢力を広げた結果としてこれだけこ笠地名があり広い範囲で支配していた証拠としている
その辺の地名が陸奥の行方郡に移動ししてきたのである、それは常陸国経由にもなる

2019年03月30日

万葉集の真野の草原の草は鉄の意味だった! (松川浦の飯豊と津(つのみつ)神社の関係)


万葉集の真野の草原の草は鉄の意味だった!

(松川浦の飯豊と津(つのみつ)神社の関係)

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福島県白河市に「飯豊比売神社」があり、御祭神が飯豊比売神である。
福井県大飯郡高浜町の「青海神社」には、飯豊女王が禊をしたという池があり、伝承にまつわる神事が伝わる。

奈良県葛城市の「角刺神社」は飯豊女王の跡と伝えられ境内に飯豊王女が鏡として使ったという池がある。

上記の福島県の飯豊山には「飯豊山神社」がある。
宮城県加美郡加美町の「飯豊神社」は巨石を御神体とする。
福島県田村郡小野町の「飯豊神社」は秋祭の11月3日に獅子舞が奉納される。

関連項目
        
 卑弥呼・・・神功皇后
 壱与・・・飯豊皇女

 卑弥呼の後を継いで邪馬台国の女王となった壱与(いよ)については台与(とよ)という説

つまり邪馬台国までさかのぼる歴史が東北にも伝播したのである、「角刺宮」とは伽耶国の王子のツノガノアラシトを祭ったものなのである、確かにそこは新羅の渡来人のことが記されているがその前に伽耶国の王子のツノガノアラシトが最初に来たからこそその宮が生まれた、そして飛鳥には伽耶国の人たちがほとんどだったというときそこは伽耶国でもあったとなるのである
ただこの伽耶国は日本と一体化していて日本でもあったというとき天皇が伽耶国から出たというとき鉄の生産があり鉄によって力をもち権力をもち日本国が誕生したともなる、その時綿津見神を奉じる
安曇氏とか海洋民が国造りに深くかかわっていたのである 

松川浦の津波をまねがれた津神社はツノミツ神社でありツ一字では言わない、他でも津神社とあればツ一字では呼ばない、つの神社なのである
それはツノガノアラシトのことなのである、ここがまぎらわしいのである、なぜなら伽耶国とか安曇氏とか物部氏は大和王権が生まれたとき消されたからである、でもそれが地名とか神社に残されている、その地名にしても何か伽耶国とかをイメージできないものになっていたのであ

 
 「大泊瀬皇子(後の雄略)は、10月に押磐皇子を近江の蚊屋野
かやの、現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か)へ狩猟に誘い出し、
「猪がいる」と偽って皇子を射殺した。」

「蚊屋野」は、萱の鹿野姫でね?
「猪がいる」は、白猪にのった鹿野姫が想像される。

つまり、封じられてきた勿来とは、物部氏、葛城氏、刑部氏や佐伯部(忌部氏も?)
などの、部民の人達である。その中心にいた女性は、母系社会として位置づけられ、
「草」を用いた祈祷(たすきのようにして祈祷していた)「トベ」たちの風習による。  

タタラ場が流行り草から鉄へ。

その鉄のたすきを金連注(かなじめ)というが、それを体中に巻きつけて、
祈祷をしたのは、名取老女だった。

鹿野姫は、草や野の精霊というのは、その意味があって。
要するに、絹の養蚕ではなく、麻の植物。
だから、青麻神社の青は、飯豊青皇女の青と同じ意味があると思う。

 秩父、仙台、まほろばの道

ここのサイトは相当に東北の神社巡りをして詳しい、参考になる  

「草」を用いた祈祷(たすきのようにして祈祷していた)「トベ」たちの風習による。
タタラ場が流行り草から鉄へ。
その鉄のたすきを金連注(かなじめ)というが、それを体中に巻きつけて、
祈祷をしたのは、名取老女だった。

砂鉄を中心とした鉄の生産は古代真野郷で盛んであった、今の東北電力のある所で一大鉄の生産地が発掘された 
                                                                                      
真金吹く 丹生の真朱の 色に出て 言はなくのみそ 吾が恋ふらくは   万葉集14-3560

謎の真吹郷の所在地が初めて明らかになったのは昭和63年である。南相馬市原町区(古代行方郡)新田川 鹿島真野川の間にあるその名も金沢地区の小高い丘陵地一帯が当時日本一の製鉄所群があったのです。なんとその数発見されてだけで製鉄炉123基、木炭窯149基、竪穴式住居133軒、掘立柱建物29棟の一大製鉄工場群なのです。
恐らくその夜空をを焦がす真っ赤な炎は大化の改新頃から約200年に渡り燃えつずけたのでしょう。つまり古代製鉄のメッカだったのです。それが都でも噂になったのは ここに行方郡衙(泉廃寺跡)とゆう国の役所がおかれ、且つ行方軍団なる当時約1000名の駐屯地まであったからだ。その為都との人的往来は相当ありその燃える炎と灼熱の色が噂の種になってもおかしくない。だからこそ言いたくても言いだせない灼熱の恋の炎でわが胸を焦がすこの恋の歌に詠まれたのも至極当然な事なのである。でき、生かす人が少ないのは残念なことではある。
 (平成14年4月1日)(参考 東北電力パンフ・白河市史資料編・ 律令国家の対蝦夷政策相馬の製鉄遺跡群 新泉社 相馬双葉の歴史株文泉閣)    

  蝦夷陸奥歌枕

真野郷というこういう場所だったというときとても真野の草原が萱が茂っている場とはイメージすらできないのである
そこは萱が茂っている北海道のような淋しい場所ではないのである、それで錯覚していたのである 

岩手県一関の舞草(もうくさ)は古鍛冶の舞草刀の発祥地として
知られているが舞草の「草」は砂鉄を意味する

真野の草原に萱ではなく草をあてたのはなぜだろうか?
他でも大草郷とかがある、草とは砂鉄のことなのである、自然の草とか萱ではないのだ
だから石巻が真野の萱原だというのは疑問なのである
なぜなら万葉集では草原となっいるからだ、それがまぎらわしいのである

ただ石巻はその背景となるものが残っている
鰐山があるとすると鰐は和邇であり和邇氏一族に小野真野氏がいたからである
石巻には真野と記された木簡もと発見されたからである
さらに真野氏一族は鉄を求めて北上川を渡り登米にまで移動していた
そこに行方(なめかた)という木簡が発見されたからである
行方とは相馬地方の古代の郡である、行方郡である  

この草原(かやはら)は何か錯覚しやすいのである、カヤをどう発音していたのか?
その当時の発音はわからない、だからそこに漢字をあてたとき北海道のようなアイヌ語地名のようになる
それで漢字というのには音だけではない、意味がある
草とあてれば草をイメージする、萱をあてれば萱草をイメージする、

 諫早市多良見町(喜々津村、大草村、伊木力村が合併)の喜々津には面白い地名の字(あざ)が存在する。多良見町で最も人口の多い地区である「化屋」である。最初から「ケヤ」と正確に読める人は稀有であり、大方は「バケヤ」と読んでしまう

化屋の由来について

カヤはケヤとかにもなる、草とか萱は漢字をあてたものでありこの化屋もそうである、だから真野の草原(かやはら)をどう発音していたかは不明なのである
ここのサイトでは安曇氏などの海人族の綿津見神についても考察している、九州の安曇族が伽耶国の王子のツノガノアラシトと関係して東北に移住してきたのである、つまりそういう渡来人の移住が相当数あったから綿津見神社が多いのである



2019年03月19日

綿津見神社と山津見神社 (松川浦からその跡をたどる)


綿津見神社と山津見神社

(松川浦からその跡をたどる)

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山津見神社と和田=綿=綿津見神社


大山祇神社の住所は愛媛県今治市大三島宮浦で主祭神は「和多志の大神」の異名をとる
大山祇(おおやまづみ)神である
この一帯の海賊衆の親分のような神様である                  
一六代仁徳天皇の時代、百済の国から渡ってきた、津の国の御島(大阪府高槻市三島江の式内社三島鴨神社)にはじめいたのだという

古事記にニニギは野間岬で美女に出会う、名を問いば木花之佐久夜毘目売(このはなさくやびめ)で、ニニギは結婚しようともちかけた
すると木花之佐久夜毘目売「父、大山津見神に相談します」
という、大山津見神は姉の岩長比売をそえて差し出したのだった

大阪の三島神社でもそうなのだが「大山祇神」には物部韓国連(ものべからくにのむらじ)が百済から大山祇神を奉斎してきたと伝えられる
東海地方では目を転じれば静岡県三島市には三嶋大社があり大山祇神社祭られている
この一帯の国造は昔物部系の人物が勤めていた
(消えた海洋王国ー吉備物部一族の正体ー関祐二)

飯館村の佐須にある神は狼ともされているが実はもっと古い古代にさかのぼるのである
その由来は古事記にも記されている神であり古いのである
ではなぜこういう神が遠くみちのくにもたらされたのか?
つまりその神を奉じていた祭っていた人たちが移動してきたから神様も一緒に移動してきたのである

なぜ松川浦に和田があるのか?これは綿津見の綿が和田になったのである
その源は大山祇神社の住所は愛媛県今治市大三島宮浦で主祭神は「和多志の大神」なのである
和多志とは渡しであり渡ることかきている、海を渡る人たちだからそうなったのである
渡部の姓でもそうである、渡るからきている、海であれ陸であり運送を生業とする人たちだったのである
三島神社というとき原町にもある、これは百済系なのかとなる
その基はここに記されたものにさかのぼるのである

この大山祇神社神社と綿津見神社は対になっている、瀬戸内海の三島では対になって祭られている、兄弟の神だともなる
大山祇神社というとき山がつくから山をイメージするがこれは海の民の神になっている
一方綿津見神社は海をイメージする、でも二つは海彦と山彦のように一体なのである
だから松川浦にこの二つの神が並んでいることがそれを象徴している
二つは対になりか一体だからこうして並んで痕跡を残している
一方は山津見神社であり一方は綿津見神社でありその綿が和田になったのである

そして神社は綿津見神社神社でも山津見神社でも海から移動してきた、海から入ってきたのである、それで玉野から霊山に行く途中にも山津見の社が岩場をよじのぼったところに祭られていた、それは小さな社であり隠されていてわからない所にあった
それはやはり松川浦から人が移動してきてそこに祭った
そして飯館村の佐須に祭られた、飯館村には綿津見神社もあるからだ 
錯覚しやすいのは佐須に山津見神社がありそこから海の方へ移動したように見ることである
南北朝時代だと霊山の城が炎上して海の方へ落ち延びてきたからその人たちが祭っていた神社も移動した
山王神社とか日吉神社である、でもそれは時代が違うのである

まず日本の国造りは海側からはじまっていたのである
例えば今回の津波で日下石(にっけし)という所まで海になった
ニッケシとはニは西でありそれは海から見たとき西の方向にあったからである
海から見た方向感覚で西となったのである、そこはそもそも山側ではない、海に近い場所なのに西となるのは不自然だからである、海の民は漁師でも船から山を目印とする、そこに山の信仰が起きる
山は海から見たものとして意味があり名付けられるとなる
そこに海の民が最初に日本を支配したともなる、それがヤマトタケルの伝説となったのである
そういう下地を安曇氏とか宗像氏(むなかた)とがが実際に船を操作して移動したからそれがヤマトタケルに受け継がれて神話化したのである 
それで瀬戸内海の要所を抑えて吉備がまたはそれと同系の物部氏が大きな勢力をもっていたというのは理解できるのである

日本武尊(やまとたけるのみこと)、すなわち上総(かみつふさ)よりうつりて、
陸奥(みちのく)の国に入りたまふ。

時に大きなる鏡を王船(みふね)に掛けて、海路(うみつぢ)より……
蝦夷(えみし=大和政権に従わない人々)の境に到る。

蝦夷(えみし)の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神(しまつかみ)、
国津神(くにつかみ)、竹水門(たかのみなと)に屯(たむろ)して、防がむとす。

しかるに、遥(はる)かに王船(みふね)を視(み)て、
予(あらかじ)め其(そ)の威勢(いきおい)を怖(お)じて、
心の裏(うち)に、え勝ちまつるまじきことを知りて、

悉(ふつく)に弓矢を捨てて、望み拝みて………
蝦夷(えみし)ども、悉(ふつく)に慄(かしこま)りて、

すなわち裳(きもの)をかかげ、浪を分けて、
自(みずか)ら王船(みふね)を扶(たす)けて岸に着く。

よりて面縛(ゆわ)いて服罪(したが)う。

その罪を免(ゆる)したまう。

よりて、その首師(ひとごのかみ)を俘(とりこ)にして、
従身(みともにつか)えまつらしむ。

蝦夷すでに平(む)けて日高見国より還(かえ)る。   

竹水門(たかのみなと)とは南相馬市の磐城大田地区の多珂神社神社のことなのである
そこから海が見えるしその当時海は深く山側に入っていたからである
相当奥深くまで海だった、それが津波で証明されたからだ
鹿島区の塩崎(しおのさき)の船着まで津波が来たのである、そこは低地だっからそんな奥まで来ていたのである
だから多珂神社のあるところは港のような場所だったともなる

そのヤマトタケルの伝説の基は綿津見神社と山津見神社があるように安曇氏とかは綿津見神社であり山津見神社もついにしてある
宗像氏とか海の民と深く関係していたのである、そういう人たちがここに最初に入ってきたのである
物部氏が吉備氏と一体だという時もそうである
瀬戸内海で交通の要所あり力をもったからである
南相馬市でも物部氏に由来しているものが多いのである、古代の郷では小高に吉名郷があるが物部吉名という人物名があるから具体的にその氏族名と名前があるということは物部氏がヤマトタケルの前にこの地を支配していたのである
それで原町の桜井古墳は物部氏系統のものである、なぜなら東海地方から出てくるものと同じものが古墳から出たとされるからだ
東海地方には物部氏が勢力を持ったところだからである

表からみても東海地方に静岡県に綿津見神社が50とかぬきんでて多いことでもわかる、そして相馬地域に20というのは本当に多い他は少ないからだ、この辺ではとにかく綿津見神社が目立つのである
ただでは安曇氏の痕跡が残っているかというとない、ただ神社だけがその跡を示して残っているとなる
伽耶(かや)とかもその痕跡が消されたように安曇氏の痕跡も大和王権成立して消されたとなる

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静岡に綿津見神社が50あり福島県に20あるがこのほとんどは相馬地域にある
ただこの数は正確なのかどうかわからない、綿津見神社神社はもっと多いように思うからだ



2019年03月17日

万葉集の「遠妻し、多珂にありせば・・」の歌から多珂神社の謎に迫る


万葉集の「遠妻し、多珂にありせば・・」の歌から多珂神社の謎に迫る

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「遠妻し、多珂にありせば、知らずとも、手綱の浜の尋ね来なまし」

 この歌の意味を訳すと、「遠くに居る妻が、せめてこの多珂の里の付近にでもおったならば、道はよく訣らないでも(知らなくても)、手綱の浜で、尋ねて来ようものを」(折口信夫訳)

 多珂にありせばの多珂である。奈良時代(723年頃)にできた「常陸風土記」によると、大化改新(645年)以前の常陸(現在の茨城)は、新治、筑波、茨城、那賀(伸)、久慈(久自)、多珂(高)の6つの国に分けられており、それぞれの国に、朝延から地方の国を統治する役人「国造」(くにのみやっこ)が配置されていた。

 また、これより古い書物「国造本記」に、大倭国に始まり、その後の約130の国造を任命した記録があり、国の設置年代が記されている。これによる今の茨城県の国は、下総、新治、筑波、茨城、仲、久自、高となっている。ここに出てくる国名の久慈(久自)は、現在の日立地方で、多珂(高)の国ば、現在の日立市北部から十王町、高萩市、北茨城市を含む範囲にあった。この多珂(高)の国の中に、「手綱」という地名のあるのは高萩市であり、他にない。

 
ここに多珂という字になっている、なぜこの字をあてたのか?
それがなぞなのだけど常陸の国から行方郡(なめかた)であり郡が移動している
真野里すらあった、この辺の古代で氏族名が明確なのは真野氏だけである
それで真野郷となった、それは石巻からも真野と記された木簡が発見されていて真野という地名があり北上川をさかのぼった登米にも行方と真野と記されたものが出ている
だから真野氏というのはこの辺では氏族名として残しているのである

高神社 
京都府綴喜郡井手町多賀天王山1

元明天皇の和銅4年(西暦711年)東村宮として多賀明神社が字川辺に建立され、次いで神亀2年(西暦725年)字西畑に久保村宮が、神亀3年(西暦726年)字綾の木に谷村宮が、それぞれ建立されました。聖武天皇の天平3年(西暦731年)勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に「多賀村」を「高村」と名称が変更されました

式内社である石勝神社は御朱印地を持った神社として
有名で、祭神は天石勝命である。社伝によると神亀二年
(七二五)に創建され、

社伝によると、聖武天皇神亀二年の創建。
上古、大和よりこの地に移住してきた春日族が
その祖神を祀ったものであるという。

染羽国造 Simefa   標葉郡  福島県双葉郡浪江町苅宿     標葉神社、標葉郷

染羽成務阿岐国造同祖10世孫足彦命(たらしひこのみこと)
陸奥標葉.志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に阿岐国造の先祖の十世の孫の足彦命を国造に定められた


多珂神社というのはもともとは多賀神社由来であったことは確かである
多賀神社は近江にあり伊勢神社より前には一番参拝客も多い神社だったのである
つまり多賀神社は伊勢神宮より古い神社である、伊勢神社は新興勢力なのである

浪江の染羽(標葉)はシメハでありここに連なっているのである

ともかく行方郡が置かれたのは常陸から軍団が移動したのである
郡とはもともと軍の意味だからである、軍が支配したからそうなる
その行方郡内に真野郷があり多珂郷があるということはこれも常陸から移動してきたからである
万葉集にも多珂郷があることでもわかる、遠くにいる妻とは奈良から移動してきた官人だとするとその妻をはるか離れた常陸の地で偲んでいることになる

では綿津見神社は何を語っているのか?
安曇氏が奉じた神だとしても安曇氏というのはこの辺にはほとんど浮かばない
地名化しているのは近江と長野県の安曇である、そこでは船の祭りが残っていて安曇氏が船を操作する海人だったことを伝えている
伽耶の王子のツノガノアラシトはツノとしてその地名を残している
津神社とは松川浦でも津(ツ)一字ではいわない、ツノミツ神社とかツノミヤ神社なのである、ツノガノアラシトのツノなのである
それから相馬地方に荒(あら)という姓が多いのかということを尋ねる人がいる
その荒とはツノガノアラシトのアラなのである
だから地名化しているとかなるとその痕跡は残している
でも安曇氏はただ綿津見神社というのがそうだとしてもそうした痕跡がないのである
ただ相馬地域でなぜこれほど綿津見神社が多いのか?
多珂神社の近くにもあるしこの神社が一番相馬地域では目立つのである

ウィキペディア(Wikipedia)の多珂神社の説明では多珂を鷹として伝説を伝えている
それは高倉でもそうである、でも鷹と何の関係があるのか?
これは地名伝説が後から創作が多いように作られたものが多いと同じでそうなったのか?多珂神社とは多賀神社に由来していて鷹とは関係ないからである
高倉も多珂郷がありそれが波及して名付けられたのだろうとなる

それにしても多珂神社は立派である、式内神社として指定されたことでもわかる
鹿島神社とかも立派だかそれに劣らず立派だし大きいのである
だからそこも何かこの地域で古代に中心的な役割を果たした場なのかとなる
磐城大田の駅の近くであり電車からいつもあの鳥居を見ていたのだがそこに多珂神社があることを知らなかったのである
灯台下暗しとなるのが郷土史でも多い、それと私は自転車だから坂を避けていて行かなかったということはある、最近買った電動自転車は坂でも上りやすいのと機動力があり行動範囲が広がったのである、ただ年で疲れるのは同じである
でもそれを補うものがこの電動自転車にはあったから行けたとなる

2019年03月15日

綿津見神社の謎(言葉の起源の小話)


綿津見神社の謎(言葉の起源の小話)

神社を子供が訪ねてその由来をたずねる

「何かこの辺で綿津見神社が多いですがなぜですか」
「それは時代をずっとさかのぼる、日本の国がまだできていない時のことじゃ」
「綿は何の意味ですか、ただの綿なのかな」

こんな疑問を子供が思うのは当然である
綿とは綿のことではない、大洋をわたという、それでこういう話になった

「あなたはどこから来たのですか」
「わたしは渡ってきたものです」
「どこからですか」
「呉(くれ)の国からです」
「それはどこにあるのですか」
「その国は太陽の沈む方です」
「なるほど暮れる方角にある国ですか」
「そうです」

この渡ってきた人たちが来たのでその地に祭られたのが綿津見神社じんである
綿は渡ることである、わたしとは渡ってきた人が言った言葉である
つまり渡来人のことである

綿津見神社は多い、それは日本の国が成立する前に海を越えて渡ってきた人たちが多いからである、そしてその人たちがその土地の先祖となった故にその人たちを記念する神社が多い、綿津見神社とは大洋をおおわたというごとく海を現すがその海は渡る海として意識していたからそうなった

そして綿津見はワタツミでありワタのツミはツノガノアラシトという韓国系の渡来人のことである、津神社とあるがそれはツノミヤとかツノミツとか言い一字でツとは言わないからである
つまり中国の呉から渡ってきた安曇族とかと韓国系のツノガノアラシトが合体した神社なのだ

綿がなぜこの字になったのか?

沙弥満誓、綿を詠む歌一首

しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ(万3-336)

万葉集にあるように綿とは韓国からの輸入品だったのである、当時は韓国はカラの国と呼ばれていた、それは伽耶の国でもあった、半島の端の先の国だったのだ
そこは日本の国の一部でもあったのだ、つまり海を渡ってきたものだから綿になったのだ、わたる→綿(わた)となる

そういうことでこの疑問に答えたがまだまだ謎が多いのが歴史である
それはあまりにも古い時代のことだからである

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