2017年10月18日

九州の熊襲は鹿文(かや-伽耶族) (景行天皇(ヤマトタケル)の時代の勢力)


九州の熊襲は鹿文(かや-伽耶族)

景行天皇(ヤマトタケル)の時代の勢力


景行天皇は 熊襲八十梟帥くまそのやそたける、厚鹿文・迮鹿文を討伐する為、その娘の市乾鹿文・市鹿文を欺いて召した。
時に市乾鹿文が天皇に言うには「熊襲が服従しないことを憂えてはなりません。私に良い謀りごとがあるので、一人二人の兵を私にお付け下さい」と。
そして家に帰ると、沢山の酒を準備して父に飲ませた。すると酔って寝た。
市乾鹿文は密かに父の弓弦を断った。そして従ってきた一人の兵が熊襲梟帥を殺した。

厚鹿文

ヤマトヲシロワケ(12代景行天皇) が討ったクマソの頭のひとり。 
セカヤの兄。フカヤとヘカヤの父。 
娘フカヤの寝返りによって討たれる。

  

┌アツカヤ──┬フカヤ
│      │
│      └ヘカヤ
│        ┃
└セカヤ───トリイシカヤ

「鹿屋」はクマソ国の中の「投馬国」に属しており、「神武紀」に記されているように鹿屋を含む大隅半島は「神武東征」の出発地でもあった。


 鹿屋は半島南部の「伽耶」すなわち「弁韓狗邪国」「狗邪韓国」と直結する名称である。後者は3世紀には存在した国々であるが、3世紀の半ば(247,8年ごろ)に起きた大規模な「反魏闘争」により、敗れた弁韓・辰韓のそのような航海民が多数流れ込んだゆえ、「かや」という地名が生まれた可能性がある。

 しかし先に大隅半島側に「かや」なる名称があったとも考えられる。

 今のところ、どちらが先かの結論は出し得ないでいるが、「鹿児屋(かこや)」すなわち「鹿児(鹿児)の屋(や)=航海民の住みか」と言われていたのが、「児(こ)」の脱落で「鹿屋(かや)」になったのかもしれないとも思っている。

日本書紀の景行天皇に記された名前

厚鹿文、迮鹿文取石鹿文、弟鹿文、厚鹿文、迮鹿文、熊津彦

市乾鹿文、市鹿文   字也鹿文、市乾鹿文、市鹿文、難升米、掖邪狗

陸奥風土記に出てきた「神石萱」に関して、興味のある指摘をしてみたいと思います。即ち、景行12年紀に熊襲のある一族の名前として、「厚鹿文」、「末鹿文」、それに「市乾鹿文」と「市鹿文」の姉妹が出てきます。同27年紀には「取石鹿文」が出てきます。「鹿文」は「カヤ」と読みます。

景行天皇紀に現れる賊の名前を検討した一文がありますので、ご参照ください。景行紀の蝦夷
これらの名前の後半「鹿文」と、陸奥の「神石萱」の最後の「萱」、特に「市鹿文」と「石萱」の酷似は、九州の熊襲と陸奥の土蜘蛛の間で名付けの慣習に何らかの共通性があったことを推定させます。とりもなおさず、言語の共通性、と言いたいのです。

この名も同じく中国王朝一字名と考えるべきであろう。名は「取」、「字」が「石鹿文」である。いずれも始祖「忌」の栄光ある「字・鹿文」を受け継いでいる。

松野連姫氏系図

この地に八人の土知朱(つちぐも)が居た。一を黒鷲、二を神衣媛、三を草野灰、四を保保吉灰、五を阿邪尓那媛、六を栲猪、七を神石萱(かむいしかや)、八を狭磯名という。それぞれに一族があり、八ヶ所の岩屋に住んでいた。この八ヶ所は皆、要害の地であった。だから皇命に従わなかった。国造(くにのみやつこ、律令施行以前の時代、朝廷から一国の長官に任ぜられた現地の豪族)の磐城彦(イワキヒコ)が敗走した後は、人々を奪い去る事が止まなかった。景行天皇は日本武尊に命じて土知朱を征伐させた。土知朱は力を合わせて防戦した。また津軽の蝦夷と共謀し、多くの鹿や猪を狩る強弓を石の城柵に連ねて張り、


カヤノヒメ(カヤヌヒメとも)は、日本神話に登場する草の神である。 『古事記』では鹿屋野比売神、『日本書紀』では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ。草祖は草の祖神の意味)と表記し、『古事記』では別名が野椎神(のづちのかみ)であると記している。

南相馬市鹿島区の真野明神は祭神は草野姫命(カヤノヒメ)ですがこの姫神は比売許曾神社(ヒコソ)の祭神と同一神 コソが朝鮮語の社である


草枕旅を苦しみ恋ひ居れば可也の山辺にさ雄鹿鳴くも

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを (笠女郎)

日本の人種的国の成り立ちは原住民に蝦夷がいた,それはエミシであり蝦夷はあとに名付けられたものでありエミシという族がいた,それは縄文人の末裔ともなる
そのエミシと蝦夷(エゾーエソ)は違うものである。
だから蝦夷というとき今のアイヌとは全く別なのである。
つまり蝦夷の中にアイヌがいたかもしれないという説でありそれは証明されないのである蝦夷語があるとしてアイヌ語がそれなのかはわからないのである。

真野の草原(かやはら)の万葉集の歌は一体何を意味しているのか?
草原がただの萱の原なのか?それとも何か別なものに由来しているのか?
カヤを伽耶国に由来しているというときその背景をこうしてインターネットで調べると
それなりに信憑性が生まれてくる,情報が集積されて統計的にも信憑性が出てくるのである。
カヤは伽耶であり鹿文(かや)とあてられた,景行天皇(ヤマトタケル)の時代に神話となり日本が一つの国として意識される征服が行われた,その時必ず九州の熊襲でもその中味は中心的氏族は鹿文(かや)なのである。
そき鹿文(かや)は何者かというとき,韓国からわたったてき人達だとなる
それは大和の国造り神話ができるときすでに鹿文(かや)が日本列島の原住民化していたのである。混血していたのである。

なぜそうなったのかというとき伽耶から渡ってきた人達は鉄を作るとか農業でも焼き畑をするとか先進的技術をもっていたから有力な指導的立場になった
それは弥生式文化が根付いたのも稲作文化をもたらした人達でありそれで優位に立った
日本海から入ってきたツノガノアラシトの伝説もそうである。

だから蝦夷というときエミシとか日本古来の縄文人の末裔もいるけどそこに韓国から来た渡来人と混血したのである。それがあとで蝦夷となったのである。

「鹿文」と、陸奥の「神石萱」の最後の「萱」、特に「市鹿文」と「石萱」の酷似は、九州の熊襲と陸奥の土蜘蛛の間で名付けの慣習に何らかの共通性があった

それより混血した結果としてそうなった,鹿文(カヤ)いうとき女性のことでありそれはその当時女酋長がいたということであり最初の邪馬台国が卑弥呼で女王だったとういことと通じている,それは巫女とかシャーマンであり女性だったのである。
今でも女性の占い師とかいる,神がかりするのが女性だったとなる
鹿島区寺内にある「真野明神」に祭られているカヤノヒメとは女性の酋長に由来するのか?ここに検索した鹿文(かや)と関連してある


いづれにしろ真野の草原(かやはら)は謎でありかわらない,でもこうして情報を集積すると見えてくるものがある。
インターネットの検索で見えてくるものがある,それが歴史にも情報社会が影響しているとなるのだ

2017年10月04日

相馬地方の蝦夷の謎 (渡来人地名は蝦夷と混血したためか?)


相馬地方の蝦夷の謎

(渡来人地名は蝦夷と混血したためか?)

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原住民族(縄文人)の日本列島へ征服部族(氏族・渡来民族)が次々に流れ込み、勝手に縄張りをして小国家(倭の国々)を作り、やがて武力征服や誓約(うけい)その他の経緯を経て混血を繰り返して「弥生人」が生まれた。


まずは日本海側の北九州、出雲、若狭、能登、新潟に侵入してくるのです。朝鮮半島から船に乗ると自然に漂着するのです。また瀬戸内海にも侵入しています。かれらは弥生式土器を作り、縄文式土器とは大きく異なるものでした

朝鮮半島に侵入して支配者になった鮮卑族は先祖と同じく地上に墓を作るのです。いわゆる古墳です。地上に墓を作るのは鮮卑が遊牧民である名残なのです。遊牧して戻ったときに親の墓が分らなくなったら困るからです。その朝鮮半島の支配者の一族が日本に侵入して古墳時代をつくるのです。その一族の中に天皇の先祖も含まれているのです。

ツガルエミシ、ニギエミシ、アラエミシ、そして毛人とは何者だったのか。

この内、ニギエミシは、ヤマト朝廷に毎年、人材を派遣していたという記録が残っている。親ヤマト朝廷派と言って良い。朝廷派では無いにしても、ツガルエミシも最終的に青森がヤマト朝廷軍に攻められる事なく終わっていることに、何やら怪しげな匂いがして来るhttps://ameblo.jp/emishi-no-mori/entry-11305770006.html


蝦夷とかエミシとかは何者かというとき浜通りからみるとエミシという縄文人が原住民であった,これは間違いない,狩猟とか採集とか漁労の生活だった

地名から何でも結びつけるのは危険だが何か浜通りには渡来人の跡の地名がある
末続などもそうであり陶に通じて須恵器(すえき)などの技術をもたらしたのが渡来人である。渡来人は鉄の生産とかでも技術者だったのである。

それがなぜ地名化したのか?地名化することは一時的に通りすぎるならしない
そこに住み着いたから地名化した,渡来人の一族が住み着いたから末続が地名化したのである。

一説では大和時代、高麗の調使であった伊利之(いしり)の後裔・八坂氏が朝鮮の牛頭(ごず)山に祀る牛頭天王を移したことに始まるともいわれています。また帰化した八坂造(やさかのみやつこ)一族の氏神だった感神院が起源ともいわれているそうです

八坂神社が浜通りでも全国的にもなぜ多いのか?相馬市にもあり鹿島にもあり原町の渋佐にもあり石神にもあり浜通りをたどれば点々とあるし全国的にも多い
これは渡来人がもたらした神ともされるがスサノオを祭っている

そしてツノガノアラシトというのは韓国から日本海を渡り入ってきた神でありそれは東北沿岸にもその跡を残している
浪江には700年にその跡を記している,それだけ神としてはこの辺では古いのである。

津神社は相馬市の松川浦だとつのみや神社でありツ神社ではない,ツノミヤというときツノはツノガノアラシトなのである。
このツノガノアラシトがツガルのもとでもあった

ツガルエミシ、ニギエミシ、アラエミシ

ツガルエミシのツガルとはツノガノアラシトがなまったものなのである。
ツガルエミシとはツガルとツノガノアラシトとが混血したものなのである。

小高の角部内はツノベウチと言っていた,前に書いたナイではない,これを分析すると
ツノはツノガノアラシトであり部はアイヌ語でペであり川の意味でありウチはヤマトの言葉である。
ただアイヌ語説は疑問があり縄文語だともされる,アイヌ語の起源が縄文語にもなる

ただ注意すべきは

縄文人と渡来人と混血したのが蝦夷(エゾ)である

その上にヤマト民族が入ってきた,それは物部氏などであり桜井古墳などの大古墳を作った,物部氏は渡来人の後に来たともなる
その順序がまちがいやすい,渡来人の侵入は物部氏とかヤマト民族より早いのである。
だからこそ渡来人系の跡が地名でも神社でも残されている
万葉集の真野の草原(かやはら)の歌を解明するときまずこの渡来人のことを理解しなとできない,笠女郎が笠氏の一族でありこれも明確に渡来人であり伽耶国と関係していたのである。
それは吉備王国の系統に属するものであり会津の大塚山古墳の三角神獣鏡をもたらしたのである。
稲荷山鉄剣にカサハヨという人物の名が記されている,カサは明らかに韓国の地名であり今もある,伽耶というのも伽耶が草とか萱に変化したものもある
また萱原とか草原がカイとも発音されていた
カイはアイヌだという説があるがそれが原町の萱浜となるのか?
もとはカイ浜と呼ばれていたらかである。

日本の原住民が縄文人でありそれと最初に混血したのが渡来人でありそのあとに物部氏とかヤマト系統が入り混血したのが蝦夷なのである。蝦夷は大和王権に逆らうものとしてあり広範囲な人々がいたのである。

この地に八人の土知朱(つちぐも)が居た。一を黒鷲、二を神衣媛、三を草野灰、四を保保吉灰、五を阿邪尓那媛、六を栲猪、七を神石萱(かむいしかや)、八を狭磯名という。それぞれに一族があり、八ヶ所の岩屋に住んでいた。この八ヶ所は皆、要害の地であった。だから皇命に従わなかった。国造(くにのみやつこ、律令施行以前の時代、朝廷から一国の長官に任ぜられた現地の豪族)の磐城彦(イワキヒコ)が敗走した後は、人々を奪い去る事が止まなかった。景行天皇は日本武尊に命じて土知朱を征伐させた。土知朱は力を合わせて防戦した。また津軽の蝦夷と共謀し、多くの鹿や猪を狩る強弓を石の城柵に連ねて張り、

黒鷲とかなると狩猟民のトーテムとなり灰とつくのは焼き畑をしていたのか?
神石萱(かむいしかや)とは何者なのか?
カヤは伽耶国に由来して伽耶一族が住んだのかもしれない,縄文人と混血してそういう名がついたのかもしれない。加差披余(かさはよ)もそうである,渡来人の笠一族と混血してハヨという縄文人なのか名前がついたのである。

多くの鹿や猪を狩る強弓を石の城柵に連ねて・・・とは縄文人が狩猟民だったからであるここに津軽の蝦夷と共謀してとあるのか?
それはツガルは遠いにしても東北地方が一つの国として意識されていたのか?
蝦夷とは東北民を形成していたのか?その根底には渡来人がいて縄文人と一体化して結ばれていたともなる,なぜならツノガノアラシトがツガルのなまったものであり東北に深く鉄の生産などで関係していたらかである。

アイヌが東北でどういうふうに関係していたかは謎であり解明されていない
ただ縄文人と渡来人が混血したことは間違いないのである。
蝦夷がなぜ大和王権にとって強敵になったかというとそうした縄文人だけではない,渡来人とか技術をもった人達やあとは物部氏などが関係したから手ごわいものとなったのである。

2017年09月16日

南相馬市の萱浜はカイハマでありアイヌ語地名か? (真野の萱原の歌は萱浜(カイハマ)のことか?


南相馬市の萱浜はカイハマでありアイヌ語地名か?

(真野の萱原の歌は萱浜(カイハマ)のことか?

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●東北地名に残るアイヌ語地名

アイヌとエミシの先祖は、後期旧石器時代あるいは縄文時代において、かなり近縁な種類の人々であったと思っています。

そして、同じ「蝦夷」でも中世以降の北海道人は「エミシ」ではなく「エゾ」であり、「エゾ」の子孫はアイヌだと思います。「エミシ」と「エゾ」は違います。


 この本では、東北地方でドングリの総称を「シダミ」と呼んできたと記している。そう言えば、岩手や青森には「豆シトギ」という餅状のお菓子がある。大豆を素材とする甘味としては宮城・山形の「ずんだ」よりも洗練されているとの評価もあるが、この「シトギ」は「シダミ」と語感が似ているが何か関連があるのだろうか?

 アイヌ料理にも「シトギ」という餅料理があるが、こちらは、大和語の借用と言われている。



アイヌ語のオタ(砂)オル(多い)からタルに変化して「垂る」の字をあて「垂れ」とよみかえたものか。

- 比内
φ 佐比内。比の沢
A 小比内
圃火沢
φ 猿飛来
. 檎(ひ) (沢) (内)
. 檎(ひ)の沢
。檎(ひのき)(沢)
{F 槍木(ひのき) (内)
~ (沢)

福島県以南の分布は以北との聞に断絶があるようでもあり,あるいは北関東にまたがる分布は文字通りの「ひのき」の意かもしれ
ない。しかし・南の分布も「沢」地名であり,文字の構成も北の分布と共通している。

これがアイヌ語地名に由来している,秋田県と青森県に多い,檜(ひのき)は木のことではない,檜枝岐(ひのえまた)もそうである。


●南相馬市のアイヌ語地名?

最近江垂について書いた,江垂(えたり)はタルがアイヌ語のオタ(砂浜)がなまったものだという指摘,それはその地形からしてあっている
江垂は海に面して砂浜のあったところだとなる
それは津浪で六号線の江垂りまで来ていたから具体的にわかった
そして桜田山の下に縄文人の遺跡がありそこから魚の骨や鹿の骨などが発見された
つまりちょうどその江垂から砂浜になった奥でありそこに住居があったとなる
位置的にあっているからだ

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そして原町の海岸に雫(しどけ)とある,これはシダミでありそれがシドキとなった,アイヌ語から来ている,それは食料だったのである。
東北地方にはアイヌ語が地名として残されているというとき蝦夷とはアイヌなのかとなるそれは学問的にもわからないのである。
わかっていることは漁労とか狩猟とか採集であ生活形態が同じなのである。
それは縄文人もそうである。つまり人間を分類する場合人種ではなく生活形態で分ける
羊を飼う遊牧民と農耕民でもそうである。それは人種より差が大きいのである。
だから遊牧民と農耕民は互いに理解できなものとなり争いとなる
それが万里長城を作ったのである。

だから日本でも蝦夷とかアイヌとかあれば稲作をする,米を食べる人達との生活形態の相違で区別されていたのである。蝦夷とはアイヌのように漁労,狩猟,採集を生業としている人達のことである。
だから同じ日本民族と同化させようとしたとき稲作を普及させたのである。
だから原町に雫(しどけ)とあるときそれは採集を生業とするからそういう地名となったのかとなる。
蝦夷(エミシ:エソ)は海岸を中心に生活していたからエのつく地名が多いとなる
海老でも(エヒ)でありエは海の意味だとなるからだ
そういう地名はだから一番古い,縄文時代にも通じる地名だともなる

●真野の草原(かやはら)と萱浜(カイハマ)の謎

この謎は深い,北海道は北加伊道が北海道となった,加伊はそこに育ったものとか住んでいるものとかなる,カイとはアイヌ語でありアイヌの人達はカイとも呼ばれていたのである。
原町の萱浜(かやはま)は前はカイハマだった,そのカイは甲斐の国にこじつけられて地名伝説が生れた,その地名伝説はたいがいあとから来た人がこじつけてつくられたものなのである。
カイとはアイヌ語なのである,そしてなぜカイがカヤとなったのか?
それはやはりなまったからだとなる

そして真野の草原という万葉集の歌は草原という地名が真野郷にはない,これが最大の謎だった,でもカイが萱浜(かやはま)になったように草原(カヤハラ)も同じだとなると
そもそもこの辺にカイというアイヌの人達が住んでいたのかともなる

説としては

●カヤはカイでありアイヌ語である(有力)

●草原(かやはら)-萱が繁っていた

●伽耶(かや)国に由来している

●ツノガノアラシト系の渡来人の系統に由来する

まず草原(かやはら)というとき真野郷内に地名がないということが最大の謎であった
でも真野郷の隣にカイ浜があり萱浜(カヤハマ)になっている
それは近辺に雫(しどけ)でもアイヌ語系統の地名がある,とするとすぐ隣のだから真野の草原(かやはら)とは広い地域としてあり萱浜(カイハマ)も入っていたとなる
そう解釈すると地名が確かにあり説得力がでてくる
ただ石巻には真野という地名がありその中に萱原(カヤハラ)があり一致している
致命的には一致している,ただ発掘物とか最近の研究ではどうしてもこの辺が真野の草原の地域だとされる,石巻の真野の萱原だとすると遠すぎるのである。
ヤマトから進出した人たらは渡来系のツノガノアラシト系などは末続とか小高の角部内(つのべない)とかありこのナイは小さな川の意味があるからツノベとナイというもともとあったナイとアイヌ語の川という地名が合体したのかもしれない

このツノガノアラシト系に津神社(つのみや)神社が海岸線に多い,これはツノミヤでありツノガノアラシト系の神社だった,それは青森の津軽(ツガル)もツノガノアラシト系であり青森と交流も福島県であった
そしてアイヌ語圏は北海道から東北地方にありその境目がこの辺だった
つまり真野の草原(かやはら)の地点だったのである。
ヤマトの勢力圏に入るのとアイヌ語圏との境目が真野の草原(かやはら)の地点だったのである。
海老が車輪梅の南限の地としてあった,それは自然境界であり歴史的境界ともなり一致していたのである。そういうことは自然境界と歴史的境界が一致することがある
ライン川はローマ帝国とゲルマン民族を分ける境界であり自然的境界であり歴史的境界となっていたのともにている

そして確かに伽耶国というのはなじみがない,でも笠女郎(かさのいらつめ)は前にも考察したけど吉備の出身でありそこは伽耶国と深い因縁があり歴史的にもその証拠がの残されているのである。
笠というのは笠とはなんの関係もなく加佐という韓国の地名だったのである。
笠と名のつくのは韓国系統の名なのである。
埼玉の稲荷山鉄剣に記されていた名に加差披余(かさはよ)がいる,これは笠になった,笠原氏なのである。それは明らかに吉備の国の笠に通じて真野の草原の万葉集の歌を残した笠女朗に通じている,笠女朗は笠系統の人でありそれは渡来人系統にもつながる女性だったのである。何か遊行女婦(うかれめ)のうような女性ではない
古代にあれだけの歌をそういう女性が残せるわけがないのである。
相当に教養がないと残せな歌だったからである。
なぜ古代に渡来人がこんなに関係していたのかとなると産鉄族として鉄を作る技術集団だったからである。だから一方でカヤは鉄と関係していたともされる
海岸沿いに砂鉄があり鉄作りしていたことは遺跡からも明確であるからだ。
そして笠女朗というのは吉備の出身でありここは伽耶国の人が移住した地域であり吉備は真金吹く・・・の歌で有名なように鉄の生産が盛んな所だったのである。
そして吉備は会津とも深い関係があったから福島県全体に深い関係があった

ただこの四つの説でどれが有力かとなるとなかなか判定しにくい,伽耶国といってもこれまた何かまだ証明するにはむずかしい,有力となるのはやはりこの辺一体にアイヌ語地名が残されているというときやはりアイヌ語のカイが有力になる
つまりこの辺全体の地名からその共通性があるからだ
ただ問題は真野郷からはずれているがすぐ隣なのだから辻褄はあうのである。
そこは桜井古墳もあり泉官衙(かんが)跡泉廃寺跡もあり真野郷として一体であったのかもしれない

いづれにしろアイヌ語だとするとそれは今北海道にいるアイヌのことかとなるとこれも研究者の間では明確にされない,今いるアイヌとは別だとされている
その謎は解明されていないのである。

2017年05月02日

関東の武蔵国地域の渡来人の跡 その一団が移住して陸奥の真野郷にかかわっていた


関東の武蔵国地域の渡来人の跡


その一団が移住して陸奥の真野郷にかかわっていた


埼玉県史』や『吉見町史』などによると、6世紀末から7世紀初頭−西暦600年前後から、胴張りのある横穴式石室と横穴墓の出現によって北武蔵の古墳形成に大きな変化がおとずれたとしている。そしてその背景には、横渟屯倉(よこぬみやけ)の設置と渡来人・壬生吉士集団の移住という、歴史的事件があったこと推定されている


■ この時代(6世紀末から7世紀初頭)は、古墳時代の後期にあたり、武蔵國では児玉地方を中心とした秩父と、荒川周辺に栄えた北武蔵(前玉・比企・入間・足立)、多摩川周辺に栄えた南武蔵の三つの地域にわかれて争われれおり、この中で北武蔵を中心とする笠原値使主が支配権を獲得したものと考えられる。


『・・・さらに、石室の比較研究から、7世紀後半の築造とする意見が多い。この時期は、律令制の整備に向け国府周辺の都市施設や、農業、軍事といった各方面での政治的基盤の整備を必要とし、そのために多数の渡来人や渡来系の人々が周辺地域に帰住したと考えられている。

そして、もともと胴部が張る横穴式石室の系譜をひく積石塚そのものが、高句麗系渡来人の墓制と考えられていることや、このあたりが後の小川郷に該当する地域であることからして、被葬者は、その先陣をきって地域開発のために活躍した渡来系の人々と考えて間違いないだろう。』 (青梅市史 上 P180〜181)


5世紀前半〜6世紀中ごろ築造された古墳群。http://kofun.info/kofun/1211
帆立貝形古墳の亀塚古墳以外は、そのほとんどが径40〜30mの比較的大型の円墳と、径20〜10mの小型の円墳により構成され、前方後円墳や前方後方墳は見られない。残存している古墳は13基ほどであるが、かつては70基前後が群集していた多摩川流域でも有数の古墳群であると考えられる。

古墳時代中期( 5世紀ごろ)
埼玉県坂戸市の入西石塚古墳から古墳時代中期( 5世紀ごろ)の冑(かぶと)と甲(よろい)、首を守る頸甲(あかべよろい)、肩を守る肩甲(か たよろい)などの武具や武器が出土した ...
埼玉県の壬生吉志

東京都狛江市の「コマ」、山梨県の巨摩郡など、各地に 残る ...http://www5f.biglobe.ne.jp/~kodai-musashigaku/newpage59.html
(1)高麗人(高句麗)の渡来
北武蔵への渡来人の移住は、6世紀の末頃までさかのぼることができる。6世紀末、律令制下の武蔵國ができる前、それぞれ壬生吉志が男衾郡、飛鳥吉志が橘樹郡、日下部吉志が横見郡で活躍したと伝えられている。この人たちに共通することは、「吉志」という名前であり、これは朝鮮の王を示す「コンキシ」「コキシ」と同一語といわれている(森山悌『古代の武蔵』)

その後、渡来人の武蔵國移住が本格化したのは、7世紀後半からのことである。666年(天智5年)百済人2千余人が東国移住。
  それから16年後の684年(天武13年)百済人

狛江市、狛江古墳群(直径10〜40メートル前後の円墳 5世紀〜7世紀)
調布市、下布田古墳群(直径10〜30メートルの円墳群 5〜7世紀)
あきる野市 飛田給古墳群(直径10メートル前後の円墳 6世紀〜7世紀)

などの古墳群が続く。古墳自体は小規模になるが、南関東から北関東への集団移住が類推される。古墳時代が終焉を迎える
と古代寺院の建設が始まる。関東が完全に大和政権支配下に入り、「薄葬令」「仏教」が浸透してきて、葬送の様式も変化
したものと思われる。そして、新たな渡来人たちの活躍も始まる。宝莱山・亀甲山古墳を築いたのが第一次の渡来人達だと
すれば、関東は第二次の渡来人達を受け入れる準備を整えたのだ。

韓国の慶尚道その他から発見されている轡鏡板に似ているので、もし同時期のものと見ると、韓国の伽耶の地域で五世紀前半代に流行したものが、高崎市の長瀞西の二号古墳の側の土壙に五世紀代に埋められた、ということになります。

 また、三号墳の右の積石塚、一〇号墳からは、純金で造った垂飾付きのイヤリング、一〇センチを超えるような長い鎖でハート型の飾りをしたイヤリングが見つかりました(図9)。このイヤリングは純金製という面からみても、造りから見ても、私は朝鮮半島で造られたものが日本にもたらされたものだと思っています。

 こういうふうに、積石塚で、方形墳で、立地的には窪地に集中的にあって、その一つからは純金製のイヤリングが出てきたり、五世紀の前半代と考えていい鉄製の轡鏡板が穴から出てきており、しかもその周辺から韓式系土器が発見されている。この韓式系土器というのは、韓国の伽耶などの地域で造られた土器製作技法をそのまま踏襲して、群馬で造った土器という意味です。

 考古学でいうところの新しい埋葬方法が朝鮮半島から入ってくる、横穴式墓制も入ってくる、須恵器という新しい窯業技術が入ってくる、装身具に鍍金というような新しい工芸技術が入ってくる、そういう時期ですから、地域によっては土でマウンドを造った古墳からマウンドが石の古墳に変わる。

  この下伊那地方の古墳は積石塚ではありませんが、大室古墳群の五〇〇基の集中度、合掌型石室の状況、あるいは最近の群馬の高崎市や静岡の浜北市の積石塚の発掘のありようを見れば、馬というものが古代のかなり早くから入ってきたことが分かります。これはもう、朝鮮半島の伽耶、百済などの地域からと考えざるを得ない
 長野県の下高井郡木島平村の根塚遺跡、これから大問題になるだろう遺跡の資料を載せました(図19)。木島平村はスキーで有名なところで、東京の調布市と姉妹都市の関係にある村です。

 この根塚遺跡は、一〇〇メートルと五〇メートルくらいの楕円形の低い丘を持つ、盆地の水田の中にポツンとある遺跡です。この根塚と呼ばれる丘の中央部から発見された墳丘墓は長方形で三段のテラスを造っていますが、長方形の斜面には張石が一面に張ってある、弥生時代後期のあまり例を見ない墳丘墓です。この図面からははっきりしませんが、長方形プランの三段のテラスになっている、その平面に箱清水式の土器、北信濃地方の弥生時代後期の土器が副葬品として複数納められていました。ガラス玉も出てきましたが、さらに三年前に、いちばん下のテラスの埋葬遺壙からナンバー4、5という鉄剣が二ふり出てきました(図20)。

 その鉄剣を見ますと、長い方が七四センチくらいのものですが、脇から右手に一本突起が出ていて、先端が丸くなっています。さらに柄頭、握るところも丸くなっていて、錆びて固まっている。レントゲン写真を撮りますと、図20右の6、7のように、そこは渦巻状になっていて、柄頭のところは鉄を二つに割いて、内側にクルクルッと渦巻にしています。さらに右側から一本そいで脇に出し、それも渦巻にしている。

 私は木島平村から連絡を受けて、この写真を見せられました。私は、これは伽耶の鉄剣だと直観いたしました。しかし私は日本考古学が専門ですから、「明治大学の大塚が伽耶の鉄剣だと言ったって、専門じゃないから……」と言われるといけないと思いまして、親しくしている九州大学の西谷正教授に来てもらいましたら、西谷さんは「これは伽耶のだよ」と言うのです。西谷さんはソウル大学に二年留学していた人ですから、西谷さんが伽耶の剣だというのは間違いないわけです。


 高麗人についてはさきにみたとおり(「甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人1799人を以って武蔵国に遷し始めて高麗郡を置く」)であるが、ついで、というより、すでにそれ以前、『日本書紀』666年の天智5年に、それまでは大和で「官食を給していた百済の僧俗2千人余人を東国に移した」とある。(・・・・・)ついで758年の天平宝字2年8月には「帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移し個々に初めて新羅郡を置く」とある。>(P62)


 武蔵国の貢物としては麻布、木綿(楮の樹皮からとる繊維)、?(粗い絹織物)、席といった繊維製品が主であった。おそらく多摩川周辺の娘たちが、清流で布をさらし漂白していた様子が「万葉集巻14 東歌」に、

 「多摩川に 曝す手作り さらさらに 何ぞこの児の ここだ愛しき」(3373)とある。http://ac.jpn.org/kuroshio/oda201411.htm


 高麗郡や高麗神社の「高麗」と記されています。また、狛犬の「狛
こま」と表記されることもあります。高句麗のことを最初に記した歴史書は、中国の
『漢書』という書物で、そこには「高句驪県」とあって、紀元前1世紀頃の
高句麗は中国(前漢)の支配下にありました。紀元後9年頃に中国の支配
が解かれ、後漢の時代には独立した国として存在したようです。

高句麗と倭(日本)との国交は、5世紀末までにはすでにあったと考え
られ、推古天皇の時代になると、仏教を通じた交流が盛んとなります。
推古3年(595年)には聖徳太子の仏教の師とされる高句麗僧の慧慈
が日本にやって来ます。推古13年(605年)には高句麗王から黄金300両が贈
られ、元興寺(飛鳥寺)の仏像の造立に使用されました。また、紙や墨の
製造技術も推古18年(610年)に高句麗僧の曇徴が伝えたものとされて
武蔵国の新羅郡(埼玉県新座市・志木市・和光市・朝霞市ほか)があります。席田郡は、霊亀元年(715年)に尾張国の人で外従八位上の席田君迩に近と新羅人74家を美濃国に移住させて建てられた郡です。天平宝字2年(758年)に席田郡の郡司の家の子らが、祖先は賀羅(から)国から帰化したという理由でからのみやっこ羅造の姓
を賜っていることから、席田郡は、のちに新羅国に併合された賀羅国からの渡来人が移住させられて建てられた郡だったことがわかります。


このように渡来系集団の移住がありそれが日本に刻印した足跡がある、それが地名化しているということでもわかる、一番古いのはツノガノアラシトでありこの足跡は日本海からわたってきて全国的に記された足跡である。
ツガルとはツノガノアラシトがなまったものである。ツノガノアラシト→ツガルなのである。ツガルが蝦夷とされるがそれはもともと渡来人だったのである。
福島県の太平洋沿岸にもその痕跡が残された

末次とかも陶でありそうした陶器製作の技術を渡来人が伝えたのである。
トライ時は製鉄とか仏教も伝えた、それで鹿島区の唐神というのは唐(韓)の神のことであり仏教のことである。仏陀のことである。それを仏様として祭れなかったのは韓(から)から来た神としてしか現すことができない初期のことだからそうなった


昔、この大明神は新羅の国から請戸小島に現れた女神である。その時2人の某氏がこれを拝した。1人は何もしなかったが、他の1人は小島へ社を造って祭った云々。

『明治神社誌料』には、「養老年間高龗神を同村海岸苕野小島に勸請す」とあります。

小高にある角部のツノはツノガノアラシトのツノであり津神社もツノミヤ神社である。
松川浦のツノミツ神社もツノガノアラシトのツノであり津浪とは何の関係もなかった
地名がこのように古い渡来系の故に名付けられていたり神社がこれだけ渡来系に由来しているのはそれだけの人が日本全国にかかわっていたということである。
伽耶というと百済が滅亡する前の国でありなじみがないのは確かである

韓国の慶尚道その他から発見されている轡鏡板に似ているので、もし同時期のものと見ると、韓国の伽耶の地域で五世紀前半代に流行したものが、高崎市の長瀞西の二号古墳の側の土壙に五世紀代に埋められた、ということになります。

私は、これは伽耶の鉄剣だと直観いたしました。しかし私は日本考古学が専門ですから、「明治大学の大塚が伽耶の鉄剣だと言ったって、専門じゃないから……」と言われるといけないと思いまして、親しくしている九州大学の西谷正教授に来てもらいましたら、西谷さんは「これは伽耶のだよ」と言うのです。西谷さんはソウル大学に二年留学していた人ですから、西谷さんが伽耶の剣だというのは間違いないわけです。

伽耶というのもそれなりにその跡を記している

草枕 旅を苦しみ 恋ひおれば可也の山辺に さ雄 鹿鳴くも

可也は伽耶なのである。真野の草原(かやはら)がこの伽耶なのかとなると無理があることは確かである。では草原が萱原なのかとなるとこれもまた疑問であり明らかなことは草原は地名だという説が有力になる

それは渡来人が関係してそうなったのである。今回の津浪で塩崎の船着という地名のすぐ近くまで津浪が来た、その湾にそった丘陵地帯に横穴式古墳があった
これは渡来系がもたらしたものだとするとき何か関係しているともなる
地名からすれば石巻の萱原が有力でありそこは江戸時代でも真野の草原の地とされていたのである。真野公という木簡も発見されているからである。
ただ考古学的資料となると鹿島区の真野郷が濃厚にあるからここが真野の草原だとしている
  


2017年05月01日

南相馬市の古墳の謎(真野古墳群など) 古墳が墓ではない説


南相馬市の古墳の謎(真野古墳群など)

古墳が墓ではない説


なぜ寺内から小池に古墳が多いのか?そもそも古墳は何のか未だに不明である。
寺内から小池に密集して多いのである。
それが墓だとするとき違和感を覚える、むしろ墓があるところは生活拠点となった人が集まり住んだ所である。寺内の前方後円墳からせ金銅双魚はいが発見されたから有力な人がいて葬られた、その人は誰なのかとなるとわからないがその土地の有力者であり功績者だから手厚く葬られた

ただ古墳は造るのにその当時は容易ではなかったから全員で協同して作ったからそこに共同体があり協同の結果として一番の功績者をその土地に祭ったとする説
稲作には土木事業でありその開墾作業の中心人物が祭られたとかしたという建築関係の人が言っているのも面白い。
江戸時代でも開墾した人の名前を地名としている所が多いからそういうこともありうる

寺内となるとそこは古い場所である。真野明神がありそこにヤマト政権がかかわり真野郷が設置された中心だともなるからだ
だからこそ前方後円墳が作られた、その後館の地名があるから寺内という地名はその中世から由来しているかもしれない、なぜなら館があれば寺もあったかもしれないからだ

そもそもなぜ小池にあのように古墳が多いのだろうか?
前方後円墳は寺内にあるが後はないようだ、円墳が密集して作られている
円墳が個々に集まり作られたのはなぜかとまたなる
個々に小さな古墳は造れたが大きな古墳は造れなかった、原町区の桜井古墳はあれほど巨大なのと比べると一目瞭然である。
鹿島区にはあれだけの巨大な古墳を造る勢力がなかったとなる
現実に桜井古墳に二人が一緒に埋葬されたことがわかった、それは何を意味しているのか一人ではないということは二人の王がいたとなり一緒に埋葬されたともなる
奈良とかの大古墳でも天皇の古墳だとしても埋葬されているとしてもそれは証明されていない、つまり誰が埋葬されているかはっきりしないのである。

古墳が墓だとするのも何か不自然なのである。小池とか横手を見るとそこは今の感覚では墓にするにはふさわしくない場所である。
そこはどちらも人が生活する場としては適地であり墓にする場としては適地ではない
奥津城というのが万葉集では死者の埋葬された場所としている
それはそうして人か集まり生活した所から離れた奥の場所なのである。
墓(はか)とか塚(つか)は人が埋葬した標しがあったところである
奥津城(おくつき)は死者の埋葬地としては死語になった、その奥津城が古墳だというときそれも不可解なのである。古墳は人が集まる所にあるのが普通だからである。

祭司場」や「市場(マーケット)」として、人々のランドマーク的な造営物として造られた可能性があります。

桜井古墳はまさにこれである。新井田川に接して海にも近いからである。あの場所が原町区ではその時一番住みよい適地であり中心だったとなる
だからこそあそこに人が集まり住み巨大な古墳が作られたともなる
それだけの勢力があそこにあり作られたとなる

ではなぜ鹿島区では群集古墳になっているのか?まず寺内が古くそこから小池の奥に集落が分散した、古墳が密集している地域に集落ができたことは確かだろう。
それは墓とも違ったものとして見える

そして横手の群集古墳へ集落が拡散したのである。そこで稲作が行われたというとき寺内、小池は高台でありその下は真野川であり湿地帯が広がっているから稲作には適地ではなかった、横手は真野川からも離れていて海がその時迫っていたとしても横手ならまだ離れているから稲作ができたのかとなる、でもこの辺で古墳の回りに田んぼの跡などが発見されたのかともなる

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塩崎の船着のすぐ近くまで津浪が来た、そこまで海だったことを証明した

横穴古墳


墓というとき横穴古墳がある、これは古墳とは異質なものとしての墓である。
むしろこっちの方が墓らしいとなる、古墳だと生活の中心にあるからだ
横穴にもそこに人が住んでいたのか?
鹿島区では烏崎から小島田の方への丘の連なりに発見されている
そのときそこは海であり海にそった崖に横穴があったとなる
烏崎の船着という地名はそれを証明しているそれは古代の地名でありそこまで船が来ていたという証となっている
現実に津浪はその近くまで来ていたのである。


横穴古墳が異質であり渡来系が関係していたとなると鹿島区の真野の草原(かやはら)という歌と関係しているのだろうか
つまり草原が萱原のことではなく渡来系が来た人たちが名付けた自分の地名説である。
草原が伽耶原になるのは何か確かに無理があるのだが地名だということはありうる
海側にあるということが寺内とか横手の古墳とは違ったものである。

いづれにしろ古墳が墓だとしても今の感覚の墓とは違っていることは確かである。

昔こそ外に見しか 我 妹子が 奥榔 思へ ぱ 愛しき佐保山(大伴家持)

この奥榔(おくつき)が最初に人が葬られた場所である。それが古墳だとは思えないのである。
そんな人が集まり住む所から離れたところに作られていないからである。
ただ一旦人がそうして奥津城でも山に葬られてその山が人間化してみるというのが人間の情としてありそうなった
荒寥とした山ではない、人間化した山でありそれは低山だとそうなりやすいのである。
里山という感覚である、それで葉山信仰だと祖先は春には山からおりて里におりてくる、その時はちょうど田植えの時期になる

つまり死者というのがそうして故郷に死んでも生きつづけるのである。それは農耕だとそういう感覚になる、死者はその里や村の中に自然のなかに生きつづける
死者がその故郷を見ているとかなるのは何か自然信仰にもなる
それは人間は死んでもその土地にありつづけるという感覚である。
それは故郷という土地があることによって成り立つものである。
土地と結びついた農耕民の感覚である。
ただそうして死者をその土地で時間の中で断絶させないということがその土地の継続の中に生きる歴史を生きるともなるのである。
今はそういう世界観はなく時間でも断絶しているからである。
この辺では避難区域に帰るのは老人が多いというとき老人はその土地に死んでその土地の土となりまた祖先となるという感覚である。
それが断たれたことが不幸だったのである。

ともかく古墳がなぜこんなに全国でも多いのか?未だに謎である。
高台にあるというときも海の近くにあるというときもそこはその当時は生活しやすい場所だったことは確かである。
名取の雷神山(らいじんやま)古墳も小池と立地がにた場所にある。
高台であり津浪でわかったように海も近くに迫っていた場所である
そこにも多くの古墳が発見されたのである。
それから遠見塚古墳というのは海の近くの平地にあるがあれは離れていても地理的には横手の古墳ともにているのである。
つまり古墳を見るにも地理が大事になるのである。遠見塚古墳までは津浪は来なかった
遠見というとき海の方を遠く見る場所としても古墳が作られたのかともなる
桜井古墳でも海が迫り海の遠くを見る機能があったのかともなる
桜井古墳だはあれだけ大きいし高いからその機能があっても不思議ではないとなる

真野古墳群




2017年04月26日

寺内で古墳の発掘調査 なぜ桜井古墳のある原町に国造(くにのみやっこ)置かれなかったのか?


寺内で古墳の発掘調査


なぜ桜井古墳のある原町に国造(くにのみやっこ)置かれなかったのか?

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発掘現場
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真野の草原(かやはら)の万葉集の歌の謎


ここを読まないとわかりにくです



国造は、自らの統治権を認められる代わりに大和政権に対して、子弟・子女の出仕、地方物産物や馬、兵士などの貢上を行わねばなりませんでした。


国造とは、その地方の行政・軍事・裁判権などが与えられた地方官です。もともとはその地方を支配していた豪族ですから、その支配権をヤマト政権が国造という官を与えることで追認した面も大きかったようです。

国造は日本における地方官で、軍事権、裁判権なども持ち、実質的にその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった物をいう

律令制の導入により国造は廃止され、国造は郡司に任命されます。そして郡の上に国が置かれ、中央から国司が派遣されました

5世紀には倭の五王が中国の南朝(宋)に朝貢して朝鮮南部の利権を主張し、百済・高句麗よりは下位だったが、倭王の国際的な地位を確立させた。一方では渡来人を流入させて国力をやしない、経済力・軍事力は飛躍的に上昇した。

武蔵国(東京・埼玉)では、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)が国造(くにのみやつこ)(国を治める豪族)の地位を争っていた。小杵は関東全域に影響力を持つ上毛野(かみつけぬ)(群馬)の豪族・小熊(おくま)に支援を求め、使主を殺そうとした。それを察知した使主は大和に逃げ経緯を訴え出た。朝廷は使主を国造と認め、小杵を誅殺(ちゅうさつ)した。使主は感謝のしるしに4カ所の領地を屯倉(みやけ)として朝廷に差し出した。

「大和政権にとって、上毛野は軽視できない勢力でした。安閑元年の出来事かどうかはともかく、豪族同士の抗争を好機ととらえ、積極的に介入したことは間違いないでしょう」http://www.sankei.com/life/news/130219/lif1302190021-n1.html


仏教の受け入れに賛成したのは蘇我氏であり、反対したのは朝廷で神を祀る仕事をしていた中臣氏と蘇我氏に対立していた物部氏でしたが、やがて蘇我氏と物部氏の政治的対立に発展します。

いっぽうで国造の支配する地域には多くの独立性の強い中小首長が存在していたため、国造は絶対的な権力はもちえず、その基盤は脆弱であった。それゆえ、大和朝廷は地方支配の組織をより確かなものにする必要があった。

これらの出土遺物?や撥形をなす前方部の形状などから古墳時代前期の築造と推定される。年代的には4世紀?後半から5世紀?初頭が想定され、埋葬された人物は新田川流域を治めていた有力豪族?だったと考えられる。

前方後方墳をさかんに築造した北関東?地方とくに下野国|下野?(現在の栃木県?)および常陸国|常陸?(現在の茨城県?)との濃密な文化交流も考慮される。


寺内で南相馬市の文化財課で古墳の発掘をしていた、あそこになにかしらないがまた建物が建つ、もしかしたらまた大東建託のアパートかもしれない。今二棟建設中であるからだ。

発掘調査する人に聞いてみた、その人はあまりしゃべる人ではなかった。地元の人ではなく外部から来て就職した人である。
古墳は意外と発掘されるものなのだろう。最近で土をとっていた屋形から発掘されている古墳は鹿島区では多い、特に寺内から小池は多いから発掘されるかもしれない、
一番驚いたのは寺内の前方後円墳から金銅双魚佩が発見されたことである。
この辺では非常に珍しい貴重なものとなった

古墳時代があり奈良とかでも関東でも大古墳が作られた、それから小古墳も日本列島全体に無数に作られたのだ。古墳時代という明確な一時代を築いたのである。
古墳があれば明らかにその時代を意識するのである

古墳がなぜこれほど作られたのか?それは葬送としての墓であり先祖崇拝が基本にあったからかもしれない、アモイなども先祖崇拝の像であり世界の宗教は先祖崇拝が最初にあるからだ。それが過度なものになるとき問題が起きた
古墳の厚葬は禁止された、古墳は小さくても場所をとる、古墳だらけになったら墓だらけになったら今生きている人の邪魔になってしまうのである。

国造(くにのみやっこ)というのはわかりにいけどこれは在地の有力者、豪族がいて中央から大和政権が認めた地方官だとある、つまりこれは大和政権下の支配が最初に及んでいた地域だとなる
でも大和政権というのはそれが日本全国を支配していたわけではないし第一強力な地域の豪族がいて統一されていなかった、さらにそこに複雑化したのは渡来人が韓国から入ってきてその人たちがヤマト王権の国造り深く参画したことなのである。
それはその人たちが外来の文化を技術でも仏教でももたらしたからである。

ヤマト王権といっても様々な勢力の混合体でありそれに対立する地域の豪族もありそれらが全部ヤマト王権に組み入れられいないのである。
吉備などはヤマト王権に代わるような巨大な勢力だったからである。
そこでヤマト王権と権力争いが各地で起きていたのである。

そしてその時さらに複雑なのが蝦夷であり蝦夷とは何かとなるとまたこれも不明になっている、蝦夷とは縄文人の末裔なのか、何かわからない、ただ地元の土着的勢力であり
最初に対立した集団である。でもそれがヤマト王権と対立したというのではなく、東北では物部氏と毛野氏が大きな勢力でありそれらがヤマト王権と同格とかなっていて支配下には入っていないということがあった。


武蔵国(東京・埼玉)では、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)が国造(くにのみやつこ)(国を治める豪族)の地位を争っていた。小杵は関東全域に影響力を持つ上毛野(かみつけぬ)(群馬)の豪族・小熊(おくま)に支援を求め、使主を殺そうとした。それを察知した使主は大和に逃げ経緯を訴え出た。朝廷は使主を国造と認め、小杵を誅殺(ちゅうさつ)した。使主は感謝のしるしに4カ所の領地を屯倉(みやけ)として朝廷に差し出した。

この争いでもわかるように毛野はヤマト王権と対立するような大きな勢力だった
そして笠原直使主はその毛野の勢力に圧迫されていてヤマト王権に支援を求めていたのである。
そして毛野系統から南相馬市の鹿島区の浮田に浮田国造が置かれたのである。
毛野がこの争いでもわかるように大きな勢力だったからこそこういう争いが起きた。
ヤマト王権が支配できない大勢力が各地にあったからである。

だから古代の歴史を古墳時代から見るとこの辺では桜井古墳がありそこが一番大きな勢力としてあったことは確かである。
ではそこになぜ国造(くにのみやっこ)が置かれなかったのか?
それは桜井古墳は寺内や小池の古墳より古い、4世紀とかのものである。
それだけ古いということは最初にこの辺で一番大きな勢力をもっていた一群がそこに住んでいたとなる。
桜井古墳は物部氏が作ったものだともされる、この物部氏とはヤマト王権として統一する前に日本を二分する大豪族であり古来の日本の神道派でありそれが仏教を導入した蘇我氏と争ったというのが定説である。ただ仏教に反対したわけではないという説が最近でてきた。

物部氏が東北地方で蝦夷と戦った、それが海老であり海老はエヒであり蝦夷だった。
そして御刀神社がありそこは蝦夷と敵対する場所にあり刀を刺したところだとなるとまさに蝦夷と戦った場所にふさわしいのである。
地理的に考察すると納得することが多いのである。
神社というのはなぜその場所にあるかが問題になる、その場所なくてならないものとして神社がある、古墳もまたどういう場所にあるかがそれこをみることが大事になる
歴史を場所から地理からまず解きあかすのがわかりやすいのである。
今なら地政学となるが古代などでもそうなるのはその時はその土地に根付いて生活しているからそうなる、その土地のもので食料でも家の材料でもまかなっているからそうなる

ただ古代で複雑になっているのは日本では渡来人が濃厚にヤマト王権が成立する過程でも深くかかわっていた、それと仏教も深くかかわっていた
ヤマト王権は鎮護国家として仏教を採用して統一したという経緯があるからだ
その象徴が奈良の大仏なのである。
そこにも渡来人が朝鮮半島の韓国系がかかわっていたのである
鹿島区にある唐神という地名がそうである。唐の神でありカラとは中国のことではなく韓国のことである。韓(から)でありカラとつくとき韓国系統と関係しているのである。
そして今東北電力が建っている所の鳥打沢も発掘したが大きな製鉄遺跡でありそこにも渡来人がかかわっていた
そして発掘されたの武器を製造していたのではなく仏教の祭具などが多く発掘されたのである。蝦夷制服のための武器が製造されていたのではないのである。

なぜ桜井古墳がそんなに古いのもに国造(くにのみやっこ)が置かれなかったかとなるとそれはかえってそこが一番この辺では発展して人口が多く勢力があったからヤマト王権に組み入れられない、国造(くにのみやっこ)の地方官が置かれなかったとなる
毛野氏がヤマト王権と対立して争いがあったように毛野氏もヤマト王権に全面的に服属していたとはならないのである。

ただ古代というとき縄文時代のような延長のようにみることもある。
でも実際はこのように強力な政治勢力が争っていた時代だともなる
それは今北朝鮮をめぐって中国とアメリカとロシアがせめぎあったり日本もかかわっているのとも同じである。それだけすでに中央の政治でも地方にかかわっていたのである。
その要因はヤマト王権が資源を求めて東北に進出したからである。
それは技術者の渡来人を先導して深く東北に鉄の生産とか奈良の大仏の鍍金になる黄金だとかを求めて進出してきていたからである。

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを (笠女郎)

すめろきの みよさかえむと あずまなる みちのくやまに くがねはなさく

草原(かやはら)となっているけどこれはとても萱原だとは思えない、萱だったらその当時どこでも繁っているからだ、ただ寺内から小池辺りもそうである。
だからといってあの辺は確かに真野郷だけどそうとは思えないのである。
確かなことは韓半島の渡来人の技術者とともに鉄や黄金を求めてみちのくにヤマト王権が進出したことなのである。
その一連のものとしてその過程の中で真野の草原が地名として知られるようになった。
草原(かやはら)はだから自分では地名説をとっているのである。
萱が繁っている光景はその当時めずらしくないしそれがただ美しいからとして奈良の都で話題になるとは思えないからである。
話題になったのはそこに鉄がとれて黄金がとれたことだからである。

ともかくその文化財の人は外部から来た人である、でもなぜ考古学などに興味をもち就職したのかである。普通はそういうところにはよほど興味がないとしないだろう。
その人は聞いたがそれほど興味あって就職したようではない
発掘して古墳としてわかるのは円形の溝のようなものが発見されるとそこが古墳とわかるそうである。円形の溝を造り土盛りしていためだそうである。
でもそういうものを見いだすのも容易ではないと思う。
これは地味な活動である、ただ寺内の前方後円墳から金銅双魚佩が発見されたように宝物が発掘されば興味がでる、何も発掘されなければ古墳すらなかったとなると徒労にもなる
学芸員が観光の邪魔をしている、役に立たないというときそうかもしれない
例えば金銅双魚佩の模造品を示して観光させればわかりやすいとかある
やはり学問というのは専門もあるが教育とは違う、わかりやすく面白いことが要求される
どんな学問でもそうでありすべてのことに人は詳しくなれない、でも何かわかりやすく説明されると興味をもつようになるからである。。


とにかくこの辺は建物がまだ次々に建つから都会化しているのである。
今日は小池のコモドインのホテルでカレーを食べた、うまいカレーだった
一人しか入っていないのも不思議である。


2016年12月25日

真野の草原(かやはら)は原町の萱浜(かやはま)説 萱浜はカイ浜でありカイは北海道のアイヌのことだった


真野の草原(かやはら)は原町の萱浜(かやはま)説


萱浜はカイ浜でありカイは北海道のアイヌのことだった


滋賀県 犬上郡 多賀町 萱原(かいはら)
徳島県 小松島市 櫛渕町萱原(かいばら)

アイヌ民族が自分たちの国をカイと呼び、同胞相互にカイノー、またはアイ ノーと呼びあってきたからというところにあった。北 加伊道が北海道に変えられたとき、そこにこめられた大事な意味も消された。その名づけを産んだ流れは、武四郎一人の力や思いではどうにもな らない滔々たる濁流となって、この近代百年を押し通してきているものであった。武四郎は、明治に入るとすぐその流れの外に身をおいてしまう(花崎 1988:9-10)

花崎の紹介によると、道庁が解説する「夷人」(夷狄 =イテキ、つまり潜在的な敵である異邦人)とは、和人(シャモ、日本人)が言うアイヌのことに他ならないということになる。アイヌであることが明々白々で あるのに、わざと「夷人」という歴史的用語をそのまま使って、何も註釈を与えようとしないのは、道庁版は、アイヌに対する不当なネグレクトである可能性が ある

萱原はかやはらというだけでなくかいはらともいう、かいばらともなる。
真野の草原(かやはら)はカヤで伽耶の国と関係していると自分は考察してきた。
でもこの辺には草原も萱原という地名もないのである。
あるのは石巻でありそこにも真野という木簡が発見されたから真野と関係している。
ではそこなのかとなるとまだわからない。

それでこの辺で行方郡衙(泉廃寺跡)と連続したところに萱浜(かやはま)がある。
ここのかやは実際はカイと読んでいたのである。

泉長者は元慶元年(877)行方郡に来たといわれる。
約300年後源義経が家来の弁慶に命じて焼き払った。
その屋敷は灰塵に帰して別荘にいた娘もそれをきいて水に投じて死んだ。
娘の別荘があった地を名付けて子供(小浜)といい、樋をもて酒を娘の居所に流す時に
娘が甲斐湾をもってひそかにくみとって飲んだ地を甲斐浜(今の萱浜)また樋より酒のもれた地を雫(しどけ)と名付けた

この伝説も不思議である。なぜ甲斐碗として甲斐がでてくるのか?
おそらくもともと萱浜はカイ浜という地名だった。それが後に萱浜(かやはま)になった。地名伝説には地名が先にありそれにこじつけた伝説が多いからだ。
ここは泉かんが跡があるところだから古い地でありその時からあった地名かもしれない、地名は相当に古いからである。この辺の地名としては

蝦夷関係の地名

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エとつく地名

ツノガノアラシトや伽耶関係の地名

末続、角部、津(つのみや、つのみつ)神社のツノ系統、唐神(からかみ)なども

古代にはこの二つの地名があ、蝦夷関係の地名は最も古く縄文時代につながるものである前に考察したエの地名は蝦夷に由来するものである。
蝦夷はエビスでありエビ(海老)になる。南相馬市の鹿島区の海老はエヒと言われていた
それは蝦夷やエミシに通じる、つまり蝦夷が住んでいた地域だとなる
それからエという一連の地名が浜通りの海岸沿いにある。
エとつく地名は日本全国に本当に多いのである。それが日本全国に蝦夷がいた名残だとなる。蝦夷とは日本の先住民でありインディアンともにていたのである。
だから縄文語があってエがつくのはそのためである。その縄文人とまたアイヌとの関係はどうかとなるとむずかしくなる、縄文人が一万年いたとなるとアイヌはその後に入ってきた新しい民族だともされているからだ。
たから日本の地名をすべてアイヌ語で解きあかすのは無理なのである。
ただ北海道に密集してエのつく地名が多いのか?それはアイヌ語由来であり蝦夷との連続性がアイヌにあるのかとなる

「えけせてね」は、藤原氏が反抗する者どもを差別するためにつけた。例えば「江戸、江藤、蝦夷、恵那、江田」といった苗字は、藤原政権の追及迫害を逃れた人が隠れた(追いつめられた)土地からきたのであり、「エの民」と呼ばれたようである。

藤原政権の前に古代史では神道派と仏教派が争った。物部氏と蘇我氏である。そして最終的には仏教派が勝って国家の鎮護として奈良の大仏が作られた。
当時の仏教は総合的なものであり一つの文明として受け入れたのである。

日本の原住民として蝦夷がいてその後に弥生人が入ってきて稲作を広めた。物部氏は権力闘争に敗れて北に逃れた。そして蝦夷と連合したのである。
でも物部氏も最初は原住民の蝦夷と争っていたのである。その証拠が鹿島区にある御刀神社である。海老に蝦夷がいて物部氏が戦ったからこそそこは御刀神社となったのである。刀をつきさした所とあり刀で蝦夷を征服したのである。

だから真野の草原はかいはらと呼ばれていたのかもしれない、それがカヤになったともなる。他でもかやはらとかいはらがありどっちかとういとカイハラというのが全国的に多い、ただカイと言っても峡もカイであり古語ではカヒとなっている。
甲斐の国とは峡谷が多いからそうなっかともとれる。

だから真野の草原はカイハラだとしたら地名としてここに残っているとなるから蝦夷地名として奈良に知られていたということになる。
それは北海道が実は異民族のカイのことだったと同じである。
カイがカヤにされて不明になったともとれる。

ただ草原(かやはら)というとき前に証明したように古代の和名類聚抄に記されていて数は少ないが一連のものとしてあった。
埼玉県にも草原氏がいてそれは古い謂れがある。ここから近いことも草原(かやはら)というのが何かその辺からも伝えられたものともなる。

和名抄、武蔵国埼玉郡に草原郷あり。加也波良と註し、高山寺本には萱原に作り、加夜波良と訓ず。

二つの説でどちらが有力化となるとこれもわかりにくい、自分は伽耶説をとってきたからそれをまたカイ説にするとそれてりの説明を論拠を示していかねばならない、その作業が容易ではないとなる
ただエとつく地名とかの関係で蝦夷と関係していたとなるとわかりやすいし説得力もあるとなる、その地名が残っていることでそうなるのである。
萱浜はただ真野郷内にはせない、でも行方郡衙(泉廃寺跡)の港につづいているものだから有力だとなる。そこは港だったのだから草原はただ茫漠とした萱の原を言っていたのではないのである。人が通う場所としての港のことだったからである。

南相馬市鹿島区の海老村は蝦夷ーエミシが住んだ地域だった 
(神社の位置が歴史を語る)

2016年10月02日

南相馬市原町区の長野の大甕の姓の墓の謎 (姓と地名は混同しやすい)


南相馬市原町区の長野の大甕の姓の墓の謎


(姓と地名は混同しやすい)

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これは岡田氏の系統から書いている、大甕という姓はその前の古代からのものである

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長野の原田という集落化して原田という姓の人と大甕という姓の人が結婚した

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長野という中に原田という集落が生れた


大甕神社


社伝によれば、景行天皇40年、日本武尊東征の際、当地に祭壇を設けて大甕に酒を盛り、高皇産霊神と天照大御神を鎮祭したのに始まるとされます。

当地の地名はこの大甕に因むとも。

延暦20年に坂上田村麻呂東征の際にも、当社に戦勝を祈願。

大甕という姓は福島県に百人くらいしかいない、


甕星香香背男ともいう。東国に多い星の宮に祀られている。

神武天皇以前からの神である。
日本書紀のみに記される。
経津主神・武甕槌命は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかったので、倭文神(しとりがみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしている。

茨城県日立市の大甕神社は、天津甕星を服従させた建葉槌命を祭神としている。

天津甕星(あまつみかぼし)と聞いて、また浮かぶのが、阿遅須枳高日子の祖父神 赤衾伊努意保須美彦佐倭気(あかぶすまいぬおおすみひこさわけ)の妻神の天甕津日女(あめのみかつひめ)です。

常陸国久慈郡大甕山の東端に居住していて、太平洋に面する北日本一帯の制海権を握っていたという伝承が「久慈郡大甕山の倭文神社」にあります。・・・香々背男は眼光は爛々として星の如く輝き、体格は毅然として雲突くばかりに高く、足は剛健にして猛獣の如く強く、手は長大にして禽鳥(きんちょう)の如く早く、その上幾百幾十万の同族を指呼し、自ら諸所の神岩の上を漁りて好んで魚介類を頬ばり、夜は巧みに姿をくらまして大甕山上の雷断石の間隙に隠れ、進退自在、千変萬化、独特の技で敵を侮り、民を悩まし、国の尊厳の何たるかを知らぬ者だったと言います



姓と地名の関係は混同しやすい、姓の元は必ずある土地の名、地名に由来している、姓をたどれば必ずある村の地名から発している
混同しやすいのは姓が地名化するように錯覚することである。
ある姓のものがここで相馬氏が千葉県の方から移住してきて相馬市となったようにそういう姓が移動して土地の名となることはない、ここでも相馬市はもともと中村であり相馬という名はなかったのである。

この大甕という姓ももともとは大甕町が日立市にありそこに由来している、大甕町の由来は神社がありそこに大甕神社が祀られている、倭文神(しとりがみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしているから大和朝廷による蝦夷征服の神の移動である。
つまり倭文神(しとりがみ)とは機織りを伝えたものであり技術の伝播である。

大甕の地名はおそらく大甕神社が祀られて地名化した。高倉神社もそうであり有名なのは鹿島神社であり鹿島が町の名となった。これも大和朝廷系の蝦夷征服の一貫として全国にある。地名は古く古代に由来するのが多いのである。

ともかく姓と地名は混同しやすいのである。深野(ふこうの)に深野という家がある。
地名と性が一致しているのもある。相馬藩内でも栃窪という地名があり栃久保とかいう姓が移動している、長野に大甕の姓の墓があるとき大甕というのは日立市から移住したのかそれとも大甕という姓を南相馬市の大甕に移り姓としたのかわかりにくい、元は日立市の大甕町にある。
他にも栃窪の上萱に山田という姓がありそれをたどると押釜辺りに山田という地名があるするとそこから移ったのかとなる、ただ山田という姓は多いからこれもわかりにくい、
なぜここで大甕と原田という姓の墓があるのか?
これも両性の墓があることは江戸時代でもある、原田というのは長野にある。
そこが姓の発祥地なのか?つまり長野の原田という地名があり原田という姓の家があり大甕という姓の人がここで結婚したとなる
姓というのはその土地の名をとるが姓が移動してその土地の名になることはほとんどないのである。

ともかく大甕という姓の由来は蝦夷征服に由来して残された、大和朝廷に抵抗した土地のものでありそれに大和朝廷がてこづったので伝説として残された。
その系統の地名とかは東北には多いのである。海老はエヒであり蝦夷系統のものだというときあそこから弥生時代に住んだ住居跡が発見されたことでもわかる。
蝦夷征服にかかわる地名は多いがわかりにくくなっている。
茨城という名自体が蝦夷征服に関する地名だからである、

「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」

茨城県にはその類の地名が多いのである。地名としては原町は原っぱであり長野は長い野であり深野(ふこうの)は深い野であり大原は大きな原だとなる、ただこの原と野の相違は何なのか。野の方が広い範囲を山なども野となる、原は村の意味ともあり限定的な広さのある所なのか?原町というとき原となっている区画である、そこは雲雀が原のように野馬追いの馬が放し飼いにされていた土手に囲まれた区画である。
ただ大原となると広い原であり深野とか長野とどう区別されるのだろうか?
長野の中に南原田とあるとき原は村の意味があるというとき長野という地に原田という村落ができたためかもしれない,田原もそこは村落ができてその名がついた。
長野という広い野の中に原田と田原という村落が生れた。そこに墓地が作られたともなる原田とか新田原とつく地名の場所に家が密集していることでもわかる
野はやはり広い範囲であり原は狭い区画の村落化した地域だとなる
それは下の論文を読めば納得する

原と野の地名について
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タグ:大甕姓

2016年09月08日

喜多方市(5世紀)の前方後円墳「灰塚山古墳」から、 副葬品の大刀(たち)や矢尻など多量の鉄製品や青銅の鏡が出土 (福島県の古代の歴史の謎)


喜多方市(5世紀)の前方後円墳「灰塚山古墳」から、

副葬品の大刀(たち)や矢尻など多量の鉄製品や青銅の鏡が出土

(福島県の古代の歴史の謎)

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 喜多方市慶徳町にある古墳時代中期(5世紀)に築造された大型の前方後円墳「灰塚山古墳」から、副葬品の大刀(たち)や矢尻など多量の鉄製品や青銅の鏡が出土していたことが31日、分かった。同時期の古墳から大量の鉄製品が出土するのは東北初という。会津を治めた豪族の墓と推定され、専門家は「東北の古代史を塗り替える貴重な発見」と話す。 



古代半島の南部で我々の祖先(倭人)が鉄鉱石を採掘し、精錬してインゴットにして 
日本へ運んでいた 
その鍛冶・海人である倭人の集団が宇佐八幡宮のベースとなった 

白村江で日本が敗れ、半島から撤退したことにより日本は「鉄鉱石利権を失い、西日本では 
砂鉄を用いたタタラ吹きによる製鉄がメインになった

5世紀)の前方後円墳「灰塚山古墳」で 
391年から白村江の戦いまで、半島を支配したのは日本だから当然だわ。 
しかもスサノヲは、韓郷(からくに)に金銀有り、子供たちに船がなければ困るなぁ、と述べて 
資源の開発等を示唆している。

2世紀頃の釜山市の萊城(ネソン)遺跡では出土土器の94%が北部九州系。 
つまり倭人が海を渡って鉄の採掘をしていた。 

139 :名無しさん@1周年:2016/09/08(木) 04:01:06.50 ID:eGMD0pSx0
三韓征伐引き上げの際の 
九州か百済の武具や馬具の鍛冶屋を 
機内に連れ帰ったのが始まりだろ

青銅は紀元前1世紀頃から日本で作られるようになり、 
製鉄は弥生時代後期後半(1 - 3世紀)頃から北部九州のカラカミ遺跡(壱岐市)や 
備後の小丸遺跡(三原市)で開始され、 
それから時代が下り出雲地方や吉備でも製鉄が行われるようになった。 

日本の製鉄は芦原から始まったから量産難しかっただろうしね 

有田焼を筆頭に日本の陶芸の多くは技術を持った生身の人間が渡来して製作したもの、近世は 
連れてきた日本の記録や連れて来られた陶工の家系が残っているからありのままにされている。 
鉄製品の原料などどこにでもあるものだ、なかったのは製鉄、加工の技術。 
技術は海を越えてやって来ない。 
技術を保有した人間がやってきて日本で鉄製品を製造していたのだ。 
稲作も漢字も同じ、先祖の祀り方も海を越えて伝わるものではない。 
そういう生活習慣の人々が移り住んだということだ。

須恵器は現代の焼き物小屋と同じように閉じた環境で焼かれ、 
鉄成分が還元して黒っぽくなる。 
製鉄は更にその先の技術である。 

このように最低限、温度と空気を調整できるまでは

この被葬者は四道将軍の北陸道将軍の大彦命だろうか?それとも東海道将軍で大彦命の息子の武渟川別命だろうか?

山形人の井上ひさしは「会津は東北ではない」と断言してる。 
昔から中央政権と直結した独立国のような地域で、 
平安の仏教文化も関東を飛び越え会津から東日本に広まってる。 
東北の蝦夷文化とは別系統の文化が会津にあったということでしょ。

律令国家を広げるため、北陸、東海、西道、丹波に派遣された四道将軍のうち、 
大彦命と武渟川別命という二人の将軍が、各地を平定した後、 
出会って定着したので「会津」という地名になった。 
もともと記紀神話に由来する地名なんだよね。

ヤマト政権は韓人王朝だからな 
倭人や蝦夷の猿どもの大部分を支配していたのだろう 
韓半島の先進文明の政権なら支配圏は会津どころか青森まで到達していたかもしれぬ 

既に会津の大塚山古墳で三角縁神獣鏡(卑弥呼の鏡)が出土してるね。 
大塚山古墳は古墳時代前期のもので東北地方最古だから、 
今回の灰塚山古墳はそれ以降のもの。

新羅系の物部氏は、蘇我氏に敗れたあと、製鉄技術と武器、道具の製作技術を 
陸奥ヒタカミノクニ(日高見国)に持ち込み、大和朝廷に対抗する為にエミシ勢力に、 
弩(イシユミ)などの武器を提供したとされる。 
大和朝廷の「蝦夷征伐」の目的の一つは、物部勢力、新羅勢力の根絶という側面もあったのである。

わざわざ半島に攻めて行ったのは、鉄の供給を確保するためだったのか? 
大和朝廷以前から頻繁に攻めてるみたいだし 


日本で鉄器が急に普及したのは南半島を統治し鉄鉱石を豊富に確保できた時期 
それまでは原料が入手困難だったので鉄器が普及しなかった


製鉄は弥生時代後期後半(1 - 3世紀)頃から北部九州のカラカミ遺跡(壱岐市)や 
備後の小丸遺跡(三原市)で開始され、

この議論を深めると地名だと北部九州のカラカミ遺跡(壱岐市)とあるが南相馬市の鹿島区にも唐神(からかみ)という地名がある。これは九州が離れていても共通したものであるカラカミという地名は他にもあるだろう。なぜなら地名は古代につけられたのが多いからだ。

山形人の井上ひさしは「会津は東北ではない」と断言してる。 
昔から中央政権と直結した独立国のような地域で、 
平安の仏教文化も関東を飛び越え会津から東日本に広まってる。 
東北の蝦夷文化とは別系統の文化が会津にあったということでしょ。


これも万葉集の歌に出ているけど

会津嶺(あいづね)の 国をさ遠(どお)み 逢はなはば 
偲(しの)ひにせもと 紐結ばさね
     〜作者未詳 『万葉集』 巻14-3426

会津は一つの別な国だったのである。防人に出されたのは福島県までである。また会津には平安時代の仏教の寺が多い

奈良時代に生まれた徳一は、南都興福寺で学んだあと20歳の若さで都を離れ、地方で布教活動をします。そして行きついた先が会津で、大同元 (806)年に磐梯山のふもとに慧日寺を建立します

会津の歴史は東北でも独自に早くから発展した地域だとなる。会津は水がいいので米作りに適していたということもその独自の発展の源にもなったともある。


三角縁神獣鏡である。「卑弥呼の鏡」と通称されることの多いこの鏡は、ヤマト王権が服属した地方の豪族へその証として分け与えていたと考えられ、3世紀から4世紀にかけて畿内に成立した古代国家の勢力範囲を考えるうえで重要な遺物と考えられる。ちなみに会津大塚山古墳の三角縁神獣鏡は岡山県備前市の鶴山丸山古墳のものと同じ鋳型である。鏡はほかに南棺から変形四獣鏡、北棺から捩文鏡が検出されている。また、環頭大刀は、福岡市若八幡神社古墳出土の大刀に類似している。


ここに吉備が関係している、吉備も製鉄では有名である。

真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ

そして吉備となるとこれまでみちのくの真野の草原(かやはら)で考察したようにこの歌はももともと吉備と深い関係にあった。


吉備津神社の社伝に、中山の麓に茅葺宮を営み、吉備津彦神を加夜臣奈留美命(かやのおみなるみみこと)が祀ったのが神社の起こりという事で、加夜臣奈留美命(かやのおみなるみみこと)とは、飛鳥の神名備に坐せた、加夜奈流美(かやなるみのこと)ことで、この賀陽氏の始祖神です。吉備津神社の主祭神は、大吉備津彦命ら八柱で、二柱は賀陽氏の祭祀神で、他は吉備臣の先祖とされる孝霊天皇の子神。

この「温羅(うら)伝説」の温羅こそ、「吉備伽耶王国」という巨大勢力を代表する人物で、吉備賀陽氏自身であり「温羅(うら)伝説」は、古代「吉備伽耶王国」の始祖伝承を伝えた話
後に、百済勢力が進出してきて吉備津彦と争うこととなる。


みちのくの真野の草原(かやはら)遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

(かやのおみなるみみこと)は真野の茅原-草原(かやはら)の伽耶に通じている
そして真野の草原を万葉集に残した笠女郎(かさのいらつめ)の父親が吉備国の出身であり伽耶の出だともされている、何かこうしてパズルのようにつなぎあわせると真野の草原の謎が解けてくる
つまり会津でもそうだが福島県の浜通りでも早い時期から産鉄族が移動してきていた。
最近自分が考察した、ツノガノアラシトのツノという地名がついているのが小高に角部として残っているし津神社とかはツノミヤ神社であり相馬市の松川浦も津神社もツノミツ神社でありツノガノアラシト系統なのである


ヤマト政権は韓人王朝だからな 
倭人や蝦夷の猿どもの大部分を支配していたのだろう 
韓半島の先進文明の政権なら支配圏は会津どころか青森まで到達していたかもしれぬ


津軽(つがる)もツノガノアラシトとして考察した。ツガルはツノガがなまり変形したものだからである。ツノガノアラシトの系統が東北の蝦夷と言われた地域に早くから広がっていたのである。それは製鉄技術をもって蝦夷の地に来たのである。
・・・・・・・・・・
新羅系の物部氏は、蘇我氏に敗れたあと、製鉄技術と武器、道具の製作技術を 
陸奥ヒタカミノクニ(日高見国)に持ち込み、大和朝廷に対抗する為にエミシ勢力に、 
弩(イシユミ)などの武器を提供したとされる。 
大和朝廷の「蝦夷征伐」の目的の一つは、物部勢力、新羅勢力の根絶という側面もあったのである。



物部氏が日本を建国した最初の大氏族とされる、だから日本全国に物部氏にまつわるものが多いのである。この辺の桜井古墳も物部氏が作ったとかされるし地名も物部氏に由来するとされるものが多い。明らかにこの辺は物部氏が支配していた。
この物部氏はやがて大和朝廷に逆らい対抗するようになったのである。
なぜ蝦夷が強大であったのかは物部氏がいたからなのである。
その物部氏に渡来系の伽耶の国の人が製鉄技術をもっていたツノガノアラシト系統が合体したのである。


坂上田村麻呂の先祖の出自も同じ伽耶。金海金氏首露王は伽耶国始祖王。 
坂上田村麻呂とアテルイは出身国が同じ伽耶たったのだろう、だから田村麻呂はアテルイの助命を嘆願した。 

八槻と名付ける由来は、景行天皇の治世、日本武尊が東国の夷(えみし)を征伐しようとして、この地に来て、八目の鏑矢で賊を射て倒し、その矢が落ちたところを矢着(やつき)というようになったことによる。八槻には役所がある。神亀三(七二六)年、表記を八槻と改めた。
 また、古老は次のように言う。昔、この地に八人の土知朱(つちぐも)が居た。一を黒鷲、二を神衣媛、三を草野灰、四を保保吉灰、五を阿邪尓那媛、六を栲猪、七を神石萱(かむいしかや)、八を狭磯名という。それぞれに一族があり、八ヶ所の岩屋に住んでいた。この八ヶ所は皆、要害の地であった。だから皇命に従わなかった。国造(くにのみやつこ、律令施行以前の時代、朝廷から一国の長官に任ぜられた現地の豪族)の磐城彦(イワキヒコ)が敗走した後は、人々を奪い去る事が止まなかった。景行天皇は日本武尊に命じて土知朱を征伐させた。土知朱は力を合わせて防戦した。また津軽の蝦夷と共謀し、多くの鹿や猪を狩る強弓を石の城柵に連ねて張り、官軍を射た


神石萱)かむいしかや)のかやは伽耶に由来するのだろう。磐城彦(イワキヒコ)とは今の磐城からでている、そしてなぜ津軽がでてるのかも不思議だとなる、そこはかなり棚倉から福島県からして遠いからである。つまり津軽はツガルでありツノガノアラシト系統が土着していたからだとなる、それが蝦夷となり大和朝廷に抵抗したのである。
その背景には日本で新羅系統とか伽耶系統とか百済系統の渡来人が入り交じり大和朝廷側についたり反抗したりしたために複雑になっている。
蝦夷とはだからそうした渡来系と物部氏がそして原住民などが合体した連合軍だったのである。だからこそ手ごわいものとなったのである。

・・・・・・・
日本の製鉄は芦原から始まったから量産難しかっただろうしね 
・・・・・・

日本は葦原瑞穂の国だからそうなった。この意味するところはわかりにくいが葦原は萱原にも通じている、萱というのが伽耶国に由来でないとしても何か製鉄と関係していてカヤと名付けられたのかもしれない、全国で製鉄に由来する関する地名が膨大だからである。つまり萱原は鉄のとれる所として知られていた。それは奈良にも知られていて笠女郎が歌に残したのである。現実にそうした大きな製鉄遺跡がここから発見されているからであるでもそこでは軍事用の刀とかではなく仏教に関するものが多かったということは何なのか?唐神(からかみ)とあるごとくそれは仏教の仏のことである。仏教の用具も重に作っていたのかとなる

須恵器は現代の焼き物小屋と同じように閉じた環境で焼かれ、 
鉄成分が還元して黒っぽくなる。 
製鉄は更にその先の技術である。 

このように最低限、温度と空気を調整できるまでは

末続駅から新妻氏のことをことを考察して末続も末(すえ)は陶(すえ)であり須恵器でありこの由来は出雲に神社があり出雲から全国に広がった。つまり浜通りは砂鉄がとれたことで製鉄があった。会津もまた早い時期から製鉄が行われていたのである。

いづれにしろ会津でもそうだが福島県は早い時期から製鉄が渡来人などがわたってきて成されていた。それで今回喜多方市の古墳から製鉄に関するものが出たということは不思議なことではない、会津はそれだけ歴史が古いのである。
こうして全国レベルで議論すると何か歴史の謎がパズルを合わせるように解かれてゆく
そこにインターネットを利用する意義がある、古代関係とかは相当に詳しいからキーワードで関連のものを調べられるからである。
これが図書館などで調べようとする大変なことになりも時間がないからできない。









タグ:灰塚山古墳

2016年07月19日

末続駅の末続も渡来人の跡か? (地名に残した渡来人の跡ーツノガノアラシトの跡)


末続駅の末続も渡来人の跡か?


(地名に残した渡来人の跡ーツノガノアラシトの跡)

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ツノガアラシトは金官伽耶の王子、日本に3年ほどいた後に朝鮮に帰り、再び日本列島に帰ってきたという人物

半島東南端の加耶諸国だけはそのまま勢力を保っていた。そして、その中心あたりに「大加耶」「小加耶」あるいは「金官国」(クムグァン)があったのである。

「任那の日本府」の経営も試みられた。考古学的には須恵器(すえき)が倭に入っている時期になる。

 いまのところ、加耶の実在を示す最も古い史料は高句麗の広開土王碑である。その記事の中に「任那加羅」という言葉が出てくる。年号では400年ちょうどになる。この任那加羅が金官国の別名だった。


 『三国史記』では加耶・伽耶・加良・伽落・駕洛などと、『三国遺事』では主に加耶と、ほかに駕洛と記される。『日本書紀』では加羅が多く、『続日本起』では賀羅とも綴る。中国の『梁書』はもっぱら伽羅で、『隋書』では迦羅である。日本読みではこれらはすべてカヤか、カラになる。朝鮮語読みでは“karak”に近い。

 そこで倭国の王は千熊長彦(ちくまながひこ)を新羅に遣わして、新羅の罪を攻め、さらに369年に荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)を将軍とした軍を百済の久氐(くてい)らの使者とともに卓淳国におくりこんだ。けれども兵力が少なかったため新羅を襲えない。そこで、百済に援軍を求めた。百済は木羅斤資(もらくこんし)らを出陣させ、みんなで卓淳に集結して新羅を蹴散らすと、さらには洛東江流域の、南加羅・安羅・多羅・卓淳・加羅など7国を平定したというのだ。
 いわゆる「加羅七国平定記事」である。このうちの南加羅が金官国にあたっていると思われる。


ツヌガアラシトに対して、崇神天皇が自分の名前を与え、「汝の本国の名を改めて、ミマナ(任那)とせよ」と言ったという記事が 『日本書紀』 にある。このことに関して、それは逆であって、ミマキ入彦は、もともと任那すなわち朝鮮南部の王であったが、倭国に進出して国を開いたので、祖国の「ミマナの城から入って来た」という意味で「ミマキ入彦」と称したのだ、とする意見もある。



棚塩の津明神社は貴船と合殿で九月十九日を祭日とするが大宝某(700)のこの月この日に海中より出現したという、

豊間(磐城)の海岸の津明神社の社の何か置いてある高さ十三ほどの小祠をみこしとしてかつぐもので・・・

津(ツノ) 神社


(宇多郷) 尾浜3 原釜1
(北郷)烏崎
(中郷)堤谷 金沢、萱浜、小浜、泉
(小高郷)角部内 
(北標葉郷)棚塩




なぜ末続駅の名が気になっていた。人間は何か理由がわからないといつまでもこだわるのである。病気でも説明されて原因がわかると安心する。
地名でもなにかわからないといつまでもなんなのだろうとこだわりそれがいつまでも解けないとなんとか理由を探そうとする。
第一地名は本当はいろいろな解釈がありその由来が不明なのが多いから無理な面がある。地名から歴史を解明することはできないのである。地名にこだわると歴史を見誤ることがあるから危険である。

ただ末続という地名は出雲の須衛都久神社から発していることは明確である。
ではこれは何に由来するのか、イザナミとかなると渡来人関係ではない
でも須衛都久とはすえつくのすえは須江であり陶なのである。
つまりスエとつく地名は須恵器に由来していてその技術者でありそれは渡来人なのであるスエツクのツクとは継ぐになるから須恵器を代々作り継ぐ人たちとなる。

ただここで疑問なのはそんなに末続がそんなに古いものなのか?
なぜそれが地名化したのか?最初に地名化したのは古代にさかのぼる
末続が新妻一族の村だったということでそこに住んでいる人からもコメントをもらった。新妻氏というときそれは地名化していない、江戸時代に地名化することはあまりない
地名というのも古代にさかのぼり古いものなのである。
ただ姓の元をたどれば日本では必ず村がある。千葉県に新妻村があるからそこから新妻一族が生まれたのである。
浮田とあれば浮田国造とかこれも古代にさかのぼる。真野でも真野郷がすでに平安期文献『和名類聚抄』に記載されている。

この鏡は天の日矛が持ち込んだ日鏡D鏡は八咫の鏡E鏡は神功皇后がヤマトの奇襲攻撃の為日田に隠した。その後、出雲の神宝である鉄鏡を必死で探したヤマトは出雲(日田)を崩壊させてしまい日田の住人は出雲大神を祀る事を禁止された、しかしその後、出雲の祟りで口を聞けない王子が聞けるようになる記述も日田での出来事であり、出雲(島根)ではない出雲国造の祖「岐比佐都美(別名)来日田維穂命」(きひさつみ)こそ日田の久(比佐)津媛である。岐=八衢・比佐=日田・都=地・美=木花之佐久夜毘売・髪長媛
毘売は夜(一夜で身籠もる=武内宿禰・蛇=大物主神=神功皇后の意)久佐(ひさ)の花の木(綺麗)の意

久之浜末続は一連のものとしてある。ヒサとヒサツヒメであり鉄と関係している、渡来人が浜通りに砂鉄を求めて鉄作りをした。その跡が点々と残っている。
浪江の津明神の伝説が大宝であり七〇〇年であり古いのである。
すでにその頃から鉄を求めて来た渡来人がいた。その人たちが地名を残した
それはツノガノアラシト系統の渡来人だったのである。
だから津(つの)であり津神社はつのみやとかツノとついているのである。ツと一字では読まない
それは古代史にさかのぼると日本と韓国の深い交流があったからである。
日本の建国がどうして行われたか、天皇がどこから生まれたのか不明である。
それは加耶・伽耶・加良・伽落・駕洛と深くかかわっていたのである。
カラというとき伽耶でもあり間違いやすい、唐をあてると中国のように誤解する、唐の時代より前の時代であり唐とは関係ないのである。
鹿島区にある唐神という地名はカヤに由来しているのである。伽耶の神なのである。
またツヌガノアラシトというときアラは安羅であり伽耶国にその地名があった。
荒という姓がなぜ相馬に多いかというと何かそういう由来があるのかとなる

だから浜通りに点々とある渡来系の地名は鉄を生産することと関係していた。鉄を生産する技術者が伽耶国からわたってきたのである。
鉄の生産と須恵器は関係している、

須恵器は古墳時代に朝鮮半島の技術を取り入れてつくられた、硬質の焼き物です。陶器と磁器の中間的な性質を持っています。「備前焼」や「信楽焼」などと同じ「せっ器」に分類されます

須恵器は朝鮮半島の南端伽耶と日本で呼んでいた地域にのみ見られる土器で中国から伝わったとされてますが果たして何所が起源なのかわかってません。

須恵器を作る技術は伽耶国からもたらされたことは大事である。
そしてこれまで何度も書いてきた。

陸奥の真野の草原のように遠いけれど私にはあなたの面影が見えるというのに…笠女郎(かさのいらつめ)

この草原(カヤハラ)は伽耶国のことだったのである。真野郷内に唐神があるのも地名として古代にさかのぼるのである。海老村がエヒ村でありこれは蝦夷(エミシ)の村だったというときも古いのである。実際に弥生式の縦穴住居跡もでているからだ。
石巻に萱原という地名があるからそこが真野の草原となっていた。そこにも真野という地名がありまた真野公という木簡まで発見されている。
ここで地名とも一致しているからここだともともと言われてきた。
ただそこはあまりにも遠すぎるので南相馬市の真野が古墳とかも多く金銅製双魚佩( そうぎょはい)なども発見されたので有力になった。
どうしても地理的に石巻が遠すぎるのである。

なぜ歴史的に伽耶国のことなどが取り上げられなくなったかというと伽耶とかが隠されるものとなったためである。そして伽耶というのは蝦夷にもなっていたのである。
伽耶琴が新羅琴となったり百済に併合されて伽耶の存在は希薄となり伝説化したのである。
百済は正史に残ったが伽耶はあいまいなものとなってしまった。百済が滅びたときも日本に亡命した人たちがいた。
伽耶はその前の時代でありわかりにくいものとなったのである。
原住民と同化したのである。カヤ族がいて棚倉で大和軍と戦った伝説が残っているからだそれだけ渡来人の歴史が古いということをこれは証明しているのである。

2014年11月07日

古代の日本の地形は海と湖と山の風景だった (一番恐れたのは水難)


古代の日本の地形は海と湖と山の風景だった

(一番恐れたのは水難)

古代人が一番怖いのは水難なのよ!
洪水の多いこの国において 
よもやのときに水の来そうな場所に絶対に古代人は住まない!
いくら 海 河川が近い場所でもそこは必ず小高い丘
絶対に水の来ない場所にしか古代人は住まないんです!
東北大震災は水難だったが 古い神社が残ったのは
古代の流れを汲んで 小高い場所にあったからなのだ!


 
このことは他でも言われてきた。エのつく地名で考察したがエは江となっているがこれは当て字である。実際は突き出たところの高台になる。縄文人は水難にあうような場所には住まない、その継続として神社も高台にあった。八龍神社が全国に多いけどこれは水難をさけるためのものだった。そもそも日本の地形は平地は湿地帯であり盆地も湖で住めなかったのである。それで蝦夷(エミシ)の日高見の国というのも高台の国とかなる。
それは中世になっても館という地名は後の城だけどみんな高台にあるのだ。
鹿島区では真野中館も山の上であり屋形の岩松氏の本拠地も高台である。
最後に平地の田中城の攻防で相馬氏が勝利を納めたことでもわかる。
あそこの田中城はぎりぎりで津波の被害からまねがれた地域だったのである。
あのまわりは湿地帯でありすぐ近くに海が広がっていたのである。


上毛野(かみつけの)伊奈良の沼の大ゐ草、よそに見しよは、今こそ益され  万葉集3417

消えた湖の伝説その1
http://nire.main.jp/sb/log/eid27.html

万葉集にはこうした太古の日本の地形とかの継続があり歌われている。

舒明天皇(593?)御聖歌

大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見すれば 国原は 煙り立つ立つ 海原は かまめ立つ立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は

ここに鴎がでてくるのが謎とされる。海がなければ鴎は飛ばない、でも琵琶湖には鴎が群れていた。淀川をさかのぼり鴎が来る。
奈良も盆地はが湖だった。川をさかのぼればその湖に出るのである。
万葉集の歌は日本の太古の情景と通じていたのである。その継続があり歌われていた。
日本は平地は湿地帯であり沼や湖が多いのである。だから平地にはまず最初は住めなかったのである。海岸地帯でもそうだった。
もちろん今回の津波でわかったように海に接して住むことはありえなかった。
今回の津波で日本の太古の状態が再現されたことに驚いたのである。
神社が一般的に高いところに建てるのはそうした日本の地形に由来していたのである。

日本の地形は海と山と湖と谷の地形である。平地は湿地帯であり湖で住めない所だったのである。福島県でも猪苗代湖が福島県の真ん中にあることでも象徴されている。
福島盆地も広いが湖だったとされている。盆地の平地は湖だったのである。
盆地は四方が山なのだから川の水が流れ込むと当然そこは湖化するのである。
そうした太古の情景を見たら日本は信じられない美しい国だったとなる。
今は盆地は都会化しているからそうしたことを想像すらできなくなっている。
今回の津波でわかったことは自然の恐るべき力であった。津波は徐々にではなく一気に変えてしまったから恐怖だったのである。
中国では国が二つに割れたという漢詩が残っている。


岳陽樓に登る   <杜 甫>
がくようろうにのぼる  <と ほ>
昔聞く 洞庭の水
むかしきく どうていのみず
今上る 岳陽樓
いまのぼる がくようろう
呉楚 東南にけ
ごそ とうなんにひらけ
乾坤 日夜浮かぶ
けんこん にちやうかぶ
親朋 一字無く
しんぽう いちじなく
老病 孤舟有り
ろうびょう こしゅうあり
戎馬 關山の北
じゅうば かんざんのきた
軒に憑って 涕泗流る
けんによって ていしながる
ーーー
 昔から洞庭湖の壮観は話に聞いていたが、今初めて岳陽楼に上(のぼ)って見わたすことになった。
 呉・楚の地は国土の東南部でこの湖によって二つにひきさかれ、はてしなく広がる水の面には天地が日夜浮動している。
 
 
今回の津波はまさにこれとにた経験をしたのである。
日本列島も実際は東西で分離していたが天変地異で結合したとき倭国大乱が起きたとか東と西の戦争になったとか考察している人もサイトにいる。
九州も内陸部に大きな湖があって二つに分断されていたとか言うのもこの詩とにている。中国はそれだけスケールが違う自然の驚異があった。
自然は固定していない、変容している。大きな変動が起きて社会そのものを変えてしまうことがあった。今回の津波はそういうことがあるのだと実感したのである。
津波がきて問題にささたのがなぜ危険な海岸に接して住居が密集して住むようになったのかという疑問である。それは原釜とか磯部とか海老とか烏崎村とか他でもそうである。
それはやはり海岸に接して住めば便利だからである。
魚とるのにも港との機能としても舟が入るのにも便利だから住むようになった。
車もない時代は遠くから通うことなどできないからそうなる。
農業でも前田とか門田とか中心になるのは遠くに働き場所があったら不便だからである。
すぐじき前が働く場所だったから楽なのである。
人間では危険でも便利な場所に住むし便利なところから離れられないのである。
だから三陸などでは明治時代にも一万人以上死んでいるのにまた海岸に接して住むようになったのである。それは便利だからそうなったのである。
明治時代なら祖父母からさえその被害を聞けるのにそうなっていたのである。
人間は一度豊かな生活でも便利さを覚えるとそれから逃れられない。
今や車なしでは生活できないから車がない社会は考えられないのと同じである。
現実にいくら交通事故が起きようと車を使っているから危険な海岸線に住むなといっても
便利な暮らしから離れられないのである。


タグ:日本の地形

2014年11月06日

気になる江(え)の地名 (蝦夷(エミシ)もエである)



気になる江(え)の地名


(蝦夷(エミシ)もエである)


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双葉


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えねいは古い言葉に感じる

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原町

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鹿島

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江名(えな)は恵那(えな)と同じである。

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江見(えみ)はエミシなのである。



海道では「江別」「江差」「江刺」「枝幸」「恵庭」「襟裳」「遠軽」「遠別」などをあげることができるし、関東では「江戸」「恵比寿」「江ノ島」「荏原」「海老野」、中部地方では「恵那」、滋賀県では「愛知川」、大阪では「江口」「江坂」「餌差」「海老江」「恵我の里」、中国地方では「江田島」、九州では「海老野」をあげることができる。
「えびす」の語源は、「エミシ(蝦夷)」が「エミス」になり、「エビス」になったとされている。また、「えびす」は蛭子の神さまでもあり、水に関わりがあるから、兵庫県の西宮戎神社や大阪の今宮戎神社のように海に近いところにあるのが多いのである。

エ・エトコ(頭,水源,山頂)
エサシ(山の頭を浜につけているもの,岬)
十三湖の小湾入のある「前潟」のことで,ie (尖った)rum (矢の根)ma (澗)J (尖った矢の根のような澗)
津軽にはほかに恵神崎(えがみざき)と
いう岬もあり,これは西津軽郡の岩崎村の岬である(図3)。この岬角名の語頭の「恵」
の部分にエンルムの「エ」が残存しているかもしれず,あるいは北海道の恵山(えさ
ん)のようにエサン(頭が浜に出ている岬)かも知れない

アイヌ語地名の痕跡化
'%E3%81%88%28%E6%B1%9F%29%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%
81%8F%E5%9C%B0%E5%90%8D'

北海道にはアイヌ語で地名があったが和人が入ってきて漢字をあてたからややこしくなった。江(え)とつく地名が北海道に多いのである。このエが何なのか、アイヌ語ではエは突き出たという意味である。これは何か統計的にみて地形ともあっているだろう。
地名は地形的なものから名付けられるのが多いからである。
突き出た所ということでありその基は頭をエと言っていた。
そこから派生して突き出たものがエとなった。枝(えだ)などもエがつくからわかる。
ただエに江をあてたときわかりにくくなったのである。
江というときどうしても海などをイメージするからである。
エは江とは限らない、なぜなら山の中にも江があるからだ。
だから突き出た所として解釈するのが無難である。
それは海に面して突き出たところが岬となり高台ともなり平地に突き出ていたところもエになるのである。だから山の中にあっても不思議ではない。
ただその時海のように湖のように平地のような所に突き出た所として名付けられた。


もう一つはエとは蝦夷(エミシ)のエである。蝦夷族、エ族の村になる。
現実に江見とあればエミシのエミだからまさにエミシの村だとなる。
自分が海老村が蝦夷の村だと解釈したときそうである。
海老はエヒとして呼んでいたしエヒと書かれているのである。
だから海老とは関係ない、突き出たところ、高台というのがふさわしい。
地形的なものとして名付けられた。
つまりエミシでも最初の原住民は平らな所には住んでいない、平の所の突き出たところに住んでいた。なぜなら平らな所は日本では湿地帯になっていたからである。
だから奈良盆地に奈良湖があったとか他にも九州にも内陸部に大きな湖があったがなくなったとかインターネットで考察しているサイトがある。
福島市ももともと湖があったとか会津でもそうである。
山の中でも盆地は平らなところは湖や湿地帯になっている所が日本では多かったのであるだから住みやすい地はまさに平らなところではない、平らなところに面した突き出たところだった。


今回の津波ではそういう突き出たところは高台となって津浪被害をまねがれたのである。
だから地図で示したように江(エ)とつく地名はこの辺では津波をねがれ所でありまたは海だった所であった。江とは江と必ずしもならないということを見ていないと誤解しやすいのである。地名は漢字から見るから誤解しやすいのである。
もともとはエという音であった。それもイとまぎらわしくなる。
ただ江戸(エド)でもそうだが地名の起こりは地形に由来していることが多いのである。
江戸も海とか平地の湿地帯に面して突き出たところ高台として名前がつけられたのだろう
ではエがアイヌ語だとする日本全体にエの地名があるとしてアイヌが縄文人でありその言葉が受け継がれたのかとなる。アイヌ語から日本の地名を解明することはこれまでされてきたがこれも今では否定されることが多い。
とてもアイヌ語では日本の地名は解きあかせないことがわかった。
なぜならこのエ一つにしてもアイヌ語だったら重大なことになる。
日本全国にアイヌが住んでいて日本の原住民だったとなるからである。
縄文人とアイヌ人とは一体だったとなってしまうからである。

ともかく地名はいろいろに解釈されるから誤解が多いのである。地名には法則性がないということも致命的なのである。科学は法則性を追求してきたから信頼される。
文系的なものは法則性がないから信頼されない、科学的に解明できないのである。
統計的に割り出すと何か信憑性が出てくるのはそのためである。
世界史で四大文明が生まれたのは大河の辺りだったというのも一つの法則性なのである。ただ地理は複雑だから法則的には解明できない、地図をいくらみても地理はわからないのである。地理から実感できないのである。
ただ地図をたどるとなんかエとつく地名が連続している。それは女場(おなは)というのも実は沖縄の小那覇ー那覇から連続していることがわかった。地名は孤立していない、連続性があることは確かなのである。それは沖縄から連続してある。
北海道にはアイヌ語があったとしてもエとつく地名が密集していて日本列島に連続していることは確かなのである。

恵那(えな)などもありそこに自転車で旅してテントを張って一夜泊まった。

旅路来て一夜泊まりぬ恵那に月

エナという名が心に記憶されていた。それは中山道を出た所だったのである。何か平地に出るような場所だったのである。中山道は山の中だが恵那に出ると平地にでる。
するとそこも平地があって突き出た高台という地形だったのかもしれない。

南相馬市鹿島区の海老村は蝦夷ーエミシが住んだ地域だった
(神社の位置が歴史を語る)
http://musubu2.sblo.jp/article/101634504.html


タグ:江の地名

2014年08月19日

鴻(こうのとり) 地名のの謎 (浪江のこうのくさ(鴻草)は砂鉄を求めてきた渡来人の跡?)



鴻(こうのとり) 地名のの謎

(浪江のこうのくさ(鴻草)は砂鉄を求めてきた渡来人の跡?)


こう 【×鴻】

[人名用漢字] [音]コウ(漢) [訓]ひしくい おおとり
1 鳥の名。オオハクチョウ。「鴻鵠(こうこく)・鴻毛」
2 鳥の名。ヒシクイ。ガンの一種。「鴻雁(こうがん)」
3 大きい。「鴻恩・鴻基・鴻業・鴻儒」
[名のり]とき・ひろ・ひろし

ひし‐くい 〔‐くひ〕 【×鴻/×菱×喰】

カモ科の鳥。全長83センチくらい。体は褐色、くちばしは黒く先に黄色帯がある。ユーラシア北部で繁殖、日本には冬鳥として飛来。ヒシの実や草を食べる。天然記念物。沼太郎。おおがり。《季 秋》

出典:小学館 この辞書の凡例を見る



『日本書紀』巻第6、垂仁天皇の条、「鳥取の姓」には、物言わぬ誉津別皇子が、大空を飛ぶ白鳥の鵠(くぐい)を見て声を発するエピソードが紹介されています。これまで、白鳥とばかり思っていましたが、鵠をコウノトリとする説もあるようです。

『古事記』垂仁天皇の条、「本牟智和気王」で、鵠は紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬、尾張、信濃、越を飛び回ります。これらの地は、鉄の産地をさすのではないでしょうか。

大阪府の池島・福万寺遺跡の、国内で水田稲作が本格化した約2400年前、弥生時代の水田跡から発見されていた足跡が、コウノトリのものとわかり話題になったことがあります。

コウノトリが身近な鳥で、桜ケ丘銅鐸などに描かれた鳥がコウノトリである可能性が高まりましたが、銅鐸の絵は簡略で、足跡だけで鳥を特定するのは難しいようです。

弥生時代の銅鐸に記された鳥がコウノトリであるなら、単に身近な鳥として描かれただけでなく、弥生時代に稲作とあわせ砂鉄採取が行われ、良質な砂鉄が大量にとれることを願い、銅鐸を鳴らしていたのかも知れません。
http://tajima2000nenkatsura.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-b114.html

鴻沼(こうぬま)は、埼玉県さいたま市の旧与野市から旧浦和市にかけて幅が100〜400m、長さが4km、約75haに渡って広がっていた沼である。市内にある見沼、伝右衛門沼に次ぐ大きさだったと言われている。江戸時代に干拓され、田圃となり、現在は宅地化が進む。現在も地名などに残る。高沼(こうぬま・たかぬま)とも呼ばれている(下記)。

鴻沼、コウノトリやサギなどの鳥が飛来することから付けられたと言われている。 鴻という字は画数が多く難しいため、古くから高に変えて、高沼と書かれ、のちにたかぬまとも呼ばれていった。農民の文書には専ら「高」の字を使うことが多かった。 今でも、鴻沼川に鴻沼橋、高沼橋が架かっている。

鴻巣(こうのす)の地名の由来と鴻神社


 「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、また、一時この近辺に武蔵の国の統治を行う機関(国府)があったのではないかと推測されることから、「国府の洲(中心) こくふのす」が「こうのす」となり、後に「こうのとり」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと思われます。
 国府のことを「こう」と呼ぶのは、他の地名(国府台[こうのだい]、国府津[こうづ]など)からも類推され、国府のお宮を国府宮(こうのみや)と呼ぶのは、愛知県稲沢市にある尾張大国霊神社、別名国府宮(こうのみや)など、全国でも例があります。
 このことからこうのとりのお宮「鴻の宮」は「国府の宮(こうのみや)」であったのではないでしょうか。

※笠原直使主(かさはらのあたいおみ)

 6世紀に活躍した豪族で行田市の埼玉古墳群の中の稲荷山古墳にまつられています。そこから出土した大和朝廷から拝領したとされる金象眼銘の鉄剣は国宝に指定されていま

鴻巣の地名は古来からのもので、この地のほかに茨城県や栃木県、福岡県にも同様の地名が存在する。古来からの地名ゆえその由来は不明だが幾つかの仮説が存在する。
高台の砂地を「コウ(高)のス(洲)」と言い換えて、その言葉が由来となったと言う説があり、これは大宮台地上に位置する古来からの鴻巣郷(現在の鴻巣市南部から桶川市北東部にかけての地域)および他地域の同一地名の地域の地形的特徴と合致する。
日本書紀に出てくる武蔵国造の乱で鴻巣郷に隣接する埼玉郡笠原郷を拠点としたとされる笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)が朝廷から武蔵国造を任命され、一時この地が武蔵の国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承もある。

鴻池家の始祖は鴻池新六(直文)である。家伝では、新六は尼子氏家臣の山中鹿介(幸盛)の子という(#山中幸盛との関係参照)。

新六には多数の男子があり、鴻池村の本家(鴻池村山中総本家)と醸造事業は七男の新右衛門元英が嗣いだ。大坂における醸造・海運事業は、次男の善兵衛秀成、三男の又右衛門之政、八男の善右衛門正成がそれぞれ引き継いだ。



浪江町には中世の鴻草館(こうのくさ)があり相馬藩政記の文禄二年の士禄高調に記されている。クサとあるとき草野神社でもクサは製鉄に関係していたとも言われる。
そこに末のとか熊のとかありそれは末森であり末(陶)氏であり末続駅とある末続とも関係している。熊とあれば大熊なのである。この辺はすでに文禄には相馬藩の領域だった。
その前にも中世には標葉氏が請戸館などを領していてさらに古代にさかのぼる。
鴻草館とはすでに「このうくさ」という地名があった名付けられたのである。
その地名は古代にさかのぼり渡来人系の製鉄の技術集団の移動の跡なのである。
鳥とつく地名は製鉄と関係していると言われるからである。南相馬市の金沢でも鳥打沢とかいう地名がありそこでは大規模なの製鉄が行われた地として有名になった。

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文禄二年相馬藩政記の士禄

●浪江の棚塩の津大明神はつのみやーツノガノアラシトから来ている

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津大明神(浪江町棚塩)
大宝二年(702) 棚塩村 津大明神(貴船大明神) 高霊神(たかむすび)
(貴船宮 祭神 高霊神(たかおかみのかみ)
祈雨・止雨の神として水を掌る神)

この読み方がわからない、津神社となるのは相馬市の松川浦の津神社でもそうだったが
(つのみつ)神社と読んでいて三大実録に記されている古いものだとされていた。
これは津波とは何ら関係ない、ただ高台にあり津波と関係づけられた。
もともとは「つの」がつくからツノガノアラシトの製鉄にかかわった渡来人に由来するものだった。なぜなら津神社は全国にあり海岸だけではない山の方にもある。
海に関係したものが多いとしてもこの津神社は「つの」と読んでいた。津の神社となりまぎらわしくなって誤解された。

そのアラヒトの字は、阿羅人、荒人ともなり荒木姓にも転訛しているともいわれています。荒茅という地名があるそうですが、阿羅加耶の転とされ、またアラシトの阿羅斯等であり、ツヌガ阿羅斯等「都怒我阿羅斯等」は意富加羅(おほから)の王子  と『日本書紀』にはあります。「都怒我阿羅斯等」のまたの名は、于斯岐阿利叱智干岐ウシキアリシチカンキで"ウシ"の字が見えています。 天之日矛や、都怒我阿羅斯等(日本書紀)の説話にも、牛の話がありました。牛頭天王とはスサノヲのことですが、牛頭や角のある人とは、三日月型の兜をかぶった人が渡来したと読む人もいるようです。スサノヲが新羅で天降ったところが「曽戸茂梨」であり、ソシモリは牛の頭の意であるそうです。新羅といえば。天之日矛は新羅の王子でした。
http://whalesongs.web.fc2.com/iwato/tunuga.html

その名前が古事記ではアメノヒボコ日本書紀ではツヌガアラシトで書かれているのです。そしてアメノヒボコが持ってきたという神宝からみてみると、また新たな人物が同一神ではないかと疑われてきます。
 日本書紀ではこのような記述があります。
 アメノヒボコは新羅の国の王子で、七つの神宝を持ってやってきた。
 七つの神宝とは、羽太の玉、足高の玉、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉、出石の小刀、 出石の鉾、日鏡、熊の神籬(ひもろぎ)である。
 古事記では八種類の宝をアメノヒボコが持ってきています。

 珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種

http://blogs.yahoo.co.jp/caroline_a_go_go/37419318.html    

浪江の津神社は700年となると相当に古い,ではなぜこれほど古い神社の謂われがあるのかとなる。それは大熊から双葉から浪江の海岸には砂鉄がとれていて渡来系の製鉄技術者が来たことに由来しているのだ。それはツノガノアラシトに由来している。
なぜなら小高の村上の角部とあるがそれはもともとはつのほうと呼ばれていた。
これはツノガノアラシトに由来するのである。つまり渡来系の製鉄の技術者集団の跡なのである。
浪江町の名前も火事があって改名されたとしているがこれも不明である。

古事記では八種類の宝をアメノヒボコが持ってきています。

 珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼

ここに浪が二つでているからこの浪に由来しているのかもしれない、とするとすでにツノガノアラシトなどの渡来系の製鉄の技術者集団が700年には来ていたとなる。
みちのくの真野の草原(かやはら)が万葉集の奈良時代の750年ころに読まれたものとされている。だからすでに真野の草原(かやはら)というのは地名でありすでに真野の草原に渡来人が到達する前に浪江町にその痕跡を残していたのである。
地名は意外と古く古代にさかのぼる場合がある。
一見新しいようでも古いのである。だから浪江という地名は古代にさかのぼり小高もオタカというのは蝦夷(えみし)の名前だとされている。この辺で南相馬市鹿島区の海老村も実はエミシが住んだ場所だったとしたとき古代にさかのぼるのである。
ツノとつく地名も神社もすべてではなくても津神社となっていればその傾向が大きいのである。

●みちのくの真野の草原(かやはら)は地名であり渡来人の製鉄集団の移動の跡

都怒我阿羅斯等は意富加羅(おほから)の王子 とありこの意富(おほ)と大でもない多でもないこれは当て字手ありオホとは韓国系一族の言葉である。加羅はまた伽耶ともなる。
「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、

この笠原はカサ氏のことでありこれも韓国の渡来系の氏である。笠の笠とはなんの関係もなく当て字なのである。笠女郎(かさのいらつめ)となるとそうした先祖が渡来系につながっているのである。
大和王権は技術集団の渡来系が深くかかわって成立した。だから騎馬民族征服説とか渡来系のかかわりが常にとりざたされる。
天皇すら伽耶系だとかまで言われる。そして伽耶国は実際は古代は日本の一部でありだからこそそこから前方後円墳が発見されたとか逆の見方もするようになったのである。
地名は意外とこうして古代に由来するのが多いのである。
双葉とか浪江町は何か新しい地域に見れらるが実際は700年代からその歴史ははじまっている。
地名もそこまでさかのぼるということなのだ。

いづれにしろ津神社は何か津波があって津波と関係されたがもともとは何の関係もなかった。それは津神社を津(つ)の神社としたからである。実際はツノミヤと呼ぶのが多いのである。一語でツとしていればツノミヤではない、でも何かまぎらわしいから誤解されたのである。
北海道のアイヌ語地名が漢字の当て字によって奇妙なものになったのと同じである。

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文禄二年相馬藩政記の士禄

2014年07月13日

南相馬市鹿島区の海老村は蝦夷ーエミシが住んだ地域だった (神社の位置が歴史を語る)




南相馬市鹿島区の海老村は蝦夷ーエミシが住んだ地域だった

(神社の位置が歴史を語る)

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〈毛人谷〉人なき丘陵に蝦夷の影

 しかし毛人谷の歴史は相当古い。鎌倉時代末期、原野だったこのあたりに戦国武将の楠木正成が出城を設けていた。その名の由来は時代をさらにさかのぼり、蝦夷(えみし)がこの地に住んでいたという説がある。「毛人」とは「蝦夷」の別の表記でありエビスとも読む
 「景行天皇以来蝦夷の俘となりしもの(中略)を諸国に分かち居らしめしことあらば、或はこの地にも、上古蝦夷の居住せしことありて
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120927/wlf12092712010011-n4.htm

大和朝廷に 征伐された
     クモ(土蜘蛛) と エビ(蝦夷)A

すなわち、大陸系の 『 藤原朝 』 が、列島の原住民(北方系、南洋系)を 土蜘蛛(クモ)・蝦夷(エビ)と称して、多民族国家の 支配を 進めました。

クモ と エビ = 原住民 の歴史です。^
http://utukusinom.exblog.jp/12890768/

アイヌ語で「人間」という意味の「enju」「emchiu」が「えぞ」「えみし」の語源です。「蝦夷」という漢字は、アイヌ民族がエビ(蝦)のようにヒゲが長く、夷(未開の異民族)だったことからあてられました。
北加伊道」は、アイヌ民族が自分たちの住んでいる土地を「kay」と呼んでいて、そして北に位置することから名付けられました。
江戸末期の北方探検家松浦武四郎の『天塩日記』には、「北蝦夷(樺太)にてアイノをカイナーと呼(び)しが、此山中(天塩)に来り見るに同じくカイナと呼(び)けり」とある。
また、1786年(天明6)に佐藤玄六郎が書いた「蝦夷拾遺」(大友喜作編『北門叢書』第一冊)には、「今夷人(アイヌの人々)皆自らカイと称す」とある
http://ryuchan56.269g.net/article/17905483.html

エビシのエビが「えび(海老・蝦)」と同音であり、ヒゲの長いエミシの姿とえび(海老・蝦)の姿が似ていることから、カイのカの表記に「蝦」の字が使用されたのであろう。
http://ryuchan56.269g.net/article/17905483.html


もしこの海老村の海老が蝦夷に由来するとなるとこれは歴史の解明にとって重要である。海老は海に近いから海老だと思っていた。海とは関係ないのである。
もともとこの辺一帯が広い地域が海老であり蝦夷(エミシ)が住んでいた地域かもしれない
そこで注目すべきは今回津波から奇跡的に無傷で残った鶏足神社のある場所である。
海老村は壊滅したがあそこは前に坂があり津波がさえぎられて助かった。
その坂のあることでその下の御刀神社のある家も浪が弱められて家は残った。
そして御刀神社の杉林に漂流物がとめられて家は残った。でも損傷は激しかった。
ここで大事なのはその鶏足神社の位置なのである。なぜあそこに鶏足神社がありその前が海老村なのかというこである。その謎が海老が蝦夷となるとわかりやすくなるのだ。

@大和朝廷成立以前に既に物部氏の先祖一族が、大和地方に地盤を築いていたこと。
A物部氏の力を借りて大王家は、大和に政権を確立出来たこと。
B大王家の后は、物部氏(含 磯城県主の娘)の女がなり大王家は、大和の地に融合して いったらしいこと。
C大王家は、大和の神、即ち物部氏の神を祀らなければならなかったこと。
D物部氏と出雲は、繋がっているらしいいこと。 

出雲、物部、葛城、蘇我、加羅、新羅系ーー鬼の流れ
        藤原、天皇家、百済系  と区別される。

この普都大神とは一般に言われている経津主神(ふつぬしのかみ)のことで、香取神宮の祭神になっている神様です。物部(もののべ)氏の神といわれています。
神様と言っても昔この地を平定した武人であったと思いますが、鹿島神宮の建御雷神(たけみかづちのかみ)と共に出雲で国譲りを成し遂げた神です。
さてさて、百済は太陽信仰のメッカ、加羅諸国の本家である上伽耶(ウカヤ)を吸収します

冠嶺神社

冠嶺神社は冠小坂でで鳥取越のことで産鉄族の鳥取部と関係していた。「白鳥伝説」谷川健一にこうしたことが詳しく書かれている。猿田彦を祀る勝子神社はカジコで鍛冶ともなる。物部氏とすべて浮田国造は密接な因果関係があるのだ。原町の信田沢はシダ沢であり常陸の信太郡からの地名の移動でありそこは物部氏の領する地域だった。ここにも冠嶺神社があった。物部氏の移動がここでも語られている。唐神は韓神であり帰化人がここに来たのかもしれない。物部氏は武器製造の氏族でありもののふというごとくモノは武器のことでもあった。この一族が桙衝神社(長沼)押雄神社(原町)御刀(ミハカセ)神社を祀った。

磯上物部神、物部阿志賀野神、物部田中神
-------------------------
上氏より物部氏が出、物部氏より阿志賀野・田中氏が出た
長崎県壱岐郡郷ノ浦大字物部田中触

田中とは田と関係なく氏族名と関係していた。中世に田中城があったから古い地名なことは確かなのだ。


剣岳の西側には鞍手郡鞍手町の新北(にぎた)という地名がある。これは和名抄にいう鞍手郡新分(にいきた)郷で「旧事本紀」のニギハヤヒの降臨に供奉した天物部二五部人のなかの「筑紫贄田物部」に比定されている。そこに剣神社がある。(白鳥伝説)谷川健一


この国造は大和政権とは別の地方の独立した国々であった。右田という地名も 筑紫贄田(にえた)物部とか新分(にいきた)郷がありこれがなまったものでニギタが右田となり右という字があてられたのであり右にある田の意味ではない。新田川も(にいだ)はニエタであり贄田物部とか二田物部から名づけられた


「弥生時代の上毛野には樽式土器を持つ先住民がいたが彼らはしだいに淘汰され、石田川式土器という東海系の移住者たちが毛野の王者にのしあがった。」(古代東国物語)永岡治
http://www.musubu.jp/manoireukita.htm


鶏足神社は冠嶺神社であり海老村の海岸に接して金砂神社がありこれは津波に流されたけどこれも冠嶺神社であり栃窪村のも冠嶺神社であり原町の信田沢の冠嶺神社である。
これは物部系統の神社であり地名も物部氏由来なのである。
だから地名そのものが相当に古いとなる。

だから海老村で何が起きたかとなると海老村は蝦夷だとすると物部氏がその蝦夷と戦ったということがある。物部氏は大和王権の前に物部王国を築くほどの大氏族である。
だから田中物部や贄田(ニギタ⇒右田)物部となり地名化した。
田中城があるところがそうだった。もともとそこは田の中にあった城ではなく湿地帯に囲まれていた。だから田中城となるのは地形的にもあっていないのである。
物部氏は原町の桜井古墳を作ったともされる。この辺は物部の支配下に最初はあった。
物部吉名という人がいたが小高の吉名郷というのはまさに物部氏の郷だったとなる。
物部氏は鶏足神社のあるところで蝦夷と戦った。その蝦夷がいたから海老村となった。
それを如実に物語るのが御刀神社なのである。その神社が刀なのだから明らかにここで蝦夷と戦った記念として祭られたのである。
その神社の位置が如実に歴史を物語っているのだ。神社と位置はだからきりはなせず一体化してあるのが日本である。
物部氏は渡来系でありツノガノアラシトや伽耶国とも関係していた。
だから製鉄にかかわる技術者が来てその関係の地名や神社を残したのである。
角部(つのべ)とはツノガノアラシト関係の製鉄にたずさわる一族が住んだ地域である。
唐紙とは唐は韓(から)の意味である。それも渡来人によってもたらされたのである。
その後大和王権になると物部氏とか渡来系のツノガノアラシトとか伽耶系とか新羅とかは隠されるようになった。それで地名も伽耶ではなく草や萱や加屋とか変わってしまってわかりにくくなったのである。

日本書紀では、第11代垂仁天皇(以下、11と略す)3年のことだという。新羅の王子、天日槍の記事の前段に、大加羅(おおかや)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)が渡来してきた話がある
大加羅(おおかや)というときこれに大草とあてた。だからわかりにくくなった。そもそも大草という言うこと自体不自然だからである。
ともかく海老村が蝦夷に由来しているとなるとそれは重要な発見かもしれない。
蝦夷というのがそこに明らかに住んでいた。
その蝦夷の正体は不明になった。北海道に残ったアイヌ民族のことであるというのも不明となった。それでもアイヌ語にその名残りがあるからアイヌ民族が蝦夷だという説が根強くある。

北加伊道」は、アイヌ民族が自分たちの住んでいる土地を「kay」と呼んでいて、そして北に位置することから名付けられました。
北海道というときこれカイに海をあてたからわかりにくくなった。カイとはアイヌ民族のことであった。だから甲斐国とあるときそれはアイヌが住んだ場所のことである。
原町の萱浜はカイハマでありカヤではない、この甲斐はなぜか甲斐かち来ている。
泉長者の伝説に娘の別荘に樋をもって酒を流すときに甲斐椀をもって密かにくみとって飲んだ地を甲斐浜となり樋より酒のもれた地を雫(しどけ)となづけた。

ここにも甲斐がでてくる。この甲斐の起源がやはりアイヌをカイと呼んでいたことにある。地名をアイヌ語で説明した時代があったが今は一部しか信用されていない、青森県辺りは確かにアイヌ語地名がかなりある地域でも証明されていないのも不思議である。
ともかく中央での奈良での興亡が辺境の地の蝦夷にももたらされたのである。
そこには渡来人も深くかかわっているからそこでまぎらわしくなっているのだ。
地名がこうした古代からあるとき、いかに古い歴史の痕跡かわかる。
だから真野の草原はカヤハラは伽耶と関係している地名だとしたのである。

2014年01月06日

真野の草原(かやはら)の再考 (インターネットで情報集めたら見えたくるものがあった)


真野の草原(かやはら)の再考

(インターネットで情報集めたら見えたくるものがあった)

●吉備国に濃厚に伽耶(カヤ)の国の影響が残る


吉備勢力は出雲征服を試みるも完遂寸前に出雲東部の意宇王の前に失敗。以後、ヤマト政権と同盟して列島の統一・治世に貢献し、古墳時代から飛鳥時代まで繁栄した地方として重視された。河内王朝時代には、ヤマト政権中央部に対抗するほどの勢力を誇ったが、これがヤマト政権の警戒を呼んだのか、後はヤマト政権の謀略などで勢力が削減されていった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E5%9B%BD

『国造本紀』によれば、吉備地方には吉備氏のもとに大伯氏、上道氏、三野氏、下道氏、加夜氏(賀陽氏、賀夜氏、香屋氏)、笠臣氏、小田氏があった。吉備の国造の場合、多く(上道・三野・下道・加夜・笠)が臣(オミ)姓を称している。
この中の下道氏と笠氏は、後に朝臣の姓(かばね)を名乗る(吉備朝臣)[1]。奈良時代に日本をリードした学者・政治家の吉備真備は下道氏である。
吉備仲彦は香屋臣(かやおみ)の祖。その血統が賀陽氏に引き継がれているといいます


岡山市北部のごく限られたエリアでありながら、重要な文化財が集中する足守地区。
足守の地名は、古くは日本書紀応神天皇二十二年(推定五世紀初頭)の期に「葉田葦守宮(はだあしもりぐう)」の記述に見られます。「葦守」が「足守」に転じており、「葉田」は「秦」を示します
古代足守郷に勢力をふるった賀陽氏の名が刻まれていますが、宮を創建し
それまでの日本には「呼び名」はあってもそれを表す文字はなかった。 そこに漢字を当てていく作業が始まったのが天平宝字(757年)である。

笠満誓は俗名「笠朝臣麻呂=かさのあそん・まろ」。
笠朝臣・・・「前身を吉備から出る笠臣とする。美濃国国主氏族。
大化の改新以前は吉備出身氏族の上道・下道・三野臣らとともに臣姓を持ち、ゆるやかな同族系譜を持っていた。
ここからは吉備真備が出る。

大宝四年に笠朝臣麻呂が従五位下を授受さる。」

笠満誓は俗名「笠朝臣麻呂=かさのあそん・まろ」。
笠朝臣・・・「前身を吉備から出る笠臣とする。美濃国国主氏族。
大化の改新以前は吉備出身氏族の上道・下道・三野臣らとともに臣姓を持ち、ゆるやかな同族系譜を持っていた。
ここからは吉備真備が出る。
大宝四年に笠朝臣麻呂が従五位下を授受さる。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54651359.html?newwindow=true


みちのくの真野の草原(かやはら)は伽耶(カヤ)の国に由来するという考察をした。なぜなら草原郷(かや)となるときそれがこの賀陽)かや)とか香屋臣(かやおみ)の祖に由来している。カヤはこの渡来人からのカヤであり萱が繁っているというのではないと考察した。沙弥満誓は笠氏だから笠女郎の父親であり笠女郎の故郷は吉備の萱(カヤ郷)の出で笠氏は賀陽(かや)からの帰化人だったという説である。足守という地名が葉田葦守宮(はだあしもりぐう)」ということは秦氏の葦守だとなっている。渡来人の守る葦守になっている。渡来人⇒味真野⇒葦真野というふうにもなる。草原(かやはら)が何か不明にしても渡来人の匂いが色濃くするということは疑いないのではないか?


ただ葦(あし)と草(かや)は根本的に発音が違うのだから別な種類のものである。別な意味をもっている。発音がカヤとなるとき賀陽)かや)とか香屋臣(かやおみ)と結びつく、単なる草原(かやはら)を自然の景色なのかという疑問がある。これは一地名だと考察したのもそのためである
http://musubu.sblo.jp/article/57107299.html

吉備の製鉄は6世紀後半以降は箱形炉による生産がさかんになり、上記のように「まがね吹く吉備」とよばれるようになる。箱形炉とは長辺側に台状の高まりをもち、短辺側に溝をともなう炉のことで、長辺側に鞴(ふいご)が置かれ、高みから原料・燃料を投入して溝の排滓する方法が用いられた。この場合、製鉄炉の原料には鉄鉱石が用いられ、朝鮮半島から導入された新しい技術だったと考えられている
http://bell.jp/pancho/travel/kibiji/history.htm


百済王敬福(くだらのこにきし の きょうふく) - 761年(天平宝字5年)に、紀伊・阿波・讃岐・伊予・土佐・播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防など12カ国の軍事権を掌握する役目に任命される。

周知のように和田氏系の諸氏の中には、小野氏や栗田氏のよ

彼らは、「伽耶隠し」「百済隠し」「新羅隠し」「韓隠し」をしながら、同時にいままでの呼び名に新しい漢字の「音・義」を盛り込み、密かに閉じ込めていった。だから「木村」を「木のある村」と見るのは間違いで、キム・ウラ、つまり金浦、そうあのキンポ空港のある「金浦」のことなのである。湘南の海岸線に高麗という町がある。ところが街の鎮守の名前は「高来神社」とある。
どちらも「こうらい」と読めるが神社のほうは「たかく」神社と読ませている。
これも、明治政府の「朝鮮隠し」の生きた証人だ。
「高麗」という地域表示はいまも街角に残っているが、高麗という地名がどうしてここにあるのか知る人は少ない。

http://iwamigin.vsp3.com/history/tokyo-kudara.html

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●カヤとつく神社や古代の記録


の神名は鹿屋野比売(かやのひめ)の神、またの名は野槌(のづち)の神

 言霊ヌ 鹿屋野(かやの)の鹿屋(かや)は神(かみ)の家(いえ)の意です

「阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)出雲神社リスト@#59
「加夜神社」   (出雲風土記、神門郡)出雲神社リスト@#282
「井草神社」(出雲風土記、飯石郡。三刀屋町伊萱の伊草神社)出雲神社リスト@#301
「阿太加夜努志多伎吉比賣」 (出雲風土記、神門郡)
「賀野里」 (かや)(播磨風土記、飾磨郡)
「鹿屋野比賣神」 (古事記、野神の名前。岩波ではp58)
「加悦郡」 かや、と読む、丹後の一地方 
「草野灰」(かやのはひ) (陸奥風土記、八槻郷)
「神石萱」(かむいしかや)(陸奥風土記、八槻郷)参照:神prefix
「市鹿文」(いちかや)他、(景行紀)参照:景行紀の蝦夷
「韓人山村等上祖 柞巨智賀那」(参考)(播磨風土記、飾磨郡)
「賀奈良知姫」(参考)(先代旧事本紀p107、葛木土神の剣根命の娘)
「うがや・ふきあえず」 (参考)
「伊可古夜日女」(参考)(山城風土記。丹波国ノ神野ノ神、と)

http://www.dai3gen.net/kayanrm.htm


また吉田連は、神亀元年に吉宜や吉智主が賜わった氏姓で(『続日本紀』 ・ 『新撰姓氏録』)、 『姓氏録』や『続日本後紀』によれば、塩垂津彦(天帯彦国押人命の商) が、崇神朝に己没(嶋津江流域にあった伽耶諸国中の小国、のち百済に併合)に派遣され、その子孫の達率吉大尚とその弟の吉少尚らが来朝したとし、

『姓氏録』は旧姓の「吉」 (キチ)を、己没で「宰」を称する言葉であるとするが、吉大(太)尚が『日本書紀』や『懐風藻』に見える天智朝頃の実在の人物で、達率という百済の官位を帯び、キチ・キシが首長を表す朝鮮語にもとづくことから、この氏の実態は7世紀後半の百済の役後に渡来した亡命百済人(己抜糸)と見て差し支えない。 さらに『姓氏録』右京皇別下に天足彦国押人命の三世孫彦国茸命の商と記す真野臣は、彦国茸命の曾孫の大矢田相称が神功皇后の新羅征伐に従軍し、新羅国王の女を要って生んだ佐久命の子 孫で、その九世孫の和珂部臣鳥と忍勝らが近江国志賀郡真野村に居住したために、庚寅年籍で真野臣の姓を負ったとするが、貞観5年9月、真野臣永徳らが宿祢姓を賜わった時に百済系渡来氏族 の民首の一族の者が、これと同視と称して真野臣の氏姓を与えられており(『三代実録』)、真野氏ももとは渡来系であったと推断することができる。
http://www.city.okayama.jp/kitaku/asimori/asimori_00001.html


●真野の草原(かやはら)はやはり伽耶(カヤ)に由来する


伽耶国は古い、百済国はなじみがあってもその前の小国の伽耶はなじみがない、だからその後百済に併合されて余計に消失してしまった。ただ吉備国に濃厚にその跡が記されている。だから吉備国から伽耶国のことが伝わったということはありうる。吉備は大和に対抗する拮抗する大国であった。だから会津にも吉備が進出していた。

津大塚山古墳の三角縁神獣鏡岡山県備前市鶴山丸山古墳のものと同じ鋳型である

古代はともかく渡来系が主導的役割を果たした。製鉄などの技術をもっていたためである。
真野郷というときもこれは真野氏にかかわるというとき、真野氏の出自も渡来系である。そもそも真野氏の名前は真野という地名から起こっている。それは吉備の葦守神社に由来して葦の間の野⇒味真野⇒真野なのである。真野の由来は吉備にあり吉備から発して近江に真野という地名を残し越前に味真野という地名を残した。かえって遠くに古い言葉が残る。沖縄や青森に古語が残っているのと同じである。味真野とは吉備を発祥地としている地名だったのである。

何かこういうふうに古代の情報を集積してゆくとやはり笠朝臣(しゃみまんせい)の娘が笠女郎であるにらうに見えてくる。近江に真野とあっても吉備が起源としては古いのである。そして吉備はまがねふく吉備というふうに渡来系の製鉄技術者がいた。だからみちのくに黄金を求めてきた百済王敬福もかかわっていた。伽耶がなじみがないというとき百済国に併合されてその国自体が早めに消失したからである。ただ日本に亡命したのは古く蝦夷(えみし)として中央政権の大和と戦った。

「草野灰」(かやのはひ) (陸奥風土記、八槻郷)
「神石萱」(かむいしかや)(陸奥風土記、八槻郷)


このカヤは伽耶一族のことである。草をカヤとは普通は言わないしあてない、草原をカヤハラというのはだから萱のことではない、伽耶国をさしている。百済隠し、伽耶隠しという操作がその後行われた。伽耶は百済に隠され大和にも隠され不明となっていった。

いづれにしろ伽耶(カヤ)と真野氏も渡来系でありつながりがある。南相馬市の鹿島区の真野郷でも萱野姫を祭っているがこれは渡来系の姫だともなる。焼畑の神ともなっているが伽耶国に由来するものでもあるかもしれない、唐神という地名も残っているし原町区に高倉とかの地名も渡来系なのだろう。泉官衙跡から発見された木簡で白人も渡来系であり嶋田とある島も渡来系の苗字かもしれない、つまり渡来系が深くかかわった地が真野郷たったのである。それは個々か製鉄の一大生産の場だったからである。

ただ萱原という地名が残っているのは石巻でありそこにも真野公という木管か発見されているのだからやはり真野と萱(伽耶)が一体化している。そこは萱原とは限らないのである。石巻が江戸時代でも真野の草原としていたがそれは考古学的発掘がされていなかったからである。南相馬市の鹿島区には古墳とか金銅製双魚佩とか考古学的発掘があり地名も明確に残っているとかで有力になった。石巻には古墳とかがないから物証の点では貧弱なのである。

ともかく文献でもこうして草原(かやはら)の情報を重ねてゆけば自ずと見えてくるものがある。それはなかなか一個人ではできない、インターネットにそうした情報が集積してくると見えてくるものがあった。

古代には葦とか萱はいたるところに繁っていてめずらしくない、その萱原を面影に見るなどということはありえないのだ。ただカヤは伽耶は古い地層の地名であり伽耶隠し、百済隠しでその本来の意味が別なものに変化した。特に百済に併合されたから余計に不明になった。新羅琴は実は伽耶琴だった。新羅で発明されたものではなかったのである。
伽耶はそういうふうに小国でもありその痕跡が消されていったのである。

韓国でも最も古い楽器の一つ 伽耶琴。
奈良の正倉院には、新羅琴として保存されている楽器だ

2013年12月03日

相馬市の成田周辺の地名考察 (焼畑地名は多いけど忘れられた)


相馬市の成田周辺の地名考察

(焼畑地名は多いけど忘れられた)

●焼畑に関する引用



田畑輪換は、近世から近畿の棉作や藍・煙草作の一部で行われ、あらし・あげ田・一作田などと呼ばれた。肥後藩白川流域でも、近世から明治にかけて用水の多寡に対応した田畑輪換があった。


それは、「畑成田」「田成畑」「ゆうれい畝」など「水入り畑」と呼ばれ、圃場に湛水後直播(バラ播き・条播)するもので、高谷好一は畑作型稲作と位置付けている(『コメをどう捉えるか』
http://www.geocities.jp/kirino3330_ns/ry2-yamatokawa.htm


姶良カルデラが吹き上げたAT層は酸性で赤いから焼畑くらいしかできないが、阿蘇や日本アルプスや阿武隈山地の火山灰土は真っ黒で「黒ボク土」といわれている。
滋味豊かで畑作にも使うことができる。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54501093.html


そこで奈良田の人々は畑作を中心に自給自足の生活を営んできました。畑作にはカイト(普通
畑)とアラク(焼畑)がありましたが開墾する土地が少ないので、主に山々を切り開き焼畑農業
で生計を立てていました。奈良田の焼畑農業では主にアワ、ソバ、アズキが作られました
http://www.city.hokuto.yamanashi.jp/komoku/manabu_asobu/kanko/pdf/83687900561.pdf


青森や秋田・岩手の地方ではアラキ、東日本ではノバ、アラク、カノ、カノウ、サス、ソウリ、ナギハタ、ムツジ・・・  西日本ではキリハタ、ニシメ・・ 九州に多く見られるのはコバ、アラマキ、カンノ、キーノ・・などじつに様々である。
http://www10.ocn.ne.jp/~sobakiri/yakibata.html


ソバ・アワ・ヒエ   豆類:大豆・小豆    トウキビ
 里芋・カライモ      コンニャク
 大根・カブ         ミツマタ(和紙の原料)

一年目は大豆二年目は粟、三年目は大豆四年目が粟、五年目が稗、六年目になると地力が劣ってくるのでソバをまき、それ以後は畑として使うことを放棄してしまうことがある。それは遠隔地のために肥料の運搬が困難なためである。放棄してしまうことを「ソウリしてしまう」という、そうした畑を「ソウリ」と呼ぶソウリには萱や柳が自然に生える、しかしいい木は生えない、ソウリが立派な山林になったことはない。


北上山地の焼畑、畑作習俗-金野静一(ここは一番詳しい)
http://iwate-minzoku.jp/info/pdf/minzoku8_9.pdf


毛野王国の支配下にあった阿武隈や相馬は焼畑と深い関係があった。入野というのが毛野の名前の起こりであるからだ。相馬という名自体、相馬氏の移住地名でもソウリであり焼畑地名だった。焼畑の民が先住民であり阿部がアブであり阿武隈になったという説があるごとく阿武隈高原には焼畑をしていた先住民がいてそこに物部氏などの水稲技術をもった人が入植してきた。鹿島町の真野の真野明神の萱野姫を祀った所も焼畑の神であろう。そして水稲の神の飯豊神などを祀った


東和町などの地名(焼畑から田の地名)
http://www.musubu.jp/chimeitouwa1.htm


ここは前に焼畑について書いた自分の文章だったけど忘れていた。結構詳しく調べていたと感心しているのも不思議である。



●水田の前は焼畑が日本を覆っていた


焼畑は今は何なのかリアルにイメージできないけど水田の前は焼畑が日本中を覆っていた。だから焼畑の地名は日本の基盤の地名として形成されている。意外なものが焼畑由来なのである。飯館村の佐須でも比曽もそうだった。そもそも田になる前の県(あがた)は焼畑が行われたところであった。そこに県主(あがたぬめし)がすみ最初の王が生れた。天皇もここに由来している。


今は水田ばかり注目しているけど焼畑が日本中をおおっていた時代があったのだ。田とつく地名の前には焼畑地名であった。焼畑はなぜ行われたのか、それは肥料を作り安いからであった。焼くだけ肥料が生産されたから楽であった。今でも農業は肥料に苦労している。農薬が大量に使われている。その前は人糞も利用されていた。一方水田は肥料があまり必要がない、水の管理で米がとれる。つまり焼畑と水田では相当な差があり文化の差も作り出していた。十五夜の風習は焼畑からきている。それでサツマイモなどがささげられる。それは万葉集にも残っているように野の芋である。これはイノシシでも掘り出して食べている。縄文時代から焼畑は行われていた。


すめるき(皇祖神)の神の宮人ところづら(冬薯蕷葛)
  いやとこ(常)しくにわれ(吾)かへり見む


こんなところにすでに天皇が関係していたのである。
この焼畑も相当な自然破壊だった。だから放置されたところは荒地となりソウリとはその意味だった。反町とか反田はそうした放置された荒地の場所だった。もう木も育たないというから元の自然が回復しなかったのである。それから森林を破壊するから土砂崩れなどが起きた。その焼畑農耕から水田にして行ったのが日本の農業の歴史である。
日本の食の歴史では五穀が先にあった。米ではない粟であり稗でありソバなどであった。それが山の生活を支えていた。だから檜枝岐などは秘境でありソバしか食べていないという地域があり米を食べるには何日かかけて遠くに買いに行かねばならなかった。
米は贅沢品だったということが日本では長くつづいたのである。


●相馬市成田周辺の地名の解読


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成田というのはどこにでもある地名である。でもただ成る田なのか?なぜ成田なのか明確ではない、田は湿地帯から水田になったものもあるがその過程はまた複雑である。

「畑成田」「田成畑」「ゆうれい畝」など「水入り畑」と呼ばれ、圃場に湛水後直播(バラ播き・条播)するもので


成田には畑から田になったものや田から畑になったものもあある。田を畑にすることもある。「水入り田」というのは水田の最初の名付け方である。水を入れる畑の意味だったのである。その畑とは焼畑された場所だったのである。
だからここの成田がどういう場所だったか、中世になると確かに田んぼが広がってきたがその前には縄文時代とか古代は田んぼはない、焼畑地帯だった。なぜなら宇多川の川岸に北反田と残っている。それはまさに

放棄してしまうことを「ソウリしてしまう」という、そうした畑を「ソウリ」と呼ぶソウリには萱や柳が自然に生える、しかしいい木は生えない、ソウリが立派な山林になったことはない。

一旦焼畑にされた地帯はもともと森林であっても元の森林にはもどらない、あの辺が森林だったとはとても思えないがそうだった。竹内という地名で考察したが竹は今でもイメージできる。川岸には竹とつく地名が非常に多い。ここでも竹の内とか大竹とかある。
今でも川には岸には竹が多い、その竹は大原に住んでいた人に聞いたけど竹は根を強く張るから洪水などを防ぐにいいという、そのことで津浪でも同じだった。前に竹藪があり津浪の勢いがそがれたり流木をとめたりして新田辺りでは被害を大きくしなかった。
大原にも新田川が流れていてその土手に竹藪が多いのである。これはどこの河原でもそうである。だから成田辺りは黒木田という地名もあるように黒木の森が広がっていた。
赤木ともあるし森林地帯だったことをイメージする必要がある。

その森林が焼畑にされてその後に水田に成田になっていった。そのために川岸の北反町というのは焼畑の名残として一画が残っていた地域である。この反町というのは街に近いところにあるのが多いのだ。なぜそんなところにと思うが森林地帯が水田になる前は広がっていたのである。日本では草原には成らず森林になる。この辺が津浪や原発事故で水田が放置されたとき草原になったがそこから木が生えると一部森林のようになった。つまり草原は森林化してゆくのである。


こういうことは想像しにくいのだけど相馬市は城ができる前は周辺は田んぼになっていた。大町とか田町はそうである。その前は成田辺りは森林地帯であり焼畑地帯になっていた。山の方に作田とあるのは作る人が出向いた田なのだろう。また畑ともとれる。
山田はまさに山の中にあり山田でありたかまつはそこは高い丘であり松があり墓地がある。地名どおりの景観が保たれている。
相馬藩で中村に城を移した時、成田は田んぼでなかったかもしれない、焼畑だったとことも考えられる。焼畑は明治以降もつづけられていた。粟や稗は実際に食べられていた。
米は以前として贅沢だったということが農村ですらあった。
いづれにしろ成田辺りが原初には鬱蒼とした森だったり今回の津浪で磯部辺りが奥まで入江になったことをイメージできた。そこにも自然の荘厳な美があったとなる。
焼畑も水田も自然破壊だった。人間の歴史は文明化は自然破壊の歴史だった。そして現代はその自然破壊も頂点に達した。この辺で起きた原発事故はそうだった。最大の自然破壊が起きて住むことさえできなくなったのである。

2011年03月03日

南相馬市鹿島区横手古墳群の謎

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南相馬市鹿島区横手古墳群の謎

横手古墳群は道の側にあるから目立つ。目立つものはそれが重要でないものでも意識するのだ。誰でも横手古墳群は鉄道からも見えるし車で行っても見えるから意識するのだ。でもこの古墳群は寺内の金銅双魚袋が発見された前方後円墳がある場所より重要ではない、でも寺内の前方後円墳は形もはっきりせず通っても何かあるかわからないから意識しないのである。桜井古墳は大きく作ったから意識するのだ。人間はそれが過去にいかに重要なものでも今に目立つものにしないと意識しない、重要なものと思わないのである。今の時代から常に過去もあるのが歴史なのだ。今重要視しなければ過去にいかに重要な地点でも意識すらされないということである。

横手古墳群の謎は鹿島区全体の歴史と地理の中で解明される。歴史も一地点を解明するには全体を視野に入れなければ解明できない。あらゆるものは全体の一部であり体ってそうである。郷土史研究がまず村の土地の新旧を知ることが第一だというときそれも地理は一体となって知るべきなのである。鹿島区の発展経路としては


浮田国造→寺内の前方後円墳(大和系)→屋形(鎌倉時代-岩松氏)→江垂中館(南北朝)→田中城


浮田国造(くにのみやっこ)が最初にありこれは毛野氏系統の支配下にあった。ではその場所はどこかというと地図を見るとわかるがそこはやはり鹿島区の中心地にふさわしい場所だったのである。比較的高台であり平地になっている場所だった。この高低は平地でもあり地図を見ただけではわからない、この高低差は実際にその土地を踏んでもわかりにくい、ともかく浮田は鹿島区の中心地にふさわしい場所だった。そこに最初のクニが国造があったことは納得がいく。そこで横手古墳群の謎は寺内に金銅双魚袋が発見された前方後円墳があるからそこに古墳文化がもたらされた。そこから波及して小池にも二つの古墳群がある。原町区の桜井古墳の前と後ろにも古墳群があった。つまり大きな前方後円墳から小さな円墳の群が作られた。一つの村の祭祀から氏族が文化していった。本家と分家ににている。横手古墳群なぜあの地域にあるのか?寺内の前方後円墳がある場所から離れているからだ。その謎は浮田国造にあったのだ。


「よ」の単語家族
「よ」が「水平方面の中でも近い周辺」であるとすれば「他所(よそ)」は「周辺部の背(そ)」と解釈できる。「寄る」「呼ぶ」は周辺部からの移動
の意味を含んでいる。
http://www.eonet.ne.jp/~unolab/timei5/timei5.htm


ヨの不思議はヨン(四)であり蓬(よもぎ)四方(ヨモ)に広がるとかあり横浜とか横手とか横のつく地名は多い。ここの怪しい地名研究は面白い。統計的に研究しているからそれなりの信憑性がでてくる。ここまで研究しているとなる学術的にも価値あるものとなっている。


ヨコはよけるでもあり浮田国造の勢力からよけるために横手となった。桜平山の下に第六天の祠がありそこで大和軍と蝦夷が争った地域とありそこから進軍して鹿島神社を建てた。鹿島神社は大和軍の軍事の神である。その鹿島神社から横へ伸びた所が横手古墳群なのである。それは浮田国造の勢力をよける、さけるようにして作られた。ということは大和軍が毛野氏系統の浮田国造の土着民と戦かったからである。蝦夷とは実際は何者なのかわからない、ただ大和朝廷に逆らった人たちという意味でありそれ意外わからない、でも浮田国造があったのだから明かに大和軍と衝突したのである。横手に古墳を作った人たちは古墳文化をまねたのだから大和系統に支配に組み入れられた人たちだろう。それが地理的にも実にマッチしているのだ。地理的には今の鹿島町と横手地域から海に向かう方は湿地帯が広がっていた。それを証明するのが田中城の回りは湿地帯だったことである。だから岩松氏は屋形に館を構え、南北朝時代に霊山から落ち延びた桑折氏などが江垂中館に拠点を置いたのがわかる。田中城は一番あとに作られて最後の攻防の地点の城となった。その歴史的経路が地理と一致しているのだ。このよううに何度も言うけど地理がわかれば歴史もわかるのだ。そしてこの地理がわかりにくいから狭い地方史はわかりにくいのである。鹿島区と原町区だって地理が違っているから詳細にはわかりにくい、地理が長年住んでいないとわからないのだ。

2011年03月01日

橲原村と大原村の地想学(トポス


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橲原村と大原村の地想学(トポス)

隣り合う大原橲原冬の暮


最近原町区の大原に住んでいる人を知ったが大原は鹿島区の橲原村の隣だった。そこは地理的ににた場所にあった。原町のどんづまりendが大原であり橲原だった。でも隣り合うといっても山にさえぎられていたから隣合う村という感覚はなかったろう。最近一本の道路が二つの村を結び合うようにできたから隣の村だったのかという認識が生まれた。つまり道路で結ばれると違った認識が生まれてくる。地理的には空間的に共有する感覚が生まれる。橲原から小山田まで通じていた林道もそうだった。あれは秘密の道のようにも思えた。小山田に通じていると思わなかった。でも江戸時代なら隣の村も実際は遠い村なのである。この辺の伝説で麦搗きを手伝いに来た若者が実は大蛇だったというのはめったに他村と交流しない、人も交流しないからそういう伝説が生まれる。明治になって佐須村と大倉村が民情が違うから合併できなかったというのは今なら考えられないけど昔は大倉から佐須でも草野でも山に閉ざされて遠いからそうなった。今の感覚では近くても昔の感覚だと相当に遠い村になるのだ。人々は村で閉鎖されて暮らしていたのである。隣り合う村という感覚は最近道で結ばれてできたのである。自分の俳句もまさに今の感覚から生まれたものであり過去の感覚では隣り合うということはないのである。


郷土史では村の新旧を知ることが一番大事である。そしてやはり地図を見ることも大事である。グ-グルア-スだと立体的になるから地理から解明されることがある。確かに大原村と橲原村はにているのだ。そこからは阿武隈山脈になり山によってさえぎられる場所なのである。でも江戸時代から村はあった。木材を供給する炭など燃料を供給する場所として山の村は機能して大事だった。発展経路としては鹿島区では小池には寺内には前方後円墳があるから古代から人が住んでいた。古墳が円墳が小池の奥まであるからそれだけ古くから人が住んでいた。橲原村はその頃森林であり人は住んでいない、大原も森林地帯だった。鬱蒼とした森林地帯だった。昼なお暗い森林地帯だった。今でもそういう感覚は残っている。ただ大原は県道が通っているからそういう感覚にはともしい。橲原には残っている。大原村は前田という地名から開拓された順序を書いたけど田とつく地名がそれなりにある。それだけ広い田が開拓された。橲原村にはない、橲原村は森林地帯の山の村だった。米を作るようになったのもかなりあとのことだろう。そんなに広い平坦な土地はないからだ。住んだ戸数も少ないのである。
記録では寛永(1630)頃から住んでいた。記録文書として寛永からはじまっている。


寛永中 秣二五九石
明暦中 秣二二〇石
元禄中秣三三〇石
本田-四八石、新圃(新田)下田

元禄宝永中戸数33- 享保32-安永23-天明22-16-


戸数としては最初が多くあとで減っている。飢饉の影響もあった。天明で一番減っているからだ。次に50年くらい経て弘化から文久には田も相当増えている。 山はもともと秣(馬草)の供給地としてもあった。田がなても秣の供給地としてあった。どこでも馬を飼っていたから秣は相当量必要だったのである。


発展経路としては金銅製双魚袋金具が発見された前方後円墳がある寺内とそこから波及して古墳がある小池へ村が拡大化してそこから田作りには便利な小山田へ移動した。小山田の奥のどんづまりに隠町とあるのは隠し田であり税金としてとられない田を隠し作っていた。地理的に見ればわかりやいのだ。小池は水に恵まれず稲作に向いていなかった。ただ高台であり湿地帯ではなかったのでここに人が早くから住んでいた。でも稲作が本格化すると向いていないので小山田に移動したのである。小山田村は湿地帯であり水に恵まれていたのだろう。いづれにしろ古墳があるころは古代から人が住み着いていた。その前に縄文時代がありその遺跡は高台に多いだろう。湿地帯だと住めないからだ。田中城は有名だが台田中とあり台になっているところが湿地帯でも住める所だったのである。

「小池村は地の高く水ともしきよ以て耕作甚タ少なし、為に小山田へ出作りする凡そ二十町歩なりとういう、寺内は三塘ありて然も 塘水貯え多し 」(大須賀巡村雑記)

寺内は早くから大きな溜池が作られて水が貯えられていた。そこに前方後円墳が作られたこともわかる。それだけ寺内には人は多く住んでいたことにもなる。

地想学(トポス)というのがある。その土地からイメ-ジされる霊感されるものがある。ギリシャでは一番そうした霊感される風光明媚な場所に神殿が建てられた。その場所で霊感を受けたからである。ではその場所になにか神秘的霊感を感じるにはどうするのか?それは機械にたよるとなかなかできない、橲原が森林だったというときある距離を通してそこがそういう霊的な場所だったことをしる。ある場所のもつ感覚は区切られた場所ではない、全体から生まれるから全体の中で地想しなければならない。鹿島の平地を歩み小池の高台を歩み橲原にきてそこが深い森だったことを地想するのである。橲原は鹿島区なら聖なる先祖が眠る場所にふさわしいのだ。人間は死んで葬られる場所はやはり山が向いているのだ。万葉集時代からそうだった。人は山に葬られ神となった、村を守る先祖となった。それは自然の感覚からまさに自然に生まれた感覚なのである。山への信仰は先祖が死んで葬られているということでも聖なるものとなったのである。誰も都会の団地のような小さな代用の墓に墓参りするのも何かしっくりこない、死ねば大きな自然に還る山に還るという方が精神的にも落ち着くのだ。そんなものはアニミズムだとか言うときいかに人間が自然から切り離された機械の部品のようになって死んでいるかの逆の証明でもある。

だから文明人には大いなる死が消失した。自然に回帰する死はない、ただ文明の中の一つの巨大な機械の部品としての死しかない、死も矮小化されてしまったのである。千の風になってとかがもてはやされたのはそうした自然への回帰現象が根強く人間の心の中にあるからだ。

自然から切り離された人間は異形化して異様化して人間ならざるものになってゆく。
そこからは奇怪なものが生まれてくる。アミニズムの世界に生きるのが非科学的となるが不思議なことはあまりにも科学的合理性を追求することも奇怪なものとなってゆく不思議があるのだ。
自然が森が喪失してゆくことは心の中の森も喪失してゆく、神秘的なものが喪失してゆく。そして現代の異常性はあらゆるものが商品化貨幣化される、でも森全体とか大地とか海全体とかのもっているものは神秘的なものであり商品化できない、商品化できるのは森だったら個々の木であり大地だったら一区画ではない、全体の土地であり海だったら売買される個々の魚ではない、海全体である。そうした全体は商品化できないし貨幣化できない、でも自然の価値はその全体から生まれてくるのでありそれなくして実りもない、商品化されるものも生まれないのである。そういう全体の自然への畏敬のようなものが喪失してしまったのが現代文明なのだ。あらゆるものが人間によって文明によってもたらされているという傲慢、錯覚に陥っているのである。常磐高速道も景観の破壊であった。山際を通っているので山の景観の破壊になっている。経済の効率性の追求だけだと景観には全体には価値を感じられないから簡単に破壊されるのである。

2010年03月09日

南相馬市図書館での泉官衙跡の講演の要旨

南相馬市図書館での泉官衙跡の講演の要旨

泉官衛跡は行方郡の役所として製鉄遺跡と密接に関係

今回の南相馬市の図書館での講演会の要旨を説明すると泉官衙跡は明らかに金沢地区の大規模な製鉄遺跡と関連して新しく設置された官衙であり役所である。磐城の根岸郡家跡などはもともと土地の豪族の住んでいたところに建てられた。泉官跡は全く新しく設置された。その理由は大規模な鉄の生産が蝦夷征服に緊急に必要とされたからである。その前は宇多郡の新地の武井製鉄遺跡が先であった。

行方郡は宇多郡から分離してできた後発の郡だったのです

http://blogs.yahoo.co.jp/asakayama1000/20829241.html

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真野郷の前に「浮田国造」がありこれは毛野氏系統に属している。在地の勢力として存在した。つまり宇多郡の方が行方郡より先にあり新しい勢力が入り宇多郡と行方郡に分割された。行方郡は常陸に行方がありそこに住んでいた人たちが移動してきたから名づけられた。その移動の目的は製鉄事業に参加するためである。 今回の講演でも他の論文でも小高の横大道遺跡で新たに製鉄炉跡を発見したということがかなり重要な意味を持っていた。何故ならこれは関東から来た人たちがたずさわったものでありより新しいのである。最初に来たのが岡山県とか滋賀県の人たちであり次に関東の人たちが来た。関東の人たちでも技術者は渡来系だった。なぜこの地域に製鉄のために移住する人が多かったかというと蝦夷征服のために多賀城が作られる前の前進基地として作られた。中国でも郡は軍なのである。つまり郡は郡の駐屯地の意味だった。そして泉官衙に米が運ばれ倉に納められた。その木簡が発見された。

「嶋□郷□□里」の「□□白人」□一石□□十一日

という名は渡来人に間違いないだろう。これは小高の横大道遺跡の製鉄にかかわった人かもしれない、この時関東から米が運ばれてきたという。米がまだこの地でどれくらいとれたのかわからないし米自体とれたかどうかわからない、米を納めたというとき関東の方から運ばれて納められた。その米を食料として金沢遺跡の大規模な製鉄が行われたとなる。現実に金沢製鉄遺跡に通じる官道が作られていたのである。製鉄所と密接に結びついて泉官衙跡はあったのである。米を倉に納め食料として鉄生産の管理所みたいになっていたのが泉官衙だったのである。泉官衛は中央の役人がかかわった具体的なものとして明確化された。

奥國行方郡火、焼穀穎二万五千四百餘斛

という記録も米がいかにここに貯えられていたかわかる。この神火と呼ばれる事件は全国に起きていて神の祟りとしたが裏には複雑な利権、不正があった。その不正ごまかすために倉に火をつけたのである。確かなことはこれだけの米を貯蔵していたのだから製鉄にかかわる人の数も多いし食料を供給せねばならない、泉官衙はその基地であり金沢遺跡と頻繁に行き来する役所だった。この食料を米を調達することは民を疲弊させた。それで神火もそのことと関連して起こった。なぜなら全国的に起こったからである。つまり泉官衙跡とは具体的に蝦夷征服のための武器(矢じりなど発掘)農具や仏具の調達拠点でもあった

運河があり木材も運んでいた、川を通じて物資も運び込まれていた。海からではない川が交通路になっていた。新田川は短い小さな川じゃないかと思うが古代では道はない、短い所でも川をつないで物資を運ぶと楽なのである。奈良とかでも川で物資を運んでいた。川をつないで物資を運んでいたのである。

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笠原使主 かさはらの‐おみ
6世紀前半
豪族
武蔵国造(
むさしのくにのみやつこ)埼玉(さきたま)郡笠原郷(鴻巣(こうのす))本拠とした。同族の笠原小杵(おき)と国造の地位をあらそう。隣国の上毛野小熊(かみつけのの‐おくま)支援をうけた小杵に謀殺されかかったが、大和朝廷の裁断により国造となり、小杵は殺された。恩に感じて安閑天皇のために4ヵ所の屯倉(みやけ)をもうけたという。

この事件が行方郡と宇多郡に分割されたことににている。ここも毛野氏が在地勢力としてあり後続の大和王権の大伴氏などの進出により勢力が拡大化されたからだ。その時みちのくの真野の草原が中央の奈良に知れ渡った時期だった。そして真野郷の寺内に前方後円墳金銅双魚佩が発見された。この前方後円墳の主は大和王権系から金銅双魚佩を授かった。草原とは地名であり伽耶のことであり製鉄技術者の渡来人が集中して移住した地域として草原があった。百済郡とか大阪(攝津国)にあるのと同じである。そうでなければ草原という地名の謎がとけないのである。


講演者−岡田茂

講演内容とほとんど同じものがインタ-ネットの中にあった。

これなどが詳しい

http://www.mahoron.fks.ed.jp/kaisetsu/14_tetsu.pdf

2009年11月28日

陸奥真野郷の地政(地勢)の考察(歴史は地理である)


陸奥真野郷の地政(地勢)の考察(歴史は地理である)


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南相馬市、相馬市の歴史は古代では原町区の桜井古墳があるにしろ史実的には浮田国造の次は万葉集の「陸奥の真野の草原(かやはら)遠ければ面影にして見ゆというものを-笠女郎」からはじまっている。この歌を何度も考察したように草原は萱が繁っている原ではない、地名だった。反論が出てくればいいのだが、自分一人よがりにはなっているがどうしてもこの草原は萱が繁っているとはならない、地名だとするとその場所はどこになるのか、真野の入江と言われた塩崎になる。そこに船着、市庭という地名が残っている。史実的には浮田という地名は一番古いことになる。草原という地名は史実的には確定できない、地政(地勢)学的に歴史を考察するとなぜ浮田という地点が最初の国造(くにのみやっこ)が置かれたのか地理的には納得する。鹿島区では一番いい適地なのである。ここから米作りがはじまったことを納得する。浮田から右田の方向は海に近くなり古代は海が真野川深く入っていたから田にすることはむずかしい地域だった。浮田を基点として栃窪の山の方への開墾がはじまった。


桜井古墳のある場所も原町区では一番住み安い場所だった。でもなぜそれでは金銅双魚佩が発見された前方後円墳が寺内という高台にあったのか?浮田は平地であり寺内から小池は高台になる。浮田国造は毛野氏の系統であり真野郷となって中央大和政権の平城宮(奈良)に知られたときは大伴系が主流となって真野郷に進出してきたのである。その前に物部氏系統が東北では大きな勢力をもっていた。桜井古墳は物部氏系統のものらしく東海から移動してきた人たちが作ったともとれる。この地域でも大和政権の進出にともない争いがあった。蝦夷と言われるのは不明であるが大和政権に逆らうものが蝦夷でありあまりにもおおざっばでありその中には物部氏も入っていたとか異民族も入っていたとか謎なのである。


地理的に見ると真野の入江から大伴系の大和政権が入り今の日吉神社のある高台を越えて寺内に進出した。浮田国造のある場所は平地であるがここは毛野系統や物部氏系統の支配下であり抵抗があり進出できなかった。でもここで大和政権の大伴氏系統の君が真野郷を支配した。「陸奥の真野の草原(かやはら)遠ければ面影にして見ゆというものを-笠女郎」の歌は地名として大和政権内に所属したという宣言でもあったのだ。当時は地図も何もない、地名が中央の奈良に知られることだけで深い意味があったのである。そこが単なる萱の原ではない、萱の原が面影に浮かぶとかではない、そんな地帯は日本全国いたるところにあり特別めずらしくもなく美しいとなる場所でもないのだ。草原(かやはら)とは地名であり萱が繁っている場所ではない、そももそ陸奥の真野は萱が繁って面影にみるほど美しい場所ですよなどと伝えない、美しい入江とかとして伝えることはある、前にだからカヤは近江の方言で入江ということもありうるしカヤは伽耶国からとったともなる。当時は百済の前に伽耶の影響が大きかったし渡来人が技術者として大量に移住しているし陸奥にも主導的な役割をにないきているからである。


次に地政学的には日吉神社のあるところは天然の要害であり南北朝時代に霊山が炎上して南朝が滅び、その時桑折氏が逃れてきて住んだ。中世で舘と呼ばれるところはこうした山の要害の地が多い、山城からやがて平城になる。でも南北朝時代の前に鎌倉時代に岩松氏が最初に鹿島区の屋形を根拠地として支配した。浮田が平地で最初に米作りが行われた適地だったように次は屋形から田中城のあった地域に開けていった。田中城は堀が巡らされていた平地の環濠集落が発展したものだった。岩松氏に代わり桑折氏が支配して次に相馬氏の支配に変わったのである。歴史が地理だというとき小地域でも日本は平坦な地が少ない、日本の地形は海あり山あり谷ありで複雑なのである。この一地域でも海と山と平地の攻防があった。真野の入江があったということは今の地形と相当違っているがこの地形にそって歴史が展開されたのである。だからこの地形を読み取ることが大事になる。郷土史がまず地形を読むことからはじまる。でも実地に歩いてみないとわからないから歴史を理解することはむずかしいのである。

2009年10月16日

古代より都と密接な関係があった南相馬市鹿島区(真野)


古代より都と密接な関係があった南相馬市鹿島区(真野)


古墳時代-(桜井古墳、真野古墳郡)
古代-(陸奥の真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎)
平安時代-源義家
鎌倉時代-岩松氏
南北朝-霊山炎上-落武者-鹿島区真野へ




みちのくと都、奈良時代は平城宮だったけど次に京都に移ったがすでにその頃から密接な関係があった。それは古墳時代からはじまっていた。桜井古墳は東北地方では三番目に大きいしまた陸奥の真野の草原と明確に地名を奈良の都から言うとき密接な関係が結ばれていた。陸奥は単なる草原なびく荒野の意味ではない、すでに交易のあった、鉄などの資源を求めて都の人々が来ていた土地であり都の人に知られていたのだ。真野の入江があり船着や市庭という地名が塩崎にあり交易の地として都の人に意識化されていたのである。真野の草原とは今までは草原(かやはら)はいかにも荒蕪の地として草原(かやはら)がなびくだけの人跡未踏の地のように思われていた。その逆が草原の意味だった。草原とは地名であり入江がある湊のことだった。そこには何もない草原(かやはら)だけがなびく地ではなかった。都との交易の地でありだからこそ寺内の古墳から金銅双魚佩(ぎょはい)、がこの地の王なるものに授けられたのである。


西行が歌った束稲山もそうである。こんなみちのくの奥地にこんな見事な桜が咲いているのかと歌ったときそれは桜だけではない荘厳な七堂伽藍があり金色堂もあった平泉に驚いたのである。桜だけだったらどこにでも咲いているからだ。このみちのくの真野の草原もそうだったのである。陸奥の真野は一方的であったにしろすでに奈良の都と密接な関係があったからこそこの歌ができたのである。面影にして見ゆというものを・・・というときそこに赴任した大伴家持のことなのか、そんなに遠くに行ってもあなたの面影は忘れませんよという意味なのか、どうしても一度も行ったこともない地を面影に浮かぶとは思えないからだ。一度実際にその地を踏んだらあとで回想することがある。一度行った地は旅した地は面影に浮かびそれで短歌や詩を書いたりしている。しかし一度もその地を踏んでいなかったら面影に浮かぶことがあるだろうか。これは実際はわたしの最愛の人ならどんな遠くに行ってもみちのくの果てなる真野の草原に行ってもその面影が浮かびますよという意味かもしれない、大伴家持がみちのくに来たとは証明されていないからだ。秋田まで大伴家持が行ったということを学者が書いて本も出している。秋田まで行ったらなら真野にも来たとなるが明確には証明できていない。

平安時代は源義家の時代になるがこれも東北のいたるところに伝説が残っているからよほど陸奥の人々にとって印象深い忘れられない人、影響した人だったのである。次に鎌倉時代になると岩松氏が相馬地域の最初の支配者であったのでこれも鎌倉と密接な関係があったのだ。船で来たというとき磐城からにしろやはりその時は確かに船で烏浜に上陸したのだろう。
岩松氏は南相馬市の鹿島区では最初の歴史として具体的な名前記した人なのである。
その次に南北朝時代がありこの時も都と密接な関係がありその全国的動乱の中で霊山が炎上して鹿島区の真野に落ち延びた人が子孫になっている。それは祭りとしても残されている。霊山が陸奥の支配の宮跡となりその時後醍醐天皇の宮跡が吉野山だから吉野山と霊山は深く関係していたのである。吉野山と霊山の物語は南朝の滅びの物語として共通していた。

北畠家は、村上天皇を祖とする村上源氏。
北畠顯家は、後醍醐天皇第七皇子・義良親王(後の後村上天皇)を奉じて、
御父・親房と共に多賀城(宮城県多賀城市)に下向。
延元2年(1337)正月8日・国府を霊山に移したが、
翌3年5月、阿部野の戦いで足利軍に破れ、21歳で没した。

明治14年、建武の中興に尽力した功績により、
陸奥国府のあった霊山の地に祀られ、
別格官幣社となった。
神紋は笹竜胆。祭神・北畠家一門の家紋。


 歌書よりも軍書に悲し吉野山(東花坊)-南朝や吉野に霊山秋の暮-吉野と霊山は歴史を深く共有していた。だから吉野に行ったとき霊山を思い霊山に来たとき吉野を思うのである。

みちのくゆ我もたずねて吉野山南朝の跡や月のい出けり

これは奈良の平城宮跡に佇んだときもそうである。陸奥の真野の草原を思うことになる。陸奥が国の歴史として共有しはじめたのは古墳時代からであり次に古代からは地名も明確化されるほど密接な関係が結ばれていたのだ。 陸奥を一地域として辺境の地としてではなく日本の歴史に組み込まれて史実として構成することが一地域の偏狭な孤立した歴史としてではない意味をもってくるのである。それはただ中央の歴史に従属するだけだともなるがでもみちのくだけで一つの歴史観を形成することは無理である。アラハバキ族がいたと言ってもそれは歴史の地層に埋もれてしまって知ることもできないからだ。ただみちのくは縄文時代は東北の方が大きな世界を形成して西より進んでいたというのは本当だろう。東北はその後停滞してしまった。百済とか外国の先進文化をとり入れることができなかったためだろう。

みちのくははるかなれども知られけり真野の草原秋深むかも


この歌は何でもないようだけど草原を萱原のにするのと草原を地名とするのではかなり違うのだ。陸奥の真野の草原はいち早く歌枕化したが全部草原は萱原(かやはら)としている。ということは草原を地名とすればこれらの歌を全部否定することになるからだ。だから結構これは歴史的に大きな問題なのである。草原を萱原とすればこの歌はできない、これまでの真野の草原は萱原(かやはら)として本歌とりをしているからだ。万葉集にはこうして史実的に証明できないものがかなりある。だから間違って解釈しているからその後の展開も変なものになっているのだ。現実に真野の草原はここでも萱原(かやはら)だとして写真にその萱原を出して宣伝がつづいていたのである。地名だとするとそうした詩的イメ-ジの草原-萱原ではなく・・・現実に存在した真野の湊であり実用的なものとしてクロ-ズアップされる。現実に存在した場所-湊のことだとなるからその意味はかなり違ったものとなるのだ。そもそも地名は味気ないものであり詩的なイメ-ジでとらえるべきではない、ただそうした場所があったということが大事なのである。草原が萱原だったら場所ではない、ただ萱がなびいている美しい場所ですよとなり湊として交易があったという現実感、実用としての場の存在は喪失するのである。

 

2009年10月10日

南相馬市原町区萱浜と鹿島区大内の原初は湿地帯

南相馬市原町区萱浜と鹿島区大内の原初は湿地帯

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●萱浜も湿地帯だった
萱浜という地名は古くからあった。だからその地名をとって相馬氏が姓とした。
胤往の曾孫・胤久(五郎左衛門)は萱浜村(南相馬市原町区萱浜) に移り住み、萱浜を称したという。金場門馬氏の祖・門馬胤久(五郎左衛門)が行方郡萱浜村を知行して萱浜を称した

相馬の門馬家
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku91.htm

萱浜地帯は地図を見ればわかるように谷地とか渋佐(しぶさ)となっているのはしぶさは砂のことである。海が近いから萱と砂の地帯だった。赤沼とかも沼でありここももともとは湿地帯であった。日本は海の近くは湿地帯だった。北海道の釧路湿原のようになっていたのだ。巣掛場などという地名も残っているから鳥や獣をとっていたのかもしれない、湿地帯であり生業は狩猟などだったかもしれぬ。新田川には一面に萱がなびく光景もあっている。海から鵜の群れが飛んできていた。真野の草原は有名だけどここもそうかなと思うかもしれない、ところが日本全国こうした光景はどこでもあるのだからめずらしくないのだからあえて特別真野の草原は都から見て面影にしてまで見る地かとなると疑問なのである。それは前にも書いた。この萱浜の地形を見ると
桜井古墳がやや高台にありそこから海へと湿地帯が広がっていたのである。川と湿地帯の海に面して桜井古墳があった。泉長者の泉も高台にある。それが何を意味しているのか?桜井古墳の前の方にも小さな古墳がある。桜井古墳が川の側であり海に面していることが特徴なのである。もしかしたら船着場みたいなものだったかもしれない、海から目印となるものだったかもしれない、場所からするとそうなるのだ。海の近くにある古墳は瀬戸内海の五色塚古墳なども海からの目印としてあった。海との関係が深かった。ここの古墳から東海系の土器が発掘されている。東海系の人たちがここに移住したのか何か関係はある。東海からどういう経路で来たかわからない、ただヤマトタケルの伝説で原町史談なる本によると《原町市高》は多珂神社の当て字で竹水門は《高川》(現太田川)の河口(湊)の事とあるとあるからここではないが河口が湊になることがあった。上陸した地点がここだとかなると桜井古墳もそれと関係しているのかもしれない、いづれにしろ歴史は地理でありそれと同時に地形を読むことが大事なのである。この地形は実際に路査しないとわからない、高低などがわからないからだ。萱浜はあとで越中からの移民が移り住んだ。ここは海に近く湿地帯であり開墾する地帯が広く残っていた。条件の悪い地帯だった。移民は条件の悪い地帯を開墾させられた。相馬では真宗系の墓が必ず目立ってある。移民が相馬に根付いて六万石の実りとなったのである。


●鹿島区の大内からも湿地帯

鹿島区の大内村の地形は後ろは山に沿ってある。そこから海の方や右田の方を見晴らすとやはりそこも広大な湿地帯だった。真野川の流域でもありここに不思議なのは曽我船という地名が残っている。ソガとはさかのぼるという意味でここに船がさかのぼって来たからだという、それは伝説的地名であり真野の入江がありそこに船がさかのぼって来るからその地名がついた。これが本当だとすると万葉時代からだから相当古いとなる。真野の入江というのは確かに塩崎(しおのさき)が入江になっていて船着とかがあったのだから船が来ていた。それはいつの時代なのか?地名としても残っている。草原(かやはら)は入江のことであり港だったという説も書いた。ともかく大内村は前は広大な湿地帯だからあそこに村が最初にできることは地形的にわかる。小島田というのもその湿地帯のなかに島のようにできた田のことかもしれない、つまり地形をイメ-ジするとき原初の状態をイメ-ジする必要があるのだ。大内村は閑散としているから古い村とも思えないがやはり古いのだ。第一曽我船(そがふね)とか伝説としても地名が残っていること自体古いのである。

豊臣時代に北郷に田中城代として田中忠次郎郷胤、その配下に滝迫館
大内館、杉の館、赤柴館(栃窪村)があり戦争の折りには各館より出騎していた。(鹿島町誌)

大内に南館下という地名があるのはその時のものだろう。館は中世から戦国時代の地名が基になっている。
大内にも家が少ないように見えても館があった。その館を中心に村が形成された。この頃は田中城が中心であり今の鹿島の町があるところではない、田んぼになっいるところに城が館があってそこが中心となっていたのだ。町はあとで街道沿いにできるのが多い、江戸時代になるとそうである。その前は中心は館であり城であった。だから今から見ると辺鄙な所に多いのである。いづれにしろ歴史も地理であり地形を見ないとわからない、地理とか地形は何度もその地を踏まないわからないから歴史も理解しにくい、高低差や距離の感覚がわからないのだ。

南相馬市原町区萱浜から鹿島区大内へ(実りの秋の俳句)
http://musubu.sblo.jp/article/32818579.html


注意-著作権について
千葉氏一族について詳しく書いている人から著作権違反の指摘があった。その後メ-ルは来ていない?ここは引用するとき注意が必要。長いのは駄目なのかもしれない、短いならそうでもないかもしれない、それはあくまでも歴史的事実であり創作ではない、でもあれだけ詳しく書いているとやはり著作権があるのだろう。だから二三行とかならいいのだろう。あとは詳しく知りたければリンクすれば問題ないのかもしれない、ただ著作権にはいろいろありめんどうである。特にインタ-ネットではまた本とはちがっているからむずかしいのである。ただここの千葉氏のサイトは相馬郷土史関係で良く書いているから一言御礼と挨拶が必要だったのかもしれない、お世話になっていますとか必要だったのかもしれない、あれだけ詳しく書いている人はそれだけ功績もある。ただ自分だってインタ-ネットでいくら書いてもコメントもまれだしインタ-ネットでは何か功績としてほとんど認められないのが問題なのである。もちろん金にもならないから何で書いているのかわからなくなるときがある。ただ無料でひたすら提供しているだけだとなるからだ。

2008年10月19日

万葉集の「松がうらにさわゑうら立ちまひと・」の東歌は当時の景観のイメ−ジと合わない

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万葉集の「松がうらにさわゑうら立ちまひと・」の東歌は当時の景観のイメ−ジと合わない
 

万葉集巻十四東歌
 松がうらにさわゑうら立ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも

 
「松が浦に潮騒が高く立ちひびくように、人の噂(うわさ)はうるさいけれども、私があなたを愛(いと)しく思うと同じように、あなたも私を思っていることであろうよ」
http://www.minyu-net.com/serial/manyou/080213/manyou.html
 
この歌は方言が使われているから東歌でありそこまではわかるのだが松川浦かどうかは疑問である。地元に住むものとして万葉時代に松川浦にそもそも人がどれくらい住んでいたのかそこにいかなる暮らしをしていたのか不明である。そもそも松川浦の回りは湿地帯であり人は容易に近づけない場所だった。谷地や新沼とか蛇淵とか人が歩いても行けないような所である。地蔵川から新地の方まで湿地帯は広がっていた。
 
相馬市和田、小泉川の下流で松川浦に注ぐ少し手前を蛇淵といい、大蛇が住んでいるという。

万葉集時代だったら松川浦に出るのは川が三つそそいでいたから丸木舟のようなもので出た。明治になってもこの三つの川は細く運河のうよなっていたから舟を使いやすく幸田露伴は舟で松川浦まで下ってきたのである。松川浦の回りは広範囲に湿地帯でありあとで開拓されて田にされた地域である。もし松川浦に接して住んでいる人がいれば浦風を受けてその浦風に波立つのを見てそうした歌を作るのも自然である。でもそんなに身近に浦風を感じる所に住んでいなかった。つまりこの歌からは何かにぎやかなものを感じるし人の多くいる地域をイメ−ジするのだ。当時の情景は相当に広範囲に湿地帯でありその湿地帯の中に松川浦があり人の住んでいる地域とはかけ離れていた。だかち松川浦に出ようとしたら丸木舟のようなものになってしまう。すると松川浦に接するのは丸木舟で出たときだけであるから日常的に松川浦の浦風に波立つ風景を見ていないのである。万葉集には誤解しているのが相当あるのだ。みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆいうものを−笠女郎・・・の草原もこれは萱が一面に繁っていると勝手にイメ−ジされたがこれは地名であった。なぜなら当時は萱や芦が繁っている地域はいたるところにあり珍しいものではなかった。海岸線は奥深くまで釧路湿原のようになっていたのだ。葦原瑞穂の国だったのである。そうした萱原が美しいという発想もなかったのである。それは蛇淵とか人を容易に近づけない荒涼とした自然であり美しいという感覚はない、面影にして見ゆというときその荒涼とした自然ではない、都の人が出入りする湊の景色だったのかもしれない、そこがただ荒涼とした自然だけだったら面影に見ることがないからだ。人がそれなりに出入りするから都に知られ憧れの地域となったのである。万葉集の歌をイメ−ジするとき当時の自然景観とかけ離れてイメ−ジしてしまうのである。
 
中納言俊忠(ちゅうなごんとしただ)の「人知れぬ 思ひありその 浦風に 波のよるこそ いはまほしけれ(人知れずあなたを思っています。浦風に波が寄るように、貴方のもとへ通いたいものです)

旅の空ふく浦風の身にしみていとゞ都の人ぞこひしき(お伽草子−美人くらべ)
 
一歩都から出れば自然はむき出しになり荒涼としていたから常に人恋しいとなるのが普通である。逆に現代のような人と喧騒にあふれた世界では太古のままの自然にいやされる。そこには人はいない方がいいのだ。船溜から岩子までの松川浦はその太古の自然を感じた。そこには一人も歩むものもいなかった。そこからは広い松川浦が一望できた。そこに鴨が浮いて悠然と鳥が翔るのが見えた。
 
松川浦秋の日静か鴨の群れ人知れず浮きもの思いなしも

松がうらにさわゑうら立ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも

この万葉集と推定される歌とは逆のイメ−ジとして松川浦は当時あった。人の気配すら感じられない所に鳥のみが飛びかい憩う姿があった。つまりこの万葉集の歌からは何か人が多く住んでいる地域をイメ−ジする。頻繁に人が行き来するからこうした恋の歌も生れる。噂がたつということはそれなりの人が集中して住んでいた村があったのだ。しかし松川浦には荒涼とした人も入らない浦でありこの歌がここから生れたとは思えないのである。人の思いもない人の思いも及ばない浦だったイメ−ジなのだ。我がもほのすも・・ではない・・もの思いもなし・・・の世界がぴったりするのだ。一方で真野の草原はそれなりに人の出入りしていたから都の人が憧れる地域となっていた。ただ真野の草原と松川浦は近いのだからここにもう一つくらい万葉集の歌があっても不思議ではないこともある。でも東歌は関東地域が中心だから霞ヶ浦辺りの松ケ浦かもしれない、あそこなら相当に人が住んでいたからである。真野の草原は都の人が出入りしたからであり地元の人でにぎわうとは違っていた。この歌のイメ−ジは地元の人でにぎわっていたイメ−ジなのである。
 
蛇淵に月こそ写し鴨群れつ人知らじかも芦のさやげる
 
人の思いはまだここになく芦がさやぎ鴨が群れていてもその鴨も人と通じ合えるものではない、人はなく荒涼とした浦に鴨だけが浮いていたのである。
 
百(もも)伝ふ、磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を、今日のみ見てや、雲隠りなむ
 
この池も極めて人間の思いが強く残した池であり鴨であった。そういう人間の強い思いがこの松川浦に反映されたとは思えないのだ。松が浦の歌にはすでにそうした人間の思いが自然に強く及んでいたから当時の風景からすると違ったものではなかったとかイメ−ジする。
 


松川浦秋の日静か鴨の群れ芒なびきつ人影もなし


松川浦岸に芒や秋日さし歩む人なし鳥の翔けゆく

松川浦岸辺に秋の日のさして行く人もなく浦風吹きぬ

浦風に芒なびきて淋しかな岸辺の稲の刈られけるかな

松川浦岸辺にかすか虫の音や真昼静けく稲は刈られぬ

2008年06月27日

郷土史も地理が大事 (虎捕山伝説から佐須の場の解明)

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郷土史も地理が大事−(虎捕山伝説から佐須の場の解明)
 
●トポス−場の神聖
 
歴史は地理であるというとき地理がわかれば歴史がわかる。つまり地理と歴史は一体のものだから地歴となった。地理は地利であり地の利にもなり地理は地形や地勢ともなる。地形とか地勢も地理を歴史を知るには不可欠なのだ。
 
隱されている諸対象が、それらの(発見)場所を確認して特徴づけるならば、容易に見つけ出されるように、もしなんらかの素材を詳しく研究したければ、われわれはそのトポイを知らなければならない。なぜなら、素材がそこから確認にまで連れ出されるところの場所(わたくしは、そのようにいいたい)は、アリストテレスによってそのように呼ばれたからである
 

(topos,複数はtopoi)をなお使用することにしよう.古代にはこのようなトポスの収集が行なわれた.そしてトポスに関する学問は「トピカ」(topica)と言われた
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/notes/topos.htm

 
或る意味で、神道は場所への信仰でもあるといってしまうことも可能であるかも知れない。三輪山を初めとして、場所そのものがご神体であることも少なくないわけだし・
これもむずかしいく説明されていても場所がいかに大事かを言っている。場所がトボスが何かの起こる原因でありそのトポスを知ることが事を明らかにすることになる。トピカはトピックになっているから現代に通じているのだ。起きるもtake placeであり場所と深く関係しているのだ。歴史は地理を知らずして理解できない学問である。そして地理は地図をみたくらいで理解できない、近くの地理に詳しくなるのもむずかしいから歴史を理解することはむずかしいのだ。平面的点としてとらえても地理は理解できない、地形、地勢となると立体的だから理解しにくいのだ。これを例え立体地図で見ても理解できないしテレビのような動画で見ても小さな画面であり理解できない、結局実際に路査することが地理を理解することなのだがこれも電車や車だとなかなか地理はわかりにくい、遠近感や立体感とかがぬけおちてくる。電車では峠もないから高低差がわかりにくくなる。だから一番いいのは歩くことなのだがそれができないなら自転車が一番適している。峠を越えるというときいかに峠を越えるかが大変なものか昔の人の苦労を知り次に遠さの感覚も歩きのようにはいかないからそれに近いものを体でしるようになる。体で知るということがまた地理を知ることに通じている。歩きで自転車で旅することがどれだけ疲れるか体で知るということが地理を知ることに通じている。電車では体で知るということにならないから大局的に見るにははいいにしても地理はわからないのだ。旅をして皮肉なことは便利になればなるほど地理はわからなくなる。飛行機は全く地理はわからない、離陸と着陸の時しかなにも見えないからだ。地球はただ暗黒の世界だった。だから地理を知りたかったら飛行機→電車→車→バイク→自転車→徒歩となってしまう。つまり人間は便利になったからといって世界を理解したわけではないことがこれでつくづくわかる。コンピュ−タ−でも衛星の映像を見ても地理はわからない、路査しないかぎりわからない、伊能忠敬は路査して地図を作ったから足で歩いたから本当に地理がわかったのである。コンピュ−タ−で飛行機で衛星で地図を作ったとしても地図を作った人々も地理はわからないのである。これが郷土史と何の関係があるかというと郷土史も地理−地形−地勢がわからなければその歴史も解きあかすことができないのだ。これは佐須という地域を知るために書いたのである。虎捕山の伝説の意味を知るための前置きだった。
 
●山津見神社の虎捕山伝説を地理から解明する
 
橘墨虎という悪者を退治するように朝廷は源頼義に命じたがなかなか退治できずにいたところ、ある夜「シロオオカミの跡をたどれ」と山神のお告げがあり、足跡を追ったところ難なく墨虎を退治できた。このため山を虎捕山と名付け山の神であるシロオオカミを祭ったというのが山津見神社である。
 
橘墨虎とは何者なのか?源頼義は八幡太郎義家の父親で、陸奥の阿部氏を討ち東国に源氏の地歩を固めた武将である。橘氏は安倍氏側についた人でありそれで対立した。源頼義は源義家の父親であり義家伝説は東北のいたるところにある。大倉の峠を上るところにもあり真野川をさかのぼってきた。その頃まだ道はない時代である。真野川をさかのぼって佐須に逃れた。佐須は隠れる場所に最適な場所だった。山に囲まれているし交通が道がない時代なら真野川をさかのぼるほか行きようのない場所だった。飯館とか霊山あたりとか全体を見ても格好の隠れ場所だった。佐須とは焼畑のことである。最初に焼畑をする人が山に入り込んだのである。焼畑は古い農法だから山には田を作る以前に住民が住んでいたことになる。山の民が古いというとき焼畑とも関係していたのである。賊を刺したから佐須というのは俗説であり地名由来にはそういうのが多すぎるのだ。佐須が最初にあってその地名にこじつけた地名伝説が生れるのだ。だから佐須という地名は相当古いのである。大倉より古いかもしれない、今では佐須という地域は一番奥まった所なのだが焼畑をする人にとってはそういう場所が焼畑に適していたことになる。佐須という地域は今では霊山にでるのにも山に囲まれている。その山を下ると行合道になるからその山をでてようやく霊山の方で出合う道がでてきた。祖谷でも山を出るところに出合とかの地名があり山を出る所でようやく人が出会い交わるところになる。
 
万葉のむかしから「隠り口(こもりく)の」は初瀬のまくら詞になっている。隠り口とは隠り国、つまり山間に隠れた国のことである。雄略天皇の初瀬朝倉宮跡は、いかにも隠り口というにふさわしい桜井市黒崎の集落にある
 
海石榴市(つばいち)は、現在の桜井市金屋にあったとされています。この地は、山の辺の道、初瀬街道(はつせかいどう)、磐余(いわれ)の道、山田道などが集まるところで、市(いち)として栄えたようです

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最初の国が隠り口にあった。山の入り口に近い所にあった。そして市がたつのはその山から平地に出る所なのである。そこに海石榴市がある。この市は山の民と平地の民が交わる場所であり山の民は先住民であり平地の民はあとから入ってきた。飯館に一番古い縄文遺跡があるというのもそのためだろう。つまり日本の最初の国は平地ではなく山の民にありその後均す(ならす)であり平地をならして奈良という大きな都が作られたのである。狼がなぜ神として尊ばれたかというと猪や鹿などを食い焼畑を守ってくれるからだとありそこでもともと山津見神社は狼を祀る祠のようなものとしてもともとあったのかもしれない、いづれにしろ虎捕山の頂上に虎捕穴とかありそこに隠れたとするのも本当に隠れるには一番いい場所であることが地理的感覚でわかる。だからこの伝説は地理から解釈して歴史的事実でありその地理から歴史を知ることができる。ただこれも外から来た人は佐須という地域を体の感覚で知ることがむずかしいのである。これは私自身も旅してその場所のことが体の感覚でわからないから歴史が理解できなかったのである。
 
●古代のトポス(場の深遠な意味)
 
小牡鹿さおしかの入野の薄すゝき初尾花いつしか妹が手枕たまくらをせむ 2277
 
 「小牡鹿の」は枕詞。「鹿が分け入る野ということから地名『入野』にかかる」。「入野」は「所在未詳。京都右京区大原野上羽町にある式内社入野神社の辺りをさすかとする説もある。元来奥まった平地をいう普通名詞」(日本古典文学全集『万葉集三』小学館の付録「地名一覧」p536)
 
我が恋はまさかもかなし草枕 多胡の入野の奥もかなしも 卷14-3403 東歌 
 
多胡の入野とは焼畑の地であり渡来人が焼畑に入ったとかあり韓国語系統とか言う人もある。このように入野の奥の野は斜面であり必ずしも平地ではなく焼畑に適した地だった。鹿が分け入るような入野であり鹿はしかし焼畑や畑を荒らす害獣でもあった。焼畑には鹿が来て荒らす。そこで鹿を食う山犬-狼が神の犬ともなった。山津見神社が狼を祀っているのは佐須とうい地が焼畑を意味しているように焼畑が盛んでありそれを猪や鹿に荒らされるので狼を祀った、そのあとに虎捕山の伝説が生れた。その伝説の前に狼を祀る社があったのかもしれないのだ。
 
山下り佐須をい出れば行合道残雪輝く吾妻峰仰ぐ

たどりつく佐須こそ遠き奥処かな魂を鎮めて眠る地なれと
 
ここは飯館あたりで最も奥地であり魂が鎮め眠る場所に最適の場所だったのである。そういう場所の神秘がありこれは外部からなかなかわからないのである。そこは神聖な奥津城にふさわしい場所なのだ。地理から見て地勢から見てそういう場所が確かにあるのだ。しかしこれは全体から見てその場がありうる。一部分をきりとってその場があるのではない、ギリシャでもドルフィの神殿がある場所は神聖な場でありその場の特性から神殿が建てられたのである。その場に神聖なものを最初に感じて神殿が建てられた。神殿はやたら建てられることはない、場所の神聖さとういのがありこれは外部から一度たずねたくらいではわからないのである。南相馬市の原町区の桜井古墳にしてもなぜあの場所なのだろうか?そこがやはり古代において一番住み良い場所でありそこが場所の必然から選ばれた。古墳のある場所はやはり古代において一番住むのにいい場所だった。真野の寺内の金銅双魚佩が発見された前方後円墳もやはり真野郷では一番住み安い場所だった。平地は真野川が広がり土手もないのだから一旦大雨が降ると川が広がり湿地帯になってしまう。だから高いところは住みやすくそこに古墳が作られた。名取の雷神恁テ墳もそうである。場所には特別な意味があるのだ。
 
地勢や地質や気候によりそれぞれの土地は本来そこにあってこそ輝きをます、その土地の花を与えられている

我々が今自然を冒涜するというとき、我々が自然を自らの目的に役立つようにりようしているからではなく場所の精神にたいして敬意を払うことなしにそれを操作しているからなのである。
(ルネ、デュポス)


文明も間断なく景観を使い尽くすことにより消滅した
 
場所には場所特有の神聖が備わっている。場所に敬意を払ったのが古代人でありそれは自然と密着して生活していたから必然的にそうなった。神社というのもいろいろあるが場所の神聖性とも深く関係していた。ギリシャの神殿もそうであり古い文明はたいがい場所の神聖性がありそこに宗教の礼拝所が作られた。今場所の神聖性を問題にすることはない、景観も自然も経済的効率とか合理的とかで破壊されてしまう。古代人が遅れていたというより文明は技術的には優れていても精神性では後退しているともなる。まず場所に敬意を払うなどということを思いつきもしない時代になっているからだ。神道の地鎮祭は地の霊を鎮めるということで古代の地への畏れ敬意が祀りとなったのかもしれない、現代の場は利便性のみで追求されている。しかし場には今でも不思議な力があるのだ。その場に立たたない限り知り得ないものがある。これはテレビで見ようが写真でみても決して理解できないものがその場にはある。その場への神聖な感覚が喪失したのである。
 

(参照)
東和町などの地名(焼畑から田の地名)
http://www.musubu.jp/chimeitouwa1.htm

2008年04月24日

鉄、銅、馬、黄金、塩の道としての陸奥の真野の草原


鉄、銅、馬、黄金、塩の道としての陸奥の真野の草原


●塩釜の塩は多賀城の城壁の接着剤に使われた
 
陸奥に中央政府が求めたのは資源である。鉄は陸奥の真野の草原が産地でまた製鉄の一大拠点の場となったから奈良の都にも知られたのである。草原→萱の原ではない、鉄を作り加工する場所としての草原だった。
 
みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

すめろきの御代栄えむと東なる陸奥山に金(くがね)花咲く 大伴家持
 
これは鉄と黄金の産地としての場所であり風流とか詩的なものとは違っているし風流からとか詩的イメ−ジで古代が語られるわけがない、陸奥の荒蕪の地に求めたのは具体的な資源だったのである。和銅と年号になったのもそのためである。これは東北に産出した銅という説もある。現代の文明の年号は世界中で石油になっている。その他に陸奥は名馬の産地でありこれも靺鞨(マッカツ)国−渤海との交流でもたらされた、多賀城の壺の碑に靺鞨とあるのはそのためである。つまり資源を求めて陸奥に中央政府は征服にきて多賀城を作ったのである。歌枕も鉄の産地として関係していて風流の歌枕の旅はそのあとに知られるようになった。塩は塩釜であり大量の塩が生産された。釜とあるからまさに塩を生産する釜が大事であってこれも資源であった。塩釜は島が多いから塩の生産に向いていた。だから塩をとる煙が絶えなかったのである。相馬の松川浦の原釜も釜とあるから塩をとる場所だった。意外なのは塩が接着剤として多賀城で大量に使われていた。接着剤は建築で重要でありさまざまなものが使われていた。米もノリになるから接着剤はいろいろなもので使われている必需品だった。
 
塩竈は、古くから塩造りで栄えた町であり、食用はもちろんでしたが、それ以上に城壁を固める為の接着剤として大量に製塩されたようです。多賀城国府が東北の軍事拠点として存在していたために、東北各地に運ばれたと考えられます
http://ebisuya-turi.com/rekisi.htm

塩に含まれる「にがり」 が土を締める動きがあることから、築地塀や道路を作る時にこの塩を使ったとも考えられている

多賀城と古代交流の道

(塩からつくられた塩素は塩化ビニル、水道水の消毒、漂白剤、接着剤などに・・・)

塩釜は食料の塩だけではない建築にも使用されていたら大量に塩を生産する場所として重要だったのである。いづれにしろ東北は近代まで中央に資源を提供する場として重宝であった。地方は都会に資源を提供するのは戦後の一〇年くらいまで継続していた。炭が燃料の時代は二千年もつづいている。日本のいたるところに森林鉄道ができたのも木材を供給するためであり石炭もそうだった。資源はみな国内でまかなうほかなかったからである。人間はあらゆるものを燃料として使わねばならない、インドでは牛糞も燃料となる。当時石炭の産地はも筑豊でもも夕張でもまた石炭の積みだし港として鉄道が敷かれた小樽でも石炭の街として記憶されていた。ミイケ、イワキ、ユウバリ、・・・・という名前は石炭のとれる場所としてイメ−ジされていたのである。みちのくの真野の草原遠けれど・・・の別な解釈はそんな遠い地にも鉄も求め黄金を求めてゆくという意味がふくまれていたのだ。みちのくの真野の草原とは具体的な利を得る、資源と鉄の一大生産場所だった。一面に萱原がなびくだけの荒蕪の地としてイメ−ジされることないのだ。笠女郎が面影に見ゆと歌ったのは萱原でイメ−ジされるものではなく慕う大伴家持のことであり陸奥のような遠い所に行ってもあなたの面影は忘れることはありませんということなのである。
 
●大伴家持は陸奥で死んだ?
 
大伴家持は陸奥に派遣されて死んだともされているし真野の草原の歌は時代的にあっていないというがそのあとに作られたらしいという考察もありそれも真野の草原の歌と具体的に一致するからその方が歴史的事実なのかもしれない、逆に大伴家持が秋田まで遠征して笠女郎を思った歌を残していたという、その木簡は「春なれば今しく悲し−ゆめよ妹、早くい渡さね 取り交わし・・・・」の考察も飛躍しているにしてもありえないことではない、大伴家持が陸奥のさらに奥地で面影に見ていたのが笠女郎だったというのも必ずしも空想とも言えないのである。そうでないと真野の草原の歌はなかなか理解しがたいものとなるからだ。大伴家持が陸奥で死んだとしたらこの歌もリアリティが帯びてくるのである。
 
家持の陸奥にし死なむ女郎(いらつめ)の思いは遠く真野の草原

家持の陸奥に死せしとその魂(たま)のさまよいつつも奈良し思いぬ
 
万葉集で明確に特定される地名は不明なのが多い、ただ陸奥では黄金のとれた小田と鉄のとれた真野の草原は具体的に今でもわかる。黄金とか鉄の産地はその鉱脈のある砂鉄がとれる狭くても一地点が大事になるから地名として明確に記憶されたともとれる。アメリカの西部開拓がエルドラ−ド(黄金郷)を求めての開拓であり未開拓の地へは資源を求めることが先にある。銀もその一つであり銅もキプロスの名が銅に由来するように島でも資源が大事になるのだ。天平21年(749)、陸奥守だった百済王敬福は、任地の陸奥国(今の茨城県)から産出した黄金900両を大仏の鍍金のために献上し、聖武天皇をいたく喜ばせた。この鉄や黄金の発掘には渡来人が技術をもっていて深くかかわったのだ。白人という名前が泉廃寺跡から発見されたのも

渡来人がすでにここに住みついていたからである。
 

いづれにしろ家持の最後は謎であり大伴家持自体が
  

    鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に
  金ありと 奏(まう)し賜へれ 御心を 明らめ賜ひ
  食(を)す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして
  もののふの 八十伴の雄を まつろへの むけのまにまに
  その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし職(つかさ)
  海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍
  大王の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと

 
この歌のように陸奥で死んだとなる。これは大伴氏が黄金を大仏の鍍金の黄金を求めて天皇に仕えるという意味でもあり天皇のために敵を殺すというより黄金を求め黄金を天皇に献上することに要点が置かれていたのである。戦争でもこの歌がとりあげられたが万葉集時代と同じ意味にとることはできない、ただこの時代にこの歌が現実化したことはショックだった。テレビで水漬く屍、草生す屍としてジャングルから日本兵の頭蓋骨が掘り出されたのはあまりにも悲惨だし今でも日本兵の屍は異国に放置されている。ともかくこの気概で陸奥に老いて赴任して死んだのかもしれない、外国で死んだ日本兵も日本へ帰る思い残して死んだ。その故国を思う人は家族であれ恋人であれあまりにも悲惨であった。つくづく人間は故郷を離れてみてはじめて故郷を慕う望郷の念を強烈に抱く、現実は家族が家から離れて病院や施設に入れられると常に家に帰りたいと嘆きつづける。家は一つ山越えた先なのだがそこに重病で帰られないという現実があった。そんな近くでも帰らないというのは一つの悲劇である。つまりこんなに近くでも一旦家から離れると強烈に家を思い面影として浮かぶのが人間なのである。面影を求める心は死んだ後もつづいている。愛する人の面影は求めつづけられる。それは家族が切り離される時もそうなる。家族の価値も空気のようなものだが一旦一人でも失われると強烈にその欠けたるものを思うことになる。人間存在の価値は失われてはじめて気づくことがかなりあるのだ。笠女郎があれだけの名歌を残したのは皮肉にも大伴家持と常に離れていたからである。それが陸奥の真野の草原まで面影を追い求める結果になったのである。
 

(参考の本)
秋田城木簡に秘めた万葉集(大伴家持と笠女郎)
(吉田金彦)


 

2007年06月26日

錯覚しやすい陸奥の真野の草原→真野の萱原


錯覚しやすい真野の草原→真野の萱原

原文]陸奥之 真野乃草原 雖遠 面影為而 所見云物乎
[訓読]陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを

まだみねば面影もなしなにしかも真野の萱原つゆみだるらん
-藤原顕朝[続古今])

   吾が勢子は 借廬作らす 草(かや)無くは 小松が下の 草を苅らさね (1/11,間人皇后)


   み吉野の 蜻(あきづ)の小野に 苅る草(かや)の念(おもひ)乱れて 宿(ぬ)る夜しそ多き

(12/3065,読人知らず)

   紅の 浅葉の野良に 苅る草の 束の間も 吾を忘らすな (11/2763,読人知らず)


インタ−ネットで検索すると原文は草原だったのに萱原と出てくるのが多い。草(かや)と言っていたから草原も萱原をイメ−ジするのはわかる。万葉の時代は草(かや)であったがのちに草(かや)は萱になった。かやは萱であり萱は萱場とか屋根をふく萱である。萱はどこにでも繁っているし萱とつく地名が多い。万葉集以後はかやを草ではなく萱として表現している。
 

天にあるやささらの小野に茅草刈り草刈りばかに鶉を立つも 3887

茅草という表現もある。日本語にはクサとカヤを区別していたが漢字が入ってきたときクサとカヤを草にあてたのである。後に草→くさ、萱→かやになったのである。萱は確実に今知っている萱である。万葉以後はだから萱を草と表現していない、古今集でも萱原だし奥の細道でも真野の萱原になっている。
 

真野の萱原(かやはら) 現在の石巻市真野字萱原付近。長谷寺があり、そこに「真野萱原伝説地」の標柱がある
 

ようよう貧しい小家で一夜を明かして、明ければまた知らぬ道を迷い行く。袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原などをよそ目に見て

陸奥真野萱原尾花」は「天明七丁巳十一月七日白非英二生ョリ送来ル」とあるという。菅江真澄は天明六年1786)九月十西日に真野宣原を訪ねているので、この時採取したものと推定できる
 


石巻市真野字萱原の地名がいつの時代のものなのか?万葉の時代にさかのぼる地名なら真野の草原に該当するのか?石巻に古代の真野郷は存在していない、古代に存在する萱原なら草原になっているのだ。萱という漢字は万葉以後のものだからである。ただ江戸時代では石巻が真野の草(萱)原となっていたのである。おそらく地名の影響が大きかったのかもしれない、地名的にはぴったりだからである。でも地名にはもともと根拠もないのに地名から勝手に解釈して伝説まで作っていることがあるから要注意である。管江真澄は実際に萱−尾花まで採集して送っている。これは石巻の萱である。これほどまでに真野の萱原は萱として一般化されていた故にその萱まで土産にしようとしたのである。


前にも書いたけれども草(かや)は一字で用いられ一般的には材料として使うカヤなのである。草原(かやはら)と用いられたのは万葉集にはないし萱が一面になびいているという景色を歌にすることはなかった。その後も萱は屋根をふくとか材料としてみていたのであり萱が一面になびいて美しいとか見ていないのだ。茅葺きの屋根を作るのには膨大な萱が必要なのである。実際の生活に欠かせないものとして萱があったのであり美的に鑑賞して美しいとかにはならなかったのだ。ところが人間は過去になると必ず間違った解釈が入ってくる。勝手に想像することができるからみんな詩人になってしまう。地名は実用的なものとしてつけられたのが多いし詩人がつけたのではない、生活者が必要から作り伝えてきたものである。それ故地名には無味乾燥なのが多いのだ。そこに錯覚が生じるのが歴史である。

確かに草原(かやはら)は以前として大きな謎である。真野の草原→真野の萱原としてイメ−ジ化された。これは漢字の作用が大きく働いたのだ。それで今回南相馬市の鹿島区に鹿島町の職員が退職記念に建立した源実朝の歌もやはり草原は萱原になっている。
 

みちのくの真野の萱原かりにだに来ぬ人をのみ待つが苦しさ 源実朝
 

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを 笠女郎

これもまず草原を萱原としてイメ−ジされそのイメ−ジに基づいて実朝の歌も作られているのである。一面に萱原なびく辺境の淋しい陸奥の真野に想う人、恋しい人はかりにだも面影にも現れないという地元からの発想をしているのだ。笠女郎は奈良というと遠い世界から真野の草原を面影に見たのだが実朝は逆にみちのく真野に自分が在住するようなものとして歌っている。鎌倉だからその頃みちのくは古代より近い存在にもなっていたともいえる。鎌倉から来た岩松氏は鹿島区では一番古い姓でありその臣下の四天王といわれた人の姓が今日にもつづいている。船で来たことは確かでも鎌倉ではなく陸路を阻まれたため磐城辺りから船で上陸したらしい。これは岩松氏一族の歴史をたどるホ−ムペ−ジに詳しい。

ともかくこの歌も草原が萱原としてイメ−ジされるものとして定着していたからできた歌なのである。でも本当に草原→萱原なのか?これは大きな疑問であることはこれまで考察した通りである。

2007年01月11日

相馬の製鉄遺跡群(今村均)を読んで 南相馬市の金沢製鉄遺跡の土器にあった「今」の陰刻の謎

相馬の製鉄遺跡群(今村均)を読んで(相馬郷土史の部)
http://www.musubu.jp/manokayaharaima.html


かなりの発掘の成果がでた。やはり文字が記されていることが大きな手がかりとなる。史実と遺跡の照合一致をみることができるからだ。
ただ陸奥の真野の草原の歌は謎が深く未だに解明できない、でも草原を
萱の原としていたときよりは史実に迫ってきたのである。

高麗原という小地域が常陸にあったことでもわかる。間違いなく草原は萱の原ではない、地名なのである。ただ真野郷のどこが草原なのかとなるとこれまた確定はできない、高野新笠というのがまた謎なのである。これは平安京になってからの人でありわかりにくい、でもその足跡が史書に明確に知るされている。

2006年11月09日

陸奥真野草原考−補足

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陸奥の真野の草原遠ければ面影にして見ゆというものを(笠女郎)

東(あづま)の国に 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 黄金有りと 申したまへれ 

すめろきの御代栄えむと東なる陸奥山に金(くがね)花咲く(18-4097)-大伴家持

「陸奥国小田郡(現在の遠田郡の東半分)」 小田なる山とは小田郡内にある山なのだろう。ここではそれでも小田郡となっていれば郷よりは広いのである。真野郷は行方郡内にあり草原(かやはら)がさらに真野郷の中の一地域名としたらいかに狭い地域がクロ−ズアップされたかとなる。ただ陸奥は最初の時は陸奥(みちのく)としての広大な未開発の荒野のようなイメ−ジとして中央から見られていた。そういう広大な未開の地域で何に脚光があびるかとなれば何かの資源がある、特に黄金となるとこれは注目される。だから小田は知られるようになった。鉱物資源はその鉱物がとれる所が小地域が重要になるからだ。では真野郷自体が郡より小地域であるとするとそんな小地域が奈良の都の人に知られるようになったのか?それが最大の謎だとなる。鉄がとれたからとなるがそれにしても黄金がとれる小田ならわかるが果たして鉄資源がとれるだけで奈良の都にこうした小地域が知られるものだろうかとなる。ヤマトとという地名さえ奈良の中の一小地域名でありそれが国の名までになったのだから一小地域でも重要な場合がある。

越の名の起こりは、越後国古志郡に由来すると考えられている。小地域の地名が拡大する例は多い。むしろその方が普通である。
和名抄に越後国頸城郡沼川郷が見える。沼川は万葉集には渟名(ぬな)川とある。渟名川は「瓊(に)(玉、赤色の玉のこと)の川」の意である。糸魚川市の西で日本海に注ぐ姫川の支流の小滝(こたき)川をさかのぼると、ヒスイの原石が出る。沼河比売は「瓊の川姫」すなわちヒスイのシンボルの女神にほかならなかった。

http://www2.hokurikutei.or.jp/backnum/99nov/ZH_Folder/ZH2.html

これもヒスイという資源の故に有名になった。ここでは越後国頸城郡沼川郷であり沼川郷は真野郷と同じくらいの地域である。しかしさらに草原(かやはら)が地名だとするとそんな狭い地域が奈良の都まで知られるものだろうか?そこがこの歌の最大の謎となる。つまりそんな小地域がなぜ奈良の都の人々に知られたのか、なぜ笠女郎が知るようになったのか、それは真野−草原が一般的に知られていたからそうなのか、ただ大伴家持を面影の人としたとき小田郡の山に黄金がとれたことを歌っていることは重要である。大伴家持と何か特別な産物がとれることがその土地を知らしめることは世界でも多いからそうした小地域の名が知れ渡ることになる。シルクロ−ドでもシルク−絹が通る道だから絹があってこそシルクロ−ドは世界に通じていたのである。

百済王敬福(くだらのこにきし・けいふく、697〜766)の孫娘・明信(みょうしん)を正妻としていますが、上の系図でもお分かりのように、大伴家持の妹も妻としているのです。そして、敬福が東大寺の大仏様のために、東北地方から産出したとされる大量の黄金を、誠に絶妙なタイミングで帝に捧げたとき、次の歌を詠んだ人が家持だったことを、皆さんは覚えておられることでしょう。

黄金のトライアングルhttp://www.ten-f.com/ougonno-torio.htm

大伴家持と百済王敬福は親戚関係にあったからこそ詳しい陸奥の情報が入ってきていたのである。その関係で陸奥の真野郷の情報も奈良の都に伝わったことは考えられる

黄金がとれたのは遠田郡の小田である。その小田に嶋田村があったということは泉廃寺跡の嶋□郷は嶋田かもしれない、その他遠田郡には真野公遠田郡で真野公営山47人が賜姓された。こう考えると嶋□郷は嶋田郷であり□□白人は高麗白人かもしれない、高麗福信という人がいたからだ。つまり製鉄や黄金をとる人々が渡来人中心にして移動してきたのだ

真野郷にいた産鉄の技術をもった一団が小田郡に移って行ったのだ。その指導をした百済王敬福と大伴家持は親戚関係だったから奈良に情報が伝わり真野が知られるようになった。ここでも渡来系の技術者集団が深くかかわっていたから草原(かやはら)がその百済の前の加耶国が地名となったかもしれない、草原はまた移動地名だから草原(かやはら)は萱の原だったというのはやはりありえないだろう。鉄資源とか黄金を求めたゴ−ルドロ−ドの一地点として真野の草原がありそれは小田郡へ通じていたし小田郡へ黄金を求めて真野−草原から移動して行ったのである。

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陸奥真野草原考−補足
http://www.musubu.jp/kashimamanotakuma1.htm