2009年10月16日

古代より都と密接な関係があった南相馬市鹿島区(真野)


古代より都と密接な関係があった南相馬市鹿島区(真野)


古墳時代-(桜井古墳、真野古墳郡)
古代-(陸奥の真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎)
平安時代-源義家
鎌倉時代-岩松氏
南北朝-霊山炎上-落武者-鹿島区真野へ




みちのくと都、奈良時代は平城宮だったけど次に京都に移ったがすでにその頃から密接な関係があった。それは古墳時代からはじまっていた。桜井古墳は東北地方では三番目に大きいしまた陸奥の真野の草原と明確に地名を奈良の都から言うとき密接な関係が結ばれていた。陸奥は単なる草原なびく荒野の意味ではない、すでに交易のあった、鉄などの資源を求めて都の人々が来ていた土地であり都の人に知られていたのだ。真野の入江があり船着や市庭という地名が塩崎にあり交易の地として都の人に意識化されていたのである。真野の草原とは今までは草原(かやはら)はいかにも荒蕪の地として草原(かやはら)がなびくだけの人跡未踏の地のように思われていた。その逆が草原の意味だった。草原とは地名であり入江がある湊のことだった。そこには何もない草原(かやはら)だけがなびく地ではなかった。都との交易の地でありだからこそ寺内の古墳から金銅双魚佩(ぎょはい)、がこの地の王なるものに授けられたのである。


西行が歌った束稲山もそうである。こんなみちのくの奥地にこんな見事な桜が咲いているのかと歌ったときそれは桜だけではない荘厳な七堂伽藍があり金色堂もあった平泉に驚いたのである。桜だけだったらどこにでも咲いているからだ。このみちのくの真野の草原もそうだったのである。陸奥の真野は一方的であったにしろすでに奈良の都と密接な関係があったからこそこの歌ができたのである。面影にして見ゆというものを・・・というときそこに赴任した大伴家持のことなのか、そんなに遠くに行ってもあなたの面影は忘れませんよという意味なのか、どうしても一度も行ったこともない地を面影に浮かぶとは思えないからだ。一度実際にその地を踏んだらあとで回想することがある。一度行った地は旅した地は面影に浮かびそれで短歌や詩を書いたりしている。しかし一度もその地を踏んでいなかったら面影に浮かぶことがあるだろうか。これは実際はわたしの最愛の人ならどんな遠くに行ってもみちのくの果てなる真野の草原に行ってもその面影が浮かびますよという意味かもしれない、大伴家持がみちのくに来たとは証明されていないからだ。秋田まで大伴家持が行ったということを学者が書いて本も出している。秋田まで行ったらなら真野にも来たとなるが明確には証明できていない。

平安時代は源義家の時代になるがこれも東北のいたるところに伝説が残っているからよほど陸奥の人々にとって印象深い忘れられない人、影響した人だったのである。次に鎌倉時代になると岩松氏が相馬地域の最初の支配者であったのでこれも鎌倉と密接な関係があったのだ。船で来たというとき磐城からにしろやはりその時は確かに船で烏浜に上陸したのだろう。
岩松氏は南相馬市の鹿島区では最初の歴史として具体的な名前記した人なのである。
その次に南北朝時代がありこの時も都と密接な関係がありその全国的動乱の中で霊山が炎上して鹿島区の真野に落ち延びた人が子孫になっている。それは祭りとしても残されている。霊山が陸奥の支配の宮跡となりその時後醍醐天皇の宮跡が吉野山だから吉野山と霊山は深く関係していたのである。吉野山と霊山の物語は南朝の滅びの物語として共通していた。

北畠家は、村上天皇を祖とする村上源氏。
北畠顯家は、後醍醐天皇第七皇子・義良親王(後の後村上天皇)を奉じて、
御父・親房と共に多賀城(宮城県多賀城市)に下向。
延元2年(1337)正月8日・国府を霊山に移したが、
翌3年5月、阿部野の戦いで足利軍に破れ、21歳で没した。

明治14年、建武の中興に尽力した功績により、
陸奥国府のあった霊山の地に祀られ、
別格官幣社となった。
神紋は笹竜胆。祭神・北畠家一門の家紋。


 歌書よりも軍書に悲し吉野山(東花坊)-南朝や吉野に霊山秋の暮-吉野と霊山は歴史を深く共有していた。だから吉野に行ったとき霊山を思い霊山に来たとき吉野を思うのである。

みちのくゆ我もたずねて吉野山南朝の跡や月のい出けり

これは奈良の平城宮跡に佇んだときもそうである。陸奥の真野の草原を思うことになる。陸奥が国の歴史として共有しはじめたのは古墳時代からであり次に古代からは地名も明確化されるほど密接な関係が結ばれていたのだ。 陸奥を一地域として辺境の地としてではなく日本の歴史に組み込まれて史実として構成することが一地域の偏狭な孤立した歴史としてではない意味をもってくるのである。それはただ中央の歴史に従属するだけだともなるがでもみちのくだけで一つの歴史観を形成することは無理である。アラハバキ族がいたと言ってもそれは歴史の地層に埋もれてしまって知ることもできないからだ。ただみちのくは縄文時代は東北の方が大きな世界を形成して西より進んでいたというのは本当だろう。東北はその後停滞してしまった。百済とか外国の先進文化をとり入れることができなかったためだろう。

みちのくははるかなれども知られけり真野の草原秋深むかも


この歌は何でもないようだけど草原を萱原のにするのと草原を地名とするのではかなり違うのだ。陸奥の真野の草原はいち早く歌枕化したが全部草原は萱原(かやはら)としている。ということは草原を地名とすればこれらの歌を全部否定することになるからだ。だから結構これは歴史的に大きな問題なのである。草原を萱原とすればこの歌はできない、これまでの真野の草原は萱原(かやはら)として本歌とりをしているからだ。万葉集にはこうして史実的に証明できないものがかなりある。だから間違って解釈しているからその後の展開も変なものになっているのだ。現実に真野の草原はここでも萱原(かやはら)だとして写真にその萱原を出して宣伝がつづいていたのである。地名だとするとそうした詩的イメ-ジの草原-萱原ではなく・・・現実に存在した真野の湊であり実用的なものとしてクロ-ズアップされる。現実に存在した場所-湊のことだとなるからその意味はかなり違ったものとなるのだ。そもそも地名は味気ないものであり詩的なイメ-ジでとらえるべきではない、ただそうした場所があったということが大事なのである。草原が萱原だったら場所ではない、ただ萱がなびいている美しい場所ですよとなり湊として交易があったという現実感、実用としての場の存在は喪失するのである。

 

2009年10月10日

南相馬市原町区萱浜と鹿島区大内の原初は湿地帯

南相馬市原町区萱浜と鹿島区大内の原初は湿地帯

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●萱浜も湿地帯だった
萱浜という地名は古くからあった。だからその地名をとって相馬氏が姓とした。
胤往の曾孫・胤久(五郎左衛門)は萱浜村(南相馬市原町区萱浜) に移り住み、萱浜を称したという。金場門馬氏の祖・門馬胤久(五郎左衛門)が行方郡萱浜村を知行して萱浜を称した

相馬の門馬家
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku91.htm

萱浜地帯は地図を見ればわかるように谷地とか渋佐(しぶさ)となっているのはしぶさは砂のことである。海が近いから萱と砂の地帯だった。赤沼とかも沼でありここももともとは湿地帯であった。日本は海の近くは湿地帯だった。北海道の釧路湿原のようになっていたのだ。巣掛場などという地名も残っているから鳥や獣をとっていたのかもしれない、湿地帯であり生業は狩猟などだったかもしれぬ。新田川には一面に萱がなびく光景もあっている。海から鵜の群れが飛んできていた。真野の草原は有名だけどここもそうかなと思うかもしれない、ところが日本全国こうした光景はどこでもあるのだからめずらしくないのだからあえて特別真野の草原は都から見て面影にしてまで見る地かとなると疑問なのである。それは前にも書いた。この萱浜の地形を見ると
桜井古墳がやや高台にありそこから海へと湿地帯が広がっていたのである。川と湿地帯の海に面して桜井古墳があった。泉長者の泉も高台にある。それが何を意味しているのか?桜井古墳の前の方にも小さな古墳がある。桜井古墳が川の側であり海に面していることが特徴なのである。もしかしたら船着場みたいなものだったかもしれない、海から目印となるものだったかもしれない、場所からするとそうなるのだ。海の近くにある古墳は瀬戸内海の五色塚古墳なども海からの目印としてあった。海との関係が深かった。ここの古墳から東海系の土器が発掘されている。東海系の人たちがここに移住したのか何か関係はある。東海からどういう経路で来たかわからない、ただヤマトタケルの伝説で原町史談なる本によると《原町市高》は多珂神社の当て字で竹水門は《高川》(現太田川)の河口(湊)の事とあるとあるからここではないが河口が湊になることがあった。上陸した地点がここだとかなると桜井古墳もそれと関係しているのかもしれない、いづれにしろ歴史は地理でありそれと同時に地形を読むことが大事なのである。この地形は実際に路査しないとわからない、高低などがわからないからだ。萱浜はあとで越中からの移民が移り住んだ。ここは海に近く湿地帯であり開墾する地帯が広く残っていた。条件の悪い地帯だった。移民は条件の悪い地帯を開墾させられた。相馬では真宗系の墓が必ず目立ってある。移民が相馬に根付いて六万石の実りとなったのである。


●鹿島区の大内からも湿地帯

鹿島区の大内村の地形は後ろは山に沿ってある。そこから海の方や右田の方を見晴らすとやはりそこも広大な湿地帯だった。真野川の流域でもありここに不思議なのは曽我船という地名が残っている。ソガとはさかのぼるという意味でここに船がさかのぼって来たからだという、それは伝説的地名であり真野の入江がありそこに船がさかのぼって来るからその地名がついた。これが本当だとすると万葉時代からだから相当古いとなる。真野の入江というのは確かに塩崎(しおのさき)が入江になっていて船着とかがあったのだから船が来ていた。それはいつの時代なのか?地名としても残っている。草原(かやはら)は入江のことであり港だったという説も書いた。ともかく大内村は前は広大な湿地帯だからあそこに村が最初にできることは地形的にわかる。小島田というのもその湿地帯のなかに島のようにできた田のことかもしれない、つまり地形をイメ-ジするとき原初の状態をイメ-ジする必要があるのだ。大内村は閑散としているから古い村とも思えないがやはり古いのだ。第一曽我船(そがふね)とか伝説としても地名が残っていること自体古いのである。

豊臣時代に北郷に田中城代として田中忠次郎郷胤、その配下に滝迫館
大内館、杉の館、赤柴館(栃窪村)があり戦争の折りには各館より出騎していた。(鹿島町誌)

大内に南館下という地名があるのはその時のものだろう。館は中世から戦国時代の地名が基になっている。
大内にも家が少ないように見えても館があった。その館を中心に村が形成された。この頃は田中城が中心であり今の鹿島の町があるところではない、田んぼになっいるところに城が館があってそこが中心となっていたのだ。町はあとで街道沿いにできるのが多い、江戸時代になるとそうである。その前は中心は館であり城であった。だから今から見ると辺鄙な所に多いのである。いづれにしろ歴史も地理であり地形を見ないとわからない、地理とか地形は何度もその地を踏まないわからないから歴史も理解しにくい、高低差や距離の感覚がわからないのだ。

南相馬市原町区萱浜から鹿島区大内へ(実りの秋の俳句)
http://musubu.sblo.jp/article/32818579.html


注意-著作権について
千葉氏一族について詳しく書いている人から著作権違反の指摘があった。その後メ-ルは来ていない?ここは引用するとき注意が必要。長いのは駄目なのかもしれない、短いならそうでもないかもしれない、それはあくまでも歴史的事実であり創作ではない、でもあれだけ詳しく書いているとやはり著作権があるのだろう。だから二三行とかならいいのだろう。あとは詳しく知りたければリンクすれば問題ないのかもしれない、ただ著作権にはいろいろありめんどうである。特にインタ-ネットではまた本とはちがっているからむずかしいのである。ただここの千葉氏のサイトは相馬郷土史関係で良く書いているから一言御礼と挨拶が必要だったのかもしれない、お世話になっていますとか必要だったのかもしれない、あれだけ詳しく書いている人はそれだけ功績もある。ただ自分だってインタ-ネットでいくら書いてもコメントもまれだしインタ-ネットでは何か功績としてほとんど認められないのが問題なのである。もちろん金にもならないから何で書いているのかわからなくなるときがある。ただ無料でひたすら提供しているだけだとなるからだ。

2008年10月19日

万葉集の「松がうらにさわゑうら立ちまひと・」の東歌は当時の景観のイメ−ジと合わない

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万葉集の「松がうらにさわゑうら立ちまひと・」の東歌は当時の景観のイメ−ジと合わない
 

万葉集巻十四東歌
 松がうらにさわゑうら立ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも

 
「松が浦に潮騒が高く立ちひびくように、人の噂(うわさ)はうるさいけれども、私があなたを愛(いと)しく思うと同じように、あなたも私を思っていることであろうよ」
http://www.minyu-net.com/serial/manyou/080213/manyou.html
 
この歌は方言が使われているから東歌でありそこまではわかるのだが松川浦かどうかは疑問である。地元に住むものとして万葉時代に松川浦にそもそも人がどれくらい住んでいたのかそこにいかなる暮らしをしていたのか不明である。そもそも松川浦の回りは湿地帯であり人は容易に近づけない場所だった。谷地や新沼とか蛇淵とか人が歩いても行けないような所である。地蔵川から新地の方まで湿地帯は広がっていた。
 
相馬市和田、小泉川の下流で松川浦に注ぐ少し手前を蛇淵といい、大蛇が住んでいるという。

万葉集時代だったら松川浦に出るのは川が三つそそいでいたから丸木舟のようなもので出た。明治になってもこの三つの川は細く運河のうよなっていたから舟を使いやすく幸田露伴は舟で松川浦まで下ってきたのである。松川浦の回りは広範囲に湿地帯でありあとで開拓されて田にされた地域である。もし松川浦に接して住んでいる人がいれば浦風を受けてその浦風に波立つのを見てそうした歌を作るのも自然である。でもそんなに身近に浦風を感じる所に住んでいなかった。つまりこの歌からは何かにぎやかなものを感じるし人の多くいる地域をイメ−ジするのだ。当時の情景は相当に広範囲に湿地帯でありその湿地帯の中に松川浦があり人の住んでいる地域とはかけ離れていた。だかち松川浦に出ようとしたら丸木舟のようなものになってしまう。すると松川浦に接するのは丸木舟で出たときだけであるから日常的に松川浦の浦風に波立つ風景を見ていないのである。万葉集には誤解しているのが相当あるのだ。みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆいうものを−笠女郎・・・の草原もこれは萱が一面に繁っていると勝手にイメ−ジされたがこれは地名であった。なぜなら当時は萱や芦が繁っている地域はいたるところにあり珍しいものではなかった。海岸線は奥深くまで釧路湿原のようになっていたのだ。葦原瑞穂の国だったのである。そうした萱原が美しいという発想もなかったのである。それは蛇淵とか人を容易に近づけない荒涼とした自然であり美しいという感覚はない、面影にして見ゆというときその荒涼とした自然ではない、都の人が出入りする湊の景色だったのかもしれない、そこがただ荒涼とした自然だけだったら面影に見ることがないからだ。人がそれなりに出入りするから都に知られ憧れの地域となったのである。万葉集の歌をイメ−ジするとき当時の自然景観とかけ離れてイメ−ジしてしまうのである。
 
中納言俊忠(ちゅうなごんとしただ)の「人知れぬ 思ひありその 浦風に 波のよるこそ いはまほしけれ(人知れずあなたを思っています。浦風に波が寄るように、貴方のもとへ通いたいものです)

旅の空ふく浦風の身にしみていとゞ都の人ぞこひしき(お伽草子−美人くらべ)
 
一歩都から出れば自然はむき出しになり荒涼としていたから常に人恋しいとなるのが普通である。逆に現代のような人と喧騒にあふれた世界では太古のままの自然にいやされる。そこには人はいない方がいいのだ。船溜から岩子までの松川浦はその太古の自然を感じた。そこには一人も歩むものもいなかった。そこからは広い松川浦が一望できた。そこに鴨が浮いて悠然と鳥が翔るのが見えた。
 
松川浦秋の日静か鴨の群れ人知れず浮きもの思いなしも

松がうらにさわゑうら立ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも

この万葉集と推定される歌とは逆のイメ−ジとして松川浦は当時あった。人の気配すら感じられない所に鳥のみが飛びかい憩う姿があった。つまりこの万葉集の歌からは何か人が多く住んでいる地域をイメ−ジする。頻繁に人が行き来するからこうした恋の歌も生れる。噂がたつということはそれなりの人が集中して住んでいた村があったのだ。しかし松川浦には荒涼とした人も入らない浦でありこの歌がここから生れたとは思えないのである。人の思いもない人の思いも及ばない浦だったイメ−ジなのだ。我がもほのすも・・ではない・・もの思いもなし・・・の世界がぴったりするのだ。一方で真野の草原はそれなりに人の出入りしていたから都の人が憧れる地域となっていた。ただ真野の草原と松川浦は近いのだからここにもう一つくらい万葉集の歌があっても不思議ではないこともある。でも東歌は関東地域が中心だから霞ヶ浦辺りの松ケ浦かもしれない、あそこなら相当に人が住んでいたからである。真野の草原は都の人が出入りしたからであり地元の人でにぎわうとは違っていた。この歌のイメ−ジは地元の人でにぎわっていたイメ−ジなのである。
 
蛇淵に月こそ写し鴨群れつ人知らじかも芦のさやげる
 
人の思いはまだここになく芦がさやぎ鴨が群れていてもその鴨も人と通じ合えるものではない、人はなく荒涼とした浦に鴨だけが浮いていたのである。
 
百(もも)伝ふ、磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を、今日のみ見てや、雲隠りなむ
 
この池も極めて人間の思いが強く残した池であり鴨であった。そういう人間の強い思いがこの松川浦に反映されたとは思えないのだ。松が浦の歌にはすでにそうした人間の思いが自然に強く及んでいたから当時の風景からすると違ったものではなかったとかイメ−ジする。
 


松川浦秋の日静か鴨の群れ芒なびきつ人影もなし


松川浦岸に芒や秋日さし歩む人なし鳥の翔けゆく

松川浦岸辺に秋の日のさして行く人もなく浦風吹きぬ

浦風に芒なびきて淋しかな岸辺の稲の刈られけるかな

松川浦岸辺にかすか虫の音や真昼静けく稲は刈られぬ

2008年06月27日

郷土史も地理が大事 (虎捕山伝説から佐須の場の解明)

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郷土史も地理が大事−(虎捕山伝説から佐須の場の解明)
 
●トポス−場の神聖
 
歴史は地理であるというとき地理がわかれば歴史がわかる。つまり地理と歴史は一体のものだから地歴となった。地理は地利であり地の利にもなり地理は地形や地勢ともなる。地形とか地勢も地理を歴史を知るには不可欠なのだ。
 
隱されている諸対象が、それらの(発見)場所を確認して特徴づけるならば、容易に見つけ出されるように、もしなんらかの素材を詳しく研究したければ、われわれはそのトポイを知らなければならない。なぜなら、素材がそこから確認にまで連れ出されるところの場所(わたくしは、そのようにいいたい)は、アリストテレスによってそのように呼ばれたからである
 

(topos,複数はtopoi)をなお使用することにしよう.古代にはこのようなトポスの収集が行なわれた.そしてトポスに関する学問は「トピカ」(topica)と言われた
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/notes/topos.htm

 
或る意味で、神道は場所への信仰でもあるといってしまうことも可能であるかも知れない。三輪山を初めとして、場所そのものがご神体であることも少なくないわけだし・
これもむずかしいく説明されていても場所がいかに大事かを言っている。場所がトボスが何かの起こる原因でありそのトポスを知ることが事を明らかにすることになる。トピカはトピックになっているから現代に通じているのだ。起きるもtake placeであり場所と深く関係しているのだ。歴史は地理を知らずして理解できない学問である。そして地理は地図をみたくらいで理解できない、近くの地理に詳しくなるのもむずかしいから歴史を理解することはむずかしいのだ。平面的点としてとらえても地理は理解できない、地形、地勢となると立体的だから理解しにくいのだ。これを例え立体地図で見ても理解できないしテレビのような動画で見ても小さな画面であり理解できない、結局実際に路査することが地理を理解することなのだがこれも電車や車だとなかなか地理はわかりにくい、遠近感や立体感とかがぬけおちてくる。電車では峠もないから高低差がわかりにくくなる。だから一番いいのは歩くことなのだがそれができないなら自転車が一番適している。峠を越えるというときいかに峠を越えるかが大変なものか昔の人の苦労を知り次に遠さの感覚も歩きのようにはいかないからそれに近いものを体でしるようになる。体で知るということがまた地理を知ることに通じている。歩きで自転車で旅することがどれだけ疲れるか体で知るということが地理を知ることに通じている。電車では体で知るということにならないから大局的に見るにははいいにしても地理はわからないのだ。旅をして皮肉なことは便利になればなるほど地理はわからなくなる。飛行機は全く地理はわからない、離陸と着陸の時しかなにも見えないからだ。地球はただ暗黒の世界だった。だから地理を知りたかったら飛行機→電車→車→バイク→自転車→徒歩となってしまう。つまり人間は便利になったからといって世界を理解したわけではないことがこれでつくづくわかる。コンピュ−タ−でも衛星の映像を見ても地理はわからない、路査しないかぎりわからない、伊能忠敬は路査して地図を作ったから足で歩いたから本当に地理がわかったのである。コンピュ−タ−で飛行機で衛星で地図を作ったとしても地図を作った人々も地理はわからないのである。これが郷土史と何の関係があるかというと郷土史も地理−地形−地勢がわからなければその歴史も解きあかすことができないのだ。これは佐須という地域を知るために書いたのである。虎捕山の伝説の意味を知るための前置きだった。
 
●山津見神社の虎捕山伝説を地理から解明する
 
橘墨虎という悪者を退治するように朝廷は源頼義に命じたがなかなか退治できずにいたところ、ある夜「シロオオカミの跡をたどれ」と山神のお告げがあり、足跡を追ったところ難なく墨虎を退治できた。このため山を虎捕山と名付け山の神であるシロオオカミを祭ったというのが山津見神社である。
 
橘墨虎とは何者なのか?源頼義は八幡太郎義家の父親で、陸奥の阿部氏を討ち東国に源氏の地歩を固めた武将である。橘氏は安倍氏側についた人でありそれで対立した。源頼義は源義家の父親であり義家伝説は東北のいたるところにある。大倉の峠を上るところにもあり真野川をさかのぼってきた。その頃まだ道はない時代である。真野川をさかのぼって佐須に逃れた。佐須は隠れる場所に最適な場所だった。山に囲まれているし交通が道がない時代なら真野川をさかのぼるほか行きようのない場所だった。飯館とか霊山あたりとか全体を見ても格好の隠れ場所だった。佐須とは焼畑のことである。最初に焼畑をする人が山に入り込んだのである。焼畑は古い農法だから山には田を作る以前に住民が住んでいたことになる。山の民が古いというとき焼畑とも関係していたのである。賊を刺したから佐須というのは俗説であり地名由来にはそういうのが多すぎるのだ。佐須が最初にあってその地名にこじつけた地名伝説が生れるのだ。だから佐須という地名は相当古いのである。大倉より古いかもしれない、今では佐須という地域は一番奥まった所なのだが焼畑をする人にとってはそういう場所が焼畑に適していたことになる。佐須という地域は今では霊山にでるのにも山に囲まれている。その山を下ると行合道になるからその山をでてようやく霊山の方で出合う道がでてきた。祖谷でも山を出るところに出合とかの地名があり山を出る所でようやく人が出会い交わるところになる。
 
万葉のむかしから「隠り口(こもりく)の」は初瀬のまくら詞になっている。隠り口とは隠り国、つまり山間に隠れた国のことである。雄略天皇の初瀬朝倉宮跡は、いかにも隠り口というにふさわしい桜井市黒崎の集落にある
 
海石榴市(つばいち)は、現在の桜井市金屋にあったとされています。この地は、山の辺の道、初瀬街道(はつせかいどう)、磐余(いわれ)の道、山田道などが集まるところで、市(いち)として栄えたようです

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最初の国が隠り口にあった。山の入り口に近い所にあった。そして市がたつのはその山から平地に出る所なのである。そこに海石榴市がある。この市は山の民と平地の民が交わる場所であり山の民は先住民であり平地の民はあとから入ってきた。飯館に一番古い縄文遺跡があるというのもそのためだろう。つまり日本の最初の国は平地ではなく山の民にありその後均す(ならす)であり平地をならして奈良という大きな都が作られたのである。狼がなぜ神として尊ばれたかというと猪や鹿などを食い焼畑を守ってくれるからだとありそこでもともと山津見神社は狼を祀る祠のようなものとしてもともとあったのかもしれない、いづれにしろ虎捕山の頂上に虎捕穴とかありそこに隠れたとするのも本当に隠れるには一番いい場所であることが地理的感覚でわかる。だからこの伝説は地理から解釈して歴史的事実でありその地理から歴史を知ることができる。ただこれも外から来た人は佐須という地域を体の感覚で知ることがむずかしいのである。これは私自身も旅してその場所のことが体の感覚でわからないから歴史が理解できなかったのである。
 
●古代のトポス(場の深遠な意味)
 
小牡鹿さおしかの入野の薄すゝき初尾花いつしか妹が手枕たまくらをせむ 2277
 
 「小牡鹿の」は枕詞。「鹿が分け入る野ということから地名『入野』にかかる」。「入野」は「所在未詳。京都右京区大原野上羽町にある式内社入野神社の辺りをさすかとする説もある。元来奥まった平地をいう普通名詞」(日本古典文学全集『万葉集三』小学館の付録「地名一覧」p536)
 
我が恋はまさかもかなし草枕 多胡の入野の奥もかなしも 卷14-3403 東歌 
 
多胡の入野とは焼畑の地であり渡来人が焼畑に入ったとかあり韓国語系統とか言う人もある。このように入野の奥の野は斜面であり必ずしも平地ではなく焼畑に適した地だった。鹿が分け入るような入野であり鹿はしかし焼畑や畑を荒らす害獣でもあった。焼畑には鹿が来て荒らす。そこで鹿を食う山犬-狼が神の犬ともなった。山津見神社が狼を祀っているのは佐須とうい地が焼畑を意味しているように焼畑が盛んでありそれを猪や鹿に荒らされるので狼を祀った、そのあとに虎捕山の伝説が生れた。その伝説の前に狼を祀る社があったのかもしれないのだ。
 
山下り佐須をい出れば行合道残雪輝く吾妻峰仰ぐ

たどりつく佐須こそ遠き奥処かな魂を鎮めて眠る地なれと
 
ここは飯館あたりで最も奥地であり魂が鎮め眠る場所に最適の場所だったのである。そういう場所の神秘がありこれは外部からなかなかわからないのである。そこは神聖な奥津城にふさわしい場所なのだ。地理から見て地勢から見てそういう場所が確かにあるのだ。しかしこれは全体から見てその場がありうる。一部分をきりとってその場があるのではない、ギリシャでもドルフィの神殿がある場所は神聖な場でありその場の特性から神殿が建てられたのである。その場に神聖なものを最初に感じて神殿が建てられた。神殿はやたら建てられることはない、場所の神聖さとういのがありこれは外部から一度たずねたくらいではわからないのである。南相馬市の原町区の桜井古墳にしてもなぜあの場所なのだろうか?そこがやはり古代において一番住み良い場所でありそこが場所の必然から選ばれた。古墳のある場所はやはり古代において一番住むのにいい場所だった。真野の寺内の金銅双魚佩が発見された前方後円墳もやはり真野郷では一番住み安い場所だった。平地は真野川が広がり土手もないのだから一旦大雨が降ると川が広がり湿地帯になってしまう。だから高いところは住みやすくそこに古墳が作られた。名取の雷神恁テ墳もそうである。場所には特別な意味があるのだ。
 
地勢や地質や気候によりそれぞれの土地は本来そこにあってこそ輝きをます、その土地の花を与えられている

我々が今自然を冒涜するというとき、我々が自然を自らの目的に役立つようにりようしているからではなく場所の精神にたいして敬意を払うことなしにそれを操作しているからなのである。
(ルネ、デュポス)


文明も間断なく景観を使い尽くすことにより消滅した
 
場所には場所特有の神聖が備わっている。場所に敬意を払ったのが古代人でありそれは自然と密着して生活していたから必然的にそうなった。神社というのもいろいろあるが場所の神聖性とも深く関係していた。ギリシャの神殿もそうであり古い文明はたいがい場所の神聖性がありそこに宗教の礼拝所が作られた。今場所の神聖性を問題にすることはない、景観も自然も経済的効率とか合理的とかで破壊されてしまう。古代人が遅れていたというより文明は技術的には優れていても精神性では後退しているともなる。まず場所に敬意を払うなどということを思いつきもしない時代になっているからだ。神道の地鎮祭は地の霊を鎮めるということで古代の地への畏れ敬意が祀りとなったのかもしれない、現代の場は利便性のみで追求されている。しかし場には今でも不思議な力があるのだ。その場に立たたない限り知り得ないものがある。これはテレビで見ようが写真でみても決して理解できないものがその場にはある。その場への神聖な感覚が喪失したのである。
 

(参照)
東和町などの地名(焼畑から田の地名)
http://www.musubu.jp/chimeitouwa1.htm

2008年04月24日

鉄、銅、馬、黄金、塩の道としての陸奥の真野の草原


鉄、銅、馬、黄金、塩の道としての陸奥の真野の草原


●塩釜の塩は多賀城の城壁の接着剤に使われた
 
陸奥に中央政府が求めたのは資源である。鉄は陸奥の真野の草原が産地でまた製鉄の一大拠点の場となったから奈良の都にも知られたのである。草原→萱の原ではない、鉄を作り加工する場所としての草原だった。
 
みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

すめろきの御代栄えむと東なる陸奥山に金(くがね)花咲く 大伴家持
 
これは鉄と黄金の産地としての場所であり風流とか詩的なものとは違っているし風流からとか詩的イメ−ジで古代が語られるわけがない、陸奥の荒蕪の地に求めたのは具体的な資源だったのである。和銅と年号になったのもそのためである。これは東北に産出した銅という説もある。現代の文明の年号は世界中で石油になっている。その他に陸奥は名馬の産地でありこれも靺鞨(マッカツ)国−渤海との交流でもたらされた、多賀城の壺の碑に靺鞨とあるのはそのためである。つまり資源を求めて陸奥に中央政府は征服にきて多賀城を作ったのである。歌枕も鉄の産地として関係していて風流の歌枕の旅はそのあとに知られるようになった。塩は塩釜であり大量の塩が生産された。釜とあるからまさに塩を生産する釜が大事であってこれも資源であった。塩釜は島が多いから塩の生産に向いていた。だから塩をとる煙が絶えなかったのである。相馬の松川浦の原釜も釜とあるから塩をとる場所だった。意外なのは塩が接着剤として多賀城で大量に使われていた。接着剤は建築で重要でありさまざまなものが使われていた。米もノリになるから接着剤はいろいろなもので使われている必需品だった。
 
塩竈は、古くから塩造りで栄えた町であり、食用はもちろんでしたが、それ以上に城壁を固める為の接着剤として大量に製塩されたようです。多賀城国府が東北の軍事拠点として存在していたために、東北各地に運ばれたと考えられます
http://ebisuya-turi.com/rekisi.htm

塩に含まれる「にがり」 が土を締める動きがあることから、築地塀や道路を作る時にこの塩を使ったとも考えられている

多賀城と古代交流の道

(塩からつくられた塩素は塩化ビニル、水道水の消毒、漂白剤、接着剤などに・・・)

塩釜は食料の塩だけではない建築にも使用されていたら大量に塩を生産する場所として重要だったのである。いづれにしろ東北は近代まで中央に資源を提供する場として重宝であった。地方は都会に資源を提供するのは戦後の一〇年くらいまで継続していた。炭が燃料の時代は二千年もつづいている。日本のいたるところに森林鉄道ができたのも木材を供給するためであり石炭もそうだった。資源はみな国内でまかなうほかなかったからである。人間はあらゆるものを燃料として使わねばならない、インドでは牛糞も燃料となる。当時石炭の産地はも筑豊でもも夕張でもまた石炭の積みだし港として鉄道が敷かれた小樽でも石炭の街として記憶されていた。ミイケ、イワキ、ユウバリ、・・・・という名前は石炭のとれる場所としてイメ−ジされていたのである。みちのくの真野の草原遠けれど・・・の別な解釈はそんな遠い地にも鉄も求め黄金を求めてゆくという意味がふくまれていたのだ。みちのくの真野の草原とは具体的な利を得る、資源と鉄の一大生産場所だった。一面に萱原がなびくだけの荒蕪の地としてイメ−ジされることないのだ。笠女郎が面影に見ゆと歌ったのは萱原でイメ−ジされるものではなく慕う大伴家持のことであり陸奥のような遠い所に行ってもあなたの面影は忘れることはありませんということなのである。
 
●大伴家持は陸奥で死んだ?
 
大伴家持は陸奥に派遣されて死んだともされているし真野の草原の歌は時代的にあっていないというがそのあとに作られたらしいという考察もありそれも真野の草原の歌と具体的に一致するからその方が歴史的事実なのかもしれない、逆に大伴家持が秋田まで遠征して笠女郎を思った歌を残していたという、その木簡は「春なれば今しく悲し−ゆめよ妹、早くい渡さね 取り交わし・・・・」の考察も飛躍しているにしてもありえないことではない、大伴家持が陸奥のさらに奥地で面影に見ていたのが笠女郎だったというのも必ずしも空想とも言えないのである。そうでないと真野の草原の歌はなかなか理解しがたいものとなるからだ。大伴家持が陸奥で死んだとしたらこの歌もリアリティが帯びてくるのである。
 
家持の陸奥にし死なむ女郎(いらつめ)の思いは遠く真野の草原

家持の陸奥に死せしとその魂(たま)のさまよいつつも奈良し思いぬ
 
万葉集で明確に特定される地名は不明なのが多い、ただ陸奥では黄金のとれた小田と鉄のとれた真野の草原は具体的に今でもわかる。黄金とか鉄の産地はその鉱脈のある砂鉄がとれる狭くても一地点が大事になるから地名として明確に記憶されたともとれる。アメリカの西部開拓がエルドラ−ド(黄金郷)を求めての開拓であり未開拓の地へは資源を求めることが先にある。銀もその一つであり銅もキプロスの名が銅に由来するように島でも資源が大事になるのだ。天平21年(749)、陸奥守だった百済王敬福は、任地の陸奥国(今の茨城県)から産出した黄金900両を大仏の鍍金のために献上し、聖武天皇をいたく喜ばせた。この鉄や黄金の発掘には渡来人が技術をもっていて深くかかわったのだ。白人という名前が泉廃寺跡から発見されたのも

渡来人がすでにここに住みついていたからである。
 

いづれにしろ家持の最後は謎であり大伴家持自体が
  

    鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に
  金ありと 奏(まう)し賜へれ 御心を 明らめ賜ひ
  食(を)す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして
  もののふの 八十伴の雄を まつろへの むけのまにまに
  その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし職(つかさ)
  海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍
  大王の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと

 
この歌のように陸奥で死んだとなる。これは大伴氏が黄金を大仏の鍍金の黄金を求めて天皇に仕えるという意味でもあり天皇のために敵を殺すというより黄金を求め黄金を天皇に献上することに要点が置かれていたのである。戦争でもこの歌がとりあげられたが万葉集時代と同じ意味にとることはできない、ただこの時代にこの歌が現実化したことはショックだった。テレビで水漬く屍、草生す屍としてジャングルから日本兵の頭蓋骨が掘り出されたのはあまりにも悲惨だし今でも日本兵の屍は異国に放置されている。ともかくこの気概で陸奥に老いて赴任して死んだのかもしれない、外国で死んだ日本兵も日本へ帰る思い残して死んだ。その故国を思う人は家族であれ恋人であれあまりにも悲惨であった。つくづく人間は故郷を離れてみてはじめて故郷を慕う望郷の念を強烈に抱く、現実は家族が家から離れて病院や施設に入れられると常に家に帰りたいと嘆きつづける。家は一つ山越えた先なのだがそこに重病で帰られないという現実があった。そんな近くでも帰らないというのは一つの悲劇である。つまりこんなに近くでも一旦家から離れると強烈に家を思い面影として浮かぶのが人間なのである。面影を求める心は死んだ後もつづいている。愛する人の面影は求めつづけられる。それは家族が切り離される時もそうなる。家族の価値も空気のようなものだが一旦一人でも失われると強烈にその欠けたるものを思うことになる。人間存在の価値は失われてはじめて気づくことがかなりあるのだ。笠女郎があれだけの名歌を残したのは皮肉にも大伴家持と常に離れていたからである。それが陸奥の真野の草原まで面影を追い求める結果になったのである。
 

(参考の本)
秋田城木簡に秘めた万葉集(大伴家持と笠女郎)
(吉田金彦)


 

2007年06月26日

錯覚しやすい陸奥の真野の草原→真野の萱原


錯覚しやすい真野の草原→真野の萱原

原文]陸奥之 真野乃草原 雖遠 面影為而 所見云物乎
[訓読]陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを

まだみねば面影もなしなにしかも真野の萱原つゆみだるらん
-藤原顕朝[続古今])

   吾が勢子は 借廬作らす 草(かや)無くは 小松が下の 草を苅らさね (1/11,間人皇后)


   み吉野の 蜻(あきづ)の小野に 苅る草(かや)の念(おもひ)乱れて 宿(ぬ)る夜しそ多き

(12/3065,読人知らず)

   紅の 浅葉の野良に 苅る草の 束の間も 吾を忘らすな (11/2763,読人知らず)


インタ−ネットで検索すると原文は草原だったのに萱原と出てくるのが多い。草(かや)と言っていたから草原も萱原をイメ−ジするのはわかる。万葉の時代は草(かや)であったがのちに草(かや)は萱になった。かやは萱であり萱は萱場とか屋根をふく萱である。萱はどこにでも繁っているし萱とつく地名が多い。万葉集以後はかやを草ではなく萱として表現している。
 

天にあるやささらの小野に茅草刈り草刈りばかに鶉を立つも 3887

茅草という表現もある。日本語にはクサとカヤを区別していたが漢字が入ってきたときクサとカヤを草にあてたのである。後に草→くさ、萱→かやになったのである。萱は確実に今知っている萱である。万葉以後はだから萱を草と表現していない、古今集でも萱原だし奥の細道でも真野の萱原になっている。
 

真野の萱原(かやはら) 現在の石巻市真野字萱原付近。長谷寺があり、そこに「真野萱原伝説地」の標柱がある
 

ようよう貧しい小家で一夜を明かして、明ければまた知らぬ道を迷い行く。袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原などをよそ目に見て

陸奥真野萱原尾花」は「天明七丁巳十一月七日白非英二生ョリ送来ル」とあるという。菅江真澄は天明六年1786)九月十西日に真野宣原を訪ねているので、この時採取したものと推定できる
 


石巻市真野字萱原の地名がいつの時代のものなのか?万葉の時代にさかのぼる地名なら真野の草原に該当するのか?石巻に古代の真野郷は存在していない、古代に存在する萱原なら草原になっているのだ。萱という漢字は万葉以後のものだからである。ただ江戸時代では石巻が真野の草(萱)原となっていたのである。おそらく地名の影響が大きかったのかもしれない、地名的にはぴったりだからである。でも地名にはもともと根拠もないのに地名から勝手に解釈して伝説まで作っていることがあるから要注意である。管江真澄は実際に萱−尾花まで採集して送っている。これは石巻の萱である。これほどまでに真野の萱原は萱として一般化されていた故にその萱まで土産にしようとしたのである。


前にも書いたけれども草(かや)は一字で用いられ一般的には材料として使うカヤなのである。草原(かやはら)と用いられたのは万葉集にはないし萱が一面になびいているという景色を歌にすることはなかった。その後も萱は屋根をふくとか材料としてみていたのであり萱が一面になびいて美しいとか見ていないのだ。茅葺きの屋根を作るのには膨大な萱が必要なのである。実際の生活に欠かせないものとして萱があったのであり美的に鑑賞して美しいとかにはならなかったのだ。ところが人間は過去になると必ず間違った解釈が入ってくる。勝手に想像することができるからみんな詩人になってしまう。地名は実用的なものとしてつけられたのが多いし詩人がつけたのではない、生活者が必要から作り伝えてきたものである。それ故地名には無味乾燥なのが多いのだ。そこに錯覚が生じるのが歴史である。

確かに草原(かやはら)は以前として大きな謎である。真野の草原→真野の萱原としてイメ−ジ化された。これは漢字の作用が大きく働いたのだ。それで今回南相馬市の鹿島区に鹿島町の職員が退職記念に建立した源実朝の歌もやはり草原は萱原になっている。
 

みちのくの真野の萱原かりにだに来ぬ人をのみ待つが苦しさ 源実朝
 

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを 笠女郎

これもまず草原を萱原としてイメ−ジされそのイメ−ジに基づいて実朝の歌も作られているのである。一面に萱原なびく辺境の淋しい陸奥の真野に想う人、恋しい人はかりにだも面影にも現れないという地元からの発想をしているのだ。笠女郎は奈良というと遠い世界から真野の草原を面影に見たのだが実朝は逆にみちのく真野に自分が在住するようなものとして歌っている。鎌倉だからその頃みちのくは古代より近い存在にもなっていたともいえる。鎌倉から来た岩松氏は鹿島区では一番古い姓でありその臣下の四天王といわれた人の姓が今日にもつづいている。船で来たことは確かでも鎌倉ではなく陸路を阻まれたため磐城辺りから船で上陸したらしい。これは岩松氏一族の歴史をたどるホ−ムペ−ジに詳しい。

ともかくこの歌も草原が萱原としてイメ−ジされるものとして定着していたからできた歌なのである。でも本当に草原→萱原なのか?これは大きな疑問であることはこれまで考察した通りである。

2007年01月11日

相馬の製鉄遺跡群(今村均)を読んで 南相馬市の金沢製鉄遺跡の土器にあった「今」の陰刻の謎

相馬の製鉄遺跡群(今村均)を読んで(相馬郷土史の部)
http://www.musubu.jp/manokayaharaima.html


かなりの発掘の成果がでた。やはり文字が記されていることが大きな手がかりとなる。史実と遺跡の照合一致をみることができるからだ。
ただ陸奥の真野の草原の歌は謎が深く未だに解明できない、でも草原を
萱の原としていたときよりは史実に迫ってきたのである。

高麗原という小地域が常陸にあったことでもわかる。間違いなく草原は萱の原ではない、地名なのである。ただ真野郷のどこが草原なのかとなるとこれまた確定はできない、高野新笠というのがまた謎なのである。これは平安京になってからの人でありわかりにくい、でもその足跡が史書に明確に知るされている。

2006年11月09日

陸奥真野草原考−補足

manokayahosoku1.JPG

陸奥の真野の草原遠ければ面影にして見ゆというものを(笠女郎)

東(あづま)の国に 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 黄金有りと 申したまへれ 

すめろきの御代栄えむと東なる陸奥山に金(くがね)花咲く(18-4097)-大伴家持

「陸奥国小田郡(現在の遠田郡の東半分)」 小田なる山とは小田郡内にある山なのだろう。ここではそれでも小田郡となっていれば郷よりは広いのである。真野郷は行方郡内にあり草原(かやはら)がさらに真野郷の中の一地域名としたらいかに狭い地域がクロ−ズアップされたかとなる。ただ陸奥は最初の時は陸奥(みちのく)としての広大な未開発の荒野のようなイメ−ジとして中央から見られていた。そういう広大な未開の地域で何に脚光があびるかとなれば何かの資源がある、特に黄金となるとこれは注目される。だから小田は知られるようになった。鉱物資源はその鉱物がとれる所が小地域が重要になるからだ。では真野郷自体が郡より小地域であるとするとそんな小地域が奈良の都の人に知られるようになったのか?それが最大の謎だとなる。鉄がとれたからとなるがそれにしても黄金がとれる小田ならわかるが果たして鉄資源がとれるだけで奈良の都にこうした小地域が知られるものだろうかとなる。ヤマトとという地名さえ奈良の中の一小地域名でありそれが国の名までになったのだから一小地域でも重要な場合がある。

越の名の起こりは、越後国古志郡に由来すると考えられている。小地域の地名が拡大する例は多い。むしろその方が普通である。
和名抄に越後国頸城郡沼川郷が見える。沼川は万葉集には渟名(ぬな)川とある。渟名川は「瓊(に)(玉、赤色の玉のこと)の川」の意である。糸魚川市の西で日本海に注ぐ姫川の支流の小滝(こたき)川をさかのぼると、ヒスイの原石が出る。沼河比売は「瓊の川姫」すなわちヒスイのシンボルの女神にほかならなかった。

http://www2.hokurikutei.or.jp/backnum/99nov/ZH_Folder/ZH2.html

これもヒスイという資源の故に有名になった。ここでは越後国頸城郡沼川郷であり沼川郷は真野郷と同じくらいの地域である。しかしさらに草原(かやはら)が地名だとするとそんな狭い地域が奈良の都まで知られるものだろうか?そこがこの歌の最大の謎となる。つまりそんな小地域がなぜ奈良の都の人々に知られたのか、なぜ笠女郎が知るようになったのか、それは真野−草原が一般的に知られていたからそうなのか、ただ大伴家持を面影の人としたとき小田郡の山に黄金がとれたことを歌っていることは重要である。大伴家持と何か特別な産物がとれることがその土地を知らしめることは世界でも多いからそうした小地域の名が知れ渡ることになる。シルクロ−ドでもシルク−絹が通る道だから絹があってこそシルクロ−ドは世界に通じていたのである。

百済王敬福(くだらのこにきし・けいふく、697〜766)の孫娘・明信(みょうしん)を正妻としていますが、上の系図でもお分かりのように、大伴家持の妹も妻としているのです。そして、敬福が東大寺の大仏様のために、東北地方から産出したとされる大量の黄金を、誠に絶妙なタイミングで帝に捧げたとき、次の歌を詠んだ人が家持だったことを、皆さんは覚えておられることでしょう。

黄金のトライアングルhttp://www.ten-f.com/ougonno-torio.htm

大伴家持と百済王敬福は親戚関係にあったからこそ詳しい陸奥の情報が入ってきていたのである。その関係で陸奥の真野郷の情報も奈良の都に伝わったことは考えられる

黄金がとれたのは遠田郡の小田である。その小田に嶋田村があったということは泉廃寺跡の嶋□郷は嶋田かもしれない、その他遠田郡には真野公遠田郡で真野公営山47人が賜姓された。こう考えると嶋□郷は嶋田郷であり□□白人は高麗白人かもしれない、高麗福信という人がいたからだ。つまり製鉄や黄金をとる人々が渡来人中心にして移動してきたのだ

真野郷にいた産鉄の技術をもった一団が小田郡に移って行ったのだ。その指導をした百済王敬福と大伴家持は親戚関係だったから奈良に情報が伝わり真野が知られるようになった。ここでも渡来系の技術者集団が深くかかわっていたから草原(かやはら)がその百済の前の加耶国が地名となったかもしれない、草原はまた移動地名だから草原(かやはら)は萱の原だったというのはやはりありえないだろう。鉄資源とか黄金を求めたゴ−ルドロ−ドの一地点として真野の草原がありそれは小田郡へ通じていたし小田郡へ黄金を求めて真野−草原から移動して行ったのである。

詳しくはこちらへ

陸奥真野草原考−補足
http://www.musubu.jp/kashimamanotakuma1.htm