相馬藩の姓から探る歴史
(佐藤氏から岩松氏、岩本氏、只野氏、・・・・・)
姓から歴史をたどるとき必ず日本の姓の基は村がありその村の名が地名にたどりつく
その一番いい例が只野氏なのである、それは郡山の多田野村から出ているからである
その只野氏が南北朝の戦いで南朝側であり霊山が炎上落城したとき逃れた武士の一団でありそれで鹿島町に只野姓が50軒くらいまである
只野一族の村だともなる、近くにその姓の人達がいるからである
ただ由来がわかりにくいのは余りにも姓が増えたことなのである、もともと農民は苗字を持っていなかった、でも名字帯刀とかあり名字(苗字)を持つことはみんなできなかったからである、侍しかできなかったからである
でも明治以降はだれでも苗字を持つことができるようになって苗字が姓が増えすぎたのである、するとなかなか姓から歴史をたどることがむずかしくなったのである
この姓をたどるということは意外と世界史でも重要なのである、必ず父系になっている
誰々の父親の息子とかが姓なのである、日本だと姓はかばねという屍から来ている
それは父親の屍(しかばね)から来ているとなる
つまり母親ではないのである、それは結婚すると女性が嫁ぎ先の姓を名乗ることになる
そはれその家の父系の姓に属することになる
でも不思議に江戸時代までは嫁いだ先の家に自分の家の姓を記している墓があった
つまり嫁いでも依然として育った家の姓を変えずに墓に記していたのである
だから男女別姓とかでいろいろ問題になるけど女性は江戸時代でも弱い立場ではないこともわかる、ただそれは武家だったからそうなったともみる、なぜならそもそも姓がある家から嫁いだとしたらそこは武家だったとなるからである、普通の庶民とか農民は姓を持っていなかったからである
今回は佐藤氏に注目した、これもあまりにありふれた多い姓だから注目しない
でも相馬藩内で佐藤氏の由来は古いのである、佐藤氏自体が平安時代とか藤原の藤に由来するらか古いのである、ただ余りにも多くなったからその由来がわかりにくいのである
ただ塩手山の麓の二軒が佐藤氏だと聞いた、隣り合って佐藤氏だというときその佐藤氏はどこから来たのかとなるそれは義経に従った佐藤一族になる
佐藤基治。
奥州藤原秀衡のもと、信夫、伊達、白河あたりまでを統治していた豪族佐藤基治は、信仰心が厚く、居城とする大鳥城から眼下に望む薬師堂を改築し、伽藍を多数建立し境内を整えたとされています。
藤原秀衡は、私有地の管理を基治に任せて、荘園管理の職名を荘司と称したので「佐藤荘司」と呼ばれておりました。また、丸山(館山)の大鳥城に居を構え湯野・飯坂を本拠としたため「湯庄司」とも呼ばれていたそうです。
https://www.iou-ji.or.jp/map-sato.html
この佐藤氏に由来している、佐藤庄司というとき原町に庄司建設があり庄司の姓を名乗る人がいる、そして霊山の近くに庄司渕という地名がある、庄司が地名までなっている
庄司は荘園のことだからそれと関係して名付けられた、荘園があったとなる
明らかなことは福島市の佐藤氏が相馬市の方へ移住してきたのである
それは鎌倉時代の義経の時代だから古いとなる、南相馬市の鹿島区に移住した岩松氏は船で烏浜に達して相馬藩の領主となった、だから相馬氏より古いのである
佐藤氏は確かに福島市の方から移住してきた佐藤氏である、それがわかるのは磯部館がありその佐藤氏が相馬の道の駅のすぐ近くにある鬼越館に移ったからである
それは高潮が原因だとしている、それは慶長津波の前だったのである
その磯部は今回の津浪で壊滅したのである、ただ慶長津波のことは記録に残っていない
ただ生波(津波)で700人溺死としか記されない、後のことは一切わからないのであるでも時期的にその後まもなく慶長津波が襲ったのだからその予感がして逃れたのかとも見る、現実に八沢浦の湊も津浪で壊滅したがやはり高潮で被害があった場所なのである
つまり高潮の被害は海側だと常にあった、その時ここは危険だとして逃れれば助かったとなる、でも海側の村はいくつも壊滅したのである
(伊達氏もかかわり中村城移転は相馬氏の支配を確立するため)
http://musubu2.sblo.jp/article/99907265.html
この辺の姓で一番印象的な姓は岩松氏である、鎌倉から一緒にきた家来が謀反を起こして幼児まで殺したので末代まで語られるようになった
現実にその家来とされた四天王の姓はつづいているのである、
「岩松氏は清和源氏足利流であり上野國新田荘岩松郷の地頭にして、『姓氏大系お』よび『荘園志料岩松文書』に詳しいこと、また越後岩松家戒名は修験道最高位であり、また東光寺佛は僻地に珍しい優品である」などの指摘を受け新田氏族の研究を勧められた。
http://fung.html.xdomain.jp/shishi/shishi00.html
今この地に岩松という姓(かばね)はなく断たれてありしも日里、中里、島、蒔田、後に日里改め郡という姓の人、その裔なる一族は確かにここに住みつづけてありしはその事件の真実なるを伝えぬ
日里家に種々奇怪なことの起これば日里氏は姓を改め郡とし殿の霊を慰めんと祠を祀りしと伝えられぬ
南相馬市鹿島区岩松氏の伝説
http://www.musubu.jp/kashimamanonado.htm
これは生々しい姓の歴史なのである、現実にこの辺ではこの岩松の重臣の姓の子孫は生き続けている、でも岩松の姓はないのである、姓は断たれたことが歴史の事実を示しているからである
もう一つ今回発見した相馬藩内の姓の物語で岩本由輝氏の本のあとがきに書いてあることで発見した
岩本本貫の地は相模国ではなしにもう少し南の駿河国富士郡岩本郷ではないかと考えられる、ここの実相寺で日蓮が「立正安国論」を現したされ日蓮宗の強い所でありそれで私の家も日蓮宗になっているのだと思う
(歴史としての相馬ー岩本由輝)
岩本氏の出身は相馬ではないにしても相馬藩とのつながりがあり疎開してきたという
やはりここにも疎開してきたのか、その話を近くの煉瓦職人に聞いたからである
疎開してきた人は地元の人にから子供でもいじめられたとかどこでも伝わっている
地元の人だから地元の話もした、戦争中疎開人の子供のことも話した
この辺にもそういう人がいたのかとなる
何でも食べ物がなくて盗んだとか言っていた、また弁当でも盗まれたとか腰にくっつけて運動もしていた
野菜でも盗まれたとかいうのは今でも同じである、畑とかのものが盗みやすいのである
梨とかでも一つくらいとって食べてもいいのかなともなるからだ
おそらく疎開の子供が食べ物を盗んだというのは食べ物が満足に与えられなかったからだろう、疎開のことではいろいろ語られている、相当に辛いことだった
http://musubu.sblo.jp/article/189910385.html
疎開の話は全国にある、それだけ東京から疎開した人達が多かったとういことである
それも一つの歴史となったのである
いづれにしろ姓とか地名から探る歴史は身近なのである、姓とか地名は常に今でも利用しているかし生活に欠かせないものとしてある
だから過去のものではない、現実今のものとしてある、だからその土地を見る場合でも人を見る場合でもその姓を見るのである
そして不思議なのは女性でもそうだが離婚して元の実家の姓にもどった人達も結構いる
だから離婚した人が姓が変わると戸惑うのである
それで夫婦別姓を法律化すべきだという人がいるのである
それだけ姓とは深く生活と結びついているから今でもそのなっているのである