2017年11月14日

南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)


南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎

(南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)
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相馬氏の系譜

相馬師常(千葉常胤の子)
相馬義胤(相馬師常の子)
相馬胤綱(相馬義胤の子)
相馬胤村(相馬胤綱の子)
相馬胤継(相馬胤綱の子、廃嫡される)
相馬師胤(相馬胤村の子)
相馬胤氏(相馬胤村の子、下総相馬氏)
相馬重胤(相馬師胤の子、陸奥へ下向)
相馬師胤(相馬胤氏の子、下総相馬氏)
相馬親胤(相馬重胤の子)

相馬 重胤(そうま しげたね、 生年不詳 - 延元2年/建武4年(1337年))は、鎌倉時代から南北朝時代の人物。陸奥相馬氏第6代当主。相馬師胤の子。相馬親胤の父

1323年、一族郎党80余騎、寺社、同行を願う百姓らとともに陸奥に下向。太田川沿いに拠点を広げて小高城を築くなど勢力を拡大、陸奥相馬氏の祖となった。鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政が成立するとそれに従ったが、のちに足利尊氏が台頭するとそれに味方し、南朝方の千葉氏、下総相馬氏と対立した。子の親胤を尊氏の上京に従わせる一方で、次子の光胤を陸奥の守りにつかせ、自身は斯波家長と共に鎌倉の守備にあたったが、北畠顕家の攻撃を受け戦死した。

●相馬胤村―+―相馬胤氏―――――――相馬師胤
      |(次郎左衛門尉)   (五郎左衛門尉)
      |
        相馬胤顕――――――→岡田氏・泉氏
           |
      +―相馬重胤―――――――相馬胤国―――相馬胤景―――高平胤直
      |(六郎左衛門尉)                 (九郎左衛門尉)
      |
      +―相馬有胤―――――――相馬胤平
      |(十郎)       (六郎左衛門尉)
      |
      +―相馬師胤――――――
      |(次郎左衛門尉)   
      |
奥州相馬氏内でも重胤の従兄・相馬胤平が、おそらく所領争いが原因で南朝方につき、北畠顕家に従って重胤流相馬氏と対立した。胤平は功績によって南朝から「左衛門尉」に任じられている。

@五輪塔は藪の中に埋まっており,由来を知るものがいなかったこと
A共同墓地付近を「左衛門塚」と呼んだこと
B八竜寺の山門礎石といわれる大石があったこと
C八竜寺は有胤の菩提寺であったこと
D有胤の居館が西殿にあったこと
E八竜寺とその所蔵資料が約二百年前に焼失したことが伝わっている

この系譜を見れば次郎とか五郎とか六郎とか九朗とかあり兄弟である。
ここで明らかなことは

A共同墓地付近を「左衛門塚」と呼んだこと

これは間違いなのである。そして高平胤直という人物はこの高平の地名を姓としたのである。重胤が陸奥に下向したからである。

地方の武人の通称に何々左衛門とか右衛門とかなるのは元は皆京に出て禁衛の兵士になったもののしるしで今なら下士官相当の役にすぎぬのだが田舎に帰ると社会上の地位であった(柳田国男全集16)

鎌倉幕府が成立するときにその前は平氏の勢力が強かった,だから胤平などはその平の一字をとったのかまたは高平胤直がいたからその高平の平をとって名前としたかもしれぬ
どちらかというと平氏の姓はとられていないから高平の平をとったのかもしれない。

八竜(龍)神社は多いし鎌倉時代に普及した,だから寺もあったとなる,相馬有胤の菩提寺であったことは高平という姓の人がいることでもわかる
ここに土着して住んだのである。

D有胤の居館が西殿にあったこと

なぜ西殿なのだろうか?

殿館(とのたてさま)の起源

殿は文字のごとく長者の建物に対する敬号である。家号の属する土地である。
建築物を呼んでその中に住んでいる人を直接に呼ぶことを憚った意味である。
すなわち御屋敷ということであります
これが遂に移り変わって直接人の名を郡長殿とか局長殿とかいうように人の名を意味するようになったのは甚だしい変遷であります
南北朝頃の文書に諸国の侍に出した感状などを見ると人の通称に殿の字をつけたものがあらわれかかっている

一例を言えば河野武蔵殿とかなっている,これが奥羽の方へ行くと何の何某館と書いてある、武士の住宅を館というのは東北の方言で西国に行けば京都を私淑して武家も皆殿と呼んだのである。(柳田国男全集20)

高平に西殿とか御屋敷とか古館とかさらに海側に館前とかがある,ここには相馬氏関係の館があった

相馬胤顕――――――→岡田氏・泉氏

泉氏は相馬氏が来る前に存在した土着していた地元の豪族だった,だから西殿から海側の館前までなんらかのつながりがある。
この辺には確かに館がありその館に属して人々が住んでいたのである。

上高平字沢田の白山神社に1基、下高平字堂後の共同墓地内に1基、下高平字川原の氷川(ひかわ)神社南西側に並んで5基の計7基から構成されています。
 川原地内のものに嘉元二年(1304)、応安二年(1369)銘が各1基、堂後地内の1基に嘉元二年の銘が刻まれており、他の無紀年のものも含めていずれも地元産の自然石を利用し、種子(しゅじ)調法が薬研彫りであるという共通した特徴から、追善供養(ついぜんくよう)や逆修(ぎゃくしゅう)などのため、在地の武士や僧侶等の有産者階層により、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて造立されたと考えられます。

鎌倉時代末期から南北朝時代とありちょうどここに相馬有胤-相馬胤平などがここに殿を館を構えた時期なのである。それは相馬氏がここに移住してその信仰ももたらされたとなる,この辺で鎌倉時代のものがあるのはまれだから貴重だとなる 
そしてなぜ西殿なのか?それは東から見て西にあるからとなる,すると西殿とは東から見てそう名付けられたのである。でも東には泉という地名と館前という地名がある。
そこにも人が住んでいたのである。西殿があれば東殿があっても不思議ではないのである

西殿とか御屋敷とか古館とか中世の石塔がある所までは津浪は来ていないのである。
相馬氏と対立勢力が地元にあり泉氏はその一族だった
それは海側の東にあり慶長の津浪で館も流されたのかともなる
慶長津浪は1611年に起きている,その前に泉氏は相馬氏に不満があり牛越城に火を放っているからだ

牛越城で泉氏が人夫徴発のことで不満で館に火を放つ

牛越城の施行は慶長二年(1597)近郷の土豪を夫役に徴発してはじめられた。
中ノ郷の備頭(そなえかしら)泉右衛門政胤(泉館在住)はこの人夫徴発のことで不満があり館に火を放って会津の上杉氏に走る事件があった。

泉氏は進出してきた相馬氏と対立関係にあったのである。西殿とか御屋敷とか古館とか地名が残っている一体,中世の石塔群がある一帯がそうである。
これはかなり後になってからの事件である。1611年に慶長津浪が来たからである。
もし津浪が来たとしたら泉氏の住んでいる場所は海側なのだから被害があった
西殿中心の相馬氏の住んでいる場所は津浪の被害がなかったともなる
何か西殿一帯には相馬氏が勢力をもち対立するものとして泉氏があってもめたとなる
牛越城5年ほどで終わり中村へ城を移したのである。

いづれにしろ高平の柳町の五輪の塔は実に立派であり貫祿がある,それがだから
相馬有胤―相馬胤平の墓だというのもそれなりにイメージできる
まずこんな立派な墓だったらそれだけの名のある人でないと遺せないからである。

ともかく時代がたつと全く忘れられてしまう無情である。

西殿と名のみ遺して忘らるや跡形もなく木枯らしの吹く

あの辺はしょっちゅう自転車で通るから気になる場になっていた,川子の御堂がある所もそうである。買い物に自転車で原町に行く自分のルートになっているからである。
やはりそういう身近な場所には興味をもつのである。
今回は何か遺された史書と辻褄が合う,千葉氏の研究とういサイトから引用した
ここでは著作権違反のことを指摘されたことがあった

そういうことがあるのでまたあるかもしれない,引用に問題がある,ここに書いてありますよというリンクだと問題がないのである。
だから指摘されたらリンク張るだけにすればいいとなる
リンクは許されているからである。

2016年01月09日

卒塔婆峠についてコメントありましたので答えておきます



卒塔婆峠についてコメントありましたので答えておきます


卒塔婆峠は前は道として確かにあったけどその後道が埋もれてわからなくなった
江戸時代もありこの道は飯館村と玉野村を結ぶ道だった。
それは南北朝時代からつづいていた古い道である。

逃げ延びてきた十三名の落ち武者を村人が殺めるという事件があったそうで
その後、供養のため峠に卒塔婆を立てた事からその名が付いたとか??

その根拠はどこにあるのでしょうか?

南北朝の争いで霊山城が炎上したとき落ち延びた桑折氏は山王権現を信仰していた。
約十三人は宝財踊りと名付けて姿を変ずること左のごとし

柄杓廻  顔を染め短衣をつけ
子供懐抱  芋屑頭巾を冠り顔を隠し女衣つけ子を抱く
山伏  顔を染め
獅子
笊下冠
道心坊  顔隠し
座頭    顔を隠し
笛吹

このように変装したのは落ち延びるためにそうなった。襲われることを恐れて変装した。
十三名というのは落ち延びた武者のおよその数だった。だから卒塔婆峠で殺されたというのはそういう数が伝えられていたからである。
十三名が殺されたわけではないだろう。
山王権現は玉野村から山上村にも祀られている。山王権現は野馬追いの旗印にもある。
玉野村から二手に別れて落ち延びたのである。

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この旗印の武士は日下(くさか)となっている。山王権現を受け継いできた姓なのか?
日下石(にっけし)は別である。


落武者伝説は各地にあるけどこれは明確な歴史として残されている、宝財踊りで顔隠しということがあるからやはり武士としての身分を隠すものだったのだろう。
要するにそれほど襲われることを恐れていたからこういう変装をした
それで落武者が殺されたという伝説にもなる、落武者狩りなどもあったのかもしれない

その時郡山の多田野村から移った武士がいてその末裔が同級生だったことに驚いた。
南相馬市の鹿島区には只野、但野という姓の家が本当に多いのである。
その人はお浜下りのおつづら馬を担当してきたという。
つづらをのせた馬のことであり重要な役割である。
これも不思議な縁起だと思った。鹿島区の街内も古い場所であり古くから人が住み着いた場所である。自分の近くの神社に天明の碑があったことでもわかるからだ。
鹿島神社の脇の墓地には安永の碑もある。

落ち延びてきた武士を村人が殺すということがあったのか?それは戦国時代ではあった。
明智光秀などが村人に殺されたのは村人が手柄としてその首をもって報償にあづかるたである。ただ南北朝の争いは複雑であり誰が敵なのか味方なのかもわかりにくい
そういう中で村人が襲うということがあったのか?
それでもそれだけ恐れていたからこれほどの変装して霊山城を逃れてきたのである
それが祭りとして残ったのもその落ち延びる時が恐怖として残り記念として祭りとなったのである。

ここのサイトでは樅の木に注目していた。自分も隠れたように重厚な樅の木を発見した。
やはり相当な樹齢の樅の木であり貫祿があったので詩にしたりしたのである。
道のマニアとか廃線のマニアとか廃墟のマニアとかいるようです
こういうところには何かかえって魅力を感じるのも現代である。

お浜下り

参照したプログ

タグ:卒塔婆峠

2014年11月20日

相馬藩内に鈴木、渡辺の姓が多いのはなぜか? (熊野から黒潮に乗り伊豆から常陸と移動した水軍の末裔)


相馬藩内に鈴木、渡辺の姓が多いのはなぜか?


(熊野から黒潮に乗り伊豆から常陸と移動した水軍の末裔)

●立谷氏は熊野水軍、渡辺氏や天野氏は伊豆水軍の系統

立谷家ル―ツ Vol.3

鈴木重原は元々義経に従って勲功あり、功績を上げていた。その後紀州に帰ろうとしたが、里人に尊ばれるに及びこの地宇田郡中野邑にとどまり、宇田郡の那主と称し数村を領し、熊野大社をまつり祭祀を怠らなかった。
 また、建武年中(1330年〜)国司北畠顕家は特に熊野神社を尊信し大社として多くの神官、社僧をおいて中野地区は大繁栄していた。その後、乱世時代に成り下火になっていった。鈴木重原は中野左近亮の先祖にあたり立谷と名を改める。

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2004年12月25日
立谷家ル―ツ Vol.2
文治五年三月(1189年)泰衡が義経を岩手県衣川高舘に攻めた時、鈴木重原(紀州藤代和歌山の住人で熊野三山新宮・衆従の子孫に当ると思われる)
 鈴木重原は、兄重家が義経と共に戦うと聞き、義経と兄重家を慕って家臣安子、蟹田、石田、山津田氏等を率いて奥州に下る途次、既に衣川の高舘は灰燼となり皆闘死したことを知り、成すところなく、やむなく宇田郡中野邑にとどまった
 http://blog.livedoor.jp/tachiyafamily/archives/2004-12.html
 
 
 天野氏(あまのし、あまのうじ)は日本の氏族、藤原南家工藤氏の一族(藤原北家の一族足立遠元を祖とするとも)で、伊豆国田方郡天野郷(現・伊豆の国市天野)に居住した地名を取って天野と称した。天野氏は後に遠江守護となった今川氏と結び、国人勢力として遠江にて共に力を拡大した。遠江国のほか、天野氏の支流が駿河国・相模国・三河国・尾張国・甲斐国・安芸国・能登国等に繁延している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E6%B0%8F

その先祖渡辺喜兵衛は伊豆の舟大将として、徳川家康の信任厚く護送役人をつとめた。
豊臣家5大老のひとり宇喜多秀家が関ヶ原の合戦に敗れ、八丈島へ流された際、護送の任にあたったのもこのひと。
http://www.town.matsuzaki.shizuoka.jp/FMPro?-db=m_faq_02.fp5&-format=p01f.html&-max=all&-sortfield=NO&NO=761&-find

長浜城址

長浜城址 海上に突出した小丘全体が城で、戦国時代の北条水軍の根拠地。
天正八年(1580)の武田氏との海戦では、 前線基地として、水軍の主力が集結しました
http://www.izunet.jp/manabu/c-izk.htm


熊野の鈴木氏は、熊野信仰の発展とともに各地に発展し、全国一位を占めるほどになった。もと穂積氏といい、紀州新宮を本拠とし、榎本・宇井と三家をなした。もち名草郡藤白湊を中心として発展、同地に王子社があり、水運の要地であった関係から、熊野湛増の「頼切りたる侍」として、熊野水軍の重要な要素をなした。
 源平争乱のときには、摂津の渡辺党とともに、源氏の水軍として活躍し、義経の都落ちにも従った。四国・九州にも熊野信仰を伝えているが、やはり東海から関東にかけての活躍が著しい。三河では、幕府の御家人として江戸に移ったものが三十数家というから、如何に鈴木党が三河に栄えたがわかる。下総の香取郡・匝瑳郡にも多いが、江戸の発展が何より鈴木姓の増加をもたらしたものと思われる。
 伊豆の西海岸江梨にも、鎌倉幕府の水軍として重きをなした鈴木の一族があった。室町以降、鈴木党は水軍の将として各地に迎えられたようであるが、その一方、熊野のすぐれた漁業技術と、熊野の信仰を背景として、鎌倉中期には、三陸の海岸にまで進出した。http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/busi_myo2.html

 
●古代から熊野、伊豆水軍は知られていた
 
島隠り我が漕ぎ来れば 羨しかも 大和へ上るま熊野の船
 
 柿本人麻呂と並び称される大歌人、山部赤人(やまべのあかひと)の歌。
 
万葉集には熊野の船と特定して四首がある。熊野の船がどういうものかわからないにしろ熊野の船は奈良時代にすでに知られていたのである。
熊野は地形的に海に迫って山があるから山には楠の木などの造船に適した木があり造船が盛んになっていた。
この地形は伊豆と相似形であり伊豆も造船の基地として古くからあった。

 [五年]冬十月に、伊豆国に科(ふれおほ)せて、船を造らしむ。長さ十丈(とつゑ)なり。船既に成りて、試に海に浮くるに、便ち軽く泛び疾く行くこと馳するが如し。故、其の船に名(なづ)けて枯野(からの)と曰ふ。船の軽く疾きに由りて枯野と名くるは、是、義(ことわり)違へり。若し軽野と謂へるを後人(のちのひと)訛(よこなま)れるか。(応神紀)
 三十一年の秋八月に、群卿(まへつきみたち)に詔して曰はく、「官船(みやけのふね)、枯野と名くるは、伊豆国より貢れる船なり。是朽ちて用ゐるに堪へず。然れども久に官用(おほやけもの)と為りて、功(いさをし)忘るべからず。何ぞ、其の船の名を絶へずして、後葉(のちのよ)に伝ふること得む」とのたまふ。群卿、便ち詔を被(う)けて、有司(つかさ)に令(のりごと)して、其の船の材(き)を取り、薪として塩に焼かしむ。是に五百籠(いほこ)の塩を得たり。則ち施して周(あまね)く諸国(くにぐに)に賜ひ、因りて船に造らしむ

堀江漕ぐ 伊豆手の舟の 楫つくめ 音しば立ちぬ 水脈早みかも
(巻20/4460)


古代から海に囲まれた日本だから船の技術が発達していても不思議はない、でも海の歴史はわかりにくい。遺跡としても残りにくいからわかりにくくなる。そしていたるところで洪水であれ今回のような津浪であれ栄えた港自体が消滅しているのがかなりあるのだ。
相馬藩内から黒潮が流れる海岸一帯には熊野信仰が本当に多い。なぜこんなにあるのだろうかというくらい多いのである。そのこと自体が熊野信仰をもたらした人々が相当数いた結果なのである。

相馬氏は千葉氏から出て千葉県から移動してきたとしても鎌倉時代に関東武士団が東北に移住したことから鎌倉武士団の姓が東北に移動して広まった。鎌倉時代にさかのぼる姓が東北では一番古いとなるしそこまでは史実的にもたどれるのである。
南相馬市の鹿島区の岩松氏は鎌倉時代に烏崎に船で到達したという伝説がある。
その時船運は相当に発達していたのである。だから戦国時代は伊豆の海、相模の海、駿河湾で北条氏などや武田水軍までが交わり熾烈な海上での水軍の三つ巴四つ巴の激しい戦いがあったのである。海上の派遣争いがあった。それだけの戦いをするには相当な船の技術がなければできない。
熊野水軍、伊豆水軍などはそれだけの力を古代からもっていたのである。

だから相馬藩内にはとにかく鈴木とか渡辺とかが多い。これは全国的にそうでも相馬藩内では目立った姓であり主な姓になる。それは熊野伊豆などの水軍の系統につながるものであった。
文治五年三月(1189年)泰衡が義経を岩手県衣川高舘に攻めた時、鈴木重原(紀州藤代和歌山の住人で熊野三山新宮・衆従の子孫に当ると思われる)
 

鈴木重原は、兄重家が義経と共に戦うと聞き、義経と兄重家を慕って家臣安子、蟹田、石田、山津田氏等を率いて奥州に下る途次、既に衣川の高舘は灰燼となり皆闘死したことを知り、成すところなく、やむなく宇田郡中野邑にとどまった.
 

だからこれなどは興味深い、義経は山伏とか水軍関係の人たち、この人達は村上水軍で知られるように元は海賊だったのである。水軍の元はバトイキングでもイギリスの海軍でも海賊だった。そういう人たちが義経臣下になっていた。だから頼朝に追われるときも黒潮の流れる関東から常陸から東北へ逃れたという説もでてくる。
黒潮海流は船には大きな影響を及ぼしていた。だから黒潮文化圏が熊野から東北まで海岸地帯に生まれた。それは奇しくも今回の津浪の被害地域と一致していたのである。
ただこの海流は船に乗ってみないとわかりにくい、船が山を目印にして航海していたというのも乗ってみないとわかりにくい。つまり海とか船が理解しにくいのは自ら体験できないからである。陸地だったらある程度体験できるが海は船は体験しにくいから船のことがわかりにくいのである。
鎌倉時代から南北朝時代も畠山氏も水軍を司る氏であったり深く海と関係した氏族だったのである。だから鎌倉時代から南北朝時代は海からの視点がないと解読できないのであるただ港は一時栄えても跡形もなく消えてしまうことがある。
それが今回の津浪で証明された驚きであった。

●相馬氏にとって慶長津浪は支配地域を広げる契機となって中村に城を移した

(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
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これだけ舟のことがでていて村上ニというのが記されている。村上ということに相当にこだわっていたのである。村上に小高から城を移そうとしたのは単なる思いつきではない、明確な意志があって村上に城を建てようとした。
そして中世に塚原には大きな港があり蔵院まであった。それだけの船が集まる港だった。海運で栄えていたのである。
つまり明らかに村上は小高い丘であり
長浜城址 海上に突出した小丘全体が城で、戦国時代の北条水軍の根拠地。
天正八年(1580)の武田氏との海戦では、 前線基地として、水軍の主力が集結しました http://www.izunet.jp/manabu/c-izk.htm

この長浜城と同じ機能を有する場所として明確な意志でもって選定されたのである。
小高には街中にも貴布船神社があり村上にも祭られている。これは船の神を祭ることでもあり小高が浮船城と言われたのも船と関係していたのである。
小高だけではない、八沢浦も天然の良港であり船運があった。
海老村には天野氏がいてこの天野氏は伊豆水軍の末裔なのである。
何を運んだかというと重に塩を運んだ。当時は塩が貴重であり塩がすでにかなり作られていて運ばれていたのである。

八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く (南海老村)

七荷を運ぶ大きな船が出入りしていたのである。これは磯部でもそうであり原町の泉氏も海運を担って力をもっていたのである。

ではなぜそうした港が栄えていたことが忘れられたのか?

それが津浪と関係していた。津浪で今回のように小高が甚大な被害があったことでもわかる。津浪が来た所はもともと海で港だった。そこに多数の船が停泊していた。
それが慶長津浪で壊滅したのである。
それが契機となって相馬市前の中村に城を慶長津浪の一カ月後移したのである。
そんな大事件をなぜ一行しか記されなかったのは謎である。
相馬氏進出の経路で解明したように相馬地方は最初は鎌倉から鹿島区の烏崎に船できたといわれる岩松氏が支配していた。それは原町の新田とかも支配していた。
そのあとに入ってきたのが相馬氏だった。

今の鹿島区は北郷となっていてそこは単に小高より北というだけではない、そこは別な勢力があり支配できなかったのである。 原町の泉氏の支配していた地域もそうである。
かや浜とかしふさ(しぶさ)までは進出しても泉までは入っていないのである。
慶長津浪によってそうした旧勢力が大打撃を受けて相馬氏は旧勢力を支配しやすくなった。だから一カ月に中村に城を移したのである。
相馬氏の進出にとって津浪はかえって支配地域を拡大するのに都合がいいとまでなっていたのである。
だから津浪の復興のために公共事業のために中村に城を移したことはありえないのである。


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この本は面白い、伊豆水軍は東北にも関係していた

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これは水軍の紋章にもなる


タグ:相馬藩の湊

2013年02月18日

病院で聞いた新地町の歴史の話 (琵琶転がしという地名があった)


病院で聞いた新地町の歴史の話

(琵琶転がしという地名があった)

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新地町はもともと谷地小屋村と呼ばれていた。谷地小屋となるとなんかわびしい谷地の中にある一軒家のように思えるが実際は違っていた。


ここに一つの山城がありそれがもし本城だとすればその周辺に副城、支城、外城、添城、砦というふうにいくらでもあったのだと思います

小屋沢とか何々小屋は秀吉でも名古屋城を築いたとき「小屋の者とも」という手紙の文句がありますこれは本城のことです
小さい砦も小屋、監視していた所も小屋なのです(地名の話し-谷川建一(一志樹)


谷地は湿地帯であり海に面した所は今回津波で元の湿地帯のようになった。ただ小屋というとき小屋ではなく城だったのである。新地町の特徴は新地は駒ヶ峰辺りまで一時伊達領でありそれで伊達の城があった。それで伊達の子孫の武家がいて相馬市との合併に反対していた。その家は駅の近くにあり今回の津波で流された。相馬総合病院という名は新地も出資した病院となっている。その病院でちょっとだけ話を聞いたのだが興味深いものがあった。その人の土地に城の跡がありそれで城について調べたという。虎口とかいろいろ知っていた。郷土史は相馬藩全体ではなく村単位で結構その土地に詳しい人がいる。別に専門家の学者でもなくてもいる。その土地に根ざしているから詳しいのである。だからそういう人に直接その土地を踏んで話を聞くと郷土史は面白いし興味深い者となる。
柳田国男はそうして庶民の口碑を重んじて民俗学の祖となった。つまりその土地に根ざして生きる庶民の話しを直接聞くことによって啓発されるものが多いのである。学者のように本ばかり読んでもわからないのである。


その人はまた黒木氏というのにこだわっていた。黒木氏は丸森に近く伊達についたり相馬についたりしていた。伊達と相馬の境を領地としていたからそうなった。黒木氏にこだわるのはやはりそういう土地に住んでいたかちそうなった。黒木というのはもともと黒木という地名がありそこに土着した武士が黒木氏と名乗った。それからその人はしきりに五社壇のことを言っていた。それは何を祀ったものかわからないという。ただその人は夢枕に私たちを忘れてはいけない、手厚く葬れと告げられたその墓らしきものを祀る幼稚手たという。これは五つつの神様を合祀したものだろう。墓も無縁化したり古い碑でも謂われがわからなくなるのが結構ある。津神社の謂われがわからなくなっていたように重要なことでも時間がたつと不明になる。神社には結構そういうものがなぜか多いのだ。津波と言えば強烈な記憶があるはずだがわからなくなっていた。神社でも由来がわからなくななれば意味もなくなってしまうかもしれない、何を記念して何を供養するのかもわからないからだ。だから烏崎の津神社は鯨を供養するものとなっていた。鯨の碑があり鯨の祭りをしていたのである。そしたら全く津神社の由来と違ったものとして祭りがあったとなる。


もう一つ面白い話しとして琵琶転がしという地名があるという。これは地図にものっていない、そんな地名があるのかと不思議に思った。転(ころ)がしには牛転がが一番多い、長野県の信州の塩の道は深い山中にあり急峻な坂がありそれも細い道だから牛が下るにしてもこれは危険だと思った。江戸時代ころの道はみんな細いのである。奥の細道なのだ。だだ琵琶転がしというとこれがいつの時代のものになるのか?鎌倉時代にすると古いからだ。この辺にそんな古い時代のものがあったのかと思う。

(転がしの地名)
http://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/61430826.html


 宮城県遠田郡  涌谷町涌谷   琵琶転(びわころがし)


宮城県にもあるからその辺までも東北では琵琶法師が旅したのか?ただ江戸時代には琵琶法師はいなくなっていた。だからその地名がついたのは江戸時代より古いのである。


平家物語は、平家を打倒するということで、源氏が天下を支配することの正当性を説明付ける物語という一面をもっています。そのため、鎌倉幕府や、その後継者をもって任ずる室町幕府では、幕府の儀礼に欠かせない式楽として保護されましたが、その反面、民衆の嗜好からは縁遠いものとなっていきました
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1351014088


琵琶法師が奨励されたのはその時代の権力者の意向があったということもあったのか?平家物語が作られたのも勝利した源氏の正当性を伝えるものとして作られた歴史書ということもあった。ただ義経の物語は民衆の判官贔屓から生まれたから時の権力に庶民がみんな従うとはかぎらない、反発した物語も伝えられている。

琵琶転がしでまた注目するのが琵琶法師は眼が見えないのだから当然そんな山中の細い険しい道を行くなら転げ落ちても当然だとなる。第一眼が見えなくてそんな山中の道を良く歩くことができたとことが不思議である。ただ当時は眼が見えない人は非常に多かったのだ。明治に来た外国人が日本には盲人が多いと報告している。栄養がたりなくて盲人になっていた。盲人でも食べていかなければならないからそれにふさわしい職業として琵琶法師とか瞽女とかが生まれた。中世では土地をもって定着できないものは流浪者になった。


賤民を広くイメ-ジすれば細工師や大工、壁塗り、絵師、漁師や猟師、座頭、山伏、鉦叩き、説教師、猿回し、街娼・・(中世の貧民-塩見鮮一郎)


これらは賤民だったのか?ただ昔から移動する人々はかなりいた。相馬の方へ萱葺きに来た会津の職人がいたし大工もいて相馬に定着した。その記録が残っている。絵師では相馬の駒焼を跳ねる駒を教えたのは土地のものではない流れてきた絵師だった。木地師などもそうであり農耕手定着していた以外の人々はいつもかなりいたのである。それは現代でも同じである。渡り職人などは最近まであった。腕を磨くために遠くの師を求めるし仕事も遠くにあれば行くのである。大工でも仕事があれば遠く行くし土木関係でもそうである。絶えず移動して仕事を求めている人は多いのである。現代はグロ-バルに人は移動している時代である。人間の仕事は定着してできるというのがいつの時代でも多くあったとはならない、木地師だって資源を求めて移動していたし資源を求めて移動していた人はかなりいたのである。

奇妙だけど最近ノスリをこの辺でみかける。ここに定着しているのかと思った。
ノスリの餌はノネズミなどでありそれが放射能汚染で耕作されない田んぼに増えたのか?何らかかえって餌がふえたせいでノスリが定着したのか?鳥は別に渡り鳥があり餌があるところへ自由に移動できるのだ。餌があれば定着するがなくなれば移動するのである。人間もまた同じものとしてあった。仕事があれば定着するがなくなればまた移動する他ないのである。


ともかく郷土史というのはその土地の人に別に学問などなくても聞かない限り具体的にわからない、これも南相馬市立病院で大原の人と知り合ったとき大原について詳しく話しを聞いたからわかった。病院という場は暇だからそういう話しをするのに聞くにのに向いていたのである。なかなかそういう話しを聞く場がない、老人ホ-ムなどに勤めればそういう話しをじかに聞けることは確かである。

2010年01月19日

湿地帯に囲まれていた田中城の興亡 (南相馬市鹿島区)


湿地帯に囲まれていた田中城の興亡 (南相馬市鹿島区)

台田中の田中城は中世の中核的館として存在した。だからこそここを中心にして伊達氏と相馬氏の争奪戦が起きた。台田中には館の内という地名もあった。館とつく地名は鎌倉時代以降にさかのぼるものであり古いのである。館とつく地名があったら中世からある地名となるから注意する必要がある。城の前は館がその地域の中核的存在でありその館を中心にして村落が形成された。竹の内も同じである。相馬市の・・竹の内もそうした中世の館があったところでありそこから姓となった。そのあと相馬氏系統の渡部氏が成田に土着したから竹内-武市は竹の内という地名から姓としたのである。相馬氏系統に竹内氏はいなかったからである。つまり竹内氏の方があとからきた相馬氏系統より古いとなるのだ。台田中もそうした古い堀をめぐらした館であった。そこで人々は生死をともにする生活をしていたのである。

「館(たち)」「館の内」「堀の内」という場合の方が多かったと思われるわけである。鎌倉中期からこれらの土豪は所領拡張の争いから山城を構えて社会不安に備え、南北朝の争乱の後はいよいよ堅固な防備の城を築いた。

嵐山町誌156 武士に関係あるもの 城
http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/rekisibukai/2009/08/156_fcab.html

南北朝時代から戦国時代と争乱の時代になり山に砦、館を築くことが多くなった。霊山城はその象徴である。

千倉庄田中の城へ黒木武石東郷の面々押し寄せたり、田中の城三方は大淵囲み古松、老柏、繁茂して容易に近づきかたければ冬より夏にいたる。
此の城平野の田畑となりしは近き世、石田治部少輔三成堀久太郎大崎の仕置きに下りしとき数日田中に逗留するとき大樹を倒し堀を埋め立て平地となす、顕胤は掛田帰陣も近ければ不日にもに田中を責め落とさんと評議せり(奥相茶話記)

田中城は大淵とあるから相当な湿地帯が囲みその中の高台に城があった。台田中となるのはそのためである。台(ダイ)と今でも言っているからダイという地名は各地にあり日本は湿地帯が多いからその湿地帯から高くなっているところは住むに適していたのである。ここも台の回りは湿地帯であり容易に近づけなかった。その後この湿地帯が田になっていったのである。だから田中城となった。ここにも冬の陣から夏の陣と長い戦いになった。石田治部少輔三成はは秀吉の臣下の有名な三成だった。三成は太閤検地のときも相馬氏と関係していた。近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)石田となるのはここから来ている。


元年(1596年)元服の際に父義胤は石田三成に烏帽子親を頼み、三成の一字を得て三胤と名乗る。これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、以来三成と昵懇であったためであった。


その後相馬氏は徳川につき大阪の冬の陣、夏の陣に参加する。ここで堀を埋められたことで大阪方は戦意を喪失したということでもわかるようにいかに堀が重要な役割を戦国時代に果たしたかわかる。だから堀の内、竹の内、館の内・・・とかは重要な地名であり姓となったのである。田中城は相馬地方では重要な城であり歴史の興亡の地点だった。慶長6年(1601)「田中院殿陽山吉公大居士」と戒名があり南屋形の川子内の御壇に北郷田中城主田中忠次郎郷胤の墓がある。鹿島区の町にある陽山寺はここから起こっていたのである。なぜならこの時田中城主の叔父にあたる僧もともに戦ったからである。僧侶も僧兵となるごとく寺は武家と一体化していたのである。武家の菩提寺として寺は武家と一体だった。相馬地方で墓を調べても古くても元禄である。これは葛尾村の落合で発見したがこれが実際に見たのでは古い。あとは百年後とかずっとあとなのである。相馬地方で残っている碑で墓ではそんなに古いものはなかった。

台田中の墓を調べる (田中城に由来する墓?)
http://musubu.sblo.jp/article/17460671.html

2009年08月27日

鎌倉からみちのくへ


鎌倉からみちのくへ

鎌倉というときみちのくは京都よりはずっと身近である。なぜなら鎌倉時代の前に確かに東北を支配したのは平泉の藤原一族であっても東北が一つの国としてあったわけではない、平泉という地域だけが栄えたのでありみちのくを支配したわけではないからだ。鎌倉になるとはじめて東に政権ができた意義は大きいのだ。東北でもここでもはじめて一族の名前が歴史に記されるのは南相馬市鹿島区では岩松氏でありこの人は鎌倉から移住した人でありその伝説も残っている。船で来たというが磐城かららしい。鎌倉から直接ではなかった。ともかく岩松氏は未だに生々しい歴史上の人物なのである。その前の平安時代になると源義家になるがこれもほとんど伝説上の人物であり歴史的な実在性がともしいのである。岩松氏の悲劇は今でも地元の人にとっては単なる伝説とも違う、リアリティあるものとして今日に継続された伝説なのである。何故なら岩松という姓が断たれてここに存在しないことが如実に証明しているし岩松氏の子息まで殺したということで姓を変えたがその姓の子孫は今も存在しているから具体性があのだ。「陸奥の真野の草原・・・」の万葉集の歌が鹿島区に残されていたとしてもこれも明確に歴史上の人物としては存在しない、ここは岩松氏以降から歴史がはじまったと言えるのだ。ということで鎌倉はみちのくにとって身近であり鎌倉から移住してきた武士の子孫は各地にかなりいる。その系譜は明らかであり跡をたどれるのである。そもそも相馬氏自体が鎌倉、関東の武士の出であり鎌倉にその元をたどることができる。大倉というのも大倉御所があったところであり飯館村の大倉は鎌倉からとった地名かも知れないというのもそのためなのだ。
文化というときやはり関東から東北では鎌倉がはじまりである。その前に平泉があったとしてもそれは孤立的なものであり芭蕉の俳句のように平泉は夢として終わった都であり鎌倉のように具体性あるものとして一つの広範囲な関東武士のバックのある都としては形成されなかった。平泉が夢であることがかえって芭蕉の奥の細道としては良かったのである。詩人は夢と現実を生きるからだ。鎌倉は政治の都でもあり一睡の夢とはならない、日本の歴史を形成した土台となるし今日継続する都としての位置は変わらないのだ。平泉では人物にしてもそれほど明確なものとして浮かんでこない、鎌倉ではやはり日本の都として政治を担った武士の政権の歴史が明確なのである。平泉は金色堂の夢であったが鎌倉は現実の政治をになったのである。鎌倉から関東、東北の歴史ははじまりその系譜を明確にたどることができるのだ。夢として滅びるなかに義経も悲劇の英雄として組み入れられたのである。多分にそれもことさら悲劇的に物語的に作られてきたのである。その非は義経にもありいちがいに現実の政治をになう頼朝だけにあったとはならない、つまり平泉という夢として滅びるもののなかにふさわしいものとして作られてきたことが言えるのだ。
文化とはやはり政治的基盤、経済的基盤が大きく左右する。都はやはり政治、経済の中心地に起こる。それは不可分にしてある。そしてそこには重層的なものとして互いに競い合うものとして起こる。孤立的ではない、金閣があれば銀閣があり相対的なものとしてまた鎌倉には五山があったように一つではないいくつもの重厚な寺が新しい文化を作った。平泉には五山はない、孤立的一時の栄華の夢として消えたのである。二階堂大路などが鎌倉に残された、これは平泉にあった二階大堂がよほど印象的でありその二階堂をまねて作ったのでこの名が残った。この二階堂は永福寺でありここに詣でる路が二階大路となったのである。いかに平泉が孤立的であれ荘厳な都であったかわかる。鎌倉は後ろは山であり前は海であり天然の要塞としてふさわしい


極楽寺坂切通しの突破を困難と判断した義貞は、干潮に乗じて稲村ヶ崎から強行突破し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。北条高時の一族を北条氏菩提寺の東勝寺で自害させ、挙兵からわずか15日で鎌倉幕府を滅亡に導く。

わずかな崖淵からしか進入できない地だったのである。鎌倉はまた海に面していてここから中国まで船で行こうとして挫折した実朝の夢があったり海も欠かせないものとして都を形成した。


だから門前から海が見える寺があり鎌倉的風景となる。実朝のわれて砕けてさけてちる・・・という歌も極めて鎌倉的風土から出てきたものである。「山門より海を望むや初秋かな」というのも山門から海が見える写真を見て作った。現実にはこの寺がどこにあるかしらない、昔は鎌倉は、鰹の生産地として知られ、「目に青葉、山ホトトギス、初鰹」という山口素堂という人が江戸時代に作った句が有名になるほどでした。やはり鎌倉には山も欠かせない海も生活の糧として古くから一体としてあったのだ。ともかく鎌倉には五輪塔が多い、比企一族が滅ぼされたがその五輪塔も山陰に確かに見た。その滅亡した一族の姫の墓があることは知らなかった。鎌倉には史実に照らし合わせて訪ねるべき所がいくらでもあるだろう。暇があれば何度も訪ねて確かめることができることが魅力だろう。京都となると遠すぎるのだ。かえって関東や東北になると京都は夢の世界になってしまうのだ。遠すぎる世界は現実味を失わせるのだ。平泉には藤原氏しかいないが鎌倉には権力闘争する一族が跋扈してその滅びた一族の五輪塔が密集して今も残っているから生々しいのである。


参考-(鎌倉百人一首)
実朝ほととぎすけるあたりとぞ懐かしみ通る二階堂大路 藤川忠治

東御門西御門など名に残れそもただ麦の青き畑のみ 窪田空穂

山といえば五山の一つ臨済のこの大き寺の夏(げ)に籠もる我は 北原白秋

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鎌倉秋の短歌十首
http://musubu.sblo.jp/article/31638315.html

2008年05月13日

南相馬市鹿島区台田中の墓を調べる (田中城に由来する墓?)

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南相馬市鹿島区台田中の墓を調べる

(田中城に由来する墓?)
 

1347年−霊山城は貞和3年8月、北朝軍重囲のもと炎上陥落した
1351年(正平六年)−桑折五郎元家は霊山から北畑顕家の姫をともない真野の里におちのびる
 
桑折五郎元家は伊達郡桑折よりきて江垂(いたり)に館をもちあとに田中城を築き真野五郎と称した。その三男がいたが嫡子がいないために岩松義政が足利義満に千倉庄を与えられた。その後岩松氏四天王の家来により殺害される。
 
小高城に入った伊達稙宗は、その翌年のころ伊具郡丸森城に移ったが、途中千倉庄(南相馬市)石宮を通るとき、かつて石松義政が石松四天王らに、主家に叛くことのないように誓詞を石に刻ませたという故事にならって、その起請石に「伊達七世弓を相馬に引くべからず」と墨書きしたという(『東奥中村記』・『奥相茶話記』)。
 
相馬顕胤の掛田出陣中に、黒木弾正正房・中村大膳義房兄弟が叛き、北郷田中城を攻めようとしたのを討って宇多郡の実権を掌握した。

相馬讃岐守胤弘が真野郷を改め北郷とした。桑折五郎の子孫を田中城主とした
 
天正六年(1578)−盛胤の嫡子義胤が家督を継いだ。盛胤は隠居し子息の相馬郷胤が城主であった田中城に入り、のち中村城西館に移り中村城主で子息の相馬隆胤の後見役となった
 

桑折久家(田中城代)
桑折清家(田中城代)

 

相馬義胤(1548−1635)−北郷田中城主田中忠次郎郷胤−文禄二年(1601)

慶長六 田中院殿陽山吉公大居士

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南相馬市鹿島区の地名の地層として最下層に形成されたのが浮田国造の浮田であり次に古代の真野の草原である。そのあとが鎌倉から移住した岩松氏関係の地名でありこの辺から明確に史書に記されているからわかりやすい。千倉もそうだし大倉も鎌倉の大倉御所から名づけられたかもしれない、三春にも大倉があり全国にある大倉がすべてではないにしろ鎌倉時代の大倉郷から移動しているかもしれない、地名でややこしいのは人名と元からあった地名が混同することである。黒木とあれば黒木という地名がもともとあり黒木の地名をとって黒木の姓をあ名乗ったのである。相馬は相馬氏の移住によっているから姓がそのまま地名と化している。桑折は伊達の桑折に由来している。桑折という地名から桑折の姓が起こり真野に移った。桑折はここでは地名化していない、台田中という地名があり田中城がありそこで桑折氏が田中城主となった。田中という地名はその前にあったのである。相馬盛胤は隠居し子息の相馬郷胤が城主であった田中城に入りとあるとき北郷田中城主田中忠次郎郷胤はもともと相馬氏だったが田中の地名をとり田中姓をなのった。相馬はもともと中村という地名が先にあり中村の姓を名のる武家が出たのである。
 
台田中にある墓で一番古いのは天・・・と書いてあるが天正から天和天明とあるからわからない、ここは古いから古いのかもしれないが謎である。からこれは天和とすると(1681−1684)である。他に長と書いてあるものがありこれは慶長なのだろうか?(1596−1615)?もしそうならその前の天正にもなるが慶長六 田中院殿陽山吉公大居士とあるから慶長のあとの天和になるのだろうか謎である。これは僧侶の墓であり北郷田中城主田中忠次郎郷胤が死んだあとの墓だろう。北郷田中城主田中忠次郎郷胤の墓はここにはないがここは確かに田中城に由来しているから古い場所である。桑折氏と与力紺野善徳が桑折の跡を継いだとかあり小池に善徳橋が水無川にありここに由来すると考えられる。


南屋形に「慶長六 田中院殿陽山吉公大居士」の墓があり陽山は今の鹿島区の町内にある陽山寺である。陽山寺とはここに由来して名づけられている。先にこの戒名がありそのあとにこの名に因んで陽山寺ができた。つまり北郷田中城主田中忠次郎郷胤を祀る寺として寺が始まったのである。寺は武家の菩提寺であり僧より先に武家があり武家を弔うものとして寺があった。寺は武家の役所も防衛のための城の一部としても配置されていたし武家と一体化していた。先に武家をたてまつるということは宗教ではありえないがここではそうなっていたのである。

 

平安時代→五輪塔(名前は刻まず)
鎌倉時代→宝篋印塔(名前は刻まず)
南北朝期→宝篋印塔(法名を刻む)
室町〜戦国期→五輪塔か宝篋印塔(名前あったり、なかったり)
江戸初期→箱形、河原の丸い石(法名のみ刻む。個人単位)
江戸中期→箱形、河原の丸い石(法名・歿年月日を刻む。個人単位・夫婦単位)
江戸後期→屋根付き位牌形、箱形(法名・歿年月日・俗名を刻む。水鉢に家紋を入れる)
江戸末期〜明治初期→位牌形、角柱形(現在の形) (法名・歿年月日・俗名を刻む)


墓で一番古いのは岩松氏の五輪塔であり次に宝篋印塔である。そのあとに天の字の墓が古いのか、次に東光明覚は安政だからかなりあとになる。埼玉に明覚という地名もあり天台宗の一派かもしれない、五十音を最初に提案したのは天台宗の明覚でありとするとこれらは墓とも限らない、墓の前にインドでも塔を拝むことがあり塔を拝むことが信仰になっていたからだ。墓ではなく信仰の対象としてあったかもしれない、僧侶の名前が刻まれていないのもある。東光院や明覚寺というのは各地にある。江戸時代に庶民はもてなかった。墓をもつことを禁止されていた。墓をもてたのは武家と僧侶でありその墓も菩提寺にある。ここにあったのはだから田中城主関係と僧侶だけであった。そのあとにその子孫や越中から移住した人がここに墓を建てた。中には名前だけのがありこれは姓がないから庶民のものである。庶民も一部墓を建てることができるようになったのだが家の墓ではない、個人の墓であり夫婦の墓が先だった。今のような家中心の先祖代々の墓はなかった。お盆でも魂迎えとかは墓所で行われていたわけではない、家の前で行われていた。なぜなら庶民は墓をもっていないのが普通だったからだ。
 
ここの墓所の特徴は僧侶の墓が多いことである。代々の僧侶の墓がここにありそれらが一番古い、次に武家の墓がある。墓地はたいがい明治以降に増えたものでありそれまでは庶民の墓地すらなかったのである。星とか高野とか桑折もあるから桑折は田中城を死守した子孫だからここに埋まっているのがふさわしいとなる。ただ明治時代に日本は伝統と一度断絶している。姓を名のることも自由になった。だからすべてが武家の継続している姓とはならない、明治以降に土地の武家の姓をなのった人もかなりいたからである。ただこの台田中の墓所は町中の墓所より古い、鹿島村の中心は今の町の方にあるのではなく田中城中心にあった。館や城ある所昔の中心地だからである。館(屋形)が先にあり次に城となったのだから田中城は城だから館より大きなものだった。堀もある城だった。中世は江垂の桑折氏の館と岩松氏の館(屋形)と田中城があった。田中城は伊達氏との興亡で最後まで残り相馬氏が受け継いだから古い場所である。


天正(1586−1592)
慶長(1596−1615)
天和(1681−1684)
天明(1781−1789)
天保(1831−1844)
安政(1855−1860)

 
 
 

2008年03月28日

浪江の津島の遠さ(伝説の径路)


浪江の津島の遠さ(伝説の径路)

 
春の日に分け入る山に何かあれ下冷田の名覚え帰りぬ

春日さし三春の方に心向く浪江の海より津島は遠しも

津島より浪江の遠き墓所のあり道も分かれし秋の夕暮

三春へとつづく道なり何かあれ弁慶石と秋の日暮れぬ

津島より葛尾へ分かる道をゆく人あうまれに月見草咲く
 
なぜ浪江に津島が入っているのかえびつなものとなっている。葛尾は飯館村のように独自の村になっている。地理的一体感が津島ではもてない、江戸時代は一部は三春領だった。ここに弁慶石とかあり下ってゆくと弁慶橋とかある。弁慶の伝説は日本海から横断して白河関を通り三春を通り津島を通り浪江の方に伝わっていった。津島は一つの基点の場所であった。津島から別れて葛尾村に入る。昔ならここは浪江から遠いしさらに浪江の海までは遠い、相当な遠隔の地である。こんなところに中国人妻がまぎれこんで東京に出たいと夫をナタで襲った事件があったのも象徴的である。車があればそうでもないはずだが相当な僻地なのだ。本当に車がない時代どうしして生活していたのかと今なら思ってしまう。人々は隔絶して生きていた。それは車を使うよになって三〇年くらいでその前はバスが盛んに通る時代があった。その前は?歩きだった、馬車運送だった。飯館でも津島でも自転車で行って相当遠いのである。その遠さの感覚が車だとわからないのだ。津島にあった墓所を見るとそれが何かその墓自体遠い所にあり隔絶してしまった場所に埋もれてしまったと見る。いづれにしろ人口も半分に減ったというのもわかる。


下冷田という名だけが印象に残った。他に見るべきものはない、津島から飯館へは不便でありあまり交通はなかった。弁慶の伝説が伝わる道筋はそれなりに古いのである。飯館の方へは弁慶の伝説は伝わっていない、浪江の方に伝わって行ったのだ。ただ源義家の伝説は浜通りから大倉へと伝わっているから海から山の方に向かって行った不思議がある。伝説の径路は歴史を探るル−ツ探しになる。浜通りから阿武隈の山の方へ向かって伝説は伝わっていくのはまれである。飯館の小手森の地名も川俣の小手姫伝説が伝わったものでありこれも遠く日本海から出羽三山を通じ阿武隈高原に入ってきた。小手姫伝説は浜通りまで伝わっていない、伝説もそれなりに根拠がなくては残されない、ただ勝手に作られた伝説も多いからまぎらわしいのだ。平家落武者伝説のほとんどは歴史的根拠がないのである。この辺の見極めがむずかしいのだ。私が発見した真野の草原も草原を萱原として萱のなびく美しいみちのくの辺境地帯を歌ったものだとしたがその根拠はなくなった。地名もあとから勝手に解釈されやすいのである。鎌倉の金沢に三艘という地名がありこれも宋の船が三艘とまっていたから名づけられたという。確かに金沢は鎌倉時代に宋の船が出入りしていたのだからそういうことはありうる、でもその前にその港は小さな漁村であり小さな三艘の舟があるような目立たない場所だった。その方が信憑性がある。青森の陸奥にも九艘泊がありこれも貧しい漁村の名前だったのだ。


阿武隈の山地でも全部貧しいだけかというと山には山の幸があり葛尾大臣とかいたように鉄の生産とか炭の生産とか木材の資源があるから長者がいた。煙草も栽培して養蚕でもあったから山には山の暮らしが成り立っていた。森林鉄道これほどあったのは木材を積み出すためである。原町にも浪江にもいたるところに森林鉄道があったのだ。それが外材になって廃れてしまったのだ。山は資源のある場所だったが今や何もない過疎だけの村とされてしまった。それで山から街へ移動する人が増えたのである。急速な過疎化を推進したのはグロ−バル化だった。それは山の村自体を破壊してしまうほど急速だったのである。その一つの現象として中国人妻がこんな阿武隈山地の奥深くまでいたという驚きだったのだ。双葉の原子力発電所で働く人がいたのも象徴的である。原子力は金になるからこの辺でも働きに行き放射線をあびて死んだという噂まである。こういうのは隠されているからわからない、それが噂になったのかもしれない、それも一つの伝説になるかもしれない、伝説もそうして権力側に隠されたものを庶民が言い伝えるという効力がある。義経伝説がこれほど残っているのは庶民が判官贔屓で残したからである。現実に権力によって隠される表にでない情報はいくらでもある。新聞にもテレビにも出ない情報はいくらでもある。それは公的でありかなり制限されているのだ。大きな集団の力、権力によって制限され表に出ないのである。伝説や昔話もそこに無数の庶民の歴史が埋もれている、それは現代にも通じるものをもっているし歴史なのである。

 
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