2022年11月22日

相馬藩の姓から探る歴史 (佐藤氏から岩松氏、岩本氏、只野氏、・・・・・)


相馬藩の姓から探る歴史

(佐藤氏から岩松氏、岩本氏、只野氏、・・・・・)


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姓から歴史をたどるとき必ず日本の姓の基は村がありその村の名が地名にたどりつく
その一番いい例が只野氏なのである、それは郡山の多田野村から出ているからである
その只野氏が南北朝の戦いで南朝側であり霊山が炎上落城したとき逃れた武士の一団でありそれで鹿島町に只野姓が50軒くらいまである
只野一族の村だともなる、近くにその姓の人達がいるからである
ただ由来がわかりにくいのは余りにも姓が増えたことなのである、もともと農民は苗字を持っていなかった、でも名字帯刀とかあり名字(苗字)を持つことはみんなできなかったからである、侍しかできなかったからである
でも明治以降はだれでも苗字を持つことができるようになって苗字が姓が増えすぎたのである、するとなかなか姓から歴史をたどることがむずかしくなったのである

この姓をたどるということは意外と世界史でも重要なのである、必ず父系になっている
誰々の父親の息子とかが姓なのである、日本だと姓はかばねという屍から来ている
それは父親の屍(しかばね)から来ているとなる
つまり母親ではないのである、それは結婚すると女性が嫁ぎ先の姓を名乗ることになる
そはれその家の父系の姓に属することになる
でも不思議に江戸時代までは嫁いだ先の家に自分の家の姓を記している墓があった
つまり嫁いでも依然として育った家の姓を変えずに墓に記していたのである
だから男女別姓とかでいろいろ問題になるけど女性は江戸時代でも弱い立場ではないこともわかる、ただそれは武家だったからそうなったともみる、なぜならそもそも姓がある家から嫁いだとしたらそこは武家だったとなるからである、普通の庶民とか農民は姓を持っていなかったからである


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相馬市成田の竹内氏の墓

竹内は武内であり岸家から嫁いだので両方の姓が墓に記されているのである



今回は佐藤氏に注目した、これもあまりにありふれた多い姓だから注目しない
でも相馬藩内で佐藤氏の由来は古いのである、佐藤氏自体が平安時代とか藤原の藤に由来するらか古いのである、ただ余りにも多くなったからその由来がわかりにくいのである
ただ塩手山の麓の二軒が佐藤氏だと聞いた、隣り合って佐藤氏だというときその佐藤氏はどこから来たのかとなるそれは義経に従った佐藤一族になる

佐藤基治。

 奥州藤原秀衡のもと、信夫、伊達、白河あたりまでを統治していた豪族佐藤基治は、信仰心が厚く、居城とする大鳥城から眼下に望む薬師堂を改築し、伽藍を多数建立し境内を整えたとされています。
 藤原秀衡は、私有地の管理を基治に任せて、荘園管理の職名を荘司と称したので「佐藤荘司」と呼ばれておりました。また、丸山(館山)の大鳥城に居を構え湯野・飯坂を本拠としたため「湯庄司」とも呼ばれていたそうです。
 https://www.iou-ji.or.jp/map-sato.html
 
この佐藤氏に由来している、佐藤庄司というとき原町に庄司建設があり庄司の姓を名乗る人がいる、そして霊山の近くに庄司渕という地名がある、庄司が地名までなっている
庄司は荘園のことだからそれと関係して名付けられた、荘園があったとなる
明らかなことは福島市の佐藤氏が相馬市の方へ移住してきたのである
それは鎌倉時代の義経の時代だから古いとなる、南相馬市の鹿島区に移住した岩松氏は船で烏浜に達して相馬藩の領主となった、だから相馬氏より古いのである
佐藤氏は確かに福島市の方から移住してきた佐藤氏である、それがわかるのは磯部館がありその佐藤氏が相馬の道の駅のすぐ近くにある鬼越館に移ったからである
それは高潮が原因だとしている、それは慶長津波の前だったのである
その磯部は今回の津浪で壊滅したのである、ただ慶長津波のことは記録に残っていない
ただ生波(津波)で700人溺死としか記されない、後のことは一切わからないのであるでも時期的にその後まもなく慶長津波が襲ったのだからその予感がして逃れたのかとも見る、現実に八沢浦の湊も津浪で壊滅したがやはり高潮で被害があった場所なのである
つまり高潮の被害は海側だと常にあった、その時ここは危険だとして逃れれば助かったとなる、でも海側の村はいくつも壊滅したのである

中世の磯部館の海側から移転は慶長津波が関係していたのか?
(伊達氏もかかわり中村城移転は相馬氏の支配を確立するため)
http://musubu2.sblo.jp/article/99907265.html

この辺の姓で一番印象的な姓は岩松氏である、鎌倉から一緒にきた家来が謀反を起こして幼児まで殺したので末代まで語られるようになった
現実にその家来とされた四天王の姓はつづいているのである、

「岩松氏は清和源氏足利流であり上野國新田荘岩松郷の地頭にして、『姓氏大系お』よび『荘園志料岩松文書』に詳しいこと、また越後岩松家戒名は修験道最高位であり、また東光寺佛は僻地に珍しい優品である」などの指摘を受け新田氏族の研究を勧められた。
http://fung.html.xdomain.jp/shishi/shishi00.html

今この地に岩松という姓(かばね)はなく断たれてありしも日里、中里、島、蒔田、後に日里改め郡という姓の人、その裔なる一族は確かにここに住みつづけてありしはその事件の真実なるを伝えぬ

日里家に種々奇怪なことの起これば日里氏は姓を改め郡とし殿の霊を慰めんと祠を祀りしと伝えられぬ

南相馬市鹿島区岩松氏の伝説
http://www.musubu.jp/kashimamanonado.htm

これは生々しい姓の歴史なのである、現実にこの辺ではこの岩松の重臣の姓の子孫は生き続けている、でも岩松の姓はないのである、姓は断たれたことが歴史の事実を示しているからである

もう一つ今回発見した相馬藩内の姓の物語で岩本由輝氏の本のあとがきに書いてあることで発見した

岩本本貫の地は相模国ではなしにもう少し南の駿河国富士郡岩本郷ではないかと考えられる、ここの実相寺で日蓮が「立正安国論」を現したされ日蓮宗の強い所でありそれで私の家も日蓮宗になっているのだと思う
(歴史としての相馬ー岩本由輝)

岩本氏の出身は相馬ではないにしても相馬藩とのつながりがあり疎開してきたという
やはりここにも疎開してきたのか、その話を近くの煉瓦職人に聞いたからである
疎開してきた人は地元の人にから子供でもいじめられたとかどこでも伝わっている

地元の人だから地元の話もした、戦争中疎開人の子供のことも話した
この辺にもそういう人がいたのかとなる
何でも食べ物がなくて盗んだとか言っていた、また弁当でも盗まれたとか腰にくっつけて運動もしていた
野菜でも盗まれたとかいうのは今でも同じである、畑とかのものが盗みやすいのである
梨とかでも一つくらいとって食べてもいいのかなともなるからだ

おそらく疎開の子供が食べ物を盗んだというのは食べ物が満足に与えられなかったからだろう、疎開のことではいろいろ語られている、相当に辛いことだった
http://musubu.sblo.jp/article/189910385.html

疎開の話は全国にある、それだけ東京から疎開した人達が多かったとういことである
それも一つの歴史となったのである

いづれにしろ姓とか地名から探る歴史は身近なのである、姓とか地名は常に今でも利用しているかし生活に欠かせないものとしてある
だから過去のものではない、現実今のものとしてある、だからその土地を見る場合でも人を見る場合でもその姓を見るのである
そして不思議なのは女性でもそうだが離婚して元の実家の姓にもどった人達も結構いる
だから離婚した人が姓が変わると戸惑うのである
それで夫婦別姓を法律化すべきだという人がいるのである
それだけ姓とは深く生活と結びついているから今でもそのなっているのである

2021年04月17日

郷土史の問題―岩松氏の悲劇 (郷土の悪いことが語れない、田舎では何代も悪行した子孫が生きている)


郷土史の問題―岩松氏の悲劇

(郷土の悪いことが語れない、田舎では何代も悪行した子孫が生きている)

田舎だと二代三代くらいでも死んだ親とか祖父母とかのことが身近に語られる
あの人はあそこの家の子どもでどうだとか語られる
いい面としてはその親に世話になったとかつづきその子が見られることである
悪い面は一旦悪いことをしたりするとその子孫がやはり同じ場所に生きているから
その子供がその家の人を恨むとなる
恨みがその子孫に残されて継続されるのである

私自身の家がそうだった、わずかな土地だが奪われた、それほど問題でもないとなるが
私の家族はそのことをひどく恨みに思っていていつも言っていたのである
その人は同じ組でもある、その家は今でも評判が悪いのである
だから私自身もそのことがありその家を良く思っていない、でももう当事者は死んだのだからそんなのにこだわるのはどうかとなるがやはり身近にその子孫がいれば恨みが継続される、そういうことで田舎では悪いことをしにくいということがある
村のような狭い場所でみんなが知り合いのような場所とかまるで村自体が同じ姓であり親戚になっているような村もある
そういう村では悪いことはしにくいのである
日本人が比較的悪いことをしない、治安がいいというのはそういう村で生活して来たからだと思う

例えば外国で大陸となるととんでもない広い地域で生活していて領土でも奪い合い、戦争が多い、そこでどうしても戦争に勝った者が支配者になる、階級制が生まれる
奴隷が普通にいるのは異民族同士の戦いで負けた者が奴隷になるからである
そういう社会では厳格な階級制が生まれる、それは歴史として今でも継続されている
本当に民族皆殺しのようなことが行われるのが異民族同士の戦争だった
だから奴隷として活かされるのは人道的な進歩だったというのは意外なのである
なぜなら戦争に負ければみな殺しにされたからである
日本のように戦争でも敵味方塚とか両方を供養することなどありえないのである
それで中国人は敵の墓を暴いてもまで死人まで罰している、刑罰を与える

日本人のアイディンティティというのは500人くらいの村で形成されたのである
だから話せばわかるとか腹でわかるとか複雑な法律などなくても仲裁して平和を保ち生活していた、つまり狭い村とかなるとみんな親戚のようになり争いはできない
親がそうして悪いことをするとその子孫も恨む、その家系が残っているとそうなる
大陸では移動が激しいからその土地から別な土地に移るから忘れられるとなる
そういうことはアメリカとかでもあれだけ広い土地だと移動すればいいとなる
今でもアメリカ人は一定の土地にいつまでも住み続けることがなく移動する
つまり遊牧民的な生活形態になる

具体的な例としてこの辺で有名なの岩松氏の悲劇である、一族がその家臣によってみな殺しにされた、稚児まで殺された、それは余りにも残虐なので歴史に残った
語られつづけた、外部の人たちもそのことをひどいとして知られたのである

ところが鎌倉時代の500年前に起きたことでもその子孫が生きている

その姓を見ればわかる、ある人の家臣の姓は何か祟りがあるとかで変えたのである
それは明確に歴史に残っている、文書として残っている
だからその子孫が生きているということはその残虐に主君を殺したということが今でもわかる、その四人の家臣の子孫はこの土地に生き続けているからだ
ところが相馬地域全体でも岩松という姓はたたれない、つまりそれが歴史の事実を証明しているのだ、その子孫はみな殺された途絶えたからである
だから実際はその子孫がいないのだからここで恨むということはないが歴史的にあまりに人いということで伝説ともなり文書にも記され継続されている
その菩提も墓も寺にある

500年も田舎で生々しいものとしてそうした事実が残るということである
それで田舎では何か歴史の真実が語りににくいとなる、なぜならその子孫が現に生きているとなるとそういうことはなかったことにしてもらいたいとその子孫は500年も過ぎたら思うからである、でもその歴史の現実を消すことはできないのである
ただ津波でこの辺で400人溺死したいうことは相馬藩政記に二行だけ記されていたがそれが知られたのは津波の被害があってからだった
岩松氏の悲劇はその百年前でもあった、その悲劇も伝えられるべきだったが二行しか記されず忘れられていたのである
だからこの事実がいかに重いものとして語られたかわかる

何かこういうことで狭い村とか田舎では田舎の悪いことは語りにくい、郷土史がつまらないのは悪人がいないからだという人もいた
郷土史ではそういう事実があってもいいことしか語られない、田舎の人はみんないい人であり悪い面は語りにくい、それで現実が反映されないものとなりただ田舎はいい人しかいない、悪い人もいるのに語られないのである
それで郷土史というのはただきれいごとであり人間の現実の生々しことが語られないのでつまらないという指摘している人がいた

確かに自分の経験でもそうである、郷土史はきれいごとで終わり生々しい現実が反映されない、また今回の地元の悪いことを自分は書いてきた
でもこれでも地元の人たちにとってはいい感じはしないのである
たいがい地元の悪いことを書いたのは外部の人たちだったからである
補償金のこととか漁業組合だけが原発前も事故後も多額の補償金をもらっていたのであるそれからいかに補償金をもらうためだけで団結するかしかなくあとはその補償金でギャンブルとかで遊んでいたことなどを書かない、書いていたのは外部の人だった
内部の人は書きにくいのである、私はあえて書いたのである
それは自分は30キロ圏外でありそれほど補償金をもらっていないから書けたとなる
でも30キロ内になると三倍もらっているから黙認したともなる

何か人間は悪に興味をもっている、みんな善人ですよとなると物語としてつまらないとなることも確かである、悪人がいて善人がいるから面白いとなる
それでテレビドラマの必殺仕事人はその悪人が征伐することで快感を覚えるのである
郷土史には何かそういう生々しい悪は語りにくい、でも人間だから田舎でもそういう悪人でもいた、でも語りにくいのである
だからきれいごとで終わり真実がないから郷土史はつまらないというのもわかるのである

岩松氏の悲劇の伝説(姓の意味するもの)

2020年01月25日

明治維新で北朝ではなく南朝を継続した (野馬追いに出ている南朝の旗) nanchoumeiji1.jpg


明治維新で北朝ではなく南朝を継続した

(野馬追いに出ている南朝の旗)
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鹿島区街内の出陣式
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鹿島区の旗印ほ菊の紋




後醍醐天皇は、既成貴族層の解体と再組織を狙っていて、旧来の「天皇対貴族」という関係を打破して、「天皇絶対」のための官僚組織を作り出すことを最大の目標としたのでした。

北畠顕家の諫奏に見る後醍醐天皇の失政

南北朝の戦いは複雑でわかりにくい、でも最近加治将一氏の本を読んでそうなのかと思った
明治維新は南朝を継いだのであり南朝の思想が反映された政権だった
それが巧妙に隠されていたのである

西郷は南朝の九州武将、菊池家の子孫だ、家紋抱き菊の葉と菊、西郷の変名は菊池源吾
逆から読めば(吾源は菊池なり)西郷はあくまでも菊にこだわりまた南洲という名も使用して南朝への思い入れは凄まじいものがある
官軍がかかげた錦の御旗、菊の御紋は当初は西郷軍を鼓舞するものだったのだろう
もともと天皇家と菊の縁はそれほど濃くない
戊辰戦争でやかましく浮上しただけでむしろ薄い

菊と水は楠公(菊水紋)の家紋である

野馬追いに出ている菊の紋の旗は南朝由来である、菊池とは菊の紋のことである

西郷は南朝の九州武将、菊池家の子孫だ!

この菊の紋の旗は鹿島区の街内で一軒確認している、あと二軒も確認している
鹿島区は真野中館に南朝の城の霊山が炎上して落ち延びてきた落武者が子孫の人が多い
只野氏はその中心人物だった、その人は同級生であり街の中心に住んでいる 、只野の姓が50人くらいいるのだ

有名な真野のお浜下りに「つづら馬」というのがある。つづら馬とは馬につづらをのせて荷物を運んだ。
霊山城で南朝が滅んだとき落ち延びたことを由来にした祭りなことは知られている。
それは真野の中館に落ち延びたのは桑折氏であり桑折氏が田中城の城主でありのちに伊達氏などがかかわり攻防があって相馬氏が支配することになった。

桑折氏と菊池氏は南朝の城の霊山が炎上したとき逃れてきた武将でありその子孫なのである

明治維新になりなぜまた南朝問題が生じたのか?
それは天皇の正統性が問題がぶりかえしたからである
江戸時代は天皇は脇役であり関心がなかった、でも天皇親政のようなものが復活してきたのが明治維新だったのである
それで天皇の御旗をかがけたのはほとんど南朝出身者の武将達だった
だから南朝の思想を受け継いでいたのである
なぜ明治になって異常なほど天皇をもちあげて国家神道としたのか?
その原因がここにあったのだ

後醍醐天皇は、既成貴族層の解体と再組織を狙っていて、旧来の「天皇対貴族」という関係を打破して、「天皇絶対」のための官僚組織を作り出すことを最大の目標としたのでした。

「天皇絶対」のための官僚組織を作り出すことを最大の目標としたのでした。

これが原因だったのである、第一この思想は民主主義とかヨ−ロッパの文明を取り入れたとき合わないものだった
ところが日本はこうして先祖帰りして天皇絶対制になってしまったのである
またそうしなければ日本を統一できないということがあった
ただ天皇が異常にもちあげられたことがやはり後の大東亜戦争の原因にもなった
明らかに明治維新から大東亜戦争は連続していたのである
その源に明治維新が南朝の復興であり継続だったということがあった
その主役となった西郷隆盛でも南朝の子孫だったということである

野馬追いの旗はわかりにくいにしろここは歴史的に明確なのである、ともかく歴史はどこかで蘇ってくる
江戸時代300百年は天皇は関係なかったからだ
それが明治になって天皇が異常にもちあげられた、また明治維新を成した人たちが天皇をもちあげて明治に新しい国家を作り上げたとなる、それか一面災いももたらしたのである
その証拠に靖国神社には官軍についたものした祀られていないのだ
西郷は最後は西南戦争で賊軍になり祀られていないのである
そうした恨みは会津でももっていたのである、賊軍とされたからである

明治維新となると今見直されている、錯綜しているが萬世一系などないというのは確かだろう、それは天皇を持ち上げた人たち作りあげた虚構である、だから明治天皇は作られた天皇だったというのもわかる
萬世一系とか天皇像を作り上げたのは天皇自身ではない、その取り巻きの権力を得る人たちだったのである
そもそもヨ−ロッパにならったら天皇というのはありえないからである
それは象徴的なものではない、実権ももっていたからである
天皇がそうした権力ではなく、文化的存在として許されるものだったと思う

『歌書よりも 軍書に悲し 吉野山』 {東花坊}

天皇は時代がたつにつれ歌書の方に傾いた、江戸時代にはただ歌の短冊を売ってかろうじて暮らしていた、まさに歌詠みにすぎなかったのである、それが明治になって異常にもちあげられた、天皇は象徴として必要でもそれが実権をもたされて取り巻きに利用されたのである
ただ日本は統一するには天皇が二に分かれると歴史では日本は二分して熾烈な争いとなった、だから南北朝の争いは日本のすみずみまでが争いになり深い傷痕を残したのである

2019年08月20日

南相馬市鹿島区真野地域(小島田、大内村の歴史ー1300年代の人名が記されていた)


南相馬市鹿島区真野地域(小島田、大内村の歴史ー1300年代の人名が記されていた)

●相馬氏の「一族」「若黨=家人=郎従?」「中間」

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若党(わかとう)      

『貞丈雑記』に「若党と云はわかき侍どもと云事也」とあるように本来は文字通り若き郎党を指したもの[1]であるが、江戸時代には武家に仕える軽輩を指すようになった。その身分は徒士侍と足軽の中間とも足軽以下とも言われた。「若党侍」とも呼ばれるが士分ではなく大小を差し羽織袴を着用して主人の身辺に付き添って雑務や警護を務めた[2]。一季か半季の出替り奉公が多く年俸は3両1人扶持程度であったため俗に「サンピン侍」と呼ばれた。


相馬氏の一族のことで千葉氏のことを詳細に書いているサイトがある
それを分析すると南北朝時代にすでに住んでいた人の名前が記されている
そこで注目したのが小嶋田と姓を名のる人がいた
江多利(江垂)六郎入道と名のる人がいた

仏道修行に入ることだが、とくに出家剃髪していながら在俗の生活をおくる者にいう。それから坊主頭の人を入道というようになり、

その土地の名を名のることは普通にある、それはその土地に土着したことなのである
江多利(江多利(江垂)六郎入道)六郎入道とあれば今の江垂に住む坊主頭の世俗の人だとなる

家人(けにん)とはその家に仕えるものなのか、また妻が夫を家人と呼ぶこともある
身内の人だとなる、侍は一つの家を中心に使う者と仕える者がいた
この表では姓がある者とない者がいる、中間とかなるとない、若党も中間とにていたが姓を持つものがいた、家人でも姓がない人がいた
この表でぱ若党はみんな姓をもっていたからまた別な役割をもっていた、格はは高かったともなるのか?
姓を名のることはよりその一族と一体化した人たちだったとなる

この表に注目したのは1300年とかなるとこの辺では古い、普通は江戸時代以降でようやく人物名が明確になる、その頃すでに姓があり土着して住んでいた人がいた
だから小島田は意外と古い地域だということがわかる、江垂もそうである 

小島田が古い地域であるという時、12年に一度行われる「お浜下り」の祭りで行列が小島田村に入るととき儀式がある、つまり小島田村は重要な村であり昔は境が大事でありそこを通るために許可が必要だとかなりそういうシキタリが残されていたとなる
郷土史では村の新旧を知ることが基本である
小島田村は古いが右田村は江戸時代に開拓されたのだから新しい
海老村は弥生時代の遺跡が津波の跡から発見されたから古いとなる
古墳のある寺内なども古いのである、古墳がある所はわかりやすいとなる
それで日下石に前方後円墳があった、それは津波が近くまで迫っていた地域だったのである  

今回小島田村も津波の被害があった、大きな被害にはならなかったが被害があった
ただ常に言うがこうして南北朝時代から集落があり古いのにこの辺では津波に関する伝承が残っていないのである
慶長津波は江戸時代になるときであり1611年である、1300年にすでに人名が明確にこのように記されて住んでいたのである、でも津波に関しての伝承がないのである
小島田という地名はこの辺が湿地帯であり島のようになって田があったとなる
そういう土地であった、大内の袋村は江戸時代に開拓したが消えたのは海側と河口に近く開拓できなかったのである

いづれにしろ真野という地域は古い、古代にさかのぼりそこは入江であり塩崎に船着という地名があり市庭という地名があり船が行き来していたのである
ただこの船は今の東北電力の火力発電所がある所で大規模に鉄の生産をしていたのでその鉄などを運ぶのに船を利用したと見る
そんなに遠くから古代には船は来ないからである
ただ頻繁に船は行き来していた、大内村に曾我船とある地名は船がさかのぼるということから名付けられた、ということは船が頻繁に来ていたからだとなる
泉かんがあったがそこに運河作られていて船が行き来していた
そうすると短い区間でありそこを船を利用していたのである
なぜそんな短い区間をわざわざ運河を作ったり船で行き来したのか?
それは湿地帯とか道が作られていないとかあり川とか運河でも海でも通行しやすいためである
そして大内村には800年の坂上田村麿の関係する薬師堂がある
これは古代にさかのぼるから大内村は古いとなる

いづれにしろ真野地域は南相馬市の鹿島区では一番古い場所だとなる
それは古代からつづき中館があり真野五郎が住んでいた
そこち南北朝で霊山から逃れた侍が住みついた
古代になると名前が姓があって人物名がないがこの頃になると明らかに人物名がはっきりとして残っている、それは相馬氏一族関係者であり霊山から落ち延びてきた南朝方の侍なのである
ただ霊山から落ち延びて来た桑折氏がいた真野で桑折五郎となのった
その前に土着していた真野五郎がいたとなる、ではなぜ五郎なのか?名前をとったのか?
それも謎なのだが五郎とか八郎とか九朗とかの名前が多いのはそれだけ兄弟が多かったためだろう
今でも八郎となれば八人目の子供だとなるからだ、今はもう子供の数が多いからそういう名前はないのである
次郎太郎とか普通にあったがそれすら今はなくなる時代だからである

鹿島の街内に住む只野氏はその子孫である、只野氏には何か古い資料が残っているとか聞いた、そして謡(うたい)として伝承を伝えていたが個人の家だけなので伝えにくくなったと聞いた、伝承は謡(うたい)として歌として残されていた
もともとは文書ではなく謡(うたい)として残されていた
それが祭りだとなる、でもなかなかその伝承も継承できなくなる
個人だけではやがて消失する、そして祭りを継承する村とか共同体がなくなると個人だげでは継承できなくなる、それで現代は村の祭でも継承できなくなり廃れてゆく
少子高齢化や過疎化で廃れてゆくのである
祭りはやはり共同体があって維持できるからである 



鎌倉時代1185年平氏が滅亡、源頼朝が守護・地頭の任命権を得る(鎌倉幕府の成立)
1192年源頼朝が征夷大将軍となる
1274年元寇、モンゴル帝国の襲来
1333年鎌倉幕府が滅亡
1334年建武の新政が始まる
1336年 室町時代南北朝の動乱
1338年足利尊氏が征夷大将軍となる
1392年南北朝が統一される


千葉氏一族の歴史

ここのサイトから著作権違反を指摘されたことがある
だから引用もむずかしいところがある
ただ一部の表をここに出した
こういうものも指摘されれば出せないとなる
でもそうなると学問的には発展しないとなる
なぜなら学問とは共同研究になるからである
全国になると特に広いからそうなる、そこでインタ−ネットは学問でも素人でも資料とか論文を読めることで参画できるようになった
それであまり著作権を言うと研究も発展しないとなることは確かである




2019年08月10日

(姓から探る郷土史) (東京の女子学生が只野家の蔵を利用する旅を企画する)

(姓から探る郷土史)

(東京の女子学生が只野家の蔵を利用する旅を企画する)

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野馬追いに出るとなるとこの只野氏は古い



駅で駅舎の写真をとっていた、どこから来たのか尋ねた
東京からだという、鹿島駅の駅舎は古い形が残っているので写真をとる人が多い
その女子学生は旅行会社でインターで働いていて蔵を利用したツアーを企画しているという
その蔵の写真をスマホでみせてもらった、二つの蔵がある家だった
二つ蔵がある家は見かける、その家は只野という姓だという
そこで只野氏の由来を説明した
とにかく鹿島区には只野、但野・・・の姓が本当に多いのである
30とかある、つまり只野氏一族の町だともなる
その由来は郡山市の多田野村に発していて南北朝の戦いのとき霊山城が炎上して逃れて来た武士の子孫なのである
それは由来のはっきりしたものでありこの地はその武士の子孫が多いということなのである、苗字に姓にまつわる話はいろいろある

姓というのは小さい村だと必ず一つの姓がその村とか町に多いのである
それで末次駅の村の墓地を見たら8割だ新妻の姓だったのである
そこは新妻一族の住んでいる村だったのである
それから葛尾村でも松本の姓が三分の一というときこれも信州の長野県から逃れて来た武士の末裔が住んだからそうなったのである
だから姓を苗字をみるとそこで歴史がわかる
ただ住む人が多くなると大きな市とかになるといろいろな人が入り乱れて住むようになるから姓が混在してわかりにくくなる
現代はそういうことが多い、本当に遠くに嫁いだり移り住んでいるからそうなる

相馬藩内では三分の一の人口が天明の飢饉で消失した、逃散した
その穴埋めに越中などからの移民が入ってきた、その人たちの姓は越中などに由来する
古賀とあれば越中に古閑村とかあり他にも越中とかから移民してきた人たちの姓は分類できる、とにかく相馬藩内には三分の一も入って来たのだから多いのである

苗字の中には武蔵にしかないというような特別なものがある
少なくともある一定の地方にのみ起源の求められるものがある
児玉や熊谷はたとえ中国九州にあっても、元はこの国から出た家と見てさしつかえがないこれと同時に逸見とか小笠原とか帯金とか言えば少なくとも最初甲州人であり,波多野とか渋谷とか股野とか言えば仮に国境を越えてまっすぐにやってきたものででは無いまでも相模系の癒えであることは想像し得られる(柳田国男全集ー武蔵野の昔)

相馬藩は相馬氏が千葉県などから移住して相馬氏に支配された地域である
ところが相馬という姓を名乗る人はいない、それは殿様だけが名乗れるものだった
そして相馬市に城跡があるが相馬市は前は中村市だった、中村がありそれはもともとの土地の名だったのである
たいがいもともとの氏姓があっても別な土地に移る時その土地の名を名のるようになる
土着するとそうなる、でも相馬氏の前に相馬藩内を支配した鎌倉から来た岩松氏は土地の名を名乗っていない、そして家臣によってその一族は稚児まで虐殺されたので歴史に残っている、それは500年前とかの話なのである
そして岩松という姓は相馬藩内にないということが歴史の事実を未だに語っているのである

いづれにしろ只野という姓が南相馬市の鹿島区に多いのはその歴史がありそれで多い
ただすべてが只野氏の子孫かというとそうではない、明治以降誰でも苗字を名乗ることが許された、すると由緒ある苗字にあやかり各自が名乗ったからまた増えたともなる
なぜか郡山市の多田野村の近くに小林村がある、これも不思議だとなる
小林村とは他に会津の方にもあるからどうしてそうなったかわからない。
私の父は葛尾村から出ているからだ、祖父は柏原村の出である

姓から歴史を郷土史でも探ることはみんなしている
相馬藩内だと例えば馬場という姓があるとするすると原町に馬場村がありそこから鹿島村に移ってきたのかとなる
不思議なのは大谷(おおがい)村があり栃窪村に大谷の姓に連なる人の姓が多いのである大谷氏一族の墓があるのも知っている、どういうわけか栃窪の大谷氏と私の家は親交があった
ただ大谷村というのは大原村の隣であり狭い所なのである、人が移動するとき農村社会だったから農業するために土地を求めることがある
土地がなければ生活できない、田畑がなければできない
それで延々と開墾や開拓が日本ではすすめられてきた、そもそも相馬藩内で三分の一も飢饉で人口が減った時、なぜ越中などから移民がわざわざ来たのか?
それは土地が得られるということだったのである
三分の一の人口に減れば空家とか土地がありそこを埋めるために移住した
それは原発事故でまた人が極端に減ったときそこに新しい人が都会から移住したりしているのとにている、その時はそれだけの人が移住したというのは農民社会で土地を得られるからだったのである

只野氏の由来は明確である、他の姓は明治以降に勝手に作られたという時由緒が明確ではないのである
野馬追いに出る家は武士の家であり古い家である、その姓も古いとなる
ただ渡部とか多い、するとこれは全国的にも多いからそこから歴史を探ることは不可能になる、鈴木などもそうである、これは熊野地方に由来していることはわかる
それで熊野神社が多いこともわかる
でも全国に広がってしまった姓から歴史を探ることはむずかしくなるのである
とにかく誰しも自分の家の姓には興味があるからそこから歴史に郷土史に興味をもつことはある、それが一番身近だからである

やはり郷土史になると柳田国男が先駆者でありそれが常に一片の小説のように語るのでその語り口が独特なのでひかれるのである、つまり何らか文学的才能があり新しい民俗学を起こした人だったのである
必ず一片の物語としてその土地のことを語っているからである
つまり歴史はヒストリーでありストリーだということを知るのである
何か過去のことがわかりにくくなっているが柳田国男の残したものを読むと昔のことが小説を読むようにわかるから貴重なのである

2018年12月06日

南相馬市高倉に移り住んだ人が地元の歴史に興味をもつ (詳細に調べているので感心する)


南相馬市高倉に移り住んだ人が地元の歴史に興味をもつ

(詳細に調べているので感心する)

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南相馬市で古い地区となると古代から歴史を継続して刻んできたのは桜古墳と泉官衙(カンガ)跡から高平地区である
古代からそこに歴史が記されてきたからである
泉かんがの前には桜井古墳があるからわかりやすい、そこも高平地区一帯である
そうればとうしてそうなったのか?
その場所が新田川があり海に近く住みやすい場所として最初に開けたとなる

それと製鉄遺跡のある真野郷の遺跡まで道まで作られて管理されていた
新田川も運河になっていて物資が運ばれていた、古代ではそこは湿地帯であり行き来ができないから川を利用した
桜井古墳は立地的に見れば高台であり場所として最適だった
だから今回の津波はそこまで来ていても被害はなかった

最近駅で会った外部から来た人の研究では泉長者から鎌倉時代から南北朝時代までつながりある地帯として調べている
外から来た人でそんなに興味をもてるのも不思議である
地元に住んでいるといつも目にするものがあるからそこで興味をもつようになる
私の場合は墓に興味があり地元の歴史に興味をもった
墓とは文書ではない、何か本当の人間がここに埋もれているとも見るからである

ここまで地元の歴史に興味をもつ人はないだろう、それも詳細に調べている
そういうところが学者的なのである、私の場合は何か芸術的に見るから学者的な研究となっていないことがある
この人は文書からも学者的に詳細に調べて指摘しているからそういう素質があるとなる

例えば南北朝のことで代々の相馬藩主殿様のことで南朝についたものと北朝についたものとして年号に注目している
南朝の年号と北朝の年号が違っていたのである、それは天皇が二人になり日本全国が分裂したからである

足利尊氏は、光厳上皇の院政の下、光明天皇を擁立し、11 月 7 日には建武式目けんむしきもくを定め、幕府の基本方針を示した。
一方、後醍醐は 12 月に京を脱出して吉野へ逃れ、光明天皇に譲った三種の神器は偽物であり、自らが持っているものが本物であると称した。ここに天皇家は、光明天皇の北朝と後醍醐天皇の南朝に分裂し、1392 年(元中 9 年/明徳 3 年)に両王朝が合一するまでの時代を「南北朝時代」と呼ぶ。 

尊氏は条件を容れて南朝に降伏して綸旨を得る。この和睦に従って南朝の勅使が入京し、11月7日北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭される。また、年号も北朝の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一される。これを「正平一統」と呼ぶ(後に足利義満により再度図られた南北朝統一である「明徳の和約」を、正平一統に合わせて「元中一統」と呼ぶことがある。)
年号も北朝の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一される。これを「正平一統」と呼ぶ

親胤は 建武2(1335)−延元2(1357)で南朝の年号であり
胤頼は 延元2(1357)−貞治6(1367)で貞治は北朝の年号である

相馬藩も南北朝になり二つに分かれたともなる

高平地区にあった寛徳寺に胤平を中心に城が築かれとどまる南朝方で活躍するが1347に北朝方に下る


北畠親房が准后に任じられて17年ぶりに京都に帰還、続いて北朝の光厳・光明・崇光の3人の上皇と皇太子直仁親王を拉致、本拠の賀名生へ移された。後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)、
さらに山城国男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)へ移した。近江へ逃れた義詮は、近江の佐々木道誉、四国の細川顕氏、美濃の土岐頼康、播磨の赤松氏らに、足利直義派だった山名時氏や斯波高経らの協力も得て布陣を整え、3月15日京都へ戻って奪還、さらに21日には後村上天皇の仮御所のある男山八幡を包囲し、物流を遮断して兵糧攻めにした


石清水八幡宮は、足利将軍家が特に篤く信仰したお宮ですが、同宮は足利氏だけではなく八幡太郎の名で知られる源義家や、鎌倉幕府を開いた源頼朝、それに徳川将軍家など、歴代の源氏一門から、源氏の氏神、武門(弓矢)の神として篤く崇敬されてきました。

鹿島の男山八幡神社はここから由来している、京都に男山という山がありそれが基である

ともかく南北朝の混乱は全国的であり60年続いた、その傷跡は今でも残りつづいているこの辺では霊山炎上で落ち延びた只野氏とかがいて考察した
その子孫がここには本当に多いのである、野馬追いの旗にも南北朝時代の侍の子孫がいて旗印にしているからわかる
野馬追いの旗印は鎌倉時代からさらに古代までさかのぼるからわかりにくいのである

その人は高倉に住んでいる、その高倉の由来はもともとは鷹であり高倉になったという
あそこにある神社の由来を聞いたがわからなかった、その人は明治以降なのか昭和なのか開墾に入った人だったかもしれない
あそこの神社の屋根の紋は9曜の紋だが亀甲紋もあるという、あの神社は綿津見神社である、この綿津見はこの辺だけに使われる文字だという、やたらこの辺ではこの綿津見神社が多いのか謎である

綿津見神社 (小倉南区) - 福岡県北九州市小倉南区石田鎮座
綿津見神社 (古賀市) - 福岡県古賀市庄鎮座
綿津見神社 (東区) - 福岡県福岡市東区三苫鎮座
綿津見神社 (糟屋郡) - 福岡県糟屋郡新宮町湊鎮座
綿津美神社 - 福岡県北九州市小倉北区萩崎町鎮座   

福岡県福岡市東区志賀島の志賀海神社を総本社とする。綿津見三神は阿曇氏の祖神とされ関わりが深い

なぜ福岡県にこの漢字をあてているのか?つまりなんらか九州に関係あるのかとなる
他にもいろいろ当て字しているがこれだけ同じ当て字しているのは関連があるとなる
とにかくこの辺ではこの字をあてた神社が本当に多いのである
それはなぜなのかとなりその関連性を知りたいとなる
神社とは神が勝手に来るのではない、必ず人が来て人がもたらすからである
つまり福岡県と関係してこの神がもたらされたのかともなる
それにしてもこの神社がこれほど多いのはそれだけこの神社に関係した人が多いということである
だから何か因果があると思うのが自然なのである
それがどういう経路でもたらされたのか知りたいとなるがこれもむずかしい
でもこの神社のある場所を特定して地図化してみたら本当に多いから何なのだろうとなる 

長野県にも安曇族とか海人族が入ってきて船の祭りをしていたのを見ている、安曇とは九州から来た海人族だからである、ここにこの字が由来していることはやはりなんらかその由来を語っているのか?

これと対象的なものとして飯館村の佐須にある山津見神社がある、これは綿津見神社と対象的でありこの辺にしかないのかもしれない、インタ-ネットの検索では出てこない
なぜか松川浦付近に山津見という地名がある
これは綿津見神社が多いからそれに刺激されていうとおかしいが山の神としてそう名付けたのかもしれない、綿津見神社があり次に山津見神社が生まれともなるからだ

いづれにしろこの人の指摘していることは要点をついているのである
だから外部から来てここまで地元の歴史に興味をもつというのはめずらしいと思った
地元に住んでいると別に歴史に興味をもたなくても自ずと持つようになる
でも外部から来たらなかなかここまでは興味をもつ人はない、だから不思議だとなる
ただ震災以後は外部から入ってきている人が増えた
鹿島ではおそらく2割くらい外部から入ってきた人たちかもしれない
駅で会うのは外部から来た人達が多いからである




ここで調べた人は名前も知らない、ただそれなりにこれだけ詳細に調べるということはその人の努力があり勝手に紹介できないということがあるかもしれない
その人が発見したものがあるから著作権が生まれる
それで勝手にここにのせていいのかとまどったが一応返答ということでのせた
高平地区は南相馬市の歴史を語る場所であることは間違いない
あの五輪塔がそれを語っているのである


2018年08月04日

南相馬市鹿島区の姓の考察


南相馬市鹿島区の姓の考察

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岩松氏の伝説

南相馬市鹿島区の歴史で姓がたどれるのは岩松氏からである
それは鎌倉時代にこの地に来た、その家臣が従った者が蒔田、島、中里、日里氏だった
その子孫は継続して生きている、ただ相馬氏と組んでこの家臣が一家を惨殺した
子供まで殺したのでそれが伝説となって残っている
それが500年たっても継続している
なぜなら蒔田、島、中里は姓として残り子孫も残っている
日里はいないがこれはその残虐な行為を恐れて姓を変えたのである
それが郡(こおり)となったのである。
その子孫たちは別に今も身近に生活をつづけている
ただこれが歴史というものなのか?500年とか過ぎてもそれが語られるから子孫にとっては気持ちいいものではないのである
今ではそういう人たちはそのことを語ってくれなともなる

貞治5年(1366年)桑折五郎元家は伊達郡桑折より真野郷に移り中館を居城として真野五郎と名乗った。

奥相志には、「往昔、国司源顕家の時、桑折五郎元家伊達郡桑折より来たり、江垂館に住し真野五郎と号す。その後田中塁に移り居ること七世なり。古記にいふ、江垂館は天文中古城と唱ふ。古館の跡なり。」と


南北朝に由来する者では但野氏について前に書いた、お浜下りでおつづら馬という役を担っている、それは重要な役目でありその家の歴史はそこまでさかのぼるから古いとなる
他地菊池氏などもそうなのだろう、野馬追いの旗で天皇の菊の紋を旗印にしているからだ後は山王の旗印がありこれも南北朝の時落ち延びた武士でありその子孫は玉野村で相馬市方面と鹿島に分かれて落ち延びたのである。

次にあまり目立たないが三春藩をめぐって家督相続でも問題が起きて相馬氏と伊達氏が熾烈な争いをした、三春とはもともと相馬氏は婚姻関係を結んでいて親しい仲である
その関係で相馬藩内に三春関係の姓がもたらされた、田村がそうである
田母神村が三春にありそれの基は坂上田村麻呂なのである。
田の神とは別なものでありまぎらしわいとなる
実際田村という姓は鹿島区で古く身近なのである。
鹿島区は人口一万にもみたないから姓にしても身近に感じる
極端なのは末続駅のある末続村である、そこの墓地では9割が新妻の姓だった
つまり新妻一族が住んだ村だったのである。
そういうことは小さな村だとわかりやすいのである
それが原町とかになるともともと5万くらいの人口がありいろいろな人が混じりわからなくなる、相馬市でもそうである、外部から入った人たちが多いからである
それはどこでも市の単位になると人口が多くなるからそうなる

相馬藩で注意しなければならないのは越中から富山県からさ真宗系統の人たちが大量に移住したことである、その理由はさておき相馬藩で飢饉になり天明から移住した
その数が多いのである、相馬藩では三分の一が欠落したが真宗系統の移民によって穴埋めされたのである。
だからその系統の姓が多いのである、墓の三分の一は真宗系統だとなるから多い
五賀は僧であるが南相馬市内に80人もいるのである、これは越中富山県からの移住なのである、他にも中田とか大岩でもそうであり相馬藩内で身近にそういう姓の人が今も住んでいる、だから相馬藩の特徴はともかくこの越中からの移民した子孫が多いのである
それは三分の一もそうなのだから身近にその子孫が生活しているのである
それでこの真宗系統の子孫は見分けやすいのである
宗教も違っているから見分けやすいのである。

相馬氏系統は多様だからここには書かない、でも基本的に南相馬市鹿島区の姓はこのように成り立っている
姓から歴史を見ることは身近だから親しみやすいとなる
それで良く自分の姓についてたずねる人がいる
岡和田氏はここの由来なのだとか荒氏は相馬藩とどういう関係にあるのだとかなる
ただこれはなかなか姓でもわかりにくい、なぜ相馬藩内に荒氏が多いのか?
それは渡来人関係のツノガノアラシトに由来していてここのアラをとって荒になったのかということもある、それは古代に由来しているのである。
全国的にも渡来人関係の姓も残されている、でもどうしてここに荒姓があるのか?
それは古代に関係して名付けられたのか不明なのである。

2018年02月23日

海からの視点 (南相馬市の大船とかそが船とか船着の地名)

海からの視点

(南相馬市の大船とかそが船とか船着の地名)
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津浪が来た地点に古代の地名が残っていた
大船は烏崎である

●海からの視点が日本では先にあった

日本の神話は国産み神話は海人族のものである。その国土形成もイザナギとイザナミであるが島々を作るというとき塩の滴りから作るというとき海人族のものである。

この地球を見るとき山から見る視点になると国見というとき

天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌(おほみうた)

《訓読》
 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば
 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和国は

これは山からみて国を見る,南相馬市にも原町区に国見山がありそれがちょうど小高とか鹿島の範囲が見える,だから南相馬市は地理的に一体感があった
相馬市となると国見山から見える範囲からはずれてくる
この万葉集の歌では海原(うなはら)や鴎が出てくるくることが大きな疑問になっている
それでもともと奈良は太古から大阪湾から奈良まで入り込んでいたという説がある
その当時の地理がありそれで歌われていた
それは今回の津浪でわかったように海は陸に深く入り込んでいたことが証明された
それで日下石(にっけし)は太陽の陽の沈む場所でありその古い地理の痕跡を示していた
なぜそこが陽の沈む場所だったのか?それは陸から見ていたらむしろ陽の昇る場所だからである。
現実に日下石まで津浪が来て太陽がかがやき沈んでいったのを見たときは本当に驚いたのである。それほど深く海は陸の方に入り込んでいたのである。

海から見る視点が欠けるのは海は日常的に歩かない,海に通じているのは漁師などだけど漁師のことは良くわからない,漁師は山を目印として見ている,船に乗れば意外と山だけが見えるし目印になりやすいのである。
その山を目印にして航行できる,例えば新地からは牡鹿半島が見える,金華山も見える
新地駅は新しくなって高いから駅から見える
意外とこれも近いなと思う,すると船で渡ってもまようことがない,目印がはっきりしているからである。こういうふうに海から見る視点は違ったものとなる
それでも海から国見などはできない,山がありそこから平地を見て山を見て海を見るのである,でも日本では盆地が多いから海は見えないことが多いのである。
福島県だと浜通りは海が見えるから会津とは相当に感覚的にも違う世界なのである。
それで海からの視点とか歴史をみることが必要になる

その海の視点として見るとき万葉集の「陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを (笠女郎)」この草原(かやはら)は萱のことではなく地名であり港のことだと自分は解明した、なぜなら塩崎まで海になっていてそこに船着とありそのすぐ近くまで津浪が来たからである。そこは低い所でありそうした奥まで入り込みやすかったのである。
烏崎から船が津浪で六号線まで流されてきたことには本当に驚いたのである。
そこが万葉時代は海であり平安時代あたりまで船が行き来していたとなる
それで市庭(いちば)という地名も残っている,市庭とは古くから日本では市がたつ場所だった,だからなんらか商品の売買があったとなる
そこが真野の草原(かやはら)として地名とは断定できない,石巻にも萱原という地名がありそこが江戸時代からこの歌の場所だとされてきたからである。
その後の考古学の発見で南相馬市の鹿島区の真野が有力になったのである。

海を視点にして見ることが歴史的にも弱いのは海は何も残さない,そこで戦争があっても船は海に沈んでしまう,すると証拠がなくなる,それで最近は海にもぐり沈んだ船を探している,モンゴルの船も沈んだし太平洋戦争でも沈んだからである。
船はそうして証拠を残さないから海の視点から見ることがむずかしいから海はないがしろにされる,陸だったら小さな古墳でも残っていてここで確かに死んだ人が埋まっていると見れるからである。海だと海には何も残らないから歴史として遺物が残らないからただ想像力の世界となりそれが架空の世界ともなり認められないのである。
推理ドラマでは常に証拠を見せろとなるからだ,証拠がないといくら推測で言っても裁判でも負けるからである,だから海からの視点はないがしろにされてきたのである。
それで網野善彦とかが海からの視点で歴史を見直したのである。

船というとき船が単体であるわけではない,船を航行する技術とかそれを作る技術とか材料とかそこに波及する技術は多様なのである。
それは車でも飛行機でも同じである。それは政治的にも様々なものに影響する
エジプトではナイル川があり船の運行がしやすかった,するとあれだけ大きい王国でも川で結ばれたということがある,ピラミッドは川に通じていたともなるからだ
船の木材はレバノン杉が必要だというときそこに外国まで広がる貿易が必要になる
船を作り運行することはまた方向とかあり星座に通じる天文学とかが必要になる
羅針盤などがそれで中国で発明された,そして船によって大航海時代が作られたのであるその時オランダの風車の技術が船作りに応用されたのである。
日本では船の材料は山で供給されるから船木山とかあれば船に使用した木材を取り出したやまだとなる

●網野善彦の海民から見直す日本の歴史

網野善彦の農民だけではない海からの視点から日本の歴史を見直したことに評価がある

北条氏は津軽から若狭までの要津にをほぼすべてのその直轄下に置く一方、湊々浦々の
「大船」に過所を発給し,その直属の廻船として海上交通を支配した(日本社会再考-海民と列島文化)

この意味が良くわからないが過所とは許可証のようなものだろう。
そういう文書が残っている,大船という地名が鎌倉とか大船渡とかあるがここにもあった製鉄跡の東北電力がある所が大船という地名なのである。今は使われていない
ここで生産された鉄が運ばれたから大船なのか,鉄が運ばれたというとき船で宮古から浪江の請戸湊に運ばれて葛尾村で精錬されて葛尾大臣が富を築いた
鉄を運ぶとして重いから船が有利になる

海人などの長の立場に立つ人は刀禰(とね)と呼ばれていた(日本社会再考-海民と列島文化)

すると利根川が刀禰である
海人は海だけではない川にも通じて支配したのは交通ができたからだとなる
バイキングでもセーヌ川をさかのぼってパリに攻め入ったからである。
海と川は一体化しやすいのである。オランダが発展したのはライン川の出口の河口にあり海に通じていたからである。物資の集散する場所だったのである。
そういう地の利から小国でも貿易が商業が発達して富を築いたのである。

11世紀後半からの院政期には紀伊半島を中心に東は東国,東北、西は土佐、九州にいたる太平洋の海上交通が安定した航路となり活発な船の往来があったことは確実に証明できる
伊勢志摩の海民的な商人,回旋人はその広域的な海上交通を通じて根強く強い生命力をもつ自治都市(公界」を育てあげたのである

(日本社会再考-海民と列島文化)

移動しつつ各地に定着していった,綿津見系と宗像系という二大海人を想定する

この辺で神社として多いのが綿津見系である,宗像系ではない,それから熊野神社も多い八竜神社も多い,これは海と関係した神社なのである。

『長野県史 通史編 1 原始・古代』(長野県編 長野県史刊行会 1989)
 p414「安曇郡」の項に「安曇の地名は海人の統率者だった安曇氏の定着したところともいわれ、安曇郡の中央にある延喜式内大社の穂高神社(南安曇郡穂高町)は海神である綿津見命(わだつみのみこと)を合祀している。」

こうして海人族が長野県のような山奥まで入ってきて定着しているのである。
熊野神社が多いのと鈴木の姓がこの辺などで多いのは熊野系統なのである。
渡辺党というのもありこれも粋郡系統でありこの辺に多いのである。

そして熊野系統は南朝方についたというとき海人を味方にして海運をにぎり海を支配しようとしていたのである。

この辺の歴史でももともと相馬氏は北朝であったが海に海岸に館を置いていた豪族と相馬氏が進出してきてそれらのものが抵抗して苦戦した
なぜなら小高でも蔵院とか湊があり船があまたあり海運の拠点ともなっていたからである今回の津浪でわかったように小高の城近くまで津浪が来ていたからである。
そこは船の出入りする物資が流通する港だったのである。

それから相馬氏が高平に進出して西殿とか古屋敷とか地名が残るように相馬氏でもみんな一体でなく争うこともある,そこで海側を支配していた泉氏と対立した

泉廃寺跡は泉間が跡として知られ古代からかんがが置かれていた,その延長として中世までその機能が港があり海運をになっていた
13世紀後半から15世紀と17世紀前半の時期に変われるが多くの舶載陶磁器や国産陶磁器が出土した

河川交通と海上交通の結節点に位置して中世を通じて流通にかかわる遺跡だあった可能性が高い
古代行方郡家が置かれた新田川流域,泉地区は中世において地域支配の中核であり在地領主の屋敷地が鎌倉時代に作られた

泉観音堂に安置された一一面観音像菩薩立像から「弘安六年一二月・・」と記されている胎内銘が確認されている(原町市史)

この高平地区で南北朝の時代争いがあったのは相馬氏が北朝であり海側の港を根城にしていた人達,相馬氏でも分裂している場合があり対立した
西殿という地名はそこに館があった,でも海側にも館があり争いがあった
南朝は海人を味方にして勢力をもっていた,日吉神社もまた南朝方でありそれで霊山が炎上して落ち延びたとき鹿島区の真野に逃れたのである。
その逃れた系統に海人系統がまじっていた,それで烏崎にも住んだのである。
烏崎では鎌倉時代にすでに岩松氏が船でついたという伝説がある
これは磐城から来たといわれる,何か南朝と北朝の争いで混乱していたが相馬氏は先は北朝だったのである。
そして熊野神社系統も南朝だったのである。海の支配権は南朝がもっていたのである。
相馬市では磯部館があり佐藤氏が支配していた,海から急襲されたとかの言い伝えがあり海を通じての興亡があったとなる,後に佐藤氏は相馬市の道の駅にある鬼越館に移ったのである。それは津浪が来る前だった,だからこれも不思議だと思う

中世の磯部館の海側から移転は慶長津波が関係していたのか? (伊達氏もかかわり中村城移転は相馬氏の支配を確立するため)

●津浪が語る昔の地形

今回の津浪では古代にさかのぼり地形が明らかになった,海だったところが本当に海になったのである。
それで大内の古い地名のそが船とか塩崎の船着や市庭という地名が現実を反映したものであり地名の化石であることを実感した
地名はそれほど古い歴史の痕跡だったのである。
曽我船とは船がそこをさかのぼっているという意味である。
そういう地名がつくのはいつも船がさかのぼってくるからこそいつもそういう船を見ているからこそそういう地名がついた
たまたま来るのではない,日常的に来ていなければそういう地名はつかないのである。

そして津浪が来た到達点からみると鎌倉時代の中世の板碑がある高平を見るとすぐ近くまで津浪が来ていたし鹿島区だと田中城は古い城だがそこも近くまで津浪が来ていたのである。だからその位置が地理が歴史を語っていたのである。
田中城は湿地帯に囲まれ守られていた,だから昔は海というより湿地帯になっていたのである。高平では屋敷があったのは西殿でも津浪が来ない場所である。
だから津浪の来た場所は湿地帯で人が住みにくい場だった

1611年12月2日(慶長16年10月28日)に慶長三陸地震があり津浪があった

15世紀と17世紀前半の時期に変われるが多くの舶載陶磁器や国産陶磁器が出土した

慶長時代までこうした貿易が行われていたのである。だからその時まで小高でも原町でも鹿島でも磯部でも港を根城とする土着勢力があり相馬氏はその後に入ったから対立した
そこで争いがあり海老の大工が大原の相馬氏と関係した伝説が残っている
それは相馬氏が中村に城を天守を造るとき何か抵抗した
その理由はわからないが津浪も関係していたのかもしれないと考察した
何か異変があり相馬氏の命令に従うことを拒否したのである。
そこで板挟みにあって大工が苦しんだ伝説だったのである。
時代の中で争いの中で必ず苦しむ人がでてくるのである。
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高平の中世の石塔群から見て津浪が来た距離が鹿島区の田中城からの距離とほぼ同じだというのも不思議である。
何かここに因果関係があるのか?

南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)






2017年11月14日

南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)


南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎

(南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)
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相馬氏の系譜

相馬師常(千葉常胤の子)
相馬義胤(相馬師常の子)
相馬胤綱(相馬義胤の子)
相馬胤村(相馬胤綱の子)
相馬胤継(相馬胤綱の子、廃嫡される)
相馬師胤(相馬胤村の子)
相馬胤氏(相馬胤村の子、下総相馬氏)
相馬重胤(相馬師胤の子、陸奥へ下向)
相馬師胤(相馬胤氏の子、下総相馬氏)
相馬親胤(相馬重胤の子)

相馬 重胤(そうま しげたね、 生年不詳 - 延元2年/建武4年(1337年))は、鎌倉時代から南北朝時代の人物。陸奥相馬氏第6代当主。相馬師胤の子。相馬親胤の父

1323年、一族郎党80余騎、寺社、同行を願う百姓らとともに陸奥に下向。太田川沿いに拠点を広げて小高城を築くなど勢力を拡大、陸奥相馬氏の祖となった。鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政が成立するとそれに従ったが、のちに足利尊氏が台頭するとそれに味方し、南朝方の千葉氏、下総相馬氏と対立した。子の親胤を尊氏の上京に従わせる一方で、次子の光胤を陸奥の守りにつかせ、自身は斯波家長と共に鎌倉の守備にあたったが、北畠顕家の攻撃を受け戦死した。

●相馬胤村―+―相馬胤氏―――――――相馬師胤
      |(次郎左衛門尉)   (五郎左衛門尉)
      |
        相馬胤顕――――――→岡田氏・泉氏
           |
      +―相馬重胤―――――――相馬胤国―――相馬胤景―――高平胤直
      |(六郎左衛門尉)                 (九郎左衛門尉)
      |
      +―相馬有胤―――――――相馬胤平
      |(十郎)       (六郎左衛門尉)
      |
      +―相馬師胤――――――
      |(次郎左衛門尉)   
      |
奥州相馬氏内でも重胤の従兄・相馬胤平が、おそらく所領争いが原因で南朝方につき、北畠顕家に従って重胤流相馬氏と対立した。胤平は功績によって南朝から「左衛門尉」に任じられている。

@五輪塔は藪の中に埋まっており,由来を知るものがいなかったこと
A共同墓地付近を「左衛門塚」と呼んだこと
B八竜寺の山門礎石といわれる大石があったこと
C八竜寺は有胤の菩提寺であったこと
D有胤の居館が西殿にあったこと
E八竜寺とその所蔵資料が約二百年前に焼失したことが伝わっている

この系譜を見れば次郎とか五郎とか六郎とか九朗とかあり兄弟である。
ここで明らかなことは

A共同墓地付近を「左衛門塚」と呼んだこと

これは間違いなのである。そして高平胤直という人物はこの高平の地名を姓としたのである。重胤が陸奥に下向したからである。

地方の武人の通称に何々左衛門とか右衛門とかなるのは元は皆京に出て禁衛の兵士になったもののしるしで今なら下士官相当の役にすぎぬのだが田舎に帰ると社会上の地位であった(柳田国男全集16)

鎌倉幕府が成立するときにその前は平氏の勢力が強かった,だから胤平などはその平の一字をとったのかまたは高平胤直がいたからその高平の平をとって名前としたかもしれぬ
どちらかというと平氏の姓はとられていないから高平の平をとったのかもしれない。

八竜(龍)神社は多いし鎌倉時代に普及した,だから寺もあったとなる,相馬有胤の菩提寺であったことは高平という姓の人がいることでもわかる
ここに土着して住んだのである。

D有胤の居館が西殿にあったこと

なぜ西殿なのだろうか?

殿館(とのたてさま)の起源

殿は文字のごとく長者の建物に対する敬号である。家号の属する土地である。
建築物を呼んでその中に住んでいる人を直接に呼ぶことを憚った意味である。
すなわち御屋敷ということであります
これが遂に移り変わって直接人の名を郡長殿とか局長殿とかいうように人の名を意味するようになったのは甚だしい変遷であります
南北朝頃の文書に諸国の侍に出した感状などを見ると人の通称に殿の字をつけたものがあらわれかかっている

一例を言えば河野武蔵殿とかなっている,これが奥羽の方へ行くと何の何某館と書いてある、武士の住宅を館というのは東北の方言で西国に行けば京都を私淑して武家も皆殿と呼んだのである。(柳田国男全集20)

高平に西殿とか御屋敷とか古館とかさらに海側に館前とかがある,ここには相馬氏関係の館があった

相馬胤顕――――――→岡田氏・泉氏

泉氏は相馬氏が来る前に存在した土着していた地元の豪族だった,だから西殿から海側の館前までなんらかのつながりがある。
この辺には確かに館がありその館に属して人々が住んでいたのである。

上高平字沢田の白山神社に1基、下高平字堂後の共同墓地内に1基、下高平字川原の氷川(ひかわ)神社南西側に並んで5基の計7基から構成されています。
 川原地内のものに嘉元二年(1304)、応安二年(1369)銘が各1基、堂後地内の1基に嘉元二年の銘が刻まれており、他の無紀年のものも含めていずれも地元産の自然石を利用し、種子(しゅじ)調法が薬研彫りであるという共通した特徴から、追善供養(ついぜんくよう)や逆修(ぎゃくしゅう)などのため、在地の武士や僧侶等の有産者階層により、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて造立されたと考えられます。

鎌倉時代末期から南北朝時代とありちょうどここに相馬有胤-相馬胤平などがここに殿を館を構えた時期なのである。それは相馬氏がここに移住してその信仰ももたらされたとなる,この辺で鎌倉時代のものがあるのはまれだから貴重だとなる 
そしてなぜ西殿なのか?それは東から見て西にあるからとなる,すると西殿とは東から見てそう名付けられたのである。でも東には泉という地名と館前という地名がある。
そこにも人が住んでいたのである。西殿があれば東殿があっても不思議ではないのである

西殿とか御屋敷とか古館とか中世の石塔がある所までは津浪は来ていないのである。
相馬氏と対立勢力が地元にあり泉氏はその一族だった
それは海側の東にあり慶長の津浪で館も流されたのかともなる
慶長津浪は1611年に起きている,その前に泉氏は相馬氏に不満があり牛越城に火を放っているからだ

牛越城で泉氏が人夫徴発のことで不満で館に火を放つ

牛越城の施行は慶長二年(1597)近郷の土豪を夫役に徴発してはじめられた。
中ノ郷の備頭(そなえかしら)泉右衛門政胤(泉館在住)はこの人夫徴発のことで不満があり館に火を放って会津の上杉氏に走る事件があった。

泉氏は進出してきた相馬氏と対立関係にあったのである。西殿とか御屋敷とか古館とか地名が残っている一体,中世の石塔群がある一帯がそうである。
これはかなり後になってからの事件である。1611年に慶長津浪が来たからである。
もし津浪が来たとしたら泉氏の住んでいる場所は海側なのだから被害があった
西殿中心の相馬氏の住んでいる場所は津浪の被害がなかったともなる
何か西殿一帯には相馬氏が勢力をもち対立するものとして泉氏があってもめたとなる
牛越城5年ほどで終わり中村へ城を移したのである。

いづれにしろ高平の柳町の五輪の塔は実に立派であり貫祿がある,それがだから
相馬有胤―相馬胤平の墓だというのもそれなりにイメージできる
まずこんな立派な墓だったらそれだけの名のある人でないと遺せないからである。

ともかく時代がたつと全く忘れられてしまう無情である。

西殿と名のみ遺して忘らるや跡形もなく木枯らしの吹く

あの辺はしょっちゅう自転車で通るから気になる場になっていた,川子の御堂がある所もそうである。買い物に自転車で原町に行く自分のルートになっているからである。
やはりそういう身近な場所には興味をもつのである。
今回は何か遺された史書と辻褄が合う,千葉氏の研究とういサイトから引用した
ここでは著作権違反のことを指摘されたことがあった

そういうことがあるのでまたあるかもしれない,引用に問題がある,ここに書いてありますよというリンクだと問題がないのである。
だから指摘されたらリンク張るだけにすればいいとなる
リンクは許されているからである。

2016年01月09日

卒塔婆峠についてコメントありましたので答えておきます



卒塔婆峠についてコメントありましたので答えておきます


卒塔婆峠は前は道として確かにあったけどその後道が埋もれてわからなくなった
江戸時代もありこの道は飯館村と玉野村を結ぶ道だった。
それは南北朝時代からつづいていた古い道である。

逃げ延びてきた十三名の落ち武者を村人が殺めるという事件があったそうで
その後、供養のため峠に卒塔婆を立てた事からその名が付いたとか??

その根拠はどこにあるのでしょうか?

南北朝の争いで霊山城が炎上したとき落ち延びた桑折氏は山王権現を信仰していた。
約十三人は宝財踊りと名付けて姿を変ずること左のごとし

柄杓廻  顔を染め短衣をつけ
子供懐抱  芋屑頭巾を冠り顔を隠し女衣つけ子を抱く
山伏  顔を染め
獅子
笊下冠
道心坊  顔隠し
座頭    顔を隠し
笛吹

このように変装したのは落ち延びるためにそうなった。襲われることを恐れて変装した。
十三名というのは落ち延びた武者のおよその数だった。だから卒塔婆峠で殺されたというのはそういう数が伝えられていたからである。
十三名が殺されたわけではないだろう。
山王権現は玉野村から山上村にも祀られている。山王権現は野馬追いの旗印にもある。
玉野村から二手に別れて落ち延びたのである。

sannnnou1.jpg

この旗印の武士は日下(くさか)となっている。山王権現を受け継いできた姓なのか?
日下石(にっけし)は別である。


落武者伝説は各地にあるけどこれは明確な歴史として残されている、宝財踊りで顔隠しということがあるからやはり武士としての身分を隠すものだったのだろう。
要するにそれほど襲われることを恐れていたからこういう変装をした
それで落武者が殺されたという伝説にもなる、落武者狩りなどもあったのかもしれない

その時郡山の多田野村から移った武士がいてその末裔が同級生だったことに驚いた。
南相馬市の鹿島区には只野、但野という姓の家が本当に多いのである。
その人はお浜下りのおつづら馬を担当してきたという。
つづらをのせた馬のことであり重要な役割である。
これも不思議な縁起だと思った。鹿島区の街内も古い場所であり古くから人が住み着いた場所である。自分の近くの神社に天明の碑があったことでもわかるからだ。
鹿島神社の脇の墓地には安永の碑もある。

落ち延びてきた武士を村人が殺すということがあったのか?それは戦国時代ではあった。
明智光秀などが村人に殺されたのは村人が手柄としてその首をもって報償にあづかるたである。ただ南北朝の争いは複雑であり誰が敵なのか味方なのかもわかりにくい
そういう中で村人が襲うということがあったのか?
それでもそれだけ恐れていたからこれほどの変装して霊山城を逃れてきたのである
それが祭りとして残ったのもその落ち延びる時が恐怖として残り記念として祭りとなったのである。

ここのサイトでは樅の木に注目していた。自分も隠れたように重厚な樅の木を発見した。
やはり相当な樹齢の樅の木であり貫祿があったので詩にしたりしたのである。
道のマニアとか廃線のマニアとか廃墟のマニアとかいるようです
こういうところには何かかえって魅力を感じるのも現代である。

お浜下り

参照したプログ

タグ:卒塔婆峠

2014年11月20日

相馬藩内に鈴木、渡辺の姓が多いのはなぜか? (熊野から黒潮に乗り伊豆から常陸と移動した水軍の末裔)


相馬藩内に鈴木、渡辺の姓が多いのはなぜか?


(熊野から黒潮に乗り伊豆から常陸と移動した水軍の末裔)

●立谷氏は熊野水軍、渡辺氏や天野氏は伊豆水軍の系統

立谷家ル―ツ Vol.3

鈴木重原は元々義経に従って勲功あり、功績を上げていた。その後紀州に帰ろうとしたが、里人に尊ばれるに及びこの地宇田郡中野邑にとどまり、宇田郡の那主と称し数村を領し、熊野大社をまつり祭祀を怠らなかった。
 また、建武年中(1330年〜)国司北畠顕家は特に熊野神社を尊信し大社として多くの神官、社僧をおいて中野地区は大繁栄していた。その後、乱世時代に成り下火になっていった。鈴木重原は中野左近亮の先祖にあたり立谷と名を改める。

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2004年12月25日
立谷家ル―ツ Vol.2
文治五年三月(1189年)泰衡が義経を岩手県衣川高舘に攻めた時、鈴木重原(紀州藤代和歌山の住人で熊野三山新宮・衆従の子孫に当ると思われる)
 鈴木重原は、兄重家が義経と共に戦うと聞き、義経と兄重家を慕って家臣安子、蟹田、石田、山津田氏等を率いて奥州に下る途次、既に衣川の高舘は灰燼となり皆闘死したことを知り、成すところなく、やむなく宇田郡中野邑にとどまった
 http://blog.livedoor.jp/tachiyafamily/archives/2004-12.html
 
 
 天野氏(あまのし、あまのうじ)は日本の氏族、藤原南家工藤氏の一族(藤原北家の一族足立遠元を祖とするとも)で、伊豆国田方郡天野郷(現・伊豆の国市天野)に居住した地名を取って天野と称した。天野氏は後に遠江守護となった今川氏と結び、国人勢力として遠江にて共に力を拡大した。遠江国のほか、天野氏の支流が駿河国・相模国・三河国・尾張国・甲斐国・安芸国・能登国等に繁延している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E6%B0%8F

その先祖渡辺喜兵衛は伊豆の舟大将として、徳川家康の信任厚く護送役人をつとめた。
豊臣家5大老のひとり宇喜多秀家が関ヶ原の合戦に敗れ、八丈島へ流された際、護送の任にあたったのもこのひと。
http://www.town.matsuzaki.shizuoka.jp/FMPro?-db=m_faq_02.fp5&-format=p01f.html&-max=all&-sortfield=NO&NO=761&-find

長浜城址

長浜城址 海上に突出した小丘全体が城で、戦国時代の北条水軍の根拠地。
天正八年(1580)の武田氏との海戦では、 前線基地として、水軍の主力が集結しました
http://www.izunet.jp/manabu/c-izk.htm


熊野の鈴木氏は、熊野信仰の発展とともに各地に発展し、全国一位を占めるほどになった。もと穂積氏といい、紀州新宮を本拠とし、榎本・宇井と三家をなした。もち名草郡藤白湊を中心として発展、同地に王子社があり、水運の要地であった関係から、熊野湛増の「頼切りたる侍」として、熊野水軍の重要な要素をなした。
 源平争乱のときには、摂津の渡辺党とともに、源氏の水軍として活躍し、義経の都落ちにも従った。四国・九州にも熊野信仰を伝えているが、やはり東海から関東にかけての活躍が著しい。三河では、幕府の御家人として江戸に移ったものが三十数家というから、如何に鈴木党が三河に栄えたがわかる。下総の香取郡・匝瑳郡にも多いが、江戸の発展が何より鈴木姓の増加をもたらしたものと思われる。
 伊豆の西海岸江梨にも、鎌倉幕府の水軍として重きをなした鈴木の一族があった。室町以降、鈴木党は水軍の将として各地に迎えられたようであるが、その一方、熊野のすぐれた漁業技術と、熊野の信仰を背景として、鎌倉中期には、三陸の海岸にまで進出した。http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/busi_myo2.html

 
●古代から熊野、伊豆水軍は知られていた
 
島隠り我が漕ぎ来れば 羨しかも 大和へ上るま熊野の船
 
 柿本人麻呂と並び称される大歌人、山部赤人(やまべのあかひと)の歌。
 
万葉集には熊野の船と特定して四首がある。熊野の船がどういうものかわからないにしろ熊野の船は奈良時代にすでに知られていたのである。
熊野は地形的に海に迫って山があるから山には楠の木などの造船に適した木があり造船が盛んになっていた。
この地形は伊豆と相似形であり伊豆も造船の基地として古くからあった。

 [五年]冬十月に、伊豆国に科(ふれおほ)せて、船を造らしむ。長さ十丈(とつゑ)なり。船既に成りて、試に海に浮くるに、便ち軽く泛び疾く行くこと馳するが如し。故、其の船に名(なづ)けて枯野(からの)と曰ふ。船の軽く疾きに由りて枯野と名くるは、是、義(ことわり)違へり。若し軽野と謂へるを後人(のちのひと)訛(よこなま)れるか。(応神紀)
 三十一年の秋八月に、群卿(まへつきみたち)に詔して曰はく、「官船(みやけのふね)、枯野と名くるは、伊豆国より貢れる船なり。是朽ちて用ゐるに堪へず。然れども久に官用(おほやけもの)と為りて、功(いさをし)忘るべからず。何ぞ、其の船の名を絶へずして、後葉(のちのよ)に伝ふること得む」とのたまふ。群卿、便ち詔を被(う)けて、有司(つかさ)に令(のりごと)して、其の船の材(き)を取り、薪として塩に焼かしむ。是に五百籠(いほこ)の塩を得たり。則ち施して周(あまね)く諸国(くにぐに)に賜ひ、因りて船に造らしむ

堀江漕ぐ 伊豆手の舟の 楫つくめ 音しば立ちぬ 水脈早みかも
(巻20/4460)


古代から海に囲まれた日本だから船の技術が発達していても不思議はない、でも海の歴史はわかりにくい。遺跡としても残りにくいからわかりにくくなる。そしていたるところで洪水であれ今回のような津浪であれ栄えた港自体が消滅しているのがかなりあるのだ。
相馬藩内から黒潮が流れる海岸一帯には熊野信仰が本当に多い。なぜこんなにあるのだろうかというくらい多いのである。そのこと自体が熊野信仰をもたらした人々が相当数いた結果なのである。

相馬氏は千葉氏から出て千葉県から移動してきたとしても鎌倉時代に関東武士団が東北に移住したことから鎌倉武士団の姓が東北に移動して広まった。鎌倉時代にさかのぼる姓が東北では一番古いとなるしそこまでは史実的にもたどれるのである。
南相馬市の鹿島区の岩松氏は鎌倉時代に烏崎に船で到達したという伝説がある。
その時船運は相当に発達していたのである。だから戦国時代は伊豆の海、相模の海、駿河湾で北条氏などや武田水軍までが交わり熾烈な海上での水軍の三つ巴四つ巴の激しい戦いがあったのである。海上の派遣争いがあった。それだけの戦いをするには相当な船の技術がなければできない。
熊野水軍、伊豆水軍などはそれだけの力を古代からもっていたのである。

だから相馬藩内にはとにかく鈴木とか渡辺とかが多い。これは全国的にそうでも相馬藩内では目立った姓であり主な姓になる。それは熊野伊豆などの水軍の系統につながるものであった。
文治五年三月(1189年)泰衡が義経を岩手県衣川高舘に攻めた時、鈴木重原(紀州藤代和歌山の住人で熊野三山新宮・衆従の子孫に当ると思われる)
 

鈴木重原は、兄重家が義経と共に戦うと聞き、義経と兄重家を慕って家臣安子、蟹田、石田、山津田氏等を率いて奥州に下る途次、既に衣川の高舘は灰燼となり皆闘死したことを知り、成すところなく、やむなく宇田郡中野邑にとどまった.
 

だからこれなどは興味深い、義経は山伏とか水軍関係の人たち、この人達は村上水軍で知られるように元は海賊だったのである。水軍の元はバトイキングでもイギリスの海軍でも海賊だった。そういう人たちが義経臣下になっていた。だから頼朝に追われるときも黒潮の流れる関東から常陸から東北へ逃れたという説もでてくる。
黒潮海流は船には大きな影響を及ぼしていた。だから黒潮文化圏が熊野から東北まで海岸地帯に生まれた。それは奇しくも今回の津浪の被害地域と一致していたのである。
ただこの海流は船に乗ってみないとわかりにくい、船が山を目印にして航海していたというのも乗ってみないとわかりにくい。つまり海とか船が理解しにくいのは自ら体験できないからである。陸地だったらある程度体験できるが海は船は体験しにくいから船のことがわかりにくいのである。
鎌倉時代から南北朝時代も畠山氏も水軍を司る氏であったり深く海と関係した氏族だったのである。だから鎌倉時代から南北朝時代は海からの視点がないと解読できないのであるただ港は一時栄えても跡形もなく消えてしまうことがある。
それが今回の津浪で証明された驚きであった。

●相馬氏にとって慶長津浪は支配地域を広げる契機となって中村に城を移した

(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
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これだけ舟のことがでていて村上ニというのが記されている。村上ということに相当にこだわっていたのである。村上に小高から城を移そうとしたのは単なる思いつきではない、明確な意志があって村上に城を建てようとした。
そして中世に塚原には大きな港があり蔵院まであった。それだけの船が集まる港だった。海運で栄えていたのである。
つまり明らかに村上は小高い丘であり
長浜城址 海上に突出した小丘全体が城で、戦国時代の北条水軍の根拠地。
天正八年(1580)の武田氏との海戦では、 前線基地として、水軍の主力が集結しました http://www.izunet.jp/manabu/c-izk.htm

この長浜城と同じ機能を有する場所として明確な意志でもって選定されたのである。
小高には街中にも貴布船神社があり村上にも祭られている。これは船の神を祭ることでもあり小高が浮船城と言われたのも船と関係していたのである。
小高だけではない、八沢浦も天然の良港であり船運があった。
海老村には天野氏がいてこの天野氏は伊豆水軍の末裔なのである。
何を運んだかというと重に塩を運んだ。当時は塩が貴重であり塩がすでにかなり作られていて運ばれていたのである。

八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く (南海老村)

七荷を運ぶ大きな船が出入りしていたのである。これは磯部でもそうであり原町の泉氏も海運を担って力をもっていたのである。

ではなぜそうした港が栄えていたことが忘れられたのか?

それが津浪と関係していた。津浪で今回のように小高が甚大な被害があったことでもわかる。津浪が来た所はもともと海で港だった。そこに多数の船が停泊していた。
それが慶長津浪で壊滅したのである。
それが契機となって相馬市前の中村に城を慶長津浪の一カ月後移したのである。
そんな大事件をなぜ一行しか記されなかったのは謎である。
相馬氏進出の経路で解明したように相馬地方は最初は鎌倉から鹿島区の烏崎に船できたといわれる岩松氏が支配していた。それは原町の新田とかも支配していた。
そのあとに入ってきたのが相馬氏だった。

今の鹿島区は北郷となっていてそこは単に小高より北というだけではない、そこは別な勢力があり支配できなかったのである。 原町の泉氏の支配していた地域もそうである。
かや浜とかしふさ(しぶさ)までは進出しても泉までは入っていないのである。
慶長津浪によってそうした旧勢力が大打撃を受けて相馬氏は旧勢力を支配しやすくなった。だから一カ月に中村に城を移したのである。
相馬氏の進出にとって津浪はかえって支配地域を拡大するのに都合がいいとまでなっていたのである。
だから津浪の復興のために公共事業のために中村に城を移したことはありえないのである。


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この本は面白い、伊豆水軍は東北にも関係していた

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これは水軍の紋章にもなる


タグ:相馬藩の湊

2013年02月18日

病院で聞いた新地町の歴史の話 (琵琶転がしという地名があった)


病院で聞いた新地町の歴史の話

(琵琶転がしという地名があった)

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新地町はもともと谷地小屋村と呼ばれていた。谷地小屋となるとなんかわびしい谷地の中にある一軒家のように思えるが実際は違っていた。


ここに一つの山城がありそれがもし本城だとすればその周辺に副城、支城、外城、添城、砦というふうにいくらでもあったのだと思います

小屋沢とか何々小屋は秀吉でも名古屋城を築いたとき「小屋の者とも」という手紙の文句がありますこれは本城のことです
小さい砦も小屋、監視していた所も小屋なのです(地名の話し-谷川建一(一志樹)


谷地は湿地帯であり海に面した所は今回津波で元の湿地帯のようになった。ただ小屋というとき小屋ではなく城だったのである。新地町の特徴は新地は駒ヶ峰辺りまで一時伊達領でありそれで伊達の城があった。それで伊達の子孫の武家がいて相馬市との合併に反対していた。その家は駅の近くにあり今回の津波で流された。相馬総合病院という名は新地も出資した病院となっている。その病院でちょっとだけ話を聞いたのだが興味深いものがあった。その人の土地に城の跡がありそれで城について調べたという。虎口とかいろいろ知っていた。郷土史は相馬藩全体ではなく村単位で結構その土地に詳しい人がいる。別に専門家の学者でもなくてもいる。その土地に根ざしているから詳しいのである。だからそういう人に直接その土地を踏んで話を聞くと郷土史は面白いし興味深い者となる。
柳田国男はそうして庶民の口碑を重んじて民俗学の祖となった。つまりその土地に根ざして生きる庶民の話しを直接聞くことによって啓発されるものが多いのである。学者のように本ばかり読んでもわからないのである。


その人はまた黒木氏というのにこだわっていた。黒木氏は丸森に近く伊達についたり相馬についたりしていた。伊達と相馬の境を領地としていたからそうなった。黒木氏にこだわるのはやはりそういう土地に住んでいたかちそうなった。黒木というのはもともと黒木という地名がありそこに土着した武士が黒木氏と名乗った。それからその人はしきりに五社壇のことを言っていた。それは何を祀ったものかわからないという。ただその人は夢枕に私たちを忘れてはいけない、手厚く葬れと告げられたその墓らしきものを祀る幼稚手たという。これは五つつの神様を合祀したものだろう。墓も無縁化したり古い碑でも謂われがわからなくなるのが結構ある。津神社の謂われがわからなくなっていたように重要なことでも時間がたつと不明になる。神社には結構そういうものがなぜか多いのだ。津波と言えば強烈な記憶があるはずだがわからなくなっていた。神社でも由来がわからなくななれば意味もなくなってしまうかもしれない、何を記念して何を供養するのかもわからないからだ。だから烏崎の津神社は鯨を供養するものとなっていた。鯨の碑があり鯨の祭りをしていたのである。そしたら全く津神社の由来と違ったものとして祭りがあったとなる。


もう一つ面白い話しとして琵琶転がしという地名があるという。これは地図にものっていない、そんな地名があるのかと不思議に思った。転(ころ)がしには牛転がが一番多い、長野県の信州の塩の道は深い山中にあり急峻な坂がありそれも細い道だから牛が下るにしてもこれは危険だと思った。江戸時代ころの道はみんな細いのである。奥の細道なのだ。だだ琵琶転がしというとこれがいつの時代のものになるのか?鎌倉時代にすると古いからだ。この辺にそんな古い時代のものがあったのかと思う。

(転がしの地名)
http://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/61430826.html


 宮城県遠田郡  涌谷町涌谷   琵琶転(びわころがし)


宮城県にもあるからその辺までも東北では琵琶法師が旅したのか?ただ江戸時代には琵琶法師はいなくなっていた。だからその地名がついたのは江戸時代より古いのである。


平家物語は、平家を打倒するということで、源氏が天下を支配することの正当性を説明付ける物語という一面をもっています。そのため、鎌倉幕府や、その後継者をもって任ずる室町幕府では、幕府の儀礼に欠かせない式楽として保護されましたが、その反面、民衆の嗜好からは縁遠いものとなっていきました
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1351014088


琵琶法師が奨励されたのはその時代の権力者の意向があったということもあったのか?平家物語が作られたのも勝利した源氏の正当性を伝えるものとして作られた歴史書ということもあった。ただ義経の物語は民衆の判官贔屓から生まれたから時の権力に庶民がみんな従うとはかぎらない、反発した物語も伝えられている。

琵琶転がしでまた注目するのが琵琶法師は眼が見えないのだから当然そんな山中の細い険しい道を行くなら転げ落ちても当然だとなる。第一眼が見えなくてそんな山中の道を良く歩くことができたとことが不思議である。ただ当時は眼が見えない人は非常に多かったのだ。明治に来た外国人が日本には盲人が多いと報告している。栄養がたりなくて盲人になっていた。盲人でも食べていかなければならないからそれにふさわしい職業として琵琶法師とか瞽女とかが生まれた。中世では土地をもって定着できないものは流浪者になった。


賤民を広くイメ-ジすれば細工師や大工、壁塗り、絵師、漁師や猟師、座頭、山伏、鉦叩き、説教師、猿回し、街娼・・(中世の貧民-塩見鮮一郎)


これらは賤民だったのか?ただ昔から移動する人々はかなりいた。相馬の方へ萱葺きに来た会津の職人がいたし大工もいて相馬に定着した。その記録が残っている。絵師では相馬の駒焼を跳ねる駒を教えたのは土地のものではない流れてきた絵師だった。木地師などもそうであり農耕手定着していた以外の人々はいつもかなりいたのである。それは現代でも同じである。渡り職人などは最近まであった。腕を磨くために遠くの師を求めるし仕事も遠くにあれば行くのである。大工でも仕事があれば遠く行くし土木関係でもそうである。絶えず移動して仕事を求めている人は多いのである。現代はグロ-バルに人は移動している時代である。人間の仕事は定着してできるというのがいつの時代でも多くあったとはならない、木地師だって資源を求めて移動していたし資源を求めて移動していた人はかなりいたのである。

奇妙だけど最近ノスリをこの辺でみかける。ここに定着しているのかと思った。
ノスリの餌はノネズミなどでありそれが放射能汚染で耕作されない田んぼに増えたのか?何らかかえって餌がふえたせいでノスリが定着したのか?鳥は別に渡り鳥があり餌があるところへ自由に移動できるのだ。餌があれば定着するがなくなれば移動するのである。人間もまた同じものとしてあった。仕事があれば定着するがなくなればまた移動する他ないのである。


ともかく郷土史というのはその土地の人に別に学問などなくても聞かない限り具体的にわからない、これも南相馬市立病院で大原の人と知り合ったとき大原について詳しく話しを聞いたからわかった。病院という場は暇だからそういう話しをするのに聞くにのに向いていたのである。なかなかそういう話しを聞く場がない、老人ホ-ムなどに勤めればそういう話しをじかに聞けることは確かである。

2010年01月19日

湿地帯に囲まれていた田中城の興亡 (南相馬市鹿島区)


湿地帯に囲まれていた田中城の興亡 (南相馬市鹿島区)

台田中の田中城は中世の中核的館として存在した。だからこそここを中心にして伊達氏と相馬氏の争奪戦が起きた。台田中には館の内という地名もあった。館とつく地名は鎌倉時代以降にさかのぼるものであり古いのである。館とつく地名があったら中世からある地名となるから注意する必要がある。城の前は館がその地域の中核的存在でありその館を中心にして村落が形成された。竹の内も同じである。相馬市の・・竹の内もそうした中世の館があったところでありそこから姓となった。そのあと相馬氏系統の渡部氏が成田に土着したから竹内-武市は竹の内という地名から姓としたのである。相馬氏系統に竹内氏はいなかったからである。つまり竹内氏の方があとからきた相馬氏系統より古いとなるのだ。台田中もそうした古い堀をめぐらした館であった。そこで人々は生死をともにする生活をしていたのである。

「館(たち)」「館の内」「堀の内」という場合の方が多かったと思われるわけである。鎌倉中期からこれらの土豪は所領拡張の争いから山城を構えて社会不安に備え、南北朝の争乱の後はいよいよ堅固な防備の城を築いた。

嵐山町誌156 武士に関係あるもの 城
http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/rekisibukai/2009/08/156_fcab.html

南北朝時代から戦国時代と争乱の時代になり山に砦、館を築くことが多くなった。霊山城はその象徴である。

千倉庄田中の城へ黒木武石東郷の面々押し寄せたり、田中の城三方は大淵囲み古松、老柏、繁茂して容易に近づきかたければ冬より夏にいたる。
此の城平野の田畑となりしは近き世、石田治部少輔三成堀久太郎大崎の仕置きに下りしとき数日田中に逗留するとき大樹を倒し堀を埋め立て平地となす、顕胤は掛田帰陣も近ければ不日にもに田中を責め落とさんと評議せり(奥相茶話記)

田中城は大淵とあるから相当な湿地帯が囲みその中の高台に城があった。台田中となるのはそのためである。台(ダイ)と今でも言っているからダイという地名は各地にあり日本は湿地帯が多いからその湿地帯から高くなっているところは住むに適していたのである。ここも台の回りは湿地帯であり容易に近づけなかった。その後この湿地帯が田になっていったのである。だから田中城となった。ここにも冬の陣から夏の陣と長い戦いになった。石田治部少輔三成はは秀吉の臣下の有名な三成だった。三成は太閤検地のときも相馬氏と関係していた。近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)石田となるのはここから来ている。


元年(1596年)元服の際に父義胤は石田三成に烏帽子親を頼み、三成の一字を得て三胤と名乗る。これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、以来三成と昵懇であったためであった。


その後相馬氏は徳川につき大阪の冬の陣、夏の陣に参加する。ここで堀を埋められたことで大阪方は戦意を喪失したということでもわかるようにいかに堀が重要な役割を戦国時代に果たしたかわかる。だから堀の内、竹の内、館の内・・・とかは重要な地名であり姓となったのである。田中城は相馬地方では重要な城であり歴史の興亡の地点だった。慶長6年(1601)「田中院殿陽山吉公大居士」と戒名があり南屋形の川子内の御壇に北郷田中城主田中忠次郎郷胤の墓がある。鹿島区の町にある陽山寺はここから起こっていたのである。なぜならこの時田中城主の叔父にあたる僧もともに戦ったからである。僧侶も僧兵となるごとく寺は武家と一体化していたのである。武家の菩提寺として寺は武家と一体だった。相馬地方で墓を調べても古くても元禄である。これは葛尾村の落合で発見したがこれが実際に見たのでは古い。あとは百年後とかずっとあとなのである。相馬地方で残っている碑で墓ではそんなに古いものはなかった。

台田中の墓を調べる (田中城に由来する墓?)
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2009年08月27日

鎌倉からみちのくへ


鎌倉からみちのくへ

鎌倉というときみちのくは京都よりはずっと身近である。なぜなら鎌倉時代の前に確かに東北を支配したのは平泉の藤原一族であっても東北が一つの国としてあったわけではない、平泉という地域だけが栄えたのでありみちのくを支配したわけではないからだ。鎌倉になるとはじめて東に政権ができた意義は大きいのだ。東北でもここでもはじめて一族の名前が歴史に記されるのは南相馬市鹿島区では岩松氏でありこの人は鎌倉から移住した人でありその伝説も残っている。船で来たというが磐城かららしい。鎌倉から直接ではなかった。ともかく岩松氏は未だに生々しい歴史上の人物なのである。その前の平安時代になると源義家になるがこれもほとんど伝説上の人物であり歴史的な実在性がともしいのである。岩松氏の悲劇は今でも地元の人にとっては単なる伝説とも違う、リアリティあるものとして今日に継続された伝説なのである。何故なら岩松という姓が断たれてここに存在しないことが如実に証明しているし岩松氏の子息まで殺したということで姓を変えたがその姓の子孫は今も存在しているから具体性があのだ。「陸奥の真野の草原・・・」の万葉集の歌が鹿島区に残されていたとしてもこれも明確に歴史上の人物としては存在しない、ここは岩松氏以降から歴史がはじまったと言えるのだ。ということで鎌倉はみちのくにとって身近であり鎌倉から移住してきた武士の子孫は各地にかなりいる。その系譜は明らかであり跡をたどれるのである。そもそも相馬氏自体が鎌倉、関東の武士の出であり鎌倉にその元をたどることができる。大倉というのも大倉御所があったところであり飯館村の大倉は鎌倉からとった地名かも知れないというのもそのためなのだ。
文化というときやはり関東から東北では鎌倉がはじまりである。その前に平泉があったとしてもそれは孤立的なものであり芭蕉の俳句のように平泉は夢として終わった都であり鎌倉のように具体性あるものとして一つの広範囲な関東武士のバックのある都としては形成されなかった。平泉が夢であることがかえって芭蕉の奥の細道としては良かったのである。詩人は夢と現実を生きるからだ。鎌倉は政治の都でもあり一睡の夢とはならない、日本の歴史を形成した土台となるし今日継続する都としての位置は変わらないのだ。平泉では人物にしてもそれほど明確なものとして浮かんでこない、鎌倉ではやはり日本の都として政治を担った武士の政権の歴史が明確なのである。平泉は金色堂の夢であったが鎌倉は現実の政治をになったのである。鎌倉から関東、東北の歴史ははじまりその系譜を明確にたどることができるのだ。夢として滅びるなかに義経も悲劇の英雄として組み入れられたのである。多分にそれもことさら悲劇的に物語的に作られてきたのである。その非は義経にもありいちがいに現実の政治をになう頼朝だけにあったとはならない、つまり平泉という夢として滅びるもののなかにふさわしいものとして作られてきたことが言えるのだ。
文化とはやはり政治的基盤、経済的基盤が大きく左右する。都はやはり政治、経済の中心地に起こる。それは不可分にしてある。そしてそこには重層的なものとして互いに競い合うものとして起こる。孤立的ではない、金閣があれば銀閣があり相対的なものとしてまた鎌倉には五山があったように一つではないいくつもの重厚な寺が新しい文化を作った。平泉には五山はない、孤立的一時の栄華の夢として消えたのである。二階堂大路などが鎌倉に残された、これは平泉にあった二階大堂がよほど印象的でありその二階堂をまねて作ったのでこの名が残った。この二階堂は永福寺でありここに詣でる路が二階大路となったのである。いかに平泉が孤立的であれ荘厳な都であったかわかる。鎌倉は後ろは山であり前は海であり天然の要塞としてふさわしい


極楽寺坂切通しの突破を困難と判断した義貞は、干潮に乗じて稲村ヶ崎から強行突破し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。北条高時の一族を北条氏菩提寺の東勝寺で自害させ、挙兵からわずか15日で鎌倉幕府を滅亡に導く。

わずかな崖淵からしか進入できない地だったのである。鎌倉はまた海に面していてここから中国まで船で行こうとして挫折した実朝の夢があったり海も欠かせないものとして都を形成した。


だから門前から海が見える寺があり鎌倉的風景となる。実朝のわれて砕けてさけてちる・・・という歌も極めて鎌倉的風土から出てきたものである。「山門より海を望むや初秋かな」というのも山門から海が見える写真を見て作った。現実にはこの寺がどこにあるかしらない、昔は鎌倉は、鰹の生産地として知られ、「目に青葉、山ホトトギス、初鰹」という山口素堂という人が江戸時代に作った句が有名になるほどでした。やはり鎌倉には山も欠かせない海も生活の糧として古くから一体としてあったのだ。ともかく鎌倉には五輪塔が多い、比企一族が滅ぼされたがその五輪塔も山陰に確かに見た。その滅亡した一族の姫の墓があることは知らなかった。鎌倉には史実に照らし合わせて訪ねるべき所がいくらでもあるだろう。暇があれば何度も訪ねて確かめることができることが魅力だろう。京都となると遠すぎるのだ。かえって関東や東北になると京都は夢の世界になってしまうのだ。遠すぎる世界は現実味を失わせるのだ。平泉には藤原氏しかいないが鎌倉には権力闘争する一族が跋扈してその滅びた一族の五輪塔が密集して今も残っているから生々しいのである。


参考-(鎌倉百人一首)
実朝ほととぎすけるあたりとぞ懐かしみ通る二階堂大路 藤川忠治

東御門西御門など名に残れそもただ麦の青き畑のみ 窪田空穂

山といえば五山の一つ臨済のこの大き寺の夏(げ)に籠もる我は 北原白秋

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鎌倉秋の短歌十首
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2008年05月13日

南相馬市鹿島区台田中の墓を調べる (田中城に由来する墓?)

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南相馬市鹿島区台田中の墓を調べる

(田中城に由来する墓?)
 

1347年−霊山城は貞和3年8月、北朝軍重囲のもと炎上陥落した
1351年(正平六年)−桑折五郎元家は霊山から北畑顕家の姫をともない真野の里におちのびる
 
桑折五郎元家は伊達郡桑折よりきて江垂(いたり)に館をもちあとに田中城を築き真野五郎と称した。その三男がいたが嫡子がいないために岩松義政が足利義満に千倉庄を与えられた。その後岩松氏四天王の家来により殺害される。
 
小高城に入った伊達稙宗は、その翌年のころ伊具郡丸森城に移ったが、途中千倉庄(南相馬市)石宮を通るとき、かつて石松義政が石松四天王らに、主家に叛くことのないように誓詞を石に刻ませたという故事にならって、その起請石に「伊達七世弓を相馬に引くべからず」と墨書きしたという(『東奥中村記』・『奥相茶話記』)。
 
相馬顕胤の掛田出陣中に、黒木弾正正房・中村大膳義房兄弟が叛き、北郷田中城を攻めようとしたのを討って宇多郡の実権を掌握した。

相馬讃岐守胤弘が真野郷を改め北郷とした。桑折五郎の子孫を田中城主とした
 
天正六年(1578)−盛胤の嫡子義胤が家督を継いだ。盛胤は隠居し子息の相馬郷胤が城主であった田中城に入り、のち中村城西館に移り中村城主で子息の相馬隆胤の後見役となった
 

桑折久家(田中城代)
桑折清家(田中城代)

 

相馬義胤(1548−1635)−北郷田中城主田中忠次郎郷胤−文禄二年(1601)

慶長六 田中院殿陽山吉公大居士

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南相馬市鹿島区の地名の地層として最下層に形成されたのが浮田国造の浮田であり次に古代の真野の草原である。そのあとが鎌倉から移住した岩松氏関係の地名でありこの辺から明確に史書に記されているからわかりやすい。千倉もそうだし大倉も鎌倉の大倉御所から名づけられたかもしれない、三春にも大倉があり全国にある大倉がすべてではないにしろ鎌倉時代の大倉郷から移動しているかもしれない、地名でややこしいのは人名と元からあった地名が混同することである。黒木とあれば黒木という地名がもともとあり黒木の地名をとって黒木の姓をあ名乗ったのである。相馬は相馬氏の移住によっているから姓がそのまま地名と化している。桑折は伊達の桑折に由来している。桑折という地名から桑折の姓が起こり真野に移った。桑折はここでは地名化していない、台田中という地名があり田中城がありそこで桑折氏が田中城主となった。田中という地名はその前にあったのである。相馬盛胤は隠居し子息の相馬郷胤が城主であった田中城に入りとあるとき北郷田中城主田中忠次郎郷胤はもともと相馬氏だったが田中の地名をとり田中姓をなのった。相馬はもともと中村という地名が先にあり中村の姓を名のる武家が出たのである。
 
台田中にある墓で一番古いのは天・・・と書いてあるが天正から天和天明とあるからわからない、ここは古いから古いのかもしれないが謎である。からこれは天和とすると(1681−1684)である。他に長と書いてあるものがありこれは慶長なのだろうか?(1596−1615)?もしそうならその前の天正にもなるが慶長六 田中院殿陽山吉公大居士とあるから慶長のあとの天和になるのだろうか謎である。これは僧侶の墓であり北郷田中城主田中忠次郎郷胤が死んだあとの墓だろう。北郷田中城主田中忠次郎郷胤の墓はここにはないがここは確かに田中城に由来しているから古い場所である。桑折氏と与力紺野善徳が桑折の跡を継いだとかあり小池に善徳橋が水無川にありここに由来すると考えられる。


南屋形に「慶長六 田中院殿陽山吉公大居士」の墓があり陽山は今の鹿島区の町内にある陽山寺である。陽山寺とはここに由来して名づけられている。先にこの戒名がありそのあとにこの名に因んで陽山寺ができた。つまり北郷田中城主田中忠次郎郷胤を祀る寺として寺が始まったのである。寺は武家の菩提寺であり僧より先に武家があり武家を弔うものとして寺があった。寺は武家の役所も防衛のための城の一部としても配置されていたし武家と一体化していた。先に武家をたてまつるということは宗教ではありえないがここではそうなっていたのである。

 

平安時代→五輪塔(名前は刻まず)
鎌倉時代→宝篋印塔(名前は刻まず)
南北朝期→宝篋印塔(法名を刻む)
室町〜戦国期→五輪塔か宝篋印塔(名前あったり、なかったり)
江戸初期→箱形、河原の丸い石(法名のみ刻む。個人単位)
江戸中期→箱形、河原の丸い石(法名・歿年月日を刻む。個人単位・夫婦単位)
江戸後期→屋根付き位牌形、箱形(法名・歿年月日・俗名を刻む。水鉢に家紋を入れる)
江戸末期〜明治初期→位牌形、角柱形(現在の形) (法名・歿年月日・俗名を刻む)


墓で一番古いのは岩松氏の五輪塔であり次に宝篋印塔である。そのあとに天の字の墓が古いのか、次に東光明覚は安政だからかなりあとになる。埼玉に明覚という地名もあり天台宗の一派かもしれない、五十音を最初に提案したのは天台宗の明覚でありとするとこれらは墓とも限らない、墓の前にインドでも塔を拝むことがあり塔を拝むことが信仰になっていたからだ。墓ではなく信仰の対象としてあったかもしれない、僧侶の名前が刻まれていないのもある。東光院や明覚寺というのは各地にある。江戸時代に庶民はもてなかった。墓をもつことを禁止されていた。墓をもてたのは武家と僧侶でありその墓も菩提寺にある。ここにあったのはだから田中城主関係と僧侶だけであった。そのあとにその子孫や越中から移住した人がここに墓を建てた。中には名前だけのがありこれは姓がないから庶民のものである。庶民も一部墓を建てることができるようになったのだが家の墓ではない、個人の墓であり夫婦の墓が先だった。今のような家中心の先祖代々の墓はなかった。お盆でも魂迎えとかは墓所で行われていたわけではない、家の前で行われていた。なぜなら庶民は墓をもっていないのが普通だったからだ。
 
ここの墓所の特徴は僧侶の墓が多いことである。代々の僧侶の墓がここにありそれらが一番古い、次に武家の墓がある。墓地はたいがい明治以降に増えたものでありそれまでは庶民の墓地すらなかったのである。星とか高野とか桑折もあるから桑折は田中城を死守した子孫だからここに埋まっているのがふさわしいとなる。ただ明治時代に日本は伝統と一度断絶している。姓を名のることも自由になった。だからすべてが武家の継続している姓とはならない、明治以降に土地の武家の姓をなのった人もかなりいたからである。ただこの台田中の墓所は町中の墓所より古い、鹿島村の中心は今の町の方にあるのではなく田中城中心にあった。館や城ある所昔の中心地だからである。館(屋形)が先にあり次に城となったのだから田中城は城だから館より大きなものだった。堀もある城だった。中世は江垂の桑折氏の館と岩松氏の館(屋形)と田中城があった。田中城は伊達氏との興亡で最後まで残り相馬氏が受け継いだから古い場所である。


天正(1586−1592)
慶長(1596−1615)
天和(1681−1684)
天明(1781−1789)
天保(1831−1844)
安政(1855−1860)

 
 
 

2008年03月28日

浪江の津島の遠さ(伝説の径路)


浪江の津島の遠さ(伝説の径路)

 
春の日に分け入る山に何かあれ下冷田の名覚え帰りぬ

春日さし三春の方に心向く浪江の海より津島は遠しも

津島より浪江の遠き墓所のあり道も分かれし秋の夕暮

三春へとつづく道なり何かあれ弁慶石と秋の日暮れぬ

津島より葛尾へ分かる道をゆく人あうまれに月見草咲く
 
なぜ浪江に津島が入っているのかえびつなものとなっている。葛尾は飯館村のように独自の村になっている。地理的一体感が津島ではもてない、江戸時代は一部は三春領だった。ここに弁慶石とかあり下ってゆくと弁慶橋とかある。弁慶の伝説は日本海から横断して白河関を通り三春を通り津島を通り浪江の方に伝わっていった。津島は一つの基点の場所であった。津島から別れて葛尾村に入る。昔ならここは浪江から遠いしさらに浪江の海までは遠い、相当な遠隔の地である。こんなところに中国人妻がまぎれこんで東京に出たいと夫をナタで襲った事件があったのも象徴的である。車があればそうでもないはずだが相当な僻地なのだ。本当に車がない時代どうしして生活していたのかと今なら思ってしまう。人々は隔絶して生きていた。それは車を使うよになって三〇年くらいでその前はバスが盛んに通る時代があった。その前は?歩きだった、馬車運送だった。飯館でも津島でも自転車で行って相当遠いのである。その遠さの感覚が車だとわからないのだ。津島にあった墓所を見るとそれが何かその墓自体遠い所にあり隔絶してしまった場所に埋もれてしまったと見る。いづれにしろ人口も半分に減ったというのもわかる。


下冷田という名だけが印象に残った。他に見るべきものはない、津島から飯館へは不便でありあまり交通はなかった。弁慶の伝説が伝わる道筋はそれなりに古いのである。飯館の方へは弁慶の伝説は伝わっていない、浪江の方に伝わって行ったのだ。ただ源義家の伝説は浜通りから大倉へと伝わっているから海から山の方に向かって行った不思議がある。伝説の径路は歴史を探るル−ツ探しになる。浜通りから阿武隈の山の方へ向かって伝説は伝わっていくのはまれである。飯館の小手森の地名も川俣の小手姫伝説が伝わったものでありこれも遠く日本海から出羽三山を通じ阿武隈高原に入ってきた。小手姫伝説は浜通りまで伝わっていない、伝説もそれなりに根拠がなくては残されない、ただ勝手に作られた伝説も多いからまぎらわしいのだ。平家落武者伝説のほとんどは歴史的根拠がないのである。この辺の見極めがむずかしいのだ。私が発見した真野の草原も草原を萱原として萱のなびく美しいみちのくの辺境地帯を歌ったものだとしたがその根拠はなくなった。地名もあとから勝手に解釈されやすいのである。鎌倉の金沢に三艘という地名がありこれも宋の船が三艘とまっていたから名づけられたという。確かに金沢は鎌倉時代に宋の船が出入りしていたのだからそういうことはありうる、でもその前にその港は小さな漁村であり小さな三艘の舟があるような目立たない場所だった。その方が信憑性がある。青森の陸奥にも九艘泊がありこれも貧しい漁村の名前だったのだ。


阿武隈の山地でも全部貧しいだけかというと山には山の幸があり葛尾大臣とかいたように鉄の生産とか炭の生産とか木材の資源があるから長者がいた。煙草も栽培して養蚕でもあったから山には山の暮らしが成り立っていた。森林鉄道これほどあったのは木材を積み出すためである。原町にも浪江にもいたるところに森林鉄道があったのだ。それが外材になって廃れてしまったのだ。山は資源のある場所だったが今や何もない過疎だけの村とされてしまった。それで山から街へ移動する人が増えたのである。急速な過疎化を推進したのはグロ−バル化だった。それは山の村自体を破壊してしまうほど急速だったのである。その一つの現象として中国人妻がこんな阿武隈山地の奥深くまでいたという驚きだったのだ。双葉の原子力発電所で働く人がいたのも象徴的である。原子力は金になるからこの辺でも働きに行き放射線をあびて死んだという噂まである。こういうのは隠されているからわからない、それが噂になったのかもしれない、それも一つの伝説になるかもしれない、伝説もそうして権力側に隠されたものを庶民が言い伝えるという効力がある。義経伝説がこれほど残っているのは庶民が判官贔屓で残したからである。現実に権力によって隠される表にでない情報はいくらでもある。新聞にもテレビにも出ない情報はいくらでもある。それは公的でありかなり制限されているのだ。大きな集団の力、権力によって制限され表に出ないのである。伝説や昔話もそこに無数の庶民の歴史が埋もれている、それは現代にも通じるものをもっているし歴史なのである。

 
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