2023年03月06日

原町区上高平の春 (相馬藩の越中などからの移民などの歴史)

原町区上高平の春

(相馬藩の越中などからの移民などの歴史)


上高平の春

梢の高く風にそよぎ揺れ
芽吹く木々かな
鳥飛び移り若草の緑うるわし
野馬追の馬飼う牧や
越中などの移民のここを拓くかな
南無阿弥陀仏の墓ありて
その苦労を偲びぬ

上高平も元は森だった。でもいつそこが開かれたかそれが問題である。必ず越中からなどの移民が入ってきた。
その前に相馬市が入ってきて支配した。なぜなら高平にも野馬追に出ている家があるからだ。野馬追に出る家は相馬市につながる人たちである
でもの移民など相馬氏系統ではない
越中からの移民は相馬藩内のいろいろな地域に入り込んだ。それは南無阿弥陀仏の墓があるからわかるのである
三分の一は浄土真宗の墓であり戒名は無いからである

相馬藩内でもいろいろな地域があり多様である
本来はそうして多様な地域がありそこに暮らしがあることが良い
農業中心の世界だったら社会だったらそうなっていた
なぜなら土地がなければ農業はできないからである
そもそも越中などの移民が入ってきたのは天明の飢饉があり三分の一が荒地となったためである
そのために相馬藩内では人を呼ぶことに励んだのある

相馬相馬と草木もなびく

この民謡はそのために作られたコマーシャルソングでもあった
この民謡は人を呼ぶために作られた。その時農業社会だったから土地を得られるということで移民が入ってきたのである
その移民たちは土地としては悪い土地にはいり開墾したのである
だから苦労したのである。加賀泣きとか言葉として残っているのはそれだけこの土地に来て苦労したからである
でも今になると荒地が一杯あるけどそれは放置されたままである
それは今は農業社会ではないからである。

この辺の経済は原発でも成り立っていた。農民は一割にも満たないのである。それは全国的にそうであり膨大な耕作放棄地が日本にはある。でもその土地を耕作しようとする人はいなくなったのである。
戦後でも焼け野原になった日本で引揚者は戦地から帰ってきた会議その人たちも仕事がなく土地を見つけて開墾したのである
でも厳しくて半分くらいは撤退した
その後高度成長があったのは工業化したからである
電気製品を海外に売って高度成長したのである
戦前は農業が中心であり生糸産業は中心でありそれは農業でもあった。それが時代が変わると産業も変わり仕事も変わる
それが人間の歴史でもあった。
相馬藩の歴史として越中などからの移民の歴史は大きなものになる。その人たちの姓の一群があり子孫が生きているののである。

相馬藩内の人の移動について
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2022年09月01日

文久元年ある城下町の一年(鈴木清著)を読む (船でニシンを買いに行っていた相馬藩の商人)


文久元年ある城下町の一年(鈴木清著)を読む

(船でニシンを買いに行っていた相馬藩の商人)

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●ニシンは稲作の肥料に利用された

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北海道におけるニシン漁業と資源研究
https://www.hro.or.jp/list/fisheries/marine/att/o7u1kr0000000phw.pdf


ニシンの干物はかつて、『言海』に「貧人の食とす」と記されているように、下魚であった。『守貞漫稿』には、「鯡を江戸で食する者は稀で、もっぱら猫の餌である。京阪では煮たり昆布巻にする。かつぎ売りの品は昆布まきにする」

、北海道の日本海沿岸で生産された鰊粕が北前舟で本州へ移出され、菜種、藍、綿花などの商品作物の栽培に欠かせない高窒素肥料の金肥のひとつとして販売され、農村への貨幣経済の浸透を促した。しかし生産時には大量の薪を必要とするため、生産地では森林破壊が進んだ

乾物の身欠きニシン40貫(約150キロ)を1石と計測していた。生魚の場合には、身欠きニシン40貫に必要な200貫を1石と換算している。この石高換算は、松前藩の石高には反映されていないが、各地に千石場所といったニシン漁の盛んであったことを示す呼び名として残った

江戸前期の廻船は順風帆走や沿岸航法しかできず、大坂から江戸までは平均で32.8日、最短でも10日も要していた。しかし上記の弁才船の改良や航海技術の発展により、江戸後期の天保年間には同じ航路を平均で12日、最短では6日と大幅に短縮されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%B3

海の恵みを大地に返す。北海道西北部の港町、留萌市から産出される年間約3千トンのニシンの加工残さからアミノ酸を豊富に含む天然有機肥料「スーパーアミノ10」が誕生した。その肥料を与えられて育った道産米はふっくらと大きく実り、旨味も豊か。
https://www.hint-sapporo.jp/features/pickup/7

ニシンと主に稲作の肥料として利用された、農業というのは肥料が最大の問題なのである農業の始まりは焼畑農業であったことでもわかる、森の木を灰にしてそれを肥料としたのである、また害虫も死ぬからそれも効果的だった
ただ人間の職業がなんでも業(カルマ)となるように焼畑農業でも森を破壊するから自然破壊になっていたのである、
ニシン粕(かす)生産でも大量の薪を使うということで森林破壊していたというのも意外なのである、何か人間のすることは必ず自然破壊に通じているのである

草木灰の主な成分は、石灰、リン酸、ケイ酸、カリウムです。石灰分が多いことから、苦土石灰のように土をアルカリ性に傾ける効果があり、草木灰が白いほどアルカリ性が強くなります。また、カリウムは水に溶けやすいことから、速効性がある肥料の1つとして利用します

そもそもなぜ相馬藩が松前までニシンを得るために船で行ったのか?

松前となれば遠いのである、また船だと危険なのである、そんな遠くまで行くメリットがあったのかとなる、現実に破船したとかあり遭難があった、船に遭難がつきものなのである
だからそれほどまでして松前に行く理由がわからないのである、言えることはそれだけ農業というのは肥料が生命線なのである、今回のロシアとウクライナの戦争でもわかったことはロシアから輸入していた肥料が入らないことで高くなることで苦しくなったことでもわかる、また糞尿でも肥料にしてきたのはなぜか、窒素とかリンがありそうなった
肥料なくして農業はないのである
ただ相馬藩内でも漁業をしていた、でも肥料にするほどの魚はとれなかったとなる
それで相馬藩の他藩へ売るものは米だったのである
米を積んで松前まで運びニシン粕を運んだのである
何かこの辺で小さな畑をしていた人は角田にいい肥料があるとして鶏糞があるとしてわざわざ買いに行ったことがある、いい肥料があるとなるとこうしうて遠くまで買ういに行くとなる、現代ではいい肥料はロシアとかにあるとなっていたのである

●相馬藩の小さな湊でも船が入り荷を運んでいた―塚原の人は新潟から来た米商人か?

中湊の近藤長四郎(茨城県ひたちなか市の商人)千代久吉殿が仙台荒浜への下りだと立ちよった
米を売ってほしいとのことで十両で米を25俵沖渡しの相場を申してきた
相談に応じるべきかどうか御上に伺いを立てなければならないというととけば引き合いにならないと早速出立してしまった

永昇丸 公用船、松前で購入

吉田屋源兵衛手船、乾々丸破船、弁財五人乗り、船頭弥七(中津大津屋治兵衛の子)
9月4日松前城下湊で破船

又吉殿が寒風沢へ永昇丸を廻すように申し渡した

福島、二本松、梁川、へ申しだしおいた秋味(鮭)の売さばき方で海産物商人が出張した
永昇丸(公用船、吉田屋源兵衛手船)が中湊より原釜へ廻るとのことで明後日まで当方を出帆して松前へニシン買い入れ下る手はずになっている

塚原(小高)で千七百俵、小浜(原町小浜)で千俵、受戸(請戸)で瀬戸三百俵積受するように仰せつけられた

聖天丸―松前通之船も今暮れ(原釜に下船した

亘理の永田屋万七殿が江戸仕入れの登りかけに吉田屋にたちよった、仕入れの品々を原釜に積下したいと申し入れがあったがもはや当夏は下り船がなくもし船あれば末永く取引できそうな人なので手厚い取り扱いをして御積み入れ御頼みしたいの文通で丸屋清七殿への添書を同人へ渡した

西街道御上がりの折、川又の湯屋弥七という者が止宿へ罷り出て,砂糖、琉球類を一ケ年
百駄ずつ受戸浜に陸揚げして川又へ通り荷したん嘆願のところ、願いの通り御聞済になりこの度弥七が江戸表仕入れで受戸浜市十郎船得運丸へ積下った由

平潟の相馬屋万平殿(茨城県茨城市平潟町の商人)より来る状があった
亀友丸(吉田屋源兵衛船)が岩城の板類積下りのところ去月二十五日積仕舞い、同二十九日に同処を出帆のこと

永昇丸が原釜へ出帆して無事に松前城下に着いてそれよりニシン売りを積むつもりであったが節遅れで昆布を積んで運賃取などして利潤を得た

松前城下より積み荷して予定のところ三日の夜大時化で同湊で50余艘の破船があった

塚原よりの飛脚の者へも書状を出したが、小浜廻米奉行がかれこれと申し、御積立てが延引になった、船のためにもならないので、今朝志賀様より小浜廻米奉行高野への御用状を貰い、また追飛脚を差し立てた

今朝御用状持参で熊人を以って塚原へ差し立てたがとても五七日では積み立てはむずかしいので原釜へ廻すことのこと

松前箱館に御出張の佐々木と大友氏の御両人への書状
内容は永昇丸羽破船について、弥七、久蔵の到着以来、この代船、この度御制立なされること御治定になり、金三百両を渡し、越後新潟に出張申しつけられたのでニシンを買い付けの御手当てを下され・・・・

先月二十日に小高郷村上浜へ乗り上げた寛勢丸(石ノ巻の高橋屋の手船)
1700石積、塚原村村上村堺の川場で破船

塚原より熊人が来た、己百丸がしばらく昨日から今日まで先に九百俵積み、残りの二千俵余も積み切った、船頭は原釜より浜回りして塚原へ参った
塚原よりの人を召し入れて夕七つ半出立した
松前通船の永昇丸の代船を御上にて再興したいとの思し召しがあった
伊勢で御造船の予定である

船代金でこの度越後新潟で二三才くらいの船を旧冬中に買い取り中荷は御上がり
・・・・
元船頭、永昇丸久蔵へ迎町の平井氏に大工を付き添わせこれに買い船代金の二百両を渡し予定である、出張先で万一買い船がないときは同所で新規の造立の予定
六百石積・・・なり

一昨日までにしばらく己百丸(去月五日原釜へ下帆した船)が塚原での積み立てが出来、今暮、御帰りとのことである、古穀二千七百五十俵、早速出帆した

小浜とか塚原とかには湊があった、でもそこから江戸までは行かない、大きな港は原釜と受戸(請戸)である、そこに米を集めて江戸まで運んだ
また寒風沢(さぶさわ)は塩釜でも必ず船が立ち寄る場所になっていた
石巻から仙台藩の米が大量に江戸に船で送られた、では相馬藩から江戸へ送られたのか?その辺がはっきりしない、阿武隈川の船運があり荒浜から江戸へ船を運んだ
一旦荒浜とかに相馬藩内の港から米を運びそれから運んだのか?
ただ途中の茨城県の平潟とかを中継して中湊とかを経由して江戸に運んだ
そこで積荷を別な船に代えたということもありうる、江戸まで船で行くことは当時むずかしい、松前で破船があったからだ、海は常に危険であり遭難がつきものである

そして不思議なのはなぜ新潟と関係していたのか、新潟で新しい船まで作るために行っている、そして小高の塚原というのは意外と関係していた、

小高には湊があり大船が出入りしていたが津波で消失した

(文禄二年の相馬藩の士禄の記録が語るもの)
http://musubu.sblo.jp/article/102082176.html

ここにおん船という記録が異常に多いのである、塚原には多数の船が入ってきて船を持っていた人が多かった、塚原は高台にあったがその前は海でありもともと蔵院とかあり船が入ってきた場所だったのである、なぜ小高城が浮舟城とういのか海に浮いている船というときその前は海だったからである、入江であり湊となっていたのである
だから津波で海になり小高駅の下の水道管から街の方へ海水があふれだしたのである
つまり駅から海の方はもともと海だったのである
それは浜吉田もそうだった、駅前は海になったからである、海が遠いようで近かったのである

塚原というとき小高の大工さんは塚原であり高い場所でも津浪に襲われた、立派な家を苦労して作ったが放置されている、息子は仙台市に行ったとか放置されて本人は原町に住むようになった
その人は家が米を売買する商人だったらしい、米を取引する家で不思議なのは新潟から来たとしている、一時は相馬市に住んで小高に移り住んだとか言っていた
なぜ新潟なのかというときどうもこの文久時代に米の取引があり松前に相馬藩内から商人が船で行き来していたのである
それでも松前となると遠い、でもこの時代の記録にあるのだから確かである
なぜそん遠くに行ったのかとなるとニシンが大量にとれその粕が稲作のための肥料になったからである、そんな遠くにわざわざ肥料を買うために行ったのかとなるが農業にとって肥料ほど大事な物はないのである、農業は肥料を作ることが主な仕事になるのである
だからこそ松前まで危険でも船で行ったとなる

もともと鉄の素材を買うために受戸(請戸)では船で宮古から買い入れていた
そして葛尾村まで運び加工して製鉄していて葛尾大臣が生まれたのである

●歴史とは地歴であるーその場に生きていた跡をたどること

歴史を身近にするにはやはりそれぞれが生きている場所から始まる
歴史はどうしても日本史とか世界史とか大きなものからはじまる
でも歴史の始まりは家の歴史なのである、それが一番身近だからである
聖書でもそうである、神に選ばれた人の家族の歴史を記したものでからである

この文久時代の記録をたどりその時何が起きていたかただ事実を羅列していてもそれが
貴重になる、なぜなら記録というのが残らなければ過去は知り得ないのである
そのために記録が大事になる、ただ記録があったとしても昔を偲ぶのにはどうしても想像力が必要になる、相馬藩内だと地理がわかり場所も特定できるから身近になる
文久というとき明治と密接に結びついている
文久生れとなると明治に活躍した人達である、内村鑑三とかは文久であり新島襄とかは天保である、つまり江戸時代の終わりはすでに明治に生きる人達なのである

ただわからないのはこの記録では原釜、小浜、塚原、請戸が出て来る、でも鹿島区の八沢浦とか海老浜は出てこない、八沢浦は江戸時代まで入江であり船運があったという記録がある、また湊という地名もあり海に面していて湊だったのである
それが津波じ消失した、海老も前が海であり船が出入りしていた、右田浜は干拓されて右田の松原が作られた、それは江戸時代である、でも津波で消失した
烏崎も今も港であるが村は津波で消失した
ただ文久時代をみれば原釜、小浜、塚原、請戸が中心になり船運があったとなる
大きな港は原釜であり請戸である

ともかく歴史とは空間軸と時間軸から形成される、そして地元の強みはその土地に生きているからその土地から昔をたずねる、すると何か土地は変わらないから過去が具体的にイメージできるのである
それで双葉町の新山で私の父親が酒屋で働いていた、今もあるのは煉瓦の煙突がある富沢酒店である、それは記録にも残っている、でも私の父親が働いていた酒屋は消失した
でも父親がここで働いていたのだなと思ったとき不思議な気持ちになった
その道を歩いた時、何か歴史を父親とのつながりを感じたのである
歴史とはやはり場が影響している、そういう空間は場は消えないのである
でも双葉町のように最近避難解除になったが住む人がいないと死んだ町になり過去も死んでしまうとも感じた、ただ父が歩いていて私もそこを歩いているということで歴史を感じたのである

歴史とはむずかしいことではない、過去を生々しく感じたら歴史が身近になる
だから歴史は祖父母などでも親でも聞いた話からはじまるとなるのである
聖書自体がそういうものだったからである、歴史というとき何か大きな国とかの歴史ではない、個々人の血の通った場所に通じたものが歴史なのである
今回通読した文久元年、ある城下町の一年というのは確かに記録の羅列なのだがここに生きている人にとっては身近なのである
そこに確かに自分の祖先が現実に生きていてその子孫も生きているからである

我が父の歩みしこの道親しかな虫の音かすか新山の道

こんなふうになるのである、他に姉がシンガポールの向かいのジョホールバルで従軍看護婦として辛酸をなめた、四年間地獄の苦しみに生きた
もし自分もそこに行けば何か歴史を具体的に感じるのである
戦争の是非とは別にやはり親とか祖父母から聞いた話は身近になるからである
歴史は空間軸と時間軸で作られるという時、具体的に理屈ではなく死んだ人でも生きているように感じることが歴史を感じることだともなる
この本に記された記録は確かに自分の先祖が記されているということで身近になっている人もいるだろう
ただ歴史というのは想像力が必要になる、記録から何をイメージできるかになる
ただ記録の羅列から何もイメージできないこともある
それで記録が大事でも過去はドラマとなる、それは何か事実をゆがめるし歴史ではないともなる,ドラマと歴史は違うのである
でも記録からドラマも作られる、ここで商人の苦労があり船で商売する苦労が語られている、破船もあり遭難もある、海は常に危険でありそれ故に必ず無事に帰ってくれることを海で暮らす人は思うのである
また琉球類というとき砂糖がありこれも貴重だった、砂糖は琉球しかからしか入らない
だから砂糖を使うことはそれでお菓子を作ることは相当に貴重だったのである
あんこでも佐藤を使うからぼた餅などは滅多に食べられないとなっていたのである

いづれにしろ記録は意外と大事である、何でもいいから日々記録していることが後で貴重になる、全国を世界を旅したが忘れている、外国だと余計に忘れる
写真をみてもどこで撮ったかも不明になっている、人間は忘れ安いのである
プログで15年も書きつづけいるけど自分の書いたものも忘れる、そして読み返してみて自分で感心しているのも不思議なのである
つまり人間とは忘れやすいのである、だから百年前とかさらに400年前とかの記録となると記録として残っているだけで貴重なものになる
それでこの辺で相馬藩で二行だけ生波(いくなみ)で津波で700人溺死と記されていたことほど貴重なことはなかった、でも学者すら知らなかったのである
津浪が来て調べたらわかったのである、その時代に津波の被害を受けた人は自ら記録を残すこともできなかったのである
今は膨大な記録が残るから忘れられることはないだろう
映像でも記録されているから過去が蘇るとなるからだ
それで明治時代に東京駅の前を荷馬車が行き来していたというこも驚きである
車がない時代であり運ぶのやはり荷馬車だったのである

いづれにしろ記録だと無味乾燥にもなるが学問はそういうものでもある
ドラマとか小説とは現実は違っている、だから地味なのである、でもその地味なことでも記録したものを知ることは大事だということである
それがこの辺の二行だけ残された生波(いくなみ)で津波で700人溺死の記録なのである



郷土史というとき電子化してキーワードで検索するようにする
特に相馬藩政記など記録が膨大なのだから簡単に検索できるようにするといい
図書館で調べるのがめんどうなのである、本でもめんどうになる
だからもう図書館には行っていない、忙しくなったのと調べるのがめんどうだからである
コピーしたりとかめんどうなのである
私の書いたものは膨大でありキーワードで検索できる、それが読む人には便利なのである
ただ著作権の問題があってできないという面はある
古いものは著作権切れたものは国会図書館で検索できるようになったのである



posted by 天華 at 18:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2022年05月30日

橲原(じさばら)の山神社から堰を訪ねる (一之堰としるした江戸時代の碑があった)


橲原(じさばら)の山神社から堰を訪ねる

(一之堰としるした江戸時代の碑があった)

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立派な石垣がある
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一之堰とあり堰が作られた記念の碑である
これは元治であり江戸時代なのである

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堰がある、この脇に水路がある

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山神社の上野の橋

クリック拡大すると鮮明に見えます



関所に由来するのは温海町の鼠ヶ関と関川(鼠ヶ関川の省略)だけのようで、大部分は堰で用水路のことです。鶴岡市田川の関根は旧村名で、大山川から取水する堰があり、それに由来する堰根です。
 
 (一関はやはり一堰のことー江戸時代からの歴史)
 
 本町の関根も平田町・堰根と同じように堰根です。根は「事のおこるもと。物事の元をなす部分。」(『広辞苑』)ですから、堰が始まる所すなわち堰の取水口になります。
 http://koichikato.world.coocan.jp/minpou/minpou2004/minpou2004.11.14/newpage4.html
 
 一関(いちのせき): 岩手県一関市

・ 以下のような説があると言われる。【岩手県庁のサイトより】

(1) 「一ノ堰」から転じたもので、北上川の氾濫をせき止めるための一番目の「堰」をつくったことから

(2) 市内に「一関」「二関」「三関」があり、平泉の関所にちなむ。


(武家)

橲原下総 本氏渡部 文禄二年清丈冊に見ゆ
後孫渡辺氏を称し今中村に居る



大塚

只野

寿人 大塚与右ヱ門

99才にして文政12年巳歳 文政12年死す 今の与右ヱ門の祖父なり

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野馬追の旗


細入第址

在昔相馬左近及胤公の居所なり、慶長中秀中―忠公に仕ふ、後故ありてこの地に蟄居す
元治三年卒す,歳68才 法□仏性印殿鉄山関公大居士 墓碑は小高山同慶寺にあり
(鹿島町誌)

山岸とあり水無川の上流の橲原(じさばら)に山神社がある、これが意外と立派である
三段くらいに石垣で組まれて高い所に社がある
だからこれだけの石垣を作ることは相当に労力がかかっている
その碑に一之堰と記されている、江戸時代のものである
その上の方に行くと実際に堰がある、そこから水が流れて来る

橲原村は文禄二年清丈冊に見ゆとあり文禄時代に開かれたとなるから古いとなる
ただその前からの村もありここはやはり江戸時代になって開かれたとなる
そこで99才まで生きたとか記されている、これは信じられない、江戸時代でこんなに長生きするとは思えないからだ、戸籍とかの間違いだろう

堰のすぐ下に「屋敷沢」とあり屋敷があったのか?

細入第址がそれなのか、屋敷があり沢があったとなる、何か橲原でも太原ても隠居した人がいたとかそういう場所にふさわしい、

ともかくこの一関はやはり堰を作った記念として碑にも出ているから堰のことである
堰とは田に引く水で重要であり水神が祭られているのもそのためである

ここでわかっているのは武家の出として島 大塚 只野である
只野というとき50人くらい鹿島区にいる、それは只野氏とは南北朝の時霊山で南朝の北畠氏が滅びて炎上して落ち延びた末裔なのである

橲原村には開墾者が明治以降入っている、その人達の粗末な石くれの墓が残っている
名前も定かでない、こういう奥まで入ってきて開墾して暮らした人がいた、ただ農業だけではない、炭焼きとかもしていたのだろう
そのためにこういう山奥でもどこでも昔は暮らしていたとなる


橲原と大原は似ている、そこが行きどまりになっているからである
それ以上奥になると森になるからである、江戸時代だったら相当に辺鄙な場所になる
耕作地も狭い、でも木材がとれていた、それで生活していたともなる
私の家の柱は橲原で姉の同級生が切ったものを柱にしていたと聞いた
つまりまだその時は外材ではなく地元の木材を利用していたのである
でも50年前とかであり大工の手間賃もまだ安かった、そのあとすぐに大工の手間賃が馬鹿高くなっていったのである、だから400万とかかかったと聞いたが本当に安かったのである、今なら大きな家だったら三千万くらいかかるだろう
その時高度成長時代の真っ最中であり景気が良かったのである

南相馬市だと橲原とか大原は奥座敷なのである、ただ放射線の被害で田も今は作っていない、草ぼうぼうになってしまったから残念だとなる、それでも人は住んでいる
でも田で米作りをする人はいなくなっているのだろう、荒地のままになってしまったからである

とにかく堰とは水を供給するから大事なものでありそれでその記念の碑が建ち今日にも残っているのである
つまり郷土史とは先人の苦労を偲ぶとういことにもある
だから江戸時代から継続された歴史があり原発事故でそうした継続された生活でも断絶することが問題なのである
なぜなら祖先が先人が苦労して作り上げたものが喪失してしまうからである
すると祖先も浮かばれないとなる、ただこれは個々だけではない全国的に過疎化してこさうした山の村は廃屋となり廃村となりつつある、日本の人口は縮小するからその衝撃も大きいのである





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2022年05月12日

相馬焼きの歴史 (縄文土器から始まる日本の陶器、骨董でも江戸時代のものは価値がある)


相馬焼きの歴史

(縄文土器から始まる日本の陶器、骨董でも江戸時代のものは価値がある)



江戸時代の終わりには窯元も100軒以上になり、販路も北海道から関東一円まで広がり、一大産地へと発展を遂げ、大堀相馬焼は日常の器(= "雑器")として人々の生活へと溶け込んでいきました。

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相馬焼きの歴史(ホームページ―自作)
http://www.musubu.jp/somayakimono1.html

前のホームページで書いていた、その時は震災前であり大堀相馬焼きが軒を並べていた
風光明媚な高瀬川があり中国の山水画のような岩があった
そこは常に激流が流れていた、その大堀焼きも原発事故で失われてしまった
陶工は福島県の各地に散った、そこで伝統を守りつづけている

相馬焼きが磐城から伝わったというのも地理からそうなった、でも磐城ではたいして有名な窯がない、勿来焼きとかあってもたいしたものではない、相馬焼きになり全国のブランド品となった、ただ日常雑器としても使われた、第一百軒も窯元があったということは
一大産地となっていたのである、そうなると相馬藩の財政にも影響したとなる
藩でもともと奨励して収入源とした経緯もある
農家の副業にもなった、だから何か大堀に行ってそこで畑を耕していた老婆がいたことを自分のホームページで書かれていた、それは柿のなる季節であった
それで俳句とか作っていたのである

だからそういう場を失ったことが大損失だったとなる、もう回復しないからだ
でもまだ高瀬川渓谷は消えたわけではない、残っているが立ち入り禁止区域になったので行けないとなる、そこは相当放射線量が高いとなったからである
相馬焼きでも江戸時代のものがあれば骨董品でも価値がある
この辺は地元だから旧家に残っていたのが出ているのである
何か農家には蔵がありお宝が残っているともみる
ネットの販売で売っている、ネットだと全国が相手だからいいものがあれば高く売れる、地元だけでは高く売れない、なぜなら買う人が限られているし金持ちが多くないからである、また興味ある人もそんなにいないからである
そもそも相馬焼きでも江戸とかでも評判になり売れていたとういことで相馬藩の収入にもなったからである、今でも新しい相馬焼きが生まれて世界にも販路を広げようとしている
骨董品というとこれが意外と歴史と関係している、残された物から歴史をみる、その謂れを知るからである、十四代も使われつづけた茶碗とか急須があるとなると価値がある
ただそれを知らなければただの普通の器だとしか見ないだろう
また骨董品では古い物、特に江戸時代のものには価値がある、なぜなら私は古い碑とか墓をみる、そこで確かめるのは江戸時代の年号なのである、まずこの辺では元禄とかなると古いからなかなか見つからない、それで相馬市の新田に元禄の碑があった、そこは寺田というところでありもともと寺があったからそうなった
ただ震災で津波がそこまで来て波にのまれたが浅いので石碑は残っている

また元禄と明歴という碑が葛尾村の高瀬川の上流の野川に残っているのも不思議だった、こんな場所にそんな古いものがあるのかという不思議だった、ただ葛尾村も相馬藩内でありとうも検地の記念として残されたようである、検地の記念として残されたのは意外と多い新地では文禄の碑があった、相馬藩内で文禄の碑など見たことがない
それは明らかに伊達藩の検地の記念であった、検地が江戸時代の初期に全国で実行されてそこで米を税として治めさせて藩の財政を安定させたからである

骨董品でももし江戸時代の年号とか記されていれば価値がある、江戸時代のものは希少価値があるからだ、芸術でもその時代でしか作れないものがあるからその価値は色わせないむしろ価値を増してくるのである、芭蕉の奥の細道などがそうである
その価値は衰えることがない、「五月雨の降り残してや光堂」というように金色の輝きがさらに増して残されることになる
だから私が大堀を訪れて作った俳句とかでも価値があるかもしれない、なぜならそういう風景がなくなったからである、するともう再現できないからである
何か本当に津波とかで村ごと消えてしまった、新地の海浜公園になったところはもうそこでここに結構家並があり港町があったとういことをイメージすらできない
そして全く震災の津浪を知らない世代は全く新しく生まれた人達がそこに立っても昔ここに家並があったということをイメージもできないのである

海の風海浜公園に夏雲雀

このように全くそこに家並があり村があったということはイメージできないのである
別にそこは新しくなり気持いい場所になった、でもそこで何か昔をイメージが全くできないのである、一応漁港があるからそれでイメージするとはなる
それは烏崎とか請戸村とかでもそうである、村自体が津波で消失してしまったからである
つくづく人間はもともと忘れやすいのである、人間が一旦死ぬと何かあいまいなものとなり深い霧の中に隠されて実体がないものとなる、急速に忘れられるのである
それは60年とか一緒に暮らしていてもそうなのである、津波でそうした激変があり相当数が死んだ、でもそれすらだんだん忘れられてゆくのである

だから意外と何でもいいから記録していることが貴重になる、大堀相馬焼きを訪れて書き残した物でまたふりかえりイメージするとなるからだ、こういう場所だったのかと想像できるとなるからだ、柿がなっていて何か大堀焼にふさわしい場所だったともなる
焼き物でいいのはその土地と結びついて作られている
もともと土で作るのだからその土地の土と関係している、それで高瀬川の砂でも陶器を作ったとか書いてある、宮島焼とかは砂で作ったものである、焼き物は鹿児島とかなると火山灰で作ったとかもある

大島焼は三原山の火山灰をミルで細かく挽き、木節粘土まぜた土で成形します。
釉薬は椿油を絞りかすを灰にしたものや雑木の灰を原材料とし、薪窯で焼成します。
https://blog.goo.ne.jp/masarugama/e/623488e3e2917db5ec551b23ead6caf2

椿油というときこれは戦後まもなくまだ使っていた、今のようにいろいろな油がなかったからである、菜種油などでもそうだった、陶器には様々な材料が使われているのである

宮島焼は,江戸時代から焼かれ始めたと伝えられ,嚴島神社本殿下の砂を入れたことから「お砂焼」の名でも知られています。その後何回か窯の興廃があり,現在の確固たる基礎が固められたのは明治の中頃です。
 清楚な雰囲気に特色がありますが,粘土に砂を混ぜると窯変が起こりやすく,自然に二つとない模様が生まれて独特の風合いを醸し出しています。
 https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/67/1170644786687.html
 
こうした成分は化学的に分析すればわかるだろう
このようにその土地の材料を作るからその土地と結びついているのが陶器なのである
それでお土産に土から産したものとして陶器がいいのである
今だとネットで全国の陶器が買える時代である、それで全国を旅して窯元に寄ったのである、そもそも日本の独特のものとして焼き物がある、第一縄文土器から始まっているのだからその歴史は日本がでは古いとなる
中国だと磁器でありこれは外国に輸出された貴重なものである、伊万里焼でもそうである伊万里焼などはトルコの博物館などにも飾ってあったからである
相馬焼きからも今は新しいものが作られている

大堀相馬焼の窯元に迫る(1)休閑窯 半谷秀辰さん
https://www.730.media/kyukan/

ここに出ている現代的な斬新な皿がいい、土と海の色が出ている、何か自分のしている抽象画と似ていると思って見た、陶芸の模様は抽象画なのである




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2022年02月10日

大工から棟梁へー建築の歴史 (人間全体を見ていた江戸時代の大工とか医者)


大工から棟梁へー建築の歴史

(人間全体を見ていた江戸時代の大工とか医者)

articure111.jpg

パンデミックで医者の裏の顔がバレました!
あれほど素晴らしかった日本の誇りが・・崩れようとしている武田邦彦
https://onl.la/bzpdxBn


●大工ー棟梁の歴史

【棟梁】より
…それが近世に向かって,大工,木挽(こびき),左官,屋根葺,鍛冶など,職人の専門的な分化がすすみ,一方,城郭や町の建設がさかんとなるにつれ,閉鎖的な組織を打ち破って造営工事を合理的に運営する,新しい組織を必要とするようになって,棟梁という個人的技能に基づく工事指導者と組織が成立していったといえる
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%A3%9F%E6%A2%81-1359053

大名達は優秀な技能を持ち『大工職』に縛られない工匠集団を必要としていた。この要求に基づいて創られたのが『棟梁』を指導者とする工匠集団であり、中世的な座の制度(『大工職』)の破壊を目的としていたと考えられる。
https://bingo-history.net/archives/14032

棟梁という言葉は今日では「大工の親方」という意味で用いられることが多いが、元は建物の屋根の主要部分である棟と梁を指していた。棟と梁は建物の最も高い部分にあり、かつ重要な部分であるため、転じて国家などの組織の重要な人物を指し、また「頭領」・「統領」という表記も用いられた(『日本書紀』景行天皇51年(121年)条において武内宿禰を「棟梁之臣」と表現している)。10世紀から11世紀にかけて、各地に「堪武芸之輩」・「武勇之人」と呼ばれる人々が現れて武門の源流となり、それを統率する人物を「武門之棟梁」と称した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E3%81%AE%E6%A3%9F%E6%A2%81

町大工
主に木造軸組構法で家屋を造る大工(町場大工とも言われる)

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日立木の町場橋ー相馬市の城跡に近いー大工町だったのか?


町場の由来は、古くから日本各地で相互扶助の単位として町(町場)という共同体のことからであり、江戸時代までは都市部の公的な自治単位として多くの権限を有していた。都市部の庶民のまつりごと(自治、祭礼)は伝統的にこの単位で行われ、その慣行が今でも残っているところも少なくない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%A5

【太子講/たいしこう】

先述したように、聖徳太子は法隆寺をはじめとする多くの寺院を建立し、建築の神様として古くから信仰されていました。そうした背景から、室町時代末期になると、聖徳太子の命日とされる2月22日(旧暦)を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講(経典の講義をする会)が行なわれるようになりました
https://wawawork.work/workerstrend/skills/641/

普請においてその町に住むものはその土地の大工を使うのが不文律であり、それをたがえる時はそれなりの理由と挨拶が欠かせなかった。またこの様なことは大工に限ったことではなく町の中でお金が循環するという相互扶助でもある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%A5



人間を見る時どうして見るかというと今を見ていたらわからない、時間軸で見ることが不可欠でありそれで何でも歴史がありその歴史をふりかえると見えてくるものがある
どうして今はこうなってるのだろうという疑問があるがそれが解けるともなる
そのために常に歴史的にみる訓練が必要になる

大工という言葉がすでに奈良時代にあるとか古いのに驚く、棟梁はむしろ後にできた言葉である、棟梁というときいろいろな建築にかかわる専門家を束ねる人だった
だからこそ町作り全体にかかわる街の都市の設計者にもなっていたのである
そうなったのは城とか城下町とか大規模化したとき建築家が必要になり束ねる人が棟梁となったのである、武家の棟梁というときそうである
だから大工とか棟梁とかは町全体を作るものとしてかなり地位的にも高く給料も高かったのである、大工は尊敬されまた棟梁となるとまさに殿様の名称にもなっていたのである
それだけ誇り高い仕事となっていた

武田邦彦氏のyoutubeで語っていたことは興味深い、大工はその人がどういう人生を送りたいかを見て家を作る、だから家を建ててもらう人のことを聞かないという
どういうふうな部屋割りにするとか聞かないという、それも何か理解できないがその人がどういうふうな人生を送るのかという時、その人の人生を見るというとそれはその人の全体を見ているのである
それは医療でもありうる、その人を見るときその人の全体をみる、体の部分だけを見ない体全体をまたその人の暮らしとかまでみる、だから患者が何々の薬をくださいと言っても医者は応じないとしている
つまりその主導権が大工に棟梁にあり医者にあって依頼者にはなかったとなる
また町全体を作るためにそれに合った街並みを作ることもあるから勝手な個々人の要求で家を建てられないということもあった
京都の町屋などがそうである、それで江戸でも京都でも街並みができあがっていた
そういうことを棟梁がしていたというのは発見である
つまり個々人でも家作りでも街作りでも全体を見てかかわり指導していた人がいたということである

●現代社会は何でもばらばらに部品化した

現代というのはともかく何でもばらばらの部品化してしまったのである
それを統率するものもいないのである、だから街でも不揃いの醜いものになった
京都でも町屋の前に高層ビルが建ったり常に景観を壊すものとなっている
統一した街作りができないのである、そういう棟梁とかがもういないのである
つまり現代とは全体を見て何かを作るということがなくなったのである
それは医療でも人間全体を見ている医者などいない、人間の体の一部を見るだけであり
人間全体の体だけでなくその人の暮らしとか人生まで見る人はいないのである
だから江戸時代なら医は仁術というときまさに人間の体だけでなくその人の人生とか暮らしとかまで見ていたのである

大工が町で重要なものとして誇り高いものとしてあったというときそれはその木材でも資源でもたいがいその土地で供給されたものである、その土地にあるもので作られていた
今のように外材とか何でも外部からそれも外国から輸入したものではない
すると一軒の家を建てるのに茅葺屋根の家でも村全体でかかわり建てたとなる
それは村全体の中で作られていたのである
それが現代だと大企業のハウス会社が一二週間で組み立ててつくる、まるでプラモデルを作るように作る、そこに地元の大工はかかわらないとなる
すると地元の人がかかわらないから地元の人とのつながりもなくなる
田舎はそうして何でも生活自体その土地と密接に結び合って成り立っていたのである

だから今は何か街自体が密接に結び合わない、何かプラモデルのように作られた人工の街のようになっている、だから解体するものも簡単だとなる
子供が遊びで積木のようにプラモデルのように作りあきたとかなりみんな簡単に壊してしまう、それが原発事故の避難区域で起きた
簡単に街でも村さえも住人が放射線被害で住めないとして廃墟化したからである
それは理由があるにしてもこんな簡単に街でも村でも人がいなくなったということに驚いたからである

そして浪江に住んでいた人は電気関係の人でありその人は回りの田畑が草ぼうぼうになっていても何の関心もなかった、補償金もらって良かったとして喜んでいたのである
他の人も老人でも年金代わりに補償金もらって喜んでいるよと言っていたのである
このように今や人間と人間のつながりは小さな町ですらなくなっていたともなる
だからこそ簡単に解体したのかともみた
実際は浪江のような一割くらいしか帰ってこない街でも別に車があったりすると物は買いに行けるし物は入ってくるからそこで暮らせないということはないのである
それにしてもこういう社会は何なのだろうとなる
それを理解するにはやはり歴史をふりかえることである

●ヨーロッパのartの意味

地名としては日立木に町場橋とかあり仙台市の長町に太子堂駅ができた、でもそこには聖徳太子の堂はないが前はあったからその名をとった
聖徳太子は大工の神様のようになったのは中国から大工技術を取り入れたためだとしている
日立木の町場橋の由来は大工が集団的に住んでいからか?相馬の城にも近いからである
相馬の城下町の延長としてあるからだ、距離的にも相馬市内という感覚にもなるからだ
とにかく大工とは尊敬される職業だった
今でも一人親方を知っているがその人は庭作りでも壁造りでも大工としていろいろできるのに驚いた、器用なのである、人間性は別にして職人として大工として優れているのである、体力的にも見た感じが柔道の有段者のような体つきをしているのである
それはまさに生まれつきの素質があり大工となり一人親方となったのかともみる

私は建築に興味がある、建築はやはりアジアでもヨ−ロッパでも建築そのものが市を作るものとしてエンジニアでありその人は棟梁であり重要な役割を果たしていたのである

こうした中でも建築事業を統括する技術者は「アルキテクトーン」と呼ばれていました。
「アルキ」は「頭(かしら)」のことで、棟梁のことを指します。

都市の住民は、同業者同士の相互扶助のため組合を結成した。13世紀のパリではその数は約100にものぼる。これらはそれぞれが特定の守護聖人をもつ宗教団体でもあり、同業者の増加を制限する閉鎖的集団でもあった。

石の大聖堂をカテドラルを建てたのはフリーメーソンとして知られる、秘密結社であり陰謀論では今でも世界を支配しているといわれるのはそれだけ重要な役割を果たしていたのは日本の大工とか棟梁とかと似ているのである
もともとギルドを組合を形成して大きな力をもっていたからである

「art」は英語だけど、さらに語源を遡るとラテン語の「ars」なのね。
この「ars」には、「技術」や「資格」「才能」といった幅広い意味があったの。

artは医療でもartだった、テクノロジーは実用化したものだがartももともとは実用として通用するものだった、なぜなら医療はまさに実用だからである、artとはだからヨ−ロッパ的概念であり文化であり文明を作ったものだともなる
それは今の日本に翻訳された芸術とういものではない社会全般にかかわるものだったのである、その全体から現代はあらゆるものか分離したのである
絵画でももともとは聖堂と一体化して飾られていた、個々の絵画はなかった
音楽でもカテドラルに荘厳なパイプオルガンが備えられていてバッハのレクエムがその大聖堂全体に鳴り響いたのである

つまり音楽は建築と絵画でも社会自体が一つの全体として統合していた、宗教もそうである、全体を統合するものとしてあった、なぜなら宗教は宗(むね)なるものだからである中国にも仏教文明があり唐時代がある、宗教都市がある、その唐時代の仏教文明が日本がに移植されたのである、仏教というときそれは全体であり技術もその中に含まれていた
つまりこうして全体だったものがすべて個々ばらばらに分離したのが現代社会なのである芸術というときこれもまさに絵画とか建築でも文学でも伝統芸能でもなんでも分離して
孤立したものとして見ているけどそれらでも社会全体のその時代には全体の中に組み入れられたものとしてあった、だから時代によってヨ−ロッパだと建築でも変化しているのである

●万葉集の家を歌ったもの

はだすすき、尾花(おばな)逆(さか)葺(ふ)き、黒木(くろき)もち、造れる室(むろ)は、万代(よろづよ)までに

これなどでも身近に土地でとれるもので家を作ったのである、その土地土地と密接に結びついていたののである

真木柱(まけはしら) ほめて造れる 殿のごといませ母刀自(ははとじ)面変(おめがは)りせず 」 
 巻20−4342 坂田部 首麻

私の家は橲原の同級生のキコリの人が提供したもので作ったと姉がいつも自慢していた
そして三カ月以上を家を作るのにかかったのである、今は一二週間で速成に部品を集めて組み立てるだけである、昔は普請は一大事業だったのである
何か家にはそれぞれ歴史がある、それがわかりにくいのである
農家などは特に江戸時代からの歴史がある、その歴史が原発事故で失われたということが大損だったのである、なぜなら家の歴史が郷土史の基本にあるとしてその家が失われたことでわからなくなる、町自体でもその歴史が喪失してゆくとなる

ただ現代はもともとそうした歴史を無視する社会になった
家でも地元の木材など利用しない、外材となり建てるのもハウス会社であり地元の大工もかかわらないとなる、だから地元でも故郷でも愛着もなくなる
この家ははこうして建てたんだよということを祖父からでも親からでも聞けなくなる
そして町や村自体の歴史まで消失してゆく危機なのである
それは日本全体が2000万軒もの家が廃屋化してゆく恐怖になる
日本全体が廃墟化してゆく恐怖がある、ここはそれが極端化して現象化したのである
温泉街も廃墟化しているし団地などでもそうである
日本自体が廃墟化してゆくのかという恐怖になる、日本がなくなるという人もいる
それだけ空家問題は大きな問題なのである
posted by 天華 at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2021年06月20日

江戸は大消費地ー働かない侍が50万人 (生産より消費の経済へ)


江戸は大消費地ー働かない侍が50万人

(生産より消費の経済へ)
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新宿区千駄ヶ谷の江戸切り絵図

植木の需要が多かった



江戸時代に興味がある、でもわかりにくい、その最大の謎は侍が50万人もいたということである、百万都市でも半分が侍だった、その人たちは働いていないのである
生産者ではないのである、ただ消費する人たちなのである
ではその生活費はどこから得ていたのか?
それは国元なのである、そこに農民がいて米を作る、石高となりそれで収入となっていた貨幣でも小判でもその藩でもうけたもので得ていた、それを江戸で使っていた
江戸というのは何かそこで生産する人がいない、ただ近辺の農家では江戸は大消費地だから米とか野菜を供給した、ただ米の消費が膨大だから地方から仕入れた
伊達政宗の仙台からは石巻に米が集められて船で江戸に運ばれた
阿武隈川でも水運があり川で信達地方の米が集められて荒浜から運ばれた、ただ直接江戸には行かず川の水路を利用した、川を利用した運輸が盛んであり物資は江戸に集まったのである、

当初東北地方から江戸への廻船の入り方は、那珂湊ないしは銚子までは海路をとり、危険な犬吠埼沖通過を避け利根川の水運を利用する内川江戸廻りであった。だが寛文11年(1671年)に江戸幕府の命を受けた河村瑞賢が、東北諸藩の領内の産米を房総半島を迂回し伊豆半島の下田から外海江戸廻りで直接江戸に運ぶことに成功した

下田とはこうして港で栄えたのである、地理的には江戸から離れていても船運があり港なり栄えたとなる,下田という地名が何かもともと辺鄙な場所だったことを示している

東海道とか陸路は物資の輸送には適していない、荷物が運びにくいからである
船だと荷物が運び安居から大坂を物資の集積地として一大商都となった
それが瀬戸内海を通じて西回りの北前船が日本海を通り新潟県や山形県や青森県まで行き来した、それでそこでは銀の貨幣が流通していた
名古屋から関東から東北は金の貨幣が流通していた、つまり船運の範囲が大阪から日本海回りがありそうなった、それで山形県でもは最上川が紅花を運ぶ川となっていた
それで酒田とかが繁栄したのである
つまり日本でも河が動脈となり海が交通路となって商業が盛んになったのである
大坂だと西の醤油とか味噌とかが入ってきた
そして江戸には大阪から船でも物資が入ってきた、江戸が百万都市となり一大消費地となったからである

最上川からは米も運ばれた、蕪村の句に「毛見の衆の舟さし下せ最上川」「新米の坂田は早しもがみ河」あるのはそのためである

江戸は大消費地であり米を食べる量も膨大になる、そして江戸には優先的に米が運ばれていた、東北で飢饉があっても江戸で米が入ってきて食べられていたのである
それは米が商品作物であり江戸に売るものとして伊達藩で米を大量に作っていたからである、そのために天候不順とか不作になったとき肝心の地元では米が食べられなくなった
米だけを生産していると他の作物を作らないから米がとれないと食べ物がなくなる
それで飢饉となった、でも山だといろいろなものを作っていて稗だとか粟だとか作りそれが食料になる、そういうことはグロ−バル経済でコーヒーだけを作り他のものが作らないで後進国で食べるものもなくなるということがあった
またコーヒーが安くなるとその影響が大きいのである、それで今ではいろいろなものを畑で作るともなる、何かこうして地方でも地元でも商業が発達すると農業も影響を受けてアンバランスになる、これはグロ−バル経済で起きているから同じなのである
逆に江戸では白米を食べることができたがそのために脚気になったのである
それを江戸患いとなっていたのである、これは国土利用のアンバランスからそうなったのである
それが栄養のバランスを崩した、こういうことはやはり何か時代が変わっても継続しているのである

ともかく江戸の不思議は大名屋敷がありその敷地でも広大なのである、甲子園くらいの広さがあったというのもある、その大名屋敷に雇われる中間とかも多い、その大名屋敷の侍を食べさせる米の量も膨大なのである
侍は何をしていたのか?ただ消費するだけなのである、だからそれだけの金が国元から送られてきて生活が成り立っていた、それだけ豊かになったともなるが地方の農民とかはそのために納税することで苦しんだとなっていた
江戸の地図を見ると大名屋敷の間に点々と植木屋がある、それは大名屋敷の庭が広大なものがありその松の剪定とかで常時仕事があったからだとなる
普通は町人は長屋住まいであり大名屋敷の間に住んでいないからだ
お雇いの植木屋ともなっていたのかもしれない、それだけの仕事があったからそうなっていたとみる

経済というとき何か生産に注目する、農家だったらどれだけのものを生産するかが問題になる、でも江戸とかなると大消費地であり働く人がいない、50万人が侍でありあとは町民なのである、そして江戸に行けばなにかしら働き口があり糊口をしのげるとなって江戸に行く人が多くいた、それは今の東京と似ている
東京だと何かしら働き口があるとなり若い人が行くからである

何でも屋
「何かやる事はないかー」 などと声をあげて町を歩き、 薪割りなどこちょっとした力仕事で駄賃を稼いでいた。また、 正月が近くなると餅つきなどをして稼いでいた。
https://edo100.tokyo/freeterinedo/

これを必殺仕事人で見ている、佳代(かよ)がそうである、この女性の演技がうまいなと感心する、時代劇でも今になるとこうして演技力ある人がいなくなったこともある
田舎だと何か仕事がないかというと草刈りなのである、暇なし草刈りしているからである
とにかく何かしら江戸には仕事があり宵越しの金はもたないという生活が成り立っていたという、その日暮らしでもそれほど心配していなかったというのも不思議である
今なら一億円あっても安心がないからである、ともかく日々の生活でも最低限の質素なものでありそれで生活が成り立っていた、狭い長屋で家族が暮らしていた
今は貧乏になったといっても大家族で暮らしていない、知っている人は金がないのに苦しいのに三人の家族がそれぞれ住宅とか団地とかに住んでいる
すると三人別々だから家賃から電気代からカズ代から三人分かかるのである
電器製品でも掃除機でも洗濯機でも別々に買うから金がかかる、そしていつも壊れたとか言うのである、そこが今は貧乏だとしても贅沢だとなっているのだ
本当に貧乏だったらそんな暮らしができなくなるからである

そもそも江戸で50万人の働かない侍を養えたのかという疑問がある
でも生産と消費があるとき消費が大きなウエイトを占めるようになるのはそれだけ生産力が上がったためである、元禄時代になると地方で開拓が進んで大量に米がとれるようになったからだ、相馬藩でも松川浦の近くの新田は元禄時代に開拓された、元禄の碑があったからだ、この辺では元禄の碑があることはめずらしいのである
その元禄時代に芭蕉がみちのくの旅に出たのである、その時代に俳句が相当に興隆していた、地方の商人の金持ちを回ったのもそのためである

何か経済を考える時、生産と消費がある、でも生産に重きが置かれ消費のことはまさに消す費やすとかでマイナスに見られる
だから侍とは生産しない人達であり批判される対象にもなった、東北では安藤昌益がそうである、でも豊かになるとエンゲル係数でも食糧だけではないものに消費する割合が増えることになる、消費のウェイトが増大するのである
それで消費者は王様だとして高度成長時代に言われたのもわかる
消費すれば景気が良くなるのである、必ずしも生産することが喜ばれるとはならないのである
なぜならどこでも食堂であれ飲み屋であり食べてくれ飲んでくれ菓子屋でもうまいから食べてくれ買ってくれとなっている、家でも新しい家を借金しても買ってくれ車ででも自転車でもなんでもとにかく買ってくれとなっているのである
だから生産している人より買ってくれる人消費する人が王様だとなってしまっている
消費することが経済を回す景気を良くすることなのである
ボランティアはかえって嫌われる、消費しないからである、何かしら生産にたずさわり金をもらうとしているからともみる
会社でも組織でしていてそうしたものが入ってくるのを嫌うからである
むしろ消費してくれることが地域にとって望まれているのである
米だって余っているのだからもっと米を食べてくれとなる、でもパンもあるから米の消費が減っているのである
そして現代ではニートとか引きこもりとか老人の年金生活者とか3千万人くらいが働いていないのである、それだけ豊かになったからそういう人がいるともなる

江戸時代と対比して現代をみると見えてくるものがある
何か自分は時代劇をBSで毎日見ている、また今はアレキサンダーのインドの英雄の戦いを見ている、歴史に興味があるから見ている
そこから歴史に興味をもつこともある、ただ映画だけではなくリアルな江戸の世界とか江戸時代を知ることも必要になる
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2020年12月17日

相馬藩では郷士が多いから兵農分離されなかった (伊達と戦うことができたのもそのためだった)


相馬藩では郷士が多いから兵農分離されなかった

(伊達と戦うことができたのもそのためだった)

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福島の歴史と考古-鈴木啓より引用


戦国時代の前は南北朝時代とか鎌倉時代がある
それは時代区分として中世とされる、その時の支配形態は「館」を中心として小地域の支配である、館はたてであり盾であり防御の屋敷となる
だから地名としては館とあれば中世の時代のものであり古いとなる
それで深野(ふこうの)には二つも館という地名があり古い地域なことがわかる
大原は新しい、それは相馬氏が進出した地域を見ればわかる、大原から小池と進出したのは深野には古くからの土着の勢力があり入れなかったからである

相馬地域で有力な支配者は佐藤氏である、磯部を根拠として後に鬼越城に移った
今の相馬市の道の駅の所である

源義経の家臣の「佐藤継信(つぐのぶ)、忠信(ただのぶ)」兄弟。平安末期に奥州藤原氏に仕えたのが「佐藤」氏。陸奥国信夫郡(福島県福島市飯坂)の大鳥城を本拠に奥州南部の代官を務め、一時は「刈田」「名取」「亘理」「柴田」「行方」「信夫」「伊達」「岩瀬」「白河」などに及ぶ地域を支配した。佐藤基治(もとはる)の時に最盛期をむかえたが、源頼朝の奥州攻めで戦死した。基治の子の「継信」と「忠信」は源義経に仕えたとして有名だがどちらも戦死した。福島市飯坂町の医王寺は佐藤氏の菩提寺。

そもそも佐藤氏は藤原氏から発している、藤とつくのは藤原と関係している、工藤、加藤、伊藤、後藤とかもそうである、それは鎌倉時代に平泉とも関係していたのである

郷士というとき地侍とか前々から土着していた人たちがいた、その人たちは館を城のようにして地域を支配していた、そういう所に相馬氏が進出して戦国時代を経て幕藩体制の中に組み込まれたのである
だから相馬氏が進出したとき争いになり滅ぼされたとなる
兵農分離政策はもともとそうした地侍などが武装していると治められないから分離させる武器をとりあげる、また侍を城下に住まわせるようにした
ただ相馬藩では郷士が多かったというのが特徴である
兵農分離をしないで侍が農民となり土着することになった
だから村々に兵士とか警官がいるようになり農民を監視していたから一揆は一回しか起こらなかったとなる

そうして郷士が多いことでそれが軍事力となり伊達に対抗できたともされる
郷士の数が多いということは戦争の時に兵力として活用できるとういことである
普通は兵農分離して侍は城下に住むようになったからだ
なぜ野馬追いが相馬藩だけに残されたのか、あのような華々しい行列が再現されているのか?
それは郷士が多いというためにそうなった、今でもたいがい野馬追いに出るのは農村からである、城のあった城下町の相馬市からは出ないのである
そこでは兵農分離して侍だけが住むようになったからである
戦国時代も終わった時、侍は官僚になり事務とかするようになった
馬とかも飼っていたのかどうかわからない、馬を飼えるにはやはり農家である
土地も広いし飼料も用意できるからである 

相馬藩でも文禄から検地が行われていた、だから新地の神社にある文禄の碑は伊達藩で作り残したのか、相馬藩なのか、ただ文禄時代になるとまだ新地でも中村でも伊達氏の勢力下にあったから伊達藩が建てたと推測する
相馬藩の郷士の数は農民の数の六分の一である、つまり6人に1人が郷士なのである
これは本当に多いのである、この郷士は一応侍身分であり武装もできるから兵力となる
それで伊達市との戦いでも負けなかったともなる
野馬追いとは戦いの訓練としてもありそうして戦いの訓練をしていたから伊達藩とも対抗できたとなる、また親戚関係にあるから相馬氏は伊達藩から徹底的に攻められことはなかったともししている
親戚関係を結ぶことはそういう効果が戦国時代にあったためである

いづれにしろ人口でも石高でも元禄時代がピークになりそれからは下降するだけだった
だから元禄時代は全国的にも華やかな栄えた時代だったのである
元禄文化が興隆したのもそのためである
ただそれからは宝暦でも飢饉があり天明では最悪であり江戸末期の文久でも人口は減っていたのは意外である、つまり天明の飢饉で相馬藩は餓死者が一万以上とかあり三分の一に人口は減った、この飢饉は相当に影響した、またその後も飢饉があったのである
元禄時代をピークにしてあとは下降線であり明治になって開国して急激に人口が増えたのである
新田開発でもすでに元禄の時に限界にきていたともなる




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2020年12月16日

「相馬藩寛文8年百姓一揆の歴史的意義ー鈴木啓」を読む (一揆があったことも津波の被害も記録されなかった訳)


「相馬藩寛文8年百姓一揆の歴史的意義ー鈴木啓」を読む

(一揆があったことも津波の被害も記録されなかった訳)

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新地の碑
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これらの碑は検地の記念碑である
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1574天正
1592文禄
1596慶長
1603慶長徳川家康
1624寛永

1655承応4年/明暦元年
1656明暦2年
1657明暦3年
1658明暦4年
    万治元年
1659万治2年
1660万治3年
1661万治4年/寛文元年
1662寛文2年
1663寛文3年
1664寛文4年
1665寛文5年
1666寛文6年
1667寛文7年
1668寛文8年


「鈴木啓氏の福島の歴史と考古」を読んで私自身が相馬郷土史を調べていてなるほどと納得するものがあった
相馬藩にはなぜか一揆がなかった、でも一揆があった
ただ資料がないので明確にはわからない、それはこの時の藩主が名君とされたからでありそうした負の部分が資料として残されなかったからである
こういうことは歴史には良くある、為政者の都合の悪いことは資料にも残さない
相馬藩政期は一貫して相馬氏が治めたので他の人でも調べにきている
他では藩主が代わったりして一貫性がなく資料として参考にならないということがあった
このことを感じたのは津波のことである、相馬藩政記になぜ津波のことがその被害が記されなかったのか?これが大きな謎だった
ただ二行だけ生波(いくなみ)で700人溺死と記されたのを津波の後に発見されたのである
その被害の状況は全く不明なのである、それは相馬藩を支配した侍が記録しなかったからだとなる
その時相馬氏の支配はまだ行き渡らず戦国時代だったからである
それで戦争のことは事細かく記録されたのである

そのことが後々の人々には重大な過失となったのである、庶民は記録する財力もないし文字を書ける人もいないということがあった
つまり庶民は非力であり何か記録するにも財力が権力がないとできないのである
もし津波の被害状況が記されていればそれは貴重な記録となりここにもこんな被害を与えた津波があったとのだとして津波を警戒することになったからである
それがこの辺では400年も津波が来ないのだから津浪と来ないとして警戒しなかったのである、そして忘れ去られていたのである、津波の後にこの二行の記録が発見されたのである、つまり誰もこの記録に注目する人もいなかったのである

相馬藩でなぜ一揆が行われていなかったか、それは善政があったからではない
郷士が農民より多いような状態になっていたのである
それが相馬藩の特徴なのである、それだけ郷士が多いということは農民を監視することにもなるから反抗はできないのである
それは北朝鮮とにている、北朝鮮も貧乏なのに兵士が多いのである
その兵士が監視しているからあれだけ悲惨なのに反抗もできないとなる
一党独裁となり反抗できないようにしている

野馬追いを見ると相馬藩では六万石であり小藩なのになぜあれだけの馬が出て行列ができるのが不思議になる、伊達藩では60万であり会津でも30万石とかなっている
相馬藩は小藩なのである、でも野馬追の行列をもみると他ではそうした行列が成されない不思議がある、相馬藩だけになぜあれだけの野馬追い行列が残っているかとなる
それは村ごとと郷士が多くその人たちが村から出るからだとなる

封建制支配は土地に基づいてその土地から税をとる支配体制である
それで太閤検地が重要な支配体制を作ったのである、それは明歴に行われたのである
そして葛尾村の落合という辺鄙な所まで検地が行われた
その記念碑が明歴と元禄と記された碑なのである、それが葛尾村(かつろう)の落合にあった、高瀬川をさかのぼった所である、そんな所まで相馬藩では検地をして税を治めさせたとなる、その記録が残っていたというのも貴重である
なぜならこの辺で必ず墓地を見ているが元禄はあっても明歴を見たことがないからであるでも明歴に検地があったことは確かなのである
伊達藩では文禄に検地があったから相馬藩より前にあったとなる
その碑が新地に残っている、それは検地の記念なのである
それだけ伊達藩は古いとなる   

いづれにしろ明歴から検地が行われ新田開発が行われた、それで郷士が増加して土着の農民が秣(まぐさ)がたりなくなって困ったとか新たに入ってきた郷士に奪われて困ったともなったのである
郷士は馬を持つ、野馬追いに出るのにも馬を飼っておかねばならない、それで今でも相馬地方では馬を飼っている家がある、野馬追いに出るための馬を飼っているのである 

ともかく相馬藩に一揆がなかったのは善政のためではない、郷士が多く監視役になり一揆ができなかったのである、だから寛文時代という戦国時代が終わった書記には検地が行われて米で納税することが厳しくなり一揆が起きたということは納得する
その後は郷士の監視下にあり一揆は起こせないとなったとみる

とにかく記録というのは為政者の都合のいいものだけを記して残すのは今でも同じである政府の都合の悪い資料は出さない、知らせない、黒塗りだらけの資料があったというのもそのためである、それで民主主義は情報公開が基本にあるけどそれも成されていないのである、権力者の都合のいいように情報も支配されるのである
マスコミもそれに加担する、それは原発事故でもそうだった
「安全神話」などありえないのに権力によって作られたからである
津浪でも記録されなかったのは為政者にとって津浪の被害は都合の悪いものであり無視された結果なのである 

それが今になり問題視されるようになった、でも資料がないから明らかにすることはできなくなったいたのである
江戸時代は見ざる言わざる聞かざるの社会であり今とは全く違って表現の自由もない世界だった、そこで最も重要なことが記録されなかったのである
要するに権力によって都合の悪いものは抹殺されるのである
それは今でも行われている、権力でもって悪い情報は知らせない、隠される
原発事故がまさにその象徴となったのである、内部告発があってもそれも権力で握りつぶされていたしただ安全だけが言われた、それに加担していたのがマスコミだったのである地元のマスコミでも新聞でもテレビでも報道しないからである
権力をもつものから利益を得るから忖度してすりよりだけだとなっていたのである


注意

引用に問題があるかもしれない、長い文そのものを引用はできない、これはまるごと引用しているからだ
ただ内容を知るためには長い文を読まないと理解できない
そのためには本を買うほかないとなるが一部だけに興味とか調べる人がいる
それで本一冊買うに躊躇する人はいる、こうした専門の本は高いからである



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2020年01月21日

(冬の城下町)相馬市が城下町であったことの価値 (歴史は全体であり精神も全体から育まれた)


(冬の城下町)相馬市が城下町であったことの価値 

(歴史は全体であり精神も全体から育まれた)

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冬の暮忠義の松や城下町


相馬市が城下町なのである、でも城の跡があるにしても何が城下町なのか?
城下町とは何なのか?それが意外とわからない
つまり城下町とは城があって侍が住んでいた町である
城下町の中心は侍の町でありその周辺に商人とか職人が大工などが住んでいた
でもその町の中心は侍が住んでいたことなのである

田町通りになるともともと田があったところでありそこから街に発展した
もともとは中村であり中村城であり中村駅なのが相馬に変わった
相馬氏がここに城を建てたのは戦国時代の終わり頃であり慶長時代でありその時慶長津波があった時代でもある

今になるとどうしても城があって侍が住んでいたということが意識しにくい
城下町というとき江戸時代ならそこは侍の町でありその周辺は田んぼであり畑である
農家になっていた、だからこそ田町とは田のある所であった
そういう地名は全国的にある、田から町に変化したのである
町とは一区画の意味でありだから村の中にも町(マチ)とつく地名がある
日立木の町場橋などもそうである、村の中に町場があった

かつては、町場の家大工は町内にある社寺なども手がけており、宮大工の技量もあった。そのため、野丁場の大工よりも町場の大工のほうが腕が良かった。

町場

ちょう ば ちやう− [3] 【町場・丁場・帳場】

@ 宿場と宿場との間の距離。ある区間の距離。 → 長(なが)丁場
A 夫役で、運送・道路工事などの受け持ち区域。工区。持ち場。
B 馬子やかごかき・人力車夫などのたまり場。 


町場とは建築現場であり大工が通う場所だった、ではなぜ日立木の薬師堂のある所が町場橋になっているのか?あの薬師堂を建てたときその地名がついたのだろうか?
宮大工とあるからそうかもしれない、でもなぜ日立木なのだろうかとなる
街道に由来した方かもしれない、なぜなら街道であり中村城と近いからである
この地名は江戸時代につけられたものだろう、つまり街道ができたときつけられた

ともかく相馬藩というとき江戸時代なら城を中心にして城下町がありその城の中心には侍が住んでいたのである、その人たちは戦国時代が終わると官僚になった
でも刀をさして城下町を歩いていた、ここでは確かに野馬追いがあるから侍の時代が再現される、でも野馬追いに出るのは農家であり今は城のある市内からは出ないのである
郷士として給人として農業していた侍が出ている
でも江戸時代は城下町に住んでいたのだから今の市内に住んでいる人が侍町となっている城の周辺に住んでいる人たちが野馬追に出ていたとなる

人間はなぜ時代がたつと変わると昔がこれほどわからなくなるのか?
それは時代とは部分ではない、全体なのである、時代をみるとき一つの遺物から見たり部分的にみる、そこに誤解が生じるのである
江戸時代というとき城下町があればそれは全体なのである
全体が時代を作っていたのであり部分ではないのである

だからなぜ何か残されたものでも芸術でも全体を時代を見れないから理解しにくくなる
城下町を形成するのはそうした時代の全体なのである
城だけでもない、その時代を作った全体である、周辺の農村もそうであり全体が時代を作っていた

それで侍が住んでいたという時、殿様が城に住んでいたというとき城が町の中心であり
それは生活そのものもそうだが精神的にもそうなのである
侍が君主に殿様に仕えて日々の暮らしがあった
すると町全体が君主に殿様に仕えていたともなるのである
今は誰に仕えているのか?役所だったら逆に住民に仕えているとなる
その相違が大きいからもう城下町のことをわからなくなる

それで侍屋敷があるとする、その庭に松がある、すると私の作った俳句のような感じになる、城には松がにあう、それが忠義の松なのである、侍の時代が全体を作っていたからそうなったのである
ただこういうことは旅しても良くわからないのである、二本松だって城があって城下町である、10万石であり大きな城があった、でも何かもう城下町とかになるとわからないのである
二本松とか白河城とか会津などは外から来てもなんとなくまだ城下町ということがわかる相馬市は城下町だということが外から来たらわからないと思う
城もないしどこが城下町なのだろうとなる
ただ細い路地が多いから碁盤の目のように区画されていてそれが昔のままになので城下町だと意識する、ただ歴史は時代は全体なのである
その全体を意識することは残すことはむずかしい、京都とかでもそうである
町屋があってもその前に高層ビルが建ったりするぱもうその全体の景観は破壊されるからである

要するに時代の景観は常に破壊されつづけている、だから時代の全体がわからなくなる
それが江戸であった、東京になって全く景観が変わった
東京から江戸時代を偲ぶことは至難である、そうなると歴史を偲ぶことができない
ヨ−ロッパになると石作りの建築が残っているからローマ時代でも偲べる
日本は歴史を偲びにくいのが全体がまるで変ってしまったからなのである
その時失われたのは景観だけではない、侍を中心にしてあった精神的なものを失われていたのである
だから侍とは何なのということがわからなくなる、その時日本は日本ではない、過去が歴史が失われているから何か外国の一都市のようになっている
それが外国でも同じだがまだヨ−ロッパ辺りだと昔の遺跡が石だから残っているのである日本は木の文化だから残らないのである

とにかく城下町の景観は時代が作ったものでありそれは全体である、だから全体が失われて個々の部分を博物館などで見ても歴史はわからなくなる
相馬市は城下町でありさほど景観が変わらないから偲べるともなる
でも外から来た人にはわかりにくいのである
だから現代では過去を歴史を偲ぶことがいかにむずかしいかわかる、日本では特にそうである、侍の時代が鎌倉時代から600年くらいつづいていても失われたことでもわかる
侍とは何なのか?戦国時代のみをイメージしている、でも江戸時代300年は戦争はなかったから刀をさしていても人を殺すということはなかったのである
でも侍中心であり城下町は殿様への君主への忠義として城下町があったとなる
それは侍だけではない、町民もそうした全体の中に組み入れられていた
それは侍を模範としていたのである、侍に倫理的にも習っていたのである
ただ力で支配するだけの存在ではなかったのである
それが町全体として回りでも時代を作っていたのである

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八重桜(相馬市から日立木の街道帰るー田町は新しくしたが昔の情緒が失われた)

相馬藩六万石-冬椿の城下町(随筆2-日立木の町場橋の情緒)


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2019年11月22日

相馬藩への越中加賀などからの真宗移民はなぜ起きたか? (その土地で暮らしが成り立たなくなっていた)


相馬藩への越中加賀などからの真宗移民はなぜ起きたか?

(その土地で暮らしが成り立たなくなっていた)


 じいちゃんのトチの実拾いの話   富山市加賀沢 

 「加賀沢、蟹寺、小豆沢、米のなる木はまだ知らぬ」という歌を聞いたことがあるだろう。神通川のずっとおくの、山で囲まれて、田も畑もあまりないこの辺りの村では、昔は、米やこくもつが、ほんの少ししかとれなかったのだよ。よそとの行き来もふべんであるし、今から考えると、笑い話に聞こえそうな話だが、食べ物に、いろいろと心配と用心をしたものだ。
 その一つが、村の家の数を決めて、それ以上、家をふやすことができないことにしたのだよ。また、家々の中で、いらない者は、皆、旅へ出してしまったのだ。もちろん、よそから来た者には、家を建てさせなかったのだよ

 じいちゃんのトチの実拾いの話   富山市加賀沢 

 栃餅は会津の山奥でも作られて今でも販売しているしうまい
 食料として山のものを利用していたのは当然であるがそれが手間なのである

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 近世陸奥中村藩における浄土真宗信徒移民の導入
 (木幡彦兵衛の覚書にみのその実態ー岩本由輝

江戸時代中期以後、農村の荒廃による農民の流亡(欠落)が続発すると、幕藩体制の根幹を支える貢租収入減少への危惧から商人や武士と違った欠落農民に対する復帰政策が取られるようになった

相馬藩の歴史で越中からの移民は大きな歴史である、何故なら相馬藩が天明の飢饉からはじまり三分の一に人口が減った、そこに今だと耕作放棄地が多くなった、その穴埋めに移民が必要になった、でも移民というとき幕藩体制では移民は御法度だった
農民を藩内にしばりつけて税をとることが幕藩体制だからである
それでそれを画策した真宗の僧が死刑になったようだと文書から説明しているのもわかる他藩に農民が流出するのは御法度であったからそうなった

ではなぜそれだけの移民が生まれたのか?
それは第一その暮らしている場所で生活自体が成り立たなくなっていたからである
もう移民して他で生活する他ないとなっていたからである
それが昔話で伝えられる、米もとれないから栃の実を食べていた、

「それ以上、家をふやすことができないことにしたのだよ。また、家々の中で、いらない者は、皆、旅へ出してしまったのだ。もちろん、よそから来た者には、家を建てさせなかったのだよ。」

家が建てられない、食料もないとなればなんとか暮らしていける場所に移ろうとする
そして移民した人は次男や三男が多かった、長男は土地をもっているからなんとか生活ができたが次男三男は農業社会で土地をもたないと暮らしていけない
こういう制限があって他者に命がけでも移るほかなかった事情があった
それは今でもヨ−ロッパなどに命がけで移民があることでもわかる
そこで相当数死んでいるからだ、その背後にそこまでして移民する事情があった
相馬藩では天明の飢饉で三分の一の土地が耕作放棄地となった
そこで移民を募ったことがあり土地が手に入れはなんとか生きていけるとなって命がけで移住して来た、だからそれを画策した僧が加賀藩とかで死刑になったとらしいというのもわかる、それは御法度だったからである
ともかく農業社会は土地がないと成り立たない、多少悪い土地でもそこで食料を作る他ないのである
それで相馬藩では加賀泣きというとき苦しくて泣いていたということが伝えられる

ただこうした移民は天保から文化文政とかまでつづいていた、幕末まで相馬藩内に移民が入ってきていたのである、天保というと天保生まれの人が明治にいた、それも青年でもいた、つまり天保は意外と明治と直結していたのである

1803(文化1年年)ー1817(文化14年)
1818年(文政1年)ー1829年(文政12年)
1843年天保14年
1868年明治1年

天明だけではない、その後も移民は幕末までつづいていたのである
天保から明治までは20年くらいである


「お天保,一枚にまけてあげます。」
はつぴ 餅か,それともカステラのやうなものか,それは忘れたが,元気の好い江戸式の法被股引の男
 かみ がかう言って触れ歩くと,大通の店から子供や上さん達が争って出てそれを買った。
 その天保銭一枚の餅は非常に売れた。私は丁度その頃,十一位の小僧姿で,よく立留っては,
指をくはへて,人々のそれを買うのをちっと見ていた。
 それにしても,なっかしい天保銭!
 はふ あの大きな小判形の天保銭! 其時分には,それ一っ投り出して簡単に買へたものが沢山あっ
あだ た。一銭に足りないので,馬鹿者,うっけ者の渾名に使はれたが実際は何うして! 中々便利
な通貨であった。豆腐,蕎麦のもりかけ,鮭の切身,湯銭,さういうものがすべてそれ一枚で間に合った。
「あの小僧,寒いのに可哀相だ。天保銭でも呉れてやれ。」
 かう言って,私は処々でそれを貰った。

天保6年(1835年)に創鋳された。貨幣価値は100文とされ、当百銭とも呼ばれたが、実際には80文で通用した。いずれにしても質量的に額面(寛永通宝100枚分)の価値は全くない貨幣で、経済に混乱を起こし偽造も相次いだという。明治維新後も流通したが、明治24年(1891年)12月31日を最後に正式に通用停止となった。

明治という時すぐに近代化したのではない、江戸時代をひきづっていたのである
寛永通宝の金まで使用していた、天保銭を使うと言うとことはまさにまだ江戸時代だったのである

天明飢饉からはじまり幕末はすでに人口が流動化していた、とても農民を一つの藩でしばりつけて税をとるという幕藩体制の租税の仕組みが崩壊しつつあったのかもしれない
民衆でも一つの時代の変化が起きていた、侍だけではない、底辺での変化が上にも影響していたのである

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戦前のマッチのラベルである、明治ではないとして天保銭をあしらったのは明治時代のつづきとして
まだ時代があったからだとなる、それだけ天保銭の記憶が残っていたからなのだろうとなる

何か私は墓地でもこの江戸時代の年号を必ず見ている
天保は一つの時代の目印である、この年号は結構相馬藩内でも多い気がした
何かあそこにあったなとみる、小高の鳩原にもあったなと記憶する
そこもかなり小高の奥地だから真宗移民が入ってきている
つまり幕末まで真宗移民が入ってきていたのである
天保生まれは明治に活躍した人もいるから遠い時代ではない身近だったのである




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2019年11月09日

元禄時代の新田開発された場所は水害を受けやすい (全国的元禄時代は新田開発で豊かになった―相馬藩でも同じ)


元禄時代の新田開発された場所は水害を受けやすい

(全国的元禄時代は新田開発で豊かになった―相馬藩でも同じ)

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元禄時代が石高のピークだった、その後は下降するだけだったのである

「松尾芭蕉」「近松門左衛門」「井原西鶴」といった文人、あるいは「俵屋宗達」「尾形光琳」「尾形乾山」といった美術家など、江戸時代の日本文化の水準を作った人々が活躍した「元禄」(1688-1707)という時代を考えてみましょう。

いま宅地になっていても、30年、50年前は河原の田んぼで、300年前には水のど真ん中だったエリアが、我が国には莫大な面積、存在しているまぎれもない事実を直視する必要があるでしょう

江戸時代はグラフで示されたように元禄から宝永の時、最盛期だった。相馬藩でもそうだった。新田の開発でうるおっていたのである。元禄は江戸でも一番華やかな時代であり今のバブルの消費時代だったという。それは都会ではそうなったが田舎てはそうではなかった。宝永時代も新田の開拓が進んで豊かになった時代である。だから鹿島町の御子神社の隣の墓地にあれだけ大きい宝永時代の碑があったのだろうか?あれだけ大きい碑はなかないからである。元禄時代はまた芭蕉が活躍した時代で文化が花開いた時代だったのであるそれで葛尾(かつろう)村の落合に元禄の碑があった。明暦とも書いてあり明暦は検地がはじまった年である。でもあんな山の中にあるのか不思議だった。あのうよな山の中も元禄時代は開拓が進み山の中でも繁栄するものがあったのかもしれない。
古い碑を研究すれば見えてくるものがある。新地にある文禄の碑はやはり朝鮮への伊達政宗の出兵が関係していた。文禄とだけ記してあるのはないからである。


いつも碑をみて時代を見る、相馬藩内ではまず元禄とある碑はめずらしいのだ
それで不思議なのは相馬市の新田に元禄の碑があった
なぜそこにあるのか?そこは松川浦に近く津波の被害があった
そこにあった碑も水にかぶったのである
新田とあるごとく相馬藩で開拓した土地だった
それからなぜ葛尾村の落合とか平地ではない、山の中に谷間に元禄の碑があったのか?
おそらくそこも元禄時代に田んぼにした土地だった
明暦ともあり検地の記念碑だった
つまり元禄時代は地方でも新田開発が盛んに行われた時だったのである
だからそれは中央とか一部ではない、全国的に新田開発が行われた時期だったのである
だから元禄時代は江戸時代で特別な時代だった
相馬藩でも急激に石高が増加しているのである

その時いたるところまだ湿地帯とか沼とかが多い、それが地名として残っている
そういう場所に現代まで家が密集して建てられるようになったのである
それが日本の国土の特徴なのである
だから元禄時代が地方では関係ないように見えてもそうではなかった
新田がそれだけ増えたことで豊かになっていたのである

そしてそういう場所は水害にあいやすいのである
相馬市の北飯淵が堤防が決壊して被害が大きかったのもそうである
淵となっているからそういう場所であった、日本はいくらでもそうしたもともとは水がある場所が無数にある、そういう場所は水害になりやすいのである

相馬市の新田の寺田に元禄の碑

「相馬中村石屋根ばかり、瓦(変わら)ないのでドント人が好く・・」こんな戯れ歌が残っていること相馬藩の城があった中村は何か本当に田舎の城であり貧しい城下町だったのである。

飯豊耕土にや 箒はいらぬ
新田、おみかの裾で掃く

相馬の殿様が釣り来て見染めた新田のおみかを側女にしたという浮いた話なども元禄時代で相馬藩が豊かになったからかもしれない、石屋根ばかりの家から瓦の家も増えてきた時代かもしれない、元禄時代はまれにみる好景気の時代だったのである
それは全国的にそうだった、それは新田開発の結果だったのである
それは高度成長時代とにている、ただ高度成長時代はまだ文化が華開いていないがこれからその成果が出るということもある、その財が相当に蓄えられたからである
ただ硬度成長時代が終わり後は知っていのように日本経済は低迷して貧困化している
だから衰退国家になりそうした景気のいいことはないとなったのである

いづれにしろ津波でもそうだったが海だったところが本当に海になった
例えば南相馬市の塩アに船着という地名がある
そこまで海であって本当に船が来ていたからその地名が化石のように残っていた
また八沢浦は明治に開拓されてできた土地だった、そこも元の入江にもどったときほど
驚いたことはない、そういうことが日本全国で今回の台風でも起きていたのである
千曲川でもそうだった、新幹線の車両が濡れた地点はもともと湿地帯であり川岸はもともと河川敷のような所だったからである
そういう場所は日本に多い、だから水害が多いのである

インタ−ネットではこうして記事でも連結して読む
すると高いが深まるのである、だから今までは記事がでたとしても何も書けないがその批評が無数に生まれるとなる
知識が膨大に広がり深まるのである

posted by 天華 at 11:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2019年06月18日

相馬市新田寺田に元禄の碑 (松川浦に接した大塚神社の謎)


相馬市新田寺田に元禄の碑 (松川浦に接した大塚神社の謎)

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諏訪神社と地の内古墳

ここまでは津波が来なかった、でもそれなりに近くまで来た


●大塚神社{稲荷神社)の謎

空が光り輝き、轟音と共に萱原に光るものが落ち、当時、郷士であった志賀家など数家の主が、恐る恐る鎧、兜で身を固め何者かと恐れながらも槍を持って近づいてみると金の御幣束であったといいます。それを大塚権現のご神体として祠を建てて祀ったといわれています。
また、境内にあった公会堂は、籠り堂で、藩政時代は備蓄米を納めていた郷倉を移転したもので、破損が激しく建て替え公会堂にしたものですが、今は基礎だけとなりました。

地名の由来となった大塚古墳と大塚稲荷社のあったところなのだけれど 

古墳だらけの谷端川・小石川流域。


清和源氏の始祖・清和天皇が、この地を訪れた時に冠を忘れ、それを守っていた村民が天皇崩御後、冠を祀り社殿を造ったのが大塚小神社の始まりとされる。また建武2年(1335年)にこの地を大洪水が襲い、その際に仏像が出現。恵慶なる僧が勧請し、祀ったのが大塚神社の由来とされる 

高槻市大塚町

大塚の地名伝承は、大塚神社の説明板によると
 「平安時代後期(9世紀中頃)、清和天皇が皇子の陽成天皇に譲位した後、日本諸国をめぐったという、そして当地の「松ケ崎」に立ち寄り、小松原で休憩をとり淀川の風景を楽しんだ。
 そのとき天皇は松の木に冠をかけたまま帰国され、気づいた村人はその王冠を埋めて「王塚」と名付けた。
天皇の没後、社殿を設けて清和天皇の霊を祀った。
これが現在の大塚小神社「大塚殿」にあたる。」とあり


この神社は常磐自動車道・関本PAの南西約1.2km、神社から高速道路が良く見える、水田地帯の中の小高い丘に鎮座しています。今では鬱蒼とした樹木に覆われ、研究者にしかその存在は分からないかと思われますが、この丘は古より大塚と呼ばれた前方後円墳です 



新田村に寺田とあるのはそこに寺があったからである、寺の田があった、その寺の領域内にたくさんの碑と墓が捨てられたようにあるそこはもともと寺の中にあった、だから寺田なのである
他にも寺が廃止されて墓だけ残されているのがやはり相馬市の山上の奥の金谷村もそうである、墓だけが残されているのだ
つまり寺は墓を守る場所だがその寺がなくなってしまったのである
おそらくこれからも寺がなくなり墓だけが残されることが多くなる、ただ寺がなくなったのは最近のことではない
いつかわからないが寺が江戸時代からあり寺田となっていたことは確かである
まず地名となると江戸時代までにしかさかのぼれないだろう、明治から地名化しているのは北海道くらいだろう。
北海道は新しいからである

地名からみると新田と程田と飯豊(いいで)があるが飯豊は飯豊天皇とかいて古代にさかのぼる地名である
程田も古いのかもしれない、もともと程(ほど)という地名がありそこが田になったのかもしれない
程(ほど)はホトであり女性の陰部となっているがそこはそういう地形ではない
要するにほどほどという言葉があるようにほどほどの田とかの意味かもしれない
新田ははっきりしている、元禄時代に新しく開拓して田にされた地域である

松川浦に近く湿地帯であり広い地域である、でも中村に城が移されときか慶長地震津波のすぐあとでありそれから元禄になり開拓された、意外と早いしまず元禄の碑はこの辺にはほとんどない、幕末が多いのである
明暦と元禄の碑があったのは葛尾村の落合だったというのも不思議だった
他に元禄の碑を見ていないからだ、だからあれは貴重だと思う
そして柏崎には日吉神社があっても古いと思えない、柏崎に人が住んだのは元禄以降かもしれない
飯豊とか程田は古く新田でも元禄であり新田ができて人が増えて柏アの方に人が住むようになった

あの辺をみると日下石でも古墳が小さくてもある、平地に古くから人が住んでいた
そこは今回の津波が来た地点に近いかった、そこに神社もあった、そこまでは津波が来なかった
謎なのは大塚神社と稲荷神社である、大塚神社の由来は良くわからない、それがなぜ松川浦の近くにあったのか?
その辺は湿地帯になっていたはずである、だからそれほど古くないのか?
でも樹齢何百年かの太い杉が残っていた、でも江戸時代でも300年と400年になる 
他にも大塚神社は全国にありたいだい大塚町とあり古墳があったところにある
だから古墳に由来していることがわかる、大塚が王塚ということにもなっている
王が埋められているからそう名付けられたともなる   

この神社の謎は慶長津波の時にあったのか?
烏崎の津神社はあそこは移されたのである、前は別な所にあった、その場所は烏崎村の家が立て込んでいた所なのか?
どこにあったのかわからないが後であそこに移された、でもいつの時代に移されたのかはわからない
神社は歴史を語る証拠としてある、その場所と時代がわかればいいのだが時代が神社が意外とわからないのである  

建武2年(1335年)にこの地を大洪水が襲い、その際に仏像が出現。恵慶なる僧が勧請し、祀ったのが大塚神社の由来とされる 

慶長津波地震の後にこういうことがあったのか?大洪水があったというとき仏像が流れてきて霊験があり神社がここでは建てた?
ただ松川浦に近すぎるのである、慶長津波の前荷ぁたとした確実に津波の被害を受けた
それも完全に破壊される強い津波である、そういう記録もなかいからわからないとなる
あそこに古墳はありえない、湿地帯になっていたからである

郷土史では時代を特定することが大事である
それで村の新旧を知ることが大事になり必ず碑を見て年号を見ている、でもなかなかわかりにくいのがある
だからあそこの元禄の碑がはっきりとわかったから印象に残ったのである
時代と場所が神社では歴史でも大事になる、だから直接その場に立ちその土地の人とわずかでも話すと歴史の実感が増
すのである、そこには寺がありましたと聞くだけでヒントになるからである
そして地図を調べてインタ−ネットで調べる、すると郷土史でも何かてがかりがあり知の連携ができてくるのである

これが図書館ではできない、調べるのに時間がかかりすぎるのである
それで今は家事も全部しているので忙しいから図書館には行っていないのである
手元に郷土史の本を用意しておく必要もある、ただ高いから全部は用意できないのである



posted by 天華 at 19:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2019年06月15日

相馬市日下石や柏アや磯部の歴史 (津波の被害があり海となった地域)


相馬市日下石や柏アや磯部の歴史

(津波の被害があり海となった地域)

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ここは津波で海となった

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かつて常緑樹の原生地で、柏が群生していたことから「柏崎」と呼ばれた

【カシワとは】

ブナ科の落葉高木で日本全国に分布する。食べ物を包むのに使われるほど大きな葉が南国風の印象を持つが、比較的寒冷な地に多く、かつては北海道の十勝平野に大木が群生していた。

柏崎の地名由来は柏の木が生えていた地となる、これは南国性とかではなく冬にも強い木である、この木の特徴は柏餅というように葉っぱに特徴があり名付けられた
堅い葉はきうことで葉っぱが利用されていたのである
新潟県の柏アは大きい市であり有名である
するとこの名がついたのはそこは中心地域だったからなのか?
要するに木の名前がつく地名も多い、それはたいがい田んぼでも原始の状態に植生に由来している名付けられている

堅い木というとき槐(えんじゅ)がある、これは北海道で見た

木材で灰皿!?と、思うかもしれませんが、槐という木はとっても成長が遅くて年輪が細かくとっても硬い木なので、直接火をつけても燃えにくい木なのです。

柏崎の前は湿地帯だった、それで津波の時、柏アの高台に住んでいた人たちは被害がなかった
その下は海となったことには本当に驚嘆した
それでその一帯は日下石(ニッケシ)村でありそのニッケシという地名が二ということで西なのかと推察した
海から見たとき本当に一帯が海となったからだ、そして太陽がその岸辺に輝き落ちていったのである、海から見れば確かに西なのである
でも普通は太陽が上がる所は東になるのである

それも不思議なのだがこの辺は綿津見神社が異常に多いのである
それは山側にもあるし飯館村にもある、そして山津見(山祇)神社が対となってある
松川浦にも山津見という地名と和田が残っているがこれは綿津見神社のことであり和田都美となる、これは安曇系統の海人族が移住してきたためなのである
だからそうした海人族がきて日下石(ニッケシ)と名付けたのかとなる
アイヌ語説だと二は木であり木が茂っている場所になる  

和田都美神社とはもちろん古事記に出てくる天孫ニニギノミコトの息子、山幸彦が兄の海幸彦の釣り針を探しに出掛けた「綿津見神の宮」を祀った神社ということになる。大綿津見神はイザナギノミコトとイザナミノミコトが国産みの後で神々を産み始めた最初の頃に生まれた神様であり、後になって山幸彦に霊力のある2つの玉を与えて助け、そのことによって山幸彦の孫であるカムヤマトイワレビコが初代天皇である神武天皇になるという大切な働きをしたことになる。つまり、綿津見神は山幸彦に力を与え、天皇家誕生に力を与えた海の神様ということになる。この綿津見神の働きの場面で古事記上巻である「神代の巻」は終了となり、このあと古事記は歴代天皇について書かれた中巻へと移っていくことになる。

つまり日本の古事記、神話と関係して古い神なのである

ともかく柏アは高台でありそこは古くから人が住んでいたとなる

「芦」「葦」「菅」「蒲」「荻」「蓮」「鴨」「鶴」「亀」など水辺に見られる動植物が付く地名も、要注意なのだ。台東区の「吉原」は、かつて「葦原」だったとされており、ヨシ(アシ)が生い茂る低湿地であることを示す。

これらにはすべて田をつけることができる、他に蟹田とか蛇田とかもある
湿地帯だったのでありそこが田になったからである 

柏ア村の地名をみると西原西台とかあり北向とかありまた表とある
中台が村の中心地になる、表とあるのは海側に面しているからである、浜通りでは表は海であり裏は山側になるのが特徴である
海から太陽が昇るから表になるのである

そして津波でわかったことは地ノ内に古墳があったことである、ここまでは津波が来なかった、でもその前まで津波が来たということは古墳があったときその前は海だったとなる、海だったということはそこで魚と貝とかでもとれていて食料にしていたとなる
奈良時代でも鹿島区の烏崎に船着という地名がありあれほど奥まで津浪が来たからこの辺もぎりぎりで古墳の前まで海だったとなる
ただあの古墳はめずらいしと思った、たいがい高台とかにあるのが古墳だからである
ただ明らかに生活がそこであったという証拠だから貴重である

そしてこの辺の一番の謎は磯部である、磯部村がいつできてなぜあそこに人が集中して住んだのかとなる
磯部村でも慶長津波の前から人が集中して住んでいたのである、なぜなら佐藤氏の館がありそれが高潮があり鬼越館に移ったからである、鬼とは北向きのことである
だから慶長津波の前に館を移したのか謎だとなる、その後に慶長三陸津波が襲ったからである
柏崎村にしても北側は新田村でありここに元禄の碑があったから古いのである
そこまで津波が来ていた、元禄頃にに開拓された村だったのである 
磯部村には二千人住んでいて250人が死んで被害が大きかった
二千人も住んでいたのは意外だったというか家が多いことはわかっていた
ただなんであそこに家が集中したのか?それは漁業とか水運とか関係してそうなった
船溜に松川浦がありそれで船を操作する人たちが住んでいたからだとなる

いづれにしろあの辺は良く通る場所なのだが浜街道を通り相馬市に行く、すると何かその辺全体を見なかったのである
道路中心に行くとメインの道路ばかりゆくから全体がわからなくなる
すぐ近くなのにわからないのはそのためであった、つまり灯台下暗しだったとなるのだ
つまり脇道を行きその辺の全体を見る必要があるのだ、それが失敗だった   



柏ア村(野馬追に出る旗印の武士と郷士の姓)


 江井

 荒

 桑折

 桃井

 佐藤 
 
 南相馬市の原町区に下江井という地名がある、するとここから移ってきたのか? 
荒という姓は相馬藩に多い、これはツノガノアラシトからきていて韓国系統を受け継いでいるとなる
桑折は鹿島区の真野の日吉神社に南北朝の戦いのとき霊山から落ち延びてきた氏族であるそれで日吉神社があるのかもしれない、山王神社も日吉神社なのである
佐藤氏は磯部を支配して館があった、これはもともと在地の勢力である  

日吉神社の碑には寛政の碑があった、江戸時代末期の碑が一番多い、元禄となると本当にこの辺ではめずらしいのである
だから柏崎の北側の下の新田にある元禄の碑はめずらしいとなる、なぜなら新しく開拓したにしてはすでに古いとなっているからである
磯部でも古磯部となるとこちらの方が古いのかとなる、新町があり古町があり古町が古いからである
最初に磯部に住んだ地域は高台ともなる、海に接して住むことがどれだけ危険なものか津波でわかったからである
郷土史でも歴史は新旧をまず知るべきなのである、だから碑に記されている年号が大事になる
ただ日吉神社の碑は幕末であり古くはなかった

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古き木の切られて残る根っこかな日吉神社や梅雨に入るかも

posted by 天華 at 18:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2019年04月30日

江戸時代の飢饉の歴史 (歴史の闇に消えた膨大な人たちを知るべき)


江戸時代の飢饉の歴史

(歴史の闇に消えた膨大な人たちを知るべき)



1755年〜1757年(宝暦5年〜7年) 宝暦の大飢饉

東北地方は7万4千俵の減収であったが、蓄えがなかったために大飢饉となる。
餓死者6万余人、死馬2万頭にのぼる。
岩手、志和郡が1万7864 人(人口の30.5 %)、三戸郡が1万2681 人(人口の55
%)、鹿角郡が3241 人(人口の20.8 %)、二戸郡が5446 人(人口の19 %)



秋田県由利本荘市(宝暦の飢饉)

矢島御領分にては御毛引26,000俵なり。新荘村にては251俵、坂ノ下村にては540俵なり。乞食村里に満ち、餓死人路の辺にたおるもの実に多し。御上にては舞杉に大いなる穴を堀り、餓死人を埋む。或は兄弟妻子別れ去り、家をあけて他所へ出る者多し。百宅、直根に別して多し。家を離れて他所へ出る者は多く餓死せりという。この冬大雪にてとろろ、わらびの根など堀ることならず、餓死人いよいよ多し。御上にては、毎日かゆをにて飢人を救う。山寺に非人小屋をかける。ありがたきことなり。家財諸道具売りに出ることおびただし、盗人大いに起こる。」とある。又別の記録には「直根、笹子、中奥の沢方面の餓死実に多く、餓死人御領分にて三千余人。」と記されてある。その惨状は推して知ることができよう。


天明のの飢饉 

秋田方面への流民が発生し出した。「藤田権左衛門家記」(資料近世2No.五五)によると、碇ヶ関関所から三万人を越える飢民が通過し、逃散を差し止める藩の指示も無力で、関所も解放され領外への移動は勝手次第という状態だった。また、大間越の関所からも数千人が逃亡していった。老人や少年で歩行ができない者は打ち捨て、妻子・兄弟も散り散りになるという混乱がみられた。しかし、北奥一帯が飢饉状態にある以上、たとえ他領に逃散しても状況はあまり変わらなかった。同書は「関所の外に出た段階で皆餓死してしまったという」と結んでいる。

この間、他領へ逃散していた飢民も多く連れ戻され、非人小屋に収容された。江戸詰の藩士添嶋源八郎は国元へ帰る道すがら、他領へ逃散していた者四六〇人を連れ戻したので、非人たちはことのほか源八郎を恨んだという。このころになると収容者も再び増加し、千五、六百人になった。藩は再び管理が困難になり、十月九日にも希望者に手当を与え、九四二人を帰村させたという。

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍 


天明の飢饉は有名だけど宝暦に東北地方にヤマセの影響であった
宝暦というとき日立木の薬師堂に宝暦の碑がありそこに南無阿弥陀仏の碑がある
それは飢饉で死んだ人の供養だった、宝暦というとき相馬市の塩嘗地蔵の所にも宝暦の碑がある、相馬市の城下町であれは相当に古いものとなる、街中には古いものがかえってないからである、松川浦に近い所に新田には元禄の碑があった

江戸時代の最大の災厄は餓死だった、その数は膨大なものになる、それがまさに江戸時代の暗黒面だったのである、歴史という時、そうして無念に死んだ人が膨大なのである
最近でも3百万人が戦争で死んだという時そうだった
そういう暗黒面の歴史があるしそれを知らねばならないのである

なぜか?人間はとにかく過去を忘れやすい、現代のように贅沢な暮らしをしているともう餓死ということ自体イメージすらできないだろう
もちろん現代は日本でも貧困化が深刻な問題であり数人は餓死している
でも江戸時代の飢饉は何十万の単位で餓死しているのである
だから例えば日立木の薬師堂で宝暦の碑を見つけたとして念仏で供養されているとして
その背後にこうした事実があることが忘れている
歴史の闇に消えてしまった人が膨大なのである
だから相馬藩で700人溺死というのはこうした餓死者とかと比べると死者の数が少ないから余計に忘れられていたのである、政治でもそれに対して何もしていないのである

とにかく宝暦でも天明でも天保にも飢饉があった、飢饉は常にありそれで年号となると飢饉をイメージするのである、天明はまさに飢饉の年でありそれはあまりにも悲惨だったから語り継がれているのである、でも宝暦とかなると何か明確ではない、でも被害は大きかった
歴史とは何なのか?それは膨大な人が歴史の闇に消えた消されたとういことである、それが津波の被害にあって相馬藩内で700に溺死という記録があり見直されたのである、ただそれも二行だけであり津波が来て初めてその二行を発見したのである

そういうふうに歴史には膨大な人が闇に消されているのである、だからそういうふうに歴史の闇に消えた人たちをその事実を掘り起こして検討することが大事になる
それが供養だとなる、それは先の戦争で死んだ人たちだけのことではない
飢饉で死んだ人達でもそうである、逃散というのもありそれは江戸時代なら藩から出れないがどうにもならず出て行った、でも他藩でもそういう人たちを受け入れることはできないから戻されたのである、そういう中で死んだ人たちがいた
それは決死の移民でヨ−ロッパとかで死んでいるのと似ている
それに比べると原発避難民も大量に逃散したがその先では新しい家を建てたりして地元の人からうらやましがられて反感をかったのである
それだけの時代の差があったということである 

ともかく一つの古い碑でもそこに膨大な人が餓死してそれを供養している
そういうことをイメージしないとただここに一つ古い碑があるだけだとなってしまう
そこに無数の歴史の闇に埋もれた無念の霊が眠っているということ知らねばならない
歴史には個々人でもそうだが無念の死が無数にある、それは今でも家族とか身近な世界でもそうである、戦前だと若くして啄木のように肺病で死んだ人も無数にいる
そうした暗黒が歴史でもある、一つの古い碑があったとしてその背景にはその当時の時代背景がありそれをイメージできるかなのである

posted by 天華 at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2019年02月06日

南相馬市原町区の大谷(おおがい)村の由来は (栃窪に大谷の姓の人は移動したのか?)


南相馬市原町区の大谷(おおがい)村の由来は

(栃窪に大谷の姓の人は移動したのか?)

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福島県南相馬市の地名だけで「谷」が付く地名が21か所あります。
その内、「はんがい(半谷)」を含めた「がい」と、関東・東北で大方読まれている「や」が拮抗しています。
この場合の「かい/がい」読みは、「狭間/皆/甲斐/貝(かい)」や「峡/交/開/改/垣(がい)」と相関する意味があるようです。

1.「がい」が付く…11か所

まめがい(大豆谷)、うるがい(潤谷)、みみがい(耳谷)、みずがい(水谷)、はんがい(半谷)、ふじがい(藤谷)、おおがい(大谷)、みずがいさく(水谷迫)、かろうがい(家老谷)、つるがい(鶴谷)、つつみがい(堤谷)
2.「や」が付く…10か所
おや(小谷)、いちのや(市ノ谷)、こやつ(小谷津)、やちか(谷地加)、つしまやち(対馬谷地)、こつしまやち(小対馬谷地)、とよごやち(豊後谷地)、みやち(見谷地)、かなやさく(金谷迫)、ひるやち(昼谷地)

熊谷の場合は、もともと「くま(熊)+がい/がえ(谷)」であったものが、時代が下って関東・東北で主流の「や」読みが混じりだし、少なくとも明治6年の熊谷県において、
その後の鉄道駅など地名が異分析呼称として、「くま(熊)+が(格助詞の連体格用法)+や(谷)」となっていったと思われます。


これもなんかわかりにくいけど地形とかその土地が最初人が入らな自然状態をさしているのだろう、たいがいそういうのが多いからである
薔薇坂という地名は八木沢峠の入り口であり名も薔薇なのか?
それは茨(いばら)のたとだった、茨城(いばらき)もそうである
最初の原子の自然状態を地名にしている、薔薇をあてたことによりわかりにくくなったのである、だから漢字を当てているからそれから類推すると地名は間違いやすいから注意すべきなのである

ではなぜ南相馬市地域にガイとつく地名が多いのだろうか?半谷(はんがい)となると姓であり小高では有名な人である、地名が姓となった
ガイは萱(かや)にも通じているし谷地(やち)にも通じている、湿地帯とか萱が茂っているとかである、そういう状態の所が日本がに多いからそうなった

ここの地名の謎は石神村内に大谷村があり独立していない、だから野馬追にも出る武家の出がいない、つまりここは比較的新しい土地である
新しく開墾された土地だとなる、そして新田川の両岸でありそこから山間の狭隘な地域に入るいい場所ではない、だからここで会った人の家は前が森で高くなっていて日影の場所で日当たりが悪いからいい場所ではなかったからだ
そういう場所はあとから入ってきた人が住むことになる
その土地で良い場所は古くから人が住んだ場所だとなく、前田という地名はその土地の草分けてが住んだ村の中心になっていることが多いからだ

ただこの大谷村の謎は野馬追に出る武家もいない、戸数も20戸くらいと少ない
それでてぜ栃窪村に大谷(おおがい)姓の人がいるのなぜだろうか?
それは一族を形成した

姓の由来は地名にありその地名を元にして分派した
だから栃窪村があるとして他の村に出ると私は栃窪村の出身だから栃窪と名乗る
でも栃窪村にいたときはわざわざ栃窪という姓を名乗らないのである
だからその土地の村の地名を姓にしている人はいないのである
外に出たとき私は…村の出身ということで村の名前を姓としている
それは深野とか岡和田でもいろいろある

ただ遠くから移住した場合はその土地のこと村のことはわからなくなる
ここでは相馬氏などがそうである、千葉県とか鎌倉とかから移住した武家がいるからだ
でも千葉氏となると千葉県であり千葉一族の出だとなる
なぜこの大谷にこだわるかというと自分の家で関係していたことがあったからである
その人も死んだし関係した人も死んだ、でも大谷家は栃窪で一族を形成していた

そもそも人の移動は常にある、狭い地域内でもある、特に開墾されていない原野が多い時はそうである、土地を求めて人は移動する
それで越中など移民が飢饉で三分の一も人口が減った所に命がけで移民したのは土地が得られるからだった、その土地も相馬藩内ではいい土地ではなかった
すでにいい土地は古くから住んでいる人が所有していたからである
だから狭隘の土地とかが与えられたのである

この大谷(おおがい)村について推測して書いたが間違っているかもしれない
記録したものとか調べていないからである
図書館にはもう5年とか行っていない、家事とかに追われてゆっくり調べられないからだだから肝心なことで誤っているかもしれないが一応関心があったので書いた
インタ−ネットで調べられるから郷土史研究でもできるともなる
図書館は調べるのがめんどうなのである、その場所に行かねばならないしいちいちコピーするのもめんどうなのである
だからこういうものは暇でないとできないと思った
その暇がなくなったのである

こういうとき墓地を調べるといい、狭い狭隘の所に墓地があったからだ、そこで何かわかる、ただ今回は国見山に登らねばならなかったので調べられなかった
posted by 天華 at 17:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2018年11月07日

南相馬市の鹿島区の隠町(かくれまち)の地名 (隠田が地名としてなぜ多いのか?)


南相馬市の鹿島区の隠町(かくれまち)の地名

(隠田が地名としてなぜ多いのか?)


隠町その名の残り隠されてため池ありぬ秋のくれかな

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小山田の隠町

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溜池が田んぼの上にあった、SAの向かい側である、隠されるようにあった

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隠田百姓村ともいう。中世末から近世初頭にかけて戦乱の落ち武者や貧農によって山野の奥深くに開かれた集落。貧しい農民が年貢を免れるため,開拓する場合もあった。九州山地の五家荘,米良荘 (めらのしょう) や椎葉 (しいば) ,四国山地の祖谷 (いや) ,中央高地の白川郷や五箇山 (ごかやま) 郷などの山林はその好例。長く他地域の村と隔絶した生活を続けたので,昔からの風習や伝承,あるいは年中行事などを残しているところが多い。平家の落人伝説があるのは,多くはこうした集落である。


領主の側からすると、隠田の摘発というのはなかなか難しいという側面があります。そもそも土地をくまなく調査して正確な面積を割り出したり、隠田を見つけて課税するというのは、人手や時間、そして手間の問題もあって難しかったと考えられます。現在でも税務申告はルールにのっとった自己申告によるものになっており、それを一からすべて税務職員が調べるわけにはいかないのと同じです。

おんな城主 直虎

ここでNHKの大河ドラマを解説している、これも歴史の勉強になる、やはりドラマだと面白いものとして娯楽として見る面が大きい、それで学問的裏付けが必要になる
ここのサイトではそれをしている
最近私は宮廷歴史ドラマ「オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜」オスマントルコの後宮をテーマにした連続テレビを見ている
トルコにも行ったしイスタンブールにもいた、だから興味をもった、そしてこのドラマを見て歴史を知った、これは事実だったのである
歴史ドラマはやはり事実を知り学問的にその裏付けがないとドラマが本当の歴史だと錯覚してしまうのである、それが司馬遼太郎の過剰に持ち上げられた明治維新の小説だったのである


隠里の霊(二本松)−民話


隠田(おんでん)とか隠里とかは地名としても多い、そもそもなぜこんなに多いのか?
隠田は検地から逃れるための税金逃れのためだという、それより役所でもそういうふうにすべての田を調べることができなかった、それで放置されていた

隠里とかなると神秘的である、それは外との交流がない村が多いからそうなったのであるこの辺の民話で隣村から来た麦つきにきた若者が蛇だったというのもそうである
隣村さえ交流がまれだからそうなる、見知らぬ外の人となり神秘的になったのである
つまり交通が発達していなければそういう村は無数にあった、秘境がいくらでもあった
時代をさかのぼればのぼるほどそうなる、交流がもていないからそうなったのである
江戸時代だってみんな自給自足であり外との交流なくして基本的には生活していたのである

それで明治になって合併したが飯館の大倉村と佐須村では民情が違うから合併しなかったとなる、隣村同士でもそうなっていたのである
つまり隣村でも交流が少ない閉ざされた世界で生活していたのである
だから役所でも全部の田を検地できなかった、日本の地形が複雑なこともある
山に入ると本当にこんなところに田があり畑があるのかとなる所が多いのである
本当にそれは隠田にふさわしい、山の中に隠れたように田があるのが多いのだ

そういう話を相馬市の新田でも聞いた、あそこの杉のあるところが隠田だったとか言っていた
でもあそこは平坦な地でありそんなところが隠田になるのかと見た
ただこの隠田が日本全国に多いから地名も多いのである

鹿島区の隠町は隠田とはなっていない、だから必ずしも田ではない、町とは一区画のことだからである
小山田は寺内や小池より新しい地である、新しく開墾された、なぜなら寺内、小池には古墳が多いからである
村の新旧をまず見るのが大事である、海老村はエヒであり蝦夷に由来する古い村である
そこで弥生時代の住居跡が発見されたことでもわかる
右田村は江戸時代にあったとしても新しいのである、その新旧を見ることが大事である

鹿島区の隠町は偶然に常磐高速道のSAの向こう側が紅葉していたのでそこに行ってみようかと行ったら溜池があった
そこに隠町とあった、確かに隠されているようにあったともなる
ただそういう土地は日本には多い、山が多いからそうなる
相馬地域の特徴としてはそうして不便な所には越中からなどの移民が開墾して住んだ、なにしろ飢饉の時三分の一に人口が減った、その穴埋めをしたのが越中からなどの移民だった、その数が多いのである、三分の一も穴埋めしたとしたら本当に多い
だから相馬地域の墓地を見ると必ず南無阿弥陀仏の墓がある、それで見分けがつくのである

そういう移民はまず草分けの古い農家に草鞋をぬぐ、そして辺鄙な悪い土地を与えられて開墾したのである
だから確かに小山田でも塩アでもそういう隠くされるようないい土地ではない、小山田だったら平地の方がいい土地である
だからそういう人の住にくい場所を与えられて開墾して住んだとなる



タグ:隠里 隠田 隠町
posted by 天華 at 09:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2018年09月25日

本当はブラックな江戸時代 (戦後十年までは江戸時代の継続だった)


本当はブラックな江戸時代

(戦後十年までは江戸時代の継続だった)

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●美化される過去と歴史

江戸時代に興味がある、でも江戸時代を知ることは今になるとむずかしい、具体的にわかりにくい、でも人間の歴史は連続性がある、江戸時代から明治になっても全部が変わったわけではない
人間の生活は継続だから変わらないものがある
農民が明治になって楽になったわけではなかった、かえって地租とか貨幣で一定化されて苦しんだとか入会権が奪われて苦しんだとかそこで騒動があり反乱があった
そして歴史を見るとき過去は常に美化されるのである
その時代のことは過去のことでありそこで苦しんで生きていた多数の人たちのことを思わないのである
京都の金閣寺にしてもその時農民は飢えに苦しんでいたが今は金閣寺だけを見て感嘆しているのである
だから歴史は過去は常に美化される、別に人間には悪い面といい面が必ずある

この本でブラックなことばかりを書いているが確実にいい面もあった
何故なら人間社会にはそうして悪い人も必ずいつの時代でもいたからである、ではみんなが悪い人かとなるとそうではない
ただ江戸時代はいい人ばかりでヨ−ロッパの人が来たときいい顔していた幸福そうな顔をしていたというときそれも一面的な見方でありブラックな面はあった
それが人間社会である限りどうにもならない、これだけ豊かな社会でも常にブラックな面があり現実その時代に生きている人はそのブラックな面の方が優先される、テレビでも毎日事件のことが報道されるからである
だから江戸時代でもそうだったのだがもうそのことは遠い過去のことだからいい面だけを見るとなるから過去は人間でも死んだ時点であいまいなものとなりそれぞれの人のイメージの世界になる
肉親の家族の死とかなると現実を知っているからそうはならないが他人だとわからないしまた過去の遠い歴史でもわからないから
非現実的なイメージ、空想の世界になることが多いのである
つまり過去はその人がイメージする世界になりやすいのである

それでドラマが現実ではなくてもそれが現実だと思っている人が多くなるのだ、ただそこにも現実が反映しているが非現実的なことも多いのである
毎日時代劇を見ているから一体それのどこが真実なのか知りたくてこの本を買った、とにかく何か関心があるとき古本でも本が買えるので本は前より読んでいる
何かプログに書くにしても参考になるものが必要だからである
この本を私が良く理解できたのはそういう経験とかじかに親から聞いているとかがあって理解した

●自分の父親は酒屋で丁稚奉公だった
(休日は年に2日しかなかった!)

丁稚奉公が過酷だったという時休みもない絶対服従だったというときもそうである、それが今のブラック会社よりひどいというときもそうだった
それは私の父親が酒屋で丁稚奉公していたからである
葛尾村(かつろう)から双葉の新山に出て丁稚奉公して暖簾分けして今の土地に住んだからである
ただ直接話を聞いていないからどういう暮らしをしたのかはわからない、でも不思議なのはどこで字を覚えたのか知らないが良く炭で筆で字を書いていたのである
最後に将棋盤に私の名前を書いた、字を書けるから酒屋で通帳をもって集金していたのである、その通帳が今も残っているからだ
ともかく貧乏であり最後サシミを食えるようになった食いたくないといって死んだのである
酒の肴は味噌を焼いたものだった、何度も言っているが今の団塊の世代は戦後10年は貧乏を経験している
それは江戸時代の続きだったのである

なぜなら燃料は炭だったし街中では囲炉裏があり水道もなかった
電気は裸電球一つでありトイレは外のトイレであり農家ではその糞尿を汲み取りにきて肥料にしていた
風呂は鉄砲風呂とかでその風呂は父親が作ったものだった
燃料は新聞紙にバタをくべるものでそれは子供の時自分の仕事だったのである
それは江戸時代とほとんど変わりなかったのである
ところが風呂というとき江戸時代は下級武士の家でも風呂がなかった、だから銭湯に行ったがそんなにめんどうだから行っていないから不潔だったとかある
一応粗末なものでも戦後でも風呂があったということは恵まれたともなるのである
だから戦前でもそういう生活であり江戸時代の続きだったのである、蒸気機関車が走っていたことなどは違っていたけどほとんど
戦後10年は江戸時代の継続だったのである

●江戸時代でも識字率が高いの嘘

江戸時代の暗黒面になると時代劇では常に遊女がでてくる、遊女にされるのが日常的だからそうなっていた、何か家族が貧乏だから簡単に娘を売りに出してしのいでいるのである
それは時代劇で良く見るからそこは真実だったのである
若い女性がそうして使い捨てにされたというのもわかる

今若い人がブラック会社で使われて問題になり訴えているが江戸時代はもっと過酷だったのである。
丁稚奉公でも休みがとれない、店のいいなりになるほかなかったとかある
一旦悪い噂がたつと他の店でも雇ってくれないとか店の力が強かったからである、それを後押ししたのが役人だとなっていたからである

遊女でも親が困って遊女にするのは普通のことであり世間から批判されない、かえって親孝行者とされていたのである
当時の道徳は親孝行だからである、今のように福祉などないからである、訴えようがないのである
今は貧乏人は生活保護とかを権利と思っているから役所に訴える
それはめぐんでくださいというのではない、権利だと思っているから訴える、権利を実行しているだけだという考えでしている

でも江戸時代は貧乏でも訴えることはできない、だから物乞いになる、生活保護時代が戦後十年とかなかった
だから自分の家の隣では餓死した人がいたのである
家族がいたがその家族が非情だから死んだという事情はあるが生活保護とか何か今なら保護されて救済されていたからである
今でもおにぎり食いたいと餓死した人がいるから豊かな時代でもそういうことはありうる
すると今が過去になり歴史になるときそういう一つの例で貧乏だったのかとも判断される過ちがあるのだ

ただ江戸時代が全般的に貧乏であり家には風呂がないし水道も電気もない、毎日の食事はあまりにも質素だった、魚がついたらいい方であり味噌汁と豆腐と納豆くらいが毎日の食事だった
私の母も大正生まれで原町紡績で糸取りを十年していたがそこのおかずは味噌汁と大根だけだったのである
それで良くわからないのだが昼休みを休みたくて遊びたくて早くいして早死にしたという女性のことを言っていた
そんなことで死んだのかということで理解できなかった
それは丁稚奉公でも年に休みが二三日というときその時代も昼休みもゆっくりとれないからそうなっていたのだとなる
戦前でも労働は過酷だったのである

母の一生も過酷だった、父親の事業が失敗してから過酷になった
糸取り十年してあとは東京に行き女中で働いた
そして子供の時は継母に育てられたからひどいめにあった
弁当を作ってもらったが残したら
俺の作ったものは食えないのかと怒られその弁当を投げられて泣いたという
その継母は最後に施設で目が見えなくなり母に頼ってきて「悪かったな」と言って大学病院で解剖されて骨は私の家に来た
この継母は字が読めなくて良く人に頼んでいたのである
その時なぜか明治生まれでも字を書けない人が読めない人がいたのである

だから自分の父親は字を書けたから丁稚奉公して集金の仕事ができたのである
江戸時代でも小藩では文盲が多かったとか寺子屋でも裕福な家の子供が通っていたのである
おそらく自分の父親は酒屋の丁稚奉公して字を覚えたのかもしれない
教育担当の番頭が入店した丁稚の11歳12歳の丁稚に手習いさせたとか書いてある
ただ大店だとなるとそれもよくわからないがそうだろうとなる
他にも大正生まれだと学校にも通えず小説とかで字を覚えたとかいひ人もいた
明治以降でもなかなか字を全部書けたとか読めたとかでもなかったのである、江戸時代だったら余計に読み書きがみんなできたわけではないのである

●侍は模範的な存在ではなかった

侍というのも相当に美化されている、武士道とかで美化されている、でも侍の実態も違っていた
侍でも若殿様はこれが成人したら馬鹿になると見られていた

大名なる者はとるたらない存在だった、彼らには近代型の立憲君主制の権力もなく、教育の仕方が誤っていたために知能の水準ははるかに下回っていた
その理由は日本が諸外国から孤立したためだったためだった
(一外交官の見た明治維新)

将軍の子供は「大奥」で大名の子供は「奥」でそれで奥女中に囲まれ育てられ長じて側近から
「それはなりませぬ」
などど制止される生活だった、世の中のことは何も知らない
ただ家臣からすれば操るための存在に過ぎなかった
(江戸時代はブラックだった−長井義男)

「それはなりませぬ」というとき会津ではこのことを良くもちだす
首相候補になる政治家がこの言葉を持ち出して辞退した
会津の侍に伝わっていたのが
「ならぬものはならぬ」という言葉だったのである
それはなんでもしてはならないと制止された殿さまへの言葉だったのである
だから会津というのは明治以降悲劇の場としてドラマとして観光として売り出されたのである
その真実はまたわからないまま美化されたのである
事実ヤーヤー一揆が農民から起きたことでもわかる
会津の侍の悲劇など農民にとっては好機となっていただけなのである
なぜあれほど美化されているのか?
もちろん薩摩長州がいいわけではない、薩摩長州は権力をにぎったとき別に農民は生活が楽になったわけでもないからだ
でも会津も異常に美化されることは問題なのである

つまり明治維新が起きたのは必然だったともなる、もう江戸幕藩体制は制度疲労起こし内部的にも崩壊しつつあった
300年の太平の世を経て内部腐敗して崩壊しつつあった
そこに外国からの攻撃にあったからひとたまりもなく崩壊したとなる
その時立ち向かったのは殿さまとか既得権者ではない
貧しい下級武士だったということでもわかる
もともと殿様とかは飾りにすぎないし上層部も堕落していたのである、文武両道などもなかったというのわかる
ただその侍の中でも優秀な人は優秀だったのである
だから全部が全部そうではない、それで侍全部がだめだったとはならないのである

とにかく過去は歴史は美化されやすいのである
江戸時代はイメージの世界でしか今は知り得ようがないからだ
そこで苦労した人のことは見ずにすむからである
もしそこに住んでいたら苦労する人が現実にいるらかのんびり見ていられないのである
でも過去とか歴史は人間の遺産でありそれを様々な視点で見れる
そこに苦労した人ばかりを見るのではない、繁栄したものとしても見ることができる
もし苦労ばかりを見ていたらまさに歴史には暗黒しかないとなるからだ江戸時代の景観は自然が豊かだからすばらしいとかなるときもそうである、そこに暮らす人の苦労を見ないでいるからそうなるのである、別にそれがすべて悪いとはならない、どこの国に行っても悪い面があるがいい面だけを見て帰れというときもそうである
貧民街のような所ばかりみていたら嫌になるからである
だからこの本でも暗黒ばかりを指摘するのは問題なのである
江戸時代にはいい面をあったし全体的にはいいものがあった
ただ部分をとればやはりそこには暗黒があるのは今でも同じなのである

そしてなぜ過去とか歴史でも昔が良かったとなるのか?
それは今の時代は常に暗黒がありそれを感じぜずに生きていけないからである、毎日のように事件がありそれがテレビで報道される、すると過去になった時この時代は暗黒しかなかったとなるのである
つまり何か現代の生活で嫌になると昔は江戸時代はのんびりして良かったなとかなる、昔が良く見えるのである
それは江戸時代はただイメージの世界となっているからそれぞれに解釈できるからである
今は金だけの世界であり人情もないとかなるのもそうである
では江戸時代が人情豊かな世界だったとかなるそうでもないがそう見させるのである

posted by 天華 at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2018年08月29日

老人の性にあうもの  (時代劇を見ることでなごむのはなぜか?)


 老人の性にあうもの

 (時代劇を見ることでなごむのはなぜか?)

BSで毎日時代劇を見ている、前は見ていなかった、なぜだろうと考えてみると江戸時代にしかないもの時代雰囲気があってそれで惹かれていたのだ
もともと自分には現代の騒々しい世界は性にあっていなかった
若い時から東京で学生時代を過ごしてもその後は田舎暮らしだった
ただ田舎暮らしがすべていいのではないから田舎にいるのが嫌で旅ばかりしていたとなる
私は車には乗らないし運転できない、車が買えないとかではない運転する器用さがないのである、機敏さがないのである。車を運転していたら自分は必ず事故になって死んでいたかもしれない、バイクも早いし危険だから運転できない
自転車は性にあっているから乗っている

ただこうした機械を使うことの不思議はある、なぜ私がパソコンをするようになったのか通信をするようになったのか?
それは自分は相当な悪筆であり自分でも嫌になっていた
だから文字がきれいに出る印刷もできるワープロをはじめたことがきっかけだった
そしてそれに丁度通信機能がついていて通信をはじめたことがパソコンをはじめるきっかけだったのである。
これでわかるように不利なことかえって有利になもる
中国では紙幣に偽札が多いから信用できないとスマホ決済になっているのでもわかる
何か不利なことが有利に働くことがこの世ではある

なぜ時代劇を毎日見るようになったのか?
それは時代劇は悪があってもその悪がわかりやすいのである
そして良くみると時代劇では現代のような東京のような大都会ではない
ビルの谷間で暮らしていない、平屋であり長屋であり江戸に住んでいてもそこは狭い空間に見える、実際は違っているが歩いて行き来する空間になっている

今との大きな相違は建物とか機械とか車でもそうしたものが人間と人間の間に介在しない人間と人間が親密に向き合う空間なのである。
だから人間の情がじかに通じ合う社会である
そこに今のように車でも介在すると人間と人間は機械によって隔(へだ)てられ面と面で向き合うがなくなる
だから車というのは人間をキレルものしたのである。
一瞬にして過ぎ去り見えなくなってしまう

もし歩く時代ならその後姿を惜しんで別れを惜しんでいた、そこに人間の情が通っていたのである。

三河の二見の道ゆ別れなばわが背もわれも独(ひと)りかも行かむ

巻三(二七六)
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あなたもわたしも一つだからだろうか。三河の二見の道から別れるのがつらいよ

人は道で分かれていた、それで江戸時代は分去りという地名が残った
車だと人が分かれるという感覚はなくなる、一瞬にして見えなくなるからだ
そこに人間が見えない、車という機械だけが走り去ってゆく
そこに人間の情は通わないのである。
機械というのは人間の情を奪うものなのである。

人と人が面と向かって話すのと手紙を読むのと電子メールを読むのと文を書いたり読むのは相当に違っているのと同じである
人が面と面で向かって話する時は必ず情が通うのである、話し言葉には情が通う
それが方言だと余計に情が通うのである。
大阪では大阪人が住んでいる場所でありよそ者は東京よりはずっと少ない
すると常に大阪弁で話しかけてきておせっかいだというときそうなのかと思った
東京は地方からの寄せ集めであり方言もない、何かそっけないのである。
いちいち相手をかまっていられないのである、だから大阪の人に自分は好感をもっているのである

時代劇のストリーもわかりやすい、悪があったとしてもその悪もわかりやすい、動機もわかりやい、すると何かそこでなんでもわかるから心が安らぐとなるのも不思議である
人間と人間の関係も単純でありわかりやすいのである。
ただ悪を簡単にこらしめるのは水戸黄門のようにありえないからつまらないとはなる
江戸時代でもそんな簡単に悪をこらしめることはできないからである
ただ人間関係でもわかりやすい、納得がいく、いちいち考えることもない
見ての通りであり現代のように複雑極まりないものとはならない
現代のドラマは複雑怪奇になるのは社会が複雑怪奇だからである
そこでは様々なことを理解することが不可能になる
するといらいらしてくる、ドラマを見ても理解したり納得することができない
そこに必ずパソコンでも入ってくるし機械が入ってくるとまたわかりにくくなる
何か複雑な暗号を解くようになる

いづれにしろ時代劇はその風景からしてなごむ、ただそうした江戸時代の風景を再現することは今になるとむずかしくなる
30年前とか40年前でもむずかしかったがロケしたりして残っている
だからテレビの時代劇は同じようなセットで演じているのが多い
でも何かわかりやすいから心がなごむというのも不思議である
人と人の情が通じ合う世界なのである。その間にビルとか建物とか車とかは機械は介在しないからである。
そしてまず時間の感覚が違う、なぜ花魁(花魁)道中とかありあんなにゆっくりと練り歩くのかとなる、それは当時の時間感覚が今とは考えられないほど遅いということである車が絶えず走っていると常に時間が早く過ぎさると感じるのである

なんかこんなことに感心しているのも今の社会がそれだけ老人にとってなじみにくいものとなった証拠である、老人は複雑なものが苦手になるからだ
老人にとっては情中心の江戸時代があっていたのである。
そこには別に悪があったとしても貧乏でも負の部分があったとしても何かなごむというのは不思議である
それだけ現代社会というのは人間的ではない情もない殺伐として社会になったということでもある
そしてあまりにも複雑怪奇だから嫌になり疲れる
時代劇は情が中心であり後に残るのは情の余韻である
情によって事件は解決して後にそうした人間の情が残るシーンで終わるのである

時代劇はストリーもあるが江戸時代の雰囲気を出すことがむずかしい
雰囲気で景色でなごむことがある、車が通らない街道だけ見てもなごむ
現代ではそれが作りにくいから衰退したということもある
たいだい室内で撮影場で作っているからだ、第一江戸時代といっても田舎だってそういう風景はなくなった、茅葺の農家がまだ残っていたとかあったが今はほとんど見えないからである。
老人はノスタルジーを求める、それは風景でもそうである

この辺の右田の松原は津波で消失したからそこを知らないものはただ土盛りした土手と風力発電の風車が風景となった、そればかりしか見ることができない
でも右田の松原を知っている人は心の中の原風景として見ている、なくなったが心の中にありイメージするとなる、時代劇もそうした風景の中に暮らしている人間が描けないから魅力なくなったとなっているかもしれない、ただ過去はすべてイメージの世界となっているからイメージしないかぎり存在しないのである
でも右田の松原を知らない人はイメージすることすらできなくなってしまうのである
posted by 天華 at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2018年07月20日

なぜ人は移住するのか? (深野の佐藤氏を例にして歴史的に考察)


なぜ人は移住するのか?

(深野の佐藤氏を例にして歴史的に考察)

大阪府高槻市樫田杉生の旧和田村(かつては京都府 明治初期まであった地名)から、都の戦乱を嫌い、富山県礪波市上和田に移住し、江戸時代の真宗移民で相馬藩領内に移住して代を繋いでいます。母は、白石片倉家10代景貞の末裔です。
(深野の佐藤氏のコメントより)

●言葉の伝播から

江戸時代の文献に「織田信長が京都へ来てから、京の言葉遣いに名古屋のことばが多く混じるようになった」という記述があり、これを記した松永貞徳(まつながていとく)は、自身が幼い頃とその後では京都の人の言葉遣いは変わり、尾張の方言が京ことばに多く混じったと伝えています。

晩のあいさつを
「オバンデス」(京ことば)、「オバンニナッタナシ」(山形方言)、水に浸して水分を吸収させる
ことは京ことばも山形方言も「ウルカス」など、行為や食や衣に関する 46 の言葉を掲載してい
る(山形県・河北町 1996:60-61)。

前述の「おみ漬け」は、近江商人が考案した漬物「おうみ漬け」から転訛して「おみ漬け」に
なったと言われる2

海と山が醸成するアジアの文化
file:///C:/Users/yuichi/Downloads/k-kenkyuzyonenpou15_3-9.pdf

琉球方言は古い時代の日本語をもとにしているものが多く、たとえば「いらっしゃいませ」の意味の「メンソーレ」は、「参(まえ)り候(そうら)え」が変化した言葉だといわれている。
 また、琉球方言の中には、たとえば沖縄本島などで使う「あけづ」(=とんぼ)のように、本土ですでに使われなくなった言葉(死語)も多くのこっています。本土方言と沖縄方言は、別の様にも見えるが、よく比べて見ると、もとは同じ言葉だったことがわかります。

 
 言葉の伝播がなぜ起きるのか?それは人が移動したり移住したりするからである
言葉自体が勝手に移動しない、言葉も文化も人が移動しているから遠くの国でも同じような言葉となって共通性が生じる
なぜ青森県とか沖縄にでも古い日本語、京言葉が残ったりするのはなぜなのか?
それはかえって京言葉がそうした辺境の地に化石のように維持されて残されたのである

なぜ深野がふこうのなのかというときこのフコウノとはもともと大阪の言葉で大阪弁だったのだろう、それが全国に広まったのは大阪出身の人が深野の佐藤氏のように移住したからだとなる、深野とあるとき普通はフコウノとは言わないからである。
言葉は名古屋弁が京都に入ってきたのは信長が京都に入り影響したのである。
言葉から方言から歴史を見るのもは身近だから面白い
いつも言っているが仙台弁の語尾のだっちゃというのは相馬藩からすれば変わっている
相馬藩内ではんだとかなるからだ
でも丸森は伊達藩と相馬藩が入り混じった所である。
その金山城は伊達藩と相馬藩が交互に支配した城だったのである。
その城の麓に住んでいる人が相馬総合病院で同じ病室だったけどんだちゃと言っていた
これは相馬藩のんだ+だっちゃが結合したものだったのである。
おそらく相馬藩の人が城に住んだからその麓でもその影響が残ったとなる
今はなかなか方言は聞けないが国の訛り(なまり)は消えないのである。

●政治的戦乱とかのための移住

人間の歴史をふりかえると移住の歴史である、なぜ人は移住するのか?

●新しい生活の場を求める
●戦乱などから逃れる
●飢饉などの影響
●職を求めて移住する

一般的には経済的理由が多い、新しい生活の場を求めるというとき農業中心の時代では
開墾開拓のために近辺に土地を開墾して農業をする、その移動は狭い範囲になるから移住とも言えない、生活圏の拡大である
そして意外なのは戦乱とかから逃れることのために移住するということが多い
それで全国に落武者伝説が残る
鹿島の只野氏は古い家柄であり南北朝時代に霊山が炎上して逃れてきた武士の末裔なのである。その歴史は明確にたどれる、それで野馬追いに杉の紋様の旗印として出ているからわかりやすいのである、日吉神社のお浜下りの祭りではおつづら馬という荷物を運ぶ先導役を代々受け継いでいるから古い家柄なのである。

深野の佐藤氏でも大阪が戦乱にありそれを嫌って富山に逃れてきたというとき何かそういうことがあり移住した
これは今は世界的に起きている難民の問題なのである。政治的難民は歴史で常にあった
それは強いられてそうなったのである。
人間は住み慣れたところに住むのが普通である、そこを離れたくないのが普通のなのである、でもやむをえず政治的混乱とか戦乱になり逃れる、それが世界的規模で起きているのが現代なのである。飢饉などもそうである
なぜ戦後満州に移住したのか?それは広大な土地を求めて移住した
その時は農業が生活の主体であったから土地を求めて移住した、満州の寒い土地で米作りをしようとしたのである。
その結果として満州という土地にこだわって太平洋戦争と発展した
アメリカとかの権益で争うことになったからである
                                              
政治的難民の場合は強いられて移住したのである、その場所に住みたいといっても住めないから逃れ移住する、だから貧乏だからと経済的理由で移民を受け入れるより優先されるなぜなら命にかかわるからである

●征服のための集団的移住

歴史を見れば常に戦争とかがありその時集団的に軍隊が移動する、するとそこで征服した地に移住する、支配者となり移住する、それは民族の移動ともなる
民族の移動が戦争にもなっているからだ
モンゴルは広大な世界を一時支配した、するとそのモンゴルの末裔が今もチベットとか山岳民族に残っていたりするのはそのためである
そこで混血する、ベトナム戦争で韓国人がベトナム人の女性を強姦して混血させたとか問題になる、ただ混血は人種でも民族でも常に移動して移住するから世界で起きている

蝦夷というときこれも混血した人たちだった、最初は縄文人がいたとして外来の人が渡来してきた混血したのである。
蝦夷にはだから朝鮮系の人たちが鉄を作る技術者が早い時期から入ってきていて地元の原住民の縄文人と混血したのである。伽耶(かや)はいち早く入ってきた
その伽耶とはそこから天皇が移動してきたとかある、伽耶の謎はそこは今度はインドの商業の民が移住して作られてタミール語を話すドラビダ族がいてそれが日本語の起源だといういう説もでる
伽耶は謎であり何か特殊なのである。そこは大和民族が支配していたともいわれる
前方後円墳が発見されたが実は大和からの伝播だったという説もある

征服のための移住というとき相馬氏がそうである、ある意味でモンゴルのように騎馬軍団が移住して相馬野馬追いにつながっているともなる
相馬氏がこの地域を征服して支配したから相馬市となっているからだ
相馬藩はまさに相馬氏の移住によって作られたものだからである。
相馬野馬追いの旗印は相馬氏一族に由来しているからである
ただ南北朝時代の只野氏の旗印もあるからそれだけではないが大方はそうである

ただ相馬氏が一族が一団として移住したのは征服のためでありもともと支配していた千葉県とかの相馬領内では家臣団を養えないからまだ未開の地がある移住したとなる
移住と征服はセットになっていることがある
人間の歴史は移住の歴史であり混血の歴史である。
この混血することによって人間の種は強固になった
混血すると美人が多いとかかえって優秀な人間が素質的に生まれとかなる
黒人と結婚した女性が世界陸上で活躍するのもそうである。日本人にはない先天的遺伝的特質が備わったためだとなる
つまり異質なもののとの混血は文化でも豊かにする
ヨ−ロッパの歴史はそうした人間でも文化でも混血した混合した結合した結果なのであるそれでルネサンスが生まれたのである。イスラム文化も結合して生まれたのである。
人間の歴史は混血の歴史でありそれがないと世界的に見たら停滞するともなる
ただルネサンスとかはあくまでも文化の混血であり人間そのものが今のように移住したとはならないのである。そこが今の移民とは違っているのである。
人を取り入れる経済的難民を取り入れることの問題がここにあるから歴史から学べともなる

●経済的理由で移住するのが一般的

何も戦乱がなくても経済的理由で移住するのが一般的である
貧しい国からさ豊かな国に移住するのは人間として普通だからである
今の移民はたいがいそうである、政治的難民より経済的難民が圧倒的に多いのである
ただわからないのはなぜ富山県であれ越中であれ困窮していた飢饉で三分の一も減った相馬藩に移住した人がいたのか?
そんなところに普通は移住しないだろう、でも当時は土地を得られるとういことで移住した、,農民にとって土地が一番大事だからそうなった
満州に移住したのも広大な土地が得られるということで移住した

移住するというときやはり経済的困窮が理由になる、出稼ぎが江戸時代でもあるのは働く場所がないからそうなる、江戸時代ではないが自分の父親が葛尾村から双葉の新山に酒屋に丁稚奉公に出たのは山で暮らしていけないからである。
これも強いられてそうなったのである。本当は葛尾(かつろう)村で暮らしたかったのである
そして出稼ぎというときなぜ双葉や大熊で原発を誘致したかというと出稼ぎをしたくない故郷で生活したいということで原発を誘致したのである。
仕事がないからうそなった、それが裏目に出たのである
人間はその土地に住みたいし移動したくない、移住もしたくないのが普通なのである。

高度成長時代になり東京が人手不足になり金の卵として中卒で集団就職する人たちがクラスな三分の一いたというときもそうである
田舎に仕事がないから移動したのである、本当は東京には行きたくなかったとなる
移住するとかなると強いられたからするのであり積極的にする人は少ない
自分の場合は田舎から離れたいという願望があり東京の大学に入った
それは仕事を求めてではない、だからこれはまた違った動機だったのである。

いづれにしろ移住するというとき強いられて移住するのが多い、この辺でも原発事故で移住したのは強いられたからである。故郷にいたくてもいられなくなったからである。
その住めなくなるということは最大の被害だったのである。
そして補償金が手厚かったから余計にそうなったのである。
もし補償金が少なければ放射能被害があるにしろ生活するために故郷にとどまったかもしれない、皮肉な結果として補償金が手厚かったから外に流出したのである
もし補償金がわずかだったらそううい決断は簡単にできないと思うからである
それでいち早く外に家を建てた人も多いからである
子供が名取に家を建てて親の部屋まで作っているからそこで暮らしてほしいと親に言っているが親は小高にとどまっているとかなる
それは故郷に愛着があるからそうなっているのである

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2018年06月08日

下北高平の広い土地の家が壊されていた (その人にその辺のことを聞いてみた-7代目であった)


下北高平の広い土地の家が壊されていた

(その人にその辺のことを聞いてみた-7代目であった)

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高平の五輪塔
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ここは藤の花がきれいな家

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この家が壊された 端にその壊された木材が積まれている

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こういう地形から名付けられた地名なのか?



今日いつも通る原町の下高平の広い庭に藤棚がある家が壊されてのに驚いた
なんだろとう思い見たら誰か木を切ってかたづけている
そこは畑になっていてその家の土地だったのである。
それで聞いてみるとシロアリにやられて新しく家を建てるという
壊した家自体は古くない,20年とか言っていた

それでそこの家の人に聞いてみた,前にもその人とは会ったことがある

「新田川のそばに古い墓地があるんですよ,立派な大きな五輪塔があるんです
この辺は西殿といって浜の方の人に聞いたら西殿をニシドンと言っていました
この辺ではニシドンと言っていますか?」
「にしどの,ああにしどん」

何かこう言ったからやはりこの辺で西殿をニシドンといっていたのである。

「この家は古いですか」
「7代目だよ」
「じゃ江戸時代からつづいている」
「この辺の農家はあそこの家で4町でありこっちは7町とかだよ」
「広いな,やっぱりここは古い所なんだ」

近くに金沢の所に墓地がありそこに越中からなどの移民の墓誌がある
でもあそこの墓地はもともとあそこになかった,移動したという
移民の人も高平に入ってきた

「草履をぬいだ話を聞きました」
「それはいつですか」
「戦前のことだったな」
「それでは江戸時代ではない」

何か戦前でも土地を求めて古い農家で働いた人がいたのだろう

「この辺で槍をもっている人がいたよ,そこは古いよ」
「名前は」
「脇本だよ」
「その人は野馬追いに出ていますか」
「・・・・・」

それから村八分のことを語った

「それからこの辺で村八分にされた人知っているよ」
「どうしてされたの」
「その人は変り者で土橋を渡るとき誤って転げて死んだよ」

村八分など聞いたことがないが何かそういうことは村にあった
そういう話は日本の村には良くあったのかもしれない
ともかく狭い土地でいつも暮らしているから何かうまくいかないと出て行くわけにもいかないからそうなったのである

こんな話になったがその家は7代とするとそれなりに古い,確実に江戸時代にさかのぼる
とにかく蔵がありその脇も広い畑なのだから古い土地持ちの農家だったのである。
海からの風通しもいいし気持ちいい場所なのである。
あそこはいつも通っていたからあの家はずっと気になっていたのである。

そもそも高平(たかひら)の地名の由来は何なのか?
タカタイラともありタイラとヒラは違う,ヒラは傾斜地を意味しているという
ヒラはアイヌ語説になればアイヌ語由来なのか?
北海道には高平の姓が一番多い
ヒラタイというときヒラは傾斜地でありタイは平地になる
ヒラタイとういうのは一体として使われた言葉なのである。
日本には山が多いから傾斜地が多いからそういう地形が多いのである。
それで野とは傾斜地の意味だったのである。
すると高平とは傾斜地がありタイラな地形になる
傾斜地とする金沢辺りから傾斜地になっているからそこから地形として名付けられた

なぜそうなったのか?

それはまず原始時代から自然をみるとそこも湿地帯だから高い所からその地形を見て名付けられた、どうしても傾斜地とすると金沢の方の高台の方から見た地形なのかとなる
高平地区はとにかく桜井古墳も近くにあり泉かんが跡もあり古い地域なのである。
原町の歴史地区なのである。
それが具体的にわかりやすいのはあの五輪塔なのである。
あれは南北朝時代のものであり相馬氏が入り西殿となづけられた
あの辺ではニシドンと言っていたのである。

前にもあの辺りだと新田川の橋を渡ったところにも古い家があった
六号線かあってもあそこはもともと農家があった田んぼと畑だったのである。
そこで古い馬頭観音が畑にあったのでそのの由来を聞いた
そしたら火事があって馬が焼けたということで供養したのだと聞いた
あそこの家は升形の紋が蔵にあり古い家である
ただ脇本という姓の人は野馬追いには出ていない
そこがどうして古い家なのかは不明である。

つまり高平一帯で三軒から自分は直接話を聞いたのである。
するとバズルのようにその地域の歴史を編むようにつなぎあわせることができる
ただそれもこの辺では鎌倉時代から南北朝頃からでありその前は歴史的に残っていても何か具体性に欠けるのである。

いづれにしろ郷土史はこうして直接その土地の人に聞かないと具体的にイメージできないのである。
そうして聞く機会がなかなかない,たまたま家が壊されていたので驚いて聞いてみたからできたのである。

posted by 天華 at 18:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2018年05月27日

西殿(にしどん)から方言を考える (訛りは国の手形だから地域性が残る)


西殿(にしどん)から方言を考える

(訛りは国の手形だから地域性が残る)

福島の郡山から相馬にかけての言葉と鹿児島弁のイントネーションが酷似しています。
子供が言い訳しているような、最後に語尾が上がる話し方です。

蘇我殿(そがどん)の田植え(千葉県)

出典:デジタル大辞泉(小学館)

[接尾]《「どの(殿)」の音変化》人名、または人を表す名詞に付いて、軽い敬愛の気持ちを表す。商家などで、同輩または目上の人が奉公人を呼ぶときなどに用いる。「お梅どん」「長どん(=長吉のこと)」
[補説]九州南部では一般の敬称としても用いる。

せごどん
(西郷さん)
むこどん
(お婿さん)
おやっどん
(お父さん)
※ 軽い敬意を表す接尾語。

殿をどんというのは広く使われている,どんというとき大阪では親しみをこめてどんと普通に相手を呼んでいる,どんはいろいろな使い方がある
ドンは・・・界のどんと言うと一番力をもっている人でありボスである。
殿はそういう人だったから庶民にその意味が受け継がれた

不思議なのはなぜ鹿児島のイントネーションが郡山から相馬にかけてイントネーションが酷似しているのか?これも不思議である。
何かそういう移動があったのか?明治維新ごには確かに薩摩長州が攻めてきたからあったのか?でも方言でも移動するにしても定着するには時間がかかる
簡単に九州の方言が定着することは考えにくい
ただ侍とか配階級の言葉が庶民に受け継がれることはある
だから支配階級の言葉が方言化することがある
そもそも日本語では京都が中心だから京都の言葉が全国に伝播した
それが沖縄と青森に残っている方言の基は京都弁だったともなる

訛りは国の手形というときこれは偽れないのだ,どうしても訛りがでてくる
それでこの辺では全国から労働者が来たから駅で話して面白かった
訛りがありこの人はどこの人だろうと考える
訛りはみんな違っているからだ,標準語を話しても訛りは消えないのである。
奇妙なのは東京に長くいると訛りが東京語になる,標準語とは東京語になっていたからである。
だからその人がここで生まれた人でもあまりにも長く東京にいたら訛りが東京弁になっていたのである。

方言は何かあたたかみ親しみを感じる,標準語は何か冷たいのである。
でも方言は消えつつある,全国が平均化する標準化する時代だからそうなった
常磐高速のセディティというのが連れて行ってという意味だがそれを使う人は今はほとんどいないと思う,前に使ったことがあるという年配の人はいる
今は使っていないからあそこの命名は現代に会っているとは思えない
外から来た人もわからないからである
それで自分はセディティを英語だと思ったのである。
何か英語にすることが何でも多くなったからである。
それだけ方言は地元ですら使っていないのである。

面白かったのは丸森の人がんだちゃという言葉を使ったことである。
んだは相馬弁でありだっちゃは宮城弁であり仙台弁である
その差は大きいのである。
それが結合したのがんだちゃなのである。
実際にその人は相馬総合病院に入院していたが丸森の人だった
金山城の近くに住んでいる人だった
その金山城は一時相馬氏が城主にもなっていて伊達氏もなっていた城だったのである。
だから丸森に二つの方言が合体しても不思議ではなかったのである。
ここに方言の面白さがあるなと思った

ただなぜ九州弁が東北に伝わったのか?それは相馬氏は千葉県の出身だとすると蘇我殿をそがどんと昔話で語られているように千葉県では殿をどんと言っていたからそれが伝わったのであり九州の薩摩から直接伝わったわけではない,殿をどんというのは広く伝わっていたのである。
だから相馬氏が下高平に館を屋敷を構えたとき西殿となりニシドンと呼ばれたのは不思議ではないのだ,回りの人たちがみんなそう言うからもともと在地の人もまねたとなる
方言から郷土史を探る人は全国にいくらでもいる
ただこの方言は直接聞かないとわからない,文字ではなく音で聞かないとわからないからなかなか詳しくはなれないのである。
しょちゅう全国を転勤するような人は音で方言に接するから詳しくなることはある
旅だと地元の人とあまりしゃべらないからわからないのである。
柳田国男のような人はそうして口碑を重んじたから地元の人から何かを聞き出して直接歴史を感じたのである。
何か地元の人から直接聞くことはなかなかむずかしいのである。
でも一言でも地元の人から聞かないと歴史がわからないのである。
相馬市の山上の金谷原に古い碑が集められていたがそこが寺の跡だったと聞いてわかったその一言でも地元については地元の人が詳しいから聞かないとわからないのである。

自分が下高平に興味をもったのはあそこは買い物で絶えず通っているからそうなった
やはり郷土史でもそれだけ頻繁に日常的に行く所は興味をもつとなる
要するに人間はそうして何度も直接行ってふれてたずねてその土地のことでも知るようになる
つまり何でも知るということはそれだけ時間がかかるのである。
ただ下高平辺りは原町区でも歴史がある場だと実感した
桜井古墳もありあの辺が原町区の中心地帯として発展した場だったのである。

タグ:方言 訛り
posted by 天華 at 10:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2018年05月26日

下高平の西殿はニシドンと言われていた (津浪に残された泉地区の田の神様を尋ねる)


下高平の西殿はニシドンと言われていた

(津浪に残された泉地区の田の神様を尋ねる)


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二十三夜塔は嘉永のものである

あとのものは年号がわからなかった

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南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)

 1848年嘉永1年
   
  1853年嘉永6年

  1868年明治1年

今日下高平から泉の方に行ったら日本の木が見えた,その下に碑があるのが見えた
それでそこに確かめに行ったらそこは社の跡であり碑がいくつもあった
津浪で流されたがこの碑と二本の木が残ったのである。
そこで近くで草刈りしている人に聞いた

「ここには神社があったんですか」
「田の神様です」
「神社というものではなく小さな社(やしろ)でしょうか)
「この地区には泉には七つあってみんな田の神様を祭っているよ」

この田の神様というのがどういうものか良くわからなかったが稲作の神であることは確かである。

「二本の木が残りましたね」
「他にも木があったけど枯れたんだよ」
「そうですか,五葉松は枯れなくて良かった」
「あれもわからないよ」
「枯れるということかな,松は強く根を張らないから津浪にも弱いし塩水をかぶると塩分にも弱い」
「そういうことかもな」
「鹿島の右田の松原の一本松も枯れて切られましたから」

五葉松はまだ枯れてはいない,だからまだ残るのか?あそこまで津浪が来ていたのである
ここは地形的にも津浪の被害があった,床上まで来たという
それより新田川の岸辺に家が結構あってそれが流されたのである。
それで自分のプログを見た人がその写真を見て自分の家だと言っていたことに驚いた
そこの家はすぐ近くだったのである。

「ここの家は古いですか」
「四代目です」
「そう古くはないのかな」
「私の家は加賀から来たんです」
「そうでしたか,真宗系統,南無阿弥陀仏系統はこの辺では多いです
萱浜には特に多いみたいです」

相馬藩の歴史となるとまず天明の飢饉のときその前の時代からも宝暦からも飢饉があり苦しんだ、その時加賀であれ越中であり富山県とか新潟県から福井県などから移民がきて
飢饉の跡に入り開墾して相馬藩は飢饉から立ち直った
相馬藩の歴史はこの真宗系統の移民によって成り立っている
そういう歴史がある藩だということである。
だから相馬藩の歴史をたどると三分の一はそうした移民で構成されているともなるのである。

「下高平の方に西殿(にしどの)とあるんですが」
「いやあれはニシドンとこの辺で言っていますよ」
「ニシドンですか」
「そう伝えられてきたんですよ」
「なるほどそう伝えられていたんですか,西郷どんとかもいいますから」
「ところであなたはどこの人」
「鹿島です」
「西さんが良く来てましたよ」
「歴史の先生でしたが死にました」

あの人も西だったけどこれとは関係ない,でもなんだか符号しているから奇妙だった
最近死んだのである。ただあの人の郷土史とかの研究で何か残したのか?
あの人は地元で生まれたのではなく他から来た人らしい
高校の時習ったことがあったがその時は自分は歴史に興味をもたなかった
それより自分は勉強とか学校が嫌でたまらなかった
まず勉強は興味をもたないかぎりだめであり無理やりしたら余計に嫌いになるのである。

それはともかく九州の方言で殿をドンと言っている,ではなぜここで西殿をニシドンと言っていたのか?
それはなんらかで九州方面の人がここに相馬氏の一族に入っていたのか?
相馬氏といっても実際は多方面な人がまじっていたのである。
だから方言も伝播する,どういうわけかこの辺に九州地方の名が地名化しているのがある小池に薩摩内とかもある,他にある
方言でも伝播している,深野はフコウノと呼ぶが同じ地名として大阪にありフコウノとはそうした方言が伝播したともとれる,これは大阪方面の方言なのである。

ともかく高平から泉には歴史の跡が地名として記されているし泉はもともと古代から役所があったのだから古い
そして今も西殿がニシドンと呼ばれていることは歴史が継続して生きていることを感じたただ書類から西殿とあればニシドノと読む
でも地元の人がニシドンと言っていたというとき明らかに西の方の殿ということである。それは親しみをこめたものなのか?
泉地区はまた下高平の西殿地区とはまだ勢力として違った地域にあったからだ
ただ泉に住んでいた人もニシドンと呼んでいたのである。
そこはなんらかの中心としてあった屋敷があったのである。

柳田国男が文書だけではない聞き取りから民俗学を起こした,口碑を大事にして聞き取りから歴史を探った,口碑にこそ生きた歴史があるとしてそうしたのである。
文書からだけではわからないものが生きた歴史なのである。
歴史は普通死んだものとして見ることがある,でも地元の人にはニシドンと西殿をまだ言っているときそれが地元でまだ生きていたのかと実感したからである。

津浪後二本の木のなおここに離れじと立ちて夏の日暮れぬ


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2018年03月27日

石神村の紙漉きの歴史 (天明の飢饉の時移住した越中などの人が伝えた)


石神村の紙漉きの歴史

(天明の飢饉の時移住した越中などの人が伝えた)

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この抽象画が和風であり和紙に見える


この地が手漉き和紙の里になったのは、天明の飢饉に農民の窮乏を救うため、加賀藩から土佐流の紙漉き職人を呼んだのが始まりとされる。明治33年(1900)には76戸を数え、同35年には紙漉き技術を伝える伝習所も設けられたほどである。恵まれた気候、風土により原料となる楮や黄蜀葵も、自家栽培し余力を二本松の上川崎へ売るほどであったと言われる


いの町紙の博物館について

石神村に嫁いだ女性の家は紙漉きしていた家だった,その家は古い家である。
その紙漉きの技術は加賀藩から土佐流の紙漉き職人を呼んだことがはじまりだという
これも興味深い歴史である。
現実に自分は越前和紙の里に行ったしその土佐の町の紙の博物館にも行っている
越前和紙ではそこで実際に紙漉きをしていたし誰でも紙漉きを試すことができる

土佐の紙漉きが古いから越前に職人を呼んではじめた,だから土佐と越前が結びつく,
それも自分はその二つに実際に行っていたことをふりかえるとずいぶんあちこち旅していた結果だったことをつくづく感じる
そんなに旅している人はいないと思う,それで歴史がたどれるとなる

越中の移民などは農民として来たのでありそうした技術をもたらした人達とは思わなかった,ただ宗教も真宗ももたらしたように何らか移民は文化をもたらすのである
天明の飢饉の時相馬藩では三分の一に人口が激減した,その穴埋めを移民がしてくれた
その時紙漉きの技術が伝わったことは知らなかった
ともかく相馬藩では越中などからの移民が本当に多いのである。
祖先をたどれば越中からの移民だとわかるので交流もある

紙漉きは古くから大きな産業だった,ただ冬に紙漉きをするので紙漉きは女性でもしたくないものだったのである。
石神に嫁いだ女性は農家だったとしても何にも農家のことはしない農作業もしない
夫は会社員であり農家の生まれでも農業はしていない
だから何か農家がどういうものなのかもわからない
サラリーマンの家庭なのである。農家では今はそういう人が多いのである。
純粋の農家は少ないのである。この辺では梨農家とか花栽培している農家とかは現金収入があるのでやっていけるが他はむずかしいからだ

ともかく石神の紙漉きは明治までつづいて有名だったのは意外だった
技術を伝える伝習所までもうけられていたということでもそうである。
それだけ紙漉きが盛んだったのである。
それが越中などの移民の歴史と重なり一つの郷土史として見逃せないものであった
でもそういう技術も絶えて語る人すらいなくなるのも淋しいとなる

インターネットだとこうして貴重な情報が見いだされる場合がある
図書館で何か検索するということ調べることはめんどうなのである。
今は時間がないからしていない,これで興味をもったのはやはり越前和紙の里に行って実際に紙漉きのまねごとをしたことや土佐のいの町の紙の博物館に実際に行ったことであるこれもかなり前になるがいかに自分が旅していたかということに我ながら感心するともなる

晩秋に越前和紙の里たずぬ

あしらいぬ越前和紙に楓かな

いの町や蓮華の咲きて和紙の里

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2017年12月03日

自分の墓地にまた一つ江戸時代の碑を発見する


自分の墓地にまた一つ江戸時代の碑を発見する


我が街の家の墓地への情をつづる (文語体で記す)

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姓が違ってる墓は明治時代まであった,家が有力なものだったら嫁いでも姓を名乗ったとなるのか?

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捨てられた墓



不詩朗謡

不詩(文)朗謡-朗詠

朗謡-朗詠・・・暗唱
詩に文にせず暗唱せよ
謡(うた)いなさい

これもなぞである。最後の字はわかりにくいが不詩朗は読める。朗は名前だと思ったが違う。
朗謡-朗詠かもしれない、ただこれが何を意味しているのかわかりにくい、詩にしないで朗詠しなさい、暗唱しなさいなのかとなる。詩文にしないで暗唱して覚えなさいということなのか?
推測すると天保となるとまだ庶民では字を書けたり読んだりできる人はまれだったろう。
字が書けたり読むことが普及したのは江戸時代後半、特に幕末辺りに寺子屋が増えて読み書きができる庶民が増えたのである。ここは一つの寺子屋のような役目を果たしていたのかもしれない、暗唱することに学びの重点があったからこのような戒めの碑を建てたのだろうか?他に儒教が普及してそうした戒めの碑がほかにあったようだ。南相馬市鹿島区の

町内の墓地の碑の謎

これは前に書いた街内の墓地のことである。鹿島御子神社の隣にある,ここは神社の領域だったが寺ができて神宮寺になった,そういう所は全国でも多い。
ここにこの碑があるのは寺子屋があったからだろう。

      1772年安永1年壬辰11月16日改元 
  1773年安永2年癸巳  
  1780年安永9年庚子  
  1781年天明1年辛丑4月2日改元 
  1788年天明8年戊申  
  1830年天保1年庚寅12月10日改元 
  1843年天保14年癸卯  
  1844年弘化1年甲辰12月2日改元 
  1847年弘化4年丁未  
  1861年文久1年辛酉2月19日改元 
  1863年文久3年癸亥  
  1864年元治1年甲子2月30日改元 
  1865年慶応1年乙

ここで一番目立つのは大きな安永時代の碑である。

光明真言を唱えつつ大師堂に向かいます。
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどまじんばら  はらばりたや うん」
(移動のとき光明真言を唱えるのは有縁無縁の霊魂を供養するため)

空海の密教の祈りの塔だった,空海を祖師とする仏教である。
明治維新がすでよら百五十年前とかなりそれから百年前は安永である。その安永から天明になった,その時この辺は天明の飢饉で三分の一に人口が減ったのである。
なぜ自分の家のすぐ近くの神社にも天明の碑があるのか?
なんらか町内でも天明の飢饉の影響があった,その記念のためなのかもしれない。

天保となると明治維新に関係し人達が生きていた時代である。だからかなり身近なのである。
今回発見したのは「弘化」と刻まれた墓である。小さな墓である,僧侶の墓だろう。
僧侶の墓は多いし残りやすい,文久の墓もあった,ここは密教系の寺がありやがて廃寺になり墓地になった,だから相当数の骨が埋まっている場所である。

ただ墓と碑は違う,暗唱せよと記したものは碑である,記念碑とか戒めの碑である。
人が埋まっている墓とは違う,戒名とか記されていれば墓である。
鹿島神社があり鹿島町と前はなっていた
そしてこの辺で一番古い家は南北朝時代に霊山から逃れてきた只野氏なのである。
その人の墓は寺の内にあるというのもわかる
しかしここももともとは寺であった,そこに墓地もあったとなる

いづれにしろあそこの墓は狭いし入り組んでいる,でも古い墓地だったのである。
そしてまた人が死ぬから墓が増えるのだからあそこはもう増やせないのである。
墓が残っていても供養しない墓もあり墓が無縁化したものが集められている場があった
墓の墓場が増えているのも昨今である。
墓が個々人とか家の墓とか維持するのが現代はむずかしくなっている
だから共同墓地化するのがいいのかもしれない,例えば十人でも埋まっている墓があればその子孫の誰かがお参りするからである。そこは墓として維持できるからである。

母の実家の墓を三百万もらって墓を維持してくれと頼まれても無理である。
そんなことを背負わされなくてつくづく良かったと思う
なぜなら墓というのはその家の因縁とか負の部分も背負うことになるからだ
それを代々背負いつづけるのも容易ではないからだ
だからいづれは絶えてしまい墓を処理することが大変になるのである。
自分は兄の骨を母の実家に埋めたのでお参りしていた
それがめんどうになったのである。隣の街ですらそうなのだからもう離れていると墓も疎遠になりやがては捨てられることになるのである。
だから原発避難区域では移動した場所に墓も移すようになるのである。

人間最後に残すは残るのは墓だけどそれも忘れられる,もうただ墓だけが残りその人がどういう人だったのか何もわからないのである。
ただ暗唱せよというのは碑であり墓とは違う,それは記念碑であり死者を供養するものではないからだ,だから墓石屋が兄の墓を碑と記せといったのは間違いだったのである。
忠魂碑とかあるがそれも死者のことではない,記念碑なのである。
そして今は何か変わったデザイン墓があるがあれもその人の記念碑のようになっている
墓とは違う感じになる,何かその辺の混同が起きているのである。
時代と共に何でも変わるから墓も変わってもしかたがないがやはり墓と碑は違うのである
hakanamae1.JPG

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この墓は僧侶の墓ではない,居士とは僧侶に準じる人とあるが僧侶ではない
ただ院とは記していないが院があり道があり戒名があるからそういう位がある人だったとなる,大姉もそうである。ここでは男性二人に女性二人が記されている
なぜ四人も一緒に一つの墓なのか?紋も記されて立派なのである。
これはいつの時代なのかわからない,江戸時代なのか,明治時代なのかわからない
ただ四人も名前が記されているのはなぜなのか?そこに何かの因縁があってそうなった

忘れらる墓また一つ我が墓地に見いだしあわれ冬の日暮れぬ

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2017年11月12日

南相馬市鹿島区川子の御堂の墓の謎 (明和だから天明の飢饉の前のものだった)


南相馬市鹿島区川子の御堂の墓の謎

(明和だから天明の飢饉の前のものだった)

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荒井山広徳院宝持寺 北森山にあり,天明の頃,寺廃す
故に塩崎村田中山慈伝院に合す:文政六年慈伝院を江垂村普陀落山観音寺に合す
(鹿島町誌)

元禄宝永中戸数四十,三十八戸 天明三二十二戸 同年 戸数十六戸


慶長けいちょう1596.10.27〜1615.7.12 
元和げんな1615.7.13〜1624.2.29 元和偃武
寛永かんえい1624.2.30〜1644.12.15 寛永寺 寛永通宝
正保しょうほう1644.12.16〜1648.2.14 
慶安けいあん1648.2.15〜1652.9.17 慶安の変
承応じょうおう1652.9.18〜1655.4.12 
明暦めいれき1655.4.13〜1658.7.22 明暦の大火
万治まんじ1658.7.23〜1661.4.24 
寛文かんぶん1661.4.25〜1673.9.20 
延宝えんぽう1673.9.21〜1681.9.28 
天和てんな1681.9.29〜1684.2.20  ※辛酉革命
貞享じょうきょう1684.2.21〜1688.9.29. 
元禄げんろく1688.9.30〜1704.3.12 
宝永ほうえい1704.3.13〜1711.4.24 
正徳しょうとく1711.4.25〜1716.6.21 
享保きょうほう1716.6.22〜1736.4.27 享保の改革
元文げんぶん1736.4.28〜1741.2.26 
寛保かんぽう1741.2.27〜1744.2.20 
延享えんきょう1744.2.21〜1748.7.11 
寛延かんえん1748.7.12〜1751.10.26 
宝暦ほうれき1751.10.27〜1764.6.1 宝暦事件
明和めいわ1764.6.2〜1772.11.15 
安永あんえい1772.11.16〜1781.4.1 
天明てんめい1781.4.2〜1789.1.24 天明の大飢饉
寛政かんせい1789.1.25〜1801.2.4 寛政の改革
享和きょうわ1801.2.5〜1804.2.10 
文化ぶんか1804.2.11〜1818.4.21 
文政ぶんせい1818.4.22〜1830.12.9 
天保てんぽう1830.12.10〜1844.12.1 天保の改革

川子の御堂の由来は何なのか?あの御堂には何を祭っているのかもわからない
鹿島町誌にある寺があったところなのか?
その僧侶の戒名が記されていてそれが明和となっている
明和というと天明より前である。天明の飢饉より前に寺があったのか?
天明の頃に廃したとあるのは飢饉で寺が成り立たなくなったのか?
そういうことはありうる

天明になり戸数が半分以下になっている,それは相馬藩では共通している,だいたい半分に戸数は減ったのである。そうなると寺を維持できなくなり廃した
そして塩崎村の田中山慈伝院に合したとなる,その後は江垂の寺に合した
ということはこれは天明の飢饉が関係してこうなったのか?
ただここには寺があり僧侶の戒名が記されているが天明の飢饉の前に死んだのである。
ただその後にその寺はなくなり墓だけが残ったともなる

川子というとき何か村としては小さいし由緒がはっきりしない,大内村には館という地名があり中世からあった,真野の江垂は中館がありここはこの辺では南北朝の争いで霊山が炎上して逃れた武士が住み着いたことで知られている
塩崎村とか川子村はその中館から分村したものとなるだろう。

地形的にもおそらく前は丘陵になっている前は湿地帯であり津浪で塩水に浸り塩崎まで船着まで津浪が来たことには驚いたのである。この辺では低い場所だったのである。
塩崎と船着とかいうことが津浪で現実にそこまで海だったことが証明されたのである。
八龍神社は高い所にある,烏崎でも高いところにあり津浪でぎりぎりで社が残ったのである。あれも本当に不思議だった,八龍神社があれば相当に古いのだと思う
鎌倉時代に普及した水を司る神だからである。

川子には五賀とかの姓の人がいる,右田にもいた,それは古閑(こが)であり越中の人である,人か住んでないな荒地の意味である。
越中とかからは天明の飢饉で移住した人が相当数いる,墓地を見れば本当に多い,真宗だから南無阿弥陀佛となるからである。三分の一くらいがその墓になっているとき江戸時代からその子孫が相馬藩内に住んだのである。

そういう移民は相馬藩内でも悪い土地を与えられた,だから開墾するのに苦労したのである。ただどこにでも真宗系統の移民がいるから川子が多いというわけではない,散らばって相馬藩内に入った,ただそこは土地としてはいい場所ではなかったのである。

ただあそこに明和の碑が墓があったことは意外だった,まず天明より前だとこの辺では相当に古いとなるからだ,他の碑もみてみたが字がわからない,不明になった碑も墓も多いのである。
タグ:川子
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2017年10月13日

水戸黄門の相馬焼をテーマにしたドラマを見た感想 (郷土史には悪人がいないからつまらない)


水戸黄門の相馬焼をテーマにしたドラマを見た感想

(郷土史には悪人がいないからつまらない)

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相馬駒焼は藩主相馬氏への献上品から始まったもので、現在まで一子相伝でつくられています。
対する大堀相馬焼は、庶民が日常生活で使える手軽なもので、主に農家の副業として営まれた半農半陶の工芸品だったそうです

14代の兄は乗馬中に落馬し、それがもとで病没。それ以来田代家は野馬追から遠ざかった

江戸元禄(1688〜1704)の初め半谷休閑の下僕左馬が、中村の西山・町方両所陶師のもとで陶法を学び、帰郷して、浪江町井手美森で良質の粘土を発見し、茶碗の製作をした。
この茶碗は「左馬茶碗」と呼ばれ近在に売り出した。
大堀相馬焼を開いた左馬の功績を称え、「嘉績翁碑」が文久3年(1863)大堀後畑の神社の境内に建立されている


相馬焼の歴史



相馬焼の歴史はいろいろある,それを前に書いた,今回またとりあげたのは新しい水戸黄門で相馬焼をテーマにしたドラマを見たからである。
これは史実をもとにしたものであり全部が作り話ではない
左馬茶碗というのがありその左馬の功績を讃えて神社まであるのは知らなかった
相馬焼は技術的にも優れて有名だった,だから益子焼とか笠間焼とかの基になっていたのである。

ドラマでは藩のみに許された田代家の相馬駒焼と庶民化した大堀相馬焼がありそこで争いが生まれたことがテーマになっている
大堀相馬焼には走り駒というのを描いてはいけないものとなっていたがその禁を破ったのでそれをいいことに殿様の子息が悪さをするというストリーである。
これはありきたりのものでストリーはつまらない,ただ史実を基にはしていたのである。
水戸黄門などは旅すらしていない,大日本史を編纂したがそれが後の過激な尊皇思想となり相馬藩も藩士もその思想に洗脳されて天狗党に参加した
水戸光圀の評価はいいものではない,それはドラマと歴史の事実との相違である。
ただ当時の身分制の厳しさは相馬藩にもあった,それでも相馬藩の歴史というのは何かもう一つリアルに再現できないのである。

14代の兄は乗馬中に落馬し、それがもとで病没。それ以来田代家は野馬追から遠ざかった

これは事実であり今でも野馬追いでは落馬する人がいる,落馬は怖いのである。これは今なら交通事故と同じである。致命傷になりかねないのである。
歴史はやはりリアリティがどこにあるか見る必要がある

それで郷土史には悪人がいないので面白くないという人がプログで書いていた

それと郷土史がつまらないのは「悪人」(?)が出てこないからです。歴史小説が面白いのは悪人が登場して物語を活気づけるからです。ところが、郷土史では善人や真面目な努力家しかとりあげませんから内容に深みがありません。もつとも善人を「悪人」にしたてあげると、必ず「うちの先祖はそんなにひどい人ではなかった。我が家に何か恨みでもあるのか」と文句を言われるに決まっていますからしかたがないところがあります

これはいえるのだ,なぜならこの辺で最も有名な悲劇がある。この辺の支配者の岩松氏一族が子供まで皆殺しにされたことである。
それはあまりにも悲惨なので語られつづけた
それがこの辺で地元で語りにくいというときその岩松氏一族を惨殺した子孫が今も生きているからである。一人はその姓を恐れて変えたのである。
そして岩松という姓は相馬藩内に絶えていることもそのことを物語っているのである。
それも歴史的にわかっているからそれをこの辺では言いにくいとなる
500年前の話でも未だにその悪事の影響がある,そういうことが郷土史にはあり現実的にリアリティあるものとして追及しないからつまらないとなる

相馬藩でも実際は悪い殿様をいたとしてもそんなことは語られないのである。
農家の娘を無理やりめかけにしたという話も本当なのかどうかわらないにしてもそういうことがあったとは語られないのである。
歴史は相馬藩という地方史でも相馬氏が治めたから勝利者となったから相馬氏の悪いことは書かれないのである。それは国単位でもそうである。
最近しきりに明治維新について薩摩長州のテロリストが成したものだとか批判がされているのもそのためである。
明治時代だったらそんな批判はできない,現実に権力を持っているのだからできないのである。

今回の水戸黄門でも殿様の子息が悪い奴にされているがそれを地元の人が見たら嫌な感じになる,そんな人は相馬藩にいなかったとなる
郷土史では悪人のことは語られないのである。みんないい人だとなってしまう

いづれにしろこの辺では浪江の大堀焼は消失した,復興できない,もう白河とか他に窯を作り相馬焼をはじめている,大堀相馬焼は復興できない,でも相馬焼の窯元がないことは淋しい,窯元があるとないのでは違う,そこは文化の発祥地としての役割をになうからである。
そして相馬大堀焼のあったところは高瀬川の岸であり高瀬川渓谷に入る景勝の地だったのである。それが失われたことは大損失だったのである。

だから浪江町の復興は本当にむずかしい,山の方だと津島の方まで放射線量が高いからである。ちょうど放射性物質の雲のブルームの通り道となったからである。

窯元のここに並びて技磨くその日は消えぬ帰らざるかな

相馬焼は他で伝えられるが窯元が並んだ光景はなくなる,相馬焼でも現代化して新しいものを作っていた。伝統があってもその伝統もそこから新しいものが生まれないと文化の発展はない,紋様とかなると自分がしているコンピュターのソフトで描く抽象画などが応用されることもありうる
ただそうした文化発祥の地が失ったことは回復しないことは大損失だったとなる
posted by 天華 at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2017年07月19日

時代劇も事実を基にしている (相馬藩の新田村のおみかとは実在したのかなの再考?)


時代劇も事実を基にしている

相馬藩の新田村のおみかとは実在したのかなの再考?


飯豊耕土にや 箒はいらぬ
新田、おみかの裾で掃く

こんな歌が残っていること自体、新田は相馬藩の城からもさほど遠くなく古い地だった。
柏崎梅川のお釣り場からの帰りにおみかという娘を見せめて城勤めになったという。
こういう話は他でもいろいろあるから何が本当かわからない、ただこんな歌が残っているのだから
おみかとは実在の娘だったのだろうか?でもなんらか相馬の城の殿様と関係していたのか?
新田という地はそれだけ何か相馬藩の城の殿様と親しい村だったともなるのか?
ただこんな浮ついた話しがあるとすると他の村では面白くないだろう。
そんなことで村が厚遇されたりしたら他の村人は働く気がなくなるだろう。
誰か器量のいい娘を殿様にあづけて楽しようとかなる。相馬藩は貧しいからそんな余裕があったのかということにもなる。ただ別に殿様は当時は側女を多くもつことはとがめられていなかった。ただそれも豊かな藩のことである。
おみかがいて飯豊では働かなくてもいいという戯れ歌が残った
おみかの裾で掃くというのはおみかがいてそのおかげで箒もいらない、楽できるとなる
その反面として他の村では年貢が高くとられて不満があったとなる

最近昔のテレビドラマでも見ている、時代劇では悪がわかりやすい、西部劇でもわかりやすいから共通点がある。
その解決方法は銃であり暴力になってしまう、ただ江戸時代は公儀に訴えることができて裁判もあった。悪代官がなんでも勝手にできたわけでもない、座頭市のドラマでは隠密が調べにきていたのである。

でもそのドラマで新田村のおみかと同じようなことをテーマにしていた、庄屋の娘を側室にしようとしていた、それは結婚式の日に強引に奪うという筋書きである
それを土地の農民が年貢をこれ以上とられるとやっていけないとして庄屋の娘を代官にやれとまでなっていた。
すると新田村のおみかの伝説はそういう過去の歴史があって残されたものだろう。
それもここだけの話ではない、この俗謡は全国的なものであり九州から広がったらしいからだ。だからこうしたことは江戸時代に全国的にあったのかもしれない。

 十九世紀の初頭、文化の前の享和の頃、名古屋では、

神戸伝馬町箒はいらぬ
  鯛屋のお仲の裾で掃く

こういうことは誰か一人の女性がいてそれで繁盛する店のことである。村でも一人の美人がいてその娘が殿様にみそめられて側室になったら年貢が高くならず助かり楽をしたとなる  

(現在の宮城県東松島市野蒜)を拠点とした近代的な港湾計画と、運河による交通網の整備を計画した。当時の大久保 

野蒜新町 ほうきはいらぬ 若い女の すそで掃く.

これは明治時代まで全国で受け継がれた俗謡なのである。

これは別に殿様だと町娘でも農民でも気にいった女性がいれば側室にできる権力をもっていた。なぜならその村の農民に年貢を高くされたりしたら困る、一人の美人の女性がいてそれを殿様に与えれば村自体の生活が楽になるからだ
今からすると理不尽であり殿様が批判されるだろう。

でももともと武士の元をたどれば盗賊ともにている、治外法権のような所がありそこでは盗賊が支配する、するとそんなことはドラマではあからさまにしている
盗賊が支配者になるということである、みんな怖いから逆らえないのである。
それで中国で盗賊の首領が皇帝までなったということもわかるのである。
人間を支配するものは暴力と経済的富だったからである。

延宝郡上騒動(郡上藩金森家の財政難)

国家老遠藤杢助は半ば強引に江戸に出府して、常春や後見役に農民の窮状を述べ、増税を強行すれば御家の一大事を招く恐れがあると説いた。対案として家臣の俸禄六分の一を減じて財政を財政を補填すべきて訴えた。

これも年貢をめぐる騒動だった、増税派と反対派がいて騒動になった
増税派は自分たちの取り分が減ると反対した、公務員が月給が減るのだから当然反対するのと同じである。ただその月給というのが当時は米とかその他のものにかけられた税金だった、そうなると農民は増税には反対であり年貢が増えることは反対である。
当時の支配体制は侍階級の維持は年貢があって成り立っていた、それはより具体的である江戸時代は今のように複雑ではないから何でも具体的に悪が見える

年貢というのは具体的だからそこから歴史を知るのにはいい、年貢はより身近なものであり農民が汗水垂らして収穫したものを侍に納めなければならないからである。
今でも税金の関心は高い、なんでこんなにとられるんだと今でなっている
ただ今だと自分たちのためにもなるからやむなく払っているとなる
ただ現代は何でも見えにくい、複雑になりすぎているし国民となると数も多いから予算がどう使われているとかわかりにくいし関心が薄いのである。
江戸時代の藩だったら郡上藩だって二万石とか小藩だからより身近なものとして政治があった。だからその構図がわかりやすいのである。

時代劇も歴史であり歴史を学ぶにはいい、時代劇でも事実を基にしている、ただ面白いとして見ているだけでは勉強にはならない、そこに歴史の事実があるとき真面目なものとして見る、やはり歴史は事実の重みがあり成り立っている
架空のことではない、ドラマでもすべて架空のことだったらつまらないとなる
座頭とかは盲人が江戸時代に人口の8バーセントもいたというとき普通にいたのである。
それも栄養がたりないで盲人になっていた事実がある。
そして座頭転がしとか琵琶転がしとかがあり道から転落する
馬転がしとか牛転がしという地名が残るのもそうである。
目が見えなかったら道から転落しやすいのである。山道はこの辺の塩の道でも飯館村にゆく栃窪から山の道は沢沿いの道であり細いし転落したら怖いと思った。
馬で塩を運んだが一歩あやまると下の谷底に落ちるのである。
そういう道を歩むことは目が見えないとしたら本当に怖いとなる

いづれにしろ事実を裏付けにしないとドラマでもつまらない、しょせん作り事だとなってしまうからだ。そこに事実があるとき人間の真実が見えてきて参考になるのである。
そして歴史というときむずかしいものが多いがドラマだと入り安い、そんなことがどうしてあったのかと疑問をもつ歴史に興味をもつ、学者でなくても興味をもつのである。
相馬藩などもだから年貢から調べると興味深いものとなる

今まで書いたものが膨大である。その書いたものをまた再考して発展させる、それがプログとかインターネットではしやすい、本だと完結したものとして出しているがプログとかインターネットは完結しないものとして提示しているからだ
そして同じテーマでも何度も掘り下げて提示できるのが今までもの本とかとは違うものとなっている



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2015年06月25日

新地にあった「文禄」の碑 (伊達藩の検地の碑だった)


新地にあった「文禄」の碑

(伊達藩の検地の碑だった)


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新地で誤解していたのは相馬藩内だと思っていたことである。
それはなぜか?
相馬郡となっていたから相馬藩領だと誤解していた。
これは基本的知識の欠如だから相当な落度である。
普通の教育を受けていたらそういう誤解がなかった。
もう一つは今日買ってきた「新地町史」を読めなかったことである。
こういう郷土史でも基本的なものを読んでいないと誤解するのである。
歴史というのは何かわかったようでほからないのが多すぎるのである。
だから日本史でも何でも歴史は誤解しているこが非常に多いのである。

新地は相馬藩と伊達藩の境目でありそれが古代からそうだった。
宇多(相馬市)領域は南相馬市鹿島区の浮田国造が最初の領域であり
新地は亘理の領域で思国造とかあった。
これは定かでないにしろ古代から亘理が別な領域であり伊達藩との境となっていたのである。
丸森とかは山で遮られているから地形的に別な国として発展することがわかりやすい。
新地は平地であれ亘理につづいているから相馬藩の延長でもあり亘理の延長にもなる。
そこに駒ヶ峰城や画牛上や新地城で伊達藩との攻防が行われていたのである。
相馬市の領域は相馬藩が城を築くまでは伊達藩の領域だったのである。
なぜ中村に相馬藩の城が築かれたかとなると当然伊達藩の支配地域に侵入して
その土地を得たのだからそこはまた伊達藩から奪われる危険があった。
駒ヶ峰と新地では城があり攻防戦があり新地は伊達藩に帰属する結果となった。
だから相馬藩士は新地には住んでいないし代々伊達藩の武士が住んでいた地域である。
だから「黒田」という姓があるとしたらそれは伊達藩の侍の子孫であり
その他の姓にしても相馬藩の武士の子孫はいないとなる
文禄のときに秀吉の命令で厳格な検地が施行された。伊達藩ではいち早くその検地が実行された。それができたのは文禄時代にすでに新地の領域は伊達藩内として支配されるようになっていたからである。
だから年表として記憶すべきは元禄までは必要である。


文禄 ぶんろく 1592〜1595 1594 家康が田方郡の一部を大社に寄進す
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(江戸時代)
慶長 けいちょう 1596〜1614 1603 徳川家康が江戸幕府を開く
元和 げんな 1615〜1623 1621 豊臣氏が大阪夏の陣で滅びる
寛永 かんえい 1624〜1643 1636 徳川家光が大社社殿を造営する
正保 しょうほう 1644〜1647
慶安 けいあん 1648〜1651 1649 慶安の大地震(江戸3大地震のひとつ)
承応 しょうおう 1652〜1654
明暦 めいれき 1655〜1657
万治 まんじ 1658〜1660
寛文 かんぶん 1661〜1672
延宝 えんぽう 1673〜1680 1680 この頃の三島宿の家数596軒、3,814人
天和 てんな 1681〜1683
貞享 じょうきょう 1684〜1687 1687 言成地蔵の伝説が生まれる
元禄 げんろく



つまり文禄がいかに古いかわかる。相馬藩内では南相馬市の鹿島区の屋形にある田中城主の墓が慶長であり古い、それより古いのである。
伊達藩の歴史の方が古いからそうなるし記録も伊達藩には残っている。
津波の記録でも伊達藩に残るのが多く相馬藩内で残らなかったのはその時まだ相馬藩では支配がされていないからである。

だから

(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
http://musubu2.sblo.jp/article/104967935.html

ここに確かに文禄と相馬藩でも出ているがこれは検地ではない、一応相馬氏が支配領域とした所である。相馬市は文禄には検地はしていない
伊達藩では検地をしていたのだから「文禄」の碑はその時のものだろう。
検地の記念として「文禄」の碑を建てたとなる

新地の歴史は伊達藩の歴史だから相馬藩からはわかりにいのである。
新地はそもそも相馬郡になる歴史的必然性があったともいえないが
廃藩置県で丸森と角田県になる予定だったことでもわかる。
それが何か複雑な過程を経て福島県になって相馬郡になったのである。
でも古代からそうしたどっちつかずの位置にあったのが新地だったのである。

新地は谷地小屋、小川、今泉、杉目、の各村と大戸浜のうち、谷地小屋に置かれた新地駅(宿駅名)に由来があり、駒ヶ峰は単独の駒ヶ峰村に由来があってなづけられた。
(新地町史ー歴史編)

新地という名前が宿駅に由来していた。鹿島も鹿島神社に由来しても鹿島宿があり原町も原町宿があって原町市になったこととにている。
新地という名が新地町となり新地という地名が目立つようになったが実際は新地は狭い領域だった。原町ももともと野馬追いの牧があった雲雀が原がであり原町市となったのは
宿駅となったことが関係していた。

新地の歴史で面白いのは新地の浜で砂鉄がとれてそれを丸森で精錬し鉄を作っていたという、それも古代から武井遺跡は鉄を生産していたから連続性があった。
それで相馬藩は鉄を岩手県の宮古から岩泉から鉄を輸入して請戸港で仕入れて今度は葛尾村で精錬していた。
葛尾大臣がいてその鉄の生産で財を築いたのである。
こういうことは日本史でも世界史でもどこでも起きているだろう。
国交関係が悪くなれば貴重なものでも輸入できなくなる。
中国からレアメタルの輸出がおさえられて高くなり日本でも世界でも困って他からその輸入先を開発するほかないとなったのもそのためである。
ともかく相馬藩は伊達藩と密接な関係にあるから伊達藩を知らないと相馬藩もわからないとなる。
「新地町史」手元に置かないと相馬藩のことも調べられない
自転車で新地までは遠いからなかなか行けない
でも意外と鹿狼山は近いと思った。海と山との距離が新地は一番近いのである。
自転車でもそれほどの距離には感じなかった。
この距離感とか地形をまず実地に知らないと歴史はわからない
ただ基本的な教科書的知識もないどんと郷土史も誤解してしまう。
ともかくこの辺では「文禄」時代の碑があるということは相当に古いとなる。
それは伊達藩領域だから残っていたのである。

タグ:新地町
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2015年05月28日

江戸時代との対比で現代をみる (空間認識と時間認識が大規模に変わってしまった)


江戸時代との対比で現代をみる


 
(空間認識と時間認識が大規模に変わってしまった)


武士の農をはなれて、城下にあつまり、足軽中間までも城下に住居するは、治乱ともにあしき事なり。むかしは士たるものも農を本とし、在所を持て住居せり。
『集義外書』より(熊沢蕃山)

 
土着的というときいろいろな側面がある。武士でももともとは農民であったし侍になっても農業をしていた。郷士となっているのは農民であり侍である。
郷士の郷は故郷だから故郷に根付いて生活していた。
封建時代は農本主義であり農民中心の社会である。
だからいくら侍が治めるにしても八割の農民を基にして政治も成り立つのである。

現代を知るには明治維新の前の江戸時代をいすすいな側面から知らないと現代もまたわからない。
江戸時代がすべていいというのではなく江戸時代と現代を対比して現代を理解するのである。
明治維新後に失ったものが何か?それが現代の社会を知ることなのである。
まず江戸時代の地理感覚や宇宙感覚は極めて狭い、村が中心だとするとそれは極小の世界である。大きくても藩を越えることはない。
そういう世界で培われた世界観は極めて偏狭なものになる。
人間は空間認識と時間認識が基本にある。
江戸時代の空間認識は村が中心でありそこから外へと拡大したが藩が一つの国でありそれ以上は拡大しにくかった。
ただそれでも良かったのは江戸時代は外国と交わらないのだから別に外国も知る必要ないのだからそれですんでいたのである。
日本が庶民まで外国を意識するようになったのか明治維新後である。
村中心藩中心の地理感覚や世界観では生きていけなくなった。
一方で空間認識が狭いということは土着的な生活であり身の回りにあるものでまかなっていたから自然と一体化する生活だった。
だから江戸時代は自ずと土着的な生活になった。
そして土着的思考が学問しなくても体で身についていたのである。

もう一つは時間認識である。これは別にむずかしいことではなく江戸時代の時間感覚は自然とともに生活していたから自然の時間感覚が自ずと身につく生活である。
山があり木材を燃料や家を建てるために使う時山菜でも糧にするときどういう時間感覚になるのか?
樹が成長するのちは50年かかる、50年かかるときそれだけの時間感覚をもって生活していたのが江戸時代である。
50年となればもう一代ではとても山を利用できないのである。
だから江戸時代は何代も家業を受け継ぎ山を利用する。
江戸時代は職業でも代々受け継ぐのが多かった。
それは自然を糧としたから自然のサイクルに合わせるために時間感覚が長くなる
この木が育つには50年かかる、そうすると50年後のことを考えて木を植えていたのである息子にも孫の代にその木は成長して使われるのである。

そうなると代々受け継がれるものがあるから世代間のつながりもできる
それは現代で喪失したのもである。
今の時間感覚は今良ければいい、今も楽しむものだとなりとても50年後を考えて生活している人はいない。
来年は会社がなくなってしまうかもしれないとか非常に短い感覚で仕事している。
特にフリーターだ派遣だかなる時給いくらで使い捨てにされているのである。
長い時間感覚で考えられないということは世界を簡単に自然でも破壊してしまうということである。
次代のためにを考えて仕事したりしない、今を楽しみ消費することだとなってしまう。
今あるもの使い尽くして楽しみあとはどうでもいいとなってしまう。
そういう時間感覚になるとき世代間のつながりはなくなり断絶する。
現代は老人と若者は断絶している。
共通なもの共有するものがない、それは時代がめまぐるしく変化するからである

自分が石の詩を百編書いたというとき山であれ石であれ樹であれそれらは時間感覚としては長い、自然の時間感覚は長い、千歳の岩とあれば千年でありさらに億年とか長い時間感覚として石がある。
そして石は一定の場所にあって変わらないということで安定性があり土着的になる。
都会では東京などになるとそういう自然はもうない、山もない森もない、樹も石もない
ただ高層ビルがあり一分一秒を争い仕事している工業情報ビジネス社会である。
山の時間、石の時間、樹の時間、牛の時間・・・とか時間も実際はそのものに付属して時間感覚が生まれる。
今は機械の時間感覚であり機械によって時間が一秒単位で刻まれているのである。
それが文明の時間でありそこにあればとても自然の時間感覚とはかけはなれてしまう。
そもそも自然を理解するというか自然と一体化するというとき時間が必要になる。
石の時間はやはりそこに千歳の石とあるごとくそれだけの時間があって重みをましてくるのである。
文明の中で生活していればどんなことしても時間に追われるのである。

そうした土着的ものの喪失はある時文明的破綻現象として現れる
それが原発事故でもあったのだ。
原発事故が何か土着的なものと関係あるのとなるがあった。
土着的なものがあれば防げたかもしれないということである。
それは原発で働く東電の会社の人たちがもしここに何代にわたり生活するとなると
やはりと土着的思考になる。
その人たちは放射能の危険を肌で知っていた。
だからもし事故がここで起きたらここで子供を育てまた孫が生まれて代々つづき生活するとなると放射能のことを考えたかもしれない
もちろん地元の人は当然である。
ただ地元の人も放射能のことはしらない、事故が起きたらどうなるかなと考えなかった。今になって真剣に考えざるをえなくなったのである。
水とか森とか土とかまず土着的な土台となるものが汚染された。
それは致命的でありそこに住めなくなったのである。
もともと土着的であったその故郷自体を喪失してしまった奪われたというのが現実であるそれは今良ければいい、電気でも今使えればいいとか資源でも使える時使えばいいとか
何でも短い時間の単位でしか考えないし考えられないからそうなる。
そこが江戸時代の時間感覚を知り現代と対比して見直すべきことなである。
エジプト文明が3000年とかかつての文明が長持ちしたのはそうした長い時間感覚の文明だったからである。
現代のグローバル文明は百年で資源を使い果たすというかその時間感覚が短すぎる。
だから資源も消尽されて文明時代が消失してしまうかもしれないのである。
ともかく現代に起きていることは江戸時代と対比するとわかりやすいのである。
江戸時代に帰れというとかではなく対比して現代の問題が何か知るのであり
そこから現代の問題に対処してゆくのである。

とにかく現代は長期的視野をもてないことである。
今もうけなければなちらない、今成功しなければならない、十年後に成功すればいいとかならない
だから常に何か追われて生活している。
だから株のように急激にあがりま急激に落ちたり経済を動かしているのではなく翻弄されているだけだとなる。
そういう地からはなれた地につかない生活なのである。
その点貧しくても江戸時代は地につく生活はしていたのである。
だから何か人はのんびたしていたとかいい顔していたとか明治に来た外国人が見ていたのだろう。
今は何かに絶えず追われ焦燥感に満ちて疲れ一億鬱病の時代なのである。
何か幸せそうな人は顔している人はみかけないだろう。
金がいくらあっても満足していないとかかえって金持ちも余裕がないとかなっている。
幸せという観点からみれば今は物質的には恵まれても不幸な時代ともなる。
幸福とか不幸など時代によって違うから計られないのである。
病院で延命治療して一秒で長生きするのがいいかと言ったらならない
むしろ情ある人たちに囲まれて死んでいった人たちの方が幸せだったともなる。
病院で死ぬということは何か冷たい物ののようにあつかわれて死ぬからである。
病院で体をみても心はみない、ものとして人間をみて死んだらかたづけるという感覚になっているからである。
こういうことも江戸時代がすべて医療もないのだから全部が不幸だったかというとそれも計られないのである。

タグ:時間感覚
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2015年05月27日

明治以降は入会権とかの共同性は喪失した privateは奪うことでありpublic(公共性)を破壊した


明治以降は入会権とかの共同性は喪失した

privateは奪うことでありpublic(公共性)を破壊した


privateの語源を調べると、「stem of privare "to separate,deprive," from privus "one's own, individual,"」とあり、
奪う、分離するという意味があるようです。
privateとはpublicに対してprivateがある
ヨーロッパではpublic(公共性)を基に市でも作られてきた。
広場もそうであり公共のものという設計のもとに市が作られている。
それに反するのがprivateになる。
だから奪う分離するのがprivateでありいい意味には使われていない
これも日本語だと私(わたくし)するとなると奪うとういことでいい意味がない
わたくしはわたしでありわが基になっている。
わが我になる。わは割れるにもなる。我とは割れるとなるからまさに入会権の共同の山が無数にわたくしされて割れて割山になった。
それは明治維新で極端化して起きたのである。
明治維新からは日本人はわたくしすることがあからさまに強くなったのである。
江戸時代は藩主がいて庄屋が村をまとめていてpublicがありそれは拘束力になったが
わたくしするということは庄屋ですらなかったろう。
侍にしても「わたくし」するということはドラマのようにはそれほどなかった。
江戸時代は一つのpublicに公に生活していた。
それが900にも区画化され私的所有になったとき人間の心も900に割れた分割したのである江戸時代から明治の変化が現代に形を変えて継続されていたのである。

現代人の心は900どころではない、一千万の東京があるとしても心は一千万人に分割しているのである。
一千万人の人間はただ貨幣を通じて売買する時だけつながっているという感覚になる。
それは田舎でも同じであり農業があってもpublicは喪失している
むしろprivateが奪うということが民主主義であれ資本主義であれその心性はpublicに生きるということはない、そもそもpublicがないからである。
個々に分離して互いに奪うという心性になっているのだ。
逆にだから常に人間関係は奪い奪われる関係になる。
働いてもそれは労働が奪われているのであり協力しているという感覚はない
それでブラック会社に働かされて安い賃金で奪われている、搾取されているとなる
一方で他者に対してとにかく奪うという感覚になる。
安く働かせてその労働力を奪うとか国家規模になると他国の富を資源でも奪うとかなる
そもそもヨーロッパの植民地主義はアジアの資源を奪うことだったのである。

奪うというとき別に明治以降だけではなく常にあった。それは盗むにも通じている。
ただ一国とか大規模になると戦争して他国の富を奪っていたのである。
それが戦国時代だったのである。それで戦争に勝つと自国が裕福になったから戦争が指示されたという。弱肉強食が人間の歴史でもあった。
publicがあったとしても村とかの狭い範囲でありまた藩単位のpublicである。
その外になると奪う対象になっていたのである。
今や大きな国が奪い奪われる関係になっている。国と国が利権で衝突して奪い合いになっている。

奪うというとき天皇とか薩摩長州は明治維新で藩単位管理していた土地を山林でも奪ったとなる。
革命とはたいがい権力の移動であり革命そのものが権力を奪うことだから当然だとなる。だからあらゆる団体はまた奪う団体になる。わたくしする団体になる。
それは組合でも宗教団体でも同じである。
露骨に権力を奪うことを明言しているのが創価などであるが他の団体も同じなのである。国を奪うということはオウムでもオウム王国を目指していたから同じである。
だから創価では三国志をよませていかに国を奪うかを画策しているだけなのである。

漁業組合だって漁業権をたてに政府と東電から補償金を奪いとったとなる。
これも海は誰のものかというとき海をわたくしして国民から奪ったともなるのである。
個々にも奪うというわたくしすることが明治以降あからさまに容認された。
それは権利という名のもとにわたくしすることこそが正義だと戦後の民主主義でも公然のものとして容認されたのである。
それぞれがわたしくして利益を追及することが見えざる手に導かれるものとして奨励されたのである。
だから今や人間は人間にとって狼になった。
人間と人間の関係は家族でない限り奪い奪われる関係でしかなくなった。
食うか食われるかの獣社会である。互いに虎視眈々と奪おうとねらっている
食うおうと狙っているとしたら眠ることすらできなくなる。
そこに金だけが唯一の価値基準となりいかにして金をわたくしするかということが日々の活動なのである。

東電でもなぜ事故を起こしたかというとこれもpublicというものがない
privateでありあれだけの大会社でも自分の会社がよければ他はどうでもいい
政府も天下り先として検察でも用意しているから支配できる
自分の会社がよければいい、幹部なら多額の給料をもらえばそれでいい
我等の会社さえよければいいのでありあとは知らないと極端化すればなる。
会社があれだけ巨大化すると会社自体がわたくしすることが国単位になってもできる。
一つの団体が巨大化すれば宗教団体でも国をわたくしできる奪うことができる
官僚も東大閥で既得権化してその団体の利権を守るだけであり第一は官僚の利権を守ることにエネルギーが費やされる
公務員は常に批判されるけどこれも巨大な団体だから政府でもその既得権を奪うということはしない
つまり現代社会の不満はそうして巨大化する会社であれ団体であれそういうものに富がわたくしされていることに対する不満なのである。
でも結局その団体はあまりにも巨大だから何も言えないとなる。
この辺でも漁業権がどうのこうのなど事故前には言っていない、まず言えない
団体化したらどこでも何も言えなくなる、マスコミでも言えない
そういうことがどうなってゆくのか?今回の大事故や戦争とかにもまたなってゆく

だから資本主義がそれがなぜ生まれたのかとかいろいろあっても崩壊するというとき
そうしたモラルの荒廃から崩壊してゆく、誰も信じられない、信じられるのは金だけだとかなりモラルの荒廃から崩壊してゆく、人間が互いに信じられない、人間は人間にとって奪い合うものだとなるときそんな地獄のような社会に生きていたいかとなる
人間にはそういうものがもともとあったにしても欲望資本主義はその人間の悪しき面を
露骨にさせる。
何か抑制させるモラルがなければ人間は獣社会になってしまう。
そういうモラルの頽廃が限界点に達して崩壊してゆく

原発事故を起こした周辺を見れば何かそのことを象徴していた。
自分の一身上に起きたことでもそうだった。
漁業権で多額の補償金を得て原発御殿を建てたとかも本当だった。
富岡町長の五億円の金庫が津波で流れたというのも本当だろう
そういう金の噂は原発で飛び交っていたのである。
それだけの金が原発から生まれていたからである。
そして個々人をみて借金で贅沢しているというのも異常だった
借金して家を建てた人とか何か借金生活の人も多かったのである。
身の丈にあった生活など誰もしていない、金がなくても金のある生活をしていた。
そして借金で首が回らなくなりその借金を自分に肩代わりさせようと
病気のとき恐喝してきたのだから恐ろしい
そういうことをしても相手は何も感じなくなっている
それが当然であり奪うことが日々の生活だからそうなっているのかもしれないのだ。
金持ちは奪った人でありだから奪って当然だともなる
泥棒にも三分の理があるのだからそれも言える
津波とか原発事故はこうした社会のモラルの荒廃に対する自然の怒りのようにも思えたのである。
「もう醜い限りない欲望人間は一掃してやる」とノワの方舟のときのような大津波が来たのかもしれない。
そういう大転換期を迎えているのが今の現状である。


ノーベル賞受賞者で動物行動学のコンラート・ローレンツ博士はその著書『攻撃』において興味深い実験を報告している。それは、家族を形成しているネズミの群に、他のグループのネズミを放すと、あっという間に多数のネズミが襲いかかってこれを殺害してしまう、というものである。
 ローレンツ博士は「人間の社会構造はネズミのそれと大変よく似た構造を持っているのだと、十分な根拠をもって結論するだろう。人間はネズミ同様、閉じた同族の間では社会的に平和的に暮らそうとするが、自分の党派でない仲間に対しては文字通り悪魔になるのだ」といっている。

動物の行動と人間の行動はにている
人間も動物であり本能で生きる、欲望で生きる、

これで面白いのは人間でも家族でもなんでも団体化すると団体に属さないものに対しては敵対化するのである

動物にもあるとは思わなかったが団体化することは団体でわたくしすくことなのである

それは動物にあるということは人間と動物の行動は基本的ににているのである。


タグ:PRIVATE
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2015年05月26日

入会権は明治以降に私的所有に細分化 (入会権は江戸時代の村から自然発生したもの)


入会権は明治以降に私的所有に細分化

(入会権は江戸時代の村から自然発生したもの)


幕末になって本来禁止されている割山の売買が事実上行なわれるようになり, しかもその違法行為に対する制裁(割山没収)規定が有名無実化してくると山割制度はもはや村中持山(入会山)の一利用形態たるにとどまらず,村中持山(入会山)が個人持山へ移行する過渡期的現象とみなければならなくなる。幕末にこのような状態に達し,事実上個人の持山に極めて近い性質を有するに至った割山が少なくなかったが,明治維新以後部落が村氏各戸から割山を回収できなくなり,個人の私有地として登記され,個人の私有地化が完成することとなった。


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公共事業で広島であった土砂崩れで砂防ダムを作るとか他に公共事業などで所有権が900区画にも分割されていたらそれを買収する手間だけで大変な作業になる。
それで土地は国のものであり公共のものであり私的に占有されてはならないという思想が古代からあった。

江戸時代から明治時代の変化は過去を全く否定して行われたわけではない、必ず歴史には連続性があった。
入会権の歴史でもそうだった。すでに割山というのがあり山は分割されていた。
割山というのは江戸時代に地名化していた。
地名はもともと古いから明治以降地名になっているのはまれだろう。
入会権は村民が共同で生活するために必然的に生まれのである。
その土地土地を糧にしていた時代だから必然的に入会権が生まれた。
山の木を木材を家でも萱でも馬草としても炭にしてもあらゆることに利用していた時代である。
山は別に山の人だげではない、海側の人も利用していたのである。
山に草を借り馬車で橲原村まで通っていたというとき山の人だけではない、海側の人も山を利用していたのである。それは入会権があったから利用させてもらったとなる。
入会権は山でも私的所有になることはありえなかったのである。
明治にもそうした村の公的所有から私的所有へ順次移行していった。
つまり江戸時代から明治時代に何が変わったかということを知るには様々な分野があるが入会権の村の共同所有から私的所有に変わったということも重要な視点である。
そこにすでに江戸時代の共同体から培われたものがモラルでも崩壊して資本主義に工業社会に近代社会に移行したからである。

終戦後、帝室「御料林」「と「御料地」ですね、これは岩倉具視の建白書に従って、明治二十三年に4百80万町が゛あっというまに天皇家の私有財産に決められたわけでしょう
それにつづいて島津、毛利、鍋島・・それからT家のような地方の素封家が山林原野を分け取りしてしまった(土地と日本人ー司馬遼太郎対談集)

この変化も大きかった。土地が権力の象徴として歴史があったとき、村や藩を基本にして作られた共同体が明治維新で根本的に破壊されたのである。1
その変化もあまりに大きかったので日本人のもともとあったモラルは破壊されていたのである。
モラルといっても道徳も社会の生活基盤があって作られていたのである。
日本の共有された精神もそこで破壊された。
幕末に国学が起こったというのは庶民レベルでも明治維新を促進させるものがあった。
侍だけではないそういう気運があった、下から明治維新を促進させるものがあった。
ただその下からの国学の勃興は上からの富国強兵とか中央集権の強権で圧殺された。
日本の土地の歴史が日本の歴史でもあったのはヨーロッパとも共通していたろう。
それを象徴していたのが原発事故にもあった。
双葉か浪江辺りで海の前まで私的所有がありそれで東電から補償金を獲得していたという一軒一軒の家の前の海に所有権があるなど考えられない、でも補償金がもらえるしその額が多いからそれを主張して認められたともなる
ただ歴史的にそれも根拠がないものではなかった。

江戸時代の漁業法上の原則は「磯漁は地付.根付次第也、沖は入会」と明文化されている
http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp:8080/bitstream/okinawa/6461/3/V2p1.pdf

そもそも原発問題でも最初は土地の確保からはじまる、次に漁業権をおさえて県知事の許可を得ると建てられるのである。
だからそこに金をばらまけば一応原発は建てられるとなっていたのである。
要するに土地が私的所有になり細分化されて公(おおやけ)から離れてしまった。
村とか藩とかは地方の公であったがそれなくなりただ個人の私的所有だけが主張される時代になりモラルさえ荒廃したという指摘は重要である。
明治維新はもちろん功罪はあるが功の面だけが主張されすぎたのである。
フランス革命が「地籍」を明確にした。土地の所有を明確化した。
明治維新ではそれをしなかった。それが日本の異常な土地投機とかなり荒廃させた。

つまりそもそも土地所有権とかは歴史的にふりかえると常に時代を変えてきたのである。律令国家であれ鎌倉時代であり土地問題から発している。
時代を作るのが土地問題であった。
マルクスの言う資本主義の工業化が起きると農民が土地を収奪されて無産階級になったというのも明治維新で地租革命とか小作問題にも通じている。
土地というのは富と権力の象徴として常にあったからそうなっている。
カトリックが土地を所有することで腐敗したのもそうである。
土地は権力の象徴として常にあったのである。
仏教でも寺が土地を所有すると権力化するということがある。
土地をめぐって僧侶集団も争っているのである。
ともかく明治維新が継続して太平洋戦争となりさらに戦後もその継続があり現代の様々な問題がそこから発していたのである。
だから明治維新を見直さないと日本の近代史はわからないのである。






タグ:入会権
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2015年04月04日

相馬市の中村城の大手門で若い人と歴史を語る (歴史は想像力がないと見えてこない)


相馬市の中村城の大手門で若い人と歴史を語る

(歴史は想像力がないと見えてこない)

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中村城大手門の滴水瓦


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新地の神社にあった文禄の碑

滴水瓦は支那式唐草瓦(しなしきからくさがわら)、高麗瓦(こうらいがわら)、朝鮮瓦(ちょうせんがわら)とも呼ばれ、今から約600年ほど前の中国明時代に普及し、李氏朝鮮(りしちょうせん)に多大な影響を与えました。日本では豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名たちが築いた城に突如多く用いられるようになります

相馬義胤は文禄元(1592)年、豊臣秀吉に随従して肥前名護屋に陣城を築きます(文禄・慶長の役)


滴水瓦(てきすいがわら)

 瓦の瓦当面が、雨水が滴るように「雲頭形・倒三角形」に垂れ下がった軒平瓦で、一般に「朝鮮瓦」と呼ばれます。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名達が権力の象徴として、朝鮮の瓦を真似たものとされています。
 仙台城本丸跡では、瓦当中央が花菱文の滴水瓦(3点)や菊花文(10点)が出土しており、仙台城二ノ丸跡・松島瑞巌寺・利府町大沢窯跡などでも出土しています。
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/castle/08.html



相馬市の城跡の大手門の瓦も滴水瓦なのである。この時伊達藩の方から技術が伝わったのかもしれない、相馬氏は肥前名古屋城を陣を築いていた。だから朝鮮のことを知っていた新地には伊達藩の侍だった人が住んでいて相馬市との合併を拒んでいたという。その屋敷も津浪で流されたのである。伊達とは敵対しても因縁深いのが相馬藩なのである。そもそも野馬追いも伊達に対抗するための軍事訓練からはじまっていることでもわかる。
新地の神社にあった文禄の碑は何なのか?
これは文禄慶長の役とは関係ないだろう。おそらく検地の記念である。たいがい年号の記念は検地に由来しているからである。
文禄時代に検地が行われたからである。ただその時相馬藩の領域に新地は入っていないから伊達藩でした検地だったのか?慶長16年に中村城は築かれているからだ。

中村城の大手門で相馬市の若い人と歴史を語る

何か中村城の取材にきていた若い人に出会った。一人は市役所の人だろう歴史に詳しかった。
「この大手門の瓦は滴水瓦だ」
「それってなに」
「これは朝鮮系統の瓦で有名なんだよ」
「ええ、そんな瓦なの」
「そもそも瓦というのは江戸時代でも庶民の家ではない
みんな茅葺きの家だよ、瓦の家はまれだったんだよ」
「この瓦が朝鮮系統とは知らなかった」
「歴史を知るには想像力が大事なんだよ、今の時代から昔を見えない、すると想像するほかない゛瓦一つでもそこから想像をふくらませれば何の変哲もないものでも違って見えるんだよ」
そこにまた貧弱だが石垣が残っていた。これなどもあまり注意しないし見過ごしている。
「この石垣は貧弱だから野面積みだ、城の石垣でもいろいろな作り方がある、石を切って合わせるのはかなりの高度な技術が職人が必要だよ、面白いのは慶長16年にここに城を築いたとき会津の浪人がきて石垣作りを教えたという、会津はその頃先進国だったから技術も優れていた。、蒲生氏郷の時代には七層の黒川城があったからあれは見物だった、そのあと地震がきて今の五層の城になったんだよ、他にも萱葺きの職人や大工も相馬藩内に移手に職をもった人はどこでも生活できるということなんだ

「ええ、そんなこと知らないな・・・」
その若者は歴史にはほとんど興味がなかったのである。
「侍だけが大事じゃないよ、職人がいないと城も造れない、石垣だって作れないしこの滴水瓦だって作れない、だから職人を確保する必要がある、ではその職人はどこにいるのか?その職人は信長の時代は京都などの寺が雇っていた、寺が侍より力があったからな
それで信長は職人を確保するために僧侶を寺を焼き討ちして殺戮したということもあったんだよ」
「ええ、そんてことあったの、面白い」
その若者は何も知らないのだが興味をもったようだ。
歴史でも誰かが面白く話したりすると興味をもつようにもなる。
ともかくむずかしくなると誰も興味をもたないのである。
「歴史は侍だけの歴史じゃないんだよ、この辺で津浪があったけどそのことで相馬藩政記に700人溺死と一行だけ記されていたんだよ、みんなそのことを知っている人がいなかった、やたら戦争のことばかり記されていたが津浪の被害については一行だけしか記されていない、その時相馬藩は戦国時代であり戦争が多かったし秀吉、家康の時代でありなんとか領地を安堵するために努力していてそのことは記したが津浪の被害のことは一行だけであった、それからわかることはその時庶民は被害があっても自ら記すことができなかったんだ、文字も書ける人もいないしまた石碑を建てるのも財力がないとできない、伝説はわずかに残っていても注目もされなかった、庶民でも墓を建てたのは幕末であり豊かにならないと墓も作れなかったんだよ・・・・」
「墓など今じゃいくらでもあるでしょう」
「侍の歴史だけじゃないんだ、歴史は、それで柳田国男は侍の歴史だけじゃない、戦争だけが歴史じゃないと、民俗学を起こした、庶民の歴史を掘り出した、だから庶民が文字を残せないから口碑として庶民の残した伝説や伝承や祭りなどから歴史を語った」
歴史はやはりその現場に立って説明したり話したりすると現実味を帯びてくる。
だから現場に立つことが大事なのである。外国でもそうでありテレビでいくら見ても現実味を感じられないのである。
川が多いとしてその川でも現場に立てばその川の上はどうなっているのかと想像する
そこから想像がつぎつきにふくらんでくる。

相馬藩の中村城の大手門からイメージがふくらんでくる。
その時代は瓦はめずらしい、茅葺きの家がほとんどであり街中すらそうだった。
ただ田町通りは瓦屋根があった、そこは繁華な街となっていた。
連甍 両両 西東に満つ
瓦の屋根はめずらしいからこそ詩になった。回りはほとんど瓦葺きの屋根だったからである。つまりそういうことがイメージできると歴史にも興味をもつのである。
だから歴史はいかにして昔をイメージできるかということにもなる。
それは戦争のことでもすでにイメージできないものとなっているからだ。
70年すぎたらすでに戦争が何なのかイメージできないのである。
馬が多く利用されていたのは馬で荷物を武器でも何でも運んでいたからである。
トラックで運ぶようなことはなかったのである。だからあの当時の戦争は武器でもかなり技術的には貧弱なものだったのである。
戦艦大和とか船とかは技術的に進んでいても一方で馬が戦力になっていたことでは戦国時代と同じだったとなる。
現場に立つことの重要性は相馬藩の最初の城が小高に建てられていた、実際に立ってみると津浪で海が見えるようになった。
小高は意外と海が近い、駅を越えて津浪がきていたのである。
そして小高には港があり海が今の小高の城まで迫っていたのである。
その港も蔵が建ち大規模なものだった。
それで浮舟城という名にもなっていたのは舟のように浮かぶ城となれば何か港に近いからそういう名になった。
村上に一時城を移したのは港があったから港の機能として城を作ろうとしたとなる。
それが縁起が悪いとしてとりやめた理由は謎にしてもそのあと慶長の津浪に襲われた。
その時港の機能が壊滅した、文禄の記録におんふねというのが小高のみに記されている
それは港か津浪で壊滅したからかもしれない、おんふねと相当記されているのは小高だけだからである。

いづれにしろあらゆる分野で想像力が必要である。想像力は創造力なのである。
stap細胞はないのにあるとしたがもしかしたらそれはありうるものかもしれない
想像したものでも現実化することがありうるがまだその段階になっていなかったのかもしれないのだ。
だから「猿の惑星」を映画であれその小説を作った人は相当な想像力があったと関心しる現実にこの辺が猿の惑星とにたようにな状況になったということである。
あれは核戦争の後のことを描いたのだかここも原発事故で人が住めなくなった状態になった。それは核戦争後の状態とにているからだ。
大都会が壊滅するという映画はもう見飽きるくらい見ている。
でもそれが現実になるとは誰も大都会に東京に住んでいる人でも思っていない
津浪とか原発事故にあった人はそれが現実になることを不思議に思わなくなったのである大都会すら廃墟と化して人が住まなくなる、それはSF小説、映画の世界だと思っていたがこの辺ではそうは思わない、この辺は現実そのものになっているからだ。
神戸の地震だって現実であり東京でそうならないとははっきりわかる。
そのことを何度も放送してもやはり人間は変わらないのである。
人間は危機感をよほどのことでないともたないのである。
危機感の欠如が大災難をもたらすのである。
もし津浪でも原発でも危機感をもっていればこんなことにはならなかったのである。
原発がなくても死ぬわけじゃてなていからなんとか原発のない世界を作りそこで暮らすのがいいとなる。
危機感がない人はそう思わない、津浪にしてもそうである。
あれだけの災難があったらもう恐ろしくて海岸近くには人間は住めないのである。



北山八景

田町晩煙 
     
秋気晴来市肆中   秋気 晴れ来たる 市肆の中、
連甍両両満西東   連甍 両両 西東に満つ。
人烟斜繞城湟外   人烟 斜めに繞ぐる 城湟の外、
士女縦横向晩風   士女 縦横 晩風に向かう。

《意味》
秋の気配が漂い、晴れ渡った商店街、
連なった家々が向かい合って軒を並べ東西に伸びている。
人も夕餉の烟りも城堀の外に繞ぐって流れている。
男も女も晩風に向かい忙しそうに行ったり来たりしている。
 *田町=地名
 *市肆(しし)=店、商店。
 *連甍=連なった屋根。沢山の家並み。
 *両両=二つずつ。二つながら。
 *城湟=城の周りの堀。
 *士女=男と女。男女。
 *中・東・風は上平声一東韻。
 *作:水慎君奉
タグ:中村城
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2014年11月13日

鬼風の俳句集を読む (江戸時代の生活を偲ぶ言葉がでてくる)


鬼風の俳句集を読む


(江戸時代の生活を偲ぶ言葉がでてくる)

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鹿島区秋葉神社

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雨の日や客の炊きたるぬかこ飯


ぬかこ飯とはむかごのこととある。この実をだはんにまぜて炊いた。
それはまさに自然のものでありそういうものを食べていたことがわかる。
ただなぜ客なのか?客がぬかご(むかご)をもってきたのか?

梅が香に水まで白し萱の箸

茅(カヤ)の箸で食物を食べる7月(旧暦では6月)下旬の行事。新箸の祝ともいう

 軒葺(のきぶき)も芒(すすき)御はしもすすき哉   一茶

 ススキの箸は一般的にはそれぞれ自前で用意するわけですが、武井神社ではそれを神萱箸として御射山祭の日に頒布しています
 http://blog.livedoor.jp/ichironagano/archives/4621112.html
 
 箸はいいろいろあった。もともと箸は何でも箸になる。箸がなくて枝を折って箸にした箸は簡単に作れる、材料になるものはいたるところにあるのだ。
ここに萱の箸と出てくのは一つの行事として萱の箸があったためである。
普通は箸としては使っていない。

石なこの唄もほとけて梅の花

いし‐なご【石▽子】

女児の遊戯の一。石をまき、その中の一つを投げ上げておいて、下の石を拾い、落ちてくる石をつかみ取って、順に拾い尽くす遊び。お手玉などの原型。石な取り。石投げ。

筆者はこの語の語源は石投げ、であろうと推察します。 勿論、根拠はすかさず開いた古語辞典ですが、 いしなご(名詞、石投げ、女子の遊戯の一種、お手玉)によります。 この言葉が更に変化して石な取り(名詞、いしなごに同じ、石なごを取る遊び) ともいうようになったのです(宇治拾遺、雑賀、詞)。 賢明な筆者はおわかりですね、古くは宇治拾遺に名詞・いしな、が記載されており、 その意味も飛騨方言・いしな、にピタリと一致します。
http://www.geocities.jp/sashichi2004/dic/a/i/ishina.html

これはどこでも子供が石で遊んでいた。石蹴りとかもあるから神社は特に昔から子供の遊び場になっていた。秋葉神社でも子供が毎日集まっていた。
そういう風景もなくなった。

山吹の宿も芝居の留守居かな

梅遅し笠嶋あたり草履道


それまで野も山も、田も畑も、泥んこであったのが、砂埃のたつ、乾いた道に変わると、待ちに待った本格的な春が訪れた証拠である。一茶はそれを草履道と呼んで詠っている。
蝶とぶや信濃の奥の草履道\小林一茶

春樵はるごりの柴つみ車牛弱み


牛車で柴を積んで運んだ。柴は燃料であり山にとりにいった。芝居を見に行って宿が留守だったというのもそれだけ芝居を見る人がいたということになる。



歸田園居其六

陶淵明

種苗存東皋 苗を種(う)うるは東皋(とうこう)に在り
苗生滿阡陌 苗は生じて阡陌(せんはく)に満つ
雖有荷鋤倦 鋤を荷(にな)うに倦むと雖も
濁酒聊自適 濁酒聊か自ずから適う
日暮巾柴車 日暮 巾柴(きんし)の車
路暗光已夕 路暗くして光已に夕べなり
帰人望煙火 帰人 煙火を望み
稚子候簷隙 稚子 簷(ひさし)の隙(すき)をうかがう
問君亦何爲 君に問う また何を為すやと
百年會有役 百年 役有るに会す
但願桑麻成 但願わくは 桑麻(そうま)成り
蠶月得紡績 蚕月(さんげつ) 紡績を得るを
素心正如此 素心まさにかくのごとし
開徑望三益 径を開きて三益(さんえき)を望む

苗を東の沢に植え
苗はあぜ道に満ちている
鋤を担うのにあきてきたが
濁り酒は丁度よい具合に熟成した
日暮に柴を覆う車があり
路は暗くなり、まさに夕べとなった
家に帰る人は夕餉の支度の煙を見、
幼子はひさしの隙から外をうかがっている
「あなたはなぜそのような事をしているのか」とおっしゃるか?
これ(農耕)が一生涯かけての仕事なのだ
ただ願うことは桑と麻がなって
養蚕をする月(陰暦四月)に生糸ができることだ
私の願いはただそれだけだ
路を開いて三益の友(正しい人、誠実な人、見聞のひろい人)をまつとしよう

日暮巾柴車 日暮 巾柴(きんし)の車とあるから見慣れた風景でもあった。



二本松にて

氷売る声はきれたり夏の月

気の長い老いの句俳や麻地酒

麻地酒」の伝統を受け継ぎむぎ100%の焼酎が生まれたのは現六代目当主の時代である。若き当主は天然醸造ゆえに腐敗しやすい「麻地酒」を改良するために醸造酒から蒸留酒へ切り替え焼酎の製造を開始する。さらに昭和26年、麦の統制がとれてからは今迄の麹(こうじ)は米で作るものとの常識を破り米も穀物、麦も穀物、米で出来る麹が麦で出来ないはずはないと、麦麹の製法に没頭した。麦が健康食品として注目されてからは麦だけの焼酎の開発に専念。そして昭和48年、むぎ100%の本格焼酎第一号が発売されたのである。
http://www.nikaido-shuzo.co.jp/nikaido/history2.html

麻地酒〔豊後〕あさじざけ
江戸時代初期、豊後日出(ひじ)城主木下家の創醸になる諸国名酒の一つ。うるち米ともち米を半半に用い、寒仕込みしてから草や茅などで覆って土中に埋める。この特異な熟成法から《土かぶり》の異名がある。夏、熟成した酒を汲み出して飲む。肥後産のものもあるが亜流にすぎない。●麻地酒の方豊後 (*中略)人の歩き申さぬ屋根の下の風の吹ぬき候所よく寒の中に仕込来年六月の土用のうちに口を明る、色はひわ色の濁酒なり──料理&『合類日用料理抄』巻一
http://hanasakejijii.seesaa.net/article/401648043.html

...と遊び過ごして落とし味噌(秋の部)

おとしみそ【落とし味噌・落し味噌】
粒味噌をすったりこしたりせず,そのまま入れて汁を作ること。


・・・や草履をはかぬ何所の人

名月やありて苦になる水時計

水時計な度か使われていた。ただこれが苦蜷というとき時計がわずらわしいと同じである時間を気にせず名月を観賞したい、月見をしたいとなる。

松川浦眺望

こっそりと月をもてなす葦家かな

葦の家とは藁葺きの家なのか?葦と萱は違っているけど別な家のことか?
松川浦はひなびた漁村でありそんな風景があった
津島という山里にて

八朔や風呂の煙のたつ山家

八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである

見ぬ人に酢茎もら月見かな

酢茎【すぐき】
スグキナの漬物。京都上賀茂地方の特産。11〜12月,塩をふって十分のおもしで漬け,のち特殊な室(むろ)に入れ1週間ほど発酵させる。自然発酵による独特な酸味と香味が好まれる

たまさかに月見の宿や蕨餅

萩なとは催馬楽諷へ虫の中

雨の夜を崩して拾ふ柚子味噌かな

松川浦眺望

時雨るや夜喰の箸の杉くさき

夜食した箸が杉くさい、杉の箸だから、箸にもいろいろ種類があった

朝凪や死なぬ薬の雪の里

鬼風の俳句集や旅の記録が残っている。長崎まで行っているとなると全国を旅しているから江戸時代にしてはこの辺でそんな旅をした人かがいたのかとなる。
この人は相当裕福な家の人だった。吉田とあると今でもあるから吉田屋というのは呉服屋であり古いからその家の系統なのだろうか?
ただいつの時代なのか記していない。
この人の俳句で面白いと思ったのはすでに死語になった言葉がでてくる。
江戸時代だと当然そういう今では使われない廃れたものがありいくらでもある。
それは当時は生活の中で活きていた言葉なのである。
死語となったのは別に江戸時代だけではない、戦前でも戦後十年でも死語になった言葉が結構あるのだ。
だから江戸時代を探るとき、そうした死語となった言葉を探らねばならない
幸いインターネットでそうした言葉には詳しいから引用した。


この人の俳句集は旅の俳句が主でばらばらになっている。
地元のことは俳句に少ない、旅の俳句集なのである。
旅だから土地の食べ物をいろいろ書いているのかもしれない、その土地だけで食べられるものがあった。酒でも麻地酒とは九州の豊後の酒だった。これも二本松で飲んだのか?
二本松だったら九州からもそうした酒が入ってきたのか、ただ作り方が伝播されて二本松で作ったのか何かわかりにく。
ただ今ではない食べ物のことなどが良く記されているのは江戸時代はやはり土地が代われば今と違って食べ物も相当違っていたから記した。

この人は恵まれていたから長生きしたのだろう。

朝凪の死なぬ薬の雪の里

薬を飲んで死なないとは何か今の時代に通じている。病気になっても病院に行き手当てして介護するからなかなか死なないという現代に通じているのも不思議である。
ただ飢饉があったことは二カ所書いてある。旅で見聞したのだろう。
草履を履いていないとかあり草履すら買えない人がいたためだろう。
この人のことからこの辺の江戸時代のことを知りたいと思ったが旅の俳句が主だからわかりにくい。
石なことは秋葉神社などでも子供が遊んでいて俳句にしたのかもしれない
ただこの遊びはどこでもしていた。この俳句集からは地元のことがどうだったのかほとんどわからない。
それでもまだこれは地元では貴重なので考察する価値がある。










posted by 天華 at 17:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2014年11月11日

なぜ深野より大原に相馬氏が最初に入ったのか? (中世の城館を見ればわかる)


 
なぜ深野より大原に相馬氏が最初に入ったのか?

(中世の城館を見ればわかる)

 
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深野と泉では在地の勢力が大きく相馬氏は進出できないでいた。

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深野の墓地
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これは宝暦なのか?

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これは寛保である。

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これは宝永である

明暦とあるみたいだからここの墓地は相当に古い
深野館があったときからの継続もあるかもしれない
この辺では一番古いのは相馬氏の殿様の墓で慶長とかである。
ここは在地の勢力の深野館があってそのときも墓地だったかもしれない。


1655 明暦 01 江戸 053 − − −
1658 万治 01 江戸 056 − − −
1672 寛文 12 江戸 070 − − −
1680 延宝 08 江戸 078
1683 天和 03 江戸 081 − − −
1684 貞享 01 江戸 082 − − −
1703 元禄 16 江戸 101 − − −
1710 宝永 07 江戸 108 − − −
1715 正徳 05 江戸 113 − − −
1735 享保 20 江戸 133
1740 元文 05 江戸 138 − − −
1743 寛保 03 江戸 141 − − −
1747 延享 04 江戸 145
1748 寛延 01 江戸 146 − − −
1758 宝暦 08 江戸 156

宝永は読めた、 寛保もはっきりしている。
こご天しか読めないのがありこれは天和なのか?
天明はずっとあとである。
暦とあってもそれか明暦なのか宝暦なのかまぎらわしい
寶歴の方が有力である。歴の上の字が旧漢字になっているからだ

一字しか読めないのがありその解読がむずかしい
これは何か科学的な方法で調べられるかもしれない
この墓地がいつからあったのかが問題になる
宝永からはあったみたいだ
ただ墓地は墓が建てられない前からもありえる
歴史はこの時代特定するのが基本にあった
いつの時代なのかわからないと過去を探り得ようがないのである。
伝説は時代特定できないから津浪のことでもわからなくなる。
文書だと時代特定できることが強みなのである。


小池の墓地

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文化文政時代であり江戸時代後期が多い
ここの墓の特徴は立派な墓でそろっていることである
そしてなぜか大姉という女性の個人墓が半分もある
これもなぜなのかとなる



南相馬市の中世の城館

泉館
泉廃寺
泉平館
岩迫館
牛越城
岡田館
小高城
金場館
田中城
田村館
中館
西館
花輪館
東館
深野館
別所館
堀内館
真野古城
明神館
村上城
優婆館


これは相馬氏が太田に一族を引き連れて移住してきたときあった中世の城館である。
ここにはきけ旧来の勢力があった。
ただ村上とか小高とか牛越城とか中世の城館があった所を支配した所もある。
でも最初はそういう在地の勢力が強いところに入れない。
それで
(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
で書いたようになぜ大原が多く出ているのに深野はでていないことがわかる。
深野の方が開墾しやすい地であり大原はその奥だからである。
最初に入るのだったら順序としては深野になる。
そこが疑問だったがそこはもともとの在地の勢力があった深野館があった。
館という地名が残るところには中世の城館があって戦国時代になる前から在地を支配していた。最初の草分けでありそこに回りの人々が集まり小さな国を作っていたのである。
聞いた話ではある武家では回りを堀で囲んでいたという。そして殿様を迎える部屋もなっこという。ということは武家ではもともと堀之内というように堀をめぐらして防御していた。鹿島の田中城は平地にあり回りは湿地帯であり自然が堀になっていた。

中世で館と地名にあるのはたいがい山の上であり高い所にありそれば自然の要害となって敵から防御のためにそこに舘か作られたのである。
城でも古いのは山城であり次に平城になっていった。
小高城から村上城から牛越城と山城である。今の相馬市の中村は平城である。
そこに相馬市が城を築いたのは相馬氏が太田から小高城へ牛越城へと移り中世の在地の勢力を支配下に治めるためだった。
中村地域は今の相馬市は黒木氏が治めていた。それで黒木氏は伊達についたり相馬氏についたりと苦しんだのである。
つまり相馬氏が中村に移ったのは在地の中世の勢力を治めるためであるというのがわかりやすい理由である。
相馬氏が力をもったのはやはり野馬追いに象徴されるように馬を使う軍事力があったからだろう。

相馬氏の進出経路の図でわかるように最初に牛越城から入るとしたら深野になる。
そこをさけてさらに奥の山側に入ったというのは不自然だったのである。
そこは在地の勢力があり中世の城館まであったからそうなる。
つまり大原は相馬氏は移ってきたとき開墾に入ったとき何もまさしく大原だった。
在地の勢力は深野館にあって大原にはなかった。
だから深野は中世からある生活があり古い地域だった。
そこで深野の小池に行く方の台地にある墓は古い。
明暦からありもともと古い所だったのだろう。

そしてなぜ小池にも古い立派な墓があるのか?
それは士族のものであり相馬氏の一族が開墾に入った。
深野→小池と相馬氏が移って開墾した地域だったのである。
鹿島区でも中世の城館があった真野中館とか館など田中城があった所は在地の勢力があり入っていない。寺内なども総士録古支配帳にはでていない。
原町では牛越城に相馬氏が小高から城を移したのは泉氏を牽制するためだったという学者の考察は記録からみればそうなる。
泉館や泉平館や泉廃寺などがあった所であり港の機能も有していた勢力がある場所だった寺は中世でも城でもあった。
萱浜からしふさ(渋佐)の記録が総士録古支配帳にあるのもまさに泉氏が大きな勢力だからこそ相馬氏はそこをさけていたのである。
牛越城に移ったのは泉氏や深野館などがあった中世の城館の支配地域を牽制して勢力を伸ばすためたったのである。

小池の墓地は江戸時代後期のものだから新しいとしてもやはり古いものの継続がありあそこに立派な墓を残した。第一あそこにあることが解せなのである。
回りにほとんど家もないから不思議なのである。
ただ資料を見れば納得するのである。

小池の墓地の謎は大姉とついた個人墓が半分もしめていることである。
普通女性の地位は低いとされたが個人墓として女性の立派な墓がある。
武士だとすると女性の地位も高かった。または僧侶の墓かもしれない。
江戸時代は庶民では墓はなかなかもてなかった。
ただ個人墓も江戸後期から残っている。
一家とか家族の墓は明治以降なのである。
それは国の政策でそうなった。江戸時代までは個人墓かか夫婦墓である。
明治になっても継続されていて夫婦墓が多いのである。

まずこの墓は本当に謎である。これは墓しか探る手だてだないのかもしれない
墓は最後まで残ることに意義がある。この墓が無縁墓としてかたづけられると
ここに生きた人を探ることはむずかしくなる。
墓はそこに人が確かに生きていたということを感じさせるものなのである。
書類と文書みてもそういう人が生きていたという実感をもつことができない
だから郷土史には墓の研究が欠かせないのである。

相馬氏進出の経路
(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
http://musubu2.sblo.jp/article/104996155.html


タグ:相馬氏
posted by 天華 at 11:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2014年11月10日

秋葉神社の墓 (ここが墓地として捨てられたのは明治か大正?)


秋葉神社の墓


(ここが墓地として捨てられたのは明治か大正?)

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明治に森忠太郎という人が寄進している。
その森家の子孫はまだ生きている


ここに天明の墓があったことは意外だった。

天明の飢饉があり天明は特に記憶されるべき時代だった。

ただその時この辺がどういう状態にあったのかどんな暮らしをしていたのか想像つかないのである。

ここの墓は明治までは確実にあり大正時代頃無縁化した。

ここに接して森という姓の家があり広い庭があり今住んでいる。

明治時代に二十三夜塔を寄進したのは「森忠太郎」でありこれは森家の先祖である。



ここは天明から文化から明治まで継続して墓としてあった。

この墓はこの回りに住んでいた人たちの墓である。

「法印」とかあり祈祷する山伏とかも住んでいた。

これはどこにでも住んでいた。病気になれば祈るほかないからである。

加持祈祷が商売だったのである。



そのような中で天明7年5月に大坂で発生した打ちこわしはまたたく間に全国各地の都市へと広まり、江戸時代最高の打ちこわし件数を記録するに至る。特に江戸での打ちこわしは町奉行による混乱収拾が不可能な状態に陥る激しいものであった。



離農した農民たちの多くは、江戸を始めとする都市に流入した。主に生活苦によって農村から都市へと流入した農民たちは、後述する都市における階層分化によって没落した商工業者などとともに都市での貧民層を形成するようになった。天明7年5月の江戸打ちこわしでも、明和から天明期にかけて江戸近郊の関東農村から離村し、江戸に流入した人たちが打ちこわし勢に参加していたことが確認され、当時の関東地方の農村では地主から小作農までの階層分化が進み、没落した農民層が離村して江戸に流入していったことが想定される


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E6%89%93%E3%81%A1%E3%81%93%E3%82%8F%E3%81%97


 

天明時代は飢饉の時代だから全国的に影響していた。相馬藩では3三分の一に人口が減って

越中などから移民を呼んで立ち直った。ただ全国的に飢饉になり村から離れる人が多かった。

それで都会に集まったとういのもわかる。ここだけではない人口が流動化したのである。

原発事故で町村が消滅する危機になったように時代の変化で人口が流動化するのである。

それが社会変革につながる。

これは外国でも同じらしい、何か天候の異変などで凶作になったりして大移動があった。

それがゲルマン人の大移動とか有名だけど世界的に人口は移動している。

人間は普通は移動したくない、慣れ親しんだ所にいたいのである。

でも移動が強いられる。満州に移動したのは農業社会では土地が得たいからそうなった。

実はそうした大規模なの移動が戦争になっているのだ。


 

こうした神社とか寺は昔は一つの共同体のシンボルとしてあり実際に機能していた。

だから二十三夜でも講がありおんな集まっていた。

つまりこうした神社とか社が無数にあるのはただあるのではない

生活の中で活きていたとき意味があった。

だから村々でも町でも昔は狭い地域で生活していたからそうなる。

車もないし遠くへ行くことはない生活である。

毎日隣近所とか顔合わせて狭い地域で暮らしていたのである。

身の回りのことでも近くてすましていたのである。

第一今のように原町や相馬市までだって行くことはまれだったろう。

確かに汽車が通じても汽車賃が高くて歩いて行ったとか言う人が多いのである。

汽車は客車というより最初は貨物輸送が主だったのだろう。

それで原町機関区が木材や石材の積み出しのために設置された。

平機関区は石炭を東京に運ぶために設置されたのである。


 

神社は子供の遊び場にもなっていた。

自分の子供のときは子供が多いから毎日群がって遊んでいたのである。

そのころはまだ近隣中心の生活だったのである。買い物でもそうである。

魚屋があり駄菓子屋があり豆腐屋があり酒屋があり職人の大工や指し物師がいたり

近くにあるもので用をたししていた。

地球の裏側から物が入ってくる時代とはあまりにも違っていたのである。

米だって地元でとれたものであり野菜だってそうである。

他の県から九州とか来るはずがなかった。

バナナさえ戦後十年くらいは売っていない、バナナの叩き売りというのは秋市とか市が立ったとき売っていたのである。店では売っていない。

自分の父親が病気になったときバナナを食べさせるために仙台まで姉が行って買ってきたバナナがそれだけ貴重なものだったのである。


 

何かわからないが中学辺りから急速に高度成長化したみたいなのだ。

東京オリンピックのときはもう高度成長へうなぎのぼりに経済は発展したのである。

高度成長といっても実際は二十年くらいだったのかもしれない。

あのころはみんな景気が良かったから今のような時代とは違っていた。

企業戦士とか言われたのもそれだけ日本経済か世界へ進出していた時代だったからであるそれで金の卵として中卒で東京に労働力として集められたのである。

その時クラスで大学に行ったの4,5人だった。高校に行ったのも半分にも満たないくらいだったのである。文系の大学を今廃止しろというのもわかる。大学は遊びの場でしかなかったのである。


 

今国に余裕がなくなったので予算が回せない、そしてグローバルで競争する人材を育成しなければならないから文系はいらないという議論になっている。

文系は自分がしてきたようにほとんど独学でできる。

今ならなおさらそうである。大学に行かなくてもそういう環境はネットでも通販でもそうだし整ってきたからである。

第一専門的な本を買うのにこの辺では売っていないから仙台まで行くほかなかったのである。今はボタンを押せば次の日に本が届いているのである。

ただ自分の行った大学は東京でもすでに大衆化した大学でありマンモス大学だった。

だから3000人とか入れる講堂で講義していたからみんなやる気がなくなっていた。

それが学生運動が起きた原因でもあった。

一方は汚い工場で油まみれになり狭い宿舎で中卒は働いていたのである。

その時はどこも人手不足であり小さな工場でも店でも繁盛していたのである。


 

いづれにしろ神社は江戸時代は近隣の生活の要の場所としてあった。

今は全く機能しないのは社会が変わりすぎたのである。

隣の人間が何をしているのか田舎でもわからないというときそうである。

まず都会だったらますますわからない、それだけ無数の職業が生まれ分化してしまったのである。

だから農民が八割という時代が戦前でもそうであり長く歴史的にはつづいた。

そういうときは農民的感情で国も一つになれていたのである。

そういうものが高度成長時代からは特に破壊されて感情的にも人間はバラバラにされていたのである。


 

現実に農業では食えないとか跡継ぎがいないとか漁業ではやっていけない、林業は外材で衰退したとかこれまでの産業が衰退産業となり原発が誘致されたのである。

そうした時代の変化で原発事故が起きたとなる。

現代の繁栄は何か無理した虚飾の繁栄という側面があった。

生活の基本となる第一次産業が衰退して低くみられたことが原発事故の要因にもなっていたのである。

ただ電気がいらないとかではない、危険を犯してまで経済成長が必要なのかどうかが問われたのである。

今の生活は本当に最低の人でも昔から比べた最高の生活なのである。

貧乏でも刺身を食べない人はいない、自分の父親はサシミが食べられるようになったが

食べたくないと言って死んだいった。


 

だからつくづく人間は昔の事を家族でも近隣でも知る必要がある。

これにはこんな意味があったのかとこんな貧しい生活をしていたのかとか

こんなことで苦労していたのかとか家族でもその家族なりの苦労があた語られる。

そういうことが死んだ後にそういうことだったのかとわかる。

生きているうちはなかなかわからないのである。

やはり祖父母とか親の代になるとまだ生々しいものとして記憶されているかそうなる。

でも死んでから何かさらにその語った事生きた事の意味が深く感じられるのである。

これは大きな国の歴史でもそうである。



 

歴史というと何かむずかしく考えるけど実際は祖父母とか親のことを知るというこにはじまっている。

そういう身近なものさえ何なのか死んでからかなりの年数たって親のありがたみがわかったとかなる。

ただ今は親孝行したいとは親がいないとはならない。必ず親がいるし親孝行をさせられる時代なのである。必ず介護させられる。

だから今度は子供を粗末にすると介護のとき困るとなる。

戦前までは子供は労働力であり親に使われるものだった。

それが逆になったのだけど今度は逆に必ず親孝行は強いられる。介護問題が必ず起きてくる。それも時代の変化だった。








タグ:天明の神社
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2014年10月28日

相馬氏進出の経路 (文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)


 
相馬氏進出の経路


(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)


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やえこめ(八重米)からまず相馬氏が進出した。

だからそこに初発神社を建てた

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しふさ(渋佐)にも相馬氏は慶長津波の前に進出していた?

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女場(おなは)という地名のある位置に注目

津波がここまで来ていた。

角部はつのほうとして記されている

塚原はつさはらとして記されている

村上も記されているからこの辺は相馬氏では重要な地帯だった

それは舟運の港があり女場(おなは)は最初の港かもしれない。

深い入江になっているし港に適していた。

そこまで津波が来ていたことはもともと海が深く入りこんでいたと思われるからである


クリック拡大するとはっきりします

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(小高)
おなは(女場)
つのほう(角部)
村上
つさはら(塚原)
鳩原(山側)

(原町)
かや浜
しふさ
高倉
羽鳥(はとり)
江井
太田
牛越
かや崎
大原
谷河原
はの倉(羽倉)
やいこめさい(八重米)
谷加平
牛来
太田中島
目々沢
高平
谷が原
高の倉

鶴が谷
大和田
新田
高平
おおわた
つるかや
やかはら
(鹿島ー北郷)
とちくほ
山下
やす倉
小池
ゆノ木



相馬氏の進出した経路はまずやえこめ(八重米)から坂を下って今の片倉村に入った。そこに初発神社を祭ったのはここに始まるとして祈願して建てたことがわかる。
片倉という地名はなく羽倉(はのくら)はてている。
大田神社が最初に相馬氏の移住先の根拠地になった。
この地名からは相馬氏の進出経路が見えてくるのである。
地名の中で牛来玄番という人が相馬氏に従ったものとして記されている。すると牛来というのは姓か地名化したのだろうか?巣江(須江)という姓もあり末であり末の森とか浪江にありその名が地名化したのか?姓が地名化することはまれである。
相馬地方に中世の館(たち)が38もあった。そこに相馬氏が進出してきて動乱になった。
在地の勢力となっていた豪族がいた。それは中世の館を中心にして治めていた。
つまり小高城とか牛越城ができるまえにそうした館が38もあったのである。
それはいわば草分け百姓が成長して館を構えその回りに人が集まったのである。
相馬氏は新来者でありそうしたもともとの地元の勢力を治めねばならなかった。
この辺一帯は鹿島区の鎌倉から来た岩松氏が最初に治めていたのである。

中の郷(原町)、小高郷ばかりは御手に入りそのほかは服従しないために人夫でしばらく太田の別所の館を普請して在城された。


なぜ北郷と鹿島区か名付けられたかというとそれは単に太田や小高から北にあるからではない、相馬氏の支配領域に入らない地としての北郷なのである。だから文禄士録帳にはわざわざ北郷の・・・と記してある。岩松氏などの旧勢力が力をもっていたからそうなる。
そしてこの地図に示したように山側から海側に進出している。中心部は欠けている。
原町でも高倉とか大原に進出して鹿島区でも小池とか山下とかとちくほ(栃窪)に進出してゆノ木(柚木)の名が記されている。
柚木は今でも相馬市であり鹿島(北郷)の境になっている。それは相馬氏が進出していたからかとなる。
深野(ふこうの)から小池に出る所に古い墓地がありそこに武家の立派な墓がいくつも残っていることを紹介したがそれもこの相馬氏の進出経路と関係しているのかもしれない。
大原の名は一番多くでているから小池は隣り合って相馬氏が早くから進出していたのかもしれない、ただ小池の墓は江戸時代後期のものである。

原町では不思議なのはかや浜としふさ(渋佐)にすでに進出していた。かや浜はもともとはかい浜と呼ばれていたがかや浜と記されている。
つまり相馬氏が進出してきた時、かや浜と変えたのだろうか?
発音を聞き違えてそうなることが地名には良くあることだからである。
ただしふさ(渋佐)にすでに相馬氏が進出したとなると慶長津波の前なのである。
するとすでに渋佐に人が住んでいた。そこは湊の機能があったのだろう。
慶長津波の前に人が住んでいてかや浜にも人が住んでいても慶長津波の記録は残されていない。そこは相馬氏が進出して住んだ地域だともなるとまた解せないのである。
どうしても慶長津波のことが記録にないから探りえようがないとなる。
ただ700人溺死と一行記されたのは溺死となると溺れた人となる。
700人の死者を確認できたのかという疑問である。今回の津波でもそもそも行方不明者が多いだろう。当時はそれ以上に行方不明者が多くなる。探しようがないからだ。
だから700人溺死とは死者として死体があがり確認された人数である。
当時ではその何倍もの行方不明者がいたかもしれない、するとこの数からすればどれだけの被害があったのか、今回の津波と同じように大きな被害があったとなる。
そういうことが全く記されていないし謎なのである。

ただ慶長津波のすぐあとに中村城に移ったということがその時期があまりにも慶長津波があってからだから何かあったのかと詮索するのは当然なのである。
津波の影響があってその時期に移転を決められたということもある。
津波が大きな契機となり中村に移転したともとれるのである。
ともかくこの文禄士録帳は相当に貴重な記録である。
相馬氏関係では一番古い資料だから貴重だとなる。
何か郷土史でも貴重な資料がありまずそこから郷土史研究の手がかりとなる。
これはその一つである。
タグ:相馬氏
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2014年10月27日

文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名 (深野がなぜふこうのとなるのか地名の謎)


文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名


(深野がなぜふこうのとなるのか地名の謎)

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(小高)

御なはニ御百姓くみの
つのほう(角部)
・・・・・・
(原町)
かや浜
高倉
羽鳥(はとり)
江井
太田
牛越
かや崎
つち内
下沢
(双葉)
新山
けちう
立野ニなこ地備後守
こうかや
さいの内
宮田
こまはの
大森
むないり
せきはの
こいし
清水の
いしはし
いりの
中島
たたき田
(原町)
大原
谷河原
鳩原
はの倉
やいこめさい
谷加平
牛来
太田中島
目々沢
高平
谷が原
高の倉
しふさ
鶴が谷
大和田
新田
高平
おおわた
つるかや
やかはら
かなわ
大井
こやき
かん崎
(浪江)
たかの
なんとう内
やかはら
(小高)
川ふさ
おなはの
村上
かやしき
えひさわ
(鹿島)
とちくほ
山下
やす倉
小池
(浪江)
おみの
大加り
かうの草
末の森
たかつか
さかいの
かりやとの
宮田
いての
小野田
高瀬
岩井沢
こわなし
ふるみち
根本の
はんかい
夫沢
(小高)
おなは
もと城のうち
北目
なてかつか
山田
おおかい
ゆノ木
中山
椎葉
つさ原



郷土史は何を手がかりとするかというと野馬追いから探る人もいるしいろいろな方面からアプローチできる。自分の場合は地名だった。
何か深野がふこうのとなっているのがなぜだろうと必ず疑問になる。
深野をどうしてもふこうのとは読めないからである。
こういうときインターネットで大阪に深野という地名がありそれをふこのと呼んでいる。

大阪府大東市深野(ふこの)

深日(ふけ)に続いて「深」という字をどう読ませるかが難点です。
 「ふかの」でも「ふけの」でもありません。「ふこの」が正解。って読めませんよ、やっぱり。
 元々このあたりは水郷地帯だったようで、「深野」は「ふこうの」と読んだのが約まったのではないかと


ふこのはふこうのになる。深野をここではふこのと呼んでいる
これはここが深野をふこのと呼びふこうのとなったと推測しても不思議ではない。
ではなぜそうなのか?フケルから深野になったことは確かである。
ただおそらく大阪ではフケル→フケをフコと言っていたのかもしれない、一種の方言だったかもしれない、ではなぜふこのがふこうのとなりここに残っているのか
これは伝播地名なのかもしれない。
移住してきた人がその方言をもちこんできてここで名付けた。
ふこのがいつしかふこうのと呼ぶようになった。そいうことは地名によく我ことだからである。


もともと相馬氏一族でも元は千葉氏であり千葉氏は西の方から関東に移ってきたものである。
だから和泉守という大阪に由来するものもいるし全国の・・・・守がいる。小浜備後守、木幡駿河守、木幡出雲守、大友美濃守、俵口肥後守、赤沢伊豆守、渡辺豊後守、・・・・などがいた。
深野に深野の姓を名乗るとき深野という地名がもともとあってその土地を地名を姓にした。
もともとは別な姓だった。
日立木の立谷はもともと熊野信仰をたずさえて移住してきた和歌山県であり鈴木といか姓だったかその土地の名をとって立谷として土着したのである。
ただこの総士録古支配帳には深野というふこうのという地名はでていない。
大原はでているから大原の方が深野より古いのかとなる。
ただここに記された地名は一番古いことは確かである。

なぜならおなは御なはであり小名浜(おなはま)とあるがもともと御なはでありマはあとからつけられた。
だから沖縄の那覇(なは)が古い地名の元なのである。

「“那覇(なは)”の語源は、漁場を表す“なふぁ”からきている」


沖縄とは沖の漁場ともなる。小那覇(おなは)という地名もある。
沖縄はやはり古い日本を残しているから地名でも共通性がある。
小名浜がまぎらしいのは小名浜がおなはーまであり浜ではないのである。
当て字の感じでまぎらわしくなったのである。
小高には湊があり舟もたくさん入っていたし舟持ちも多数いた。
それはこの記録に記されている。漁場でもあった。
小高はその頃は入り江であり湊と漁場にふさわしい場所だった。
今回の津波でわかったように駅を越えて津波がきていたのである。
だから小高の城が浮舟城と呼んだのは何かそういうことと関係しているかもしれない。

ともかくここにでている地名は相馬藩の基になっているから重要である。
ただここに記されていない地名はどうなっていたのかわからない。
なぜ記されなかったのかそのあとに名付けられたのかわかりにくい。
なぜなら古代の和名抄にのっている地名は一番古いからである。
真野という万葉集に出ていた地名かそうである。
それがこの記録にはでていないし他にもかなりでていないのがある。
不思議なのは大原という地名は一番でている。
原町で最初に開かれた地が大原だったのかとなる。

総士録古支配帳となるとやはり相馬氏一族の武士が郷士として最初に土着した所の地名が記されているのかもしれない、そこにはすでに大熊や双葉や浪江もあった。
その辺のも相馬氏の支配下に入った時記されたものだろう。
だからこの地名と今の地名をあわせると当時の様子がわかるかもしれない。
かや浜などは文禄時代でもすでに村落があったのである。
それは高台であった。かや浜の湊は後に人が住んでのであり慶長津波の前には人が住んでいてかったかもしれない、でもかや浜の高台には人はが住んでいたのである。






posted by 天華 at 15:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2014年10月10日

相馬藩の生きた歴史を語る相馬市飯豊の阿部氏の由来 (小高から始まっている相馬藩の歴史をふりかえり復興へ)


相馬藩の生きた歴史を語る相馬市飯豊の阿部氏の由来

(小高から始まっている相馬藩の歴史をふりかえり復興へ)

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阿部の名前がここに記されている

郷土史研究の基本はその土地の村でも町でも新旧を知ることである。
古いと思っていたところが新しく新しいと思っていた所が古かったりすることはよくあることである。
例えば原町市の中心部は市街になっているから古いと思っている人がいるだろう。
ところがあそこは江戸時代は野馬を放牧していた原っぱだっのである。
最初は本当に野馬を放牧していた放し飼いにされていた。
あとから野馬土手が作られた。その前はだから畑に馬が入ってきて困ったとかあり記録にも残されている。
戦国時代には馬は戦闘用としてどこでも飼われていた。広大な牧がどこにでもあった。
今のような稲田が広がる風景ではない、馬を飼っている広い牧がある風景なのである。
だから今になると原町が市街化しているからそこが広大な野馬の放牧場だったということが想像すらできない状態になっているのだ。
原町というとき原っぱの意味でありこれは各地にありそこは原っぱだったのである。その名残として野馬追いの神旗争奪戦が行われる雲雀が原がある。原町はのちにまた宿場町になった。
だから地元の人でも意外とこの新旧を知らないから必ず昔を間違ってイメージするようになる。
ヨーロッパ辺りだと旧市街と新しい街は明確に分かれているからわかり安い。
観光するときは旧市街を回ればいいのである。

日本は街が雑然となっていてわかりにくいのである。ただ城があれば城下町でありそこが古いとなる。
原町で古いのは深野とか大原だった。あそこは原町ではかえって一番古い場所なのである。
そこは野馬土手の外にありそこは米を作るために田が作られていった場所だったのである。
今はかえって原町の中心が街内のようになっていて深野(ふこうの)とか大原は辺鄙なさびれた場所のように錯覚するのである。
このことは他でもありその街の新旧はわかりにくいのである。
今回相馬市で新しくできた郷土資料館とか郷土館とか訪ねてみた。そこで案内した人が「阿部氏」でありその人の由来は1300年ころまでさかのぼれると言うので驚いた。
そんな人に実際会っていないから余計にそうだった。その阿部氏の由来は明確なのである。
その末裔の人が言うには奥相史と残っている資料は北相史のことだという。
それは相馬氏の基になった千葉市流山市とかがあそこから北に位置する茨城の行方に移ったので北相史になったという。
相馬地方はもともと古代には行方郡になっていた。茨城県からの移住地だったのである。
その後相馬氏が移住してきた。相馬氏が移住した最初の地が小高だった。つまり相馬藩誕生の地は小高だった。
相馬藩を歴史を知るには小高からはじめねばならないのである。鹿島は北郷であり小高から北だから北郷となっていたのである。方角地名は中心地から見た方向なのである。
そのことが良く相馬藩内でも知っていてもどうしても今の城のある中村であり
相馬市を中心に考える。つまり小高が相馬藩の歴史では一番古く歴史をたどると小高から始めねばならないのである。
そのことを具体的に阿部氏の末裔が語ってくれたので生きた歴史を感じたのである。
小高には野馬掛けとかあり野馬追いの起源になる祭りが残っているのもそのためなのである。
塚原とか村上に大きな船も入る湊があった。蔵院とかあるから大きな湊だった。中世は意外と船運が盛んであり村上に一時城を移すことを計画したのはそのためだった。
そこにはおん舟という文禄高調に記されているのを書いた。その数も多いから相当な舟がそこにあった。それは八沢浦にも湊があり七荷を運んでいたとありそれは大きな舟だったのである。
相馬市の吉田屋の記録では松川浦で会津まで運んでいたということが記されている。それはニシンとか塩とか他にもあった。
相馬市の今の中村に城を移したのは松川浦が湊となっていたからである。今でも松川浦は漁港だけではない、貿易の港ととして機能している。
ただ小さいので飯館村の木材などは石巻から出していたのである。中古車販売の島商会はロシアに輸出しているが松川浦の原釜から出しているから継続がある。

その人の話で面白かったのは阿部家には長櫃に50ふりもの刀が入っていたという、在郷給人でありその土地を束ねる地位にあった。槍持として相馬氏に仕えていたという。
その槍の一部も残っていたが売ってしまったという。50ふりの刀を用意していたのはやはり戦国時代はそうだったのだろう。まず武器が無いと戦いないのだから武器は重要になる。
その50ふりの刀がありそれを家来に配って戦うことになるからだ。戦国時代の様子がその話から具体性を帯びているのだ。
阿部氏は小高から今の相馬市の松川浦近くの飯豊に土地を賜りその一帯を開墾して草分けになった。
その碑が飯豊に立っているから由来が明確なのである。
そして程田の隣に新田とあるがそこはすでに元禄時代に開拓されていたのである。原町の津波で開拓した金沢も元禄に開拓されたから古いのである。
日本全国でも元禄時代は開拓地が広がり豊かになった時代である。
だから葛尾村(かつろう)の落合に元禄の碑があったからあんな山奥でもすでに元禄時代になるとかなり住む人も増えてきたのである。
元禄時代という芭蕉の時代でもあった。俳句もそれなりに盛んになったから文化的にも華やかなものか生まれた時代である。
つまり新田という地名が各地にあるがその時代を見ると新田でも意外と古いものになる。
小高から今の相馬市の中村に移ったのは慶長津波のあったあとの1611年の11月とかであった。そのあとに開拓された程田とか新田は古い地域になっているのだ。

秋の日に阿部氏の由来語るかな小高にはじまる相馬の歴史

小高にきて城跡にひびく蝉の声ここち立ちにつ復興願ふ

小高は相馬藩の歴史では大事な場所、起源の地だったのである。そういう歴史があるとき、小高が欠けては相馬藩の歴史の消失になる。
歴史的観点からみると復興するということは歴史を継承するということにもある。
先祖がどうのこうのというとき実は日本の歴史でも歴史が何かわからなくなっている。身近に考えれば歴史とは家の歴史になる。
最も身近なのは知っている家族のことである。ただ最近は墓参りでも知っている人に参るのであり先祖ではないというのわかる。
なぜなら先祖でもあったことも無い人は他人と同じになってしまうからである。
ただ歴史というとき別に直接にあった人のことではない、でも何かしら伝えるものがあって歴史がある。
人間は道具を作るものたとか言葉を話すものだがとか定義するが人間の人間たる所以は歴史として人間が生まれてきているのである。
だから先祖を誇りにてらないと子孫もだめになるということがあるたろう。
先祖を見習い今を正すということがある。そうすると人間形成しやすいのである。
国の教育だったそうである。先祖の悪いことばかり言っていたら現実的に日本なんか戦争で他国を殺すばかりの悪い国でしかない、なくなってもかまわないとかなる。
そういうことが戦後影響して今日モラルの頽廃が生まれたのである。つまり家でもその先祖であれ親であれ何かしら誇りに思えないと子孫も良くはせ育たないのである。
先祖の影響で病気になったとか何になったのかとは別である。そもそも精神的そういう悪いことばかり言っていたら今を生きている人たちに影響か大きいのである。
歴史だってどうしていい面と悪い面が必ずありその悪い面だけをとりあげるときりがない、良い面も歴史でも人間個人でもとりあげる必要がある。

元禄の碑のあったのは程田ではなく新田だった
http://musubu.sblo.jp/article/65966172.html
タグ:小高
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2014年07月31日

文禄二年 総士禄高調の謎 (原町は深野や大原が先に開墾された)


 
文禄二年 総士禄高調の謎


(原町は深野や大原が先に開墾された)


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相馬市史6参考

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新地地ある文禄の碑と関係あるのか

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大原が多い

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文化と記されている

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立派な石がここには多いのはなぜ?


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深野(ふこうの)の墓地に天保と記されている

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野馬土手に囲まれていた周辺部に士禄が記されている





原町区

大原 15
かや浜 12
高平 8
牛越 8
太田 7
高倉 7
かうの草 (深野ーふこうの)5
しふさ(渋佐) 2
牛来 1

北郷 5
北郷 かしまに 1
小池
山下



文禄二年といったら1593年でありこの辺では一番古い。こういう時代の記録だから貴重である。文目で計算しているがここではその土地に在住した農民とか侍、郷士など士禄である。原町区と鹿島区(北郷)だけをとりあげたがその地域が非常に限られている。
北郷(鹿島区)だとかしま(村)と小池しかでていない、これはどはういうことなのか?
文禄時代にはそこにまだ士禄を調べる人たちが住んでいなかったのか?
小高やしねは(浪江)もでている。小高はもっと地域がでている。小高は相馬氏の最初の城があったところだからむしろ北郷などより鹿島より古い歴史をもっている。相馬氏関連としてはそうである。
ここで不思議なのは大原が一番士禄にのっている人が多かったことである。今なら大原ははずれている山側にある。そしてかや浜も多い、それはなぜなのか?
これは今の中心地域はもともと原っぱでありあとで野馬追いの馬の放牧場になった。
早くから開拓されたのは雲雀が原から放牧場になった広い範囲がありその周辺地域が先に開発された。だから大原はその牧から相当離れている。
大原に近接するかうの草(深野ーふこうの)もそうである。高倉も山側であり離れている。今の原町の中心部は原っぱでありあとから開発された地域である。
そこは宿場町として発展したのであり田畑にした地域ではない。原っぱの中に宿場町が生れたのである。

ただなぜかや浜が意外と多いのか、あそこは今回津波で壊滅したけど高台の方は残った。それでも被害があった、それでもかや浜は早くから開拓されていた。
だから慶長津波の来る前からかや浜は開拓されていて村を形成していたのである。
ただ津波で壊滅した低地はあとから開拓された。
文禄時代になるとまだ相馬氏がこの地に勢力をもって支配していたとはならない、
小高城があり村上に移り牛越に城を移し中村城に移ったがこれらは慶長年間であり文禄ではないからだ。文禄になれば相馬藩政記でも記録にないことが多いだろう。

だから北郷という名は小高城があったとき、小高から北にある郷として名付けられた。
小高に相馬氏の最初の城があったのだから小高が古いのである。
太田神社も基点となった所である。そこから北だから北郷になった。
その北郷はただ北郷となっていてかしまと小池と山下しか地名がでていないのだ。
他はまだ相馬氏の士禄にはないということは支配するものとしてなかった。
相馬氏の士禄を与えるものが侍が住んでいなかったのかとなる。
小高は地名がでているからだ。
そしてなぜかしまと小池だけがでているのかということなのだ。
屋形とか海老とか横手も浮田もでていないのだ。
小池が意外と先に相馬氏の支配下にあり開拓されたとなる。
その理由の推測として中世の館(たち)が相馬藩内に38もありその館の支配下にあったものはまだ相馬氏に服属していないから士禄が与えられなかった。
特に北郷は小高よりも原町よりも中村よりも相馬氏の支配下に入るのが遅かった。
田中城がある田中領分とあるからそこは文禄時代に相馬氏の領内になったのだろう。

今回なぜこの記録に注目したかというと小池原の墓地を見たら文化、文政とか古い墓があったからだ。あんなところにどうしてあるのだろうと不思議に思った。
そこには家というのもまばらであり今でも原っぱなのである。なぜあんなところに古い墓があるのか?それもそれなりの石を使っているし戒名も明確に刻まれている。
橲原(じさばら)と栃窪とかこうした古い墓地があり今は使われていないものがある。
でも粗末な石でありいつの時代かもわからない、橲原(じさばら)の今は使われない墓地は明治時代であり開墾に入った人たちの無名の人の墓である。だから石も粗末で小さいのである。戒名もはっきりしないのである。戒名も今でもそうだけどつけてもらうにはそれなりの財力がないとできない。
だから小池原の墓地は不思議だと思った。あそこは墓地でも捨てられた墓地であり後がつづいていない、たいがい古い墓地でも必ず今の人の墓が継続して作られているのが多いからである。なんらかでその子孫が絶えたのかとなる。そもそもあそこには家がまばらでありそれだけの墓地を作る村があったとは思えないのである。
だからどういうわけであそこに古い墓地があるのが謎である。
推測としてはむしろ小池より深野(この草)とか大原より開墾に入った人たちかもしれない地理的に連続していて大原と深野は文禄時代から開墾されて士禄が与えられていた人たちが住んでいたからだ。

郷土史研究で大事なのは村の新旧なのである。古いと思っていたところが新しいこともあり新しいと思っていた土地が古くから人が住んで開墾されていたとかある。
今回の小池原の墓地は新しいと思ったが古いということでもわかる。
深野(ふこうの)も大原も原町の中心部より古い、かや浜も古かったのである。
深野の台地に広い墓地があり岡田氏などの墓があった。天保と記された墓もあったが
天保よりも文化文政の小池の墓は古いのである。
そして深野の不思議は野馬追いに21騎が出ていて旗印が出ていたことである。
そんなに深野に野馬追いに出る人がいたのか?侍がいたのかとなる。
何か特別の事情があったのかとなる。
雲雀が原で出会った人も甲冑競馬に出ていたという深野の人だった。
いづれにしろ郷土史が墓地をみる必要があるというとき墓地は具体的だから郷土史を実感しやすいのである。

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2014年05月25日

津波の跡に残った越中からの移民の由来を記した碑 (鹿島区小島田の真野小学校の近く)


津波の跡に残った越中からの移民の由来を記した碑


(鹿島区小島田の真野小学校の近く)


故郷に北陸よりの移民の碑残る思いや津波の跡に


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字がよみづらいです、要点だけを書き出しました

北陸之地仏法・・真宗・・・祖名久治朗・・明和8年(1771)・・

越中 中田郷・・・妻 曽与 文政10年(1827)久治朗没 亭年57
奥相馬藩 八右衛門 文政12年(1829) 山中郷母子 夫妻別浪江 八右衛門斡旋
名改万蔵 安政3年(1856) 清吉


大正13年の碑
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ここはこんな状態だった

ただこの辺には家はわずかしかなかった



この碑は真野小学校の近くにあった。大正13年に建てられた。越中からの移民を記念した碑であることにはまちがいない。
はっきりしているのは最初に来た人が明和8年(1771)であり久治朗が生まれた。
その後10年後に天明大飢饉が起きて相馬に移民した。
何歳に来たかはわからないが明かに天明飢饉以後に来たのである。

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年齢的には天明飢饉以後に移民した。
20歳以上であった

この人の出身は越中中田郷である。この辺で中田という姓の人は近くにもいるが明らかにその子孫になる。
中田の姓ば越中の移民から来ている。

それからよくわからなのが八右衛門と名がでてきて山中郷とでてきて浪江と出てきているのも不思議である。
これらの関係は何らか結婚などで縁戚関係になったのだろう。
山中郷は今の飯館村や葛尾村(かつろう)である。

万蔵とか清吉という名もでてくる。この辺では相馬藩内で縁戚関係になっている人は多い。
だから今でもそうであるが江戸時代だったら相馬藩内で縁戚関係になる人はずっと多いからそうなる。


自分の縁戚関係でも浪江があり双葉で父は働いていたし出身は葛尾村だった。
相馬藩では越中などからの移民が三分の一もいるから実に多いしその子孫も多いということになる。

この碑は大正13年に建てられた。ここに住んでいる人はが記念して建てた。
ここはちょうど津波が来た。驚いたのは船がここまで流れてきたことだった。
この辺はまだ津波の高さは低いにしろ流れたきたものが船であり
他にも瓦礫が流れてきて山のようになっていたのである。
幸いこの碑は流されなかったのは海から3キロ以上離れているからであった。
海老と右田とか烏崎にあったがこうした記念の碑や神社は流されてなくなった。
真野小学校も被害を受けて廃校になった。


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2014年04月01日

南相馬市の大原から八木沢峠へ (バラ坂の地名由来の考察)


南相馬市の大原から八木沢峠へ

(バラ坂の地名由来の考察)


茨城の語源についてもやはり「常陸風土記」に見ることができます。「香島郡(かしまのこおり)に岩窟を掘って住み猟のようにすばしっこい、一般人とは全く違った生活をする一族佐伯がいた。これを大和朝廷軍の黒坂命が住居穴を茨(うばら)をもって塞いだので彼等は穴に入れず討ち取られた

友部町小原の名前の由来は茨(うばら)が小原に変化したものと地元では伝えられています

からたちと茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自(万葉集)

枳の茨の原を刈り除いて倉を建てるから尿は遠くでしてくれ櫛を造るおかみさん方よ


「茨(うばら)」=まんだ【茨田】大阪府(河内国)の旧郡名



地名は明らかに原初の状態をさして名付けられた。田んぼでもそこが田にする前の原初の状態で名付けたものが多い。
菖蒲田とあれば菖蒲が繁っている湿地帯であり日本に湿地帯が多いからその名がつく。
葦田となれば葦が一面に繁っていたとかなる。蟹田や蛇田はそこに蟹が多く蛇も多かったからなづけた。
だから地名を考察する時はそこが原初の状態がどのうよであったかを想像するとわかりやすいのである。
吉原が葦(よし)の繁っている所だったいうとき何か華やかな花街を想像するのとばまるで違ったものとなる。
そして原初の状態からあまりにも変わってしまった時、都会化した場所は東京などになると
原初の自然状態は想像すらできなくなってしまったのである。
だから最近地震などで地盤が悪いところは沼だったとか湿地帯だったとか指摘されて液状化するから危険だとされた。
そういう原初の状態を知るということをが意外と大事だった。
津波でもなぜ海岸に接して人か住んだのかと指摘された。

原初の状態からみると茨は邪魔者でありカラタチも刺があるから同じである。
そういうことを日本全国で最初に住み着く人が難儀したから地名となった。
だから一つの地名には日本全国で普遍性がある。
湿地帯が多いのもそうであり茨が多いのもそうである。
薔薇は原野の茨であり花としてより刺のある邪魔物として認識されていたのである。
人間が住み着く時、自然は美しいというより障害物として認識された。
人間が開墾して住み着く時、道具もないとき、機械もないとき、障害物になる。
一本の木を取り除くとき大変な労力が必要になる。それは北海道開拓でも経験している。
人力だったら根っこを取り除くのもブルドザーでするのとは違っているから大変になる。

だから八木沢峠の麓の大原から坂を上ったバラ坂は茨から来た地名であることはほぼまちがいないだろう。
ただ最初バラ坂というのは普通の薔薇をイメージしていた何なのかわからなかった。
それはどこでも原初の状態から離れて生活しているからそうなった。
あの辺は秘境だと書いたがそこは頻繁に車が通るから繁華な所と勘違いしていたと同じである。
あそこに羚羊が出てきたのには驚いた。もともと羚羊が住み着くような場所だったのである。

地名というのはそれだけその土地に根ざして名付けられているのである。
ただ都会化すると全く原初の状態がイメージできなくなる。

その土地を認識する最初が地形とか地勢とか地名になる。
それが歴史を解く鍵にもなる。日本は山が多いからヤマト(大和)になり湿地帯が多いから葦原瑞穂の国になった。
そして地名もまたそうした原初の状態から名付けられるのが多いのである。

だから地名は郷土史の基本となりやすい、そして地名学はあらゆるものの基本にもなりやすい。
なぜならそれは深く日本の国土とつ結びついて名付けられたものだからである。
そこに日本の原始があり歴史の興亡さえ読み解くことができるからだ。
一つの地名から歴史を掘り起こすことができる。


南相馬市の大原はまさにやはり大きな原であった。平凡な地名でも明らかに地名そのものであった。
そこから坂を上ってバラ坂とか大葦から八木沢峠に行くがその途中に遠田とあるのも
大原を中心として遠くに田を作ったということが地名から納得する。
前田という地名もまさにそこが開拓の拠点になった家があり地点だったのである。

ともかくどうしてあんな不便な地に人は分け入り住むようになったのか?
そのことが今になるとわかりにくい、でも一反の田でも作れば米がとれるし炭焼きでも生計が成り立ったのか、
そういう場所は別にあそこだけではなく日本には多いのである。
どんな奥地にも田があり狭い地域を利用して住んだのが日本だったのである。
五反田とか地名が多いし一反田もありそこでも米がとれれば最低限生活できたとなる。
小さな畑でも結構いろいろなものがとれることを知ってそんなことでも一家が暮らすくらいの食料はまかなえるものかとも思った。
羚羊などは行動範囲が広いと思ったが一キロ四方が縄張りで生活圏だということは
そんな狭い場所に養える食料があるというのも不思議である。
春になれば蕗の薹とか野草とかいろいろ食べれるものが増えるが冬は厳しいと思うからだ。
あの辺はもう人が住まず田んぼだった所に蕗の薹やキクザキイチゲが咲いていた。
それも不思議な光景だったのである。

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2013年11月27日

原町市街から大原への地理的感覚 (原町は野馬原が中心に広がり大原に達していた)


原町市街から大原への地理的感覚

(原町は野馬原が中心に広がり大原に達していた)

●猿も日本では食べていた

東京は両国橋の猪鍋屋に行ったところ、その店には大きな猪が三頭ぶら下がっていたのだが、何といっしょに猿も吊り下げられていて「恨みを込め、いかにも悲しく死にましたという形相で、とても食う気にはなれなかった」(『古都』)と書いているのだ。えっ、いつのことかって? 昭和12年(1937)のことだ。猪も猿も食材だったのだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/huwawatanpopo2000/13506371.html

「猿の肉はとてもとても、たとえようのない程の美味だ。また、猿の頭の黒焼きは薬として珍重されていたものだった」。これは、昭和51年に亡くなった十和田の木村金吾氏の証言である。石川県の山村などでは「秋猿は嫁に食わすな」というらしい。近年まで非常に評価されていたことがわかる。

秋田県仙北の寺子屋のソロバンの稽古の教材で、「猿の皮30文、肉60文、頭10文、肋骨8文」というのが残っていた
http://diamond.jp/articles/-/3243

南相馬市の大原の斎藤さんが戦後猿を食べたというのは特別なことでもなかった。日本でも猿が食べられていたのだ。インドでは牛も猿も食べない、神聖な動物とされているからだ。仏教が伝わった日本では猿も食べていたし明治になって牛もすぐ食べた。ということは肉食にそれほど抵抗がなかったのかもしれない、日本ほど今や何でも食べる国はない、日本に食のタブーがなかったみたいだ。豚を食べないイスラム圏とかもあるが日本には何か食べていけないというタブーがない。
ソロバンの稽古で御破算で願いましては「猿の皮30文、肉60文、頭10文、肋骨8文」こんなこと子供に教えていたということ自体、日常的に猿は食べられていて川から頭まで利用されていた。

浜通りでも海側は魚介類がとれてそれでタンパク源が摂取できたが山になるとイノシシでも猿でも食べないとタンパク源がとれない、すると筋肉を強化できないから肉体労働に耐えられないともなる。山菜など食べても力はつかない、ソバでもそうだろう。
ともかく何らか昔の生活は栄養不足になっていた。脚気とか目が悪いとかみんな栄養不足のための病気だし他にも栄養不足の病気が多かったろう。

人間の健康はやはり根本的には栄養だからである。栄養がとれないことは致命的になる。どうしても医療も発達していないし医者などいない地域が多いから長生きする人は極わずかの選ばれた人だったのである。だからそうして長生きした人は村では尊ばれた。

大原という地域を地勢的にみると石神まで家が多い、紙漉きをしていた古い家に嫁いだ人を知っているから石神も古い地域である。ただ今石神というと長野辺りにも石神小学校があったり石神地域は広すぎるのである。そして家も多いし農家とは限らない、街のように広がっているのだ。原町区というのは浜街道の宿場町として発展した。

●原町の市街は広大な野馬原だった

でも野馬土手が今の市街地に広がっていて文字通り原っぱになっていた場所である。
現代で野馬土手とか牧がどこにも広大にあり馬が放し飼いにされている光景をリアルにとらえられなくなっている。北海道で競走馬を飼っているような風景である。
それはどこにでもあった。田んぼが今は広がっているが昔は馬を放つ牧が広がっていたのだ。だから馬というのは最も身近な動物だった。そういう絵を見たらわかった。
農家があり広い庭で作業して牧から家まで馬を連れてくる風景である。
実に広々とした風景なのである。だから原町の野馬土手もそういう広々とした風景だったのである。

つまり今の原町市街は野馬土手であり馬が放し飼いしてある広大な地域であり家がない、その回りの地域が石神でも高平でも農家でありそこに家が点在して田畑を作っていたのである。だから今とはまるで違った風景だからイメージしにくいのである。
相馬市は城があり城を中心にして発展したことはわかりやすいが原町は城もないし野馬原が真ん中にあったということでわかりにくいのである。

ともかく家の中にも馬が飼われていて曲家が残っているように馬とは親しいものだった。だから娘が馬と結婚した伝説もあってもおかしくないのである。
この辺では確かに野馬追いのために馬を飼っているが柵て囲っているか狭いのである。
野馬土手を作っているということは柵でもない、土手なのだから越えられないものとして作った。馬によって農作物が荒らされるから大規模な土手を作った。今の雲雀が原より何十倍も広さがあったのだろう。四方十キロもあった。そういう風景がイメージできないから過去に対して錯覚しているのだ。
いつもそうして放し飼いしている馬や家にいる馬を見ていたのである。

そういう馬の文化もほとんど忘れられてしまった。ただ野馬追いの時だけ思い出すのである。

おそらく田畑が今は広がっていたが牧がその半分くらいの地域を馬が放し飼いにされていた牧だった。そうでなければとても戦争をすることはできない、馬は戦国時代は軍馬であり農耕馬ではない、馬がそれだけ必要だったのである。野馬追いはもともと軍事訓練だったからである。これだけの土地が馬の放し飼いの牧としたらその回りを田畑にするほかない、その影響で深野と大原の方に開拓地が広がった。
原町の場合は平坦だから大原も原町の延長線にあった。原町自体が大原だったのである。その名残が大原に残っている。石神は野馬原の延長線にあっても家が多いから今は原という感じはない、

●原町は原の地名がやはり多い


北原、南原、東原、西原、北西原、原、・・・原町も原だけど原という一字だけの地名もある。それに比べて鹿島区とかに確かに橲原(じさばら)とか皆原とかある。でも町の回りには原のつく地名がない、原町は今の中心地帯市街地が原だった。太田の辺りも原地名はなく田畑である。原町の場合は相馬市と違い最も繁華な地帯が最も新しい地域になっている。相馬市は城下町だから城の延長として街が形成された。原町はもともと野馬原であり馬の放牧地としてあった。だから原という地名にふさわしい場所だともなる。


いづれにしろ大原というと桜井古墳からも遠いし原町は広いからかなり遠い場所になっていた。だから


新田川渡りて遠く大原や山に陽の没る秋の夕暮

大原にはや陽の没りて山かげる墓所の隠れて冬に参りぬ


こんな地勢を感じる場所である。この地勢の感覚はどうしても自転車でも走ってみて地理的感覚が身につくのである。


昔の山の暮らし(馬を飼う牧として利用されていた)
http://musubu2.sblo.jp/article/18181533.html


こんなことを書いていたのを忘れていた。人間は自分の書いたものを忘れるから時々前に書いたものを読んでおく必要がある。こんなことを自分が書いたのかと不思議になってしまう。飯館村でも葛尾(かつろう)村でも広大な牧があり馬がどこでも飼われていたのだ。

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 (渡辺崋山 「四州真景図 釜原」・・現在の鎌ヶ谷)

こういう広々とした原が牧であった。
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2013年11月16日

郷土史研究に欠かせない墓地を調べること


郷土史研究に欠かせない墓地を調べること

郷土史研究で一番身近なのは祖父母から聞く話である。なぜならそれは生きた証人から聞く話になるから本で読むのとは違う重みが加わる。老人は無駄だから税金の無駄使いだから早く死ねと若い人に高齢化社会で言われる。それはあまりにも高齢者が多くなりそれに金がかかりすぎるからである。老人が貴重だったのは長生きした人が少なく価値があったのである。昔は長生きしただけで何も功績がなくても価値があった。なぜなら長生きすることが極めて困難な厳しい時代だったから長生きしたということだけで価値が生れた。
今はそういう価値が生れない、ただ老人は若者の負担になるだけだというのが現代である。でもそもそもそういう経済的な負担などをぬきにすれば老人はもともと存在するだけでも重みある価値あるものがあった。すべてではないにしろそういう重みをもつものが人間が長生きするということであった。今だって一芸に秀でるには60過ぎないとならない、それだかけの積み重ねが年月が必要なのである。天才は別にして普通の人間はそうである。

もう一つ郷土史研究で必要なのが墓地を調べることだった。これは自分はずいぶんしてきた。それをプログにも出してきた。墓地というのも本で調べるよりここに生きて死んだと人がいたということで具体性がでてくるから過去がより身近に感じるから墓地を調べることは郷土研究にかかせないのである。墓地には故郷の人が知らない意外な発見がある。
それか自分の墓のある鹿島御子神社の脇の墓地だった。あそこは新しい明治以降の墓地だと思っていた。でも天保時代の小さな碑があったし宝暦の大きな碑もあった。あそこは神宮寺であり神社が前にありそのあとに寺ができてそこで寺小屋が生れあの碑が建てられたのかもしれない、墓地はどこでも必ず歴史を語っているのだ。一つ一つの家族墓でも歴史を語っている。


墓の歴史をかえりみると不思議なのは最初は個人墓なのである。これは自分も働いて財を残したから墓を建ててみようとなったらしい。墓を作るには今でもそうだがそれなりの財が必要なので簡単に建てられなかった。武家は五輪塔など建てたが庶民は建てられなかった。そして個人墓の次が夫婦墓だったのである。この辺でも夫婦墓が多い、それは江戸時代からの継続として明治時代でも夫婦はか多いのである。家族墓は明治時代になり政府の指示で家族墓になったという経緯がある。ということは家族墓は何か人間の自然な生活から生れたものではなかった。強制されたものだったともいえる。

妻が夫の姓を名乗るのは明治時代以降のことである。それであるから、妻が死ぬとその遺骸は里方の墓地に葬られることが多かった。夫方の墓地に葬られても、その名は里方のものを記されたのである。
こういう墓が相馬市の成田にあった。それをプログで紹介した。


大まかな変遷としては個人墓がまず出現し、次に夫婦ないしは一組の男女と三名以上 )
併記の家族墓が一七世紀中頃に出現する。( )なお、男女一組の戒名は親子の組み合わせも考えられるが、基本的には夫婦と捉えている。同様に複数の成人、あるいは子供も血縁者と考えて家族墓とする。個人墓は一人世紀代まで卓越し、一九世紀以降は夫婦ないしは男女一組墓・家族墓が主体となる
ただし、個人墓は減少せずに一九世紀代まで推移していることが大きな特徴であり

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野田山墓地の無縁墳墓の改葬に関する実証的研究
http://www.icc.ac.jp/univ/morizemi/Date/PDF/Muen-2.pdf


まず個人がなにかしらの自分の記念として後世に伝えようとして墓を作った。次に夫婦墓になったのは夫婦の結合が一番人間にとって強かったということもある。
「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」という諺がこれを示している。他に他人は五世という諺もある。五世とはなぜなのか?それは親子や夫婦の関係でもいつかは切れてしまう。死んでしまいばもうそのつながりは墓だけに記されるてもやがてその墓も消えてしまう。でも他人とか地域とか社会はつづいている。親子でも夫婦でも主従でも長い時間では実際他人になってしまう。人間は結局血縁でももともと他人なのである。そういうことを子供他人だという時、親の財産が欲しいというだけになったりするからその時子供他人だと思ってしまうし現実にそうっなっている人もいる。血縁でも家族でもあるとき、老後はそうなりやすいのである。現代では家族の紐帯が弱くなっているから余計にそうなのだ。もともと日本では家族のつながりより村のつながりが強いからほとんど地名が姓になっていた。

夫婦墓というとき、宮本常一の考察が人間を深く見ているなとつくづく思う。


この地の墓には夫婦の戒名を刻んだものがほとんどである。この墓が象徴しているように島の人たちの夫婦仲はいたってよいようである。夫婦で力いっはい稼いでこの風光の中で生きこの丘に埋められている。そして墓も一つなのである。
(私の日本地図-瀬戸内海4 備讃の瀬戸付近)
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俳句にすると「故郷や冬の日さして夫婦墓」とかなる


こういうふうに墓を見ている人は少ないだろう。島で暮らした人の一生をここで深くみているのである。つまりこの人たちは幸せだったなと墓からも回想できているのである。それは今は瀬戸内海の島のあたたかい光につつまれて眠っているのである。墓も海に向いて墓もあるし山の中の墓もあるし海を向いた墓だと常に海を死んでも思っているのかと想像するのである。島ではたいがいそうなりやすい。これは明治以降昭和になっても夫婦墓がこれほど多かったのは他とは違っている。それは夫婦で協力して島で生活していたことが影響していたのである。それだけ島での生活は人間の一体感を生んでいたのである。
これは昔はたいがいそういう傾向があったが破壊されてきたのである。
田から人間の幸福などなかなかわからないのだ。昔は貧乏だというのも本当だしでも本当にそれが全部不幸かとは言えないのである。それを墓から見えたのである。
ただ墓地でも地域性があり相馬藩では三分の一が天明の飢饉などによる越中などからの移民であり真宗系統でありその墓がわかりやすいのである。墓地をみればこんなに真宗系統の移民が多かったことが納得する。


墓が跡継ぎとかいないとか問題になるのは家族墓が維持できなくなっているのはまさに現代の家族の状況とかが反映しているのだ。核家族化とか家族の紐帯の希薄化は家族にだけ原因があるのではなく島での生活ならそこでの生活で紐帯が強められるがそこから人々が工場とか外にでてゆくようになるとつながりは希薄化する。すると夫婦の繋がりも弱められる、離婚も増えてくるとかいろいろな現代的問題が生れる。
現発事故だってそうである。事故で家族がばらばらにされたとき大熊の人だったかロウソクでも家族一緒に暮らしたいと言っていた。この辺は家族もバラバラにされてしまっているのだ。若い人は流出して家族はばらばらになっている。飯館村などでも大家族で暮らしていた人たちも多かったかバラバラなって暮らすようになった。原発でもそうだがそうしたものが地域の生活を破壊してしまうものだった。過度な工業化とかで失われたものも多いのである。


「現代社会においては、過去との連続性が失われ、 過去は遠い異邦となり、その典型として、先祖は集合的記憶を共有することによって形成 される「記憶の共同体」の成員ではなく、異邦人となった」(片桐2006:187)
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/irwg10/jinshaken21-12.pdf


墓もその一つだったのである。墓の共同性というときそれは今の現実の生活に共同性が失われているから墓もそうなっているのだ。夫婦でも一つの墓に入りたくないという女性が三分の一とかいるとしたらそれは何を意味しているのか?夫婦でも島の夫婦墓のような感覚がない、それは離婚が多いということでもわかる。家族でも地域でもそうした昔からの共同とか繋がりが破壊されてみんな会社の一員となった。結果として会社が第一になり地域はないがしろにされ東電のような巨大会社に地域は踏みじられたのである。
これは地域の生活はそもそもすでにその昔ながらの生活も破壊されていた結果だったともなる。

郷土史でしれ国の歴史であり「記憶の共同体」として根底にある。それが歴史の意味である。そういう記憶の共同体も最小単位の家族でも
そのつながりが消えたら失われる。現実に原発事故で警戒区域となり住めなくな地域は「記憶の共同体」が喪失してしまう。
歴史を失うということである。それか何を意味しているのか?結局もう地域のつながりが喪失する。
ただ補償金をぶんどるための組織だけになってしまったのである。そういうつながりはやがてまたばらばらになり地域のつながりは喪失する。
明かに原発周辺は東電の社員化していたのである。だから東電に世話になれということが盛んに外部から言われているのだ。

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2013年06月08日

津浪で見直された南相馬市金沢地区の延命地蔵尊 (延命地蔵は庶民の願いが特にこめられていた)


津浪で見直された南相馬市金沢地区の延命地蔵尊

(延命地蔵は庶民の願いが特にこめられていた)

●全国の延命地蔵の伝説、由来など



延命地蔵の民話
http://musubu3.sblo.jp/

http://hukumusume.com/douwa/i/minwa/04/01a.htm


子育て延命地蔵
http://www.rinzo2.jp/~njkmmy/w_t-baby/kosazuke_kosodateenmeijizou_00.html


姥ケ橋延命地蔵


姥ヶ橋とはかつてこの地に流れていた稲付川に架かっていた橋です。昔、誤って幼子を溺れ死なせてしまった乳母が、この橋から身を投げ
たという伝説があり、延命地蔵は、この話を哀れんだ村人が供養のために建てたといわれています。(碑文によると川に架かる石橋の安全供養とされています。)
毎年夏にお祭りがあり、大変にぎわいます。

地蔵菩薩像は石材を丸彫りしたもので、台座には享保9年の銘があります。
http://www.kanko.city.kita.tokyo.jp/data/i/7.html


桝形の延命地蔵の由来


江戸時代、安政5年日本各地ではコレラが大流行し、多くの人命がなくなっていました。郡上でも同様にコレラが蔓延し、危機的な状況のなかどうかしてこの災難を鎮めようと元治元年この地蔵尊が建立されました。
以後、人々によって延命地蔵として代々まもり継がれています。
http://www6.ocn.ne.jp/~artwing/jizo.html


itachigawa111.JPG
http://www.igasho.com/ishikuramachi-enmeijizou.htm


延命地蔵(えんめいじぞう)は、留萌市瀬越町にある地蔵。


死してのち
楽しきものは
   花ぞかし
たむけてくれよ
   詣る人々

http://rumoifan.net/shokupedia/index.php?title=%E5%BB%B6%E5%91
%BD%E5%9C%B0%E8%94%B5


これは由来不明というけど面白いと思った。


石造の地蔵菩薩立像じぞうぼさつりゅうぞうで、総高180センチメートル、富士大山道ふじおおやまみちと橋戸道はしどみちが分岐する場所にたっています。台石には、安永あんえい4年(1775年)に谷原村の念仏講中が建てたことが刻まれています。台石の向かって右側面には「みぎ はしど道」、左側面には「左 たなし道 大山道おおやまみち 二里」と刻まれており、道しるべも兼ねていました。往来の多かった道沿いの延命地蔵のありかたを示しています。現在も地域の方々によって信仰が続いています。
 http://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/rekishiwoshiru/
rekishibunkazai/bunkazai/bunkazaishosai/b059.html


延命地蔵尊は今から約170年前(文政年間)に建之され、当所に移築されましたのは、今から約80年前のことです。当時は江戸五街道の一つ中山道を通行する旅人がここで必ず一休みされました。
当地で死亡した人馬の霊を供養するために建之されました。
http://sugamo.or.jp/promenade_index.html


元禄、宝永、天明、天保期と続く飢饉に加え、疫病が蔓延して連日のように瀕死者が相次ぐなか、当院の檀信徒たちは大仏殿に籠り、熱心に祈祷すると、大仏様はたちまち玉のような汗を流し、人びとの祈願に応えるかのように、大仏殿にお籠りををした人たちは誰一人として罹病しなかったと言い伝えられ「汗かき地蔵」と呼ばれています。また戦争中、出征前に大仏様にお参りした人たちは無事に戦地から帰ることができたことから「弾丸よけ地蔵」とも呼ばれています。
http://shoubouin.com/%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF/
%E4%B8%88%E5%85%AD%E5%BB%B6%E5%91%BD%E5%9C%
B0%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9/


●様々な災害からの延命を望んだのが延命地蔵


延命地蔵は全国各地にある。それは何のためかというと自然災害、病気、安産の願い、子育ての願い・・・そうした庶民の切なる願いがあり祈りの場となった。民話とか伝説には当時の現実が反映されている。


昔、誤って幼子を溺れ死なせてしまった乳母が、この橋から身を投げたという伝説があり


乳母というのは江戸時代辺りは奉公する武士の家やその他普通にあった。それは一族の結束を固めるものとして武士の家ではあえて乳母をその跡継ぎの子の養育をまかした。その乳母となった家ではその子を我が子のように思うようになるからである。最近でも乳が出ないと親戚のものが乳母になっていた人がいた。乳がでないということも牛乳などないから深刻だった。飯館村の佐須村には畑に乳神の碑が畑にあった。あれだけ辺鄙な所だと乳がもし出なかったら子供が死んでしまうだろう。
だからあの乳神の碑には生活の重みがある。佐須という辺鄙な所だからこそその価値が高いのである。

延命地蔵という名前自体が何かその願いが集約されている。人間は様々な自然災害であり病気であり安産の願いであり子供がたくさん死んでいた。だから子だくさんになっていた。自分の母方の実家も八人生んで半分死んでいるとかある。子供が死ぬことが多かったのである。延命地蔵とはまさに人間が長く生きられない時代が長くつづいた。延命することが願いになっていた。その延命は自然災害や病気や貧乏で死ぬ、飢饉で死ぬものも多くそれが願いとなった。延命地蔵はそれだけ全国に多い理由がわかる。また街道の道標となっていた。馬頭観世音があるのも馬や牛を供養したことでもわかる。街道でも馬を使うとすると途中で死ぬ馬もいたからである。


●南相馬市原町区金沢地区の延命地蔵は津浪から残ったので新たな価値が生まれた

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皇大神宮


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皇大神宮(こうたいじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。伊勢の神宮の2つの正宮のうちの1つである。

これはお伊勢参りなどがあったからここにも祀られていた。戦争のとき延命地蔵に祈ると死なず帰れた人が多かったとかも伝えられるのは国家と関係もしていた神だった。


秋葉山


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秋葉大権現(あきはだいごんげん、現在の秋葉山本宮秋葉神社を起源とする)である。一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が定かであるものは少ない


水天宮


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仏教の神(天部)である「水天」の信仰は、神仏習合時代には「水」の字つながりで「天之水分神・国之水分神」(あめのみくまりのかみ・くにのみくまりのかみ)と習合していた。ミクマリノカミは本来は子供とは関係なかったと思われるが、「みくまり」の発音が「みこもり」(御子守り)に通じるというので「子育て」の神、子供の守り神として信仰されるようになった。


山神


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これに上に小牛田と記されてあり小牛田が山神信仰の基となっていた。ではこれは何を祈ったのだろうか?

また、山の神はたくましい女性で、次々と一二人の子どもを生んで丈夫に育てたとも言う。山の神の縁日が十二日であり、彼女を「十二様」というのはこのことに由来する。

 この由来で、山の神はまた、お産の神として厚く信仰されている。山神はすなわち産神でもある。当地方で妊娠・安産の神として有名なのは宮城県小牛田の山の神である。以前は、当地方の村々の嫁御や主婦たちは「産神講」を結んで、小牛田の山神様に月参りをしたり、または、月の十二日に講の宿の床の間に「産神」の掛軸を掲げて礼拝していた。いわゆる「産神講」である。
http://sca.core.ac.jp/kamurorenpo/?p=105


馬頭観世音


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近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物供養塔としての意味合いが強くなっていった。このような例は中馬街道などで見られる。なお「馬頭観世音」の文字だけ彫られたものは多くが供養として祀られたものである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%A0%AD%E8%A6%B3%E9%9F%B3


延命地蔵というのは庶民の切なる願いが集約されたものだった。しかしあそこの延命地蔵は今まであることすらわからなかった。家にさえぎられて見えなかったのである。相馬地域でも狭い範囲にしてもわからないことが多々ある。あの延命地蔵は津浪で新たに見直された。津浪という大自然災害が生き残った、まさに延命したということで霊験あらたかだともなる。どういうわけか神社が津浪から逃れたのが多かった。それは比較的高い所にあったからだ。烏崎の八龍神社はあれだけ高い所にあったから海岸に接していても残ったのである。階段が急だからあそこに上るのは一苦労であった。でもあそこに逃げれば助かったのである。なぜあんな高いところに建てたのか謎である。神社の由来はわかりにくいのだ。八龍神社は水と関係しているともいう。それでも何が由来なのかわからなくなっていた。烏崎村は壊滅した。金沢地区も延命地蔵のある所はほとんど壊滅した。その前には二軒しか家が残っていない、延命地蔵の前には家は集中していたのである。
でも津浪からまねがれた延命したということで別な価値が新たな霊験が生まれたともなる。

あそこにあれだけ古い江戸時代のものがあるとは思っていなかった。江戸時代のものがあるときそこは江戸時代から生きた人たちがいたから貴重である。津浪で壊滅したけど延命地蔵はまるでその村の根っこのように残っていたのである。

延命地蔵というとき現代はこうした庶民の願いはすべて変わった。病気は医者であり火事は消防であり馬は車に変わった。だから庶民の切なる願いは医者頼み病院頼みとなった。安産でも子育てでもそうである。ある意味でこれらのもっている価値は失われたのである。延命地蔵に願うより科学信仰でありお医者様信仰であり病院に頼るのが現代である。
そして今では延命治療はやめてくれ、早く楽に死なせくれというのが庶民の願いとなった。それでぽっくり地蔵の方が人気が出たのである。
庶民の願いも時代とともに変わる。ぽっくり地蔵は全国ではかなり少ないが延命地蔵は多いのこともそれを示している。


それでも津浪のような災害は予測されていなかった。だから原発事故でも津浪の災害でもやはり科学を越えたものがあり神に祈るという行為は廃れるものではなかった。ともかく延命地蔵は明かにあそこの村の中心としてあったのだ。今まで注目しなかったが津浪で注目されたものが多々ある。金沢の延命地蔵もその一つだった。
「津浪延命地蔵」とかなるのが今回の津浪で生まれたのである。

posted by 天華 at 11:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2013年05月29日

相馬藩山中郷(飯館村-葛尾(かつろう)村)などの天明飢饉の影響


相馬藩山中郷(飯館村-葛尾(かつろう)村)などの天明飢饉の影響

天明三年、嘉永元年中村藩検地石高表収納戸口等調


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これは相馬藩の山中郷の検地の石高表である。山中郷は葛尾(かつろう)村も入っていたし津島も入っていた。玉野村も入っていた。面積にすれば相当に広い。

1744延亭−1781天明−1847嘉永-37年間と66年間に生じた飢饉の結果の数字である。戸数がどれだけ減ったかが数字で明確に現れている。この数字から読み込めるものが相当ある。

ただ数字だけだから具体的内容はわからない。それにしてもやはり減り方が尋常ではない。

飯館村とか葛尾(かつろう)村などが歴史がないようでも意外と古いのである。だから落合村に明暦と元禄の碑があったことでもわかる。外からも何か原発事故で注目されても歴史ある古い村だという認識がない。地元の人でも意外とそう思っている節がある。飯館村でも葛尾(かつろう)村でも古いのである。だからやはり村かなくなればそれなりに古い歴史の積み重ねも消失してしまうことになる。


時間的には延亭から嘉永までで約百年の間に飢饉の影響があった。百年というと相当に長い。一気に人口が減ったわけではないのだろう。その間に徐々に減っていった。原発事故のように町民全部が避難するようなことはなかった。一軒一軒とか時間をかけて減っていったのだろう。なぜなら百年とすれば相当長いからでてある。なんとか飢饉をしのいだ家もあったがどうしても成り立たなくなり他に移ったか消えてしまった。


ただ地域によってその人口の変化は違っていた。表で見ると玉野村や落合村や野川村はさほど減っていない。それはなぜなのか?おそらく葛尾(かつろう)村の田畑の面積を見るとずいぶん少ないと思った。あそこは山が多く平地が少ないせいだったのだろう。飯館村は結構平地が多く田んぼも畑も広くあった。葛尾(かつろう)村は耕作する平地が少ない、落合とか野川とかは川沿いであり急な坂になっていた。もともと平地が少ない所だった。自分の父親が出た小出谷(こでや)は小出屋であり出小屋として住んだ所である。それも後ろは山であり前は小出谷川であり平地がほとんどないのである。
そういうところでどうして暮らしていたのか不思議である。

でも飢饉の影響が少なかったのはなぜなのか?それは山には山の幸が山菜とかあってそれでしのいだのかもしれない、飢饉になると山に逃れたということも聞く、山には最低限でもしのげる野草などがあったのかもしれない、それと山林が多いから燃料には事かかないことはあった。山はもともと自給自足の時代は薪は豊富だしそれなりに豊かな面もあった。だから落合に明暦と元禄の碑がありあそこは古くから開けていた。玉野村とかもそうである。玉野村も木材資源が豊だからそういう方面で良かったのかわからない。それほど人口がへっていないのである。

川俣町が耕地面積がこれだけ少ない、それで絹織物で養蚕業を産業にして栄えた。
そうでなければこれだけ少ない耕地面積であれだけの人口は養えなかったのである。

ただ津島がなぜ極端に減ったのか? これは何かありその辺はわかりにくい。

平均してやはり三分の一は減っているだろう。十軒あったとして三軒へっているとなるとやはり影響が大きいだろう。ただこの天明の飢饉は延亭から嘉永まで百年の間に徐々に進行したのであり一気に人口が減ったのとは違っていた。百年といえば長いのである。原発事故でも放射能汚染は30年で半減するとするとそうした長い時間で考えれば飯館村の復興もありうる。ただその時は農業林業中心の社会だからなんとか土着して生きようとする。でも現代になるとそもそもそうした一次産業は苦しい中でやってきたから違っている。

今この飢饉のことが注目されるようになったのは津浪や原発事故で苦難を強いられたからふりかえるようになった。この時相馬藩の人口は三分の一に減り越中からなどの移民で建て直したのである。

それ以来の最大の危機に直面している。ではこの飢饉のときと津浪原発事故と比べるとどっちが苦しいかとなると比較もむずかしいがやはり飢饉のときの方が苦しかった。なにしろ食うものがないということほど苦しいことはないだろう。原発事故でも住む所はあるしかえって食べることは贅沢しているのだからその点は比較にならない、ただ故郷自体を失うということは想像もできないことであり
それはかえって精神的には苦しいことかもしれない、ただもし百年とかの時間を考えれば放射能汚染からも立ち直れる。今ではそんな時間の余裕がないとなるからまた違っている。

つまり農業とか漁業とか林業で暮らす時代でないからそうなっている。
みんな会社員なのだから土地に執着する必要がないからこそかえって町や村は捨てられるとなる。

そして捨てられた村や町は元の自然にはもどらない、その土地は国が買い上げれば放射能処理場にされるしまた他のよからぬものも入ってくる。そのことは飯館村や双葉町とかだけの問題ではないのだ。自然は相馬藩内ならつながっている。飯館村から水が流れてくるのだから放射能汚染された土や水も流れてくる。核の廃棄物処理場になってもやはり同じなのである。地理的に近いのだからどうしても自然の影響はまねがれないのだ。そもそも放射能汚染は広域的だったのである。

一地域の問題としてすまされないものだった。だから中通りまで放射能汚染されたのである。
飯館村の土地をかってに個人の土地だから売った方がいいというのも問題である。なぜなら核の廃棄場になったらやはり中通りでも影響するのである。勝手に自分の土地だから高く誰にでも売ればいいですまされるのか?そしたらまた原発事故のように勝手に金になりさえすればいい、もう飯館村は関係ないでいいのか?そうして放置された村は核の廃棄場に一番適したものとして売られることになる。それは回りにも広範囲に影響するのである。



posted by 天華 at 11:34| Comment(2) | TrackBack(0) | 江戸時代

2013年04月29日

新田のおみかとは実在したのかな?


新田のおみかとは実在したのかな?


飯豊耕土にや 箒はいらぬ
新田、おみかの裾で掃く


こんな歌が残っていること自体、新田は相馬藩の城からもさほど遠くなく古い地だった。
柏崎梅川のお釣り場からの帰りにおみかという娘を見せめて城勤めになったという。
こういう話は他でもいろいろあるから何が本当かわからない、ただこんな歌が残っているのだから
おみかとは実在の娘だったのだろうか?でもなんらか相馬の城の殿様と関係していたのか?
新田という地はそれだけ何か相馬藩の城の殿様と親しい村だったともなるのか?
ただこんな浮ついた話しがあるとすると他の村では面白くないだろう。
そんなことで村が厚遇されたりしたら他の村人は働く気がなくなるだろう。
誰か器量のいい娘を殿様にあづけて楽しようとかなる。相馬藩は貧しいからそんな余裕があったのかということにもなる。ただ別に殿様は当時は側女を多くもつことはとがめられていなかった。
ただそれも豊かな藩のことである。

おみかという名前の由来はここからきていたのだろうか?


現在では「みか」とはいわず、
「瓶」=「甕」=「かめ」と読むことが多い。
古代人は、美しく流れる川を「御河(みか)」と呼んだ。
その川沿いにひらけた原野に、「御河之原(みかのはら)」と地名をつけた。
川の流れ込む形が甕(カメ)に似ていたからという説もある。


聖武天皇がそこに恭仁京(くにきょう)をおいて生活していた
時期がある。(740〜744年)


「三日原(みかのはら)、布当(ふと)の野辺を清(すが)みこそ、
大宮処(おおみやどころ)定めけらしも」―― 『万葉集』
http://blog.goo.ne.jp/obi-jime123/e/506c6a3bd586ca16e57c5dad4baf619f


大甕(おおみか)という地名もそうなのか? 川に由来したものなのか、梅川が流れていてその名がついたのか?名前も考えてみるとどうしてつけられたのか不思議である。


ただ新田村には近くに釣り堀があり通っていたのである。

例の溜池で誰かが釣りをしていた。その釣りをしている人と話をした。どこかの釣りする所では魚を釣り堀のように放流しているという、それで人を集めている。釣りといっても今はとった魚を放している。魚をとって食べるというより魚をつり上げる醍醐味を楽しんでいる。そもそもそんなに魚をみんな釣って食べてしまったら魚がいなくなってしまう。
最近読んだ雑誌でもそもそも日本近海の魚はとりすぎていなくなり漁師はもう生活が成り立たないという。魚もとりすぎるとそうなる。魚の養殖を考えるべきだというのもわかる。天然の魚はとり放題にしたらへる一方なのである。魚も釣り堀化しないとへって魚はとれなくなるのだ。天然の鰻も絶滅するとかなる。そういう時代になってしまった。養殖化しない限り漁師の生活は成り立たなくなる。右田浜でとれたのはイシモチとかスズキだった。それらとって食べていた。海の魚は食べていた。

その人はとれたときは60匹もとれたという。魚もとれるときはとれるのである。

魚釣りは自然との交流でもあるから何か見ていても気持ちがいい、自然に溶け込むということがある。だから釣りから自然を考察して村のことを探求した哲学者がいた。釣りというのは遊びでもそれだけ自然と通じ合うから違っているのだ。ゲ-トボ-ルとかゴルフとか何かこういう娯楽は自然と通じ合うものでもないからあまりそういうものをしているものと共感しにくい。釣りをしている人をみていると自然に溶け合った自然の一風景に感じるから好感をもつ、ただ自分はじっとしていられないたちであるから向いていない、自然と交流するとき絶えず動いている自転車などが向いているのだ。


ともかく釣りしている人と話したように相馬藩の城の殿様も釣りを楽しんでいたのである。

「何か今日は釣れましたか」
「今日はさっぱりだったな、でも人間が釣れたよ、鄙にはまれな美人が釣れた」
「どこのどなたで、新田の里の娘だった、おみかと言っていたな」
「殿、あまり遊びはいけません、他の村の者が働く意欲をなくします」
「まあ、そんな娘がいたことを話しただけだよ」
「釣りの方に精をだしてくだされ」
「それもそうじゃ、人間を釣るより魚じゃな」
「そうでございます、殿様は村民の模範でもあるんですから・・・」


その日はぼかぼかと春のあたたかい日が新田の里にさしていた。桜もそここち咲いていた。

相馬中村石屋根ばかり、瓦(変わら)ないのでドント人が好く・・」こんな戯れ歌が残っていること相馬藩の城があった中村は何か本当に田舎の城であり貧しい城下町だったのである。
だからこそやはりそうした浮ついたもの、贅沢はできない藩であり殿様も質素を心かげるのが普通である。そうしないと下々の風紀も乱れるからである。


我が城より相馬の城下を見渡せば
相変わらずに石屋根ばかり
春なれど何か寒々しかな
新田の開拓は成れどなお貧しき
いかにして民の豊さのあれや
今年の春も花散りて逝かむとするかな

こんな話しになっていたのか、それなりに相馬の殿様の話があれば新田の里も興味が湧くということがある。相馬の殿様のことは何か具体的に浮かんでこないのである。

posted by 天華 at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

元禄の碑のあったのは程田ではなく新田だった



元禄の碑のあったのは程田ではなく新田だった

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新田の里を開いた人の名が記されている

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横山の姓があり二種類の旗印がある
横山は新田の里を開いたと記してあった
新田村は20の旗印があるから大きな村だった



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碑が津浪で倒されたまま

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バイパスまで津浪が来た


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鷺が田んぼにいた-今はめずらしい(鹿島区)

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元禄の碑があったのは程田ではなく新田だった。新田という地名が新しいと思って程田が古いと思ったから程田としてしまった。今日その碑のあるすぐ近くで畑を耕している人がいた。そこは飯豊村であると最初に言った。土地の人ですかと聞いたら違っていた。どこの人ですかと聞いたら南相馬市だという、なぜここで畑を耕しているのか?南相馬市では畑を作れないからここで耕しているという、土地を借りて耕している。ここでも津浪をかぶった。津浪はバイパスまで到達していた。見れば相当に広範囲である。今回の津浪はどこでも広い範囲に広がったのである。飯豊小学校前まで来たというから驚きである。鹿島区でも鹿島小学校前まで来た。ともかく飯豊村は大曲と程田と新田がある。元禄の碑があったところ古い碑が一杯あったところは新田である。新田と言っても実際は元禄時代にすでに新田となった。新田となったのは開拓したからそういう名になった。

その名がついたのは元禄時代にすでにその名があった。正徳時代に新田村は756石であった。大曲と程田は400石である。干拓された面積の方がそれほど広かったのである。それ故にあそこに古い碑があるともいえる。何らかの記念なのかもしれない、実は元禄時代は全国で開拓が進み米の生産高がかなりあがった繁栄した時代だった。だから元禄時代には華やかなイメ-ジがある。芭蕉が活躍したのも元禄時代である。日本文化の興隆期でもあった。だからそこに元禄の碑があっても不思議ではない。相馬藩でも開拓が盛んに行われた時期でありその時の新田なのである。 その畑を耕していた人はあの辺に杉堂とかあって杉林があり隠れて田を作っていたという。隠し田ですかと言ったら税金逃れるためにそうしたものだろうと言っていたからそうなのである。でも平坦な地だから隠れようがないのである。ただ当時の風景は違っていた。杉林があり隠れるような田があったのかもしれない、隠し田というとき日本全国でありこの辺では鹿島区の塩崎とか小山田に隠町という地名で残っている。これは隠し田のことである。確かに塩崎でもそこは目立たない隠れた地点であり小山田も山側であり隠れた地点にあるから合点がいく、でもあそこは平坦であり隠れるような田が作れるようには見えなかった。

隠し田と五郎右衛門
http://yaromai.dip.jp/minnwa2/mukasibanasi/kakusida.html

隠し田が発見されると首が飛ぶ厳しい罰があった。それでも作っていたということは税としての取り立てが厳しいからそうなった。この物語では庄屋がわびて腹を切った。庄屋とはそれだけ責任がありかばうものだった。これは明治以降の地主とは違うものがあった。地主には自分が犠牲になるような物語はない、庄屋と地主がにているようにも思うが実際は違っていた。だからかえって明治以降は江戸時代より農民が不平等にもったとしたら何ための明治維新だったのか?庶民にとってはいいことがなかったともなる。ただ商人とかその他会社とか工業関係の仕事に就いた人は良かったのだろう。農民は江戸時代より悪くなったのだろうか?明治維新で得したのは誰なのかとなる。

その人はここも放射能のために土を半分くらい削り取ったという、ここは津浪で塩分のため削りとったのかと思っていた。放射能のために削り取った。放射能は計測して今はここは安全だという。かえって栃木や群馬の方が放射線量が高い田畑があるとか言っていた。相馬市でも南相馬市とそんなに距離がないのだから放射能の影響はさほど変わらないとなる。 その場所ではその畑の前に竹藪がありそれが津浪を防いだという、今は何もなくなっていた。竹藪のようなもので防げるのかと思った。勢いをおさえたのかもしれない、津浪は意外と何らかの障害物があると弱まる。鹿島区でも海老の坂が津浪を防いだとか言うのは意外だった。つまり意外なものが津浪の力を弱めていたので悪。竹藪は竹が密生して根が強く張っているから波の勢いをある程度とめたのかもしれない、ただ松原などは根こそぎ倒された。海岸線から多少離れているから津浪の力も弱かったのか?松川浦はそこは近くである。松川浦の方かもあふれてきたかもしれない、バイパスまで津浪が広がったのだから広範囲だったのである。今では新田辺りは津浪の跡はない、家も元のままである。ただ元禄の碑があったところが碑が多くあり津浪で倒れたままだったのである。

相馬市の程田、大曲、新田を訪ねる
http://musubu.sblo.jp/article/64988032.html
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2013年01月28日

南相馬市鹿島区の袋村が消えた謎


南相馬市鹿島区の袋村が消えた謎

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元禄中に記録に新田邑となす、地勢袋のごとし、是れをもって袋邑と名づく、
元禄中民十三あり、漸次大内村松迫に移るという。(鹿島町誌)


袋村があったがなぜ消えたのか?先に大内村は地から低地に新田を開拓して移ったと書いた。
袋村も大内村の人が開拓した村なのか?大内村の枝村なのか?確かに民戸十三戸があったのだから
人が住んでいたのである。
その後なぜまた大内村に移ったのか?もともとはあそこは湿地帯であり牛島というのも湿地帯であった。あそこに港があったがあれは新しいものだろう。
もともとは浜町の方に人家が集中したように浜町が烏崎の中心地でありそこは町であり人が集った。市を成した場所だった。海岸沿いは市が生まれ安いのだ。最初の商人が魚を売っていたというのもうなづける。実際に烏崎から石鰈をとったとき売りにきていた人がいたからだ。海岸沿いは昔は塩もとっていたし地引き網あったし港の機能もあった。船が出入りしていたのである。


鳴瀬町に浜市とあるのもにたものだろう。浜市から離れて牛綱村というのがある。牛綱村は昔は吾妻街道であったが漁師は漁をするために海辺まで綱を牛によって運んだので牛綱村となったという。
綱で牛をひいて浜市まで来た、浜市には牛で運べるものが魚でもとれたので売っていたので運んだということなのか?牛綱村と浜市には人の行き来があった。もともとは牛綱村に人が住むのが先であったが浜市が市場になり人がそこに移動した。そういう関係が烏崎村にもあった。ここの津浪の被害も大きかった。


なぜ袋村の人が大内村に移動したのか?津浪が原因ではないだろう。なぜなら慶長津浪は元禄の前ではないからである。新田村となったのは元禄だとすると慶長津浪の時は湿地帯だったろう。
ただ袋村として記録にあるからには十三戸があったということは村になる規模が一応あったのである。大内村に移ったとしてもそこは新田になっていた。ただ真野川に沿ってあったからもしかしたら洪水があって水浸しになったのか?あそこは洪水になりやすいからだ。真野川は度々氾濫して洪水になっている。自分の家も下町なので二回も洪水で大きな被害を受けている。場所としては余り良くないところだろう。小島田というのもやはり湿地帯のなかに島になったような地形だったのだろう。あの辺が今回の津浪でみな被害を受けた。


ともかく烏崎村も浜市村も市場ができて人が住み着いたことは確かである。烏崎村の前進が浜町になっていたことは浜市村と同じだからである。最初袋村の人たちが烏崎村に移動したのかと思った。
なぜなら烏崎村は人家が多いからだ。特に浜町に集中していたのである。新田を開拓したにしろ漁業や港の機能があれば市場ができてそっちの方が収入が多くなる。米をとるだけより漁業の収入は大きいのである。だからこそ烏崎村に人家が集中した。新田開拓では人口は増えない、大内村は一番古く次に烏崎村があり袋村があった。袋村は大内村の出村のようなものだったのか?烏崎村の記録は明暦からはじまっているが漁業の記録はない、田の石高や馬の記録だけである。漁業は税の対象ではなかったから記録されていないのだろう。烏崎村が津浪で壊滅したけど水葵や沢潟(おもがた)が一部湿地帯化した池に咲いていた。水葵も沢潟(おもがた)ももともと田に咲いていたのでありそれが復活したのには驚いた。種が地中深くにあったのが出てきたのである。袋村の田は烏崎村になったのか?

そうでなければ米はそんなにとれないから烏崎村が村ともなりえなかった。田にするには土地が狭い、ただ記録では大内村に所属していたとなる。烏崎村は田だけではない漁業で人口が増えたのである。田を中心にした村は人口が密集しない、散村というか点々と広い農地に人家ができる。宿場町とか漁業の町は港の機能があり市を成して海辺に人家が集中するのである。


袋村はつまり次男三男八男でも分家させるために大内村から開拓に入ってできた村だったのだろう。ただ一時は村を形成したが消失したということである。その原因は良くわからない、あそこに津神社があるのも謎である。津浪の記念の神社とされるがそれは慶長時代であるから新田開拓に入った元禄のあとである。また推測としては袋村の人が大内村に移り烏崎村の方に移動したとも想像できる。
なぜなら分家したのだから元の村にもどるということは考えにくいからである。烏崎村には漁業があるから人を吸収できたとも考えられるのである。つまり大内村と烏崎村は密接な関係がある。大内村の人が移動したとすると大内村の姓の人が住んでいることになる。橲原村から移動した人が大葦とかに開拓に入り移動して住み着いた。大恊ゥは橲原村にもあるからだ。大内村はあの辺では中世の館があり館下という地名もあるからあそこが中心として袋村や海の方へ烏崎村へと開けたことは確かだろう。


原発の近くの双葉町でも水葵が繁茂した
http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46677202.html

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2012年10月26日

語る文化が見直される (人間回復のために江戸時代への回帰が求められる時代へ)


語る文化が見直される

(人間回復のために江戸時代への回帰が求められる時代へ)

●語ることは何なのか?


語ることは何なのかなど問う人はいない、毎日語っている、しゃべっているではないか?今さら語ることがなんなのだとなる。ところがメデアがこれだけ多様になり急速に発達した結果、江戸時代にあった語る文化が喪失していたのである。江戸時代までの伝承は小さな村でも語ることであり語り伝えることである。身近な家のことでも語ることでしか伝えられない、それで膨大な民話が残された。
しかし今や家であれ村であれ語るということができない状態になっている。語る場所もないし語る時間もないのである。メデアの発達で膨大な情報が日々入ってくる。その情報にも追われるのが現代である。本も書いためたが膨大で家が傾くほどの本が集積していた。そしてなお本を買い続けている。今度は書店はほとんどいかない、アマゾンで配送料無料になったから買う本がまた増えたのである。例えば鎌倉を知りたいというときどうしても手元の本だけではたりなくなるからもっと詳しく知り多たいとなり鎌倉について文章を書いていると必ず参考になるものが必要であり本を注文する。そしてまた本を減らしてもふえてゆく。ただもう年だから読めない必要ない本は捨てているから半分くらいにはへる。人間が情報を処理する、読める本はつくづく限られている。今は自分の文章を書くために引用するために今まで読んだ本を参考にしている。もう本を読むのは限界なのである。でも自分で文章を書くときどうしても参考にせねばならぬものがあり本には濃密なプロの書いたものだから引用する文が発見されずある。何回か読んでも忘れていたのである。


江戸時代まで語りの文化だったというときその原因は文字を読み書きできない人が多数だったからである。これはヨ-ロッパでも同じである。聖書を印刷してみんなが読めるようになったのはルタ-の宗教改革以降である。一六世紀以降だからそれまでは聖書は聞かされても庶民は読んでいない、教会に行って聖書やキリストの事跡を絵で教えられたりしていたのである。文盲が多いというときどこでも語りとか絵や建築など具体的なもので教えを伝える。仏教でも仏像は偶像になるけど仏像を通して仏の教えを伝えることが普及させた。仏像はただ大きいものだったら意味がない、そこに精神的なものの象徴として具現化されているから心ひかれる。鎌倉の大仏が忍性菩薩だというときひたすら耐えている姿が仏像から浮かびそれに習うということがある。相馬市の日立木の仏像は明治以降作られたもので大きいのだが何か精神性が感じられないから文化財とも言えないのである。だから仏像は拝むべきものではない、その精神性をくみとり習うものであり神のように拝むべきではないのだ。日本人はあらゆるものに拝みすぎるのである。それは偶像崇拝につながっているから危険なのである。


昔の文字の教育はほとんど京ばかりで僧でも田舎にいる者は暗誦が仕事であった。はるばる九州から豆を背負って学問しにきたとうい話しもあり地方にはその機会が至って少なかった。聴衆は物語の愛好者であったけれどもやはり上下を通じて皆一種の盲であって写本の必要なかった点は語る座頭も同じだった。(柳田国男-雪国の春)


語るということを最近自分自身が再発見したのは自分の墓のある墓地で天保時代の碑を発見したことである。それは同じ故郷の八九才の人とともに偶然発見した。自分の墓のすぐ近くだったが気づかなかった。なぜならそれが誰かの墓だと思っていたからだ。しかしそれは違っていた。ここがもともとは隣が鹿島神社になっているごと神宮が神宮寺となったのである。天保時代はここは寺だったのである。そして不詩朗謡と四文字が記されてあった。これは墓ではないここがもともと寺でありそれで寺子屋の役目を果たしていて戒めとして記されていたらしい。朗謡は朗詠であり暗唱のことであり詩文とせず暗唱せよという戒めを記していた。でもなぜそんなことをいちいちここに碑にしてまで記していたかということになる。それはやはり仏の教えであれともかく暗唱することが第一とされた。そもそも文字を書けない読めない人が多いというとき暗唱することが学ぶことの第一になるからだ。

江戸時代の文化は伝えることはほとんど語ることである。それは江戸でも落語があり村では民話が残っている。それらは書かれたものではない、語られたものなのである。膨大な民話は今は書かれたものとして読んでいるが実際は身近な人によって語られたものである。もちろん本で読んだりしない、本そのものが村にはないからだ。語り伝えられたことが代々伝えられて残ったものである。
江戸時代の情報環境は田舎だったら本もない、語られたものからしか知ることができない、だから語り伝える人が遊行して語り伝える人が生まれた。この辺の宝財(ほうさい)踊りなどに浄瑠璃があるのはこれも大阪などから語り伝える人が来たから伝わって祭りとして残っている。事件でも物語でも遠くのことは語り伝えることがなければ知り得ようがない時代だったのである。
田舎にいる者は暗誦が仕事であった・・やはりこの碑の意味は暗誦しろということであった。それが学ぶことであり知ることだったのである。


南相馬市鹿島区の町内の墓地の碑の謎
http://musubu2.sblo.jp/article/59292470.html


●盲人の琵琶法師から始まった各地への語りの伝播




盲僧が琵琶を弾くようになるのは、任明天皇の子人康親王が盲目となり、ほかの盲僧にも琵琶を教えるようになって以来といわれている。鎌倉時代初期には、そのような琵琶法師が多数存在していた。
江戸時代の日本には眼病が多く、盲人の出現率も高かった。

 痘瘡や栄養失調で失明する者が多かった。鎖国直前に来日した宣教師フロイトは「日本人の多くのものが痘瘡で失明する」(『日欧文化比較』)と語り、幕末に来日したポンペも「世界のどこの国をとっても、日本ほど盲目の人の多いところはない」(『日本滞在見聞記』)と語っている。
 盲人が多かったこともあり、彼らは当道(検校・勾当・座頭)といわれる集団をつくり、盲人同士の相互扶助と生活保護の連帯社会を形成していた。按摩業はこの組織によって支配され保護されていた。
 それにたいし貧しい盲目の女性たちが生きるためにつくっていた集団が瞽女はうら悲しい女旅芸人というイメージがある。「瞽女」とはむつかしい字であるが、瞽は盲目のこと、御前に仕えるという意から「御前」という字も当てられている。広重と豊国はこの「雙筆五十三次」の「舞坂」
で、瞽女の一行を描いている。


立川昭二『生と死の美術館』岩波書店2003年
・¥世界大百科事典内の目星の言及

・【目‖眼】より

…これは劣悪な栄養と過酷な労働に起因して発生した。このほか病目(やみめ),はやり目といわれる急性・慢性結膜炎,ただれ目といわれる眼瞼縁炎,星目,目星といわれるフリクテン,打目(うちめ),突目(つきめ)などの外傷,あるいはものもらい,目いぼといわれる麦粒腫,それにトラコーマ,虹彩炎,翼状片,緑内障,弱視など,江戸時代の眼病は多彩をきわめていた。また江戸時代にはおよそ7万5000人以上の盲人がいたといわれ,疫病や栄養失調のために失明し,彼らは当道(とうどう)や瞽女(ごぜ)などの集団を形成していた。…
・※「目星」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

・医学者のツルンベルクは『日本紀行』の中で日本人に眼病(赤眼、爛眼)が多発している原因を炭の煙(;囲炉裏の薪炭の燻煙)と便所(トイレ)の臭気・悪ガスにあるとしています。

また幕末の安政4年(1857年)から文久2年(1862年)まで在日したお雇外国人医師のポンペも日本人に眼病がきわめて多いことを指摘、『日本滞在見聞記』で長崎においては住民の大体8%が眼病に患っているとし、日本人に盲人が多いのは治療法の誤りにもとづくものであるとしています。
http://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_46.html




一〇人に一人くらい盲人がいたということが琵琶法師など語り伝える遊行の人が増えたのである。これは最初は仏教の無常を教える布教者ともなっていたがあとはただ語るものとなっていった。 この琵琶法師で相馬市の病院で新地の人がしきり琵琶転がしという地名があるということを言っていた。山の方にありやはり険しい道だからそんな名がついた。牛転がしとか道の険しい場所は危険だからそうなる。たしかに転げ落ちるということは道が狭いから目撃する人も多くいてその名がついた。ただこの辺にもそんな伝説が伝えられていたことに驚いた。岩松氏一族惨殺も鎌倉時代だからこの辺に琵琶法師が来ても不思議ではない、これは別に地名にのっていないから話しとして伝えない限りわからなくなる。その人は自分で土地のことを調べていた。ただなかなかそういうことを話す相手がいないということがあった。そういうことに興味を持つ人が近くにいるとは限らないからである。ただこの辺でも八〇才以上の人はそうした語り部としての素養をもった人がかなりいることに気づいた。自分があった八九才の人もそうであり病院であった老人はたいがい何かを語り興味深いものだった。病院という場が何か語り安い場所だったのである。とにかくホメロスも盲人だったらしいというとき外国で目の病気が多かったのかもしれない、栄養不足なことは同じだからそういうことがありうる。医療は極めて劣悪なものだったことは同じだからである。


●語り伝えることが郷土史の基本


郷土研究というとき、むずかしい本ばかりを学者のように読むことではない、その土地に語り伝えられたことを知ることである。柳田国男の功績は本から学問を作ったのではない、語り伝えられる口碑を重んじて新しい民俗学の学問を作り出したのである。遠野物語でも一人の土地の人から聞いてそれを筆記して本にしたのである。現代はメデアも多様だがそもそも語る文化とは根本的に違っている。語るということは一人のことではない、本は一人で読めるから個人主義を発達させたというのもわかる。本を読むこと書くことは孤独な作業なのである。ところが語ることは相手がいて聞き語ることだから共同作業なのである。そのことを病院や八九才の人としてきて語ることが語り合うことが長い間の人間の根源的な営為としてあったことに気づいた。それは江戸時代では当然のこととして当たり前のこととして行われていたのである。まず囲炉裏などで聞かされるのは身近なものが多い。それは現代のような地球の裏側までのことを貪欲に知ることではない、その語られることは極めて具体的な回りの世界と密接に結びついていた世界である。小さな村では事物と物と事件でも語ることは言葉は具体的に結びついている。言葉が先にある世界ではない、具体的なものがある世界である。そのものは直接ものがつくとかなり心を影響する世界だった。そこではものと言葉の分離はないのである。

現代は言葉とものが分離している。特に都会となると自然の事物と切り離されて語られる。回りの事物と言葉が密接に結びつかないのである。だから言葉が死んだというときそういう自然から離れた極めて人工的空間で生活しているからそうなる。だから本来の沈黙から語る言葉の重みはまるでない、商業用語となり本来言葉がもっていた詩的な言葉は喪失したのである。言葉すでに数字のようなものとなっているのだ。語ることはやはり一つの密接な共同体の交わりがあり自然をアイデインティティとするところでないと機能しないのだ。それは新聞とかマスコミとか本でも成されない世界である。語ることは人間の根源的な精神的営みでありそれは本来は小さな共同体があって成されたものである。古事記などもそうして語り部が語られたものであり書かれたものではない、現代に語りが喪失したというときマスメデアによって人間の本来のそうした語ることが代替わりされてしまった。ただマスメデアの伝えられたものを消費するだけのものとなった。だからこそマスメデアに情報操作されるようになった。マスメデアが余りにも巨大な力をもつようになったのである。マスメデアを通じてしか知り得ないことが多々あり全国規模世界規模になった情報世界は小さな村や共同体で語る文化を喪失させたのである。


つまり現代の複雑巨大化した文明は主体的に存在がかかわることができない、巨大なものにただ操作されるだけでありお互いに語るものとしてはありえない世界である。津波のことでも原発のことでもあらゆることが政治でもマスコミを通してしか伝えられないときただ操作されるだけのものとなってしまう。だからマスコミがあたかも人を差配して操り人形にさせられるのである。そしてマスコミを通して人を演出される。マスコミを通して有名になった人はマスコミによってでありその人が古代のような神話の英雄ではない、マスコミによって作り出された演出された虚像を巨大化しているのである。テレビにでただけどあたかも何でもない人でも重要な人物に演出される。政治家でもテレビに出ないと重要ではない忘れられた人物にされる。テレビに何回もでているとその人はアナウンサ-でも重要な人物に見えるのである。でもテレビからタレントでも消えるとその人は存在すらしなくなる。あとで死にましたなどと一回だけ写りその人は消えてしまうのである。別にテレビに移らなくてもタレントでも生きていたけど遠いと知り得ようがないのだからテレビに写らないと死んだと同じなのである。インタ-ネットのメデアは個々がメデアとなり結びつくということがある。でもマスコミはある個人が巨大化され演出され虚像が形成される。そこに錯覚が作り出される。政治家でも小泉劇場とかテレビをマスコミを利用して演出して虚像が作り上げられたのである。橋下氏も石原慎太郎などもそういうマスコミを通じて巨大化される。実際にもともとはテレビに頻繁にでたタレント出身であることでもわかる。だから堅実性はないがそういうことは今の時代ではどうでもいいのである。大勢の人にともかく話題になり知られることが先決でありあとの政策やその他は二の次ちなるのだ。テレビに写っただけで大勢に知られる力をもつことになるのが大衆社会でありその大衆を導くのがマスメデアになっていたのである。


江戸時代で誤解しているのは江戸の長屋ですら生涯同じ場所に住んでいた。ドラマだと浪人がどこからからやってきてどこかへと消えてゆくような感覚になるが一般の人は生涯同じ長屋に住んでいた。だから親密な交わりが田舎の村と同じように作られていたのだ。都会だったら絶え間なく人は移動して移住している。そういうところでは語る文化などありえない、語るにしても一代だけではない、代々語り伝えるには何代も同じ場所に住んでいる必要があるのだ。江戸時代は職人すら十代以上つづいていたりと長い時間の中で密接な関係が築かれていたのである。そういう社会は精神的に安定していたのである。もちろん今のような鬱病なども非常に少ない社会だった。裁判にしても人情裁判でありいい人と悪い人は評判で判決を下す奉行もわかっていて人情裁判になった。現代の裁判は法律で複雑怪奇になる。なぜならその人がどういう評判の人とか何が悪人なのかもわかりにくい社会だからである。悪というのが見えにくい社会なのである。江戸時代は悪は判別しやすく見えやすかったのである。同じ場所に生涯住んでいればその人となりがわかりやすいたからそうなった。今は外国人も交じり移動しやすいからわかりにくいのである。そんな社会窮屈だといえばそうだけどそれが犯罪を少ない社会にしていたのである。犯罪を犯しにくい社会だったのである。


最近、インドのある村にユネスコの実験として水道が設置された。しかしまもなく村人はその水道のパイプをとりのぞくことを要求したのである。彼らの立場からすれば共同井戸にみんなゆくことがなくなれば村の全社会生活が衰えてしまうと思ったからである。(マクルハ-ン-人間拡張の原理)


これに象徴されているのが現代の便利な生活なのである。村という密接なコミニケ-ションの場は水道で個々の家庭に分断されそこで村人が集ることもないから互いに語り合うこと意志を疎通させることもなくなる。そうすると互いに孤立して今度はテレビを見るようになると世界のことが気になり村のことより遠くが現実的問題のように切実なものとして見えるのである。村人は地球の裏側に関心をもち近くには関心をもたなくなるのである。水道は一例であり車でもそうだしあらゆるものがそうなっているからもう昔のような村の共同体などありえようがないというのが現実である。それも回復できないというのも現実である。それでもやはりそういう文明の便利な生活が何かおかしいと気づきはじめて来た人たちがふえてきている。原発事故も実際は文明のそうした複合的要因で大事故になったのである。もちろんじゃお前は江戸時代に帰り電気もないところで暮らせと言われるがそういう極論ではない、今人々は失われたものを求めている。それが語りあうことであり語りの文化の復活なのである。それはマスメデアを通じてはな成されない、インタ-ネットはそういう時代の求めるものがあり技術として発明された。でもそれ以上に直接語り合う、語り伝えるということが求められ時代になる。それはやはり精神的には江戸時代への回帰なのである。


●時事問題の深層に書いたものです-参考にしてください

現代の妖怪(メデアが育む妖怪)
http://www.musubu.jp/internetmedia.htm#youkai
posted by 天華 at 21:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2012年10月17日

南相馬市鹿島区の町内の墓地の碑の謎


南相馬市鹿島区の町内の墓地の碑の謎

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不詩朗謡


不詩(文)朗謡-朗詠

朗謡-朗詠・・・暗唱
詩に文にせず暗唱せよ
謡(うた)いなさい


これもなぞである。最後の字はわかりにくいが不詩朗は読める。朗は名前だと思ったが違う。
朗謡-朗詠かもしれない、ただこれが何を意味しているのかわかりにくい、詩にしないで朗詠しなさい、暗唱しなさいなのかとなる。詩文にしないで暗唱して覚えなさいということなのか?
推測すると天保となるとまだ庶民では字を書けたり読んだりできる人はまれだったろう。
字が書けたり読むことが普及したのは江戸時代後半、特に幕末辺りに寺子屋が増えて読み書きができる庶民が増えたのである。ここは一つの寺子屋のような役目を果たしていたのかもしれない、暗唱することに学びの重点があったからこのような戒めの碑を建てたのだろうか?他に儒教が普及してそうした戒めの碑がほかにあったようだ。


何らかの戒めとしてここに碑を建てた。ここはだから寺であった。この碑を建てた時、神明寺という寺になっていた。ただ寺でもここに墓があった、墓地になったともいえない、なぜならここは武家の墓がなく庶民の墓であり明治以降に増えたのである。武家の菩提寺が寺だとするとここはそうではない、ただ最初は神社であり次に寺になりそのあとに寺がなくなり幕末辺りに庶民の墓が作られた。
庶民の墓が砂岩で作られていたからである。庶民が墓を作れるほどの財力をもったのは幕末である。天保辺りではまだそれだけの力が金をもつことはまだこの辺ではできていないはずである。


鹿島町誌に鹿島御子神社は神主青田六之頭御奉行・・・小奉行桑折・・青田・・導師長命寺別当神宮寺とある。青田とか桑折の姓は相馬藩では古い。ここは神社であったがあとに寺の領域になったのである。


元禄一五年、戸数元禄(1689)-享保(1716) までは二四〇戸あったが天明(1782)になり百三九戸に減った。天明の飢饉の影響で半分に減ったのである。天明山と相馬市の近くにあるのは飢饉の影響でそこに碑を建てたのが由来かもしれない、


天明の大飢饉で相馬藩の農業は壊滅的打撃を受け、農民の数も減ってしまった。時の藩主は他国の農家の次男、三男を移民させて農業の復活を図ろうとし、諸国に声をかけた。その呼びかけに呼応した富山の農民達は、門徒宗僧侶の導きのもと厳しい監視の目を盗んで国抜けし、相馬を目指して数百キロの辛い旅に出た
http://musubu.sblo.jp/article/14814569.html


この時から越中などからの真宗の念仏を唱えるものが移住して墓を残したのである。

鹿島村が発展したのはやはり街道沿いにあったためである。もともとは田中城とか岩松氏の屋形とか江垂の中館が中心であり鹿島村は街道ができて発展した。原町もそうであり原町村で武家が一人しかいなかったことでもわかる、文字通り原っぱだったが街道ができて発展した。その証拠は原町市内とか鹿島町内から野馬追いにでるのは極めて少ない、一軒くらいしかないのである。それは原町市内でもそうだし相馬市内でもそうである。相馬市内だと城があったから城づめの侍の子孫が残っているようで残っていない、野馬追いに出る家はまれである。郷士が多かった相馬藩では農家から村から野馬追いに出る人が多いのである。
posted by 天華 at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代