2017年12月03日

自分の墓地にまた一つ江戸時代の碑を発見する


自分の墓地にまた一つ江戸時代の碑を発見する


我が街の家の墓地への情をつづる (文語体で記す)

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姓が違ってる墓は明治時代まであった,家が有力なものだったら嫁いでも姓を名乗ったとなるのか?

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捨てられた墓



不詩朗謡

不詩(文)朗謡-朗詠

朗謡-朗詠・・・暗唱
詩に文にせず暗唱せよ
謡(うた)いなさい

これもなぞである。最後の字はわかりにくいが不詩朗は読める。朗は名前だと思ったが違う。
朗謡-朗詠かもしれない、ただこれが何を意味しているのかわかりにくい、詩にしないで朗詠しなさい、暗唱しなさいなのかとなる。詩文にしないで暗唱して覚えなさいということなのか?
推測すると天保となるとまだ庶民では字を書けたり読んだりできる人はまれだったろう。
字が書けたり読むことが普及したのは江戸時代後半、特に幕末辺りに寺子屋が増えて読み書きができる庶民が増えたのである。ここは一つの寺子屋のような役目を果たしていたのかもしれない、暗唱することに学びの重点があったからこのような戒めの碑を建てたのだろうか?他に儒教が普及してそうした戒めの碑がほかにあったようだ。南相馬市鹿島区の

町内の墓地の碑の謎

これは前に書いた街内の墓地のことである。鹿島御子神社の隣にある,ここは神社の領域だったが寺ができて神宮寺になった,そういう所は全国でも多い。
ここにこの碑があるのは寺子屋があったからだろう。

      1772年安永1年壬辰11月16日改元 
  1773年安永2年癸巳  
  1780年安永9年庚子  
  1781年天明1年辛丑4月2日改元 
  1788年天明8年戊申  
  1830年天保1年庚寅12月10日改元 
  1843年天保14年癸卯  
  1844年弘化1年甲辰12月2日改元 
  1847年弘化4年丁未  
  1861年文久1年辛酉2月19日改元 
  1863年文久3年癸亥  
  1864年元治1年甲子2月30日改元 
  1865年慶応1年乙

ここで一番目立つのは大きな安永時代の碑である。

光明真言を唱えつつ大師堂に向かいます。
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどまじんばら  はらばりたや うん」
(移動のとき光明真言を唱えるのは有縁無縁の霊魂を供養するため)

空海の密教の祈りの塔だった,空海を祖師とする仏教である。
明治維新がすでよら百五十年前とかなりそれから百年前は安永である。その安永から天明になった,その時この辺は天明の飢饉で三分の一に人口が減ったのである。
なぜ自分の家のすぐ近くの神社にも天明の碑があるのか?
なんらか町内でも天明の飢饉の影響があった,その記念のためなのかもしれない。

天保となると明治維新に関係し人達が生きていた時代である。だからかなり身近なのである。
今回発見したのは「弘化」と刻まれた墓である。小さな墓である,僧侶の墓だろう。
僧侶の墓は多いし残りやすい,文久の墓もあった,ここは密教系の寺がありやがて廃寺になり墓地になった,だから相当数の骨が埋まっている場所である。

ただ墓と碑は違う,暗唱せよと記したものは碑である,記念碑とか戒めの碑である。
人が埋まっている墓とは違う,戒名とか記されていれば墓である。
鹿島神社があり鹿島町と前はなっていた
そしてこの辺で一番古い家は南北朝時代に霊山から逃れてきた只野氏なのである。
その人の墓は寺の内にあるというのもわかる
しかしここももともとは寺であった,そこに墓地もあったとなる

いづれにしろあそこの墓は狭いし入り組んでいる,でも古い墓地だったのである。
そしてまた人が死ぬから墓が増えるのだからあそこはもう増やせないのである。
墓が残っていても供養しない墓もあり墓が無縁化したものが集められている場があった
墓の墓場が増えているのも昨今である。
墓が個々人とか家の墓とか維持するのが現代はむずかしくなっている
だから共同墓地化するのがいいのかもしれない,例えば十人でも埋まっている墓があればその子孫の誰かがお参りするからである。そこは墓として維持できるからである。

母の実家の墓を三百万もらって墓を維持してくれと頼まれても無理である。
そんなことを背負わされなくてつくづく良かったと思う
なぜなら墓というのはその家の因縁とか負の部分も背負うことになるからだ
それを代々背負いつづけるのも容易ではないからだ
だからいづれは絶えてしまい墓を処理することが大変になるのである。
自分は兄の骨を母の実家に埋めたのでお参りしていた
それがめんどうになったのである。隣の街ですらそうなのだからもう離れていると墓も疎遠になりやがては捨てられることになるのである。
だから原発避難区域では移動した場所に墓も移すようになるのである。

人間最後に残すは残るのは墓だけどそれも忘れられる,もうただ墓だけが残りその人がどういう人だったのか何もわからないのである。
ただ暗唱せよというのは碑であり墓とは違う,それは記念碑であり死者を供養するものではないからだ,だから墓石屋が兄の墓を碑と記せといったのは間違いだったのである。
忠魂碑とかあるがそれも死者のことではない,記念碑なのである。
そして今は何か変わったデザイン墓があるがあれもその人の記念碑のようになっている
墓とは違う感じになる,何かその辺の混同が起きているのである。
時代と共に何でも変わるから墓も変わってもしかたがないがやはり墓と碑は違うのである
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この墓は僧侶の墓ではない,居士とは僧侶に準じる人とあるが僧侶ではない
ただ院とは記していないが院があり道があり戒名があるからそういう位がある人だったとなる,大姉もそうである。ここでは男性二人に女性二人が記されている
なぜ四人も一緒に一つの墓なのか?紋も記されて立派なのである。
これはいつの時代なのかわからない,江戸時代なのか,明治時代なのかわからない
ただ四人も名前が記されているのはなぜなのか?そこに何かの因縁があってそうなった

忘れらる墓また一つ我が墓地に見いだしあわれ冬の日暮れぬ

posted by 老鶯 at 11:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2017年11月12日

南相馬市鹿島区川子の御堂の墓の謎 (明和だから天明の飢饉の前のものだった)


南相馬市鹿島区川子の御堂の墓の謎

(明和だから天明の飢饉の前のものだった)

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荒井山広徳院宝持寺 北森山にあり,天明の頃,寺廃す
故に塩崎村田中山慈伝院に合す:文政六年慈伝院を江垂村普陀落山観音寺に合す
(鹿島町誌)

元禄宝永中戸数四十,三十八戸 天明三二十二戸 同年 戸数十六戸


慶長けいちょう1596.10.27〜1615.7.12 
元和げんな1615.7.13〜1624.2.29 元和偃武
寛永かんえい1624.2.30〜1644.12.15 寛永寺 寛永通宝
正保しょうほう1644.12.16〜1648.2.14 
慶安けいあん1648.2.15〜1652.9.17 慶安の変
承応じょうおう1652.9.18〜1655.4.12 
明暦めいれき1655.4.13〜1658.7.22 明暦の大火
万治まんじ1658.7.23〜1661.4.24 
寛文かんぶん1661.4.25〜1673.9.20 
延宝えんぽう1673.9.21〜1681.9.28 
天和てんな1681.9.29〜1684.2.20  ※辛酉革命
貞享じょうきょう1684.2.21〜1688.9.29. 
元禄げんろく1688.9.30〜1704.3.12 
宝永ほうえい1704.3.13〜1711.4.24 
正徳しょうとく1711.4.25〜1716.6.21 
享保きょうほう1716.6.22〜1736.4.27 享保の改革
元文げんぶん1736.4.28〜1741.2.26 
寛保かんぽう1741.2.27〜1744.2.20 
延享えんきょう1744.2.21〜1748.7.11 
寛延かんえん1748.7.12〜1751.10.26 
宝暦ほうれき1751.10.27〜1764.6.1 宝暦事件
明和めいわ1764.6.2〜1772.11.15 
安永あんえい1772.11.16〜1781.4.1 
天明てんめい1781.4.2〜1789.1.24 天明の大飢饉
寛政かんせい1789.1.25〜1801.2.4 寛政の改革
享和きょうわ1801.2.5〜1804.2.10 
文化ぶんか1804.2.11〜1818.4.21 
文政ぶんせい1818.4.22〜1830.12.9 
天保てんぽう1830.12.10〜1844.12.1 天保の改革

川子の御堂の由来は何なのか?あの御堂には何を祭っているのかもわからない
鹿島町誌にある寺があったところなのか?
その僧侶の戒名が記されていてそれが明和となっている
明和というと天明より前である。天明の飢饉より前に寺があったのか?
天明の頃に廃したとあるのは飢饉で寺が成り立たなくなったのか?
そういうことはありうる

天明になり戸数が半分以下になっている,それは相馬藩では共通している,だいたい半分に戸数は減ったのである。そうなると寺を維持できなくなり廃した
そして塩崎村の田中山慈伝院に合したとなる,その後は江垂の寺に合した
ということはこれは天明の飢饉が関係してこうなったのか?
ただここには寺があり僧侶の戒名が記されているが天明の飢饉の前に死んだのである。
ただその後にその寺はなくなり墓だけが残ったともなる

川子というとき何か村としては小さいし由緒がはっきりしない,大内村には館という地名があり中世からあった,真野の江垂は中館がありここはこの辺では南北朝の争いで霊山が炎上して逃れた武士が住み着いたことで知られている
塩崎村とか川子村はその中館から分村したものとなるだろう。

地形的にもおそらく前は丘陵になっている前は湿地帯であり津浪で塩水に浸り塩崎まで船着まで津浪が来たことには驚いたのである。この辺では低い場所だったのである。
塩崎と船着とかいうことが津浪で現実にそこまで海だったことが証明されたのである。
八龍神社は高い所にある,烏崎でも高いところにあり津浪でぎりぎりで社が残ったのである。あれも本当に不思議だった,八龍神社があれば相当に古いのだと思う
鎌倉時代に普及した水を司る神だからである。

川子には五賀とかの姓の人がいる,右田にもいた,それは古閑(こが)であり越中の人である,人か住んでないな荒地の意味である。
越中とかからは天明の飢饉で移住した人が相当数いる,墓地を見れば本当に多い,真宗だから南無阿弥陀佛となるからである。三分の一くらいがその墓になっているとき江戸時代からその子孫が相馬藩内に住んだのである。

そういう移民は相馬藩内でも悪い土地を与えられた,だから開墾するのに苦労したのである。ただどこにでも真宗系統の移民がいるから川子が多いというわけではない,散らばって相馬藩内に入った,ただそこは土地としてはいい場所ではなかったのである。

ただあそこに明和の碑が墓があったことは意外だった,まず天明より前だとこの辺では相当に古いとなるからだ,他の碑もみてみたが字がわからない,不明になった碑も墓も多いのである。
タグ:川子
posted by 老鶯 at 19:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2017年10月13日

水戸黄門の相馬焼をテーマにしたドラマを見た感想 (郷土史には悪人がいないからつまらない)


水戸黄門の相馬焼をテーマにしたドラマを見た感想

(郷土史には悪人がいないからつまらない)

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相馬駒焼は藩主相馬氏への献上品から始まったもので、現在まで一子相伝でつくられています。
対する大堀相馬焼は、庶民が日常生活で使える手軽なもので、主に農家の副業として営まれた半農半陶の工芸品だったそうです

14代の兄は乗馬中に落馬し、それがもとで病没。それ以来田代家は野馬追から遠ざかった

江戸元禄(1688〜1704)の初め半谷休閑の下僕左馬が、中村の西山・町方両所陶師のもとで陶法を学び、帰郷して、浪江町井手美森で良質の粘土を発見し、茶碗の製作をした。
この茶碗は「左馬茶碗」と呼ばれ近在に売り出した。
大堀相馬焼を開いた左馬の功績を称え、「嘉績翁碑」が文久3年(1863)大堀後畑の神社の境内に建立されている


相馬焼の歴史



相馬焼の歴史はいろいろある,それを前に書いた,今回またとりあげたのは新しい水戸黄門で相馬焼をテーマにしたドラマを見たからである。
これは史実をもとにしたものであり全部が作り話ではない
左馬茶碗というのがありその左馬の功績を讃えて神社まであるのは知らなかった
相馬焼は技術的にも優れて有名だった,だから益子焼とか笠間焼とかの基になっていたのである。

ドラマでは藩のみに許された田代家の相馬駒焼と庶民化した大堀相馬焼がありそこで争いが生まれたことがテーマになっている
大堀相馬焼には走り駒というのを描いてはいけないものとなっていたがその禁を破ったのでそれをいいことに殿様の子息が悪さをするというストリーである。
これはありきたりのものでストリーはつまらない,ただ史実を基にはしていたのである。
水戸黄門などは旅すらしていない,大日本史を編纂したがそれが後の過激な尊皇思想となり相馬藩も藩士もその思想に洗脳されて天狗党に参加した
水戸光圀の評価はいいものではない,それはドラマと歴史の事実との相違である。
ただ当時の身分制の厳しさは相馬藩にもあった,それでも相馬藩の歴史というのは何かもう一つリアルに再現できないのである。

14代の兄は乗馬中に落馬し、それがもとで病没。それ以来田代家は野馬追から遠ざかった

これは事実であり今でも野馬追いでは落馬する人がいる,落馬は怖いのである。これは今なら交通事故と同じである。致命傷になりかねないのである。
歴史はやはりリアリティがどこにあるか見る必要がある

それで郷土史には悪人がいないので面白くないという人がプログで書いていた

それと郷土史がつまらないのは「悪人」(?)が出てこないからです。歴史小説が面白いのは悪人が登場して物語を活気づけるからです。ところが、郷土史では善人や真面目な努力家しかとりあげませんから内容に深みがありません。もつとも善人を「悪人」にしたてあげると、必ず「うちの先祖はそんなにひどい人ではなかった。我が家に何か恨みでもあるのか」と文句を言われるに決まっていますからしかたがないところがあります

これはいえるのだ,なぜならこの辺で最も有名な悲劇がある。この辺の支配者の岩松氏一族が子供まで皆殺しにされたことである。
それはあまりにも悲惨なので語られつづけた
それがこの辺で地元で語りにくいというときその岩松氏一族を惨殺した子孫が今も生きているからである。一人はその姓を恐れて変えたのである。
そして岩松という姓は相馬藩内に絶えていることもそのことを物語っているのである。
それも歴史的にわかっているからそれをこの辺では言いにくいとなる
500年前の話でも未だにその悪事の影響がある,そういうことが郷土史にはあり現実的にリアリティあるものとして追及しないからつまらないとなる

相馬藩でも実際は悪い殿様をいたとしてもそんなことは語られないのである。
農家の娘を無理やりめかけにしたという話も本当なのかどうかわらないにしてもそういうことがあったとは語られないのである。
歴史は相馬藩という地方史でも相馬氏が治めたから勝利者となったから相馬氏の悪いことは書かれないのである。それは国単位でもそうである。
最近しきりに明治維新について薩摩長州のテロリストが成したものだとか批判がされているのもそのためである。
明治時代だったらそんな批判はできない,現実に権力を持っているのだからできないのである。

今回の水戸黄門でも殿様の子息が悪い奴にされているがそれを地元の人が見たら嫌な感じになる,そんな人は相馬藩にいなかったとなる
郷土史では悪人のことは語られないのである。みんないい人だとなってしまう

いづれにしろこの辺では浪江の大堀焼は消失した,復興できない,もう白河とか他に窯を作り相馬焼をはじめている,大堀相馬焼は復興できない,でも相馬焼の窯元がないことは淋しい,窯元があるとないのでは違う,そこは文化の発祥地としての役割をになうからである。
そして相馬大堀焼のあったところは高瀬川の岸であり高瀬川渓谷に入る景勝の地だったのである。それが失われたことは大損失だったのである。

だから浪江町の復興は本当にむずかしい,山の方だと津島の方まで放射線量が高いからである。ちょうど放射性物質の雲のブルームの通り道となったからである。

窯元のここに並びて技磨くその日は消えぬ帰らざるかな

相馬焼は他で伝えられるが窯元が並んだ光景はなくなる,相馬焼でも現代化して新しいものを作っていた。伝統があってもその伝統もそこから新しいものが生まれないと文化の発展はない,紋様とかなると自分がしているコンピュターのソフトで描く抽象画などが応用されることもありうる
ただそうした文化発祥の地が失ったことは回復しないことは大損失だったとなる
posted by 老鶯 at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2017年07月19日

時代劇も事実を基にしている (相馬藩の新田村のおみかとは実在したのかなの再考?)


時代劇も事実を基にしている

相馬藩の新田村のおみかとは実在したのかなの再考?


飯豊耕土にや 箒はいらぬ
新田、おみかの裾で掃く

こんな歌が残っていること自体、新田は相馬藩の城からもさほど遠くなく古い地だった。
柏崎梅川のお釣り場からの帰りにおみかという娘を見せめて城勤めになったという。
こういう話は他でもいろいろあるから何が本当かわからない、ただこんな歌が残っているのだから
おみかとは実在の娘だったのだろうか?でもなんらか相馬の城の殿様と関係していたのか?
新田という地はそれだけ何か相馬藩の城の殿様と親しい村だったともなるのか?
ただこんな浮ついた話しがあるとすると他の村では面白くないだろう。
そんなことで村が厚遇されたりしたら他の村人は働く気がなくなるだろう。
誰か器量のいい娘を殿様にあづけて楽しようとかなる。相馬藩は貧しいからそんな余裕があったのかということにもなる。ただ別に殿様は当時は側女を多くもつことはとがめられていなかった。ただそれも豊かな藩のことである。
おみかがいて飯豊では働かなくてもいいという戯れ歌が残った
おみかの裾で掃くというのはおみかがいてそのおかげで箒もいらない、楽できるとなる
その反面として他の村では年貢が高くとられて不満があったとなる

最近昔のテレビドラマでも見ている、時代劇では悪がわかりやすい、西部劇でもわかりやすいから共通点がある。
その解決方法は銃であり暴力になってしまう、ただ江戸時代は公儀に訴えることができて裁判もあった。悪代官がなんでも勝手にできたわけでもない、座頭市のドラマでは隠密が調べにきていたのである。

でもそのドラマで新田村のおみかと同じようなことをテーマにしていた、庄屋の娘を側室にしようとしていた、それは結婚式の日に強引に奪うという筋書きである
それを土地の農民が年貢をこれ以上とられるとやっていけないとして庄屋の娘を代官にやれとまでなっていた。
すると新田村のおみかの伝説はそういう過去の歴史があって残されたものだろう。
それもここだけの話ではない、この俗謡は全国的なものであり九州から広がったらしいからだ。だからこうしたことは江戸時代に全国的にあったのかもしれない。

 十九世紀の初頭、文化の前の享和の頃、名古屋では、

神戸伝馬町箒はいらぬ
  鯛屋のお仲の裾で掃く

こういうことは誰か一人の女性がいてそれで繁盛する店のことである。村でも一人の美人がいてその娘が殿様にみそめられて側室になったら年貢が高くならず助かり楽をしたとなる  

(現在の宮城県東松島市野蒜)を拠点とした近代的な港湾計画と、運河による交通網の整備を計画した。当時の大久保 

野蒜新町 ほうきはいらぬ 若い女の すそで掃く.

これは明治時代まで全国で受け継がれた俗謡なのである。

これは別に殿様だと町娘でも農民でも気にいった女性がいれば側室にできる権力をもっていた。なぜならその村の農民に年貢を高くされたりしたら困る、一人の美人の女性がいてそれを殿様に与えれば村自体の生活が楽になるからだ
今からすると理不尽であり殿様が批判されるだろう。

でももともと武士の元をたどれば盗賊ともにている、治外法権のような所がありそこでは盗賊が支配する、するとそんなことはドラマではあからさまにしている
盗賊が支配者になるということである、みんな怖いから逆らえないのである。
それで中国で盗賊の首領が皇帝までなったということもわかるのである。
人間を支配するものは暴力と経済的富だったからである。

延宝郡上騒動(郡上藩金森家の財政難)

国家老遠藤杢助は半ば強引に江戸に出府して、常春や後見役に農民の窮状を述べ、増税を強行すれば御家の一大事を招く恐れがあると説いた。対案として家臣の俸禄六分の一を減じて財政を財政を補填すべきて訴えた。

これも年貢をめぐる騒動だった、増税派と反対派がいて騒動になった
増税派は自分たちの取り分が減ると反対した、公務員が月給が減るのだから当然反対するのと同じである。ただその月給というのが当時は米とかその他のものにかけられた税金だった、そうなると農民は増税には反対であり年貢が増えることは反対である。
当時の支配体制は侍階級の維持は年貢があって成り立っていた、それはより具体的である江戸時代は今のように複雑ではないから何でも具体的に悪が見える

年貢というのは具体的だからそこから歴史を知るのにはいい、年貢はより身近なものであり農民が汗水垂らして収穫したものを侍に納めなければならないからである。
今でも税金の関心は高い、なんでこんなにとられるんだと今でなっている
ただ今だと自分たちのためにもなるからやむなく払っているとなる
ただ現代は何でも見えにくい、複雑になりすぎているし国民となると数も多いから予算がどう使われているとかわかりにくいし関心が薄いのである。
江戸時代の藩だったら郡上藩だって二万石とか小藩だからより身近なものとして政治があった。だからその構図がわかりやすいのである。

時代劇も歴史であり歴史を学ぶにはいい、時代劇でも事実を基にしている、ただ面白いとして見ているだけでは勉強にはならない、そこに歴史の事実があるとき真面目なものとして見る、やはり歴史は事実の重みがあり成り立っている
架空のことではない、ドラマでもすべて架空のことだったらつまらないとなる
座頭とかは盲人が江戸時代に人口の8バーセントもいたというとき普通にいたのである。
それも栄養がたりないで盲人になっていた事実がある。
そして座頭転がしとか琵琶転がしとかがあり道から転落する
馬転がしとか牛転がしという地名が残るのもそうである。
目が見えなかったら道から転落しやすいのである。山道はこの辺の塩の道でも飯館村にゆく栃窪から山の道は沢沿いの道であり細いし転落したら怖いと思った。
馬で塩を運んだが一歩あやまると下の谷底に落ちるのである。
そういう道を歩むことは目が見えないとしたら本当に怖いとなる

いづれにしろ事実を裏付けにしないとドラマでもつまらない、しょせん作り事だとなってしまうからだ。そこに事実があるとき人間の真実が見えてきて参考になるのである。
そして歴史というときむずかしいものが多いがドラマだと入り安い、そんなことがどうしてあったのかと疑問をもつ歴史に興味をもつ、学者でなくても興味をもつのである。
相馬藩などもだから年貢から調べると興味深いものとなる

今まで書いたものが膨大である。その書いたものをまた再考して発展させる、それがプログとかインターネットではしやすい、本だと完結したものとして出しているがプログとかインターネットは完結しないものとして提示しているからだ
そして同じテーマでも何度も掘り下げて提示できるのが今までもの本とかとは違うものとなっている



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2015年06月25日

新地にあった「文禄」の碑 (伊達藩の検地の碑だった)


新地にあった「文禄」の碑

(伊達藩の検地の碑だった)


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新地で誤解していたのは相馬藩内だと思っていたことである。
それはなぜか?
相馬郡となっていたから相馬藩領だと誤解していた。
これは基本的知識の欠如だから相当な落度である。
普通の教育を受けていたらそういう誤解がなかった。
もう一つは今日買ってきた「新地町史」を読めなかったことである。
こういう郷土史でも基本的なものを読んでいないと誤解するのである。
歴史というのは何かわかったようでほからないのが多すぎるのである。
だから日本史でも何でも歴史は誤解しているこが非常に多いのである。

新地は相馬藩と伊達藩の境目でありそれが古代からそうだった。
宇多(相馬市)領域は南相馬市鹿島区の浮田国造が最初の領域であり
新地は亘理の領域で思国造とかあった。
これは定かでないにしろ古代から亘理が別な領域であり伊達藩との境となっていたのである。
丸森とかは山で遮られているから地形的に別な国として発展することがわかりやすい。
新地は平地であれ亘理につづいているから相馬藩の延長でもあり亘理の延長にもなる。
そこに駒ヶ峰城や画牛上や新地城で伊達藩との攻防が行われていたのである。
相馬市の領域は相馬藩が城を築くまでは伊達藩の領域だったのである。
なぜ中村に相馬藩の城が築かれたかとなると当然伊達藩の支配地域に侵入して
その土地を得たのだからそこはまた伊達藩から奪われる危険があった。
駒ヶ峰と新地では城があり攻防戦があり新地は伊達藩に帰属する結果となった。
だから相馬藩士は新地には住んでいないし代々伊達藩の武士が住んでいた地域である。
だから「黒田」という姓があるとしたらそれは伊達藩の侍の子孫であり
その他の姓にしても相馬藩の武士の子孫はいないとなる
文禄のときに秀吉の命令で厳格な検地が施行された。伊達藩ではいち早くその検地が実行された。それができたのは文禄時代にすでに新地の領域は伊達藩内として支配されるようになっていたからである。
だから年表として記憶すべきは元禄までは必要である。


文禄 ぶんろく 1592〜1595 1594 家康が田方郡の一部を大社に寄進す
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(江戸時代)
慶長 けいちょう 1596〜1614 1603 徳川家康が江戸幕府を開く
元和 げんな 1615〜1623 1621 豊臣氏が大阪夏の陣で滅びる
寛永 かんえい 1624〜1643 1636 徳川家光が大社社殿を造営する
正保 しょうほう 1644〜1647
慶安 けいあん 1648〜1651 1649 慶安の大地震(江戸3大地震のひとつ)
承応 しょうおう 1652〜1654
明暦 めいれき 1655〜1657
万治 まんじ 1658〜1660
寛文 かんぶん 1661〜1672
延宝 えんぽう 1673〜1680 1680 この頃の三島宿の家数596軒、3,814人
天和 てんな 1681〜1683
貞享 じょうきょう 1684〜1687 1687 言成地蔵の伝説が生まれる
元禄 げんろく



つまり文禄がいかに古いかわかる。相馬藩内では南相馬市の鹿島区の屋形にある田中城主の墓が慶長であり古い、それより古いのである。
伊達藩の歴史の方が古いからそうなるし記録も伊達藩には残っている。
津波の記録でも伊達藩に残るのが多く相馬藩内で残らなかったのはその時まだ相馬藩では支配がされていないからである。

だから

(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
http://musubu2.sblo.jp/article/104967935.html

ここに確かに文禄と相馬藩でも出ているがこれは検地ではない、一応相馬氏が支配領域とした所である。相馬市は文禄には検地はしていない
伊達藩では検地をしていたのだから「文禄」の碑はその時のものだろう。
検地の記念として「文禄」の碑を建てたとなる

新地の歴史は伊達藩の歴史だから相馬藩からはわかりにいのである。
新地はそもそも相馬郡になる歴史的必然性があったともいえないが
廃藩置県で丸森と角田県になる予定だったことでもわかる。
それが何か複雑な過程を経て福島県になって相馬郡になったのである。
でも古代からそうしたどっちつかずの位置にあったのが新地だったのである。

新地は谷地小屋、小川、今泉、杉目、の各村と大戸浜のうち、谷地小屋に置かれた新地駅(宿駅名)に由来があり、駒ヶ峰は単独の駒ヶ峰村に由来があってなづけられた。
(新地町史ー歴史編)

新地という名前が宿駅に由来していた。鹿島も鹿島神社に由来しても鹿島宿があり原町も原町宿があって原町市になったこととにている。
新地という名が新地町となり新地という地名が目立つようになったが実際は新地は狭い領域だった。原町ももともと野馬追いの牧があった雲雀が原がであり原町市となったのは
宿駅となったことが関係していた。

新地の歴史で面白いのは新地の浜で砂鉄がとれてそれを丸森で精錬し鉄を作っていたという、それも古代から武井遺跡は鉄を生産していたから連続性があった。
それで相馬藩は鉄を岩手県の宮古から岩泉から鉄を輸入して請戸港で仕入れて今度は葛尾村で精錬していた。
葛尾大臣がいてその鉄の生産で財を築いたのである。
こういうことは日本史でも世界史でもどこでも起きているだろう。
国交関係が悪くなれば貴重なものでも輸入できなくなる。
中国からレアメタルの輸出がおさえられて高くなり日本でも世界でも困って他からその輸入先を開発するほかないとなったのもそのためである。
ともかく相馬藩は伊達藩と密接な関係にあるから伊達藩を知らないと相馬藩もわからないとなる。
「新地町史」手元に置かないと相馬藩のことも調べられない
自転車で新地までは遠いからなかなか行けない
でも意外と鹿狼山は近いと思った。海と山との距離が新地は一番近いのである。
自転車でもそれほどの距離には感じなかった。
この距離感とか地形をまず実地に知らないと歴史はわからない
ただ基本的な教科書的知識もないどんと郷土史も誤解してしまう。
ともかくこの辺では「文禄」時代の碑があるということは相当に古いとなる。
それは伊達藩領域だから残っていたのである。

タグ:新地町
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2015年05月28日

江戸時代との対比で現代をみる (空間認識と時間認識が大規模に変わってしまった)


江戸時代との対比で現代をみる


 
(空間認識と時間認識が大規模に変わってしまった)


武士の農をはなれて、城下にあつまり、足軽中間までも城下に住居するは、治乱ともにあしき事なり。むかしは士たるものも農を本とし、在所を持て住居せり。
『集義外書』より(熊沢蕃山)

 
土着的というときいろいろな側面がある。武士でももともとは農民であったし侍になっても農業をしていた。郷士となっているのは農民であり侍である。
郷士の郷は故郷だから故郷に根付いて生活していた。
封建時代は農本主義であり農民中心の社会である。
だからいくら侍が治めるにしても八割の農民を基にして政治も成り立つのである。

現代を知るには明治維新の前の江戸時代をいすすいな側面から知らないと現代もまたわからない。
江戸時代がすべていいというのではなく江戸時代と現代を対比して現代を理解するのである。
明治維新後に失ったものが何か?それが現代の社会を知ることなのである。
まず江戸時代の地理感覚や宇宙感覚は極めて狭い、村が中心だとするとそれは極小の世界である。大きくても藩を越えることはない。
そういう世界で培われた世界観は極めて偏狭なものになる。
人間は空間認識と時間認識が基本にある。
江戸時代の空間認識は村が中心でありそこから外へと拡大したが藩が一つの国でありそれ以上は拡大しにくかった。
ただそれでも良かったのは江戸時代は外国と交わらないのだから別に外国も知る必要ないのだからそれですんでいたのである。
日本が庶民まで外国を意識するようになったのか明治維新後である。
村中心藩中心の地理感覚や世界観では生きていけなくなった。
一方で空間認識が狭いということは土着的な生活であり身の回りにあるものでまかなっていたから自然と一体化する生活だった。
だから江戸時代は自ずと土着的な生活になった。
そして土着的思考が学問しなくても体で身についていたのである。

もう一つは時間認識である。これは別にむずかしいことではなく江戸時代の時間感覚は自然とともに生活していたから自然の時間感覚が自ずと身につく生活である。
山があり木材を燃料や家を建てるために使う時山菜でも糧にするときどういう時間感覚になるのか?
樹が成長するのちは50年かかる、50年かかるときそれだけの時間感覚をもって生活していたのが江戸時代である。
50年となればもう一代ではとても山を利用できないのである。
だから江戸時代は何代も家業を受け継ぎ山を利用する。
江戸時代は職業でも代々受け継ぐのが多かった。
それは自然を糧としたから自然のサイクルに合わせるために時間感覚が長くなる
この木が育つには50年かかる、そうすると50年後のことを考えて木を植えていたのである息子にも孫の代にその木は成長して使われるのである。

そうなると代々受け継がれるものがあるから世代間のつながりもできる
それは現代で喪失したのもである。
今の時間感覚は今良ければいい、今も楽しむものだとなりとても50年後を考えて生活している人はいない。
来年は会社がなくなってしまうかもしれないとか非常に短い感覚で仕事している。
特にフリーターだ派遣だかなる時給いくらで使い捨てにされているのである。
長い時間感覚で考えられないということは世界を簡単に自然でも破壊してしまうということである。
次代のためにを考えて仕事したりしない、今を楽しみ消費することだとなってしまう。
今あるもの使い尽くして楽しみあとはどうでもいいとなってしまう。
そういう時間感覚になるとき世代間のつながりはなくなり断絶する。
現代は老人と若者は断絶している。
共通なもの共有するものがない、それは時代がめまぐるしく変化するからである

自分が石の詩を百編書いたというとき山であれ石であれ樹であれそれらは時間感覚としては長い、自然の時間感覚は長い、千歳の岩とあれば千年でありさらに億年とか長い時間感覚として石がある。
そして石は一定の場所にあって変わらないということで安定性があり土着的になる。
都会では東京などになるとそういう自然はもうない、山もない森もない、樹も石もない
ただ高層ビルがあり一分一秒を争い仕事している工業情報ビジネス社会である。
山の時間、石の時間、樹の時間、牛の時間・・・とか時間も実際はそのものに付属して時間感覚が生まれる。
今は機械の時間感覚であり機械によって時間が一秒単位で刻まれているのである。
それが文明の時間でありそこにあればとても自然の時間感覚とはかけはなれてしまう。
そもそも自然を理解するというか自然と一体化するというとき時間が必要になる。
石の時間はやはりそこに千歳の石とあるごとくそれだけの時間があって重みをましてくるのである。
文明の中で生活していればどんなことしても時間に追われるのである。

そうした土着的ものの喪失はある時文明的破綻現象として現れる
それが原発事故でもあったのだ。
原発事故が何か土着的なものと関係あるのとなるがあった。
土着的なものがあれば防げたかもしれないということである。
それは原発で働く東電の会社の人たちがもしここに何代にわたり生活するとなると
やはりと土着的思考になる。
その人たちは放射能の危険を肌で知っていた。
だからもし事故がここで起きたらここで子供を育てまた孫が生まれて代々つづき生活するとなると放射能のことを考えたかもしれない
もちろん地元の人は当然である。
ただ地元の人も放射能のことはしらない、事故が起きたらどうなるかなと考えなかった。今になって真剣に考えざるをえなくなったのである。
水とか森とか土とかまず土着的な土台となるものが汚染された。
それは致命的でありそこに住めなくなったのである。
もともと土着的であったその故郷自体を喪失してしまった奪われたというのが現実であるそれは今良ければいい、電気でも今使えればいいとか資源でも使える時使えばいいとか
何でも短い時間の単位でしか考えないし考えられないからそうなる。
そこが江戸時代の時間感覚を知り現代と対比して見直すべきことなである。
エジプト文明が3000年とかかつての文明が長持ちしたのはそうした長い時間感覚の文明だったからである。
現代のグローバル文明は百年で資源を使い果たすというかその時間感覚が短すぎる。
だから資源も消尽されて文明時代が消失してしまうかもしれないのである。
ともかく現代に起きていることは江戸時代と対比するとわかりやすいのである。
江戸時代に帰れというとかではなく対比して現代の問題が何か知るのであり
そこから現代の問題に対処してゆくのである。

とにかく現代は長期的視野をもてないことである。
今もうけなければなちらない、今成功しなければならない、十年後に成功すればいいとかならない
だから常に何か追われて生活している。
だから株のように急激にあがりま急激に落ちたり経済を動かしているのではなく翻弄されているだけだとなる。
そういう地からはなれた地につかない生活なのである。
その点貧しくても江戸時代は地につく生活はしていたのである。
だから何か人はのんびたしていたとかいい顔していたとか明治に来た外国人が見ていたのだろう。
今は何かに絶えず追われ焦燥感に満ちて疲れ一億鬱病の時代なのである。
何か幸せそうな人は顔している人はみかけないだろう。
金がいくらあっても満足していないとかかえって金持ちも余裕がないとかなっている。
幸せという観点からみれば今は物質的には恵まれても不幸な時代ともなる。
幸福とか不幸など時代によって違うから計られないのである。
病院で延命治療して一秒で長生きするのがいいかと言ったらならない
むしろ情ある人たちに囲まれて死んでいった人たちの方が幸せだったともなる。
病院で死ぬということは何か冷たい物ののようにあつかわれて死ぬからである。
病院で体をみても心はみない、ものとして人間をみて死んだらかたづけるという感覚になっているからである。
こういうことも江戸時代がすべて医療もないのだから全部が不幸だったかというとそれも計られないのである。

タグ:時間感覚
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2015年05月27日

明治以降は入会権とかの共同性は喪失した privateは奪うことでありpublic(公共性)を破壊した


明治以降は入会権とかの共同性は喪失した

privateは奪うことでありpublic(公共性)を破壊した


privateの語源を調べると、「stem of privare "to separate,deprive," from privus "one's own, individual,"」とあり、
奪う、分離するという意味があるようです。
privateとはpublicに対してprivateがある
ヨーロッパではpublic(公共性)を基に市でも作られてきた。
広場もそうであり公共のものという設計のもとに市が作られている。
それに反するのがprivateになる。
だから奪う分離するのがprivateでありいい意味には使われていない
これも日本語だと私(わたくし)するとなると奪うとういことでいい意味がない
わたくしはわたしでありわが基になっている。
わが我になる。わは割れるにもなる。我とは割れるとなるからまさに入会権の共同の山が無数にわたくしされて割れて割山になった。
それは明治維新で極端化して起きたのである。
明治維新からは日本人はわたくしすることがあからさまに強くなったのである。
江戸時代は藩主がいて庄屋が村をまとめていてpublicがありそれは拘束力になったが
わたくしするということは庄屋ですらなかったろう。
侍にしても「わたくし」するということはドラマのようにはそれほどなかった。
江戸時代は一つのpublicに公に生活していた。
それが900にも区画化され私的所有になったとき人間の心も900に割れた分割したのである江戸時代から明治の変化が現代に形を変えて継続されていたのである。

現代人の心は900どころではない、一千万の東京があるとしても心は一千万人に分割しているのである。
一千万人の人間はただ貨幣を通じて売買する時だけつながっているという感覚になる。
それは田舎でも同じであり農業があってもpublicは喪失している
むしろprivateが奪うということが民主主義であれ資本主義であれその心性はpublicに生きるということはない、そもそもpublicがないからである。
個々に分離して互いに奪うという心性になっているのだ。
逆にだから常に人間関係は奪い奪われる関係になる。
働いてもそれは労働が奪われているのであり協力しているという感覚はない
それでブラック会社に働かされて安い賃金で奪われている、搾取されているとなる
一方で他者に対してとにかく奪うという感覚になる。
安く働かせてその労働力を奪うとか国家規模になると他国の富を資源でも奪うとかなる
そもそもヨーロッパの植民地主義はアジアの資源を奪うことだったのである。

奪うというとき別に明治以降だけではなく常にあった。それは盗むにも通じている。
ただ一国とか大規模になると戦争して他国の富を奪っていたのである。
それが戦国時代だったのである。それで戦争に勝つと自国が裕福になったから戦争が指示されたという。弱肉強食が人間の歴史でもあった。
publicがあったとしても村とかの狭い範囲でありまた藩単位のpublicである。
その外になると奪う対象になっていたのである。
今や大きな国が奪い奪われる関係になっている。国と国が利権で衝突して奪い合いになっている。

奪うというとき天皇とか薩摩長州は明治維新で藩単位管理していた土地を山林でも奪ったとなる。
革命とはたいがい権力の移動であり革命そのものが権力を奪うことだから当然だとなる。だからあらゆる団体はまた奪う団体になる。わたくしする団体になる。
それは組合でも宗教団体でも同じである。
露骨に権力を奪うことを明言しているのが創価などであるが他の団体も同じなのである。国を奪うということはオウムでもオウム王国を目指していたから同じである。
だから創価では三国志をよませていかに国を奪うかを画策しているだけなのである。

漁業組合だって漁業権をたてに政府と東電から補償金を奪いとったとなる。
これも海は誰のものかというとき海をわたくしして国民から奪ったともなるのである。
個々にも奪うというわたくしすることが明治以降あからさまに容認された。
それは権利という名のもとにわたくしすることこそが正義だと戦後の民主主義でも公然のものとして容認されたのである。
それぞれがわたしくして利益を追及することが見えざる手に導かれるものとして奨励されたのである。
だから今や人間は人間にとって狼になった。
人間と人間の関係は家族でない限り奪い奪われる関係でしかなくなった。
食うか食われるかの獣社会である。互いに虎視眈々と奪おうとねらっている
食うおうと狙っているとしたら眠ることすらできなくなる。
そこに金だけが唯一の価値基準となりいかにして金をわたくしするかということが日々の活動なのである。

東電でもなぜ事故を起こしたかというとこれもpublicというものがない
privateでありあれだけの大会社でも自分の会社がよければ他はどうでもいい
政府も天下り先として検察でも用意しているから支配できる
自分の会社がよければいい、幹部なら多額の給料をもらえばそれでいい
我等の会社さえよければいいのでありあとは知らないと極端化すればなる。
会社があれだけ巨大化すると会社自体がわたくしすることが国単位になってもできる。
一つの団体が巨大化すれば宗教団体でも国をわたくしできる奪うことができる
官僚も東大閥で既得権化してその団体の利権を守るだけであり第一は官僚の利権を守ることにエネルギーが費やされる
公務員は常に批判されるけどこれも巨大な団体だから政府でもその既得権を奪うということはしない
つまり現代社会の不満はそうして巨大化する会社であれ団体であれそういうものに富がわたくしされていることに対する不満なのである。
でも結局その団体はあまりにも巨大だから何も言えないとなる。
この辺でも漁業権がどうのこうのなど事故前には言っていない、まず言えない
団体化したらどこでも何も言えなくなる、マスコミでも言えない
そういうことがどうなってゆくのか?今回の大事故や戦争とかにもまたなってゆく

だから資本主義がそれがなぜ生まれたのかとかいろいろあっても崩壊するというとき
そうしたモラルの荒廃から崩壊してゆく、誰も信じられない、信じられるのは金だけだとかなりモラルの荒廃から崩壊してゆく、人間が互いに信じられない、人間は人間にとって奪い合うものだとなるときそんな地獄のような社会に生きていたいかとなる
人間にはそういうものがもともとあったにしても欲望資本主義はその人間の悪しき面を
露骨にさせる。
何か抑制させるモラルがなければ人間は獣社会になってしまう。
そういうモラルの頽廃が限界点に達して崩壊してゆく

原発事故を起こした周辺を見れば何かそのことを象徴していた。
自分の一身上に起きたことでもそうだった。
漁業権で多額の補償金を得て原発御殿を建てたとかも本当だった。
富岡町長の五億円の金庫が津波で流れたというのも本当だろう
そういう金の噂は原発で飛び交っていたのである。
それだけの金が原発から生まれていたからである。
そして個々人をみて借金で贅沢しているというのも異常だった
借金して家を建てた人とか何か借金生活の人も多かったのである。
身の丈にあった生活など誰もしていない、金がなくても金のある生活をしていた。
そして借金で首が回らなくなりその借金を自分に肩代わりさせようと
病気のとき恐喝してきたのだから恐ろしい
そういうことをしても相手は何も感じなくなっている
それが当然であり奪うことが日々の生活だからそうなっているのかもしれないのだ。
金持ちは奪った人でありだから奪って当然だともなる
泥棒にも三分の理があるのだからそれも言える
津波とか原発事故はこうした社会のモラルの荒廃に対する自然の怒りのようにも思えたのである。
「もう醜い限りない欲望人間は一掃してやる」とノワの方舟のときのような大津波が来たのかもしれない。
そういう大転換期を迎えているのが今の現状である。


ノーベル賞受賞者で動物行動学のコンラート・ローレンツ博士はその著書『攻撃』において興味深い実験を報告している。それは、家族を形成しているネズミの群に、他のグループのネズミを放すと、あっという間に多数のネズミが襲いかかってこれを殺害してしまう、というものである。
 ローレンツ博士は「人間の社会構造はネズミのそれと大変よく似た構造を持っているのだと、十分な根拠をもって結論するだろう。人間はネズミ同様、閉じた同族の間では社会的に平和的に暮らそうとするが、自分の党派でない仲間に対しては文字通り悪魔になるのだ」といっている。

動物の行動と人間の行動はにている
人間も動物であり本能で生きる、欲望で生きる、

これで面白いのは人間でも家族でもなんでも団体化すると団体に属さないものに対しては敵対化するのである

動物にもあるとは思わなかったが団体化することは団体でわたくしすくことなのである

それは動物にあるということは人間と動物の行動は基本的ににているのである。


タグ:PRIVATE
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2015年05月26日

入会権は明治以降に私的所有に細分化 (入会権は江戸時代の村から自然発生したもの)


入会権は明治以降に私的所有に細分化

(入会権は江戸時代の村から自然発生したもの)


幕末になって本来禁止されている割山の売買が事実上行なわれるようになり, しかもその違法行為に対する制裁(割山没収)規定が有名無実化してくると山割制度はもはや村中持山(入会山)の一利用形態たるにとどまらず,村中持山(入会山)が個人持山へ移行する過渡期的現象とみなければならなくなる。幕末にこのような状態に達し,事実上個人の持山に極めて近い性質を有するに至った割山が少なくなかったが,明治維新以後部落が村氏各戸から割山を回収できなくなり,個人の私有地として登記され,個人の私有地化が完成することとなった。


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公共事業で広島であった土砂崩れで砂防ダムを作るとか他に公共事業などで所有権が900区画にも分割されていたらそれを買収する手間だけで大変な作業になる。
それで土地は国のものであり公共のものであり私的に占有されてはならないという思想が古代からあった。

江戸時代から明治時代の変化は過去を全く否定して行われたわけではない、必ず歴史には連続性があった。
入会権の歴史でもそうだった。すでに割山というのがあり山は分割されていた。
割山というのは江戸時代に地名化していた。
地名はもともと古いから明治以降地名になっているのはまれだろう。
入会権は村民が共同で生活するために必然的に生まれのである。
その土地土地を糧にしていた時代だから必然的に入会権が生まれた。
山の木を木材を家でも萱でも馬草としても炭にしてもあらゆることに利用していた時代である。
山は別に山の人だげではない、海側の人も利用していたのである。
山に草を借り馬車で橲原村まで通っていたというとき山の人だけではない、海側の人も山を利用していたのである。それは入会権があったから利用させてもらったとなる。
入会権は山でも私的所有になることはありえなかったのである。
明治にもそうした村の公的所有から私的所有へ順次移行していった。
つまり江戸時代から明治時代に何が変わったかということを知るには様々な分野があるが入会権の村の共同所有から私的所有に変わったということも重要な視点である。
そこにすでに江戸時代の共同体から培われたものがモラルでも崩壊して資本主義に工業社会に近代社会に移行したからである。

終戦後、帝室「御料林」「と「御料地」ですね、これは岩倉具視の建白書に従って、明治二十三年に4百80万町が゛あっというまに天皇家の私有財産に決められたわけでしょう
それにつづいて島津、毛利、鍋島・・それからT家のような地方の素封家が山林原野を分け取りしてしまった(土地と日本人ー司馬遼太郎対談集)

この変化も大きかった。土地が権力の象徴として歴史があったとき、村や藩を基本にして作られた共同体が明治維新で根本的に破壊されたのである。1
その変化もあまりに大きかったので日本人のもともとあったモラルは破壊されていたのである。
モラルといっても道徳も社会の生活基盤があって作られていたのである。
日本の共有された精神もそこで破壊された。
幕末に国学が起こったというのは庶民レベルでも明治維新を促進させるものがあった。
侍だけではないそういう気運があった、下から明治維新を促進させるものがあった。
ただその下からの国学の勃興は上からの富国強兵とか中央集権の強権で圧殺された。
日本の土地の歴史が日本の歴史でもあったのはヨーロッパとも共通していたろう。
それを象徴していたのが原発事故にもあった。
双葉か浪江辺りで海の前まで私的所有がありそれで東電から補償金を獲得していたという一軒一軒の家の前の海に所有権があるなど考えられない、でも補償金がもらえるしその額が多いからそれを主張して認められたともなる
ただ歴史的にそれも根拠がないものではなかった。

江戸時代の漁業法上の原則は「磯漁は地付.根付次第也、沖は入会」と明文化されている
http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp:8080/bitstream/okinawa/6461/3/V2p1.pdf

そもそも原発問題でも最初は土地の確保からはじまる、次に漁業権をおさえて県知事の許可を得ると建てられるのである。
だからそこに金をばらまけば一応原発は建てられるとなっていたのである。
要するに土地が私的所有になり細分化されて公(おおやけ)から離れてしまった。
村とか藩とかは地方の公であったがそれなくなりただ個人の私的所有だけが主張される時代になりモラルさえ荒廃したという指摘は重要である。
明治維新はもちろん功罪はあるが功の面だけが主張されすぎたのである。
フランス革命が「地籍」を明確にした。土地の所有を明確化した。
明治維新ではそれをしなかった。それが日本の異常な土地投機とかなり荒廃させた。

つまりそもそも土地所有権とかは歴史的にふりかえると常に時代を変えてきたのである。律令国家であれ鎌倉時代であり土地問題から発している。
時代を作るのが土地問題であった。
マルクスの言う資本主義の工業化が起きると農民が土地を収奪されて無産階級になったというのも明治維新で地租革命とか小作問題にも通じている。
土地というのは富と権力の象徴として常にあったからそうなっている。
カトリックが土地を所有することで腐敗したのもそうである。
土地は権力の象徴として常にあったのである。
仏教でも寺が土地を所有すると権力化するということがある。
土地をめぐって僧侶集団も争っているのである。
ともかく明治維新が継続して太平洋戦争となりさらに戦後もその継続があり現代の様々な問題がそこから発していたのである。
だから明治維新を見直さないと日本の近代史はわからないのである。






タグ:入会権
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2015年04月04日

相馬市の中村城の大手門で若い人と歴史を語る (歴史は想像力がないと見えてこない)


相馬市の中村城の大手門で若い人と歴史を語る

(歴史は想像力がないと見えてこない)

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中村城大手門の滴水瓦


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新地の神社にあった文禄の碑

滴水瓦は支那式唐草瓦(しなしきからくさがわら)、高麗瓦(こうらいがわら)、朝鮮瓦(ちょうせんがわら)とも呼ばれ、今から約600年ほど前の中国明時代に普及し、李氏朝鮮(りしちょうせん)に多大な影響を与えました。日本では豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名たちが築いた城に突如多く用いられるようになります

相馬義胤は文禄元(1592)年、豊臣秀吉に随従して肥前名護屋に陣城を築きます(文禄・慶長の役)


滴水瓦(てきすいがわら)

 瓦の瓦当面が、雨水が滴るように「雲頭形・倒三角形」に垂れ下がった軒平瓦で、一般に「朝鮮瓦」と呼ばれます。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名達が権力の象徴として、朝鮮の瓦を真似たものとされています。
 仙台城本丸跡では、瓦当中央が花菱文の滴水瓦(3点)や菊花文(10点)が出土しており、仙台城二ノ丸跡・松島瑞巌寺・利府町大沢窯跡などでも出土しています。
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/castle/08.html



相馬市の城跡の大手門の瓦も滴水瓦なのである。この時伊達藩の方から技術が伝わったのかもしれない、相馬氏は肥前名古屋城を陣を築いていた。だから朝鮮のことを知っていた新地には伊達藩の侍だった人が住んでいて相馬市との合併を拒んでいたという。その屋敷も津浪で流されたのである。伊達とは敵対しても因縁深いのが相馬藩なのである。そもそも野馬追いも伊達に対抗するための軍事訓練からはじまっていることでもわかる。
新地の神社にあった文禄の碑は何なのか?
これは文禄慶長の役とは関係ないだろう。おそらく検地の記念である。たいがい年号の記念は検地に由来しているからである。
文禄時代に検地が行われたからである。ただその時相馬藩の領域に新地は入っていないから伊達藩でした検地だったのか?慶長16年に中村城は築かれているからだ。

中村城の大手門で相馬市の若い人と歴史を語る

何か中村城の取材にきていた若い人に出会った。一人は市役所の人だろう歴史に詳しかった。
「この大手門の瓦は滴水瓦だ」
「それってなに」
「これは朝鮮系統の瓦で有名なんだよ」
「ええ、そんな瓦なの」
「そもそも瓦というのは江戸時代でも庶民の家ではない
みんな茅葺きの家だよ、瓦の家はまれだったんだよ」
「この瓦が朝鮮系統とは知らなかった」
「歴史を知るには想像力が大事なんだよ、今の時代から昔を見えない、すると想像するほかない゛瓦一つでもそこから想像をふくらませれば何の変哲もないものでも違って見えるんだよ」
そこにまた貧弱だが石垣が残っていた。これなどもあまり注意しないし見過ごしている。
「この石垣は貧弱だから野面積みだ、城の石垣でもいろいろな作り方がある、石を切って合わせるのはかなりの高度な技術が職人が必要だよ、面白いのは慶長16年にここに城を築いたとき会津の浪人がきて石垣作りを教えたという、会津はその頃先進国だったから技術も優れていた。、蒲生氏郷の時代には七層の黒川城があったからあれは見物だった、そのあと地震がきて今の五層の城になったんだよ、他にも萱葺きの職人や大工も相馬藩内に移手に職をもった人はどこでも生活できるということなんだ

「ええ、そんなこと知らないな・・・」
その若者は歴史にはほとんど興味がなかったのである。
「侍だけが大事じゃないよ、職人がいないと城も造れない、石垣だって作れないしこの滴水瓦だって作れない、だから職人を確保する必要がある、ではその職人はどこにいるのか?その職人は信長の時代は京都などの寺が雇っていた、寺が侍より力があったからな
それで信長は職人を確保するために僧侶を寺を焼き討ちして殺戮したということもあったんだよ」
「ええ、そんてことあったの、面白い」
その若者は何も知らないのだが興味をもったようだ。
歴史でも誰かが面白く話したりすると興味をもつようにもなる。
ともかくむずかしくなると誰も興味をもたないのである。
「歴史は侍だけの歴史じゃないんだよ、この辺で津浪があったけどそのことで相馬藩政記に700人溺死と一行だけ記されていたんだよ、みんなそのことを知っている人がいなかった、やたら戦争のことばかり記されていたが津浪の被害については一行だけしか記されていない、その時相馬藩は戦国時代であり戦争が多かったし秀吉、家康の時代でありなんとか領地を安堵するために努力していてそのことは記したが津浪の被害のことは一行だけであった、それからわかることはその時庶民は被害があっても自ら記すことができなかったんだ、文字も書ける人もいないしまた石碑を建てるのも財力がないとできない、伝説はわずかに残っていても注目もされなかった、庶民でも墓を建てたのは幕末であり豊かにならないと墓も作れなかったんだよ・・・・」
「墓など今じゃいくらでもあるでしょう」
「侍の歴史だけじゃないんだ、歴史は、それで柳田国男は侍の歴史だけじゃない、戦争だけが歴史じゃないと、民俗学を起こした、庶民の歴史を掘り出した、だから庶民が文字を残せないから口碑として庶民の残した伝説や伝承や祭りなどから歴史を語った」
歴史はやはりその現場に立って説明したり話したりすると現実味を帯びてくる。
だから現場に立つことが大事なのである。外国でもそうでありテレビでいくら見ても現実味を感じられないのである。
川が多いとしてその川でも現場に立てばその川の上はどうなっているのかと想像する
そこから想像がつぎつきにふくらんでくる。

相馬藩の中村城の大手門からイメージがふくらんでくる。
その時代は瓦はめずらしい、茅葺きの家がほとんどであり街中すらそうだった。
ただ田町通りは瓦屋根があった、そこは繁華な街となっていた。
連甍 両両 西東に満つ
瓦の屋根はめずらしいからこそ詩になった。回りはほとんど瓦葺きの屋根だったからである。つまりそういうことがイメージできると歴史にも興味をもつのである。
だから歴史はいかにして昔をイメージできるかということにもなる。
それは戦争のことでもすでにイメージできないものとなっているからだ。
70年すぎたらすでに戦争が何なのかイメージできないのである。
馬が多く利用されていたのは馬で荷物を武器でも何でも運んでいたからである。
トラックで運ぶようなことはなかったのである。だからあの当時の戦争は武器でもかなり技術的には貧弱なものだったのである。
戦艦大和とか船とかは技術的に進んでいても一方で馬が戦力になっていたことでは戦国時代と同じだったとなる。
現場に立つことの重要性は相馬藩の最初の城が小高に建てられていた、実際に立ってみると津浪で海が見えるようになった。
小高は意外と海が近い、駅を越えて津浪がきていたのである。
そして小高には港があり海が今の小高の城まで迫っていたのである。
その港も蔵が建ち大規模なものだった。
それで浮舟城という名にもなっていたのは舟のように浮かぶ城となれば何か港に近いからそういう名になった。
村上に一時城を移したのは港があったから港の機能として城を作ろうとしたとなる。
それが縁起が悪いとしてとりやめた理由は謎にしてもそのあと慶長の津浪に襲われた。
その時港の機能が壊滅した、文禄の記録におんふねというのが小高のみに記されている
それは港か津浪で壊滅したからかもしれない、おんふねと相当記されているのは小高だけだからである。

いづれにしろあらゆる分野で想像力が必要である。想像力は創造力なのである。
stap細胞はないのにあるとしたがもしかしたらそれはありうるものかもしれない
想像したものでも現実化することがありうるがまだその段階になっていなかったのかもしれないのだ。
だから「猿の惑星」を映画であれその小説を作った人は相当な想像力があったと関心しる現実にこの辺が猿の惑星とにたようにな状況になったということである。
あれは核戦争の後のことを描いたのだかここも原発事故で人が住めなくなった状態になった。それは核戦争後の状態とにているからだ。
大都会が壊滅するという映画はもう見飽きるくらい見ている。
でもそれが現実になるとは誰も大都会に東京に住んでいる人でも思っていない
津浪とか原発事故にあった人はそれが現実になることを不思議に思わなくなったのである大都会すら廃墟と化して人が住まなくなる、それはSF小説、映画の世界だと思っていたがこの辺ではそうは思わない、この辺は現実そのものになっているからだ。
神戸の地震だって現実であり東京でそうならないとははっきりわかる。
そのことを何度も放送してもやはり人間は変わらないのである。
人間は危機感をよほどのことでないともたないのである。
危機感の欠如が大災難をもたらすのである。
もし津浪でも原発でも危機感をもっていればこんなことにはならなかったのである。
原発がなくても死ぬわけじゃてなていからなんとか原発のない世界を作りそこで暮らすのがいいとなる。
危機感がない人はそう思わない、津浪にしてもそうである。
あれだけの災難があったらもう恐ろしくて海岸近くには人間は住めないのである。



北山八景

田町晩煙 
     
秋気晴来市肆中   秋気 晴れ来たる 市肆の中、
連甍両両満西東   連甍 両両 西東に満つ。
人烟斜繞城湟外   人烟 斜めに繞ぐる 城湟の外、
士女縦横向晩風   士女 縦横 晩風に向かう。

《意味》
秋の気配が漂い、晴れ渡った商店街、
連なった家々が向かい合って軒を並べ東西に伸びている。
人も夕餉の烟りも城堀の外に繞ぐって流れている。
男も女も晩風に向かい忙しそうに行ったり来たりしている。
 *田町=地名
 *市肆(しし)=店、商店。
 *連甍=連なった屋根。沢山の家並み。
 *両両=二つずつ。二つながら。
 *城湟=城の周りの堀。
 *士女=男と女。男女。
 *中・東・風は上平声一東韻。
 *作:水慎君奉
タグ:中村城
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2014年11月13日

鬼風の俳句集を読む (江戸時代の生活を偲ぶ言葉がでてくる)


鬼風の俳句集を読む


(江戸時代の生活を偲ぶ言葉がでてくる)

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鹿島区秋葉神社

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雨の日や客の炊きたるぬかこ飯


ぬかこ飯とはむかごのこととある。この実をだはんにまぜて炊いた。
それはまさに自然のものでありそういうものを食べていたことがわかる。
ただなぜ客なのか?客がぬかご(むかご)をもってきたのか?

梅が香に水まで白し萱の箸

茅(カヤ)の箸で食物を食べる7月(旧暦では6月)下旬の行事。新箸の祝ともいう

 軒葺(のきぶき)も芒(すすき)御はしもすすき哉   一茶

 ススキの箸は一般的にはそれぞれ自前で用意するわけですが、武井神社ではそれを神萱箸として御射山祭の日に頒布しています
 http://blog.livedoor.jp/ichironagano/archives/4621112.html
 
 箸はいいろいろあった。もともと箸は何でも箸になる。箸がなくて枝を折って箸にした箸は簡単に作れる、材料になるものはいたるところにあるのだ。
ここに萱の箸と出てくのは一つの行事として萱の箸があったためである。
普通は箸としては使っていない。

石なこの唄もほとけて梅の花

いし‐なご【石▽子】

女児の遊戯の一。石をまき、その中の一つを投げ上げておいて、下の石を拾い、落ちてくる石をつかみ取って、順に拾い尽くす遊び。お手玉などの原型。石な取り。石投げ。

筆者はこの語の語源は石投げ、であろうと推察します。 勿論、根拠はすかさず開いた古語辞典ですが、 いしなご(名詞、石投げ、女子の遊戯の一種、お手玉)によります。 この言葉が更に変化して石な取り(名詞、いしなごに同じ、石なごを取る遊び) ともいうようになったのです(宇治拾遺、雑賀、詞)。 賢明な筆者はおわかりですね、古くは宇治拾遺に名詞・いしな、が記載されており、 その意味も飛騨方言・いしな、にピタリと一致します。
http://www.geocities.jp/sashichi2004/dic/a/i/ishina.html

これはどこでも子供が石で遊んでいた。石蹴りとかもあるから神社は特に昔から子供の遊び場になっていた。秋葉神社でも子供が毎日集まっていた。
そういう風景もなくなった。

山吹の宿も芝居の留守居かな

梅遅し笠嶋あたり草履道


それまで野も山も、田も畑も、泥んこであったのが、砂埃のたつ、乾いた道に変わると、待ちに待った本格的な春が訪れた証拠である。一茶はそれを草履道と呼んで詠っている。
蝶とぶや信濃の奥の草履道\小林一茶

春樵はるごりの柴つみ車牛弱み


牛車で柴を積んで運んだ。柴は燃料であり山にとりにいった。芝居を見に行って宿が留守だったというのもそれだけ芝居を見る人がいたということになる。



歸田園居其六

陶淵明

種苗存東皋 苗を種(う)うるは東皋(とうこう)に在り
苗生滿阡陌 苗は生じて阡陌(せんはく)に満つ
雖有荷鋤倦 鋤を荷(にな)うに倦むと雖も
濁酒聊自適 濁酒聊か自ずから適う
日暮巾柴車 日暮 巾柴(きんし)の車
路暗光已夕 路暗くして光已に夕べなり
帰人望煙火 帰人 煙火を望み
稚子候簷隙 稚子 簷(ひさし)の隙(すき)をうかがう
問君亦何爲 君に問う また何を為すやと
百年會有役 百年 役有るに会す
但願桑麻成 但願わくは 桑麻(そうま)成り
蠶月得紡績 蚕月(さんげつ) 紡績を得るを
素心正如此 素心まさにかくのごとし
開徑望三益 径を開きて三益(さんえき)を望む

苗を東の沢に植え
苗はあぜ道に満ちている
鋤を担うのにあきてきたが
濁り酒は丁度よい具合に熟成した
日暮に柴を覆う車があり
路は暗くなり、まさに夕べとなった
家に帰る人は夕餉の支度の煙を見、
幼子はひさしの隙から外をうかがっている
「あなたはなぜそのような事をしているのか」とおっしゃるか?
これ(農耕)が一生涯かけての仕事なのだ
ただ願うことは桑と麻がなって
養蚕をする月(陰暦四月)に生糸ができることだ
私の願いはただそれだけだ
路を開いて三益の友(正しい人、誠実な人、見聞のひろい人)をまつとしよう

日暮巾柴車 日暮 巾柴(きんし)の車とあるから見慣れた風景でもあった。



二本松にて

氷売る声はきれたり夏の月

気の長い老いの句俳や麻地酒

麻地酒」の伝統を受け継ぎむぎ100%の焼酎が生まれたのは現六代目当主の時代である。若き当主は天然醸造ゆえに腐敗しやすい「麻地酒」を改良するために醸造酒から蒸留酒へ切り替え焼酎の製造を開始する。さらに昭和26年、麦の統制がとれてからは今迄の麹(こうじ)は米で作るものとの常識を破り米も穀物、麦も穀物、米で出来る麹が麦で出来ないはずはないと、麦麹の製法に没頭した。麦が健康食品として注目されてからは麦だけの焼酎の開発に専念。そして昭和48年、むぎ100%の本格焼酎第一号が発売されたのである。
http://www.nikaido-shuzo.co.jp/nikaido/history2.html

麻地酒〔豊後〕あさじざけ
江戸時代初期、豊後日出(ひじ)城主木下家の創醸になる諸国名酒の一つ。うるち米ともち米を半半に用い、寒仕込みしてから草や茅などで覆って土中に埋める。この特異な熟成法から《土かぶり》の異名がある。夏、熟成した酒を汲み出して飲む。肥後産のものもあるが亜流にすぎない。●麻地酒の方豊後 (*中略)人の歩き申さぬ屋根の下の風の吹ぬき候所よく寒の中に仕込来年六月の土用のうちに口を明る、色はひわ色の濁酒なり──料理&『合類日用料理抄』巻一
http://hanasakejijii.seesaa.net/article/401648043.html

...と遊び過ごして落とし味噌(秋の部)

おとしみそ【落とし味噌・落し味噌】
粒味噌をすったりこしたりせず,そのまま入れて汁を作ること。


・・・や草履をはかぬ何所の人

名月やありて苦になる水時計

水時計な度か使われていた。ただこれが苦蜷というとき時計がわずらわしいと同じである時間を気にせず名月を観賞したい、月見をしたいとなる。

松川浦眺望

こっそりと月をもてなす葦家かな

葦の家とは藁葺きの家なのか?葦と萱は違っているけど別な家のことか?
松川浦はひなびた漁村でありそんな風景があった
津島という山里にて

八朔や風呂の煙のたつ山家

八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである

見ぬ人に酢茎もら月見かな

酢茎【すぐき】
スグキナの漬物。京都上賀茂地方の特産。11〜12月,塩をふって十分のおもしで漬け,のち特殊な室(むろ)に入れ1週間ほど発酵させる。自然発酵による独特な酸味と香味が好まれる

たまさかに月見の宿や蕨餅

萩なとは催馬楽諷へ虫の中

雨の夜を崩して拾ふ柚子味噌かな

松川浦眺望

時雨るや夜喰の箸の杉くさき

夜食した箸が杉くさい、杉の箸だから、箸にもいろいろ種類があった

朝凪や死なぬ薬の雪の里

鬼風の俳句集や旅の記録が残っている。長崎まで行っているとなると全国を旅しているから江戸時代にしてはこの辺でそんな旅をした人かがいたのかとなる。
この人は相当裕福な家の人だった。吉田とあると今でもあるから吉田屋というのは呉服屋であり古いからその家の系統なのだろうか?
ただいつの時代なのか記していない。
この人の俳句で面白いと思ったのはすでに死語になった言葉がでてくる。
江戸時代だと当然そういう今では使われない廃れたものがありいくらでもある。
それは当時は生活の中で活きていた言葉なのである。
死語となったのは別に江戸時代だけではない、戦前でも戦後十年でも死語になった言葉が結構あるのだ。
だから江戸時代を探るとき、そうした死語となった言葉を探らねばならない
幸いインターネットでそうした言葉には詳しいから引用した。


この人の俳句集は旅の俳句が主でばらばらになっている。
地元のことは俳句に少ない、旅の俳句集なのである。
旅だから土地の食べ物をいろいろ書いているのかもしれない、その土地だけで食べられるものがあった。酒でも麻地酒とは九州の豊後の酒だった。これも二本松で飲んだのか?
二本松だったら九州からもそうした酒が入ってきたのか、ただ作り方が伝播されて二本松で作ったのか何かわかりにく。
ただ今ではない食べ物のことなどが良く記されているのは江戸時代はやはり土地が代われば今と違って食べ物も相当違っていたから記した。

この人は恵まれていたから長生きしたのだろう。

朝凪の死なぬ薬の雪の里

薬を飲んで死なないとは何か今の時代に通じている。病気になっても病院に行き手当てして介護するからなかなか死なないという現代に通じているのも不思議である。
ただ飢饉があったことは二カ所書いてある。旅で見聞したのだろう。
草履を履いていないとかあり草履すら買えない人がいたためだろう。
この人のことからこの辺の江戸時代のことを知りたいと思ったが旅の俳句が主だからわかりにくい。
石なことは秋葉神社などでも子供が遊んでいて俳句にしたのかもしれない
ただこの遊びはどこでもしていた。この俳句集からは地元のことがどうだったのかほとんどわからない。
それでもまだこれは地元では貴重なので考察する価値がある。










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2014年11月11日

なぜ深野より大原に相馬氏が最初に入ったのか? (中世の城館を見ればわかる)


 
なぜ深野より大原に相馬氏が最初に入ったのか?

(中世の城館を見ればわかる)

 
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深野と泉では在地の勢力が大きく相馬氏は進出できないでいた。

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深野の墓地
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これは宝暦なのか?

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これは寛保である。

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これは宝永である

明暦とあるみたいだからここの墓地は相当に古い
深野館があったときからの継続もあるかもしれない
この辺では一番古いのは相馬氏の殿様の墓で慶長とかである。
ここは在地の勢力の深野館があってそのときも墓地だったかもしれない。


1655 明暦 01 江戸 053 − − −
1658 万治 01 江戸 056 − − −
1672 寛文 12 江戸 070 − − −
1680 延宝 08 江戸 078
1683 天和 03 江戸 081 − − −
1684 貞享 01 江戸 082 − − −
1703 元禄 16 江戸 101 − − −
1710 宝永 07 江戸 108 − − −
1715 正徳 05 江戸 113 − − −
1735 享保 20 江戸 133
1740 元文 05 江戸 138 − − −
1743 寛保 03 江戸 141 − − −
1747 延享 04 江戸 145
1748 寛延 01 江戸 146 − − −
1758 宝暦 08 江戸 156

宝永は読めた、 寛保もはっきりしている。
こご天しか読めないのがありこれは天和なのか?
天明はずっとあとである。
暦とあってもそれか明暦なのか宝暦なのかまぎらわしい
寶歴の方が有力である。歴の上の字が旧漢字になっているからだ

一字しか読めないのがありその解読がむずかしい
これは何か科学的な方法で調べられるかもしれない
この墓地がいつからあったのかが問題になる
宝永からはあったみたいだ
ただ墓地は墓が建てられない前からもありえる
歴史はこの時代特定するのが基本にあった
いつの時代なのかわからないと過去を探り得ようがないのである。
伝説は時代特定できないから津浪のことでもわからなくなる。
文書だと時代特定できることが強みなのである。


小池の墓地

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文化文政時代であり江戸時代後期が多い
ここの墓の特徴は立派な墓でそろっていることである
そしてなぜか大姉という女性の個人墓が半分もある
これもなぜなのかとなる



南相馬市の中世の城館

泉館
泉廃寺
泉平館
岩迫館
牛越城
岡田館
小高城
金場館
田中城
田村館
中館
西館
花輪館
東館
深野館
別所館
堀内館
真野古城
明神館
村上城
優婆館


これは相馬氏が太田に一族を引き連れて移住してきたときあった中世の城館である。
ここにはきけ旧来の勢力があった。
ただ村上とか小高とか牛越城とか中世の城館があった所を支配した所もある。
でも最初はそういう在地の勢力が強いところに入れない。
それで
(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
で書いたようになぜ大原が多く出ているのに深野はでていないことがわかる。
深野の方が開墾しやすい地であり大原はその奥だからである。
最初に入るのだったら順序としては深野になる。
そこが疑問だったがそこはもともとの在地の勢力があった深野館があった。
館という地名が残るところには中世の城館があって戦国時代になる前から在地を支配していた。最初の草分けでありそこに回りの人々が集まり小さな国を作っていたのである。
聞いた話ではある武家では回りを堀で囲んでいたという。そして殿様を迎える部屋もなっこという。ということは武家ではもともと堀之内というように堀をめぐらして防御していた。鹿島の田中城は平地にあり回りは湿地帯であり自然が堀になっていた。

中世で館と地名にあるのはたいがい山の上であり高い所にありそれば自然の要害となって敵から防御のためにそこに舘か作られたのである。
城でも古いのは山城であり次に平城になっていった。
小高城から村上城から牛越城と山城である。今の相馬市の中村は平城である。
そこに相馬市が城を築いたのは相馬氏が太田から小高城へ牛越城へと移り中世の在地の勢力を支配下に治めるためだった。
中村地域は今の相馬市は黒木氏が治めていた。それで黒木氏は伊達についたり相馬氏についたりと苦しんだのである。
つまり相馬氏が中村に移ったのは在地の中世の勢力を治めるためであるというのがわかりやすい理由である。
相馬氏が力をもったのはやはり野馬追いに象徴されるように馬を使う軍事力があったからだろう。

相馬氏の進出経路の図でわかるように最初に牛越城から入るとしたら深野になる。
そこをさけてさらに奥の山側に入ったというのは不自然だったのである。
そこは在地の勢力があり中世の城館まであったからそうなる。
つまり大原は相馬氏は移ってきたとき開墾に入ったとき何もまさしく大原だった。
在地の勢力は深野館にあって大原にはなかった。
だから深野は中世からある生活があり古い地域だった。
そこで深野の小池に行く方の台地にある墓は古い。
明暦からありもともと古い所だったのだろう。

そしてなぜ小池にも古い立派な墓があるのか?
それは士族のものであり相馬氏の一族が開墾に入った。
深野→小池と相馬氏が移って開墾した地域だったのである。
鹿島区でも中世の城館があった真野中館とか館など田中城があった所は在地の勢力があり入っていない。寺内なども総士録古支配帳にはでていない。
原町では牛越城に相馬氏が小高から城を移したのは泉氏を牽制するためだったという学者の考察は記録からみればそうなる。
泉館や泉平館や泉廃寺などがあった所であり港の機能も有していた勢力がある場所だった寺は中世でも城でもあった。
萱浜からしふさ(渋佐)の記録が総士録古支配帳にあるのもまさに泉氏が大きな勢力だからこそ相馬氏はそこをさけていたのである。
牛越城に移ったのは泉氏や深野館などがあった中世の城館の支配地域を牽制して勢力を伸ばすためたったのである。

小池の墓地は江戸時代後期のものだから新しいとしてもやはり古いものの継続がありあそこに立派な墓を残した。第一あそこにあることが解せなのである。
回りにほとんど家もないから不思議なのである。
ただ資料を見れば納得するのである。

小池の墓地の謎は大姉とついた個人墓が半分もしめていることである。
普通女性の地位は低いとされたが個人墓として女性の立派な墓がある。
武士だとすると女性の地位も高かった。または僧侶の墓かもしれない。
江戸時代は庶民では墓はなかなかもてなかった。
ただ個人墓も江戸後期から残っている。
一家とか家族の墓は明治以降なのである。
それは国の政策でそうなった。江戸時代までは個人墓かか夫婦墓である。
明治になっても継続されていて夫婦墓が多いのである。

まずこの墓は本当に謎である。これは墓しか探る手だてだないのかもしれない
墓は最後まで残ることに意義がある。この墓が無縁墓としてかたづけられると
ここに生きた人を探ることはむずかしくなる。
墓はそこに人が確かに生きていたということを感じさせるものなのである。
書類と文書みてもそういう人が生きていたという実感をもつことができない
だから郷土史には墓の研究が欠かせないのである。

相馬氏進出の経路
(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
http://musubu2.sblo.jp/article/104996155.html


タグ:相馬氏
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2014年11月10日

秋葉神社の墓 (ここが墓地として捨てられたのは明治か大正?)


秋葉神社の墓


(ここが墓地として捨てられたのは明治か大正?)

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明治に森忠太郎という人が寄進している。
その森家の子孫はまだ生きている


ここに天明の墓があったことは意外だった。

天明の飢饉があり天明は特に記憶されるべき時代だった。

ただその時この辺がどういう状態にあったのかどんな暮らしをしていたのか想像つかないのである。

ここの墓は明治までは確実にあり大正時代頃無縁化した。

ここに接して森という姓の家があり広い庭があり今住んでいる。

明治時代に二十三夜塔を寄進したのは「森忠太郎」でありこれは森家の先祖である。



ここは天明から文化から明治まで継続して墓としてあった。

この墓はこの回りに住んでいた人たちの墓である。

「法印」とかあり祈祷する山伏とかも住んでいた。

これはどこにでも住んでいた。病気になれば祈るほかないからである。

加持祈祷が商売だったのである。



そのような中で天明7年5月に大坂で発生した打ちこわしはまたたく間に全国各地の都市へと広まり、江戸時代最高の打ちこわし件数を記録するに至る。特に江戸での打ちこわしは町奉行による混乱収拾が不可能な状態に陥る激しいものであった。



離農した農民たちの多くは、江戸を始めとする都市に流入した。主に生活苦によって農村から都市へと流入した農民たちは、後述する都市における階層分化によって没落した商工業者などとともに都市での貧民層を形成するようになった。天明7年5月の江戸打ちこわしでも、明和から天明期にかけて江戸近郊の関東農村から離村し、江戸に流入した人たちが打ちこわし勢に参加していたことが確認され、当時の関東地方の農村では地主から小作農までの階層分化が進み、没落した農民層が離村して江戸に流入していったことが想定される


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E6%89%93%E3%81%A1%E3%81%93%E3%82%8F%E3%81%97


 

天明時代は飢饉の時代だから全国的に影響していた。相馬藩では3三分の一に人口が減って

越中などから移民を呼んで立ち直った。ただ全国的に飢饉になり村から離れる人が多かった。

それで都会に集まったとういのもわかる。ここだけではない人口が流動化したのである。

原発事故で町村が消滅する危機になったように時代の変化で人口が流動化するのである。

それが社会変革につながる。

これは外国でも同じらしい、何か天候の異変などで凶作になったりして大移動があった。

それがゲルマン人の大移動とか有名だけど世界的に人口は移動している。

人間は普通は移動したくない、慣れ親しんだ所にいたいのである。

でも移動が強いられる。満州に移動したのは農業社会では土地が得たいからそうなった。

実はそうした大規模なの移動が戦争になっているのだ。


 

こうした神社とか寺は昔は一つの共同体のシンボルとしてあり実際に機能していた。

だから二十三夜でも講がありおんな集まっていた。

つまりこうした神社とか社が無数にあるのはただあるのではない

生活の中で活きていたとき意味があった。

だから村々でも町でも昔は狭い地域で生活していたからそうなる。

車もないし遠くへ行くことはない生活である。

毎日隣近所とか顔合わせて狭い地域で暮らしていたのである。

身の回りのことでも近くてすましていたのである。

第一今のように原町や相馬市までだって行くことはまれだったろう。

確かに汽車が通じても汽車賃が高くて歩いて行ったとか言う人が多いのである。

汽車は客車というより最初は貨物輸送が主だったのだろう。

それで原町機関区が木材や石材の積み出しのために設置された。

平機関区は石炭を東京に運ぶために設置されたのである。


 

神社は子供の遊び場にもなっていた。

自分の子供のときは子供が多いから毎日群がって遊んでいたのである。

そのころはまだ近隣中心の生活だったのである。買い物でもそうである。

魚屋があり駄菓子屋があり豆腐屋があり酒屋があり職人の大工や指し物師がいたり

近くにあるもので用をたししていた。

地球の裏側から物が入ってくる時代とはあまりにも違っていたのである。

米だって地元でとれたものであり野菜だってそうである。

他の県から九州とか来るはずがなかった。

バナナさえ戦後十年くらいは売っていない、バナナの叩き売りというのは秋市とか市が立ったとき売っていたのである。店では売っていない。

自分の父親が病気になったときバナナを食べさせるために仙台まで姉が行って買ってきたバナナがそれだけ貴重なものだったのである。


 

何かわからないが中学辺りから急速に高度成長化したみたいなのだ。

東京オリンピックのときはもう高度成長へうなぎのぼりに経済は発展したのである。

高度成長といっても実際は二十年くらいだったのかもしれない。

あのころはみんな景気が良かったから今のような時代とは違っていた。

企業戦士とか言われたのもそれだけ日本経済か世界へ進出していた時代だったからであるそれで金の卵として中卒で東京に労働力として集められたのである。

その時クラスで大学に行ったの4,5人だった。高校に行ったのも半分にも満たないくらいだったのである。文系の大学を今廃止しろというのもわかる。大学は遊びの場でしかなかったのである。


 

今国に余裕がなくなったので予算が回せない、そしてグローバルで競争する人材を育成しなければならないから文系はいらないという議論になっている。

文系は自分がしてきたようにほとんど独学でできる。

今ならなおさらそうである。大学に行かなくてもそういう環境はネットでも通販でもそうだし整ってきたからである。

第一専門的な本を買うのにこの辺では売っていないから仙台まで行くほかなかったのである。今はボタンを押せば次の日に本が届いているのである。

ただ自分の行った大学は東京でもすでに大衆化した大学でありマンモス大学だった。

だから3000人とか入れる講堂で講義していたからみんなやる気がなくなっていた。

それが学生運動が起きた原因でもあった。

一方は汚い工場で油まみれになり狭い宿舎で中卒は働いていたのである。

その時はどこも人手不足であり小さな工場でも店でも繁盛していたのである。


 

いづれにしろ神社は江戸時代は近隣の生活の要の場所としてあった。

今は全く機能しないのは社会が変わりすぎたのである。

隣の人間が何をしているのか田舎でもわからないというときそうである。

まず都会だったらますますわからない、それだけ無数の職業が生まれ分化してしまったのである。

だから農民が八割という時代が戦前でもそうであり長く歴史的にはつづいた。

そういうときは農民的感情で国も一つになれていたのである。

そういうものが高度成長時代からは特に破壊されて感情的にも人間はバラバラにされていたのである。


 

現実に農業では食えないとか跡継ぎがいないとか漁業ではやっていけない、林業は外材で衰退したとかこれまでの産業が衰退産業となり原発が誘致されたのである。

そうした時代の変化で原発事故が起きたとなる。

現代の繁栄は何か無理した虚飾の繁栄という側面があった。

生活の基本となる第一次産業が衰退して低くみられたことが原発事故の要因にもなっていたのである。

ただ電気がいらないとかではない、危険を犯してまで経済成長が必要なのかどうかが問われたのである。

今の生活は本当に最低の人でも昔から比べた最高の生活なのである。

貧乏でも刺身を食べない人はいない、自分の父親はサシミが食べられるようになったが

食べたくないと言って死んだいった。


 

だからつくづく人間は昔の事を家族でも近隣でも知る必要がある。

これにはこんな意味があったのかとこんな貧しい生活をしていたのかとか

こんなことで苦労していたのかとか家族でもその家族なりの苦労があた語られる。

そういうことが死んだ後にそういうことだったのかとわかる。

生きているうちはなかなかわからないのである。

やはり祖父母とか親の代になるとまだ生々しいものとして記憶されているかそうなる。

でも死んでから何かさらにその語った事生きた事の意味が深く感じられるのである。

これは大きな国の歴史でもそうである。



 

歴史というと何かむずかしく考えるけど実際は祖父母とか親のことを知るというこにはじまっている。

そういう身近なものさえ何なのか死んでからかなりの年数たって親のありがたみがわかったとかなる。

ただ今は親孝行したいとは親がいないとはならない。必ず親がいるし親孝行をさせられる時代なのである。必ず介護させられる。

だから今度は子供を粗末にすると介護のとき困るとなる。

戦前までは子供は労働力であり親に使われるものだった。

それが逆になったのだけど今度は逆に必ず親孝行は強いられる。介護問題が必ず起きてくる。それも時代の変化だった。








タグ:天明の神社
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2014年10月28日

相馬氏進出の経路 (文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)


 
相馬氏進出の経路


(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)


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やえこめ(八重米)からまず相馬氏が進出した。

だからそこに初発神社を建てた

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しふさ(渋佐)にも相馬氏は慶長津波の前に進出していた?

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女場(おなは)という地名のある位置に注目

津波がここまで来ていた。

角部はつのほうとして記されている

塚原はつさはらとして記されている

村上も記されているからこの辺は相馬氏では重要な地帯だった

それは舟運の港があり女場(おなは)は最初の港かもしれない。

深い入江になっているし港に適していた。

そこまで津波が来ていたことはもともと海が深く入りこんでいたと思われるからである


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ggggggg.JPG


(小高)
おなは(女場)
つのほう(角部)
村上
つさはら(塚原)
鳩原(山側)

(原町)
かや浜
しふさ
高倉
羽鳥(はとり)
江井
太田
牛越
かや崎
大原
谷河原
はの倉(羽倉)
やいこめさい(八重米)
谷加平
牛来
太田中島
目々沢
高平
谷が原
高の倉

鶴が谷
大和田
新田
高平
おおわた
つるかや
やかはら
(鹿島ー北郷)
とちくほ
山下
やす倉
小池
ゆノ木



相馬氏の進出した経路はまずやえこめ(八重米)から坂を下って今の片倉村に入った。そこに初発神社を祭ったのはここに始まるとして祈願して建てたことがわかる。
片倉という地名はなく羽倉(はのくら)はてている。
大田神社が最初に相馬氏の移住先の根拠地になった。
この地名からは相馬氏の進出経路が見えてくるのである。
地名の中で牛来玄番という人が相馬氏に従ったものとして記されている。すると牛来というのは姓か地名化したのだろうか?巣江(須江)という姓もあり末であり末の森とか浪江にありその名が地名化したのか?姓が地名化することはまれである。
相馬地方に中世の館(たち)が38もあった。そこに相馬氏が進出してきて動乱になった。
在地の勢力となっていた豪族がいた。それは中世の館を中心にして治めていた。
つまり小高城とか牛越城ができるまえにそうした館が38もあったのである。
それはいわば草分け百姓が成長して館を構えその回りに人が集まったのである。
相馬氏は新来者でありそうしたもともとの地元の勢力を治めねばならなかった。
この辺一帯は鹿島区の鎌倉から来た岩松氏が最初に治めていたのである。

中の郷(原町)、小高郷ばかりは御手に入りそのほかは服従しないために人夫でしばらく太田の別所の館を普請して在城された。


なぜ北郷と鹿島区か名付けられたかというとそれは単に太田や小高から北にあるからではない、相馬氏の支配領域に入らない地としての北郷なのである。だから文禄士録帳にはわざわざ北郷の・・・と記してある。岩松氏などの旧勢力が力をもっていたからそうなる。
そしてこの地図に示したように山側から海側に進出している。中心部は欠けている。
原町でも高倉とか大原に進出して鹿島区でも小池とか山下とかとちくほ(栃窪)に進出してゆノ木(柚木)の名が記されている。
柚木は今でも相馬市であり鹿島(北郷)の境になっている。それは相馬氏が進出していたからかとなる。
深野(ふこうの)から小池に出る所に古い墓地がありそこに武家の立派な墓がいくつも残っていることを紹介したがそれもこの相馬氏の進出経路と関係しているのかもしれない。
大原の名は一番多くでているから小池は隣り合って相馬氏が早くから進出していたのかもしれない、ただ小池の墓は江戸時代後期のものである。

原町では不思議なのはかや浜としふさ(渋佐)にすでに進出していた。かや浜はもともとはかい浜と呼ばれていたがかや浜と記されている。
つまり相馬氏が進出してきた時、かや浜と変えたのだろうか?
発音を聞き違えてそうなることが地名には良くあることだからである。
ただしふさ(渋佐)にすでに相馬氏が進出したとなると慶長津波の前なのである。
するとすでに渋佐に人が住んでいた。そこは湊の機能があったのだろう。
慶長津波の前に人が住んでいてかや浜にも人が住んでいても慶長津波の記録は残されていない。そこは相馬氏が進出して住んだ地域だともなるとまた解せないのである。
どうしても慶長津波のことが記録にないから探りえようがないとなる。
ただ700人溺死と一行記されたのは溺死となると溺れた人となる。
700人の死者を確認できたのかという疑問である。今回の津波でもそもそも行方不明者が多いだろう。当時はそれ以上に行方不明者が多くなる。探しようがないからだ。
だから700人溺死とは死者として死体があがり確認された人数である。
当時ではその何倍もの行方不明者がいたかもしれない、するとこの数からすればどれだけの被害があったのか、今回の津波と同じように大きな被害があったとなる。
そういうことが全く記されていないし謎なのである。

ただ慶長津波のすぐあとに中村城に移ったということがその時期があまりにも慶長津波があってからだから何かあったのかと詮索するのは当然なのである。
津波の影響があってその時期に移転を決められたということもある。
津波が大きな契機となり中村に移転したともとれるのである。
ともかくこの文禄士録帳は相当に貴重な記録である。
相馬氏関係では一番古い資料だから貴重だとなる。
何か郷土史でも貴重な資料がありまずそこから郷土史研究の手がかりとなる。
これはその一つである。
タグ:相馬氏
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2014年10月27日

文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名 (深野がなぜふこうのとなるのか地名の謎)


文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名


(深野がなぜふこうのとなるのか地名の謎)

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(小高)

御なはニ御百姓くみの
つのほう(角部)
・・・・・・
(原町)
かや浜
高倉
羽鳥(はとり)
江井
太田
牛越
かや崎
つち内
下沢
(双葉)
新山
けちう
立野ニなこ地備後守
こうかや
さいの内
宮田
こまはの
大森
むないり
せきはの
こいし
清水の
いしはし
いりの
中島
たたき田
(原町)
大原
谷河原
鳩原
はの倉
やいこめさい
谷加平
牛来
太田中島
目々沢
高平
谷が原
高の倉
しふさ
鶴が谷
大和田
新田
高平
おおわた
つるかや
やかはら
かなわ
大井
こやき
かん崎
(浪江)
たかの
なんとう内
やかはら
(小高)
川ふさ
おなはの
村上
かやしき
えひさわ
(鹿島)
とちくほ
山下
やす倉
小池
(浪江)
おみの
大加り
かうの草
末の森
たかつか
さかいの
かりやとの
宮田
いての
小野田
高瀬
岩井沢
こわなし
ふるみち
根本の
はんかい
夫沢
(小高)
おなは
もと城のうち
北目
なてかつか
山田
おおかい
ゆノ木
中山
椎葉
つさ原



郷土史は何を手がかりとするかというと野馬追いから探る人もいるしいろいろな方面からアプローチできる。自分の場合は地名だった。
何か深野がふこうのとなっているのがなぜだろうと必ず疑問になる。
深野をどうしてもふこうのとは読めないからである。
こういうときインターネットで大阪に深野という地名がありそれをふこのと呼んでいる。

大阪府大東市深野(ふこの)

深日(ふけ)に続いて「深」という字をどう読ませるかが難点です。
 「ふかの」でも「ふけの」でもありません。「ふこの」が正解。って読めませんよ、やっぱり。
 元々このあたりは水郷地帯だったようで、「深野」は「ふこうの」と読んだのが約まったのではないかと


ふこのはふこうのになる。深野をここではふこのと呼んでいる
これはここが深野をふこのと呼びふこうのとなったと推測しても不思議ではない。
ではなぜそうなのか?フケルから深野になったことは確かである。
ただおそらく大阪ではフケル→フケをフコと言っていたのかもしれない、一種の方言だったかもしれない、ではなぜふこのがふこうのとなりここに残っているのか
これは伝播地名なのかもしれない。
移住してきた人がその方言をもちこんできてここで名付けた。
ふこのがいつしかふこうのと呼ぶようになった。そいうことは地名によく我ことだからである。


もともと相馬氏一族でも元は千葉氏であり千葉氏は西の方から関東に移ってきたものである。
だから和泉守という大阪に由来するものもいるし全国の・・・・守がいる。小浜備後守、木幡駿河守、木幡出雲守、大友美濃守、俵口肥後守、赤沢伊豆守、渡辺豊後守、・・・・などがいた。
深野に深野の姓を名乗るとき深野という地名がもともとあってその土地を地名を姓にした。
もともとは別な姓だった。
日立木の立谷はもともと熊野信仰をたずさえて移住してきた和歌山県であり鈴木といか姓だったかその土地の名をとって立谷として土着したのである。
ただこの総士録古支配帳には深野というふこうのという地名はでていない。
大原はでているから大原の方が深野より古いのかとなる。
ただここに記された地名は一番古いことは確かである。

なぜならおなは御なはであり小名浜(おなはま)とあるがもともと御なはでありマはあとからつけられた。
だから沖縄の那覇(なは)が古い地名の元なのである。

「“那覇(なは)”の語源は、漁場を表す“なふぁ”からきている」


沖縄とは沖の漁場ともなる。小那覇(おなは)という地名もある。
沖縄はやはり古い日本を残しているから地名でも共通性がある。
小名浜がまぎらしいのは小名浜がおなはーまであり浜ではないのである。
当て字の感じでまぎらわしくなったのである。
小高には湊があり舟もたくさん入っていたし舟持ちも多数いた。
それはこの記録に記されている。漁場でもあった。
小高はその頃は入り江であり湊と漁場にふさわしい場所だった。
今回の津波でわかったように駅を越えて津波がきていたのである。
だから小高の城が浮舟城と呼んだのは何かそういうことと関係しているかもしれない。

ともかくここにでている地名は相馬藩の基になっているから重要である。
ただここに記されていない地名はどうなっていたのかわからない。
なぜ記されなかったのかそのあとに名付けられたのかわかりにくい。
なぜなら古代の和名抄にのっている地名は一番古いからである。
真野という万葉集に出ていた地名かそうである。
それがこの記録にはでていないし他にもかなりでていないのがある。
不思議なのは大原という地名は一番でている。
原町で最初に開かれた地が大原だったのかとなる。

総士録古支配帳となるとやはり相馬氏一族の武士が郷士として最初に土着した所の地名が記されているのかもしれない、そこにはすでに大熊や双葉や浪江もあった。
その辺のも相馬氏の支配下に入った時記されたものだろう。
だからこの地名と今の地名をあわせると当時の様子がわかるかもしれない。
かや浜などは文禄時代でもすでに村落があったのである。
それは高台であった。かや浜の湊は後に人が住んでのであり慶長津波の前には人が住んでいてかったかもしれない、でもかや浜の高台には人はが住んでいたのである。






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2014年10月10日

相馬藩の生きた歴史を語る相馬市飯豊の阿部氏の由来 (小高から始まっている相馬藩の歴史をふりかえり復興へ)


相馬藩の生きた歴史を語る相馬市飯豊の阿部氏の由来

(小高から始まっている相馬藩の歴史をふりかえり復興へ)

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阿部の名前がここに記されている

郷土史研究の基本はその土地の村でも町でも新旧を知ることである。
古いと思っていたところが新しく新しいと思っていた所が古かったりすることはよくあることである。
例えば原町市の中心部は市街になっているから古いと思っている人がいるだろう。
ところがあそこは江戸時代は野馬を放牧していた原っぱだっのである。
最初は本当に野馬を放牧していた放し飼いにされていた。
あとから野馬土手が作られた。その前はだから畑に馬が入ってきて困ったとかあり記録にも残されている。
戦国時代には馬は戦闘用としてどこでも飼われていた。広大な牧がどこにでもあった。
今のような稲田が広がる風景ではない、馬を飼っている広い牧がある風景なのである。
だから今になると原町が市街化しているからそこが広大な野馬の放牧場だったということが想像すらできない状態になっているのだ。
原町というとき原っぱの意味でありこれは各地にありそこは原っぱだったのである。その名残として野馬追いの神旗争奪戦が行われる雲雀が原がある。原町はのちにまた宿場町になった。
だから地元の人でも意外とこの新旧を知らないから必ず昔を間違ってイメージするようになる。
ヨーロッパ辺りだと旧市街と新しい街は明確に分かれているからわかり安い。
観光するときは旧市街を回ればいいのである。

日本は街が雑然となっていてわかりにくいのである。ただ城があれば城下町でありそこが古いとなる。
原町で古いのは深野とか大原だった。あそこは原町ではかえって一番古い場所なのである。
そこは野馬土手の外にありそこは米を作るために田が作られていった場所だったのである。
今はかえって原町の中心が街内のようになっていて深野(ふこうの)とか大原は辺鄙なさびれた場所のように錯覚するのである。
このことは他でもありその街の新旧はわかりにくいのである。
今回相馬市で新しくできた郷土資料館とか郷土館とか訪ねてみた。そこで案内した人が「阿部氏」でありその人の由来は1300年ころまでさかのぼれると言うので驚いた。
そんな人に実際会っていないから余計にそうだった。その阿部氏の由来は明確なのである。
その末裔の人が言うには奥相史と残っている資料は北相史のことだという。
それは相馬氏の基になった千葉市流山市とかがあそこから北に位置する茨城の行方に移ったので北相史になったという。
相馬地方はもともと古代には行方郡になっていた。茨城県からの移住地だったのである。
その後相馬氏が移住してきた。相馬氏が移住した最初の地が小高だった。つまり相馬藩誕生の地は小高だった。
相馬藩を歴史を知るには小高からはじめねばならないのである。鹿島は北郷であり小高から北だから北郷となっていたのである。方角地名は中心地から見た方向なのである。
そのことが良く相馬藩内でも知っていてもどうしても今の城のある中村であり
相馬市を中心に考える。つまり小高が相馬藩の歴史では一番古く歴史をたどると小高から始めねばならないのである。
そのことを具体的に阿部氏の末裔が語ってくれたので生きた歴史を感じたのである。
小高には野馬掛けとかあり野馬追いの起源になる祭りが残っているのもそのためなのである。
塚原とか村上に大きな船も入る湊があった。蔵院とかあるから大きな湊だった。中世は意外と船運が盛んであり村上に一時城を移すことを計画したのはそのためだった。
そこにはおん舟という文禄高調に記されているのを書いた。その数も多いから相当な舟がそこにあった。それは八沢浦にも湊があり七荷を運んでいたとありそれは大きな舟だったのである。
相馬市の吉田屋の記録では松川浦で会津まで運んでいたということが記されている。それはニシンとか塩とか他にもあった。
相馬市の今の中村に城を移したのは松川浦が湊となっていたからである。今でも松川浦は漁港だけではない、貿易の港ととして機能している。
ただ小さいので飯館村の木材などは石巻から出していたのである。中古車販売の島商会はロシアに輸出しているが松川浦の原釜から出しているから継続がある。

その人の話で面白かったのは阿部家には長櫃に50ふりもの刀が入っていたという、在郷給人でありその土地を束ねる地位にあった。槍持として相馬氏に仕えていたという。
その槍の一部も残っていたが売ってしまったという。50ふりの刀を用意していたのはやはり戦国時代はそうだったのだろう。まず武器が無いと戦いないのだから武器は重要になる。
その50ふりの刀がありそれを家来に配って戦うことになるからだ。戦国時代の様子がその話から具体性を帯びているのだ。
阿部氏は小高から今の相馬市の松川浦近くの飯豊に土地を賜りその一帯を開墾して草分けになった。
その碑が飯豊に立っているから由来が明確なのである。
そして程田の隣に新田とあるがそこはすでに元禄時代に開拓されていたのである。原町の津波で開拓した金沢も元禄に開拓されたから古いのである。
日本全国でも元禄時代は開拓地が広がり豊かになった時代である。
だから葛尾村(かつろう)の落合に元禄の碑があったからあんな山奥でもすでに元禄時代になるとかなり住む人も増えてきたのである。
元禄時代という芭蕉の時代でもあった。俳句もそれなりに盛んになったから文化的にも華やかなものか生まれた時代である。
つまり新田という地名が各地にあるがその時代を見ると新田でも意外と古いものになる。
小高から今の相馬市の中村に移ったのは慶長津波のあったあとの1611年の11月とかであった。そのあとに開拓された程田とか新田は古い地域になっているのだ。

秋の日に阿部氏の由来語るかな小高にはじまる相馬の歴史

小高にきて城跡にひびく蝉の声ここち立ちにつ復興願ふ

小高は相馬藩の歴史では大事な場所、起源の地だったのである。そういう歴史があるとき、小高が欠けては相馬藩の歴史の消失になる。
歴史的観点からみると復興するということは歴史を継承するということにもある。
先祖がどうのこうのというとき実は日本の歴史でも歴史が何かわからなくなっている。身近に考えれば歴史とは家の歴史になる。
最も身近なのは知っている家族のことである。ただ最近は墓参りでも知っている人に参るのであり先祖ではないというのわかる。
なぜなら先祖でもあったことも無い人は他人と同じになってしまうからである。
ただ歴史というとき別に直接にあった人のことではない、でも何かしら伝えるものがあって歴史がある。
人間は道具を作るものたとか言葉を話すものだがとか定義するが人間の人間たる所以は歴史として人間が生まれてきているのである。
だから先祖を誇りにてらないと子孫もだめになるということがあるたろう。
先祖を見習い今を正すということがある。そうすると人間形成しやすいのである。
国の教育だったそうである。先祖の悪いことばかり言っていたら現実的に日本なんか戦争で他国を殺すばかりの悪い国でしかない、なくなってもかまわないとかなる。
そういうことが戦後影響して今日モラルの頽廃が生まれたのである。つまり家でもその先祖であれ親であれ何かしら誇りに思えないと子孫も良くはせ育たないのである。
先祖の影響で病気になったとか何になったのかとは別である。そもそも精神的そういう悪いことばかり言っていたら今を生きている人たちに影響か大きいのである。
歴史だってどうしていい面と悪い面が必ずありその悪い面だけをとりあげるときりがない、良い面も歴史でも人間個人でもとりあげる必要がある。

元禄の碑のあったのは程田ではなく新田だった
http://musubu.sblo.jp/article/65966172.html
タグ:小高
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2014年07月31日

文禄二年 総士禄高調の謎 (原町は深野や大原が先に開墾された)


 
文禄二年 総士禄高調の謎


(原町は深野や大原が先に開墾された)


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相馬市史6参考

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新地地ある文禄の碑と関係あるのか

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大原が多い

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文化と記されている

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立派な石がここには多いのはなぜ?


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深野(ふこうの)の墓地に天保と記されている

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野馬土手に囲まれていた周辺部に士禄が記されている





原町区

大原 15
かや浜 12
高平 8
牛越 8
太田 7
高倉 7
かうの草 (深野ーふこうの)5
しふさ(渋佐) 2
牛来 1

北郷 5
北郷 かしまに 1
小池
山下



文禄二年といったら1593年でありこの辺では一番古い。こういう時代の記録だから貴重である。文目で計算しているがここではその土地に在住した農民とか侍、郷士など士禄である。原町区と鹿島区(北郷)だけをとりあげたがその地域が非常に限られている。
北郷(鹿島区)だとかしま(村)と小池しかでていない、これはどはういうことなのか?
文禄時代にはそこにまだ士禄を調べる人たちが住んでいなかったのか?
小高やしねは(浪江)もでている。小高はもっと地域がでている。小高は相馬氏の最初の城があったところだからむしろ北郷などより鹿島より古い歴史をもっている。相馬氏関連としてはそうである。
ここで不思議なのは大原が一番士禄にのっている人が多かったことである。今なら大原ははずれている山側にある。そしてかや浜も多い、それはなぜなのか?
これは今の中心地域はもともと原っぱでありあとで野馬追いの馬の放牧場になった。
早くから開拓されたのは雲雀が原から放牧場になった広い範囲がありその周辺地域が先に開発された。だから大原はその牧から相当離れている。
大原に近接するかうの草(深野ーふこうの)もそうである。高倉も山側であり離れている。今の原町の中心部は原っぱでありあとから開発された地域である。
そこは宿場町として発展したのであり田畑にした地域ではない。原っぱの中に宿場町が生れたのである。

ただなぜかや浜が意外と多いのか、あそこは今回津波で壊滅したけど高台の方は残った。それでも被害があった、それでもかや浜は早くから開拓されていた。
だから慶長津波の来る前からかや浜は開拓されていて村を形成していたのである。
ただ津波で壊滅した低地はあとから開拓された。
文禄時代になるとまだ相馬氏がこの地に勢力をもって支配していたとはならない、
小高城があり村上に移り牛越に城を移し中村城に移ったがこれらは慶長年間であり文禄ではないからだ。文禄になれば相馬藩政記でも記録にないことが多いだろう。

だから北郷という名は小高城があったとき、小高から北にある郷として名付けられた。
小高に相馬氏の最初の城があったのだから小高が古いのである。
太田神社も基点となった所である。そこから北だから北郷になった。
その北郷はただ北郷となっていてかしまと小池と山下しか地名がでていないのだ。
他はまだ相馬氏の士禄にはないということは支配するものとしてなかった。
相馬氏の士禄を与えるものが侍が住んでいなかったのかとなる。
小高は地名がでているからだ。
そしてなぜかしまと小池だけがでているのかということなのだ。
屋形とか海老とか横手も浮田もでていないのだ。
小池が意外と先に相馬氏の支配下にあり開拓されたとなる。
その理由の推測として中世の館(たち)が相馬藩内に38もありその館の支配下にあったものはまだ相馬氏に服属していないから士禄が与えられなかった。
特に北郷は小高よりも原町よりも中村よりも相馬氏の支配下に入るのが遅かった。
田中城がある田中領分とあるからそこは文禄時代に相馬氏の領内になったのだろう。

今回なぜこの記録に注目したかというと小池原の墓地を見たら文化、文政とか古い墓があったからだ。あんなところにどうしてあるのだろうと不思議に思った。
そこには家というのもまばらであり今でも原っぱなのである。なぜあんなところに古い墓があるのか?それもそれなりの石を使っているし戒名も明確に刻まれている。
橲原(じさばら)と栃窪とかこうした古い墓地があり今は使われていないものがある。
でも粗末な石でありいつの時代かもわからない、橲原(じさばら)の今は使われない墓地は明治時代であり開墾に入った人たちの無名の人の墓である。だから石も粗末で小さいのである。戒名もはっきりしないのである。戒名も今でもそうだけどつけてもらうにはそれなりの財力がないとできない。
だから小池原の墓地は不思議だと思った。あそこは墓地でも捨てられた墓地であり後がつづいていない、たいがい古い墓地でも必ず今の人の墓が継続して作られているのが多いからである。なんらかでその子孫が絶えたのかとなる。そもそもあそこには家がまばらでありそれだけの墓地を作る村があったとは思えないのである。
だからどういうわけであそこに古い墓地があるのが謎である。
推測としてはむしろ小池より深野(この草)とか大原より開墾に入った人たちかもしれない地理的に連続していて大原と深野は文禄時代から開墾されて士禄が与えられていた人たちが住んでいたからだ。

郷土史研究で大事なのは村の新旧なのである。古いと思っていたところが新しいこともあり新しいと思っていた土地が古くから人が住んで開墾されていたとかある。
今回の小池原の墓地は新しいと思ったが古いということでもわかる。
深野(ふこうの)も大原も原町の中心部より古い、かや浜も古かったのである。
深野の台地に広い墓地があり岡田氏などの墓があった。天保と記された墓もあったが
天保よりも文化文政の小池の墓は古いのである。
そして深野の不思議は野馬追いに21騎が出ていて旗印が出ていたことである。
そんなに深野に野馬追いに出る人がいたのか?侍がいたのかとなる。
何か特別の事情があったのかとなる。
雲雀が原で出会った人も甲冑競馬に出ていたという深野の人だった。
いづれにしろ郷土史が墓地をみる必要があるというとき墓地は具体的だから郷土史を実感しやすいのである。

タグ:文禄
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2014年05月25日

津波の跡に残った越中からの移民の由来を記した碑 (鹿島区小島田の真野小学校の近く)


津波の跡に残った越中からの移民の由来を記した碑


(鹿島区小島田の真野小学校の近く)


故郷に北陸よりの移民の碑残る思いや津波の跡に


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字がよみづらいです、要点だけを書き出しました

北陸之地仏法・・真宗・・・祖名久治朗・・明和8年(1771)・・

越中 中田郷・・・妻 曽与 文政10年(1827)久治朗没 亭年57
奥相馬藩 八右衛門 文政12年(1829) 山中郷母子 夫妻別浪江 八右衛門斡旋
名改万蔵 安政3年(1856) 清吉


大正13年の碑
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2011031307[1].jpg

ここはこんな状態だった

ただこの辺には家はわずかしかなかった



この碑は真野小学校の近くにあった。大正13年に建てられた。越中からの移民を記念した碑であることにはまちがいない。
はっきりしているのは最初に来た人が明和8年(1771)であり久治朗が生まれた。
その後10年後に天明大飢饉が起きて相馬に移民した。
何歳に来たかはわからないが明かに天明飢饉以後に来たのである。

nenngouuu123.jpg
年齢的には天明飢饉以後に移民した。
20歳以上であった

この人の出身は越中中田郷である。この辺で中田という姓の人は近くにもいるが明らかにその子孫になる。
中田の姓ば越中の移民から来ている。

それからよくわからなのが八右衛門と名がでてきて山中郷とでてきて浪江と出てきているのも不思議である。
これらの関係は何らか結婚などで縁戚関係になったのだろう。
山中郷は今の飯館村や葛尾村(かつろう)である。

万蔵とか清吉という名もでてくる。この辺では相馬藩内で縁戚関係になっている人は多い。
だから今でもそうであるが江戸時代だったら相馬藩内で縁戚関係になる人はずっと多いからそうなる。


自分の縁戚関係でも浪江があり双葉で父は働いていたし出身は葛尾村だった。
相馬藩では越中などからの移民が三分の一もいるから実に多いしその子孫も多いということになる。

この碑は大正13年に建てられた。ここに住んでいる人はが記念して建てた。
ここはちょうど津波が来た。驚いたのは船がここまで流れてきたことだった。
この辺はまだ津波の高さは低いにしろ流れたきたものが船であり
他にも瓦礫が流れてきて山のようになっていたのである。
幸いこの碑は流されなかったのは海から3キロ以上離れているからであった。
海老と右田とか烏崎にあったがこうした記念の碑や神社は流されてなくなった。
真野小学校も被害を受けて廃校になった。


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2014年04月01日

南相馬市の大原から八木沢峠へ (バラ坂の地名由来の考察)


南相馬市の大原から八木沢峠へ

(バラ坂の地名由来の考察)


茨城の語源についてもやはり「常陸風土記」に見ることができます。「香島郡(かしまのこおり)に岩窟を掘って住み猟のようにすばしっこい、一般人とは全く違った生活をする一族佐伯がいた。これを大和朝廷軍の黒坂命が住居穴を茨(うばら)をもって塞いだので彼等は穴に入れず討ち取られた

友部町小原の名前の由来は茨(うばら)が小原に変化したものと地元では伝えられています

からたちと茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自(万葉集)

枳の茨の原を刈り除いて倉を建てるから尿は遠くでしてくれ櫛を造るおかみさん方よ


「茨(うばら)」=まんだ【茨田】大阪府(河内国)の旧郡名



地名は明らかに原初の状態をさして名付けられた。田んぼでもそこが田にする前の原初の状態で名付けたものが多い。
菖蒲田とあれば菖蒲が繁っている湿地帯であり日本に湿地帯が多いからその名がつく。
葦田となれば葦が一面に繁っていたとかなる。蟹田や蛇田はそこに蟹が多く蛇も多かったからなづけた。
だから地名を考察する時はそこが原初の状態がどのうよであったかを想像するとわかりやすいのである。
吉原が葦(よし)の繁っている所だったいうとき何か華やかな花街を想像するのとばまるで違ったものとなる。
そして原初の状態からあまりにも変わってしまった時、都会化した場所は東京などになると
原初の自然状態は想像すらできなくなってしまったのである。
だから最近地震などで地盤が悪いところは沼だったとか湿地帯だったとか指摘されて液状化するから危険だとされた。
そういう原初の状態を知るということをが意外と大事だった。
津波でもなぜ海岸に接して人か住んだのかと指摘された。

原初の状態からみると茨は邪魔者でありカラタチも刺があるから同じである。
そういうことを日本全国で最初に住み着く人が難儀したから地名となった。
だから一つの地名には日本全国で普遍性がある。
湿地帯が多いのもそうであり茨が多いのもそうである。
薔薇は原野の茨であり花としてより刺のある邪魔物として認識されていたのである。
人間が住み着く時、自然は美しいというより障害物として認識された。
人間が開墾して住み着く時、道具もないとき、機械もないとき、障害物になる。
一本の木を取り除くとき大変な労力が必要になる。それは北海道開拓でも経験している。
人力だったら根っこを取り除くのもブルドザーでするのとは違っているから大変になる。

だから八木沢峠の麓の大原から坂を上ったバラ坂は茨から来た地名であることはほぼまちがいないだろう。
ただ最初バラ坂というのは普通の薔薇をイメージしていた何なのかわからなかった。
それはどこでも原初の状態から離れて生活しているからそうなった。
あの辺は秘境だと書いたがそこは頻繁に車が通るから繁華な所と勘違いしていたと同じである。
あそこに羚羊が出てきたのには驚いた。もともと羚羊が住み着くような場所だったのである。

地名というのはそれだけその土地に根ざして名付けられているのである。
ただ都会化すると全く原初の状態がイメージできなくなる。

その土地を認識する最初が地形とか地勢とか地名になる。
それが歴史を解く鍵にもなる。日本は山が多いからヤマト(大和)になり湿地帯が多いから葦原瑞穂の国になった。
そして地名もまたそうした原初の状態から名付けられるのが多いのである。

だから地名は郷土史の基本となりやすい、そして地名学はあらゆるものの基本にもなりやすい。
なぜならそれは深く日本の国土とつ結びついて名付けられたものだからである。
そこに日本の原始があり歴史の興亡さえ読み解くことができるからだ。
一つの地名から歴史を掘り起こすことができる。


南相馬市の大原はまさにやはり大きな原であった。平凡な地名でも明らかに地名そのものであった。
そこから坂を上ってバラ坂とか大葦から八木沢峠に行くがその途中に遠田とあるのも
大原を中心として遠くに田を作ったということが地名から納得する。
前田という地名もまさにそこが開拓の拠点になった家があり地点だったのである。

ともかくどうしてあんな不便な地に人は分け入り住むようになったのか?
そのことが今になるとわかりにくい、でも一反の田でも作れば米がとれるし炭焼きでも生計が成り立ったのか、
そういう場所は別にあそこだけではなく日本には多いのである。
どんな奥地にも田があり狭い地域を利用して住んだのが日本だったのである。
五反田とか地名が多いし一反田もありそこでも米がとれれば最低限生活できたとなる。
小さな畑でも結構いろいろなものがとれることを知ってそんなことでも一家が暮らすくらいの食料はまかなえるものかとも思った。
羚羊などは行動範囲が広いと思ったが一キロ四方が縄張りで生活圏だということは
そんな狭い場所に養える食料があるというのも不思議である。
春になれば蕗の薹とか野草とかいろいろ食べれるものが増えるが冬は厳しいと思うからだ。
あの辺はもう人が住まず田んぼだった所に蕗の薹やキクザキイチゲが咲いていた。
それも不思議な光景だったのである。

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2013年11月27日

原町市街から大原への地理的感覚 (原町は野馬原が中心に広がり大原に達していた)


原町市街から大原への地理的感覚

(原町は野馬原が中心に広がり大原に達していた)

●猿も日本では食べていた

東京は両国橋の猪鍋屋に行ったところ、その店には大きな猪が三頭ぶら下がっていたのだが、何といっしょに猿も吊り下げられていて「恨みを込め、いかにも悲しく死にましたという形相で、とても食う気にはなれなかった」(『古都』)と書いているのだ。えっ、いつのことかって? 昭和12年(1937)のことだ。猪も猿も食材だったのだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/huwawatanpopo2000/13506371.html

「猿の肉はとてもとても、たとえようのない程の美味だ。また、猿の頭の黒焼きは薬として珍重されていたものだった」。これは、昭和51年に亡くなった十和田の木村金吾氏の証言である。石川県の山村などでは「秋猿は嫁に食わすな」というらしい。近年まで非常に評価されていたことがわかる。

秋田県仙北の寺子屋のソロバンの稽古の教材で、「猿の皮30文、肉60文、頭10文、肋骨8文」というのが残っていた
http://diamond.jp/articles/-/3243

南相馬市の大原の斎藤さんが戦後猿を食べたというのは特別なことでもなかった。日本でも猿が食べられていたのだ。インドでは牛も猿も食べない、神聖な動物とされているからだ。仏教が伝わった日本では猿も食べていたし明治になって牛もすぐ食べた。ということは肉食にそれほど抵抗がなかったのかもしれない、日本ほど今や何でも食べる国はない、日本に食のタブーがなかったみたいだ。豚を食べないイスラム圏とかもあるが日本には何か食べていけないというタブーがない。
ソロバンの稽古で御破算で願いましては「猿の皮30文、肉60文、頭10文、肋骨8文」こんなこと子供に教えていたということ自体、日常的に猿は食べられていて川から頭まで利用されていた。

浜通りでも海側は魚介類がとれてそれでタンパク源が摂取できたが山になるとイノシシでも猿でも食べないとタンパク源がとれない、すると筋肉を強化できないから肉体労働に耐えられないともなる。山菜など食べても力はつかない、ソバでもそうだろう。
ともかく何らか昔の生活は栄養不足になっていた。脚気とか目が悪いとかみんな栄養不足のための病気だし他にも栄養不足の病気が多かったろう。

人間の健康はやはり根本的には栄養だからである。栄養がとれないことは致命的になる。どうしても医療も発達していないし医者などいない地域が多いから長生きする人は極わずかの選ばれた人だったのである。だからそうして長生きした人は村では尊ばれた。

大原という地域を地勢的にみると石神まで家が多い、紙漉きをしていた古い家に嫁いだ人を知っているから石神も古い地域である。ただ今石神というと長野辺りにも石神小学校があったり石神地域は広すぎるのである。そして家も多いし農家とは限らない、街のように広がっているのだ。原町区というのは浜街道の宿場町として発展した。

●原町の市街は広大な野馬原だった

でも野馬土手が今の市街地に広がっていて文字通り原っぱになっていた場所である。
現代で野馬土手とか牧がどこにも広大にあり馬が放し飼いにされている光景をリアルにとらえられなくなっている。北海道で競走馬を飼っているような風景である。
それはどこにでもあった。田んぼが今は広がっているが昔は馬を放つ牧が広がっていたのだ。だから馬というのは最も身近な動物だった。そういう絵を見たらわかった。
農家があり広い庭で作業して牧から家まで馬を連れてくる風景である。
実に広々とした風景なのである。だから原町の野馬土手もそういう広々とした風景だったのである。

つまり今の原町市街は野馬土手であり馬が放し飼いしてある広大な地域であり家がない、その回りの地域が石神でも高平でも農家でありそこに家が点在して田畑を作っていたのである。だから今とはまるで違った風景だからイメージしにくいのである。
相馬市は城があり城を中心にして発展したことはわかりやすいが原町は城もないし野馬原が真ん中にあったということでわかりにくいのである。

ともかく家の中にも馬が飼われていて曲家が残っているように馬とは親しいものだった。だから娘が馬と結婚した伝説もあってもおかしくないのである。
この辺では確かに野馬追いのために馬を飼っているが柵て囲っているか狭いのである。
野馬土手を作っているということは柵でもない、土手なのだから越えられないものとして作った。馬によって農作物が荒らされるから大規模な土手を作った。今の雲雀が原より何十倍も広さがあったのだろう。四方十キロもあった。そういう風景がイメージできないから過去に対して錯覚しているのだ。
いつもそうして放し飼いしている馬や家にいる馬を見ていたのである。

そういう馬の文化もほとんど忘れられてしまった。ただ野馬追いの時だけ思い出すのである。

おそらく田畑が今は広がっていたが牧がその半分くらいの地域を馬が放し飼いにされていた牧だった。そうでなければとても戦争をすることはできない、馬は戦国時代は軍馬であり農耕馬ではない、馬がそれだけ必要だったのである。野馬追いはもともと軍事訓練だったからである。これだけの土地が馬の放し飼いの牧としたらその回りを田畑にするほかない、その影響で深野と大原の方に開拓地が広がった。
原町の場合は平坦だから大原も原町の延長線にあった。原町自体が大原だったのである。その名残が大原に残っている。石神は野馬原の延長線にあっても家が多いから今は原という感じはない、

●原町は原の地名がやはり多い


北原、南原、東原、西原、北西原、原、・・・原町も原だけど原という一字だけの地名もある。それに比べて鹿島区とかに確かに橲原(じさばら)とか皆原とかある。でも町の回りには原のつく地名がない、原町は今の中心地帯市街地が原だった。太田の辺りも原地名はなく田畑である。原町の場合は相馬市と違い最も繁華な地帯が最も新しい地域になっている。相馬市は城下町だから城の延長として街が形成された。原町はもともと野馬原であり馬の放牧地としてあった。だから原という地名にふさわしい場所だともなる。


いづれにしろ大原というと桜井古墳からも遠いし原町は広いからかなり遠い場所になっていた。だから


新田川渡りて遠く大原や山に陽の没る秋の夕暮

大原にはや陽の没りて山かげる墓所の隠れて冬に参りぬ


こんな地勢を感じる場所である。この地勢の感覚はどうしても自転車でも走ってみて地理的感覚が身につくのである。


昔の山の暮らし(馬を飼う牧として利用されていた)
http://musubu2.sblo.jp/article/18181533.html


こんなことを書いていたのを忘れていた。人間は自分の書いたものを忘れるから時々前に書いたものを読んでおく必要がある。こんなことを自分が書いたのかと不思議になってしまう。飯館村でも葛尾(かつろう)村でも広大な牧があり馬がどこでも飼われていたのだ。

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 (渡辺崋山 「四州真景図 釜原」・・現在の鎌ヶ谷)

こういう広々とした原が牧であった。
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2013年11月16日

郷土史研究に欠かせない墓地を調べること


郷土史研究に欠かせない墓地を調べること

郷土史研究で一番身近なのは祖父母から聞く話である。なぜならそれは生きた証人から聞く話になるから本で読むのとは違う重みが加わる。老人は無駄だから税金の無駄使いだから早く死ねと若い人に高齢化社会で言われる。それはあまりにも高齢者が多くなりそれに金がかかりすぎるからである。老人が貴重だったのは長生きした人が少なく価値があったのである。昔は長生きしただけで何も功績がなくても価値があった。なぜなら長生きすることが極めて困難な厳しい時代だったから長生きしたということだけで価値が生れた。
今はそういう価値が生れない、ただ老人は若者の負担になるだけだというのが現代である。でもそもそもそういう経済的な負担などをぬきにすれば老人はもともと存在するだけでも重みある価値あるものがあった。すべてではないにしろそういう重みをもつものが人間が長生きするということであった。今だって一芸に秀でるには60過ぎないとならない、それだかけの積み重ねが年月が必要なのである。天才は別にして普通の人間はそうである。

もう一つ郷土史研究で必要なのが墓地を調べることだった。これは自分はずいぶんしてきた。それをプログにも出してきた。墓地というのも本で調べるよりここに生きて死んだと人がいたということで具体性がでてくるから過去がより身近に感じるから墓地を調べることは郷土研究にかかせないのである。墓地には故郷の人が知らない意外な発見がある。
それか自分の墓のある鹿島御子神社の脇の墓地だった。あそこは新しい明治以降の墓地だと思っていた。でも天保時代の小さな碑があったし宝暦の大きな碑もあった。あそこは神宮寺であり神社が前にありそのあとに寺ができてそこで寺小屋が生れあの碑が建てられたのかもしれない、墓地はどこでも必ず歴史を語っているのだ。一つ一つの家族墓でも歴史を語っている。


墓の歴史をかえりみると不思議なのは最初は個人墓なのである。これは自分も働いて財を残したから墓を建ててみようとなったらしい。墓を作るには今でもそうだがそれなりの財が必要なので簡単に建てられなかった。武家は五輪塔など建てたが庶民は建てられなかった。そして個人墓の次が夫婦墓だったのである。この辺でも夫婦墓が多い、それは江戸時代からの継続として明治時代でも夫婦はか多いのである。家族墓は明治時代になり政府の指示で家族墓になったという経緯がある。ということは家族墓は何か人間の自然な生活から生れたものではなかった。強制されたものだったともいえる。

妻が夫の姓を名乗るのは明治時代以降のことである。それであるから、妻が死ぬとその遺骸は里方の墓地に葬られることが多かった。夫方の墓地に葬られても、その名は里方のものを記されたのである。
こういう墓が相馬市の成田にあった。それをプログで紹介した。


大まかな変遷としては個人墓がまず出現し、次に夫婦ないしは一組の男女と三名以上 )
併記の家族墓が一七世紀中頃に出現する。( )なお、男女一組の戒名は親子の組み合わせも考えられるが、基本的には夫婦と捉えている。同様に複数の成人、あるいは子供も血縁者と考えて家族墓とする。個人墓は一人世紀代まで卓越し、一九世紀以降は夫婦ないしは男女一組墓・家族墓が主体となる
ただし、個人墓は減少せずに一九世紀代まで推移していることが大きな特徴であり

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野田山墓地の無縁墳墓の改葬に関する実証的研究
http://www.icc.ac.jp/univ/morizemi/Date/PDF/Muen-2.pdf


まず個人がなにかしらの自分の記念として後世に伝えようとして墓を作った。次に夫婦墓になったのは夫婦の結合が一番人間にとって強かったということもある。
「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」という諺がこれを示している。他に他人は五世という諺もある。五世とはなぜなのか?それは親子や夫婦の関係でもいつかは切れてしまう。死んでしまいばもうそのつながりは墓だけに記されるてもやがてその墓も消えてしまう。でも他人とか地域とか社会はつづいている。親子でも夫婦でも主従でも長い時間では実際他人になってしまう。人間は結局血縁でももともと他人なのである。そういうことを子供他人だという時、親の財産が欲しいというだけになったりするからその時子供他人だと思ってしまうし現実にそうっなっている人もいる。血縁でも家族でもあるとき、老後はそうなりやすいのである。現代では家族の紐帯が弱くなっているから余計にそうなのだ。もともと日本では家族のつながりより村のつながりが強いからほとんど地名が姓になっていた。

夫婦墓というとき、宮本常一の考察が人間を深く見ているなとつくづく思う。


この地の墓には夫婦の戒名を刻んだものがほとんどである。この墓が象徴しているように島の人たちの夫婦仲はいたってよいようである。夫婦で力いっはい稼いでこの風光の中で生きこの丘に埋められている。そして墓も一つなのである。
(私の日本地図-瀬戸内海4 備讃の瀬戸付近)
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俳句にすると「故郷や冬の日さして夫婦墓」とかなる


こういうふうに墓を見ている人は少ないだろう。島で暮らした人の一生をここで深くみているのである。つまりこの人たちは幸せだったなと墓からも回想できているのである。それは今は瀬戸内海の島のあたたかい光につつまれて眠っているのである。墓も海に向いて墓もあるし山の中の墓もあるし海を向いた墓だと常に海を死んでも思っているのかと想像するのである。島ではたいがいそうなりやすい。これは明治以降昭和になっても夫婦墓がこれほど多かったのは他とは違っている。それは夫婦で協力して島で生活していたことが影響していたのである。それだけ島での生活は人間の一体感を生んでいたのである。
これは昔はたいがいそういう傾向があったが破壊されてきたのである。
田から人間の幸福などなかなかわからないのだ。昔は貧乏だというのも本当だしでも本当にそれが全部不幸かとは言えないのである。それを墓から見えたのである。
ただ墓地でも地域性があり相馬藩では三分の一が天明の飢饉などによる越中などからの移民であり真宗系統でありその墓がわかりやすいのである。墓地をみればこんなに真宗系統の移民が多かったことが納得する。


墓が跡継ぎとかいないとか問題になるのは家族墓が維持できなくなっているのはまさに現代の家族の状況とかが反映しているのだ。核家族化とか家族の紐帯の希薄化は家族にだけ原因があるのではなく島での生活ならそこでの生活で紐帯が強められるがそこから人々が工場とか外にでてゆくようになるとつながりは希薄化する。すると夫婦の繋がりも弱められる、離婚も増えてくるとかいろいろな現代的問題が生れる。
現発事故だってそうである。事故で家族がばらばらにされたとき大熊の人だったかロウソクでも家族一緒に暮らしたいと言っていた。この辺は家族もバラバラにされてしまっているのだ。若い人は流出して家族はばらばらになっている。飯館村などでも大家族で暮らしていた人たちも多かったかバラバラなって暮らすようになった。原発でもそうだがそうしたものが地域の生活を破壊してしまうものだった。過度な工業化とかで失われたものも多いのである。


「現代社会においては、過去との連続性が失われ、 過去は遠い異邦となり、その典型として、先祖は集合的記憶を共有することによって形成 される「記憶の共同体」の成員ではなく、異邦人となった」(片桐2006:187)
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/irwg10/jinshaken21-12.pdf


墓もその一つだったのである。墓の共同性というときそれは今の現実の生活に共同性が失われているから墓もそうなっているのだ。夫婦でも一つの墓に入りたくないという女性が三分の一とかいるとしたらそれは何を意味しているのか?夫婦でも島の夫婦墓のような感覚がない、それは離婚が多いということでもわかる。家族でも地域でもそうした昔からの共同とか繋がりが破壊されてみんな会社の一員となった。結果として会社が第一になり地域はないがしろにされ東電のような巨大会社に地域は踏みじられたのである。
これは地域の生活はそもそもすでにその昔ながらの生活も破壊されていた結果だったともなる。

郷土史でしれ国の歴史であり「記憶の共同体」として根底にある。それが歴史の意味である。そういう記憶の共同体も最小単位の家族でも
そのつながりが消えたら失われる。現実に原発事故で警戒区域となり住めなくな地域は「記憶の共同体」が喪失してしまう。
歴史を失うということである。それか何を意味しているのか?結局もう地域のつながりが喪失する。
ただ補償金をぶんどるための組織だけになってしまったのである。そういうつながりはやがてまたばらばらになり地域のつながりは喪失する。
明かに原発周辺は東電の社員化していたのである。だから東電に世話になれということが盛んに外部から言われているのだ。

posted by 老鶯 at 12:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2013年06月08日

津浪で見直された南相馬市金沢地区の延命地蔵尊 (延命地蔵は庶民の願いが特にこめられていた)


津浪で見直された南相馬市金沢地区の延命地蔵尊

(延命地蔵は庶民の願いが特にこめられていた)

●全国の延命地蔵の伝説、由来など



延命地蔵の民話
http://musubu3.sblo.jp/

http://hukumusume.com/douwa/i/minwa/04/01a.htm


子育て延命地蔵
http://www.rinzo2.jp/~njkmmy/w_t-baby/kosazuke_kosodateenmeijizou_00.html


姥ケ橋延命地蔵


姥ヶ橋とはかつてこの地に流れていた稲付川に架かっていた橋です。昔、誤って幼子を溺れ死なせてしまった乳母が、この橋から身を投げ
たという伝説があり、延命地蔵は、この話を哀れんだ村人が供養のために建てたといわれています。(碑文によると川に架かる石橋の安全供養とされています。)
毎年夏にお祭りがあり、大変にぎわいます。

地蔵菩薩像は石材を丸彫りしたもので、台座には享保9年の銘があります。
http://www.kanko.city.kita.tokyo.jp/data/i/7.html


桝形の延命地蔵の由来


江戸時代、安政5年日本各地ではコレラが大流行し、多くの人命がなくなっていました。郡上でも同様にコレラが蔓延し、危機的な状況のなかどうかしてこの災難を鎮めようと元治元年この地蔵尊が建立されました。
以後、人々によって延命地蔵として代々まもり継がれています。
http://www6.ocn.ne.jp/~artwing/jizo.html


itachigawa111.JPG
http://www.igasho.com/ishikuramachi-enmeijizou.htm


延命地蔵(えんめいじぞう)は、留萌市瀬越町にある地蔵。


死してのち
楽しきものは
   花ぞかし
たむけてくれよ
   詣る人々

http://rumoifan.net/shokupedia/index.php?title=%E5%BB%B6%E5%91
%BD%E5%9C%B0%E8%94%B5


これは由来不明というけど面白いと思った。


石造の地蔵菩薩立像じぞうぼさつりゅうぞうで、総高180センチメートル、富士大山道ふじおおやまみちと橋戸道はしどみちが分岐する場所にたっています。台石には、安永あんえい4年(1775年)に谷原村の念仏講中が建てたことが刻まれています。台石の向かって右側面には「みぎ はしど道」、左側面には「左 たなし道 大山道おおやまみち 二里」と刻まれており、道しるべも兼ねていました。往来の多かった道沿いの延命地蔵のありかたを示しています。現在も地域の方々によって信仰が続いています。
 http://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/rekishiwoshiru/
rekishibunkazai/bunkazai/bunkazaishosai/b059.html


延命地蔵尊は今から約170年前(文政年間)に建之され、当所に移築されましたのは、今から約80年前のことです。当時は江戸五街道の一つ中山道を通行する旅人がここで必ず一休みされました。
当地で死亡した人馬の霊を供養するために建之されました。
http://sugamo.or.jp/promenade_index.html


元禄、宝永、天明、天保期と続く飢饉に加え、疫病が蔓延して連日のように瀕死者が相次ぐなか、当院の檀信徒たちは大仏殿に籠り、熱心に祈祷すると、大仏様はたちまち玉のような汗を流し、人びとの祈願に応えるかのように、大仏殿にお籠りををした人たちは誰一人として罹病しなかったと言い伝えられ「汗かき地蔵」と呼ばれています。また戦争中、出征前に大仏様にお参りした人たちは無事に戦地から帰ることができたことから「弾丸よけ地蔵」とも呼ばれています。
http://shoubouin.com/%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF/
%E4%B8%88%E5%85%AD%E5%BB%B6%E5%91%BD%E5%9C%
B0%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9/


●様々な災害からの延命を望んだのが延命地蔵


延命地蔵は全国各地にある。それは何のためかというと自然災害、病気、安産の願い、子育ての願い・・・そうした庶民の切なる願いがあり祈りの場となった。民話とか伝説には当時の現実が反映されている。


昔、誤って幼子を溺れ死なせてしまった乳母が、この橋から身を投げたという伝説があり


乳母というのは江戸時代辺りは奉公する武士の家やその他普通にあった。それは一族の結束を固めるものとして武士の家ではあえて乳母をその跡継ぎの子の養育をまかした。その乳母となった家ではその子を我が子のように思うようになるからである。最近でも乳が出ないと親戚のものが乳母になっていた人がいた。乳がでないということも牛乳などないから深刻だった。飯館村の佐須村には畑に乳神の碑が畑にあった。あれだけ辺鄙な所だと乳がもし出なかったら子供が死んでしまうだろう。
だからあの乳神の碑には生活の重みがある。佐須という辺鄙な所だからこそその価値が高いのである。

延命地蔵という名前自体が何かその願いが集約されている。人間は様々な自然災害であり病気であり安産の願いであり子供がたくさん死んでいた。だから子だくさんになっていた。自分の母方の実家も八人生んで半分死んでいるとかある。子供が死ぬことが多かったのである。延命地蔵とはまさに人間が長く生きられない時代が長くつづいた。延命することが願いになっていた。その延命は自然災害や病気や貧乏で死ぬ、飢饉で死ぬものも多くそれが願いとなった。延命地蔵はそれだけ全国に多い理由がわかる。また街道の道標となっていた。馬頭観世音があるのも馬や牛を供養したことでもわかる。街道でも馬を使うとすると途中で死ぬ馬もいたからである。


●南相馬市原町区金沢地区の延命地蔵は津浪から残ったので新たな価値が生まれた

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皇大神宮


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皇大神宮(こうたいじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。伊勢の神宮の2つの正宮のうちの1つである。

これはお伊勢参りなどがあったからここにも祀られていた。戦争のとき延命地蔵に祈ると死なず帰れた人が多かったとかも伝えられるのは国家と関係もしていた神だった。


秋葉山


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秋葉大権現(あきはだいごんげん、現在の秋葉山本宮秋葉神社を起源とする)である。一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が定かであるものは少ない


水天宮


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仏教の神(天部)である「水天」の信仰は、神仏習合時代には「水」の字つながりで「天之水分神・国之水分神」(あめのみくまりのかみ・くにのみくまりのかみ)と習合していた。ミクマリノカミは本来は子供とは関係なかったと思われるが、「みくまり」の発音が「みこもり」(御子守り)に通じるというので「子育て」の神、子供の守り神として信仰されるようになった。


山神


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これに上に小牛田と記されてあり小牛田が山神信仰の基となっていた。ではこれは何を祈ったのだろうか?

また、山の神はたくましい女性で、次々と一二人の子どもを生んで丈夫に育てたとも言う。山の神の縁日が十二日であり、彼女を「十二様」というのはこのことに由来する。

 この由来で、山の神はまた、お産の神として厚く信仰されている。山神はすなわち産神でもある。当地方で妊娠・安産の神として有名なのは宮城県小牛田の山の神である。以前は、当地方の村々の嫁御や主婦たちは「産神講」を結んで、小牛田の山神様に月参りをしたり、または、月の十二日に講の宿の床の間に「産神」の掛軸を掲げて礼拝していた。いわゆる「産神講」である。
http://sca.core.ac.jp/kamurorenpo/?p=105


馬頭観世音


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近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物供養塔としての意味合いが強くなっていった。このような例は中馬街道などで見られる。なお「馬頭観世音」の文字だけ彫られたものは多くが供養として祀られたものである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%A0%AD%E8%A6%B3%E9%9F%B3


延命地蔵というのは庶民の切なる願いが集約されたものだった。しかしあそこの延命地蔵は今まであることすらわからなかった。家にさえぎられて見えなかったのである。相馬地域でも狭い範囲にしてもわからないことが多々ある。あの延命地蔵は津浪で新たに見直された。津浪という大自然災害が生き残った、まさに延命したということで霊験あらたかだともなる。どういうわけか神社が津浪から逃れたのが多かった。それは比較的高い所にあったからだ。烏崎の八龍神社はあれだけ高い所にあったから海岸に接していても残ったのである。階段が急だからあそこに上るのは一苦労であった。でもあそこに逃げれば助かったのである。なぜあんな高いところに建てたのか謎である。神社の由来はわかりにくいのだ。八龍神社は水と関係しているともいう。それでも何が由来なのかわからなくなっていた。烏崎村は壊滅した。金沢地区も延命地蔵のある所はほとんど壊滅した。その前には二軒しか家が残っていない、延命地蔵の前には家は集中していたのである。
でも津浪からまねがれた延命したということで別な価値が新たな霊験が生まれたともなる。

あそこにあれだけ古い江戸時代のものがあるとは思っていなかった。江戸時代のものがあるときそこは江戸時代から生きた人たちがいたから貴重である。津浪で壊滅したけど延命地蔵はまるでその村の根っこのように残っていたのである。

延命地蔵というとき現代はこうした庶民の願いはすべて変わった。病気は医者であり火事は消防であり馬は車に変わった。だから庶民の切なる願いは医者頼み病院頼みとなった。安産でも子育てでもそうである。ある意味でこれらのもっている価値は失われたのである。延命地蔵に願うより科学信仰でありお医者様信仰であり病院に頼るのが現代である。
そして今では延命治療はやめてくれ、早く楽に死なせくれというのが庶民の願いとなった。それでぽっくり地蔵の方が人気が出たのである。
庶民の願いも時代とともに変わる。ぽっくり地蔵は全国ではかなり少ないが延命地蔵は多いのこともそれを示している。


それでも津浪のような災害は予測されていなかった。だから原発事故でも津浪の災害でもやはり科学を越えたものがあり神に祈るという行為は廃れるものではなかった。ともかく延命地蔵は明かにあそこの村の中心としてあったのだ。今まで注目しなかったが津浪で注目されたものが多々ある。金沢の延命地蔵もその一つだった。
「津浪延命地蔵」とかなるのが今回の津浪で生まれたのである。

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2013年05月29日

相馬藩山中郷(飯館村-葛尾(かつろう)村)などの天明飢饉の影響


相馬藩山中郷(飯館村-葛尾(かつろう)村)などの天明飢饉の影響

天明三年、嘉永元年中村藩検地石高表収納戸口等調


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これは相馬藩の山中郷の検地の石高表である。山中郷は葛尾(かつろう)村も入っていたし津島も入っていた。玉野村も入っていた。面積にすれば相当に広い。

1744延亭−1781天明−1847嘉永-37年間と66年間に生じた飢饉の結果の数字である。戸数がどれだけ減ったかが数字で明確に現れている。この数字から読み込めるものが相当ある。

ただ数字だけだから具体的内容はわからない。それにしてもやはり減り方が尋常ではない。

飯館村とか葛尾(かつろう)村などが歴史がないようでも意外と古いのである。だから落合村に明暦と元禄の碑があったことでもわかる。外からも何か原発事故で注目されても歴史ある古い村だという認識がない。地元の人でも意外とそう思っている節がある。飯館村でも葛尾(かつろう)村でも古いのである。だからやはり村かなくなればそれなりに古い歴史の積み重ねも消失してしまうことになる。


時間的には延亭から嘉永までで約百年の間に飢饉の影響があった。百年というと相当に長い。一気に人口が減ったわけではないのだろう。その間に徐々に減っていった。原発事故のように町民全部が避難するようなことはなかった。一軒一軒とか時間をかけて減っていったのだろう。なぜなら百年とすれば相当長いからでてある。なんとか飢饉をしのいだ家もあったがどうしても成り立たなくなり他に移ったか消えてしまった。


ただ地域によってその人口の変化は違っていた。表で見ると玉野村や落合村や野川村はさほど減っていない。それはなぜなのか?おそらく葛尾(かつろう)村の田畑の面積を見るとずいぶん少ないと思った。あそこは山が多く平地が少ないせいだったのだろう。飯館村は結構平地が多く田んぼも畑も広くあった。葛尾(かつろう)村は耕作する平地が少ない、落合とか野川とかは川沿いであり急な坂になっていた。もともと平地が少ない所だった。自分の父親が出た小出谷(こでや)は小出屋であり出小屋として住んだ所である。それも後ろは山であり前は小出谷川であり平地がほとんどないのである。
そういうところでどうして暮らしていたのか不思議である。

でも飢饉の影響が少なかったのはなぜなのか?それは山には山の幸が山菜とかあってそれでしのいだのかもしれない、飢饉になると山に逃れたということも聞く、山には最低限でもしのげる野草などがあったのかもしれない、それと山林が多いから燃料には事かかないことはあった。山はもともと自給自足の時代は薪は豊富だしそれなりに豊かな面もあった。だから落合に明暦と元禄の碑がありあそこは古くから開けていた。玉野村とかもそうである。玉野村も木材資源が豊だからそういう方面で良かったのかわからない。それほど人口がへっていないのである。

川俣町が耕地面積がこれだけ少ない、それで絹織物で養蚕業を産業にして栄えた。
そうでなければこれだけ少ない耕地面積であれだけの人口は養えなかったのである。

ただ津島がなぜ極端に減ったのか? これは何かありその辺はわかりにくい。

平均してやはり三分の一は減っているだろう。十軒あったとして三軒へっているとなるとやはり影響が大きいだろう。ただこの天明の飢饉は延亭から嘉永まで百年の間に徐々に進行したのであり一気に人口が減ったのとは違っていた。百年といえば長いのである。原発事故でも放射能汚染は30年で半減するとするとそうした長い時間で考えれば飯館村の復興もありうる。ただその時は農業林業中心の社会だからなんとか土着して生きようとする。でも現代になるとそもそもそうした一次産業は苦しい中でやってきたから違っている。

今この飢饉のことが注目されるようになったのは津浪や原発事故で苦難を強いられたからふりかえるようになった。この時相馬藩の人口は三分の一に減り越中からなどの移民で建て直したのである。

それ以来の最大の危機に直面している。ではこの飢饉のときと津浪原発事故と比べるとどっちが苦しいかとなると比較もむずかしいがやはり飢饉のときの方が苦しかった。なにしろ食うものがないということほど苦しいことはないだろう。原発事故でも住む所はあるしかえって食べることは贅沢しているのだからその点は比較にならない、ただ故郷自体を失うということは想像もできないことであり
それはかえって精神的には苦しいことかもしれない、ただもし百年とかの時間を考えれば放射能汚染からも立ち直れる。今ではそんな時間の余裕がないとなるからまた違っている。

つまり農業とか漁業とか林業で暮らす時代でないからそうなっている。
みんな会社員なのだから土地に執着する必要がないからこそかえって町や村は捨てられるとなる。

そして捨てられた村や町は元の自然にはもどらない、その土地は国が買い上げれば放射能処理場にされるしまた他のよからぬものも入ってくる。そのことは飯館村や双葉町とかだけの問題ではないのだ。自然は相馬藩内ならつながっている。飯館村から水が流れてくるのだから放射能汚染された土や水も流れてくる。核の廃棄物処理場になってもやはり同じなのである。地理的に近いのだからどうしても自然の影響はまねがれないのだ。そもそも放射能汚染は広域的だったのである。

一地域の問題としてすまされないものだった。だから中通りまで放射能汚染されたのである。
飯館村の土地をかってに個人の土地だから売った方がいいというのも問題である。なぜなら核の廃棄場になったらやはり中通りでも影響するのである。勝手に自分の土地だから高く誰にでも売ればいいですまされるのか?そしたらまた原発事故のように勝手に金になりさえすればいい、もう飯館村は関係ないでいいのか?そうして放置された村は核の廃棄場に一番適したものとして売られることになる。それは回りにも広範囲に影響するのである。



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2013年04月29日

新田のおみかとは実在したのかな?


新田のおみかとは実在したのかな?


飯豊耕土にや 箒はいらぬ
新田、おみかの裾で掃く


こんな歌が残っていること自体、新田は相馬藩の城からもさほど遠くなく古い地だった。
柏崎梅川のお釣り場からの帰りにおみかという娘を見せめて城勤めになったという。
こういう話は他でもいろいろあるから何が本当かわからない、ただこんな歌が残っているのだから
おみかとは実在の娘だったのだろうか?でもなんらか相馬の城の殿様と関係していたのか?
新田という地はそれだけ何か相馬藩の城の殿様と親しい村だったともなるのか?
ただこんな浮ついた話しがあるとすると他の村では面白くないだろう。
そんなことで村が厚遇されたりしたら他の村人は働く気がなくなるだろう。
誰か器量のいい娘を殿様にあづけて楽しようとかなる。相馬藩は貧しいからそんな余裕があったのかということにもなる。ただ別に殿様は当時は側女を多くもつことはとがめられていなかった。
ただそれも豊かな藩のことである。

おみかという名前の由来はここからきていたのだろうか?


現在では「みか」とはいわず、
「瓶」=「甕」=「かめ」と読むことが多い。
古代人は、美しく流れる川を「御河(みか)」と呼んだ。
その川沿いにひらけた原野に、「御河之原(みかのはら)」と地名をつけた。
川の流れ込む形が甕(カメ)に似ていたからという説もある。


聖武天皇がそこに恭仁京(くにきょう)をおいて生活していた
時期がある。(740〜744年)


「三日原(みかのはら)、布当(ふと)の野辺を清(すが)みこそ、
大宮処(おおみやどころ)定めけらしも」―― 『万葉集』
http://blog.goo.ne.jp/obi-jime123/e/506c6a3bd586ca16e57c5dad4baf619f


大甕(おおみか)という地名もそうなのか? 川に由来したものなのか、梅川が流れていてその名がついたのか?名前も考えてみるとどうしてつけられたのか不思議である。


ただ新田村には近くに釣り堀があり通っていたのである。

例の溜池で誰かが釣りをしていた。その釣りをしている人と話をした。どこかの釣りする所では魚を釣り堀のように放流しているという、それで人を集めている。釣りといっても今はとった魚を放している。魚をとって食べるというより魚をつり上げる醍醐味を楽しんでいる。そもそもそんなに魚をみんな釣って食べてしまったら魚がいなくなってしまう。
最近読んだ雑誌でもそもそも日本近海の魚はとりすぎていなくなり漁師はもう生活が成り立たないという。魚もとりすぎるとそうなる。魚の養殖を考えるべきだというのもわかる。天然の魚はとり放題にしたらへる一方なのである。魚も釣り堀化しないとへって魚はとれなくなるのだ。天然の鰻も絶滅するとかなる。そういう時代になってしまった。養殖化しない限り漁師の生活は成り立たなくなる。右田浜でとれたのはイシモチとかスズキだった。それらとって食べていた。海の魚は食べていた。

その人はとれたときは60匹もとれたという。魚もとれるときはとれるのである。

魚釣りは自然との交流でもあるから何か見ていても気持ちがいい、自然に溶け込むということがある。だから釣りから自然を考察して村のことを探求した哲学者がいた。釣りというのは遊びでもそれだけ自然と通じ合うから違っているのだ。ゲ-トボ-ルとかゴルフとか何かこういう娯楽は自然と通じ合うものでもないからあまりそういうものをしているものと共感しにくい。釣りをしている人をみていると自然に溶け合った自然の一風景に感じるから好感をもつ、ただ自分はじっとしていられないたちであるから向いていない、自然と交流するとき絶えず動いている自転車などが向いているのだ。


ともかく釣りしている人と話したように相馬藩の城の殿様も釣りを楽しんでいたのである。

「何か今日は釣れましたか」
「今日はさっぱりだったな、でも人間が釣れたよ、鄙にはまれな美人が釣れた」
「どこのどなたで、新田の里の娘だった、おみかと言っていたな」
「殿、あまり遊びはいけません、他の村の者が働く意欲をなくします」
「まあ、そんな娘がいたことを話しただけだよ」
「釣りの方に精をだしてくだされ」
「それもそうじゃ、人間を釣るより魚じゃな」
「そうでございます、殿様は村民の模範でもあるんですから・・・」


その日はぼかぼかと春のあたたかい日が新田の里にさしていた。桜もそここち咲いていた。

相馬中村石屋根ばかり、瓦(変わら)ないのでドント人が好く・・」こんな戯れ歌が残っていること相馬藩の城があった中村は何か本当に田舎の城であり貧しい城下町だったのである。
だからこそやはりそうした浮ついたもの、贅沢はできない藩であり殿様も質素を心かげるのが普通である。そうしないと下々の風紀も乱れるからである。


我が城より相馬の城下を見渡せば
相変わらずに石屋根ばかり
春なれど何か寒々しかな
新田の開拓は成れどなお貧しき
いかにして民の豊さのあれや
今年の春も花散りて逝かむとするかな

こんな話しになっていたのか、それなりに相馬の殿様の話があれば新田の里も興味が湧くということがある。相馬の殿様のことは何か具体的に浮かんでこないのである。

posted by 老鶯 at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

元禄の碑のあったのは程田ではなく新田だった



元禄の碑のあったのは程田ではなく新田だった

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新田の里を開いた人の名が記されている

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横山の姓があり二種類の旗印がある
横山は新田の里を開いたと記してあった
新田村は20の旗印があるから大きな村だった



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碑が津浪で倒されたまま

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バイパスまで津浪が来た


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鷺が田んぼにいた-今はめずらしい(鹿島区)

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元禄の碑があったのは程田ではなく新田だった。新田という地名が新しいと思って程田が古いと思ったから程田としてしまった。今日その碑のあるすぐ近くで畑を耕している人がいた。そこは飯豊村であると最初に言った。土地の人ですかと聞いたら違っていた。どこの人ですかと聞いたら南相馬市だという、なぜここで畑を耕しているのか?南相馬市では畑を作れないからここで耕しているという、土地を借りて耕している。ここでも津浪をかぶった。津浪はバイパスまで到達していた。見れば相当に広範囲である。今回の津浪はどこでも広い範囲に広がったのである。飯豊小学校前まで来たというから驚きである。鹿島区でも鹿島小学校前まで来た。ともかく飯豊村は大曲と程田と新田がある。元禄の碑があったところ古い碑が一杯あったところは新田である。新田と言っても実際は元禄時代にすでに新田となった。新田となったのは開拓したからそういう名になった。

その名がついたのは元禄時代にすでにその名があった。正徳時代に新田村は756石であった。大曲と程田は400石である。干拓された面積の方がそれほど広かったのである。それ故にあそこに古い碑があるともいえる。何らかの記念なのかもしれない、実は元禄時代は全国で開拓が進み米の生産高がかなりあがった繁栄した時代だった。だから元禄時代には華やかなイメ-ジがある。芭蕉が活躍したのも元禄時代である。日本文化の興隆期でもあった。だからそこに元禄の碑があっても不思議ではない。相馬藩でも開拓が盛んに行われた時期でありその時の新田なのである。 その畑を耕していた人はあの辺に杉堂とかあって杉林があり隠れて田を作っていたという。隠し田ですかと言ったら税金逃れるためにそうしたものだろうと言っていたからそうなのである。でも平坦な地だから隠れようがないのである。ただ当時の風景は違っていた。杉林があり隠れるような田があったのかもしれない、隠し田というとき日本全国でありこの辺では鹿島区の塩崎とか小山田に隠町という地名で残っている。これは隠し田のことである。確かに塩崎でもそこは目立たない隠れた地点であり小山田も山側であり隠れた地点にあるから合点がいく、でもあそこは平坦であり隠れるような田が作れるようには見えなかった。

隠し田と五郎右衛門
http://yaromai.dip.jp/minnwa2/mukasibanasi/kakusida.html

隠し田が発見されると首が飛ぶ厳しい罰があった。それでも作っていたということは税としての取り立てが厳しいからそうなった。この物語では庄屋がわびて腹を切った。庄屋とはそれだけ責任がありかばうものだった。これは明治以降の地主とは違うものがあった。地主には自分が犠牲になるような物語はない、庄屋と地主がにているようにも思うが実際は違っていた。だからかえって明治以降は江戸時代より農民が不平等にもったとしたら何ための明治維新だったのか?庶民にとってはいいことがなかったともなる。ただ商人とかその他会社とか工業関係の仕事に就いた人は良かったのだろう。農民は江戸時代より悪くなったのだろうか?明治維新で得したのは誰なのかとなる。

その人はここも放射能のために土を半分くらい削り取ったという、ここは津浪で塩分のため削りとったのかと思っていた。放射能のために削り取った。放射能は計測して今はここは安全だという。かえって栃木や群馬の方が放射線量が高い田畑があるとか言っていた。相馬市でも南相馬市とそんなに距離がないのだから放射能の影響はさほど変わらないとなる。 その場所ではその畑の前に竹藪がありそれが津浪を防いだという、今は何もなくなっていた。竹藪のようなもので防げるのかと思った。勢いをおさえたのかもしれない、津浪は意外と何らかの障害物があると弱まる。鹿島区でも海老の坂が津浪を防いだとか言うのは意外だった。つまり意外なものが津浪の力を弱めていたので悪。竹藪は竹が密生して根が強く張っているから波の勢いをある程度とめたのかもしれない、ただ松原などは根こそぎ倒された。海岸線から多少離れているから津浪の力も弱かったのか?松川浦はそこは近くである。松川浦の方かもあふれてきたかもしれない、バイパスまで津浪が広がったのだから広範囲だったのである。今では新田辺りは津浪の跡はない、家も元のままである。ただ元禄の碑があったところが碑が多くあり津浪で倒れたままだったのである。

相馬市の程田、大曲、新田を訪ねる
http://musubu.sblo.jp/article/64988032.html
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2013年01月28日

南相馬市鹿島区の袋村が消えた謎


南相馬市鹿島区の袋村が消えた謎

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元禄中に記録に新田邑となす、地勢袋のごとし、是れをもって袋邑と名づく、
元禄中民十三あり、漸次大内村松迫に移るという。(鹿島町誌)


袋村があったがなぜ消えたのか?先に大内村は地から低地に新田を開拓して移ったと書いた。
袋村も大内村の人が開拓した村なのか?大内村の枝村なのか?確かに民戸十三戸があったのだから
人が住んでいたのである。
その後なぜまた大内村に移ったのか?もともとはあそこは湿地帯であり牛島というのも湿地帯であった。あそこに港があったがあれは新しいものだろう。
もともとは浜町の方に人家が集中したように浜町が烏崎の中心地でありそこは町であり人が集った。市を成した場所だった。海岸沿いは市が生まれ安いのだ。最初の商人が魚を売っていたというのもうなづける。実際に烏崎から石鰈をとったとき売りにきていた人がいたからだ。海岸沿いは昔は塩もとっていたし地引き網あったし港の機能もあった。船が出入りしていたのである。


鳴瀬町に浜市とあるのもにたものだろう。浜市から離れて牛綱村というのがある。牛綱村は昔は吾妻街道であったが漁師は漁をするために海辺まで綱を牛によって運んだので牛綱村となったという。
綱で牛をひいて浜市まで来た、浜市には牛で運べるものが魚でもとれたので売っていたので運んだということなのか?牛綱村と浜市には人の行き来があった。もともとは牛綱村に人が住むのが先であったが浜市が市場になり人がそこに移動した。そういう関係が烏崎村にもあった。ここの津浪の被害も大きかった。


なぜ袋村の人が大内村に移動したのか?津浪が原因ではないだろう。なぜなら慶長津浪は元禄の前ではないからである。新田村となったのは元禄だとすると慶長津浪の時は湿地帯だったろう。
ただ袋村として記録にあるからには十三戸があったということは村になる規模が一応あったのである。大内村に移ったとしてもそこは新田になっていた。ただ真野川に沿ってあったからもしかしたら洪水があって水浸しになったのか?あそこは洪水になりやすいからだ。真野川は度々氾濫して洪水になっている。自分の家も下町なので二回も洪水で大きな被害を受けている。場所としては余り良くないところだろう。小島田というのもやはり湿地帯のなかに島になったような地形だったのだろう。あの辺が今回の津浪でみな被害を受けた。


ともかく烏崎村も浜市村も市場ができて人が住み着いたことは確かである。烏崎村の前進が浜町になっていたことは浜市村と同じだからである。最初袋村の人たちが烏崎村に移動したのかと思った。
なぜなら烏崎村は人家が多いからだ。特に浜町に集中していたのである。新田を開拓したにしろ漁業や港の機能があれば市場ができてそっちの方が収入が多くなる。米をとるだけより漁業の収入は大きいのである。だからこそ烏崎村に人家が集中した。新田開拓では人口は増えない、大内村は一番古く次に烏崎村があり袋村があった。袋村は大内村の出村のようなものだったのか?烏崎村の記録は明暦からはじまっているが漁業の記録はない、田の石高や馬の記録だけである。漁業は税の対象ではなかったから記録されていないのだろう。烏崎村が津浪で壊滅したけど水葵や沢潟(おもがた)が一部湿地帯化した池に咲いていた。水葵も沢潟(おもがた)ももともと田に咲いていたのでありそれが復活したのには驚いた。種が地中深くにあったのが出てきたのである。袋村の田は烏崎村になったのか?

そうでなければ米はそんなにとれないから烏崎村が村ともなりえなかった。田にするには土地が狭い、ただ記録では大内村に所属していたとなる。烏崎村は田だけではない漁業で人口が増えたのである。田を中心にした村は人口が密集しない、散村というか点々と広い農地に人家ができる。宿場町とか漁業の町は港の機能があり市を成して海辺に人家が集中するのである。


袋村はつまり次男三男八男でも分家させるために大内村から開拓に入ってできた村だったのだろう。ただ一時は村を形成したが消失したということである。その原因は良くわからない、あそこに津神社があるのも謎である。津浪の記念の神社とされるがそれは慶長時代であるから新田開拓に入った元禄のあとである。また推測としては袋村の人が大内村に移り烏崎村の方に移動したとも想像できる。
なぜなら分家したのだから元の村にもどるということは考えにくいからである。烏崎村には漁業があるから人を吸収できたとも考えられるのである。つまり大内村と烏崎村は密接な関係がある。大内村の人が移動したとすると大内村の姓の人が住んでいることになる。橲原村から移動した人が大葦とかに開拓に入り移動して住み着いた。大恊ゥは橲原村にもあるからだ。大内村はあの辺では中世の館があり館下という地名もあるからあそこが中心として袋村や海の方へ烏崎村へと開けたことは確かだろう。


原発の近くの双葉町でも水葵が繁茂した
http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46677202.html

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2012年10月26日

語る文化が見直される (人間回復のために江戸時代への回帰が求められる時代へ)


語る文化が見直される

(人間回復のために江戸時代への回帰が求められる時代へ)

●語ることは何なのか?


語ることは何なのかなど問う人はいない、毎日語っている、しゃべっているではないか?今さら語ることがなんなのだとなる。ところがメデアがこれだけ多様になり急速に発達した結果、江戸時代にあった語る文化が喪失していたのである。江戸時代までの伝承は小さな村でも語ることであり語り伝えることである。身近な家のことでも語ることでしか伝えられない、それで膨大な民話が残された。
しかし今や家であれ村であれ語るということができない状態になっている。語る場所もないし語る時間もないのである。メデアの発達で膨大な情報が日々入ってくる。その情報にも追われるのが現代である。本も書いためたが膨大で家が傾くほどの本が集積していた。そしてなお本を買い続けている。今度は書店はほとんどいかない、アマゾンで配送料無料になったから買う本がまた増えたのである。例えば鎌倉を知りたいというときどうしても手元の本だけではたりなくなるからもっと詳しく知り多たいとなり鎌倉について文章を書いていると必ず参考になるものが必要であり本を注文する。そしてまた本を減らしてもふえてゆく。ただもう年だから読めない必要ない本は捨てているから半分くらいにはへる。人間が情報を処理する、読める本はつくづく限られている。今は自分の文章を書くために引用するために今まで読んだ本を参考にしている。もう本を読むのは限界なのである。でも自分で文章を書くときどうしても参考にせねばならぬものがあり本には濃密なプロの書いたものだから引用する文が発見されずある。何回か読んでも忘れていたのである。


江戸時代まで語りの文化だったというときその原因は文字を読み書きできない人が多数だったからである。これはヨ-ロッパでも同じである。聖書を印刷してみんなが読めるようになったのはルタ-の宗教改革以降である。一六世紀以降だからそれまでは聖書は聞かされても庶民は読んでいない、教会に行って聖書やキリストの事跡を絵で教えられたりしていたのである。文盲が多いというときどこでも語りとか絵や建築など具体的なもので教えを伝える。仏教でも仏像は偶像になるけど仏像を通して仏の教えを伝えることが普及させた。仏像はただ大きいものだったら意味がない、そこに精神的なものの象徴として具現化されているから心ひかれる。鎌倉の大仏が忍性菩薩だというときひたすら耐えている姿が仏像から浮かびそれに習うということがある。相馬市の日立木の仏像は明治以降作られたもので大きいのだが何か精神性が感じられないから文化財とも言えないのである。だから仏像は拝むべきものではない、その精神性をくみとり習うものであり神のように拝むべきではないのだ。日本人はあらゆるものに拝みすぎるのである。それは偶像崇拝につながっているから危険なのである。


昔の文字の教育はほとんど京ばかりで僧でも田舎にいる者は暗誦が仕事であった。はるばる九州から豆を背負って学問しにきたとうい話しもあり地方にはその機会が至って少なかった。聴衆は物語の愛好者であったけれどもやはり上下を通じて皆一種の盲であって写本の必要なかった点は語る座頭も同じだった。(柳田国男-雪国の春)


語るということを最近自分自身が再発見したのは自分の墓のある墓地で天保時代の碑を発見したことである。それは同じ故郷の八九才の人とともに偶然発見した。自分の墓のすぐ近くだったが気づかなかった。なぜならそれが誰かの墓だと思っていたからだ。しかしそれは違っていた。ここがもともとは隣が鹿島神社になっているごと神宮が神宮寺となったのである。天保時代はここは寺だったのである。そして不詩朗謡と四文字が記されてあった。これは墓ではないここがもともと寺でありそれで寺子屋の役目を果たしていて戒めとして記されていたらしい。朗謡は朗詠であり暗唱のことであり詩文とせず暗唱せよという戒めを記していた。でもなぜそんなことをいちいちここに碑にしてまで記していたかということになる。それはやはり仏の教えであれともかく暗唱することが第一とされた。そもそも文字を書けない読めない人が多いというとき暗唱することが学ぶことの第一になるからだ。

江戸時代の文化は伝えることはほとんど語ることである。それは江戸でも落語があり村では民話が残っている。それらは書かれたものではない、語られたものなのである。膨大な民話は今は書かれたものとして読んでいるが実際は身近な人によって語られたものである。もちろん本で読んだりしない、本そのものが村にはないからだ。語り伝えられたことが代々伝えられて残ったものである。
江戸時代の情報環境は田舎だったら本もない、語られたものからしか知ることができない、だから語り伝える人が遊行して語り伝える人が生まれた。この辺の宝財(ほうさい)踊りなどに浄瑠璃があるのはこれも大阪などから語り伝える人が来たから伝わって祭りとして残っている。事件でも物語でも遠くのことは語り伝えることがなければ知り得ようがない時代だったのである。
田舎にいる者は暗誦が仕事であった・・やはりこの碑の意味は暗誦しろということであった。それが学ぶことであり知ることだったのである。


南相馬市鹿島区の町内の墓地の碑の謎
http://musubu2.sblo.jp/article/59292470.html


●盲人の琵琶法師から始まった各地への語りの伝播




盲僧が琵琶を弾くようになるのは、任明天皇の子人康親王が盲目となり、ほかの盲僧にも琵琶を教えるようになって以来といわれている。鎌倉時代初期には、そのような琵琶法師が多数存在していた。
江戸時代の日本には眼病が多く、盲人の出現率も高かった。

 痘瘡や栄養失調で失明する者が多かった。鎖国直前に来日した宣教師フロイトは「日本人の多くのものが痘瘡で失明する」(『日欧文化比較』)と語り、幕末に来日したポンペも「世界のどこの国をとっても、日本ほど盲目の人の多いところはない」(『日本滞在見聞記』)と語っている。
 盲人が多かったこともあり、彼らは当道(検校・勾当・座頭)といわれる集団をつくり、盲人同士の相互扶助と生活保護の連帯社会を形成していた。按摩業はこの組織によって支配され保護されていた。
 それにたいし貧しい盲目の女性たちが生きるためにつくっていた集団が瞽女はうら悲しい女旅芸人というイメージがある。「瞽女」とはむつかしい字であるが、瞽は盲目のこと、御前に仕えるという意から「御前」という字も当てられている。広重と豊国はこの「雙筆五十三次」の「舞坂」
で、瞽女の一行を描いている。


立川昭二『生と死の美術館』岩波書店2003年
・¥世界大百科事典内の目星の言及

・【目‖眼】より

…これは劣悪な栄養と過酷な労働に起因して発生した。このほか病目(やみめ),はやり目といわれる急性・慢性結膜炎,ただれ目といわれる眼瞼縁炎,星目,目星といわれるフリクテン,打目(うちめ),突目(つきめ)などの外傷,あるいはものもらい,目いぼといわれる麦粒腫,それにトラコーマ,虹彩炎,翼状片,緑内障,弱視など,江戸時代の眼病は多彩をきわめていた。また江戸時代にはおよそ7万5000人以上の盲人がいたといわれ,疫病や栄養失調のために失明し,彼らは当道(とうどう)や瞽女(ごぜ)などの集団を形成していた。…
・※「目星」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

・医学者のツルンベルクは『日本紀行』の中で日本人に眼病(赤眼、爛眼)が多発している原因を炭の煙(;囲炉裏の薪炭の燻煙)と便所(トイレ)の臭気・悪ガスにあるとしています。

また幕末の安政4年(1857年)から文久2年(1862年)まで在日したお雇外国人医師のポンペも日本人に眼病がきわめて多いことを指摘、『日本滞在見聞記』で長崎においては住民の大体8%が眼病に患っているとし、日本人に盲人が多いのは治療法の誤りにもとづくものであるとしています。
http://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_46.html




一〇人に一人くらい盲人がいたということが琵琶法師など語り伝える遊行の人が増えたのである。これは最初は仏教の無常を教える布教者ともなっていたがあとはただ語るものとなっていった。 この琵琶法師で相馬市の病院で新地の人がしきり琵琶転がしという地名があるということを言っていた。山の方にありやはり険しい道だからそんな名がついた。牛転がしとか道の険しい場所は危険だからそうなる。たしかに転げ落ちるということは道が狭いから目撃する人も多くいてその名がついた。ただこの辺にもそんな伝説が伝えられていたことに驚いた。岩松氏一族惨殺も鎌倉時代だからこの辺に琵琶法師が来ても不思議ではない、これは別に地名にのっていないから話しとして伝えない限りわからなくなる。その人は自分で土地のことを調べていた。ただなかなかそういうことを話す相手がいないということがあった。そういうことに興味を持つ人が近くにいるとは限らないからである。ただこの辺でも八〇才以上の人はそうした語り部としての素養をもった人がかなりいることに気づいた。自分があった八九才の人もそうであり病院であった老人はたいがい何かを語り興味深いものだった。病院という場が何か語り安い場所だったのである。とにかくホメロスも盲人だったらしいというとき外国で目の病気が多かったのかもしれない、栄養不足なことは同じだからそういうことがありうる。医療は極めて劣悪なものだったことは同じだからである。


●語り伝えることが郷土史の基本


郷土研究というとき、むずかしい本ばかりを学者のように読むことではない、その土地に語り伝えられたことを知ることである。柳田国男の功績は本から学問を作ったのではない、語り伝えられる口碑を重んじて新しい民俗学の学問を作り出したのである。遠野物語でも一人の土地の人から聞いてそれを筆記して本にしたのである。現代はメデアも多様だがそもそも語る文化とは根本的に違っている。語るということは一人のことではない、本は一人で読めるから個人主義を発達させたというのもわかる。本を読むこと書くことは孤独な作業なのである。ところが語ることは相手がいて聞き語ることだから共同作業なのである。そのことを病院や八九才の人としてきて語ることが語り合うことが長い間の人間の根源的な営為としてあったことに気づいた。それは江戸時代では当然のこととして当たり前のこととして行われていたのである。まず囲炉裏などで聞かされるのは身近なものが多い。それは現代のような地球の裏側までのことを貪欲に知ることではない、その語られることは極めて具体的な回りの世界と密接に結びついていた世界である。小さな村では事物と物と事件でも語ることは言葉は具体的に結びついている。言葉が先にある世界ではない、具体的なものがある世界である。そのものは直接ものがつくとかなり心を影響する世界だった。そこではものと言葉の分離はないのである。

現代は言葉とものが分離している。特に都会となると自然の事物と切り離されて語られる。回りの事物と言葉が密接に結びつかないのである。だから言葉が死んだというときそういう自然から離れた極めて人工的空間で生活しているからそうなる。だから本来の沈黙から語る言葉の重みはまるでない、商業用語となり本来言葉がもっていた詩的な言葉は喪失したのである。言葉すでに数字のようなものとなっているのだ。語ることはやはり一つの密接な共同体の交わりがあり自然をアイデインティティとするところでないと機能しないのだ。それは新聞とかマスコミとか本でも成されない世界である。語ることは人間の根源的な精神的営みでありそれは本来は小さな共同体があって成されたものである。古事記などもそうして語り部が語られたものであり書かれたものではない、現代に語りが喪失したというときマスメデアによって人間の本来のそうした語ることが代替わりされてしまった。ただマスメデアの伝えられたものを消費するだけのものとなった。だからこそマスメデアに情報操作されるようになった。マスメデアが余りにも巨大な力をもつようになったのである。マスメデアを通じてしか知り得ないことが多々あり全国規模世界規模になった情報世界は小さな村や共同体で語る文化を喪失させたのである。


つまり現代の複雑巨大化した文明は主体的に存在がかかわることができない、巨大なものにただ操作されるだけでありお互いに語るものとしてはありえない世界である。津波のことでも原発のことでもあらゆることが政治でもマスコミを通してしか伝えられないときただ操作されるだけのものとなってしまう。だからマスコミがあたかも人を差配して操り人形にさせられるのである。そしてマスコミを通して人を演出される。マスコミを通して有名になった人はマスコミによってでありその人が古代のような神話の英雄ではない、マスコミによって作り出された演出された虚像を巨大化しているのである。テレビにでただけどあたかも何でもない人でも重要な人物に演出される。政治家でもテレビに出ないと重要ではない忘れられた人物にされる。テレビに何回もでているとその人はアナウンサ-でも重要な人物に見えるのである。でもテレビからタレントでも消えるとその人は存在すらしなくなる。あとで死にましたなどと一回だけ写りその人は消えてしまうのである。別にテレビに移らなくてもタレントでも生きていたけど遠いと知り得ようがないのだからテレビに写らないと死んだと同じなのである。インタ-ネットのメデアは個々がメデアとなり結びつくということがある。でもマスコミはある個人が巨大化され演出され虚像が形成される。そこに錯覚が作り出される。政治家でも小泉劇場とかテレビをマスコミを利用して演出して虚像が作り上げられたのである。橋下氏も石原慎太郎などもそういうマスコミを通じて巨大化される。実際にもともとはテレビに頻繁にでたタレント出身であることでもわかる。だから堅実性はないがそういうことは今の時代ではどうでもいいのである。大勢の人にともかく話題になり知られることが先決でありあとの政策やその他は二の次ちなるのだ。テレビに写っただけで大勢に知られる力をもつことになるのが大衆社会でありその大衆を導くのがマスメデアになっていたのである。


江戸時代で誤解しているのは江戸の長屋ですら生涯同じ場所に住んでいた。ドラマだと浪人がどこからからやってきてどこかへと消えてゆくような感覚になるが一般の人は生涯同じ長屋に住んでいた。だから親密な交わりが田舎の村と同じように作られていたのだ。都会だったら絶え間なく人は移動して移住している。そういうところでは語る文化などありえない、語るにしても一代だけではない、代々語り伝えるには何代も同じ場所に住んでいる必要があるのだ。江戸時代は職人すら十代以上つづいていたりと長い時間の中で密接な関係が築かれていたのである。そういう社会は精神的に安定していたのである。もちろん今のような鬱病なども非常に少ない社会だった。裁判にしても人情裁判でありいい人と悪い人は評判で判決を下す奉行もわかっていて人情裁判になった。現代の裁判は法律で複雑怪奇になる。なぜならその人がどういう評判の人とか何が悪人なのかもわかりにくい社会だからである。悪というのが見えにくい社会なのである。江戸時代は悪は判別しやすく見えやすかったのである。同じ場所に生涯住んでいればその人となりがわかりやすいたからそうなった。今は外国人も交じり移動しやすいからわかりにくいのである。そんな社会窮屈だといえばそうだけどそれが犯罪を少ない社会にしていたのである。犯罪を犯しにくい社会だったのである。


最近、インドのある村にユネスコの実験として水道が設置された。しかしまもなく村人はその水道のパイプをとりのぞくことを要求したのである。彼らの立場からすれば共同井戸にみんなゆくことがなくなれば村の全社会生活が衰えてしまうと思ったからである。(マクルハ-ン-人間拡張の原理)


これに象徴されているのが現代の便利な生活なのである。村という密接なコミニケ-ションの場は水道で個々の家庭に分断されそこで村人が集ることもないから互いに語り合うこと意志を疎通させることもなくなる。そうすると互いに孤立して今度はテレビを見るようになると世界のことが気になり村のことより遠くが現実的問題のように切実なものとして見えるのである。村人は地球の裏側に関心をもち近くには関心をもたなくなるのである。水道は一例であり車でもそうだしあらゆるものがそうなっているからもう昔のような村の共同体などありえようがないというのが現実である。それも回復できないというのも現実である。それでもやはりそういう文明の便利な生活が何かおかしいと気づきはじめて来た人たちがふえてきている。原発事故も実際は文明のそうした複合的要因で大事故になったのである。もちろんじゃお前は江戸時代に帰り電気もないところで暮らせと言われるがそういう極論ではない、今人々は失われたものを求めている。それが語りあうことであり語りの文化の復活なのである。それはマスメデアを通じてはな成されない、インタ-ネットはそういう時代の求めるものがあり技術として発明された。でもそれ以上に直接語り合う、語り伝えるということが求められ時代になる。それはやはり精神的には江戸時代への回帰なのである。


●時事問題の深層に書いたものです-参考にしてください

現代の妖怪(メデアが育む妖怪)
http://www.musubu.jp/internetmedia.htm#youkai
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2012年10月17日

南相馬市鹿島区の町内の墓地の碑の謎


南相馬市鹿島区の町内の墓地の碑の謎

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不詩朗謡


不詩(文)朗謡-朗詠

朗謡-朗詠・・・暗唱
詩に文にせず暗唱せよ
謡(うた)いなさい


これもなぞである。最後の字はわかりにくいが不詩朗は読める。朗は名前だと思ったが違う。
朗謡-朗詠かもしれない、ただこれが何を意味しているのかわかりにくい、詩にしないで朗詠しなさい、暗唱しなさいなのかとなる。詩文にしないで暗唱して覚えなさいということなのか?
推測すると天保となるとまだ庶民では字を書けたり読んだりできる人はまれだったろう。
字が書けたり読むことが普及したのは江戸時代後半、特に幕末辺りに寺子屋が増えて読み書きができる庶民が増えたのである。ここは一つの寺子屋のような役目を果たしていたのかもしれない、暗唱することに学びの重点があったからこのような戒めの碑を建てたのだろうか?他に儒教が普及してそうした戒めの碑がほかにあったようだ。


何らかの戒めとしてここに碑を建てた。ここはだから寺であった。この碑を建てた時、神明寺という寺になっていた。ただ寺でもここに墓があった、墓地になったともいえない、なぜならここは武家の墓がなく庶民の墓であり明治以降に増えたのである。武家の菩提寺が寺だとするとここはそうではない、ただ最初は神社であり次に寺になりそのあとに寺がなくなり幕末辺りに庶民の墓が作られた。
庶民の墓が砂岩で作られていたからである。庶民が墓を作れるほどの財力をもったのは幕末である。天保辺りではまだそれだけの力が金をもつことはまだこの辺ではできていないはずである。


鹿島町誌に鹿島御子神社は神主青田六之頭御奉行・・・小奉行桑折・・青田・・導師長命寺別当神宮寺とある。青田とか桑折の姓は相馬藩では古い。ここは神社であったがあとに寺の領域になったのである。


元禄一五年、戸数元禄(1689)-享保(1716) までは二四〇戸あったが天明(1782)になり百三九戸に減った。天明の飢饉の影響で半分に減ったのである。天明山と相馬市の近くにあるのは飢饉の影響でそこに碑を建てたのが由来かもしれない、


天明の大飢饉で相馬藩の農業は壊滅的打撃を受け、農民の数も減ってしまった。時の藩主は他国の農家の次男、三男を移民させて農業の復活を図ろうとし、諸国に声をかけた。その呼びかけに呼応した富山の農民達は、門徒宗僧侶の導きのもと厳しい監視の目を盗んで国抜けし、相馬を目指して数百キロの辛い旅に出た
http://musubu.sblo.jp/article/14814569.html


この時から越中などからの真宗の念仏を唱えるものが移住して墓を残したのである。

鹿島村が発展したのはやはり街道沿いにあったためである。もともとは田中城とか岩松氏の屋形とか江垂の中館が中心であり鹿島村は街道ができて発展した。原町もそうであり原町村で武家が一人しかいなかったことでもわかる、文字通り原っぱだったが街道ができて発展した。その証拠は原町市内とか鹿島町内から野馬追いにでるのは極めて少ない、一軒くらいしかないのである。それは原町市内でもそうだし相馬市内でもそうである。相馬市内だと城があったから城づめの侍の子孫が残っているようで残っていない、野馬追いに出る家はまれである。郷士が多かった相馬藩では農家から村から野馬追いに出る人が多いのである。
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2012年10月16日

南相馬市鹿島の墓地の謎は深い 南相馬市鹿島区の御子神社の脇の墓地で話しする


南相馬市鹿島の墓地の謎は深い

南相馬市鹿島区の御子神社の脇の墓地で話しする



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南相馬市鹿島区町内の墓所の宝永の碑

http://musubu2.sblo.jp/article/36445497.html


木下の墓はこの裏ににあった

光明真言を唱えつつ大師堂に向かいます。
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどまじんばら  はらばりたや うん」
(移動のとき光明真言を唱えるのは有縁無縁の霊魂を供養するため)


空海の密教の祈りの塔だった。これは随分立派な塔だと思った。これが自分の墓のある場所にあったことを知らなかった。。神宮寺跡ととあるから寺があったところであり墓地ではない、その寺がなくなりそのあとが明治以降墓地になったのかもしれない、宝永四年は1707年だからこれは古い、それから今日の発見は天保の小さな碑があったことである。これには気づかなかった。余りにも小さいから気づかなかった。でも天保とあるから確かである。ただ刻まれている文字が不可解なのである。


これが何を意味しているかわからない、その碑を発見したのはまたいつもの八九才の自転車に乗っている老人が墓にいたためである。なぜ墓にいるのかと思ったら墓を調べていたのである。あの人はそれなりにかなり鹿島区の昔を調べていたのである。自分も墓を調べていたから二人で墓を調べることになったのである。墓は江戸時代は粗末な石で作られていて砂岩だから崩れているというのは確かである。いい石では作られていない、今の墓石はほとんど中国から来ている。御影石とかだからいい石である。そういうことをその人は指摘したしあの大きな宝永の碑も崩れやすいものだが崩れていない、それにしても一枚岩でありどうしてその当時これだけのものを見つけて運んだのか、どこから運んだのかとか話しになった。あれだけのものを運ぶことは当時は容易でない、相当に人数を集めた大がかりなものになったことは確かである。

この墓地でわかったことは宝永(1707)の碑-天保(1830)の碑が発見されたのだからその間にここは何だったのか?墓地だったのか?そうでもないかもしれない、天保の碑は墓だとは限らない、何かのおまじないとか何か人が死んだから建てたものとも違う感じなのである。すべての碑が墓とは限らない、墓は墓としてそれなりの形がある。古いの五輪塔である。墓地にあるから墓とは限らない、宝永の碑は密教の祈りの碑であり墓とは関係ないのだ。ここが墓になったのはいつなのかというのは定かではない、江戸時代なのか明治以降なのかわかりにくいのだ。墓がこれだけ増えたのは明治以降なことは確かである。多くの墓は明治以降一家の墓となって増えたからである。


その89才の老人はしきりに平民と士族、侍は言葉が違っていたとかサルスベリの木のことか侍でないものは庭に植えてはいけないとか植えなかったとか言っていた。つまり明治以降大正まで士族と平民は江戸時代から身分がつづいていたのである。だから「おんなれ」という言葉を使う侍の子孫がいて士族の家ではまだその言葉を使っていたのである。ただこの「おんなれ」が何を意味しているのか?
御なれ・・であり御成りのなまったものかもしれない、侍では客をを来ることをそういうっていたかのかもしれない、何か平安時代の古文にあるような古い言葉がかえって辺境に残っているのも不思議である。沖縄と青森に残っている。

「てぎ」→「面倒」の意→「大儀」(漢語の転)
「ほいど」→「強欲、けち」等の意→「陪堂(ほいと:現在の共通語ではあまり使われない仏教用語。物乞いのこと)」(漢語の転)


今から1000年以上前に詠まれた和歌に、東風(コチ)という言葉がある。
これは今でも、沖縄では東風平(こちんだ)という名前や地名に残っている。

南風を「はえ」と読むのも、日本の古〜い読み方。


トンボのことは「あきじゅー」とか「あーけーじゅー」と言うが、日本古語で
トンボは「あきつ」と呼ばれていたそうだ。

妻のことは「トゥジ」と言うけど、これも古代語の名残りらしい。
http://aimori.ti-da.net/e2581335.html


沖縄は本土に比べると地理的、文化的にも特殊な環境にあり、隔絶されていた面がありました。ですから一度伝わった言語が本土と同じよう
には変化せず、そのまま残っている
http://www.mugisha.net/hougenhusigi.html


東風(こち)吹かば・・・のコチである。こちらとかあちらとかの言葉がありこちらに吹いてくるからコチとなった。確かに青森と沖縄はまさに辺境であり平安時代の古語が残った。日本人の貴族が最初に入って言葉を残したのだろうか?言葉から歴史を探るのもかかせない、方言はまた土地の歴史を如実に語っていることがある。「トゥジ」とは母刀自(ははとじ)と万葉集にあり妻のことで戸主のことであった。

刀自(とじ)」という言葉。ご母堂は「徳」という名前なのですが「徳刀自」と出てきます。何という奇妙な名前なのだろうと思っていたら、甚與茂氏の夫人も「はる子刀自」と出てきて・・・
http://www.miyamoto-net.net/column/talk/1220436131.html

弘前「んだねは」 五所川原「んだきゃ」 ・・東北ではうだ、んだはどこでも使っている。東北人の土着的古語である。うんにだがついたのだろう。面白いのは相馬ではうん、んだであるが仙台ではだっちゃになる。ところが丸森ではその人は方言をあまりしゃべらなかったが病院で一回だけうんだっちゃという方言を使ったのである。んだ-んだちゃ-だっちゃとなり丸森は相馬と伊達の境にあったからこの方言が生まれたのである。方言にはこうして地域性があるのだ。言葉は江戸時代のような閉鎖的な生活の場合は隣村ともなまりが違っていたのである。交流しないと標準語などうまれようがなかったから江戸時代はなかなか旅しても土地の言葉を理解するのがむずかしかったろう。


その人はまたチャ-チャ-は爺(じじい)のことでありその言葉を使っていたのを聞いたという。調べてみたら爺爺(チャ-チャ-)駅というのがあったのだ。


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国後アイヌからチャチャと崇拝と親しみを受けた山らしい、その端正な姿は知床からも見ることが出来ます。私も知床峠から美しい爺々ヌプリをみた一人です。文字通りアイヌ語でチャチャヌプリはおじいさんの山という意味です。


するとアイヌ語というのを東北でもこの辺でも使っていたのかとなる。チャ-チャ-などとおじいさんを言わないし聞いたことがない、これも不思議だと思った。でも明かにそんな言葉を使っていたことはアイヌ語が東北にそれも福島県などにも残っていたのかとなる。日本全国の地名をアイヌ語で説明することは一時なされたが今はほとんど否定されているがこれは謎である。


ともかくその人はかなり土地のことを調べている。虐殺された鎌倉時代の岩松氏のことも知っていて殺した方の子孫らしい、四人の家来がいたが一人は名字を変えたのである。恐れたためでありあとあとまで祟りだとかこの辺では恐れたのである。400年前とかの話でこの辺で明確に残っているのはこの事件のことである。子供まで殺されたので一族が皆殺しにあったので記録にも残り伊達政宗などもそのことを知っていた。この辺では大事件だった。だから今日までその影響があるのだ。名字を変えた子孫も残っているからだ。


身近な所では木下家の墓があったことである。これは自分の家の近くにあり自分の家も木下材木店が請け負い、材料を提供されて建てたものである。ただそれも40年前となっている。その後にすぐに木下材木店は倒産した。そこで倒産した跡に自分が行った記憶がある。社長室とある看板が家が壊された跡にあった。倒産してからは夫婦は団地かマンションなのか住み込みの管理人になったとかいろいろ言われた。そこの墓碑を見たら三人死んでそこに埋まっていた。63才と73才で死亡と記されていた。それは政と名前についているからまちがいない、父親も政とついていたからその字をもらったのである。これは三人しか名前が記されていないから一族みんながこの墓に埋まっているわけではない、ただ故郷に墓だけ残っているのが結構あるのかもしれない、自分の原町の実家の墓も実家はなく墓だけしか残っていないのである。ともかく事業に失敗する人は無数にある。一家離散もありめずらしくもないのだ。そういうことは今でも日常的に起きている。自分の実家の家時代も機織工場を起こして倒産してその子供が一家離散とかになり悲劇を生んだのである。その責任は警察所長をしていた父親にあった。慣れないことをして会社経営したからそうなった。経営の失敗している人は無数にある。自殺している人もその中でかなりの数だろう。ただ今や木下材木店を覚えている人はまれだろう。
60代の人は覚えているだろう。自分は忘れていたけどここに墓があったというので驚いたのである。墓はやはり人が死んでもそのあとも残っているのである。


木下と墓のみ残り跡絶えぬ故郷の墓地秋の日暮れぬ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天保の碑は明日写真に出します

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2012年02月13日

相馬市日立木村の薬師堂の墓のことなど (薬師堂はどこでも村の中心にあった)



相馬市日立木村の薬師堂の墓のことなど

(薬師堂はどこでも村の中心にあった)

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無縫塔も、鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式で、現存例は中国にもある。当初は宋風形式ということで高僧、特に開山僧の墓塔として使われた。近世期以後は宗派を超えて利用されるようになり、また僧侶以外の人の墓塔としても使われた
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E7%84%A1%E7%
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ここにあるのは江戸時代の僧侶の墓である。卵塔の墓(無縫塔)は僧侶の墓である。江戸時代の墓があることは昔からここに墓があった。墓所を見るとき江戸時代の墓がないと興味が薄れるのだ。ただ江戸時代でも明治時代になってからの継続がある。明治時代になって夫婦の墓があるのはそのためである。一家の墓になるのはそのあとに多かった。江戸時代の不思議は家族墓はなく個人墓である。武士は代々の墓が寺にある。一般的に庶民は墓が持てない、でも金がある人は個人墓を作ったのである。姓があったり名前だけのものもあり庶民だからといって姓がないということもなかった。墓所を見ることは郷土史研究に欠かせないのである。墓にしてももともと中国から入って来たものである。位牌というのも儒教から入って来た。仏教のように思うけどもともとは儒教なのである。神仏習合のように儒教とも習合したのである。ここの日立木村の墓所に岩崎という墓があったがこれは野馬追いにもでている武士として相馬市史に記されている。すると江戸時代からつづいている姓だとわかる。姓は新しいものも混在するからわかりにくくなる。谷津田とかあるとき近くにもあるから移動したのかもしれない、相馬藩内で姓が移動することが多かった。岩崎、谷津田は相馬市史にもでている。岩崎氏は二家族でているからやはり武士としてその土地に力を持っていた。
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不思議なのは相馬市史に記された立谷村の家族構成である。
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酒井藤左衛門の家族であるが戸主、養父が東光院となっているのは寺の住職か僧侶であり26才で死んでいる。実父は誰かわからないから確かに養父が僧侶であった。だからあそこの僧侶の墓は東光院関係の僧侶かもしれない、東光院はこの辺に結構多いのだ。妻は志のであり20才で死んでいる。
その次が酒井藤左衛門の伯母がかよでありそのかよの父が与五郎である。漢字は別になっている。
この伯母が越中国松木村の出生となっている不思議である。飢饉の時移住してきた越中の人であることはまちがいない、ではなぜ酒井藤左衛門の伯母になっているのか?日下石村の実父の姉か妹であったということはこの伯母は越中からきて酒井藤左衛門の父の姉妹と結婚したということである。
越中からの移った人で相馬藩内に住んでいた人と結婚した人がいても不思議ではない、なぜ酒井藤左衛門の一家となったかというと妻志のが20才で死んだからである。ただ文化となると弘化 嘉永より時代的に古くなる。
1806(文化 3)-1847(弘化 4)伯母は文化3年に生まれ酒井藤左衛門は弘化 4年に生まれた。酒井藤左衛門が生まれたとき,伯母は41才であった。妻志のが1853-嘉永 6年に出生して20才で死んだから明治7年に死んだ。酒井藤左衛門と妻は志のは六才違いである。6才のとき20才の妻が死んだということはありえないから何か間違っている。これは複雑でわからないが妻が20才で死んだことや僧侶が親戚にいたことや越中の人がかかわっていたことは確かである。墓所には必ず真宗系統の移民の墓がある。

薬師堂は村の中心に必ずあった。それはなぜかと言えば今もそうだが人間一番苦しんでいるのは病気だからである。法印でも山伏でも必ずそれぞれの村にいたのは加持祈祷のためである。病気を直すために祈っていたのである。宗教が昔は盛んだったのは病気のためである。医者も病院もないから神仏に祈る他なかったのである。だから地蔵さんでも眼に効く地蔵やら腰に効く地蔵やら分業化していた。それは今の病院の様々なお医者さんにかかると同じである。薬師堂が村の中心にあるのは病気祈願のためにである。薬師堂は近くにあってこそ意味がある。江戸時代は車もない、城のある相馬市内だって元の中村だって遠いのである。救急車もないから結局薬師堂に祈る他なかったのである。


会津でも早い時期に仏教が広められたのは病気祈願のためだった。磐梯山が病脳山とされていた。それで徳一が盆地の中央に位置する勝常寺を中央薬師とし、本寺を東方薬師、堤沢の野寺を南方薬師、漆峯を北方薬師として建立した。


仏教は最初は病気の治癒として受け入れられた。これはキリスト教でも同じである。病気を直すことが病気を直すために祈ることが宗教だったから広まったのである。今は医者を神様のように崇めていることと同じである。病院が大事なのも薬師堂の代わりになったからである。僧侶の力の衰退は正に葬式だけになったからである。ともかく日立木のまちば(まちば)橋のある所は昔の村の様子が残っている。旧街道沿いの感じが松並木とともに残っている。


薬師堂まちば橋かな街道の細道あわれ冬日さし暮る

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2011年07月26日

日立木村の街道の細道


日立木村の街道の細道

城外の街道の松並木

相馬藩の名残りなれ

日立木の村の道の細しも

畑に埋もる碑のあわれ

社に飢饉の碑も忘らるや

つつましき昔の暮らし

近くに武士の墓そあれや

竹内の姓は何を語る

なお一本の松や残りぬ

夕日のさして蝉の声

微かにひびきて暮れぬ


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昔の街道の道は細い、だからこそ「奥の細道」だった。相馬市からイオンス-パ-の脇の道が街道だったけど実際本当に細い道である。昔を偲ぶというときこの細い道を行くことなのである。
車ではなかなか偲べない、相馬の道の駅から分かれて日立木村に入る道に忘れられたように小さな碑が傾き埋もれている。その道がいかにも細いのである。両脇に家が並んでいるから昔からあのように家が並んでいた。ただ数は少ないだろうし茅葺きの屋根だった。あそこは相馬から近いから宿場町ではない、それでも昔の名残というのは残るものである。これはなかなか地元の人でないと気づかない、人間が無常だというとき人間は過去のことは忘れやすい、人はが死ねば肉親すら遠いものとなりその存在も不確かなものになる。そして昔はただひっそりと埋もれてしまう。わずかに小さな碑に刻まれた文字、墓の文字でも昔を語ることになる。それしか昔を探る術がなくなる。それほど人間とははかない存在である。でも日立木村に昔の村のことを思い浮かんだ。何百回と通ってもなかなかそこを昔の村として意識することはなかなかないだろう。昔を偲ぶことは人間は簡単にできない、時間がかかることがこれでもわかる。旅をしても常に車が頻繁に行き来して現在の状態にすべて心が奪われる。それで過去はなかなか偲べないのである。
日立木(日下石+立谷+赤木)も合成地名である。赤木というところに太い松が斜めになって残っている。あそこも街道の名残りの松である。日立木の通りは江戸時代は立谷である。その名にもいわれがある。


旧相馬藩領では、獅子頭を被って舞う神楽(いわゆる獅子神楽)が今も数多く伝承されています。相馬地方は昔からヤマセ(夏季に吹く冷たい東風)による冷害のため、たびたび飢饉に見舞われ、多くの餓死者を出してきました。特に天明の飢饉では、藩内の人口が3分の1にまで減少したそうです。そのため人々の豊作への願いは切実で、こうしたことも神楽などの民俗芸能が盛んに行われてきた背景の一つとされています。
http://musubu.sblo.jp/article/14814569.html


薬師堂とあるのも医者にかかれない時代は薬師堂にお祈りするほかないからどこの村にも身近なものだった。一つの村があるときそれは今とは全然違っていた。一つの村として生活が完結するような所があった。それで日本では村のもっている意味が大きいのである。

イオンス-パ-の街道の近くに竹内姓の墓所がある。ここは相当古いから一見の価値がある。妻の実家の姓と夫の姓の二つが墓に明記されている。武士にとって実家は出自から離れられない,武家の場合には誇りがあった。それで実家の姓も墓に記した。昔を語るとき墓はその拠り所となる。

ここで越中とかからの真宗の移民は必ず交じっている。亘り(理)村から来ていた人もいた。伊達藩と相馬藩はつながりが深い、妙見神社が亘理まで多いことがそれを示している。相馬藩からも伊達に移った人が多い、後は妻を迎えるのに角河原とか北郷関係があり昔の婚姻は相馬藩内が一番多いのだ。今は大変な広域結婚である。今回の原発事故で避難した人は沖縄から北海道まで全国に及んだ。娘とかが結婚で遠くに嫁ぐのが普通となっているからだ。それでなるべくと遠くに離れた方がいいというとき助かったという面がある。さすがにこの辺で外国まで逃げた人はいない,東京ではいたみたいだ。外国に避難することは金持ちでは容易な時代だからである。

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しかし故郷とは何を意味しているのか?日本と何なのかというとき、それは過去と歴史と深く結びついて意味がもたらされている。それで今回
の原発事故で故郷を離れ避難した人が双葉町や浪江町でももし故郷を失うことになるとどうなるのか、こうした過去の記憶や記録が失われる。江戸時代からつづいた記憶が失われる。江戸時代は日本では大きな意味をもっていた。人間の存在も歴史的存在でありそういう歴史が失われたとき人間の存在の意味は現在だけとなってしまう。こうして過去を偲ぶこともできなくなる。アメリカ人のようになってしまう。何気なく忘れたように残されている歴史は確かに個々人が見出さないと浮かんでこない、しかしその忘れ去れるように残されているものさえ失われたら何をもって過去を思い出すのだろうか?故郷から土地から離れたらそうなってしまう。人間どこに住んでも変わりないということもいえるが過去との歴史とのつながりをもたないと人間の存在意義は希薄となる。人間は歴史的連続性に生きる、それがなくなれば人間には現在しかない動物と同じになるのだ。





相馬市(日立木の薬師堂の宝暦の碑−甲子塔の謎)
http://musubu.sblo.jp/article/14317961.html


相馬市成田冬の短歌十首(竹(武)内氏の墓-続編)

http://musubu.sblo.jp/article/34648790.html


相馬市成田の竹内氏の姓の由来

http://musubu2.sblo.jp/article/34390223.html


これらは連続して読むものである。プログは断片的に書いているがあとで編集してまとめる必要がある。日立木付近のことでこれだけ書けるのも積み重ねである。

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2011年02月25日

南相馬市鹿島区海老村の墓地から歴史を探る

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●海老村の丘にある墓所は眺めがいいビュ-ポイント



春の風海老の墓所にそふきそよぎ海を望みて我が立ちにけり


松風の一日鳴りにつ春の日に海を望みて丘の墓所暮る


この墓所の何を語るや知らざりき今日我が寄りて春の夕暮

八沢村と右田や原町方面から鹿島と海へ出る海老の方面の十字路からちょっと入ったところに墓地があった。そこは海が一望できるし平地の方も見えるビュ-ポイントだった。あそこはまだ知らなかった。近くでも知らないところがまだある。特に墓地は隠されたようにしてある所がありわかりにくいのだ。そこも家に通じている道のようなところから行くのでそこに墓所があると気付かなかった。しかしその墓所は高いところから海を望める絶好の地だった。墓所も広々として今まで見た墓地では一番いい場所にあった。


●鹿島町誌より引用文


南海老村(上海老村)-鹿島町誌より


藤金沢堤南屋形南海老右田村の田水なり。その後新堤築く、増尾五郎左衛門、立野久衛門 、土工官となりて田代源内渡部源蔵之に副たり。「日に増尾月に立野の功成りて慎も規も真須市真順順も真順、頓て田代に水の渡部」このような歌を残している。


武家天野氏羽衣の由来((下海老村)

往昔三浦左近国清なる者あり、行方郡大田村別所の塁に居る。国清は実は天野民部太輔 遠景の落胤、藤氏なり。代々ここに住して天野新兵衛と号してその子孫新太郎なる者糾管
船管となる。


倉?海岸にあり郷の税米を納め江戸に運船す


武家 -天野、渡部、島、蒔田


北海老村-武家なし


平出玄昌(北海老村)


松島瑞巌寺の雲居和尚を友とし水魚の交わりをなす、鹿島長渡両村の間、玄昌あり、玄昌と雲居この坂に会して清談すふそえになづく、一時玄昌雲居を送り帰路、刀工相州の佳正広といえる者に逢う、羽州月山に登り件を鍛えてこれを献じる本朝の名工とならむことを願う・・・
玄昌予が里に鍛うべき名水ありと、その後弟子四人ありその術を得て刀剣百振りを打ちて邦君に献ず、正広悉く秘宝を四弟子に伝えて故郷に帰る。しかる後弟子は四家に別れ公之を賞して四足門を許しこれを鍛冶四門と称す、四門の裔孫鍛刀の用水池今尚存す


●その解説


海老村はもともと海老村一村であった。それが三つに別れた。それだけ戸数がふえたためである。南相馬市鹿島区で一番古い地は鎌倉から来た岩松氏であることは書いた。つまりそこを拠点として発展した。最初は古代は浮田国造の置かれた浮田村であり次が真野郷になり次が鎌倉時代になり岩松氏が治めることになった。その四天王として島、蒔田、日里(郡氏)、中里がいた。岩松氏の四天王による謀殺のことは歴史の悲劇として伝えられた。屋形とはまさにここに村の中心の屋形があったからである。そこから発展して海老村があった。海老村は屋形村から発展したから上海老であり海に面したところは下海老となる。下海老が中心になっている、人家が多いのは昔は漁村であり塩も作り江戸時代は米も船で運んでいたということが鹿島町誌からわかる。海に面して漁業があり塩作りがあり米の運搬までしていたのだから下海老村の方に人口が集中してきたことがわかる。北海老村は下海老村のあとに作られた。郷土史は何度も言うけど村の新旧をまず知ることなのだ。狭い範囲でも新旧が必ずあるだ。事実北海老村には武家はいない、南海老(海海老)と下海老にはいる。その名だたるものが下海老村の丘の上の墓所にあった。天野というのもあり郡もあり渡部もあり蒔田もあった。これらは岩松氏の四天王と言われた末裔である。その中で消失した姓もあるがその中核的部分はなお以前としてその土地に根付いている。


面白いのは平出玄昌(北海老村)伝説で松島瑞巌寺の雲居和尚と交流があったことをが記されている。田中城のあったダイの墓所に東光院という墓がありこれも禅宗系統で仙台系統瑞巌寺系統かもしれない、古い時代から瑞巌寺と交流があった。瑞巌寺は禅宗であり伊達政宗は禅宗を奨励したから伊達の領域には禅宗が多い。相馬藩には禅宗は少ない、越中の移民関係で真宗が多い。羽州月山は関係して鍛冶工が技術を伝播した証拠として鍛冶池という地名が残っているし藤金沢という堤の地名も天野民部太輔 遠景の落胤、藤氏なりからきている。鹿島町誌にのっている文は歴史的文書であり信憑性が高いのである。


●墓地は知ることは郷土史研究に欠かせない


墓地を知るということは郷土史研究に欠かせない、なぜなら歴史が具体的に感じられる場所になっているからだ。墓所にきてその土を踏むときそこに故人が実際に眠っている。そしてその村の中にあるのだから何か昔を語るものがある。墓所はまた全く昔というだけではない今も関係している。そこには代々の家の墓があり子孫はなおもこの土地に生きている。海老の丘からの中目は特に良かった。海を一望できて陸地も望める。春の風が海からそよぎ松風が一日鳴っている。何とも広々として気持ちがいい。墓所をたずねるというだけではない、ビュ-ポイントとして隠された場所だった。墓参りに行く人は行っても近くの人でもあそこに立って眺める人はいない、一本の細い道があるだけだからだ。浜通りでも海があっても海を望む墓所はまれである。あれだけ広々として海を望む墓所があったことは発見だった。つまり以前として人間は近くのことを一番知らないという皮肉があるのだ。灯台下暗しなのである。もう郷土史など狭い範囲だから知り尽くされたとなってしまうが実際は知らない場所が以前としてあるのだ。あそこは慶応という刻まれた墓があったから江戸時代からあったのだろう。でも鹿島で一番古いのは台田中の墓所である。何故ならそこに一番古い墓があるからだ。田中城に由来するものは岩松氏についで古いからである。

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2011年01月06日

葛尾(かつろう)村など山村は昔は豊な地域であった


葛尾(かつろう)村など山村は昔は豊な地域であった

明治以前で郡山地方の人口が最大になるのは江戸時代の元禄期です。この時の人口は郡山西岸で約2.5万人です。


それは古代では人々は山間地か起伏のある丘陵地帯にしか住まなかったということです。理由は水の確保がむつかしいからです。したがって平地にはほとんど住みませんでした。このことは奈良を見ればわかります。古代の大和朝廷は奈良盆地の周辺の山間地に生まれ、ずっとこの山間地にいました。彼らは盆地中央の平地には決して降りてこようとはしませんでした。

江戸時代には、幕府や藩も山村からはほとんど年貢を取りませんでしたから、平地の零細農家よりはずっと恵まれていました。こういう山村では、次三男でも容易に独立して世帯を構えます。そのため人口減にはなりません。
http://blogs.yahoo.co.jp/asakayama1000/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%BF%B7%C5%C4&sk=1




郡山というと三春であり三春に近いのが葛尾(葛尾(かつろう)村である。そこの落合という辺りに元禄の碑があったことを写真でも紹介した。元禄の碑は普通相馬藩の平地でも見つかりにくいし現実に見ていない、元禄は実際相当東北では古い時代なのである。芭蕉が東北を旅したのは元禄時代である。その時江戸は栄えていた。だから郡山も元禄期に人口がふえた。
そして当時山村は住みにくいかというとそうでもなかった。年貢をとられなかったことも大きな理由だった。山村には炭焼きもあるし自給自足的にはいい環境だったのである。今のように過疎化するのではなく人口は減らなかったのである。奈良でもたいがい山沿いに村がありヤマトもそうであった。大きな古墳は山沿いにあり最も古い道として山辺(やまのべ)の道があることでもわかる。そして水の便のいいところに最初の国、県(あがた-上の田)が生まれた。昭和天皇はその県(あがた)の短歌を残している。平地が住みやすいように見えても平地は湿地帯であり住みにくかったのである。人間の生活は世界的に共通している面もある。


山村はその後も木材の供給源であり資源があるから昔は山村でも豊かな面があったのである。長者もいたのである。今になると葛尾村など辺鄙そのものであり限界集落に近くなるというが江戸時代まではそうではなかったのである。だから相馬藩の武家がかなりの数移住している。山が今のように暮らしにくかったらそうしていない、その後山中郷として相馬藩に組み入れられたのである。牧もあり馬も飼育して馬の供給地でもしった。葛尾(かつろう)大尽がいて鉄の粗製で栄えたということもあるが山村には昔長者がいたという伝説が各地にあるから今の感覚で昔を想像すると違っている。人間の生活は世界的に共通している面もある。水を制するもの治水が国を治める、四大文明を作ったように日本でも水の便が大事でありそこから国がはじまっていることは同じだったのである。


つまりあの元禄の碑は郡山が三春が人口がふえて葛尾村に波及したことも想像できる。葛尾村は三春に近いからである。郡山にも近くなる。ともかく元禄の碑はなかなか見れない東北でも古いものなのである。それが葛尾村にあったことが不思議であった。葛尾村には古いものが残っている。相馬藩と三春藩では境を接して家の構造が違っていたというのは江戸時代からでありその前にはそういうことはなかったろう。江戸時代に相馬藩と三春藩がそれぞれに別に支配されてそうなったのだろうか?葛尾大尽が三春の藩主を呼んで饗応したということがあったように三春藩はの関係も深い地域だった。小出谷から三春へのバスが通っていた。その時も三春の方が近いものとしてあった。浪江はそれ以上に遠く感じられていたかもしれない、阿武隈山地の領域も広いから山村は今は重要視されないが昔はそこで十分暮らしが成り立っていたし豊かな地域だったということを頭に置いておく必要がある。


郡山について書かれた引用したプログはかなり専門的だけど著作権フリ-になっている。誰でも引用はできる、全文も引用できるのだ。



葛尾村(落合)の明暦と元禄と記された石碑の謎
http://musubu.sblo.jp/article/15958029.html

六郎田とかあるのは葛尾(かつろう)村は山でも六郎まで六男まで棲むことができたことを示しているのか?地名にこだわりすぎても困るが山村がかえって人口をふやせたというのも意外な指摘でありそういうことがあったのかもしれない、もし六良田が六郎田ならその前に次郎、三郎もありえたからである。それだけの分家を成し得たのかもしれない、これは推測にすぎないけど山村が人口をふやせたというのは今では考えられないからそういうところに昔を想像する盲点がでてくるのだ。
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2010年03月16日

南相馬市鹿島区町内の墓所の宝永の碑

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南相馬市鹿島区町内の墓所の宝永の碑

光明真言を唱えつつ大師堂に向かいます。
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどまじんばら  はらばりたや うん」
(移動のとき光明真言を唱えるのは有縁無縁の霊魂を供養するため)


空海の密教の祈りの塔だった。これは随分立派な塔だと思った。これが自分の墓のある場所にあったことを知らなかった。あそこの墓地は入り組んでいて奥の方にあったからわからなかったのだ。街のなかにあるからあそこは新しい墓地だと思った。ほとんどが明治以降の墓であり江戸時代の墓がなかったからだ。でもこれは墓ではない、もともとここは墓所はなかった。神宮寺跡ととあるから寺があったところであり墓地ではない、その寺がなくなりそのあとが明治以降墓地になったのかもしれない、宝永四年は1707年だからこれは古い、一番古い碑は葛尾村の落合の元禄の碑だった。資料ではなく実際に見た碑ではそうだった。たいがいは天保(1830)以降の碑が多いのだ。だから元禄-宝永となると300年前となり古いとなる。墓でも碑でもその場所が大事でありその場所に立つことである。ともかく300年前にあの場所に神宮寺がありこの碑が建てられたのだ。鹿島御子神社があるからその関係で神宮寺跡となっているのか、ここに寺がありこの碑が建てられた。ここに小山田とかの武家に連なる姓の墓がある。ではこの小山田はもともと小山田の地からこの鹿島村に移住したのだろうか?栃窪(栃久保)という姓なども相馬藩内で他に移っている。村の名前が移動している。上高平の五輪塔があった墓地もそうである。そこに岡和田氏の墓があった。鹿島区に岡和田という村がある。そこから下高平に移動した末裔なのかとなる。

鹿島村の中心は今の街道沿い、通りではない、駅から少し離れた田中城があったところである。田中城が中心地だった。そこの回りは湿地帯だったから天然の要塞となっていたのだ。つくづくあそこが湿地帯だったということが想像できなかった。あそこに立ったのは最近であり今日自分の家の墓地があるところにこの碑を発見した。郷土史は灯台下暮らしであり一番身近な所を知らないのである。今や外国に詳しい人は相当いるが自分の暮らしている足元を知らない人が多くなっているのだ。湿地帯が広がっていたということはまだ開拓すべき余地ある土地が広がっていたのである。だから橲原田という地名が鹿島町誌に記されている。橲原村から開拓に来て移住した人がいたからとしか考えられない、鹿島村は今のような街道沿いの村にはなっていない、ただ原町と違って鉄道が通ってもその近くが街道でありそんなに街も拡大化しないから昔と変わらない面がある。ただ田中城が中心地だったということはわかりにくい。田中城から陽山寺が建立されたことでもわかる。この位置関係が歴史にとっては大事だから必ず実地にその場を踏む必要があるのだ。自分がそれをしていなかったからこそ言える。つまり田中城は一番身近な存在であり歴史の跡だったのである。

墓地を調べる場合、江戸時代の墓とか碑がある場合はその墓地は古い、古い形体の五輪塔があるのも古い。五輪塔に名前がないのが多いのは空風火水地・・・という仏塔の形式をひきついでいるから名前がないのうもしれない、その後武士が台頭して権力を持つと菩提寺が武士を供養するものになった。だから武士は名前を誇らしげに刻み残している。その前に南無阿弥陀仏とか真宗では今でも名前は墓に記さない、武士が権力をもったとき名前が刻まれるようになった。江戸時代の庶民は墓をもっていなかった。でもわずかに墓が残っているのはやはり墓を造る財力をもてるようなったからだ。だからオレも記念に墓を造るかと個人で墓を作り次に夫婦墓が基本であった。それは明治時代に受け継がれた。夫婦墓が多いのはそのためである。一家の墓というのは明治以降に作られたのである。これは国の政策、押しつけがあった。家中心の社会を作ろうとしたからである。ただ庶民でも立派な墓を造りたいというのはわかる。墓を造れたのは武士であり庶民は作れなかった。戒名も武士には位が高いものがつけられた。・・院というのはそうである。それをまねて庶民も高い戒名代を払い院をつけてもらうとかになった。寺とか僧侶はそもそも武士の菩提を弔う場所であり庶民を弔う場所となっていなかったのだ。


江戸時代は明確な階級社会だったのである。鎌倉時代から五輪塔などが作られそれが個人の墓となった。それまでは仏塔形式であり個人的なものでも墓はなかった。だから僧侶が武士を祀っているようになっているのは歴史的に見たら変なのである。むしろ墓がない仏塔形式の方が先にありその時は個人的な墓はなかった。死んだら墓に固執しない、真宗などではそうである。だからこそ真宗では死体を焼くことになった。相馬でも越中から真宗系統の移民が大量に移住したから死体を焼く習慣ができた。ノバというのは裸のことでありこれは越中から伝わった言葉である。河原でノバ、ノバというとき裸の子供のことだった。でももともとの意味は野庭であり越中から伝わった言葉だったのである。


この宝永の碑が建てられたのは相馬叙胤(元禄14.2〜宝永6.6-1701〜1709)、六代目の時代であり相馬藩初代から百年くらいたっている。その頃にこの碑が建てられたのである。もちろん鹿島宿があり街道を行き来していた。


いづれにしろ今生きている時代もすでに歴史になる。別に武家の歴史だけではない庶民の歴史も同じなのだ。団塊の世代はすでに歴史になりつつある。高度成長時代も過去の歴史となる。江戸時代も歴史だが現実も常に変遷して歴史になってゆく、だから歴史は膨大であり江戸時代だけではない、今も刻々と変わり歴史となる。だから歴史は個々人によって関心が違ってくる。実際にその足元に膨大な歴史が常に埋もれているのだ。すでに最近死んだ我が身内も歴史になってしまったから余計に感じてしまった。


田中城その跡あわれ我が住みし近くに知らじ春の日暮れぬ
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2010年03月11日

南相馬市原町区上高平の五輪塔の謎

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南相馬市原町区上高平の五輪塔の謎




 鎌倉時代、青田常方(兵衛)が相馬郡領主となった相馬師常に従い、その曾孫・常永(右兵衛)は相馬胤村の老臣となっている。その子・常平(次郎兵衛)は相馬重胤に仕え、常平の弟・常清は相馬重胤とともに奥州へ下り、行方郡小高郷耳谷村山沢に館を構えて代々居住し、嫡流の子孫を「山沢青田家」とよぶ。

享保14(1729)年3月22日、扶持米で御広間番を務める七十歳以上の者に、大儀であるとして御広間番を免ぜられた。その時の高齢者筆頭として「八十六歳 山澤六右衛門

牛越城主・牛越定綱(上総介)の謀反に、相馬高胤はみずから出陣して牛越堡を攻めたが、猛将として名高い定綱に手をこまねいていた。このとき、文間胤久(萱浜五郎左衛門)は青田清弘(豊田三郎左衛門)と謀って牛越堡に偽って降伏し、定綱の首をあげた


相馬青田氏略系図(3)

 青田常久―常義―常高―常清―常治―高治―赤沢常治………青田常美
http://members-abs.home.ne.jp/bamen/ichizoku2.htm

上高平の五輪塔の主はこの青田氏ではないか?天保で青田六右衛門(六右エ門)と記した墓誌がある。そのすぐ前の脇に五輪塔があったからだ。ここにはしかし江戸時代からの青田氏の墓は絶えたのかもしれない、これは江戸時代のものでもその後現在に受け継がれた墓でなかったかもしれない、ただすぐ近くの家の前に馬頭観音の碑がいくつかありそこに「青田常太郎」が建てたとある。これは明治以降でも常という字が受け継がれているのだ。相馬師常から常は始まっている。だから青田常太郎は武家なのかわからないが常を受け継ぐからその系統であることは間違いない、青田氏は牛越城の謀叛で功績があり相馬藩で重きを成したから今でも相馬藩全体でその姓は残されているし墓もある。ただ野馬追いの旗帳には青田氏はない、岡和田氏、小林氏はある。今もここの墓所にはこの姓の墓がある。下高平には青田氏が旗帳に記されている。青田六右衛門(六右エ門)は 山澤六右衛門でもある。これは同一人物なのかもしれない山沢に土着した青田氏が山沢の姓を名乗り移動したからである。ここは牛越城とも近いからあの五輪塔は青田氏である、その他誰になるのか考えにくい、歴史は地理であるとき狭い郷土史でもそうだった。牛越城を見てこの五輪塔があった。だから歴史は実際にその地を踏んでみないと実感しないのである。

上高平村の五輪塔

この五輪塔の名もなく古りしも

相馬四天王の牛越城の謀叛に功あり

青田氏なれや近くにその裔の常の名記す碑

今もここに牛越城を望み残りぬ

相馬藩上高平村の春田の中かな

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千葉氏のサイトは世話になったいて著作権違反の指摘があった。あそこはただ歴史的事実の記述かと思ったがそうでもないのか?歴史的な創作として記してあるのか、なんらか断りが必要なみたいだ。引用が長いからリンクだけだったらいいのか、その辺が今のところわからない、ただ指摘があれば消すほかないだろう。ただサイトはリンクできるから読めるだろう。


これはまだ自分の推測であり確かな考証ではありません・・・興味のある方は詳しく調べてください
posted by 老鶯 at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2010年02月18日

近代デジタルライブラリの二宮尊徳の相馬藩の記述

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近代デジタルライブラリの二宮尊徳の相馬藩の記述

http://kindai.ndl.go.jp/

刀はうたねど大鎌小鎌


馬鍬に作鍬(さくぐは) 鋤よ鉈よ

平和の打ち物休まずうちて

日毎に戰ふ 懶惰(らんだ)の敵と

http://ja.wikipedia.org/wiki

/%E6%9D%91%E3%81%AE%E9%8D%9B%E5%86%B6%E5%B1%8B

村の鍛冶屋や野鍛冶は刀ではなく鎌や鍬を作っていた。農民の注文でも作っていた。鍛冶屋は昔はどこでもあった。鍬や鎌は農民にとってはこれだけ左右するのかもしれない、唐鍬とはそれだけの効果がある鍬だったのである。大工でも道具にこだわるし農民も道具にこだわるのは当然である。それがNHKで放映していた鎌一つで麦刈りに出稼ぎに来ている農民だった。コンバインと比べられていたがその相違があまりにも大きかった。鎌だけで刈るのとコンバインでは比べようがない、百倍から千倍とかもはや比較にならない、原始時代と20世紀の差を見たのである。

実際に相馬は二宮尊徳なしでは語られない場所である。二宮鎌とか二宮鍬が農家に残っていてそのことから二宮仕法のことなどを語ると子供でも興味を持つし具体性が帯びてくる。
そこから具体的に歴史がイメ-ジできるのである。歴史はやはり話だけでは文章読むだけでは具体性にともしいから興味がもてない、仁宮尊徳は確かにあまりにも有名だから知っている。
相馬藩でも実際にかかわったから有名なのだけど農民でなかったりするとわかりにくい、歴史は家からはじまっている。家々には何かしら必ず親でも先祖でも残すものがある。家宝となるものがある、例えそれかその家だけのものであり他の人には意味ないものでもその家にとっては意味あるものがあるのだ。そこから家訓となるものが生まれたり別に大きな代々つづく家でなくてもあるのだ。だから郷土史は祖父母から聞いた話からはじまると前に書いたのである。野馬追いの旗は一番わかりやすいがこれもすでにどういう謂われなのかわからなくなっている。二宮鎌とか二宮鍬とかあったこと自体すでに二宮尊徳が信仰の対象のようになっていたのである。

郷土史でも資料をまずそろえないと郷土史研究はできない、相馬藩政記など読む人は特別郷土史に関心ある人であり電子化すべきなのである。そうすれば家で研究できる。図書館でいちいちとりだしてはコピ-していたら手間暇でできないのである。買うとなると高すぎるのだ。だからこういう資料は電子化すべきなのである。つまり南相馬市でもそうだけど立派なハコモノの図書館に莫大な金をかけるのではなく電子化とかに金をかけるべきなのだ。そうすればわずかの金でできる、個人に委託してもできるくらいなのである。その金額の差が大きすぎるのだ。自分にしてもこれだけ提供できるのはインタ-ネットがあってこそだった。

posted by 老鶯 at 19:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2009年12月24日

相馬藩の城南十景、北山八景の短歌の感想


相馬藩の城南十景、北山八景の短歌の感想

 

山上春霞 真柴たく煙も空にうち消えて長閑にかすむ山上の里

芦沼微雨 芦沼のあしの若葉に波越えて汀ぞひろき五月雨のころ (黒木田-岡本-成田)

高松寒月 高松の山風寒く暮るるより面影すごき冬の夜の月

小野晴雪 分けのぼる小野の細道風さえて雪に晴れたるあけぼのの空

中野 飛雪 寒けしなゆき来も絶えてふりしきる雪の中野の冬の夕風

山上は相馬の城から比較的近いから柴などが燃料として実際に運ばれていた。真柴たく・・・ということで生活的にも身近な山である。黒木田と岡本-成田辺りは芦の沼がまだ多かった。それで五郎右ェ門橋とあるのはやはり開墾されるべき田となるべき地が広がっていたためだろう。城の近くでもそうなっていたのである。小野という地名は野という地名は山の中の傾斜地であるから地図を見ればそこにふさわしい場所となっている。小野の細道とは昔の道は城の北側の高い地域を通っていた。今城のあるところから東側でも相当な湿地帯でありあとから田にされていったから山側が古い道なのである。昔の地形を想像するとき湿地帯が相当に広がっていることを知らねばならない、その湿地帯を通る道はない、だから山側が昔からの古い道である。

成田の墓地を見てそこから急な坂を上ったところが高松でありそこに隠されるように墓地がまたあった。

 

高松の山風寒く暮るるより面影すごき冬の夜の月

これはぴったりだった。あの坂をのぼり山の頂上に隠された墓地を見ればわかる。面影すごき・・・地となっているのだ。これも実際に上ってみないとわからない、当時あの坂を上るのは容易ではない、一旦上ったとしても面影すごき・・・として印象に残った。この歌が一番リアリティがあるし今でもその地形そのものは変わっていないから納得する。実際中野村でも淋しい雪の景色が歌われている。城から近くてもこれだけ淋しい風景なのである。そしたら万葉時代はどうなるのか?城もない、何もない、人も本当に住んでいたのかもわからない・・・そんなところで
松が浦に さわゑうら立ち まひとごと 思ほすなもろ 我がもほのすも」波がたつように人の噂が盛んにたつようなことはありえいない、そんな繁華な場所ではない、そもそも人がそこに住んでいるかどうかもわからない地域だった。城ができた江戸時代ですらこれだけ淋しい場所だったのである。それからさかのぼること700年とかしたら一体どんな景色になるのか?ほとんど荒野になっている。この辺はその頃そんなに開けていないのだ。ともかく狭い郷土史でも地理が地形が基礎になっていることがわかる。高松という場所も上ってみてはじめてわかったのである。

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相馬市成田の五郎右ェ門橋の由来

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相馬市成田の五郎右ェ門橋の由来


水主-五郎右ェ門と尾浜村の松川寺の人別帳に記されている。五郎右ェ門橋とは間違いなくここからきている。ここは尾浜村の五郎右ェ門が開墾した田がありその後橋がかかりその名がついた。松川では塩場とあり塩を作り魚をとり田畑を耕していた。川船も持っていた。ただ人を養うのには田畑を増やすことでありそれで成田の方に開墾地を求めてきてここに田を作ったのでその名が残った。海の方の漁村から平地の方へ開墾して田を作る人もいた。今田も新しく開いた今の田である。尾浜とか原釜の回りは湿地帯でありそこを田にしたのは原釜や尾浜の漁師もかかわっていた。地理的には成田の方が拓き安いからこっちを選んだのかもしれない、これは資料に明確に記されているから由来は間違いない、この人には姓はないから武士ではない、十一人の大家族だからやはり田を新しく開くことで家族を養おうとしたのだろう。人の名前が地名化するときはよほどその人の貢献が大きかったはずである。だから名前が残ったのである。橋を作ったからとか橋だけからこの地名が起こった思えないからだ。

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2009年12月01日

南相馬市鹿島区江垂の一石坂 (いちごくさか)のこと


南相馬市鹿島区江垂の一石坂 (いちごくさか)のこと

●一石坂 (いちごくさか)の由来

住古女あり年20ばかり、木履を納め米一石を頭上に捧げこの坂を上りし故一石坂と名づく
陸前浜街道の鹿島区江垂の日吉神社まで上る坂は急である。あんな急な坂を上り相馬藩の武士が野馬追いの時も上ったのかと思う。馬にしても疲れてしまうだろう。よく駒止峠とういのがあるが例えば檜枝岐に田島の針生から行く七曲りの坂道をバスで行ったことがあった。ここも延々と坂がつづく大変な難所であったがトンネルができた。日本には延々と坂がつづく峠が多い、八木沢峠もそうである。だから自転車では歩くことになるから容易ではない、馬にしても駒を止める峠だというのは納得する、馬も延々と坂を上ることが嫌になる、もう上りたくないとなるのは人間と同じだった。

昔の道は最短距離で通じるように道ができています。ですから、どんな急傾斜の地形でも直線の道だったりします。それは徒歩ではそのほうがよいからで、道によっては、人はともかく馬は無理という道もあります。例えば、先の熊谷通りの道がそうで、ちょうど神社の参道に男坂と女坂があるように、徒歩は釜伏峠越え、荷駄馬は荒川沿いの道というように分かれます。
http://blogs.yahoo.co.jp/futamision0801/2210374.html


発見された近道
http://musubu2.sblo.jp/article/28422250.html

つまり歩くならこんな急な坂道でも上ることができるから直線的に行くことができる。でも馬だったらきついのである。徒歩で行く道と歩いて行く道が別れていたというのも納得する。

木履を納め米一石を頭上に捧げこの坂を上りし故一石坂と名づく

木履とは下駄なことなのか?納めたとはどこに納めたのか?下駄を運び米も運んだのだろうか?

日本酒の一般的な容量が一升(一八〇〇ml)。江戸初期に升の大きさを統一し、広さ四寸九分平方、深さ二寸七分の升に入る分量を一升とした。その十分の一が一合、一〇倍が一斗、さらに一〇斗を一石という。

一石は頭のせるとしたらその重さは大変なものである。ここに誇張はあるにしろこの急な坂を毎日のように上る力持ちの女性がいてこの名がついたのである。よくあんな重いものをのせて上れるものだとみんなが見ていたのである。女性だったから余計に目立ったのである。

比べ石 尺石 力石・・これは日本全国にある。力比べが行われていた。そもそもこうした石を持ち上げて一人前と大人と認められていた。江戸時代の生活は人力が基本であり機械がないから人間の力が頼りなのである。庭師が百キロ以上あるような石を人力で立てた時はびっくりした。あんな力をある人をまざまざと見たからだ。そういう力持ちは江戸時代なら注目されたのだ。
今はNHKで放映した麦の刈り取りで鎌一つで出稼ぎに集団がいたが一方でコンバインならその人力の麦刈りより一人の作業量より百倍にも千倍にもるから比べようがないのだ。石を動かすにしても機械を使いばそんな力を今は必要ないから力ない人でもやれることはやれるが庭師とか大工とか建築関係は以前として力が必要である。

●津川の城の伝説(阿賀野川)

麒麟山の上に津川城があり、城の石垣がけわしく、狐も通れないというので 狐戻し城といわれていました。昔、津川城の殿様が病気になり、医者がいろいろ手当をしましたが、なかなか よくなりません。そこで、山の麓の温泉の湯を汲んで湯治をすることになり、 温泉の湯を運ぶ役を、美しい小姓の蔦丸(つたまる)に命じました。
蔦丸は毎日、山も麓から、山の上のお城まで、せっせとお湯をはこびました。 殿様は湯治のおかげで、病気がだんだんよくなりました。
ある日のことです。蔦丸はお湯を汲みに来るお鶴という娘に会いました。
お鶴 も母の病気を治すために毎日、お湯を汲んでいたのです。
二人は仲良くなり恋仲になりました。そのため蔦丸の帰りがおくれがちとなり 人々のうわさになりました。これを知った重臣たちは怒って蔦丸を頂上近くの 石牢に閉じこめてしまいました。

この話はリアリティを感じる。狐の嫁入りとかを売り物にしているがそれは観光のために作られたここにはない伝説である。でもこれは城が山の上にあり実際に毎日湯を運んでいたのである。これも一石坂ではないが大変な労働だった。当時城は館は高台にありそれで必要なものを下から運ばざるを得なかった。日吉神社のある所も相当な要害の地であり高台なのである。
要するに昔は車もないのだから歩くほかない、だからそうした山や要害の城に物を運ぶことを仕事にしていた人がいたのである。これは湯をくむことをさぼったためにお咎めを受けたのだから当時の下々の生活が厳しいことを示している。歴史は伝説でもその土地の地形から生まれてくるのである。

殿様の病直さむと日々

険しき山道上り城に運ぶ

何故の咎めや残る恨みぞ

若者なれば恋ありて悪しきや

その山道は会津の奥の奥

雪に埋もれし津川かな


郷土史発見-ホ-ムペ-ジ
http://www.musubu.jp/jijikyodoshi.htm

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2009年05月31日

伊達政宗の陰に隠れて忘れられた月鑑斎(相馬氏と縁故の武将)

伊達政宗の陰に隠れて忘れられた月鑑斎(相馬氏と縁故の武将)

深谷月鑑は相馬長門小舅に候、天正十六年於下新田(相馬境)にも月鑑手前の者共玉無鉄砲打ち候由、政宗公被聞召、深谷は大崎境目候、相馬にても縁辺逆意の儀尤之由被思召、保摂津守に被頂置切腹仰付候(伊達成実記)

天正十五(1587)大崎義隆の家臣氏家吉継が主家にそむき伊達政宗の援兵を願った。このとき長江月鑑斎が五千余騎の兵を出したがこのとき、伊達軍に内通するものがあり中新田、下新田一帯の戦いに敗れた。

この戦いで最上氏がかかわり月鑑は政宗に憎まれ秋保氏に討たれ長江氏は滅びた。


桃生郡深谷を治めていたから深谷月鑑と名のった。娘を相馬長門守に嫁がせた。ここに相馬氏との縁戚関係となり相馬と関係するようになった。もともとは長江月鑑であり長江氏の系統であった。伊達政宗に最初反抗するグル-プがあった。最上氏と相馬氏が連携して政宗に対抗しようとしていた。それが月鑑だった。ただ政宗は歴史上に華やかにその名を残したが月鑑が埋もれてしまった。

秋保には墓もないという、ただ月鑑を討った秋保家にはそのあと度重なる災いが起こった。時の領主は裏山に祠を建て月鑑斎の霊を祀ることにした。この祠は今も「月りん様」と呼ばれ苔むした姿で残っているという、毎年7月19日、今なお「月りん祭り」なる祭礼がとりおこなわれている。(秋保町資料より)

なぜこのことに注目したかというと相馬氏がかかわり伊達政宗に反抗する武将がそれなりにいた。それが敗れて忘れられてしまっていたのだ。敗れたものは忘れ去られる。でもやはりいくら勝ったものでも人を殺すことは後味悪いから殺した人を祭ったりするのが人情なのである。怨霊や祟りも恐れる。だから政宗も敵味方塚を立てて敵を祭る。敵味方塚はいたるところにある。明治維新の戊辰戦争でも相馬でも東北では戦死した敵側の九州や中国の兵士を手厚く葬っている。それを見に来た九州の人などが感心している。日本人の戦いではそもそも同じ民族ということでこういうことがあった。これが異民族の戦いとなるとこうはならない、相手を絶滅、殲滅させる過酷なものとなる。中国の将棋でもチェスでも敵の駒は一旦とったら日本の将棋のように復帰しない、もう戦いには利用できないのだ。とった駒がもう一度戦闘力となるのは日本の将棋だけなのである。

こういうことは日本各地であった。現に南相馬市の鹿島区の岩松氏の伝説は前に書いたが有名である。500年たっても実際は未だに生々しいものとして残されている。風化していない、現実に主君を岩松氏を殺した子孫が残っている。その子孫は恐れて姓を変えたのである。ただ祭りとしては残っていない、祭りはそもそも祀るであり死者を祀ることから祭りになったのである。月鑑斎を記憶するものとして祭りが残された。それはやはり敗者も弔うという日本的な文化があったからである。



断たれた姓

もの寂びて五輪塔一つ
  
寥々として無念を語る
  
岩松氏の姓はここに断たれぬ
  
その逆臣は怖れ姓を変え
  
ここに生き残り子孫を残す
  
粛条と野は枯れて
  
もの寂びて五輪塔一つ
  
寥々として無念を語る


岩松氏の伝説
http://www.musubu.jp/kashimamanonado.htm

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2009年05月21日

相馬の大手高麗門は滴水瓦

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滴水瓦が日本に普及するのは16世紀末で、文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)に従軍した武将が帰国後に城郭建築に使い始めた。これは異国趣味がブームとなった桃山時代の気風を反映しており、それ以前の日本建築にはこのような異国的な瓦は受容されていない。高麗瓦とも呼ばれている
瓦の瓦当面が、雨水が滴るように「雲頭形・倒三角形」に垂れ下がった軒平瓦で、一般に「朝鮮瓦」と呼ばれます。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名達が権力の象徴として、朝鮮の瓦を真似たものとされています。


 仙台城本丸跡では、瓦当中央が花菱文の滴水瓦(3点)や菊花文(10点)が出土しており、仙台城二ノ丸跡・松島瑞巌寺・利府町大沢窯跡などでも出土しています。

相馬藩の大手門は大手高麗門と呼ばれているのは朝鮮からもたらされた滴水瓦が使われていたからである。それは伊達政宗は朝鮮出兵で秀吉につき渡ったときもたらされた技術である。文禄・慶長の役では相馬藩は別に出兵していない、伊達藩は大藩だから出兵した。つまり伊達藩の影響で相馬藩にも滴水瓦がもたらされた。瓦を作る技術者が伊達藩から相馬藩へ来たのか、大手高麗門と呼ぶのはそのためである。文禄・慶長の役で朝鮮から陶工が連れられて窯を開いた。その子孫がまだ綿々と技術を伝えていることは知られている。でも瓦はあまり注目していないが瓦も陶器を作ることと同じ技術なのである。だから陶器と瓦は本来一体の技術として古来あったのである。この瓦に注目する人は少ないだろう。でも大手高麗門と呼んだとき当時は最新の技術で作ったということで誇らしく名前をつけたのである。相馬藩は伊達藩と争ったがその後様々な影響も受けたしいろいろ交流があったのである。
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2009年05月10日

江戸時代の俳句(二本松の寛文時代の俳句)


江戸時代の俳句(二本松の寛文時代の俳句)

 

三春迄着るや岩城のちゝみ布  斎藤親盛

 「三春まて」「岩城宇尓、縮布」(『毛吹草』)。岩城名産のちぢみ布は、三春の人々まで着ていることだ。如儡子は『梅花軒随筆』の著者・三休子ゆかりの地・三春に出かけた事があったのであろう
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/bungei/18/haikaige.html

寛文12年(1672)だからこの句は古い、芭蕉が出るのは元禄である。元禄1(1688)だから20年後になる、でもその前に俳句らしきものが二本松とか地方でも作られていた。着るものも地方色豊だったのが江戸時代だった。

 笠鉾やかけ奉るひたち帯        春一

常陸国鹿島神社で、一月一四日の祭礼の日に行われた縁結びの帯占。布帯に意中の人の名を書いて神前に供え、神官がこれを結んで縁を定めた。鹿島の帯。

 

東ちの道のはてなるひたち帯のかことはかりもあはんとそ思ふ(新古今1052・古今六帖3360

常陸帯は全国で知られていた。常陸は陸奥ではない東道(ち)である。

あけぬるや雲のいつこにいかのほり 春一

関西方面ではイカ上りであり江戸では凧(タコ)と言っていたことである。1675年に、京都の俳人伊藤信徳が、江戸で「物の名も蛸(たこ)や故郷のいかのぼり」と詠んでいるし、同じ物でも土地が変わると名前も変わる。北前船で新潟と交流があり関西の文化が入りイカノホリと蛸上げを俳句にした。二本松では蛸上げとしていたのか不明である。
http://www.musubu.jp/hyourontakoage.htm

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2009年04月27日

日立木村(正一位館腰宮の碑の謎)

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名取(館腰神社)
http://www.city.natori.miyagi.jp/soshiki/bunka/tatekositemple/index.html

竹駒神社の案内標識があるので、街道を離れて行ってみる。日本三大稲荷の一つで、社伝では、承和9年(842年)、小野篁(たかむら)が陸奥国司として赴任した際、伏見稲荷を勧請して創建したと伝える。
竹駒神社は相馬でもお参りして分霊されている。稲荷神は豊作を願う神である。農民が豊作のため祈った神である。竹駒神社は有名だが館腰神社というのは有名ではない、でも名取に館腰神社があり館腰駅があることは知っている。ここは日立木村の高松であり稲荷も館腰神社から分霊されたのだ。正一位とは位の高い稲荷神ということでもとは京都からの稲荷神の分霊である。神様にも位があり位が高くないとありがたみがないとなる。嘉永だから江戸後期である。
館腰駅はいつも仙台に行くとき駅名の方が親しく覚える。神社の名前を駅名にしていた。太子堂駅も祠だからそうである。ただ館腰とここに館腰宮などと石碑で残っていたから江戸時代から信仰を通じて名取とつながっていたのかと改めて歴史を再認識した。伊達と相馬はいろいろつながりがある。新地村では伊達の境で明治まで伊達と相馬でわだかまりがあったとか、江戸時代の継続としてやはり昔は藩が違いば相当な民情の差があった。それでなかなか藩意識から解放されなかったから当然だった。


南相馬市小高区大田和字館腰
南相馬市原町区中太田字館腰
福島県伊達郡月舘町大字月舘館越

館を越した所”が、館越の地名の由来と云う。
義経が最初に住んだ館を引越したところが「館越」、そして館をつくり定住したところが「高舘」という具合に、義経ゆかりの地名がとまた、この台地の付け根付近に中世の館跡が残っています。


これが、地名「立ノ越」(館ノ越)の由来と考えられます。
館がありそこが目印となるからこの地名がついたことは確かだろう。
高倉山の城跡は城氏神として勧請した竹駒稲荷が祀られ、折木川に面する南面は断崖絶壁で、西側が深い沢となっています。麓から遊歩道が整備されており、山頂には四方を見渡せる展望台があります 。

広野町
http://www.town.hirono.fukushima.jp/sightseeing/historical.html

武隈たけくまの松 : 宮城県岩沼市にある竹駒神社の別当寺であった竹駒寺の後にあったと言われている松の木。(前項「笠島」の曾良日記参照)
竹駒寺は能因法師の開基になる寺である。寺の縁起に、 能因法師がみちのくを行脚し竹駒神社で歌の道に励んだときに使用した庵が竹駒寺になったと伝えられている。

武隈は竹駒が変化したものだろう。もともと竹駒寺にあったのだからそうなる。
富岡宿
通りがかりのおばさんに「竹駒稲荷神社とか太田農神社は、どこにありますか。」と聞いた。「さあ。」「この付近に神社はありませんか。」「お稲荷さんならそこの左手を入って行くとありますけど。」ということで、左手に入って行くと、「下町三社の杜」がある。太田農神社・八幡神社、竹駒稲荷神社、事代主神社が、左からこの順で並んでいる。
太田農神社は南相馬の原町区の太田神社から遷されたものだろう。神社は各地に遷される。富岡は相馬藩との境だったからこの辺まで遷されても不思議ではない。

稲荷神の総本社である伏見稲荷大社が正一位であることから、そこから勧請を受けた全国の稲荷神社も正一位を名乗っており、「正一位」は稲荷神の異称のようになっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/正一位

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寺内に真野明神があるからこれはここの稲荷と関係ない、稲荷は竹駒と関係していた。竹駒から分霊されたのが多いのだ。現実に竹駒神社まで農民でもお参りに行っている人はいた。山神は小牛田でありこれも美里ととかありふれた名前にしたから歴史的にわかりにくくなったのだ。
 
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2009年01月25日

越中富山の薬売りと相馬への移民(江戸時代の情報伝達の謎)

1690年(元禄3年)の参勤交替で江戸に出仕していた陸奥三春藩主秋田輝末が在江戸大名定例登城日に従って江戸城に登城したが、突然の腹痛に見まわれて七転八倒の苦しみを覚えた。周りに居た大名も、茶道坊主たちもどうして良いか分からずにウロウロしていたところ、同席していた富山藩主前田正甫が印籠に入れて携帯していた富山特産の反魂丹を服用させると、輝末公の腹痛はすぐさま快方に向かい、嘘のように治ったと言われている。この一部始終を目の当たりに見た諸大名たちが、前田正甫に対して反魂丹を大量に製薬して各地に販売するように要請したために全国に名が知られるに至ったという。

相馬藩からも代々の医者の家があり江戸に医者になるために行かせることになった。 医者と薬はかかせないものだが三春藩は相馬藩の隣だし相馬藩主の姫も過去に嫁いだこともあり三春藩の話はいろいろと入りやすかった。
この話は有名であり相馬藩でも語られていたのだ。

「江戸にはいろいろ医術のことや薬のことに詳しい人がいる、三春藩主から越中富山の薬が全国に広まったことは有名だからね」
「越中からは移民が来ている、あの人たちはまず一生懸命働くから感心だよ、相馬の飢饉では荒地になった所が多いが越中の移民が入り耕されて相馬藩も助かった・・・富山の薬売りはその後有名になったが・・・」
京之進、一生懸命勉強するんだよ、金もかかることだし遊んでいてはだめだよ、江戸は刺激が多いんだから、特に女性には気をつけることだ 時間を無駄にしては行けないよ、二年はたちまちすぎてしまうんだよ」
「はい、母上、一生懸命勉強してまいります」
「道中は気をつけるんだよ」
母は息子を叱咤してさらに父は加えて言った。
「跡継ぎにゃしっかりしてもらわねば、殿様も見るようになる、江戸で修行を積んだとなれば殿も認めてくれる、う、京之進、しっかり勉強して相馬藩のために尽くすんだよ・・・」


南新田村京之進伜門馬、仲衛医業心掛け、中村藤岡、朔庵殿へ随身致し、試業罷り在り候処、この度江戸へ表へ罷り登り、医業修行仕り度(たく)、御暇のお願い申し上げ候所、修行のため弐ケ年御暇、願いの通り相済み
(安政二乙卯(1855)年7月7日


このような資料が現実に残されているからこの時はすでに越中の移民が入っていた。どうして相馬藩の飢饉の窮状が伝わったりしたのか、江戸時代の情報はどうしして伝わったのか?やはり江戸への参勤交代や江戸が情報の発信地だった。商人や船乗りなども情報伝達者だった。何よりも江戸に来れば全国から人が集まるのだから情報も集まる。それでこの話が生れた。
江戸時代の資料を読むのも郷土史に欠かせない、資料は無味乾燥で興味がそそれない、文章もよみづらい、でもよくよく読めば江戸時代のことが事実としてわかるから興味がでてくる。
相馬の飢饉があり越中から移民があったことは知っている。でも他からも少なくても移民はあった。だから九州の地名がなぜ相馬にあるのかということで前にも書いた。越中の富山の薬は海路でも運ばれ薩摩との交流は有名なのである。越中の薬売りが情報伝達となり伝えられたこともいろいろあるだろう。江戸時代は一つ一つが謎になる。その謎をイメ-ジして結びつける作業が必要なのである。それがわかるとさらに江戸時代に興味をもつようになる。

天保一四卯十一月廿八日 父万之助 三拾才己
文化八末六月八日 秋田国秋田郡大久保村父孫右ェ衛門 亡
文化九申九月八日 丹波国天田郡梅表村父又兵衛 亡
同母そよ、六十一才
弘化二己七月十五日 磯部村父平田林助
同妻トメ 二十八才


文化→天保→弘化→安政となるが ここでどうして秋田国と丹波国から来た人がいるのか?この一家の謎は解きあかすことはできないだろう。父が二人いるのも不思議である。これは資料にあったから嘘ではない、しかしどうしてそんな遠くから相馬の地に来たのか皆目わからないのである。

越中、越後は移民で来ているからわかるがこれらはわかりにくい、でも越中だけではない、他からも遠くからも移民は来ていたのである。 天保七年にも飢饉がありその前にも飢饉は継続してあった。父が二人いて母が一人とういのも不思議である。万之助は母そよの子供であることは確かだろう。京之進が江戸に医業の修行に行ったのは安政であり明治に近いからその頃江戸に学問やら技術の習得に行った人はふえてきた。江戸時代でも時代により違っていた。明治に近くなれば人の交流はさらに盛んになっていたのだ。相馬藩の資料から無数の物語が生まれる。この資料の謎もその一つにすぎないのである。
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2009年01月11日

相馬に残る九州の地名の謎(移民は九州からも来ていた?)

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郡山は、明治期の開拓・開墾によって発展していった町で、禄を失った各地の士族達がここへ集まった。その為今でも市内の各地には、久留米、薩摩などの地名が残っているし、 ・・・・・


明治は侍が食を失ったから大変動があった。北海道にも移住した。武士橋とかもあり本土の国の名前がつけられた。広島村とか伊達市とかは有名である。出身地の国の名前を村や街の名とすることは良くある。郡山も士族達が移り住んできた。そこで九州の地名が開拓地につけられた。でも九州となると郡山からすると地の果てのような地域である。なぜこんな遠くまで来たのか、北海道は新天地だから移住したことがわかる。明治の時代は相当な人の移動があった。特に武士は禄を奪われたのだから深刻だった。それで全国に開拓に入る場所を求めたのだ。

ここで問題にするのは明治時代ではなく江戸時代の相馬への移民に日向とか薩摩からわずかであるが移民があったと書いてある。この資料とかはまだ調べていないから不明である。越中からの移民は有名であるし資料も明確である。越中から相馬までくる行程は命懸けであり実際途中で力尽きて死んだ人もいるらしい、その頃人の移動は禁止されていたから必死の移民だった。昼間はお堂に隠れてひそみ夜進んだというのもやはりそのためなのか、御堂は隠れ場所にいいのである。雨宿りに御堂を利用したし雨露をしのぐのには御堂は宿にもなっていたのだからこれは本当のことかもしれない、ともかく大変な難行をへて相馬にたどりついたのである。

それで地名を調べると字地名でこれは国土地理院の地図にもでていない、国土地理院にもでていない地名があり村の地籍図として残っている。これも地名を知るには貴重である。

寺内→尾張屋敷 南海老村→越中前田 、豊後屋敷 小池→薩摩内 柚木→対馬谷地

これらの地名は今では使われていない南相馬氏鹿島町誌に記憶として残されていた詳細な地名である。尾張屋敷とあると名古屋の尾張から来た人が屋敷をもって住んだのかとなるし豊後屋敷とあれば豊前、豊後は九州の大分県の古代の国の名である。 対馬谷地に対馬とついているのも不思議である。これは単なる当て字かもしれないが尾張屋敷、豊後屋敷となると本当にその地域から移り住んだ人がいたのか?記憶としては残されていたのだ。越中前田とあれば越中は一番移民が多かったし明確だから疑う余地がない、しかし九州から移民した人があるとなるとその跡をたどることはむずかしい。ただ薩摩とあれば九州の薩摩を思い浮かべるしそれしか他に思い浮かばないのである。そもそもどうして江戸時代に九州から相馬まで来たのか?

その道のりをイメ-ジできないのだ。相馬藩政史にその記録があるのかどうかわからない、パソコンにデ-タ-ベ-ス化していれば薩摩とかのキ-ワ-ドで何かわかったりするからデ-タ-ベ-ス化は便利なのである。いづれるちしろ九州からも移民があったとすると相馬というのが全国に知られたからである。それだけ宣伝したからでもあったのか、相馬相馬と木萱もなびく なびく木萱に 花が咲く 民謡だが相馬に移民を呼ぶための当時のコマ-シャルだったのだ。それで全国に伝わったのか九州の人までもしかして対馬からも来たとなるとその遠さに驚くのである。 面白いのは北海道の豊頃町史に

とくにやませの吹かない上りには人力23人を要したそうだが、舟にロープをくくりつけ、入植者が故郷である相馬や越中の民謡を歌いながら荒涼たる十勝川の川岸を引くさまは入当時のたくましい生活の詩であった。http://www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/toyokoro_koutuu_kankou.html

こういうところに移住した人が国の民謡を歌っていたのである。民謡も意外なところに伝わる場合があるのだ。九州まで民謡が伝わったどうかは不明だがやはり相馬を知らなければ来ることもできない、何らかの情報が伝わり相馬を目指したのである。ただそれは今となっては埋もれ相馬の地に地名だけが残ったともなる。

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2008年12月31日

江戸時代の旅の謎-親密な人と人の交わり(南相馬市鹿島区の江戸時代の旅の記録)


 

●渡辺崋山の旅の記録
 
江戸時代と明治では戦前と戦後のように時代が違っているから理解しにくいのだ。例えば関所だらけの道から関所がなくなっただけでも大変な変わりようだった。明治になったとき新世界に突入したのだ。旅はいくつもの関所を通るから難儀なのである。安田という銀行家となった人が関所を通れず間道を行きそこで泊めてくれた家があったというのもドラマではそんな話やるが事実としてあったのである。全国的に見たら江戸時代の資料も膨大であるから旅の記録も膨大である。江戸時代になると庶民もお伊勢参りとか相当旅しているからその記録も膨大だから一部しかわからない、旅に興味あるものにとっては旅から歴史を探ることも面白い。

渡辺崋山の旅の記録がインタ-ネットに出ていた。
          
 百姓と寝もの語や稲の秋  

 

萬屋藤七の名で、煙草や行灯などを商っており、俳号は兎来と号していた。
萬屋の店を見つけて、崋山と弟子は主人の前に立ったが、・・・・・・・・・・
http://park22.wakwak.com/~kozu5-2/hiroba-04/03.09.01noda.html


百姓とともに一夜を明かし暮らしのことを聞いた。こうした旅はいかにも江戸時代らしい。江戸時代の旅は今のようにホテルに泊まるのとは違っていた。旅の宿を庶民に求めることも多かった。そもそも今のように宿となるところが少ないから一晩でもいいから納屋に泊めて下さいとかお願いすることがあ他のだろう。それで芭蕉の「蚤虱 馬が尿するまくらもと」」などの句ができたのである。
萬屋というと今のス-パ-であり田舎には必要不可欠なものであった。現実鹿島区の在にそうした屋号の家があったし今でも阿武隈の山地の奥深くに萬屋がありそこでなぜか味噌汁までご馳走してくれたのは今ではありえないことだった。見知らぬ人にそんなことまでするだろうか?

 
つづきは「相馬郷土史研究」で読んでください
 
http://musubu2.sblo.jp/article/24990033.html
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2008年12月28日

葛尾大尽と歴史の道

●阿武隈の歴史の道の補足

葛尾の地は「相馬藩政史」によれば、相馬藩九代相馬顕胤公に二人の子供があり長男は盛胤といい、妹が一人いた。「天文十八年三春城主田村大膳清夫に嫁」とあり、十代盛胤公の部に「十八年の公ノ御妹ヨ三春城主田村清顕ニ嫁シ姫ノ化粧料トシテ楢葉郡ノ内南津島、葛尾、岩井沢、古道ノ四ケ村添与三春領に属ス」とある。この葛尾村は当時落合村の一部であったが、この時から三春藩に所属していた。

この記録に興味をもったのは前に阿武隈の歴史の道でホ-ムペ-ジで書いたからである。

相馬から川俣→二本松や三春へ往来はかなりあったのだ。二本松と三春への分岐点が山木屋だからあそこが道の要になっていた。道の十字路になっていた。そこで相馬の妹思いの若殿が栃窪の山を越えて飯館から山木屋の十字路に出たとき、三春へ行く道で駕籠をとめ三春藩に嫁いだ妹を案じたという話がその道をたどって行くと何かしんみりとしてリアリティがでてく
る。まさにそこが歴史の道であるからだ。

http://www.musubu.jp/somaabukumarekishimichi1.htm

そのリアリティとはまさにこの記録だったのである。当時は相馬氏と岩城氏と会津の芦名氏と伊達氏が熾烈な領地争いをしていた東北の戦国時代であり三つ巴四つ巴の争いがあった。伊達政宗は信長だった。だから安土桃山城とにていたのが青葉城の険阻な石垣だった。政略結婚も盛んでこの四氏は互いに姻戚関係を結んでいた。岩城氏はあまりなじみがないが相馬藩にも磐城の名が残っている。磐城太田は古代の国名に由来するからその時からつづいているのだ。葛尾村の落合のバス停になぜ「磐城落合」という名が残っているのかやはり岩城氏との関係かもしれない、ここは四氏が争った地域である。何故なら楢葉郡ノ内南・・・とあり楢葉は岩城氏の領地に属していてその境で相馬氏との争いがあったからだ。葛尾村の葛尾は松本氏が信州から最初に移住した一地域でありあとで相馬藩の落合村に属した。相馬藩の境では厳しい領地争いがあった。だから山中郷には境目付が多かった。

四氏の系図はここにある
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/soryo313.htm

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●三陸の鉄と葛尾大尽

今回三陸の宮古-大船渡とか旅したが三陸は湾が多く港が多い、しかし港の背後は北上山地であり山々に深くおおわれている日本のチベットととも言われる地域である。三陸では米をとる耕地が少ない、ただ北上山地があり岩泉で鉄がとれた。その鉄を久慈湾や宮古から相馬の原釜、請戸に船で貿易していた。そこで葛尾大尽を支えた松本三九郎と請戸志賀七十郎がいた。つまり八戸藩の久慈の港と盛岡藩の宮古と相馬の原釜、請戸は鉄の道として海上交通で結ばれていたのだ。野川から鉄が産出してはいた、最初はこの鉄を精錬して使っていたがたりず岩泉から鉄を買い葛尾で鉄を精錬した。葛尾大尽跡は製鉄所跡でもあった。江戸時代だとなかなか遠くの交流を歴史的にあとつげることはむずかしいがそれなりに交流があった。岩泉の中村屋とういう鉄屋が中村屋となっているのも相馬藩の中村と関係あるか゛、もしれない、事実盛岡に三春屋とあるとき盛岡は盛大な馬市が行われて東北一円から馬を売りに集まった所であり賑わった所であった。三春から来た商人が商売するようになり三春屋となづけた。こういうことは各地に見られるから確かなのである。帰り荷として相馬米と大堀の瀬戸物が送られた。やはり三陸地域は米はあまりとれないから米は貴重だった。葛尾村は父の出た村だから関心が深い、江戸時代に曾祖父が柏原に住んでいたことが戸籍からわかったからである。その時葛尾大尽のことを生々しく聞いていたことはありうる。あの辺で話題になるのは葛尾大尽くらいだったからである。山中にそういう働き場所があることは経済的効果は相当大きいのである。父は小出谷(小出屋)で出小屋にきてそこですみついたことでもわかる。その小出を出て今度は双葉の新山の酒屋に丁稚奉公に出たからである。あのような山中で働き場を確保することは容易ではない、鉄を作ることは大きな産業だったのである。そして面白いのは近江から連れてきたヨネという女性が葛尾大尽跡に近江八景を模した庭を作ったりしていることである。相当金も残したから開かずの池とかに家宝を隠していたという伝説が生まれのもわかるのだ。

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2008年11月26日

大倉村と佐須村が一体感をもった理由(真野川を通じて・・・)

大倉村と佐須村が一体感をもった理由(真野川を通じて・・・)


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秋深む大倉村


草野村へと峠さえぎる大倉村や
真野川の下は海へと
上は佐須へと通じける
佐須に山津見神社の古きかな
神と祀られるは狼なりと
佐須の名は焼畑に由来せり
虎捕山の伝説語る昔かな
一軒の農家やあわれ乳神の碑
隔絶されて暮らす昔や
行合道に出て人に出会うや
山を隔て分かれて村々の秋深まりぬ


真野ダムに沈んだ大倉村の大倉の名はもしかしたら鎌倉の御所のあった大倉に由来するのではないかと考えたのも真野川をさかのぼってくれば大倉になる。昔は川が道のようになっていた。アイヌでは川の入り口は尻であり上流が口であった。感覚的に上流に上ることが常にあったからだろう。日本は山国だから峠が多い、村は山によってさえぎられ隔絶することが多い、大倉と草野は明治時代に民情が異なっているから合併しなかったというのも大倉から草野は大変な峠を越える必要があったからなかなか交流ができなかった。ところが佐須とは合併できるとあった。これもやはり真野川を道として考えるとき地理的にわかりやすい、大倉の上流は佐須であり川を通じて結び合うのである。佐須という地域は川の最上流の奥にありここに虎捕山の伝説がありここまで追われた賊が逃れた場所だったというのも必然だった。地理的には逃れるとしたら佐須だったのである。佐須はまた焼畑の意味であり山津見神社が狼を祭っているのは焼畑の守り神が狼だったという説があるからだ。地理がわかるとこうした歴史や合併できない事情なども納得する。飯館村が南相馬市に合併しなかったのも地理的要因が大きかったともなる。

「大倉村と草野村は民情風俗同一ならず、民業にいたってもまた大に異なる」


草野村はまた佐須村とも同じ理由で合併していない。これは地理的要因が大きく働いている。どちらかというと栃窪に出る方が楽だった。大倉からお浜下りの神輿が車で下ってくるのも海を目指す方が地理的に近い感覚だったかもしれない、人間は地理に制約されるし地理の影響が大きいのである。佐須は峠を越えると霊山の方へでる。そこに行合道とあるのも何か閉ざされた世界からやっとそこで人が出会う道にでるからそういう名がついた。そこもかなりの峠であり伊達氏もここを越えて入ってくるのは容易でないから自然の障害が要害となっていた。藩の境界はそういう自然の要害になっているところが多い。日本では特に山が多いから峠が自然の境界であり国の境界にもなるのだ。

郷土史も地理が大事(虎捕山伝説から佐須の場の解明)http://musubu.sblo.jp/article/16416404.html
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2008年08月20日

昔の山の暮らし(馬を飼う牧として利用されていた)

昔の山の暮らし(馬を飼う牧として利用されていた)

夏厩(なつまや)も焼畑地名です。夏厩は、夏の間に山間の傾斜を焼いて畑を開いたり、馬を飼うことによります。(岐阜県地理地名事典) ただし、斐太後風土記の夏厩の項では、夏草を乾燥させて冬の馬の餌(稗糠や稗殻)に混ぜたことに因むといいます。その厩の堆肥を田畑に用いると、穀物が豊熟したので他村から羨ましがられ夏厩村となったと記してあります。また、六厩の人に聞いてみると、岡田長者が夏になると馬を放牧した場所が夏厩とされます。http://www2.ocn.ne.jp/~ynhida/yamagatari/katari/hiyama.htm

上松町の古老は、「蚕のコナクソ(糞)とウマの肥えがいっぱいあって(かぶが)よく穫れた」「ナバタ(菜畑)焼いて木灰つくって連作もできたんだ」と回想する

http://www.tkfd.or.jp/research/sub1.php?id=28

山ゆり、鬼ゆり、小鬼ゆり等は食用部分は煮たりあるいは蒸したりして用い、また澱粉を採取する。

葛巻(くずまき)町

由来
(1)「葛牧」で葛(クズ)の生えた牧場 
(2)「葛蒔」で傾斜地を崩し蒔きした焼畑のこと



農民にとっては、林の下草を刈り取って、馬の飼料や、馬に踏ませて肥料とすること

豊津国民学校では夏休みの作業ノルマとして、軍用馬の飼料になる干し草一貫目を刈り取ってくることが、僕達生徒一人一人に課せられました。土手や空き地に生えている軟らかい雑草を刈り取り、カラカラになるまで天日に干し、縄で縛ってつくった干し草一貫目の束を夏休み中に学校まで持っていくのです
http://www2s.biglobe.ne.jp/~youta/youta14.htm


高遠山は江戸時代末期から木祖村、塩沢などの集落の入会山で、木曽馬の飼料にする草刈りの山だった。近代までは全山青々した草原の山で、地元小学校の遠足や山菜採りに訪れていたと言う、が、木曽馬を飼わなくなった昭和三十年代、草刈り山としての使命が終わり、今ではカラマツが植林されている。
http://www.naganoken.jp/mount/kiso/toriitoge/takatoyama.htm

牛や馬はハギを食う。この荳科(まめか)の植物がよほど好きと見えて牛や馬の飼料に部落の人たちはハギを刈って山のようにかついでゆく。ハギは山野に生いしげるが、ここのはいわゆるヤマハギで赤の色がややうすい
http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/43782_25641.html

山の暮らしは今では忘れられている。昔の生活は基本的には自給自足だからすべて近くにあるものでまかなわねばならない、山の暮らしもそうである。特に交通が発達していないから近くの山が大事になり入会権がいたるところにできて入山を制限した。そこに境木とか境が常にいたるところに設定されたのだ。家は茅葺きだから萱も不可欠であり屋根にするには大量の萱が必要であり萱場という地名などが残された。そして意外と忘れられているのが馬の利用が盛んだった。農家でも農耕馬用に一軒に一疋の馬を飼っていた。馬を今なら車と同じだったのだ。車の燃料はガソリンだが馬の燃料は秣(まぐさ)とか稗とか近くにあるものでまかなうことができた。ガソリンは外国から輸入せねばならないが馬の燃料は身の回りで供給できたのである。山は牧場に牧として使われていた。

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明治三年の飯館村史の比曽村人別帳でも家族の人数は10人から5人で馬は一疋ではない、必ず二匹以上は飼われている。家族の人数が多くなれば10人で五疋とか六疋にもなる。飯館村全体で一六〇〇頭もいたとなると相当な馬の数である。葛尾も長野県の葛尾城から逃れてきたから葛尾としたが葛はやはり焼畑地名に由来していて馬の牧にもなっていたのである。葛尾も名馬を産する地として有名だった。飯館、葛尾などは野馬追いに供給する馬の放牧地ともなっていた。農家では二所帯同居でありここではその他に五男は二二才だから確実に労働力となっていたし十六才の六男でも労働力になっていた。農家だけだと労働力がかなり必要だったのだ。ただ一家にしてもその跡を継ぐにしても五男六男とあるからもし地元に残るとすると田畑が土地が必要となる。それで葛尾村の野川に六良田(六郎田)などを作らせて分家させたともなる。この一家で注意せねばならないのは五男六男四男はいるが三男次男はいない、五女がいてその他がいない、他の一家でもそういうのが多いのは三男四男次男などが早死にしたのかもしれない、五女でもその他の四女三女なども早死にしたのかもしれない、昔は半分くらい子供が早死にしているのがふつうだからである。馬も昔は家族の一員であった。今はペットが家族の一員であり介護までして墓も作り供養しているのと同じである。子供のとき隣が農家で馬を飼っていた。その馬小屋の上で遊んだことがある。馬は身近に存在していたのだ。今でも中国辺りでは馬が荷物を運ぶものとして利用されている。北京の市街までスイカなどを売りにきているのは不思議である。

外国だと昔の生活がそっくり残っていることがあり日本の昔に帰ったような気分になることがある。特にアジアではまだまだ昔の生活そのままに生活している人が多いのである。カンボジア辺りでは水牛を飼い高床式の家で生活しているからまるで日本の古代の生活だった。でも日本だって山で電灯がついたのは戦後まもなくだったり水道もない生活だったりこれほど便利になったのはここ五〇年くらいのことだったのだ。ここ五〇年の変化が激しかったのだ。私の子供時代の十年は燃料も炭だったし自給自足が生活の基本だったのだ。それで馬の糞が肥料になっていたというのもそのためである。インドでは牛の糞は干されて燃料になっている。これはベナレスのような大都会でもそうなのである。日本の昔を知りたかったから外国に行けば具体的に昔がそのまま残っていることに驚く、私の家では店をやっていたが新聞紙でバラ売りの菓子などを売る袋を作っていた。それがインドのバラックのような店でも新聞紙の袋だった。新聞紙でトイレの紙にしたりいろいろ再利用があったごとく馬の糞も肥料として貴重だったとなる。ガソリンの高騰があるが石油の生活は相当な贅沢でありその贅沢なものに頼ると今度は逆に石油が高騰したりなくなると生活がなりたたなくなる。トウモロコシから燃料を作るとか無理がでてくるし世界的な食糧不足にもなる。人間の問題は一旦贅沢な生活をするとそこからぬけきれない、質素な生活をすることがむずかしくなる。でも贅沢な生活を維持しようとするとその代償は高くすつことにもなる。


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2008年08月15日

相馬藩の境にまつわる話

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相馬藩の境にまつわる話

浜通りの歴史的風土は、夜ノ森を境にして異なる。「夜ノ森」の地名の由来は、岩城氏と相馬氏が領有権を争って「余(=我)の森」を主張
し、その境界線となったことに由来すると言われている

伊達と相馬の境のさくら、花は相馬に実は伊達〜に

行司滝−元禄時代、相馬藩と三春藩が領境をめぐって争った際、双方の役人が行司(話し合い)をした場所としてその名が付いたと言われる。

標葉郡と楢葉郡の境界、とりわけ海岸地域は、十五世紀末以来、相馬・岩城両氏が争奪を繰り返し、元亀元年(1570年)岩城領に帰した際にも、“おら浜だ”“おらが浜だ”と争った。のち元禄十三年(1700年)、相馬中村藩と磐城平藩の協定により、北を小良浜(大熊町)、南を小良が浜(富岡町)として境界が決定された


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境界は自然的境界と政治的境界がある。自然的境界は山とか川とかにさえぎられる、自然が要害となり敵をはばむ。外国では川が大きいから川が境界になりやすい、ライン川がゲルマン民族とラテン民族を分ける川だった。riverはライバルであり川を挟んで敵対して競争していたのである。日本では山が多いから山が自然の境界になる。境は坂を越えるところになる。封建時代は藩が一つの国だから境界が大事になる。境界を死守するために戦った。相馬藩でも最初小高に城があったが中村に今の相馬に移ったのはまさに新地方面から伊達が攻めてくるからであった。そこに山がなかったから城を築き守る必要があったのだ。その他相馬藩との境界になっているのは夜(余)の森である。あの辺は未開の森があり境界となっていた。おらが浜(小良ケ浜)でも境界争いの話が残ったのである。境界争いにまつわる話が多いのはそれだけ境界が大事だったからである。それから藩の内部でも境界が多いのである。堺田とか境畑は藩だけではない、藩の内部にもある。それは入会の山だとか江戸時代は狭い領域で人々が暮らしていたからである。入会の山だと制限された村人しか入れない。そこが生活の根拠となるからまた境が大事になるのだ。

 「赤穂市史」によると、入会権をめぐる尾崎村と坂越村の山境争論は1695年(元禄8)に勃発。坂越村が赤穂藩に吟味願いを出し、1809年(文化6)の和解まで1世紀以上にわたって続いた。http://www.ako-minpo.jp/ktai/detail.cgi?no=842


山論
http://www.oklab.ed.jp/zemanjyo/furusato/4-4-2.htm

燃料とか秣(まぐさ)とか木材でも山は今とは違い貴重な資源を供給する場所だった。

境目付-横境目付とかあるのは境目付は重要な役職だった。横境目付とは境目付を横から監視する役目だった。不正があるとまずいからそうなった。高玉氏がその役についている。これと飯館村の山中郷の野馬追いの旗印で書いた。玉野の境目付でありそこに子孫が残っている。高玉氏の姓の人がいたからだ。飯館村の臼石から二枚橋から川俣にゆくのにはまた山を越えねばならない、その山の頂上に水境(鏡)神社がある。これは妙見神社であり相馬藩領であった。ただ飯館村の村史に山水境東洞屋とあるからこの洞屋が神社になったのかもしれない・・地名も水境となっていた。ここも境界の山としては要害となる。佐須地域でも敵が攻めにくい要害である。地図でみると津島がなぜ今も浪江なのかわかりにくい、でも歴史的にみると津島が標葉郷に属していたから継続として浪江町に属している。葛尾村と三春藩はやはり山を境として接している。そこでも境界争いがあり行司滝の伝説が生れた。黒木氏か伊達にとりこまれて相馬藩に敵対したのも地理的なものだった。伊達に近いところに領地があるからどうしても伊達と通じることになった。当時の戦争は地政学的要因が大きく作用したのである。今でも戦争には地政学的要因が大きく働く。地理を知ることは現代でも歴史や政治を通じる第一要件になるのだ。ただこの地理は実際にその地を路査しないと実感できないから歴史を理解することはむずかしいのだ。まず福島県の地理を理解すること自体相当むずかしい。会津までふくめると広いし会津だと山が多いから入り組んでいるからさらに理解しにくくなる。いづれにしろなぜそこに城があったのかとなると偶然ではなく相馬藩の場合は伊達の進攻を防ぐために新たに作られたのである。要害となる山がなかったことが第一の要因だったのだ。
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2008年06月12日

葛尾村(落合)の明暦と元禄と記された石碑の謎

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葛尾村(落合)の明暦と元禄と記された石碑の謎
 

松本家の祖は時の左大臣藤原魚名(721〜783)の末裔で、信州葛尾城主の系譜で、松本勘ヶ由助親家は村上氏の圧迫により奥州に逃れてきたものといわれております。
 親家の嫡男親照が大永初年の頃相馬顕胤公に仕え、田村の境目押しとして落合村の奥地を与えられ(故郷信州の葛尾に因んでこの地を「かつらお」と名付けたと考えられます)


葛尾城は村上氏が武田との戦いで落城したことで有名である。その前に松本家は村上氏に追われたことになる。ではなぜ阿武隈の奥地までやってきたのか?戦国時代は移動が激しかった。またまだ領地とされる地域が確定されていないから逃れて住む場所もあった。葛尾は三春藩と相馬藩の境目にありどちらの領地とも定められない所だった。相馬藩は三春藩から守るために落合を与えた。落合はだから葛尾の要所であった。昔は戦国時代は絶えず防衛が一番大事であった。敵にいかに攻められないか、敵から自国を守るかが最大の問題だった。相馬藩はもともと小高に城があったがのちに中村(相馬市)に移したのは新地が伊達氏と興亡の境でありまた丸森も金山城が一時は相馬氏の出城であったように伊達氏との境界となっていたため中村(相馬)に城を移したのである。黒木氏が一時伊達氏側について田中城を攻めたのも丸森に近いところにあり地理的な要因として伊達氏にとりこまれた。地政学的戦略が常に作用していたのである。化葛尾村で一番古い場所は落合となる。ここはおさえておく必要がある。今の葛尾村の役場のあるところではない、落合になる。
 
相馬領(現在の大字上野川、野川、落合)と三春領(大字葛尾)になりました。明治4年に戸長制度となり、区会所行政下では富岡町第24区、明治16年の役場制度下では下津島とともに同一行政区となり、明治22年町村制度が実施され、上野川、野川、落合、葛尾の4ケ村が合併し葛尾村となりました。その後、津島村と合併して津島葛尾組合村が誕生しましたが、大正12年に両村が分離して葛尾村として発足し現在に至っています。
 
上野川−野川−落合がもともと相馬領であり三春領は別だった。津島も三春領だった。野川は二つの地域に別れているのだから葛尾村でも大きな領域である。野川では寛文 1(1661−1672)に新田、新開の検地が行われている。ここに新田が作られた。野川の六良田A遺跡からは縄文時代の遺跡や鉄炉も発見されているから葛尾では古くから人が住んだ場所である。六良とは次郎田とか三郎田、四郎田、五郎田、六郎田、・・・・とかあり名前であり長男は家を継いだがその他は新開地を求めて新田を開いたのでその名がついた。山で暮らすにはやはり土地が必要なのである。ネパ−ルでは信じられないような高い所に家がある。不便なところに土地を求め家を建てるほか住む場所がない、山に住む場所がなくなれば町におりてくるほかないのだ。その前に出作り小屋を建て仮住まいして畑を作ったりして仮住まいしていたのが住居となる。小出谷がそうである。つまり小出谷とは小出屋であった。ここが私の父方の出た所であり因縁深い場所だった。その実家の人は浪江に移ったのでその家はなくなった。父から昔の話を聞かなかったので祖父の話を聞いていないのでどういうことでそこに住んだのかわからなくなっている。ただ落合が葛尾の中心地でありそこから小出谷の方へ耕作地を広げていったことは確かである。さらに系譜をたどると葛尾の松本家が祖先につながっているかもしれない、落合までは浪江から森林鉄道が通っていた。高瀬川沿いをここまで上ってきたのかと驚く、木材を出していた時は結構活気があった。
 
この碑は何を意味しているのか、明暦と刻まれているから明暦に碑が建てられ次に元禄にまた同じ碑に年号が刻まれた。その間の寛文に野川での新田の検地が行われた。これは落合付近にあったから昔からの古い墓地だった。「為道善知・・・」善を知り道をなす・・」なのかこれは僧侶の墓なのか、信仰として建てられた石碑なのかわかりにくい、資料もないので今は解明できない、ただ時代的には確定されるものがあった。明暦−寛文−元禄とここは葛尾村の中心地で人々が集まり住んでいたのである。
 

明暦 1-1655
明暦 4-1658
寛文1-1661-1672
元禄2-1689
元禄17-1704

 

野川−落合の地図
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?meshcode=56402605

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