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相馬市立谷家の歴史 (廻船問屋問屋で財を成したー原釜ー八沢浦ー小高ー請戸も商売のの湊
相馬市立谷家の歴史
(廻船問屋問屋で財を成したー原釜ー八沢浦ー小高ー請戸も商売のの湊
)
江戸時代、立谷家のご先祖様は、廻船問屋を営んでいました。
立谷するが分業して、「材木」「米」「雑貨」「海産物」および
その他の物資を江戸時代初期から、立谷一族が結束して商いをしていました。
天明・天保の大飢饉・明治10年の宇多川大洪水で、立谷家の商いは
大きい打撃を受けてしまいました。
立谷家一族中には商いを廃業する家も出て、結束の固い立谷一族が、
残念ながら、バラバラになってしまいました。
原釜は東廻航路の湊と名を高めていた。
立屋の資産は五十万両とも六十万両ともいわれ現代(平成)に積算しました金額にして、三十〜三十五百億位ともいわれております。江戸時代前、中期の金銭価値、物価高にすると?世人之人は立谷長者と言って
西の紀国屋文エ門・・材木商(江戸時代中期の享保六年(1721年の江戸の大火で材木を買占めて江戸に材木を高値で販売して一代にして大富豪に豪遊の末に財産を失ってしまい没落してしまいました。)
東の立谷 立屋・・・材木商、廻船物問屋
https://blog.goo.ne.jp/akatsukida/e/4a34e7eb1383aac75754bcf22fbaef6d
天明・天保の大飢饉・明治10年の宇多川大洪水で、立谷家の商いは
大きい打撃を受けてしまいました。
立谷家一族中には商いを廃業する家も出て、結束の固い立谷一族が、
残念ながら、バラバラになってしまいました。
このブログは?何かよくわからない。でも相馬市に住んでる人なのだろう。 立谷の姓の人らしい。立谷一族の一員なのだろう。今の相馬市長は立谷である。立谷の歴史がここに書いてある。でも何かその裏を追求していてこの人は恨みを持っているようだ。
ともかくここで注目したのがこの立谷家が没落したのは飢饉があったためでありまた明治十年の宇多川大洪水があったためであった。それを生々しく感じたのは天明の飢饉で相馬藩は1/3に人口が減ったからである
その穴埋めをしたのが越中からなどの移民だったのである。
それから、明治十年に宇多川大洪水があったということは宇多川の岸にそれを記した石碑があったようだ。また土手もも作ったようである。それは大洪水があったためにその土手を作ったのである。二年前とかでも
宇多川は決壊して街中が洪水になった、その記憶も生々しい
鹿島区でも自分の家でも二回床上浸水なっている。街で一番低い場所にあるからだ。他でも梁川でも水害の被害があったし丸森でもあった
だから日本は災害の国なのである。去年の大地震では相馬市と鹿島区は大被害だった。そのために家を再建することをあきらめ家を壊したい家もいくつかみかけた。
歴史を見るとき、やはり栄えた家がありその没落もありそれが歴史となっている。国自体も栄えてまた衰退して終わる。それが歴史の繰り返しである。ただ、確かにそうして一つの家から歴史を探るということはより具体的であり、身近だから歴史に興味をもつのである。
聖書でも家の物語だったからである。神に選ばれたものの人の家の物語だったのである。そして人間っていうのは自分の生まれた家に一番関心を持っているのである。特に長男は家を継ぐから家に一番興味をもつのである。
ここで興味を持ったのは家が栄えるというとき一見農家が栄えるように見えるが海に面していて意外と海を通じて商売をして栄えたのである。ただ、太平洋というのは荒いからなかなか船で航行することが難しかった。でも相馬市でも原釜が港となり商売が商売のために船で品物を運んでいたのである。その品物は主に米と材木だった。
紀国屋文エ門みかんを運んで財を成したのではなく、材木商として財を成したのである。
だから浪江の請戸の湊からは岩手県の宮古から鉄の素材を運びそれを葛尾村(かつろう)村でで製鉄して葛尾(かつろう)
労大臣が生まれた。その財を成したのは製鉄であり米ではない。また小高には港があり蔵院があった。そこで船で運ぶものを貯蔵したり運ばれたものを貯蔵していたのである。また北海道の松前まで米を運んだりして肥料としてのニシンを船で買いつけに行っていたのである。そのとき北海道ではニシンが大量に取れたからである。それを食べるというわけでなく肥料にしたのである。肥料をなくして農業はありえないのである。
それで相馬藩からは米を運んだとなる。なぜなら北海道では米はとれていなかったからである。アイヌは狩猟採集民族であり漁猟民族ったからである。
ともかく意外と忘れているのが忘れられたのは海を通じて八沢浦でもそういう記録がある。かなりの品物は船で運ばれていたのである。だから小高の塚原というところに何か商売で仕事をしていた人がいたという。その人は商人だったというのもわかる。おそらく米を売買していたみたいである。だから遠くへ米を運び仕事にする人がいたのである塚原はそういう場所だからである。津波で小高駅前まで水が押し寄せていたからである。するとそこを入江であり湾のようになった。湊には適地だたのである。
ただ、津波でそうした塚原とか小高の海の方は壊滅的打撃を受けた。その人は原町市に移り住んだのである。もう一人あった女性は越中から来た移民の人だった移民の家だった。それは海岸沿いに住んでやはり家が流された。そのために相馬藩ではう1/3が越中などから来た人たちである。相馬藩の歴史では天明の飢饉で欠け地が増えてそこに移民が入植したのである。その苦労は並大抵のものでなかった。
やはりここでも宇多川の洪水とか自然災害が契機となって立谷家は衰退してしまったのである。全部ではないにしろやはり災害というのはその家でも衰退させてしまう。津波原発事故ではこの辺では街自体が衰退してしまったからである。またこうした盛衰は交通と深く関係している。北前船が盛んなときはその寄港地となったところは繁栄した。でも来た前船が終わり運送が鉄道になった時その繁盛終わって寂れてしまったので。こういうことはどこでも起きている。交通と商売は深い関係があるからである。
とにかく交通というのはどれだけ大きな役割を果たすか知るべきである。世界史を見てもそうである。大航海時代があったがそれによってヨーロッパに莫大な富が持たされもたらされたのである。それは海が交通路となって船で物が運ばれたからである。 米というのは江戸時代でも商品となっていたのである。そのために仙台藩では石巻から米が江戸に運ばれた。そのために仙台藩ではその米を売るために米を作る。土地を開拓しその米を江戸に売ったのである。それで飢饉の時米がとれなくなった時飢饉の原因になったのである。なぜなら米が取れなかったら他の畑でとれるものが少ないからどうしても食料を供給できなくなったからである。
米というのは商品であったのである。それは世界的グローバル化経済になるとコーヒーばかり作って商品にしているとコーヒーの値段が安くなると。そのコーヒーを作っている人は苦しくなる。そして生活も成り立たなくなる。でもその時その土地の周りをみんなコーヒーにしてしまえば食料がその土地でまかない無いから飢饉にもなるのである。そこにグローバル化経済の問題がそれは既に江戸時代でも起きていたのである。
文久元年ある城下町の一年(鈴木清著)を読む (船でニシンを買いに行っていた相馬藩の商人) http://musubu2.sblo.jp/article/189786921.html
2023年03月06日
原町区上高平の春 (相馬藩の越中などからの移民などの歴史)
2022年09月01日
文久元年ある城下町の一年(鈴木清著)を読む (船でニシンを買いに行っていた相馬藩の商人)
文久元年ある城下町の一年(鈴木清著)を読む
(船でニシンを買いに行っていた相馬藩の商人)

北海道におけるニシン漁業と資源研究
https://www.hro.or.jp/list/fisheries/marine/att/o7u1kr0000000phw.pdf
ニシンの干物はかつて、『言海』に「貧人の食とす」と記されているように、下魚であった。『守貞漫稿』には、「鯡を江戸で食する者は稀で、もっぱら猫の餌である。京阪では煮たり昆布巻にする。かつぎ売りの品は昆布まきにする」
、北海道の日本海沿岸で生産された鰊粕が北前舟で本州へ移出され、菜種、藍、綿花などの商品作物の栽培に欠かせない高窒素肥料の金肥のひとつとして販売され、農村への貨幣経済の浸透を促した。しかし生産時には大量の薪を必要とするため、生産地では森林破壊が進んだ
乾物の身欠きニシン40貫(約150キロ)を1石と計測していた。生魚の場合には、身欠きニシン40貫に必要な200貫を1石と換算している。この石高換算は、松前藩の石高には反映されていないが、各地に千石場所といったニシン漁の盛んであったことを示す呼び名として残った
江戸前期の廻船は順風帆走や沿岸航法しかできず、大坂から江戸までは平均で32.8日、最短でも10日も要していた。しかし上記の弁才船の改良や航海技術の発展により、江戸後期の天保年間には同じ航路を平均で12日、最短では6日と大幅に短縮されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%B3
海の恵みを大地に返す。北海道西北部の港町、留萌市から産出される年間約3千トンのニシンの加工残さからアミノ酸を豊富に含む天然有機肥料「スーパーアミノ10」が誕生した。その肥料を与えられて育った道産米はふっくらと大きく実り、旨味も豊か。
https://www.hint-sapporo.jp/features/pickup/7
ニシンと主に稲作の肥料として利用された、農業というのは肥料が最大の問題なのである農業の始まりは焼畑農業であったことでもわかる、森の木を灰にしてそれを肥料としたのである、また害虫も死ぬからそれも効果的だった
ただ人間の職業がなんでも業(カルマ)となるように焼畑農業でも森を破壊するから自然破壊になっていたのである、
ニシン粕(かす)生産でも大量の薪を使うということで森林破壊していたというのも意外なのである、何か人間のすることは必ず自然破壊に通じているのである
草木灰の主な成分は、石灰、リン酸、ケイ酸、カリウムです。石灰分が多いことから、苦土石灰のように土をアルカリ性に傾ける効果があり、草木灰が白いほどアルカリ性が強くなります。また、カリウムは水に溶けやすいことから、速効性がある肥料の1つとして利用します
そもそもなぜ相馬藩が松前までニシンを得るために船で行ったのか?
松前となれば遠いのである、また船だと危険なのである、そんな遠くまで行くメリットがあったのかとなる、現実に破船したとかあり遭難があった、船に遭難がつきものなのである
だからそれほどまでして松前に行く理由がわからないのである、言えることはそれだけ農業というのは肥料が生命線なのである、今回のロシアとウクライナの戦争でもわかったことはロシアから輸入していた肥料が入らないことで高くなることで苦しくなったことでもわかる、また糞尿でも肥料にしてきたのはなぜか、窒素とかリンがありそうなった
肥料なくして農業はないのである
ただ相馬藩内でも漁業をしていた、でも肥料にするほどの魚はとれなかったとなる
それで相馬藩の他藩へ売るものは米だったのである
米を積んで松前まで運びニシン粕を運んだのである
何かこの辺で小さな畑をしていた人は角田にいい肥料があるとして鶏糞があるとしてわざわざ買いに行ったことがある、いい肥料があるとなるとこうしうて遠くまで買ういに行くとなる、現代ではいい肥料はロシアとかにあるとなっていたのである
●相馬藩の小さな湊でも船が入り荷を運んでいた―塚原の人は新潟から来た米商人か?
中湊の近藤長四郎(茨城県ひたちなか市の商人)千代久吉殿が仙台荒浜への下りだと立ちよった
米を売ってほしいとのことで十両で米を25俵沖渡しの相場を申してきた
相談に応じるべきかどうか御上に伺いを立てなければならないというととけば引き合いにならないと早速出立してしまった
永昇丸 公用船、松前で購入
吉田屋源兵衛手船、乾々丸破船、弁財五人乗り、船頭弥七(中津大津屋治兵衛の子)
9月4日松前城下湊で破船
又吉殿が寒風沢へ永昇丸を廻すように申し渡した
福島、二本松、梁川、へ申しだしおいた秋味(鮭)の売さばき方で海産物商人が出張した
永昇丸(公用船、吉田屋源兵衛手船)が中湊より原釜へ廻るとのことで明後日まで当方を出帆して松前へニシン買い入れ下る手はずになっている
塚原(小高)で千七百俵、小浜(原町小浜)で千俵、受戸(請戸)で瀬戸三百俵積受するように仰せつけられた
聖天丸―松前通之船も今暮れ(原釜に下船した
亘理の永田屋万七殿が江戸仕入れの登りかけに吉田屋にたちよった、仕入れの品々を原釜に積下したいと申し入れがあったがもはや当夏は下り船がなくもし船あれば末永く取引できそうな人なので手厚い取り扱いをして御積み入れ御頼みしたいの文通で丸屋清七殿への添書を同人へ渡した
西街道御上がりの折、川又の湯屋弥七という者が止宿へ罷り出て,砂糖、琉球類を一ケ年
百駄ずつ受戸浜に陸揚げして川又へ通り荷したん嘆願のところ、願いの通り御聞済になりこの度弥七が江戸表仕入れで受戸浜市十郎船得運丸へ積下った由
平潟の相馬屋万平殿(茨城県茨城市平潟町の商人)より来る状があった
亀友丸(吉田屋源兵衛船)が岩城の板類積下りのところ去月二十五日積仕舞い、同二十九日に同処を出帆のこと
永昇丸が原釜へ出帆して無事に松前城下に着いてそれよりニシン売りを積むつもりであったが節遅れで昆布を積んで運賃取などして利潤を得た
松前城下より積み荷して予定のところ三日の夜大時化で同湊で50余艘の破船があった
塚原よりの飛脚の者へも書状を出したが、小浜廻米奉行がかれこれと申し、御積立てが延引になった、船のためにもならないので、今朝志賀様より小浜廻米奉行高野への御用状を貰い、また追飛脚を差し立てた
今朝御用状持参で熊人を以って塚原へ差し立てたがとても五七日では積み立てはむずかしいので原釜へ廻すことのこと
松前箱館に御出張の佐々木と大友氏の御両人への書状
内容は永昇丸羽破船について、弥七、久蔵の到着以来、この代船、この度御制立なされること御治定になり、金三百両を渡し、越後新潟に出張申しつけられたのでニシンを買い付けの御手当てを下され・・・・
先月二十日に小高郷村上浜へ乗り上げた寛勢丸(石ノ巻の高橋屋の手船)
1700石積、塚原村村上村堺の川場で破船
塚原より熊人が来た、己百丸がしばらく昨日から今日まで先に九百俵積み、残りの二千俵余も積み切った、船頭は原釜より浜回りして塚原へ参った
塚原よりの人を召し入れて夕七つ半出立した
松前通船の永昇丸の代船を御上にて再興したいとの思し召しがあった
伊勢で御造船の予定である
船代金でこの度越後新潟で二三才くらいの船を旧冬中に買い取り中荷は御上がり
・・・・
元船頭、永昇丸久蔵へ迎町の平井氏に大工を付き添わせこれに買い船代金の二百両を渡し予定である、出張先で万一買い船がないときは同所で新規の造立の予定
六百石積・・・なり
一昨日までにしばらく己百丸(去月五日原釜へ下帆した船)が塚原での積み立てが出来、今暮、御帰りとのことである、古穀二千七百五十俵、早速出帆した
小浜とか塚原とかには湊があった、でもそこから江戸までは行かない、大きな港は原釜と受戸(請戸)である、そこに米を集めて江戸まで運んだ
また寒風沢(さぶさわ)は塩釜でも必ず船が立ち寄る場所になっていた
石巻から仙台藩の米が大量に江戸に船で送られた、では相馬藩から江戸へ送られたのか?その辺がはっきりしない、阿武隈川の船運があり荒浜から江戸へ船を運んだ
一旦荒浜とかに相馬藩内の港から米を運びそれから運んだのか?
ただ途中の茨城県の平潟とかを中継して中湊とかを経由して江戸に運んだ
そこで積荷を別な船に代えたということもありうる、江戸まで船で行くことは当時むずかしい、松前で破船があったからだ、海は常に危険であり遭難がつきものである
そして不思議なのはなぜ新潟と関係していたのか、新潟で新しい船まで作るために行っている、そして小高の塚原というのは意外と関係していた、
小高には湊があり大船が出入りしていたが津波で消失した
(文禄二年の相馬藩の士禄の記録が語るもの)
http://musubu.sblo.jp/article/102082176.html
ここにおん船という記録が異常に多いのである、塚原には多数の船が入ってきて船を持っていた人が多かった、塚原は高台にあったがその前は海でありもともと蔵院とかあり船が入ってきた場所だったのである、なぜ小高城が浮舟城とういのか海に浮いている船というときその前は海だったからである、入江であり湊となっていたのである
だから津波で海になり小高駅の下の水道管から街の方へ海水があふれだしたのである
つまり駅から海の方はもともと海だったのである
それは浜吉田もそうだった、駅前は海になったからである、海が遠いようで近かったのである
塚原というとき小高の大工さんは塚原であり高い場所でも津浪に襲われた、立派な家を苦労して作ったが放置されている、息子は仙台市に行ったとか放置されて本人は原町に住むようになった
その人は家が米を売買する商人だったらしい、米を取引する家で不思議なのは新潟から来たとしている、一時は相馬市に住んで小高に移り住んだとか言っていた
なぜ新潟なのかというときどうもこの文久時代に米の取引があり松前に相馬藩内から商人が船で行き来していたのである
それでも松前となると遠い、でもこの時代の記録にあるのだから確かである
なぜそん遠くに行ったのかとなるとニシンが大量にとれその粕が稲作のための肥料になったからである、そんな遠くにわざわざ肥料を買うために行ったのかとなるが農業にとって肥料ほど大事な物はないのである、農業は肥料を作ることが主な仕事になるのである
だからこそ松前まで危険でも船で行ったとなる
もともと鉄の素材を買うために受戸(請戸)では船で宮古から買い入れていた
そして葛尾村まで運び加工して製鉄していて葛尾大臣が生まれたのである
●歴史とは地歴であるーその場に生きていた跡をたどること
歴史を身近にするにはやはりそれぞれが生きている場所から始まる
歴史はどうしても日本史とか世界史とか大きなものからはじまる
でも歴史の始まりは家の歴史なのである、それが一番身近だからである
聖書でもそうである、神に選ばれた人の家族の歴史を記したものでからである
この文久時代の記録をたどりその時何が起きていたかただ事実を羅列していてもそれが
貴重になる、なぜなら記録というのが残らなければ過去は知り得ないのである
そのために記録が大事になる、ただ記録があったとしても昔を偲ぶのにはどうしても想像力が必要になる、相馬藩内だと地理がわかり場所も特定できるから身近になる
文久というとき明治と密接に結びついている
文久生れとなると明治に活躍した人達である、内村鑑三とかは文久であり新島襄とかは天保である、つまり江戸時代の終わりはすでに明治に生きる人達なのである
ただわからないのはこの記録では原釜、小浜、塚原、請戸が出て来る、でも鹿島区の八沢浦とか海老浜は出てこない、八沢浦は江戸時代まで入江であり船運があったという記録がある、また湊という地名もあり海に面していて湊だったのである
それが津波じ消失した、海老も前が海であり船が出入りしていた、右田浜は干拓されて右田の松原が作られた、それは江戸時代である、でも津波で消失した
烏崎も今も港であるが村は津波で消失した
ただ文久時代をみれば原釜、小浜、塚原、請戸が中心になり船運があったとなる
大きな港は原釜であり請戸である
ともかく歴史とは空間軸と時間軸から形成される、そして地元の強みはその土地に生きているからその土地から昔をたずねる、すると何か土地は変わらないから過去が具体的にイメージできるのである
それで双葉町の新山で私の父親が酒屋で働いていた、今もあるのは煉瓦の煙突がある富沢酒店である、それは記録にも残っている、でも私の父親が働いていた酒屋は消失した
でも父親がここで働いていたのだなと思ったとき不思議な気持ちになった
その道を歩いた時、何か歴史を父親とのつながりを感じたのである
歴史とはやはり場が影響している、そういう空間は場は消えないのである
でも双葉町のように最近避難解除になったが住む人がいないと死んだ町になり過去も死んでしまうとも感じた、ただ父が歩いていて私もそこを歩いているということで歴史を感じたのである
歴史とはむずかしいことではない、過去を生々しく感じたら歴史が身近になる
だから歴史は祖父母などでも親でも聞いた話からはじまるとなるのである
聖書自体がそういうものだったからである、歴史というとき何か大きな国とかの歴史ではない、個々人の血の通った場所に通じたものが歴史なのである
今回通読した文久元年、ある城下町の一年というのは確かに記録の羅列なのだがここに生きている人にとっては身近なのである
そこに確かに自分の祖先が現実に生きていてその子孫も生きているからである
我が父の歩みしこの道親しかな虫の音かすか新山の道
こんなふうになるのである、他に姉がシンガポールの向かいのジョホールバルで従軍看護婦として辛酸をなめた、四年間地獄の苦しみに生きた
もし自分もそこに行けば何か歴史を具体的に感じるのである
戦争の是非とは別にやはり親とか祖父母から聞いた話は身近になるからである
歴史は空間軸と時間軸で作られるという時、具体的に理屈ではなく死んだ人でも生きているように感じることが歴史を感じることだともなる
この本に記された記録は確かに自分の先祖が記されているということで身近になっている人もいるだろう
ただ歴史というのは想像力が必要になる、記録から何をイメージできるかになる
ただ記録の羅列から何もイメージできないこともある
それで記録が大事でも過去はドラマとなる、それは何か事実をゆがめるし歴史ではないともなる,ドラマと歴史は違うのである
でも記録からドラマも作られる、ここで商人の苦労があり船で商売する苦労が語られている、破船もあり遭難もある、海は常に危険でありそれ故に必ず無事に帰ってくれることを海で暮らす人は思うのである
また琉球類というとき砂糖がありこれも貴重だった、砂糖は琉球しかからしか入らない
だから砂糖を使うことはそれでお菓子を作ることは相当に貴重だったのである
あんこでも佐藤を使うからぼた餅などは滅多に食べられないとなっていたのである
いづれにしろ記録は意外と大事である、何でもいいから日々記録していることが後で貴重になる、全国を世界を旅したが忘れている、外国だと余計に忘れる
写真をみてもどこで撮ったかも不明になっている、人間は忘れ安いのである
プログで15年も書きつづけいるけど自分の書いたものも忘れる、そして読み返してみて自分で感心しているのも不思議なのである
つまり人間とは忘れやすいのである、だから百年前とかさらに400年前とかの記録となると記録として残っているだけで貴重なものになる
それでこの辺で相馬藩で二行だけ生波(いくなみ)で津波で700人溺死と記されていたことほど貴重なことはなかった、でも学者すら知らなかったのである
津浪が来て調べたらわかったのである、その時代に津波の被害を受けた人は自ら記録を残すこともできなかったのである
今は膨大な記録が残るから忘れられることはないだろう
映像でも記録されているから過去が蘇るとなるからだ
それで明治時代に東京駅の前を荷馬車が行き来していたというこも驚きである
車がない時代であり運ぶのやはり荷馬車だったのである
いづれにしろ記録だと無味乾燥にもなるが学問はそういうものでもある
ドラマとか小説とは現実は違っている、だから地味なのである、でもその地味なことでも記録したものを知ることは大事だということである
それがこの辺の二行だけ残された生波(いくなみ)で津波で700人溺死の記録なのである
郷土史というとき電子化してキーワードで検索するようにする
2022年05月30日
橲原(じさばら)の山神社から堰を訪ねる (一之堰としるした江戸時代の碑があった)
橲原(じさばら)の山神社から堰を訪ねる
(一之堰としるした江戸時代の碑があった)
関所に由来するのは温海町の鼠ヶ関と関川(鼠ヶ関川の省略)だけのようで、大部分は堰で用水路のことです。鶴岡市田川の関根は旧村名で、大山川から取水する堰があり、それに由来する堰根です。
(一関はやはり一堰のことー江戸時代からの歴史)
本町の関根も平田町・堰根と同じように堰根です。根は「事のおこるもと。物事の元をなす部分。」(『広辞苑』)ですから、堰が始まる所すなわち堰の取水口になります。
http://koichikato.world.coocan.jp/minpou/minpou2004/minpou2004.11.14/newpage4.html
一関(いちのせき): 岩手県一関市
・ 以下のような説があると言われる。【岩手県庁のサイトより】
(1) 「一ノ堰」から転じたもので、北上川の氾濫をせき止めるための一番目の「堰」をつくったことから
(2) 市内に「一関」「二関」「三関」があり、平泉の関所にちなむ。
(武家)
橲原下総 本氏渡部 文禄二年清丈冊に見ゆ
後孫渡辺氏を称し今中村に居る
島
大塚
只野
寿人 大塚与右ヱ門
99才にして文政12年巳歳 文政12年死す 今の与右ヱ門の祖父なり
細入第址
在昔相馬左近及胤公の居所なり、慶長中秀中―忠公に仕ふ、後故ありてこの地に蟄居す
元治三年卒す,歳68才 法□仏性印殿鉄山関公大居士 墓碑は小高山同慶寺にあり
(鹿島町誌)
山岸とあり水無川の上流の橲原(じさばら)に山神社がある、これが意外と立派である
三段くらいに石垣で組まれて高い所に社がある
だからこれだけの石垣を作ることは相当に労力がかかっている
その碑に一之堰と記されている、江戸時代のものである
その上の方に行くと実際に堰がある、そこから水が流れて来る
橲原村は文禄二年清丈冊に見ゆとあり文禄時代に開かれたとなるから古いとなる
ただその前からの村もありここはやはり江戸時代になって開かれたとなる
そこで99才まで生きたとか記されている、これは信じられない、江戸時代でこんなに長生きするとは思えないからだ、戸籍とかの間違いだろう
堰のすぐ下に「屋敷沢」とあり屋敷があったのか?
細入第址がそれなのか、屋敷があり沢があったとなる、何か橲原でも太原ても隠居した人がいたとかそういう場所にふさわしい、
ともかくこの一関はやはり堰を作った記念として碑にも出ているから堰のことである
堰とは田に引く水で重要であり水神が祭られているのもそのためである
ここでわかっているのは武家の出として島 大塚 只野である
只野というとき50人くらい鹿島区にいる、それは只野氏とは南北朝の時霊山で南朝の北畠氏が滅びて炎上して落ち延びた末裔なのである
橲原と大原は似ている、そこが行きどまりになっているからである
それ以上奥になると森になるからである、江戸時代だったら相当に辺鄙な場所になる
耕作地も狭い、でも木材がとれていた、それで生活していたともなる
私の家の柱は橲原で姉の同級生が切ったものを柱にしていたと聞いた
つまりまだその時は外材ではなく地元の木材を利用していたのである
でも50年前とかであり大工の手間賃もまだ安かった、そのあとすぐに大工の手間賃が馬鹿高くなっていったのである、だから400万とかかかったと聞いたが本当に安かったのである、今なら大きな家だったら三千万くらいかかるだろう
その時高度成長時代の真っ最中であり景気が良かったのである
南相馬市だと橲原とか大原は奥座敷なのである、ただ放射線の被害で田も今は作っていない、草ぼうぼうになってしまったから残念だとなる、それでも人は住んでいる
でも田で米作りをする人はいなくなっているのだろう、荒地のままになってしまったからである
とにかく堰とは水を供給するから大事なものでありそれでその記念の碑が建ち今日にも残っているのである
つまり郷土史とは先人の苦労を偲ぶとういことにもある
だから江戸時代から継続された歴史があり原発事故でそうした継続された生活でも断絶することが問題なのである
なぜなら祖先が先人が苦労して作り上げたものが喪失してしまうからである
すると祖先も浮かばれないとなる、ただこれは個々だけではない全国的に過疎化してこさうした山の村は廃屋となり廃村となりつつある、日本の人口は縮小するからその衝撃も大きいのである
2022年05月12日
相馬焼きの歴史 (縄文土器から始まる日本の陶器、骨董でも江戸時代のものは価値がある)
相馬焼きの歴史
(縄文土器から始まる日本の陶器、骨董でも江戸時代のものは価値がある)
江戸時代の終わりには窯元も100軒以上になり、販路も北海道から関東一円まで広がり、一大産地へと発展を遂げ、大堀相馬焼は日常の器(= "雑器")として人々の生活へと溶け込んでいきました。

相馬焼きの歴史(ホームページ―自作)
http://www.musubu.jp/somayakimono1.html
前のホームページで書いていた、その時は震災前であり大堀相馬焼きが軒を並べていた
風光明媚な高瀬川があり中国の山水画のような岩があった
そこは常に激流が流れていた、その大堀焼きも原発事故で失われてしまった
陶工は福島県の各地に散った、そこで伝統を守りつづけている
相馬焼きが磐城から伝わったというのも地理からそうなった、でも磐城ではたいして有名な窯がない、勿来焼きとかあってもたいしたものではない、相馬焼きになり全国のブランド品となった、ただ日常雑器としても使われた、第一百軒も窯元があったということは
一大産地となっていたのである、そうなると相馬藩の財政にも影響したとなる
藩でもともと奨励して収入源とした経緯もある
農家の副業にもなった、だから何か大堀に行ってそこで畑を耕していた老婆がいたことを自分のホームページで書かれていた、それは柿のなる季節であった
それで俳句とか作っていたのである
だからそういう場を失ったことが大損失だったとなる、もう回復しないからだ
でもまだ高瀬川渓谷は消えたわけではない、残っているが立ち入り禁止区域になったので行けないとなる、そこは相当放射線量が高いとなったからである
相馬焼きでも江戸時代のものがあれば骨董品でも価値がある
この辺は地元だから旧家に残っていたのが出ているのである
何か農家には蔵がありお宝が残っているともみる
ネットの販売で売っている、ネットだと全国が相手だからいいものがあれば高く売れる、地元だけでは高く売れない、なぜなら買う人が限られているし金持ちが多くないからである、また興味ある人もそんなにいないからである
そもそも相馬焼きでも江戸とかでも評判になり売れていたとういことで相馬藩の収入にもなったからである、今でも新しい相馬焼きが生まれて世界にも販路を広げようとしている
骨董品というとこれが意外と歴史と関係している、残された物から歴史をみる、その謂れを知るからである、十四代も使われつづけた茶碗とか急須があるとなると価値がある
ただそれを知らなければただの普通の器だとしか見ないだろう
また骨董品では古い物、特に江戸時代のものには価値がある、なぜなら私は古い碑とか墓をみる、そこで確かめるのは江戸時代の年号なのである、まずこの辺では元禄とかなると古いからなかなか見つからない、それで相馬市の新田に元禄の碑があった、そこは寺田というところでありもともと寺があったからそうなった
ただ震災で津波がそこまで来て波にのまれたが浅いので石碑は残っている
また元禄と明歴という碑が葛尾村の高瀬川の上流の野川に残っているのも不思議だった、こんな場所にそんな古いものがあるのかという不思議だった、ただ葛尾村も相馬藩内でありとうも検地の記念として残されたようである、検地の記念として残されたのは意外と多い新地では文禄の碑があった、相馬藩内で文禄の碑など見たことがない
それは明らかに伊達藩の検地の記念であった、検地が江戸時代の初期に全国で実行されてそこで米を税として治めさせて藩の財政を安定させたからである
骨董品でももし江戸時代の年号とか記されていれば価値がある、江戸時代のものは希少価値があるからだ、芸術でもその時代でしか作れないものがあるからその価値は色わせないむしろ価値を増してくるのである、芭蕉の奥の細道などがそうである
その価値は衰えることがない、「五月雨の降り残してや光堂」というように金色の輝きがさらに増して残されることになる
だから私が大堀を訪れて作った俳句とかでも価値があるかもしれない、なぜならそういう風景がなくなったからである、するともう再現できないからである
何か本当に津波とかで村ごと消えてしまった、新地の海浜公園になったところはもうそこでここに結構家並があり港町があったとういことをイメージすらできない
そして全く震災の津浪を知らない世代は全く新しく生まれた人達がそこに立っても昔ここに家並があったということをイメージもできないのである
海の風海浜公園に夏雲雀
このように全くそこに家並があり村があったということはイメージできないのである
別にそこは新しくなり気持いい場所になった、でもそこで何か昔をイメージが全くできないのである、一応漁港があるからそれでイメージするとはなる
それは烏崎とか請戸村とかでもそうである、村自体が津波で消失してしまったからである
つくづく人間はもともと忘れやすいのである、人間が一旦死ぬと何かあいまいなものとなり深い霧の中に隠されて実体がないものとなる、急速に忘れられるのである
それは60年とか一緒に暮らしていてもそうなのである、津波でそうした激変があり相当数が死んだ、でもそれすらだんだん忘れられてゆくのである
だから意外と何でもいいから記録していることが貴重になる、大堀相馬焼きを訪れて書き残した物でまたふりかえりイメージするとなるからだ、こういう場所だったのかと想像できるとなるからだ、柿がなっていて何か大堀焼にふさわしい場所だったともなる
焼き物でいいのはその土地と結びついて作られている
もともと土で作るのだからその土地の土と関係している、それで高瀬川の砂でも陶器を作ったとか書いてある、宮島焼とかは砂で作ったものである、焼き物は鹿児島とかなると火山灰で作ったとかもある
大島焼は三原山の火山灰をミルで細かく挽き、木節粘土まぜた土で成形します。
釉薬は椿油を絞りかすを灰にしたものや雑木の灰を原材料とし、薪窯で焼成します。
https://blog.goo.ne.jp/masarugama/e/623488e3e2917db5ec551b23ead6caf2
椿油というときこれは戦後まもなくまだ使っていた、今のようにいろいろな油がなかったからである、菜種油などでもそうだった、陶器には様々な材料が使われているのである
宮島焼は,江戸時代から焼かれ始めたと伝えられ,嚴島神社本殿下の砂を入れたことから「お砂焼」の名でも知られています。その後何回か窯の興廃があり,現在の確固たる基礎が固められたのは明治の中頃です。
清楚な雰囲気に特色がありますが,粘土に砂を混ぜると窯変が起こりやすく,自然に二つとない模様が生まれて独特の風合いを醸し出しています。
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/67/1170644786687.html
こうした成分は化学的に分析すればわかるだろう
このようにその土地の材料を作るからその土地と結びついているのが陶器なのである
それでお土産に土から産したものとして陶器がいいのである
今だとネットで全国の陶器が買える時代である、それで全国を旅して窯元に寄ったのである、そもそも日本の独特のものとして焼き物がある、第一縄文土器から始まっているのだからその歴史は日本がでは古いとなる
中国だと磁器でありこれは外国に輸出された貴重なものである、伊万里焼でもそうである伊万里焼などはトルコの博物館などにも飾ってあったからである
相馬焼きからも今は新しいものが作られている
大堀相馬焼の窯元に迫る(1)休閑窯 半谷秀辰さん
https://www.730.media/kyukan/
ここに出ている現代的な斬新な皿がいい、土と海の色が出ている、何か自分のしている抽象画と似ていると思って見た、陶芸の模様は抽象画なのである
2022年02月10日
大工から棟梁へー建築の歴史 (人間全体を見ていた江戸時代の大工とか医者)
大工から棟梁へー建築の歴史
(人間全体を見ていた江戸時代の大工とか医者)

パンデミックで医者の裏の顔がバレました!
あれほど素晴らしかった日本の誇りが・・崩れようとしている・武田邦彦
https://onl.la/bzpdxBn
●大工ー棟梁の歴史
【棟梁】より
…それが近世に向かって,大工,木挽(こびき),左官,屋根葺,鍛冶など,職人の専門的な分化がすすみ,一方,城郭や町の建設がさかんとなるにつれ,閉鎖的な組織を打ち破って造営工事を合理的に運営する,新しい組織を必要とするようになって,棟梁という個人的技能に基づく工事指導者と組織が成立していったといえる
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%A3%9F%E6%A2%81-1359053
大名達は優秀な技能を持ち『大工職』に縛られない工匠集団を必要としていた。この要求に基づいて創られたのが『棟梁』を指導者とする工匠集団であり、中世的な座の制度(『大工職』)の破壊を目的としていたと考えられる。
https://bingo-history.net/archives/14032
棟梁という言葉は今日では「大工の親方」という意味で用いられることが多いが、元は建物の屋根の主要部分である棟と梁を指していた。棟と梁は建物の最も高い部分にあり、かつ重要な部分であるため、転じて国家などの組織の重要な人物を指し、また「頭領」・「統領」という表記も用いられた(『日本書紀』景行天皇51年(121年)条において武内宿禰を「棟梁之臣」と表現している)。10世紀から11世紀にかけて、各地に「堪武芸之輩」・「武勇之人」と呼ばれる人々が現れて武門の源流となり、それを統率する人物を「武門之棟梁」と称した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E3%81%AE%E6%A3%9F%E6%A2%81
町大工
主に木造軸組構法で家屋を造る大工(町場大工とも言われる)
町場の由来は、古くから日本各地で相互扶助の単位として町(町場)という共同体のことからであり、江戸時代までは都市部の公的な自治単位として多くの権限を有していた。都市部の庶民のまつりごと(自治、祭礼)は伝統的にこの単位で行われ、その慣行が今でも残っているところも少なくない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%A5
【太子講/たいしこう】
先述したように、聖徳太子は法隆寺をはじめとする多くの寺院を建立し、建築の神様として古くから信仰されていました。そうした背景から、室町時代末期になると、聖徳太子の命日とされる2月22日(旧暦)を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講(経典の講義をする会)が行なわれるようになりました
https://wawawork.work/workerstrend/skills/641/
普請においてその町に住むものはその土地の大工を使うのが不文律であり、それをたがえる時はそれなりの理由と挨拶が欠かせなかった。またこの様なことは大工に限ったことではなく町の中でお金が循環するという相互扶助でもある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%A5
人間を見る時どうして見るかというと今を見ていたらわからない、時間軸で見ることが不可欠でありそれで何でも歴史がありその歴史をふりかえると見えてくるものがある
どうして今はこうなってるのだろうという疑問があるがそれが解けるともなる
そのために常に歴史的にみる訓練が必要になる
大工という言葉がすでに奈良時代にあるとか古いのに驚く、棟梁はむしろ後にできた言葉である、棟梁というときいろいろな建築にかかわる専門家を束ねる人だった
だからこそ町作り全体にかかわる街の都市の設計者にもなっていたのである
そうなったのは城とか城下町とか大規模化したとき建築家が必要になり束ねる人が棟梁となったのである、武家の棟梁というときそうである
だから大工とか棟梁とかは町全体を作るものとしてかなり地位的にも高く給料も高かったのである、大工は尊敬されまた棟梁となるとまさに殿様の名称にもなっていたのである
それだけ誇り高い仕事となっていた
武田邦彦氏のyoutubeで語っていたことは興味深い、大工はその人がどういう人生を送りたいかを見て家を作る、だから家を建ててもらう人のことを聞かないという
どういうふうな部屋割りにするとか聞かないという、それも何か理解できないがその人がどういうふうな人生を送るのかという時、その人の人生を見るというとそれはその人の全体を見ているのである
それは医療でもありうる、その人を見るときその人の全体をみる、体の部分だけを見ない体全体をまたその人の暮らしとかまでみる、だから患者が何々の薬をくださいと言っても医者は応じないとしている
つまりその主導権が大工に棟梁にあり医者にあって依頼者にはなかったとなる
また町全体を作るためにそれに合った街並みを作ることもあるから勝手な個々人の要求で家を建てられないということもあった
京都の町屋などがそうである、それで江戸でも京都でも街並みができあがっていた
そういうことを棟梁がしていたというのは発見である
つまり個々人でも家作りでも街作りでも全体を見てかかわり指導していた人がいたということである
●現代社会は何でもばらばらに部品化した
現代というのはともかく何でもばらばらの部品化してしまったのである
それを統率するものもいないのである、だから街でも不揃いの醜いものになった
京都でも町屋の前に高層ビルが建ったり常に景観を壊すものとなっている
統一した街作りができないのである、そういう棟梁とかがもういないのである
つまり現代とは全体を見て何かを作るということがなくなったのである
それは医療でも人間全体を見ている医者などいない、人間の体の一部を見るだけであり
人間全体の体だけでなくその人の暮らしとか人生まで見る人はいないのである
だから江戸時代なら医は仁術というときまさに人間の体だけでなくその人の人生とか暮らしとかまで見ていたのである
大工が町で重要なものとして誇り高いものとしてあったというときそれはその木材でも資源でもたいがいその土地で供給されたものである、その土地にあるもので作られていた
今のように外材とか何でも外部からそれも外国から輸入したものではない
すると一軒の家を建てるのに茅葺屋根の家でも村全体でかかわり建てたとなる
それは村全体の中で作られていたのである
それが現代だと大企業のハウス会社が一二週間で組み立ててつくる、まるでプラモデルを作るように作る、そこに地元の大工はかかわらないとなる
すると地元の人がかかわらないから地元の人とのつながりもなくなる
田舎はそうして何でも生活自体その土地と密接に結び合って成り立っていたのである
だから今は何か街自体が密接に結び合わない、何かプラモデルのように作られた人工の街のようになっている、だから解体するものも簡単だとなる
子供が遊びで積木のようにプラモデルのように作りあきたとかなりみんな簡単に壊してしまう、それが原発事故の避難区域で起きた
簡単に街でも村さえも住人が放射線被害で住めないとして廃墟化したからである
それは理由があるにしてもこんな簡単に街でも村でも人がいなくなったということに驚いたからである
そして浪江に住んでいた人は電気関係の人でありその人は回りの田畑が草ぼうぼうになっていても何の関心もなかった、補償金もらって良かったとして喜んでいたのである
他の人も老人でも年金代わりに補償金もらって喜んでいるよと言っていたのである
このように今や人間と人間のつながりは小さな町ですらなくなっていたともなる
だからこそ簡単に解体したのかともみた
実際は浪江のような一割くらいしか帰ってこない街でも別に車があったりすると物は買いに行けるし物は入ってくるからそこで暮らせないということはないのである
それにしてもこういう社会は何なのだろうとなる
それを理解するにはやはり歴史をふりかえることである
●ヨーロッパのartの意味
地名としては日立木に町場橋とかあり仙台市の長町に太子堂駅ができた、でもそこには聖徳太子の堂はないが前はあったからその名をとった
聖徳太子は大工の神様のようになったのは中国から大工技術を取り入れたためだとしている
日立木の町場橋の由来は大工が集団的に住んでいからか?相馬の城にも近いからである
相馬の城下町の延長としてあるからだ、距離的にも相馬市内という感覚にもなるからだ
とにかく大工とは尊敬される職業だった
今でも一人親方を知っているがその人は庭作りでも壁造りでも大工としていろいろできるのに驚いた、器用なのである、人間性は別にして職人として大工として優れているのである、体力的にも見た感じが柔道の有段者のような体つきをしているのである
それはまさに生まれつきの素質があり大工となり一人親方となったのかともみる
私は建築に興味がある、建築はやはりアジアでもヨ−ロッパでも建築そのものが市を作るものとしてエンジニアでありその人は棟梁であり重要な役割を果たしていたのである
こうした中でも建築事業を統括する技術者は「アルキテクトーン」と呼ばれていました。
「アルキ」は「頭(かしら)」のことで、棟梁のことを指します。
都市の住民は、同業者同士の相互扶助のため組合を結成した。13世紀のパリではその数は約100にものぼる。これらはそれぞれが特定の守護聖人をもつ宗教団体でもあり、同業者の増加を制限する閉鎖的集団でもあった。
石の大聖堂をカテドラルを建てたのはフリーメーソンとして知られる、秘密結社であり陰謀論では今でも世界を支配しているといわれるのはそれだけ重要な役割を果たしていたのは日本の大工とか棟梁とかと似ているのである
もともとギルドを組合を形成して大きな力をもっていたからである
「art」は英語だけど、さらに語源を遡るとラテン語の「ars」なのね。
この「ars」には、「技術」や「資格」「才能」といった幅広い意味があったの。
artは医療でもartだった、テクノロジーは実用化したものだがartももともとは実用として通用するものだった、なぜなら医療はまさに実用だからである、artとはだからヨ−ロッパ的概念であり文化であり文明を作ったものだともなる
それは今の日本に翻訳された芸術とういものではない社会全般にかかわるものだったのである、その全体から現代はあらゆるものか分離したのである
絵画でももともとは聖堂と一体化して飾られていた、個々の絵画はなかった
音楽でもカテドラルに荘厳なパイプオルガンが備えられていてバッハのレクエムがその大聖堂全体に鳴り響いたのである
つまり音楽は建築と絵画でも社会自体が一つの全体として統合していた、宗教もそうである、全体を統合するものとしてあった、なぜなら宗教は宗(むね)なるものだからである中国にも仏教文明があり唐時代がある、宗教都市がある、その唐時代の仏教文明が日本がに移植されたのである、仏教というときそれは全体であり技術もその中に含まれていた
つまりこうして全体だったものがすべて個々ばらばらに分離したのが現代社会なのである芸術というときこれもまさに絵画とか建築でも文学でも伝統芸能でもなんでも分離して
孤立したものとして見ているけどそれらでも社会全体のその時代には全体の中に組み入れられたものとしてあった、だから時代によってヨ−ロッパだと建築でも変化しているのである
●万葉集の家を歌ったもの
はだすすき、尾花(おばな)逆(さか)葺(ふ)き、黒木(くろき)もち、造れる室(むろ)は、万代(よろづよ)までに
これなどでも身近に土地でとれるもので家を作ったのである、その土地土地と密接に結びついていたののである
真木柱(まけはしら) ほめて造れる 殿のごといませ母刀自(ははとじ)面変(おめがは)りせず 」
私の家は橲原の同級生のキコリの人が提供したもので作ったと姉がいつも自慢していた
そして三カ月以上を家を作るのにかかったのである、今は一二週間で速成に部品を集めて組み立てるだけである、昔は普請は一大事業だったのである
何か家にはそれぞれ歴史がある、それがわかりにくいのである
農家などは特に江戸時代からの歴史がある、その歴史が原発事故で失われたということが大損だったのである、なぜなら家の歴史が郷土史の基本にあるとしてその家が失われたことでわからなくなる、町自体でもその歴史が喪失してゆくとなる
ただ現代はもともとそうした歴史を無視する社会になった
家でも地元の木材など利用しない、外材となり建てるのもハウス会社であり地元の大工もかかわらないとなる、だから地元でも故郷でも愛着もなくなる
この家ははこうして建てたんだよということを祖父からでも親からでも聞けなくなる
そして町や村自体の歴史まで消失してゆく危機なのである
それは日本全体が2000万軒もの家が廃屋化してゆく恐怖になる
日本全体が廃墟化してゆく恐怖がある、ここはそれが極端化して現象化したのである
温泉街も廃墟化しているし団地などでもそうである
日本自体が廃墟化してゆくのかという恐怖になる、日本がなくなるという人もいる
それだけ空家問題は大きな問題なのである
2021年06月20日
江戸は大消費地ー働かない侍が50万人 (生産より消費の経済へ)
江戸は大消費地ー働かない侍が50万人
(生産より消費の経済へ)
江戸時代に興味がある、でもわかりにくい、その最大の謎は侍が50万人もいたということである、百万都市でも半分が侍だった、その人たちは働いていないのである
生産者ではないのである、ただ消費する人たちなのである
ではその生活費はどこから得ていたのか?
それは国元なのである、そこに農民がいて米を作る、石高となりそれで収入となっていた貨幣でも小判でもその藩でもうけたもので得ていた、それを江戸で使っていた
江戸というのは何かそこで生産する人がいない、ただ近辺の農家では江戸は大消費地だから米とか野菜を供給した、ただ米の消費が膨大だから地方から仕入れた
伊達政宗の仙台からは石巻に米が集められて船で江戸に運ばれた
阿武隈川でも水運があり川で信達地方の米が集められて荒浜から運ばれた、ただ直接江戸には行かず川の水路を利用した、川を利用した運輸が盛んであり物資は江戸に集まったのである、
東海道とか陸路は物資の輸送には適していない、荷物が運びにくいからである
船だと荷物が運び安居から大坂を物資の集積地として一大商都となった
それが瀬戸内海を通じて西回りの北前船が日本海を通り新潟県や山形県や青森県まで行き来した、それでそこでは銀の貨幣が流通していた
名古屋から関東から東北は金の貨幣が流通していた、つまり船運の範囲が大阪から日本海回りがありそうなった、それで山形県でもは最上川が紅花を運ぶ川となっていた
それで酒田とかが繁栄したのである
つまり日本でも河が動脈となり海が交通路となって商業が盛んになったのである
大坂だと西の醤油とか味噌とかが入ってきた
そして江戸には大阪から船でも物資が入ってきた、江戸が百万都市となり一大消費地となったからである
最上川からは米も運ばれた、蕪村の句に「毛見の衆の舟さし下せ最上川」「新米の坂田は早しもがみ河」あるのはそのためである
江戸は大消費地であり米を食べる量も膨大になる、そして江戸には優先的に米が運ばれていた、東北で飢饉があっても江戸で米が入ってきて食べられていたのである
それは米が商品作物であり江戸に売るものとして伊達藩で米を大量に作っていたからである、そのために天候不順とか不作になったとき肝心の地元では米が食べられなくなった
米だけを生産していると他の作物を作らないから米がとれないと食べ物がなくなる
それで飢饉となった、でも山だといろいろなものを作っていて稗だとか粟だとか作りそれが食料になる、そういうことはグロ−バル経済でコーヒーだけを作り他のものが作らないで後進国で食べるものもなくなるということがあった
またコーヒーが安くなるとその影響が大きいのである、それで今ではいろいろなものを畑で作るともなる、何かこうして地方でも地元でも商業が発達すると農業も影響を受けてアンバランスになる、これはグロ−バル経済で起きているから同じなのである
ともかく江戸の不思議は大名屋敷がありその敷地でも広大なのである、甲子園くらいの広さがあったというのもある、その大名屋敷に雇われる中間とかも多い、その大名屋敷の侍を食べさせる米の量も膨大なのである
侍は何をしていたのか?ただ消費するだけなのである、だからそれだけの金が国元から送られてきて生活が成り立っていた、それだけ豊かになったともなるが地方の農民とかはそのために納税することで苦しんだとなっていた
江戸の地図を見ると大名屋敷の間に点々と植木屋がある、それは大名屋敷の庭が広大なものがありその松の剪定とかで常時仕事があったからだとなる
普通は町人は長屋住まいであり大名屋敷の間に住んでいないからだ
お雇いの植木屋ともなっていたのかもしれない、それだけの仕事があったからそうなっていたとみる
経済というとき何か生産に注目する、農家だったらどれだけのものを生産するかが問題になる、でも江戸とかなると大消費地であり働く人がいない、50万人が侍でありあとは町民なのである、そして江戸に行けばなにかしら働き口があり糊口をしのげるとなって江戸に行く人が多くいた、それは今の東京と似ている
東京だと何かしら働き口があるとなり若い人が行くからである
何でも屋
「何かやる事はないかー」 などと声をあげて町を歩き、 薪割りなどこちょっとした力仕事で駄賃を稼いでいた。また、 正月が近くなると餅つきなどをして稼いでいた。
https://edo100.tokyo/freeterinedo/
これを必殺仕事人で見ている、佳代(かよ)がそうである、この女性の演技がうまいなと感心する、時代劇でも今になるとこうして演技力ある人がいなくなったこともある
田舎だと何か仕事がないかというと草刈りなのである、暇なし草刈りしているからである
とにかく何かしら江戸には仕事があり宵越しの金はもたないという生活が成り立っていたという、その日暮らしでもそれほど心配していなかったというのも不思議である
今なら一億円あっても安心がないからである、ともかく日々の生活でも最低限の質素なものでありそれで生活が成り立っていた、狭い長屋で家族が暮らしていた
今は貧乏になったといっても大家族で暮らしていない、知っている人は金がないのに苦しいのに三人の家族がそれぞれ住宅とか団地とかに住んでいる
すると三人別々だから家賃から電気代からカズ代から三人分かかるのである
電器製品でも掃除機でも洗濯機でも別々に買うから金がかかる、そしていつも壊れたとか言うのである、そこが今は貧乏だとしても贅沢だとなっているのだ
本当に貧乏だったらそんな暮らしができなくなるからである
そもそも江戸で50万人の働かない侍を養えたのかという疑問がある
でも生産と消費があるとき消費が大きなウエイトを占めるようになるのはそれだけ生産力が上がったためである、元禄時代になると地方で開拓が進んで大量に米がとれるようになったからだ、相馬藩でも松川浦の近くの新田は元禄時代に開拓された、元禄の碑があったからだ、この辺では元禄の碑があることはめずらしいのである
その元禄時代に芭蕉がみちのくの旅に出たのである、その時代に俳句が相当に興隆していた、地方の商人の金持ちを回ったのもそのためである
何か経済を考える時、生産と消費がある、でも生産に重きが置かれ消費のことはまさに消す費やすとかでマイナスに見られる
だから侍とは生産しない人達であり批判される対象にもなった、東北では安藤昌益がそうである、でも豊かになるとエンゲル係数でも食糧だけではないものに消費する割合が増えることになる、消費のウェイトが増大するのである
それで消費者は王様だとして高度成長時代に言われたのもわかる
消費すれば景気が良くなるのである、必ずしも生産することが喜ばれるとはならないのである
なぜならどこでも食堂であれ飲み屋であり食べてくれ飲んでくれ菓子屋でもうまいから食べてくれ買ってくれとなっている、家でも新しい家を借金しても買ってくれ車ででも自転車でもなんでもとにかく買ってくれとなっているのである
だから生産している人より買ってくれる人消費する人が王様だとなってしまっている
消費することが経済を回す景気を良くすることなのである
ボランティアはかえって嫌われる、消費しないからである、何かしら生産にたずさわり金をもらうとしているからともみる
会社でも組織でしていてそうしたものが入ってくるのを嫌うからである
むしろ消費してくれることが地域にとって望まれているのである
米だって余っているのだからもっと米を食べてくれとなる、でもパンもあるから米の消費が減っているのである
そして現代ではニートとか引きこもりとか老人の年金生活者とか3千万人くらいが働いていないのである、それだけ豊かになったからそういう人がいるともなる
江戸時代と対比して現代をみると見えてくるものがある
何か自分は時代劇をBSで毎日見ている、また今はアレキサンダーのインドの英雄の戦いを見ている、歴史に興味があるから見ている
そこから歴史に興味をもつこともある、ただ映画だけではなくリアルな江戸の世界とか江戸時代を知ることも必要になる
2020年12月17日
相馬藩では郷士が多いから兵農分離されなかった (伊達と戦うことができたのもそのためだった)
2020年12月16日
「相馬藩寛文8年百姓一揆の歴史的意義ー鈴木啓」を読む (一揆があったことも津波の被害も記録されなかった訳)
2020年01月21日
(冬の城下町)相馬市が城下町であったことの価値 (歴史は全体であり精神も全体から育まれた)
2019年11月22日
相馬藩への越中加賀などからの真宗移民はなぜ起きたか? (その土地で暮らしが成り立たなくなっていた)
2019年11月09日
元禄時代の新田開発された場所は水害を受けやすい (全国的元禄時代は新田開発で豊かになった―相馬藩でも同じ)
2019年06月18日
相馬市新田寺田に元禄の碑 (松川浦に接した大塚神社の謎)
2019年06月15日
相馬市日下石や柏アや磯部の歴史 (津波の被害があり海となった地域)
2019年04月30日
江戸時代の飢饉の歴史 (歴史の闇に消えた膨大な人たちを知るべき)
2019年02月06日
南相馬市原町区の大谷(おおがい)村の由来は (栃窪に大谷の姓の人は移動したのか?)
2018年11月07日
南相馬市の鹿島区の隠町(かくれまち)の地名 (隠田が地名としてなぜ多いのか?)
2018年09月25日
本当はブラックな江戸時代 (戦後十年までは江戸時代の継続だった)
2018年08月29日
老人の性にあうもの (時代劇を見ることでなごむのはなぜか?)
2018年07月20日
なぜ人は移住するのか? (深野の佐藤氏を例にして歴史的に考察)
2018年06月08日
下北高平の広い土地の家が壊されていた (その人にその辺のことを聞いてみた-7代目であった)
2018年05月27日
西殿(にしどん)から方言を考える (訛りは国の手形だから地域性が残る)
2018年05月26日
下高平の西殿はニシドンと言われていた (津浪に残された泉地区の田の神様を尋ねる)
2018年03月27日
石神村の紙漉きの歴史 (天明の飢饉の時移住した越中などの人が伝えた)
2017年12月03日
自分の墓地にまた一つ江戸時代の碑を発見する
2017年11月12日
南相馬市鹿島区川子の御堂の墓の謎 (明和だから天明の飢饉の前のものだった)
2017年10月13日
水戸黄門の相馬焼をテーマにしたドラマを見た感想 (郷土史には悪人がいないからつまらない)
2017年07月19日
時代劇も事実を基にしている (相馬藩の新田村のおみかとは実在したのかなの再考?)
2015年06月25日
新地にあった「文禄」の碑 (伊達藩の検地の碑だった)
(伊達藩の検地の碑だった)
新地で誤解していたのは相馬藩内だと思っていたことである。
それはなぜか?
相馬郡となっていたから相馬藩領だと誤解していた。
これは基本的知識の欠如だから相当な落度である。
普通の教育を受けていたらそういう誤解がなかった。
もう一つは今日買ってきた「新地町史」を読めなかったことである。
こういう郷土史でも基本的なものを読んでいないと誤解するのである。
歴史というのは何かわかったようでほからないのが多すぎるのである。
だから日本史でも何でも歴史は誤解しているこが非常に多いのである。
新地は相馬藩と伊達藩の境目でありそれが古代からそうだった。
宇多(相馬市)領域は南相馬市鹿島区の浮田国造が最初の領域であり
新地は亘理の領域で思国造とかあった。
これは定かでないにしろ古代から亘理が別な領域であり伊達藩との境となっていたのである。
丸森とかは山で遮られているから地形的に別な国として発展することがわかりやすい。
新地は平地であれ亘理につづいているから相馬藩の延長でもあり亘理の延長にもなる。
そこに駒ヶ峰城や画牛上や新地城で伊達藩との攻防が行われていたのである。
相馬市の領域は相馬藩が城を築くまでは伊達藩の領域だったのである。
その土地を得たのだからそこはまた伊達藩から奪われる危険があった。
駒ヶ峰と新地では城があり攻防戦があり新地は伊達藩に帰属する結果となった。
だから相馬藩士は新地には住んでいないし代々伊達藩の武士が住んでいた地域である。
だから「黒田」という姓があるとしたらそれは伊達藩の侍の子孫であり
その他の姓にしても相馬藩の武士の子孫はいないとなる
だから年表として記憶すべきは元禄までは必要である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(江戸時代)
元和 げんな 1615〜1623 1621 豊臣氏が大阪夏の陣で滅びる
寛永 かんえい 1624〜1643 1636 徳川家光が大社社殿を造営する
正保 しょうほう 1644〜1647
慶安 けいあん 1648〜1651 1649 慶安の大地震(江戸3大地震のひとつ)
承応 しょうおう 1652〜1654
明暦 めいれき 1655〜1657
万治 まんじ 1658〜1660
寛文 かんぶん 1661〜1672
延宝 えんぽう 1673〜1680 1680 この頃の三島宿の家数596軒、3,814人
天和 てんな 1681〜1683
貞享 じょうきょう 1684〜1687 1687 言成地蔵の伝説が生まれる
元禄 げんろく
伊達藩の歴史の方が古いからそうなるし記録も伊達藩には残っている。
津波の記録でも伊達藩に残るのが多く相馬藩内で残らなかったのはその時まだ相馬藩では支配がされていないからである。
http://musubu2.sblo.jp/article/104967935.html
伊達藩では検地をしていたのだから「文禄」の碑はその時のものだろう。
検地の記念として「文禄」の碑を建てたとなる
新地の歴史は伊達藩の歴史だから相馬藩からはわかりにいのである。
新地はそもそも相馬郡になる歴史的必然性があったともいえないが
廃藩置県で丸森と角田県になる予定だったことでもわかる。
それが何か複雑な過程を経て福島県になって相馬郡になったのである。
でも古代からそうしたどっちつかずの位置にあったのが新地だったのである。
(新地町史ー歴史編)
新地という名が新地町となり新地という地名が目立つようになったが実際は新地は狭い領域だった。原町ももともと野馬追いの牧があった雲雀が原がであり原町市となったのは
宿駅となったことが関係していた。
新地の歴史で面白いのは新地の浜で砂鉄がとれてそれを丸森で精錬し鉄を作っていたという、それも古代から武井遺跡は鉄を生産していたから連続性があった。
それで相馬藩は鉄を岩手県の宮古から岩泉から鉄を輸入して請戸港で仕入れて今度は葛尾村で精錬していた。
葛尾大臣がいてその鉄の生産で財を築いたのである。
こういうことは日本史でも世界史でもどこでも起きているだろう。
国交関係が悪くなれば貴重なものでも輸入できなくなる。
中国からレアメタルの輸出がおさえられて高くなり日本でも世界でも困って他からその輸入先を開発するほかないとなったのもそのためである。
ともかく相馬藩は伊達藩と密接な関係にあるから伊達藩を知らないと相馬藩もわからないとなる。
「新地町史」手元に置かないと相馬藩のことも調べられない
自転車で新地までは遠いからなかなか行けない
でも意外と鹿狼山は近いと思った。海と山との距離が新地は一番近いのである。
自転車でもそれほどの距離には感じなかった。
この距離感とか地形をまず実地に知らないと歴史はわからない
ただ基本的な教科書的知識もないどんと郷土史も誤解してしまう。
ともかくこの辺では「文禄」時代の碑があるということは相当に古いとなる。
それは伊達藩領域だから残っていたのである。
2015年05月28日
江戸時代との対比で現代をみる (空間認識と時間認識が大規模に変わってしまった)
武士の農をはなれて、城下にあつまり、足軽中間までも城下に住居するは、治乱ともにあしき事なり。むかしは士たるものも農を本とし、在所を持て住居せり。
『集義外書』より(熊沢蕃山)
郷士の郷は故郷だから故郷に根付いて生活していた。
封建時代は農本主義であり農民中心の社会である。
だからいくら侍が治めるにしても八割の農民を基にして政治も成り立つのである。
現代を知るには明治維新の前の江戸時代をいすすいな側面から知らないと現代もまたわからない。
江戸時代がすべていいというのではなく江戸時代と現代を対比して現代を理解するのである。
明治維新後に失ったものが何か?それが現代の社会を知ることなのである。
まず江戸時代の地理感覚や宇宙感覚は極めて狭い、村が中心だとするとそれは極小の世界である。大きくても藩を越えることはない。
そういう世界で培われた世界観は極めて偏狭なものになる。
人間は空間認識と時間認識が基本にある。
江戸時代の空間認識は村が中心でありそこから外へと拡大したが藩が一つの国でありそれ以上は拡大しにくかった。
ただそれでも良かったのは江戸時代は外国と交わらないのだから別に外国も知る必要ないのだからそれですんでいたのである。
日本が庶民まで外国を意識するようになったのか明治維新後である。
村中心藩中心の地理感覚や世界観では生きていけなくなった。
一方で空間認識が狭いということは土着的な生活であり身の回りにあるものでまかなっていたから自然と一体化する生活だった。
だから江戸時代は自ずと土着的な生活になった。
そして土着的思考が学問しなくても体で身についていたのである。
もう一つは時間認識である。これは別にむずかしいことではなく江戸時代の時間感覚は自然とともに生活していたから自然の時間感覚が自ずと身につく生活である。
山があり木材を燃料や家を建てるために使う時山菜でも糧にするときどういう時間感覚になるのか?
樹が成長するのちは50年かかる、50年かかるときそれだけの時間感覚をもって生活していたのが江戸時代である。
50年となればもう一代ではとても山を利用できないのである。
だから江戸時代は何代も家業を受け継ぎ山を利用する。
江戸時代は職業でも代々受け継ぐのが多かった。
それは自然を糧としたから自然のサイクルに合わせるために時間感覚が長くなる
この木が育つには50年かかる、そうすると50年後のことを考えて木を植えていたのである息子にも孫の代にその木は成長して使われるのである。
そうなると代々受け継がれるものがあるから世代間のつながりもできる
それは現代で喪失したのもである。
今の時間感覚は今良ければいい、今も楽しむものだとなりとても50年後を考えて生活している人はいない。
来年は会社がなくなってしまうかもしれないとか非常に短い感覚で仕事している。
特にフリーターだ派遣だかなる時給いくらで使い捨てにされているのである。
長い時間感覚で考えられないということは世界を簡単に自然でも破壊してしまうということである。
次代のためにを考えて仕事したりしない、今を楽しみ消費することだとなってしまう。
今あるもの使い尽くして楽しみあとはどうでもいいとなってしまう。
そういう時間感覚になるとき世代間のつながりはなくなり断絶する。
現代は老人と若者は断絶している。
共通なもの共有するものがない、それは時代がめまぐるしく変化するからである
自分が石の詩を百編書いたというとき山であれ石であれ樹であれそれらは時間感覚としては長い、自然の時間感覚は長い、千歳の岩とあれば千年でありさらに億年とか長い時間感覚として石がある。
そして石は一定の場所にあって変わらないということで安定性があり土着的になる。
都会では東京などになるとそういう自然はもうない、山もない森もない、樹も石もない
ただ高層ビルがあり一分一秒を争い仕事している工業情報ビジネス社会である。
山の時間、石の時間、樹の時間、牛の時間・・・とか時間も実際はそのものに付属して時間感覚が生まれる。
今は機械の時間感覚であり機械によって時間が一秒単位で刻まれているのである。
それが文明の時間でありそこにあればとても自然の時間感覚とはかけはなれてしまう。
そもそも自然を理解するというか自然と一体化するというとき時間が必要になる。
石の時間はやはりそこに千歳の石とあるごとくそれだけの時間があって重みをましてくるのである。
文明の中で生活していればどんなことしても時間に追われるのである。
そうした土着的ものの喪失はある時文明的破綻現象として現れる
それが原発事故でもあったのだ。
原発事故が何か土着的なものと関係あるのとなるがあった。
土着的なものがあれば防げたかもしれないということである。
それは原発で働く東電の会社の人たちがもしここに何代にわたり生活するとなると
やはりと土着的思考になる。
その人たちは放射能の危険を肌で知っていた。
だからもし事故がここで起きたらここで子供を育てまた孫が生まれて代々つづき生活するとなると放射能のことを考えたかもしれない
もちろん地元の人は当然である。
ただ地元の人も放射能のことはしらない、事故が起きたらどうなるかなと考えなかった。今になって真剣に考えざるをえなくなったのである。
水とか森とか土とかまず土着的な土台となるものが汚染された。
それは致命的でありそこに住めなくなったのである。
何でも短い時間の単位でしか考えないし考えられないからそうなる。
そこが江戸時代の時間感覚を知り現代と対比して見直すべきことなである。
エジプト文明が3000年とかかつての文明が長持ちしたのはそうした長い時間感覚の文明だったからである。
現代のグローバル文明は百年で資源を使い果たすというかその時間感覚が短すぎる。
だから資源も消尽されて文明時代が消失してしまうかもしれないのである。
ともかく現代に起きていることは江戸時代と対比するとわかりやすいのである。
江戸時代に帰れというとかではなく対比して現代の問題が何か知るのであり
そこから現代の問題に対処してゆくのである。
今もうけなければなちらない、今成功しなければならない、十年後に成功すればいいとかならない
だから常に何か追われて生活している。
だから株のように急激にあがりま急激に落ちたり経済を動かしているのではなく翻弄されているだけだとなる。
そういう地からはなれた地につかない生活なのである。
その点貧しくても江戸時代は地につく生活はしていたのである。
だから何か人はのんびたしていたとかいい顔していたとか明治に来た外国人が見ていたのだろう。
今は何かに絶えず追われ焦燥感に満ちて疲れ一億鬱病の時代なのである。
何か幸せそうな人は顔している人はみかけないだろう。
金がいくらあっても満足していないとかかえって金持ちも余裕がないとかなっている。
幸せという観点からみれば今は物質的には恵まれても不幸な時代ともなる。
幸福とか不幸など時代によって違うから計られないのである。
病院で延命治療して一秒で長生きするのがいいかと言ったらならない
むしろ情ある人たちに囲まれて死んでいった人たちの方が幸せだったともなる。
病院で死ぬということは何か冷たい物ののようにあつかわれて死ぬからである。
病院で体をみても心はみない、ものとして人間をみて死んだらかたづけるという感覚になっているからである。
こういうことも江戸時代がすべて医療もないのだから全部が不幸だったかというとそれも計られないのである。
2015年05月27日
明治以降は入会権とかの共同性は喪失した privateは奪うことでありpublic(公共性)を破壊した
privateの語源を調べると、「stem of privare "to separate,deprive," from privus "one's own, individual,"」とあり、
ヨーロッパではpublic(公共性)を基に市でも作られてきた。
広場もそうであり公共のものという設計のもとに市が作られている。
それに反するのがprivateになる。
だから奪う分離するのがprivateでありいい意味には使われていない
わが我になる。わは割れるにもなる。我とは割れるとなるからまさに入会権の共同の山が無数にわたくしされて割れて割山になった。
それは明治維新で極端化して起きたのである。
明治維新からは日本人はわたくしすることがあからさまに強くなったのである。
江戸時代は藩主がいて庄屋が村をまとめていてpublicがありそれは拘束力になったが
わたくしするということは庄屋ですらなかったろう。
侍にしても「わたくし」するということはドラマのようにはそれほどなかった。
江戸時代は一つのpublicに公に生活していた。
それが900にも区画化され私的所有になったとき人間の心も900に割れた分割したのである江戸時代から明治の変化が現代に形を変えて継続されていたのである。
現代人の心は900どころではない、一千万の東京があるとしても心は一千万人に分割しているのである。
一千万人の人間はただ貨幣を通じて売買する時だけつながっているという感覚になる。
それは田舎でも同じであり農業があってもpublicは喪失している
むしろprivateが奪うということが民主主義であれ資本主義であれその心性はpublicに生きるということはない、そもそもpublicがないからである。
個々に分離して互いに奪うという心性になっているのだ。
逆にだから常に人間関係は奪い奪われる関係になる。
働いてもそれは労働が奪われているのであり協力しているという感覚はない
それでブラック会社に働かされて安い賃金で奪われている、搾取されているとなる
一方で他者に対してとにかく奪うという感覚になる。
安く働かせてその労働力を奪うとか国家規模になると他国の富を資源でも奪うとかなる
そもそもヨーロッパの植民地主義はアジアの資源を奪うことだったのである。
奪うというとき別に明治以降だけではなく常にあった。それは盗むにも通じている。
ただ一国とか大規模になると戦争して他国の富を奪っていたのである。
それが戦国時代だったのである。それで戦争に勝つと自国が裕福になったから戦争が指示されたという。弱肉強食が人間の歴史でもあった。
publicがあったとしても村とかの狭い範囲でありまた藩単位のpublicである。
その外になると奪う対象になっていたのである。
今や大きな国が奪い奪われる関係になっている。国と国が利権で衝突して奪い合いになっている。
奪うというとき天皇とか薩摩長州は明治維新で藩単位管理していた土地を山林でも奪ったとなる。
革命とはたいがい権力の移動であり革命そのものが権力を奪うことだから当然だとなる。だからあらゆる団体はまた奪う団体になる。わたくしする団体になる。
それは組合でも宗教団体でも同じである。
露骨に権力を奪うことを明言しているのが創価などであるが他の団体も同じなのである。国を奪うということはオウムでもオウム王国を目指していたから同じである。
だから創価では三国志をよませていかに国を奪うかを画策しているだけなのである。
漁業組合だって漁業権をたてに政府と東電から補償金を奪いとったとなる。
これも海は誰のものかというとき海をわたくしして国民から奪ったともなるのである。
個々にも奪うというわたくしすることが明治以降あからさまに容認された。
それは権利という名のもとにわたくしすることこそが正義だと戦後の民主主義でも公然のものとして容認されたのである。
それぞれがわたしくして利益を追及することが見えざる手に導かれるものとして奨励されたのである。
だから今や人間は人間にとって狼になった。
人間と人間の関係は家族でない限り奪い奪われる関係でしかなくなった。
食うか食われるかの獣社会である。互いに虎視眈々と奪おうとねらっている
食うおうと狙っているとしたら眠ることすらできなくなる。
そこに金だけが唯一の価値基準となりいかにして金をわたくしするかということが日々の活動なのである。
東電でもなぜ事故を起こしたかというとこれもpublicというものがない
privateでありあれだけの大会社でも自分の会社がよければ他はどうでもいい
政府も天下り先として検察でも用意しているから支配できる
自分の会社がよければいい、幹部なら多額の給料をもらえばそれでいい
我等の会社さえよければいいのでありあとは知らないと極端化すればなる。
会社があれだけ巨大化すると会社自体がわたくしすることが国単位になってもできる。
一つの団体が巨大化すれば宗教団体でも国をわたくしできる奪うことができる
官僚も東大閥で既得権化してその団体の利権を守るだけであり第一は官僚の利権を守ることにエネルギーが費やされる
公務員は常に批判されるけどこれも巨大な団体だから政府でもその既得権を奪うということはしない
つまり現代社会の不満はそうして巨大化する会社であれ団体であれそういうものに富がわたくしされていることに対する不満なのである。
でも結局その団体はあまりにも巨大だから何も言えないとなる。
この辺でも漁業権がどうのこうのなど事故前には言っていない、まず言えない
団体化したらどこでも何も言えなくなる、マスコミでも言えない
そういうことがどうなってゆくのか?今回の大事故や戦争とかにもまたなってゆく
だから資本主義がそれがなぜ生まれたのかとかいろいろあっても崩壊するというとき
そうしたモラルの荒廃から崩壊してゆく、誰も信じられない、信じられるのは金だけだとかなりモラルの荒廃から崩壊してゆく、人間が互いに信じられない、人間は人間にとって奪い合うものだとなるときそんな地獄のような社会に生きていたいかとなる
人間にはそういうものがもともとあったにしても欲望資本主義はその人間の悪しき面を
露骨にさせる。
何か抑制させるモラルがなければ人間は獣社会になってしまう。
そういうモラルの頽廃が限界点に達して崩壊してゆく
原発事故を起こした周辺を見れば何かそのことを象徴していた。
自分の一身上に起きたことでもそうだった。
漁業権で多額の補償金を得て原発御殿を建てたとかも本当だった。
富岡町長の五億円の金庫が津波で流れたというのも本当だろう
そういう金の噂は原発で飛び交っていたのである。
それだけの金が原発から生まれていたからである。
そして個々人をみて借金で贅沢しているというのも異常だった
借金して家を建てた人とか何か借金生活の人も多かったのである。
身の丈にあった生活など誰もしていない、金がなくても金のある生活をしていた。
そして借金で首が回らなくなりその借金を自分に肩代わりさせようと
病気のとき恐喝してきたのだから恐ろしい
そういうことをしても相手は何も感じなくなっている
それが当然であり奪うことが日々の生活だからそうなっているのかもしれないのだ。
金持ちは奪った人でありだから奪って当然だともなる
泥棒にも三分の理があるのだからそれも言える
津波とか原発事故はこうした社会のモラルの荒廃に対する自然の怒りのようにも思えたのである。
「もう醜い限りない欲望人間は一掃してやる」とノワの方舟のときのような大津波が来たのかもしれない。
そういう大転換期を迎えているのが今の現状である。
ローレンツ博士は「人間の社会構造はネズミのそれと大変よく似た構造を持っているのだと、十分な根拠をもって結論するだろう。人間はネズミ同様、閉じた同族の間では社会的に平和的に暮らそうとするが、自分の党派でない仲間に対しては文字通り悪魔になるのだ」といっている。
2015年05月26日
入会権は明治以降に私的所有に細分化 (入会権は江戸時代の村から自然発生したもの)
入会権は明治以降に私的所有に細分化
(入会権は江戸時代の村から自然発生したもの)
幕末になって本来禁止されている割山の売買が事実上行なわれるようになり, しかもその違法行為に対する制裁(割山没収)規定が有名無実化してくると山割制度はもはや村中持山(入会山)の一利用形態たるにとどまらず,村中持山(入会山)が個人持山へ移行する過渡期的現象とみなければならなくなる。幕末にこのような状態に達し,事実上個人の持山に極めて近い性質を有するに至った割山が少なくなかったが,明治維新以後部落が村氏各戸から割山を回収できなくなり,個人の私有地として登記され,個人の私有地化が完成することとなった。
公共事業で広島であった土砂崩れで砂防ダムを作るとか他に公共事業などで所有権が900区画にも分割されていたらそれを買収する手間だけで大変な作業になる。
それで土地は国のものであり公共のものであり私的に占有されてはならないという思想が古代からあった。
江戸時代から明治時代の変化は過去を全く否定して行われたわけではない、必ず歴史には連続性があった。
入会権の歴史でもそうだった。すでに割山というのがあり山は分割されていた。
割山というのは江戸時代に地名化していた。
地名はもともと古いから明治以降地名になっているのはまれだろう。
入会権は村民が共同で生活するために必然的に生まれのである。
その土地土地を糧にしていた時代だから必然的に入会権が生まれた。
山の木を木材を家でも萱でも馬草としても炭にしてもあらゆることに利用していた時代である。
山は別に山の人だげではない、海側の人も利用していたのである。
山に草を借り馬車で橲原村まで通っていたというとき山の人だけではない、海側の人も山を利用していたのである。それは入会権があったから利用させてもらったとなる。
入会権は山でも私的所有になることはありえなかったのである。
明治にもそうした村の公的所有から私的所有へ順次移行していった。
つまり江戸時代から明治時代に何が変わったかということを知るには様々な分野があるが入会権の村の共同所有から私的所有に変わったということも重要な視点である。
そこにすでに江戸時代の共同体から培われたものがモラルでも崩壊して資本主義に工業社会に近代社会に移行したからである。
終戦後、帝室「御料林」「と「御料地」ですね、これは岩倉具視の建白書に従って、明治二十三年に4百80万町が゛あっというまに天皇家の私有財産に決められたわけでしょう
それにつづいて島津、毛利、鍋島・・それからT家のような地方の素封家が山林原野を分け取りしてしまった(土地と日本人ー司馬遼太郎対談集)
この変化も大きかった。土地が権力の象徴として歴史があったとき、村や藩を基本にして作られた共同体が明治維新で根本的に破壊されたのである。1
その変化もあまりに大きかったので日本人のもともとあったモラルは破壊されていたのである。
モラルといっても道徳も社会の生活基盤があって作られていたのである。
日本の共有された精神もそこで破壊された。
幕末に国学が起こったというのは庶民レベルでも明治維新を促進させるものがあった。
侍だけではないそういう気運があった、下から明治維新を促進させるものがあった。
ただその下からの国学の勃興は上からの富国強兵とか中央集権の強権で圧殺された。
日本の土地の歴史が日本の歴史でもあったのはヨーロッパとも共通していたろう。
双葉か浪江辺りで海の前まで私的所有がありそれで東電から補償金を獲得していたという一軒一軒の家の前の海に所有権があるなど考えられない、でも補償金がもらえるしその額が多いからそれを主張して認められたともなる
ただ歴史的にそれも根拠がないものではなかった。
http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp:8080/bitstream/okinawa/6461/3/V2p1.pdf
だからそこに金をばらまけば一応原発は建てられるとなっていたのである。
要するに土地が私的所有になり細分化されて公(おおやけ)から離れてしまった。
村とか藩とかは地方の公であったがそれなくなりただ個人の私的所有だけが主張される時代になりモラルさえ荒廃したという指摘は重要である。
明治維新はもちろん功罪はあるが功の面だけが主張されすぎたのである。
フランス革命が「地籍」を明確にした。土地の所有を明確化した。
明治維新ではそれをしなかった。それが日本の異常な土地投機とかなり荒廃させた。
つまりそもそも土地所有権とかは歴史的にふりかえると常に時代を変えてきたのである。律令国家であれ鎌倉時代であり土地問題から発している。
時代を作るのが土地問題であった。
マルクスの言う資本主義の工業化が起きると農民が土地を収奪されて無産階級になったというのも明治維新で地租革命とか小作問題にも通じている。
土地というのは富と権力の象徴として常にあったからそうなっている。
カトリックが土地を所有することで腐敗したのもそうである。
土地は権力の象徴として常にあったのである。
仏教でも寺が土地を所有すると権力化するということがある。
土地をめぐって僧侶集団も争っているのである。
ともかく明治維新が継続して太平洋戦争となりさらに戦後もその継続があり現代の様々な問題がそこから発していたのである。
だから明治維新を見直さないと日本の近代史はわからないのである。
2015年04月04日
相馬市の中村城の大手門で若い人と歴史を語る (歴史は想像力がないと見えてこない)
仙台城本丸跡では、瓦当中央が花菱文の滴水瓦(3点)や菊花文(10点)が出土しており、仙台城二ノ丸跡・松島瑞巌寺・利府町大沢窯跡などでも出土しています。
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/castle/08.html
相馬市の城跡の大手門の瓦も滴水瓦なのである。この時伊達藩の方から技術が伝わったのかもしれない、相馬氏は肥前名古屋城を陣を築いていた。だから朝鮮のことを知っていた新地には伊達藩の侍だった人が住んでいて相馬市との合併を拒んでいたという。その屋敷も津浪で流されたのである。伊達とは敵対しても因縁深いのが相馬藩なのである。そもそも野馬追いも伊達に対抗するための軍事訓練からはじまっていることでもわかる。
新地の神社にあった文禄の碑は何なのか?
これは文禄慶長の役とは関係ないだろう。おそらく検地の記念である。たいがい年号の記念は検地に由来しているからである。
文禄時代に検地が行われたからである。ただその時相馬藩の領域に新地は入っていないから伊達藩でした検地だったのか?慶長16年に中村城は築かれているからだ。
中村城の大手門で相馬市の若い人と歴史を語る
何か中村城の取材にきていた若い人に出会った。一人は市役所の人だろう歴史に詳しかった。
「それってなに」
「これは朝鮮系統の瓦で有名なんだよ」
「ええ、そんな瓦なの」
「そもそも瓦というのは江戸時代でも庶民の家ではない
みんな茅葺きの家だよ、瓦の家はまれだったんだよ」
「この瓦が朝鮮系統とは知らなかった」
「歴史を知るには想像力が大事なんだよ、今の時代から昔を見えない、すると想像するほかない゛瓦一つでもそこから想像をふくらませれば何の変哲もないものでも違って見えるんだよ」
「この石垣は貧弱だから野面積みだ、城の石垣でもいろいろな作り方がある、石を切って合わせるのはかなりの高度な技術が職人が必要だよ、面白いのは慶長16年にここに城を築いたとき会津の浪人がきて石垣作りを教えたという、会津はその頃先進国だったから技術も優れていた。、蒲生氏郷の時代には七層の黒川城があったからあれは見物だった、そのあと地震がきて今の五層の城になったんだよ、他にも萱葺きの職人や大工も相馬藩内に移手に職をもった人はどこでも生活できるということなんだ
」
「ええ、そんなこと知らないな・・・」
それで信長は職人を確保するために僧侶を寺を焼き討ちして殺戮したということもあったんだよ」
「ええ、そんてことあったの、面白い」
歴史でも誰かが面白く話したりすると興味をもつようにもなる。
ともかくむずかしくなると誰も興味をもたないのである。
「墓など今じゃいくらでもあるでしょう」
「侍の歴史だけじゃないんだ、歴史は、それで柳田国男は侍の歴史だけじゃない、戦争だけが歴史じゃないと、民俗学を起こした、庶民の歴史を掘り出した、だから庶民が文字を残せないから口碑として庶民の残した伝説や伝承や祭りなどから歴史を語った」
だから現場に立つことが大事なのである。外国でもそうでありテレビでいくら見ても現実味を感じられないのである。
川が多いとしてその川でも現場に立てばその川の上はどうなっているのかと想像する
そこから想像がつぎつきにふくらんでくる。
その時代は瓦はめずらしい、茅葺きの家がほとんどであり街中すらそうだった。
ただ田町通りは瓦屋根があった、そこは繁華な街となっていた。
だから歴史はいかにして昔をイメージできるかということにもなる。
それは戦争のことでもすでにイメージできないものとなっているからだ。
70年すぎたらすでに戦争が何なのかイメージできないのである。
馬が多く利用されていたのは馬で荷物を武器でも何でも運んでいたからである。
トラックで運ぶようなことはなかったのである。だからあの当時の戦争は武器でもかなり技術的には貧弱なものだったのである。
戦艦大和とか船とかは技術的に進んでいても一方で馬が戦力になっていたことでは戦国時代と同じだったとなる。
小高は意外と海が近い、駅を越えて津浪がきていたのである。
そして小高には港があり海が今の小高の城まで迫っていたのである。
その港も蔵が建ち大規模なものだった。
それで浮舟城という名にもなっていたのは舟のように浮かぶ城となれば何か港に近いからそういう名になった。
村上に一時城を移したのは港があったから港の機能として城を作ろうとしたとなる。
それが縁起が悪いとしてとりやめた理由は謎にしてもそのあと慶長の津浪に襲われた。
その時港の機能が壊滅した、文禄の記録におんふねというのが小高のみに記されている
それは港か津浪で壊滅したからかもしれない、おんふねと相当記されているのは小高だけだからである。
いづれにしろあらゆる分野で想像力が必要である。想像力は創造力なのである。
stap細胞はないのにあるとしたがもしかしたらそれはありうるものかもしれない
想像したものでも現実化することがありうるがまだその段階になっていなかったのかもしれないのだ。
だから「猿の惑星」を映画であれその小説を作った人は相当な想像力があったと関心しる現実にこの辺が猿の惑星とにたようにな状況になったということである。
あれは核戦争の後のことを描いたのだかここも原発事故で人が住めなくなった状態になった。それは核戦争後の状態とにているからだ。
大都会が壊滅するという映画はもう見飽きるくらい見ている。
でもそれが現実になるとは誰も大都会に東京に住んでいる人でも思っていない
津浪とか原発事故にあった人はそれが現実になることを不思議に思わなくなったのである大都会すら廃墟と化して人が住まなくなる、それはSF小説、映画の世界だと思っていたがこの辺ではそうは思わない、この辺は現実そのものになっているからだ。
神戸の地震だって現実であり東京でそうならないとははっきりわかる。
そのことを何度も放送してもやはり人間は変わらないのである。
人間は危機感をよほどのことでないともたないのである。
危機感の欠如が大災難をもたらすのである。
もし津浪でも原発でも危機感をもっていればこんなことにはならなかったのである。
原発がなくても死ぬわけじゃてなていからなんとか原発のない世界を作りそこで暮らすのがいいとなる。
危機感がない人はそう思わない、津浪にしてもそうである。
あれだけの災難があったらもう恐ろしくて海岸近くには人間は住めないのである。
連甍両両満西東 連甍 両両 西東に満つ。
人烟斜繞城湟外 人烟 斜めに繞ぐる 城湟の外、
士女縦横向晩風 士女 縦横 晩風に向かう。
《意味》
秋の気配が漂い、晴れ渡った商店街、
人も夕餉の烟りも城堀の外に繞ぐって流れている。
男も女も晩風に向かい忙しそうに行ったり来たりしている。
*田町=地名
*市肆(しし)=店、商店。
*連甍=連なった屋根。沢山の家並み。
*両両=二つずつ。二つながら。
*城湟=城の周りの堀。
*士女=男と女。男女。
*中・東・風は上平声一東韻。
*作:水慎君奉
2014年11月13日
鬼風の俳句集を読む (江戸時代の生活を偲ぶ言葉がでてくる)
(江戸時代の生活を偲ぶ言葉がでてくる)
それはまさに自然のものでありそういうものを食べていたことがわかる。
ただなぜ客なのか?客がぬかご(むかご)をもってきたのか?
梅が香に水まで白し萱の箸
軒葺(のきぶき)も芒(すすき)御はしもすすき哉 一茶
http://blog.livedoor.jp/ichironagano/archives/4621112.html
箸はいいろいろあった。もともと箸は何でも箸になる。箸がなくて枝を折って箸にした箸は簡単に作れる、材料になるものはいたるところにあるのだ。
ここに萱の箸と出てくのは一つの行事として萱の箸があったためである。
http://www.geocities.jp/sashichi2004/dic/a/i/ishina.html
これはどこでも子供が石で遊んでいた。石蹴りとかもあるから神社は特に昔から子供の遊び場になっていた。秋葉神社でも子供が毎日集まっていた。
そういう風景もなくなった。
山吹の宿も芝居の留守居かな
梅遅し笠嶋あたり草履道
春樵はるごりの柴つみ車牛弱み
歸田園居其六
陶淵明
種苗存東皋 苗を種(う)うるは東皋(とうこう)に在り
苗を東の沢に植え
日暮巾柴車 日暮 巾柴(きんし)の車とあるから見慣れた風景でもあった。
二本松にて
「麻地酒」の伝統を受け継ぎむぎ100%の焼酎が生まれたのは現六代目当主の時代である。若き当主は天然醸造ゆえに腐敗しやすい「麻地酒」を改良するために醸造酒から蒸留酒へ切り替え焼酎の製造を開始する。さらに昭和26年、麦の統制がとれてからは今迄の麹(こうじ)は米で作るものとの常識を破り米も穀物、麦も穀物、米で出来る麹が麦で出来ないはずはないと、麦麹の製法に没頭した。麦が健康食品として注目されてからは麦だけの焼酎の開発に専念。そして昭和48年、むぎ100%の本格焼酎第一号が発売されたのである。
http://www.nikaido-shuzo.co.jp/nikaido/history2.html
http://hanasakejijii.seesaa.net/article/401648043.html
...と遊び過ごして落とし味噌(秋の部)
おとしみそ【落とし味噌・落し味噌】
名月やありて苦になる水時計
水時計な度か使われていた。ただこれが苦蜷というとき時計がわずらわしいと同じである時間を気にせず名月を観賞したい、月見をしたいとなる。
松川浦はひなびた漁村でありそんな風景があった
八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである
見ぬ人に酢茎もら月見かな
酢茎【すぐき】
雨の夜を崩して拾ふ柚子味噌かな
松川浦眺望
時雨るや夜喰の箸の杉くさき
朝凪や死なぬ薬の雪の里
この人は相当裕福な家の人だった。吉田とあると今でもあるから吉田屋というのは呉服屋であり古いからその家の系統なのだろうか?
ただいつの時代なのか記していない。
江戸時代だと当然そういう今では使われない廃れたものがありいくらでもある。
それは当時は生活の中で活きていた言葉なのである。
死語となったのは別に江戸時代だけではない、戦前でも戦後十年でも死語になった言葉が結構あるのだ。
だから江戸時代を探るとき、そうした死語となった言葉を探らねばならない
幸いインターネットでそうした言葉には詳しいから引用した。
この人の俳句集は旅の俳句が主でばらばらになっている。
地元のことは俳句に少ない、旅の俳句集なのである。
二本松だったら九州からもそうした酒が入ってきたのか、ただ作り方が伝播されて二本松で作ったのか何かわかりにく。
ただ今ではない食べ物のことなどが良く記されているのは江戸時代はやはり土地が代われば今と違って食べ物も相当違っていたから記した。
ただ飢饉があったことは二カ所書いてある。旅で見聞したのだろう。
草履を履いていないとかあり草履すら買えない人がいたためだろう。
石なことは秋葉神社などでも子供が遊んでいて俳句にしたのかもしれない
ただこの遊びはどこでもしていた。この俳句集からは地元のことがどうだったのかほとんどわからない。
それでもまだこれは地元では貴重なので考察する価値がある。
2014年11月11日
なぜ深野より大原に相馬氏が最初に入ったのか? (中世の城館を見ればわかる)
1658 万治 01 江戸 056 − − −
1672 寛文 12 江戸 070 − − −
1680 延宝 08 江戸 078
1683 天和 03 江戸 081 − − −
1684 貞享 01 江戸 082 − − −
1703 元禄 16 江戸 101 − − −
1710 宝永 07 江戸 108 − − −
1715 正徳 05 江戸 113 − − −
1735 享保 20 江戸 133
1740 元文 05 江戸 138 − − −
1743 寛保 03 江戸 141 − − −
1747 延享 04 江戸 145
1748 寛延 01 江戸 146 − − −
1758 宝暦 08 江戸 156
こご天しか読めないのがありこれは天和なのか?
天明はずっとあとである。
暦とあってもそれか明暦なのか宝暦なのかまぎらわしい
一字しか読めないのがありその解読がむずかしい
これは何か科学的な方法で調べられるかもしれない
この墓地がいつからあったのかが問題になる
宝永からはあったみたいだ
ただ墓地は墓が建てられない前からもありえる
歴史はこの時代特定するのが基本にあった
いつの時代なのかわからないと過去を探り得ようがないのである。
伝説は時代特定できないから津浪のことでもわからなくなる。
文書だと時代特定できることが強みなのである。
泉廃寺
泉平館
岩迫館
牛越城
岡田館
小高城
金場館
田中城
田村館
中館
西館
花輪館
東館
深野館
別所館
堀内館
真野古城
明神館
村上城
優婆館
ここにはきけ旧来の勢力があった。
ただ村上とか小高とか牛越城とか中世の城館があった所を支配した所もある。
でも最初はそういう在地の勢力が強いところに入れない。
それで
深野の方が開墾しやすい地であり大原はその奥だからである。
最初に入るのだったら順序としては深野になる。
そこが疑問だったがそこはもともとの在地の勢力があった深野館があった。
館という地名が残るところには中世の城館があって戦国時代になる前から在地を支配していた。最初の草分けでありそこに回りの人々が集まり小さな国を作っていたのである。
聞いた話ではある武家では回りを堀で囲んでいたという。そして殿様を迎える部屋もなっこという。ということは武家ではもともと堀之内というように堀をめぐらして防御していた。鹿島の田中城は平地にあり回りは湿地帯であり自然が堀になっていた。
中世で館と地名にあるのはたいがい山の上であり高い所にありそれば自然の要害となって敵から防御のためにそこに舘か作られたのである。
城でも古いのは山城であり次に平城になっていった。
小高城から村上城から牛越城と山城である。今の相馬市の中村は平城である。
そこに相馬市が城を築いたのは相馬氏が太田から小高城へ牛越城へと移り中世の在地の勢力を支配下に治めるためだった。
中村地域は今の相馬市は黒木氏が治めていた。それで黒木氏は伊達についたり相馬氏についたりと苦しんだのである。
つまり相馬氏が中村に移ったのは在地の中世の勢力を治めるためであるというのがわかりやすい理由である。
相馬氏が力をもったのはやはり野馬追いに象徴されるように馬を使う軍事力があったからだろう。
相馬氏の進出経路の図でわかるように最初に牛越城から入るとしたら深野になる。
そこをさけてさらに奥の山側に入ったというのは不自然だったのである。
そこは在地の勢力があり中世の城館まであったからそうなる。
つまり大原は相馬氏は移ってきたとき開墾に入ったとき何もまさしく大原だった。
在地の勢力は深野館にあって大原にはなかった。
だから深野は中世からある生活があり古い地域だった。
そこで深野の小池に行く方の台地にある墓は古い。
明暦からありもともと古い所だったのだろう。
そしてなぜ小池にも古い立派な墓があるのか?
それは士族のものであり相馬氏の一族が開墾に入った。
深野→小池と相馬氏が移って開墾した地域だったのである。
鹿島区でも中世の城館があった真野中館とか館など田中城があった所は在地の勢力があり入っていない。寺内なども総士録古支配帳にはでていない。
泉館や泉平館や泉廃寺などがあった所であり港の機能も有していた勢力がある場所だった寺は中世でも城でもあった。
牛越城に移ったのは泉氏や深野館などがあった中世の城館の支配地域を牽制して勢力を伸ばすためたったのである。
小池の墓地は江戸時代後期のものだから新しいとしてもやはり古いものの継続がありあそこに立派な墓を残した。第一あそこにあることが解せなのである。
回りにほとんど家もないから不思議なのである。
ただ資料を見れば納得するのである。
小池の墓地の謎は大姉とついた個人墓が半分もしめていることである。
普通女性の地位は低いとされたが個人墓として女性の立派な墓がある。
武士だとすると女性の地位も高かった。または僧侶の墓かもしれない。
江戸時代は庶民では墓はなかなかもてなかった。
ただ個人墓も江戸後期から残っている。
一家とか家族の墓は明治以降なのである。
それは国の政策でそうなった。江戸時代までは個人墓かか夫婦墓である。
明治になっても継続されていて夫婦墓が多いのである。
まずこの墓は本当に謎である。これは墓しか探る手だてだないのかもしれない
墓は最後まで残ることに意義がある。この墓が無縁墓としてかたづけられると
ここに生きた人を探ることはむずかしくなる。
墓はそこに人が確かに生きていたということを感じさせるものなのである。
書類と文書みてもそういう人が生きていたという実感をもつことができない
だから郷土史には墓の研究が欠かせないのである。
http://musubu2.sblo.jp/article/104996155.html
2014年11月10日
秋葉神社の墓 (ここが墓地として捨てられたのは明治か大正?)
(ここが墓地として捨てられたのは明治か大正?)
ここに天明の墓があったことは意外だった。
天明の飢饉があり天明は特に記憶されるべき時代だった。
ただその時この辺がどういう状態にあったのかどんな暮らしをしていたのか想像つかないのである。
ここの墓は明治までは確実にあり大正時代頃無縁化した。
ここに接して森という姓の家があり広い庭があり今住んでいる。
明治時代に二十三夜塔を寄進したのは「森忠太郎」でありこれは森家の先祖である。
ここは天明から文化から明治まで継続して墓としてあった。
この墓はこの回りに住んでいた人たちの墓である。
「法印」とかあり祈祷する山伏とかも住んでいた。
これはどこにでも住んでいた。病気になれば祈るほかないからである。
加持祈祷が商売だったのである。
そのような中で天明7年5月に大坂で発生した打ちこわしはまたたく間に全国各地の都市へと広まり、江戸時代最高の打ちこわし件数を記録するに至る。特に江戸での打ちこわしは町奉行による混乱収拾が不可能な状態に陥る激しいものであった。
離農した農民たちの多くは、江戸を始めとする都市に流入した。主に生活苦によって農村から都市へと流入した農民たちは、後述する都市における階層分化によって没落した商工業者などとともに都市での貧民層を形成するようになった。天明7年5月の江戸打ちこわしでも、明和から天明期にかけて江戸近郊の関東農村から離村し、江戸に流入した人たちが打ちこわし勢に参加していたことが確認され、当時の関東地方の農村では地主から小作農までの階層分化が進み、没落した農民層が離村して江戸に流入していったことが想定される
天明時代は飢饉の時代だから全国的に影響していた。相馬藩では3三分の一に人口が減って
越中などから移民を呼んで立ち直った。ただ全国的に飢饉になり村から離れる人が多かった。
それで都会に集まったとういのもわかる。ここだけではない人口が流動化したのである。
原発事故で町村が消滅する危機になったように時代の変化で人口が流動化するのである。
それが社会変革につながる。
これは外国でも同じらしい、何か天候の異変などで凶作になったりして大移動があった。
それがゲルマン人の大移動とか有名だけど世界的に人口は移動している。
人間は普通は移動したくない、慣れ親しんだ所にいたいのである。
でも移動が強いられる。満州に移動したのは農業社会では土地が得たいからそうなった。
実はそうした大規模なの移動が戦争になっているのだ。
こうした神社とか寺は昔は一つの共同体のシンボルとしてあり実際に機能していた。
だから二十三夜でも講がありおんな集まっていた。
つまりこうした神社とか社が無数にあるのはただあるのではない
生活の中で活きていたとき意味があった。
だから村々でも町でも昔は狭い地域で生活していたからそうなる。
車もないし遠くへ行くことはない生活である。
毎日隣近所とか顔合わせて狭い地域で暮らしていたのである。
身の回りのことでも近くてすましていたのである。
第一今のように原町や相馬市までだって行くことはまれだったろう。
確かに汽車が通じても汽車賃が高くて歩いて行ったとか言う人が多いのである。
汽車は客車というより最初は貨物輸送が主だったのだろう。
それで原町機関区が木材や石材の積み出しのために設置された。
平機関区は石炭を東京に運ぶために設置されたのである。
神社は子供の遊び場にもなっていた。
自分の子供のときは子供が多いから毎日群がって遊んでいたのである。
そのころはまだ近隣中心の生活だったのである。買い物でもそうである。
魚屋があり駄菓子屋があり豆腐屋があり酒屋があり職人の大工や指し物師がいたり
近くにあるもので用をたししていた。
地球の裏側から物が入ってくる時代とはあまりにも違っていたのである。
米だって地元でとれたものであり野菜だってそうである。
他の県から九州とか来るはずがなかった。
バナナさえ戦後十年くらいは売っていない、バナナの叩き売りというのは秋市とか市が立ったとき売っていたのである。店では売っていない。
自分の父親が病気になったときバナナを食べさせるために仙台まで姉が行って買ってきたバナナがそれだけ貴重なものだったのである。
何かわからないが中学辺りから急速に高度成長化したみたいなのだ。
東京オリンピックのときはもう高度成長へうなぎのぼりに経済は発展したのである。
高度成長といっても実際は二十年くらいだったのかもしれない。
あのころはみんな景気が良かったから今のような時代とは違っていた。
企業戦士とか言われたのもそれだけ日本経済か世界へ進出していた時代だったからであるそれで金の卵として中卒で東京に労働力として集められたのである。
その時クラスで大学に行ったの4,5人だった。高校に行ったのも半分にも満たないくらいだったのである。文系の大学を今廃止しろというのもわかる。大学は遊びの場でしかなかったのである。
今国に余裕がなくなったので予算が回せない、そしてグローバルで競争する人材を育成しなければならないから文系はいらないという議論になっている。
文系は自分がしてきたようにほとんど独学でできる。
今ならなおさらそうである。大学に行かなくてもそういう環境はネットでも通販でもそうだし整ってきたからである。
第一専門的な本を買うのにこの辺では売っていないから仙台まで行くほかなかったのである。今はボタンを押せば次の日に本が届いているのである。
ただ自分の行った大学は東京でもすでに大衆化した大学でありマンモス大学だった。
だから3000人とか入れる講堂で講義していたからみんなやる気がなくなっていた。
それが学生運動が起きた原因でもあった。
一方は汚い工場で油まみれになり狭い宿舎で中卒は働いていたのである。
その時はどこも人手不足であり小さな工場でも店でも繁盛していたのである。
いづれにしろ神社は江戸時代は近隣の生活の要の場所としてあった。
今は全く機能しないのは社会が変わりすぎたのである。
隣の人間が何をしているのか田舎でもわからないというときそうである。
まず都会だったらますますわからない、それだけ無数の職業が生まれ分化してしまったのである。
だから農民が八割という時代が戦前でもそうであり長く歴史的にはつづいた。
そういうときは農民的感情で国も一つになれていたのである。
そういうものが高度成長時代からは特に破壊されて感情的にも人間はバラバラにされていたのである。
現実に農業では食えないとか跡継ぎがいないとか漁業ではやっていけない、林業は外材で衰退したとかこれまでの産業が衰退産業となり原発が誘致されたのである。
そうした時代の変化で原発事故が起きたとなる。
現代の繁栄は何か無理した虚飾の繁栄という側面があった。
生活の基本となる第一次産業が衰退して低くみられたことが原発事故の要因にもなっていたのである。
ただ電気がいらないとかではない、危険を犯してまで経済成長が必要なのかどうかが問われたのである。
今の生活は本当に最低の人でも昔から比べた最高の生活なのである。
貧乏でも刺身を食べない人はいない、自分の父親はサシミが食べられるようになったが
食べたくないと言って死んだいった。
だからつくづく人間は昔の事を家族でも近隣でも知る必要がある。
これにはこんな意味があったのかとこんな貧しい生活をしていたのかとか
こんなことで苦労していたのかとか家族でもその家族なりの苦労があた語られる。
そういうことが死んだ後にそういうことだったのかとわかる。
生きているうちはなかなかわからないのである。
やはり祖父母とか親の代になるとまだ生々しいものとして記憶されているかそうなる。
でも死んでから何かさらにその語った事生きた事の意味が深く感じられるのである。
これは大きな国の歴史でもそうである。
歴史というと何かむずかしく考えるけど実際は祖父母とか親のことを知るというこにはじまっている。
そういう身近なものさえ何なのか死んでからかなりの年数たって親のありがたみがわかったとかなる。
ただ今は親孝行したいとは親がいないとはならない。必ず親がいるし親孝行をさせられる時代なのである。必ず介護させられる。
だから今度は子供を粗末にすると介護のとき困るとなる。
戦前までは子供は労働力であり親に使われるものだった。
それが逆になったのだけど今度は逆に必ず親孝行は強いられる。介護問題が必ず起きてくる。それも時代の変化だった。
2014年10月28日
相馬氏進出の経路 (文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
(小高)
(原町)
鶴が谷
相馬氏の進出した経路はまずやえこめ(八重米)から坂を下って今の片倉村に入った。そこに初発神社を祭ったのはここに始まるとして祈願して建てたことがわかる。
片倉という地名はなく羽倉(はのくら)はてている。
大田神社が最初に相馬氏の移住先の根拠地になった。
この地名からは相馬氏の進出経路が見えてくるのである。
在地の勢力となっていた豪族がいた。それは中世の館を中心にして治めていた。
つまり小高城とか牛越城ができるまえにそうした館が38もあったのである。
それはいわば草分け百姓が成長して館を構えその回りに人が集まったのである。
相馬氏は新来者でありそうしたもともとの地元の勢力を治めねばならなかった。
この辺一帯は鹿島区の鎌倉から来た岩松氏が最初に治めていたのである。
そしてこの地図に示したように山側から海側に進出している。中心部は欠けている。
原町でも高倉とか大原に進出して鹿島区でも小池とか山下とかとちくほ(栃窪)に進出してゆノ木(柚木)の名が記されている。
柚木は今でも相馬市であり鹿島(北郷)の境になっている。それは相馬氏が進出していたからかとなる。
深野(ふこうの)から小池に出る所に古い墓地がありそこに武家の立派な墓がいくつも残っていることを紹介したがそれもこの相馬氏の進出経路と関係しているのかもしれない。
大原の名は一番多くでているから小池は隣り合って相馬氏が早くから進出していたのかもしれない、ただ小池の墓は江戸時代後期のものである。
原町では不思議なのはかや浜としふさ(渋佐)にすでに進出していた。かや浜はもともとはかい浜と呼ばれていたがかや浜と記されている。
つまり相馬氏が進出してきた時、かや浜と変えたのだろうか?
発音を聞き違えてそうなることが地名には良くあることだからである。
ただしふさ(渋佐)にすでに相馬氏が進出したとなると慶長津波の前なのである。
するとすでに渋佐に人が住んでいた。そこは湊の機能があったのだろう。
慶長津波の前に人が住んでいてかや浜にも人が住んでいても慶長津波の記録は残されていない。そこは相馬氏が進出して住んだ地域だともなるとまた解せないのである。
どうしても慶長津波のことが記録にないから探りえようがないとなる。
ただ700人溺死と一行記されたのは溺死となると溺れた人となる。
700人の死者を確認できたのかという疑問である。今回の津波でもそもそも行方不明者が多いだろう。当時はそれ以上に行方不明者が多くなる。探しようがないからだ。
だから700人溺死とは死者として死体があがり確認された人数である。
当時ではその何倍もの行方不明者がいたかもしれない、するとこの数からすればどれだけの被害があったのか、今回の津波と同じように大きな被害があったとなる。
そういうことが全く記されていないし謎なのである。
津波の影響があってその時期に移転を決められたということもある。
津波が大きな契機となり中村に移転したともとれるのである。
ともかくこの文禄士録帳は相当に貴重な記録である。
相馬氏関係では一番古い資料だから貴重だとなる。
何か郷土史でも貴重な資料がありまずそこから郷土史研究の手がかりとなる。
これはその一つである。
2014年10月27日
文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名 (深野がなぜふこうのとなるのか地名の謎)
文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名
(深野がなぜふこうのとなるのか地名の謎)
何か深野がふこうのとなっているのがなぜだろうと必ず疑問になる。
深野をどうしてもふこうのとは読めないからである。
こういうときインターネットで大阪に深野という地名がありそれをふこのと呼んでいる。
深日(ふけ)に続いて「深」という字をどう読ませるかが難点です。
「ふかの」でも「ふけの」でもありません。「ふこの」が正解。って読めませんよ、やっぱり。
これはここが深野をふこのと呼びふこうのとなったと推測しても不思議ではない。
ただおそらく大阪ではフケル→フケをフコと言っていたのかもしれない、一種の方言だったかもしれない、ではなぜふこのがふこうのとなりここに残っているのか
これは伝播地名なのかもしれない。
移住してきた人がその方言をもちこんできてここで名付けた。
ふこのがいつしかふこうのと呼ぶようになった。そいうことは地名によく我ことだからである。
だから和泉守という大阪に由来するものもいるし全国の・・・・守がいる。小浜備後守、木幡駿河守、木幡出雲守、大友美濃守、俵口肥後守、赤沢伊豆守、渡辺豊後守、・・・・などがいた。
深野に深野の姓を名乗るとき深野という地名がもともとあってその土地を地名を姓にした。
もともとは別な姓だった。
日立木の立谷はもともと熊野信仰をたずさえて移住してきた和歌山県であり鈴木といか姓だったかその土地の名をとって立谷として土着したのである。
ただこの総士録古支配帳には深野というふこうのという地名はでていない。
大原はでているから大原の方が深野より古いのかとなる。
ただここに記された地名は一番古いことは確かである。
なぜならおなは御なはであり小名浜(おなはま)とあるがもともと御なはでありマはあとからつけられた。
だから沖縄の那覇(なは)が古い地名の元なのである。
「“那覇(なは)”の語源は、漁場を表す“なふぁ”からきている」
沖縄はやはり古い日本を残しているから地名でも共通性がある。
小名浜がまぎらしいのは小名浜がおなはーまであり浜ではないのである。
当て字の感じでまぎらわしくなったのである。
小高には湊があり舟もたくさん入っていたし舟持ちも多数いた。
それはこの記録に記されている。漁場でもあった。
小高はその頃は入り江であり湊と漁場にふさわしい場所だった。
今回の津波でわかったように駅を越えて津波がきていたのである。
だから小高の城が浮舟城と呼んだのは何かそういうことと関係しているかもしれない。
ただここに記されていない地名はどうなっていたのかわからない。
なぜ記されなかったのかそのあとに名付けられたのかわかりにくい。
なぜなら古代の和名抄にのっている地名は一番古いからである。
真野という万葉集に出ていた地名かそうである。
それがこの記録にはでていないし他にもかなりでていないのがある。
不思議なのは大原という地名は一番でている。
原町で最初に開かれた地が大原だったのかとなる。
総士録古支配帳となるとやはり相馬氏一族の武士が郷士として最初に土着した所の地名が記されているのかもしれない、そこにはすでに大熊や双葉や浪江もあった。
その辺のも相馬氏の支配下に入った時記されたものだろう。
だからこの地名と今の地名をあわせると当時の様子がわかるかもしれない。
かや浜などは文禄時代でもすでに村落があったのである。
それは高台であった。かや浜の湊は後に人が住んでのであり慶長津波の前には人が住んでいてかったかもしれない、でもかや浜の高台には人はが住んでいたのである。
2014年10月10日
相馬藩の生きた歴史を語る相馬市飯豊の阿部氏の由来 (小高から始まっている相馬藩の歴史をふりかえり復興へ)
郷土史研究の基本はその土地の村でも町でも新旧を知ることである。
古いと思っていたところが新しく新しいと思っていた所が古かったりすることはよくあることである。
例えば原町市の中心部は市街になっているから古いと思っている人がいるだろう。
ところがあそこは江戸時代は野馬を放牧していた原っぱだっのである。
最初は本当に野馬を放牧していた放し飼いにされていた。
あとから野馬土手が作られた。その前はだから畑に馬が入ってきて困ったとかあり記録にも残されている。
戦国時代には馬は戦闘用としてどこでも飼われていた。広大な牧がどこにでもあった。
今のような稲田が広がる風景ではない、馬を飼っている広い牧がある風景なのである。
原町というとき原っぱの意味でありこれは各地にありそこは原っぱだったのである。その名残として野馬追いの神旗争奪戦が行われる雲雀が原がある。原町はのちにまた宿場町になった。
だから地元の人でも意外とこの新旧を知らないから必ず昔を間違ってイメージするようになる。
ヨーロッパ辺りだと旧市街と新しい街は明確に分かれているからわかり安い。
観光するときは旧市街を回ればいいのである。
原町で古いのは深野とか大原だった。あそこは原町ではかえって一番古い場所なのである。
そこは野馬土手の外にありそこは米を作るために田が作られていった場所だったのである。
今はかえって原町の中心が街内のようになっていて深野(ふこうの)とか大原は辺鄙なさびれた場所のように錯覚するのである。
このことは他でもありその街の新旧はわかりにくいのである。
そんな人に実際会っていないから余計にそうだった。その阿部氏の由来は明確なのである。
その末裔の人が言うには奥相史と残っている資料は北相史のことだという。
相馬地方はもともと古代には行方郡になっていた。茨城県からの移住地だったのである。
その後相馬氏が移住してきた。相馬氏が移住した最初の地が小高だった。つまり相馬藩誕生の地は小高だった。
そのことが良く相馬藩内でも知っていてもどうしても今の城のある中村であり
そのことを具体的に阿部氏の末裔が語ってくれたので生きた歴史を感じたのである。
塚原とか村上に大きな船も入る湊があった。蔵院とかあるから大きな湊だった。中世は意外と船運が盛んであり村上に一時城を移すことを計画したのはそのためだった。
そこにはおん舟という文禄高調に記されているのを書いた。その数も多いから相当な舟がそこにあった。それは八沢浦にも湊があり七荷を運んでいたとありそれは大きな舟だったのである。
相馬市の吉田屋の記録では松川浦で会津まで運んでいたということが記されている。それはニシンとか塩とか他にもあった。
相馬市の今の中村に城を移したのは松川浦が湊となっていたからである。今でも松川浦は漁港だけではない、貿易の港ととして機能している。
ただ小さいので飯館村の木材などは石巻から出していたのである。中古車販売の島商会はロシアに輸出しているが松川浦の原釜から出しているから継続がある。
その槍の一部も残っていたが売ってしまったという。50ふりの刀を用意していたのはやはり戦国時代はそうだったのだろう。まず武器が無いと戦いないのだから武器は重要になる。
その50ふりの刀がありそれを家来に配って戦うことになるからだ。戦国時代の様子がその話から具体性を帯びているのだ。
阿部氏は小高から今の相馬市の松川浦近くの飯豊に土地を賜りその一帯を開墾して草分けになった。
その碑が飯豊に立っているから由来が明確なのである。
そして程田の隣に新田とあるがそこはすでに元禄時代に開拓されていたのである。原町の津波で開拓した金沢も元禄に開拓されたから古いのである。
だから葛尾村(かつろう)の落合に元禄の碑があったからあんな山奥でもすでに元禄時代になるとかなり住む人も増えてきたのである。
元禄時代という芭蕉の時代でもあった。俳句もそれなりに盛んになったから文化的にも華やかなものか生まれた時代である。
つまり新田という地名が各地にあるがその時代を見ると新田でも意外と古いものになる。
小高から今の相馬市の中村に移ったのは慶長津波のあったあとの1611年の11月とかであった。そのあとに開拓された程田とか新田は古い地域になっているのだ。
秋の日に阿部氏の由来語るかな小高にはじまる相馬の歴史
小高は相馬藩の歴史では大事な場所、起源の地だったのである。そういう歴史があるとき、小高が欠けては相馬藩の歴史の消失になる。
歴史的観点からみると復興するということは歴史を継承するということにもある。
先祖がどうのこうのというとき実は日本の歴史でも歴史が何かわからなくなっている。身近に考えれば歴史とは家の歴史になる。
最も身近なのは知っている家族のことである。ただ最近は墓参りでも知っている人に参るのであり先祖ではないというのわかる。
なぜなら先祖でもあったことも無い人は他人と同じになってしまうからである。
ただ歴史というとき別に直接にあった人のことではない、でも何かしら伝えるものがあって歴史がある。
だから先祖を誇りにてらないと子孫もだめになるということがあるたろう。
先祖を見習い今を正すということがある。そうすると人間形成しやすいのである。
国の教育だったそうである。先祖の悪いことばかり言っていたら現実的に日本なんか戦争で他国を殺すばかりの悪い国でしかない、なくなってもかまわないとかなる。
そういうことが戦後影響して今日モラルの頽廃が生まれたのである。つまり家でもその先祖であれ親であれ何かしら誇りに思えないと子孫も良くはせ育たないのである。
先祖の影響で病気になったとか何になったのかとは別である。そもそも精神的そういう悪いことばかり言っていたら今を生きている人たちに影響か大きいのである。
歴史だってどうしていい面と悪い面が必ずありその悪い面だけをとりあげるときりがない、良い面も歴史でも人間個人でもとりあげる必要がある。
2014年07月31日
文禄二年 総士禄高調の謎 (原町は深野や大原が先に開墾された)
(原町は深野や大原が先に開墾された)
原町区
文禄二年といったら1593年でありこの辺では一番古い。こういう時代の記録だから貴重である。文目で計算しているがここではその土地に在住した農民とか侍、郷士など士禄である。原町区と鹿島区(北郷)だけをとりあげたがその地域が非常に限られている。
北郷(鹿島区)だとかしま(村)と小池しかでていない、これはどはういうことなのか?
文禄時代にはそこにまだ士禄を調べる人たちが住んでいなかったのか?
小高やしねは(浪江)もでている。小高はもっと地域がでている。小高は相馬氏の最初の城があったところだからむしろ北郷などより鹿島より古い歴史をもっている。相馬氏関連としてはそうである。
これは今の中心地域はもともと原っぱでありあとで野馬追いの馬の放牧場になった。
早くから開拓されたのは雲雀が原から放牧場になった広い範囲がありその周辺地域が先に開発された。だから大原はその牧から相当離れている。
大原に近接するかうの草(深野ーふこうの)もそうである。高倉も山側であり離れている。今の原町の中心部は原っぱでありあとから開発された地域である。
そこは宿場町として発展したのであり田畑にした地域ではない。原っぱの中に宿場町が生れたのである。
ただなぜかや浜が意外と多いのか、あそこは今回津波で壊滅したけど高台の方は残った。それでも被害があった、それでもかや浜は早くから開拓されていた。
だから慶長津波の来る前からかや浜は開拓されていて村を形成していたのである。
ただ津波で壊滅した低地はあとから開拓された。
文禄時代になるとまだ相馬氏がこの地に勢力をもって支配していたとはならない、
小高城があり村上に移り牛越に城を移し中村城に移ったがこれらは慶長年間であり文禄ではないからだ。文禄になれば相馬藩政記でも記録にないことが多いだろう。
だから北郷という名は小高城があったとき、小高から北にある郷として名付けられた。
小高に相馬氏の最初の城があったのだから小高が古いのである。
太田神社も基点となった所である。そこから北だから北郷になった。
その北郷はただ北郷となっていてかしまと小池と山下しか地名がでていないのだ。
他はまだ相馬氏の士禄にはないということは支配するものとしてなかった。
相馬氏の士禄を与えるものが侍が住んでいなかったのかとなる。
小高は地名がでているからだ。
そしてなぜかしまと小池だけがでているのかということなのだ。
屋形とか海老とか横手も浮田もでていないのだ。
小池が意外と先に相馬氏の支配下にあり開拓されたとなる。
その理由の推測として中世の館(たち)が相馬藩内に38もありその館の支配下にあったものはまだ相馬氏に服属していないから士禄が与えられなかった。
特に北郷は小高よりも原町よりも中村よりも相馬氏の支配下に入るのが遅かった。
田中城がある田中領分とあるからそこは文禄時代に相馬氏の領内になったのだろう。
今回なぜこの記録に注目したかというと小池原の墓地を見たら文化、文政とか古い墓があったからだ。あんなところにどうしてあるのだろうと不思議に思った。
そこには家というのもまばらであり今でも原っぱなのである。なぜあんなところに古い墓があるのか?それもそれなりの石を使っているし戒名も明確に刻まれている。
橲原(じさばら)と栃窪とかこうした古い墓地があり今は使われていないものがある。
でも粗末な石でありいつの時代かもわからない、橲原(じさばら)の今は使われない墓地は明治時代であり開墾に入った人たちの無名の人の墓である。だから石も粗末で小さいのである。戒名もはっきりしないのである。戒名も今でもそうだけどつけてもらうにはそれなりの財力がないとできない。
だから小池原の墓地は不思議だと思った。あそこは墓地でも捨てられた墓地であり後がつづいていない、たいがい古い墓地でも必ず今の人の墓が継続して作られているのが多いからである。なんらかでその子孫が絶えたのかとなる。そもそもあそこには家がまばらでありそれだけの墓地を作る村があったとは思えないのである。
だからどういうわけであそこに古い墓地があるのが謎である。
推測としてはむしろ小池より深野(この草)とか大原より開墾に入った人たちかもしれない地理的に連続していて大原と深野は文禄時代から開墾されて士禄が与えられていた人たちが住んでいたからだ。
郷土史研究で大事なのは村の新旧なのである。古いと思っていたところが新しいこともあり新しいと思っていた土地が古くから人が住んで開墾されていたとかある。
今回の小池原の墓地は新しいと思ったが古いということでもわかる。
深野(ふこうの)も大原も原町の中心部より古い、かや浜も古かったのである。
深野の台地に広い墓地があり岡田氏などの墓があった。天保と記された墓もあったが
天保よりも文化文政の小池の墓は古いのである。
そして深野の不思議は野馬追いに21騎が出ていて旗印が出ていたことである。
そんなに深野に野馬追いに出る人がいたのか?侍がいたのかとなる。
何か特別の事情があったのかとなる。
雲雀が原で出会った人も甲冑競馬に出ていたという深野の人だった。
いづれにしろ郷土史が墓地をみる必要があるというとき墓地は具体的だから郷土史を実感しやすいのである。
2014年05月25日
津波の跡に残った越中からの移民の由来を記した碑 (鹿島区小島田の真野小学校の近く)
津波の跡に残った越中からの移民の由来を記した碑
(鹿島区小島田の真野小学校の近く)
故郷に北陸よりの移民の碑残る思いや津波の跡に

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北陸之地仏法・・真宗・・・祖名久治朗・・明和8年(1771)・・
越中 中田郷・・・妻 曽与 文政10年(1827)久治朗没 亭年57
奥相馬藩 八右衛門 文政12年(1829) 山中郷母子 夫妻別浪江 八右衛門斡旋
名改万蔵 安政3年(1856) 清吉
大正13年の碑
ここはこんな状態だった
ただこの辺には家はわずかしかなかった
この碑は真野小学校の近くにあった。大正13年に建てられた。越中からの移民を記念した碑であることにはまちがいない。
はっきりしているのは最初に来た人が明和8年(1771)であり久治朗が生まれた。
その後10年後に天明大飢饉が起きて相馬に移民した。
何歳に来たかはわからないが明かに天明飢饉以後に来たのである。

年齢的には天明飢饉以後に移民した。
20歳以上であった
この人の出身は越中中田郷である。この辺で中田という姓の人は近くにもいるが明らかにその子孫になる。
中田の姓ば越中の移民から来ている。
それからよくわからなのが八右衛門と名がでてきて山中郷とでてきて浪江と出てきているのも不思議である。
これらの関係は何らか結婚などで縁戚関係になったのだろう。
山中郷は今の飯館村や葛尾村(かつろう)である。
万蔵とか清吉という名もでてくる。この辺では相馬藩内で縁戚関係になっている人は多い。
だから今でもそうであるが江戸時代だったら相馬藩内で縁戚関係になる人はずっと多いからそうなる。
自分の縁戚関係でも浪江があり双葉で父は働いていたし出身は葛尾村だった。
相馬藩では越中などからの移民が三分の一もいるから実に多いしその子孫も多いということになる。
この碑は大正13年に建てられた。ここに住んでいる人はが記念して建てた。
ここはちょうど津波が来た。驚いたのは船がここまで流れてきたことだった。
この辺はまだ津波の高さは低いにしろ流れたきたものが船であり
他にも瓦礫が流れてきて山のようになっていたのである。
幸いこの碑は流されなかったのは海から3キロ以上離れているからであった。
海老と右田とか烏崎にあったがこうした記念の碑や神社は流されてなくなった。
真野小学校も被害を受けて廃校になった。
2014年04月01日
南相馬市の大原から八木沢峠へ (バラ坂の地名由来の考察)
南相馬市の大原から八木沢峠へ
(バラ坂の地名由来の考察)
茨城の語源についてもやはり「常陸風土記」に見ることができます。「香島郡(かしまのこおり)に岩窟を掘って住み猟のようにすばしっこい、一般人とは全く違った生活をする一族佐伯がいた。これを大和朝廷軍の黒坂命が住居穴を茨(うばら)をもって塞いだので彼等は穴に入れず討ち取られた
友部町小原の名前の由来は茨(うばら)が小原に変化したものと地元では伝えられています
からたちと茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自(万葉集)
「茨(うばら)」=まんだ【茨田】大阪府(河内国)の旧郡名
地名は明らかに原初の状態をさして名付けられた。田んぼでもそこが田にする前の原初の状態で名付けたものが多い。
菖蒲田とあれば菖蒲が繁っている湿地帯であり日本に湿地帯が多いからその名がつく。
葦田となれば葦が一面に繁っていたとかなる。蟹田や蛇田はそこに蟹が多く蛇も多かったからなづけた。
だから地名を考察する時はそこが原初の状態がどのうよであったかを想像するとわかりやすいのである。
吉原が葦(よし)の繁っている所だったいうとき何か華やかな花街を想像するのとばまるで違ったものとなる。
そして原初の状態からあまりにも変わってしまった時、都会化した場所は東京などになると
原初の自然状態は想像すらできなくなってしまったのである。
だから最近地震などで地盤が悪いところは沼だったとか湿地帯だったとか指摘されて液状化するから危険だとされた。
そういう原初の状態を知るということをが意外と大事だった。
津波でもなぜ海岸に接して人か住んだのかと指摘された。
原初の状態からみると茨は邪魔者でありカラタチも刺があるから同じである。
そういうことを日本全国で最初に住み着く人が難儀したから地名となった。
だから一つの地名には日本全国で普遍性がある。
湿地帯が多いのもそうであり茨が多いのもそうである。
薔薇は原野の茨であり花としてより刺のある邪魔物として認識されていたのである。
人間が住み着く時、自然は美しいというより障害物として認識された。
人間が開墾して住み着く時、道具もないとき、機械もないとき、障害物になる。
一本の木を取り除くとき大変な労力が必要になる。それは北海道開拓でも経験している。
人力だったら根っこを取り除くのもブルドザーでするのとは違っているから大変になる。
だから八木沢峠の麓の大原から坂を上ったバラ坂は茨から来た地名であることはほぼまちがいないだろう。
ただ最初バラ坂というのは普通の薔薇をイメージしていた何なのかわからなかった。
それはどこでも原初の状態から離れて生活しているからそうなった。
あの辺は秘境だと書いたがそこは頻繁に車が通るから繁華な所と勘違いしていたと同じである。
あそこに羚羊が出てきたのには驚いた。もともと羚羊が住み着くような場所だったのである。
地名というのはそれだけその土地に根ざして名付けられているのである。
ただ都会化すると全く原初の状態がイメージできなくなる。
その土地を認識する最初が地形とか地勢とか地名になる。
それが歴史を解く鍵にもなる。日本は山が多いからヤマト(大和)になり湿地帯が多いから葦原瑞穂の国になった。
そして地名もまたそうした原初の状態から名付けられるのが多いのである。
だから地名は郷土史の基本となりやすい、そして地名学はあらゆるものの基本にもなりやすい。
なぜならそれは深く日本の国土とつ結びついて名付けられたものだからである。
そこに日本の原始があり歴史の興亡さえ読み解くことができるからだ。
一つの地名から歴史を掘り起こすことができる。
南相馬市の大原はまさにやはり大きな原であった。平凡な地名でも明らかに地名そのものであった。
そこから坂を上ってバラ坂とか大葦から八木沢峠に行くがその途中に遠田とあるのも
大原を中心として遠くに田を作ったということが地名から納得する。
前田という地名もまさにそこが開拓の拠点になった家があり地点だったのである。
ともかくどうしてあんな不便な地に人は分け入り住むようになったのか?
そのことが今になるとわかりにくい、でも一反の田でも作れば米がとれるし炭焼きでも生計が成り立ったのか、
そういう場所は別にあそこだけではなく日本には多いのである。
どんな奥地にも田があり狭い地域を利用して住んだのが日本だったのである。
五反田とか地名が多いし一反田もありそこでも米がとれれば最低限生活できたとなる。
小さな畑でも結構いろいろなものがとれることを知ってそんなことでも一家が暮らすくらいの食料はまかなえるものかとも思った。
羚羊などは行動範囲が広いと思ったが一キロ四方が縄張りで生活圏だということは
そんな狭い場所に養える食料があるというのも不思議である。
春になれば蕗の薹とか野草とかいろいろ食べれるものが増えるが冬は厳しいと思うからだ。
あの辺はもう人が住まず田んぼだった所に蕗の薹やキクザキイチゲが咲いていた。
それも不思議な光景だったのである。
2013年11月27日
原町市街から大原への地理的感覚 (原町は野馬原が中心に広がり大原に達していた)
原町市街から大原への地理的感覚
(原町は野馬原が中心に広がり大原に達していた)
●猿も日本では食べていた
東京は両国橋の猪鍋屋に行ったところ、その店には大きな猪が三頭ぶら下がっていたのだが、何といっしょに猿も吊り下げられていて「恨みを込め、いかにも悲しく死にましたという形相で、とても食う気にはなれなかった」(『古都』)と書いているのだ。えっ、いつのことかって? 昭和12年(1937)のことだ。猪も猿も食材だったのだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/huwawatanpopo2000/13506371.html
秋田県仙北の寺子屋のソロバンの稽古の教材で、「猿の皮30文、肉60文、頭10文、肋骨8文」というのが残っていた。
http://diamond.jp/articles/-/3243
南相馬市の大原の斎藤さんが戦後猿を食べたというのは特別なことでもなかった。日本でも猿が食べられていたのだ。インドでは牛も猿も食べない、神聖な動物とされているからだ。仏教が伝わった日本では猿も食べていたし明治になって牛もすぐ食べた。ということは肉食にそれほど抵抗がなかったのかもしれない、日本ほど今や何でも食べる国はない、日本に食のタブーがなかったみたいだ。豚を食べないイスラム圏とかもあるが日本には何か食べていけないというタブーがない。
ソロバンの稽古で御破算で願いましては「猿の皮30文、肉60文、頭10文、肋骨8文」こんなこと子供に教えていたということ自体、日常的に猿は食べられていて川から頭まで利用されていた。
浜通りでも海側は魚介類がとれてそれでタンパク源が摂取できたが山になるとイノシシでも猿でも食べないとタンパク源がとれない、すると筋肉を強化できないから肉体労働に耐えられないともなる。山菜など食べても力はつかない、ソバでもそうだろう。
ともかく何らか昔の生活は栄養不足になっていた。脚気とか目が悪いとかみんな栄養不足のための病気だし他にも栄養不足の病気が多かったろう。
人間の健康はやはり根本的には栄養だからである。栄養がとれないことは致命的になる。どうしても医療も発達していないし医者などいない地域が多いから長生きする人は極わずかの選ばれた人だったのである。だからそうして長生きした人は村では尊ばれた。
大原という地域を地勢的にみると石神まで家が多い、紙漉きをしていた古い家に嫁いだ人を知っているから石神も古い地域である。ただ今石神というと長野辺りにも石神小学校があったり石神地域は広すぎるのである。そして家も多いし農家とは限らない、街のように広がっているのだ。原町区というのは浜街道の宿場町として発展した。
●原町の市街は広大な野馬原だった
でも野馬土手が今の市街地に広がっていて文字通り原っぱになっていた場所である。
現代で野馬土手とか牧がどこにも広大にあり馬が放し飼いにされている光景をリアルにとらえられなくなっている。北海道で競走馬を飼っているような風景である。
それはどこにでもあった。田んぼが今は広がっているが昔は馬を放つ牧が広がっていたのだ。だから馬というのは最も身近な動物だった。そういう絵を見たらわかった。
農家があり広い庭で作業して牧から家まで馬を連れてくる風景である。
実に広々とした風景なのである。だから原町の野馬土手もそういう広々とした風景だったのである。
つまり今の原町市街は野馬土手であり馬が放し飼いしてある広大な地域であり家がない、その回りの地域が石神でも高平でも農家でありそこに家が点在して田畑を作っていたのである。だから今とはまるで違った風景だからイメージしにくいのである。
相馬市は城があり城を中心にして発展したことはわかりやすいが原町は城もないし野馬原が真ん中にあったということでわかりにくいのである。
ともかく家の中にも馬が飼われていて曲家が残っているように馬とは親しいものだった。だから娘が馬と結婚した伝説もあってもおかしくないのである。
この辺では確かに野馬追いのために馬を飼っているが柵て囲っているか狭いのである。
野馬土手を作っているということは柵でもない、土手なのだから越えられないものとして作った。馬によって農作物が荒らされるから大規模な土手を作った。今の雲雀が原より何十倍も広さがあったのだろう。四方十キロもあった。そういう風景がイメージできないから過去に対して錯覚しているのだ。
いつもそうして放し飼いしている馬や家にいる馬を見ていたのである。
そういう馬の文化もほとんど忘れられてしまった。ただ野馬追いの時だけ思い出すのである。
おそらく田畑が今は広がっていたが牧がその半分くらいの地域を馬が放し飼いにされていた牧だった。そうでなければとても戦争をすることはできない、馬は戦国時代は軍馬であり農耕馬ではない、馬がそれだけ必要だったのである。野馬追いはもともと軍事訓練だったからである。これだけの土地が馬の放し飼いの牧としたらその回りを田畑にするほかない、その影響で深野と大原の方に開拓地が広がった。
原町の場合は平坦だから大原も原町の延長線にあった。原町自体が大原だったのである。その名残が大原に残っている。石神は野馬原の延長線にあっても家が多いから今は原という感じはない、
●原町は原の地名がやはり多い
北原、南原、東原、西原、北西原、原、・・・原町も原だけど原という一字だけの地名もある。それに比べて鹿島区とかに確かに橲原(じさばら)とか皆原とかある。でも町の回りには原のつく地名がない、原町は今の中心地帯市街地が原だった。太田の辺りも原地名はなく田畑である。原町の場合は相馬市と違い最も繁華な地帯が最も新しい地域になっている。相馬市は城下町だから城の延長として街が形成された。原町はもともと野馬原であり馬の放牧地としてあった。だから原という地名にふさわしい場所だともなる。
いづれにしろ大原というと桜井古墳からも遠いし原町は広いからかなり遠い場所になっていた。だから
新田川渡りて遠く大原や山に陽の没る秋の夕暮
こんな地勢を感じる場所である。この地勢の感覚はどうしても自転車でも走ってみて地理的感覚が身につくのである。
昔の山の暮らし(馬を飼う牧として利用されていた)
http://musubu2.sblo.jp/article/18181533.html
こんなことを書いていたのを忘れていた。人間は自分の書いたものを忘れるから時々前に書いたものを読んでおく必要がある。こんなことを自分が書いたのかと不思議になってしまう。飯館村でも葛尾(かつろう)村でも広大な牧があり馬がどこでも飼われていたのだ。
2013年11月16日
郷土史研究に欠かせない墓地を調べること
郷土史研究に欠かせない墓地を調べること
郷土史研究で一番身近なのは祖父母から聞く話である。なぜならそれは生きた証人から聞く話になるから本で読むのとは違う重みが加わる。老人は無駄だから税金の無駄使いだから早く死ねと若い人に高齢化社会で言われる。それはあまりにも高齢者が多くなりそれに金がかかりすぎるからである。老人が貴重だったのは長生きした人が少なく価値があったのである。昔は長生きしただけで何も功績がなくても価値があった。なぜなら長生きすることが極めて困難な厳しい時代だったから長生きしたということだけで価値が生れた。
今はそういう価値が生れない、ただ老人は若者の負担になるだけだというのが現代である。でもそもそもそういう経済的な負担などをぬきにすれば老人はもともと存在するだけでも重みある価値あるものがあった。すべてではないにしろそういう重みをもつものが人間が長生きするということであった。今だって一芸に秀でるには60過ぎないとならない、それだかけの積み重ねが年月が必要なのである。天才は別にして普通の人間はそうである。
もう一つ郷土史研究で必要なのが墓地を調べることだった。これは自分はずいぶんしてきた。それをプログにも出してきた。墓地というのも本で調べるよりここに生きて死んだと人がいたということで具体性がでてくるから過去がより身近に感じるから墓地を調べることは郷土研究にかかせないのである。墓地には故郷の人が知らない意外な発見がある。
それか自分の墓のある鹿島御子神社の脇の墓地だった。あそこは新しい明治以降の墓地だと思っていた。でも天保時代の小さな碑があったし宝暦の大きな碑もあった。あそこは神宮寺であり神社が前にありそのあとに寺ができてそこで寺小屋が生れあの碑が建てられたのかもしれない、墓地はどこでも必ず歴史を語っているのだ。一つ一つの家族墓でも歴史を語っている。
墓の歴史をかえりみると不思議なのは最初は個人墓なのである。これは自分も働いて財を残したから墓を建ててみようとなったらしい。墓を作るには今でもそうだがそれなりの財が必要なので簡単に建てられなかった。武家は五輪塔など建てたが庶民は建てられなかった。そして個人墓の次が夫婦墓だったのである。この辺でも夫婦墓が多い、それは江戸時代からの継続として明治時代でも夫婦はか多いのである。家族墓は明治時代になり政府の指示で家族墓になったという経緯がある。ということは家族墓は何か人間の自然な生活から生れたものではなかった。強制されたものだったともいえる。
こういう墓が相馬市の成田にあった。それをプログで紹介した。
大まかな変遷としては個人墓がまず出現し、次に夫婦ないしは一組の男女と三名以上 )
併記の家族墓が一七世紀中頃に出現する。( )なお、男女一組の戒名は親子の組み合わせも考えられるが、基本的には夫婦と捉えている。同様に複数の成人、あるいは子供も血縁者と考えて家族墓とする。個人墓は一人世紀代まで卓越し、一九世紀以降は夫婦ないしは男女一組墓・家族墓が主体となる
ただし、個人墓は減少せずに一九世紀代まで推移していることが大きな特徴であり
、
野田山墓地の無縁墳墓の改葬に関する実証的研究
http://www.icc.ac.jp/univ/morizemi/Date/PDF/Muen-2.pdf
まず個人がなにかしらの自分の記念として後世に伝えようとして墓を作った。次に夫婦墓になったのは夫婦の結合が一番人間にとって強かったということもある。
「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」という諺がこれを示している。他に他人は五世という諺もある。五世とはなぜなのか?それは親子や夫婦の関係でもいつかは切れてしまう。死んでしまいばもうそのつながりは墓だけに記されるてもやがてその墓も消えてしまう。でも他人とか地域とか社会はつづいている。親子でも夫婦でも主従でも長い時間では実際他人になってしまう。人間は結局血縁でももともと他人なのである。そういうことを子供他人だという時、親の財産が欲しいというだけになったりするからその時子供他人だと思ってしまうし現実にそうっなっている人もいる。血縁でも家族でもあるとき、老後はそうなりやすいのである。現代では家族の紐帯が弱くなっているから余計にそうなのだ。もともと日本では家族のつながりより村のつながりが強いからほとんど地名が姓になっていた。
この地の墓には夫婦の戒名を刻んだものがほとんどである。この墓が象徴しているように島の人たちの夫婦仲はいたってよいようである。夫婦で力いっはい稼いでこの風光の中で生きこの丘に埋められている。そして墓も一つなのである。
(私の日本地図-瀬戸内海4 備讃の瀬戸付近)
俳句にすると「故郷や冬の日さして夫婦墓」とかなる
こういうふうに墓を見ている人は少ないだろう。島で暮らした人の一生をここで深くみているのである。つまりこの人たちは幸せだったなと墓からも回想できているのである。それは今は瀬戸内海の島のあたたかい光につつまれて眠っているのである。墓も海に向いて墓もあるし山の中の墓もあるし海を向いた墓だと常に海を死んでも思っているのかと想像するのである。島ではたいがいそうなりやすい。これは明治以降昭和になっても夫婦墓がこれほど多かったのは他とは違っている。それは夫婦で協力して島で生活していたことが影響していたのである。それだけ島での生活は人間の一体感を生んでいたのである。
これは昔はたいがいそういう傾向があったが破壊されてきたのである。
田から人間の幸福などなかなかわからないのだ。昔は貧乏だというのも本当だしでも本当にそれが全部不幸かとは言えないのである。それを墓から見えたのである。
ただ墓地でも地域性があり相馬藩では三分の一が天明の飢饉などによる越中などからの移民であり真宗系統でありその墓がわかりやすいのである。墓地をみればこんなに真宗系統の移民が多かったことが納得する。
墓が跡継ぎとかいないとか問題になるのは家族墓が維持できなくなっているのはまさに現代の家族の状況とかが反映しているのだ。核家族化とか家族の紐帯の希薄化は家族にだけ原因があるのではなく島での生活ならそこでの生活で紐帯が強められるがそこから人々が工場とか外にでてゆくようになるとつながりは希薄化する。すると夫婦の繋がりも弱められる、離婚も増えてくるとかいろいろな現代的問題が生れる。
現発事故だってそうである。事故で家族がばらばらにされたとき大熊の人だったかロウソクでも家族一緒に暮らしたいと言っていた。この辺は家族もバラバラにされてしまっているのだ。若い人は流出して家族はばらばらになっている。飯館村などでも大家族で暮らしていた人たちも多かったかバラバラなって暮らすようになった。原発でもそうだがそうしたものが地域の生活を破壊してしまうものだった。過度な工業化とかで失われたものも多いのである。
「現代社会においては、過去との連続性が失われ、 過去は遠い異邦となり、その典型として、先祖は集合的記憶を共有することによって形成 される「記憶の共同体」の成員ではなく、異邦人となった」(片桐2006:187)
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/irwg10/jinshaken21-12.pdf
墓もその一つだったのである。墓の共同性というときそれは今の現実の生活に共同性が失われているから墓もそうなっているのだ。夫婦でも一つの墓に入りたくないという女性が三分の一とかいるとしたらそれは何を意味しているのか?夫婦でも島の夫婦墓のような感覚がない、それは離婚が多いということでもわかる。家族でも地域でもそうした昔からの共同とか繋がりが破壊されてみんな会社の一員となった。結果として会社が第一になり地域はないがしろにされ東電のような巨大会社に地域は踏みじられたのである。
これは地域の生活はそもそもすでにその昔ながらの生活も破壊されていた結果だったともなる。
郷土史でしれ国の歴史であり「記憶の共同体」として根底にある。それが歴史の意味である。そういう記憶の共同体も最小単位の家族でも
そのつながりが消えたら失われる。現実に原発事故で警戒区域となり住めなくな地域は「記憶の共同体」が喪失してしまう。
歴史を失うということである。それか何を意味しているのか?結局もう地域のつながりが喪失する。
ただ補償金をぶんどるための組織だけになってしまったのである。そういうつながりはやがてまたばらばらになり地域のつながりは喪失する。
明かに原発周辺は東電の社員化していたのである。だから東電に世話になれということが盛んに外部から言われているのだ。