2009年12月24日

相馬藩の城南十景、北山八景の短歌の感想


相馬藩の城南十景、北山八景の短歌の感想

 

山上春霞 真柴たく煙も空にうち消えて長閑にかすむ山上の里

芦沼微雨 芦沼のあしの若葉に波越えて汀ぞひろき五月雨のころ (黒木田-岡本-成田)

高松寒月 高松の山風寒く暮るるより面影すごき冬の夜の月

小野晴雪 分けのぼる小野の細道風さえて雪に晴れたるあけぼのの空

中野 飛雪 寒けしなゆき来も絶えてふりしきる雪の中野の冬の夕風

山上は相馬の城から比較的近いから柴などが燃料として実際に運ばれていた。真柴たく・・・ということで生活的にも身近な山である。黒木田と岡本-成田辺りは芦の沼がまだ多かった。それで五郎右ェ門橋とあるのはやはり開墾されるべき田となるべき地が広がっていたためだろう。城の近くでもそうなっていたのである。小野という地名は野という地名は山の中の傾斜地であるから地図を見ればそこにふさわしい場所となっている。小野の細道とは昔の道は城の北側の高い地域を通っていた。今城のあるところから東側でも相当な湿地帯でありあとから田にされていったから山側が古い道なのである。昔の地形を想像するとき湿地帯が相当に広がっていることを知らねばならない、その湿地帯を通る道はない、だから山側が昔からの古い道である。

成田の墓地を見てそこから急な坂を上ったところが高松でありそこに隠されるように墓地がまたあった。

 

高松の山風寒く暮るるより面影すごき冬の夜の月

これはぴったりだった。あの坂をのぼり山の頂上に隠された墓地を見ればわかる。面影すごき・・・地となっているのだ。これも実際に上ってみないとわからない、当時あの坂を上るのは容易ではない、一旦上ったとしても面影すごき・・・として印象に残った。この歌が一番リアリティがあるし今でもその地形そのものは変わっていないから納得する。実際中野村でも淋しい雪の景色が歌われている。城から近くてもこれだけ淋しい風景なのである。そしたら万葉時代はどうなるのか?城もない、何もない、人も本当に住んでいたのかもわからない・・・そんなところで
松が浦に さわゑうら立ち まひとごと 思ほすなもろ 我がもほのすも」波がたつように人の噂が盛んにたつようなことはありえいない、そんな繁華な場所ではない、そもそも人がそこに住んでいるかどうかもわからない地域だった。城ができた江戸時代ですらこれだけ淋しい場所だったのである。それからさかのぼること700年とかしたら一体どんな景色になるのか?ほとんど荒野になっている。この辺はその頃そんなに開けていないのだ。ともかく狭い郷土史でも地理が地形が基礎になっていることがわかる。高松という場所も上ってみてはじめてわかったのである。

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相馬市成田の五郎右ェ門橋の由来

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相馬市成田の五郎右ェ門橋の由来


水主-五郎右ェ門と尾浜村の松川寺の人別帳に記されている。五郎右ェ門橋とは間違いなくここからきている。ここは尾浜村の五郎右ェ門が開墾した田がありその後橋がかかりその名がついた。松川では塩場とあり塩を作り魚をとり田畑を耕していた。川船も持っていた。ただ人を養うのには田畑を増やすことでありそれで成田の方に開墾地を求めてきてここに田を作ったのでその名が残った。海の方の漁村から平地の方へ開墾して田を作る人もいた。今田も新しく開いた今の田である。尾浜とか原釜の回りは湿地帯でありそこを田にしたのは原釜や尾浜の漁師もかかわっていた。地理的には成田の方が拓き安いからこっちを選んだのかもしれない、これは資料に明確に記されているから由来は間違いない、この人には姓はないから武士ではない、十一人の大家族だからやはり田を新しく開くことで家族を養おうとしたのだろう。人の名前が地名化するときはよほどその人の貢献が大きかったはずである。だから名前が残ったのである。橋を作ったからとか橋だけからこの地名が起こった思えないからだ。

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2009年12月01日

南相馬市鹿島区江垂の一石坂 (いちごくさか)のこと


南相馬市鹿島区江垂の一石坂 (いちごくさか)のこと

●一石坂 (いちごくさか)の由来

住古女あり年20ばかり、木履を納め米一石を頭上に捧げこの坂を上りし故一石坂と名づく
陸前浜街道の鹿島区江垂の日吉神社まで上る坂は急である。あんな急な坂を上り相馬藩の武士が野馬追いの時も上ったのかと思う。馬にしても疲れてしまうだろう。よく駒止峠とういのがあるが例えば檜枝岐に田島の針生から行く七曲りの坂道をバスで行ったことがあった。ここも延々と坂がつづく大変な難所であったがトンネルができた。日本には延々と坂がつづく峠が多い、八木沢峠もそうである。だから自転車では歩くことになるから容易ではない、馬にしても駒を止める峠だというのは納得する、馬も延々と坂を上ることが嫌になる、もう上りたくないとなるのは人間と同じだった。

昔の道は最短距離で通じるように道ができています。ですから、どんな急傾斜の地形でも直線の道だったりします。それは徒歩ではそのほうがよいからで、道によっては、人はともかく馬は無理という道もあります。例えば、先の熊谷通りの道がそうで、ちょうど神社の参道に男坂と女坂があるように、徒歩は釜伏峠越え、荷駄馬は荒川沿いの道というように分かれます。
http://blogs.yahoo.co.jp/futamision0801/2210374.html


発見された近道
http://musubu2.sblo.jp/article/28422250.html

つまり歩くならこんな急な坂道でも上ることができるから直線的に行くことができる。でも馬だったらきついのである。徒歩で行く道と歩いて行く道が別れていたというのも納得する。

木履を納め米一石を頭上に捧げこの坂を上りし故一石坂と名づく

木履とは下駄なことなのか?納めたとはどこに納めたのか?下駄を運び米も運んだのだろうか?

日本酒の一般的な容量が一升(一八〇〇ml)。江戸初期に升の大きさを統一し、広さ四寸九分平方、深さ二寸七分の升に入る分量を一升とした。その十分の一が一合、一〇倍が一斗、さらに一〇斗を一石という。

一石は頭のせるとしたらその重さは大変なものである。ここに誇張はあるにしろこの急な坂を毎日のように上る力持ちの女性がいてこの名がついたのである。よくあんな重いものをのせて上れるものだとみんなが見ていたのである。女性だったから余計に目立ったのである。

比べ石 尺石 力石・・これは日本全国にある。力比べが行われていた。そもそもこうした石を持ち上げて一人前と大人と認められていた。江戸時代の生活は人力が基本であり機械がないから人間の力が頼りなのである。庭師が百キロ以上あるような石を人力で立てた時はびっくりした。あんな力をある人をまざまざと見たからだ。そういう力持ちは江戸時代なら注目されたのだ。
今はNHKで放映した麦の刈り取りで鎌一つで出稼ぎに集団がいたが一方でコンバインならその人力の麦刈りより一人の作業量より百倍にも千倍にもるから比べようがないのだ。石を動かすにしても機械を使いばそんな力を今は必要ないから力ない人でもやれることはやれるが庭師とか大工とか建築関係は以前として力が必要である。

●津川の城の伝説(阿賀野川)

麒麟山の上に津川城があり、城の石垣がけわしく、狐も通れないというので 狐戻し城といわれていました。昔、津川城の殿様が病気になり、医者がいろいろ手当をしましたが、なかなか よくなりません。そこで、山の麓の温泉の湯を汲んで湯治をすることになり、 温泉の湯を運ぶ役を、美しい小姓の蔦丸(つたまる)に命じました。
蔦丸は毎日、山も麓から、山の上のお城まで、せっせとお湯をはこびました。 殿様は湯治のおかげで、病気がだんだんよくなりました。
ある日のことです。蔦丸はお湯を汲みに来るお鶴という娘に会いました。
お鶴 も母の病気を治すために毎日、お湯を汲んでいたのです。
二人は仲良くなり恋仲になりました。そのため蔦丸の帰りがおくれがちとなり 人々のうわさになりました。これを知った重臣たちは怒って蔦丸を頂上近くの 石牢に閉じこめてしまいました。

この話はリアリティを感じる。狐の嫁入りとかを売り物にしているがそれは観光のために作られたここにはない伝説である。でもこれは城が山の上にあり実際に毎日湯を運んでいたのである。これも一石坂ではないが大変な労働だった。当時城は館は高台にありそれで必要なものを下から運ばざるを得なかった。日吉神社のある所も相当な要害の地であり高台なのである。
要するに昔は車もないのだから歩くほかない、だからそうした山や要害の城に物を運ぶことを仕事にしていた人がいたのである。これは湯をくむことをさぼったためにお咎めを受けたのだから当時の下々の生活が厳しいことを示している。歴史は伝説でもその土地の地形から生まれてくるのである。

殿様の病直さむと日々

険しき山道上り城に運ぶ

何故の咎めや残る恨みぞ

若者なれば恋ありて悪しきや

その山道は会津の奥の奥

雪に埋もれし津川かな


郷土史発見-ホ-ムペ-ジ
http://www.musubu.jp/jijikyodoshi.htm

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2009年05月31日

伊達政宗の陰に隠れて忘れられた月鑑斎(相馬氏と縁故の武将)

伊達政宗の陰に隠れて忘れられた月鑑斎(相馬氏と縁故の武将)

深谷月鑑は相馬長門小舅に候、天正十六年於下新田(相馬境)にも月鑑手前の者共玉無鉄砲打ち候由、政宗公被聞召、深谷は大崎境目候、相馬にても縁辺逆意の儀尤之由被思召、保摂津守に被頂置切腹仰付候(伊達成実記)

天正十五(1587)大崎義隆の家臣氏家吉継が主家にそむき伊達政宗の援兵を願った。このとき長江月鑑斎が五千余騎の兵を出したがこのとき、伊達軍に内通するものがあり中新田、下新田一帯の戦いに敗れた。

この戦いで最上氏がかかわり月鑑は政宗に憎まれ秋保氏に討たれ長江氏は滅びた。


桃生郡深谷を治めていたから深谷月鑑と名のった。娘を相馬長門守に嫁がせた。ここに相馬氏との縁戚関係となり相馬と関係するようになった。もともとは長江月鑑であり長江氏の系統であった。伊達政宗に最初反抗するグル-プがあった。最上氏と相馬氏が連携して政宗に対抗しようとしていた。それが月鑑だった。ただ政宗は歴史上に華やかにその名を残したが月鑑が埋もれてしまった。

秋保には墓もないという、ただ月鑑を討った秋保家にはそのあと度重なる災いが起こった。時の領主は裏山に祠を建て月鑑斎の霊を祀ることにした。この祠は今も「月りん様」と呼ばれ苔むした姿で残っているという、毎年7月19日、今なお「月りん祭り」なる祭礼がとりおこなわれている。(秋保町資料より)

なぜこのことに注目したかというと相馬氏がかかわり伊達政宗に反抗する武将がそれなりにいた。それが敗れて忘れられてしまっていたのだ。敗れたものは忘れ去られる。でもやはりいくら勝ったものでも人を殺すことは後味悪いから殺した人を祭ったりするのが人情なのである。怨霊や祟りも恐れる。だから政宗も敵味方塚を立てて敵を祭る。敵味方塚はいたるところにある。明治維新の戊辰戦争でも相馬でも東北では戦死した敵側の九州や中国の兵士を手厚く葬っている。それを見に来た九州の人などが感心している。日本人の戦いではそもそも同じ民族ということでこういうことがあった。これが異民族の戦いとなるとこうはならない、相手を絶滅、殲滅させる過酷なものとなる。中国の将棋でもチェスでも敵の駒は一旦とったら日本の将棋のように復帰しない、もう戦いには利用できないのだ。とった駒がもう一度戦闘力となるのは日本の将棋だけなのである。

こういうことは日本各地であった。現に南相馬市の鹿島区の岩松氏の伝説は前に書いたが有名である。500年たっても実際は未だに生々しいものとして残されている。風化していない、現実に主君を岩松氏を殺した子孫が残っている。その子孫は恐れて姓を変えたのである。ただ祭りとしては残っていない、祭りはそもそも祀るであり死者を祀ることから祭りになったのである。月鑑斎を記憶するものとして祭りが残された。それはやはり敗者も弔うという日本的な文化があったからである。



断たれた姓

もの寂びて五輪塔一つ
  
寥々として無念を語る
  
岩松氏の姓はここに断たれぬ
  
その逆臣は怖れ姓を変え
  
ここに生き残り子孫を残す
  
粛条と野は枯れて
  
もの寂びて五輪塔一つ
  
寥々として無念を語る


岩松氏の伝説
http://www.musubu.jp/kashimamanonado.htm

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2009年05月21日

相馬の大手高麗門は滴水瓦

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滴水瓦が日本に普及するのは16世紀末で、文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)に従軍した武将が帰国後に城郭建築に使い始めた。これは異国趣味がブームとなった桃山時代の気風を反映しており、それ以前の日本建築にはこのような異国的な瓦は受容されていない。高麗瓦とも呼ばれている
瓦の瓦当面が、雨水が滴るように「雲頭形・倒三角形」に垂れ下がった軒平瓦で、一般に「朝鮮瓦」と呼ばれます。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名達が権力の象徴として、朝鮮の瓦を真似たものとされています。


 仙台城本丸跡では、瓦当中央が花菱文の滴水瓦(3点)や菊花文(10点)が出土しており、仙台城二ノ丸跡・松島瑞巌寺・利府町大沢窯跡などでも出土しています。

相馬藩の大手門は大手高麗門と呼ばれているのは朝鮮からもたらされた滴水瓦が使われていたからである。それは伊達政宗は朝鮮出兵で秀吉につき渡ったときもたらされた技術である。文禄・慶長の役では相馬藩は別に出兵していない、伊達藩は大藩だから出兵した。つまり伊達藩の影響で相馬藩にも滴水瓦がもたらされた。瓦を作る技術者が伊達藩から相馬藩へ来たのか、大手高麗門と呼ぶのはそのためである。文禄・慶長の役で朝鮮から陶工が連れられて窯を開いた。その子孫がまだ綿々と技術を伝えていることは知られている。でも瓦はあまり注目していないが瓦も陶器を作ることと同じ技術なのである。だから陶器と瓦は本来一体の技術として古来あったのである。この瓦に注目する人は少ないだろう。でも大手高麗門と呼んだとき当時は最新の技術で作ったということで誇らしく名前をつけたのである。相馬藩は伊達藩と争ったがその後様々な影響も受けたしいろいろ交流があったのである。
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2009年05月10日

江戸時代の俳句(二本松の寛文時代の俳句)


江戸時代の俳句(二本松の寛文時代の俳句)

 

三春迄着るや岩城のちゝみ布  斎藤親盛

 「三春まて」「岩城宇尓、縮布」(『毛吹草』)。岩城名産のちぢみ布は、三春の人々まで着ていることだ。如儡子は『梅花軒随筆』の著者・三休子ゆかりの地・三春に出かけた事があったのであろう
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/bungei/18/haikaige.html

寛文12年(1672)だからこの句は古い、芭蕉が出るのは元禄である。元禄1(1688)だから20年後になる、でもその前に俳句らしきものが二本松とか地方でも作られていた。着るものも地方色豊だったのが江戸時代だった。

 笠鉾やかけ奉るひたち帯        春一

常陸国鹿島神社で、一月一四日の祭礼の日に行われた縁結びの帯占。布帯に意中の人の名を書いて神前に供え、神官がこれを結んで縁を定めた。鹿島の帯。

 

東ちの道のはてなるひたち帯のかことはかりもあはんとそ思ふ(新古今1052・古今六帖3360

常陸帯は全国で知られていた。常陸は陸奥ではない東道(ち)である。

あけぬるや雲のいつこにいかのほり 春一

関西方面ではイカ上りであり江戸では凧(タコ)と言っていたことである。1675年に、京都の俳人伊藤信徳が、江戸で「物の名も蛸(たこ)や故郷のいかのぼり」と詠んでいるし、同じ物でも土地が変わると名前も変わる。北前船で新潟と交流があり関西の文化が入りイカノホリと蛸上げを俳句にした。二本松では蛸上げとしていたのか不明である。
http://www.musubu.jp/hyourontakoage.htm

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2009年04月27日

日立木村(正一位館腰宮の碑の謎)

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名取(館腰神社)
http://www.city.natori.miyagi.jp/soshiki/bunka/tatekositemple/index.html

竹駒神社の案内標識があるので、街道を離れて行ってみる。日本三大稲荷の一つで、社伝では、承和9年(842年)、小野篁(たかむら)が陸奥国司として赴任した際、伏見稲荷を勧請して創建したと伝える。
竹駒神社は相馬でもお参りして分霊されている。稲荷神は豊作を願う神である。農民が豊作のため祈った神である。竹駒神社は有名だが館腰神社というのは有名ではない、でも名取に館腰神社があり館腰駅があることは知っている。ここは日立木村の高松であり稲荷も館腰神社から分霊されたのだ。正一位とは位の高い稲荷神ということでもとは京都からの稲荷神の分霊である。神様にも位があり位が高くないとありがたみがないとなる。嘉永だから江戸後期である。
館腰駅はいつも仙台に行くとき駅名の方が親しく覚える。神社の名前を駅名にしていた。太子堂駅も祠だからそうである。ただ館腰とここに館腰宮などと石碑で残っていたから江戸時代から信仰を通じて名取とつながっていたのかと改めて歴史を再認識した。伊達と相馬はいろいろつながりがある。新地村では伊達の境で明治まで伊達と相馬でわだかまりがあったとか、江戸時代の継続としてやはり昔は藩が違いば相当な民情の差があった。それでなかなか藩意識から解放されなかったから当然だった。


南相馬市小高区大田和字館腰
南相馬市原町区中太田字館腰
福島県伊達郡月舘町大字月舘館越

館を越した所”が、館越の地名の由来と云う。
義経が最初に住んだ館を引越したところが「館越」、そして館をつくり定住したところが「高舘」という具合に、義経ゆかりの地名がとまた、この台地の付け根付近に中世の館跡が残っています。


これが、地名「立ノ越」(館ノ越)の由来と考えられます。
館がありそこが目印となるからこの地名がついたことは確かだろう。
高倉山の城跡は城氏神として勧請した竹駒稲荷が祀られ、折木川に面する南面は断崖絶壁で、西側が深い沢となっています。麓から遊歩道が整備されており、山頂には四方を見渡せる展望台があります 。

広野町
http://www.town.hirono.fukushima.jp/sightseeing/historical.html

武隈たけくまの松 : 宮城県岩沼市にある竹駒神社の別当寺であった竹駒寺の後にあったと言われている松の木。(前項「笠島」の曾良日記参照)
竹駒寺は能因法師の開基になる寺である。寺の縁起に、 能因法師がみちのくを行脚し竹駒神社で歌の道に励んだときに使用した庵が竹駒寺になったと伝えられている。

武隈は竹駒が変化したものだろう。もともと竹駒寺にあったのだからそうなる。
富岡宿
通りがかりのおばさんに「竹駒稲荷神社とか太田農神社は、どこにありますか。」と聞いた。「さあ。」「この付近に神社はありませんか。」「お稲荷さんならそこの左手を入って行くとありますけど。」ということで、左手に入って行くと、「下町三社の杜」がある。太田農神社・八幡神社、竹駒稲荷神社、事代主神社が、左からこの順で並んでいる。
太田農神社は南相馬の原町区の太田神社から遷されたものだろう。神社は各地に遷される。富岡は相馬藩との境だったからこの辺まで遷されても不思議ではない。

稲荷神の総本社である伏見稲荷大社が正一位であることから、そこから勧請を受けた全国の稲荷神社も正一位を名乗っており、「正一位」は稲荷神の異称のようになっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/正一位

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寺内に真野明神があるからこれはここの稲荷と関係ない、稲荷は竹駒と関係していた。竹駒から分霊されたのが多いのだ。現実に竹駒神社まで農民でもお参りに行っている人はいた。山神は小牛田でありこれも美里ととかありふれた名前にしたから歴史的にわかりにくくなったのだ。
 
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2009年01月25日

越中富山の薬売りと相馬への移民(江戸時代の情報伝達の謎)

1690年(元禄3年)の参勤交替で江戸に出仕していた陸奥三春藩主秋田輝末が在江戸大名定例登城日に従って江戸城に登城したが、突然の腹痛に見まわれて七転八倒の苦しみを覚えた。周りに居た大名も、茶道坊主たちもどうして良いか分からずにウロウロしていたところ、同席していた富山藩主前田正甫が印籠に入れて携帯していた富山特産の反魂丹を服用させると、輝末公の腹痛はすぐさま快方に向かい、嘘のように治ったと言われている。この一部始終を目の当たりに見た諸大名たちが、前田正甫に対して反魂丹を大量に製薬して各地に販売するように要請したために全国に名が知られるに至ったという。

相馬藩からも代々の医者の家があり江戸に医者になるために行かせることになった。 医者と薬はかかせないものだが三春藩は相馬藩の隣だし相馬藩主の姫も過去に嫁いだこともあり三春藩の話はいろいろと入りやすかった。
この話は有名であり相馬藩でも語られていたのだ。

「江戸にはいろいろ医術のことや薬のことに詳しい人がいる、三春藩主から越中富山の薬が全国に広まったことは有名だからね」
「越中からは移民が来ている、あの人たちはまず一生懸命働くから感心だよ、相馬の飢饉では荒地になった所が多いが越中の移民が入り耕されて相馬藩も助かった・・・富山の薬売りはその後有名になったが・・・」
京之進、一生懸命勉強するんだよ、金もかかることだし遊んでいてはだめだよ、江戸は刺激が多いんだから、特に女性には気をつけることだ 時間を無駄にしては行けないよ、二年はたちまちすぎてしまうんだよ」
「はい、母上、一生懸命勉強してまいります」
「道中は気をつけるんだよ」
母は息子を叱咤してさらに父は加えて言った。
「跡継ぎにゃしっかりしてもらわねば、殿様も見るようになる、江戸で修行を積んだとなれば殿も認めてくれる、う、京之進、しっかり勉強して相馬藩のために尽くすんだよ・・・」


南新田村京之進伜門馬、仲衛医業心掛け、中村藤岡、朔庵殿へ随身致し、試業罷り在り候処、この度江戸へ表へ罷り登り、医業修行仕り度(たく)、御暇のお願い申し上げ候所、修行のため弐ケ年御暇、願いの通り相済み
(安政二乙卯(1855)年7月7日


このような資料が現実に残されているからこの時はすでに越中の移民が入っていた。どうして相馬藩の飢饉の窮状が伝わったりしたのか、江戸時代の情報はどうしして伝わったのか?やはり江戸への参勤交代や江戸が情報の発信地だった。商人や船乗りなども情報伝達者だった。何よりも江戸に来れば全国から人が集まるのだから情報も集まる。それでこの話が生れた。
江戸時代の資料を読むのも郷土史に欠かせない、資料は無味乾燥で興味がそそれない、文章もよみづらい、でもよくよく読めば江戸時代のことが事実としてわかるから興味がでてくる。
相馬の飢饉があり越中から移民があったことは知っている。でも他からも少なくても移民はあった。だから九州の地名がなぜ相馬にあるのかということで前にも書いた。越中の富山の薬は海路でも運ばれ薩摩との交流は有名なのである。越中の薬売りが情報伝達となり伝えられたこともいろいろあるだろう。江戸時代は一つ一つが謎になる。その謎をイメ-ジして結びつける作業が必要なのである。それがわかるとさらに江戸時代に興味をもつようになる。

天保一四卯十一月廿八日 父万之助 三拾才己
文化八末六月八日 秋田国秋田郡大久保村父孫右ェ衛門 亡
文化九申九月八日 丹波国天田郡梅表村父又兵衛 亡
同母そよ、六十一才
弘化二己七月十五日 磯部村父平田林助
同妻トメ 二十八才


文化→天保→弘化→安政となるが ここでどうして秋田国と丹波国から来た人がいるのか?この一家の謎は解きあかすことはできないだろう。父が二人いるのも不思議である。これは資料にあったから嘘ではない、しかしどうしてそんな遠くから相馬の地に来たのか皆目わからないのである。

越中、越後は移民で来ているからわかるがこれらはわかりにくい、でも越中だけではない、他からも遠くからも移民は来ていたのである。 天保七年にも飢饉がありその前にも飢饉は継続してあった。父が二人いて母が一人とういのも不思議である。万之助は母そよの子供であることは確かだろう。京之進が江戸に医業の修行に行ったのは安政であり明治に近いからその頃江戸に学問やら技術の習得に行った人はふえてきた。江戸時代でも時代により違っていた。明治に近くなれば人の交流はさらに盛んになっていたのだ。相馬藩の資料から無数の物語が生まれる。この資料の謎もその一つにすぎないのである。
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2009年01月11日

相馬に残る九州の地名の謎(移民は九州からも来ていた?)

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郡山は、明治期の開拓・開墾によって発展していった町で、禄を失った各地の士族達がここへ集まった。その為今でも市内の各地には、久留米、薩摩などの地名が残っているし、 ・・・・・


明治は侍が食を失ったから大変動があった。北海道にも移住した。武士橋とかもあり本土の国の名前がつけられた。広島村とか伊達市とかは有名である。出身地の国の名前を村や街の名とすることは良くある。郡山も士族達が移り住んできた。そこで九州の地名が開拓地につけられた。でも九州となると郡山からすると地の果てのような地域である。なぜこんな遠くまで来たのか、北海道は新天地だから移住したことがわかる。明治の時代は相当な人の移動があった。特に武士は禄を奪われたのだから深刻だった。それで全国に開拓に入る場所を求めたのだ。

ここで問題にするのは明治時代ではなく江戸時代の相馬への移民に日向とか薩摩からわずかであるが移民があったと書いてある。この資料とかはまだ調べていないから不明である。越中からの移民は有名であるし資料も明確である。越中から相馬までくる行程は命懸けであり実際途中で力尽きて死んだ人もいるらしい、その頃人の移動は禁止されていたから必死の移民だった。昼間はお堂に隠れてひそみ夜進んだというのもやはりそのためなのか、御堂は隠れ場所にいいのである。雨宿りに御堂を利用したし雨露をしのぐのには御堂は宿にもなっていたのだからこれは本当のことかもしれない、ともかく大変な難行をへて相馬にたどりついたのである。

それで地名を調べると字地名でこれは国土地理院の地図にもでていない、国土地理院にもでていない地名があり村の地籍図として残っている。これも地名を知るには貴重である。

寺内→尾張屋敷 南海老村→越中前田 、豊後屋敷 小池→薩摩内 柚木→対馬谷地

これらの地名は今では使われていない南相馬氏鹿島町誌に記憶として残されていた詳細な地名である。尾張屋敷とあると名古屋の尾張から来た人が屋敷をもって住んだのかとなるし豊後屋敷とあれば豊前、豊後は九州の大分県の古代の国の名である。 対馬谷地に対馬とついているのも不思議である。これは単なる当て字かもしれないが尾張屋敷、豊後屋敷となると本当にその地域から移り住んだ人がいたのか?記憶としては残されていたのだ。越中前田とあれば越中は一番移民が多かったし明確だから疑う余地がない、しかし九州から移民した人があるとなるとその跡をたどることはむずかしい。ただ薩摩とあれば九州の薩摩を思い浮かべるしそれしか他に思い浮かばないのである。そもそもどうして江戸時代に九州から相馬まで来たのか?

その道のりをイメ-ジできないのだ。相馬藩政史にその記録があるのかどうかわからない、パソコンにデ-タ-ベ-ス化していれば薩摩とかのキ-ワ-ドで何かわかったりするからデ-タ-ベ-ス化は便利なのである。いづれるちしろ九州からも移民があったとすると相馬というのが全国に知られたからである。それだけ宣伝したからでもあったのか、相馬相馬と木萱もなびく なびく木萱に 花が咲く 民謡だが相馬に移民を呼ぶための当時のコマ-シャルだったのだ。それで全国に伝わったのか九州の人までもしかして対馬からも来たとなるとその遠さに驚くのである。 面白いのは北海道の豊頃町史に

とくにやませの吹かない上りには人力23人を要したそうだが、舟にロープをくくりつけ、入植者が故郷である相馬や越中の民謡を歌いながら荒涼たる十勝川の川岸を引くさまは入当時のたくましい生活の詩であった。http://www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/toyokoro_koutuu_kankou.html

こういうところに移住した人が国の民謡を歌っていたのである。民謡も意外なところに伝わる場合があるのだ。九州まで民謡が伝わったどうかは不明だがやはり相馬を知らなければ来ることもできない、何らかの情報が伝わり相馬を目指したのである。ただそれは今となっては埋もれ相馬の地に地名だけが残ったともなる。

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2008年12月31日

江戸時代の旅の謎-親密な人と人の交わり(南相馬市鹿島区の江戸時代の旅の記録)


 

●渡辺崋山の旅の記録
 
江戸時代と明治では戦前と戦後のように時代が違っているから理解しにくいのだ。例えば関所だらけの道から関所がなくなっただけでも大変な変わりようだった。明治になったとき新世界に突入したのだ。旅はいくつもの関所を通るから難儀なのである。安田という銀行家となった人が関所を通れず間道を行きそこで泊めてくれた家があったというのもドラマではそんな話やるが事実としてあったのである。全国的に見たら江戸時代の資料も膨大であるから旅の記録も膨大である。江戸時代になると庶民もお伊勢参りとか相当旅しているからその記録も膨大だから一部しかわからない、旅に興味あるものにとっては旅から歴史を探ることも面白い。

渡辺崋山の旅の記録がインタ-ネットに出ていた。
          
 百姓と寝もの語や稲の秋  

 

萬屋藤七の名で、煙草や行灯などを商っており、俳号は兎来と号していた。
萬屋の店を見つけて、崋山と弟子は主人の前に立ったが、・・・・・・・・・・
http://park22.wakwak.com/~kozu5-2/hiroba-04/03.09.01noda.html


百姓とともに一夜を明かし暮らしのことを聞いた。こうした旅はいかにも江戸時代らしい。江戸時代の旅は今のようにホテルに泊まるのとは違っていた。旅の宿を庶民に求めることも多かった。そもそも今のように宿となるところが少ないから一晩でもいいから納屋に泊めて下さいとかお願いすることがあ他のだろう。それで芭蕉の「蚤虱 馬が尿するまくらもと」」などの句ができたのである。
萬屋というと今のス-パ-であり田舎には必要不可欠なものであった。現実鹿島区の在にそうした屋号の家があったし今でも阿武隈の山地の奥深くに萬屋がありそこでなぜか味噌汁までご馳走してくれたのは今ではありえないことだった。見知らぬ人にそんなことまでするだろうか?

 
つづきは「相馬郷土史研究」で読んでください
 
http://musubu2.sblo.jp/article/24990033.html
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2008年12月28日

葛尾大尽と歴史の道

●阿武隈の歴史の道の補足

葛尾の地は「相馬藩政史」によれば、相馬藩九代相馬顕胤公に二人の子供があり長男は盛胤といい、妹が一人いた。「天文十八年三春城主田村大膳清夫に嫁」とあり、十代盛胤公の部に「十八年の公ノ御妹ヨ三春城主田村清顕ニ嫁シ姫ノ化粧料トシテ楢葉郡ノ内南津島、葛尾、岩井沢、古道ノ四ケ村添与三春領に属ス」とある。この葛尾村は当時落合村の一部であったが、この時から三春藩に所属していた。

この記録に興味をもったのは前に阿武隈の歴史の道でホ-ムペ-ジで書いたからである。

相馬から川俣→二本松や三春へ往来はかなりあったのだ。二本松と三春への分岐点が山木屋だからあそこが道の要になっていた。道の十字路になっていた。そこで相馬の妹思いの若殿が栃窪の山を越えて飯館から山木屋の十字路に出たとき、三春へ行く道で駕籠をとめ三春藩に嫁いだ妹を案じたという話がその道をたどって行くと何かしんみりとしてリアリティがでてく
る。まさにそこが歴史の道であるからだ。

http://www.musubu.jp/somaabukumarekishimichi1.htm

そのリアリティとはまさにこの記録だったのである。当時は相馬氏と岩城氏と会津の芦名氏と伊達氏が熾烈な領地争いをしていた東北の戦国時代であり三つ巴四つ巴の争いがあった。伊達政宗は信長だった。だから安土桃山城とにていたのが青葉城の険阻な石垣だった。政略結婚も盛んでこの四氏は互いに姻戚関係を結んでいた。岩城氏はあまりなじみがないが相馬藩にも磐城の名が残っている。磐城太田は古代の国名に由来するからその時からつづいているのだ。葛尾村の落合のバス停になぜ「磐城落合」という名が残っているのかやはり岩城氏との関係かもしれない、ここは四氏が争った地域である。何故なら楢葉郡ノ内南・・・とあり楢葉は岩城氏の領地に属していてその境で相馬氏との争いがあったからだ。葛尾村の葛尾は松本氏が信州から最初に移住した一地域でありあとで相馬藩の落合村に属した。相馬藩の境では厳しい領地争いがあった。だから山中郷には境目付が多かった。

四氏の系図はここにある
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/soryo313.htm

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●三陸の鉄と葛尾大尽

今回三陸の宮古-大船渡とか旅したが三陸は湾が多く港が多い、しかし港の背後は北上山地であり山々に深くおおわれている日本のチベットととも言われる地域である。三陸では米をとる耕地が少ない、ただ北上山地があり岩泉で鉄がとれた。その鉄を久慈湾や宮古から相馬の原釜、請戸に船で貿易していた。そこで葛尾大尽を支えた松本三九郎と請戸志賀七十郎がいた。つまり八戸藩の久慈の港と盛岡藩の宮古と相馬の原釜、請戸は鉄の道として海上交通で結ばれていたのだ。野川から鉄が産出してはいた、最初はこの鉄を精錬して使っていたがたりず岩泉から鉄を買い葛尾で鉄を精錬した。葛尾大尽跡は製鉄所跡でもあった。江戸時代だとなかなか遠くの交流を歴史的にあとつげることはむずかしいがそれなりに交流があった。岩泉の中村屋とういう鉄屋が中村屋となっているのも相馬藩の中村と関係あるか゛、もしれない、事実盛岡に三春屋とあるとき盛岡は盛大な馬市が行われて東北一円から馬を売りに集まった所であり賑わった所であった。三春から来た商人が商売するようになり三春屋となづけた。こういうことは各地に見られるから確かなのである。帰り荷として相馬米と大堀の瀬戸物が送られた。やはり三陸地域は米はあまりとれないから米は貴重だった。葛尾村は父の出た村だから関心が深い、江戸時代に曾祖父が柏原に住んでいたことが戸籍からわかったからである。その時葛尾大尽のことを生々しく聞いていたことはありうる。あの辺で話題になるのは葛尾大尽くらいだったからである。山中にそういう働き場所があることは経済的効果は相当大きいのである。父は小出谷(小出屋)で出小屋にきてそこですみついたことでもわかる。その小出を出て今度は双葉の新山の酒屋に丁稚奉公に出たからである。あのような山中で働き場を確保することは容易ではない、鉄を作ることは大きな産業だったのである。そして面白いのは近江から連れてきたヨネという女性が葛尾大尽跡に近江八景を模した庭を作ったりしていることである。相当金も残したから開かずの池とかに家宝を隠していたという伝説が生まれのもわかるのだ。

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2008年11月26日

大倉村と佐須村が一体感をもった理由(真野川を通じて・・・)

大倉村と佐須村が一体感をもった理由(真野川を通じて・・・)


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秋深む大倉村


草野村へと峠さえぎる大倉村や
真野川の下は海へと
上は佐須へと通じける
佐須に山津見神社の古きかな
神と祀られるは狼なりと
佐須の名は焼畑に由来せり
虎捕山の伝説語る昔かな
一軒の農家やあわれ乳神の碑
隔絶されて暮らす昔や
行合道に出て人に出会うや
山を隔て分かれて村々の秋深まりぬ


真野ダムに沈んだ大倉村の大倉の名はもしかしたら鎌倉の御所のあった大倉に由来するのではないかと考えたのも真野川をさかのぼってくれば大倉になる。昔は川が道のようになっていた。アイヌでは川の入り口は尻であり上流が口であった。感覚的に上流に上ることが常にあったからだろう。日本は山国だから峠が多い、村は山によってさえぎられ隔絶することが多い、大倉と草野は明治時代に民情が異なっているから合併しなかったというのも大倉から草野は大変な峠を越える必要があったからなかなか交流ができなかった。ところが佐須とは合併できるとあった。これもやはり真野川を道として考えるとき地理的にわかりやすい、大倉の上流は佐須であり川を通じて結び合うのである。佐須という地域は川の最上流の奥にありここに虎捕山の伝説がありここまで追われた賊が逃れた場所だったというのも必然だった。地理的には逃れるとしたら佐須だったのである。佐須はまた焼畑の意味であり山津見神社が狼を祭っているのは焼畑の守り神が狼だったという説があるからだ。地理がわかるとこうした歴史や合併できない事情なども納得する。飯館村が南相馬市に合併しなかったのも地理的要因が大きかったともなる。

「大倉村と草野村は民情風俗同一ならず、民業にいたってもまた大に異なる」


草野村はまた佐須村とも同じ理由で合併していない。これは地理的要因が大きく働いている。どちらかというと栃窪に出る方が楽だった。大倉からお浜下りの神輿が車で下ってくるのも海を目指す方が地理的に近い感覚だったかもしれない、人間は地理に制約されるし地理の影響が大きいのである。佐須は峠を越えると霊山の方へでる。そこに行合道とあるのも何か閉ざされた世界からやっとそこで人が出会う道にでるからそういう名がついた。そこもかなりの峠であり伊達氏もここを越えて入ってくるのは容易でないから自然の障害が要害となっていた。藩の境界はそういう自然の要害になっているところが多い。日本では特に山が多いから峠が自然の境界であり国の境界にもなるのだ。

郷土史も地理が大事(虎捕山伝説から佐須の場の解明)http://musubu.sblo.jp/article/16416404.html
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2008年08月20日

昔の山の暮らし(馬を飼う牧として利用されていた)

昔の山の暮らし(馬を飼う牧として利用されていた)

夏厩(なつまや)も焼畑地名です。夏厩は、夏の間に山間の傾斜を焼いて畑を開いたり、馬を飼うことによります。(岐阜県地理地名事典) ただし、斐太後風土記の夏厩の項では、夏草を乾燥させて冬の馬の餌(稗糠や稗殻)に混ぜたことに因むといいます。その厩の堆肥を田畑に用いると、穀物が豊熟したので他村から羨ましがられ夏厩村となったと記してあります。また、六厩の人に聞いてみると、岡田長者が夏になると馬を放牧した場所が夏厩とされます。http://www2.ocn.ne.jp/~ynhida/yamagatari/katari/hiyama.htm

上松町の古老は、「蚕のコナクソ(糞)とウマの肥えがいっぱいあって(かぶが)よく穫れた」「ナバタ(菜畑)焼いて木灰つくって連作もできたんだ」と回想する

http://www.tkfd.or.jp/research/sub1.php?id=28

山ゆり、鬼ゆり、小鬼ゆり等は食用部分は煮たりあるいは蒸したりして用い、また澱粉を採取する。

葛巻(くずまき)町

由来
(1)「葛牧」で葛(クズ)の生えた牧場 
(2)「葛蒔」で傾斜地を崩し蒔きした焼畑のこと



農民にとっては、林の下草を刈り取って、馬の飼料や、馬に踏ませて肥料とすること

豊津国民学校では夏休みの作業ノルマとして、軍用馬の飼料になる干し草一貫目を刈り取ってくることが、僕達生徒一人一人に課せられました。土手や空き地に生えている軟らかい雑草を刈り取り、カラカラになるまで天日に干し、縄で縛ってつくった干し草一貫目の束を夏休み中に学校まで持っていくのです
http://www2s.biglobe.ne.jp/~youta/youta14.htm


高遠山は江戸時代末期から木祖村、塩沢などの集落の入会山で、木曽馬の飼料にする草刈りの山だった。近代までは全山青々した草原の山で、地元小学校の遠足や山菜採りに訪れていたと言う、が、木曽馬を飼わなくなった昭和三十年代、草刈り山としての使命が終わり、今ではカラマツが植林されている。
http://www.naganoken.jp/mount/kiso/toriitoge/takatoyama.htm

牛や馬はハギを食う。この荳科(まめか)の植物がよほど好きと見えて牛や馬の飼料に部落の人たちはハギを刈って山のようにかついでゆく。ハギは山野に生いしげるが、ここのはいわゆるヤマハギで赤の色がややうすい
http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/43782_25641.html

山の暮らしは今では忘れられている。昔の生活は基本的には自給自足だからすべて近くにあるものでまかなわねばならない、山の暮らしもそうである。特に交通が発達していないから近くの山が大事になり入会権がいたるところにできて入山を制限した。そこに境木とか境が常にいたるところに設定されたのだ。家は茅葺きだから萱も不可欠であり屋根にするには大量の萱が必要であり萱場という地名などが残された。そして意外と忘れられているのが馬の利用が盛んだった。農家でも農耕馬用に一軒に一疋の馬を飼っていた。馬を今なら車と同じだったのだ。車の燃料はガソリンだが馬の燃料は秣(まぐさ)とか稗とか近くにあるものでまかなうことができた。ガソリンは外国から輸入せねばならないが馬の燃料は身の回りで供給できたのである。山は牧場に牧として使われていた。

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明治三年の飯館村史の比曽村人別帳でも家族の人数は10人から5人で馬は一疋ではない、必ず二匹以上は飼われている。家族の人数が多くなれば10人で五疋とか六疋にもなる。飯館村全体で一六〇〇頭もいたとなると相当な馬の数である。葛尾も長野県の葛尾城から逃れてきたから葛尾としたが葛はやはり焼畑地名に由来していて馬の牧にもなっていたのである。葛尾も名馬を産する地として有名だった。飯館、葛尾などは野馬追いに供給する馬の放牧地ともなっていた。農家では二所帯同居でありここではその他に五男は二二才だから確実に労働力となっていたし十六才の六男でも労働力になっていた。農家だけだと労働力がかなり必要だったのだ。ただ一家にしてもその跡を継ぐにしても五男六男とあるからもし地元に残るとすると田畑が土地が必要となる。それで葛尾村の野川に六良田(六郎田)などを作らせて分家させたともなる。この一家で注意せねばならないのは五男六男四男はいるが三男次男はいない、五女がいてその他がいない、他の一家でもそういうのが多いのは三男四男次男などが早死にしたのかもしれない、五女でもその他の四女三女なども早死にしたのかもしれない、昔は半分くらい子供が早死にしているのがふつうだからである。馬も昔は家族の一員であった。今はペットが家族の一員であり介護までして墓も作り供養しているのと同じである。子供のとき隣が農家で馬を飼っていた。その馬小屋の上で遊んだことがある。馬は身近に存在していたのだ。今でも中国辺りでは馬が荷物を運ぶものとして利用されている。北京の市街までスイカなどを売りにきているのは不思議である。

外国だと昔の生活がそっくり残っていることがあり日本の昔に帰ったような気分になることがある。特にアジアではまだまだ昔の生活そのままに生活している人が多いのである。カンボジア辺りでは水牛を飼い高床式の家で生活しているからまるで日本の古代の生活だった。でも日本だって山で電灯がついたのは戦後まもなくだったり水道もない生活だったりこれほど便利になったのはここ五〇年くらいのことだったのだ。ここ五〇年の変化が激しかったのだ。私の子供時代の十年は燃料も炭だったし自給自足が生活の基本だったのだ。それで馬の糞が肥料になっていたというのもそのためである。インドでは牛の糞は干されて燃料になっている。これはベナレスのような大都会でもそうなのである。日本の昔を知りたかったから外国に行けば具体的に昔がそのまま残っていることに驚く、私の家では店をやっていたが新聞紙でバラ売りの菓子などを売る袋を作っていた。それがインドのバラックのような店でも新聞紙の袋だった。新聞紙でトイレの紙にしたりいろいろ再利用があったごとく馬の糞も肥料として貴重だったとなる。ガソリンの高騰があるが石油の生活は相当な贅沢でありその贅沢なものに頼ると今度は逆に石油が高騰したりなくなると生活がなりたたなくなる。トウモロコシから燃料を作るとか無理がでてくるし世界的な食糧不足にもなる。人間の問題は一旦贅沢な生活をするとそこからぬけきれない、質素な生活をすることがむずかしくなる。でも贅沢な生活を維持しようとするとその代償は高くすつことにもなる。


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2008年08月15日

相馬藩の境にまつわる話

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相馬藩の境にまつわる話

浜通りの歴史的風土は、夜ノ森を境にして異なる。「夜ノ森」の地名の由来は、岩城氏と相馬氏が領有権を争って「余(=我)の森」を主張
し、その境界線となったことに由来すると言われている

伊達と相馬の境のさくら、花は相馬に実は伊達〜に

行司滝−元禄時代、相馬藩と三春藩が領境をめぐって争った際、双方の役人が行司(話し合い)をした場所としてその名が付いたと言われる。

標葉郡と楢葉郡の境界、とりわけ海岸地域は、十五世紀末以来、相馬・岩城両氏が争奪を繰り返し、元亀元年(1570年)岩城領に帰した際にも、“おら浜だ”“おらが浜だ”と争った。のち元禄十三年(1700年)、相馬中村藩と磐城平藩の協定により、北を小良浜(大熊町)、南を小良が浜(富岡町)として境界が決定された


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境界は自然的境界と政治的境界がある。自然的境界は山とか川とかにさえぎられる、自然が要害となり敵をはばむ。外国では川が大きいから川が境界になりやすい、ライン川がゲルマン民族とラテン民族を分ける川だった。riverはライバルであり川を挟んで敵対して競争していたのである。日本では山が多いから山が自然の境界になる。境は坂を越えるところになる。封建時代は藩が一つの国だから境界が大事になる。境界を死守するために戦った。相馬藩でも最初小高に城があったが中村に今の相馬に移ったのはまさに新地方面から伊達が攻めてくるからであった。そこに山がなかったから城を築き守る必要があったのだ。その他相馬藩との境界になっているのは夜(余)の森である。あの辺は未開の森があり境界となっていた。おらが浜(小良ケ浜)でも境界争いの話が残ったのである。境界争いにまつわる話が多いのはそれだけ境界が大事だったからである。それから藩の内部でも境界が多いのである。堺田とか境畑は藩だけではない、藩の内部にもある。それは入会の山だとか江戸時代は狭い領域で人々が暮らしていたからである。入会の山だと制限された村人しか入れない。そこが生活の根拠となるからまた境が大事になるのだ。

 「赤穂市史」によると、入会権をめぐる尾崎村と坂越村の山境争論は1695年(元禄8)に勃発。坂越村が赤穂藩に吟味願いを出し、1809年(文化6)の和解まで1世紀以上にわたって続いた。http://www.ako-minpo.jp/ktai/detail.cgi?no=842


山論
http://www.oklab.ed.jp/zemanjyo/furusato/4-4-2.htm

燃料とか秣(まぐさ)とか木材でも山は今とは違い貴重な資源を供給する場所だった。

境目付-横境目付とかあるのは境目付は重要な役職だった。横境目付とは境目付を横から監視する役目だった。不正があるとまずいからそうなった。高玉氏がその役についている。これと飯館村の山中郷の野馬追いの旗印で書いた。玉野の境目付でありそこに子孫が残っている。高玉氏の姓の人がいたからだ。飯館村の臼石から二枚橋から川俣にゆくのにはまた山を越えねばならない、その山の頂上に水境(鏡)神社がある。これは妙見神社であり相馬藩領であった。ただ飯館村の村史に山水境東洞屋とあるからこの洞屋が神社になったのかもしれない・・地名も水境となっていた。ここも境界の山としては要害となる。佐須地域でも敵が攻めにくい要害である。地図でみると津島がなぜ今も浪江なのかわかりにくい、でも歴史的にみると津島が標葉郷に属していたから継続として浪江町に属している。葛尾村と三春藩はやはり山を境として接している。そこでも境界争いがあり行司滝の伝説が生れた。黒木氏か伊達にとりこまれて相馬藩に敵対したのも地理的なものだった。伊達に近いところに領地があるからどうしても伊達と通じることになった。当時の戦争は地政学的要因が大きく作用したのである。今でも戦争には地政学的要因が大きく働く。地理を知ることは現代でも歴史や政治を通じる第一要件になるのだ。ただこの地理は実際にその地を路査しないと実感できないから歴史を理解することはむずかしいのだ。まず福島県の地理を理解すること自体相当むずかしい。会津までふくめると広いし会津だと山が多いから入り組んでいるからさらに理解しにくくなる。いづれにしろなぜそこに城があったのかとなると偶然ではなく相馬藩の場合は伊達の進攻を防ぐために新たに作られたのである。要害となる山がなかったことが第一の要因だったのだ。
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2008年06月12日

葛尾村(落合)の明暦と元禄と記された石碑の謎

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葛尾村(落合)の明暦と元禄と記された石碑の謎
 

松本家の祖は時の左大臣藤原魚名(721〜783)の末裔で、信州葛尾城主の系譜で、松本勘ヶ由助親家は村上氏の圧迫により奥州に逃れてきたものといわれております。
 親家の嫡男親照が大永初年の頃相馬顕胤公に仕え、田村の境目押しとして落合村の奥地を与えられ(故郷信州の葛尾に因んでこの地を「かつらお」と名付けたと考えられます)


葛尾城は村上氏が武田との戦いで落城したことで有名である。その前に松本家は村上氏に追われたことになる。ではなぜ阿武隈の奥地までやってきたのか?戦国時代は移動が激しかった。またまだ領地とされる地域が確定されていないから逃れて住む場所もあった。葛尾は三春藩と相馬藩の境目にありどちらの領地とも定められない所だった。相馬藩は三春藩から守るために落合を与えた。落合はだから葛尾の要所であった。昔は戦国時代は絶えず防衛が一番大事であった。敵にいかに攻められないか、敵から自国を守るかが最大の問題だった。相馬藩はもともと小高に城があったがのちに中村(相馬市)に移したのは新地が伊達氏と興亡の境でありまた丸森も金山城が一時は相馬氏の出城であったように伊達氏との境界となっていたため中村(相馬)に城を移したのである。黒木氏が一時伊達氏側について田中城を攻めたのも丸森に近いところにあり地理的な要因として伊達氏にとりこまれた。地政学的戦略が常に作用していたのである。化葛尾村で一番古い場所は落合となる。ここはおさえておく必要がある。今の葛尾村の役場のあるところではない、落合になる。
 
相馬領(現在の大字上野川、野川、落合)と三春領(大字葛尾)になりました。明治4年に戸長制度となり、区会所行政下では富岡町第24区、明治16年の役場制度下では下津島とともに同一行政区となり、明治22年町村制度が実施され、上野川、野川、落合、葛尾の4ケ村が合併し葛尾村となりました。その後、津島村と合併して津島葛尾組合村が誕生しましたが、大正12年に両村が分離して葛尾村として発足し現在に至っています。
 
上野川−野川−落合がもともと相馬領であり三春領は別だった。津島も三春領だった。野川は二つの地域に別れているのだから葛尾村でも大きな領域である。野川では寛文 1(1661−1672)に新田、新開の検地が行われている。ここに新田が作られた。野川の六良田A遺跡からは縄文時代の遺跡や鉄炉も発見されているから葛尾では古くから人が住んだ場所である。六良とは次郎田とか三郎田、四郎田、五郎田、六郎田、・・・・とかあり名前であり長男は家を継いだがその他は新開地を求めて新田を開いたのでその名がついた。山で暮らすにはやはり土地が必要なのである。ネパ−ルでは信じられないような高い所に家がある。不便なところに土地を求め家を建てるほか住む場所がない、山に住む場所がなくなれば町におりてくるほかないのだ。その前に出作り小屋を建て仮住まいして畑を作ったりして仮住まいしていたのが住居となる。小出谷がそうである。つまり小出谷とは小出屋であった。ここが私の父方の出た所であり因縁深い場所だった。その実家の人は浪江に移ったのでその家はなくなった。父から昔の話を聞かなかったので祖父の話を聞いていないのでどういうことでそこに住んだのかわからなくなっている。ただ落合が葛尾の中心地でありそこから小出谷の方へ耕作地を広げていったことは確かである。さらに系譜をたどると葛尾の松本家が祖先につながっているかもしれない、落合までは浪江から森林鉄道が通っていた。高瀬川沿いをここまで上ってきたのかと驚く、木材を出していた時は結構活気があった。
 
この碑は何を意味しているのか、明暦と刻まれているから明暦に碑が建てられ次に元禄にまた同じ碑に年号が刻まれた。その間の寛文に野川での新田の検地が行われた。これは落合付近にあったから昔からの古い墓地だった。「為道善知・・・」善を知り道をなす・・」なのかこれは僧侶の墓なのか、信仰として建てられた石碑なのかわかりにくい、資料もないので今は解明できない、ただ時代的には確定されるものがあった。明暦−寛文−元禄とここは葛尾村の中心地で人々が集まり住んでいたのである。
 

明暦 1-1655
明暦 4-1658
寛文1-1661-1672
元禄2-1689
元禄17-1704

 

野川−落合の地図
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?meshcode=56402605

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2008年05月10日

相馬藩の飢饉の歴史(宝暦から始まっていた)

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相馬藩の飢饉の歴史(宝暦から始まっていた)

 

領民の疲弊は、宝暦(ほうれき)5年(1755年)の凶作と翌年の飢饉(ききん)に表れました。凶作の減収は4万6435石におよび、飢饉で藩から粥の施しを受けた窮民は、2万3994人にのぼりました。家臣団もまた減知をこうむり、百石以上の士は半減、以下の士もまたそれぞれ知行を借上げられることとなりました
http://www.city.soma.fukushima.jp/rekisi/kouza/2007/200706.html

 
日立木で発見した宝暦の碑は一二年だがその前に相馬藩でも飢饉があったのだ。相馬市の新沼観音堂前に餓死供養塔があるとなるとそれは宝暦五年から七年のあとに建てられたから日立木の碑より古いとなる。
 
1755年〜1757年(宝暦5年〜7年) 宝暦の大飢饉

東北地方は7万4千俵の減収であったが、蓄えがなかったために大飢饉となる。
餓死者6万余人、死馬2万頭にのぼる。
岩手、志和郡が1万7864 人(人口の30.5 %)、三戸郡が1万2681 人(人口の55
%)、鹿角郡が3241 人(人口の20.8 %)、二戸郡が5446 人(人口の19 %)

 
飢饉で三分の一くらいに人口が減ったから深刻だった。長雨と冷害だった。東北の浜通りは稲作に向いていなかったという、海からの風(ヤマセ)で冷害になりやすかったのだ。
 
旧相馬藩領では、獅子頭を被って舞う神楽(いわゆる獅子神楽)が今も数多く伝承されています。相馬地方は昔からヤマセ(夏季に吹く冷たい東風)による冷害のため、たびたび飢饉に見舞われ、多くの餓死者を出してきました。特に天明の飢饉では、藩内の人口が3分の1にまで減少したそうです。そのため人々の豊作への願いは切実で、こうしたことも神楽などの民俗芸能が盛んに行われてきた背景の一つとされています。

こうした神楽とか祭りの起源は今のように遊びではない、密接に生活と結びついていた。雨が降らなければ雨乞いも真剣になるしそれが極端になると人身御供(ひとみごくう)も行われた。そういう女性がいて村の記念として語り継がれ像まで立っているところもある。これは世界的にあることだから珍しくない、インカは有名である。祭りには生活に密着して真剣なものがあったが忘れられて遊びになってしまった。飯館村の六字名号塔も大きいからここではかなり深刻だった。高原地帯だから冷害はさらにひびいた。だからこそあのような大きな供養塔を建てた。費用もかかったがやはりなんとか死んだ人を供養したいということで大きな塔を残した。これも宝暦であり飯館では一番古いものとなるだろう。
 

性空上人の到達した境地は結局南無阿弥陀仏の六字の名号を称えることにより、他力に依って、無生即ち一切空の世界、それ自体変化する事のない世界に入るのと同じである

六字名号は性空上人に由来して古く一遍聖人にひきつがれた。一遍の踊り念仏は磐城でじゃんがら踊りがあるように東北まで伝わっている。じゃんがら念仏は岩手の方までも変化して伝わっている。一遍は遊行聖というとき各地を念仏しながら布教してあるいた。

大沢袴田の地に「南無阿弥陀仏」の碑を建てているが、八月、鞭牛は船越半島の突端大綱の山中(秀全和尚の修行の地)で天候回復の祈願と路頭で食べ物を求めながら倒れ死んでいった人々のため「六字之名号一万血書供養」を行った。
http://homepage3.nifty.com/bagusnya/bengyu/nenpyo.html

 
飢疫に逼り乞客目に溢れ死人眼に満てり。屍を臥して観と為し尸を竝べて橋と作す(立正安国論
 
中世は行き倒れとか化野の煙絶えじとか道端でも死骸がごろごろしていたのである。死を日常的に見る世界だった。そこに無常を感じて宗教に帰依する人が多かった。そういう死骸を埋めて供養するのも宗教者であり一遍などはそうして死者を供養して回った。その頃墓にも葬られない、野垂れ死にが普通だった。そうした死者を葬り供養するのもかなた手間だから放置されていたのだ。餓死者も常に日常的に存在したのが中世ではそうであり江戸時代になると飢饉でそうなった。
 

1783 天明 3年 ◎天明の大飢饉 奥羽地方死者十万人   
1784 天明 4年 ◎農民逃亡の為、農村荒廃   
1811 文化 8年 ◎越後国蒲原群から僧恵敬が原町市増田にて布教活動(常福寺)   
1813 文化 10年 ◎第一回移民四家族を相馬に誘導
1821 文政 4年 ◎小田原藩 二宮尊徳を登用        後に相馬藩でも登用    1832 天保 3年 ◎天保の大飢饉 奥羽地方死者十万人   
1835 天保 6年    庄七(山田家初代)
五箇山大島(島村)から相馬郡石神村に子供三人を連れて移住する。

 
天明年間に発生した天明の大飢饉では大打撃を受け、領民の多くが餓死したり逃散した。これに危機感を抱いた藩の上層部は、密かに真宗教団と接触し、禁制であった移民を北陸から受け入れ、藩の立て直しを図った。

天明の大飢饉で相馬藩の農業は壊滅的打撃を受け、農民の数も減ってしまった。時の藩主は他国の農家の次男、三男を移民させて農業の復活を図ろうとし、諸国に声をかけた。その呼びかけに呼応した富山の農民達は、門徒宗僧侶の導きのもと厳しい監視の目を盗んで国抜けし、相馬を目指して数百キロの辛い旅に出た

飢饉はその後もつづき越中からの移民や二宮仕法で藩を建て直した。藩が国であったときは人の移動は一番むずかしいことであった。でも危急の際は人間は禁制も破る。あまりにも衝撃的打撃がそうさせてしまう。藩がつぶれてしまいかねないからだ。次男三男は土地をもてない余りものだから土地をもらいるということで移民してきた。越中からの移民は土地に根ざしているから農業するためだから相馬の土地に根付いた。一方今の移民は農業ではない、底辺の賃金労働だから定着しにくい、稼いだ賃金を母国に仕送りするために働いているのであり定着する土地などは与えられないから一時期の出稼ぎで母国に帰ることになる。農業は三代つづけて一人前になるというとき土地に根付くからそうなる。最初は苦労したが移民はよそ者だからかえって働くということがある。それは外国人でもそうであり日本人より必死になって働く、移民にはそういう効果があった。だから越中の移民はあとで豊かになる人もふえてきたのである。その土地に根付いたというときやはり土地を与えられたことが土着させた要因だった。鉱山とかで働いたとしたら資源をとり尽くしてしまいばまた移動するほかなくなってくるからだ。ともかく相馬では越中から移住した系統はわかりやいのである。
 
今回はほとんど自分で創作したものがなかった。インタ−ネットにでていたものを編集しただけであった。それでもこれだけのことが系統的に郷土史として明確にされる。このきっかけは日立木で宝暦一二年の甲子塔を発見したとき、宝暦という年号に興味を持ったからである。宝暦一三年の碑は岩手県にも残されていた。これも一遍の念仏衆と関係しているのかもしれない、インタ−ネットは郷土史研究にかなり役立つのだ。他の地域との情報の連携をはかることができるからだ。
 
中乙念仏踊り(岩手)
http://www.k2.dion.ne.jp/~kunera/page007.html
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2008年04月23日

相馬市(日立木の薬師堂の宝暦の碑−甲子塔の謎)

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 日立木の薬師堂の宝暦の碑−甲子塔の謎
 
 
●宝暦飢饉との関連は?
 
ここに薬師堂があり宝暦と文政の碑があった。宝暦は1700年代とすると相当古い、ここは古くから人が住んだ場所なのである。飯館村にあるこの碑も宝暦であり南無阿弥陀仏碑がここにもあり飢饉と関係しているかもしれない、飢饉が江戸時代にはありそれの供養の碑も結構ある。
 
「南無阿弥陀仏碑  」 高さ2メートルを超す御影石製の碑。宝暦の飢饉の後建てられた餓死者供養の碑。(塩の道−六字名号塔)
 
宝暦の飢饉(宝暦年間 1753年〜1757年)なども東北地方を中心にに被害をもたらし、四大飢饉に次ぐ飢饉として挙げられる。東北地方の専門家は、天明・天保の飢饉に宝暦の飢饉を加えて三大飢饉と呼ぶこともある。
 
宝暦5年だからここには宝暦一二年と読めるからそうでもないのか、宝暦一二年は
 

甲子供養塔1762 壬午 宝暦12

 

●宝暦の相馬藩主 
 

相馬斉胤(そうま なりたね、宝暦12年9月(1762年) - 天明5年7月29日(1785年9月2日))は、相馬中村藩8代藩主・相馬恕胤の次男。母は青山幸秀の娘。通称は伊織。
宝暦12(1762)年9月、相馬因幡守恕胤の三男として中村に誕生した


明和9(1772)年9月4日、恕胤は齋胤を嫡子とする届けを幕府に提出。10月23日には御目見の願書を提出した。そして11月1日、願いの通り御目見えが許され、恕胤は齋胤を伴って江戸城に登城。将軍・徳川家治に謁見した。

 しかしこの直後、齋胤は大病にかかり、恕胤は急遽齋胤を廃して、妾腹の子・吉次郎を嫡子とすることを決めた。この当時、後継者がないままに大名が亡くなると、その家は取り潰しと定められており、恕胤も苦渋の決断であったと思われる。

 安永2(1773)年3月25日、恕胤は正式に齋胤を廃嫡とし、4月13日、幕府に齋胤は病気のために嫡子を退く旨を報告。22日、妾腹の吉次郎を新たに嫡子と定めた願書を幕府に提出した。
 安永5(1776)年、嫡男・哲之助が誕生したが、3月15日、亡くなった。法名は曹源院殿洞水一滴大童子。安永6(1777)年3月15日には次男の健次郎(内記)が亡くなった。法名は紫雲院殿玉英智?大童子。さらに同年12月18日、三男・俊太郎が亡くなった。法名は洞林院殿丹山玉鳳大童子。

相馬氏−代々の歴史
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/
hanshu321.htm#satitane


このような歴史が残されている。いかに藩主で豊かな暮らしをしていても子供は死ぬことが多かった。それで妻妾というと今なら不道徳に見えるがこうして嫡男が病気になると藩が取りつぶしになるのだからやむをえない事情が当時あったともとれる。子供は半分くらい生まれても死んでいるからだ。飢饉であれ病気であれ江戸時代を生きることは容易でなかったことがこれからもわかる。ここは歴史的事実であり小説ではないから江戸藩邸との具体的な行き来がわかって興味深い、ここでは確かに相当に苦慮したのである。
この碑は飢饉の供養というわけではない、「甲子供願」とある。飢饉の供養塔ではない、餓死供養塔とか明確に記されているのがあるからだ。
 
子を鼠と結び付かせ、鼠を大黒天の使者と看做して、大黒天祭(甲子祭)が行われる。また、甲子待(かっしまち)と言って、子の刻(23時ごろ)まで起きて大豆・黒豆・二股大根を供え、大黒天を祀った。

甲子様(きのえね)の日には何か丸い形をした御馳走を作って大黒様に供えた記憶があります
 
甲子様は大黒天のことでありこれは日本全国に広がってある。甲子園自体有名であるがこの甲子様から出てきていたのである。碑の○は円満とかを象徴しているのかもしれない、隣にあった湯殿の碑は文政(1818)だから百年後であり宝暦にはまだ湯殿信仰は伝わっていないかもしれない、宝暦時代に何があったか相馬藩の跡継ぎ問題が最大の問題となっていたかもしれない、他に何があったか?そのあと宝暦の飢饉が東北で起こったことは確かである。岩手県の方がひどかったらしい、このように一つの碑から語るものがある。これを読み解くのはむずかしい。ただ宝暦は相当古いから興味をもったのである。郷土史研究はそれなりにコツがあるのだろう。私がしている方法は今はインタ−ネットだけである。ここで芋づる式にキ-ワ-ドで探して編集しているのである。ただインタ−ネットだけでは相馬藩の歴史も膨大だからわかりえようがない、しかしこれが図書館で調べるとなると相当な暇が必要であり今はできなくなった。キ-ワ-ドでは簡単に調べられないからだ。

 
 ●当時の百姓の会話


「おれらの城の殿様大変なこった、病気になって跡継ぐことできねえと、藩がとりつぶしになるべえ」
「側室様がいるから大丈夫だよ」
「それもそうだな、側室様はどうしたって必要なもの」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ええ、またあとついだ、殿様の子供が死んだって、次々に死ぬもんだ、病気には殿様も勝てないよ」
「んだんだ、おらの子供も二人も死んだしみんな子供死んでいるよ」
「まあ、供養して拝んでもらうほかないわな」
「法名は

 
曹源院殿洞水一滴大童子 紫雲院殿玉英智大童子 洞林院殿丹山玉鳳大童だと
 

「たいそうなな法名だよ、菩提寺のお寺に葬ってもらって成仏してもらうからいいだろう。」
「おれらも小さな墓でも建ててやるべか、墓を建てるのも金がかかるで・・・」

「みんなで地蔵様を建てて供養した方がいいよ」
「それもそうだな、その方が安上がりだよ」

「ともかく病気には殿様でも勝てない、病気にならねえように薬師堂に祈ることだ」
「甲子様にもともに願い祈ることだよ」
「殿様もえらいことだがおれらもえらいことだよ、子供は病気で死ぬのは同じだで・・・」

 

ぼたもち地蔵の由来
http://www.houzenin.jp/mizuko/jizou.html

 
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2008年04月03日

越中から相馬へ移住した人の墓誌

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越中から相馬へ移住した人の墓誌


 

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この人は越中国砺波郡中田組増山邑ノ郷士加賀ノ藩士前田家ノ家臣増山藤四郎・・・
とあり途中関東に数年間居住して高平村に移住した。増山という姓は越中国砺波郡中田組増山邑の増山から出ていたのである。日本人の姓のル−ツをたどると土地の名前からでているのが多いのである。

この墓は天保3年(1832)−慶応1年(1865)である。二つは江戸時代からあった墓である。これだけ二つが当時のままに残っているのはこの辺ではめずらしい。越中から移住した人は浄土真宗の宗教をもってきた。それで火葬とかの風習も相馬にもたらした。それまでは土葬が多かった。真宗では戒名はなく法名である。
 
浄土真宗では、「戒名」ではなく、「法名」といいます。法名は「法」にしたがって生きる、仏弟子としての名前です。「釈」という字は「お釈迦様」の「釈」です。仏門に帰依し、お釈迦様の弟子になるという意味があります
 
だから釈とつけば真宗系統なことがわかる。不思議なのは江戸時代の二人の妻には名前が残っていない、名前がないというのは今では考えられない、個人の名前より一家一族の姓や屋号が重んじられたのが日本である。今でも日本では個人名より血縁よりどこの出だとか出身地とかまたどこの会社に所属しているとかの方が大事である。家業優先主義から会社優先主義になったのである。
 

 日本人は男も女も実名を伏せて気軽に相手に教えないという風習がありました。実名がわかるのは官位につくとき、神様にお願いするときに実名が書かれてくるくらいですね。 では普通はどのように呼ばれていたのかですが、官位、通称、字などで呼ばれていました。女性の場合、父母以外に実名を教えるのは夫になる人にだけという状況でした。また、実名がないということもありました
http://okwave.jp/qa3324033.html

 
万葉集から「名をなのらせ」とあるごとく名を名のることはなかった。名前をなのることはいろいろ危険もあった。他者から呪われたりすることもあったとか名前を容易に教えなかったのである。「女性の場合、父母以外に実名を教えるのは夫になる人にだけという状況でした。また、実名がないということもありました」とあるごとく妻の名前が不明になっているのはそのためかもしれない、越中からの移住に関しては相馬ではいろいろな物語がある。これは歴史として墓誌に記されていたからわかりやすかった。墓を知ることは郷土史では欠かせない、ただ一般的にこれだけ明確に墓誌に記されているのはないから調べるにしてもわかりにくいのである。いづれにしろこの家は江戸時代から代々つづいた家なことは確かである。でも最初は移住者だから土地の有力者の下につくものでありそこから代を重ねて財をなしていった。高平にあった墓地だからここに昔からあった墓地なのか、山を切り開いているので新しく作った墓地なのか、ただここに江戸時代の墓があったとすると昔からここに墓地があったとなる。街中の墓所は意外と新しく江戸時代からの墓は残っているのは少ない、たいがい明治以降になる。私の町中の墓所を見ても江戸時代からの墓が発見されなかったのである。だからあそこは江戸時代には墓地がなかったのである。
 
墓地にも新旧があり江戸時代からあれば古いとなる。ただ墓地も移動したり新しく作られる。真野川の河川敷にあった墓地は河川改良でそっくり移動した。そこに一つだけ江戸時代の墓が埋もれるように倒れてあった。辛うじて名前は記されていたがこの人のことは皆目調べようもないしわからないのである。ただ江戸時代の墓があったということは貴重だった。ここの墓地で珍しいの両家の墓とあり両方の姓が記されていた。今や墓がふえすぎたから実家と嫁いだ先の家が二つになっても不思議ではない、明治以降墓がふえすぎたのである。だから無縁仏をふえてくる。墓を受け継ぐ人がいなくなる、それはやはり家業がなくなり一族がなくなり共同体−生産単位が核家族とかで細分化してしまったためである。姓が土地に根ざしていたごとく墓ももともとその土地に根ざしていたのだ。その土地で生まれ育ち働き死ぬのが一般的であったからだ。今やだから都会に出た母が娘のいるところに一時帰ってき介護してもらっていたが90で死んで墓は血縁の人は都会にいるので都会にもってゆくほかないとかなる。実子は都会にいて墓参りも都会の方が近くていいとなるからだ。墓も遠いと不便で困るのである。墓とはその土地に根付いた木のようなものである。越中から移住した人は相馬の土地に農業をして根をおろしたのだからまさに相馬の土地の人になった。農家だから何代もつづいたのである。現代は一時的に仕事で移住してもその土地に根付くことはなくまた仕事の関係で移動してしまうことが多い。土地との結びつきが希薄になってしまったのである。
 

 
 
 
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2008年01月12日

磐城−相馬街道(百街道一歩の道中記)を読み−歌にして偲ぶ−(浪江町の正西寺の歴史の謎)


磐城−相馬街道(百街道一歩の道中記)を読み−歌にして偲ぶ
http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidouipponoiwakisoumakaidou.htm


浪江の正西寺の歴史の謎
 

正西寺は、浪江駅の西側にある。ここには、明応元年(1492)相馬氏によって滅ぼされた標葉清隆・隆成父子の墓である五輪塔、義人志賀秀周の篤行碑などがある。志賀秀周は、極貧至孝の相馬藩士で、150余年前の先祖が受けた恩義を果たさんがためにはるばる丸亀に赴き、念願の素志を果たしたという。「雁金を雲井の空に尋ねつゝ返す心ぞ人の道なる」と書かれているので、先祖の借金を返しに行ったのだろうか。お堂の軒下に菊の御紋がある。南朝ゆかりの寺だったので創建に際し菊の御紋の額を賜ったとも、南朝方親王の寓居跡だからとも言われている
 
誰か知る戦い終わり草むして眠れる墓は芸州の人

相馬氏に滅ぼされし一家臣標葉の父子の寺に眠りぬ

よく見れば菊の御紋の軒下にありや南朝の名残りの寺と

このサイトほど詳しく街道を歩いている人はいないし、地元の人すらこれほと丹念に調べて歩くことはない、忘れられた碑とか一つ一つ丹念に実地に調べ歩いているから感心する。実際は歴史は昔の街道には様々な物語が残されているけど埋もれて忘れられてしまったのだ。この正西寺にも歴史が地層のように埋まっている。軒下まで見て南朝のゆかりの寺だとか探しているのもつくづく感心する。浪江から近い都路も南朝に由来するらしい。寺というのは武士の菩提寺になり優遇されていたのだ。だから歴史を保存している。一方神社は江戸時代は武士の社会だから待遇がよくなく明治になり廃物稀釈運動が起こり仏像などが壊されたのである。寺は当時役所の戸籍係とか役所の役割を担っていた。次に明治になると神社が一部役所の役割を担うようになった。神社が組を通して御札とか配り寄付金をとるのは役所的役割を果たしているから逆になったのである。天皇と神社結びつき寺と武士は一体の関係だった。この力関係で変わるのは古代から神道派と仏教導入派で争った時からはじまっていたのである。今どきは外国までお守りのことを言う人がいた。ギリシャのアテネでそういう人がいた。日本人が教えたのである。


ともかく明治維新の戊辰戦争すら遠い過去であり忘れられてしまった。芸州となるとどこの人となる、安芸藩であり広島の方になってしまうのだ。九州の福岡県の人も戊辰の役で死んで墓が残っている。相馬藩内でもそれなりの戦いがあった。この歴史を調べて本にした人もいるようだが歴史はこうして狭い地域でも詳しく調べればいろいろ掘り出されるし各自の関心も違ってくるからいくらでも郷土史の種はでてくるのである。つまりこの正西寺の歴史を掘り起こすだけで相当な物語(ストリ−)歴史が埋もれている。なぜ丸亀の方まで行けたのか?そこは金比羅宮があり金比羅の信仰は各地に広がり必ず金比羅の碑がある。鹿島区の栃窪にもあるのだ。この人が丸亀まで行ったということは金比羅参りにも行ったのかもしれない、どうしてそんな遠くまで行けたのだろうかと不思議に思う。実際金比羅参りした人はこの辺でどれくらいいるのかとなると不明である。

 

江戸時代後期、金毘羅信仰の広まりとともに、いわゆる金毘羅五街道のひとつ金毘羅参詣道阿波道の西ルート(箸蔵越え)として、多くの参拝者が利用した。
萬延元年(1860)、奥州栃窪村(現 福島県鹿島町)の住人によって寄進された「箸蔵寺百丁」の道標。ここから険しい箸蔵越えの道のりが始まる


これがインタ−ネットで発見したのだけど詳細はわからない、でも借金を返しにわざわざ丸亀まで行ったとすると金比羅まで行った人がいた。その借金とは何なのかわからないがただ金比羅まで行って寄進しているという人がいたのだから関連づけられることもある。「雁金を雲井の空に尋ねつゝ返す心ぞ人の道なる」
雁金は借金であり・・・まさに雲井のかなたまで借金を返しにゆくといのはよほどのことがあったのだ。

 

中神谷(なかかべや)という読みにくい集落にあるいわき市立平第六小学校は、神谷(かべや)陣屋跡だったという。福島県歴史の道調査報告書によると、ここは、笠間藩の分領の代官屋敷があったところだ。元文一揆で延岡へ移封された内藤氏に代わって、常陸笠間から井上正賢が平藩主として入部、内藤氏移封先の延岡から牧野貞通が笠間藩主となる。その笠間藩が、上方に持っていた所領と磐前・磐城・田村三郡内の三万石分とを替地させられて、分領を有していたという。戊辰戦争で西軍側についたため列藩側の平藩兵によって陣屋は焼かれた。
 
ここでなぜ笠間藩に興味をもったかというと笠間焼の窯元にゆき、そこで絵つけをしたことがあったからだ。これもいつのまにか相当古い話になったが今でも絵つけしたものが家に残っている。笠間焼というととにかく私がいかに旅をしているか、我ながら今更ながらずいぶん旅をしてきたものだと回顧するようになったのである。
 

相馬焼の歴史→ここに笠間焼の絵つけの茶碗の写真
http://www.musubu.jp/somayakimono1.html

 
一時は笠間藩の分領と平藩内に歴史残しぬ

遠き日や我が旅をして笠間焼絵つけせし茶碗家に残りぬ

歴史は相馬藩内でも語り尽くせないものがある。実際一家族も歴史だとなると相馬藩でもその家族にもそれぞれの歴史があり物語があるとなるからである。歴史は物語は常に忘れられ埋もれているのである。そこに住んでいても鬼越館のことなど関心もなかった。最近どうしても遠くに行けないから近くに注目するようになったこともある。その当時は鬼越館でもそれなりの存在感があったのだが全く忘れられてしまったのである。立谷氏は立谷町となりそれなりに継続して存続して街道沿いに存在感を示していたが鬼越館のことを知る人は地元でもまれである。いづれにしろこのサイトでこれだけ微に入り細に入り地元でもないのに調べ歩いているのには感心したのである。
 
誰が偲ぶ鬼越館と立谷の東昔知られしを
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2007年08月07日

馬頭観世音のことなど(資料を読む)

 
馬頭観世音のことなど(資料を読む
 
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この農家の庭の畑になぜ馬頭観音の碑があるのか不思議だ。普通は道に面して建てられるのだがこれは畑に一つだけ立てられた。やはりここが古い昔の道で馬を使っていたから供養に置いたのだろうか?これはこの農家で建てた馬頭観世音の碑なのか?ここは原町の街のすぐ近くである。やはり昔の道であるからここに建てられたのか変わった処にあったので注目した。
 
行倒レ死人取片付(天保8) 18 越後米小諸御城中へ附届(天保8) 19 放チ馬有之ニ付佐久郡中へ御触(天保8) 20 千曲川筏越ニ付書留(天保8) 21 御無尽申付(天保14) 22 入会山論ニ付会合(天保15) 23 密通ニ付叱り申付(天保15) 24 郷夫奉公人余荷金取定メ 郷夫奉公人夫銭取立(弘化2) 25 追分へ売女買ニ参り置去りニ致シ候ニ付取縺(弘化2) 26 傅馬人足割付(弘化2) 27 御頼金御證文献立 28 虚空蔵菩薩開帳(弘化3) 29 豊作ニ付御初穂米献上(弘化3) 30 関東御取締出役様ヨリ囚預り(弘化3) 31 御影役所御手先無宿者召捕(弘化3) 32 村芝居差留(弘化4) 33 馬士仲間馬頭観世音ノ建立(嘉永元) 3
(長野県佐久市資料)
 
入会山論ニ付会合(天保15)

入会権は鹿島区でも各地にあった。小山田の山神の石碑の裏に「入会権不変」と刻印されているのは江戸時代からの入会権を守るためだった。入会権はすでに江戸時代からもめていた。水の権利でも争いがあったように入会権でももめていた。明治になり官有地にされたりするときも争いとなった。だから「入会権不変」というのは入会権を守るために刻印された。山は共同の所有であり私的所有は限られていた。御留山とか幕府直轄の所有地もあり私的所有はなかった。明治になり私的所有が増大して大きな資本が会社が山を買うようなことが起こり入会権が問題になった。入会権極めて地域共同体の権利でありこれに大資本の会社の社会になり対立したのである。
 
放チ馬 傅馬人足割付 馬士仲間馬頭観世音ノ建立(嘉永元)
 
放ち馬とは家から逃げた馬なのか、野生化した馬だから持ち主がとりにこいとかの御触が出されたのかもしれない、今でもこういうことがあるから昔もあったのだ。この目次からでもいろいろなことが想像できる。追分へ売女の取り締まりがあったということは街道筋で飯盛女とかに売られる女性がかなりいた。でもそれが役所で禁止していたのかとなる。馬頭観世音は馬士仲間が建てた。荷馬車が子供の頃まだつかわれていた。その後ろにのって遊んだことがあったからだ。馬頭観世音はあそこには一つだかすぐ近くにもいくつかあるしいたるところにある。それだけ馬が欠かせない社会だった。馬頭町というのが栃木県にあったが市町村合併で消えた。ここが印象に残ったのは自転車で行き辻の別れ道になっていてここから馬頭町へ行くのかと印象に残ったからだ。こういう名前が消えることで旅の情緒も失われるのだ。
 
これは今日の一句一首に書いていたが郷土史関連に移した。
 
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2007年05月19日

飯館の飯樋の店屋(塩の道の陣屋があった)

飯館の飯樋の店屋(塩の道の陣屋があった)

老鶯や村に残れる店一軒

飯樋(いいとい)に残れる店の一軒や近くの木陰に休み食しぬ


飯館の中心部にはス−パ−などはある、医者はない、一万の町で5軒の歯医者があるのに一軒もない、人口は8000だから医者があってもいいはずである。パチンコ屋もないのはいいにしてもやはりこれだけ何もないとなると不便になる。もちろん車なしでは買い物もできない、昔は万屋(よろずや)などがあった。昔のス−パ−だった。その万屋でご飯と味噌汁をごちそうになったことがあった。あんなことは今の村だってないだろう。よそ者を警戒している村もあるからだ。沖縄の島がそうだった。それでも村で暮らす人は今より多かった。いつの世の中でも不便な所で暮らす人はいた。一方でその村から離れられずあきらめて暮らす他ないという面もあった。目の病気になり目を直すために関所を越える書状が残っていた。目を直すために村から遠く行かねばならないのは今も同じである。ここに相馬藩の陣屋があった。山中郷として加えられ役所が置かれた。60人も働いていたというからやはり塩の通過点として重要な地点としてあった。ではその60人がどんな仕事をしていたのかわかりにくいがにぎわっていたことは確かである。

昔は人は自ずと人間的になった。ス−パ−ではないが貧弱な店で物を買ったらそれを食べるのに近くに一本の木がありその木陰で食べた。飯館の中心部よりさらに飯樋は不便な村なのである。飯館自体が相当広いから飯館の街になっている所まで来るのは大変なのである。ともかく相馬から飯館−飯樋−川俣−二本松・・・昔の塩の道を魅力がある。心なごむ道なのである。この道はなぜ魅力があるのか忘れられた道だからだ。本道からそれてしまった道になってしまったからだ。木陰にクザキイチゲが咲いていたがそこで休んでいたら車もめったに来なかった。車がひっきりなしに来ていたらこの道は魅力がなくなる。いづれにしろ相馬から二本松への塩の道は何度きても魅力を感じる。これを絵巻物のようにすれば観光ル−トになる。ただこれも歩くのは無理にしても自転車などで行けないかぎり魅力はわからないのである。

人間は塩がなければ生きていけない、それでも飯館には最も古い縄文時代の遺跡があるというのは山の幸が豊富だったためだろう。木の実などが豊富だったためだろう。それでも塩をどこから手に入れたのか疑問である。相馬の海までやってきたのか、その頃から人は歩いて飯館から相馬にやってきたのか?その頃から獣道のような道がありそれをたどってやってきたのかもしれない、飯館にはかなり深刻な飢饉があった。その供養の石碑がある。そちこちにそうした飢饉の記念碑の石碑がある。飯樋にも飢饉はあった。飯館は米作りしても高地で寒いから冷害があり深刻なことになった。作見の井戸などがあるのも当時の人は神妙にその年の作を見て祈ったのである。最近でも冷害になった。米作りには適していない高地なのである。

飢饉のときも塩はかかせなかった。木の葉や茎のあく抜きに塩が必要だった。塩は山の村では命綱だったのである。交通不便な時代は飢饉の被害は大きくなる。遠くから援助できないからである。今の時代飢饉というのは戦争と同じでなかなか想像しにくい、食料はありあまって外国からありとあらゆるものが入ってくるしみんな食いすぎて肥満になっている。飢饉の時代を実感できないのだ。貧乏すらわからない、ただ塩というのあるところでは外国では黄金より価値があったし今の感覚では推量できない価値があったのだ。砂漠で水一杯の価値は計れないように塩は貴重でありそれを運ぶ人は不可欠であり重大な任務を負っていたとなる。そこに塩の道の意義があったのである。
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2006年12月29日

相馬藩に関する本の紹介−「日本史再発見−板倉聖宣」

最近読んだ本で「日本史再発見−板倉聖宣」に相馬藩のことを詳しく分析している。半分が相馬藩について書かれている。人口問題で分析しているが少子化対策のために手当てもしている。明治維新で人口が増大したことは庶民にとって明治維新は明るい世の中を作り出したもので歓迎されていたというのは納得する。交通関係でもなぜ日本では駕籠が交通の手段で荷車が馬車が発達しなかったか、関東では大八車が使われ経済を活発にしたが関西では大八車は使われなかった。これは役人の既得権からの規制だったとか船奉行などが船を中心に交通の既得権を得ていたからだとか幕府が新しいものを規制したことに原因があるというのも規制緩和が叫ばれた現代とにている。

相馬焼の駒を描くことも庶民の相馬焼として普及した浪江の大堀で許可されなかった。特許権が相馬藩にあったのも既得権だった。明治維新以降は裁判で許可されたのだ。明治維新は庶民にとっては経済活動が自由になり活発になったから人口も飛躍的にふえたのである。
喜多方は城の会津若松市から北にあるからということで北方といっていたが当て字で喜多方となったのだ。城には侍が住んでいて城下町だが既得権の旧弊なものが残っていた自由な経済活動がしにくく喜多方が自由な商業活動の場として発展したのである。今で官僚の既得権とか旧弊なものの既得権は経済活動をはばむから同じ問題が過去にもあったのだ。明治維新が成功したのは西と東の経済力の差だったという説もわかりやすい、東北は商業力も工業力も弱かったのである。薩摩や長州は外国とじかに戦争してその力を知り武器を輸入したり工業も起こしている。商人の財力も大きくそれが味方したのだ。

この本はインタ−ネットでキ-ワ-ドで検索していて偶然見つけた。本の紹介で相馬藩のことを書いてあったからアマゾンで中古の本を即座に注文した。本を買うのは今やこうして買っているのだ。だから買う本もふえたのである。でもたいがい千円以下だから買えるのだ。


切実な農民の語りから学ぶ(インタ-ネットで新しい民俗学)
http://www.musubu.jp/jijimondai30.htm#kikin

この文は誰が書いたかわからないにしても現代と江戸時代の相馬藩が農家出身で具体的に結びついていたことで説得力があったのだ。飢饉の問題でも結びついていた。この文がインタ−ネットで発見した郷土史の語りとして貴重であった。やはり体験からにじみはでてくる語りは訴えるものがあるのだ。

これは虫に関しての掲示板に書かれてあったのだ。農作の虫の被害で話し合っていたのである。これも偶然に見つけたのだ。こういう語りが郷土史なのだ。
これは時事問題の深層に書いたがここでまた紹介しておこう。インタ−ネットの便利なのは前に書いたものをまた再検討して書き加えたりすることが簡単にできることなのだ。
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2006年10月29日

生活に活きていた蔵の話(蔵の俳句など)

倉敷や白壁に春の夕日かな

倉のひまより見ゆ春の月

(野村)朱燐洞

蔵というと喜多方が宣伝しているが本家は倉敷になる。ここもずいぶん前だけど行ったが本当に蔵だらけの街だった。蔵がせめぎあうように密集していたのだ。南の方は商家でも規模が違う、倉敷の栄いは相当なものだった。倉敷格子などがあるのもはじめてしった。昔の状態がかなり大規模に残されているから確かに昔を偲ぶのには良い、まさに倉敷こそ蔵の街だった。裏道でも蔵が辻になり蔵の間を行き来することになるのだ。喜多方は蔵の街と言っても点々とあり本当にどこが蔵の街とかなる。規模が小さいし蔵の通りなどないから倉敷とはあまりに規模が違うとなる。俳句の倉のひまというのは倉の間からのぞく春の月となる。これも倉が本当に利用されて活きていた時代の句なのだ。俳句でも過去の回想だけでは俳句にならない、生活が活きていないと芸術も活きてこない、当時の活気があってこそ春の月も活きてくるのだ。蔵で面白いと思った童謡を発見した。

黄金虫(こがねむし)

黄金虫は 金持ちだ
金蔵建てた 蔵建てた
飴屋で水飴 買って来た

黄金虫は 金持ちだ
金蔵建てた 蔵建てた
子供に水飴 なめさせた

野口雨情


大きな商家の蔵には壱の蔵、弐の蔵、参の蔵とかあった。、「日本永代蔵」なども蔵が題名になっている。蔵は金持ちの証拠だった。今では銀行に金をあづけているが昔は蔵を建てることが金持ちの証拠だったのだ。だから喜多方でも蔵を建てることを競ったのである。立派な蔵を建てれば成功者として誇示できたのである。そして蔵にはお宝がしまってあった。今でもそれが骨董として高い価値があるものがでてきたり古文書がでてきたりする。蔵は実用的なものであり飾りではない、防火にも役立ったのだ。その蔵が観光用の見せ物となったとき蔵も死んでしまったのだ。どんなものでも活きて使われないものは骨董品となって魅力を失うのである。

長谷川時雨 旧聞日本橋219 西川小りん10http://nowhere47.no-blog.jp/ultrapeace15/



その祖母が女のたしなみを、いかにも簡明に女中たちにも、子供たちにも共通にはなしてきかせるのだ。その中で、あんぽんたんの耳に残っているのは、祖父が蔵を建てようといった時に一戸前(ひととまえ)の金が出来たからと悦(よろこ)んでいったのを、

「も一戸前分の金が出来てからになさい。」
と祖母はいった。自分たちの働きの成績を、一日も早く、黒塗りの土蔵にして眺めたいと願っていた祖父は、明らかによろこばなかった。
 二戸前(ふたとまえ)分の金が集まった時に、祖母はまたいった。
「も一戸前分出来たらにしましょう。」
 さすが温順な祖父も、なぜだと訳をきかないうちは承知しなかった。
「ものは、思っていたより倍かかるものです。まして、長く残そうと思う土蔵(くら)を、金がかかりすぎるからといって、途中で手をぬくようなことがあるといけないから、どうしても二ツ建てるだけの用意をしておかないとちゃんとしたものが出来ますまい。」

 それは理由のある理窟だから、祖父は頷(うなず)いた。けれど、三戸前(みとまえ)分なければというのには不服だった。
「それがなぜ、もう一ツ分入るのだ。」
「では、万一、蔵の出来かかった時に天災が来たらどうします。土蔵(くら)は出来ましたが、蔵に入れる何にもなくって人手に渡しますとは、まさか言えますまい。」
 なるほどと思った祖父はうなった。現今(いま)のように金融機関のそなわらない時代のことである。空手(くうしゅ)で、他人(ひと)の助力(たすけ)をかりずに働かなければならないものには、それほど手固い用意も必用だったであろうが、その場合の祖母の意見は、もうここまで来たという祖父の気のゆるみを、見通していたものと私は考える


蔵に対する考え方が今ではわからなくなったが実用として使うのには蔵の役目は大きかったのだ。蔵があるということは実際目に見えてわかるから立派な蔵があるということでこの家には金があるとわかるから泥棒にもねらわれた。今は金は実際は金の延べ棒でも小判でもないから金に対する実感がない、紙幣だってうすっぺらな紙幣にすぎないからだ。それで認知症になると銀行に金があることがわからないのは金が小判でもないし紙幣でもない通帳の数字になっているから認知症になると銀行に金があることさえわからなくなってしまうのだ。この古い蔵に雛人形が納まっていてそれを長男が受け継ぐことになっている。そんな俳句を鑑賞したがホ−ムペ−ジでは検索できないのでわからなくなった。

京都は手工業と公家の町である。山形県の村山郡で摘み取られた紅花は餅状にして出して運んだのが大阪の廻船問屋と紅商人でこれを京都にもっていって加工した。京都の紅屋が加工に一番優れていた。生産地は山形の田舎で積み出し港が酒田などになり運んだのは大阪商人であり加工したのが京都人である。この紅花は高価なもので「紅一匁(もんめ)金一匁」と言われた。作るのにも手間がかかる。帰りに京都の物産を積んで商人は栄えた。山形の村山市や宮城県の村田町では京都から雛人形がもたらされ飾るのが行事になった。

雛古りぬ京を偲べる昔かな(自作)

難波−交野−近江(志賀の歴史)
http://www.musubu.jp/hyoronoosaka.htm

この雛人形は蔵に納められて大事に代々引き継がれたのだ。宮城県にも山形県にも蔵の街として観光で売り出している町がある。そもそも蔵はいたるところにあり蔵はどこにでもあった。商家だけではない農家にも今でも蔵は残っているが何か骨董品とか昔の遺品みたいなものが保存されている博物館のようになっている。蔵は今は死んでいる、現実生活には活かされていないのだ。だから蔵は昔を偲ぶものとしてあるだけになってしまう。蔵に関する物語は相当ありインタ−ネットで調べ編集すると蔵をキ-ワ-ドとした蔵ワ−ルドが作られる。この文はその一部にすぎないのだ。

参考

喜多方は新しい街だった(明治維新で興隆した街)
http://musubu.jp/jijimondai18.htm#kitakata
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2006年09月26日

浜街道−新山宿(地図より偲ぶ昔)

gosenya.JPG

http://www.thr.mlit.go.jp/iwaki/rekishi/kou2nd/pdf/kouen0202.pdf#search=%22%E8%AC%9B%E6%BC%94%20%E6%B5%9C%E8%A1%97%E9%81%93%22


新山宿の地図が福島県教育委員会から出ていた。鍋屋とか染物屋、桶屋、医者、荷鞍作り精米屋(馬車引き)髪床、下駄屋、小学校の隣が提灯屋、団子屋となっているのも面白い。そして校庭の隣が水車小屋になっているのだ。その他うどん屋機屋鍛冶屋、豆腐屋がある。これは江戸時代からあったものの継続もある。現実に桶屋とか豆腐屋とか籠屋とかの屋号は生業であり戦後10年くらい存在していた。近くに豆腐屋があり朝早くから豆腐を作っていたし桶屋も籠屋もあり竹を編んで作っていた。提灯屋となるとこれは江戸時代のものだろう。

荷鞍  
馬の背中に取り付けてその取り付けた鞍に木炭や薪などをくくりつけ物を運ぶ
http://www.mco.ne.jp/~sawanoya/sawa/mco/data060507/09%20unpanyo-gu.htm

精米屋(馬車引き)

なぜ精米屋が馬車引きになっているのは米を馬車で運んだからだそうだ。精米屋と馬車引きは一体になっていたのだ。


実際にこれは馬が荷を運んでいた時代があり馬車屋は各地にあったのだ。この辺の近くにもあった。馬が交通を担っていたのはいたるところにある馬頭観音の碑があることでもわかる。下駄屋も下駄を直していたことが記憶にある。その当時燃料は炭だったのだ。インドに行った時は奇妙だった。未だに炭を使っているし川岸では牛の糞を干している。これも貧乏人が燃料に使うのだろう。狭い路地を堂々と牛が歩いている。しかしここはベナレスで都会の聖地だから文明は入ってきている。白黒テレビで子供がゲ−ムしていたりテレビを見ているのだ。アジアの遅れた国で興味深いのは日本の昔がタイムトラベルしたように残っていることに出会う不思議さである。掘っ建て小屋の三文店屋で菓子を買ったら新聞紙の袋に入れてよこした。これは自分の家も三文店屋から始まったから新聞紙で袋を作ってバラ売りをしていたのだ。ノリもご飯粒をつぶして作っていたときがあったのだ。インドでは子供が働いて稼いでいる。私の子供の頃もたいがい農家でも商家でも子供が働かせられていた。子供は遅れた国では未だに労働力としてみられているのだ。世界でも経済活動はにているのだ。

卵が貴重だというのはネパ−ル辺りでは未だにそうである。卵が不足してインドから輸入しているのだ。ネパ−ルの山地では満足に卵も食えていないのだ。では日本ではどうかとなると聞いた話では卵は病人が食うもので普通には食っていない、家族で父親が病人だったその子供は父親が卵が食えたのに子供は何故お父さんだけ卵食うのかと母親に言ったそうである。つまり卵は子供が食いたくても食えなかったのだ。あとは一つの卵を効率的に食うために少しづつかきまぜたものを分かち合ったとかいろいろ工夫している。卵すら満足に食えないことが日本でも普通だったのである。ネパ−ルのポカラでは両親をなくした青年が観光ガイドしてやるとか言っていた。その青年にインドの金は大きいからとくれてやった。ネパ−ルでは最貧国である。あの山の生活では豊かになりえようがないのだ。現金収入は観光客の荷物を山道を上り運ぶことなのである。

そしてなぜこの地図に注目したかというと酒屋の隣に小さく銀行とあった。とすると新山の酒屋は自分の家の暖簾分けされた本店の酒屋だったかもしれない、前にその銀行で私の家のものが子供の頃遊んだ話しを聞いたからだ。長塚駅からこの新山にやってきたのだ。長塚駅は今はない、双葉駅になった。確かにこの地図に描かれている通りで遊んだりしていたのである。他に板橋などあるがこれもまさにその頃は板橋がかかっている粗末なものだった。こういう地図から当時の人間模様などが再現されると非常に興味深いものとなる。これは当時そこに住んでいた人がいてその人から直接聞くと昔が浮かび上がってくる。民俗学とか歴史でも民衆の語りがあってはじめて生きてくるのだ。柳田国男でも宮本常一で民衆の語りから新しい学問を構築したのである。この語りは老人から直接聞くとリアルなものになる。これは認知症の人からも聞くことができるのだ。この地図から明らかに江戸時代まで浮かんでくる。

学問は「なぜ」からはじまる
(なぜ卵も食えなかったのか?)

http://www.musubu.jp/jijimondai26.htm#egg

追記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

地図の中に「五銭屋」とあったが何だろうと思い検索したら

「め組市場」の隣りと斜め向いに食堂があって、それぞれ「五銭屋」「十銭屋」と呼ばれていた。店の名はちゃんとあったのだろうが、店の名を云う人は少なかった。どちらが「五銭屋」でどちらが「十銭屋」か覚えていないが、何でも五銭、十銭の単価で食べさせていたのでその名が付いたと云われている。一説には店同士が張り合って、値段を安くしたのだとも云われた。氷水やアイスクリームなど、私も五銭玉を握って良く食べに行ったものである

http://homepage3.nifty.com/JN7FZE/noboru/kaiwai.htm

これは現代なら百円ショップみたいなものか当時は五銭だった。五円とか十円くらいしか子供はもらえない時があった。飴玉くらいは買えたのである。
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