相馬市と元の南相馬市の原町の相違
【人間の営みと共に自然が映えるのが文化ー原発事故で営みが失われた町に村】
相馬市は城下町 by bing image creator
水墨画が似合っている
街中にとりどりの花や原町に賑わいのあり秋となりしも
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●南相馬市原町区は明治に鉄道の機関区となり発展した
地域でも福島県という大きい県の単位の広さの地域もある。でも狭い範囲でも例えば相馬藩内でも城下町だった相馬市と前の原町市とは雰囲気も違っていた。それはなぜなのか。それは外から来た人には分からない。相馬市に行くと何かしんみりとした感じになる。市庁舎とか入母屋風にして何か古風な感じになる街町全体の雰囲気が元の原町とは違っている。
原町がなぜ相馬市と違ったものになったのか。それは明治維新を原町は駅前通りから発展したからである。原町機関区と同じようにそこから森林鉄道が発展して木材とか石材とか資源を東京に貨物列車で送るようになったからである。
いわき市は元は平市であり常磐鍛錬で有名なように石炭を東京にやはり貨物列車で運ぶようになった。
だから相当に鉄道が街づくりに影響していたのである。
鉄道はそもそも北海道でもそうだが各地に石炭を運ぶものとして作られた。人を運ぶより物を運ぶことを鉄道はから始まったのである。鉄道は乗客として乗る時相当に贅沢なものだったらしい。運賃が高かったからである。だからそんなに乗客としては利用されていなかった。何か母に聞いた話では原町から昔の中村市今の相馬市まで行くに運賃が高くて簡単に行けなかったと聞いた。つまりその頃鉄道で旅はできたとしても金持ちしか利用していなかったかもしれない。
子供の時長い貨物列車を近くで見ていた。その頃はまだ鉄道で荷物を運ぶことが多かったのである。六号線にしてもまだできていらなかったからである。
そしてなぜ原町と相馬の相馬市の街の作りが違っているのか。相馬市は元は中村であり駅前通りというのは作られなかった。
城下町であり碁盤の目のように細い路地が作られていたのである。だから原町とは街の作りも違っていたのである。
●原町は原っぱだった
原町という名のようにもともとは街になっているところは原っぱだったのである。雲雀が原の原があるようにそこは野馬追の訓練所だったのである。それで原町村があり騎馬武者一騎が野馬追に出ている。村としても小さな村だったのである。原町が発展したのは明治以降鉄道は通るようになってからである。
だから城下町であった相馬市と元の南相馬の原町市は雰囲気が違っているのである。ただこれは外から来た人にわかりにくい。確かに相馬市は城下町でも城もないし外から来た人にわかりにくい。
でも長年住んでいれば相馬市と元の原町市は雰囲気は相当に違っている。それでその街の特徴を考えた時原町市という名を合併で消したことは失敗だったかもしれない。相馬市というのはここはもともと相馬氏が支配した場所だから合っているとなる。
でも原町市は何か南相馬市としたことが一見良いように見えてやはり街の特徴を考えた時その名前と合っていないのである。なぜなら明治以降を考えた時原町市は相馬市より原町機関区となり街が作られたからである。
それは今でもその影響は明らかにある。原町市に元の原町市に行くと何か相馬市と違って近代的というか街のにぎわいがある。それで不思議なのは例えば六号線沿いの写真を撮ったがそこにとりどりの花が咲いていた。それが原町に似合っていたのである。また原町の道の駅も賑わっていた。相馬市の道の駅は田んぼの中にあり人もあまり人が入らないのである。
だから原町市は街として活気があり生きているという感覚になる。確かに駅前通りは廃れて賑わいは消えたとなる。どちらかというと六号線沿いが活気がある。それは車社会が影響してそうなったのである。またイオンは町より外れたところにあるがそこで自転車を修理してもらった。鹿島区は自転車屋が一軒もなくなったからである。
だからイオンも街に欠かせないものとなっている。ただ相馬市ではイオンが撤退してそれがかなり影響している。いつもあそこで休んでいたからそれができないので困る。イオンはなくなったことで町全体がさびれた感じになったのである。
また中村喫茶店もまくなった。それはレンガ造りで古風な感じがして城下町に似合っていたのである。何か相馬市に合っているのは例えば茶室などを作ってそこで安らぐというのが似合っている。
やはりその街の特徴を活かす時歴史的なものは欠かせないのである。相馬焼の茶碗で茶室でもてなすという時城下町の雰囲気を味わうことができるのである。でも相馬藩は6万石でありそうした伝統的なものが必ずしも残ってはいない。
ただなぜ相馬野馬追があるのかというとそれは今の街とはそれほど関係しない。相馬藩内の村から郷士がいて農業しながら侍だった家から出るのがほとんどである。
会津あたりだとやはり大きな国だから城下町となりそこでは茶の湯も伝わりそういうもてなしができるのである。
●人間の営みがあり自然でも映えることが文化である
とにかくそれぞれの市町村でもその独自の雰囲気がある。飯館村となると森の村であり森に囲まれているから村でもある。夏は涼しく冬は寒いとなる。でも標高が高いからそこが別世界となっているのである。このように相馬藩内でも雰囲気は違ったものになる。ただ飯館村などは別の世界だからわかりやすい。相馬市とか南相馬市の元の原町市とかの区別は分かりにくいと思う。
それで一枚の写真を撮った。そこにいろいろな花が咲いていた秋になり菊もも咲いていたがひまわりも咲いていた。だから何か元の原町市にふさわしいと見た。
つまり花でも自然そのものというのではなく人間の営みがあり街が形成されてそれが花でも調和して見る。原町のいい点は新田川がありそれは浅瀬の川であり瀬音ゆかしきとか仙台の青葉上恋歌のようになる。浅瀬だから常に瀬音がせせらいで流れているからである。そしてその川が街のはずれで街中を流れている感じにもなる。だから街の特徴を作るのは街自体だけではなく自然も一体となって作られているのである。
それでこの辺で原発事故で南相馬市でわは小高区とかが避難区域になりそこに行ってみると車さえたまにしか通らない。だから街自体が死んだようにも感じるのである。確かに車が通らないから静かでいいともなるが空き家が多いし何か街が生きていないのである。
するとやはりそこに花も映えないということもある。つまり自然ですら人の営みと関連して生きるということがある。ただ高山植物とかは人は関わらず咲いているから美しいとなる。でもまた人間の営みがありそれで自然でも花でも生きるということがある。自然でもやはり人間がかかわりそこに文化が生まれる。それで京都とかは魅力あるものとなっているのである。
仙台市でも広瀬川がありまだ盛岡市でも二つの川が流れていて岩手山が間近にそびえるから外国人に人気があるというのもわかる。東京には全く自然というのが感じられない。でも江戸時代にはベネチアのように縦横にに水路があって舟が行き来していたのである。。だから江戸の町は魅力あるものであった。
やはり人の営みまた生業があり自然と調和しているときそこに美が生まれる。それで橲原村とかで村総出で田植えしていたとき時そこに赤々とつつじが映えていた。それは人の営みと自然が調和して美しい光景となっていたのである。だから農村の風景でも早乙女が田植えのとき華やかに見えたのである。浪江町の請戸の早乙女の田植え踊りは有名である。
そのとき村でも活きていたのである。それが津波原発事故以後寂れてしまった。その時代時代の雰囲気がある。でもこの辺の変化はあまりにも変化が大きすぎたのである。ただここだけではない昔からあった村でも人口減少で維持できなくなっちる。要するに景観でも人為的景観がありそれは人間の手が加わったものでありそれが文化なのである。そもそも農業とはそうした文化だったのである。だからcultureと土をcultivate【耕す】となっていたのである
こうして歴史とかふりかえると南相馬市と合併したけど何か街の特徴でも無視して名付けた。ただ相馬藩が一つであるから歴史を考慮したものだけど明治以降の歴史をふりかえるとやはりそぐわないともなる。つまり相馬市が中心になる。でも今の中心地は原町なのである。南相馬市となると相馬市に付随したものに感じるからである。