2024年12月18日

私の家族が語る明治以降の歴史 【それぞれの家族に歴史である】


私の家族が語る明治以降の歴史
【それぞれの家族に歴史である】

●明治からの私の家族の歴史

父親 葛尾村生まれで双葉で丁稚奉公
母親 原町紡績で糸取り―後に東京で女中
姉 従軍看護婦ー役所の保健婦
兄 集団就職―交通事故死
私 東京の三流私立大学卒―引きこもり、放浪

自分の家族は何か明治からの歴史を語る。父親が葛尾村生まれで双葉の酒屋丁稚奉公に出たというのも明治は丁稚奉公が江戸時代からつづいていたのである。
暖簾分けして酒屋をこの地で開いた。その土地が低い場所であり水害で二回被害にあった、一回目は小学生の時であり家が壊滅状態のようになった。トタン屋根の平屋で二回が逃げることができなかった。近くの旅館に逃げた
それで二階のある家を作ることを切望して早い時期に1967年頃作った。それは父親が死んだあとであり姉と母が建てたのである。女所帯でも立てることができた、気丈夫な姉がいて建てられたとなる。その時大工の賃金が相当に安かった、だから当時400万で建てたのは安かった、今なら3000万とかかかったであろう
その頃から急に大工の賃金でも何倍にも上がったからである。

そして姉は同級生ででもキコリの橲原の同級生から木材を買ったと言って自慢していた。姉の歴史は従軍看護婦で今のシンガポールの向かい側のマレーシアのジョホールバルで働いた
そこでの4年間は地獄であり戦争が負けてジャングルに逃げて食べるものもなく苦しんだ。
戦争経験した人が団塊の世代の親であり戦争は身近であった

母は原町紡績で十年間働いた。それが辛いことだとも見たが現金収入になるということで家計の足しになり喜ばれた
ただ母は継母に育てられて苦しんだ。ともかく明治以降の産業は生糸を作ることであり養蚕が盛んであった。だから今でも二階で養蚕していたから兜作りの家が多いのである。
日本を支えたのは養蚕だったのである、だから後ろの畑には桑がありまた麦も作られていた。子供のころはみんな麦御飯だったのである。

そして私の父親違いの兄は私の家で5年間住んだが母の実家で暮らして集団就職で静岡の方に行った。その頃クラスで集団就職する人が多かった。だからこれも歴史だった。その後兄は交通事故で40才で死んだのである

何か私の家族を見たら明治以降でもその後でもそれはみんながかかわる歴史だった。私の家族が特殊なのではなくみんながそうだったのである。ただ水害はみんなが経験したとっはならない、
その後も水害が床上浸水があったが河川改修して川幅を広くして土手を高くして水害にはなっていない

●団塊の世代は高度成長時代を経験する

それぞれの家族をみれば様々な歴史があり成り立つ、歴史は何か国の歴史となると大きすぎてわかりにくいが実感しにくいが家族だと身近になるから実感する。でもそれが全体の歴史にもなる
姉の戦争経験はみんなが経験したことだからである。
何か歴史というとき祖父母までは現実に直接接しているから身近である。父親が明治生まれだとなり明治まではまだ身近だともなる。

私の歴史となると引きこもりとなるがこれも団塊の世代ではありえなかった。みんな会社に就職して企業戦士として働き高度成長時代を築いたからである。何か小さな店であり小さな工場であれみんな成功する割合が大きかった。だからしょぼい店でも品物を置くだけで売れたとなる。たまたま角にあったから店も繁盛した。何故ならその時車がない時代だったからである。大概歩いて買い物していたからである。 道も舗装されていなかったからである
私の家族に商才などなかったが運があり繁盛したとなる
ただその頃は高度成長時代はみんな繁盛して成功する割合が高かったのである。

ともかく家族でもみんな死んで時間が過ぎて行けばそれが歴史となる。それぞれの家族に歴史がある。それは時代を反映していたのである。引きこもりとなると高度成長時代にはなかった
だから私は引きこもりだったというとき特殊だったとなるのである。ところが引きこもりが百万単位でいるとか信じられない時代になっている。車がない自分が会う人は引きこもりと障害者というのもやはり車を持たないということは今の時代では劣った人だとなってしまうのである。
それは侍の時代は馬に乗る人でありそこでただ歩く人は徒歩の人は一段身分が低い人達であった。それで馬を持たない人たちは
御徒町〔おかち〕に住んでいた
また足軽であり足が軽いということでそうなった。馬に乗れないからそうなったのである。
野馬追でも馬上から庶民を見下ろすから明らかに馬に乗る人と乗らない人は身分差があった。

ともかく家族でも死んで時間過ぎると歴史となりふりかえる
歴史として刻まれたものとなる。それはそれぞれの家族でもそうでありそれが全体の歴史にも通じている
父親が明治生まれであり母親は大正生まれであり姉もそうである
明治は遠いにしても大正は身近になる。内村鑑三は大正時代まで生きていた。江戸時代に生まれ大正時代まで生きていたのである。つまり江戸時代ー明治ー大正と生きたのである
この三時代を生きたことはやはり激動の時代であり今とは違いその時代の変化を生きたとなり違っている

●歴史に刻まれる本当の価値

ともかく歴史を刻んでゆくのは人間である。歴史の功績というというとき偉人だけではない庶民でも歴史を刻んでいる。それは無視できないのである。ただ戦争となると300百万人も死んだとしてそれが何を意味していたのかそれが功績として語られないとすると死んだ人は浮かばれないとなる。
ただ歴史に残るものが真に価値があったものとされる。それは長い時間の中で判定される。時代でいくら脚光浴びても時間が過ぎると語られなくなることはいくらでもある。

もし十年後であれ20年後でもさらに50年後でも語られればその人は価値があったとなる。ただその時代を一世風靡したとしてもはかなく消えて忘れられのも多い。中国で青史に残ることを望んだのもわかる
あれだけの歴史が長ければそこで真に価値あものが何かを明らかにされるからである。長い時間の尺度で見るということである。
それが日本には欠けているとなる。国家百年の大計とかもなく
ただ目の前のことに追われているだけだとなる

今年も終わるがやはり過去振り返り未来を望む、未来は過去を振り返ってあるともなる。だから歴史を知ることは大事である。
何か現代であれ太平洋戦争であれ元は明治時代の薩摩長州の横暴な政治の結果だった見る人もいる。
吉田松陰の「征韓論」がありそれが満洲進出となりアメリカとの戦争へと発展したともなる
それは西郷隆盛にもあった。つまり明治にすでに太平洋戦争の下地が作られていたとなる、何故なら歴史は連続したものだからである。明治にすでに太平洋戦争の種がまかれていたとなる
いずれにしろ明治維新は薩摩長州の権力奪取であり別に幕府で大政奉還したというとき武力で奪う必要もなかったのである。
何かそこに歴史観の過ちがあったともなる。

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2024年06月11日

【あゝ野麦峠】女工たちの悲しき現実 【私の母も原町の紡績工場で働いていたーその過酷な労働】

【あゝ野麦峠】女工たちの悲しき現実

【私の母も原町の紡績工場で働いていたーその過酷な労働】

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【あゝ野麦峠】女工たちの悲しき現実

人間は過去のことがわからなくなる。それで大正生まれの私の母親が原町の紡績工場で糸取りと言って生糸生産のために働いていた。その頃養蚕農家というのは山の中にもあり必ずそれが今でも残っている兜作りの屋根があるのでわかそれほど生糸生産が日本全体の主要な産業となっていたのである。

母が言うにはこのYouTubeのように悲惨なものでもあった。ただその当時にしてみれば現金収入となりそれが家族を喜ばせていたのである。野麦峠というときそれが悲惨なのはかなり山奥から諏訪の方に出てきて工場に出てきて親から離れて働いたことである。それは戦後団塊の世代などは中学校を出たら集団就職した時代とにている。農村は貧困であり食い扶持を減らすために働きに出す他なかった。親元を離れて都会の工場に出て集団で働いていた。その工場も過酷な労働であった。

昼飯も晩飯も10分ほどでかきこんで持ち場に戻る

このことで母が昼休みに仲間が30分かの休憩で遊びたくてかきこむように食べて胃を悪くして死んだということ聞いた
そのことがよく飲み込めなかった。なんでそうなったのか飲み込めなかった。ただ冗談で言ったのかとも思った。でも実際は当時の労働はそういうものだったのである。休憩すらまともにとらされていなかったのである。
ただ今でも流れ作業の現場ではかなか休憩をとれないシステムになっている。私はそういう現場で結構働いているからわかっているのである。そこでは休むということは許されないからだ。

ただ昼休みはやはり一時間くらいは取れただろう。だから30分の昼休みとしてそこで遊びたいとか休みたいとかなるのは人間として当然だったのである。でもしその30分間に遊びたいというか自由になりたいというときご飯を食べる時間を短くするほかないからかき込むように食べたのかもしれない。

いずれにしろその労働は苛酷であったが逆に現金収入になったので野麦峠でも雪の道を越えて家族の元に帰る時親を喜ばせたいとして楽しみとしていた。でも正月にしても雪が深い道だから家に帰ること自体苦しく遭難した人もいた。でもそれほどまでに親の喜ぶ顔が見たいというのはあまりにも違った時代だったということである。

それで疑問のはなぜ雪深い時故郷に帰ったのか?

本当は、田植えが済んだ後、5月から6月の新緑爽やかな頃に、野麦峠を越えたそうなのです。
それを知って「やっぱりそうでしょ!」とビックリしました(…内心ホッとしました)。
大事な働き手の工女さんを、今みたいな冬山登山の装備もない状態で厳寒の雪山を徒歩で(しかも藁靴ですよ!)越えさせるなんて、絶対に無謀だと思いましたもん。

女工哀史が全てではなかった。飛騨市美術館「愛しの糸引き工女展」を見て

映画とかは全部真実ではないから錯覚するのである。

それから子捨て川とか子捨て谷とかある、
でも姥捨て山とかは本当にあったかどうかわからない。親を捨てるというとき病気になったら今のように手厚い治療とか介護などしないから早く死んでいたと思う。捨てる前に死んでいたとなる。
つまり子を捨てることは実際にかなりあった。口減らしが必要だったからである。また避妊の薬とか医療もなくて子だくさんになっていたこともある。
何か過去を間違ってみることが常にある。なぜなら真冬に1600メートル級の尾根道を行くことが考えられないからである。

それと似ているのはベトナムとかネパールとかから日本に出稼ぎに来ている人たちもやはり貧乏だから親に仕送りしている。親を喜ばせたいということがありそうしている。だから人間は世界でもやはり共通したことがある。

それにしても今の時代にそんなに親を思うのかとなると介護であれ子が親を捨てるというのは別に普通のことにすらなっている。それはやはり時代の違いでそうなったとなる。それは別に日本だけでなく世界的に中国でも高齢化して子供が親を捨てるということが珍しくもないのである。それで都会に出稼ぎに行った息子がて農村に帰ってきて母親にまだ生きているのかと言われて自殺したという。何らか病気だったのかもしれない。これはやはり日本でもあり世界的共通化しているからである

私の母親原町紡績で十年間働いて現金収入がありそれで米を買って親に喜ばれたのである。野麦峠でもやはり紡績工場で働けば家一軒を立つくらいの現金収入はあった。だから貧農の親は相当に助かったとなるのである。
働くとは端を楽にするという意味である。この言葉の意味が深いものがあった。つまり親の過酷な労働を身近で見ていて楽にさせたいということから生まれた言葉である。だからこそ苦しいけど過酷な労働でも金になるそれで親を楽させたいとなった
それにしても日本というのはそれだけ貧しかったのだと見る。それから紡績工場とのいうのは換気も悪く肺結核になる人も多かったくる。

肺結核になるというのはそれはその当時国民病とも言われ若い人がなるので悲惨なものとなった。若い人が死んだかと言うとき正岡子規とか石川啄木とか宮沢賢治とか文学者でどれだけの人が肺結核で死んだかでもわかる。肺結核になると本当に悲惨なことになるのである

でも私の母の実家の墓には25歳で肺結核で死んだとありが母の兄にあたる人がいた。何かその人は苦しくてキリスト教に入っていたらしい。ただその時代は本当に肺結核の人が多かったから別に珍しいことではなかったのである。ただその墓を見る時いつでも何かそこから無念さが伝わってくる。
つまり20代で死ぬのは特攻隊などでも無念となっていたのである。いくら国のためだといって死にたくなかったのである。

紡績工場に勤めた後なぜか東京の方へ女中として働くことになった。その時代女性の勤め先として女中があった。戦後間もなくもなく新聞にも女中が募集されていたことでもわかる。なぜそうなったかというと電気製品などないのだから洗濯でも盥でごしごし手で洗うほかなく家事の仕事があり普通の家庭でも女中を雇っていたからである。だから女中というのは特殊なものではなく普通にあるものだったのである。

結局は私の母は継母に育てられたということもあり何ら女性としての身に付けるものもなかったとなる。だから花など関心がなく花は買うなと私に言っていたのである。そして庭に豆を植えていたのである。それも結局はその生い立ちが不幸でありそうなってしまったのである。ただなぜか細身なのに百歳まで生きて死んだのである。だからその一生は肺結核で死ぬ人もいたから悪いとも見れないのである。

人間というのは常に苦しんできて苦界だとなる。そしてその苦の世界から解放されることはないのである。最近日本が貧困化しているというのそうである。ただその貧困も過去の貧困と比べると質も違っていて過去の貧困に比べればそんなに苦しいものでもないと見る。でも時代時代の苦しみが必ずありその質が違ってきているから過去と簡単に比べることはできない

だから親を喜ばせたいとか紡績工場で稼いだ金を持ってゆき親を喜ばせたいとなるが何か理解できないものとなる
今の時代親をそんなに思う人はいるのかとなるからだ。極貧であっても子供からそんなに親を思われていたのかとなると幸福だったとどうなるのである。だから時代によって常に価値観は変わってくるのである
ともかく人間は苦から解放されない、過酷な労働からも解放されない、労働の事故が常にあり今になると交通事故が悲惨になる
それによって運命でも狂わされる。何かその時代時代の不幸がある。
でも車は多大な恩恵ももたらしたものでもある。それでもその負の部分として交通事故があり必ず技術にしても不幸をももたらす。原発事故もそうだったからである。

私の母親は東京で結婚した人が工場の事故で死んで私の父の後妻になった。そして連れ子だった兄は交通事故で死んだのである
こうして何か事故で人生が狂わされた人相当にいる。今でも事故というのはなくならないからである。



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1600メートルの野麦峠であり相当に冬だったら過酷である。
松本まで行く塩の道を行ったけどそんな高い所ではない
その距離130キロであり相当に長い、だから冬となれば雪にうもれて遭難したとあるが事実ではなかった
ただ途中に立派な旅籠が江戸時代からあった。そこは殿様とか泊った部屋がある。でも野麦峠の女工は雑魚寝だった。
一目最後に故郷を見ようとして死んだの悲惨だった
この映像は映画をとるためのものであり実写ではない、それで誤解した、5月6月に帰ったとしたら残雪があっても真冬の峠での雪ではなかったのである。それは不可能だったともなる。

峠の名は、峠に群生する隈笹が10年に一度、麦の穂に似た実を付けることがあり、土地の人に「野麦」と呼ばれていたことによる。凶作の時にはこの実を採って団子にし、飢えをしのいだ。
麦のことではない熊笹のことだった。野に生える麦のことだった


posted by 天華 at 10:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2024年03月11日

1度目の婚姻-東京市下谷区- 2度目の結婚-東京都北区までの連続戸籍は間違っていた 母は東京で一回しか結婚していない


1度目の婚姻-東京市下谷区- 2度目の結婚-東京都北区までの連続戸籍は間違っていた

母は東京で一回しか結婚していない

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今日区役所で足りない分の戸籍をとることができた。それは電子化して3月から郵送でなくても取れるようになったからである。
でも東電で送られた書類が間違っていたのである。 1度目の結婚と2度目の結婚とあるが実際は一回しか東京の北区で結婚していない。だからこの送られた書類は間違っていたのである。
ただ下谷区という所に山口という人が住んでいたかもしれない。ただ結婚したのは山口富造という人だけであり2回も結婚していないのである。これが混乱させたのである。

今日南相馬市の区役所で電子化したので郵送ではなくパソコンで東京の戸籍をとることができた。 3月から電子化してパソコンで戸籍をどこからでも取れるようになったみたいだ。だからハンコも要らないし便利にはなった。
とにかく手続きが面倒になる。ただ今回は確かに東電の方で間違った書類を出したことで混乱した。
戸籍があるのは日本とかしかほとんどの国ではないのである。いちいち判子を押すのも面倒なのである。だから電子化したことは進歩したとなる。ただ戸籍をとるだけで3000円とかかかった。

東京の私の母親の前の夫の山口冨造には養子がいた。山口一男であり山口富造の養子となった。この人のことを変な奴で迷惑だったと母は言っていた。そして兄が交通事故で死んだとき焼津に行った時どういうわけかこの山口一男の墓のある寺に行った。その墓参りしたとき不気味な風が吹いたので気持ち悪かった。
ただこの人は戸籍上では実在した。

1932年(昭和7年)10月1日:岩淵町と王子町が合併して王子区となり東京市王子区に所属
1935年(昭和10年)11月1日:東京都神谷尋常小学校開校
1947年(昭和22年)3月15日:王子区と滝野川区が合併して北区となり東京都北区に所属
1947年(昭和22年)4月1日:東京都神谷尋常小学校が北区立神谷小学校に改称

理化学研究所第3代所長大河内正敏博士らが自らの理論を実践し、科学と工業とを一体化させた産学複合体である「理研コンツェルン」の内の一つとして、1935(昭和10)年に設立された「理研特殊鉄鋼(株)」王子工場内の圧延(熱延)工場に源流をみることができます

ここの工場の事故で私の前の夫は死んだ。そして小林家に嫁ぎ再婚した。実ははその時私の父は54才くらいで母h来るのをが嫌だったが実家から勧められていやいや小林家に嫁いだのである
どにかく電子化したのでハンコもいらず東京から戸籍が取れたのは助かった。こうした書類の作業は電子化してIT化すると楽であり効率的になる。
それにしても戸籍をたどると確かにその人の人生がわずかでも見えてくるものがある。墓を見ても何一つわからない。ただ死亡した年月は記されているとかだけである。

でも戸籍をたどるとそれは確かに事実であり何かそこからその人の人生を読み取ることもできる。山口一男と言う人は確かに存在した。でももはやその人を知る人もいないだろう。私と私の母がお寺の墓を訪ねたときすでに無縁仏のようになっていたのだろう。誰もお参りしないから寺の住職にお布施して帰ってきたのである。
でもそこは本当に気味が悪かったのである。その人と会ったこともないしただ話を聞いて戸籍上に存在するだけではあったが何かしら縁があって墓参りしたとなる。

とにかく人間をその人が本当に実在したのかもう分からなくなる。戸籍は確かに実在したことの証拠であり架空のことではない。だから戸籍から推理して事実を知るということがある。
でも東電から送られた書類が間違っていたので混乱したのである。相続になる追加賠償金は死んだ人の相続になるから面倒になったのである



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           
posted by 天華 at 18:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2024年03月01日

母親の戸籍をたどる(原発追加賠償から) 【前の夫の生まれは下谷区で台東区ーその歴史をたどる】


母親の戸籍をたどる(原発追加賠償から)

【前の夫の生まれは下谷区で台東区ーその歴史をたどる】

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東電の追加賠償金の書類を送るのにそのと戸籍が足りなかった。私の母親の前の夫の戸籍まで必要だったのである。それは郵送されないともらえない。ではその下谷区の戸籍が必要なのか?一度目の結婚が下谷区の人であり、それは上野がある浅草がある台東区だったのである。実際その夫が事故で死んだのは北区であった。そこには工場が多かったのかもしれない。それで工場で働いて事故で夫は死んだ。

ただなぜ私の母親がその人と結婚したのかよくわからない。上野と言えば東北人にとっては常磐線で東京に着く駅であり馴染みの場所でわであるある。だからその場所と関係して結婚したのかよくわからない。わかっていることは女中として働いていたのである。
そして二度目の夫と出会ったのが北区だった。その夫が働いていたのは北区である。ではなぜ下谷区の戸籍が必要なのか?それは台東区となり浅草が近い。そこは江戸時代から差別された部落の人が住んでいたとかあり明治になってから貧民窟であった。それから関東大震災がありかなりの被害があった。その近くに一葉記念館とかありその辺に長屋もあったとなる。
ただ一度目の結婚が北区ではなく下谷区であり二度目の結婚は北区になっている。とするとこれは何なのだろうか?
東京で二回結婚していたのかとなる。そのことは聞いていない。

そして昔の面影もなしというとき江戸時代にあったものが明治に変わってそうなりさらに大正になり関東大震災がありその昔の風景は喪失した。東京の街の変化もまた激しいものがあった。
私の母親は大正四年生まれであり関東大震災は1929年大正に起きた。原町市が実家であり十歳の時その関東大地震が起きた。それで私の母親はその揺れを経験しているのである。
その時前の夫の住んでいた下谷区今の台東区であるがそこの被害も大きかった。そこからそこに生まれ夫は北区に移り夫は工場で働いて事故で死んだとなる。
その時五歳の子供がいてその五歳が私の家の連れ子になった。その兄となった人も集団就職して40歳で交通事故で死んだのである。どうしてそうなったのか父親も事故で死にその子供をまた事故で死んだのである。

ともかく賠償金をもらうのに死んだ人は遺産相続となり面倒なのである。ただ戸籍からはこうしてその人の生いた地が判明する。それは江戸時代までも遡るのである。その戸籍を必要とするときその前の夫の戸籍が必要になったのである。それは郵送してもらわなければならない。だから何か面倒なのである。どうして郵送されるのかもわからない。南相馬市の区役所ではそれをしない。この戸籍は江戸時代まであるとしたらそこにその個人であれ家であれたどっていくとその先祖がわかる歴史のわかる。

それにしても前の夫が生まれた場所が貧民窟だったということは江戸時代は差別部落の人が住んでいて明治時代になってもそこは貧民の棲む貧民窟になっていたのである。夫が北区の工場に働いたということはそういう場所逃れて工場ができた結果そこで働くことができたということにもなる。何か一葉の小説にそうした貧民のことが小説にしたのはそういう場所だったからとなる。

下谷万年町は関東大震災で焼かれ、そこのバタヤ(屑拾)が大挙移住して、1960年当時の三河島丸六部落(荒川区)、本木のバタヤ部落(足立区)を形成したという。下谷万年町は戦災にもあい、芝新網とともに昔の面影はなくなっている
(秋山前掲書、p.103)。

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下谷区は多い
明治期初期の貧民分布

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私の母は東京で二回結婚していたのか?一回目は下谷区であり二回目は北区になる。戸籍ではそうなっている。このことは聞いていない。母の二回目の結婚相手から生まれたのが私の兄だっとなる。ただ下谷区の人は誰だったのか不明である。その人は北区の人であり同一人物ではない、その辺のことが聞いていないのでわからない。

1872年5月2日(明治5年3月25日)- 1896年(明治29年)
1886年〈明治19年〉2月20日 - 1912年(明治45年

2人とも樋口一葉は24歳で死ぬ石川啄木は27歳で死んだこの2人とも肺結核だったのである。また正岡子規上の2人に上野に住んで35歳で肺結核で死んだのである。そして私の母親の実家の墓には25歳で死んだ母の兄にあたる人のは埋まっている。この頃いかに結核で若くして死んだ人が多いかということである。結核は国民病とも言われ若い人が死ぬので悲惨だったのである。戦後でも肺結核になり半分肺を切除した人がいたから悲惨だった
母の実家にも肺結核になり25歳で死んだ人がいる。。
肺結核は伝染病だとわかり治療できるようになりワクチンもできたから死ぬことがなくなったのである。そこに医学の進歩があった。

とにかく私の母親がやせていたけど結核にもならず百歳まで生きたというのは不思議である。体力もないしひ弱な人人に見えたからである。何かなよなよした竹下夢二の絵に描かれた女性のように見える見えた。だからなぜ百歳まで生きたのか不思議である。ただ血管が丈夫でありそれが長生きした理由だと思う。血管が悪くなると脳卒中とかになるからである。何か百歳まで生きて老衰で苦しむこともなく死んだ。その人生もまた変遷したが苦しいものであったが自分自身でも楽に死にたいって常に言っていたがそのとうりになったのである。

いずれにしろ戸籍からは江戸時代までも遡れる。それは明らかに架空のものではないし現実の歴史になる。それで戸籍をたどっていくとそれがその人とか家の歴史を知ることになるのである。その人の一生の履歴が分かるのである。ただそれも原発事故の賠償金のために調べた結果そうなったのである。それで人が死ぬとその人のことについて家族でない限り不明になってゆく。

でも戸籍には確かにその履歴が出ていてその人の一生でもたどることはできるのである。ただその生まれた場所とか分かってもその人のことについて知ることはできない。前の夫については私は母親から聞いてないからである。だからその夫がどういう人であったか全然わからないのである。ただ人間死んで月日がたてば歴史化してゆく。それにしても母が死んでから8年過ぎたのも早いし東日本大震災原発事故からも12年すぎたのである。

戸籍からh意外なことがわかる

墓を見てもこうした履歴はわからない、名前しか記されていないからである。戸籍にはかなりそこからわかるものがある。そこに意外なことがわかる。私の母親が東京で二回も結婚していたのか?そのことは聞いていないからである。
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2024年02月14日

豆腐屋だった老女と土手の道で語る 【老人の語ることが郷土史になる】


豆腐屋だった老女と土手の道で語る

【老人の語ることが郷土史になる】

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共に老い枯木に鳥二羽陽の没りぬ

とまっていたの烏らしい


いつも川の土手の道にいる女性と会う、その人は私の家で店をしていた時豆腐をおろしに来た女性である。私は店で仕事をしているということではなかった。でも店にいたことがあるからその女性のことを知っていたのである。また私の母と姉のことも直接接していたからそのことを語る。 母と姉が死んでから何か母と姉について語る人はいない。だからその人があ母と姉のことについて語るので親しみを覚えた。何か死者でも語られるとき生きるものとなる。でも人間は一旦死ぬとたちまち忘れられるのである。だから死んでから語られる人はやはりそれだけ何か意味があるということである。

なぜか近くの医者のことを常に語られていたがその人について語る人もいないのである。そして家は残されているのだがその息子は東京で住んで医者をしていたから地元はあまり関わらなかった。そしてその息子も死んだのである。そしてそれで家が残されている。それも自身で屋根が壊れたままになり家が傷んでいても直していないのである。何か地震で壊れた家がこの辺にはかなりあり家を直さないで放置して空き家になっているのもある。ということは跡継ぐ者がなくなりそうなったのだと思う。

その医者は口が悪いとかいろいろ語られたが今は一切語る人もいないのも不思議である。ただ私の母はその口が悪い医者に行かなかった。それで別な親切な優しい医者のところに行っていた。でもまたその医院が空き家となっていたがそれも壊されたのである。私の隣は四軒あったがっ更地になった。

とにかく人間は死ぬとたちまち忘れ去られる。でも死んでからも何か語られる人は生き続けていると思う。何か死者というのは十年とか過ぎても簡単に忘れられない。その理由が分かった。死んだ人はもう二度と会えない。だから会いたいなと思ってあいないから余計に会いたいとなり悲しくなるのである。それが切実なものになる。そして悲しくなりその悲しさも会えないのだから消えることもないのである。だからいかに深刻かわかる。恋というとき実は恋願うあり死んだ人ともう一度会いたいということから恋という言葉が乞うという言葉から出ていたのであることがわかる

ともかく豆腐屋だった女性は85くらいになり体も弱っている。 80すぎると体が弱ると言っていたから自分自身も恐怖である。その人は息子が医者になり恵まれている。ただ何かすることもなく土手の道を散歩している。そこをいつも私が通るので声をかけてくるのである。それでつくづく老人は必ず昔のことを語るようになる。それで心が通じるようになる。そこでこの街で共に生きたということを振り返り懐かしむのであえる。

その人は豆腐屋だったのでその苦労を語る。人間は老人になれば必ずその一生を語ることになる。別に語ってくれと言わなくても語りたいのは普通である。その豆腐屋だった女性豆腐を販売して水を売って儲けているのかと言われたそうである。
なぜそんなことを言ったのかよくわからないそう言われればがっかりすることは確かである。仕事でも商売でも何か嫌なこと私必ずある。だからかなにかを必ず老人になると振り返り語るのであるそのことを語るのである。何も語らない人がいる。そこには何か訳があり語りたくないのである。何か不正をしたり悪いことをしているからしたから語らないのかもしれない。ともかく老人はその一生を必ず語る。

別にどんな仕事であれ豆腐屋であれそのことを語る。語れない人が何か訳があるということである。そこに問題がある。豆腐屋という仕事は別に悪い仕事でもないしそれはほかの仕事と比べて劣っているということでもない。むしろ何か公務員とか金融関係とかそういう仕事はいいよで返ってモラル的には何かいいものではない。政治家でも官僚などもそうである。宗教関係でも何かいかがわしいのである。だから別に豆腐屋でも正直に生きればそれは立派なことだったのである。

ホイットマンが讃えたのはそうゆう普通の仕事を持っている手に職がある人などのことでを讃えた。それは常に普通に身近に見ているからわかりやすいものだったのである。それが現代になると職業が複雑に分解して人は何をしているか何が意味あるのかがわからなくなったのである。
とにかく老人になれば必ず何かを何かを語る。その一生を語る。そのそこで同じ町に生きて共有する感覚が生まれる。その人が私の家で店をしていた時豆腐を販売して私の店で豆腐を売っていた。

それだけのことでもやはりともに生きたということだったのである。老人だから老人というのは長く生きた場所に離れ土地から離れにくいのである。もし離れてしまえばその人が過去に何したかわからなくなるいくら過去のことを語っても共感する人がいなくなってしまう。
そしてそういう共同性が強いのは農家だったと思う。それは同じ土地でともに共同して働いてきた年月が長いからそうなったのである。それで農家でわ三代続かないと仲間になれないということもそれだけ農家というのはその土地と一体となっているからそうなった。でも今になると農家は全体の1割ぐらいになってしまったので存在感がなくなったのである。

人間は最後に必ず問われる。何をしてきたのかを問われる。何も特別なことをしないでも別に豆腐屋でもそれは立派なことであり別に仕事として悪いものでもない。意外と悪いことに関わるのは政治家とか官僚とか偉いと言われる地位のある人が悪いことに関わりやすいのである。そういうとこところでは金が集まりやすい。だから公務員とかでも何か得する仕組みがある。るでも下々の者そういうとこがなく地道に真面目に働くほかないのである。結局人間というのはいろいろ仕事でもあっても何か悪いことはしない正直に生きるということが基本にあるとなる。それが意外と難しいのである。

みんな豆腐屋にしてもそれは得な仕事ではない報われない仕事ともその仕事に携わっている人自体が思うからである。でも実際はそれも立派な仕事であり正直に生きるということは立派なことなのである。でも面何か得をしたい楽をしたい贅沢をしたいとかになるのでは。そんなこと仕事をしないお前が言われるのかとなるがとにかく人間は自分の言ったことを必ず語る。私が旅のことばっかり語るのはやはりたびに一生が費やされたからそうなったのである。そんなもの無駄だと言えば無駄ではあるがそれもやはり人生だったのである

郷土史とは一人一人が郷土史になっている。 だから老人が語ることが郷土史になるのである。人の話を聞くことから民俗学を起こした柳田国男とか宮本常一などがそうである。それが学問になったのは聞き方がうまかったからである。
インターネットの効用は庶民でも気軽に語ることができることである。これを本にしようとしたらできない、出版とかになると出来合ない、売れるかとか問題になるからである。その点インターネットなどは売れるかどうかなど関係ない私的な日記にもなっているからである。何でも気軽に書けることが強みなのである。だから私の書いたことはすでに全集にもなっている
そいうことは有名な人しかできなかった。でも今では誰でもできるのである。学者でなくてもできるのである。だから聖書がグーテンベルグによって出版技術が生まれて普及したように膨大な庶民の記録も残されれう時代になったのである。ただインターネットの問題は怖さは一瞬にして消えることがある。それが大問題なのである。また通信で問題が起きたからである
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2024年01月19日

百歳生きた母の一生 【人間は物語を残すー歴史はヒストリーーストリーである】


百歳生きた母の一生

【人間は物語を残すー歴史はヒストリーーストリーである】

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母は裕福な家に生まれた。幼少期は恵まれていた。でも父親は警察署長だったが事業に失敗して家族は辛酸をなめる。そのとき実の母は病気になりそこに父親は機織り工場に勤めていた女性を引き入れた、実の母は死んでいなかったが母はその母に育てられた
実の母は死んで継母に育てられた。その継母は恐ろしく気の強い女性で母は悲しい目にあった。小学校の時その継母は弁当を作ってくれたが母は残した。でも継母は激怒して俺の創ったものは食えねのかとその弁当をぶんまけた。その時母は泣いた
それは深い傷となった。母は糸取りとして原町の紡績工場で十年間働いた。体は痩せていた。昼飯は御飯と味噌汁と沢庵くらいだった。一汁一菜であった。母はその後東京に出た。母の仕事は女中だった。そのころ女中が女性の主な仕事であり糸取りの紡績工場も女性の働き場所だった。そのことでそれほど不満はなかった。なぜならその頃大正時代であり女性の働く場所は限られてれていたからである。だから紡績工場でも現金収入になり女性の地位も上がったとなる。

異常に気の強い継母は一時は実の母も世話したが私の母も世話した。継母は肺病の弟の世話もした。でも25才で死んだ。
だから母の実家では継母にいじめられてとしても家にとって必要な人にもなっていたのである。
私の母は東京に出たのは姉が継母を嫌って横浜に出た。それで母も東京に出たのかもしれない。母の家族は父親が事業に失敗して一家離散のようにもなった。そしてまた不幸は続いた
東京で結婚したのだが夫が工事内の事故で死んだのである。その時五才の男の子供がいて実家に連れて帰りそこで母は継母に無理やり私の父と結婚させられたのである。その時私の父は50歳以上でありその頃にしてみればかなりの年であった

だから母は嫌々ながら私の家に嫁いだのである。でも連れ子だった私の父親違いの兄は愛されることなく悪さをするので実家に預けられた。五年ほど私の家にいて私はあんにゃと呼んでいたのである。でもまもなく中卒で集団就職した。その頃中卒で集団就職する人が多かったのである。
その兄もトラック運転手になったが交通事故で40才で死んだのである。兄は結婚していて離婚したばかりだった。そこで雇われた運送会社でもめた。母と雇われた運送会社の社長が荼毘にした骨を置いていけと言われてもめたのである。そしてなぜ墓をつくると言ったのかわからなかった。私は車をもっていないので自賠責とか交通事故の保険金のことがわからなかったからである。もう一人親戚の人が車を持っていて教えられたのである。
身寄りがないから保険金をもらおうとしてそんなこと言っていたのである。

とにかく兄のお骨は母の実家の墓に入れたのだがその骨も土になて跡形もなくなっていた。また実家の墓を受け継いだ人も疎遠になっていて縁も切れた。ただ墓を私の墓の隣に簡単のものでも作り供養している。私は兄には悪いと常に思っていたからである。
でもその実の娘は兄の墓参りにきてくれと言っても来ない、金もないので来ない、静岡の方で遠いので金もかかるから来ない、電車賃とか十万送ったが来ない。なぜそうなったかというと実の父親でも離婚して住む所もなくなりトラックにのせたり後は児童養護施設あずけたりとひどい目にあったので実の父親でも恨んでいるからそうなったのである。

母の一生を振り返ると何か不運であり悲しいことが多かった
私にとっても残念だったのは母はそうして継母に育てられて何か花嫁修業などもさせられない。学校は出たが尋常小学校であった。一応読み書きはできていたのである。そうして働き詰めであり花はいらないと庭に豆を植えようとしていたのである。
それは食べ物でも苦労したからそうなったのである。それも悲しいことだったでも別に高度成長時代も生きて食べ物はいいものを食べていたのである。戦前と戦後間もなくは日本全体が食糧不足でありまともなものも食べられなかったが高度成長時代には別に食べ物で苦労はしていないのである。
でも私の家では店を開いたのでその店がまた忙しかった。だから食事の時でもお客さんが来ると必ず母は立っていたのである。それが私には嫌だった予。みんなと一緒にゆっくりと食事ができないということもあったからである。ただだから母は一生働きづめだったのである。

そして90以上になっても今度は家事を続けていたのである。でもそれが意外と脳活性化して認知症にならなかったのである。家事というときそれはいろいろあり料理をするとなるとかなり頭を使うからである。
だからすべてが何でも悪く働くとは限らないのである。でも花なぞいらないということは悲しいことだった。それはやはりその生い立ちに原因があり継母に育てられたとかそこに問題があった。ただその継母も早めに昔の養老院に入り何か目が悪くして母が呼ばれたのである。その後そのまま母も死んだ。継母は解剖にしてくれということで大学病院で解剖された。その骨が母の元にもたらされたのである。そして実家の墓に入れたのでは

何かこうして一人の人間の一生ををたどるとそこに人間の悲しみを知る。
もし継母でも実の親のようでなくても愛し子供を愛していればこうはならなかっやろう。最後にお骨を引き取ったのは継母に育てられた母だっとなる。その最後から人生をふりかえると人間というものはどうあるべき見えてくる。
でもその継母も母に(悪かった)と言っていた。最後に反省したのだがすでに時遅しとなっていたのである。人間はその最期から見れる人はいない。最後に人間の一生が何だったにか否応なく見せつけられるとなる

いずれにしろ墓はいくらでもあるが墓よりこうしてその人の一生語ることがその人を供養するということにもなる。墓を見ただけではその人がどういう一生だったのかわからないからである。だから歴史とはヒストリーでありそれぞれのストーリーとして語られるものとしてある。
それはのちの世の教訓になる。ただこういうことは人間はカルマを繰り返しているということがわかる。こういうことはほかの人でもありうるからである。兄は母のことを恨んでいたがその兄も娘を捨てたようになり娘は墓参りもしないしただ恨んでいるというだけであるだからこれもつくづくカルマだと思う。
そして兄を知り墓参りしているのは私だけになったのである。

こういうことはほかの人でも必ずあるつまり人間はカルマを背負っていて親を責めても親と同じようなことをしているということになりまた子供からも責められてる責められるということにもなる。だからこうしたカルマというのは人間の生が続く限り消滅しないようにも思えるのである

とにかく母の最後は百歳まで生きて安らかに老衰で死んだ。いつも眠るように死にたい死んだらいいなと言っていたが本当にそのように死んだのである。だからその死に顔は笑ったような顔になっていたのである。私も介護してそれを喜んでいた。だから母の一生は苦しいものでもあったか最後は楽に死んでその死に様はいいものだったのである。ただ人間の一生を振り返ればその一生は何だったのか問われる。それは死んでから問われるし明確に見えてくるのである

郷土史でもその一人一人の人生が郷土史なのである。

眠るごと母は死にき百歳を生きて苦しむも今は安らか

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2023年10月11日

相馬市と元の南相馬市の原町の相違 【人間の営みと共に自然が映えるのが文化ー原発事故で営みが失われた町に村】


相馬市と元の南相馬市の原町の相違

【人間の営みと共に自然が映えるのが文化ー原発事故で営みが失われた町に村】

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相馬市は城下町 by bing image creator

水墨画が似合っている

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街中にとりどりの花や原町に賑わいのあり秋となり

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●南相馬市原町区は明治に鉄道の機関区となり発展した

地域でも福島県という大きい県の単位の広さの地域もある。でも狭い範囲でも例えば相馬藩内でも城下町だった相馬市と前の原町市とは雰囲気も違っていた。それはなぜなのか。それは外から来た人には分からない。相馬市に行くと何かしんみりとした感じになる。市庁舎とか入母屋風にして何か古風な感じになる街町全体の雰囲気が元の原町とは違っている。
原町がなぜ相馬市と違ったものになったのか。それは明治維新を原町は駅前通りから発展したからである。原町機関区と同じようにそこから森林鉄道が発展して木材とか石材とか資源を東京に貨物列車で送るようになったからである。
いわき市は元は平市であり常磐鍛錬で有名なように石炭を東京にやはり貨物列車で運ぶようになった。
だから相当に鉄道が街づくりに影響していたのである。

鉄道はそもそも北海道でもそうだが各地に石炭を運ぶものとして作られた。人を運ぶより物を運ぶことを鉄道はから始まったのである。鉄道は乗客として乗る時相当に贅沢なものだったらしい。運賃が高かったからである。だからそんなに乗客としては利用されていなかった。何か母に聞いた話では原町から昔の中村市今の相馬市まで行くに運賃が高くて簡単に行けなかったと聞いた。つまりその頃鉄道で旅はできたとしても金持ちしか利用していなかったかもしれない。
子供の時長い貨物列車を近くで見ていた。その頃はまだ鉄道で荷物を運ぶことが多かったのである。六号線にしてもまだできていらなかったからである。
そしてなぜ原町と相馬の相馬市の街の作りが違っているのか。相馬市は元は中村であり駅前通りというのは作られなかった。
城下町であり碁盤の目のように細い路地が作られていたのである。だから原町とは街の作りも違っていたのである。

●原町は原っぱだった

原町という名のようにもともとは街になっているところは原っぱだったのである。雲雀が原の原があるようにそこは野馬追の訓練所だったのである。それで原町村があり騎馬武者一騎が野馬追に出ている。村としても小さな村だったのである。原町が発展したのは明治以降鉄道は通るようになってからである。
だから城下町であった相馬市と元の南相馬の原町市は雰囲気が違っているのである。ただこれは外から来た人にわかりにくい。確かに相馬市は城下町でも城もないし外から来た人にわかりにくい。
でも長年住んでいれば相馬市と元の原町市は雰囲気は相当に違っている。それでその街の特徴を考えた時原町市という名を合併で消したことは失敗だったかもしれない。相馬市というのはここはもともと相馬氏が支配した場所だから合っているとなる。
でも原町市は何か南相馬市としたことが一見良いように見えてやはり街の特徴を考えた時その名前と合っていないのである。なぜなら明治以降を考えた時原町市は相馬市より原町機関区となり街が作られたからである。

それは今でもその影響は明らかにある。原町市に元の原町市に行くと何か相馬市と違って近代的というか街のにぎわいがある。それで不思議なのは例えば六号線沿いの写真を撮ったがそこにとりどりの花が咲いていた。それが原町に似合っていたのである。また原町の道の駅も賑わっていた。相馬市の道の駅は田んぼの中にあり人もあまり人が入らないのである。
だから原町市は街として活気があり生きているという感覚になる。確かに駅前通りは廃れて賑わいは消えたとなる。どちらかというと六号線沿いが活気がある。それは車社会が影響してそうなったのである。またイオンは町より外れたところにあるがそこで自転車を修理してもらった。鹿島区は自転車屋が一軒もなくなったからである。
だからイオンも街に欠かせないものとなっている。ただ相馬市ではイオンが撤退してそれがかなり影響している。いつもあそこで休んでいたからそれができないので困る。イオンはなくなったことで町全体がさびれた感じになったのである。

また中村喫茶店もまくなった。それはレンガ造りで古風な感じがして城下町に似合っていたのである。何か相馬市に合っているのは例えば茶室などを作ってそこで安らぐというのが似合っている。
やはりその街の特徴を活かす時歴史的なものは欠かせないのである。相馬焼の茶碗で茶室でもてなすという時城下町の雰囲気を味わうことができるのである。でも相馬藩は6万石でありそうした伝統的なものが必ずしも残ってはいない。
ただなぜ相馬野馬追があるのかというとそれは今の街とはそれほど関係しない。相馬藩内の村から郷士がいて農業しながら侍だった家から出るのがほとんどである。
会津あたりだとやはり大きな国だから城下町となりそこでは茶の湯も伝わりそういうもてなしができるのである。

●人間の営みがあり自然でも映えることが文化である

とにかくそれぞれの市町村でもその独自の雰囲気がある。飯館村となると森の村であり森に囲まれているから村でもある。夏は涼しく冬は寒いとなる。でも標高が高いからそこが別世界となっているのである。このように相馬藩内でも雰囲気は違ったものになる。ただ飯館村などは別の世界だからわかりやすい。相馬市とか南相馬市の元の原町市とかの区別は分かりにくいと思う。
それで一枚の写真を撮った。そこにいろいろな花が咲いていた秋になり菊もも咲いていたがひまわりも咲いていた。だから何か元の原町市にふさわしいと見た。
つまり花でも自然そのものというのではなく人間の営みがあり街が形成されてそれが花でも調和して見る。原町のいい点は新田川がありそれは浅瀬の川であり瀬音ゆかしきとか仙台の青葉上恋歌のようになる。浅瀬だから常に瀬音がせせらいで流れているからである。そしてその川が街のはずれで街中を流れている感じにもなる。だから街の特徴を作るのは街自体だけではなく自然も一体となって作られているのである。

それでこの辺で原発事故で南相馬市でわは小高区とかが避難区域になりそこに行ってみると車さえたまにしか通らない。だから街自体が死んだようにも感じるのである。確かに車が通らないから静かでいいともなるが空き家が多いし何か街が生きていないのである。
するとやはりそこに花も映えないということもある。つまり自然ですら人の営みと関連して生きるということがある。ただ高山植物とかは人は関わらず咲いているから美しいとなる。でもまた人間の営みがありそれで自然でも花でも生きるということがある。自然でもやはり人間がかかわりそこに文化が生まれる。それで京都とかは魅力あるものとなっているのである。
仙台市でも広瀬川がありまだ盛岡市でも二つの川が流れていて岩手山が間近にそびえるから外国人に人気があるというのもわかる。東京には全く自然というのが感じられない。でも江戸時代にはベネチアのように縦横にに水路があって舟が行き来していたのである。。だから江戸の町は魅力あるものであった。

やはり人の営みまた生業があり自然と調和しているときそこに美が生まれる。それで橲原村とかで村総出で田植えしていたとき時そこに赤々とつつじが映えていた。それは人の営みと自然が調和して美しい光景となっていたのである。だから農村の風景でも早乙女が田植えのとき華やかに見えたのである。浪江町の請戸の早乙女の田植え踊りは有名である。
そのとき村でも活きていたのである。それが津波原発事故以後寂れてしまった。その時代時代の雰囲気がある。でもこの辺の変化はあまりにも変化が大きすぎたのである。ただここだけではない昔からあった村でも人口減少で維持できなくなっちる。要するに景観でも人為的景観がありそれは人間の手が加わったものでありそれが文化なのである。そもそも農業とはそうした文化だったのである。だからcultureと土をcultivate【耕す】となっていたのである

ラテン語耕地耕すこと」の (agri‐ 「土地耕地」+cultūra 「耕作」); cf.culture

こうして歴史とかふりかえると南相馬市と合併したけど何か街の特徴でも無視して名付けた。ただ相馬藩が一つであるから歴史を考慮したものだけど明治以降の歴史をふりかえるとやはりそぐわないともなる。つまり相馬市が中心になる。でも今の中心地は原町なのである。南相馬市となると相馬市に付随したものに感じるからである。
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2023年06月14日

水道がない時代の井戸の話


水道がない時代の井戸の話

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この回りは空家と空地になった


隣に井戸がある。その水は出が悪くなったがまだ水は出ている。
その井戸の持ち主と話をした。放射性物質に汚染されていないという実際に検査してもらったからだという。地下水は汚染されていないみたいだ。川の場合は泥に付着して放射性物質が減らないのである。
この江戸については子供の頃私の家には井戸がなくこの井戸の水をもらって生活していたのである。その時水道がなく井戸の水で生活していたのである。何かその子供の時まるで江戸時代であり原始的生活にもなっていた。

それでその水を風呂の水として運んだことを覚えている。
バケツで運んだのである。風呂だとなればそれなりの水が必要だから何回も運ぶことになり苦労だった。その風呂にしても父親は手作りした小屋の中にあった。
水がないということは相当に不便だった。それで井戸のない家は苦しんでいたのである。街中でも結構井戸があったのである。だから常に井戸を目にしていたのである。夏になると井戸から冷たい水が流れていて涼しさを感じていた。
そこでスイカなどを冷やしていたのである。まず人間の生活は水なくしてはありえない。その水が家にないということは相当に不便だったのである。そして水をもらうにしても気を使うから井戸がない家は苦労した。そこでもらい水と言う俳句が生まれたりした。

また水道もない江戸時代においては、井戸から水を汲むことから一日が始まります。水汲みは重労働のようにも思えますが、古来より女性の大切な仕事でした。

俳句の教科書

長屋が井戸中心にしてあった。なぜならそこで水を汲む洗濯もしていた。日常の生活で井戸なしではあり得なかったからである。
ただ洗濯はすぐ近くに堀があれ水が流れていてその水は田んぼに流れていた。だからその堀は定期的に農家の人が掃除していた。
つまりその時代は家事に相当なエネルギーを費やしていたのである。だから主婦は外で働くことなく家事に専念していたのである。第一家事がとても女性一人でこなせないからこそ必ず中産階級でも女中お雇っていたのである。女性の仕事として女中があった。私の母親は紡績工場で働きあとは東京で女中をしていたのである。大正生まれだったからその頃の仕事はそういうものだったからである。
とにかく井戸にまつわる話が残されているのはやはり水が大事であり水なくして人間の生活もないからそうなったのである。例えば白にしても城の中でも井戸が数多くあった。
それは籠城するときなど井戸がないとできないからである。

城の内井戸の深きや落椿

ともかくその井戸の水をもらっていた井戸は残っていても何か死んでいるような感覚になる。その周りは空き地化して空き家にもなったからである。広い土地も農家だったが空き地になった。
建具屋だった家も空き地になった。そこを見るとかなり狭い、庭も無い家だった。そこは土地を借りていた。ということはそれだけのお金がなかったとなる。
私の家は土地は所有していた。ということはそれだけ酒屋をやって金が入っていたのかとなる。

とにかく周りを見ても変化が激しい。昔を思い出すものは消失している。ただそこに井戸は残っていてまだ水は多少出ているのである。その家の所有者は農業をしている。だから不思議なのはその人は常に家にいて私は買い物などでその家の前を通る。するとその人が必ずいて出会うのである。
現在は田舎でも農業している人は少ない。だから昼間になるとぶらぶらしていると何か怪しいとまでなり警察に目をつけられることもある。そこで会うのはニートとかことおじの無職の人間なのである。

でも不思議なのは農村社会だったら家のある場が仕事場であり会社勤めでないから常に人と人は毎日身近にあって仕事していた。だから何をしているか分からない人などいなかったと思う
今は何をしているのか分からない人が多いのである。田舎ですらそうなっているのである。特にこの辺では原発事故で避難してきた人が新しい家を建て新住宅街が三つくらいできている。でもその人たちがこの土地で働いているとは見えない。車で通って前に住んでいたところとかで働いているのかもしれない。

また仕事でも広域化しているから郡山の方に工事現場に働きに行くから朝5時とかに出てゆくのである。働く場所が広くなりそういうこともまた多い。だからその土地でいつも人が一緒に農村のように働いているとはならないのである。
だから近くでも疎遠になるということがある。要するに田舎でも田畑があっても農村社会ではない。その井戸を所有している人とは常に会うのは奇妙だけどもその人が農業しているからだとなる。

でもそういう人は田舎でも少数派であり珍しいとなったのである。でも村というのは本当に生産するにしても共同の場であり今とは違ったものだったのである。一つの家族のようにもなっていた。それは日頃から共同して働いていたからそうなっていたのである。現代では仕事でも無数に分化してさらに広域化してグローバル化しているから返って人とのつながりが失われたのである。
それでその人と昼間でも会うというのは農業近くの土地を利用して農業していたからなのである。他の人たちはどこか知らないけど勤めに出ているから何をしているかもわからないのである。だから田舎というのは昔の村の田舎は無くなっているのである。そこを都会の人は誤解しやすいということはある。





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2023年06月05日

昭和30年頃の暮らし (テレビの影響と蒸気機関車から新幹線の変化)


昭和30年頃の暮らし

(テレビの影響と蒸気機関車から新幹線の変化)

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月給が5000円くらいだと店を開く金を5万を得るのに相当に苦労した。それで借りたことを公務員だった姉は常に語っていた
つまりその時5万は大金だったのである、銀行でも貸してくれなかったのである


●昭和30年の公務員の月給が5000円−馬鹿高いテレビの値段

昭和30年で国家公務員の月給が5000円くらいなのには驚いた。そしてテレビの値段が12万なのである。それも信じられないとなる。ただテレビは出たときは個々人の家庭でわ買っていない
理髪店とか電器店とか人の集まるところでテレビを置いていた。
だからそこに人が集まったのである。個々人の家ではテレビが買えなかったことはこの値段でわかる。
それにしても月給が5000円ぐらいでテレビが12万とかするのは驚きである。役30倍の値段になる。他にも冷蔵庫でも高い。それらは簡単に買えるものではなかった。

なぜならその頃冷蔵庫も洗濯機も無い。テレビももちろんない。
裏に小川が堀がありそこで洗濯板で洗濯していた。燃料は炭でありトイレは外にあり新聞紙がトイレットペーパーだった。電機は裸電球一つだった。
認知症になった家族の一人が洗濯機が使いなくなり洗濯板でごしごし洗っていた。機械の操作ができなくても昔していたことはできるからしていたとなる。
何かその生活は江戸時代とたいして変わらなかったのである。だから江戸時代のことはリアルにイメージできたともなる。
この値段表を見ればテレビはバカ高いものだった。だから個々人では買えないものだった。テレビに映ることが大きな驚きであった

●テレビの影響は甚大だった

だからテレビの影響はどれだけ大きいものだったかわかる。テレビに出ただけでその人がどんな人であれ名前が売れて国会議員にも東京都知事すらなれたのである。青島とかいう人はそうだった。俺は選挙運動なっかしないと宣言して当選していたのである。その人の中身などどうでも良かったのである。テレビに出ただけで名前が売れて選挙運動しなくても芸能人が当選した時代だったのである。それだけテレビの影響力は大きい物だったのである。テレビによって相撲中継がありプロ野球の放送はありスポーツが娯楽となったのである
それをテレビがないときどこ比べればわかる。江戸時代だったら相撲でも演劇でもドサ回りとか地方回って金を稼ぐ他なかったからである。テレビは家にいながらにして楽しめるからそれだけ普及したのである。

ニュースにしても蒸気機関車の時代がありフイルムを鉄道で運んでいたのである。映画館がありそのニュースを映していたのである。だから一日とか2日とかさらに遅れたものとして映していた。それも本番の映画のドラマの前にニュースを放映していたのである。だからその時動画によってニュースを知るということは難しかった。それで毎日配られる新聞がニュースのニュースを伝えていたのである。新聞の時代でもあった。。その紙も貴重だからトイレットペーパーとしても他にもいろいろ包装などに使われていたのである。
私の家では店を始めてその包装に商品を入れる袋に新聞紙を使っていたのである。その時バラ売りとか量り売りがでありそのために袋を必要としていた。それで母が新聞紙でその袋を作っていたのである。そののりはご飯をつぶして作っていたかもしれない。あらゆるモノが無い時代だったからである。

●繁盛した小さな小売店

でも店は繁盛した。私の子供の時はまるで丁稚だった。常に配達をさせられていたからである。私の父が第一双葉の酒店で丁稚をしていたのである。だから私にそろばんを習わせたのである。その頃みんなそろばんを習っていたのである。
でも今になればコンピューターでありそろばんは何の役にも立たなかった。それは常に時代の変化としてあるある。将来の変化時代の変化があり社会のどうなってゆくかわからないのである。だから先を見るということが大事になる。
日本では30年失われた時代がありITなど先を見ることができなかったので今日の停滞と衰退がある
今ならコンピューターのプログラムを学ぶことは必須となりそれはできないものは給料も安くなるのである。
つまり親の言いなりになることは危険なのである。なぜなら親の時代と全く違った時代を生きるようにもなるからである。
江戸時代なら変化が少ない。だからそろばんでも通用していた
今はめまぐるしく技術でもなんでも変わるから親の言うとうりにしていると時代遅れになってしまうのである。
親の奨めるものは時代遅れにとってなって役に立たなくなるということがある。

●蒸気機関車から一気に新幹線の時代に

ただ私の家はでは昭和33年ごろテレビを買った。それは当時ではかなり贅沢だった。それは父親は病気になって家族が買ってやったのである。そのテレビでも病気になりまともに見ずに楽しめずに死んだのである。
また刺身が食えるようになったが食いたくないと言って死んだのである。病気でそうなったのである。だから高度成長時代の華やかな時を経験せずに死んだのである。
要するに戦後は今より活気があり希望に満ちていてみんな懸命に働き高度成長を迎えたのである。その時東京オリンピックがあった。日本が戦争の敗北から立ち直った象徴として世界に示すためにあった。。その時まだ蒸気機関車であり原町の高校に通っていたのである。だからそれも信じられないとなる。このように時代は常に変化しているのである。

1964−昭和39年ー東海道新幹線開業

これがわからないのは確かに高校の時蒸気機関車で通っていた
それが新幹線開業の時だったとなる。そんなに早く開業したのかと驚く、常磐線では蒸気機関車だったからである。
鉄道も急速に電化して新幹線が走ることになったことに驚くのである。

●毎年一万賃金が上がていた

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今や昭和すら昔として語られるようになった。昭和時代を懐かしく思う人が50代とかでいる。ただ昭和時代でも高度成長時代を経験した人としない人は違っている。
平成時代が30年ありそれが高度成長時代が終わり失われた30年となったからである。それで今30歳あたりの人は高度成長時代とかバブルの時代を経験していない。するとただ日本が低迷して貧困化した時代しか知らないとなるのである。
だから公務員の月給でも毎年1万ずつ上がっていたし労働組合でも賃上げ要求毎年のようにして必ず賃金が上がっていたのである。日本だけが世界で30年とかも賃金が上がっていないのである。その失われた30年の歳月は取り戻せない。 30年は相当に長い年月だったのである。

それだけ長いのに政府でも何もできず手を打たず国民でも何か惰性のようにして過ごして30年のたちまちすぎてしまったのである。ただ私の場合は高度成長とかバブルとか関係していない
会社にも勤めていないしただ自分の家にこもり好きなことをして旅をしていただけだとなる。だからその時代を生きたともならない。ただそれでも高度成長時代があり経済的に余裕ができてそういうこともできたとなるのである。

●少子高齢化衰退縮小する日本

こうして過去を振り返ると何か不思議になる。その生きていた時代のことも子供の時でありいろいろわからないことがあった。
でも今になるとその時代が今と相当に違っている。その雰囲気も違っている。近くの神社に子供はワンサと集まって遊んでいた。今は一人二人の兄弟がちょっと遊んでいるの見かけるだけである。何か全体的に停滞している活気のない世界に見えるのである。増えるのは老人と病人だけだとなる。。そして空き家が増大してゆく。もぬけの殻のよう空き家は点在しているのである。

時代の雰囲気としては少子高齢化でありどうしても活気がないのである。またその頃田植えとかの時期になれば村総出で田植えしたり稲刈りしたりしていたのである。小学校でも農休みとかあり農業が中心だからそうなったのである。その時機械を使っていないから人力でみんな働いていたから活気があったとなる。それは山村でもやはり子供や若い人でも多かったから活気があったのである。確かに貧乏ではあったがは活気はあったのである。

ここのyoutubeでその頃病気している人が少なかったと言っている。医者は往診していた。それも車がなく自転車とかで往診していた。大きな病院は少なかった。でも病気になる人はいたけど元気な人が多かったというとき病気になって早く死んでいたからそう感じたのかもしれない。
でも若者も子供も多く老人とか病人は少なかったとなる。だからこそ全体的に活気があったとなる。医療費とか福祉にかかる負担も少なかったとなる。やはり子供や若者や健康な人が多ければ当然社会に活気が出る。福祉でも医療費でもそんなに負担がなかったということである。

でも今はこれから少子高齢化というのは長く続く。それで日本の社会全体が停滞してさらに衰退してゆく。社会自体も空き家が増大して縮小してゆく。そういう下り坂の社会になってゆく
社会的には成熟した落ち着いた社会になってゆくかもしれない。どうしても高度成長のような時代は来ない。それは一時の幸運であり栄華だっともなる。
posted by 天華 at 20:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2023年01月13日

家と土地の歴史が郷土史の基本 (家を直したのは地元の人ではないー遠くの会社であるートイレは郡山の会社)


家と土地の歴史が郷土史の基本

(家を直したのは地元の人ではないー遠くの会社であるートイレは郡山の会社)


今日近くの人に聞いたら隣の空家化した家の土地はもともと借りた土地だという
家は古くなって住めなくなったのか、借りて住んんでいた人は同じ町内に新しい家も建てた、この辺の土地は地主がいてその家の土地が多く借りている
原町だったらかのう屋の土地が多いとかなる、戦前は地主がいて土地も借りて小作していた人が多い、それで常に地主に対する不満が多かったのである

地主の歴史とは? 土地持ちがお金持ちになった理由

農地は戦後農地改革で小作が土地を所有するようになり地主は没落した
でも農地ではない街中の土地は依然として地主が所有していた、だから街中の土地はそうして戦前からの地主が所有しているのが多いのである
また農家でも戦後土地を所有できるようになったが今度は農業するのではなく都会になると宅地とかとして売りまた広い土地があるとそこにビルとか賃貸のアパートか建てて金持ちになったのである、東京辺りではだから土地成金がいる
土地を持っているだけで金持ちであり一時はわずかな土地でも億の値段になり新しい家を建てた人がいた、株も土地もバブルになったのである
だからその時は小さな家でも土地が馬鹿高いものになっていた、土地が財産になっていたのである

狂乱の日本。山手線内側の土地価格で「米国全土」が買えた…!

私の家がなぜ街中の土地を所有したのか、私の父親は双葉町の新山で酒屋の丁稚をしていて暖簾分けしてここに店を開いた、酒屋となって土地を買う金を得て土地を買った
でもこの土地は街で一番低い土地であり水害に二回あった、水がどうしてか自分の家に集まる土地だったのである、今でも水が下水からあふれると集まり家の中に入ってくるのである、ただ土地として70坪くらいあり広い、戦前は家を貸していたくらいだからである家を貸して金にしていた、そして隣の家も戦後貸していた、その家では店をしていたが売れないのでやめた、そしてどうも餓死のようになって死んだ、5才くらいのことで記憶しているのだが事情がわからなかった、家貸していたことは確かなのである
ただ餓死したというとき別に息子がいたのだがその嫁が非情で助けなかったとかとも言われた、その辺のことは良くわからないが家を貸していたのである

ともかく家でもその土地でも一つの歴史であり郷土史になる、一軒一軒の家がそうなのである、ただ街内の歴史と農家の歴史は違っている、でも農家でも街内にあった、その中に商人とか職人が住みついたのである、家が壊された所を見るとそこは自分の家の土地より狭い、だから庭もない家だった、私の家は結構広いとなっていた
だから狭くても庭がある、その後二階建ての大きな家を50年前とか建てたのは私の家は街内で一番低い土地にあり水害の被害が一番ひどかったためである
二階に避難できない平屋だったからである、そこで二階を建てることが悲願になって建てたのである、それで姉はこの家をいつも自慢していたのである
父親はこの二階の家を建てたのではない、その後は姉と母がいて建てたのである

家と土地がありそれが歴史でありまた郷土史になっている、郷土史の基本は家と土地から始まっている、その家がどうして成立ちその土地がどういうものか知ることが歴史を知ることになる、どういうわけか今でもわずかのどこにあるのか知らない土地を所有していてわずかでも税金をとられていたのである、それは酒屋をしていたとき借りて酒を買った農家の人なのか土地を質にして酒を買っていたためだとなる
土地を担保にしていたからそうなった、金を借りる時土地を担保にすることが多いからである
つくづく家が壊されてその跡地を見ると狭いと感じた、だから庭がなかった、そういうことは街内ではある、そしてもともとこの土地に住んでいた人ではない、他所から来た人も多いのである、その人は確かに指物大工だった、仏壇を作った人だった、その後はタクシー運転手だった、隣は理髪店であった、ここは不幸な家で息子が早死にして次に母親も死んだのである、その家も土地を借りていたのである、その家も先日壊された
後は農家だった家は広いが今は空地になって不動産屋のものになっている

ともかく家と土地が郷土史の基本である、家の物語であり土地の物語なのである
家というとき建物としてあるがまたそこに家族の物語がある、家というのは家を建てる時でも普請といい一大事業にもなった、家を持つことが一家の主となることだった
喜多方では蔵を持つことが一家を構えることでありそれで競って立派な蔵を作ったのである、それで蔵の街になったのである
だから家一軒が壊れるということはやはりその歴史を語るものが壊されることになる、消えることにもなる、空家が増大するというとき何か日本の歴史すら失われるという感覚になる、それより原発事故で避難区域になった所は空家だらけであり市町村の歴史すら喪失するともなったのである、もう町民でも村民でもばらばらに離散して町や村が維持できなくなった、それは歴史も失われるとういことである

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

これまでは家は必ず土地の人がかかわり建てていた、それで私の家を50年前建てた時は地元の大工と材料で建てた、そのことを姉は自慢していた、同級生の橲原のキコリに木を選んでもらって建てたとか言っていた、外材など入らない時代だからそうなった
何でも地元にあるものでまかなう時代だったからである、第一これほど外国から何でも輸入して成り立つ経済ではなかったからである
燃料は炭であり山の木材を利用していたからである、電器は裸電球一つだったのである
部屋はがらんとして寒かったのである、北風がそのヤハな家に唸っていた
雨漏りもしていた、この雨漏りするというのは江戸時代からそうだった、時代劇で見たからである、つまり江戸時代からの継続が戦後十年くらいまであった
だから逆にこれほど便利になった時代は長い歴史のなかでなかったとなる
また豊かになった経験をしたこともなかったのである、長い歴史でみれば異常なことでもあった、その消費するエネルギーもとてつもないものとなっていたのである
だからこそ電気がたりないとなり原発が作られて事故になり住めなくなったともなる

とにかく変わったことと言えば経済が社会が広域化したことである、今回トイレが下の配管がひびがはいりもれていた、それを直して新しい便器にした、その人はクラシアンという郡山の会社の人である、そのために22万もかかった
前の3・11の東日本大震災の時に瓦を直したのはいわきの会社の人だった
ユニットバスは仙台市の会社の人だった、そして今回は郡山の会社の人である

瓦ーいわきの会社ー70万
ユニットバスー仙台市の会社ー100万
トイレの修繕と新しい便器を買うー郡山市の会社ー22万

そして今度は去年の大地震で一回家を直した、それで40万かかった、次にキッチンを直すのに新しいものにするから70万とかかかると言われた
水漏れもしていて全体的に直すとかかる、その大工さんは地元の人である
その人には前にも庭を作ってもらったり墓まで新しく作ってもらった、その人は大工だけではなく庭師でもあり墓まで作れたのである、その人は地元でありハウス業者のように家を建てた終わりとはならない、後のめんどうも見るし細かいことにこちらの要望にも応えてくれるから重宝だとなる、だからどうしても大工でも家というのはトイレを直すとかではなく全体を見る人が必要なのである、その人はそれができるから重宝だとなる
現代は仕事でも部分化しているからである、でもそんなにいろいろなことをできる人はまれだとなる

いづれにしろ家とか土地は郷土史の基本である、例えば最近死んだ駅前の自転車屋のことを語ったがこれも郷土史の一ページとして刻まれたのである
駅前にもう自転車屋がないということがなんとも淋しいのである、一軒しかないのにゼロになったからである、駅前の活性化のことを語った人自身が死んでしまって寂れてしまったのである
ただ家に関してもかかわるのは今や広域化している、だから地元の人がかかわるとういものでもない、そうなると地元の関係でも希薄化したのである
それが拡大したのがグロ−バル化経済であり社会なのである、外国とかかわるというときもうそこで郷土史とかとは関係ない世界である、ただ物だけが入ってくるというだけである、土地とは分離しているのである

ただユニットバスは安かった、ガス会社のイワタニでも二百万かかるといっていた
すると外だと地元でも三百万くらいかかったかもしれない、それが安かったのはやはり仙台市とかで競争が激しくでそうなったと言っていた、やはり値段で選ばれるからそうなるそして高速道路ができたことで車で仕事する範囲が広がったことにもよる
つまり車社会になったことで広域化社会になったのでありグロ−バル化でも飛行機とかで交通が便利になったからである、現代とは運送社会でもある、遠くからいくらでも物が運ばれてくる、アマゾンなどでもそうである、それは輸送会社にもなる
電熱ベストが来るのに二週間以上かかったのは中国から輸入するためだった
その輸送の経過が出ていて関税のことがでていた、関税を払ってようやく日本に輸入されたのである、それは2000円とか安いものでもいいものだったのである

現代とは輸送社会なのである、ということは地元にあるものでまにあわせるという社会ではない、絶えず遠くから物が運ばれる時代なのである
そのためには金を稼ぐ必要がある、金がなければいくらいいものがあっても遠くから何でも運ばれるにしても買えないからである
そして逆に遠く地元から物を売らなければならない、また遠くに自ら金になるなら働きに行かねばならない、だから青森とか今度九州の佐世保とかに建築土木関係の人が働きに行っている、そんな遠くに働きに行くのかとなるとそういう時代なのである
仕事が広域化している、とても地元だけで仕事は成り立たない時代なのである
鹿島の梨農家が相馬市までリヤカーで梨を運んだというのを聞いた
これも大変な労力だった、運ぶことは車もないのだからそれだけの労力がかかるから簡単に運ぶことはできなかった、今ならいくらでも車があれば運べるからその相違も大きいのである、それで広域化グロ−バル化社会になったのであ




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2022年11月05日

万年風呂‐レンガの風呂を作った職人の話 (室蘭とかまで行ってレンガの風呂を作ってもうけた)


万年風呂‐レンガの風呂を作った職人の話

(室蘭とかまで行ってレンガの風呂を作ってもうけた)

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大原の空家にあるレンガに風呂


スーパーの前で座っている人がいたので話かけてみた
その人はいろいろ話す人であり昔のことを話しした
93歳でも真っすぐ立てるし話しもうまい
地元の人だから地元の話もした、戦争中疎開人の子供のことも話した
この辺にもそういう人がいたのかとなる
何でも食べ物がなくて盗んだとか言っていた、また弁当でも盗まれたとか腰にくっつけて運動もしていた
野菜でも盗まれたとかいうのは今でも同じである、畑とかのものが盗みやすいのである
梨とかでも一つくらいとって食べてもいいのかなともなるからだ

おそらく疎開の子供が食べ物を盗んだというのは食べ物が満足に与えられなかったからだろう、疎開のことではいろいろ語られている、相当に辛いことだった
何よりも戦争中疎開したというとき食べるものが問題だったのである
食べ物がないから盗むということがあった、子供でも腹をすかしていればそうなる
だから必ずしも今と違って責められないことがあったかもしれない
時代時代によって事情が違うからである

その人の話で一番印象に残ったのはレンガの風呂を作っていたということである
戦後まもなくはそんなレンガの風呂を作ることは贅沢だったろう
私の家では父親が木の風呂、鉄砲風呂を自前で作った、その風呂たきが自分の仕事だった燃やすのは木材を切り落とした端切れであった、それは無料でもらえたのである
その頃電気も水道もない時代であり燃料は炭だった、その暮らしは原始的だったともなる洗濯は裏の堀でしていたのである

だから風呂でも銭湯に行っていた人もいるし五右衛門風呂とかの家もあった、隣はそうだった、だからレンガの風呂はしゃれたものでありその当時はモダンなものだったとなる
そのレンガの風呂を大原の廃屋で見た、その廃屋は本当に幽霊が住んでいる感じなのである、でも外風呂で小屋の中がレンガの風呂になっていたのである
だから原町の大原でもそこは結構豊かな時があったとなる

そのレンガの風呂を作ることができる人はそんなにいなかった、その人は壁塗りとか仕事にしていたがレンガの風呂の造り方を自力で覚えたという、そのことで北海道の室蘭とかまで行きレンガの風呂作りを請け負いしていた、その時そこでもレンガの風呂を作れる人がいなかかったためだったという
だからそんな遠くまで需要があり行ったとなる、北海道となると遠い、でも飯館村の木戸木でも東京の方に呼ばれて仕事していた大工さんがいたのである
だから職人となると意外と遠くまで働きに行く、飯館村の塩の道に地蔵がありそれも長野県の石工が来て作った悲恋の物語がある
つまり土地の女性と恋に陥った物語である、職人とはこうして遠くに出稼ぎに行くことがあった、それは技術をもっていてそうなったのである
接着剤として海藻が使われていたことも言っていたが意外だった

春の塩の道をたどる(二本松までの絵巻物の詩)

恋の悩みを背負わされて肩をそがれた地蔵尊
http://musubu2.sblo.jp/article/17459236.html

旅の若い石屋が真福寺に頼まれ地蔵を作ることになった。峠の麓の宿に泊まり頂上近くの仕事場で石を彫った。峠の茶屋に美しい娘がいて恋におちいった。彫り終えたら別れねばならぬと石屋は不安になりはんばできあがった地蔵の肩をそぎおとした。これは「きっつぉこね地蔵」と呼ばれた。「きりそこね」という意味である

「海藻のりの役割」
https://shikkui.denden-kyokai.com/2013/12/blog-post_26.html

これも意外だがやはり化学薬品がないときこういうものまで接着剤として利用したとなる

漆喰壁が呼吸をすることで、冬場の「乾燥」や夏場の「湿気」を防ぐ効果が期待できるのも魅力です。調湿機能に優れた漆喰壁は、年間通じてお部屋の湿度を快適に調整してくれます。
https://onl.la/7B8xD4R

これは昔から伝えられた日本の技だった、ヨ−ロッパとか外国では壁塗りとかないという壁塗りの技術は日本だけのものらしい、私の家は土壁でありそれ以後は職人がいなくなったのである、土壁の中は竹で組んでいるし泥土を踏む作業があり楽な仕事ではなかった
こうして何か家というものでも苦労して作られたことを知る時価値あるものとなる
今はハウス会社で組み立てて作る昔の職人は相当に減ったのである
でもハウス会社の建売住宅だと後で増築とか修理することがむずかしくなる
だから近くで地震で壊れた家は新しいが壊したのかもしれない、修理することがむずかしいからである

戦後まもなくとかレンガの風呂はなかなか作れなかったから高度成長になるとき仕事がいくらでもあったという、それで助かったと言っている
そしてレンガの風呂は作れる人が少ないから希少価値があったので遠くまで行って稼げたとなる、ただ今でも建築土木関係は遠くに働きに行くので変わっていない
その人は木戸木(ことぎ)でもレンガの風呂を作ったという、それは大工さんだったという、すると最近あって話を聞いた木戸木の大工さんの家のことかともなる
その人は83歳であったからそんなに年齢も離れていないからである

その人はもともと栃窪生れであり町の方に暮らすようになった
子供も何人か育てた、娘が三人とかいる、それで家族と一緒に暮らしているから国民年金は五万しかもらっていないという、だから小遣いは一万だと言っていた
国民年金だとこのくらいになってしまうのである、ただ妻と合わせると10万だと言っていた、ただ娘の家族と一緒に暮らしているから暮していけるとなっている

その人がしきりに言うのは子供もいないが若い女性がいなくて田舎では男が結婚できないと言っていた、みんな東京とかに出て行って若い女性がいない、若い男性は結婚することができないと言っていた
それも今の問題である、どうしても田舎では仕事がないから都会に東京とかに出る
そして若い女性も都会に東京とかに出て行き田舎には結婚できない男性が取り残される
戦後まもなくから高度成長時代の時は若い女性でも地方にいたから結婚できた
何でも戦後まもなく農家の嫁になれとか言われた人がいた、その人は農家に嫁いだ
その頃農家が女性の結婚先としてあった、でも農家は嫌がる女性がいた、仕事もきついし嫁姑問題があったりと嫌われて嫁ぎ先として拒否されていたのである
でも仕事として農業は六割とかの時代があったからそういうことが起きていた

地方の問題は戦後まもなくからはとにかく仕事がない、大量の引揚者が帰ってきても仕事がないからわずかの土地を求めて農業したのである、ここから近くの小池にもそういう人がいたしそれはどこでもいたのである、ただ木戸木(ことぎ)は戦前から人家があり二三軒住んでいたのである
ただまぎらわしいのは戦後開墾に入った人たちである、その人達も戦前から住んでいる人と勘違いするからである
ともかく地方に田舎に戦争が終わって引揚者が帰ってきても働く場所がなかったのであるだから不便な所に入り開墾して農業したとなる
でも半分くらいは苦しいのでやめたとなる

そのレンガ職人がしきりに仕事があって良かった、仕事がいくらでもあったというとき
仕事がなければ住めないということである、飯館村でも一万人くらい人口があったときがある、それが半分くらいになった、それは他でもそうである
室蘭でも今では人口が半分以下になっている、工場とかがなくなって来たからである
それは全国的にそうである、そして若い女性もいなくなり仕事がないというとき地方は衰退する

ともかく郷土史もテーマにしているがこれは直接人から特に老人から話を聞くと実感するものがある、木戸木の大工さんとはこの人がレンガの風呂を作った人なのかとも思った
木戸木(ことぎ)のような辺鄙な場所でもそんな当時では風呂を作ったことはそれなりに収入があった人がいたことを証明しているからだ
大倉でもおそらく木材が売れて相馬女学校を出たことを自慢していた人がいた
ここでもやはり山の木材を売って金持ちになった人がいたのである
山でも金持ちになった人はいたのである、ただ必ず時代によって金持ちになる人も変わるし様々な変化がある、だから昔を知り今を知ることが大事なのである
老人の勤めは昔を語ることである、それは生きた歴史だからである、大きな歴史でなくてもそうなのである、別にその人でも学問などしていないのである
でもやはり一人の老人が語ることは歴史になっているのである
HISTORY-HI-STORY−物語なのである、だから人間は最後に自分の生きた物語を語る、そこに老人の価値がある。でも価値は金には換算できない。貧乏に生きたとしてもその物語に価値があるとなる


万年風呂とは万年使えるからと名ずけられた



posted by 天華 at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2022年10月05日

生糸取り(製糸工場)の戦前の仕事 (なぜ30分の休憩時間で早食いして死んだ女性がいたのか?)


生糸取り(製糸工場)の戦前の仕事

(なぜ30分の休憩時間で早食いして死んだ女性がいたのか?)

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10分は短すぎる、当然これだと体を壊すことがいた人はいる、早死にしたというのも本当だったのか?

https://www.youtube.com/watch?v=l8Lb5mZfyBU&ab_channel=%E3%82%86%E3%81%A3%E3%81%8F%
E3%82%8A%E3%81%B7%E3%83%BC%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%83%8D%E3%83%AB



私の母親が原町紡績(原紡)で働いていた、大正生れでありその頃の女性の仕事は生糸をとる仕事と女中くらいしかなかった
でも30分の休憩時間で早食いした女性がそれが元で死んだと聞いた
そのことが良く理解できなかった、でも野麦峠で有名な女工は休憩時間が10分とかyoutubeで見た
まともに休む時間もなく働きつづけたとなる、食事は味噌汁とた沢庵くらいでありそんなもので良く働けたと思う
休息時間が10分は短すぎる、だから本当に御飯でもかきこむようにして食べる
そると良くかんでいないからそれで胃が悪くなったりすることは考えられる

私の母とここの女工哀史になった人達の相違は山奥から貧農の娘が稼ぎのために出されたことである、でもその収入はかなり高いものだった、家を建てるくらいの金も稼いだとかなる、つまり貧農では食べるのもやっとだったとなる
それで正月に故郷の親元に帰ることが一番待ちどおしいことだったとしている
稼いだ金を親に与えて喜ばれるからだという
親孝行できるからだとしている、こういう時代もあったのである
子供はただ親に尽くすことだったのである

子供は親の犠牲になることだった!

今は親は子供の犠牲になる

時代が違うとこれほど違うものとなる、だから昔のことはなかなか理解できないし誤解することが多いのである
戦後生まれの団塊の世代でも子供の時は農家では農作業を手伝っていた、農休みがあるのは田植えと稲刈りで忙しい時があり子供手伝っていたからである
人手がたりなくて子供が労働力になっていたからである
中国ではなぜ男の子をほしがるかといえば男の子は労働力になるからである
私の家は店をしていて子供の時は奇妙だけど一番働かされらていた
配達とか卵買いとかさせられた、店でもその時は近隣でとれたものを買って売っていたからである、遠くからは余り物は入ってこない、運ばれない時代だったからである

ともかく戦後十数年は日本は貧乏だったのである、今とは比べようがないくらい貧乏だった、洗濯は裏の堀の川でしていたし卵も満足に食べられない時代だったのである
それで巨人、大鵬、卵焼きというようになった、卵焼きが食べることは贅沢だったのである

1961年(昭和36年)の流行語。

プロ野球の読売ジャイアンツ(巨人)と大相撲の第48代横綱大鵬幸喜、食べ物の卵焼きが当時人気があった。

卵焼きは贅沢なものだったのである、ただ農家では卵を鶏を飼っていたから普通に食べていたが農家ではない人は卵も満足に食べていないとういことがあった
子供時代は江戸時代の生活とさほど変わりなかった、燃料は炭だし街内でも囲炉裏があったからだ
それが東京オリンピック辺りから高度成長時代になり日本が世界へ復興した日本を見せることで意義があったのである
でも不思議なのは高校まで蒸気機関車だったのかということがわからなくなった
ただ原町の高校に通っていてトンネルをくぐると顔がすすけることがあって確かに高校まで蒸気機関車だったのである
そのことがどうもわからなくなった、普通の電車に乗っていたとも思っていたからである
戦後の焼け野原に生まれ生きたのが団塊の世代である
その辺は実際生きていたのがら子供でもなんらか記憶がある身近に感じる
では戦前となるとさらに江戸時代になるとまた前の時代をどうして理解するのかとなるとむずかしくなる
その一つは昼間の休息時間が10分だったという生糸工場である、それだけ過酷だったとなる
でも母が言ったのはそれほど厳しいことを言っていない、信州の生糸工場は親元を離れて仕事していたから厳しいとなった
私の母は実家から通って仕事をしていたからそういうことはなかったとみる
でも私の母親は継母に育てられたからいじめられたりしていたから別な苦しみがあった

でもその当時の感覚では生糸工場でも女性が外で働き稼げるということでそれが必ずしも重荷とはなっていなかったのである
何でも給料の代わりとして米俵何俵なのかもらったのか買ったのか継母にでも喜ばれたという、つまり女性が稼げるようになった、それも農業するより現金収入となり生糸の工場がみんな悪いものでもなかったのである
だから今の感覚ではひどいと見るが当時はそうでもなかったともみる
でも10分とか20分の休憩がないことは苦しいとなる
今では工場の流れ作業は辛い、勝手に休めないからである

その際に課題となったのは、女工を寄宿舎生活になじませること、都市生活による堕落を避けること、そして、勤勉に働かせることであった。さらに、このような要素を満たす女工を継続的に集めることも必要となったのである。つまり、産業革命期の日本では、資本家が労働者を確保し、資本主義生産に適した労働者へと育成することが必要とされたのである。
https://www.kansai-u.ac.jp/Keiseiken/publication/seminar/asset/seminar14/s205_2.pdf

ともかく過去を実感することは本当にむずかしい、本を読んだからまた映像を見ても過去を実感することはむずかしい、でも何か昔のことを再現する方法はある
団塊の世代だとやはりそれと似た経験をしている、でもその後の世代はそういう経験をしていない、すると実感できなくなるのである
ただ人間は過去を理解することが必須である
最近日本は貧困化していると盛んに言われる、でも本当の貧困とはなにか理解していないのである、理解できないのである
それは経験していないからである、例えば何でもそうだが経験しないわからないのである戦争のことをいくら聞かされてもそれが実感できない、戦争となると余りにも日常と違うからわからなくなるのである
人間と人間が殺し合うということがどういうことか実感できないのである

人間は別に今でも他者を簡単に理解できない、それはそれぞれにその人が経験したことがわからないからである
自分自身が経験したのは20代は底辺の仕事しかなかった、大学出ても底辺の仕事しか経験していないのである、だから仕事が嫌になった
その後家族に恵まれて引きこもりになり自由が与えられていたから旅をばかりしていたと自分の好きなことをしていただけである
それは家族に恵まれた結果なのである

過去を知るとき老人なら必ず昔を語る、その話を良く聞けばある程度は実感する
だから老人は語り部になる、実際に生きている人が語る時生々しいものとなるからだ
だから歴史は大きな国の歴史もあるが郷土史とかなると祖父母から聞いた話から過去を知り歴史を知るとなるのである
ただ昔を知るにはそうして祖父母から聞くとういうだけではなできない
その当時の資料を見たり映像を見たり方法がある
でもそこには想像力が相当に必要になる、私は子供時代に江戸時代のような生活をしていたからそこからイメージするものがある
でも戦後十年とかすぎて生れたりするとわからなくなるのである
10年でも世代が違うとわからなくなる、特に戦前から戦後はまるで違った社会に生きるようになっからその変化が激しくその経験をしたものしかわからないとなる

とにかく人間は過去を歴史をどうして理解するのかが問題である
それを国家の歴史というだけではない、庶民の歴史でもある
その時庶民はどう感じていたのか、それに耳を傾ける必要がある
ただもう大正生れの人は死んだ人が多い、だから直接話を聞くことはもうできない
それでも探る方法はある、それでも想像力がないとなかなかできないとなる
考古学でも残された一つの遺物から遠い過去を浮かび上がらせるのは想像力なのである

「富国強兵」の原則に基づいて日本社会の近代化を急激に促進した。政府は、近代化を実現するために必要な外貨を獲得する目的で、殖産興業政策によって、多くの産業部門に介入し、幕府から継承したものや新設したものを含む官営工場の経営にのりだした。中でも製糸業は、当時、最大輸出品であった生糸を生産して大量の外貨をもたらす産業として、国策の中核に位置づけられた。

富国強兵のための資金が必要であり外貨をかせげるのは日本では生糸を作ることだったのである
今でも兜作りの家があちこちにある、それは養蚕した農家なのである
桑畑もいたるところにある

鉄道黎明期に起きたとされる、「宿場町がすたれる」「養蚕業に悪影響が出る」「火災が起きる」などの今となっては理由にならないような理由によって、鉄道を拒否した町があったと言い伝えられている現象。各地にそういう話が残されており、信じているひとも多い。

蒸気機関車の黒煙が公害ともされた、それで養蚕の元である桑畑が汚されると反対したのが養蚕農家だった、それは福島県でもそういうことが起きていたのである
そのことでもいかに養蚕が日本の産業になっていたかわかる
相馬農業高校がもともとは養蚕を教える学校として始まったことでもわかる

原町紡績に引き込み線があり生糸を横浜に送りアメリカに輸出していたのである
原ノ町駅は平駅と同じく機関区になっていて大きな駅だったのである
そこから木材と石材とか常磐炭田あり磐城だと石炭を東京に送ったのである
鉄道はもともと荷物を送ることが主でありそれから始まった
北海道はもともと石炭を運ぶために鉄道が作られたのであり人を運ぶためではなかったのである、その時石炭が今の石油と同じくエネルギー源だったからである
輸送は鉄道でありだから駅に必ず貨物列車が入り荷物を下ろす引き込み線があった
ただ原町紡績だとそこまで引き込み線があるのはめずらしい
でも岩沼の工場地帯にも引き込み線があるから鉄道が輸送の主役だった時代があったことは偲ばれる
posted by 天華 at 09:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2022年09月12日

失われた歴史(鹿島区栃窪の上萱―写真) (なぜ過去が理解できなくなったのかー歩く感覚の世界がわからなくなった)


失われた歴史(鹿島区栃窪の上萱―写真)

(なぜ過去が理解できなくなったのかー歩く感覚の世界がわからなくなった)

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良くみると大根ほしているみたいだ
白いものが二つぶら下がっている
大根を干して沢庵にしたのか、飯館村だと凍み大根が有名になっていた

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この写真は上萱に人が住んでいたときの写真である、相当に古い、茅葺の家がここに残っていたからだ、ここに五六軒家があった
ここは元の原町市ではなく鹿島区の橲原村の領域である
もともと栃窪から塩の道として通じていた、それで塩を運んで休んだ地点の助の観音がここからそれほど遠くなくある
ただ塩の道は江戸時代のものである、この上萱の歴史は江戸時代からあったのか、明治時代にはすでにあった

ではなぜこんろ不便な地域に人は住んだのか?

それなりに暮らしが成り立っていたからだとなる、畑などもあった
というのは大原地域から発展したのだが八木沢峠に向かい細い道がある
そこの脇の森に隠れるように田があった、そこが遠田という地名になっている
なぜ遠田なのか?それは大原の草分けとなったのが前田地域である
前田と名がつくのはたいだいそこがその土地の草分けとなった家だからである
その前が前田となったのである、そこが村の中心なのである
そして私が南相馬市の病院で同じ部屋の人である斎藤氏がその草分けの家だった
でもその人は死んだ、実際は息子は街で暮らしていて一人で住んでいたのである
そうして死んだ結果そこは空家になっているのである
その人の墓が杉木立の中に隠れるようにあった
その墓を見たら刀自と名前の後についている、これはめずらいしと思った刀自は古代からある女性のことだからである
そこは確かにそうして古風なものを残していた古い家だったとなる
ただ大原より深野が古い、館とつく地名が二つもあるからである、これは中世のものであり相馬氏がこの地に入り支配する前からあったからだ

そしてなぜそうした不便な所に田を作ったのか?

不便な所に住んだのか?

それは当時は生きるためには農業するつ他なかった、すると土地が一番農業にとっては大事なのなる、土地があればそこでなんとか畑で野菜を作りわずかに平な所でも稲作をして米を食べる、それから桑畑を作り養蚕するとなっていた
他に山仕事があり木材とか炭焼きの仕事があった、特に炭焼きは現金収入になり山で暮らしていけたとなる

「遠野というのは、中心地から遠いところ、という意味で倭人(わじん)がつけたのではないかと思います」と自説を述べた。
 日本地名研究所の谷川健一所長(89)は、村崎説を支持した上で、平安時代に編まれた日本の正史の一つ「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」とみている。

なぜ遠野市となったのか?遠野となれば磐城に遠野がありいわき市街からかなり離れた場所である、ある土地の中心部から離れた所が遠野となる
でも遠野市はなぜそうなったのか?おそらくもともと遠野とは中心部から離れた場所だったがそこに住む人が多くなって地名化したのか?
原町市があるとして原町とは原っぱだったのである、野馬追が行われた雲雀が原があり
広い原っぱであり街などなかった、鉄道が開通して原町駅が機関区になり駅前通りができて今の街になった、でももともと原町村がありそこからは野馬追いに一騎しかでていない小村だった、江戸時代までは農業社会だから農家中心であり街中心ではなかった
そうして原っぱでも今のような街に発展することがある
とすると遠野というのも遠い野としてあったがそこに人が移り住んで広がったのかとなるいわき市の遠野は確かに中心部から遠い野にあたる
でも遠閉伊(ととのへい)からきたとすると遠野はそういう地理ではない、地理的にはこちらの説が合っている

なぜ過去がわかりにくくなるのか、それは今から過去を見るからわかりずらなくなる
例えば一番大事なことは当時は車がないということである
道を歩いて遠くに行っていたのである、この相違が大きいのである、歩く感覚で見なければ過去でも歴史は理解できないのである
現代とは近くが遠くなり遠くが近くなった時代なのである、外国でもニュースが絶え間なく入ってくる、かえって近くのことが見逃される時代である
ウクライナがどうだこうだとかウクライナが隣村のように情報社会ではグロ−バル化では身近になる、江戸時代ではそういうことはない、歩いて見て回る近くが生活の基本であるだから村社会でありみんな何をしているかすべてわかっている社会である
今は田舎でも何をしているのか何を仕事としているのかわからないのである
トラック運転手なども多い、とするとその人は東京とか遠くと関係している、中古の車を外国に売っている会社がある、それは外国の方が親しいのである
そういうことは田舎でも常にあり近くのことがわからないのである

とにかく大原からなぜ奥地へ人が住むようになったのか、それは農業社会だと土地が必要だからである、それでこの辺で人口の三分の一が天明の飢饉て消失したとき富山県とか石川県とか越中とかから移民が入ってきたのは土地が無料で与えられたからである
欠け地が広がりその土地を無料で与えられるということて農民が危険を犯して藩をでてこの地で荒地を開墾して住んだのである
またなぜ寒い満州に日本人が移民したのかとなるとそれは広大な土地が手に入るということで農民が移住したのである、それは農民社会では土地が一番大事だからである

ただこの辺で最初に移住してきたのは海人族の安曇族の後裔である、それが八木氏であり犬飼氏とかである、何故なら大原にも綿津見神社があったし本当に綿津見神社と山津見神社が多いからである、その人達は先進の技術を持った人達であり焼畑もできた
それで飯館村の山津見神社のある所が佐須であるがこれは焼畑地名なのである
そして八木沢峠があるがこの八木沢とは八木氏のことなのである、人名が地名化したのである
道としては今の車の道ではない一段高い所に細い道があった
なぜならそこに六地蔵が隠されるように残されていたからである
車社会になったとき昔の道は埋もれて隠されて見えなくなったのである

すると過去はわからなくなる、八木沢峠でもあそこを歩いて上ったらどれだけ大変な苦労になるかわかる、つまり飯館村には簡単に行けないのである
江戸時代でも明治以降でも車がないのだから歩くとなると容易ではない
何か天秤棒で鹿島区の屋形の人が鰻を売りに行ったということを聞いた
天秤棒というとき江戸時代の話になる、それを川俣で売ったというのも驚きである
そこまで天秤棒をかついで八木沢峠を上ること自体どれほど大変なのかとなる
そういんう苦労が車社会になったとき全くわからなくなったのである
六地蔵があったとしてこれは境にあることが多くそこで無事を祈ったともなる

私の姉は保健婦をしていて上萱に行った、そこは鹿島区の栃窪村内であり鹿島町に入っていたからである
そこで幻燈をもって説明していたとか言っていた、これはランプの光りで映していた
それから電気になった、でも上萱に電気が通っていたのかとなる
何か草鞋などを作っていたという、草鞋を買ってくれとなっていた、そういうとき買ってもらわないと困るからあえて買ってやったということもあった
戦後まもなくは街内でも電灯一つくらいしかなく山の方では電気が通るのが遅れた
葛尾村などでも相当に遅れて電気が通った
ネパールとかの山の暮らしをみるとそういう昔を偲ぶことができる、同じような生活をしていたからである

いづれにしろ何か歴史が消失してゆく、上萱で昔を語るものがなくなった、粗末な墓もあったが住民がいなくなりなくなった、もう何も語るものがないとなる
ただこの写真は貴重なものとなる

茅葺師に聞く〜 屋根だけにとどまらない 茅葺の魅力とその可能性とは
https://bit.ly/3RDkMUH

こういうことがあり茅葺のいい点があった、上萱とはこの萱のことであり萱がつくち地名が多い、会津の山間地域は一面萱が茂っていた、何か相馬地域にも会津から茅葺師が来たというとき茅葺の家が多いからそういう技術を持っていた人達が来たのかとなる
結局時代が余りにも変わりすぎて過去にあったものが理解できなくなったのである
でもそこにも何か学ぶものがあったのだがもう茅葺の家自体作れる人もいなくなったともなる





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2022年09月03日

人間は育った家の影響が大きい (農家に育った女性の話)


人間は育った家の影響が大きい

(農家に育った女性の話)


小高の70代の女性は花にくわしい、そして花の手入れができる、生け花もしていた
だからその心得もある、同じ年代で話しも合う、山羊を飼ってその乳を飲んでいたというその時私の父親は戦後まもなく牛乳がなく牛乳屋に並んでやっと手に入れていた
そして学校では脱脂粉乳を飲まされていた、それがまずかった、でも同世代だから話しが通じるとなる

その女性の家は石川県から越中の方からの移民が先祖だった、だから真宗で南無阿弥陀仏である、それで私は必ず墓地で墓を見ている、たいだい南無阿弥陀仏であり苗字は記されていない、・・家の墓とはなっていない、ただ墓誌には記されている
相馬藩では天明の飢饉で三分の一の人口が消失して欠け地が荒地となって石川県とか富山県とか越中の方から移民を受け入れた

当時人が移動することは簡単にできない、それで命がけでも相馬藩に移り住んだ
ではなぜそれほどまでにしてこの地に移って来たのか?
それは荒地でも土地が自分のものとして与えられることになったからである
三分の一の人口が減ればそうした荒地は誰のものでもなくなり与えられたとなるからだ
江戸時代となると今の状態とは違う、もともと空地荒地が多かったから余計に土地を得られということで移住したのである、でもここに移動するのが危険だったのである
相馬藩内では必ずそうした移民がいるからめずらしくはないとなる

その女性は何かハキハキしていろいろ知っている、でも夫を十年間脳梗塞になって介護したと言っていた、この脳梗塞になる人が多く他にもそういう人を知っている
脳梗塞になっても簡単には死なない、でもその介護は大変だとなる
近くの同級でも二人が脳梗塞になっている、一人は足が悪くなったとか一人はろれつが回らなくなったとか後遺症がある、一人は救急車で一命をとりとめたとかある
脳梗塞は後遺症があるからそれで苦しむ
その女性も具合が悪かったが回復したと言っていた
ただ小高で浜の方で家が津波で流された、そして今は原町区に移り住んでいる
孫もいて家族がいるからいいとなる

人間は育った家に相当に左右される、農家に育った人はやはり農業のことを現実に手伝っているから知っている、その知るということは本を読んだりして知っているのとは違う
自ずと肌で知っているとなる、体で知っているとなる、つまり農業でも体験しないとわからないのである
家の影響が大きいというとき事業をする人は経営する人は商売人の娘をもらいというとき事業は経営は家族ぐるみになるからそうなる、特に小規模の会社などは家族ぐるみになる、すると商売している娘は肌で商売のことを知っているから夫の助けとなる
やはりそういう場所で育ったから自ずと理解できるとなる
江戸時代までなら家業を受け継いでいたから仕事を選ぶことで悩むことは少なかった
そういう環境に育って受け継げばいいからである

でも向いていないことはある、何か農業を継ぎたくないと親と争い事件になったニュースがあった、それは日ごろ農業をみていてかえって嫌になったということもある
つまりその苦労が肌でわかるらか農業をしたくないとなったのだろう
人間は向き不向きがある、例えそういう環境に生まれても合わないということがある
だから医者の子供がみんな医者になるのは問題なのである
どうしても向かない人が医者になると後で患者でも迷惑かけることになるからだ

でも農家に嫁いだ女性でも全く農業を知らない人がいた、それはもともと農家であっても土地をもっていても夫は会社員になっていたし嫁も農業をしないからである
だから花のことでも関心がないのが淋しいとなる、何か生活感覚がないのである
農業している家の人は生活感覚がある、それで話を聞いていると興味深いとなる

戦後まもなくは農家の方が豊だった、なんでも自給自足であり納豆から油まで作っていたそして鶏を飼っていたから卵が食べられたのである
私の家では店をしてその卵を買うために農家に行かされていたのである
その時は農家が中心の社会だったのである、戦争の引揚者でも鹿島区なら小池とかに開墾に入った人を知っている、そこは街から近いのである
飯館のような山の奥ではないのである、でもそこに空いた土地がありそうなった
その時仕事がないから引揚者が全国で開墾に入った、でも厳しいから半分くらいは撤退したとかある

農業というとき実地に体験していなくても一応子供の時から回りが田畑なのだから見ている、それで話しを合すことができる
ただ牛を飼っていたとかなると馬でもそういう動物と親しくなることが理解できない
だから牛馬となると野馬追いとは違って日々の生活の中で動物にふれるのだから家族のようにもなる
youtubeとかでライオンでも虎でもワニすら助けて育てたとか子供の時からめんどうみたとなるとその人のことを忘れない、20年もたっても忘れなかったということでも驚く
動物でも情は通じていたのである、子供の時、ライオンでも虎でも熊でも一緒に育つと大人になっても仲間であり争わないのである
餌をやっていれば争わないのである、だから一緒に育てば血縁でなくても種が違っていても兄弟にもなるのである

ともかく戦後十年の体験は貴重だった、電気もガスも水道もない、食事は卵すら食べられない粗末なものだった、それで今日もコロッケ明日もコロッケというのをコロッケを食べて思い出した、つまりオカズがそんなにないからそういう歌ができたとなる

今日もコロッケ 明日もコロッケ
これじゃ年がら年中 コロッケ コロッケ

それだけ今のようにオカズの種類がなかったのである、これも同年代と話しして思い出したのである、でも戦後十年以上になると豊かになってきたから年代でも10年違うと相当に体験したものが違って理解できなくなるのだ

何か老人になるとこうして昔を語ることが仕事にもなる、でも忘れていることがあり
思い出す作業が必要だとなる、それで同年代だと話しているうちに思い出すのである
これは認知症になっても昔のことは覚えている、だから話しができないとういことでもないのである、ただ戦争のことを千回も聞かされたのには閉口したのである

小高の人は原町に移り住んでいるし鹿島でも相馬市でも移り住んでいる
ただ小高は小高とかなることもある、でも小高に帰り住む人は少ない、若い人達は流出した、それが何か遠くへ仙台とかまた東京の方に移り住んだ人もいる
残されたのは老人なのである、だからとても小高でも浪江でも双葉でも復興できるように思えないのである
そうはいっても復興するというときやはり人間の意志が関係している
意志とはwillであり意志があってこそ未来はあるとなる
復興できないとあきらめればもう復興はできないのである

でも老人の問題は体力も衰えるし気力でもそうである、それで農業でも継がれないのである、それでやたら荒地ばかりが増えているのである、耕作放棄地とか空家が増大しているのである
何か釧路辺りでも街が寂れている映像をyoutubeで見たし温泉街でもそうだし日本全体が縮小して寂れてゆく、この辺は原発事故で極端にそうなったのである
でも日本の未来が何か荒地化して空家化して廃墟化してゆくことの恐怖である
戦後間もなくのように引揚者が悪い土地でも開墾するとかはない
江戸時代のように越中の方から土地を求めて移民することもない、農業だけの世界ではないから昔のようにはならない、するとますます廃墟が広がってゆくとなる
人口縮小時代に入っているからである
だからコンパクトシティのような街作りになるのか、とても農業だけでは生活する時代は終わっているからである
農業といっても大規模農業は盛んでありそこはかえって裕福になっている
でも小規模農業は成り立たなくなっている、でも実際の食糧は大規模農業から供給されているのである、小規模農業は補助金を与えても採算がとれないのである

人間と牛でも馬でも一体化した時代を偲ぶと

山々かすみいりあいの
鐘はなりつつ野の牛は
静かに歩み帰り行く
耕す人もうちつかれ
やうやく去りて我一人

明治翻訳史の一断面
ー大和田建樹を中心にして―岡本昌夫

牛が大地の上にあり鐘がなり人間と牛は一体化する
自然の中にともにとけこむ、今は車とともにありそのために心までぎすぎすして余裕がない、車に明け車に暮れるともなるからだ、
つまり牛馬とともにあったとき牛馬も生物だから一体となる
それが今は暮らしのなかで消えた、飯館村には牛が飼われていたが牛肉の牛である
ただ牛がいるということでやはり動物と一体化する
それで十匹の牛に名前をつけていて覚えていたという
まさに牛でも名前がついていて人間化されていた
今なら人間は番号で呼ばれているのである、数字化されて索漠となる
そして車が常に縦横無尽に走り歩く人や自転車は邪魔物とされる
それも非人間的なことなのである、現代は情を育む環境がなくなっているのだ
機械時代になると人間の代わりが機械とかロボットにもなってしまう
それも必要でもそこに情は失われてゆく、そして人間は一票として数えられ一個の人間として見られるあることが現代ではできないとまでなっているのである




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2022年08月06日

昔の暮らしを俳句から偲ぶー明治の貧困を今と比べると・・・


昔の暮らしを俳句から偲ぶー明治の貧困を今と比べると・・・


「殺し掻き」は木が枯れるまで漆を採取し尽くしその後は切られてしまうところからきているようです。
採取された漆は「血の一滴」と呼ばれています。木が傷を付けられ、修復のために流した樹液なので、漆は一滴一滴を無駄にしないように大切に使われています。

谷深うまこと一人や漆掻き

翁住んで壺の漆を干しにけり

漆掻く山に通草(あけび)の赤きかな

(河東碧悟道)

漆はJAPANと外国で言う、陶器はチャイナで中国である、漆の製品は外国と特別重宝された、その漆の技術は縄文時代から始まるから本当に古い、だからどうしてそういう技術を知ったのかとなる、たいがいは中国から入ってきたからだ

漆(うるし)とは、日本、中国、朝鮮半島ではウルシ科ウルシ属の落葉高木のウルシ(漆、学名: Toxicodendron vernicifluum) から採取した樹液であり、ウルシオールを主成分とする天然樹脂塗料および接着剤である。その他ベトナムなどの東南アジア、ミャンマー、ブータンにも成分や用途は異なるものの一般的に漆と呼ばれる天然樹脂が存在する

ウルシという言葉はやはり中国から来たのか?ウルシの木があるから古くから漆塗りは始まっていた、ただ日本で一番古くからウルシは使われて日本の特産品となった

なぜウルシのことを言うのかというと私の家の前で漆塗りをしていた家があったのだ
だから身近だったのである、いつも漆を丁寧に塗っていたからだ
何かその頃石屋とかも近くにあり石を一日削っていた、また篭屋があり竹で篭を編んで作っていた、子供の時そういう仕事を見ているとその仕事に親近感を覚える
そして近くの山に入った時でも漆の木がありうるしにかぶれるとか騒いでいたのである
漆はその頃身近なものとしてあった、でも漆を製品化することは相当な手間だった
手作りであり外でも着る物でも機織りでも手仕事であり家で機織り機があり織るおとは手間である、つまり昔は機械で大量生産できないから一つ一つ手作りだから手間でありそうして作られたものは貴重である

今はいくらでも商品があるがその商品がどうして作られているからわからないのである
だからユニクロの製品が貧しい国の労働者が作っているとかその労働も過酷だとかなり問題になった、でもその現場を見ることができない、何でももはや物を作っている現場を見ることは現代ではできない、フィリピンのバナナを作る所で日本人が働いたらその労働がきつかったとか報告がある、そういうことは全くわからないで商品を買って食べているのが現実である
だから物を貴重に思わないから無駄にして捨てるともなる
どうして生産しているかわからないからだ
ただ大工さんに地震で壊れた所を直してもらったりして補助役をしてその苦労の一端がわかる、その大工さん異常に苦労なんだよというから困るが確かに苦労していることが実感としてわかる、でも今人間の仕事が多岐に分岐して理解できないのである
まず仕事を身近で見ることができないからである
だから過去の仕事がどういうものだったか偲ぶ時俳句とかでも役に立つ
文学とかも実地の実際の生活を離れてありえないからである
そして一時代が過ぎるとそうした仕事がなくなったりするから余計にわからなくなる
紙漉きという仕事でも冬に行う、冷たい水を利用するから辛い仕事だったとなる
するとその紙は貴重なものとなる、それだけの労働の結果として作られたからである
でも今は紙なんか大量にあるから捨てるとなる

まず野菜にしろ農作物でも畑じ実地にしている人を見たらいかに大変かわかる
その女性は結果的にはほとんど収穫がなかった、ただネズミに食われた、道具が盗まれた畑をうなってもらって金を払ったとか肥料代がかかり実際は金をかけてもとれたのはほんのわずかだったのである
苦労ばかりで収穫はほとんどなかったのである
そのことで農業とは大変な作業であり簡単に実りにはならないことを知った
何か生産者の立場がわからないのである、私自身でもプログに毎日文章書いているけどこれも手間なのである、最近キーボードを打ちつづけて肩の所が痛くなったのである

そこに力が入りそうなった、それは職業病でもある、体の一部を使いすぎてそうなったのである、つまり何でも文章でも生産する側になると手間であり苦労がある
ただ知的なものはかえって文章を読む人が苦労することはある
芸術だと鑑賞者が優れていないと作品を活きないのである
ただ最近わかったことは何かを本でも理解するには何回も読まないと理解できない
何回も読んでいてその人の言いたいことを納得するとなる

とにかく人間は昔をどうして理解するのか、これはやはりその人の経験が大事になる
経験していればイメージできる、だから子供の時の経験は貴重だったのである
裏の堀で洗濯していたとか今では信じられない時代だったからである
水道でもガスもない、電気も裸電球一つくらいしかない時代である
燃料は炭だったから江戸時代と同じだったのである
そういう時代は今は経験できなくなった、余りにも変わりすぎたのである

漆掻く山に通草(あけび)の赤きかな

通草(あけび)の実は割って食べていたのである、ただ赤いというのは花のことだろう
子供のころは風呂のたきつけの落葉を拾ってきたりとか原始的生活だったのである
水道もなかったから井戸水であり街には井戸がない人は井戸水がある家にもらいに行っていたのである、それは無料だったのである
人間の生活は戦前までそういう生活であり江戸時代のつづきだったのである
それが高度成長時代から急速に変わってしまったのである

現代と過去の仕事の相違は地元で働く人が少ないのである、昔はほとんど地元で働いていた、農業であり漁業であり林業であれそうである、大工であれ建築工事関係でも地元中心に働いていた、今は地元ではなく遠くへ働く人が多いのである
足場の仕事の人は最近横須賀の方に行ったとか前にでも青森に行ったとかある
運輸関係でもトラック運転手などが結構多いし出合うのである
現代の仕事は運ぶことが多いからそうなる、特に通販時代になると運ぶことが多いから
その仕事にたづさわる人も多くなる

六号線トラック休む夏の雲

何かトラック運転手だった人が足悪くしたとか自転車で近間を回っている、その人と良く合うのである、その人が働いていたときはまさにこんな風景だった
俳句でも文学でも必ず時代を反映する、戦前とかまでは馬車が多かった

馬車屋とかもあった、馬車で荷物を運んでいたのである、リヤカーも利用した、でも一番重い荷物を運べるのは馬車だったとなる、それで子供の時馬車の後ろにのって遊んでいたりしたのである、だから馬に自ずと親しむということがあった
この辺では野馬追いがあるから未だに馬に親しむことはある
でもその頃は生活の中で馬が不可欠であり人間とともに活きていた、

元々甲州街道の中には上下の高井戸宿があったそうですが、その間を埋めるように新しい宿ができたので新宿と名前がついたそう。
四谷新宿馬糞の中、、」と書かれているので四谷新宿は馬糞が目立ってしょうがないところだということがなんとなくわかります

鳴雪の句「新宿や馬糞の上に朝の霜」

新宿となると江戸時代でも人通りがある、馬も来る、だから馬糞が目立つ、この辺でも野馬追となると馬糞が目立つのである,インドだと牛の糞を干して燃料にしたりする

菜の花や馬車をこぞりて下る人

馬車にのせられて人達が一気におりる、その数は多い、菜の花と馬と人間がいる
そういう風景は絵になり詩にもなる、でも車時代になるとそういう人間的風景が失われたのである、だから私は車は好きではないのである
車にとって自転車は邪魔物であり歩行者すら邪魔者となっている、それは自転車は道を急に横切ったりするからである、また自転車からしても車は相当に危険なものなのである
特に後ろから来る急に来るから危険なのである

とにかく馬頭観世音の碑が多いのは戦前までは戦後ですら馬車が荷物を運んでいたからである、その供養のためにいたるところに馬頭観世音がある、それはまさに馬の時代だったことを象徴していたのである、新宿でもそんな時代があったことなど今になるとイメージすらできないのである

昔を知るという時、やはりいかに貧乏だったかを知る、それは今の貧乏とはまるで違ったものである

水買うて分かつ蜆(しじみ)や隣同士

隣から薬草くれぬ蜂の毒

(河東碧悟道)

隣同士でこうして物の分かち合いがあった、貧しいから互いに助け合うことがあった
薬草というとき薬ではない、野の薬草をとって分けていたのかとなる、そもそも薬は高いものだから簡単に買えない
今でも金がないと薬も買えないし医者にも行けないとかなる、日本が貧困化してそういう人も増えているのである
蜆というとき真野川で結構蜆がとれていた、私は蜆を暇なのでとって家族とともに食べていたのである、大きな蜆もとれていたのである、津波以後はとれていないが今とっている人をみかけるが少ない、そういう思いでがあったとなりなつかしむ

当時の暮らしをみると

家賃日掛け 2銭

布団損料 3銭
薪小束  一銭五厘
計り炭  一銭
醤油   一銭
たくわん漬け一切れ 5厘
塩魚    二銭
酒コップに一杯代 一銭五厘
白米一升  一四銭

(明治東京下層生活誌ー中川清)

明治の暮らしの家計簿である、これで思いあたるのが家賃日掛け二銭というのは毎日家賃を払っていたのである
というのは私の父親は酒屋をしていて姉は毎日家賃をとりに行っていたということを聞いた、家を貸していたことがあった
父親の通い帳というのが残っている、それは貸したものかもしれない、それでその貸したものをとりに回っていた、つまり酒を飲む金もなかったとなる、それで貸した金が払えないのでわずかの土地を得た、それが今でもかえって税金をとられている
その土地がどこなのかもわからない、これも変なのである
その頃質屋が多いのはやりくりするために多かった、何かを質にしてやりくりしていた
酒コップ一杯代が一銭五厘とは高いかもしれないからだ
一番高いのは白米一升で14銭である、白米は贅沢品だったのである

薪小束 一銭五厘とか計り炭 一銭とかは薪とか炭が燃料だったからである
たくわん漬け一切れ 5厘というのは高いのか安いのか結構高いのかもしれない
なぜなら私の母親は原町紡績に十年間糸取りしていて昼間の食事は味噌汁とたくわんとかあとなにかあったのか、一汁一菜なのである
だからそんな栄養で良く仕事できたなと聞いていた、醤油でも貴重だったとなる
布団損料とかあるのは布団を買えないで借りていたからだとなる
この暮らしは江戸時代の本当につづきである
私の父親は病気になり

サシミ食えるようになったが食いたくないと言って死んだ

これも悲惨だった、その頃店をして豊かになった高度成長時代の始まりだった
その頃バナナを売っていないので仙台市まで姉が買いに行って食べさせた
果物は高いと買えないというがバナナだけは安いから買えるのである
こうして昔を比べると貧困というのがどういうことか本当は今の人はわかっていない
確かに日本は貧しくなっている、でもその貧困の度合いが昔とは比べられない貧困なのである
ただ貧困の中で食べ物でも分かち合うことがあった、そこに人情があったとはなる
また馬と身近に接しいるから情が育まれてはいた、車とか機械になると情は育まれないからである、また隣同士で助け合うとういこともなくなった
すべて金となり何か物を分かち合うことはない、でも金はいくらくれても感謝もしないことがある、物だと物に憑くとか物に心がついて金とは違ったものになるのが不思議なのである、その物は今と違って相当に貴重なものだったのである

とにかく昔を知り今を知ることが大事である、今確かに貧困な日本になっている
では貧困とは何かとなると実際わからなくなっているのだ
今の貧困は電気ガス水道が止められることである、それが一番深刻なのである
でも昔は電気ガス水道もなかった、そこに金を払うことはなかった
ただ日々の食事をするだけで精一杯だったとはなる


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2022年04月24日

出稼ぎの歴史 (戦後の焼け野原から高度成長時代をふりかえる)


出稼ぎの歴史

(戦後の焼け野原から高度成長時代をふりかえる)

秋田県の農家は1戸平均1.1haの田を持っている。米はlhaから100俵とれるとしても,収入は,新米価でも156万円。必要経費を抜いた純益は80万そこそこだ。米以外の野菜,養鶏,酪農などは,価格が不安定で収入には大きな波があり,たびたび,大きな赤字になる危険がある。農業以外の収入が,農業を支えるために求められる。主人,長男が会社,工場で働き,主婦もパートに出る。収入は安定しているが,金額は安い。パートでは,一日働いても1,300円から1,500円しという相場だ。ここから一歩ふみ出そうとすると,月収10万円以上の出稼ぎしかない。


 「出稼ぎの犠牲者,一年間で79人」という記事が出た0は,48年4月のことだった。秋田にきて,一ヵ月の新参者にとって,この数字は驚きだった。
なにしろ,年間の交通事故死者が160人程の県である。交通事故死の半分にあたる人々が,県外の,都会の灰色街で,出稼ぎで死んでいく。これはどう考えても異常でないか。しかも,死者の8割が,病死だ。病を背負い,本業の農業を離れて,出稼ぎにと出ていく人たち

日本の求人を見ていると、月収20万円に満たない募集が大半を占めていて、ゾッとすることがある。

月20万円に満たない給料でいったいどうやって生活しろというのだろう。飲食業界の給料はあらゆる業界の中でも特に安い。

料理人のような専門職には付加価値があるので、いまや海外の方がよほどいい給料で生活できるのだろうが、その専門的な知識を身に付けるためには少なくとも数年間は日本で労働をしなければならない。

いずれにせよ、日本の多くの企業が提示する給料ではまともな生活はできないし、子供を育てるのも不可能に近い。

近い将来、多くの日本人が海外へ「まともな生活をするため」に出稼ぎへ行く時代が来るのではないかと思う。



過ぎ去った時代をふりかえると不思議になる、でも何かその時代のことが良くわからなくなる、人間はとにかく忘れやすいのである自分自身これだけプログとかで書き続けていてもそれが自分の書いたもののように思えないことがある
それだけ人間は忘れやすいのである、だから何でも何か書き留めて記録することも大事になる、旅したとしてもなんでもいいからその時その場の感想を書いておくと後で思い出すことになる

そして人間の記憶が何か一時代を経験するにしてもみんな違った経験をしているのだ
同世代でも私の同級の中学時代の三分の一くらいが東京に集団就職していた
何で行ったかというと蒸気機関車だったのである、東京オリンピックの頃までまだ蒸気機関車だったのである、だからこれもそう思えなくなっているのである
ただトンネルを通ると石炭が燃料だから煙で顔がすすけたことを覚えている
ただ東京オリッピックの時、蒸気機関車だというのも何かぴんとこなくなっているのだ

東京オリッピックは高校の時であり日本中が熱中した、その原因がテレビが出始めて実況中継されたこともあり日本中がリアルタイムで同時に見ていたからである
その熱気は去年の東京オリッピックとは全然違っていた、高度成長期の日本が戦後から復興する熱気に満ちていたのである、バレーボールの東洋の魔女とかがそうであった
その時日本が世界に経済力をつけて躍進する時代だったのである
その熱気がオリッピックに反映されたのである

一番驚いたのは東京の人口である

戦争が終わった時、東京の人口は三百万人だった!

これは信じられないとなる、焼野原から食べ物もない時代から東京は一千万以上の人口になったからだ

戦後に天皇が人間宣言した結果、精神の空白ができていろいろな新興宗教が生れて信者が増えたというのも興味深い、創価がその時団地の宗教として生まれた
つまり東京は地方から上京する人たちによって作られたのであり団地はサラリーマンにとって憧れだったのである、団地に住めることは一段上のクラスの人となることだったのである、だから創価が団地の宗教と言われたのである、地方から集まった人達の拠り所になったからである、座談会形式で信仰を深めて団結したのである
その頃はまだ政治には進出していないから国家的にみてそれほど脅威ではなかったのである
そしてなぜその後会員が増えたかというと丁度高度成長時代と重なり御利益が現実にあったから増えたのである、それは本来の宗教ではない、御利益宗教であり何でもいいから
欲望を満たすものとして会員が増えたのである
今新興宗教が衰退しているのは経済が停滞して御利益がなくなったからである
とにかくその時代は何かぎらぎらした欲望に満ちていてその欲望を奨励して充たすものとして創価などの信仰宗教が勢力を拡大して大きな政治勢力ともなったのである
それは本来の宗教とは関係ないものであり御利益がなくなり衰退するだけだとなる

その頃また出稼ぎ者が増えたのは高度成長期であり東京が戦後の焼け野原から300万人から一千万人に人口急激に増加したからである、この人口の増加を吸収する仕事が東京に生まれていたのである
それで私の大正生まれの母親は原町紡績で糸取りをして働いていた、次に東京で女中として働いたのである、その当時から東京に出る人が多かったのである
そして出稼ぎというときもオリッピックでも巨大な公共事業があり人手がいくらあっても足りないという状態だった

そこで農村地域から出稼ぎ者が来たのである、でも驚きは過酷な労働で病死したとか疲弊した人が相当にいた、その労働環境は厳しかったのである
不思議なのはその時暴力団が繁栄していた、そういう飯場とかに暴力団の資金源になっていた、手配師がいてはんばに送り込んだ
そこで過酷な労働を強いられて死んだ人もいる、それが自分自身が経験していたのである手配師に連れられて工事現場の飯場に行きビルを建てる現場で働いた
それが四階でありそれでそこから落下して死ぬところだったのである
だからそうして工事現場で出稼ぎ者が死んだ人もかなりいたということである

「出稼ぎの犠牲者,一年間で79人」という記事が出た0は,48年4月のことだった。秋田にきて,一ヵ月の新参者にとって,この数字は驚きだった

出稼ぎ者というときその飯場とか働く場所が劣悪だったのである、集団就職した人達も工場でも劣悪な環境にもあった、まだ福祉とか整備されていないからである
工事現場で死んだとしても保証などなかったともなる、そういう時代だったとなる

ただ出稼ぎは江戸時代からあった越後とか新潟県では雪深いから冬に出稼ぎに行く所で知られていた、子供だと越後獅子とかで子供が使われたとかなる
田中角栄は工事を請け負う土建業者でありその頃道路でもビルでも何でも新しく作る時代だから財を成したとなる、高度成長時代はインフラ整備の時代だったからである
出稼ぎは賃金の差から起きてくる、今出稼ぎに来ているのは貧しいベトナムとかネパール人とかである、ここは最低限の生活だから賃金の差で日本に出稼ぎにきている
そして逆に日本人が外国にアジアでも出稼ぎに行く、肉体労働なくて頭脳労働者も優秀な人は賃金差で外国で働くとなる
なぜなら日本の賃金は全く上がらない、優秀な若者は外国を目指すとなってしまうのである、グローバル社会ではそうなってしまうのである

そしてこの辺でなぜ双葉大熊地域に原発が作られたか誘致されたかというと

出稼ぎしなくても地元で働き住みたい

このことがあって積極的に原発は誘致されたのである、だからそういう切実な事情があり原発は誘致され建てられたのである、双葉とか大熊地域などはこの辺ではチベットとか言われていたという、原町市とか相馬市となるとそれなりの経済規模根があり働く場があったとなるがそこにはなかったからだとしている、人間はとにかく経済が優先される
食うことが第一となる、だから危険は無視されたのである
それは出稼ぎとも深く関係していたのである



4Kカラーでよみがえる 終戦直後の日本 - NHK

今日この放送みて興味深かった、これを深堀りというかそれぞれの経験をふまえて語ればさらに記録として興味深く残されることになる
今は放送局でないにしろインタ−ネットで素人でも個々人でもその歴史を記録を残せるのである
この文でもそうである、でも映像となるとなかなかむずかしいのである
ただ一つの時代をとらえるにも個々人でも体験が違っているから一人の体験からその時代を見るのはむずかしいのである

私自身の体験からすれば大学は遊びの場であり集団就職した人達とはあまりにも違っていたからである、でもアルバイトなどはしていたしその後就職しないで放浪して何か飯場などに迷い込んだとなる、でも本当の出稼ぎ者はもっと厳しかったとなる
私は何か20代は結構苦しかった、でもその後楽をした結果体力も回復した
私は集団になじめない性格であり結局引きこもりとして30年間家にいて自由に生活していた、こうできたのも親がそうさせてくれたからだとなり感謝して今でも親を供養しているのである
ただそのマイナスも大きく介護になって死ぬほどの苦しみを味わったのである
それも自分のカルマだったとなる





posted by 天華 at 18:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2022年03月20日

鹿島から集団就職ではないが中卒で東京の工場に勤めた人 (その言葉が東北弁ではない、埼玉にいたからまじりあった方言になっていた)


鹿島から集団就職ではないが中卒で東京の工場に勤めた人

(その言葉が東北弁ではない、埼玉にいたからまじりあった方言になっていた)


1963年(昭和38年)に伊藤博文の肖像の千円札が登場する前の、聖徳太子の千円札を3枚受け取ることができました。【国家公務員の初任給の変遷(PDF)】によると昭和34年の国家公務員(高卒程度)の初任給は6700円ですので、結構な金額です。

クリーニング店の配達自転車が集まって併走するシーンをもって映像は終わります。ちょっと邪魔のようにも思いますが。

【15歳にはハードすぎ】昭和34年の中卒者たちの集団就職の実態
2016/10/11 14:03服部淳服部淳


地震で屋根瓦がひどく壊れた家を見ていた、そしたら近くでそのことを見ていた人が話しかけた
その人は66才とか言っていた、その人で最初に印象的だったのはこの人はこの土地のものではないと思った
なぜならこの辺の言葉ではないからだ、どこの訛りなのかわからない言葉だが明らかにこの辺の言葉の訛りとは違っている、ズーズー弁でもない、何かアクセントが違っている
私は東京に鹿島から集団就職したんですと聞いた時、この人は地元の人だったのかと不思議だった、すく近くであり今は実家に住んでいる

そこでなぜ訛りが違うのか聞いたら私は東京からいろいろ移って埼玉の秩父の方に行ったんです
最初に勤めた会社は嫌で他に移ったんです
私の世代は団塊の世代であり集団就職が始まった世代である、だから同じクラスから集団就職した人がいたのである、まず大学に行った人は50人クラスで4,5人だった
あとは高卒であり中卒がその時代は多かったのである
中卒だとその年で親元を離れるのは苦しいと見た、でもその人と話するとそう見えないしその人自身もそういうことはなかった、私はむしろ地元を親元を離れたかったと言っていた、何か集団就職でも苦労だったということが見えないのが不思議だった
何か私の兄は集団就職してストレスで円形脱毛症になったと聞いた
でもこれも人によって違う、その人は適応力があったのだろう
苦しいということはなくそのことを責めることもない、あらゆる飲み屋を回って楽しんでいたというのである
金回りも良かったとしている

私は大学の時アルバイトをした、別に金がないからでもない、働く経験をしたというだけである、そこで一日ドリルで穴明ける仕事をしたりした、肉体労働もした
結局その後も流れ作業のような仕事しかしていないので仕事に嫌悪感を覚えて引きこもりになってしまった、
でも私が経験した町工場では劣悪な環境だった、住み込み寮みたいなものがあっても今のようなものと違う狭い所におしこむような劣悪なものだったのである
でも結構中卒の集団就職でも給料が良かったというのも意外である
ということは自由に使う金がありこの人のように飲み屋を渡り歩いていたともなる
この人はどうも最後の集団就職の経験者だったのか?
でも当時の蒸気機関車で上野に行った人とは違う、車で工場の人が迎えに来たと言っていたからである、もう蒸気機関車で集団で行ったわけではないのである
またその頃夜間の学校に通った人もいた、中卒でもその上の勉強をした人もいた

ともかくその人の性格にもよるが全く中卒で東京に働きに出たから苦労したと見えないのである、何でも先入観が見るが人によって同じことを経験しても違ったものになる
なんでもみんな一様ではないのだ
その人は年金ももらっているから生活に困らないという、家もあるのでそこに住んでいるという
何かこうして故郷に帰ってきている人はいる、ある人は東京の人かと思った
東京弁というか標準語を流暢に話す、もう東北弁でなくなっていた
標準語は確かに話す人が多くてもどうしても国の訛りは消えないのである
でもその人は長く東京に住んだ結果国の訛りが消えていたのである

そしてこの人は東北弁ではなく何弁なのか、埼玉弁なのかその人か言うにはいろいろ交じっているというのも不思議である、東京より埼玉の方に長く住んでそうなったらしい
人間を見るとき訛りがありこの人は土地の人とは違うと判断する
それは宮城県だと新地だと近くても伊達藩だったから語尾にだっちゃ、だっちゃというのである、これは押しが強いものとなる、東北弁だとんだんだとなるからである
ところがんだんだでも秋田県の人とあったらんだすという、また丸森の人だとんだっちゃと言っていた、これは宮城県の仙台弁のだっちゃと東北弁のんだが混ざったものだったのである、丸森は一時相馬藩の出城があった場所でありその人はその金山城の麓に住んでいる人だったのである
つまり方言は合成されることがある、だからその人がいろいろな方言が混ざり合ったのだとうのもわかる、まずアクセントが違っている、明るいのである
東北弁は内にこもるように暗いのである、ただ埼玉県となるとわかりにくい、やはりもともと東京から離れているからそれなりに方言があった

そもそも標準語はなかった、明治以降に標準語ができたのである
江戸だったら江戸っ子がいて江戸の言葉があった、それは標準語ではなかった
江戸弁だったともなる、言葉には方言には地域性があるから面白いのである
一つの文化なのである、それでウクライナでロシア語とウクライナ語があり似ていても違っているからロシア語を公用語にすることを停戦の条件にロシア側ではしている
言葉はやはり基本的な人間のアイディンティティであり言葉が違うと理解しあうのがむずかしくなる、中国はあれだけ広いから共通語としての漢字を発明した
音は方言と同じくみんな違っているからだ、日本でも漢字を使うから筆談が中国人とできるのである、発音となるとどこでも理解しにくくなる
ヨ−ロッパが一つになるというとき言葉通じ合いやすいことがある
それがイスラムのアラブ系とかなると通じ合いにくい、また東欧はわからないが東欧同士では方言のようなものになっているから理解しあいすい、それで親戚関係にあるとなる

まず言葉だと宮城県の人と結婚した人は仙台弁になりだっちゃだっちゃになる
結婚すると自ずと土地の言葉が方言でも自然に身につく、それで東欧だと親戚関係になるから言葉も方言のようなもので理解できるのてある、それで一体感が生まれるのである
でも実際はロシア語とウクライナ語は方言のようなものでも違っているのである
だからロシアではロシア語を公用語にしろ要求しているのである

いづれにしろ集団就職も一つの歴史となった、なぜならその時蒸気機関車だったからである、それをいつも見ていてもそんな時代があったのかと不思議になる
私は鉄道マニアともなっているが蒸気機関車のことを良く思い出せないのである
ただ高校は原町でありトンネルをくぐると煤がでて顔が汚れたことを覚えている
でもなぜか蒸気機関車のことが良く思い出せないのである
何でも記憶というのは希薄化してくるのである、人間はとにかく忘れやすいのである
最後は認知症になるとあらゆることを忘れる、自分の子供のことまで忘れる
自分が生まれた町のことまで忘れて言えなくなっていたのである
ただ最後は老人になると経験したこと記憶したことが宝となるのである
だから旅をしても記憶する旅をしていないとあとで思い出すこともできないから損だったと気づくのである
posted by 天華 at 11:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2021年10月03日

田舎でも農民の生活が主なものではない (農家はほどんど自給する生活だった―長野県生坂村、八坂村)


田舎でも農民の生活が主なものではない

(農家はほどんど自給する生活だった―長野県生坂村、八坂村)


ikusakavvvv1.jpg




田舎の夕暮れー尾崎喜八

村の質朴な学校は
もうとっくに授業が終わって、
青葉に包まれた運動場には
小さな木馬が隅の方でおとなしく、
その涼しい校庭で、宿直の先生が
年寄りの小使さんと何か話をして笑ってゐる。
三本の背の高いポプラが無数の葉をそよがせている。
もうぢき暑中休暇の来る楽しい七月の、
美しい空、美しい雲ですね。

麦打ちが済んだあとの、
金いろの麦の穂が散らばってゐる
農家の踏みかためられた仕事場で、
若い百姓の女達が筵をかたづけたり、
からだをはたいたりしてゐる。
健康な生き生きした目、太い腕。
黒くすすけた母屋(おもや)の台所から
竈(かまど)の煙が紫に立ち上る。
暑い一日の熱心な労働がねぎらはれる時の、
美しい空、美しい雲ですね



どうしても昔の生活が失われたので田舎でもわからなくなった
子供の時はまだ明治時代とか大正時代でもそのつづきのような生活があった
特に戦後十年くらいはそうだった、高度成長時代を経て余りにも変わりすぎたのである
村の学校というときそれはなにか今の学校とは違って素朴な感じのものだった
特に木の校舎だからコンクリートの校舎よりあたたかみを感じていた

長野県の奥深い山の村の学校が教室に泊まったことは不思議な経験だった
八坂村とかでありその時も木槿の花が一杯咲いていた
八坂村というとき本当に八つの坂がある山の中の村だったのである
そこを自転車で上り下りしたのである

八坂村木槿のあまた隠されぬ

廃校の校庭に飛ぶオニヤンマ

虫の音や遠く来たりて分去(わかれさり)

ただ記憶としてはあいまいになる、どうしても何十年後にかなると記憶があいまいになる遂にはそんな所に行ったのかとまでなる
自転車ではトンネルが怖い、車の音がトンネルにもの凄い音でひびくからである
そういうことを覚えている、80歳で戦友の代わりにと日本全国を自転車で旅した人がやはりトンネルで死んだのである
自分もそういう恐怖をトンネルで経験している
その人は近くの新地の旅館にも泊まっていたのである、それは一時話題になったが忘れられたとなる

ともかく人間はあらゆることが忘れられる、70過ぎる死ぬ人も多くなり忘れられる
あの「必殺仕事人」の有名な俳優も藤田まことも十年前に死んだことを知らなかった
テレビで再放送しているから生きていると思っていたのである
テレビドラマで再放送している俳優で死んでいる人が結構いるのである
ただその人はテレビの画面だけで知るからその人が生きていると思っていたのである

旅したとしても何十年も過ぎれば記憶もあいまいになり思い出せなくなる
だから旅する時は記憶に残る旅をしないと損なのである
まず車だとどういう道を通ってとか記憶されないだろう、ただ通り過ぎてゆくだけでありその過程が記憶されないのである、もし峠でも歩いて越えたらどうしても苦しいから記憶されることがある、それにしても何十年と過ぎると思い出せなくもなる
それだけ人間の記憶があいまいとなり定かでなる

これが50年も過ぎるとまさに遠い過去となりそこで人に逢ったとして経験でも幻のようになってしまう、そんな人がいたのかとまでなる
現実にもうそんな人がいて逢ったのかも定かでなくなる
それは60年一緒に暮らした家族ですらそうなる、それだけ一緒に生活していたのにあいまいなものとなってゆく

常にこうして時代でも過ぎてゆきたちまち過去になってしまうことが驚きである
それは老人になると嫌でもそれがわかる、人間がこの世にあるは一時なのである
人の出会いも一時でありそれで(さよならだけが人生だ)となるのが今になるとしみじみわかる、みんな結局この世に一時出会い後は永遠に別れるだけだとなる

宿直の先生とお小使いさんとか確かにいた、それが学校の裏方として働いていたのであるそれを記憶している、何か今頃稲刈りの頃、小学校で稲刈りをする頃イナゴを校外で採っていた、それは蝗か食料で売るためだったのである
その頃何か貧しく金にするためだったらしい
戦後十年は戦前とか明治でも江戸時代の生活の続きだったのである
だから燃料は炭だったり江戸時代と変わりないものがあったのだ

麦打ちが済んだあとの、
金いろの麦の穂が散らばってゐる
農家の踏みかためられた仕事場で、
若い百姓の女達が筵をかたづけたり、
からだをはたいたりしてゐる。

農家の庭は広くそこは仕事場だったのである、それは今でもネパールとかベトナムとか遅れた国に行けば見られる光景である
農家という時、そこは一つの自給自足の場だったのである、すべて一通り暮らしができるまかなえる場だったのである
それで農家の出の女性は家で納豆を作っていたとか萱の実から油をとっていたとか油でも菜の花の油とかまた椿油は普通にとっていて女性が髪に使っていたのである
その時代はまず外部から日本でも物が入ってこないからそうなっていたのである

家で自給するほかない生活だったのである、回りのものを利用するしかない生活だったのである、機械も使っていないから人間が労働している姿が目立つ風景である
田植えでも大勢でしていたからである、そういう光景もなくなったとき何か田舎でも生活の匂いがしなくなったのである
だから村の学校でも廃校となり淋しいものとなる、これから少子高齢化でこうした山村はさらに淋しくなる
ただ日本の場合隠されたように村がある、山が多くどうしても人との交流ができない
すると結婚でも村内の男女でするとかなる、閉鎖的になるのが日本の風土である
それも今や車社会になったりすると全く変わってしまったのである
むしろ遠くの人と結婚する、それも日本の果てのような人とも結婚しているのである
その風景があまりにも変わりすぎたのである

田舎でも何か田舎らしい生活が匂いが感じられないのである
肥え溜めは田舎の香水とか言われたがその肥え溜めとかもなくなった
何か田舎でも都会化している、農民は田舎でも一割に満たないとかなる
だからこそ原発が作られ事故になってこの辺はさらに農村的なものが消失して荒廃したとなる
そもそも田舎を知るには農業を知らないと実感できないものである
そういう自分自身が農業のことを知らないとなる
それで小さな畑をしていた女性の話を聞いてそういうものかと自らは何もしないかある程度理解したのである

その女性は本当に生粋の農民の家に育ったからである
一方で野馬追いにも出るような古い鎧が博物館に飾られている家の女性は他から嫁いでも農家の人ではない、田んぼでも貸しているだけであり全然農民ではない、夫も工場勤めのサラリーマンであり農民ではないのである、ただ紙漉きなどをしていた家であり古いのである、ただその女性に全く農家の生活感はないのである
要するに農家の生活感が全体的に消失しているのが現代である、それは田舎でも同じなのである
それで浪江の電気関係の仕事をしている人が回りが草ぼうぼうになっているのに全く関心がなかった、何にも感じないのである、かえって老後の資金を補償金をもらって良かったとかいって何にも原発事故のことで憂えてもいないのである
まさにこの人は田舎に住んでも農業のことなど関係なく原発とかで生活していれば田舎でもそうなってしまうのである
だから田舎だからといっても昔の素朴な風景とかを人でも素朴ということはないのである農家でもみんな車一人一台とかもっているのだから全然違った風景なのである

物を運ぶのは荷馬車だったことがある、子供の時その後ろに乗って遊んだことがあった
馬車屋があったのである、そして梨を作っている農家が鹿島から相馬市までリヤカーで運んで売っていたというから驚きである
15キロくらいある、これは遠いし相当に疲れる、そういう時代は外から物を運ぶこと自体が大変な労力が必要としていた、だから簡単に交流できないのである
それが車時代になって全く変わってしまった、むしろ遠くが近くなり近くが遠くなってしまった、物でも外国から入るからその遠いとういことは地球の裏側にすらなるのである
その変化があまりにも激しかったのである




八坂村の宿

犀川のうねりつたぎつ 流れを沿い下り 
大岡村や生坂村や 八坂村の山深く
あまた咲きしは木槿の花 その花におおわれ
我は入りにき 今日の一夜の宿はあわれ
廃校となりし村の 小学校の改築の宿
ここに六年生の教室と なつかし泊まる卒業生
窓辺に流れのひびき 校舎の廊下をきしみ歩みぬ
窓辺に寄りて外ながむれば 赤とんぼとぶ山の学校
かすかに虫の音や 校舎は古りて生徒はなしも
その山の道の辺 刈り入れの農婦ありにき
道の辻には地蔵や 昔なつかし何語る
童の遊ぶ声もひびかむ 野に山に川に
祭りの太鼓も笛の音も 野に山に森に
村の墓所には女郎花 我がしばし佇みぬ
山々は打ち重なりて 村は閉ざされしかも
八坂村の坂をし上れば 誰そその墓の主や
我を見送る影のありや 我は汗かきかき坂上る
ああ また来てくれと その影は分かれを惜しむ
ああ なつかしき日本の国の 昔の村を思うかも
旅人はるか大町へ 坂を上りて去り行けり





この辺は大町市に近いしその市内である、合併してそうなった
インタ−ネットの写真で見ると廃村地帯にもなっている
その写真が多い、10以上村が廃村になったのか?
これも日本の深刻な現実である
廃校利用があり宿として利用もある、この廃校もまた多いのである
生坂(いくさか)村から八坂村へ行く辺りは廃村が多かった
ただそこが良く思い出せなくなったのである
やはり山々に閉ざされている所は地理がわからなくなるのだ

ikusakavvvv1.jpg

ここも人口は半分に減った

八坂村の宿
http://musubu.jp/jijimandai8.htm#toyo





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2021年09月18日

集団就職の時代 (時代の変化は常にありその時代の苦しみを負う人間―過去のテレビドラマを見て)


集団就職の時代

(時代の変化は常にありその時代の苦しみを負う人間―過去のテレビドラマを見て)

日本の敗戦まで農村では農業は跡継ぎの長男のみが相続していて、田畑を相続できず食えない農家の次男・三男は戦前まで軍隊で養われていた[12]。次男など年少の男性は家督を相続した兄である長男の扶養家族となっていた。次男以下は農業の手伝いをするという社会だった
https://binged.it/3tOr1Kt

彼ら・彼女たちがときにわずか15歳で経験した労働現場は、現在から見ればあまりに過酷なものでもあった。だが、著者はその過酷さを単なる「残酷物語」として安易には描かない。
https://bunshun.jp/articles/-/3136

実際の集団就職でも、彼女と同じような落胆を味わった少年少女は少なくなかった。それゆえ、転職する者も多かった。夢破れて郷里に帰った者もいた。ほんの一握りの若者だけが、失意を噛みしめながら、石にかじりつくようにして出世や独立を勝ち取った。中卒が「金の卵」だったのは、1955年から65年までの10年間にすぎないが、この時期に生まれた膨大な出郷者たちの物語は、戦後の若者像のひとつの元型を形成している。
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2014030800001.html

自分が本当に将来やりたいことや、自分に向いていることを、本当に確信している若い人が何人いるのだろうかということである。自分の中にある隠れた能力や願望、自分さえ気付いていない自身の良さや魅力を、どれだけの人がしっかりと掘り出せているのだろうかhttps://ameblo.jp/kashii-hayato/entry-12339125558.html



人生をふりかえると何だったのか?集団就職というのもそうだった
中学校で三分の一くらいが集団就職していた、三分の一は高卒でありあと大学に行ったのは一割くらいである、50人学級として5人くらいだとなる
三分の一とかではない、五分の一くらいかもしれない、私は同級生でもそのことをわからなかった、どういうことなのか理解していなかった
その時常に先生が心配して言われたのは高校に入れないということで受験勉強しろということだった、だから受験勉強をしたしそれが嫌だった
なぜそうなったのかというと数が多いために教室が用意されない騒いでいたからである
好きで勉強していたわけではないからだ、高校に入ってたとしても自分は集団に向かなかった、だから学校嫌いでありやめようとも思った、でも勉強できなくても東京の私立大学に入った、その大学でもFらんと似たようなものだった

大学で良かったのは偶然なのだけどもともと体力もないし向かいなのに運動部に入ったことである、それで我がままな自分が鍛えられたことで良かったのである
自分は一人っ子であり我ままに育てられた、そして何かその時故郷に田舎にいるのが嫌であり東京に憧れていた、それより家を脱出する願望があった
結局ふりかえる親元を離れたことが自立するには良かったのである
別に経済的自立ではないが精神的自立するのに良かったのである
またカルト教団で運動したがこれが大学生活になったもの馬鹿だったとなる

そもそも奇妙なのは大学生活というのは遊びの場だったのである
講義に出ないことを自慢していたのである、マンモス大学であり大講堂で千人も入るとかで授業している、それで授業に出ない人が多かった、真面目な奴は嫌われていたのも不思議である、つまり高校とはまるで違ったものだったのである
だからパチンコばかりしているとかで身を持ち崩した人もいる
それから学生運動の時代であり学生運動ばかりして勉強もしないということもそうだった大学とは一体何なのだろうとふりかえる
要するに極端に自由になりそれが遊びともなり遊興人間とか学生運動でも実際はそれは真剣なものでもなかったのである

集団就職した人から比べると大学に入るだけで恵まれていたからである
そういうことで学生運動でゲバ棒をふりまわしていて警官とかと衝突したが警官の方が大学出て恵まれているのにと甘いやつらだとして抑えこまれたのである
確かに一人くらい死んだとしても本当は死を賭けた真剣さや思想に殉じるものはない
マルクス主義など洗礼を受けたがそれも本当に真剣なものとはならない、一種の病気のようなものである
若い時は簡単に社会が変えられると思うからである、頭でっかちになるからである
理論だけが先行するからである
これに比べると反体制としてミャンマーとか他の紛争地帯では多数の人が時の権力と戦う時死んでいる、ミャンマーでもアフガニスタンでもどこでも相当数が反体制とか反権力になれば死ぬのである

それがわかるのはみんな大学を卒業したら大企業であれ就職して猛烈な企業戦士となって働いた、その時ちょうど高度成長時代であり日本が鰻上りに成長した時代だったからである、そうなれば別に貧困から脱することができるようにもなった
マルクスの階級論など関係ないのである、貧困な日本でもみんなが豊かになり中産階級が生まれたからである
そんなことで学生運動など何だったのか忘れられたし意味もなかったのである
ただ何か知らないけど青春のエネルギーは爆発させたというだけである

ともかく集団就職というとき大学にいたとき自分自身もアルバイトしてそういう下町の小さな工場を知っている、そこで寮のようなものがあっても粗末なものでありそこに押し込められていた感じである、そこで今の寮のようなものを整備できていなかった
そごで油まみれで働いていたとなる、単純作業をが多かった
一日ドリルで穴をあける仕事などである、大学からその後大学出ても無職でありそんな仕事ばかりしていたから仕事自体嫌になって私は引きこもりになったのである
ただそういう貧乏な時代に引きこもりとかニートはいなかった
そういう余裕がまだ家にはなかったからだ

ただとにかく急速に高度成長時代に入り金回りがみんな良くなったのである
あらゆる所でそれこは波及していて小さな店でも工場でも会社でも成長して豊かになったのである
それは中国と同じである、中国の十数年前は本当に中国は貧乏だった
それで地方の農村から出稼ぎの人達が海側の大都会に出稼ぎに大挙流れてきた
それがまるで流民なのである、中国では飢饉となると人口が多いから流民化する
火車(汽車)にまるで貨車に詰め込まれる家畜と同じだったのである
そういう所にまきこまれて死んでしまうといこともある、実際に混んで車掌が鞭で打っていたからまさに家畜だったのである
何か今でも社畜なんだよなとか会社員を言うが本当に中国では家畜だったのである
そもそも中国では人民は対して家畜と変わらないことがあったからである

あの高度成長時代は何だったのか?
ふりかえるとそのことで日本が優秀だったということではなかった
電機製品がたまたま売れたのである、アメリカとかで売れたことにより高度成長時代になった、日本の技術が科学などが優れたということでもなかった
何か発明したわけでもないからである、ただ先んじて電器製品が売れたということである今になると韓国でも中国でも台湾でも同じものを作っている
その質もたいして変わらなくなったのである
たまたま先んじたことで高度成長があっただけだとなる
その後バブルが崩壊して三十年も低迷している、それは日本が何か発明するものとかもともとなかったからである、そういう力もなかったからだとなる

いづれにしろもう一つの時代を生きて終わったとなる
集団就職もその一つの時代を象徴していたものでありそれも歴史にもなった
何か・・サスペンス名作選 地方記者立花陽介・・・このテレビドラマは常に過去を回想して地域を話題にする
この前は学生運動のことをテーマにしていたり今回は集団就職のことをテーマにしていた能登に勤めて集団就職してうまくいかなかった人のことである
母親は息子が辛いと言ったとき我慢しろと言った、そのことを悔いている
帰ってこさせればいいと言っていた
その人は印刷会社に勤めていた、その時の仕事が活字拾いだったのである

活版の組版では、まず必要な活字を集める(文選(ぶんせん))、集めた活字を原稿に従って配列し、行間・字間を整えて配置する(植字)、大部数の印刷には複製版をつくる、の工程がある。活字は総数4万種以上あったといわれるが、普通の印刷では6000〜7000種程度であった。これを活字ケースに収め、ケース台に置く。活字の配列は、音別分類もあるが、普通は部首別である

ドラマで集団就職した人はこの仕事をしていた、ところが時代が変わり首になり新しい印刷会社に勤めようとしたがこの技術があってももう時代が変わり採用されなくなった
何か今でも子供の時、ソロバン習ったが役にたたなくなった
今やコンピュターでしてしいるからこの技術がなくては印刷もできない
活字を拾っていたとするその手間はあまりにも大きいとなる
今やインタ−ネットの時代になると印刷などしない、即時に通信になる
この差が大きいのである、だから新聞のように一軒一軒新聞を配るとかは江戸時代の駕籠なのかとも思ってしまうのである、そんなものはもう過去のものなのである
ただ新聞紙は焚き付けとかに役立っていた、風呂とか便所とかでも使っていた
まだその時トイレットペーパーなどもないし風呂でも焚き付ける風呂であったからだ
電気も裸電球一つであり水道すらなかった時代だからである

このドラマではワープロを使っている、でもこれには通信機がついていない、それで新聞社の東京の本社にしょっちゅう打ち合わせに行っている、私は通信機付きのワープロを使っていた
今だと即時にインタ−ネットでも資料でも送れるし写真も送れる、動画も送れる
そうなるとテレワークもできてそんなちしょっちゅう東京の本社に行く必要ないのであるこうして常に人間は時代の変化を受ける、技術革新の影響を受ける
このドラマは三十年前から四十年前でありそこから過去を回想する
すると戦争でもまた語る人が若いし学生運動とか集団就職のことでも語られる
ただ時代がたつにつれてそれが遠い日のことであり忘れ安くなる
でもわかったことはテレビドラマも一つの歴史として映像で残しているのかとなる
これは映画とは違う、映画はあまり日常的なことを話題にしないからである
ただ映像を見ても今とたいして変わりない、テレビ画面は本当にぼやけている
その差があるが街並みなどたいして変わっていないように見える
posted by 天華 at 15:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2021年08月24日

NHK「戦火のホトトギス」 ▽17文字に託した若き将兵の戦争 (その感想の短歌十首―三陸会のことなど)


NHK「戦火のホトトギス」 ▽17文字に託した若き将兵の戦争

(その感想の短歌十首―三陸会のことなど)

nursedeath11.jpg
従軍看護婦でも相当に死んだ人がいる
直接人を殺したりしなくても伝染病とかでも死んだ
姉も腸チフスになったというから過酷なものだったのである




見送りし夫は戦地に帰らざれ山吹の色妻に濃しかな

誰が思ふ戦地に果てぬその俳句色あせし紙に記され残りぬ

戦地より病に帰りぬ傷痍兵看護婦迎えしばし慰む

義足つけなお戦わむやあわれかなその痛み思う戦争のむごさ

戦争も遠くなりぬれ紙も古り写真をも古りぬ伝ゆ文字かな

戦いぬ従軍看護婦の姉も死ぬ戦地の夢にうなされ死にぬ

古ぼけし写真は語りぬ戦争も遠くなりぬれ誰かたずねむその痛み知れ

青春を戦地に費やし何思う日本のために共に戦ふ

戦争を語れる人も消えゆかむその深き痛みは忘るべからじ

親に聞く戦争の話し伝えむもその子も死なむ過ぎる時早し

三陸会記録残りぬ誰が読むや大方は死に忘れられゆく

姉語る戦友のこと常にして今は死にしも記録のみ残る

戦いて異国に埋もる哀しきや故国は遠く帰れざるかな


NHKのこの戦争をふりかえる放送は俳句を中心にしたものであり私も俳句を作っているから関心をもった、ただ戦争となると俳句とか短歌になりにくい、血なまぐさいし人を殺すとういこともありそういうことを語りたくないから口をつぐんで死ぬ人も多い
何か18歳で志願兵になった人はどうも中国人を殺したらしい、ただ途中で口を噤んだ
つまり人を殺したことなど簡単に言えないからそうなったとみる

とにかく戦争という時、私は姉から千回くらい毎日聞かされたのだ、姉はシンガポールの向かい側のマレー半島のジョホールバルの赤十字病院で四年間地獄の苦しみのなかで看護婦として働いた、一時は腸チフスとかになってひどかったらしい、そういう話を延々と聞かされた、それはひどい認知症になって余計にそのことを延々としゃべるので嫌になった同じ事を何度も話すからである、そして遂に死ぬまで戦争のことを話しして病院で死んだのである、おそらく病院でも戦争のことを忘れずにうなされていたのかもしれない

青春時代のことは覚えている人が多い、若い時のことは覚えている
そして島根県の人の戦友のことを何度も言って死んだ
もらったバックを大事にしていたのである、それは思い出の品だったからである
でもそれ自体は粗末なものだったのである
でも戦友からもらったということで大事にしていたのである
そういう映画をもがりの森とかで見たから認知症は同じ症状がある、それも不思議なのである、本当に認知症は不可解な病気なのである

ケガをして戦地から帰り傷痍病院がありそこで義足をつけた人がまた戦地に行くために戦う訓練していたのを見て酷いと見た、義足でも飛行機にも乗れるとか言っていた
その時日本は戦う兵士が不足していてそうなった、40才でも招集された人がいてそのことを書いた、それは松川浦の人だった
戦争がどれだけ悲しさ苦しさと無惨さを悲劇をもたらしたかそれはきりがないだろう
人が殺し合うのだから当然だとなる、たからこそ戦後は子供に孫にも何も語らなったと放送された人がいたがそういうことはある
姉の場合は従軍看護婦であり人を殺したりしないから語ったのである

三陸会という戦友の雑誌を出していた、そこにも膨大な記録は残っている、戦争の記録は膨大である、それをいちいちふりかえることも手間になる
ただ戦争を忘れないためにはそういう記録を見直すということも必要である

ひたぶるに故国こがれつつ逝きし戦友の涙の如くスコール激しき

大いなるゴムの木のもと掘り返し還らぬ戦友の屍を埋む

何かこういうことがあり痛切なものとして後にふりかえる、戦争の是非はともかくそこに痛ましい人間の情がせつせつと短歌にしている
俳句を話題にしたがここでは短歌が上手な人が結構いるのである
姉の島根の戦友も短歌が上手であり三陸会に結構のせている
俳句でも短歌でも何か切実なものがあるとき歌われるときその背景を読み込まないと鑑賞できないのである、今のような平和な時とは違うからである
戦場で友が死にその死体を葬るというときそうである、それも異国なのである
だからそういうことは経験した人でないと分らないとなってしまうのである

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2021年06月14日

グロ−バル化を交通の歴史からふりかえる (輸送量高くなり物価もあがる、グロ−バル化は終わる)


グロ−バル化を交通の歴史からふりかえる

(輸送量高くなり物価もあがる、グロ−バル化は終わる)

ブルームバーグ): 世界的な海上貨物輸送費の高騰は思いの外、人々が毎朝飲むコーヒーや子供のために購入を考えている玩具など幅広い日用品価格に早く反映される可能性がある。
https://news.yahoo.co.jp/articles/b52d278a03963f34130203a2c32d276a13cff312

グローバル経済を批判して来た、それがウッドショックで外材が入らずに国内の木材が高騰している、また輸送量がコンテナ不足とかから高くなり日用品で高くなる
輸送量が物の値段に入ると高くなる、ただそれが意識されないのである

この辺の農家で梨農家がいる、その梨をリヤカーで相馬市まで運んでいたという
15キロくらいある、するとその労力は大変なものになる
でも相馬市は人口が多いのだから売れるとなる
経済は内輪で回っていたのが普通でしる、私の家で店をしていたときも近くの農家から野菜とか仕入していた、それも姉が自転車で運んでいたのである
その自転車でも昔だからいい自転車ではなかった、つまりその時車もないのだから近間で物を回すほかなかったのでしる

それで例えばテレビがない時代にニュ―スを見ていたのは映画館だったのである
必ずドラマを見る前にニュースを見ていたからである
そのフィルムは蒸気機関車で運ばれてきたのである
情報すらそうしてフィルムを運んで手間かけてみせられていたのである
テレビがない時代に映像を動画を見ることは特別なことだったのである

1時間半ものの映画だとフィルムが5巻必要だったから、大体1巻が15分くらいかな。1970年代前半までは、1時間半の映画にフィルムが9巻必要だったんだよ。1巻あたりが10分たらず。10巻だったとすると、9回フィルムを切り返さなくちゃいけなかった
https://liginc.co.jp/277492

裏方で大変な作業をしていたのである、第一これだけ重いのだから運ぶこと自体が大変だった、つまり情報は物として運んでいたとなるのだ
その頃駅中心の街だったというのはどこも同じである、物流の拠点が駅になっていたからである

明治三七年に入ってから、これまでの馬車鉄道にかわって登場した市街電車が大量輸送を可能にしたことは、〔浅草〕六区興行街の転身をうながす引金のひとつになった。東京電車鉄道が敷設した浅草橋―雷門、上野広小路―雷門間の路線は、赤毛布の盛り場から市民の娯楽センターへと、浅草の性格を変貌させる。旧市街に居住する市民が夜になってからも、気軽に浅草を訪ねることができる条件がつくりだされたのである。
http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN6/fujioka.html

東京だと電車鉄道ができて浅草の歓楽街が発達したとなる、車もない時代は電車が交通になり足になったのである

人間社会は交通と密接に関係している、すべての道がローマに通じるというときもそうである、道というインフラがローマ帝国を作ったのである
シルクロードとかもそうである、絹を運ぶ道が中国を栄えさせた
そして海が道となったのが大航海時代でありそれがグロ−バル化の先駆けとなった
ただその時はヨ−ロッパ中心のグロ−バル化だったのである
船によって海を道とすることによってグロ−バル化がありえたのである
それでアジアは植民地化されてきたのである

次は明治時代は鉄道によって築かれた時代ともなった、鉄道が全国に通じたときそこに関所はない、どこにでも自由に日本中を行けたということが大きな変化だったのである
だから鉄道で全国の見知らぬ人と乗合すということは不思議な経験だったのである
藩内で生活していた人たちが気軽に関所がないのだから遠くに行けるようになったからである、でも実際は荷物をのせるのが主役であり乗客は脇役だった
もともと北海道とかなると鉄道ができたのは石炭を運ぶために作られたのである
石炭は今の石油と同じだったのである、それで高校でもコークスというストーブを使っていたのである
常磐炭鉱があるように常磐線でも石炭を東京に運ぶものとして作られたのである

そして原町紡績には原町駅から機関区となっていた駅から引き込み線があった
そこから生糸が横浜へと運ばれてアメリカなどに輸出されたのである
そうなっていたのは輸送は鉄道が主役でありあらゆるものが鉄道で運ばれていたからである
そして駅から網の目のように森林鉄道が発達していた、だから高瀬川のところにもトンネルを掘った森林鉄道が走っていた、そして葛尾村の方まで通じていたのである
木材とか石材を運ぶものとしてそうなっていた
だからその時意外と地方の村はかえってにぎわっていたのである
ただこの時代からやはり東京中心の経済が加速されていたとはなる
東京に運ぶためにこうした交通網ができたとなるからだ
そういう因縁はフクシマの原発に受け継がれていた、東京に電気を送るために作られたからである、東京はやはりそれだけ大きな都会となって人口が密集したからである
私の姉は看護婦免許をとるために東京の新宿で試験を受けたとかある
つまり地方ではそういう資格をとる試験を受ける場所もなかったとなる

ともかくこうして歴史を振りえると運ぶことの発達が世界を変えたのである
それがもうここにきて頂点に達した感がある
何か運ぶとういことがもう限界にきた、それがかえってマイナスに働くようにもなった
世界中の人々がモノでもヒトでも何でも運ばれて交流することはいいことだとされた
でもそこにも負の面が大きくなったのである
からたここにきて世界全体でも限界現象が起きてきた、そこにコロナウィルスが世界中に伝染した、それも交通が発達しすぎたから人々が飛行機などによって同時間で接触するからたちまち世界中に広がった
つまりグロ−バル化が負の面をもたらすことに気づいたのがコロナウィルスだったのである

グロ−バル化の負の面が目立つようになった、世界市場とかいうのも実際はもう機能していない、マネーゲームとか金融資本主義とかなりそうした中で株取引でもギャンブル化したりまともに機能していない、というのはグロ−バル化になるともう誰もその実体経済を知りうる人はありえないということである、あまりにも巨大すぎるからである
だから天変地異のように恐慌とかが襲って世界中が混乱する
要するにあまりに巨大なるが故に機能不全に陥る、だから株などは機関投資家のプロでもわからないというのはそのためである、必ずしももうけていないからである
それはとてもグロ−バル経済など知りうる人は一人もいないとなるからだ
もう人間で作りだしたものが操作不可能になったのである

だからもう人間の手では制御できずに自壊するともなる、そういう時期にきている
いろいろい経済について専門家が言っても誰もわからない、株になるとそこは博打場にもなっている、そんな経済が成り立つのかとなる
経世済民が経済の語源だとして民を救うなどありえないのである
だからコロナウィルスで窮地に追いやれても株が上がってもうけ笑っている人がいる
また数パーセントの人がアメリカの富の半分を得ているとかもう経済は破綻しているのである、そうなると誰も真面目に働こうとしなくなる
数パーセントの濡れ手で粟で金融でもうけているとかなんとかになり真面目にこつこつ働くことが馬鹿らしくなるのである

だからどうしても新しいシステムが世界で必要になっている、その大きな変わり目に来ている、この世界的システムが機能しなくなり自壊しつつある
次なる世界システムを作らなければならない大きな変わり目にきている
その時世界的大きな激変が起きて大きな痛みをこうむる
だから何をしようとしても財産でも守れないかもしれない、戦後の焼け野原のような極端なことが起きるかもしれない、その時私の母は東京で前の夫が事故で死んで補償金をもらった、それで一生楽に暮らせると言われた
でも預金封鎖になり故郷に買ったわずかの土地しか残らなかったのである
紙幣は本当に紙くずになったのである
それと同じことが起きるかもしれないというときそれは世界的な大変化の時代になるからだとなる、だから個々人で財産を守ることはむずかしいとなる
全体が世界が国家が変わる時それに個々人では対応できないとなるからだ

ともかく家にいながらにしてアマゾンとかで何でも買えるとか家にいて情報でも何でも手に入る時代である
そして個人でも放送局となっている時代である、テレビ局にさえなっている
出版社にもなっている、そこで仲介するメデアが必要なくなる
第一プログのようなものでも意外と写真でも表現できるから表現力があると思った
つまり個々人がメデアをもった時代になったのである
これは大きな変化である、コロナウィルスで巣籠り生活になってさらに促進された
家にいながらにして仕事でもなんでもできる時代になったのである
だから別に田舎にいても情報弱者とかにならない、ボタン一つ押せばアマゾンから次の日には配達されている

それで早いなと感心する、この変化が大きいものだった、それは歴史をふりかえればわかる、情報伝達するにしてもどれだけ大変なものだったか?
それがボタンを押すだけでできるとなった時代である
私は車をもっていない、すると8キロしか離れていない原町より東京からアマゾンで配達されるものが安く早いのである、これも奇妙なのである
するとアマゾンが普及すると媒介する仲介する店はいらなくなるとなってしまう
だからなんらか店でも時代に即したものとして変化を要求されている
それは銀行でもそうだしあらゆる面でそうなったのである

戸を出でずして天下を知り、窓まどより窺(うかが)わずして天道を見る。その出ずること弥(いよ)いよ遠ければ、その知ること弥いよ少なし。是を以て聖人は行かずして知り見ずして名(あき)らかに、為さずして成る。(老子)

これは今の時代を予言していたのだろうか? 巣籠り生活を予測していたのか
家にいながられにしても情報を得られるからだし家の中で何でもできてしまうとなるからだ
ただ世界は実際にその地を踏んだりしないと理解できない、ただこれはグロ−バル化の批判なのである、何かこれも逆説を語っている

その出ずること弥(いよ)いよ遠ければ、その知ること弥いよ少なし

意外と人間は灯台下暮らしであり近間をかえって知らないのである、狭い範囲でもそこに世界があるともなる、世界の問題がつめこまれているともなる
それは人間だから共通のものが世界中にも適応されるともなるからだ

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2021年01月16日

私の母の実家の近くは相馬農業学校がある (そこは空襲で爆撃された)


私の母の実家の近くは相馬農業学校がある

(そこは空襲で爆撃された)

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1908年 - 相馬郡立相馬農業学校に校名改称。
1921年 - 福島県立相馬農蚕学校に校名改称。

なぜ農業学校から養蚕学校に変わったのか?
おそらくそれだけ養蚕が盛んであり養蚕を学ぶために名称を変えた
そしてこの養蚕学校の夜の森公園の近くに私の母親の実家があった
今は何もない、墓は残っている、母もまた原町紡績で糸取りとして働いていた
原町紡績もそうだがアメリカに絹織物を絹を輸出するために日本全国で養蚕が盛んだったのである、そのために今でも養蚕するために兜作りの家をみかける
それでどれだけ養蚕が盛んだった今でもわかる

私の母は大正生まれであり百歳まで生きて死んだ
その労働はきついものでも女性が働く場ができて現金収入になったからかえっていいものだったのである、それまで女性の働く場所は少なかったからだ
その後は東京に出て女中になった、女中が当時の働き場所だったことが多かった
なぜなら電器製品がないのだから洗濯でも手で洗っていたからその手間が大変だったのである
それで普通の中産階級の家でも二人の女中を雇っていた、それだけ家事が大変だったのである,今だって家事は大変である、でも一人暮らしでも電器製品があるから家事ができる

その相馬相馬農蚕学校が戦争でアメリカ軍に爆撃された、それで燃えた
私の母は防空壕に逃げた、でも飛行機がすれすれに飛んできて蓋がもち上がって怖かったという、原町には飛行場もありねらわれた、また駅もかなりり爆撃された
大きな建物が爆撃された、相馬農蚕学校は大きな建物だから爆撃された
また仙台市も爆撃されてここからも空が赤くなるのが見えたという
それだけ燃えたともなる
無線塔にも飛行機から銃で撃たれた、その痕が残っていた

もう今になると戦争のことは忘れられてゆく、第一もう戦争を体験した人が死んでゆきわからなくなってゆく、私の世代はまだ戦争体験した親がいてそのことを聞いている
私の姉は従軍看護婦でありシンガポールの向かい側のジョホールバルの赤十字病院で四年間地獄の苦しみを受けて働いた
でもみんな死んでしまった、でも直接体験したことを聞いている、次の世代になると戦争のことは余計にわからなくなる
戦争のことはわかりにくい、それは日常からイメージしにくいからだ
人間は実際に経験しないと理解できないことが多いからである
第一戦場で人を殺すということは日常生活からイメージできないからだ
でも何か18歳で志願兵になった人は人を殺したらしい、そのことを言えなかったと見た口をつぐんだからである  

昭和15年以降、国民服として一般の成年男子にも戦闘帽様式の帽子の着用が推奨された。国民服は生徒の通学服としても指定されたため、帽体正面に校章を取り付けて学校制帽としても使用された。戦中から戦後間もなくを舞台にした映像作品の多くで、民間人や復員兵などが着用している姿を多く目にすることができる。

また、戦時中当時のプロ野球においても、試合用ユニフォームとして従来の野球帽に代わり戦闘帽が採用されていた時期がある。

この戦闘帽をかぶり子供の時戦争ごっこしていた記憶がある、その頃戦争は生々しいものとしてあったためである  

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夜森公園の名称は双葉辺りの夜森公園と同じてある、ということは夜(よ)は余であり
余の森であり相馬の殿様の森だとなる、双葉大熊辺りは森でありそこが相馬藩と磐城との境目になり余の森ということで名付けられた
小良ヶ浜(おらがはま)というのも俺らの浜ということになり相馬藩の領域の浜として名付けられたのかとなる

ともかく私的なこととしては母の実家は不和分裂の家だったのである
それが尾をひいたのか私にもそのカルマが及び苦しんだとなる
親戚関係でも不和分裂したともなる



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2020年10月12日

廃墟の街-双葉町の不思議 (父がそこで働いていたので見方が違った)


廃墟の街-双葉町の不思議

(父がそこで働いていたので見方が違った)


我が父のここを通うや何思ふ虫の音かすか人なき街かな

我が父の働く姿ここに見ゆ今は人無く悲しくもあれ

新山橋石造りなれ戦後にそ作られ人々通りけるかな

我が父の辛きことあれこの街に働くあわれ虫の音を聴く

古代よりここに生きにし人のあれその生断ちし原発事故かな 


人間は何か祖父母とか親とかをたどるときはリアルになる、実際に接して一緒に生活もしているからである
父は子供の時死んだからそこでどんなふうにして働いていたのかなかなかイメージできない
でも明治時代まで丁稚奉公があった、松下幸之助がそうだった
江戸時代はさらに丁稚奉公することが子供のを親元から出して大人にすることだった
そして丁稚奉公はそこが子供を教育する場所でもあった
だから葛尾村を出てどうして字を覚えしていたのか不思議だった
学校などあったのかとも思うからである     

昭和以前では、子供たちは10歳前後、尋常小学校や高等小学校の卒業を契機に奉公に出るのが通常で、奉公にあがれば、まず丁稚の修行からで、はじめは主人のお供や子守、掃除などの雑用を受け持ち、少し長じると商用の使い走りなどをしました。

学校教育では教えるということを重んじる一方、徒弟制度による現場の学びがなくなったため、知識と現場技術・知恵が交わらず、シナジーとしての優れた職人、仕事人が生み出しにくくなったことが問題なのかもしれない。その点からもドイツのような徒弟制度と学術教育がセットになるデュアルシステムは合理的であると言える。

丁稚奉公は個々の科目とかの勉強ではない、全人間的なものとして教育する
その生活すべてが教育なのである、それが今の社会とは違っていた
実生活の中で教育れるのだから点数とるだけの教育とは違っいた
もちろんこれも見方を変えれば安く掃除とかでも使われていたとかの見方になる
ただ常に過去の見方は今でも江戸時代は身分制ではなかったとなったように変わるのである、過去を歴史を知ることのむずかしさは現在からしか過去を知りえないからである
そこに必ず誤解が生まれるのである
その当時おそらく寺子屋とかあっても実際に実地に社会を学ぶ場として丁稚奉公があったそれも今見直されるのも教育というのがもう行き詰まっているからだ
近代教育というのがもう頽廃してしまったからである   
そしてAI教育では何か人間的なもの情的なものとか人間の基本となるものが学べないのである

今になると丁稚奉公は資本家による搾取だと見たりするが必ず励めば暖簾分けできて別に独立した家をもって生活できたのである
それで土地を買い自分のその家に住んでいるのである
自分の家の歴史をふりかえるその酒屋は倒産した、その後小さな子供相手の店を出した
くじなどを売っていた、それが繁盛したのはただ時代によったのである
私の父でも母でも商才はなかった、ただ店を出した場所が良かっただけである
角であり場所が良くて集まったのである、その時車などなく近隣で買い物していたからである、だから時代が悪ければいくら才能があっても活きないのである

いづれにしろ双葉町は何を意味しているのか?
廃墟と化した街を歩いて不思議だった、これって何なのだろうと思った
それは他でもこの辺ではそうなった、でも双葉町で感じたものとはまた違っていた
やはりそこに私の父親が働いていることで他とは見方が違うようになっていた
ということはこれも父親と子供というつながりがあり受け継ぐものがありそれが歴史となる

歴史とはこうして綿々と古代からでもつづいているのである、古代の清戸迫横穴(きよとさくおうけつ)は、福島県双葉郡双葉町大字新山にある横穴式装飾古墳。

私の場合は父親までの歴史をたどるがそれ以上に江戸時代でも古代までも歴史がさかのぼれるのである、そういう綿々としてつづいた歴史が原発事故で断たれたということが大きな問題だったのである
人間は一時期を生きるものではなく代々先祖から受け継ぐものがあり生きている
双葉町のように廃墟の街になればそれを失うということである
それが一番の大きな被害だったのかもしれない、それが原発事故による最大の被害だったともある、そもそもそうして一旦断たれた歴史は回復しなくなるからである
するとそこにある神社であれ歴史的な遺産とかも活きることがなくなる
もう誰もお参りもしない、それは限界集落でも起きている、継承する者がいなくなっているからだ

ともかく丁稚奉公にしろ過去を遅れたものと見るだけでは歴史を見誤る
それが明治以降極端だったのである、すると日本の歴史で培われたものの良さが失われてしまったのである




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2020年07月20日

見逃せない戦後の引揚者の歴史 (大量の失業者が開拓に入ったーコロナで同じ変化が起きている)


見逃せない戦後の引揚者の歴史

(大量の失業者が開拓に入ったーコロナで同じ変化が起きている)

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戦後の引揚者

搬送に負けるということは大きな変化をもたらした、百からゼロになるような大変化だった、戦後の焼け野原であり都市は壊滅して故郷に帰っても働く場所もなくなった
その人たちは戦争の時は兵士であり食べていけたのである、それで

お前たちは外地散々贅沢な暮らしをしたのだから少々苦しい目をみてもあたりまえだ

これも理解できない、戦争で命がけで戦った人たちが贅沢な暮らしをしていたのか?
食うや食わずで戦っていたともあるからだ
ただ戦地には食料でも優先的に送られていたからである
ただ戦争に負けた時、従軍看護婦としてシンガポールの向かい側のマレーシアのジョホールバルに四年間働いた姉は戦争に負けたときジャングルに逃げて地獄の苦しみを受けた
食べ物がないからである                                  
でもそれでも戦争中でも本土から食料が優先的に送られていたのである
それでは本土の人は戦争中どうして食糧を確保していのか?
その困窮はどうであったのか察しられる
本土には働き手がいなくなったからだ、すると残された妻とか女性が働いたことになる
また工場では学生でも若い人も総動員で働いたとなる
だからこの辺の事情がもう一つわかりにくい

ただ引揚者と自分は現実に接している、それは子供の時、小池にいたのである
小池というと近いのである、飯館村とかなると遠い、小池は街から近いのである
そこに一人引揚者の一人がいたのである
私の家で店を始めたとき私の父親が今の双葉の新山で酒屋の丁稚をしていてその時その人と一緒に働いていて知り合った
私は子供の頃、店がはじまったときその人の所に卵買いに行かされていた
自転車の荷台にぬかの入った卵を入れて運んだのである
その頃ニワトリは放し飼いでありまさに庭の鳥だったのである  
その時今の真野川の鹿島区役所のあるところの橋は土橋だった
それでゆれるから怖かった、そして必ず卵を一つは壊していたのである

子供の頃気づかなかったがその人は相当に貧しかった、結婚もしていない
ずっと一人だった、それだけの余裕がなかったのだろう
ただ不思議にその頃そうして開拓に入る土地があったということである
聞いてみると当時は農家の方が豊かだった、なぜなら食料を時給していたからである
農家では味噌を作っていたり納豆でも作っていた、そして何より卵が食べられたことが贅沢だったのである
それで戦後は大鵬、巨人、卵焼きとなっていたのである
卵焼きは食べられる時代になったということである                  

とにかく引揚者は戦後の大きな問題だった、兵士あったものが失業したからである
数も多いし就職先もなかったからだ、戦後は何か就職先がない、故郷の田舎に帰ってもないのである、するとなんとか食べるものだけを確保しなければならない
それで開拓に入った、そこて食料だけはなんとか確保しようとしたのである
だからそれは苦しいし貧しいものだった、でもそれしか生きる手段がなかったのである
結果的には半数が撤退した、でもその後幸運に高度成長時代に入り工場とかに就職できたでもその時中卒が集団就職の金の卵として東京とかの中小企業に就職した
その下町の工場は小さいから今のような寮とかはなく劣悪であった
自分自身がそういう工場で学生の時アルバイトしていた
一日中ドリルで穴明ける作業だった、何か自分は学生時代からそうしたロボットのような流れ作業のようなことしか仕事としていない  
大学卒業してもフリーターであり依然として流れ作業しかしていない
それで仕事に異常に嫌悪感を覚えてひきこもりなり旅ばかりしていたとなる
それは仕事がそうしたロボットと同じにされたからであった
その反動からそうなったのである

この引揚者のことを知るということはやはり歴史であり今を考えるのに参考になる見逃せないものがある
時代が大きく変わる時何が起こるかということである
大量の失業者が生れる、兵隊が就職先だったものがなくなると故郷の田舎に帰っても働く場所がないのである、そうしたら食べることもできないのである
だから悪条件でも開拓に入った
でも鹿島区の小池だと街から近いし平坦な土地であり生活するには貧乏でも他よりましだった

なぜなら飯館村とか山に入った開拓は交通の便が最悪だった
大倉から飯館村に入る木戸木という開拓村は十軒くらいあり半鐘がありそこに生活があったのである、私はそこに関心がなく森があり清流がありそこを通る人はいなかった
秘境だったのである、今ある道はあとから作られたのである
その時その清流が消えたことが残念だった、それは原発事故前にありその頃まだ地方は公共事業として道作りをしていたのである
ただあそこはこうつうの便が悪いというより大倉から七曲の道でありそこから草野の村の中心地に行くまでも七曲の道であり不便であるというより閉ざされていた
その頃クルマなどないからどうして草野とかまで行ったのかとなる

なぜこのことをふりかえるかというと時代の変わり目には失業者が大量にでる
兵士という職業を失った人たちが大量に生れ仕事がないのでそうした不便な場所でも食べるために開拓に入るほかなかった、そして半分は過酷であり撤退したのである
兵士というときこれはやはり職業であり戦争中は兵士が最も多い就職先になっていたのである、兵士は経済が苦しくなると貧乏になると戦争でも食べるためになるのである
それは常に歴史でも戦争の歴史でもあるからそういうことがあった

そして今コロナウィルスで失業者があふれる、大きな時代の変化では大量に失業者があふれ職を求めるようになる、だから先日まで人手不足で騒いでいたのが不思議だとなる
どこが人手不足だったのかとなる、病院ですら医者にかからず患者が来ないのでつぶれるとまでなった、つまりこの「不要不急」が今の時代の標語のようになったのである
「不要不急」というとき観光業とかも実はそうだったのである
水商売ではないにしろ水ものだったのである、だから急激に100からゼロに近くなるのも驚きである、京都ではオーバーツーリズムで外国人がふえて困っていたのにもう来ないこの変化も大きすぎたのである

でも思うに今起きていることは大きな社会の変わり目であり焼け野原から始まったような変化に見舞われているのだ
だから東京一極集中から地方へ分散する、すると地方が活性化する
それは悪いことでないのである、大きな変化の時代になるとやはり観光業でも何か大きな犠牲が生れる、明治維新では侍が北海道の開拓に入ったように過酷にもなる
侍という職業を失業したからである
ただ昔とは同じようにはならない、でも食べるものがないからと不便な場所に開拓に入るようなことはない、でも農業をが見直されることはありうる
なぜなら耕作放棄地が膨大にあるからだ、それを活かすようなことがこれから起きるかもしれない
今日聞いたのは仙台の大学に入った人が学校に行かなくてインタ−ネットで授業しているという,テレワークすると同じである、教育も相当に変わる
学校に行くというのではなく十分にインタ−ネットのyoutubeとかでも学べる環境が生れたからである

こういう大きな変革の時代にはやはりマイナスの面だけが目立ち騒ぐ
それは戦後大量の引揚者がどうしていいかわからず開拓に入ったと同じである
焼け野原をみて茫然としている、観光業とか飲食業でもそういう状態になったとき地方はそこに頼っていたから苦しい、でもそこに何か活路を見出すと新しい時代が生れる
つまり地方の再生が起きて来る、その前に戦後の焼け野原のようになってしまうことである、それが観光業にでも起きている、交通関係でも起きている
鉄道すら乗る人が激減したからである、前からローカル線は減少していたとしても新幹線までが激減したことには驚いた
こうなるとリニアなど必要ないとなりこれも大幅に予定が狂ってしまったとなる

ともかくこの辺では津波だと原発事故だとか変化が激しい、それにつづいてコロナウィルスでありそういう激変の時代に突入したとなる
だからこれほどに社会が変わるということには驚く、すると新しい時代を作る、適応するということが大事なになる、それがてかなか老人になるとできなくなる
それで飯館村の村長に立候補したのが40代の外部から来た人だということも新しい時代にはそうなる、今までの考え方ではこれだけ変わればできないからだ
他の避難区域でもとても何か復興といっても老人は何もできない
それで外部から来る若い人たちにまかせるともなる
こういうときかえって前からのしがらみのない外部の人たちが主役になれる
第一飯館村とか人が住んでいないのだから自由に使ってくださいとなる
そこに別荘の様な新しい家を建てても住まないのだからそれは外部から来た人たちにゆずるべきだともなる、そうしなければ住む人がいないのだから村が成りたたないからだ
そういう大きな変化の時代には何か信じられないようなことが起きて来る
それがまた時代が変わるということなのである



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2020年04月22日

戦後の焼野原からの日本の復興 (私の家族の歴史)


戦後の焼野原からの日本の復興

(私の家族の歴史)
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戦後の焼け野原は何も失くなったが故に、そこに新たな構築物を建てたり再建することが容易であったのに対し、今度の焼け野原は、再建・再構築するために、一度存在している構造物を物理的に破壊する(完全な意味での焼け野原にする)必要性すら生じるという皮肉である。それにすら人員も資金も必要になる。ほとんど何の生産性もないことに対しての労力と対価を要するのだ。つまり、70年以上前の焼け野原の方が遥かに対応しやすい現実がある。

質(たち)の悪い新たな焼け野原

                                   
戦後十年の生活をふりかえると不思議になる、それは小学校6年くらいまでの生活だった
その時のことをふりかえると不思議である
家族でも父親は明治生まれであり母親は大正生まれであり姉も大正生まれである
ここは変なのだけど特殊な家族としてそうなった
そこが外部から見て自分の家族のことは理解しえないものとなっている
父親は酒屋に丁稚奉公して双葉町の新山の酒屋で働き暖簾分けしてここに定着した
母は原町出身であり原町紡績(はらぼう)で糸取り紡績工場で働いていた
昔の働き口はこの紡績工場であり絹織物がアメリカに輸出していたのでそれが日本の産業だった、戦後電機製品が輸出産業となったのと同じである
どこにでも兜形の屋根の家がありそこで養蚕をしていたからだ
日本の経済力は工業ではなくこの養蚕が国を支えていたのである
それから母は東京に行き女中になった、その頃女性の勤め口は紡績工場か女中くらいだったのである
そして姉は赤紙一枚が来てシンガポールの向かいのジョホールバルでマレーシアの赤十字病院で四年間従軍看護婦として辛酸をなめた

父親が明治生まれでもそこから明治時代をイメージすることがむずかしい
大正時代になると多少二人がその時代を生きたから知るとなるが大正時代は短い
それも子供の時のことである、ただ関東大震災を母は記憶していた
また今の相馬農業高校がある近くに実家があり空襲にあい、防空壕に逃げた話を聞いている、相馬農業学校は空襲で焼けたことがあった
原町は雲雀が原に飛行場があり空襲がかなりあり被害があった

戦後は焼野原が出発した、その光景は凄まじいものだったろう
そこに戦争からの引揚者が大量に帰ってきた、その人たちわずかの土地を求めて開墾に入った、例えば子供の時知っている人は鹿島区の小池に開墾に入った
それは街から近いのである、そんなところに開墾する土地があったのかとなる
なぜなら平坦な土地であり田が多いからである
飯館村の木戸木のようなもう八方塞がりのような場所ならわかる
とういことはいかに戦争からの引揚者がそんなた所まで入っていたかということである
それと不思議なのは街の近くでもまだ開墾する土地があったということである
これは意外である、飯館村のような場所ならわかるがそんなに街に近い所ではありえないからである 
そこに子供の時卵買いに行かされた、自転車に糠をつめて卵を入れる
でも道が舗装されていないから卵が必ず割れるのである
真野川の橋は木の橋でありゆれるから怖い、木の橋であり土の橋だった

何か戦後は食べるために仕事もなく農業する人が多かった、第一戦後でも6割は農家だったとかなる、農業中心の社会だったのである
その時、トイレは外の便所でありその糞尿は近くの人が肥料として運んでいた
それは江戸時代と同じである、燃料は炭だった、だから別に山の中でなくても街から近い所でも炭焼きしていたのである、トイレの紙は新聞紙だった
水は井戸水でありこれは無料だったのである
この生活は江戸時代の続きだったのである、戦前にしろ戦後十年は江戸時代の続きだったのである
だから戦後一〇年でもバナナを売っていない、父親が病気になったとき仙台市から姉が買って食べさせた
そして父親はサシミ食べれるようになったけど食べたくないと言って死んだ
サシミは相当に贅沢品であった、おそらく晴れの日とか特別な日しか一年に一回とかしか食べていなかったのかもしれない

ともかくそういう生活があったことが不思議になる
だから飯館村の木戸木は戦後開墾して入った部落である
そこの交通の便が本当に悪い、草野の方に行くには七曲の道を延々と行くほかないし、大倉に行くにもそうである、そこから出ること自体簡単にできない土地である
ではそこで何を食べてどうして生活していたのか今になるとイメージできない
確かにわずかに田んぼがあり畑があったとしても土地が狭すぎるのである
だから林業とかありそういう山の暮らしがあって生活できたとなるがそれがイメージできない、山菜ばかり食べて生活できるとイメージでないのである
新しい直線の道ができたのは10年以上前のことである
そこに小川が流れていてもそこで魚など見たことない、何か食べるものがとれる環境ではない、そこは森に覆われて人も一日誰も通らない暗い神秘的な場所だった
だから飯館村ではあそこが一番不思議なの場所なのである

戦後十年から急激に高度成長時代になり変化した、その変化のスピードが早かったのである
でも中学校のクラスで三分の一くらいが中卒であり東京に集団就職した
それは蒸気機関車で行ったのである
今になるとそれが思い出せない、イメージできないのである
その時それが当たり前だら特別なものもとして見ていなかったのだろう
でも何か記憶に残っていてもいいはずなのである
だから何が記憶に残るのか?それも半世紀とかすぎると過去はあいまいなものとなってしまう

いづれにしろ戦後焼野原になったとき既得権者も都会の金持ちでも食べるものがないから農家に着物をもって食料と交換したりした
物がないのだから物で交換するほかない、そして母は前の夫が事故で工場の事故で死んだ時、一生暮らしていける金をもらったと言っていた
でも戦後その金が紙幣が本当に紙切れになったのである
ただ実家の近くに買ったわずかの土地だけが財産として残ったのである
預金封鎖があり紙幣は紙切れになった
つまり金はまた紙切れになる恐怖に現代もなっている

こうしてふりかえると焼野原から復興した時代があった
その時また団塊の世代のように膨大な労働力が供給された、それを吸収することが電機産業などであり高度成長時代になった
そのスピードが早かった、なぜなら高校生の時東京オリンピックがあったということは
約10年くらいで急速に日本は発展した、それは中国と同じだったのである
私が十数年前に行ったときは中国は日本と似ていた、でもみるみるうちに発展して新幹線とか走りIT先進国にもなっていた、その変化に驚くのとにている

それから日本はバブルにり下り坂の経済になった
そして膨大な空家とか耕作放棄地とか何かこれまでの成長の基となったものが負の遺産としてのしかかっている
これが戦後だったら引揚者のようにてっていたらこれだけの土地があるのだからその土地を利用していたからである
でも農業は衰退して後継者もいない、平均年齢が67才とか高齢化しているのである
ただ実際は専業農家が農産物の8割を生産している
零細農家は実際はつぶれても実は食料は供給されるのである

こうして時代をふりかえるときこれから日本はどうなるのだろうか?

プラスの遺産が空家とか耕作放棄地とか負の遺産と化している
でも何かコロナウィルスでもそうだが大きな変革が戦後70年でまた起きる
何か無駄なものが多かった、そうした無駄なものが淘汰されて本当に必要なものだけが生き残る時代になる
インパウンドもバブルだったのである、何か淘汰されるものはバブルだった
中小企業でも倒産するというときすでに社会にとって淘汰されるべきものだったともなるそれが一気にコロナウィルスで淘汰され整理されるかもしれなん

つまり新しい時代には不必要なものが一挙に清算されてゆく
そこに金をつぎ込んでも投資しても無駄だとなる
ただ焼野原の方が新しくやり安いというのは言える
いろいろいな過去のものがあるとそれに縛られる、空家でもいつまでもあるよりかえって更地にして別に利用した方がいいとなる
つまり何もないということは新しいものが作り安いということである
だから原発事故で避難区域になった所では膨大な土地が放置されたのだから新しく入って来た若い人たちが自由に利用できるともなる
そこに未来のビジョンを描けるともなる、また人のしがらみもないから人間関係でもそうである
若い人たちに自由に使ってくださいともなにるからだ

ただ老人は庭に木を植えようとしてもそれが十年育つにかかるとか花咲くとかなると植えたくない、それより夏蝋梅が成長していたのに切られたことが痛かった
なぜなら成長するまで時間がかかる、老人は待ていないのである
投資でも十年先とか見れない、その時死んでいるかもしれないからだ
だから老人にとって今あるものが失うことの方が痛手なのである
今あるものこれまで育ててはぐくんだもの家族でも家でも田畑でも人間関係でもそうである
だから親であれ妻であれ失うことが痛手となる、今あるものが貴重でありそれが消失することが喪失感となる、老人はいろいろなものを失う、だからこそ今あるものこれまで築いたものが老人にとって貴重なものとなる

つまり木でも花でも成長させるのではない、成長したものを見ることが向いている
これから種をまいて植えて育ててその実りを見るということに向いていないのである
第一老人は人生の成果を実りを示すことである
それが作品であれ何であれそうである、家を建てたというときそれはその人の実りであるだから常に姉はこの家を建てたことを自慢していたのである
必ず何か成し遂げたこと作ったことを自慢するようになる
これから何かを成し遂げることではないのである
この何か成し遂げるというときかえって戦後の焼野原の方がやり安かったとはいえる
今のようにいろいろなものが作られたものが重なり身動きがとれないような状態だとかえって新しいものは作りにくいともなる
だからコロナウィルスでも何かそうした淘汰作用があり新しい時代が生まれるのかともなる

ともかく家族で死ぬとやがて歴史になる、歴史としてふりかえることになる
家族は身近だからやはり血肉のように歴史をふりかえる、ただそれが祖父母まででありその上となると見たこともないとかなり実感がないのである
私には祖父母がいなかった、母方にいたが祖母とは思えなかった
それは一緒に育たなかったからだろう、何かやはり一緒に生活をともにしないと何でも記憶に残らない、それは肉親でもそうである
人間は去る者は日々に疎しであり何か記憶が薄れて抽象的になる
だから肉親でもともに一緒に生活しないものは記憶が消えてゆく

私の場合60歳までもそれ以上に一緒に生活したから記憶として残っているのである
だからもし本当の両親でも一緒に生活しなかったら記憶にないし両親とも思えないだろう動物でも子供のとき親がいないとき誰でもついてゆく、そのついてゆき育てるものが親となる
父の違う兄とは5年間でも実際に一緒にいたので兄だったのかと記憶している
もしそれもなかったら記憶にないから兄ともならなかったのである
つまり共有する時間があり場があってこそ家族でありそれが記憶となる
その女性は実家で五年間を兄と暮らしていた、でも記憶がないという、その女性は異常に薄情な女性となっていたのだ
少なくとも5年間一緒にいれば忘れないと思うからだ
それだけ人間は変わってしまうということでもある

ともかく人間の家族は複雑なのである、子供の時でも育て方が違う
ある人は8人兄弟で粗末に扱われたことを語っている
風邪などひくと親にしかられるから隠していたとか8人もいればそうなる
私は一人だから過剰に大事にされた、かえって病気でもないのに病気を装ったりした
それは病気になると余計に大事にしてくれるからである
つまりこれだけ育った環境が人間は違うとういことである
それがのちのち影響しているのだ、自分の場合はあまりにも甘やかされ過ぎたということである、一方はあまりにも粗末にされすぎたということである
そういう人は親に対してあまり良く思わないということがわかる
家族でもその差が大きいと思った



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2020年02月11日

日露戦争の勝利の原因 (日露戦争の勝利が太平洋戦争に続いていた)


日露戦争の勝利の原因

(日露戦争の勝利が太平洋戦争に続いていた)

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戦争の勝敗の原因はそれが終わってみないとわからない
日露戦争でもそうである、終わってみるといろいろ見えて来る
人生でもそうである、人生を経験して終わりになる老人になると人生とはこうだったのかとか見えて来る
だから終わりにならないと人生もわからないのである
老人になるとそうして経験したことをそういうことだったのかと意味を見出すのである
だからみんなあんなことして時間の無駄だった、馬鹿のことして時間を浪費したと悔やむのである
つまり何かをする経験する時間も体力もなくなっているからだ

戦争というのもそれも終わってから百年過ぎても色椅子再検討して真実が見えて来る
テレビで放送した日露戦争の勝利の原因は何だったのか?

ロシアは203高地をコンクリートで要塞化していた、それは一つの城だった
堀までめぐらしていたから城だった、その城を攻撃したが容易に落ちなかった
トンネルを掘ってその城のコンクリートの城壁まで攻めて落そうとしたができなかった
それだ多大な死者を犠牲者を出したので有名でありそれで乃木大将は明治天皇が死んで殉死したのである

この戦争をみたとき何か古典的な戦国時代のようにも見えた
城があり城を落とすための攻防戦となれば戦国時代である
ただ海軍はアフリカ回りで日本に来ることを迎え撃つから海軍の戦いである
東郷平八郎が対馬海峡を通ると待った、一日待ったときやっとバルチック艦隊が来て丁字戦法で勝った

これは明らかに地の利が影響して勝った、ロシアは地理的にモスクワとから離れすぎていたのである、それでアフリカ回りで来るにも船底に貝とか何か海の生き物がくっついて
進行が遅くなったとか言う、また船だけでなく人間も疲弊していたとなる

日露戦争では日本は何が何でも勝つという士気が高かった、ロシアはそれほどの士気がなかったとなり勝った
明治という時代はこうして日本が世界の列強の仲間入りする時代だった
イギリスと同盟を結んだというのもそうである
ロシアに多いユダヤ人をユダヤ人のロスチャイルドが応援したというのもそうである

ともかく何か日露戦争はまだ古典的な戦争だったのである
乃木大将も古典的な将軍であり英雄とかされたのもそうである
その後の太平洋戦争とはかなり違っていた
ただ満州の権益でロシアと争いその延長に太平洋戦争に結びつくものがあった
日本は日露戦争からすでに満州に固執していたのである
つまり日露戦争の継続としても太平洋戦争があった
その後はアメリカとロシアと日本の三つ巴の戦争にもなったからである

そしてなぜ日露戦争に勝ったかというとき古典的な戦いであり陸軍が地上戦で戦い海軍が海上で戦う、ここには空軍はなかったのである
だから第二次世界大戦は空軍の戦いであり空軍の強いものが勝つようになっていた
技術的にそうなっていて陸軍でも海軍でもない、勝敗を決めたのは空軍の強弱だった
それで日本がアメリカに負けたのである
信長が武田の騎馬軍を鉄砲隊で破ったのとにている
太平洋戦争では陸軍と海軍ではない空軍が優るものが勝ったのである
それで戦艦大和かでも一回も攻撃もせず海の藻屑と沈んだことでもわかる
空軍が勝敗を決めるのでありそうした海軍の巨大軍艦は役たたなくなっていたのである

戦争の歴史をみるとこれも法則みたいなものがある、なぜ太平洋戦争で日本が負けたのかというとき空軍で負けたとなるからだ
それだけでないにしろ一つの大きな敗因だったことは間違えない
もう一つの原因として人の和もあった
日本軍は下士官が優秀だったが上官とうまくいってなかった
アメリカ軍はかえって上官と下士官はうまくいっていたという
つまり日本は人の和がある、団結力があるというが実際は違っていたのである
鎌倉武士が強かったのは主従関係の強固さにあったというときもそうである
日本軍に上官と下士官にそうした強いつながりを和をもてなかったのである

ともかく歴史は連続している、日露戦争が次の太平洋戦争に結びついていたのである
満州の権益を守るためにゆずらない、そのことがアメリカとの戦争とも結びついた
その時ロシアでもない、それより強大なアメリカが敵がいることに気づかなかったとかともなる、そこに大きな無知があったともなる
その無知がアメリカとの戦争に向かわせたともなる
何か世界に向かって戦線を広げすぎたのである、なぜ西安(しーあん)までも日本軍が攻め入ったのかとかビルマまでも戦線を広げたのかともなる
そんな広大な世界を支配しようとしたのか?成り行きでそうなったのかただ戦略もなく
制限なく拡大化したのかとなる

ただ江戸幕府の300年の鎖国から一挙に世界史の舞台に踊り出した、だから明治は世界に覇を唱える視野がありかえって今よりグロ−バル化していたともなる
日本帝国の国威高揚があった時代だとなる
ただ日露戦争を内村鑑三が批判していたように太平洋戦争に通じるものがその時すでにあって継続されたのである
領土拡張主義がありそれが中国の果てまでも日本軍が進軍したのである

今や戦争は空軍の時代でもない、ミサイルと核兵器の時代である
こうして技術が進歩すると戦争の形態も変わる
ミサイルは核弾頭は北朝鮮からアメリカまで飛んでゆく
そうなると空軍の戦いではない、海軍の戦いでもない、核弾頭が飛んでくるのだから防備しようがないとなる
戦争したらもう核戦争になり相打ちになり人類自体が滅びるともなっているのだ


金州城下作   乃木 希典

山川草木轉荒涼
十里風腥新戰場
征馬不前人不語
金州城外立斜陽


金州城下の作

山川草木(さんせんそうもく)轉(うたた)荒涼、
十里 風腥(なまぐさ)し 新戰場。
征馬(せいば)前(すす)まず 人語らず、
金州城外 斜陽に立つ。

血なまぐさい戦場を漢詩にしている、まだ漢詩にするものとして人間を戦場を見ていたとなる
何か戦争でも古典的だったのである、そして乃木大将は古典的英雄であり武士の鏡とかまでなるから武士の時代を継続していたともなる
明治はまだ侍の精神を受け継いでいたのである
第一明治天皇が死んで殉死したのもそうである、それは古典的武士のすることである

どうしても戦後になると天皇を敬うという篤い心が生まれないのである
だからこうしうて忠義に死んだ古典的な武士が存在したということは明治という時代が作った人間でもあったとなる
その後はそうした古典的武士とかそうした人は出ないからである
第一世界第二次大戦は死者の数が何千万であり何かもう人間的なものを越えた異様なものとなっていたのである
それは詩にするような世界ではなかった、それほど凄惨を極めたものであり人類滅亡の戦争のようにもなっていたのである

いづれにしろもう古典的戦争の時代はない、今度はロボットとかAIの戦争でありそこに人間的なものは消失した戦争となる
背後でコンピュターを操作して人間的なものはなくなる、ロボットの戦争である
だからもう人間的なものはなく無人の荒野でのロボットの戦争になってしまう

日露戦争というとき日露戦争で死んだ人の墓を時々みかける、明らかに戦死した人が地方でも必ずいたのである、太平洋戦争のは目立つが日露戦争で死んだ人の墓もある
そこにあまり注目していないのである

posted by 天華 at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2020年01月22日

団塊の世代の話に共感する (食べ物もないのになぜ子だくさんだったのかの不思議)


団塊の世代の話に共感する 

(食べ物もないのになぜ子だくさんだったのかの不思議)


加治将一氏のyoutubeの話に共感する、やっぱり同世代は経験したことが共通しているから共感する、女性でもそうだった、同じことを経験しているから話が通じるのである
下の世代になると話が通じなくなるのだ
それで50以上の人が話を聞いているのはそのためである、若い人は1割くらいしか聞いていないのである
でも実際は今若い人は若い人の話を聞いて共感している
でも話に共感しても何か人生を生きるための教訓は得られない
第一同レベル人からは何か学ぶものが習うものがないからである

少子化が日本が狭いしいいいじゃないかというとき私もそう思っていた
日本は人口が増えすぎたのである、江戸時代だったら3000万くらいしかいなかったのである
明治になって倍増してきたのは異常だった、大正時代でも東京は百万くらいだったのである、それで東京を称賛する詩人がいたというときそれは今のような大都会とも違っていたからである

団塊の世代で一番不思議なのは子供の時生活だったのである
戦後焼野原になったら何もない、食べ物がないのである
燃料は材木屋の木材の切れ端のバターであった、飲み水は井戸だった、まるでそれは原始的な江戸時代の継続だったのである
私は何か子供の時一番働かされていたのである
風呂焚きから水汲みから店をはじめたときは卵買いとかに行かされたししょっちゅう配達させられたり丁稚のうよに働かされたのである
その頃農家でもみんな子供良く働かせられていたのである
今でも後進国になると子供は労働力として生んでいた
だから男の子が生まれると喜んでいたのである
働き手になるからである、そして子供は親のために働くこと尽くすことが強いられていたのである

そしてなぜあんなに食べるものがないのに子供がわんさと生まれて育てられていたのか?これが本当に今と比較すると考えられないことなのである
私の父親は牛乳をもらうために並んでいた、その頃牛乳もなかったのである
あらゆるものがない、食べ物自体がないのである
今ならいくら貧乏でも食べ物が牛乳などあまっているしいくらでも子供に飲ませられるだろう、それなにのなぜあんなに子供が育てられたのか?
そして今は食べ物はあふれているしいくら貧乏でも牛乳くらい飲ませられる
第一貧乏人の子だくさんは世界で共通している

それでなぜ少子化になっているのか?
それが理解できないというのはわかる、それが団塊の世代からするとそうなる
もちろん生活のレベルが高くなっているから比べることはできないということがある
でも不思議なのは貧乏でも子だくさんでありそれは時代でも世界でも変わらないのである貧乏な国はかえって子供が増えすぎて困っているのである


とにかく団塊の世代の子供の時の生活経験は貴重だった、その時本当に家にはなにもない自分の家には本一冊もなかった、鉄腕アトムとか漫画を読んでいただけである
その後も何か本自体にふれる機会がなかった
田舎では20年前なのかその辺でもまだアマゾンなどないから古本でも何でも本自体手に入らないのである
田舎の書店などしょぼい、今の世界とは比べようがない
それで「冠婚葬祭」の本が百万部売れていた

要するにまともに本は売っていなかったのである、硬い専門書はないし読む本が非常に限られていたのである
だからこれがベストセラーだとしておいたのは本自体がないからだったのである
それでやっと仙台まで行って専門書とか硬い本を買っていたのである
そういう点で今は恵まれている、こんなに本がありいつでもいくらでも必要なら買えるからである、古本がいくらでもあり安く買えるからである
今は東京に憧れるものが本当はなっている
返って田舎に憧れ田舎で空家とか借りて広い庭がありゆうゆうと暮らしたいというのが若い人たちが憧れている、それが時代の差である

そして大きく変わったのは家事だった、洗濯を洗濯板でごしごし洗っていたらもう時間がかかりすぎる、だから私の母は店もしていたから休む暇もなく働いていた
御飯をゆっくり食べる暇もなかったのである、それは異常な生活だった
何の楽しみも余裕もない生活だったのである
それで戦前になると家事の労働が負担であり東京の中産階級でも女中を二人雇っていたということがあった
私の母は女中として東京で働いたからである

本当に時代が変わるとこんなに変わるのかと驚く、それより戦前から戦後を生きた人たちはもっとその時代の変化を受けていた
だから団塊の世代になるとなぜ少子化なのか理解できないとなる
子供を生んで餓死させるようなことはありえないと思うからである
食べ物すらない時代でも子だくさんで育てていたからである

とにかくその時代からこれまでの時代から比べると人間はみんな贅沢になりすぎたのである、まるで王侯貴族のような生活にみんななった
食べ物ではそうである、最底辺でもサシミを食べない人はいないのである
知っている人でも自分よりも一番新鮮なサシミを売る魚屋で食べているのである
でも私の父親は最後にサシミ食えるようになったが食えたくないと言って死んだのであるそれは病気になったためである、結局一生貧乏で死んだのである
バナナも仙台から買って食べさせた、その頃バナナすら売っていなかったのである
こういう時代があったことそして今を考えることが何か理解するのには大事である
それが歴史を知ることだとなる

そして外国生活した人は言うことが違ってくる
それは日本に住んでいいただけでは外国のことがわからないのだ
いくらニュースに接してもわからないのである
旅行しても深いところがわからないのである、だから外国生活をした人は人によって違うにしろ日本が良く見えるからある人は常に日本をこきおろすのである
ただ人によっては日本の良さを言う人もいる、だから日本がすべて外国と比べて悪いとはならないがどうしても日本だけしか知らない人は偏るのである
自分自体が外国で暮らしたことがないから日本の見方が偏るのである
何か理解するにも経験である、本からだけでは外国のことなど基本的に理解できないからだ

ともかくインタ−ネットでも40代以下が主流でありまたyoutubeになると高校生以下小学生が視聴者であり何百万も見ているのである
団塊の世代とか60以上でも本当に少ない、一パーセントくらいしかいないかもしれない
youtubeになると動画だから特にそうである、編集することがめんどうになるからだ
私もワードプレスを試みたがめんどうだとかなる、SSLにするのもめんどうだとかなる、技術的な面でついていけなくなっているからである
でも若い人同士つるんでいては何か人生のためになるものが聞けないことがある

一番人生で世代間で身に染みて差がつくのがいかに人生が短いかということである

時間が一番消失しやすい

時間は金のよう意識できない

馬鹿話とかテレビとかその他常に貴重な時間は奪われている

そしてその時間がとりもどせない

何か若いと生きる時間が無限になるように思えるのである
老人からみると最後は一瞬だったともなる
そして一番大事なのものは時間だったということにみんな気づく
なぜならいくら金あっても時間はもどってこない、時間は買うことができない
だから金がなくても時間を有効に使った人は老人になってから価値あること発表できる
どんな人も時間を無駄にしているからである
あとであんなことして時間の無駄だったと謂うになるからだ
自分もそうであり誰でもそうなのである、でも時遅しでありその時間がとりもどせない
それがみんな年取って一番感じていることなのである
                                              
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加治将一チャンネル

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2019年05月08日

烏崎村の津波被害にあった人と話する (父親は漁師だったが50歳で海で死に会社で働いた)


烏崎村の津波被害にあった人と話する

(父親は漁師だったが50歳で海で死に会社で働いた)
                                                                                

1971年3月に1号機の原発営業運転を開始

昭和52(1977)原町市議会で「火力立地推進に関する決議案」可決
昭和52年鹿島町議会で「火力建設の協力に関する決議案」可決
昭和58年漁業補償協定および付帯覚書を締結
平成5年建設工事開始
平成8年(1996)発電機を送電系統に連系(初並列)
平成9年通商産業省の使用前検査に合格(営業運転開始)

1971年に副失敗第一の原発ができて開始している
1996年にに25年後に原町の火力発電所が運転開始している

それは20年後だったのか?

となると原発はそんなにこの辺では早くから建てられたいたとなるのは注意すべきである

その人は川の土手の道に杖を持って立っていた、そこで立ち止まり話した
その話が長かった、3時間以上も話した
その人は烏崎の人であり津波の被害にもあい復興住宅に家族と住んでいる
一軒屋にしても部屋が二つとか狭いと言っていた

その人は脳卒中になった、64歳だと言っていた、だからまだ若い
しゃべることはしゃべれるし脳はやられていない、ただ足にきして歩くのが不自由になったのだ、そういう人と前もあった、それは同級の人だった
一人は結構重かったのだがダメージは軽くてすんだ
足も悪くないし一時痩せ細っても頭脳も明快である
ただ病気になったから激しい運動はできない、でも自転車で運動するようになった
それで高いヤマハの最新式の電動自転車を買ったのである
もう一人は足にきた、びっこひいている、でも車で買い物に来ている
脳卒中も多いなと思った

その人は何かよっぱらったようにしゃべるが普通にしゃべることができる
一時は呂律がまわらなくなってひどかったらしい、リハビリして回復した
ただ何かときどきしゃべるのが変だから酔っぱらっているのかとも見える
なにか良くしゃべる人であった

その人は烏崎村の漁師の父親のもとに生まれた、その父親が50歳の時海で死んだというから早く父親が死んだとはなる
それでいわきの水産学校に入った、その時漁師になろうとしたのだろう
でも父の仕事は受け継がなかった、すでにその頃から漁師は魚でもとれなくなっていたのか?
                                                                                
漁獲量はピークだった1982年の1282万トンから、2012年には484万トンにまで落ち込みました。前年の東日本大震災の影響もあるとはいえ、約3分の1にまでなってしまった

漁業も農業と同じくこういう状態だったのである

でも不思議なのは妻とヨ−ロッパ旅行していたのである
その時円はドル換算で240円だったという、その頃ヨ−ロッパ旅行した人は田舎ではほとんどいない、ハワイとかの旅行が人気になった時ではないか?
ヨ−ロッパに円が240円のとき行けた人は相当な金持ちである
第一外国はそのときまだまだ遠い所だったのである
だからこんな田舎からなぜヨ−ロッパに行ったということが不思議だった
私も本当は外国に行きたかったがその時は飛行機代が50万円とか高い時があった感じになる、そうなると普通の人は行けないはずである 

ジャンボ機の登場で高額な旅行代金が大幅に引き下げられ、特別なものだった海外旅行の門戸が少しずつ広げられていった。海外旅行者数はジャンボ機の就航を挟み、1969年〜1973年の4年間で4倍以上となる223万人に拡大ーー。まさに海外旅行の第1次ブームと言っても過言ではないが、そのブームの海外旅行客を魅了したものの1つが、ジャンボ機そのもの。そのスケールの大きさは旅客を圧倒し、機内で写真を撮り歩き、収拾がつかなくなることも珍しくなかったという

ジャンボ就航前年の1969年。最低40人単位でパッケージされた旅行が対象で、その価格は個人普通運賃の60%という大幅な割引が設定された。これにより、60万円台だったヨーロッパ商品が30万円台に、30万円台だったハワイ商品は最大7割近い値下げも行なわれたという。

この時から海外旅行は安くできるようになっていたのだ
私が失敗したのはその頃から海外旅行に行くべきだったとはなる、50歳では遅すぎたのである、もし海外旅行を早くしていれば人生が変わるということもあった
だからこんな田舎にすでにヨ−ロッパに旅行した人がいたのである

ともかくトランジスターとか言うとすでに日本の過去となり歴史となった

池田勇人は、「就任以来、高度成長、貿易振興を促している私は、自ら各国の首脳にトランジスター・ラジオを手土産に持って行って売り込んだのだから、偉大なるセールスマン、トランジスター首相」
                      
池田勇人首相はあのだみ声で所得倍増を言った人だった、その時日本は高度成長時代に入っていた、ソニーのトランジスターラジオが売れるようになっていたのだ
何かそれも歴史となりつつあり日本の繁栄期の象徴的なことにもなってしまった
高度成長時代は日本の電機製品は世界一となり売れたからである

この辺で最先端の電話の開発をしていたということもあったのか?

 電話交換手がスイッチボードのプラグにジャックをさしこむかわりに、特定の入力条件が満たされたときにリレーが回路を閉じるという方式を利用したのだ。リレーを使う ...

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こんなことを電話局ではしていて相手の電話とつないでいたとなる
だからこれが不便なので新しいものにするために開発していたが失敗したと言っていた
その時すでにソーラーパネルも開発していたがこれも失敗していたという
ただそうした先進的な取り組みをしている会社となると一流だったとなる

その人の言ったことで不思議なのはもともと今の火力発電所がある所には原発が建てられる予定があったか烏崎村の人が反対してできなかったという
そんてことがあったのか、私は覚えている、火力発電所を東北電力で建てる時会社で案内したのである、それは火力発電所であり原発ではない、ただそういう計画があったのか?その辺が良くわからないのである

火力発電所が建つ前の状態を私は知っている、そこは海であり原町まで砂浜がつづいていたのである、景色的に原始のままだったともなる
右田の松原もあり景観のいいところだったのである
だから火力発電所ができたということは大きなこの辺の変化だったのである
何かそれで烏崎の人に補償金が入り景気良くなって呉服屋が旅行に招待したとか知っている、家族の人が呉服を買っていたからである
ということはその時火力発電所が建った時、景気が良くなっていたとなる
ともかく原町の火力発電所ができてから40年がすぎている 

1971年3月に1号機の営業運転を開始

その約20年後に原町の火力発電所ができたとするとありえる、つまり双葉で火力発電所ができたからこっちにも作ろうということはありうるからだ
ただ意外と早く原発はすでに稼働してしいたのである

宮城県での建設候補地が町域に含まれる女川町および牡鹿町(現・石巻市の一部)の両議会も9月に誘致を決議し、石巻地区市町村長(1市9町)も誘致を請願して、浪江と女川で誘致合戦に陥ったが、1968年(昭和43年)1月5日に東北電力は女川町小屋取地域に建設することを決定した(浪江には浪江・小高原子力発電所が建設準備中だった)

浪江と小高の中間地帯の崖の上に原発は建設される予定だったより工事は始まろうとしていたのである、それが震災と津波で廃止になったのである
つまり津波と原発事故がなかったら小高に東北電力の原発は作られていた
それで小高の大工さんが景気良くなると言っていたのである
そこに建っていると相馬市まで30キロ圏内になり事故があったら住めなくなっていたかもしれない、ここは人口が多いからその被害も甚大になった
そして小高に東北電力の原発が建つことも知らない人が多かった

私自身も知らなかったのである、なぜなら原町はその時市であるから6万くらいの人口があったから左寄りの人たちがいて反対運動してきいるはずだがしない
そして小高でも共産系の人たちが多い町なのにしていないというのも解せないのである
だから知らない人が多かった、原発は何か知らないうちに建てられていたのである
それは原発の土地を買い県の許可がおりりれば作れるというものでみんなで協議するとかなかったのである、だからここには民主主義は全く機能していなかったのである

烏崎で中学の同級生も死んだ、地区の世話役で老人に避難勧告をしていて老人は頑固で逃げないので避難が遅くなって死んだとか言っていた
そういうことは他でも聞く、時間がないのに老人とかを回って逃げ遅れて死んだ人がかなりいたのである
また前が防波堤で遮られて海が見えないからわからなかったということも言っていた
そういえば確かに防波堤の上を自転車で行ったことがある
津波の場合、津波が来たのを見て早く逃げて助かった人の話を聞いている
八沢浦でも海に近いのに津波が来たのを見て裏山に逃げて助かった人がいた
それだけの余裕があったとはなる

海岸に接していても白い波が盛り上がるのを見たらすぐ逃げれば助かった
烏崎でもすぐ裏山があり高い所があったからである
それは歩いても近いのである、何か避難することでも失敗して相当数が死んだのである
大内では津波が来るのを見てトラックで逃げて助かった人もいる
つまり津波は意外は津波が押し寄せるのを見ていると怖いから逃げることがあるが見ないと逃げないこともあった、それが盲点でもあった
人間はやはりじかに見ないと危機を感じなかったということである

その人は今、二間の復興住宅に二人くらいで住んでいる
でも息子はいわき市と仙台にいるというから近いからいいと思った
それなら何かあったら来てもらえるからである
金はないと言っていた、それは船主でなくなっていたからである、漁業組合にも入っていない、仕事は電機関係とかの会社だったからである
そこで働いたことの苦労も語った

ともかく60代になるとなんらか病気になっている人が本当に多い、実はその人の同級生も64であり病気になっていた
自分自身も60代で病気になり入院して手術もしたのである、そのことはプログに書いてきた、まず60代以降は健康が大事である
一旦軽いにしても脳卒中になり障害がでると身体障害者になる
だからその人は歩くことはしても自転車にも乗れないのである
そして時々めまいするとかいうからやはり一時は呂律もまわらなくなったのである
でもリハビリして回復したのである
そして病気になってから誰も来ないとか言っていた、健康ではないからパークゴルフもできないと言っていた、確かに人間が何か病気になったり障害が出ると人は来なくなる
そういう人と付き合うことはさけられる、車も運転できないから一緒に行けないからである、なんかそれも淋しいと思った
車椅子の人を良くみかけるがその人も脳卒中になってそうなったのかもしれない
高齢化社会でこうした人たちも増えてゆくのである

いづれにしろこうして老いて昔を語るようになる、その人はまだ呂律がまわらないようになったりししても語れるからいい、もっとひどくなるとしゃべれなくなるからである
それもショックだとなる、こうして会話ができれば何かを伝えることはできるのである
これも一つの郷土史として記録されるとはなるからだ







        
  


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2019年02月24日

私の父は双葉の新山の酒屋で丁稚で働いていた (その記念の皿を割ったー終活は大きな負担だ)


私の父は双葉の新山の酒屋で丁稚で働いていた

(その記念の皿を割ったー終活は大きな負担だ)

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これは今の双葉郡の新山だけで元は長塚町だった

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歴史という時、相馬藩の歴史とかまた大きくは国の歴史がある
人間が一番興味があるのは自分が育った家の歴史なのである
だから自分のルーツに興味をもつ人が多いのはそのためである
それで郷土史は祖父母からおじいちゃんやおばあちゃんから聞く話からはじまると書いたおじいちゃんとかおばあちゃんはどうしてもその家の語り部になるからだ
何か必ず伝えるものがあるからだ
そこにはただ負の歴史がある、語りたくないものがあるのですべてを語りたくないし
隠したいものがあるしプライバシーにもふれるから他人の家のことをとやかく語りにくい面があるのだ
それで一軒一軒の家が郷土史として歴史なのだけどわからないのである

ただ家族がみんな死んで自分の家に残ったのは自分一人である
すると私自身に課せられたものがある、それを残す作業をしている
終活というとき物の整理になるが実際はそれだけではない
親や祖父母の残したものは物が残ったとしても精神的なもの、モノでは語られないものが多いからである、つまりモノがあったとしてもそのモノにまとわりついたストリーが思い出があるから簡単に捨てられないのである
モノとは単なる物ではない、その残されたモノにはこれまで生きた思い出がしみついているからだ、親が死んだときだからそういうものを整理するとき捨てていいかどうか悩むのがわかる

そういう自分だってもういつ死ぬかわからない、それで自分自身の終活もある
それが重なるのが高齢化社会なのである
まず家の物を整理する作業が大変なのである、だから放っておくとゴミ屋敷になることがわかる、何か整理することが相当なエネルギーを必要とすることがわかったからだ
それで毎日整理しているのだけど整理できないのである
それは知的作業としても今まで書いたものを詩などが膨大にあっても整理できないのである
そして家事をするにもしやすいように整理整頓しているがこれもまた苦労なのである
毎日家事をすることや整理の仕事や料理でもしないなるとそうしたことに追われている
そしてつくづく人間はいろいろなことに頭が回らないということである
それで冷蔵庫でも良く見ていないと同じものを買っていた
認知症になるとそういうことが多いが度々開けて見ていなと何があるかわからなくなっているのだ

この皿を割ったのはそこにあったことを忘れていた、棚にあったがそこから落ちた
それで割ったのだがその時はじめてこの文字を書いてあることに気づいた
磐城国新山」とあった、磐城国というとき磐城大田とか原町の隣の駅にあるように
磐城国にこの辺はなっていたのだ、それは明治以降そうだった
それで葛尾村(かつろう)にも磐城落合とか地名が残っているのだ
そして浪江とかは今でもいわきナンバーなのである、つまり磐城国を受け継いでいるのである
ここで私の父親は葛尾村からこの酒屋で丁稚奉公に出て働いた、そして暖簾分けして鹿島の地に移ったのである
それは聞いていたのだがあまり意識しなかったが家族がみんな死んだ結果意識するようになった
今でも大きな酒屋が双葉には残っている、富沢酒造店であり煙突も高いので営業していたのである
その辺の近くに私の父親が勤めた酒屋があった、でもそれは倒産してなくなったのであるそれは戦前のことであった、そして父の娘である姉はそこに銀行があったとか言っていたその当時おそらく銀行はどこにもない、めずらしいものだったのである

とにかくこうして残されたものが物語ーストリーがある、それが歴史である
モノがあったとしてもそこには必ず物語がつきまとっている
そういうものが一軒一軒の家に残されている、そして蔵のある家などで何か探していると偶然に遠い過去のことが資料として出てきたりする、それが貴重な郷土史になったりするのである

いづれにしろこの終活は時間がかかる、それは物を整理するというだけではない、そこには物語とか精神的なものが付随しているからである
それを受け継ぐことをどうするのか?
それは国家的なものでもそうである、戦争で300百万人死んだという時もそうである
一体そうした死者をどうするのか?どう扱うのかとが大問題になっているからだ
それは70年過ぎても解決しないからである
後世のものがそうした歴史の負の遺産であれプラスの遺産であれ引き継ぐことになるからだ、それで姉が従軍看護婦として四年間シンガポールの隣のジョホールバルで地獄の苦しみを受けて生還した
そのことを死ぬ直前まで語って死んだ、認知症になってもそのことが一番印象的だったから忘れなかったのである

それで失敗したのが認知症になっても島根県の戦友がいてその人からもらった手作りのバッグを肌身離さずもっていたのである、そして連絡が絶えてしまった
その時死んだことを連絡すればいいと今になって思った
すでに死んで8年もすぎた、今になって気づいたのである
なぜなら認知症になったことでふりまわされ次に母の介護とか津波原発事故とかで何か余裕をもってふりかえることもできなくなっていたからだ

ただインタ−ネットのプログとかこうした個人的なものを書き残すには向いている
そうでないと公にされないから普通は個々人の家の歴史はわからない
伝えられないのである、またプライバシーがあるから伝えにくい面がある
でも歴史として郷土史として残す価値はある
つまりどうしてその家が郷土で成り立ちまた繁栄したりしたのかという物語がわかるからだ、何か繁栄するにはそれなりの理由があるからである
もちろん母の実家は父が警察署長になったとしてもその後機織り工場経営で失敗して一家離散になったとかそこには残される歴史でも負の部分が多いし親戚ともめたので今は私は墓参りもしない、そういうふうにいくら家の歴史でも負の部分が大きいと語りたくないとなってしまうのである
ただこの負の部分が必ず家にはある、だからあまり一軒一軒の家でもその家のことは語りたくないとなる、だからあるその土地の家が語られるときやはりその土地で何かしら貢献した家だとなる

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2019年02月03日

従軍看護婦となった姉への召集令状 (マレーシアのジョホールバルへ4年間の従軍へ)

              
従軍看護婦となった姉への召集令状

(マレーシアのジョホールバルへ4年間の従軍へ)

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小林カツ


召集令状には「一銭五厘」という俗称もあるが、これは応召者が本籍地から離れて住んでいる場合、実家から郵便で令状が届いた旨の連絡がされていたことにちなむもの、とされている。
しかし実際には、通知を受け取ってから部隊へ出頭しなければならない日時までの時間的余裕があまりないのが一般的なため、電報などで知らされることが多かったという。
令状の表面には「応召者の氏名」「配属される部隊名」「部隊へ出頭しなければならない日時」が、裏面には「この令状の提示により、部隊所在地までの交通費が割引になること」「天災や伝染病の流行による交通遮断などで、期日までに部隊へ出頭できなくなったときの連絡先」「応召者の心得」などの備考や注意事項が記されていた。


通知を受け取ってから部隊へ出頭しなければならない日時までの時間的余裕があまりないのが一般的なため、電報などで知らされることが多かったという

これは召集令状というより電報で知らされたのである、カタカナで召集令状とあり福島支部とあり赤十字の支部なのである
これは陸軍の命令であり三陸会というのに所属していた

とにかく急なことでありそれでとまどうとか考える余地もなく戦地の地獄に連れていかれたのだ、何か悪いことは何でも急に予告なもなく来るのが多いのである
ベ―トベンの運命のうよにである
その時父と母でも別れを惜しむという時間とか余裕さえないものだった
それはみんなそうである、赤紙一枚来たらすぐ戦地に行かされたのである

今日奇妙だった戸棚を開いたら姉の母の遺影が出て来た
姉の母は私の母ではない、私の母は姉の母が死んで後妻に来たのである
姉の母は姉が戦地に四年間行っている間に死んだのである
そして姉が帰った時死んでいた
それで墓を掘り出してその母の顔を見たという、まだ顔でもそのままだったとか言っていた、それほど日にちがたっていなかったのか?
その頃は土葬だったとなる
姉は父にたって頼み埋められ死体を墓から掘り出したのである
これも悲劇だった、つまり急に召集令状の電報が来てすぐに戦地に行かされてそれが遂のこの世の別れとなってしまったのである
人間は何か思わず最後の別れとなることも多いのである
戦争の時はみんなそうなることが多かったのである

姉の母は新地の出でありそのことはわかるが後は一切わからない
ただ不思議なのは戸棚の奥に姉の母の遺影が残っていたことである
姉の母のことを知っている人はいるだろうか?
親戚ににいたがその人との縁も切れたし今では姉の墓参りとかに来る人もいない
なんらか死んだりしているし縁がみんな切れてしまったのである
親戚なども代が変わると疎遠になり縁が切れるものだった
私の家にはそもそも親戚がいない家庭だった
母の実家の縁も切れた、だから残っている親戚関係はいないのである
こんなに親戚家系などもいづれ切れてしまうのである
これも無常である

戦争のことは親の代が実際に戦争を経験していればその子はその話を聞くがその孫となると伝えられたことを聞くから何か別なものになる、実感がさらになくなるのである
戦争というのは経験しない限り理解しにくいものなのである
人と人が殺し合う世界は実感しにくいからである
だから孫に今度は祖父母の戦争経験を伝えてもさらに理解しにくくなる

ただ戦争の経験が実際はあまりにも重いものだったのである
それで姉はひどい認知症になったけど死ぬ一か月前まで戦争のことを話ししていた
その前にも千回話を聞いたので嫌になっていた
でもそれだけ青春が戦争だったということで忘れ々ことができないものだったのである
青春時代のことはなかなか忘れられないことが平和の時代でもあるからだ
貴重な青春時代を戦争に費やされたのだからそうなる
姉はあねご肌であり体育系でありはきはきしていて頭の回転も速い
太っていたけど動くの機敏であり大の男も恐れなかった
かえって大の男が恐れていたのである
それだけ気丈夫だから家を支えたとなる、ただ何か死んでから訪ねる人もないということは淋しいとなる
ともかく人間は死ぬと急速に忘れられるのである
そんな人いたのとなってしまうのが普通なのである

家というのは今整理しているけど何かそうしたものが出てくる
それは記録として思い出として残されたものなのでみんな捨てるわけにはいかない
これば貴重な資料だとなり家にとっても大事だとなる
そして姉の母のことは忘れていた
それが戸棚を開けたら奥にその遺影があったのである
これも不思議だともなるがやはり家にはそうした記録だけでない現実に家にはそうした家に思いがあり残っているとなる

何か思いが家に残っている、私の家の墓には父と姉と母と父の前の母と後妻に来た兄が埋まっている
兄は不幸にも交通事故で41歳とかで死んだ
母の実家に埋めたがその骨もなくなっていた、それで私の家の墓の隣に墓標を建てて供養している、そこには骨は埋まっていない
私は恵まれたが兄は恵まれなかった、それで墓標をたてて自分が一人供養している
娘がいるとしても何か関心がないのである
何かひどいめにあったから恨んでさえいるのである
ともかく家には何か必ず負の面がある、それはどこにでもある

私は今毎日整理が仕事である、家の整理というのは簡単にできない
終活といってもなかなか終わらないのである
それはやはり家にはそれぞれに家で暮らした歳月が長いからそれを次の代でもすべて終わりにすることはなかなかできない
それで何か残っているとそこから死んだ人を思い出すのである
特に古い家だと蔵がありそこに何代も前のものが残っている
それで先祖のことをふりかえるのである
それぞれの家自体が二代でも歴史になっているのである 

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我が家にありしも忘らるその遺影い出きて思ふ家の歴史を

時にして忘らる死者のその霊の浮かびて思ふ冬のくれかな

思うは面うになる、面と顔と関係していたのである、遺影がそうだったのである
この女性は新地の人でありでも戦前になるともう実家もわからないし誰も知らないとなった
もう時がこうして過ぎればみんな忘れられてゆくだけである
墓さえ捨てられる時代だから最後に記憶するものもなくなんてゆくのである




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2018年12月28日

「おしん」の再放送を見る (明治大正戦前戦後十年の庶民の生活は江戸時代の継続だった)


「おしん」の再放送を見る

(明治大正戦前戦後十年の庶民の生活は江戸時代の継続だった)

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学校に子守りして行ったが学校で学べなかった
奉公先で字を正式に覚えたのである



「おしん」の再放送を見た、これも古なった

『おしん』は、1983年(昭和58年)4月4日から1984年(昭和59年)3月31日まで放送されていた日本のNHK連続テレビ小説第31作。

これは34年前である、その時の俳優も若かったなとつくづく見る、その一人はもう70代で死んでいる、30代だと若いなと見る、女性は20代である
このドラマほど人気になったものはない、外国でも放送されるようになった

おしんは山形県の最上川沿いを舞台にしている、山形県は雪が深い、それがわかるのは仙台から面白山のトンネルを春にぬけるといつも雪が残っていることである
山形県と宮城県の境はここでは明確なのである
トンネルを抜けると雪国だったとなる、山形県は最上川がありそれが道となり酒田に通じている、そして酒田から大阪とに北前船で米が運ばれた道でありベニバナが運ばれた道である、それで山形市内には市が開かれた日にちの地名が多い
それだけベニバナなどが主に売られた市がたち最上川経由で運ばれたからだとなる
三日七日十日市とかあり常に市が開かれていたのである、それだけ取引が盛んだったということである

このくおしんを見てなつかしいなと見たのはこのドラマの内容が心に訴えるものがあったそれは私の父親が明治生まれであり双葉の新山で酒屋の丁稚奉公に出ていたからである
そして暖簾分けして今の土地に住んだのである
そして私もその跡を継いで住んでいるからである
丁稚奉公とは明治以降でも江戸時代と同じく普通にあった、子供の時から丁稚奉公に出された、松下幸之助すらそうだったのである
そこが学びの修行の場だったのである、学校でもあったのだ

それでなぜ私の父親が良く筆で字を書いたのかということを疑問に思っていた
どこで字を覚えたのかと疑問だった、それがおしんのドラマを見てわかった
おしんも字がわからなかった、それで奉公先で子守りさせられて学校にも行った
子守りしながら学校に通っていて嫌われた
それで学校には行かなくなったが何か字を教える人がいたり字を読むものがあり読んだりして字を覚えた、その後は奉公先で字を教えられた
そのことで子守りさせられた大正生まれの女性が子守りして学校に行けなかったと聞いたでも小説を読んで覚えたということを聞いたのでそういうことだったのかとこのドラマをまた見てわかった
丁稚奉公の先は教育の場だったのである、私の父親も丁稚奉公先で字を覚えたのである

つまり明治に代わっても庶民の生活は変わらなかった、丁稚奉公とは江戸時代からあったからである、そして明治になっても庶民の生活そのものはさほど変わらなかった
竈で米をたき炭を使い水は東京でも江戸水を使っていた、水道がなかったのである
私の世代は子供の頃、同じ生活をしていから実感がある
ただこのドラマを見て感じたのは死んだ父親や母親のことを家族をふりかえるようで懐かしく思ったのである

過去をふりかえるとき祖父母までは話に聞いても生々しいのである
でも江戸時代になると遠くなるから実感がなくなる
でもこのおしんのドラマでも東京に出たおしんが大正時代でも脚気になっていた
白米を食べられたのはいいのだが脚気になった、それは江戸患いと言われたものでありこれも明治から大正へと継続されていたのである
江戸時代の継続が明治大正戦前戦後の十年間くらいまで普通にあったのだ
ということは庶民レベルだと江戸時代と変わらない生活をしていたのである
違ったのは確かに学校ができたことだがそれでもみんな大正時代まで学校にも通いなかったのである、それは貧乏のためにそうなっていたのである


髪結いでもそうである、日本髪に師匠についておしんが働いたが、洋風の髪型に変わった時期である、そういう変化があったが日本髪はまだ基本としてあった
それからその頃米が経済の基本としてありおしんは米五俵ひきかえに奉公に出されたのである、それは江戸時代と同じなのである、米が貨幣だったのである
そのことを母が製糸工場の女工だったので米十俵とか賃金の代わりにもらって親に喜ばれたとか聞いた、その頃も米が貨幣代わりだったのである
小作と地主の話もこれは生々しいものとして残っている
そのことが当時の最大の農民の問題だったのである、格差の問題でありそれは地主と小作と明確に分かれていたからわかりやすかったのである
現代も格差社会になったという時複雑で何が格差を作り出しているのかわかりにくいのである

いづれにしろ親の人生は生々しいものとして子供に伝えられる、それで祖父母から聞いた話が郷土史になると書いてきた、それは生々しいものだからである
ただ戦争とかなると日常から離れているからわかりにくくなるのである
普通の生活ならわかるが戦争はとても経験した人でないとわからないのである
この辺では津波とか原発事故のことは延々と語られる、それは一時代が終わった時冷静に回想されるのである
その時起きた渦中にいると何か冷静に回想できないのである、あとでこうだったのかとわかる、それは歴史でもそうでありこうして親のことから昔を回想して歴史をふりかえる
こういうことはやはり老人に向いている
何か経験したことを実感しとて語れるからである、そのことで現代を見ると違ったものとして見えるのである

とにかく戦前戦後大正明治の生活はみんなおしんだったのである、そういう過酷な生活、貧乏が日本人の普通の生活だったのである、私の母親もそういう生活だった、女工で十年、東京に女中で働くとか同じような生活だったのである
それでおしんの再放送を見て実感した、昔のことが映像から生々しくふりかえることだできたとなるからだ
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2018年12月13日

明治維新で日本だけが工業化できた謎 (識字率の高さとか教育の結果なのか?)


明治維新で日本だけが工業化できた謎

(識字率の高さとか教育の結果なのか?)

明治当初の就学率は男子43%、女子10%と推計するデータもある。さらに、開国以降、日本の輸出を担ったのは生糸であるが、その生産は慶長元和(1596年〜1623年)から正徳享保(1711年〜1740年)のころまでの約100年の間に生産量が4倍増となるなど、問屋制家内工業を主体として定着しており、明治以降、基幹産業として発展する素地ができていた
改正小学校令(1907年)で6年と定められ、そのころまでに小学校への就学率はほぼ100%近くにまで高まった


1902年明治35年116歳
1912年明治45年
1912    大正元年106歳

まず工業化という前に識字率が上がらないことにはどうにもならない、工業化の前提として読み書きができなければできない
その読み書きが江戸時代にすでに寺子屋などがありできる人が多かったという
でも現実は読み書きは侍階級ではできていたが庶民は別である
農民で読み書きできる人は少なかったのではないか?
識字率が高い、読み書きできる、文字があることが文明を作る、だから楔形文字とかエジプトのヒエログリフなどで文字が神聖化されたし中国では漢字が発明されたときも神聖なものにされた、日本が奈良時代に中国から漢字を取り入れたとき唐の文明文化を取り入れて国家を形成した、だから読み書きができることが文明化できる基本になる

明治維新でもそうだった、外国語を訳すとき大和言葉だけでは訳せないのである
新しく入って来た概念を現す言葉を作れないのである
それで漢字で造語したのである、それが中国にも逆輸出されたとなる
つまり漢字にはそれだけ造語能力があるということなのだ
大和言葉にはないのである、新しい概念はカタカナにするほかないからである
それも明治維新に成功した理由だとなる

言葉がなぜ基本になるのかというと技術的なことでも言葉を通じて取り入れることが最初にあるからである、物だけではな言葉を通じて新しいものが入ってくるからである
それで翻訳するのでも日本人は苦労した、杉田玄白らの(解体新書)などがそうである
それはあらゆるものでそうだった、つまり明治維新という時、侍の吉田松陰とか西郷隆盛とかの英雄が話題になるがその底辺でも何か明治維新を成功させるものが働いた
上を改革しても庶民レベルでも何かそれだけの改革をさせるものがなければできないと思うからだ、そういう下地がないとできないからだ

だから何かがその下地としてあったからできたとなる、ただ工業化というとき籠で人を運んでいるようなのを見ていると急速に鉄道になったということの変化は大きかった
最初鉄道が使われたのは人を運ぶというより物資を運ぶことだった、常磐炭田ができて石炭を東京に運ぶために常磐線ができたともなる、それはどこでもそうだった
その後に人を運ぶことが主となったのである
イギリスで産業革命が成功したのはエネルギー源として石炭が豊富にあったからだとされる、そこに技術改革があり成功した、何か下地となるものがあって成功する
何もない所から何も生まれないともなるからだ

だから確かに日本の教育が読み書きができる人が多かったからそれが下地となり明治維新が工業化をいち早くできたというのは大きな原因だということが言える
でも最近わかったことは私の父親が葛尾村から酒屋に丁稚奉公に出て双葉の前の長塚村の新山で働いていたということを書いた
私の父親は良く筆で字を書いていたのである、明治生まれでありどこで字を覚えたのか?どうも学校ではない、それがなぞのだが字を覚える場所はまた寺子屋だけではない、葛尾村に寺子屋があったとは思えないのである

それで最近読んだ本の中に丁稚奉公で字を学んだことが書いてあったので納得した

「相模屋の丁稚たちは店の営業を終えた後、番頭の忠兵衛が師匠役でいわゆる読み書き算盤を教わっているというのです、しかし下女の自分は教えてもらえない、丁稚たちが字を教えてもらっているのをみるとうらやましくてしかたがないとそれを聞いてほろりとしましたね」〈不便でステキな江戸の町ー永井義男)

下女は字を教えてもらえなっかた、丁稚は仕事上字を読み書きできないと仕事にならないから覚えさせられた、私の家には父の通い帳が残っていた
とにかくよく筆で字を書いていたのである、そして死ぬときも最後に記念として将棋盤に私の名前を書いてくれたのである
人間にとってやはり基本は読み書き算盤なのである、それが高等になって算盤が数学とかになってゆく、算盤ができて工業化しえたともなるのだ

この本では当時子守りが普通にいてみんな年長の女性は子守りしていた
それで子守りのために学校に行けないという人を知っている
それで何かその女性は小説を読んで字を覚えたとか言っていた
その女性はまともに学校には行っていないのである
それから明治生まれの人で字を読み書きできない人がいた、その人は人に頼むのだがそれで引け目を感じていた
私の母は生まれだったけど字は書けていたのである
尋常小学校出であったが読み書きソロバンはできていたのである

とにかく日本人は教育熱心だったということは確かだろう、それが工業化に成功した要因だったということもわかる
ただ明治になっても大正になってもみんなが読み書きできていたわけではなかったのである

いづれにしろ明治維新というとき英雄が出たからといってそれだけではとても成しえない社会全般の根本的な改革だからそうなった、それができたことの大きな要因に日本人が読み書きソロバンができたことにあったともなる
そして漢字の役割も大きかった、それは奈良時代と同じである
ただ英語にしても江戸時代にすでにオランダ語ができる人がいたし医学の面でも西洋医学に触れていたから明治維新後も取り入れやすかったということはある、下地があったからである、おそらく江戸時代は何か遅れた社会のように見えてもそうでもなかった
ただどうしても駕籠のようなもので人を運んでいたとかそんなに技術が遅れている国で近代化工業化できたことが不思議に見えるのである
時代劇はリアリティがないということは確かである
子守りの女性が映らないのはありえない、そこらじゅう子守りしていた
それはその役をする女性がやはり子供だからできないとしている
小学生の女の子に赤ん坊をおんぶさせることができないからだという。
時代劇は本当の江戸時代のリアリティを映していないのである

江戸時代を知ることはやはりこれも積み重ねなのである、でもそうした経験がないものは本を読んでもピンとこないのである
私の世代は団塊の世代は子供の時

江戸時代を経験している        

水道もない、井戸水を街内ではもらって生活していたとか、電気は裸電球一つだったとか電気製品は他に一つもないとか燃料は炭だったとか本当に江戸時代だったのである
だからその時の経験は貴重だったなと今では思う
どうしてもあまりにも今は便利すぎてそういう生活がイメージできなくなったからである炭だと暖房しても相当に寒い、エアコンとか電気炬燵とも違うからである
人間は人の話を聞いても戦争のことなど経験した人しかわからない
いくら話を聞いてもその悲惨さを理解できないのである
それはリアルな体験がないからそうなる、江戸時代をイメージするとき一応親とかから昔のことを聞いているからまだ団塊の世代くらいは理解できるのである

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子守りしながら学校に行く
ただこの時は教室に入っていない
みんなが学校に行けたわけではなかった

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2018年11月26日

隠されたトラウマ〜精神障害兵士8000人の記録〜 (死ぬ直前まで消えなかった戦争のトラウマー従軍看護婦だった姉も同じ)


隠されたトラウマ〜精神障害兵士8000人の記録〜

(死ぬ直前まで消えなかった戦争のトラウマー従軍看護婦だった姉も同じ)


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小林カツ(85歳死亡)

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このうち何人かは若くして死んでいる
会津の人とか従軍看護婦との交流があった
この時福島県の従軍看護婦が集められた
福島県の赤十字の支部である
ここでは十人がいた
昭和17年だった

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この会報が長く続けられていた、ここがジョホールバルの病院である
やしの木があるから南国である
ここに戦友の従軍看護婦がいて島根の女性からもらったバッグを認知症になってからも肌身離さず大事にしていた
これも認知症ではある、やはり人間は最後は記憶が大事になる
認知症でもそうした大事な記憶は忘れないのである
特に青春時代に異常な苦労をしたからこれは終生死ぬ直前まで忘れなかったのである
島根の戦友はまだ生きているかもしれない、93歳とかになるだろう
姉は85歳まで生きた



NHKのこの放送は生々しかった、なぜなら私の姉はシンガポールで向かい側のマレー半島のジョホールバルで四年間従軍看護婦として働いた
そこはイギリスの赤十字病院だった、青春時代の四年間は長い
そこでいろいろな体験をしたが過酷だった、姉自体は丈夫な気丈な人でも腸チフスになったとか苦しんだ、一番苦しんだのは戦争終わってからだった
ジャングルに逃げて食料もなくなったときだった
ジャングルは何か食べ物があったのだろう、ただそこで病気になりやすかった
マラリヤになりそれが基で精神病になったとか梅毒精神病になったとかある
隣の人が実は姉と戦地であったというのも奇遇だった
その人は戦後精神病になった、それは梅毒精神病であったのだろう
なぜなら奇声を出して徘徊したり異常を来していたからである、それは子供の頃でも覚えている
マラリヤから精神病になったというからそういう人はかなりの数にのぼっていたのである
すべてが記録されるわけではないからだ
それから何か精神病の人がいたがそれも戦地から帰ってなったとか聞いた
必ずしも病院に入った人だけではない、家族のもとに帰って人もいたのだ

この戦争のために精神病になったとか自殺したとかは相当数にのぼっている
なぜなら病棟でも姉は窓から飛び降りる人とか苦しみのために自殺しようとした人がいたとういことを聞いたからである
戦争は人間を極限状態においこむ、そこで何があったのか?
それはなかなかしりえようがない、ただ一時的に普通であってもその後も戦争の悪夢に悩まされていた、それで時々戦争の後遺症がトラウマとなって突然怒り出すると異常性が残っているとかあった、戦争のトラウマは実際は50年過ぎても死ぬまで消えなかったのである
姉は認知症になったけど最後はその戦争のことを千回語り死んだ
死ぬ直前まで戦争のこと語りうなされていたとなる
だからこのNHKの放送でもそれはそうだったなと納得した
それだけ過酷であり脳に戦争の悲惨さ残酷さが刻まれて心を病んでおかしくなっていたのである、ただ姉には別に陽気な人で日常的にはなにもない普通の人だったのである
何か異常性はなかったのである、何かそうして日常生活で異常性が残った人は少ないと思う、ただ時々でも常に戦争のトラウマが出る
それは死ぬ直前までそうなのだからいかに戦争が過酷で悲惨だったかわかる

ただNHKの放送ではシンガポールとかマレー半島には精神障害を出たという印がなかった
そこは意外と楽勝だった、シンガポールやマレー半島は簡単に日本軍の攻撃で陥落したからである、他は中国でも地元民でも攻撃されて四苦八苦して犠牲があった
それで姉の場合はまだましな地域にいたとなる
そして従軍看護婦だから人を直接は殺してはいない、看護だから人を殺すトラウマはなかった
でもいくら苦しいことでも50年過ぎるとかすれば死ぬ頃は忘れるのである
それが忘れられないということは青春時代だったこと多感な時期だったことなどが重なったからである

戦争は勝にしろ負けるにしろあまりにも異常な状態でありその非人間的な行為は死ぬまでトラウマとして残る
日本の戦争は無理な強行だった、もう兵士になるものもいなくて40歳以上でも徴集されていたしその記録が相馬市から招集された記録が短歌として残したのをプログに書いた
そして戦争に精神薄弱者まで徴兵していたのである
それだけ兵士になる人がいなかったのである、例えば建築現場には精神薄弱者がまぎれこんでくる、高度成長時代人手不足でそうなっていた
今の時代も人手不足になるともう誰でもいいからかき集められれる
いかに日本の戦争が追い詰められていたかこれでもわかる
ただシンガポールとかマレー半島でイギリスに勝ったとういことは評価されている
歴史的快挙だったとされているからそれがどういう意味をもっているからまた別である
アメリカがベトナムでもイラクでもやはり同じように精神障害になりトラウマになった
戦争はどっちが勝つも負けるも過酷であり残酷であり正常感覚を奪う
まず人を殺したたらやはり何かそれがトラウマとなる 

姉の場合は比較的にまだ戦地としては楽勝でありそれで中国とか他よりは条件が良かったとしても死ぬ直前まで戦争のことが忘れられず認知症になっても千回話つづけて最後の一か月前も意識不明になる直前まで話していたのが戦争のことだったのである
だから今回のNHKの放送は納得するものがあった
そういう話をやはり子供に伝えられている、まだ戦争の現実はその子供辺りまでは伝えられる、でも孫とかその後になるとなかなか伝えられなくなる
だから資料として残すとか何か記録を残して語りつづけることが必要になる
ただ長生き時代で百歳の人まで出ていたからその人が語ることはまだ生々しいとなる



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2018年11月05日

150年過ぎて見直される明治維新 (国家神道化などその弊害も大きかった)


150年過ぎて見直される明治維新

(国家神道化などその弊害も大きかった)

過度な中央主権

過度な国家神道

過激な薩摩長州の倒幕

過激なアジア侵略思想


明治維新が150年過ぎて見直されている、歴史は現代を今生きている人から見る
すると時代によって見方が変わる
150年の間に日本は大きく変化した、70年前に太平洋戦争があり日本人が3百万人死んだ、そのことが明治維新の見方を変えてしまう
なぜそんな犠牲を出してまで戦争しなければならなかったのか?
それを問うとき明治維新にまでさかのぼり見直すことになる

ここにあげた四つは一つになっている、それは対外的に外国の対応から過激思想が生まれた、外国勢力に対抗するためにはどうしても中央集権国家を作らねばならなかった
それで吉田松陰とか西郷隆盛にも朝鮮征服の思想があった
明治維新からすでにアジアへの進出思想があった
それは太平洋戦争まで継続していたのである、歴史は継続である、江戸時代の継続があって明治維新があり突然全く違ったものとして外来のものを全面的に受け入れることはできない、日本には変革できる土壌があってできた
だから明治維新でも実際は幕臣が官僚となり支えたとされる
幕臣とかが今もちあげられるのもそのためである

薩摩長州は明治維新のビジョンをもっていなかった、幕府を倒す倒幕を先決したのであるだから実際は薩摩長州の倒幕が先であり何か革命思想があったわけではない
四民平等という思想もない、それは後で生まれた思想であり薩摩長州が幕府に代わって権力を握ることだった、だからクーデーターだったという見方が生まれる
そしてテロが盛んにあったからまさに吉田松陰はテロリストにすぎなかったとなる

そして過度の国家神道化して過度の中央集権になった、それは外国勢力に対抗するためになった、ナショナリズムというものではなかった、なぜならナショナリズムとなるとナショナルは国民でありその時国民は存在しないからだ
士農工商の農工商は全く政治に関与していない、なんの発言もできない
国民という意識もない、ただ藩に所属して命令に従うというだけである

だから薩摩長州のクーデータ−だというときまさに武士同士の政権争いが戦争に発展したとなる、庶民はかかわりないものだったのである
会津のヤーヤー一揆では農民の日ごろからの不満が爆発した
ヨ−ロッパだったら城は城壁で囲まれてその中に市民がいて一体である
だから他国のものが攻めてきたら城壁の中の人も一緒に戦う
でなければ殺されるとなるから戦うのである
でも日本だったら会津のことでわかるように城が燃えようがそこで侍が戦おうがどっちが勝とうが関係ないのである、ただ税を軽くしてほしいということだけである
そこで会津藩が薩摩長州に代わっても同じだから税が安くなればいいと思うだけだったのである
ヨ−ロッパとは歴史が違うからこんなことが起きたのである
そこでブルジュアとか生まれたがそれはブルクから城から生まれた言葉である
それは裕福な人だとなるがもともと城と城壁で囲まれた市民は一体だったからである

いづれにしろ日本はヨ−ロッパのような市民の都市とかがない、封建制はにていても市民というものがいなかったのである、そこに市民の自治もなかった
村がは市民という大きな共同体ではないからである
その相違があり明治維新は武士同士の下級武士の革命だというときまた薩摩長州のクーデーターだったというとき歴史の相違でもそうなる
フランス革命とかなると庶民も参加した革命だから違っている
明治維新は武士同士の争いであり政権をとる戦国時代のような権力争いだったともなる

そこに日本的なものとして天皇がもちあげられ国家神道が上から強力な圧力でおしつけられ廃藩置県も天皇というものがあってできたと大久保が言うのはそのためである
日本の歴史は天皇でまとまる社会だったからである
それで天皇が二人出たとき南北朝の争いが60年とかつづいたのである
ただそのことのマイナス面としてあまりにも国家神道が協力に権力によっておしつけられた、そのことで弊害が大きかった
廃仏毀釈とかあったり思想統一が国家神道で成された
その国家の権力によってもともとのその土地土地の社なども格付けされたり国家神道化されたのである、それが地名にも影響していたのである
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伊東ひとみ. 地名の謎を解く―隠された「日本の古層」―(新潮選書) 

地名でもそもそもその土地から生まれたものだから国家権力によって好字二字にせよというのはその文化の破壊だったのである
地名とは文化でもある、土地を耕すというcultureである、そうした地域の文化を破壊することはすでに古代でも権力によって行われていたのである。
国家とかはそもそも地域地域にあった国(くに)とは違う、権力的なものがかかわる体制である
だから国家と民族が違うというとき国家は権力によって構成されたものであり民族は地域地域のクニから形成されたのである
だから国の手形が訛りだというときそうである、明治以降に協力な中央集権があり言葉も標準語にされたのである   

国家権力となると日本の戦争でもナショナリズムだとして民族の伝統を鼓舞するもののように見えるが中央主権国家は地域の文化を破壊するのである
それで正一位稲荷とかでもはおかしいと思う、正一位というのはまるで神様によってそれも日本の貴族によって位を神様に授けるとなるから変なのである、地域地域の神とか社はそういうものとは違っていたからである、それは国家権力とはかかわらない地域の神である、ただ神にも権力がかかわることである、権力によって神が歪められたのが人類の歴史でもあった

国家神道とか中央集権の弊害は大きかった、なぜならその強力な富国強兵が国家神道の名のもとに行われたからである
それが太平洋戦争に継続されたからである、だから明治維新の見方はその戦争を経験した結果変わることになった
また太平洋戦争自体が日本では総括されていていのも問題である
それは明治維新からはじまっていたのである

戦争に負けた結果として明治維新の薩摩長州閥が断罪される

こうなったのは戦争に負けたからである、負けたからそんな戦争をなぜしたのか?
それを問うようになった、そして薩摩長州のクーデーターとか否定的見解が普通に出るようになった
戦前だったらそういうことはなかったからである、明治維新は常に肯定的に見られていたらである
また天皇批判は許されなかったからである
明治維新から日清戦争からロシアの戦争で勝ったことで日本は奢りになった、それは日本は神の国だとかなり太平洋戦争で敗北して3百万人が死んで70年過ぎてその戦争は何だったのかと歴史を見直すようになったのである
戦死者は神社に慰霊の碑や忠魂の碑としてある、それは国家神道とかかわったものであり神社本来のありかたとは違っている
なぜなら日本にある無数の神社とか社はその成り立ちが国家神道とはかかわっていないからである

なぜ東北列藩が同盟して薩摩長州軍と戦わねばならなかったのか?
それは東北列藩が会津に薩摩長州に謝罪をしろと願いを出したが断れたという
でももともと東北列藩では戦うことを最初から決めていた藩もある
東北列藩は数が多くても武器の差で敗北した、また戦争になれていないということでも敗北した
また急なことでまとまりもなくて敗北した、その勢いがあまりにも違っていたのである
ただではなぜもう江戸が無血開城されたのに東北を攻める必要があったのか?
それは徳川幕府の幕臣が実際明治維新後に政府を支えたということでもまた実は明治維新がなくても徳川幕府は開国して対応できたということとも通じる

薩摩長州は権力を争奪するクーデーターだからそうなった、最初から革命の思想などない、倒幕が目的であり権力をにぎり政治の実権をとることである
そういうことは政治では民主党がそうだったようにまずは政権奪取だとあり何かをすること政策もなくてもそうなることが多い
それで民主党でも政権をとったが何もできずに終わったのである
それは公明とか創価とかもそうであり共産党でも実はそうなのである
一見そういう人たちには権力欲がないように見えてもそうではない、それはどこの革命でも権力を奪取したとき中国のように幹部が莫大な富をもつようになると同じなのである
だから何か革命思想があって明治維新があったわけではない、ただその後思わぬ方向に展開したのである

だから今になると西郷とか明治維新の立役者がそんなに評価できるのか?
そういう疑問が150年過ぎて表にでてきた、そして司馬遼太郎の小説に左右されすぎたのである
小説であまりにも明治維新がもちあげられすぎたのである、本当は薩摩長州のクーデーターでありテロリストにすぎなかったともなるテロリストには思想はない、相手が金持ちなら殺して金をとる、また命令された人から金をもらうというだけで殺す
つまり権力をとるために殺すというのがテロリストなのである
だから一時共産党でもテロリストとなりオウムもテロリスト集団になったし創価でも仏教平和主義など言っていたが実は民主主義社会でなければテロリストになる、ファシズム団体になる

なぜならそういう人たちは権力をとれば金になるとか地位にありつくとかしかないからである
官僚が天下りして得している、俺たちもあのようになりたいということしかないのである
薩摩長州は実はそういう侍の組織団体だったともなる
長州の奇兵隊などもそうして成りあがりたい人たちだった、下級武士や庶民もいて実際に伊藤博文は庶民の出でも首相になったからである
ただあまりにも持ち上げられていたのはなぜなのか?
それはふはり歴史は勝者の歴史であり薩摩長州の政治勢力が阿部首相のように継続して政治の中枢にあったためだともなる

ただでは徳川幕府がそれほどほめられるものなのか?
実は廃藩置県でも地方の藩の財政は困窮していて廃藩置県で借金を中央政府が肩代わりしてくれるということで賛成していたのである
つまり徳川幕府もその体制の維持が限界にきていたのである
第一大奥などあるのはいかに徳川幕府が遅れているかを証明していた
それはオスマントルコの後宮政治とにていたのである
そういうところから政治に女性がかかわり腐敗してくる
だから徳川幕府はもう自壊しつつあったのである、だからあんな簡単に薩摩長州のクーデーターでもろくも崩壊したのである

会津だけが最後の徳川の幕臣としして悲壮に戦い犠牲になったのである
徳川幕府はもう維持できない状態になっていたのである
だからといって薩摩長州が別に革命思想とかあるわけでもない、クーデーターであったが成り行きでいろいろな改革が成されたとなる
いづれにしろ薩摩長州を異常に評価する時代は終わった、それは大平洋戦争を起こし日本が大敗北して3百万人もの犠牲者を出したからこそ今になり見直されるようになったのであるか。

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2018年10月30日

我が父の残せしもの (家や土地には歴史が必ずある−老人は語り部になる)


我が父の残せしもの
(家や土地には歴史が必ずある−老人は語り部になる)

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昭和35年となるけどこれを書いてすぐに死んだのである
何か残したいから書いたとなる

我が父の残せしもの

我が父の葛尾村から出て
双葉の新山の酒屋に
丁稚奉公する
その後暖簾分けしてここに住む
良く縁側で煙管を吸いくつろぐ
楽しみは味噌を焼いたもので
酒の肴にして飲む
高度成長時代の贅沢を知らずして死ぬ
最後に言いしことは
サシミを食えるようになったのに食いたくねえ
病気になりで伏してそういい死ぬ
姉のバナナを仙台に行き買うも
物なき時にあえなく死にぬ
我が跡を継ぎてその苦労を偲ぶ
この土地は街にて悪しき土地なりしも
父の苦労して買いしもの
そこに我は住みえしなり
父死して半世紀ははや過ぎぬ
しかし今になりて父を思いぬ
我がここに住めるは父ありし故なりと・・・・

人間の一生をふりかえればどんな一庶民でも何かを残している
それは自分のことだけではない、必ず親がいるから親の一生も受け継いでいるのである
父のことはあまりにも前のことだから思うことがなかった
ただ自分の家族が全部死んだとき意識するようになったのも不思議である
何か人間はかならず老人になると死ぬ頃になるとこうして自分のことならず家のことでも昔をふりかえるものだと思った
もし家族がもっと早く死んで後継いでいたらもっと早く思っていたかもしれない

自分の家の歴史をふりかえると父が買った土地は低い場所にあり悪い土地だった
低いから洪水が二回あり浸水した、それも床上浸水であり小学校の時の台風では屋根の下まで水につかり家が流されたと思った
その後も堤防の決壊があり床上浸水があった
その後河川改修して川が広くなって水害はなくなったのである
その土地にも歴史がありそこがどういう場所か知るべきだとなる

どうもふりかえると父がなぜ字を覚えたのか?
それは酒屋の丁稚奉公して覚えたのかもしれない、丁稚で帳簿など扱うから教えられたとなる、そういう教育機関としても丁稚があったからだ
どうしても葛尾村のような山で明治になってから教える所があったとは思えないからだ
明治生まれとなると字が書けない人がまだいたのである
母は尋常小学校をでて字は書けていた、つまり大正生まれになるとたいがい尋常小学校をでているから字を読めたし書けた、明治生まれだと字を読めないとか書けないとかの人がいた、大正生まれでもまともに学校に行かない人もいた
子守りして小説を読んで覚えたとうか言う人もいる
日本では江戸時代になると寺小屋でみんな字を習ったり覚えたと限らない、そういう人は恵まれていた人なのである

こうして二代くらいでも家には歴史がある、するとその歴史を偲ぶことにより今生きることがどういうことなのかその意味を知る
この辺でも原発事故で避難した人が多いし若い世代は流出して帰らない
それはまだ家でも歴史がありそれがどういうものか認識しないからかもしれない
第一何代も江戸時代からつづく家系がこの辺には普通にある
先祖の土地は売らないというのはその土地の価値を知っているからである
私自身も今住んでいる土地がどうして得られたのか?
そのことをふりかえって父が苦労して買って手に入れたものだということを今になって意識したのである
それは結局家族が全部死んだからそう意識するようになったのである

先祖代々の田を売るなととなり田分け(たわけ)という言葉が生まれた、それは農業が主なときは土地が一番大事だからである、だから田を売るものは田分け(たわけ)となったのである、ともかくこうして歴史は個々人の家にもありそれを知ることでも歴史の重みを知ることになる、人間は歴史的存在なのである
人間はとても何でも一代では作れないようになっている
代々作られてきたものが歴史なのである
先祖を無視して歴史を無視して今の人間もあり得ないという自覚をもつべきなのである
でもこの辺ではそういうことが土地でも放射能に汚染されて捨てられたのである
そのことの意味は後でふりかえり失敗したとかなるかもしれない、その価値あるものを捨てたことを後悔するかもしれない、歴史がそこでは断たれたということが実は大きな損失だったとか自覚させられるかもしれない、何か歴史というのは時間がかなりたたないと認識できない、50年以上とか過ぎて父のことを回顧しているのもそうである
人間は何が大事なのものかその時々懸命に生きていてもわからないのである
ただふりかえると明瞭に見えてくるものがあるのだ、それは時間がたつことによって見えやすくなるのである、一生でもふりかえればあの時はこうだったのかとかわかりやすくなる、あんなことをしなければよかったとかあうすれば良かったとかみんな後悔しているはそのためなのであ

ともかく現実に今は私の家族で残っているのは自分一人なのである
だから自分一人が墓守りになっているのである
あとは誰も守る者がいないのである
そして過去を語り歴史を語るのが自分の勤めでありみんな老人になると語り部になるのである、つまり郷土史とは一人一人の家でもそうだが先祖や自分の一生を語ることなのである
歴史的価値というとき金で計れないものがある、自分の家はもう金銭的には何の価値もない、他でも空き家が膨大に増える
するとそれも金銭的には価値がない、でもそこに思い出とか歴史がありその価値は子供が受け継げば活きてくる
それを自覚するのはその家の子孫だとなるからだ、子孫がいなくなればその歴史の価値をなくなる
だから歴史的価値は必ずしも金銭的なものに換算されたりできない、でも価値あるものだとなる
つまり精神的価値あるものとしての歴史がある、ただ金銭的に換算されるものだけを見るが精神的価値を受け継ぐことも歴史である
だから遺産相続でもめるのはただ金銭的価値だけを見るからである
でも本当の継承者は精神的価値を受け継ぐ人だともなる、それが見逃されているのである
先祖でもその精神的価値が伝えられるなら喜ぶとなるが金銭的なものだけに換算されると生きている時から嫌だとなる
一方でもし残したものが金銭的なものとして換算されるものだけだったらまたそれは金銭に換算されて終わりだとなる
子孫に美田を残さずというとき精神的価値なら残してもいいとはなる
でもそれが半世紀以上過ぎて私が自覚したようになかなか自覚しにくいのである
そこに歴史の価値を知るむずかしさがあったのである

とにかく人が死ぬとどうなるのか?
これにはいろいろ言うけど死んだら灰になるし骨も残らない、すると人間が死ぬと何なるのか何が残るのか?
それは骨でも灰でもない、その人の物語だとなってしまう、だからこそhistory-storyなのである
人間は死ねば個々人であれ家であれ国でも物語として残されるのが歴史である
死んでも歴史の中で人は生きてゆく、だから歴史上の人物になれば死んでも歴史の中で生きてゆく
大方はただ孫くらいまでは語られるがもうわからなくなる
名前くらいは何とか系譜の中に残ったりするがその人となりも不明となる
ただ郷土史というとき明らかに個々人でもそうだが一軒一軒が歴史である
何かかにその家に伝えるものがある、それが郷土史の基本にある
だから一つの家の歴史が失われることは損失ともなる、それが原発事故の避難区域で起きたのである
歴史の継続が断たれる、限界集落などでも廃墟と化した村がある
そこにはお参りもしない社が残されているのである

墓守りや烏とまりて木守神

墓という物体に本当は故人があるわけではない、実際は故人は物語として残る
なぜなら墓だって永遠ではない、もう跡継ぎがいないとか維持できない
そしたらその物体を守り維持できないのである、残るのはその人の物語であり歴史として残るとなる
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2018年10月24日

明治維新は薩摩長州のクーデーターだった? (歴史の評価のむずかしさ)


明治維新は薩摩長州のクーデーターだった?

(歴史の評価のむずかしさ)

 明治維新が何なのかわかりにくのはなぜなのか?また歴史がわかりにくのはなぜなのか?
 もう直接話を聞いたりすることができない、すると何が事実なのか事実でないのかもわからないから司馬遼太郎の小説でもNHKのドラマでも事実だと見ている人が多いのである
それは相当に美化されたものであり事実ではない、でもその事実を知るのはめんどうになるから学者ではないから庶民はしないし他の人もめんどうだからしない
ただ娯楽として見ているのが面白いとなるだけである

事実としての歴史を知るのは直接親とか祖父母とかから聞いたとき生々しいものとして知る、だから郷土史でもおじいちゃんとかおばあちゃんから聞いた話からはじまると書いたそれが一番昔を知ることでありまた歴史を知ることになる
だから家族がみんな死んでつくづくそのことを思う

父親は明治生まれで葛尾村から出て双葉の新山で酒屋の丁稚奉公になった
母親は原町紡績で糸取りしていてあとで東京で女中になった
次に姉は従軍看護婦になってシンガポール、マレーシアのジョホールバルで4年間従軍看護婦で辛酸をなめた、それで死ぬ寸前までそのことを語って死んだ
次は兄は集団就職であとは交通事故で死んだ
このことはまさに自分が歴史として背負うものになった
これもまさに明治からの日本の歴史だったのである
こういうのはわかりやすいし身近だし別に明治維新が何だったとか考える必要もない
重い事実なのである、そうして苦労して生きたということが重い歴史の事実となっていたのである

では明治維新とは何なのか?
なぜこうして国レベルの歴史になると理解しにくいのか?
直接話を聞くこともできない、するとまず何のためだったのか?
そのことが問題になる、人間はまず何か行動を起こすのに理由がある、動機がある
その動機が何だったのか?それが問題になる
私の父親が酒屋の丁稚になったのは山では暮らせないから貧乏だからそうなった
母が糸取りになったものその頃絹織物が国の産業となっていた貧乏な時代だったからである、兄が集団就職になったのも貧乏な時代だからそうなった
つまり動機は貧乏だから苦しくてもそういうところで働くほかないからであった
それはわかりやすいし今でもそういうことがあるから理解できるのである
それでみんな国民が貧しい時代は豊かになりたいということで働くとなる
ただ姉の場合は急に一枚の赤紙が来て戦争に招集されたのである
その時なぜ戦争に行くのかも考える余裕もなく戦争に行かされたのである
その動機もなにもない、ただ強制されたのである
だから戦争とかなるとまたなぜしなければならなかったのか理解しにくくなる
それは明治維新とか国レベルの歴史となると理解しにくくなる

それで一体どうしてまず徳川幕府を薩摩と長州の侍が倒そうとしたのか?
それは単なるクーデーターであり別にその後に起きたこととは関係していない
四民平等とか廃藩置県とかは望んでいなかったのである
だからこそ西郷が西南戦争になり士族を残すために戦ったことでもわかる
目的は幕府を倒し政権をとる戦いであった、大義名分はなかったからクーデーターだったとなる、ただその後の展開で思わぬ方向に行ったのである
侍がなくすということを目的にしていなかったのである
その動機は徳川幕府を倒してその代わりになるということが目的だったからクーデーター論が生まれる

何か革命のビジョンとかがあったわけでもないとなる 
その指導的役割を果たしたの侍でも下級武士でありその時そういう恵まれていない人たちは何か時代が変わるという時上昇志向が起こり徳川幕府を倒すことで役職にありつくとか何か人間の欲を刺激されて参加したとかにもなる
それは戦国時代のような権力闘争だったともなる
最初はそうでも予期せぬものに展開した、それが評価されるようになったのである
第一侍だったものが侍を否定することがありえない、そういう革命はありえない
既得権者が既得権を否定することはありえないからだ
結果的にはやはり明治維新後は薩摩と長州閥が政権をとり主要な役についたことで腐敗したことでもわかる、薩摩長州による政権奪取だったとなる
そうなると革命ではなかったというのもわかる

ただその後に予期せぬ展開となりそれが革命として評価されたとなる
殿様とか侍がなくなったからである、四民平等になったからである
ただではそれで農民とか庶民の生活が劇的に変わったかというとならない
かえって農民は地租とか金銭で払うようになり確実に計算されてごまかせないとかで苦しむようになった、何ら庶民の生活は変わらなかったのである
ただ産業革命が起きて工業化して紡績工場とかが作られ情勢の働く場所とかはできた
鉄道も普及したとかあり庶民の生活が変わった
それは西欧化したことで変わった、それが庶民の生活を変えさせたとは言える
ただ政権は徳川から薩摩長州に移ったというだけであり政治的な支配は変わらない侍が支配していたともなる
それで実際の行政では幕臣がになったというときもそうである
実際に行政をになうものがいないからそうなったのである

薩摩長州連合とはただクーデーター連合でありそこに坂本竜馬がかかわったとしてもそれほど評価できるものなのか?そうなってしまうのである
徳川政権に変わり薩摩長州が政権をとるというだけのことである
長州は徳川幕府に恨みがありそこで恨みも晴らすとかなるとそれは革命ではない
ただ侍の藩同士の戦国時代の争いとにたものにもなる
ただ結果として予期せぬ方向に展開してそれが革命として評価されたとなる
昨夜のテレビ放送ではそういう説明でありそういう評価が今は起きていることは確かである、何か異常に明治維新が革命としてもてはやされた時代は終わった
高邁な理想をかかげた革命のように見させるものがあったが実は政権をとるだけのクーデーターにすぎなかった,とてもそうした革命のビジョンなどもてなかった

そして対外的にはアジア侵略思想が吉田松陰によって唱えられ朝鮮半島への進出が画策されたのも明治維新であった、それが後の太平洋戦争にもつながっていたのである
要するにトインビー流に言えば西欧文明の応戦があり日本はその挑戦を受けて改革したとなる、その後もロシアとかアメリカとの戦争があり世界史の舞台に登場したのである
そして敗戦となり焼野原となり高度成長時代をへて復興したとなる
それからまた経済の衰退と国の縮小時代になってきたとなる
明治維新から150年過ぎたけどこれから変革の時代だといっても明治維新や戦争の敗戦とかのような劇的なことは起こらないように思う
縮小化する日本とか衰退する日本とか内向する日本とかなる

おそらく日本はまた江戸時代のようなものに回帰する、海外の文明を文化をとりいれたあとに平安時代のような国風文化が起きたような時代に変わる
世界的にもITとかの普及は情報の変革であり物を供給したり消費したりするのとは違った精神革命になる
戦後の焼け野原になったときは何もなくなった
その時から物質的には窮乏していたから豊かになることが目的となった
とにかく三種の神器であるテレビとか洗濯機とか掃除機が異常に欲しいという時代であり
またマイホームとかも車が欲しいとかみんな企業戦士となり懸命に働いた時代でありその見返りもあった時代である
でも一応それが満たされると今度は精神面の充実を目指す時代となる
ただ今のカルト宗教は実は創価でもそうだが高度成長と同じように物欲を世俗の欲を御利益として認めて増えたから戦後に会員も増大した
それは戦後の物欲の時代にマッチしたカルト宗教だったのである
でも本来の宗教は内面的な心の問題として追求するから哲学とかとも深くかかわる
芸術とも深くかかわる、それで国風文化になるのである
豊かになれば物欲から精神的充実した世界を探求するようになる
それがIT時代とマッチするのである、だから変革といっても明治維新や敗戦の時のような劇的なものにはならない、静かな革命にもなる

いづれにしろ明治維新は何だったのか?その答えも一つではない
ただ今までのような明治維新の英雄の過度な礼賛はなくなるしそうなっている
それは外国の圧力で成されたものであり薩摩長州が革命のビジョンなどもっていない
ただ政権奪取を狙ったものでありそれが評価できるのか?
外交でも世界戦略でもアジア侵略の根は明治維新にあった、それが後の太平洋戦争の敗北に通じていたのである、ただ太平洋戦争となると姉が従軍看護婦でシンガポールとかで辛酸をなめたからまた一方的に否定するとはならない
その苦労を無為にできないのである、それは私的なものになるがまた公的なものとしての歴史にもなるからだ
国レベルの歴史となると理解がむずかしい、未だにまた太平洋戦争が何だったのか?
なぜ戦争になったのかそれも日本人が明確にしていない
その責任も明確にしていない、それは原発事故ともにている

それは政府と官僚と御用学者とマスコミとかが「安全神話」を作りそれが一挙に崩壊したそれは敗戦ともにている、日本は神国だから負けないという思想ともにていたからである天皇は神だから負けないとして戦争になったからである
その犠牲が3百万人の死だったからである
そして人間は必ず戦争でも起こしたらその責任は必ずとらされる
上の人がとらなくても下の人がとらされる、その責任から逃れることができないのである戦国時代は侍だけが互いに争い責任をとっていたが今度は国民全体が戦争に巻き込まれて責任をとらされたのである
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2018年10月17日

昔の消防の話 (消防車がない苦労−火事は恐れられていた)


昔の消防の話

(消防車がない苦労−火事は恐れられていた)

川の土手で休んでいる老人と話した、海老の人で津波の被害は高台にありまねがれた
その人は昔は一軒一軒火の用心と回って歩いたという
良く時代劇で火の用心と江戸の町を歩いている
江戸で一番怖かったのは火事である、でもその時水をかけて消すということはない
ただ延焼をおさえるために家を壊すことであり後はいち早く逃げることが命を救うことである

なぜそうなるのか?それはまず今のように消防車がない、火事は早くいかなければ燃え広がり消せなくなる、いかに早く行くかが問題になる
でも消防車がないのだからリヤカーのようなものに手押しポンプをのせて運ぶ



車がない時代なんでも運ぶこと自体が容易ではない,この辺だとなんとか原町とか相馬氏はリヤカーで梨を運んで売ったという人の話を聞いた
これは信じられないが屋形の人が鰻売りに川俣まで天秤棒をかついで行ったという
鰻は高く売れた、川俣は絹織物で有名だから金がある人がいたからだとなる
それにしてもそれは江戸時代でありイメージもできない、なぜなら八木沢峠は今でも車で超えるにしても難所だからである、今はトンネルができて楽にはなった
ともかく車がない時代はいかに運ぶことに苦労していたかわかる
簡単には運べないとなるとどうするのか? 

近くであるもので生活する他ないとなっていたのだ、自給自足とかになる
ただ炭とかは山の村から運ぶことが必要だったのである
その時馬車が使われていた、馬車だとかなりのものが運べるからである
でも消防のことを考えると今の救急車のように一刻も早く行かないと間に合わない
燃え広がったいて何の役にもたたないとなるのだ

半鐘の打ち鳴らし方を変えて、様々な情報を知らせたのである。
 半鐘の音は公的な信号であるから、その鳴らし方は恣意的ではなく、周知のパターンが定められていた。

 その人もこのことを言っていた、その半鐘で聞き分けていたという
この半鐘は今でもある、小さな部落ごとに今でも残っている
子供の時近くの神社にもあった、でもそういう半鐘はスピーカーのようにはいかない
部落ごとの地区でしか役たたない、そんなに遠くまでひびかないからである

ただその人の話では狭い地域でも火事が恐れられていた
それで毎日欠かさず火の用心に歩いていた、それも一軒一軒回っていて火の用心をよびかけていた、海老でも町となっていたからそこはばらばらに離れてある農家とは違っていた 
とにかく今簡単にできていることが昔は簡単にできない、第一車がないのだから火事だことかけつけるのにも時間がかかる、すると家自体が燃え広がりもう消せないとなる
それは北海道の雄冬とかでも赤ん坊が病気で背負っていくうちに死んでいたとか
飯館村でも病院に行くうちに死んだとかある
つまりその時救急車がないから緊急の場合、死ぬということが江戸時代から普通にあった電話一本で救急車が来るということがいかに恵まれているか昔のことを知らないとそのありがたみがわからないのである、そういうことはいろいろある

いづれにしろ火事は一番田舎でも恐れられていたのである
どこの町でも大火事の歴史があり火事は恐れられていた
地震、雷、火事、親父・・・となるのが日本である
地震には津波もあり恐れられていた

ともかく毎日一軒一軒火の用心と回って歩くのは手間であるがそうしたのは火事が怖いからである、海老でも家が連なっているから一か所火事になると延焼するから怖いのであるそれは一軒だけでくいとめられない、それだけの消防の備えがない、車もないからであるだから今はそういう点ではいかに恵まれているかわからないのである

不思議なのは新聞は配られていたがそれは一日後になる、では速報するには何で知らせたのか?
それはラジオだったとなる、動画は映像は映画館で写していたが蒸気機関車で運んだとすると東京からだと八時間以上かかる
だから二日くらい遅れてニュースが放送される、ただニュースだけを放送するのではない、映画の劇を見る時その前にニュースを写していたのである、その時動画というのは映画館でしか見れなかったのである
速報するのは今だと早い緊急時でも早い、そうであっても津波では遅れた、それは逃げろと放送しても間に合わない
それで逃げ遅れて死んだ人が多い、テレビで逃げろといってもすぐに逃げられるとはならない

だから警告されても津波であれ洪水であれ必ず逃げないで死ぬ人がでてくる
そういうのは日ごろから心がけなのだろう
だから部落で一軒一軒回って火の用心を訴えていれば用心するとなる
だからそういう人的な安全管理も必要だとなるが今はみんな忙しいからできない、それで危機管理ができないともなる
つまり手間でも一軒一軒火の用心と回ることが安全のためにも必要だったとなる
そういうことで防災意識を高めるからである、ただ便利な道具ができたからといって必ずしもそれで防災意識が高まるとは限らない、津波でもそうだったからである



タグ:昔の消防
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2018年09月20日

明治政府によって奪われた入会権 (明治維新で農民の生活は楽にならなかった)


明治政府によって奪われた入会権

(明治維新で農民の生活は楽にならなかった)

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土地の所有者がわからないまま放置されている「所有者不明土地」を、公園やイベントなど公共性の高い事業であれば所有者が見つからなくてもNPOなどが、10年間利用できるようにする新たな法律が、6日の参議院本会議で成立しました。 
「所有者不明土地」は、人口減少や高齢化に伴い年々増加していて、その広がりは、民間の研究会の推計で、すでに全国で九州の面積を超えているとされています。 

今の法律では、こうした土地であっても自治体などが買収するには、所有者全員の了解が必要なため、公共事業がストップしたり、荒れた土地が増えるなどの問題が各地で起きています。 

6日参議院本会議で成立した新たな法律は、所有者不明土地を条件付きで所有者が見つからなくても利用できるようにすることが目的です。 

土地とか山林とかの問題でも江戸時代から明治に変わる時、大きく変化した
日本の歴史は江戸時代から明治に変わる時を見ないと根本的に理解できないのだ
江戸時代にあったものが何であったのか?
それは土地とか山林だけではない、武士道があったとしてもそれが何であったのかも明治になった時わからなくなったのである。
武士道とかでも西欧から入った文明は異質なものであり実際は不明になったのである
武士道とかは受け継がれなかったのである。

ところが明治維新の時天皇が異常なほどに持ち上げられた国造りをした
そもそも明治維新は思想的には天皇復古だからそうなった
それで廃仏毀釈とかがあり仏教は弾圧されて神社陣営が優遇された
江戸時代までは寺が幕府の御用寺であり役所ともなり優遇されたことの反発だったとされる、そして神道とかは国家神道となりもともと地域の社は国家神道とは関係しなかったが統合されて国家神道化された、それは太平洋戦争までつづき今度は朝鮮まで神社を作り崇拝させた,つまり日本は極端に変化する
今まであったもの全く否定して新たな世界に適合する、その変わり身が早いのである
太平洋戦争でも鬼畜米英から敗北した結果まるで変ってしまった
これまであったもの否定する、戦争がいいものではないにしろ何かしらそこには日本国民の総意としてあったものでありそれを全否定して今度は民主主義だと戦前にあったものを全否定して戦後がはじまり70年過ぎたのである。
それはGHQとかアメリカの属国になったからそうだというのもわかるが戦前に命をかけてまで3百万人も死んだのにそれを全否定して戦後がはじまったのも解せないのである

江戸時代から明治の変化は大きかった、それは日本を成り立たせていたものが根本的に変わったからである、根こそぎ変えられたからである
それは上が変わっただけではない、幕藩体制で侍がなくなったというだけではない
基本的な社会構造が変えられたのである

江戸時代の村が解体された

これこそ最大の変化だったかもしれない、江戸時代は村を単位にして成り立っていたからである、村単位の幕藩体制が崩壊した、その幕藩体制とは徳川幕府が支配しても地域の藩が中心として支配した体制である
地域地域の藩が政府であり江戸幕府は徳川家がその藩に関与することは基本的にはできない体制である、だから江戸に地方の藩屋敷があったとしてもそこは不可侵の領域であり時代劇でも役人は踏み込めない、逮捕はできないのである
それだけ地域の藩の力が強かったのである。
それが明治になるとそうした藩がなくなくり廃藩置県になり行政も根本的に変わった
天皇を中心とした強力な中央集権制になったのである
その時東京では言葉まで標準語化された、江戸時代までは江戸っ子とかの言葉があってもそれは江戸の方言であり地方の藩から来た人は方言を使っていたからだ
つまり明治維新は極端な中央集権と富国強兵を基本とした国家となったのである

それで江戸時代の村が解体されたということも根本的に社会が変わってしまったことになったのである。
村とか言うとただ侍にお殿様に収奪されるだけのものであり搾取されていただけだという見方がある
でもそうした江戸時代にあったもの社会はその社会なりに別に侍だけが得するシステムではない、村が自立して生活できるシステムがあり機能していたのである
その具体的例として入会権がありそれが明治政府によって奪われたことだったのである
入会権というのは非常に重要な権利であり村を成り立たせる基本にあった
なぜなら農業社会だった江戸時代は入会権というのがないと生活できない
藩でもその重要性を自覚していたから入会権を収奪するようなことはしなかったのである

大名地震が「農民の身代は秣(まぐさ)より上がると昔よりの伝えなり」
つまり農民の生計は牛馬の肥料となる採草地などの草木から成り立つとの昔からの伝えがありそれたそ領主のために年貢として納められることあを知っていたので入会権の確保と保護に対策を講じていた
農業に正義あり−石堂徹生 

特に江戸時代では、下肥(人糞尿)、植物油粕や魚肥を使用していた。
江戸時代の肥料学には、次の事が記載されている
※田畑を肥やすものとして、緑肥、草肥(堆肥)、灰肥(草木灰)、泥肥(池の底に溜まった土)の4種類がある。
※草肥をよく腐らせて細かく切り返し、人糞尿をかけて、天日干しさせた物を元肥として使用す

明治末期になると肥料は化学肥料が使われるようになり膨大な採草労働、入会地からの多量の雑草落ち葉などを集める必要がなくなった、そこで金肥の供給が増え、農地が多く経済的に余裕のある地主層が先に「金肥」を使うようになった
その結果として不要林野の約7百万町の払い下げは地主に周知稀有下
 農業に正義あり−石堂徹生
 
農業の歴史と焼き畑からはじまるように肥料の歴史でもある、灰を肥料として焼き畑がはじまったからである
つまり歴史という時まず政治を考える、そこに英雄とか支配階級の貴族の研究がある、でも文明というとき基本的に農業から成り立ってきたから農業を知らないと下部構造を知らないと理解できないのである。
江戸時代でも農民が八割の時代であり農業中心の社会である、それはヨ−ロッパでも同じである、アメリカももともとは大農業国家であり中国だってそうである、インカでもマヤ文明でも農業国家である、たいがい農業国家として文明があった
20世紀のような高度な産業国家はなかったからである  
明治で肥料が金肥(化学肥料)になったときそれを買うには金がいるから資本がいるから地主に支配されるようになったことでもわかる、まず知っている人でも肥料をわざわざ角田まで行って鶏糞を買う、それは肥料としていいからである
その負担は自分がしたのである、そしてもらったのはキュウリ数本だったとなる、だから一本一万のキュウリだったのである

入会権というとき海の方の右田で橲原(じさばら)とかに入会権をもっていた、それは馬車で運び山の草木を肥料としていたからである
農業は肥料がないと成り立たないからそうなっていた、米は田んぼは水が循環して比較的肥料がなくても成り立っていた
循環する水は泥水であり山から養分が流れてくるからである、エジプト文明がナイルの賜物というとき定期的ナイルが氾濫して
泥水がおおいそれには養分があり肥料となっていたのである 

明治維新というのをふりかえるときその革命は下級武士でありそれには直接農民はかかわっていなかった
だから会津もヤーヤー一揆が明治になると起きた、農民にとって侍は税をとるものとしてありその税をとるものが変わるだけであり別に会津でも侍が薩摩長州と戦い死んでも関係なかったのである
会津というのは侍中心に美化されたものなのである、ドラマばかり見ていると歴史の真実が見えなくなるのである。
NHKのドラマでも意図があって作られているから美化されたものであり歴史の真実はまた違ったものなのである。
明治維新後でも農民は入会権を奪われて明治政府に反乱を起こしていたのである。
明治になると一見農民は領主に税を納めなくて楽になったとはならなかった
かえって地租がかけられて一定化されて貨幣化されて苦しんだとなる、入会権も奪われて苦しくなったのである

そこには天皇の財源として御料林とされたこともあった
明治政府は財源がなかった、それをどこに求めたのか?
農民の基本となる山林とかを入会権を奪い財源とした、それで富国強兵の軍隊を作ったのである
財源がなないからそうなった、官僚の退職金がないからはそのたしにもされた
その構図は官僚が得する構図は今も天下りとかでつづいているのである
国単位では官僚だが市町村単位では公務員となったのである、公務員は何かと得する仕組みがある
そして公務員が常に批判されるときそれは特権となるから侍と同じだ、公務員は身分であり侍と同じだと批判する人が多いのである
地方で安定しているのは公務員だからである。

明治維新というとドラマだと称賛されることばかりを見るがその暗黒面もあった、そこは指摘されないのである
農民が江戸時代よりも国家によって収奪されたということもあったのだ
農民の暮らしは楽にならなかったのである
明治になった時私的所有権が認められたことで大きな権利が国民に付与されて進歩したとされる
でもまず政府が入会権を奪い国有林としてそれを今度は地主や商人に払い下げて財源とした
まず所有したのは国家であり政府だったのである、後は地主だったとなる
山林が私的に分割されて所有されたのは戦後なのだろう、それまではそんなに分割されていない
結果として今度は逆にしまりにも山林でも土地でも細分化して公共的なものとして使用できなくなった

入会権は所有権ではなく利用権だということでもわかる
江戸時代では所有するという観念がないのである。明治以降に所有という観念が強く現れた
それは資本主義では私的所有権を一番重んじるからそうなる
あらゆるものが土地でも売買される債券となる、そのためには私的所有権を確立して土地でも売買できるものとしなければならないからである、ただ結果として過剰に私的所有を言うようになり公共的に利用することもできなくなったのである
だから耕作放棄地が増えたというときその土地でも所有者がいて所有権があるから勝手にできないとなる
それで膨大な耕作放棄地でも利用できないのである  

この辺では原発事故の補償金をもらうために自分の家の前の海まで所有権があるとか主張したのもそのためである
もう細分化された土地の所有者の許可をとるだけで手間であり土地はかえって協同利用できずに放置される
そもそも入会権は所有権ではない、利用権だというとき所有の観念はなかった
利用権の方が大事なのである、利用されなかったら土地でも何の価値もないからである
何かいつか土地を売るとしてもっているだけでいつまでも耕作放棄地として荒地となっている

それは個々に強力な私的所有権が与えられているからそうなっている
土地をもっていればいつかは何でも売れるかもしれない、そこが放射性廃棄物の処理場になるとかでもありうる
そのために利用しないでも荒地としても所有者があり自由には公共的に使用できなくなっているのである。
村があるときは協同で荒地を開墾したりしていた、それは村にとって荒地があることは望ましくないからである。
今だって畑があるとして回りが荒地だと草ぼうぼうになり草取りをしなければならないとか迷惑になるからだ

でも私的所有が強力に認められているから誰も勝手にできなくなったのである。
だからそもそせ土地の私的所有というのは問題がある、権利を与えるのはいいが権利を与えることは責任をともなう
荒地のままにして所有だけしていることが許されるのか?
所有しているなら権利が与えられたならその責任もあることを自覚すべきである
権利には責任が伴っていたのである、それが漁業権ということで海は組合のものだとして東電に売り渡して事故前も多額の補償金
をもらっていた,つまり権利が与えられたのは漁業資源の保護であり東電に売り渡すためのと権利ではなかったのである
権利が与えられるのならまた重い責任が課せられていた
でも金になればいいやとなり東電に売り渡して多額の補償金をもらっていたのである
その時はただ金になればいいと軽く思っていたのである。でも今になると重い責任が自覚させられたのである
ただ現実に船主などはいち早く立派な家を建てたからその責任を果たしていない

ともかく私的所有権が与えられるのはいいとしてまた何でも必ず所有することは責任が課せられているのである
山林を所有しているとしてもそれを活かせないとしたら山は荒れる、すると所有するだけで金がかかるとなる
木材が売れないとしたら今はそうなる、だから山を持っていても所有しても何もならないともなったのである
とせかく原発事故ではいろいろな責任をが問われた
でも政府でも東電でも地元でも責任をとる人はいなっかった
それは太平洋戦争でも同じである、責任は誰もとらない、ただそうしても必ず人間は責任はとらされる、3百万人が死んだというのがその責任である
その責任はあまりにも重かったのである。
原発事故では故郷に住めなくなった、その責任もあまりにも重かったのである。
政府でも東電でも自殺したものはいない、他では会社の不祥事ではちっょとしたとでも自殺しているのが多い、責任を自覚して自殺している

台湾外交部(外務省)は14日、台北駐大阪経済文化弁事処(領事館に相当)の蘇啓誠代表(61)が同日早朝、大阪市内の官舎で自殺したことを明らかにした。台風21号で封鎖された関西空港に取り残された台湾人への対応をめぐり、インターネットなどで在日出先機関を批判する声が出ており、台湾メディアは蘇氏がこれを苦に自殺したと報じているhttps://www.jiji.com/jc/article?k=2018091400757&g=oeq

こんなことで自殺するのか?そういうことは他にもある
しかし原発事故とかの大事故でも責任を感じた人は一人もいないという不思議がある
誰も責任を感じていないのである、だから日本人は無責任国家だというのもわかる
そして無責任だということはもともと責任を自覚しないから原発でも作られるし戦争でもその責任を自覚していないから実行できたともなる
人間はもしそれだけの重い責任を課せられたら誰もいくら金になるとか地位が与えられてもしたくないとなる、だから侍に庶民がなりたくないというとき切腹させられるとかその責任をとりたくなかったらからである
また契約書にこまごまと規定されるのはすべて責任を逃れるためである

ともかく事を始めるなら責任を自覚してはじめるならいい、でもそれができないものは軽く考えて行動すべきではないとなる
事業で何かいいかげんなことで俺の優秀さをみせてやるとかで事業をはじめて失敗して借金して周りに大迷惑をかける、それは家族だけではないのである
だからそんな考えて事業をすべきではなかったとなる
それは大きなこと国家的事業でもそうだったのである
失敗したら誰が責任をとるのか?誰かが必ず責任をとらされる、それだけは確実である
戦争では三百万人が死に原発事故では故郷に住めなくなったという責任をとらされたからである、だから無責任国民とか国家は責任を感じないから安易に事業をはじめる
それが日本人であるとしたらまた同じことが起きるとなるから怖いのである

posted by 天華 at 12:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2018年06月30日

回想・大正初期の山村生活誌 (我心の奥の伊奈谷)ー武部善人を読む


回想・大正初期の山村生活誌

(我心の奥の伊奈谷)ー武部善人を読む

1912年(明治45年)生まれだから百歳超えているとしたら今は死んでいるだろう
自分の父親も明治生まれであり葛尾村で生まれ育って双葉の新山の酒屋で丁稚奉公したのである。
山村の暮らしとなるとわかりにくいがここにはその暮らしが実感として書いてあるから訴えるものがある。
学問でも実感が大事である、もちろん文学でも自ら体験しないものは訴えない
人の体験談でも自分が経験していなと共感できないのである。
だから職業を同じにしている人は話が合うのが当然なのである。
そして戦前から戦後十年は農業が主体の経済であり日本人の生活は農民が主体であった

ここで語られているようにまず養蚕が盛んでありこれにかかわらない家はないくらいだった、それで今でも近くでも兜型の屋根の家が多く残っている
二階で養蚕していたからである。
その時代を重ね合わせると自分の母の実家は祖父が機織り工場を経営して失敗しとか母が原町の原紡(原町紡績)で十年間糸取りとして働いたとかある
養蚕や絹織物が主な産業であった、自分の家の裏には桑畑があり麦畑もあった
それが今は住宅地になって何もなくなった、今思うと回りが畑であり田んぼだったということなのだ、街中にいてもそこは田んぼや畑に囲まれていたのである。

現実に街でも農家がいて養蚕をしていたし畑を持っている人はいまでも普通にいる
なんらか農業と関係していたのが田舎なのである。
それは一万くらいの町だからそうなっていた
原町になると大きな紡績工場があったりと多少違っていて農家だけではない
でも六号線近辺は農家だったことが今でもわかる、広い庭があり農地があった
原町では原の町駅が機関区になり引き込み線があった、鉄道と直結して荷が運ばれていたのである。鉄道が運送の主役だったからそうなっていたのだ
伊奈でも紡績工場に行く女工哀史があり肺病になって帰ってきた女性がいたとかなる
でもそこは現金収入になる場であり農村では食べられないものが食べられたとかある
今ではネパ―ルから働きに来ている人とにている
その人は四〇〇〇メートル級の所に住んでいたからだ
そこでしきりボールペンをくれと言われたの覚えている,つまり書くものすらないのである、山だらけでありそれも高いからどうして暮らしているのかと思った
ただにたような山の暮らしが日本にかつてあったのである。

この頃の時代と戦後10年の自分の子供時代はだぶる、だから自分は体験しているから共感する、それは団塊の世代まででありその後は急速に高度成長したから体験がないからわからなくなる、つまり戦後十年は戦前とか大正でも明治でも江戸時代まで生活の基本が連続していた、囲炉裏も街中の生活でもあった、みんな炭を利用していたからだ
電気があったとしても裸電球一つであり道は舗装されていない、輸送は馬車の時代でもあった、馬車のうしろに乗って遊んでいたときがあったからだ
馬車屋というのが普通にあった時代である。
その時水道もなく自分の家では井戸がないから近くから水をもらっていたのである。
ただその水は無料だったのである。

この本では肺病のことが書かれているがその時肺病は国民病と言われていてなる人が多かった、母の実家の墓には25歳で死んだ兄が眠っている、その話を聞いている、何か苦しいからキリスト教に入ったみたいだ、だから戒名はない。
啄木も肺病で27歳で死んだとかこの病気は若い人が死ぬから悲惨だったのである。
現代の国民病はアルツハイマーだというとき高齢化社会を象徴しているのだ
肺病が伝染病だということがその時かわらなかったのである。
病気というとき何か原因がわからなくてなるが原因がわかると直ることがある
戦後に伝染病だとわかり肺病はなくなったのである

天竜川沿いとかこの伊奈谷は山深い、そこで生の魚を食べたことがないとここで書いてある、昭和二年に伊奈電が開通するまでは「陸の孤島」で子供の時に海の生魚を食べたことがない、全部塩辛い、塩の吹いた、かちかちの干し魚であった
イカもタコもかちかちの干しものしか知らなかった、後年生きた実物を見てどうしても信じられなかった
そして蛇、マムシ、赤蛙、蝉、イナゴ、蜂、繭の蛹などを食べた

これがやはり山村の生活だった、塩漬けのものの魚を食べていた、でも糸魚川から松本まで長い塩の道があり有名である。牛で塩を運んでいた塩の道である。塩の道は飯館村へもあったから山村では塩は貴重なものだった、ただここはまだ海が近いから松川浦から塩だけではない、生の魚も運ばれたのかとなる、一日くらいで運ばれるから悪くはならないからであり事情が違っていた
ただ塩は山村では貴重なものだった、保存するにも貴重だった
そして何でも食べたというときイナゴはこの辺でも小学校の時、学校でイナゴをとり売っていたのである。みんなでイナゴとりしていたのである。
これは食用にもなっていたから同じだった、こんなこと今はありえないのである。
田植えの時期とか養蚕でも忙しいとき学校が休みになったというときそれは農業中心の社会だからそうなったのである。今は家の仕事が忙しいからと学校を休むことはありえないのである。

この人はまた家で紙漉きをしていた,これは辛い仕事であったことを書いてある
石神で紙漉きしている家に嫁いだ人を知っている、それは戦前までしていた
その家はもともと武家であり野馬追いにも出ていた古い家である
石神では実は紙漉きで有名だったのである。二三〇軒くらい紙漉きをしていた家があったのだ、紙漉きは当時大きな収入源となっていた
ただその様子を知ったらいかに紙が大事なのもか認識したろう
現実にこの著者は紙漉きをしていたからである。でもうまくやれずにいい紙を作れなかったと書いてある 

氷割り楮すすぎて生漉紙(きずきかみ)すく共の手の赤く大きく

冬に紙漉きするから辛い、氷が張っている川でする、伊奈というと寒いからである

いづれにしろこの著者はこうした貧乏な山村が嫌で都会に出た、その事情もわかる
ここには鉄道がまだ通っている、飯田線であり豊橋にでるまで長い,途中何回か乗り換えしたりしてやっとついた、一両の時もあった、相当に辺鄙な山奥である
ただ長篠があり織田信長と武田軍が戦った跡があるから意外と名古屋に近いのである。
飯田までは明治に電車が通ったが伊奈までは通っていなかった
それだけ発展が遅れたのが伊奈だったのである。

ともかく貧乏だった、明治生まれの父は酒の魚でも味噌を焼いたものとかしかない、それは戦後十年はそれだけ何もない貧乏な時代だったからである。
それで病気になりサシミ食えるようになっても食いたくないと言って死んだのである。
この著者は伊奈を出て学者になりあとは贅沢したとなる
戦前生まれは貧乏を体で知っている、ただ団塊の世代は確かに子供時代は貧乏を知っているがその後は豊かな生活であり飽食の時代を経験している
だから骨身に染みる貧乏は経験していないのである

子供時代はみんなそうして貧乏だったのである。だからそこに奇妙だが格差はなかった
なぜなら物自体がないしみんな同じようなもの食べていた
そして自家生産していた農家の方が食べ物に恵まれていたのである。
卵焼きすら食べられない時代だった
強い巨人軍や大鵬、物価の優等生と呼ばれた鶏卵が「時代の象徴」だと冗談で話していたことがきっかけであったという
卵焼きが食べられるようになったのは戦後一四五年くらいだったのである。
これでいかにまともなもの食べていないかわかる,ただ塩びきとかはこの辺では良く食べていた、御馳走だった、この辺の近くでとれる石鰈でも大晦日では食べるのが習わしだったそれは晴れの日にしか食べていないのである。

江戸時代から明治昭和と戦後十年くらいは庶民の暮らしは基本的にそれほど変わっていないのである。鉄道ができたことが大きな変化でもその鉄道を利用するのは貨物輸送のためであり庶民は乗車賃が高いから利用していないのである。
近隣を主体にして生活していたのである。梨農家が相馬市までリヤカーで梨を運んでいたというのも運送には鉄道は利用していないのである。

この著者は母のことも短歌にして残している

この静寂(しじま)生家の部屋に目つむれば憂ひに沈む亡き母の影

囲炉裏に座っている母を偲んでいる、意外と母というのは死んでから偲ぶことが多い
自分も生きているときはうるさいなとか思っていたが死んでから偲ぶようになった
母の存在感が大きいことを知った、人間はありふれてあるものを意識しないのである。
それがなくなったとき意識するのである。
故郷でもそうである、それがなにかわからないし意識しない、でも原発事故で避難したり故郷を離れて帰らないとなると意識するのである。
死後に存在感を増すものがある、失ってみてその大事さを知る
何かこの歌でもずっと母というのは存在している感覚になるのだ
人間は死んでもその存在が消えるものではない、存在し続けるのである。
posted by 天華 at 07:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2018年06月12日

団塊の世代の少年青年時代の変化をたどる (戦中派とは違う団塊の世代)


団塊の世代の少年青年時代の変化をたどる

(戦中派とは違う団塊の世代)

90歳くらいの人はまだ戦争を経験していることがある。
18歳だと志願兵になった人がいたからである
それから小学生10歳くらいまでは戦中派である
子供心にも戦争を経験して空襲にあったり疎開したり苦労している
戦中派はギブミーチョコレートの時代でもあった
それは戦後5年くらいが進駐軍がきてそうなっていたが
誤解しやすいのは団塊の世代がそういう時代を生きたと思っていることである。

ギブミーチョコレートの時代は団塊の世代ではないしそういう経験をしていないのであるただ小学校で脱脂粉乳のミルクなどを飲まされた時代である。
何もないときに育ったのである。
家には飯台一つであり裸電球があるだけだった
それはみんな同じでありそこでまず物がそもそもないのだから贅沢しようがないのである買うにもバナナは売っていない,バナナのたたき売りとかあっても秋市とか特別な日にしかないのである。バナナそのものがないのである。

ただ人間は5年違っても生きた時代が違っているのだ
ギブミーチョコレートを言って人が5年違いでも団塊の世代とは違っていたなと思う
だから人間は本当に十年違うとかなると違ったものとして時代を生きている
5年違っても時代感覚が違ってしまうのである。
戦中派は戦争を子供のとき実際に戦場に行かなくても体験している
当時の時代の雰囲気を肌で知っているのである。
団塊の世代は戦争が終わって生まれたから戦争のことを肌で知らない
ただ親が戦争に行ったり経験しているから身近ではある
戦中派には貧乏がしみついている時代である。
飢えていたという時代でもはある

戦争が終わって生まれた団塊の世代は戦争のことを聞いても実際には体験していないのである
ただ中学生になる頃にテレビが入っていきて熱中したのである。
その頃からテレビ時代がとじまったのである。
だからそのときテレビを食い入るようにみんな見ていたのである。
野球も見たし相撲も最盛期であり国民で長嶋だ王だ若乃花だ栃錦だとかのことを知らない人はいなかった、子供では誰を応援するかで喧嘩になっていたのである。
テレビの影響はそれだけ大きかったのである。
その延長として東京リンピックがあった
テレビの前は小学校の時はラジオだったのである
天皇の終戦の玉音放送もラジオだったのである。

中学になると高校にも入れないと大騒ぎだった,そのとき受験戦争になったのは田舎でも中学生だと8クラスもあった、今は30人規模で3クラスとからしい
一クラス50人規模で一クラスだったから数が多かったのである。
自分はそのとき勉強を強いられたからそこでエネルギーを費やして失敗だった
受験戦争は本来の勉強ではなかったからだ、それから学校不適応症になった
自分はそもそも学校にあわなかった、団体生活にあわなかった
椅子にじっと座っていることが苦痛だったし体もそうだった
だから学校にいい思い出はないのである。
勉強そのものに興味をもったこともなかったからである。

中学校を卒業するときクラスの三分の一は集団就職だったのである。
中卒が当たり前だったのである。
大学に行けたのは四五人だったのである。自分は優秀でないし勉強嫌いになっていたから本当は大学に行けるような者ではなかった
わがままでもあり学校になじめなかった
ただそのとき自分は親から離れたいとか東京に行きたいという願望が強いから東京の大学に行くとなっただけである。
それは正解だった、やはり人間は親元から離れることは必要なのである。親から経済的ににだけでなく精神的に必要なのである。
それは集団就職した人たちよりずっと楽だったのである。

自分はでも結構楽でいないものを感じていた
大学は遊びだったけど一年くらい武道部に入って鍛えられたのが良かった
それまでは自分はあまりにも軟弱であり気弱すぎたのである。
もともと体力がないのだがふりかえるとそこで良く耐えたなと思う
一年でもそこで自分は変質したのである。
だから人間は教育でもその性格でも変えられる、弱気な体質でもは性格でも強気の性格に変えられるのである。

そのとき学生運動がはじまっていた、盛りにもなっていた
その一つの原因が大学を変えようと始まった
マンモス大学となり3000人に講堂で講義しているとき勉強に興味を失うということは自然なことである。勉強に熱が入らなくなって学生運動になったという背景もあったのである。そのとき高度成長の時代でありみんな就職できた時代でありそんな時代の不満はない、だからこそあっさりと就職すると企業戦士になったのである。

ただ人間は30までその基礎がつくられる、信仰の求道でも30超えたらできない
30で人間の骨格は決まり変えられなくなる
人生百年だとしてもそれだけ少年青年時代が人間を作る
それをもっと意識させるべきだと思う
いづれにしろ日本はそのとき上り調子だった、ただまだ車に乗っている人は少なかった
これも急速に普及したのかもしれない,まだインフラとして道路が整備されなかったからであるである、もちろん高速道路などもなかったからである。

国鉄が民営化するとき車時代になっていたのである。
国鉄一家とかが存在したし国鉄が社会党を支えていたのである。
その鉄道の国鉄時代も終わりモータリゼーションの波が全国に波及したのである。
そのときトヨタが日本の代表的メーカーとなったのである
時代の変化というとき明治以降は便利な道具が情報でもテレビのように視覚化される時代になった,ラジオで音で聴いているのと新聞で活字で読んでいるのでは相当に違うからである。テレビで視覚化されることの影響が大きかったのである。
それでラジオの時放送していたアナウンサーの出番がなくなったのである。
ラジオでは人気だったがテレビだと人気がなくなったのはメデアか変わるとそさに対応した人が人気になる、女性だったら美人でないと映えない

ラジオだったら声だけだから容姿は男女で関係ない、それより声がいいと人気になる
声優のようなのがいいとなる、容姿は関係ないからである。
そういう時代の変化に対応できないと時代に適応できないと価値もなくなる
つまり時代の変化によって価値観が変わるからである。
映像の時代になるとやはり見栄えがいいものが受けるからである。
映像の時代になるとデジカメで拍車がかかりスマホでもさらに写真投稿が活発になった
テレビの時代から継続して映像の時代は進行したのである。
テレビは放送局でしか放送できないが今度はインターネットでいくらでも放送できる時代になったからである。
もう情報はマスコミの独占ではなくなったのである
これも時代の大きな変化だったのである。









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2018年04月19日

一枚の写真(祖父の写真)

一枚の写真(祖父の写真)

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一度も会ったことのない
祖父の写真がある
警察所長だった
俺は偉いと写っている
その写真は捨てるつもりだった
だが置いてあった
墓はあるが墓参りにも行かなかった
母は威張ってばかりいたという
警察をやめてから
機織り工場を経営して失敗した
それで一家離散にもなった
祖父なのに敬わないのか?
確かに不遜である
でも思うに祖父の人生は
ただこんなものだったのか?
もうその子もみんな死んだ
孫は残っているがちりぢりだ
実際に会った人は誰もいない
語る人も誰もいない
私は母から聞いたのは
いつも威張っているということだけ
その母も死んだ
もし祖父でも祖母でも
もっと語ることがあれば
その人生は意味があったのでは
いくら地位があっても今ははかない
捨てようとした祖父の写真が
まだ自分の家に置いてある
なにかわびしく悲しい
もう祖父について語る人はいない
・・・・・・・・・・

母の実家は複雑であった,父は警察所長をしていたが退職してから機織り工場を経営して失敗して一家離散のようになった,警察所長をしたくらいだからもともと経営の才がなくても成功すると思ったのだろう。
事業で失敗する人は何か甘い予測をして失敗しているのも多い
自分が優秀だからと奢りがあり失敗する,そして祖父について語られるのは母が言っていたのは威張っているだけだったということである。
なぜならそうして機織り工場で経営に失敗して母もまた辛酸をなめたからである。
つまりいくら肉親でもそうして子供がひどいめに合うと祖父母でも語ることすらしないのである。
現実にそういう人がいて墓参りすらしない人もいる,肉親でも父親でもしないのである。それだけひどいめにあった結果そうなっているのだ
だから死んでも子供が両親を思うということはあるとはならないのである。
血縁だからといって人間はそれがすべてではない
むしろ親でまともに生きない人は親とも見れなくなるのである。

いづれにしろ祖父にしても死んでから七〇年とかなる,そうなると会った人もこの世にはいない,誰か聞いた話になるが私の場合は母から聞いたが母は百歳で死んだのだから
あとは聞いたという人もいなくなる
するとどうなるのか?誰ももうその人について語らないということである。
自分でも会ったこともないから何か他人のようにその写真を見ているのである
ただ祖父の出自がわからないのが不思議である。
ここで生まれ育った人ではない,転勤してきた人だからである。
それは謎でありもうわからないのである。

人間は祖父母まではわかるがその上になるとまるでわからなくなる
ただ何か功績があれば残り語られる,それがないと全くわからなくなる
結局死んでから七〇年すぎると家族でも語られる人はまれだとなる
みんな忘れられるのである。それが無常の世だとなる

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2018年04月04日

インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘(NHK) (地理(川と山)を知らず敗北した)


インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘(NHK)

(地理(川と山)を知らず敗北した)


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チンドウィン河

インパール作戦がなぜ無惨な残酷な敗北になったのか?
それを地理的な面から考察してみる,地理が戦争と深く関係していることは変わらないものだったからだ
日本人は地理を無視して無謀な進軍をしたのである。
まずチンドウイン川という大河がありこれは日本では見られない大河だったのである。
その大河を渡り2000メートル級の山岳地帯を上らねばならなかった
それで武器などを運ぶために牛を利用しようとした,4000頭の牛を用意して河を渡ろうとしたが流されたのである。そしてその山岳地帯で牛も疲弊して役にたたなかったのであるそして撤退するときもジャングルであり白骨街道というふうにバタバタ死んだのである。その死因はマラリアとか赤痢とかの病気になったためである。
暑さも天候も影響した,雨期になり河は増水して渡れなくなった
そしてその河を渡れずに日本へ帰れなかったと慰霊に行った日本人が語る

このことに興味をもったのは自分の姉がシンガボールで今のマレーシアのジョホールバルというところのイギリスの赤十字病院で4年間従軍看護婦として辛酸をなめた
ビルマ進行はシンガボールを昭南島を陥落させてイギリスから奪いとったことから始まっていたのである。
負けた原因は今になると明瞭である,まずロジステック,後方支援がない,食料もなにももたないでジャングルの山岳地帯に進行した,それで食べるものがなくて草を食べていた多くの人が餓死したのである。そこで自殺した人も多かった
その話はジョホールバルの病院でもあった,自殺しようとして飛び下りようとする兵士がいた,やはり傷が深くなれば絶望的になったのだろう。
姉もまた赤痢で苦しんだことを言っていた
この南方特有の病気で死んだ人が多かった
姉の場合は戦争が終わりるころジャングルに逃げて命をつないだのでそこが一番苦しんだのである。

こういうことがあったのだがただ戦争とか歴史を考えるとき自分が興味をもっているのは地理なのである。地政学なのである。
大河があり山岳がありジャングルがあり熱帯であり病気になり死ぬということはやはりまずあまりにもその地理もなにもわからないし後方支援もないのに精神力で突撃したことである。
日本軍の戦争は何かあまりにも無謀だったのである。
ただ負けたというときイギリス軍にはアメリカ軍が加担して後方支援をしていたからだともなる
イギリスとだけ戦うなら日本軍は勝ったのである。アメリカ軍が加わり負けになっていったのである。

自分は海外旅行して河に興味をもった,日本人は河のことを知らないのである。
長大な大河を知らない,それが島国で育ったものの弱点である。
地の利がなければ昔から戦いは敗れることになる,日本人は国内の戦争しか経験していないからだ
大陸の地理とか天候とか風土のことなど知らないのである。
それが致命的となりあまりにも悲惨な敗北となった
わからないのはなぜ日本軍はこんなに無謀な戦争を展開したのかということである。
中国でも西安とか砂漠の入り口のような所まで進軍していることに驚くのである。
そんなに大陸深く進行していったらどうなるのかも考えなかった
ただ無闇に突進して後先も返りみなかったのである。
一時シンガホールを陥落させたときは日本中が湧いたがそれも束の間だったのである。

日本人はやはり島国ということがあり大陸のことを地理でも天候でも風土でも知らなかったのである。だからなぜそれだけの無謀な戦争を大陸に展開したのか?
まず戦略などなかったのだろう,ただ無計画に進軍してゆく
何かそういうふうな無謀さはどこから生まれたのかともなる
上からの指揮でも過ちがあり多大な犠牲を強いたのである。
日本はやはり戦争が下手であり外国を島国だから知らないとういことから起きたのが第二次世界大戦の悲劇だったともなる

歴史をふりかえればローマでもライン河でさえぎられてゲルマン人の侵入できない壁となった,河は昔から自然の国境にもなっていたのである。
大陸には大河があり河の果たす役割が大きかった,それは戦争だけではないヨーロッパでも河は交通路でありそのために川沿いに港があり都市が発達してハンザ同盟とかできた
商人の連合国ができたのは大河がありその河が交通路となり道となるからそうなった
日本にはこうした大河がない,最上川くらいがその大河とにて同じ役割を果たしたとはなる

世界史というときこの地理を知らないと理解ができないのである。
ただ世界地理となるとそれを理解することは相当に現地を踏まないと実感しえないのである。世界になると自分はまだまだ理解できない
日本には大きな河がないということが世界の歴史でも理解できないことになる
ラインが父なる河としてドイツではありライン河があってそこから愛国心も起きているのである。

結局日本軍は山岳とジャングルと大河にはばまれ無惨の死体の山を築いた
そして河を渡れずに日本に帰ることができなかった
その時雨期で増水していたからである。そこでその骨を井戸に投げ入れたというのも無惨である。
どれほど日本に帰りたかったかその無念はあまりにも悲しいことである。
姉は船で日本に帰れたから良かった,でも死ぬ直前までジョホールバルで過ごした四年間が忘れられず語っていた,認知症になってもそのことは忘れずに語っていたのである。
それは本当に死ぬ間際までうなされるように語っていたのである。
いかにそれが忘れられないことだったかわかる,テレビで見た人も認知症になっていた
だから戦争のことも忘れていた,その人は生きる死ぬかの瀬戸際を生き残り帰ってきた
でも記憶もあいまいになり忘れていた,思い出せなくなっていた

日本兵河をわたれず力尽きあまた死して帰れざるかな

何か本当に無惨であり悲しいというかやるせないというかその報いもないというか余りにも悲惨がった,そこで死んだ人は若い人たちだったのである。
自分も海外旅行して日本に帰れなくなるのではないかと何度も思ったことがある。
海外旅行だとそういう気持ちになることがある
エジプト辺りで遂に帰れなくなりピラミッドにとじこめられるという不安もあった
何かそういう恐怖が海外旅行にはつきまとうことがある
戦争で外国で死んだ人はまさに永遠に帰れなくなったのである。
このドキュメントは何か生々しいものに感じた
戦争というときどうももう一つイメージしにくいからだ
やはり直接身内がいて聞いているから生々しいものに感じたとなる
それにしても今もそこで死んだ日本兵がさまよっているというのもわかる
あまりにも多くの人が死ぬと何かそうなる
津浪で死んだ人達でもそうである。以前として津浪でなくなった村の跡をさまよっているというのがわかる
インパール作戦で死んだ人達も日本に帰りたい帰りたいとその霊がさまよっているというのは実感するのである。


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2018年03月25日

地元の銀行の歴史をふりかえる (養蚕から絹織物産業から銀行が生まれた)


地元の銀行の歴史をふりかえる

(養蚕から絹織物産業から銀行が生まれた)

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政経東北3月号

明治に入ってから、蚕の卵(蚕種)は特に有名で、質の高い蚕種を全国に出荷しました。また、外国からの需要が多くなったため、福島町の問屋は生糸・絹織物を買い集め横浜の貿易会社から海外に輸出していました。明治20(1887)年の東京・福島間の鉄道開通も有効に働き、やがて、福島町は東北全体の生糸の中心地となり、生糸も福島町の絹問屋を通して販売するようになりました。生糸は当時取引額の最も多い商品で、明治32(1899)年6月に日本銀行福島出張所が東北で最初に福島に造られました。

中小の商工業者や養蚕農民の力を結集した協同組合方式で、地元の資金を地元で活用する方法でした。大正3年(1914)6月に設立された高崎信用組合(現高崎信用金庫)がそうでした。高崎信用組合は、二宮尊徳の「報徳思想」を基盤に、商工業者や農民の相互扶助の精神が、金融方面に結実して設立されたものでした。

銀行というのがなぜ生まれたのか?それはいろいろある,ここでは日本の場合,養蚕業,絹織物業から銀行が生まれた,なぜならその時一大産業が養蚕であり絹織物だからであるそこに資金が集まり貯えられたからである。

こうしして新しい産業が生まれるときそれと平行して交通も発達する
外国との貿易がはじまり横浜がその窓口となった
それで大正生まれの自分の母親が原町紡績(原紡)で働いていたのである。
そして原町紡績に門がありそこに引き込み線があった
直接そこから絹織物でも運んでいたとなる
自分の母親はそこで十年間働いていたのである。
そこでの苦労はそれほど語らない,女工哀史でもない,月給もらったから良かったとか言っていた,その頃の女性の働き口はほとんど農民だとすると農家では養蚕であり街では絹織物工場で働くのと後は女中が仕事だったのである。

銀行を考えるとき養蚕とか絹織物と深く結びついて生まれていたのである。
信用金庫でもそうである。「報徳思想」の相互扶助の団体として信用組合が生まれたというときもそうである。それは養蚕と絹織物工場を主体にした資金を出し合う組合だったのである。

銀行の起源は何なのか?それは養蚕とか絹織物工場の増加で資金が作られそこに資金が集まり銀行が派生して生まれたのである。
金持ちは自ずと金貸しとかになりやすい,それは資金が集まり貯えられるからである。
それで銀行の前進ともなる,その金をいかに有効に活かすかが実は金持ちに託されているのである。その金を元手で産業の振興を託されているのが金持ちである。
だから金持ちだからといってそれを自分の贅沢だけに使うのは本当は許されないのである金持ちには金持ちの役割があるというときそのことだともなる
その他にも金持ちには文化的なものを追及するとかただ無駄に使うということは許されない,もしそうだとするとあの人は金を持っていても金持ちの資格がないと見られるのである。ただその金でもたいした金でないとしたらそうはならない
それは相当な金をもったときそうなるのである。

ただ銀行がつぶれないかというと大正時代もつぶれているし戦争のときもつぶれている
銀行はつぶれないものではない,つぶれるのである。
その時代の経済に大きく左右されるのが銀行なのである。
今時代が変わるというとき銀行が苦境にたたされ合併とかつぶれるとかなる
自分も銀行から投資信託をすすめられて損したから銀行のことを真剣に考えるようになった,なんで銀行のために損しなければならなかったのかと考えるようになったからである人間はみんな金に対してはそれだけ真剣になる,金に笑い金に泣いているのが現実だからである。

大東銀行と福島銀行が合併するというのもそういう時代だからである。
ただ最低ランクの銀行だから合併してもメリットがないということは指摘される
インターネットなどの新しい手法を用いることもできないからである。
銀行とは何かというとき銀行に金をあづけるのは貸し金庫に金を保管するのとは違う
銀行にとっての債務だという,あづけられた預金は借りた金と同じだから本来は利子を払わなければならないものなのである。
その金を活かすことを活かして利子をつけることを要求されている
でもそれを今銀行ができないから苦境にたたされる
つまり金持ちが金がいくらあってもそれを活かせないとその金持ちはみんなからそんなに金をもっていてどうするんだ,お前には金をもつ資格がないとされるのと同じなのである金は貯えるためにあるのではなく社会で活かすものとしてある
それで金は天下の回りものと言われていた,金が回らないとただ蓄蔵されただけでは社会は繁栄しないからである。

いづれにしろ銀行とは資本主義社会と深くかかわるものである。
そのシステムの中核に銀行があった,それが今消失の危機にある、もうその資金を活かせないということは資本主義が機能しなくなったのかとまでなる
資本主義の限界説が生まれる,資金が世界的にだぶついて行き場がない
それでどこにその資金が流れるかとなると今だとビットコインになりオランダでは貿易でもうけた金がチューリップに投資されたり高度成長時期は土地とか絵画にも法外な値段で買われたのである。そういうバブルになるのも資本主義の行き着く先でありそこから崩壊現象が起きてくる

これは郷土史でもあった,銀行も郷土の歴史としてふりかえる,それは江戸時代になると頼母子講になっていたから金融でも歴史がある
まずこの辺ではどういうわけか原町に銀行があったのはわかるがなぜ双葉の新山に銀行があったのか?
そこには自分の父親が酒屋で丁稚として働いていたことは書いた
新山村と長塚村があり双葉郡とは明治移行にできた,そして長塚駅が開業した
新山に銀行があったというのはなぜなのだろうか?
原町なら大きいが新山は小さいからである。酒屋があったとしてもそれで養蚕や絹織物のように富を産むとは思えない,ただその時酒も大きな以前として大きな産業だった
ただこの辺の歴史は調べないとわからないのである。

姉が良く新山の銀行で遊んでいたというのを聞いているからである。
自分の父親は暖簾分けして鹿島に移った,その後勤めた酒屋は倒産したのである。
その当時の産業として一番大きいのが養蚕と絹織物工場である。
いかに兜型の屋根が残されているか,三分の一くらいはその二階を利用して養蚕していたのである。だから桑畑も自分の家の裏にあった
そして絹織物工場というとき自分の母方の実家の父親は祖父は機織工場を経営して失敗して破産してその後家族が離散したのである。
これをみてもいかに当時はみんな養蚕とか機織り工場にかかわって暮らしていたかわかるのである。
郷土史はそれぞれの家の歴史が基本にある。そこに一番興味をもつからである。

郷土史というときいろいろな側面から考察できる,明治以降はまだまだ生々しいものとしてある,なぜなら自分の父親は明治生まれだったし母親は大正生まれだからである。
ただ父方の祖父は何をしていたのかわからない,それだけ自分の家は歴史が浅いともなるただ自分の家についてはみんな興味をもくその祖先を調べる,ルーツを調べるのはわかるただ他の人にとってはそういうことは必ずしも関心をもたないことがある
ただ銀行にしても歴史がありそれをたどることは今を考えることでも大事である。
なぜなら銀行はつぶれないものではない,大正時代とか恐慌とかありつぶれているのだ
戦争のときもつぶれているからである。
とりつけ騒ぎもあったから同じようなことでも起きる,つまり何でも歴史はくりかえすということである。

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2018年01月03日

明治維新は何だったのか? (侍が侍をなくすための戦いだった?)


明治維新は何だったのか?

(侍が侍をなくすための戦いだった?)

明治維新と幕臣


明治維新というときどうしても藩単位のロイヤルティで動いている,そのアイディンティティが藩なのである。だから何藩に属しているかで人を見る
薩摩か長州か,会津かとか藩に属して人がある
藩には殿様がいてその殿様に仕えて御家がある
その紐帯は強いのである。それは会社に属しているより強い絆で結ばれていた
だからこそ何かあれば命をかけて殿様のために御家のために尽くしたのである。
そもそも命をかけて戦って藩ができあがったからその成り立ちからして強い絆で結ばれていたのである。

明治維新というときそういう紐帯が侍のアイディンティティが根こそぎ破壊される,消滅する危機に直面した,だから明治維新は最初藩同士の戦いであり国を根本的に変える,侍をなくすという戦いではない,なぜなら国という意識をもてないからである。
ただ徳川家は全国を治めていた,統治していたから徳川家は国全体を治めるということをしていた,だからそれが明治になっても引き継がれて明治維新が成功したとなる

ただ徳川家といってもその家臣はやはり徳川家の家臣であり国という意識をもっていたわけではない,徳川家も薩摩藩だとか長州藩でも会津藩とも同じように徳川家に忠誠を誓うものであり国という意識はないのである。
明治維新ではドラマ的に活躍する人は派手である,切り合いとか殺し合いで活躍した人がドラマ化しやすい,だからそういう目立つ人が英雄化されてドラマ化されるのである。

そうなると一体明治維新はただそうした侍とかばかりが活躍して成したものであり庶民は関係なかったとなるのか?
ドラマばかり見ていたらそうなる,庶民は何にも関係なかった,傍観者だったとなる

だから明治維新は支配階級だった,侍同士の戦いでありそしてその侍という階級をなくした戦いだったとなる,ドラマだけを見ていればそう見えるのである。
だから会津が官軍に薩摩長州軍にふみにじられてもその周りの庶民は城が落城しても何にも感じていない不思議があるのだ
かえってこの際にと庶民の不満が爆発してヤーヤー一揆になったのである。
侍に対してもっていた不満がこの機に乗じて起こったのである。

明治維新でそこに庶民が日本国民と意識したのは西南戦争の時だったのである。
その時侍出身ではない庶民も参加して戦った,その時会津藩士とかも参加して戦った
つまりその時藩という垣根を越えて政府軍として国民軍として戦ったのである。
その時庶民が歴史の舞台に登場したのである。
それまで薩摩藩とか長州藩と会津藩とか徳川家とかの家臣として勢力争いしていたのである。
そして西南戦争で侍に勝ったということでその時侍はもう日本からいなくなったのである国民が主役になり軍隊も国民の軍隊となったからである。
そしてその国民の軍隊が日露戦争と太平洋戦争と戦い膨大な犠牲者として死んだのである西郷隆盛が天下のために命を捨てろとか言っても実際はそういう国民意識はもてなかった西郷は朝鮮への外交を開きそこに侍の活躍の場を見いだそうとしたのもそのためである。その時まで戦争とは侍がすべきものだとなっていたからである。
侍の中には侍意外は政治に口出すなということであり侍が戦争もするのであり庶民は平民は参加できないものだったからである。

つまり明治維新はあまりにも侍中心の歴史なのである。藩中心の歴史だから侍同士の戦いでありそこに庶民は無視されているのである。
だから日本の国は誰のものかとなれば侍のものだったともなる
その侍がなくなるということは日本がなくなるということにまでなる

でも日本には侍だけではない,農民も職人も商人も他にいろいろな人が住んでいたのである。そこには優秀な人もいたのである。
そして国をになうのは別にそういう侍だけではない,農民だって汗して働き侍を養っていたともとれるし職人でも商人でもそうである。
現代では政治家が常にこきおろされて侍のように尊敬もされない
それは庶民が平民の社会になったとき主役になったからである。

明治維新を論じる時も侍中心であり藩とか徳川家中心になるが庶民が平民のことは語られないのである。
明治維新は最初は藩同士の戦いでありそれが西南戦争で終わり国民皆兵となり国民が主役となった
でも侍しか明治維新は関係ないように見ている
侍意外の人もその下支えとして生きていた,侍は生産活動をしない人達だったからであるでも国を支えているのは侍だけとしてドラマだと見てしまうのである。

万葉集の価値は貴族の歌もあったが庶民の歌も納められていた,そこに大きな意義があった,防人などでも庶民の悲哀がありそれものせられていた
つまり庶民が参加してできあがっていたのである。天皇だけのものではない,庶民ものせられていて作り上げられていたのである。

明治維新にはそうういものが感じられない,侍中心に物語が展開されるだけでありそこに庶民は参加していないのである。
ただ長州の高杉晋作の創立した奇兵隊には侍意外の庶民が参加していた
それで後に伊藤博文とか侍でない人が首相になったのである。
そこを見ると庶民が首相までなった時代だとなり庶民の平民
も明治維新に参画したとはなる,でもそれは長州の中のごく一部なのである。
日本全国ではそうした庶民は明治維新に参画したということは見れないのである。

一方で薩摩長州軍に敗れた徳川家とか会津とか他の藩でも幕臣には優秀な人がいたことは確かである。その人たちが明治維新で参画して新たな国造りにをした
その中に幕臣もいた,榎本武揚は有名であるが他にもいた
だから幕臣の功績もあり新たな政府として日本を作り上げ西欧列強と対峙できたとなる
それで必ずしも薩摩長州だけではない幕臣でも新たな国造りはできたと言う人もいる
吉田松陰のような人は苛烈なテロリストとか今言われるのは明治維新が何かそうした人の功績で成ったとされるからである。
その歴史の見方は間違っている,なぜそんなに吉田松陰とか坂本竜馬が大きくされたのかその疑問はやはり司馬遼太郎などによってドラマ的に仕立て上げられた結果だったのである。

歴史はドラマ的に見れば面白いが実際の史実は違っている,どうしても明治維新は藩のために侍のために戦いそして侍自らをなくすためのものだったと見える
日本国をどうするかというより先はそういう藩や徳川家という所属したものから紐帯から離れることができなかったのである。
その絆をたちきられて国民国家となったのである。ただその国民国家も西欧的な国民国家ではない,天皇の臣民としての国家となった,それも矛盾していたのだかまず国民国家というのは何か?それを意識することができなかったからである。
ヨーロッパでも国民は存在しなかった,ハウスブル家とかがあってもフランス国民とかドイツ国民とかは存在しなかった,それは近代化した以降に生まれたものなのである。
日本でも国民国家を本当に意識したのは日露戦争と太平洋戦争だったのである。
鎖国から対外的に外国と対峙するようになって日本国民としての意識をもったのである。対外的に日本国内だけで内輪もめしたら対抗できないからである。

そもそも国とは誰のものなのか?侍が支配したときは侍のものだったともなる
明治維新後は庶民のもの国民のものとなった,でも以前として国人の関係を考えると国は誰のものなのか?
国とはもう侍のものではない,国とは国民のものであり国民が作り上げるものなのである民主主義になると国は国民が常につくりあげてゆくもの,その過程にある
国民一人一人が作り上げてゆくものなのである。
そういう意識をもつことが今でも大事だとなる
そんなこと言っても国は大きすぎる,家族のためとか会社のためとか何か小さい単位だと帰属意識をもつが大きくなるともちにくいのである。
アイディンティティというときどうしても家とかその地域とかから思考してゆくし実際にその土地に生活するのだから当然そうなる
だから現代は戦争に負けてから国意識は薄れた,会社意識とかに生きたのもそのためである。企業戦士と言われたのもそうである。戦争のときはまさに国の戦士だったがそれがなくなったとき企業戦士になったのである。

別に日本国民だから偉いともならない,そこにいろいろな人がいてくだらない人もいる
強欲な人もいる,悪人もいるし暴力団もいるからそれが日本国民となったときみんな偉いとはならないのである。
侍が偉いというとき国は関係していないのである。そういう社会で偉いとなっていたのである。だから国意識とは何なのか?愛国心とは何なのか?
そういうことに答えられる人は今は少ないだろう,みんなが納得する国民とは何かに答えるものがあるのか?それが右でも鼓舞しても戦争奨励するものだとかなったり
国民みんなが納得しないのである。
むしろ以前として江戸時代のように家意識とか地域意識とかが人間の根源にある
そして自然でもそこに美があれば故郷ととしてそういう美の中に住みたいというのが国意識よりある
だから人間の根源的なものは変わらないともなる
国というとき単位が大きくなるからどうしても無理が生まれてくるのである。



タグ:明治維新
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2017年12月22日

小さな町の医院の跡(詩) (これも郷土史の一片だった)


小さな町の医院の跡(詩)

(これも郷土史の一片だった)

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こんなもので医者が往診していた

その医院には
何かあたたかみを感じる
こじんまりとした
昔の小さな町の医院
90すぎた母が通っていた
ここのお医者さんはやさしいと
母が通っていた
冬の日がさして
庭には石が並んでいる
山茶花もまだ咲いている
まるで肩を寄せ合う
老人のように見えた
人が住んだ所に何かが残っている
小さな町の医院
そこには何かあたたかみを感じる
それはなぜなのか?
ここに住んで地域の人とともに生きる
そういう気遣いが開業医にはある
それが病院とは違うあたたかみをかもしだす
それで今でも何かその跡に残っている
しかしこの医院も壊されるとき
そうした過去は消える
でもここにある内は偲ぶことになる
毎日ここを自分は通っているからだ

たびたび夜間に患者さんから電話があって、当時は自家用車を持たない家が多かったから、往診することが多かったのだ。
交代で当直ができる勤務医のほうが楽だと思っていた。
今どきの開業医のほとんどは、自宅と医院が別である。

父の時代でも、「ふとんが温まる暇がないくらい往診が多かった」といっていたから、祖父の時代はもっとすごかったのではないだろうか。しかし、往診が多くて儲かったという生易しい問題ではない。道路事情が現在と全く異なり、往診そのものが大変だったのである。

当時は往診が多い,往診が多いというとき車もない時代だから苦労になる,姉は看護婦であり保健婦として役場に勤めた,その時一軒一軒自転車で回っていたのだ
下駄をはいていたような時代に自転車で回って歩いていた,姉は気丈夫であり体が強いからできたのである。
昔の自転車は今の自転車とは違いいいものではなかった,でも自転車で一軒一軒回っていたのである。医者も往診が多かったというときそうである。
昔の医者と今の医者も相当に違ったものなのである。
医院といっても今のように機械などはない,聴診器中心にみる,何か手作りの医者の感じになる,だからかえって人間的になりえたという逆説がある。

江戸時代になればなぜ医は仁術になったのか?そもそも医者にかかっても直せないと患者も思っていたから直らなくても恨んだりしないのである。
それよりやさしいとか思いやりあることが医者にも望まれていたのである。
塾の先生にしても人柄がいい人が選ばれたというのもそうである。
そこでは人を見る基準が全く違っていたのである。

今はみんな技量を見るし腕に重点を置くし先生でも高い知識をもつ人が選ばれる,人柄など関係ないのである,ただ医者でも口が悪くても医者として技量の高い医者はいる
近くの医者はずいぶん自分の家では世話になったが口が悪いので母は嫌って行かなかったやさしさがなかったのである。人柄としては良くなかったのである。
でもその医者のことは誰かが話して話題になっていたのである。
それが死んでからその医者のことを誰も語らないというのが不思議なのである。
死んでからすでに十数年とかたっているのか時間がたつのが早い
そしてたちまち忘れられるのがこの世の常である。

開業医と勤務医の相違は開業医は家族をもち地域に住んで生活をともにすることである。だから近くの医者とは何か病気意外でつきあいがありもらいものしたりあげたりと頻繁にあった,その辺が勤務医とか大きな病院とは違っている
それで原町の産婦人科の医院長がそういう医者であり癌になっても最後まで地元の人に尽くすべき奮闘したのである。
それは勤務医でないからである。勤務医の人は原発事故があり南相馬市立病院をやめた人を知っているからだ,あれだけの混乱とかで嫌になりやめた
勤務医の人はそうなりやすいのである。開業医の人は土着しているからやめることができないのである。その相違も大きいと思った

何か死んでから人はいろいろふりかえるものだと思った,ささないことでも何かそれが一つの生きた証となりふりかえる,そのふりかえり語ることが老人が生きる意味だともなる老人は何らかでみんな語り部になる,ただその語り部でもうまい人とそうでない人はいるでもみんなどんな人でも人生を生きてきたのだから何かしら語ることがある
それが郷土史にもなっているのである。

自分もそうだが自分の家のことには一番関心がある,だから郷土史とは自分のじいちゃんとかばあちゃんから聞いた話からはじまると書いたのである
むずかしい歴史もあるが基本的にはそうなるのである。だから誰でもともかく一番郷土史は身近なものとしてある
何かしらみんな違った人生を生きているからそれが郷土史になるのである。

人間の不思議は必ず自分であれ家族であれ他人であれ一生をふりかえる
そこに意味を見いだしてゆく,それが基本的には歴史になる
それが日本史とか大きな歴史ではなく家族でもそうだし個々人でも平凡な人でもある
自分にとって身近なのは姉と母なのである。それが死んでからいろいろふりかえることになる
なかなか生きているとき本当にふりかえるのがむずかしい
それは家族でなくても生きている人を冷静に客観的には見れないのである。
死んだとき何か冷静に客観的に見れるのである。
家族でも他者でもこの人はこういう人だったのかと再発見が常にあるのだ

そして不思議なのはそうしてふりかえり死んだ人でも語る時,その死んだ人が生きているように思えるのである。自分はプログで語っているが誰かに語ればそうなるのである。
でも何も語らないとするときその人は死んだ人のことを語りたくないのである。
それは親でも毒親としてひどい目にあった人は親のことを語りたくないしふれたくもないとなる,だから死んでも人間はそうしてあとあとまで影響があるからおろそかに生きられないともなる

いつも自分はなんか他者にとって嫌になるかもしれないが母と姉のことが浮かんでくるのである。それだけ六十年間一緒に住んでいたことで一体化していたということの裏付けにもなる,一緒にいた歳月の長さが関係していたのである。
だから長年連れ添った人が熟年離婚になるのはもったいないと思う
その長い歳月を一緒に暮らしたことが苦い思い出なるとことは何なのだろうと理解しかねるのである。
そして一緒に墓に入りたくないというのも何なのだろうと思う
そんなら確かに早く離婚した方がいいともなる,一方で昔をふりかえり思い出を分かち合う老夫婦などは幸福だとなる

いづれにしろ何か人が歴史というとと大仰になるが思い出を刻んでいるのである。
そして最後はその思い出に生きるのである。だからいい思い出をもった人は老後は幸福だともなる,そのいい思い出とは何なのか?
それは個々人にとって違うから他者にはわかりにくいのである。
例えは苦難を乗り越えたという経験は後で悪い思い出となるとは限らない
あのときなんとか苦しいけど耐えた,今は楽だとかなりそれで幸福感に充たされる
でもそういう苦難のない人は老人になってもそういう幸福感にはひたれないのである。
だから最後に何が幸福をもたらすかも人間はわからないのである。

インターネットのプログではそうして今度は昔を語る人が増えてくる,そういう場としては向いている,それを本にして売り出そうとすると簡単にはできないからである。
これも商業主義には向かないものがあるからだ,ただこれからインターネットでも老人化してくるから思い出話に花が咲く時代がくる,
ただどれだけそこで思いで深く語られのか?浅薄な生だったら語るべきものもないとなり淋しいものとなる
大正生まれとか戦前生まれは激動を生きたから語るものがあり重いものをもっていた
現代は何か物質的には恵まれて浅薄なになっているから語るべきものがさほどないとなるかもしれない,語って面白い人とはそうして激動を生きた人だからである。


タグ:往診
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2017年11月09日

忘れられた昔の生活 (戦後十年は江戸時代のつづきだった)


忘れられた昔の生活

(戦後十年は江戸時代のつづきだった)

その家の近くだけど農家だった,だから庭が広い,農作業したからである。なぜか隣が神社でありそこに脱穀機が置いてあった,馬を飼う納屋があったのを知っている
その家に嫁いだ女性は八五才で死んだ,その人のことは子供の頃から知っていた
その夫は鉄道で工夫として働いていた,妻は農家で仕事していたがあとで菅野漬け物屋で働いていた,農家だから糞尿を汲みにきていたのである。
農薬を使わない時代は肥料は糞尿であった
便所は新聞紙を使っていた,トイレットペーパーがまだなかったのである。
何か汚いという感覚にはなるがそれが仕事だったのである。
もし糞尿を捨てる場所がなかったから困ったからである。

鉄道で働いていたというとき他にも国鉄の時代であり鉄道全盛の時代は鉄道はいい働き口だった,給料も良かった,民営化で騒いだがその時は高度成長時代であり退職しても金はもらえたのである。その時野党は社会党だったのである。
国鉄が衰退してなくなり民営化して社会党も消失したのである。
農業していたし国鉄で工夫で働いてもそれなりに収入は良かったかもしれない
ただ金に困った時はあったようだ,金に借りにきたこともあった
それでもそんなに生活に困るというのではなかったと思う
高度成長時代というのはみんなが豊かになった時代だったからである。

鉄道全盛の時代は鉄道関係の仕事が多かった,国鉄職員も多かった,今になると車関係の仕事が多いのと同じである。
鉄道の時代から自動車の時代になったからである。
ただ自分のように車をもっていないものは車がわからないのである。
だから現代では車をもっていない人は時代遅れであり仕事にもつけないのである。
たまたま自分は幸運で仕事しないですんだが車なしでは仕事にならないのが現代である。それで車もっている人は高速道路に入ると楽なんだと言うのは意外だった
車間距離をとれば自動運転するように行けるともなる,高速は自動運転化しやすいことがそのことを聞いてわかったのてある。
今は車のことがわからないのは社会もわからないとなるのである。
一方で旅するときは歩くことや自転車でする方が記憶に残る旅となる,車だったら昔の街道を行っても旅した気分になれないのである。

その近くに井戸があり自分の家では井戸がなくその水をもらっていた,水は水道がないのだから井戸がない家は水をもらっていたのである。
子供の時風呂に入るのには水くむから大仕事になる,バケツで水を運んだからである。
風呂は父が手作りで作った小屋のようなものだった,外風呂であり便所も外にあった
水道がない時代というのも相当に不便だったろう。
洗濯は近くの小川でしていたのである。
だから江戸時代のつづきを子供時代に経験しているのである。
燃料は炭であり炉端があったからである。

 朝顔につるべとられてもらい水 千代女

これは江戸時代だけと明治以降水道がないのだからもらい水だったのである。
街中では良く姉が言っていたけど「水ください」と井戸ある家に頼んだと言っていた。
それは子供の時であり井戸がない家はそうして頼むほかなかった。
でも水をもらっても金をとったりしないのが昔だった
第一払う金などない時代だからである。
その点農家の方が井戸はあるし自給自足で納豆を作っていたとか鶏がいて卵とかその肉も食べられたとなる,農家でもいろいろあり小作は貧しいが農家の方が豊かな面があった

橋は木の橋であり土橋だった,だからゆれるので怖かったのである。
自分はその橋を卵買いに行かされた,卵は農家から買っていたのである。一個か二個卵が割れるのである。そういう経験したことは今になると貴重である。
仕事はやはりわずかのものしか経験できない,仕事を経験するだけでも人生にとって貴重である。自分はその後仕事していないからそれを感じるのである。

昔をふりかえると不思議なのは江戸時代が理解できないことがある
江戸時代は靴下とかはいていない,女性でも素足なのである。冬でもそうである。
浮世絵の遊廓の女性も素足なのである。だから寒いと見るのである
そんな寒い所で良く暮らせたなと思う,それが時代が違うと理解できない
江戸時代で裸足で歩いていた人もいたという,なぜできたのか?
金属片とかガラスがないからできたと言うのも今から考えるとそうなのかとなる
道でも人と馬さえ通れればいいのだから広い道はいらなかった
第一広い道を作るのは簡単にできないからである。
子供の頃の道は舗装されていない,だから埃がたつ道だったのである。

外国ではネパールなどでは裸足で今も歩いていることに驚いた
インドでも街中で力車の人は裸足である。
裸足で生活することは何か原始的なことである。
現代人は相当に身体的にも弱くなっているのである。
ネパールとかインド農村に行けば昔の生活を体験できるのである。
そこに旅の面白さがあったが若いときならいいが良く見れなかったのが残念であった

街の中でも農家があるのが普通である。養蚕もしていたし田舎では街も農家の一部なのである。そもそも町というのは一区画のことであり今の町とは違った意味だったのである。だから村の中に町とつく地名がある,そこに町があるのではない,一区画の意味だったのである。墓町とあれば一区画が墓地になっている所なのである。
馬町とかあれば馬を売り買いする一区画だったとなる

家はトタン屋根であり雨漏りして洗面器を並べていた,それが伊勢湾台風で自分の家は低い場所にあったので一番被害が大きかった,その後に今の大きな家を建てた
煮炊きするのは竈であり炭や薪が燃料だった,だから台所がすすけて黒くなっていたのである。店をしたり食事の用意をした家事をすると忙しい,昔の人はまず家事に半分は費やされた,だから中流階級でも女中が二人いたとかなる,それだけ家事が一仕事だったからである。電気製品とかなければそうなる,オカズでも売っていない,作っていたから家事にさく時間が多かった,それで母と遊んだ覚えがないのである。

芭蕉野分して盥(たらひ)に雨を聞く夜(よ)かな 

昔の家は雨漏りするのが普通だった,ヤハな家だったのである。

大正生まれの母は原紡(原町紡績)で働きあとは東京へ女中になった,まずその頃女性の職場は紡績工場とか女中くらいしかなかったのである。その時良く東京に行ったと思う
母はそうした冒険をしないおとなしい女性だったからである。それだけが最大の冒険だったのである。女中でも現金収入なるとなり喜ばれたのである。

何が一番変わったのかというと政治体制とかではない,基本的な暮らしが変わったことである。今までに高度成長時代のようにな成長もなかったし庶民まで豊かな暮らしはしていない,庶民はずっと貧乏だったからである。
歴史をふりかえれば今ほど人間が贅沢を覚えた時代はなかったということである。
そして莫大なエネルギーを費やしている時代もなかった
石油であり原子力発電であれ信じられない莫大なエネルギーを使っているのが現代なのである。こういう時代は世界的にもなかったのである。
その歪みが原発事故とかなり石油戦争とかも生み出したのである。

ともかく人間は最後は思い出だけになる,つまりこうして昔を語るとき思い出すとき老人は生きているのである。それで認知症になると千回も昔のことを同じことを話するのである。それが生きた証(あかし)だからそうなるのである。
インターネットはこういう昔のことを書いたりするのに向いているかもしれない
これが本とかなるとできないからだ,今は地域の人にも語れないし子供にも語れないからである。
そしてインターネットでもパソコンでもこれからしていた人も老人になってゆくからである。
すると何でも思い出話に花が咲くとなるからだ,ただまだ若い人中心だからそうなっていないだけである。
遂に2チャンネルでも老人が増えて昔を語るようになる
今は老人はのけものにされているがやがてそれも変わってしまうのである。

posted by 天華 at 17:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2017年11月08日

明治維新と庶民 (侍の支配に不満があった)


明治維新と庶民

(侍の支配に不満があった)

会津地方の旧武士階級の人々が薩長土肥に対して強い恨みを抱いたという話はよく知られている。だが農民、特に戦場にならなかった地域の人々にとっては、かねてからの重税や物産の専売制度による搾取に加え、藩主松平容保が京都守護職として上洛して以来、その経費を賄うために行われてきた増税に対する不満に一気に火をつけることになった。9月22日(1868年11月6日)、会津藩が明治政府に降伏すると、たちまち藩政崩壊による権力の空白状態に乗じた民衆蜂起が勃発した。
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会津というと白虎隊だとかいろいろいその悲劇が語られる,一方で見逃されているのは会津だけではない,庶民が明治維新にどういうふうに見ていたのかである。
あの姫路城が10万で売りに出されるとか信じられないとなる
その時城に価値を認めていないのである。城に価値を認めていたのは侍だけだとなる
白虎隊が城が燃えているとこれまでだと自刀したのもそうである。
城に深い思いがあったのは侍であり庶民は城に対してはそんな感情をもっていない
だから会津で明治維新になり一気にその不満が爆発したのである。
そして侍の住む会津若松ではなくその北にある喜多方が商業が栄えた,それで多くの蔵が建ったのである。

そもそもいくらなんでも城が10万とかで売りに出されること自体城に価値を認めないからそうなった,城に価値を認めないということは侍に反発するものがあったからである。
城はやはり権力の象徴として当時威圧するものとしてあったのである。
今歴史的遺産となっている建築物でもそういうふうに権力的に威圧するものがある
建築は権力の象徴なのである。それは仏教でも同じである。
奈良の仏像とかでもそういう面はある,ただそういうものでも歴史的意義があり後で評価されている

ただ明治維新のときなぜそうしてこれまであったものが否定されたのか?
それも極端なのである。今になって薩摩長州のテロリストによって破壊されたというのも今だから言われる,では明治維新の時は庶民の感情は城に価値を認めない,侍にも価値を認めなくなった,その感情は急に起きたことではない,日頃から侍に不満がありそうなった,野馬追いでも野馬追いのときだけ馬上の人となり侍が復活する
その時侍の時代にもどり威張れるのである。そこに明かな身分の差が生まれる
野馬追いに出れる人は侍の出でないと出れないからだ
由緒ある家でないと出れないからである。もっと誰でも野馬追いに出て盛り上げたらいいとなるが野馬追いの場合できないのである。
だから祭りとしては侍の祭りであり庶民がかかわらないから地元でもつまらないともなる青森のネブタなどは外から来ても誰でもハネトになれるのである。
それは庶民の祭りだからである。

日本人は明治維新でわかるように極端に過去を否定して変化する,そういう民族的特質があるのかもしれない,ただ人間の歴史をみれば必ず権力をもつものる対する不満があるがそれができないからあるとき爆発する,それがフランス革命とかでもありどこの国でもあるのだ,人間は一旦権力をもつと傲慢るなるからだ
そして権力というのは常にもつものが変わっているのだ
現代ではマスコミが権力を持つものとして標的にされマスゴミだとか盛んにネットで言われる,それはマスゴミが正しいというより現代では権力を持つものだったからである。
第三の権力といわれたのもそのためである。
NHKでも強大な権力をもっていたし今ももっている,
NHKががこう言っているのだか反対するようなことを言うなと学校に抗議があったことでもわかる
それだけ現代ではマスコミの力が大きくなっていたからまた反発もあったのである。
マスコミは左寄りでありそこに中国韓国の工作員が入って支配されているというのもそうである。

いづれにしろ明治維新の時それほど権威があった侍が作ったものが根こそぎ喪失した
それに対して庶民は別に惜しいとか価値を認めていなかったのである。
城は庶民を威圧するものとして権力の象徴だからそうなった
今になって庶民は城をどうみているかというと城は街のシンボルだとういうがこれも明治維新のことを考えると庶民も勝手だなと思う
観光資源として城が必要だとなるのも勝手だとなる
庶民はそもそも功利的にしか動かないともなる,でも庶民の意向が全く政治に反映されないかとなるとしている,明治維新が成功したのは薩摩長州の勢力であり庶民がかかわらないとなっていたのか?

でも庶民でもやはり侍に反発するものがあり精神的に応援するものがあった
それで西南戦争では国民軍を形成して庶民が参加して武士に勝ったと言うことで大きな転機となったのである。そこで国民意識が生まれたのである。
太平洋戦争でも庶民はどう思っていたかと言うと上からあおられて戦争に無理やり参加したというのとも違う,その時鬼畜米英という感情が庶民にも異様な熱気としてあったという,つまり戦争を引き起こすものが庶民にもあったのである。
この辺の原発も積極的に金になるからと誘致されたのもそうである。
庶民には何の責任もないということはないのである。何か庶民は身勝手だということがある,その時々のことで時流にのる,利があればのってゆくともなる

ともかく人間の歴史を見れば同じようなことが繰り返されている,権力をもつものが権力を失うのである。栄枯盛衰がくりかかされる,だから一時代がすぎるとまるで変わったものとなってしまう。
城がそれを具体的に示している,今になってこれほど城に価値を認めているのはそれが観光の目玉になるとか庶民の身勝手なものから生まれている
城に本当に価値を認めるとしたら侍にも価値を認めることになる
それを根こそぎなくしたことでもわかるようにその時庶民は城にも侍にも価値を認めていなかったのである。むしろ排斥する方向に強く働いていたとなるのである。

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2017年09月07日

土手 の道でで同級生と昔話する (病気から見違えるほど回復していた)


土手 の道でで同級生と昔話する

(病気から見違えるほど回復していた)


今日土手で自転車に乗っている脳出血で一命をとりとめたきいた同級生とあった
その人は只野という人で南北朝時代,霊山から逃れてきた人を先祖にもつ古い家だったのである。
鹿島には只野性が本当に多い,それはその時逃れてきた武士の子孫なのである。
ただなぜ鹿島の街内だったというのが謎だった,というのは街内は新しい人が入ってきているのが多いからだ。
ただ鹿島でももともと鹿島村だったのである。でもその規模が大きいのである。
そこは平地が広がっていたからそうなる,それで橲原田(じさばら)とうい地名が鹿島町誌に残っている,今はない。
橲原の人が土地を求めて開いたからその名がついた,なにかこれもわかりにくい,
右田の人が橲原に肥料として草刈る場を所有していた
するとそこに右田という地名がついてもおかしくないのである。
ここに橲原田(じさばら)となった理由はわからない。

その同級生は例えば駅前の自転車屋が実は自分の家を間借りしてはじめたという,それは今自転車屋をしている人の父親である。だからその子供のときを知っているという。
ゆして不思議なのはそこに開業医があった,それを知っている人はもうかなり少ない
それをなぜ自分が知っていたかというと母親からそこで幼児の時注射してその傷跡が今でも太股に大きく火傷のようにして残っているからである。
だから医者は下手の人にかかるとひどいことになる
その頃はおそらく医療の技術は遅れていたからである。
つまり医者で一生の傷を負う命取りにもなるということである。

何かその頃町医者が多かった,それは今のように大きな病院がないからである。5軒以上はあった,内科であり歯医者も多かった,それだけ子供が多い時代であり繁盛した。
その時は主に子供とか若い人が医者にかかっていたのである。
今のように老人ばかりがかかっていたのではないのである。
そういう時代の差があった
自分の姉は保健婦だったから医者とはかかわっていたのである。

その人は相馬高校を出て東北学院に電車で通っていた,東北学院はこの辺ではポピュラーな大学である。ただ東北大学とかなると雲泥の差がある。
この辺がまぎらわしいのである。京都大学と京都産業大学とかなると雲泥の差があるのと同じである。
その時大学に出る人はクラスで4,5人だった,その人は兄は東京の法政大学に入ったので
地元の東北学院に入ったという
ただあの人は故郷を出て生活をした経験はないみたいだ,東北学院に通ったとしても故郷を出たとはいえない,自分は大学は東京だから同じ程度の大学でも違っていた
その相違は自分にとって郷里を出て一人生活することはやはり精神的自立することになったからである。故郷を一度も出ないものは何か精神的自立をしにくいように思う。
ただあの人もともとコミニケーション能力があった,そういう性格は変わらない
自分には社会性とかコミニケーション能力が欠けていたのである。
こうして他人と話するようになったのは60代以降強いられてそうなったのである。

自分にとって大学に入ったことは勉強することではない,勉強は嫌いだったし学校にはなじめない性格だった,ただだから家を出ること故郷を出ることが自分の望みだったのである。今でも故郷を出るという志向が自分にはある
あの時代は東北大学に入る人が4,5人でもいた
原町高校と相馬高校でもいたが今は全くいない,それだけ高校生の数が減ったからであるあの時は人が多いからその中に優秀なものも出たとういことである。

ともかくあの人も郷土史を勉強している,あれだけ古い家の生まれだから当然家には一番興味をもつからである。何か古いもの,お宝が残っているらしいがそれがいつの時代のものかはわからないらしい。
郷土史とかはおばあちゃんとかおじいさんとかの話を聞いて興味をもつということを前に書いた。
その人の父親は戦争の空襲のことをノートに書いていたという,鹿島でも爆撃されて死んだ人がいたのか?そのノートに記してあったという,原町の被害は大きかった
飛行場もあり相馬農業学校は爆撃で燃えた,その近くに母の実家があり母から防空壕に逃げた話を聞いている,防空壕の蓋が飛行機が飛んできて舞い上がったとかあるから相当に低空飛行したのかもしれない,そうなったのは相馬農業高校が近くにあったからである。その実家も今はない,墓だけが残っている

自分の家のことも二代くらいだが一人になって昔をふりかえる
家で店をしたとき姉が古い自転車で農家に野菜を買いに行ったことが思い出される
それは役場に出勤する前でありその野菜を積むにも相当な力が入る,女性では簡単にできないのである。その量も多いからだ,でも姉は力持ちだからできたのである。
その野菜を売っていたのが母だったのである。
何か必ず家々にはこうした物語が残っているのである。
一軒一軒の家が郷土史なのである。この辺ではどうしても原発とかかわることが郷土史になってしまった,原発の恩恵を受けていたことが多いのである。
だからあまり東電を批判できないとなっているのである。

その同級生は本当に二年前にあったときよりすっかり回復していたのは驚いた
一時間以上立って話しているのに疲れたとも言わない,二年前だったら立っていられないだろう。二年間の間に相当回復したのである。
もともと脳は損傷しなかったからそれが良かったのである。
そして脳出血は時間との勝負であり早く治療して南相馬市は前に新しく脳出血センターができたように副委員長が専門的に優れているから若い研修生も習いに集まるほどである。そういうことで幸運が重なりあんなに回復したのかもしれない

いづれにしろ団塊の世代も年でてある。昔を語る人となった,まず自転車屋の前に開業医院があったことを知っている人はほとんどいない,自分は母親から太股の傷のことで聞いてその医者のことを思い出したのである。
注射によって傷が広がったのである。
その医者によってつけられた傷だったのである。
それを恨みに思うももうその医者は5とっくの昔に消えているのである。
ただなんらか昔のことが傷として体に残っている人はいるかもしれない
そういうことは長い一生の間にはある

その人はおくさんもいるし子供がいるから娘は千葉にいて常磐高速でしょっちゅう行っているという,世話する人がいるから病気になっても良かった,今はのんびり庭の手入れをしたり自転車に乗ったり車を運転して楽しんでいる
それにしてもあんなに回復することは驚きである。
やはり脳がやられないから良かったのである。脳がやられると体が麻痺するからである。
やはり近くの同級生は隠れ脳梗塞があるということを言っていてそれがずっとあとにまた脳梗塞になり脚に麻痺がきてびっこになりやっと歩いて買物していた
車があるから買物もできている,まだ車は運転できているのである。
近くでもあれでは買物もできなくなる,一人暮らしだけど一週間に一回くらい弟が世話している,その人も最近母親も死んだので一人暮らしなのである。

団塊の世代は過去をふりかえる時代になった,その歩んだ人生は違っている
その人は普通に勤めて結婚して子供をもうけていたから変わったものではない
最近インターネットだけで知ったプログを最後まで書き続けた人も死んだが同じ世代である。その人は透析を17年間もしていたというからこれも驚きである。
必ず60代から病気がでてくる,そして死ぬ人も出てくる
タグ:団塊の世代
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2017年07月21日

鰻を売りに天秤棒をかつぎ鹿島区の屋形から川俣まで行った人の話(続) (それは本当だった)


鰻を売りに天秤棒をかつぎ鹿島区の屋形から川俣まで行った人の話(続)

(それは本当だった)




うなぎ街道(山陰中央新聞)


この話しには驚いた。五貫目の鰻を天秤棒で八木沢峠を越えて川俣まで売りに行った話を聞いたという。川俣までとなると八木沢峠を越えること自体大変でありそれも天秤棒だとなるとバランスをとるのがむずかしいから余計に重労働になる。坂をのぼるときバランスをとるのが大変だったというからその話はリアルである。五貫目というとこれはかなりの重さである。

百匹にもなるのか?50匹くらいか、それほどの数でないとこれだけの重さにはならないかもしれない、それだけ売れたら大変な金になったからこそ川俣まで売りに行った。川俣では当時高く売れたということである。今でもそうだけどやはりバナナでも売れるのは金持ちの国である。食料品も金持ちの所に流れてゆく、松川浦でとれた魚も東京の方に高く売っていたのと同じである。地元ではかえって食べられなくなっていたのである。

川俣まで鰻を天秤棒で売りに行ったのは川俣が景気が良く高く売れるからだった。そうでなければわざわざそんな遠くに行かないのである。鰻取りは自分の家で思い出がある。父親が明治生まれであり鰻とりを田んぼの畦道などで良くしていたのである。子供のときついて行った。鰻の住んでいる穴を熟知していたりミミズを餌にして微妙に微調整して穴に入れるのがコツである。鰻をとったときはごちそうだった。家族みんなで鰻を料理したのである。その頃の鰻は天然だからうまかったのである。その鰻を川俣で売りに行ったというのは本当に驚きである。

うなぎ街道の記事を見て屋形で明治に川俣までうなぎを売りに行った話は何か信じられなかった、この記事を読んで信じた、全国的にうなぎは売られていたしうなぎは日本では貴重な食料でありエネルギー源であった
うなぎは栄養価が高いからである。地元でも自分の父親だけではなくみんなうなぎをとっていた。川でもとっていた。それはみんな天然ものだからうまかった
ただうなぎ街道となると相当な距離を運んだ、そのために苦しんだ

まず今の時代どうして天秤棒などでかついで川俣まで行けるのかというのが疑問になる
うなぎは水が必要だから水も運ばねばならない八木沢峠になると今でもそうだけど急峻な長い峠道なのである。そこをまず上るとすると容易ではない、天秤棒などかついで行けるのかとなり疑問だった、ただうなぎが屋形とか海老とかではとれた
結構多くとれたことはわかる、それを売りたいということもわかる
川俣は絹織物で栄えていたから金になり売りに行ったというのもわかる
でも本統治天秤棒をかついで八木沢峠を上れるのかとうことが疑問だった

でもこの記事のように他にもそういうことがあるということで信じるということがある
つまりここだけではなくうなぎを売るということは全国的にあったことなのである。
それもかなり不便な所を長い距離があるところを売っていたのである。
大阪まで売っていて出雲のうなぎは有名だったという、江戸時代とかがわかりにくいのは基本的に歩くほか移動できないことである。
川とか海でも船を利用しても基本的に歩くことなのである。
それが実感として理解できなくなっているからそんなことありうるのかとなる

うなぎは夏にはいいが今は中国産でありこのうなぎは何か不安なのである。
薬を使っているとか何を食わせているかわからないとかある、実際あれだけ安いということは何かあるということになる
ともかく過去はそれは実際にあったのか事実だったのかということがまず第一に知ることそれが歴史を学ぶことなのである。
時代劇だってあんなにばたばた人を切れるのかといったらそれは架空の物語である。
水戸黄門とか吉宗とかがバタバタと人を切るけど第一その人がそんなに位が高いと知ったら家来はいくらなんでも切ろうとするだろうか?
そんな危険なことはしないと思う、恐れいってしまうだろう。
それがフィクションであり事実に裏付けされていないからつまらないとなる
そんなハデなことはなかったのである。

第一水戸黄門は日本を旅行したことないというからあれはみんなフィクションなのである
ともかく昔の話でも伝説でも何でもそこに事実をよむことが大事になる
その事実から歴史をたどる、小説はフィクションである。事実を基にしてもフィクションである、それで司馬遼太郎は小説家であり坂本龍馬を英雄にしたてあげたというフィクションを歴史と信じてしてしまう危険がそこにあった。
いづれにしろ川俣まで屋形から天秤棒かついでうなぎを売りに行ったというのは事実である。するとその物語にも重みが生まれのである。

飯館村までの塩の道は実際に残っていた。それも沢の道であり馬一頭がやっと通れる細い道であり一歩あやまると下の谷底に転落する、そんな危険な道をよく行けたともなるがそれが歴史の道として残っている、それも全国的にありそもそもそうした危険の道が人びとは歩いていたのである。
山があっても道を作ることはできないとなるとそうした自然の道、尾根とか沢道を行ったとなる、そういう道はまだ残っているから実感できるのである。

タグ:うなぎ街道
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2017年06月10日

浪江の室原の人からこの辺の歴史をたどる (真野川にスズキが上ってきていた)


浪江の室原の人からこの辺の歴史をたどる


(真野川にスズキが上ってきていた)

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真野川の橋の上でしきりにススギがいる、光るのがスズキだという浪江の室原の人がいた鯉はいるけどススギが上ってきているとは思わなかった。

チヌやスズキは環境への適応性がかなり高い魚なので、海水域から汽水域、場合によってはほとんど淡水といったレベルのところでも生きていけます。
途中に堰などがなければ餌を求めて数Km上流まで上ることもあるようです。

スズキはこういう性質をもっているから確かにその人はスズキを見たのである。
釣りもしていたから直感的にわかったのかもしれない、なかなか常に見ていないとわからないからである。
この人は浪江の室原の人でありそこはかなり放射線量が高い、豚を飼っていたという、その豚を伊藤忠商事が買い上げていてこの辺でも売られていたという、豚としては高級なものだった

その人に親しみを覚えたのは室原というとき小出谷に通じている 、そこが父の出身地なのである。ずいぶん近いなと地図を見て思った。境遇も両親か死んだとか母親は避難中に死んだとかにていたこともあった。
ただ勘違いしていたのは室原は確かに近いとしても大柿ダムから山をおりた平地にありそこから浪江の街まで近いとなる、そこで豚を飼っていたのである。
だから小出谷となるとやはり相当に奥であり離れている
その時そこの親戚がダムができるといいなとしきりに言っていたのである。
なぜなら金がもらえるからである。山の暮らしは貧乏であり山を出たいと思っていたからである。それは戦後まもないころである。
1989年頃完成した、30年くらい過ぎている、このダムの水は小高でも田んぼなどでも利用している

室原というところには行っていない、小出谷には平地がない、前は谷であり川が流れている、その川は大柿ダムに流れている
あそこがまず平地がないということは田畑もまともに作れないということである。
だから林業などで生活していたとなる。電気が通じたのも戦後二十年くらいかもしれない電気がその時まで通じていなかった?とすると明かりはなんなのだったとなる
ネパールの山の暮らしでもそこには電気が通じていないから夜は真っ暗になる
そうした昔の生活がネバールには残っているからそこから昔を偲ぶということができる
何かにた暮らしがそこにあったからだ。ただ一回しか行かないので良くわからない
外国はわかりにくいし良く観察できないのである。

バスは三春の方まで通っていたのである。バスが盛況な時代があったのだ
その頃森林鉄道もいたるところにありそのことを姉は語っていた
浪江のの高瀬川沿いを葛尾村の落合まで通じていた、それも距離が長いから凄いと思った森林鉄道というとき木材の供給地として山でも暮らせたとなる
それで山持ちで大倉の女性が俺は相馬の女学校(じょがっこう)に行っていたんだよ、親戚が鹿島にいてそこから通ったんだよと言っていた
当時の女学校というとき本当に相当な金持ちしか行けない所だったのである。
あとは自分の母親が尋常小学校のようにそんなものだった
当時の女学校というのは特別な金持ちが行くエリートだったのである。
山持ちが金持ちになっていた時代があったからそうなった
だから優秀だった姉が女学校に行きたかったというのはそのためである。
ただ大倉の女性は年をとっていてそういうエリートだったと面影はまるでない、田舎のばあさんになっていた。

小出谷の親戚はそれから浪江の街におりてきて暮らすようになった、息子は原発で働くようになった、家も建てた、それは一つのこの辺の歴史である。
何か原発とかかわっている人が実際に多いのである。浪江だとすぐ近くだから余計にそうなる、将来的にも浪江が廃炉作業の宿泊所としてコンパクトシティとして生き残るというときもそうである。
山の貧しい暮らしから脱出しようとして原発があった、それは確かに豊かな生活をもたらしたのである。自分の父親は双葉の新山の酒屋に丁稚奉公したのもそのためである。
山の貧しい暮らしは戦後街の方が豊かになったとき比較したときその差が大きくなったから山を出るという人が多くなったのだろう。
それが今になるといいものとしてだけ働かなかったのである。

いづれにしろ室原というとき帰るのはむずかしいのだろう。なんか拠点をもうけて集まり復興しようとしているらしい、それはまだ浪江の街に近い感じだからそうなっていた。
地図で見た限りはそう見えるのである。
その人はなにもすることがなく淋しい感じである。
ただ浪江はここから近くなっているから帰れるという気分になることは確かである。
時々土地がある人は見に行っているからである。

スズキが川通じて上ってくるというときこの辺は山でも海との関係がある
中通りとかなると海との関係を感じないだろう。会津でもそうである。
それでお浜下りとして飯館村の佐須村の山津見神社から祭りの時来るのを見ている
今は車で神輿をのせて来ていた、そして松川浦に山津見という地名があるから社があって祀られていたからであろう
もちろん綿津見神社というとき海の神でも山にもあるから海と山の関係はもともと日本では深かった、海彦山彦の国だからである。
だからスズキというのが川に上ってきたというときスズキは結構大きいからそういことは知らなかったのである。これはかなり川上まで上ってゆくという、何か餌になるものがあるためである。その時そこに翡翠が姿を現したがすぐに隠れた、なかなか動くものは写真にとりにくい、翡翠は別に時々みかけるのである。

ともかく浪江辺りになると親戚関係になっている人も多い、双葉とか大熊は相馬藩内でも遠い感じになる、浪江は野馬追いにも出るから相馬藩内である。
南相馬市だけでも2000人くらい復興住宅とか家を建てたとか移住しているようだ
だから今は浪江の人が目立つのである。
posted by 天華 at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降