2019年05月08日

烏崎村の津波被害にあった人と話する (父親は漁師だったが50歳で海で死に会社で働いた)


烏崎村の津波被害にあった人と話する

(父親は漁師だったが50歳で海で死に会社で働いた)
                                                                                

1971年3月に1号機の原発営業運転を開始

昭和52(1977)原町市議会で「火力立地推進に関する決議案」可決
昭和52年鹿島町議会で「火力建設の協力に関する決議案」可決
昭和58年漁業補償協定および付帯覚書を締結
平成5年建設工事開始
平成8年(1996)発電機を送電系統に連系(初並列)
平成9年通商産業省の使用前検査に合格(営業運転開始)

1971年に副失敗第一の原発ができて開始している
1996年にに25年後に原町の火力発電所が運転開始している

それは20年後だったのか?

となると原発はそんなにこの辺では早くから建てられたいたとなるのは注意すべきである

その人は川の土手の道に杖を持って立っていた、そこで立ち止まり話した
その話が長かった、3時間以上も話した
その人は烏崎の人であり津波の被害にもあい復興住宅に家族と住んでいる
一軒屋にしても部屋が二つとか狭いと言っていた

その人は脳卒中になった、64歳だと言っていた、だからまだ若い
しゃべることはしゃべれるし脳はやられていない、ただ足にきして歩くのが不自由になったのだ、そういう人と前もあった、それは同級の人だった
一人は結構重かったのだがダメージは軽くてすんだ
足も悪くないし一時痩せ細っても頭脳も明快である
ただ病気になったから激しい運動はできない、でも自転車で運動するようになった
それで高いヤマハの最新式の電動自転車を買ったのである
もう一人は足にきた、びっこひいている、でも車で買い物に来ている
脳卒中も多いなと思った

その人は何かよっぱらったようにしゃべるが普通にしゃべることができる
一時は呂律がまわらなくなってひどかったらしい、リハビリして回復した
ただ何かときどきしゃべるのが変だから酔っぱらっているのかとも見える
なにか良くしゃべる人であった

その人は烏崎村の漁師の父親のもとに生まれた、その父親が50歳の時海で死んだというから早く父親が死んだとはなる
それでいわきの水産学校に入った、その時漁師になろうとしたのだろう
でも父の仕事は受け継がなかった、すでにその頃から漁師は魚でもとれなくなっていたのか?
                                                                                
漁獲量はピークだった1982年の1282万トンから、2012年には484万トンにまで落ち込みました。前年の東日本大震災の影響もあるとはいえ、約3分の1にまでなってしまった

漁業も農業と同じくこういう状態だったのである

でも不思議なのは妻とヨ−ロッパ旅行していたのである
その時円はドル換算で240円だったという、その頃ヨ−ロッパ旅行した人は田舎ではほとんどいない、ハワイとかの旅行が人気になった時ではないか?
ヨ−ロッパに円が240円のとき行けた人は相当な金持ちである
第一外国はそのときまだまだ遠い所だったのである
だからこんな田舎からなぜヨ−ロッパに行ったということが不思議だった
私も本当は外国に行きたかったがその時は飛行機代が50万円とか高い時があった感じになる、そうなると普通の人は行けないはずである 

ジャンボ機の登場で高額な旅行代金が大幅に引き下げられ、特別なものだった海外旅行の門戸が少しずつ広げられていった。海外旅行者数はジャンボ機の就航を挟み、1969年〜1973年の4年間で4倍以上となる223万人に拡大ーー。まさに海外旅行の第1次ブームと言っても過言ではないが、そのブームの海外旅行客を魅了したものの1つが、ジャンボ機そのもの。そのスケールの大きさは旅客を圧倒し、機内で写真を撮り歩き、収拾がつかなくなることも珍しくなかったという

ジャンボ就航前年の1969年。最低40人単位でパッケージされた旅行が対象で、その価格は個人普通運賃の60%という大幅な割引が設定された。これにより、60万円台だったヨーロッパ商品が30万円台に、30万円台だったハワイ商品は最大7割近い値下げも行なわれたという。

この時から海外旅行は安くできるようになっていたのだ
私が失敗したのはその頃から海外旅行に行くべきだったとはなる、50歳では遅すぎたのである、もし海外旅行を早くしていれば人生が変わるということもあった
だからこんな田舎にすでにヨ−ロッパに旅行した人がいたのである

ともかくトランジスターとか言うとすでに日本の過去となり歴史となった

池田勇人は、「就任以来、高度成長、貿易振興を促している私は、自ら各国の首脳にトランジスター・ラジオを手土産に持って行って売り込んだのだから、偉大なるセールスマン、トランジスター首相」
                      
池田勇人首相はあのだみ声で所得倍増を言った人だった、その時日本は高度成長時代に入っていた、ソニーのトランジスターラジオが売れるようになっていたのだ
何かそれも歴史となりつつあり日本の繁栄期の象徴的なことにもなってしまった
高度成長時代は日本の電機製品は世界一となり売れたからである

この辺で最先端の電話の開発をしていたということもあったのか?

 電話交換手がスイッチボードのプラグにジャックをさしこむかわりに、特定の入力条件が満たされたときにリレーが回路を閉じるという方式を利用したのだ。リレーを使う ...

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こんなことを電話局ではしていて相手の電話とつないでいたとなる
だからこれが不便なので新しいものにするために開発していたが失敗したと言っていた
その時すでにソーラーパネルも開発していたがこれも失敗していたという
ただそうした先進的な取り組みをしている会社となると一流だったとなる

その人の言ったことで不思議なのはもともと今の火力発電所がある所には原発が建てられる予定があったか烏崎村の人が反対してできなかったという
そんてことがあったのか、私は覚えている、火力発電所を東北電力で建てる時会社で案内したのである、それは火力発電所であり原発ではない、ただそういう計画があったのか?その辺が良くわからないのである

火力発電所が建つ前の状態を私は知っている、そこは海であり原町まで砂浜がつづいていたのである、景色的に原始のままだったともなる
右田の松原もあり景観のいいところだったのである
だから火力発電所ができたということは大きなこの辺の変化だったのである
何かそれで烏崎の人に補償金が入り景気良くなって呉服屋が旅行に招待したとか知っている、家族の人が呉服を買っていたからである
ということはその時火力発電所が建った時、景気が良くなっていたとなる
ともかく原町の火力発電所ができてから40年がすぎている 

1971年3月に1号機の営業運転を開始

その約20年後に原町の火力発電所ができたとするとありえる、つまり双葉で火力発電所ができたからこっちにも作ろうということはありうるからだ
ただ意外と早く原発はすでに稼働してしいたのである

宮城県での建設候補地が町域に含まれる女川町および牡鹿町(現・石巻市の一部)の両議会も9月に誘致を決議し、石巻地区市町村長(1市9町)も誘致を請願して、浪江と女川で誘致合戦に陥ったが、1968年(昭和43年)1月5日に東北電力は女川町小屋取地域に建設することを決定した(浪江には浪江・小高原子力発電所が建設準備中だった)

浪江と小高の中間地帯の崖の上に原発は建設される予定だったより工事は始まろうとしていたのである、それが震災と津波で廃止になったのである
つまり津波と原発事故がなかったら小高に東北電力の原発は作られていた
それで小高の大工さんが景気良くなると言っていたのである
そこに建っていると相馬市まで30キロ圏内になり事故があったら住めなくなっていたかもしれない、ここは人口が多いからその被害も甚大になった
そして小高に東北電力の原発が建つことも知らない人が多かった

私自身も知らなかったのである、なぜなら原町はその時市であるから6万くらいの人口があったから左寄りの人たちがいて反対運動してきいるはずだがしない
そして小高でも共産系の人たちが多い町なのにしていないというのも解せないのである
だから知らない人が多かった、原発は何か知らないうちに建てられていたのである
それは原発の土地を買い県の許可がおりりれば作れるというものでみんなで協議するとかなかったのである、だからここには民主主義は全く機能していなかったのである

烏崎で中学の同級生も死んだ、地区の世話役で老人に避難勧告をしていて老人は頑固で逃げないので避難が遅くなって死んだとか言っていた
そういうことは他でも聞く、時間がないのに老人とかを回って逃げ遅れて死んだ人がかなりいたのである
また前が防波堤で遮られて海が見えないからわからなかったということも言っていた
そういえば確かに防波堤の上を自転車で行ったことがある
津波の場合、津波が来たのを見て早く逃げて助かった人の話を聞いている
八沢浦でも海に近いのに津波が来たのを見て裏山に逃げて助かった人がいた
それだけの余裕があったとはなる

海岸に接していても白い波が盛り上がるのを見たらすぐ逃げれば助かった
烏崎でもすぐ裏山があり高い所があったからである
それは歩いても近いのである、何か避難することでも失敗して相当数が死んだのである
大内では津波が来るのを見てトラックで逃げて助かった人もいる
つまり津波は意外は津波が押し寄せるのを見ていると怖いから逃げることがあるが見ないと逃げないこともあった、それが盲点でもあった
人間はやはりじかに見ないと危機を感じなかったということである

その人は今、二間の復興住宅に二人くらいで住んでいる
でも息子はいわき市と仙台にいるというから近いからいいと思った
それなら何かあったら来てもらえるからである
金はないと言っていた、それは船主でなくなっていたからである、漁業組合にも入っていない、仕事は電機関係とかの会社だったからである
そこで働いたことの苦労も語った

ともかく60代になるとなんらか病気になっている人が本当に多い、実はその人の同級生も64であり病気になっていた
自分自身も60代で病気になり入院して手術もしたのである、そのことはプログに書いてきた、まず60代以降は健康が大事である
一旦軽いにしても脳卒中になり障害がでると身体障害者になる
だからその人は歩くことはしても自転車にも乗れないのである
そして時々めまいするとかいうからやはり一時は呂律もまわらなくなったのである
でもリハビリして回復したのである
そして病気になってから誰も来ないとか言っていた、健康ではないからパークゴルフもできないと言っていた、確かに人間が何か病気になったり障害が出ると人は来なくなる
そういう人と付き合うことはさけられる、車も運転できないから一緒に行けないからである、なんかそれも淋しいと思った
車椅子の人を良くみかけるがその人も脳卒中になってそうなったのかもしれない
高齢化社会でこうした人たちも増えてゆくのである

いづれにしろこうして老いて昔を語るようになる、その人はまだ呂律がまわらないようになったりししても語れるからいい、もっとひどくなるとしゃべれなくなるからである
それもショックだとなる、こうして会話ができれば何かを伝えることはできるのである
これも一つの郷土史として記録されるとはなるからだ







        
  


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2019年02月24日

私の父は双葉の新山の酒屋で丁稚で働いていた (その記念の皿を割ったー終活は大きな負担だ)


私の父は双葉の新山の酒屋で丁稚で働いていた

(その記念の皿を割ったー終活は大きな負担だ)

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これは今の双葉郡の新山だけで元は長塚町だった

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歴史という時、相馬藩の歴史とかまた大きくは国の歴史がある
人間が一番興味があるのは自分が育った家の歴史なのである
だから自分のルーツに興味をもつ人が多いのはそのためである
それで郷土史は祖父母からおじいちゃんやおばあちゃんから聞く話からはじまると書いたおじいちゃんとかおばあちゃんはどうしてもその家の語り部になるからだ
何か必ず伝えるものがあるからだ
そこにはただ負の歴史がある、語りたくないものがあるのですべてを語りたくないし
隠したいものがあるしプライバシーにもふれるから他人の家のことをとやかく語りにくい面があるのだ
それで一軒一軒の家が郷土史として歴史なのだけどわからないのである

ただ家族がみんな死んで自分の家に残ったのは自分一人である
すると私自身に課せられたものがある、それを残す作業をしている
終活というとき物の整理になるが実際はそれだけではない
親や祖父母の残したものは物が残ったとしても精神的なもの、モノでは語られないものが多いからである、つまりモノがあったとしてもそのモノにまとわりついたストリーが思い出があるから簡単に捨てられないのである
モノとは単なる物ではない、その残されたモノにはこれまで生きた思い出がしみついているからだ、親が死んだときだからそういうものを整理するとき捨てていいかどうか悩むのがわかる

そういう自分だってもういつ死ぬかわからない、それで自分自身の終活もある
それが重なるのが高齢化社会なのである
まず家の物を整理する作業が大変なのである、だから放っておくとゴミ屋敷になることがわかる、何か整理することが相当なエネルギーを必要とすることがわかったからだ
それで毎日整理しているのだけど整理できないのである
それは知的作業としても今まで書いたものを詩などが膨大にあっても整理できないのである
そして家事をするにもしやすいように整理整頓しているがこれもまた苦労なのである
毎日家事をすることや整理の仕事や料理でもしないなるとそうしたことに追われている
そしてつくづく人間はいろいろなことに頭が回らないということである
それで冷蔵庫でも良く見ていないと同じものを買っていた
認知症になるとそういうことが多いが度々開けて見ていなと何があるかわからなくなっているのだ

この皿を割ったのはそこにあったことを忘れていた、棚にあったがそこから落ちた
それで割ったのだがその時はじめてこの文字を書いてあることに気づいた
磐城国新山」とあった、磐城国というとき磐城大田とか原町の隣の駅にあるように
磐城国にこの辺はなっていたのだ、それは明治以降そうだった
それで葛尾村(かつろう)にも磐城落合とか地名が残っているのだ
そして浪江とかは今でもいわきナンバーなのである、つまり磐城国を受け継いでいるのである
ここで私の父親は葛尾村からこの酒屋で丁稚奉公に出て働いた、そして暖簾分けして鹿島の地に移ったのである
それは聞いていたのだがあまり意識しなかったが家族がみんな死んだ結果意識するようになった
今でも大きな酒屋が双葉には残っている、富沢酒造店であり煙突も高いので営業していたのである
その辺の近くに私の父親が勤めた酒屋があった、でもそれは倒産してなくなったのであるそれは戦前のことであった、そして父の娘である姉はそこに銀行があったとか言っていたその当時おそらく銀行はどこにもない、めずらしいものだったのである

とにかくこうして残されたものが物語ーストリーがある、それが歴史である
モノがあったとしてもそこには必ず物語がつきまとっている
そういうものが一軒一軒の家に残されている、そして蔵のある家などで何か探していると偶然に遠い過去のことが資料として出てきたりする、それが貴重な郷土史になったりするのである

いづれにしろこの終活は時間がかかる、それは物を整理するというだけではない、そこには物語とか精神的なものが付随しているからである
それを受け継ぐことをどうするのか?
それは国家的なものでもそうである、戦争で300百万人死んだという時もそうである
一体そうした死者をどうするのか?どう扱うのかとが大問題になっているからだ
それは70年過ぎても解決しないからである
後世のものがそうした歴史の負の遺産であれプラスの遺産であれ引き継ぐことになるからだ、それで姉が従軍看護婦として四年間シンガポールの隣のジョホールバルで地獄の苦しみを受けて生還した
そのことを死ぬ直前まで語って死んだ、認知症になってもそのことが一番印象的だったから忘れなかったのである

それで失敗したのが認知症になっても島根県の戦友がいてその人からもらった手作りのバッグを肌身離さずもっていたのである、そして連絡が絶えてしまった
その時死んだことを連絡すればいいと今になって思った
すでに死んで8年もすぎた、今になって気づいたのである
なぜなら認知症になったことでふりまわされ次に母の介護とか津波原発事故とかで何か余裕をもってふりかえることもできなくなっていたからだ

ただインタ−ネットのプログとかこうした個人的なものを書き残すには向いている
そうでないと公にされないから普通は個々人の家の歴史はわからない
伝えられないのである、またプライバシーがあるから伝えにくい面がある
でも歴史として郷土史として残す価値はある
つまりどうしてその家が郷土で成り立ちまた繁栄したりしたのかという物語がわかるからだ、何か繁栄するにはそれなりの理由があるからである
もちろん母の実家は父が警察署長になったとしてもその後機織り工場経営で失敗して一家離散になったとかそこには残される歴史でも負の部分が多いし親戚ともめたので今は私は墓参りもしない、そういうふうにいくら家の歴史でも負の部分が大きいと語りたくないとなってしまうのである
ただこの負の部分が必ず家にはある、だからあまり一軒一軒の家でもその家のことは語りたくないとなる、だからあるその土地の家が語られるときやはりその土地で何かしら貢献した家だとなる

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2019年02月03日

従軍看護婦となった姉への召集令状 (マレーシアのジョホールバルへ4年間の従軍へ)

              
従軍看護婦となった姉への召集令状

(マレーシアのジョホールバルへ4年間の従軍へ)

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小林カツ


召集令状には「一銭五厘」という俗称もあるが、これは応召者が本籍地から離れて住んでいる場合、実家から郵便で令状が届いた旨の連絡がされていたことにちなむもの、とされている。
しかし実際には、通知を受け取ってから部隊へ出頭しなければならない日時までの時間的余裕があまりないのが一般的なため、電報などで知らされることが多かったという。
令状の表面には「応召者の氏名」「配属される部隊名」「部隊へ出頭しなければならない日時」が、裏面には「この令状の提示により、部隊所在地までの交通費が割引になること」「天災や伝染病の流行による交通遮断などで、期日までに部隊へ出頭できなくなったときの連絡先」「応召者の心得」などの備考や注意事項が記されていた。


通知を受け取ってから部隊へ出頭しなければならない日時までの時間的余裕があまりないのが一般的なため、電報などで知らされることが多かったという

これは召集令状というより電報で知らされたのである、カタカナで召集令状とあり福島支部とあり赤十字の支部なのである
これは陸軍の命令であり三陸会というのに所属していた

とにかく急なことでありそれでとまどうとか考える余地もなく戦地の地獄に連れていかれたのだ、何か悪いことは何でも急に予告なもなく来るのが多いのである
ベ―トベンの運命のうよにである
その時父と母でも別れを惜しむという時間とか余裕さえないものだった
それはみんなそうである、赤紙一枚来たらすぐ戦地に行かされたのである

今日奇妙だった戸棚を開いたら姉の母の遺影が出て来た
姉の母は私の母ではない、私の母は姉の母が死んで後妻に来たのである
姉の母は姉が戦地に四年間行っている間に死んだのである
そして姉が帰った時死んでいた
それで墓を掘り出してその母の顔を見たという、まだ顔でもそのままだったとか言っていた、それほど日にちがたっていなかったのか?
その頃は土葬だったとなる
姉は父にたって頼み埋められ死体を墓から掘り出したのである
これも悲劇だった、つまり急に召集令状の電報が来てすぐに戦地に行かされてそれが遂のこの世の別れとなってしまったのである
人間は何か思わず最後の別れとなることも多いのである
戦争の時はみんなそうなることが多かったのである

姉の母は新地の出でありそのことはわかるが後は一切わからない
ただ不思議なのは戸棚の奥に姉の母の遺影が残っていたことである
姉の母のことを知っている人はいるだろうか?
親戚ににいたがその人との縁も切れたし今では姉の墓参りとかに来る人もいない
なんらか死んだりしているし縁がみんな切れてしまったのである
親戚なども代が変わると疎遠になり縁が切れるものだった
私の家にはそもそも親戚がいない家庭だった
母の実家の縁も切れた、だから残っている親戚関係はいないのである
こんなに親戚家系などもいづれ切れてしまうのである
これも無常である

戦争のことは親の代が実際に戦争を経験していればその子はその話を聞くがその孫となると伝えられたことを聞くから何か別なものになる、実感がさらになくなるのである
戦争というのは経験しない限り理解しにくいものなのである
人と人が殺し合う世界は実感しにくいからである
だから孫に今度は祖父母の戦争経験を伝えてもさらに理解しにくくなる

ただ戦争の経験が実際はあまりにも重いものだったのである
それで姉はひどい認知症になったけど死ぬ一か月前まで戦争のことを話ししていた
その前にも千回話を聞いたので嫌になっていた
でもそれだけ青春が戦争だったということで忘れ々ことができないものだったのである
青春時代のことはなかなか忘れられないことが平和の時代でもあるからだ
貴重な青春時代を戦争に費やされたのだからそうなる
姉はあねご肌であり体育系でありはきはきしていて頭の回転も速い
太っていたけど動くの機敏であり大の男も恐れなかった
かえって大の男が恐れていたのである
それだけ気丈夫だから家を支えたとなる、ただ何か死んでから訪ねる人もないということは淋しいとなる
ともかく人間は死ぬと急速に忘れられるのである
そんな人いたのとなってしまうのが普通なのである

家というのは今整理しているけど何かそうしたものが出てくる
それは記録として思い出として残されたものなのでみんな捨てるわけにはいかない
これば貴重な資料だとなり家にとっても大事だとなる
そして姉の母のことは忘れていた
それが戸棚を開けたら奥にその遺影があったのである
これも不思議だともなるがやはり家にはそうした記録だけでない現実に家にはそうした家に思いがあり残っているとなる

何か思いが家に残っている、私の家の墓には父と姉と母と父の前の母と後妻に来た兄が埋まっている
兄は不幸にも交通事故で41歳とかで死んだ
母の実家に埋めたがその骨もなくなっていた、それで私の家の墓の隣に墓標を建てて供養している、そこには骨は埋まっていない
私は恵まれたが兄は恵まれなかった、それで墓標をたてて自分が一人供養している
娘がいるとしても何か関心がないのである
何かひどいめにあったから恨んでさえいるのである
ともかく家には何か必ず負の面がある、それはどこにでもある

私は今毎日整理が仕事である、家の整理というのは簡単にできない
終活といってもなかなか終わらないのである
それはやはり家にはそれぞれに家で暮らした歳月が長いからそれを次の代でもすべて終わりにすることはなかなかできない
それで何か残っているとそこから死んだ人を思い出すのである
特に古い家だと蔵がありそこに何代も前のものが残っている
それで先祖のことをふりかえるのである
それぞれの家自体が二代でも歴史になっているのである 

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我が家にありしも忘らるその遺影い出きて思ふ家の歴史を

時にして忘らる死者のその霊の浮かびて思ふ冬のくれかな

思うは面うになる、面と顔と関係していたのである、遺影がそうだったのである
この女性は新地の人でありでも戦前になるともう実家もわからないし誰も知らないとなった
もう時がこうして過ぎればみんな忘れられてゆくだけである
墓さえ捨てられる時代だから最後に記憶するものもなくなんてゆくのである




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2018年12月28日

「おしん」の再放送を見る (明治大正戦前戦後十年の庶民の生活は江戸時代の継続だった)


「おしん」の再放送を見る

(明治大正戦前戦後十年の庶民の生活は江戸時代の継続だった)

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学校に子守りして行ったが学校で学べなかった
奉公先で字を正式に覚えたのである



「おしん」の再放送を見た、これも古なった

『おしん』は、1983年(昭和58年)4月4日から1984年(昭和59年)3月31日まで放送されていた日本のNHK連続テレビ小説第31作。

これは34年前である、その時の俳優も若かったなとつくづく見る、その一人はもう70代で死んでいる、30代だと若いなと見る、女性は20代である
このドラマほど人気になったものはない、外国でも放送されるようになった

おしんは山形県の最上川沿いを舞台にしている、山形県は雪が深い、それがわかるのは仙台から面白山のトンネルを春にぬけるといつも雪が残っていることである
山形県と宮城県の境はここでは明確なのである
トンネルを抜けると雪国だったとなる、山形県は最上川がありそれが道となり酒田に通じている、そして酒田から大阪とに北前船で米が運ばれた道でありベニバナが運ばれた道である、それで山形市内には市が開かれた日にちの地名が多い
それだけベニバナなどが主に売られた市がたち最上川経由で運ばれたからだとなる
三日七日十日市とかあり常に市が開かれていたのである、それだけ取引が盛んだったということである

このくおしんを見てなつかしいなと見たのはこのドラマの内容が心に訴えるものがあったそれは私の父親が明治生まれであり双葉の新山で酒屋の丁稚奉公に出ていたからである
そして暖簾分けして今の土地に住んだのである
そして私もその跡を継いで住んでいるからである
丁稚奉公とは明治以降でも江戸時代と同じく普通にあった、子供の時から丁稚奉公に出された、松下幸之助すらそうだったのである
そこが学びの修行の場だったのである、学校でもあったのだ

それでなぜ私の父親が良く筆で字を書いたのかということを疑問に思っていた
どこで字を覚えたのかと疑問だった、それがおしんのドラマを見てわかった
おしんも字がわからなかった、それで奉公先で子守りさせられて学校にも行った
子守りしながら学校に通っていて嫌われた
それで学校には行かなくなったが何か字を教える人がいたり字を読むものがあり読んだりして字を覚えた、その後は奉公先で字を教えられた
そのことで子守りさせられた大正生まれの女性が子守りして学校に行けなかったと聞いたでも小説を読んで覚えたということを聞いたのでそういうことだったのかとこのドラマをまた見てわかった
丁稚奉公の先は教育の場だったのである、私の父親も丁稚奉公先で字を覚えたのである

つまり明治に代わっても庶民の生活は変わらなかった、丁稚奉公とは江戸時代からあったからである、そして明治になっても庶民の生活そのものはさほど変わらなかった
竈で米をたき炭を使い水は東京でも江戸水を使っていた、水道がなかったのである
私の世代は子供の頃、同じ生活をしていから実感がある
ただこのドラマを見て感じたのは死んだ父親や母親のことを家族をふりかえるようで懐かしく思ったのである

過去をふりかえるとき祖父母までは話に聞いても生々しいのである
でも江戸時代になると遠くなるから実感がなくなる
でもこのおしんのドラマでも東京に出たおしんが大正時代でも脚気になっていた
白米を食べられたのはいいのだが脚気になった、それは江戸患いと言われたものでありこれも明治から大正へと継続されていたのである
江戸時代の継続が明治大正戦前戦後の十年間くらいまで普通にあったのだ
ということは庶民レベルだと江戸時代と変わらない生活をしていたのである
違ったのは確かに学校ができたことだがそれでもみんな大正時代まで学校にも通いなかったのである、それは貧乏のためにそうなっていたのである


髪結いでもそうである、日本髪に師匠についておしんが働いたが、洋風の髪型に変わった時期である、そういう変化があったが日本髪はまだ基本としてあった
それからその頃米が経済の基本としてありおしんは米五俵ひきかえに奉公に出されたのである、それは江戸時代と同じなのである、米が貨幣だったのである
そのことを母が製糸工場の女工だったので米十俵とか賃金の代わりにもらって親に喜ばれたとか聞いた、その頃も米が貨幣代わりだったのである
小作と地主の話もこれは生々しいものとして残っている
そのことが当時の最大の農民の問題だったのである、格差の問題でありそれは地主と小作と明確に分かれていたからわかりやすかったのである
現代も格差社会になったという時複雑で何が格差を作り出しているのかわかりにくいのである

いづれにしろ親の人生は生々しいものとして子供に伝えられる、それで祖父母から聞いた話が郷土史になると書いてきた、それは生々しいものだからである
ただ戦争とかなると日常から離れているからわかりにくくなるのである
普通の生活ならわかるが戦争はとても経験した人でないとわからないのである
この辺では津波とか原発事故のことは延々と語られる、それは一時代が終わった時冷静に回想されるのである
その時起きた渦中にいると何か冷静に回想できないのである、あとでこうだったのかとわかる、それは歴史でもそうでありこうして親のことから昔を回想して歴史をふりかえる
こういうことはやはり老人に向いている
何か経験したことを実感しとて語れるからである、そのことで現代を見ると違ったものとして見えるのである

とにかく戦前戦後大正明治の生活はみんなおしんだったのである、そういう過酷な生活、貧乏が日本人の普通の生活だったのである、私の母親もそういう生活だった、女工で十年、東京に女中で働くとか同じような生活だったのである
それでおしんの再放送を見て実感した、昔のことが映像から生々しくふりかえることだできたとなるからだ
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2018年12月13日

明治維新で日本だけが工業化できた謎 (識字率の高さとか教育の結果なのか?)


明治維新で日本だけが工業化できた謎

(識字率の高さとか教育の結果なのか?)

明治当初の就学率は男子43%、女子10%と推計するデータもある。さらに、開国以降、日本の輸出を担ったのは生糸であるが、その生産は慶長元和(1596年〜1623年)から正徳享保(1711年〜1740年)のころまでの約100年の間に生産量が4倍増となるなど、問屋制家内工業を主体として定着しており、明治以降、基幹産業として発展する素地ができていた
改正小学校令(1907年)で6年と定められ、そのころまでに小学校への就学率はほぼ100%近くにまで高まった


1902年明治35年116歳
1912年明治45年
1912    大正元年106歳

まず工業化という前に識字率が上がらないことにはどうにもならない、工業化の前提として読み書きができなければできない
その読み書きが江戸時代にすでに寺子屋などがありできる人が多かったという
でも現実は読み書きは侍階級ではできていたが庶民は別である
農民で読み書きできる人は少なかったのではないか?
識字率が高い、読み書きできる、文字があることが文明を作る、だから楔形文字とかエジプトのヒエログリフなどで文字が神聖化されたし中国では漢字が発明されたときも神聖なものにされた、日本が奈良時代に中国から漢字を取り入れたとき唐の文明文化を取り入れて国家を形成した、だから読み書きができることが文明化できる基本になる

明治維新でもそうだった、外国語を訳すとき大和言葉だけでは訳せないのである
新しく入って来た概念を現す言葉を作れないのである
それで漢字で造語したのである、それが中国にも逆輸出されたとなる
つまり漢字にはそれだけ造語能力があるということなのだ
大和言葉にはないのである、新しい概念はカタカナにするほかないからである
それも明治維新に成功した理由だとなる

言葉がなぜ基本になるのかというと技術的なことでも言葉を通じて取り入れることが最初にあるからである、物だけではな言葉を通じて新しいものが入ってくるからである
それで翻訳するのでも日本人は苦労した、杉田玄白らの(解体新書)などがそうである
それはあらゆるものでそうだった、つまり明治維新という時、侍の吉田松陰とか西郷隆盛とかの英雄が話題になるがその底辺でも何か明治維新を成功させるものが働いた
上を改革しても庶民レベルでも何かそれだけの改革をさせるものがなければできないと思うからだ、そういう下地がないとできないからだ

だから何かがその下地としてあったからできたとなる、ただ工業化というとき籠で人を運んでいるようなのを見ていると急速に鉄道になったということの変化は大きかった
最初鉄道が使われたのは人を運ぶというより物資を運ぶことだった、常磐炭田ができて石炭を東京に運ぶために常磐線ができたともなる、それはどこでもそうだった
その後に人を運ぶことが主となったのである
イギリスで産業革命が成功したのはエネルギー源として石炭が豊富にあったからだとされる、そこに技術改革があり成功した、何か下地となるものがあって成功する
何もない所から何も生まれないともなるからだ

だから確かに日本の教育が読み書きができる人が多かったからそれが下地となり明治維新が工業化をいち早くできたというのは大きな原因だということが言える
でも最近わかったことは私の父親が葛尾村から酒屋に丁稚奉公に出て双葉の前の長塚村の新山で働いていたということを書いた
私の父親は良く筆で字を書いていたのである、明治生まれでありどこで字を覚えたのか?どうも学校ではない、それがなぞのだが字を覚える場所はまた寺子屋だけではない、葛尾村に寺子屋があったとは思えないのである

それで最近読んだ本の中に丁稚奉公で字を学んだことが書いてあったので納得した

「相模屋の丁稚たちは店の営業を終えた後、番頭の忠兵衛が師匠役でいわゆる読み書き算盤を教わっているというのです、しかし下女の自分は教えてもらえない、丁稚たちが字を教えてもらっているのをみるとうらやましくてしかたがないとそれを聞いてほろりとしましたね」〈不便でステキな江戸の町ー永井義男)

下女は字を教えてもらえなっかた、丁稚は仕事上字を読み書きできないと仕事にならないから覚えさせられた、私の家には父の通い帳が残っていた
とにかくよく筆で字を書いていたのである、そして死ぬときも最後に記念として将棋盤に私の名前を書いてくれたのである
人間にとってやはり基本は読み書き算盤なのである、それが高等になって算盤が数学とかになってゆく、算盤ができて工業化しえたともなるのだ

この本では当時子守りが普通にいてみんな年長の女性は子守りしていた
それで子守りのために学校に行けないという人を知っている
それで何かその女性は小説を読んで字を覚えたとか言っていた
その女性はまともに学校には行っていないのである
それから明治生まれの人で字を読み書きできない人がいた、その人は人に頼むのだがそれで引け目を感じていた
私の母は生まれだったけど字は書けていたのである
尋常小学校出であったが読み書きソロバンはできていたのである

とにかく日本人は教育熱心だったということは確かだろう、それが工業化に成功した要因だったということもわかる
ただ明治になっても大正になってもみんなが読み書きできていたわけではなかったのである

いづれにしろ明治維新というとき英雄が出たからといってそれだけではとても成しえない社会全般の根本的な改革だからそうなった、それができたことの大きな要因に日本人が読み書きソロバンができたことにあったともなる
そして漢字の役割も大きかった、それは奈良時代と同じである
ただ英語にしても江戸時代にすでにオランダ語ができる人がいたし医学の面でも西洋医学に触れていたから明治維新後も取り入れやすかったということはある、下地があったからである、おそらく江戸時代は何か遅れた社会のように見えてもそうでもなかった
ただどうしても駕籠のようなもので人を運んでいたとかそんなに技術が遅れている国で近代化工業化できたことが不思議に見えるのである
時代劇はリアリティがないということは確かである
子守りの女性が映らないのはありえない、そこらじゅう子守りしていた
それはその役をする女性がやはり子供だからできないとしている
小学生の女の子に赤ん坊をおんぶさせることができないからだという。
時代劇は本当の江戸時代のリアリティを映していないのである

江戸時代を知ることはやはりこれも積み重ねなのである、でもそうした経験がないものは本を読んでもピンとこないのである
私の世代は団塊の世代は子供の時

江戸時代を経験している        

水道もない、井戸水を街内ではもらって生活していたとか、電気は裸電球一つだったとか電気製品は他に一つもないとか燃料は炭だったとか本当に江戸時代だったのである
だからその時の経験は貴重だったなと今では思う
どうしてもあまりにも今は便利すぎてそういう生活がイメージできなくなったからである炭だと暖房しても相当に寒い、エアコンとか電気炬燵とも違うからである
人間は人の話を聞いても戦争のことなど経験した人しかわからない
いくら話を聞いてもその悲惨さを理解できないのである
それはリアルな体験がないからそうなる、江戸時代をイメージするとき一応親とかから昔のことを聞いているからまだ団塊の世代くらいは理解できるのである

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子守りしながら学校に行く
ただこの時は教室に入っていない
みんなが学校に行けたわけではなかった

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2018年11月26日

隠されたトラウマ〜精神障害兵士8000人の記録〜 (死ぬ直前まで消えなかった戦争のトラウマー従軍看護婦だった姉も同じ)


隠されたトラウマ〜精神障害兵士8000人の記録〜

(死ぬ直前まで消えなかった戦争のトラウマー従軍看護婦だった姉も同じ)


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小林カツ(85歳死亡)

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このうち何人かは若くして死んでいる
会津の人とか従軍看護婦との交流があった
この時福島県の従軍看護婦が集められた
福島県の赤十字の支部である
ここでは十人がいた
昭和17年だった

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この会報が長く続けられていた、ここがジョホールバルの病院である
やしの木があるから南国である
ここに戦友の従軍看護婦がいて島根の女性からもらったバッグを認知症になってからも肌身離さず大事にしていた
これも認知症ではある、やはり人間は最後は記憶が大事になる
認知症でもそうした大事な記憶は忘れないのである
特に青春時代に異常な苦労をしたからこれは終生死ぬ直前まで忘れなかったのである
島根の戦友はまだ生きているかもしれない、93歳とかになるだろう
姉は85歳まで生きた



NHKのこの放送は生々しかった、なぜなら私の姉はシンガポールで向かい側のマレー半島のジョホールバルで四年間従軍看護婦として働いた
そこはイギリスの赤十字病院だった、青春時代の四年間は長い
そこでいろいろな体験をしたが過酷だった、姉自体は丈夫な気丈な人でも腸チフスになったとか苦しんだ、一番苦しんだのは戦争終わってからだった
ジャングルに逃げて食料もなくなったときだった
ジャングルは何か食べ物があったのだろう、ただそこで病気になりやすかった
マラリヤになりそれが基で精神病になったとか梅毒精神病になったとかある
隣の人が実は姉と戦地であったというのも奇遇だった
その人は戦後精神病になった、それは梅毒精神病であったのだろう
なぜなら奇声を出して徘徊したり異常を来していたからである、それは子供の頃でも覚えている
マラリヤから精神病になったというからそういう人はかなりの数にのぼっていたのである
すべてが記録されるわけではないからだ
それから何か精神病の人がいたがそれも戦地から帰ってなったとか聞いた
必ずしも病院に入った人だけではない、家族のもとに帰って人もいたのだ

この戦争のために精神病になったとか自殺したとかは相当数にのぼっている
なぜなら病棟でも姉は窓から飛び降りる人とか苦しみのために自殺しようとした人がいたとういことを聞いたからである
戦争は人間を極限状態においこむ、そこで何があったのか?
それはなかなかしりえようがない、ただ一時的に普通であってもその後も戦争の悪夢に悩まされていた、それで時々戦争の後遺症がトラウマとなって突然怒り出すると異常性が残っているとかあった、戦争のトラウマは実際は50年過ぎても死ぬまで消えなかったのである
姉は認知症になったけど最後はその戦争のことを千回語り死んだ
死ぬ直前まで戦争のこと語りうなされていたとなる
だからこのNHKの放送でもそれはそうだったなと納得した
それだけ過酷であり脳に戦争の悲惨さ残酷さが刻まれて心を病んでおかしくなっていたのである、ただ姉には別に陽気な人で日常的にはなにもない普通の人だったのである
何か異常性はなかったのである、何かそうして日常生活で異常性が残った人は少ないと思う、ただ時々でも常に戦争のトラウマが出る
それは死ぬ直前までそうなのだからいかに戦争が過酷で悲惨だったかわかる

ただNHKの放送ではシンガポールとかマレー半島には精神障害を出たという印がなかった
そこは意外と楽勝だった、シンガポールやマレー半島は簡単に日本軍の攻撃で陥落したからである、他は中国でも地元民でも攻撃されて四苦八苦して犠牲があった
それで姉の場合はまだましな地域にいたとなる
そして従軍看護婦だから人を直接は殺してはいない、看護だから人を殺すトラウマはなかった
でもいくら苦しいことでも50年過ぎるとかすれば死ぬ頃は忘れるのである
それが忘れられないということは青春時代だったこと多感な時期だったことなどが重なったからである

戦争は勝にしろ負けるにしろあまりにも異常な状態でありその非人間的な行為は死ぬまでトラウマとして残る
日本の戦争は無理な強行だった、もう兵士になるものもいなくて40歳以上でも徴集されていたしその記録が相馬市から招集された記録が短歌として残したのをプログに書いた
そして戦争に精神薄弱者まで徴兵していたのである
それだけ兵士になる人がいなかったのである、例えば建築現場には精神薄弱者がまぎれこんでくる、高度成長時代人手不足でそうなっていた
今の時代も人手不足になるともう誰でもいいからかき集められれる
いかに日本の戦争が追い詰められていたかこれでもわかる
ただシンガポールとかマレー半島でイギリスに勝ったとういことは評価されている
歴史的快挙だったとされているからそれがどういう意味をもっているからまた別である
アメリカがベトナムでもイラクでもやはり同じように精神障害になりトラウマになった
戦争はどっちが勝つも負けるも過酷であり残酷であり正常感覚を奪う
まず人を殺したたらやはり何かそれがトラウマとなる 

姉の場合は比較的にまだ戦地としては楽勝でありそれで中国とか他よりは条件が良かったとしても死ぬ直前まで戦争のことが忘れられず認知症になっても千回話つづけて最後の一か月前も意識不明になる直前まで話していたのが戦争のことだったのである
だから今回のNHKの放送は納得するものがあった
そういう話をやはり子供に伝えられている、まだ戦争の現実はその子供辺りまでは伝えられる、でも孫とかその後になるとなかなか伝えられなくなる
だから資料として残すとか何か記録を残して語りつづけることが必要になる
ただ長生き時代で百歳の人まで出ていたからその人が語ることはまだ生々しいとなる



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2018年11月05日

150年過ぎて見直される明治維新 (国家神道化などその弊害も大きかった)


150年過ぎて見直される明治維新

(国家神道化などその弊害も大きかった)

過度な中央主権

過度な国家神道

過激な薩摩長州の倒幕

過激なアジア侵略思想


明治維新が150年過ぎて見直されている、歴史は現代を今生きている人から見る
すると時代によって見方が変わる
150年の間に日本は大きく変化した、70年前に太平洋戦争があり日本人が3百万人死んだ、そのことが明治維新の見方を変えてしまう
なぜそんな犠牲を出してまで戦争しなければならなかったのか?
それを問うとき明治維新にまでさかのぼり見直すことになる

ここにあげた四つは一つになっている、それは対外的に外国の対応から過激思想が生まれた、外国勢力に対抗するためにはどうしても中央集権国家を作らねばならなかった
それで吉田松陰とか西郷隆盛にも朝鮮征服の思想があった
明治維新からすでにアジアへの進出思想があった
それは太平洋戦争まで継続していたのである、歴史は継続である、江戸時代の継続があって明治維新があり突然全く違ったものとして外来のものを全面的に受け入れることはできない、日本には変革できる土壌があってできた
だから明治維新でも実際は幕臣が官僚となり支えたとされる
幕臣とかが今もちあげられるのもそのためである

薩摩長州は明治維新のビジョンをもっていなかった、幕府を倒す倒幕を先決したのであるだから実際は薩摩長州の倒幕が先であり何か革命思想があったわけではない
四民平等という思想もない、それは後で生まれた思想であり薩摩長州が幕府に代わって権力を握ることだった、だからクーデーターだったという見方が生まれる
そしてテロが盛んにあったからまさに吉田松陰はテロリストにすぎなかったとなる

そして過度の国家神道化して過度の中央集権になった、それは外国勢力に対抗するためになった、ナショナリズムというものではなかった、なぜならナショナリズムとなるとナショナルは国民でありその時国民は存在しないからだ
士農工商の農工商は全く政治に関与していない、なんの発言もできない
国民という意識もない、ただ藩に所属して命令に従うというだけである

だから薩摩長州のクーデータ−だというときまさに武士同士の政権争いが戦争に発展したとなる、庶民はかかわりないものだったのである
会津のヤーヤー一揆では農民の日ごろからの不満が爆発した
ヨ−ロッパだったら城は城壁で囲まれてその中に市民がいて一体である
だから他国のものが攻めてきたら城壁の中の人も一緒に戦う
でなければ殺されるとなるから戦うのである
でも日本だったら会津のことでわかるように城が燃えようがそこで侍が戦おうがどっちが勝とうが関係ないのである、ただ税を軽くしてほしいということだけである
そこで会津藩が薩摩長州に代わっても同じだから税が安くなればいいと思うだけだったのである
ヨ−ロッパとは歴史が違うからこんなことが起きたのである
そこでブルジュアとか生まれたがそれはブルクから城から生まれた言葉である
それは裕福な人だとなるがもともと城と城壁で囲まれた市民は一体だったからである

いづれにしろ日本はヨ−ロッパのような市民の都市とかがない、封建制はにていても市民というものがいなかったのである、そこに市民の自治もなかった
村がは市民という大きな共同体ではないからである
その相違があり明治維新は武士同士の下級武士の革命だというときまた薩摩長州のクーデーターだったというとき歴史の相違でもそうなる
フランス革命とかなると庶民も参加した革命だから違っている
明治維新は武士同士の争いであり政権をとる戦国時代のような権力争いだったともなる

そこに日本的なものとして天皇がもちあげられ国家神道が上から強力な圧力でおしつけられ廃藩置県も天皇というものがあってできたと大久保が言うのはそのためである
日本の歴史は天皇でまとまる社会だったからである
それで天皇が二人出たとき南北朝の争いが60年とかつづいたのである
ただそのことのマイナス面としてあまりにも国家神道が協力に権力によっておしつけられた、そのことで弊害が大きかった
廃仏毀釈とかあったり思想統一が国家神道で成された
その国家の権力によってもともとのその土地土地の社なども格付けされたり国家神道化されたのである、それが地名にも影響していたのである
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伊東ひとみ. 地名の謎を解く―隠された「日本の古層」―(新潮選書) 

地名でもそもそもその土地から生まれたものだから国家権力によって好字二字にせよというのはその文化の破壊だったのである
地名とは文化でもある、土地を耕すというcultureである、そうした地域の文化を破壊することはすでに古代でも権力によって行われていたのである。
国家とかはそもそも地域地域にあった国(くに)とは違う、権力的なものがかかわる体制である
だから国家と民族が違うというとき国家は権力によって構成されたものであり民族は地域地域のクニから形成されたのである
だから国の手形が訛りだというときそうである、明治以降に協力な中央集権があり言葉も標準語にされたのである   

国家権力となると日本の戦争でもナショナリズムだとして民族の伝統を鼓舞するもののように見えるが中央主権国家は地域の文化を破壊するのである
それで正一位稲荷とかでもはおかしいと思う、正一位というのはまるで神様によってそれも日本の貴族によって位を神様に授けるとなるから変なのである、地域地域の神とか社はそういうものとは違っていたからである、それは国家権力とはかかわらない地域の神である、ただ神にも権力がかかわることである、権力によって神が歪められたのが人類の歴史でもあった

国家神道とか中央集権の弊害は大きかった、なぜならその強力な富国強兵が国家神道の名のもとに行われたからである
それが太平洋戦争に継続されたからである、だから明治維新の見方はその戦争を経験した結果変わることになった
また太平洋戦争自体が日本では総括されていていのも問題である
それは明治維新からはじまっていたのである

戦争に負けた結果として明治維新の薩摩長州閥が断罪される

こうなったのは戦争に負けたからである、負けたからそんな戦争をなぜしたのか?
それを問うようになった、そして薩摩長州のクーデーターとか否定的見解が普通に出るようになった
戦前だったらそういうことはなかったからである、明治維新は常に肯定的に見られていたらである
また天皇批判は許されなかったからである
明治維新から日清戦争からロシアの戦争で勝ったことで日本は奢りになった、それは日本は神の国だとかなり太平洋戦争で敗北して3百万人が死んで70年過ぎてその戦争は何だったのかと歴史を見直すようになったのである
戦死者は神社に慰霊の碑や忠魂の碑としてある、それは国家神道とかかわったものであり神社本来のありかたとは違っている
なぜなら日本にある無数の神社とか社はその成り立ちが国家神道とはかかわっていないからである

なぜ東北列藩が同盟して薩摩長州軍と戦わねばならなかったのか?
それは東北列藩が会津に薩摩長州に謝罪をしろと願いを出したが断れたという
でももともと東北列藩では戦うことを最初から決めていた藩もある
東北列藩は数が多くても武器の差で敗北した、また戦争になれていないということでも敗北した
また急なことでまとまりもなくて敗北した、その勢いがあまりにも違っていたのである
ただではなぜもう江戸が無血開城されたのに東北を攻める必要があったのか?
それは徳川幕府の幕臣が実際明治維新後に政府を支えたということでもまた実は明治維新がなくても徳川幕府は開国して対応できたということとも通じる

薩摩長州は権力を争奪するクーデーターだからそうなった、最初から革命の思想などない、倒幕が目的であり権力をにぎり政治の実権をとることである
そういうことは政治では民主党がそうだったようにまずは政権奪取だとあり何かをすること政策もなくてもそうなることが多い
それで民主党でも政権をとったが何もできずに終わったのである
それは公明とか創価とかもそうであり共産党でも実はそうなのである
一見そういう人たちには権力欲がないように見えてもそうではない、それはどこの革命でも権力を奪取したとき中国のように幹部が莫大な富をもつようになると同じなのである
だから何か革命思想があって明治維新があったわけではない、ただその後思わぬ方向に展開したのである

だから今になると西郷とか明治維新の立役者がそんなに評価できるのか?
そういう疑問が150年過ぎて表にでてきた、そして司馬遼太郎の小説に左右されすぎたのである
小説であまりにも明治維新がもちあげられすぎたのである、本当は薩摩長州のクーデーターでありテロリストにすぎなかったともなるテロリストには思想はない、相手が金持ちなら殺して金をとる、また命令された人から金をもらうというだけで殺す
つまり権力をとるために殺すというのがテロリストなのである
だから一時共産党でもテロリストとなりオウムもテロリスト集団になったし創価でも仏教平和主義など言っていたが実は民主主義社会でなければテロリストになる、ファシズム団体になる

なぜならそういう人たちは権力をとれば金になるとか地位にありつくとかしかないからである
官僚が天下りして得している、俺たちもあのようになりたいということしかないのである
薩摩長州は実はそういう侍の組織団体だったともなる
長州の奇兵隊などもそうして成りあがりたい人たちだった、下級武士や庶民もいて実際に伊藤博文は庶民の出でも首相になったからである
ただあまりにも持ち上げられていたのはなぜなのか?
それはふはり歴史は勝者の歴史であり薩摩長州の政治勢力が阿部首相のように継続して政治の中枢にあったためだともなる

ただでは徳川幕府がそれほどほめられるものなのか?
実は廃藩置県でも地方の藩の財政は困窮していて廃藩置県で借金を中央政府が肩代わりしてくれるということで賛成していたのである
つまり徳川幕府もその体制の維持が限界にきていたのである
第一大奥などあるのはいかに徳川幕府が遅れているかを証明していた
それはオスマントルコの後宮政治とにていたのである
そういうところから政治に女性がかかわり腐敗してくる
だから徳川幕府はもう自壊しつつあったのである、だからあんな簡単に薩摩長州のクーデーターでもろくも崩壊したのである

会津だけが最後の徳川の幕臣としして悲壮に戦い犠牲になったのである
徳川幕府はもう維持できない状態になっていたのである
だからといって薩摩長州が別に革命思想とかあるわけでもない、クーデーターであったが成り行きでいろいろな改革が成されたとなる
いづれにしろ薩摩長州を異常に評価する時代は終わった、それは大平洋戦争を起こし日本が大敗北して3百万人もの犠牲者を出したからこそ今になり見直されるようになったのであるか。

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2018年10月30日

我が父の残せしもの (家や土地には歴史が必ずある−老人は語り部になる)


我が父の残せしもの
(家や土地には歴史が必ずある−老人は語り部になる)

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昭和35年となるけどこれを書いてすぐに死んだのである
何か残したいから書いたとなる

我が父の残せしもの

我が父の葛尾村から出て
双葉の新山の酒屋に
丁稚奉公する
その後暖簾分けしてここに住む
良く縁側で煙管を吸いくつろぐ
楽しみは味噌を焼いたもので
酒の肴にして飲む
高度成長時代の贅沢を知らずして死ぬ
最後に言いしことは
サシミを食えるようになったのに食いたくねえ
病気になりで伏してそういい死ぬ
姉のバナナを仙台に行き買うも
物なき時にあえなく死にぬ
我が跡を継ぎてその苦労を偲ぶ
この土地は街にて悪しき土地なりしも
父の苦労して買いしもの
そこに我は住みえしなり
父死して半世紀ははや過ぎぬ
しかし今になりて父を思いぬ
我がここに住めるは父ありし故なりと・・・・

人間の一生をふりかえればどんな一庶民でも何かを残している
それは自分のことだけではない、必ず親がいるから親の一生も受け継いでいるのである
父のことはあまりにも前のことだから思うことがなかった
ただ自分の家族が全部死んだとき意識するようになったのも不思議である
何か人間はかならず老人になると死ぬ頃になるとこうして自分のことならず家のことでも昔をふりかえるものだと思った
もし家族がもっと早く死んで後継いでいたらもっと早く思っていたかもしれない

自分の家の歴史をふりかえると父が買った土地は低い場所にあり悪い土地だった
低いから洪水が二回あり浸水した、それも床上浸水であり小学校の時の台風では屋根の下まで水につかり家が流されたと思った
その後も堤防の決壊があり床上浸水があった
その後河川改修して川が広くなって水害はなくなったのである
その土地にも歴史がありそこがどういう場所か知るべきだとなる

どうもふりかえると父がなぜ字を覚えたのか?
それは酒屋の丁稚奉公して覚えたのかもしれない、丁稚で帳簿など扱うから教えられたとなる、そういう教育機関としても丁稚があったからだ
どうしても葛尾村のような山で明治になってから教える所があったとは思えないからだ
明治生まれとなると字が書けない人がまだいたのである
母は尋常小学校をでて字は書けていた、つまり大正生まれになるとたいがい尋常小学校をでているから字を読めたし書けた、明治生まれだと字を読めないとか書けないとかの人がいた、大正生まれでもまともに学校に行かない人もいた
子守りして小説を読んで覚えたとうか言う人もいる
日本では江戸時代になると寺小屋でみんな字を習ったり覚えたと限らない、そういう人は恵まれていた人なのである

こうして二代くらいでも家には歴史がある、するとその歴史を偲ぶことにより今生きることがどういうことなのかその意味を知る
この辺でも原発事故で避難した人が多いし若い世代は流出して帰らない
それはまだ家でも歴史がありそれがどういうものか認識しないからかもしれない
第一何代も江戸時代からつづく家系がこの辺には普通にある
先祖の土地は売らないというのはその土地の価値を知っているからである
私自身も今住んでいる土地がどうして得られたのか?
そのことをふりかえって父が苦労して買って手に入れたものだということを今になって意識したのである
それは結局家族が全部死んだからそう意識するようになったのである

先祖代々の田を売るなととなり田分け(たわけ)という言葉が生まれた、それは農業が主なときは土地が一番大事だからである、だから田を売るものは田分け(たわけ)となったのである、ともかくこうして歴史は個々人の家にもありそれを知ることでも歴史の重みを知ることになる、人間は歴史的存在なのである
人間はとても何でも一代では作れないようになっている
代々作られてきたものが歴史なのである
先祖を無視して歴史を無視して今の人間もあり得ないという自覚をもつべきなのである
でもこの辺ではそういうことが土地でも放射能に汚染されて捨てられたのである
そのことの意味は後でふりかえり失敗したとかなるかもしれない、その価値あるものを捨てたことを後悔するかもしれない、歴史がそこでは断たれたということが実は大きな損失だったとか自覚させられるかもしれない、何か歴史というのは時間がかなりたたないと認識できない、50年以上とか過ぎて父のことを回顧しているのもそうである
人間は何が大事なのものかその時々懸命に生きていてもわからないのである
ただふりかえると明瞭に見えてくるものがあるのだ、それは時間がたつことによって見えやすくなるのである、一生でもふりかえればあの時はこうだったのかとかわかりやすくなる、あんなことをしなければよかったとかあうすれば良かったとかみんな後悔しているはそのためなのであ

ともかく現実に今は私の家族で残っているのは自分一人なのである
だから自分一人が墓守りになっているのである
あとは誰も守る者がいないのである
そして過去を語り歴史を語るのが自分の勤めでありみんな老人になると語り部になるのである、つまり郷土史とは一人一人の家でもそうだが先祖や自分の一生を語ることなのである
歴史的価値というとき金で計れないものがある、自分の家はもう金銭的には何の価値もない、他でも空き家が膨大に増える
するとそれも金銭的には価値がない、でもそこに思い出とか歴史がありその価値は子供が受け継げば活きてくる
それを自覚するのはその家の子孫だとなるからだ、子孫がいなくなればその歴史の価値をなくなる
だから歴史的価値は必ずしも金銭的なものに換算されたりできない、でも価値あるものだとなる
つまり精神的価値あるものとしての歴史がある、ただ金銭的に換算されるものだけを見るが精神的価値を受け継ぐことも歴史である
だから遺産相続でもめるのはただ金銭的価値だけを見るからである
でも本当の継承者は精神的価値を受け継ぐ人だともなる、それが見逃されているのである
先祖でもその精神的価値が伝えられるなら喜ぶとなるが金銭的なものだけに換算されると生きている時から嫌だとなる
一方でもし残したものが金銭的なものとして換算されるものだけだったらまたそれは金銭に換算されて終わりだとなる
子孫に美田を残さずというとき精神的価値なら残してもいいとはなる
でもそれが半世紀以上過ぎて私が自覚したようになかなか自覚しにくいのである
そこに歴史の価値を知るむずかしさがあったのである

とにかく人が死ぬとどうなるのか?
これにはいろいろ言うけど死んだら灰になるし骨も残らない、すると人間が死ぬと何なるのか何が残るのか?
それは骨でも灰でもない、その人の物語だとなってしまう、だからこそhistory-storyなのである
人間は死ねば個々人であれ家であれ国でも物語として残されるのが歴史である
死んでも歴史の中で人は生きてゆく、だから歴史上の人物になれば死んでも歴史の中で生きてゆく
大方はただ孫くらいまでは語られるがもうわからなくなる
名前くらいは何とか系譜の中に残ったりするがその人となりも不明となる
ただ郷土史というとき明らかに個々人でもそうだが一軒一軒が歴史である
何かかにその家に伝えるものがある、それが郷土史の基本にある
だから一つの家の歴史が失われることは損失ともなる、それが原発事故の避難区域で起きたのである
歴史の継続が断たれる、限界集落などでも廃墟と化した村がある
そこにはお参りもしない社が残されているのである

墓守りや烏とまりて木守神

墓という物体に本当は故人があるわけではない、実際は故人は物語として残る
なぜなら墓だって永遠ではない、もう跡継ぎがいないとか維持できない
そしたらその物体を守り維持できないのである、残るのはその人の物語であり歴史として残るとなる
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2018年10月24日

明治維新は薩摩長州のクーデーターだった? (歴史の評価のむずかしさ)


明治維新は薩摩長州のクーデーターだった?

(歴史の評価のむずかしさ)

 明治維新が何なのかわかりにくのはなぜなのか?また歴史がわかりにくのはなぜなのか?
 もう直接話を聞いたりすることができない、すると何が事実なのか事実でないのかもわからないから司馬遼太郎の小説でもNHKのドラマでも事実だと見ている人が多いのである
それは相当に美化されたものであり事実ではない、でもその事実を知るのはめんどうになるから学者ではないから庶民はしないし他の人もめんどうだからしない
ただ娯楽として見ているのが面白いとなるだけである

事実としての歴史を知るのは直接親とか祖父母とかから聞いたとき生々しいものとして知る、だから郷土史でもおじいちゃんとかおばあちゃんから聞いた話からはじまると書いたそれが一番昔を知ることでありまた歴史を知ることになる
だから家族がみんな死んでつくづくそのことを思う

父親は明治生まれで葛尾村から出て双葉の新山で酒屋の丁稚奉公になった
母親は原町紡績で糸取りしていてあとで東京で女中になった
次に姉は従軍看護婦になってシンガポール、マレーシアのジョホールバルで4年間従軍看護婦で辛酸をなめた、それで死ぬ寸前までそのことを語って死んだ
次は兄は集団就職であとは交通事故で死んだ
このことはまさに自分が歴史として背負うものになった
これもまさに明治からの日本の歴史だったのである
こういうのはわかりやすいし身近だし別に明治維新が何だったとか考える必要もない
重い事実なのである、そうして苦労して生きたということが重い歴史の事実となっていたのである

では明治維新とは何なのか?
なぜこうして国レベルの歴史になると理解しにくいのか?
直接話を聞くこともできない、するとまず何のためだったのか?
そのことが問題になる、人間はまず何か行動を起こすのに理由がある、動機がある
その動機が何だったのか?それが問題になる
私の父親が酒屋の丁稚になったのは山では暮らせないから貧乏だからそうなった
母が糸取りになったものその頃絹織物が国の産業となっていた貧乏な時代だったからである、兄が集団就職になったのも貧乏な時代だからそうなった
つまり動機は貧乏だから苦しくてもそういうところで働くほかないからであった
それはわかりやすいし今でもそういうことがあるから理解できるのである
それでみんな国民が貧しい時代は豊かになりたいということで働くとなる
ただ姉の場合は急に一枚の赤紙が来て戦争に招集されたのである
その時なぜ戦争に行くのかも考える余裕もなく戦争に行かされたのである
その動機もなにもない、ただ強制されたのである
だから戦争とかなるとまたなぜしなければならなかったのか理解しにくくなる
それは明治維新とか国レベルの歴史となると理解しにくくなる

それで一体どうしてまず徳川幕府を薩摩と長州の侍が倒そうとしたのか?
それは単なるクーデーターであり別にその後に起きたこととは関係していない
四民平等とか廃藩置県とかは望んでいなかったのである
だからこそ西郷が西南戦争になり士族を残すために戦ったことでもわかる
目的は幕府を倒し政権をとる戦いであった、大義名分はなかったからクーデーターだったとなる、ただその後の展開で思わぬ方向に行ったのである
侍がなくすということを目的にしていなかったのである
その動機は徳川幕府を倒してその代わりになるということが目的だったからクーデーター論が生まれる

何か革命のビジョンとかがあったわけでもないとなる 
その指導的役割を果たしたの侍でも下級武士でありその時そういう恵まれていない人たちは何か時代が変わるという時上昇志向が起こり徳川幕府を倒すことで役職にありつくとか何か人間の欲を刺激されて参加したとかにもなる
それは戦国時代のような権力闘争だったともなる
最初はそうでも予期せぬものに展開した、それが評価されるようになったのである
第一侍だったものが侍を否定することがありえない、そういう革命はありえない
既得権者が既得権を否定することはありえないからだ
結果的にはやはり明治維新後は薩摩と長州閥が政権をとり主要な役についたことで腐敗したことでもわかる、薩摩長州による政権奪取だったとなる
そうなると革命ではなかったというのもわかる

ただその後に予期せぬ展開となりそれが革命として評価されたとなる
殿様とか侍がなくなったからである、四民平等になったからである
ただではそれで農民とか庶民の生活が劇的に変わったかというとならない
かえって農民は地租とか金銭で払うようになり確実に計算されてごまかせないとかで苦しむようになった、何ら庶民の生活は変わらなかったのである
ただ産業革命が起きて工業化して紡績工場とかが作られ情勢の働く場所とかはできた
鉄道も普及したとかあり庶民の生活が変わった
それは西欧化したことで変わった、それが庶民の生活を変えさせたとは言える
ただ政権は徳川から薩摩長州に移ったというだけであり政治的な支配は変わらない侍が支配していたともなる
それで実際の行政では幕臣がになったというときもそうである
実際に行政をになうものがいないからそうなったのである

薩摩長州連合とはただクーデーター連合でありそこに坂本竜馬がかかわったとしてもそれほど評価できるものなのか?そうなってしまうのである
徳川政権に変わり薩摩長州が政権をとるというだけのことである
長州は徳川幕府に恨みがありそこで恨みも晴らすとかなるとそれは革命ではない
ただ侍の藩同士の戦国時代の争いとにたものにもなる
ただ結果として予期せぬ方向に展開してそれが革命として評価されたとなる
昨夜のテレビ放送ではそういう説明でありそういう評価が今は起きていることは確かである、何か異常に明治維新が革命としてもてはやされた時代は終わった
高邁な理想をかかげた革命のように見させるものがあったが実は政権をとるだけのクーデーターにすぎなかった,とてもそうした革命のビジョンなどもてなかった

そして対外的にはアジア侵略思想が吉田松陰によって唱えられ朝鮮半島への進出が画策されたのも明治維新であった、それが後の太平洋戦争にもつながっていたのである
要するにトインビー流に言えば西欧文明の応戦があり日本はその挑戦を受けて改革したとなる、その後もロシアとかアメリカとの戦争があり世界史の舞台に登場したのである
そして敗戦となり焼野原となり高度成長時代をへて復興したとなる
それからまた経済の衰退と国の縮小時代になってきたとなる
明治維新から150年過ぎたけどこれから変革の時代だといっても明治維新や戦争の敗戦とかのような劇的なことは起こらないように思う
縮小化する日本とか衰退する日本とか内向する日本とかなる

おそらく日本はまた江戸時代のようなものに回帰する、海外の文明を文化をとりいれたあとに平安時代のような国風文化が起きたような時代に変わる
世界的にもITとかの普及は情報の変革であり物を供給したり消費したりするのとは違った精神革命になる
戦後の焼け野原になったときは何もなくなった
その時から物質的には窮乏していたから豊かになることが目的となった
とにかく三種の神器であるテレビとか洗濯機とか掃除機が異常に欲しいという時代であり
またマイホームとかも車が欲しいとかみんな企業戦士となり懸命に働いた時代でありその見返りもあった時代である
でも一応それが満たされると今度は精神面の充実を目指す時代となる
ただ今のカルト宗教は実は創価でもそうだが高度成長と同じように物欲を世俗の欲を御利益として認めて増えたから戦後に会員も増大した
それは戦後の物欲の時代にマッチしたカルト宗教だったのである
でも本来の宗教は内面的な心の問題として追求するから哲学とかとも深くかかわる
芸術とも深くかかわる、それで国風文化になるのである
豊かになれば物欲から精神的充実した世界を探求するようになる
それがIT時代とマッチするのである、だから変革といっても明治維新や敗戦の時のような劇的なものにはならない、静かな革命にもなる

いづれにしろ明治維新は何だったのか?その答えも一つではない
ただ今までのような明治維新の英雄の過度な礼賛はなくなるしそうなっている
それは外国の圧力で成されたものであり薩摩長州が革命のビジョンなどもっていない
ただ政権奪取を狙ったものでありそれが評価できるのか?
外交でも世界戦略でもアジア侵略の根は明治維新にあった、それが後の太平洋戦争の敗北に通じていたのである、ただ太平洋戦争となると姉が従軍看護婦でシンガポールとかで辛酸をなめたからまた一方的に否定するとはならない
その苦労を無為にできないのである、それは私的なものになるがまた公的なものとしての歴史にもなるからだ
国レベルの歴史となると理解がむずかしい、未だにまた太平洋戦争が何だったのか?
なぜ戦争になったのかそれも日本人が明確にしていない
その責任も明確にしていない、それは原発事故ともにている

それは政府と官僚と御用学者とマスコミとかが「安全神話」を作りそれが一挙に崩壊したそれは敗戦ともにている、日本は神国だから負けないという思想ともにていたからである天皇は神だから負けないとして戦争になったからである
その犠牲が3百万人の死だったからである
そして人間は必ず戦争でも起こしたらその責任は必ずとらされる
上の人がとらなくても下の人がとらされる、その責任から逃れることができないのである戦国時代は侍だけが互いに争い責任をとっていたが今度は国民全体が戦争に巻き込まれて責任をとらされたのである
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2018年10月17日

昔の消防の話 (消防車がない苦労−火事は恐れられていた)


昔の消防の話

(消防車がない苦労−火事は恐れられていた)

川の土手で休んでいる老人と話した、海老の人で津波の被害は高台にありまねがれた
その人は昔は一軒一軒火の用心と回って歩いたという
良く時代劇で火の用心と江戸の町を歩いている
江戸で一番怖かったのは火事である、でもその時水をかけて消すということはない
ただ延焼をおさえるために家を壊すことであり後はいち早く逃げることが命を救うことである

なぜそうなるのか?それはまず今のように消防車がない、火事は早くいかなければ燃え広がり消せなくなる、いかに早く行くかが問題になる
でも消防車がないのだからリヤカーのようなものに手押しポンプをのせて運ぶ



車がない時代なんでも運ぶこと自体が容易ではない,この辺だとなんとか原町とか相馬氏はリヤカーで梨を運んで売ったという人の話を聞いた
これは信じられないが屋形の人が鰻売りに川俣まで天秤棒をかついで行ったという
鰻は高く売れた、川俣は絹織物で有名だから金がある人がいたからだとなる
それにしてもそれは江戸時代でありイメージもできない、なぜなら八木沢峠は今でも車で超えるにしても難所だからである、今はトンネルができて楽にはなった
ともかく車がない時代はいかに運ぶことに苦労していたかわかる
簡単には運べないとなるとどうするのか? 

近くであるもので生活する他ないとなっていたのだ、自給自足とかになる
ただ炭とかは山の村から運ぶことが必要だったのである
その時馬車が使われていた、馬車だとかなりのものが運べるからである
でも消防のことを考えると今の救急車のように一刻も早く行かないと間に合わない
燃え広がったいて何の役にもたたないとなるのだ

半鐘の打ち鳴らし方を変えて、様々な情報を知らせたのである。
 半鐘の音は公的な信号であるから、その鳴らし方は恣意的ではなく、周知のパターンが定められていた。

 その人もこのことを言っていた、その半鐘で聞き分けていたという
この半鐘は今でもある、小さな部落ごとに今でも残っている
子供の時近くの神社にもあった、でもそういう半鐘はスピーカーのようにはいかない
部落ごとの地区でしか役たたない、そんなに遠くまでひびかないからである

ただその人の話では狭い地域でも火事が恐れられていた
それで毎日欠かさず火の用心に歩いていた、それも一軒一軒回っていて火の用心をよびかけていた、海老でも町となっていたからそこはばらばらに離れてある農家とは違っていた 
とにかく今簡単にできていることが昔は簡単にできない、第一車がないのだから火事だことかけつけるのにも時間がかかる、すると家自体が燃え広がりもう消せないとなる
それは北海道の雄冬とかでも赤ん坊が病気で背負っていくうちに死んでいたとか
飯館村でも病院に行くうちに死んだとかある
つまりその時救急車がないから緊急の場合、死ぬということが江戸時代から普通にあった電話一本で救急車が来るということがいかに恵まれているか昔のことを知らないとそのありがたみがわからないのである、そういうことはいろいろある

いづれにしろ火事は一番田舎でも恐れられていたのである
どこの町でも大火事の歴史があり火事は恐れられていた
地震、雷、火事、親父・・・となるのが日本である
地震には津波もあり恐れられていた

ともかく毎日一軒一軒火の用心と回って歩くのは手間であるがそうしたのは火事が怖いからである、海老でも家が連なっているから一か所火事になると延焼するから怖いのであるそれは一軒だけでくいとめられない、それだけの消防の備えがない、車もないからであるだから今はそういう点ではいかに恵まれているかわからないのである

不思議なのは新聞は配られていたがそれは一日後になる、では速報するには何で知らせたのか?
それはラジオだったとなる、動画は映像は映画館で写していたが蒸気機関車で運んだとすると東京からだと八時間以上かかる
だから二日くらい遅れてニュースが放送される、ただニュースだけを放送するのではない、映画の劇を見る時その前にニュースを写していたのである、その時動画というのは映画館でしか見れなかったのである
速報するのは今だと早い緊急時でも早い、そうであっても津波では遅れた、それは逃げろと放送しても間に合わない
それで逃げ遅れて死んだ人が多い、テレビで逃げろといってもすぐに逃げられるとはならない

だから警告されても津波であれ洪水であれ必ず逃げないで死ぬ人がでてくる
そういうのは日ごろから心がけなのだろう
だから部落で一軒一軒回って火の用心を訴えていれば用心するとなる
だからそういう人的な安全管理も必要だとなるが今はみんな忙しいからできない、それで危機管理ができないともなる
つまり手間でも一軒一軒火の用心と回ることが安全のためにも必要だったとなる
そういうことで防災意識を高めるからである、ただ便利な道具ができたからといって必ずしもそれで防災意識が高まるとは限らない、津波でもそうだったからである



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2018年09月20日

明治政府によって奪われた入会権 (明治維新で農民の生活は楽にならなかった)


明治政府によって奪われた入会権

(明治維新で農民の生活は楽にならなかった)

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土地の所有者がわからないまま放置されている「所有者不明土地」を、公園やイベントなど公共性の高い事業であれば所有者が見つからなくてもNPOなどが、10年間利用できるようにする新たな法律が、6日の参議院本会議で成立しました。 
「所有者不明土地」は、人口減少や高齢化に伴い年々増加していて、その広がりは、民間の研究会の推計で、すでに全国で九州の面積を超えているとされています。 

今の法律では、こうした土地であっても自治体などが買収するには、所有者全員の了解が必要なため、公共事業がストップしたり、荒れた土地が増えるなどの問題が各地で起きています。 

6日参議院本会議で成立した新たな法律は、所有者不明土地を条件付きで所有者が見つからなくても利用できるようにすることが目的です。 

土地とか山林とかの問題でも江戸時代から明治に変わる時、大きく変化した
日本の歴史は江戸時代から明治に変わる時を見ないと根本的に理解できないのだ
江戸時代にあったものが何であったのか?
それは土地とか山林だけではない、武士道があったとしてもそれが何であったのかも明治になった時わからなくなったのである。
武士道とかでも西欧から入った文明は異質なものであり実際は不明になったのである
武士道とかは受け継がれなかったのである。

ところが明治維新の時天皇が異常なほどに持ち上げられた国造りをした
そもそも明治維新は思想的には天皇復古だからそうなった
それで廃仏毀釈とかがあり仏教は弾圧されて神社陣営が優遇された
江戸時代までは寺が幕府の御用寺であり役所ともなり優遇されたことの反発だったとされる、そして神道とかは国家神道となりもともと地域の社は国家神道とは関係しなかったが統合されて国家神道化された、それは太平洋戦争までつづき今度は朝鮮まで神社を作り崇拝させた,つまり日本は極端に変化する
今まであったもの全く否定して新たな世界に適合する、その変わり身が早いのである
太平洋戦争でも鬼畜米英から敗北した結果まるで変ってしまった
これまであったもの否定する、戦争がいいものではないにしろ何かしらそこには日本国民の総意としてあったものでありそれを全否定して今度は民主主義だと戦前にあったものを全否定して戦後がはじまり70年過ぎたのである。
それはGHQとかアメリカの属国になったからそうだというのもわかるが戦前に命をかけてまで3百万人も死んだのにそれを全否定して戦後がはじまったのも解せないのである

江戸時代から明治の変化は大きかった、それは日本を成り立たせていたものが根本的に変わったからである、根こそぎ変えられたからである
それは上が変わっただけではない、幕藩体制で侍がなくなったというだけではない
基本的な社会構造が変えられたのである

江戸時代の村が解体された

これこそ最大の変化だったかもしれない、江戸時代は村を単位にして成り立っていたからである、村単位の幕藩体制が崩壊した、その幕藩体制とは徳川幕府が支配しても地域の藩が中心として支配した体制である
地域地域の藩が政府であり江戸幕府は徳川家がその藩に関与することは基本的にはできない体制である、だから江戸に地方の藩屋敷があったとしてもそこは不可侵の領域であり時代劇でも役人は踏み込めない、逮捕はできないのである
それだけ地域の藩の力が強かったのである。
それが明治になるとそうした藩がなくなくり廃藩置県になり行政も根本的に変わった
天皇を中心とした強力な中央集権制になったのである
その時東京では言葉まで標準語化された、江戸時代までは江戸っ子とかの言葉があってもそれは江戸の方言であり地方の藩から来た人は方言を使っていたからだ
つまり明治維新は極端な中央集権と富国強兵を基本とした国家となったのである

それで江戸時代の村が解体されたということも根本的に社会が変わってしまったことになったのである。
村とか言うとただ侍にお殿様に収奪されるだけのものであり搾取されていただけだという見方がある
でもそうした江戸時代にあったもの社会はその社会なりに別に侍だけが得するシステムではない、村が自立して生活できるシステムがあり機能していたのである
その具体的例として入会権がありそれが明治政府によって奪われたことだったのである
入会権というのは非常に重要な権利であり村を成り立たせる基本にあった
なぜなら農業社会だった江戸時代は入会権というのがないと生活できない
藩でもその重要性を自覚していたから入会権を収奪するようなことはしなかったのである

大名地震が「農民の身代は秣(まぐさ)より上がると昔よりの伝えなり」
つまり農民の生計は牛馬の肥料となる採草地などの草木から成り立つとの昔からの伝えがありそれたそ領主のために年貢として納められることあを知っていたので入会権の確保と保護に対策を講じていた
農業に正義あり−石堂徹生 

特に江戸時代では、下肥(人糞尿)、植物油粕や魚肥を使用していた。
江戸時代の肥料学には、次の事が記載されている
※田畑を肥やすものとして、緑肥、草肥(堆肥)、灰肥(草木灰)、泥肥(池の底に溜まった土)の4種類がある。
※草肥をよく腐らせて細かく切り返し、人糞尿をかけて、天日干しさせた物を元肥として使用す

明治末期になると肥料は化学肥料が使われるようになり膨大な採草労働、入会地からの多量の雑草落ち葉などを集める必要がなくなった、そこで金肥の供給が増え、農地が多く経済的に余裕のある地主層が先に「金肥」を使うようになった
その結果として不要林野の約7百万町の払い下げは地主に周知稀有下
 農業に正義あり−石堂徹生
 
農業の歴史と焼き畑からはじまるように肥料の歴史でもある、灰を肥料として焼き畑がはじまったからである
つまり歴史という時まず政治を考える、そこに英雄とか支配階級の貴族の研究がある、でも文明というとき基本的に農業から成り立ってきたから農業を知らないと下部構造を知らないと理解できないのである。
江戸時代でも農民が八割の時代であり農業中心の社会である、それはヨ−ロッパでも同じである、アメリカももともとは大農業国家であり中国だってそうである、インカでもマヤ文明でも農業国家である、たいがい農業国家として文明があった
20世紀のような高度な産業国家はなかったからである  
明治で肥料が金肥(化学肥料)になったときそれを買うには金がいるから資本がいるから地主に支配されるようになったことでもわかる、まず知っている人でも肥料をわざわざ角田まで行って鶏糞を買う、それは肥料としていいからである
その負担は自分がしたのである、そしてもらったのはキュウリ数本だったとなる、だから一本一万のキュウリだったのである

入会権というとき海の方の右田で橲原(じさばら)とかに入会権をもっていた、それは馬車で運び山の草木を肥料としていたからである
農業は肥料がないと成り立たないからそうなっていた、米は田んぼは水が循環して比較的肥料がなくても成り立っていた
循環する水は泥水であり山から養分が流れてくるからである、エジプト文明がナイルの賜物というとき定期的ナイルが氾濫して
泥水がおおいそれには養分があり肥料となっていたのである 

明治維新というのをふりかえるときその革命は下級武士でありそれには直接農民はかかわっていなかった
だから会津もヤーヤー一揆が明治になると起きた、農民にとって侍は税をとるものとしてありその税をとるものが変わるだけであり別に会津でも侍が薩摩長州と戦い死んでも関係なかったのである
会津というのは侍中心に美化されたものなのである、ドラマばかり見ていると歴史の真実が見えなくなるのである。
NHKのドラマでも意図があって作られているから美化されたものであり歴史の真実はまた違ったものなのである。
明治維新後でも農民は入会権を奪われて明治政府に反乱を起こしていたのである。
明治になると一見農民は領主に税を納めなくて楽になったとはならなかった
かえって地租がかけられて一定化されて貨幣化されて苦しんだとなる、入会権も奪われて苦しくなったのである

そこには天皇の財源として御料林とされたこともあった
明治政府は財源がなかった、それをどこに求めたのか?
農民の基本となる山林とかを入会権を奪い財源とした、それで富国強兵の軍隊を作ったのである
財源がなないからそうなった、官僚の退職金がないからはそのたしにもされた
その構図は官僚が得する構図は今も天下りとかでつづいているのである
国単位では官僚だが市町村単位では公務員となったのである、公務員は何かと得する仕組みがある
そして公務員が常に批判されるときそれは特権となるから侍と同じだ、公務員は身分であり侍と同じだと批判する人が多いのである
地方で安定しているのは公務員だからである。

明治維新というとドラマだと称賛されることばかりを見るがその暗黒面もあった、そこは指摘されないのである
農民が江戸時代よりも国家によって収奪されたということもあったのだ
農民の暮らしは楽にならなかったのである
明治になった時私的所有権が認められたことで大きな権利が国民に付与されて進歩したとされる
でもまず政府が入会権を奪い国有林としてそれを今度は地主や商人に払い下げて財源とした
まず所有したのは国家であり政府だったのである、後は地主だったとなる
山林が私的に分割されて所有されたのは戦後なのだろう、それまではそんなに分割されていない
結果として今度は逆にしまりにも山林でも土地でも細分化して公共的なものとして使用できなくなった

入会権は所有権ではなく利用権だということでもわかる
江戸時代では所有するという観念がないのである。明治以降に所有という観念が強く現れた
それは資本主義では私的所有権を一番重んじるからそうなる
あらゆるものが土地でも売買される債券となる、そのためには私的所有権を確立して土地でも売買できるものとしなければならないからである、ただ結果として過剰に私的所有を言うようになり公共的に利用することもできなくなったのである
だから耕作放棄地が増えたというときその土地でも所有者がいて所有権があるから勝手にできないとなる
それで膨大な耕作放棄地でも利用できないのである  

この辺では原発事故の補償金をもらうために自分の家の前の海まで所有権があるとか主張したのもそのためである
もう細分化された土地の所有者の許可をとるだけで手間であり土地はかえって協同利用できずに放置される
そもそも入会権は所有権ではない、利用権だというとき所有の観念はなかった
利用権の方が大事なのである、利用されなかったら土地でも何の価値もないからである
何かいつか土地を売るとしてもっているだけでいつまでも耕作放棄地として荒地となっている

それは個々に強力な私的所有権が与えられているからそうなっている
土地をもっていればいつかは何でも売れるかもしれない、そこが放射性廃棄物の処理場になるとかでもありうる
そのために利用しないでも荒地としても所有者があり自由には公共的に使用できなくなっているのである。
村があるときは協同で荒地を開墾したりしていた、それは村にとって荒地があることは望ましくないからである。
今だって畑があるとして回りが荒地だと草ぼうぼうになり草取りをしなければならないとか迷惑になるからだ

でも私的所有が強力に認められているから誰も勝手にできなくなったのである。
だからそもそせ土地の私的所有というのは問題がある、権利を与えるのはいいが権利を与えることは責任をともなう
荒地のままにして所有だけしていることが許されるのか?
所有しているなら権利が与えられたならその責任もあることを自覚すべきである
権利には責任が伴っていたのである、それが漁業権ということで海は組合のものだとして東電に売り渡して事故前も多額の補償金
をもらっていた,つまり権利が与えられたのは漁業資源の保護であり東電に売り渡すためのと権利ではなかったのである
権利が与えられるのならまた重い責任が課せられていた
でも金になればいいやとなり東電に売り渡して多額の補償金をもらっていたのである
その時はただ金になればいいと軽く思っていたのである。でも今になると重い責任が自覚させられたのである
ただ現実に船主などはいち早く立派な家を建てたからその責任を果たしていない

ともかく私的所有権が与えられるのはいいとしてまた何でも必ず所有することは責任が課せられているのである
山林を所有しているとしてもそれを活かせないとしたら山は荒れる、すると所有するだけで金がかかるとなる
木材が売れないとしたら今はそうなる、だから山を持っていても所有しても何もならないともなったのである
とせかく原発事故ではいろいろな責任をが問われた
でも政府でも東電でも地元でも責任をとる人はいなっかった
それは太平洋戦争でも同じである、責任は誰もとらない、ただそうしても必ず人間は責任はとらされる、3百万人が死んだというのがその責任である
その責任はあまりにも重かったのである。
原発事故では故郷に住めなくなった、その責任もあまりにも重かったのである。
政府でも東電でも自殺したものはいない、他では会社の不祥事ではちっょとしたとでも自殺しているのが多い、責任を自覚して自殺している

台湾外交部(外務省)は14日、台北駐大阪経済文化弁事処(領事館に相当)の蘇啓誠代表(61)が同日早朝、大阪市内の官舎で自殺したことを明らかにした。台風21号で封鎖された関西空港に取り残された台湾人への対応をめぐり、インターネットなどで在日出先機関を批判する声が出ており、台湾メディアは蘇氏がこれを苦に自殺したと報じているhttps://www.jiji.com/jc/article?k=2018091400757&g=oeq

こんなことで自殺するのか?そういうことは他にもある
しかし原発事故とかの大事故でも責任を感じた人は一人もいないという不思議がある
誰も責任を感じていないのである、だから日本人は無責任国家だというのもわかる
そして無責任だということはもともと責任を自覚しないから原発でも作られるし戦争でもその責任を自覚していないから実行できたともなる
人間はもしそれだけの重い責任を課せられたら誰もいくら金になるとか地位が与えられてもしたくないとなる、だから侍に庶民がなりたくないというとき切腹させられるとかその責任をとりたくなかったらからである
また契約書にこまごまと規定されるのはすべて責任を逃れるためである

ともかく事を始めるなら責任を自覚してはじめるならいい、でもそれができないものは軽く考えて行動すべきではないとなる
事業で何かいいかげんなことで俺の優秀さをみせてやるとかで事業をはじめて失敗して借金して周りに大迷惑をかける、それは家族だけではないのである
だからそんな考えて事業をすべきではなかったとなる
それは大きなこと国家的事業でもそうだったのである
失敗したら誰が責任をとるのか?誰かが必ず責任をとらされる、それだけは確実である
戦争では三百万人が死に原発事故では故郷に住めなくなったという責任をとらされたからである、だから無責任国民とか国家は責任を感じないから安易に事業をはじめる
それが日本人であるとしたらまた同じことが起きるとなるから怖いのである

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2018年06月30日

回想・大正初期の山村生活誌 (我心の奥の伊奈谷)ー武部善人を読む


回想・大正初期の山村生活誌

(我心の奥の伊奈谷)ー武部善人を読む

1912年(明治45年)生まれだから百歳超えているとしたら今は死んでいるだろう
自分の父親も明治生まれであり葛尾村で生まれ育って双葉の新山の酒屋で丁稚奉公したのである。
山村の暮らしとなるとわかりにくいがここにはその暮らしが実感として書いてあるから訴えるものがある。
学問でも実感が大事である、もちろん文学でも自ら体験しないものは訴えない
人の体験談でも自分が経験していなと共感できないのである。
だから職業を同じにしている人は話が合うのが当然なのである。
そして戦前から戦後十年は農業が主体の経済であり日本人の生活は農民が主体であった

ここで語られているようにまず養蚕が盛んでありこれにかかわらない家はないくらいだった、それで今でも近くでも兜型の屋根の家が多く残っている
二階で養蚕していたからである。
その時代を重ね合わせると自分の母の実家は祖父が機織り工場を経営して失敗しとか母が原町の原紡(原町紡績)で十年間糸取りとして働いたとかある
養蚕や絹織物が主な産業であった、自分の家の裏には桑畑があり麦畑もあった
それが今は住宅地になって何もなくなった、今思うと回りが畑であり田んぼだったということなのだ、街中にいてもそこは田んぼや畑に囲まれていたのである。

現実に街でも農家がいて養蚕をしていたし畑を持っている人はいまでも普通にいる
なんらか農業と関係していたのが田舎なのである。
それは一万くらいの町だからそうなっていた
原町になると大きな紡績工場があったりと多少違っていて農家だけではない
でも六号線近辺は農家だったことが今でもわかる、広い庭があり農地があった
原町では原の町駅が機関区になり引き込み線があった、鉄道と直結して荷が運ばれていたのである。鉄道が運送の主役だったからそうなっていたのだ
伊奈でも紡績工場に行く女工哀史があり肺病になって帰ってきた女性がいたとかなる
でもそこは現金収入になる場であり農村では食べられないものが食べられたとかある
今ではネパ―ルから働きに来ている人とにている
その人は四〇〇〇メートル級の所に住んでいたからだ
そこでしきりボールペンをくれと言われたの覚えている,つまり書くものすらないのである、山だらけでありそれも高いからどうして暮らしているのかと思った
ただにたような山の暮らしが日本にかつてあったのである。

この頃の時代と戦後10年の自分の子供時代はだぶる、だから自分は体験しているから共感する、それは団塊の世代まででありその後は急速に高度成長したから体験がないからわからなくなる、つまり戦後十年は戦前とか大正でも明治でも江戸時代まで生活の基本が連続していた、囲炉裏も街中の生活でもあった、みんな炭を利用していたからだ
電気があったとしても裸電球一つであり道は舗装されていない、輸送は馬車の時代でもあった、馬車のうしろに乗って遊んでいたときがあったからだ
馬車屋というのが普通にあった時代である。
その時水道もなく自分の家では井戸がないから近くから水をもらっていたのである。
ただその水は無料だったのである。

この本では肺病のことが書かれているがその時肺病は国民病と言われていてなる人が多かった、母の実家の墓には25歳で死んだ兄が眠っている、その話を聞いている、何か苦しいからキリスト教に入ったみたいだ、だから戒名はない。
啄木も肺病で27歳で死んだとかこの病気は若い人が死ぬから悲惨だったのである。
現代の国民病はアルツハイマーだというとき高齢化社会を象徴しているのだ
肺病が伝染病だということがその時かわらなかったのである。
病気というとき何か原因がわからなくてなるが原因がわかると直ることがある
戦後に伝染病だとわかり肺病はなくなったのである

天竜川沿いとかこの伊奈谷は山深い、そこで生の魚を食べたことがないとここで書いてある、昭和二年に伊奈電が開通するまでは「陸の孤島」で子供の時に海の生魚を食べたことがない、全部塩辛い、塩の吹いた、かちかちの干し魚であった
イカもタコもかちかちの干しものしか知らなかった、後年生きた実物を見てどうしても信じられなかった
そして蛇、マムシ、赤蛙、蝉、イナゴ、蜂、繭の蛹などを食べた

これがやはり山村の生活だった、塩漬けのものの魚を食べていた、でも糸魚川から松本まで長い塩の道があり有名である。牛で塩を運んでいた塩の道である。塩の道は飯館村へもあったから山村では塩は貴重なものだった、ただここはまだ海が近いから松川浦から塩だけではない、生の魚も運ばれたのかとなる、一日くらいで運ばれるから悪くはならないからであり事情が違っていた
ただ塩は山村では貴重なものだった、保存するにも貴重だった
そして何でも食べたというときイナゴはこの辺でも小学校の時、学校でイナゴをとり売っていたのである。みんなでイナゴとりしていたのである。
これは食用にもなっていたから同じだった、こんなこと今はありえないのである。
田植えの時期とか養蚕でも忙しいとき学校が休みになったというときそれは農業中心の社会だからそうなったのである。今は家の仕事が忙しいからと学校を休むことはありえないのである。

この人はまた家で紙漉きをしていた,これは辛い仕事であったことを書いてある
石神で紙漉きしている家に嫁いだ人を知っている、それは戦前までしていた
その家はもともと武家であり野馬追いにも出ていた古い家である
石神では実は紙漉きで有名だったのである。二三〇軒くらい紙漉きをしていた家があったのだ、紙漉きは当時大きな収入源となっていた
ただその様子を知ったらいかに紙が大事なのもか認識したろう
現実にこの著者は紙漉きをしていたからである。でもうまくやれずにいい紙を作れなかったと書いてある 

氷割り楮すすぎて生漉紙(きずきかみ)すく共の手の赤く大きく

冬に紙漉きするから辛い、氷が張っている川でする、伊奈というと寒いからである

いづれにしろこの著者はこうした貧乏な山村が嫌で都会に出た、その事情もわかる
ここには鉄道がまだ通っている、飯田線であり豊橋にでるまで長い,途中何回か乗り換えしたりしてやっとついた、一両の時もあった、相当に辺鄙な山奥である
ただ長篠があり織田信長と武田軍が戦った跡があるから意外と名古屋に近いのである。
飯田までは明治に電車が通ったが伊奈までは通っていなかった
それだけ発展が遅れたのが伊奈だったのである。

ともかく貧乏だった、明治生まれの父は酒の魚でも味噌を焼いたものとかしかない、それは戦後十年はそれだけ何もない貧乏な時代だったからである。
それで病気になりサシミ食えるようになっても食いたくないと言って死んだのである。
この著者は伊奈を出て学者になりあとは贅沢したとなる
戦前生まれは貧乏を体で知っている、ただ団塊の世代は確かに子供時代は貧乏を知っているがその後は豊かな生活であり飽食の時代を経験している
だから骨身に染みる貧乏は経験していないのである

子供時代はみんなそうして貧乏だったのである。だからそこに奇妙だが格差はなかった
なぜなら物自体がないしみんな同じようなもの食べていた
そして自家生産していた農家の方が食べ物に恵まれていたのである。
卵焼きすら食べられない時代だった
強い巨人軍や大鵬、物価の優等生と呼ばれた鶏卵が「時代の象徴」だと冗談で話していたことがきっかけであったという
卵焼きが食べられるようになったのは戦後一四五年くらいだったのである。
これでいかにまともなもの食べていないかわかる,ただ塩びきとかはこの辺では良く食べていた、御馳走だった、この辺の近くでとれる石鰈でも大晦日では食べるのが習わしだったそれは晴れの日にしか食べていないのである。

江戸時代から明治昭和と戦後十年くらいは庶民の暮らしは基本的にそれほど変わっていないのである。鉄道ができたことが大きな変化でもその鉄道を利用するのは貨物輸送のためであり庶民は乗車賃が高いから利用していないのである。
近隣を主体にして生活していたのである。梨農家が相馬市までリヤカーで梨を運んでいたというのも運送には鉄道は利用していないのである。

この著者は母のことも短歌にして残している

この静寂(しじま)生家の部屋に目つむれば憂ひに沈む亡き母の影

囲炉裏に座っている母を偲んでいる、意外と母というのは死んでから偲ぶことが多い
自分も生きているときはうるさいなとか思っていたが死んでから偲ぶようになった
母の存在感が大きいことを知った、人間はありふれてあるものを意識しないのである。
それがなくなったとき意識するのである。
故郷でもそうである、それがなにかわからないし意識しない、でも原発事故で避難したり故郷を離れて帰らないとなると意識するのである。
死後に存在感を増すものがある、失ってみてその大事さを知る
何かこの歌でもずっと母というのは存在している感覚になるのだ
人間は死んでもその存在が消えるものではない、存在し続けるのである。
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2018年06月12日

団塊の世代の少年青年時代の変化をたどる (戦中派とは違う団塊の世代)


団塊の世代の少年青年時代の変化をたどる

(戦中派とは違う団塊の世代)

90歳くらいの人はまだ戦争を経験していることがある。
18歳だと志願兵になった人がいたからである
それから小学生10歳くらいまでは戦中派である
子供心にも戦争を経験して空襲にあったり疎開したり苦労している
戦中派はギブミーチョコレートの時代でもあった
それは戦後5年くらいが進駐軍がきてそうなっていたが
誤解しやすいのは団塊の世代がそういう時代を生きたと思っていることである。

ギブミーチョコレートの時代は団塊の世代ではないしそういう経験をしていないのであるただ小学校で脱脂粉乳のミルクなどを飲まされた時代である。
何もないときに育ったのである。
家には飯台一つであり裸電球があるだけだった
それはみんな同じでありそこでまず物がそもそもないのだから贅沢しようがないのである買うにもバナナは売っていない,バナナのたたき売りとかあっても秋市とか特別な日にしかないのである。バナナそのものがないのである。

ただ人間は5年違っても生きた時代が違っているのだ
ギブミーチョコレートを言って人が5年違いでも団塊の世代とは違っていたなと思う
だから人間は本当に十年違うとかなると違ったものとして時代を生きている
5年違っても時代感覚が違ってしまうのである。
戦中派は戦争を子供のとき実際に戦場に行かなくても体験している
当時の時代の雰囲気を肌で知っているのである。
団塊の世代は戦争が終わって生まれたから戦争のことを肌で知らない
ただ親が戦争に行ったり経験しているから身近ではある
戦中派には貧乏がしみついている時代である。
飢えていたという時代でもはある

戦争が終わって生まれた団塊の世代は戦争のことを聞いても実際には体験していないのである
ただ中学生になる頃にテレビが入っていきて熱中したのである。
その頃からテレビ時代がとじまったのである。
だからそのときテレビを食い入るようにみんな見ていたのである。
野球も見たし相撲も最盛期であり国民で長嶋だ王だ若乃花だ栃錦だとかのことを知らない人はいなかった、子供では誰を応援するかで喧嘩になっていたのである。
テレビの影響はそれだけ大きかったのである。
その延長として東京リンピックがあった
テレビの前は小学校の時はラジオだったのである
天皇の終戦の玉音放送もラジオだったのである。

中学になると高校にも入れないと大騒ぎだった,そのとき受験戦争になったのは田舎でも中学生だと8クラスもあった、今は30人規模で3クラスとからしい
一クラス50人規模で一クラスだったから数が多かったのである。
自分はそのとき勉強を強いられたからそこでエネルギーを費やして失敗だった
受験戦争は本来の勉強ではなかったからだ、それから学校不適応症になった
自分はそもそも学校にあわなかった、団体生活にあわなかった
椅子にじっと座っていることが苦痛だったし体もそうだった
だから学校にいい思い出はないのである。
勉強そのものに興味をもったこともなかったからである。

中学校を卒業するときクラスの三分の一は集団就職だったのである。
中卒が当たり前だったのである。
大学に行けたのは四五人だったのである。自分は優秀でないし勉強嫌いになっていたから本当は大学に行けるような者ではなかった
わがままでもあり学校になじめなかった
ただそのとき自分は親から離れたいとか東京に行きたいという願望が強いから東京の大学に行くとなっただけである。
それは正解だった、やはり人間は親元から離れることは必要なのである。親から経済的ににだけでなく精神的に必要なのである。
それは集団就職した人たちよりずっと楽だったのである。

自分はでも結構楽でいないものを感じていた
大学は遊びだったけど一年くらい武道部に入って鍛えられたのが良かった
それまでは自分はあまりにも軟弱であり気弱すぎたのである。
もともと体力がないのだがふりかえるとそこで良く耐えたなと思う
一年でもそこで自分は変質したのである。
だから人間は教育でもその性格でも変えられる、弱気な体質でもは性格でも強気の性格に変えられるのである。

そのとき学生運動がはじまっていた、盛りにもなっていた
その一つの原因が大学を変えようと始まった
マンモス大学となり3000人に講堂で講義しているとき勉強に興味を失うということは自然なことである。勉強に熱が入らなくなって学生運動になったという背景もあったのである。そのとき高度成長の時代でありみんな就職できた時代でありそんな時代の不満はない、だからこそあっさりと就職すると企業戦士になったのである。

ただ人間は30までその基礎がつくられる、信仰の求道でも30超えたらできない
30で人間の骨格は決まり変えられなくなる
人生百年だとしてもそれだけ少年青年時代が人間を作る
それをもっと意識させるべきだと思う
いづれにしろ日本はそのとき上り調子だった、ただまだ車に乗っている人は少なかった
これも急速に普及したのかもしれない,まだインフラとして道路が整備されなかったからであるである、もちろん高速道路などもなかったからである。

国鉄が民営化するとき車時代になっていたのである。
国鉄一家とかが存在したし国鉄が社会党を支えていたのである。
その鉄道の国鉄時代も終わりモータリゼーションの波が全国に波及したのである。
そのときトヨタが日本の代表的メーカーとなったのである
時代の変化というとき明治以降は便利な道具が情報でもテレビのように視覚化される時代になった,ラジオで音で聴いているのと新聞で活字で読んでいるのでは相当に違うからである。テレビで視覚化されることの影響が大きかったのである。
それでラジオの時放送していたアナウンサーの出番がなくなったのである。
ラジオでは人気だったがテレビだと人気がなくなったのはメデアか変わるとそさに対応した人が人気になる、女性だったら美人でないと映えない

ラジオだったら声だけだから容姿は男女で関係ない、それより声がいいと人気になる
声優のようなのがいいとなる、容姿は関係ないからである。
そういう時代の変化に対応できないと時代に適応できないと価値もなくなる
つまり時代の変化によって価値観が変わるからである。
映像の時代になるとやはり見栄えがいいものが受けるからである。
映像の時代になるとデジカメで拍車がかかりスマホでもさらに写真投稿が活発になった
テレビの時代から継続して映像の時代は進行したのである。
テレビは放送局でしか放送できないが今度はインターネットでいくらでも放送できる時代になったからである。
もう情報はマスコミの独占ではなくなったのである
これも時代の大きな変化だったのである。









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2018年04月19日

一枚の写真(祖父の写真)

一枚の写真(祖父の写真)

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一度も会ったことのない
祖父の写真がある
警察所長だった
俺は偉いと写っている
その写真は捨てるつもりだった
だが置いてあった
墓はあるが墓参りにも行かなかった
母は威張ってばかりいたという
警察をやめてから
機織り工場を経営して失敗した
それで一家離散にもなった
祖父なのに敬わないのか?
確かに不遜である
でも思うに祖父の人生は
ただこんなものだったのか?
もうその子もみんな死んだ
孫は残っているがちりぢりだ
実際に会った人は誰もいない
語る人も誰もいない
私は母から聞いたのは
いつも威張っているということだけ
その母も死んだ
もし祖父でも祖母でも
もっと語ることがあれば
その人生は意味があったのでは
いくら地位があっても今ははかない
捨てようとした祖父の写真が
まだ自分の家に置いてある
なにかわびしく悲しい
もう祖父について語る人はいない
・・・・・・・・・・

母の実家は複雑であった,父は警察所長をしていたが退職してから機織り工場を経営して失敗して一家離散のようになった,警察所長をしたくらいだからもともと経営の才がなくても成功すると思ったのだろう。
事業で失敗する人は何か甘い予測をして失敗しているのも多い
自分が優秀だからと奢りがあり失敗する,そして祖父について語られるのは母が言っていたのは威張っているだけだったということである。
なぜならそうして機織り工場で経営に失敗して母もまた辛酸をなめたからである。
つまりいくら肉親でもそうして子供がひどいめに合うと祖父母でも語ることすらしないのである。
現実にそういう人がいて墓参りすらしない人もいる,肉親でも父親でもしないのである。それだけひどいめにあった結果そうなっているのだ
だから死んでも子供が両親を思うということはあるとはならないのである。
血縁だからといって人間はそれがすべてではない
むしろ親でまともに生きない人は親とも見れなくなるのである。

いづれにしろ祖父にしても死んでから七〇年とかなる,そうなると会った人もこの世にはいない,誰か聞いた話になるが私の場合は母から聞いたが母は百歳で死んだのだから
あとは聞いたという人もいなくなる
するとどうなるのか?誰ももうその人について語らないということである。
自分でも会ったこともないから何か他人のようにその写真を見ているのである
ただ祖父の出自がわからないのが不思議である。
ここで生まれ育った人ではない,転勤してきた人だからである。
それは謎でありもうわからないのである。

人間は祖父母まではわかるがその上になるとまるでわからなくなる
ただ何か功績があれば残り語られる,それがないと全くわからなくなる
結局死んでから七〇年すぎると家族でも語られる人はまれだとなる
みんな忘れられるのである。それが無常の世だとなる

タグ:祖父の写真
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2018年04月04日

インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘(NHK) (地理(川と山)を知らず敗北した)


インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘(NHK)

(地理(川と山)を知らず敗北した)


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チンドウィン河

インパール作戦がなぜ無惨な残酷な敗北になったのか?
それを地理的な面から考察してみる,地理が戦争と深く関係していることは変わらないものだったからだ
日本人は地理を無視して無謀な進軍をしたのである。
まずチンドウイン川という大河がありこれは日本では見られない大河だったのである。
その大河を渡り2000メートル級の山岳地帯を上らねばならなかった
それで武器などを運ぶために牛を利用しようとした,4000頭の牛を用意して河を渡ろうとしたが流されたのである。そしてその山岳地帯で牛も疲弊して役にたたなかったのであるそして撤退するときもジャングルであり白骨街道というふうにバタバタ死んだのである。その死因はマラリアとか赤痢とかの病気になったためである。
暑さも天候も影響した,雨期になり河は増水して渡れなくなった
そしてその河を渡れずに日本へ帰れなかったと慰霊に行った日本人が語る

このことに興味をもったのは自分の姉がシンガボールで今のマレーシアのジョホールバルというところのイギリスの赤十字病院で4年間従軍看護婦として辛酸をなめた
ビルマ進行はシンガボールを昭南島を陥落させてイギリスから奪いとったことから始まっていたのである。
負けた原因は今になると明瞭である,まずロジステック,後方支援がない,食料もなにももたないでジャングルの山岳地帯に進行した,それで食べるものがなくて草を食べていた多くの人が餓死したのである。そこで自殺した人も多かった
その話はジョホールバルの病院でもあった,自殺しようとして飛び下りようとする兵士がいた,やはり傷が深くなれば絶望的になったのだろう。
姉もまた赤痢で苦しんだことを言っていた
この南方特有の病気で死んだ人が多かった
姉の場合は戦争が終わりるころジャングルに逃げて命をつないだのでそこが一番苦しんだのである。

こういうことがあったのだがただ戦争とか歴史を考えるとき自分が興味をもっているのは地理なのである。地政学なのである。
大河があり山岳がありジャングルがあり熱帯であり病気になり死ぬということはやはりまずあまりにもその地理もなにもわからないし後方支援もないのに精神力で突撃したことである。
日本軍の戦争は何かあまりにも無謀だったのである。
ただ負けたというときイギリス軍にはアメリカ軍が加担して後方支援をしていたからだともなる
イギリスとだけ戦うなら日本軍は勝ったのである。アメリカ軍が加わり負けになっていったのである。

自分は海外旅行して河に興味をもった,日本人は河のことを知らないのである。
長大な大河を知らない,それが島国で育ったものの弱点である。
地の利がなければ昔から戦いは敗れることになる,日本人は国内の戦争しか経験していないからだ
大陸の地理とか天候とか風土のことなど知らないのである。
それが致命的となりあまりにも悲惨な敗北となった
わからないのはなぜ日本軍はこんなに無謀な戦争を展開したのかということである。
中国でも西安とか砂漠の入り口のような所まで進軍していることに驚くのである。
そんなに大陸深く進行していったらどうなるのかも考えなかった
ただ無闇に突進して後先も返りみなかったのである。
一時シンガホールを陥落させたときは日本中が湧いたがそれも束の間だったのである。

日本人はやはり島国ということがあり大陸のことを地理でも天候でも風土でも知らなかったのである。だからなぜそれだけの無謀な戦争を大陸に展開したのか?
まず戦略などなかったのだろう,ただ無計画に進軍してゆく
何かそういうふうな無謀さはどこから生まれたのかともなる
上からの指揮でも過ちがあり多大な犠牲を強いたのである。
日本はやはり戦争が下手であり外国を島国だから知らないとういことから起きたのが第二次世界大戦の悲劇だったともなる

歴史をふりかえればローマでもライン河でさえぎられてゲルマン人の侵入できない壁となった,河は昔から自然の国境にもなっていたのである。
大陸には大河があり河の果たす役割が大きかった,それは戦争だけではないヨーロッパでも河は交通路でありそのために川沿いに港があり都市が発達してハンザ同盟とかできた
商人の連合国ができたのは大河がありその河が交通路となり道となるからそうなった
日本にはこうした大河がない,最上川くらいがその大河とにて同じ役割を果たしたとはなる

世界史というときこの地理を知らないと理解ができないのである。
ただ世界地理となるとそれを理解することは相当に現地を踏まないと実感しえないのである。世界になると自分はまだまだ理解できない
日本には大きな河がないということが世界の歴史でも理解できないことになる
ラインが父なる河としてドイツではありライン河があってそこから愛国心も起きているのである。

結局日本軍は山岳とジャングルと大河にはばまれ無惨の死体の山を築いた
そして河を渡れずに日本に帰ることができなかった
その時雨期で増水していたからである。そこでその骨を井戸に投げ入れたというのも無惨である。
どれほど日本に帰りたかったかその無念はあまりにも悲しいことである。
姉は船で日本に帰れたから良かった,でも死ぬ直前までジョホールバルで過ごした四年間が忘れられず語っていた,認知症になってもそのことは忘れずに語っていたのである。
それは本当に死ぬ間際までうなされるように語っていたのである。
いかにそれが忘れられないことだったかわかる,テレビで見た人も認知症になっていた
だから戦争のことも忘れていた,その人は生きる死ぬかの瀬戸際を生き残り帰ってきた
でも記憶もあいまいになり忘れていた,思い出せなくなっていた

日本兵河をわたれず力尽きあまた死して帰れざるかな

何か本当に無惨であり悲しいというかやるせないというかその報いもないというか余りにも悲惨がった,そこで死んだ人は若い人たちだったのである。
自分も海外旅行して日本に帰れなくなるのではないかと何度も思ったことがある。
海外旅行だとそういう気持ちになることがある
エジプト辺りで遂に帰れなくなりピラミッドにとじこめられるという不安もあった
何かそういう恐怖が海外旅行にはつきまとうことがある
戦争で外国で死んだ人はまさに永遠に帰れなくなったのである。
このドキュメントは何か生々しいものに感じた
戦争というときどうももう一つイメージしにくいからだ
やはり直接身内がいて聞いているから生々しいものに感じたとなる
それにしても今もそこで死んだ日本兵がさまよっているというのもわかる
あまりにも多くの人が死ぬと何かそうなる
津浪で死んだ人達でもそうである。以前として津浪でなくなった村の跡をさまよっているというのがわかる
インパール作戦で死んだ人達も日本に帰りたい帰りたいとその霊がさまよっているというのは実感するのである。


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2018年03月25日

地元の銀行の歴史をふりかえる (養蚕から絹織物産業から銀行が生まれた)


地元の銀行の歴史をふりかえる

(養蚕から絹織物産業から銀行が生まれた)

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政経東北3月号

明治に入ってから、蚕の卵(蚕種)は特に有名で、質の高い蚕種を全国に出荷しました。また、外国からの需要が多くなったため、福島町の問屋は生糸・絹織物を買い集め横浜の貿易会社から海外に輸出していました。明治20(1887)年の東京・福島間の鉄道開通も有効に働き、やがて、福島町は東北全体の生糸の中心地となり、生糸も福島町の絹問屋を通して販売するようになりました。生糸は当時取引額の最も多い商品で、明治32(1899)年6月に日本銀行福島出張所が東北で最初に福島に造られました。

中小の商工業者や養蚕農民の力を結集した協同組合方式で、地元の資金を地元で活用する方法でした。大正3年(1914)6月に設立された高崎信用組合(現高崎信用金庫)がそうでした。高崎信用組合は、二宮尊徳の「報徳思想」を基盤に、商工業者や農民の相互扶助の精神が、金融方面に結実して設立されたものでした。

銀行というのがなぜ生まれたのか?それはいろいろある,ここでは日本の場合,養蚕業,絹織物業から銀行が生まれた,なぜならその時一大産業が養蚕であり絹織物だからであるそこに資金が集まり貯えられたからである。

こうしして新しい産業が生まれるときそれと平行して交通も発達する
外国との貿易がはじまり横浜がその窓口となった
それで大正生まれの自分の母親が原町紡績(原紡)で働いていたのである。
そして原町紡績に門がありそこに引き込み線があった
直接そこから絹織物でも運んでいたとなる
自分の母親はそこで十年間働いていたのである。
そこでの苦労はそれほど語らない,女工哀史でもない,月給もらったから良かったとか言っていた,その頃の女性の働き口はほとんど農民だとすると農家では養蚕であり街では絹織物工場で働くのと後は女中が仕事だったのである。

銀行を考えるとき養蚕とか絹織物と深く結びついて生まれていたのである。
信用金庫でもそうである。「報徳思想」の相互扶助の団体として信用組合が生まれたというときもそうである。それは養蚕と絹織物工場を主体にした資金を出し合う組合だったのである。

銀行の起源は何なのか?それは養蚕とか絹織物工場の増加で資金が作られそこに資金が集まり銀行が派生して生まれたのである。
金持ちは自ずと金貸しとかになりやすい,それは資金が集まり貯えられるからである。
それで銀行の前進ともなる,その金をいかに有効に活かすかが実は金持ちに託されているのである。その金を元手で産業の振興を託されているのが金持ちである。
だから金持ちだからといってそれを自分の贅沢だけに使うのは本当は許されないのである金持ちには金持ちの役割があるというときそのことだともなる
その他にも金持ちには文化的なものを追及するとかただ無駄に使うということは許されない,もしそうだとするとあの人は金を持っていても金持ちの資格がないと見られるのである。ただその金でもたいした金でないとしたらそうはならない
それは相当な金をもったときそうなるのである。

ただ銀行がつぶれないかというと大正時代もつぶれているし戦争のときもつぶれている
銀行はつぶれないものではない,つぶれるのである。
その時代の経済に大きく左右されるのが銀行なのである。
今時代が変わるというとき銀行が苦境にたたされ合併とかつぶれるとかなる
自分も銀行から投資信託をすすめられて損したから銀行のことを真剣に考えるようになった,なんで銀行のために損しなければならなかったのかと考えるようになったからである人間はみんな金に対してはそれだけ真剣になる,金に笑い金に泣いているのが現実だからである。

大東銀行と福島銀行が合併するというのもそういう時代だからである。
ただ最低ランクの銀行だから合併してもメリットがないということは指摘される
インターネットなどの新しい手法を用いることもできないからである。
銀行とは何かというとき銀行に金をあづけるのは貸し金庫に金を保管するのとは違う
銀行にとっての債務だという,あづけられた預金は借りた金と同じだから本来は利子を払わなければならないものなのである。
その金を活かすことを活かして利子をつけることを要求されている
でもそれを今銀行ができないから苦境にたたされる
つまり金持ちが金がいくらあってもそれを活かせないとその金持ちはみんなからそんなに金をもっていてどうするんだ,お前には金をもつ資格がないとされるのと同じなのである金は貯えるためにあるのではなく社会で活かすものとしてある
それで金は天下の回りものと言われていた,金が回らないとただ蓄蔵されただけでは社会は繁栄しないからである。

いづれにしろ銀行とは資本主義社会と深くかかわるものである。
そのシステムの中核に銀行があった,それが今消失の危機にある、もうその資金を活かせないということは資本主義が機能しなくなったのかとまでなる
資本主義の限界説が生まれる,資金が世界的にだぶついて行き場がない
それでどこにその資金が流れるかとなると今だとビットコインになりオランダでは貿易でもうけた金がチューリップに投資されたり高度成長時期は土地とか絵画にも法外な値段で買われたのである。そういうバブルになるのも資本主義の行き着く先でありそこから崩壊現象が起きてくる

これは郷土史でもあった,銀行も郷土の歴史としてふりかえる,それは江戸時代になると頼母子講になっていたから金融でも歴史がある
まずこの辺ではどういうわけか原町に銀行があったのはわかるがなぜ双葉の新山に銀行があったのか?
そこには自分の父親が酒屋で丁稚として働いていたことは書いた
新山村と長塚村があり双葉郡とは明治移行にできた,そして長塚駅が開業した
新山に銀行があったというのはなぜなのだろうか?
原町なら大きいが新山は小さいからである。酒屋があったとしてもそれで養蚕や絹織物のように富を産むとは思えない,ただその時酒も大きな以前として大きな産業だった
ただこの辺の歴史は調べないとわからないのである。

姉が良く新山の銀行で遊んでいたというのを聞いているからである。
自分の父親は暖簾分けして鹿島に移った,その後勤めた酒屋は倒産したのである。
その当時の産業として一番大きいのが養蚕と絹織物工場である。
いかに兜型の屋根が残されているか,三分の一くらいはその二階を利用して養蚕していたのである。だから桑畑も自分の家の裏にあった
そして絹織物工場というとき自分の母方の実家の父親は祖父は機織工場を経営して失敗して破産してその後家族が離散したのである。
これをみてもいかに当時はみんな養蚕とか機織り工場にかかわって暮らしていたかわかるのである。
郷土史はそれぞれの家の歴史が基本にある。そこに一番興味をもつからである。

郷土史というときいろいろな側面から考察できる,明治以降はまだまだ生々しいものとしてある,なぜなら自分の父親は明治生まれだったし母親は大正生まれだからである。
ただ父方の祖父は何をしていたのかわからない,それだけ自分の家は歴史が浅いともなるただ自分の家についてはみんな興味をもくその祖先を調べる,ルーツを調べるのはわかるただ他の人にとってはそういうことは必ずしも関心をもたないことがある
ただ銀行にしても歴史がありそれをたどることは今を考えることでも大事である。
なぜなら銀行はつぶれないものではない,大正時代とか恐慌とかありつぶれているのだ
戦争のときもつぶれているからである。
とりつけ騒ぎもあったから同じようなことでも起きる,つまり何でも歴史はくりかえすということである。

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2018年01月03日

明治維新は何だったのか? (侍が侍をなくすための戦いだった?)


明治維新は何だったのか?

(侍が侍をなくすための戦いだった?)

明治維新と幕臣


明治維新というときどうしても藩単位のロイヤルティで動いている,そのアイディンティティが藩なのである。だから何藩に属しているかで人を見る
薩摩か長州か,会津かとか藩に属して人がある
藩には殿様がいてその殿様に仕えて御家がある
その紐帯は強いのである。それは会社に属しているより強い絆で結ばれていた
だからこそ何かあれば命をかけて殿様のために御家のために尽くしたのである。
そもそも命をかけて戦って藩ができあがったからその成り立ちからして強い絆で結ばれていたのである。

明治維新というときそういう紐帯が侍のアイディンティティが根こそぎ破壊される,消滅する危機に直面した,だから明治維新は最初藩同士の戦いであり国を根本的に変える,侍をなくすという戦いではない,なぜなら国という意識をもてないからである。
ただ徳川家は全国を治めていた,統治していたから徳川家は国全体を治めるということをしていた,だからそれが明治になっても引き継がれて明治維新が成功したとなる

ただ徳川家といってもその家臣はやはり徳川家の家臣であり国という意識をもっていたわけではない,徳川家も薩摩藩だとか長州藩でも会津藩とも同じように徳川家に忠誠を誓うものであり国という意識はないのである。
明治維新ではドラマ的に活躍する人は派手である,切り合いとか殺し合いで活躍した人がドラマ化しやすい,だからそういう目立つ人が英雄化されてドラマ化されるのである。

そうなると一体明治維新はただそうした侍とかばかりが活躍して成したものであり庶民は関係なかったとなるのか?
ドラマばかり見ていたらそうなる,庶民は何にも関係なかった,傍観者だったとなる

だから明治維新は支配階級だった,侍同士の戦いでありそしてその侍という階級をなくした戦いだったとなる,ドラマだけを見ていればそう見えるのである。
だから会津が官軍に薩摩長州軍にふみにじられてもその周りの庶民は城が落城しても何にも感じていない不思議があるのだ
かえってこの際にと庶民の不満が爆発してヤーヤー一揆になったのである。
侍に対してもっていた不満がこの機に乗じて起こったのである。

明治維新でそこに庶民が日本国民と意識したのは西南戦争の時だったのである。
その時侍出身ではない庶民も参加して戦った,その時会津藩士とかも参加して戦った
つまりその時藩という垣根を越えて政府軍として国民軍として戦ったのである。
その時庶民が歴史の舞台に登場したのである。
それまで薩摩藩とか長州藩と会津藩とか徳川家とかの家臣として勢力争いしていたのである。
そして西南戦争で侍に勝ったということでその時侍はもう日本からいなくなったのである国民が主役になり軍隊も国民の軍隊となったからである。
そしてその国民の軍隊が日露戦争と太平洋戦争と戦い膨大な犠牲者として死んだのである西郷隆盛が天下のために命を捨てろとか言っても実際はそういう国民意識はもてなかった西郷は朝鮮への外交を開きそこに侍の活躍の場を見いだそうとしたのもそのためである。その時まで戦争とは侍がすべきものだとなっていたからである。
侍の中には侍意外は政治に口出すなということであり侍が戦争もするのであり庶民は平民は参加できないものだったからである。

つまり明治維新はあまりにも侍中心の歴史なのである。藩中心の歴史だから侍同士の戦いでありそこに庶民は無視されているのである。
だから日本の国は誰のものかとなれば侍のものだったともなる
その侍がなくなるということは日本がなくなるということにまでなる

でも日本には侍だけではない,農民も職人も商人も他にいろいろな人が住んでいたのである。そこには優秀な人もいたのである。
そして国をになうのは別にそういう侍だけではない,農民だって汗して働き侍を養っていたともとれるし職人でも商人でもそうである。
現代では政治家が常にこきおろされて侍のように尊敬もされない
それは庶民が平民の社会になったとき主役になったからである。

明治維新を論じる時も侍中心であり藩とか徳川家中心になるが庶民が平民のことは語られないのである。
明治維新は最初は藩同士の戦いでありそれが西南戦争で終わり国民皆兵となり国民が主役となった
でも侍しか明治維新は関係ないように見ている
侍意外の人もその下支えとして生きていた,侍は生産活動をしない人達だったからであるでも国を支えているのは侍だけとしてドラマだと見てしまうのである。

万葉集の価値は貴族の歌もあったが庶民の歌も納められていた,そこに大きな意義があった,防人などでも庶民の悲哀がありそれものせられていた
つまり庶民が参加してできあがっていたのである。天皇だけのものではない,庶民ものせられていて作り上げられていたのである。

明治維新にはそうういものが感じられない,侍中心に物語が展開されるだけでありそこに庶民は参加していないのである。
ただ長州の高杉晋作の創立した奇兵隊には侍意外の庶民が参加していた
それで後に伊藤博文とか侍でない人が首相になったのである。
そこを見ると庶民が首相までなった時代だとなり庶民の平民
も明治維新に参画したとはなる,でもそれは長州の中のごく一部なのである。
日本全国ではそうした庶民は明治維新に参画したということは見れないのである。

一方で薩摩長州軍に敗れた徳川家とか会津とか他の藩でも幕臣には優秀な人がいたことは確かである。その人たちが明治維新で参画して新たな国造りにをした
その中に幕臣もいた,榎本武揚は有名であるが他にもいた
だから幕臣の功績もあり新たな政府として日本を作り上げ西欧列強と対峙できたとなる
それで必ずしも薩摩長州だけではない幕臣でも新たな国造りはできたと言う人もいる
吉田松陰のような人は苛烈なテロリストとか今言われるのは明治維新が何かそうした人の功績で成ったとされるからである。
その歴史の見方は間違っている,なぜそんなに吉田松陰とか坂本竜馬が大きくされたのかその疑問はやはり司馬遼太郎などによってドラマ的に仕立て上げられた結果だったのである。

歴史はドラマ的に見れば面白いが実際の史実は違っている,どうしても明治維新は藩のために侍のために戦いそして侍自らをなくすためのものだったと見える
日本国をどうするかというより先はそういう藩や徳川家という所属したものから紐帯から離れることができなかったのである。
その絆をたちきられて国民国家となったのである。ただその国民国家も西欧的な国民国家ではない,天皇の臣民としての国家となった,それも矛盾していたのだかまず国民国家というのは何か?それを意識することができなかったからである。
ヨーロッパでも国民は存在しなかった,ハウスブル家とかがあってもフランス国民とかドイツ国民とかは存在しなかった,それは近代化した以降に生まれたものなのである。
日本でも国民国家を本当に意識したのは日露戦争と太平洋戦争だったのである。
鎖国から対外的に外国と対峙するようになって日本国民としての意識をもったのである。対外的に日本国内だけで内輪もめしたら対抗できないからである。

そもそも国とは誰のものなのか?侍が支配したときは侍のものだったともなる
明治維新後は庶民のもの国民のものとなった,でも以前として国人の関係を考えると国は誰のものなのか?
国とはもう侍のものではない,国とは国民のものであり国民が作り上げるものなのである民主主義になると国は国民が常につくりあげてゆくもの,その過程にある
国民一人一人が作り上げてゆくものなのである。
そういう意識をもつことが今でも大事だとなる
そんなこと言っても国は大きすぎる,家族のためとか会社のためとか何か小さい単位だと帰属意識をもつが大きくなるともちにくいのである。
アイディンティティというときどうしても家とかその地域とかから思考してゆくし実際にその土地に生活するのだから当然そうなる
だから現代は戦争に負けてから国意識は薄れた,会社意識とかに生きたのもそのためである。企業戦士と言われたのもそうである。戦争のときはまさに国の戦士だったがそれがなくなったとき企業戦士になったのである。

別に日本国民だから偉いともならない,そこにいろいろな人がいてくだらない人もいる
強欲な人もいる,悪人もいるし暴力団もいるからそれが日本国民となったときみんな偉いとはならないのである。
侍が偉いというとき国は関係していないのである。そういう社会で偉いとなっていたのである。だから国意識とは何なのか?愛国心とは何なのか?
そういうことに答えられる人は今は少ないだろう,みんなが納得する国民とは何かに答えるものがあるのか?それが右でも鼓舞しても戦争奨励するものだとかなったり
国民みんなが納得しないのである。
むしろ以前として江戸時代のように家意識とか地域意識とかが人間の根源にある
そして自然でもそこに美があれば故郷ととしてそういう美の中に住みたいというのが国意識よりある
だから人間の根源的なものは変わらないともなる
国というとき単位が大きくなるからどうしても無理が生まれてくるのである。



タグ:明治維新
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2017年12月22日

小さな町の医院の跡(詩) (これも郷土史の一片だった)


小さな町の医院の跡(詩)

(これも郷土史の一片だった)

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こんなもので医者が往診していた

その医院には
何かあたたかみを感じる
こじんまりとした
昔の小さな町の医院
90すぎた母が通っていた
ここのお医者さんはやさしいと
母が通っていた
冬の日がさして
庭には石が並んでいる
山茶花もまだ咲いている
まるで肩を寄せ合う
老人のように見えた
人が住んだ所に何かが残っている
小さな町の医院
そこには何かあたたかみを感じる
それはなぜなのか?
ここに住んで地域の人とともに生きる
そういう気遣いが開業医にはある
それが病院とは違うあたたかみをかもしだす
それで今でも何かその跡に残っている
しかしこの医院も壊されるとき
そうした過去は消える
でもここにある内は偲ぶことになる
毎日ここを自分は通っているからだ

たびたび夜間に患者さんから電話があって、当時は自家用車を持たない家が多かったから、往診することが多かったのだ。
交代で当直ができる勤務医のほうが楽だと思っていた。
今どきの開業医のほとんどは、自宅と医院が別である。

父の時代でも、「ふとんが温まる暇がないくらい往診が多かった」といっていたから、祖父の時代はもっとすごかったのではないだろうか。しかし、往診が多くて儲かったという生易しい問題ではない。道路事情が現在と全く異なり、往診そのものが大変だったのである。

当時は往診が多い,往診が多いというとき車もない時代だから苦労になる,姉は看護婦であり保健婦として役場に勤めた,その時一軒一軒自転車で回っていたのだ
下駄をはいていたような時代に自転車で回って歩いていた,姉は気丈夫であり体が強いからできたのである。
昔の自転車は今の自転車とは違いいいものではなかった,でも自転車で一軒一軒回っていたのである。医者も往診が多かったというときそうである。
昔の医者と今の医者も相当に違ったものなのである。
医院といっても今のように機械などはない,聴診器中心にみる,何か手作りの医者の感じになる,だからかえって人間的になりえたという逆説がある。

江戸時代になればなぜ医は仁術になったのか?そもそも医者にかかっても直せないと患者も思っていたから直らなくても恨んだりしないのである。
それよりやさしいとか思いやりあることが医者にも望まれていたのである。
塾の先生にしても人柄がいい人が選ばれたというのもそうである。
そこでは人を見る基準が全く違っていたのである。

今はみんな技量を見るし腕に重点を置くし先生でも高い知識をもつ人が選ばれる,人柄など関係ないのである,ただ医者でも口が悪くても医者として技量の高い医者はいる
近くの医者はずいぶん自分の家では世話になったが口が悪いので母は嫌って行かなかったやさしさがなかったのである。人柄としては良くなかったのである。
でもその医者のことは誰かが話して話題になっていたのである。
それが死んでからその医者のことを誰も語らないというのが不思議なのである。
死んでからすでに十数年とかたっているのか時間がたつのが早い
そしてたちまち忘れられるのがこの世の常である。

開業医と勤務医の相違は開業医は家族をもち地域に住んで生活をともにすることである。だから近くの医者とは何か病気意外でつきあいがありもらいものしたりあげたりと頻繁にあった,その辺が勤務医とか大きな病院とは違っている
それで原町の産婦人科の医院長がそういう医者であり癌になっても最後まで地元の人に尽くすべき奮闘したのである。
それは勤務医でないからである。勤務医の人は原発事故があり南相馬市立病院をやめた人を知っているからだ,あれだけの混乱とかで嫌になりやめた
勤務医の人はそうなりやすいのである。開業医の人は土着しているからやめることができないのである。その相違も大きいと思った

何か死んでから人はいろいろふりかえるものだと思った,ささないことでも何かそれが一つの生きた証となりふりかえる,そのふりかえり語ることが老人が生きる意味だともなる老人は何らかでみんな語り部になる,ただその語り部でもうまい人とそうでない人はいるでもみんなどんな人でも人生を生きてきたのだから何かしら語ることがある
それが郷土史にもなっているのである。

自分もそうだが自分の家のことには一番関心がある,だから郷土史とは自分のじいちゃんとかばあちゃんから聞いた話からはじまると書いたのである
むずかしい歴史もあるが基本的にはそうなるのである。だから誰でもともかく一番郷土史は身近なものとしてある
何かしらみんな違った人生を生きているからそれが郷土史になるのである。

人間の不思議は必ず自分であれ家族であれ他人であれ一生をふりかえる
そこに意味を見いだしてゆく,それが基本的には歴史になる
それが日本史とか大きな歴史ではなく家族でもそうだし個々人でも平凡な人でもある
自分にとって身近なのは姉と母なのである。それが死んでからいろいろふりかえることになる
なかなか生きているとき本当にふりかえるのがむずかしい
それは家族でなくても生きている人を冷静に客観的には見れないのである。
死んだとき何か冷静に客観的に見れるのである。
家族でも他者でもこの人はこういう人だったのかと再発見が常にあるのだ

そして不思議なのはそうしてふりかえり死んだ人でも語る時,その死んだ人が生きているように思えるのである。自分はプログで語っているが誰かに語ればそうなるのである。
でも何も語らないとするときその人は死んだ人のことを語りたくないのである。
それは親でも毒親としてひどい目にあった人は親のことを語りたくないしふれたくもないとなる,だから死んでも人間はそうしてあとあとまで影響があるからおろそかに生きられないともなる

いつも自分はなんか他者にとって嫌になるかもしれないが母と姉のことが浮かんでくるのである。それだけ六十年間一緒に住んでいたことで一体化していたということの裏付けにもなる,一緒にいた歳月の長さが関係していたのである。
だから長年連れ添った人が熟年離婚になるのはもったいないと思う
その長い歳月を一緒に暮らしたことが苦い思い出なるとことは何なのだろうと理解しかねるのである。
そして一緒に墓に入りたくないというのも何なのだろうと思う
そんなら確かに早く離婚した方がいいともなる,一方で昔をふりかえり思い出を分かち合う老夫婦などは幸福だとなる

いづれにしろ何か人が歴史というとと大仰になるが思い出を刻んでいるのである。
そして最後はその思い出に生きるのである。だからいい思い出をもった人は老後は幸福だともなる,そのいい思い出とは何なのか?
それは個々人にとって違うから他者にはわかりにくいのである。
例えは苦難を乗り越えたという経験は後で悪い思い出となるとは限らない
あのときなんとか苦しいけど耐えた,今は楽だとかなりそれで幸福感に充たされる
でもそういう苦難のない人は老人になってもそういう幸福感にはひたれないのである。
だから最後に何が幸福をもたらすかも人間はわからないのである。

インターネットのプログではそうして今度は昔を語る人が増えてくる,そういう場としては向いている,それを本にして売り出そうとすると簡単にはできないからである。
これも商業主義には向かないものがあるからだ,ただこれからインターネットでも老人化してくるから思い出話に花が咲く時代がくる,
ただどれだけそこで思いで深く語られのか?浅薄な生だったら語るべきものもないとなり淋しいものとなる
大正生まれとか戦前生まれは激動を生きたから語るものがあり重いものをもっていた
現代は何か物質的には恵まれて浅薄なになっているから語るべきものがさほどないとなるかもしれない,語って面白い人とはそうして激動を生きた人だからである。


タグ:往診
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2017年11月09日

忘れられた昔の生活 (戦後十年は江戸時代のつづきだった)


忘れられた昔の生活

(戦後十年は江戸時代のつづきだった)

その家の近くだけど農家だった,だから庭が広い,農作業したからである。なぜか隣が神社でありそこに脱穀機が置いてあった,馬を飼う納屋があったのを知っている
その家に嫁いだ女性は八五才で死んだ,その人のことは子供の頃から知っていた
その夫は鉄道で工夫として働いていた,妻は農家で仕事していたがあとで菅野漬け物屋で働いていた,農家だから糞尿を汲みにきていたのである。
農薬を使わない時代は肥料は糞尿であった
便所は新聞紙を使っていた,トイレットペーパーがまだなかったのである。
何か汚いという感覚にはなるがそれが仕事だったのである。
もし糞尿を捨てる場所がなかったから困ったからである。

鉄道で働いていたというとき他にも国鉄の時代であり鉄道全盛の時代は鉄道はいい働き口だった,給料も良かった,民営化で騒いだがその時は高度成長時代であり退職しても金はもらえたのである。その時野党は社会党だったのである。
国鉄が衰退してなくなり民営化して社会党も消失したのである。
農業していたし国鉄で工夫で働いてもそれなりに収入は良かったかもしれない
ただ金に困った時はあったようだ,金に借りにきたこともあった
それでもそんなに生活に困るというのではなかったと思う
高度成長時代というのはみんなが豊かになった時代だったからである。

鉄道全盛の時代は鉄道関係の仕事が多かった,国鉄職員も多かった,今になると車関係の仕事が多いのと同じである。
鉄道の時代から自動車の時代になったからである。
ただ自分のように車をもっていないものは車がわからないのである。
だから現代では車をもっていない人は時代遅れであり仕事にもつけないのである。
たまたま自分は幸運で仕事しないですんだが車なしでは仕事にならないのが現代である。それで車もっている人は高速道路に入ると楽なんだと言うのは意外だった
車間距離をとれば自動運転するように行けるともなる,高速は自動運転化しやすいことがそのことを聞いてわかったのてある。
今は車のことがわからないのは社会もわからないとなるのである。
一方で旅するときは歩くことや自転車でする方が記憶に残る旅となる,車だったら昔の街道を行っても旅した気分になれないのである。

その近くに井戸があり自分の家では井戸がなくその水をもらっていた,水は水道がないのだから井戸がない家は水をもらっていたのである。
子供の時風呂に入るのには水くむから大仕事になる,バケツで水を運んだからである。
風呂は父が手作りで作った小屋のようなものだった,外風呂であり便所も外にあった
水道がない時代というのも相当に不便だったろう。
洗濯は近くの小川でしていたのである。
だから江戸時代のつづきを子供時代に経験しているのである。
燃料は炭であり炉端があったからである。

 朝顔につるべとられてもらい水 千代女

これは江戸時代だけと明治以降水道がないのだからもらい水だったのである。
街中では良く姉が言っていたけど「水ください」と井戸ある家に頼んだと言っていた。
それは子供の時であり井戸がない家はそうして頼むほかなかった。
でも水をもらっても金をとったりしないのが昔だった
第一払う金などない時代だからである。
その点農家の方が井戸はあるし自給自足で納豆を作っていたとか鶏がいて卵とかその肉も食べられたとなる,農家でもいろいろあり小作は貧しいが農家の方が豊かな面があった

橋は木の橋であり土橋だった,だからゆれるので怖かったのである。
自分はその橋を卵買いに行かされた,卵は農家から買っていたのである。一個か二個卵が割れるのである。そういう経験したことは今になると貴重である。
仕事はやはりわずかのものしか経験できない,仕事を経験するだけでも人生にとって貴重である。自分はその後仕事していないからそれを感じるのである。

昔をふりかえると不思議なのは江戸時代が理解できないことがある
江戸時代は靴下とかはいていない,女性でも素足なのである。冬でもそうである。
浮世絵の遊廓の女性も素足なのである。だから寒いと見るのである
そんな寒い所で良く暮らせたなと思う,それが時代が違うと理解できない
江戸時代で裸足で歩いていた人もいたという,なぜできたのか?
金属片とかガラスがないからできたと言うのも今から考えるとそうなのかとなる
道でも人と馬さえ通れればいいのだから広い道はいらなかった
第一広い道を作るのは簡単にできないからである。
子供の頃の道は舗装されていない,だから埃がたつ道だったのである。

外国ではネパールなどでは裸足で今も歩いていることに驚いた
インドでも街中で力車の人は裸足である。
裸足で生活することは何か原始的なことである。
現代人は相当に身体的にも弱くなっているのである。
ネパールとかインド農村に行けば昔の生活を体験できるのである。
そこに旅の面白さがあったが若いときならいいが良く見れなかったのが残念であった

街の中でも農家があるのが普通である。養蚕もしていたし田舎では街も農家の一部なのである。そもそも町というのは一区画のことであり今の町とは違った意味だったのである。だから村の中に町とつく地名がある,そこに町があるのではない,一区画の意味だったのである。墓町とあれば一区画が墓地になっている所なのである。
馬町とかあれば馬を売り買いする一区画だったとなる

家はトタン屋根であり雨漏りして洗面器を並べていた,それが伊勢湾台風で自分の家は低い場所にあったので一番被害が大きかった,その後に今の大きな家を建てた
煮炊きするのは竈であり炭や薪が燃料だった,だから台所がすすけて黒くなっていたのである。店をしたり食事の用意をした家事をすると忙しい,昔の人はまず家事に半分は費やされた,だから中流階級でも女中が二人いたとかなる,それだけ家事が一仕事だったからである。電気製品とかなければそうなる,オカズでも売っていない,作っていたから家事にさく時間が多かった,それで母と遊んだ覚えがないのである。

芭蕉野分して盥(たらひ)に雨を聞く夜(よ)かな 

昔の家は雨漏りするのが普通だった,ヤハな家だったのである。

大正生まれの母は原紡(原町紡績)で働きあとは東京へ女中になった,まずその頃女性の職場は紡績工場とか女中くらいしかなかったのである。その時良く東京に行ったと思う
母はそうした冒険をしないおとなしい女性だったからである。それだけが最大の冒険だったのである。女中でも現金収入なるとなり喜ばれたのである。

何が一番変わったのかというと政治体制とかではない,基本的な暮らしが変わったことである。今までに高度成長時代のようにな成長もなかったし庶民まで豊かな暮らしはしていない,庶民はずっと貧乏だったからである。
歴史をふりかえれば今ほど人間が贅沢を覚えた時代はなかったということである。
そして莫大なエネルギーを費やしている時代もなかった
石油であり原子力発電であれ信じられない莫大なエネルギーを使っているのが現代なのである。こういう時代は世界的にもなかったのである。
その歪みが原発事故とかなり石油戦争とかも生み出したのである。

ともかく人間は最後は思い出だけになる,つまりこうして昔を語るとき思い出すとき老人は生きているのである。それで認知症になると千回も昔のことを同じことを話するのである。それが生きた証(あかし)だからそうなるのである。
インターネットはこういう昔のことを書いたりするのに向いているかもしれない
これが本とかなるとできないからだ,今は地域の人にも語れないし子供にも語れないからである。
そしてインターネットでもパソコンでもこれからしていた人も老人になってゆくからである。
すると何でも思い出話に花が咲くとなるからだ,ただまだ若い人中心だからそうなっていないだけである。
遂に2チャンネルでも老人が増えて昔を語るようになる
今は老人はのけものにされているがやがてそれも変わってしまうのである。

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2017年11月08日

明治維新と庶民 (侍の支配に不満があった)


明治維新と庶民

(侍の支配に不満があった)

会津地方の旧武士階級の人々が薩長土肥に対して強い恨みを抱いたという話はよく知られている。だが農民、特に戦場にならなかった地域の人々にとっては、かねてからの重税や物産の専売制度による搾取に加え、藩主松平容保が京都守護職として上洛して以来、その経費を賄うために行われてきた増税に対する不満に一気に火をつけることになった。9月22日(1868年11月6日)、会津藩が明治政府に降伏すると、たちまち藩政崩壊による権力の空白状態に乗じた民衆蜂起が勃発した。
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会津というと白虎隊だとかいろいろいその悲劇が語られる,一方で見逃されているのは会津だけではない,庶民が明治維新にどういうふうに見ていたのかである。
あの姫路城が10万で売りに出されるとか信じられないとなる
その時城に価値を認めていないのである。城に価値を認めていたのは侍だけだとなる
白虎隊が城が燃えているとこれまでだと自刀したのもそうである。
城に深い思いがあったのは侍であり庶民は城に対してはそんな感情をもっていない
だから会津で明治維新になり一気にその不満が爆発したのである。
そして侍の住む会津若松ではなくその北にある喜多方が商業が栄えた,それで多くの蔵が建ったのである。

そもそもいくらなんでも城が10万とかで売りに出されること自体城に価値を認めないからそうなった,城に価値を認めないということは侍に反発するものがあったからである。
城はやはり権力の象徴として当時威圧するものとしてあったのである。
今歴史的遺産となっている建築物でもそういうふうに権力的に威圧するものがある
建築は権力の象徴なのである。それは仏教でも同じである。
奈良の仏像とかでもそういう面はある,ただそういうものでも歴史的意義があり後で評価されている

ただ明治維新のときなぜそうしてこれまであったものが否定されたのか?
それも極端なのである。今になって薩摩長州のテロリストによって破壊されたというのも今だから言われる,では明治維新の時は庶民の感情は城に価値を認めない,侍にも価値を認めなくなった,その感情は急に起きたことではない,日頃から侍に不満がありそうなった,野馬追いでも野馬追いのときだけ馬上の人となり侍が復活する
その時侍の時代にもどり威張れるのである。そこに明かな身分の差が生まれる
野馬追いに出れる人は侍の出でないと出れないからだ
由緒ある家でないと出れないからである。もっと誰でも野馬追いに出て盛り上げたらいいとなるが野馬追いの場合できないのである。
だから祭りとしては侍の祭りであり庶民がかかわらないから地元でもつまらないともなる青森のネブタなどは外から来ても誰でもハネトになれるのである。
それは庶民の祭りだからである。

日本人は明治維新でわかるように極端に過去を否定して変化する,そういう民族的特質があるのかもしれない,ただ人間の歴史をみれば必ず権力をもつものる対する不満があるがそれができないからあるとき爆発する,それがフランス革命とかでもありどこの国でもあるのだ,人間は一旦権力をもつと傲慢るなるからだ
そして権力というのは常にもつものが変わっているのだ
現代ではマスコミが権力を持つものとして標的にされマスゴミだとか盛んにネットで言われる,それはマスゴミが正しいというより現代では権力を持つものだったからである。
第三の権力といわれたのもそのためである。
NHKでも強大な権力をもっていたし今ももっている,
NHKががこう言っているのだか反対するようなことを言うなと学校に抗議があったことでもわかる
それだけ現代ではマスコミの力が大きくなっていたからまた反発もあったのである。
マスコミは左寄りでありそこに中国韓国の工作員が入って支配されているというのもそうである。

いづれにしろ明治維新の時それほど権威があった侍が作ったものが根こそぎ喪失した
それに対して庶民は別に惜しいとか価値を認めていなかったのである。
城は庶民を威圧するものとして権力の象徴だからそうなった
今になって庶民は城をどうみているかというと城は街のシンボルだとういうがこれも明治維新のことを考えると庶民も勝手だなと思う
観光資源として城が必要だとなるのも勝手だとなる
庶民はそもそも功利的にしか動かないともなる,でも庶民の意向が全く政治に反映されないかとなるとしている,明治維新が成功したのは薩摩長州の勢力であり庶民がかかわらないとなっていたのか?

でも庶民でもやはり侍に反発するものがあり精神的に応援するものがあった
それで西南戦争では国民軍を形成して庶民が参加して武士に勝ったと言うことで大きな転機となったのである。そこで国民意識が生まれたのである。
太平洋戦争でも庶民はどう思っていたかと言うと上からあおられて戦争に無理やり参加したというのとも違う,その時鬼畜米英という感情が庶民にも異様な熱気としてあったという,つまり戦争を引き起こすものが庶民にもあったのである。
この辺の原発も積極的に金になるからと誘致されたのもそうである。
庶民には何の責任もないということはないのである。何か庶民は身勝手だということがある,その時々のことで時流にのる,利があればのってゆくともなる

ともかく人間の歴史を見れば同じようなことが繰り返されている,権力をもつものが権力を失うのである。栄枯盛衰がくりかかされる,だから一時代がすぎるとまるで変わったものとなってしまう。
城がそれを具体的に示している,今になってこれほど城に価値を認めているのはそれが観光の目玉になるとか庶民の身勝手なものから生まれている
城に本当に価値を認めるとしたら侍にも価値を認めることになる
それを根こそぎなくしたことでもわかるようにその時庶民は城にも侍にも価値を認めていなかったのである。むしろ排斥する方向に強く働いていたとなるのである。

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2017年09月07日

土手 の道でで同級生と昔話する (病気から見違えるほど回復していた)


土手 の道でで同級生と昔話する

(病気から見違えるほど回復していた)


今日土手で自転車に乗っている脳出血で一命をとりとめたきいた同級生とあった
その人は只野という人で南北朝時代,霊山から逃れてきた人を先祖にもつ古い家だったのである。
鹿島には只野性が本当に多い,それはその時逃れてきた武士の子孫なのである。
ただなぜ鹿島の街内だったというのが謎だった,というのは街内は新しい人が入ってきているのが多いからだ。
ただ鹿島でももともと鹿島村だったのである。でもその規模が大きいのである。
そこは平地が広がっていたからそうなる,それで橲原田(じさばら)とうい地名が鹿島町誌に残っている,今はない。
橲原の人が土地を求めて開いたからその名がついた,なにかこれもわかりにくい,
右田の人が橲原に肥料として草刈る場を所有していた
するとそこに右田という地名がついてもおかしくないのである。
ここに橲原田(じさばら)となった理由はわからない。

その同級生は例えば駅前の自転車屋が実は自分の家を間借りしてはじめたという,それは今自転車屋をしている人の父親である。だからその子供のときを知っているという。
ゆして不思議なのはそこに開業医があった,それを知っている人はもうかなり少ない
それをなぜ自分が知っていたかというと母親からそこで幼児の時注射してその傷跡が今でも太股に大きく火傷のようにして残っているからである。
だから医者は下手の人にかかるとひどいことになる
その頃はおそらく医療の技術は遅れていたからである。
つまり医者で一生の傷を負う命取りにもなるということである。

何かその頃町医者が多かった,それは今のように大きな病院がないからである。5軒以上はあった,内科であり歯医者も多かった,それだけ子供が多い時代であり繁盛した。
その時は主に子供とか若い人が医者にかかっていたのである。
今のように老人ばかりがかかっていたのではないのである。
そういう時代の差があった
自分の姉は保健婦だったから医者とはかかわっていたのである。

その人は相馬高校を出て東北学院に電車で通っていた,東北学院はこの辺ではポピュラーな大学である。ただ東北大学とかなると雲泥の差がある。
この辺がまぎらわしいのである。京都大学と京都産業大学とかなると雲泥の差があるのと同じである。
その時大学に出る人はクラスで4,5人だった,その人は兄は東京の法政大学に入ったので
地元の東北学院に入ったという
ただあの人は故郷を出て生活をした経験はないみたいだ,東北学院に通ったとしても故郷を出たとはいえない,自分は大学は東京だから同じ程度の大学でも違っていた
その相違は自分にとって郷里を出て一人生活することはやはり精神的自立することになったからである。故郷を一度も出ないものは何か精神的自立をしにくいように思う。
ただあの人もともとコミニケーション能力があった,そういう性格は変わらない
自分には社会性とかコミニケーション能力が欠けていたのである。
こうして他人と話するようになったのは60代以降強いられてそうなったのである。

自分にとって大学に入ったことは勉強することではない,勉強は嫌いだったし学校にはなじめない性格だった,ただだから家を出ること故郷を出ることが自分の望みだったのである。今でも故郷を出るという志向が自分にはある
あの時代は東北大学に入る人が4,5人でもいた
原町高校と相馬高校でもいたが今は全くいない,それだけ高校生の数が減ったからであるあの時は人が多いからその中に優秀なものも出たとういことである。

ともかくあの人も郷土史を勉強している,あれだけ古い家の生まれだから当然家には一番興味をもつからである。何か古いもの,お宝が残っているらしいがそれがいつの時代のものかはわからないらしい。
郷土史とかはおばあちゃんとかおじいさんとかの話を聞いて興味をもつということを前に書いた。
その人の父親は戦争の空襲のことをノートに書いていたという,鹿島でも爆撃されて死んだ人がいたのか?そのノートに記してあったという,原町の被害は大きかった
飛行場もあり相馬農業学校は爆撃で燃えた,その近くに母の実家があり母から防空壕に逃げた話を聞いている,防空壕の蓋が飛行機が飛んできて舞い上がったとかあるから相当に低空飛行したのかもしれない,そうなったのは相馬農業高校が近くにあったからである。その実家も今はない,墓だけが残っている

自分の家のことも二代くらいだが一人になって昔をふりかえる
家で店をしたとき姉が古い自転車で農家に野菜を買いに行ったことが思い出される
それは役場に出勤する前でありその野菜を積むにも相当な力が入る,女性では簡単にできないのである。その量も多いからだ,でも姉は力持ちだからできたのである。
その野菜を売っていたのが母だったのである。
何か必ず家々にはこうした物語が残っているのである。
一軒一軒の家が郷土史なのである。この辺ではどうしても原発とかかわることが郷土史になってしまった,原発の恩恵を受けていたことが多いのである。
だからあまり東電を批判できないとなっているのである。

その同級生は本当に二年前にあったときよりすっかり回復していたのは驚いた
一時間以上立って話しているのに疲れたとも言わない,二年前だったら立っていられないだろう。二年間の間に相当回復したのである。
もともと脳は損傷しなかったからそれが良かったのである。
そして脳出血は時間との勝負であり早く治療して南相馬市は前に新しく脳出血センターができたように副委員長が専門的に優れているから若い研修生も習いに集まるほどである。そういうことで幸運が重なりあんなに回復したのかもしれない

いづれにしろ団塊の世代も年でてある。昔を語る人となった,まず自転車屋の前に開業医院があったことを知っている人はほとんどいない,自分は母親から太股の傷のことで聞いてその医者のことを思い出したのである。
注射によって傷が広がったのである。
その医者によってつけられた傷だったのである。
それを恨みに思うももうその医者は5とっくの昔に消えているのである。
ただなんらか昔のことが傷として体に残っている人はいるかもしれない
そういうことは長い一生の間にはある

その人はおくさんもいるし子供がいるから娘は千葉にいて常磐高速でしょっちゅう行っているという,世話する人がいるから病気になっても良かった,今はのんびり庭の手入れをしたり自転車に乗ったり車を運転して楽しんでいる
それにしてもあんなに回復することは驚きである。
やはり脳がやられないから良かったのである。脳がやられると体が麻痺するからである。
やはり近くの同級生は隠れ脳梗塞があるということを言っていてそれがずっとあとにまた脳梗塞になり脚に麻痺がきてびっこになりやっと歩いて買物していた
車があるから買物もできている,まだ車は運転できているのである。
近くでもあれでは買物もできなくなる,一人暮らしだけど一週間に一回くらい弟が世話している,その人も最近母親も死んだので一人暮らしなのである。

団塊の世代は過去をふりかえる時代になった,その歩んだ人生は違っている
その人は普通に勤めて結婚して子供をもうけていたから変わったものではない
最近インターネットだけで知ったプログを最後まで書き続けた人も死んだが同じ世代である。その人は透析を17年間もしていたというからこれも驚きである。
必ず60代から病気がでてくる,そして死ぬ人も出てくる
タグ:団塊の世代
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2017年07月21日

鰻を売りに天秤棒をかつぎ鹿島区の屋形から川俣まで行った人の話(続) (それは本当だった)


鰻を売りに天秤棒をかつぎ鹿島区の屋形から川俣まで行った人の話(続)

(それは本当だった)




うなぎ街道(山陰中央新聞)


この話しには驚いた。五貫目の鰻を天秤棒で八木沢峠を越えて川俣まで売りに行った話を聞いたという。川俣までとなると八木沢峠を越えること自体大変でありそれも天秤棒だとなるとバランスをとるのがむずかしいから余計に重労働になる。坂をのぼるときバランスをとるのが大変だったというからその話はリアルである。五貫目というとこれはかなりの重さである。

百匹にもなるのか?50匹くらいか、それほどの数でないとこれだけの重さにはならないかもしれない、それだけ売れたら大変な金になったからこそ川俣まで売りに行った。川俣では当時高く売れたということである。今でもそうだけどやはりバナナでも売れるのは金持ちの国である。食料品も金持ちの所に流れてゆく、松川浦でとれた魚も東京の方に高く売っていたのと同じである。地元ではかえって食べられなくなっていたのである。

川俣まで鰻を天秤棒で売りに行ったのは川俣が景気が良く高く売れるからだった。そうでなければわざわざそんな遠くに行かないのである。鰻取りは自分の家で思い出がある。父親が明治生まれであり鰻とりを田んぼの畦道などで良くしていたのである。子供のときついて行った。鰻の住んでいる穴を熟知していたりミミズを餌にして微妙に微調整して穴に入れるのがコツである。鰻をとったときはごちそうだった。家族みんなで鰻を料理したのである。その頃の鰻は天然だからうまかったのである。その鰻を川俣で売りに行ったというのは本当に驚きである。

うなぎ街道の記事を見て屋形で明治に川俣までうなぎを売りに行った話は何か信じられなかった、この記事を読んで信じた、全国的にうなぎは売られていたしうなぎは日本では貴重な食料でありエネルギー源であった
うなぎは栄養価が高いからである。地元でも自分の父親だけではなくみんなうなぎをとっていた。川でもとっていた。それはみんな天然ものだからうまかった
ただうなぎ街道となると相当な距離を運んだ、そのために苦しんだ

まず今の時代どうして天秤棒などでかついで川俣まで行けるのかというのが疑問になる
うなぎは水が必要だから水も運ばねばならない八木沢峠になると今でもそうだけど急峻な長い峠道なのである。そこをまず上るとすると容易ではない、天秤棒などかついで行けるのかとなり疑問だった、ただうなぎが屋形とか海老とかではとれた
結構多くとれたことはわかる、それを売りたいということもわかる
川俣は絹織物で栄えていたから金になり売りに行ったというのもわかる
でも本統治天秤棒をかついで八木沢峠を上れるのかとうことが疑問だった

でもこの記事のように他にもそういうことがあるということで信じるということがある
つまりここだけではなくうなぎを売るということは全国的にあったことなのである。
それもかなり不便な所を長い距離があるところを売っていたのである。
大阪まで売っていて出雲のうなぎは有名だったという、江戸時代とかがわかりにくいのは基本的に歩くほか移動できないことである。
川とか海でも船を利用しても基本的に歩くことなのである。
それが実感として理解できなくなっているからそんなことありうるのかとなる

うなぎは夏にはいいが今は中国産でありこのうなぎは何か不安なのである。
薬を使っているとか何を食わせているかわからないとかある、実際あれだけ安いということは何かあるということになる
ともかく過去はそれは実際にあったのか事実だったのかということがまず第一に知ることそれが歴史を学ぶことなのである。
時代劇だってあんなにばたばた人を切れるのかといったらそれは架空の物語である。
水戸黄門とか吉宗とかがバタバタと人を切るけど第一その人がそんなに位が高いと知ったら家来はいくらなんでも切ろうとするだろうか?
そんな危険なことはしないと思う、恐れいってしまうだろう。
それがフィクションであり事実に裏付けされていないからつまらないとなる
そんなハデなことはなかったのである。

第一水戸黄門は日本を旅行したことないというからあれはみんなフィクションなのである
ともかく昔の話でも伝説でも何でもそこに事実をよむことが大事になる
その事実から歴史をたどる、小説はフィクションである。事実を基にしてもフィクションである、それで司馬遼太郎は小説家であり坂本龍馬を英雄にしたてあげたというフィクションを歴史と信じてしてしまう危険がそこにあった。
いづれにしろ川俣まで屋形から天秤棒かついでうなぎを売りに行ったというのは事実である。するとその物語にも重みが生まれのである。

飯館村までの塩の道は実際に残っていた。それも沢の道であり馬一頭がやっと通れる細い道であり一歩あやまると下の谷底に転落する、そんな危険な道をよく行けたともなるがそれが歴史の道として残っている、それも全国的にありそもそもそうした危険の道が人びとは歩いていたのである。
山があっても道を作ることはできないとなるとそうした自然の道、尾根とか沢道を行ったとなる、そういう道はまだ残っているから実感できるのである。

タグ:うなぎ街道
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2017年06月10日

浪江の室原の人からこの辺の歴史をたどる (真野川にスズキが上ってきていた)


浪江の室原の人からこの辺の歴史をたどる


(真野川にスズキが上ってきていた)

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真野川の橋の上でしきりにススギがいる、光るのがスズキだという浪江の室原の人がいた鯉はいるけどススギが上ってきているとは思わなかった。

チヌやスズキは環境への適応性がかなり高い魚なので、海水域から汽水域、場合によってはほとんど淡水といったレベルのところでも生きていけます。
途中に堰などがなければ餌を求めて数Km上流まで上ることもあるようです。

スズキはこういう性質をもっているから確かにその人はスズキを見たのである。
釣りもしていたから直感的にわかったのかもしれない、なかなか常に見ていないとわからないからである。
この人は浪江の室原の人でありそこはかなり放射線量が高い、豚を飼っていたという、その豚を伊藤忠商事が買い上げていてこの辺でも売られていたという、豚としては高級なものだった

その人に親しみを覚えたのは室原というとき小出谷に通じている 、そこが父の出身地なのである。ずいぶん近いなと地図を見て思った。境遇も両親か死んだとか母親は避難中に死んだとかにていたこともあった。
ただ勘違いしていたのは室原は確かに近いとしても大柿ダムから山をおりた平地にありそこから浪江の街まで近いとなる、そこで豚を飼っていたのである。
だから小出谷となるとやはり相当に奥であり離れている
その時そこの親戚がダムができるといいなとしきりに言っていたのである。
なぜなら金がもらえるからである。山の暮らしは貧乏であり山を出たいと思っていたからである。それは戦後まもないころである。
1989年頃完成した、30年くらい過ぎている、このダムの水は小高でも田んぼなどでも利用している

室原というところには行っていない、小出谷には平地がない、前は谷であり川が流れている、その川は大柿ダムに流れている
あそこがまず平地がないということは田畑もまともに作れないということである。
だから林業などで生活していたとなる。電気が通じたのも戦後二十年くらいかもしれない電気がその時まで通じていなかった?とすると明かりはなんなのだったとなる
ネパールの山の暮らしでもそこには電気が通じていないから夜は真っ暗になる
そうした昔の生活がネバールには残っているからそこから昔を偲ぶということができる
何かにた暮らしがそこにあったからだ。ただ一回しか行かないので良くわからない
外国はわかりにくいし良く観察できないのである。

バスは三春の方まで通っていたのである。バスが盛況な時代があったのだ
その頃森林鉄道もいたるところにありそのことを姉は語っていた
浪江のの高瀬川沿いを葛尾村の落合まで通じていた、それも距離が長いから凄いと思った森林鉄道というとき木材の供給地として山でも暮らせたとなる
それで山持ちで大倉の女性が俺は相馬の女学校(じょがっこう)に行っていたんだよ、親戚が鹿島にいてそこから通ったんだよと言っていた
当時の女学校というとき本当に相当な金持ちしか行けない所だったのである。
あとは自分の母親が尋常小学校のようにそんなものだった
当時の女学校というのは特別な金持ちが行くエリートだったのである。
山持ちが金持ちになっていた時代があったからそうなった
だから優秀だった姉が女学校に行きたかったというのはそのためである。
ただ大倉の女性は年をとっていてそういうエリートだったと面影はまるでない、田舎のばあさんになっていた。

小出谷の親戚はそれから浪江の街におりてきて暮らすようになった、息子は原発で働くようになった、家も建てた、それは一つのこの辺の歴史である。
何か原発とかかわっている人が実際に多いのである。浪江だとすぐ近くだから余計にそうなる、将来的にも浪江が廃炉作業の宿泊所としてコンパクトシティとして生き残るというときもそうである。
山の貧しい暮らしから脱出しようとして原発があった、それは確かに豊かな生活をもたらしたのである。自分の父親は双葉の新山の酒屋に丁稚奉公したのもそのためである。
山の貧しい暮らしは戦後街の方が豊かになったとき比較したときその差が大きくなったから山を出るという人が多くなったのだろう。
それが今になるといいものとしてだけ働かなかったのである。

いづれにしろ室原というとき帰るのはむずかしいのだろう。なんか拠点をもうけて集まり復興しようとしているらしい、それはまだ浪江の街に近い感じだからそうなっていた。
地図で見た限りはそう見えるのである。
その人はなにもすることがなく淋しい感じである。
ただ浪江はここから近くなっているから帰れるという気分になることは確かである。
時々土地がある人は見に行っているからである。

スズキが川通じて上ってくるというときこの辺は山でも海との関係がある
中通りとかなると海との関係を感じないだろう。会津でもそうである。
それでお浜下りとして飯館村の佐須村の山津見神社から祭りの時来るのを見ている
今は車で神輿をのせて来ていた、そして松川浦に山津見という地名があるから社があって祀られていたからであろう
もちろん綿津見神社というとき海の神でも山にもあるから海と山の関係はもともと日本では深かった、海彦山彦の国だからである。
だからスズキというのが川に上ってきたというときスズキは結構大きいからそういことは知らなかったのである。これはかなり川上まで上ってゆくという、何か餌になるものがあるためである。その時そこに翡翠が姿を現したがすぐに隠れた、なかなか動くものは写真にとりにくい、翡翠は別に時々みかけるのである。

ともかく浪江辺りになると親戚関係になっている人も多い、双葉とか大熊は相馬藩内でも遠い感じになる、浪江は野馬追いにも出るから相馬藩内である。
南相馬市だけでも2000人くらい復興住宅とか家を建てたとか移住しているようだ
だから今は浪江の人が目立つのである。
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2017年05月27日

昭和10年度鹿島小学校卒業生名簿(昭和46年・2・調査)



昭和10年度鹿島小学校卒業生名簿(昭和46年・2・調査)

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たまたまこんなものが資料として出てきた、自分の姉は85才で死んだ
生まれたのは大正13年生まれだろう、小学校を卒業したのは昭和十年である。
この卒業生名簿を調べたのは昭和48年(1973)である。
約50才の時である

52名の内10名がすでに死んでいた、女性だけだから死ぬ割合は少ない、丁度20代で姉は従軍看護師としてシンガポールに(マレーシア)のジョホールバルに行った
そこで4年間辛酸をなめた
終戦になったときジャングルに逃げたから食うや食わずになり苦しんだのである。
終戦になってもその時、まだ日本兵が戦い続けていたのである。

あの太平洋戦争終戦の8月15日、ジャカルタ、香港、シンガポールはどこの占領下にありましたか、?答えは全部日本
日本は本土決戦叫びながら兵士を引き揚げて集中させるような手さえ打たず時間を浪費したあげく惨劇をまねいた(藻谷)ー中央公論

確かにこの時戦地では終戦になっていないで戦っていた人たちがいたのである。
それでジャングルなどに逃げて苦しんだのである。
終戦になったらジャングルに逃げる必要はなかったのである。
降伏したのだからその時点で日本に帰る準備になったはずだからである。

50才で一割死んでいるのはやはり多いかもしれない、ただ自分の世代でも60代で一割同級生は死んでいる、20代に戦争があったからその世代の人は相当男子なら死んでいる
従軍看護婦として戦地に行った人は少ない、第一その当時看護婦になることは相当に優秀でないとなれない時代だった、資格をとるにも東京まで行ってとっていた時代である。
赤十字関係でありそれで真っ先に招集されたのである。
姉は自分は常に優秀だったと言っていたけど頭も良かったし体も丈夫で気が異常に強かったのである。だから従軍看護師として4年間勤めることができた

この名簿を見て女性だから結婚して嫁ぐのだが相馬郡内とか地元に嫁いだ人がまだ多い
北海道に三人、東京横浜に三人とかいるが地元に嫁いだ人が多い
今なら全国に嫁ぎ先が分散している、まだ地元内で嫁ぐという時代だった
戦前ですでに嫁いだ人がいるからだ、ただ自分の母親は大正生まれでも東京に女中に出て結婚しているのである。

姉の同級生で近くにまだ生きている人がいるが病院に入院して死ぬだけである。
この一枚の資料が物語っているのは何か?
そこに様々な人生があったがこの資料からだけではよみとれない、北海道に嫁いだというときまだ開拓するということで嫁いだ人もいたかもしれない、そういう時代だったからである。

住所に仙台市東十番丁国鉄アパートというのがある。

1987年(昭和62年)3月31日時点で新幹線と在来線併せて総延長19,639キロメートルの鉄道路線を持ち、30局の鉄道管理局と総局で運営した

まだこの時代は国鉄があった、鹿島駅前にも国鉄の住宅があった、小学高の同級生に外から来た国鉄職員の人がいたのを覚えている、この辺でも国鉄に勤める人が多かったのである。そこがいい就職先となっていた、だから民営化するとき騒いだけど十分な金をもらったのである。国鉄があって社会党があったのである。それも昔となってしまった。
社会党は長くあったがもう消滅してからずいぶん時間がたっている
社会党がありえたのは国鉄があり組合が大きいから成り立っていたのである。

この人たちが今どれだけ生き残っているのか?半分は確実に死んでいるだろう。
その人たちの人生も様々でこの資料からはわからないのである。
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2016年11月20日

浜通りは東京の影響が大きかった (戦後の歴史をふりかえる原町-津島から葛尾村まで)


浜通りは東京の影響が大きかった


(戦後の歴史をふりかえる原町-津島から葛尾村まで)

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津島なる岩に作れる墓一つ重みあるかな秋の日暮れぬ


集団就職で東京に労働力を地方が提供して出稼ぎ者でもそうである。
そして津波や原発事故で人口が流出してゆく、出稼ぎでもそれで子供を大学に出したとかあり全部が悪いものとはなっていない、
ただふりかえると地方は東京によって影響されていた、地方は戦後は森林鉄道があり森林の木材とか資源を供給していた。常磐炭鉱では石炭を供給していた。
エネルギーが石油に変わったとき急速に地方は変貌した。
東京中心に人手不足となり労働力を地方で提供した。出稼ぎ者もそうである。
東京というのがやはり経済的に地方を動かしていた。
東京に電力を供給するのも労働力を提供するのとにていたのである。
福島県は東京に近く東京の経済圏になりやすかったのである。
そこに繁栄もあり原発事故につながったのである。

結局戦後七〇年は何だったのかとなる。どうしてこの辺がこんな状態になったのか?
それを歴史的にふりかえると地方が東京に翻弄された時代だともいえる

戦後の地方の歴史をふりかえる (戦争の引揚者が山村に開墾に入るー赤生木なども同じだった)

この間、全国で21万1千戸が開拓地に入植し、105万6千戸の既存農家が開拓地に農地を取得した。開墾施行面積は、44万9千haであった。しかし、開拓地の営農は困難を極め、開拓を諦め離村した者も多く、21万1千戸の入植者のうち開拓行政終了時点で入植を継続している戸数は9万3千戸と、半分以下に減っていた

戦後の開墾も厳しいものだった。小池などにも戦後開墾に入った人がいた、街から近い、いたりる所に開墾に入った、仕事がそのときなかったからである
津島から葛尾まで(残暑)

2006年とかのフログを読み返してみると不思議である。自分で書いたものも忘れる。それでまた読み返して付け加える。それが簡単にできるのがインターネットである。
福島県は東京と近いから東京の影響が思った以上大きかった。
戦前でもこれは全国でもそうだが森林資源とか石炭とか石とか資源は外国ではなく国内に求めていたからである。
それで常磐炭鉱などもそうであり石炭がエネルギーだった時代に鉄道も発達した。
鉄道ははじめは貨物輸送のために作られた。北海道なども小樽なども石炭を運ぶために鉄道が作られたのである。
資源を国内に求めたからそうなっていた。全国に森林鉄道が網の目のように作られたのもそのためである。原町が明治以降発展したのはそうした資源を運ぶ鉄道のためだった。
原町機関区であり駅前通りににぎわいが生まれた。それは全国的なものである。
そして原町紡績は原紡には鉄道の引き込み線があり生糸が鉄道で運ばれていたのだ。
原紡には自分の母親が十年間か糸取りで働いていたのである。

東京は一見遠いようでも福島県となると近いからその影響は戦前もあったし戦後も継続してあった。東京は巨大な消費地であり生産地でもあったからである。

東京に木材が運ばれる
石材が運ばれる
常磐炭鉱から石炭が運ばれる
原町機関区に何本もの線路
駅前は活気を帯びていた
もうもうと煙を吐いて蒸気機関車が行く
国鉄というごとく鉄道は国を支えていた
その燃料は石炭だった

明治維新から汽笛一声新橋からとか鉄道が新しい文明を知らしめたのである。
なぜなら関所もなくなり切符一つで全国土子にでも行けるとういことは日本全体が一つになることで意識するようになったからである。
その変化はいろいろあっても大きなものだった。
その時から実は福島県とか浜通りは東京の影響を受けてきたのである。
自分の母親が東京に女中で働いたり姉は看護師の資格をとるために東京に一時住んだとかある。
東京はその時代は田舎と東京との差は大きかったから東京に行くことは憧れとなっていたそれは戦後もそうであり自分の大学も東京に選んだのはそのためである。
ただ一方で集団就職とか出稼ぎとか東京に働き出ることはつづいていた。

そしてなぜ原発が双葉とか大熊とかにできたのか?
そこは相馬市とか原町市とかと比べると僻地になっていた。浜通りのチベットなどと言われていた地域である。その地域振興策として出稼ぎでなくても地元で働けるものとして原発が誘致されたのである。
そして東京の目論見としては安全を確保するために福島に原発を作ったのである。
コスト的には送電線などが必要だったけど東京に事故を起きること許されないとなり福島に作ったのである。
経済的にはやはり巨大な東京の影響が特に浜通りでは大きかったのである。
それが結局徒(あだ)となったのである。

東京というとき浜通りはいわきは明らかに仙台より近く感じる、なぜなら東京までの通勤電車が出ているからである。
常磐線でも原町からいわきに行くの二両の電車であり不便である。
でも仙台には八両の電車であり一時間おきとかに出る、今度は高速ができたのでユニットバスをリホームする会社が仙台から入ってきて200百万かかるのを100万で作った。
今度は鉄道から高速の影響がでてきた。ここはもともと仙台の影響が大きかった

そして津島では中国人の嫁がこんな山の中に住むのが嫌だとナタで夫を襲った事件があったのだ。確かにあんな山の中だと日本に憧れたのは都会に住みたいからだったろう。
でも別に浪江とか町の中に住めばそういうことはなかったろう。
原町も近いし結構都会だからである。
赤生木から津島に行ってそこから葛尾村に行ったのは10年前にもなった。
あそこで印象に残ったのは岩の墓があかったことである。
なにかそこに墓の重みを感じた。墓は最後に人間の姓の継続を語るものである。
つまり家がなくなっても墓は残っていることが多いからである。
この辺でも事業で倒産した家があったがその人は住んでいないが墓は残っていたのである何かそしてあの岩の墓は貫祿があり重みがあると感じた
地元でとれた岩で作った墓である。ただ岩にしたのは加工していないから金はかからないとなっていたのかもしかれない。

ともかく赤生木とか津島とかは一番放射線量が高かったからもう住めないとなる。
だからあの墓もなくなるのか?どうしても人が移りいなくなると墓も移動するからだ。
津島は戦後開拓に入った人たちが多かったみたいだ。それで結束が強いと報道された。
あそこは浪江町の中心部からすれば相当に遠いのである。
どっちかというと三春に近いのである。
あそこに人が住まなくなるとどうなるのか?墓だけ残っていても墓参りする人もいなくなる、そして遂には荒れ果ててしまうのだろうか?
もしかしたらナタで襲った中国人の嫁は喜んで都会に出たのかとなる。
そういう辺鄙な地域なのである。
でもそうきいう場所に津島から葛尾村へゆく森の道にまさに待宵草(月見草)が自分を待って咲いていたと詩的にはなるのである。だからまた行きたいとなる。

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2016年11月05日

郷土史に関心がもてないのはなぜ? (自給自足生活からグローバル経済の変化のため)


郷土史に関心がもてないのはなぜ?


(自給自足生活からグローバル経済の変化のため)


郷土史というとき関心が薄れいる、それは現実の生活が郷土と結びついていないからである。戦後十年までは自給自足の生活だった。
エネルギーも炭だから故郷の木を利用していたし家でも外材はないから回りの森の木を利用していた。屋根は茅葺きだとするとその萱も近くの山であれ萱場とかあり材料は近くのものでほとんどまかなっていた。
橲原の方に右田の人が肥料となる草をとりにいっていたというときもそうである。
こうして近くのもので生活しているとき当然郷土意識が育つ、つまりほとんどが郷土によって育まれていたからそうなる。
そこに郷土愛も生まれてくる、しかしそれが高度成長時代から急速にグローバル経済になり変わったのである。

例えば原町区の深野(ふこうの)という所に豪倉(郷倉)というバス停の地名が残っていたので紹介した。その深野に住んでいる人もそのことを知らない、興味がないということがある。それはなぜなのか?
つまり現実の生活と結びつかないからである。その郷倉は国で天皇から御下賜金として与えられたものだった。それは昭和十年のことだったから新しいのである。
飢饉とかに備えて米などを貯えておく倉である。それは江戸時代から全国にあった。
それを自分でもただ地名に興味をもっているから関心をもった。
でも今回は原発事故とかで避難したとき外から食糧でも入ってこなかった。
二週間くらい入ってこなかった。ただこの時原町区は30キロ圏内であり避難命令が出たので外に出た、鹿島区は30キロ圏外であったが半分は避難した。

自分は親を介護していることもあるし避難命令は出ていないので残った。鹿島区でも半分は外に避難した。そこで一週間くらいは米があったので梅干しとかもしりノリもあってしのいだ。でも米もなくなったとき鹿島区では古米が支給されたのである。
それで助かったのである。そのあとは相馬市ではスーパ-が開いた、でもガソリンがなくて車を使えない状態がつづいた。、自分は自転車で相馬市まで買い物に行った、その時から買い物できたので楽になったのである。
こういう経験をしたので郷倉というのを具体的に身近なもの生活に必要なものとして理解した。倉はないにしろ古米が貯えられていたから配られたのである。

こういうことで郷土のことを意識する、でも現代はグローバル経済になったとき常に意識しているのは近くのことではなくなったのである。
戦後十年は子供のときは家には裸電球一つしか使っていない、電器製品はなにもない、炬燵もない、炭であり囲炉裏があった。それは町内でもそうだった。
電気が通っていたとしても電信柱があったとしても電信柱が賢治の童話で人間に見ていたようにめずらしいものだった。道はほとんど舗装されていない、もちろん車もない時代である。水道もない時代である。今からするとそういう時代の経験は不思議だなとなる

それから高度成長時代となり急速に変わったのである。エネルギーは石油の時代になった石油は中東などから運ばれる、するとそこですでにグローバル経済にいやおうなくまきこまれる、石油の値段が一大関心事になり中東の戦争で石油が入らなくなるとか石油ショックとかあったそれでトイレットヘーパーをかいためたときがあったのである。
もう炭などは使わないから地元のことよりはるか遠くの中東の方が心配になる。
もうどんな田舎だろうが石油が必要であり電気は石油から作られているし石油であらゆるものが作られるというとき石油なしで生活が成り立たないからそうなる
当然そうなると地域のことより中東の情勢とかの方に関心が向くのである。
グローバル経済はとんな辺鄙な田舎でもその中に組み入れられているのである。
それは石油を例にした他でもそうなる、原発もまた電気を作るから原発が大事になっていた。実際に双葉とか大熊は東電の会社員のようになっていたのである。
多国籍企業時代というときまさに巨大企業に地域がのみこまれるのである。

石油が大事だというとき石油をどうして買いるのか?それは日本が高度成長時代は電化製品をテレビでも何でも売ることによって得られた、石油はドルでしか買うことができないようになっていつたからアメリカに売ることによって高い石油を買うことができたのである。
そうなると炭をエネルギーとした時代とは余りにも違っている、石油を買うには電化製品を車を売る、日本の技術の発展が望まれる、そうなるとそうした技術が重要になり農業などの第一次産業は低いものと見られるようになった。
田舎でも一割にも満たない生産しか農業にはない、漁業も同じだった。
別に株をやらなくても誰でもグローバル経済の中に組み入れられていて多国籍企業化した中で生活しているのである。
その一番わかりやすいのが石油なのである。

だから何か郷土というとき郷土史でもマイナーな好事家がしているようなものになる。
それは現実の生活と結びつかないからそうなる、関心がもてないのである。
でも津波のことでも郷土史というのが実は現実と結びついていたことに驚いたのである。400年前にここにも津波がきて700人溺死と記録されていたからである。
ただそれは二行くらいでありほとんどの人は知らなかった、今回の津波で知っただけなのである。そういう重要なことが見逃されていたということはなぜなのか?
人間の関心がグローバル化して外に外に向かうようになったからである。
それで肝心の地元のことが忘れられていたともなる。
テレビでも話題にするのは東京とか世界のことであり関心は常に外に向かうようになっているのが現代である。
インターネットで地域とかマイナーな話題を取り上げるようになったのは変わったことではあった。
でも常に関心はグローバル化しているから地域のことは現実と結びつかないから関心がないとなる。

みんな会社人間だったら当然会社から給料をもらい生活しているのだから会社が一番大事になる。会社が成長している、もうければ給料も良くなると働くからである。
グローバル化とは多国籍企業が支配する社会であり国が支配する社会とも違うのである。多国籍企業はグローバルに事業を展開してそれに国が政府が追随しているという関係にもなっている。それはアメリカでも日本でも世界的にそうなっている。
そこでは地域とか郷土とかは情報的にも意識されない、常に意識されるのは世界のことである。
大統領選挙が今の世界的話題になったのもそうである。それがどこでも世界的に密接に関係しているからである。
だから深野の豪倉のことを取り上げてもそこに住んでいる人すら関心がないとなる。

こういうことも何か人間の生活として歪みをもたらす、精神的にも人間の生活はその住んでいる場所からアイディンティティを形成してゆくのが順序である。
ヨーロッパのゴシック建築がドイツの森も模ししているときもそうである。文化はその土地と密接に結びついて生まれている。
グローバル経済はその土地から切り離されたものとして働く、そして金が唯一の価値となる。金で買えないものはないつとか世界でなるのがグローバル経済である。
グローバル文化というのはありえないのである。
インターネットで抽象画を外国のものを参照にしているときそういうものは一部にあっても一つのルネサンスのような文化は興らないのである。

なぜこの辺が原発事故で住めなくなるような状態なったのか?
それは炭をエネルギーとした時代から急速に電気の時代に移ったためである。
石油の時代となり原子力の時代になったためである。
みんな郷土の一員より会社の多国籍企業一員となったとき、郷土愛より会社愛になる。
常に思っているのは会社のことであり郷土のことではないからだ。
ヤクルトが地域密着型として一軒一軒回っているとしても今度テレビ放送するから見てくださいとか会社の宣伝になる。深野に住んでいたとしても地元のことには関心がないとなる、それは今はみんな会社員だから会社のことを第一に考えるから当然だとなる。
でも古米が配られて助かったというとき故郷意識をもった。
しかしこういうことは今はまれである。
復興にしても三陸でも復興したというとき漁業で生活する他ないから明治の津波でも一万人も死んだというときも便利な海沿いで生活をはじめたのである。
魚や海産物をとって生活す他ないからそうなった。今はそういうところでも会社が中心になればそうならない、それて外に人が流出して復興できなくなる
そういうグローバル経済とかの矛盾がここに津波や原発事故で顕著に現れたのである。


深野の豪倉(郷倉)は昭和十年時代のものだった

(緊急時とか飢饉の備えとして昭和に国からの意向で設置)


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2016年11月02日

鹿島駅でいわきの人と語る (市町村合併でかえって地域の特色が消えた)


秋の暮(鹿島駅でいわきの人と語る)


(市町村合併でかえって地域の特色が消えた)


1966年(昭和41年)10月1日 - 新産業都市建設促進法第23条に則って、上記14市町村(5市4町5村)が新設合併し、いわき市が成立[5]。当時としては面積が日本一広い市となった。
1973年(昭和48年)3月20日 - 現在の市役所本庁舎開庁。市の花ツツジ制定。
1976年(昭和51年) 常磐炭鉱完全閉山。
1979年(昭和54年)4月23日 - 「いわきナンバー」の交付開始。自動車のナンバープレートとしては初のひらがなナンバーとなる。

鹿島駅に今日いたのは酔っぱらいだった、何か寝ていて警察に連れてこられたとか、除染している人で喧嘩してやめて帰ると言っていた。いわきの会社で働いていて今は水戸に住んでいるという、水戸は電気代とか高いと言っていた。
60近い人だからそれなりの人生を経験している、会社は二回倒産した。でもかなりの給料をもらっていた。鹿島駅は水戸からきたJRの社員が何か直していた。
新地までは水戸管轄であるというのも知らなかった。仙台だと思っていたのである。

その人はいわきナンバーが発行されたとき取得した。それは1979本であり30年前とかなるいわきナンバーは浪江、双葉、大熊もいわきナンバーである。
いわきナンバーというとき外から嫌われることがあるだろう。第一福島ナンバーでも傷つけられたとか聞いたからである。
いわきナンバーになったのは30年前とかなるとずいぶん古いとなる
いわき市が成立したのが50年もすぎているのか?そんなに長いのか?

なんか以前としていわきより平というのがなじみがある、その人も平のことを言っていたから人間の感覚は地名でもなじむのには相当な時間がかかるのである。
いわきというひらがながなじめない、磐城の方が何か重みがあるというときもともと磐城国が古代からあったためだろう。磐城太田という駅名もそうである。相馬でも磐城国になっていたからである。
市町村合併は明治でも大々的に行われ複雑化した。
昭和の市町村合併でも南相馬市が鹿島と原町と小高が合併して成ったがこれも何か未だになじみがない、地名はもともと古い、千年前とか古代からのが多いからそうなる
地名になじむの百年とかかかるかもしれない。

そして前にも書いたけど廃藩置県になったときその地域の特色が喪失した。
福島県は広すぎるのである。気候でも会津と中通りと浜通りも違っている。
会津は冬は雪に埋もれるけど浜通りは雪はほとんどふらない、あたたかい海洋性気候なのである。
要するに今だって福島県というより会津は会津で地域性があり全国でも通っている
つまり廃藩置県はかえって地域の地理とか歴史とか風土を無視して人工的に境界を無理やり作ったからそうなった。
そもそも地域の特色を出すのに県単位だと広いし無理があったのである。
福島県でも広すぎてアイディンティティを作ることがむずかしいのである。
会津は福島県では別の世界であり古代から一つの国だったのである。
そういう地理とか歴史性を無視したのが廃藩置県だったのである。

いわきの花がつつじなのか?つつじというと双葉駅がつつじが咲いていた。それは有名だった。でも今は見ることができない、双葉とか大熊とか原発のあったところは鉄道が開通するのはいつになるのか?
仙台までは12月に開通するからそれで交通面では復興したとなる、いわき方面はもともと二両の電車でありこの辺ではいわきより仙台との交流が深かったのである。
福島市は鉄道がないし阿武隈高原にさえぎられて不便だったからである。
仙台まで通じればさらに全国に鉄道が通じるから復興になる。

ともかくいわきというひらがなもなにか古代からの歴史を無視している。何か重みがないわかりやすくしたとしてもひらがなになると重みが感じられない、磐城というのは何か重みがあった。
いわきは広くなりすぎたのである。それで地域地域の歴史や風土が外からかえってわかりにくくなったのである。そういうこと市町村合併でどこでも起きたことである。

いわきは相馬から近いのだけど何か遠いという感じにもなる、いつわきはむしろ何か東京に近いともなる,なぜなら普通車両で上野まで行く電車があるからだ。
いわきに行くと何か東京も近いと感じる、その電車は上野までの通勤列車だからである
その通勤電車にのって上野まで行ったことがあるからだ。

何か鹿島駅は無人駅だけど外からの人がよる場所である。そこで全国の人と話すると面白いとかなるがみんなが話できるとは限らない、いろいろな人がいるからだ。
でも自分は全国を旅しているから話を合わせることができる、いわきだと福島県だから当然だが函館の人となると自分が住んでいる場所のように地理もわかるから話できる。
でもその人とは深い話はできなかった。

その人は原町の無線塔のことを知っていた、60近くだと知っている、あれも壊されてすでに30年40年も過ぎているだろう。あれは原町のシンボルだったのである。
ともかく60歳くらいにな知れば昔を語り人生を生きたともなる。
あの人の人生がどういうものだったのか二つの会社に勤めたことが人生だったとなるのか?会社人間だったとなる。それが今の人の普通の人生である。

駅舎にて昔を語る人なれやいわきの人と秋のくれかな
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2016年10月26日

深野の豪倉(郷倉)は昭和十年時代のものだった (緊急時とか飢饉の備えとして昭和に国からの意向で設置)


深野の豪倉(郷倉)は昭和十年時代のものだった


(緊急時とか飢饉の備えとして昭和に国からの意向で設置)


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  昔から瀬名は「瀬名千石米どころ」といわれ、田と畑だけの緑豊かな農村でした。
    江戸時代、領主に納める年貢米を保管したり、凶作に備えての貯穀、災害飢饉への備蓄米の非常救済や
    貸し付け米を保存するため大変重要な倉として建てられたのが「郷 倉」(郷は村・里をあらわす)です。
    また、「御蔵」「御倉」(ごぐら)とも呼ばれていました。
    隣にある付属番屋は、盗難や風水害から郷倉を守る常駐の蔵番(番人)をおいていました。
    時には村の会議所でもありました。
    
昭和9年に東北地方を襲った大凶作の際、心を痛めた天皇が下賜した救援資金に、国費と義捐金を合わせて建設されたとのこと。幸生の村民は、天皇の御恩と国民の同情に報いると同時に、自ら凶作に備えるため、共同で「報恩備荒田」を開発したとも記されています。http://www.jafore.org/blog/archives/2008/01/okura.html



今なぜこの郷倉に注目したのかというとこの辺の津浪や原発事故でこの辺が様々な苦難を強いられたためである。それはここだけではない、津浪の被害は東北の海岸線に大被害をもたらした。一時は外から物資が入らず困窮した。停電して水道も断たれた所も多々あった。その時、裏山の水を利用して薪を利用して煮炊きをして難を逃れた人たちがいた。
水も老人が歩いて運んでいたのである。車もガソリンがないと動かなくなるからだ。

南相馬市では市長がyutubeで外から物資が入らないと訴えて世界中で有名になったのは知られている。原発事故で放射能を一時恐れられて車で入って来なくなったのだ。
車社会でも災害時は役に立たなくなることが証明された。ガソリン不足はその後も一カ月くらいつづいたからだ。その時貯えてあるもので生活する他なかった。

自分の家では二週間分くらいの米が偶然にあったので電気も通っていたので煮炊きできた。ガスもあったから料理もできた。ただノリがあったのでオカズはそれくらいだった。
でも米さえあれば二週間くらいはしのげるものだと思った。
それでも電気とか水道が断たれればどうしていいかわからなくなったろう。
その後米はなくなったがその時鹿島区では古米が配られたのである。
その時助かったなと思った。米も切れていたし買うこともできなくなっていたからだ。
その後相馬市の方はスーバーもはじまり自転車で買いに行き楽になった。
その時はまだ車はガソリン不足で苦労していた。


現代のような便利な社会はかえって災害には弱い、電気や水道がたたればお手上げになる。でも災害時にはそうなるのが見えている。だから燃料の備蓄用として電気やガソリンや石油は使えないから危険なのである。むしろ薪とか炭とかを用意していなければならないかもしれない、そのことから一体農業とかでも減反政策とかでやる気がなくなり衰退産業になった。でも農林漁業のもっている意味はそれだけでなかった。
現代社会でもそれは郷倉の意味があったのである。
緊急時に災害に備えるものとしての意味があった。
国全体でも緊急時のために戦争でもあれば食料は入ってこないから備える必要がある。
そういうものとして農業などを保護してきたのである。
つまり現代では農林漁業などのもっている意味は価値は別なものとなっていたのである。

その時金より郷倉に貯えてある古米でも命をつなぐことができた。金を貯えていても何の役にもたたない状態だったのである。それは東京辺りでもそうなる。金がいくらあっても緊急時には役たたない、現物の方が価値がでてくる。だからそういうときは米があれば金がある人は金をいくらだしても買うとかなる。でなければ飢え死にしてしまうからである
郷倉と現代社会 (緊急時の備蓄機能として維持されるべき農林漁業の見直し)


深野にある、豪倉というバス停の地名が気になっていた。それと郷倉という知識はあっただから江戸時代からあったものかと思っていた。だいたい地名は古代にさかのぼり古いのが多いからである。
でも深野とかこの辺の郷倉は昭和以降のものであり昭和にまであったから新しいのであるだから意外だった。

郷倉は「恩賜豪倉」をさし救荒備蓄米を貯える村落の公共施設である。
昭和十年(1935)村議会でこのことが議案になった。
「昭和9年東北凶作に対して畏くも御下賜金の恩命を拝して・・」とある。

石神村の馬場と大原と押釜に設置された。深野は別にまた一棟作られた。
これはその地区のものだけではなく共同でも使用された。
深野だけは一地区で利用された。(原町市史)

深野の豪倉という地名は昭和になって地名化したのである。昭和になってから地名化するのはめずらしい。地名は江戸時代より古いのが多いからである。
ここで恩賜豪倉となっていて天皇から賜ったものとしてあるのもそういうことがあったのかと違和感があった。今なら政府の援助であり天皇から賜るということがないからだ。
そこに戦前と戦後の相違がある。戦争もやはり天皇が現人神(アラヒトカミ)とされていたからである。それは精神的なものだけでなく現実に天皇から賜るということでより身近なものとして意識されたのである。

今は豪倉とあってもそこに郷倉はない、でも地名化しているから必ず意識するのである。地名からだけ意識することが何か地理でも歴史でも多い、現実の建物などはなくなりやすいけど地名は残るからである。取手というとき砦(とりで)であったし地名からその地をイメージするのである。
鉄道の旅だとなぜか地名だけを記憶しているのが多い、辺りの景色は記憶されていないのである。

ともかく豪倉は郷倉であり昭和でもその役目があり作られた、それは政府の意向で政策でも作られていたのである。今なら備蓄することでありそれはどこでもしている。
ただ今回の津波と震災の経験では二週間くらい食糧も物資も入ってこなかったのである。一週間くらい米があったので食べていたがきれた。その時古米が配給されて助かったのである。それはまさに郷倉と同じことが成されたということである。
その時いくら金があっても何にもならない、なぜなら金があっても物は買えないからである。その時はいくら金があっても貯えても何の用にもならなかったのである。

ただ昔と現代の相違は一二週間でも蓄えがあり耐えられれば物資は外から入ってくる
その二週間くらいが問題なのである。水も食糧もないとなると耐えられなくなる
長期的なものではなくその短い期間をいかに耐え忍ぶかにある。
現代の盲点は交通が断たれると致命的になるのである。
だからガソリンが入らなくて車が延々とガソリンを得るために並んでいたのである。
車も役にたたなかったのである。そして自分は二週間過ぎてくらいから相馬市に自転車で買い物できたので助かったのである。
タグ:豪倉(郷倉)
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2016年10月01日

明治維新は何であったのか? (廃藩置県で藩と侍をなくすことが最後の目的になった)


明治維新は何であったのか?


(廃藩置県で藩と侍をなくすことが最後の目的になった)


明治維新はわかりにくい、様々な説がある。
明治維新の画期的なことは廃藩置県である。
藩ごとに国が分割されていて藩同士は敵対していた。
戦国時代に城が築かれて城下町ができたけど敵に攻められないように作られていた
隣の藩で敵である。だから飢饉があっても隣の藩でも協力しないのである。
相馬藩では天明の飢饉でも伊達藩は協力しないが相馬藩内では協力した。
飯館村が山中郷が飢饉のときは相馬藩内で援助している。

明治維新は何か国家理念などもない、藩同士の利権争い、権力闘争だった。
薩摩と長州は背後にイギリスとかと結びそれぞれに幕府を倒そうとしていたのだ。
つまり薩摩の西郷はあとでわかるように西南戦争を起こしたように薩摩藩を維持するために死んだのである。
だから明治維新の目的がなんだったのか?西郷にすれば薩摩藩や侍は消えてはならないものだったのである。

会津は会津で会津藩を維持しようとして蝦夷地をプロイセンに売り幕府と会津藩を維持しようとしていたのである。外国勢力と結びつかないと戦いないからそうなった。
つまり江戸時代は藩から脱してものを考える思想をもちにくかった。
だから藩単位でみんな動いていた。藩が優先していたのである。
だからこそ薩摩長州が同盟することは大きなことでありありえないことであり歴史を動かしたのである。東北列藩同盟もうまくいかてかったのもそのためである。
藩は敵同士だから当然そうなった。

なぜ坂本龍馬が英雄になったのか?それはグラバー邸の武器商人としてであっても薩摩と長州を結びつけたとされるからである。江戸時代だと敵対する藩同士を結びつけることは最高にむずかしいことだったのである。
それぞれの藩内の道すらその藩主の許可がないと通行できないのである。
そういう藩中心の世界であるとき薩摩長州が同盟することになり日本を変えたのである。
まず西欧列強に日本が対抗するときとても藩があってはできない、日本が一丸となって西欧に列強に立ち向かうことはできないのである。
廃藩置県を実行して天皇中心の中央集権体制ができたとき西欧列強に立ち向かうことができた。
だから西南戦争では会津藩の侍が参戦して国民軍として西郷軍と戦っているのである。
西南戦争で侍はなくなったのである。その時国民になり国民皆兵になったのである。

明治維新は今になといろいろな見方が生まれている、でも幕府が継続していたらどうなったのか?廃藩置県は実行できたのか?
明治維新を成し遂げた方でも西郷のような人物が出てくるとしたら藩をなくすことは最大の障壁となったろう。それが幕府でできたのかという疑問である。

幕臣であった人たちは薩摩長州による政権に不満だった。それもわかる。テロリスト集団が政権を握ったというのもわかる。実質の政権など運営できないというのもわかる。
ではどうして幕府が藩をなくし侍をなくして強力な中央集権国家を作りあげることができたのか?

幕臣には相当に優秀な人がいた、その人たちは明治以降重要な役職にも抜擢されている。榎本 武揚などがそうである。内村鑑三などもそうである。優秀な人材は幕臣から輩出している。だから別に幕府で廃藩置県できるならそれでも良かった。
だから大きな疑問は幕府が廃藩置県をして侍階級をなくすことができたのかが議論にもなる
その前の薩摩長州や幕府を倒した維新の志士はテロリストだとしても幕府が藩を廃止して侍をなくすことが自らできたのか?
会津だったらあれだけ藩に忠誠を誓い白虎隊のように城が燃えたから自刀としてゆくような強烈な藩への主君への忠誠心があるものを廃止できるか?
西南の戦争自体がそれを如実に語っているのである。

明治維新を議論するときここが肝心な所ではないか?
いろいろあっても明治維新は最初は藩同士の権力闘争であり国家理念などない、だからこそ西南戦争が起きた。幕府を倒してもやはり藩を維持するのが侍であった。
幕府が継続してもそれは同じであり廃藩置県はできなかったのではないか?
西郷であれ会津であれ藩と侍の維持には命をかけてくるからである。

明治維新は最初は西郷に象徴するようにただ倒幕の藩による政権交代の戦いだった。
吉田松陰とかに何か国家理念などもちえようがないのである。
高杉晋作にしてもそうである。幕府を倒すということが先決でありそのあとの政権構想国家構想などありえないのである。何か思想というものに基づいての行動ではない。
まずその時藩を廃止するとか侍がなくなるなど想像もできなかったろう。
とても未来の国家のイメージなどもちえなかったのである。
高杉晋作の奇兵隊に参加した庶民もただ幕府を倒して自分たちが権力をにぎり支配者になれるということで参加したのである。
そして伊藤博文が初代の首相になったのである。

そういう人は今でも野党系統にいる、創価でもそういう野心家が入ってきている。
政権をとれば地位でも金も入るとなり活動する。政治活動がすべてになっていることでもわかる。それは宗教とはあまりにも反したものなのである。
カルト宗教団体になるとそこに入っている人の思惑はあまりにも多様であり複雑すぎるのである。それはどこの団体でも同じなのである。
だから何か人間が革命などというときそこには様々な思惑が入り乱れるのである。
まず純粋に思想的に殉じるなどという人はまれだろう。何か利権とか栄達とかを考える
それは中国の共産政権ともにないる、ただ共産主義の理念があっても結局権力闘争でありあとは共産党幹部の王朝となって腐敗したのとにている。
理念などあっても人間の欲が勝るから実行できないのである。

ただ廃藩置県とかでもすべてはいいとはならなかった。武士の伝統的な精神文化も失われた。地域地域の文化も失われた。地方地方に培う文化がありそれで人も育つ、それが国家一色になってしまったのである。
でも廃藩置県がなかったらとても西欧列強には太刀打ちできないから植民地化されたりしたことはまちがいない、西南戦争が内戦であったようにさらに大きな内戦の混乱で日本は疲弊したからである。

いづれにしろ明治維新は今になるとタブーとされるものが解放されていろいろ議論になるフログではなかなか議論ができない、一方的発言で終わる
でも議論すれば相手であれ自分であれ弱点が攻めれて論点が明確になることは確かであるそれがフログの問題点ではある。

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2016年09月19日

希薄化した国家への意識、喪失した愛国心 (愛国心の基は郷土愛)

希薄化した国家への意識、喪失した愛国心


(愛国心の基は郷土愛)


明治維新から太平洋戦争までは国家中心の社会だった。だから愛国心を説くまでもなく日本人は愛国心をもっていたのである。
その愛国心は対外的に欧米列強に対抗するために愛国心が天皇中心に盛り上がり形成された。愛国心とか国に誇りを感じるのは対外的に形成される
第一江戸時代には愛国心がない、封建制であり藩中心の社会だから日本国自体意識しようがないのである。
ただ参勤交代などで江戸に出れば全国から藩の侍が集まるのだからそこに交流が生れたがあくまでも藩を越えた交流は生れない、藩同士で協力するということはないのが封建時代である、もともと戦国時代には藩同士が戦争していたのだから殺し合ってもいたのだから仲良くできないのである。常に敵であったし城や城下町の作りは常に敵に備えるように作られていたのである。

相馬藩が飢饉になったとき相馬藩内では協力している応援もしている
飯館村は高地であり寒冷地だから相馬藩内では飢饉になったとき応援して援助しているが伊達藩は何も援助しないのである。
だからこれだけ全国的に何か災害があったりすると協力しているのはありえないことだったのである。
ただ熊本県では東日本震災で東北は地震があるから危険であり会社は熊本県は地震がないから安全だから来てくださいと宣伝していたことが今回の地震で批判されたのである。
でも江戸時代だったらそれは普通のことだったのである。もともと敵国なのだから敵国が不利になるのは力がそがれるのは有利になるからである。
それで明治維新のとき薩摩長州の同盟によって江戸幕府が倒されたがいかに藩同士が同盟することがむずかしいかを証明していたのである。
江戸時代は藩は敵対していて協力関係にないからである。

だから江戸時代までは日本国の意識は希薄だった、日本国があるとしても庶民レベルで俺は日本人だという意識している人はまれだろう。俺は日本人だというとき外国人がいて日本人だと意識するけど鎖国していたら外国人もいないのだから日本人として意識しようもないのである。
人間の歴史をさかのぼれば愛国心というけど最初は極めて狭い範囲内で自己を意識していた。それはトーテム信仰となった部族意識である。
俺は犬族だとか猿族だとか熊族だとかなる、部族意識は国意識になっていた。
その部族同士が争っていたのである。それは日本でも同じだった、だから邪馬台国とか日本最初の国家が生れたということは相当な歳月を要したしそこに日本の原点があるということでそこがどこにあったとか詮索しつづけているのである。
日本の国家が実質的に形成されたのは蝦夷との戦いでありそれは大規模な戦いであり
それは西と東の戦争でもあった。なぜなら征夷大将軍というときそれは蝦夷との戦いに由来しているからである。この蝦夷は謎であり物部氏を中心として渡来人がいて手ごわいものとなった。それは日本を二分する戦いでもあったのである。

その時大和朝廷が生れていた。その大和というときそれはヤマトという山の戸口という意味の奈良の一地域だったのである。その一地域から大和という国が生れたのである。
だから国というとき何かというときそもそも日本全国を国として意識していないしできない、交通も発達していないから庶民レベルでは大きな国は意識できない、
明治になってから鉄道ができて日本国を意識しはじめたというのもそのためである。
関所もなくなり日本全国を行き来できることになり日本という国を藩から脱して意識するようになった。
それから日本は日清日露太平洋戦争と外国で戦争することで日本人を意識するようになった。戦争のときはやはり一番日本人を意識する、なぜなら日本のために戦い死ぬのだから当然だとなる、そういうことは戦争でしかありえないことである。
だからいろいろあっても戦争では一番愛国心とか国家意識が命かけているのだから燃え上がる、つまり民族としての同胞意識が最高潮になる、これは戦争を経験した人でないと理解できない、戦友というときそれは50年過ぎてもでも忘れられないものとして強い絆があった。

それが戦争に負けた結果、今度は一転して国家意識が否定され希薄化されて君が代すら否定される,天皇すら否定される、その変化の仕方があまりもに大きかった。
日本は敗戦によりアメリカに支配され属国化された、それは今でも継続している
アメリカには逆らえない、実質の支配者はアメリカだとなっている。
原発もそうだったのである。原発はアメリカしか知らないものがある、原発の技術はアメリカが握っていて日本人は知らないという、その証拠が原子力空母である
あの技術は最高のものであり日本人には作れないということでも証明されている
肝心の一番重要な原発のこと核のことは日本人の技術者は知らないというのである。
そしてアメリカの日本支配のためにアメリカはそれを教えないという。
日本敵国だらか教えないという、政治も経済も戦後は以前としてアメリカの支配にある
そして結果的には日本の独立はない、独立国として何もすることができない
インドも中国も北朝鮮すら独立国だが日本は独立国ではない、アメリカの属国してしか存在し得ない、原発がやめられないのはアメリカの核政策がありそれに従わねばならないからである。

日本の愛国心は明治維新から太平洋戦争のときは強固にあったのである。
それは庶民のレベルでもあった。挙国一致体制になっていたのである。
それが戦争に負けた結果そうした愛国心は失われた。
それに変わるものとして日本の誇りは何になったのか?
経済成長と技術で誇ることだったのである。だから戦後は団塊の世代でも企業戦士となり会社人間となり猛烈に働きアメリカに物質的に追いついたのである。
日本が誇ると言うとき何か戦前とは違う、高度成長のときはソニーの製品だとか今でもトヨタの車は技術的に世界で優れているとか売れているとかが自慢になる
日本はノーベル賞をいくつもとっているがアジアでは日本だけだとかが自慢になっているのだ。そして原発だって日本の技術が優秀だからと言われてきたのである。
原発に関してはアメリカに及ぶものではなかったのである。
戦後の日本人の誇りは戦前とは違う、国家意識というのは喪失した。

愛国心というとき誰でも日本が誇りだというときニートのネットウヨでももてるのであるそれより日本国内でも評価するというとき職業による方が多い、第一愛国心は何かに優れていなくてももてるからである。
でも優れた職業人には誰もなれないのである。大工だって職人だって優れた人には簡単になれないのである。簡単なようでみんな優れたものになれない、必ずどこでも不適応者がいて人間には差が生れているのである。
外国でも日本人だということは意識されるが「あなたのプロフェショナル(職業)なるは何ですか問われる、医者だとか言えばグローバルに能力の高いものとして尊敬されることになる、あなたは何人かよりグローバル化するとき何に対してプロなのかとはいうことが問われ誇りになるのである。
そしてグローバル化は多国籍企業でありますます企業の方が国家より世界で認識されるものとなる、ソニーとかグーグルとかアップルとかの会社員だとか言うと何人より凄いなとなってしまう社会なのである。
グローバル化は国家意識を希薄化させているからこれは世界的な共通なものなのである。
何か愛国心を強調するのもわかるのだがグローバル化した社会では容認されないものがある。そもそも愛国精神というけどそれが何なのか?
愛社精神なら生活がかかっているのだから庶民レベルでは具体的でありもっている
でも一方で郷土愛というときこれも希薄化しているのである。
なぜなら郷土愛というのも仕事自体が郷土の中でだけあるものではない、広域化してグローバル化している、グローバルに品物も入ってくるし地震で瓦が壊れたけど直したのは磐城の会社だったし今度風呂場が壊れたので直してもらうのは仙台の会社だったり復興住宅で驚くのはなぜ佐賀県から札幌とかのナンバーがあり全国の人がかかわり仕事している
地元の人だけではもう人手もないし技術もないから作れないのである。
建て売り住宅でも地元の人は大工でもかかわらないとなる

自分の家は橲原(じさばら)に同級生のキコリがいてその人が材料を提供してくれたのである、すると何か故郷を意識するのである、今は材料すら外材が多いのだからそういう意識もないのである。

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

右は、聞かく「左大臣長屋王(ながやのおほきみ)の佐保の宅(いへ)に御在(いでま)せる肆宴(とよのあかり)の御製(おほみうた)なり」といへり。

これとにていて何か郷土に生きる誇りがここに生れていた。それはその土地でとれたもので作ったからこそなのである。


グローバル化すると広域化すると故郷意識、愛郷心も希薄化するのである。
今回の震災で原発事故でも復興の仕事に携わったのは外部から来た人たちなのである。
地元の人は何していたかというと補償金でパチンコ屋通いでありギャンブルで遊んでいただけなのである。
だからこういう社会の変化もあり簡単に若い人は外に流出したということもある
故郷に愛着するのは老人はそうだがこういう広域化グローバル化社会ではそうはならない浪江の人は会社が二本松に移動して家族も移動したとなるからだ

自分は郷土史を探求してきたからそこから自然と歴史を合わせて郷土愛というのが生れた自然とのアイディティテイを形成してきた。でも普通は今は会社員なのだから愛社精神はあっても郷土愛というのはもてるのかとなる。
郷土愛というのは何に基づいているのかというのも明確ではない、歴史というとき親が生きた地であり先祖が生きた地でありまた自然がありその自然とアイディンティティ化するそれが郷土愛となる、海であれ山であれ樹であり石であり岩であれそういう自然と一体化するとき郷土愛が生れる、また郷土で共に働くということで郷土愛が生れる、それが郷土芸能とかここでは野馬追い祭りとかなる
早乙女の田植え踊りとか祭りも村の人たちが共同で働くから生れたのである。それは農業中心の社会だったからそうなった。
でも実際の生活は現代では会社中心であり郷土に根ざすものは少ないのである。
愛国心は大和という国が生れたときもともとは一地域であり郷土愛だったのである。

やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし

そういう美しい自然がありそこにまほろばがありそれは郷土愛であり国家意識とはまた違っている、国家意識というとき外国に対して強い優れいてるとかが強調されるからであるそれはまた郷土愛とは別物なのである。
だから国家を意識する愛国心というのはグローバル化社会では希薄化する、会社社会になると競うのはいい製品を作るとか会社自体を繁栄させることであり国家を繁栄させるのとも違うからである。
ただ会社とかグローバルの多国籍企業の問題は車なら車を作るだけでありそれは自然とは関係ないとか歴史とも関係ないとか全体の一部のことでありそこだけを取り上げたら日本はトヨタの会社となり地方でも部品工場になってしまうのである。
郷土というとき狭い地域でも全体のことであり一部のことではないのである。
もう原発事故では双葉とか大熊とかは明らかに東電の会社の一部となり社員化していたのである。あれだけ大きな会社だったとは知らなかったからである。
それだけ今の企業は巨大化して郷土すらのみこむものとなっていたのである。
そのことが結局郷土自体を破壊してしまったのである。

そもそも東京などでは東京を愛するなどありえるのか?あのようなマンモス都市を愛せるものなのか、そこには郷土もなにもない,第一土すらないのだから郷土という感覚もないそこに自然の美しさもない、そこに育まれるのは何なのか?
会社化した部品化した人間しか育たないだろう。そもそも一千万の大都会となると世界でも何かアイディンティティをもつことは不可能である。
江戸時代の江戸は百万都市でも回りに自然があり富士山が美しく映えていたのである。
それは浮世絵を見ればわかる、江戸にはまだ自然の中にあったのである。
戦前でもまだ自然が残っていて愛郷心もあったしその愛郷心が愛国心となっていることもあった。愛国心の基は愛郷心なのである。それがこの歌に如実に示されているのである。

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2016年08月24日

地方の神社に必ずある忠魂碑の疑問 (靖国神社と深くかかわっているー国家とは何なのか?)


地方の神社に必ずある忠魂碑の疑問


(靖国神社と深くかかわっているー国家とは何なのか?)


国民は、国家が国民として認めた者をいう。国民であるかないかは、国家権力が決めた法定義によって定まる。
国民は、国家権力によって国家権力が必要と認めた権利と義務を与えられる。
たとえ、国内居住する者でも国家権力によって国民として認知されていない者は、国民として扱われない。異邦人である。当然、国民としての権利も義務も保障されていない。


江戸時代は諸侯の領地ごとに、独自の法律・通貨(と言い切っていいかは疑問だが)・軍隊を所有していました。
外国人は諸侯を「KING」と呼んでいました。これは、諸侯がその地域で王権を確立していると、判断されていたからです。
同じく「EMPEROR」と呼ばれた将軍は、大名領には警察権を及ばすことはなく、各地の自主性は最大限尊重されたのです。

国家とか国民というのは明治以降近代化して生れた概念である。だから国家国民というけどそれは新しい概念だから理解しにくいものである。
封建時代は君主制であり君主に忠誠を誓う体制でありそれぞれの藩が国家と言えた。
それぞれの藩が税金でも法律でも自ら施行して独立していたからである。
その時は侍が支配層でありその下に農民がいて商人がいて職人がいて庶民がいた。
実質藩を維持していたのは侍であり侍は君主に忠誠を誓っていたのである。

それが明治時代になったとき国家とか国民という概念が生れた。どうして国民が日本国民として意識するようになったのか?
それは西南戦争の時だった。西郷隆盛が侍階級を維持しようとして政府軍と戦った
旧勢力を侍を維持しようとしたから廃藩置県に反対だったのである。
その時会津では薩摩長州軍に敗れて悲惨な結果となった。ところがその敗れた会津の兵士が西南戦争で政府軍に入り活躍したのである。相手はもともと侍だから戦争には強い
国民軍は素人だからかなわないところがあった。その中にかつて会津藩に属した侍がいて参戦したから強い味方となった。その時会津藩士でもなく政府軍国民軍になっていたのである。国民軍も素人の集団だったがだんだん国民軍としてこの時意識するようになったのである。そして侍にはかなわないと思っていたが国民軍でも戦えるという自信をこの戦いでもつようになったのである。この時日本国民として意識するようになったのである。
明治になってもその戸籍には士族と平民は分けられていたけど実質は国民となり国民兵となって日本国を守るものとなっていった。
それは明治維新の長州とかでも奇兵隊で侍でないものが農民でも商人でも兵隊として参加していたことから始まっていた。
戦国時代でも強固な主従関係が生れたのも戦争があったからである。
そこでは生死をともにするのだから身分の差があっても命懸けなのだから主従が一体となった。

日本国民として意識するようになったのも戦争でありその他ではなかなか日本国民として意識しにくいだろう。運命共同体だというときはやはり戦争の時一番意識する
それは日本だけではない他国でもそうである。平和なときでも中国でも韓国でも日本を責めるのはそれで国民としての意識が共同性が一体感が助長されからである。
それはヨーロッパでも封建時代があり騎士がいて城が多いから日本とにている
君主との主従関係が基本にありそれがその土地土地の領地を守り一つの国として維持していたのである。
それは国といっても現代の国民国家とは全く違ったものであり明治以降のヨーロッパでも近代化したあとの国家はルソーの契約国家のように違ったものなのである。
侍が主従の関係が基本にあるというとき日本でも天皇が君主であり主従関係を結び国民は天皇の臣民であり赤子であるとされた。それは侍の江戸時代の価値観を受け継いでいたのである。だから兵隊は太平洋戦争でも侍という感覚ももっていた。

ともかく国家が契約関係だとか国民という観念とういうか概念はなかなかなじめないからもともとあったものをあてはめるし引き継がれるのが人間社会なのである。
日本国民という意識は太平洋戦争で絶頂になり敗戦でその国民意識は否定されて日本国民という意識はなく日本人はアメリカに国防をゆだね経済人になった。
ただひたすら利益をもとめるだけのエコノミックアニマルと世界に高度成長時代に言われた。天皇を無理やり近代国家にもってきたのもそうである。
天皇との主従関係として国家を維持しようとしたのである。
だか明治以降の日本の歴史は何であったのかとなる。それは太平洋戦争が何であったのかとともなり継続された歴史をふりかえることが要求されている

それで靖国神社に祭られている戦死者はをと処遇していいかわからないのである。
日本国民として扱えば日本国家として祭る、一方で靖国神社は私的な宗教団体だというというのも矛盾がある。戦死者は英霊として祭るというときそれは天皇との臣従関係として天皇に忠誠を誓うものとして祀られる、なぜなら明治維新を成した人たちが祀られたのが靖国神社である。西郷隆盛とかの反乱した藩士とか会津藩士とか祀られていないのである。
でもそういう時代が終わり国民の時代になったときでは戦争で死んだ人たちは国家に忠誠を誓い死んだのである。それはまた天皇との臣従関係で忠誠を誓い死んだのだから英霊とされる、それで戦没者の家族は天皇に靖国神社を参拝してもらいたいとなっている
なぜなら臣下が天皇のために国家のために死んだのだから参拝するのが当然だとなる
でも近代国家とか国民になるとそういう宗教的なものはもちこまない、アメリカだったらアメリカのために死んだ人はアーリントン墓地とか国で葬っているが別に日本の英霊とか神として祀ることはないのである。
日本だから明治以降近代的に国民国家になったのだが国家とか国民というものを前近代の封建制からの習慣をひきづっているのである。
だから戦死者をどう対処していいかわからない、英霊とかなるのもそれは天皇と関係してそうなっている。それは国と宗教が一体化しているからである。

「国内には10万世帯を超える軍人遺家族が出現した。日露開戦による国家意識の高まりと遺族の急増によって、戦争中から戦後にかけて、全国各地で戦没者のための記念施設の建設がにわかにさかんとなった。戦没者を郷土の誇りとする宣伝が行きわたり、靖国神社への合祀に呼応して、民間の有志によって招魂社がつくられ、神社、寺院の境内や公園、学校等に招魂碑、忠魂碑、弔魂碑、忠死者碑等の記念碑がぞくぞくと建てられていった。」
−「慰霊と招魂」村上重良 岩波新書−

忠魂碑というのはまさに忠義だとか臣従関係のものである。それは天皇に臣従するということである。天皇が君主だからそうなる。今になるとなぜ神社にこれほど忠魂碑があるのか?それに違和感を感じる、第一その忠魂碑に戦争中のように意義を認める人がいるのか?何かただ過去のものが以前としてあるということでそれに特別な感情を抱いている人がいるだろうか?何か否定的な感情を抱いている人も多いだろう。
そう教育されたからでもあるがこの碑が大事な碑なのだとか教えられてもいないのである第一君が代すら歌わない時代であり教師が左翼系が多いからまたそうなる
自分が碑として注目するのは江戸時代の庶民のものである。日本人は太平洋戦争に負けてその戦争を否定的にとらえている、あの戦争を肯定的になる人は少ないだろう。
だからなぜそもそも一地方の神社にどこでも忠魂碑があるのか?
地方の神社は国家と関係ないということでも議論になった。地方の神社を国家と関係させるようになったのは太平洋戦争からである。これもやはり今になると神社とは何なのかわからないものになっているからだ。
ともかくあまりにも犠牲者が多すぎたからなぜこんなに死なねばならなかったのかということである。そもそもそんなに死ぬ戦争が正しかったのかとなるからだ。
そもそも未だに太平洋戦争が何のために行われたのか日本人自身が総括していない、そこに靖国神社が問題になる。
どういう経過で戦争に突入したのかもわかりにくいのである。

神道と国家神道は違うという、地域の神社が国家と結びつくことはなかった、東照権現は家康を神として祭っているから国家と結びついているものだろう。
他の地域の神社は豊作を祈るとか病気が直るとか国家とは結びついていない
忠魂碑は靖国神社の分化したものともいえる、天皇の臣下として死んだものを記念しているからである。ではその忠魂碑に地元の人でも祭りしたりしない、何か忘れられているのである。でもどういうわけか忠魂碑はどこの神社でもある。それは戦前に建てられたものが継続してあるということである。それは未だに戦争で死んだ人の墓に軍隊の位が刻まれている、それは当時は名誉の戦死だからそうなっている、それを統括したのが靖国神社なのである。戦争で死んだ人は慰霊すべきなことは確かである。

要するに太平洋戦争が何であったのか?それを日本人は歴史的に総括していないから起きている、全面的にあの戦争を意義あるものとして肯定している人たちも右翼には多い
その右傾化が政治家でも増えている、欧米の植民地化に対する抵抗戦争だったとか白人優位を人種差別に抵抗する戦争だったというのもそうである。それも一理ある,日本だけが植民地化されないという特殊性があったからである。アジアでは他は植民地化されたのに日本だけは明治維新でも植民地化されなかったことが特筆すべきだからである。
でもそれはアジア侵略を正当化できものなのかどうかは疑問である。
靖国神社問題はこうして太平洋戦争が何であったのか歴史的に日本人が総括していないから起きている、もし意義あるものなら靖国神社が重要なものとなってゆく、それと並んで地方の神社にある忠魂碑も重要なものとなってゆく

明治維新以降の国家とか国民に天皇をもってきて臣従関係にしたこと自体無理があった。近代国家は江戸時代とは違ったものになったからである。
そういう矛盾を太平洋戦争まで日本はひきづっていたのである。
国民とか国家とはヨーロッパでも近代化して生れたものでありそれまでは日本の封建時代であり国家とか国民という意識はないのである。
だからどうして国家が生れ国民が生れたのか問題になるのである。
なぜ天皇が靖国神社にお参りしないのか?それは近代の明治維新の国家は天皇の臣民としても実際は違ったものになっている。無理やり天皇の臣民にしたからである。
臣下が天皇のために死んだなら当然お参りするのは義務である。それができないということ自体が国家とか国民が天皇の臣下としてありえないものとなっていたから起きているのである。

いづれにしろ国家とか国民はここ二百年くらいに生れた概念である。むしろフランス革命の「自由,平等、博愛」の思想は宗教の束縛や国家を国民を越えるものとして生れた。
それはいかなる国家に属していても人間としての平等の権利をもつとしたからである。
人間を宗教でも人種でも差別しないという人類的理想主義なのである。
ただそれが結果的に実行されたグローバル化で移民問題が発生しテロとなり軋轢が生れ国家主義が民族主義に逆戻りしているのが現在である。
人間は国家共同体が一番強固でありこれからぬけられないのである。
ただ人類的理想を追求すれば共通なものがあり憲法のようにすることもできる
それが国連の役割だけど国連も国家の前には無力なのである。

例えば国連で世界の紛争など解決できない、世界は中国だったら中華帝国を目指している、今はアメリカ帝国に属しているが日本もその中華帝国に属するものとして扱われる、
そもそも統一した世界帝国は人類にできていないからである。
国家国民さえグローバル化してやがて消滅してゆくかもしれない、世界国家ができればそうなる。日本の戦争は日本の天皇国家としての延長としてアジアへの進出だった。
国家というものをぬけだしていないからこそ失敗したともいえる。

それには確かに意義があった、でも日本国家というものからぬけだせないからこそ失敗したのである。ただ国家国民というものからぬけだしている国はない、ただそれもこれだけグローバル化していれば国家国民というものから人類は抜け出す方向へ合意してゆくかもしれない、実際はそうしなければ人類は戦争をやめることができないのである。
国家でも共通の利益を計れば共同できる、経済的には商業ではそういうことをしてきている。ただEUでもそういう理想があってしてもなぜうまくいかないのか?
そこに国家とか国民とか民族とか人間が形成してきた歴史的なものも関係してできない
ただ中国でもアメリカでも多様な人種とか民族が共生するとなる理念国家になる。
中国でもマルキシズムとか共産主義になり理念国家として世界的運動として一時あったが国家という枠からはぬけだせないのである。世界はむしろナショナリズムに回帰しているのである。
タグ:国家論
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2016年08月03日

丸森から古いものを探しに来た人 (自分の家が店屋だったときのガラスケースと母の記憶)


丸森から古いものを探しに来た人


(自分の家が店屋だったときのガラスケースと母の記憶)


glassscase111.jpg

これだった、8000円くらいで売っていた。



今日は丸森から古いものありませんかと家に入って来た者があった。
最初に言ったのが鉄瓶ないかということだった。
鉄瓶はあったがどこにあるかわからないと家捜したのである。
とにかく古いものがほしいということだった。
その人に投げたい古いタンスがあると言ったらそれをひきとるという
自分はその古いタンスを捨てるのに困っていたのである。
その人は家の中を探して見つけたのが自分の家で駄菓子屋のようなものをしていたときのガラスのケースだった
このケースはばら売りするための菓子などを入れていたのである。
戦後すぐは物がなく袋で売っていない、飴なども一つ一つ売っていたのである。
江戸時代に飴屋が飴売りがいたのと同じである。
親は子供に飴玉買ってこいと5円とかもたされて近くの駄菓子屋に行かされた
戦前からまもなく江戸時代でも商売はバラ売りであり、一個一個売っていた。
酒でも樽から一合とか買っていたのである。
金がないからその日暮らしというときそういう生活だった。
貯金をしている人はまれである。第一銀行がない時代すらあった
それは大正時代ではそうだった。銀行が田舎にはなかったのである。
銀行があるのは盛岡の煉瓦の銀行が有名なように都会だけだったのである。


それからその人は刀ないかとが探した、この家は古い家ではないからないと言った
野馬追いに出るような家ならあるだろう、蔵があるような家ならあるだろう。
柱時計がないかとも探していた。それはいつも家の中にあったがなくなっていた。
いろいろ探したがもってゆくようなものはない、なんでも茶碗を見せたら古く見せることができるという、古いものがとにかく価値があるということである。
骨董品屋なのか,丸森にそんな店があるのか?あそこは仙台の人が来たりしているかもしれない。なんか図々しいが古いタンスを投げるのに困っていたから助かったと思い歓迎したのである。
ただ失敗したのはばら売りの菓子などを入れていたケースをもっていかれたことである。それは母が駄菓子屋をしていたとき使っていたものだからである。
母は毎日店でこまめに働いていた。ただ自分は店が嫌だった。
食事しているとき必ずお客さんが来て立って店にでていたから満足にご飯が食べられないほどだった、そのことが一番嫌だったし親となにか遊んだこともない、遠くに遊びに連れていってもらったこともないことが嫌だった。
だから親子とかで楽しんだ記憶がないのである。
母はただ働くだけでありそれしかない、スーパーが近くにできたとき店ははやらなくなった。それでも80くらいまで細々と店をしていた。ほとんどもうけはなくなっていてもしていたのである。そしてそれから売れない売れないと毎日なげていた。
それも嫌だった。母は性格的に細かいし貧乏性でありおおらかさがなかった。
それは自分の性格にもなっている。やせている人は性格的におおらかさにかけるのである

その人か古いものないかというとき古いものにはすでに単なる物ではなく思い出が記憶がつまっている、人間が死ぬと残るのはその人が使っていた物であり人間そのものは何も残らない、だから駄菓子屋をしていたときのあのガラスケースが貴重なもののように見えたそれに他の人はどうであれ自分の家にとって価値あるものだった。
それを見たとき自分の家で店でこまめに働いていた母を思い出したのである。
つまりそういうふうに物は最後は記憶するものとして残っているのだ。
その記憶されたものに価値がある。要するに何度も書いているけど人間が最後に残るのは記憶なのである。記憶は物として具体的に残るから古い物に価値がある。
その物には過去の記憶が重いものとして残されていたのである。
今や自分の家で店やっていたなどわからなくなっている、何か一軒一軒の家にはそうした記憶が残されている

なんか近くの古い医院の家が残っていたけど家そのものが記憶とてし残っている感じにもなる。それは街の記憶でもある。それが取り壊されると記憶も失われるだろう。
家自体が記憶なのである。だから奇妙なのは原発事故で人が住まなくなった家は何か遺跡のように見えたのである。そこで生活したものの記憶が家に残されているのである。
人間は以外とその時その時生きていてもそれがみんな記憶になり思い出になることを意識しないのである。人間は生きているのだけどその生きていることの貴重さを意識できないのである。人と出会ったとしてもその出会いが貴重なことを意識できない
でも最後になると老人になるともう二度と合わないということを意識させられるのであるただ何でもないものでもそこにあるものが貴重に見えてくる、そして人間はつくづく時間を無駄に使ったなとみんな後悔しているのである。

ただ正直物がありすぎるのも困る、断捨離というのがはやりだけど本当に最後は物はなければない方がすっきりして身が軽くなっていい。もう物がいらなくなる。
物が負担になるのである。みんな最後は80過ぎたりしたら何もいらないと言っている。
物がいらなくなる、かえって負担になる。なんか家すらあるのが重荷になる。
大きい家になると掃除であれかたずけるにしても負担なのである。
土地すらもっていることも負担になるだろう、死ぬ時は何もいらないとなる
家であれ土地でも金でも死ぬときはもっていけないからである。
それで天に宝を積めというときそうしたこの世の土地とか家とか金でもないとなる
この世の宝は死ぬときになるといらないとなるからだ。
ただはっきりいってこれを理解することは若いときでもさらに年とっても最高にむずかしいだろう。年取っても欲望は消えないからである。

あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。
−マタイによる福音書 6:19-21

みんな物を蓄え金を蓄え富を蓄えようとしている。それはそれで否定はできない、でも最後には凡人でも悟る、なんにもいらないとほとんどの人が言うからである。
ただそれを若いときから悟るのは至難だとなる
年取っても金をいらないという人はいないのである。
要するに最後に残るのは記憶でありそれは物ではないから金でもないから奪われないとなる、最後に残ったものは記憶でありそれをたずさえて天国にも地獄にも行く
その土地でも家でも物でも何ももってはいけないからである。

そのガラスのケースは遠い日の記憶
菓子をばら売りして入れていたケース
母はこまめに働き売っていた
しかし今そのことを記憶している人があるだろうか
世は常に変わりそんな店のことは忘れられる
一軒一軒の家には何かしらそうした記憶があり
その記憶が街の歴史でもある
昔の日は二度ともどってこない
そのガラスのケースはただ今重く昔を語る
新聞紙をのりづけして袋を作り
ここで母が菓子をばら売りしていたことを

その頃袋がなくて新聞紙で袋を毎日作っていたのである。今思い出すと不思議に思う。それは相当な手間である。袋詰めすることは手間である。今ならみんな袋詰めされているからである。だから暇なく働いていたとなる。
ただ自分はそういう生活は嫌だった。自分はもともと商売にも向いていなかった。
母も実際は向いていなかったのである。ただここで店をしていたことがあったということ自体やがて忘れられる、それは一つの歴史が忘れられることかもしれない
そういう一軒一軒に歴史があるからだ。それで浪江の赤生木(あこうぎ)ではその一軒一軒の家の歴史を記録しようとしていることがいたということもわかる。
なぜなら村自体が消えてしまうからである。そしたらそういう歴史と記憶も消えてしまうそれは津波で村自体が消失したということでもそうなった。
村自体が消えて記憶も歴史も喪失してしまったのである。



神田のうたR「本郷弓町駄菓子屋懐古」(3)宝袋

さて、親からもらう小遣は五円か十円で、夏休みは五十円。二宮尊徳の一円札や国会議事堂の十円札、それに板垣退助の五十銭札が流通していた時代である。まだアルミの一円玉はなく、十円硬貨が出始めた頃だ

五円十円で買うものだった。二宮尊徳の一円札などあったの?こういうふうに過去の記憶を詳細に覚えて書いている人がいる。インターネットではそういう点で便利である。
戦前になると五銭屋とかあったから五銭が基準だったのだろう。


タグ:駄菓子屋
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2016年07月16日

地名の基本は方角地名 (南相馬市の名前にはなお違和感が残る)


地名の基本は方角地名


(南相馬市の名前にはなお違和感が残る)

northeast11.jpg

南はあたたかい感じ、北は白で寒い感じ

東と西は陽の昇り西は沈むところ



方角地名が地名の基本としてある。方角というとき人間の生活で基本になるのがやはり方角になる。その方角の基本となるのが太陽が昇り太陽が沈む方向なるのである。
どっちかというと南北より東西が基本になる、世界史でも東西である。東がアジアであり西がヨーロッパである。

「オリエント」(日が昇るところ)とは「オクシデント」(日が没するところ)の対概念で、もちろん前者が東洋、後者は西洋という意味です。東洋と西洋を大きく比較する言葉ですが、中世という時代に地中海を航行して聖地イェルサレムに巡礼していたヨーロッパ人は日の出の方向を目指して旅をしたので、「オリエント」とは「中東」を意味するでしょう。地中海中心の航海から大航海時代に入り、インド洋に進出することによって「オリエント」の概念は中東からアジア全域に拡大したと思われます。
「アジア」という言葉は、本来は小アジア半島(現在のトルコ共和国)西部に設定されたローマ帝国の属州の名称です。


これはヨーロッパ中心に軸として方向があった。最初はローマ帝国だった。
アジアが一小地域でありそれが拡大してアジアになった。これはヨーロッパ中心の世界観なのである。つまり地球規模でみても方向は中心があって決まる。
ローマ帝国が中心だとするとそこが中心になり方角が決まる。
これはヨーロッパ中心に軸として方向があった。最初はローマ帝国だった。
アジアが一小地域でありそれが拡大してアジアになった。これはヨーロッパ中心の世界観なのである。つまり地球規模でみても方向は中心があって決まる。
ローマ帝国が中心だとするとそこが中心になり方角が決まる。

アジアという地名は、アッシリア人がBC2350−2180にバビロン北部に栄えたアッカド(Akkad)時代のアッシリア人がアッカド語(Akkadian)で「陽が昇る土地」という意味で言ったasu が語源で、それが古代ギリシアに伝わり(ASIA)、ローマ時代のラテン語(ASIA)を経て、Asia なったのだそうです。

アジアはアッシリアとか古い地域からみて陽が昇る地域だった。トルコはアジアでありアジア人である、突厥とかの遊牧民であり顔だちもアジアになる。

ボスポラス海峡がヨーロッパ とアジアを分ける、ブルガリアはキリスト教国になるからヨーロッパになる。

やはり中心があって方角がある。
仙台には良く電車で行く、電車というのは駅名が気になる、記憶に残る。
仙台に行くと必ず南仙台を通る、南仙台になると仙台が近いとなる。
南仙台は仙台から見て南だから南仙台なのである。
もともとは別な駅名だった。

1924年(大正13年)
9月10日 - 陸前中田駅(りくぜんなかだえき)として開業。
1963年(昭和38年)
5月25日 - 南仙台駅に改称。

陸前中田とかなると陸前とかは古風な江戸時代からの名前である。

江戸時代には、この街道の呼称は藩ごとにまちまちであった。
仙台藩では江戸浜街道。
中村藩では中村以北を仙台通、中村以南を水戸通。
磐城平藩では磐城平以北を相馬路、磐城平以南を水戸路。
水戸藩では水戸以北を磐城街道、水戸以南を水戸街道。

これがわかりやすい、常に水戸に通じる道となっている、東京からは今でも水戸街道と六号線は言っている。

東と西は方角地名の基本としてある。日本でも東西があり東(あづま)と西の分かれるところが関が原であり古代にもここを境にして兄弟の天皇が分かれて戦ったのが壬申の乱だった。ここで気候も変わる境目である。
琵琶湖でも湖東と湖西があり湖西の方は陽が沈む方向になりイメージ化される、ただ旅をするとこの方向がわかりにくくなる。西となるとどうしても陽が沈む方向になるから淋しい感じになるのだ。

大業三年(607年)、隋の皇帝煬帝が激怒したことで有名な 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」との文言がある[8]。『隋書』には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ使者とあるのみである。

小野妹子がなぜ陽が昇る所の天子から陽が没る天子に贈るとしたのだろうか?
ここでも方角を言っていたのである。国と国の間でも方角が基本になるからだ。

地名は基本的に方角地名がある。相馬藩の歴史をたどれば小高郷、中の郷、北郷、宇多郷、山中郷がある。北郷は鹿島区の地域だけどこれはもともと相馬氏の城が最初に小高に築かれたからそこから北ということで北郷になったのである。
中心が小高にあってそこから北にあるからそうなった。
ではなぜ南相馬市となったのか?
原町市、小高町、鹿島町、飯館町は合併して「南相馬」になるのか、これが募集して一番多かった。相馬を中心にしてその南だから南相馬になる。喜多方の良かったのは北方(ほっぽう)という味気ない名が喜多方という当て字にしてイメ-ジが良くなったことである。
小高から相馬に前の中村に移った時、その城が中心になり相馬市となった。
それで今度は南相馬市となったのである。
南相馬市というとき未だに違和感を感じるのはなぜか?相馬市が中心としてありその南にあるから南相馬市だとなる。
南というとなにか温かい感じがするがそういう感じはない、ただ相馬市の城があった所から南というだけなのである。
相馬市が中心にあり南相馬市は付属している感じになる、外から見てもそうしか見えないのである。
相馬市があって南相馬市としか見えないのである。

ただ三つの町が合併すくときみんなが納得するものがないから無難なものとして南相馬市となった。
南相馬だと相馬市とも一体感があり相馬野馬追いの祭の地域として外からもわかりやすいからである。歴史的にはそうだがどうしても相馬市が中心で付属しているのが南相馬市になるというのが払拭できないのである。
将来的には南相馬市も相馬市も一緒になり相馬市になるということを前提にして名付けたという人もいる。
人口減になったのと津波や原発事故でそれが加速されることもある。
人口減少してゆけば全国的にもさらに市町村合併が推進される。
ともかく合併した南相馬市というのには違和感がある。ただではこれ以外の名前があるのかというと募集していろいろあってもみんなを納得されるものがなかった。
要するにみんなが納得するものとして南相馬市が生まれた。地名には勝手な突拍子もないものをつけられない、みんなが納得するものでとはないと承認されない
だから多数決で決めるのもしかたないとなる、だいたい地名は地形とから名付けられたものが多いし無味乾燥なものが多いからである。

福島県の西郷村というとき西白河郡西郷村とあり白河町が小さな領域だったが拡大して白河市になった。次ぎに東白河郡がある。白河市を中心にして東と西の分かれたのである。これも西白河村とか東白河村だとわかりやすい、外からみるとわかりやすい、ただ西郷村とあるとどこが中心なのか外から見たときわかりにくい、会津だと東西南北がありわかりやすい。ただ南北というとき温かいとか寒いとイメージする、南風だとあたたかいし北風だと寒いと感じる。東西となると陽が昇り没るとして方角があるからわかりやすい。
南と北は何か寒暖をイメージするから東西とはかなり感覚的に違ったものとなる
だから南相馬市はべ別に南だから温かいということはない、それはただ方角的なものだけなのである。
北茨城の北はいわき中心に名付けられていない、いわきからした南である。東京中心にして北となっているとわかりやすい、東北というのもそうである。
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2016年06月21日

自転車屋のことなど (それぞれの人生でふりかえるもの)


自転車屋のことなど


(それぞれの人生でふりかえるもの)


話を聞いておきながらネット通販で買われてしまうのは、 
その差額に見合うだけの話をできなかったから、かもしれないよ。 
ちゃんと説明したつもりでも、 
事前にネットで予習された内容と同じだったら価値ゼロですから。

しかし貧乏人相手に売り上げ作るのは大変だよ。 
生活必需品の自転車ではなく趣味の自転車に嵌ってる客の方が金離れはいいな。 
ママチャリ買えるくらいのパーツを買ってくれる。


自転車屋には実質的に免許ないに等しく、 
その腕の良し悪しはピンキリなわけで、 
部品のもつマージンを食いつぶす整備を 
やっても、高級品なら客にバレないわけ。 
修理できなくても、 
修理でかえって調子が悪くなっても、 
安物だからといって済ませることが出来るし。


最近の自転車屋の増え方見たら戦国時代みたいですね 
京都ですけど、半径50メートル以内に色んな自転車屋がひしめいてる地域がありますよ 
イオンに、あさひ、地場の自転車チェーンが二つ、昔からやってる自転車屋 
明らかに供給過剰だと思うんですけど、体力ある所はここでちょっとでも勝負しないと生き残れないと踏んでるんでしょうか



自転車はすでに20台くらいのったかもしれない、ヤマハの電動自転車は三台目だから高いのはスポーツタイプは全部のっている。もう一台はハナソニックである。これは毎日買い物に使っている。婦人用の作りであり遠出にいいというがそれもできるがかえって日常の買い物に使えた。スポーツタイプではないからだ。
ロードは8万の一台買ったけどこれは使えないものだった。ロードは高いものと安いものでは相当な差がある。
それがヤマハのYPJ-Rにのってわかった。これ自体がバッテリーなくても相当に高級な自転車に思えた。走りが全然違うからである。
軽く前の倍の速度がでるし乗っていて疲れないからこれは長距離にはいいと思った。
だからこれで遠出をためしてみたい、ただ早いから危険である。スピードは坂ではひかえいた方がいい。
一回頭を売って死ぬような経験をしている。前の歯が三本折れた。それは新しい自転車を買ったばかりのときだったのである。
その事故を起こした場所はいつも走っている普通の場所だったのである。
自転車でもなにか事故はどこで起きるかわからない、危ないところでも起きない時は起きない、意外なところで起きるときは起きる。

自転車屋が駅前にあったのは引き込み線があり荷物を貨物列車で運んでいた時代があった物流が駅中心の時代があった。それで駅前通りがあったのである。
引き込み線というとき、原町紡績に原紡に母が十年勤めていたけどそこの門に引き込み線があった。鉄道輸送が主だかそうなっていたのである。
原町でも駅前通りが繁盛したが今はどこもシャッター通りになってしまった。鹿島で駅前通りができたのは新しいのである。
広い通りがそうであり実は脇に細い道がありそこに商店があった。角屋(すみやーかどや)とかある時は道の角でありそこが場所がいいので繁盛した。
その頃は車がない歩きの社会だったからそうなる。自分の家も店屋だったが道の角にあって場所が良くて一時繁盛した。
かつて繁盛した裏町通りである。裏町にどこでも小さな店があり繁盛していたのである。今や自分の町では店屋があるのかとなる、隣が市だからみんな買い物は車で行くからそんな小さな店は消失した。
なにしろ歩いて買い物するとなる街内でも遠くには行けないのである。
その頃は自転車すら貴重品だった。一生に一台使いいつも丁寧に磨いていたのである。
戦後十年くらいの市町村を再現するといかに変わったか驚く。
ほとんどその記憶となるものすらなく消失しているからである。
ただそこには何か人間的なもの人間臭いものが満ちていたことは確かである。

今自分の街ではもう一軒しか自転車屋が残っていない、その人も病気だとかなるといつやめるかもしれない、今でもやめたらあとが困ると言って原町とかで修理してもらっている人もいる。でも自転車を買ってもらわないとしてくれないとか言われたという。
商売になればみんなそうなる。だから京都では自転車が増えて競争してつぶれているとかなると都会と田舎はそれだけ差がある。
ただ田舎のことを考えるとなぜ自転車がやっていけるのか不思議である。
こんなことを調べるのはネットが向いている、修理がその主な収入だというとき自転車はそれなりのスキルがないとできない、ここの自転車屋はバイクも修理している
田舎だとなんでも屋にならないと商売できない

自転車屋が他の商店とは違い一応まだ成り立っているのはスキルをもっているからである自転車を買っても必ずあとで修理がありパンクもあり世話になる。
だから通販ではあとで困るから自転車は一回買ったがあとは買ってない
つまり自転車屋は街の技術者であり買うだけではすまされないので成り立っている
他の仕事は例えば書店などは今は自分の街には一軒もなくなった。
なぜそうなったのかというとまず書店などはなんのスキルもいらない、売る本が何かもわからない、理解していない、第一商売で売るものを知らないで売れるわけがない
ただ配られたものを売り売れなかったら返せばいいとかなっているのだからなんのスキルもいらなかったのである。何の苦労もないのである。
自分の売る本の説明ができないのだから楽でありこんな商売はなくなっても当然だと思うこれはネット通販とかでとって変わられたのも当然だとなる
ただ物を右から左に運ぶような仕事は機械にとって変わられる、スキルが必要ないからである。

自分はバッテリーを安いものがネットにあったけどこれも住所とか書かなければならないからめんどうでやめた。それより一軒ある自転車に世話になるので買うことにした。
その自転車でもなくなること自分が困るからである。
そしてネット通販にも疑問がある。そこでは誰がもうけいてるのか?
東京に拠点があるのが普通であり地方には金が回らないとなればますます地方は衰退するすると地方に住んでいる自分でもみんな困るのである。
ただそうはいってもやはり何かメリットがなければ商売は成り立たない、地方でも田舎でも自転車屋でもスキルがありサービスが受けられるということで商売が成り立つ
ただあらゆるものが全国ではない、グローバルな競争を強いられるとき何か特徴がないものは消失する。味噌だっていろいろな味噌があり地元で作っていても自分はいちいち出汁(だし)を入れるのがめんどうでしていない、なぜなら家事に追われているからである。
だから自分は家事をするというとき何を買うかであり料理することではないのである。
その買うものを知る買うものを選ぶことが仕事になっているのである。それだけ物が増えているからである。料理に使うものの種類が多いからである。

いづれにしろいろいろ老人になると過去をふりかえる、自転車も自分の人生の一部だったとなとふりかえる、自転車旅行も相当にしたからふりかえる、そうして回想するのが老人の仕事になる、それを創作に結びつけて作品化するのが仕事である。
それぞれの人生は郷土史でもありその一こまなのである。
自分が自転車にこだわるのはそれが自然とマッチするからである。風を感じたり暑いときは木蔭を行くと涼しさを感じたりする。車だと遮断しているから感じないのである。
これは実際は贅沢である。仕事には今や車が不可欠だからである。
ロードは走っていて一番気持いいものだった。これなら遠出しても負担がからないかもしれない、何か今までの乗ったものと比べると新幹線に乗った感じなのである。
ママチャリとかは普通車でありクロスバイクとかちょっと早いのは急行列車でありさらに特急列車ににたものがあるが今回のロードはバッテリーつきだから新幹線に乗った気分に例えられる、最後に乗るのが新幹線だったということにもなる。



タグ:自転車屋
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2016年05月31日

母とその前夫の戸籍をたどる (戸籍から一庶民の歴史がわかる-東京の歴史)



母とその前夫の戸籍をたどる

(戸籍から一庶民の歴史がわかる-東京の歴史)



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山口富造(母の前夫)


東京の下谷区三の輪町から王子区神谷町に転籍

台東区から北区へ転籍



昭和17年王子区神谷町二丁目五七番地理研工業王子第二工場内で死亡



■昭和10年(1935)財団法人理化学研究所で開発された研磨材をもとに、研磨布紙の製造販売を目的として理研コランダム株式会社を同研究所内に設立。

■昭和12年(1937)東京都北区に王子工場完成、財団法人理化学研究所より移転。

■昭和13年(1938)群馬県川場村のガーネット鉱区鉱業権を取得し、沼田工場を建設。

■昭和28年(1953)静電塗装設備完成。(特許:工業技術院奨励金を受ける)

■昭和31年(1956)通産省より研究補助金を得て、特殊精密研磨紙生産設備完成。http://www.rikencorundum.co.jp/kaisyaannai/rekisi.html

愛知県西春井郡西春村大字九六坪南城屋敷戸主忌犬飼金松 六男 養子縁組

山口一男

自分の母親は東京で女中で働いた。大人しい内向きの性格だから良く東京まで出て行ったと思う。そこで前夫と結婚した。山口富造という前夫は東京生れであり台東区でありそこに本籍があったが北区に転籍した。
その北区の理研工業で事故で死亡した。そこまで戸籍に書かれていた。時間まで書いてあった。
その理研工業とはインターネットで調べたらおそらく昭和十年に設立されたここではないか?
北区に昭和十二年に王子工場完成とあるからだ。そして昭和十七年に事故で死亡した。
母が結婚したのは山口富造が前の妻が死亡したためである。死亡してまもなく結婚していることも記されている

養子縁組した人は名古屋市の出身だった。六男でありなぜか養子縁組して東京に来た
母が何か変な奴だと言っていたことを聞いた。おそらく育てられなくてなんかの縁で
山口家に養子に入った。その事情はわからない。
その人の墓は焼津にあるが一回墓参りしてあとは誰も墓参りしないだろう。
兄に死んだという連絡が来たために兄が焼津の寺に頼んで埋葬した。
その時母がかまうなと言ったけど戸籍をたどり死んだという連絡が来たからである。
戸籍はそうして死んだときとか必ず連絡して役所が国が責任を負わせるためにある。
そんな一度もあっていない人などかかわる必要がないのである。
金もなかったからめんどうだから母はかかわるなと言っていたのである。
戸籍でつながっていても全くあっていないとか知らない人も多い。
そういう人は戸籍上だけのつながりでありそんな人と関係させるのはおかしいのである。戸籍に関係なく実生活で深い関係になっている人もいるからそっちの方を重視すべきだと戸籍などない方がいいという人もいる。これも何か理不尽なところがあるためである。
山口富造と自分の母は結婚して子供生んだ、それが自分の父の違う兄となる
その兄も交通事故で四一才で死んだ

戸籍をたどるとここまで分ることの驚きである。その足跡が記されているのだ。
戦前でも東京に出る人が多かったのかもしれない、女性だったら女中としての働き口が相当にあったのだろう。
戦前の東京の状態はどうだったのか?

大東亜戦争(太平洋戦争)始まる(昭和17年〜昭和20年)

すでに戦争がはじまっていたのだ。だから相当に混乱した状態だった。
東京と田舎の生活は相当に違っていた。
自分の姉は看護婦の免許をとるために東京に行っていた。つまり東京でしか看護婦の免許をとれなかったのである。東京と田舎はその頃は暮らしでも相当に差があった。
やはり東京に出稼ぎというか東京に田舎から出る人が多かったのかもしれない

1935年(昭和10年)東京の貴重なカラー映像

人力車も走っている、車も走っている、人をのせた馬車も走っている、市電も走っている、立派なビルが建っている、・・・・こういう光景は田舎にはなかったろう。
田舎では高いビルなどはないだろう。今でも南相馬市では高いビルは病院くらいしかないのである。
つまり田舎と東京の光景とか暮らしは相当に違ったものだったのである。
だから東京に憧れるというのはその当時から相当にあったろう。
自分の母親もそうだっかもしれない、ただ自分の母親はとても冒険するようなタイプではないからなぜ東京に出たのか疑問が残る
当時東京に行くのは冒険である。行くにしても蒸気機関車であり八時間くらいかかったかもしれない、そのくらい遠いということである。気軽に行ける所ではなかった。
帰ってくるのも簡単にはできない所だったのである。 
おそらく実家が事業で失敗して母の姉が東京に出てきていたのでその姉を頼って東京に出たのかもしれない、家を嫌って姉は東京にでて
母も出たのかもしれない。家から離れたいということが若い時はある。
自分も家とか故郷から離れたいということがありただ東京に出たいということで三流大学に入った。
その時中学卒業が金の卵としてもてはやされた時代だからずいぶん恵まれていたのである。
その後も自分は相当に恵まれていた。

その時分は,東京は泥浮の都会,土蔵造の家並の都会,参議の箱馬車の都会,橋の
決に露店の多く出る都会であった。考-て見ても夢のやうな気がする。京橋 日本橋
の大通の中で,銀座通を除いて,西洋造りの大きい家屋は,今の須田町の二六新聞
社のところにあったケレ-商会といふ家一軒であったoそれは三階の大きな建物
で,屋上には風につれてぐるぐる廻る風測計のやうなものがあった。何でも外国の
食料品か何かを売ってゐた. (東京の三十年ー田山花袋)

これは明治時代の風景だからさらに変わっている。

また大名屋敷が広かったというとき過去は何か違ってイメージしている
現代からイメージするからそうなる、その時江戸は広い土地があった。

臼杵藩藩主稲葉伊予守の江戸上屋敷が 4,954坪(16,348平方メートル)江戸下屋敷が 3,480坪(11,484平方メートル)とあります。

現在のつましい我々市民の家の広さを、多めに50坪(165平方メートル)とすると、100軒が入ってしまうというとんでもない広さです。

これは小藩でそうなのであり九〇〇〇坪とか八〇〇〇坪とかあり国立競技場と甲子園なみの広い屋敷があった。

現代の東京からそういう広さをイメージできない、江戸の藩の屋敷は庶民の長屋などからした全く別世界だったのである。時代劇で見ても門が大きい、それだけの門があり広い屋敷があったとなる。だからその屋敷を維持するためには金がかかったともなる
もし大名屋敷の跡がそのまま残っていてそこに立ったらその広さに驚き歴史を実感できるでも東京は何か歴史を実感てきるものがみんななくなっているからつまらないのである。
自分の母親の前夫の住んでいたのは今の上野だった。

東京都台東区のおよそ西半分を範囲とし、江戸・東京の下町を構成している地域のひとつである。
下谷は浅草・本所・深川と並ぶ、東京下町の外郭をなす。

三ノ輪は今も走っている都電荒川線の終点だった。この都電には乗ったことがある。
早稲田まで通じていて途中に王子駅があるということはここに前夫は転籍した
すると遠い場所ではなかったとなる。
転籍した理由は王子にある工場に移るためだった?

王子電気軌道によって敷設された路線を東京市(現東京都)が買収したものを端緒として
荒川線はもともと王子電気軌道であり王子までしか行っていなかった。

三ノ輪は上野界隈であり台東区上野である。北区は隣り合っている、なぜ北区なのか?
江戸城があったところが中心でそこから北になっているからなのか?
下谷車坂町などあるのは都会らしい、車とは人力車だろう。頻繁に人力車が通ったからだろう。

いづれにしろ自分の母親は昭和十六年に結婚して昭和十七年に前夫は事故で死んでいるのである。そしたら一年もみたない間に死んだことになる、ただそこで一子を自分の兄をもうけている
女中奉公に東京に出て何年いたのかわからないがこれもあまりにも短い期間だったとなる実家の原町の夜ノ森公園の近くに子供とともに兄とともに帰って自分の家にた嫁いだ。
夜森前一番地となっている。夜ノ森とは夜ノ森公園の近くだったのである。その実家に行ったことがある。
そしてその実家はなくなり墓しか残っていないのである。
母の一生は不運と苦労の一生だった。後妻として二回嫁ぎ自分の父親も早く死んだ。
母の父親が事業に失敗して一家離散のようになってから不運だったのである。
そういう人は戦前生れとか大正生れとかなると多い、貧乏だし戦争もあったからそうなる

こうして戸籍から明確に一個人の庶民の歴史がたどれるのが戸籍でありそれも不思議だとなる、まず墓からはほとんどわからない、江戸時代のものというだけでもわかれば貴重だがその他はその人がどういう生い立ちなのかなど全くわからない、戸籍をたどるとこのようにわかるのである。
それにしてもなんかこの戸籍をたどるというのも不思議である。
戸籍とインターネットで何か歴史をたどることができた。
本でもその一部をインターネットで読みつないぎ編集した
タグ:東京の歴史
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2015年12月25日

戦後の地方の歴史をふりかえる (戦争の引揚者が山村に開墾に入るー赤生木なども同じだった)


戦後の地方の歴史をふりかえる

(戦争の引揚者が山村に開墾に入るー赤生木なども同じだった)


戦争が終わったとき引揚者が大勢帰ってきた。その人たちの就職の場がなかった。働く場所がなかった。日本は明治から人口増加がつづいた。
信じられないのは母が生れた大正時代は日本には六千万人しかいない、今の人口の半分である。だから東京でも二百万とか規模が小さいのである。
どこの市町村でも人口が半分の状態をイメージするといかに今と違うかわかる
そして今度は日本は人口減少時代にはいり市町村が消滅してゆくと言われる
空家が800万軒とか人口がへる衝撃が大きい
そもそも大正時代が電気がないランプだったということもイメージできない
でも電気がないいうとき葛尾村では電気が来たのは戦後二十年以上なのである
電気がないというときネパールの山村には電気がない
それを見たら当時と同じだと思った。


一方で戦争の引揚者が開墾に入る時代が戦後にあった。
自分の父親が双葉の新山の酒屋に働いていた。
そこで一緒に働いていた人が小池に開墾に入った
それも奥ではなく真ん中辺りでありあんなところに開墾できる土地があったことが不思議である。それは全国で戦後引揚者が開墾に入った。
それは小池などでもそうだとするといたるところに開墾のために入った。
つまりまだ日本は地方は農業中心の社会だったからである。
赤生木でもそうだし飯館村でもそうだしいたるところそうである。
ただ赤生木でも飯館村でも前々から住んでいた人はいた。
だから市町村の歴史でもそこに江戸時代から住んでいる人と戦後などに開墾に入った人がいたことを区別す必要がある
そういう引揚者などはもともとあった村に開墾に入るとき不便な辺鄙な場所に入った。そういう所は原野のようなまた開墾されていない場所だったからである。
飯館村だと大倉から坂を越えた場所でありいかにも人の住めないような場所である。
そこは原発事故前に二軒くらい空家になっていたのである。
端の名前は共栄橋となっているのでこういう名は新しく開墾者が入って名付けられた
それは津島でもそうであり赤生木でもそうである。
そして津島では開墾者は結束が強いというときやはりともに苦労して開墾したからである

一方でそうして新しくそん辺鄙な山村に入植するものがいたがもともと山の暮らしは貧しいから街に下りてくる人がいた。
自分の父親は双葉の新山の酒屋に葛尾村2ら丁稚奉公したのである
山には仕事がないから食い扶持がないから街に下りてきて丁稚奉になる人もいた
戦後は異常事態であり働く場所がなくてやむなく辺鄙な場所に開墾に入った
赤生木村では北海道から乳牛を買って酪農で暮らそうとした。
飯館村は飯館牛として生計を立てた
その頃は炭焼きもあったからそれも大きな産業となり山村を支えた
その後石炭となり石油となり木材も海外から仕入れるなとグローバル化して変わった


次ぎに山村で起きたことは出稼ぎ者の時代である。山村だけでは暮らせないので現金収入を求めて東京などに出稼ぎに出たのである。
それは全国的なことであり山村だけではない、双葉や大熊辺りは原町市とかとは違い山村の環境とにていた、大熊では塩田で塩をとり東京に売っていたとか開発が遅れた。
その前には金の卵の集団就職があった、それは東京の人手不足を補った。
大熊とか双葉辺りは出稼ぎ者が出さないため地元で暮らせるようにと原発を積極的に誘致したのである。つまりその時、農業中心ではなく工業中心に移行する時代だった。
工場はまだ東京中心であり徐々に田舎に工場や会社が移転されたのである。
出稼ぎ者を出さないということで原発は効果があった
赤生木の人も原発で働いたとか浪江辺りになると三分の一は原発で働いて潤った
小高でもそうである。それで浜通りは会津などと比べると裕福だったとなる


もともと原発がなくても戦後の高度成長時代は先に街の方が恩恵にあづかった。
商店街が小さな資本の商店がみんな栄えたから通りは活気があった。
そして裏通りでも店が多く活気があった
自分の家も駄菓子屋のようなもの子供相手の店をはじめて一時期はやったのである。
子供が多いからそんな店でもやれたとなる、語り草になっているのは姉がこの店を始めるのに五万くらいの金を借りるのに苦労したことである。
今なら五〇万以上とかなると思う、それでもその頃は小さな店は簡単にはじめられたのである。小さな工場でも東京に密集して繁盛したから人手不足になったのである。
インド辺りの店にバラックのようにな店があった、新聞紙が袋になっていた。
それは自分の店と同じだった。新聞紙はその頃便所紙ともなり貴重だったのである。
便所のくみ取りも近くの農家が肥料とするためにとりにきていた。
それは江戸時代のつづきである。炭が燃料だったのもそうである。
双葉とか大熊辺りは浜通りでも今でも元の原町市とか平駅などから離れている辺鄙な地帯だった。そういう場所だから原発が誘致されたともなる
でももう少しあとになれば工場も誘致できたろう。
原発にはあまりにも警戒感がなかった、でも就職先としては最高の所だった。
給料が高いからである。身近に原発で働いた人はいくらでもいる、小高辺りまでは三分の一くらいがなんらかかかわっていたかもしれない。


集団就職で東京に労働力を地方が提供して出稼ぎ者でもそうである。
そして津波や原発事故で人口が流出してゆく、出稼ぎでもそれで子供を大学に出したとかあり全部が悪いものとはなっていない、
ただふりかえると地方は東京によって影響されていた、地方は戦後は森林鉄道があり森林の木材とか資源を供給していた。常磐炭鉱では石炭を供給していた。
エネルギーが石油に変わったとき急速に地方は変貌した。
東京中心に人手不足となり労働力を地方で提供した。出稼ぎ者もそうである。
東京というのがやはり経済的に地方を動かしていた。
東京に電力を供給するのも労働力を提供するのとにていたのである。
福島県は東京に近く東京の経済圏になりやすかったのである。
そこに繁栄もあり原発事故につながったのである。


結局戦後七〇年は何だったのかとなる。どうしてこの辺がこんな状態になったのか?
それを歴史的にふりかえると地方が東京に翻弄された時代だともいえる
地方創生とういうが東京中心に日本があった。
そもそも地方創生を考えるとき一体地方創生とは何なのかとなる
原発とかで栄えるのは地方創生ではなかった
地方で創生したもので栄えれば地方創生になっていたのである。
だから自給自足でも変だけど地方創生なのである。
それは東京とかに頼らない自立した経済になっていたからである。
江戸時代まではどこでも地方自立であった、地方創生だったのである。
これから目指す地方創生はどうなるのかということである。
集団就職があり出稼ぎがあり地方から東京へ労働力は供給された
原発事故で今度はこの辺はいち早く地方消滅になってしまった。
なぜそうなったかというと東京によってそうさせられたともなる
江戸時代のように地方自立だったらこうはならなかった


でも電気がない、車もないような生活は成り立たない
地方創生というけど地方から何が作り出されるのかとなる
文化的なものは地方から逆に作り出される
それを自分はしてきた、でも経済とかなるとまた別なのである。
第一次産業が壊滅したときそこに地方創生がありうるのかとなる
文化の基盤の土地が使えないというとき文化もありえないのである。
そして限界集落化して地方が消滅してゆく
歴史は繰り返すのか地方には仕事がないから若者がまた東京に出てゆく
それは出稼ぎ者ではないから地方に帰ってこないとなる
いづにしろ原発はこの辺では呪いのようになってその呪縛から解放されない
放射能汚染は簡単には消えないからである。
津波の被害地域でも原発事故地帯でも人口流出が最大の問題である。
未来をになう若者が流出しているからである。
ともかく未来を目指すにしても過去をふりかえらないとできない
もし過去を歴史をふりかえらないとまた同じ過ちを犯すようになるからである。








タグ:引揚者
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2015年11月01日

山里の昔を偲ぶ詩 (栃窪村をイメージして)


山里の昔を偲ぶ詩


(栃窪村をイメージして)

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山よりの清き流れ 家の前にあわれ
洗い場ありて 日々の暮らしや
薪積みて 冬支度かな
秋の日静か 山里の昔を偲びぬ


その時、街はここより遠し
何もて行かむ 馬やリヤカーや
車なければ ここより遠し道
橋とてあわれ 木の橋ゆれぬ


炭焼きの烟は上り 街に炭を売る
街とて貧し 裸電球一つ
北風吹きて トタン屋根
炭にし暖をとり 寒しかな

その昔 街にし何を買ふ
ランプの油 近くにすむも
ランフの掃除、その灯し
暗き夜かな 藁葺きの家


山里に水車は のどかに回りぬ
その時の刻みの ゆるやかなれ
秋の日はさし 家々はまばらに
落葉を踏みて 山里は暮れぬ

薪を積む家や 鶏は放たれ歩み
清らかに水は流れ 洗い場あり
その流れの奥に 何かあれ
ひそけく野菊の残り咲くかな

街より遠く 医者とてなしも
救急車も来たらず 病になれば
ただ道の辺の 地蔵にすがり死ぬ
誰が墓やあわれ 村に残りぬ

流れの奥や 何かあれ
隠さる石は黙して 冬の日さしぬ
清き流れはひびき ひたすら黙す石
雪はふりつつ 春にも残る雪


ああ 貧しくも その村の暮らし
今はなつかし 便利なるも
今の暮らしは 何か平和なしも
贅沢なるも 不満のみぞ多し

汝いづこに憩わむ 満ち足りむや
便利なるも 贅沢なるも
人の心は荒れて 平和なしも
今原発事故に 荒れ野となるも悲しも

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これは栃窪村をイメージして作った。何回も書いたけど戦後十年くらいの生活は江戸時代のつづきだった。その時子供だったから貴重な経験だった。
それ以後急速に高度成長になり変わってしまった。
こうした暮らしは別に日本だけではない、世界中で同じである。
インドでは都会でも炭を今でも使っているが一方で牛の糞とかを街中でも利用しているし家では白黒のテレビでゲームをしていたし路地裏を野良牛が歩いている
インドでは現代と昔がまだあり混沌としている

栃窪村は街からするとその時は遠かった。なぜなら馬とかリヤカーが運搬手段だとするとかなり街に出るのは遠くなる。ただ炭焼きをどこでもしていたから街でその炭を売っていたから運んでいた。
これは日本中どこでも同じだった。つまり炭がエネルギーの基だったからそうなる。
ガスも石油も電気も燃料ではない、葛尾村などは電気が来るのはかなり遅かった。
それはネパールなどとにていた。電気がともらない村があるのだ。
そこの暮らしは当時とにていたし今でもそういう場所が世界にはある。

ともかく昔のことをふりかえると不思議になる。水道もいない、電気製品もない、舗装もされていない道とか橋でも木の橋でありそれが何かゆれて危険だったのである。
真野川にかかった橋もそうであり橋はみんなそうだった。だから洪水で木の橋は流されやすかった。それで江戸時代の野馬追いの行列では橋のない川をわたる絵が残っているのもそのためである。
道は舗装されていないからでこぼこであり自分は子供のとき家で店屋をやっていて農家に卵を買わされた、その自転車もいいものではなくどうしても糠に入れた卵が一つ二つは壊れるのである。それは道が悪いのと自転車もいいものではなかったからである。


今からするとこうした体験は不思議であり団塊の世代とかはみんなそういう時代に生きていた。何か団塊の世代は贅沢した時代とかみられるけど子供時代はみんな貧乏だった。
ものもないし電気製品もないし便利なものは何もない時代だった。
かえって農家の方が食料などでは贅沢していた。自家生産だからそうなった。
そもそもまだ物がない時代だからそうなっていたのである。
江戸時代は遠い昔とイメージするが戦後十年くらいは江戸時代の延長だったのである。
自給自足であり村はやはり江戸時代の村とたいして変わりなかったのである。
だから救急車など病気になっても来ない、そもそも車がない時代だからである。
ということは医者にもかからず死んだ人が多いということになる
地蔵などに祈り死んでゆくほかなかったのである。
そうなると長生きするのは無理だから60前で死ぬ人も多かったろう


そういう暮らしは村に閉ざされてなかなか外に出にくい社会である。何か鹿島の横手の人が相馬市に梨を売るためにリヤカーで運んだというのを聞いた
馬の肥料の草を橲原まで行って運んだというのも聞いた。
リヤカーが運搬手段だった。それも一日かかりなってしまうだろう。
確かに汽車は通っていてもそれで物を運ぶというのは遠くからのものだろう。
近くは馬とかリヤカーとかになる
そうなるとどこでも街から離れれば村は遠くなるのである。
おそらく経済でもせいぜい相馬藩内とかの経済だった。
今のように世界まで経済は広がるのとは大違いである。
身近にあるもので暮らす他ないのである。
ただそういう暮らしをふりかえるとき何か牧歌的に平和な暮らしだったなと思うのも不思議である。
それはその当時の負の部分が見えずただ過去を回想するからそうなる
医者にもかかれず死んでゆくのは辛いことだったというのもそうである。


それでも何か昔の方が人間的な暮らしに見えるし人間も素朴だっただろうと見える
現代は確かに便利に贅沢できるのだけど人間はかえって欲深くなりそのかえって満足できない、欲が世界大に広がったともなる。
その欲が拡大した結果、原発事故が起きたともなる。原発はこの辺では欲を満たすものとしてあった。原発は金になるから誘致したのである。
そして回りは荒野となってしまったのである。





タグ:山里の詩
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2015年09月25日

日本軍の組織の上官と下士官は封建制から引き継がれたものか (アメリカは平民の国であり上と下を差別しなかった)


日本軍の組織の上官と下士官は封建制から引き継がれたものか

(アメリカは平民の国であり上と下を差別しなかった)


幕末にアメリカの船に乗った仙台の一藩士がその船の中で死んだ、そこで艦長以下すべてがその水兵を上官が下士官の弔いに自らでてきて悲しんでいる。このことにひどく感動した。それに比べると日本では足軽が死んだって、犬馬をと同じ扱いだった。
「故に上下の情日に薄く、却って彼に恥じること多し。」やたらややこしい礼儀作法などやっていてけどいたに上と下が信頼関係で結ばれているか、だからこそ、「緊急の節は、各力を尽くして身を忘る、。その国盛んなるもまた故あるなり」(樋口陽一-個人と国家)より


日本の軍隊は上官と下士官の差が厳然としていて封建時代の武士と足軽のような関係にあった。学徒出陣した学生も「お前らより弾丸の玉の方が大事だと・・」か言われたり日本軍には上下の信頼関係が希薄だった。何か上からの一方的押しつけが強制が大きかったのだ。日本軍が負けた原因はいろいろ言う人がいるし立派な上官もいた。ただ江戸時代からの日本人の伝統がなお生きていたのかアメリカ人のような平民的感覚はなかった。侍の世界は一面、格式とか礼儀作法がうるさい自由のない社会だった。これは江戸時代の否定的側面である。必ず社会にはいい面と悪い面がでてくるのだ。

結局日本軍の士気は実際は強制されたものであり上官と下士官の乖離は信頼関係がなかったことはその当時の体験者が語っているから間違いない、アメリカ軍の方が実際は士気が高いことが敗北の原因の一つだった。戦争とかには技術力だけではない士気がかなり影響している。それを示したのがベトナム戦争だったからだ。真珠湾攻撃からアメリカ軍の士気が高いし日本軍は実際は自主的に戦争に参加した人は一部の軍部出身者でありそれらは国民を強制的に徴集して奴隷のごとく戦争させたのである。
ベトナム戦争でアメリカが負けたのは「地獄の黙示録」の映画のようになんのために戦っているのかわからなくなった
ただ人を殺すだけであり人心が荒廃してジャングルで地獄化していったのである。

日本はやはり江戸時代の身分制が尾をひいていたのか?

新しく編成された戸籍のうち、昭和13年以降は華族、士族の俗称は戸籍に記
載されましたが平民の俗称は記載しないことになりました。


昭和十三年まで華族や士族が戸籍に記載されていた。明治から継続していたのである。
平民と記されなくなっても華族や士族は身分制として戸籍に一応残っていたのである。
足軽とかは江戸時代は人間扱いされていなかったのだろう。
そういう封建制的なものが昭和まで太平洋戦争でも継続されたのか?
明治維新では下級武士が革命の主体となったのは侍のなかでも身分制の影響があった。
下級武士は封建制の中ではいつまでも下級武士であり上には上れない仕組みになっていたそういう不満が鬱積してくると時代の変わり目に爆発して革命になる。

上官と下士官は身分制のようなものだったのか?
ともかくアメリカ人は平民の国であり貴族はいない、日本兵が死んで人間としてみんなで葬ったとなる。
一方でまた人種差別の国でアジア人差別はあった。それはこのときはそうした戦争になる前の話でありここでは日本人でも人間扱いされて同等の待遇を受けたとなる。
身分制というとき、貴族はヨーロッパやロシアには支配階級としてつづいていた。
日本は比較的そうしたあからさまな差別がない、平等の国とされてきた。
でも形だけでも戸籍に華族とか士族を残していたのである。

日本軍の敗因はいろいろ言われるがアメリカは平民の国でありヨーロッパやロシアや中東でもサウジアラビアなどは極端な一部の氏族が支配している階級社会である。
アメリカはただ金があるものが支配するが貴族はない社会だった。
物資が豊富だとかも敗因になったがその国の成り立ちとか国民がどういう仕組みの中で生きていたかも関係していたかもしれない
良く「天の時、地の利、人の和」が勝利の原因になるというとき日本は天の時がまちがっていた。
日本は戦争する力をもっていなかった。そして人の和もなかったから負けたとなる。
結局天の時というのも大事である。時代がはずれると英雄的な天才的な人でも活かされないのである。三島由紀夫が何か一人芝居で終わったように英雄になれなかった。
でも今の時期になると中国の台頭とかで集団的自衛権が通るように別なものになって時代を動かしたということもありうる。

人間はやはり時代の影響が大きいのである。その時代がまたどういう時代なのかというのもあとになってはみないとわからないのは人生でも同じである。
青春時代には青春時代にしかできないことがありその時期を過ぎるともうできなくなる
時代でもそうでありその時代にしかできないことがあり時代が変わると価値があったことでも意味のないものとなってしまう。
時代は常に変わっている、高度成長時代を生きたものはやはりその時代の恩恵に欲している、平和の中で生きられたということは戦争があったときと比べれば恵まれたことだったなぜならまた不穏な時代になりつつあるからだ。
今になると自分が自由に旅できたことは相当に恵まれていた。なぜなら今は海外でも円安でありしにくいし国内も外国人が多くなりビジネスでもホテルがとれないとなると相当に旅行しにくい時代になったと思うからである。
要するに旅すらその時代にあわないとしにくくなるということがある

何か社会は時代は常に変わるからその時できることをしないとあとはできなくなる。
ふりかえれば時間は限られたものだから余計にそうなる。
外国人が旅行するにはいいが日本人が旅行しにくい時代になったのである。
それは海外旅行熱になったことと逆の現象になったのである。
貧乏な国は観光で稼ぐというのが多いからである。日本も貧乏になりそれとにてきたともなるからだ。
ともかく日本のいいときは終わった。高度成長時代のようなことは起こらない
だから中国の脅威がましてくるしアメリカの安保条約でも見直される
つまり中国とかアメリカの力関係で日本は窮地に追い込まれる
朝鮮半島の悲劇が日本で起こらないと限らない、すでに沖縄は中国の属国化が進行しているとか言われるからである。すでに日本国自体が分断化されることが現実化しているのである。

この文は時事問題の深層に加筆したものです

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2015年09月24日

小高の老人語る戦争の話(続編)


小高の老人語る戦争の話(続編)

土手のテーブルのあるところでまた例の小高の80くらいの老人と話した。
あの人の話は面白いのである。
ともかく戦争の話を延々としている。戦争に参加したわけでもないのに戦争の話を熱ぼくしている。
もちろん自分の姉も従軍看護婦でシンガポールに四年いた話を延々と聞かされた。
それは死ぬときまで話していた。そことが一番印象に残っていたからである。
もともと話好きな人であったこともある。
話が面白い人と面白くない人がいる。それはその人の体験したものがどういうものだったか話からわかる
その人は工事関係でいろいろな所に行っていた。なぜか沖縄にも行っていたし横田基地でもGHQのもとでも働いていた。
そこで面白いのは鉄砲玉を盗んで帽子に隠してもってきたという。それは見つからずにすんだ。その鉄砲玉は高く売れたという、そのGHQお進駐軍に物がありそれを売ってもうけた人もいる。盗んだというのもそこに物があったからである。
当時の日本には何もない、敗戦で食べるものもない時代である。

そして進駐軍で秘密が厳守なので英語のできる人は別にしたという、英語がわかると中の様子がわかり秘密がもれるからだという。その人は英語がわからないから入れたと言っていた。
軍隊はもともと秘密厳守である、もれたら命にかかわるからである。
それで日本兵のことで隊長クラスの人が肺が悪くなり隊についていけない、その時どうするかというと殺すほかないという、なぜなら生かしておけば置き去りにしてもその人から軍の秘密がもれるからである。だから殺すことが規則なのである。
でもその隊長についていた部下は殺さずに放置した。
放置したらしんでいるはずだが死なずに戦後5年してその部下のもとにたずねてきたという、なにかベニヤ板の商売で成功して社長になっていたという。
その人がなぜたずねたかというと部下をうらんではいないし殺さずに放置したから助かったということでたずねてきた。
普通は殺すのが規則であり体調も知っていたからである。
軍隊はそれほど厳しい゛かわいそうだと思っても生きる死ぬかとなると人軍隊は全員の方を守らねばならない、根こそぎ一部隊が敵に通報されて全滅ともなりかねないからだ。
戦争というのはやはり現代の戦争でも戦国時代でも似通ったものはあった。

その老人はいろいろなことを話する。特攻隊のことを良く話する。原町の飛行場で訓練した特攻隊は銅像も立っていたという、肉弾なんとかで神扱いされていた。
霞ヶ浦に大きな飛行場がありそこから支店のように原町飛行場が作られた。
その人が言うにはガソリンがない、ガソリンがないという話だった。
ゼロ戦でもガソリンがないから片道飛行であり帰ってこれないということになる
ゼロ戦でアメリカの船にめがけて飛んでも当たったのはわずかだった
ほとんどは海に沈んだ、その前に海にわざわざ特攻隊は荷物をすてて軽くして逃げたのだという、島の方にも逃げたりとし特攻隊がみんな勇ましく死んだわけでもなかった
人間魚雷でもあれも逃げたらしい、というのはアメリカでも人間魚雷が来る前に丸太をその前に投げたらそれにぶつかって何の役目も果さなかったという。
つまり最後の日本軍の抵抗は巨象にねずみがたちむかうような状態になっていたのであるそれは物資や武器の面でもそうだった。ゼロ線でもトタンで作っていたヤハなものだった、アルミニウムなら柔軟性があるがトタンでないしヤハものだった。
アメリカのB29は二気筒四気筒エンジンとかで大型でありゼロ線は最初だけは効果があったがあとは歯がたたなかった。
面白いのは竹などで作ったゼロ線を並べていてあるようにみせかけていたという。
こんなことまでしていたのは何か戦国時代ともにている。

中国でも馬で輸送していて軍刀をもっていたのだから戦国時代ともにていた
中国人はまず馬の頭をねらって打ってきたというのもそうである。
馬のことはいろいろ書かれているし馬の戦死したので墓まである寺がある
それは野馬追いではないけど戦国時代とにていたのである。
そういう古風な戦争だったが実際は航空線になっているのだから時代が変わっていた
山本五十六は海軍の出て東郷平八郎に教えられて海には通じていたが飛行機には通じていなかった。
日本では戦艦大和とか巨艦を作ったがそれは東郷平八郎がバルチック艦隊を破って以来、伝統として日本が海軍が主力になっていたのである。
東条秀樹は陸軍であり山五十六とはあわず争っていた。陸軍と海軍は一致して戦争していない、争っていたのである。東条秀人を憎んでいたとか目の仇にしていたとかなる

そしてそうした日本軍の内部でも上官と下士官は対立していた。
下士官への上官の虐待は知られていてそのことで戦争終わってからも下士官が恨んでいたのである。だから戦後に北海道開拓に入った上官が下士官に殺されたということもあったという。戦争終わったとき上官は下士官をいじめていたから下士官の復讐を恐れていたのである。それほど下士官をビンタとかなんとか制裁するのが習わしになっていたからである。
上も下も組織的に団結してアメリカと戦うということも日本軍にはなかったのである。
日本は下士官の方が優秀だったというのは本当である。
日本軍が天皇陛下のもとに団結していたから怖かったなどはなかった。
アメリカはその時、日本のことを知り尽くして勝てると確信していたのである
その装備から海軍と陸軍の確執とか日本軍内部でもまとまらない軍隊だった。
上官は九州から沖縄に行ったけど島に逃げてまた鹿児島に帰ってきたという
沖縄本土にいたらアメリカ軍と戦うから他の島に逃げたのである。
日本の上層部は指揮官や上官はだめだった。逃げる算段をして戦っていた。
下士官は返って優秀であり良く戦ったとなる。

戦争のことを語れば調べればきりがない、自分も姉が従軍看護婦だったからそのことを死ぬ直前までしゃべっていた。その戦争がまさに青春だったからそうなる
だからそういうことは別に認知症になっても忘れなかったのである。
その老人も何か自殺した人がかなりいたといっていたが病院でも苦しくて窓から飛び下りる人がいたなど自殺した人がかなりいたのである。
それは戦争がどれだけ過酷だったかを示している。そんな病院でどんな手当てをしていたのかもわからない。まさに地獄だったかもしれない。
ただ従軍看護婦は人を殺したりしないからいろいろ語ることができた。
ともかく戦争は今でも80くらいでも少年のとき戦争していたし親から戦争の話を聞くからまだ生々しいのである。自分も聞いているから遠いものではない
でもその次の代とかなると直接経験した人から聞けなくなるから遠いものとなってゆく
80才くらいの人とでも自分は貧乏な時代でも経験しているから話は通じる。
同世代はやはり話が通じる。戦後十年の炭とかの燃料の時代の人とは話が通じる。
でも戦後生まれでも十年くらい年が離れるとまた違ってくる。
高度成長時代になってくるから貧乏な時代でなくなってきたからである。


ともかく小高の人でも仮設に住んでいる人の問題は何もすることがない暇で困っている
それでパチンコとかギャンブルに行っている、日がな何もることがないというのも結構楽じゃないだろう。
ただこれまでも老人はパークゴルフなどをやっていた。
老人は昔を語るのがある意味で仕事でありそれが郷土史の一端になっている。
自分は貧乏な時代も知っているし10年くらいの年齢の差があっても話が合わせられる
でも戦前生まれと戦後生まれの差はある。
でもそんなに差はない、ただGHQとかに実際にかかわっていたのはその時代の人だと思った。進駐軍の時代が戦後あったから必ず話題になることだったのである。

それからその人は仙台に行ったら黒人が百人くらい自衛隊の服を来て日本人と一緒に訓練していたという。百人は多いと思った。アメリカ軍には黒人が多い、貧乏な人は兵隊になるということもある。
集団的自衛権が適応されればますますこうしたことが普通になる。今までもこうして日米は協力してきたからである。
百人の黒人を見るということはこの辺ではなかなかない、黒人が色で目立つのである。
仙台には外人が多いというのは本当である。通りでもそうだしどこでも外人がいる国際都市になっている。
そして小高の人が原町に家を建てたがそこで働いていたのは中国人だとも言っていた。
建て売りだと組み立てるだけだから中国人でもできるのだろう。
一週間くらいで組み立ててしまうからである。このことからもすでに人手不足が深刻なのである。この辺でも人手不足で介護であれ工事現場であれ不足して復興が進まないとういことがある。これは今日本の大きな問題なのである。


タグ:戦争の話
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2015年08月22日

特攻隊の死(詩) (70年過ぎて歴史となり評価されるー明治維新との相違)


特攻隊の死(詩)

 
(70年過ぎて歴史となり評価されるー明治維新との相違)



特攻隊の死


未来ある若き命を
強いられて御国のために
父母のためにと献げられぬ
何故と思う間もなく
御国の危機に献げられぬ
あたら若き命を
戦果ともならずに
特攻隊は敵艦めがけて
一心に砕け散るかも
その責は誰にありしや
その若き兵を誰か責めらる
ただ御国の危機に捧げれぬ
飛び立ちて突撃する心よ
神風特攻隊は武運はかなく消ゆ
ああ 時代の重みよ
戦いは敗れ同胞は異国の土に
はや70年の歳月は過ぎむ
やがてその日も忘れられむ
御国の魂と靖国に祀られるも
その命は報われざるかな
何故に若き命を
今は飽食にして国を思う若者なし
ただ享楽を求めて惰弱となりぬ
今非戦を語るは楽なり
しかしその時代の重みよ
三百万の命の代価は何や
未来ある若き命の代価は
その報いもなしや悲し
国難の明治は語られしも
太平洋戦争の死は無にされむ
何故の同胞の死なるや
今なお知らず70年は過ぎぬ
旭日に富士嶺高く日本の誠の心
平和と繁栄の日の70年
その果実は今美味とならむ
しかしまた危機の時代は来れり
国難はまたカルマと襲いかかる
未曾有の災害、経済の難、外敵の難
日本人の心は乱れ相争う
ここに故郷は消失して原野となり
あたかも戦後の焼け野原なり
国難の時勇み立つもののあれ
日蓮の激しく叱咤する声のあれ
そは衆の声にあらず一人立つ声なり
予言者の声にて衆の声にあらじ
衆より激しく責められしものの声なり
ああ 70年の歳月は過ぎぬれ
一時代はまた過ぎて次なる時代
日本の誠の栄はこれよりなりや
その前にまた国難の時は来れり
日本人よ心して立ち向かうべしかな



70年過ぎたときこれは大きな時代の区切りとなる。明治維新から70年で太平洋戦争でありそれから70年がまた過ぎたのである。
70年後とに大きな変化がくるというのは本当だった
津波原発事故とまさに自分の住んでいる場所がこんな大変化をする場となるとは思わなかった。
故郷を消失するなどこの辺が一番の変化に見舞われたのである。
これは一地域の難ではなく国難なのである。日本全体に及ぶし世界にも及ぶ
原発の災難はここだけのものではない世界的なものだからである。
危機は国内だけではない国外からも起きてくる。
個人的にも悪いことは必ず重なるのである。良いことも重なるのである。

戦争で一番印象的になったのは神風特攻隊である。
それぞれが神風特攻隊に一員としてイメージしてその突撃に向かう姿を思い浮かべたらどうなるか?
それは空恐ろしいものではないか?20くらいで死んでゆくものの気持がわかるだろうか?
誰もその特攻隊を責められない、それを強いた上の人は大人は責められる
特攻隊で死んだ若者は責めることはできない、ただ国の犠牲になったとのである。
非戦を言うのを今になれば簡単であり楽である。
その非戦も命をかけてやるとなるとまた別である。
人間は何でも命を書けてやるとなると真剣にならざるをえないのである
ただ命をかけたとしても的を得ないと無駄だとなるのも確かである。
無闇に行動しても戦果も成果もないのである。

いづれにしろあれだけの戦争になるともう歴史としてあり歴史の評価になる
だからその評価には時間がかかるのである。
明治維新との相違は明治維新にはいろいろな人物が現れて語られることが多いのである。その評価はまちまちでもそれだけ人物が出て語られることが多いということは意味あるものだとされる。
そこで様々な人間的葛藤があり人間の物語となっている
太平洋戦争でもそういうことがあったのだが余り個々人について語られないし英雄も実際は生まれていない、ただまだ太平洋戦争の真実は解明されていない
明治維新はいろいろ人物が生まれ人間の物語となっている
太平洋戦争は300百万人死んでも何かそうした人間の物語か欠けているのである。
だから詩になりにくいしもちろん叙事詩的なものであったが詩にならないのである
ただ300百万人が死んだという数だけが巨大なものとして印象づけられているのである。
近代の戦争は国民戦争であり世界的にそうだったのであり数の戦争だったからだともなる


特攻隊にしてもその葛藤はあまりにも若いから父母への恩とか未練になっている
明治維新は若者でも20代でも父母というより国を憂いて行動していた。
明治維新も若い人が活躍したのだが太平洋戦争は若い人は大量に死んでもそれが明治維新とは違っている。
上から強いられた死であり犠牲の死である。
司馬遼太郎が明治維新をあれだけ魅力あるものとしたのはそこに人間の物語があったからである。その見方も偏っていてもそこに人間的なものを感じたから小説にもなった。
太平洋戦争ではそうした人間の物語に欠けているのである。
ただ無惨な大量の死があるだけと見てしまうのである。
それでも特攻隊の死は太平洋戦争を象徴したものとして今でも訴えることには変わりない最後の戦争の華だといえば華だが未来ある若者の無情な死だった。
いづれにしろ太平洋戦争も歴史化するとき簡単には評価したり語られないものである。
明治維新とは違い何か人間臭いものがないことが物語になりにくいし意味をもたせられないのである。


歴史となるとやはり評価するには時間がかかる。要するに何か芸術とかも理解するにもまた自分でも創作しているが時間がかかるものである。
ルネサンスとかはやはり生まれるにはそれなりの時間の蓄積が必要である。
ルネサンスはイスラムの歴史とかヨーロッパの歴史の集積があって生まれのである。
歴史の集積がないところにルネサンスは生まれようがない
ローマの歴史とか中世の歴史の集積があって生まれたのである。
日本にもその歴史がありその集積があり歴史が作られる
日本の70年の平和と繁栄の蓄積はこれから華開く、それは自分でもそうだった。
何か詩でも書けなかった、でもやはり人間一個人でも蓄積したものが華開くの時間がかかる
旅にしてもまず旅することでありそれは行動なのてある。そのあとに内省して芸術として創作するのである。
戦争というのも自分が参加しないにしろその壮大なの歴史が内省されるのに時間がかかるのである。
だから太平洋戦争でも70年過ぎていろいろ評価するようになるがそれは以前として一つの答えなどないのである。
明治維新との相違は欧米であれイギリスであれ常にそういう海外の勢力に地抗しつつ日本の独立の道を切り開いたのである。


太平洋戦争では日本自体が大敗してうちのめされ独自の独立の道はなくアメリカの隷従があるのみだった。そこが日本人の魂まで喪失した。
明治維新はまだそうした隷従はなく日本人の魂は残っていたのである。
それは大和魂というものでもなく武士の魂かもしれない、何か日本独自の魂が残っていて改革されたから違っていた。
戦後はそうした日本人の魂が失われてしまった。ギブミーチョコレートしか物質欲しかなくなっていたのである。
ただそれでも平和と繁栄の70年は無益ではない、そこに蓄積されたものが華開くのが70年後だったともなる
もっとスケールを大きくすればあと百年とか二百年で日本の時代、ルネサンスが来るというのもそうかもしれない、日本はまだ本当の栄、華が開いていないとなる
つまりこの明治維新からの蓄積は技術と物質とかが優先された。
それが戦後も高度成長時代とつづいてきたのである。それも一段落したとき文化の華がルネサンスが起きるのである。
だからこれからは内面的なもの文化的なもので日本は日本の歴史の蓄積で華開く時代だともなる。
ただ経済的衰退とか内外が混乱時代となるとブレーキがかかってくる。
それも乗り越えたとき日本の黄金時代がやってくるとなる

あたらの意味はあったらなである。まさにあったらなという思いがにじみでる言葉だったのである。
いづれにしろ人間にはいろいろな葛藤がつきものなのである。
その葛藤さえ許されなかった時間がなかったのである。
時間があったらな・・・ともなるのである。
それは今だってそうである、人生をふりかえるとき時間があったらなと体力があったらなとか老いるとそういうことばかり考えるのである。
老人になればそれが普通だけど20代ではそういう時間も余裕もないのである。


タグ:特攻隊
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2015年08月05日

戦後経済十年の不思議 (自給自足で外から入る物がまれな時代)



戦後経済十年の不思議

(自給自足で外から入る物がまれな時代)


戦後十年くらいの経済はふりかえると不思議である。小学生時代まで経験したことは今と比べるあまりにも違っていた。
ただ子供のとき経験したことと大人になって経験することは違っている。
子供のときは貧しくてもそんなに貧しさとか感じないということもある。
その頃確かに貧しかったのだが貧乏でいやだなとかみんな感じなかったろう
みんな同じような暮らしをしていたからだ
ただ違っていたのはかえって農家の方が豊かだったのである。
食料が自給自足のような時代は自家生産している所が豊かになる
農家ではまず鶏を飼っていたから卵が食べていたし鶏の肉も家で殺して食べていたのである。納豆までも自家生産だったしなんでも自給自足が基本だったのである。

こういう自給自足生活は江戸時代から戦前と戦後十年くらいはつづいたのである。
燃料は炭であったから山の方では炭焼きをしていて街に供給していた。
水道はなく裏の小川で洗濯していたし料理は竈でもあった
トイレは離れにありその糞尿は近くの農家の人が肥料としてとりにきていた。
それは百万都市だった江戸でも同じだったのである。
便をふくのは新聞紙だった、新聞は何かいろいろ紙として役にたった
今のように石油から紙とかいろいろなものを作れていないから紙も貴重だったのである。勉強でも鉛筆は相当な貴重品だった、それは戦前の話になるがもう手でつかむことができないほど小さくなっても使っていたのである。
物というのはあらゆるものが貴重だったのである。


自分の家では最初駄菓子屋のような子供相手の店をしていた。
新聞紙は母が毎日袋を作っていた。お菓子でもなんでもばら売りだったからである。
酒でも一合とかを買いに行かされていた。
何か買うとうしたら隣近所にある店を使っていた。
魚屋があり豆腐屋があり酒屋があり駄菓子屋があり呉服屋があるかである。
そして確かに鉄道が通っていて外から物が運ばれてきていた。
それは実際は鉄道で多くのものが運ばれていたのかどうかわからない
駅前が栄えたのは鉄道があったからということは確かである。
それで駅前旅館とか駅前に自転車屋があるのは自転車が鉄道で運ばれてきていたからである。
それから引き込み線がありそこで荷物を運んでいた、縄屋とかあるのは縄が梱包するのに必要だったからである。

ただその時の経済は外部から入ってくるのは少ない、例えばバナナは戦後十年くらいまで普通に食べいない、バナナの叩き売りとあるのはアキイチとか祭りとか特別の日に売っていたからである。
自分の家では父が病気になったとき仙台からバナナを買ってきたのである。
この辺ではバナナは常時売っていなかったし高価なものだったのである。
まず外国から入るものは都会では一部あったにしろ輸入してまで食料が入る時代ではなかった。
記憶としてはミカンは食べていた、ミカンは東北ではとれないから鉄道で運ばれてきた
なぜならその時トラック輸送などはあまりしていない、鉄道が遠距離輸送をになっていた

戦後十年くらいは物がないから物があれば売れたという時代だった
でも野菜とか米とか食料は国内というより地元のしか食べていないだろう。
自分の家で店をしていたとき、姉は力があり自転車で野菜を近くに買いに行っていた。
自分は子供のとき自転車で農家に卵を買いに行っていた。
当時の店は何でも地元で生産されるものでまかなっていた。
自転車というときそれは一生使うものでありいつも磨いていたのである。
姉は保健婦であり自転車で一軒一軒回っていたのである。
こういう自給自足の経済というのが理解できなくなっている
例えばさらに鉄道が通らない、山間部でこの辺だと葛尾村(かつろう)とか飯館村などがあるがそこではどんな暮らしをしていたのだろうとなる
まさに江戸時代からの継続で自給自足になる

家事にしてもその頃電気製品は一切ない、家には裸電球一つがどこの家でも同じだった。自分の家はトタン屋根でいつも雨漏りがしていた。洗面器を並べて雨漏りの水をためていた。その時道は舗装されていない、土ぼこりのたつ道だった
ただわからないのは野馬追いのときその土の道は車が来たのを数えていた
そのとき車は確かにあった、それはバスが中心だったかもしれない
自家用車をもっている人はその時まだほとんどいないだろう。
でもそんなに車が来ていたというのも不思議である。
バスと鉄道が交通手段だった時代である。
リヤカーは物を運んでいた、それで農家の人が梨を積んで相馬市まで売りに行ったというのを聞いた。原町や中村(相馬市)くらいは物の売り買いはあった。
明治時代には天秤棒で川俣まで鰻を鹿島の人が川俣に売りに行ったという話を聞いて信じられなかった。天秤棒で歩いてそんな遠くまで行けるのかと思った。

それは江戸時代とまるっきり同じだったのである。
でもその範囲を越えると物の売買はむずかしくなる
今になるとそういう自給自足の暮らしが理解しにくくなった
人間はもともとそういう自給自足の暮らしが江戸時代から戦前戦後十年くらいまでつづいていたということが今になると不思議なものになる
今や大工すら地元で家を建てるというのではなく建て売り住宅で大東建託とかが
この辺では津波原発事故で十棟くらい建っているのに驚く
それはみんな会社の人がきて組み立てているだけである。
自給自足というときもともとは地元の資源を活かして地元の人が働いていたのである。


現代は国内だけではない、グローバル経済だから外国から当たり前のように食料でも入ってくる。でもそんなに外国から食料まで入ってくることに違和感を覚えることがある
もし何か天候異変とか戦争とかがあり食料が外国から入らなくなったらどうなるのか?
そういう不安がある。東京ではもう食料は国内産でなくてもいい安いのが外国からいつでも入る、日本の農業が金がかかりすぎる、都会の人間が税金をとられすぎるとかなる。
自給自足の経済だったら外から入らなくてもなんとかやっていけるという安心がある。
これだけグローバル化する経済は誰も理解できない
カナダの国債がいいから買ったがカナダは石油資源があるから格付けで世界で一番いいとか言われるとそうなのかとなる。そうしたら日本の国債を買う人は少なくなる
これもどうなっているんだろうとなる。金はグローバルに流通している。
だから金持ちは外国に投資して危険回避するためにあずけている
こういうグローバル経済広域化経済が社会を根本的に変えてしまったのである。


なぜこの辺で原発事故で人が住めなくなった地域で避難した地域が沖縄から北海道までになったのか?
普通ならイワキとか相馬市とか南相馬市とか新地くらいまでならわかる。
こんなに全国にちらばったのはなぜなのか?
その市町村で受け入れるということもあるが何らか親戚関係を頼って避難したということもあるだろう。
今の婚姻は遠くになるのが当たり前であるからだ。
そしてあらゆるものが家を建てるにしても大東けんたくとか建て売りであり外部から来ている
だから自給自足とはあまりにも違っている社会なのである。
それがどういうふうに影響するかというと前にも書いたが金さえあればその住んでいる場所にこだわらない、金さえあればどこに住んでもいいとなる


川内村とかでは不便な場所だから補償金もらって郡山市にすんだら帰りたくないとなったのもわかる。
こういうふうに何か自給自足経済ではない、金があれば九州産の食べ物であれ外国の食べ物であれ買って暮らせばいいとなれば地元のものにこだわる必要がない社会である。
そうなると一億円もらった他で暮らせばいいなってしまい避難者は帰らないとなり
町や村が簡単に解体してしまうということがあったように思う。
また自給自足の経済でこんな事故が起きたらそれこそ水も土も木まで汚染されたのだから壊滅した。
不思議なのは別に飲み水は金で外部から買って使っているし放射能に汚染されないものを外部から金で買えばいいとなる。
ただ補償金はいつまでももらえるものではないからそれが打ち切られたら金が入らないし自家生産できなければお手上げになってしまう。


ともかく今を知るには今だけでは今がわからないのである。
そこに昔を過去を歴史をふりかえり今が何なのかを知るのである。
例えばなぜ結婚しない人たちが増えたのか?特に男性に増えたのか?
それはフリーターとか派遣とか若者に経済力がないからだとかいろいろ言われる
それも理由だが今は一人暮らしでも結婚していないくても家事が楽なことも原因かもしれない
自給自足の経済になると家事は大きな仕事になる
洗濯でも手で洗っていたし食事の用意だけで大変な手間がかかることになる
それを男が一人でやるということはかなりの労働になってしまう


だから戦前では中産階級ですら二人の女中を雇っていた。
家事をするたげでそれだけの手間がかかったからそうなった。
今は機械化しているし外食も便利だし金はかかっても手間はかからないのである。
このことは一人くらしでも楽であり結婚しなくてもやっていけるとか思うようになる
自分も七年間家事をしてきたけど今母を施設に三日ほどあづけたら楽である。
自分一人のことだけなら本当に楽である。
まず朝はパンだから手間がかからない、昼間だってちょっと外食すればいいとかなり
夜は多少料理をしても他は楽である。
だから今や結婚して外で働く主婦が多いが主婦の専業の方がいいというのもわかる
つまり昔のように手で洗濯したり何でも人間の力でしている時代とは違う
みんな機械でやると主婦は楽である。


とにかく戦後十年くらいの子供時代の経験は貴重だった
あういう生活があったということが今になるとあまりにも今と違いすぎる
その対比で現代が何なのかとか今回の原発事故を問いなおすことも必要である。
ただ自給自足生活というのが理解できなくなった。
戦後十年とかさらに二十年とか三十年とかなるともう全く経験していないのだから理解できなくなった。
そういう生活もあったということを知る必要がある
そして現代の生活を見直すと原発事故がなぜ起きてこんなふうに故郷にも住めなくなったのか、こんなに外部頼りの生活でいいのか?こんなに便利で金に頼る生活でいいのか?
何かそういうことを考えるには昔を知る必要がある





タグ:自給自足
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2015年06月12日

今日一日の実り(詩) (労働に充実感がもち得ない時代)


今日一日の実り(詩)

(労働に充実感がもち得ない時代)



父の手は手というよりもむしろ大きな馬鋤だ
合掌することもなければ
無論他人のものをかすめとることも知らない手
生まれたままの百姓の手
まるで地べたの中からでも掘り出した木の根っこのような手だ
・・・・
いまもその手は骨と皮ばかりになって
なおもこの寒天のやせた畑地を耕している
ああ 自分は何も言わない
自分はその土だらけの手をとっておしいただき
このところではるかにその手に熱い接吻をする
山村暮鳥(父上のおん手の詩)



今日一日の実り

今日一日実りのあれや
多くのものがあふれ
今日も我はスーパーに買う
金があれば何でも手に入る
物なら何でも買える
しかし何か実りなきは
何か充たされるものなきは何故や
食べれば確かにうまく腹を充たす
とはいえ何か充たされぬは何か
ただ買いて腹を充たす
今日一日の実りのあれや
田畑に労して実りしもの
その住む大地から実りしもの
それを食べてこそ実りのあれや
今日一日腹は充たせど心は虚し
そのもののいづこよりきて
いかにして作られしものか知らじ
パートに働きて時給をもらいて
そは充たされしや
どこに働いても賃金のみで計られ
金が実りのすべての基準
今日一日いくら稼いだか
それが今日の実り
現代の仕事は無数あっても充たされない
ただ消費されることで充たされる
腹を充たしても心は充たされない
それでみんな仕事が嫌になっている
しかたなく金を得るために仕事している
金がたりない、金がたりないと
毎日不満を言っているのが現代
これほど物があふれても豊かにならないのはなぜ
そこに現代の心の貧困がある
いかなる仕事も本当に今日一日の誠の実り
それがなければ虚しいとなる



おそらく「豊かさの貧困」でも様々なことで現代文明は批判されてきた。人間はアトム化されるとか人間が数化されるとか人間が人間でなくなる、それでアウトサイダーとなり人間回生を目指したのかニーチェとかミラーとか上野霄里とか他の思想家でもそうなった。それは過激となったのは天才だったからそうなった。
天才は普通の人より生きるエネルギーが大きいからそうなる。
静かな思想家でもピカートなどはろはりアトム化した文明を「沈黙の世界」で示した。
それはそうした高度の思想とか文学でなくてもいろんな方面からの批判があった。
経済思想からもあったのが「豊かさの貧困」であったり他にそういうこと様々に語られてきたのである。その本も膨大になるから読みきれないのである。
結局本はいくち買っても読んでも自分のものとして書かなければ読んだともならなかったのである。
現代の消費社会はまさに消費するというときただ費やすという消極的なものとなったからだろう。
今でも生産するというときは積極的なものとしてある。
人間はただ消費しているばかりだったら何ら生産性がなかったらあらゆるものが虚しいとなる。
この世の中今はあらゆるものがそれは物だけではない、情報でも一方的に消費するだけなら虚しい、自分なりに考え自分で評価すれば生きたものとなる
だから何でも受け身では精神は充たされないし虚しいとなる
テレビの情報の奴隷になっている人たちもそうであり自ら考えないで生きている人たちも奴隷になりやすい。

いづれにしろ現代は何か労働そのものが拒否される、それはなぜなのか?
労働は嫌悪されているしなるべくしない方がいいとなる。
それが生まれたのがフリ-ターでありニートとかである。
労働はその場しのぎであり一時の賃金をえるだけのものとなる
労働の形態がそうなってしまった。労働はWORK(作品)ではない
JOBでありその場しのぎの一時的賃金を得るものにすぎないのである。
そういうふうに労働があるとき社会全般も荒廃してしまうのではないか?
なぜなら社会の基本は労働にあるときその労働が嫌われ労働しないことこそが一番いいことだとなっているからである。

現実に労働は機械にさせるべきで人間は労働しない方がいいという社会になっている
だからあらゆるものが機械化して雇用すらなくなってくる
その時人間は不用なものとなってしまう。
その時人間を山村暮鳥の詩のように讃歌することなとなくなる
(父上のおん手の詩)のようにその手はもうない
それは機械に置き換えられてしまったのである。
もはや働くの機械であり人間ではないからである。
そういう社会はまたどうなってしまうのか?
人間の生きる充実感はどうなってしまうのか?
人間はお払い箱となり頽廃してしまうのではないか?
それとも労働から解放されてパラダイスになるのか?
この辺では補償金で毎日パチンコだとか遊び暮らすようになった。
飯館村の人がギャンブラーになったとかもそうである。
みんなか知識人でもないから本など読まないのが普通だからである。

お前はどうなんだというとき、自分は旅に時間を費やした。その他学問とか芸術に費やした。その追及したものをプログなどで発表している
自分自身が流れ作業ばかりして日銭をかせぐ仕事ばかりだから労働を嫌悪して環境に恵まれていまになるまでせずにすんだのである。
そこに何でもそうだがプラスマイナスがあった。
いろいろな欠如したものも生まれてこの七年間は介護や自分の病気で苦労してきたのである。
現代の文明の問題は「今日一日の実りがない」ことではないか?
仕事をしてもそれを感じられないことではないか?
地球の裏側の人のために働いてもそういう労働自体に喜びを充たされたものがあるのか?
そういうグローバル経済というのももはや矛盾が大きくなり限界に達しているのではないか?
そんな遠くの人は何か困っても助けには来てくれない、確かに物は来ても助けてはくれない、実際に原町でも何かあったら家にきてもらいたいができなかった。
「遠くの親戚より近くの他人」は車社会になっても通用している。
車で原町かち来るのも手間なのである。グローバル経済の弱点は肝心なとき近くのものに助けてもらえないということにもあった。
それがアキレス腱なのだがまた反面この辺で津波や原発事故で働き助けたのは外部の人であり内部の人は遊んでいたという矛盾がある。
それは広域社会化しているからそうなった。
だからまたすべてが広域社会化したから悪いというものでもなかった。
すでに自給自足の村社会にはもどれないからである。

とにかく何か仕事の充実感が得られないというときそこに現代特有の問題がある
消費社会であり生産社会ではない、生産しても働いても充実感がない
例えば農家なら自給自足でもその働いたものは直接に家族とかが食べていた。
売るために働いて作っていないということが労働の充実感をもたらしていた。
そして父上のおん手の詩のように感謝していたのである。
いまスーバーに行って物を買って感謝している人などいない
ただ高いか安いのかうまいのかとかみているだけである。

でも名取の閖上(ゆりあげ)から来たシジミを売っていた。
あそこも津波で大被害を受けたからシジミもとれるようになって復興しているのかと感じた。他のシジミはどこから来るのかもわからなかった。
前はこの辺でも川でシジミがとれたし自分もとって家族に食べさせた。
それは大きなシジミだった。売っているのはみんな小さなシジミなのである。
そのシジミをとっていたとき何ら苦痛はなかった。

閖上(ゆりあげにとれるシジミをスーパーに買いて思いぬ津波の後に

それよりそれは楽しみだったのである。今では野菜でも米でも作るのは家族のために作るだけなら楽しみになる。機械でするしそんなに苦労ではないからである
それでもほんのわすかの野菜しか作らない人は毎日草取りだ肥料だ気候がどうだこうだと言っている。
だから農業というのは本当に手間でありかえって肥料だとかその他種でも金がかかるものなのである。
だから趣味としてやるのはいいがとても売るとなると全く違った労働となるのである。

結局変だが自分の今日一日の実りは風を切って軽快にロードで走ったことだった。
それは自分の一生すらそうだったとなる。何か仕事して充実感を得た経験がないのである仕事が多岐にわたりパーツ化すると仕事で充実感をもっているのは一パーセントくらいにしかならないのでないか?
そのことが現代文明の頽廃であり深刻な問題なのである。
ホイットマンであれ山村暮鳥であれあれほどすべてを賛美できたのはやはり時代だった。人間の労働が活きていて消費社会ではない自ら働いて労働自体が充実感をもたらしていたのである。だから現代は労働より遊びに重点が置かれる社会でもある。
ギャンブルとかでなくてもレジャーが盛んになったのもそのためなのである。



タグ:仕事
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貧乏が賛美されていた明治から戦前のこと (山村暮鳥の詩の不思議)


貧乏が賛美されていた明治から戦前のこと

(山村暮鳥の詩の不思議)


現代の生活は定着的農耕民的生活から離れている。江戸時代なら8割が農民であり生活も回りにあるものでまかなったからそんなに移動はしない
隣村にゆくのにも見知らぬものとして警戒されていたし民情が一致しないと飯館村大倉村と佐須村は明治以降になっても合併しなかった。
現代の生活からするとどうしてそういうことができたのか不思議である。
地球の裏側から物が入ってきてその物が入らないことを心配しているグローバル経済の時代である。
現代とは空間感覚が急速に拡大した。
文明とは空間を技術でもって交通でもって縮小することでもあった。
だから明治維新の象徴が鉄道になったのである。
鉄道によって日本という関所で閉ざされた空間が敗られ一挙に日本の国土意識をもったとなる。
切符一枚で日本全国に関所も通らず行けることがなくなったからである。
その江戸時代から明治の変化も大きかった
だから東京で鉄道でも見知らぬ人たちが乗り合わせることに違和感をもった
つまり見知らぬ人がそんなに一緒にいるということがありえてかったのである。
人間は常に見知った人たちと生活していた。
それが江戸でも長屋でもそうである。長屋でも人は移動しなかったのである。

江戸時代から明治に変わるとき空間意識も時間意識もまるで変わってしまったのである。ただ明治昭和戦前戦後十年とかとまだ生活的には江戸時代の延長ということがあった。
なぜなら燃料も炭とか薪であり時給自足的な生活だったからである。
そして農民的社会であり工業社会でも情報社会でもない、その土地土地に根ざした生活だった
一番驚くのは大正時代でも人口が6000万だったということである。
これくらいの人口だと日本の自然は十分に今より余裕があり残されていたのである。
それでけ山村暮鳥はホイットマンのように都会までありあらゆるものを賛美していた。
機械文明もその時は新しいものとしていいものだったのである。
そこに否定するものはなにもなかった不思議である。ガスタンクまで賛美している
その時文明は全面的に賛美するものとしてあった。
科学とか技術が新しいもの作り出してゆく未来と感じられていたのである。
明治から大正時代でもその時は日本の新しい文明の発展時代でありそれは何でも良いものとして受け入れられていたのである。
アメリカでも日本と同じように農民主体であり農本主義でありそこを基盤にして機械文明が発展してゆくはじめでありホイットマンも何でも賛美していたことは同じだった。
その時ソーローのように文明を批判していたのは例外的だったのである。
そういう田園を破壊する予感はあっても全体的にはそうはなっていなかったのである。

そして山村暮鳥の詩の特徴はまたその当時の詩の特徴は貧しさを賛美していることである貧しさの中になにか人間として尊いものを感じている。
現代は貧しさは最も嫌われるものでありふれたくないものであり貧しさ隠す時代である。だからボロを着ている人もいないし何か飢えている人などみかけない
生活保護制度もありそこまでにはならない時代である。
ただ現代の精神的貧困さはかえって車がないとか立派な家がないとか教育でもいい大学に入っていないとかそういうことで競っている
いい車をもっていない人は見すぼらしく見えるから借金してもいい車をもとうとする。
現実に前の親戚は事業を起こして失敗したがそういう見栄を維持するために借金していた他でも借金していい家を建てた人が多いのである。
だからいい車をもっていないとかいい家がないとかそうしたもので差別化される
教育でもいい大学に入っていないと馬鹿にされるとかなる
貧しい時代は食べるのが精一杯な時代はそういうことがなかったろう。
要するに江戸時代でもその後明治から戦後でも十年くらいは大方はその日暮らしではなかったか?

自分の家では一時部屋を貸していたみたいだ。その時毎日のように家賃をとりにいったと聞いた。これもありえないことである。一カ月に一回が普通である。
毎日となると手間になるからめんどうになる。
ではどうしてそうなったのか?それは日銭稼ぎでありその日暮らしが多かったからだろう酒でも升で子供のとき買わされたことがありその頃買い置きというのはできなかったのだろう。
そんな金をもっていなかったのである。
つまりその日暮らすのが精一杯だったのである。
今の時代は貧乏でも何かしら貯えのない人はいないだすろう。
ただ貧乏な人はその日その日を暮らせばいいとしている人はまだいる
蔵がある家はその時金持ちだったのだろう。
何かしら米でも貯えておけたからである。何も貯えられない人がほとんどだったのである病気になったらどうするのかといったらろくに医者にかからず死ぬ他なかったのである。今のような手厚い医療も介護もないのである。そんなことにかける余裕もなかったのである。
だから今の生活と比べるとその相違があまりに大きいのでそういう生活が理解できなくなっているのだ。

今の生活は今を見てもわからない、過去と比べると見えてくるのである。
今の当たり前のことは昔は当たり前ではない、特別恵まれたことだった
昔は三食食べられて眠る場所があればいいとか考えていたのだろう。
それ以上の贅沢は望みえようがなかったともなる
母が紡績工場で働いていて30分の休みに遊びたくてはや食いした女性が体を壊して死んだというのは信じられない、でも30分は短いから食べる暇もなかったのかもしれてない
そういう労働環境だったともなる
昔はなんらかどこでも働きづめの一生だったのが多かったことは確かである。
現代のように三分の一が働かない時代だとなるとこれは天国かもしれないとなる
自分などは恵まれてその天国を生きたのかともなる。
だから現代人の若者でも不満は過去に比べるとかわいいものなのかもしれない
もちろん時代時代によって苦しいことも楽しいことも変わっているから一がいにははかりえない
でも過去と比べれば現代は恵まれた時代なことは確かなのである。
ただそこで失ったものがは確実にある

なぜ貧乏がその時代に賛美されていたのかということである。一種の清貧というものがあった。清貧というのもは貧しさのなかでも何か精神的には美しいものを維持しようとすることである。
現代ではそういうことはない、貧しいということは落伍者でしかないのである。
現実に水道でも電気がなければ生活できないというときその最低限の出費でも金がかかるのだから金がないということは生活できないということに通じているからである
山の清水を井戸の水を飲んで暮らせばいいとはならないからである。
だから清貧などという暮らし自体が成り立たないのである。
それで人間はかえって文明的便利な生活の結果として精神的には貧しくなったともなる
貧しさの中に人間的精神的な高貴さを維持できるものがありえたが今はありえないからである。
上野霄里氏は戦前生まれだから「貧乏の哲学」をもっていた。
だから貧乏な生活でも精神の高貴性を維持できていた。
でもあのような貧乏をもう強いることはできないのである。
旅をしても一杯の水を飲むにも金がかかるからである。
自分は別に車がなくても今は生活できるし車がなくても貧しさは感じない
そもそも車は自然を感じないから嫌なのである。風も感じないし日影をゆく自然も感じない、だから自然を感じるために自転車に乗っている
ただそれも車社会では贅沢なことをなのである。
日常生活では車をもたなくても車の恩恵で暮らしているからである。
ただ車をもっていないとなると現代では一段と低く見られる
車ももてない貧乏なのかと見られのである。
むしろ自転車で生活していること自体豊かなことだと自分では思っている

軽快にロードで走る夏雲雀

やはりロードだと電動自転車と違い早し気持いいとなる。電動自転車ばスピードは出せないからである。
ともかく山村暮鳥の詩はその時代を反映したものであり今ではありえないことを詩にしている、それはまた現代で失ったものがいくら貧しくてもあったのである。
だからそういう昔にあったものを見直す作業も必要である。
それより今の時代はかえってそうした昔のことをもっと知るべきだと思う。
何を得て何を失ったかを知るべきである。
それは原発事故などで故郷まで失った悲劇を考える手助けになるのである。
昔の詩歌は貧しさを歌っていてもそれは現実から生まれていた。
山尾三省は作られた文明という豊かさの中に作られた貧しさであり
本物の貧しさではない、パンも食べられないというのは故意に作られた貧しさなのであるテレビで放送するのも貧しさがものめずらしいものとしてとりあげている
本当の貧しさがわからなくなったからそうなったのである。
だから山尾三省の詩はそんなに価値がないかもしれない
つまり芸術はその時代時代でしか作り得ないものがある
芭蕉の俳句もその時代だから作れたのであり今でもこれほど俳句が盛んでも俳句が作れるの芭蕉以上の人は出てこないことでもわかる
その時代に作り出した価値はいくら文明が発達しても豊かになっても作れないのである。


ボロを来て野良仕事している人間
車も機械もなにもない時代
家もボロ家でみんな貧しい時代
そこにも人間の美しさがあったのか?
その心は正直で飾るものがなかった?
今人間はいろいろなもので飾る
その着るものでその持つもので
家や車や機械や道具で飾る
でもその心は貧しい
ただ毎日たりないたりないと嘆き
不満が絶え間なく起こり
何にかがないと嘆く人ばかり
一人も感謝するものはいない
多額の借金までして身を飾る
自然の美もその人たちには映えない
車のない人たちは失格者となり
見下して車を吹っ飛ばしてさる
人間同士いたわることもなくなった
ただ金を求める声のみがある
・・・・・・・・

つきあいが悪くなり親密さがうすれてきたことが現代経済の特徴だという
親密さには時間かかる
社会的に物質的に豊かになりますます時間に追われると人間同士の親密さや思いやりが少なくなってゆく

我々が成長と生産性を重視するのは「根」の感覚が薄れていることと密接な関係がある
自分を確かにつつんでいた共同体が失われ自分の孤独ともろさを思いしらされたとき我々はそれを所有で埋め合わせようとするのだ。
捨てな新しいものを買う時、家の中を見回して新しいして物を買うとき力を感じるのである。

「アメリカ人の来世はショッピング・センターにある。彼の勤勉はそこで報いられるのである」
(豊かさの貧困)ーポール、L ワクテル

自分も毎日が買い物であり買い物が一仕事なのである。
なぜこんなに買い物があるのかと思う、だから毎日行っているのはスーパーなのである。
ただそこは買う場所であり何か人間が親しくなる場所でもなんでもないのである。

この本も前に読んだが忘れていた、前に読んだ本を自分なりに活用してくるとき本も生きてくる
これをもう一度読んで評論してみよう



山村暮鳥の詩はいろいろあるが今ここでは紹介できない
山村暮鳥全詩集がでているのでそれを読む他ない
あとで詩の解説はするようになる



タグ:山村暮鳥
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2015年02月07日

明治維新が見直される (歴史も地理ー長州閥が日本を歪めた?)


明治維新が見直される

 
(歴史も地理ー長州閥が日本を歪めた?)

歴史をみるとき地理とか風土が基本にある。
関が原が明らかに日本の東西の分かれ目であり天下分け目の戦いになったのもそういう地理が決定していたのでてある。
「地の利、天の時、人の和」があるけど地の利が歴史でも大きく作用している。
だから地歴という教科になったのもうなづける。
地理を離れて歴史もないからである。

みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

この歌もみちのくの真野として知られた地点が地理と関係していたのである。
マルハシャリンバイというのが自生する南限の地として海老浜があったからだ。
まだあたたかい地域であった。
それでもイワキからはそれなりに遠く感じるのである。

なぜ今の宮崎県の日向(ひゅうが)から神武天皇の東征の神話があるのか?
瀬戸内海から吉野の方をまわり奈良の橿原に遠征して初代の天皇になっている神話であるこれも日本の地理からすればわかりやすい。
九州は古代から朝鮮とか中国と関係深いのである。外国の窓口になっていた。
それは鎖国時代でも長崎が外国の窓口となっていたことでもわかる。

明治維新もなぜ薩摩長州が活躍して成したのかということである。
それもやはり地理的なものがそのパックポーンにあった。
沖縄と貿易で豊かであり最初に外国とイギリスと攘夷で戦っている。
長州でも外国勢と実際に戦っている経験は大きいと思う。
そういうことが会津とか東北になると地理的に以前としてみちのくの立場にたっていたのである。
東北などは外国を肌で感じる立場にはなかったのである

明治維新は錯綜しているから理解するのがむずかしい。
明治維新が何であったかの見直す作業が最近成されている。
吉田松陰にしても勝者となり権力を握ったものが作り出したもので
実際はテロリストであり一人のはみだしものに過ぎなかったとかいう人もいる。
つまり松下村塾はテロリストが会合した場所にすぎなかったという。
何らそこには教育などはなかった。
それもそうかもしれない、そもそも松陰は20代であり若いから血気盛んだから学問を教えるなどできなかった。
血気盛んだからまず行動ありきだったのである。
青春時代はいつの世でもそうでありまさに思慮分別もない若者が活躍する場を与えられたとなる。
そういう無謀あ若者がいてそのエネルギーが明治維新になった。
奇兵隊出身の下級の伊藤博文が初代の首相になったり地位の大逆転があった。
殿様であった人達は一庶民に転落したのだからその変化も大きかったのである。
藩がなくなり殿様がいない世界というのも全く新しい世になったとなる
そして誰が偉いとなったのか?天皇が一番偉いとなって天皇の臣民となったのである。
天皇もまた権力を握った長州閥によってもちあげられたのである。
その長州閥は安倍首相まで今もつづいている政治の構図があるのだ。

変な視点だけど百歳が多い県と明治維新で活躍した県は一致している。
四国が一番多く長州辺りも多く薩摩の九州も多いし沖縄県もそうである。
これは気候の関係でそうなっているけどこれも地理であり明治維新とも関係しているのだろうか?
明治維新と言っても日本の地理的環境が影響しているのだ。
会津は悲劇だったけど「ならぬものはならぬ」とか雪に埋もれて何もなせないのが会津だったという見方もある。
相馬藩はいち早く水戸天狗塔になり尊皇派であり仙台藩と丸森で争った。
これも相馬藩は水戸が地理的に近いからそういう影響を受けたともなる。

明治維新の問題は長州などのあまりにも若い人達、テロリストなのか、そういう人達が国の権力をにぎったことにあった。そして腐敗したのである。
革命とか戦争になれば若い人の力が必要だが政治を動かすとなる経験を積んだ人達が必要になる。
それで幕臣も明治政府に採用された。幕臣には優秀な人達が相当いたからである。
でも若造が権力を握ったから国がゆがめられてしまった。
それは何かイスラム国とにているのだ。
明治維新でもあれとにた残虐なテロリストが横行していたのである。
会津藩士が血祭りにあげられたのもそうである。

明治維新が何であったのか、その歴史を見直すことはなぜ必要か?
それは明治以降の歴史がなんであったのか?
そのはじまりが明治維新にあったから見直されているのである。
太平洋戦争から70年すぎるとまた大きく歴史の見方が変わってくる
要するに歴史の評価となると百年とか二百年過ぎないと冷静に判断できないのである。
佐幕派開国派が権力をにぎっていたらもしかしたら日露戦争とか太平洋戦争はなかったかもしれないというとき吉田松陰の思想にすでにアジアに進出して制覇するという過激なものがあった。
吉田松陰の尊皇思想がやがて太平洋戦争に結びつく源があったともなるからだ。
幕臣だったら天皇はそれなりに尊重しても現実路線になったことがあるかもしれない
尊皇とはカルト的宗教の狂気があった。イスラム国ともにている。
それが太平洋戦争にもつながっていたいうことはありうる。
イスラム国は何か明治維新の状態を再現しているようにも見える。
ただ日本のように江戸幕府三百年の歴史がないことが違っている。
300年の徳川時代があって明治維新も成されたのである。
何もないところから全く新しいものは作り得ようがないからだ。


参考
タグ:明治維新
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2014年12月24日

南相馬市鹿島区大内村の中国で戦争を経験した人の話 (中国の捕虜になった人は残虐に殺された!)


南相馬市鹿島区大内村の中国で戦争を経験した人の話

(中国の捕虜になった人は残虐に殺された!)


その人は故郷にいるより日立製作所で働いていた。
だから戦争のときも日立製作所関係の技術担当で中国に出征した。
福岡から船で韓国の済州島により上海に上陸して南京まで進撃に加わった。
何かしらないが南京攻撃では中国側にアメリカの武器をもっていて
それで日本兵が多数死んだという
その時アメリカがすでに中国に武器を与えて応援していた
南京は中国の首都であり陥落したことが中国を支配下にするということでもあった。

実際に負け続けた後、蒋介石は”米国が中国を支援しないと共産主義化する”とルーズベルトを脅し、無償武器援助を勝ち取った。(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子著の書評)

蒋介石軍に武器援助をしていた。アメリカは中国に肩入れしていた。
 

その人は飛行機の技術担当でありそれで従軍した。
特攻隊は片道の油しかなくアメリカの空母に体当たりする前にほとんど一斉射撃をあびて何ら戦果もなく死ぬだけだったと言っていた。
つまり無駄死にだったとその人は盛んに言っていた。
油は帰りの油がないのだから帰ることができない
だから死ぬほかない、成果があがるもあがらないも死ぬために出撃したのである。

腕をあげるための訓練用ガソリンも枯渇した。
航空潤滑油も枯渇し航空機も粗悪品だらけとなり、概ね25%程度(4機に1機)は機器が故障し本来の目的を達し得ないまでになった。
特攻機も多くエンジン不調でひき換えすか、不時着している(25%程度)。 これも潤滑油にその問題の要因があったような気がしている。当然日本国内と熱帯で同一の潤滑油は使えない
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/tokkou/tokkou_1.htm

日本は燃料がない、肝心の飛行機でもう飛ばす燃料がなくなっていたのである。
その人の話で一番興味深かったのが捕虜になったときの話である。
南京虐殺のことを盛んに言われるが捕虜になった人はさらに中国人に虐殺されていたのである。

首を木の枠で固定して吊るし餓死するまでそのまま放置するなど、中国兵は様々な拷問方法で捕虜を虐待殺戮したとシメンさんの父は彼にそう言ったという
http://redfox2667.blog111.fc2.com/blog-entry-80.html


この写真を見たらショックである。いかに戦争がむごたらしいものになるか、それは戦国時代と同じである。中国人の復讐も凄まじいものがあったのだ。
こんなところで捕虜になったら生きた心地がなくなっていたろう。
その人の話では食べるものなく脱出して食べ物を近辺の農家に盗みに行ったという、
ところがそれを中国人が知っていて日本兵の捕虜を狙い撃ちして殺したという。
これも悲惨な話しである。中国人もいかに残虐だったかということである。
戦争はこういうものだというけど欧米の捕虜になったらここまではならない。
一応捕虜を扱うルールが戦争のルールがあったといえばあったからである。
中国にはそれがなかったのである。

その人が言うにはロシアにシベリアに連れていかれなくて良かったと言っていた。
シベリアの捕虜は最悪だったのである。
戦争で日本だけが残虐だったのではない、アメリカも原子爆弾を落としたように
中国も捕虜を残虐に殺したようにロシアはさらに日本と戦わないのに被害ものないのにシベリアに抑留して殺したのである。
戦争というと日本の残虐性ばかりとりあげられるがどっちもどっちなのである。
戦争というのはもう人間を人間でなくならせるから怖いのである
もう人間の普通の感覚常識すらなくなる。
食べ物がないということは一番苦しい、殺されると思っても脱出して食料を得たいとなる戦地ではもみ殻を食べていたというし兵士は何を食べていたのかわからない。

戦争もだんだん忘れられる。でもまだ90才の人が生きているから20才で戦争に行った人の話が聞ける。これももうやがて直接戦争のことが聞けなくなる。
その時また戦争に対する見方も変わってくる。
やっぱり戦争というのは喧嘩両成敗であり日本だけが悪いというのは欧米とか中国とかロシアからおしつけられた見方なのである。
もちろん日本側も戦争だから人殺すことが戦争なのだから残虐なことはあった。
では原爆を落としたアメリカが残虐ではないのか?
中国の日本兵に対する残虐な殺し方はあまり伝えられないのである。
いづれにしろ戦争の暗黒面をさらしだしたらきりがなく反吐がでるだろう。
だからあんまりそうした暗黒面を見たくないということはあるがそれだと戦争を美化するという危険性が出てくるのである。
だから現実を見るということが歴史では大事なのである。
戦争の現実は眼をおおいたくなるような残虐なものだったのである。
津浪の被害もそうだったが戦争もまたあまりにも残虐なものだった。
ただそれらに眼をそらし忘れるということもまた後のかためにならならない。
津波の被害もあまりにも残酷だったので語りたくないとして伝わらなかったとも言われる人間はあまりに残虐なことは語りたくないし戦争で人を殺したことなど語る人はいないだろう。
ただそういうことを隠しておおってしまってしまうと戦争を美化する人がでてくる。
いづれにしろ戦争のことを直接聞ける人はもういなくなる。
その時そうした戦争を美化することがありまた戦争になるということがあるから怖いのである。

タグ:戦争の話
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2014年12月18日

短歌でつづる吾が半生ーやすらぎ(平田義男) (一冊の戦争を歌った松川浦に住む人の歌集)



短歌でつづる吾が半生ーやすらぎ(平田義男)


一冊の戦争を歌った松川浦に住む人の歌集

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この歌集を出したの70歳の時であり1976年(昭和51年)であった。今は2014年だからこの人は生きていたら108才だから死んでいるだろう。この人は別に教師でもない学者でもいない、松川浦の漁師であり農民であった。
でそのことは紹介されているが歌も稚拙な所もあるがそれなりにうまい、普通はなかなか訓練しないと歌も作れない、この人はそれなりに才能があったともなる。
何か万葉集の防人の歌とにていたのである。防人の歌も戦争するわてでなかったか古代に九州まで行かされるのはまさに外国に行くと同じだったのである。

赤紙を手にとり受領の印おせど吾が心も心ならず
今日だけはオゴモとらむと舟出せど心も空にオゴモは見えず
父さんはいつ帰るのとさびしげに涙ぐみつつ吾を見つめる
万感を胸に車の人となる釜山の駅よ会う日もあらば
幾月か吾がを追う吾が妻の便りの文はすでに汚れぬ

赤紙を受け取った気持はみんなこうだったみたいだ。突然のことであり思いもかけないものとして受け取ったのである。自分の姉もシンガポールに四年従軍看護婦として行って辛酸をなめた話を認知症になってからも延々と聞かされたから嫌になった。
同じことを何度もしゃべるのが認知症なのである。千回も同じことを聞かされたら嫌になるし聞きたくなくなる。そして遂に死ぬ間際でそのシンガポールの辛苦の四年間を語り続けて死んだ。それだけ忘れられないものとなっていたのが戦争の思い出なのである。
だからどうしても戦争というとき姉のことを思い出してダブってくるのである。
この人は松川浦の人であり漁師でもあり農業もしていた。そして妻と子があったからそのことに思いがあり歌っている。ただこのオゴモとは

オゴノリ(海髪、学名:Gracilaria vermiculophylla)は、紅藻の1種で、潮間帯付近の岩場に生育する。単にオゴ、ウゴなどとも呼ばれる。食用として、刺身のつまなどに用いられる

このことだろう。
赤紙をもらってからは落ち着かなくなったということがありそのことを書いている。
生業が身につかなくなったという感じである。
ともかく招集命令はと急なものだったのである。それは万葉集の防人の歌と通じるものがある。防人の歌も何か急に命令が下ったのでにた心境があった。
ここで妻と子と別れを惜しむというのは姉とは違っていた。
しかし姉も母と別れて帰った時は母は死んでいたのである。
その別れが最後になったのが多かった。それは戦死したためにそうなった。
ただ姉の場合は戦地から帰ってみたら母が死んでいたのだから違っていた。
普通は戦場に出て行って帰らずに死んで帰ってこなかったのである。

赤紙の急ぎ受け取り戦場へ永久の別れとなるを知らずに

ベートベンの運命ではないが突然に運命的なことが起きる。今回の津浪でもそうだし自分が突然病気になったこともそうである。戦争に招集された人や戦争の経験した人達は共通したものをもっている。この人は満州に出征した。

万感を胸に車上の人となる釜山の駅よ会う人もあらば

釜山から日本が敷いた鉄道があり満州鉄道に通じていた。釜山とか満州に旅したからその跡を見てきた。朝鮮総督府も残っていた。今はなくなった。

地平の彼方 雲映えて
コーリュンの波 果てもなき
満目千里広茫の ここ北支邦の大平野

満州はどこまで行ってもトウモロコシ畑だった。こんなにトウモロコシを食べきれないと思った。満州はそして相当に寒い、北海道より寒い場所である。

銃音の絶えて静けき陣営に残月あわく霜に光れる

この短歌はいい、戦争中にこうした短歌を作れる余裕があった。でも無惨な戦争の場面も目撃している。ただ歌が作れということはまだ人間的な状態があった。
もし悲惨な人殺しばかりしていたらこんな余裕はないだろう。
そもそも戦地では常に命が脅かされているから短歌とか詩を作る余裕がなくなるのが普通だからである。

幼児に罪のなければと携帯のパンかみくだき吾はあたえぬ

時々こういう子供をあわれむ歌がでてくるのは一人の親であったからである。
日本人は残酷だというけど日本人もまた人の情があった。ただ戦争という異常事態だからこそ一部には残虐な行為があった。戦争そのものが殺し合いなのだからどうにもならないその中でもやはり人の情がありこの人は子供に情けをかけていたのである。

今はなき戦友の写真にありし日の厚き情のしのばるるかな

戦争体験者にとって戦友というのは肉親と同じように重いものだったのである。
生死をともにしているからそれは今ではありえない親交があった。
姉もその従軍看護婦の戦友のことを語りつづけていた。
それは島根の人であり手紙のやりとりをずっとしていた。ただ最後に年賀すら読めないしわからなくなり途絶えた。
その人のことは三陸会とかの記録に残っている。その女性は文学少女だったのである。
だから短歌も書いている。だからそのことも次に紹介する。
まだ生きているかもしれない、90歳にはなっているたろう。
戦争の記録が膨大である。ただこれも忘れられてゆく。
ただ家族に戦争経験者がいたし故郷でも戦争に出た人の記録があったのかとたまたま埋もれていて本を整理したら出てきたのである。
郷土史研究というとき資料を集める必要がまずある。図書館では研究しにくいのである。

戦争に青春費やすシンガポールそのこと忘れず姉は死ににき

もう一つ戦争で問題になるのは戦死者のことである。靖国問題である。

強く雄々しき桜花 海の果てに 散りたれど

君がみたまは海越えて今ふるさとにへ帰り来ぬ

戦友の遺骨を迎えしときと題にある。この感覚もまた戦争経験者として共通のものがあった。
そういう心情は何か理屈を越えたものでありなかなか理屈では否定できない重いもの菜である。
なぜなら人が死んでいるから軽々しく言えなくなるのである。


故郷に一つの生の重みかなその跡たどり今年も暮れぬ

人間はやはり死ぬと何か一庶民でも重みがでてくることがある。
生前はそう思わなくても死んでかちふりかえり思うのは違ってくる。
死んだ人は確かに客観的に見やすくなるから書きやすいということもある。
生きているときは定まっていないから書きにくいのである。
戦争というとき常に全国民のことを思うけど実際は個々の戦争のことが刻まれている。
そこを読まないとわからない、人間は全体として見るとかえってわからなくなる。
何百万人死んだと言っても全然ひびかないのである。
こうして一人の故郷の戦争経験をふりかえると訴えるものがでてくる。
生の重みがでてくるのも不思議である。
いづれにしろ人間はなんらか生の跡を残すのである。
死んでからその生をふりかえることは人間にとって大事である。
この人は一人の人間としてやとり何か生の重みを残して死んだのである。
人間は何かしら必ず生の重みを残してゆく。
ただそれに後の人が気づかないし忘れられるのが多いのである。



この歌集を出したの70歳の時であり1976年(昭和51年)
終戦が1945年であるから70歳のときから31年前である
39歳のとき出征した。
だから妻も子供いた。普通20代を想像しているが最後の方ではかなりの年の人も招集された。若い人がいなくなっていたのである。
全体的に短歌を読んだら落ち着いているし戦地でも子供のことを特に気にかけていた。
こういうことはあまりないかもしれない。
この人は相当な大人でありだから若い人とは違っていたのである。
戦争をある程度客観的にも見ていた。
客観的にならないとまず俳句でも短歌でも作れないからである。
何かものを書くでも客観的に見ないと書けないのである。

 
一般的に戦争から生き残り長生きした人は戦争のことでもその後のことも語られるが若くして死んだ人はその後忘れられた人か多い。
なぜなら本人が生きていれば自分の姉のように千回も同じことでも戦争のことを語りつづけるから後の人の印象として残るからである。
もう20代で死んだ人は名前すらわからなくなっている。
300百万人も死んでいるのだからとてももう記録できないのである。


タグ:戦争短歌
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2014年12月09日

大正まで醤油や味噌も使えない貧乏があった (現代も円安で物価が上がり昔の時代にもどってゆく)


大正まで醤油や味噌も使えない貧乏があった


(現代も円安で物価が上がり昔の時代にもどってゆく)



(鹿島町の女性)

私が話をうかがったのは平成三年で満95歳の高齢にもかかわらずかくしゃくとしてをり、記憶もはっきりしていた。

大正7年のとき二十三歳であり二十歳の
時、原町北泉のより嫁に来た。士族同士の結婚だった。
耕作地は自作地一町五反であり反あたり六俵の収穫があった
わりと当時としては裕福だった

夫は駄賃とりを一生懸命やりまた飯館村にたる引きに入れ大きいカツオは五本ずつ十本を馬にかけて運んだ
お正月の料理はもち、塩引きが最高の料理であった
電気などなくランプの暮らしでホヤみがきが嫁の仕事でありしょっちゅうこわれて町へそっと金をわたして町へ行ったとき買ってきてもらい交換した

(男性)

当時の反収は5俵から六俵くらいで小作料は二俵半だった。
当時の農作業などの日当は米三升が標準だった。
家計は子だくさんの上、いっぱい食べたので一日二升食べ、残り一升で暮らすのは大変だった。中以上の裕福な家では味噌を使い味噌がないときは塩でまにあわせた。
食用油、砂糖などは贅沢品で使えなかった。

収穫は反六俵で出に荷は駄賃取りがいてその人に頼み馬に二俵つけて町に売った
黒砂糖をこごりで買って砕いて使用、白砂糖はお正月に少し食べるくらいで醤油もほとんど使用しない、正月用だった、小作でないので他の人より楽であった


研究紀要二(1994)ー米騒動の研究


そもそも醤油が使えなかったら素朴な疑問として料理自体できないのではないか?
明治になっても大正でも醤油が使えないとなることが全くイメージできなくなっている。もちろん味噌も満足に使えないとなると味噌汁さえ作れないことになる。
明治以降もそうだったとすると江戸時代はどうなっていたのか?
それ以上に貧しかったとなるのとどんな暮らしになっていたのか?

反当たり5俵くらいとなると今は十俵だから倍になっている。この違いも大きいだろう。
だから米あまりになる。
それから運搬は馬でありもともと江戸時代から馬で運搬していた、だから駄賃という言葉が生まれたのである。

行き掛けの駄賃」とは、「ある事をするついでに、別の事をする」または、「ついでにほかの事をして、利益を得る」と言う意味である。特に"駄賃"には、"一寸した手間賃"というニアンスが強く、大人が子供を使いに出す時の手法であった。


農作業でも他の家の手伝いで手間賃をそのつどもらっていた。これは別に定期的にないからこんなふうになった。
飯館村に魚を運んでいたというのは興味深い、それは江戸時代からの塩の道の継続だけど明治以降は塩の道はなくなり八沢浦の峠の道が作られていた。

川俣まで天秤棒をかついで屋形から鰻を売りに行ったという話には驚いた。
当時の貧乏は今の暮らしからは想像できない極貧状態である。小作が多いから余計にそうなる。だから小作だというときそのこと自体が常に奴隷のようなものとしてイメージされたかもしれない、今日の派遣とかともにている。ただ食べ物に関しては貧乏でもさほど変わりないのが現代である。
士族同士の結婚とか書いてあるのもその頃まだ江戸時代の継続があり士族と平民は分かれていた。兵隊手帳にも士族と平民と記されていたのである。
自分の母親は九十九歳で大正生まれだけどその前となるとさらに貧乏になる。
だから製糸工場で女性が働くようになったとき月給ももらったのだからそれなり女性の収入も生まれたのだからその当時としては一つの進歩であり女性の地位の向上にもつながっていた。だから製糸工場に働く女性に対して反発があった。

戦後十年もこうした戦前からの生活の継続があった。それは江戸時代の継続でもあった。まず炭が燃料になっていたことがそうだった。あとはタンス一つとか飯台一つくらいしか家には物ののない時代だった。
でも不思議なのは醤油はあったし味噌汁もあったし塩引きは好物だった。
塩引きはそれほど贅沢ではなかった。日常的に食べていた。
ただ卵は贅沢であり食べていない、農家では鶏を飼っていたから食べていた。
だから自分の家で店をはじめたとき卵買いに行かされたのである。
明治以降の運搬は馬であり車などない、だからこそどこでも農家では馬を飼っていたのである。馬は農耕にも運搬にも欠かせないものとしてあったのだ。

それにしても大正時代はランプだったのか?ランプの明かりで粗末な家で暮らしていた。これも不思議である。
でもランプでも江戸時代にはなかった。江戸時代は蝋燭だったのである。ランプはそれより発達して文明の利器だったのである。
戦後十年も裸電球一つだったけど電気は通っていたのである。大正時代は電気もないということがあった。
電車も電気ではない、だから蒸気機関車だったのである。これも今からふりかえるは錯覚している。
汽車は死語になった。汽車は蒸気機関車のことだったからである。電車は電気で走るから電車なのである。
常に今と昔は何か錯覚してみる。それが江戸時代あたりになると余計にそうなる。
現代からは想像もできないから何か誤解して錯覚してみるようになるのである。

ホヤは一晩で煤けてしまい、日常の手入れは大変だったようです。普及するにつれて、明るい五分芯は部屋に、三分芯は台所で、厠へ行くときには豆ランプを持ってなどという使い分けもあったようですが、普通の家はランプは一つしかありませんでした。
町にはランプ商、ホヤ商、油商という商売が生まれました。特に油商は行商も多く、家々を廻って桝で量り売りをしていました。

ランプ屋が街にあった。種油とは菜種油とか椿油とかだろう。それを売り歩く人もいた

日本は今曲がり角に来ている。円安とかになり経済も変わる、物価が高くなったと思う。魚でも倍になっている。何でも二割くらい高く感じる。この物価高は貨幣の価値を低くする。貯金していても金の価値はかなり下がってゆく、だから老人が金をもっていてもその価値はかなり下がってしまったのである。
でも円高と違い円安は物の価値をあげる、日本で生産するものが安くなるから外国に売りやすくなる。日本は先進国から後進国へ逆戻りする。輸入するものが馬鹿高くなりバナナでも高くなるかもしれない、それは戦後十年でもそうだった。バナナは高級品で買えなかった。仙台に売っていたが自分の家では家族が病気になったとき仙台まで買いに行った。なんかそういう時代に逆戻りするかもしれない。
一方で地元で国内でとれるものは海外から入るものより買いやすくなることもある。
ただ野菜も高いし一般的に食料も高い、つまり貧乏人だと底辺だとさらに貧乏感が増すし金持ちでも株などに投資して上がらないと金をもっていてもその金の価値が半分とかに下がってくるようになる。
それがまだ実感しにくいが金の価値が下がってきているかことは確かである。

今まで百円で買っていたものが百五十円の感覚になるのも近い、円安とはそういうことである。
これまでの物価安は後進国が安い労働力で物を作りそれを輸入していたから安かった。
これからはむしろ自国で生産した方がいいとなる。海外で生産しても円安だと割安感がなくなるからである。
日本の農産物にとってはいいのかもしれない、何でも物が高くなり紙幣より金より物の価値が高くなるのである。
だからいくら老人が金をもっていてもその金は相当に目減りしている。
物の価値が高くなるとともに賃金も高くなるから労働する人の価値が高くなる。
金をもっているだけではその価値がなくなる。インフレになるとそうなる。
円安は金を持っている老人には不利である。若者にはいいのだろう。
ということはアベノミックスの狙いはあたったのかともなる。


ただ物価高でも賃金が上がらないと貧乏人にもこれは答える。
ともかくこれからは江戸時代のような質素倹約の時代になる、贅沢な消費社会は終わる。物の価値が高くなり贅沢できない、物を粗末にできない、なんとか工夫して料理でも工夫しけ安上がりにしないとやっていけなくなる。
それでも醤油や味噌すら使えない時代が大正まであったのだからふりかえればそれよりはずっと恵まれている。でも高度成長からバブルからそうした日本の繁栄の時代は終わったのである。だから高度成長時代にもどったりまたもう一度復活することはない
質素倹約でありそれはモラル的にはいい方向に向かうということがある。
ただこれまでの贅沢な消費から生活を落としてゆくことはかなり苦痛になる。
ただそういうことが否応なく強いられる。日本の成長贅沢の時代は終わったのである。
タグ:貧乏
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2014年11月08日

自分の近辺の昔 (天明の碑がありここも古い場所だった)



自分の近辺の昔


(天明の碑がありここも古い場所だった)

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秋葉神社も荒れ果てている。でもこんてふうに墓が倒れていたのは自分が子供のとき遊んだ時と変わりないのである。この墓の上をはねまわって遊んでいたのである。
つまりここの墓は60年前と変わりないのである。
ただ何か変わったのか?そこに生きた人々の生活が変わりすぎたのである。
例えば農家がありそこには馬を飼っていた昔ながらの生活をしていた。
養蚕は町内でも農家がありこの辺でしていた。
町内でも農家があった。

1702 元禄15年
1710 宝永07年
1715 正徳05年 家継 長崎貿易制度令(正徳新令)
1716 享保01年 吉宗 徳川吉宗、将軍となる(享保の改革)
1758 宝暦08年
1767 明和04年
1772 安永01年
1782 天明02年 〃 天明の大飢饉
1787 天明07年 家斉 天明の打ちこわし。 松平定信、老中となる
1808 文化05年

宝永の碑は自分の墓のある鹿島御子神社の脇の墓地にある。
あそこが鹿島町では一番古い場所である。
その前に立った復興団地は地盤が悪く沼地だったろうは言っている。
街中でもそういう場所があった。町と言っても回りが田んぼや畑だったのである。
沼地もあるし淋しい場所でありそれはどこでも同じである。
だから田町とか町田とかの地名が残っている。

人間は自分の住んでいる最も身近な所を知らないという不思議がある。
灯台下暗しなのである。今の時代外国に詳しい人がかなりいても地元の最も身近なことを知らない人が多くなっているのだ。
常に外へ外へ遠くへ遠くへと目が向けられるようになったからである。

子供のときからふりかえると何か失われたかというと近辺の生活そのものが失われてしまったのである。
自分の家でも子供相手の駄菓子屋からはじまった昔で言う三文店屋だった。
その頃菓子でも何でもバラ売りであり計り売りだったのである。
袋は新聞紙で毎日作っていた。

これはインドとか中国でも後進国に行くと同じ生活があるからなつかしいとなる。
昔を知りたかったら後進国にゆくと昔に帰ったような感じになるから不思議である。
インドのベナレスの狭い路地を行ったらあそこは昔と今と太古すら混在している。
野良牛が歩いていている。野良猫がいて野良犬がいるのはわかる。
でも野良牛がいるというのはありえない、インドでは牛は大事にしているし猿など動物を大事にしている。どうもインドで仏教が生まれたのはこの動物と深く関係していたのである。飢えた虎に子供が食べられるというので生身の人間が虎の餌食にあえてなったという法華経の話でもそうである。それだけ動物を大事にして動物とのかかわりで仏教が生まれている。

犬でも猫でも飼ってみればわかる。犬と猫は極めて人間に近いのである。
野良猫の子供かきて困っている。オスの親がいてついてくる。オスは子供に関心がないと思っていた。餌をやっていると子供に優先して食べさせたり頭をなでたりしていたからやはりオスでも子供とみているんだなとわかったのである。
母親はいなくなった。でも雨の日だった細い家の裏を子供つれて餌を探していた。
それは悲痛な表情をしていたのである。餌がなくて困っていたのである。
それは何か人間の母親と同じに見えたのである。
犬猫になると実際は人間化している。だから墓までいたるところに建てられるようになった。
ホームレスがペットより人間を大事にしろというのもわかる。でもペットも人間化しているのである。

そこでは炭が積んであったからまだ燃料として炭を利用している。それでも白黒のテレビで子供がゲームをしていたのである。その辺が現代と同じである。
牛の糞も燃料として干されているのも不思議である。今と昔が混在しているのがインドである。
バラックの小屋で店を出したりしているのもそうである。それは江戸時代のような雰囲気もある。江戸時代の店もそんなものであり棒振りなんかも何も資本もいらないでできるのが多かった。今はあまりにも何でも大がかりだから個人単位ではできなくなったのである巨大資本の系列に入るコンビニやスーパーになってしまった。
その時街でも村でも近隣に密着した生活は喪失した。

近くに豆腐屋があり魚屋が酒屋があり駄菓子屋があり神社には子供が山のように集まって遊んでいたとか何かそうした地域の活気が喪失した。地域が死んでしまったという感じになる。その路地を通っても今はほとんど歩く人はいない。
昔はそれなり歩く人がいた。生活の匂いというのが街からも失われたのである。
店だって近所にあって繁盛していた。だから近くが活気があったのである。
映画館などがあり駅に通じる細い道には店があり繁盛していたのである。
それらが全くなくなってしまったとき地域からも活気がなくなった。
それはこうした一地域のまた一地域だけではない、全国規模でも東京一極集中で地方は衰退した。スーパーでも農協とかが駅前にあったがなくなりイオンのような大きな所に車で集まる。車社会になれば遠くでも行けるからである。

近くにあった水をもらった井戸も枯れている。何かその井戸が今は象徴している。
その井戸水をもらってバケツで運び父が作った離れの風呂桶に入れて自分がバタなどを集めてたきつけて風呂たきしていたのである。
その頃まだ水道がなかったのである。
だからその時井戸があるということはその井戸はその家のものだけではないみんなのものとしてあることがあり近隣のつながりもできていたのである。
そういうふうに何か近隣とのかかわりが生活から失われた結果として活気がないし人と人の綱かりもなくなったといえる。
ではそうした子供時代がありそれは江戸時代からの継続でもあった。炭を使っているということはそうなる。ではここにある天明の碑があり文化の碑もある。
法印とかの墓もある。でも天明時代は飢饉の時でありこの町でどんな状態だったのだろうかとなるとわかりにくいのだ。
近くなのに江戸時代の暮らしなるとなかなかイメージできないのである。
町内でも相当に困窮したから天明の碑が残っている。
ただ町の場合はあとから移り住んだ人たち多いだろう。
自分の家もそうだった。もともと酒屋だった。この辺に農家があったからそういう家は古いのである。

ただ天明の飢饉でも江戸時代のことをこの辺で語り伝えるものはない。
なぜか鬼風という俳人がいて全国を旅した記録がある。
俳句などを作れる人は今ならいくらでもいるが江戸時になるとたいがい裕福な商人であり普通の人は作っていない、第一文字を書ける人はそんなにいなかったからである。
たからそれだけの教養があるとなると裕福な商人でないとできないとなる。
そもそも全国を旅できたということが裕福だからできた。長崎までも行っていたからである。
今なら誰でもしているが江戸時代そんなに旅することはできない、自分が旅もできたのはやはり家に余裕があったからできた。
普通の人でも外国に行かない人はいないのである。
会社で行っているからそうなる。

ともかくこうして近くでも道も死んでいるし生活も失われて活気がない、人のつながりもない。ただ六号線は夜中まで車がひっきりなしに通っている。
夜まで何しているのかと思うくらい車が通っている。
だから車社会だとつくづく思うのである。近くの生活は活気を失い衰退した。
車社会だからこそ道の駅に人が集まる。
今はこの編では全国から人が集まっている。ナンパーみればわかる。
そういう点では活気がある。その他は地方でも地方の一地域でも活気が失われたのである


タグ:天明
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2014年10月14日

古い道と新しい道(古町のことなど)


 
古い道と新しい道(古町のことなど)

roadoldnew1.jpg
抽象画(古い道と新しい道)
http://musubu.sblo.jp/article/104552247.html

道には古い道と新しい道がある。道も変わり安いのである。古い道は古い通りは忘れられてゆく、相馬市は城下町だから道が碁盤上になっていてそれほど変わっていないのだろうでも駅前通りはまっすぐだったのかわからない。
昔の道は曲がっていた道が多い、鹿島駅からますぐな道は新しいかもともと脇に入った細い道が昔の道でありそこに店屋があり映画館があった。
日立木の道の駅でいつもたねろしている老人は日立木の生まれで学生のとき鹿島の映画館によっていたという。映画館という言葉自体死語になった。
映画で動画のニュースを見ていた時代があったのだ。そのニュースは相当に遅れていた、テレビのようにリアルタイムのニュースではない。フィルムを汽車で運んでいたとなるとそうなる。あのころは時代劇全盛の時代だった。。鞍馬天狗とか良く見ていたのである。嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう)今でも覚えている。
ともかく老人になると昔の話を語りあうことで妙に同胞意識をもつのも不思議である。
昔の話があわないとやはり何か友達にもなりにくい。
家に来た二年くらいしか年が違わない農家の出の人の話は本当に面白かった。
同時代だから話があったのである。

道にも古道があるが町にも必ず古町がどこにでもある。都路に古道とあるのはその道が古い道になったからである。
どこの街でも古町があるのはそこがもとは栄えていたからである。
南会津でも古町温泉とかあり地元の人が入っていた。
ここが古町だったのかと山奥だから不思議に思った。

会津田島駅発内川行き → 針生 → 山口 → 古町温泉入口下車(乗車時間約1時間) 
福島県南会津郡南会津町古町 字太子堂186-2

古町温泉赤岩荘
http://www.sayurinosato.co.jp/akaiwa/access.php


古町や会津の奥の湯秋の暮

ここに自転車で寄ってこの風呂に入ったのである。写真を見ると赤い岩の温泉だった。
旅の面白さはこうしてふらりと地元の人しか入らない温泉などに入るとなつかしく思い出す。まずホテルなどに泊まったら旅情が今はないのだ。豪華な温泉にとまってもそうである。旅は別にそれほど金がなくてもできる。
何度も言っているけど金より時間なのである。それと体力があるといい、自転車だと最近何か筋肉か疲れて原町に行っても筋肉痛になっているのだ。
これではもう長い旅を自転車でははできないと思った。
あの辺で栃餅を売っていてうまかった。柳津で粟餅だった。自転車で旅していたらただでもらったりした。その粟餅屋が火事になったのには驚いた。
自転車の旅だと何か車とは違い目にとまり話かけられたりする。別に金がないわけではないがそんなふうにしてくれるというのも思い出に残る。
旅というのは道が二つに分かれていたとすると本当はこの道を行ってみようかと思いがけないと所に出るの面白いのである。今は車で道があらかじめ決められる。
何か旅自体が道(未知)への旅がなくなった。どこもあらかじめ知られているという感しになって観光地に行ってもつまらないという人が多くなったのはそのためである。
芭蕉がみちのくを旅したのは全く未知の世界だからこそ「奥の細道」を残したのである。

まず日本では道がまっすぐな所は少ないだろう。何か曲がりくねっている。高度成長期の日本改造で道はいたるところに新しく作られた。その道はまっすぐなのが多い
それは結局スピードを出して早く目的地につくという物量の道であり旅の道にはふさわしくない。浜街道でも日立木に入る道は細い道なのである。六号線からそうした脇道の昔の街道に入ると旅情があるが旅人は注目しないしそれが特殊な歴史趣味の人しか見ないのである。相馬市の道の駅には休んでもまた六号線を行く、だから旧街道のことを知らずにすぎてしまうのが普通である。
これは自分でも東海道に行ってもそこが昔の街道なのか良くわからないことがあった。
他から来ると今の道ばかりに目が奪われるからわからないことか多いのである。
よそから来ると昔を偲ぶことはむずかしくなる。外国などは特にわかりにくくなる。
最近はインターネットで思い出す旅をするのに便利になった。古町温泉とキーワードを入れればでてくるからである。

相馬市は城下町の名残の細い道や路地が残っている。だから多少昔を偲ぶことがてきる。そして景観にも注意している。公共的な建物は切り妻風の建物にしているから落ち着いた感じになる。やはり建物は相当に人間の心に影響する。馬場野の一人暮らし用の長屋風の建物のことを書いたがあれはも木の造りで落ち着くのである。やはり木の家は落ち着くのである。それは芒がなびいていたり菖蒲が咲いていたりとそうした日本の景色と和するのである。つまり文化とは一つのものではなく全体だから全体が消失すると部分だけを作っても文化にはならない、茶室などでも大都会の隅に作っても全体が高層ビルやマンションになったら合わないのである。京都すら町家の前がおしかぶさるようにマンションが建っているからだ。

老鶯の句に宇陀の古町
http://hai575.info/sa06f/20/20.htm

ここに老鶯の句を集めていた。自分の俳号も老鶯にしていた。ここの句は選ばれているからいい句がでている。古町とキーワードで引いたらここがでてきたのが面白い。こういう利用方法がインターネットならではである。そのときインターネットが活きる時なのである。
インターネットの活用方法がいろいろあるが使いこなすことがむずかしい。
それはソフトと使いこなすのと同じである。何かありすぎるのだけどもう一つ利用方法がわからないということがある。要するにあらゆるものがあっても分散しすぎてどこに何があるかわからなくなっているのだ。最近自分はこれまで書いたもの印刷したりと分類して整理している。
この作業が大変なものになっている。相当な時間と手間がかかる。
しかし小冊子にしてみるとまた違ったものに見えるから不思議である。

失われた旅の神秘性(未知の欠落)
http://www.musubu.jp/hyouronkannshou3.htm#m


タグ:古い道
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2014年09月02日

厚寿苑で聞いた大正生れの小高のばあちゃんの話 (老人の役割と価値は昔を語ることにあるー倉の話しが興味深い)



厚寿苑で聞いた大正生れの小高のばあちゃんの話


(老人の役割と価値は昔を語ることにあるー倉の話しが興味深い)



厚寿苑のショートスティで今日話を聞いたのは大正生れの小高のおばあちゃんだった。
大正一〇年生まれであり二月に生れたからユキと名付けられたという。
その当時の名前の名付け方もそれなりのパターンがあり時代を反映している。
春に生れればハルとなり秋に生れればアキとなっていたともなる。
ウメとかキクという名前はポーュラーでありあとはその土地の名をつける人もいる。
自分の母親は富岡で生れたからトミ子になったと聞いた。
苗字はどこかの土地の地名と結びついているからその謂われある土地と結びつくことは不思議ではない。
要するに昔の人の名前はわかりやすいのである。今の人の名前はその由来も様々でありわかりにくくなったのである。

その名前のことだがそのおばあちゃんが言うには私の弟は倉で生れたら倉吉となづけられたというのも不思議だった。倉が吉ということで名付けられた。
というのはおばあちゃんの実家は火事になったことがあり家が燃えてしまってそのあと母親が大変な苦労をしたという。倉も一部の柱などが燃えて焦げたが残った。
倉は家から離れているから残った。倉は町では防火のためにもあった。
倉は今回の津波でも残っていたりするから丈夫な作りになっている。
昔は蔵の役目は生活に欠かせないものとしてあった。
肺病になり若い女性が蔵に隔離されたことをテレビで放送していた。
蔵の利用にはそういうこともあった。
自分の家には蔵などないから蔵のもっている意義がよくわからない。
ただ今でも農家にはたいがい蔵はある。
蔵に関する物語も多い、喜多方は蔵の町だったのは商人の街として栄えたからである。
倉敷なども蔵だらけだからやはり商人の街として栄えると蔵が農家でなくても蔵が多くなるのである。

忠蔵 ちゅうぞう chuuzou
恒蔵 つねぞう tsunezou
米蔵 こめぐら komegura
清蔵 せいぞう seizou
五百蔵 いおくら、いおろい iokura、ioroi
泰蔵 たいぞう taizou
修蔵 しゅうぞう shuuzou
嘉蔵 かぞう kazou
小蔵 おくら okura
網蔵 あみくら amikura
与蔵 よぞう yozou
重蔵 じゅうぞう juuzou
秀蔵 しゅうぞう shuuzou
律蔵 りつぞう ritsuzou
助蔵 すけぞう sukezou
蔵並 くらなみ kuranami
西蔵 にしくら nishikura
古蔵 こくら kokura
蔵座 くらざ、ぞうざ kuraza、zouza

くらきち 倉吉 庫吉 蔵吉
くらじろう 倉次郎 蔵次郎
くらたろう 蔵太郎
くらのすけ 蔵之介 倉之助 内蔵助

蔵とつく名前もいろいろある。米蔵(倉)はわかりやすい、蔵並というのも蔵が並んでいる風景があって名付けられた。倉吉という名前も他でもあった。

喜多方は新しい街だった(喜多方の歴史)

ここのページに喜多方を訪れたことを書いています。

その女性は小高のどの辺のかわかりにくい、福浦と言っていたからその辺なのか、父親は村会議員だったというからそれなりの家だった。だから蔵もあった。
尋常小学校をでて小高の小高専修学校に二年学んだというから普通は尋常小学校で終わっているから村ではいい暮らしをしていた部類なのだろう。
弟は北海道大学を出たとう、そして獣医になったというからその当時大学まで行ったとなるとほんのわずかだろう。それでも金がなくて困って学費で苦しんだという。
その弟か兄は獣医になったのはいいけどなぜか南米に移民したという。
その辺の辻褄が合わない、獣医が地元でうまくいかないのか獣医が嫌になって南米に移民したのかよくわからない、ただ結果的には乞食のようになって帰ってきたという。
その辺の事情がよく聞き取れないしわかりにくい、あのくらいの年になると話を聞いても何か明確でないことはよく起きる。

ともかく当時としては他の人よりは裕福な家だったことは確かである。
ただ女学校に入ることはできなかったから当時では下になるがそれでも尋常小学校で終わらないのだから恵まれていた。何かそこで生け花とか花嫁修行のようなこともしたといっていた。当時の学校は花嫁修行という側面が江戸時代から継続されていたとなる。
まず大正生まれでは字を書けない,読めない人はいない、明治生まれでは自分の祖母にあたる女性が字を読めないし書けないので苦労していた。代筆してもらわないから苦労していたのである。自分の父親も明治生まれだけど学校に入った形跡もないのに字を書けたのは不思議だった。丁稚方向していたからどこかで字を覚えたのだろう。

その小高のおばあちゃんの話でその尋常小学校に通うとき、坂道がありその崖の穴に乞食が住んでいて怖かったという。その乞食の話しは自分も姉から良く聞いた。
乞食は洞穴に住んでいたのである。裸でいたから怖かったというのは少女だったらそうなる。乞食は戦後もいたるところにいたのである。
子供にとってはやはり乞食は怖いものだったとなる。地名としては乞食坂とかとして残ることになる。

小高は実際は相馬藩では最初に城があったところだから一番古いとなる。相馬氏の歴史では古いから古い家も残っているとなる。小高はなんとか浪江のように住めなくはならないでも先はわからない、若い人が帰らないから家も直さないとか老人が多いから復興が進まないのである。
老人の価値とか役割は何かというと昔を語ることなのである。
その昔はその土地と密接に結びついている。記憶はその土地と結びついている時残りやすいのである。
だから古い碑でも神社でもその場所から昔を探るのである。
それでどこに住んでいたのかその土地のことを知らないとなかなか話が通じない
厚寿苑では今は外部から来た介護士が身体の世話をしているがそうした昔の話を聞きあわせることはむずかしい。
ただ身体だけを世話しているだけでありその土地と結びついて話を聞いたりできないことが問題になる。
身体だけの世話ならいいがやはり介護はそれだけではない、昔の話を聞いてその土地に刻まれたゆく人間の歴史を記す必要がある。

だから郷土史は祖父母から聞くことからはじまると前にも書いたのである。
いづれにしろ大正生れとなると今はかなり貴重だろう。
ただやっかいなものとなるが大正生まれが多いというのもやはり高齢化なのである。
百才もだんだんめずらしくなくなってくるかもしれない、もし六〇才から百才となる退職しても四〇才あるとなると第二の人生はさらに長くなるのが高齢化社会なのである。
自分は戦後十年は大正時代や戦前の生活の延長を経験しているので実感としてわかる。
乞食も知っているし燃料は炭だったとかも経験している。
だから大正時代とか戦前の人と話を聞いても通じる。でも二〇代とか三〇代とか四〇代でも高度成長時代になるから話しが通じなくなっているだろう。
そこに介護する側の問題もある。
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posted by 老鶯 at 14:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降