2016年11月20日

浜通りは東京の影響が大きかった (戦後の歴史をふりかえる原町-津島から葛尾村まで)


浜通りは東京の影響が大きかった


(戦後の歴史をふりかえる原町-津島から葛尾村まで)

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津島なる岩に作れる墓一つ重みあるかな秋の日暮れぬ


集団就職で東京に労働力を地方が提供して出稼ぎ者でもそうである。
そして津波や原発事故で人口が流出してゆく、出稼ぎでもそれで子供を大学に出したとかあり全部が悪いものとはなっていない、
ただふりかえると地方は東京によって影響されていた、地方は戦後は森林鉄道があり森林の木材とか資源を供給していた。常磐炭鉱では石炭を供給していた。
エネルギーが石油に変わったとき急速に地方は変貌した。
東京中心に人手不足となり労働力を地方で提供した。出稼ぎ者もそうである。
東京というのがやはり経済的に地方を動かしていた。
東京に電力を供給するのも労働力を提供するのとにていたのである。
福島県は東京に近く東京の経済圏になりやすかったのである。
そこに繁栄もあり原発事故につながったのである。

結局戦後七〇年は何だったのかとなる。どうしてこの辺がこんな状態になったのか?
それを歴史的にふりかえると地方が東京に翻弄された時代だともいえる

戦後の地方の歴史をふりかえる (戦争の引揚者が山村に開墾に入るー赤生木なども同じだった)

この間、全国で21万1千戸が開拓地に入植し、105万6千戸の既存農家が開拓地に農地を取得した。開墾施行面積は、44万9千haであった。しかし、開拓地の営農は困難を極め、開拓を諦め離村した者も多く、21万1千戸の入植者のうち開拓行政終了時点で入植を継続している戸数は9万3千戸と、半分以下に減っていた

戦後の開墾も厳しいものだった。小池などにも戦後開墾に入った人がいた、街から近い、いたりる所に開墾に入った、仕事がそのときなかったからである
津島から葛尾まで(残暑)

2006年とかのフログを読み返してみると不思議である。自分で書いたものも忘れる。それでまた読み返して付け加える。それが簡単にできるのがインターネットである。
福島県は東京と近いから東京の影響が思った以上大きかった。
戦前でもこれは全国でもそうだが森林資源とか石炭とか石とか資源は外国ではなく国内に求めていたからである。
それで常磐炭鉱などもそうであり石炭がエネルギーだった時代に鉄道も発達した。
鉄道ははじめは貨物輸送のために作られた。北海道なども小樽なども石炭を運ぶために鉄道が作られたのである。
資源を国内に求めたからそうなっていた。全国に森林鉄道が網の目のように作られたのもそのためである。原町が明治以降発展したのはそうした資源を運ぶ鉄道のためだった。
原町機関区であり駅前通りににぎわいが生まれた。それは全国的なものである。
そして原町紡績は原紡には鉄道の引き込み線があり生糸が鉄道で運ばれていたのだ。
原紡には自分の母親が十年間か糸取りで働いていたのである。

東京は一見遠いようでも福島県となると近いからその影響は戦前もあったし戦後も継続してあった。東京は巨大な消費地であり生産地でもあったからである。

東京に木材が運ばれる
石材が運ばれる
常磐炭鉱から石炭が運ばれる
原町機関区に何本もの線路
駅前は活気を帯びていた
もうもうと煙を吐いて蒸気機関車が行く
国鉄というごとく鉄道は国を支えていた
その燃料は石炭だった

明治維新から汽笛一声新橋からとか鉄道が新しい文明を知らしめたのである。
なぜなら関所もなくなり切符一つで全国土子にでも行けるとういことは日本全体が一つになることで意識するようになったからである。
その変化はいろいろあっても大きなものだった。
その時から実は福島県とか浜通りは東京の影響を受けてきたのである。
自分の母親が東京に女中で働いたり姉は看護師の資格をとるために東京に一時住んだとかある。
東京はその時代は田舎と東京との差は大きかったから東京に行くことは憧れとなっていたそれは戦後もそうであり自分の大学も東京に選んだのはそのためである。
ただ一方で集団就職とか出稼ぎとか東京に働き出ることはつづいていた。

そしてなぜ原発が双葉とか大熊とかにできたのか?
そこは相馬市とか原町市とかと比べると僻地になっていた。浜通りのチベットなどと言われていた地域である。その地域振興策として出稼ぎでなくても地元で働けるものとして原発が誘致されたのである。
そして東京の目論見としては安全を確保するために福島に原発を作ったのである。
コスト的には送電線などが必要だったけど東京に事故を起きること許されないとなり福島に作ったのである。
経済的にはやはり巨大な東京の影響が特に浜通りでは大きかったのである。
それが結局徒(あだ)となったのである。

東京というとき浜通りはいわきは明らかに仙台より近く感じる、なぜなら東京までの通勤電車が出ているからである。
常磐線でも原町からいわきに行くの二両の電車であり不便である。
でも仙台には八両の電車であり一時間おきとかに出る、今度は高速ができたのでユニットバスをリホームする会社が仙台から入ってきて200百万かかるのを100万で作った。
今度は鉄道から高速の影響がでてきた。ここはもともと仙台の影響が大きかった

そして津島では中国人の嫁がこんな山の中に住むのが嫌だとナタで夫を襲った事件があったのだ。確かにあんな山の中だと日本に憧れたのは都会に住みたいからだったろう。
でも別に浪江とか町の中に住めばそういうことはなかったろう。
原町も近いし結構都会だからである。
赤生木から津島に行ってそこから葛尾村に行ったのは10年前にもなった。
あそこで印象に残ったのは岩の墓があかったことである。
なにかそこに墓の重みを感じた。墓は最後に人間の姓の継続を語るものである。
つまり家がなくなっても墓は残っていることが多いからである。
この辺でも事業で倒産した家があったがその人は住んでいないが墓は残っていたのである何かそしてあの岩の墓は貫祿があり重みがあると感じた
地元でとれた岩で作った墓である。ただ岩にしたのは加工していないから金はかからないとなっていたのかもしかれない。

ともかく赤生木とか津島とかは一番放射線量が高かったからもう住めないとなる。
だからあの墓もなくなるのか?どうしても人が移りいなくなると墓も移動するからだ。
津島は戦後開拓に入った人たちが多かったみたいだ。それで結束が強いと報道された。
あそこは浪江町の中心部からすれば相当に遠いのである。
どっちかというと三春に近いのである。
あそこに人が住まなくなるとどうなるのか?墓だけ残っていても墓参りする人もいなくなる、そして遂には荒れ果ててしまうのだろうか?
もしかしたらナタで襲った中国人の嫁は喜んで都会に出たのかとなる。
そういう辺鄙な地域なのである。
でもそうきいう場所に津島から葛尾村へゆく森の道にまさに待宵草(月見草)が自分を待って咲いていたと詩的にはなるのである。だからまた行きたいとなる。

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2016年11月05日

郷土史に関心がもてないのはなぜ? (自給自足生活からグローバル経済の変化のため)


郷土史に関心がもてないのはなぜ?


(自給自足生活からグローバル経済の変化のため)


郷土史というとき関心が薄れいる、それは現実の生活が郷土と結びついていないからである。戦後十年までは自給自足の生活だった。
エネルギーも炭だから故郷の木を利用していたし家でも外材はないから回りの森の木を利用していた。屋根は茅葺きだとするとその萱も近くの山であれ萱場とかあり材料は近くのものでほとんどまかなっていた。
橲原の方に右田の人が肥料となる草をとりにいっていたというときもそうである。
こうして近くのもので生活しているとき当然郷土意識が育つ、つまりほとんどが郷土によって育まれていたからそうなる。
そこに郷土愛も生まれてくる、しかしそれが高度成長時代から急速にグローバル経済になり変わったのである。

例えば原町区の深野(ふこうの)という所に豪倉(郷倉)というバス停の地名が残っていたので紹介した。その深野に住んでいる人もそのことを知らない、興味がないということがある。それはなぜなのか?
つまり現実の生活と結びつかないからである。その郷倉は国で天皇から御下賜金として与えられたものだった。それは昭和十年のことだったから新しいのである。
飢饉とかに備えて米などを貯えておく倉である。それは江戸時代から全国にあった。
それを自分でもただ地名に興味をもっているから関心をもった。
でも今回は原発事故とかで避難したとき外から食糧でも入ってこなかった。
二週間くらい入ってこなかった。ただこの時原町区は30キロ圏内であり避難命令が出たので外に出た、鹿島区は30キロ圏外であったが半分は避難した。

自分は親を介護していることもあるし避難命令は出ていないので残った。鹿島区でも半分は外に避難した。そこで一週間くらいは米があったので梅干しとかもしりノリもあってしのいだ。でも米もなくなったとき鹿島区では古米が支給されたのである。
それで助かったのである。そのあとは相馬市ではスーパ-が開いた、でもガソリンがなくて車を使えない状態がつづいた。、自分は自転車で相馬市まで買い物に行った、その時から買い物できたので楽になったのである。
こういう経験をしたので郷倉というのを具体的に身近なもの生活に必要なものとして理解した。倉はないにしろ古米が貯えられていたから配られたのである。

こういうことで郷土のことを意識する、でも現代はグローバル経済になったとき常に意識しているのは近くのことではなくなったのである。
戦後十年は子供のときは家には裸電球一つしか使っていない、電器製品はなにもない、炬燵もない、炭であり囲炉裏があった。それは町内でもそうだった。
電気が通っていたとしても電信柱があったとしても電信柱が賢治の童話で人間に見ていたようにめずらしいものだった。道はほとんど舗装されていない、もちろん車もない時代である。水道もない時代である。今からするとそういう時代の経験は不思議だなとなる

それから高度成長時代となり急速に変わったのである。エネルギーは石油の時代になった石油は中東などから運ばれる、するとそこですでにグローバル経済にいやおうなくまきこまれる、石油の値段が一大関心事になり中東の戦争で石油が入らなくなるとか石油ショックとかあったそれでトイレットヘーパーをかいためたときがあったのである。
もう炭などは使わないから地元のことよりはるか遠くの中東の方が心配になる。
もうどんな田舎だろうが石油が必要であり電気は石油から作られているし石油であらゆるものが作られるというとき石油なしで生活が成り立たないからそうなる
当然そうなると地域のことより中東の情勢とかの方に関心が向くのである。
グローバル経済はとんな辺鄙な田舎でもその中に組み入れられているのである。
それは石油を例にした他でもそうなる、原発もまた電気を作るから原発が大事になっていた。実際に双葉とか大熊は東電の会社員のようになっていたのである。
多国籍企業時代というときまさに巨大企業に地域がのみこまれるのである。

石油が大事だというとき石油をどうして買いるのか?それは日本が高度成長時代は電化製品をテレビでも何でも売ることによって得られた、石油はドルでしか買うことができないようになっていつたからアメリカに売ることによって高い石油を買うことができたのである。
そうなると炭をエネルギーとした時代とは余りにも違っている、石油を買うには電化製品を車を売る、日本の技術の発展が望まれる、そうなるとそうした技術が重要になり農業などの第一次産業は低いものと見られるようになった。
田舎でも一割にも満たない生産しか農業にはない、漁業も同じだった。
別に株をやらなくても誰でもグローバル経済の中に組み入れられていて多国籍企業化した中で生活しているのである。
その一番わかりやすいのが石油なのである。

だから何か郷土というとき郷土史でもマイナーな好事家がしているようなものになる。
それは現実の生活と結びつかないからそうなる、関心がもてないのである。
でも津波のことでも郷土史というのが実は現実と結びついていたことに驚いたのである。400年前にここにも津波がきて700人溺死と記録されていたからである。
ただそれは二行くらいでありほとんどの人は知らなかった、今回の津波で知っただけなのである。そういう重要なことが見逃されていたということはなぜなのか?
人間の関心がグローバル化して外に外に向かうようになったからである。
それで肝心の地元のことが忘れられていたともなる。
テレビでも話題にするのは東京とか世界のことであり関心は常に外に向かうようになっているのが現代である。
インターネットで地域とかマイナーな話題を取り上げるようになったのは変わったことではあった。
でも常に関心はグローバル化しているから地域のことは現実と結びつかないから関心がないとなる。

みんな会社人間だったら当然会社から給料をもらい生活しているのだから会社が一番大事になる。会社が成長している、もうければ給料も良くなると働くからである。
グローバル化とは多国籍企業が支配する社会であり国が支配する社会とも違うのである。多国籍企業はグローバルに事業を展開してそれに国が政府が追随しているという関係にもなっている。それはアメリカでも日本でも世界的にそうなっている。
そこでは地域とか郷土とかは情報的にも意識されない、常に意識されるのは世界のことである。
大統領選挙が今の世界的話題になったのもそうである。それがどこでも世界的に密接に関係しているからである。
だから深野の豪倉のことを取り上げてもそこに住んでいる人すら関心がないとなる。

こういうことも何か人間の生活として歪みをもたらす、精神的にも人間の生活はその住んでいる場所からアイディンティティを形成してゆくのが順序である。
ヨーロッパのゴシック建築がドイツの森も模ししているときもそうである。文化はその土地と密接に結びついて生まれている。
グローバル経済はその土地から切り離されたものとして働く、そして金が唯一の価値となる。金で買えないものはないつとか世界でなるのがグローバル経済である。
グローバル文化というのはありえないのである。
インターネットで抽象画を外国のものを参照にしているときそういうものは一部にあっても一つのルネサンスのような文化は興らないのである。

なぜこの辺が原発事故で住めなくなるような状態なったのか?
それは炭をエネルギーとした時代から急速に電気の時代に移ったためである。
石油の時代となり原子力の時代になったためである。
みんな郷土の一員より会社の多国籍企業一員となったとき、郷土愛より会社愛になる。
常に思っているのは会社のことであり郷土のことではないからだ。
ヤクルトが地域密着型として一軒一軒回っているとしても今度テレビ放送するから見てくださいとか会社の宣伝になる。深野に住んでいたとしても地元のことには関心がないとなる、それは今はみんな会社員だから会社のことを第一に考えるから当然だとなる。
でも古米が配られて助かったというとき故郷意識をもった。
しかしこういうことは今はまれである。
復興にしても三陸でも復興したというとき漁業で生活する他ないから明治の津波でも一万人も死んだというときも便利な海沿いで生活をはじめたのである。
魚や海産物をとって生活す他ないからそうなった。今はそういうところでも会社が中心になればそうならない、それて外に人が流出して復興できなくなる
そういうグローバル経済とかの矛盾がここに津波や原発事故で顕著に現れたのである。


深野の豪倉(郷倉)は昭和十年時代のものだった

(緊急時とか飢饉の備えとして昭和に国からの意向で設置)


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2016年11月02日

鹿島駅でいわきの人と語る (市町村合併でかえって地域の特色が消えた)


秋の暮(鹿島駅でいわきの人と語る)


(市町村合併でかえって地域の特色が消えた)


1966年(昭和41年)10月1日 - 新産業都市建設促進法第23条に則って、上記14市町村(5市4町5村)が新設合併し、いわき市が成立[5]。当時としては面積が日本一広い市となった。
1973年(昭和48年)3月20日 - 現在の市役所本庁舎開庁。市の花ツツジ制定。
1976年(昭和51年) 常磐炭鉱完全閉山。
1979年(昭和54年)4月23日 - 「いわきナンバー」の交付開始。自動車のナンバープレートとしては初のひらがなナンバーとなる。

鹿島駅に今日いたのは酔っぱらいだった、何か寝ていて警察に連れてこられたとか、除染している人で喧嘩してやめて帰ると言っていた。いわきの会社で働いていて今は水戸に住んでいるという、水戸は電気代とか高いと言っていた。
60近い人だからそれなりの人生を経験している、会社は二回倒産した。でもかなりの給料をもらっていた。鹿島駅は水戸からきたJRの社員が何か直していた。
新地までは水戸管轄であるというのも知らなかった。仙台だと思っていたのである。

その人はいわきナンバーが発行されたとき取得した。それは1979本であり30年前とかなるいわきナンバーは浪江、双葉、大熊もいわきナンバーである。
いわきナンバーというとき外から嫌われることがあるだろう。第一福島ナンバーでも傷つけられたとか聞いたからである。
いわきナンバーになったのは30年前とかなるとずいぶん古いとなる
いわき市が成立したのが50年もすぎているのか?そんなに長いのか?

なんか以前としていわきより平というのがなじみがある、その人も平のことを言っていたから人間の感覚は地名でもなじむのには相当な時間がかかるのである。
いわきというひらがながなじめない、磐城の方が何か重みがあるというときもともと磐城国が古代からあったためだろう。磐城太田という駅名もそうである。相馬でも磐城国になっていたからである。
市町村合併は明治でも大々的に行われ複雑化した。
昭和の市町村合併でも南相馬市が鹿島と原町と小高が合併して成ったがこれも何か未だになじみがない、地名はもともと古い、千年前とか古代からのが多いからそうなる
地名になじむの百年とかかかるかもしれない。

そして前にも書いたけど廃藩置県になったときその地域の特色が喪失した。
福島県は広すぎるのである。気候でも会津と中通りと浜通りも違っている。
会津は冬は雪に埋もれるけど浜通りは雪はほとんどふらない、あたたかい海洋性気候なのである。
要するに今だって福島県というより会津は会津で地域性があり全国でも通っている
つまり廃藩置県はかえって地域の地理とか歴史とか風土を無視して人工的に境界を無理やり作ったからそうなった。
そもそも地域の特色を出すのに県単位だと広いし無理があったのである。
福島県でも広すぎてアイディンティティを作ることがむずかしいのである。
会津は福島県では別の世界であり古代から一つの国だったのである。
そういう地理とか歴史性を無視したのが廃藩置県だったのである。

いわきの花がつつじなのか?つつじというと双葉駅がつつじが咲いていた。それは有名だった。でも今は見ることができない、双葉とか大熊とか原発のあったところは鉄道が開通するのはいつになるのか?
仙台までは12月に開通するからそれで交通面では復興したとなる、いわき方面はもともと二両の電車でありこの辺ではいわきより仙台との交流が深かったのである。
福島市は鉄道がないし阿武隈高原にさえぎられて不便だったからである。
仙台まで通じればさらに全国に鉄道が通じるから復興になる。

ともかくいわきというひらがなもなにか古代からの歴史を無視している。何か重みがないわかりやすくしたとしてもひらがなになると重みが感じられない、磐城というのは何か重みがあった。
いわきは広くなりすぎたのである。それで地域地域の歴史や風土が外からかえってわかりにくくなったのである。そういうこと市町村合併でどこでも起きたことである。

いわきは相馬から近いのだけど何か遠いという感じにもなる、いつわきはむしろ何か東京に近いともなる,なぜなら普通車両で上野まで行く電車があるからだ。
いわきに行くと何か東京も近いと感じる、その電車は上野までの通勤列車だからである
その通勤電車にのって上野まで行ったことがあるからだ。

何か鹿島駅は無人駅だけど外からの人がよる場所である。そこで全国の人と話すると面白いとかなるがみんなが話できるとは限らない、いろいろな人がいるからだ。
でも自分は全国を旅しているから話を合わせることができる、いわきだと福島県だから当然だが函館の人となると自分が住んでいる場所のように地理もわかるから話できる。
でもその人とは深い話はできなかった。

その人は原町の無線塔のことを知っていた、60近くだと知っている、あれも壊されてすでに30年40年も過ぎているだろう。あれは原町のシンボルだったのである。
ともかく60歳くらいにな知れば昔を語り人生を生きたともなる。
あの人の人生がどういうものだったのか二つの会社に勤めたことが人生だったとなるのか?会社人間だったとなる。それが今の人の普通の人生である。

駅舎にて昔を語る人なれやいわきの人と秋のくれかな
posted by 老鶯 at 20:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2016年10月26日

深野の豪倉(郷倉)は昭和十年時代のものだった (緊急時とか飢饉の備えとして昭和に国からの意向で設置)


深野の豪倉(郷倉)は昭和十年時代のものだった


(緊急時とか飢饉の備えとして昭和に国からの意向で設置)


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  昔から瀬名は「瀬名千石米どころ」といわれ、田と畑だけの緑豊かな農村でした。
    江戸時代、領主に納める年貢米を保管したり、凶作に備えての貯穀、災害飢饉への備蓄米の非常救済や
    貸し付け米を保存するため大変重要な倉として建てられたのが「郷 倉」(郷は村・里をあらわす)です。
    また、「御蔵」「御倉」(ごぐら)とも呼ばれていました。
    隣にある付属番屋は、盗難や風水害から郷倉を守る常駐の蔵番(番人)をおいていました。
    時には村の会議所でもありました。
    
昭和9年に東北地方を襲った大凶作の際、心を痛めた天皇が下賜した救援資金に、国費と義捐金を合わせて建設されたとのこと。幸生の村民は、天皇の御恩と国民の同情に報いると同時に、自ら凶作に備えるため、共同で「報恩備荒田」を開発したとも記されています。http://www.jafore.org/blog/archives/2008/01/okura.html



今なぜこの郷倉に注目したのかというとこの辺の津浪や原発事故でこの辺が様々な苦難を強いられたためである。それはここだけではない、津浪の被害は東北の海岸線に大被害をもたらした。一時は外から物資が入らず困窮した。停電して水道も断たれた所も多々あった。その時、裏山の水を利用して薪を利用して煮炊きをして難を逃れた人たちがいた。
水も老人が歩いて運んでいたのである。車もガソリンがないと動かなくなるからだ。

南相馬市では市長がyutubeで外から物資が入らないと訴えて世界中で有名になったのは知られている。原発事故で放射能を一時恐れられて車で入って来なくなったのだ。
車社会でも災害時は役に立たなくなることが証明された。ガソリン不足はその後も一カ月くらいつづいたからだ。その時貯えてあるもので生活する他なかった。

自分の家では二週間分くらいの米が偶然にあったので電気も通っていたので煮炊きできた。ガスもあったから料理もできた。ただノリがあったのでオカズはそれくらいだった。
でも米さえあれば二週間くらいはしのげるものだと思った。
それでも電気とか水道が断たれればどうしていいかわからなくなったろう。
その後米はなくなったがその時鹿島区では古米が配られたのである。
その時助かったなと思った。米も切れていたし買うこともできなくなっていたからだ。
その後相馬市の方はスーバーもはじまり自転車で買いに行き楽になった。
その時はまだ車はガソリン不足で苦労していた。


現代のような便利な社会はかえって災害には弱い、電気や水道がたたればお手上げになる。でも災害時にはそうなるのが見えている。だから燃料の備蓄用として電気やガソリンや石油は使えないから危険なのである。むしろ薪とか炭とかを用意していなければならないかもしれない、そのことから一体農業とかでも減反政策とかでやる気がなくなり衰退産業になった。でも農林漁業のもっている意味はそれだけでなかった。
現代社会でもそれは郷倉の意味があったのである。
緊急時に災害に備えるものとしての意味があった。
国全体でも緊急時のために戦争でもあれば食料は入ってこないから備える必要がある。
そういうものとして農業などを保護してきたのである。
つまり現代では農林漁業などのもっている意味は価値は別なものとなっていたのである。

その時金より郷倉に貯えてある古米でも命をつなぐことができた。金を貯えていても何の役にもたたない状態だったのである。それは東京辺りでもそうなる。金がいくらあっても緊急時には役たたない、現物の方が価値がでてくる。だからそういうときは米があれば金がある人は金をいくらだしても買うとかなる。でなければ飢え死にしてしまうからである
郷倉と現代社会 (緊急時の備蓄機能として維持されるべき農林漁業の見直し)


深野にある、豪倉というバス停の地名が気になっていた。それと郷倉という知識はあっただから江戸時代からあったものかと思っていた。だいたい地名は古代にさかのぼり古いのが多いからである。
でも深野とかこの辺の郷倉は昭和以降のものであり昭和にまであったから新しいのであるだから意外だった。

郷倉は「恩賜豪倉」をさし救荒備蓄米を貯える村落の公共施設である。
昭和十年(1935)村議会でこのことが議案になった。
「昭和9年東北凶作に対して畏くも御下賜金の恩命を拝して・・」とある。

石神村の馬場と大原と押釜に設置された。深野は別にまた一棟作られた。
これはその地区のものだけではなく共同でも使用された。
深野だけは一地区で利用された。(原町市史)

深野の豪倉という地名は昭和になって地名化したのである。昭和になってから地名化するのはめずらしい。地名は江戸時代より古いのが多いからである。
ここで恩賜豪倉となっていて天皇から賜ったものとしてあるのもそういうことがあったのかと違和感があった。今なら政府の援助であり天皇から賜るということがないからだ。
そこに戦前と戦後の相違がある。戦争もやはり天皇が現人神(アラヒトカミ)とされていたからである。それは精神的なものだけでなく現実に天皇から賜るということでより身近なものとして意識されたのである。

今は豪倉とあってもそこに郷倉はない、でも地名化しているから必ず意識するのである。地名からだけ意識することが何か地理でも歴史でも多い、現実の建物などはなくなりやすいけど地名は残るからである。取手というとき砦(とりで)であったし地名からその地をイメージするのである。
鉄道の旅だとなぜか地名だけを記憶しているのが多い、辺りの景色は記憶されていないのである。

ともかく豪倉は郷倉であり昭和でもその役目があり作られた、それは政府の意向で政策でも作られていたのである。今なら備蓄することでありそれはどこでもしている。
ただ今回の津波と震災の経験では二週間くらい食糧も物資も入ってこなかったのである。一週間くらい米があったので食べていたがきれた。その時古米が配給されて助かったのである。それはまさに郷倉と同じことが成されたということである。
その時いくら金があっても何にもならない、なぜなら金があっても物は買えないからである。その時はいくら金があっても貯えても何の用にもならなかったのである。

ただ昔と現代の相違は一二週間でも蓄えがあり耐えられれば物資は外から入ってくる
その二週間くらいが問題なのである。水も食糧もないとなると耐えられなくなる
長期的なものではなくその短い期間をいかに耐え忍ぶかにある。
現代の盲点は交通が断たれると致命的になるのである。
だからガソリンが入らなくて車が延々とガソリンを得るために並んでいたのである。
車も役にたたなかったのである。そして自分は二週間過ぎてくらいから相馬市に自転車で買い物できたので助かったのである。
タグ:豪倉(郷倉)
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2016年10月01日

明治維新は何であったのか? (廃藩置県で藩と侍をなくすことが最後の目的になった)


明治維新は何であったのか?


(廃藩置県で藩と侍をなくすことが最後の目的になった)


明治維新はわかりにくい、様々な説がある。
明治維新の画期的なことは廃藩置県である。
藩ごとに国が分割されていて藩同士は敵対していた。
戦国時代に城が築かれて城下町ができたけど敵に攻められないように作られていた
隣の藩で敵である。だから飢饉があっても隣の藩でも協力しないのである。
相馬藩では天明の飢饉でも伊達藩は協力しないが相馬藩内では協力した。
飯館村が山中郷が飢饉のときは相馬藩内で援助している。

明治維新は何か国家理念などもない、藩同士の利権争い、権力闘争だった。
薩摩と長州は背後にイギリスとかと結びそれぞれに幕府を倒そうとしていたのだ。
つまり薩摩の西郷はあとでわかるように西南戦争を起こしたように薩摩藩を維持するために死んだのである。
だから明治維新の目的がなんだったのか?西郷にすれば薩摩藩や侍は消えてはならないものだったのである。

会津は会津で会津藩を維持しようとして蝦夷地をプロイセンに売り幕府と会津藩を維持しようとしていたのである。外国勢力と結びつかないと戦いないからそうなった。
つまり江戸時代は藩から脱してものを考える思想をもちにくかった。
だから藩単位でみんな動いていた。藩が優先していたのである。
だからこそ薩摩長州が同盟することは大きなことでありありえないことであり歴史を動かしたのである。東北列藩同盟もうまくいかてかったのもそのためである。
藩は敵同士だから当然そうなった。

なぜ坂本龍馬が英雄になったのか?それはグラバー邸の武器商人としてであっても薩摩と長州を結びつけたとされるからである。江戸時代だと敵対する藩同士を結びつけることは最高にむずかしいことだったのである。
それぞれの藩内の道すらその藩主の許可がないと通行できないのである。
そういう藩中心の世界であるとき薩摩長州が同盟することになり日本を変えたのである。
まず西欧列強に日本が対抗するときとても藩があってはできない、日本が一丸となって西欧に列強に立ち向かうことはできないのである。
廃藩置県を実行して天皇中心の中央集権体制ができたとき西欧列強に立ち向かうことができた。
だから西南戦争では会津藩の侍が参戦して国民軍として西郷軍と戦っているのである。
西南戦争で侍はなくなったのである。その時国民になり国民皆兵になったのである。

明治維新は今になといろいろな見方が生まれている、でも幕府が継続していたらどうなったのか?廃藩置県は実行できたのか?
明治維新を成し遂げた方でも西郷のような人物が出てくるとしたら藩をなくすことは最大の障壁となったろう。それが幕府でできたのかという疑問である。

幕臣であった人たちは薩摩長州による政権に不満だった。それもわかる。テロリスト集団が政権を握ったというのもわかる。実質の政権など運営できないというのもわかる。
ではどうして幕府が藩をなくし侍をなくして強力な中央集権国家を作りあげることができたのか?

幕臣には相当に優秀な人がいた、その人たちは明治以降重要な役職にも抜擢されている。榎本 武揚などがそうである。内村鑑三などもそうである。優秀な人材は幕臣から輩出している。だから別に幕府で廃藩置県できるならそれでも良かった。
だから大きな疑問は幕府が廃藩置県をして侍階級をなくすことができたのかが議論にもなる
その前の薩摩長州や幕府を倒した維新の志士はテロリストだとしても幕府が藩を廃止して侍をなくすことが自らできたのか?
会津だったらあれだけ藩に忠誠を誓い白虎隊のように城が燃えたから自刀としてゆくような強烈な藩への主君への忠誠心があるものを廃止できるか?
西南の戦争自体がそれを如実に語っているのである。

明治維新を議論するときここが肝心な所ではないか?
いろいろあっても明治維新は最初は藩同士の権力闘争であり国家理念などない、だからこそ西南戦争が起きた。幕府を倒してもやはり藩を維持するのが侍であった。
幕府が継続してもそれは同じであり廃藩置県はできなかったのではないか?
西郷であれ会津であれ藩と侍の維持には命をかけてくるからである。

明治維新は最初は西郷に象徴するようにただ倒幕の藩による政権交代の戦いだった。
吉田松陰とかに何か国家理念などもちえようがないのである。
高杉晋作にしてもそうである。幕府を倒すということが先決でありそのあとの政権構想国家構想などありえないのである。何か思想というものに基づいての行動ではない。
まずその時藩を廃止するとか侍がなくなるなど想像もできなかったろう。
とても未来の国家のイメージなどもちえなかったのである。
高杉晋作の奇兵隊に参加した庶民もただ幕府を倒して自分たちが権力をにぎり支配者になれるということで参加したのである。
そして伊藤博文が初代の首相になったのである。

そういう人は今でも野党系統にいる、創価でもそういう野心家が入ってきている。
政権をとれば地位でも金も入るとなり活動する。政治活動がすべてになっていることでもわかる。それは宗教とはあまりにも反したものなのである。
カルト宗教団体になるとそこに入っている人の思惑はあまりにも多様であり複雑すぎるのである。それはどこの団体でも同じなのである。
だから何か人間が革命などというときそこには様々な思惑が入り乱れるのである。
まず純粋に思想的に殉じるなどという人はまれだろう。何か利権とか栄達とかを考える
それは中国の共産政権ともにないる、ただ共産主義の理念があっても結局権力闘争でありあとは共産党幹部の王朝となって腐敗したのとにている。
理念などあっても人間の欲が勝るから実行できないのである。

ただ廃藩置県とかでもすべてはいいとはならなかった。武士の伝統的な精神文化も失われた。地域地域の文化も失われた。地方地方に培う文化がありそれで人も育つ、それが国家一色になってしまったのである。
でも廃藩置県がなかったらとても西欧列強には太刀打ちできないから植民地化されたりしたことはまちがいない、西南戦争が内戦であったようにさらに大きな内戦の混乱で日本は疲弊したからである。

いづれにしろ明治維新は今になるとタブーとされるものが解放されていろいろ議論になるフログではなかなか議論ができない、一方的発言で終わる
でも議論すれば相手であれ自分であれ弱点が攻めれて論点が明確になることは確かであるそれがフログの問題点ではある。

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2016年09月19日

希薄化した国家への意識、喪失した愛国心 (愛国心の基は郷土愛)

希薄化した国家への意識、喪失した愛国心


(愛国心の基は郷土愛)


明治維新から太平洋戦争までは国家中心の社会だった。だから愛国心を説くまでもなく日本人は愛国心をもっていたのである。
その愛国心は対外的に欧米列強に対抗するために愛国心が天皇中心に盛り上がり形成された。愛国心とか国に誇りを感じるのは対外的に形成される
第一江戸時代には愛国心がない、封建制であり藩中心の社会だから日本国自体意識しようがないのである。
ただ参勤交代などで江戸に出れば全国から藩の侍が集まるのだからそこに交流が生れたがあくまでも藩を越えた交流は生れない、藩同士で協力するということはないのが封建時代である、もともと戦国時代には藩同士が戦争していたのだから殺し合ってもいたのだから仲良くできないのである。常に敵であったし城や城下町の作りは常に敵に備えるように作られていたのである。

相馬藩が飢饉になったとき相馬藩内では協力している応援もしている
飯館村は高地であり寒冷地だから相馬藩内では飢饉になったとき応援して援助しているが伊達藩は何も援助しないのである。
だからこれだけ全国的に何か災害があったりすると協力しているのはありえないことだったのである。
ただ熊本県では東日本震災で東北は地震があるから危険であり会社は熊本県は地震がないから安全だから来てくださいと宣伝していたことが今回の地震で批判されたのである。
でも江戸時代だったらそれは普通のことだったのである。もともと敵国なのだから敵国が不利になるのは力がそがれるのは有利になるからである。
それで明治維新のとき薩摩長州の同盟によって江戸幕府が倒されたがいかに藩同士が同盟することがむずかしいかを証明していたのである。
江戸時代は藩は敵対していて協力関係にないからである。

だから江戸時代までは日本国の意識は希薄だった、日本国があるとしても庶民レベルで俺は日本人だという意識している人はまれだろう。俺は日本人だというとき外国人がいて日本人だと意識するけど鎖国していたら外国人もいないのだから日本人として意識しようもないのである。
人間の歴史をさかのぼれば愛国心というけど最初は極めて狭い範囲内で自己を意識していた。それはトーテム信仰となった部族意識である。
俺は犬族だとか猿族だとか熊族だとかなる、部族意識は国意識になっていた。
その部族同士が争っていたのである。それは日本でも同じだった、だから邪馬台国とか日本最初の国家が生れたということは相当な歳月を要したしそこに日本の原点があるということでそこがどこにあったとか詮索しつづけているのである。
日本の国家が実質的に形成されたのは蝦夷との戦いでありそれは大規模な戦いであり
それは西と東の戦争でもあった。なぜなら征夷大将軍というときそれは蝦夷との戦いに由来しているからである。この蝦夷は謎であり物部氏を中心として渡来人がいて手ごわいものとなった。それは日本を二分する戦いでもあったのである。

その時大和朝廷が生れていた。その大和というときそれはヤマトという山の戸口という意味の奈良の一地域だったのである。その一地域から大和という国が生れたのである。
だから国というとき何かというときそもそも日本全国を国として意識していないしできない、交通も発達していないから庶民レベルでは大きな国は意識できない、
明治になってから鉄道ができて日本国を意識しはじめたというのもそのためである。
関所もなくなり日本全国を行き来できることになり日本という国を藩から脱して意識するようになった。
それから日本は日清日露太平洋戦争と外国で戦争することで日本人を意識するようになった。戦争のときはやはり一番日本人を意識する、なぜなら日本のために戦い死ぬのだから当然だとなる、そういうことは戦争でしかありえないことである。
だからいろいろあっても戦争では一番愛国心とか国家意識が命かけているのだから燃え上がる、つまり民族としての同胞意識が最高潮になる、これは戦争を経験した人でないと理解できない、戦友というときそれは50年過ぎてもでも忘れられないものとして強い絆があった。

それが戦争に負けた結果、今度は一転して国家意識が否定され希薄化されて君が代すら否定される,天皇すら否定される、その変化の仕方があまりもに大きかった。
日本は敗戦によりアメリカに支配され属国化された、それは今でも継続している
アメリカには逆らえない、実質の支配者はアメリカだとなっている。
原発もそうだったのである。原発はアメリカしか知らないものがある、原発の技術はアメリカが握っていて日本人は知らないという、その証拠が原子力空母である
あの技術は最高のものであり日本人には作れないということでも証明されている
肝心の一番重要な原発のこと核のことは日本人の技術者は知らないというのである。
そしてアメリカの日本支配のためにアメリカはそれを教えないという。
日本敵国だらか教えないという、政治も経済も戦後は以前としてアメリカの支配にある
そして結果的には日本の独立はない、独立国として何もすることができない
インドも中国も北朝鮮すら独立国だが日本は独立国ではない、アメリカの属国してしか存在し得ない、原発がやめられないのはアメリカの核政策がありそれに従わねばならないからである。

日本の愛国心は明治維新から太平洋戦争のときは強固にあったのである。
それは庶民のレベルでもあった。挙国一致体制になっていたのである。
それが戦争に負けた結果そうした愛国心は失われた。
それに変わるものとして日本の誇りは何になったのか?
経済成長と技術で誇ることだったのである。だから戦後は団塊の世代でも企業戦士となり会社人間となり猛烈に働きアメリカに物質的に追いついたのである。
日本が誇ると言うとき何か戦前とは違う、高度成長のときはソニーの製品だとか今でもトヨタの車は技術的に世界で優れているとか売れているとかが自慢になる
日本はノーベル賞をいくつもとっているがアジアでは日本だけだとかが自慢になっているのだ。そして原発だって日本の技術が優秀だからと言われてきたのである。
原発に関してはアメリカに及ぶものではなかったのである。
戦後の日本人の誇りは戦前とは違う、国家意識というのは喪失した。

愛国心というとき誰でも日本が誇りだというときニートのネットウヨでももてるのであるそれより日本国内でも評価するというとき職業による方が多い、第一愛国心は何かに優れていなくてももてるからである。
でも優れた職業人には誰もなれないのである。大工だって職人だって優れた人には簡単になれないのである。簡単なようでみんな優れたものになれない、必ずどこでも不適応者がいて人間には差が生れているのである。
外国でも日本人だということは意識されるが「あなたのプロフェショナル(職業)なるは何ですか問われる、医者だとか言えばグローバルに能力の高いものとして尊敬されることになる、あなたは何人かよりグローバル化するとき何に対してプロなのかとはいうことが問われ誇りになるのである。
そしてグローバル化は多国籍企業でありますます企業の方が国家より世界で認識されるものとなる、ソニーとかグーグルとかアップルとかの会社員だとか言うと何人より凄いなとなってしまう社会なのである。
グローバル化は国家意識を希薄化させているからこれは世界的な共通なものなのである。
何か愛国心を強調するのもわかるのだがグローバル化した社会では容認されないものがある。そもそも愛国精神というけどそれが何なのか?
愛社精神なら生活がかかっているのだから庶民レベルでは具体的でありもっている
でも一方で郷土愛というときこれも希薄化しているのである。
なぜなら郷土愛というのも仕事自体が郷土の中でだけあるものではない、広域化してグローバル化している、グローバルに品物も入ってくるし地震で瓦が壊れたけど直したのは磐城の会社だったし今度風呂場が壊れたので直してもらうのは仙台の会社だったり復興住宅で驚くのはなぜ佐賀県から札幌とかのナンバーがあり全国の人がかかわり仕事している
地元の人だけではもう人手もないし技術もないから作れないのである。
建て売り住宅でも地元の人は大工でもかかわらないとなる

自分の家は橲原(じさばら)に同級生のキコリがいてその人が材料を提供してくれたのである、すると何か故郷を意識するのである、今は材料すら外材が多いのだからそういう意識もないのである。

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

右は、聞かく「左大臣長屋王(ながやのおほきみ)の佐保の宅(いへ)に御在(いでま)せる肆宴(とよのあかり)の御製(おほみうた)なり」といへり。

これとにていて何か郷土に生きる誇りがここに生れていた。それはその土地でとれたもので作ったからこそなのである。


グローバル化すると広域化すると故郷意識、愛郷心も希薄化するのである。
今回の震災で原発事故でも復興の仕事に携わったのは外部から来た人たちなのである。
地元の人は何していたかというと補償金でパチンコ屋通いでありギャンブルで遊んでいただけなのである。
だからこういう社会の変化もあり簡単に若い人は外に流出したということもある
故郷に愛着するのは老人はそうだがこういう広域化グローバル化社会ではそうはならない浪江の人は会社が二本松に移動して家族も移動したとなるからだ

自分は郷土史を探求してきたからそこから自然と歴史を合わせて郷土愛というのが生れた自然とのアイディティテイを形成してきた。でも普通は今は会社員なのだから愛社精神はあっても郷土愛というのはもてるのかとなる。
郷土愛というのは何に基づいているのかというのも明確ではない、歴史というとき親が生きた地であり先祖が生きた地でありまた自然がありその自然とアイディンティティ化するそれが郷土愛となる、海であれ山であれ樹であり石であり岩であれそういう自然と一体化するとき郷土愛が生れる、また郷土で共に働くということで郷土愛が生れる、それが郷土芸能とかここでは野馬追い祭りとかなる
早乙女の田植え踊りとか祭りも村の人たちが共同で働くから生れたのである。それは農業中心の社会だったからそうなった。
でも実際の生活は現代では会社中心であり郷土に根ざすものは少ないのである。
愛国心は大和という国が生れたときもともとは一地域であり郷土愛だったのである。

やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし

そういう美しい自然がありそこにまほろばがありそれは郷土愛であり国家意識とはまた違っている、国家意識というとき外国に対して強い優れいてるとかが強調されるからであるそれはまた郷土愛とは別物なのである。
だから国家を意識する愛国心というのはグローバル化社会では希薄化する、会社社会になると競うのはいい製品を作るとか会社自体を繁栄させることであり国家を繁栄させるのとも違うからである。
ただ会社とかグローバルの多国籍企業の問題は車なら車を作るだけでありそれは自然とは関係ないとか歴史とも関係ないとか全体の一部のことでありそこだけを取り上げたら日本はトヨタの会社となり地方でも部品工場になってしまうのである。
郷土というとき狭い地域でも全体のことであり一部のことではないのである。
もう原発事故では双葉とか大熊とかは明らかに東電の会社の一部となり社員化していたのである。あれだけ大きな会社だったとは知らなかったからである。
それだけ今の企業は巨大化して郷土すらのみこむものとなっていたのである。
そのことが結局郷土自体を破壊してしまったのである。

そもそも東京などでは東京を愛するなどありえるのか?あのようなマンモス都市を愛せるものなのか、そこには郷土もなにもない,第一土すらないのだから郷土という感覚もないそこに自然の美しさもない、そこに育まれるのは何なのか?
会社化した部品化した人間しか育たないだろう。そもそも一千万の大都会となると世界でも何かアイディンティティをもつことは不可能である。
江戸時代の江戸は百万都市でも回りに自然があり富士山が美しく映えていたのである。
それは浮世絵を見ればわかる、江戸にはまだ自然の中にあったのである。
戦前でもまだ自然が残っていて愛郷心もあったしその愛郷心が愛国心となっていることもあった。愛国心の基は愛郷心なのである。それがこの歌に如実に示されているのである。

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2016年08月24日

地方の神社に必ずある忠魂碑の疑問 (靖国神社と深くかかわっているー国家とは何なのか?)


地方の神社に必ずある忠魂碑の疑問


(靖国神社と深くかかわっているー国家とは何なのか?)


国民は、国家が国民として認めた者をいう。国民であるかないかは、国家権力が決めた法定義によって定まる。
国民は、国家権力によって国家権力が必要と認めた権利と義務を与えられる。
たとえ、国内居住する者でも国家権力によって国民として認知されていない者は、国民として扱われない。異邦人である。当然、国民としての権利も義務も保障されていない。


江戸時代は諸侯の領地ごとに、独自の法律・通貨(と言い切っていいかは疑問だが)・軍隊を所有していました。
外国人は諸侯を「KING」と呼んでいました。これは、諸侯がその地域で王権を確立していると、判断されていたからです。
同じく「EMPEROR」と呼ばれた将軍は、大名領には警察権を及ばすことはなく、各地の自主性は最大限尊重されたのです。

国家とか国民というのは明治以降近代化して生れた概念である。だから国家国民というけどそれは新しい概念だから理解しにくいものである。
封建時代は君主制であり君主に忠誠を誓う体制でありそれぞれの藩が国家と言えた。
それぞれの藩が税金でも法律でも自ら施行して独立していたからである。
その時は侍が支配層でありその下に農民がいて商人がいて職人がいて庶民がいた。
実質藩を維持していたのは侍であり侍は君主に忠誠を誓っていたのである。

それが明治時代になったとき国家とか国民という概念が生れた。どうして国民が日本国民として意識するようになったのか?
それは西南戦争の時だった。西郷隆盛が侍階級を維持しようとして政府軍と戦った
旧勢力を侍を維持しようとしたから廃藩置県に反対だったのである。
その時会津では薩摩長州軍に敗れて悲惨な結果となった。ところがその敗れた会津の兵士が西南戦争で政府軍に入り活躍したのである。相手はもともと侍だから戦争には強い
国民軍は素人だからかなわないところがあった。その中にかつて会津藩に属した侍がいて参戦したから強い味方となった。その時会津藩士でもなく政府軍国民軍になっていたのである。国民軍も素人の集団だったがだんだん国民軍としてこの時意識するようになったのである。そして侍にはかなわないと思っていたが国民軍でも戦えるという自信をこの戦いでもつようになったのである。この時日本国民として意識するようになったのである。
明治になってもその戸籍には士族と平民は分けられていたけど実質は国民となり国民兵となって日本国を守るものとなっていった。
それは明治維新の長州とかでも奇兵隊で侍でないものが農民でも商人でも兵隊として参加していたことから始まっていた。
戦国時代でも強固な主従関係が生れたのも戦争があったからである。
そこでは生死をともにするのだから身分の差があっても命懸けなのだから主従が一体となった。

日本国民として意識するようになったのも戦争でありその他ではなかなか日本国民として意識しにくいだろう。運命共同体だというときはやはり戦争の時一番意識する
それは日本だけではない他国でもそうである。平和なときでも中国でも韓国でも日本を責めるのはそれで国民としての意識が共同性が一体感が助長されからである。
それはヨーロッパでも封建時代があり騎士がいて城が多いから日本とにている
君主との主従関係が基本にありそれがその土地土地の領地を守り一つの国として維持していたのである。
それは国といっても現代の国民国家とは全く違ったものであり明治以降のヨーロッパでも近代化したあとの国家はルソーの契約国家のように違ったものなのである。
侍が主従の関係が基本にあるというとき日本でも天皇が君主であり主従関係を結び国民は天皇の臣民であり赤子であるとされた。それは侍の江戸時代の価値観を受け継いでいたのである。だから兵隊は太平洋戦争でも侍という感覚ももっていた。

ともかく国家が契約関係だとか国民という観念とういうか概念はなかなかなじめないからもともとあったものをあてはめるし引き継がれるのが人間社会なのである。
日本国民という意識は太平洋戦争で絶頂になり敗戦でその国民意識は否定されて日本国民という意識はなく日本人はアメリカに国防をゆだね経済人になった。
ただひたすら利益をもとめるだけのエコノミックアニマルと世界に高度成長時代に言われた。天皇を無理やり近代国家にもってきたのもそうである。
天皇との主従関係として国家を維持しようとしたのである。
だか明治以降の日本の歴史は何であったのかとなる。それは太平洋戦争が何であったのかとともなり継続された歴史をふりかえることが要求されている

それで靖国神社に祭られている戦死者はをと処遇していいかわからないのである。
日本国民として扱えば日本国家として祭る、一方で靖国神社は私的な宗教団体だというというのも矛盾がある。戦死者は英霊として祭るというときそれは天皇との臣従関係として天皇に忠誠を誓うものとして祀られる、なぜなら明治維新を成した人たちが祀られたのが靖国神社である。西郷隆盛とかの反乱した藩士とか会津藩士とか祀られていないのである。
でもそういう時代が終わり国民の時代になったときでは戦争で死んだ人たちは国家に忠誠を誓い死んだのである。それはまた天皇との臣従関係で忠誠を誓い死んだのだから英霊とされる、それで戦没者の家族は天皇に靖国神社を参拝してもらいたいとなっている
なぜなら臣下が天皇のために国家のために死んだのだから参拝するのが当然だとなる
でも近代国家とか国民になるとそういう宗教的なものはもちこまない、アメリカだったらアメリカのために死んだ人はアーリントン墓地とか国で葬っているが別に日本の英霊とか神として祀ることはないのである。
日本だから明治以降近代的に国民国家になったのだが国家とか国民というものを前近代の封建制からの習慣をひきづっているのである。
だから戦死者をどう対処していいかわからない、英霊とかなるのもそれは天皇と関係してそうなっている。それは国と宗教が一体化しているからである。

「国内には10万世帯を超える軍人遺家族が出現した。日露開戦による国家意識の高まりと遺族の急増によって、戦争中から戦後にかけて、全国各地で戦没者のための記念施設の建設がにわかにさかんとなった。戦没者を郷土の誇りとする宣伝が行きわたり、靖国神社への合祀に呼応して、民間の有志によって招魂社がつくられ、神社、寺院の境内や公園、学校等に招魂碑、忠魂碑、弔魂碑、忠死者碑等の記念碑がぞくぞくと建てられていった。」
−「慰霊と招魂」村上重良 岩波新書−

忠魂碑というのはまさに忠義だとか臣従関係のものである。それは天皇に臣従するということである。天皇が君主だからそうなる。今になるとなぜ神社にこれほど忠魂碑があるのか?それに違和感を感じる、第一その忠魂碑に戦争中のように意義を認める人がいるのか?何かただ過去のものが以前としてあるということでそれに特別な感情を抱いている人がいるだろうか?何か否定的な感情を抱いている人も多いだろう。
そう教育されたからでもあるがこの碑が大事な碑なのだとか教えられてもいないのである第一君が代すら歌わない時代であり教師が左翼系が多いからまたそうなる
自分が碑として注目するのは江戸時代の庶民のものである。日本人は太平洋戦争に負けてその戦争を否定的にとらえている、あの戦争を肯定的になる人は少ないだろう。
だからなぜそもそも一地方の神社にどこでも忠魂碑があるのか?
地方の神社は国家と関係ないということでも議論になった。地方の神社を国家と関係させるようになったのは太平洋戦争からである。これもやはり今になると神社とは何なのかわからないものになっているからだ。
ともかくあまりにも犠牲者が多すぎたからなぜこんなに死なねばならなかったのかということである。そもそもそんなに死ぬ戦争が正しかったのかとなるからだ。
そもそも未だに太平洋戦争が何のために行われたのか日本人自身が総括していない、そこに靖国神社が問題になる。
どういう経過で戦争に突入したのかもわかりにくいのである。

神道と国家神道は違うという、地域の神社が国家と結びつくことはなかった、東照権現は家康を神として祭っているから国家と結びついているものだろう。
他の地域の神社は豊作を祈るとか病気が直るとか国家とは結びついていない
忠魂碑は靖国神社の分化したものともいえる、天皇の臣下として死んだものを記念しているからである。ではその忠魂碑に地元の人でも祭りしたりしない、何か忘れられているのである。でもどういうわけか忠魂碑はどこの神社でもある。それは戦前に建てられたものが継続してあるということである。それは未だに戦争で死んだ人の墓に軍隊の位が刻まれている、それは当時は名誉の戦死だからそうなっている、それを統括したのが靖国神社なのである。戦争で死んだ人は慰霊すべきなことは確かである。

要するに太平洋戦争が何であったのか?それを日本人は歴史的に総括していないから起きている、全面的にあの戦争を意義あるものとして肯定している人たちも右翼には多い
その右傾化が政治家でも増えている、欧米の植民地化に対する抵抗戦争だったとか白人優位を人種差別に抵抗する戦争だったというのもそうである。それも一理ある,日本だけが植民地化されないという特殊性があったからである。アジアでは他は植民地化されたのに日本だけは明治維新でも植民地化されなかったことが特筆すべきだからである。
でもそれはアジア侵略を正当化できものなのかどうかは疑問である。
靖国神社問題はこうして太平洋戦争が何であったのか歴史的に日本人が総括していないから起きている、もし意義あるものなら靖国神社が重要なものとなってゆく、それと並んで地方の神社にある忠魂碑も重要なものとなってゆく

明治維新以降の国家とか国民に天皇をもってきて臣従関係にしたこと自体無理があった。近代国家は江戸時代とは違ったものになったからである。
そういう矛盾を太平洋戦争まで日本はひきづっていたのである。
国民とか国家とはヨーロッパでも近代化して生れたものでありそれまでは日本の封建時代であり国家とか国民という意識はないのである。
だからどうして国家が生れ国民が生れたのか問題になるのである。
なぜ天皇が靖国神社にお参りしないのか?それは近代の明治維新の国家は天皇の臣民としても実際は違ったものになっている。無理やり天皇の臣民にしたからである。
臣下が天皇のために死んだなら当然お参りするのは義務である。それができないということ自体が国家とか国民が天皇の臣下としてありえないものとなっていたから起きているのである。

いづれにしろ国家とか国民はここ二百年くらいに生れた概念である。むしろフランス革命の「自由,平等、博愛」の思想は宗教の束縛や国家を国民を越えるものとして生れた。
それはいかなる国家に属していても人間としての平等の権利をもつとしたからである。
人間を宗教でも人種でも差別しないという人類的理想主義なのである。
ただそれが結果的に実行されたグローバル化で移民問題が発生しテロとなり軋轢が生れ国家主義が民族主義に逆戻りしているのが現在である。
人間は国家共同体が一番強固でありこれからぬけられないのである。
ただ人類的理想を追求すれば共通なものがあり憲法のようにすることもできる
それが国連の役割だけど国連も国家の前には無力なのである。

例えば国連で世界の紛争など解決できない、世界は中国だったら中華帝国を目指している、今はアメリカ帝国に属しているが日本もその中華帝国に属するものとして扱われる、
そもそも統一した世界帝国は人類にできていないからである。
国家国民さえグローバル化してやがて消滅してゆくかもしれない、世界国家ができればそうなる。日本の戦争は日本の天皇国家としての延長としてアジアへの進出だった。
国家というものをぬけだしていないからこそ失敗したともいえる。

それには確かに意義があった、でも日本国家というものからぬけだせないからこそ失敗したのである。ただ国家国民というものからぬけだしている国はない、ただそれもこれだけグローバル化していれば国家国民というものから人類は抜け出す方向へ合意してゆくかもしれない、実際はそうしなければ人類は戦争をやめることができないのである。
国家でも共通の利益を計れば共同できる、経済的には商業ではそういうことをしてきている。ただEUでもそういう理想があってしてもなぜうまくいかないのか?
そこに国家とか国民とか民族とか人間が形成してきた歴史的なものも関係してできない
ただ中国でもアメリカでも多様な人種とか民族が共生するとなる理念国家になる。
中国でもマルキシズムとか共産主義になり理念国家として世界的運動として一時あったが国家という枠からはぬけだせないのである。世界はむしろナショナリズムに回帰しているのである。
タグ:国家論
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2016年08月03日

丸森から古いものを探しに来た人 (自分の家が店屋だったときのガラスケースと母の記憶)


丸森から古いものを探しに来た人


(自分の家が店屋だったときのガラスケースと母の記憶)


glassscase111.jpg

これだった、8000円くらいで売っていた。



今日は丸森から古いものありませんかと家に入って来た者があった。
最初に言ったのが鉄瓶ないかということだった。
鉄瓶はあったがどこにあるかわからないと家捜したのである。
とにかく古いものがほしいということだった。
その人に投げたい古いタンスがあると言ったらそれをひきとるという
自分はその古いタンスを捨てるのに困っていたのである。
その人は家の中を探して見つけたのが自分の家で駄菓子屋のようなものをしていたときのガラスのケースだった
このケースはばら売りするための菓子などを入れていたのである。
戦後すぐは物がなく袋で売っていない、飴なども一つ一つ売っていたのである。
江戸時代に飴屋が飴売りがいたのと同じである。
親は子供に飴玉買ってこいと5円とかもたされて近くの駄菓子屋に行かされた
戦前からまもなく江戸時代でも商売はバラ売りであり、一個一個売っていた。
酒でも樽から一合とか買っていたのである。
金がないからその日暮らしというときそういう生活だった。
貯金をしている人はまれである。第一銀行がない時代すらあった
それは大正時代ではそうだった。銀行が田舎にはなかったのである。
銀行があるのは盛岡の煉瓦の銀行が有名なように都会だけだったのである。


それからその人は刀ないかとが探した、この家は古い家ではないからないと言った
野馬追いに出るような家ならあるだろう、蔵があるような家ならあるだろう。
柱時計がないかとも探していた。それはいつも家の中にあったがなくなっていた。
いろいろ探したがもってゆくようなものはない、なんでも茶碗を見せたら古く見せることができるという、古いものがとにかく価値があるということである。
骨董品屋なのか,丸森にそんな店があるのか?あそこは仙台の人が来たりしているかもしれない。なんか図々しいが古いタンスを投げるのに困っていたから助かったと思い歓迎したのである。
ただ失敗したのはばら売りの菓子などを入れていたケースをもっていかれたことである。それは母が駄菓子屋をしていたとき使っていたものだからである。
母は毎日店でこまめに働いていた。ただ自分は店が嫌だった。
食事しているとき必ずお客さんが来て立って店にでていたから満足にご飯が食べられないほどだった、そのことが一番嫌だったし親となにか遊んだこともない、遠くに遊びに連れていってもらったこともないことが嫌だった。
だから親子とかで楽しんだ記憶がないのである。
母はただ働くだけでありそれしかない、スーパーが近くにできたとき店ははやらなくなった。それでも80くらいまで細々と店をしていた。ほとんどもうけはなくなっていてもしていたのである。そしてそれから売れない売れないと毎日なげていた。
それも嫌だった。母は性格的に細かいし貧乏性でありおおらかさがなかった。
それは自分の性格にもなっている。やせている人は性格的におおらかさにかけるのである

その人か古いものないかというとき古いものにはすでに単なる物ではなく思い出が記憶がつまっている、人間が死ぬと残るのはその人が使っていた物であり人間そのものは何も残らない、だから駄菓子屋をしていたときのあのガラスケースが貴重なもののように見えたそれに他の人はどうであれ自分の家にとって価値あるものだった。
それを見たとき自分の家で店でこまめに働いていた母を思い出したのである。
つまりそういうふうに物は最後は記憶するものとして残っているのだ。
その記憶されたものに価値がある。要するに何度も書いているけど人間が最後に残るのは記憶なのである。記憶は物として具体的に残るから古い物に価値がある。
その物には過去の記憶が重いものとして残されていたのである。
今や自分の家で店やっていたなどわからなくなっている、何か一軒一軒の家にはそうした記憶が残されている

なんか近くの古い医院の家が残っていたけど家そのものが記憶とてし残っている感じにもなる。それは街の記憶でもある。それが取り壊されると記憶も失われるだろう。
家自体が記憶なのである。だから奇妙なのは原発事故で人が住まなくなった家は何か遺跡のように見えたのである。そこで生活したものの記憶が家に残されているのである。
人間は以外とその時その時生きていてもそれがみんな記憶になり思い出になることを意識しないのである。人間は生きているのだけどその生きていることの貴重さを意識できないのである。人と出会ったとしてもその出会いが貴重なことを意識できない
でも最後になると老人になるともう二度と合わないということを意識させられるのであるただ何でもないものでもそこにあるものが貴重に見えてくる、そして人間はつくづく時間を無駄に使ったなとみんな後悔しているのである。

ただ正直物がありすぎるのも困る、断捨離というのがはやりだけど本当に最後は物はなければない方がすっきりして身が軽くなっていい。もう物がいらなくなる。
物が負担になるのである。みんな最後は80過ぎたりしたら何もいらないと言っている。
物がいらなくなる、かえって負担になる。なんか家すらあるのが重荷になる。
大きい家になると掃除であれかたずけるにしても負担なのである。
土地すらもっていることも負担になるだろう、死ぬ時は何もいらないとなる
家であれ土地でも金でも死ぬときはもっていけないからである。
それで天に宝を積めというときそうしたこの世の土地とか家とか金でもないとなる
この世の宝は死ぬときになるといらないとなるからだ。
ただはっきりいってこれを理解することは若いときでもさらに年とっても最高にむずかしいだろう。年取っても欲望は消えないからである。

あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。
−マタイによる福音書 6:19-21

みんな物を蓄え金を蓄え富を蓄えようとしている。それはそれで否定はできない、でも最後には凡人でも悟る、なんにもいらないとほとんどの人が言うからである。
ただそれを若いときから悟るのは至難だとなる
年取っても金をいらないという人はいないのである。
要するに最後に残るのは記憶でありそれは物ではないから金でもないから奪われないとなる、最後に残ったものは記憶でありそれをたずさえて天国にも地獄にも行く
その土地でも家でも物でも何ももってはいけないからである。

そのガラスのケースは遠い日の記憶
菓子をばら売りして入れていたケース
母はこまめに働き売っていた
しかし今そのことを記憶している人があるだろうか
世は常に変わりそんな店のことは忘れられる
一軒一軒の家には何かしらそうした記憶があり
その記憶が街の歴史でもある
昔の日は二度ともどってこない
そのガラスのケースはただ今重く昔を語る
新聞紙をのりづけして袋を作り
ここで母が菓子をばら売りしていたことを

その頃袋がなくて新聞紙で袋を毎日作っていたのである。今思い出すと不思議に思う。それは相当な手間である。袋詰めすることは手間である。今ならみんな袋詰めされているからである。だから暇なく働いていたとなる。
ただ自分はそういう生活は嫌だった。自分はもともと商売にも向いていなかった。
母も実際は向いていなかったのである。ただここで店をしていたことがあったということ自体やがて忘れられる、それは一つの歴史が忘れられることかもしれない
そういう一軒一軒に歴史があるからだ。それで浪江の赤生木(あこうぎ)ではその一軒一軒の家の歴史を記録しようとしていることがいたということもわかる。
なぜなら村自体が消えてしまうからである。そしたらそういう歴史と記憶も消えてしまうそれは津波で村自体が消失したということでもそうなった。
村自体が消えて記憶も歴史も喪失してしまったのである。



神田のうたR「本郷弓町駄菓子屋懐古」(3)宝袋

さて、親からもらう小遣は五円か十円で、夏休みは五十円。二宮尊徳の一円札や国会議事堂の十円札、それに板垣退助の五十銭札が流通していた時代である。まだアルミの一円玉はなく、十円硬貨が出始めた頃だ

五円十円で買うものだった。二宮尊徳の一円札などあったの?こういうふうに過去の記憶を詳細に覚えて書いている人がいる。インターネットではそういう点で便利である。
戦前になると五銭屋とかあったから五銭が基準だったのだろう。


タグ:駄菓子屋
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2016年07月16日

地名の基本は方角地名 (南相馬市の名前にはなお違和感が残る)


地名の基本は方角地名


(南相馬市の名前にはなお違和感が残る)

northeast11.jpg

南はあたたかい感じ、北は白で寒い感じ

東と西は陽の昇り西は沈むところ



方角地名が地名の基本としてある。方角というとき人間の生活で基本になるのがやはり方角になる。その方角の基本となるのが太陽が昇り太陽が沈む方向なるのである。
どっちかというと南北より東西が基本になる、世界史でも東西である。東がアジアであり西がヨーロッパである。

「オリエント」(日が昇るところ)とは「オクシデント」(日が没するところ)の対概念で、もちろん前者が東洋、後者は西洋という意味です。東洋と西洋を大きく比較する言葉ですが、中世という時代に地中海を航行して聖地イェルサレムに巡礼していたヨーロッパ人は日の出の方向を目指して旅をしたので、「オリエント」とは「中東」を意味するでしょう。地中海中心の航海から大航海時代に入り、インド洋に進出することによって「オリエント」の概念は中東からアジア全域に拡大したと思われます。
「アジア」という言葉は、本来は小アジア半島(現在のトルコ共和国)西部に設定されたローマ帝国の属州の名称です。


これはヨーロッパ中心に軸として方向があった。最初はローマ帝国だった。
アジアが一小地域でありそれが拡大してアジアになった。これはヨーロッパ中心の世界観なのである。つまり地球規模でみても方向は中心があって決まる。
ローマ帝国が中心だとするとそこが中心になり方角が決まる。
これはヨーロッパ中心に軸として方向があった。最初はローマ帝国だった。
アジアが一小地域でありそれが拡大してアジアになった。これはヨーロッパ中心の世界観なのである。つまり地球規模でみても方向は中心があって決まる。
ローマ帝国が中心だとするとそこが中心になり方角が決まる。

アジアという地名は、アッシリア人がBC2350−2180にバビロン北部に栄えたアッカド(Akkad)時代のアッシリア人がアッカド語(Akkadian)で「陽が昇る土地」という意味で言ったasu が語源で、それが古代ギリシアに伝わり(ASIA)、ローマ時代のラテン語(ASIA)を経て、Asia なったのだそうです。

アジアはアッシリアとか古い地域からみて陽が昇る地域だった。トルコはアジアでありアジア人である、突厥とかの遊牧民であり顔だちもアジアになる。

ボスポラス海峡がヨーロッパ とアジアを分ける、ブルガリアはキリスト教国になるからヨーロッパになる。

やはり中心があって方角がある。
仙台には良く電車で行く、電車というのは駅名が気になる、記憶に残る。
仙台に行くと必ず南仙台を通る、南仙台になると仙台が近いとなる。
南仙台は仙台から見て南だから南仙台なのである。
もともとは別な駅名だった。

1924年(大正13年)
9月10日 - 陸前中田駅(りくぜんなかだえき)として開業。
1963年(昭和38年)
5月25日 - 南仙台駅に改称。

陸前中田とかなると陸前とかは古風な江戸時代からの名前である。

江戸時代には、この街道の呼称は藩ごとにまちまちであった。
仙台藩では江戸浜街道。
中村藩では中村以北を仙台通、中村以南を水戸通。
磐城平藩では磐城平以北を相馬路、磐城平以南を水戸路。
水戸藩では水戸以北を磐城街道、水戸以南を水戸街道。

これがわかりやすい、常に水戸に通じる道となっている、東京からは今でも水戸街道と六号線は言っている。

東と西は方角地名の基本としてある。日本でも東西があり東(あづま)と西の分かれるところが関が原であり古代にもここを境にして兄弟の天皇が分かれて戦ったのが壬申の乱だった。ここで気候も変わる境目である。
琵琶湖でも湖東と湖西があり湖西の方は陽が沈む方向になりイメージ化される、ただ旅をするとこの方向がわかりにくくなる。西となるとどうしても陽が沈む方向になるから淋しい感じになるのだ。

大業三年(607年)、隋の皇帝煬帝が激怒したことで有名な 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」との文言がある[8]。『隋書』には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ使者とあるのみである。

小野妹子がなぜ陽が昇る所の天子から陽が没る天子に贈るとしたのだろうか?
ここでも方角を言っていたのである。国と国の間でも方角が基本になるからだ。

地名は基本的に方角地名がある。相馬藩の歴史をたどれば小高郷、中の郷、北郷、宇多郷、山中郷がある。北郷は鹿島区の地域だけどこれはもともと相馬氏の城が最初に小高に築かれたからそこから北ということで北郷になったのである。
中心が小高にあってそこから北にあるからそうなった。
ではなぜ南相馬市となったのか?
原町市、小高町、鹿島町、飯館町は合併して「南相馬」になるのか、これが募集して一番多かった。相馬を中心にしてその南だから南相馬になる。喜多方の良かったのは北方(ほっぽう)という味気ない名が喜多方という当て字にしてイメ-ジが良くなったことである。
小高から相馬に前の中村に移った時、その城が中心になり相馬市となった。
それで今度は南相馬市となったのである。
南相馬市というとき未だに違和感を感じるのはなぜか?相馬市が中心としてありその南にあるから南相馬市だとなる。
南というとなにか温かい感じがするがそういう感じはない、ただ相馬市の城があった所から南というだけなのである。
相馬市が中心にあり南相馬市は付属している感じになる、外から見てもそうしか見えないのである。
相馬市があって南相馬市としか見えないのである。

ただ三つの町が合併すくときみんなが納得するものがないから無難なものとして南相馬市となった。
南相馬だと相馬市とも一体感があり相馬野馬追いの祭の地域として外からもわかりやすいからである。歴史的にはそうだがどうしても相馬市が中心で付属しているのが南相馬市になるというのが払拭できないのである。
将来的には南相馬市も相馬市も一緒になり相馬市になるということを前提にして名付けたという人もいる。
人口減になったのと津波や原発事故でそれが加速されることもある。
人口減少してゆけば全国的にもさらに市町村合併が推進される。
ともかく合併した南相馬市というのには違和感がある。ただではこれ以外の名前があるのかというと募集していろいろあってもみんなを納得されるものがなかった。
要するにみんなが納得するものとして南相馬市が生まれた。地名には勝手な突拍子もないものをつけられない、みんなが納得するものでとはないと承認されない
だから多数決で決めるのもしかたないとなる、だいたい地名は地形とから名付けられたものが多いし無味乾燥なものが多いからである。

福島県の西郷村というとき西白河郡西郷村とあり白河町が小さな領域だったが拡大して白河市になった。次ぎに東白河郡がある。白河市を中心にして東と西の分かれたのである。これも西白河村とか東白河村だとわかりやすい、外からみるとわかりやすい、ただ西郷村とあるとどこが中心なのか外から見たときわかりにくい、会津だと東西南北がありわかりやすい。ただ南北というとき温かいとか寒いとイメージする、南風だとあたたかいし北風だと寒いと感じる。東西となると陽が昇り没るとして方角があるからわかりやすい。
南と北は何か寒暖をイメージするから東西とはかなり感覚的に違ったものとなる
だから南相馬市はべ別に南だから温かいということはない、それはただ方角的なものだけなのである。
北茨城の北はいわき中心に名付けられていない、いわきからした南である。東京中心にして北となっているとわかりやすい、東北というのもそうである。
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2016年06月21日

自転車屋のことなど (それぞれの人生でふりかえるもの)


自転車屋のことなど


(それぞれの人生でふりかえるもの)


話を聞いておきながらネット通販で買われてしまうのは、 
その差額に見合うだけの話をできなかったから、かもしれないよ。 
ちゃんと説明したつもりでも、 
事前にネットで予習された内容と同じだったら価値ゼロですから。

しかし貧乏人相手に売り上げ作るのは大変だよ。 
生活必需品の自転車ではなく趣味の自転車に嵌ってる客の方が金離れはいいな。 
ママチャリ買えるくらいのパーツを買ってくれる。


自転車屋には実質的に免許ないに等しく、 
その腕の良し悪しはピンキリなわけで、 
部品のもつマージンを食いつぶす整備を 
やっても、高級品なら客にバレないわけ。 
修理できなくても、 
修理でかえって調子が悪くなっても、 
安物だからといって済ませることが出来るし。


最近の自転車屋の増え方見たら戦国時代みたいですね 
京都ですけど、半径50メートル以内に色んな自転車屋がひしめいてる地域がありますよ 
イオンに、あさひ、地場の自転車チェーンが二つ、昔からやってる自転車屋 
明らかに供給過剰だと思うんですけど、体力ある所はここでちょっとでも勝負しないと生き残れないと踏んでるんでしょうか



自転車はすでに20台くらいのったかもしれない、ヤマハの電動自転車は三台目だから高いのはスポーツタイプは全部のっている。もう一台はハナソニックである。これは毎日買い物に使っている。婦人用の作りであり遠出にいいというがそれもできるがかえって日常の買い物に使えた。スポーツタイプではないからだ。
ロードは8万の一台買ったけどこれは使えないものだった。ロードは高いものと安いものでは相当な差がある。
それがヤマハのYPJ-Rにのってわかった。これ自体がバッテリーなくても相当に高級な自転車に思えた。走りが全然違うからである。
軽く前の倍の速度がでるし乗っていて疲れないからこれは長距離にはいいと思った。
だからこれで遠出をためしてみたい、ただ早いから危険である。スピードは坂ではひかえいた方がいい。
一回頭を売って死ぬような経験をしている。前の歯が三本折れた。それは新しい自転車を買ったばかりのときだったのである。
その事故を起こした場所はいつも走っている普通の場所だったのである。
自転車でもなにか事故はどこで起きるかわからない、危ないところでも起きない時は起きない、意外なところで起きるときは起きる。

自転車屋が駅前にあったのは引き込み線があり荷物を貨物列車で運んでいた時代があった物流が駅中心の時代があった。それで駅前通りがあったのである。
引き込み線というとき、原町紡績に原紡に母が十年勤めていたけどそこの門に引き込み線があった。鉄道輸送が主だかそうなっていたのである。
原町でも駅前通りが繁盛したが今はどこもシャッター通りになってしまった。鹿島で駅前通りができたのは新しいのである。
広い通りがそうであり実は脇に細い道がありそこに商店があった。角屋(すみやーかどや)とかある時は道の角でありそこが場所がいいので繁盛した。
その頃は車がない歩きの社会だったからそうなる。自分の家も店屋だったが道の角にあって場所が良くて一時繁盛した。
かつて繁盛した裏町通りである。裏町にどこでも小さな店があり繁盛していたのである。今や自分の町では店屋があるのかとなる、隣が市だからみんな買い物は車で行くからそんな小さな店は消失した。
なにしろ歩いて買い物するとなる街内でも遠くには行けないのである。
その頃は自転車すら貴重品だった。一生に一台使いいつも丁寧に磨いていたのである。
戦後十年くらいの市町村を再現するといかに変わったか驚く。
ほとんどその記憶となるものすらなく消失しているからである。
ただそこには何か人間的なもの人間臭いものが満ちていたことは確かである。

今自分の街ではもう一軒しか自転車屋が残っていない、その人も病気だとかなるといつやめるかもしれない、今でもやめたらあとが困ると言って原町とかで修理してもらっている人もいる。でも自転車を買ってもらわないとしてくれないとか言われたという。
商売になればみんなそうなる。だから京都では自転車が増えて競争してつぶれているとかなると都会と田舎はそれだけ差がある。
ただ田舎のことを考えるとなぜ自転車がやっていけるのか不思議である。
こんなことを調べるのはネットが向いている、修理がその主な収入だというとき自転車はそれなりのスキルがないとできない、ここの自転車屋はバイクも修理している
田舎だとなんでも屋にならないと商売できない

自転車屋が他の商店とは違い一応まだ成り立っているのはスキルをもっているからである自転車を買っても必ずあとで修理がありパンクもあり世話になる。
だから通販ではあとで困るから自転車は一回買ったがあとは買ってない
つまり自転車屋は街の技術者であり買うだけではすまされないので成り立っている
他の仕事は例えば書店などは今は自分の街には一軒もなくなった。
なぜそうなったのかというとまず書店などはなんのスキルもいらない、売る本が何かもわからない、理解していない、第一商売で売るものを知らないで売れるわけがない
ただ配られたものを売り売れなかったら返せばいいとかなっているのだからなんのスキルもいらなかったのである。何の苦労もないのである。
自分の売る本の説明ができないのだから楽でありこんな商売はなくなっても当然だと思うこれはネット通販とかでとって変わられたのも当然だとなる
ただ物を右から左に運ぶような仕事は機械にとって変わられる、スキルが必要ないからである。

自分はバッテリーを安いものがネットにあったけどこれも住所とか書かなければならないからめんどうでやめた。それより一軒ある自転車に世話になるので買うことにした。
その自転車でもなくなること自分が困るからである。
そしてネット通販にも疑問がある。そこでは誰がもうけいてるのか?
東京に拠点があるのが普通であり地方には金が回らないとなればますます地方は衰退するすると地方に住んでいる自分でもみんな困るのである。
ただそうはいってもやはり何かメリットがなければ商売は成り立たない、地方でも田舎でも自転車屋でもスキルがありサービスが受けられるということで商売が成り立つ
ただあらゆるものが全国ではない、グローバルな競争を強いられるとき何か特徴がないものは消失する。味噌だっていろいろな味噌があり地元で作っていても自分はいちいち出汁(だし)を入れるのがめんどうでしていない、なぜなら家事に追われているからである。
だから自分は家事をするというとき何を買うかであり料理することではないのである。
その買うものを知る買うものを選ぶことが仕事になっているのである。それだけ物が増えているからである。料理に使うものの種類が多いからである。

いづれにしろいろいろ老人になると過去をふりかえる、自転車も自分の人生の一部だったとなとふりかえる、自転車旅行も相当にしたからふりかえる、そうして回想するのが老人の仕事になる、それを創作に結びつけて作品化するのが仕事である。
それぞれの人生は郷土史でもありその一こまなのである。
自分が自転車にこだわるのはそれが自然とマッチするからである。風を感じたり暑いときは木蔭を行くと涼しさを感じたりする。車だと遮断しているから感じないのである。
これは実際は贅沢である。仕事には今や車が不可欠だからである。
ロードは走っていて一番気持いいものだった。これなら遠出しても負担がからないかもしれない、何か今までの乗ったものと比べると新幹線に乗った感じなのである。
ママチャリとかは普通車でありクロスバイクとかちょっと早いのは急行列車でありさらに特急列車ににたものがあるが今回のロードはバッテリーつきだから新幹線に乗った気分に例えられる、最後に乗るのが新幹線だったということにもなる。



タグ:自転車屋
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2016年05月31日

母とその前夫の戸籍をたどる (戸籍から一庶民の歴史がわかる-東京の歴史)



母とその前夫の戸籍をたどる

(戸籍から一庶民の歴史がわかる-東京の歴史)



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山口富造(母の前夫)


東京の下谷区三の輪町から王子区神谷町に転籍

台東区から北区へ転籍



昭和17年王子区神谷町二丁目五七番地理研工業王子第二工場内で死亡



■昭和10年(1935)財団法人理化学研究所で開発された研磨材をもとに、研磨布紙の製造販売を目的として理研コランダム株式会社を同研究所内に設立。

■昭和12年(1937)東京都北区に王子工場完成、財団法人理化学研究所より移転。

■昭和13年(1938)群馬県川場村のガーネット鉱区鉱業権を取得し、沼田工場を建設。

■昭和28年(1953)静電塗装設備完成。(特許:工業技術院奨励金を受ける)

■昭和31年(1956)通産省より研究補助金を得て、特殊精密研磨紙生産設備完成。http://www.rikencorundum.co.jp/kaisyaannai/rekisi.html

愛知県西春井郡西春村大字九六坪南城屋敷戸主忌犬飼金松 六男 養子縁組

山口一男

自分の母親は東京で女中で働いた。大人しい内向きの性格だから良く東京まで出て行ったと思う。そこで前夫と結婚した。山口富造という前夫は東京生れであり台東区でありそこに本籍があったが北区に転籍した。
その北区の理研工業で事故で死亡した。そこまで戸籍に書かれていた。時間まで書いてあった。
その理研工業とはインターネットで調べたらおそらく昭和十年に設立されたここではないか?
北区に昭和十二年に王子工場完成とあるからだ。そして昭和十七年に事故で死亡した。
母が結婚したのは山口富造が前の妻が死亡したためである。死亡してまもなく結婚していることも記されている

養子縁組した人は名古屋市の出身だった。六男でありなぜか養子縁組して東京に来た
母が何か変な奴だと言っていたことを聞いた。おそらく育てられなくてなんかの縁で
山口家に養子に入った。その事情はわからない。
その人の墓は焼津にあるが一回墓参りしてあとは誰も墓参りしないだろう。
兄に死んだという連絡が来たために兄が焼津の寺に頼んで埋葬した。
その時母がかまうなと言ったけど戸籍をたどり死んだという連絡が来たからである。
戸籍はそうして死んだときとか必ず連絡して役所が国が責任を負わせるためにある。
そんな一度もあっていない人などかかわる必要がないのである。
金もなかったからめんどうだから母はかかわるなと言っていたのである。
戸籍でつながっていても全くあっていないとか知らない人も多い。
そういう人は戸籍上だけのつながりでありそんな人と関係させるのはおかしいのである。戸籍に関係なく実生活で深い関係になっている人もいるからそっちの方を重視すべきだと戸籍などない方がいいという人もいる。これも何か理不尽なところがあるためである。
山口富造と自分の母は結婚して子供生んだ、それが自分の父の違う兄となる
その兄も交通事故で四一才で死んだ

戸籍をたどるとここまで分ることの驚きである。その足跡が記されているのだ。
戦前でも東京に出る人が多かったのかもしれない、女性だったら女中としての働き口が相当にあったのだろう。
戦前の東京の状態はどうだったのか?

大東亜戦争(太平洋戦争)始まる(昭和17年〜昭和20年)

すでに戦争がはじまっていたのだ。だから相当に混乱した状態だった。
東京と田舎の生活は相当に違っていた。
自分の姉は看護婦の免許をとるために東京に行っていた。つまり東京でしか看護婦の免許をとれなかったのである。東京と田舎はその頃は暮らしでも相当に差があった。
やはり東京に出稼ぎというか東京に田舎から出る人が多かったのかもしれない

1935年(昭和10年)東京の貴重なカラー映像

人力車も走っている、車も走っている、人をのせた馬車も走っている、市電も走っている、立派なビルが建っている、・・・・こういう光景は田舎にはなかったろう。
田舎では高いビルなどはないだろう。今でも南相馬市では高いビルは病院くらいしかないのである。
つまり田舎と東京の光景とか暮らしは相当に違ったものだったのである。
だから東京に憧れるというのはその当時から相当にあったろう。
自分の母親もそうだっかもしれない、ただ自分の母親はとても冒険するようなタイプではないからなぜ東京に出たのか疑問が残る
当時東京に行くのは冒険である。行くにしても蒸気機関車であり八時間くらいかかったかもしれない、そのくらい遠いということである。気軽に行ける所ではなかった。
帰ってくるのも簡単にはできない所だったのである。 
おそらく実家が事業で失敗して母の姉が東京に出てきていたのでその姉を頼って東京に出たのかもしれない、家を嫌って姉は東京にでて
母も出たのかもしれない。家から離れたいということが若い時はある。
自分も家とか故郷から離れたいということがありただ東京に出たいということで三流大学に入った。
その時中学卒業が金の卵としてもてはやされた時代だからずいぶん恵まれていたのである。
その後も自分は相当に恵まれていた。

その時分は,東京は泥浮の都会,土蔵造の家並の都会,参議の箱馬車の都会,橋の
決に露店の多く出る都会であった。考-て見ても夢のやうな気がする。京橋 日本橋
の大通の中で,銀座通を除いて,西洋造りの大きい家屋は,今の須田町の二六新聞
社のところにあったケレ-商会といふ家一軒であったoそれは三階の大きな建物
で,屋上には風につれてぐるぐる廻る風測計のやうなものがあった。何でも外国の
食料品か何かを売ってゐた. (東京の三十年ー田山花袋)

これは明治時代の風景だからさらに変わっている。

また大名屋敷が広かったというとき過去は何か違ってイメージしている
現代からイメージするからそうなる、その時江戸は広い土地があった。

臼杵藩藩主稲葉伊予守の江戸上屋敷が 4,954坪(16,348平方メートル)江戸下屋敷が 3,480坪(11,484平方メートル)とあります。

現在のつましい我々市民の家の広さを、多めに50坪(165平方メートル)とすると、100軒が入ってしまうというとんでもない広さです。

これは小藩でそうなのであり九〇〇〇坪とか八〇〇〇坪とかあり国立競技場と甲子園なみの広い屋敷があった。

現代の東京からそういう広さをイメージできない、江戸の藩の屋敷は庶民の長屋などからした全く別世界だったのである。時代劇で見ても門が大きい、それだけの門があり広い屋敷があったとなる。だからその屋敷を維持するためには金がかかったともなる
もし大名屋敷の跡がそのまま残っていてそこに立ったらその広さに驚き歴史を実感できるでも東京は何か歴史を実感てきるものがみんななくなっているからつまらないのである。
自分の母親の前夫の住んでいたのは今の上野だった。

東京都台東区のおよそ西半分を範囲とし、江戸・東京の下町を構成している地域のひとつである。
下谷は浅草・本所・深川と並ぶ、東京下町の外郭をなす。

三ノ輪は今も走っている都電荒川線の終点だった。この都電には乗ったことがある。
早稲田まで通じていて途中に王子駅があるということはここに前夫は転籍した
すると遠い場所ではなかったとなる。
転籍した理由は王子にある工場に移るためだった?

王子電気軌道によって敷設された路線を東京市(現東京都)が買収したものを端緒として
荒川線はもともと王子電気軌道であり王子までしか行っていなかった。

三ノ輪は上野界隈であり台東区上野である。北区は隣り合っている、なぜ北区なのか?
江戸城があったところが中心でそこから北になっているからなのか?
下谷車坂町などあるのは都会らしい、車とは人力車だろう。頻繁に人力車が通ったからだろう。

いづれにしろ自分の母親は昭和十六年に結婚して昭和十七年に前夫は事故で死んでいるのである。そしたら一年もみたない間に死んだことになる、ただそこで一子を自分の兄をもうけている
女中奉公に東京に出て何年いたのかわからないがこれもあまりにも短い期間だったとなる実家の原町の夜ノ森公園の近くに子供とともに兄とともに帰って自分の家にた嫁いだ。
夜森前一番地となっている。夜ノ森とは夜ノ森公園の近くだったのである。その実家に行ったことがある。
そしてその実家はなくなり墓しか残っていないのである。
母の一生は不運と苦労の一生だった。後妻として二回嫁ぎ自分の父親も早く死んだ。
母の父親が事業に失敗して一家離散のようになってから不運だったのである。
そういう人は戦前生れとか大正生れとかなると多い、貧乏だし戦争もあったからそうなる

こうして戸籍から明確に一個人の庶民の歴史がたどれるのが戸籍でありそれも不思議だとなる、まず墓からはほとんどわからない、江戸時代のものというだけでもわかれば貴重だがその他はその人がどういう生い立ちなのかなど全くわからない、戸籍をたどるとこのようにわかるのである。
それにしてもなんかこの戸籍をたどるというのも不思議である。
戸籍とインターネットで何か歴史をたどることができた。
本でもその一部をインターネットで読みつないぎ編集した
タグ:東京の歴史
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2015年12月25日

戦後の地方の歴史をふりかえる (戦争の引揚者が山村に開墾に入るー赤生木なども同じだった)


戦後の地方の歴史をふりかえる

(戦争の引揚者が山村に開墾に入るー赤生木なども同じだった)


戦争が終わったとき引揚者が大勢帰ってきた。その人たちの就職の場がなかった。働く場所がなかった。日本は明治から人口増加がつづいた。
信じられないのは母が生れた大正時代は日本には六千万人しかいない、今の人口の半分である。だから東京でも二百万とか規模が小さいのである。
どこの市町村でも人口が半分の状態をイメージするといかに今と違うかわかる
そして今度は日本は人口減少時代にはいり市町村が消滅してゆくと言われる
空家が800万軒とか人口がへる衝撃が大きい
そもそも大正時代が電気がないランプだったということもイメージできない
でも電気がないいうとき葛尾村では電気が来たのは戦後二十年以上なのである
電気がないというときネパールの山村には電気がない
それを見たら当時と同じだと思った。


一方で戦争の引揚者が開墾に入る時代が戦後にあった。
自分の父親が双葉の新山の酒屋に働いていた。
そこで一緒に働いていた人が小池に開墾に入った
それも奥ではなく真ん中辺りでありあんなところに開墾できる土地があったことが不思議である。それは全国で戦後引揚者が開墾に入った。
それは小池などでもそうだとするといたるところに開墾のために入った。
つまりまだ日本は地方は農業中心の社会だったからである。
赤生木でもそうだし飯館村でもそうだしいたるところそうである。
ただ赤生木でも飯館村でも前々から住んでいた人はいた。
だから市町村の歴史でもそこに江戸時代から住んでいる人と戦後などに開墾に入った人がいたことを区別す必要がある
そういう引揚者などはもともとあった村に開墾に入るとき不便な辺鄙な場所に入った。そういう所は原野のようなまた開墾されていない場所だったからである。
飯館村だと大倉から坂を越えた場所でありいかにも人の住めないような場所である。
そこは原発事故前に二軒くらい空家になっていたのである。
端の名前は共栄橋となっているのでこういう名は新しく開墾者が入って名付けられた
それは津島でもそうであり赤生木でもそうである。
そして津島では開墾者は結束が強いというときやはりともに苦労して開墾したからである

一方でそうして新しくそん辺鄙な山村に入植するものがいたがもともと山の暮らしは貧しいから街に下りてくる人がいた。
自分の父親は双葉の新山の酒屋に葛尾村2ら丁稚奉公したのである
山には仕事がないから食い扶持がないから街に下りてきて丁稚奉になる人もいた
戦後は異常事態であり働く場所がなくてやむなく辺鄙な場所に開墾に入った
赤生木村では北海道から乳牛を買って酪農で暮らそうとした。
飯館村は飯館牛として生計を立てた
その頃は炭焼きもあったからそれも大きな産業となり山村を支えた
その後石炭となり石油となり木材も海外から仕入れるなとグローバル化して変わった


次ぎに山村で起きたことは出稼ぎ者の時代である。山村だけでは暮らせないので現金収入を求めて東京などに出稼ぎに出たのである。
それは全国的なことであり山村だけではない、双葉や大熊辺りは原町市とかとは違い山村の環境とにていた、大熊では塩田で塩をとり東京に売っていたとか開発が遅れた。
その前には金の卵の集団就職があった、それは東京の人手不足を補った。
大熊とか双葉辺りは出稼ぎ者が出さないため地元で暮らせるようにと原発を積極的に誘致したのである。つまりその時、農業中心ではなく工業中心に移行する時代だった。
工場はまだ東京中心であり徐々に田舎に工場や会社が移転されたのである。
出稼ぎ者を出さないということで原発は効果があった
赤生木の人も原発で働いたとか浪江辺りになると三分の一は原発で働いて潤った
小高でもそうである。それで浜通りは会津などと比べると裕福だったとなる


もともと原発がなくても戦後の高度成長時代は先に街の方が恩恵にあづかった。
商店街が小さな資本の商店がみんな栄えたから通りは活気があった。
そして裏通りでも店が多く活気があった
自分の家も駄菓子屋のようなもの子供相手の店をはじめて一時期はやったのである。
子供が多いからそんな店でもやれたとなる、語り草になっているのは姉がこの店を始めるのに五万くらいの金を借りるのに苦労したことである。
今なら五〇万以上とかなると思う、それでもその頃は小さな店は簡単にはじめられたのである。小さな工場でも東京に密集して繁盛したから人手不足になったのである。
インド辺りの店にバラックのようにな店があった、新聞紙が袋になっていた。
それは自分の店と同じだった。新聞紙はその頃便所紙ともなり貴重だったのである。
便所のくみ取りも近くの農家が肥料とするためにとりにきていた。
それは江戸時代のつづきである。炭が燃料だったのもそうである。
双葉とか大熊辺りは浜通りでも今でも元の原町市とか平駅などから離れている辺鄙な地帯だった。そういう場所だから原発が誘致されたともなる
でももう少しあとになれば工場も誘致できたろう。
原発にはあまりにも警戒感がなかった、でも就職先としては最高の所だった。
給料が高いからである。身近に原発で働いた人はいくらでもいる、小高辺りまでは三分の一くらいがなんらかかかわっていたかもしれない。


集団就職で東京に労働力を地方が提供して出稼ぎ者でもそうである。
そして津波や原発事故で人口が流出してゆく、出稼ぎでもそれで子供を大学に出したとかあり全部が悪いものとはなっていない、
ただふりかえると地方は東京によって影響されていた、地方は戦後は森林鉄道があり森林の木材とか資源を供給していた。常磐炭鉱では石炭を供給していた。
エネルギーが石油に変わったとき急速に地方は変貌した。
東京中心に人手不足となり労働力を地方で提供した。出稼ぎ者もそうである。
東京というのがやはり経済的に地方を動かしていた。
東京に電力を供給するのも労働力を提供するのとにていたのである。
福島県は東京に近く東京の経済圏になりやすかったのである。
そこに繁栄もあり原発事故につながったのである。


結局戦後七〇年は何だったのかとなる。どうしてこの辺がこんな状態になったのか?
それを歴史的にふりかえると地方が東京に翻弄された時代だともいえる
地方創生とういうが東京中心に日本があった。
そもそも地方創生を考えるとき一体地方創生とは何なのかとなる
原発とかで栄えるのは地方創生ではなかった
地方で創生したもので栄えれば地方創生になっていたのである。
だから自給自足でも変だけど地方創生なのである。
それは東京とかに頼らない自立した経済になっていたからである。
江戸時代まではどこでも地方自立であった、地方創生だったのである。
これから目指す地方創生はどうなるのかということである。
集団就職があり出稼ぎがあり地方から東京へ労働力は供給された
原発事故で今度はこの辺はいち早く地方消滅になってしまった。
なぜそうなったかというと東京によってそうさせられたともなる
江戸時代のように地方自立だったらこうはならなかった


でも電気がない、車もないような生活は成り立たない
地方創生というけど地方から何が作り出されるのかとなる
文化的なものは地方から逆に作り出される
それを自分はしてきた、でも経済とかなるとまた別なのである。
第一次産業が壊滅したときそこに地方創生がありうるのかとなる
文化の基盤の土地が使えないというとき文化もありえないのである。
そして限界集落化して地方が消滅してゆく
歴史は繰り返すのか地方には仕事がないから若者がまた東京に出てゆく
それは出稼ぎ者ではないから地方に帰ってこないとなる
いづにしろ原発はこの辺では呪いのようになってその呪縛から解放されない
放射能汚染は簡単には消えないからである。
津波の被害地域でも原発事故地帯でも人口流出が最大の問題である。
未来をになう若者が流出しているからである。
ともかく未来を目指すにしても過去をふりかえらないとできない
もし過去を歴史をふりかえらないとまた同じ過ちを犯すようになるからである。








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2015年11月01日

山里の昔を偲ぶ詩 (栃窪村をイメージして)


山里の昔を偲ぶ詩


(栃窪村をイメージして)

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山よりの清き流れ 家の前にあわれ
洗い場ありて 日々の暮らしや
薪積みて 冬支度かな
秋の日静か 山里の昔を偲びぬ


その時、街はここより遠し
何もて行かむ 馬やリヤカーや
車なければ ここより遠し道
橋とてあわれ 木の橋ゆれぬ


炭焼きの烟は上り 街に炭を売る
街とて貧し 裸電球一つ
北風吹きて トタン屋根
炭にし暖をとり 寒しかな

その昔 街にし何を買ふ
ランプの油 近くにすむも
ランフの掃除、その灯し
暗き夜かな 藁葺きの家


山里に水車は のどかに回りぬ
その時の刻みの ゆるやかなれ
秋の日はさし 家々はまばらに
落葉を踏みて 山里は暮れぬ

薪を積む家や 鶏は放たれ歩み
清らかに水は流れ 洗い場あり
その流れの奥に 何かあれ
ひそけく野菊の残り咲くかな

街より遠く 医者とてなしも
救急車も来たらず 病になれば
ただ道の辺の 地蔵にすがり死ぬ
誰が墓やあわれ 村に残りぬ

流れの奥や 何かあれ
隠さる石は黙して 冬の日さしぬ
清き流れはひびき ひたすら黙す石
雪はふりつつ 春にも残る雪


ああ 貧しくも その村の暮らし
今はなつかし 便利なるも
今の暮らしは 何か平和なしも
贅沢なるも 不満のみぞ多し

汝いづこに憩わむ 満ち足りむや
便利なるも 贅沢なるも
人の心は荒れて 平和なしも
今原発事故に 荒れ野となるも悲しも

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これは栃窪村をイメージして作った。何回も書いたけど戦後十年くらいの生活は江戸時代のつづきだった。その時子供だったから貴重な経験だった。
それ以後急速に高度成長になり変わってしまった。
こうした暮らしは別に日本だけではない、世界中で同じである。
インドでは都会でも炭を今でも使っているが一方で牛の糞とかを街中でも利用しているし家では白黒のテレビでゲームをしていたし路地裏を野良牛が歩いている
インドでは現代と昔がまだあり混沌としている

栃窪村は街からするとその時は遠かった。なぜなら馬とかリヤカーが運搬手段だとするとかなり街に出るのは遠くなる。ただ炭焼きをどこでもしていたから街でその炭を売っていたから運んでいた。
これは日本中どこでも同じだった。つまり炭がエネルギーの基だったからそうなる。
ガスも石油も電気も燃料ではない、葛尾村などは電気が来るのはかなり遅かった。
それはネパールなどとにていた。電気がともらない村があるのだ。
そこの暮らしは当時とにていたし今でもそういう場所が世界にはある。

ともかく昔のことをふりかえると不思議になる。水道もいない、電気製品もない、舗装もされていない道とか橋でも木の橋でありそれが何かゆれて危険だったのである。
真野川にかかった橋もそうであり橋はみんなそうだった。だから洪水で木の橋は流されやすかった。それで江戸時代の野馬追いの行列では橋のない川をわたる絵が残っているのもそのためである。
道は舗装されていないからでこぼこであり自分は子供のとき家で店屋をやっていて農家に卵を買わされた、その自転車もいいものではなくどうしても糠に入れた卵が一つ二つは壊れるのである。それは道が悪いのと自転車もいいものではなかったからである。


今からするとこうした体験は不思議であり団塊の世代とかはみんなそういう時代に生きていた。何か団塊の世代は贅沢した時代とかみられるけど子供時代はみんな貧乏だった。
ものもないし電気製品もないし便利なものは何もない時代だった。
かえって農家の方が食料などでは贅沢していた。自家生産だからそうなった。
そもそもまだ物がない時代だからそうなっていたのである。
江戸時代は遠い昔とイメージするが戦後十年くらいは江戸時代の延長だったのである。
自給自足であり村はやはり江戸時代の村とたいして変わりなかったのである。
だから救急車など病気になっても来ない、そもそも車がない時代だからである。
ということは医者にもかからず死んだ人が多いということになる
地蔵などに祈り死んでゆくほかなかったのである。
そうなると長生きするのは無理だから60前で死ぬ人も多かったろう


そういう暮らしは村に閉ざされてなかなか外に出にくい社会である。何か鹿島の横手の人が相馬市に梨を売るためにリヤカーで運んだというのを聞いた
馬の肥料の草を橲原まで行って運んだというのも聞いた。
リヤカーが運搬手段だった。それも一日かかりなってしまうだろう。
確かに汽車は通っていてもそれで物を運ぶというのは遠くからのものだろう。
近くは馬とかリヤカーとかになる
そうなるとどこでも街から離れれば村は遠くなるのである。
おそらく経済でもせいぜい相馬藩内とかの経済だった。
今のように世界まで経済は広がるのとは大違いである。
身近にあるもので暮らす他ないのである。
ただそういう暮らしをふりかえるとき何か牧歌的に平和な暮らしだったなと思うのも不思議である。
それはその当時の負の部分が見えずただ過去を回想するからそうなる
医者にもかかれず死んでゆくのは辛いことだったというのもそうである。


それでも何か昔の方が人間的な暮らしに見えるし人間も素朴だっただろうと見える
現代は確かに便利に贅沢できるのだけど人間はかえって欲深くなりそのかえって満足できない、欲が世界大に広がったともなる。
その欲が拡大した結果、原発事故が起きたともなる。原発はこの辺では欲を満たすものとしてあった。原発は金になるから誘致したのである。
そして回りは荒野となってしまったのである。





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2015年09月25日

日本軍の組織の上官と下士官は封建制から引き継がれたものか (アメリカは平民の国であり上と下を差別しなかった)


日本軍の組織の上官と下士官は封建制から引き継がれたものか

(アメリカは平民の国であり上と下を差別しなかった)


幕末にアメリカの船に乗った仙台の一藩士がその船の中で死んだ、そこで艦長以下すべてがその水兵を上官が下士官の弔いに自らでてきて悲しんでいる。このことにひどく感動した。それに比べると日本では足軽が死んだって、犬馬をと同じ扱いだった。
「故に上下の情日に薄く、却って彼に恥じること多し。」やたらややこしい礼儀作法などやっていてけどいたに上と下が信頼関係で結ばれているか、だからこそ、「緊急の節は、各力を尽くして身を忘る、。その国盛んなるもまた故あるなり」(樋口陽一-個人と国家)より


日本の軍隊は上官と下士官の差が厳然としていて封建時代の武士と足軽のような関係にあった。学徒出陣した学生も「お前らより弾丸の玉の方が大事だと・・」か言われたり日本軍には上下の信頼関係が希薄だった。何か上からの一方的押しつけが強制が大きかったのだ。日本軍が負けた原因はいろいろ言う人がいるし立派な上官もいた。ただ江戸時代からの日本人の伝統がなお生きていたのかアメリカ人のような平民的感覚はなかった。侍の世界は一面、格式とか礼儀作法がうるさい自由のない社会だった。これは江戸時代の否定的側面である。必ず社会にはいい面と悪い面がでてくるのだ。

結局日本軍の士気は実際は強制されたものであり上官と下士官の乖離は信頼関係がなかったことはその当時の体験者が語っているから間違いない、アメリカ軍の方が実際は士気が高いことが敗北の原因の一つだった。戦争とかには技術力だけではない士気がかなり影響している。それを示したのがベトナム戦争だったからだ。真珠湾攻撃からアメリカ軍の士気が高いし日本軍は実際は自主的に戦争に参加した人は一部の軍部出身者でありそれらは国民を強制的に徴集して奴隷のごとく戦争させたのである。
ベトナム戦争でアメリカが負けたのは「地獄の黙示録」の映画のようになんのために戦っているのかわからなくなった
ただ人を殺すだけであり人心が荒廃してジャングルで地獄化していったのである。

日本はやはり江戸時代の身分制が尾をひいていたのか?

新しく編成された戸籍のうち、昭和13年以降は華族、士族の俗称は戸籍に記
載されましたが平民の俗称は記載しないことになりました。


昭和十三年まで華族や士族が戸籍に記載されていた。明治から継続していたのである。
平民と記されなくなっても華族や士族は身分制として戸籍に一応残っていたのである。
足軽とかは江戸時代は人間扱いされていなかったのだろう。
そういう封建制的なものが昭和まで太平洋戦争でも継続されたのか?
明治維新では下級武士が革命の主体となったのは侍のなかでも身分制の影響があった。
下級武士は封建制の中ではいつまでも下級武士であり上には上れない仕組みになっていたそういう不満が鬱積してくると時代の変わり目に爆発して革命になる。

上官と下士官は身分制のようなものだったのか?
ともかくアメリカ人は平民の国であり貴族はいない、日本兵が死んで人間としてみんなで葬ったとなる。
一方でまた人種差別の国でアジア人差別はあった。それはこのときはそうした戦争になる前の話でありここでは日本人でも人間扱いされて同等の待遇を受けたとなる。
身分制というとき、貴族はヨーロッパやロシアには支配階級としてつづいていた。
日本は比較的そうしたあからさまな差別がない、平等の国とされてきた。
でも形だけでも戸籍に華族とか士族を残していたのである。

日本軍の敗因はいろいろ言われるがアメリカは平民の国でありヨーロッパやロシアや中東でもサウジアラビアなどは極端な一部の氏族が支配している階級社会である。
アメリカはただ金があるものが支配するが貴族はない社会だった。
物資が豊富だとかも敗因になったがその国の成り立ちとか国民がどういう仕組みの中で生きていたかも関係していたかもしれない
良く「天の時、地の利、人の和」が勝利の原因になるというとき日本は天の時がまちがっていた。
日本は戦争する力をもっていなかった。そして人の和もなかったから負けたとなる。
結局天の時というのも大事である。時代がはずれると英雄的な天才的な人でも活かされないのである。三島由紀夫が何か一人芝居で終わったように英雄になれなかった。
でも今の時期になると中国の台頭とかで集団的自衛権が通るように別なものになって時代を動かしたということもありうる。

人間はやはり時代の影響が大きいのである。その時代がまたどういう時代なのかというのもあとになってはみないとわからないのは人生でも同じである。
青春時代には青春時代にしかできないことがありその時期を過ぎるともうできなくなる
時代でもそうでありその時代にしかできないことがあり時代が変わると価値があったことでも意味のないものとなってしまう。
時代は常に変わっている、高度成長時代を生きたものはやはりその時代の恩恵に欲している、平和の中で生きられたということは戦争があったときと比べれば恵まれたことだったなぜならまた不穏な時代になりつつあるからだ。
今になると自分が自由に旅できたことは相当に恵まれていた。なぜなら今は海外でも円安でありしにくいし国内も外国人が多くなりビジネスでもホテルがとれないとなると相当に旅行しにくい時代になったと思うからである。
要するに旅すらその時代にあわないとしにくくなるということがある

何か社会は時代は常に変わるからその時できることをしないとあとはできなくなる。
ふりかえれば時間は限られたものだから余計にそうなる。
外国人が旅行するにはいいが日本人が旅行しにくい時代になったのである。
それは海外旅行熱になったことと逆の現象になったのである。
貧乏な国は観光で稼ぐというのが多いからである。日本も貧乏になりそれとにてきたともなるからだ。
ともかく日本のいいときは終わった。高度成長時代のようなことは起こらない
だから中国の脅威がましてくるしアメリカの安保条約でも見直される
つまり中国とかアメリカの力関係で日本は窮地に追い込まれる
朝鮮半島の悲劇が日本で起こらないと限らない、すでに沖縄は中国の属国化が進行しているとか言われるからである。すでに日本国自体が分断化されることが現実化しているのである。

この文は時事問題の深層に加筆したものです

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2015年09月24日

小高の老人語る戦争の話(続編)


小高の老人語る戦争の話(続編)

土手のテーブルのあるところでまた例の小高の80くらいの老人と話した。
あの人の話は面白いのである。
ともかく戦争の話を延々としている。戦争に参加したわけでもないのに戦争の話を熱ぼくしている。
もちろん自分の姉も従軍看護婦でシンガポールに四年いた話を延々と聞かされた。
それは死ぬときまで話していた。そことが一番印象に残っていたからである。
もともと話好きな人であったこともある。
話が面白い人と面白くない人がいる。それはその人の体験したものがどういうものだったか話からわかる
その人は工事関係でいろいろな所に行っていた。なぜか沖縄にも行っていたし横田基地でもGHQのもとでも働いていた。
そこで面白いのは鉄砲玉を盗んで帽子に隠してもってきたという。それは見つからずにすんだ。その鉄砲玉は高く売れたという、そのGHQお進駐軍に物がありそれを売ってもうけた人もいる。盗んだというのもそこに物があったからである。
当時の日本には何もない、敗戦で食べるものもない時代である。

そして進駐軍で秘密が厳守なので英語のできる人は別にしたという、英語がわかると中の様子がわかり秘密がもれるからだという。その人は英語がわからないから入れたと言っていた。
軍隊はもともと秘密厳守である、もれたら命にかかわるからである。
それで日本兵のことで隊長クラスの人が肺が悪くなり隊についていけない、その時どうするかというと殺すほかないという、なぜなら生かしておけば置き去りにしてもその人から軍の秘密がもれるからである。だから殺すことが規則なのである。
でもその隊長についていた部下は殺さずに放置した。
放置したらしんでいるはずだが死なずに戦後5年してその部下のもとにたずねてきたという、なにかベニヤ板の商売で成功して社長になっていたという。
その人がなぜたずねたかというと部下をうらんではいないし殺さずに放置したから助かったということでたずねてきた。
普通は殺すのが規則であり体調も知っていたからである。
軍隊はそれほど厳しい゛かわいそうだと思っても生きる死ぬかとなると人軍隊は全員の方を守らねばならない、根こそぎ一部隊が敵に通報されて全滅ともなりかねないからだ。
戦争というのはやはり現代の戦争でも戦国時代でも似通ったものはあった。

その老人はいろいろなことを話する。特攻隊のことを良く話する。原町の飛行場で訓練した特攻隊は銅像も立っていたという、肉弾なんとかで神扱いされていた。
霞ヶ浦に大きな飛行場がありそこから支店のように原町飛行場が作られた。
その人が言うにはガソリンがない、ガソリンがないという話だった。
ゼロ戦でもガソリンがないから片道飛行であり帰ってこれないということになる
ゼロ戦でアメリカの船にめがけて飛んでも当たったのはわずかだった
ほとんどは海に沈んだ、その前に海にわざわざ特攻隊は荷物をすてて軽くして逃げたのだという、島の方にも逃げたりとし特攻隊がみんな勇ましく死んだわけでもなかった
人間魚雷でもあれも逃げたらしい、というのはアメリカでも人間魚雷が来る前に丸太をその前に投げたらそれにぶつかって何の役目も果さなかったという。
つまり最後の日本軍の抵抗は巨象にねずみがたちむかうような状態になっていたのであるそれは物資や武器の面でもそうだった。ゼロ線でもトタンで作っていたヤハなものだった、アルミニウムなら柔軟性があるがトタンでないしヤハものだった。
アメリカのB29は二気筒四気筒エンジンとかで大型でありゼロ線は最初だけは効果があったがあとは歯がたたなかった。
面白いのは竹などで作ったゼロ線を並べていてあるようにみせかけていたという。
こんなことまでしていたのは何か戦国時代ともにている。

中国でも馬で輸送していて軍刀をもっていたのだから戦国時代ともにていた
中国人はまず馬の頭をねらって打ってきたというのもそうである。
馬のことはいろいろ書かれているし馬の戦死したので墓まである寺がある
それは野馬追いではないけど戦国時代とにていたのである。
そういう古風な戦争だったが実際は航空線になっているのだから時代が変わっていた
山本五十六は海軍の出て東郷平八郎に教えられて海には通じていたが飛行機には通じていなかった。
日本では戦艦大和とか巨艦を作ったがそれは東郷平八郎がバルチック艦隊を破って以来、伝統として日本が海軍が主力になっていたのである。
東条秀樹は陸軍であり山五十六とはあわず争っていた。陸軍と海軍は一致して戦争していない、争っていたのである。東条秀人を憎んでいたとか目の仇にしていたとかなる

そしてそうした日本軍の内部でも上官と下士官は対立していた。
下士官への上官の虐待は知られていてそのことで戦争終わってからも下士官が恨んでいたのである。だから戦後に北海道開拓に入った上官が下士官に殺されたということもあったという。戦争終わったとき上官は下士官をいじめていたから下士官の復讐を恐れていたのである。それほど下士官をビンタとかなんとか制裁するのが習わしになっていたからである。
上も下も組織的に団結してアメリカと戦うということも日本軍にはなかったのである。
日本は下士官の方が優秀だったというのは本当である。
日本軍が天皇陛下のもとに団結していたから怖かったなどはなかった。
アメリカはその時、日本のことを知り尽くして勝てると確信していたのである
その装備から海軍と陸軍の確執とか日本軍内部でもまとまらない軍隊だった。
上官は九州から沖縄に行ったけど島に逃げてまた鹿児島に帰ってきたという
沖縄本土にいたらアメリカ軍と戦うから他の島に逃げたのである。
日本の上層部は指揮官や上官はだめだった。逃げる算段をして戦っていた。
下士官は返って優秀であり良く戦ったとなる。

戦争のことを語れば調べればきりがない、自分も姉が従軍看護婦だったからそのことを死ぬ直前までしゃべっていた。その戦争がまさに青春だったからそうなる
だからそういうことは別に認知症になっても忘れなかったのである。
その老人も何か自殺した人がかなりいたといっていたが病院でも苦しくて窓から飛び下りる人がいたなど自殺した人がかなりいたのである。
それは戦争がどれだけ過酷だったかを示している。そんな病院でどんな手当てをしていたのかもわからない。まさに地獄だったかもしれない。
ただ従軍看護婦は人を殺したりしないからいろいろ語ることができた。
ともかく戦争は今でも80くらいでも少年のとき戦争していたし親から戦争の話を聞くからまだ生々しいのである。自分も聞いているから遠いものではない
でもその次の代とかなると直接経験した人から聞けなくなるから遠いものとなってゆく
80才くらいの人とでも自分は貧乏な時代でも経験しているから話は通じる。
同世代はやはり話が通じる。戦後十年の炭とかの燃料の時代の人とは話が通じる。
でも戦後生まれでも十年くらい年が離れるとまた違ってくる。
高度成長時代になってくるから貧乏な時代でなくなってきたからである。


ともかく小高の人でも仮設に住んでいる人の問題は何もすることがない暇で困っている
それでパチンコとかギャンブルに行っている、日がな何もることがないというのも結構楽じゃないだろう。
ただこれまでも老人はパークゴルフなどをやっていた。
老人は昔を語るのがある意味で仕事でありそれが郷土史の一端になっている。
自分は貧乏な時代も知っているし10年くらいの年齢の差があっても話が合わせられる
でも戦前生まれと戦後生まれの差はある。
でもそんなに差はない、ただGHQとかに実際にかかわっていたのはその時代の人だと思った。進駐軍の時代が戦後あったから必ず話題になることだったのである。

それからその人は仙台に行ったら黒人が百人くらい自衛隊の服を来て日本人と一緒に訓練していたという。百人は多いと思った。アメリカ軍には黒人が多い、貧乏な人は兵隊になるということもある。
集団的自衛権が適応されればますますこうしたことが普通になる。今までもこうして日米は協力してきたからである。
百人の黒人を見るということはこの辺ではなかなかない、黒人が色で目立つのである。
仙台には外人が多いというのは本当である。通りでもそうだしどこでも外人がいる国際都市になっている。
そして小高の人が原町に家を建てたがそこで働いていたのは中国人だとも言っていた。
建て売りだと組み立てるだけだから中国人でもできるのだろう。
一週間くらいで組み立ててしまうからである。このことからもすでに人手不足が深刻なのである。この辺でも人手不足で介護であれ工事現場であれ不足して復興が進まないとういことがある。これは今日本の大きな問題なのである。


タグ:戦争の話
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2015年08月22日

特攻隊の死(詩) (70年過ぎて歴史となり評価されるー明治維新との相違)


特攻隊の死(詩)

 
(70年過ぎて歴史となり評価されるー明治維新との相違)



特攻隊の死


未来ある若き命を
強いられて御国のために
父母のためにと献げられぬ
何故と思う間もなく
御国の危機に献げられぬ
あたら若き命を
戦果ともならずに
特攻隊は敵艦めがけて
一心に砕け散るかも
その責は誰にありしや
その若き兵を誰か責めらる
ただ御国の危機に捧げれぬ
飛び立ちて突撃する心よ
神風特攻隊は武運はかなく消ゆ
ああ 時代の重みよ
戦いは敗れ同胞は異国の土に
はや70年の歳月は過ぎむ
やがてその日も忘れられむ
御国の魂と靖国に祀られるも
その命は報われざるかな
何故に若き命を
今は飽食にして国を思う若者なし
ただ享楽を求めて惰弱となりぬ
今非戦を語るは楽なり
しかしその時代の重みよ
三百万の命の代価は何や
未来ある若き命の代価は
その報いもなしや悲し
国難の明治は語られしも
太平洋戦争の死は無にされむ
何故の同胞の死なるや
今なお知らず70年は過ぎぬ
旭日に富士嶺高く日本の誠の心
平和と繁栄の日の70年
その果実は今美味とならむ
しかしまた危機の時代は来れり
国難はまたカルマと襲いかかる
未曾有の災害、経済の難、外敵の難
日本人の心は乱れ相争う
ここに故郷は消失して原野となり
あたかも戦後の焼け野原なり
国難の時勇み立つもののあれ
日蓮の激しく叱咤する声のあれ
そは衆の声にあらず一人立つ声なり
予言者の声にて衆の声にあらじ
衆より激しく責められしものの声なり
ああ 70年の歳月は過ぎぬれ
一時代はまた過ぎて次なる時代
日本の誠の栄はこれよりなりや
その前にまた国難の時は来れり
日本人よ心して立ち向かうべしかな



70年過ぎたときこれは大きな時代の区切りとなる。明治維新から70年で太平洋戦争でありそれから70年がまた過ぎたのである。
70年後とに大きな変化がくるというのは本当だった
津波原発事故とまさに自分の住んでいる場所がこんな大変化をする場となるとは思わなかった。
故郷を消失するなどこの辺が一番の変化に見舞われたのである。
これは一地域の難ではなく国難なのである。日本全体に及ぶし世界にも及ぶ
原発の災難はここだけのものではない世界的なものだからである。
危機は国内だけではない国外からも起きてくる。
個人的にも悪いことは必ず重なるのである。良いことも重なるのである。

戦争で一番印象的になったのは神風特攻隊である。
それぞれが神風特攻隊に一員としてイメージしてその突撃に向かう姿を思い浮かべたらどうなるか?
それは空恐ろしいものではないか?20くらいで死んでゆくものの気持がわかるだろうか?
誰もその特攻隊を責められない、それを強いた上の人は大人は責められる
特攻隊で死んだ若者は責めることはできない、ただ国の犠牲になったとのである。
非戦を言うのを今になれば簡単であり楽である。
その非戦も命をかけてやるとなるとまた別である。
人間は何でも命を書けてやるとなると真剣にならざるをえないのである
ただ命をかけたとしても的を得ないと無駄だとなるのも確かである。
無闇に行動しても戦果も成果もないのである。

いづれにしろあれだけの戦争になるともう歴史としてあり歴史の評価になる
だからその評価には時間がかかるのである。
明治維新との相違は明治維新にはいろいろな人物が現れて語られることが多いのである。その評価はまちまちでもそれだけ人物が出て語られることが多いということは意味あるものだとされる。
そこで様々な人間的葛藤があり人間の物語となっている
太平洋戦争でもそういうことがあったのだが余り個々人について語られないし英雄も実際は生まれていない、ただまだ太平洋戦争の真実は解明されていない
明治維新はいろいろ人物が生まれ人間の物語となっている
太平洋戦争は300百万人死んでも何かそうした人間の物語か欠けているのである。
だから詩になりにくいしもちろん叙事詩的なものであったが詩にならないのである
ただ300百万人が死んだという数だけが巨大なものとして印象づけられているのである。
近代の戦争は国民戦争であり世界的にそうだったのであり数の戦争だったからだともなる


特攻隊にしてもその葛藤はあまりにも若いから父母への恩とか未練になっている
明治維新は若者でも20代でも父母というより国を憂いて行動していた。
明治維新も若い人が活躍したのだが太平洋戦争は若い人は大量に死んでもそれが明治維新とは違っている。
上から強いられた死であり犠牲の死である。
司馬遼太郎が明治維新をあれだけ魅力あるものとしたのはそこに人間の物語があったからである。その見方も偏っていてもそこに人間的なものを感じたから小説にもなった。
太平洋戦争ではそうした人間の物語に欠けているのである。
ただ無惨な大量の死があるだけと見てしまうのである。
それでも特攻隊の死は太平洋戦争を象徴したものとして今でも訴えることには変わりない最後の戦争の華だといえば華だが未来ある若者の無情な死だった。
いづれにしろ太平洋戦争も歴史化するとき簡単には評価したり語られないものである。
明治維新とは違い何か人間臭いものがないことが物語になりにくいし意味をもたせられないのである。


歴史となるとやはり評価するには時間がかかる。要するに何か芸術とかも理解するにもまた自分でも創作しているが時間がかかるものである。
ルネサンスとかはやはり生まれるにはそれなりの時間の蓄積が必要である。
ルネサンスはイスラムの歴史とかヨーロッパの歴史の集積があって生まれのである。
歴史の集積がないところにルネサンスは生まれようがない
ローマの歴史とか中世の歴史の集積があって生まれたのである。
日本にもその歴史がありその集積があり歴史が作られる
日本の70年の平和と繁栄の蓄積はこれから華開く、それは自分でもそうだった。
何か詩でも書けなかった、でもやはり人間一個人でも蓄積したものが華開くの時間がかかる
旅にしてもまず旅することでありそれは行動なのてある。そのあとに内省して芸術として創作するのである。
戦争というのも自分が参加しないにしろその壮大なの歴史が内省されるのに時間がかかるのである。
だから太平洋戦争でも70年過ぎていろいろ評価するようになるがそれは以前として一つの答えなどないのである。
明治維新との相違は欧米であれイギリスであれ常にそういう海外の勢力に地抗しつつ日本の独立の道を切り開いたのである。


太平洋戦争では日本自体が大敗してうちのめされ独自の独立の道はなくアメリカの隷従があるのみだった。そこが日本人の魂まで喪失した。
明治維新はまだそうした隷従はなく日本人の魂は残っていたのである。
それは大和魂というものでもなく武士の魂かもしれない、何か日本独自の魂が残っていて改革されたから違っていた。
戦後はそうした日本人の魂が失われてしまった。ギブミーチョコレートしか物質欲しかなくなっていたのである。
ただそれでも平和と繁栄の70年は無益ではない、そこに蓄積されたものが華開くのが70年後だったともなる
もっとスケールを大きくすればあと百年とか二百年で日本の時代、ルネサンスが来るというのもそうかもしれない、日本はまだ本当の栄、華が開いていないとなる
つまりこの明治維新からの蓄積は技術と物質とかが優先された。
それが戦後も高度成長時代とつづいてきたのである。それも一段落したとき文化の華がルネサンスが起きるのである。
だからこれからは内面的なもの文化的なもので日本は日本の歴史の蓄積で華開く時代だともなる。
ただ経済的衰退とか内外が混乱時代となるとブレーキがかかってくる。
それも乗り越えたとき日本の黄金時代がやってくるとなる

あたらの意味はあったらなである。まさにあったらなという思いがにじみでる言葉だったのである。
いづれにしろ人間にはいろいろな葛藤がつきものなのである。
その葛藤さえ許されなかった時間がなかったのである。
時間があったらな・・・ともなるのである。
それは今だってそうである、人生をふりかえるとき時間があったらなと体力があったらなとか老いるとそういうことばかり考えるのである。
老人になればそれが普通だけど20代ではそういう時間も余裕もないのである。


タグ:特攻隊
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2015年08月05日

戦後経済十年の不思議 (自給自足で外から入る物がまれな時代)



戦後経済十年の不思議

(自給自足で外から入る物がまれな時代)


戦後十年くらいの経済はふりかえると不思議である。小学生時代まで経験したことは今と比べるあまりにも違っていた。
ただ子供のとき経験したことと大人になって経験することは違っている。
子供のときは貧しくてもそんなに貧しさとか感じないということもある。
その頃確かに貧しかったのだが貧乏でいやだなとかみんな感じなかったろう
みんな同じような暮らしをしていたからだ
ただ違っていたのはかえって農家の方が豊かだったのである。
食料が自給自足のような時代は自家生産している所が豊かになる
農家ではまず鶏を飼っていたから卵が食べていたし鶏の肉も家で殺して食べていたのである。納豆までも自家生産だったしなんでも自給自足が基本だったのである。

こういう自給自足生活は江戸時代から戦前と戦後十年くらいはつづいたのである。
燃料は炭であったから山の方では炭焼きをしていて街に供給していた。
水道はなく裏の小川で洗濯していたし料理は竈でもあった
トイレは離れにありその糞尿は近くの農家の人が肥料としてとりにきていた。
それは百万都市だった江戸でも同じだったのである。
便をふくのは新聞紙だった、新聞は何かいろいろ紙として役にたった
今のように石油から紙とかいろいろなものを作れていないから紙も貴重だったのである。勉強でも鉛筆は相当な貴重品だった、それは戦前の話になるがもう手でつかむことができないほど小さくなっても使っていたのである。
物というのはあらゆるものが貴重だったのである。


自分の家では最初駄菓子屋のような子供相手の店をしていた。
新聞紙は母が毎日袋を作っていた。お菓子でもなんでもばら売りだったからである。
酒でも一合とかを買いに行かされていた。
何か買うとうしたら隣近所にある店を使っていた。
魚屋があり豆腐屋があり酒屋があり駄菓子屋があり呉服屋があるかである。
そして確かに鉄道が通っていて外から物が運ばれてきていた。
それは実際は鉄道で多くのものが運ばれていたのかどうかわからない
駅前が栄えたのは鉄道があったからということは確かである。
それで駅前旅館とか駅前に自転車屋があるのは自転車が鉄道で運ばれてきていたからである。
それから引き込み線がありそこで荷物を運んでいた、縄屋とかあるのは縄が梱包するのに必要だったからである。

ただその時の経済は外部から入ってくるのは少ない、例えばバナナは戦後十年くらいまで普通に食べいない、バナナの叩き売りとあるのはアキイチとか祭りとか特別の日に売っていたからである。
自分の家では父が病気になったとき仙台からバナナを買ってきたのである。
この辺ではバナナは常時売っていなかったし高価なものだったのである。
まず外国から入るものは都会では一部あったにしろ輸入してまで食料が入る時代ではなかった。
記憶としてはミカンは食べていた、ミカンは東北ではとれないから鉄道で運ばれてきた
なぜならその時トラック輸送などはあまりしていない、鉄道が遠距離輸送をになっていた

戦後十年くらいは物がないから物があれば売れたという時代だった
でも野菜とか米とか食料は国内というより地元のしか食べていないだろう。
自分の家で店をしていたとき、姉は力があり自転車で野菜を近くに買いに行っていた。
自分は子供のとき自転車で農家に卵を買いに行っていた。
当時の店は何でも地元で生産されるものでまかなっていた。
自転車というときそれは一生使うものでありいつも磨いていたのである。
姉は保健婦であり自転車で一軒一軒回っていたのである。
こういう自給自足の経済というのが理解できなくなっている
例えばさらに鉄道が通らない、山間部でこの辺だと葛尾村(かつろう)とか飯館村などがあるがそこではどんな暮らしをしていたのだろうとなる
まさに江戸時代からの継続で自給自足になる

家事にしてもその頃電気製品は一切ない、家には裸電球一つがどこの家でも同じだった。自分の家はトタン屋根でいつも雨漏りがしていた。洗面器を並べて雨漏りの水をためていた。その時道は舗装されていない、土ぼこりのたつ道だった
ただわからないのは野馬追いのときその土の道は車が来たのを数えていた
そのとき車は確かにあった、それはバスが中心だったかもしれない
自家用車をもっている人はその時まだほとんどいないだろう。
でもそんなに車が来ていたというのも不思議である。
バスと鉄道が交通手段だった時代である。
リヤカーは物を運んでいた、それで農家の人が梨を積んで相馬市まで売りに行ったというのを聞いた。原町や中村(相馬市)くらいは物の売り買いはあった。
明治時代には天秤棒で川俣まで鰻を鹿島の人が川俣に売りに行ったという話を聞いて信じられなかった。天秤棒で歩いてそんな遠くまで行けるのかと思った。

それは江戸時代とまるっきり同じだったのである。
でもその範囲を越えると物の売買はむずかしくなる
今になるとそういう自給自足の暮らしが理解しにくくなった
人間はもともとそういう自給自足の暮らしが江戸時代から戦前戦後十年くらいまでつづいていたということが今になると不思議なものになる
今や大工すら地元で家を建てるというのではなく建て売り住宅で大東建託とかが
この辺では津波原発事故で十棟くらい建っているのに驚く
それはみんな会社の人がきて組み立てているだけである。
自給自足というときもともとは地元の資源を活かして地元の人が働いていたのである。


現代は国内だけではない、グローバル経済だから外国から当たり前のように食料でも入ってくる。でもそんなに外国から食料まで入ってくることに違和感を覚えることがある
もし何か天候異変とか戦争とかがあり食料が外国から入らなくなったらどうなるのか?
そういう不安がある。東京ではもう食料は国内産でなくてもいい安いのが外国からいつでも入る、日本の農業が金がかかりすぎる、都会の人間が税金をとられすぎるとかなる。
自給自足の経済だったら外から入らなくてもなんとかやっていけるという安心がある。
これだけグローバル化する経済は誰も理解できない
カナダの国債がいいから買ったがカナダは石油資源があるから格付けで世界で一番いいとか言われるとそうなのかとなる。そうしたら日本の国債を買う人は少なくなる
これもどうなっているんだろうとなる。金はグローバルに流通している。
だから金持ちは外国に投資して危険回避するためにあずけている
こういうグローバル経済広域化経済が社会を根本的に変えてしまったのである。


なぜこの辺で原発事故で人が住めなくなった地域で避難した地域が沖縄から北海道までになったのか?
普通ならイワキとか相馬市とか南相馬市とか新地くらいまでならわかる。
こんなに全国にちらばったのはなぜなのか?
その市町村で受け入れるということもあるが何らか親戚関係を頼って避難したということもあるだろう。
今の婚姻は遠くになるのが当たり前であるからだ。
そしてあらゆるものが家を建てるにしても大東けんたくとか建て売りであり外部から来ている
だから自給自足とはあまりにも違っている社会なのである。
それがどういうふうに影響するかというと前にも書いたが金さえあればその住んでいる場所にこだわらない、金さえあればどこに住んでもいいとなる


川内村とかでは不便な場所だから補償金もらって郡山市にすんだら帰りたくないとなったのもわかる。
こういうふうに何か自給自足経済ではない、金があれば九州産の食べ物であれ外国の食べ物であれ買って暮らせばいいとなれば地元のものにこだわる必要がない社会である。
そうなると一億円もらった他で暮らせばいいなってしまい避難者は帰らないとなり
町や村が簡単に解体してしまうということがあったように思う。
また自給自足の経済でこんな事故が起きたらそれこそ水も土も木まで汚染されたのだから壊滅した。
不思議なのは別に飲み水は金で外部から買って使っているし放射能に汚染されないものを外部から金で買えばいいとなる。
ただ補償金はいつまでももらえるものではないからそれが打ち切られたら金が入らないし自家生産できなければお手上げになってしまう。


ともかく今を知るには今だけでは今がわからないのである。
そこに昔を過去を歴史をふりかえり今が何なのかを知るのである。
例えばなぜ結婚しない人たちが増えたのか?特に男性に増えたのか?
それはフリーターとか派遣とか若者に経済力がないからだとかいろいろ言われる
それも理由だが今は一人暮らしでも結婚していないくても家事が楽なことも原因かもしれない
自給自足の経済になると家事は大きな仕事になる
洗濯でも手で洗っていたし食事の用意だけで大変な手間がかかることになる
それを男が一人でやるということはかなりの労働になってしまう


だから戦前では中産階級ですら二人の女中を雇っていた。
家事をするたげでそれだけの手間がかかったからそうなった。
今は機械化しているし外食も便利だし金はかかっても手間はかからないのである。
このことは一人くらしでも楽であり結婚しなくてもやっていけるとか思うようになる
自分も七年間家事をしてきたけど今母を施設に三日ほどあづけたら楽である。
自分一人のことだけなら本当に楽である。
まず朝はパンだから手間がかからない、昼間だってちょっと外食すればいいとかなり
夜は多少料理をしても他は楽である。
だから今や結婚して外で働く主婦が多いが主婦の専業の方がいいというのもわかる
つまり昔のように手で洗濯したり何でも人間の力でしている時代とは違う
みんな機械でやると主婦は楽である。


とにかく戦後十年くらいの子供時代の経験は貴重だった
あういう生活があったということが今になるとあまりにも今と違いすぎる
その対比で現代が何なのかとか今回の原発事故を問いなおすことも必要である。
ただ自給自足生活というのが理解できなくなった。
戦後十年とかさらに二十年とか三十年とかなるともう全く経験していないのだから理解できなくなった。
そういう生活もあったということを知る必要がある
そして現代の生活を見直すと原発事故がなぜ起きてこんなふうに故郷にも住めなくなったのか、こんなに外部頼りの生活でいいのか?こんなに便利で金に頼る生活でいいのか?
何かそういうことを考えるには昔を知る必要がある





タグ:自給自足
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2015年06月12日

今日一日の実り(詩) (労働に充実感がもち得ない時代)


今日一日の実り(詩)

(労働に充実感がもち得ない時代)



父の手は手というよりもむしろ大きな馬鋤だ
合掌することもなければ
無論他人のものをかすめとることも知らない手
生まれたままの百姓の手
まるで地べたの中からでも掘り出した木の根っこのような手だ
・・・・
いまもその手は骨と皮ばかりになって
なおもこの寒天のやせた畑地を耕している
ああ 自分は何も言わない
自分はその土だらけの手をとっておしいただき
このところではるかにその手に熱い接吻をする
山村暮鳥(父上のおん手の詩)



今日一日の実り

今日一日実りのあれや
多くのものがあふれ
今日も我はスーパーに買う
金があれば何でも手に入る
物なら何でも買える
しかし何か実りなきは
何か充たされるものなきは何故や
食べれば確かにうまく腹を充たす
とはいえ何か充たされぬは何か
ただ買いて腹を充たす
今日一日の実りのあれや
田畑に労して実りしもの
その住む大地から実りしもの
それを食べてこそ実りのあれや
今日一日腹は充たせど心は虚し
そのもののいづこよりきて
いかにして作られしものか知らじ
パートに働きて時給をもらいて
そは充たされしや
どこに働いても賃金のみで計られ
金が実りのすべての基準
今日一日いくら稼いだか
それが今日の実り
現代の仕事は無数あっても充たされない
ただ消費されることで充たされる
腹を充たしても心は充たされない
それでみんな仕事が嫌になっている
しかたなく金を得るために仕事している
金がたりない、金がたりないと
毎日不満を言っているのが現代
これほど物があふれても豊かにならないのはなぜ
そこに現代の心の貧困がある
いかなる仕事も本当に今日一日の誠の実り
それがなければ虚しいとなる



おそらく「豊かさの貧困」でも様々なことで現代文明は批判されてきた。人間はアトム化されるとか人間が数化されるとか人間が人間でなくなる、それでアウトサイダーとなり人間回生を目指したのかニーチェとかミラーとか上野霄里とか他の思想家でもそうなった。それは過激となったのは天才だったからそうなった。
天才は普通の人より生きるエネルギーが大きいからそうなる。
静かな思想家でもピカートなどはろはりアトム化した文明を「沈黙の世界」で示した。
それはそうした高度の思想とか文学でなくてもいろんな方面からの批判があった。
経済思想からもあったのが「豊かさの貧困」であったり他にそういうこと様々に語られてきたのである。その本も膨大になるから読みきれないのである。
結局本はいくち買っても読んでも自分のものとして書かなければ読んだともならなかったのである。
現代の消費社会はまさに消費するというときただ費やすという消極的なものとなったからだろう。
今でも生産するというときは積極的なものとしてある。
人間はただ消費しているばかりだったら何ら生産性がなかったらあらゆるものが虚しいとなる。
この世の中今はあらゆるものがそれは物だけではない、情報でも一方的に消費するだけなら虚しい、自分なりに考え自分で評価すれば生きたものとなる
だから何でも受け身では精神は充たされないし虚しいとなる
テレビの情報の奴隷になっている人たちもそうであり自ら考えないで生きている人たちも奴隷になりやすい。

いづれにしろ現代は何か労働そのものが拒否される、それはなぜなのか?
労働は嫌悪されているしなるべくしない方がいいとなる。
それが生まれたのがフリ-ターでありニートとかである。
労働はその場しのぎであり一時の賃金をえるだけのものとなる
労働の形態がそうなってしまった。労働はWORK(作品)ではない
JOBでありその場しのぎの一時的賃金を得るものにすぎないのである。
そういうふうに労働があるとき社会全般も荒廃してしまうのではないか?
なぜなら社会の基本は労働にあるときその労働が嫌われ労働しないことこそが一番いいことだとなっているからである。

現実に労働は機械にさせるべきで人間は労働しない方がいいという社会になっている
だからあらゆるものが機械化して雇用すらなくなってくる
その時人間は不用なものとなってしまう。
その時人間を山村暮鳥の詩のように讃歌することなとなくなる
(父上のおん手の詩)のようにその手はもうない
それは機械に置き換えられてしまったのである。
もはや働くの機械であり人間ではないからである。
そういう社会はまたどうなってしまうのか?
人間の生きる充実感はどうなってしまうのか?
人間はお払い箱となり頽廃してしまうのではないか?
それとも労働から解放されてパラダイスになるのか?
この辺では補償金で毎日パチンコだとか遊び暮らすようになった。
飯館村の人がギャンブラーになったとかもそうである。
みんなか知識人でもないから本など読まないのが普通だからである。

お前はどうなんだというとき、自分は旅に時間を費やした。その他学問とか芸術に費やした。その追及したものをプログなどで発表している
自分自身が流れ作業ばかりして日銭をかせぐ仕事ばかりだから労働を嫌悪して環境に恵まれていまになるまでせずにすんだのである。
そこに何でもそうだがプラスマイナスがあった。
いろいろな欠如したものも生まれてこの七年間は介護や自分の病気で苦労してきたのである。
現代の文明の問題は「今日一日の実りがない」ことではないか?
仕事をしてもそれを感じられないことではないか?
地球の裏側の人のために働いてもそういう労働自体に喜びを充たされたものがあるのか?
そういうグローバル経済というのももはや矛盾が大きくなり限界に達しているのではないか?
そんな遠くの人は何か困っても助けには来てくれない、確かに物は来ても助けてはくれない、実際に原町でも何かあったら家にきてもらいたいができなかった。
「遠くの親戚より近くの他人」は車社会になっても通用している。
車で原町かち来るのも手間なのである。グローバル経済の弱点は肝心なとき近くのものに助けてもらえないということにもあった。
それがアキレス腱なのだがまた反面この辺で津波や原発事故で働き助けたのは外部の人であり内部の人は遊んでいたという矛盾がある。
それは広域社会化しているからそうなった。
だからまたすべてが広域社会化したから悪いというものでもなかった。
すでに自給自足の村社会にはもどれないからである。

とにかく何か仕事の充実感が得られないというときそこに現代特有の問題がある
消費社会であり生産社会ではない、生産しても働いても充実感がない
例えば農家なら自給自足でもその働いたものは直接に家族とかが食べていた。
売るために働いて作っていないということが労働の充実感をもたらしていた。
そして父上のおん手の詩のように感謝していたのである。
いまスーバーに行って物を買って感謝している人などいない
ただ高いか安いのかうまいのかとかみているだけである。

でも名取の閖上(ゆりあげ)から来たシジミを売っていた。
あそこも津波で大被害を受けたからシジミもとれるようになって復興しているのかと感じた。他のシジミはどこから来るのかもわからなかった。
前はこの辺でも川でシジミがとれたし自分もとって家族に食べさせた。
それは大きなシジミだった。売っているのはみんな小さなシジミなのである。
そのシジミをとっていたとき何ら苦痛はなかった。

閖上(ゆりあげにとれるシジミをスーパーに買いて思いぬ津波の後に

それよりそれは楽しみだったのである。今では野菜でも米でも作るのは家族のために作るだけなら楽しみになる。機械でするしそんなに苦労ではないからである
それでもほんのわすかの野菜しか作らない人は毎日草取りだ肥料だ気候がどうだこうだと言っている。
だから農業というのは本当に手間でありかえって肥料だとかその他種でも金がかかるものなのである。
だから趣味としてやるのはいいがとても売るとなると全く違った労働となるのである。

結局変だが自分の今日一日の実りは風を切って軽快にロードで走ったことだった。
それは自分の一生すらそうだったとなる。何か仕事して充実感を得た経験がないのである仕事が多岐にわたりパーツ化すると仕事で充実感をもっているのは一パーセントくらいにしかならないのでないか?
そのことが現代文明の頽廃であり深刻な問題なのである。
ホイットマンであれ山村暮鳥であれあれほどすべてを賛美できたのはやはり時代だった。人間の労働が活きていて消費社会ではない自ら働いて労働自体が充実感をもたらしていたのである。だから現代は労働より遊びに重点が置かれる社会でもある。
ギャンブルとかでなくてもレジャーが盛んになったのもそのためなのである。



タグ:仕事
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貧乏が賛美されていた明治から戦前のこと (山村暮鳥の詩の不思議)


貧乏が賛美されていた明治から戦前のこと

(山村暮鳥の詩の不思議)


現代の生活は定着的農耕民的生活から離れている。江戸時代なら8割が農民であり生活も回りにあるものでまかなったからそんなに移動はしない
隣村にゆくのにも見知らぬものとして警戒されていたし民情が一致しないと飯館村大倉村と佐須村は明治以降になっても合併しなかった。
現代の生活からするとどうしてそういうことができたのか不思議である。
地球の裏側から物が入ってきてその物が入らないことを心配しているグローバル経済の時代である。
現代とは空間感覚が急速に拡大した。
文明とは空間を技術でもって交通でもって縮小することでもあった。
だから明治維新の象徴が鉄道になったのである。
鉄道によって日本という関所で閉ざされた空間が敗られ一挙に日本の国土意識をもったとなる。
切符一枚で日本全国に関所も通らず行けることがなくなったからである。
その江戸時代から明治の変化も大きかった
だから東京で鉄道でも見知らぬ人たちが乗り合わせることに違和感をもった
つまり見知らぬ人がそんなに一緒にいるということがありえてかったのである。
人間は常に見知った人たちと生活していた。
それが江戸でも長屋でもそうである。長屋でも人は移動しなかったのである。

江戸時代から明治に変わるとき空間意識も時間意識もまるで変わってしまったのである。ただ明治昭和戦前戦後十年とかとまだ生活的には江戸時代の延長ということがあった。
なぜなら燃料も炭とか薪であり時給自足的な生活だったからである。
そして農民的社会であり工業社会でも情報社会でもない、その土地土地に根ざした生活だった
一番驚くのは大正時代でも人口が6000万だったということである。
これくらいの人口だと日本の自然は十分に今より余裕があり残されていたのである。
それでけ山村暮鳥はホイットマンのように都会までありあらゆるものを賛美していた。
機械文明もその時は新しいものとしていいものだったのである。
そこに否定するものはなにもなかった不思議である。ガスタンクまで賛美している
その時文明は全面的に賛美するものとしてあった。
科学とか技術が新しいもの作り出してゆく未来と感じられていたのである。
明治から大正時代でもその時は日本の新しい文明の発展時代でありそれは何でも良いものとして受け入れられていたのである。
アメリカでも日本と同じように農民主体であり農本主義でありそこを基盤にして機械文明が発展してゆくはじめでありホイットマンも何でも賛美していたことは同じだった。
その時ソーローのように文明を批判していたのは例外的だったのである。
そういう田園を破壊する予感はあっても全体的にはそうはなっていなかったのである。

そして山村暮鳥の詩の特徴はまたその当時の詩の特徴は貧しさを賛美していることである貧しさの中になにか人間として尊いものを感じている。
現代は貧しさは最も嫌われるものでありふれたくないものであり貧しさ隠す時代である。だからボロを着ている人もいないし何か飢えている人などみかけない
生活保護制度もありそこまでにはならない時代である。
ただ現代の精神的貧困さはかえって車がないとか立派な家がないとか教育でもいい大学に入っていないとかそういうことで競っている
いい車をもっていない人は見すぼらしく見えるから借金してもいい車をもとうとする。
現実に前の親戚は事業を起こして失敗したがそういう見栄を維持するために借金していた他でも借金していい家を建てた人が多いのである。
だからいい車をもっていないとかいい家がないとかそうしたもので差別化される
教育でもいい大学に入っていないと馬鹿にされるとかなる
貧しい時代は食べるのが精一杯な時代はそういうことがなかったろう。
要するに江戸時代でもその後明治から戦後でも十年くらいは大方はその日暮らしではなかったか?

自分の家では一時部屋を貸していたみたいだ。その時毎日のように家賃をとりにいったと聞いた。これもありえないことである。一カ月に一回が普通である。
毎日となると手間になるからめんどうになる。
ではどうしてそうなったのか?それは日銭稼ぎでありその日暮らしが多かったからだろう酒でも升で子供のとき買わされたことがありその頃買い置きというのはできなかったのだろう。
そんな金をもっていなかったのである。
つまりその日暮らすのが精一杯だったのである。
今の時代は貧乏でも何かしら貯えのない人はいないだすろう。
ただ貧乏な人はその日その日を暮らせばいいとしている人はまだいる
蔵がある家はその時金持ちだったのだろう。
何かしら米でも貯えておけたからである。何も貯えられない人がほとんどだったのである病気になったらどうするのかといったらろくに医者にかからず死ぬ他なかったのである。今のような手厚い医療も介護もないのである。そんなことにかける余裕もなかったのである。
だから今の生活と比べるとその相違があまりに大きいのでそういう生活が理解できなくなっているのだ。

今の生活は今を見てもわからない、過去と比べると見えてくるのである。
今の当たり前のことは昔は当たり前ではない、特別恵まれたことだった
昔は三食食べられて眠る場所があればいいとか考えていたのだろう。
それ以上の贅沢は望みえようがなかったともなる
母が紡績工場で働いていて30分の休みに遊びたくてはや食いした女性が体を壊して死んだというのは信じられない、でも30分は短いから食べる暇もなかったのかもしれてない
そういう労働環境だったともなる
昔はなんらかどこでも働きづめの一生だったのが多かったことは確かである。
現代のように三分の一が働かない時代だとなるとこれは天国かもしれないとなる
自分などは恵まれてその天国を生きたのかともなる。
だから現代人の若者でも不満は過去に比べるとかわいいものなのかもしれない
もちろん時代時代によって苦しいことも楽しいことも変わっているから一がいにははかりえない
でも過去と比べれば現代は恵まれた時代なことは確かなのである。
ただそこで失ったものがは確実にある

なぜ貧乏がその時代に賛美されていたのかということである。一種の清貧というものがあった。清貧というのもは貧しさのなかでも何か精神的には美しいものを維持しようとすることである。
現代ではそういうことはない、貧しいということは落伍者でしかないのである。
現実に水道でも電気がなければ生活できないというときその最低限の出費でも金がかかるのだから金がないということは生活できないということに通じているからである
山の清水を井戸の水を飲んで暮らせばいいとはならないからである。
だから清貧などという暮らし自体が成り立たないのである。
それで人間はかえって文明的便利な生活の結果として精神的には貧しくなったともなる
貧しさの中に人間的精神的な高貴さを維持できるものがありえたが今はありえないからである。
上野霄里氏は戦前生まれだから「貧乏の哲学」をもっていた。
だから貧乏な生活でも精神の高貴性を維持できていた。
でもあのような貧乏をもう強いることはできないのである。
旅をしても一杯の水を飲むにも金がかかるからである。
自分は別に車がなくても今は生活できるし車がなくても貧しさは感じない
そもそも車は自然を感じないから嫌なのである。風も感じないし日影をゆく自然も感じない、だから自然を感じるために自転車に乗っている
ただそれも車社会では贅沢なことをなのである。
日常生活では車をもたなくても車の恩恵で暮らしているからである。
ただ車をもっていないとなると現代では一段と低く見られる
車ももてない貧乏なのかと見られのである。
むしろ自転車で生活していること自体豊かなことだと自分では思っている

軽快にロードで走る夏雲雀

やはりロードだと電動自転車と違い早し気持いいとなる。電動自転車ばスピードは出せないからである。
ともかく山村暮鳥の詩はその時代を反映したものであり今ではありえないことを詩にしている、それはまた現代で失ったものがいくら貧しくてもあったのである。
だからそういう昔にあったものを見直す作業も必要である。
それより今の時代はかえってそうした昔のことをもっと知るべきだと思う。
何を得て何を失ったかを知るべきである。
それは原発事故などで故郷まで失った悲劇を考える手助けになるのである。
昔の詩歌は貧しさを歌っていてもそれは現実から生まれていた。
山尾三省は作られた文明という豊かさの中に作られた貧しさであり
本物の貧しさではない、パンも食べられないというのは故意に作られた貧しさなのであるテレビで放送するのも貧しさがものめずらしいものとしてとりあげている
本当の貧しさがわからなくなったからそうなったのである。
だから山尾三省の詩はそんなに価値がないかもしれない
つまり芸術はその時代時代でしか作り得ないものがある
芭蕉の俳句もその時代だから作れたのであり今でもこれほど俳句が盛んでも俳句が作れるの芭蕉以上の人は出てこないことでもわかる
その時代に作り出した価値はいくら文明が発達しても豊かになっても作れないのである。


ボロを来て野良仕事している人間
車も機械もなにもない時代
家もボロ家でみんな貧しい時代
そこにも人間の美しさがあったのか?
その心は正直で飾るものがなかった?
今人間はいろいろなもので飾る
その着るものでその持つもので
家や車や機械や道具で飾る
でもその心は貧しい
ただ毎日たりないたりないと嘆き
不満が絶え間なく起こり
何にかがないと嘆く人ばかり
一人も感謝するものはいない
多額の借金までして身を飾る
自然の美もその人たちには映えない
車のない人たちは失格者となり
見下して車を吹っ飛ばしてさる
人間同士いたわることもなくなった
ただ金を求める声のみがある
・・・・・・・・

つきあいが悪くなり親密さがうすれてきたことが現代経済の特徴だという
親密さには時間かかる
社会的に物質的に豊かになりますます時間に追われると人間同士の親密さや思いやりが少なくなってゆく

我々が成長と生産性を重視するのは「根」の感覚が薄れていることと密接な関係がある
自分を確かにつつんでいた共同体が失われ自分の孤独ともろさを思いしらされたとき我々はそれを所有で埋め合わせようとするのだ。
捨てな新しいものを買う時、家の中を見回して新しいして物を買うとき力を感じるのである。

「アメリカ人の来世はショッピング・センターにある。彼の勤勉はそこで報いられるのである」
(豊かさの貧困)ーポール、L ワクテル

自分も毎日が買い物であり買い物が一仕事なのである。
なぜこんなに買い物があるのかと思う、だから毎日行っているのはスーパーなのである。
ただそこは買う場所であり何か人間が親しくなる場所でもなんでもないのである。

この本も前に読んだが忘れていた、前に読んだ本を自分なりに活用してくるとき本も生きてくる
これをもう一度読んで評論してみよう



山村暮鳥の詩はいろいろあるが今ここでは紹介できない
山村暮鳥全詩集がでているのでそれを読む他ない
あとで詩の解説はするようになる



タグ:山村暮鳥
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2015年02月07日

明治維新が見直される (歴史も地理ー長州閥が日本を歪めた?)


明治維新が見直される

 
(歴史も地理ー長州閥が日本を歪めた?)

歴史をみるとき地理とか風土が基本にある。
関が原が明らかに日本の東西の分かれ目であり天下分け目の戦いになったのもそういう地理が決定していたのでてある。
「地の利、天の時、人の和」があるけど地の利が歴史でも大きく作用している。
だから地歴という教科になったのもうなづける。
地理を離れて歴史もないからである。

みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

この歌もみちのくの真野として知られた地点が地理と関係していたのである。
マルハシャリンバイというのが自生する南限の地として海老浜があったからだ。
まだあたたかい地域であった。
それでもイワキからはそれなりに遠く感じるのである。

なぜ今の宮崎県の日向(ひゅうが)から神武天皇の東征の神話があるのか?
瀬戸内海から吉野の方をまわり奈良の橿原に遠征して初代の天皇になっている神話であるこれも日本の地理からすればわかりやすい。
九州は古代から朝鮮とか中国と関係深いのである。外国の窓口になっていた。
それは鎖国時代でも長崎が外国の窓口となっていたことでもわかる。

明治維新もなぜ薩摩長州が活躍して成したのかということである。
それもやはり地理的なものがそのパックポーンにあった。
沖縄と貿易で豊かであり最初に外国とイギリスと攘夷で戦っている。
長州でも外国勢と実際に戦っている経験は大きいと思う。
そういうことが会津とか東北になると地理的に以前としてみちのくの立場にたっていたのである。
東北などは外国を肌で感じる立場にはなかったのである

明治維新は錯綜しているから理解するのがむずかしい。
明治維新が何であったかの見直す作業が最近成されている。
吉田松陰にしても勝者となり権力を握ったものが作り出したもので
実際はテロリストであり一人のはみだしものに過ぎなかったとかいう人もいる。
つまり松下村塾はテロリストが会合した場所にすぎなかったという。
何らそこには教育などはなかった。
それもそうかもしれない、そもそも松陰は20代であり若いから血気盛んだから学問を教えるなどできなかった。
血気盛んだからまず行動ありきだったのである。
青春時代はいつの世でもそうでありまさに思慮分別もない若者が活躍する場を与えられたとなる。
そういう無謀あ若者がいてそのエネルギーが明治維新になった。
奇兵隊出身の下級の伊藤博文が初代の首相になったり地位の大逆転があった。
殿様であった人達は一庶民に転落したのだからその変化も大きかったのである。
藩がなくなり殿様がいない世界というのも全く新しい世になったとなる
そして誰が偉いとなったのか?天皇が一番偉いとなって天皇の臣民となったのである。
天皇もまた権力を握った長州閥によってもちあげられたのである。
その長州閥は安倍首相まで今もつづいている政治の構図があるのだ。

変な視点だけど百歳が多い県と明治維新で活躍した県は一致している。
四国が一番多く長州辺りも多く薩摩の九州も多いし沖縄県もそうである。
これは気候の関係でそうなっているけどこれも地理であり明治維新とも関係しているのだろうか?
明治維新と言っても日本の地理的環境が影響しているのだ。
会津は悲劇だったけど「ならぬものはならぬ」とか雪に埋もれて何もなせないのが会津だったという見方もある。
相馬藩はいち早く水戸天狗塔になり尊皇派であり仙台藩と丸森で争った。
これも相馬藩は水戸が地理的に近いからそういう影響を受けたともなる。

明治維新の問題は長州などのあまりにも若い人達、テロリストなのか、そういう人達が国の権力をにぎったことにあった。そして腐敗したのである。
革命とか戦争になれば若い人の力が必要だが政治を動かすとなる経験を積んだ人達が必要になる。
それで幕臣も明治政府に採用された。幕臣には優秀な人達が相当いたからである。
でも若造が権力を握ったから国がゆがめられてしまった。
それは何かイスラム国とにているのだ。
明治維新でもあれとにた残虐なテロリストが横行していたのである。
会津藩士が血祭りにあげられたのもそうである。

明治維新が何であったのか、その歴史を見直すことはなぜ必要か?
それは明治以降の歴史がなんであったのか?
そのはじまりが明治維新にあったから見直されているのである。
太平洋戦争から70年すぎるとまた大きく歴史の見方が変わってくる
要するに歴史の評価となると百年とか二百年過ぎないと冷静に判断できないのである。
佐幕派開国派が権力をにぎっていたらもしかしたら日露戦争とか太平洋戦争はなかったかもしれないというとき吉田松陰の思想にすでにアジアに進出して制覇するという過激なものがあった。
吉田松陰の尊皇思想がやがて太平洋戦争に結びつく源があったともなるからだ。
幕臣だったら天皇はそれなりに尊重しても現実路線になったことがあるかもしれない
尊皇とはカルト的宗教の狂気があった。イスラム国ともにている。
それが太平洋戦争にもつながっていたいうことはありうる。
イスラム国は何か明治維新の状態を再現しているようにも見える。
ただ日本のように江戸幕府三百年の歴史がないことが違っている。
300年の徳川時代があって明治維新も成されたのである。
何もないところから全く新しいものは作り得ようがないからだ。


参考
タグ:明治維新
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2014年12月24日

南相馬市鹿島区大内村の中国で戦争を経験した人の話 (中国の捕虜になった人は残虐に殺された!)


南相馬市鹿島区大内村の中国で戦争を経験した人の話

(中国の捕虜になった人は残虐に殺された!)


その人は故郷にいるより日立製作所で働いていた。
だから戦争のときも日立製作所関係の技術担当で中国に出征した。
福岡から船で韓国の済州島により上海に上陸して南京まで進撃に加わった。
何かしらないが南京攻撃では中国側にアメリカの武器をもっていて
それで日本兵が多数死んだという
その時アメリカがすでに中国に武器を与えて応援していた
南京は中国の首都であり陥落したことが中国を支配下にするということでもあった。

実際に負け続けた後、蒋介石は”米国が中国を支援しないと共産主義化する”とルーズベルトを脅し、無償武器援助を勝ち取った。(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子著の書評)

蒋介石軍に武器援助をしていた。アメリカは中国に肩入れしていた。
 

その人は飛行機の技術担当でありそれで従軍した。
特攻隊は片道の油しかなくアメリカの空母に体当たりする前にほとんど一斉射撃をあびて何ら戦果もなく死ぬだけだったと言っていた。
つまり無駄死にだったとその人は盛んに言っていた。
油は帰りの油がないのだから帰ることができない
だから死ぬほかない、成果があがるもあがらないも死ぬために出撃したのである。

腕をあげるための訓練用ガソリンも枯渇した。
航空潤滑油も枯渇し航空機も粗悪品だらけとなり、概ね25%程度(4機に1機)は機器が故障し本来の目的を達し得ないまでになった。
特攻機も多くエンジン不調でひき換えすか、不時着している(25%程度)。 これも潤滑油にその問題の要因があったような気がしている。当然日本国内と熱帯で同一の潤滑油は使えない
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/tokkou/tokkou_1.htm

日本は燃料がない、肝心の飛行機でもう飛ばす燃料がなくなっていたのである。
その人の話で一番興味深かったのが捕虜になったときの話である。
南京虐殺のことを盛んに言われるが捕虜になった人はさらに中国人に虐殺されていたのである。

首を木の枠で固定して吊るし餓死するまでそのまま放置するなど、中国兵は様々な拷問方法で捕虜を虐待殺戮したとシメンさんの父は彼にそう言ったという
http://redfox2667.blog111.fc2.com/blog-entry-80.html


この写真を見たらショックである。いかに戦争がむごたらしいものになるか、それは戦国時代と同じである。中国人の復讐も凄まじいものがあったのだ。
こんなところで捕虜になったら生きた心地がなくなっていたろう。
その人の話では食べるものなく脱出して食べ物を近辺の農家に盗みに行ったという、
ところがそれを中国人が知っていて日本兵の捕虜を狙い撃ちして殺したという。
これも悲惨な話しである。中国人もいかに残虐だったかということである。
戦争はこういうものだというけど欧米の捕虜になったらここまではならない。
一応捕虜を扱うルールが戦争のルールがあったといえばあったからである。
中国にはそれがなかったのである。

その人が言うにはロシアにシベリアに連れていかれなくて良かったと言っていた。
シベリアの捕虜は最悪だったのである。
戦争で日本だけが残虐だったのではない、アメリカも原子爆弾を落としたように
中国も捕虜を残虐に殺したようにロシアはさらに日本と戦わないのに被害ものないのにシベリアに抑留して殺したのである。
戦争というと日本の残虐性ばかりとりあげられるがどっちもどっちなのである。
戦争というのはもう人間を人間でなくならせるから怖いのである
もう人間の普通の感覚常識すらなくなる。
食べ物がないということは一番苦しい、殺されると思っても脱出して食料を得たいとなる戦地ではもみ殻を食べていたというし兵士は何を食べていたのかわからない。

戦争もだんだん忘れられる。でもまだ90才の人が生きているから20才で戦争に行った人の話が聞ける。これももうやがて直接戦争のことが聞けなくなる。
その時また戦争に対する見方も変わってくる。
やっぱり戦争というのは喧嘩両成敗であり日本だけが悪いというのは欧米とか中国とかロシアからおしつけられた見方なのである。
もちろん日本側も戦争だから人殺すことが戦争なのだから残虐なことはあった。
では原爆を落としたアメリカが残虐ではないのか?
中国の日本兵に対する残虐な殺し方はあまり伝えられないのである。
いづれにしろ戦争の暗黒面をさらしだしたらきりがなく反吐がでるだろう。
だからあんまりそうした暗黒面を見たくないということはあるがそれだと戦争を美化するという危険性が出てくるのである。
だから現実を見るということが歴史では大事なのである。
戦争の現実は眼をおおいたくなるような残虐なものだったのである。
津浪の被害もそうだったが戦争もまたあまりにも残虐なものだった。
ただそれらに眼をそらし忘れるということもまた後のかためにならならない。
津波の被害もあまりにも残酷だったので語りたくないとして伝わらなかったとも言われる人間はあまりに残虐なことは語りたくないし戦争で人を殺したことなど語る人はいないだろう。
ただそういうことを隠しておおってしまってしまうと戦争を美化する人がでてくる。
いづれにしろ戦争のことを直接聞ける人はもういなくなる。
その時そうした戦争を美化することがありまた戦争になるということがあるから怖いのである。

タグ:戦争の話
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2014年12月18日

短歌でつづる吾が半生ーやすらぎ(平田義男) (一冊の戦争を歌った松川浦に住む人の歌集)



短歌でつづる吾が半生ーやすらぎ(平田義男)


一冊の戦争を歌った松川浦に住む人の歌集

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この歌集を出したの70歳の時であり1976年(昭和51年)であった。今は2014年だからこの人は生きていたら108才だから死んでいるだろう。この人は別に教師でもない学者でもいない、松川浦の漁師であり農民であった。
でそのことは紹介されているが歌も稚拙な所もあるがそれなりにうまい、普通はなかなか訓練しないと歌も作れない、この人はそれなりに才能があったともなる。
何か万葉集の防人の歌とにていたのである。防人の歌も戦争するわてでなかったか古代に九州まで行かされるのはまさに外国に行くと同じだったのである。

赤紙を手にとり受領の印おせど吾が心も心ならず
今日だけはオゴモとらむと舟出せど心も空にオゴモは見えず
父さんはいつ帰るのとさびしげに涙ぐみつつ吾を見つめる
万感を胸に車の人となる釜山の駅よ会う日もあらば
幾月か吾がを追う吾が妻の便りの文はすでに汚れぬ

赤紙を受け取った気持はみんなこうだったみたいだ。突然のことであり思いもかけないものとして受け取ったのである。自分の姉もシンガポールに四年従軍看護婦として行って辛酸をなめた話を認知症になってからも延々と聞かされたから嫌になった。
同じことを何度もしゃべるのが認知症なのである。千回も同じことを聞かされたら嫌になるし聞きたくなくなる。そして遂に死ぬ間際でそのシンガポールの辛苦の四年間を語り続けて死んだ。それだけ忘れられないものとなっていたのが戦争の思い出なのである。
だからどうしても戦争というとき姉のことを思い出してダブってくるのである。
この人は松川浦の人であり漁師でもあり農業もしていた。そして妻と子があったからそのことに思いがあり歌っている。ただこのオゴモとは

オゴノリ(海髪、学名:Gracilaria vermiculophylla)は、紅藻の1種で、潮間帯付近の岩場に生育する。単にオゴ、ウゴなどとも呼ばれる。食用として、刺身のつまなどに用いられる

このことだろう。
赤紙をもらってからは落ち着かなくなったということがありそのことを書いている。
生業が身につかなくなったという感じである。
ともかく招集命令はと急なものだったのである。それは万葉集の防人の歌と通じるものがある。防人の歌も何か急に命令が下ったのでにた心境があった。
ここで妻と子と別れを惜しむというのは姉とは違っていた。
しかし姉も母と別れて帰った時は母は死んでいたのである。
その別れが最後になったのが多かった。それは戦死したためにそうなった。
ただ姉の場合は戦地から帰ってみたら母が死んでいたのだから違っていた。
普通は戦場に出て行って帰らずに死んで帰ってこなかったのである。

赤紙の急ぎ受け取り戦場へ永久の別れとなるを知らずに

ベートベンの運命ではないが突然に運命的なことが起きる。今回の津浪でもそうだし自分が突然病気になったこともそうである。戦争に招集された人や戦争の経験した人達は共通したものをもっている。この人は満州に出征した。

万感を胸に車上の人となる釜山の駅よ会う人もあらば

釜山から日本が敷いた鉄道があり満州鉄道に通じていた。釜山とか満州に旅したからその跡を見てきた。朝鮮総督府も残っていた。今はなくなった。

地平の彼方 雲映えて
コーリュンの波 果てもなき
満目千里広茫の ここ北支邦の大平野

満州はどこまで行ってもトウモロコシ畑だった。こんなにトウモロコシを食べきれないと思った。満州はそして相当に寒い、北海道より寒い場所である。

銃音の絶えて静けき陣営に残月あわく霜に光れる

この短歌はいい、戦争中にこうした短歌を作れる余裕があった。でも無惨な戦争の場面も目撃している。ただ歌が作れということはまだ人間的な状態があった。
もし悲惨な人殺しばかりしていたらこんな余裕はないだろう。
そもそも戦地では常に命が脅かされているから短歌とか詩を作る余裕がなくなるのが普通だからである。

幼児に罪のなければと携帯のパンかみくだき吾はあたえぬ

時々こういう子供をあわれむ歌がでてくるのは一人の親であったからである。
日本人は残酷だというけど日本人もまた人の情があった。ただ戦争という異常事態だからこそ一部には残虐な行為があった。戦争そのものが殺し合いなのだからどうにもならないその中でもやはり人の情がありこの人は子供に情けをかけていたのである。

今はなき戦友の写真にありし日の厚き情のしのばるるかな

戦争体験者にとって戦友というのは肉親と同じように重いものだったのである。
生死をともにしているからそれは今ではありえない親交があった。
姉もその従軍看護婦の戦友のことを語りつづけていた。
それは島根の人であり手紙のやりとりをずっとしていた。ただ最後に年賀すら読めないしわからなくなり途絶えた。
その人のことは三陸会とかの記録に残っている。その女性は文学少女だったのである。
だから短歌も書いている。だからそのことも次に紹介する。
まだ生きているかもしれない、90歳にはなっているたろう。
戦争の記録が膨大である。ただこれも忘れられてゆく。
ただ家族に戦争経験者がいたし故郷でも戦争に出た人の記録があったのかとたまたま埋もれていて本を整理したら出てきたのである。
郷土史研究というとき資料を集める必要がまずある。図書館では研究しにくいのである。

戦争に青春費やすシンガポールそのこと忘れず姉は死ににき

もう一つ戦争で問題になるのは戦死者のことである。靖国問題である。

強く雄々しき桜花 海の果てに 散りたれど

君がみたまは海越えて今ふるさとにへ帰り来ぬ

戦友の遺骨を迎えしときと題にある。この感覚もまた戦争経験者として共通のものがあった。
そういう心情は何か理屈を越えたものでありなかなか理屈では否定できない重いもの菜である。
なぜなら人が死んでいるから軽々しく言えなくなるのである。


故郷に一つの生の重みかなその跡たどり今年も暮れぬ

人間はやはり死ぬと何か一庶民でも重みがでてくることがある。
生前はそう思わなくても死んでかちふりかえり思うのは違ってくる。
死んだ人は確かに客観的に見やすくなるから書きやすいということもある。
生きているときは定まっていないから書きにくいのである。
戦争というとき常に全国民のことを思うけど実際は個々の戦争のことが刻まれている。
そこを読まないとわからない、人間は全体として見るとかえってわからなくなる。
何百万人死んだと言っても全然ひびかないのである。
こうして一人の故郷の戦争経験をふりかえると訴えるものがでてくる。
生の重みがでてくるのも不思議である。
いづれにしろ人間はなんらか生の跡を残すのである。
死んでからその生をふりかえることは人間にとって大事である。
この人は一人の人間としてやとり何か生の重みを残して死んだのである。
人間は何かしら必ず生の重みを残してゆく。
ただそれに後の人が気づかないし忘れられるのが多いのである。



この歌集を出したの70歳の時であり1976年(昭和51年)
終戦が1945年であるから70歳のときから31年前である
39歳のとき出征した。
だから妻も子供いた。普通20代を想像しているが最後の方ではかなりの年の人も招集された。若い人がいなくなっていたのである。
全体的に短歌を読んだら落ち着いているし戦地でも子供のことを特に気にかけていた。
こういうことはあまりないかもしれない。
この人は相当な大人でありだから若い人とは違っていたのである。
戦争をある程度客観的にも見ていた。
客観的にならないとまず俳句でも短歌でも作れないからである。
何かものを書くでも客観的に見ないと書けないのである。

 
一般的に戦争から生き残り長生きした人は戦争のことでもその後のことも語られるが若くして死んだ人はその後忘れられた人か多い。
なぜなら本人が生きていれば自分の姉のように千回も同じことでも戦争のことを語りつづけるから後の人の印象として残るからである。
もう20代で死んだ人は名前すらわからなくなっている。
300百万人も死んでいるのだからとてももう記録できないのである。


タグ:戦争短歌
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2014年12月09日

大正まで醤油や味噌も使えない貧乏があった (現代も円安で物価が上がり昔の時代にもどってゆく)


大正まで醤油や味噌も使えない貧乏があった


(現代も円安で物価が上がり昔の時代にもどってゆく)



(鹿島町の女性)

私が話をうかがったのは平成三年で満95歳の高齢にもかかわらずかくしゃくとしてをり、記憶もはっきりしていた。

大正7年のとき二十三歳であり二十歳の
時、原町北泉のより嫁に来た。士族同士の結婚だった。
耕作地は自作地一町五反であり反あたり六俵の収穫があった
わりと当時としては裕福だった

夫は駄賃とりを一生懸命やりまた飯館村にたる引きに入れ大きいカツオは五本ずつ十本を馬にかけて運んだ
お正月の料理はもち、塩引きが最高の料理であった
電気などなくランプの暮らしでホヤみがきが嫁の仕事でありしょっちゅうこわれて町へそっと金をわたして町へ行ったとき買ってきてもらい交換した

(男性)

当時の反収は5俵から六俵くらいで小作料は二俵半だった。
当時の農作業などの日当は米三升が標準だった。
家計は子だくさんの上、いっぱい食べたので一日二升食べ、残り一升で暮らすのは大変だった。中以上の裕福な家では味噌を使い味噌がないときは塩でまにあわせた。
食用油、砂糖などは贅沢品で使えなかった。

収穫は反六俵で出に荷は駄賃取りがいてその人に頼み馬に二俵つけて町に売った
黒砂糖をこごりで買って砕いて使用、白砂糖はお正月に少し食べるくらいで醤油もほとんど使用しない、正月用だった、小作でないので他の人より楽であった


研究紀要二(1994)ー米騒動の研究


そもそも醤油が使えなかったら素朴な疑問として料理自体できないのではないか?
明治になっても大正でも醤油が使えないとなることが全くイメージできなくなっている。もちろん味噌も満足に使えないとなると味噌汁さえ作れないことになる。
明治以降もそうだったとすると江戸時代はどうなっていたのか?
それ以上に貧しかったとなるのとどんな暮らしになっていたのか?

反当たり5俵くらいとなると今は十俵だから倍になっている。この違いも大きいだろう。
だから米あまりになる。
それから運搬は馬でありもともと江戸時代から馬で運搬していた、だから駄賃という言葉が生まれたのである。

行き掛けの駄賃」とは、「ある事をするついでに、別の事をする」または、「ついでにほかの事をして、利益を得る」と言う意味である。特に"駄賃"には、"一寸した手間賃"というニアンスが強く、大人が子供を使いに出す時の手法であった。


農作業でも他の家の手伝いで手間賃をそのつどもらっていた。これは別に定期的にないからこんなふうになった。
飯館村に魚を運んでいたというのは興味深い、それは江戸時代からの塩の道の継続だけど明治以降は塩の道はなくなり八沢浦の峠の道が作られていた。

川俣まで天秤棒をかついで屋形から鰻を売りに行ったという話には驚いた。
当時の貧乏は今の暮らしからは想像できない極貧状態である。小作が多いから余計にそうなる。だから小作だというときそのこと自体が常に奴隷のようなものとしてイメージされたかもしれない、今日の派遣とかともにている。ただ食べ物に関しては貧乏でもさほど変わりないのが現代である。
士族同士の結婚とか書いてあるのもその頃まだ江戸時代の継続があり士族と平民は分かれていた。兵隊手帳にも士族と平民と記されていたのである。
自分の母親は九十九歳で大正生まれだけどその前となるとさらに貧乏になる。
だから製糸工場で女性が働くようになったとき月給ももらったのだからそれなり女性の収入も生まれたのだからその当時としては一つの進歩であり女性の地位の向上にもつながっていた。だから製糸工場に働く女性に対して反発があった。

戦後十年もこうした戦前からの生活の継続があった。それは江戸時代の継続でもあった。まず炭が燃料になっていたことがそうだった。あとはタンス一つとか飯台一つくらいしか家には物ののない時代だった。
でも不思議なのは醤油はあったし味噌汁もあったし塩引きは好物だった。
塩引きはそれほど贅沢ではなかった。日常的に食べていた。
ただ卵は贅沢であり食べていない、農家では鶏を飼っていたから食べていた。
だから自分の家で店をはじめたとき卵買いに行かされたのである。
明治以降の運搬は馬であり車などない、だからこそどこでも農家では馬を飼っていたのである。馬は農耕にも運搬にも欠かせないものとしてあったのだ。

それにしても大正時代はランプだったのか?ランプの明かりで粗末な家で暮らしていた。これも不思議である。
でもランプでも江戸時代にはなかった。江戸時代は蝋燭だったのである。ランプはそれより発達して文明の利器だったのである。
戦後十年も裸電球一つだったけど電気は通っていたのである。大正時代は電気もないということがあった。
電車も電気ではない、だから蒸気機関車だったのである。これも今からふりかえるは錯覚している。
汽車は死語になった。汽車は蒸気機関車のことだったからである。電車は電気で走るから電車なのである。
常に今と昔は何か錯覚してみる。それが江戸時代あたりになると余計にそうなる。
現代からは想像もできないから何か誤解して錯覚してみるようになるのである。

ホヤは一晩で煤けてしまい、日常の手入れは大変だったようです。普及するにつれて、明るい五分芯は部屋に、三分芯は台所で、厠へ行くときには豆ランプを持ってなどという使い分けもあったようですが、普通の家はランプは一つしかありませんでした。
町にはランプ商、ホヤ商、油商という商売が生まれました。特に油商は行商も多く、家々を廻って桝で量り売りをしていました。

ランプ屋が街にあった。種油とは菜種油とか椿油とかだろう。それを売り歩く人もいた

日本は今曲がり角に来ている。円安とかになり経済も変わる、物価が高くなったと思う。魚でも倍になっている。何でも二割くらい高く感じる。この物価高は貨幣の価値を低くする。貯金していても金の価値はかなり下がってゆく、だから老人が金をもっていてもその価値はかなり下がってしまったのである。
でも円高と違い円安は物の価値をあげる、日本で生産するものが安くなるから外国に売りやすくなる。日本は先進国から後進国へ逆戻りする。輸入するものが馬鹿高くなりバナナでも高くなるかもしれない、それは戦後十年でもそうだった。バナナは高級品で買えなかった。仙台に売っていたが自分の家では家族が病気になったとき仙台まで買いに行った。なんかそういう時代に逆戻りするかもしれない。
一方で地元で国内でとれるものは海外から入るものより買いやすくなることもある。
ただ野菜も高いし一般的に食料も高い、つまり貧乏人だと底辺だとさらに貧乏感が増すし金持ちでも株などに投資して上がらないと金をもっていてもその金の価値が半分とかに下がってくるようになる。
それがまだ実感しにくいが金の価値が下がってきているかことは確かである。

今まで百円で買っていたものが百五十円の感覚になるのも近い、円安とはそういうことである。
これまでの物価安は後進国が安い労働力で物を作りそれを輸入していたから安かった。
これからはむしろ自国で生産した方がいいとなる。海外で生産しても円安だと割安感がなくなるからである。
日本の農産物にとってはいいのかもしれない、何でも物が高くなり紙幣より金より物の価値が高くなるのである。
だからいくら老人が金をもっていてもその金は相当に目減りしている。
物の価値が高くなるとともに賃金も高くなるから労働する人の価値が高くなる。
金をもっているだけではその価値がなくなる。インフレになるとそうなる。
円安は金を持っている老人には不利である。若者にはいいのだろう。
ということはアベノミックスの狙いはあたったのかともなる。


ただ物価高でも賃金が上がらないと貧乏人にもこれは答える。
ともかくこれからは江戸時代のような質素倹約の時代になる、贅沢な消費社会は終わる。物の価値が高くなり贅沢できない、物を粗末にできない、なんとか工夫して料理でも工夫しけ安上がりにしないとやっていけなくなる。
それでも醤油や味噌すら使えない時代が大正まであったのだからふりかえればそれよりはずっと恵まれている。でも高度成長からバブルからそうした日本の繁栄の時代は終わったのである。だから高度成長時代にもどったりまたもう一度復活することはない
質素倹約でありそれはモラル的にはいい方向に向かうということがある。
ただこれまでの贅沢な消費から生活を落としてゆくことはかなり苦痛になる。
ただそういうことが否応なく強いられる。日本の成長贅沢の時代は終わったのである。
タグ:貧乏
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2014年11月08日

自分の近辺の昔 (天明の碑がありここも古い場所だった)



自分の近辺の昔


(天明の碑がありここも古い場所だった)

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秋葉神社も荒れ果てている。でもこんてふうに墓が倒れていたのは自分が子供のとき遊んだ時と変わりないのである。この墓の上をはねまわって遊んでいたのである。
つまりここの墓は60年前と変わりないのである。
ただ何か変わったのか?そこに生きた人々の生活が変わりすぎたのである。
例えば農家がありそこには馬を飼っていた昔ながらの生活をしていた。
養蚕は町内でも農家がありこの辺でしていた。
町内でも農家があった。

1702 元禄15年
1710 宝永07年
1715 正徳05年 家継 長崎貿易制度令(正徳新令)
1716 享保01年 吉宗 徳川吉宗、将軍となる(享保の改革)
1758 宝暦08年
1767 明和04年
1772 安永01年
1782 天明02年 〃 天明の大飢饉
1787 天明07年 家斉 天明の打ちこわし。 松平定信、老中となる
1808 文化05年

宝永の碑は自分の墓のある鹿島御子神社の脇の墓地にある。
あそこが鹿島町では一番古い場所である。
その前に立った復興団地は地盤が悪く沼地だったろうは言っている。
街中でもそういう場所があった。町と言っても回りが田んぼや畑だったのである。
沼地もあるし淋しい場所でありそれはどこでも同じである。
だから田町とか町田とかの地名が残っている。

人間は自分の住んでいる最も身近な所を知らないという不思議がある。
灯台下暗しなのである。今の時代外国に詳しい人がかなりいても地元の最も身近なことを知らない人が多くなっているのだ。
常に外へ外へ遠くへ遠くへと目が向けられるようになったからである。

子供のときからふりかえると何か失われたかというと近辺の生活そのものが失われてしまったのである。
自分の家でも子供相手の駄菓子屋からはじまった昔で言う三文店屋だった。
その頃菓子でも何でもバラ売りであり計り売りだったのである。
袋は新聞紙で毎日作っていた。

これはインドとか中国でも後進国に行くと同じ生活があるからなつかしいとなる。
昔を知りたかったら後進国にゆくと昔に帰ったような感じになるから不思議である。
インドのベナレスの狭い路地を行ったらあそこは昔と今と太古すら混在している。
野良牛が歩いていている。野良猫がいて野良犬がいるのはわかる。
でも野良牛がいるというのはありえない、インドでは牛は大事にしているし猿など動物を大事にしている。どうもインドで仏教が生まれたのはこの動物と深く関係していたのである。飢えた虎に子供が食べられるというので生身の人間が虎の餌食にあえてなったという法華経の話でもそうである。それだけ動物を大事にして動物とのかかわりで仏教が生まれている。

犬でも猫でも飼ってみればわかる。犬と猫は極めて人間に近いのである。
野良猫の子供かきて困っている。オスの親がいてついてくる。オスは子供に関心がないと思っていた。餌をやっていると子供に優先して食べさせたり頭をなでたりしていたからやはりオスでも子供とみているんだなとわかったのである。
母親はいなくなった。でも雨の日だった細い家の裏を子供つれて餌を探していた。
それは悲痛な表情をしていたのである。餌がなくて困っていたのである。
それは何か人間の母親と同じに見えたのである。
犬猫になると実際は人間化している。だから墓までいたるところに建てられるようになった。
ホームレスがペットより人間を大事にしろというのもわかる。でもペットも人間化しているのである。

そこでは炭が積んであったからまだ燃料として炭を利用している。それでも白黒のテレビで子供がゲームをしていたのである。その辺が現代と同じである。
牛の糞も燃料として干されているのも不思議である。今と昔が混在しているのがインドである。
バラックの小屋で店を出したりしているのもそうである。それは江戸時代のような雰囲気もある。江戸時代の店もそんなものであり棒振りなんかも何も資本もいらないでできるのが多かった。今はあまりにも何でも大がかりだから個人単位ではできなくなったのである巨大資本の系列に入るコンビニやスーパーになってしまった。
その時街でも村でも近隣に密着した生活は喪失した。

近くに豆腐屋があり魚屋が酒屋があり駄菓子屋があり神社には子供が山のように集まって遊んでいたとか何かそうした地域の活気が喪失した。地域が死んでしまったという感じになる。その路地を通っても今はほとんど歩く人はいない。
昔はそれなり歩く人がいた。生活の匂いというのが街からも失われたのである。
店だって近所にあって繁盛していた。だから近くが活気があったのである。
映画館などがあり駅に通じる細い道には店があり繁盛していたのである。
それらが全くなくなってしまったとき地域からも活気がなくなった。
それはこうした一地域のまた一地域だけではない、全国規模でも東京一極集中で地方は衰退した。スーパーでも農協とかが駅前にあったがなくなりイオンのような大きな所に車で集まる。車社会になれば遠くでも行けるからである。

近くにあった水をもらった井戸も枯れている。何かその井戸が今は象徴している。
その井戸水をもらってバケツで運び父が作った離れの風呂桶に入れて自分がバタなどを集めてたきつけて風呂たきしていたのである。
その頃まだ水道がなかったのである。
だからその時井戸があるということはその井戸はその家のものだけではないみんなのものとしてあることがあり近隣のつながりもできていたのである。
そういうふうに何か近隣とのかかわりが生活から失われた結果として活気がないし人と人の綱かりもなくなったといえる。
ではそうした子供時代がありそれは江戸時代からの継続でもあった。炭を使っているということはそうなる。ではここにある天明の碑があり文化の碑もある。
法印とかの墓もある。でも天明時代は飢饉の時でありこの町でどんな状態だったのだろうかとなるとわかりにくいのだ。
近くなのに江戸時代の暮らしなるとなかなかイメージできないのである。
町内でも相当に困窮したから天明の碑が残っている。
ただ町の場合はあとから移り住んだ人たち多いだろう。
自分の家もそうだった。もともと酒屋だった。この辺に農家があったからそういう家は古いのである。

ただ天明の飢饉でも江戸時代のことをこの辺で語り伝えるものはない。
なぜか鬼風という俳人がいて全国を旅した記録がある。
俳句などを作れる人は今ならいくらでもいるが江戸時になるとたいがい裕福な商人であり普通の人は作っていない、第一文字を書ける人はそんなにいなかったからである。
たからそれだけの教養があるとなると裕福な商人でないとできないとなる。
そもそも全国を旅できたということが裕福だからできた。長崎までも行っていたからである。
今なら誰でもしているが江戸時代そんなに旅することはできない、自分が旅もできたのはやはり家に余裕があったからできた。
普通の人でも外国に行かない人はいないのである。
会社で行っているからそうなる。

ともかくこうして近くでも道も死んでいるし生活も失われて活気がない、人のつながりもない。ただ六号線は夜中まで車がひっきりなしに通っている。
夜まで何しているのかと思うくらい車が通っている。
だから車社会だとつくづく思うのである。近くの生活は活気を失い衰退した。
車社会だからこそ道の駅に人が集まる。
今はこの編では全国から人が集まっている。ナンパーみればわかる。
そういう点では活気がある。その他は地方でも地方の一地域でも活気が失われたのである


タグ:天明
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2014年10月14日

古い道と新しい道(古町のことなど)


 
古い道と新しい道(古町のことなど)

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抽象画(古い道と新しい道)
http://musubu.sblo.jp/article/104552247.html

道には古い道と新しい道がある。道も変わり安いのである。古い道は古い通りは忘れられてゆく、相馬市は城下町だから道が碁盤上になっていてそれほど変わっていないのだろうでも駅前通りはまっすぐだったのかわからない。
昔の道は曲がっていた道が多い、鹿島駅からますぐな道は新しいかもともと脇に入った細い道が昔の道でありそこに店屋があり映画館があった。
日立木の道の駅でいつもたねろしている老人は日立木の生まれで学生のとき鹿島の映画館によっていたという。映画館という言葉自体死語になった。
映画で動画のニュースを見ていた時代があったのだ。そのニュースは相当に遅れていた、テレビのようにリアルタイムのニュースではない。フィルムを汽車で運んでいたとなるとそうなる。あのころは時代劇全盛の時代だった。。鞍馬天狗とか良く見ていたのである。嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう)今でも覚えている。
ともかく老人になると昔の話を語りあうことで妙に同胞意識をもつのも不思議である。
昔の話があわないとやはり何か友達にもなりにくい。
家に来た二年くらいしか年が違わない農家の出の人の話は本当に面白かった。
同時代だから話があったのである。

道にも古道があるが町にも必ず古町がどこにでもある。都路に古道とあるのはその道が古い道になったからである。
どこの街でも古町があるのはそこがもとは栄えていたからである。
南会津でも古町温泉とかあり地元の人が入っていた。
ここが古町だったのかと山奥だから不思議に思った。

会津田島駅発内川行き → 針生 → 山口 → 古町温泉入口下車(乗車時間約1時間) 
福島県南会津郡南会津町古町 字太子堂186-2

古町温泉赤岩荘
http://www.sayurinosato.co.jp/akaiwa/access.php


古町や会津の奥の湯秋の暮

ここに自転車で寄ってこの風呂に入ったのである。写真を見ると赤い岩の温泉だった。
旅の面白さはこうしてふらりと地元の人しか入らない温泉などに入るとなつかしく思い出す。まずホテルなどに泊まったら旅情が今はないのだ。豪華な温泉にとまってもそうである。旅は別にそれほど金がなくてもできる。
何度も言っているけど金より時間なのである。それと体力があるといい、自転車だと最近何か筋肉か疲れて原町に行っても筋肉痛になっているのだ。
これではもう長い旅を自転車でははできないと思った。
あの辺で栃餅を売っていてうまかった。柳津で粟餅だった。自転車で旅していたらただでもらったりした。その粟餅屋が火事になったのには驚いた。
自転車の旅だと何か車とは違い目にとまり話かけられたりする。別に金がないわけではないがそんなふうにしてくれるというのも思い出に残る。
旅というのは道が二つに分かれていたとすると本当はこの道を行ってみようかと思いがけないと所に出るの面白いのである。今は車で道があらかじめ決められる。
何か旅自体が道(未知)への旅がなくなった。どこもあらかじめ知られているという感しになって観光地に行ってもつまらないという人が多くなったのはそのためである。
芭蕉がみちのくを旅したのは全く未知の世界だからこそ「奥の細道」を残したのである。

まず日本では道がまっすぐな所は少ないだろう。何か曲がりくねっている。高度成長期の日本改造で道はいたるところに新しく作られた。その道はまっすぐなのが多い
それは結局スピードを出して早く目的地につくという物量の道であり旅の道にはふさわしくない。浜街道でも日立木に入る道は細い道なのである。六号線からそうした脇道の昔の街道に入ると旅情があるが旅人は注目しないしそれが特殊な歴史趣味の人しか見ないのである。相馬市の道の駅には休んでもまた六号線を行く、だから旧街道のことを知らずにすぎてしまうのが普通である。
これは自分でも東海道に行ってもそこが昔の街道なのか良くわからないことがあった。
他から来ると今の道ばかりに目が奪われるからわからないことか多いのである。
よそから来ると昔を偲ぶことはむずかしくなる。外国などは特にわかりにくくなる。
最近はインターネットで思い出す旅をするのに便利になった。古町温泉とキーワードを入れればでてくるからである。

相馬市は城下町の名残の細い道や路地が残っている。だから多少昔を偲ぶことがてきる。そして景観にも注意している。公共的な建物は切り妻風の建物にしているから落ち着いた感じになる。やはり建物は相当に人間の心に影響する。馬場野の一人暮らし用の長屋風の建物のことを書いたがあれはも木の造りで落ち着くのである。やはり木の家は落ち着くのである。それは芒がなびいていたり菖蒲が咲いていたりとそうした日本の景色と和するのである。つまり文化とは一つのものではなく全体だから全体が消失すると部分だけを作っても文化にはならない、茶室などでも大都会の隅に作っても全体が高層ビルやマンションになったら合わないのである。京都すら町家の前がおしかぶさるようにマンションが建っているからだ。

老鶯の句に宇陀の古町
http://hai575.info/sa06f/20/20.htm

ここに老鶯の句を集めていた。自分の俳号も老鶯にしていた。ここの句は選ばれているからいい句がでている。古町とキーワードで引いたらここがでてきたのが面白い。こういう利用方法がインターネットならではである。そのときインターネットが活きる時なのである。
インターネットの活用方法がいろいろあるが使いこなすことがむずかしい。
それはソフトと使いこなすのと同じである。何かありすぎるのだけどもう一つ利用方法がわからないということがある。要するにあらゆるものがあっても分散しすぎてどこに何があるかわからなくなっているのだ。最近自分はこれまで書いたもの印刷したりと分類して整理している。
この作業が大変なものになっている。相当な時間と手間がかかる。
しかし小冊子にしてみるとまた違ったものに見えるから不思議である。

失われた旅の神秘性(未知の欠落)
http://www.musubu.jp/hyouronkannshou3.htm#m


タグ:古い道
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2014年09月02日

厚寿苑で聞いた大正生れの小高のばあちゃんの話 (老人の役割と価値は昔を語ることにあるー倉の話しが興味深い)



厚寿苑で聞いた大正生れの小高のばあちゃんの話


(老人の役割と価値は昔を語ることにあるー倉の話しが興味深い)



厚寿苑のショートスティで今日話を聞いたのは大正生れの小高のおばあちゃんだった。
大正一〇年生まれであり二月に生れたからユキと名付けられたという。
その当時の名前の名付け方もそれなりのパターンがあり時代を反映している。
春に生れればハルとなり秋に生れればアキとなっていたともなる。
ウメとかキクという名前はポーュラーでありあとはその土地の名をつける人もいる。
自分の母親は富岡で生れたからトミ子になったと聞いた。
苗字はどこかの土地の地名と結びついているからその謂われある土地と結びつくことは不思議ではない。
要するに昔の人の名前はわかりやすいのである。今の人の名前はその由来も様々でありわかりにくくなったのである。

その名前のことだがそのおばあちゃんが言うには私の弟は倉で生れたら倉吉となづけられたというのも不思議だった。倉が吉ということで名付けられた。
というのはおばあちゃんの実家は火事になったことがあり家が燃えてしまってそのあと母親が大変な苦労をしたという。倉も一部の柱などが燃えて焦げたが残った。
倉は家から離れているから残った。倉は町では防火のためにもあった。
倉は今回の津波でも残っていたりするから丈夫な作りになっている。
昔は蔵の役目は生活に欠かせないものとしてあった。
肺病になり若い女性が蔵に隔離されたことをテレビで放送していた。
蔵の利用にはそういうこともあった。
自分の家には蔵などないから蔵のもっている意義がよくわからない。
ただ今でも農家にはたいがい蔵はある。
蔵に関する物語も多い、喜多方は蔵の町だったのは商人の街として栄えたからである。
倉敷なども蔵だらけだからやはり商人の街として栄えると蔵が農家でなくても蔵が多くなるのである。

忠蔵 ちゅうぞう chuuzou
恒蔵 つねぞう tsunezou
米蔵 こめぐら komegura
清蔵 せいぞう seizou
五百蔵 いおくら、いおろい iokura、ioroi
泰蔵 たいぞう taizou
修蔵 しゅうぞう shuuzou
嘉蔵 かぞう kazou
小蔵 おくら okura
網蔵 あみくら amikura
与蔵 よぞう yozou
重蔵 じゅうぞう juuzou
秀蔵 しゅうぞう shuuzou
律蔵 りつぞう ritsuzou
助蔵 すけぞう sukezou
蔵並 くらなみ kuranami
西蔵 にしくら nishikura
古蔵 こくら kokura
蔵座 くらざ、ぞうざ kuraza、zouza

くらきち 倉吉 庫吉 蔵吉
くらじろう 倉次郎 蔵次郎
くらたろう 蔵太郎
くらのすけ 蔵之介 倉之助 内蔵助

蔵とつく名前もいろいろある。米蔵(倉)はわかりやすい、蔵並というのも蔵が並んでいる風景があって名付けられた。倉吉という名前も他でもあった。

喜多方は新しい街だった(喜多方の歴史)

ここのページに喜多方を訪れたことを書いています。

その女性は小高のどの辺のかわかりにくい、福浦と言っていたからその辺なのか、父親は村会議員だったというからそれなりの家だった。だから蔵もあった。
尋常小学校をでて小高の小高専修学校に二年学んだというから普通は尋常小学校で終わっているから村ではいい暮らしをしていた部類なのだろう。
弟は北海道大学を出たとう、そして獣医になったというからその当時大学まで行ったとなるとほんのわずかだろう。それでも金がなくて困って学費で苦しんだという。
その弟か兄は獣医になったのはいいけどなぜか南米に移民したという。
その辺の辻褄が合わない、獣医が地元でうまくいかないのか獣医が嫌になって南米に移民したのかよくわからない、ただ結果的には乞食のようになって帰ってきたという。
その辺の事情がよく聞き取れないしわかりにくい、あのくらいの年になると話を聞いても何か明確でないことはよく起きる。

ともかく当時としては他の人よりは裕福な家だったことは確かである。
ただ女学校に入ることはできなかったから当時では下になるがそれでも尋常小学校で終わらないのだから恵まれていた。何かそこで生け花とか花嫁修行のようなこともしたといっていた。当時の学校は花嫁修行という側面が江戸時代から継続されていたとなる。
まず大正生まれでは字を書けない,読めない人はいない、明治生まれでは自分の祖母にあたる女性が字を読めないし書けないので苦労していた。代筆してもらわないから苦労していたのである。自分の父親も明治生まれだけど学校に入った形跡もないのに字を書けたのは不思議だった。丁稚方向していたからどこかで字を覚えたのだろう。

その小高のおばあちゃんの話でその尋常小学校に通うとき、坂道がありその崖の穴に乞食が住んでいて怖かったという。その乞食の話しは自分も姉から良く聞いた。
乞食は洞穴に住んでいたのである。裸でいたから怖かったというのは少女だったらそうなる。乞食は戦後もいたるところにいたのである。
子供にとってはやはり乞食は怖いものだったとなる。地名としては乞食坂とかとして残ることになる。

小高は実際は相馬藩では最初に城があったところだから一番古いとなる。相馬氏の歴史では古いから古い家も残っているとなる。小高はなんとか浪江のように住めなくはならないでも先はわからない、若い人が帰らないから家も直さないとか老人が多いから復興が進まないのである。
老人の価値とか役割は何かというと昔を語ることなのである。
その昔はその土地と密接に結びついている。記憶はその土地と結びついている時残りやすいのである。
だから古い碑でも神社でもその場所から昔を探るのである。
それでどこに住んでいたのかその土地のことを知らないとなかなか話が通じない
厚寿苑では今は外部から来た介護士が身体の世話をしているがそうした昔の話を聞きあわせることはむずかしい。
ただ身体だけを世話しているだけでありその土地と結びついて話を聞いたりできないことが問題になる。
身体だけの世話ならいいがやはり介護はそれだけではない、昔の話を聞いてその土地に刻まれたゆく人間の歴史を記す必要がある。

だから郷土史は祖父母から聞くことからはじまると前にも書いたのである。
いづれにしろ大正生れとなると今はかなり貴重だろう。
ただやっかいなものとなるが大正生まれが多いというのもやはり高齢化なのである。
百才もだんだんめずらしくなくなってくるかもしれない、もし六〇才から百才となる退職しても四〇才あるとなると第二の人生はさらに長くなるのが高齢化社会なのである。
自分は戦後十年は大正時代や戦前の生活の延長を経験しているので実感としてわかる。
乞食も知っているし燃料は炭だったとかも経験している。
だから大正時代とか戦前の人と話を聞いても通じる。でも二〇代とか三〇代とか四〇代でも高度成長時代になるから話しが通じなくなっているだろう。
そこに介護する側の問題もある。
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2014年07月03日

原町の相馬農業学校は養蚕学校だった (その歴史と私の大正生まれの母の話しなど)



原町の相馬農業学校は養蚕学校だった

(その歴史と私の大正生まれの母の話しなど)

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鹿島区の養蚕農家


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相馬市の旧街道

屋根の上の小さな屋根は換気するためのものだった

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日立木の稲荷神社


大正十五年生まれ、八十一歳
私は一九二六(大正十五)年二月十一日、原町区馬場のこの家で生まれ、今年八十一
歳になります
石神第二高等尋常小学校を昭和十四年三月に卒業し、相馬農蚕学校(現在の相馬農業)などに進学したかったのですが、当時家が貧しくて進学もできず、押釜の砂工場やあ
ちこちで働きました。私は草履を履いているのに、友人の農蚕学校生は、足に格好よ
くゲートルを巻いて立派そうでうらやましく思ったりしたものです。
http://www.haramachi9jo.net/kaihou/pdf/043_haramachi9jyo.pdf



1903年 - 原町他2ヶ村組合立原町実業補修学校として創立。
1908年 - 相馬郡立相馬農業学校に校名改称。
1921年 - 福島県立相馬農蚕学校に校名改称。
1948年 - 学制改革に伴い、福島県立相馬農業高等学校となる

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明治6年には、二本松市、喜多方市に相次いで器械製糸工場が操業を開始し、明治21年の繭生産量は4,753トンとなり、明治43年には8,865トンの繭を生産するほどになりました。
 この間、明治32年には日本銀行福島出張所が設置されましたが、これは養蚕や絹織物業における決済等の必要性からと言われています。

http://www.pref.fukushima.jp/yasai/kennai-engeinousakumotu/yousan/yousan-genjyou.html


相馬農業高校は1921年(大正11年)に「相馬養蚕学校」に変わった。はじめは農業学校だっのに養蚕専門学校になったというのはそれだけ養蚕が農業の主流となったからだろう。
その頃ピークになっていた。何かしら養蚕と関係していた時代である。。
この辺では女性はたいがい福装でで働いている人が多い、あそこはかなり大きく今でも女性の働き場となっている。でも今はその他にも女性の働く場所はある。

一般的には戦前はまだ草履をはいていた。なぜなら若山牧水も草履はいて旅していたからであ。靴がまだ普及していなかったのである。、ネパールでは素足で歩いていたから草鞋を履くということもそれから比べれば文明人となるのか、88歳でありこれは間違っている

この話で興味深かったのは私の姉がやはり大正生れであり年齢的には変なのだけど姉は姉である。その姉が常に言っていたことは相馬女学校に行きたいけど貧乏で行けなかったと言っていたことであり家が貧しくて進学できないということだった。
その頃どん底の貧しさでありそれはみんなそうであり相馬女学校に行けるのは相当な金持ちだけだった。相馬女学校を出たというだけでその当時は一目置かれるものだった。
それで飯館村の大倉の女性が「俺は相馬女学校出たんだよ、親戚の家から鹿島の横手から通ったんだよ・・」とか言っていた。その女性はなぜ裕福だったのか?
それは当時は山をもっていると材木が売れるから金持ちなれていた山持ちはその当時は大きな財産であった。


私の姉は学校も一番だった。運動も体も機敏だったからできた。男勝りで何でもできたのである。それで赤十字の看護婦になった。当時は看護婦になるものみんながなれない、東京で資格をとるために学んだ。その後赤十字から招集命令が来てシンガポールに四年間、従軍看護婦として勤めて辛酸なめた。そのことが忘れられず死ぬ直前までそのシンガボールのことを語っていた。


そして私の母も大正生まれで尋常小学校だった。その頃はみんな尋常小学校だった。
私の母は原町の夜ノ森のすぐ近くが実家だった。地図を見ると相馬農業高校が近くにあった。そのことで母が戦争のことを話ししたことを思い出した。
相馬農業高校が戦争の時空襲されて燃えた。相馬農業高校は大きい建物だからねらわれたのだ。
防空壕に逃げたのだか父親は怖くないと逃げなかったが最後は防空壕に逃げた。
その蓋が飛行機がすれすれに飛んで持ち上がって怖かったとか言っていた。
そこは相馬農業高校があるから危険だったのである。


父親は警察署長だったがやめて機織工場を経営したが失敗したことが実家の悲惨な一家離散になった。その頃機織工場をやれば成功するという風潮があったのだろう。
ただ私の祖父にあたるがその人は全く経営の才能もなかったのである。
ただ警察所長だからできるという奢りがあったのだろう。
母はただいばるだけの人だったと言っている。結果的にはその祖父の事業の失敗が一家離散とか子供に過酷な運命を強いたのである。
ただその当時はみんな貧乏だから誰でも苦労していたし母が特別ではなかった。
今は実家はなく墓だけが残っているのもそうした祖父の事業の失敗などで一家離散になったことが原因している。


大正四年生まれの母はすでに実際は百才である。大正からすでに百年の歳月がすぎる。
原町の無線塔が大正時代に建てられた。


1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生した際に、第一報を無線通信によって世界中に打電した。関東大震災によって原町無線塔が注目されて以後、日本各地にラジオが普及していった。1958年(昭和33年)12月23日に開業した東京タワーが「テレビ時代」の到来の象徴であったのに対して、原町無線塔は「ラジオ時代」の到来の象徴であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B6%E3%83%BB%E5%8E%9F%E7%94%BA%E7%84%A1%E7%B7%9A%E5%A1%94


母もその時子供でも地震を感じたのを覚えていた。無線塔は旧原町市のシンボルとして長い間建っていた。やはりそれだけの役割があったために世界からも注目されたのだ。
原町市は相馬市と違いいち早く近代化した街として発展したのである。
その象徴がまた原町機関区としてあったことである。その時森林鉄道が日本全国を縦横に走っていた時である。意外な所に森林鉄道が走っていた。
その跡を丹念に探査している鉄道マニアがいるから調べられる。
森林鉄道で木材とか石材を東京の方に運んでいたのである。
平機関区も大きく小名浜から石炭を船で運んでいたのが鉄道で運ぶようになった。
鉄道全盛の時代は戦後もずっとつづいたのである。鉄道の民営化してから衰退したのである。


私が原町市と相馬市は感じが違ってる。相馬市は中村城があった城下町であり今も城跡がありそこがち中心になっている。原町はいち早く近代化された街であり駅前通りが発展した。それが今はシャッター通りになりその街並みが長いから何か一段とさびれてしまった。駅前の図書館だけが立派なのも何かそぐわない、今は原発事故でスーパーヒタチが止まったままで原発事故後相馬市と原町を行き来する二両の電車だげである。


時代とは常に変わってゆくものである。特に津波原発事故以後の変わり方はあまりにも激しかった。今もその混乱はつづいている。百年も生きれば一世紀生きたのだからそこに庶民でも歴史を刻み歴史の重みをもつようになる。
親はやはりその家や市町村の歴史をになっている。そして祖父母もいろいろあってもやはり歴史を語り歴史をになっている。最後は人は死んでみんな物語り(ストリーーヒストリー)になるのである。


最後はみんな語り部になる。自分もまた家では自分しか残らず一人で供養することになった。それも自分の生れた宿命だと思った。
ともかく人間はその時代時代を生きる、そしてみんな死んで歴史となって次代に伝えられる。ただ親のことで祖父母のことでもなかなかわかないことがある。
それでも死んでから回想するとそういう人だったとか自分にとってどういう影響をしたかなどがわかってくる。生きている時はなかなかわからないのである。


養蚕については兜造りの家がそちこちにまだまだ残っているから偲ぶことができる。
二階が兜のようになっていてそこで換気していた。
ともかくこの兜造りの家は本当に多い、農家の40パーセント近くが養蚕をしていたのだから多いのが当然であった。それだけ養蚕が盛んだったのである。
農村は養蚕社会だったともなる。それが今や十数軒くらいしか残っていないというのも時代の変わりようの激しさを物語っているのだ。
天皇陛下も今も養蚕していて美智子皇后が蚕を手にしていることでもわかる。
国を支えたのがまさに蚕だったのである。


秋蚕(あきこ) 美智子様のお歌

眞夜(まよ)こめて秋蚕(あきご)は繭(まゆ)をつくるらしただかすかなる音のきこゆる
時折(ときおり)に糸(は)吐かずをり薄き繭の中なる蚕(かひこ)疲れしならむ
音(おと)ややにかすかになりて繭の中のしじまは深く闇にまさらむ
夏の日に音たて桑を食(は)みゐし蚕(こ)ら繭ごもり季節しづかに移る


明治5年(1872)、富岡製糸場の初代工場長であった尾高惇忠(渋沢栄一の従兄弟)は、生糸の原料である繭の生産量を高めるため秋蚕の開発に努めた。しかし、その頃は秋蚕は公認されておらず、惇忠は明治政府と見解を異にすることを理由に、明治9年(1876)職を辞した。
その後、埼玉県令白根多助などの尽力で秋蚕が公認されるに及んで、繭の生産量は倍増し、生糸の輸出量も増加して、新政府の財政に大きく貢献した。
清心寺には、秋蚕を発見した五明紋十郎の功績を記念した「秋蚕の碑」が建てられている

秋蚕というのは増産するために作られたものだった。品種改良がどこでも成されているように自然のままでは農業でも停滞する。そうした品種改良の結果として農業も発展する。

この歌は女性的な感覚の歌なのだろう。音に耳をすましている。そこに女性らしい気遣いがある。美智子様は詩も作っているからそういう文学的才能もあるから評判もいい。
ただ雅子様は比べるとあまりにも見劣りする結果となった。
昭和天皇もいろいろ言われるが短歌は上手であった。
歴代の天皇でもいろいろいてその評価もいろいろである。
美智子様となると結婚式とかから見ているから時代的には団塊の世代には親しいものとなる。
美智子様は平民から選ばれたことで注目された時代の象徴でもあった。
ただ皇位継承問題があり雅子様と美智子様では差がありすぎることである。

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2014年06月11日

相馬市史3(民俗編がインターネットで読める) (漁業の部の紹介)


相馬市史3(民俗編がインターネットで読める)

(漁業の部の紹介)

相馬市史3(民俗編の漁業の部)
http://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/57973.pdf


●帆掛け舟の時代は風を知らないと命にかかわっていた

明治や大正の交丸原釜沖に打瀬船(底曳)か群集し
て帆をひいてあるいた。南風が吹くようになると小名
浜へ四倉、江名、久浜などの帆打瀬が何十鰻と来た
(大正頃三河から持って来たので三河船とも云った)・

原釜、松川では、昭和初年ごろから、漁船の動力化
がはじまっている。シタンポーに機械を入れたのが昭
昭和五、六年である。
現在は機船底曳漁が盛んで、二八、九屯の底曳船が


朝起床して浜へ下りたとき、蓑ず考えるのはその日
の天候である。一片の雲行へ雲の形、星のきらめき、
浪の音、風向などに?漁師は常人では考えられぬ細か
な観察をしてい為。季節風なども一定方向から吹くの
が常だが、それでさえも土地、土地によって細かい変
化がある。

コチは、汚』上で北東の風をさすことが多い。北コチ
とも云う。風のうち一番扱いにくいのはコチとナライ
である。なかんづく悪いのは寒コチである。必ず雪が
つぎものである。ナライのツケはそんなことはない。
コチとナライはつながっていて、コチが吹いてナライ
となってあが為ことが多い。|番恐しいのはコチの
雪シヶであると云う。冬至から寒明けにかけてニチシ
ケが多い。吹雪いてくると一寸先ぎも見えなくなる。
子にも孫にも、コチシヶだけはくわないようにと教え
る。
コチシヶに会ったときは風むきに八金華山の方角
に走れば、山のかげになるから海はよくなると云われ
ているC「寒コチ雪を招く」と云うのは、これらの事
をこったもので、反対に春のコチはおだやか沼ある。


とか、東から雲が出ると雨となるとか云われる。蔵王
山をこのへんでは「おたけさん」とよんでいる。鹿狼
山のかげになっているので、海上一里(約二十尋)位
出ないと見えない。新地では浜を出るとすぐ視野に入
る。十月から六月頃まで雪をかむり、頂きが白く見え
る。百尋タチの境へ行くと蔵王山も山頂を没し、そこ
から先きば和船では行けなかった。
:刺網漁にはこの山が山しめの対象となるばかりでな
く公夫侯の変化の指標ともた》っていた。

漁業というのは海を相手にしているから経験した人でないとわかりにくい、
海からの視点をもつことは神に囲まれていてもなかなかできないのである。
東風(こち)が吹くとそれは浜通りでは確かに海から吹いてくるのを感じる。
そろそろ春だなと感じる。でも実際は3月ころから吹き始めてもその時まだ寒いのである。
だから寒い東風をサムコチといっているのは興味深い。
浜通りでは3月に雪ぶ降りやすいのである。
それで3月11日に東日本大震災がなり津波が起きた。
そしてその時運悪くこのサムコチが飯館村に向かって吹いたのである。
その時は山の方も雪だったのである。
それで放射性物質が浪江の山や飯館村に雪や雨と共にたまってしまったのである
このサムコチに影響されたのが運が悪かったのである。
このサムコチは飯館村から川俣から福島市まで伊達までも峠を越えて吹いたのである。
だから福島市が意外と放射線量が高くなってしまったのである。


●漁業と山の関係


烏崎浜では南はずれのお蔵前(藩の郷倉があった)

そのの近くに、見張りの山があって色見山とよんだ。碧南の
吹くころこ上へつめ五、評(魚群の動きを着視した。主に
年よりの役であっ龍。鰯群が沖合のヒラマ仁か上ると
船を出して網を空いた。

大正三年頃は連日の大漁で、蚕様はあるし、明日ま
でおくと腐るので《女ご衆は夜中まで寝られなかった
と云ってい五?午前十・一時か十二時ころ水楊をし、シ
ロ分けが終ると昼まぎになる。それを運んで、しめど
にかけて処理するまですべて女の役目で、浜育ちでな
い嫁など、忙しい上に臭いので泣かされた。
油砿船の上げ下げに使う賀》木に塗ったりし重すべ
て自家で消費した。〆粕は粉づいて厩肥とまぜて田に
入れたり、《畠の桑の根つぎに使った。多量に田へ入れ
ると、


新造艦を海に下すと、磯部では金比羅神社、烏崎で
は津明神の沖で三回船をまわし、潮水を汲んでオブナ
ダサマとオモテにかける。また不漁がつ望くと清浄な
沖の潮水をオブナダサマにかけ、「サッパリ漁させな
いでわかんねえ、オフナダサマ大漁授けろ」と祈るよ
うなこともする。



烏崎では「津神社」への信仰が生きていた。
ただこれが「津波」と関係していたのか鯨
を祭るものになっていた。
金比羅も明治になってかちら祭られていた。
浜通りの海でも慶長津波などの伝承は残っていない。
松川浦の津神社(つのみや)はあそこに逃げれば津波から助かると逃げて助かった人がいたから何らかの伝承があった。
そこもぎりぎりで津波からまねがれたから信憑性がある。
烏崎の津神社にしろ北原の津神社にしろそれが津波と関係あるのかわからない
そういう伝承がないということが謎としてそれが何故なのだろうと探求してきた。

漁業は農業とも密接に関係していた。蚕様とか漁師にもしていたとすると漁業と農業をかねあわせてやっていた。だから魚なども肥料になって土を肥やしたのである。


●漁民が佐須などの山津見神社を信仰していた


佐須の山神(飯館村)は農耕、安産へ山仕事などの
広汎な信仰対象であるが、また漁一民の帰依が厚い。こ
れは漁場の占定に用いる山シメから、山獄信仰と結び
つきが生じたらしい。
昔は浜から草鮭がけで一夜歩いて参詣したと云う。

古磯部の神社境内には大きな山神碑がたっている。か
つてこ封で山神の御開帳をしたと云っている。佐須の
山神は大山津見神を祭神とするが〈由緒も本社も明確
でないと云う。


このほか相双の沿海村の漁民の信仰を集めたもの
に、小高町の蛯択稲荷、烏崎の大木戸稲荷、松川の川
口稲荷、相馬の笹川稲荷などがある。このうち姥沢稲
荷はかなり広い信仰圏をもって栄えた。

概して云えば西日本では漁業神として恵比寿信仰が

方では漁業神としては稲荷神の方が一般的である。
孔天保、嘉永の頃の例だが、・萱浜村(原町市)で地曳
の船頭が不漁藍歎いて稲荷を祀り、豊漁を祈願して大
漁を得、邑民これを大漁稲荷とよんだと云うことが、
奥相志に記されているが、稲荷瀞漁業神として信仰さ
れる基盤が既にあったものとふられる。


古くから村盈に湯殿行の風習があって、お山をかけ
ると、帰途東北地方に喧伝されている漁業信仰の中心
地大山(山形県)の善宝寺によってお護摩をたいて来
た。今でも此の棺仰は盛んで、沖で網がひつかLると
「大山善宝寺たのむ」と三回唱えると、事なくはづれ
ろと云う。


金華山信仰も昔からさかんで、鰹漁の盛んな時には
南部あたりまで行ったと云うから、金華山参詣も屡堂
行れていたのであろう。今も漁のひまなとき、仲間や
一家の者か漁船に乗って海路参拝に行く。金華山の碑
は農村地帯によくたっているのを見るが、この信仰は
農作にも関係していて玲大てい高いところにたってい
るのは、金華山を遥拝するところにたてるならわしか
ら来ているのであろう。


請戸では最近まで旧七月三十日に夜釣りをしていた。
海上でホトケ(士左衛門)にあうと必ず船上にあげ
てゆく。見すて上通ったため紀ひといシヶにあったと
云う例もきいている。あがりたくて浮いているのだか
ら、揚げねば.ならぬと云う。ホトケをあげるとき「大
漁授けるか」、「かならず大漁させるからあげてくれ
ろ」と問答してから船にあげ石ことも各地できくこと
で、あげるときはワッカタ(右舷)からあげるものと
されて

金華山の碑はこの辺に多い、それが海から船でお参りするというのは理にかなっている
それこそ海の民にふさわしい信仰だとなる。
ただ金華山の信仰は明治以降に盛んになったみたいだ。
古い年号のものはない、江戸時代のものはまだ自分は見ていないからだ。
金比羅なども江戸時代からあっても明治時代にも盛んになっている。
江戸時代から明治時代へ古いものが継続されている。
相馬や双葉であれ宮城県の海とに国境があるわけではないから
魚群を追って名取から亘理から船がやってきた。
そこで海の入会権が問題になっているからそういう所に漁業権の発生があったのだろう。
ただ海というのは別に陸のように明確な境がないから区切ることができないから
海とは誰のものかとなるとむずかしくなる。
それで中国などが勝手に尖閣を所有するとか南沙諸島を領有するとかになる


蔵王は亘理の鳥の海でも真正面に見えるし海からも高い沖に行けば見えるから
漁師たちにとっては目印の山でありその天候を見ていたというのは興味深い
海から見えるものは船に乗って見ることができないから実感できないのである。
ただ蔵王の写真を津波の後に右田浜から写したけどあんなに大きく連峰として見えたことに驚いた。
蔵王は山形、宮城、福島県から見える山なのである。

山津見と松川浦に地名化してまであるのはやはり漁民が山津見神社にお参りしたから
海にまでもってきたのだろう。

yatumimap1.jpg


西日本では漁師の信仰は恵比寿だが東日本では稲荷になっている。それはなぜか?
稲荷は別に稲だけの米作だけの神ではない、その起こりは鋳(い)成りだったのである。
鉄を作るものの信仰が稲荷である。そして東日本の海岸線には砂浜には砂鉄がとれた。
それで砂鉄をとるものが技術者が北上してきたのである。

●慶長津波は民衆でも伝えることを政治的に禁止されていたのかもしれない


海というと漁民というとき、今回の津波でなぜ相馬藩では700人溺死としか記されなかったのか?
なぜ津波の伝承が残されなかったのか大きな謎になった。
その記されないことが後の今回の災いになったからである。
老人は「津波なんか来ることきいたことがねえ」こう言い張ってかなり死んだのである。
つまりこの辺では海辺で漁業している人すら慶長津波のことを知らないし
津波に関する伝承がほとんどないということが問題になった。
だから相馬藩内で津波に興味をもっている人はほとんどなかった。
なぜなら岩崎敏夫氏すら津波のことを一言も書いていないことでわかる
津神社が津波と関係しているとも書いていない。
それだけ津波のことが伝えられなかったのである。

南相馬市の博物館に津波を警告しにきたのは飯沼勇義氏であり東北大の地震研究者ではなかった。
警告されても興味をもつ人はなかったろう。

自分は700人溺死したというのは漁労民だとしたがそんなに海辺で漁労していた人が400年前にいたのかという疑問がある。
ただやはり海辺には魚でも貝でもとれるのだからそれなりにいた。
そして漁業は集団力が地引き網などになると必要だからその時相当の人数が浜辺に集まっていたかもしれない、地引き網は400年前にしていないとしても集団で組みで魚をとることをしていたかもしれない,漁師がどれくらいいたとかは陸と違って検地などないからわからない。
でもそなりの人数はいてそれが津波にのまれて死んだ。
そのことが詳しく記されないのはその時相馬藩の政治の最大の課題は中村に城を移転して城を作ることだった。それから大阪の陣の参戦や江戸城の普請が最重要課題だった。
そのために津波の被害があってもそっけなく700に溺死としてしか記されなかった。


だから南海老村の天守造営にたずさわった大工は津波を経験していて六十六部はその津波で死んだ人たちを供養した。葬式の時に海水で洗うと怪異が生じるというのはそのためである。海難者なども当時から存在して修験者や六十六部とかが供養していたのである。
相馬藩で津波のことが詳しく伝えられなかったのは何か相馬藩の政治的事情で伏せられた。内密にされたということもある。
政治にはそういう何か隠したいことが常にある。原発だって放射能は危険でもそのことは秘密にされていたし政府の都合の悪いことは隠されていたのである。
それはどこの国でも政治にたずさわる権力者はしていることである。
ただ政権が代わると明るみにだされる
相馬藩では代変わりしないことはいいことだったが権力の主要部が変わらないから
そこで権力の独占が生れたともいえる。

相馬藩で天守が作らなかったのは相馬の主君が名君だったとかではない、
その時慶長地震津波が起きて天守が作れなくなったのである。
そのことをビスカイノが相馬藩の城を訪れて城が壊れていて工事中だったということからもわかる。
会津の城も三カ月前の地震で石垣が壊れ七層の黒川城は五層になったのである。
あれだけの地震があって天守が作れなくなった。

そうしたことが南海老村の藤金沢で大工が呪われるようにして死んだこととかかわっていた。

慶長津波で死んだ700人は相馬藩では無視したのである。それだけの余裕も戦国末期の政治的課題がありなくてできなかった。
だからその辺の事情が南海老村に怪異な伝説として残った。
民衆でも何か津波を伝えなかったのはむしろ相馬藩の政治的主導があって表沙汰にできないものがあった。
相馬藩が弱体化して伊達藩が責めてくるとか当時の状況は今とは違っている。
戦国時代はまだ終わっていない、だから民衆へも政治的に津波のことを言うことを禁止されたのかもしれない、現代の何でも言える時代とは違う。
だからこそ柳田国男は民衆側にたち口碑を重んじて民俗学を起こしたのである。

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2014年06月03日

ギブ・ミー・チョコレートの世代 (戦後の日本人の精神形成、原点がここにあった)


ギブ・ミー・チョコレートの世代

(戦後の日本人の精神形成、原点がここにあった)

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マッカーサー連合国最高司令官の来日、連合国総司令部(GHQ)の設置で、連合国軍による占領が始まった。日本側は連合国軍を「進駐軍」と呼び「占領軍」という呼称は使わなかった。ジープでさっそうと走る米軍兵士の姿は岡晴夫の歌にもなった。子どもたちは、進駐軍のジープを取り巻き、「ギブ・ミー・チョコレート」「ギブ・ミー・チューインガム」と兵士にねだった。

終戦記念日まで1ケ月弱。この頃になると何時も焼け跡、輪タク、進駐軍、パンパン等を思い出します。
今の新神戸駅前の道路で遊んでいると、進駐軍兵士とパンパンを乗せた輪タクがやってくる。私達子供は忽ち内に彼らを取り囲んで、ハロー、 ハローと連呼する。早くS*Xをしたい兵士は子供達に付きまとわれるのを嫌って、進行方向とは逆に出来るだけ遠くにチューインガムやチョコレートを投げるって訳ですね。


巷間この様な時には ギブミーチョコレート と叫ぶ様に言われてますが、我々の所では ハロー 一本槍でした。

町には第7艦隊の進駐軍兵士の休日のお相手をするパンパンが沢山いましたね。真っ赤な口紅とマニキュアそれにブラジャーこれが彼女達の三種の神器でした。当時マニキュアなんて普通の女性はしませんからね。
日本一の闇市でパンパン相手に一儲けしてのし上がったのがワコールの塚本氏だと言うのは有名な話ですよ。

大阪駅で良くチョコレートを貰いました。
「ハロー進駐軍」って言ってました。

中学の頃に分校の裏の料亭の窓から撒かれた硬貨を拾った為に、
全校集会で校長から大目玉を喰らいました

私は田舎育ちでしたので、思い出すのは、家族が畑で芋掘りをしているところへ、ジープに乗った進駐軍の兵がきて、掘っていたお芋と、チョコレートを交換していきました。

芋とチョコレートとの交換ですか。立派ですねギブミーチョコレトの様な物乞いじゃないですからね
http://smcb.jp/ques/50000


外国旅行してあった人は自分より五歳年上だった。その人はギブミーチョコレートの体験を話ししていた。九州の人だから東京とかの大都会とは違う。それでも日本がアメリカ軍に占領された時進駐軍が日本全国でみかけたからこの言葉が一時代の流行語として残った
人間は五年の世代の差でも相当に違う。戦後爆発的に人口が増えたのは団塊の世代となった。それは終戦になってからでありその時進駐軍のことはまだ生れたばかりだから知らないとなるのだ。ただ小学校でもアメリカから援助されたまずい脱脂粉乳のミルクとかが支給されていた時代でその延長があった。給食でもコッペパンとか粗末なものだった。

その時子供は良く働かせられていたのである。農家でもそうだが街でもそうであり
自分は店屋をやっていたからしょっちゅう配達とか農家に卵買いさせられた。
その卵をヌカに入れて買ってくるのだが必ず一つくらい壊れるのである。
というのはその頃の道は舗装されていないから道が悪かったからなのである。

真野川にかかっていた橋も木の橋でありヤハなものだっから洪水になると流される。
江戸時代から橋は流されるのが多かった。だから流された橋の絵が日本には多い。
野馬追いでも新田川の橋が流されていてそこを通る絵が残されている。

自転車にしても今のとは違う。だからそういう時代を子供の時経験しているし団塊の世代はそこでも今の豊かな世代とは違っている。
だから三年くらいしか年が違わない女性とは話しがあう。やはり同じ経験をしていたということで話しがあうのである。

五年の年の差が意識される時は時代が急速に変わると五年でも違った意識をもつようになる。江戸時代だったらそんなに世代が変わっても意識の差はない、代々職業でも親から受け継がれるからそこで何か精神的にも安定したものとなる。
仕事でも第一次産業だから土地に根ざしているから土着的でありそこで精神的には安定している。木を利用していたがその木が育つには五〇年かかるとすると気長に待つ時間の感覚が育つ、そんなとき時間給で働かせるという感覚は生れない、代々に今の会社のような大きな農家で働くということがあった。それも搾取されていたとかともなるがまたその社会なりの働き方でもあった。
その時代の見方はいろいろあっていちがいに極端な貧乏だったということだけではかたずけられないものがあった。
なぜならそうしした貧乏でもなぜ明治時代に来た外国人が見た日本人はみんな幸福そうな顔していたというのはなぜなのか?
それはやはり貧乏でも何か精神的に安定したものがあったからである。
それはその社会が時代が作り出していたものなのである。


明治維新後は全く変わってしまった。社会もモラルも激変して江戸時代の人間と明治以降の人間は別の国の人間のようになってしまったのである。つまり時代が変わると同じ国でも別の国になったように変わるということである。むしろ外国人の方が親近感をもつようにさえなる。それでも日本は戦前は天皇を中心としたあ忠君愛国であり国中心の社会であり国のためには個々の欲望は抑えるモラルがあった。それは国のために犠牲になるということで批判もされるが今のように個人の欲望のためには人を犠牲にしてもいい、自分が得するためには相手を犠牲にしてもいいいとは違うものがあった。

戦前と戦後もまた人間はまるで違ったように変わってしまったのである。

その象徴がギブミーチョコレートだったのである。もちろんアメリカ兵につきまとうパンパンとかもいたから戦後の荒廃は大きかった。つまり戦後の日本がどうして作られていったかの原点がギブミーチョコレートにあったのである。
「勝つまではほしがりません・・・」から全く逆になった。チョコレートを得るためには女性なら体も売る、子供は恥も外聞もなくアメリカ兵につきまとうねだる。
そういうことが日本人の心を作っていったのである。
戦後はただ貧乏からの脱出、物質的欲望を充たすことしかない、そのためには他者を蹴落としてもいいからのしあがれしかない、それで受験戦争がありいい大学に入ればいい暮らしができるしかない、そういうことに反発して団塊の世代が大学改革を求めて全共闘が生れたという経緯もあった。


ともかく五年の世代の差が戦前と戦後では激変したから大きいものとなった。
ではさらに五年違うととをなるかとなるとまた違っている。
今の七五歳くらいになるとまた違ったものとなる。戦争が終わった時は一〇歳でありやはりギブミーチョコレートをしていたのか?そうなるとそういう世代の仲間に入るのか?
それよりまた五年違うと今度はそれなりに大人になっているから戦前のモラル的なものが残っている世代となるから違っている。
現代の指導者はすでにそうした戦後生れの人たちとなった。戦前生まれ出もギブミーチョコレートの世代なのである。その精神形成はギブミーチョコレートからはじまっているから追求するのは物質的欲望の達成でありそのためには他者を蹴落としてでも達成するということしかない、それが社会の腐敗を産んだのである。

確かにアメリカの豊かさに追いついたがそこで欠落したのが日本人が江戸時代からもっていたモラルの喪失だった。今や義理人情すらほとんどないだろう。
そんなもの古いとなるがそういうモラルさえなくなることが金一辺倒の社会となり荒廃したのである。
日本人は何も尊ばない、何を尊ぶものかもわからない、ただ金のみうが唯一の価値となったのである。金を持っている人のみが一番偉いのである。

それはアメリカ的価値観に戦後のギブミーチョコレートから子供の時から形成されていたからである。
戦争に負けた時、日本人のモラルが根本的に壊滅してしまった。焼け野原となっただけでなく日本人の心も喪失してしまったのである。

世代の差というとき大きく時代が変わる時その差が大きくなる。今回の津波でも津波の前の世代と後の世代では相当に違ったものとなる。現実に今になって慶長津波と前と後で時代を区切りことが強いられた。津波が時代の転換点として意識された。
相馬藩では天明の飢饉がありその前と後では大きな差が生れた。
津波や原発事故はまだ日本全国を変化させるようなものになはなっていないが津波や原発事故周辺では時代がまるで変わってしまったのである。
だからどう対処していいかわからないという混乱期に入ってしまった。
漁業とか農業とか木材業でも放射能汚染で成り立たなくなるとすると一体この辺はどうすればいいのだろとなる。
補償金だけもちらって暮らせばいいやとかなるとこれまた精神的には荒廃してくるだろう。現実に今避難して仮設に暮らしている人はそういう精神的状態になっている。
ともかく津波や原発事故周辺は戦後六〇年の弊害が極端な形で現れた地域となった。
高度成長経済の発展が原発事後となり事故前も多額の金で漁業権を東電に売りわたしていたとか
この辺はまさに戦後日本の負の部分が現実化されたのである。
人さえ住めなくなったという極端なものとして現れた。
だから「福島の再生なくして日本の再生がない」と言われる時、戦後日本の象徴がフクシマになったからである。
ただその再生がどういうものになるのか暗中模索であり明確なものとして見えないのである。
それだけ大きな戦前と戦後のような時代の激変を経験しているからそうなる。

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2014年03月06日

方角地名が地名の基 (南とつくだけで明るい感じがする不思議、南相馬市はそうだった)


方角地名が地名の基

(南とつくだけで明るい感じがする不思議、南相馬市はそうだった)

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地名の基本は方角地名である。方角によってその土地の色合いが様子が大枠で形成される。
だから方角地名が一番多い。そもそも東西というときそれを如実に示している。
東西の分かれ目が関が原であり明らかに関が原を境にして西と東に分かれる。

鶏が鳴く 東の国の 御いくさを 召したまひて
壬申の乱で東(あづま)とさしたのは古代にすでに東西の戦いごここで行われたのである。
ヤマトタテルが東征の途中で失った妻・弟橘姫(オトタチバナヒメ)を偲んで、「吾妻(あづま)はや」(ああ、我が妻よ…)と慨嘆したというところから、足柄峠より東を「あづま」と称するようになったとされる。


ここでは関東まですでに東の領域に入っていた。
ただ旅して不思議だったのは必ず方向音痴になることであった。方向が必ずわからなくなる。
京都辺りに旅するなら西に向かっている。西に向かってふりかえれば東の方向から来たことになる。
でも東は福島県の浜通りだと海の方角になる。
だから東風(こち)は春になると吹くのだが南の方から吹く風に感じていた。
だから何か九州のかなたから吹いてくる感じになっていた。でも実際は太平洋の陽の昇る方向であった。
だから風の方向を知ることは意外とむずかしい。

ただその場所を知るには方角がポイントになる。だから地名では方角地名が一番多い。
それがその土地を知る案内になりやすいからである。
東と言うと何か陽が昇る方向だから明るい感じがする。西だと陽が沈む方向だから暗い感じがする。
北だとこれも寒い暗い感じがする。南だと明るい暑い感じがする。
方角地名がその土地の特色を基本的に特徴づける。

例えば琵琶湖の湖西線となると比良の山の下であり陽が沈むので暗い感じになる。
湖東は陽が昇る方向になるから明るい感じになる。ただ山から陽が昇り山に沈む感覚は
浜通りでは感じられないからその感覚がわかりにくい。
北の方角は暗いからそれを嫌って隠した地名のものもある。
喜多方は会津の北に発展した商人の街だから北方だったが喜多方にした。
北を嫌ったから喜多方の当て字にしたのである。西会津となると何か奥まった淋しい感じになる。


それから上下とつく地名も多い、上とつくとそこは早くから開けた土地なのだろう。
下町というと何か庶民の住む場所であり上町というとその土地では場所的にはいい場所だとなる。
事実は鹿島区では前は下町は本当に土地が低く水害で被害があった。
自分の家は二回も水害で被害にあった。それは一番低い場所だったからである。
土地として悪い場所だったのである。ただ今西町となっているがそこは一番
鹿島区ではいい場所になって住宅地になっている。

上がりもの下がりものがあり大阪から来るものは上がりものであり江戸から来るものは下がりものである。
上りは早く開けた大阪にあり下りは江戸へ行くことである。古くは東下りである。京都へは上るになる。
だから下がつくと何か文化的にも下に見られ。
これも方角地名でまず印象づけられているからだ。

永禄11(1568)年織田信長は足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて入京しました。そのころの上京の景観は「上の都は,日本全国の都にして,甚(はなは)だ富みたる人居住し,日本に於いて用ひらるゝ絹物及び緞子(どんす)は悉(ことごと)く此処(このところ)にて製造し,又重立(おもだ)ちたる人々の夫人にして最も高貴なる者住みしが…」「上の都は下の都より大なること二倍なる」(『耶蘇会士日本通信』)というように,御所があり富裕の者が集まる上京に対し,下京は商業街区であり民衆の町でした。

ただ上と下は上があって下がある。だからまず上を知らなければならない。
それがその土地を読むことである。

これは前置きとして南屋形がまずありその後ろの山に入った場所が北屋形になっている。
そこは一段と暗く感じるのである。南屋形というと前は平地であり陽もさすから明るい感じになる。
南海老もそうである。北海老となると山の中になり暗い感じになる。
南とつくと明るい感じになるのが不思議である。実際はそうでない場所だってあるからだ。
南相馬市と小高と原町と鹿島が合併したときそうであった。相馬市から南だから南相馬市となった。
でも考えてみると相馬市は北相馬市になるべきだったともなる。
その方が南相馬市という名前がついたときそれに準じるにはそうした方がわかりやくなっていたのである。
ただすると何か北とついただけで暗くなる。
でも相馬市だと南相馬市が生まれて特徴がうすれたのである。

相馬市はもともと南相馬市と北相馬市であり一つにした方が良かった。
北郷とういのは鹿島区だったがそれは小高に城があるときそこから見て北だからそうなった。
小高が中心地だったからである。

合併するとき名前をつけるのに悩んだ。結局方角地名にするのは無難だったからである。
でも南相馬市となると何か南というだけで明るい感じがするのも不思議である。
相馬市はかえって目立たなくなっているのも名前からすると奇妙である
つまり南相馬市が先進地域であり単に相馬市となっていると特徴がなくなったのである。
だから地名というのはその土地だけでなく隣の市町村にも影響しているのだ。

飯館村は合併しなかったから飯館村として原発事故で世界に知られるようになった。
南相馬市もそうである。合併したら南相馬市の一部となっていたからそうはならなかった。
だから変なんだが飯館村の尊重は村長として威張っていられる。
南相馬市に合併していたら小さな村だから威張ってはいられない。
そして原発の被害でも飯館村は被害が大きかったからそこで飯館村としての損害賠償を請求しやすかったのである。
南相馬市は小高区が一番被害が大きかったが独自に損害賠償の交渉をしにくかった。
なぜなら南相馬市であり南相馬市として主張せざるをえないしろその賠償金をめぐって
小高ー原町ー鹿島はみんなもらう金額がちがっていて分断されたのである。
他の警戒区域はほとんど一眼になって賠償金を請求できたのである。


somachimeiii1111.jpg

「南相馬市は小高町と原町市と鹿島町が合併してできた名なんだよ」
南とつくだけで相馬市とは感じが違っていたのも不思議だな」
「確かに南とつくだけで明るい感じがするな」
「それで何か相馬市が目立たないんだよ、相馬市の南だから
相馬市が中心のように見えても南とついただけでこっちの方が目立つんだよ」
「相馬市も北相馬市とならないと釣り合いがとれなかったのかもしれない」
「北となるとやはり暗くなるから嫌だろう」
「相馬はもともと相馬藩だったのだから一つなんだよ」
「南相馬市と北相馬市で一つだったんだよ」
「相馬市が中心のように見えても南相馬市の方が目立つようになっていないか」
「うーん もともと明治は原町機関区ができて原町が発展して中心になっていた
だから南相馬市の方が明治以降は中心地だったんだよ」
「南相馬市の市長はタイムにのったように原発事故で世界的に有名になったよな」
「まあ、飯館村は合併しなくてよかったよ、原発事故では被害が大きかったから
独自の賠償交渉ができる、それに村長も飯館村として威張っていられるからいいよ
南相馬市になったら市長は一人だから威張れないからな・・・・」
「人間は地名でも名に影響されるんだよ、まず名前からイメージするからな」


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2014年02月27日

水道を使い井戸のことは忘れられた (農家でも井戸があっても水を運んだ苦労があった)


水道を使い井戸のことは忘れられた

(農家でも井戸があっても水を運んだ苦労があった)


男鹿赤神山五社堂の下に、姿見の井戸とよばれた古井戸が残っている。お山がけ詣りの人たちが、必ず我が身を写して試したといわれる。はっきり写れば今年の生命が保証される。写りのはっきりしないものは、災難不幸にあう。まったく写らないものは、その年のうちに死ぬこともある。などと信じられていたという。
http://namahage.is.akita-u.ac.jp/monogatari/show_detail.php?serial_no=2390


井戸にまつわる伝説は無数にあるだろう。飯館村の作見の井戸などもそうである。
今年の米の収穫がどうなるのかを井戸を見て判断する。
地下に流れる水は見えないし稲作と水は深い関係がある。
井戸の伝説が多いのは地下水が見えないからである。
百年前に降った雨が地下水となってたまっているというのも不思議である。
放射能汚染され水は地下水となり百年後にもたまり放射性物質かあったとなり
事故のことがふりかえられたりするのだろうか?
百年過ぎれば伝説化しやすいからである。


井戸については子供の時、近くの井戸から風呂の水にするためにもらってバケツで運んだ記憶がある。
街中では水を得ることすら難儀だった。
だから良く姉か大きな屋敷の家から水をもらっていた話をしていた。
「水ください・・」と頼んで井戸の水をもらっていたのである。
そこは大きな屋敷で入りづらかったのである。

街では農家での女性の同世代の人に聞くと街より恵まれていた。
井戸があるから水には不自由しない
でも井戸は今でも残っているか庭にあり家より離れている。
すると子供の時、水を運ばされたというのは同じだった。
その距離は違っていたがやはり運んでいたのである。

意外とこのことがわからなくなっていた。
昔が常にまちがってイメージしているのは戦後でも同じだった。
つまり農家では井戸があるのだから今の水道と同じように錯覚していたのである。
家の中に井戸があると思っていた。そういうのも一部はあった。
でもたいがい外にあったから水を運ぶのはそれなりに手間だった。
水を運ぶことは一つの仕事だったのである。


20リットルのバケツを毎日運ぶ女性たち

インド女性は、生活用水を手に入れる為に、一日の4分の1の時間をかけて、20リットルもの重さのバケツを運ばなければなりません。体に非常に負担がかかる為、時には大きな痛みがはしり、ひどい時には出産時に合併症を招いてしまうこともあるそうです
http://eedu.jp/blog/2013/05/24/wello-water-india/


頭に水瓶をのせて運ぶ
http://www.jaico.net/museum/5tips/4people/07headcarry.htm


今でも水を運ぶことが大仕事になっている所があるのだ。
すると水道というのはいかに便利かわかる。
家の中にあるから運ぶ手間が全くないかちいかに便利かわかる。
ただそれが当たり前になっとき、水道のもっている意味がわからなくなる。
すべて便利でも当たり前になると当然じゃないかとそのありがたさもうすれるのが普通である。

自分も農家では水を運んだりすると思っていなかった。
水は家にあるからそういうことを想像していなかった。
これだって戦後だから江戸時代とは違うのだからまちがってイメージしていた

だからいかに50年前でも間違って必ず過去をイメージしているのだ。
「遠くの親戚より近くの他人」というときそれも隣の村が遠くの親戚であった時代の諺なのである。
歩いてゆくとすると今のように広域社会ではないとすると
隣すら遠い村になっていたのである。
今は遠いというと300キロくらい離れていないと遠くはない
東京くらいだとここからは遠いとなるのだ


江戸には水道があったというとき、水道橋があるからあれは江戸が都会だった象徴だったのである。
古くはローマの水道橋がありあれもまさに先進文明の象徴だったのは
水がいかに暮らしの中で大事かを物語っていたのである。
ローマのような都会になるといかに水を確保するかか一番の問題になるからである。

過去をふりかえるとき、水を得ることの苦労は大きかった。
水道になると蛇口をひねるだけで水がでてくる。
ただそのことが水のありがたさを失わされているのだ。
水なんかいくらでもある、電気でもボタンを押せばいくらでもある
そうした感覚が人間が自然と離れてゆく原因だった
水だって自然のもの自然の恵みである
でも水道になると文明による恵みのようになる。
だから便利な文明化すると人は自然と離れ自然に感謝したりしないのである

ただ人間の宿命は何か便利になり楽だと思っても必ず苦しい面もでてくる。
便利になった、楽になったと思っていると別な重荷を背負うようになる
水道は井戸のように無料ではない、水を買うようになればその分
また苦労して金を得るために稼がなければならなくなった。
原発事故もそうした便利さを追求してきた結果起きた事故だった。
原発そのものか反自然だった。
なぜなら自然界にない物質、放射能という毒を生み出していたからである。
そこに大きな無理があり事故につながったのである。
ただ誰でも昔の水汲みや水を運ぶ苦労から解放されたいというのはわかる。
でも水道が当たり前で水道がない前に井戸があり
それで水を得ることがどれだけ難儀したかなどはイメージできなくなることが問題なのである

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2014年01月25日

郷土史はまず個々の老人の話を聞くことが基本 (老いたトラック運転手の詩)


郷土史はまず個々の老人の話を聞くことが基本

(老いたトラック運転手の詩)


グングンガンガンズンズンダーダー
荷物を一杯にしてトラックを飛ばす
相馬から福島から東京へ
またやってきたぜ
花のお江戸の東京に
その名も知られた築地市場だ
東京の台所で何でも集まる
ここは靖国通りだ自衛隊の本部もある
まだ帰るのには時間がある
酒飲んでまた一日暇つぶした
さあ、明日は 福島へまた帰るぜ
六号線とは東京じゃ言わないよ
水戸街道って言うだよな
俺は稼いでいるんだ
家族のためにな
グングンガンガンズンズンダーダー
トラックを飛ばす
ハンドルさばきもいい
俺は事故は起こさなかったんだ
家族も俺に感謝しなくちゃだめだ
俺はトラックで今まで稼いできたんだ
今は年金暮らしでなんだか嫌われる
でも俺がトラックで稼いでいたことを忘れるな
・・・・・
トラック運転手はこうして話すと元気になる
今は体がげ天気でも家族に嫌われる
無用のものとして煙たがられる
孫も大きくなり年金をもらう時のみ
ニコニコじぃとかよってくるんだよな
なんか自分もボケてしまったらしい
でもトラックを乗っていた
昔を語る時元気になるんだ
グングンガンガンズンズンダーダー
トラックは飛ばす
東京の築地市場に向かって・・・


郷土史というときまずおばあさんやおじいちゃんの話を聞くことからはじまるというとき意外と身近なのである。もちろん歴史的なむずかしいものもある。
でも基本は昔話にあったのだ。いろいろそれぞれに生きたことが60過ぎると昔話になってゆく。それが膨大な民話になっていた。時代が変わってもやはり人間の営みは変わらない、昔を振り返るのか老人だからである。


ただ様相はかなり変わっているが例え現代的生活でもそれかいつか昔のことになってしまうのが人間の運命である。すでにトラック運転手などめずらしくなくてもそれを経験して老いた人は昔のことになっているのだ。荷馬車のように運搬する馬自体が消えてしまったら本当に昔になるがトラックは今も現代生活の物流の要だから違っている。
でもその仕事を終えた人には昔のことになっている。


いづれにしろ老人なんかつまらない、無用だとなるが何か効用があるのかとなると昔を語ることに今も同じだった。老人は昔を誰でも語ることが勤めなのである。そんな話し聞きたくないというのもわかるがその話はその人の一生がつまっているのだ。
例え何回同じことを言ってもそうなのである。家族が認知症認知症になって千回も戦争のことを聞かされた時は異常だった。認知症
でも昔のことを語ると元気になるのはその時自分が生きていたことが語ることによってよみがえるからである。

だから老人の話しを聞くことは誰でも面白いものをもっている。なぜなら人間の経験は限られているからである。一人の人間の経験することは本当に極めて限られている。だからこの世には例え60年生きようが百年生きようがわからないことが山ほど残る。
現代は仕事も多様化しているしわからないことが多すぎるのである。


ただ老人の話を聞く時,ある程度相槌をうつ理解力がないとできない、だからトラック運転手はトラック運転手同士が話しがあうということがある。それは経験を共有しているからである。農家の人は農家の人とあうとなる。そういう経験していれば当然話しがかみあうし聞いても同じ経験してきたよと話をあわせることができるからだ。
自分の場合は日本中たいがい旅行しているからその場所のことがでてきたら話をあわすことができる。あそこはどういうところだったとかある程度は想像つくのだ。
東京にも住んでいたから場所がわかるからそうなる。でも築地市場には行ったことがないのである。前は秋葉原にもあったらしい。

ただでは経験したことがない人が聞いて話か面白くないのかというとそうではない、かえってトラック運転手など経験したことがない人はその経験話を聞くと新鮮なのである。

自分は車の運転もできないしあまりトラックとか車は好きではない、ても現代は広域物流社会だからトラックはその要になっている。すると現代を語るにはトラックなしで語ることはできないだろう。前は物流の中心は鉄道だった。すると鉄道を語ることことになっていたのだ。

ともかく話を聞くにしても直接に面と向かって聞くと何か不思議なのは自分もトラック運転手になったようになることである。それが不思議なのである。それが直接聞く語りの不思議である。いつの時代に老人の効用はそれなりにあった。それは経済的効果ではなく精神的効果である。

昔を語ることによって老人も生き生きとして聞く方もその話しから何かを得るのである。これは認知症の療法にも言われている。ただ千回同じことをきかされたらさすがにうんざりするのである。これは聞く方も大事である。80歳の老人の話しは60代くらいが聞くのに向いている。ある程度話をあわせることがてきるからである。

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2013年10月31日

原町紡績の専用線があった驚き(写真もあった)


原町紡績の専用線があった驚き(写真もあった)

原町森林鉄道・原町紡織専用線 
http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/stop/bab06.htm


●比曽川支線 飯舘村  
● 原町紡織専用線 原町市 製糸工場への引き込み線
● 日本硅砂砿業専用線 原町市 地元では「砂工場」と呼ばれていた


ここに原町紡績(原紡)の工場が出ていた。そこに確かに線路があった。これは相当貴重な写真だろう。原町史にのっていた写真である。最初は製糸工場であり次に紡績になった。肺病に多くなったのは紡績工場だった。これがどっちだったのかまぎらわしい。
ここで自分の母親が十年間働いていた。たいがいここで女性は働いた。今なら福相で女性がほとんど働いた経験があるのににている。
それにしてもここまで線路があったということの驚きである。
それだけ原紡は大きな工場だった。

日本硅砂砿業専用線 原町市 地元では「砂工場」と呼ばれていた


こんな線まで引かれていたのだ。原の町機関区は平機関区の次に重要な駅だった。
それは乗客を運ぶより資源を製品を運ぶことだった。製糸工場にしてもそうである。
鉄道は北海道でもそうだが最初は石炭を運ぶために作られたのである。

荷物を運ぶことが主であり乗客のためではない、第一汽車賃が高いもので簡単に乗れなかったのである。だから自分の姉が葛尾村に行ったというとき歩いて行ったことを何度も語っていた。その間に森林鉄道のことを語っていた。
つまり木材であり砂であり紡績工場の製品であれ石炭であれそうした資源を東京の方に運ぶために鉄道が最初あった。

だから必ず引き込み線がどんな田舎の駅にあった。だから駅前中心の街作りになったのである。鉄道全盛時代、国鉄時代がいかに鉄道が主役だったかそれを忘れているのだ。
縄屋とかあるとするとその縄で梱包するために縄を必要とした。そういう時代であった。鉄道マニアになると線路であれ何であれ異常に愛着を覚える。
もしこういう鉄道があったら面白かったろうと思う。

自分の場合バスとか車はどうしても好きになれないのである。

昔の写真は貴重であり白黒時代の写真はみんな相当に価値がある。写真から過去が見えてくるものがある。ただ高校の時、原町に蒸気機関車のとき通っていたようだがその記憶があまりないのも不思議である。その時、鉄道に関心があまりなかった。ただ子供の時、長い貨物列車が走っていてそれを見送っていたのを覚えている。これも貨物列車が主役の時があったのだろう。また踏み切りがあって踏み切り番がいたことも覚えている。
それも遠い記憶でありなかなか思い出せない。それほど昔になってしまったのである。

国鉄はまた地方の主な働き場所であり待遇も良かった。それで国鉄が民営化するとき退職した人などはかなりの金をもらった。その時高度成長時代だからそういうことができたのである。


この辺では鉄道は原町から仙台は6年後くらいに海側から山側に線路を移して開通するが
原町からイワキの方には開通するかどうかわからない、もともとイワキの方への便数は少なかった。二両とかなっていた。仙台へは八両編成だった。だからますますイワキは遠くなり浪江、双葉などもどうなるのか、鉄道は通らなくても六号線と常磐高速道路が開通すれば回復にむかうだろ。鉄道はそれだけ経済的効果がなくなっていた。でも鉄道が通らないと淋しいのである。


森林鉄道も全国いたるところに通っていた。だから飯館村の比曽にまで通っていたということの驚きである。それはどれだけ森林資源が木材の需要があったかを物語っているのだ。それがなくなったとき山でも地方は活気を失った。そしてふりかえればそうした木材資源でも何でも資源が外国から入ってきたりすると地方も衰退したのだ。
それで地方は原発のようなものが押しつけられたのである。産業廃棄物処理場なんかもそうである。そうしたものとしてしか用途が地方にないとなってしまった。
それはグローバル経済の結果でありそれが地方を破壊してしまった。
だから歴史をふりかえるとそんなにグローバル経済がいいものなのか?
そういう疑問がでてくる。TPPではさらに地方は破壊されて何もなくなってしまうとさえ思う。核の処理場として産業廃棄物の場所とされて破壊されてしまう。


日本国内資源ないわけではない、森林資源など相当にある。国内の資源を利用してたりないところを外国を利用するというのではない、国内の資源を利用しないで安いから海外の資源を利用する。こういうことは社会全体に何か弊害をもたらす、そして原発や産業廃棄物のうよなものだけをおしつけられる不条理がある。そういう社会全体の歪みをもたらしたのがグローバル化でもあったのだ。


汽笛一声新橋を これは文明開化のひびきだった。鉄道が明治以後国を作ってきたのである。江戸時代はそもそも交通が徒歩だからどんなにしても物流でも人の交流でも限られている。鉄道ができたことによってものでも人でも交流が盛んになり日本国民という意識が形成された。日本国民を一つにまとめるために天皇制が作られたけど結局これは無理な押し付けであり戦争で破綻した。天皇は古代のものでありそれが近代社会に適応されることは無理があった。中世の日蓮宗でも念仏集でも現代にすべて適応させるときカルトになったし天皇教もカルトだったのである。


とにかく鉄道が国家なりという時代があった。今は電気が国家になっていたのである。
トヨタも国家なりともなっている。ただ当時と違うのは紡績工場とあっても絹の製糸工場は大量の桑の葉を必要とするから農業と一体化していた。だから農家の二階で蚕を飼っていて兜作りの家がこの辺でも結構残っていた。農業と一体化していたから原材料は地方によっていたから違っていた。今は車の生産でも何でもそれぞれの土地とは関係ないのである。もちろん原発なども土地とは何の関係もないからそこがただ土地の人にとってかかわりのない禁断の地となっていた。確かに原発で働いていた人がいたとしても原発そのもののことはかかわることができなかったのである。


明治20年(1887)に東北本線が開業しました。その建設にあたっては、当初は現在の阿武隈急行ルートが検討されましたが「蒸気機関車の煤煙が桑や繭を汚す」「阿武隈川の水運が寂れる」などの理由で沿線地域の反対にあい、東北本線は現在の経路になったといわれています。
  同じような話は「鉄道忌避伝説」として全国にありますが、実際には、当時の土木技術が現在に比べて低く、橋梁やトンネルをなるべく避けたり、地盤や地形の制約があったりしたため、結果的にその地域を通らないルートが選択されたものも多いとされています。

  例えば、福島〜槻木間で見ると阿武隈急行は福島と丸森で2度阿武隈川を渡り、トンネルも東北本線に比べてかなり多くなっています。昭和40年代以降に建設された鉄道は土木技術の進歩によって長いトンネルや橋梁が多く、一概に比較はできませんが、明治時代に建設が容易だったのは現東北本線ルートであったことは想像に難くありません。


こういうことが言われることはやはりどれだけ養蚕が盛んだったかを示している。阿武隈山地でも養蚕が盛んだった。農業と一体化していた工業だったのである。現代はその土地と遊離した工業が多いから問題が起きてくる。原発に一般的に無関心だというとき無関心にならざるをえない状況があった。関心をもつという時やはり生活に密着していると関心をもつのである。


日本に無数にある鉄の生産に関する地名が残されているのもやはり土地の人がそれだけ関心をもった証拠である。それが原発のようなものになるとそうした関心がもてないのだ。そこが閉鎖された秘密の禁断の地となっていた。鉄の生産に関してもそこは秘密の場所として神秘化されたけど鉄に関する地名が異常に多いということは何らか地元の人と交渉のあった結果なのである。原発など南相馬市でも30キロとか離れていると関係ないと思っていた。でも今はじめて補償金問題で直接東電と交渉しているときその当事者とはじめて関係したという感覚になる。それまでは東電の人となど直接関係できない、東電の社員と地元の人が交わるということは極一部だけであり知り得ないものだった。

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2013年08月16日

浪江の方からの質問の答え (浪江の地名と土井晩翆の歌より)


浪江の方からの質問の答え

(浪江の地名と土井晩翆の歌より)


土井晩翠の歌碑が大堀にあったこと、恥ずかしながら最近知りました。
質問があるのですが、この小野田橋の歌は何年に作られたものか教えていただけないでしょうか。また田尻の歌も同じ時期でしょうか。
本来ならば浪江に帰省して文献にあたりたいところなのですが、こんな状況で、どうしていいのかわからず、甘えてしまい申し訳ありません。
どうぞよろしくお願いいたします

浪江の地名と土井晩翆の歌
http://musubu2.sblo.jp/article/19103374.html



浪江の方より質問があった。名前はふせるようにとあったのでだしません、一応匿名でコメントは受けています。名前を出さないようにとコメントがあればコメントを公開する前に名前を出さないようにできます。ただ公開する前にコメントが直接でることがある。これは出てから削除するものは削除している。

小野田橋新たに成りてこの郷(さと)の栄と睦(むつみ)いや増すぞよき

昭和一〇年二月一一日、小野田橋開通式ヨ挙グ
晩翆土井林吉先生親シクご臨席ノ上ニ一首(大堀村)


昭和十年に板橋でありよく流されていたのをコンクリートの橋にした。この頃コンクリートの橋はまだめずらしいものだった。もちろん車がほとんどないのだから道は舗装されていない、原町の無線塔も鉄塔ではなくコンクリートで作られていたのだ。これも文明の最先端をゆくものだったのである。
浪江は橋の町でもあった。川の町でもあった。海がありそれも請戸港がありこれは浜通りでも大きいし歴史も古い。

鮭簗のある辺りから大聖寺辺りをふくめて昔は泉田と呼ばれていたが相馬昌胤がこの地に隠棲するころから村名を幾世橋(きよはし)と改め、昭和二十年には浪江町に合併された。


和歌を学んでいた昌胤が師の中院内府通茂にみちもち)卿より贈られた


跡たへしながらもあるを幾世橋いくよ変わらずふり残るらむ


という賀歌によりこの里を泉田から幾世橋(きよはし)に変えた。今もある幾内橋を昔は幾世橋と呼んでいたらしい。

この辺で幾世橋という姓の人がいるからそこの出身だったのだろう。幾世も残る橋のことで橋が長くあることを願っていたのである。橋は板橋などが多いとすると常に流されていたからこの名がついたのだ。一つの民の願いとしてこの名がついたのである。橋はそれほど昔は重要だった証拠である。

いづれにしろ浪江は浜通りでは一番風光明媚な所だった。大きな川が二つあり請戸港もあり高瀬川渓谷がありこれも山水画のような景色となっていた。他からも高瀬川を訪ねる人が多かった。
浪江は川の町だと書いた。水のめぐる町であった。


だからこそ大木 惇夫(おおき あつお)の高瀬川哀吟の詩で

高瀬川いざよふ波の せせらぎや ・・・
川水は われをめぐりて さやかなり 泡だち流る


水の音が常にする、水の郷でもあった。高瀬川の上流は特にそうだった。それが原発事故で一転した。まず警戒区域になったからこの風光明媚な土地に入ることもできず荒れ放題になっている。特にネズミの被害が大きいのである。自分の家にも今日もコネズミが出てきて嫌だった。草原化するとネズミが増えてくるのだ。それでノスリがそのネズミを餌として定着した。モンゴルの草原でもネズミが増えて問題になっていた。ともかく五年間も人が住まないとなる荒れ放題になってしまうのだ。
それでもう住めないと言っていた。双葉や大熊などは風光明媚でもないがやはり浪江は川の町であり風光明媚だったからそこに入れないということが悔しいのである。

だから避難者が今何を思っているのか、やはり故郷に帰りたいという人もいるし若い人はもう帰れないとなる。

ただ浪江町は二万にもいたのはやはり原発があった影響だろう。何らかで原発に関係していた人が多いのである。それは南相馬市でもそうだったのである。原発の経済的影響が大きすぎたのである。
この辺で外部からくる労働者が除染でも国の事業だから親方日の丸だからおいしい、金の出方が違うといっていた。本当に補償金がこんなに出るということも驚きである。それは東電だけではない国がかかわっているからそうなっている。ただそうしたことの見返りが事故によりだいなしにされたのである。故郷を失うなど想像した人すらいないだろう。それが今や現実なのである。


傷心を癒して洗う高瀬川浪江の避難者いつの日帰らむ


浪江の人は許可あれば入れるが他の人は浪江に入れないから高瀬川も見れないのである。大堀の相馬焼きも廃れるのか?そして浪江の町はこれからどうなるのか?そういう不安が避難者にある。


namieee11.jpg

参考にした小冊子

松本博之とあり本命は哲夫となっている。

次にこの本から昔の鉄道のことを書いてあるのでそこを述べてみたい。

 
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2013年07月02日

トラさんの物語 (原町の実家の墓の悲しい物語)


トラさんの物語 (原町の実家の墓の悲しい物語)

私の母の98才になる実家は原町にあった。父は警察所長でありもともとは金持ちだった。それで幼いときは広い庭で遊んでいたという。もしそのままゆけばお嬢さんとして育ったかもしれない,その運命の歯車が狂ったのは父が事業に手を出したことだったことだったのだ。当時は製糸工場がどこにもできて農家はみんな養蚕をしていた。そういう時代だから機織りの工場の経営に手を出して失敗したのだ。その失敗の原因はそもそも警察所長などは会社経営などに向いていない、経験的にも向いていない。事業経営で成功するのは余程才能に恵まれているか時代の波にのらないと成功しない。
前親戚だった人も技術者であり頭がいいのだけど失敗していた。この人も技術者としては優秀でも事業経営には向いていなかった。一般的に東北人は商売に経営者などに向いていない、こつこつと地道に仕事している職人的技術者に向いているのだ。のるかそるかなどの大勝負をする大阪のような商売には向いていいないのだ。その人もサラリ-マンとして技術職として地道にやっていれば事業に手を出さなければ失敗はしなかった。人間はやはり向いていないものには手を出すべきではない。
人間の失敗には必ず教訓がある。その失敗を手本に次代の若い人も学ぶということがある。

ともかく母の父はその工場で働いていた女性をメカケにした。それがトラさんだったのである。メカケといっても確かに妻がいたけど脳梗塞で寝たきりなのだからそれで家のことをしてもらうこともあった。父親は警察所長でいつも威張っていたというと妻の看病も家事もできな、ただ威張るだけの人だったのだろう。おそらくこの父のふがいなさが実家の悲劇を作り出した元だったのである。母の母は5年間くらい寝たきりであり看病したのはメカケとして後妻に実家に入ったトラさんだったのである。だから母の母の看病もした。小便をとってもらうことなど嫌がっていたという。それもそうだろう。その話を聞くと何かこれも悲惨なのである。トラさんに抱かれて運ばれたりもしたとか悲惨すぎたのである。藁で下のものを始末したとかも悲惨だった。そういう貧乏な時代であり介護用品などない時代だったのである。養老院というのは一部あったかもしれないがほとんどは家で面をとみる他なかったのだろう。


その時母は原町紡績(原紡)で働いていた。この時女性の働き口は製糸工場と女中がほとんどだった。ほとんどの人が製糸工場で働いている。女中も需要が大きかった。その頃電化製品などないのだから家事は一仕事だったからである。洗濯にしてもごしごしと洗濯板で手で洗っていたのである。洗濯も一仕事だったのである。パリでもセ-ヌ川で大勢の女性が洗濯する絵が残っていた。パリなどというと今はそんなイメ-ジがないがやはり事情は同じだったのである。家事は一仕事であることが長い間つづいた。だからどうしても人手が必要であり貴族でも召使が必要になった。日本でも金持ちは女中を必要とした。二人とか雇う家もあった。後に母は東京に出て女中になった。東京では女中の需要が大きいからそうなった。

このトラさんはものすごく気性が激しい人だった。まさに名前と通りの人だった。その時実家には子供が五人くらいいた。姉もいてトラさんが家に入ってきて飛び出して東京に出て帰らなかった。もう一人の長男にあたる人は事情があって家から追い出された。もう一人の弟と母が家には残った。
実際は本当の長男にあたる人は27才で結核で死んだ。その看病をしたのも気丈夫なトラさんだった。結核は感染するから恐いし簡単にはできない看病だった。結局誰もその家でそうしたことをできるものがいないのだからまかせられたのである。メカケといっても家のためにそうして勤めた女性でもあった。その功罪はあったがすべて悪いひどい人ともいえない面があった。ただ母にとって継母であり辛い思いをした。

子供の頃弁当作ってもらったのだがそれを残してもってきたら
「俺の作ったものを食えねえのか」とその弁当を母の前で投げたという。
これはひどい話しだと思った。
その時母は実の母だったらこんなことしないのになと泣いたという。

この話は自分も聞いてひどい女性だなとつくづく思った。その後も何かと母はいじめられていたのである。継母にいじめられる話は昔からあったからこれもその一つともなるがやはりひどいと思った。
実家には弟がいてその人は丸三製紙に勤めていた。これも原町では大きな勤め口であり今も工場があり煙突から煙をだして街中にある。課長までなったからそれなりに生活はできる人となっていた。
ただ最初に嫁に来た人はトラさんが気に食わないと追い出した。ただ追い出すには事情があったらしい。新興宗教にこっているとか何か追い出される女性にも悪いところがあった。次に来た嫁とも喧嘩して別れして遂には養老院に自ら入った。そして実家は家がなくなった。

しかしトラさんの最後はあわれだった。最初元気な内は四人部屋でそういう性格だから番長のようになっていた。でも字が書けない読めないということやハンディがあった。そして最後は眼が見えなくなった。そこで何か異常な状態に一時なった。認知症になったわけではなかった。

最後まで正気だった。なぜなら母が呼び出されて介抱していたとき
「すまねえない、忙しいのにな」と言っていたという。
母はその時まだ店屋をやっていてそれでそう言ったのである。この時相当弱気になっていた。もう死ぬ一年か二年前だった。人間はどんな強気の人でも体がだめになり弱くなってしまう。これが人間のさけられぬ運命であった。

この実家の墓に父親違いの兄が葬られることになった。原町で中学まで過ごして集団就職で埼玉の方に行きそれから静岡の方に行きそこで交通事故で42才で死んだのである。なぜ実家の墓に入ったかというとそこも複雑であるがこの実家の墓にはそうした人たちが入っているということである。


つまり墓が何かというと今は家族の墓だからその家族の物語が必ずあるのだ。墓が家族は墓だとすると家族の物語として墓があることになる。もし個人墓になれば個人の物語だけになる。兄の骨が娘にひきとられて供養されればそうなる。つまり現代の墓は明治以降、家族の墓になった。これは新しい墓の形態であり百年もすぎて時代にあわなくなったのだろう。江戸時代は個人墓であり庶民でも農民でも金がある人が墓を建てた。それは個人墓であり家族墓ではない、自分も金があるから墓を建てようとなり建てたのである。それまでは武士には墓があっても庶民にはなかったのである。経済力がついて墓を建てるようになったのである。それが明治以降に家族墓になったのはやはり経済力がついたことによるのだろう。墓を建てること今でも金がかかるからだ。それで墓がもう増えすぎて限界状態になったのだ。家族墓はもう時代にあわなくなった。でも墓をどうしていいかというのは死者の問題がからんでくるからむずかしすぎるのである。つまりその方法が文化が破壊されたから見いだしようがないのである。それでいろいろと個人で模索しているけど個人では死者をどうするかなどどうしていいかわからない重い問題なので困っているのだ。死者をどう処置するかはその国の文化とも関係しているからだ。


いづれにしろ最後は家を出された長男の人が「墓を守ってくれ」と言って弟の娘に3百万を残して死んだ。それで墓が崩れかかっていたので自分が70万で直した。おそらく今回の地震であのままだったら崩れた。ともかく兄も入っているので複雑になっているのだ。ただ同じ姓になっていたので入れやすいということがあった。兄はトラさんの養子になっていたのである。そこにも事情があったが同じ姓でないとこれまためんどうになる。姓が同じだったら籍に入っているから入れやすい、ただ墓も姑にいじめられたりすると一緒に入りたくないとかもめている人が多いのである。だから墓も何かややこしすぎるのだ。


そして家族の墓は別に郷土史とかとして注目する人がそんなにいないだろう。またそうした歴史的価値があるのかわからない、家族墓は多すぎるからだ。ただこの辺では越中などからの飢饉のときの移民があり真宗系統の墓が三分の一ほどありそれは墓から必ずわかるから墓にも歴史的価値がある。ただ一般的にこうした家族墓より共同体の祭りの古い碑などの方が歴史的価値がある。それはプログで紹介してきた。それは共同体のシンボルとしてもあったからである。個々の墓にはそうした歴史的に価値あるものはそれほどないのである。だからこうしたものは歴史的に価値があるから共同体として残すが今のような家族墓は無縁墓になり無意味化してゆくのが多いだろう。

ただ家族墓というのも個人墓ではない、家族の墓だから最小の共同体であるからそこに家族としての物語が残る。それも一つの郷土史だとはなる。それぞれの家族から郷土史の一端を知ることができるのである。

いづれにしろ実家の物語は警察所長でもあった父親の影も薄いしまして病気になった母の母も影が薄い、ただそこには専横的にふるまったトラさんが主役となっているのだ。一方でトラさんに蹂躙された家族でもあったとなる。要するにいい悪い別にしてトラさんの物語になっているのだ。墓もなくなってもこうした物語は後世に語られることもあるだろう。そういうものは無数にあり民話となっていった。そこに何かしら教訓をよみとり人間の普遍的問題が必ずある。継母でも別に子供に愛情をそそげば親切にしていれば最後の悲惨はなかった。手厚く看護されたかもしれないのだ。血縁でも子供は親を見ていて最後に手厚く看護するとは限らない、たいがい金持ちの人は施設にあづけられるのでありそれも時代である。


トラさんは最後は養老院に世話になったから解剖してくれというのが遺言であった。それで解剖された骨は一旦我が家に来て実家の墓に納めた。

その墓から嘆きと苦しみと
やるせない悲しみの声が聞こえてくる
喜びの声は聞こえてこない
圧迫されて閉ざされている
ただ一人の気性の荒い
トラさんの声だけがひびきわたる
その声に子供たちはおびえる
しかし最後は眼が見えず悲しく死んだ
「すまねえな」と弱気になって死んだ
この墓の一つの物語であった

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2013年06月12日

郷土史は一人一人の生きた人を語ること (自分の兄は集団就職で静岡で交通事故で死んだ)


郷土史は一人一人の生きた人を語ること

(自分の兄は集団就職して静岡で交通事故で死んだ)

人間は死んでからその人について考えることがある。死んでみないとその人についてわからないことがある。家族でも死んでみないとわからないことがある。死んでみてその人のことがわかりありがたいと感謝するようにもなる。今になると自分は家のことを料理から家計から介護とあらゆることをまかせられるようになって苦しんでいる。それまでは全くこういうことはなかった。
三食用意されていたしあとは何もしない、買い物くらいだった。だからどこに行こうが自由だし一か月旅に出てもそんなこと簡単にできたのである。今になると一日すら行けない、三食用意するのは自分だけしかいない、介護もしなければならない、あらゆることを自分一人にまかせられるようになった。それも家族を支えていた一人が死んだためだった。

自分の家は複雑だから他人が理解するのがむずかしいだろう。ただ一人一人の人間にはそれぞれの人生があり死んでからふりかえるようになる。自分にも兄と姉がいた。どちらも死んでしまった。これもあまりにも複雑な関係だった。兄は父親が違っていて今の家で子供の頃五年間は一緒に過ごした。もしこの五年間を一緒に過ごしていなかったら兄という感覚もなかったろう。あとは事情があって原町の実家で五年間過ごして15才で集団就職して東京から静岡の方に住むようになった。
そこで結婚したのだが離婚したりいろいろ問題が起きてトラック運転手になった。そこの勤め先で交通事故になり42才とで死んだ。今も思うとずいぶん早かったなと思う。その兄は原町の実家の墓に埋められている。その兄に一人の娘がいてその娘にはま娘がいる。死んだ兄の孫になる。東京に住んでいて一時は音信不通だった、10年以上そうだった。でも五六年前から家にも来てかかわるようになった。実際は関係しないと思っていた。その兄の娘も離婚していた。母子家庭だった。

ただ今やこうして自分の家で残されたのは自分だけになった。それで実家の墓に埋めたのだからそこに兄の霊は眠っていることになる。兄自体は故郷には帰らないと常々言っていたけど故郷に帰って実家の墓に入った。しかし実家の墓は今は家もなく墓しか残らなかった。長男の人も入っているが家を出されたとか事情があり家を継がなかった。だから墓を守ってくれと言って死んでいった。
やはり家への思いがあったからそうなった。人間は何かの思いを残してみんな死んでゆく。

兄が交通事故で死んだときは静岡なのでそこまでゆくのに大変な思いをした。そこの運送会社では兄が死んだとき保険金がおりることで代理人として保険金をもらうおうとしていたみたいだ。
だから兄は乞食のようにしてきたとかなんとか特別世話したとかそのことを延々と言われた。
そして墓を作ってやるからとまで言われた。事情がわからないのでそうなふうになってしまうとこでもあった。それもあまりにも遠いし事情がわからなくなっていたからだ。交通事故になる前に離婚とかありそこでも大変なもめごとになっていたから複雑すぎた。それからやっと母が兄の遺骨をもってきて今の実家の墓に埋めたのである。自分もかかわったけどその時はそれほど直接かかわったわけではない、ともかく運送会社でいろいろ言われたことでいやになった。特別兄を世話したんだと延々と言われた。それは何のためがよくわからなかった。何にも死んだら墓をつくってやるとかなんとかいろいろ言わなくてもいい、普通はめんどうだから遺骨をもっていってくださいと言われるのが普通である。墓まで作ってやるというのも異常なことだった。それは代理人になり保険金をもらうためだったのだろう。ただ遠いこともあり事情がのめこめなかったのである。

ともかくそんなふうにして兄は原町の実家の墓に治まっているから墓参りをしている。娘も孫と一緒にした。墓の不思議はそこに故人がなおいるという感覚になる。死んだ兄は孫いることは知らないのである。でも墓参りすれば喜んでいるのかと思う。一人の人間が生きて死ぬということは何かを語り何かの思いを残してゆくことである。そこには二七才で死んだ母の兄も埋まっている。結核で死んだのでこの人ももっと生きたかったろうなとか必ず思う。一行だけど二七才で死亡とあるときそこに無念が無言の内に伝わってくる。それは戦争で死んだ人たちも同じである。若くして死んだからである。死んだ人もそれぞれが何かを語っている。それを墓参りするとき後の人が思い出すのである。

郷土史というときそうした一人一人の人生ともかかわっている。有名な人ではない、郷土に生きた一人一人の人生が郷土史でもあった。集団就職というのはやはり当時の一つの大きな歴史であった。
その時、一クラスで半分くらいは高校にも行けず中卒だったのである。中卒が当たり前だったのだ。自分は大学まで行ったから恵まれていた。成績はまるでだめだったけど金があったから東京の私立大学に行けたのである。でも全然勉強もしなかった。勉強したのはかえって大学を出てからであった。中卒で油にまみれ工場で働いていた集団就職の同級生とはかなりの差があった。 自分は相当に恵まれていた。なぜなら大学出たときから書斎すらもっていた。それから本を読むというより本の収集家みたいになっていたし旅行も自由にした。ただ海外旅行は50過ぎであり遅すぎたのである。
これだけは後悔している。早めに海外に行っていれば語学力もついたし見識も広くなっていた。
今どき海外を知らないでは笑い物になるし何も書くことすらできないものだったのである。

ただ人間の一個人の経験は極めて限られたものであり人生はまたたくまに過ぎてしまうのである。

今思うと人生とは何かとなれば何に時間を費やしたかで決まる。それは才能でもなんでもない、そもそも人間のもっている時間はそれぞれ限られたものでありあらゆることに使えないからだ。
天才であっても同じなのである。何に時間を費やしたかが人生なのである。だからカルト宗教団体に入っていたとしても創価でもそれは無駄だとは言えない、何であれ人間はどんなことでも経験そのものが限られたものしかできないのである。例えそれが間違ったことでも人生は一回きりであり経験できないのである。旅に費やした時間だったから自分の人生は旅だったともなる。


とにかく兄の人生も一つの郷土史なのである。他にも個々人の人生が郷土史となる。やはり集団就職というのは自分には当時わからなかったが一つの大きな時代を象徴していたのだろう。一五才で親元を離れ働くということは容易ではない、そこで兄も苦労して頭がはげたというのはそのためだったろう。他人の家の飯を食うとういことは苦しいことだった。それは丁稚奉公にもにていたのだ。
自分の父親は葛尾村(かつろうむら)から酒屋の丁稚奉公に双葉の新山に出たのとにていたのだ。

中卒が当たり前であり尋常小学校出たというのが普通だった。なんとか読み書きはできたというのが当時の教育だった。母も原町紡績工場(原紡)で働き東京の女中をしていた。その頃養蚕が盛んであり製糸工場と女中が女性の働き口だったのだ。家事が機械化されていないからどうしても人手が必要だったのである。だから金持ちでは二人くらいの住み込みの女中を雇っていたのである。だからその時は在宅介護も女中がしてくれたからできたという。それは金持ちの家だけだったのである。つまり機械ではない、家事を住み込みでしてくれるのだから家族と同じでしり介護もしやすかったのである。今は女中とか家でと働くということはなくなったのである。だから家に入ってきて働く人はそういう時代でないから危険極まりない時代になったのである。女中という言葉自体差別語になって廃止されたようにそういう使い方はできない、すればかえって金持ちでも手痛い目にあうしそういう待遇はすでにできない。雇われる人も全く違った感覚になっている。財産をねらわれもっていかれる。昔の人は働く場所がないのだから働き場所として女中という職業があった。今は女性の働く場所はいろいろある。だから家に入って働くような人はまれでありそこに危険がましているのだ。それも時代だったのである。


歴史をふえかえれば今になるといろいろ解釈ができてくる、女工哀史についても今はいい面と悪い面が語られる。貧乏だから製糸工場で働くことは白い飯が食えるから良かったという人もいる。
つまり飛騨の山奥の農村ではまともに白い飯も食えなかったのである。それは東北の貧しい農家の人が白い飯食べられるということで兵隊にまでなったということとにている。今から当時を考えるとき必ず何かしら違った謝った見方が歴史を考察するとき必ずあるのだ。


たいていの女工は13〜4歳で小学校を卒業すると7〜8年の年季奉公で製糸工場に働きに出たそうです。
製糸工場での労働は現在とは比較にならないほど劣悪な環境で、労働時間は14〜5時間にも及び、蒸し暑さや悪臭などが漂う工場での労働は生半可なものではなく、また逃亡を防ぐため工場には鉄製の桟が張られ、宿舎にも鉄格子が付けられるという監獄にも近い状態だったそうです

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1483480944

女工は13〜4歳で小学校を卒業すると・・・というのは集団就職とにていたのである。でも女工がすべて過酷だったとも言えない。母は女工だったけど他の人も女工だったけどそんなに苦労したとも言っていない、かえって現金収入になって親に喜ばれたとも言っている、女中でも金をもらえたから良かったとも言っている。その頃女性で現金収入なることは良かったともなる。女性の働き口が生まれたということ自体、百姓以外で生まれたことが近代化でもあった。女性の働き口は農業しかそもそもなかった。機織りなどはあっても多人数が働く工場などはなかった。でも製糸工場で生産された絹織物がアメリカの女性の贅沢品として使われその外貨で軍事費を増大させて太平洋戦争になったとなれば女性の労働が戦争に使われたともなる。ただ歴史はいろいろな見方があるから一つの見方にこだわるのは偏りを生むのである。





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2013年04月09日

五稜郭の桜(榎本武揚など-明治の青春)


五稜郭の桜(榎本武揚など-明治の青春)


劇的に船は沈みぬ函館に風雲の日や桜咲くかな

五稜郭ここも日本や桜咲く明治の青春ここにありしも
五稜郭鴎飛びつつ桜咲く白波よせて戦いに死す
榎本の波しゆられて五稜郭海風やまず花の咲くかな


函館の五稜郭の桜を放送していた。今はまだ咲いていないにしろこれから咲く、明治維新の動乱の場所が函館だったのである。その時五稜郭落城して榎本武揚降伏したのである。

五稜郭写真
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2009/05/post_38.html

見張り塔が屋根の上にあるのは伊達政宗の瑞巌寺の寺と同じだった。あそこの寺は城だったのである。

靺鞨の山 青一髪 我が行 此に至りて 豪に堪ゆ
宝刀横ふる処 鬼呵護すべし 胡馬嘶く時 風は怒号す
短鞨早天 暁霧を衝き 孤帆残月 秋濤に乱る
扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを

靺鞨の山というのは古代からあった国のことであり多賀城碑にでている。扶桑とは日本のことである。北海道は当時新天地であり新しい蝦夷共和国を作ることを夢見ていたのである。

この脱走は最初から不運が付き纏いました。犬吠埼で暴風に遭い、咸臨丸が政府軍に捕まり、運送の座礁等があり、ようやく9月26日仙台港に集まり、修理に進めました。ところが、この時既に会津若松城は落城し、仙台藩も降伏を決定していました。奥羽の各反政府同盟(奥羽越列藩同盟)は早くも壊滅状態で、希望を失った旧幕臣たちは最後の抵抗を試みるため榎本の元に集まりました。
戊辰戦争で敗れ、北海道移住を余儀なくされた仙台藩片倉小十郎家臣団401名を乗せて仙台の寒風沢を出港した咸臨丸は、箱館経由で小樽に向かう途中、1871年(明治4年)9月20日、木古内町のサラキ岬沖で座礁。


この時いかに激動のなかにあったか?陸では会津が落城して仙台藩の片倉家臣団が寒風沢から咸臨丸にのって出航した。仙台藩は北海道に伊達市があるようにかなりの武士が移住した。この時の激動も凄まじいものだったのである。ここで船が相当にかかわっていた。船で脱出して新天地の北海道を目指したのである。

明治の青春は函館が啄木の青春の地だったように気宇壮大なものがあった。時代が日本の青春そのものだったのである。だから青春の時代絵巻があった。その中には無名のうちに死んだ人も無数である。ぼっしん戦争では東北に責めてきた九州福岡の人が浪江辺りの寺の墓に死んで埋もれている。
土地の人が葬ったのである。相馬藩も一時戦い相手を殺したり自らも死んだ。


長州の毛利、筑前の黒田、大和郡山の柳沢、芸州広島の浅野、伊勢の藤堂、常州笠間の牧野、熊本の細川、因州鳥取の池田、筑後久留米の有馬ら各藩の軍勢だった。
相馬藩には以下の通達が行われた。
http://boshinken.info/hoshisenseironbun.html


芸州となるとどこの人となる、安芸藩であり広島の方になってしまうのだ。九州の福岡県の人も戊辰の役で死んで墓が残っている。福岡の人が歴史を探りに墓を訪ねていたりする。
http://musubu.sblo.jp/article/9378228.html


忘れらる相馬に果てる福岡の侍の墓春の夕暮


戊辰戦争ではとても薩摩長州の連合軍の勢いにはかなうものではなかった。錦の御旗をたてられて進軍してくる勢いはとめられるものではなかった。それがやはり時代の趨勢だったのだろう。相馬藩はその勢いにたちまちのまれて敗退して軍門に下って仙台藩と戦うことになった。その境界が丸森であり戦場跡として残っている。大砲もそこで使われたのだ。


大砲をここにすえつつ戦いて死せる者かな春の夕陽没る

武器でも劣っていたから勝ち目はなかった。東北連合は成らずばらばらだったのである。それで白虎隊や二本松少年隊の悲劇があった。二本松では兵力すらなかったから12才の少年まで狩りだされた。まさに城と共に討ち死にしたのである。 仙台藩の侍も結局榎本武揚と同じ様に北海道に逃れた。亘理藩が移住したから伊達市となった。その激動は錯綜しているからわかりにくい、ただ大砲が武器として重要であり八重の桜では主題にもなっていた。そもそもヨ-ロッパの城の時代が終わったのは大砲が武器となったときである。大砲のために城壁は無力化して城の時代は終わったのである。


この地にそ轟く大砲その音や丸森にひびき春の日没りぬ

扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを・・・この漢詩は北海道からさらにロシアまで眼中にした雄大な詩だった。北斗の高きを・・というのはロシアまで視界にして本州を見ているのだ。
我等には新天地北海道がありロシアがある、樺太がある・・・北斗があるとなる。


明治維新庄内藩&会津藩のプロイセン(ドイツ)結合

最近発掘された資料でわかったように会津が閉鎖された山国で情報にうといというものでもなかった。プロイセンに北海道の会津藩の支配地域を売ろうとしていた。それは日本の領土だからそういうことは日本を売ることにもなっていた。でもぎりぎりの所で外国の力を借りようとしていた。
これは伊達政宗はヨ-ロッパに使節を派遣して連合を計ろうとしたのとにている。
だから必ずしも東北は閉鎖された辺境とも言えない、外国と結んで薩摩長州連合と対抗しようとしていた。人間は日本国というよりまだ藩単位のアイディンティティに生きていたからである。

はとにかく一つの雄大な詩であった。錯綜していても何か人間的だから詩にもなり小説にもなる。そこには英雄が存在した。一方太平洋戦争には何かそうした人間的なものがないから詩になりにくい、むごたらしい戦死者の数のみがあるだけなのである。だから報われないともなる。つまり明治は江戸時代の武士の文化の延長としてなおあったのだ。だから内村鑑三などが北海道でクラ-クに指導された強力な指導者になりキリストに命をささげた独立伝道者になった。北海道はその時日本のフロンティアになっていたのだ。啄木でもやはり時代精神の現れがあり若くしてあれだけの短歌を作った。それは明治という全体の時代の産物だったのである。明治は今になれば西欧化の華の時代であり詩的なテ-マになりやすい、詩の時代だったのである。それから大正とか昭和になると散文的時代となる。時代的に高揚するはいうより何か文明の頽廃的様相を呈してしきた。デカダンスとかが主流となってきたのである。戦後はアメリカに負けて日本の精神すら根こそぎ断たれた。明治は一番日本の国粋文化も高揚していたのである。漢詩が一番興隆したのが明治だったことでもわかる。漢詩は志を述べるものだからである。志の時代、まさに志士の時代だったのである。

だから明治の青春こそ無名でも一人一人が青春を生きていたのである。それは今や埋もれてしまいわからなくなった。結局明治の青春を作ったのは時代を作ったのは武士がいたからである。武士のモラルがまだ生きていて西欧化でもその魂が融合したのである。和魂、洋魂の時代だった。300年の武士の時代が明治になって死んだわけではなかったのである。その蓄積が実は技術面とか他でも華開いたのが明治だったのである。ルネサンスにしてもそこにイスラム文化とかギリシャの文化-ロ-マの文化などが融合して一大ルネサンスが生まれたのである。過去の蓄積が融合して華開いたのである。こういうことは個人的にもある。一人の天才がいてその才能が次代のものに新たなものになって蘇る、模倣ではない新しいものとして蘇るのである。ただ今や現代は個人的にしかそうした文化的なものは受け継がれないのだ。明治のように時代全体として受け継がれることはないのである。大衆化した文明というのはそうした文化の創造などないのである。宗教はカルトとなり数の政治にすぎないし文化的創造的なものは団体などから生まれない、政治と実用の科学の時代なのである。

現代とは一番詩が欠如した時代なのである。それで上野霄里氏などがニ-チェのようにアウトサイダ-化して絶叫するようになるのだ。上野霄里氏が自分は高杉晋作ににているというときまさにそういう詩人的行動者だったからそう言ったのである。詩が欠如している時代は時代的に衰退している。散文的な金だけを追い求める物質的なものとなり高邁な精神の高揚もなく低俗大衆文化の時代なのである。この辺の原発事故でもそうである。第一次産業に農業に漁業に林業でも自然とかかわることで生活することは詩的なことである。しかし工業化して文明化すると自然から離れるから詩的なものとはならない、詩は自然なくしてはありえないのである。原発によって自然が汚染され破壊され人まで住めなくなったことはまさに黙示録的世界がこの辺に現れたのである。津浪もまた大きな時代の変革をうながすのとして起きてきたのかもしれない、人間より神の力のいかに偉大かを示したものなのかもしれない、無情ではあるがそういう恐るべきものを見せつけたのである。


扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを・・北斗の高きを・・・というときこれには宇宙からの視点もあった。それだけ雄大な志に生きて果てたというのが明治の青春だった。現代の青春はカルトととかいかに金もうけて金で自分を誇示して偉くみせるとか物資的になりすぎているのだ。結局現代人の望みは金持ちになることしかないのである。志に生きるなどはすでに夢にも浮かばない、というのは会社自体が利益を追求するのであり利益が最大の眼目だからである。そこにいかなる志も芽生えない、いかに他者を蹴落としてもうけるか金になるかしかないのである。そういう功利的人間しかいなくなったのである。まさに志に生きる武士はいなくなった。日々利を求めて追われているだけなのである。この辺でも結局補償金の金でもめているだけでありどこにも絆などない、最初のうちだけあっただけだったのである。

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2013年04月08日

死語となった言葉 (戦前から戦後十年は江戸時代の継続があった)


死語となった言葉

(戦前から戦後十年は江戸時代の継続があった)


死語となった言葉

日本列島の狭さ
五反百姓
五反田の地名の多さ
女工
原紡
御蚕様
女中
肺病
梅干し弁当
麦御飯
飯台一つ
トタン屋根
裸電球
尋常小学校
女学校
おふる
三男坊
鈍行車
汽車
停車場
炭屋
銭湯
五右衛門風呂
鉄砲風呂

駄菓子屋
金魚売り
煙草屋
酒屋
どぶろく
質屋
鍛冶屋
馬車屋
万歳
映画館
秋市


これらの言葉はもはや使わない、日常生活から消えたものだからである。江戸時代から明治時代になったときも江戸時代に使われた言葉が消えた。明治時代に西欧化した時、日本人は漢字で西欧化したものを現した。それが今では中国で使われている。言葉は単なる言葉ではない、長く営まれた生活の重みがあるのだ。その一つ一つが使われたときはその言葉は単なる言葉ではない、必需品としてなくてはならないものだったのである。ただ日本は貧しい時代が長かった。庶民は戦後十年までくらいは戦前とたいして変わりなかったのである。自分の子供時代はそういう貧しい時代だった。団塊の世代はその貧しい子供時代を経験している。でもこの経験は貴重であり楽しいものだった。何か貧しいけども人情味ある社会だったのである。豊になって人間は日本人にあった人情などはなくなった。ただ金だけを追い求めるようになった。それでも日本人は貧しかったから貧しい時代はすべていいとはならない、五反百姓とか五反田とかの地名はまさに貧乏な百姓が多数だったことを如実に示していたのである。


戦後十年くらいは家にあるのは飯台一つでありそれを囲んで食事していた。電気製品はも一つもなかった。裸電球があっただけなのである。それも家の中に一つくらいしかなかった。屋根はトタン屋根で雨漏りしていた。いつも洗面器などを並べてしのいでいた。瓦屋根の家もあったがトタン屋根の家も多かったのである。ご飯は麦ご飯でありその頃水田が多くても麦畑も多かったのである。燃料は炭であり炭屋があった。山では炭焼きであった。飯館辺りではそれで財を成したという家もあってうらやまれた。炭焼きは山の重要な現金収入となっていた。つまり戦前からの継続が戦後の十年くらいはあったのだ。自給自足の生活だった。ともかく貧乏だった。自分の家は駄菓子屋のようなものをはじめた。店屋でもその頃簡単にできたのである。インド辺りではバラックのような所で店を出していた。品物も極端に少ない、そうした小商いがあったのは江戸時代からの継続でもあった。棒ふりなど江戸時代のものだと思っていたが戦前でも天秤棒は使われていた。荷物を運ぶのは天秤棒だった。明治の話しとなるが天秤棒担いで鹿島から川俣まで鰻売りに行ったという話には驚いた。でも天秤棒は中国では今でも使われているように量を運ぶには良かったのである。前と後ろに荷物をのせられるからである。でもかなり肩にずしりと重さがかかるから体力が必要だったろう。鹿島から川俣までは急峻な坂がある。その坂を天秤棒を担いで上った。それが信じられないのである。でも基本的に歩くことが移動することであった。江戸時代の継続がそこにあったのだ。子供のときぎんぎょえ-きんぎょ・・というのも天秤棒を担いで金魚を売っていたのだ。天秤棒は結構使われていた。中国では相当まだ使われている。やはり荷物を運ぶには便利なものだったのである。


母は尋常小学校でありほとんどがそうだった。そして原紡に勤めた。絹織物の生産が全国で行われ女工哀史で有名なように若い女性はみんなそこで働いた。それくらいしか勤め先がなかった。あとは女中だったのである。女中の数が多かった。洗濯でも食事の容易でも家電製品がないのだから全部人間の手でやるとなると一仕事であり女中が必要な家がたくさんあったのである。母も東京で女中していた。たいがい同じ様な経験をしている。子守りして学校に行けなくて小説読んで字を覚えたとかその頃学校も満足に行かない人がいたのである。女学校は高根の花であり特別選ばれた人が行く所だったのである。ただ大倉の女性が親戚の家に住んで相馬の女学校に通ったというから金持ちなら入れた。大倉は山をもっている人は木を売って金持ちがいたのである。団塊の世代の親の世代は大正生まれも結構いるからいろいろ親から聞くから意外と身近なものに感じる。一世代前までは親の世代であり
生々しいものとしてその言葉もまだ感じるのである。明治の人は江戸時代が身近だったと同じである。団塊の世代から下になると豊かな時代に生まれているから何か遠い歴史の世界のようになってしまうのだ。


蚕様というとき蚕は農家で飼っていて桑畑もいたるところにあった。相馬市にぬける街道の細道に二軒蚕を飼っていた家が残っていた。二階がそうだった。そういう農家はいたるところにあった。江戸時代からあって白川郷の合掌作りは有名である。あそこでも養蚕する場が二階にあった。そしてどぶろくを飲んでいたのである。酒すらまともに飲めない人がいたのだ。どぶろくは自家製もあり安いから飲めた。家族でも三男坊というと長男からすると何かどうでもいいとかなる。そういうひびきがこの言葉にはこもっていたのである。長男は家の跡継ぎだから大事にされた。その頃は子だくさんだから長男以下は軽んじられた。着るものもおふるとかお下がりとかになる。そういう貧しい時代だったのである。


映画館なども今や死語になった。映画は映画館で見るものだった。ニュ-スすら映画館で見ていたのである。テレビが入ったのは戦後十年ちょっとたったときだったのである。テレビに対する熱狂はすさまじかったのである。いつもプロ野球をみんなテレビで見ていた。相撲も見ていた。それで「大鵬、巨人、玉子焼き」になったのである。玉子焼きが食べられるようになったのはテレビがでるようになってからのようだった。貧しい時代から豊かな時代へ移りつつあったのだ。
秋市などという言葉もまだ市が開かれていた。その時いろいろものが集まり売っていた。何かサ-カスみたいなものも来ていたのである。今や秋市などというのも死語になった。「あきいち」という言葉を聞くとなつかしいとなる人も結構いるだろう。それらの一つ一つの言葉がなつかしさを感じる。過ぎたものに対する愛着が人間には残るのだ。


石神で紙漉きをしていた農家があったというときそれは江戸時代からあった。紙漉き沢が相馬市の山上にあるからだ。ということは江戸時代はどこでも紙を作る農家もあったということである。今でも一軒くらいあって自分の家で終わりだとかテレビにでてくる。紙漉きも相当数のものが普通にしていた仕事だったのである。要するには江戸時代から明治時代になったとき急速に工業化して変わってしまったのである。ただ紙漉きをしている家があったのかと聞くだけでリアルに昔を感じる。
それもこれは山の生業であった。石神とか山上にあったことでもわかる。


あかぎれの 手をいたはりて 紙を漉く
http://www.balloon.ne.jp/453room/new_page_36%20kamisukisikoro.htm


紙漉きは冬に行われるから冷たい水にぬれる。それであかぎれになる。あかぎれというとき母も良くあかぎれになっていた。食器洗うにも冷たい水だからそうなった。今は温かい水だからそうならない。

城崎温泉の各外湯は、「柚子湯」です。古来より冬至の日には浴槽に柚子を入れ、ひびやあかぎれを治すといわれています
あかぎれ地蔵などもあかぎれきような地蔵なのか?あかぎれというのは女性がみんななるからそれにまつわる話しも多いとなる。結局今になるといろいろ便利になり豊になりそうした苦労はなくなったのである。でも人間のわからないのはそうした苦労がなくなっても苦労がなくなることはなかったのである。必ず別な苦労が生まれるのが人間社会なのだ。豊になればなったでやはり苦労が絶えないのである。鬱病が増えるとかいろいろな豊さ故の問題が生まれてくる。この辺の原発事故などもまさに豊かさを求めてそれを実現したのだか事故が起きて以後は様々な問題が起きている。人間には何になろうが苦労が絶えることはないのだ。豊かさを求めすぎでかえって苦しむということもあったのである。


天秤棒を画像検索するといろいろでてくる。でも本だと引用できないのが問題であった。本の写真はリンクできないしコピ-できないから
困る。本は一つの閉鎖された世界だという面があった。写真などは共有になりにくいのである。


 
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2013年03月17日

松川浦の漁師の話(続) (海からは山が目印になる-漁師の仕事はわかりにくい)


松川浦の漁師の話(続)

(海からは山が目印になる-漁師の仕事はわかりにくい)


以前は特徴のある山形を用いて位置を確かめた。陸上の山の形を見て、位置を測定するのである。串本では、5海里(約9キロ)までは潮岬の高塚の森、10海里(18キロ)では重ね山、
20海里(36キロ)では那智のムカデ連山が目印になった。漁師にとって、
命が懸かっているから、これらの目印の山は信仰の対象となった
http://apolohal.jp/st2-4.htm


昨日あった漁師の話しは興味深かった。30才くらいのようだが体が自分より小さい、筋骨隆々でもない、ええこんな体で漁師ができるのかと不思議だった。やはり人間はまず体つき見る。体つきが姿勢とかいいと好感度が高くなる。体が大きいと威圧されるのだ。若い人でどちらかというと今は背が高くて大きな人がいる。そういう人に接すると何か自分がみすぼらしく見える。最初相手の知能がどうだとか見ない、まず体つきを見る。これは聖書でもニムロデとか大きな人のことがでている。それは人類がはじまって以来、人が出会うと相手の体つきで判断していた。やはり大きい人には威圧感があり恐れを感じてしまう。そういうのが誤りであり偶像崇拝に通じている。巨大なものが何でも偉大だとなってしまうからである。巨大化信仰がそこから起きてくる。ただ漁師とか大工でも土木関係でもどうしても力仕事だから体力がないと勤まらないと思うから体を見るのである。あんな小柄な筋肉質でもない体でどうして漁師ができるのかと思ってしまう。ただ小柄でも機敏であり動きがいいのかもしれない、漁船は常に揺れているから体力も必要だが機敏さが必要になる。あの人からは機敏さは感じた。小回りもきく。揺れる船の上では仕事がしやすいのかもしれない、眼に大怪我をしそうになったというのは機械のワイヤ-などが原因でありそっちの方が今は恐いと言っていた。仕事は機械でする時代だから機械により事故が今は一番多いのだ。


その人が言うには海から見えるのは山しかないという。それで山によって位置を計る、海上の位置をみる。漁場でも山を見て位置を定める。
この辺の山は特別高い山が見えない、阿武隈山脈であり低山の連山でありそこに目立った高い山が見えない、でも海上から見分けられるという、陸に暮らすものにとっては海から見ている感覚がどうしてもわからない、確かに海から見えるのは山しかないのだ。陸地は平坦だから目印にはならない、すると山が頼りになり信仰にまでなる。海の人も山を信仰するのかとなる。砂漠でもそうだが位置を知ることが一番大事になることは変わりなかった。砂漠では位置をしるために星が一番大事であり妙見信仰も北極星のことでありこれは変わらないので目印となった。砂漠の国はみんな国旗には星が記されている。星がそれほど大事なものなのである。海上から山が大事だというとき位置をしるためなのである。この感覚はやはり漁師でないとわかりにくいのだ。

今は漁場を探すにも機械である。だから年配の経験者の指導もいらないとなるが実際はやはり必要になることもある。海を経験で感覚的に体で知っているということである。人間はそうした感は長年の経験で養われる。ただ感というとき経験なくても海外旅行では青年は楽にしやすい、なぜなら言葉が通じなくても感がいいから辺りの様子が感でわかるのだ。自分のように50才で海外旅行すると感が鈍くなっているからわからなくなるのだ。感は経験で働くものもあるが別に経験がなくても働く、老人が津浪で死んだ人が多いというとき経験していないから津浪が来ないと依怙地になって逃げないから死んだのである。つまり老人には柔軟性がなくなるのだ。人間は生きるのに経験しないことがいくらでもある。だから経験だけに頼ることはできないのである。人間一人の経験は限られている。その限られている経験からすべて判断することはできない、そこにミスが生まれるのだ。だから多様な人の経験に聞くということも大事になる。


そもそも漁師というのは一番わかりにく職業なのである。ただ海の上での仕事だから危険だなと見ている。確かにその人は船の上で手術をするような病気になりそれが緊急を要していたので危なかったといっていた。船がなんとか陸に帰り救急車が来ていて救われたという、30分遅れていたら死んでいたという、そういう危険は海の上ではある。その人が言うには農業など仕事がとんとわからないという、それも確かだろう。漁師と農業はあまりにも違いすぎているのだ。陸で暮らす人から見ると漁師の仕事は魚をとれるのは何か運のように思える。魚が勝手に集まり増えてそれで大漁になったりするのかと思っている。でもそういうことはないという。それはあくまでも人間の業であり運ではない、人間の積み重ねられた技術の集積で魚はとれる。運でとれるということはないという。長年の感で漁場を探していた時代もあった。今は機械で探しているがやはりそれも運ではない、一つの熟練した技術の結果だという。世の中運で仕事になるものはないということである。何か運で食糧が恵まれなどということはないのである。


その人の話で最も漁師らしいと思ったのは魚をとったばかりの新鮮なものを食べているから二三日過ぎたものはまずくて食べられないという、そういうものはすぐにわかるという、それは確かにそういうものかと思った。とれたての新鮮なものが魚でうまいのだ。一日でも置いておくと新鮮味がなくなりまずくなるのだ。そういう新鮮なものをいつも食べているからその舌でわかる。ここでも石鰈などは売りにきていた。それは2千円とか高かった。でも新鮮だからうまかったのである。この辺では一番のごちそうだった。そういうものが食べられないというのも海側に住んで得なものがないとなる。放射能の影響は長くつづくから困るのである。放射性物質はまだ何かわからないが汚染水が原発から流れだしている。その水をいくらとりかえてもやはり濃度が下がっていない、つまり汚染水が地下水からかどこからか常に流れだしているからその水をとりかえてもまた汚染されて濃度が下がらないのである。ただ海は広いから汚染水が流れても濃度が広範囲に流れて薄められるから危機感が薄いのである。


水を得た魚と、陸に上がった河童


その人は漁師だから陸で仕事しにくい、陸にあがった河童になる。農業のことはわかりにくいというのはあまりにも漁師の仕事と違っているからだ。ただ農家とか漁師でいいのはいつも新鮮な食糧を食べられるということである。農家では農薬を使わない野菜を前の畑からとって食べているとか言われる。そういう特権があり買ったものは新鮮味で落ちるし何か農薬が使われすぎているのではないかという不安があるのだ。この辺では原発事故でそういう特権を失ったことでがっかりしている。

とにかく人間の能力は多様であるから理解しにくいのである。

2816号 水を得た魚と、陸に上がった河童(平成進化論)
http://www.2nd-stage.jp/backnumber/ppf_full/2011/05/2816.html


人にできることとできないことがある。向いていることと向いていないことがある。それは手伝いとかの仕事でも誰でもできると思っているがそんなことまで向き不向きがある。手伝いとなるとその家に溶け込む必要があり結構人間関係などでめんどうだともなる。職業に無数のミスマッチがある。
適材適所になっていない、それは離婚が三分の一になっているのとにているのかもしれない、男女関係もミスマッチが多いのである。自分はこういうふうに文章を書くことは得意でもしゃべることは不得意である。ただこうしてプログを出していてもこれが職業とはなりにくい、職業でも結局金にならなければ職業になりえないとかこれもまた適材適所にならない理由なのである。あなたは自分の向いた好きなことを社会でやりなさいとならない、まず強いられるのは収入が金をとることが先になりその人の適正がどうだなどと考慮してくれる社会ではないからだ。

いづれにしろあんな小柄で漁師がやれているというのも不思議だった。時代が変わってまた漁師も力だけではない、機械の操作とかが大事になると別に体力がなくてもやれるとなる。ただ高橋英吉の「潮音」のような漁師像はすでに過去のものなのだろうか?あれは地引き網とか海とじかに格闘していた時代のものなのだろうか?あれは海の男を如実に彫刻化したものである。

今回あった漁師はそんなふうには全然見えなかった。これなら自分もできるなと思った。体も小柄で手も小さく筋肉質にも見えない、顔も子供ぼい、子供がいても顔が子供ぽいのである。ただ小柄でも機敏性があることはみてとれた。揺れる船の上で機敏に動けるから漁師ができるのかと思った。鳶の人が船に乗ったけど揺れて動けなかったというのもわかる。鳶も十階とかビルの上で仕事している。だからそこにいるだけで恐怖になる。でも船の上ではまた勝手が違うのである。つまり職業は慣れもありなれない所ではみんな勝手が違ってくる。だからアルバイトで電気関係でアンテナをとりつける仕事した年配の人が屋根から落ちて死んだ。だからアルバイトと危険である。その仕事の要領がわからないし訓練を積んでいないから危険なのである。どんな仕事も本当は簡単にできないのだ。

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2012年06月16日

錯綜する明治維新 (相馬藩士が天狗党と新撰組にいたわけは)


錯綜する明治維新

(相馬藩士が天狗党と新撰組にいたわけは)


江戸時代末期に展開された反幕排外運動。その思想的基盤となったのは,藤田東湖,会沢安(正志斎)らが唱えた水戸学である。幕府は安政1(1854)年,日米和親条約に調印し,その批准を朝廷に求めた。海外事情にうとい朝廷は,攘夷論の拠点であった水戸藩の働きかけもあって勅許を与えなかった。他方,はなはだしく貧困化し幕政への不満をつのらせていた諸藩の下級武士層は,夷狄(いてき)として排斥すべき西洋諸国の圧力に屈して,幕府が国交を開くのをみて憤激した。同5年おりから将軍継嗣問題で紛糾していた幕府は,井伊直弼が大老に就任し,勅許を待たずに反対派を押切って日米通商条約に調印,次いで安政の大獄を断行した。外国貿易に伴う物価騰貴によって生活がさらに圧迫された下級武士層は,以後朝廷の尊攘派公家と結んで活溌な攘夷運動を展開していく。諸藩でも,初め水戸藩,次いで長州藩が藩論として尊攘を掲げ,攘夷親征の挙が宣言されるにいたったが,文久3年8月18日の政変で公武合体派に敗れたこと,鹿児島,下関における四国艦隊との交戦(→四国艦隊下関砲撃事件)を通じて攘夷の無謀さが認識されたことなどの理由で,攘夷運動は急速に衰退し,以後は尊王倒幕の方向をとって展開され,明治維新の原動力となった。天狗党」は,水戸藩の尊王攘夷派の呼び名である。尊王攘夷とは,天皇を尊び,外国の勢力を打ち払おうという思想で,幕末にさかんに唱えられ,多くの志士たちをつき動かした。実は,水戸藩こそが,その尊王攘夷思想の発信地だったのである。
http://homepage3.nifty.com/numa/historio/tengu-to.html

1864年、尊皇攘夷をうたう長州藩が四国艦隊下関砲撃事件により砲撃を受け、その武力差に敗北を期し、長州征伐によって勢力が弱まると尊皇攘夷運動も勢力を弱めていく。そして欧米列強の圧力を排するためには、一時的にでも開国し、外国の技術に学び国内統一と富国強兵を行うべきだとする思想が生まれた。坂本龍馬らの仲介によって、1866年に薩長同盟がなされると、攘夷の不可能さを悟った薩長両藩の改革思想は「討幕」へと転換していった。


明治維新は錯綜しているから今も何なのかわからなくなっている。浦賀にペリ-が来て開国を望んだとき政府は従った。開国であったからのちの開国派となった薩長と同じである。違っていたのは倒幕派であり開国を望んだ。幕府を倒すことで薩長が一致した。ところがまた薩摩の西郷は最後薩摩藩を武士階級の存続を守るために西南戦争で死んだのである。倒幕派にしても薩長が武士としての階級を守り政治をするというのことが明治維新だった。とすると会津などと同盟しても不思議ではない、なぜなら会津も武士を守ることで武士道を全うして滅びたからだ。これは西南戦争と同じではないか?
西郷隆盛は藩を存続させようとしていたのだ。ただ西欧列強に対抗するには強力な中央集権国家を作らねばならない、それで封建的地域主義では対抗できないと天皇中心の強力な中央集権国家を作った。だから東京中心の社会となり方言まで規制され標準語化したのである。文化的にも強力な中央集権国家、東京中心の社会を明治以降作り上げたのでありそれは今にも継続されているのだ。

西南戦争で国民軍が形成されて武士の軍団に対抗して勝ったことが日本国民としての自覚をうながした。奇妙なことは会津は薩長に恨みをもっていたから西南戦争では国民軍として参加して活躍していた人がいてその家ではその時使った錆びた刀が家に残されていた。敵が味方になり味方が敵となるようなことになる。

一体明治維新は誰のための革命だったのかともなる。武士階級を残すという西郷などの力は明治維新後も働いていた。だから武士でないものは平民と戸籍に記されていたのである。武士階級は士族として形は残された。明治時代はの警察官も、士族出身者が多数を占めていましたというとき自分の母親の父親は警察の所長だった。会津の士族の出だったようだがたどることができない、だから裕福で父親がいつも威張っていたというのがわかる。その頃母親は大きな庭のある家に住んでいたという。でも子供のとき父親が製糸会社を運営して失敗してあとは悲惨な運命を歩むことになる。継母のことを書いたけどそれも製糸会社運営と関係していた。士族は警察関係などに就職した人が多い。警察関係とは相性がいい、それから教育関係にももともと教養があるから職を得た。ただ武士はもともと商売とか企業には向いていない、なぜなら武士は義を重んじる誇り高きものであり商売には向いていず武士の商法といわれた。武士が意外と向いていたのは農業だった。相馬藩ではそもそも郷士であり農民であったからその継続だった。それでも新しく農業をはじめた武士がいた。


八沢浦開拓では中に妙見神社が田んぼの中に祀られていたから新しく開拓に入った武士である。あとは北海道で開拓に入った武士が多く、武士橋とか武士と関係するものが多い。伊達藩は伊達市まであるから藩ごと武士が開拓に入っている。三越とか高島屋とか何か今の大きな会社の前進は近江商人の系統であるのもそのためだろう。明治維新はそうした地主階級とか商人とか企業家にとっては得するものだったのである。それらの人たちのバックアップがあったことは確かである。一番損したのは苦労したのは武士階級だったという不思議があるのだ。結局日本は外圧で運命が左右される。欧米列強に対抗するには強力な中央集権国家を作ることが急務でありそれで背伸びしたのである。そのことは太平洋戦争までつづいていたのである。富国強兵政策は太平洋戦争まで変わっていなかったのである。太平洋戦争までは富国強兵政策に国民も反対していない、貧乏でもそうだった。だから日露戦争の勝利に国民あげて酔った。実際は引き分けでも勝利したと過度に日本が持ち上げられたのである。
その奢りが太平洋戦争とつながっていたのだ。常に歴史は奢りが滅びに失敗に通じていることは常に指摘されてきた。原発事故も日本の技術は優秀だという奢りがあった。だからあまりにも日本を誇大化させるものは信用できない、右系統の人はそういう傾向が強いのである。日本に対しての誇りは必要でもそれが奢りになっているのか多いから肯定できないのである。


いづれにしろ明治維新を解明することは容易ではない、ここで注目したのはそういう全体像ではなく関所のことを書いたので関所を通じて明治維新を見るということもある。


天狗党の挙行に期待をかけた庄内藩士・清河八郎は、水戸藩にやってきて、天狗党の傲慢な
態度に失望し、その無謀さを批判して帰ってしまった。清河が憤った天狗党の狂乱は、軍資金と
称して、豪商や豪農を襲撃して、財貨や食糧を強奪するまでに発展し、この狂乱に対抗するため
に自衛組織も作られたほどだった。

中には、間道や裏道をわざわざ天狗党に教えて、藩軍と天狗党が正面衝突しないように機転を利か
せる藩もあったという。

間道を通らせたというのは関所を正式に通ると証拠が残ったりして責任が問われるからである。明治維新の時代は正式に通る道より間道をゆく武士が多かったろう。規制のル-ルが破られる時代だったからである。天狗党の無謀も騒乱もそのはじまりだった。こういうときは過激派が出てきて混乱する。テロが起きてくる。


清河は上手く幕府を出し抜いて今度は佐幕派を京都に集め出した。文久3年(1863年)2月23日、将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として清河は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。京都に到着した夜、清河は浪士を壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあると述べる。鵜殿鳩翁が浪士組隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、京に残留することを希望する者の取りまとめを依頼し、攘夷に反対した根岸友山・芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らが残留し清河と袂を分かつたものの[8]、200名の手勢を得た清河は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも受理された。
このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻す。清河は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていた。
文久3年(1863年)4月13日、幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって麻布一ノ橋(現麻布十番商店街そば)で討たれ首を切られた[9]。享年34


新撰組の成り立ちもまた錯綜している。佐幕派によって最後は暗殺された。


たまたま戊辰の役で長州藩士で奥羽鎮撫参謀世良修蔵(慶応4年4月20日福島にて斬首せられる)が同年4月9日白河城に入城し、会津藩攻撃を督促しているとき、坂田屋にて志げ女と遊んだ。
世良はこの地が危険であると察し、同年4月18日白河を脱した。
このことから会津藩士は志げ女を憎み、志げ女を殺害した。
これを知った遊女屋の下男がこの地にて会津藩士を殺害し、その仇を討った、戦争の悲劇の一駒である。

これも錯綜して混乱している時代の犠牲者であった。
「お前は薩長の犬か、成敗してやる、この女郎めが・・・」
「わたしにゃとってはみんな客にすきませんよ、薩長もなにもないですよ」
「どっちにしろ怖いし客としてむかえないわけにはいきませんよ」
「馬鹿言うな、お前は賊だ、切って捨てる」
なんとかかんとか疑心暗鬼になっているからそうなる。錯綜と混乱と疑心暗鬼と殺伐な殺戮から庶民が犠牲になっていた。それを怒った下男が会津藩士を殺したというのもわかる。これは会津藩士がいきすぎていたのである。「なんで殺されるんだ、遊女だからか、馬鹿にすんでねえ」とかなった。


相馬藩士も犠牲者がかなたりでていた。


相馬藩降伏(1868/08/07)と戦死傷者

家中 17人。 給人郷士 69人。 足軽 16人。 農兵 12人。 夫卒 11人。
負傷 129人。   相馬兵の多くは棚倉城攻防戦で戦死。    (出典:相馬藩政史)


家中とは城づめの武士だった。相馬の城に勤めていた。あとは農民と武士の両方を勤めていた給人郷士である。足軽16人というのは給人郷士に仕えていたのか、家中に仕えていたのか、相馬藩は小さいから足軽がそんなにいたのかともなる。ただ野馬追いの時、馬を引く人がいるがあれは足軽だった。五十人町とか百人町とか仙台にはあるけど他にもあるけど足軽町もあるけど相馬藩にはない、六万石だから小さいからない、白石に足軽まんじゅうまで売っているのはそれだけの足軽を伊達藩ではかかえていたのである。そもぞせ足軽だけで生計をたてられるかというとそれだけの余裕をもった武士は相馬藩にはまれだろう。郷士なのだから農民なのだからまれである。
農兵12人というのも純粋な農民だった。農民も明治維新では参加していたのだ。ただこれは相馬藩としてのまとまりとして農民が出ていたのである。


ともかく天狗党にも新撰組にも相馬藩士がいたのは天狗党から新撰組が生まれていたことでもわかる。だから天狗党にいれば新撰組にも入る、それは清河八郎をみればわかる。このように明治維新は錯綜して混乱しているからわかりにくいのである。


天狗党-清河八郎(攘夷派)-浪士隊-新撰組(佐幕派)-会津藩

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2012年06月14日

コンビニの前で大正生まれの老人の話しを聞く(続) (南相馬市鹿島区の上萱には明治から人が住んでいた)



コンビニの前で大正生まれの老人の話しを聞く(続)

(南相馬市鹿島区の上萱には明治から人が住んでいた)

●オ-トラリアの米作りの話(水田が消えた南相馬市)


コンビニの前で戦争のことなど聞いた大正生まれの老人の話をまたきいた。大正十四年生まれだった。

オ-ストラリアで米作りしているけど水はどうしているのかな、

米作りには水は大事だからな、水のいいところは米がうまい、この辺だと栃窪など山に近く水がいいからいい米がとれる、でもオ-ストラリアなんか水をどうしているのか


地下水をとっているらしい、その量は何千年にもわたりたまったものでものすごい量だってよ


ええ、そんなに地下水があるもんなのか,驚きだな
でもアメリカとかオ-ストラリアは地下水がいづれ枯渇してしまうって
森がないので地下水がたまらないからなんだよ
地下水は不思議だよ、郡山辺りで江戸時代にふった雨が地下にたまっているという
地下水ってそんなに古くからたまっているもんなんだよな


この辺は今草原化しているから水田がないから違和感が大きい、当たり前の風景がなくなったことで改めて水田があったときのことを思い出している。山から水は豊に流れ大地をうるおして田から田へと水が流れていた。そして農家には前田があり木蔭がなんとも気持ちいいものだった。その水田がないことが心まで荒廃したものとしている。つまり水が流れ活かされていないのだ。山から田に春には神がおりてくるというとき水が山から田に流れる自然との調和があった。山に祖先が眠るというとき水と深く関係していたのである。その水が流れない活かされないから心まで枯渇した感覚になる。

それは別に農家で米作りしていなくてもその風景はあまりにも長年親しんだ風景でありそれがなくなることなど想像もしなかったからだ。日本では山から水田と水は常に循環しているから地下水のようにとってしまいばなくなるということはない、常に山から水は供給されていたのである。オ-ストラリアでは森がないから水が貯えられなくなった。だから米作りの肝心な水が供給されなくなるから米作りもできなくなると言うのも想像できる。


水田が消えた


とろとろと水は流れる
山から水は尽きず流れる
水は大地をうるおし
水は山に森に貯えられ
とろとろと流れる
山の神は春には
平地におりてくる
山から水が流れるように
農家は何代もつづき
前田があり木蔭が涼しい
そんな当たり前の風景が消えたとき
その流れる水がなつかしい
水は大地の血液だった
今大地に水が流れない
水は活きていない
それは山は森も生きない
みんな一つの命だから
水を通じて命がめぐっているから


●南相馬市鹿島区の上萱は明治から人が住んでいた


その人の話では上萱(うえがや)は昔は上野と言っていたという。その人の父親の話では馬に米三俵積み自らも乗ってあの坂を上ったことを知っているという。その馬は暴れ馬で力が強かったからそれができたという。上萱は戦後に開拓に入った人たちが住んだのであり戦前とか明治には住んでいないと思った。ところが三軒くらいは前から住んでいたという、それもかなり古い、明治にも住んでいた。茅葺きの家がありあれは古いものだと思っていたがやはり戦前も明治からも人が住んでいた。

その人は大正生まれでありその父親は明治の人となるから明治には住んでいた。炭焼きなどをして町に炭を売り米を買った。それから八木沢の麓の地蔵木とか大芦にはやはり江戸時代からすでに人が住んでいたのである。なぜなら真宗系の粗末な石の墓があったからである。もちろん戦後引揚者が開拓に入ったことがかなりあった。小池の自分の父親の知り合いはフィリンピンからの引揚者で小池に開拓に入った。父親とは双葉の新山の酒屋で一緒に働いていたから知り合ったのである。戦後は引揚者が開拓に入ったという地域がかなりあった。小池は松林とかになっていて今のように畑も田んぼもなかったという。あそこが荒地となっていたのである。そういう地域がまだあった。江戸時代から住んでいた人たちの所にまた新しく開拓に入った人たちもいたからこの辺が混同するのである。

上萱がなぜ前に上野だったのか?上野から上萱に名前が変わった。その理由がよくわからない、萱を材料として使ったためか、萱場とか萱のつく地名にはそういうのが多い。茅葺きの家が多かったから材料として大量に必要だった。あそこは明治から人が住んでいたのである。こういうことは人の話からしか伝えられない、町誌など文書で記録したものには残っていない、そういうものが歴史には結構多いのである。そういう言い伝えは消えてしまうことが多いのである。だから郷土史は祖父母の話を聞くことからはじまるのである。

●鰻を売りに天秤棒をかつぎ鹿島区の屋形から川俣まで行った人の話


この話しには驚いた。五貫目の鰻を天秤棒で八木沢峠を越えて川俣まで売りに行った話を聞いたという。川俣までとなると八木沢峠を越えること自体大変でありそれも天秤棒だとなるとバランスをとるのがむずかしいから余計に重労働になる。坂をのぼるときバランスをとるのが大変だったというからその話はリアルである。五貫目というとこれはかなりの重さである。


五貫目町(ごかんめちょう)は、神奈川県横浜市瀬谷区の地名

江戸時代の初期に年貢の石高が五貫目と定められ、それが字名となったという。昭和49年の新設の際の町名は字名を採った。

五貫目は一貫目が三・七キロだから十八キロにもなる。この重さは何匹に値したのか?昔家で店をしていたとき、計り売りで一キロごとに
計っていた。一キロでも結構重いから18キロとなると大変な重さである。

百匹にもなるのか?50匹くらいか、それほどの数でないとこれだけの重さにはならないかもしれない、それだけ売れたら大変な金になったからこそ川俣まで売りに行った。川俣では当時高く売れたということである。今でもそうだけどやはりバナナでも売れるのは金持ちの国である。食料品も金持ちの所に流れてゆく、松川浦でとれた魚も東京の方に高く売っていたのと同じである。地元ではかえって食べられなくなっていたのである。

天秤棒一本で財を成す」という言い回しや、近江商人に由来の慣用句「近江の千両天秤」(天秤棒一本あれば行商をして千両を稼ぎ、財を成すという、近江商人の商魂の逞しさと表すと同時に、千両を稼いでも行商をやめず、初心を忘れることなく商売に励むという教訓が籠められている)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%A7%A4%E6%A3%92


まさにこれであり江戸時代の話である。明治時代にもその継続があった。

川俣は江戸時代以前から絹織物産業が盛んで、良質の川俣絹の生産地として知られていた。明治以降は軽目羽二重が考案され、戦前は世界的に輸出された。


奈良時代 信夫郡小手郷(現在の川俣地区)は奈良の興福寺の荘保であった。(荘園志料) 紫色が高貴な色となされた為、都では紫草の栽培や使用にたいし、厳しい規制がなされたが、ここ奥州では、紫草が保護栽培され、絹織物とともに租(税金・貢ぎ物)とされてきたと推測される。貴族階級の独占から離れ、一般の庶民が紫色を染色できる様になったのは、実に江戸時代になってからのことであり、文献で確認できるのは江戸(寛文4年1664)、幕府の天領に川俣がなってからのことであります。

18世紀頃の染色記録調査 岩城 添野村 惣七より  「奥州 川又村 紫染伝 」 「文化13年(1816)子八月 奥州川又村 紫染ヤ 忠右ェ門 ぬかた村 喜兵衛 安右ェ門 伝也」とある。         (川俣町絹織物史 おりもの展示館)
このことが、後年川俣紫としての染物が、近江商人により江戸と京都で販売され、京都の染物の3倍の濃さとの評判になり、隆盛を迎えたと古老の話にある。  (H11・11・15 高橋歌子氏談)
http://homepage2.nifty.com/khonda/newpage9.html


江戸にも売られた古い伝統をもっているのが川俣町だった。奥州川又村とあるが金比羅参りで萬延元年(1860)、奥州栃窪村(現 福島県鹿島町)の住人によって寄進された「箸蔵寺百丁」の道標。ここでも奥州から小さな地域の村になっている。江戸時代は川俣町が単位ではなく村が単位なのである。鹿島町も鹿島村があり鹿島町になった。あくまでも江戸時代の行政単位は村なのである。
上栃窪に金比羅の碑が多いからこれを裏付けているのだろう。


川俣まで鰻を天秤棒で売りに行ったのは川俣が景気が良く高く売れるからだった。そうでなければわざわざそんな遠くに行かないのである。鰻取りは自分の家で思い出がある。父親が明治生まれであり鰻とりを田んぼの畦道などで良くしていたのである。子供のときついて行った。鰻の住んでいる穴を熟知していたりミミズを餌にして微妙に微調整して穴に入れるのがコツである。鰻をとったときはごちそうだった。家族みんなで鰻を料理したのである。その頃の鰻は天然だからうまかったのである。その鰻を川俣で売りに行ったというのは本当に驚きである。五貫目というと相当な量だったから金になったのだろう。鰻は今や馬鹿高く食べることすらできなくなっている。時代は余りにも変わりすぎたのである。

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2012年04月22日

コンビニの前で戦争の話を聞く(2)


コンビニの前で戦争の話しを聞く(2)

コンビニ前でこの前話しした老人がまた酒を飲んでいた。
あの人は話しができる人だった。全然話しができない、聞けない人もいる。
88才まで生きていても体が小さい、肉体労働には向いていない、でも長生きするのは体力とは関係ないみたいである。最近力道山のような肉体派の有名な俳優が病気で死んだ。
その人は何にも負けるような人には見えない人だった。その人もここ十年は病気で苦しんでいたのである。息子から膵臓か肝臓かもらって移植していた。
60代なるとあのような体力ある人も病気になり死んでいる。
60代とか以降は金があるより地位があるよりも健康なことが第一なのである。
自分も痛切にそのことを感じた。


その人は前も書いたが東京で飛行機を作る工場にいた。それで東条秀樹が乗っている車を見たという。これはなかなか本物を見るということはない、映像で見ても本物を見るというのはない。
飛行機を作る工場でありその前を頻繁に軍用の車などが通っていたという。
その頃のトラックなどはしょっちゅう故障して修理していたという。
今の車とは大違いだから故障していたことがわかる。
それから自転車で物を運んでいたこともわかる。
車に乗っている人はまれだった時代である。


御所の職員は職業柄、そんな事はできず、御料(殿下のご食糧)
にも事欠く状態であった。


 そこで御所の周辺の空き地を畑にして、食糧を自給自足でき
るようにしようということになった。職員たちは勤務の余暇に
にわか百姓となって、空き地の開墾を始めたが、草を刈り、根
を掘り返す重労働に、手は豆だらけ、体はくたくたになってし
まった。それでも手に包帯を巻きながら、作業を続けた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h21/jog624.html


天皇家でもこういうことがあったのだから宮家では買い出しをしていたのかもしれない、でも
「食べ物をゆずってください」と買い出しに出るとなればいかに日本全体が食糧に窮していたかわかる。


それから話しを聞いていると
「オ-ストラリアでは2000町の土地をもっている」
「飛行機で種まきしているからな」
「とても、かないっこないよ、日本と比べられないよ」
「この辺で38町もっている農家の人いて驚いたけどな、2000町は驚きだな
38町でもめったにいないよ、日本では・・15町の人がいたけどそれで大農家だよ
5町で平均よりも上になるのか、日本ではそんなもんだよ」


この会話で2000町と言ったことでその土地の広さを実感したのである。なぜならヘクタ-ルとかなるとわかりにくいのだ。2000町となったらとんでもいな広さだと即座に実感したのである。


「ものがないから日本は負けたんだよ」
「戦争するにも弾がないけりゃ、何もできない、竹槍で戦おうとしていたんだからな、日本は」
「朝鮮人は多かった、どこにでもいたよ、みんな金かせぐために日本に来たんだよ」
「朝鮮は日本の属国だからパスポ-トもなち入れただろう、入り安かったからなあの頃は」


物資の不足は日本では致命的だったのだ。それからその時朝鮮人が大量に入ってきた。それは強制的というより日本で仕事ができて金になったからである。原町の大原の発電所辺りでも働いていたという。全部が強制的ではない自主的に働きに来ていたのである。

80代くらいの人の話は60代の人はあわせられる。でも若くなるに連れてあわせられなくなる。
車もない時代も知っている。物がない時代も子供の時に経験している。だから話をあわせられる。
ものが豊に出回った世代になるとその辺のものがない時代がわかりにくいのである。

歴史というとき郷土史でもやはり直接に話しを聞くことがリアルに歴史を感じることになる。
話して何かわかることがある。そもそも人間の体験はみんな同じではない、だから戦争の体験もみんな同じではない、働いた場所も違うしそれぞれ違った体験をしている。その一人一人の体験を総合するとき何があったのか見えてくることがわかる。前に書いた戦後梅毒にかかった人は全国にいた。
だからそれは戦争のためだったということがわかる。数が多いからわかるのだ。


戦争の話しを老人に聞く(1)
http://musubu.sblo.jp/article/55380545.html

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2012年04月08日

裸電球のキ-ワ-ド


裸電球のキ-ワ-ド


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焼け野が原の富山市清水町(音羽町)に掘立て小屋を建て、一家6人で雨露をしのぐ生活を強いられていたが、立山重工の捕虜収容所がアパートとして開放されたのを機にそこに移住。まぶしく光る裸電球の輝きが目に焼き付いてい


戦後も、闇市の裸電球に照らされた真っ赤なリンゴと、
「可愛リンゴに唇寄せて」並木路子さんの歌うリンゴの唄は、
荒廃した街の中の庶民に希望を与えてくれました。


裸電球の下に店を開く準備が始まり、時間とともに市場内は徐々に熱気をはらみ活気づき、威勢のいい売り声が飛び交います

土を固めた床とベニヤを貼った壁と天井から、裸電球がぶら下がっているだけの3坪の店舗。


昨秋改装した店内には、裸電球の下で職人らが道産小豆の生あんを練り、薄皮で包む古い写真

粗末な裸電球に照らされた研究室が人生の道程の光と陰を暗示していた。


まもなく校舎は現在の陣屋跡に移ったが、古い木造校舎の広い教室に100ワットの裸電球がたった4個という貧弱なものであった


戦後、暗い裸電球の下で家族が寄り添って過した日々を思い出しています。


裸電球は隙間風に揺れ・・・


子どもたちは裸電球やアセチレンランプが灯るころまで、路地から路地へと駆け巡り、鬼ごっこやかくれんぼを楽しんだ。

内部には裸電球や石油ランプを吊るし、買出し用のリュックなど当時の生活をしのぶ資料が展示されていました。
http://uenonorenkai.com/book201009-2.htm


戦後はバラックのような家を建てて暮らしていた人がいた。自分の父親が建てた風呂もそうだった。何にもないところからはじまった。だから裸電球が希望の灯のように見えたというのは考えられないけどそうだったのである。裸電球でも電気の灯であり明るい未来を示していたのである。


廃線の暗いトンネルの奥の記憶



真っ暗な廃線の中のトンネルの奥なのか

記憶をたどるということはそういうことか

そのトンネルの奥に記憶が残っている

北風が外で唸り吹いていた

平屋の古い家に風がふきつける

がらんとした広い家に裸電球だけが灯っている

そこに自分の昔の古い家があった

記憶をつなぎあわせるが定かではない

記憶もこうもはかないものなのか

父、母、姉・・・・二人はもう死んだ

日々記憶は遠ざかってゆく・・・

死んだ人とは記憶の中でしか会えない・・・

それも朧であり廃線の暗いトンネルの奥なのだ



記憶はまさに廃線である。その廃線の跡をたどるのが昔の記憶なのである。人間も終わって見れば最後に残ったのは記憶である。しかしその記憶も定かではない、真っ暗な冷たい廃線のトンネルの奥なのである。そのトンネルの奥には明るい光景は見えてこない、そこに廃線となった駅の跡がむなしくあるだけである。


キ-ワ-ドで読むのはインタ-ネットだからできる。本ではできない、これはインタ-ネットの中での新しい読書方法であり情報の使い方なのである。ここに引用したのはいちいちリンク先を入れなかったけど著作権違反にはならないだろう。新聞社のはなっていた。あまりにも著作権にこだわるとインタ-ネットは利用しにくいのである。こうしてキ-ワ-ドで引用して編集しているのは創造作業であるからそれも狭められると有効なインタ-ネットの活用はできなくなる。本にはできないことが今までの情報環境ではできないことができるときそれが革命となるからだ。

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団塊の世代-集団就職-金の卵の時代をふりかえる


団塊の世代-集団就職-金の卵の時代をふりかえる


一生貧乏
60代, 男性, 自営業

私は10歳で母親に捨てられました。(父親は私が3歳から肺結核の為に入院していて14歳の時に病死)兄嫁と母親が不仲で 10歳の時に出て行きました。1年に一回位日帰りで来るくらいです。当然兄嫁にいじめられて本当に辛い思いをしました。

ようやく中学校を卒業して、東京江東区清澄町の松本自動車という自動車修理工場に就職しました。これからが本当の地獄でした。仕事は住み込みです。最初の部屋は6畳間に二段ベッドが両脇に四つのところに7人住まわせられました。(工場の上に6畳間の部屋が3ツ有りましたが2ツの部屋は人に貸していました。)この状態が約半年です。仕事の時間は朝8時〜12時  午後は13時〜18時
残業は毎日19時〜23時 合計13時間毎日仕事です。

毎月の休みは5日と15日の2回だけです。それで給料は残業代も入れて1ヶ月1500円です。当時菓子パンが10円です。
休日と残業時間の食事は支給有りません。1500円は一週間の
食事代だけで消えました。
腹はいつでもぺこぺこです。お金が無くなると、コッペパンを3切りにして、1日分の食事です。後は水で我慢しました。
信じてもらえないかもしりませんが本当のことです。

半年後に1万円にしてくれましたが、それから入社してから、 18歳までにげだすまで変わりませんでした。(なぜすぐ逃げ出さなかったというかたもいるかもしれませんが、当時は15,6歳の田舎の子供です。無理です。)

その後遺症で17歳の時に顔に白癜という病気で顔の25%(皮膚が白くなる不治の病気です。)がこの病気の為に仕事は思うようにいかず、結婚も当然出来ませんでした。(気持ちが悪い、移されそうで怖いといわれました。)こんな辛い人生は何万人に何人いるんだろうかと思います。辛さは死ぬまで変わらないとと思います。
http://poor.life-taikenki.net/taikenki62.html



これも過酷な運命の下に生まれた人だった。老後というとき何が興味ある事になるかというとそれぞれの人生を読むことなのだ。こんな人生が送った人がいたのかと自分の人生と照らし合わせて比較すると興味深いのである。意外と隣に住んでいてもその人の人生がわからないのが現代である。
「秋深し隣は何をする人ぞ」なのが現代である。田舎でも隣近所は疎遠になっている。買い物だってすべてス-パ-だから小さい店は姿を消した。するとそれぞれの人生をなかなかしりえないのである。老後は何かをふりかえることであり思い出すことが仕事になる。本でも前に読んだものを読み返すと本当に理解することになる。新しい本は読みにくいし理解しにくい。そして本というものも積んどくが多く読んでいない、読んだと思っていたものも深く読んでいないし忘れているのだ。


この人の人生に興味をもったのは密接な身内でこれと同じような人生だったのを知ったからである。実にこの人の運命は過酷そのものだった。この人の恵まれていた点は東京で生活していたから金の卵のような集団就職をしていないことである。集団就職は15才くらいで親元を離れるのだからこれも過酷だったのである。自分は恵まれて勉強嫌いでも東京の私立大学に入れた。それもほとんど勉強はしなかった。もともと自分は今になると学問好きなことがわかった。いろいろなことに知的な興味が尽きない自分に気づいたのである。そして老後になるとむずかしい本でも理解できるようになった。

この人が何を言おうとしているのか本をぱらぱらとめくるとだいだい要旨がつかめる。古典でも深く理解できる。本でもそうだが他人の人生も見通せる、理解できる。若いときは人生にしても人間のことにしても社会についても五里霧中なのである。社会に翻弄されて生きるほかないのである。それで無駄なカルト宗教団体に入ったりといろいろ無駄が多すぎるのだ。


最初の部屋は6畳間に二段ベッドが両脇に四つのところに7人住まわせられました。


学生のとき町工場でアルバイトしていた。その時、集団就職したような人がそういう所だった。住環境は劣悪だったのだ。この人は食事も満足にできなかった。仕事は自動車修理工場というとき流れ作業ではなかった。自分がしたことは流れ作業が多かった。なぜ自分が仕事を嫌悪するようになり会社勤めを嫌ってそのまま幸運にも老後を迎えたのか、それはもともとの性格にもあった。学校という規則的な集団生活のときも適応できなかった。性格的に甘やかされたこともあった。自分は社会にも会社にも適応できない性格だった。だからまともに働いたのは20代前半だけである。それも流れ作業しかなかった。一日中機械でドリルで穴を空ける仕事とかであり嫌悪するようになったのはそのためである。何か創造的仕事があるなど考えようもなかった。仕事とはみんなそんなものかと思ってしまったのである。残業にしたって流れ作業になると本当に嫌になる。もう定時だけでうんざりしてしいるからだ。その後は全くこういうロボットのような仕事はまるで違って旅行に明け暮れたというのも恵まれていた結果だった。そんな仕事をしつづけたら生きることさえ嫌になったろう。


その後遺症で17歳の時に顔に白癜という病気で顔の25%(皮膚が白くなる不治の病気です)


身内の人も円形脱毛症になったからにていた。ストレスのためになったのだろう。集団就職した人は何かしらこういう苦労をししているだろう。でもその後それなりに自立して結婚して一家を構えて東京辺りで暮らし田舎には帰ってこない。不幸にも自分の身内は若くして交通事故で死んでしまった。その墓が原町にある。この人の人生とにていた。この頃集団就職の人生の人は苦労しているからそれなりの数がいた。この人は最初から不幸な星の下に生まれてしまったのである。ただいくら不幸でも集団就職しても今は高度成長期でありそれなりに自立生活している人も多いだろう。この人は結婚していないから家庭をもっていないから余計不幸を感じているのだ。ともかく人間の一生はいろいろある。団塊の世代こうして過去をふりかえる老後を迎えた。過去の苦労を語る時を迎えた。戦争時代は戦争のことを語りつづけて死んだ。団塊の世代を何を語るのか?たいして語ることもないのか?恵まれた時代だから語ることもないのか、集団就職したような人は語ることがあるだろう。一人一人の人生はみな違っている。一人一人の人生も実は郷土史の一こまである。それら一人一人の人生はすでに歴史となっているのだ。同じ世代でもそんな人生があったのかと驚くことがあるだろう。それは後世への教訓である。失敗の体験も後世の若い人への教訓である。自分が失敗したことと同じ様なことをしている人もいるからだ。


人間は他者を知るというとき自分の体験を基にしているのだ。だから自分が体験しないことはいくら聞いてもリアリティが伝わらない、戦争などあれほど悲惨なものでも戦争の体験をしていないからなかなか理解できないのである。自分は現実に下町の油臭い町工場でアルバイトしたから集団就職の人たちのこともそこからイメ-ジされた。しかしそれもしない人はわからない、アルバイトでも出版社とかでして興味を覚えてそこに就職したという人もいる。アルバイトでもやはり流れ作業でない仕事をして興味をもてばそういう仕事あるのかと就職しようとするだろう。ただそういうアルバイトはみんながなれるわけではない、底辺の大学ではなれなかったということがある。家庭教師にだってやはり底辺大学では無理である。結局自分はそんな油臭い、下町の流れ作業の工場などで働いたのは一時期にすぎない、あとは風のように自由に生きて今日に至ったのである。だから自分には会社も工場もなにもない、ただ自然の自由の風吹いている。心の中でも吹いている。それでそれを俳句や短歌や詩にしているのだ。こういうふうに自由に生きられたということ自体奇跡的なことかもしれない、他の人は営々と働いて会社勤めだったからである。


500坪程の工場は組立工場、機械工場、鉄板の切断・溶接工場となっていた。作業場ではこれからお世話になるであろう先輩たちが、裸電球の下でヤスリをかけ、装置を組み立て、油で真っ黒になって機械加工の仕事をしていた
http://www.takemori.co.jp/omoide.htm


この人は天草の農家の貧乏生活より食い物もいいし良かった書いてある。この人は仕事ができるので優遇されたのかもしれない、個々に事情が違ってくる。東京はその頃田舎とは全く違っていた。この人は東京だったが食べ物を違っていたし生活は金があれば豊かなものになっていた。この人は雇い主からの待遇が良かったのである。九州の田舎より東京の方がいい暮らしができると実感した。それなりに苦労したにしろ自分の会社をもつまでになった。集団就職でもこういう人もかなりいた。
経済が今とは違い右肩上がりの高度成長時代だから独立もできたのである。


裸電球の下でヤスリをかけ・・・・・


この時は裸電球であった。最近昔のテレビドラマを見ている。サスペンスなのだが昔と今の光景がどこが変わったのかというと映像を見ても30年前でも40年前でもさほど変わらない、変わったのは道具だった。裸電球のあるところで取り調べをしていた。車をみると旧式の型のものが多い。それでも普通に車走っているのでさほど今と変わらないように見える。40年前とか学生で車をもっていた人がいた。その人は恵まれていたのだ。まだまだ車は普及していない、ただその辺から急速に普及していった。携帯のないときは公衆電話を良く使っていた。刑事も連絡に公衆電話や家の電話を使っていた。コンピュ-タ-で仕事している人がいたけど20年前くらいでもコンピュ-タ-はあり仕事していた。ただそのコンピュ-タ-が大きな古いものであった。そこだけが今と明確に違っていたのだ。他の様子はテレビの画面からはわかりにくい、これを見ると人間の社会は変わったというとき道具が変わったというのが一番わかりやすい。なぜなら江戸時代には鉄道もない車もない、電話もないとかそうしたいろいろな道具がないことが一番違ったことなのでなである。人間そのものはそんなに変わらないということもある。


昭和は遠く成りにけり ・・・


64才の俳優が死んだ・・・60代でも俳優など結構死んでる、時代はすぐに変わる、昭和から平成、昭和も遠くなるということがまじかに迫っている。自分も70くらいで死ぬんじゃないかという不安がある。ただ癌ではなかったからその点は救いだ。普通に暮らせるから病気という感じもしない、酒とか煙草は30代でやめた。70くらいで死ぬのがいいとか思ったりするが作品を完成するにはいくら生きても完成しないだろう。いづれにしろ老後になるとそれぞれの人生も興味深いものとなる。なぜなら人間や人生を深くみる、理解できるからそうなる。そして人間の心は変わらないから人間はしょうこりもなく同じ犯罪、業をくりかえす、カルマをくりかえす、それはインド人が言ったことと同じである。職業が業としたとき原発事故だって一つの人間の業として開発があり事故につながっていたのである。人間の業(カルマ)はとめることができないからそうなるのだ。

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2012年03月31日

松川浦の貝殻地蔵


松川浦の貝殻地蔵


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松川浦名取の人の名を記す遭難の碑に春日さしあわれをとどむ


松川より原釜に至るには中村の方へと少し戻りて、高すか地藏といふ地藏堂のほとりより右に折れて入るなり。「ほつき」といふ貝の殻を幾個と無く尊前に捧げたるは、先刻に見し観音菩薩に瓠(ゆうがお)供へたるにも増してをかしく、貝の裏の白きが月の薄明りにも著く明らかなれば訝しみて土地のものに問ふに、耳遠くなりたるものども自己が年齢の数ほど貝殼を此の御佛に奉りて、復びもとの如く耳敏くならしめたまへと祈り申せぼ霊験(しるし)ある由を云ひ伝へて、然は爲るなりといふ。観音には瓠(ひさご)、地藏には貝殼、をかしきものをのみ供ずるところかなと打笑ひて過ぐ。


幸田露伴 「遊行雑記」の相馬の部を読む
http://www.musubu.jp/somakoudarohan.html


ふつう「柄杓」「杓」と書く)水を汲むための器具。2を縦半分に切って使ったところからいう。ひしゃく。
ヒョウタン・ユウガオ・トウガンなどの果実の総称


瓢箪は中国では、伝統的に薬屋の看板
日本 養老の滝「生命の水」である酒の容器
瓢箪は永遠の生命を象徴するもの
壺中天(壺=瓠)




わたしの耳は貝のから
海の響きをなつかしむ・・・ジャン・コクト-

貝は耳ににている、貝は何か音を聞いている感じに見える。この詩は詩人が特別に感じたことではない、一般人でも別に作家だったり詩人だったりする、そういう素質をそもそも人間は生まれもっていたのだ。民衆の残したものに無数の民話とかも名もなき人が作家になったいたし詩人になっていた。なぜ貝が耳が遠くなったとききくと考えたのかのかそういう詩的な発想があったからである。
そして前にも何回も述べたように人間今でもそうだが病気が一番の悩み事なのである。病気の苦しみは今も一番の問題なのである。耳が聞こえないとなると日常生活で相当不自由するからそうした地蔵ができる。民間信仰が生まれる所以である。貝殻が信仰になったのは海で漁業などを生業としていたからそうなった。瓠をささげたのは長寿を願ってかもしれない、瓠、瓢箪にはそういうことが伝えられている。

名取郡の東多賀村の人が原釜で遭難した。その碑に名前が記されている。橋浦とあるがこれは橋浦家の人が何人か遭難した。ただ明治時代だから碑としては古いとは言えない。


橋浦 陸奥国桃生郡橋浦村 宮城県桃生郡北上町橋浦 奥州千葉氏の流れ。女川城主千葉氏の一族か


橋浦氏は桃生郡に橋浦村があるからそこから移住したのか?千葉氏系統なのか、とにかく橋浦という姓は名取郡にまだあるだろうからその子孫も生きているだろう。明治時代だからまだ子孫が生きている。海では必ず遭難がありそれを記念した碑がある。ただ書類で見るのと碑に記された文字を見るのとは違っている。碑はその場から具体的にイメ-ジされるからリアリティが生まれてくる。これは墓でも同じである。墓の不思議は家はなくなっても墓だけが残っていることがある。そうすると墓が過去を伝えるものとなっている。自分の実家の墓は家がなくなり墓だけが残っている。本当は静岡の方に中卒で金の卵で働きに出て故郷には帰らないはずだった。ところが交通事故になり実家はなくても実家の墓に入ることになった。すると本来は帰らない人が墓に入っているからその人が死んでもいるように意識するのも不思議である。もし墓が静岡の方にあったら墓参りだけで大変だからもう意識すらしなかったかもしれない、墓があるだけその人の存在がなお意識される不思議があるのだ。
記念の碑もそうである。石に記されただけでやはり歴史を伝える重みがでてくる。だからこうした石碑とか墓が郷土史研究では欠かせない生きた資料となるのだ。

新沼観音の飢饉の碑は古い、「春日さし遠き昔や飢饉の碑」という句を作ったときやはり碑が一つの生き物のように見るからこういう句ができる。しかし飢饉であれ災害は遠い昔とはならなかった。災害は必ず再来する、現実に新沼観音の近くまで津浪が来ていた恐怖である。相馬藩では飢饉で三分の一の人口がへったことがあった。それは延々と語り継がれている。それは最大の危機だった。そして今回の津浪と原発事故も相馬藩はないにしろ最大の危機に直面した。こんなとき町長とか市長になっていた人は大変だと思った。その責任も重大となる。ただ市長だけではどうにもならない、全体の危機だからである。この辺の苦悩は本当に深い、海では遭難は時折あるが津浪ほどの被害はない、津浪は村全体が消失するような被害だった。原釜は地形的に被害が大きかった。
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2012年03月06日

戦後十年は江戸時代の生活の続きだった (老人は過去の思い出に生きる)


戦後十年は江戸時代の生活の続きだった

(老人は過去の思い出に生きる)

実家は昔、米麹取り扱いの鑑札ももっている店だったのですが、つぶれてしまい、祖父は酒米・麹の関係で町内の蔵本「やまだい」に丁稚奉公に出され、後に番頭をやっていました。


祖父は、今で言う仕事人間で、退職するまではあまり家にいない人だったらしいですが、何でも自分で作る器用な人だったそうです。
http://www.arainodendo.com/konjaku/01teppo.htm


鉄砲風呂で風呂をわかすのが仕事だった。父は製材所から端(バタ)材を安く買ってきて鉄砲風呂の燃料とした。新聞紙などを入れてそのバタを入れて風呂をわかす。風呂とトイレは外にあった。風呂の水は井戸がなかったので近くの井戸水をもらいバケツで運んでいた。その水を運ぶことも仕事だった。竈とかが外にあり炭小屋があった。家はトタン屋根でいつも雨がふるとあちらこちらに盥を置いて大騒ぎだった。隣の家は魚屋で五右衛門風呂だった。近くには豆腐屋があった。自分の家も店屋だった。
最初は酒屋だったが次に子供相手の三文店屋を開いた。いつもクジがありクジのついたもの当たりはずれがあるものが売れた。その頃わんさかと子供が多いからそんな小さな店でもはやったということがある。駄菓子屋のはしりである。戦後10年くらいまでは日本人の生活は江戸時代の延長だったのである。赤穂浪士に討たれた吉良上野介が炭小屋に隠れていたというのはどこの家にも炭が燃料だから炭小屋があったのだ。炭焼きはどこの山でもしていた。炭焼きで山の生活は成り立っていた。今の燃料店はガスとか石油になるけどそれまでは炭を売っていたのである。


だからこそ町とザイは密接に結ばれていたのである。どこでも一つの自給自足経済圏として生活していた。石油とかは使っていないし学校でスト-ブに石炭をくべるようになったのが進歩だった。石炭は工業用であり普通の家では使っていない、それで常磐炭鉱は石炭で栄えた。小名浜は石炭の積み出し港であった。北海道でも小樽をはじめ石炭の積み出し港であり鉄道そのものが最初は石炭を運ぶ貨物の鉄道として作られたのだ。だからこの辺でも長い貨物車両が通っていた。確かに電気は通じていた。家にあったのは裸電球一つであり電化製品は一つもない、燃料は炭であり炬燵すら炭だった。だから炉端がどこの家にもありそこで栗などを焼いていた。そういう生活は江戸時代と同じでありその生活は今になると貴重な経験になった。団塊の世代の子供時代までがそういう生活を経験している。あとは急速に高度成長時代に入り忘れられてしまった。思うに高度成長時代以降に日本人でも文明的生活になったのであり戦後十年まではいわば原始的生活だったのである。その変化が余りにも大きすぎたのである。葛尾(かつろう)村などでは電気すらなかなか通らなかった。これは日本全国で山の方は遅れたのである。今になると信じられないかもしれないが、裏の堀の小川で洗濯物を洗っていたのである。これはまさに原始的生活だった。パリでも洗濯物をセ-ヌ河で洗っていた。洗濯物は川で洗うことは原始時代からつづいていたのである。


芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞く夜哉  松尾芭蕉


夕顔の白く夜の後架に紙燭とりて 松尾芭蕉

http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/bungaku/bashounowaki/bashounowaki.html


このサイトで説明されているように江戸時代の家と戦後十年の生活形態はにている。
後架はトイレは外にあった。だからこそこの句ができた。盥というものも今はないが昔は必ず雨漏りのために備えねばならなかったのだ。江戸時代のことが戦後十年の生活とさほど変わらないからこの句も実感できる。今はそういう生活を知らないから実感できないのである。もちろん紙燭というのは実感できない。懐中電灯は使っていたからである。夕顔の白い花が怪しく紙燭に照らされて仄かに浮かぶ、そういう皓々と電気に明るい世界とは違うからこそこの句ができた。風流は寒きものなりとか風流は不便な時に感じられる。今は余りにも便利になったから風流を感じない、車だったら外の風を感じないからそもそも風流を感じない、自転車だと風流を感じるし徒歩だったらさらに風流を感じる。そもそも歩く感覚を今や車時代で失った。歩いて見えるもの感じる感覚を失ったのである。これは江戸時代から綿々とつづいた人間の感覚の喪失なのである。それが意外と社会にも影響していることが大きいのである。


地に足がついた生活は戦後十年まではあったが高度成長時代から便利になり失われた。人間関係も大きく変わり金が大きな力を持つ社会に変貌したのである。つくづく地元で味噌や醤油を作っていても全国から味噌や醤油など入ってくる。米でもそうである。すると自分の好きなものいいものを選び買える、地元のものを買う必要がない、すると金が大きな力をもつようになる。戦後十年は地元のものを買うほかない、まだ今のように交通が発達していなかったからだ。豊になるには全国で売れるものを作らねばなれない、その土地の名産品を生み出せば通販でも全国に売れる。全国と世界とも競争するとなると並のものを作っていては売れないとなると売る苦労は大変なものになっているのだ。


自分の父は葛尾(かつろう)村から丁稚方向に双葉町の酒屋につとめ暖簾分けして移った。あまり商人向きではなかった。同じ酒屋で働いていた人がフィリンピンから戦争の引揚者で鹿島区の小池に入植した。戦後十年は働く場所がない、引揚者で人口が増えた。それで開拓に入った人たちが多かった。飯館村の大倉から草野にゆく所に「共栄橋」とあるのもあそこにあった二軒の家は開拓に入ったのである。一軒は廃屋となったが一軒は残っていた。ブラジルとかに移住したのも働く場所がなかったからである。働く場所がなければ人はブラジルまでにも移住するのだ。それは強いられた移住である。普通は人は移住はしない、住み慣れた所にいたいのである。人間の歴史は移住の歴史でもあった。アメリカ自体が移住民で作られたことでもわかる。いづれにしろ戦後十年は江戸時代からの生活の延長であり原始的生活の延長であったから今になると貴重な経験をしたとなる。生活の基本として原始的時代から江戸時代と変わらない生活だったのである。それが変わったのは高度成長時代からでありこの変化は余りにも大きすぎたのである。それゆえに人間の基本的となるものが破壊されたのである。家族でもコミニュティでも様々な基本となるものが喪失した。その変化は計り知れないのである。


ともかく老人は過去に生きている、過去を思い出すときあのとき生きていたなと実感するのだ。
思い出すことが仕事なのである。実際に家族も死んで失われたとき、本当に家族自体思い出すときあったとなる。人生はただ思い出としてあるだけになる。もう帰ってこない過去があるのみなのである。帰ってくるとしたら思い出として蘇った時だけなのである。現実に死んだ人はどんなことしても帰ってこない、ただ思い出の中にあるだけになってしまったのである。施設に入った老人が家に帰りたいというとき、帰宅願望は家族と共に暮らした過去の時間に帰りたいということであり実際はそうした家族はなくなっているからないのである。帰宅願望は過去の時間にもどりたいということでありもう実際にはそうした家族は思い出のなかにしかなくなったのである。父にしても中学生の時死んだから思い出すのも容易ではない、ただ鉄砲風呂の小屋を自分で作っていた。器用な人だった。昔の人は自給自足だとすると器用さが要求されたのかもしれない、その時ようやく水道が入り始めた時代でもあった。いづれにしろ人間の思い出は家を中心にしてその土地と密接に結びついている。もちろん戦後十年に住んだ家は新しくなり変わった。でもその家のことは思い出す、新しい家も築40年以上すぎてしまった。二つの家に住んだ。原発事故で故郷とか家を追われた人で老人にとって辛いものだった。老人が思い出に生きるとなったらその思い出となるものが土地でも家でもなくしたら思い出せないということがある。そして家には死んだ人がまだ生きている、長く住んでいたから家の中にまだいる感じがするのだ。そこに家の重みがあった。放浪に生きる人もいるが普通は家のなかで故郷の中で生きて死ぬ、それで老人になると家が大事になる。家で死にたいというのはそこが自分と一体化した場所だったからである。

我が手にて鍋料理して凍み豆腐入れて味わう母も介護して

過去を思い出すというとき今や家事全般を自分一人でやっている。料理を覚えるのは大変なことである。だからほとんど料理はしていない、でも鍋料理を食べたいと思い市販のものを買い作ってみる。そこにどうしても凍み豆腐を入れる必要があった。それを忘れていたのである。
この凍み豆腐がかみしめてその味が鍋料理の味だった。つまり料理の味すら思い出としてあるようになる。お袋の思い出が家庭料理にあるようにお袋の味にあるようにその味が思い出となっているのだ。そこにお袋の味がしみこんでいたのである。それがなくなったとき自分で作るときその凍み豆腐の味で過去を思い出す、料理も過去を思い出す作業だった。今はインスタントでいいものができているからお袋の味というのも消える。しかし人間が最後思い出だけになるときその思い出は淋しいものとなる。漬け物の味でもそうである。そこにお袋の味がしみこんでいたのである。老人になるとそうした思い出に生きるから思い出豊だった人生は豊かだったのである。現代は便利なのだけどそうした手作りの味とかが消えて金で買うだけのものになったから思い出に残るものが少なくなることは老人になってから思い出になるものが少ないとなる。それは豊かな人生だったとは言えないともなるのだ。

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2011年08月09日

家という建物の歴史(土地や家に愛着するのはなぜか)


家という建物の歴史
(土地や家に愛着するのはなぜか)




家という建物の歴史


裸電球一つが灯っていた
北風がうなっていた
ヒュ-ヒュ-と北風が吹き込んだ
布団にくるまり寒い寒いと寝た
その頃暖房は炭だった


トタン屋根の古い家だった
雨漏りがして洗面器を家中に置いて大騒ぎ
道は舗装されていず砂ぼこりがあがる


この家は二度も水害にあった
土地が低く堤防がまだ安全ではなかった
家はめちゃくちゃにやられたが
辛うじて残った
子供のとき泣いた


その時どうしても二階がないので
ものを二階に運べず逃げられなかった
だから二階のある家を建てようとした
そして大きな二階のある家を建てた
それを姉は自慢していたが
その姉も死んだ


その家を自分が引き継いだが
今度の地震で瓦など壊れたが
40年過ぎてまだ使える
ただ大きな家だが住める
死ぬまでここに住めるだろう

水害はもうありえないだろう
安全な堤防ができたからだ

こうして家にも歴史がある
家には歴史の重みがある

もっと古い旧家なら大黒柱が黒光りして
江戸時代からの歴史を語るものもある
この頃の家は寿命が短い
それだけ家の歴史の重みが残らない


何事過去をふりかえって今がある
家一つにも歴史があり
家は実際は風雨に耐えて残っている
この家もがんばってくれたなとか
そういうことを思うのは家にも歴史があるからだ



最初住んだ家は平屋で古いトタン屋根のいかにもヤハな感じのする家だった。この家は最初、人に貸していたことがあった。長屋みたくなっていた。それでそのことを姉は語っていた。自分が生まれたときは長屋ではなくなっていた。子供のとき小学生頃までは燃料は炭だった。その頃生活は江戸時代とたいして変わりなかったのである。そういう生活体験があることは今になると貴重である。あまりにも変わりすぎたからである。家には裸電球しかなく、電気製品はなにもない、飯台一つを囲んで家族で食事していた。これは自分の家だけではない、他でもみんな同じだった。小学生から中学校になるころテレビがでてきてその頃から急速に変わりすぎたのである。水害は二度経験している。自分の土地は低くて一番被害が大きかった。よく流されないと思った。電柱があって流れたものがそこにひっかかり辛うじて残ったのである。その頃真野川は安全な堤防が作られていなかった。二度目の水害の時もそうだった。それから安全な広い川にして堤防も頑丈になり水害はなくなった。


家一つにもこうして歴史があるとき家そのものに愛着を覚えてくる。家にはそれぞれ歴史があり郷土史がその個々の家からはじまるというのはそのためである。特に祖父母から聞く話から郷土史がはじまるというのはそのためである。こうした歴史をふりかえるのは必ず今を見直す、今の価値を見直すことになる。原発事故があったけどこれもなぜそうなったのか、そこにはやはり40年くらいたっているからその歴史を見直すことからはじまる。何かを語る場合、批判するにしても歴史的に語らないと本質的なものが見えてこない。人間は歴史的な継続の中で生きているものでありその歴史が喪失すると現在のこともわからなくなる。津浪にしても貞観津浪の再来だったことがわかった。その歴史が見逃されていたのである。千年前に大きな津浪が来たということを東電に学者が言っていて注意をうながしていたのである。だけど東電では笑ってとりあわなかった。そこにやはり歴史的に思考することが欠けていたのである。


人間は目先の利益に眼を奪われるだけではなく、先の長い眼をもつ必要がある。そのためには過去のこと歴史的思考を身につけることである。ところが人間は目の前のことに心がすべて奪われる、すると過去のことは見えなくなる。過去が見えなくなることは実際は未来も見えなくなっているのである。過去と未来は一体なのである。現在と未来が一体なのではない、過去と未来が一体なのであり現在から未来は作れないのである。今の問題は過去を掘り下げることにもなる。地震の液状化になったところは昔は沼だったとか今回の津浪に襲われた所はほとんど開拓されたところでありそこは海だった。その海にもどったというのもその一つだったのである。どなん小さな村でも町でも日本では長い歴史がある。だから双葉町でも今回原発事故で避難した市町村の人達が故郷に帰りたいというとき、自分のような二代目くらいでもこうして歴史をふりかえるのに長い歴史をもって生きてきた人は愛着があり帰りたいというのはわかる。他に移ったらその土地と共にあった歴史が失われる。だから先祖代々の土地から離れたくないというとき、そこには自分の家よりも長い歴史、江戸時代から農家をつづけてきた同じ土地でしてきた人がいるからそうなるのである。

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2011年07月07日

復興大臣-松本龍は世良 修蔵か(踏みにじられた東北の歴史)


復興大臣-松本龍は世良修蔵
(踏みにじられた東北の歴史)

●東北人が踏みにじられた戊辰戦争


大東亜戦争以来六十年は動乱を経験していない、動乱とは何かわからない、戦争を経験した人は知っている。戦後生まれの人は社会がこれだけ動乱になることは経験していない、でも動乱は常に歴史にはあった。明治維新がそうでありこれは最大の日本の動乱だった。その時何が起こったのか、東北の最大の動乱だった。錦の御旗をふりかざして官軍が東北の地に攻めのぼってきた。東北はその時同盟して抵抗しようとしたが果たせなかった。相馬藩はいち早く官軍に降った。そして仙台藩と丸森で戦うはめになったのである。この時も東北の諸藩は混乱状態におちいった。三春藩は裏切ったとか会津は最後まで戦い敗れて焼け野原にされて敗残の兵は青森の荒野に等しい下北半島に追われた。そういう悲惨な歴史が何度も会津では語られている。



相馬藩降伏(1868/08/07)と戦死傷者

家中 17人。 給人郷士 69人。 足軽 16人。 農兵 12人。 夫卒 11人。
負傷 129人。   相馬兵の多くは棚倉城攻防戦で戦死。    (出典:相馬藩政史)
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/info/boshin.htm


百人くらい相馬藩士が死んだ。農兵も十二人いた。仙台藩は大藩だったけど見かけ倒しであり西の進んだ装備の西洋式軍隊に敗れた。こういう動乱のとき少年兵までが狩り出される。会津白虎隊とか二本松少年兵がそうであった。装備がないから肉弾戦で最前線と戦わされ討ち死にした。戦争中の特攻隊である。ぎりぎりになればやはり日本は特攻隊になる。
そして貞観津浪があったときも大和朝廷軍に蝦夷(エミシ)が踏みにじられたときであった。それはおそらく大和朝廷から使わされた人々も津浪にのまれ死んだ。多賀城市の被害も大きかった。この時も動乱の時代だった。動乱は天変地異とともに起きてくる。津浪は東北に日本に動乱をもたらしたのである。東北列藩同盟などが騒がれたが今も東北は一致団結すべき時でもある。


●復興大臣-松本龍は世良 修蔵


仙台藩としては丁重にお迎えしたのだが、宮様はとにかく、
参謀としてやってきた世良修蔵というのが何やら異常に
威張っている。しかも、連れてきた軍隊というのが、たかだか
500名である。それで、数十万の兵力を持つ東北諸藩に
命令を下そうというのである。
仙台藩はあきれてしまった。

しかも、もっとあきれたことには、世良修蔵という人物、
元々は士分でもなく、出身は漁師もどきだという。
長州では奇兵隊という、身分にかかわらず作った軍隊が
あり、その中で出世したのだというが、そういうものが
公家を頭に置くだけで、仙台藩主に対等どころか
「会津を討て」と恐喝まがいの言葉を発するのである。


こういうとき政府から使わされた復興大臣が松本龍でありまるでごとき暴言を吐いて息巻いた。政府の力を見せつけるように宮城県知事に向かった。そのニュ-スを東北放送はあえて放送した。やはり東北の意地をみせつけたのか?東北は今明治維新の時のように受難の時なのである。だからの世良 修蔵ような人物が東北に乗り込んできた。そして言いたい放題ということである。明治維新の時も九州辺りからもこの相馬藩で戦い死んだ武士がいる。その墓が祀られていて福岡辺りから来た人が感心して語っている。敵なのに墓として祀っているということである。この時の動乱は侍だけではない庶民もまきこんでいた。遊女が薩長に体を売ったとか会津藩に殺されたりした。

白河は一時会津藩に占領される。世良とほんの一時過ごしたというだけで、志げ女は、世良を憎んでいた会津藩兵により、殺害される運命となった。
戦争とはこういうものだろう。遊女は当時の政治のことなどわからない、会津藩もそういうとき血に飢えていたのかもしれない,理性を失っているのだ。動乱ということはそういうことである。


●戊辰戦争に負けた東北への酷い仕打ち


東北は常に踏みにじられてきた。蝦夷(えみし)の時代からそうである。鎌倉時代も鎌倉幕府に平泉の藤原政権は敗れた。明治維新でも会津は悲惨であり薩長に踏みにじられた。その無念は延々と語り続けられる。「白河以北一山百文」というのもそうである。だから松本防災相の暴言はまさにそのことを想起させたのだ。それも弱いとき苦しんでいるときそういう言葉を良く吐けるものである。今ままでのような平和な時代でないから動乱の時代だからそういうことも起きてきた。動乱の時代だから何が起きるかわからいない、そしてこういうとき情報が混乱するのだ。

志げ女はそうした時代の犠牲者だった。原発事故でもそうした犠牲者がすでに何人かでている。福島県で礼儀正しく対応したのになぜ宮城県ではあんな不遜な対応になったのか真意がわからなくなる。東北人をさかなでするようなわざと怒らせるような暴言をはいた。復興に熱心だったという裏返しなのかその真意が計りにくい、動乱の時代にはそういう人もでてくる。


津浪であれ原発事故であれこれだけ東北人が呻吟している時はない、 歴史はくりかえすというときこれもそうだったのかもれない、世羅修三の再来だったとなる。24才くらいだからその任にあたるのがむずかしかった。でもそのくらの年の人が明治維新を成し遂げた。若さがないととても生死を賭けてやれない、自分も年だからこうした動乱にはやはり若者が活躍すべきだと思う。老人はやはり動乱に弱い、だから避難して死んだ老人の数は百人以上よりかなり多い。動乱のときは強力な指導者が必要になる。つまり英雄がててくる必要がある。優秀な指導者に指揮されないと民衆は前の戦争のようにひどい目にあう、それが民主主義ではできにくい、結果として自ら民衆が苦しむことになる。
明治維新では英雄が多数排出したように動乱の時代はそういう傑出した人が要求されるからである。

東北列藩同盟というときそういうことも必要になる。東北全体で復興で取り組むとするとそういう一体感が必要になる。動乱の時は平和時にないことが次々と起こる。互いの連帯や共同も起きてくる。それは各地に避難した人たちも体験した。これだけ大勢の人間が移動したということを経験していない、南相馬市の鹿島区でも人口が一挙に5000人とか増えるかもしれない、これだけ人口が増えることの影響が大きい、他の津浪被害を受けた所も大勢の人の移動が起きている。仙台ではアパ-トも借りられない状態になっている。仙台には人が集中しやすいのである。



 
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2011年03月06日

醤油もまともに使いなかった昔の貧乏と今の貧乏の相違-島木健作-地方生活を読んで


醤油もまともに使いなかった昔の貧乏と今の貧乏の相違

島木健作-地方生活を読んで


醤油を日常的に使うようになったのは大正後半期からである。そ[さまでは客が来ると瓶をもって買いに行くという風であった。

砂糖は正月、盆、祭り以外に食わなかった。


塩鮭は正月用、客用の食い物だった。


大正十二三年ころまではかて飯が普通であった。屑米に大根のかて飯が常食であった。


部落中の家々のことはかまどの灰の下までおたがいにわかっているとういうふうであった。


一軒ごとに風呂をたてるということはしない、二軒ないし四五軒で交替にたててもらい湯をする
ある部落では二三十軒で共同風呂をたててきるところもある。

地方生活(島木健作)



醤油すら買って使っていなかった、大正の始めころまでだったとすると明治時代は当然醤油を日常的に使っていない、醤油を使わない食生活があるのか?醤油は贅沢品だったのである。醤油はごはんにかけただけでもうまいとなる。もちろん砂糖は贅沢品だから使っていない、砂糖がない生活は今は考えられない、砂糖を極力ひかえようとしているのが現代である。砂糖のとりすぎは体に悪いとかなっているからだ。腎臓悪くしてから醤油には塩分が多いから自分はひかえている。味噌汁も塩分が多いから良くないと思って今は自分で作れないので作っていない、糖尿病でもそうだが今はいろいろな栄養分をひかえないと病気になる時代である。ところが明治から大正くらいまでは醤油すらいつも使っていない、醤油が贅沢品だったということが考えられないのだ。

大正生まれの人が長生きなのは粗食であり忍耐強い生活を送ってきたからかもしれない、団塊の世代になると贅沢を覚えたから栄養過多になっているから意外と長生きしないかもしれない、栄養過多から来る病気が思った以上多いのである。いろいろなジュ-ス類などより水のが方が体にはいい、腎臓には水を飲めと言われて病院では二リットルの水を飲まされた。ジュ-ス類でもコ-ヒでも酒でもビ-ルでもこうした飲み物は肝臓とか腎臓で濾過しなければならないからそうした臓器は長年の間に弱ってくるのだ。水だったらそういうことはない、61才の社長が一人自宅で死んでいたという、肝硬変だった。酒類を飲み続けると肝臓が弱ってくる。腎臓もそうである。水が体に一番いいのである。現代の病気は栄養過多になり体が吸収する以上の栄養をとりすぎて病気になりやすいのである。それだけ食べ物があふれているからどうしても栄養過多になっているのだ。パンなどもご飯よりかなり栄養価が高いのだ。パンにはすでにいろいろなものが入っていて栄養価が高いのである。


大正時代ころは白いご飯を普通に食べられない、大根まぜたかて飯だった。団塊の世代の子供時代は麦をまぜた飯でありまずかった。麦を入れるとご飯はまずくなるのだ。米を作っている農家の人ですら 白い飯を大正時代ころまで食っていない、屑米に大根飯である。それほど貧しい生活だった。子供の頃は良く塩鮭を食っていた。今は鮭は贅沢品ではない、今の食生活は本当に殿様並である。それは金がないという生活保護所帯でも食べるものはそんなに変わっていないのだ。その当時からする栄養過多で悩んでいる現代人を想像もできないだろう。過去には確かにすでにロ-マ帝国では美食になりそれが滅びる要因ともなっていった。ロ-マ人はみんな農民の出身であり質実素朴でありそれがロ-マ帝国の基はなっていた。それが富がロ-マに集まり美食となり堕落して滅んでいった。粗食であっても人間は質実で素朴なときは社会も健全だということがあった。80代以上の人は遊ぶことをしない、消費はしないが質実堅実な正直な律儀な人が多い。義理人情に篤い人のことを書いたが人間としてそういう日本人が多かった。明治大正から昭和前期の人にまだそうした人々が多かった。類型的に人間が違っていたのだ。それは江戸時代から明治と受け継がれた日本人的ないい面を受け継いだ世代だった。それが70前からになると団塊の世代でも贅沢を覚えたから全然違っている。日本人的伝統はこの世代で全く絶えた。ただ高度成長の金だけを追求する世代となったのである。だから金さえあればいいとなり助け合うなどということはない世代である。他者を蹴落としまでのしあがれ金をもうけろというモラルしかない世代である。


一軒ごとに風呂をたてるということはしない、二軒ないし四五軒で交替にたててもらい湯をする
ある部落では二三十軒で共同風呂をたててきるところもある。


人は貧乏だとかえって助け合う、これも節約するために助け合わざるをえなかったからこうなった。豊になれば一軒一軒風呂があるのだからこんなふうに助け合わない、そして金さえあれば何でもできるとなり互いに助け合うことはない、金で買いばいい、人の助けも金で買いばいいとなり人は助け合わなくなる。でも実際はすべて金で買えるわけではない、つくづく人間はお茶一杯出すのでも心がこもっているのといないとのでは雲泥の差がある。でもお茶一杯出すのには見た目は変わりないのである。しかしその差はものすごく大きい、金ももらってしぶしぶこの金もっている嫌な爺婆を世話しているんだよ、すべては金のためだそれ意外何もない、できたら爺婆が金たんまりもっているからごっそり貯金から盗ってやりたいんだよ・・・とか心で思っているのが普通だとすると現実にいつかそうなるから怖いのである。現代で人々が無縁社会とか助け合わないのは豊かだから助け合わないという皮肉があるのだ。


今の日本の貧困は中進国の貧困より実はたちが悪い。
一度贅沢な暮らしを経験してしまうと気持ちが抜けられないため、余計に惨めになっている。
周囲の目も違いすぎる。
中進国の貧困は地域や親戚などのコミュニティで物々交換で互いに守り合い、人々は明るい。
戦後の日本もそうだった。

今の日本の貧困はやや金があっても完全に孤独でむしろホームレスに転落しやすい。
福祉の力を借りない真面目でプライドだけ高い人も多い。
ひょんなことで限界に来る。


現代の貧乏は前にも書いたけど昔の貧乏とは大違いである。贅沢を覚えたために不足する貧乏なのである。そもそも貧乏というのは見えなくなっている。誰もボロボロの服など着ている人はいない、だから貧乏な人など見えないいないと思っているが現実はそうした普通の暮らしをするだけで給料が減ったりすると大変になっているのだ。だから借金している人が本当に多いのである。借金しないと普通の暮らしができなくなる。それも辛いことなのである。かえって現代の貧乏はみんなが貧乏な時代より辛いとなっているのだ。田舎なら車なくて生活できないとかなるが実際は街中に住んでいれば暮らせないことはない、でも街から離れると車なしでは生活できなくなる。田舎でも普通の暮らしをするとなるとコストがかかる時代なのである。


古本で買った「地方生活」は当時の暮らしがわかりやく書いてあったから面白かった。
たまたま古本市で買ったのである。

部落中の家々のことはかまどの灰の下までおたがいにわかっているとういうふうであった

プライバシ-はなかった。何を食べたかまでわかるから贅沢したらすぐわかる。今はみんな食べ物ではたいして変わらないからわからない、
でも車などいいのを持っていると相当に注目されうらやまれるだろう。これは豊かな時代でもつづくのである。人間の欲はきりがないから必ずもてるものもていなものがあり格差がうまれそういう気持ちがなくなることはないのだ。持ち物だけではない、一体女性なら美貌でありスタイルであれ男なら才能であれ必ずなるものとないものがあり妬みが起こる。そういうことはなくならないのだ。


他には川が汚水で汚れていてチフスや伝染病にかかる人が多かった。井戸水も汚れていて飲めないところがあったとか水に苦労していた。水は今簡単に水道で使えるが水がないということはやはり井戸水だけでは難儀していた。そうしたいろいろ難儀することは今と比べるとその相違がわかってくる。水道はありがたいものだとか思わないが水に苦労していればそうなる。
つまり人間はつくづく苦労しないと苦労して手にいれたものでないと金でも苦労して稼いでいないとそのありがたみがわからないのだ。遺産なんか苦労せずに天から降ってくるように入ってくるものだから問題が生じる。労せずして入るから問題になる。自分で苦労した金は違っているのだ。交通事故でも今度は自分が責任者となり交渉しているからそれで入った金は自分が稼いだような気分になる。明日は仙台の交通事故の調停センタ-に出かける。50万では安すぎる。百万以上にはなるといっていたが交渉したいになる。それなりに自分で苦労して得る金は違っているのだ。

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2011年02月11日

葛尾(かつろう)村で野馬追いの草鞋作り

葛尾(かつろう)村で野馬追いの草鞋作り

山の暮らしでは葛尾(かつろう)村で野馬追い使う草鞋を作るところを放送していた。特別な草鞋で野馬追いに使われるようになった。


刈り取った稲わらを乾燥させ貯え、農閑期の冬、翌年に自分が使う分だけのワラジを作ったといわれる。わらを編み、結び、自分のための自分に合ったワラジを作る、その行為は翌年も農作業を快適に行なうことの祈りが込められていた。ワラジが奉られていることが珍しくないことでも、豊作の願いをワラジに込めていたことが理解できる。
http://www.asics.co.jp/walking/concierge/waraji/01/


野馬追いに使う草鞋を冬の暮葛尾(かつろう)村の人の作りぬ


農家の人は冬は仕事しないと言っていたが草鞋作りなどをしていた。靴がない時代は草鞋だった。草鞋は実際に大事なもので草鞋祭りがあることでもわかる。


夜なべ
http://sogyusha.org/saijiki/03_autumn/yonabe.html


明治44年に出版された唱歌の国定教科書には「手本は二宮金次郎」という歌が載せられました。

  
芝刈り縄なひ草鞋をつくり、親の手を助け弟を世話し、
   
兄弟仲よく孝行つくす、手本は二宮金次郎。

   骨身を惜まず仕事をはげみ、夜なべ済まして手習読書、


 酒匂川の堤防工事に、尊徳は父の代わりに出るのですが、1人前に働けません。申しわけないと思い、夜なべでつくったわらじを村人にはいてもらいます
http://www.moralogy.jp/moralogy/cocoro/nm/nm246_01.html


樹木とその葉(草鞋の話 旅の話) 若山牧水
http://www.aozora.gr.jp/cards/000162/files/2211_20321.html


 私は九文半の足袋を穿く。さうした足に合ふ樣に小さな草鞋が田舍には極めて少ないだけに(都會には大小殆んど無くなつてゐるし)一層さうして捨て惜しむのかも知れない。
 で、これはよささうな草鞋だと見ると二三足一度に買つて、あとの一二足をば幾日となく腰に結びつけて歩くのである。もつともこれは幾日とない野越え山越えの旅の時の話であるが。

千曲川の流域から荒川の流域に越ゆる間など、ほゞ二十里の間に郵便局といふものを見なかつたのだ。

今度通つた念場が原野邊山が原から千曲の谷秩父の谷、すべて大根引だいこんびきのさかりであつた。枯れつくした落葉松林の中を飽きはてながら歩いてゐると、不意に眞青なものゝ生えてゐる原に出る。見れば大根だ。馬が居り、人が居る。或日立寄つた茶店の老婆たちの話し合つてゐるのを聞けば今年は百貫目十圓の相場で、誰は何百貫賣つたさうだ、何處其處の馬はえらく痩せたが喰はせるものを惜しむからだ、といふ樣なことであつた。永い冬ごもりに人馬とも全くこの大根ばかり喰べてゐるらしい。
 都會のことは知らない、土に噛り着いて生きてゐる樣な斯うした田舍で、食ふために人間の働いてゐる姿は、時々私をして涙を覺えしめずにはおかぬことがある。


草鞋は今の靴と同じだから大事なものだった。だから草鞋はどこでも作っていた。夜なべの仕事として作っていた。戦後まもなく上萱でも草鞋を作っていたという、その頃は草鞋を作っていても使われなくなっていたろう。それでも草鞋を作ったから買ってくれと言われ買ったとか言っていた。今は山の暮らしとか何をしているのか見えない時代である。昔はそもそも自給自足的生活となるとその狭い村でもそこで暮らすほかないのだからどんな暮らしをしていたか外から来るものでもわかったのである。

牧水の旅の記録は興味深い、足に合ふ樣に小さな草鞋が田舍には極めて少ないだけに・・・というとき今だって自分にあった靴を探すのは苦労するのだから同じだった。ただ草鞋は痛みやすいから一日で履き替えたとか長持ちするものではなかった。だからたくさん作る必要がありもっても歩いていた。草鞋にまつわる話しはその歴史も長いからいろいろあるだろう。こうして草鞋について調べるとそれだけで草鞋のことがわかる。

二十里の間に郵便局といふものを見なかつた・・・というのもその当時郵便局すらなかった。郵便局は最近まではどんな辺鄙な所にもあり一番目につくのが郵便局だった。最果ての与那国島でも船をおりたら郵便局があった。その郵便局も辺鄙な地方に行くとなかったのである。
今は電話から携帯となっているから時代は通信の面では変わってしまった。山で遭難しても携帯で連絡して助かった人もいた。
でも旅するなら不便でも牧水のような旅が本当の旅だった。その土地土地で漬け物だけはうまかったというのはわかる。その土地の味が漬け物にあったのだ。今はそうした味すら一様化しているから土地の味を味わえないというとき何も漬け物だけではない、土地の味が一様化していることが旅を面白くなくしてしまったのである。


俳句を調べると


こそこそと草鞋を作る月夜ざし 凡兆


泣く泣くも小さき草鞋求めかね 去来


これは女性であり自分にあった小さな草鞋がなくて困った。今も自分にぴったりあう靴を探すのは苦労だからここは時代が変わっても変わらないものがあった。月夜ざし・・・というのは夜なべして草鞋作りしていたから月の光がさしこんでくる。

こうして草鞋について調べるとそれだけで草鞋のことがわかる。インタ-ネットは編集しながら読むとき活きてくるのである。これは本ではなかなかできない、牧水のこの文だって全集がないと読めないしそんなに本もそろえられないし第一どこに草鞋についての文があるからわからないから本は調べるのには不便である。
posted by 老鶯 at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降