2014年11月08日

自分の近辺の昔 (天明の碑がありここも古い場所だった)



自分の近辺の昔


(天明の碑がありここも古い場所だった)

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秋葉神社も荒れ果てている。でもこんてふうに墓が倒れていたのは自分が子供のとき遊んだ時と変わりないのである。この墓の上をはねまわって遊んでいたのである。
つまりここの墓は60年前と変わりないのである。
ただ何か変わったのか?そこに生きた人々の生活が変わりすぎたのである。
例えば農家がありそこには馬を飼っていた昔ながらの生活をしていた。
養蚕は町内でも農家がありこの辺でしていた。
町内でも農家があった。

1702 元禄15年
1710 宝永07年
1715 正徳05年 家継 長崎貿易制度令(正徳新令)
1716 享保01年 吉宗 徳川吉宗、将軍となる(享保の改革)
1758 宝暦08年
1767 明和04年
1772 安永01年
1782 天明02年 〃 天明の大飢饉
1787 天明07年 家斉 天明の打ちこわし。 松平定信、老中となる
1808 文化05年

宝永の碑は自分の墓のある鹿島御子神社の脇の墓地にある。
あそこが鹿島町では一番古い場所である。
その前に立った復興団地は地盤が悪く沼地だったろうは言っている。
街中でもそういう場所があった。町と言っても回りが田んぼや畑だったのである。
沼地もあるし淋しい場所でありそれはどこでも同じである。
だから田町とか町田とかの地名が残っている。

人間は自分の住んでいる最も身近な所を知らないという不思議がある。
灯台下暗しなのである。今の時代外国に詳しい人がかなりいても地元の最も身近なことを知らない人が多くなっているのだ。
常に外へ外へ遠くへ遠くへと目が向けられるようになったからである。

子供のときからふりかえると何か失われたかというと近辺の生活そのものが失われてしまったのである。
自分の家でも子供相手の駄菓子屋からはじまった昔で言う三文店屋だった。
その頃菓子でも何でもバラ売りであり計り売りだったのである。
袋は新聞紙で毎日作っていた。

これはインドとか中国でも後進国に行くと同じ生活があるからなつかしいとなる。
昔を知りたかったら後進国にゆくと昔に帰ったような感じになるから不思議である。
インドのベナレスの狭い路地を行ったらあそこは昔と今と太古すら混在している。
野良牛が歩いていている。野良猫がいて野良犬がいるのはわかる。
でも野良牛がいるというのはありえない、インドでは牛は大事にしているし猿など動物を大事にしている。どうもインドで仏教が生まれたのはこの動物と深く関係していたのである。飢えた虎に子供が食べられるというので生身の人間が虎の餌食にあえてなったという法華経の話でもそうである。それだけ動物を大事にして動物とのかかわりで仏教が生まれている。

犬でも猫でも飼ってみればわかる。犬と猫は極めて人間に近いのである。
野良猫の子供かきて困っている。オスの親がいてついてくる。オスは子供に関心がないと思っていた。餌をやっていると子供に優先して食べさせたり頭をなでたりしていたからやはりオスでも子供とみているんだなとわかったのである。
母親はいなくなった。でも雨の日だった細い家の裏を子供つれて餌を探していた。
それは悲痛な表情をしていたのである。餌がなくて困っていたのである。
それは何か人間の母親と同じに見えたのである。
犬猫になると実際は人間化している。だから墓までいたるところに建てられるようになった。
ホームレスがペットより人間を大事にしろというのもわかる。でもペットも人間化しているのである。

そこでは炭が積んであったからまだ燃料として炭を利用している。それでも白黒のテレビで子供がゲームをしていたのである。その辺が現代と同じである。
牛の糞も燃料として干されているのも不思議である。今と昔が混在しているのがインドである。
バラックの小屋で店を出したりしているのもそうである。それは江戸時代のような雰囲気もある。江戸時代の店もそんなものであり棒振りなんかも何も資本もいらないでできるのが多かった。今はあまりにも何でも大がかりだから個人単位ではできなくなったのである巨大資本の系列に入るコンビニやスーパーになってしまった。
その時街でも村でも近隣に密着した生活は喪失した。

近くに豆腐屋があり魚屋が酒屋があり駄菓子屋があり神社には子供が山のように集まって遊んでいたとか何かそうした地域の活気が喪失した。地域が死んでしまったという感じになる。その路地を通っても今はほとんど歩く人はいない。
昔はそれなり歩く人がいた。生活の匂いというのが街からも失われたのである。
店だって近所にあって繁盛していた。だから近くが活気があったのである。
映画館などがあり駅に通じる細い道には店があり繁盛していたのである。
それらが全くなくなってしまったとき地域からも活気がなくなった。
それはこうした一地域のまた一地域だけではない、全国規模でも東京一極集中で地方は衰退した。スーパーでも農協とかが駅前にあったがなくなりイオンのような大きな所に車で集まる。車社会になれば遠くでも行けるからである。

近くにあった水をもらった井戸も枯れている。何かその井戸が今は象徴している。
その井戸水をもらってバケツで運び父が作った離れの風呂桶に入れて自分がバタなどを集めてたきつけて風呂たきしていたのである。
その頃まだ水道がなかったのである。
だからその時井戸があるということはその井戸はその家のものだけではないみんなのものとしてあることがあり近隣のつながりもできていたのである。
そういうふうに何か近隣とのかかわりが生活から失われた結果として活気がないし人と人の綱かりもなくなったといえる。
ではそうした子供時代がありそれは江戸時代からの継続でもあった。炭を使っているということはそうなる。ではここにある天明の碑があり文化の碑もある。
法印とかの墓もある。でも天明時代は飢饉の時でありこの町でどんな状態だったのだろうかとなるとわかりにくいのだ。
近くなのに江戸時代の暮らしなるとなかなかイメージできないのである。
町内でも相当に困窮したから天明の碑が残っている。
ただ町の場合はあとから移り住んだ人たち多いだろう。
自分の家もそうだった。もともと酒屋だった。この辺に農家があったからそういう家は古いのである。

ただ天明の飢饉でも江戸時代のことをこの辺で語り伝えるものはない。
なぜか鬼風という俳人がいて全国を旅した記録がある。
俳句などを作れる人は今ならいくらでもいるが江戸時になるとたいがい裕福な商人であり普通の人は作っていない、第一文字を書ける人はそんなにいなかったからである。
たからそれだけの教養があるとなると裕福な商人でないとできないとなる。
そもそも全国を旅できたということが裕福だからできた。長崎までも行っていたからである。
今なら誰でもしているが江戸時代そんなに旅することはできない、自分が旅もできたのはやはり家に余裕があったからできた。
普通の人でも外国に行かない人はいないのである。
会社で行っているからそうなる。

ともかくこうして近くでも道も死んでいるし生活も失われて活気がない、人のつながりもない。ただ六号線は夜中まで車がひっきりなしに通っている。
夜まで何しているのかと思うくらい車が通っている。
だから車社会だとつくづく思うのである。近くの生活は活気を失い衰退した。
車社会だからこそ道の駅に人が集まる。
今はこの編では全国から人が集まっている。ナンパーみればわかる。
そういう点では活気がある。その他は地方でも地方の一地域でも活気が失われたのである


タグ:天明
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2014年10月14日

古い道と新しい道(古町のことなど)


 
古い道と新しい道(古町のことなど)

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抽象画(古い道と新しい道)
http://musubu.sblo.jp/article/104552247.html

道には古い道と新しい道がある。道も変わり安いのである。古い道は古い通りは忘れられてゆく、相馬市は城下町だから道が碁盤上になっていてそれほど変わっていないのだろうでも駅前通りはまっすぐだったのかわからない。
昔の道は曲がっていた道が多い、鹿島駅からますぐな道は新しいかもともと脇に入った細い道が昔の道でありそこに店屋があり映画館があった。
日立木の道の駅でいつもたねろしている老人は日立木の生まれで学生のとき鹿島の映画館によっていたという。映画館という言葉自体死語になった。
映画で動画のニュースを見ていた時代があったのだ。そのニュースは相当に遅れていた、テレビのようにリアルタイムのニュースではない。フィルムを汽車で運んでいたとなるとそうなる。あのころは時代劇全盛の時代だった。。鞍馬天狗とか良く見ていたのである。嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう)今でも覚えている。
ともかく老人になると昔の話を語りあうことで妙に同胞意識をもつのも不思議である。
昔の話があわないとやはり何か友達にもなりにくい。
家に来た二年くらいしか年が違わない農家の出の人の話は本当に面白かった。
同時代だから話があったのである。

道にも古道があるが町にも必ず古町がどこにでもある。都路に古道とあるのはその道が古い道になったからである。
どこの街でも古町があるのはそこがもとは栄えていたからである。
南会津でも古町温泉とかあり地元の人が入っていた。
ここが古町だったのかと山奥だから不思議に思った。

会津田島駅発内川行き → 針生 → 山口 → 古町温泉入口下車(乗車時間約1時間) 
福島県南会津郡南会津町古町 字太子堂186-2

古町温泉赤岩荘
http://www.sayurinosato.co.jp/akaiwa/access.php


古町や会津の奥の湯秋の暮

ここに自転車で寄ってこの風呂に入ったのである。写真を見ると赤い岩の温泉だった。
旅の面白さはこうしてふらりと地元の人しか入らない温泉などに入るとなつかしく思い出す。まずホテルなどに泊まったら旅情が今はないのだ。豪華な温泉にとまってもそうである。旅は別にそれほど金がなくてもできる。
何度も言っているけど金より時間なのである。それと体力があるといい、自転車だと最近何か筋肉か疲れて原町に行っても筋肉痛になっているのだ。
これではもう長い旅を自転車でははできないと思った。
あの辺で栃餅を売っていてうまかった。柳津で粟餅だった。自転車で旅していたらただでもらったりした。その粟餅屋が火事になったのには驚いた。
自転車の旅だと何か車とは違い目にとまり話かけられたりする。別に金がないわけではないがそんなふうにしてくれるというのも思い出に残る。
旅というのは道が二つに分かれていたとすると本当はこの道を行ってみようかと思いがけないと所に出るの面白いのである。今は車で道があらかじめ決められる。
何か旅自体が道(未知)への旅がなくなった。どこもあらかじめ知られているという感しになって観光地に行ってもつまらないという人が多くなったのはそのためである。
芭蕉がみちのくを旅したのは全く未知の世界だからこそ「奥の細道」を残したのである。

まず日本では道がまっすぐな所は少ないだろう。何か曲がりくねっている。高度成長期の日本改造で道はいたるところに新しく作られた。その道はまっすぐなのが多い
それは結局スピードを出して早く目的地につくという物量の道であり旅の道にはふさわしくない。浜街道でも日立木に入る道は細い道なのである。六号線からそうした脇道の昔の街道に入ると旅情があるが旅人は注目しないしそれが特殊な歴史趣味の人しか見ないのである。相馬市の道の駅には休んでもまた六号線を行く、だから旧街道のことを知らずにすぎてしまうのが普通である。
これは自分でも東海道に行ってもそこが昔の街道なのか良くわからないことがあった。
他から来ると今の道ばかりに目が奪われるからわからないことか多いのである。
よそから来ると昔を偲ぶことはむずかしくなる。外国などは特にわかりにくくなる。
最近はインターネットで思い出す旅をするのに便利になった。古町温泉とキーワードを入れればでてくるからである。

相馬市は城下町の名残の細い道や路地が残っている。だから多少昔を偲ぶことがてきる。そして景観にも注意している。公共的な建物は切り妻風の建物にしているから落ち着いた感じになる。やはり建物は相当に人間の心に影響する。馬場野の一人暮らし用の長屋風の建物のことを書いたがあれはも木の造りで落ち着くのである。やはり木の家は落ち着くのである。それは芒がなびいていたり菖蒲が咲いていたりとそうした日本の景色と和するのである。つまり文化とは一つのものではなく全体だから全体が消失すると部分だけを作っても文化にはならない、茶室などでも大都会の隅に作っても全体が高層ビルやマンションになったら合わないのである。京都すら町家の前がおしかぶさるようにマンションが建っているからだ。

老鶯の句に宇陀の古町
http://hai575.info/sa06f/20/20.htm

ここに老鶯の句を集めていた。自分の俳号も老鶯にしていた。ここの句は選ばれているからいい句がでている。古町とキーワードで引いたらここがでてきたのが面白い。こういう利用方法がインターネットならではである。そのときインターネットが活きる時なのである。
インターネットの活用方法がいろいろあるが使いこなすことがむずかしい。
それはソフトと使いこなすのと同じである。何かありすぎるのだけどもう一つ利用方法がわからないということがある。要するにあらゆるものがあっても分散しすぎてどこに何があるかわからなくなっているのだ。最近自分はこれまで書いたもの印刷したりと分類して整理している。
この作業が大変なものになっている。相当な時間と手間がかかる。
しかし小冊子にしてみるとまた違ったものに見えるから不思議である。

失われた旅の神秘性(未知の欠落)
http://www.musubu.jp/hyouronkannshou3.htm#m


タグ:古い道
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2014年09月02日

厚寿苑で聞いた大正生れの小高のばあちゃんの話 (老人の役割と価値は昔を語ることにあるー倉の話しが興味深い)



厚寿苑で聞いた大正生れの小高のばあちゃんの話


(老人の役割と価値は昔を語ることにあるー倉の話しが興味深い)



厚寿苑のショートスティで今日話を聞いたのは大正生れの小高のおばあちゃんだった。
大正一〇年生まれであり二月に生れたからユキと名付けられたという。
その当時の名前の名付け方もそれなりのパターンがあり時代を反映している。
春に生れればハルとなり秋に生れればアキとなっていたともなる。
ウメとかキクという名前はポーュラーでありあとはその土地の名をつける人もいる。
自分の母親は富岡で生れたからトミ子になったと聞いた。
苗字はどこかの土地の地名と結びついているからその謂われある土地と結びつくことは不思議ではない。
要するに昔の人の名前はわかりやすいのである。今の人の名前はその由来も様々でありわかりにくくなったのである。

その名前のことだがそのおばあちゃんが言うには私の弟は倉で生れたら倉吉となづけられたというのも不思議だった。倉が吉ということで名付けられた。
というのはおばあちゃんの実家は火事になったことがあり家が燃えてしまってそのあと母親が大変な苦労をしたという。倉も一部の柱などが燃えて焦げたが残った。
倉は家から離れているから残った。倉は町では防火のためにもあった。
倉は今回の津波でも残っていたりするから丈夫な作りになっている。
昔は蔵の役目は生活に欠かせないものとしてあった。
肺病になり若い女性が蔵に隔離されたことをテレビで放送していた。
蔵の利用にはそういうこともあった。
自分の家には蔵などないから蔵のもっている意義がよくわからない。
ただ今でも農家にはたいがい蔵はある。
蔵に関する物語も多い、喜多方は蔵の町だったのは商人の街として栄えたからである。
倉敷なども蔵だらけだからやはり商人の街として栄えると蔵が農家でなくても蔵が多くなるのである。

忠蔵 ちゅうぞう chuuzou
恒蔵 つねぞう tsunezou
米蔵 こめぐら komegura
清蔵 せいぞう seizou
五百蔵 いおくら、いおろい iokura、ioroi
泰蔵 たいぞう taizou
修蔵 しゅうぞう shuuzou
嘉蔵 かぞう kazou
小蔵 おくら okura
網蔵 あみくら amikura
与蔵 よぞう yozou
重蔵 じゅうぞう juuzou
秀蔵 しゅうぞう shuuzou
律蔵 りつぞう ritsuzou
助蔵 すけぞう sukezou
蔵並 くらなみ kuranami
西蔵 にしくら nishikura
古蔵 こくら kokura
蔵座 くらざ、ぞうざ kuraza、zouza

くらきち 倉吉 庫吉 蔵吉
くらじろう 倉次郎 蔵次郎
くらたろう 蔵太郎
くらのすけ 蔵之介 倉之助 内蔵助

蔵とつく名前もいろいろある。米蔵(倉)はわかりやすい、蔵並というのも蔵が並んでいる風景があって名付けられた。倉吉という名前も他でもあった。

喜多方は新しい街だった(喜多方の歴史)

ここのページに喜多方を訪れたことを書いています。

その女性は小高のどの辺のかわかりにくい、福浦と言っていたからその辺なのか、父親は村会議員だったというからそれなりの家だった。だから蔵もあった。
尋常小学校をでて小高の小高専修学校に二年学んだというから普通は尋常小学校で終わっているから村ではいい暮らしをしていた部類なのだろう。
弟は北海道大学を出たとう、そして獣医になったというからその当時大学まで行ったとなるとほんのわずかだろう。それでも金がなくて困って学費で苦しんだという。
その弟か兄は獣医になったのはいいけどなぜか南米に移民したという。
その辺の辻褄が合わない、獣医が地元でうまくいかないのか獣医が嫌になって南米に移民したのかよくわからない、ただ結果的には乞食のようになって帰ってきたという。
その辺の事情がよく聞き取れないしわかりにくい、あのくらいの年になると話を聞いても何か明確でないことはよく起きる。

ともかく当時としては他の人よりは裕福な家だったことは確かである。
ただ女学校に入ることはできなかったから当時では下になるがそれでも尋常小学校で終わらないのだから恵まれていた。何かそこで生け花とか花嫁修行のようなこともしたといっていた。当時の学校は花嫁修行という側面が江戸時代から継続されていたとなる。
まず大正生まれでは字を書けない,読めない人はいない、明治生まれでは自分の祖母にあたる女性が字を読めないし書けないので苦労していた。代筆してもらわないから苦労していたのである。自分の父親も明治生まれだけど学校に入った形跡もないのに字を書けたのは不思議だった。丁稚方向していたからどこかで字を覚えたのだろう。

その小高のおばあちゃんの話でその尋常小学校に通うとき、坂道がありその崖の穴に乞食が住んでいて怖かったという。その乞食の話しは自分も姉から良く聞いた。
乞食は洞穴に住んでいたのである。裸でいたから怖かったというのは少女だったらそうなる。乞食は戦後もいたるところにいたのである。
子供にとってはやはり乞食は怖いものだったとなる。地名としては乞食坂とかとして残ることになる。

小高は実際は相馬藩では最初に城があったところだから一番古いとなる。相馬氏の歴史では古いから古い家も残っているとなる。小高はなんとか浪江のように住めなくはならないでも先はわからない、若い人が帰らないから家も直さないとか老人が多いから復興が進まないのである。
老人の価値とか役割は何かというと昔を語ることなのである。
その昔はその土地と密接に結びついている。記憶はその土地と結びついている時残りやすいのである。
だから古い碑でも神社でもその場所から昔を探るのである。
それでどこに住んでいたのかその土地のことを知らないとなかなか話が通じない
厚寿苑では今は外部から来た介護士が身体の世話をしているがそうした昔の話を聞きあわせることはむずかしい。
ただ身体だけを世話しているだけでありその土地と結びついて話を聞いたりできないことが問題になる。
身体だけの世話ならいいがやはり介護はそれだけではない、昔の話を聞いてその土地に刻まれたゆく人間の歴史を記す必要がある。

だから郷土史は祖父母から聞くことからはじまると前にも書いたのである。
いづれにしろ大正生れとなると今はかなり貴重だろう。
ただやっかいなものとなるが大正生まれが多いというのもやはり高齢化なのである。
百才もだんだんめずらしくなくなってくるかもしれない、もし六〇才から百才となる退職しても四〇才あるとなると第二の人生はさらに長くなるのが高齢化社会なのである。
自分は戦後十年は大正時代や戦前の生活の延長を経験しているので実感としてわかる。
乞食も知っているし燃料は炭だったとかも経験している。
だから大正時代とか戦前の人と話を聞いても通じる。でも二〇代とか三〇代とか四〇代でも高度成長時代になるから話しが通じなくなっているだろう。
そこに介護する側の問題もある。
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2014年07月03日

原町の相馬農業学校は養蚕学校だった (その歴史と私の大正生まれの母の話しなど)



原町の相馬農業学校は養蚕学校だった

(その歴史と私の大正生まれの母の話しなど)

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鹿島区の養蚕農家


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相馬市の旧街道

屋根の上の小さな屋根は換気するためのものだった

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日立木の稲荷神社


大正十五年生まれ、八十一歳
私は一九二六(大正十五)年二月十一日、原町区馬場のこの家で生まれ、今年八十一
歳になります
石神第二高等尋常小学校を昭和十四年三月に卒業し、相馬農蚕学校(現在の相馬農業)などに進学したかったのですが、当時家が貧しくて進学もできず、押釜の砂工場やあ
ちこちで働きました。私は草履を履いているのに、友人の農蚕学校生は、足に格好よ
くゲートルを巻いて立派そうでうらやましく思ったりしたものです。
http://www.haramachi9jo.net/kaihou/pdf/043_haramachi9jyo.pdf



1903年 - 原町他2ヶ村組合立原町実業補修学校として創立。
1908年 - 相馬郡立相馬農業学校に校名改称。
1921年 - 福島県立相馬農蚕学校に校名改称。
1948年 - 学制改革に伴い、福島県立相馬農業高等学校となる

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明治6年には、二本松市、喜多方市に相次いで器械製糸工場が操業を開始し、明治21年の繭生産量は4,753トンとなり、明治43年には8,865トンの繭を生産するほどになりました。
 この間、明治32年には日本銀行福島出張所が設置されましたが、これは養蚕や絹織物業における決済等の必要性からと言われています。

http://www.pref.fukushima.jp/yasai/kennai-engeinousakumotu/yousan/yousan-genjyou.html


相馬農業高校は1921年(大正11年)に「相馬養蚕学校」に変わった。はじめは農業学校だっのに養蚕専門学校になったというのはそれだけ養蚕が農業の主流となったからだろう。
その頃ピークになっていた。何かしら養蚕と関係していた時代である。。
この辺では女性はたいがい福装でで働いている人が多い、あそこはかなり大きく今でも女性の働き場となっている。でも今はその他にも女性の働く場所はある。

一般的には戦前はまだ草履をはいていた。なぜなら若山牧水も草履はいて旅していたからであ。靴がまだ普及していなかったのである。、ネパールでは素足で歩いていたから草鞋を履くということもそれから比べれば文明人となるのか、88歳でありこれは間違っている

この話で興味深かったのは私の姉がやはり大正生れであり年齢的には変なのだけど姉は姉である。その姉が常に言っていたことは相馬女学校に行きたいけど貧乏で行けなかったと言っていたことであり家が貧しくて進学できないということだった。
その頃どん底の貧しさでありそれはみんなそうであり相馬女学校に行けるのは相当な金持ちだけだった。相馬女学校を出たというだけでその当時は一目置かれるものだった。
それで飯館村の大倉の女性が「俺は相馬女学校出たんだよ、親戚の家から鹿島の横手から通ったんだよ・・」とか言っていた。その女性はなぜ裕福だったのか?
それは当時は山をもっていると材木が売れるから金持ちなれていた山持ちはその当時は大きな財産であった。


私の姉は学校も一番だった。運動も体も機敏だったからできた。男勝りで何でもできたのである。それで赤十字の看護婦になった。当時は看護婦になるものみんながなれない、東京で資格をとるために学んだ。その後赤十字から招集命令が来てシンガポールに四年間、従軍看護婦として勤めて辛酸なめた。そのことが忘れられず死ぬ直前までそのシンガボールのことを語っていた。


そして私の母も大正生まれで尋常小学校だった。その頃はみんな尋常小学校だった。
私の母は原町の夜ノ森のすぐ近くが実家だった。地図を見ると相馬農業高校が近くにあった。そのことで母が戦争のことを話ししたことを思い出した。
相馬農業高校が戦争の時空襲されて燃えた。相馬農業高校は大きい建物だからねらわれたのだ。
防空壕に逃げたのだか父親は怖くないと逃げなかったが最後は防空壕に逃げた。
その蓋が飛行機がすれすれに飛んで持ち上がって怖かったとか言っていた。
そこは相馬農業高校があるから危険だったのである。


父親は警察署長だったがやめて機織工場を経営したが失敗したことが実家の悲惨な一家離散になった。その頃機織工場をやれば成功するという風潮があったのだろう。
ただ私の祖父にあたるがその人は全く経営の才能もなかったのである。
ただ警察所長だからできるという奢りがあったのだろう。
母はただいばるだけの人だったと言っている。結果的にはその祖父の事業の失敗が一家離散とか子供に過酷な運命を強いたのである。
ただその当時はみんな貧乏だから誰でも苦労していたし母が特別ではなかった。
今は実家はなく墓だけが残っているのもそうした祖父の事業の失敗などで一家離散になったことが原因している。


大正四年生まれの母はすでに実際は百才である。大正からすでに百年の歳月がすぎる。
原町の無線塔が大正時代に建てられた。


1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生した際に、第一報を無線通信によって世界中に打電した。関東大震災によって原町無線塔が注目されて以後、日本各地にラジオが普及していった。1958年(昭和33年)12月23日に開業した東京タワーが「テレビ時代」の到来の象徴であったのに対して、原町無線塔は「ラジオ時代」の到来の象徴であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B6%E3%83%BB%E5%8E%9F%E7%94%BA%E7%84%A1%E7%B7%9A%E5%A1%94


母もその時子供でも地震を感じたのを覚えていた。無線塔は旧原町市のシンボルとして長い間建っていた。やはりそれだけの役割があったために世界からも注目されたのだ。
原町市は相馬市と違いいち早く近代化した街として発展したのである。
その象徴がまた原町機関区としてあったことである。その時森林鉄道が日本全国を縦横に走っていた時である。意外な所に森林鉄道が走っていた。
その跡を丹念に探査している鉄道マニアがいるから調べられる。
森林鉄道で木材とか石材を東京の方に運んでいたのである。
平機関区も大きく小名浜から石炭を船で運んでいたのが鉄道で運ぶようになった。
鉄道全盛の時代は戦後もずっとつづいたのである。鉄道の民営化してから衰退したのである。


私が原町市と相馬市は感じが違ってる。相馬市は中村城があった城下町であり今も城跡がありそこがち中心になっている。原町はいち早く近代化された街であり駅前通りが発展した。それが今はシャッター通りになりその街並みが長いから何か一段とさびれてしまった。駅前の図書館だけが立派なのも何かそぐわない、今は原発事故でスーパーヒタチが止まったままで原発事故後相馬市と原町を行き来する二両の電車だげである。


時代とは常に変わってゆくものである。特に津波原発事故以後の変わり方はあまりにも激しかった。今もその混乱はつづいている。百年も生きれば一世紀生きたのだからそこに庶民でも歴史を刻み歴史の重みをもつようになる。
親はやはりその家や市町村の歴史をになっている。そして祖父母もいろいろあってもやはり歴史を語り歴史をになっている。最後は人は死んでみんな物語り(ストリーーヒストリー)になるのである。


最後はみんな語り部になる。自分もまた家では自分しか残らず一人で供養することになった。それも自分の生れた宿命だと思った。
ともかく人間はその時代時代を生きる、そしてみんな死んで歴史となって次代に伝えられる。ただ親のことで祖父母のことでもなかなかわかないことがある。
それでも死んでから回想するとそういう人だったとか自分にとってどういう影響をしたかなどがわかってくる。生きている時はなかなかわからないのである。


養蚕については兜造りの家がそちこちにまだまだ残っているから偲ぶことができる。
二階が兜のようになっていてそこで換気していた。
ともかくこの兜造りの家は本当に多い、農家の40パーセント近くが養蚕をしていたのだから多いのが当然であった。それだけ養蚕が盛んだったのである。
農村は養蚕社会だったともなる。それが今や十数軒くらいしか残っていないというのも時代の変わりようの激しさを物語っているのだ。
天皇陛下も今も養蚕していて美智子皇后が蚕を手にしていることでもわかる。
国を支えたのがまさに蚕だったのである。


秋蚕(あきこ) 美智子様のお歌

眞夜(まよ)こめて秋蚕(あきご)は繭(まゆ)をつくるらしただかすかなる音のきこゆる
時折(ときおり)に糸(は)吐かずをり薄き繭の中なる蚕(かひこ)疲れしならむ
音(おと)ややにかすかになりて繭の中のしじまは深く闇にまさらむ
夏の日に音たて桑を食(は)みゐし蚕(こ)ら繭ごもり季節しづかに移る


明治5年(1872)、富岡製糸場の初代工場長であった尾高惇忠(渋沢栄一の従兄弟)は、生糸の原料である繭の生産量を高めるため秋蚕の開発に努めた。しかし、その頃は秋蚕は公認されておらず、惇忠は明治政府と見解を異にすることを理由に、明治9年(1876)職を辞した。
その後、埼玉県令白根多助などの尽力で秋蚕が公認されるに及んで、繭の生産量は倍増し、生糸の輸出量も増加して、新政府の財政に大きく貢献した。
清心寺には、秋蚕を発見した五明紋十郎の功績を記念した「秋蚕の碑」が建てられている

秋蚕というのは増産するために作られたものだった。品種改良がどこでも成されているように自然のままでは農業でも停滞する。そうした品種改良の結果として農業も発展する。

この歌は女性的な感覚の歌なのだろう。音に耳をすましている。そこに女性らしい気遣いがある。美智子様は詩も作っているからそういう文学的才能もあるから評判もいい。
ただ雅子様は比べるとあまりにも見劣りする結果となった。
昭和天皇もいろいろ言われるが短歌は上手であった。
歴代の天皇でもいろいろいてその評価もいろいろである。
美智子様となると結婚式とかから見ているから時代的には団塊の世代には親しいものとなる。
美智子様は平民から選ばれたことで注目された時代の象徴でもあった。
ただ皇位継承問題があり雅子様と美智子様では差がありすぎることである。

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2014年06月11日

相馬市史3(民俗編がインターネットで読める) (漁業の部の紹介)


相馬市史3(民俗編がインターネットで読める)

(漁業の部の紹介)

相馬市史3(民俗編の漁業の部)
http://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/57973.pdf


●帆掛け舟の時代は風を知らないと命にかかわっていた

明治や大正の交丸原釜沖に打瀬船(底曳)か群集し
て帆をひいてあるいた。南風が吹くようになると小名
浜へ四倉、江名、久浜などの帆打瀬が何十鰻と来た
(大正頃三河から持って来たので三河船とも云った)・

原釜、松川では、昭和初年ごろから、漁船の動力化
がはじまっている。シタンポーに機械を入れたのが昭
昭和五、六年である。
現在は機船底曳漁が盛んで、二八、九屯の底曳船が


朝起床して浜へ下りたとき、蓑ず考えるのはその日
の天候である。一片の雲行へ雲の形、星のきらめき、
浪の音、風向などに?漁師は常人では考えられぬ細か
な観察をしてい為。季節風なども一定方向から吹くの
が常だが、それでさえも土地、土地によって細かい変
化がある。

コチは、汚』上で北東の風をさすことが多い。北コチ
とも云う。風のうち一番扱いにくいのはコチとナライ
である。なかんづく悪いのは寒コチである。必ず雪が
つぎものである。ナライのツケはそんなことはない。
コチとナライはつながっていて、コチが吹いてナライ
となってあが為ことが多い。|番恐しいのはコチの
雪シヶであると云う。冬至から寒明けにかけてニチシ
ケが多い。吹雪いてくると一寸先ぎも見えなくなる。
子にも孫にも、コチシヶだけはくわないようにと教え
る。
コチシヶに会ったときは風むきに八金華山の方角
に走れば、山のかげになるから海はよくなると云われ
ているC「寒コチ雪を招く」と云うのは、これらの事
をこったもので、反対に春のコチはおだやか沼ある。


とか、東から雲が出ると雨となるとか云われる。蔵王
山をこのへんでは「おたけさん」とよんでいる。鹿狼
山のかげになっているので、海上一里(約二十尋)位
出ないと見えない。新地では浜を出るとすぐ視野に入
る。十月から六月頃まで雪をかむり、頂きが白く見え
る。百尋タチの境へ行くと蔵王山も山頂を没し、そこ
から先きば和船では行けなかった。
:刺網漁にはこの山が山しめの対象となるばかりでな
く公夫侯の変化の指標ともた》っていた。

漁業というのは海を相手にしているから経験した人でないとわかりにくい、
海からの視点をもつことは神に囲まれていてもなかなかできないのである。
東風(こち)が吹くとそれは浜通りでは確かに海から吹いてくるのを感じる。
そろそろ春だなと感じる。でも実際は3月ころから吹き始めてもその時まだ寒いのである。
だから寒い東風をサムコチといっているのは興味深い。
浜通りでは3月に雪ぶ降りやすいのである。
それで3月11日に東日本大震災がなり津波が起きた。
そしてその時運悪くこのサムコチが飯館村に向かって吹いたのである。
その時は山の方も雪だったのである。
それで放射性物質が浪江の山や飯館村に雪や雨と共にたまってしまったのである
このサムコチに影響されたのが運が悪かったのである。
このサムコチは飯館村から川俣から福島市まで伊達までも峠を越えて吹いたのである。
だから福島市が意外と放射線量が高くなってしまったのである。


●漁業と山の関係


烏崎浜では南はずれのお蔵前(藩の郷倉があった)

そのの近くに、見張りの山があって色見山とよんだ。碧南の
吹くころこ上へつめ五、評(魚群の動きを着視した。主に
年よりの役であっ龍。鰯群が沖合のヒラマ仁か上ると
船を出して網を空いた。

大正三年頃は連日の大漁で、蚕様はあるし、明日ま
でおくと腐るので《女ご衆は夜中まで寝られなかった
と云ってい五?午前十・一時か十二時ころ水楊をし、シ
ロ分けが終ると昼まぎになる。それを運んで、しめど
にかけて処理するまですべて女の役目で、浜育ちでな
い嫁など、忙しい上に臭いので泣かされた。
油砿船の上げ下げに使う賀》木に塗ったりし重すべ
て自家で消費した。〆粕は粉づいて厩肥とまぜて田に
入れたり、《畠の桑の根つぎに使った。多量に田へ入れ
ると、


新造艦を海に下すと、磯部では金比羅神社、烏崎で
は津明神の沖で三回船をまわし、潮水を汲んでオブナ
ダサマとオモテにかける。また不漁がつ望くと清浄な
沖の潮水をオブナダサマにかけ、「サッパリ漁させな
いでわかんねえ、オフナダサマ大漁授けろ」と祈るよ
うなこともする。



烏崎では「津神社」への信仰が生きていた。
ただこれが「津波」と関係していたのか鯨
を祭るものになっていた。
金比羅も明治になってかちら祭られていた。
浜通りの海でも慶長津波などの伝承は残っていない。
松川浦の津神社(つのみや)はあそこに逃げれば津波から助かると逃げて助かった人がいたから何らかの伝承があった。
そこもぎりぎりで津波からまねがれたから信憑性がある。
烏崎の津神社にしろ北原の津神社にしろそれが津波と関係あるのかわからない
そういう伝承がないということが謎としてそれが何故なのだろうと探求してきた。

漁業は農業とも密接に関係していた。蚕様とか漁師にもしていたとすると漁業と農業をかねあわせてやっていた。だから魚なども肥料になって土を肥やしたのである。


●漁民が佐須などの山津見神社を信仰していた


佐須の山神(飯館村)は農耕、安産へ山仕事などの
広汎な信仰対象であるが、また漁一民の帰依が厚い。こ
れは漁場の占定に用いる山シメから、山獄信仰と結び
つきが生じたらしい。
昔は浜から草鮭がけで一夜歩いて参詣したと云う。

古磯部の神社境内には大きな山神碑がたっている。か
つてこ封で山神の御開帳をしたと云っている。佐須の
山神は大山津見神を祭神とするが〈由緒も本社も明確
でないと云う。


このほか相双の沿海村の漁民の信仰を集めたもの
に、小高町の蛯択稲荷、烏崎の大木戸稲荷、松川の川
口稲荷、相馬の笹川稲荷などがある。このうち姥沢稲
荷はかなり広い信仰圏をもって栄えた。

概して云えば西日本では漁業神として恵比寿信仰が

方では漁業神としては稲荷神の方が一般的である。
孔天保、嘉永の頃の例だが、・萱浜村(原町市)で地曳
の船頭が不漁藍歎いて稲荷を祀り、豊漁を祈願して大
漁を得、邑民これを大漁稲荷とよんだと云うことが、
奥相志に記されているが、稲荷瀞漁業神として信仰さ
れる基盤が既にあったものとふられる。


古くから村盈に湯殿行の風習があって、お山をかけ
ると、帰途東北地方に喧伝されている漁業信仰の中心
地大山(山形県)の善宝寺によってお護摩をたいて来
た。今でも此の棺仰は盛んで、沖で網がひつかLると
「大山善宝寺たのむ」と三回唱えると、事なくはづれ
ろと云う。


金華山信仰も昔からさかんで、鰹漁の盛んな時には
南部あたりまで行ったと云うから、金華山参詣も屡堂
行れていたのであろう。今も漁のひまなとき、仲間や
一家の者か漁船に乗って海路参拝に行く。金華山の碑
は農村地帯によくたっているのを見るが、この信仰は
農作にも関係していて玲大てい高いところにたってい
るのは、金華山を遥拝するところにたてるならわしか
ら来ているのであろう。


請戸では最近まで旧七月三十日に夜釣りをしていた。
海上でホトケ(士左衛門)にあうと必ず船上にあげ
てゆく。見すて上通ったため紀ひといシヶにあったと
云う例もきいている。あがりたくて浮いているのだか
ら、揚げねば.ならぬと云う。ホトケをあげるとき「大
漁授けるか」、「かならず大漁させるからあげてくれ
ろ」と問答してから船にあげ石ことも各地できくこと
で、あげるときはワッカタ(右舷)からあげるものと
されて

金華山の碑はこの辺に多い、それが海から船でお参りするというのは理にかなっている
それこそ海の民にふさわしい信仰だとなる。
ただ金華山の信仰は明治以降に盛んになったみたいだ。
古い年号のものはない、江戸時代のものはまだ自分は見ていないからだ。
金比羅なども江戸時代からあっても明治時代にも盛んになっている。
江戸時代から明治時代へ古いものが継続されている。
相馬や双葉であれ宮城県の海とに国境があるわけではないから
魚群を追って名取から亘理から船がやってきた。
そこで海の入会権が問題になっているからそういう所に漁業権の発生があったのだろう。
ただ海というのは別に陸のように明確な境がないから区切ることができないから
海とは誰のものかとなるとむずかしくなる。
それで中国などが勝手に尖閣を所有するとか南沙諸島を領有するとかになる


蔵王は亘理の鳥の海でも真正面に見えるし海からも高い沖に行けば見えるから
漁師たちにとっては目印の山でありその天候を見ていたというのは興味深い
海から見えるものは船に乗って見ることができないから実感できないのである。
ただ蔵王の写真を津波の後に右田浜から写したけどあんなに大きく連峰として見えたことに驚いた。
蔵王は山形、宮城、福島県から見える山なのである。

山津見と松川浦に地名化してまであるのはやはり漁民が山津見神社にお参りしたから
海にまでもってきたのだろう。

yatumimap1.jpg


西日本では漁師の信仰は恵比寿だが東日本では稲荷になっている。それはなぜか?
稲荷は別に稲だけの米作だけの神ではない、その起こりは鋳(い)成りだったのである。
鉄を作るものの信仰が稲荷である。そして東日本の海岸線には砂浜には砂鉄がとれた。
それで砂鉄をとるものが技術者が北上してきたのである。

●慶長津波は民衆でも伝えることを政治的に禁止されていたのかもしれない


海というと漁民というとき、今回の津波でなぜ相馬藩では700人溺死としか記されなかったのか?
なぜ津波の伝承が残されなかったのか大きな謎になった。
その記されないことが後の今回の災いになったからである。
老人は「津波なんか来ることきいたことがねえ」こう言い張ってかなり死んだのである。
つまりこの辺では海辺で漁業している人すら慶長津波のことを知らないし
津波に関する伝承がほとんどないということが問題になった。
だから相馬藩内で津波に興味をもっている人はほとんどなかった。
なぜなら岩崎敏夫氏すら津波のことを一言も書いていないことでわかる
津神社が津波と関係しているとも書いていない。
それだけ津波のことが伝えられなかったのである。

南相馬市の博物館に津波を警告しにきたのは飯沼勇義氏であり東北大の地震研究者ではなかった。
警告されても興味をもつ人はなかったろう。

自分は700人溺死したというのは漁労民だとしたがそんなに海辺で漁労していた人が400年前にいたのかという疑問がある。
ただやはり海辺には魚でも貝でもとれるのだからそれなりにいた。
そして漁業は集団力が地引き網などになると必要だからその時相当の人数が浜辺に集まっていたかもしれない、地引き網は400年前にしていないとしても集団で組みで魚をとることをしていたかもしれない,漁師がどれくらいいたとかは陸と違って検地などないからわからない。
でもそなりの人数はいてそれが津波にのまれて死んだ。
そのことが詳しく記されないのはその時相馬藩の政治の最大の課題は中村に城を移転して城を作ることだった。それから大阪の陣の参戦や江戸城の普請が最重要課題だった。
そのために津波の被害があってもそっけなく700に溺死としてしか記されなかった。


だから南海老村の天守造営にたずさわった大工は津波を経験していて六十六部はその津波で死んだ人たちを供養した。葬式の時に海水で洗うと怪異が生じるというのはそのためである。海難者なども当時から存在して修験者や六十六部とかが供養していたのである。
相馬藩で津波のことが詳しく伝えられなかったのは何か相馬藩の政治的事情で伏せられた。内密にされたということもある。
政治にはそういう何か隠したいことが常にある。原発だって放射能は危険でもそのことは秘密にされていたし政府の都合の悪いことは隠されていたのである。
それはどこの国でも政治にたずさわる権力者はしていることである。
ただ政権が代わると明るみにだされる
相馬藩では代変わりしないことはいいことだったが権力の主要部が変わらないから
そこで権力の独占が生れたともいえる。

相馬藩で天守が作らなかったのは相馬の主君が名君だったとかではない、
その時慶長地震津波が起きて天守が作れなくなったのである。
そのことをビスカイノが相馬藩の城を訪れて城が壊れていて工事中だったということからもわかる。
会津の城も三カ月前の地震で石垣が壊れ七層の黒川城は五層になったのである。
あれだけの地震があって天守が作れなくなった。

そうしたことが南海老村の藤金沢で大工が呪われるようにして死んだこととかかわっていた。

慶長津波で死んだ700人は相馬藩では無視したのである。それだけの余裕も戦国末期の政治的課題がありなくてできなかった。
だからその辺の事情が南海老村に怪異な伝説として残った。
民衆でも何か津波を伝えなかったのはむしろ相馬藩の政治的主導があって表沙汰にできないものがあった。
相馬藩が弱体化して伊達藩が責めてくるとか当時の状況は今とは違っている。
戦国時代はまだ終わっていない、だから民衆へも政治的に津波のことを言うことを禁止されたのかもしれない、現代の何でも言える時代とは違う。
だからこそ柳田国男は民衆側にたち口碑を重んじて民俗学を起こしたのである。

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2014年06月03日

ギブ・ミー・チョコレートの世代 (戦後の日本人の精神形成、原点がここにあった)


ギブ・ミー・チョコレートの世代

(戦後の日本人の精神形成、原点がここにあった)

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マッカーサー連合国最高司令官の来日、連合国総司令部(GHQ)の設置で、連合国軍による占領が始まった。日本側は連合国軍を「進駐軍」と呼び「占領軍」という呼称は使わなかった。ジープでさっそうと走る米軍兵士の姿は岡晴夫の歌にもなった。子どもたちは、進駐軍のジープを取り巻き、「ギブ・ミー・チョコレート」「ギブ・ミー・チューインガム」と兵士にねだった。

終戦記念日まで1ケ月弱。この頃になると何時も焼け跡、輪タク、進駐軍、パンパン等を思い出します。
今の新神戸駅前の道路で遊んでいると、進駐軍兵士とパンパンを乗せた輪タクがやってくる。私達子供は忽ち内に彼らを取り囲んで、ハロー、 ハローと連呼する。早くS*Xをしたい兵士は子供達に付きまとわれるのを嫌って、進行方向とは逆に出来るだけ遠くにチューインガムやチョコレートを投げるって訳ですね。


巷間この様な時には ギブミーチョコレート と叫ぶ様に言われてますが、我々の所では ハロー 一本槍でした。

町には第7艦隊の進駐軍兵士の休日のお相手をするパンパンが沢山いましたね。真っ赤な口紅とマニキュアそれにブラジャーこれが彼女達の三種の神器でした。当時マニキュアなんて普通の女性はしませんからね。
日本一の闇市でパンパン相手に一儲けしてのし上がったのがワコールの塚本氏だと言うのは有名な話ですよ。

大阪駅で良くチョコレートを貰いました。
「ハロー進駐軍」って言ってました。

中学の頃に分校の裏の料亭の窓から撒かれた硬貨を拾った為に、
全校集会で校長から大目玉を喰らいました

私は田舎育ちでしたので、思い出すのは、家族が畑で芋掘りをしているところへ、ジープに乗った進駐軍の兵がきて、掘っていたお芋と、チョコレートを交換していきました。

芋とチョコレートとの交換ですか。立派ですねギブミーチョコレトの様な物乞いじゃないですからね
http://smcb.jp/ques/50000


外国旅行してあった人は自分より五歳年上だった。その人はギブミーチョコレートの体験を話ししていた。九州の人だから東京とかの大都会とは違う。それでも日本がアメリカ軍に占領された時進駐軍が日本全国でみかけたからこの言葉が一時代の流行語として残った
人間は五年の世代の差でも相当に違う。戦後爆発的に人口が増えたのは団塊の世代となった。それは終戦になってからでありその時進駐軍のことはまだ生れたばかりだから知らないとなるのだ。ただ小学校でもアメリカから援助されたまずい脱脂粉乳のミルクとかが支給されていた時代でその延長があった。給食でもコッペパンとか粗末なものだった。

その時子供は良く働かせられていたのである。農家でもそうだが街でもそうであり
自分は店屋をやっていたからしょっちゅう配達とか農家に卵買いさせられた。
その卵をヌカに入れて買ってくるのだが必ず一つくらい壊れるのである。
というのはその頃の道は舗装されていないから道が悪かったからなのである。

真野川にかかっていた橋も木の橋でありヤハなものだっから洪水になると流される。
江戸時代から橋は流されるのが多かった。だから流された橋の絵が日本には多い。
野馬追いでも新田川の橋が流されていてそこを通る絵が残されている。

自転車にしても今のとは違う。だからそういう時代を子供の時経験しているし団塊の世代はそこでも今の豊かな世代とは違っている。
だから三年くらいしか年が違わない女性とは話しがあう。やはり同じ経験をしていたということで話しがあうのである。

五年の年の差が意識される時は時代が急速に変わると五年でも違った意識をもつようになる。江戸時代だったらそんなに世代が変わっても意識の差はない、代々職業でも親から受け継がれるからそこで何か精神的にも安定したものとなる。
仕事でも第一次産業だから土地に根ざしているから土着的でありそこで精神的には安定している。木を利用していたがその木が育つには五〇年かかるとすると気長に待つ時間の感覚が育つ、そんなとき時間給で働かせるという感覚は生れない、代々に今の会社のような大きな農家で働くということがあった。それも搾取されていたとかともなるがまたその社会なりの働き方でもあった。
その時代の見方はいろいろあっていちがいに極端な貧乏だったということだけではかたずけられないものがあった。
なぜならそうしした貧乏でもなぜ明治時代に来た外国人が見た日本人はみんな幸福そうな顔していたというのはなぜなのか?
それはやはり貧乏でも何か精神的に安定したものがあったからである。
それはその社会が時代が作り出していたものなのである。


明治維新後は全く変わってしまった。社会もモラルも激変して江戸時代の人間と明治以降の人間は別の国の人間のようになってしまったのである。つまり時代が変わると同じ国でも別の国になったように変わるということである。むしろ外国人の方が親近感をもつようにさえなる。それでも日本は戦前は天皇を中心としたあ忠君愛国であり国中心の社会であり国のためには個々の欲望は抑えるモラルがあった。それは国のために犠牲になるということで批判もされるが今のように個人の欲望のためには人を犠牲にしてもいい、自分が得するためには相手を犠牲にしてもいいいとは違うものがあった。

戦前と戦後もまた人間はまるで違ったように変わってしまったのである。

その象徴がギブミーチョコレートだったのである。もちろんアメリカ兵につきまとうパンパンとかもいたから戦後の荒廃は大きかった。つまり戦後の日本がどうして作られていったかの原点がギブミーチョコレートにあったのである。
「勝つまではほしがりません・・・」から全く逆になった。チョコレートを得るためには女性なら体も売る、子供は恥も外聞もなくアメリカ兵につきまとうねだる。
そういうことが日本人の心を作っていったのである。
戦後はただ貧乏からの脱出、物質的欲望を充たすことしかない、そのためには他者を蹴落としてもいいからのしあがれしかない、それで受験戦争がありいい大学に入ればいい暮らしができるしかない、そういうことに反発して団塊の世代が大学改革を求めて全共闘が生れたという経緯もあった。


ともかく五年の世代の差が戦前と戦後では激変したから大きいものとなった。
ではさらに五年違うととをなるかとなるとまた違っている。
今の七五歳くらいになるとまた違ったものとなる。戦争が終わった時は一〇歳でありやはりギブミーチョコレートをしていたのか?そうなるとそういう世代の仲間に入るのか?
それよりまた五年違うと今度はそれなりに大人になっているから戦前のモラル的なものが残っている世代となるから違っている。
現代の指導者はすでにそうした戦後生れの人たちとなった。戦前生まれ出もギブミーチョコレートの世代なのである。その精神形成はギブミーチョコレートからはじまっているから追求するのは物質的欲望の達成でありそのためには他者を蹴落としてでも達成するということしかない、それが社会の腐敗を産んだのである。

確かにアメリカの豊かさに追いついたがそこで欠落したのが日本人が江戸時代からもっていたモラルの喪失だった。今や義理人情すらほとんどないだろう。
そんなもの古いとなるがそういうモラルさえなくなることが金一辺倒の社会となり荒廃したのである。
日本人は何も尊ばない、何を尊ぶものかもわからない、ただ金のみうが唯一の価値となったのである。金を持っている人のみが一番偉いのである。

それはアメリカ的価値観に戦後のギブミーチョコレートから子供の時から形成されていたからである。
戦争に負けた時、日本人のモラルが根本的に壊滅してしまった。焼け野原となっただけでなく日本人の心も喪失してしまったのである。

世代の差というとき大きく時代が変わる時その差が大きくなる。今回の津波でも津波の前の世代と後の世代では相当に違ったものとなる。現実に今になって慶長津波と前と後で時代を区切りことが強いられた。津波が時代の転換点として意識された。
相馬藩では天明の飢饉がありその前と後では大きな差が生れた。
津波や原発事故はまだ日本全国を変化させるようなものになはなっていないが津波や原発事故周辺では時代がまるで変わってしまったのである。
だからどう対処していいかわからないという混乱期に入ってしまった。
漁業とか農業とか木材業でも放射能汚染で成り立たなくなるとすると一体この辺はどうすればいいのだろとなる。
補償金だけもちらって暮らせばいいやとかなるとこれまた精神的には荒廃してくるだろう。現実に今避難して仮設に暮らしている人はそういう精神的状態になっている。
ともかく津波や原発事故周辺は戦後六〇年の弊害が極端な形で現れた地域となった。
高度成長経済の発展が原発事後となり事故前も多額の金で漁業権を東電に売りわたしていたとか
この辺はまさに戦後日本の負の部分が現実化されたのである。
人さえ住めなくなったという極端なものとして現れた。
だから「福島の再生なくして日本の再生がない」と言われる時、戦後日本の象徴がフクシマになったからである。
ただその再生がどういうものになるのか暗中模索であり明確なものとして見えないのである。
それだけ大きな戦前と戦後のような時代の激変を経験しているからそうなる。

posted by 老鶯 at 12:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2014年03月06日

方角地名が地名の基 (南とつくだけで明るい感じがする不思議、南相馬市はそうだった)


方角地名が地名の基

(南とつくだけで明るい感じがする不思議、南相馬市はそうだった)

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地名の基本は方角地名である。方角によってその土地の色合いが様子が大枠で形成される。
だから方角地名が一番多い。そもそも東西というときそれを如実に示している。
東西の分かれ目が関が原であり明らかに関が原を境にして西と東に分かれる。

鶏が鳴く 東の国の 御いくさを 召したまひて
壬申の乱で東(あづま)とさしたのは古代にすでに東西の戦いごここで行われたのである。
ヤマトタテルが東征の途中で失った妻・弟橘姫(オトタチバナヒメ)を偲んで、「吾妻(あづま)はや」(ああ、我が妻よ…)と慨嘆したというところから、足柄峠より東を「あづま」と称するようになったとされる。


ここでは関東まですでに東の領域に入っていた。
ただ旅して不思議だったのは必ず方向音痴になることであった。方向が必ずわからなくなる。
京都辺りに旅するなら西に向かっている。西に向かってふりかえれば東の方向から来たことになる。
でも東は福島県の浜通りだと海の方角になる。
だから東風(こち)は春になると吹くのだが南の方から吹く風に感じていた。
だから何か九州のかなたから吹いてくる感じになっていた。でも実際は太平洋の陽の昇る方向であった。
だから風の方向を知ることは意外とむずかしい。

ただその場所を知るには方角がポイントになる。だから地名では方角地名が一番多い。
それがその土地を知る案内になりやすいからである。
東と言うと何か陽が昇る方向だから明るい感じがする。西だと陽が沈む方向だから暗い感じがする。
北だとこれも寒い暗い感じがする。南だと明るい暑い感じがする。
方角地名がその土地の特色を基本的に特徴づける。

例えば琵琶湖の湖西線となると比良の山の下であり陽が沈むので暗い感じになる。
湖東は陽が昇る方向になるから明るい感じになる。ただ山から陽が昇り山に沈む感覚は
浜通りでは感じられないからその感覚がわかりにくい。
北の方角は暗いからそれを嫌って隠した地名のものもある。
喜多方は会津の北に発展した商人の街だから北方だったが喜多方にした。
北を嫌ったから喜多方の当て字にしたのである。西会津となると何か奥まった淋しい感じになる。


それから上下とつく地名も多い、上とつくとそこは早くから開けた土地なのだろう。
下町というと何か庶民の住む場所であり上町というとその土地では場所的にはいい場所だとなる。
事実は鹿島区では前は下町は本当に土地が低く水害で被害があった。
自分の家は二回も水害で被害にあった。それは一番低い場所だったからである。
土地として悪い場所だったのである。ただ今西町となっているがそこは一番
鹿島区ではいい場所になって住宅地になっている。

上がりもの下がりものがあり大阪から来るものは上がりものであり江戸から来るものは下がりものである。
上りは早く開けた大阪にあり下りは江戸へ行くことである。古くは東下りである。京都へは上るになる。
だから下がつくと何か文化的にも下に見られ。
これも方角地名でまず印象づけられているからだ。

永禄11(1568)年織田信長は足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて入京しました。そのころの上京の景観は「上の都は,日本全国の都にして,甚(はなは)だ富みたる人居住し,日本に於いて用ひらるゝ絹物及び緞子(どんす)は悉(ことごと)く此処(このところ)にて製造し,又重立(おもだ)ちたる人々の夫人にして最も高貴なる者住みしが…」「上の都は下の都より大なること二倍なる」(『耶蘇会士日本通信』)というように,御所があり富裕の者が集まる上京に対し,下京は商業街区であり民衆の町でした。

ただ上と下は上があって下がある。だからまず上を知らなければならない。
それがその土地を読むことである。

これは前置きとして南屋形がまずありその後ろの山に入った場所が北屋形になっている。
そこは一段と暗く感じるのである。南屋形というと前は平地であり陽もさすから明るい感じになる。
南海老もそうである。北海老となると山の中になり暗い感じになる。
南とつくと明るい感じになるのが不思議である。実際はそうでない場所だってあるからだ。
南相馬市と小高と原町と鹿島が合併したときそうであった。相馬市から南だから南相馬市となった。
でも考えてみると相馬市は北相馬市になるべきだったともなる。
その方が南相馬市という名前がついたときそれに準じるにはそうした方がわかりやくなっていたのである。
ただすると何か北とついただけで暗くなる。
でも相馬市だと南相馬市が生まれて特徴がうすれたのである。

相馬市はもともと南相馬市と北相馬市であり一つにした方が良かった。
北郷とういのは鹿島区だったがそれは小高に城があるときそこから見て北だからそうなった。
小高が中心地だったからである。

合併するとき名前をつけるのに悩んだ。結局方角地名にするのは無難だったからである。
でも南相馬市となると何か南というだけで明るい感じがするのも不思議である。
相馬市はかえって目立たなくなっているのも名前からすると奇妙である
つまり南相馬市が先進地域であり単に相馬市となっていると特徴がなくなったのである。
だから地名というのはその土地だけでなく隣の市町村にも影響しているのだ。

飯館村は合併しなかったから飯館村として原発事故で世界に知られるようになった。
南相馬市もそうである。合併したら南相馬市の一部となっていたからそうはならなかった。
だから変なんだが飯館村の尊重は村長として威張っていられる。
南相馬市に合併していたら小さな村だから威張ってはいられない。
そして原発の被害でも飯館村は被害が大きかったからそこで飯館村としての損害賠償を請求しやすかったのである。
南相馬市は小高区が一番被害が大きかったが独自に損害賠償の交渉をしにくかった。
なぜなら南相馬市であり南相馬市として主張せざるをえないしろその賠償金をめぐって
小高ー原町ー鹿島はみんなもらう金額がちがっていて分断されたのである。
他の警戒区域はほとんど一眼になって賠償金を請求できたのである。


somachimeiii1111.jpg

「南相馬市は小高町と原町市と鹿島町が合併してできた名なんだよ」
南とつくだけで相馬市とは感じが違っていたのも不思議だな」
「確かに南とつくだけで明るい感じがするな」
「それで何か相馬市が目立たないんだよ、相馬市の南だから
相馬市が中心のように見えても南とついただけでこっちの方が目立つんだよ」
「相馬市も北相馬市とならないと釣り合いがとれなかったのかもしれない」
「北となるとやはり暗くなるから嫌だろう」
「相馬はもともと相馬藩だったのだから一つなんだよ」
「南相馬市と北相馬市で一つだったんだよ」
「相馬市が中心のように見えても南相馬市の方が目立つようになっていないか」
「うーん もともと明治は原町機関区ができて原町が発展して中心になっていた
だから南相馬市の方が明治以降は中心地だったんだよ」
「南相馬市の市長はタイムにのったように原発事故で世界的に有名になったよな」
「まあ、飯館村は合併しなくてよかったよ、原発事故では被害が大きかったから
独自の賠償交渉ができる、それに村長も飯館村として威張っていられるからいいよ
南相馬市になったら市長は一人だから威張れないからな・・・・」
「人間は地名でも名に影響されるんだよ、まず名前からイメージするからな」


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2014年02月27日

水道を使い井戸のことは忘れられた (農家でも井戸があっても水を運んだ苦労があった)


水道を使い井戸のことは忘れられた

(農家でも井戸があっても水を運んだ苦労があった)


男鹿赤神山五社堂の下に、姿見の井戸とよばれた古井戸が残っている。お山がけ詣りの人たちが、必ず我が身を写して試したといわれる。はっきり写れば今年の生命が保証される。写りのはっきりしないものは、災難不幸にあう。まったく写らないものは、その年のうちに死ぬこともある。などと信じられていたという。
http://namahage.is.akita-u.ac.jp/monogatari/show_detail.php?serial_no=2390


井戸にまつわる伝説は無数にあるだろう。飯館村の作見の井戸などもそうである。
今年の米の収穫がどうなるのかを井戸を見て判断する。
地下に流れる水は見えないし稲作と水は深い関係がある。
井戸の伝説が多いのは地下水が見えないからである。
百年前に降った雨が地下水となってたまっているというのも不思議である。
放射能汚染され水は地下水となり百年後にもたまり放射性物質かあったとなり
事故のことがふりかえられたりするのだろうか?
百年過ぎれば伝説化しやすいからである。


井戸については子供の時、近くの井戸から風呂の水にするためにもらってバケツで運んだ記憶がある。
街中では水を得ることすら難儀だった。
だから良く姉か大きな屋敷の家から水をもらっていた話をしていた。
「水ください・・」と頼んで井戸の水をもらっていたのである。
そこは大きな屋敷で入りづらかったのである。

街では農家での女性の同世代の人に聞くと街より恵まれていた。
井戸があるから水には不自由しない
でも井戸は今でも残っているか庭にあり家より離れている。
すると子供の時、水を運ばされたというのは同じだった。
その距離は違っていたがやはり運んでいたのである。

意外とこのことがわからなくなっていた。
昔が常にまちがってイメージしているのは戦後でも同じだった。
つまり農家では井戸があるのだから今の水道と同じように錯覚していたのである。
家の中に井戸があると思っていた。そういうのも一部はあった。
でもたいがい外にあったから水を運ぶのはそれなりに手間だった。
水を運ぶことは一つの仕事だったのである。


20リットルのバケツを毎日運ぶ女性たち

インド女性は、生活用水を手に入れる為に、一日の4分の1の時間をかけて、20リットルもの重さのバケツを運ばなければなりません。体に非常に負担がかかる為、時には大きな痛みがはしり、ひどい時には出産時に合併症を招いてしまうこともあるそうです
http://eedu.jp/blog/2013/05/24/wello-water-india/


頭に水瓶をのせて運ぶ
http://www.jaico.net/museum/5tips/4people/07headcarry.htm


今でも水を運ぶことが大仕事になっている所があるのだ。
すると水道というのはいかに便利かわかる。
家の中にあるから運ぶ手間が全くないかちいかに便利かわかる。
ただそれが当たり前になっとき、水道のもっている意味がわからなくなる。
すべて便利でも当たり前になると当然じゃないかとそのありがたさもうすれるのが普通である。

自分も農家では水を運んだりすると思っていなかった。
水は家にあるからそういうことを想像していなかった。
これだって戦後だから江戸時代とは違うのだからまちがってイメージしていた

だからいかに50年前でも間違って必ず過去をイメージしているのだ。
「遠くの親戚より近くの他人」というときそれも隣の村が遠くの親戚であった時代の諺なのである。
歩いてゆくとすると今のように広域社会ではないとすると
隣すら遠い村になっていたのである。
今は遠いというと300キロくらい離れていないと遠くはない
東京くらいだとここからは遠いとなるのだ


江戸には水道があったというとき、水道橋があるからあれは江戸が都会だった象徴だったのである。
古くはローマの水道橋がありあれもまさに先進文明の象徴だったのは
水がいかに暮らしの中で大事かを物語っていたのである。
ローマのような都会になるといかに水を確保するかか一番の問題になるからである。

過去をふりかえるとき、水を得ることの苦労は大きかった。
水道になると蛇口をひねるだけで水がでてくる。
ただそのことが水のありがたさを失わされているのだ。
水なんかいくらでもある、電気でもボタンを押せばいくらでもある
そうした感覚が人間が自然と離れてゆく原因だった
水だって自然のもの自然の恵みである
でも水道になると文明による恵みのようになる。
だから便利な文明化すると人は自然と離れ自然に感謝したりしないのである

ただ人間の宿命は何か便利になり楽だと思っても必ず苦しい面もでてくる。
便利になった、楽になったと思っていると別な重荷を背負うようになる
水道は井戸のように無料ではない、水を買うようになればその分
また苦労して金を得るために稼がなければならなくなった。
原発事故もそうした便利さを追求してきた結果起きた事故だった。
原発そのものか反自然だった。
なぜなら自然界にない物質、放射能という毒を生み出していたからである。
そこに大きな無理があり事故につながったのである。
ただ誰でも昔の水汲みや水を運ぶ苦労から解放されたいというのはわかる。
でも水道が当たり前で水道がない前に井戸があり
それで水を得ることがどれだけ難儀したかなどはイメージできなくなることが問題なのである

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2014年01月25日

郷土史はまず個々の老人の話を聞くことが基本 (老いたトラック運転手の詩)


郷土史はまず個々の老人の話を聞くことが基本

(老いたトラック運転手の詩)


グングンガンガンズンズンダーダー
荷物を一杯にしてトラックを飛ばす
相馬から福島から東京へ
またやってきたぜ
花のお江戸の東京に
その名も知られた築地市場だ
東京の台所で何でも集まる
ここは靖国通りだ自衛隊の本部もある
まだ帰るのには時間がある
酒飲んでまた一日暇つぶした
さあ、明日は 福島へまた帰るぜ
六号線とは東京じゃ言わないよ
水戸街道って言うだよな
俺は稼いでいるんだ
家族のためにな
グングンガンガンズンズンダーダー
トラックを飛ばす
ハンドルさばきもいい
俺は事故は起こさなかったんだ
家族も俺に感謝しなくちゃだめだ
俺はトラックで今まで稼いできたんだ
今は年金暮らしでなんだか嫌われる
でも俺がトラックで稼いでいたことを忘れるな
・・・・・
トラック運転手はこうして話すと元気になる
今は体がげ天気でも家族に嫌われる
無用のものとして煙たがられる
孫も大きくなり年金をもらう時のみ
ニコニコじぃとかよってくるんだよな
なんか自分もボケてしまったらしい
でもトラックを乗っていた
昔を語る時元気になるんだ
グングンガンガンズンズンダーダー
トラックは飛ばす
東京の築地市場に向かって・・・


郷土史というときまずおばあさんやおじいちゃんの話を聞くことからはじまるというとき意外と身近なのである。もちろん歴史的なむずかしいものもある。
でも基本は昔話にあったのだ。いろいろそれぞれに生きたことが60過ぎると昔話になってゆく。それが膨大な民話になっていた。時代が変わってもやはり人間の営みは変わらない、昔を振り返るのか老人だからである。


ただ様相はかなり変わっているが例え現代的生活でもそれかいつか昔のことになってしまうのが人間の運命である。すでにトラック運転手などめずらしくなくてもそれを経験して老いた人は昔のことになっているのだ。荷馬車のように運搬する馬自体が消えてしまったら本当に昔になるがトラックは今も現代生活の物流の要だから違っている。
でもその仕事を終えた人には昔のことになっている。


いづれにしろ老人なんかつまらない、無用だとなるが何か効用があるのかとなると昔を語ることに今も同じだった。老人は昔を誰でも語ることが勤めなのである。そんな話し聞きたくないというのもわかるがその話はその人の一生がつまっているのだ。
例え何回同じことを言ってもそうなのである。家族が認知症認知症になって千回も戦争のことを聞かされた時は異常だった。認知症
でも昔のことを語ると元気になるのはその時自分が生きていたことが語ることによってよみがえるからである。

だから老人の話しを聞くことは誰でも面白いものをもっている。なぜなら人間の経験は限られているからである。一人の人間の経験することは本当に極めて限られている。だからこの世には例え60年生きようが百年生きようがわからないことが山ほど残る。
現代は仕事も多様化しているしわからないことが多すぎるのである。


ただ老人の話を聞く時,ある程度相槌をうつ理解力がないとできない、だからトラック運転手はトラック運転手同士が話しがあうということがある。それは経験を共有しているからである。農家の人は農家の人とあうとなる。そういう経験していれば当然話しがかみあうし聞いても同じ経験してきたよと話をあわせることができるからだ。
自分の場合は日本中たいがい旅行しているからその場所のことがでてきたら話をあわすことができる。あそこはどういうところだったとかある程度は想像つくのだ。
東京にも住んでいたから場所がわかるからそうなる。でも築地市場には行ったことがないのである。前は秋葉原にもあったらしい。

ただでは経験したことがない人が聞いて話か面白くないのかというとそうではない、かえってトラック運転手など経験したことがない人はその経験話を聞くと新鮮なのである。

自分は車の運転もできないしあまりトラックとか車は好きではない、ても現代は広域物流社会だからトラックはその要になっている。すると現代を語るにはトラックなしで語ることはできないだろう。前は物流の中心は鉄道だった。すると鉄道を語ることことになっていたのだ。

ともかく話を聞くにしても直接に面と向かって聞くと何か不思議なのは自分もトラック運転手になったようになることである。それが不思議なのである。それが直接聞く語りの不思議である。いつの時代に老人の効用はそれなりにあった。それは経済的効果ではなく精神的効果である。

昔を語ることによって老人も生き生きとして聞く方もその話しから何かを得るのである。これは認知症の療法にも言われている。ただ千回同じことをきかされたらさすがにうんざりするのである。これは聞く方も大事である。80歳の老人の話しは60代くらいが聞くのに向いている。ある程度話をあわせることがてきるからである。

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2013年10月31日

原町紡績の専用線があった驚き(写真もあった)


原町紡績の専用線があった驚き(写真もあった)

原町森林鉄道・原町紡織専用線 
http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/stop/bab06.htm


●比曽川支線 飯舘村  
● 原町紡織専用線 原町市 製糸工場への引き込み線
● 日本硅砂砿業専用線 原町市 地元では「砂工場」と呼ばれていた


ここに原町紡績(原紡)の工場が出ていた。そこに確かに線路があった。これは相当貴重な写真だろう。原町史にのっていた写真である。最初は製糸工場であり次に紡績になった。肺病に多くなったのは紡績工場だった。これがどっちだったのかまぎらわしい。
ここで自分の母親が十年間働いていた。たいがいここで女性は働いた。今なら福相で女性がほとんど働いた経験があるのににている。
それにしてもここまで線路があったということの驚きである。
それだけ原紡は大きな工場だった。

日本硅砂砿業専用線 原町市 地元では「砂工場」と呼ばれていた


こんな線まで引かれていたのだ。原の町機関区は平機関区の次に重要な駅だった。
それは乗客を運ぶより資源を製品を運ぶことだった。製糸工場にしてもそうである。
鉄道は北海道でもそうだが最初は石炭を運ぶために作られたのである。

荷物を運ぶことが主であり乗客のためではない、第一汽車賃が高いもので簡単に乗れなかったのである。だから自分の姉が葛尾村に行ったというとき歩いて行ったことを何度も語っていた。その間に森林鉄道のことを語っていた。
つまり木材であり砂であり紡績工場の製品であれ石炭であれそうした資源を東京の方に運ぶために鉄道が最初あった。

だから必ず引き込み線がどんな田舎の駅にあった。だから駅前中心の街作りになったのである。鉄道全盛時代、国鉄時代がいかに鉄道が主役だったかそれを忘れているのだ。
縄屋とかあるとするとその縄で梱包するために縄を必要とした。そういう時代であった。鉄道マニアになると線路であれ何であれ異常に愛着を覚える。
もしこういう鉄道があったら面白かったろうと思う。

自分の場合バスとか車はどうしても好きになれないのである。

昔の写真は貴重であり白黒時代の写真はみんな相当に価値がある。写真から過去が見えてくるものがある。ただ高校の時、原町に蒸気機関車のとき通っていたようだがその記憶があまりないのも不思議である。その時、鉄道に関心があまりなかった。ただ子供の時、長い貨物列車が走っていてそれを見送っていたのを覚えている。これも貨物列車が主役の時があったのだろう。また踏み切りがあって踏み切り番がいたことも覚えている。
それも遠い記憶でありなかなか思い出せない。それほど昔になってしまったのである。

国鉄はまた地方の主な働き場所であり待遇も良かった。それで国鉄が民営化するとき退職した人などはかなりの金をもらった。その時高度成長時代だからそういうことができたのである。


この辺では鉄道は原町から仙台は6年後くらいに海側から山側に線路を移して開通するが
原町からイワキの方には開通するかどうかわからない、もともとイワキの方への便数は少なかった。二両とかなっていた。仙台へは八両編成だった。だからますますイワキは遠くなり浪江、双葉などもどうなるのか、鉄道は通らなくても六号線と常磐高速道路が開通すれば回復にむかうだろ。鉄道はそれだけ経済的効果がなくなっていた。でも鉄道が通らないと淋しいのである。


森林鉄道も全国いたるところに通っていた。だから飯館村の比曽にまで通っていたということの驚きである。それはどれだけ森林資源が木材の需要があったかを物語っているのだ。それがなくなったとき山でも地方は活気を失った。そしてふりかえればそうした木材資源でも何でも資源が外国から入ってきたりすると地方も衰退したのだ。
それで地方は原発のようなものが押しつけられたのである。産業廃棄物処理場なんかもそうである。そうしたものとしてしか用途が地方にないとなってしまった。
それはグローバル経済の結果でありそれが地方を破壊してしまった。
だから歴史をふりかえるとそんなにグローバル経済がいいものなのか?
そういう疑問がでてくる。TPPではさらに地方は破壊されて何もなくなってしまうとさえ思う。核の処理場として産業廃棄物の場所とされて破壊されてしまう。


日本国内資源ないわけではない、森林資源など相当にある。国内の資源を利用してたりないところを外国を利用するというのではない、国内の資源を利用しないで安いから海外の資源を利用する。こういうことは社会全体に何か弊害をもたらす、そして原発や産業廃棄物のうよなものだけをおしつけられる不条理がある。そういう社会全体の歪みをもたらしたのがグローバル化でもあったのだ。


汽笛一声新橋を これは文明開化のひびきだった。鉄道が明治以後国を作ってきたのである。江戸時代はそもそも交通が徒歩だからどんなにしても物流でも人の交流でも限られている。鉄道ができたことによってものでも人でも交流が盛んになり日本国民という意識が形成された。日本国民を一つにまとめるために天皇制が作られたけど結局これは無理な押し付けであり戦争で破綻した。天皇は古代のものでありそれが近代社会に適応されることは無理があった。中世の日蓮宗でも念仏集でも現代にすべて適応させるときカルトになったし天皇教もカルトだったのである。


とにかく鉄道が国家なりという時代があった。今は電気が国家になっていたのである。
トヨタも国家なりともなっている。ただ当時と違うのは紡績工場とあっても絹の製糸工場は大量の桑の葉を必要とするから農業と一体化していた。だから農家の二階で蚕を飼っていて兜作りの家がこの辺でも結構残っていた。農業と一体化していたから原材料は地方によっていたから違っていた。今は車の生産でも何でもそれぞれの土地とは関係ないのである。もちろん原発なども土地とは何の関係もないからそこがただ土地の人にとってかかわりのない禁断の地となっていた。確かに原発で働いていた人がいたとしても原発そのもののことはかかわることができなかったのである。


明治20年(1887)に東北本線が開業しました。その建設にあたっては、当初は現在の阿武隈急行ルートが検討されましたが「蒸気機関車の煤煙が桑や繭を汚す」「阿武隈川の水運が寂れる」などの理由で沿線地域の反対にあい、東北本線は現在の経路になったといわれています。
  同じような話は「鉄道忌避伝説」として全国にありますが、実際には、当時の土木技術が現在に比べて低く、橋梁やトンネルをなるべく避けたり、地盤や地形の制約があったりしたため、結果的にその地域を通らないルートが選択されたものも多いとされています。

  例えば、福島〜槻木間で見ると阿武隈急行は福島と丸森で2度阿武隈川を渡り、トンネルも東北本線に比べてかなり多くなっています。昭和40年代以降に建設された鉄道は土木技術の進歩によって長いトンネルや橋梁が多く、一概に比較はできませんが、明治時代に建設が容易だったのは現東北本線ルートであったことは想像に難くありません。


こういうことが言われることはやはりどれだけ養蚕が盛んだったかを示している。阿武隈山地でも養蚕が盛んだった。農業と一体化していた工業だったのである。現代はその土地と遊離した工業が多いから問題が起きてくる。原発に一般的に無関心だというとき無関心にならざるをえない状況があった。関心をもつという時やはり生活に密着していると関心をもつのである。


日本に無数にある鉄の生産に関する地名が残されているのもやはり土地の人がそれだけ関心をもった証拠である。それが原発のようなものになるとそうした関心がもてないのだ。そこが閉鎖された秘密の禁断の地となっていた。鉄の生産に関してもそこは秘密の場所として神秘化されたけど鉄に関する地名が異常に多いということは何らか地元の人と交渉のあった結果なのである。原発など南相馬市でも30キロとか離れていると関係ないと思っていた。でも今はじめて補償金問題で直接東電と交渉しているときその当事者とはじめて関係したという感覚になる。それまでは東電の人となど直接関係できない、東電の社員と地元の人が交わるということは極一部だけであり知り得ないものだった。

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2013年08月16日

浪江の方からの質問の答え (浪江の地名と土井晩翆の歌より)


浪江の方からの質問の答え

(浪江の地名と土井晩翆の歌より)


土井晩翠の歌碑が大堀にあったこと、恥ずかしながら最近知りました。
質問があるのですが、この小野田橋の歌は何年に作られたものか教えていただけないでしょうか。また田尻の歌も同じ時期でしょうか。
本来ならば浪江に帰省して文献にあたりたいところなのですが、こんな状況で、どうしていいのかわからず、甘えてしまい申し訳ありません。
どうぞよろしくお願いいたします

浪江の地名と土井晩翆の歌
http://musubu2.sblo.jp/article/19103374.html



浪江の方より質問があった。名前はふせるようにとあったのでだしません、一応匿名でコメントは受けています。名前を出さないようにとコメントがあればコメントを公開する前に名前を出さないようにできます。ただ公開する前にコメントが直接でることがある。これは出てから削除するものは削除している。

小野田橋新たに成りてこの郷(さと)の栄と睦(むつみ)いや増すぞよき

昭和一〇年二月一一日、小野田橋開通式ヨ挙グ
晩翆土井林吉先生親シクご臨席ノ上ニ一首(大堀村)


昭和十年に板橋でありよく流されていたのをコンクリートの橋にした。この頃コンクリートの橋はまだめずらしいものだった。もちろん車がほとんどないのだから道は舗装されていない、原町の無線塔も鉄塔ではなくコンクリートで作られていたのだ。これも文明の最先端をゆくものだったのである。
浪江は橋の町でもあった。川の町でもあった。海がありそれも請戸港がありこれは浜通りでも大きいし歴史も古い。

鮭簗のある辺りから大聖寺辺りをふくめて昔は泉田と呼ばれていたが相馬昌胤がこの地に隠棲するころから村名を幾世橋(きよはし)と改め、昭和二十年には浪江町に合併された。


和歌を学んでいた昌胤が師の中院内府通茂にみちもち)卿より贈られた


跡たへしながらもあるを幾世橋いくよ変わらずふり残るらむ


という賀歌によりこの里を泉田から幾世橋(きよはし)に変えた。今もある幾内橋を昔は幾世橋と呼んでいたらしい。

この辺で幾世橋という姓の人がいるからそこの出身だったのだろう。幾世も残る橋のことで橋が長くあることを願っていたのである。橋は板橋などが多いとすると常に流されていたからこの名がついたのだ。一つの民の願いとしてこの名がついたのである。橋はそれほど昔は重要だった証拠である。

いづれにしろ浪江は浜通りでは一番風光明媚な所だった。大きな川が二つあり請戸港もあり高瀬川渓谷がありこれも山水画のような景色となっていた。他からも高瀬川を訪ねる人が多かった。
浪江は川の町だと書いた。水のめぐる町であった。


だからこそ大木 惇夫(おおき あつお)の高瀬川哀吟の詩で

高瀬川いざよふ波の せせらぎや ・・・
川水は われをめぐりて さやかなり 泡だち流る


水の音が常にする、水の郷でもあった。高瀬川の上流は特にそうだった。それが原発事故で一転した。まず警戒区域になったからこの風光明媚な土地に入ることもできず荒れ放題になっている。特にネズミの被害が大きいのである。自分の家にも今日もコネズミが出てきて嫌だった。草原化するとネズミが増えてくるのだ。それでノスリがそのネズミを餌として定着した。モンゴルの草原でもネズミが増えて問題になっていた。ともかく五年間も人が住まないとなる荒れ放題になってしまうのだ。
それでもう住めないと言っていた。双葉や大熊などは風光明媚でもないがやはり浪江は川の町であり風光明媚だったからそこに入れないということが悔しいのである。

だから避難者が今何を思っているのか、やはり故郷に帰りたいという人もいるし若い人はもう帰れないとなる。

ただ浪江町は二万にもいたのはやはり原発があった影響だろう。何らかで原発に関係していた人が多いのである。それは南相馬市でもそうだったのである。原発の経済的影響が大きすぎたのである。
この辺で外部からくる労働者が除染でも国の事業だから親方日の丸だからおいしい、金の出方が違うといっていた。本当に補償金がこんなに出るということも驚きである。それは東電だけではない国がかかわっているからそうなっている。ただそうしたことの見返りが事故によりだいなしにされたのである。故郷を失うなど想像した人すらいないだろう。それが今や現実なのである。


傷心を癒して洗う高瀬川浪江の避難者いつの日帰らむ


浪江の人は許可あれば入れるが他の人は浪江に入れないから高瀬川も見れないのである。大堀の相馬焼きも廃れるのか?そして浪江の町はこれからどうなるのか?そういう不安が避難者にある。


namieee11.jpg

参考にした小冊子

松本博之とあり本命は哲夫となっている。

次にこの本から昔の鉄道のことを書いてあるのでそこを述べてみたい。

 
posted by 老鶯 at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2013年07月02日

トラさんの物語 (原町の実家の墓の悲しい物語)


トラさんの物語 (原町の実家の墓の悲しい物語)

私の母の98才になる実家は原町にあった。父は警察所長でありもともとは金持ちだった。それで幼いときは広い庭で遊んでいたという。もしそのままゆけばお嬢さんとして育ったかもしれない,その運命の歯車が狂ったのは父が事業に手を出したことだったことだったのだ。当時は製糸工場がどこにもできて農家はみんな養蚕をしていた。そういう時代だから機織りの工場の経営に手を出して失敗したのだ。その失敗の原因はそもそも警察所長などは会社経営などに向いていない、経験的にも向いていない。事業経営で成功するのは余程才能に恵まれているか時代の波にのらないと成功しない。
前親戚だった人も技術者であり頭がいいのだけど失敗していた。この人も技術者としては優秀でも事業経営には向いていなかった。一般的に東北人は商売に経営者などに向いていない、こつこつと地道に仕事している職人的技術者に向いているのだ。のるかそるかなどの大勝負をする大阪のような商売には向いていいないのだ。その人もサラリ-マンとして技術職として地道にやっていれば事業に手を出さなければ失敗はしなかった。人間はやはり向いていないものには手を出すべきではない。
人間の失敗には必ず教訓がある。その失敗を手本に次代の若い人も学ぶということがある。

ともかく母の父はその工場で働いていた女性をメカケにした。それがトラさんだったのである。メカケといっても確かに妻がいたけど脳梗塞で寝たきりなのだからそれで家のことをしてもらうこともあった。父親は警察所長でいつも威張っていたというと妻の看病も家事もできな、ただ威張るだけの人だったのだろう。おそらくこの父のふがいなさが実家の悲劇を作り出した元だったのである。母の母は5年間くらい寝たきりであり看病したのはメカケとして後妻に実家に入ったトラさんだったのである。だから母の母の看病もした。小便をとってもらうことなど嫌がっていたという。それもそうだろう。その話を聞くと何かこれも悲惨なのである。トラさんに抱かれて運ばれたりもしたとか悲惨すぎたのである。藁で下のものを始末したとかも悲惨だった。そういう貧乏な時代であり介護用品などない時代だったのである。養老院というのは一部あったかもしれないがほとんどは家で面をとみる他なかったのだろう。


その時母は原町紡績(原紡)で働いていた。この時女性の働き口は製糸工場と女中がほとんどだった。ほとんどの人が製糸工場で働いている。女中も需要が大きかった。その頃電化製品などないのだから家事は一仕事だったからである。洗濯にしてもごしごしと洗濯板で手で洗っていたのである。洗濯も一仕事だったのである。パリでもセ-ヌ川で大勢の女性が洗濯する絵が残っていた。パリなどというと今はそんなイメ-ジがないがやはり事情は同じだったのである。家事は一仕事であることが長い間つづいた。だからどうしても人手が必要であり貴族でも召使が必要になった。日本でも金持ちは女中を必要とした。二人とか雇う家もあった。後に母は東京に出て女中になった。東京では女中の需要が大きいからそうなった。

このトラさんはものすごく気性が激しい人だった。まさに名前と通りの人だった。その時実家には子供が五人くらいいた。姉もいてトラさんが家に入ってきて飛び出して東京に出て帰らなかった。もう一人の長男にあたる人は事情があって家から追い出された。もう一人の弟と母が家には残った。
実際は本当の長男にあたる人は27才で結核で死んだ。その看病をしたのも気丈夫なトラさんだった。結核は感染するから恐いし簡単にはできない看病だった。結局誰もその家でそうしたことをできるものがいないのだからまかせられたのである。メカケといっても家のためにそうして勤めた女性でもあった。その功罪はあったがすべて悪いひどい人ともいえない面があった。ただ母にとって継母であり辛い思いをした。

子供の頃弁当作ってもらったのだがそれを残してもってきたら
「俺の作ったものを食えねえのか」とその弁当を母の前で投げたという。
これはひどい話しだと思った。
その時母は実の母だったらこんなことしないのになと泣いたという。

この話は自分も聞いてひどい女性だなとつくづく思った。その後も何かと母はいじめられていたのである。継母にいじめられる話は昔からあったからこれもその一つともなるがやはりひどいと思った。
実家には弟がいてその人は丸三製紙に勤めていた。これも原町では大きな勤め口であり今も工場があり煙突から煙をだして街中にある。課長までなったからそれなりに生活はできる人となっていた。
ただ最初に嫁に来た人はトラさんが気に食わないと追い出した。ただ追い出すには事情があったらしい。新興宗教にこっているとか何か追い出される女性にも悪いところがあった。次に来た嫁とも喧嘩して別れして遂には養老院に自ら入った。そして実家は家がなくなった。

しかしトラさんの最後はあわれだった。最初元気な内は四人部屋でそういう性格だから番長のようになっていた。でも字が書けない読めないということやハンディがあった。そして最後は眼が見えなくなった。そこで何か異常な状態に一時なった。認知症になったわけではなかった。

最後まで正気だった。なぜなら母が呼び出されて介抱していたとき
「すまねえない、忙しいのにな」と言っていたという。
母はその時まだ店屋をやっていてそれでそう言ったのである。この時相当弱気になっていた。もう死ぬ一年か二年前だった。人間はどんな強気の人でも体がだめになり弱くなってしまう。これが人間のさけられぬ運命であった。

この実家の墓に父親違いの兄が葬られることになった。原町で中学まで過ごして集団就職で埼玉の方に行きそれから静岡の方に行きそこで交通事故で42才で死んだのである。なぜ実家の墓に入ったかというとそこも複雑であるがこの実家の墓にはそうした人たちが入っているということである。


つまり墓が何かというと今は家族の墓だからその家族の物語が必ずあるのだ。墓が家族は墓だとすると家族の物語として墓があることになる。もし個人墓になれば個人の物語だけになる。兄の骨が娘にひきとられて供養されればそうなる。つまり現代の墓は明治以降、家族の墓になった。これは新しい墓の形態であり百年もすぎて時代にあわなくなったのだろう。江戸時代は個人墓であり庶民でも農民でも金がある人が墓を建てた。それは個人墓であり家族墓ではない、自分も金があるから墓を建てようとなり建てたのである。それまでは武士には墓があっても庶民にはなかったのである。経済力がついて墓を建てるようになったのである。それが明治以降に家族墓になったのはやはり経済力がついたことによるのだろう。墓を建てること今でも金がかかるからだ。それで墓がもう増えすぎて限界状態になったのだ。家族墓はもう時代にあわなくなった。でも墓をどうしていいかというのは死者の問題がからんでくるからむずかしすぎるのである。つまりその方法が文化が破壊されたから見いだしようがないのである。それでいろいろと個人で模索しているけど個人では死者をどうするかなどどうしていいかわからない重い問題なので困っているのだ。死者をどう処置するかはその国の文化とも関係しているからだ。


いづれにしろ最後は家を出された長男の人が「墓を守ってくれ」と言って弟の娘に3百万を残して死んだ。それで墓が崩れかかっていたので自分が70万で直した。おそらく今回の地震であのままだったら崩れた。ともかく兄も入っているので複雑になっているのだ。ただ同じ姓になっていたので入れやすいということがあった。兄はトラさんの養子になっていたのである。そこにも事情があったが同じ姓でないとこれまためんどうになる。姓が同じだったら籍に入っているから入れやすい、ただ墓も姑にいじめられたりすると一緒に入りたくないとかもめている人が多いのである。だから墓も何かややこしすぎるのだ。


そして家族の墓は別に郷土史とかとして注目する人がそんなにいないだろう。またそうした歴史的価値があるのかわからない、家族墓は多すぎるからだ。ただこの辺では越中などからの飢饉のときの移民があり真宗系統の墓が三分の一ほどありそれは墓から必ずわかるから墓にも歴史的価値がある。ただ一般的にこうした家族墓より共同体の祭りの古い碑などの方が歴史的価値がある。それはプログで紹介してきた。それは共同体のシンボルとしてもあったからである。個々の墓にはそうした歴史的に価値あるものはそれほどないのである。だからこうしたものは歴史的に価値があるから共同体として残すが今のような家族墓は無縁墓になり無意味化してゆくのが多いだろう。

ただ家族墓というのも個人墓ではない、家族の墓だから最小の共同体であるからそこに家族としての物語が残る。それも一つの郷土史だとはなる。それぞれの家族から郷土史の一端を知ることができるのである。

いづれにしろ実家の物語は警察所長でもあった父親の影も薄いしまして病気になった母の母も影が薄い、ただそこには専横的にふるまったトラさんが主役となっているのだ。一方でトラさんに蹂躙された家族でもあったとなる。要するにいい悪い別にしてトラさんの物語になっているのだ。墓もなくなってもこうした物語は後世に語られることもあるだろう。そういうものは無数にあり民話となっていった。そこに何かしら教訓をよみとり人間の普遍的問題が必ずある。継母でも別に子供に愛情をそそげば親切にしていれば最後の悲惨はなかった。手厚く看護されたかもしれないのだ。血縁でも子供は親を見ていて最後に手厚く看護するとは限らない、たいがい金持ちの人は施設にあづけられるのでありそれも時代である。


トラさんは最後は養老院に世話になったから解剖してくれというのが遺言であった。それで解剖された骨は一旦我が家に来て実家の墓に納めた。

その墓から嘆きと苦しみと
やるせない悲しみの声が聞こえてくる
喜びの声は聞こえてこない
圧迫されて閉ざされている
ただ一人の気性の荒い
トラさんの声だけがひびきわたる
その声に子供たちはおびえる
しかし最後は眼が見えず悲しく死んだ
「すまねえな」と弱気になって死んだ
この墓の一つの物語であった

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2013年06月12日

郷土史は一人一人の生きた人を語ること (自分の兄は集団就職で静岡で交通事故で死んだ)


郷土史は一人一人の生きた人を語ること

(自分の兄は集団就職して静岡で交通事故で死んだ)

人間は死んでからその人について考えることがある。死んでみないとその人についてわからないことがある。家族でも死んでみないとわからないことがある。死んでみてその人のことがわかりありがたいと感謝するようにもなる。今になると自分は家のことを料理から家計から介護とあらゆることをまかせられるようになって苦しんでいる。それまでは全くこういうことはなかった。
三食用意されていたしあとは何もしない、買い物くらいだった。だからどこに行こうが自由だし一か月旅に出てもそんなこと簡単にできたのである。今になると一日すら行けない、三食用意するのは自分だけしかいない、介護もしなければならない、あらゆることを自分一人にまかせられるようになった。それも家族を支えていた一人が死んだためだった。

自分の家は複雑だから他人が理解するのがむずかしいだろう。ただ一人一人の人間にはそれぞれの人生があり死んでからふりかえるようになる。自分にも兄と姉がいた。どちらも死んでしまった。これもあまりにも複雑な関係だった。兄は父親が違っていて今の家で子供の頃五年間は一緒に過ごした。もしこの五年間を一緒に過ごしていなかったら兄という感覚もなかったろう。あとは事情があって原町の実家で五年間過ごして15才で集団就職して東京から静岡の方に住むようになった。
そこで結婚したのだが離婚したりいろいろ問題が起きてトラック運転手になった。そこの勤め先で交通事故になり42才とで死んだ。今も思うとずいぶん早かったなと思う。その兄は原町の実家の墓に埋められている。その兄に一人の娘がいてその娘にはま娘がいる。死んだ兄の孫になる。東京に住んでいて一時は音信不通だった、10年以上そうだった。でも五六年前から家にも来てかかわるようになった。実際は関係しないと思っていた。その兄の娘も離婚していた。母子家庭だった。

ただ今やこうして自分の家で残されたのは自分だけになった。それで実家の墓に埋めたのだからそこに兄の霊は眠っていることになる。兄自体は故郷には帰らないと常々言っていたけど故郷に帰って実家の墓に入った。しかし実家の墓は今は家もなく墓しか残らなかった。長男の人も入っているが家を出されたとか事情があり家を継がなかった。だから墓を守ってくれと言って死んでいった。
やはり家への思いがあったからそうなった。人間は何かの思いを残してみんな死んでゆく。

兄が交通事故で死んだときは静岡なのでそこまでゆくのに大変な思いをした。そこの運送会社では兄が死んだとき保険金がおりることで代理人として保険金をもらうおうとしていたみたいだ。
だから兄は乞食のようにしてきたとかなんとか特別世話したとかそのことを延々と言われた。
そして墓を作ってやるからとまで言われた。事情がわからないのでそうなふうになってしまうとこでもあった。それもあまりにも遠いし事情がわからなくなっていたからだ。交通事故になる前に離婚とかありそこでも大変なもめごとになっていたから複雑すぎた。それからやっと母が兄の遺骨をもってきて今の実家の墓に埋めたのである。自分もかかわったけどその時はそれほど直接かかわったわけではない、ともかく運送会社でいろいろ言われたことでいやになった。特別兄を世話したんだと延々と言われた。それは何のためがよくわからなかった。何にも死んだら墓をつくってやるとかなんとかいろいろ言わなくてもいい、普通はめんどうだから遺骨をもっていってくださいと言われるのが普通である。墓まで作ってやるというのも異常なことだった。それは代理人になり保険金をもらうためだったのだろう。ただ遠いこともあり事情がのめこめなかったのである。

ともかくそんなふうにして兄は原町の実家の墓に治まっているから墓参りをしている。娘も孫と一緒にした。墓の不思議はそこに故人がなおいるという感覚になる。死んだ兄は孫いることは知らないのである。でも墓参りすれば喜んでいるのかと思う。一人の人間が生きて死ぬということは何かを語り何かの思いを残してゆくことである。そこには二七才で死んだ母の兄も埋まっている。結核で死んだのでこの人ももっと生きたかったろうなとか必ず思う。一行だけど二七才で死亡とあるときそこに無念が無言の内に伝わってくる。それは戦争で死んだ人たちも同じである。若くして死んだからである。死んだ人もそれぞれが何かを語っている。それを墓参りするとき後の人が思い出すのである。

郷土史というときそうした一人一人の人生ともかかわっている。有名な人ではない、郷土に生きた一人一人の人生が郷土史でもあった。集団就職というのはやはり当時の一つの大きな歴史であった。
その時、一クラスで半分くらいは高校にも行けず中卒だったのである。中卒が当たり前だったのだ。自分は大学まで行ったから恵まれていた。成績はまるでだめだったけど金があったから東京の私立大学に行けたのである。でも全然勉強もしなかった。勉強したのはかえって大学を出てからであった。中卒で油にまみれ工場で働いていた集団就職の同級生とはかなりの差があった。 自分は相当に恵まれていた。なぜなら大学出たときから書斎すらもっていた。それから本を読むというより本の収集家みたいになっていたし旅行も自由にした。ただ海外旅行は50過ぎであり遅すぎたのである。
これだけは後悔している。早めに海外に行っていれば語学力もついたし見識も広くなっていた。
今どき海外を知らないでは笑い物になるし何も書くことすらできないものだったのである。

ただ人間の一個人の経験は極めて限られたものであり人生はまたたくまに過ぎてしまうのである。

今思うと人生とは何かとなれば何に時間を費やしたかで決まる。それは才能でもなんでもない、そもそも人間のもっている時間はそれぞれ限られたものでありあらゆることに使えないからだ。
天才であっても同じなのである。何に時間を費やしたかが人生なのである。だからカルト宗教団体に入っていたとしても創価でもそれは無駄だとは言えない、何であれ人間はどんなことでも経験そのものが限られたものしかできないのである。例えそれが間違ったことでも人生は一回きりであり経験できないのである。旅に費やした時間だったから自分の人生は旅だったともなる。


とにかく兄の人生も一つの郷土史なのである。他にも個々人の人生が郷土史となる。やはり集団就職というのは自分には当時わからなかったが一つの大きな時代を象徴していたのだろう。一五才で親元を離れ働くということは容易ではない、そこで兄も苦労して頭がはげたというのはそのためだったろう。他人の家の飯を食うとういことは苦しいことだった。それは丁稚奉公にもにていたのだ。
自分の父親は葛尾村(かつろうむら)から酒屋の丁稚奉公に双葉の新山に出たのとにていたのだ。

中卒が当たり前であり尋常小学校出たというのが普通だった。なんとか読み書きはできたというのが当時の教育だった。母も原町紡績工場(原紡)で働き東京の女中をしていた。その頃養蚕が盛んであり製糸工場と女中が女性の働き口だったのだ。家事が機械化されていないからどうしても人手が必要だったのである。だから金持ちでは二人くらいの住み込みの女中を雇っていたのである。だからその時は在宅介護も女中がしてくれたからできたという。それは金持ちの家だけだったのである。つまり機械ではない、家事を住み込みでしてくれるのだから家族と同じでしり介護もしやすかったのである。今は女中とか家でと働くということはなくなったのである。だから家に入ってきて働く人はそういう時代でないから危険極まりない時代になったのである。女中という言葉自体差別語になって廃止されたようにそういう使い方はできない、すればかえって金持ちでも手痛い目にあうしそういう待遇はすでにできない。雇われる人も全く違った感覚になっている。財産をねらわれもっていかれる。昔の人は働く場所がないのだから働き場所として女中という職業があった。今は女性の働く場所はいろいろある。だから家に入って働くような人はまれでありそこに危険がましているのだ。それも時代だったのである。


歴史をふえかえれば今になるといろいろ解釈ができてくる、女工哀史についても今はいい面と悪い面が語られる。貧乏だから製糸工場で働くことは白い飯が食えるから良かったという人もいる。
つまり飛騨の山奥の農村ではまともに白い飯も食えなかったのである。それは東北の貧しい農家の人が白い飯食べられるということで兵隊にまでなったということとにている。今から当時を考えるとき必ず何かしら違った謝った見方が歴史を考察するとき必ずあるのだ。


たいていの女工は13〜4歳で小学校を卒業すると7〜8年の年季奉公で製糸工場に働きに出たそうです。
製糸工場での労働は現在とは比較にならないほど劣悪な環境で、労働時間は14〜5時間にも及び、蒸し暑さや悪臭などが漂う工場での労働は生半可なものではなく、また逃亡を防ぐため工場には鉄製の桟が張られ、宿舎にも鉄格子が付けられるという監獄にも近い状態だったそうです

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1483480944

女工は13〜4歳で小学校を卒業すると・・・というのは集団就職とにていたのである。でも女工がすべて過酷だったとも言えない。母は女工だったけど他の人も女工だったけどそんなに苦労したとも言っていない、かえって現金収入になって親に喜ばれたとも言っている、女中でも金をもらえたから良かったとも言っている。その頃女性で現金収入なることは良かったともなる。女性の働き口が生まれたということ自体、百姓以外で生まれたことが近代化でもあった。女性の働き口は農業しかそもそもなかった。機織りなどはあっても多人数が働く工場などはなかった。でも製糸工場で生産された絹織物がアメリカの女性の贅沢品として使われその外貨で軍事費を増大させて太平洋戦争になったとなれば女性の労働が戦争に使われたともなる。ただ歴史はいろいろな見方があるから一つの見方にこだわるのは偏りを生むのである。





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2013年04月09日

五稜郭の桜(榎本武揚など-明治の青春)


五稜郭の桜(榎本武揚など-明治の青春)


劇的に船は沈みぬ函館に風雲の日や桜咲くかな

五稜郭ここも日本や桜咲く明治の青春ここにありしも
五稜郭鴎飛びつつ桜咲く白波よせて戦いに死す
榎本の波しゆられて五稜郭海風やまず花の咲くかな


函館の五稜郭の桜を放送していた。今はまだ咲いていないにしろこれから咲く、明治維新の動乱の場所が函館だったのである。その時五稜郭落城して榎本武揚降伏したのである。

五稜郭写真
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2009/05/post_38.html

見張り塔が屋根の上にあるのは伊達政宗の瑞巌寺の寺と同じだった。あそこの寺は城だったのである。

靺鞨の山 青一髪 我が行 此に至りて 豪に堪ゆ
宝刀横ふる処 鬼呵護すべし 胡馬嘶く時 風は怒号す
短鞨早天 暁霧を衝き 孤帆残月 秋濤に乱る
扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを

靺鞨の山というのは古代からあった国のことであり多賀城碑にでている。扶桑とは日本のことである。北海道は当時新天地であり新しい蝦夷共和国を作ることを夢見ていたのである。

この脱走は最初から不運が付き纏いました。犬吠埼で暴風に遭い、咸臨丸が政府軍に捕まり、運送の座礁等があり、ようやく9月26日仙台港に集まり、修理に進めました。ところが、この時既に会津若松城は落城し、仙台藩も降伏を決定していました。奥羽の各反政府同盟(奥羽越列藩同盟)は早くも壊滅状態で、希望を失った旧幕臣たちは最後の抵抗を試みるため榎本の元に集まりました。
戊辰戦争で敗れ、北海道移住を余儀なくされた仙台藩片倉小十郎家臣団401名を乗せて仙台の寒風沢を出港した咸臨丸は、箱館経由で小樽に向かう途中、1871年(明治4年)9月20日、木古内町のサラキ岬沖で座礁。


この時いかに激動のなかにあったか?陸では会津が落城して仙台藩の片倉家臣団が寒風沢から咸臨丸にのって出航した。仙台藩は北海道に伊達市があるようにかなりの武士が移住した。この時の激動も凄まじいものだったのである。ここで船が相当にかかわっていた。船で脱出して新天地の北海道を目指したのである。

明治の青春は函館が啄木の青春の地だったように気宇壮大なものがあった。時代が日本の青春そのものだったのである。だから青春の時代絵巻があった。その中には無名のうちに死んだ人も無数である。ぼっしん戦争では東北に責めてきた九州福岡の人が浪江辺りの寺の墓に死んで埋もれている。
土地の人が葬ったのである。相馬藩も一時戦い相手を殺したり自らも死んだ。


長州の毛利、筑前の黒田、大和郡山の柳沢、芸州広島の浅野、伊勢の藤堂、常州笠間の牧野、熊本の細川、因州鳥取の池田、筑後久留米の有馬ら各藩の軍勢だった。
相馬藩には以下の通達が行われた。
http://boshinken.info/hoshisenseironbun.html


芸州となるとどこの人となる、安芸藩であり広島の方になってしまうのだ。九州の福岡県の人も戊辰の役で死んで墓が残っている。福岡の人が歴史を探りに墓を訪ねていたりする。
http://musubu.sblo.jp/article/9378228.html


忘れらる相馬に果てる福岡の侍の墓春の夕暮


戊辰戦争ではとても薩摩長州の連合軍の勢いにはかなうものではなかった。錦の御旗をたてられて進軍してくる勢いはとめられるものではなかった。それがやはり時代の趨勢だったのだろう。相馬藩はその勢いにたちまちのまれて敗退して軍門に下って仙台藩と戦うことになった。その境界が丸森であり戦場跡として残っている。大砲もそこで使われたのだ。


大砲をここにすえつつ戦いて死せる者かな春の夕陽没る

武器でも劣っていたから勝ち目はなかった。東北連合は成らずばらばらだったのである。それで白虎隊や二本松少年隊の悲劇があった。二本松では兵力すらなかったから12才の少年まで狩りだされた。まさに城と共に討ち死にしたのである。 仙台藩の侍も結局榎本武揚と同じ様に北海道に逃れた。亘理藩が移住したから伊達市となった。その激動は錯綜しているからわかりにくい、ただ大砲が武器として重要であり八重の桜では主題にもなっていた。そもそもヨ-ロッパの城の時代が終わったのは大砲が武器となったときである。大砲のために城壁は無力化して城の時代は終わったのである。


この地にそ轟く大砲その音や丸森にひびき春の日没りぬ

扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを・・・この漢詩は北海道からさらにロシアまで眼中にした雄大な詩だった。北斗の高きを・・というのはロシアまで視界にして本州を見ているのだ。
我等には新天地北海道がありロシアがある、樺太がある・・・北斗があるとなる。


明治維新庄内藩&会津藩のプロイセン(ドイツ)結合

最近発掘された資料でわかったように会津が閉鎖された山国で情報にうといというものでもなかった。プロイセンに北海道の会津藩の支配地域を売ろうとしていた。それは日本の領土だからそういうことは日本を売ることにもなっていた。でもぎりぎりの所で外国の力を借りようとしていた。
これは伊達政宗はヨ-ロッパに使節を派遣して連合を計ろうとしたのとにている。
だから必ずしも東北は閉鎖された辺境とも言えない、外国と結んで薩摩長州連合と対抗しようとしていた。人間は日本国というよりまだ藩単位のアイディンティティに生きていたからである。

はとにかく一つの雄大な詩であった。錯綜していても何か人間的だから詩にもなり小説にもなる。そこには英雄が存在した。一方太平洋戦争には何かそうした人間的なものがないから詩になりにくい、むごたらしい戦死者の数のみがあるだけなのである。だから報われないともなる。つまり明治は江戸時代の武士の文化の延長としてなおあったのだ。だから内村鑑三などが北海道でクラ-クに指導された強力な指導者になりキリストに命をささげた独立伝道者になった。北海道はその時日本のフロンティアになっていたのだ。啄木でもやはり時代精神の現れがあり若くしてあれだけの短歌を作った。それは明治という全体の時代の産物だったのである。明治は今になれば西欧化の華の時代であり詩的なテ-マになりやすい、詩の時代だったのである。それから大正とか昭和になると散文的時代となる。時代的に高揚するはいうより何か文明の頽廃的様相を呈してしきた。デカダンスとかが主流となってきたのである。戦後はアメリカに負けて日本の精神すら根こそぎ断たれた。明治は一番日本の国粋文化も高揚していたのである。漢詩が一番興隆したのが明治だったことでもわかる。漢詩は志を述べるものだからである。志の時代、まさに志士の時代だったのである。

だから明治の青春こそ無名でも一人一人が青春を生きていたのである。それは今や埋もれてしまいわからなくなった。結局明治の青春を作ったのは時代を作ったのは武士がいたからである。武士のモラルがまだ生きていて西欧化でもその魂が融合したのである。和魂、洋魂の時代だった。300年の武士の時代が明治になって死んだわけではなかったのである。その蓄積が実は技術面とか他でも華開いたのが明治だったのである。ルネサンスにしてもそこにイスラム文化とかギリシャの文化-ロ-マの文化などが融合して一大ルネサンスが生まれたのである。過去の蓄積が融合して華開いたのである。こういうことは個人的にもある。一人の天才がいてその才能が次代のものに新たなものになって蘇る、模倣ではない新しいものとして蘇るのである。ただ今や現代は個人的にしかそうした文化的なものは受け継がれないのだ。明治のように時代全体として受け継がれることはないのである。大衆化した文明というのはそうした文化の創造などないのである。宗教はカルトとなり数の政治にすぎないし文化的創造的なものは団体などから生まれない、政治と実用の科学の時代なのである。

現代とは一番詩が欠如した時代なのである。それで上野霄里氏などがニ-チェのようにアウトサイダ-化して絶叫するようになるのだ。上野霄里氏が自分は高杉晋作ににているというときまさにそういう詩人的行動者だったからそう言ったのである。詩が欠如している時代は時代的に衰退している。散文的な金だけを追い求める物質的なものとなり高邁な精神の高揚もなく低俗大衆文化の時代なのである。この辺の原発事故でもそうである。第一次産業に農業に漁業に林業でも自然とかかわることで生活することは詩的なことである。しかし工業化して文明化すると自然から離れるから詩的なものとはならない、詩は自然なくしてはありえないのである。原発によって自然が汚染され破壊され人まで住めなくなったことはまさに黙示録的世界がこの辺に現れたのである。津浪もまた大きな時代の変革をうながすのとして起きてきたのかもしれない、人間より神の力のいかに偉大かを示したものなのかもしれない、無情ではあるがそういう恐るべきものを見せつけたのである。


扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを・・北斗の高きを・・・というときこれには宇宙からの視点もあった。それだけ雄大な志に生きて果てたというのが明治の青春だった。現代の青春はカルトととかいかに金もうけて金で自分を誇示して偉くみせるとか物資的になりすぎているのだ。結局現代人の望みは金持ちになることしかないのである。志に生きるなどはすでに夢にも浮かばない、というのは会社自体が利益を追求するのであり利益が最大の眼目だからである。そこにいかなる志も芽生えない、いかに他者を蹴落としてもうけるか金になるかしかないのである。そういう功利的人間しかいなくなったのである。まさに志に生きる武士はいなくなった。日々利を求めて追われているだけなのである。この辺でも結局補償金の金でもめているだけでありどこにも絆などない、最初のうちだけあっただけだったのである。

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2013年04月08日

死語となった言葉 (戦前から戦後十年は江戸時代の継続があった)


死語となった言葉

(戦前から戦後十年は江戸時代の継続があった)


死語となった言葉

日本列島の狭さ
五反百姓
五反田の地名の多さ
女工
原紡
御蚕様
女中
肺病
梅干し弁当
麦御飯
飯台一つ
トタン屋根
裸電球
尋常小学校
女学校
おふる
三男坊
鈍行車
汽車
停車場
炭屋
銭湯
五右衛門風呂
鉄砲風呂

駄菓子屋
金魚売り
煙草屋
酒屋
どぶろく
質屋
鍛冶屋
馬車屋
万歳
映画館
秋市


これらの言葉はもはや使わない、日常生活から消えたものだからである。江戸時代から明治時代になったときも江戸時代に使われた言葉が消えた。明治時代に西欧化した時、日本人は漢字で西欧化したものを現した。それが今では中国で使われている。言葉は単なる言葉ではない、長く営まれた生活の重みがあるのだ。その一つ一つが使われたときはその言葉は単なる言葉ではない、必需品としてなくてはならないものだったのである。ただ日本は貧しい時代が長かった。庶民は戦後十年までくらいは戦前とたいして変わりなかったのである。自分の子供時代はそういう貧しい時代だった。団塊の世代はその貧しい子供時代を経験している。でもこの経験は貴重であり楽しいものだった。何か貧しいけども人情味ある社会だったのである。豊になって人間は日本人にあった人情などはなくなった。ただ金だけを追い求めるようになった。それでも日本人は貧しかったから貧しい時代はすべていいとはならない、五反百姓とか五反田とかの地名はまさに貧乏な百姓が多数だったことを如実に示していたのである。


戦後十年くらいは家にあるのは飯台一つでありそれを囲んで食事していた。電気製品はも一つもなかった。裸電球があっただけなのである。それも家の中に一つくらいしかなかった。屋根はトタン屋根で雨漏りしていた。いつも洗面器などを並べてしのいでいた。瓦屋根の家もあったがトタン屋根の家も多かったのである。ご飯は麦ご飯でありその頃水田が多くても麦畑も多かったのである。燃料は炭であり炭屋があった。山では炭焼きであった。飯館辺りではそれで財を成したという家もあってうらやまれた。炭焼きは山の重要な現金収入となっていた。つまり戦前からの継続が戦後の十年くらいはあったのだ。自給自足の生活だった。ともかく貧乏だった。自分の家は駄菓子屋のようなものをはじめた。店屋でもその頃簡単にできたのである。インド辺りではバラックのような所で店を出していた。品物も極端に少ない、そうした小商いがあったのは江戸時代からの継続でもあった。棒ふりなど江戸時代のものだと思っていたが戦前でも天秤棒は使われていた。荷物を運ぶのは天秤棒だった。明治の話しとなるが天秤棒担いで鹿島から川俣まで鰻売りに行ったという話には驚いた。でも天秤棒は中国では今でも使われているように量を運ぶには良かったのである。前と後ろに荷物をのせられるからである。でもかなり肩にずしりと重さがかかるから体力が必要だったろう。鹿島から川俣までは急峻な坂がある。その坂を天秤棒を担いで上った。それが信じられないのである。でも基本的に歩くことが移動することであった。江戸時代の継続がそこにあったのだ。子供のときぎんぎょえ-きんぎょ・・というのも天秤棒を担いで金魚を売っていたのだ。天秤棒は結構使われていた。中国では相当まだ使われている。やはり荷物を運ぶには便利なものだったのである。


母は尋常小学校でありほとんどがそうだった。そして原紡に勤めた。絹織物の生産が全国で行われ女工哀史で有名なように若い女性はみんなそこで働いた。それくらいしか勤め先がなかった。あとは女中だったのである。女中の数が多かった。洗濯でも食事の容易でも家電製品がないのだから全部人間の手でやるとなると一仕事であり女中が必要な家がたくさんあったのである。母も東京で女中していた。たいがい同じ様な経験をしている。子守りして学校に行けなくて小説読んで字を覚えたとかその頃学校も満足に行かない人がいたのである。女学校は高根の花であり特別選ばれた人が行く所だったのである。ただ大倉の女性が親戚の家に住んで相馬の女学校に通ったというから金持ちなら入れた。大倉は山をもっている人は木を売って金持ちがいたのである。団塊の世代の親の世代は大正生まれも結構いるからいろいろ親から聞くから意外と身近なものに感じる。一世代前までは親の世代であり
生々しいものとしてその言葉もまだ感じるのである。明治の人は江戸時代が身近だったと同じである。団塊の世代から下になると豊かな時代に生まれているから何か遠い歴史の世界のようになってしまうのだ。


蚕様というとき蚕は農家で飼っていて桑畑もいたるところにあった。相馬市にぬける街道の細道に二軒蚕を飼っていた家が残っていた。二階がそうだった。そういう農家はいたるところにあった。江戸時代からあって白川郷の合掌作りは有名である。あそこでも養蚕する場が二階にあった。そしてどぶろくを飲んでいたのである。酒すらまともに飲めない人がいたのだ。どぶろくは自家製もあり安いから飲めた。家族でも三男坊というと長男からすると何かどうでもいいとかなる。そういうひびきがこの言葉にはこもっていたのである。長男は家の跡継ぎだから大事にされた。その頃は子だくさんだから長男以下は軽んじられた。着るものもおふるとかお下がりとかになる。そういう貧しい時代だったのである。


映画館なども今や死語になった。映画は映画館で見るものだった。ニュ-スすら映画館で見ていたのである。テレビが入ったのは戦後十年ちょっとたったときだったのである。テレビに対する熱狂はすさまじかったのである。いつもプロ野球をみんなテレビで見ていた。相撲も見ていた。それで「大鵬、巨人、玉子焼き」になったのである。玉子焼きが食べられるようになったのはテレビがでるようになってからのようだった。貧しい時代から豊かな時代へ移りつつあったのだ。
秋市などという言葉もまだ市が開かれていた。その時いろいろものが集まり売っていた。何かサ-カスみたいなものも来ていたのである。今や秋市などというのも死語になった。「あきいち」という言葉を聞くとなつかしいとなる人も結構いるだろう。それらの一つ一つの言葉がなつかしさを感じる。過ぎたものに対する愛着が人間には残るのだ。


石神で紙漉きをしていた農家があったというときそれは江戸時代からあった。紙漉き沢が相馬市の山上にあるからだ。ということは江戸時代はどこでも紙を作る農家もあったということである。今でも一軒くらいあって自分の家で終わりだとかテレビにでてくる。紙漉きも相当数のものが普通にしていた仕事だったのである。要するには江戸時代から明治時代になったとき急速に工業化して変わってしまったのである。ただ紙漉きをしている家があったのかと聞くだけでリアルに昔を感じる。
それもこれは山の生業であった。石神とか山上にあったことでもわかる。


あかぎれの 手をいたはりて 紙を漉く
http://www.balloon.ne.jp/453room/new_page_36%20kamisukisikoro.htm


紙漉きは冬に行われるから冷たい水にぬれる。それであかぎれになる。あかぎれというとき母も良くあかぎれになっていた。食器洗うにも冷たい水だからそうなった。今は温かい水だからそうならない。

城崎温泉の各外湯は、「柚子湯」です。古来より冬至の日には浴槽に柚子を入れ、ひびやあかぎれを治すといわれています
あかぎれ地蔵などもあかぎれきような地蔵なのか?あかぎれというのは女性がみんななるからそれにまつわる話しも多いとなる。結局今になるといろいろ便利になり豊になりそうした苦労はなくなったのである。でも人間のわからないのはそうした苦労がなくなっても苦労がなくなることはなかったのである。必ず別な苦労が生まれるのが人間社会なのだ。豊になればなったでやはり苦労が絶えないのである。鬱病が増えるとかいろいろな豊さ故の問題が生まれてくる。この辺の原発事故などもまさに豊かさを求めてそれを実現したのだか事故が起きて以後は様々な問題が起きている。人間には何になろうが苦労が絶えることはないのだ。豊かさを求めすぎでかえって苦しむということもあったのである。


天秤棒を画像検索するといろいろでてくる。でも本だと引用できないのが問題であった。本の写真はリンクできないしコピ-できないから
困る。本は一つの閉鎖された世界だという面があった。写真などは共有になりにくいのである。


 
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2013年03月17日

松川浦の漁師の話(続) (海からは山が目印になる-漁師の仕事はわかりにくい)


松川浦の漁師の話(続)

(海からは山が目印になる-漁師の仕事はわかりにくい)


以前は特徴のある山形を用いて位置を確かめた。陸上の山の形を見て、位置を測定するのである。串本では、5海里(約9キロ)までは潮岬の高塚の森、10海里(18キロ)では重ね山、
20海里(36キロ)では那智のムカデ連山が目印になった。漁師にとって、
命が懸かっているから、これらの目印の山は信仰の対象となった
http://apolohal.jp/st2-4.htm


昨日あった漁師の話しは興味深かった。30才くらいのようだが体が自分より小さい、筋骨隆々でもない、ええこんな体で漁師ができるのかと不思議だった。やはり人間はまず体つき見る。体つきが姿勢とかいいと好感度が高くなる。体が大きいと威圧されるのだ。若い人でどちらかというと今は背が高くて大きな人がいる。そういう人に接すると何か自分がみすぼらしく見える。最初相手の知能がどうだとか見ない、まず体つきを見る。これは聖書でもニムロデとか大きな人のことがでている。それは人類がはじまって以来、人が出会うと相手の体つきで判断していた。やはり大きい人には威圧感があり恐れを感じてしまう。そういうのが誤りであり偶像崇拝に通じている。巨大なものが何でも偉大だとなってしまうからである。巨大化信仰がそこから起きてくる。ただ漁師とか大工でも土木関係でもどうしても力仕事だから体力がないと勤まらないと思うから体を見るのである。あんな小柄な筋肉質でもない体でどうして漁師ができるのかと思ってしまう。ただ小柄でも機敏であり動きがいいのかもしれない、漁船は常に揺れているから体力も必要だが機敏さが必要になる。あの人からは機敏さは感じた。小回りもきく。揺れる船の上では仕事がしやすいのかもしれない、眼に大怪我をしそうになったというのは機械のワイヤ-などが原因でありそっちの方が今は恐いと言っていた。仕事は機械でする時代だから機械により事故が今は一番多いのだ。


その人が言うには海から見えるのは山しかないという。それで山によって位置を計る、海上の位置をみる。漁場でも山を見て位置を定める。
この辺の山は特別高い山が見えない、阿武隈山脈であり低山の連山でありそこに目立った高い山が見えない、でも海上から見分けられるという、陸に暮らすものにとっては海から見ている感覚がどうしてもわからない、確かに海から見えるのは山しかないのだ。陸地は平坦だから目印にはならない、すると山が頼りになり信仰にまでなる。海の人も山を信仰するのかとなる。砂漠でもそうだが位置を知ることが一番大事になることは変わりなかった。砂漠では位置をしるために星が一番大事であり妙見信仰も北極星のことでありこれは変わらないので目印となった。砂漠の国はみんな国旗には星が記されている。星がそれほど大事なものなのである。海上から山が大事だというとき位置をしるためなのである。この感覚はやはり漁師でないとわかりにくいのだ。

今は漁場を探すにも機械である。だから年配の経験者の指導もいらないとなるが実際はやはり必要になることもある。海を経験で感覚的に体で知っているということである。人間はそうした感は長年の経験で養われる。ただ感というとき経験なくても海外旅行では青年は楽にしやすい、なぜなら言葉が通じなくても感がいいから辺りの様子が感でわかるのだ。自分のように50才で海外旅行すると感が鈍くなっているからわからなくなるのだ。感は経験で働くものもあるが別に経験がなくても働く、老人が津浪で死んだ人が多いというとき経験していないから津浪が来ないと依怙地になって逃げないから死んだのである。つまり老人には柔軟性がなくなるのだ。人間は生きるのに経験しないことがいくらでもある。だから経験だけに頼ることはできないのである。人間一人の経験は限られている。その限られている経験からすべて判断することはできない、そこにミスが生まれるのだ。だから多様な人の経験に聞くということも大事になる。


そもそも漁師というのは一番わかりにく職業なのである。ただ海の上での仕事だから危険だなと見ている。確かにその人は船の上で手術をするような病気になりそれが緊急を要していたので危なかったといっていた。船がなんとか陸に帰り救急車が来ていて救われたという、30分遅れていたら死んでいたという、そういう危険は海の上ではある。その人が言うには農業など仕事がとんとわからないという、それも確かだろう。漁師と農業はあまりにも違いすぎているのだ。陸で暮らす人から見ると漁師の仕事は魚をとれるのは何か運のように思える。魚が勝手に集まり増えてそれで大漁になったりするのかと思っている。でもそういうことはないという。それはあくまでも人間の業であり運ではない、人間の積み重ねられた技術の集積で魚はとれる。運でとれるということはないという。長年の感で漁場を探していた時代もあった。今は機械で探しているがやはりそれも運ではない、一つの熟練した技術の結果だという。世の中運で仕事になるものはないということである。何か運で食糧が恵まれなどということはないのである。


その人の話で最も漁師らしいと思ったのは魚をとったばかりの新鮮なものを食べているから二三日過ぎたものはまずくて食べられないという、そういうものはすぐにわかるという、それは確かにそういうものかと思った。とれたての新鮮なものが魚でうまいのだ。一日でも置いておくと新鮮味がなくなりまずくなるのだ。そういう新鮮なものをいつも食べているからその舌でわかる。ここでも石鰈などは売りにきていた。それは2千円とか高かった。でも新鮮だからうまかったのである。この辺では一番のごちそうだった。そういうものが食べられないというのも海側に住んで得なものがないとなる。放射能の影響は長くつづくから困るのである。放射性物質はまだ何かわからないが汚染水が原発から流れだしている。その水をいくらとりかえてもやはり濃度が下がっていない、つまり汚染水が地下水からかどこからか常に流れだしているからその水をとりかえてもまた汚染されて濃度が下がらないのである。ただ海は広いから汚染水が流れても濃度が広範囲に流れて薄められるから危機感が薄いのである。


水を得た魚と、陸に上がった河童


その人は漁師だから陸で仕事しにくい、陸にあがった河童になる。農業のことはわかりにくいというのはあまりにも漁師の仕事と違っているからだ。ただ農家とか漁師でいいのはいつも新鮮な食糧を食べられるということである。農家では農薬を使わない野菜を前の畑からとって食べているとか言われる。そういう特権があり買ったものは新鮮味で落ちるし何か農薬が使われすぎているのではないかという不安があるのだ。この辺では原発事故でそういう特権を失ったことでがっかりしている。

とにかく人間の能力は多様であるから理解しにくいのである。

2816号 水を得た魚と、陸に上がった河童(平成進化論)
http://www.2nd-stage.jp/backnumber/ppf_full/2011/05/2816.html


人にできることとできないことがある。向いていることと向いていないことがある。それは手伝いとかの仕事でも誰でもできると思っているがそんなことまで向き不向きがある。手伝いとなるとその家に溶け込む必要があり結構人間関係などでめんどうだともなる。職業に無数のミスマッチがある。
適材適所になっていない、それは離婚が三分の一になっているのとにているのかもしれない、男女関係もミスマッチが多いのである。自分はこういうふうに文章を書くことは得意でもしゃべることは不得意である。ただこうしてプログを出していてもこれが職業とはなりにくい、職業でも結局金にならなければ職業になりえないとかこれもまた適材適所にならない理由なのである。あなたは自分の向いた好きなことを社会でやりなさいとならない、まず強いられるのは収入が金をとることが先になりその人の適正がどうだなどと考慮してくれる社会ではないからだ。

いづれにしろあんな小柄で漁師がやれているというのも不思議だった。時代が変わってまた漁師も力だけではない、機械の操作とかが大事になると別に体力がなくてもやれるとなる。ただ高橋英吉の「潮音」のような漁師像はすでに過去のものなのだろうか?あれは地引き網とか海とじかに格闘していた時代のものなのだろうか?あれは海の男を如実に彫刻化したものである。

今回あった漁師はそんなふうには全然見えなかった。これなら自分もできるなと思った。体も小柄で手も小さく筋肉質にも見えない、顔も子供ぼい、子供がいても顔が子供ぽいのである。ただ小柄でも機敏性があることはみてとれた。揺れる船の上で機敏に動けるから漁師ができるのかと思った。鳶の人が船に乗ったけど揺れて動けなかったというのもわかる。鳶も十階とかビルの上で仕事している。だからそこにいるだけで恐怖になる。でも船の上ではまた勝手が違うのである。つまり職業は慣れもありなれない所ではみんな勝手が違ってくる。だからアルバイトで電気関係でアンテナをとりつける仕事した年配の人が屋根から落ちて死んだ。だからアルバイトと危険である。その仕事の要領がわからないし訓練を積んでいないから危険なのである。どんな仕事も本当は簡単にできないのだ。

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2012年06月16日

錯綜する明治維新 (相馬藩士が天狗党と新撰組にいたわけは)


錯綜する明治維新

(相馬藩士が天狗党と新撰組にいたわけは)


江戸時代末期に展開された反幕排外運動。その思想的基盤となったのは,藤田東湖,会沢安(正志斎)らが唱えた水戸学である。幕府は安政1(1854)年,日米和親条約に調印し,その批准を朝廷に求めた。海外事情にうとい朝廷は,攘夷論の拠点であった水戸藩の働きかけもあって勅許を与えなかった。他方,はなはだしく貧困化し幕政への不満をつのらせていた諸藩の下級武士層は,夷狄(いてき)として排斥すべき西洋諸国の圧力に屈して,幕府が国交を開くのをみて憤激した。同5年おりから将軍継嗣問題で紛糾していた幕府は,井伊直弼が大老に就任し,勅許を待たずに反対派を押切って日米通商条約に調印,次いで安政の大獄を断行した。外国貿易に伴う物価騰貴によって生活がさらに圧迫された下級武士層は,以後朝廷の尊攘派公家と結んで活溌な攘夷運動を展開していく。諸藩でも,初め水戸藩,次いで長州藩が藩論として尊攘を掲げ,攘夷親征の挙が宣言されるにいたったが,文久3年8月18日の政変で公武合体派に敗れたこと,鹿児島,下関における四国艦隊との交戦(→四国艦隊下関砲撃事件)を通じて攘夷の無謀さが認識されたことなどの理由で,攘夷運動は急速に衰退し,以後は尊王倒幕の方向をとって展開され,明治維新の原動力となった。天狗党」は,水戸藩の尊王攘夷派の呼び名である。尊王攘夷とは,天皇を尊び,外国の勢力を打ち払おうという思想で,幕末にさかんに唱えられ,多くの志士たちをつき動かした。実は,水戸藩こそが,その尊王攘夷思想の発信地だったのである。
http://homepage3.nifty.com/numa/historio/tengu-to.html

1864年、尊皇攘夷をうたう長州藩が四国艦隊下関砲撃事件により砲撃を受け、その武力差に敗北を期し、長州征伐によって勢力が弱まると尊皇攘夷運動も勢力を弱めていく。そして欧米列強の圧力を排するためには、一時的にでも開国し、外国の技術に学び国内統一と富国強兵を行うべきだとする思想が生まれた。坂本龍馬らの仲介によって、1866年に薩長同盟がなされると、攘夷の不可能さを悟った薩長両藩の改革思想は「討幕」へと転換していった。


明治維新は錯綜しているから今も何なのかわからなくなっている。浦賀にペリ-が来て開国を望んだとき政府は従った。開国であったからのちの開国派となった薩長と同じである。違っていたのは倒幕派であり開国を望んだ。幕府を倒すことで薩長が一致した。ところがまた薩摩の西郷は最後薩摩藩を武士階級の存続を守るために西南戦争で死んだのである。倒幕派にしても薩長が武士としての階級を守り政治をするというのことが明治維新だった。とすると会津などと同盟しても不思議ではない、なぜなら会津も武士を守ることで武士道を全うして滅びたからだ。これは西南戦争と同じではないか?
西郷隆盛は藩を存続させようとしていたのだ。ただ西欧列強に対抗するには強力な中央集権国家を作らねばならない、それで封建的地域主義では対抗できないと天皇中心の強力な中央集権国家を作った。だから東京中心の社会となり方言まで規制され標準語化したのである。文化的にも強力な中央集権国家、東京中心の社会を明治以降作り上げたのでありそれは今にも継続されているのだ。

西南戦争で国民軍が形成されて武士の軍団に対抗して勝ったことが日本国民としての自覚をうながした。奇妙なことは会津は薩長に恨みをもっていたから西南戦争では国民軍として参加して活躍していた人がいてその家ではその時使った錆びた刀が家に残されていた。敵が味方になり味方が敵となるようなことになる。

一体明治維新は誰のための革命だったのかともなる。武士階級を残すという西郷などの力は明治維新後も働いていた。だから武士でないものは平民と戸籍に記されていたのである。武士階級は士族として形は残された。明治時代はの警察官も、士族出身者が多数を占めていましたというとき自分の母親の父親は警察の所長だった。会津の士族の出だったようだがたどることができない、だから裕福で父親がいつも威張っていたというのがわかる。その頃母親は大きな庭のある家に住んでいたという。でも子供のとき父親が製糸会社を運営して失敗してあとは悲惨な運命を歩むことになる。継母のことを書いたけどそれも製糸会社運営と関係していた。士族は警察関係などに就職した人が多い。警察関係とは相性がいい、それから教育関係にももともと教養があるから職を得た。ただ武士はもともと商売とか企業には向いていない、なぜなら武士は義を重んじる誇り高きものであり商売には向いていず武士の商法といわれた。武士が意外と向いていたのは農業だった。相馬藩ではそもそも郷士であり農民であったからその継続だった。それでも新しく農業をはじめた武士がいた。


八沢浦開拓では中に妙見神社が田んぼの中に祀られていたから新しく開拓に入った武士である。あとは北海道で開拓に入った武士が多く、武士橋とか武士と関係するものが多い。伊達藩は伊達市まであるから藩ごと武士が開拓に入っている。三越とか高島屋とか何か今の大きな会社の前進は近江商人の系統であるのもそのためだろう。明治維新はそうした地主階級とか商人とか企業家にとっては得するものだったのである。それらの人たちのバックアップがあったことは確かである。一番損したのは苦労したのは武士階級だったという不思議があるのだ。結局日本は外圧で運命が左右される。欧米列強に対抗するには強力な中央集権国家を作ることが急務でありそれで背伸びしたのである。そのことは太平洋戦争までつづいていたのである。富国強兵政策は太平洋戦争まで変わっていなかったのである。太平洋戦争までは富国強兵政策に国民も反対していない、貧乏でもそうだった。だから日露戦争の勝利に国民あげて酔った。実際は引き分けでも勝利したと過度に日本が持ち上げられたのである。
その奢りが太平洋戦争とつながっていたのだ。常に歴史は奢りが滅びに失敗に通じていることは常に指摘されてきた。原発事故も日本の技術は優秀だという奢りがあった。だからあまりにも日本を誇大化させるものは信用できない、右系統の人はそういう傾向が強いのである。日本に対しての誇りは必要でもそれが奢りになっているのか多いから肯定できないのである。


いづれにしろ明治維新を解明することは容易ではない、ここで注目したのはそういう全体像ではなく関所のことを書いたので関所を通じて明治維新を見るということもある。


天狗党の挙行に期待をかけた庄内藩士・清河八郎は、水戸藩にやってきて、天狗党の傲慢な
態度に失望し、その無謀さを批判して帰ってしまった。清河が憤った天狗党の狂乱は、軍資金と
称して、豪商や豪農を襲撃して、財貨や食糧を強奪するまでに発展し、この狂乱に対抗するため
に自衛組織も作られたほどだった。

中には、間道や裏道をわざわざ天狗党に教えて、藩軍と天狗党が正面衝突しないように機転を利か
せる藩もあったという。

間道を通らせたというのは関所を正式に通ると証拠が残ったりして責任が問われるからである。明治維新の時代は正式に通る道より間道をゆく武士が多かったろう。規制のル-ルが破られる時代だったからである。天狗党の無謀も騒乱もそのはじまりだった。こういうときは過激派が出てきて混乱する。テロが起きてくる。


清河は上手く幕府を出し抜いて今度は佐幕派を京都に集め出した。文久3年(1863年)2月23日、将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として清河は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。京都に到着した夜、清河は浪士を壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあると述べる。鵜殿鳩翁が浪士組隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、京に残留することを希望する者の取りまとめを依頼し、攘夷に反対した根岸友山・芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らが残留し清河と袂を分かつたものの[8]、200名の手勢を得た清河は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも受理された。
このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻す。清河は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていた。
文久3年(1863年)4月13日、幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって麻布一ノ橋(現麻布十番商店街そば)で討たれ首を切られた[9]。享年34


新撰組の成り立ちもまた錯綜している。佐幕派によって最後は暗殺された。


たまたま戊辰の役で長州藩士で奥羽鎮撫参謀世良修蔵(慶応4年4月20日福島にて斬首せられる)が同年4月9日白河城に入城し、会津藩攻撃を督促しているとき、坂田屋にて志げ女と遊んだ。
世良はこの地が危険であると察し、同年4月18日白河を脱した。
このことから会津藩士は志げ女を憎み、志げ女を殺害した。
これを知った遊女屋の下男がこの地にて会津藩士を殺害し、その仇を討った、戦争の悲劇の一駒である。

これも錯綜して混乱している時代の犠牲者であった。
「お前は薩長の犬か、成敗してやる、この女郎めが・・・」
「わたしにゃとってはみんな客にすきませんよ、薩長もなにもないですよ」
「どっちにしろ怖いし客としてむかえないわけにはいきませんよ」
「馬鹿言うな、お前は賊だ、切って捨てる」
なんとかかんとか疑心暗鬼になっているからそうなる。錯綜と混乱と疑心暗鬼と殺伐な殺戮から庶民が犠牲になっていた。それを怒った下男が会津藩士を殺したというのもわかる。これは会津藩士がいきすぎていたのである。「なんで殺されるんだ、遊女だからか、馬鹿にすんでねえ」とかなった。


相馬藩士も犠牲者がかなたりでていた。


相馬藩降伏(1868/08/07)と戦死傷者

家中 17人。 給人郷士 69人。 足軽 16人。 農兵 12人。 夫卒 11人。
負傷 129人。   相馬兵の多くは棚倉城攻防戦で戦死。    (出典:相馬藩政史)


家中とは城づめの武士だった。相馬の城に勤めていた。あとは農民と武士の両方を勤めていた給人郷士である。足軽16人というのは給人郷士に仕えていたのか、家中に仕えていたのか、相馬藩は小さいから足軽がそんなにいたのかともなる。ただ野馬追いの時、馬を引く人がいるがあれは足軽だった。五十人町とか百人町とか仙台にはあるけど他にもあるけど足軽町もあるけど相馬藩にはない、六万石だから小さいからない、白石に足軽まんじゅうまで売っているのはそれだけの足軽を伊達藩ではかかえていたのである。そもぞせ足軽だけで生計をたてられるかというとそれだけの余裕をもった武士は相馬藩にはまれだろう。郷士なのだから農民なのだからまれである。
農兵12人というのも純粋な農民だった。農民も明治維新では参加していたのだ。ただこれは相馬藩としてのまとまりとして農民が出ていたのである。


ともかく天狗党にも新撰組にも相馬藩士がいたのは天狗党から新撰組が生まれていたことでもわかる。だから天狗党にいれば新撰組にも入る、それは清河八郎をみればわかる。このように明治維新は錯綜して混乱しているからわかりにくいのである。


天狗党-清河八郎(攘夷派)-浪士隊-新撰組(佐幕派)-会津藩

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2012年06月14日

コンビニの前で大正生まれの老人の話しを聞く(続) (南相馬市鹿島区の上萱には明治から人が住んでいた)



コンビニの前で大正生まれの老人の話しを聞く(続)

(南相馬市鹿島区の上萱には明治から人が住んでいた)

●オ-トラリアの米作りの話(水田が消えた南相馬市)


コンビニの前で戦争のことなど聞いた大正生まれの老人の話をまたきいた。大正十四年生まれだった。

オ-ストラリアで米作りしているけど水はどうしているのかな、

米作りには水は大事だからな、水のいいところは米がうまい、この辺だと栃窪など山に近く水がいいからいい米がとれる、でもオ-ストラリアなんか水をどうしているのか


地下水をとっているらしい、その量は何千年にもわたりたまったものでものすごい量だってよ


ええ、そんなに地下水があるもんなのか,驚きだな
でもアメリカとかオ-ストラリアは地下水がいづれ枯渇してしまうって
森がないので地下水がたまらないからなんだよ
地下水は不思議だよ、郡山辺りで江戸時代にふった雨が地下にたまっているという
地下水ってそんなに古くからたまっているもんなんだよな


この辺は今草原化しているから水田がないから違和感が大きい、当たり前の風景がなくなったことで改めて水田があったときのことを思い出している。山から水は豊に流れ大地をうるおして田から田へと水が流れていた。そして農家には前田があり木蔭がなんとも気持ちいいものだった。その水田がないことが心まで荒廃したものとしている。つまり水が流れ活かされていないのだ。山から田に春には神がおりてくるというとき水が山から田に流れる自然との調和があった。山に祖先が眠るというとき水と深く関係していたのである。その水が流れない活かされないから心まで枯渇した感覚になる。

それは別に農家で米作りしていなくてもその風景はあまりにも長年親しんだ風景でありそれがなくなることなど想像もしなかったからだ。日本では山から水田と水は常に循環しているから地下水のようにとってしまいばなくなるということはない、常に山から水は供給されていたのである。オ-ストラリアでは森がないから水が貯えられなくなった。だから米作りの肝心な水が供給されなくなるから米作りもできなくなると言うのも想像できる。


水田が消えた


とろとろと水は流れる
山から水は尽きず流れる
水は大地をうるおし
水は山に森に貯えられ
とろとろと流れる
山の神は春には
平地におりてくる
山から水が流れるように
農家は何代もつづき
前田があり木蔭が涼しい
そんな当たり前の風景が消えたとき
その流れる水がなつかしい
水は大地の血液だった
今大地に水が流れない
水は活きていない
それは山は森も生きない
みんな一つの命だから
水を通じて命がめぐっているから


●南相馬市鹿島区の上萱は明治から人が住んでいた


その人の話では上萱(うえがや)は昔は上野と言っていたという。その人の父親の話では馬に米三俵積み自らも乗ってあの坂を上ったことを知っているという。その馬は暴れ馬で力が強かったからそれができたという。上萱は戦後に開拓に入った人たちが住んだのであり戦前とか明治には住んでいないと思った。ところが三軒くらいは前から住んでいたという、それもかなり古い、明治にも住んでいた。茅葺きの家がありあれは古いものだと思っていたがやはり戦前も明治からも人が住んでいた。

その人は大正生まれでありその父親は明治の人となるから明治には住んでいた。炭焼きなどをして町に炭を売り米を買った。それから八木沢の麓の地蔵木とか大芦にはやはり江戸時代からすでに人が住んでいたのである。なぜなら真宗系の粗末な石の墓があったからである。もちろん戦後引揚者が開拓に入ったことがかなりあった。小池の自分の父親の知り合いはフィリンピンからの引揚者で小池に開拓に入った。父親とは双葉の新山の酒屋で一緒に働いていたから知り合ったのである。戦後は引揚者が開拓に入ったという地域がかなりあった。小池は松林とかになっていて今のように畑も田んぼもなかったという。あそこが荒地となっていたのである。そういう地域がまだあった。江戸時代から住んでいた人たちの所にまた新しく開拓に入った人たちもいたからこの辺が混同するのである。

上萱がなぜ前に上野だったのか?上野から上萱に名前が変わった。その理由がよくわからない、萱を材料として使ったためか、萱場とか萱のつく地名にはそういうのが多い。茅葺きの家が多かったから材料として大量に必要だった。あそこは明治から人が住んでいたのである。こういうことは人の話からしか伝えられない、町誌など文書で記録したものには残っていない、そういうものが歴史には結構多いのである。そういう言い伝えは消えてしまうことが多いのである。だから郷土史は祖父母の話を聞くことからはじまるのである。

●鰻を売りに天秤棒をかつぎ鹿島区の屋形から川俣まで行った人の話


この話しには驚いた。五貫目の鰻を天秤棒で八木沢峠を越えて川俣まで売りに行った話を聞いたという。川俣までとなると八木沢峠を越えること自体大変でありそれも天秤棒だとなるとバランスをとるのがむずかしいから余計に重労働になる。坂をのぼるときバランスをとるのが大変だったというからその話はリアルである。五貫目というとこれはかなりの重さである。


五貫目町(ごかんめちょう)は、神奈川県横浜市瀬谷区の地名

江戸時代の初期に年貢の石高が五貫目と定められ、それが字名となったという。昭和49年の新設の際の町名は字名を採った。

五貫目は一貫目が三・七キロだから十八キロにもなる。この重さは何匹に値したのか?昔家で店をしていたとき、計り売りで一キロごとに
計っていた。一キロでも結構重いから18キロとなると大変な重さである。

百匹にもなるのか?50匹くらいか、それほどの数でないとこれだけの重さにはならないかもしれない、それだけ売れたら大変な金になったからこそ川俣まで売りに行った。川俣では当時高く売れたということである。今でもそうだけどやはりバナナでも売れるのは金持ちの国である。食料品も金持ちの所に流れてゆく、松川浦でとれた魚も東京の方に高く売っていたのと同じである。地元ではかえって食べられなくなっていたのである。

天秤棒一本で財を成す」という言い回しや、近江商人に由来の慣用句「近江の千両天秤」(天秤棒一本あれば行商をして千両を稼ぎ、財を成すという、近江商人の商魂の逞しさと表すと同時に、千両を稼いでも行商をやめず、初心を忘れることなく商売に励むという教訓が籠められている)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%A7%A4%E6%A3%92


まさにこれであり江戸時代の話である。明治時代にもその継続があった。

川俣は江戸時代以前から絹織物産業が盛んで、良質の川俣絹の生産地として知られていた。明治以降は軽目羽二重が考案され、戦前は世界的に輸出された。


奈良時代 信夫郡小手郷(現在の川俣地区)は奈良の興福寺の荘保であった。(荘園志料) 紫色が高貴な色となされた為、都では紫草の栽培や使用にたいし、厳しい規制がなされたが、ここ奥州では、紫草が保護栽培され、絹織物とともに租(税金・貢ぎ物)とされてきたと推測される。貴族階級の独占から離れ、一般の庶民が紫色を染色できる様になったのは、実に江戸時代になってからのことであり、文献で確認できるのは江戸(寛文4年1664)、幕府の天領に川俣がなってからのことであります。

18世紀頃の染色記録調査 岩城 添野村 惣七より  「奥州 川又村 紫染伝 」 「文化13年(1816)子八月 奥州川又村 紫染ヤ 忠右ェ門 ぬかた村 喜兵衛 安右ェ門 伝也」とある。         (川俣町絹織物史 おりもの展示館)
このことが、後年川俣紫としての染物が、近江商人により江戸と京都で販売され、京都の染物の3倍の濃さとの評判になり、隆盛を迎えたと古老の話にある。  (H11・11・15 高橋歌子氏談)
http://homepage2.nifty.com/khonda/newpage9.html


江戸にも売られた古い伝統をもっているのが川俣町だった。奥州川又村とあるが金比羅参りで萬延元年(1860)、奥州栃窪村(現 福島県鹿島町)の住人によって寄進された「箸蔵寺百丁」の道標。ここでも奥州から小さな地域の村になっている。江戸時代は川俣町が単位ではなく村が単位なのである。鹿島町も鹿島村があり鹿島町になった。あくまでも江戸時代の行政単位は村なのである。
上栃窪に金比羅の碑が多いからこれを裏付けているのだろう。


川俣まで鰻を天秤棒で売りに行ったのは川俣が景気が良く高く売れるからだった。そうでなければわざわざそんな遠くに行かないのである。鰻取りは自分の家で思い出がある。父親が明治生まれであり鰻とりを田んぼの畦道などで良くしていたのである。子供のときついて行った。鰻の住んでいる穴を熟知していたりミミズを餌にして微妙に微調整して穴に入れるのがコツである。鰻をとったときはごちそうだった。家族みんなで鰻を料理したのである。その頃の鰻は天然だからうまかったのである。その鰻を川俣で売りに行ったというのは本当に驚きである。五貫目というと相当な量だったから金になったのだろう。鰻は今や馬鹿高く食べることすらできなくなっている。時代は余りにも変わりすぎたのである。

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2012年04月22日

コンビニの前で戦争の話を聞く(2)


コンビニの前で戦争の話しを聞く(2)

コンビニ前でこの前話しした老人がまた酒を飲んでいた。
あの人は話しができる人だった。全然話しができない、聞けない人もいる。
88才まで生きていても体が小さい、肉体労働には向いていない、でも長生きするのは体力とは関係ないみたいである。最近力道山のような肉体派の有名な俳優が病気で死んだ。
その人は何にも負けるような人には見えない人だった。その人もここ十年は病気で苦しんでいたのである。息子から膵臓か肝臓かもらって移植していた。
60代なるとあのような体力ある人も病気になり死んでいる。
60代とか以降は金があるより地位があるよりも健康なことが第一なのである。
自分も痛切にそのことを感じた。


その人は前も書いたが東京で飛行機を作る工場にいた。それで東条秀樹が乗っている車を見たという。これはなかなか本物を見るということはない、映像で見ても本物を見るというのはない。
飛行機を作る工場でありその前を頻繁に軍用の車などが通っていたという。
その頃のトラックなどはしょっちゅう故障して修理していたという。
今の車とは大違いだから故障していたことがわかる。
それから自転車で物を運んでいたこともわかる。
車に乗っている人はまれだった時代である。


御所の職員は職業柄、そんな事はできず、御料(殿下のご食糧)
にも事欠く状態であった。


 そこで御所の周辺の空き地を畑にして、食糧を自給自足でき
るようにしようということになった。職員たちは勤務の余暇に
にわか百姓となって、空き地の開墾を始めたが、草を刈り、根
を掘り返す重労働に、手は豆だらけ、体はくたくたになってし
まった。それでも手に包帯を巻きながら、作業を続けた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h21/jog624.html


天皇家でもこういうことがあったのだから宮家では買い出しをしていたのかもしれない、でも
「食べ物をゆずってください」と買い出しに出るとなればいかに日本全体が食糧に窮していたかわかる。


それから話しを聞いていると
「オ-ストラリアでは2000町の土地をもっている」
「飛行機で種まきしているからな」
「とても、かないっこないよ、日本と比べられないよ」
「この辺で38町もっている農家の人いて驚いたけどな、2000町は驚きだな
38町でもめったにいないよ、日本では・・15町の人がいたけどそれで大農家だよ
5町で平均よりも上になるのか、日本ではそんなもんだよ」


この会話で2000町と言ったことでその土地の広さを実感したのである。なぜならヘクタ-ルとかなるとわかりにくいのだ。2000町となったらとんでもいな広さだと即座に実感したのである。


「ものがないから日本は負けたんだよ」
「戦争するにも弾がないけりゃ、何もできない、竹槍で戦おうとしていたんだからな、日本は」
「朝鮮人は多かった、どこにでもいたよ、みんな金かせぐために日本に来たんだよ」
「朝鮮は日本の属国だからパスポ-トもなち入れただろう、入り安かったからなあの頃は」


物資の不足は日本では致命的だったのだ。それからその時朝鮮人が大量に入ってきた。それは強制的というより日本で仕事ができて金になったからである。原町の大原の発電所辺りでも働いていたという。全部が強制的ではない自主的に働きに来ていたのである。

80代くらいの人の話は60代の人はあわせられる。でも若くなるに連れてあわせられなくなる。
車もない時代も知っている。物がない時代も子供の時に経験している。だから話をあわせられる。
ものが豊に出回った世代になるとその辺のものがない時代がわかりにくいのである。

歴史というとき郷土史でもやはり直接に話しを聞くことがリアルに歴史を感じることになる。
話して何かわかることがある。そもそも人間の体験はみんな同じではない、だから戦争の体験もみんな同じではない、働いた場所も違うしそれぞれ違った体験をしている。その一人一人の体験を総合するとき何があったのか見えてくることがわかる。前に書いた戦後梅毒にかかった人は全国にいた。
だからそれは戦争のためだったということがわかる。数が多いからわかるのだ。


戦争の話しを老人に聞く(1)
http://musubu.sblo.jp/article/55380545.html

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2012年04月08日

裸電球のキ-ワ-ド


裸電球のキ-ワ-ド


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焼け野が原の富山市清水町(音羽町)に掘立て小屋を建て、一家6人で雨露をしのぐ生活を強いられていたが、立山重工の捕虜収容所がアパートとして開放されたのを機にそこに移住。まぶしく光る裸電球の輝きが目に焼き付いてい


戦後も、闇市の裸電球に照らされた真っ赤なリンゴと、
「可愛リンゴに唇寄せて」並木路子さんの歌うリンゴの唄は、
荒廃した街の中の庶民に希望を与えてくれました。


裸電球の下に店を開く準備が始まり、時間とともに市場内は徐々に熱気をはらみ活気づき、威勢のいい売り声が飛び交います

土を固めた床とベニヤを貼った壁と天井から、裸電球がぶら下がっているだけの3坪の店舗。


昨秋改装した店内には、裸電球の下で職人らが道産小豆の生あんを練り、薄皮で包む古い写真

粗末な裸電球に照らされた研究室が人生の道程の光と陰を暗示していた。


まもなく校舎は現在の陣屋跡に移ったが、古い木造校舎の広い教室に100ワットの裸電球がたった4個という貧弱なものであった


戦後、暗い裸電球の下で家族が寄り添って過した日々を思い出しています。


裸電球は隙間風に揺れ・・・


子どもたちは裸電球やアセチレンランプが灯るころまで、路地から路地へと駆け巡り、鬼ごっこやかくれんぼを楽しんだ。

内部には裸電球や石油ランプを吊るし、買出し用のリュックなど当時の生活をしのぶ資料が展示されていました。
http://uenonorenkai.com/book201009-2.htm


戦後はバラックのような家を建てて暮らしていた人がいた。自分の父親が建てた風呂もそうだった。何にもないところからはじまった。だから裸電球が希望の灯のように見えたというのは考えられないけどそうだったのである。裸電球でも電気の灯であり明るい未来を示していたのである。


廃線の暗いトンネルの奥の記憶



真っ暗な廃線の中のトンネルの奥なのか

記憶をたどるということはそういうことか

そのトンネルの奥に記憶が残っている

北風が外で唸り吹いていた

平屋の古い家に風がふきつける

がらんとした広い家に裸電球だけが灯っている

そこに自分の昔の古い家があった

記憶をつなぎあわせるが定かではない

記憶もこうもはかないものなのか

父、母、姉・・・・二人はもう死んだ

日々記憶は遠ざかってゆく・・・

死んだ人とは記憶の中でしか会えない・・・

それも朧であり廃線の暗いトンネルの奥なのだ



記憶はまさに廃線である。その廃線の跡をたどるのが昔の記憶なのである。人間も終わって見れば最後に残ったのは記憶である。しかしその記憶も定かではない、真っ暗な冷たい廃線のトンネルの奥なのである。そのトンネルの奥には明るい光景は見えてこない、そこに廃線となった駅の跡がむなしくあるだけである。


キ-ワ-ドで読むのはインタ-ネットだからできる。本ではできない、これはインタ-ネットの中での新しい読書方法であり情報の使い方なのである。ここに引用したのはいちいちリンク先を入れなかったけど著作権違反にはならないだろう。新聞社のはなっていた。あまりにも著作権にこだわるとインタ-ネットは利用しにくいのである。こうしてキ-ワ-ドで引用して編集しているのは創造作業であるからそれも狭められると有効なインタ-ネットの活用はできなくなる。本にはできないことが今までの情報環境ではできないことができるときそれが革命となるからだ。

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団塊の世代-集団就職-金の卵の時代をふりかえる


団塊の世代-集団就職-金の卵の時代をふりかえる


一生貧乏
60代, 男性, 自営業

私は10歳で母親に捨てられました。(父親は私が3歳から肺結核の為に入院していて14歳の時に病死)兄嫁と母親が不仲で 10歳の時に出て行きました。1年に一回位日帰りで来るくらいです。当然兄嫁にいじめられて本当に辛い思いをしました。

ようやく中学校を卒業して、東京江東区清澄町の松本自動車という自動車修理工場に就職しました。これからが本当の地獄でした。仕事は住み込みです。最初の部屋は6畳間に二段ベッドが両脇に四つのところに7人住まわせられました。(工場の上に6畳間の部屋が3ツ有りましたが2ツの部屋は人に貸していました。)この状態が約半年です。仕事の時間は朝8時〜12時  午後は13時〜18時
残業は毎日19時〜23時 合計13時間毎日仕事です。

毎月の休みは5日と15日の2回だけです。それで給料は残業代も入れて1ヶ月1500円です。当時菓子パンが10円です。
休日と残業時間の食事は支給有りません。1500円は一週間の
食事代だけで消えました。
腹はいつでもぺこぺこです。お金が無くなると、コッペパンを3切りにして、1日分の食事です。後は水で我慢しました。
信じてもらえないかもしりませんが本当のことです。

半年後に1万円にしてくれましたが、それから入社してから、 18歳までにげだすまで変わりませんでした。(なぜすぐ逃げ出さなかったというかたもいるかもしれませんが、当時は15,6歳の田舎の子供です。無理です。)

その後遺症で17歳の時に顔に白癜という病気で顔の25%(皮膚が白くなる不治の病気です。)がこの病気の為に仕事は思うようにいかず、結婚も当然出来ませんでした。(気持ちが悪い、移されそうで怖いといわれました。)こんな辛い人生は何万人に何人いるんだろうかと思います。辛さは死ぬまで変わらないとと思います。
http://poor.life-taikenki.net/taikenki62.html



これも過酷な運命の下に生まれた人だった。老後というとき何が興味ある事になるかというとそれぞれの人生を読むことなのだ。こんな人生が送った人がいたのかと自分の人生と照らし合わせて比較すると興味深いのである。意外と隣に住んでいてもその人の人生がわからないのが現代である。
「秋深し隣は何をする人ぞ」なのが現代である。田舎でも隣近所は疎遠になっている。買い物だってすべてス-パ-だから小さい店は姿を消した。するとそれぞれの人生をなかなかしりえないのである。老後は何かをふりかえることであり思い出すことが仕事になる。本でも前に読んだものを読み返すと本当に理解することになる。新しい本は読みにくいし理解しにくい。そして本というものも積んどくが多く読んでいない、読んだと思っていたものも深く読んでいないし忘れているのだ。


この人の人生に興味をもったのは密接な身内でこれと同じような人生だったのを知ったからである。実にこの人の運命は過酷そのものだった。この人の恵まれていた点は東京で生活していたから金の卵のような集団就職をしていないことである。集団就職は15才くらいで親元を離れるのだからこれも過酷だったのである。自分は恵まれて勉強嫌いでも東京の私立大学に入れた。それもほとんど勉強はしなかった。もともと自分は今になると学問好きなことがわかった。いろいろなことに知的な興味が尽きない自分に気づいたのである。そして老後になるとむずかしい本でも理解できるようになった。

この人が何を言おうとしているのか本をぱらぱらとめくるとだいだい要旨がつかめる。古典でも深く理解できる。本でもそうだが他人の人生も見通せる、理解できる。若いときは人生にしても人間のことにしても社会についても五里霧中なのである。社会に翻弄されて生きるほかないのである。それで無駄なカルト宗教団体に入ったりといろいろ無駄が多すぎるのだ。


最初の部屋は6畳間に二段ベッドが両脇に四つのところに7人住まわせられました。


学生のとき町工場でアルバイトしていた。その時、集団就職したような人がそういう所だった。住環境は劣悪だったのだ。この人は食事も満足にできなかった。仕事は自動車修理工場というとき流れ作業ではなかった。自分がしたことは流れ作業が多かった。なぜ自分が仕事を嫌悪するようになり会社勤めを嫌ってそのまま幸運にも老後を迎えたのか、それはもともとの性格にもあった。学校という規則的な集団生活のときも適応できなかった。性格的に甘やかされたこともあった。自分は社会にも会社にも適応できない性格だった。だからまともに働いたのは20代前半だけである。それも流れ作業しかなかった。一日中機械でドリルで穴を空ける仕事とかであり嫌悪するようになったのはそのためである。何か創造的仕事があるなど考えようもなかった。仕事とはみんなそんなものかと思ってしまったのである。残業にしたって流れ作業になると本当に嫌になる。もう定時だけでうんざりしてしいるからだ。その後は全くこういうロボットのような仕事はまるで違って旅行に明け暮れたというのも恵まれていた結果だった。そんな仕事をしつづけたら生きることさえ嫌になったろう。


その後遺症で17歳の時に顔に白癜という病気で顔の25%(皮膚が白くなる不治の病気です)


身内の人も円形脱毛症になったからにていた。ストレスのためになったのだろう。集団就職した人は何かしらこういう苦労をししているだろう。でもその後それなりに自立して結婚して一家を構えて東京辺りで暮らし田舎には帰ってこない。不幸にも自分の身内は若くして交通事故で死んでしまった。その墓が原町にある。この人の人生とにていた。この頃集団就職の人生の人は苦労しているからそれなりの数がいた。この人は最初から不幸な星の下に生まれてしまったのである。ただいくら不幸でも集団就職しても今は高度成長期でありそれなりに自立生活している人も多いだろう。この人は結婚していないから家庭をもっていないから余計不幸を感じているのだ。ともかく人間の一生はいろいろある。団塊の世代こうして過去をふりかえる老後を迎えた。過去の苦労を語る時を迎えた。戦争時代は戦争のことを語りつづけて死んだ。団塊の世代を何を語るのか?たいして語ることもないのか?恵まれた時代だから語ることもないのか、集団就職したような人は語ることがあるだろう。一人一人の人生はみな違っている。一人一人の人生も実は郷土史の一こまである。それら一人一人の人生はすでに歴史となっているのだ。同じ世代でもそんな人生があったのかと驚くことがあるだろう。それは後世への教訓である。失敗の体験も後世の若い人への教訓である。自分が失敗したことと同じ様なことをしている人もいるからだ。


人間は他者を知るというとき自分の体験を基にしているのだ。だから自分が体験しないことはいくら聞いてもリアリティが伝わらない、戦争などあれほど悲惨なものでも戦争の体験をしていないからなかなか理解できないのである。自分は現実に下町の油臭い町工場でアルバイトしたから集団就職の人たちのこともそこからイメ-ジされた。しかしそれもしない人はわからない、アルバイトでも出版社とかでして興味を覚えてそこに就職したという人もいる。アルバイトでもやはり流れ作業でない仕事をして興味をもてばそういう仕事あるのかと就職しようとするだろう。ただそういうアルバイトはみんながなれるわけではない、底辺の大学ではなれなかったということがある。家庭教師にだってやはり底辺大学では無理である。結局自分はそんな油臭い、下町の流れ作業の工場などで働いたのは一時期にすぎない、あとは風のように自由に生きて今日に至ったのである。だから自分には会社も工場もなにもない、ただ自然の自由の風吹いている。心の中でも吹いている。それでそれを俳句や短歌や詩にしているのだ。こういうふうに自由に生きられたということ自体奇跡的なことかもしれない、他の人は営々と働いて会社勤めだったからである。


500坪程の工場は組立工場、機械工場、鉄板の切断・溶接工場となっていた。作業場ではこれからお世話になるであろう先輩たちが、裸電球の下でヤスリをかけ、装置を組み立て、油で真っ黒になって機械加工の仕事をしていた
http://www.takemori.co.jp/omoide.htm


この人は天草の農家の貧乏生活より食い物もいいし良かった書いてある。この人は仕事ができるので優遇されたのかもしれない、個々に事情が違ってくる。東京はその頃田舎とは全く違っていた。この人は東京だったが食べ物を違っていたし生活は金があれば豊かなものになっていた。この人は雇い主からの待遇が良かったのである。九州の田舎より東京の方がいい暮らしができると実感した。それなりに苦労したにしろ自分の会社をもつまでになった。集団就職でもこういう人もかなりいた。
経済が今とは違い右肩上がりの高度成長時代だから独立もできたのである。


裸電球の下でヤスリをかけ・・・・・


この時は裸電球であった。最近昔のテレビドラマを見ている。サスペンスなのだが昔と今の光景がどこが変わったのかというと映像を見ても30年前でも40年前でもさほど変わらない、変わったのは道具だった。裸電球のあるところで取り調べをしていた。車をみると旧式の型のものが多い。それでも普通に車走っているのでさほど今と変わらないように見える。40年前とか学生で車をもっていた人がいた。その人は恵まれていたのだ。まだまだ車は普及していない、ただその辺から急速に普及していった。携帯のないときは公衆電話を良く使っていた。刑事も連絡に公衆電話や家の電話を使っていた。コンピュ-タ-で仕事している人がいたけど20年前くらいでもコンピュ-タ-はあり仕事していた。ただそのコンピュ-タ-が大きな古いものであった。そこだけが今と明確に違っていたのだ。他の様子はテレビの画面からはわかりにくい、これを見ると人間の社会は変わったというとき道具が変わったというのが一番わかりやすい。なぜなら江戸時代には鉄道もない車もない、電話もないとかそうしたいろいろな道具がないことが一番違ったことなのでなである。人間そのものはそんなに変わらないということもある。


昭和は遠く成りにけり ・・・


64才の俳優が死んだ・・・60代でも俳優など結構死んでる、時代はすぐに変わる、昭和から平成、昭和も遠くなるということがまじかに迫っている。自分も70くらいで死ぬんじゃないかという不安がある。ただ癌ではなかったからその点は救いだ。普通に暮らせるから病気という感じもしない、酒とか煙草は30代でやめた。70くらいで死ぬのがいいとか思ったりするが作品を完成するにはいくら生きても完成しないだろう。いづれにしろ老後になるとそれぞれの人生も興味深いものとなる。なぜなら人間や人生を深くみる、理解できるからそうなる。そして人間の心は変わらないから人間はしょうこりもなく同じ犯罪、業をくりかえす、カルマをくりかえす、それはインド人が言ったことと同じである。職業が業としたとき原発事故だって一つの人間の業として開発があり事故につながっていたのである。人間の業(カルマ)はとめることができないからそうなるのだ。

posted by 老鶯 at 18:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2012年03月31日

松川浦の貝殻地蔵


松川浦の貝殻地蔵


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松川浦名取の人の名を記す遭難の碑に春日さしあわれをとどむ


松川より原釜に至るには中村の方へと少し戻りて、高すか地藏といふ地藏堂のほとりより右に折れて入るなり。「ほつき」といふ貝の殻を幾個と無く尊前に捧げたるは、先刻に見し観音菩薩に瓠(ゆうがお)供へたるにも増してをかしく、貝の裏の白きが月の薄明りにも著く明らかなれば訝しみて土地のものに問ふに、耳遠くなりたるものども自己が年齢の数ほど貝殼を此の御佛に奉りて、復びもとの如く耳敏くならしめたまへと祈り申せぼ霊験(しるし)ある由を云ひ伝へて、然は爲るなりといふ。観音には瓠(ひさご)、地藏には貝殼、をかしきものをのみ供ずるところかなと打笑ひて過ぐ。


幸田露伴 「遊行雑記」の相馬の部を読む
http://www.musubu.jp/somakoudarohan.html


ふつう「柄杓」「杓」と書く)水を汲むための器具。2を縦半分に切って使ったところからいう。ひしゃく。
ヒョウタン・ユウガオ・トウガンなどの果実の総称


瓢箪は中国では、伝統的に薬屋の看板
日本 養老の滝「生命の水」である酒の容器
瓢箪は永遠の生命を象徴するもの
壺中天(壺=瓠)




わたしの耳は貝のから
海の響きをなつかしむ・・・ジャン・コクト-

貝は耳ににている、貝は何か音を聞いている感じに見える。この詩は詩人が特別に感じたことではない、一般人でも別に作家だったり詩人だったりする、そういう素質をそもそも人間は生まれもっていたのだ。民衆の残したものに無数の民話とかも名もなき人が作家になったいたし詩人になっていた。なぜ貝が耳が遠くなったとききくと考えたのかのかそういう詩的な発想があったからである。
そして前にも何回も述べたように人間今でもそうだが病気が一番の悩み事なのである。病気の苦しみは今も一番の問題なのである。耳が聞こえないとなると日常生活で相当不自由するからそうした地蔵ができる。民間信仰が生まれる所以である。貝殻が信仰になったのは海で漁業などを生業としていたからそうなった。瓠をささげたのは長寿を願ってかもしれない、瓠、瓢箪にはそういうことが伝えられている。

名取郡の東多賀村の人が原釜で遭難した。その碑に名前が記されている。橋浦とあるがこれは橋浦家の人が何人か遭難した。ただ明治時代だから碑としては古いとは言えない。


橋浦 陸奥国桃生郡橋浦村 宮城県桃生郡北上町橋浦 奥州千葉氏の流れ。女川城主千葉氏の一族か


橋浦氏は桃生郡に橋浦村があるからそこから移住したのか?千葉氏系統なのか、とにかく橋浦という姓は名取郡にまだあるだろうからその子孫も生きているだろう。明治時代だからまだ子孫が生きている。海では必ず遭難がありそれを記念した碑がある。ただ書類で見るのと碑に記された文字を見るのとは違っている。碑はその場から具体的にイメ-ジされるからリアリティが生まれてくる。これは墓でも同じである。墓の不思議は家はなくなっても墓だけが残っていることがある。そうすると墓が過去を伝えるものとなっている。自分の実家の墓は家がなくなり墓だけが残っている。本当は静岡の方に中卒で金の卵で働きに出て故郷には帰らないはずだった。ところが交通事故になり実家はなくても実家の墓に入ることになった。すると本来は帰らない人が墓に入っているからその人が死んでもいるように意識するのも不思議である。もし墓が静岡の方にあったら墓参りだけで大変だからもう意識すらしなかったかもしれない、墓があるだけその人の存在がなお意識される不思議があるのだ。
記念の碑もそうである。石に記されただけでやはり歴史を伝える重みがでてくる。だからこうした石碑とか墓が郷土史研究では欠かせない生きた資料となるのだ。

新沼観音の飢饉の碑は古い、「春日さし遠き昔や飢饉の碑」という句を作ったときやはり碑が一つの生き物のように見るからこういう句ができる。しかし飢饉であれ災害は遠い昔とはならなかった。災害は必ず再来する、現実に新沼観音の近くまで津浪が来ていた恐怖である。相馬藩では飢饉で三分の一の人口がへったことがあった。それは延々と語り継がれている。それは最大の危機だった。そして今回の津浪と原発事故も相馬藩はないにしろ最大の危機に直面した。こんなとき町長とか市長になっていた人は大変だと思った。その責任も重大となる。ただ市長だけではどうにもならない、全体の危機だからである。この辺の苦悩は本当に深い、海では遭難は時折あるが津浪ほどの被害はない、津浪は村全体が消失するような被害だった。原釜は地形的に被害が大きかった。
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2012年03月06日

戦後十年は江戸時代の生活の続きだった (老人は過去の思い出に生きる)


戦後十年は江戸時代の生活の続きだった

(老人は過去の思い出に生きる)

実家は昔、米麹取り扱いの鑑札ももっている店だったのですが、つぶれてしまい、祖父は酒米・麹の関係で町内の蔵本「やまだい」に丁稚奉公に出され、後に番頭をやっていました。


祖父は、今で言う仕事人間で、退職するまではあまり家にいない人だったらしいですが、何でも自分で作る器用な人だったそうです。
http://www.arainodendo.com/konjaku/01teppo.htm


鉄砲風呂で風呂をわかすのが仕事だった。父は製材所から端(バタ)材を安く買ってきて鉄砲風呂の燃料とした。新聞紙などを入れてそのバタを入れて風呂をわかす。風呂とトイレは外にあった。風呂の水は井戸がなかったので近くの井戸水をもらいバケツで運んでいた。その水を運ぶことも仕事だった。竈とかが外にあり炭小屋があった。家はトタン屋根でいつも雨がふるとあちらこちらに盥を置いて大騒ぎだった。隣の家は魚屋で五右衛門風呂だった。近くには豆腐屋があった。自分の家も店屋だった。
最初は酒屋だったが次に子供相手の三文店屋を開いた。いつもクジがありクジのついたもの当たりはずれがあるものが売れた。その頃わんさかと子供が多いからそんな小さな店でもはやったということがある。駄菓子屋のはしりである。戦後10年くらいまでは日本人の生活は江戸時代の延長だったのである。赤穂浪士に討たれた吉良上野介が炭小屋に隠れていたというのはどこの家にも炭が燃料だから炭小屋があったのだ。炭焼きはどこの山でもしていた。炭焼きで山の生活は成り立っていた。今の燃料店はガスとか石油になるけどそれまでは炭を売っていたのである。


だからこそ町とザイは密接に結ばれていたのである。どこでも一つの自給自足経済圏として生活していた。石油とかは使っていないし学校でスト-ブに石炭をくべるようになったのが進歩だった。石炭は工業用であり普通の家では使っていない、それで常磐炭鉱は石炭で栄えた。小名浜は石炭の積み出し港であった。北海道でも小樽をはじめ石炭の積み出し港であり鉄道そのものが最初は石炭を運ぶ貨物の鉄道として作られたのだ。だからこの辺でも長い貨物車両が通っていた。確かに電気は通じていた。家にあったのは裸電球一つであり電化製品は一つもない、燃料は炭であり炬燵すら炭だった。だから炉端がどこの家にもありそこで栗などを焼いていた。そういう生活は江戸時代と同じでありその生活は今になると貴重な経験になった。団塊の世代の子供時代までがそういう生活を経験している。あとは急速に高度成長時代に入り忘れられてしまった。思うに高度成長時代以降に日本人でも文明的生活になったのであり戦後十年まではいわば原始的生活だったのである。その変化が余りにも大きすぎたのである。葛尾(かつろう)村などでは電気すらなかなか通らなかった。これは日本全国で山の方は遅れたのである。今になると信じられないかもしれないが、裏の堀の小川で洗濯物を洗っていたのである。これはまさに原始的生活だった。パリでも洗濯物をセ-ヌ河で洗っていた。洗濯物は川で洗うことは原始時代からつづいていたのである。


芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞く夜哉  松尾芭蕉


夕顔の白く夜の後架に紙燭とりて 松尾芭蕉

http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/bungaku/bashounowaki/bashounowaki.html


このサイトで説明されているように江戸時代の家と戦後十年の生活形態はにている。
後架はトイレは外にあった。だからこそこの句ができた。盥というものも今はないが昔は必ず雨漏りのために備えねばならなかったのだ。江戸時代のことが戦後十年の生活とさほど変わらないからこの句も実感できる。今はそういう生活を知らないから実感できないのである。もちろん紙燭というのは実感できない。懐中電灯は使っていたからである。夕顔の白い花が怪しく紙燭に照らされて仄かに浮かぶ、そういう皓々と電気に明るい世界とは違うからこそこの句ができた。風流は寒きものなりとか風流は不便な時に感じられる。今は余りにも便利になったから風流を感じない、車だったら外の風を感じないからそもそも風流を感じない、自転車だと風流を感じるし徒歩だったらさらに風流を感じる。そもそも歩く感覚を今や車時代で失った。歩いて見えるもの感じる感覚を失ったのである。これは江戸時代から綿々とつづいた人間の感覚の喪失なのである。それが意外と社会にも影響していることが大きいのである。


地に足がついた生活は戦後十年まではあったが高度成長時代から便利になり失われた。人間関係も大きく変わり金が大きな力を持つ社会に変貌したのである。つくづく地元で味噌や醤油を作っていても全国から味噌や醤油など入ってくる。米でもそうである。すると自分の好きなものいいものを選び買える、地元のものを買う必要がない、すると金が大きな力をもつようになる。戦後十年は地元のものを買うほかない、まだ今のように交通が発達していなかったからだ。豊になるには全国で売れるものを作らねばなれない、その土地の名産品を生み出せば通販でも全国に売れる。全国と世界とも競争するとなると並のものを作っていては売れないとなると売る苦労は大変なものになっているのだ。


自分の父は葛尾(かつろう)村から丁稚方向に双葉町の酒屋につとめ暖簾分けして移った。あまり商人向きではなかった。同じ酒屋で働いていた人がフィリンピンから戦争の引揚者で鹿島区の小池に入植した。戦後十年は働く場所がない、引揚者で人口が増えた。それで開拓に入った人たちが多かった。飯館村の大倉から草野にゆく所に「共栄橋」とあるのもあそこにあった二軒の家は開拓に入ったのである。一軒は廃屋となったが一軒は残っていた。ブラジルとかに移住したのも働く場所がなかったからである。働く場所がなければ人はブラジルまでにも移住するのだ。それは強いられた移住である。普通は人は移住はしない、住み慣れた所にいたいのである。人間の歴史は移住の歴史でもあった。アメリカ自体が移住民で作られたことでもわかる。いづれにしろ戦後十年は江戸時代からの生活の延長であり原始的生活の延長であったから今になると貴重な経験をしたとなる。生活の基本として原始的時代から江戸時代と変わらない生活だったのである。それが変わったのは高度成長時代からでありこの変化は余りにも大きすぎたのである。それゆえに人間の基本的となるものが破壊されたのである。家族でもコミニュティでも様々な基本となるものが喪失した。その変化は計り知れないのである。


ともかく老人は過去に生きている、過去を思い出すときあのとき生きていたなと実感するのだ。
思い出すことが仕事なのである。実際に家族も死んで失われたとき、本当に家族自体思い出すときあったとなる。人生はただ思い出としてあるだけになる。もう帰ってこない過去があるのみなのである。帰ってくるとしたら思い出として蘇った時だけなのである。現実に死んだ人はどんなことしても帰ってこない、ただ思い出の中にあるだけになってしまったのである。施設に入った老人が家に帰りたいというとき、帰宅願望は家族と共に暮らした過去の時間に帰りたいということであり実際はそうした家族はなくなっているからないのである。帰宅願望は過去の時間にもどりたいということでありもう実際にはそうした家族は思い出のなかにしかなくなったのである。父にしても中学生の時死んだから思い出すのも容易ではない、ただ鉄砲風呂の小屋を自分で作っていた。器用な人だった。昔の人は自給自足だとすると器用さが要求されたのかもしれない、その時ようやく水道が入り始めた時代でもあった。いづれにしろ人間の思い出は家を中心にしてその土地と密接に結びついている。もちろん戦後十年に住んだ家は新しくなり変わった。でもその家のことは思い出す、新しい家も築40年以上すぎてしまった。二つの家に住んだ。原発事故で故郷とか家を追われた人で老人にとって辛いものだった。老人が思い出に生きるとなったらその思い出となるものが土地でも家でもなくしたら思い出せないということがある。そして家には死んだ人がまだ生きている、長く住んでいたから家の中にまだいる感じがするのだ。そこに家の重みがあった。放浪に生きる人もいるが普通は家のなかで故郷の中で生きて死ぬ、それで老人になると家が大事になる。家で死にたいというのはそこが自分と一体化した場所だったからである。

我が手にて鍋料理して凍み豆腐入れて味わう母も介護して

過去を思い出すというとき今や家事全般を自分一人でやっている。料理を覚えるのは大変なことである。だからほとんど料理はしていない、でも鍋料理を食べたいと思い市販のものを買い作ってみる。そこにどうしても凍み豆腐を入れる必要があった。それを忘れていたのである。
この凍み豆腐がかみしめてその味が鍋料理の味だった。つまり料理の味すら思い出としてあるようになる。お袋の思い出が家庭料理にあるようにお袋の味にあるようにその味が思い出となっているのだ。そこにお袋の味がしみこんでいたのである。それがなくなったとき自分で作るときその凍み豆腐の味で過去を思い出す、料理も過去を思い出す作業だった。今はインスタントでいいものができているからお袋の味というのも消える。しかし人間が最後思い出だけになるときその思い出は淋しいものとなる。漬け物の味でもそうである。そこにお袋の味がしみこんでいたのである。老人になるとそうした思い出に生きるから思い出豊だった人生は豊かだったのである。現代は便利なのだけどそうした手作りの味とかが消えて金で買うだけのものになったから思い出に残るものが少なくなることは老人になってから思い出になるものが少ないとなる。それは豊かな人生だったとは言えないともなるのだ。

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2011年08月09日

家という建物の歴史(土地や家に愛着するのはなぜか)


家という建物の歴史
(土地や家に愛着するのはなぜか)




家という建物の歴史


裸電球一つが灯っていた
北風がうなっていた
ヒュ-ヒュ-と北風が吹き込んだ
布団にくるまり寒い寒いと寝た
その頃暖房は炭だった


トタン屋根の古い家だった
雨漏りがして洗面器を家中に置いて大騒ぎ
道は舗装されていず砂ぼこりがあがる


この家は二度も水害にあった
土地が低く堤防がまだ安全ではなかった
家はめちゃくちゃにやられたが
辛うじて残った
子供のとき泣いた


その時どうしても二階がないので
ものを二階に運べず逃げられなかった
だから二階のある家を建てようとした
そして大きな二階のある家を建てた
それを姉は自慢していたが
その姉も死んだ


その家を自分が引き継いだが
今度の地震で瓦など壊れたが
40年過ぎてまだ使える
ただ大きな家だが住める
死ぬまでここに住めるだろう

水害はもうありえないだろう
安全な堤防ができたからだ

こうして家にも歴史がある
家には歴史の重みがある

もっと古い旧家なら大黒柱が黒光りして
江戸時代からの歴史を語るものもある
この頃の家は寿命が短い
それだけ家の歴史の重みが残らない


何事過去をふりかえって今がある
家一つにも歴史があり
家は実際は風雨に耐えて残っている
この家もがんばってくれたなとか
そういうことを思うのは家にも歴史があるからだ



最初住んだ家は平屋で古いトタン屋根のいかにもヤハな感じのする家だった。この家は最初、人に貸していたことがあった。長屋みたくなっていた。それでそのことを姉は語っていた。自分が生まれたときは長屋ではなくなっていた。子供のとき小学生頃までは燃料は炭だった。その頃生活は江戸時代とたいして変わりなかったのである。そういう生活体験があることは今になると貴重である。あまりにも変わりすぎたからである。家には裸電球しかなく、電気製品はなにもない、飯台一つを囲んで家族で食事していた。これは自分の家だけではない、他でもみんな同じだった。小学生から中学校になるころテレビがでてきてその頃から急速に変わりすぎたのである。水害は二度経験している。自分の土地は低くて一番被害が大きかった。よく流されないと思った。電柱があって流れたものがそこにひっかかり辛うじて残ったのである。その頃真野川は安全な堤防が作られていなかった。二度目の水害の時もそうだった。それから安全な広い川にして堤防も頑丈になり水害はなくなった。


家一つにもこうして歴史があるとき家そのものに愛着を覚えてくる。家にはそれぞれ歴史があり郷土史がその個々の家からはじまるというのはそのためである。特に祖父母から聞く話から郷土史がはじまるというのはそのためである。こうした歴史をふりかえるのは必ず今を見直す、今の価値を見直すことになる。原発事故があったけどこれもなぜそうなったのか、そこにはやはり40年くらいたっているからその歴史を見直すことからはじまる。何かを語る場合、批判するにしても歴史的に語らないと本質的なものが見えてこない。人間は歴史的な継続の中で生きているものでありその歴史が喪失すると現在のこともわからなくなる。津浪にしても貞観津浪の再来だったことがわかった。その歴史が見逃されていたのである。千年前に大きな津浪が来たということを東電に学者が言っていて注意をうながしていたのである。だけど東電では笑ってとりあわなかった。そこにやはり歴史的に思考することが欠けていたのである。


人間は目先の利益に眼を奪われるだけではなく、先の長い眼をもつ必要がある。そのためには過去のこと歴史的思考を身につけることである。ところが人間は目の前のことに心がすべて奪われる、すると過去のことは見えなくなる。過去が見えなくなることは実際は未来も見えなくなっているのである。過去と未来は一体なのである。現在と未来が一体なのではない、過去と未来が一体なのであり現在から未来は作れないのである。今の問題は過去を掘り下げることにもなる。地震の液状化になったところは昔は沼だったとか今回の津浪に襲われた所はほとんど開拓されたところでありそこは海だった。その海にもどったというのもその一つだったのである。どなん小さな村でも町でも日本では長い歴史がある。だから双葉町でも今回原発事故で避難した市町村の人達が故郷に帰りたいというとき、自分のような二代目くらいでもこうして歴史をふりかえるのに長い歴史をもって生きてきた人は愛着があり帰りたいというのはわかる。他に移ったらその土地と共にあった歴史が失われる。だから先祖代々の土地から離れたくないというとき、そこには自分の家よりも長い歴史、江戸時代から農家をつづけてきた同じ土地でしてきた人がいるからそうなるのである。

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2011年07月07日

復興大臣-松本龍は世良 修蔵か(踏みにじられた東北の歴史)


復興大臣-松本龍は世良修蔵
(踏みにじられた東北の歴史)

●東北人が踏みにじられた戊辰戦争


大東亜戦争以来六十年は動乱を経験していない、動乱とは何かわからない、戦争を経験した人は知っている。戦後生まれの人は社会がこれだけ動乱になることは経験していない、でも動乱は常に歴史にはあった。明治維新がそうでありこれは最大の日本の動乱だった。その時何が起こったのか、東北の最大の動乱だった。錦の御旗をふりかざして官軍が東北の地に攻めのぼってきた。東北はその時同盟して抵抗しようとしたが果たせなかった。相馬藩はいち早く官軍に降った。そして仙台藩と丸森で戦うはめになったのである。この時も東北の諸藩は混乱状態におちいった。三春藩は裏切ったとか会津は最後まで戦い敗れて焼け野原にされて敗残の兵は青森の荒野に等しい下北半島に追われた。そういう悲惨な歴史が何度も会津では語られている。



相馬藩降伏(1868/08/07)と戦死傷者

家中 17人。 給人郷士 69人。 足軽 16人。 農兵 12人。 夫卒 11人。
負傷 129人。   相馬兵の多くは棚倉城攻防戦で戦死。    (出典:相馬藩政史)
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/info/boshin.htm


百人くらい相馬藩士が死んだ。農兵も十二人いた。仙台藩は大藩だったけど見かけ倒しであり西の進んだ装備の西洋式軍隊に敗れた。こういう動乱のとき少年兵までが狩り出される。会津白虎隊とか二本松少年兵がそうであった。装備がないから肉弾戦で最前線と戦わされ討ち死にした。戦争中の特攻隊である。ぎりぎりになればやはり日本は特攻隊になる。
そして貞観津浪があったときも大和朝廷軍に蝦夷(エミシ)が踏みにじられたときであった。それはおそらく大和朝廷から使わされた人々も津浪にのまれ死んだ。多賀城市の被害も大きかった。この時も動乱の時代だった。動乱は天変地異とともに起きてくる。津浪は東北に日本に動乱をもたらしたのである。東北列藩同盟などが騒がれたが今も東北は一致団結すべき時でもある。


●復興大臣-松本龍は世良 修蔵


仙台藩としては丁重にお迎えしたのだが、宮様はとにかく、
参謀としてやってきた世良修蔵というのが何やら異常に
威張っている。しかも、連れてきた軍隊というのが、たかだか
500名である。それで、数十万の兵力を持つ東北諸藩に
命令を下そうというのである。
仙台藩はあきれてしまった。

しかも、もっとあきれたことには、世良修蔵という人物、
元々は士分でもなく、出身は漁師もどきだという。
長州では奇兵隊という、身分にかかわらず作った軍隊が
あり、その中で出世したのだというが、そういうものが
公家を頭に置くだけで、仙台藩主に対等どころか
「会津を討て」と恐喝まがいの言葉を発するのである。


こういうとき政府から使わされた復興大臣が松本龍でありまるでごとき暴言を吐いて息巻いた。政府の力を見せつけるように宮城県知事に向かった。そのニュ-スを東北放送はあえて放送した。やはり東北の意地をみせつけたのか?東北は今明治維新の時のように受難の時なのである。だからの世良 修蔵ような人物が東北に乗り込んできた。そして言いたい放題ということである。明治維新の時も九州辺りからもこの相馬藩で戦い死んだ武士がいる。その墓が祀られていて福岡辺りから来た人が感心して語っている。敵なのに墓として祀っているということである。この時の動乱は侍だけではない庶民もまきこんでいた。遊女が薩長に体を売ったとか会津藩に殺されたりした。

白河は一時会津藩に占領される。世良とほんの一時過ごしたというだけで、志げ女は、世良を憎んでいた会津藩兵により、殺害される運命となった。
戦争とはこういうものだろう。遊女は当時の政治のことなどわからない、会津藩もそういうとき血に飢えていたのかもしれない,理性を失っているのだ。動乱ということはそういうことである。


●戊辰戦争に負けた東北への酷い仕打ち


東北は常に踏みにじられてきた。蝦夷(えみし)の時代からそうである。鎌倉時代も鎌倉幕府に平泉の藤原政権は敗れた。明治維新でも会津は悲惨であり薩長に踏みにじられた。その無念は延々と語り続けられる。「白河以北一山百文」というのもそうである。だから松本防災相の暴言はまさにそのことを想起させたのだ。それも弱いとき苦しんでいるときそういう言葉を良く吐けるものである。今ままでのような平和な時代でないから動乱の時代だからそういうことも起きてきた。動乱の時代だから何が起きるかわからいない、そしてこういうとき情報が混乱するのだ。

志げ女はそうした時代の犠牲者だった。原発事故でもそうした犠牲者がすでに何人かでている。福島県で礼儀正しく対応したのになぜ宮城県ではあんな不遜な対応になったのか真意がわからなくなる。東北人をさかなでするようなわざと怒らせるような暴言をはいた。復興に熱心だったという裏返しなのかその真意が計りにくい、動乱の時代にはそういう人もでてくる。


津浪であれ原発事故であれこれだけ東北人が呻吟している時はない、 歴史はくりかえすというときこれもそうだったのかもれない、世羅修三の再来だったとなる。24才くらいだからその任にあたるのがむずかしかった。でもそのくらの年の人が明治維新を成し遂げた。若さがないととても生死を賭けてやれない、自分も年だからこうした動乱にはやはり若者が活躍すべきだと思う。老人はやはり動乱に弱い、だから避難して死んだ老人の数は百人以上よりかなり多い。動乱のときは強力な指導者が必要になる。つまり英雄がててくる必要がある。優秀な指導者に指揮されないと民衆は前の戦争のようにひどい目にあう、それが民主主義ではできにくい、結果として自ら民衆が苦しむことになる。
明治維新では英雄が多数排出したように動乱の時代はそういう傑出した人が要求されるからである。

東北列藩同盟というときそういうことも必要になる。東北全体で復興で取り組むとするとそういう一体感が必要になる。動乱の時は平和時にないことが次々と起こる。互いの連帯や共同も起きてくる。それは各地に避難した人たちも体験した。これだけ大勢の人間が移動したということを経験していない、南相馬市の鹿島区でも人口が一挙に5000人とか増えるかもしれない、これだけ人口が増えることの影響が大きい、他の津浪被害を受けた所も大勢の人の移動が起きている。仙台ではアパ-トも借りられない状態になっている。仙台には人が集中しやすいのである。



 
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2011年03月06日

醤油もまともに使いなかった昔の貧乏と今の貧乏の相違-島木健作-地方生活を読んで


醤油もまともに使いなかった昔の貧乏と今の貧乏の相違

島木健作-地方生活を読んで


醤油を日常的に使うようになったのは大正後半期からである。そ[さまでは客が来ると瓶をもって買いに行くという風であった。

砂糖は正月、盆、祭り以外に食わなかった。


塩鮭は正月用、客用の食い物だった。


大正十二三年ころまではかて飯が普通であった。屑米に大根のかて飯が常食であった。


部落中の家々のことはかまどの灰の下までおたがいにわかっているとういうふうであった。


一軒ごとに風呂をたてるということはしない、二軒ないし四五軒で交替にたててもらい湯をする
ある部落では二三十軒で共同風呂をたててきるところもある。

地方生活(島木健作)



醤油すら買って使っていなかった、大正の始めころまでだったとすると明治時代は当然醤油を日常的に使っていない、醤油を使わない食生活があるのか?醤油は贅沢品だったのである。醤油はごはんにかけただけでもうまいとなる。もちろん砂糖は贅沢品だから使っていない、砂糖がない生活は今は考えられない、砂糖を極力ひかえようとしているのが現代である。砂糖のとりすぎは体に悪いとかなっているからだ。腎臓悪くしてから醤油には塩分が多いから自分はひかえている。味噌汁も塩分が多いから良くないと思って今は自分で作れないので作っていない、糖尿病でもそうだが今はいろいろな栄養分をひかえないと病気になる時代である。ところが明治から大正くらいまでは醤油すらいつも使っていない、醤油が贅沢品だったということが考えられないのだ。

大正生まれの人が長生きなのは粗食であり忍耐強い生活を送ってきたからかもしれない、団塊の世代になると贅沢を覚えたから栄養過多になっているから意外と長生きしないかもしれない、栄養過多から来る病気が思った以上多いのである。いろいろなジュ-ス類などより水のが方が体にはいい、腎臓には水を飲めと言われて病院では二リットルの水を飲まされた。ジュ-ス類でもコ-ヒでも酒でもビ-ルでもこうした飲み物は肝臓とか腎臓で濾過しなければならないからそうした臓器は長年の間に弱ってくるのだ。水だったらそういうことはない、61才の社長が一人自宅で死んでいたという、肝硬変だった。酒類を飲み続けると肝臓が弱ってくる。腎臓もそうである。水が体に一番いいのである。現代の病気は栄養過多になり体が吸収する以上の栄養をとりすぎて病気になりやすいのである。それだけ食べ物があふれているからどうしても栄養過多になっているのだ。パンなどもご飯よりかなり栄養価が高いのだ。パンにはすでにいろいろなものが入っていて栄養価が高いのである。


大正時代ころは白いご飯を普通に食べられない、大根まぜたかて飯だった。団塊の世代の子供時代は麦をまぜた飯でありまずかった。麦を入れるとご飯はまずくなるのだ。米を作っている農家の人ですら 白い飯を大正時代ころまで食っていない、屑米に大根飯である。それほど貧しい生活だった。子供の頃は良く塩鮭を食っていた。今は鮭は贅沢品ではない、今の食生活は本当に殿様並である。それは金がないという生活保護所帯でも食べるものはそんなに変わっていないのだ。その当時からする栄養過多で悩んでいる現代人を想像もできないだろう。過去には確かにすでにロ-マ帝国では美食になりそれが滅びる要因ともなっていった。ロ-マ人はみんな農民の出身であり質実素朴でありそれがロ-マ帝国の基はなっていた。それが富がロ-マに集まり美食となり堕落して滅んでいった。粗食であっても人間は質実で素朴なときは社会も健全だということがあった。80代以上の人は遊ぶことをしない、消費はしないが質実堅実な正直な律儀な人が多い。義理人情に篤い人のことを書いたが人間としてそういう日本人が多かった。明治大正から昭和前期の人にまだそうした人々が多かった。類型的に人間が違っていたのだ。それは江戸時代から明治と受け継がれた日本人的ないい面を受け継いだ世代だった。それが70前からになると団塊の世代でも贅沢を覚えたから全然違っている。日本人的伝統はこの世代で全く絶えた。ただ高度成長の金だけを追求する世代となったのである。だから金さえあればいいとなり助け合うなどということはない世代である。他者を蹴落としまでのしあがれ金をもうけろというモラルしかない世代である。


一軒ごとに風呂をたてるということはしない、二軒ないし四五軒で交替にたててもらい湯をする
ある部落では二三十軒で共同風呂をたててきるところもある。


人は貧乏だとかえって助け合う、これも節約するために助け合わざるをえなかったからこうなった。豊になれば一軒一軒風呂があるのだからこんなふうに助け合わない、そして金さえあれば何でもできるとなり互いに助け合うことはない、金で買いばいい、人の助けも金で買いばいいとなり人は助け合わなくなる。でも実際はすべて金で買えるわけではない、つくづく人間はお茶一杯出すのでも心がこもっているのといないとのでは雲泥の差がある。でもお茶一杯出すのには見た目は変わりないのである。しかしその差はものすごく大きい、金ももらってしぶしぶこの金もっている嫌な爺婆を世話しているんだよ、すべては金のためだそれ意外何もない、できたら爺婆が金たんまりもっているからごっそり貯金から盗ってやりたいんだよ・・・とか心で思っているのが普通だとすると現実にいつかそうなるから怖いのである。現代で人々が無縁社会とか助け合わないのは豊かだから助け合わないという皮肉があるのだ。


今の日本の貧困は中進国の貧困より実はたちが悪い。
一度贅沢な暮らしを経験してしまうと気持ちが抜けられないため、余計に惨めになっている。
周囲の目も違いすぎる。
中進国の貧困は地域や親戚などのコミュニティで物々交換で互いに守り合い、人々は明るい。
戦後の日本もそうだった。

今の日本の貧困はやや金があっても完全に孤独でむしろホームレスに転落しやすい。
福祉の力を借りない真面目でプライドだけ高い人も多い。
ひょんなことで限界に来る。


現代の貧乏は前にも書いたけど昔の貧乏とは大違いである。贅沢を覚えたために不足する貧乏なのである。そもそも貧乏というのは見えなくなっている。誰もボロボロの服など着ている人はいない、だから貧乏な人など見えないいないと思っているが現実はそうした普通の暮らしをするだけで給料が減ったりすると大変になっているのだ。だから借金している人が本当に多いのである。借金しないと普通の暮らしができなくなる。それも辛いことなのである。かえって現代の貧乏はみんなが貧乏な時代より辛いとなっているのだ。田舎なら車なくて生活できないとかなるが実際は街中に住んでいれば暮らせないことはない、でも街から離れると車なしでは生活できなくなる。田舎でも普通の暮らしをするとなるとコストがかかる時代なのである。


古本で買った「地方生活」は当時の暮らしがわかりやく書いてあったから面白かった。
たまたま古本市で買ったのである。

部落中の家々のことはかまどの灰の下までおたがいにわかっているとういうふうであった

プライバシ-はなかった。何を食べたかまでわかるから贅沢したらすぐわかる。今はみんな食べ物ではたいして変わらないからわからない、
でも車などいいのを持っていると相当に注目されうらやまれるだろう。これは豊かな時代でもつづくのである。人間の欲はきりがないから必ずもてるものもていなものがあり格差がうまれそういう気持ちがなくなることはないのだ。持ち物だけではない、一体女性なら美貌でありスタイルであれ男なら才能であれ必ずなるものとないものがあり妬みが起こる。そういうことはなくならないのだ。


他には川が汚水で汚れていてチフスや伝染病にかかる人が多かった。井戸水も汚れていて飲めないところがあったとか水に苦労していた。水は今簡単に水道で使えるが水がないということはやはり井戸水だけでは難儀していた。そうしたいろいろ難儀することは今と比べるとその相違がわかってくる。水道はありがたいものだとか思わないが水に苦労していればそうなる。
つまり人間はつくづく苦労しないと苦労して手にいれたものでないと金でも苦労して稼いでいないとそのありがたみがわからないのだ。遺産なんか苦労せずに天から降ってくるように入ってくるものだから問題が生じる。労せずして入るから問題になる。自分で苦労した金は違っているのだ。交通事故でも今度は自分が責任者となり交渉しているからそれで入った金は自分が稼いだような気分になる。明日は仙台の交通事故の調停センタ-に出かける。50万では安すぎる。百万以上にはなるといっていたが交渉したいになる。それなりに自分で苦労して得る金は違っているのだ。

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2011年02月11日

葛尾(かつろう)村で野馬追いの草鞋作り

葛尾(かつろう)村で野馬追いの草鞋作り

山の暮らしでは葛尾(かつろう)村で野馬追い使う草鞋を作るところを放送していた。特別な草鞋で野馬追いに使われるようになった。


刈り取った稲わらを乾燥させ貯え、農閑期の冬、翌年に自分が使う分だけのワラジを作ったといわれる。わらを編み、結び、自分のための自分に合ったワラジを作る、その行為は翌年も農作業を快適に行なうことの祈りが込められていた。ワラジが奉られていることが珍しくないことでも、豊作の願いをワラジに込めていたことが理解できる。
http://www.asics.co.jp/walking/concierge/waraji/01/


野馬追いに使う草鞋を冬の暮葛尾(かつろう)村の人の作りぬ


農家の人は冬は仕事しないと言っていたが草鞋作りなどをしていた。靴がない時代は草鞋だった。草鞋は実際に大事なもので草鞋祭りがあることでもわかる。


夜なべ
http://sogyusha.org/saijiki/03_autumn/yonabe.html


明治44年に出版された唱歌の国定教科書には「手本は二宮金次郎」という歌が載せられました。

  
芝刈り縄なひ草鞋をつくり、親の手を助け弟を世話し、
   
兄弟仲よく孝行つくす、手本は二宮金次郎。

   骨身を惜まず仕事をはげみ、夜なべ済まして手習読書、


 酒匂川の堤防工事に、尊徳は父の代わりに出るのですが、1人前に働けません。申しわけないと思い、夜なべでつくったわらじを村人にはいてもらいます
http://www.moralogy.jp/moralogy/cocoro/nm/nm246_01.html


樹木とその葉(草鞋の話 旅の話) 若山牧水
http://www.aozora.gr.jp/cards/000162/files/2211_20321.html


 私は九文半の足袋を穿く。さうした足に合ふ樣に小さな草鞋が田舍には極めて少ないだけに(都會には大小殆んど無くなつてゐるし)一層さうして捨て惜しむのかも知れない。
 で、これはよささうな草鞋だと見ると二三足一度に買つて、あとの一二足をば幾日となく腰に結びつけて歩くのである。もつともこれは幾日とない野越え山越えの旅の時の話であるが。

千曲川の流域から荒川の流域に越ゆる間など、ほゞ二十里の間に郵便局といふものを見なかつたのだ。

今度通つた念場が原野邊山が原から千曲の谷秩父の谷、すべて大根引だいこんびきのさかりであつた。枯れつくした落葉松林の中を飽きはてながら歩いてゐると、不意に眞青なものゝ生えてゐる原に出る。見れば大根だ。馬が居り、人が居る。或日立寄つた茶店の老婆たちの話し合つてゐるのを聞けば今年は百貫目十圓の相場で、誰は何百貫賣つたさうだ、何處其處の馬はえらく痩せたが喰はせるものを惜しむからだ、といふ樣なことであつた。永い冬ごもりに人馬とも全くこの大根ばかり喰べてゐるらしい。
 都會のことは知らない、土に噛り着いて生きてゐる樣な斯うした田舍で、食ふために人間の働いてゐる姿は、時々私をして涙を覺えしめずにはおかぬことがある。


草鞋は今の靴と同じだから大事なものだった。だから草鞋はどこでも作っていた。夜なべの仕事として作っていた。戦後まもなく上萱でも草鞋を作っていたという、その頃は草鞋を作っていても使われなくなっていたろう。それでも草鞋を作ったから買ってくれと言われ買ったとか言っていた。今は山の暮らしとか何をしているのか見えない時代である。昔はそもそも自給自足的生活となるとその狭い村でもそこで暮らすほかないのだからどんな暮らしをしていたか外から来るものでもわかったのである。

牧水の旅の記録は興味深い、足に合ふ樣に小さな草鞋が田舍には極めて少ないだけに・・・というとき今だって自分にあった靴を探すのは苦労するのだから同じだった。ただ草鞋は痛みやすいから一日で履き替えたとか長持ちするものではなかった。だからたくさん作る必要がありもっても歩いていた。草鞋にまつわる話しはその歴史も長いからいろいろあるだろう。こうして草鞋について調べるとそれだけで草鞋のことがわかる。

二十里の間に郵便局といふものを見なかつた・・・というのもその当時郵便局すらなかった。郵便局は最近まではどんな辺鄙な所にもあり一番目につくのが郵便局だった。最果ての与那国島でも船をおりたら郵便局があった。その郵便局も辺鄙な地方に行くとなかったのである。
今は電話から携帯となっているから時代は通信の面では変わってしまった。山で遭難しても携帯で連絡して助かった人もいた。
でも旅するなら不便でも牧水のような旅が本当の旅だった。その土地土地で漬け物だけはうまかったというのはわかる。その土地の味が漬け物にあったのだ。今はそうした味すら一様化しているから土地の味を味わえないというとき何も漬け物だけではない、土地の味が一様化していることが旅を面白くなくしてしまったのである。


俳句を調べると


こそこそと草鞋を作る月夜ざし 凡兆


泣く泣くも小さき草鞋求めかね 去来


これは女性であり自分にあった小さな草鞋がなくて困った。今も自分にぴったりあう靴を探すのは苦労だからここは時代が変わっても変わらないものがあった。月夜ざし・・・というのは夜なべして草鞋作りしていたから月の光がさしこんでくる。

こうして草鞋について調べるとそれだけで草鞋のことがわかる。インタ-ネットは編集しながら読むとき活きてくるのである。これは本ではなかなかできない、牧水のこの文だって全集がないと読めないしそんなに本もそろえられないし第一どこに草鞋についての文があるからわからないから本は調べるのには不便である。
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2011年02月05日

松川浦の暮らし


松川浦の暮らし

船迎え松川浦に妻たちの神社に祈る冬のくれかな


NHKテレビで松川浦のことを女性中心にして昨日放送していた。地元のことでも農家のことを街の人は知らない、漁師のことも知らない、庭作りして直接仕事してもらい話を聞いてわかったことがあった。やはり仕事としてかかわったからこそわかったのである。テレビを見ただけでもわからない、情報はすべて一部なのである。松川浦を語るとしたら実際はそこは現代の文明を反映した複雑な地域となっているのだ。地元の人ですらそこを全部知り得ようがない、今回のテレビでもほんの一部の情報にすぎないのである。ただもともと漁師と農民の相違は大きかった。仕事の性質が根本的に違っていた。でも日本は古来から海彦山彦の国である。海の幸と山の幸の国なのである。平地の幸は外国から米作りが導入されたできたものである。


貝を好むこの神は、その長い手を伸ばし、太平洋の貝を採って食べていたそうです。その手長明神が食べた貝が「新地貝塚」になったという言い伝えも残されています。 .


すでに縄文時代から貝を常食として生きていた。貝なら外海に出なくてもとれるからそうなった。縄文時代は入江とか湾が多かったし河口も広いからそこが生活の根拠になったことは今でも察しがつく。そこは外洋のように危険な地帯ではないからである。丸木船くらいでなんとか生活できる世界である。外洋に出るとなる大きな船が必要になるからだ。


漁師の生活は言葉にも残っている。シケているとはシケは海が嵐とかのことであり漁に出れない、それでシケているとは陸に出れば不況のことになる。それは漁師の言葉が陸地の言葉になった。漁師は天候に左右されることが多い、また遭難も定期的に起きている。海は昔から怖い場所である。不安定な場所である。だから今でも神社に妻が無事を祈っている。でも今はGPSとか携帯とか様々な機械が頼りになるのはどこも同じである。妻たちの仕事でもこの辺では普通の職より金になっている。魚はとれれば今は高いし売れるから金になる。それで多くとれたときはポ-ナスまで配給される。漁獲高によって収入が極端化することがある。大漁になれば普通の何倍もの収入になる、だから漁師の気質は農民は相当違って気が大きいとか性格が荒っぽいとかなる。松川浦でもどこでも神社があるときそれが生きているとしたらやはり妻たちが無事に帰ることを祈っているということで神社が生きていることになる。それは何に祈るにしろそういう海の暮らしは漁師の暮らしは変わらないためである。




何度も頭から波をかぶりながらの帰港
途中さらに大きい波くらって
樽が横倒し・・

台風で上げ網をしてから
そのあとは低気圧通過と
もう5日も水揚げをしていない
http://osakana83.no-blog.jp/nori/2010/11/index.html


相馬の水源地でもある宇多川の上流域に
産業廃棄物埋立処分場の建設計画があり
その阻止のためとか・・
-
それが建設されてしまったら・・

宇多川が流れ着くのは「松川浦」
海苔やアサリなど豊かな漁業資源
http://osakana83.no-blog.jp/nori/2010/03/index.html


ここのプログは本当に松川浦の漁師が書いているから実感がある。これを読んだだけでいかにこの松川浦だけでも理解するのに複雑なものとなっているかわかる。宇多川の上流が汚染されれば松川浦にその汚染された水が流れ込むから養殖の海苔の生産に影響する。橲原に産業廃棄物を埋め立て地を作ったから明かにあそこはきれいな場所でも下流に何か汚染されたものがしみだしてくるから汚染されているのだ。松川浦の場合はそこで漁業やノリの養殖をしているから余計に深刻になる。それから火力発電所から排水問題もあり調査している。それが漁業に影響しているかもしれない、また松川浦は干潟だからそこから栄養源が海に流れて魚が寄ってきたりと干潟はやはり人間にとって昔から生活しやすい場所だったのである。縄文時代はこの干潟や入江が多かったからこそ手長明神のような伝説が全国に残っているのだ。

松川浦というとあのテレビだけを見た人は鄙びたみちのくの漁港のように勘違いするだろう。実際は火力発電所があり工場地帯にもなっている。テレビで東京の工場の人が来て地元の青年に特別の技術を伝播しようとすることが放送されていた。これは相当な高度な熟練した技術である。それを東京から来た年配の技術者が地元の青年に伝えようとしている。それも漁師の生活とはまるで違う現代的な生活なのである。それから相馬港には「飛鳥」が寄港したこともあった。中国人が日本海の港に着くつもりが相馬港に流れ着いて「東京はどこだ」とか食堂の人に聞いてつかまったとかの話しがある。それから面白いのは


ランチョウ(変な魚)
http://osakana83.no-blog.jp/nori/2009/02/index.html


人間が流れ着くだけではない、変な見たことのない魚も流れ着く・・・

変な熱帯魚のような魚?
漁師も知らない魚
どっから魚はやってくるのか
魚の種類は多い
なお海は底知れない神秘
海は広いから得たいの知れないものが
流れてきても不思議じゃない
そんなものが漁師の網にかかる
鯨だって流れ着く
海はでかく計りしれない
太古の海にはフタバススギリュウが
波をきって大海を自在に泳いでいた
海は今も計りしれなく広いから
得たいの知れないものも流れ着くんだ




熱帯魚は現実に波立海岸に小さいのが流れ着く、親潮と黒潮の境目が松川浦にもあり魚資源が豊富である。でも今は松川浦の魚を食べている人は地元でも少ないだろう。相当に高いからである。行商の人も最近ずっと来ていないのはなぜか、また病気なのか、行商の人は生きのいい魚をもってくるからうまい、ス-パ-のは古くなっているからまずい、魚は新鮮なのが一番うまいけれども高いから買わない、でも魚は稀少になっているからいくらでも売れる、高く売れる、通信販売でも売れるし産地直送でも東京に運べば高く売れる、ただ今は魚がとれないから高いし魚離れになった。ともかく太平洋沿岸は浦とか湾になっているところがまれでるるから松川浦は小さいにしても貴重なものとなっている。浜通りには海の暮らしと山の暮らしがあるのが違っている。山の暮らしとして原町区の大原のことを聞いてそこの人が戦後の食糧不足の時、猿まで食べたというのは山だからこそだったのである。海だったら魚が食べられたからそこまですることはなかった。
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2011年01月03日

飯館村の大倉とか山には昔材木などでもうけた金持ちがいた


飯館村の大倉とか山には昔材木などでもうけた金持ちがいた

病院の隣にいる女性と話していたら飯館村の大倉にマルヤ(丸屋?)という材木屋があった。そこでは相当もうかったらしい。前に相馬女学校を出た女性と大倉で出会った。その人は鹿島区の親戚の家から昔の中村の相馬女学校に通った。相馬女学校に学ぶことができる人は極めて当時は少ない、金持ちの人しか入れない、だからその頃この辺では相馬女学校出たとなるとそれだけで他とは違うとなっていたのだ。姉は頭が良かったが相馬女学校に入りたくても入れなかった。母は尋常小学校出ただけでありそれが普通だった。ではなぜ大倉から相馬女学校出た人がいたかというと山を持っている人はその材木を国内で利用していたから山でも金持ちになった人がいたのである。自分の家を建てたのは1970年代であるが家の材料は大倉から切り出したものだった。同級生に大倉で働く人がいて材料を提供してもらった。この柱はいい木を使っているとか自慢していたのだ。つまり国内で木材を供給していたとき炭焼きもあり山はそれで豊になった人がいたのである。また山を持つことか資産家になることだった。


http://yfh731.exblog.jp/14018923/


ここに酒屋とか医者とかでもうけた人は山を買ったというから山を持つことはかなりの財産になったのである。

1970年ごろまでは、日本の長者番付には、多くの林業家が載っていました。山村の山持ちの多くは金持ちで、林業は「儲かる職業」だったのです。


その人もいろいろ話したが面白かったのは相馬女学校に通わせるために世話になる家に米三表をやっていたという。金ではなく米をやっていた。大正時代頃紡績工場で働いていた母も給料に米十表以上もらって喜ばれていたと言っていた。米というと江戸時代も貨幣が必ずしも通用したわけではない、米が貨幣の代わりにもなっていた。今のようにすべてが金だけが通用する社会ではなかった。労働を労働で返す結い(ゆい)というのもあった。村では金だけがすべてではない、それだけでは生きていられなかったことがあった。農家が多いから当然米が江戸時代と同じく貨幣の役割を果たしていたのである。


それからその当時は交通手段が馬車だった。その人は桃とかをスイカを栽培して相馬にもとの中村に売りに行ったというが馬車だった。自分も近くに馬車屋があり馬車のうしろに子供の頃のって遊んだのを覚えている。馬車は戦後数年で姿を消したのかもしれない、小学低学年の時であったようだからだ。ただ戦後一〇年くらいは炭が燃料だったから江戸時代の生活の継続があったのである。このように交通手段が馬車や歩きだった。だから当時の人は遠くまで歩いた。その人も上真野小学校に横手から通ったとすると遠い、おそらくそれ以上に遠くの学校に歩いて通うのが普通だったのである。そもそも車などないから歩く他ないからである。これも江戸時代の生活の延長であった。確かに汽車はあっても客として汽車にはあまり乗っていない、汽車賃が高いから普通は乗っていないのである。汽車は貨物輸送からはじまったことでわかる。乗客をのせることより石炭など運ぶものとしてはじまったから乗客の利用は少なかったのである。


昔の話を一人だけでなくいろんな人から聞くと何か昔の全体像が浮かんでくる。そういう点で老人の話を聞くことは郷土史研究の一つの手法である。生きた歴史を聞けるから興味を持つのである。その場として病院は向いているのだ。なぜならその人も言っていたが病院はつまらない、暇だ、何もすることがないとか言っていた。自分も一か月病院にいて病院は実際は恐ろしく暇なところなのだ。ベッドから出れないからそうなる。そのことは書いてきた。その人の話では昔は楽しかったといっていた。昔は苦労したことがあってもやはり思い出せば楽しくなるのか?人間はそういうものなのか、それより今の生活に何か適合できない違和感を感じたことを言っていた。今の社会はめまぐるしすぎるのだ。これは自分も常に感じていることであり自分も性格的に今の車社会とかめまぐるしい社会に適合できない、若いときから自分はそうなっていた。昔は不便でも貧乏でも人間的なところがあった。そういうことがなくなったことで昔が楽しかったと言っているのかもしれない、あの人はまだそんなにひどい状態ではない、あとは寝たきりであり話しができないから話し相手がないからつまらないとなるのだ。

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2010年12月31日

農民哀史(大正時代)を読んで俳句を作る



私は川越街道の長い松林の中を疲れた牛を曳いて急いだ。馬追いや松虫がしきりに鳴いていた。鶴瀬駅からタメ樽を積んで帰ると9時を過ぎていた。(大正15年)−農民哀史)渋谷定輔


牛曳いて虫の音聞くや帰り道


秋深し牛とともにし帰る道


牛ととも眠りし家や秋深む


五反田の地名の多し年の暮



昔の生活をどうしたら知ることができるのか?これが郷土史の大きな課題である。それで祖父母から親から昔の話しを聞くことが郷土史になるといっていたがそれだけではたりない、昔を知ることは今はいろんな方面からできる、記録が膨大に残っているからだ。明治以降の記録は膨大だからいくらでも探ることができる。農民哀史という本を読むのも厚いから大変だがここにも相当な当時の生活が記録されている。ただ本は読むだけではだめである、自分なりに解釈して今と比べて読むといいのである。そうした記録は無数にあっても漠然として読んでいてはだめであり今に活かすように読まないと活きてこないのである。

例えばこの短い文でも今とは相当に違った社会を生きていた。牛を運搬であり農作業であり利用していた。もちろん馬も利用していた。そうなると今の社会から想像しにくくなるのだ。牛と馬は姿を消したからである。野馬追いに出る馬は農耕馬ではない、明治以降は馬は農耕馬であった。そして牛と馬と一緒に暮らしていたのだ。曲がり屋になるとそうなっていた。そういう牛と馬と人間が一体になって暮らすことがどういうことなのか今になると理解しにくい、相手は車とは違う、機械ではない、生き物だから人間と同じような共感が生まれるのである。こういうところで当時を想像して俳句を作るのも変なのだがともに秋深む感覚が生まれるのである。その悠長な感覚は今のめまぐるしい車社会ではありえないのだ。ところがこんなふうに風流にその当時を見ている人がその時代にはない、生きるために必死であり結局疲れてしまったとかすぐになっているのだ。詩は確かに作っているが常に抗議するもの社会の不公正を抗議するものになっている。それだけ生活に追われていたのである。


今の時代からするとそうした牛とか馬と一緒に暮らすなんていいなと思うが当時の人は生活のために利用していたのであり今の車と同じ必需品であり特別なものではない、当たり前のことであり特別な感情もないのである。でも牛と一緒に生活していることは牛のもっている粘り強い性質が農民にも養われるということがあったかもしれない、乳牛とか肉牛ではない牛だったかもしれない、その感覚は今になるとわかりにくいし自分は過酷な農民の生活なとしたくないができないがそうした時代に憧れるのだ。車社会というのが自分には合わないのである。神経がすりへるというか車社会が実際に与えた影響は大きいのである。精神的にも大きいのである。車を日常的に使うのと牛を日常的に相手にしているのでは人間自体の精神、感覚、人格まで影響がある。車だとキレやすい人間を作りやすいのである。今は便利な機械に囲まれて自然のリズムからはかけ離れて生活している。どうしても自然の悠長なリズムが喪失する。でも当時でもそんな悠長な時間がない、仕事に追われて毎日疲れていたのである。今も便利になっても同じなのである。ただ想像したときそういう錯覚を生むし自分がその時代に生きないからそういう時代に帰りたいとなるのである。


大晦日だけど紅白歌合戦など見ない、今や情報環境が変わったのである。インタ-ネットの方が面白いとなる。そしてこうしてプログに書くことが楽しいのであり書くことが自己啓発になっている。これだけのものを書けて発表すること自体どこでもできない、本だったら絶対にできない、売れないものはおかないとかそもそも出版などできないからである。書く方にしたらこうして自由に何でも書けるのがいいのでありそうふることによって自らを啓発するし他者も啓発できるのだ。いくら書いてもインタ-ネットでは紙の無駄だとはならない、だからこうして書きつづけているのである。テレビが大きな情報源だったが新聞もそうだがここではありきたりのものしかでてこない、細部がでてこない、だから郷土史研究でも他でもいろいろ知ることはできないのである。
マスコミだけに頼ると偏った見方になってしまうだろう。零細な農民は七日間しか働かないとかをyutubeで見たがそうしたものはテレビでもマスコミからもでてこない、あれはインタ-ネットだから出てきたものでありそういうものが今は結構あるのだ。ただ目立たないからどこにあるかわからないというのが難点なのである。

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「農民哀史」渋谷定輔を読んで(零細農家が多いのは戦前と今も同じだった)


「農民哀史」渋谷定輔を読んで(零細農家が多いのは戦前と今も同じだった)



この人は1905(明治38年)に生まれ1925年5月(大正14)(19才)からこの日記をかきはじめた。埼玉県だから東京とは近い距離にあり都会の影響も受けていた農民だったのだろう。昔の農家と今の農家の大きな相違は地主と小作という関係がなくなった。この頃は地主への批判が大きく共産主義の運動が盛んになった。現代の農家と比べるとかなり違ってくる。まず減反政策やら米余りとかは絶対にならなかった。米は常に不足していたのだ。ただ小規模農家が多いのはその頃と今も同じだった。


五反歩以上 26、692戸
一町以上 26、868戸
三町以上 8837戸
五町以上 3569戸
一〇町以上 1462戸
五〇町以上 67戸


これは埼玉県の統計である。ここでいかに零細な農家が多いか歴然としている。三町以上から極端にすくなくなっているのだ。67、495戸が総数であり2割が三町以下なのである。市立病院で農家していた人は十五町でありあの人は特別優秀な農家であった。それでこの人は働いたんですよ・・・何度も妻が言って介護していた。地域の指導者でもあった。今でも15町をもって耕す人はまれである。隣の大原の人は五町であった。それでも他の農家の請け負いをしていた。五町でもそれなりの広さだったのである。不思議なのは今でも小規模農家が日本には多い、そしてその人たち一年間七日間しか働かないとパロディ化してyutubeに訴えている人がいるのも現代である。そんな農家に個別保証費など払う必要がないと言っている。ではなぜそうするのか?一千万人の票田がそこにありばらまくことによって票が得られると見込まれるから民主党はそうするのだという、一方で自民党は別なの農業政策を打ち出している。個別保証はしない政策である。

この本では農業に従事する人が都会の経済不況でふえたとある。農家の戸数がふえるのはその頃は都会の経済が不況になると農村にもどって農業をするからそうなった。農業をすれば貧しくても食べることができる、そういうセ-フティネットのような役割を果たしていたのかもしれない、その頃必ず農家では長男が力をもっていて実家を守っていたこともあったろう。都会から帰っても養うことができたのかもしれない、現代との相違は農家の戸数がふえたりしない、農家が零細農家が多いがその農家も別に仕事をもって会社で働いたりしている。それに加えて保証が国からもらえるから都会の人から批判もでてくる。現代ではこの頃のように


五反とか一町くらいでは農家で食べていけない、でも当時はこれでも農業していたのだから相当に貧しかったのである。現代の農業の問題はやはり土地が集約化できない大規模農業ができないというのは以前として共通しているのかもしれない、五町でもやはり広いのであり十五町となるとまれになる。だから五町の農家でも他の土地を請け負って耕作していた。日本の零細な農家は今や自分で働かない、だから一年に七日しか働かないと揶揄されているのだ。ここに農業の問題があった。何事歴史を勉強しないと農家のことでもわかりにくいのだ。ただ農家のこは農家の人が語るのに向いている。どうしても他からみれば説得力がない、農家の苦労がにじみでるようなことは書けないのだ。でも今でも本当の専業農家は非常に少なく兼業農家が零細な一年に七日しか働かない農家が多いからそのことが都会からも日本全体からみても批判されるのだろう。戦前の零細農家は兼業農家ではない、農業だけでこれだけ零細なのだから極貧になり飢死寸前の人もかなりいた。そのことがこの本にもかかれていた。そのことが根本的な今と昔の相違なのである。




地名で五反田とか多いのは五反くらいしかもてない農民が昔から多かったことを語っていたのである。

五反田の地名の多き年の暮
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2010年12月24日

年の暮(父の残した通い帳)


年の暮父の残せる通い帳

昔は掛け売りであり月末とか節季に例えば大晦日がそうである。そういう日にまとめて支払う。長屋でも毎日家賃を回ってとっていた。戦前に自分の家で一時期部屋を貸していたからそのことを語っていた。これも手間なのだけどその時人と人が顔をあわすことが多かったということである。昔の売り買いは人と人がじかに取引するから何でも顔を合わすことが多かった。だから大家になって毎日家賃をとに行っていたら毎日会うことになる。そうすると今のような孤独死などはないだろう。一面プライバシ-がないとなげていた。長屋は隣がつつぬけになるからプライバシ-がない、みんなわかってしまうから困るということもある。でも近隣の事情がわかってしまうから互いにいい面でかかわりあい助け合うということにつながる。


私の父は酒屋の丁稚であり残ったのが通い帳である。父も節季には集金に回っていたのである。そういうふうに集金に回るときはやはり狭い範囲でないとなかなかできない、歩いて集金することが多いからである。昔の生活で一番わかりにくくしているのが歩くことが移動することであり歩くとなるとそんなに遠くに行けない、近くで用をたすほかないのである。今は車で遠くに行けるから歩いて生活しているということが実感としてわからなくなったのである。江戸時代の特徴は動かない極力移動しない生活だったのである。これは江戸の長屋でも住人が長く住んでいて変わらなかったというから今の都会とは相当に違っていた。通い帳で借りて買うとしたら人々が動かないことを前提にしている。今なら一か月たったら引っ越しているかもしれないし貸した金をとれなくなるかもしれないと考える。昔は長く移動せずに住んでいる。だから引っ越していなくなるということはよほどのことがない限りないのである。意外とここが昔を知る盲点になっているのだ。つまり現代の生活があまりにも移動しているから移動が常態になっているからこそ昔の生活が想像できなくなっているのだ。この移動しないで生活していることが生活全般に影響していたのである。だから今このことを探求しているのである。


現代から歩く通りが失われた。そのために車が通らない歩行者天国が一時できた。車社会になると歩く通りが消失した。車が通っていても人が見えない時代になったのである。まず昔は人が頻繁に行き来してしいた。年の暮になったらそうである。そういう光景は確かにまだあるにしても全国にあるわけではない、今の街の通りはシャッタ-通りになっているからないのだ。人が集るところはス-パ-であり通りを歩く人ではない、昔は家々を商売する人でも通い帳をもって歩いていたのである。父もそうして働かされていたのである。ともかく通い帳とはまさに一軒一軒掛け売りしたものをとりに歩いていた。それが年の暮になれば一層忙しいものとなっていた。そこで払えない人もいた。酒屋をやっていて実際に農家の人で売り掛け貸した金がたまって払えなくなりわずかの土地を担保にして酒を買った。その担保にした土地の証文が残っていたがその土地からは未だに税金をとられるだけだったのであり売ることもできない土地であった。

その人の家にはそれなりに必ず何かしら祖先の残したものがある。武家だったら実際に古い刀が残っていたとなるとそれは江戸時代のものだから価値あるものである。一般庶民には残されていないからだ。古い家には土蔵に何かしら残っていてそこから郷土史の一端を垣間見ることができる。だから旧家に生まれた人は歴史家になりやすいのである。

「相馬郷土史研究」になるものを書いていない、最近別なことに興味をもっているのでいろいろやることができなくなっている。家事全般から介護になったらとてもできない、やはり暇がないと学問はできない、スコ-レ(暇)が学問のはじまりだったのである。


冬の日(酒屋の通帳)
http://www.musubu.sblo.jp/article/1836589.html

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2010年12月16日

ギブミ-チョコレ-ト(70才)の世代から日本人は劣悪化した

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ギブミ-チョコレ-ト(70才)の世代から日本人は劣悪化した

1936(昭和11)年〜1937(昭和12)年生まれ・・・この年回りの人間は小学校前半まで
「一億総火の玉」「米英撃滅」といった極端な戦時体制下で育った世代。
特に九州は、沖縄の次に米軍が上陸すると当時みられていたため、幼稚園児の年齢でも
小型爆弾に見立てた石を背負ったり抱えたりして敵陣に突っ込む訓練を受けている。
ところが、「僕もお国のために米兵と刺し違えて死ぬ」と決意を固めた途端、日本は敗戦。
学校では180度転換した教育が始まり、「戦争は悪いこと」「みんな平和に仲良く」と教師が言い始め 鬼畜と教わってきた米兵が普通の人間で、ガムやチョコレートをくれる姿に混乱し、
もう何を信じていいのか分からなくなった者を多く抱えている。
団塊の世代と並ぶクズ世代で、凶悪犯罪に走ったり、年金をパチンコに費やして生活に困り
スーパーで万引きをしたりする老人を排出している日本の癌といえる。
(彼らと異なり大正後半生まれや昭和一桁生まれは比較的冷静に敗戦を受け止め、戦後の復興に尽力した)



●ギブミ-チョコレ-トから戦後がはじまった


世代の差が人間に現れる。団塊の世代は戦争に負けて生まれた。でも米兵に占領されて一時期支配されたことを知らない、「ギブミ-チョコレ-ト」だったのはその前の世代である。小学生のころ、進駐軍がやってきてチョコレ-トをくれたからそうなった。この時モノがない飢餓状態だったからこそギブミ-チョコレ-トでありここから日本人はアメリカの豊かさに憧れ物欲、金万能の世界へと変質してゆく。飢餓状態に育つのだからモノに対する欲望は強くなる。そもそも日本人は大正生まれが90才とかなっているけどみんな極端な貧乏だった。女工哀史とかの世代でありその後も貧乏はつづいていた。でも80代以上の世代は貧乏なんだけど義理人情に厚いとか貧乏でも悪いことはしないとか盗まないとか何か日本人が継続したモラル、道徳を守っていた。また他人を思いやるという心もあったし正直な人が多かった。本当に極端に貧乏でも最低限の社会の道徳は守られていた。ところがアメリカに負けたとき、日本人は変質してしまった。
子供のとき、戦争一色からアメリカ一辺倒になった変化が極端だっため日本人としてのモラル、道徳を全く否定された世代だからこうなったのかもしれない、アメリカに習い物欲一辺倒になってしまったのである。そのはじまりがギブミ-チョコレ-トだったのである。この年代の人は70才くらいの人である。でもさらにここから75才とか上の人になると人間がまた違っている。素朴な日本人の道徳をもった人々がまだ生きていた。世代間によって5年違っていても類型化されたものがある。おそらく70才辺りの人が人間の質が落ちているのは確かなのだろう。それ以下の団塊の世代も完全にアメリカ一辺倒の価値観を身につけるようになったのである。


http://showa.mainichi.jp/news/1945/09/post-da0a.html
(写真あり)


●戦争に負けて日本人のモラルは消失した


次に団塊の世代が生まれた。この世代も日本人としての道徳は何も教えられていない世代である。物欲一辺倒のただ経済的な豊かさを追求した世代である。自由とは自己の利を追求するだけであり公共的なモラルの追求はなかった。だから受験戦争が団塊の世代からはじまり他者を蹴落としてまでも利を求めていい暮らしをしたいために競争した。この世代に義理人情は死語になった。アメリカ的な価値観が完全に日本を支配したのである。戦争に負けたということその影響はあまりにも大きかった。戦争が負けたことにより日本的道徳、価値観が全く否定されたことでもあったのだ。戦争の善し悪しとかは別にして日本的価値観が否定されたことの影響が甚大だったのである。人間そのものを変えてしまった。もはや江戸時代からつづいた日本人はいなくなった。明治時代なら武士のモラルが以前として活きていた。「武士道」のモラルが継続されていたのである。それは実業であれ政治であれ教育であれ宗教であれ活かされていたのである。もちろん常に人間社会には腐敗があり堕落がある。でも日本人としての道徳、モラル、倫理はその底にあった。だからやはり全般的にみると人間の類型として違っていたのである。

モラルとか道徳とかいうとき何か特別な高等なものだと思っているけど庶民でも貧乏でも正直に生きる、他者を思いやるとか悪いことはしないとかのことでありそういう基本的なモラルをもっていることである。それが全く崩れてしまったとき社会はどうなるのか?互いに信用もできない、協力しない、個々に利を求めただ自分の欲望だけをもとめ他者を蹴落としてまで自分だけはいい目を見ようとする弱肉強食の世界になる。人は人にとって狼だとなってしまう。そして犯罪がふえてくる。90才くらいの老人が言っていたけどとにかく何でも盗まれて困る。みんなささいなものまでもっていかれる。実際田舎でも今ほど盗難が多い時代はない、もちろん過去にも犯罪はあった。でも本当に人間の類型として正直な人情に厚いという人はいなくなった。みんな利を求め金を求め血走っている。これだけ豊になっても逆に物欲はグロ-バル市場化して拡大化しているから充たされることはないのだ。他者をみるときこの人は自分にどんな利益をもたらすのか?それしか眼中にない人が多い。そういう目でみていると保険金殺人にすすむのも自然なのである。この人とつきあうメリットはどこにあるのか、どれくらいの利をうむのか、何も生まない、では何の関係もない、保険でもかけて金をまきあげるしか価値がないとまで極端化するとそうなる。そういう人とばかりあっていると嫌になるだろう。嫌というだけでなく恐ろしくもなる。でも今やそういう人としかあわないのではないか?殺伐としているとはそのことではないか?豊になっても人間の心は貧しくなってはいないか?


●人間のモラルは貧富と関係ない?


一方で今からすると極貧の社会でもそんなに人間が利を求めて血走っていたのだろうか?
そんなことを言うとこの世の中はそんなもんじゃない、食うか食われるか、生きるか死ぬかだよ、現実の厳しさを知らないからそんな浮世離れしたことを言っているのだと怒る人もでてくるだろう。でも明らかに今より貧しい時代に日本人の道徳が生きていて正直な義理人情に厚い人は類型としていたのである。それが80才以上の人になおみられる。その人たちは今のようないい暮らしをみんなしていない、働く一方であり遊ぶこともしらない、そのことに不満はあってもそういうものであり日本人としての道徳は保持していたのである。日本人は道徳的には進歩していない、退化してしまったのである。それは人間が劣悪になったということである。確かに物質的豊かさは享受しているが人間そのものは道徳的面からみると劣化してしまったのである。人間そのものが変質してしまったのである。不思議なのは貧乏だからモラルの面からみれば悪いとはならない、むしろ豊になってもモラルは低下するということである。ただでは80才以上の人の価値観がすべていいとはいえない、全く消費を認めないということはいかなる良きものにも金は払わないということでもある。そのためこんだ金はどうするのか、ただ自分の身の安全、病気になったとき介護のためにだけしか使う価値を認めないとなるからだ。そういう金の使い方は若者に反発されるのは当然だろう。

それにしても人間は基本的な道徳が失われたら社会そのものがもはや維持できない、互いに信用できない、疑心暗鬼になっていたら心休まるときがなくなってしまうのである。それが実際に監視カメラとかコンビニでの店長の仕事が万引きを防止するために監視カメラを見ていることだとなっているのだ。実際に客が来てもいつとられるのか、心休まるときがないのだ。こういうことは売る方でも楽ではないとなる。それは社会全般にそうなっていて人を信用できなくなってしまったのである。だから人間の友は今やペットだということも当然だなる。人間は信用できない、欲が深く親子でも子は親に財産だけを求める。だから遂にはペットに財産を残すとまでなるのも奇妙ではない、まさに現代の状態がその極端化した中に現れている現象なのである。

ロ-マ帝国が繁栄して頽廃したのも豊かな富を得た結果、道徳的には堕落した。その結果として野蛮人だったゲルマン人に蹂躙され支配された。日本もそういうふうに頽廃して滅びてゆくのかもしれない、その軸となるモラルが消失したら骨がないような人間、社会になってしまうだろう。アメリカのように富にすべての価値を置けば必然的にそうなってしまうことは予測されていたのである。

引用した文はどこからかの本などからの引用なのか?2ちゃんではそういうのがある。
前も読んだことがあるような気がするからだ

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2010年12月01日

南相馬市立病院の同室の隣の人-「濁沼」の姓の謎


南相馬市立病院の同室の隣の人-「濁沼」の姓の謎

同室の変な姓や秋深し


南相馬市立病院で一か月入院していた同室で隣の人が「濁沼」という姓だった。その人は隣の福寿園に入っている人であり94才であった。自分の母と同じだから94才である。その人も死ぬに死ねない悲惨な状態にあった。痰がつまりそれで苦しんでいた。痰とるとき苦しむのである。うめきわめきあとは寝ているだけの人である。隣だからうるさくて眠れない時があった。でも隣にいたということはやはり縁があってこそなのだろう。その人は身寄りはない、誰も家族が声かけるものがない、そしてうめきわめき苦しんでいるだけである。これも楽じゃないなとつくづく思った。自分も家族は一人しかなくその家族も入院している間一回も連絡さえできなかった。
耳が聞こえず多少ボケているから話すらできない、その時家族がいない身寄りがないことがいかに悲惨なことか痛感したのである。この人も確かに体は活かされているが精神的には死んでいるのではないか?看護師さんも「濁沼さん、濁沼さん」と言って介護しているのはしているがただ肉体の延命を図っているのでありその人とはなんら話ができない、だから看護師に馬鹿にされて軽く扱われているということもあった。要するにその人の経歴は全く不明である。その人がいかなる人であるか全くわからないのだ。ただ濁沼という姓のみがわかりその姓が変わっているなと心に残ったのである。


同室の大原の人は雲雀が原に開拓に入った人ではないかと言っていた。そこで変わった名前の人が多いという。雲雀が原は相馬藩の広大な放牧地であり野馬追いの行われる場所だった。明治になり広い原野に開拓に入った人々がいた。石神村から入ったことは知られている。94歳は母と同じ年齢でありではいつその人が開拓に入ったのか戦後に満州引揚者が開拓に入った人が全国に多かった。鹿島区の小池村に入った人と懇意にしていたので知っている。94-60となると34歳の頃だからちょうど戦争が終わったころに入植した人なのだろうか?濁沼(にごりぬま)という姓自体変わっている。どこが発祥地なのか?濁沼とか濁川とかの全国にある。でも濁沼村となると岩手県東磐井郡濁沼村 しかないようである。インタ-ネットで調べる限りだが確かにないのだろう。でも姓として千葉氏→濁沼淡路守胤村の娘 とかあり濁沼の姓の人が移住して濁沼の地名が生まれることもある。この辺が姓とち地名が混同しやすいからわかりにくくなるのだ。濁沼という姓は宮城県に特に栗駒に多く、名家にもなっている。北海道(30) 宮城(30) 茨城とあり宮城県と岩手県に多いからその辺から開拓で雲雀が原に入植したのだろうか?北海道に多いというのはこれも開拓で移住したからである。


岩手県東磐井郡濁沼村
一関市千厩町濁沼

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貫門御免は二軒であった(栗駒の話)

村で門構のある家は内の目の佐竹、堰の上の菅原隆一、貴船の雄吾、洞場の濁沼竜吉、万代の清水、釘の子の炭屋、木鉢の千葉等であり、いずれも貫門(サの字形の建柱)である。
http://www.st.rim.or.jp/~success/tiba_5.html

ただ不思議なのは


信秀の八男・師親はのちに師持(下総)と改名。濁沼亀ヶ館十万五千苅を領していたが、その後の動向は不明。

 幕末の相馬中村藩の客僧として知られる慈隆大僧都は、亀卦川氏の出身である
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/oshu3.htm




濁沼亀ヶ館とかありここから有名な僧が相馬藩に来た。その時濁沼の姓がもたらされたのだろうか?僧だけがきたのだからその線が薄いとなるだろう、やはり明治以降雲雀が原に入植した人であり年齢から察すれば戦後入植した、それは宮城県か岩手県だとなるのだろうか?
いづれにしろ姓だけでもその人の歴史をたどることができる。清信という人も千葉氏系統であり古いことがわかる。姓から探る歴史がある。ただかなりややこしくなり嫌になるのである。でも同じ病室の人で身寄りもない人にも生きた歴史がありそれが知れれば郷土史の一こまになる。郷土史は郷土に生きた一人一人が対象になるからだ。 その人については姓しかわからないにししてもそうである。その人も死んでしまうからあとは何もわからなくなるのだ。


飛行場跡のプログ(ここに雲雀が原のことが詳しい)
http://1901rjtt-to-roah.blog.so-net.ne.jp/archive/c2851-1

タグ:濁沼
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2010年04月28日

丸森町筆甫の古田口の地名の現代的意味 (田より水芭蕉が価値ある時代)


丸森町筆甫の古田口の地名の現代的意味
(田より水芭蕉が価値ある時代)

地名は地図で探ししてみても実際は何を意味している地名なのかわからない、平凡な地名でも意味がある場合がある。地名を本当に知るにはその場に立つことである。地図だったら立体的に見ることができない、立体地図があるにしろそれでも実際にその場に立つのとは違う。地図を見てもだからその土地のことはわからないのだ。今回筆甫の古田口でわかったことは松が房ダムからここまで家はほとんどみかけなかった。松が房タムはまだ工事中だから最近できたのだからこの辺りには家はなかった。真野川のダムには大倉の村が沈んでいるがこの松が房ダムには家などないし小さなダムである。そこから出てきて最初に古田口とバス停があった。そこには写真のように一軒の家があった。そこでなぜ古田口なのかとなる。古田となっていれば古町と同じであるどこかに新しい田ができたからこそ古田となる。それは近い場所である。古町も実際町の狭い地域で古町となる。にぎわう町は昔から移動していた。今では宿場町の街道から鉄道ができて駅前通りとなり今では車社会となり郊外のス-パ-に人の集るところは移動してしまった。つまり大規模にかつての街の中心部が古町になってしまったのである。


日本ではともかくどんな山奥でも狭い地域でも田を作り米を食うことを第一にした。米が食えれば定住できる。もちろん他にもいろいろ栽培していたが米を作ることが優先された。丸森でも四十麦という地名があるから麦も栽培していた。でもどこでも米を作るために開拓されてきたのが日本だった。どうしてこんなところに狭隘な不便な山奥に田があるのかと思う。その田が今では減反政策で荒廃している。春田というイメ-ジがない、減反政策は風土も荒廃させたのである。そもそもその原因は日本だけのことではなかった。グロ-バル経済となり材木だけならいいが米すら安い米を輸入できるしアメリカやオ-ストラリアでも米を作っている。大陸では土地は平坦でいらでも米がとれる。その量は桁違いになる。米はこんな狭隘な所でとってもたかがしれているのだ。自給自足的な貧しいものとなる。自給自足だからこそ隠里となる一面はあった。炭焼きの時代は炭を売り山の中でも売るものがあり外から必要なものを買うこともできた。グロ-バル経済になったとき炭も木材も売れないとなると山の暮らしは何を生産すればいいのかとなる。


そこで今回筆甫の古田口の近くの水芭蕉を見たがあれは自然に群生したものではなく作られたものだと推測しているプログがあった。水芭蕉は自然に群生している所はまれだと思ったからだ。尾瀬のような所でこそ水芭蕉が咲く、ここの水芭蕉は尾瀬のようにきれいになっていない、でもこれだけ群生してれば水芭蕉の里として売り出せる。ここは土地の人が工夫して水芭蕉を植えて咲かせたのである。でも不思議に自然に群生しているように見えるのだ。そもそも日本は湿地帯が多いから水芭蕉でも咲きやすい、湿地帯を開墾して田にしたのである。田代というのは田になるべき地のことでありそういう地が各地にあった。尾瀬すら田にしようとしていたのだからいかに田にして米を作ることに執念を燃やしてきたかわかる。米がとれればそこに住めるというのが日本人だったのである。

今や米が必要ないとするとき一体何が必要なのか?それで水芭蕉を栽培したのである。米より水芭蕉が価値あるのだ。水芭蕉ならみんな見にくるのだ。そしてここに水芭蕉が自然ままに咲いていたのかと錯覚して観光地に名所になったりする。米にはもはや価値がない、花の方に価値がでてきたのである。でも人間の生活はその土地が活きているのはやはりそこに暮らしがある時である。田があれば春田になり季節感としてこれから田んぼに苗が植えられて田植えとなるんだということを感じる。ところが減反で田が荒れているとそういう生活感覚がなくなる。荒廃したものとなり来てみても春の気分がなくなる。でもこうした辺鄙な地域や限界集落を作ったのはグロ-バル経済の結果であった。無縁社会というのもその原因を深く探ればグロ-バル経済が原因している。地球の裏側からも食料が絶えず入ってくるような世界である。米などアメリカやオ-ストラリアの広大な平地でいくらでも作れる、だから日本に米を買ってくれとなる江戸時代から戦前から戦後でも米を農業の基盤にしていた世界からすると信じられない世界になっているのだ。これは別に日本だけではない、中国でも鎌一つで奥地から農民が出稼ぎに来る。でも今ではコンバインで麦刈りに来る、その生産量は人間が鎌一つで麦を刈るのとは比べ物はならない、人間一人の労働力の百倍の効率とかなればもはや人間はいらないとなってしまうのだ。これはアメリカやオ-ストラリアで米を効率的に生産することとにているのだ。農業も世界的分業化したらとても日本の小規模農業など競争には勝てない、いくら品質を良くしても今は外国の米でも品質が良くなっている。自給自足的経済とは比べ物はならないグロ-バル経済にのみこまれてしまうのだ。農業を世界的分業にすること自体、異常なことであり基本的な国土形成を破壊してしまう。

一つの小村でも山村でもそこに人が生きてきたということは自然と調和して生きてきたということがある。その中に文化が形成されてきた。春田という一つの俳句の季語もそうである。それもこれから田が作られるということで春田になっているのだ。それがなくなったときその文化も破壊されたのである。文化がculture(耕す)という意味なのはまさに土を耕すことでありその土地と密接に結びついていたのが文化だったのである。
地産地消が自給自足的なものとして農村も山村もあったのである。それが根こそぎグロ-バル経済で破壊されたとき限界集落が生まれたのである。


筆甫の水芭蕉のこと
http://0313.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_4f94.html


隠里梅林
http://musubu.sblo.jp/article/37412726.html
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2010年03月20日

南相馬市(原町市)で生きた)大正生まれのばあちゃん


南相馬市(原町市)で生きた)大正生まれのばあちゃん


大正生まれのばあちゃんは
関東大震災の揺れを経験した

原町ににょきにょきと雲をつくような無線塔
コンクリ-ト作りでアメリカに無線で助けを求めた
大正生まれのばあちゃんは
製糸工場(原紡)で十年働いた
女工哀史の語られる時代だった
東京からは蒸気機関車が原町にご-ご-と唸りをたててやってきた
燃料は石炭であり常磐炭鉱は東京に石炭を運んだ
最初は小名浜から船で次は常磐線で運んだ
石炭はいたるところで掘られた
鹿島の小池でも石炭掘りした大正生まれがいた
でももう死んでいなくなった
石炭は今の石油と同じだったのだ
原町機関区から木材や資材が東京に運ばれた
原町は一早く近代化した街
その象徴が東洋一の無線塔だった
原町の人は天をつくような無線塔を毎日見上げて暮らしていた
大正生まれのばあちゃんは戦争も経験した
農産(相馬農業学校))学校に爆撃があった
すぐ近くだから飛行機が家の上を通った
飛行機通るとばぐっと防空壕の蓋があいたとか
気丈夫な父親も飛行機に負けてたまるかと逃げなかったが
遂に防空壕に怖くて逃げた
農産学校は爆撃で燃えた
はるかに仙台空襲で空が真っ赤になりここからも見えた

雲雀が原には飛行場もあり飛行機も飛んだ!
大正生まれのばあちゃんは戦後まもなくの食料難も経験した
だか今でも庭に花より豆を植えているのか
戦後は丸三製糸工場ができてそこで弟は働いた
今もその煙が街なかにふきだしている
戦後60年もまたいろいろあった
みんな様々体験をした
戦後60年はまた長い
もう百歳もまじがになっいる
一人の息子は交通事故で死に
身内の一人は最後は認知症で死んだ
昭和の歴史も長かった
昭和天皇はすでに死んで平成の時代
大正生まれのばあちゃんはすでに90過ぎた
大正生まれのばあちゃんはそれでも元気な人が多い
かくしゃくと背も曲がらずに歩いている人もいる
しかしさすがに大正生まれの人は消えてゆく・・・
その刻んだ歴史は壮絶なものだった・・・・
だから今や大正生まれは貴重であり老人でも尊敬される



この詩のように南相馬市の前の原町市はまさに製糸工場とか無線塔とか丸三製紙とか原町機関区としての国鉄の拠点としていち早く近代化した街だった。だからこそ南相馬市という名前がそぐわなかったのである。現実にこうして原町市で生きた人々がいてそれが今や歴史となっているからだ。つまり大正生まれはすでに今や百年一世紀がたつのである。一世紀の近代化の歴史として原町市は作られていたのである。その百年を南相馬市という合併後の名前で消してしまったということがあるのだ。一世紀となれば相当に重い歴史なのである。特に明治以降は変化が激しいからそれだけ余計に重みがあるのだ。ともかく団塊の世代だってすでに高度成長は昔となりそんな恵まれた時代があったのかと回想する時代になっている。ただ大正生まれとかからすると団塊の世代は相当に恵まれていた。でも団塊の世代でも格差があり全部が全部ではない、中卒で苦労して退職しても退職金ももらえない、貯金もない人も結構いるのである。60年の歳月これもそれぞれの歴史だった。60年+30年の歴史となると一世紀でありこれだけのめまぐるしい変化を生きた時代はなかったのである。
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2010年02月16日

団塊の世代が生まれ育った時代


団塊の世代が生まれ育った時代


団塊の世代が生まれたときは戦争が終わり男たちが帰ってきた結果として子供が大量生産された。貧乏人の子だくさんというか戦前からつづいていた延長だったのか?焼け野原から子供が大量生産された不思議がある。今は豊になりいくら不景気だから言って戦争直後は食料さえなかった。私の父親はミルクをもらうために長い行列に並んでいたとか食料を手に入れることが大変だった。要するにモノは何もない焼け野原から戦後ははじまったのだ。

戦争で失われた、たくさんの命。
それを補うかのように生まれてきたのが、団塊の世代。


戦争は終わった。その補いとして人口をふやしたのは自然の摂理だったのだろう。同じ世代の女性と話したらあの当時のことがそれぞれ違ったものとして体験している。その女性は農家であり5人姉妹であった。その末っ子であった。それでミルクを買っていたのではなく母親が乳が出ないからと親戚の女性に乳をもらっていたという、こんなこともあったのかと思ったがこういうことは昔から良くあったのだ。乳母(めのと)というのが武家には必ずいた。これは実際に母親が乳が出ないというのではなく武家一族郎党と結束を固めるために敢えてそうさせた。なぜならそうすればその武家の一族が家族のようになるからだ。その子供にしても乳母は母代わりになっているからだ。そうでなくても大家族制だったら庶民でも乳母役になる女性はいたのである。ミルクは買えないからそうなったのだ。学校の給食は脱脂粉乳だった。これで吐き気をしたことがあった。これはひどいものだったのだ。

脱脂粉乳について

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1997280.html

団塊の世代はすでに60以上であり若い人が昔話ばかりしているとなじっているが60以上になればみなそうなるし今までもそうである。でも団塊の世代はまだ社会で権力をもつ立場にいるから昔話ばかりではない堅実の問題に対処しろとなるのかもしれない、60-65くらいまでは今や老人に扱われない、現役の人が多いからだ。団塊の世代は小学生時代まではほとんど戦前の延長であり生活自体そうだった。何故なら燃料は炭だたからだ。これは生活の基本がエネルギ-が炭ということは江戸時代と同じである。炭は山の木で作るから山ととは密接な関係が結ばれていた。山村でも金持ちになるのは炭焼きをしている人であり炭を売る人だったのである。炭焼きをしている人より炭を街に売る人の方が金持ちになったかもしれない、大量に売ればそうなる。炭とか石炭とかがエネルギ-だった。家は裸電球一つくらいしか電気製品はない、葛尾村なんかは電気が通ったのはずっとあとである。裸電球すらなかったのだ。要するに小学生時代までは江戸時代と基本的に変わらない生活があった。

だから小学時代までの経験はかなり貴重であった。あういう経験はもうできない、中学時代辺りから急速に変わっていった。テレビができたときが大きな変わり目だった。高度成長時代に入り田舎からも中学卒業者が金の卵として東京に大量に送られて行った。その時大学に行く人はクラスで数人である。半分は中卒だった。農家で育った人は相当貧乏だったみたいだ。カバンがなくて困ったとかいろいろ不自由なことを言っていた。小学時代はみんな貧乏だった。だから差はなかった。モノがそもそもない時代だからそうなったのだ。ただ中学時代頃から差がでてきた。豊になりはじめた人が出てきたのだ。自分の家も早くから豊になったから中学時代、玉子焼きとか弁当にありうらやましがられた。今思うと立派なカバンも買ってもらったとかそれで隠されたりいたずらされたりすることがわかった。つまりカバンすら満足にもてない人が多かったのである。ただそのあとはみんな高度成長の恩恵を受けて豊になったからそういうことはなくなった。大量の中産階級をもたらしたのが高度成長時代だったのである。玉子焼きが食えないのは玉子がまだ商品化されていない、放し飼いで農家でニワトリがいてもまだ農家では食べていても街の人はそれを買って食べることがまだできていなかった。玉子も食べていないのかとなるが玉子は病人くらいしか食べられない貴重なものでありそれは戦前からの延長でありそうなっていた。「巨人・大鵬・玉子焼き」というとき巨人、大鵬はテレビが普及した結果、人気になったのである。その頃のテレビ熱は凄いものだった。子供のとき相撲でも食い入るようにして見ていたのである。玉子焼きもその時食えるようになったことで食生活が豊になり始めたものとして出てきたのである。

モノがない時代は長かった。もったいな時代は長かった。人類史上モノがあまりモノが捨てられる時代は最近のことである。戦前はさらにモノがない、鉛筆が極端に短くなっても使っていた。そのことはインタ-ネットに出ていた。鉛筆すら満足に使えないしノ-トさえ紙さえ貴重なものだった。モノがない時代か戦前もそうだし戦後も十年くらいはつづいていたのである。子供時代の思い出として屑鉄拾いがありこれは実際に金になった。鉄が不足したのは朝鮮戦争の時であった。戦争のために日本が資材を提供することになったからである。これで好景気のはずみができたのである。 団塊の世代はモノの窮乏時代からはじまりモノを満たすために企業戦士となりがむしゃらに働いたのである。そして今やモノが満たされる時代になった。モノ自体にそれほど価値がない時代になった。そのモノを満たしたことに次代のものはあまり感謝していない、モノがすでに生まれたときあふれていたからモノがあるのが当たり前だから感謝しない、モノでももしモノの窮乏時代だったらモノ自体に感謝して使っているのである。捨てるようなことは江戸時代のようにしない、徹底して紙切れ一枚まで何度も使う、現実、紙漉きは古雑誌とか古紙を材料にして紙漉きをしていたのであり木から紙を作っていたわけではなかった。あらゆるものを無駄にしない徹底したリサイクルが迫られていたのである。

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2009年11月13日

鉄道から省みる地元の歴史(南相馬市)


鉄道から省みる地元の歴史(南相馬市)

「汽笛一声新橋を・・・」・・明治5年(1872年)9月12日(太陽暦10月14日)に
日本初の鉄道が新橋〜横浜間に開業し、新橋駅が開業した。

ここから日本の近代化がはじまった。鉄道と共に文明開化がはじまった。鉄道の時代は長かった。鉄道が廃れはじめたのは車社会になってからでありここ二〇年くらいだろう。それまでは鉄道全盛時代だったのだ。必ず駅前には鉄道員の官舎があり南相馬市の鹿島区にもあった。小学生の同級生がその官舎に住んでいた。ここの土地の人ではない、国鉄職員であり各地を回っていた。国鉄というと郵便局と同じく巨大なものであり国鉄の組合は強固であり社会党を支えていたことでもわかる。社会党は万年野党だったけど国鉄の組合の支援で成立していた。中曽根内閣の時(1987)、民営化するときも組合により高額な退職金や年金を獲得したしそれで生活している老人も未だにかなりいる。ちょうどその時まだ高度成長時代であり国に対して要求できた時代であり幸運だった。民営化しても国鉄職員はそれだけの見返りがあったのだ。物流でも必ず駅には引き込み線があり貨物車が入ってモノを運んでいた。鹿島駅にもあった。他でも必ず貨物車を入れる引き込み線があった。貨物も鉄道主体でありやがてトラックに代わるようになった。駅前は街の中心地であった。駅前通りが全国で形成されたのもそのためである。明治から文明開化しえたのは鉄道の力だったのである。それから急速に車社会に移行したのである。大学も駅弁大学とか名づけられたのもそれだけ大学も増えて一般化したためであり駅と結びついていたのは鉄道が交通の主役としては変わっていなかったからである。

芥川龍之介「トロッコ」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43016_16836.html

交通が変わることは社会も変わる。江戸時代は北前船などが主役であった。鉄道になったとき海から陸路になった。北海道に移民した人たちは鉄道がないからやはり船で渡った。鉄道はまた資材を山からは木材を燃料としては石炭を運ぶために駅ができた。森林鉄道が各地にあったのもそのためである。葛尾村の落合まで森林鉄道が通っていたのには驚いた。相当な距離がなり延々と上りがつづくからである。この頃トロッコで運ばれていて芥川の小説に「トロッコ」が書かれたのもそのためでありトロッコは各地で目にした親しいものだった。原ノ町駅も原ノ町機関区であり木材など資材を東京に運ぶために原ノ町機関区が設置されたのでありそれが継続されて今日いたっている。北海道の鉄道は小樽でも最初は石炭を運ぶためであり客を運ぶためではない実用的な目的として作られた。鉄道が観光のためになるのはそのあとである。


人間の社会は交通とともに興隆と衰退がある。船から鉄道から車から飛行機と時代が変わっていった。江戸時代でも街道筋の宿場町は栄えた。原町は原町宿ができて町が拡大した。何故なら野馬追いに参加するのは中の郷では原町村となっていて一つの旗印しか出ていない、姓も一人だけである。野馬追いにに参加するのは街の中心ではなく在の農家からが多いことでもわかる。原町は原町村であり宿場町として発展していった。それから駅前通りが発展してやがて車社会になり六号線沿いに街は開けていった。


原町の名の起こり
http://www.musubu.jp/somagappeijiji.htm#harana1

田口などは明治の終わりまで家が十軒あまりのところで、昔から伊奈街道の荷つぎ場で店屋はありましたが淋しい所でした。それが荷車で荷つぎするようになって急に家がふえました。
「忘れられた日本人-名倉談義-宮本常一」

交通の変化は大きい、六号線沿いにコンビニができたのもそのためである。家がふえるのもあるが交通の要所からはずれるとさびれてしまうのである。そういう盛衰をくりかえしてきたのが人間の歴史である。そして街には必ず映画館があった。この映画館という言葉もすでに過去だけの言葉となった。
当時「カケモチ」といって、同じフィルムを隣町の映画館と持ち回りで使う方式がよくとられ、 劇場から他の劇場へフィルムをバイクで運ぶ のが常だった。

当時の映画のフィルムは可燃性で、すぐ燃えたり、途中でよく切れたものである
http://www.geocities.jp/moon_roomjp/eiga/eiga.3.htm

フィルムは途中で切れてよく中断していた。フィルムが熱で燃えやすかったのである。それを直すのが腕の見せ所だった。またフィルムは運ばねばならない、これも鉄道で運ばれてきたのだ。テレビならフィルムを運ぶ必要がない、ニュ-スも映画館で見ていた。フィルムが運ばれてくるのだから遅くなっていたのだ。リアルタイムではニュ-スは見れなかったのである。手紙と電子メ-ルのような違いがあったのだ。でも映画館でみるニュ-スは相当貴重だった。動画のニュ-スは滅多に見れなかったからである。この辺では南相馬市の原町区の朝日座が有名であり朝日座を残そうとする運動もしている。映画館は当時の情報と娯楽の拠点だったのである。そしてフィルムは鉄道で運ばれていたのだ。鹿島区で映画館があったところは駅からまっすぐの道ではない、脇に入った細い道である。あの辺にいろいろな店があった。あそこが町の中心通りになっていた時があった。
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2009年09月20日

母の霜焼け

水洗い痛々しきも思い出す 赤くふくれし母の霜焼け

老人を考える場合、今の時点だけではその人のことはわからない、人生とは老人にとって長い一生のことであり今の時点で老人をみることはその長い人生を無視することにつながる。今になると霜焼けはなくなっているだろう。水も温水が使えるからだ。そもそも水道がない時代があった。暖房は炭だったのが小学生のときだった。炬燵も炭だったのである。電化したのは中学になったころだった。それまでは電化製品がなかった。家はトタン屋根でヤハなものですきま風がピュ-ピュ-入る家だった。それで寒い寒いと布団にくるまりねていた。今のような密閉した家ではなかったからみんな寒かったのである。もちろんエアコンなどない時代である。だから今思い出すと母の霜焼けは特にひどかった。皮膚が弱く繊弱なタイプでありそれで余計にひどかった。

富山の薬売りの人から買った「貝殻」に入った黒い堅い膏薬のようなものを火に溶かして真っ赤に割れた筋に捻り込んでいました。
http://04-1231.at.webry.info/200908/article_14.html

 

ここに昔の生活が書いてあったので思い出した。そんな時代もあったんだなと思い出した。いかに不便な生活を強いられていたか忘れていたのである。余りにも便利になるとそうなる。なぜ昔を思い出すことが必要なのか、余りにも便利な恵まれた生活を誰も昔を忘れるとありがたがることもないしその意味も見いだせない、そんなこと当たり前じゃないかとなる。蛇口をひねれば水は出るのは当たり前じゃないかと便利さになれてしまってそうなるのだ。でも昔なら水を汲むことは日常の仕事だった。水を確保することに苦労してきたのが歴史である。霜焼けを治療するのは富山の薬売りだったのも日常的に富山の薬売りがここでかかわっていたことがわかる。霜焼けにはあまりきかなかったかもしれないが薬ではなかったからそうなった。

人間は今いろんなことを忘れてしまった。不便な時代のことを忘れてしまった。葬儀にしても焼き場なく野辺送りであり薪を積んで焼いていたことなども信じられない時代になった。自分の父親はそうして焼かれたからその無常は凄まじいものだった。中世では野垂れ死には当たり前であり放置されていた。つまり死体がごろごろと道端に転がり放置されていた。それを供養したのが化野の念仏寺だったのである。無常がそれほど凄まじいものだから宗教が盛んになるのもわかる。現代人がひたすら御利益を求めて信仰に入るのとは時代的には相当違っていた。死が日常的であり極めて身近だったのである。今は死体は機械的に焼かれてきれいに始末されるからそうした無常とは違うがやはり骨になるのはショックであることはかわりない。今便利になりすぎていろいろな過去から伝えられたことが喪失している。新盆とかに仏供膳や蔭膳などがあるがこれもわからなくなっている。家で伝える人がいなくなっている。そもそも葬式自体、専門の業者に頼んでいるからである。家でそうした風習とか伝統は伝えられてきた。そこには何かしら意味がある。蔭膳の風習はカトリックの神父も感心したからいい風習なのである。不在の人にも一緒にいるように膳を出して共に食べるのである。過去から伝えられた何か大事なものが失われているのだがそれに気づかないのである。

まず今の時代「霜焼け」という言葉自体知らない人が多いだろう。霜焼けしている母の姿を見ることがないからである。 母というとき自ら着るものでも繕いしたりして着るものを与える姿もない、安物を買っては捨てる時代になるとそうしたモノを大事にして心で与えることすら失っているのだ。つまり現代では親の心がかえって伝わりにくいのだろう。

小学唱歌に「ともしび近く衣縫う母は・・・いろりのはたで縄なう父は・・・」とある。

つまりこういう姿を目にしていない、着るものは母が苦労して作り出していた、父も家で仕事していた。それを見ていれば子供も何かを感じる。こうして苦労して自分を育ててくれるんだなとか大人になってもそのことは知らずと深く記憶に刻まれるのである。そこに自ずと感謝の心が生まれるのである。職住分離とか今や様々な要因で過去が何であったのか、伝えられるべきものが失われる。それが精神の頽廃につながっているのだ。老人をみるとき必ず今の時点ではない、長い過去から今の無惨な姿になった老人をみると同情も湧いてくるのである。「ああ、こんなに苦労して自分を育ててくれたのだなと・・・」と思うのである。だからかえって金持ちの家で何の苦労もなく育てられた子供は感謝しないともなる皮肉があるのだ。親の後ろ姿で子は育つというときまさにそのことなのだろう。

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2009年05月09日

歴史は祖父母から直接聞く話からはじまる


歴史は祖父母から直接聞く話からはじまる

 

歴史というとき学問的なむずかしいものからはじまるものではない、歴史が一番身近なのは老人の話を直接聞くことが一番身近な歴史を知ることなのだ。おばあちゃんとかおじいちゃんの話を聞くことが歴史を知るはじめである。今は90でも生きている人がいるから大正時代までの話はまだ直接聞けるのだ。母からいつも聞く話は辛い、10年間機織り工場で朝6時から夕方6時まで働いて休み時間は30分でありその食事は味噌汁と梅干しくらいであった。それでいつも言っているのがあれでよくもつづいたものだと・・・この話は単に本で読むのとは違う、その細い体からにじみでるように語るから実感がこもるのだ。姉から聞いたのはシンガポ-ルにいた4年間の話である。やはり人生でその時が一番印象に残っているからだろう。人間は人生でも一番印象に残っているときを語る。それが青春時代に重なると余計にそうである。一人の青春は過酷な機織り工場に費やされ一人の青春はシンガポ-ルでの戦争に費やされたのである。他に直接聞いた話では子守労働とかがあるし学校にも行けず小説読んで字を覚えたとかそれも悲惨だった。父は死んで明治生まれだったが葛尾村から丁稚奉公に出されたのだ。おしんという連続テレビドラマは現実にあったのだ。街では機織りで働いたが農山村では養蚕が大きな仕事だった。だからどこにでも桑畑がありすぐ裏の畑も桑畑だった。それが全くみかけなくなったのもわすれてしまったのも大きな変化である。絹織物の輸出は外貨獲得のために必要であり今で言えばトヨタとか日本の産業の中心の車だったのだ。結局そこの過酷な労働の収入は戦争の為に使われたという批判もある。

 

「おら家のややの子守りは どこさ行ったと聞いたれば 小浜の町さ帯買いに 帯は七尋 値は八十 五十まけて売ってたもれ 五十の帯買って何にする おら家のややこに締めさせて 締めさせながらも何遊ぶ でんでん太鼓に笙の笛 吹かせるたぶせる踊らせる(福島県)」 他に「保原の祭り」に帯を買いに行ったけれど一文もまけてもらえなかったと言う唄もありました。

子守歌研究レポ-ト
http://komoriuta.cside.com/report/kanj20021101a.html

小浜は二本松の小浜の城のあるところだっ。小浜はわかりにくいがあそこも街がありそれで帯びを買いに行った。帯は当時必需品でありよく帯のことはでてくる。着物が主体だと当然そうなる。子守も子供の労働であり手間稼ぎであり家の収入になったから出された。今インドなどで子供が働かせられているのと同じである。

ともかくおじいちゃんとかおばあちゃんから直接聞く話は生きた歴史なのである。ところが団塊の世代も歴史となってゆくのだがそこで語られるものは何かとなる。それは高度成長時代の恵まれた時代の話となるから今の80以上のおばあちゃん、おじいちゃんが語る歴史とは相当違ったものとなる。80以上の老人は苦労したからと一般的には同情される。逆に団塊の世代等に対して若者の反発が多いのは俺達より楽した世代とかでそうなっている。現実NHKでやっていたが団塊の世代の子供である団塊ジュニアは35才代は今や高度成長時代のように給料があがらないということで昨今の不況とも重なり貧困化している。派遣問題でもそうだが若者は貧困化しているのだ。格差社会になる。今の80才以上は苦労したということで同情されるが団塊の世代は俺達よりいい目をしたということで恨まれということになるのだ。それは団塊の世代が介護とかなると怖いことになる。まず苦労したからと同情されない、敬意もない、ここですでに介護など精神的にうまくいかなくなる。動機が欠如すると介護はできない、苦労したからな尽くしてくれたからなとかで介護の動機が生まれるがこいつらはただ楽をして俺達を苦しめただけだとなるとそうはいかなくなるのだ。団塊の世代は甘い汁を吸っただけだとか団塊など介護しないの垂れ死にしろとか鬱憤が爆発したら怖いことになるだろう。ただ豊かさがもどったらそうはならない、団塊の世代は貧乏な世代とは違い豊なら趣味も豊だからそういう点では新しい老人文化が華開くかもしれないからだ。でもそれがないときは悲惨なことになる。ただひたすら貧乏で苦労した老人のすべてが価値あるものとはならない、そういう人たちは遊びもしらない、いろいろなこと知らない、ただ過酷な労働の記憶だけが刻まれているからだ。旅などもしないから世界のこともわからない、身近なこともわからない、花の名前すらわからない、ただ働きづめの人生であり奴隷の一生だったともなる。それも悲惨であり人間的に生きたとはならないのだ。

 

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2009年04月09日

陸軍兵長の墓(戦争の敗因)

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(陸軍)曹長・軍曹・伍長・兵長・上等兵・一等兵・二等兵

軍隊は階級社会。



桜が一個、線が一本、余分についているかどうかで、大違い。
今日は階級章についてどーでもいい話です。
http://www1.kcn.ne.jp/~tasha/kaikyusyo.htm

天皇の兵隊というみごとな大義名分に飾られて、民衆のためではなく、一つの特権社会のために働き戦わされ、という組織にはめ込まれた。日本の軍隊、兵隊の歴史は、そうして築かれ、そのために、滅ぶのである
http://1007.at.webry.info/200808/article_9.html




なぜこの墓に注目したかというと自分の家の墓のすぐ後ろにありここを通るたびにこの墓が目につくからである。これが・・・・家の墓とか、南無・・・・とかあれば個人的なものでなくなるからある特定の人を意識することはない、これは個人墓なのである。墓の起こりは個人墓だった。江戸時代の墓も庶民が墓を建てる資金の余裕がでると侍に習って墓を建てた。苗字はないが名前だけ記されている。そういう墓が倒れて埋もれるようにある。その頃一家の墓はない、自分を何か記念として残すために墓を建てたのだ。夫婦の墓も別々であったり個人墓だったから一家を偲ぶというより個人を偲ぶことになる。この墓を意識するのは個人墓でありまるで兵長が戦争のときのように今でもそこに立っているように意識される。一種の銅像のようにさえ見える。直立不動で兵長が立っている。「敬礼しろ」とか命令されるようでもある。そもそもわざわざ兵長という位をここに記したのは誇りがありこだわりがあるからだろう。

一等兵だったりしたら・・・一等兵などと書かないだろう。兵長という位がどのくらいのものかわかりにくい、でもかなり上のクラスだったからこそここに階級を記したのだ。階級の徽章とか軍隊では階級が大きな力をもち上官に絶対服従であるからこそ階級のもつ意味は大きい。それは戦争の時だからこそであり今になると何の意味ももたない、ここに兵長様が埋まっている墓なのか、偉い人だったんだなとか誰も思わない、普通の人はほとんど注目しないだろう。私が注目したのは私の姉が最近死んで墓に埋めたので余計にこの後ろの墓が気になった。というのは姉は認知症になっても最後までシンガポ-ルにいた四年間を忘れずにしゃべっていたからである。これだけは忘れなかったのである。それで同じ戦争で死んだ人がいたので注目した。今頃同じ墓場で戦争の思い出を語り合っているのかとさえ思う。戦争を記念するような墓はある。戦争で死んだ人を慰める供養するためなのだろう。その功績を墓にいろいろ記している墓がある。これは兵長と書いてあるだけだが戦争の一つの記念であり戦争を思い出させる墓である。軍隊が特権社会となり民衆から遊離して軍隊のための軍隊となっていたのか、前にも書いたけど日本の軍隊は上官に下士官がいじめられるのが通例でありそれは過酷だったし上官だけは米を食い下士官は食いなかったとかうらみつらみを語る人が多いのだ。日本の軍隊には一体感がなかった。

30人に満たない小さな部隊の兵たちがこれほどまでに困窮しても、
士官以上の3人には、白い米の飯が一日3食当たった。
さらに、島を流れる小さな川にいるウナギやエビは士官専用で、
兵士たちの口には入らない。
上下関係が厳しく、上官の命令は絶対で、部下が逆らうなど論外だ。


しかし、状況はますます悪化。
最初は穴を掘って葬っていた戦友の遺体を、
穴堀りの体力もなく幕舎横の谷に落とした。
明日はわが身と、だれもが感じていた。
「でもせめて、最期に腹いっぱい、米の飯が食いたい」。
極限のなか、兵士たちの思いが一つになった。


士官たちから米を奪ったその夜、兵士たちに久しぶりの笑顔が戻った。あと何度かは、食べられる。
http://plaza.rakuten.co.jp/375375/13003


小野田少尉と横井庄一さんの違いの不思議
(フィリピンの日本兵生き残りの騒ぎから)

http://www.musubu.jp/jijimondai28.htm#ono


戦争の敗北の原因は日本軍の内部の士気にもあった
(アメリカ軍の士気の方が高かった)
http://www.musubu.jp/jijimondai28.htm#ni


アメリカ人はいくら金持ちでも士気がないとか神風が吹くから神国だから日本は勝つと日本人は相当奢っていた。敵を知ることがないからそうした傲慢がでてきた。関東の武士が鎌倉が西の平家に勝ったのは主従関係の強さだったと言う人がいる。鎌倉の関東の武士の方が強固な主従関係を築いていた。これはロ-マに対するゲルマンとにていた。日本が敗れた原因は必ずしも物量で武器で劣るというだけでなく別な要因もあった。日本人は天皇崇拝で一致団結して士気が高いように思われていたがそうでもなかったのだ。日本の軍隊そのものが相当な欠陥だらけのまとまりのない組織だったのである。それが戦争の敗因の一因だった。とてもあれだけのおおがかりな戦争をする強固なまとまりある組織ではなかった。だから陸軍と海軍が最後まで争ったり軍隊内でも一致して戦うことができなかった。アメリカの方が一致団結していたのである。

勲しとみ国のためにい出たちぬ兵の残せし墓一基かな

我が姉の墓の後ろに「陸軍兵長」何か虚しき

この墓の今もの言わぬ春のきて同じ墓地にし何を語るべし



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上等兵と書いてある。ここは別な墓地である。上等兵くらいだとまだ墓に記される、一等兵とか二等兵の墓もあるのか・・・・この階級も今になればむなしいけれど・・・今誰も兵隊の階級に興味ないだろう。




◆戦地増俸(月額)

大佐  ‥‥‥345円 中佐  ‥‥‥270円 少佐  ‥‥‥200円
大尉  ‥‥‥145円 中尉  ‥‥‥115円 少尉  ‥‥‥105円
見習士官‥‥‥ 50円 准尉  ‥‥‥110円 曹長 ‥‥‥ 85円
軍曹  ‥‥‥ 34円 伍長 ‥‥‥ 27円 兵長 ‥‥‥ 18円
上等兵 ‥‥‥ 14円 一等兵 ‥‥‥ 12円 二等兵 ‥‥‥ 12円


伍長と兵長は差あるけど給料にすると兵長以下はそんなに差はなかった。


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2009年01月21日

小説から昔を回想して郷愁にひたる(酒屋は昔の村や町の中核)

●通い帳のこと


正月や現金酒の通ひ帳 一茶

現金酒というと現金払って酒を飲んだのか、升売りで一合とか樽から飲んでいた。戦前もそうであり戦後まもなくもそうだった。そこには昔がまだ活きていたのである。通い帳というと通いという言葉があるように常に人間の元へ通っていたのである。今ならクレジットカ-ドだから人間の元へ通うことはないのだ。これは要するにやはり遠くへ行くときクレジットカ-ドは便利なのである。外国まで通用するからだ。通い帳となれば通える範囲内での商売になるからだ。この俳句からインタ-ネットに短い小説がでていてこれはなるほど当時の酒屋を彷彿とするものだと思い引用した。これを書いた人は酒の専門家だった。蔵も作っている。今でも酒屋の蔵造りに取り組んでいることが意外だった。酒の市場は縮小して酒自体飲む人が激減したと思っていたからだ。

正面から偽りのない店というイメージをお客様に働きかける努力を重ねると、お客様の方からも、いろいろと紹介していただき、 「通い帳」を持って行ってお得意になる。
当時は、「通い帳」をつくり各家庭に持ってゆくことが、一つの信用を得る意味を持っていたから、現金で買ってもらうお客より 「通い帳」で買っていただいたお客の方がありがたいという考え方があった訳だ。」

(商人の道 21ページより)
http://www.maruilife.co.jp/recruit_information/history.html


●酒屋が村や町の中核だった時代

山吹屋の前には、筧(かけひ)が水を落としている。この水がいいから、「峠」の酒はいいのだと評判の水である。

埴崎の殿様の御用達酒であり、埴生のご本家には埴崎の分家が決まっただけ届けることになっている。

商売として酒を扱う人たちは、自分で酒を汲み、通い帳を記し、晦日にはきちんと清算してくれたので手が掛かることはなかった。

新という若者とうこんの間は、蔵に住み込みの婆やや炭焼きをしながら酒づくりも手伝っている人たちにしか見られてはいなかった。


 二頭の馬にそれぞれ四斗樽を振り分けに二本負わせてそれを馬方に引かせて帰った。
そこに見えた人影は、いつもの人たちのように天秤棒を肩に担いでいたが


冬だけの出稼ぎなんですよ。一つの蔵に長く勤める者もあれば、一年ごとに蔵を渡り歩く者もいるんです

峠の酒(篠田次郎)
http://www.vega.ne.jp/~tomita/menu/mtouge.htm



これは江戸時代の生活を彷彿させるものがあった。父が葛尾村から双葉の新山の酒屋で働いたので興味をもった。酒屋は村の中で人が集まる場所であり働き場所になっていた。酒造りと水は深い関係がある。水がいいところは酒がうまい、会津や新潟は水がいいから酒がうまい。
酒屋には地元人だけではない、出稼ぎ者も働いてきた。とすると他国の情報のやりとりもあった。炭焼きしている人がいたがその人たちも酒屋で働き現金収入を得た。酒屋は人の出入りが多いところだった。その当時煙草を吸う人が多いから山の中でも煙草を生産している農家が多かった。今でも阿武隈山中で煙草を栽培している。煙草は阿片の麻薬の一種であり今でもアフガニスタンとかで麻薬を造りつづけているのは容易に現金収入になるからである。当時は煙草で財を成す町があった。四国の貞光町はそうである。そこではうだつの建物が町並を形成している。峠を馬方とか天秤棒を担いで荷を運ぶ人が行き来していた。そこは車の行き来する世界とは違う、人間臭い道であり人間の体臭までが感じられる世界だったのだ。馬も生き物だから極めて人間的なのである。濃密に人間交わり道は馬も行き交う道だった。経済的には酒屋は村や町で大きな役割を果たしていた。双葉の富沢酒店では今も大きな煉瓦の煙突があり工場のようになっている。敷地も広いし町の中心の会社であり工場だったのが酒屋なのである。この小説からは当時の生きた人の姿が浮かんでくる。すると昔が在りし日のごとくそこにあり郷愁の一時を想像してひたることができる。 これは外国でも同じである。ワインを作る工場が市町村の中核だからである。ヨ-ロッパの歴史は日本と違うとしても共通点もかなりある。共通点を見いだす人親しみを感じるのである。



双葉の富沢酒店
http://musubu.sblo.jp/article/17459205.html


●昔は回想して郷愁にひたる

前にもそうして昔の小説を読んだ。結局車社会の騒々しい世界から離れ昔に帰ることが幸せな時間を作るのである。道とは車が行く道ではない、人が歩いてゆく道であり馬が行く道だった。人は馬を名前で呼び馬に語りかけ道を歩いていたのだ。峠を越えるのもそうして越えて行った。車で一気に越えるのとは違う、そこに濃密な人間の交わる場があった。馬頭観音の碑があるときそれはともに働いた相棒であるから死んだとき人間のように供養したのである。今はペットを家族の一員のように扱うのと同じである。江戸時代の生活は人間の足で歩む世界であり人間の生活が土地に痕跡を刻む生活だった。土地と密着して生活する空間だった。過去は失われたのだがこうしして過去を回想すると昔にもどり幸せな気分になるのである。今でも蔵というのも確かにあるのだが実際は死んでいる、用がなくなっいるから生きていないのだ。実際に活用されないものは死んでいる。蔵について俳句とかいろいろ書かれているが蔵はなくてはならないものだった。蔵にはいろいろな用途があった。それが失われたから蔵は過去の残影のようにあるだけで重みがないのである。現代を知るとき過去をしることでよりよく現代をしることができる。中心に蔵があり様々なものが蓄えられている。生活は土地に密着して人間が濃密に交わりともに暮らす、そこが今とは違う郷愁を感じる。当時の人にとってはそんなことを思う人は一人もいない、今のような車社会などになったときはじめてその生活が何かほっとするような人間味あった世界だったなと回想するのである。

郷土史とは昔の再現であり昔から今を見直すことである。江戸時代の俳句を読むと今とは違う、極めて人間臭い人間的なものであり心安らぐのである。それは今では作り得ない俳句となっていたのだ。その時代は失われたからもはやつくりえないものだから貴重なものとなっていたのだ。同じ場所にいてもそうなのである。立っている空間は確かに同じでも時間は違っている。時間のなかで体験したものは過ぎ去れば昔となりもはや二度と体験できないから貴重なのである。それが家族の死別でわかる。家族で過ごした時間は永遠に帰ってこない、ただ回想するだけでありそして回想したときありありと一緒にいた時間を思い出して泣けてくることがある。大げさかもしれないが江戸時代を回想することはそういうことに通じているのだ。失われたものは時間のなかで体験したものは二度と帰ってこないのである。ともかくインタ-ネットはこの文を書いたことでもわかるようにキ-ワ-ドからはじまりリンクをたどる読み方である。参考にした人のことは全然知らないくてもリンクをたどったりキ-ワ-ドから編集してゆく読み方なのである。郷土史関係は膨大なものになるからいくらでもこうして書いていけば書けるとなるのだ。一冊一冊の本を読むのとは違う、そもそもこの短編小説はどこにもでていない、本にもでていないものだった。だからインタ-ネットでしか読めないものだったからだ。


酒屋の通帳
http://www.musubu.sblo.jp/article/1836589.html
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2008年09月05日

志願兵の話

志願兵の話


若い兵隊が不足していたのか、中学校2年生から進む少年志願兵の制度が出来た。その中でも、少年飛行兵が人気であった。両親にとっては、まだ子供と思われる14歳の少年が、志願してお国の為と兵役に従事した。http://wwwi.netwave.or.jp/~hkangawa/newpage17.htm



同じ病室の隣の人の夫は「オレは志願兵」だと言ったとき驚いた。82才だと言った。南方に本当は満州に行くはずだったが南方の戦線が苦境にありシンガポ−ルとかに派遣されたという、もう一人のばあさんは満州の新京にいたという、電話交換手だった。
この人の話しも多少ボケていてわかりにくいが満州にいたことはまちがいない、ここで戦争に行った人がすでに二人いてもう一人は私の家族だがシンガポ−ルで従軍看護婦をしていて4年もいたからこれもまた特別である。今はただ昏睡状態である。ここですでに三人が外国で暮らした経験ある人がいた。戦争はまだ身近なのである。80代の人は戦争経験者であり兵隊の経験者もまだ長寿社会だから生きているのだ。でも82才と聞いたとき、戦争に行ったと思わなかった。それではいつ戦争に行ったかと聞いたとき18才だった。やはりそんな年かと納得した。志願兵で調べたら14才から行った人もあるから驚きである。この人は通信兵だったから直接戦闘で人を殺すことはなかった。18才ではだからその当時驚く年齢ではない、今でもイラクでもアメリカの志願兵がいてそのくらいの年の人はいる。昔だったら相当大人であった。
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志願兵はそれに意義・意欲・好奇心から志願する。理想主義者も多い。
だが、精神的に早く参ってしまうのも志願兵。厳しい現実、自由の無さ、2度負傷するか任期満了まで帰れない

徴集兵は最初から生きて帰ることしか考えていないから精神的に粘り強い。

志願兵はチヤホヤされる。自分の意思で戦場に来たんだから。意思に関係なく駆り出された徴集兵より扱いはぐんといい。

http://ameblo.jp/quattro-bajiina/entry-10029162578.html
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普通は赤紙一枚でいやいやながら徴集されたと思っていた。徴集兵の方が帰りたい一念で粘り強いというのも人間の心理なのだろうか、彼らは戦争はしたくなかったのだ。だから戦争のために洗脳されたのとは違っていた。当時の雰囲気からして若い人、14才でも軍国日本一色だから思想的にもそうなる人がいても当たり前である。そうならない人こそ特殊だとなる。今でもカルト宗教団体に育った人はそうなりやすい、一方で疑問に思う運動しない人もかなり多い、それは民主主義になり軍国日本一色ではない、他の情報がいくらおさえても入ってくるからである。当時は全く情報が封鎖されて大本営発表しかなかったのである。志願兵でも朝鮮人の志願兵もいた。朝鮮人でも台湾人でも特攻に参加した人がいた。韓国に旅したとき仙台の兵隊の学校にいたという老人かいたのに驚いた。日本語はなんとかまだ話せる、でも外国では余裕がなく話を良く聞くことができなかったのが失敗だった。韓国ではまだ日本語をしゃべる人がかなりいるのだ。韓国の兵隊でも日本人の上司についた人もいる。韓国人に命令されていた下士官もいたのである。こういう点で日本は韓国人を差別的に扱かわなかった。韓国人も台湾人も当時は日本人と一体であり上昇志向があり戦争に参加した。アメリカ人もイラクでは貧乏な青年がそういう動機があり志願兵になっているのとにていた。

この人の話はよくわからないにしても上官にはげしくびんたでなぐられたとか言っていた。これはどこでもあった。上官と下士官は日本では一体感がなく敵対関係にすらあった。それが士気の低下につながり日本が負けた敗因があった。日本が一心同体で戦争したわけではなかった。アメリカの方が士気はあったのだ。


兵隊でも上官は米のご飯ですが、部下はご飯が当たらず、死ぬ兵隊などは米の飯を食いたいといわれた。言葉は、耳の奥にこびりついています。

この頃はニシンが大漁で、浜はごった返しで景気も良く、このまま世話になることは出来ず、私は一足先に赤平の炭鉱に居る伯父を頼って行く。すぐに採用してもらえなくて、組で働き、半年後に本採用になり、家族全員が来て生活をする。

http://anond.hatelabo.jp/keyword/%E5%BF%97%E9%A1%98%E5%85%B5


このことが常に語られているから日本軍ではどこでも同じでありあの戦争は上官への下士官の恨みが尋常でなかったことだけは確かである。ここではさらに炭鉱で働いたことが書いてあり小池の炭鉱で働いた女性と同じ径路をたどっている。

この人は実際に人を殺している。外人をたたせて銃剣でつかされたという、自分も銃剣で胸をかすり傷があったという、普通こんな生々しいことをしゃべらないがこの人はそんなことを考えずしゃべった。よく話がのみこめないが本当なのだろう。普通人を殺すというと怖い、でも戦争は普通に人を殺す場なのである。いづれにしろこの人も戦争の生き証人だったのだ。戦争とはまだ終わっていない生々しいものなのである。特に60代では親から戦争の話を聞く人が多いからまだ遠い昔の話ではないのだ。戦争についての話しも無数にある。今はインタ−ネットでも無数に語られている。でも実際に戦争の生き証人から話を聞けるのだから戦争は書類だけの歴史ではないのだ。そして戦争の真実は本当はわかっていない、それはまだ戦争を生きた人が長寿社会でかなり生きているからだ。その人たちが戦争の真実をかえって見えないようにしている面がある。この人はたまたまわけわからず殺したことを話したが普通はしゃべらないだろう。ボケで戦争の秘密をしゃべったという人もいた。この人もボケてはいないが訳もわからずただしゃべったのである。柳田国男が口碑を重んじたのはそれが生きた歴史を伝えると思っていたからである。郷土史とかでも実際に語られたものにも真実があるのだ。だから親から祖父母から聞く話はみな郷土史であり歴史であるから誰でも郷土史は身近なのである。


植民地朝鮮での志願兵制度
http://www10.ocn.ne.jp/~war/siganheiseido.htm
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2008年08月27日

橲原に住む老人の話(小池の炭鉱で働いていた)

橲原(じさばら)に住む老人の話(小池の炭鉱で働いていた)

療養型病院にいる老人はよくしゃべる。多少認知症になっていた。自分の住んでいる場所がわからないのだ。何度も寺内に住んでいると言っていたが橲原だったのだ。これはずっと山の方であり町からはかなり遠い、ここで一人で暮らしていたとなると買い物すらできない、甥子の嫁が世話していたが橲原は遠いから大変である。この老人は85才であり多少ボケている。でも話はわかる。いつも寺内に住んでいると言っていたから寺内だと思った。寺内だと町に近いが橲原だと遠い、この人の話は良くわからない面あるが驚いたのは小池に炭鉱があり炭鉱で働いていたという。常磐炭鉱は有名だが小規模の炭鉱が各地にあった。福島県でも130もあったのだ。戦後まもなくは石油ではなく炭鉱の時代だった。エネルギ−は石炭に頼っていたのだ。それで北海道では石炭を輸送する鉄道網が整備されたのだ。夕張などもそうである。小樽までも石炭を運ぶために鉄道がひかれた。常磐線も東京に石炭などを運ぶものとして常磐線が平駅まで伸びた経緯がある。炭鉱では女性も働いていたのである。また炭鉱には各地から出稼ぎ者も来ていた。常磐炭鉱にも来ていた。戦後まもなく働き口がなく炭鉱が以前として有力な働き場所となっていたのだ。戦後引揚者が来たとき、働き口がなく困っていた。それで以前として農地を開拓することがつづいていたのだ。病院にいる老人の姉妹も満州から帰り一時橲原にいたという、それから北海道に移った。その頃また北海道に移住しようとする人が結構いた。明治維新の時、武士が北海道に移住したように以前としてフロンティ的なものとして北海道があった。近くの自転車屋も北海道に移住しようとしていたがここで繁盛するようになりとりやめた。

1947年に制定された労働基準法は64条2項で女性をトンネルや鉱山など地下にある工事現場で働かせることを禁止しています。当時は石炭産業の全盛時代で多くの女性が炭鉱などで働いていました。当時の炭鉱は劣悪な労働環境なところが多かったので、母体を保護する必要がありこのような規制が設けられました。

戦当時の満州周辺の在留日本人数は約155万人。引き揚げまでに約24万5000人が死亡し、約130万人が日本に引き揚げたという。

当時は戦災等で国内に住んでいた人すら職場はおろか住居や食べ物すらない人が大勢いました。満州からの引揚者は逃げてくるのに精一杯で着の身着のままでした。
身内や知人すら自分が生活するのにやっとなのに引揚者の面倒など見れないという空気だったと思われます。

開拓入植者の現在員総計3,310世帯中引揚者1,280世帯で39%を占めていた。

http://www.e-obs.com/top/heo/heodata/n586.htm

戦後の満州であれ引揚者が大量に帰ってきても日本には働き口がなかったのだ。どうして食べていいかわからない時代だった。その時引揚者の男性が帰ってきてベビ−ブ−ムが起こり団塊の世代が誕生した。ミルクも手に入れるのが大変で父は並んでやっと手に入れたとか子供を育てるのも容易でなかった。その時父がなぜイタチとりとかしていたのか不思議だった。遊びでやっていたのかと思っていたがイタチの皮を剥ぐ作業をしていたからイタチの皮を売ることを考えていた。それを家でやっていたのだから臭いし汚れたものとなった。こういう仕事自体嫌われ差別された部落が生れたこともわかる。その後三文店屋を駄菓子屋を開き繁盛した。ともかくその頃仕事がないからこそ北朝鮮が楽園だとかブラジルに農業に移住するとか満州時代と同じように農業のための移住がつづいていたのである。満州にかかわる人は全国に多かった。満州を維持するために日本は日清、日露、大東亜戦争と継続して戦争をしてかえって大損害をこうむったのだ。それも満州へ農業のための土地を求めたことに原因があったのだ。原町に満州村があったというのもそのためである。満州へ満州へ草木もなびくという時代があったのである。韓国に住んでいて引き上げた人も鹿島区にもいたしどこにでも相当数いた。

ともかく老人は一人一人生きた郷土史になっている。ボケていても昔のことは良く語るから注意深く聞いていると郷土史の生きた語りとなっているのだ。橲原−ジサバラという地名は全国でもめずらしいからキ-ワ-ドで調べている人がかなりいる。これを橲原と読める人はいないだろう。なぜこの名がついたのか前に書いた。橲原はすでに江戸時代から木材を供給する山守が住み紙漉きをしていて郷士も住んでいた。ただやはり橲原に人口が増えたのは明治時代以降である。林に隠れた粗末な石くれの墓地には江戸時代の墓は見あたらなかった。明治以降の墓である。郷土史というとむずかしいことではない、老人一人一人が生きた郷土史なのである。だから祖父のことから聞いた話でも郷土史なのである。そういう話を全国レベルでは相当インタ−ネットにでていて興味深く読んでいるが相馬内では極めて少ないのが残念なのである。そういう話をインタ−ネットでデ−タ−ベ−ス化することが向いているからだ。郷土史というとこれは出版の世界ではそもそも本を出しても売れないし学術的なものも売れない、売れないものは本屋でも置きたくない、そもそももはや本とか書店とか情報分野では必要ないものとなってゆく、商業化ベ−スにのらないものが切り捨てられていたら保存すべき記録すべき歴史も切り捨てられる。出版社とか書店とかの存在価値は喪失してゆく、文化的なものはすべて商業化することに向いていなかったのである。ボランティア的にやるのが向いていたのだ。それがインタ−ネットだと無料で出せるから郷土史と医療関係の情報は膨大なのである。老人から話を聞くと具体的になり郷土史が身近になるのだ。橲原にそんな人が住んでいたんだとなりこの人は橲原に死んだら埋もれるのかとなり橲原に親しみを感じることになる。実際に老人は余命が短いからその話を聞いておかないとわからなくなるから聞いておくべきなのである。

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追記

俺が入院した時は、周囲皆おじいちゃんだったなぁ
満州にいた時の話とか、引き揚げてきた時の話とか面白かったなぁ
400円渡されてはしゃいでたら、戻ってきた時には大金じゃなくなってたとか


病院で話をしていた老人自体が満州の引揚者だった。鹿島区でも満州の引揚者がいて仲間で船で帰ってきた人のことを言っていた。金のことをしきりに言っていた。金をたくさんもってきて一人じめしたとか言っていた。その人は満州の鉄道で働いていたという、満州にかかわった人は多いことがこれでもわかる。この金は日本にもってきても利息三文になったろう。事実戦前に事故で死んで多額の保証金をもらってこれで一生暮らせると言われたがその金が戦後紙屑になったのだ。残ったのは二反買った土地だけだった。経済の変動が大きいと紙幣は紙屑になる。満州から財産をもって帰ろうにも満州の価値は土地にあったし土地はもって帰れないからただ犠牲だけが大きくなったのである。

○不穏な朝鮮人の動き

 これも、突き詰めてみれば「流言蜚語」のうちに入るのかも知れません。旧満州の新京でも(後に数年滞在した間島省都の延吉街は、住民の大半が朝鮮人で、現在では延辺自治区となっていますが)朝鮮人が住んでいる区域があったようです。

新京にいて朝鮮人のことをしきり言っていたから満州と朝鮮は深く関係していた。逃げるとき子供を産んだ女性がいて悲惨だったというのは本当だろう。そんなときなぜ子供をうわのかやはり若い夫婦なら妊娠していてそのまま終戦になった。満州には民間の人が多かったのである。

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橲原に住むといふ老人を病院に知りぬ蝉しきり鳴く

橲原(じさばら)のジサはエゴの木だった
http://www.musubu2.sblo.jp/article/17460576.html

戦後引揚者の入植
http://www.musubu2.sblo.jp/article/17459884.html

農民が土地を求めた満州に戦争の原因が・・・
http://musubu.jp/jijimondai38.html#man
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2007年12月05日

戦地の引揚者が入植した歴史

 
戦地の引揚者が入植した歴史 


戦後県では 食糧危機 に対処して開拓を奨励したが、28年3月現在では、開拓入植者の現在員総計3,310世帯中引揚者1,280世帯で39%を占めていた。


 戦後、中国からの引揚者によるラーメンの屋台が全国に出現した。中国で多くの人がラーメンの製法を覚えてきたのに加え、安い材料で美味しく栄養満点のラーメンは、戦後の物資が乏しい時代に、まさにピッタリの食べ物であった。
 

それから同じ芝山町の加茂には、石井部隊で有名な軍医中将の、石井四郎がいた。彼は日本の細菌戦術の創始者で、旧満州を本拠地にしていた。この部隊には芝山町、多古町を中心として地方農村から、多くの農民が家族連れで渡満し、軍属や徴用工で働いていた。敗戦と同時に命からがら逃げのびてきたが、途上、栄養失調でわが子を失なったり、病に斃れた者も数多かった。やがて彼等は郷里に帰り、引揚者として優先的に解放地に入植するのである。
http://bund.jp/modules/text/index.php?content_id=4

 
戦争の話はいろいろありすぎる。戦地から引き上げても仕事がないからやはりまた日本のなかで農業するために開拓に入ったのだ。満州に移民したのも農業するためでありその頃はすべて農業が仕事でありそれ意外仕事ととなるものは少なかったのだ。毛沢東でも「農村が都市を包囲する」という思想であり農民中心の革命を志向した。戦前でも戦後まもなくでも農業中心の経済だったのである。戦後ブラジルなどに移民したのも農業するためであった。世界的にも農業が仕事としてあった。
 
私の父は偶然、双葉の新山の酒屋で一緒に働いていた仲間とあったのである。その人はフィリッピンから帰ってきた引揚者だった。小池に入植して粗末な小屋に住んだ。他でも事情は同じであり戦後粗末な小屋に住んで開拓に入った人がかなりいたのだ。ちょうどその時店をはじめていてその後その人と交流がつづいた。卵を買ったりして売っていた。その頃卵はバラ売りであり農家でも放し飼いしていた鶏から卵をとっていた。それを古い自転車で後ろの箱に糠をつめて壊れないようにして運んだのである。でも自転車がヤハだから必ず一個くらいは壊れるのである。それとその頃ほとんどの道は舗装されていないからガタガタ道だから卵は壊れやすかったのだ。橋も木の橋だった。日本が戦後工業化するまでは発展するまでは農業しか仕事がなかったのだ。その後朝鮮戦争を境に工業化が飛躍的に起こり10年後くらいにテレビがすでに出て急速に工業化されていった。団塊の世代が中学生で金の卵ともてはやされて東京に働きに出たのもその頃だった。工業化が飛躍的に進んだのである。だから元からいた農家と引揚者が入った農家は全然違っていた。栃窪の上萱や飯館の共栄という場所なども戦後入植した地域だった。そういう場所はかなりこの辺にもある。満州でも広い土地がもらいからと満州に渡ったのでありその後ブラジルなどの移住もそうだったのである。日本人は土地がなく農業できないから土地を求めることが戦後もつづいていたのである。
 
この辺では原町一が一早く丸三製糸とかができて森林鉄道もあり東京に木材などを運ぶ基地として発展した。この工業化は非常に急速だったのである。10年一昔というが本当にそうだった。田中角栄の日本改造計画がもてはやされて日本は一変したのである。それとともに自然環境の破壊がおこり急速に景観も変貌したのである。それまでは茅葺きの農家とか木の橋とか戦前から江戸時代を思わせるようなものが残っていたのである。そこには縁側があり道はほこりっぽい道だった。でもすでに自動車は増えていた。自家用車は少ないにしても野馬追いのときその道を行く車をその縁側で子供のとき数えていた。その頃から変化の兆しはあり変化は急速だったのだ。まだバス全盛時代だから車社会ではないが車の数は急速に増えていったのだ。工業化して農業にこだわる時代は終わりつつあった。工業化のため生産拡大のため人手不足となったから農村から労働者が送られた。これは農村からの出稼ぎ者としてまたつづいていたのだ。これはまだ中国などから労働者を入れることなく日本でまかなうためにそうなった。
 
いづれにしろNHKで今日満州の引揚者のこと放送していたが物とりが横行してパンツまで中国人によりとられたと老婦人が言っていた。これは私の家族も従軍看護婦で言っていた。死人からも墓を掘り起こして金目のものを探し衣服まではがされたというから同じである。ともかく戦後の混乱はまさに生き地獄だった。日本人は残酷に中国人などう殺したというが中国人も、ソ連も残酷だったのだ。どさくさにまぎれてやり放題だったのである。これが戦争というものが人間を野獣化させるからそうなる。暴行され外国人の子を妊娠して堕胎させられたというのもあまりにも悲惨である。戦争の悲惨は目をおおいたくなる。なぜ戦争になったかはなかなか今でも理解できないが満州への土地を求めて農業で仕事をえるための移住という側面はあった。農業基本の社会であり農業が人口の余剰を補う仕事だった。日本そのものが農業するための開拓の歴史だったようにそれが外国までに拡大化したことが戦争の大きな要因でもあったのだ。今の時代ならなぜそれほどまでに農業にこだわるのかとなるからだ。減反とか米余りとか考えられない社会になっているからだ。戦前の近代化もすでに歴史のように団塊の世代の過去も歴史となりつつあるのだ。段階の世代が還暦となったことはすでに過去をふりかえる歴史となっているのである。
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2007年08月11日

蚕の話(郷土史は祖父母の話から興味をもつ)


蚕の話(郷土史は祖父母の話から興味をもつ)

 
糸取り10年くらいしていた母の話で冗談だと思ったのが昼休み遊びたくて早食いした人が病気で死んだという話である。30分くらいしか休みがないとしたら食事して終わりで休むことができない、もちろん遊ぶこともできない、これは今でも流れ作業などであるから冗談ではない、流れ作業は自分も何度もしたことがあり単調であり機械になることである。だから休み時間はロボットの時間から解放されることだった。今でも過労死があるのだから労働は過酷であり左翼からみると搾取になる。
 
彼女たちは、家へ金を持ち帰って親の喜ぶ顔をみて満足したものが多かった。(女工哀史)

母もそうであった。親のために働いたのである。現物で支給されたこともあった。米俵十俵とかで支払われた。やっぱり同じように親がそれで喜んだのである。今でも中国やインドの貧しい国では子供は労働力であり両親のために働かせられる。今は両親は子供のために働かされるのだから余りに違っている。そもそもこの蚕の業は延々とつづけられてきた。こんな漢詩を発見した。
ョ山陽は幼名:久太郎(ひさたろう)甲州道を回り広島に帰る時に作った。
 山驛蚕為業 山駅蚕を業となし。
無家不種桑 家として桑を種(う)えざるなし。
憐看襤褸女 憐れみ看る襤褸(らんる)の女。
績織為誰忙 績織、誰がために忙しきや。

家として桑を種(う)えざるなし・・・現金収入として不可欠だった。績織、誰がために忙しきや・・・これは家族のためであり明治になると国家のためになった。憐れみ看る襤褸(らんる)の女・・・自分で織った絹織物は着ることができず売るためのものである。貧しい国では今でもそうである。豊かな国に輸出するために作っている。
明治には富国強兵と殖産興業の殖産は製糸であり輸出の60パ−セントにもなっていた。これによって富国強兵の軍備をまかなうことができた。明治になると家族−国家が強力に結びつき天皇が家族国家の頂点としてモラルが形成された。江戸時代は国家は地方の藩であり国家とは結びつかなかった。

この蚕の歴史は製糸の歴史は長い、天皇家では今も蚕をしているのはそのためである。田植えもしている。米と蚕は古代から日本を支える産業だった。
 
斎藤茂吉の歌の
 
朝さむみ桑の木の葉に霜ふりて母にちかづく汽車はしるなり

桑の香の青くただよう朝明けに 堪えがたければ母呼びにけり
 
桑の葉は母をもイメ−ジしている、桑の葉を籠に刈り取る母の姿、桑の葉は単なる桑の葉ではない、そこにはいつも母の姿が浮かんで来る母の姿があった。鉄道ができて桑の葉が蒸気機関車の煙でだいなしにするというのは都市伝説であった。鉄道はそんな広範囲に煙をまきちらさない、工場の煙とは違っていた。鉄道に対する無知から起きた誇大妄想だった。鉄道が通っても蚕は続けられていたからだ。
 
郷土史はまず祖父とか祖母の話を聞くと興味をもつ、それが何かつまらないようなものええ、そんなことがあるのかと今では思うことがかなりある。製糸工場で働いて休み時間に遊びたくて早食いして死んだという話もその一つである。こういうことはいくらでもあるのだ。なぜそんなことで死ぬのかという疑問が今になるとでてくる。でも過酷な労働は今でも過労死としてあるようにつづいているから時代が変わっても同じことはあるから理解できる。
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2007年04月13日

双葉の新山の富沢酒造店と夜の森の歴史

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双葉の新山の富沢酒造店と夜の森の歴史

●立派な富沢酒造店

富沢酒造店はこれは私の父が丁稚奉公していたときからあった。私の酒店は倒産したが暖簾分けして鹿島区に移りすんだ。そこには銀行もあった。銀行は当時かなりめずらしいもので庶民にはあまり縁のないものだったかもしれない、銀行に金を積むほど金をもっている庶民はなくその日暮らしの貧乏所帯が多かったからだ。だから酒でも一合とかバラ売りで樽から出して売っていて子供のとき買いにいかされたのだ。銀行の前進は「両替屋」「掛屋」「札差」「頼母子」などが江戸時代にあった。金貸し業も古くからあった。明治になって銀行の意味がわからないという問題がでてきた。銀行は資金を集める資本主義には基本的に必要なものだった。武士をやめた人に事業を起こさせるために資金を集めたとか営利的なものではなく援助的なものとしてもはじまった。

富沢という姓は代官だった富沢孫右(左)エ門がをりその系統のもので明治になり酒造りをはじめたのかもしれない。他にも酒造り店があり私の父は葛葛尾(かつろう)村の小出谷から丁稚奉公に出てきた。この小出谷は小出屋のことであり出小屋である。遠くに耕作地があり出小屋を作りそこで働いたからである。新潟の小出は大きな市の名になっている。山の暮らしでは暮らしていける人数は限られている。生活は農業が基本だからどうしても耕作地を広げねばならない、それで戦後も開墾が続けられていた。この開墾の歴史は弥生時代から戦後までつづいたから長いのである。太平洋戦争の一因も満州開拓だった。戦後のプラジル移住なども農地を求めての開墾の歴史の継続だったのだ。この新山で一緒に酒造りをした仲間と偶然に鹿島区であった。その人は兵隊から帰り小池の開拓地に入っていたのだ。小池とかじさ原など開拓地だった。夜ノ森も明治以降開拓した人が桜を植えた。鉄道が通ったところが森であり明治以降開墾されたのである。

●富沢酒造店の暖簾(のれん)分けの店

ともかく富沢酒造店は煉瓦の煙突も残り街中の大きな工場で立派なのに驚いた。相当数の人がここで働いていたのだ。そして暖簾分けされて鹿島区に移った私の父のように近くの富沢酒店もそうであった。富沢とは屋号なのである。暖簾分けとは支店だから会社名を名乗ることと同じである。今ではフランチャイズシステムの店である。

○富沢酒店
創業は昭和4年頃。初代が幼少のおり、丁稚奉公していた富沢酒造店(となり町にある酒蔵)から暖簾分けをしていただいて、この地に開業。


酒造店はどこでもそうだが街の中心的存在であり会社でありそこで働いていた人たちが多いのである。富沢酒造店は当時のままそっくり残っている。大きな蔵があり広いしなんといっても煉瓦の煙突が目立つ。これも原町区の無線塔のように町の象徴的なものだった。自分の親の生きた跡をたどるのが郷土史の基本になる。

街中に煉瓦の煙突堂々と酒屋の古し枝垂桜かな

浜街道−新山宿(地図より偲ぶ昔)
http://www.musubu.sblo.jp/article/1330221.html
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●夜の森(余の森)の由来

半谷清寿
まず、父の半谷清寿は安政5年(1858)に相馬藩小高郷大井の郷土の家に生まれ、幕末維新という激動期に育ち、福島の師範学校卒業後、小浜や二本松の小学校で教べんをとるその後、郷里小高に戻り21歳で酒造業を始める。
  明治26年、日本鉄道の磐城線(今の常磐線)の建設が始まると、世情に関心のうすい農民からの土地の買収が次々に行われ、これに義憤を感じた清寿は激しい抗議運動を展開、結果的には新価格での買収交渉が実現したが、反対派の告訴により8ヶ月も監獄生活を送ることになった。

http://www.futaba.ne.jp/~wasse/fumi/sakura004.htm

これと同じことが西部開拓でもあった。鉄道が来た時、鉄道会社に安く土地をかいたたかれるので銃で抵抗した牧場主の物語である。鉄道に関しても同じような歴史が外国でも起こり日本でも起こっていたのだ。

夜の森が余の森であり相馬藩主が余の森だということが名前の起こりである。ここに大きな森があった。その森はまだ開墾されていなったのだ。つまり日本にはこうして開墾されない森がまだ広がっていた。それが明治以降開墾されていった。夜の森(余の森)という地名はその証しである。この辺は相馬藩と磐城平藩との境で特に余の森と主張されたのである。

夜の森は開墾されて満開の桜に代わる街となりけり
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2007年03月24日

縄屋と引き込み線

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縄屋と引き込み線

近くに縄屋という屋号の家がある、いや今やあったとなる。この縄屋と国鉄時代の引き込み線は一体だった。縄を引き込み線で運んだからだ。当時引き込み線は必ず鹿島区のような小さな町にも必ずあったのだ。国鉄時代は駅中心に街は動いていたのだ。江戸時代の街は街道沿いに作られたから駅前から真っ直ぐの通りではない、鹿島区では駅前から真っ直ぐな通りでなくて昔の街道沿いに通りがある。原町区、小高区は駅前から真っ直ぐな通りが長いから駅前を中心にして商店街が作られたことがわかる。これは当時新しい通りだったのである

鉄道はそもそも磐城でも炭田があり石炭を運ぶものとして作られたし北海道でも石炭を運ぶためだった。資源を運ぶためにまず作られたのだ。森林鉄道もだから各地にあり原町森林鉄道もあった。浪江とかにも通じていて木材を運んでいたのだ。木材は国産が主だから大量に運ばれていたのだ。飯館からも葛尾からも運んでいた。それで当時の人はトロッコ列車が通ったのを記憶しているのだ。この森林鉄道を探り歩いてインタ−ネットにのせている人がいたから熱心なマニアがいるのには驚いた。国鉄時代には駅前に国鉄専用の住宅地がありそこに移ってきた人が住んでいたのである。国鉄は国の主要な仕事だったのだ。

自転車は、町の自転車屋が注文すると、部品が鉄道の貨物として送られてきて、それを自転車屋の親父が組み立てて、末端の消費者に販売するのが基本だ。部品代はもちろん自転車の「定価」に比べれば安く、どのぐらいの割合だったかは(昔聞いたときは知っていたが忘れた)多分2〜3割ぐらいか? 町の自転車屋は、小型トラックが普及する以前は、駅の傍にあることが多かった。昭和30年代、40年代の半ば頃。昭和40年頃の自転車は、高かった。大人用が3〜5万ぐらいしただろうか。別に高級品というわけではなくて、鉄製で、(良い製品は亜鉛めっきされたもので、)重たかった。値段の高いものは、ステンレス製品が多くつかわれていた

自転車の今一番軽いのはカ−ボン製である。仙台の自転車屋で25万で買った人がいた。7キロしかないから驚きだ。自転車も鉄道で送られてきたのである。

当社は「縄屋」(なわや)だったんです今ではほとんど見かけなくなりましたが、農家から藁(わら)を購入し、それで縄作っていました。昔は、縄が重要な梱包材料で農業でも藁が大量に出る時代でしたから、各地に「縄屋」さんは存在していました。ところが、昭和30年代半ば頃になりますと、農業の機械化が進み稲刈り後の藁を細かくしてしまい、材料として入手するのが困難になりました。この業種の転換期を迎えていとのでしょう。
http://satte.yc1.co.jp/townpres/fr24/fr24.htm

縄は江戸時代から使われていて荷縄屋と言われと言われていたし「縄屋」という屋号の家も各地にありそれで財を成した人もかなりいた。縄屋九左衛門 縄屋長太夫とかいる。縄は生活に欠かせないものだった。

建設途中の城塞の脇では、鍛冶屋、石屋、縄屋など、それぞれの作業場で道具が作られています。例えば鍛冶屋では、鉄を熱して木を削るためのかんなやなたなどの刃を作る。もちろん木材を固定するために使う釘1本から鉄を打つため、気が遠くなるような作業です。石屋では、切り出してきた石を積み重ねやすいように、1個ずつ四角形に削り、縄屋では麻をよって丈夫な縄を作っています。

http://www.fe-mail.co.jp/travel/globalfemail/60928.cfm

これは外国でも同じだったのだ。外国でも生活自体似たものがかなりあるのだ。「縄屋」という屋号があったとするとそこから引き込み線とか輸送関係やら連結された歴史があったのである。江戸時代の街道沿いの街から鉄道の駅前通りから車時代になり郊外型のス−パ−になった。交通によって商店街が変わってゆくことがこれでわかる。グロ−バルに地方史でも結びつくと興味深いものとなる。一地方だけではないグロ−バルな視点が入ってくるからこれは世界史にも通じるようになる。郷土史は狭い限定されたものとして終わってはいけないということがこれでもわかる。ここにインタ−ネットで歴史を調べる意味があるのだ。

インタ−ネットでは編集することにより活きてくることがかなりある。インタ−ネットは編集して読むものであり断片でも編集すると意味を帯びてくるものなのだ。だから編集能力が必要なのだ。「縄屋」というキ-ワ-ドでこれくらいでてくれば編集できる。ただどこまで引用していいのか著作権の問題が残ることは確かである。郷土史に関しては資料は狭い地域でもいくらでもある。でもそれをいかに読み解くか編集するかが問題なのである。資料がいくらあっても出してもそれを活かすことができないと宝の持ち腐れで終わる。資料は材料なのだがそれを編集して意味あるものにすることで資料は活きてくる。これはそれぞれに興味が違うから創作でもあるのだ。
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2006年09月03日

老人の話から活きた郷土史を学ぶ

 

老人の昔話は生きた歴史に直接ふれることだから小説とか教科書とかで知るより生々しい身近なものになる。郷土の歴史を知るとき老人から直接話を聞くと生きた歴史を学ぶことができる。これは認知症の人からも学ぶことができる、昔の話は覚えているからだ。そして個々に体験したことは同じ戦争でも違っていることに意味があるのだ。また棲む地域によっても人間というのはかなり違った意識を持つようになる。海に住んで漁業しているものと山で暮らしているものは生活が違っていて理解し合うことがむずかしく生活をともにすることが最初はできなかった。だから海彦と山彦とかの伝説が伝えられるようになる。

今日も家に来た女性は大変な苦労をしている。小学生くらいで母親を亡くしたことは余りにも過酷であった。田んぼの畦道を歩いて母親の墓に行って泣いていたのを近くの人が見ていてあわれんでいたという、あとから墓参りに行ったらあのとき墓で泣いていた子供だったとか言ったそうだ。その後結婚した相手が肺を半分とるような大手術をして長い間貧乏と介護に明け暮れた。そこで我が家のものが看護婦だったのでかかわったのである。その苦労は余りにも現代からみると過酷なのでなかなか実感として共感することはむずかしくなっている。そういう人から比べるとあんたの苦労なんかたいしたことがないと言われれば言葉ではなく実感としてそうなってしまう言葉の重みがある。その過酷な経験をふまえて言うからそうなるのだ。貧乏はその頃の人は等しく経験している。しかし子供で母親をなくしたり難病の病気の夫を若くして介護するという経験は余りに辛いとなる。

なんでも枯木をとって売ったというから山の生活だと枯木を薪を売ることは昔から行われていた。大原女とかは薪を頭に積んで京の町を売り歩いた。そんなこととにている。それがわずかでも現金収入になった。ともかく学校に行ってもオトノモリしているから教室に入れなかったというのも当時の学校だったのだ。学校に行けるのは恵まれていた。これは今の後進国では未だにそうだし子供は働かされている。ただ子供は山でも農家でも商家でも労働力としてあったのだ。子供は働かされていたし労働力として子供を生んだり育てることは今でも後進国では行われているのだ。

山の暮らしとかは水を運ぶにも大変だから重労働に耐える体力が女性でも必要になる。村に比べ石とかあって力自慢するのは力が必要だからだ。女性でもここの近くに一石坂(いちごくざか)とかあり一石の米を運ぶ力持ちの女性がいたというのもそういう女性が尊重されたからである。その山で生まれた女性も強きの力持ちだったともなる。一方町では水は前にも書いたように子供のとき何カ所もの家を回りいちいち礼をしてもらって歩いたというように人に気遣い生きることになる。人ととの関係で世渡り上手になることが要求されるのだ。本当の商人の暮らしはと大阪にありそこでは商人道なるものまで作り上げられ代々伝授されてきた。

郷土史というと教科書的に追求しても興味がわかない、一番いいのは老人の話をじかに聞く事である。なぜこれほど昔話が残っているのか、それは老人一人一人に違った物語があったからなのだ。町で暮らしたもの、山で暮らしたもの、海で暮らしたものの物語は違っている。これらの体験談を老人から聴くとそれは活きた歴史を学ぶ事ができる、直接聞く事でその体臭みたいなものから発せられるその人の人生をじかに感じるから貴重だとなる。これは認知症の回想法でも役に立つ、昔の話しになると覚えていて生き生きと話すからである。

幼きに母を亡くして墓に泣き薪売りにしとその女(ひと)もがな

老人の昔を聴くや虫の声
posted by 老鶯 at 21:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降