2009年01月21日

小説から昔を回想して郷愁にひたる(酒屋は昔の村や町の中核)

●通い帳のこと


正月や現金酒の通ひ帳 一茶

現金酒というと現金払って酒を飲んだのか、升売りで一合とか樽から飲んでいた。戦前もそうであり戦後まもなくもそうだった。そこには昔がまだ活きていたのである。通い帳というと通いという言葉があるように常に人間の元へ通っていたのである。今ならクレジットカ-ドだから人間の元へ通うことはないのだ。これは要するにやはり遠くへ行くときクレジットカ-ドは便利なのである。外国まで通用するからだ。通い帳となれば通える範囲内での商売になるからだ。この俳句からインタ-ネットに短い小説がでていてこれはなるほど当時の酒屋を彷彿とするものだと思い引用した。これを書いた人は酒の専門家だった。蔵も作っている。今でも酒屋の蔵造りに取り組んでいることが意外だった。酒の市場は縮小して酒自体飲む人が激減したと思っていたからだ。

正面から偽りのない店というイメージをお客様に働きかける努力を重ねると、お客様の方からも、いろいろと紹介していただき、 「通い帳」を持って行ってお得意になる。
当時は、「通い帳」をつくり各家庭に持ってゆくことが、一つの信用を得る意味を持っていたから、現金で買ってもらうお客より 「通い帳」で買っていただいたお客の方がありがたいという考え方があった訳だ。」

(商人の道 21ページより)
http://www.maruilife.co.jp/recruit_information/history.html


●酒屋が村や町の中核だった時代

山吹屋の前には、筧(かけひ)が水を落としている。この水がいいから、「峠」の酒はいいのだと評判の水である。

埴崎の殿様の御用達酒であり、埴生のご本家には埴崎の分家が決まっただけ届けることになっている。

商売として酒を扱う人たちは、自分で酒を汲み、通い帳を記し、晦日にはきちんと清算してくれたので手が掛かることはなかった。

新という若者とうこんの間は、蔵に住み込みの婆やや炭焼きをしながら酒づくりも手伝っている人たちにしか見られてはいなかった。


 二頭の馬にそれぞれ四斗樽を振り分けに二本負わせてそれを馬方に引かせて帰った。
そこに見えた人影は、いつもの人たちのように天秤棒を肩に担いでいたが


冬だけの出稼ぎなんですよ。一つの蔵に長く勤める者もあれば、一年ごとに蔵を渡り歩く者もいるんです

峠の酒(篠田次郎)
http://www.vega.ne.jp/~tomita/menu/mtouge.htm



これは江戸時代の生活を彷彿させるものがあった。父が葛尾村から双葉の新山の酒屋で働いたので興味をもった。酒屋は村の中で人が集まる場所であり働き場所になっていた。酒造りと水は深い関係がある。水がいいところは酒がうまい、会津や新潟は水がいいから酒がうまい。
酒屋には地元人だけではない、出稼ぎ者も働いてきた。とすると他国の情報のやりとりもあった。炭焼きしている人がいたがその人たちも酒屋で働き現金収入を得た。酒屋は人の出入りが多いところだった。その当時煙草を吸う人が多いから山の中でも煙草を生産している農家が多かった。今でも阿武隈山中で煙草を栽培している。煙草は阿片の麻薬の一種であり今でもアフガニスタンとかで麻薬を造りつづけているのは容易に現金収入になるからである。当時は煙草で財を成す町があった。四国の貞光町はそうである。そこではうだつの建物が町並を形成している。峠を馬方とか天秤棒を担いで荷を運ぶ人が行き来していた。そこは車の行き来する世界とは違う、人間臭い道であり人間の体臭までが感じられる世界だったのだ。馬も生き物だから極めて人間的なのである。濃密に人間交わり道は馬も行き交う道だった。経済的には酒屋は村や町で大きな役割を果たしていた。双葉の富沢酒店では今も大きな煉瓦の煙突があり工場のようになっている。敷地も広いし町の中心の会社であり工場だったのが酒屋なのである。この小説からは当時の生きた人の姿が浮かんでくる。すると昔が在りし日のごとくそこにあり郷愁の一時を想像してひたることができる。 これは外国でも同じである。ワインを作る工場が市町村の中核だからである。ヨ-ロッパの歴史は日本と違うとしても共通点もかなりある。共通点を見いだす人親しみを感じるのである。



双葉の富沢酒店
http://musubu.sblo.jp/article/17459205.html


●昔は回想して郷愁にひたる

前にもそうして昔の小説を読んだ。結局車社会の騒々しい世界から離れ昔に帰ることが幸せな時間を作るのである。道とは車が行く道ではない、人が歩いてゆく道であり馬が行く道だった。人は馬を名前で呼び馬に語りかけ道を歩いていたのだ。峠を越えるのもそうして越えて行った。車で一気に越えるのとは違う、そこに濃密な人間の交わる場があった。馬頭観音の碑があるときそれはともに働いた相棒であるから死んだとき人間のように供養したのである。今はペットを家族の一員のように扱うのと同じである。江戸時代の生活は人間の足で歩む世界であり人間の生活が土地に痕跡を刻む生活だった。土地と密着して生活する空間だった。過去は失われたのだがこうしして過去を回想すると昔にもどり幸せな気分になるのである。今でも蔵というのも確かにあるのだが実際は死んでいる、用がなくなっいるから生きていないのだ。実際に活用されないものは死んでいる。蔵について俳句とかいろいろ書かれているが蔵はなくてはならないものだった。蔵にはいろいろな用途があった。それが失われたから蔵は過去の残影のようにあるだけで重みがないのである。現代を知るとき過去をしることでよりよく現代をしることができる。中心に蔵があり様々なものが蓄えられている。生活は土地に密着して人間が濃密に交わりともに暮らす、そこが今とは違う郷愁を感じる。当時の人にとってはそんなことを思う人は一人もいない、今のような車社会などになったときはじめてその生活が何かほっとするような人間味あった世界だったなと回想するのである。

郷土史とは昔の再現であり昔から今を見直すことである。江戸時代の俳句を読むと今とは違う、極めて人間臭い人間的なものであり心安らぐのである。それは今では作り得ない俳句となっていたのだ。その時代は失われたからもはやつくりえないものだから貴重なものとなっていたのだ。同じ場所にいてもそうなのである。立っている空間は確かに同じでも時間は違っている。時間のなかで体験したものは過ぎ去れば昔となりもはや二度と体験できないから貴重なのである。それが家族の死別でわかる。家族で過ごした時間は永遠に帰ってこない、ただ回想するだけでありそして回想したときありありと一緒にいた時間を思い出して泣けてくることがある。大げさかもしれないが江戸時代を回想することはそういうことに通じているのだ。失われたものは時間のなかで体験したものは二度と帰ってこないのである。ともかくインタ-ネットはこの文を書いたことでもわかるようにキ-ワ-ドからはじまりリンクをたどる読み方である。参考にした人のことは全然知らないくてもリンクをたどったりキ-ワ-ドから編集してゆく読み方なのである。郷土史関係は膨大なものになるからいくらでもこうして書いていけば書けるとなるのだ。一冊一冊の本を読むのとは違う、そもそもこの短編小説はどこにもでていない、本にもでていないものだった。だからインタ-ネットでしか読めないものだったからだ。


酒屋の通帳
http://www.musubu.sblo.jp/article/1836589.html
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2008年09月05日

志願兵の話

志願兵の話


若い兵隊が不足していたのか、中学校2年生から進む少年志願兵の制度が出来た。その中でも、少年飛行兵が人気であった。両親にとっては、まだ子供と思われる14歳の少年が、志願してお国の為と兵役に従事した。http://wwwi.netwave.or.jp/~hkangawa/newpage17.htm



同じ病室の隣の人の夫は「オレは志願兵」だと言ったとき驚いた。82才だと言った。南方に本当は満州に行くはずだったが南方の戦線が苦境にありシンガポ−ルとかに派遣されたという、もう一人のばあさんは満州の新京にいたという、電話交換手だった。
この人の話しも多少ボケていてわかりにくいが満州にいたことはまちがいない、ここで戦争に行った人がすでに二人いてもう一人は私の家族だがシンガポ−ルで従軍看護婦をしていて4年もいたからこれもまた特別である。今はただ昏睡状態である。ここですでに三人が外国で暮らした経験ある人がいた。戦争はまだ身近なのである。80代の人は戦争経験者であり兵隊の経験者もまだ長寿社会だから生きているのだ。でも82才と聞いたとき、戦争に行ったと思わなかった。それではいつ戦争に行ったかと聞いたとき18才だった。やはりそんな年かと納得した。志願兵で調べたら14才から行った人もあるから驚きである。この人は通信兵だったから直接戦闘で人を殺すことはなかった。18才ではだからその当時驚く年齢ではない、今でもイラクでもアメリカの志願兵がいてそのくらいの年の人はいる。昔だったら相当大人であった。
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志願兵はそれに意義・意欲・好奇心から志願する。理想主義者も多い。
だが、精神的に早く参ってしまうのも志願兵。厳しい現実、自由の無さ、2度負傷するか任期満了まで帰れない

徴集兵は最初から生きて帰ることしか考えていないから精神的に粘り強い。

志願兵はチヤホヤされる。自分の意思で戦場に来たんだから。意思に関係なく駆り出された徴集兵より扱いはぐんといい。

http://ameblo.jp/quattro-bajiina/entry-10029162578.html
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普通は赤紙一枚でいやいやながら徴集されたと思っていた。徴集兵の方が帰りたい一念で粘り強いというのも人間の心理なのだろうか、彼らは戦争はしたくなかったのだ。だから戦争のために洗脳されたのとは違っていた。当時の雰囲気からして若い人、14才でも軍国日本一色だから思想的にもそうなる人がいても当たり前である。そうならない人こそ特殊だとなる。今でもカルト宗教団体に育った人はそうなりやすい、一方で疑問に思う運動しない人もかなり多い、それは民主主義になり軍国日本一色ではない、他の情報がいくらおさえても入ってくるからである。当時は全く情報が封鎖されて大本営発表しかなかったのである。志願兵でも朝鮮人の志願兵もいた。朝鮮人でも台湾人でも特攻に参加した人がいた。韓国に旅したとき仙台の兵隊の学校にいたという老人かいたのに驚いた。日本語はなんとかまだ話せる、でも外国では余裕がなく話を良く聞くことができなかったのが失敗だった。韓国ではまだ日本語をしゃべる人がかなりいるのだ。韓国の兵隊でも日本人の上司についた人もいる。韓国人に命令されていた下士官もいたのである。こういう点で日本は韓国人を差別的に扱かわなかった。韓国人も台湾人も当時は日本人と一体であり上昇志向があり戦争に参加した。アメリカ人もイラクでは貧乏な青年がそういう動機があり志願兵になっているのとにていた。

この人の話はよくわからないにしても上官にはげしくびんたでなぐられたとか言っていた。これはどこでもあった。上官と下士官は日本では一体感がなく敵対関係にすらあった。それが士気の低下につながり日本が負けた敗因があった。日本が一心同体で戦争したわけではなかった。アメリカの方が士気はあったのだ。


兵隊でも上官は米のご飯ですが、部下はご飯が当たらず、死ぬ兵隊などは米の飯を食いたいといわれた。言葉は、耳の奥にこびりついています。

この頃はニシンが大漁で、浜はごった返しで景気も良く、このまま世話になることは出来ず、私は一足先に赤平の炭鉱に居る伯父を頼って行く。すぐに採用してもらえなくて、組で働き、半年後に本採用になり、家族全員が来て生活をする。

http://anond.hatelabo.jp/keyword/%E5%BF%97%E9%A1%98%E5%85%B5


このことが常に語られているから日本軍ではどこでも同じでありあの戦争は上官への下士官の恨みが尋常でなかったことだけは確かである。ここではさらに炭鉱で働いたことが書いてあり小池の炭鉱で働いた女性と同じ径路をたどっている。

この人は実際に人を殺している。外人をたたせて銃剣でつかされたという、自分も銃剣で胸をかすり傷があったという、普通こんな生々しいことをしゃべらないがこの人はそんなことを考えずしゃべった。よく話がのみこめないが本当なのだろう。普通人を殺すというと怖い、でも戦争は普通に人を殺す場なのである。いづれにしろこの人も戦争の生き証人だったのだ。戦争とはまだ終わっていない生々しいものなのである。特に60代では親から戦争の話を聞く人が多いからまだ遠い昔の話ではないのだ。戦争についての話しも無数にある。今はインタ−ネットでも無数に語られている。でも実際に戦争の生き証人から話を聞けるのだから戦争は書類だけの歴史ではないのだ。そして戦争の真実は本当はわかっていない、それはまだ戦争を生きた人が長寿社会でかなり生きているからだ。その人たちが戦争の真実をかえって見えないようにしている面がある。この人はたまたまわけわからず殺したことを話したが普通はしゃべらないだろう。ボケで戦争の秘密をしゃべったという人もいた。この人もボケてはいないが訳もわからずただしゃべったのである。柳田国男が口碑を重んじたのはそれが生きた歴史を伝えると思っていたからである。郷土史とかでも実際に語られたものにも真実があるのだ。だから親から祖父母から聞く話はみな郷土史であり歴史であるから誰でも郷土史は身近なのである。


植民地朝鮮での志願兵制度
http://www10.ocn.ne.jp/~war/siganheiseido.htm
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2008年08月27日

橲原に住む老人の話(小池の炭鉱で働いていた)

橲原(じさばら)に住む老人の話(小池の炭鉱で働いていた)

療養型病院にいる老人はよくしゃべる。多少認知症になっていた。自分の住んでいる場所がわからないのだ。何度も寺内に住んでいると言っていたが橲原だったのだ。これはずっと山の方であり町からはかなり遠い、ここで一人で暮らしていたとなると買い物すらできない、甥子の嫁が世話していたが橲原は遠いから大変である。この老人は85才であり多少ボケている。でも話はわかる。いつも寺内に住んでいると言っていたから寺内だと思った。寺内だと町に近いが橲原だと遠い、この人の話は良くわからない面あるが驚いたのは小池に炭鉱があり炭鉱で働いていたという。常磐炭鉱は有名だが小規模の炭鉱が各地にあった。福島県でも130もあったのだ。戦後まもなくは石油ではなく炭鉱の時代だった。エネルギ−は石炭に頼っていたのだ。それで北海道では石炭を輸送する鉄道網が整備されたのだ。夕張などもそうである。小樽までも石炭を運ぶために鉄道がひかれた。常磐線も東京に石炭などを運ぶものとして常磐線が平駅まで伸びた経緯がある。炭鉱では女性も働いていたのである。また炭鉱には各地から出稼ぎ者も来ていた。常磐炭鉱にも来ていた。戦後まもなく働き口がなく炭鉱が以前として有力な働き場所となっていたのだ。戦後引揚者が来たとき、働き口がなく困っていた。それで以前として農地を開拓することがつづいていたのだ。病院にいる老人の姉妹も満州から帰り一時橲原にいたという、それから北海道に移った。その頃また北海道に移住しようとする人が結構いた。明治維新の時、武士が北海道に移住したように以前としてフロンティ的なものとして北海道があった。近くの自転車屋も北海道に移住しようとしていたがここで繁盛するようになりとりやめた。

1947年に制定された労働基準法は64条2項で女性をトンネルや鉱山など地下にある工事現場で働かせることを禁止しています。当時は石炭産業の全盛時代で多くの女性が炭鉱などで働いていました。当時の炭鉱は劣悪な労働環境なところが多かったので、母体を保護する必要がありこのような規制が設けられました。

戦当時の満州周辺の在留日本人数は約155万人。引き揚げまでに約24万5000人が死亡し、約130万人が日本に引き揚げたという。

当時は戦災等で国内に住んでいた人すら職場はおろか住居や食べ物すらない人が大勢いました。満州からの引揚者は逃げてくるのに精一杯で着の身着のままでした。
身内や知人すら自分が生活するのにやっとなのに引揚者の面倒など見れないという空気だったと思われます。

開拓入植者の現在員総計3,310世帯中引揚者1,280世帯で39%を占めていた。

http://www.e-obs.com/top/heo/heodata/n586.htm

戦後の満州であれ引揚者が大量に帰ってきても日本には働き口がなかったのだ。どうして食べていいかわからない時代だった。その時引揚者の男性が帰ってきてベビ−ブ−ムが起こり団塊の世代が誕生した。ミルクも手に入れるのが大変で父は並んでやっと手に入れたとか子供を育てるのも容易でなかった。その時父がなぜイタチとりとかしていたのか不思議だった。遊びでやっていたのかと思っていたがイタチの皮を剥ぐ作業をしていたからイタチの皮を売ることを考えていた。それを家でやっていたのだから臭いし汚れたものとなった。こういう仕事自体嫌われ差別された部落が生れたこともわかる。その後三文店屋を駄菓子屋を開き繁盛した。ともかくその頃仕事がないからこそ北朝鮮が楽園だとかブラジルに農業に移住するとか満州時代と同じように農業のための移住がつづいていたのである。満州にかかわる人は全国に多かった。満州を維持するために日本は日清、日露、大東亜戦争と継続して戦争をしてかえって大損害をこうむったのだ。それも満州へ農業のための土地を求めたことに原因があったのだ。原町に満州村があったというのもそのためである。満州へ満州へ草木もなびくという時代があったのである。韓国に住んでいて引き上げた人も鹿島区にもいたしどこにでも相当数いた。

ともかく老人は一人一人生きた郷土史になっている。ボケていても昔のことは良く語るから注意深く聞いていると郷土史の生きた語りとなっているのだ。橲原−ジサバラという地名は全国でもめずらしいからキ-ワ-ドで調べている人がかなりいる。これを橲原と読める人はいないだろう。なぜこの名がついたのか前に書いた。橲原はすでに江戸時代から木材を供給する山守が住み紙漉きをしていて郷士も住んでいた。ただやはり橲原に人口が増えたのは明治時代以降である。林に隠れた粗末な石くれの墓地には江戸時代の墓は見あたらなかった。明治以降の墓である。郷土史というとむずかしいことではない、老人一人一人が生きた郷土史なのである。だから祖父のことから聞いた話でも郷土史なのである。そういう話を全国レベルでは相当インタ−ネットにでていて興味深く読んでいるが相馬内では極めて少ないのが残念なのである。そういう話をインタ−ネットでデ−タ−ベ−ス化することが向いているからだ。郷土史というとこれは出版の世界ではそもそも本を出しても売れないし学術的なものも売れない、売れないものは本屋でも置きたくない、そもそももはや本とか書店とか情報分野では必要ないものとなってゆく、商業化ベ−スにのらないものが切り捨てられていたら保存すべき記録すべき歴史も切り捨てられる。出版社とか書店とかの存在価値は喪失してゆく、文化的なものはすべて商業化することに向いていなかったのである。ボランティア的にやるのが向いていたのだ。それがインタ−ネットだと無料で出せるから郷土史と医療関係の情報は膨大なのである。老人から話を聞くと具体的になり郷土史が身近になるのだ。橲原にそんな人が住んでいたんだとなりこの人は橲原に死んだら埋もれるのかとなり橲原に親しみを感じることになる。実際に老人は余命が短いからその話を聞いておかないとわからなくなるから聞いておくべきなのである。

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追記

俺が入院した時は、周囲皆おじいちゃんだったなぁ
満州にいた時の話とか、引き揚げてきた時の話とか面白かったなぁ
400円渡されてはしゃいでたら、戻ってきた時には大金じゃなくなってたとか


病院で話をしていた老人自体が満州の引揚者だった。鹿島区でも満州の引揚者がいて仲間で船で帰ってきた人のことを言っていた。金のことをしきりに言っていた。金をたくさんもってきて一人じめしたとか言っていた。その人は満州の鉄道で働いていたという、満州にかかわった人は多いことがこれでもわかる。この金は日本にもってきても利息三文になったろう。事実戦前に事故で死んで多額の保証金をもらってこれで一生暮らせると言われたがその金が戦後紙屑になったのだ。残ったのは二反買った土地だけだった。経済の変動が大きいと紙幣は紙屑になる。満州から財産をもって帰ろうにも満州の価値は土地にあったし土地はもって帰れないからただ犠牲だけが大きくなったのである。

○不穏な朝鮮人の動き

 これも、突き詰めてみれば「流言蜚語」のうちに入るのかも知れません。旧満州の新京でも(後に数年滞在した間島省都の延吉街は、住民の大半が朝鮮人で、現在では延辺自治区となっていますが)朝鮮人が住んでいる区域があったようです。

新京にいて朝鮮人のことをしきり言っていたから満州と朝鮮は深く関係していた。逃げるとき子供を産んだ女性がいて悲惨だったというのは本当だろう。そんなときなぜ子供をうわのかやはり若い夫婦なら妊娠していてそのまま終戦になった。満州には民間の人が多かったのである。

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橲原に住むといふ老人を病院に知りぬ蝉しきり鳴く

橲原(じさばら)のジサはエゴの木だった
http://www.musubu2.sblo.jp/article/17460576.html

戦後引揚者の入植
http://www.musubu2.sblo.jp/article/17459884.html

農民が土地を求めた満州に戦争の原因が・・・
http://musubu.jp/jijimondai38.html#man
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2007年12月05日

戦地の引揚者が入植した歴史

 
戦地の引揚者が入植した歴史 


戦後県では 食糧危機 に対処して開拓を奨励したが、28年3月現在では、開拓入植者の現在員総計3,310世帯中引揚者1,280世帯で39%を占めていた。


 戦後、中国からの引揚者によるラーメンの屋台が全国に出現した。中国で多くの人がラーメンの製法を覚えてきたのに加え、安い材料で美味しく栄養満点のラーメンは、戦後の物資が乏しい時代に、まさにピッタリの食べ物であった。
 

それから同じ芝山町の加茂には、石井部隊で有名な軍医中将の、石井四郎がいた。彼は日本の細菌戦術の創始者で、旧満州を本拠地にしていた。この部隊には芝山町、多古町を中心として地方農村から、多くの農民が家族連れで渡満し、軍属や徴用工で働いていた。敗戦と同時に命からがら逃げのびてきたが、途上、栄養失調でわが子を失なったり、病に斃れた者も数多かった。やがて彼等は郷里に帰り、引揚者として優先的に解放地に入植するのである。
http://bund.jp/modules/text/index.php?content_id=4

 
戦争の話はいろいろありすぎる。戦地から引き上げても仕事がないからやはりまた日本のなかで農業するために開拓に入ったのだ。満州に移民したのも農業するためでありその頃はすべて農業が仕事でありそれ意外仕事ととなるものは少なかったのだ。毛沢東でも「農村が都市を包囲する」という思想であり農民中心の革命を志向した。戦前でも戦後まもなくでも農業中心の経済だったのである。戦後ブラジルなどに移民したのも農業するためであった。世界的にも農業が仕事としてあった。
 
私の父は偶然、双葉の新山の酒屋で一緒に働いていた仲間とあったのである。その人はフィリッピンから帰ってきた引揚者だった。小池に入植して粗末な小屋に住んだ。他でも事情は同じであり戦後粗末な小屋に住んで開拓に入った人がかなりいたのだ。ちょうどその時店をはじめていてその後その人と交流がつづいた。卵を買ったりして売っていた。その頃卵はバラ売りであり農家でも放し飼いしていた鶏から卵をとっていた。それを古い自転車で後ろの箱に糠をつめて壊れないようにして運んだのである。でも自転車がヤハだから必ず一個くらいは壊れるのである。それとその頃ほとんどの道は舗装されていないからガタガタ道だから卵は壊れやすかったのだ。橋も木の橋だった。日本が戦後工業化するまでは発展するまでは農業しか仕事がなかったのだ。その後朝鮮戦争を境に工業化が飛躍的に起こり10年後くらいにテレビがすでに出て急速に工業化されていった。団塊の世代が中学生で金の卵ともてはやされて東京に働きに出たのもその頃だった。工業化が飛躍的に進んだのである。だから元からいた農家と引揚者が入った農家は全然違っていた。栃窪の上萱や飯館の共栄という場所なども戦後入植した地域だった。そういう場所はかなりこの辺にもある。満州でも広い土地がもらいからと満州に渡ったのでありその後ブラジルなどの移住もそうだったのである。日本人は土地がなく農業できないから土地を求めることが戦後もつづいていたのである。
 
この辺では原町一が一早く丸三製糸とかができて森林鉄道もあり東京に木材などを運ぶ基地として発展した。この工業化は非常に急速だったのである。10年一昔というが本当にそうだった。田中角栄の日本改造計画がもてはやされて日本は一変したのである。それとともに自然環境の破壊がおこり急速に景観も変貌したのである。それまでは茅葺きの農家とか木の橋とか戦前から江戸時代を思わせるようなものが残っていたのである。そこには縁側があり道はほこりっぽい道だった。でもすでに自動車は増えていた。自家用車は少ないにしても野馬追いのときその道を行く車をその縁側で子供のとき数えていた。その頃から変化の兆しはあり変化は急速だったのだ。まだバス全盛時代だから車社会ではないが車の数は急速に増えていったのだ。工業化して農業にこだわる時代は終わりつつあった。工業化のため生産拡大のため人手不足となったから農村から労働者が送られた。これは農村からの出稼ぎ者としてまたつづいていたのだ。これはまだ中国などから労働者を入れることなく日本でまかなうためにそうなった。
 
いづれにしろNHKで今日満州の引揚者のこと放送していたが物とりが横行してパンツまで中国人によりとられたと老婦人が言っていた。これは私の家族も従軍看護婦で言っていた。死人からも墓を掘り起こして金目のものを探し衣服まではがされたというから同じである。ともかく戦後の混乱はまさに生き地獄だった。日本人は残酷に中国人などう殺したというが中国人も、ソ連も残酷だったのだ。どさくさにまぎれてやり放題だったのである。これが戦争というものが人間を野獣化させるからそうなる。暴行され外国人の子を妊娠して堕胎させられたというのもあまりにも悲惨である。戦争の悲惨は目をおおいたくなる。なぜ戦争になったかはなかなか今でも理解できないが満州への土地を求めて農業で仕事をえるための移住という側面はあった。農業基本の社会であり農業が人口の余剰を補う仕事だった。日本そのものが農業するための開拓の歴史だったようにそれが外国までに拡大化したことが戦争の大きな要因でもあったのだ。今の時代ならなぜそれほどまでに農業にこだわるのかとなるからだ。減反とか米余りとか考えられない社会になっているからだ。戦前の近代化もすでに歴史のように団塊の世代の過去も歴史となりつつあるのだ。段階の世代が還暦となったことはすでに過去をふりかえる歴史となっているのである。
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2007年08月11日

蚕の話(郷土史は祖父母の話から興味をもつ)


蚕の話(郷土史は祖父母の話から興味をもつ)

 
糸取り10年くらいしていた母の話で冗談だと思ったのが昼休み遊びたくて早食いした人が病気で死んだという話である。30分くらいしか休みがないとしたら食事して終わりで休むことができない、もちろん遊ぶこともできない、これは今でも流れ作業などであるから冗談ではない、流れ作業は自分も何度もしたことがあり単調であり機械になることである。だから休み時間はロボットの時間から解放されることだった。今でも過労死があるのだから労働は過酷であり左翼からみると搾取になる。
 
彼女たちは、家へ金を持ち帰って親の喜ぶ顔をみて満足したものが多かった。(女工哀史)

母もそうであった。親のために働いたのである。現物で支給されたこともあった。米俵十俵とかで支払われた。やっぱり同じように親がそれで喜んだのである。今でも中国やインドの貧しい国では子供は労働力であり両親のために働かせられる。今は両親は子供のために働かされるのだから余りに違っている。そもそもこの蚕の業は延々とつづけられてきた。こんな漢詩を発見した。
ョ山陽は幼名:久太郎(ひさたろう)甲州道を回り広島に帰る時に作った。
 山驛蚕為業 山駅蚕を業となし。
無家不種桑 家として桑を種(う)えざるなし。
憐看襤褸女 憐れみ看る襤褸(らんる)の女。
績織為誰忙 績織、誰がために忙しきや。

家として桑を種(う)えざるなし・・・現金収入として不可欠だった。績織、誰がために忙しきや・・・これは家族のためであり明治になると国家のためになった。憐れみ看る襤褸(らんる)の女・・・自分で織った絹織物は着ることができず売るためのものである。貧しい国では今でもそうである。豊かな国に輸出するために作っている。
明治には富国強兵と殖産興業の殖産は製糸であり輸出の60パ−セントにもなっていた。これによって富国強兵の軍備をまかなうことができた。明治になると家族−国家が強力に結びつき天皇が家族国家の頂点としてモラルが形成された。江戸時代は国家は地方の藩であり国家とは結びつかなかった。

この蚕の歴史は製糸の歴史は長い、天皇家では今も蚕をしているのはそのためである。田植えもしている。米と蚕は古代から日本を支える産業だった。
 
斎藤茂吉の歌の
 
朝さむみ桑の木の葉に霜ふりて母にちかづく汽車はしるなり

桑の香の青くただよう朝明けに 堪えがたければ母呼びにけり
 
桑の葉は母をもイメ−ジしている、桑の葉を籠に刈り取る母の姿、桑の葉は単なる桑の葉ではない、そこにはいつも母の姿が浮かんで来る母の姿があった。鉄道ができて桑の葉が蒸気機関車の煙でだいなしにするというのは都市伝説であった。鉄道はそんな広範囲に煙をまきちらさない、工場の煙とは違っていた。鉄道に対する無知から起きた誇大妄想だった。鉄道が通っても蚕は続けられていたからだ。
 
郷土史はまず祖父とか祖母の話を聞くと興味をもつ、それが何かつまらないようなものええ、そんなことがあるのかと今では思うことがかなりある。製糸工場で働いて休み時間に遊びたくて早食いして死んだという話もその一つである。こういうことはいくらでもあるのだ。なぜそんなことで死ぬのかという疑問が今になるとでてくる。でも過酷な労働は今でも過労死としてあるようにつづいているから時代が変わっても同じことはあるから理解できる。
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2007年04月13日

双葉の新山の富沢酒造店と夜の森の歴史

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双葉の新山の富沢酒造店と夜の森の歴史

●立派な富沢酒造店

富沢酒造店はこれは私の父が丁稚奉公していたときからあった。私の酒店は倒産したが暖簾分けして鹿島区に移りすんだ。そこには銀行もあった。銀行は当時かなりめずらしいもので庶民にはあまり縁のないものだったかもしれない、銀行に金を積むほど金をもっている庶民はなくその日暮らしの貧乏所帯が多かったからだ。だから酒でも一合とかバラ売りで樽から出して売っていて子供のとき買いにいかされたのだ。銀行の前進は「両替屋」「掛屋」「札差」「頼母子」などが江戸時代にあった。金貸し業も古くからあった。明治になって銀行の意味がわからないという問題がでてきた。銀行は資金を集める資本主義には基本的に必要なものだった。武士をやめた人に事業を起こさせるために資金を集めたとか営利的なものではなく援助的なものとしてもはじまった。

富沢という姓は代官だった富沢孫右(左)エ門がをりその系統のもので明治になり酒造りをはじめたのかもしれない。他にも酒造り店があり私の父は葛葛尾(かつろう)村の小出谷から丁稚奉公に出てきた。この小出谷は小出屋のことであり出小屋である。遠くに耕作地があり出小屋を作りそこで働いたからである。新潟の小出は大きな市の名になっている。山の暮らしでは暮らしていける人数は限られている。生活は農業が基本だからどうしても耕作地を広げねばならない、それで戦後も開墾が続けられていた。この開墾の歴史は弥生時代から戦後までつづいたから長いのである。太平洋戦争の一因も満州開拓だった。戦後のプラジル移住なども農地を求めての開墾の歴史の継続だったのだ。この新山で一緒に酒造りをした仲間と偶然に鹿島区であった。その人は兵隊から帰り小池の開拓地に入っていたのだ。小池とかじさ原など開拓地だった。夜ノ森も明治以降開拓した人が桜を植えた。鉄道が通ったところが森であり明治以降開墾されたのである。

●富沢酒造店の暖簾(のれん)分けの店

ともかく富沢酒造店は煉瓦の煙突も残り街中の大きな工場で立派なのに驚いた。相当数の人がここで働いていたのだ。そして暖簾分けされて鹿島区に移った私の父のように近くの富沢酒店もそうであった。富沢とは屋号なのである。暖簾分けとは支店だから会社名を名乗ることと同じである。今ではフランチャイズシステムの店である。

○富沢酒店
創業は昭和4年頃。初代が幼少のおり、丁稚奉公していた富沢酒造店(となり町にある酒蔵)から暖簾分けをしていただいて、この地に開業。


酒造店はどこでもそうだが街の中心的存在であり会社でありそこで働いていた人たちが多いのである。富沢酒造店は当時のままそっくり残っている。大きな蔵があり広いしなんといっても煉瓦の煙突が目立つ。これも原町区の無線塔のように町の象徴的なものだった。自分の親の生きた跡をたどるのが郷土史の基本になる。

街中に煉瓦の煙突堂々と酒屋の古し枝垂桜かな

浜街道−新山宿(地図より偲ぶ昔)
http://www.musubu.sblo.jp/article/1330221.html
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●夜の森(余の森)の由来

半谷清寿
まず、父の半谷清寿は安政5年(1858)に相馬藩小高郷大井の郷土の家に生まれ、幕末維新という激動期に育ち、福島の師範学校卒業後、小浜や二本松の小学校で教べんをとるその後、郷里小高に戻り21歳で酒造業を始める。
  明治26年、日本鉄道の磐城線(今の常磐線)の建設が始まると、世情に関心のうすい農民からの土地の買収が次々に行われ、これに義憤を感じた清寿は激しい抗議運動を展開、結果的には新価格での買収交渉が実現したが、反対派の告訴により8ヶ月も監獄生活を送ることになった。

http://www.futaba.ne.jp/~wasse/fumi/sakura004.htm

これと同じことが西部開拓でもあった。鉄道が来た時、鉄道会社に安く土地をかいたたかれるので銃で抵抗した牧場主の物語である。鉄道に関しても同じような歴史が外国でも起こり日本でも起こっていたのだ。

夜の森が余の森であり相馬藩主が余の森だということが名前の起こりである。ここに大きな森があった。その森はまだ開墾されていなったのだ。つまり日本にはこうして開墾されない森がまだ広がっていた。それが明治以降開墾されていった。夜の森(余の森)という地名はその証しである。この辺は相馬藩と磐城平藩との境で特に余の森と主張されたのである。

夜の森は開墾されて満開の桜に代わる街となりけり
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2007年03月24日

縄屋と引き込み線

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縄屋と引き込み線

近くに縄屋という屋号の家がある、いや今やあったとなる。この縄屋と国鉄時代の引き込み線は一体だった。縄を引き込み線で運んだからだ。当時引き込み線は必ず鹿島区のような小さな町にも必ずあったのだ。国鉄時代は駅中心に街は動いていたのだ。江戸時代の街は街道沿いに作られたから駅前から真っ直ぐの通りではない、鹿島区では駅前から真っ直ぐな通りでなくて昔の街道沿いに通りがある。原町区、小高区は駅前から真っ直ぐな通りが長いから駅前を中心にして商店街が作られたことがわかる。これは当時新しい通りだったのである

鉄道はそもそも磐城でも炭田があり石炭を運ぶものとして作られたし北海道でも石炭を運ぶためだった。資源を運ぶためにまず作られたのだ。森林鉄道もだから各地にあり原町森林鉄道もあった。浪江とかにも通じていて木材を運んでいたのだ。木材は国産が主だから大量に運ばれていたのだ。飯館からも葛尾からも運んでいた。それで当時の人はトロッコ列車が通ったのを記憶しているのだ。この森林鉄道を探り歩いてインタ−ネットにのせている人がいたから熱心なマニアがいるのには驚いた。国鉄時代には駅前に国鉄専用の住宅地がありそこに移ってきた人が住んでいたのである。国鉄は国の主要な仕事だったのだ。

自転車は、町の自転車屋が注文すると、部品が鉄道の貨物として送られてきて、それを自転車屋の親父が組み立てて、末端の消費者に販売するのが基本だ。部品代はもちろん自転車の「定価」に比べれば安く、どのぐらいの割合だったかは(昔聞いたときは知っていたが忘れた)多分2〜3割ぐらいか? 町の自転車屋は、小型トラックが普及する以前は、駅の傍にあることが多かった。昭和30年代、40年代の半ば頃。昭和40年頃の自転車は、高かった。大人用が3〜5万ぐらいしただろうか。別に高級品というわけではなくて、鉄製で、(良い製品は亜鉛めっきされたもので、)重たかった。値段の高いものは、ステンレス製品が多くつかわれていた

自転車の今一番軽いのはカ−ボン製である。仙台の自転車屋で25万で買った人がいた。7キロしかないから驚きだ。自転車も鉄道で送られてきたのである。

当社は「縄屋」(なわや)だったんです今ではほとんど見かけなくなりましたが、農家から藁(わら)を購入し、それで縄作っていました。昔は、縄が重要な梱包材料で農業でも藁が大量に出る時代でしたから、各地に「縄屋」さんは存在していました。ところが、昭和30年代半ば頃になりますと、農業の機械化が進み稲刈り後の藁を細かくしてしまい、材料として入手するのが困難になりました。この業種の転換期を迎えていとのでしょう。
http://satte.yc1.co.jp/townpres/fr24/fr24.htm

縄は江戸時代から使われていて荷縄屋と言われと言われていたし「縄屋」という屋号の家も各地にありそれで財を成した人もかなりいた。縄屋九左衛門 縄屋長太夫とかいる。縄は生活に欠かせないものだった。

建設途中の城塞の脇では、鍛冶屋、石屋、縄屋など、それぞれの作業場で道具が作られています。例えば鍛冶屋では、鉄を熱して木を削るためのかんなやなたなどの刃を作る。もちろん木材を固定するために使う釘1本から鉄を打つため、気が遠くなるような作業です。石屋では、切り出してきた石を積み重ねやすいように、1個ずつ四角形に削り、縄屋では麻をよって丈夫な縄を作っています。

http://www.fe-mail.co.jp/travel/globalfemail/60928.cfm

これは外国でも同じだったのだ。外国でも生活自体似たものがかなりあるのだ。「縄屋」という屋号があったとするとそこから引き込み線とか輸送関係やら連結された歴史があったのである。江戸時代の街道沿いの街から鉄道の駅前通りから車時代になり郊外型のス−パ−になった。交通によって商店街が変わってゆくことがこれでわかる。グロ−バルに地方史でも結びつくと興味深いものとなる。一地方だけではないグロ−バルな視点が入ってくるからこれは世界史にも通じるようになる。郷土史は狭い限定されたものとして終わってはいけないということがこれでもわかる。ここにインタ−ネットで歴史を調べる意味があるのだ。

インタ−ネットでは編集することにより活きてくることがかなりある。インタ−ネットは編集して読むものであり断片でも編集すると意味を帯びてくるものなのだ。だから編集能力が必要なのだ。「縄屋」というキ-ワ-ドでこれくらいでてくれば編集できる。ただどこまで引用していいのか著作権の問題が残ることは確かである。郷土史に関しては資料は狭い地域でもいくらでもある。でもそれをいかに読み解くか編集するかが問題なのである。資料がいくらあっても出してもそれを活かすことができないと宝の持ち腐れで終わる。資料は材料なのだがそれを編集して意味あるものにすることで資料は活きてくる。これはそれぞれに興味が違うから創作でもあるのだ。
posted by 老鶯 at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2006年09月03日

老人の話から活きた郷土史を学ぶ

 

老人の昔話は生きた歴史に直接ふれることだから小説とか教科書とかで知るより生々しい身近なものになる。郷土の歴史を知るとき老人から直接話を聞くと生きた歴史を学ぶことができる。これは認知症の人からも学ぶことができる、昔の話は覚えているからだ。そして個々に体験したことは同じ戦争でも違っていることに意味があるのだ。また棲む地域によっても人間というのはかなり違った意識を持つようになる。海に住んで漁業しているものと山で暮らしているものは生活が違っていて理解し合うことがむずかしく生活をともにすることが最初はできなかった。だから海彦と山彦とかの伝説が伝えられるようになる。

今日も家に来た女性は大変な苦労をしている。小学生くらいで母親を亡くしたことは余りにも過酷であった。田んぼの畦道を歩いて母親の墓に行って泣いていたのを近くの人が見ていてあわれんでいたという、あとから墓参りに行ったらあのとき墓で泣いていた子供だったとか言ったそうだ。その後結婚した相手が肺を半分とるような大手術をして長い間貧乏と介護に明け暮れた。そこで我が家のものが看護婦だったのでかかわったのである。その苦労は余りにも現代からみると過酷なのでなかなか実感として共感することはむずかしくなっている。そういう人から比べるとあんたの苦労なんかたいしたことがないと言われれば言葉ではなく実感としてそうなってしまう言葉の重みがある。その過酷な経験をふまえて言うからそうなるのだ。貧乏はその頃の人は等しく経験している。しかし子供で母親をなくしたり難病の病気の夫を若くして介護するという経験は余りに辛いとなる。

なんでも枯木をとって売ったというから山の生活だと枯木を薪を売ることは昔から行われていた。大原女とかは薪を頭に積んで京の町を売り歩いた。そんなこととにている。それがわずかでも現金収入になった。ともかく学校に行ってもオトノモリしているから教室に入れなかったというのも当時の学校だったのだ。学校に行けるのは恵まれていた。これは今の後進国では未だにそうだし子供は働かされている。ただ子供は山でも農家でも商家でも労働力としてあったのだ。子供は働かされていたし労働力として子供を生んだり育てることは今でも後進国では行われているのだ。

山の暮らしとかは水を運ぶにも大変だから重労働に耐える体力が女性でも必要になる。村に比べ石とかあって力自慢するのは力が必要だからだ。女性でもここの近くに一石坂(いちごくざか)とかあり一石の米を運ぶ力持ちの女性がいたというのもそういう女性が尊重されたからである。その山で生まれた女性も強きの力持ちだったともなる。一方町では水は前にも書いたように子供のとき何カ所もの家を回りいちいち礼をしてもらって歩いたというように人に気遣い生きることになる。人ととの関係で世渡り上手になることが要求されるのだ。本当の商人の暮らしはと大阪にありそこでは商人道なるものまで作り上げられ代々伝授されてきた。

郷土史というと教科書的に追求しても興味がわかない、一番いいのは老人の話をじかに聞く事である。なぜこれほど昔話が残っているのか、それは老人一人一人に違った物語があったからなのだ。町で暮らしたもの、山で暮らしたもの、海で暮らしたものの物語は違っている。これらの体験談を老人から聴くとそれは活きた歴史を学ぶ事ができる、直接聞く事でその体臭みたいなものから発せられるその人の人生をじかに感じるから貴重だとなる。これは認知症の回想法でも役に立つ、昔の話しになると覚えていて生き生きと話すからである。

幼きに母を亡くして墓に泣き薪売りにしとその女(ひと)もがな

老人の昔を聴くや虫の声
posted by 老鶯 at 21:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降