2024年07月25日

身分制社会とは何だったのか―現代は能力主義社会 【生まれた家の身分ですべて決まる社会ーそれでも能力ある人がのしあがる】


身分制社会とは何だったのか―現代は能力主義社会

【生まれた家の身分ですべて決まる社会ーそれでも能力ある人がのしあがる】

跡継ぎがいないとき、優秀な人を婿養子にしたり、夫婦ごと養子にして「家」を継がせることは、当たり前のことであった。上級武士が優秀な下級武士を、下級武士が百姓身分のものを養子として家を継がせることもあった。幕末の優秀な幕臣の多くが前者の例であり、後者の例としては伊藤博文の両親がそう。

江戸期の社会〜身分制度と農村

●身分制社会でも能力は重んじられた

いくら身分生社会でも現実に社会を生きる時その人の能力が問題になる。能力のないものに家の後を継がせても結局うまくいかない。何か身分制というとき医者の子供は医者になるというとき議員の息子が世襲制になり地盤を受け継ぐ。それは自民党に多い。その息子が政治家に向いているというわけでもないし優秀でもないから国民にとってはいいものではない。
医者でも開業医だとどうしても子供にその後を継がせたいたいとなり必ずしも医者に向いてるということもないし能力もあるとはるとは限らない。でも一応医者になるには国家試験がありそれをそれに受からないかに限り医者にはなれないのだからただ跡を受け継ぐというはできない

つまり人間はどうしてもその人の能力差がありいくら身分だからといって能力のないものに後を継がせればその家は衰退してしまう。だからこそいくらその家の息子でも能力もない人がいてまたは放蕩息子などもいてあとを継がせられない。それで必然的に養子が必要となった。
つまりいくら身分制社会であっても能力主義となり必然だとなる。そうしなければ家が没落してしまうからである。

1835年に下級武士の子供として生まれた福沢諭吉は、幼少期に父親を亡くし、とても貧しい生活を送っていました。
幼いころから、優秀でも身分のせいで評価されなかった父親を悔やんでおり、身分制度からの解放を目指していました。

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず

江戸時代の身分制社会で能力が活かされないことで不満があった。この身分制社会厳しいものであり別に能力がなくても侍は侍であり生まれつきで決まっていたからである
身分制社会とはすべて生まれつきで決まる社会である。どの家に生まれたかでその家の格でその人の価値も決まる
そういう社会は今理解するのは難しい。ただそうした身分制社会では結婚するにも侍は侍同士であり町人でも同じ職種の人が大工なら大工が集まって住み結婚同じ職種の人と結婚するのはふつうである。職人と農民はやはり別であり農民は農民同士で結婚する。それは良い点としては同じ職業だから気心もわかるということである。
今なら結婚相手などさまざまであり相手の職業のことなどもなかなか理解できないから返って結婚しても上手くいかないということがある。
やはり侍同士結婚して職人の子は職人と結婚して商人の子は商人と結婚するとそもそも相手のことをわかるから理解しやすいとなる。だから身分制社会でもすべてが悪いものとして働くとは限らない。いい面を見れば社会は安定していたとなる。
明治以降は侍の階級はなくなり身分性がなくなったときどうして自立して生活するとかとりの侍は困ったのである。
それで武士の商法とかになり失敗したとなる。

●能力主義の典型はアメリカ

能力主義というときそれを最も顕著なのが社会がアメリカ社会である。アメリカはヨーロッパは貴族社会がありやはり身分性があった。アメリカには貴族社会はない階級もない。その大統領さえリンカーンでも丸太小屋に住んでいたからだ。アメリカではそうした生まれつきとかでは決まらない。自らの能力のと実力で決まるのである。だから能力のある人は抜きん出てアメリカンドリーム達成することになる。

ただその能力競争熾烈なものであり一旦敗れれば今では今でもアメリカではホームレスが多いというときその落差が大きいのである。ただ能力があればその巨額の富を得ることができそれは移民だとして能力があれば成功してアメリカンドリーム達成することができるのである。
ただどうしても財産を受け継ぎ豊かになる人が増えたというときそこに身分制の様なものが生まれる。巨額の遺産を受け継ぐことは能力と関係しないからである。

日本でも江戸時代から明治になったとき身分制社会はなくなった。能力主義になりその身を立てるためには学問は必要だとして学問のすすめが福沢諭吉によって出されてみんな読んだのである。
また明治維新というのは下級武士が上級武士を倒して階級制をなくした戦いでもあた。でもなぜ下級武士がそれができたのかとなればやはり下級武士は身分が低く生活の農民とかとたいして変わらなかったからである。だから侍全体が明治維新を成したとはいえない。つまり侍は侍身分は身分の上下があり下のものは不満があった。だからその不満があり下の者が明治維新で成り上がってきたのである。だから一つの階級闘争でもあったと見れる。

●野馬追で身分制が現実に再現して適応される

何か身分制社会というと具体的に分からなくなったがこの辺では相馬野馬追がありその時明らかに身分制社会が再現される
なぜなら野馬追に出る人は江戸時代侍であった人であり家に鎧兜が伝えられ旗印が伝えられていて出ることができる。だから勝手にだれでも参加するお祭りではない。侍であった家からしか野馬追には出ることはできない。それで今明治以降に藩というのはなくなったとしても依然として相馬地域で殿様は代々参加して殿様は依然として生きている場なのである。

何か祭りというときこうしてただ馬の祭りではなく江戸時代の身分性が明確に再現されて現実社会に今も応用されている。。そういう祭りは少ないのではないか?野馬追という時その御行列は侍でないものはただその侍を見上げるだけだとなシタ二―シタ二―となる。だから何か二階から見たら失礼になるとか身分制が復活するのである。それは歴史の保存として継続としてなされるから変えることはできない
そして侍というとき何なのかとなるとき馬に乗る人だとなる

なぜなら足軽とかは馬を持たないで足で歩く移動する人だからである。足軽の生活も侍とは違い相当にみじめなものだった。
だから馬に乗る人と足軽の差は大きいものだった。上野に御徒町(おかちまち)とあるとき歩く人たちが住んでいた町だとなる。そこに明確な差別があった。住む地域まで身分で分かれていたからである。
野馬追でも馬に乗った侍を見ると威圧される。それだけ馬は戦場で強力なものとなった。馬が集団で攻めてくることは恐怖だとなっていた。相馬氏が大藩の伊達に征服されなかったのは強力な騎馬軍団があったからだとなる

とにかく他の祭りは青森のねぶた祭りなどは誰でも衣装を借りて自由に参加してハネトになることができる。でも野馬追の場合はもともと侍の出てないと参加できないのである。だから将来的にどうしても野馬追に出る人は少なくなり縮小して行くのは避けられないのである。だから神旗争奪戦で前よりずいぶん少なくなったと見たからである

●只野氏でも史実でも今の社会で上下関係を強要はできない

いずれにしろ確かにこの辺で只野氏の姓の人が多い、それは南北朝時代に霊山が戦いで炎上して逃れた落武者の末裔がこの地に住んだからである。だからその謂れが明確である。
でもそれでその只野氏というのが今の社会で重んじられて従わねばならないと主張するのは時代錯誤になる。今時そんな江戸時代の身分のことを通用させることなどできない、誰も従うことはない、ただこの地域では野馬追があるのでそれが全部出ないにしろ成り立つともなる。
第一徳川幕府250年続いたとしても徳川家が残っているのか現実社会ではもはや何の力もない、ただ天皇家だけは残っているとなる、でも天皇には姓はないのである。なぜなら只野氏一族となれば只野の姓になれば限られた者となるからである。その他の人は排除されるからである。

今の社会の只野一族に従いとか通用しない、その人の価値はもはや身分では決められないからである。結局明治以降は能力主義であり身分では価値は決められない。
だから現実社会で医者とかは一番尊敬されているのである。
また技術者でも実業家でも尊敬される。いくら由緒ある家柄だとしても尊敬されない。能力で競う社会であり身分では決められない、だからその人がどういう能力を発揮して生きてきたのかが問われる、別に由緒ある家に生まれたとしても必ずしも家の跡を継げるとは限らない、やはり能力で選別されるのが現代なのである。

●野馬追いは侍は一心同体になっても庶民はならない


その先祖伝来の旗印がなびく
誰が家の者や殿より誉れを得む
相馬の武者の誇らしきかな
大の旗や心も大なれ
相馬藩一心同体になる時や

相馬野馬追いー雲雀が原の神旗争奪戦【詩】

ここで一心同体としたがそれは侍の人達が一心同体になることは確かである
では一般庶民は馬に乗る侍を見上げているだけだとなる
庶民とは一体にならない、庶民は御行列の前にひれ伏しているだけだともなる。やはり参加できないからそうなってしまうのである。



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2024年07月14日

野馬追いは身分制社会の復活であり今の社会に強制される 【でも誰も参加できないので維持継続できるのだろうか?】


野馬追いは身分制社会の復活であり今の社会に強制される

【でも誰も参加できないので維持継続できるのだろうか?】

●野馬追の行列は参勤交代が現実化するのと似ている

この辺で相馬野馬追というのは重要な祭りとして継続されているでもこの祭りというのも一見ただ過去の再現するだけだと見ている人もいるが全く違う。過去が江戸時代であれ現実に生きてくる祭りなのである。江戸時代の身分制が再現されるのである歴史の保存を第一一にして継続を第一にしているから当然そのとき侍であった身分の者はしか野馬追には出れない
だから野馬追は御行列と言ってただ昔を再現するだけではない。現実の今の社会にその江戸時代であり通用してくるのでだからこの地域だけが相馬氏の殿様は受け継がれて殿様は生きている時場所なのである

現在はそんな身分制社会とか関係ないしそんなものを継続されるべきではないまた復活するべきでもない。ただ一見祭りとして儀式としてしているのかとみるが現実にこの地域ではそうした身分制社会を現実に再現されるのである。
それがただ祭りならばいいななぜ身分制社会を現実に再現して強制されるのかともなる。そのことを本格的な行列が始まる前の段階で自転車で馬の脇を取ったとき馬上から怒鳴られたことで認識した。

まるで参勤交代の行列の前で庶民が頭を下げて這いつくばりシタ二―シタ二ーなる時代の再現なのである。それがただお祭りとしてするならばいいのだが現実社会にまた身分性が復活して強制されるということでもことにもなる。時々雲雀ヶ原で行われる侍フィスタなどはだれでも鎧兜をかぶり参加できる。そうした気楽でないものは野馬追なのである。でも参加者もだんだん減ってくるから維持できなくなるという問題があると思う

●只野氏一族が多いが今の現実社会で身分制を強いるのは問題

いずれしろ確かに鹿島地区などには南朝の末裔である只野氏の一族がこの地には多い。でもそれは歴史的に考証に値してそれが今現実に生きている社会に通用させようとすることは問題である
私は只野氏があり御先祖でありだからそうでないものは私に従うべきだとかなる。そんなことを本気で言っていること自体時代錯誤に陥っているのである。そもそもまた相馬藩にしても相馬氏のことを持ち上げているがそこにはすべて善政がしかれたということでもないのであり一揆が起きていないということは相馬藩は不満な人がいなかったということでもない。ただ郷士が多かったためにその人たちが監視役になり一揆をおこさせなかったのかとも見る

つまり地元では相馬氏のこと悪く言えない雰囲気がある。それが野馬追が現実に江戸時代を再現させて身分制社会が継続すべきだともなるからである。そういう時代錯誤にも陥っているのであるもちろん野馬追には祭りの意味があるそれ自体に反対するわけではないが何かそれだけではない江戸時代の身分制社会を今の時代に再現してそれを押し付けるということが問題なのである

現代では身分制社会を意識することはむずかしい、ただ身分ではなく地位が社長だとか部長だとか会社での地位とかその人の役職とかで人を見る。特に医者は特別尊敬されるとかありまた技術者も尊敬される。でも現代で身分から人を見る人はいないだろう

明治維新後、侍の身分は大きく変わりました。1868年の大政奉還により、武士が日本を統治する時代は終わり、士農工商の身分制度も廃止されました1。その結果、侍は「士族」として新たな身分に分類されました。

明治以降戸籍では侍は士族と記されていた。一般の人は平民と記されていたのである。だから依然として身分制が適応されていたとなる。ただ俸禄も失い苦難を強いられた。原野を開拓して農民になった侍も多い、

また武士のこれに対し、政府は士族の救済にあたり、未開拓地の開墾・移住の保護奨励、官有地の廉価払下げ、資金の貸付など、いわゆる「士族授産」に力を注いだのです。
風刺画「士族の商法」は、当時の商売に失敗続きだった士族を揶揄して作られたものです。

風刺画「士族の商法」を解説!
実は西南戦争を実況した絵画だった?

侍は俸禄を失い相当に苦しいんだ。北海道開拓したのは侍が多い
亘理藩では伊達藩では一族が侍が北海道に移住した。それで伊達市となっている。八沢浦も相馬藩の武士が開拓したのである。
だから妙見の社が田んぼの中にある。
また江戸時代から相馬藩には郷士が多かった。郷士とは侍と農民が一体化した者であり実際の生活は農業だった。ただ一応鎧兜とか旗印が伝えられて野馬追いにでる。だから野馬追では市街地から出るのまれでありほとんどが農家から出るのである。
また侍と言っても下級武士となると生活が困窮していて庶民とたいして変わらず貧乏だったのである。だから内職したりして糊口ををしのいでいたなる。その内職で作られたものがお土産とかになっている。

●野馬追は維持継続できなくなる

いずれにしろ相馬藩の地域は野馬追いがあるために特殊な地域になっている。それは過去の再現であり身分制まで復活するのである。例えばそういう地域が今あるのか?伊達政宗の仙台でもないだろう。京都で時代祭りがあるとしてもそれはただ昔を偲び再現するだけなのである、侍フェスタと同じである。みんだ昔を偲び楽しむのである。

野馬追はこうした気楽なものと違う、他から来た人はわからないかもしれないが江戸時代の身分制社会の復活であり現実の社会に適応される。だから野馬追は誰でも参加できない、武士の出でないと参加できない、つまり野馬追に自由参加はないのである。
となると参加者でも限られていていずれ維持できなくなるかもしれない、前は500騎くらいでて壮観だったが350騎くらいになり神旗争奪戦かなり少なく迫力に欠けた。
なぜなら神旗争奪戦とかなると行列と違い馬を自在に操る技が必要だからみんな参加できないからである。甲冑競馬でもそうである。だからどうしても参加者が減ってゆく、少子高齢化で跡継ぎも減って行く。この辺では津波原発事故で被害がありそのためのまた出場する騎馬が減ったからである。

将来的野馬追いは維持できるのだろうか、おそらく別に侍フェスタのようにただ鎧兜かぶり気楽参加する祭りなら維持できる。それは誰でも参加できるからである。ただ馬に乗るとなると危険でありむずかしくなる。馬自体一年間飼っっていることも金も手間もかかる。だから野馬追は継続されるのだろうか、勝手に誰でも参加できないとなればどうしても規模も縮小してゆく。祭りとしての迫力もなく外からも見に来る人も減って行く
ただこれはあくまでも私自身の見解であり別な見方もありそれはそれで検討すべきである






posted by 天華 at 15:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2024年05月30日

元禄時代の野馬追には一万人が見物客ではなく支援者として参加していた 【旗指足軽もいた】


元禄時代の野馬追には一万人が見物客ではなく支援者として参加していた

【旗指足軽もいた】

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死をかけた危急の間にも、敵軍の装備の紋章を目撃して銘記することも、武士のたしなみの一つだったのであろう。軍旗を持つ下級武士を当時「旗指」と称し、三郎資安が騎馬によって担当していたが、緒戦において早くも乗馬を敵に射倒されてしまったので、やむなく徒歩で旗指の任務を遂行した。当時の戦場には、幕府派遣の「軍奉行」が参加していて、同一戦場で戦う武士を相互の証人として、戦後の論功行賞に利用した。ここに、武家社会の紋章の大きな効用と意義が考察される。

 旗指足軽・・・大名あるいは大将の軍旗を持つ役目を務める。戦闘員ではないが名誉の役とされ、敵に狙われることも多いため勇猛でたしなみも備えた下士が任命された。旗一流れにつき三人一組でこれを支えたとある。この隊を指揮する者は旗奉行と呼ばれた。

弓足軽、鉄砲足軽,長柄【槍】足軽などがいた

野馬追で風が強くて旗指物が折れた、それを従者が拾い追って行った。そもそもこのように旗を持つ専門の人が足軽として別にいた。三人もいたとかなる。
野馬追いでは馬にのる武者が一番目立つけどそれを支えたものが十倍くらいいた。野馬追でもそういう人たち馬の轡をとる人とか従者がいるが少ないし目立たない、だから今の行列とはかなり違たものだった。

御旗本備惣人数千三百三拾人
百騎御騎馬
六拾人御歩行 59人足軽
3拾六人長柄者 六拾八人小人
六百四拾人雑人

他の一四備を合わせれば一万人に達したろう。野馬追は元も完備したのは元禄一二年である

騎馬隊が百騎に対して従者が七〇〇人以上いたというのも驚きである。なぜそんな人数が必要だったのか?
六百四拾人雑人(640人)の雑人とは何をしていた人たちなのか、数が多すぎる。
雑用を担う隷属的な「奴婢」(ぬひ)、「雑人」(ぞうにん)などがいました

こんな人たちがいった。その数が多いのはそれだけ野馬追でも雑用があったということになる。
これは一部体であり10部隊とかあり一万人が野馬追に参加していた。相馬藩内で一万人となれば相当な数である。ということは野馬追いは今のような見物人が多いのではなく地元で行われた行事だったのである。元禄時代は新田開発もピークになり栄えた時期だった。
それにしてもその規模の大きいことに驚くのである。
侍の騎馬が千騎でてその他十倍の人たちが参加していた。それは見物客ではなかった。でもなぜそんなに人手が必要だったのかとなる。食事の用意とかいろいろあったのかとなる。

軍旗を持つ下級武士を当時「旗指」と称し、三郎資安が騎馬によって担当していたが、緒戦において早くも乗馬を敵に射倒されてしまったので、やむなく徒歩で旗指の任務を遂行した

軍旗を持つ下級武士を当時「旗指」と称し・・・旗を持つ人がいてその人は下級武士だった、身分の低い一応侍だったとなる。

それから今の雲雀が原が牛越城近くまで広がっていたのも驚きである。なぜ牛越城があそこにあるのかそれは雲雀が原が野馬追をした牧がそこまであり現実にそこで軍事訓練もしていた
不思議なのはそこは田畑ではないから食料を供給できないのである。ただ野馬追のためにあったとなる。戦後なのか雲雀が原でも開拓に入った人たちがいたから田畑に広い土地があったとなる。
それで牛越城の近くに住んでいた人が姫が住んでいた訪ねた人が妊娠して腹がふくれるだけの土地だと言い伝いがあるとき腹と原をかけ冗談を言ったのかとなる。それだけ雲雀が原が広い地域だったのである。

それにしても相馬藩でこれだけの馬がいて野馬追でも侍だけではない雑人でも騎馬の十倍も参加していたのはまるで北朝鮮のような軍事国家だったのか、相馬藩では一揆がなかったから善政がありそうなっという説もあるがむしろ北朝鮮のような軍事国家で一揆も起こせなかったからだともなる。
だからこそ生波(津波)で700人溺死したとしても二行だけ記されて忘れ去られていたのである。それより軍事の方が大事だった。
北朝鮮では飢えて道端で死んでいる人の写真がでていた。そういうことでも北朝鮮は軍事優先だからである。

いずれにしろ戦国時代が終わって300百年も壮大に野馬追が続けられたのだろうかとなる。その出費の財政的負担となり農民でも苦しいとなる。でも相馬藩を一つにする行事として欠かせないから続いた。ただ現代になるとこれだけ移動する社会になるとまた土地に縛られない社会になると農民社会でなくなった時野馬追で一体になるということも難しい、何かただ侍だった家の人が威張る祭りなのかとみる。侍の社会はもはや全くないからである。






posted by 天華 at 14:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2024年05月29日

ヨーロッパと日本だけの封建制があった 【ヨーロッパの紋章と日本の侍の旗印の共通性】


ヨーロッパと日本だけの封建制があった

【ヨーロッパの紋章と日本の侍の旗印の共通性】

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●土地に縛りつけられて成立した封建社会

封建制は土地に縛られることによって成り立っていた。戦国時代の争いでも土地をめぐる争いであり勝者になれば土地が与えれる、所領が与えられる。土地が権力の基盤だった。またその当時農民が90パーセントとなればその土地に何代も住み着いて土地を持ち農業をしていた。
つまり封建時代というのは土地を基盤として成り立っていた
侍というのはその土地を基盤とした農民から年貢をとりたてて生活していたのである。だから石高でその地域の経済力がわかる。相馬なら六万石となる。その規模とその地域の経済力がわかる

こうして権力の基盤が土地にある時、その在地の権力を弱めるにはどうするのか、その権力基盤の土地から切り離すことである。
そのために相馬氏は城を移転したのである。特に牛越城への移転は泉氏の力をそぐためだった。

牛越城の移転は泉氏の持つ経済的特殊性を奪い取るだけでなくその在地性を弱めるための手段であった。
原町市史

泉氏はあの辺に港があり交易があり十一面観音などがあり当時は大きな勢力を持っていたのである。だからその力をそぐ必要があり相馬氏は牛越城を築いた。でも今見るとそんな城があったのかとなる、ただ館があったとしかないのである。
確かなこと相馬氏が城を移転したのは在地の勢力をそぐためだったのである。中村でも今の相馬市でも伊達家の勢力があり佐藤氏の勢力が対抗するものとしてあったからだ。

ともかく江戸時代は移動することが危険でありできない時代だった。でもなぜ越中からの真宗系統の移民があったかというと相馬藩で天明の飢饉で三分の一の人口が消失した、そのために欠け地が増大した。それでその土地を与えるとなり越中からの移民を積極的に勧誘して受け入れたのである。移民にしても土地が与えられとなれば危険を冒しても来たのである。それはその時代は農民が90パーセントとかの時代であり土地無くして生活が成り立たない時代だったからである。

その後で戦前でもなぜ満州に農民が移住したのかとなれば広大な土地が与えられたからである。でも満州は寒い。それでも日本人は米作りしたのである。今は満州は一面にトウモロコシ畑である。トウモロコシが主食ともなる地域である。
また戦後の引揚者も不便なわずかな土地を求めて入植した.
雲雀が原で長泥の近くで住んでいた人も戦後入植した人だった
鹿島区だとすぐ近くの小池でも戦後の引揚者がいた。そこに子供の時自分は店で売る卵買いに行かされていたからである
つまり仕事もないのでそうした悪条件の場で食料だけでも確保したのである。
奇妙なのは中国の旅で蘇州とか旅した時年配の女性が私はノンミンですといったとき農民は中国だったのかとなる。
中国由来の言葉がかなりあっても明治維新後わからなくなたのである。日本はヨーロッパやアメリカに習うことが第一とされたからである。

●只野氏の杉の紋の由来

ともかく侍でも理解する時封建時代がどういうものであったかを知らないと理解できないのである。
野馬追の旗を見るとき五輪の塔とかあればそれは先祖を意識して作られた、あと神社でも熊野神社とあれば土地の氏神だとなる。ただ旗印がわかりにくいのはそもそも相馬市は千葉県の流山市とからの移住でありそこがもともとの基盤だからその旗印もわかりにくくなる。そしてまた相馬市でもさらに歴史を遡れば関西の方に起源があるからわかりにっくなる。
例えば鹿島区の只野氏は50軒とかありさらに原町区か相馬市にもいる。それは南北時代に霊山で南朝が滅びて逃れてきた一団だったのである。それは郡山の多田野村が発祥の地だった。
でもなぜ只野氏が杉の紋なのかとなるとそれは三輪山の杉が神聖化されて旗印となった。

味酒(うまさけ)三輪(みは)の祝(はふり)がいはふ杉手触(てふ)れし罪(つみ)か君に逢ひがたき

三輪山の杉が神聖なものでありそれにふれたことで会えなくなったというときそうである

でもなぜそれが旗印になったのかそれをどうしてたどることができるのかとなる。何故なら関西までたどるとなるとさらにわかりニックなるからである。
関西から相馬氏に仕える侍がいたとしてそ出自はわかりにくくなるからである。

●ヨーロッパの紋章と野馬追いの旗の共通性

とにかく御家という旗印が原発事故で鹿島区【北郷】からでるとき違和感を覚えたのは封建時代だったら人は移動しない、代々農民であり移動しない、だから何か違和感を感じた。それは野馬追が千年も続いたというときそれは土地を基盤として移動しない社会だったからだとなる。逆に封建時代は人は土地に縛り付けられて支配があり形成されたとなる。

例えば主従関係でも土地を基盤にして成りたっていた。俸禄は土地として与えられていたからである。それも代々受け継がれたのであるそこで主従関係も強固なものとなったのである。でも一面土地に縛られて自由はなかったのである。ヨーロッパで都市が成立した時それは農民ではない
職人や商人とか騎士とかであり農民ではないからこそ土地の呪縛から解放されて都市は自由にするとなりまたシテズンシップが形成されたのである。それは農民のことではなかったのである。
ただ土地を基盤にした封建制はヨーロッパにもありそのために城がやたら日本と同じように多いのである。この封建制があるのはヨーロッパと日本だけだったのである。だから日本と同じように野馬追いと同じような騎士の祭りがあり様々な紋章の旗祭りがある。

紋章の定義には諸説あるが、概ね紋章が持つべき最低限の要件は、個人を識別できるよう全く同じ図案の紋章が2つ以上あってはならないことと、代々継承された実績を持つ世襲的なものであることの2点である、厳密な意味では、紋章と呼べる要件を満たしているものはヨーロッパと日本にしか存在しない

何かこれが野馬追と似ている。何故なら野馬追でも勝手にでることはできない。同じ紋章であってはならないとかもそうである。
紋章は識別するものであるからだ。

イギリスの紋章院(1484年創設)のような全ての章紋章を管理する公的機関が創設された

野馬追でも新しく旗印でも作り参加できないのと似ているのである。ただここに歴史の共通性があり日本は明治維新でも西欧化できた原因があるのかとなる。なぜなら封建制があったのはヨーロッパと日本しかなかったとなるからだ。

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2024年05月28日

相馬野馬追いー雲雀が原の神旗争奪戦【詩】その旗の意味するもの


相馬野馬追いー雲雀が原の神旗争奪戦【詩】その旗の意味するもの

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炎と燃え風と走り
雲雀が原に大の旗
奮い立つ相馬の武者
今一同に結集する

馬のいななく声のひびき
馬が風を切り疾走する
神旗を取り御本陣山へ
勢いよく駆け上る

その先祖伝来の旗印がなびく
誰が家の者や殿より誉れを得む
相馬の武者の誇らしきかな
大の旗や心も大なれ

相馬藩一心同体になる時や
法螺貝は馬上よりひびきわたり
相馬流山の軍歌も艶やかに
太平洋の広がる浜通リ

風は涼しく吹きそよぎ
松影に相馬の昔を語る
共に老いにしあわれ
故郷に帰りし人かな


相馬野馬追いは旗祭りともされる。それだけ旗の種類が多いのである。でもその旗の由来はわからないのが多い、でも旗には何か意味がある。炎の旗は戦で炎のように燃え上がる、風の旗はまさしく風のように馬が疾走する
大の旗は大なれとなり何か現代にも通じるものがある、人間がそうありたいとなるからだ

其疾如風: 其のきこと風のごとく、其徐如林: 其のしずかなること林の如く、侵掠如火: 侵掠しんりゃくすること火の如く、不動如山: 動かざること山の如し、難知如陰: 知り難きことかげの如く、動如雷霆: 動くこと雷霆らいていの如し、掠郷分衆: 郷をかすめて衆を分かち、廓地分利: 地をひろめて利を分かち、懸權而動: 権を懸けて而して動く。野馬追の旗にはこういう面があるのかもしれない、何かを象徴したものでありそれが旗印となる。

  其のきこと風のごとく、
  侵掠しんりゃくすること火の如く、
  ・・・・・・・・
とあれば風の旗があり炎の旗があるからだ。ただ馬に乗った感覚というのがわからない、まず車だったら風のごとくとならない、風を車だと感じないからである。
自転車だと多少馬に乗ったのと通じることがある、常に風を感じるからである。
ただ馬に乗ってみないと実感がないからわからないのである。ただ馬上から常に下を見下ろすということでそこに身分差が生まれたのである。

今回は風が涼しく感じられた。暑いと風も涼しくなくなる。その点は良かったとなる。



Burning with fire, running with wind
A large banner on a field of clouds
Soma's warriors rouse themselves
now rally together

Horses neighing, voices cracking
The horses gallop in the wind
Taking the sacred banner, they mount the mountain of the headquarters
and gallop up the mountain of the headquarters

The ancestral banner flutters in the wind
Who of your house will be honored by the lord?
The pride of Soma's warriors
The great banner and the heart are also great

When the Soma clan is united as one
The trumpet shells sounded from the horses
Soma Ryuzan's military song is also lustrous
The Pacific Ocean stretches out on the beach

The wind blows coolly and softly
in the shadow of the pine trees, the old days of Soma are told
Together we have grown old
who have returned to their hometowns?

Translated with DeepL.com (free version)

posted by 天華 at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

野馬追の写真【炎の旗、大の旗。風の旗−御家の旗】


野馬追の写真【炎の旗、大の旗。風の旗−御家の旗】

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同じ旗は同じ村とか同族である

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風の旗がでる甲冑競馬

20230730 甲冑競馬02 COOLPIX P1000(相馬野馬追)



雲雀が原広々として大の旗縦横に駆けて馬の活きなむ
野馬追に心燃えるや炎の旗参れ参れと二騎の行くかな
風の旗甲冑競馬に風を切り走り行くかな風のごとくに

今回の雲雀が原で注目したのは大の旗と炎の旗と風の旗である。
大の旗が広々とした雲雀が原でなびくとき人間も大なれとなる
次に炎の旗が二頭行くとき何か心も燃えるとなる。
次に風の旗は甲冑競馬でまさに風を切り風になびく、それがあっていたのである。

ともかくなぜこれほど旗の種類があるのだろうとなる。その由来もわからないのが多いのである。ただここに紹介したのは旗印によって戦の時心をふるたたせたとなる。あとは五輪の塔とかなると先祖を意識している。それから熊野権現とかなれば地元の社であり神社も戦の神になる。何か神社は軍神となる。なぜなら太平洋戦争では小さな村の神社でも国威宣揚とかの石碑がある。これは全国的なもである。いずれにしろ戦国時代でも神社が軍神ともなっていたのである。

野馬追の旗でもなぜこれほど種類が多いのか?おそらく御家とあるごとく家中心の社会でありそれで家を守ることが第一とされてそれおれの家の旗が生まれたのだろう。また手柄を立てた人を家を見分けるためでもあった。それにしてもこれだけ旗の種類があったらかえって戦場で入り乱れて敵か味方かもわからなくなる。そもそも江戸時代300年は戦争していない、何か戦で手柄をたてることはできなくなった。
でも相馬藩では雲雀が原で馬の軍事訓練が続けられてきたのである。

ただその由来を尋ねても極一部しかわからない、小高から鹿島区に移り住んだ家の旗は【御家】である。なぜ御家なのかとなれば小高に相馬氏が最初に城を築いた場所であり相馬家が御家だからとなる。つまり歴史を見れば小高に御家があるのがふさわしいのである。それが原発事故でそうした歴史も保存できなくなったのである。つまり代々受け継がれたものが変えられたのである

何か一番御家という旗が気になるのは違和感を感じるのはもともと北郷出身のものではない、小高出身だからである。だから野馬追は農民であり侍であった郷士が受け継いできたものでありそれでその土地から離れた時その歴史も失われたともなる
その土地とともにあったというとき郷士は農民だったからである。農民だったらと土地があって農民であり土地を離れてありえないからである。

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北郷【鹿島区】から出ている御家―元は小高だった



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2024年05月27日

相馬野馬追いは継続できるのか? 【馬の歴史では明治以降は農耕馬、運搬用の馬が主役だった】


相馬野馬追いは継続できるのか?

【馬の歴史では明治以降は農耕馬、運搬用の馬が主役だった】

相馬野馬追で2人けが、見物客の女性は馬に蹴られ骨折

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津島にあった馬頭観音の大きな像ーこれはめずらしいー相馬氏が建てたものである
馬頭観音の信仰が相馬氏にもあった。馬頭観音は馬だけの信仰ではなかった
ここで軍馬と家畜の馬を共に供養するとあるから侍でも軍馬以外でも供養していたとなる。


●明治以降は侍の軍馬は使われていない

こんなことが今年あったのか,やはり馬というのは危険な面がある。馬を農耕馬として使っていた人は馬は臆病だから驚かしてはいけないとしきり言っていた。ただ馬に蹴られた女性はなぜ蹴られたのかそれもよくわからない。なぜなら行列を見ていて飛び出して蹴られたのとも違うからである。だからなぜ蹴られたりしたのかそのことがよくわからない

とにかく野馬追いとは一面侍が復活して再現される祭りである。でもまた馬の祭りでもある。馬というのはもともと農家で農耕馬として使っていて馬の性格とかを熟知していたのである。でも今馬というのは接する機会がないのでわからないのである。
私自身にしても馬を相手が臆病だとして自分自身も馬に触れることを怖がる。
それは身近にいつも接していないし慣れていないからである。馬というのはとにかく野馬追だけでなく農耕馬としても使われていたし運搬用としても常に使われていた。そのためにいたるところに馬頭観音の石碑が見かける。それは明治以降のものであり大正時代以降のものは非常に多いのである。

その頃馬による運搬が非常に多くなってきたためだと思う。だから馬というとき野馬追という時侍が乗る馬と違って馬というのは日常的に人間と近しい関係にあった。
それで馬を飼っていた家でその娘が馬と結婚したとか伝説が残るのもそのためである。馬は家族の一員のようになっていたのである。それは侍が軍馬として使うのとは違っていたのである。
でもそのように庶民が日常的に接していた馬のことが忘れられてしまったのである。野馬追では侍が乗る馬が注目されるは現実の歴史ではむしろ農耕馬として運搬用として常に馬は使われていてそっちの方が大事であり一年に一回だけ野馬追いで注目されるがそれは特別なことであり馬は活かされることではない。

馬が生きていたという時確かに軍馬として使われていたがでも江戸時代になれば平和でありそんなに馬が重要なものとなっていない。ただ相馬藩では常に野馬追がある雲雀ヶ原で軍事訓練をしていたのである。相馬藩が強かったのはこうして常に馬を操作する事に長けていて軍事訓練をしていたからである。
そしてまた農業をしていて侍であった郷士が多いのも特徴である。だから今でも野馬追に出るのは農家の家であり農家であり街から出る人は極めて少ないのである。

例えば原町とあれば大きな街になっているがもともと原町村でありそこから野馬追には一騎しか出ていないのである。そもそもあの辺は今の雲雀が原はもっとと大きく拡大したところでありあんなに家などないし原っぱに過ぎなかったのである。
それが原ノ町駅が機関区となりそこで物資を東京まで運ぶために駅前通りなどができて街ができていたのであるある

●軍馬として使われたのは短い

野馬追というと何か侍は注目されるがまた馬でも侍が乗った馬として注目されるは馬が活躍したのは農耕馬としてあり運搬用の馬として荷馬車とかにも使われ馬車やとこは常に近くにあったのである。それであの東京駅の前を荷馬車が行き来していたということも驚きである東京ですら荷馬車が活躍していたのである。

だからむしろ侍が乗る軍馬は返って特殊なものであり歴史としては庶民の歴史からみれば主役ではないのである。ただ第二次世界大戦の太平洋戦争でも馬が主役であり馬に乗った兵士が南京とかに入場する映像は残っている。
また軍馬でも寺とかに葬られた墓がある。だから軍馬の歴史というのは別に太平洋戦争まで継続していたのである。でもその後車時代になった時馬のことは忘れられてしまったのである。

野馬追いは1000年も続いているとこ言われる。でもそれは侍の歴史であり庶民の歴史ではないのである。庶民から見ればむしろ農耕馬であり運搬用の馬でありそれの方が庶民との庶民とかかわり歴史を作っていたので。だから野馬追といい時は何か侍の時代の復活でありそこで侍が乗る馬も注目される。何か華々しいのだがそれが実際は侍のためのものであり庶民のためのものではないのである。だから何か常に野馬追というときやたら上から見て写真を撮っていけないとかいろいろと制約がある昔は二階から見てはいけないとされていた。なぜなら侍は偉いのであり上から見下ろしてはいけないとなっていたからである

それは参勤交代とか大名行列のとき庶民が頭を下にして迎えるのと同じである。シタニーとは下にということである。何かまだ行列にもならない時自転車で脇を走っていたらやっぱ上から怒鳴りつけられた。ただ行列が正式に始まるところだったら仕方ない
その前に集まる本陣に集まる前のことだから違っていた。ただ自転車というのは常に車社会になったとき目障りになり叱られるのとも似ている。

そして江戸時代だったら侍は馬に乗る人であり馬を飼っている人でもある。それで上野あたりに御徒町とあるとき歩く人の街または足軽町とかあるときそれは馬を持たない人たちが住んでいたところであり身分の差別の明確にあったのである。今では車を持たない人は何かか下位の人たちであり劣る人たちだとされているのである

●野馬追いは庶民が参加できないので維持できるのだろうか

いずれにしろ野馬追というのは維持できるのだろうかとなる。何か農家でもかなり空き家化しているのである。また少子高齢化であり跡継ぎも少なくなる。だから去年は350騎しかの出ていない。普通は500とか出ていて壮観だったのである。だから何か迫力にも欠けてきているのである。その理由として野馬追いというのは庶民は参加できない。代々その家に甲冑兜とか伝えられていない旗などが伝えられていなければ参加できない

だから参加する人も限られていて規模縮小されてゆく。でも新しい人が入ることはできない。それで北郷本陣で宇多郷と合流する交流する儀式では古式に則って行われる。変えることはできないのである。
でもそれは歴史の保存でありわざわざそのことを知って見に来る人がいたのでそれは地元の人より興味を歴史に興味を持っているからである。そういうことで歴史の保存でありそれが無駄とはならない。でも祭りとして維持することはなかなか難しくなるかもしれない。

なぜかといえば侍といっても限られた人たちであるさらにその数も減ってくる。野馬追いのためにだけ馬を飼っていることも経済的負担は大きいのでは。だからどうしても規模が縮小してその祭りでも何か盛り上がらないともなる。地元の人たちもただ見るだけであり参加できなければ盛り上がらないのである。

だから歴史的に見れば本来は馬を回想する蘇る祭りでもあするとそれは侍を蘇る復興するだけでなく馬に注目すれば実は農耕馬とか運搬用の馬の本は歴史的には主役だったのである。
でも車社会になり馬のことを忘れ忘れられてしまったのである。それでもいたるところに馬頭観音像がありの石碑あれそれが歴史を残している。それは侍は使った馬のことではないのである明治以降は確かに軍馬として使われたことがあってもほとんどは庶民が使った馬の馬でありそれは軍馬ではないのである。

ただ歴史というとき支配者の歴史であり勝者の歴史であるからそう相馬藩政記でも常に戦での論功行賞が記録される。でもその時慶長時代に津波がありこの辺でも700人溺死したとき記録が遺されていたのである。それはたった二行であり学者する分からなかったのである。
つまりその時戦に勝つことが相馬氏がこの辺を支配することが先決であり優先課題であるから庶民が700人津波で死んでもそれは大したこととしてそれは重要なこととして取り上げなかったのである
そのためにまたこの辺では津波が来ないとして避難しないで死んだ人もまた多いのである。

●歴史は支配者の勝者の歴史

だから歴史にしても侍とか支配者だけで注目して庶民に注目しなければこうした問題が起きるということである。ただのインターテーナメントとして娯楽として見世物としてあるとなればそれもまた別である。現実に時代劇のように面白がって見てくる見に来る人もまた多い。ただそれでも野馬追というのは今でも庶民が参加できないし地元でもあまり盛り上がらないというとき維持できるのだろうかと思う

もし馬が甦る馬の祭りであるとき庶民が利用した農耕はとか運搬用の馬とかも祭りで再現すればまた違ったものになるかもしれない。野馬追に出るのは競争競馬で使われたものであり現実には農耕馬とか運搬用で使われて庶民党一体化したものではない。その馬はまた侍に限られたものであり明治以降はその侍さえいなくなったのだから馬は侍の馬としては使用されなくなっていた

ただ戦争のとき日露戦争であり太平洋戦争であり馬は軍馬として使われていた。それで馬を主役とした戦争映画が作られたのもそのためである。つまり外国でもやはり馬は第二次世界大戦まで軍馬として使われていたからそういう映画が出来たのである。でも実際馬は明治以降は軍馬としてはほとんど使われなくなったのである。

ともかく野馬追が千年続いたとしてこれからも続けられるのだろうかとなる。費用もかかるし維持できるのかとなる。ただ広く参加者があれば別になるがどうしても侍だった家とか人しか参加できないとなれば維持できるのだろうかとなる。庶民の時代となったとき侍だけの祭りとなると維持しにくいとなる。侍が威張るだけの祭りなのかともなるからだ。ただその兼ね合いが難しいことは確かである。



あとがき

雲雀が原の観客数が3万人とかnhkで報道していた、増えたようには見えなかかった
そんなにいたのかとなる。私は柵の外で見た。そこは無料である。何か入場料が千円は高いとも思う
やはり気候的には良かったから増えたのかとなる。でも田植えとの時期であり夏休みでないので子供を連れてこれないとかあった
でも雲雀が原で観客数が増えたことは気候が影響したから良かったとなる

それでも出場騎馬数がどれくらいだったのかわからない、それが大きな問題である。神旗争奪戦でも馬の数が少ないのである
だから将来的に侍フェスタを雲雀が原でしているように誰でも参加出来るお祭りになるかもしれない
規模としては50−100位とかになってしまうかもしれない。今とは全然違った気楽なものになるかもしれない。
いくら伝統伝統と言っても維持できなくなるかもしれない。


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2024年05月25日

相馬野馬追北郷と宇多郷合流【俳句十句】ー桜田山の神旗争奪戦 【5月25日に変更された相馬野馬追い祭り】


相馬野馬追北郷と宇多郷合流【俳句十句】ー桜田山の神旗争奪戦

【5月25日に変更された相馬野馬追い祭り】

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伝令の使者が行く

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本陣に宇多郷と北郷結集して一同揃う

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蒔田とある

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この馬はすぐ起き上がって行列に復帰した

【桜田山で神旗争奪戦】

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桜田山から海が見える

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菊の紋は天皇の紋である



馬二頭植田の道を駆けるかな
風涼し凛々しく映えぬ女武者
年に一度馬のいななきひびきけり
一の旗伝達の武者走り過ぐ
法螺貝のひびくや海の見える丘
風騒ぎ旗のなびくや馬駆ける
海見えて旗取りの馬浜通り
陣羽織菊の紋かな誇らしき
風荒らし旗のなびきて交じり合ふ
馬一頭倒れて再び起き上がる

風が強かった。だから旗指物が風で折れた。海老原宅で宇多郷【相馬市】と合流して殿を迎える儀式を行う。何かこの儀式は江戸時代からその前からも続いている。その古式は守られていてそれをわざわざ見に来る人がいた。

野馬追の特徴はそうして歴史の保存であり変えることがないのが特徴である。そのために勝手に新しく旗を作ったりして参加できない、何か自転車で写真をとるために脇を通った叱られた
もちろん前を横切ることは厳禁である。また写真でも上から見下ろすようには撮っていけないという、前は二階から御行列を見ては行けないとなっていた。それは侍の時代の再現なのである。

たた馬は暴れて危険なときがあるので前を横切るなとかある
ただこうして野馬追は侍の時代の再現でありそれで地元にしろ全体が盛り上がらないとなる。青森のネブタなら誰でも着物でも借りてハネトになり参加できるからである、っだから外部の人もっ参加して盛り上がるのである。

とにかく7月下旬だと最近暑すぎて去年は馬二頭死んだ。それで今するように変えた。でも馬が一頭行列中倒れた。死んだのかと思ったが起き上がった。馬は倒れることがある。今回は暑くない風が強く涼しからありえないと思っていた。それで起き上がって行列に復帰したから良かったとなる

神機争奪戦の前哨戦の旗取は桜田山で行われるようようになった。あそこの方場所としては良かった。あそこからは海も見えるからである、見晴らしのいい場所だからである。ただ風が強く旗が流されて場外になったりしていた。
とにかく一〇騎くらいしか参加しなから迫力はない、場所としては良かったとなる。



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2024年03月22日

相馬野馬追の開催日程を、5月最終土・日・月曜日の3日間に変更する 【温暖化で祭りとか日本の文化にも影響ー真夏の野馬追の詩】

相馬野馬追の開催日程を、5月最終土・日・月曜日の3日間に変更する

【温暖化で祭りとか日本の文化にも影響ー真夏の野馬追の詩】


北郷【鹿島区】の旗

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2023年は野馬追に380騎しか出なかった ー迫力に欠けた
 (野馬追はこれから維持できるのか?−雲雀が原へ)


真夏の相馬野馬追い

処々の田野の郷士の家に旗の立ち
伝家の旗印誇りや風になびきぬ
夏に雲真白く勢いよく湧き上がり昇り
いざ出陣法螺貝の合わせ鳴りひびき
この時馬も勇むやいななき響き渡り
威風堂々の壮観の行列つづく
一の旗伝令の若武者駆けめぐる
華麗勇壮に戦国絵巻の再現
相馬氏は北斗七星妙見信仰の旗印
神社の神輿を担ぎ戦勝祈る
北郷只野氏の南朝末裔の旗印
杉の紋は奈良の三輪山の神杉に由来
菊の紋は南朝に由来して由緒あり
霊山炎上して落ち延びるし末裔にあれ
最初に小高に城を築きし誇りかな
小高郷御家の旗のしるく従者ひきえる
宇多郷北郷中ノ郷小高郷合流して
雲雀が原に集結してときの声をあげる
金の扇に日のさしてまぶしくひるがえり
相馬流れ山の軍歌朗々と響き揃えの踊り
雲雀が原に打ちあがる花火に神旗争奪戦
旗様々に馬の競り合い奪い合う
御本陣に神旗を手に一気に駆け上る
その先祖伝来の旗印は誰が家そ真夏の陽射しに映えぬ
夏の雲高く高く湧き上り白しも
時に雷の天より轟きて馬もいきりたちぬ
この時相馬の武士【もののふ】心一つに打ち進む
戦い終えてそれぞれの郷に家に馬をねぎらい帰る
草深く藪甘草の咲くもほのぼのと赤しも郷士棲む
相馬の武士の鎧に兜に旗の代々受け継がれぬ



去年の野馬追では暑さのために二頭の馬が死んだ。異常な暑さのためだった。ただは野馬追は夏の盛りに夏の雲が入道雲が湧く時行われていた。だから季節と一体化して祭りだった。日本の祭りは夏に一番盛り上がる。日本は祭りが多い国である神社も多いからその土地土地の祭りがある。
それでフランスの人が日本の祭りを見るために回っていたのである。野馬追にも外国人が来る。

ただ何か5月に野馬追が変更したとき違和感を覚える。それは野馬追というのが夏を告げるものとしての盛りに行われるものとなっていたからである。 7月の30日になる30日に行われる前は7月梅雨明けの7月22日頃に行われていた。だから梅雨明けをを告げるものとして野馬追があるということがこの辺では習慣になっていたのである。だから確かに5月は夏だがやはり野馬追は真夏に行われる時その季節と一体化していたから盛り上がる。

でも温暖化であまりにも暑いから馬も死ぬほどであり馬に乗る人にしても鎧は重いし本当に命の危険にもなる。だから期日を変更するのも止むを得ないのかとなる。
ただ日本には季節によって感じるものがありそれで俳句などは必ず季語があり日本の四季を反映したものなのである。だから5月の末にやるということがどういう感じになるのか?何かしっくりこないということがある。それだけ常に夏に行われていたから馴染んでいたからそうなったのである。

そもそも野馬追とは何なのか?相馬藩の軍事訓練であり雲雀が原行われていた。街を行列するようになったのは明治以降である。それまでは雲雀が原で軍事訓練をしていたのである。
そしての野馬追の謎なぜ相馬藩6万石という小藩であれだけの馬が出てきて華麗な行列が行われるのかということである。なぜなら伊達藩の60万石でも会津藩の30万石でもこのような華麗な祭りは行われていない。それは全国規模でもそうである。相馬藩だけがなぜこうした華やかな祭りの残ったのかとなる

それは相馬藩の特殊な事情からそうなったのかもしれない。相馬藩は6万石であり小藩である。それに比べて伊達藩は60万石であ強国なのである。そのために相馬藩は伊達藩とから守るために軍事力を馬でもって備えていたとなる。。そしてなぜ相馬藩に一揆が起きていなかったのか一それは軍備に力を注ぎ一揆を起こさせないようにしていたのかもしれない。
なぜなら会津でも幕末会津城は落城した時でも農民は別にそれを悲しむわけでもなかった。むしろ税で苦しんでいたからこのこの時とばかりヤーヤー一揆を起こしたからである。他にも盛岡藩とかでも一揆があった。だからなぜ相馬藩では一揆がが起こらなかったのか、それはおそらく相馬藩では侍といっても郷士が多く農民であり侍だったという人たちでありその人たちが監視役になり一揆を起こせなかったのかもしれない。

それは北朝鮮では貧困なのに反乱も起こさないというときやはり兵士の数が多く家族であれその土地土地に兵士がいて反乱を起こさせないようにしているからかもしれない。つまり相馬藩という小藩を維持するにわ軍事力を優先しなければならなかったのかも知れない。そうでなければ大藩の伊達氏などに飲み込まれてしまったからである。

ともかくただ錯覚しているのはあれだけの騎馬行列になると何か相馬藩は侍の数は多いように見える。でも500騎が出るとしてもそれほど多いものではない。全体から見れば実際は少ないのである。だから現実に野馬追に出る人と相馬に住んでいてもなかなか合わないのである。
でも郷士というのはほかの藩より多かったのかもしれない。大藩でも城勤めになると官僚化して武芸からは遠ざかるということがあでも郷士となると農業しながら馬を飼い戦国時代が終わってもやはり戦に備えていたのかもしれない。

兵農分離以前からの半農半兵(兵士の自給自足・農民の自主自衛)の伝統から、士分の中には自前の農地(多くの場合、一般より大規模な農地を有していた)を直接管理して家計の支えにしている層がいた。彼らのうち、規模の大きい者は豪族と呼ばれ、より規模の小さい者は土豪や地侍と呼ばれた。彼らは江戸時代に「在郷藩士」として各藩の士分階級に取り込まれ、従来通り平時の農地管理と非常時の軍役を両立し続けた。土佐藩では旧領主である長宗我部氏の家臣のうち、地侍にあたる一領具足を下士として登用した。

この郷士は明確に藩に従属忠誠を誓ったものではないから反乱をして何百人も殺戮された歴史がある。相馬藩の郷士はそいうことはなかった。軍事力を重んじていたので厚遇されていたからなのか、相馬藩では反乱は起きなかったのである。

いずれにしろ祭りにしろ少子高齢化などで維持することが難しくなる。すでに維持できなくなった所もある。特に現代は無数の職業に分化しているし農民のようにその土地と一体化していない。だから移動しやすいし土地をベースとして生活していない。
実際に浪江の会社勤めの人は二本松に会社があり原発事故で通っていたがそこに移り住んだとかある
その土地に祀られた神社とかその祭りも維持できなくなるのである。それは原発事故でその故郷から離散してしまったようにそうした強いつながりがある農民共同体は喪失してしまったからである

それにしても戦争というときそれを美化はできない。でもなぜ戦国時代の戦争は何か美化されるのかと言う事である。それもやはり殺し合いでありそこに悲惨なことがあったからである。
でもなぜそうした悲惨な戦争であってもその中で武士道というのが生まれた。それはやはり人間と人間がぶつかり合いその中で武士道が生まれた。現代の戦争は機械の戦争であり科学技術の戦争である。そこに一対一の果し合いとかはなくなった。そこにはただ無数の人間が物のように殺されるということで戦国時代の戦争とは違っていた。戦争でも何か美意識がありそれで馬でも人でも飾り戦いに挑んだ。でも明治以降はそうして美意識より戦いしやすい軍服になり鉄砲中心となったからただ侍が戦うという時代は終わったのである。

そして野馬追は馬の祭りでもある。馬は今や競馬とかでしかみかけない、馬はモンゴルの草原で自由に走る時活きていた
また農耕馬でも曲屋で一緒に寝起きしていた時馬は家族のようになっていた。だから娘が馬と結婚したとかの伝説が残る
それで馬がなになのかわからなくなった。馬と人との結びつきは長い、それが失われた。だから野馬追いは馬が蘇ることであり馬の祭りでもある。そこにも意義がある。人馬一体になる祭りなのである

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2023年07月30日

今年は野馬追に380騎しか出なかった ー迫力に欠けた (野馬追はこれから維持できるのか?−雲雀が原へ)


今年は野馬追に380騎しか出なかった ー迫力に欠けた


(野馬追はこれから維持できるのか?−雲雀が原へ)



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相馬の殿様はここではまだとのさまである

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なぜナマズのはたなのじゃわからない

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街中をつつじの赤く御行列



夏の雲湧き上がるかな旗取りて家の誉れと坂駆け上る


雲の峰高くなりけり暑しかな旗取り争う雲雀が原に


雲の峰一つ崩れてまた一つ湧き上がり高く雲雀が原かな


打ち揃う金の団扇に流山真夏の日さし輝きにけり


蝉の声今し鳴くかな旗取りに誉れを得てそ帰りなんかな




●380騎で維持できるのか


今年の野馬追に出たのは380機だった。何かこれは最盛期で500騎出ているから少ないと思った。野馬追は規模が小さくなると迫力がなくなる。380騎と500騎では相当な差がある。こんなに少なくなったのか?それはやはり津波や震災原発事故で小高区とか住めなくなり出る人が少なくなったからかもしれない。だから野馬追でも本当に維持できるのだろうかという疑問がある。少子高齢化でもありなかなか難しいかもしれない。

 

そして野馬追が維持できなくなるというときそれが歴史の保存であり変えることもできないし付け加えることもできない。となるといずれはさらに規模が縮小して見劣りして魅力がなくなる。だから確かに歴史の保存として維持することも必要なのだがもう一つ何かみんなで誰でも参加できるような仕組みを作らないと維持できないようにも思う。歴史の保存ということで、価値があるのは野馬追ではある。でもそれだけで維持できるのだろうか?

 

だから380騎となると何か迫力に欠けていた。そして神旗争奪戦でも出る人は?少なくなっている。なぜなら競馬とか神旗域争奪戦になると相当に馬に乗る訓練をしていないとできないからである。そのためにそういう準備をする人できる人は少なくなる。馬を乗りこなすということは容易でないからである。だから馬に乗り馬を乗りこなすようにしていないとできない。ただ行列ぐらいは参加できる。でも神旗争奪戦とか競馬になると相当に馬を乗りこなすことができないと参加できないそれをできる人は年々減っていくだろう。

 

●野馬追には費用がかかるー馬を飼っているため


馬を一年野馬追のために飼っておくことは相当な手間であり、金もかかる。30万から50万かかるというとこれは結構な負担になる。車一台を持つぐらいの金かも知れぬ。ただ、こうして馬を飼って日常的に馬に乗っていてこそ競馬とか神旗争奪戦には出ることができる。競馬となるとさらに熟練が必要になる

だからの馬を歴史の保存として祭りを伝えていく必要である。でもそれだけでは今や保存もできなくなるかもしれない。

一つは野馬追は馬が主役になる。今馬というのは競馬場でしか見ることもできない。馬のことがわからなくなったのである。だから野馬追というのはもう一つ馬に親しむということがある。また馬は好きな人がいる。ただ、それは。競馬を好きな人が馬を好きなので競馬に親しんでいるとやはり馬を見ているから馬はどういう馬か知っている競争に勝てる馬をみているからである。馬に詳しいのである。でも日頃はほかでは馬というものは見ないし馬に親しむこともないのである。

 

馬はもともと農耕馬としてあり曲屋で一つ屋根の下に飼って家族のようにしていたということもある。それで娘が馬と結婚したとかそういうことにもなる。子供でも馬を飼っていると犬や猫のように。ットのように親しむからである。それは確かに精神的にいい作用はある。今はみんな機械時代であり機械と親しでも生き物と親しむということが少なくなった。生き物と親しむということはやはり情感を育てるのである。だから精神的に子供に影響して情感豊かな人に育つということもありうる。

 

●神社は戦の神にもなる

 

ともかく何か380騎だと迫力に欠けていた。神旗争奪戦はもっと少なくなって迫力に欠けていた。ただ相馬野馬追の太鼓を聞いて盛り上がった。太鼓は外に響く力強いものを感じる。日本は太鼓はもとからあった。何か進軍するとき太鼓をたたいていた鼓舞した。神社は戦勝を祈願するものでもあった。

 

だから武田信玄の映画で巫女や神主の神主などが先頭に立って。戦う。神社はまだ戦いの神でもあったのである。だからこそ太平洋戦争では必ず村の小さな社でも戦の勝利を願うものでもあった。ある。寺は?ない寺にはないでも寺町とかあるとそれは防御のためにあったらしい。つまり戦国時代ともなればやはり寺でも。地域と一体となり守らねばならないから、そうなった。

 

ともかく。相馬野馬追とは300年続いて維持されてきた。相馬藩では殿様は変わっていない。国代えがない、それで相馬藩政記というのが殿様も変わらず300年継続しているのでそほかの人が学者でも参考にしているのである。記録としてやはり優れているからそうなった。

 

●小高の御家の旗は北郷から今年は出なかった


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今日もとにかく暑かった。でも何とか報告するために行った。これが金にならないが仕事になったからである。夏の雲が雲の峰となって高くなっていった。また別な方向に雲の峰は高くなった。野馬追の時はこういう風景が似合っている。広々とした雲雀が原に小高郷、中の郷(原町)、北郷(鹿島区)、宇多郷(相馬市)が主に結集する。それに加えて浪江参加する。ただ大熊や双葉まで相馬藩なのだが主流はそこになる。


それで前は鹿島の北郷から御家の旗印が出ていた。それは今年は小高から出たのだろう。旗取りには出ていた。でもその小高の人が震災後鹿島区に移住して御家の旗でで出ていたのである。でも今回は出ていな。おそらく小高え出たのだろう。歴史の保存というとき本来そこに住んでいた侍が別なところに移住して住むと歴史が別なものになってしまう。

 

だから歴史の野馬追が歴史の保存というとき人の移り変わりが移住などが多いと成立しなくなる。先祖代々のものとして伝えられる。でも相馬藩では天明の飢饉などの時に三分の一も人口が減った。その穴埋めをしたのが越中からの移民なのである。その人たちは別に侍でもない。でも1/3も移住したということは影響が大きいものだった。

 

越中から移民した人たちはわかりやすい、墓地を見れば必ず墓に戒名はなく南無阿弥陀と記されているからである。

でもその人たちは野馬追には出ない、鹿島区から只野氏が菊の紋でで出るのはもともと南朝の侍でありそれで相馬氏に組み入れられた。南北朝の戦いで霊山が炎上して落ち延びた。人たちであり元々武士だったからである。

 

いずれにしろ380騎では規模的に迫力にかけて野馬追も維持できるのかとなる。でも歴史の保存にこだわれば何か変えたり付け加えたりできない。するとどうしても維持できなくなるかもしれない。だから何か工夫としては震災大津波で空き地化したところが多い。そこはもう田畑にはならない。するとそこを何に利用するのかとなる野馬追があるからその広い土地を牧場などに利用すれば適しているとはなる。ただ、牧場にするにしても競馬馬飼うということになるかもしれない。

競馬場で働くようになった野馬追に出ていた家の人がいたからである。

 

●野馬追太鼓が盛り上げた


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今年は野馬追の太鼓がよかった。戦いを鼓舞する太鼓だったのだろう。それが響きわたった時気持ち良いものだった。太鼓の音はまた太鼓を叩く人は何か近づ力強いものを感じたからである。そういうことで何か祭りに新しく付け加えるものが必要なのである。でもそれが歴史の保存にこだわると必ず拒否されているのである。もちろん歴史の保存は必要なのだがそれに付け加えるものがないと維持できなくなるかもしれない。それが380機しか出ないということで今回感じたのである。

 

なにか野馬追には付け加えるものが必要である。相馬流れ山の歌は軍歌である。でも太鼓でも踊りでも何か付け加えないと盛り上がらず維持できなくなる。歴史の保存にばかりこだわるとそうなる

それで遠くからきた人も野馬追は一回見て終わりだなる

 

とにかく暑かったがどうしても取材しなければならないので行った。何かプログでも記者のようになる。だから苦しくても取材に行かないとならなくなった。別に金もらっているわけでも強制されているわけでもない。ボランティアの記者になっているから無理して行ったのである。熱いのは暑かったがそれほどバテなかったので取材できた。 ただ」写真はもうまくとれてはいなかったのは残念だった。



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2023年07月29日

北郷(鹿島区)での野馬追祭りの儀式 (野馬追は侍の子孫しか出れない歴史の保存の祭り)


北郷(鹿島区)での野馬追祭りの儀式


(野馬追は侍の子孫しか出れない歴史の保存の祭り)


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総大将も只野氏である

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蝉鳴いて年に一度の御行列



一際に杉の旗印只野氏や南朝の末北郷の要


一同に会して相馬の殿迎ゆ法螺貝響き勇みけるかな


北郷に集う侍面々に神酒(みき)を賜り出陣かな


法螺貝の鳴り響くかな炎天に浜風にそ旗のなびきぬ


北郷に古式ゆかしく宇多郷と出陣するや儀式変わらず


街中に馬いななきてその声の馬なおを生くと響きけるかな



北郷に(鹿島区)に宇多郷の侍を迎える儀式が行われた。この儀式は変わらないのである。だから野馬追を見に来た人で歴史に興味がありこの儀式は変わらないから見たい来た人がいたのである。やはりそこまで興味を持つ人は歴史に興味を持っているのだろう。時代劇ではこうした儀式は作られる、脚色されて本当の歴史ではないのである。


野馬追の特徴はこうして歴史の保存だから勝手に変えられないのである。だから野馬追に出る家はもともと侍の家であり。甲冑とか旗が旗が伝えられてきた古い家なのでそのほかの人はそういうものは伝わっていないから出れないのであ。そのことで歴史を伝えるということで価値がある。


でも逆に参加できるのはもともと侍の家でありそのほかの人たちは参加できない。ただ見るだけなのである。だから野馬追は全員で盛り上がるということができない。そこに問題があるのだがそういう祭りだということである。別に青森のねぶた祭りなど旅行者でも簡単にハネトになれる。誰でも祭りに気軽に参加できるのである。 


北郷の鹿島区の歴史は南北朝の戦いで霊山から落ち延びた人たちの子孫のが鹿島区を形成している。その旗印は杉の旗印であるから分かりやすい。それもそれもいくつか行列に出ていたからである。 

その基は郡山市の多田野村から発していたのである。 ただ、どうして多田野村なのか?そこから先がわかりにくい。 そもそも野馬追は旗祭りというとき旗の種類が3000あるとか多様なのである。その謂れがわからないのである。いろいろ調べてみても探りようがないのである。

ただ杉の旗印はわかりやすい。


その他はいろいろあって、どういう謂れなのかわからないので。でも確かに一つ一つの旗にそれぞれの謂れがあったのだがそれがわからなくなった。またの由来は鎌倉時代までも遡る。西の方からその旗の由来があるからさらに分からな年に一回しかチャンスがない。旗の種類にしても多いからいい写真が撮れないということもある。でも何か野馬追というのは写真を撮るのにいいのである。だから写真を撮る目的だけで見に来る人がいるのである。ある人は80万のレンズを使っていたのである。カメラと言うのはレンズの方がそういう風に高くなる場合がある。野馬追は被写体としていいのではある。?


でもその機会は年に一度しかないシャッターチャンスは無い。カメラに凝ると性能もあるがいかにシャッターチャンスをとらえるかである。特に動くもの鳥などでもそうである。シロチドリを撮れたやはりここに住んでいて撮りやすいからである。遠くに行き何か珍しいものを撮ろうとするとなかなか出来ない。 また、動画を取るにしても結構疲れ写真を撮るにしろ、動画を撮るにしろ結構な労働になるので。今日は特に熱かったからぐったりとしたのである。とても明日の雲雀が原での神旗争奪戦には行けない。異常なな暑さだからである。こうなると熱中症で倒れる人がいるかもしれない。鎧兜をかぶって重いのだから余計にそうになる。



posted by 天華 at 18:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2023年07月07日

野馬追い迫るー南相馬市、鹿島区に旗が立つ (霊山城から落ち伸びた南朝の只野氏一族)



野馬追い迫るー南相馬市、鹿島区に旗が立つ


(霊山城から落ち伸びた南朝の只野氏一族)




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この御家は小高の人が原発事故で鹿島区に移住した、それで旗もでている
これは歴史に忠実ではない、もともとは小高に最初に相馬氏が城を築いた
だからこそ相馬氏の基であり御家なのである

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ノウゼンの通りに咲きて野馬追の旗の立つかな風になびきぬ



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菊の紋二つそろいて坂のぼる南朝の末裔誇らしきかな



菊の御紋は南朝の旗であり只野氏と菊池氏の旗でありわかりやすい、南北朝の争いは日本全国に深い傷痕を残した。

なぜなら明治天皇は南朝であるというのもそうである。南朝こそ正統とされたからである


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秋葉神社は多田野村から霊山城が炎上し落ち伸びた時にもたらされた神社である

だからふるいとなる。最近その子孫で神社を守っていた人は死んだ








野馬追の旗が町に掲げられた。 野馬追は旗祭りでもある。その肌の紋様は3000とか多いので。そのは他の文様もう皆違っているのでそれが気になるのである。それにも謂れがありそれを全部知ることはできない。


鹿島区だと霊山城から落ち延びた郡山市の多田野村に発する只野一族が先祖となっている。だから鹿島区は50人くらいの只野の姓の人がいるのである。この多田野氏は杉の紋様である


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三輪山神社(大神神社)神紋『三本杉』と『三つ鱗』 | 毎日の積み重ね (ameblo.jp)


三輪山は山自体が御神体であり。山に向かって祈るのである。その中で杉は千年とかの樹齢ものものもあり神聖なものとされたのである。

縄文杉などがそうである。それは木材として利用されるものとは違っている。自然のままの木なのである


野馬追の旗印を知るには相馬市がこの地を支配した相馬氏は馬を操作することに長けていた。それで騎馬軍団を形成して強かったのである。それで伊達氏とも戦ったのである。 

相馬氏の領地は最初は小高に来てそこに城を築いた。だから最初の中心地は小高なのである。その後浪江とかに拡大したのである。

でもその中心地域は相馬市。南相馬市(鹿島区。原町区。小高区)になる。宇多郷(相馬市)、北郷(鹿島区)、中の郷(原町区)、小高郷である

それで神社の旗は三色旗は小高神社ー太田神社(原町ー中の郷)ーそして宇多郷(相馬市)となる。原町区の雲雀が原に神旗争奪戦でこれらの郷が結集するのは壮観である。その前日に北郷で宇多郷から殿を迎えて合流するのである。


相馬野馬追は歴史の再現であり野馬追には武家の出でないと行列には出れないのである。勝手に誰でも参加できないのである。

相馬藩の特徴は主君が代変わりしても相馬氏であり変わらなかったのである


三春城を築いた田村氏は、三代80余年で終わり、その後、伊達政宗の勢力圏に入りますが、やがて田村全域が会津領となり、三春城は、本城若松の支城のひとつとして城代がおかれるようになりました。

城代(主君に代って城を守り、命令を伝える者)や城主も目まぐるしく変わりました。

やがて江戸時代になり、正保2年(1645年)秋田地方に勢力のあった、秋田実季の子、俊季が五万五千石で三春城の城主となり、以後11代約220余年間にわたって、奥州三春藩として徳川幕府外様大名として幕末まで続きました


相馬藩の場合はこのように城代が変わらなかった、相馬氏によって受け継がれてきた、それは日本の歴史ではめずらしいのである。それで相馬藩政記は記録として貴重なのである。一貫して相馬藩の継続した歴史を記したものだからである。それで学者も参考にしているのである。

そして今も野馬追には相馬藩の殿様の子孫が大将となって野馬追に出るのである。つまりまだ殿様が現実に活きているとまなっているのである。殿様を家臣一同迎えるとき再興に盛り上がるからである


とにかく野馬追は旗祭りでもある、でもその旗の由来を解き明かすことは至難である。霊山で北朝に敗れて落ち伸びた只野氏は歴史としてわかりやすい、その他はわかりにくいのである。そもそも旗の由来は鎌倉時代とかにもさかのぼるから解明できなくなる

でも野馬追は忠実な歴史の再現であり勝手に由来も明確でないものは出れない、勝手に旗も作れない、先祖伝来の旗生とかっ甲冑を身につけて参加できるものだからである


ただそこにどうしても全員地元の人でも参加できないから盛り上がらない、そもそも野馬追に出る家は限られている、500騎出たとしても全体からすれば極一部になるからである

ただ歴史の忠実な再現だから変えられないのである

だからそもそも地元の人でも限られたわずかの人しか参加できあないとなればそこに限界がある。ただ見ているだけではつまらないとなる

そこで地元の人たちでも何か盛り上がらな理由がある


野馬追い関係の記事

http://musubu2.sblo.jp/category/701974-1.html


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2022年07月27日

相馬野馬追いは維持できるのか? (歴史の保存の祭りであり新しいものが入れない問題)


相馬野馬追いは維持できるのか?

(歴史の保存の祭りであり新しいものが入れない問題)

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3年ぶり通常開催 相馬野馬追 14歳と49歳それぞれの「初陣」
https://www.youtube.com/watch?v=C-NePWYrryo&ab_channel=TUFchannel

伝統文化の継承・発展も、この『変化を受け入れる』ことがキーポイントだと思います。その文化が持っている価値を継承しながらも、それを提供する技術や表現方法などの手段は時代に合わせて変化させることが必要と感じます


野馬追いも伝統文化の一つなのか、歴史の再現であり歴史の保存でありそこに意義がある文化というのとも違っている、ただ確かに侍の時代の再現ではあるが文化とも違っている伝統文化というとき俳句とか短歌は今にもつづいている伝統文化である
これがなぜつづいているのか?俳句だと四季があり季語が必ず入っていないと成り立たない、季語の文化である、それは日本の四季があり風土があって生まれたものである
その風土が変わらないから俳句がありつづけた、でもその表現には限界を感じる
短すぎるからである、短いことがいいにしても限界を感じる
それで一応短歌は長いので生き残るのかとも実作者としてはみる
ただ写真と俳句が合体した写俳の分野が生まれたのは現代的である、現代はデジタルカメラやスマホで写真が日常的なものとしてみんな使用しているからである
そして俳句は正岡子規の写生俳句が主流であり私自身もそれを基にして創作している
写生とは写実であり見たままをありのままを俳句にする、だから写真と相性がいいのである

伝統的文化でもそこに必ず新しいものを注入しないと衰退して維持できなるなる
歌舞伎とかあってもそれは一般の人は関心がない、でもドラマはみんな関心があり今ではテレビドラマを見る、推理ドラマが面白いのである、このドラマはyoutubeなどでは作れないからテレビでもこの部分は生きつづけると思う、また時代劇も面白いが今はいい時代劇が作れていない、それで過去の時代劇をBSで見ている
こういうふう何事時代によって変化する、でも時代によってでも変化しないのもあるし
変化しないことで重要なことを伝えることもある
それで相馬野馬追いで宇多郷(相馬市)と北郷(鹿島区)が合流する儀式がありそれは
古式にのっとたものでありそれをわざわざ見に来た人がいたのである
その人は地元の人より野馬追いに興味があり詳しいとなる、かえって外部の人が関心をもつことがある

ただyoutubeでも野馬追いに外部から新規参入する人のことを放送していたがそれがいかにむずかしいかを言っていた、もともと新規参入は野馬追いではできない
代々甲冑でも旗でも家伝として残されたものであり勝手に使用できないのである
何かそこは非常に厳しいのである、それは歴史をそこなうからそうなる
だから相馬野馬追いは何か新しいものを注入しにくいのである
歌舞伎でも代々世襲であり外部からは入ることができないのともにている
そこにかえって限界があるともなる、新しいことができないからである
相馬野馬追は見る人と見られる人に完全に分かれている、地元の人でも参加できないのである、今回のyoutubeの放送は特別許可されたもので参加したのである

でも原発事故で小高郷が避難区域が離散した、すると野馬追いに出る人も避難した人がいる、浪江でも野馬追いに参加していたが避難した人がいる
その一つが小高から鹿島区(北郷)に移住した人がいる、その旗が「御家」だったのである、もともと小高郷の人だったが北郷のものになった
そもそも北郷とは小高に相馬氏の城が最初に築かれてそこから見て北だから北郷に成ったのである、小高がもともと相馬藩の中心だったのである、その後に原町の牛越城とかに移り相馬市に移ったのである
だからこうしてそもそも歴史の保存がむずかしいかわかる、時代が変わり不測のことが起きて歴史が維持できなくなる、また新しいものを注入しないと維持できなくなる
地元でも何か毎年同じであり不満も多いからである
それはみんなか参加できないものだからである
青森のネブタ祭は誰でも衣装を借りてハネトになることができる、参加型の祭りだからである、そこでは民衆の熱気があり祭りが盛りあがるとなる

野馬追いの見方の一つとして視点として侍に注目しているが実は馬が注目される祭りなのである、馬はもう見かけない、馬を見るのはテレビで見る競馬くらいなのである
馬は日常から消えたのである、でも戦前までは馬は農耕馬としてあり活きていた
それで農耕馬が野馬追いに出ていた、それは競馬の馬ではないから細身でなくとても早く走れる馬ではなかった、今は10万で競馬の馬を借りて野馬追いに出ている
確かに早く走る馬を見ると迫力がある、でも馬と人間が一体だった生活は喪失した
それで馬にまつわることは伝説化してしまった
馬を身近にみることができないのである、接することもできない
でもこの辺では野馬追いがあるために馬を飼っている、だから馬に親しむとういことはある、少女が馬の顔をなでるとかしていた、そうして馬と親しむと情緒が養われる
ペットのようにもなる、そうして曲がり家で馬と一緒に暮らしていて馬と結婚した伝説が生まれた、それだけ馬と人間は一体だったのである
その馬にしても大平洋戦争では軍馬を使っていて馬を飼っていた
太平洋戦争だと馬に乗って兵隊が南京とかに入場する写真が残されている
馬がその時は軍馬として活きていたのである
だから軍馬を祀った寺もあった、また馬頭観世音が本当に多い、これも馬で物を運んでいたからである
それでいたるところに馬もご苦労様でしたと供養したのである
それだけ馬とのかかわりが日常的にあったからそうなった

つまり野馬追いというとき侍に注目するが実は馬も生き返る祭りなのである
だから馬がいななく声をこのとき聞ける、馬が主役にもなる、それで雲雀が原でも馬があれだけ結集すると壮観になる、戦国時代を彷彿とする絵巻物となる
必ず落馬する人もいる、馬が必ず勝手に走り回る、落馬は必ず交通事故のようにあったからだ、野馬追いの維持とは馬が生き還ることであり馬の祭りでもある
そこに注目すると必ずしも人間側の侍にだけ注目するのではなく馬に注目する
馬を活かすことになる、ただ今馬が活きているのは競馬だけなのである
これはギャンブルでもあり日常的には馬は活きていないのである
だから何らか馬が活き還ることも考慮すれば祭りとして維持できるかもしれない
それををとするのかとなると小高とかでも荒地化した所に馬を飼うとかする
そこで馬が駆けているのを見ると気持ちいいとなる

何か馬と言う時、私は電動自転車に乗っている、これはいいものであり悪路でも行く
馬力がある、だからある程度馬にも似ていると思った
神旗争奪戦で旗をとり本陣めがけて一気に馬で登る、あそこは迫力がある
あのような坂道を馬が良く登れるなと見る、馬はそういう能力がある
マウテンバイクとも似ていると見たのである
ともかく野馬追いは果たしていくら歴史の保存でも維持できるのか?
千年つづいたとしても維持できのか?やはり侍だけの祭りではない、民衆が参加しないと維持できないのではないか?
新しいものを注入しないと維持できないのではないか?
それは地元の人達も思っていることである、でもそれがむずかしいことはyoutubeの放送でもわかる

例えば旗でも新しい旗を作ってもいい、会社の旗でも何か新しい旗でも作る
古式にのっとるものと歴史を保存するものと併用する、そして馬が活き還る祭りとして
伝える、だから確かにモンゴルとかアメリカでも牛を追う馬に乗ったカーボイいてそれらと共有するものがある、外国にしろ馬とかかわりが深い、でも馬というのは世界的にも
活きる場がなくなったのである、移動するもにも車であり馬は必要なくなったのである
だからこそ馬を活かす場が必要でありそれが野馬追いだともなる
そういう視点からも野馬追いは見るべきだとなる、そこに野馬追いを維持するコンセンサスがあるともなるからだ

今回の野馬追いは350騎は少なかった、普通は450から500出ていた、100少ないと何かものたりなくなる、迫力がなくなる
野馬追いを維持できるには約500騎が必要だとなる、神旗争奪戦でも少ないから迫力がなくなる
でも数を維持することもむずかしい、小高区が原発事故で離散したのでその影響もあった
浪江でもそうである、原発事故は何か家の歴史とか相馬藩の歴史も断つような大きな影響があったのである
その象徴が小高区の「御家」の旗だったのである、それはもともと小高に住んでいて歴史を継承できるものだったからである
こうして歴史を保存することはいろいろ変化するからむずかしいものになる

旗とりて一気に上る本陣へ馬とともにし誉れなるかな

人馬一体であり馬も誉れを受けたのである、それが野馬追いなのである、神馬も出るから馬祭りでもある

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2022年07月26日

相馬藩内の姓 (日本人の姓は村の地名に由来している)

相馬藩内の姓
(日本人の姓は村の地名に由来している)

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●日本人の姓は地名に村の名に由来している

日本人の姓はほとんど地名に由来している、村の名前に由来している
日本人の姓をたどると必ず地名に行きあたる
只野の姓が鹿島区とかに50軒もある
その由来は明確である、南北朝の争いで南朝の城となった霊山が炎上して逃れてきた
落武者がその基となっている
その只野一族はもともと郡山市の多田野村に由来していたのである
だから姓を辿れば必ず村の名とか地名に行きあたるのである
姓はまたかばね{屍}であり死体のことでもあった、つまり先祖と深く結びついてるのが姓なのである

相馬藩の起りも相馬氏に由来している、その相馬氏は相馬という地名がありそこを根拠としていた、千葉県でありその辺でまだ開墾されない広い荒野がありそこに野馬がいてその野馬を捕まえて馴らして軍馬にしたのが相馬野馬追の始まりである
日本人のアイディンティティが村にあるというときそうである
相馬氏でもここに移住してきたとき今の相馬氏は中村に土着したから中村と姓が変わったのである、だからもともと相馬という姓が中村に変わった
そういうことが多いからその出自がわかりにくくなる
不思議に郡山市の多田野村の近くに小林村がある、すると小林とは多田野村の近くから出てきたのかとなる
ただ私の家は父親が葛尾村から出たことはわかっている
でもなぜ小林になっているのかわからないのである

地方を開拓するために展開した藤原氏、源氏、平氏等に出自をもつ武士が誕生していました。この頃の武士では武蔵七党が有名です。その武士たちも公家と同じく姓を同じくするものが多かったため、区別がつきづらくなっていました。そこで、武士たちは自分たちの領地・名田(みょうでん)を守り、かつ明確にするため、自分の支配する土地の地名を名字として名乗ったのです。

苗字帯刀(みょうじたいとう)」であり、苗字が身分の象徴になったため、武士等の特権階級や一部の庶民(庄屋・名主)を除いて苗字を公の場で名乗ることができなくなってしまいました

商人や農民の中でも、元々武士の家が帰農した場合には苗字があり、上層の農民も苗字を持ち、商人も名字に「屋」をつけて屋号にしたりしていました。あくまで苗字を公に名乗ることが許されなかったのであり、苗字を持つことが許されなかったわけではありません
https://ka-ju.co.jp/column/myoji#anc-7

●姓にまつわる物語

明治になって名字が名乗れるようになったことは重要な歴史である、江戸時代でも庶民の墓はない
墓にしても個人の墓であり殿様の墓にしても一人の人間の墓となる
家族墓は明治以降に法律化されてできたもので新しいのである
天皇を親として家族でまとめて赤子とする明治の政策でそうなったのである
それで誰でも名字を名乗ることができるようになった、しかしその由来はわからない
庶民の姓は・・・屋が代わりになっている、屋号である、今でも自分の家で店をしていたから屋号で呼ばれるのである、それは近くの古い農家でも屋号で呼ばれているのである
江戸時代で農民で個人の墓はないが幕末頃になると個人名の墓が作られた
百姓の名前が記されているからだ、それで得意なことがあった
その頃経済力がついて百姓でも墓を作ったとなる

相馬藩だと侍の名字は相馬野馬追の時に目立つ、旗印の下に名字と名前が記されるからである、名字というときこの辺では鎌倉から移住した岩松氏が有名である
岩松氏は領地を広げて飯館村まで領地として支配したのである
その岩松氏の支配になったことでその名残りに地名が残っている、千倉とか街内の御前の内とかがそうだろう、それは鎌倉時代のものだから古いのである
そしてその家来の日里、中里、島、蒔田に惨殺されたのである、幼児まで殺されたのでひどいとして伝説としてより明確な事実として語り継がれたのである
後に日里は郡に変えたのである、祟りを恐れたからである、この姓は相馬藩内で残っていて結構子孫は反映して残っているのである、別に祟りがあって後がつづかないということでもなかった、姓は歴史を語る、名前はその個人を語る、でも名前だと連続した歴史がわかりにくいのである、でも胤と必ず相馬藩主の殿様についている、それは連綿としてつづいている、そう相馬野馬追がつづいているので殿様がまだここでは活きているのである

ただそれを言うと現実にその子孫が生きているので語りにくいことが500年過ぎてもある、地元では悪いことは語りにくいのである
それで郷土史は悪人がいないからきれいごとになっているから面白くないと指摘していた人がいたのである
岩松という姓は一族が断たれたので相馬藩内にはない、これが如実に歴史を語っているのてある
もう一つ相馬藩内で姓で大事なのは越中などから富山県などから飢饉で三分の一の人口が減った時移住してきた人達である、その姓はわかるからその末裔だとわかる
墓だと南無阿弥陀仏としか記されているのでもわかる

岩松氏の伝説
http://www.musubu.jp/kashimamanonado.htm

●「御家」の旗は小高から鹿島(北郷)に人が移住しため

ともかく野馬追いで鹿島区(北郷)から出た「御家」の旗に違和感をもったのは
もともと小高の侍の出であり北郷ではないからだとなる
どうして違和感があったのかというと江戸時代の封建時代は土地と人間が一体化していた封土とは土地を納めてそこから年貢をとる仕組みのことである
だから土地と一体化して人々は侍に支配されていたとなる
農民社会だと土地が一番大事だからである、だからこそその土地の名前が村になり姓名となる、その土地から離れて人はありえなかったのである
それで「御家」の旗印が鹿島区(北郷)に移った時、小高という歴史的土地から離れたことで違和感をもったのである、もともと小高にあってこそ歴史的存在として価値をもっていたからである、ただ相馬藩内であれば依然として歴史は共有されて活きている

でも原発事故で小高ら避難した人達は相馬藩内に移住したとは限らない
相馬藩外に出るといくら侍の出であり甲冑とか旗印が伝えられても価値がないとなる
そこに原発事故がいかに歴史を断つような過酷なものとなったかを知るのである
他でもこの土地に生きた歴史を消失しているだろう、家も一つの歴史を語るからである
でもその土地から離れた時価値がなくなる
日本人は土地の一体感が強いからそうなる、土地とアイディンティティ化しているからそうなる、それが文化でも作ってきたからである
先祖を大事にするというときその土地の先祖なのである、他の村とかの先祖ではないのである

●外国人の姓

でも大陸の遊牧民とかなると土地とは余り関係ない、一定の土地に定着しないからであるそれで姓はあくまでも血縁であり氏である、土地に由来しないのである
ロシアでウラジミールプーチンとか言うけどウラジミールという姓の人が多くいて一族だということがわかる、つまり名前は多様でも姓は限られているとなる
それは韓国でも中国でも例えば李という姓があるとすると大勢の李氏がいる
韓国では李朝鮮ともなっていて李一族が国家にもなっていたのである
中国でもいろいろ姓があっても限られている、中国は農耕民だとしても日本とは違いやはり大陸文化を受け継いでいるから姓は村の地名にはならないのである

Влади мир 「世界を征服せよ!」ですかね。
ウラジスラヴァという名前もあり、そちらは「名誉を征せよ!」ですね。
都市のウラジオストクは「東方を征服せよ!」という意味です。

やはり大陸的だとなる、常に大陸では征服せよになるからだ、まさにプーチンがそうである、征服せよとしてウクライナに侵攻したからである
大陸だと姓を見れば一族となりつながりがあるとなる、
そして外国人と結婚すると夫婦別姓になることが認められている、姓はそのままなのである、つまり姓とは歴史であり系統をたどるものなのである、名前にはそういうことがないのである、外国人の姓になったら日本とは別な姓に属することになりその国の歴史として組み込まれることにもなるからである
だから在日朝鮮人だと李とか多いがこれは韓国が一時李朝鮮となっていたことでもわかるし中国でもいろいろな国が群居していてその国の名が姓になっていることでもわかる

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相馬氏成田の武内(竹内)は墓も夫婦別姓である
武内と岸と記されている
江戸時代まで夫婦別姓だった、農民には姓がなかった
ここで嫁いできても実家の姓を残したのはやはり侍の出だったからだろう
姓はその家が有力な家だったら嫁ぎ先でもその姓が伝えられた

●片倉村の由来

片倉村は片倉辺の神が長野県の方で有名である、するとその神を奉じた人たちが相馬氏が来る前に土着していたのか、片倉という地名と大田という地名も相馬氏が来る前にあったとなる、他にも片倉という地名はありやはり神の名として残したのかもしれない
必ず人が移動するとともに神も移動するからである

南相馬市片倉村の由来
http://musubu.sblo.jp/article/48048119.html


片倉財閥の片倉家と北海道開拓を担った伊達藩白石城主の片倉氏の関係をネットで調べると《絹の道を往く 八王子編 Vol.6》に、両者の先祖は「諏訪湖で繋がっていた」と記述されていました。
http://hibinokizuki0126.livedoor.blog/archives/6340337.html

やはり2つの片倉は同一の先祖だったのです。実際に、現在の住所の伊那市高遠町藤沢に「片倉」という集落が存在していたといいます。諏訪大社上社本宮の裏手の神体山である守屋山の麓です。

また、伊達藩白石城主の片倉氏の家祖として「片倉辺命(かたくらべのみこと)」がウィキペディアに記されていました。「諏訪氏系図.続編」においては片倉氏の祖神といいます



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2022年07月24日

相馬野馬追い (雲雀が原へ結集ー神旗争奪戦ー御家の旗印が北郷から出たことについて)


相馬野馬追い

(雲雀が原へ結集ー神旗争奪戦ー御家の旗印が北郷から出たことについて)

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御家は小高郷の出の旗印である、でも北郷から出ている
それは小高から鹿島区(北郷)に移住したためなのである

五輪の塔が先祖だから似合っている

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原町区北高平に立った旗印

高平は越中からの移民が入った地域として知られる
でも野馬追いの旗が立っていることは相馬氏に連なる古い家である
相馬野馬追いとか相馬の歴史を知る時、野馬追いに出る家を知ることが大事なにる
でもそれが広いしわからないのである
野馬追いに500頭で出たとしても所帯数にする何万もありわずかしか野馬追いには出ないのである
それがあんなに数が多いからと錯覚するのである
実際は野馬追いに出る家は全体から見ればわずかなのである


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揚羽蝶の紋は平家になる
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甲冑競馬
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片倉村から太田神社に向かう途中に鷲宮神社がある


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殿様の帰るのを迎える侍たち




旗印陽射しの強く映えにけり

旗印風の文字なれ風なびく

御行列続く長さや暑しかな

伝来の旗印も古る歴史かな

雲雀が原馬いななきて蘇る

蝉鳴いて甲冑競馬や一周す

馬走り馬も喜ぶ三年ぶり

旗印家の誉れを担うなれ

野馬追いや落馬二人に終わりけり

御家また帰り馬かな北郷へ


勇み入る雲雀が原へ従えぬ相馬の殿や誇らしきかな

旗とりて一気に上る本陣へ馬とともにし誉れなるかな


今回の相馬野馬追いは三年ぶりだったのか、集まった馬は350頭である
普通は最高で500頭でありそれに近い数字を出していた
だからずいぶん少ないと見た、それでも結構長く感じられた
野馬追いは出るにも金がかかる、まず野馬追いに出る馬を一年中飼っている人がいる
するとそれは結構な出費になる、ただ馬が牧に飼われているのはこの辺の風景としてはいい、第一今は馬に接するというとき競馬くらいしかないのである
牧場で少女が馬の顔をなでるとかするのを見た、それは子供の時から馬になじんでいるのである、そういうふうに育てば馬を怖く感じないとなる
それで馬が農耕馬として飼っていたとき馬と結婚した女性の伝説がある
馬は曲がり屋で馬と一緒に寝起きしていればそういう伝説が生まれるのも当然だとなる
ともかく馬と人間が一緒にいる風景がなくなったのである
馬の代わりになったのが車だとなる

相馬野馬追いはそもそも祭りとしても参加型ではない、歴史の保存として維持しているのである、勝手に旗を作り庶民が出ることはできない、伝来の兜と旗印があり出れるのである、それで奇妙だったのは「御家」というのは実は小高郷に住んでいた人の旗印なのである、なぜ御家となるのか?それは小高に最初に相馬氏が城を作ったからである
小高が相馬氏の始まりである、相馬太田神社が起点となり小高に城が作られた
相馬太田神社が相馬藩の中心の神社ともなったのは相馬氏は片倉村の山の方から入ってきた、そこに八重米坂とか初発神社がある、山を越えて下り相馬大田に至った その途中に鷲宮神社がある
そこに相馬太田神社があり小高の方に進出して最初の城を小高に築いたのである
それから城は海の方の村上に一時作りそこは縁起が悪いとして原町の牛越城に移った
そこに五年間あった、それから相馬市に移ったのである
だから外から見ると誤解する、今城がある相馬市が城下町で一番古いと見るからである


だから奇妙なのは「御家」の旗印なのである、それは鹿島区に北郷に移りあたかも北郷の一員であったとように見える、現実原町の雲雀が原への行列でも北郷に入っているのである、このようにこれは歴史を誤って見ることになる
なぜなら相馬野馬追いは歴史と伝統の保存でありここでそれが原発事故で小高区が避難区域になって鹿島区(北郷)に移り住んだ結果なのである
ここに違和感を感じたのは相馬野馬追いは歴史に忠実であり歴史の保存を目的としているからおかしいと見たのである、勝手に誰でも参加できない、伝来の旗とか兜とかを伝えられている侍の出しか出れないからである
また鹿島区の北郷では本陣がもうけられて相馬市の宇多郷と合体して雲雀が原に向かう、その古式がここで行われる
それを見たくて来た人がいたのである、その人は相当に野馬追いに詳しいとなる、なぜなら地元の人でも知らないからである

御家で構成される、「旗本組」という部隊が行列して参加しなかった武士たちの待つ原町宿へ向かう
元禄12年の野馬追いの旗本組の備の構成人数だけで1000人を越えていた

特に忠胤は野馬追いの行事を大きく変化させた、鉄砲の奥義や武田流の軍学を積極的に取り入れ、備立や駆け引きをはじめている
約8000人の武士が参加する大規模な駆け引きが行われた

相馬野馬追の歴史から見る行事内容の確立と存続のためになされた様態変化

御家の意味はこういうことだった、旗本というとやはりエリート集団だった、だから誇りがあった
それにしても8000人が参加したというのは驚きである、それだけの侍がいたということになる
ただその当時は郷士であり侍であっても農業していた農家の人が侍になっていたのである
だから侍専門の人は少ない、旗本は侍専門の人達である

一般的には歴史にそれほど興味がなければ野馬追いはつまらないという人もいる、私は青森のネブタ祭りを見に行ったがハネトには誰でもなれる、祭りで地元の人達と一緒に踊ることができる
ネブタ祭りはそれで盛り上がるとなる、でも相馬野馬追いにはそういうことはないのである、だから相馬野馬追いは出る人と見る人に分かれている、参加形の祭りではないのである

そしてそもそも相馬野馬追いは旗祭りというときなぜこれほどの旗印があり多様なのか?
これが解明されていない、どういう由来なのかわからないのである
ただ芸術的デザインとして見るだけではない、それがどうしてその家の旗印になったのかわからないのである、例えば揚羽蝶の旗印があったとする、するとこれは蝶の紋は平家なのである、すると平家に連なる一族として相馬氏に仕えていてそうなったのかとなる
でもこの旗印は余りにも多様でありその出自とかが誰も解明していない
それを研究している人も見つからないのである、それは余りにも多様だからそうなる
その由来をたどることができなくなっているのた
その由来をたどると関西方面になるからである、千葉県に相馬氏の基があっても相馬氏でもいろいろな人が入って来たからである、武田信玄の六文銭の旗印があればそれは武田氏の末裔なのかとみる、武田信玄は織田信長に敗れて伊達藩にも入った有名なのは伊達政宗の重臣だった

大坂城が落ちるまでそこにいれば、豊臣方として男子は処刑され、女子も命が助かったとしても出家する他道はなかったでしょう。
それをなんとか助けてもらう方法はないかと、思い倦ねた幸村は、死の前日、伊達政宗の参謀の片倉小十郎景綱の嫡男、片倉小十郎重綱という人物に目をつけます。

自分の娘「阿梅おうめ」を、この片倉小十郎重綱に嫁がせよう。
義に厚い伊達政宗ならそのほかの子供達も守ってくれるかもしれない。

幸村は大坂城にいる子供達に手紙を渡し、伊達家の庇護のもとに命永らえて欲しいと願ったのです。幸村の願い通り、伊達家は子供達を徳川から守ってくれました。

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こういう話があり不思議なのはなぜ片倉村がありそこから太田神社につながっているかである、そして白石の片倉氏の紋は相馬氏と同じ九曜の紋なのである
他にも片倉という地名はある、この片倉の由来がわからないのである
伊達藩でも相馬藩でも争ったとしても戦国時代が終われば平和的に交わっていた
当然相互に交流もあり歴史が作られてきたのである

このように六文銭の旗印があれば真田幸村までたどることができる、でもこれだけ多い旗印の由来をたどることは不可能になっているのだ
そもそもなぜ片倉村になったのかわからないのである、片倉という地名は他にいろいろありわからなくなったのである
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何か旗でも古びたのがあった、いかにも古いから歴史を感じるともなる
ただ他は旗印はそのままでも新しく作り直している、今回の風という文字の旗印があり
デザイン的に見れば面白いと見た、なぜこんな旗印にしたのかその由来もわからない
また鯰の旗印もあった、それも不思議になる

ともかく「御家」の旗印はもともと小高郷から出たものであり小高の城が相馬氏が最初に築いた城でありだから歴史的に見ればふさわしいとなる
御家とはヨ−ロッパだとハウスブルグ家なのである、ハウスは家でありブルグは城だからである、一つの家が拡大したのがあれだけ大きな国になったのである
こうして相馬野馬追いはどうしても歴史を知る必要かある、そして相馬野馬追い祭りは
歴史の再現なのである、相馬藩が一つになる祭りなのである
祭りとは祀るとは死者を祀ることであり先祖を祀り先祖を偲びその時代を偲ぶのが祭りだとなる、時間がすぎるともう30年前でも時代がわからなくなる

本当に学生時代とか50年も過ぎるとその時の東京はどうだったのかとかわからなくなるましてや400年前とかなるとその時代を具体的にわからなくなりただ想像の世界ともなってしまうのである、でも相馬野馬追いは具体的に歴史が再現されることに意義がある
だから全員参加型の祭りとは違っているのである
日本の歴史を知る時やはり祭りは具体的に時代を再現するから知ることが欠かせない
それでフランスの人が日本の祭りを見て旅していたのである、それだけ日本には祭りが多いからそうなった、また神社が多いのはその土地の先祖とのつながりが残されているということなのである

ただ正直相馬野馬追いの旗印を知るのは容易ではない、参考になる本もないし研究している人もいないようだ、それだけわかりにくいからそうなった
今回は「御家」という旗印から歴史をたどったのである

とにかく今回は行列でもすいていた、だから写真とるには良かった、混み過ぎて前はうまくとれなかったからだ、野馬追いとは写真とるにはいいのである
その写真をとるにしても一年に一回しかチャンスがないから意外と毎年違った写真がとれるのである
それで写真が趣味の人はいい、実際に70万とかの望遠レンズを持った人が写真をとっていた,プロというものでもない、写真は写真機よりレンズの作用が大きいのである
だからレンズの方が写真機より高くなるのである、そしてレンズの種類がまた多いのである、その人の持っているカメラは10何年か前のであってもレンズがこれだけ高くていいものだから違っているのである、でもその値段には驚いた、金持ちは都会になるといるということである
posted by 天華 at 22:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2022年07月23日

二年ぶりの野馬追いを見るー北郷(鹿島区) (馬が蘇り活きるのが野馬追い)


二年ぶりの野馬追いを見るー北郷(鹿島区)

(馬が蘇り活きるのが野馬追い)


北郷本陣へ向かう

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これは只野家なのである、只野家は鹿島区に50軒くらいある
南北朝で南朝の城が炎上したときここに落ち延びた末裔なのである
郡山の多田野村が只野家の発祥の地なのである

旗の下に桔梗が咲いている

旗印只野一族桔梗咲く

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木槿が咲いているが似合っている
鹿島区は大きな街ではないからだ、回りが田圃なのである

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紫の母衣(こも)は副大将である

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大将の母衣が見える

この季節のうぜんが野馬追いに合う



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御家という旗は小高から移って来た侍の家なのである
原発事故で鹿島区に移り住んだ、でももともとは小高の人なのである
こういう変化もあったとなる、歴史的には北郷(鹿島区)の人ではないのである

とにかく野馬追いの時はのうぜんかずらの花が咲く、それが季節的に合っている




南相馬市原町区雲雀が原

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殿様のいる雲雀が原に神輿をみんなで持ち上げ登るとき一体感を感じるだろう
ただ今は会社員に頼んでしているのである
昔は侍がみんなでかついだ、神社の人達をもかついだ、そこに一体感を感じたのである

クリック拡大で鮮明に大きく見える




いななきあい鼻息荒く本陣へ

旗印木槿に映えて御行列

野馬追いやのうぜん熱く咲きて散る

杉の紋誇らしく立つ只野家に

旗印只野一族桔梗咲く

大将を迎えどよめく人と馬


野馬追いは二年ぶりだろう、人は集まらない、ウィルスがまた蔓延しているからだろう
人混みをさける、野馬追い行列見る人も少ない、
近くの只野家には杉の旗印の旗が立っていた、鹿島区だととにかく只野の姓が50軒くらいある、その歴史は南北朝にさかのぼるのである、南朝の霊山の城が炎上したとき落ち延びたのである、只野とか桑折の姓はその落ち延びた先祖なのである

野馬追いというとき千葉県に牧が多くあり野馬がいてそれが畑などに入ってきたりして
困るから野馬土手を作った、侵入できないようにした
野馬は誰かが飼っていたものが逃げたりしてそのまま原に野生化した
その頃まだ田畑でも開墾されない土地が多く原が多かったからである

昔の絵図を見ると広大な原が広がっている、そこは田畑に利用されていない、だから野馬になっても生きていける広大な土地があった、その後そういう原は田畑化していった
原町もそうである、もともと原っぱなのである、原町村があり一騎だげ野馬追にでていたその後雲雀が原が明治になり開墾に入る人がいた、外部からも来た、今の雲雀が原よりもっと広い土地があったからだ

野馬追いは宇多郷の侍が北郷で合流して原町の雲雀が原に結集する
小高郷からも集まる、飯館村が山中郷であり江戸時代から出ていたが今は出ない
ともかく馬というのがわからなくなった、馬を見ているのは競馬だけである
馬が日常的に生きていないときわからなくなった
馬とかは農耕馬もあり人間とともに生きてていた、馬と人間が一体となった曲がり屋もあった、馬は身近な動物だったのである、今は牛の方が身近な動物となっている
飯館村は牛の村で有名だったからである

北郷の本陣に馬が集まりいななきあうとき活気を帯びる、この時馬が活きるのである
人馬一体になる、今日は暑かった、これで危険なのは熱中症である
陽射しが強かったからである、写真をとるのも結構暑いと苦しくなる
野馬追いで不思議なのはいつも写真を撮ろうとするのだが必ず見逃してしまう
それは年に一回しかないから、撮り逃がしてしまうのである
だから野馬追いは写真撮ろうとすると飽きないとなる
その年年で違ったものになるからである
明日は雲雀が原に行き写真を撮るとなるのが結構暑いと熱中症が怖い
ただ人が少ないから写真をとるにはいいとなる、人が混んでいて写真をとる場が見つけられないかである

ただ8時ころから行かないと間に合わない、10時ころ行列が開始されるからである
野馬追いは田畑の中でも旗をなびかせて来る時などが絵になる、それを撮るのはむずかしいのである、毎年雲雀が原には写真を撮り来る人がいる、でも雲雀が原の中まで入るのは予約して許可がないと入れない、それは早い時期から予約して決めていないとできないのである、やはり写真を撮るというのは結構どこでもむずかしいし手間になるのである


posted by 天華 at 17:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2021年10月24日

雲雀が原で秋競馬 (今日は菊花賞であり相馬野馬追いがあるから馬に興味を持つ)


雲雀が原で秋競馬

(今日は菊花賞であり相馬野馬追いがあるから馬に興味を持つ)

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街道や松影なして秋の雲

駆けぬけ風さわやかに秋競馬

秋競馬鼻息荒く走り去る


雲雀が原で人が集まっていたから何か思ったら秋競馬だという
それは雲雀が原の中に入って見れるというから見た
野馬追いの時は中には許可かないと見れない、写真を撮る人は事前に許可をもらって入るその周辺では誰でも写真がとれる、写真をとるために野馬追いを遠くから見に来る人はいる

この競馬は旗はないからものたりないとなる、また5頭しか出ていなかった
でも相当に早かった、旗がないから早く走ったとなる
すぐ側を走ったから鼻息が聞こえた、そしてその速さが怖かった
迫力を感じるにはこうして実際に見ないとわからない

時速60キロのスピードを出すことができて、最高時速は77キロまで到達する、といわれています。

人間の最高時速が37キロですから、馬がどれほど速いのか、ということをご理解いただけると思います。

車が70キロとか60キロの速さで走り去るとしたら本当に馬でも怖い
そういうとき落馬したら死んで不思議ではない、その衝撃は大きい

階級社会から見れば士農工商の商、何の労働もしないで富をえるいちばん悪い儲け方だったので、当然ながら役人は馬の使用を許可しなかったのです。

これが、実際に馬を利用しなかった(できなかった)一番大きな理由です。

もっとも、日本も馬の去勢を取り入れていたら扱いやすい馬が増え、江戸時代には普通に馬や馬車を利用していたかもしれません。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7062952.html

野馬追いとかなると日本人は馬を駆使していたとみる、実際は違っていた
もともと魏志倭人伝にも馬、牛、羊なしと記されていてそのために日本をほど馬を使わない民族はいなかったのである、何かこれも歴史の錯覚である
華々しく合戦では馬が活躍するから馬を日本人は使いこなしていたようにみる
そしてこの辺では相馬野馬追があるから馬を使っていたのが日本だったように見える

そうなると相馬野馬追いのように馬を使うのはむしろ少ないから目立っていたともなる
なぜ相馬藩が伊達という大きな藩と対抗できたのか?
その謎は馬を使いこなしたからだとなる、藩は小さくても馬を使えば武器になりそれで強かったので対抗できたとなる
そもそも相馬野馬追いであれだけの馬が出ることが不思議だからである

何か歴史には常に誤解がある、日本で馬を使わなかったのは去勢することをしないとか
あとは家族で家の中に馬小屋があり家族のように扱ったとかで馬との付き合い方が違っていた、何かするとこれも日本の文化があり馬の扱い方も違っていたとなる
人間まで去勢した宦官がいるのが大陸だからである、これはイスラムまで大陸で広がっている文化なのである、だから人間を売り買いしたり奴隷にするのは大陸文化である
現実にヨ−ロッパ人がイスラム圏に支配されて女性でも奴隷として売られていたのであるこれも今になると信じられないとなる、奴隷にする文化が大陸では前からあったのであるそれはもともと遊牧民文化であり家畜文化があったからなのである
だから日本の歴史とかはその大陸から孤立しているから特殊なのである

今日は菊花賞だった、この競馬でも実際に馬場の中に入り近くで見たらその迫力がすごいだろう、テレビではそうした迫力が実際はわからない、本当の馬を知るなら大陸の草原で自由に走る馬を見ることである
私は中国の内モンゴルで馬にのった、その馬が小さいから全然乗馬の経験もないのに乗れたのである、そもそもあんな小型の馬で良くモンゴル帝国が作られ世界の半分を制覇したと思う、それも意外だったのである
歴史には実際いろいろ意外なことがあり誤解しているのである
まずモンゴル平原とか草原とかを理解できないからである
モンゴルで羊を飼うために一年で住んでいたという人と帰りの船であった

その人は冬は寒くて一回りやせたという、それだけ冬が厳しいのである
そのために床の下に馬糞などを燃やして温める、オンドルと似たようなものを使っていたとかなる、そのオンドルは韓国でも使っている、それはあたたかいである
そのオンドルも日本に伝わったのだが広がっていない、近江でそのオンドルの跡が発見されたからである、日本では気候風土の相違で大陸から伝わっても渡来人が伝えてもそれがみんな定着したとはならないのである

この競馬を見て昔の浜街道の道を行くといい松がある、あの松は前らか注目していた
その松か影なして秋の雲が浮かんでいた
あそこの真っすぐな道は原町の宿場町だったのである、その絵も残っている
原町は大きな宿場町であり駅前通りは鉄道が通るようになってできた街なのである

それで江戸時代以後に明治になって戦後も雲雀が原の近くで開墾した人々がいたのであるそんなところで開墾したというのも今になるとわからなくなるが畑にする土地がなくてそうなった、特に戦後は大量の戦争の引揚者がきてその人たちは職がないからどんな不便な土地にでも入って開墾したのである
だから鹿島区の街のすぐ近くの小池にも開墾した場所があった、そんな近くでもそうなのかと驚く、それだけ仕事がないから食べるためにそうなったのである
雲雀が原でもその近くで畑にしたのもはそのためである

この辺では相馬野馬追いがあるから馬に興味を持つ、野馬追いのために馬を飼っている人がいるからだ、侍の子孫がいるからである、それでその馬で競馬で賞をとった馬が飼われていた、その馬を見るために見に来た人がいたのである
競馬で使いなくなった馬は馬肉とされるとかありかわいそうだとして飼っているとか放送があった、賞をとったような馬はそういうことがある
でも今日菊花賞で7千頭から選ばれた馬だと放送していたがそういう大舞台に出れるのはそれだけえりすぐれた馬だった、そこに出るだけで特別の馬だったのである

posted by 天華 at 18:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2021年08月03日

今年も野馬追話なし(北郷の旗ー只野氏の旗)


今年も野馬追なし(北郷の旗ー只野氏の旗)

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鹿島区(北郷)に只野の姓は多い、杉が旗印であり多いことがわかる

仁とあるのは同じ系統の親戚なのである,多田部ともあるが本は只野だったと思う


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川の側の保育園の所の新しい家に入った人

どこから来たのか?鹿島の北郷にもこの紋があるにしても他でもこの紋は
多いからわからない、ここには移り住む人が多いからだ
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井形の紋は多い

野馬追いの旗印の由来 (井形と升形の紋ー原町区の古い農家をたずねて探る)
http://musubu.sblo.jp/article/176728425.html

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菊の紋の南朝の旗が見える

クリック拡大






南相馬市の鹿島区の北郷の野馬追の旗の中心は只野氏の旗である
只野氏は郡山の多田野村に由来して霊山の南北朝の争いで鹿島区に落ち延びた
江垂村の小高い山が中館としてありそこに居を構えたのである
とにかく鹿島区は只野氏の町というくらい只野姓が多いのである
電話帳を見れば50軒くらいが只野氏になっている、漢字は違っていても只野氏なのである
その只野氏の中心となるべき人が鹿島の街の中に住んでいた、同級生だったので意外だった、江垂村のお浜下りで重要なおつづら馬という役職を担っていた
荷物を馬にのせて運ぶ役である
街というときあまり古い家はない、後から入ってきた家が多いのである

野馬追というとき旗とか鎧を保存されているのは農家の方だからである
相馬市でも原町市でも街内からはほとんど野馬追いには出ないのである
それで原町が原町村があり一騎野馬追に出ている
雲雀が原はもともと野馬追いの原であり馬を放牧していた
だから原っぱだったのである、街が大きくなったのは常磐線が開通して駅前通りができて大きくなった
戦後雲雀が原とかでも開墾したらしい、鹿島区でも小池で戦争の引揚者が開墾した
そこは街から近いのである、飯館村の辺鄙な所ではない
とにかく仕事がないからそんな不便な所に開墾して暮らしていたのである

相馬藩では相馬市の城下の城勤めする侍は少ない、農業もしていた郷士が多い、その郷士から野馬追いにでる、だから街内から野馬追に出る人はまれなのである

あと目立つのは菊の紋の旗であるがこれは南朝の旗なのである、天皇は明治でも南朝を継ぐとしてあり南北朝の戦いでは南朝についたからである
それで鹿島村に南朝の菊の紋の旗がある、それは菊池氏になっている

ただ鹿島区に北郷から「御家」という旗が出るのは小高の人が原発事故で移り住んだからである、もともと御家という旗は北郷にはなかった
小高は相馬市が最初に拠点をもうけた所でありそれで小高の城跡は古いのである
御家という旗はもともと小高の城があった所にふさわしいとなる
藩というのはなく御家と呼んでいた、御家中となっていた・・御家中のものとしてあった相馬市はもともとは中村であり中村御家中となっていたのである

ヨ−ロッパでも有名なハウスブルク家というときハウスは家でありブルクは城なのである
まさに家と城が一つのものとして一体となっている、もともとは日本でも家が農家が掘りで家を囲んだりして
防衛していたがそれが城に発展したのである、意外と日本とヨ−ロッパの歴史は城があるから封建制だから似ているのである


posted by 天華 at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2020年07月28日

南朝を受け継いだ明治維新その古代からの歴史 (菊の紋の旗が江戸城入場に出ていた―野馬追にも菊の紋の旗が出る)


南朝を受け継いだ明治維新その古代からの歴史

(菊の紋の旗が江戸城入場に出ていた―野馬追にも菊の紋の旗が出る)


官軍の江戸城入場

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これは船をつないだ船橋である
これだけの舟をを用意した、砂浜にも船を並べたのか?



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菊の紋の幕である

NHKの桜田門外の変のドラマの江戸城入場

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この赤と白の旗印と日本の線の旗印も野馬追いに出る
その由来は何なのか、天皇と関係しているのか?



野馬追に出る菊の紋の旗

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ここになぜ日の丸の旗があるのか?

その由来がまたわからない



吉田松陰が再興すべしとしている南朝は、歴代にわたって長州が匿ってきた大室天皇家であった。それに対して、藤田東湖が再興すべしとした南朝は、歴代にわたって水戸藩が匿ってきた熊沢天皇家であった。それぞれが、みずからが握る「玉」を担いで南朝革命を成立させようとしていたことになる。

吉田松陰は1850年に長崎に遊学したが、読んでいた本のリストには、さらに過激な「南朝正統論」である三宅観瀾の『中興鑑言』が入っていた。

吉田松陰や藤田東湖までが「南朝正統論」に傾いていたとすると、薩摩・長州の藩士がめざした「尊王運動」とは、すなわち徳川幕府を倒して、南朝天皇家を復興させる運動だったことになる。ここで登場するのが、「孝明天皇暗殺」説と「明治天皇替え玉」説である
「明治天皇」は暗殺されていた!!
1) 孝明天皇は、徳川14代将軍・家茂(いえもち)を信任していた。つまり孝明天皇は、徳川将軍家との協調を本位に考える「公武合体・佐幕派」であった
2) 北朝系統の孝明天皇の住む御所並びに京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に、会津藩主・松平容保(かたもり)が当たった。そして、この容保公も孝明天皇の信任を得ていた。つまり、維新後、「逆賊」とされてしまった徳川将軍家も会津松平家も、孝明天皇にとっては「忠臣」であった


明治維新は南朝の復活であり南朝系統の天皇を祭り上げて支配することだった
長州が南朝だということがまさにそうである、当然南朝系統を祭り上げて天皇もその替え薩摩長州によって北朝を祭る孝明天皇を守る会津は仇敵とされ賊軍とされて討伐された
それは天皇の正統性と関係なく薩摩長州の特に長州により南朝系統の天皇が作られて祭りあげられたとなる、天皇は玉といわれて結局天皇自体に力があるのではなく背後の権力を持つものにただ祭り上げられる存在だったとなる
だから天皇の神聖性とは何なのかただ権力を持つものによって玉として祭り上げられる存在だけなのかとなる
そして靖国神社とは明治維新でも賊軍となったもの、西郷隆盛の墓もない、祀られていない、西南戦争で賊軍となったからである
だから靖国神社の矛盾は日本が太平洋戦争の戦没者を慰霊する祀るとしてももともと国民としての慰霊の場所にふさわしくないのである
国民国家になったときすでに南朝とか北朝とかは関係ないものとなったからである

事実西南戦争の戦いは国民軍と化した政府軍とその政府軍に反逆する者たちの戦いだったからである、その国民軍には会津の武士も参加していたのである
そもそも国民という観念は日本になかった、それが明治維新に武士の集団である西郷隆盛の西軍と国民軍が戦った、ということは実は江戸幕府を継続しようとした勢力が西郷隆盛だったともなる、西郷隆盛は武士を残して江戸幕府の継続して侍が国を治めることを目指していたとなる、そこに国民という概念もなにもないのである
だから今度は日本では天皇の臣下として赤子としての国民となったのである
そうした日本の歴史の矛盾があり太平洋戦争で日本国民の総力戦で敗北した
いづれにしろそこで天皇という日本の支配体系が崩壊したのだが依然として天皇は国民の象徴として残されたのである、なぜなら天皇は戦争に負けて戦犯として処刑されるところだったからである

玉だったとなる、天皇でもすりかえられるのである
萬世一系でもないとなる、それを説いた本がでている
ただ自分は詳しくない、でも南北朝の争いが全国にどれだけ影響があり全国隅々までその争いの傷痕を残した、小さな村村でもそうした物語が残されていることでもわかる
日本では天皇が二人になることは国が二つに分かれることなのである

そして霊山は南朝でありその末裔が相馬地域に多い、特に南相馬市の鹿島区は霊山が炎上したとき逃れた落武者の子孫が多い、その姓が只野氏なのである
その中心的役割を果たした人が近くの同級生だった
日吉神社のお浜下りのおつづら馬を担う主要な人物の子孫だったのである
つづらとは何か宝物というか品物を運ぶつづらのことである
この祭りは13年に一回としか行われない貴重な祭りである
宝財(ほうさい)踊りは霊山城が炎上して滅びたとき身を隠すために変装した姿が祭りになった  

ただ歴史という時、結局二つの勢力が権力争いになり二分される、

二人の王の間に反目が生じ、大きな騒乱が起こるからだ―ウェルギリウスー農耕詩

これは蜂の間で起きたことであるが人間でも同じである
歴史とは日本国内でも必ず権力争いで二分される、日本でも古代でも天皇が兄弟が二つに分かれて争った、壬申の乱がそうである、この時も南北朝の争いと同じだったのである
天皇の起源はわからないにしてもおそらく国を一つにまとめるために祭り上げられた王であった、関ケ原の戦いも東西の勢力の争いだった、国は必ず二つの勢力に分かれて争うカルマがある
そのカルマは世界史でも同じである、現代史でも同じである
米ソ冷戦があり今度は米中戦争の危機になる、そしてどちらかの陣営につかざるをえない中立を維持できないのである、そこで日本でも二つの勢力に分裂させられるのである

後醍醐天皇は、既成貴族層の解体と再組織を狙っていて、旧来の「天皇対貴族」という関係を打破して、「天皇絶対」のための官僚組織を作り出すことを最大の目標としたのでした。

つまり古代の復古というか南北朝の争いの継続としてあり現実に明治維新では天皇絶対制官僚が実現したからである、それは民主主義国家とかとは違ったものである
なぜならそもそも国民という存在もていから概念もなかったからである
それはヨ−ロッパとかでも王と貴族がいても国民というのはいなかったからである
他から近代国家が現れたの20世紀とかでありそれまではなかったのである
つまりヨ−ロッパでも江戸時代のように貴族が侍であり国民はいなかったのである

そういう二分した権力争いの中で南北朝の戦いでも相馬藩地域でも小高で侍が歌を残している
そしてNHKの桜田門外の変のドラマで見たら江戸城入場がありそのときの旗印が菊の紋でありこれは天皇家の紋でありまた南朝の紋だとなる    





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明治維新で北朝ではなく南朝を継続した (野馬追いに出ている南朝の旗)


南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)

相馬光胤(そうま・みつたね) ?〜1336

相馬氏第6代当主・相馬重胤の二男。相馬親胤の弟

南北朝の戦いで小高城陥落に残された短歌二首

光りたねをはじめ一族九七人が侍939人、その他多数のものが討ち死にした。
親胤の子の松鶴丸は当時13歳は母と共に小高の西、釘野山の麓の農家の宅にかくれ山野に辛苦をなめたものの、良くその身を全うすることができた

中秋にあたり松鶴丸が一族譜代の墓に詣でて従者に和歌二首をたむけさせた

去年の今日別れし人の墓に来てみのりを問えば涙こぼるる

我一人残るこの世の憂きづまいおもうがままに後世は問われず 

この歌は何か本当にここだけではない、世界で同じである、二つの勢力が争いそれで苦しむ、それはいたるところにある人間のカルマなのである
それを家族で自分自身が経験した、家族でも争いそしてみんな死んだ
残されたのは自分一人だった、だからこの歌に共感するのである

今年の野馬追いは強烈もなにもなく終わった、震災で一回中断したが今回も中止になった



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2020年02月25日

野馬追のキーホルダー(復興再生繁栄のシンボル)


野馬追のキーホルダー(復興再生繁栄のシンボル)

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相馬復興再生のシンボル

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南相馬市の原町の道の駅で買った野馬追いのキーホルダーである

ここでワラビなどシダ類、地面から生える様子が、再生や家の繁栄を象徴する

こういう説明があるのでわかりやすい、野馬追いの旗の種類は無数にある
でも何かそれが意味しているものがわからないのである
これなどわかりやすい、何か縁起物だともなる

今は春だからふさわしいともなる
このワラビをゼンマイを小高の懸(か)けの森で見たのである
それをアレンジして抽象画を作った

これで小高の再生を願うともなる、つまり再生と繁栄にふさわしいとなる
復興、再生、繁栄を願うものとしていいとなる
このキーホルダーはNPOなどで身につけるといい
でも何かNPOは南相馬市に多い、道の駅でもあった
鹿島の無人駅でもNPOが高校生の見守り役をしている
他にもいろいろあるのだ、震災以後この辺は特に増えたのである

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2020年02月18日

野馬追の野馬の起源 (「馬」が動かした日本史ー蒲池明弘を読む)

野馬追の野馬の起源 

(「馬」が動かした日本史ー蒲池明弘を読む)

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平成29年 相馬野馬追ー野馬懸(かけ)ビューローfacebookアルバム

●馬と日本の歴史

この本は馬から日本史を見ることで興味深かった、というのは相馬藩は野馬追いの祭りで有名だからである
その野馬とういうのは何なのかここで説明している
そして日本の歴史をみるとき縄文時代があるとしてその後がどうなっているのかとか
歴史の継続性が明確ではない、縄文時代が一万年つづいたとして日本の歴史はその縄文時代の末裔としてあるとしても明確さに欠ける
連続性がどうなっていんるのか不明である、日本語にしてもそうだろう
それが未だにどこに由来しているのかわからないから様々な説が生まれる
これはイスラエルの言葉と関係しているとかシュメール語だとインドのドラビダ族は共通しているとかポリネシア語だとか説がいろいろあっても解明できない
そもそも縄文語があったとして今の日本語の起源なのかというとそれも不明なのである

はっきりしていることは縄文時代には魏志倭人伝に書かれたように日本には馬とか羊とかいないと書かれている、つまり野生の馬もいなかったのである
馬は外国から入ってきたものであった
魏志倭人伝に鉄の矢じりと骨の矢じりがあったのは日本では鉄が不足しているからだとしている、日本は技術的に大陸からすると遅れていた

馬は牧の中で放し飼いにされ、水飲み場のほかには餌を与えられずほとんど野生の馬だったことから(野馬)と呼ばれてました

千葉県の幕府直轄の牧の痕跡(野馬土手)が数多く発見された
その説明がこの文である 

そして今でも残されている野馬がある、御崎馬とか寒立馬とかが今も生きていてそれは野生の馬なのである、代われた馬ではないのである
馬は軍事目的に使われることが多かった、日本の草原の国であり野生の馬が生きられるとしている
ただ日本は湿地帯であり森の国だから馬が野生で生きられる土地は少ないようにも見えるでも山の台地とかは適していたのかとなる
花巻とかあれば鼻とは突き出した台地でありそういう地形があり馬が生育するのに向いた土地だったとなる、長野県に牧が多かったのはそのためである
モンゴルの様などこまでも平原がつづくとはならない、第一野馬というとき野は斜面のことだからである
日本は植物が豊富な土地であり野生の馬の餌になる草があったという
それで野馬が生きられる条件があった、また火山からできる黒ボク地が草原を作り馬が生きるのにふさわしい場所としている

常陸国風土記に霞ケ浦の行方郡について山には猿、猪がいて野に馬がいること
天武天皇の時、地元の人が野馬を捕獲して朝廷に献上したと記されている
それは行方(なめかた)の馬であると記されている

行方郡とは相馬地域の古代のことである、その行方郡の人たちがこの地域に移住して来たからその名がついたのである、相馬氏がこの地域を支配したから相馬郡となり相馬藩となり相馬市となったのである
もともとは千葉氏が基となっていた、千葉氏から相馬氏が出てこの地を支配した

●野馬追いの野馬の意味

野馬追いの野馬という言葉が何を意味しているのか?
野にいる馬を追うということである、そのこと自体不思議なのは日本の野に原野に野生の馬がいたということである
モンゴルの様な平原ならわかるが日本にも野生の馬がいた、その野生の馬はかえって気が荒く戦(いくさ)で使うのには適していたのである                  

武士用の馬の牧場で野馬飼いのような粗放な飼育が採用されたのだろうか
家康の遺訓にあるように長期間の戦陣の中でも気力、体力の衰えないタフなう馬が求められた

幕府牧場といっても見回りしたり牧野手入れしたりするのは近隣の住民だったから
将軍様の馬ということで過保護に傾き良い餌を与えたり病気になれば自分の家に連れて帰り回復するまでめんどうみることもあったようだ
将軍吉宗はそれを良くないと言っている

元より野馬にひとしくあつかうべし

厳しい自然環境にさらし自然淘汰にゆだね、強い個体を残すこと、野馬飼いの目的の一端がわかる
                    
日本の馬は小型の馬が多かった、モンゴル馬とにていた、モンゴル馬は自分も乗ったが小型であり地に足がつくくらいだった、だからこそ乗れたとなる
自分が馬にのったのははじめてでも乗れたのである
馬が大きいと足がつかないから危険になる
自転車でも足がつかないと緊急の時止められないから危険になる
ただこの小型の馬も江戸時代から何か大型になっているように見える
おそらく江戸時代になると農耕馬などがふえてきたからかもしれない
戦闘に使う馬は小型でも強いとなる、また遠征に耐えられるのは耐久力がある小型馬でありロバともにている
もともとは小型の馬だったのである

●南相馬市の雲雀が原近くの羽山古墳の馬の絵

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甲冑と兜を身にまとった武人である
鉄を生産する技術があり兜も身につける
野馬追いの武者と変わりないのである

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双葉の清戸迫横穴古墳
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この装飾古墳は今の神旗争奪戦が行われる雲雀が原の近くなのである
もともとは江戸時代は野馬土手で囲まれていた一帯である
ここで江戸時代から野馬追い、野馬を捕える場所としてあった
その広さは桜井古墳まで広がっていたのである
そしてこの古墳とも馬が関係していたと説明されるときぴったりだとなる
野馬牧場があり桜井古墳まで広がっていたからである
関東には大きな古墳が密集していてそれは馬と関係していた

蝦夷とは何ものかという時、馬をあやつり弓矢を射ることにたけていて勇猛だったというときそうである、この馬は縄文時代にはないのである
この馬は渡来人がもたらしたのである、その馬を操作する術とか鐙とかももたらした
鉄の生産とか鉄の武器ももたらした、その渡来人が実は蝦夷だったのである
ツノガノアラシトが伽耶王国の王子でありその伝説が伝わっていてそれに由来する地名もある
そしてそれは相当に古く縄文人とか原住民と連合を組んでいた、それが蝦夷だったから強敵になったのである、馬を操り弓矢の術にすぐれ鉄の武器をもっていたとなれば手ごわいものとなったのである
それができたのは渡来人が早い時期に東北の地域に土着していたからである
そして古墳に鉄製品とか大陸風の鉄の馬具が収められているののもそのためである
馬とともに先進の文化や技術が入ってきていたのである

だから何か横穴古墳とかいうとそんな先進文化と関係ないように見ていた
縄文人が原始的生活していたように見ていた
でもよく見ればそこに馬が描かれて兜をつけて刀をつけた武人が描かれていた
それは騎馬民族の末裔でもあったのだ、縄文人とはまるで違った人たちだったのである
馬を使いこなす騎馬民族の末裔だったとなる
縄文人は馬は使っていない、するとそういう馬を使いこなす人たちが入ってくればそういう人たちはその土地を支配する、第一相馬氏が千葉氏の分流であり馬を使うに巧みな武士団であったからだ
それがた野馬追いの祭りとして相馬藩で受け継がれたのである
だから羽山横穴古墳とか野馬追いが行われる雲雀が原は野馬土手があり広く野馬がいたとなる、その野馬を捕えていたのである、それは小高神社の野馬掛け祭りでその様子が再現されるのである

とにかく歴史を勉強するとき必ず時代の前後とかわからなくなる
横穴古墳の装飾古墳が原始時代の遅れたものとして見ていたりする
でもそれは先進文化を象徴したものだった、なぜなら馬が中心に描かれその馬をあやつる武人の絵だからである、その武人は鉄の兜をつけ刀をさしている
それは戦国時代の武将と同じだったのである
そういう先進的なものとして見ていない、そこにも常に時代の錯覚がある

広き野に野馬を追う
兜をつけ刀をさした
渡来人の武人?
渦巻きの太陽は輝き
その姿は誇らしく
広々として原に野馬を追う
草原を賭ける野馬よ
その躍動する馬に魅了される

横穴古墳はこれは明らかに古墳時代の後期であり新しいのである
では桜井古墳とは何なのか、誰が作ったのか、誰を祭っているのか?
二人の棺があり埋められていたすとるとこの辺に二つの勢力があった
一一人は縄文人以来の原住民の主であり一人は渡来人を治めた人だったのかとなる

ともかくこの本は興味深い、馬という視点から歴史を見るということでわかりやすいということはある
相馬野馬追いがあるから馬に興味がででくる、今は競馬している人が馬に興味をもつ
馬自体は日常生活では見れなくなったからである
でも馬が絵がれた装飾古墳は生き生きとしている
そこには広い野が広がっていた、ごちゃごちゃした街はなかったのである
原町はそうした広い場所があった、鹿島とかなると寺内小池の高台がそういう場所だっただから古墳の町としてある、でも原町の雲雀が原は古代から戦国時代へ相馬氏の支配する場所として継続していたのである
双葉の清戸迫横穴の装飾古墳もそうである、そこにも広い野が広がり馬を操る野馬を追う武人がいたのである

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茨城県の行方市(なめかた)の古墳にある馬の冠

ここでは確かに野馬がいて放牧されていてそれは野馬であり野生であり
それを捕えて軍馬にしていたのである
馬の配置でも野馬のように自由であり放牧されていたまたは野生の馬の姿を
冠にしたと思える







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2019年07月29日

小型のモンゴル馬の話 (鵯(ひよどり)越えの馬はモンゴル馬だった)


小型のモンゴル馬の話

(鵯(ひよどり)越えの馬はモンゴル馬だった)

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昼夜の寒暖の差も激しく、冬はマイナス50℃の世界です。そういう中で、生き残るには小さいサイズの方がいいというのが遊牧民の知恵です。ゴージャスな配合飼料なんてもちろんありませんから放置です。ちなみに、馬というのははサイズが一寸超える毎に飼料代が倍になるそうです。


モンゴルの馬は屈強で俊足だったが、体格は小型であった。モンゴルの戦士はその馬に両脚をさんで乗り、片側にぶら下り、馬の身体を盾にして、その腹の下から矢を射ることができた。モンゴル兵士は、昼夜も続けて馬を走らせた。彼らは鞍の上で眠り、馬の首を僅かに切って、そこから馬の血を吸って栄養を補給した

チンキケスは、ホラサーンとギリシャに向かった。そこでジュノサイドという言葉でしか表現できない残酷極まる所業を働いた。ニューシャープールを襲撃したモンゴル軍は犬や猫まで皆殺しにした。犠牲者は174万7000人に達したという。モンゴル軍は畑を燃やし作物を台無にし農民から暮らしの糧をすっかり奪った。臆面もなく、己の謀略行為をことさら喧宣した。

鵯越の馬は小型のモンゴル馬

 昭和28(1953)年、神奈川県鎌倉市の建設現場から、500体以上の人骨と100本以上の馬の骨が見つかった。これは、正慶2(1333)年に新田義貞が「鎌倉攻め」をした時の戦死者とみられるが、馬の体高を復元したところ、結果は平均130センチだったという。


天馬徠兮 從西極 (天馬来たりぬ 西極より)
經萬里兮 歸有徳 (万里を経て 有徳に帰せり)
承靈威兮 降外國 (霊威をうけて 外国をくだす)
渉流沙兮 四夷服 (流沙を渉りて 四夷は服しぬ)

前漢の武帝が、西域のかなたより良馬を得た喜びを歌った歌である。シルクロードは、一般に張騫の西域遠征を以って始まりとする
馬に乗りながらヒツジやヤギの群を管理する騎馬遊牧の習慣が草原地帯に広まったのは、紀元前1000年前後とされる。馬に乗って放牧を行う場合、徒歩による場合とは比較にならない規模の家畜を管理できるようになる

「河西水草美しく、放牧の基地となす。畜産滋息し、馬二百余万匹にいたる」
と記されている。

そして6世紀、この牧場の馬の数は10万頭にも及んだといわれている。
当時、軍馬は今でいうならば、戦車1台にも匹敵する位置にあり、
時の権力者は、漢の武帝以後も馬の繁殖だけでなく、馬種の改良にも力を入れたのである。
そして「胡種を雑ふれば馬益々壮んなり」(『新唐書』兵士)の伝統は、今でも続いている。

広大で勇壮 天馬を育てる山丹軍馬場 シルクロード2万キロひとり旅113

 
ここのプログは写真がきれいで推奨できる、それにしても10万頭には驚く

野馬追いは馬の祭りである、しかし馬のことがわからなくなった、競馬だけが馬を知る手がかりになる、でも馬が歴史に果たした役割は大きかった
それは第二次世界大戦までつづいていたのである、そこまで馬を利用していたからである仙台近くの岩切に戦場で死んだ馬を供養する碑があった、それは第二次世界大戦のものだったのである、日本兵が馬に乗り南京城に入場する写真があったりその時まだ馬は戦場で活躍していたのである

現代のサラブレッドは、源平合戦時代の日本には1頭もいなかった。サラブレッドが日本に初めて持ち込まれたのは江戸時代の後期で、当時の徳川幕府を支援していたフランスから献上されたといわれている。  

昭和28(1953)年、神奈川県鎌倉市の建設現場から、500体以上の人骨と100本以上の馬の骨が見つかった。これは、正慶2(1333)年に新田義貞が「鎌倉攻め」をした時の戦死者とみられるが、馬の体高を復元したところ、結果は平均130センチだったという。

源平合戦時代の武将が乗っていた馬は、ポニーのような小型馬であり、現代の私たちがイメージするサラブレッドとはかけ離れた姿だったのだ



これは意外である、その頃の馬はモンゴル馬の種類だったのである
そうでなければとても鵯声(ひよどり)で馬を担いで下ったとかありえないからである
小型の馬だと餌もサラブレットのような大型の馬より半分ですむというのも有利である
そして草は草原で遠征中に補給できる、草原の草を食べて馬が進撃できる
それも有利だったのである
とにかく馬があって広大なモンゴル帝国が生まれた、その馬は耐久性があり省エネの小型馬だったのである
険峻な山の中に万里の長城が延々とつづいている、そこにもモンゴルが馬で攻めてきた
すると大型の馬だと上りにくいから小型のモンゴル馬が適していたともなる
何かすべて大型のものが強いとは限らない、小型でも有利に働くことがいろいろある

いづれにしろ馬が今も活きているのはモンゴルである、ただ中国に内モンゴルがあり中国もモンゴルのつづきであり遊牧民の文化が入ってきている
例えば相馬氏の紋所が北斗七星というときこれは星が方向の目印になるから遊牧民から生まれた信仰でもある、それが韓半島を通じて日本にもたらされて妙見信仰になった

とにかく兵馬俑をみればわかる、その騎馬軍団圧倒させられる、その騎馬軍団を擁して
始皇帝が中国を統一したのである
鎌倉も平将門から馬を使うことで騎馬軍団が強く西の平家に勝ったのである
その末裔が相馬氏でありそれで野馬追いが残されていたとなる

野馬追いというとき馬の祭りでもある、だから競馬とかモンゴルとかに行くと馬がまだ活きているから実地に知ることができる
そして現実にそのモンゴルのゲルで一年暮らした人がいた
それは羊を飼うことを習うためにいたという、それでそこに一年間いた人が冬になると一回りやせたという、それだけ冬は厳しい場所なのである
その人が大学で農学部でそういうことを習っていた、それで今度は北海道で羊を飼い観光客を呼び寄せる、それはテレビで写されていたので驚いた

そんな人がいたということも驚きだが日本人は今はどこにでもいる
テレビでモンゴルの遊牧民と結婚してゲルで生活している女性もいたからである
インドのバラナシでもインド人と結婚した女性がいたことにも驚いた
そういんうテレビ番組かあったがどこかに今や日本人が実際に外国で暮らしている
でもその生活は相当に厳しいのである、だからそんな厳しい場所に良く嫁いだとなる
とても軟弱ではそんなところで暮らせないからである

モンゴルへ行き遊牧民の暮らしを体験できるツアーがあったり今なら世界のどこでも行ける、私は車で内モンゴルに行ったがそこは相当に標高が高い、高い場所にあることが車で行ってわかった、でも飛行機とかで行くとその標高差がわからなくなる
つまり標高が高いということは寒い地帯だということである
だから冬は氷点下50度Cにもるとしたらもう耐えられないともなる
それでその体験をした若者は一回りやせたというのもわかる
その人は体力は相当ある人に見えた、そういう経験も凄いと思った
その話は帰りの船で聞いたのである

野馬追い祭りがあるとしてこの辺ではこうして馬に興味をもつ、馬の文化にも興味をもつ場所である、ただ馬というものはなかなか今ではわかりにくいのである
馬と直接触れる機会がないからである
競馬しか馬を見ないからである、そこでもっと馬に接するとなると乗馬とかなるがこれも金がかかるとか庶民的ではないのである
ただモンゴル馬だと一日で乗れる、落馬もしにくいのである、足がつくくらいに低いからである、サラブレットだと倍の高さになり落馬したら危険である
落馬して死んだとか記録されているがそれはいつのことだったのか?
江戸時代にもあるからその時はもうモンゴル馬ではなかったのかもしれない
この辺も今の馬を見ていると誤解しやすいのである

インタ−ネットではいろいろ馬のことが出ている、それで自分の体験をまじえて馬のことを書いてみたのである  



千里疾走する天馬   

全身に血潮みなぎり健やかなる時

草原の果てしなく悍馬は千里を疾走する

疲れを知らずどこまでもどこまでも疾走する

北斗七星、妙見菩薩や馬は天をも駆ける

神の巧みに天性の足と筋肉は疾走すべく作られる

草原は果てしなく悍馬は走りたらざれ

アレキサンダ−大王を乗せし名馬よ

そも世界制覇は成らず途上に果てぬ

鳥は休むときも飛んでいる

馬は休むときも走っている

魚は眠るときも泳いでいる

思いがけぬ遠くに駆け抜ける馬よ

草原ははてしなく広がり

その果て知らじも・・・・


アレキサンダーの乗った馬はモンゴル馬のような小型ではない、サラブレットだったのだろう、ヨ−ロッパの方の馬はまた違っている
唐の陵墓にペガサスの馬が飾られていたということはギリシャとも関係していたのである
ギリシャの海の神がポセイドンが馬になっているのも不思議である、遊牧民が海にでて航海の民になったという説もある  

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 参道には石像がずらりと並んでいます。
そのひとつ、ペルシャから伝わった
翼のある馬ペガサス




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2019年07月28日

野馬追い(雲雀か原へ―写真)


 野馬追い(雲雀か原へ―写真)



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首のところにも飾りがある
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この菊の紋の旗は小高である
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こんな旗印があるのか?
勝手に旗印は作れないのだからこういうものもあったのか?
それにしても変だと見る

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これは大きな角である


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この二つの丸の旗は深野(ふこうの)で見た

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軍配の旗がある、これは金沢で見た
でも下高平として出ていた



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雲雀が原に入る

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未来の騎馬武者

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集まりて馬もいななきいきりたつ人馬一体に打ち進むかな

雲雀が原到着の声高らかに打ちつづきける旗の波かな

相馬武士旗に誇りや気合入れ雲雀が原に集結するかな

真日さして旗あざやかに入りまじり雲雀が原に参りけるかな


今日は暑かった、前の原高があったところに馬が集まり雲雀が原まで行列になる
そして行列の一番最高潮になるのが雲雀が原に入る時である
この時騎馬武者が興奮して気合を入れて口上する
これは見ていても興奮する場所である

今回注目した旗は金沢で見た軍配の旗だった、それから小高から出た菊の紋の旗だった
三種類の菊の紋の旗があった、私の持っている旗帳では色がついていないのでわからなかった、青と黄色と赤があった、赤があるのははじめて見た
これは南北朝のとき天皇が二人になり争った、それで鹿島区の真野に落ち延びた侍の子孫なのである
ただなぜ小高かからこの旗が出ているのか?
それはその後その子孫が移動してそうなった
そういうことは江戸時代300百年もあるのだからあった

村ごとに騎馬武者が出たとしても中ノ郷(原町)は太田神社になっていた
でも石神から出たとか大甕の騎馬隊とか説明があった
私が今回見た金沢の軍配の旗印は下高平として説明されていた
金沢にはそもそもなかったものなのだろう

雲雀が原での旗取りは見なかった、暑いから嫌なのである
ただ今回は外から太鼓を演じる人を呼んだ、そうなると雲雀が原に太鼓の音がひびきわたる、野馬追いと一体となってひびきわたる
だから神旗争奪戦を見た方が良かったとも思った
やはり野馬追いだけではいつも同じであり盛り上がらないから今回は太鼓演奏のプロを呼んだのは良かったとなる
ただ演奏を聞いていないので残念だったなる

ともかくインタ−ネット時代になるとみんな記者になる
それで常に何かを見て写真をとり報告する、その時どういうふうに報告するのかが問題になる
どうしてもいい写真をとるとか何か話題になるものを探すとかなる
一目にひくものを探すのである
今回は太鼓演奏が人目をひいたかもしれない、それを見なかったので報告できなかった
記者になることはただ受動的に見ているのとは違う、積極的にかかわることなのである
そこで一億総記者になったのである

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2019年07月27日

真野川の河原で野馬追いの旗取り (野馬追いに参加した数の出身地の分析と津波のこと)


真野川の河原で野馬追いの旗取り

(野馬追いに参加した数の出身地の分析と津波のこと)

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近くにも但野(ただの)氏がいた
とにかく鹿島区では只野、但野・・・が多いのである

真野川の河原での旗取り

御家は小高から移った人の旗印ーこれは新しく作ったのか?
あとは只野氏の杉の紋と天皇の菊の紋は由来がわかっている


今日は真野川の河原で旗取タをしていた、ここに集まるのは鹿島区(北郷)である
でも(御家)とある旗は小高の人なのである
原発事故があり避難して鹿島区に移ってきた、ただ旗帳には見かけない
すると新しく作った旗なのかとなる  


江戸時代に入ると、特定の大名の家臣団あるいは大名を加えた藩全体を「家中」と呼ぶようになった。むしろ、江戸時代の儒学者が中国の封建制度に倣って用い、明治政府の成立後に公式の用語となった土地統治に由来する「藩」よりも、人的結合に由来する「家中」の方がより広く用いられていた。例えば、伊達家によって治められ仙台城を中心とした地域を統治していた藩や藩士のことは、「仙台藩」「仙台藩士」ではなく、主家の名により「伊達家御家中」という表現が用いられ、また国持大名であった伊達家は徳川将軍家から「松平姓」を与えられていたため、「松平陸奥守様御家中」とも称された。ここでいう「松平姓」も、幕藩体制を本来松平氏の惣領でもあった徳川将軍家を惣領とする擬制的な家組織とする観念から与えられたものである。

給人とは、藩主から知行・俸禄を支給された武士を指します。相馬中村藩の給人は2区分され、城下にあって直接藩の用を勤めている府下給人(御家中・麓給人)と、通常百姓をし、戦時に兵役にあたる在郷給人とがあります

藩というときこれは明治以降に用いられた、江戸時代までは御家中である
藩は地理的区分としての藩を意識するが御家中という時は人的結合を意味している
つまり家が発展して城となった、城は家なのである
相馬藩だと今の相馬市の中村村に城を作ったから中村御家中となっていた
だからおそらくこの(御家)は鹿島区に小高から移り住んで侍出の人が新しく作った旗だとなる、なぜなら旗帳に出ていないからである
由緒ある家なので御家という旗を鹿島区に移り住み作ったのかとなる

他は只野氏の杉紋とか前にも書いた、とにかくこの辺では只野の姓が多い
その由来は書いた、南北朝の争いの時霊山城が落城したとき落ち延びてきた末裔が只野の姓なのである
その元は郡山の近くにある多田野村だったのである
それから桑折氏とか菊池氏とかもそうである、その紋は天皇の菊の紋である
南北朝の争いの時二人の天皇をたてて争ったからである
だから鹿島区(北郷)の旗印でこのことはわかっている
そして山王神社とか日吉神社は南北朝の争いで落ち延びてきた侍が護持したものである
鹿島区の江垂(えたり)の小高い山に中館を構えて住んだ
玉野村で鹿島の真野と相馬市に方に行った人が分かれた
それで山上には山王神社があることでわかる
そして野馬追いに参加している地区ごとの人数をみるとわかることがある
                               
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なぜ北郷(鹿島区)と中郷(原町区)がほぼ同数なのだろうか?
それは北郷はもともと相馬氏が入って来る前に在地の勢力としてあった
相馬氏進出の径路で書いたように相馬氏はまず小高から入り城を築いた
その時は行ったのは八重米であり太田神社のある地区であり小高区に入った
原町の場合は海側に泉氏とか在地の勢力が存在しては入れなかった
牛越城の位置は海から遠いからである
そして深野(ふこうの)にも在地の勢力がいては入れなかった
なぜならそこに館とつく地名が二つもあるからだ
館とか盾とつく地名は中世の地名であり城の役割を果たしていた
それで鹿島区(北郷)でも相馬氏は小池から進出して中村(今の相馬市)に進出したのである
海側には入れなかったのである   

そこでなぜ相馬藩で400年前の津波のことが400人溺死としか記されなかったのか
その原因がその時こうして相馬藩が進出するときであり支配下に入っていなかった
まず相馬氏が完全に支配できていなかったのである
その時中村に今の相馬市に城を築いたのである、そこは伊達氏の領域であり海側は在地の勢力圏内だったのである
それで津波のことは詳しく記されなかったのである
そして学者の研究で400年前の慶長三陸津波の前後で米のとれた石高が三分の一くらいに減っていたのである、それが大きな証拠となる
海側に在地の勢力があり海を通して交通もあった、でも津波でその海側の勢力がそがれて相馬氏の進出に有利に働いたのである、つまり津波は相馬氏の支配にとって都合いいものだったのである
他にも津波の影響でそうなった地域があった、戦国時代とかなる敵の不利になることがつけ入ることになっていた    

その後善次病死して棺を出す。時に大原村の森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。

棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。  
知らず「おいか」とは何の言なるか。    

なぜここで大原なのか、海老村と大原は遠い、でも相馬氏が進出したのは八重米坂から太田神社から小高の方である
原町となると海側ではない、大原は相馬市が深野をさけて進出した 
そこから小池を回って中村へ(相馬市)へ進出した、そして柚木が八沢浦と接して宇多郷になっている
その辺に津波の伝説が残っていることが不思議なのである
そしてなぜ海老の大工の善次が

その後善次病死して棺を出す。時に大原村の森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで雲中に入る

大原の方というとき相馬氏が進出した場所だった、何かその時中村に相馬氏が牛越城から移転して城を築くというとき天守を造るというとき大工の善次は相馬氏から要請された、そこで在地の勢力下にあった善次は拒否もできずに苦しんだ
その時津波の被害が海老にあったからだったのかともなる、その怪異は津波の被害を語っているかとも推察した
海老には寺の関係とかで二つの館があった、今でも屋形という地名は残っている、そこは海老ではないにしろ在地の勢力があった地区である

相馬氏より先に岩松氏が鎌倉からきて北郷とか相馬藩内を支配していたからである,相馬氏より岩松氏が先住者として支配していたからである、その岩松氏は鹿島区(北郷)を根拠地としていたから相馬氏と対立していたのである
ただ岩松氏は一家が四天王という家臣に子供まで惨殺されたのは有名である
だから野馬追いに出る人の数が原町と北郷で変わらないという時北郷が大きな力をもった地区だったとなる、小高の倍もあったからだ原町は広い範囲だから今から考えると雲雀が原があり何か力関係では侍の数でも同じだったとは思えないからだ
でも雲雀が原辺りに原町村とありそこから野馬追いに一騎しか出ていないのである、あの辺は広大な野馬追いのための牧であり野馬土手で囲まれていた、人家はほとんどなかった、この野馬追いに出る騎馬の数はそういうことを物語っていたのである
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なぜかわからないけど相馬市の松川浦から諏訪神社が相馬市内に移動しているし磯部の豪族の佐藤氏も鬼越城に移動している
それは慶長津波の前のことである、これも謎なのである、そして相馬市の諏訪神社に津波で舟が流されてきたという伝説が残っていたのである、小泉川を津波がのぼってきたのか?ただボーリングの調査では相馬市の奥まで津波がおしよせた痕跡が砂が発見された
しかしそれは貞観津波のものだったというから津波の唯一の証拠はその前と後で三分の一も石高が激減したことである
それは海側が津波で被害が甚大だったことをの証拠なのである、海側もかなり開拓されて田んぼになっていた
それが根こそぎ今回の津波の被害で大打撃を受けた、ただ田んぼだけではない、それより海上交通がありそれで財を成したともされる

小高には蔵院とかありかなり大規模に海上交通で商業がありそれで財をなして力をもっていたからである
それが津波でそがれてしまったとも推察できる
海側は意外と昔は魚でもまた海上貿易があると栄える素地をもっている、その延長としてこの辺は原発がたち一時は栄えたとなるからだ、海側にはそういうものが作り安い、松川浦とかでも今はガスの輸入の基地となっていることでもわかる
これからの発電はガスだというとき新地はそれで仕事ができて発展が望まれるというのもそのためである  

posted by 天華 at 18:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

野馬追行列が鹿島区(北郷)を行く


野馬追行列が鹿島区(北郷)を行く

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先駆けて馬二頭走る青田風

蔵に映え騎馬武者行くや藪甘草

母衣(ほろ)赤く青田に映えて鷺白し

いななきぬ馬の活きにし野馬追に


宇多郷(相馬市)と北郷(鹿島区)が合流するのが海老原氏の家である
そこから本陣の農協の方の広場に集結する
そこで儀式が行われる

だから本陣と海老原氏の間は先駆けて馬が行ったり来たりする
その時馬が走るから青田に映える、だから知っている人はあそこが撮影ポイントなのである
野馬追いは年に一回でありすると写真をとる機会が一回しかないのである
だからいくら来年見れるとしても一回だから写真がうまくとれないのである

今日は昨日松川浦に行って疲れた、やっと行ってきて写真をとった
騎馬武者でも自然の中で映える、街中だとごちゃごちゃするから映えない
時代劇のロケ地のようにあそこが撮影ポイントなのである

今回は蔵がありそれを背景にして騎馬武者が行く、蔵には紋があるふさわしいともなる
古い農家は蔵を必ずある、だから古い家かどうかは蔵があるかで判断する

いづれにしろすぐに行列は終る、それでいい写真がとりにくいのである
今回は山を背景にして撮ろうとしたが自動車会社とか映ってこれもうまくいかなかった
赤い母衣(ほろ)は大将である


posted by 天華 at 14:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

野馬追いの見所(野馬追いは歴史の忠実な再現)


野馬追いの見所(野馬追いは歴史の忠実な再現)

野馬追いは他の祭りとは違っている感じがする、それは歴史の忠実な再現だということである、それで宇多郷(相馬市)と北郷(鹿島区)が合流する、それが儀式となっているのはそういう歴史があるからである
その忠実な再現を見たいと来ていた人は相当に歴史そのものに興味がある人だとなる
祭にはもともと古い謂れがあれその再現だからそういうことはあった
だから祭りとして残っていてもそれが何を意味しているのかもわからないのがある
書類とか言い伝いでわからなくなっても祭りとして残されているのがあるからだ

歴史という時、北郷というときこれは相馬氏がまず小高に入り小高に城を築いたからその小高から見て北になるから北郷になった
だから合併して南相馬市になったとき今度は相馬市に城ができてそこが江戸時代中心になったからその南ということで南相馬市になった
つまり城があるところが中心として意識して方角地名がある
それは歴史的継続だとなる、方角地名は必ず中心があって東西南北が決められるからである

野馬追いの見所はそうした歴史の忠実な再現なのである
なぜどこの家から野馬追いが出るのか、野馬追いに出る家に旗が立つというときそこに注目したのはその旗立つ家は野馬追いに出る家であり古い家だからである
侍の家だったのであり郷士の家だったからその土地で古い家として認識できるからである歴史を知ろうとしたときそこでリアルに感じるからである
でも地元でもどこの家から野馬追いに出るのかわかりにくい、結局十軒くらいしか自分自身はわかっていない、人口が相馬藩内で10万ちかくあってその中で野馬追いに出るのは500騎としても少ないからわからないのである

野馬追いが歴史の忠実な再現だとして野馬追いがあれだけの旗印がある、それは何なのだろうとなる、でもその旗印の由来を知ることができない、その由来は平安時代とかからも始まっているからわからない、由来をたどれば関西の方にまでたずねることになるからだなぜなら関西から関東地方に平家とか源氏でも移住してきたからである
東北は関東の武士団が移住してきて作られた地域である
それは鎌倉時代でありその人たちが先祖になっている
相馬氏もそうである、相馬氏は騎馬軍団で強いからこの地の支配者になったし強大な伊達市と対抗できたとなる

だから野馬追いのもう一つの意義は馬を知ることである
ただこの馬のことがわからなくなっている、馬は今は競馬でしかわからないのだ
それで皐月賞をとった馬がいるとういことでわざわざ見に来た人がいたのである
その人は相当に馬に興味がある、しげしげと馬を見ていたからである
実際にこの辺ではそうした引退した競馬馬を使って野馬追いに出る
また野馬追いに出るために馬を飼っている人もいるからそうなると金がかかるのである

いづれにしろ馬というのが身近な存在ではなくなったとき馬のことがわからないのである実際馬を知るにはモンゴルのような所に行かないと馬の存在感はないだろう
何もない平原地帯でこそ馬が疾走すれば活きた馬を見れるからである
モンゴルの馬にのったときこれが小型なのである
足がつくくらいだった、こんな小型の馬で良くモンゴルが世界を制覇したと思った
ただ山岳地帯とか行くにはいいのだろう、万里の長城のあるところは山岳地帯だからである、結構険しい山岳地帯だすると小型の馬の方が上るにはいいとなるからだ

日本の馬は大型である、だから落馬で相当死んでいた、高いから落ちたら大けがするからだ、馬はとにかくなじみがなくなった、馬が活きる場所は競馬だけになったからである
ただこの辺では馬に親しむ場所として残されている
だから競馬と深く関係しているのである
馬が今現実に活きているのは競馬だからである、そこで馬体を見て馬の良しあしを判断したりしているから馬が活きている場所なのである
その他は馬とほとんど関係していないのである

ただなぜ地元でも野馬追いが盛り上がらないのか?、外から来た人も一回見れば終わりだとなっているのか?。
それはもともと歴史の忠実な再現であり変えられない、現代的に変えればいいじゃないかと言っても変えられないのである
自由に旗印を作って野馬追い行列に参加すればいいじゃないかと言ってもできないのである、野馬追い祭りに参加できるのは10万人いたとして500騎しか参加できない
相馬藩内では極わずかの人たちしか参加できないとなっている
だから何か地元でもただ見るだけであり毎年見ているとあきる
それで地元自体が盛り上がらないとなっている、他の人たちはただ見ているだけだからである、ただ野馬追いに出る人は侍になった気分になるから気分いいとなる
それで野馬追いに金がかかっても出たいなっている

だからこの辺は馬と関係あるのだから馬に親しむ地帯にするということはある
それでこれも問題だが小高とか浪江では田んぼが草ぼうぼうとなって放置されている
すると何に利用するのかとなると牧場にして馬を飼うのがいいかと想像したりする
これもまたありえないとなるがただ歴史的にはそういう場だったから想像する
何か馬を活かす方法があってもいいとなるからだ

posted by 天華 at 09:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2019年07月25日

野馬追いの旗立つ(軍配の旗の由来)

                        
野馬追いの旗立つ(軍配の旗の由来)

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真ん中に軍配の旗印
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金沢村に軍配の旗印は旗帳にのっていなかった
でも下高平とか鹿島区の大内村とか右田村にはあった
金沢村は江戸時代に開拓された場所である、それほど広い土地でもなかった
だから旗帳には二つくらいしかのっていない
軍配の旗印はのっていないのである


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原町区金沢村に立った旗印

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この旗印は深野村長野村とかにある


雲晴れて旗立つ家や夏の山

山百合に鬼百合も咲き野馬追いの明後日かな期待高まる  

野馬追いは野馬追に出る家に旗が立つときから始まる、金沢で二軒に旗が立っていた
一軒には三種類の旗が立っていたのはなぜか?
何かここに集結したためか?
ただ旗帳の金沢村には 記されていない、下高平村とかの旗にでている
そこから移動したのでその旗になったのか?。
なんらか家でも移動していることがあるからだ

深野から大原の方へ回ったら一軒だけ旗が立っていた、これは大原村の旗としてある
とにかく野馬追いというとき多くても500騎出るとしても実際は範囲が広いのである
浪江までありそこでの所帯数は何万とかなる、そしたら500所帯は少ないから野馬追いの出る家は特定できない、わからないとなる

鹿島区だと56軒出るのを知っているがそれでも少ないからわからない
鹿島区の特徴は南北朝の争いの時代に霊山から落ち延びた子孫がいる
その家の旗は天皇の菊印なのである、只野姓はその中心にある
その人は街内に住んでいる同級生だった
他に街内に住んでいて菊印の旗がたつ、それは天皇の紋である

只野姓の人の旗印は杉である、只野姓は本当に鹿島区に30人以上とかいるから多いのである、ここの由来はわかっている、その他はまずどこの家に旗が立つか場所がわからない
野馬追いは旗祭りだというとき旗印の意味がわかるといいのだがわからない
そもそもなぜあんなに旗印の数が多いのかとなる、それも不明なのである

軍配(ぐんばい)とは、かつて武将が戦の指揮に用いたうちわ形の道具。現在では相撲の行司が力士の立合いや勝負の判定を指示するのに用いる道具として知られている。

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軍配団扇(ぐんばいうちわ)の略であり、本来「軍配」とは、所謂「軍配術」「軍配兵法」とも呼ばれる、戦に際して方角・日時を見極め、天文を読んで軍陣を適切に配置する法のことである。「軍敗」とも表記される。軍配術を行う者を軍配者という

 団扇紋は、武蔵七党の一つで、その中心勢力であった児玉党の家紋として知られているそして、家紋のなかでももっとも古い紋の一つともされている。
 児玉氏は藤原姓有道氏流で、『源平盛衰記』にも「児玉の党、団扇の印をかかげて」とみえるなど、平安末期には児玉党が旗印として用いていたことが知られる。とはいえ、当時は団扇そのものを印として用いていたようで、それが、やがて家紋として図案化されたものと思われる。

 これは深野とか長野村にあるし大内村とか右田村にもある、その系統が伝播したことがわかる

平安時代からあるのだから旗印は古い由来がある、それは武蔵とかに伝播されて相馬氏の侍の旗印となったのである、このように旗印の由来は古いのでありその起源は関西の方であり奈良とか京都の方だともなる、只野氏の杉紋は三輪山の杉に由来していて万葉集にその歌が残っている


あと三日で28日で野馬追いになるが今日は晴れてきたから晴れるようだ
野馬追いはやはり梅雨明けにはじまり本格的な夏に入ることを告げる祭りなのである
東北では一番先に夏の祭りとしてはじまる 

ちょうど藪甘草が咲き今日は山百合が咲き鬼百合も咲き始めた
野馬追いがはじまるとき咲きはじめるのである

                                                          

posted by 天華 at 19:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2019年07月17日

野馬追い迫る 〈通りに旗が立つ)


野馬追い迫る  〈通りに旗が立つ)

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白い馬は神の馬となる、これはそうなのか?

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これは南北朝の時霊山から逃れてきた只野氏の旗印である


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これは何なのか?

キノコのようにも見える、何かわからないのが本当に多い

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立葵咲きて野馬追い近しかな

立葵馬に向かいて咲きにけり 

野馬追いの出番を待つや白き馬

野馬追いの旗立つ通りはなやぎぬ

ノウゼンや通りに旗立ちにぎわいぬ

ノウゼンや千騎の旗のなびきけり


赤に白畑に咲きぬ百合の花馬を放ちぬ牧もありしも

御行列古式ゆかしくつつづくかな青田に映えし旗のなびきて



鹿島地区

原町(雲雀が原―神旗争奪戦)


野馬追いの旗が通りに立った、野馬追いの見方として旗印が多くて地元の人でもこれが何を意味しているのか未だにわからないのだ
何か調べようもないのである、なぜこれほど数が多いのだろうか?
そしてなぜこの旗印がわからないのかというと行列を見れるのは短い時間である
一時間とかである、するとすぐに通り過ぎるからゆっくり見れないから写真にもうまくとれないのである
地元の人でもこの行列を見れるのは一年に一回なのである
すると地元の人でもその旗をじっくり検討することができないのである
野馬追いは旗祭りなのだけどその旗が何を意味しているのかわからないのである
私も調べてもほんの一部しかわからないのである

野馬追いの旗は昔から侍の家に伝わったもの

新しく作ることはできない

歴史の保存で新しいものは作れない

野馬追い祭りの特徴は歴史の保存であり歴史に忠実な再現なのである
だから勝手に新しい旗を作って侍の家でないものが出れないのである
そこで地元の人にすると盛り上がらないとなる
勝手に参加できないからである
でも去年は黒いイスラム系の人が野馬追いに出ていた
何か結婚して出たのかもしれない、普通はよそ者は出れない
青森のネブタ祭りは飛び入りで誰でもハネトになれる
それで街中が熱気に満ちるのである

とにかくこの辺では馬を飼っている、牧がある、でも一年に一回の野馬追い祭りのために飼っている、すると金がかかるのである
でも馬のいる風景がここにはある
馬というのは競走馬を飼育しているとかそういう場でしか見れないのである
それで競走馬で皐月賞をとった馬を見に来た人がいた
その人はよほど馬に興味がありしげしげと見ていた

競走馬でも競争に出れないまた引退した馬は殺処分される、それでかわいそうだと生かしている、ただ賞をとった馬は大事にされるが他はされない
馬というのは機械ではないから競走馬でも情が移ってゆくからそうなる
馬と牛とか動物と直接接していると情が移る
それで飯館村で10頭の馬の名前を覚えたいた人がいた
名前を呼んで世話していた、でも肉牛として売られてゆくのである
馬とか牛に直接接していた時代はこうして情がはぐくまれた

クルマのことは書いてきたけど人間の情を断絶せる、キレルのがクルマなのである
そこでクルマ社会が人間社会にどれだけ影響したかそれを重大なものとして考えないのである、便利だから何でもいいものではない、その影響が大きいのである
テレビでドラマ作りしていた脚本家がテレビをあれほど批判しているのはそのためである人格まで変貌させる、クルマでも人格が変貌する
必ず「馬鹿野郎」と叫び交通事故が毎日のようにあるからぴりぴりしているからそうなる
子供の時から馬とか牛に接していた時代は情緒豊かな大人になった
今クルマに乗って育った子供はどうなるのか?
それが現代を見ればわかる、まともな人間に育たないとまでなるから怖いのである

野馬追いが迫りこの時季に咲くのが藪甘草にノウゼンカヅラである
この花が野馬追いににあっっている
これは数多く咲くからである、一日一輪咲いて散りまた咲き覆うからである
そして真夏に野馬追いがあるから熱気で満たされるからこの花があっている

今日はちょっと晴れて暑くなった、それで原町まで行ったけど汗をかいた
それからぐったり疲れた、頭が暑くなった
どうしても最近熱中症の症状がでてくる、それで夏は外に出ることが怖くなったのである
夏の盛りに野馬追いがあるからこれを見ることが危険になる
でも野馬追いは夏の祭りである、夏の雲が湧きあがるとき一番あっている
それで写真をとりたいとなる、でも地元の人でもすぐに行列がすぎさるからいい写真がとれないのである


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2019年06月23日

馬の俳句の紹介(野馬追いがあり馬と親しむ地域)


馬の俳句の紹介(野馬追いがあり馬と親しむ地域)

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ここでかたつむりをテーマにして下の方で馬をテーマにしている
テレビの俳句の番組だったのか?

ここで騎乗して・・・・とあり梅雨晴れとかあり馬をなでるとかあり何か野馬追いで馬とかかわるから紹介した

人間は見ているだけではわからない、騎乗してというふうに馬に乗ったとき見える景色が違ってくる

また馬上とかの漢詩もある

桃花馬上(無題) 夏目漱石

桃花馬上少年時 桃花馬上 少年の時、
笑拠銀鞍払柳枝 笑うて銀鞍(ぎんあん)に拠って 柳枝を払う。
緑水至今迢遞去 緑水今に至って 迢逓(註1)として去り、
月明来照鬢如糸 月明(げつめい)来(きた)り照らす 鬢(びん)糸の如きを

(註1)迢遞(ちょうてい) はるかに遠い。

桃の花の咲く頃馬上に居た少年の日の私、
銀の鞍を置いて柳を払い、得意になっていたものだ。
時は水の流れとともに移り、はるかに遠くへだたった、
今は月の明かりが白いものがまじった鬢を照らしている。

野馬追にもこういう風景がある、馬上に凛々しい姿があったが老いる
白いものが交じった鬢を月の明かりが照らすというふうになる
何か人間は老いるのが早い、白髪になるのが本当に40とかでもなる人が結構いる
第一40でおっさんだとかもう先がないというのも早いとなる
それだけ人間は老いるのが早い、時間が過ぎるのが早いのである
それは若い時はわからない、その若さはたちまちすぎて老人になっているのである

老いてなお殿を守らむしりへにも行列つづく武者なりしかな

野馬追いでも結構年取った人が参加している、野馬追いだってどうしても若い人は少なくなり年の人が多くなる傾向があるだろう
ただ旗取などは若い人でないと無理だろう、
野馬追いは戦国時代の侍の時代の再現である、だから侍の時代で中心になるのは殿様である、それで未だに相馬藩で殿様が活きているとなる
そういうことはもう日本にないのだがここで殿様として迎えているのである

野馬追いがあるというとき相馬では馬がテーマになっているのだ
だから今馬が活きているのは競馬なのである
実際に馬が活きているのは競馬しかないからである
それで競馬ファンが賞をとった馬を見に来ていたのである

ただこの辺では馬を飼っている人がいて馬と親しむことがある
でも馬というのは本当は乗ってみないと騎乗してみないとわからない
だからここのプログで騎乗して見える景色や感じを出していたのである
自転車でも自転車に乗って見える感じるものが違うからである

確かに馬に乗った時侍になる、偉くなった感じになるのがわかる
馬に乗る高さが関係している、人は下になるからどうしても見下す感じになる
そして行列の前を横切るなと前は二階から見るなとかなっていた
つまり侍になった気分になりそれで金がかかるけど出たいともなる
そういう気分は今は味わえないからである
侍とは馬に乗った人なのである、なぜなら徒歩(かち)とかになると徒歩(かち)町とか足軽町とかなり馬に乗る人と区別されていたからである

いづれにしろこの辺では今頃になると馬を見かけるのである、ほら貝の音も聞こえたりするのである

posted by 天華 at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2019年06月18日

野馬追い近し(女性の騎手が馬に乗っている写真)


野馬追い近し(女性の騎手が馬に乗っている写真)

夏菊や女性の乗りて馬を引く   

野馬追いの近しと馬に女性かな萱浜広く夏の夕暮

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この馬に乗っている人は女性である、女性でも馬に乗る人はいる
こういう光景を見ているとこの辺は野馬追いがあり馬に親しむ
それが一つのこの辺の景色となってる
今は本当に馬というのは日常では見ないのである
競馬だけが馬を見る機会になる
でも競馬に興味がなければ馬を見ないのである
馬と親しむ機会がないのである
ただ北海道辺りでは競走馬を飼っているから馬と親しむことがある
やはりこの辺で野馬追いがあるので馬と親しむことがある
野馬追いというとき野馬追いの祭りの本番の前から始まっている
ほら貝がひびいたりするからである
野馬追いで雲雀が原での旗取りが終わっても帰り馬とか迎えるからつづいている

ともかく馬と親しむことがないのも何か淋しいのである
車社会を批判してきたが馬がもっと利用されてもいいともなる
何か馬でも動物でも人間と一緒に生活しているときうるおいがあった
それを感じたのは田んぼに蛙が帰ってきて鳴いた時だった
つまり田んぼと蛙は一体としてあったのだ
この辺では原発事故で田んぼまで一時なくなったし今でも回復していない地域がある
だから田んぼが回復して復興になると田舎では思った
いくらロボット工場ができたとしても田舎だ田んぼとか畑がないと復興したとように見えないのである
田畑はその景観が人間と一体となり千年とかつづいているから切り離せないのである
ただ馬が生活に活かされない、でもこの辺ではあちこちに小さい牧場があり馬を飼っているから馬と親しむことがある
ただ北海道のようには広くないからものたりないとはなる
posted by 天華 at 13:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2019年06月06日

野馬追いの起源 (馬に乗る人侍でありそれに従う人が御徒町(おかちまち)とかに住む)


野馬追いの起源

(馬に乗る人侍でありそれに従う人が御徒町(おかちまち)とかに住む)


この御徒士組は幕臣の中でも下級の武士でしたから、江戸の中頃になると彼らの生活は苦しくなり、さまざまな内職にはげみました。中でも有名なのが屋敷の庭を利用した朝顔の栽培です。今でも行われている入谷の朝顔市のために、最初に栽培しはじめたのは御徒町だったといわれています。


江戸時代、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来する。 御徒町周辺に於いては長屋に住み禄(現在の給与)だけでは家計を賄い切れず内職をし生活していた下級武士を指す 。 なお、現在は町名としては消滅し、台東区台東、および東上野の一部となっている。また、この地名は城下町であればどこにでもある地名でもある。


「御徒(おかち)」「御徒士(おかち)」「徒侍(かちざむらい)」「徒組(かちぐみ)」「歩行衆(かちしゅう)」
と呼ばれる幕臣が住んでいたところ、つまり「御徒士」たちの社宅があったのが、現在の御徒町あたりだと言われています。
下級武士で、徒歩で行列の先導などを務めていたそうです。

召馬預が二百俵級の旗本の役だと前回説明しました。ここで、二百俵(二百石も同じ)級の旗本の生活を整理してみましょう。

@屋敷の門は長屋門で片側に番所付だ。広さは六百坪くらいと、かなり広い。
A生活はぎりぎりで苦しかった。侍1人、甲冑持1人、槍持1人、馬の口取1人、小荷駄1人の計5人を使用人としていつでも動員できるようにしておかなければならなかったが、実際は馬を飼っている者は少なく、登城時に不可欠な槍持と草履取以外は使わなかった。

 武装することの根本に、やっぱり馬がある。武士はね、馬に乗る資格のある者(侍)と資格のない者、という区別が、江戸時代も、もっと前も、ずっとある。その、馬に乗る武者が、戦力の中核で、それに歩兵や従卒が従っているのが、武士の戦闘集団のもともとの姿だった。
 
なぜ野馬追い祭りがここに残っているのだろうか?
そして野馬追い祭りが馬の祭りだいうことである、馬なくしてありえない祭りである
これが今の時代と何の関係があるのかとなるとあった

馬をもっている人と馬をもっていない人の身分差別だったのである、侍はそもそも馬に乗って戦う人だった、馬をもたなければ侍とはなれなかったのである
足軽というのは馬をもっていない、だから歩くほかない、つまり馬を持つ人と馬を持たない人で身分差があった、だから野馬追い祭り馬を持っている人の侍の祭りだとなる
馬を飼うには費用がかかる、だから専用に馬を飼う人を雇うとかなる
野馬追いでもそうである、馬を野馬追いのために飼っていると金がかかるのである
だから野馬追いに出る人は金がかかるから困るがどうしても出たいとなって無理しているなぜ出たいとかなると馬に乗ると昔の侍になり偉くなった気分になれからである
馬に乗るとそのこと自体目上になる、馬上から庶民を見下ろすことになるからだ
実際に野馬追い祭りでは行列の前を横切るなとか二階から見るなとか禁止事項がある
それはやはり侍は身分的に上だということを示すからである

ともかくこれは今の時代と関係ないのかと思ったらあった
現代では車がない人は一段劣った人と見られている、そして何事も車優先の車社会であるそれで歩行者と自転車は目障りにされているのだ
それはつくづく自転車とか歩行者は車がない人は身分に差があるとなる
それで御徒町(おかちまち)とあるのはまさに馬を持たない人たちが歩くことしかできない人たち住んだ場所でありそこに明確な身分差があったのである
足軽というのもそうである、足が軽い人たちというのはまさに足を使って馬に乗っている侍についてゆく人だったのである

だから歴史とはつくづく継続しているのである、第一野馬追いと車社会が関係しているとは思わないだろう、でも関係していた
私は車がないから自転車の人と良く話する、この自転車はどうだこうだとか話する
自転車を通じて仲間になりやすいのである、車を持っている人も常に車の話になるのとにている、昔なら馬をもっている侍は常に馬の話になるのと同じなのである
馬というのはそれだけ人間の生活を左右しした、歴史も左右したのである
それでモンゴルは馬で常に移動したからそれがそのまま軍隊となりジンギスーハーンの帝国が生まれたのである、また昔の始皇帝が生まれた長安(西安)に兵馬俑の馬の軍隊が発見されたのである、それはまさに馬があってこそ始皇帝も中国を統一できたとなるからだ

とにかく明確に馬を持っている人が侍であり馬を持たない人は馬を持っている人に従うというのが武士の時代だったのである、だから歴史的にここを抑えておかないと野馬追いとは何なのだろうとなる
馬の祭りだということは馬を持っている人が社会を支配したからそうなっていたのであるそれは世界史的にもそうである、だから日本でも騎馬民族征服説が生まれたのである
馬と車が関係ないようで関係していたのである
馬の代わりになったのが車だともなるからだ、それだけ車社会ということは車が社会を変えてしまったのである、お前は車がない車に乗れないということは御徒町とかに住み足軽だということになるからだ

ただ馬とは何なのか理解できなくなっている、馬と直接接するのは競馬だけになったからである、野馬追いでも競走馬を使っている、それ皐月賞をとった馬を見に来た人がいた
その人は相当に馬に興味があるからしげしげと見ていたのである
今は競馬を通じてしか馬に興味をもてないのである
だから歴史的に馬が人間の生活を左右したのか理解できなくなっているのだ
野馬追いの時だけ馬に興味を持つのである、でもあとは馬とは関係ないのである
競馬だけが馬と関係している、そこに何か野馬追いでも盛り上がらない理由だとなる

ともかく今のことでも歴史的にみると何か見えてくるのもがある
現代と江戸時代なども関係ないということにはならないのである
やはり人間の生活はつくづく継続であり関係している、歴史的な目で見ることが何でも必要だということである

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2019年04月30日

野馬追いが残ったのはなぜなのか? (相馬藩に郷士が多かったせいなのかー野馬追は軍事パレードだった)


野馬追いが残ったのはなぜなのか?

(相馬藩に郷士が多かったせいなのかー野馬追は軍事パレードだった)

なぜ野馬追いが相馬藩で残っていたのか?これも謎である
6万石の小藩なのに未だにあのような華麗な侍の行列が見られる
伊達藩は60万石であり他の大藩でもそうしたものが残されていないのである
今でも相馬市の城跡は何もない、貧弱なのである
会津とかでも大藩であり常に歴史が語られている、でも野馬追いのような行列はないのである、ここにしか侍がそのまま行列になるのは見られない不思議である

野馬追いとはそもそも何であったのか?

それは良く北朝鮮と中国でも軍事パレードをする、あれとにている
国の武力を誇示するものである
戦国時代なら余計にそうである、それで映画にしろ常に信長が美濃の斎藤道三に向けて行列して対面した
その行列は軍事パレードでありどれだけの装備があるから道三は見ていた
それで槍隊とか鉄砲隊とかを見ていた、そしてそれに目を見張って侮れないと見たのである

つまりこうした行列は軍事パレードであり国の力を誇示するものである
野馬追いもそれなのである、相馬藩は小藩であったが大藩の伊達と隣り合っていたから常に驚異にさらされていたのである
するとそれに対抗するには軍事力を見せつけないと対抗できない
そういう伝統がありまた津波のことで書いたように相馬藩には郷士が非常に多い藩だった18パーセントもいたということは多いのである
それも相馬藩の特殊な事情なのである、軍事力を高めるためにそうしたとなる
それは北朝鮮とかとにているのである、軍事国家として核をもち威嚇していないと他国に大国に責められるという恐怖がありそうしているからだ

相馬藩が伊達藩のような大藩に責められても支配されなかったのは軍事力だった
それももともと相馬氏は馬を調教する、馬をもってのしあがった一族である
馬は強力な兵器でもありそれが野馬追いの基である
モンゴルを見ればわかる、馬によって世界を征服したともなるからだ

本当に原町への長い街道を500騎の馬が行列するのは圧巻だった
そういう光景を実物として見れるのはここにしかないのである
でも戦国時代とかは参勤交代でもやはり藩の力を示す示威行為である
軍事パレードなのである、ただ平和の時代になりそれが祭りのようになったのである
でも参勤交代の行列も明らかに野馬追いの行列とにているのである
それは軍事パレードで藩の力を誇示するものだからである
それは戦国時代のつづきとして継続されていたのである 


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2019年04月29日

野馬追いに出て東京の大井競馬場で働いていた右田の人


野馬追いに出て東京の大井競馬場で働いていた右田の人

街内の自分の家の墓がある公園に座っている人がいた
あそこにはいつも右田の人がいる、復興住宅に入っているからだ
その人は一人で座っていた、そしたらその人は東京から帰ってきた人だった
東京に住んでいた人だった、親を残しているから来たという、連休で来たのだろう
津浪で家は流されなかったが家の半分が水につかり住めない土地となり親は復興住宅に住んでいる

その人は東京の大井競馬場で働いていた、それで有名な騎手のことも知っていた
一緒に働いていたという、それもめずらしいと思った
その人は野馬追いにも出ていて旗取りで旗をとったという
だから古い家の出なのである
何でも仲間に酒を飲ませたり野馬追にでるにはいろいろ金がかかると言っていた
それはみんなが言っている、とにかく馬を野馬追に出るために飼っている人がいるがそれだけで相当な金がかかるのである

その人は江戸時代に姓がなかったという、名しかなかった
後で姓を得るようになったとか言っていた
でも侍だったら普通姓がある、ではなぜなかったのか?
この辺では郷士が多く農民を普通はして暮らしていた、だから野馬追にでるのは農家の人が多いのである
すると姓がないということはどういうことなのか?
郷士には姓がもらえない人がいたのか?
そういう身分だったか野馬追に出れるようになった?
そういう人もいたということなのか?それは謎である
私はいつもも野馬追いの旗と姓が出ている侍の家を調べる
旗と姓を合わせているからだ、だから姓がない人も野馬追に出れたのかとなる
ただ郷士に格上げされて姓をもらったともなる、侍だったら姓がないことはありえないからだ

そもそもその人がなぜ大井競馬場で働くことになったのか?
それはやはり自分自身が野馬追いに出たりして馬のことを知っているし馬が縁で馬に関係する仕事についたのかもしれない、野馬追いと競馬は一番関係している
今馬が活きている場所は競馬だからである

競馬のことで長年馬を調教して育て馬がいてその調教した人が愛馬に乗って晴れの舞台で競争してみたいと言っていたのに実際に有名な賞を争う競馬では武豊が乗ったのである
そのことが良くわからなかった、でも競争にたけているからそうなったともいう
その人自体が騎手をめざしていたときがあったという
体重とかいろいろめんどうだとは言っていた、その人は小柄で細身の体をしていた
だから確かに騎手に向いた体だったのである

この前は仙台から学生を野馬追に出る馬を飼っている小屋に案内した
そこには皐月賞をとった馬がいた、それをしげしげと何度も見ていたのである
よほど馬が好きなのである
学生なのにそんなに馬が好きになるのが不思議だった
第一今は馬と接する機会がほとんどない、馬のことは競馬でしかわからないのである

いづれにしろその人はここでは野馬追いがあるかそういう馬に関係した所に就職したのかとなる、東京から親を心配で来る人は多いかもしれない
みんな子供が地元に住んでいるわけではない、また同世代でも子供が東京に住んでいる夫婦も多い、それはすでに自分の世代なのである

いづれにしろここは野馬追いと関係している、だから馬と縁がある
でも地元に住んでいても意外と野馬追いに出る人と会わないのである
それは実際は500騎出るとしても全体の人口からするとわずかなのである
そして誰でも出れない、出れる家は侍だった家であり決まっているからだ
野馬追いは文化財の保護の祭りでもあるからだ
それで地元の人はもっと盛り上げるためにみんな参加するようにすべきだというが
それができない
それは伝統保存のためにできない、でも野馬追いの後に何か自由参加の踊りでもすればいいともなるがそれも野馬追いの伝統を守るために断れるのである
それも是非があるがやはり地元の人にすれば不満だとなる
みんなが参加できないからつまらないとなる、青森のねぶた祭りのハネトは誰でも参加できるからである

ともかく10連休であり里帰りする人や旅行に来る人も多い、年になるといろいな経験している人と出会う、その話を聞くのも興味深いとなる
その人は野馬追いに出ていたということでやはり土地の人でありそれが大井競馬場につながっていたのである

posted by 天華 at 10:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2019年03月08日

競走馬の引退馬を仙台から見に来た人 (ノーリーズンが北右田で飼われていた)


競走馬の引退馬を仙台から見に来た人

(ノーリーズンが北右田で飼われていた)

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この引退馬が見れる


繋養展示場所〒979-2313 福島県南相馬市鹿島区北右田字大橋39〜1
鹿頭ステーブルTEL090-2606-9589
展示時間10時00分〜15時00分連絡予約3日前まで見学方法希望により案内あり厩舎内への立ち入り可

父: ブライアンズタイム
母: アンブロジン
品種: サラブレッド
性別: 雄(セン)
毛色: 鹿毛
生年月日:1999年06月04日
母馬所有者: ノースヒルズマネジメント
生産牧場: ノースヒルズマネジメント
産地: 北海道新冠郡新冠町
重賞競走
'02 皐月賞 G1



最初何かわからなかった、駅で案内板を見ていたので引退馬を見に行くと言うので案内した、そんなところに今牧場があるのを見ていない
前は北右田に牧場があったのを見ている、そこは津波で家もろとも流されてなにもなかったからだ

その馬がいたのは建設会社の置き場であり野球場の近くだった
だから普通はわからない、見えないからだ
ただ郵送用の車が置いてあるのでそうなのかとは思った

小屋となり一頭一頭がしきられた狭い部屋で飼われている
そこに確かにノーリーズンという馬がいた
案内の人がわざわざ車で来たからである
なぜわざわざ手間かけて案内したのか?
それはインタ−ネットに案内すると広告していたからである
事前に連絡していたからそれができた
だから無理を言ったわけではなかったのである

この馬は皐月賞をとっているのだから凄い馬だったとなる
でもそれは2002年である十六年もすぎているのである
もう老馬なのである、競走馬として活躍できるのは二歳から6歳くらいと短い
それは人間でも青春が短いと同じである、盛りは生物では短い
でもオス馬の場合は種馬として利用価値がある
なぜなら馬は血統できまる、世界的にもそうである
これは日本で育てられたのではない、アメリカで育てられた馬だからである
それでノーリーズンとつけられた、
ではノーリーズンの意味は何なのか?理由なしという名は何を意味しているのか?
外国産は英語名とかになり日本産は日本名とかになる

もう一頭外国産アメリカ産の馬が飼われていた
それも賞をとった馬である
競走馬は賞をとった馬は相当に価値がある、それは引退馬になっても価値があり馬好きの人はこうして見にくるのである
その仙台から来た学生はしげしげとその馬の頭をなで一時間以上見ていた
よほど馬が好きなのである、こんな人もいるのかと思った
年取ったからおとなしいのかと見たら暴れるから去勢したとか馬主が言っていた
狭いところで暴れて仕切りの板を壊してもいる
だから馬でも牧場で運動させないとまずいと見た
ただ牧場となると広い所が必要だからほとんどの競走馬は北海道で飼われているのである北海道はあれだけ広いから牧場に一番向いているのである

そもそも馬はモンゴルのような平原に向いている
今でも馬は羊を追うとかで使われている、私は競馬には興味がないが草原を走る馬には魅了される、
野生の馬はもともと草原を走っていた
草原を疾走する馬は見ているだけで気持ちいいとなる
競走馬が走るにしても狭い場所であり活きてこないのである
ただ私は競馬で一度も実物を見ていない
野馬追いでは競馬を見たがやはり迫力がある、あれでも相当に早いから実際に見たら相当に早いとなる
ただモンゴルの馬は小型なのである、足がつくくらいである
なぜあんな小型の馬でジンギスーパーハーンの大帝国ができたのか不思議だともなる
自分もその馬に乗れたからだ、高くないから初めてでも乗れたのである

いづれにしろ引退馬を見に来る人はいるし引退馬を生かすための応援する団体もある
特に賞をとった馬はやはりみんな馬好きだからその後も忘れずに見にくる
その人は何度もしげしげと見ていたのである
では学生で競馬に行っていたのかともなる
何かその辺が理解できなかった

引退馬を生かしておきたいというときやはり馬に愛情をもっている、殺すにしのびないとなってそうなっている、やはり馬は生き物だからそうなっている
生き物相手だと動物でも人間のように見ることがある
例えば猫でもそうなのである
私の家の庭をびっこの猫が通る、それをみているとあわれだなと見る
びっこでも良く生きているなと見る、懸命にビッコでも生きようとしているのである
動物でも何か人間に見える時がある
でも動物には情がない、そのビッコ猫を襲う猫がいたからである
縄張りのためにそうなっている、動物には同情がないのである

馬でも馬と結婚したとか伝説があるのはそれは曲がり屋で昔馬とともに暮らしていたからである、馬がなじみがなくなったのは日常の生活で関わらていからである
馬を見るのは競馬とかこの辺では野馬追いだけだからである
野馬追いはそうして馬がいた時代を思い出す祭りでもあるのだ
馬にふれる機会がなくなっているからだ
だからこの辺では小さな牧場があり馬を野馬追いのために飼っている
だから馬をみかける、それで少女が馬の頭をなでるのを見ていたことがある
つまり馬と親しむ機会がこの辺ではまだ残っているのである

ともかく引退馬とインタ−ネットで検索するといろいろでてくる
それだけ引退馬に実は関心がある人がいるとはいうことである
野馬追いがあるからこの辺では馬に関心をもつ、でも馬とは実用になっていないから何かわからなくなっている
あそこの六頭の馬は他の土地から来た人たちが共同で飼っているのかもしれない
それは小高とか浪江とかの人たちが場所がなくてあそこで飼うようになったのかもしれない、鹿頭となるとこの辺の姓にはないと思うからだ
この辺では外から入ってきている人が多いからだ
ただ牧場をもつとなるとなかなか土地がないということはある
それで共同で飼う場所を持ったのかもしれない

なんらか馬に詳しくなるのはこの辺では野馬追いがあるからそうなる
でも現実今は馬を知ろとしたら競走馬しかないのである
たいだい馬を知っているのは興味あるのは競走馬のことだからである
野馬追いではその引退馬とか活かせる場所である
たいだい競走馬を使っているからである、他では利用価値がないから活かせないとなるからだ

posted by 天華 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2018年11月02日

只野−小林姓をたどると・・・・ (姓から探る相馬地方の郷土史)


只野−小林姓をたどると・・・・

(姓から探る相馬地方の郷土史)


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これだけ地域に限定して多い只野の姓


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クリック拡大



奥州二本松領の多田野村において、御霊を祀ったのも長尾氏だった。
只野油井などの苗字に分かれて今も栄えている

ここに只野油井がでてくる。油井という地名は鎌倉にあり油井を姓にする人もでてくる。不思議なのは岩代国安達郡油井村がある、これはどういう経過で名前となったのか?
只野油井という姓は多田野村からでている、名前はなぜ油井なのか?それは鎌倉の地からでていることは間違いない

『一薪之儀者村之内百姓持山分ニ而取申候 不足之時分ハ二本松領多田野村と申所江
  毎年野手銭百文宛相済取来申候』 について、
 四里以上も隔たった所まで薪を採りに行った。もっと近くで都合できなかったのだろうか?
 按ずるに、更に百年余前の蒲生時代に、
横川、安原、阿久津、南小泉、北小泉の各村と多田野村は共に蒲生家客将細野藤敦の給地であった。
軍需物資として輸送された名残りかと考える。

(二本松領の検地−元禄)

前に只野氏のことを考察した、とにかく南相馬市に只野氏−但野氏が多いのである
だからこの出自は明らかである、間違いやすいが多田の姓と多田野の姓は別である
多田野−只野は明確に南相馬市鹿島に一番多いのである
多田野村から只野の姓が生まれた、日本では必ず地名から姓が生まれている
ただ地名と姓が一体化してわかりにくくなる、相馬市でも南相馬市でも相馬氏一族が移住して土地の名前になった、ただ全国的には姓が土地の名となることはまれである
必ず…村がありそこが姓の発祥の地なのである
日本人のコミニュティは村にあり村が一族化している、村の紐帯が強いのである

多田野村の位置がわかりにくかった、郡山市から実は会津藩と白河藩とかの境にあった
今の湖南地域は会津藩であり白河藩が重なる地域でこれもわかりにくいが地図を見るとわかりやすくなる、地歴を知ることが大事である
会津は感覚的に湖南地域とかではなく遠い地域だとイメージするからだ
この湖南地域は私も自転車で行ったが魅力ある場所である
ただあの辺が多田野村があるということがイメージしにくい、でもその辺を通ったことがある
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葛西富夫著『続 会津の歴史』に収録されいている会津藩領地の地図(概略図)を眺めながら、その理由を考えていました。

白河藩と会津藩は隣同士だった、会津藩の領域は広い、それで一時白河地域を治めていたのは会津は支配した蒲生氏郷だったことでもわかる

いづれにしろ地名から歴史を探ったりまた姓が歴史を郷土史を探ることは基本である
どうして相馬氏に荒姓が多いのかとたずねる人がいた
それはこの辺は古代から渡来人が来ていたためである、製鉄の技術集団のツノガノアラシトが大和王権が成立する前に来ていた、そのツノガノアラシトのアラが荒姓になったからである、ここまで姓をさかのぼることができる
相馬藩で姓から探る歴史としては南相馬市の鹿島区だと岩松氏が有名である
鎌倉から来た岩松氏一族は家臣によって惨殺されてその子孫は残らなかった
それで相馬藩内に岩松という姓がないことがまさに歴史の証拠なのである
それから相馬藩の飢饉のとき移住してきた越中からの移民の子孫が相馬藩内に三分の一もいる、だから本当に越中からの移民が多い、古賀とかがそうである、他にもいろいろある
それも歴史の姓として分類できる
その辺はわかりやすいのである、墓を見れば真宗系統であり題目が記されているからわかりやすいのである
この移住した姓として葛尾村(かつろう)の松本氏は有名である
ここも三分の一が松本氏であり信州から今の長野県から移住した人たちが多いということである、こういうふうにある村には一つの姓が多いということはそれだけその村がその一族関係の親戚なのである、だから驚いたのは常磐線の末続駅があるがそこは新妻氏一族の村だったのである、なぜなら墓地をみたら9割が新妻氏だったからである

今回自分のルーツを探ると小林という姓がどうしてついたのか?
葛尾村から私の父親が双葉の新山の酒屋の丁稚奉公して働いたことは書いた
でも小林という姓にどうしてなったのか?
それはまず武家の出ではないから先祖をたどると曾祖父は浪江の津島の近くの柏原であり名前しか記されていない、姓はなかった、その当時江戸時代は農民などでも職人でも姓がないのが普通だった,ただ江戸時代末期に農民でも名字帯刀とか許されて姓をもつ人が増えた、それで近くでも墓地をみると姓を記した墓を見ることができる、それは明らかに農民の墓なのである、明治になったとき庶民も姓をもつことができるようになった
それで姓が膨大に増えた、でも適当に姓を名乗ったのか?
何か謂れがあって名乗ったのか不明になる
只野氏はその歴史をたどることかできるが小林となるとわからない
第一小林という姓は全国的に多いからである
地名でも小林というのは多い、それで不思議なのはこの地名なのである

福島県郡山市逢瀬町多田野小林(字)

多田野村にも小林という地名がある、会津にもある、小林という地名は多い、だから小林が多いのもわかる、でもなぜここに小林なのか?
多田野村−只野氏と関係あるのか?
だから同級生の只野氏と良く土手の道で話して奇妙になる
自分も只野氏の一族の子孫なのとか冗談でもなる
その同級生は日吉神社のお浜下りの祭りでおつづら馬という重要な役をになう
それは南北朝の争いで逃れた時に由来する祭りである
つづらに荷物入れて馬で運ぶ役である
その只野氏は南北朝からの姓であり古い由緒ある家だとなる
だから何か頼母子講で親になっていた資料があったとか大学の人が調査に来たというのはそのためである

上野国緑野郡小林村(群馬県藤岡市小林)発祥とする一族
鎌倉御家人として多く登場し、元歴2年の元旦には源頼朝が鶴岡八幡宮に奉納する神馬を引いた従者に、小林次郎重弘が見える

ここが小林の発祥の地らしい、そこはここから遠くはないから移住してきたともなる
この頃は馬が大事であり馬にかかわる故事が多いからこうなった
馬というのは歴史では欠かせないものだが車時代になり忘れられたのである

posted by 天華 at 11:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2018年07月28日

野馬追いは前は暴力団が参加して活気があった? (伝達式を金沢から見に来る人がいた−鹿島(北郷)での儀式)


野馬追いは前は暴力団が参加して活気があった?

(伝達式を金沢から見に来る人がいた−鹿島(北郷)での儀式)

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これは街内から出ていた只野氏だった
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横手での行進
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これは菊池氏なのか?
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北郷の旗とり(杉の旗は只野氏、あとは御家とあるのは小高の人が
鹿島に移ってきてでているとかある、宇多郷の人も出ている)

 副大将は、他の郷にはなく、
唯一北郷に与えられた役付であることから、
謁見の際の口上や作法のやりとりは、
他の郷には見ることの出来ないものです

駅で地元の人が「伝達式」のことをしきりに言っていた
北郷と宇多郷が大将を迎えて合流する儀式はする
でもそれは12時頃であり11時頃に連絡かかりが伝える儀式がある
それが古いもの古式にのっとりするもので歴史的に伝えられたもので言葉も違っているという、その後に北郷と宇多郷が合流するそれは12時以降である
普通見ているのは合流する場である
その前の方が重要な歴史を伝えるものだという、金沢の人は野馬追いのことを調べて来たとなる、鹿島に来るのは少ない、ただフランス人が二人きていた

その人が言うには野馬追いはもともと暴力団が参加して活気があったという
暴力団だから荒っぽいから喧嘩もするし行列で意気盛んになったという
そんなことがあったのか?
確かに何十年前になるのか野馬追いは熱気があった、地元の人でも食い入るように見ていた時代があった、今はただ行列するだけでおとなしいからつまらないという
そういうこともあった、野馬追いは馬が暴れたりして危険な面があった
それには暴力団がかかわっていたのである
暴力団のとりしまりがきつくなり排除されておとなしくなった

暴力団というとき昔は子供の頃は近くに親分がいたのである。
その親分が死んだとき周りの人は参列者が多いので驚いた
その親分は立派といえば変だが大物の親分だったのである
暴力団は親分子分の関係が厳しいから親分が野馬追いに出て子分が補佐する
だからかえって野馬追いには向いていたのだ

そもそも侍とは武闘から戦争から生まれた人たちだか荒っぽい人たちが多かったのである時代劇で盗賊団が村を支配したりすることがあるがそういうことと似た面もあった
武力で村を支配するのだから似ているのである
だから暴力団がヤクザが支配者だったということもありうる
ただそれが後に洗練されて侍となり支配するものとなった

野馬追いは活気がなくなったというときそれはずっと前から言われてきたことである
野馬追いは歴史の保存だから勝手に出れない、野馬追いに出れるのは由緒ある侍の出でないと出れない、その家には旗とか甲冑が伝えられていて認可されているのである。
スコットランドのタートン模様ともにている、勝手に旗を作って出れないのである。
でもそうした歴史と伝統の保存を残して工夫はできる、その後ろに自由参加で踊りでもなんでもさせてやる、それがないので地元の人すらつまらないとなるし盛り上がらないのであるそのことはもう何度もみんな言っていることだが変わらないのである。
何かそうしたことをしたいとしても上の人が許さないとして変わらないと言っている

ともかく野馬追いに来る人は写真を撮る人が多い、地元の人でも自分でも写真がうまくとれない、それは野馬追い行列でも過ぎるのが意外と早いからである
毎年見ていても過ぎるのが早いからうまくとれないのである
動いているものでありそれが早く過ぎるからうまくとれないのである
野馬追いはどうしても絵になるからいい写真をとりたいのだがうまくいかないのである




posted by 天華 at 19:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2018年07月27日

野馬追いの旗は分類できない (どこの家から村から出るのかわからないから)


野馬追いの旗は分類できない

(どこの家から村から出るのかわからないから)


鹿島(北郷の旗)
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鹿島村


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屋形村


原町(中の郷の旗)

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小高郷の旗

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鳩原村

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鬼百合や小高よりも野馬追いに
                                                        
いきりたつ馬4頭や日の強くさして肌光り野馬追い迫る

いづこより野馬追いの旗ひるがえる雲雀が原に会しけるかな

今日は涼しいので小高まで行った,どこの家に旗がたつのか見たいと思ったができなかった、なぜなら野馬追いは500騎出るとしても相馬藩内で人口でも所帯数でも多い
500騎は500所帯なのである。
1000所帯の1パ―セントが10所帯である、一万の一パ―セントが百所帯である
すると5万所帯で500所帯となる時、一パ―セントなのである。
だからそれだけた野馬追いに出る家は少ないのである
何か野馬追いに出る家が多いように見えるが実際は野馬追に出る家を探すこと自体むずかしいとなる

そして野馬追いの旗は種類が多いし数が多いし分類できない
家に立つ旗でも他の村の旗が混じっている、だからわかりにくい、何本か立っていてせ他の村の旗の場合もある、原町では「八」の旗は大内村にもあったからどこの村なのかわからなくなる、津波や原発事故で家自体が移動していてまたわかりにくくなった
小高の人の旗が鹿島に家を建ててそこに旗が立っていたからである

いづれにしろ野馬追いは行列の前に家に旗がたったときからはじまっている
でもその家を見て歩くことはできない、広いしできない、みんな旗を立てているわげでもないからだ
とにかく野馬追いの旗はどこの家から村から出るのかわかりにくい、神旗争奪戦が終わって帰り馬を追って行けばわかる、でもみんなそれぞれ違った方向に行くのだからわからなくなる

鹿島では街中に三軒くらい立った、わかりやすいのは只野氏は霊山から南北朝の争いで逃れた武士の末裔である、只野氏は郡山の多田野村が由来であり杉の紋が旗印である
あとは菊の紋は天皇に由来するから南北朝時代のものである
それはわかりやすいのである。後は本当にわかりにくいのである。

小高の鳩原村には牧場があり馬が四頭いた、白い馬もいた、神馬なのかもしれない。
鳩原村には何軒かで人が住んでいた、前よりは人が住んでいる、もう三年くらい行っていなかった、今日は涼しいので行くことができた

野馬追いは旗祭りなのだけどその旗の由来がわからない、どこの家から出てくるのか?
どこの村から出てくるのがわからない、広いしわからない、それも一年に一回だからほんの一部しかわからない、それが問題なのである。
posted by 天華 at 19:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2018年06月15日

野馬追いの旗は種類が多く由来がわかりにくいのか? (スコットランドのキルトのタータンとの比較− 南朝の霊山から落ち延びた武士はわかりやすい))


野馬追いの旗は種類が多く由来がわかりにくいのか?

(スコットランドのキルトのタータンとの比較−
南朝の霊山から落ち延びた武士はわかりやすい))


●スコットランドのタータンの由来

イングランドとスコットランド間では宗教・人種的な対立があり、ハイランダーたちにとっての"キルト"とは
 強大な権力をもつ中央集権へ対する反逆精神であり "アイデンティティー" を示す大切なものだったのです。

 決して「タータン・チェック」と言ってはいけません。。タータンは布地の柄というよりも、 氏族ごとに定められた家紋に相当する模様の総称なのです。

基本的に上下左右が対象になった連続模様で、 その連続する模様のパターンを「セット(sett)」といいます。

また、家紋に相当するといっても、 ひとつの氏族にタータンはひとつだけではありません。

 ビクトリア朝時代の「タータン熱」以来、特定のクランに属し、特定のクランを示す「クランタータン」はスコットランドのクランの重要な要素となっている。タータンの着用やそのデザインならびに命名は自由だが、クランのタータンを「公式に」定める権限は族長の仕事と考えられている。リヨン卿がそのタータンをスコットランド紋章院に登録したように、実際に族長がそのクランのタータンを登録した例もあり、これはタータンが紋章に並ぶクランの権威ある意匠であることを示している。


野馬追いの旗の種類が多くなぜ由来がわかりにくいのか?スコットランドのキルト、タ−タンとにているのだがまた違っている
ただヨ−ロッパの歴史と日本の歴史はにている、封建制があり城が本当に多いのである
日本も小さな城でも多いからだ、中国とか他でも城があったとしても性格が違うがヨ−ロッパの城は日本と成り立ちがにている
ただ城壁に囲まれてそこが市民共同体ブルジュアとなったのとは違う、burgとは城のことだからである。
ヨ−ロッパでは市の紋章があり市が一つの国を形成した、そういう歴史は日本にはないのである。

野馬追いの旗の系譜をたどると相馬氏一族の旗となるがなぜ旗の種類が多いのか?
それはもともと家族の家の旗に由来している
鎌倉時代のいざ鎌倉というとき自分の家の旗印をかがげて馬で集結した
そのときの旗印が家の旗印でありそれで手柄をたてて恩賞を賜るということで旗の種類が多いとなる,相馬氏一族の旗だったら一つでもいいはずだからである

スコットランドのキルトの紋様は部族に根ざしている、その部族の根拠地になった土地がある、土地に由来している
野馬追いの旗は相馬氏一族がこの地に移り住んで支配した
もともとこの地を支配していたのではない、後から征服したのである。
その前に館と地名がある所には在地の勢力があった、それで海側には泉氏とか磯部では佐藤氏とか協力な在地の豪族が住んでいたのである
それで相馬氏の進出経路で書いたように深野には館という地名が二つありそこには入れなかった、大原に進出したのである。
大原から小池から相馬市の方に進出した、相馬市には伊達氏の支配地ともなっていた

スコットランドの部族はもともと在地の勢力でありイングランドに支配されていない
もし相馬氏のようにスコットランドに入って来たら相馬氏の一族がスコットランドの地に部族に入り込み子孫となっていたからである。
それで相馬藩は相馬氏によって支配されたのだがもともと在地の勢力ではない
だから後から在地の勢力の中に入りその一族の人たちが郷士として土着したのである。
そこで姓も受け継がれその子孫が村を作ったのである。
ただもともとそこに住んでいた人は郷士の監視下に置かれたのである。
それで野馬追いの旗はもともとの地域に由来していないからわかりにくいのである。

A村B村C村の中に相馬氏の一族の人たちがはいりこみ土着した
その時の家の旗印がもちこまれたのである。その土地に由来するものではない
ただ村に入り込み土着したとき分家するからその分家した旗印はにているのである。
でもそれはもともとの村から発したものではない、スコットランドのキルトはもともとその土地に住んでいた人たちの部族に由来しているのとは違うのである。
つまり野馬追いの旗の由来はその村とか土地にないとしたらその由来は相馬氏がもともと支配していた千葉県とかになりさらに家の旗だから鎌倉時代にさかのぼりその旗印は関西方面にも由来しているのである。いろいろな家の人が相馬氏の中に組み入れられたからで知る。そこでその由来をたどることがむずかしくなっているのである

●南北朝の争いで霊山炎上して落ち延びた一族の旗はわかりやすい
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山王神社日吉神社の由来

山王権現日吉大社は、日本全国にある日吉、日枝、山王神社の総本宮で、東本宮に大山咋命(オオヤマクイノミコト)、西本宮に大己貴神(大国主神)が祀られています。

創祀は崇神天皇7年、およそ2100年前とされる。古事記に「大山咋神、此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあり、これが東本宮の大山咋命のことですね。で、ここに記されている日枝の山(ひえのやま)というのが比叡山のことなのですが、日吉大社が、元は日枝大社といわれていたのは、ここからきていたんですね。

、“神猿(まさる)”さんという神の使いの猿がいらっしゃいます。「まさる=魔が去る=勝る」として、魔除けの象徴となっています。境内地で2匹の猿が飼育されて、可愛かったですよ〜(*^_^*)

豊臣秀吉は、幼名を「日吉丸」、あだ名が「猿」ということで、日吉大社を特別な神社としていたらしく、織田信長の比叡山の焼打ちで焼けてしまった日吉大社の復興に尽力したという話です。

日本全国に約2000社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮。
比叡山の延暦寺は16弁菊の中に輪宝。或いは寺紋として単に「山」の印。
此れは日枝山王の神が大山くひの神であるからです。


南北朝の争いで落ち延びた武士が鹿島の真野に住んだそこに日吉神社がある
菊の紋は天皇に由来している、だから菊の紋は天皇の紋でありそれを利用しているのは南朝側であり山王とか王という旗もそうである。
霊山から落ち延びるとき今の玉野村で二手に分かれたからである。
山上と卒塔婆峠を通る道に分かれて落ち延びた、卒塔婆峠を通って落ち延びた武士は鹿島の真野の中館に住んだ、そこには日吉神社がある
それから鹿島村には只野氏一族が住んだ、その只野氏の先祖だった人が同級だったのである。
鹿島には只野、但野姓が本当に多い、その由来は郡山の多田野村から来ていたのである。只野氏の旗印は杉の紋でありその旗印があるのは只野氏由来のものである。
だからこの紋はわかりやすいのである。

それから山王とある旗印もそうである、王とあるのもそうだろう
例えば菊の紋で菊池とあるとき菊池氏は九州に存在して菊池という地名もある                          
肥後菊池に土着した勢力が菊池となり全国に散らばったし陸奥には菊池姓が多い
陸奥菊池氏も肥後菊池氏と同族で、建武の新政に関った人々の中に菊池一族も名前を連ねていることから後醍醐天皇の多くの皇子に伴って全国各地に散らばったとされる。
ただ菊池姓がいても紋は違っている、菊の紋ではない、別な紋である、ただ菊の紋は天皇に由来していて南朝である

野馬追いは旗祭りだというとき旗のことがわからないとつまらないと思う
誰でもなぜあんなに旗の種類が多いのだろうと疑問に思う
しかしその由来がわからないとつまらないとなる
旗とはスコットランドでもそうだがキルトはタータンはイングランドに対抗するものとしての土地のアイディンティティとして作られていた
とするとわかりやすいが野馬追いの旗印はもともと村に土地に根ざすものではない
この地を支配した氏族でありその由来をたどるとこの土地にはないとなるからわかりにくいのである。

ただ南北朝の争いで霊山が炎上したとき落ち延びた時の武士に只野氏とか桑折氏とかの姓は明確である。その子孫がこの地に増えて只野氏の姓が多いのである。
野馬追いは戦国時代に軍事訓練として始められた
それが伊達に対抗するためそうした、それを否定する者もいるが例えば北朝鮮に対して日韓で合同で軍事訓練をするのはやはり北朝鮮が攻めてくるとしているからそうなったのである。
スコットランドでもやはりイングランドとの対立でそれに対抗するための民族衣装としてキルトのタータンが生まれたのである。
なぜなら後でイングランドに負けたときその民族衣装が禁止されたからである。
民族同士の争いだとそういうことが世界で起きている   

●北郷鹿島村の旗印   
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北郷の行列(鹿島区)

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二本の矢から三本の矢になったのか?
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鹿島街内から出陣

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鹿島の一石坂を上る(鹿島からヒバリが原に出陣


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自作の菊の紋

鹿島村で顕著なのは杉の紋の只野氏である、只野氏については前にも書いた、それから菊の紋があるとき菊池氏がいる
それから桑折氏もいる、これらの武士は南北朝の争いの時鹿島に落ち延びた、日吉神社のある中館に住んだ
ただ鹿島村るも住んだ、それが同級生の只野氏だった、おつづら馬とういう荷物を運ぶ役をお浜下りの祭りで担っている重要な一族であり只野氏一族は鹿島に多いのである。

ただまぎらわしいのは戸川とあるとき川の字をとって旗印にしている、そういう旗印もほかにある
それから星が三本の矢になっているが菊池氏の紋は二本の矢だからここから波及したのかとなる
とにかく鹿島には南北朝の争いで霊山が炎上したとき落ち延びた武士の子孫が土着したということは明確なのである。
その旗印もわかりやすいのである。   

野馬追いの旗印をなんとか分類しようとするがむずかしい、でも野馬追いの旗は勝手に作って祭りに出れないというときそれは歴史の保存の役目を担っているからである。
なぜなら勝手に旗印を作って行列に参加したら訳わからなくなるからだ、その由来も混乱してくるからだ
それはスコットランドのキルトのタータンと同じであり正式に歴史的認められないものは許可されないのと同じである。
ヨ−ロッパでは紋章がありその紋章の由来を調査する機関もある、勝手に貴族の紋章が使えないと同じである。
ともかく南朝の旗印はわかりやすいから見ておくべきである。 




 菊池氏一族とは

 南相馬市鹿島区に多い只野(但野)氏の謎

  (お浜下りの祭りのおつづら馬の話ー野馬追いの旗印は杉紋)  









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2018年05月29日

野馬追いの旗とスコットランドのキルト


野馬追いの旗とスコットランドのキルト


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決して「タータン・チェック」と言ってはいけません。。タータンは布地の柄というよりも、 氏族ごとに定められた家紋に相当する模様の総称なのです。


日本の歴史とヨーロッパの歴史は違っているようで似ている,それが城が多いことである日本でも城が多いから共通性がある。
それは封建制ということで共通している
土地が一番の財産であり土地に依存した社会である。
それは農業や牧畜などが基礎としてある農業社会だったのである。

だから野馬追いと同じような騎馬隊が独自の旗をもって行進する祭りがある。
それは地域地域の旗なのである。
イギリスのスコットランドのキルトは有名である。
それぞれの土地にキルトの紋様が伝えられている
スコットランドはイングランドに抵抗したが部族の集合体だから部族ごとのキルトが伝えられている

では野馬追いの旗と共通性があるのかというとき野馬追いの旗はそうした部族ごとの旗ではないし必ずしも地域の旗ではない
相馬氏がこの地に来て支配するようになったから相馬氏一族の旗である
でもなぜこんなに種類が多いのか?
それは部族ごととか地域ごとの村ごとの旗ではない,家の旗を基本としているからである家というとき無数に家があるし家紋もある,だから種類が多いとなる
それは鎌倉時代からはじまりその元をたどるとさらに平安時代とかにまでさかのぼる
それだけ古いのである。それでその旗の由来がわかりにくいのである。

文化というとき地域性の探求になる,文明となると地域性を無視して画一化することになる,地域性というとき相馬藩とか福島県とか単位的にみる
でも相馬藩内でも地域性がある,地域性とは地形とか風土が違うということなのである。それが文化の基である,だから標準語が文明語だが方言は文化語なのである。
数式化するのが統計化したりするのが文明となるが文化はそうして一様化されない
そこに文化の魅力がある
工業製品というとき文明化であり同じ規格のものが大量生産される
文化は地域の特質を活かした物産でありそこから生まれた独自のものがあるから文化なのである。

野馬追いの旗は一見そうした地域性が関係しているように見えるがそうではない
氏族系統とか家の系統としての旗印である。
・・・村の旗ではない,部族の旗でもない,相馬氏のそれぞれの家がこの土地に分布したものである。だから土地に由来した旗とはなっていないのである。
もし土地に由来した旗となっていればA村のB村のC村の代表となるからわかりやすいのである。
野馬追いの旗行列でもそういうふうには見れないのである。
それで旗の由来をたどることがむずかしいのである。
南北朝の戦いで霊山城から逃れた人達がいてその人たちの旗はわかりやすい
それが只野氏の杉の紋様の旗だった,それは郡山の多田野村から出ていたのである。
他にもその系統はたどれる,それは一団のものとしてたどれる
山王という旗印もそうである。山王信仰が霊山から逃れた人達によってもたらされたからである。

いづれにしろ文化は地域性の探求である。地形風土の探求である。
福島県内でも多様であり相馬藩内でも多様なのである。
だから文化は土地を離れてありえないのだ,それで東京とかにはもう文化はないのである文化はまたこれからも生まれないのである。
そこに方言がないということでもわかる,方言はその土地から生まれたものだからであるただ方言も伝播しているから文化の伝播はある

つまり文明化すると多様な土地に根づいた文化は喪失する,標準語化するのである。
そうなると同じ規格の大量生産の品物と同じになるのである。
文化の多様性が喪失する,限界集落とか言われるけどそういうものもなくなる
その時土地の多様性がなくなり地域の文化も喪失するのである。
ワインでも歴史が古いから土地ごとの名前をつけられていたワインがある
そのワインはその土地と密接結びついて生まれていたのである。
そういうものは各地にある,日本では酒がそうである。
多様な酒があり味が違うから酒とか食品でも文化的食品とただ画一的に同じ味として作られたものがある

これからは大量規格生産ではない,地域に土地土地に根ざしたものが価値を帯びる
それはGDPとかで計れない価値なのである。
グローバル経済というとき画一化でありその土地土地に根付いたものではない
世界は土地土地の地形とか風土とかによって文化が生まれはぐくまれる
それを無視した物差しで価値を計る時代は終わったのである。
これからは地域地域に根ざした文化的価値の追及の時代になる
その土地土地に生きる価値を新たに発見する,それは物質的にもそうである。
精神的にもそうである。
日本ではものというときただものではない,ものは心としてとらえていたから西洋的価値観と違っていたのである。ものと心は一体だったのである。
土地と人間は一体としてとらえられるのである。

それで今度読んで「グローバルリズムの終焉-経済学的文明から地理学的文明へ-  」は自分の思想と一致していた
その著者は住むとういことを第一にして社会をみる,移動輸送の文明社会ではなくその土地に住むことこそ第一としてみる
人間は移動社会になりすぎた,結果として原発事故でかくも簡単に土地から離れて人は移住したのかとも自分は問うてきたのである。
その土地に住むことの価値の追及なのである。それは多様であり統計化数値化できないのである。

野馬追いの旗は地域の旗とは違うがやはり多様性を示しているから文化なのである。
また地域に土着することによって村を代表するものともなった
やはりどこどこの村から出陣したとして見るからである。
ただキルトのようにその村独自のものとして旗があればより土地に根付いた文化の祭りとはなっていた
どうしても相馬藩だと相馬氏一族の祭りだとなってしまうこともある
各地にある祭りはもともと地域性があり神楽とかあるがそれも村ごとに違っていたのである。独自のものとして工夫して発展させていたのである。
どこの村の神楽の舞いだとかあった,今は村ごとに何か特徴あるものが喪失したのであるただ地形とか風土とかは時代が変わっても変わらないからそこから新たな文化がまた生まれるのである。

インターネットは多様性であるのもやはりマスコミという中央主権的情報社会からの変化である。
多様な地域性が報道されるとういことが今までと違っている
福島民報でもそれはマスコミであり大きいのである。
だから相馬藩内のことは詳しくは報道されないしそもそも福島県だけでも広いから報道しきれないのである。
だからインターネットが生まれということは地域性も生まれる時代とマッチしたものともなる
ただそこでマスコミのように視聴率を稼ぐことはできない,その性質を異にしているからである。
一地域の地域に興味があるとしても他の人はないともなるからだ
だから二つの情報があるとして中央主権的報道も必要でありまた地域地域の報道と探求も必要なのである。



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2017年10月21日

斉藤茂吉の馬の短歌を読む (野馬追いに思う忘れられた馬のこと)


斉藤茂吉の馬の短歌を読む

(野馬追いに思う忘れられた馬のこと)

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馬屋のべにをだまきの花ともしらにをりをり馬が尾をふりにけり

にんげんは牛馬となり岩負ひて牛頭馬頭(ごづめづ)どもの追い行くところ

馬車とどろ角(くだ)吹き塩はらのもみづる山に分け入りにけり

ほしくさの馬車なみ行きしかば馬はかくろふ乾くくさのかげ

しんしんと行きふるなかにたたずめる馬の眼(まなこ)はまたたきにけり

馬子ねむり馬はたたずむ六月の上富坂のをつかれてくだる

三宅坂をわれはくだりぬいななかぬ裸馬一つ淋しくくだる

馬一つ走りひびきて来るまの墓石店まえに泥はねかえる

あたらしき馬糞ありて朝けより日のくるるまで踏むものなし



おさなごの馬の貌(かお)なづなごむかな相馬の里の秋の日暮れぬ

野馬追いに馬いななきてよみがえる馬ありしとき糞もするかな

その旗のほこらしきかな同類の旗印の馬駆けてくるかな


人間は時代がすぎるとその時代のことがわからなくなる,相馬野馬追いというとき旗祭りとも言うがまた馬の祭りなのである。
ところが馬というものがわからなくなっている,でも戦前から戦後何年かは馬車屋とか馬を運搬のために使っていた,子供のとき馬車の後ろに乗って遊んでいたからである。
馬車はまもなくして消えた,でも馬との生活は人間には長い,それが馬はもはや生活の中にはない,だから野馬追いのときあれだけの馬が集まることで馬があった時代を思い出すのである。馬はあとは競馬馬の馬になってしまったからだ

斎藤茂吉の馬の短歌は集めたがこうして馬は活きていた,東京でも馬がいた,上富坂とか三宅坂がそうである。馬は運搬のために欠かせなかったのである。
野馬追いのとき馬糞が道に残る,これも馬とともに暮らしていたときは普通の光景であるそれで嫌がる人もいる,現代は馬のことがわからないから嫌悪感を感じる
でも牛舎では今でも汚いからにたところがある。

馬屋というものがあり曲がり屋として有名である。馬と一つ屋根の下で暮らしていたのである。曲屋は今でも会津辺りにまだ残っている,そこで生活している人もいる
牛はまだ肉にするにしろ牛乳にするにしろ生活の中で活きている,でも馬は野馬追いとかギャンブルのなかでしか活きていない,だから馬のことがわからなくなったのである。

この辺では馬を野馬追いのために飼っている,それで親しむことがある
子供が馬となじむこともある,だから他とはここは違っている
そうして馬でも牛でもいると情がはぐくまれる,相手が生き物だからそうなる
機械だと車などになると愛車となるが生き物のようにはならない,毎日のように交通事故がありぴりぴりしてぎすぎすしたものになる
そして切れる人間が生まれる,車は何か突然突っ走ってきて走りさるから切れるのであるそこに人間的情をはぐくむものがない

そうなると人間はどうなるのか?人間に情が失われて人間が残酷になってゆく,非情化してゆくのである。子供のときから動物と接していると情がはぐくまれることは確かである今はペットがその代わりをしているのである。

斎藤茂吉の歌は戦前のものが主でありそこに当時の生活が歌われている,それはあくまでも当時の生活の中で歌われたから今はそういう歌は作れないのである。
今の馬が野馬追いのときとか競馬でしか活きていないからそうなる

馬はそもそもモンゴルの草原のような場所にあっている,どこまでも疾走していける平原にあっている,だから馬の原産地は草原とか平原なのである。
とにかくこの辺は馬と縁ある場所である。馬を考える場所でもある
そこに野馬追いの祭りの意義がある

馬も津浪で流されたりして被害にあった,右田の牧場のあったところも流された
そこで見たのがおさなごと少女か馬の顔をなでていたの光景だった
他でも馬を津浪で流された家があった,この辺ならではの被害だったのである。
他に牛も流されたりしたのである。牛馬の被害もあったのである。
だから慶長津浪では馬も死んだと記してあるのである。

南部藩・津軽藩の海岸でも「人馬死んだもの3000余」という記録が残されている(『駿府記』

人馬というとき人間と馬が一体だったからこそ記されたのである。
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2017年08月01日

相馬野馬追い終わる (祭りの意義とは何か?)


相馬野馬追い終わる

(祭りの意義とは何か?)

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旗取りで同じような旗が集まっている
これは同じ村の人なのだろう。
偶然ではこうはならないだろう
青色なのは宇多郷なのか?

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地域社会の人間同士のつながりの希薄化から、地域の力の減衰が叫ばれる昨今、
そのコミュニティを再構築するための絶好の機会に、ねぷた祭りは成り得る
のではないか、


祭りの意義というとき何なのか?野馬追いではその意義は何なのか?
それは相馬藩が一体となる祭りである。それと馬の祭りなのである。
馬を偲ぶ祭りなのである。馬はもう忘れられているからだ

相馬藩が一体となるというのは相馬市では市長が相馬市で出陣式が行うことで誇りをもてとか訓示した,その相馬市(宇多郷)と北郷(鹿島)が合流する儀式がある
野馬追いは地域地域が村々が一体化する祭りである。

でもそれは侍が戦争のために一体化するということが起こりである。
土地の農民はどうかとなると参加できないから一体化を感じるのかともなる
野馬追いは戦争が終わって江戸時代でもつづけられていた
その時戦争とは関係していない,戦争は終わっていたからである。
それでは何のためにしていたのか?

その時も相馬藩の侍が雲雀が原に集結して相馬藩の一体感をもつためということもあったその他に馬を放牧していたから馬を飼い馴らすためにしていた
戦争は終わったのだから馬を飼い馴らすためのものとしての方が役割として大きくなっていた

祭りというとき祀るは死者を祀ることであり供養することである。
だから何回忌とか家ごとにしているのは家の祭りなのである。
そして祭りはどこでも神社があり日本では無数にある。
すると神社ごとに祭りがある,そもそもなぜこんなに神社が建てられたのか?
それは神様を祭りその地域に根を下ろして生活したからだろう。
だから神社は先祖と関係している
先祖が移住してきて神も移ってきた

相馬氏なら千葉氏の系統であり千葉県から移ってきた
その神は妙見信仰である。これは北斗七星であり北極星なのである。
それは遊牧民がもたらした信仰である。遊牧民にとって北極星は移動するときの目印になるからだ
だからイスラム圏とか砂漠の民とかは国でも星印の国旗になっているのある。
最近では天皇にも妙見信仰があり遊牧民とか騎馬民族とかの信仰と関係していたという説がでている

野馬追いの見方としては宇多郷(相馬市)と北郷(鹿島)と合流する儀式があるように相馬藩が戦争のために一体化する祭りだった
だから野馬追いの見方としては5つの郷が雲雀が原に結集する祭りなのである。
飯館村も山中郷であり標葉郷は浪江とか双葉と大熊も入っていたのであり実際に出ていた
相馬藩の主な侍は城勤めではなく農業をしていた郷士でありそこに旗も残りほとんど農家から出ているのである。
つまり野馬追いは侍の祭りであり農民とかの祭りとも違うのである。
ただ相馬氏が土地土地に土着して先祖になったので村々とも関係している
村の代表ともなっているのが相馬氏の侍だったとなる

ただ歴史をたどれば霊山城が南北の争いで炎上して落ち延びたのが今の玉野で鹿島と中村(相馬市)に分かれて落ち延びた,山上に山王神社などがあるのはそのためである。
山王の神が霊山城炎上して落ち延びた武士によってもたらされたからである。
こういうのは由来がはっきりしている,只野姓も郡山近くの多田野村に由来していることは書いた,落ち延びた人たちが真野の中館に住んだからである。

ともかくこうして相馬藩が一体化する祭りであるとき津浪や原発事故では野馬追いが復興の行事としてみなおされた,だから相馬市長も南相馬市長もその旨を言っていたのである相馬藩が大熊,双葉,浪江とか小高でも避難区域になりばらばらになってしまった
それで今回小高から60騎くらい7年ぶりに出たということで話題になった
仮設からではなく帰還した農家からも出ていたからである。
それが小高の復興を推進するものとして小高の人たちも見ていたのである。

つまり小高でも北郷でもそれぞれの地域が一体化する祭りが野馬追いにはあった
ただ今になると社会が複雑化して人口も増えたしみんな会社員になったとき
相馬地域の一体感は希薄化したのである。
だから祭りとして地域の一体化を計ることがあるのだが今は成っていない
それで地元でも盛り上がらないとなる

ただ祭りの意義としたら歴史の伝統の保持でありその意義はある
ただ地元の人がみんな参加できないしみんなで盛り上がることはない
だから歴史と伝統の保持も欠かせないがみんなが参加できる祭りとしての工夫もひつようである。
ただそうなると歴史の保存としての祭りが乱されることもある
ただ前からそうだったが野馬追いは一回見て終わりとなっている
地元の人も参加できないから相馬地域がみんなで盛り上がるという祭りではない
その辺の兼ね合いだむずかしいが何らか新しいものも取り入れないとやがては祭り自体が維持できないとまでなる

そもそも祭りは限界集落では跡を継ぐ若い人がいなくなって維持できなくなっている
祭りとは次代の若者がになうものだろう。
威勢良く神輿をかつぐのは若者である。それはその地域をになう意気込みを示すものである。でも現実はみんな会社員なのだから地域の一員という感覚が今では希薄なのである。だから実際に雲雀が原の本陣山を神輿を担いでのぼるのは氏子ではなく会社員に頼んでいるのである。そういう時代に現実になっているのである。
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2017年07月30日

標葉郷(浪江,双葉,大熊)が野馬追いに出る

標葉郷(浪江,双葉,大熊)が野馬追いに出る


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北郷(鹿島)が来る

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風林火山ではないけど風の旗印である



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標葉郷の大将

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末森監物
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これは標葉郷

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これは大堀村

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田尻村の旗印は出ていた


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中浜村(大熊)

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両竹村
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吉田という人は出ていた


相馬 昌胤(そうま まさたね)

元禄2年(1689年)3月2日、将軍徳川綱吉に召し出されて、奥詰になった。同年6月4日、側衆に転じる。同年8月21日、側衆を辞職する。

千葉氏が源頼朝から奥州の小高に領地を受けた後、千葉氏族・相馬重胤が移り住み、南北朝時代の初期は南朝が優勢な奥州において数少ない北朝方の一族として活躍した。南北朝の争乱が収まるとやや衰退し、室町時代後期には標葉氏を滅ぼしたものの、それでも戦国時代初期には行方・標葉・宇多の3郡を支配するだけの小大名に過ぎなかった。

陸奥相馬氏は現在の浜通り夜ノ森以北を鎌倉開府から戊辰戦争終結に至るまで740年もの長期にわたって統治したため、相良氏や島津氏とともに世界史上にも珍しい領主として知られる。

中世の柏市を含む旧相馬郡を支配した相馬氏は、将門の子孫であるという伝承は良く知られています。

標葉郷(浪江)-末森村の謎

今回は標葉郷の旗印が目立った,標葉郷とは主に浪江だけど今の双葉郡や大熊町が入っている,ここは原発事故で最大の被害を受けたのである。
歴史をさかのぼると室町時代にすでに相馬氏の支配下に入っていたのである。
だからずいぶん古くから相馬氏の領地になっていた
ただ野馬追いというと小高と中ノ郷(原町)と北郷(鹿島)と宇多郷(相馬市)が中心として行われていると思った。
でも標葉郷も相馬氏に服属してから古いのである。

何か掛け軸があり竜の絵が描かれていたがそこに相馬 昌胤(そうま まさたね)と筆で書いてあった,相馬昌正胤は藩主であり元禄時代の人だった
こうした古いものが残っていることでも標葉郷は相馬氏に服属して古いのである。

標葉郷騎馬会は出陣式に先立ち、相馬家第二十一代当主の相馬昌胤(まさたね)公らの墓所がある浪江町の大聖寺を訪れ、

相馬昌胤(まさたね)はここに由来していた,聞いた人は若いから知らなかった
肝心の野馬追いに出る人が歴史を知らないのはまずい

その標葉郷は主に浪江であるが双葉郡も入っている,長塚村とか新山村とかある。
ここに自分の父親が酒屋の丁稚をしていて姉から話を聞いているので親しみがわくのである。何か両親とか祖父母に直接話を聞いたことは心に残る
だから歴史は祖父母から話を聞くことからはじまると書いたのである。

その中で末森村があり末森監物と名を記した人が出ていた,そのことは前にも考察した。泉田村に月に波模様の旗印がある,両竹村にもある。月に波模様の旗印が今回目立った
これは標葉郷のものである。
十字の旗印は大堀村のものである。大堀村はもう住めないとされている
そこから出ているのも歴史である。

野馬追いは歴史の保存だからこうして歴史をたどらないと鑑賞できない
だから外から来る人は地元でも旗印が何を意味しているか良くわからないのだから
何なのだろうとなる

それで威勢のいい60代なのか女性が声をかける,野馬追いは何か地元でも盛り上がらないなと言ったらその女性も同感していた
歴史の保存だからやむをえないが勝手に侍の家でもないものが出れないから盛り上がらないと言っていた。
この辺ではそのことをみんな思っている:ただ行列を見ているだけだからである。
歴史の保存だからやむをえないとしても侍の家でなくてもその後に分けてみんなが参加できるものにすれば盛り上がるかもしれない

今は村というのもだけではない,あまりにも社会が変わりすぎたからである。
すると会社の代表とかが出ればそこに勤めている人も知っているから盛り上がる
何か馬場がありそこをもっと利用して馬になれれば出れる
そして旗印をそれぞれの会社とか地区でもいいから作り出れば盛り上がる
ただたいだい祭りは歴史の保存だから勝手にやると乱れてしまうから拒否されるのかもしれない,でもそうすると盛り上がらない
小高で何か儀式があり女子高校生がその儀式をしていたとき高校生だとまとまって若い女性が確保できる,高校以上になると会社勤めでも別々になりまとまって今は若い女性はいない,早乙女踊りなどがあるがそれももう村だけでは若い女性を用意できないのである
すると祭りが継承できなくなる,現実にて中村神社の神輿は氏子だけではできないので
会社員の人に頼んでいるのである。
みんなが会社員の時代になれば必然的にそうなってしまうのである。

南相馬市の姉妹都市としてしてカナダのペンデルトン市がありその女性はそこに行ったという,そこも馬が縁で姉妹都市になった。
その馬はカーボイの馬であり荒馬を乗りこなすことであり牛をつかまえたりと荒っぽい祭りである,ロデオとかなると野馬追いで馬を乗る人より馬を巧みに使う人でないとできない,それはアメリカのカーボイでありインディアンも関係していた
もともとインディアンの土地だったからである。


オレゴン州ペンデルトン市(カナダ) 

いろんな人がいるが鹿島駅前の角が実家の人は千葉県の柏市から来ていた,そこは千葉氏とかかわり相馬氏が出た所だったのである。流山市とかとも姉妹都市になっているのもそのためである。
ともかく野馬追いは歴史を見ないとわかりにくい,旗指物もやはりどこの村から出たのかとかわかるとそうかとなる
今回は標葉郷に焦点をあててみることができたが後は曇っていて写真はきれいにとれていなかった。写真は場所にもよるし野馬追いではすぐすぎさるからいい写真が以前としてとれないのである。やはりいい写真をとれる場所が大事になる
撮り方もアップでとらないと映えない,今回は写真はきれいにとれてかった
神旗争奪戦は見なかった,天気は多少晴れた,でも曇りであり涼しいのは良かった
最近涼しいし風が気持ちがいい,だから熱中症にはならない
こういう気候の方がいいが写真はいいものが光の関係で撮れなかった
posted by 天華 at 18:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2017年07月29日

相馬市の野馬追いの出陣式を見る


相馬市の野馬追いの出陣式を見る


出陣や法螺貝鳴りて朝の蝉

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去年見た疲れなのか何なのか倒れた馬



相馬市の野馬追いの出陣式を見てきた。
6時半き電車で行った:千葉県柏から何人か野馬追いを見に来る人がいた
その一人が駅前のすぐまえの角の家が実家だった
そこから学校に通った,便利な場所だった
相馬の出陣式ははじめて見た

和歌山県から来た夫婦がきた。

「和歌山県ですか,和歌山城には上りました,石段の坂が長い
いい城でした,ここは石垣しか残っていませんが・・・」

こうして日本はたいがい旅しているから話を合わせられるのである。
和歌山城の石段は長いのである。そこが印象として残っていたのである。
何かを旅では印象として残す必要がある
でも何が後で印象に残っているかはわからないのである。
和歌山城の特徴はあの城の石段だったのである。

出陣式には相馬市長と相馬市長が訓示した,鹿児島県とかの市長とかも他にも来ていた,挨拶はどちらも震災の復興と原発事故の復興を一丸として成すということを言っていた,まだこの辺はそうなっているのである。
復興のための野馬追いがつづいているとなる

雨が少しふっていた,それぼどの雨ではないから良かった
激しく馬が横転して落馬した,人の乗っていない馬が通りをはしりぬけた
こういうことは野馬追いに常にある,落馬するのは相当に危険である
この前は馬が倒れたりした
馬というのは実際に今はじかに見ることがない,競馬でくらいしか見れない
馬が何なのか実際はわからなくなっているのだ。
馬を使っていたとき落馬することは常にあった,馬はそれだけ乗りこなすのがむずかしいのである。へたすると大怪我をする

落馬止め天神

その安徳天皇の怨霊がずっと頼朝をつけ狙い、ようやく稲村ヶ崎で姿を見つけ、頼朝を落馬させたというのです。

毘沙門堂は南向きに建てられていましたが,東海道を通る大名が次々に落馬
毘沙門様を素通りしたためではないかと人々は噂しました

 上落馬橋(黒目川)

 「落馬橋」は旧小金井街道(鎌倉道)に架かっている橋です。
江戸時代、武士が橋のたもとで馬から落ちたのでこの名前がついたということです。

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交通事故にかからないように今なら祈る,落馬は常にあった,自分が見たのは馬と一緒に横転したのである。競馬でも落馬は常にある,それが致命傷になる場合もある
競馬でも9頭が落馬した記録もある,馬に乗った経験があれば本当に落ちることが怖い
モンゴルの馬は小型だからそれほどでもない,日本の馬は大きいし高いから落ちることが恐怖になる

これだけ落馬することは恐れられていたことがわかる,それが神様とか仏と結びつき罰だとしている,そういうことは今でもカルト宗教団体とか他でも言う
何か不幸があると仏罰だとなる,ところがカルト宗教団体でもいつも不幸は他より起きている割合が大きいのである。
ただ当時は神様とか仏様にその原因を結びつけることが多かったのかもしれないさ

「東大寺の大仏を焼いた平家の味方をするな」となときこれは寺側の勝手な解釈である。日本は無宗教だとかいうけどやたら神社や社や祠が多い,寺も多い,それはこうして何か縁起が悪いとかなり結びつくのである。
ただ今でも交通事故なども落馬と同じように縁起が悪いともされるから同じことがつづいているのだ。

ともかく馬というのは実際の生活から消えたとき何かわからなくなる,競馬くらいでしか馬に接しないからである。馬と人間が暮らした歴史は長いのである。
それがまるで忘れられたとき馬についてイメージもできないのである。
馬が糞したりするし道は汚れる,馬が頻繁にいななく,そういうことも実感としてわからないのである。だから野馬追いではあれだけの馬が出るから実感する
馬は大きいから500頭も行列すると迫力がある

戦争でも馬の力は大きかった,義経のひよどり越えとか馬にかかわることはいくらでもある,馬は明治以降もずっと活きていた,荷馬車としても農耕馬としても使われていたからである。太平洋戦争でも馬が活躍していたのである。
日本でも南京とかに入場するとき馬で行列して入場している,仙台の寺には戦争で死んだ馬を供養しているのである。
野馬追いは旗とか甲冑とか見ることもあるのだが馬が蘇る時でもあるのだ
それは競馬とは違うのである。馬があった時代を偲ぶ祭りでもあるのだ
馬にしても何か競馬だけにギャンブルだけに使われるのは本意ではない
野馬追いは本来の馬として活かされる時なのかもしれない

馬を扱うことに優れている→国の力が強くなる

だから相馬藩では雲雀が原で馬を放牧して軍事訓練をしていたのである。それは平将門からはじまっていたのである。 
現代は機械を扱うことに優れていることが国力になっている
馬を知らなければ生きていけない時代があったのである。

出陣式が終わり今度は鹿島に電車で帰ってきた,駅前でタクシーを待っている若い女性がいた。その人は海老原さんの所に行くという,宇多郷と北郷(鹿島)が個々て合流する儀式があるからだ,その人はなぜ海老原という姓まで知っていたのか?
その女性は前も来ていたのである。だから詳しくなった
京都ならいくらでも祭りがある,でも野馬追いに魅力を感じる人もいる
歴女なども増えてきた,そういう女性なのかもしれない,
ただ野馬追いは一回見ると終わりだとも良く言われる:何回も見る魅力がない
それは決まりきったことの繰り返しだからである。
地元でもあきるということがある

ただプログなどで紹介するときこれも一応紹介するとういことでマスメデアの取材とにてくる,何か絵になる写真が欲しいとなる
取材するとは見方がただ漫然と見ているだけではない,何かを訴えるものを写真として出し面白い記事を書こうとするのである。

野馬追いは確かに相馬の城跡から出陣するのだが盛り上がるのは原町の方である。
そこに全騎馬が集結するからである。今年は430騎出場するという。
500のときもあったから多少少なくなったいる
今日はこれから鹿島(北郷)に宇多郷と合流する儀式がある
これも何回も見ている,ただ海老原さん所から街へ行列する所では撮影ポイントがある
田んぼの中を通るから絵になまるのでそこにカメラを構える人が多い
他は街中になるのでてかなかそういう撮影ポイントはない。
posted by 天華 at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2017年07月28日

野馬追い(鹿島村(北郷)で旗が立った家) (只野(ただの)系統は杉の旗印-菊の紋も南北朝の争いに由来か?)


野馬追い(鹿島村(北郷)で旗が立った家)

(只野(ただの)系統は杉の旗印-菊の紋も南北朝の争いに由来か?)

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ここになぜ旗が立ったのかわからない
勝手に旗はたてられないはずである
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ここはいつも立っている
ただ記録では鹿島村の旗印にはない
原町の北原に鷺の旗印があり他にもあるが鹿島村にはないみたい
だから他から移り住んで来た人かもしれない

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菊の紋が町内から出る
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これは霊山城炎上の時,落ち延びた者に由来する
桑折とかはの姓はそうだからである。
只野:桑折とか菊地の姓がそうなのかもしれない,南北朝の争いで落ち延びてきた
一団だった,杉の紋と天皇の菊の紋はそうだった



只野家について考察したが南北朝に由来して古い家系である。その元は郡山近くの多田野村だったのである。

平景政(鎌倉)までたどれる只野氏の由来
 (奈良の三輪山に野馬追いの杉紋は由来している)


南相馬市鹿島区に多い只野(但野)氏の謎 (お浜下りの祭りのおつづら馬の話ー野馬追いの旗印は杉紋)

この杉紋は古代の奈良の三輪山から生れたとするといかに古く由緒あるものかわかる
そしてこの杉紋を旗印とするのは鹿島村から他にも広がっている
この辺では電話帳を見ればわかるが只野姓というのが多いのである。
只野一族系統がこの地に根をおろして広がった,それは南北朝の霊山炎上から落ち延びた侍だった,その落ち延びたものが祭りとなったのが江垂(えたり)のお浜くだりき祭りである,只野家がその祭りで重要な役を受け継いでいたのである。

そのことは近くの同級生がいて教えられて知った,その人は脳梗塞になり九死に一生を得た,でも最近土手を歩いているのを見ないな,まだ生きているのだろうかともなる

杉の紋の出ている村

宇多郷(中村) 伏見

下栃窪村 只野六郎

岡和田村 只野津右衛門

小池村 只野三郎衛門

鹿島村 只野善衛門 只野仁右衛門

横手村 只野仁衛門

只野一族は鹿島区中心に広がった,宇多郷にもあったのは鹿島村を基にして広がったのである。

次に天皇の菊の紋が鹿島区の町内に旗がたった,これは何に由来するのか?
堀川忠三郎 菊地義兵衛 菊地重朗治 桑折利平治 遠藤八朗(北屋形村)が記録されている
これは天皇の御紋である,それはおそらく南北朝の争いのとき,天皇の旗印として使ったのもかもしれない,正当性を主張して旗印にしたのかもしれない。
なぜなら明治維新でも菊の紋の錦の御旗が作られたからである。
日本では動乱になると天皇の主導権争いになるからだ
そして桑折氏も霊山炎上のとき落ち延びた一族でありその系統も菊の旗印であることもつながる

つまり野馬追いの旗印は鎌倉時代にさかのぼり南北朝の争いからはじまっている
だから旗印を見るとき南北朝の争いも思い起こして見る必要があるともなる
相馬氏は南北朝の争いにかかわりこの地方を制覇したのである。

野馬追いの旗印は何を意味しているのか?また何に由来しているのかわかりにくい,一つの系統として南北朝の争いに由来しているものがある,それが一つの謎を解くものとなる

posted by 天華 at 18:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2017年03月18日

野馬追いの旗とヨーロッパの中世の城と旗の共通性 (野馬追いと同じ祭りがヨーロッパにもある)


野馬追いの旗とヨーロッパの中世の城と旗の共通性


(野馬追いと同じ祭りがヨーロッパにもある)

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2014夏のブリュッセル★ (写真拝借)

これは野馬追いと同じである

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野馬追いの旗にもこれと同じ識別化がある


騎士団は軍隊の中枢と見なされていた。上級貴族として「バナレット騎士(旗騎士:旗は領地管轄権の象徴であり、供の者を従えていた)」

「戦う人−耕す人」に二分された(10世紀)。これによって「a.武装して戦う特権を有し、そのために通常は課税されない人々」と「自然物を生産し、自分の需要に加えて他人(=b.の人々の労働の成果で暮らせる特権を持つ人)の需要を満たすように期待された人々」が区別された



公家の家紋は優雅なものが多く、武家の家紋は実用的で、戦いの場において、敵味方の陣地識別のために旗や幕に用いて目印としたのに始まり、簡略で、しかも識別しやすい幾何学模様が多いのが特色といえる。ことに群雄割拠して互いにしのぎを削るような争いが続くにつれて、一軍の将たる者は、地方の群雄の家紋をつねに熟知しなくてはならなくなり、このために『見聞諸家紋』という書籍さえ刊行されるほどであった。

 関ヶ原の戦いを契機として、太平の世の基盤ができて、武具、武器、旗、幟、馬印などは無用のものとなり、紋章の用途のうえに一大変革が行われた。つまり家紋は、武士の威儀を正すのに必要なものとなり、儀礼のうえからも、自己の家格門地を表す服装の決まりができて、参勤交代あるいは登城をするときの行列に、家紋を明示する必要に迫られ

ヨーロッパと日本は別の世界であり歴史も理解しにくいと思っているが封建制があることで共通している、封建制があったのはヨーロッパと日本だけだッからである。
それで明治維新が成されたという説もある。西欧化でたきという説である。
それは封建制というのはやはり歴史的人間の発展としてヨーロッパと日本にしかないということが重要である。

だから騎士とサムライもにているしなぜヨーロッパに城が日本と同じように多くあのように紋章学まであるように紋の種類も多く旗の種類も多いのかとなる
それにはやはり封建制があり城が多く騎士がいてサムライがいたからだとなる

それはそういう歴史的基盤の共通性がありそうした紋章学とか旗が生れたのである。
ただそういう歴史があるのは日本とヨーロッパだけなのである。
だから野馬追いが旗祭りだというときヨーロッパでも同じ祭りがありブリュッセルでの旅の報告では野馬追いと同じ祭りがあった。騎馬行列もそうであり様々な旗があるのも同じだった、つまり野馬追い祭りは日本だけのものではない、ヨーロッパとそっくりなものがあった、旗でも同じような旗があった。幾何学紋様であり識別するものとしての旗である
だからヨーロッパというのは異質な社会だと見ているが野馬追い祭りからみると何か親近感を覚えるのである。同じ歴史があり文化があったとなる
ただキリスト教がかかわるのでそこがわかりにくいとなるが日本でもサムライの前進が僧兵だったということを言うひともあり京都でも比叡山なども寺領が一つの町を形成していた。それはヨーロッパでも同じであり修道院は要塞であり城でもあったし騎士団もいたからこれは僧兵である。
一見日本と中国は漢字を使っているから共通性があると思っている、でも日本の村と中国の村はまるで違ったものだという学者もいる、日本の村は封建制へと発展した村だった。だから封建制があるということで中国にはないからヨーロッパの歴史に日本はにているのである。

「戦う人−耕す人」に二分された(10世紀)。これによって「武装して戦う特権を有しそのために通常は課税されない人々」

これも日本にもある、戦う人とはサムライになった人であり耕す人は農民である。
でも日本では相馬藩でもそうだがその両方をかねそなえた郷士がいた
農民であり侍であった人である。それは城勤めになった侍は専門家して官僚ともなった。兵農分離したのである。刀狩りによってそうなった。

野馬追いでは郷士から出ていて農民と侍だった人たちである。町内とか街内から出る家は極わずかである。農家に古い家が残り鎧や旗が残されていた
それは勝手に作ったものではなく先祖伝来の旗である。

ただこの旗も

関ヶ原の戦いを契機として、太平の世の基盤ができて、武具、武器、旗、幟、馬印などは無用のものとなり、紋章の用途のうえに一大変革が行われた。

つまり相馬野馬追いにはあれだけ多様な旗があるけど戦国時代でも大きな藩とかにまとまると家の旗とかは必要なくなる、相馬藩とか伊達藩とかで戦うから相馬藩なら九曜の紋であり伊達藩なら竹に雀の紋の旗とかなるのである。
野馬追いの旗の種類の多さは鎌倉時代に由来していて多いのである。
戦国時代からはまだ使われたにしろ家の旗はそれほど使われない、その後は儀礼的なものその家の家柄を示す地位を示すものと変わってきた。

野馬追いの旗は公家の紋とは区別される、公家の紋は天皇の紋が菊のように植物が多い、橘などもそうである。鎌倉時代から戦国時代になるとその植物紋が受け継がれたにしろ
多様なものになった。識別を基とするとき幾何学的な抽象的な単純なものが多数生れたのはヨーロッパの旗でも同じものがありにているとなる

いづれにしろヨーロッパの歴史というとなにかむずかしくなじめないということがある。でも野馬追いの旗からみると共通性があり親しみやすくなる。
だからヨーロッパの城や騎士や旗とかを研究すればヨーロッパの歴史に興味がもてる
つまり相馬藩というとき何か世界史と関係ないように見えてあるともなる
歴史に興味をもつというときやはり身近なものから始めないとできないからである





posted by 天華 at 10:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2017年03月17日

升形、井戸の紋の旗印のルーツを探る 近江の彦根城の井伊家ー直虎につながる


升形、井戸の紋の旗印のルーツを探る


近江の彦根城の井伊家ー直虎につながる

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鐘の旗印

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●井伊家のルーツ

井伊家の家紋は二種類あり、定紋(じょうもん)が橘紋(たちばなもん)で替紋(かえもん)が井桁紋(いげたもん)です。

定紋は正式の紋で公式の場で使用します。表紋(おもてもん)とも呼ばれます。

替紋は非公式の場で使用する紋で裏紋(うらもん)とも呼ばれます。旗印などに使われますが、用途については特に決まりはないため、それぞれの大名家のルールで使い分けされていました。

井伊家の家紋はなぜ「橘」と「井桁」なのでしょうか?それは井伊家の祖先共保(ともやす)が井戸から生まれたという伝説に由来します。

共保は井伊谷に移り井伊氏を名乗ります。この共保が井伊氏の祖先だと説明しています。

共保が出生した井戸の脇に橘が茂っていたので、井伊家の定紋は「橘」になり、井戸から生まれたという言い伝えから替紋は「井桁」となりました。


遠江国引佐郡渭伊郷井伊谷
主な根拠地遠江国井伊谷
近江国彦根
滋賀県彦根市 など
著名な人物井伊直政
井伊直弼
井伊直愛
井伊直孝
井伊直虎

井伊家の家系のルーツをさかのぼると、初代当主である井伊共保(いい ともやす)に行き着きます。この井伊共保は元々は捨て子だと言われているのですが、遠江の国司を務めていた三国共資という人物の養子になり、その家督を継いだとされています。

その後、井伊共保は自分が捨てられていた場所である井伊谷(いいのや)に城を構えて井伊氏を名乗ります。ここに井伊家のルールはあると言えそうですね。


南北朝時代になると、遠江の豪族として名を馳せていた井伊家は南朝に味方し、その後南朝の衰退と共に北朝方の今川氏の家臣となります。しかし、主君にあたる今川家との関係は決して良いものとは言えなかったようで、何度も争いの危機を迎えたと言われています。
今川家との争いを防ぎたいと考えた、井伊直虎の曽祖父にあたる井伊直平は娘を今川義元に妾として差し出し、何とか危機を回避したこともありました。


NHK大河ドラマの井伊直虎が近江の彦根城の井伊家の先祖だったとなる、この紋は長久手の戦いでも関が原の戦いでも一番目立っているのである。
それだけ活躍して徳川の四天王になった。三河勢が三人なのに井伊家は別だった

●関が原では三成の旗印と井伊家の旗印が一番目立って描かれている

関が原の戦いではやはりその升形の旗が一番目立っているのである。
では南相馬市の原町区にある蔵のある家はこの井伊家とかかわりあるのかとなるとその由来はわからない、その家臣だったのかもわからない。
野馬追いの旗は鎌倉時代からの由来のもので戦国時代のものは少ないだろう。
戦国時代にはそんなに多様な旗がないのである。
例えば相馬藩と伊達藩が戦ったとしても相馬藩だったら九曜の紋の旗になり伊達藩だったら竹に雀の旗印になる、鎌倉時代は家を代表するものとして紋があり旗印があった。
だから野馬追いの旗は鎌倉時代に由来していて戦国時代にはその旗印が使われていたのかという疑問がある。
戦争のときにそんなに多様な旗印を使ったのかとなる疑問である。
ただ旗印が家宝として残っていたのでそれを野馬追い祭りで使ったのかとなる
戦国時代でも旗印はそんなに使われていないのである。

井伊家の旗印は目立っている、石田三成の旗も目立っている、石田三成の旗は野馬追いにも江戸時代には出ていた、石田三成は相馬にも来ていてた

1599年(慶長4)には、京を出発する時三成から三胤に征矢に漢詩(七言絶句)を添えて贈られました。このように三成には恩義があったので、関ヶ原の戦に参陣せず、その為三成に内通していた疑いで相馬氏は領土没収となります

井伊家は三成の興亡は関が原合戦図の旗印を見ると一目瞭然である。一番どちらにしても目立っているからだ。
三胤は三成の字をもらって名付けた。


●野馬追いの旗の謎

野馬追いの旗は鎌倉時代に由来していて一族、家の旗印であった。でもそれが戦国時代になると家といっても相馬氏でも範囲が広くなるから一家の紋とか旗印で戦争するということはあったのかとなる
相馬藩の九曜の紋の旗印は使われるが一家の紋とか旗印は使われたのか?
そんなに多様な旗印が必要だったのかとなる、武田家だったら三菱の武田家の紋であり伊達家だったら竹に雀とかに統一される
するとそして統一される前の一家の御家人の旗が野馬追いの旗でありだから種類が多いとなる。
残された合戦の図にはこんなに多様な旗印は使われないないからだ。
鎌倉時代から戦国時代になると大きなまとまりが勢力ができて戦うようになったとき一家とか一族の旗は不必要になってきた。
ただ井伊家のように有力な家の旗印は戦国時代でも関が原の戦いでも使用された。
相馬藩でも大きな戦いになったら相馬藩の旗印、相馬氏の旗印の九曜の紋になる
それは関が原でも他でも見られる、でも他の多様な紋は合戦図には残されていないのである。

ただこの辺は研究の余地があり自分にはそれだけの研究ができない、インターネット上で調べた限りではそうでありなぜか野馬追いが旗祭りだというときその由来を研究している者がいないのである。
それは旗印がその由来も複雑でありわかりにくいからである。
鎌倉時代にさかのぼるとなるとその系統も不明になってくるからだ。
その中でも升形の旗印は井伊家が徳川幕府の四天王になったので目立ったのである。
その他の旗印は由来が不明になったと推察できるが自分には解明できないのである。


野馬追いの旗印の由来 (井形と升形の紋ー原町区の古い農家をたずねて探る)
posted by 天華 at 11:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2016年09月04日

物が残っても物語(hi-story)がないと物も活きてこない (原町の馬頭観音の碑の物語でわかったこと)



物が残っても物語(hi-story)がないと物も活きてこ


(原町の馬頭観音の碑の物語でわかったこと)

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この農家の庭の畑になぜ馬頭観音の碑があるのか不思議だ。普通は道に面して建てられるのだがこれは畑に一つだけ立てられた。やはりここが古い昔の道で馬を使っていたから供養に置いたのだろうか?これはこの農家で建てた馬頭観世音の碑なのか?ここは原町の街のすぐ近くである。やはり昔の道であるからここに建てられたのか変わった処にあったので注目した

この疑問はやはり正しかった。道に沿って普通は馬頭観音があるのが多い。
ここは畑にあったからこの家の人が何かあって建てた
実際にその家の人にたまたま畑仕事していたので聞いてわかった
火事があって飼っていた馬が焼死したので供養に建てたというのである。
つくづくそうだったのかと思う、普通だったら何の変哲もないし注目もしないだろう
でもそういうものに何か知らない歴史が埋もれている

つまり物は物語でありただそこに物があってもそれは何の意味もないとまでなる
物にはなにかしら物語が残されているのだ。なぜなら人が死んだら人は灰となり煙となり何も残らないからだ。ただ物は残っているしその残されたものからその人をしのぶであるここでは馬が死んだということを偲ぶのである。
その当時は農家では馬を飼う人が多かったし農耕馬でもあった。
この辺では野馬追いに出る馬も今も飼っているからそういうこともあったろう。
この辺は馬と因縁深い土地なのである。
曲屋なども他ではありそこで馬を飼っていたのである。
馬と娘が結婚したとか何かそういう伝説も馬が家族と一緒のようにして暮らしていたからである。

それが今では犬とか猫になり犬猫の墓がどこにでもあるのとにている。
今になるとあまり馬のことなど具体的にイメージできない、競馬している人くらいだろうでもその馬はギャンブルの対象なのだから昔のように人間的情愛で結ばれる馬とは違っている。
馬は機械ではないし生き物だからやはりペットと同じように人間の情愛の対象となる
何かギャンブルの対象だけになっている馬というのは不自然でありかわいそうだともなるただそうはいっても戦争に使われて死んだ馬も無数にあるからいちがいには言えない
スピルバーグ監督の「戦火の馬」はそういう馬をテーマにした映画である。
最後は狂ったように馬が戦場を駆け抜けてゆくシーンが心に残った。
馬も戦争に使われることに抵抗したという映画だった。
馬に関する物語はいくらでもある。ただ馬より人間が中心になり馬を主人公のようにはしないからこの映画は違っていた。
この辺は野馬追いがあり馬と今でも親密な関係を結んでいる
ただ馬が車に変わったのは戦後であり戦争中で盛んに馬が使われていて天皇陛下も馬に乗っていたし南京とか入場するにも馬である。
この時まで馬は普通に使われていたし馬を飼うことが兵隊の仕事だったのである。
だから今でも戦争で死んだ馬を供養する碑はあるが少ない、馬頭観世音は荷馬とか農耕馬として使われたものを供養したものだからである。

ともかく何かそうした一つの碑でも忘れられて何かわからなくなるのは結局そこにまつわる物語がわからないからである。
何かしらそうしして残された碑でも物でも物語があるのだがそれがわからなくなる
自分の母の実家の墓には25歳で死んだ人がいた。結核で死んだのでその話を母から聞かされている、戒名がないことはキリスト教に入ったためだった
何か苦しくて救いを求めたのだろう。この人も生きたかったろうと思う
また若くして死んだとなると戦死した人たちもそうである。それは墓に無念を刻んでいるのである。
別に有名な人ではなくてもそういう物語は無数にあるのだがなかなか物が残っていてもそれを実感しにくいのである。

自分の家でガラスケースにお菓子を入れてバラ売りしていた、母は毎日ご飯粒をつぶして糊にして新聞紙で袋を作り売っていた、暇なく働いていた、それはいい思い出と悪い思い出が重なっている、日曜日も休まず働いていたばかり家族での楽しい思い出がないからである。貧乏な時代だからしょうがないとしても働くことしかない人生も嫌だなとつくづく思った。食事もゆっくり満足に家族でできないのだから嫌だった。
ただそのカルマなのか母の介護で今も自分で食事を用意しなくならなくなり暇なく買い物だとか食事の容易だとか介護が終わったあとにも家事に追われているのが自分なのである
この辺は相馬野馬追いが有名でありするとどうしても馬と人間のかかわりを考える
ただ野馬追いとなると戦闘に使う馬となるがそこにもやはり馬と人間の物語がある
そういう物語が相馬藩では六万石であり少ない、会津だと30万石となると明治維新でも映画になるように物語があり注目されるのである。

でも何かそういう物語とか歴史はどんな家にもあるし二代くらいでもすでにそうした物語があれ歴史がある。そして必ず家々に不幸があり悲劇がある。
それはどこでもまねがれないものである、なぜなら人間は病気になるし死ぬからである。死自体が悲劇だからである。自分の家族も三人死んだけど悲劇だった。
ただ母は不幸な人でも死ぬときは何か楽だった、百歳で老衰のようにさほど苦しまなくて死んだからである。
いつも眠るように死にたいと言っていてそれだけは願いがかなったのである。
それで死顔をインターネットに出したがそれを見ている人が相当数いる、まだ死に顔をデジカメでとったとしてもインターネットに公開しているのはまれである。
とても出せない悲惨な状態のものも多いと思うからである。
ここの家の悲劇は馬が焼死したということでありそれが馬頭観音として供養され残っていたことなのである。

タグ:馬頭観音
posted by 天華 at 16:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2016年09月03日

野馬追いの旗印の由来 (井形と升形の紋ー原町区の古い農家をたずねて探る)


野馬追いの旗印の由来


(井形と升形の紋ー原町区の古い農家をたずねて探る)


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手作りの椅子と机
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古い道

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馬を供養した馬頭観音
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 井戸の地上に出ている部分、あるいはその木組みを井筒、あるいは井桁と呼んでいる。井戸は水をたたえた大切な場所であり、汚してはいけないところであった。つまり、生活に欠かせないことから、家紋として用いられるようになったと考えられる。また、「井」という字の単純明快なことも武家の紋にふさわしかったのであろう。

野馬追いの旗の由来は家紋にある,井戸から由来する紋だからわかりやすい。昔は井戸は生活の中心としてあったからだ。井上という姓も多いのもそのためである。
南相馬市の原町区で六号線の入り口の道を行くと蔵の紋を見たらこの井桁である。
それで畑があり女性がいたので聞いてみた。


「ここの蔵を見たんですが古い家ですか」
「ええ、私は嫁いできたのですが古い家です」
「蔵の紋を見たんですがあれは何か野馬追いの旗で見たことあります」
「ええ、前は野馬追いにも出たことあるようです」
「そうですか、やはりここは古い家だった、ここに馬頭観音とあるのが気になっていたのですが何か由来がありますか」
「昔馬を飼っていたのですがそれが火事になって馬が死んだそうでそれを供養するために建てたんです」
「それは道にそってあるものではなかったからこの家で供養したものだった」
「古い道はこっちにあるんです」
「ええ、ここが古い道だったんですか」

そこは下高平村の領域であったみたいだ。原町の歴史は江戸時代は陸前浜街道であり雲雀が原は野馬追いのための馬が放牧していた広い原だった。そこから原町の名にもなっている。雲雀が原は今は小さいが昔はその十倍があり野馬土手があり馬が逃げられないようにしていた。だから原町中心部には古い農家はない、この辺は野馬土手の外の領域だったのか?
原町駅から街が発展して次に六号線から街が発展して六号線側に5年前くらいか道の駅ができたのである。原町村というのがありそこからは野馬追いに一騎出ていた。
原町村は小さな村だったのである。そもそも相馬藩の野馬追いには郷士が出るのであり農民であり侍であった。城勤めの侍は少なかったのである。
今でも野馬追いに出るのは相馬市内でも町内とか原町市内から出ないのである。
ここはもともと今の街内とは違う、広い畑や田んぼがある地域だったのである。
原町というとき自転車でしょっちゅう行っているがこの蔵に気づかなかった。
ここが古い農家らしいとは見ていたがやはり古い農家だった、ただ街が発展してい家が増えたから見逃しやすかったのである。何か近くで歴史でも新しいものでもわからないものが未だにあるのだ、この井形の紋は多いから野馬追いの旗にもある。

蔵の中を見たら中のものはかたづけてなにもない、古い椅子と机があった。それは手作りであり昔のものは同じものがない、大量生産でないからそうなっている。
何か一つ一つに個性があり味わいがあるのが昔の物なのである。
今の物はみんな大量生産だから何か人間味というか味わいがない、職人の技も活かされていないのである。機械で版を押したように同じをものを大量に作り出しているだけなのである。昔のものは一つ一つ職人がていねいに時間をかけて作っていたから味わいがある。そこに豊かさがありかえって今になると見直されるのである。
つまり文化とは大量に同じものを作るところにはない、個性がなければ物でも地域でも文化ではないのである。

ともかく郷土史というとき古い家とか古い村を知ることである。どこが古いか新しいのかわからなくなるときがあるからだ。蔵がある家は古い家なことはわかった。
街内でも農家があるところは古いのである。原町というと広いからなかなかわかりにくいのである。石神の農家では紙漉きしていた家に嫁いだ人もいる。
原町の領域は広いから郷土史と知るとなると地理的にわかりにくくなる。
とにかくすでに二代くらいの家でも必ず歴史があり物語がある
それは自分の家のことについても書いたがある。
ここの家の歴史は物語は馬頭観音があって飼っていた馬が火事で死んだということであるするとそこから馬のことをイメージするのである。ここに飼われていた馬が死んだのだなとなる、昔は必ず農耕馬として馬を飼っていた、この辺では野馬追いのためにも飼っていた。馬とは深くかかわる場所なのである。

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もう一つの紋として井形とにていたのが升形の紋である。この紋も野馬追いの旗印に多いこれは升形は益すということで縁起をかついだ紋であり旗印である
ますます増えるとは升のことだったのである。この紋も野馬追いの旗印に多い
だからといってそこからその由来をたどりどういうふうにもたらされたのかはわからない姓を見てもわからない、姓と紋とか旗印は一致しない場合も多いからだ。
ともかくこの升形の紋もシンプルであり旗印に多い、その一つの原型からいろいろに紋は変化している、それは野馬追いの旗印でもそうである。
ただ同一系統の旗として認識しておく必要がある。

蔵の紋井形にあれやこの家に古道も残り庭の石古る

古道というとき都路に古道という地名があるごとく古い道であり歴史の道なのである。
道も原町辺りだと変わってしまったということである。古い道がありそこが栄えたが
街も変わり忘れられてしまうのである。




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2016年07月24日

野馬追いで雲雀が原に会津日新館の車が来ていた (会津武士道とは何であったのか?)


野馬追いで雲雀が原に会津日新館の車が来ていた


(会津武士道とは何であったのか?)

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クリック拡大
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神社旗。天地五行(赤・青・黄・白・黒)の五色

クリック拡大すると鮮明に見えます



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馬上より声荒ららげて侍の誇り蘇る野馬追いなるかも

日新館と車にあるから何かと思って聞いてみた。
これは劇場用というとき撮影用の馬を飼っている会社だった。
日新館というとき八重の桜だとか会津は常に時代劇に選ばれる場所だから撮影用の馬を飼っている。その馬が野馬追いで使われる、野馬追いの馬はみんなが飼っているわけではない、野馬追いの時だけ借りて使うものが多い、特に津波かとか原発事故で馬が不足したから借りる馬が多くなった。もともと競走馬なども借りていたし今も借りている。
野馬追いはやはり馬が主役になる祭りでもある。馬がこれだけ見れるのは壮観である。
あとは競馬場でしか見られないだろう。何かギャンブルしなくても馬券を買わなくても
馬が走る所を見たいと自分は思っている

やはり馬自体に魅力がある。馬は高いから野馬追いの行列だと見上げるようになる
馬にのっていると見下ろすようになるから偉くなったような気分になるのは確かである。
ただ馬と人間の物語が消失したから馬というのが実感としてわからなくなったのである。馬を扱う人は馬についていろいろ言う、それは生き物であり馬を扱うことは馬と通じあうことであり馬を知ることでもあるのだ。馬をてなづけるのには首筋を触るがいいというときみんなそうしていることでもわかる。
それは猫でも同じなのである。猫も飼うと結構飼い主を気づかっているなと思う、何か動作で通じ合わせようとしていることがわかる。動物はみんな同じだと思う。
特に犬,猫,馬は人間にとって通うじあえるものだった。ただ馬に関しては身近にいないからわかりにくいのである。
でも競馬では体の張りがいいから調子がいいとか馬券を買うから競馬やる人は馬のことを知るし知らないと勝てないから馬に詳しいとなる。

日新館の教えとして

■第四等(基本教育につき、家格に関係なく必須)
孝経、四書(大学、論語、孟子、中庸)、小学、五経(詩経、書経、禮記、易経、春秋)、童子訓

■第三等(三百石未満の長男、三百石以上の二、三男の定級)
四書(朱註を併読)、小学(本註を併読)、春秋左氏傳

■第二等(三百石以上五百石未満の長男の定級)
四書(朱註を併読)、小学(本註を併読)、禮記集註、蒙求、十八史略

■第一等(五百石以上の長男の定級)

四書(朱註を併読)、近思録、二程治教録、伊洛三子傳心録、玉山講義附録、詩経集註、書経集註、禮記集註、周易本義、春秋胡氏傳、春秋左氏傳、國語、史記、前漢書、後漢書


日新館で学ぶものがまず長男だった。。長男が跡継ぎとして特別だった。
それは明治以降も家を中心として長男が跡を継ぐので特別だったから継続されている。
年長者は特別配慮されて敬われている身分制社会である。
こういう社会は老人にとっては居心地良い社会だったのである。
白虎隊がなぜ生れたのか?それは日新館の教育の結果だったともなる。
そういう教育を受けていたからそうなった。それよりもやはり教育というよりそういう武家社会が厳然としてあるのだからそこに少年は子供は適合するからそうなった。
そういう社会があって教育もあったのである。
だから今いくら教育がどうしようかと言っても社会と別にあるわけではないのだから教育だけではどうにもならないのである。

年上の人を敬うということは江戸時代はそういうことができた社会である。
年上の人に習うということがそもそも基本的な社会のしつけである
それは年寄りは何かしら教えるものを年下のものにもっていたからである。
だからこそ師弟関係もあった。今社会で年寄りが敬われないかというと教えるものがないからである。
むしろ技術の進歩が早く変化するから年下のものから教えられたりする
そうなると年寄りの権威もなにもなくなる、敬うこともなくなるのである。
現代ほど教育がむずかしい社会はない
学ぶものも江戸時代の百倍もあり何を指針にしていいかもわからない
要するに何を指針にしていいわかわらないからカルト宗教団体とか共産党でも特定のイデオロギー団体に入るとかでしか教育がないのである。

江戸時代と現代の相違は人と人の直接な関係の中で学んできた。狭い生活圏の中でともに暮らし日々の生活で学んでいた。

道の真ん中は偉い人が通るところですから、子どもは道の端を歩きなさい。そして、門の敷居は踏んではいけないし、中央を通ってもいけません。ましてや、藩主や家老がお通りになる門はなおさらのことです。

道の真ん中をも歩けないというと厳しい、窮屈だろう。これが身分制社会だった。
野馬追いで行列の前を横切るなとか二階から見るなと同じである。
江戸時代が何でもいいわけではない、こんなに身分制社会だったら人間も窮屈になるだろう。それを批判する人もいる。上下のようにあまりにも余裕のない四角張った社会だとなる、自分が江戸時代を理想のように言っても実際は江戸時代にもどったらとても耐えられないとなる。
ただ過去は今の社会と比べといいようにイメージする美化されるのである。
今はこんなだけど江戸時代だったらこんなことはなかったろうなとかなる
それはあくまでもイメージの世界であり現実に生きたらそうはならないのである。

二、父母や目上の方へ食事の世話、それからお茶や煙草の準備をしてあげなさい。父母が揃って食事をする時は、両親が箸を取らないうちは子供が先に食事をしてはいけません

子供に給仕のようなことをさせるのは今でもさせているからめずらしくない、食事の世話となるとどういうことなのか?自分の子供のころはみんな家の家業の手伝いをしていた。
農家でもそうであり子供は働かせられていた、重要な労働力になっていた。
今はそれより学業に励めとなる、いい学校に入れとか受験競争になったのが団塊の世代からである。そこには仲間意識もなく上に上がり得するために仲間をおしのけ蹴落としてもいいとかになった。
社会が変われば価値観が全く変わってしまうのである。

ともかく会津藩というとき相馬藩の六万石とは比べようがない、歴史の厚みも広さも違う一つの国である。だから様々なものが残っているから歴史を勉強するには興味が尽きないとなる。そこには一つの世界観を形成できる。
相馬藩には藩校などないしどういう武士道なのかもわからない。ただ野馬追いがあるようにやはり侍なのだから武士道があった。それは日新館の武士道とにていた。
それは全国的武士道があり共通のものがあるからだ。

いづれにしろ現代は上に立つものが常におとしめられ否定される民主主義社会である。
こういう社会は常に不安定な社会になる。
確かに子供のときは窮屈でもやがて年長者になり年寄りになれば敬われるそれは精神的に安定した社会なのである。
老人か今敬われない、居場所がないとかならないからであてる。老人であるだけで敬われていたのである。これだけ大量の老人が社会に存在していて無用のものとされているのは悲劇である。老人は社会的に存在させられていないというときもそうである。
でも現実に老後は長いし社会に生きていかねばならないのである。
タグ:会津日新館
posted by 天華 at 17:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2016年07月23日

相馬野馬追い (北郷(鹿島区)で総大将お迎え)


相馬野馬追い


(北郷(鹿島区)で総大将お迎え)


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北郷の本陣

槍が立って囲んでいる

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総大将相馬藩の殿様の到着(クリック拡大)

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この杉の木の紋様は只野氏のものである。



野馬追いやかぼちゃの花に郷士かな

野馬追いや土着の郷士藪甘草


海老原氏が福大将でありその家で一時宇多郷(相馬市)が待ち北郷と合流して
総大将をお迎えする、それが毎年決まりきった祭の手順である。
総大将が北郷の本陣に来たとき最高に盛り上がる。

相馬野馬追いは実際に歴史的あったことの忠実な再現なのである。
そして外からみて相馬野馬追いは誰でも参加できるようでできない祭である
野馬追いに出る家は代々決まっているからである。
先祖が相馬の郷士の出であることである。
その家に兜とか旗とか残されているからである。旗印もかってにつくることはできない。
郷士(ごうし)というのにもいろいろあった

薩摩藩では人口の4分の1を占めていたため、これら全てに武士としての扶持を与える事は不可能であった。これらの郷士は、藩に許可されていた大工や内職で生計を立て、中には武士身分のままで上級郷士の小作人になる者もいた。

これは郷士といえば普通は農業しているが職人していた人も郷士がいたのである。
侍というだけで食べていけた人はそんなに多くなかったということがある。
郷士(ごうし)という名前自体がその体を現しているのか、郷土に土着して生きる侍ともなるのか?相馬藩では郷士が多い、それは農業していた農民である。
だから例えば鹿島区の街内から出るのは一騎だけである。
野馬追いは農家からでるから相馬市の城のあった所でもほとんど野馬追いに出る家はないのである。
例えば原町となると街自体が大きいけど原町村となっていて一軒しか野馬追いにでていないのである。外から見るとそこが誤解しやすいだろう。ただ鹿島区に原発事故で移住して家を建てた人がいてその人は小高の農家の人なのだろう
旗が立っていたからわかった。もともと街内からは一騎しかでない、他にも移り住んだ人が小高の人がでているのだろう。
それが変化したことである。

野馬追いは戦国時代の再現だけどここでいかに総大将が中心であり総大将によって全体の指揮があがりもりがある。いかに総大将が藩主が君主が大きな役割を果たしていたか具体的にわかる。
こういう世界は民主主義とか平等の世界になると理解できなくなった。
ただ日本では天皇がいて一番偉いものとして日本の中心にありまさに政(まつりごと)を継続しているのである。天皇が総大将の役割を果たしているのである。

人間社会はなかなかそういう総大将とか上に立つものがいてそれをみんなで盛り上げなければまとまらないのである。
民主主義になればみんな上に立つ者をおとしめることしかない、なにあいつらは偉そうにしているけど俺たちの一票によって選ばれたものにすぎないと思っているからである。
ただ天皇だけはそうではないことが日本の長い歴史でそうなったのである。
天皇が問題にしてもそうして神輿としてもかつぎあげるものがないと民衆だってまとまらなくなるだころう。
ともかく総大将の殿様を中心にして行列がありお迎えすることがまさに祭りなのである。
posted by 天華 at 17:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係