2022年07月27日

相馬野馬追いは維持できるのか? (歴史の保存の祭りであり新しいものが入れない問題)


相馬野馬追いは維持できるのか?

(歴史の保存の祭りであり新しいものが入れない問題)

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3年ぶり通常開催 相馬野馬追 14歳と49歳それぞれの「初陣」
https://www.youtube.com/watch?v=C-NePWYrryo&ab_channel=TUFchannel

伝統文化の継承・発展も、この『変化を受け入れる』ことがキーポイントだと思います。その文化が持っている価値を継承しながらも、それを提供する技術や表現方法などの手段は時代に合わせて変化させることが必要と感じます


野馬追いも伝統文化の一つなのか、歴史の再現であり歴史の保存でありそこに意義がある文化というのとも違っている、ただ確かに侍の時代の再現ではあるが文化とも違っている伝統文化というとき俳句とか短歌は今にもつづいている伝統文化である
これがなぜつづいているのか?俳句だと四季があり季語が必ず入っていないと成り立たない、季語の文化である、それは日本の四季があり風土があって生まれたものである
その風土が変わらないから俳句がありつづけた、でもその表現には限界を感じる
短すぎるからである、短いことがいいにしても限界を感じる
それで一応短歌は長いので生き残るのかとも実作者としてはみる
ただ写真と俳句が合体した写俳の分野が生まれたのは現代的である、現代はデジタルカメラやスマホで写真が日常的なものとしてみんな使用しているからである
そして俳句は正岡子規の写生俳句が主流であり私自身もそれを基にして創作している
写生とは写実であり見たままをありのままを俳句にする、だから写真と相性がいいのである

伝統的文化でもそこに必ず新しいものを注入しないと衰退して維持できなるなる
歌舞伎とかあってもそれは一般の人は関心がない、でもドラマはみんな関心があり今ではテレビドラマを見る、推理ドラマが面白いのである、このドラマはyoutubeなどでは作れないからテレビでもこの部分は生きつづけると思う、また時代劇も面白いが今はいい時代劇が作れていない、それで過去の時代劇をBSで見ている
こういうふう何事時代によって変化する、でも時代によってでも変化しないのもあるし
変化しないことで重要なことを伝えることもある
それで相馬野馬追いで宇多郷(相馬市)と北郷(鹿島区)が合流する儀式がありそれは
古式にのっとたものでありそれをわざわざ見に来た人がいたのである
その人は地元の人より野馬追いに興味があり詳しいとなる、かえって外部の人が関心をもつことがある

ただyoutubeでも野馬追いに外部から新規参入する人のことを放送していたがそれがいかにむずかしいかを言っていた、もともと新規参入は野馬追いではできない
代々甲冑でも旗でも家伝として残されたものであり勝手に使用できないのである
何かそこは非常に厳しいのである、それは歴史をそこなうからそうなる
だから相馬野馬追いは何か新しいものを注入しにくいのである
歌舞伎でも代々世襲であり外部からは入ることができないのともにている
そこにかえって限界があるともなる、新しいことができないからである
相馬野馬追は見る人と見られる人に完全に分かれている、地元の人でも参加できないのである、今回のyoutubeの放送は特別許可されたもので参加したのである

でも原発事故で小高郷が避難区域が離散した、すると野馬追いに出る人も避難した人がいる、浪江でも野馬追いに参加していたが避難した人がいる
その一つが小高から鹿島区(北郷)に移住した人がいる、その旗が「御家」だったのである、もともと小高郷の人だったが北郷のものになった
そもそも北郷とは小高に相馬氏の城が最初に築かれてそこから見て北だから北郷に成ったのである、小高がもともと相馬藩の中心だったのである、その後に原町の牛越城とかに移り相馬市に移ったのである
だからこうしてそもそも歴史の保存がむずかしいかわかる、時代が変わり不測のことが起きて歴史が維持できなくなる、また新しいものを注入しないと維持できなくなる
地元でも何か毎年同じであり不満も多いからである
それはみんなか参加できないものだからである
青森のネブタ祭は誰でも衣装を借りてハネトになることができる、参加型の祭りだからである、そこでは民衆の熱気があり祭りが盛りあがるとなる

野馬追いの見方の一つとして視点として侍に注目しているが実は馬が注目される祭りなのである、馬はもう見かけない、馬を見るのはテレビで見る競馬くらいなのである
馬は日常から消えたのである、でも戦前までは馬は農耕馬としてあり活きていた
それで農耕馬が野馬追いに出ていた、それは競馬の馬ではないから細身でなくとても早く走れる馬ではなかった、今は10万で競馬の馬を借りて野馬追いに出ている
確かに早く走る馬を見ると迫力がある、でも馬と人間が一体だった生活は喪失した
それで馬にまつわることは伝説化してしまった
馬を身近にみることができないのである、接することもできない
でもこの辺では野馬追いがあるために馬を飼っている、だから馬に親しむとういことはある、少女が馬の顔をなでるとかしていた、そうして馬と親しむと情緒が養われる
ペットのようにもなる、そうして曲がり家で馬と一緒に暮らしていて馬と結婚した伝説が生まれた、それだけ馬と人間は一体だったのである
その馬にしても大平洋戦争では軍馬を使っていて馬を飼っていた
太平洋戦争だと馬に乗って兵隊が南京とかに入場する写真が残されている
馬がその時は軍馬として活きていたのである
だから軍馬を祀った寺もあった、また馬頭観世音が本当に多い、これも馬で物を運んでいたからである
それでいたるところに馬もご苦労様でしたと供養したのである
それだけ馬とのかかわりが日常的にあったからそうなった

つまり野馬追いというとき侍に注目するが実は馬も生き返る祭りなのである
だから馬がいななく声をこのとき聞ける、馬が主役にもなる、それで雲雀が原でも馬があれだけ結集すると壮観になる、戦国時代を彷彿とする絵巻物となる
必ず落馬する人もいる、馬が必ず勝手に走り回る、落馬は必ず交通事故のようにあったからだ、野馬追いの維持とは馬が生き還ることであり馬の祭りでもある
そこに注目すると必ずしも人間側の侍にだけ注目するのではなく馬に注目する
馬を活かすことになる、ただ今馬が活きているのは競馬だけなのである
これはギャンブルでもあり日常的には馬は活きていないのである
だから何らか馬が活き還ることも考慮すれば祭りとして維持できるかもしれない
それををとするのかとなると小高とかでも荒地化した所に馬を飼うとかする
そこで馬が駆けているのを見ると気持ちいいとなる

何か馬と言う時、私は電動自転車に乗っている、これはいいものであり悪路でも行く
馬力がある、だからある程度馬にも似ていると思った
神旗争奪戦で旗をとり本陣めがけて一気に馬で登る、あそこは迫力がある
あのような坂道を馬が良く登れるなと見る、馬はそういう能力がある
マウテンバイクとも似ていると見たのである
ともかく野馬追いは果たしていくら歴史の保存でも維持できるのか?
千年つづいたとしても維持できのか?やはり侍だけの祭りではない、民衆が参加しないと維持できないのではないか?
新しいものを注入しないと維持できないのではないか?
それは地元の人達も思っていることである、でもそれがむずかしいことはyoutubeの放送でもわかる

例えば旗でも新しい旗を作ってもいい、会社の旗でも何か新しい旗でも作る
古式にのっとるものと歴史を保存するものと併用する、そして馬が活き還る祭りとして
伝える、だから確かにモンゴルとかアメリカでも牛を追う馬に乗ったカーボイいてそれらと共有するものがある、外国にしろ馬とかかわりが深い、でも馬というのは世界的にも
活きる場がなくなったのである、移動するもにも車であり馬は必要なくなったのである
だからこそ馬を活かす場が必要でありそれが野馬追いだともなる
そういう視点からも野馬追いは見るべきだとなる、そこに野馬追いを維持するコンセンサスがあるともなるからだ

今回の野馬追いは350騎は少なかった、普通は450から500出ていた、100少ないと何かものたりなくなる、迫力がなくなる
野馬追いを維持できるには約500騎が必要だとなる、神旗争奪戦でも少ないから迫力がなくなる
でも数を維持することもむずかしい、小高区が原発事故で離散したのでその影響もあった
浪江でもそうである、原発事故は何か家の歴史とか相馬藩の歴史も断つような大きな影響があったのである
その象徴が小高区の「御家」の旗だったのである、それはもともと小高に住んでいて歴史を継承できるものだったからである
こうして歴史を保存することはいろいろ変化するからむずかしいものになる

旗とりて一気に上る本陣へ馬とともにし誉れなるかな

人馬一体であり馬も誉れを受けたのである、それが野馬追いなのである、神馬も出るから馬祭りでもある

posted by 天華 at 10:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2022年07月26日

相馬藩内の姓 (日本人の姓は村の地名に由来している)

相馬藩内の姓
(日本人の姓は村の地名に由来している)

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●日本人の姓は地名に村の名に由来している

日本人の姓はほとんど地名に由来している、村の名前に由来している
日本人の姓をたどると必ず地名に行きあたる
只野の姓が鹿島区とかに50軒もある
その由来は明確である、南北朝の争いで南朝の城となった霊山が炎上して逃れてきた
落武者がその基となっている
その只野一族はもともと郡山市の多田野村に由来していたのである
だから姓を辿れば必ず村の名とか地名に行きあたるのである
姓はまたかばね{屍}であり死体のことでもあった、つまり先祖と深く結びついてるのが姓なのである

相馬藩の起りも相馬氏に由来している、その相馬氏は相馬という地名がありそこを根拠としていた、千葉県でありその辺でまだ開墾されない広い荒野がありそこに野馬がいてその野馬を捕まえて馴らして軍馬にしたのが相馬野馬追の始まりである
日本人のアイディンティティが村にあるというときそうである
相馬氏でもここに移住してきたとき今の相馬氏は中村に土着したから中村と姓が変わったのである、だからもともと相馬という姓が中村に変わった
そういうことが多いからその出自がわかりにくくなる
不思議に郡山市の多田野村の近くに小林村がある、すると小林とは多田野村の近くから出てきたのかとなる
ただ私の家は父親が葛尾村から出たことはわかっている
でもなぜ小林になっているのかわからないのである

地方を開拓するために展開した藤原氏、源氏、平氏等に出自をもつ武士が誕生していました。この頃の武士では武蔵七党が有名です。その武士たちも公家と同じく姓を同じくするものが多かったため、区別がつきづらくなっていました。そこで、武士たちは自分たちの領地・名田(みょうでん)を守り、かつ明確にするため、自分の支配する土地の地名を名字として名乗ったのです。

苗字帯刀(みょうじたいとう)」であり、苗字が身分の象徴になったため、武士等の特権階級や一部の庶民(庄屋・名主)を除いて苗字を公の場で名乗ることができなくなってしまいました

商人や農民の中でも、元々武士の家が帰農した場合には苗字があり、上層の農民も苗字を持ち、商人も名字に「屋」をつけて屋号にしたりしていました。あくまで苗字を公に名乗ることが許されなかったのであり、苗字を持つことが許されなかったわけではありません
https://ka-ju.co.jp/column/myoji#anc-7

●姓にまつわる物語

明治になって名字が名乗れるようになったことは重要な歴史である、江戸時代でも庶民の墓はない
墓にしても個人の墓であり殿様の墓にしても一人の人間の墓となる
家族墓は明治以降に法律化されてできたもので新しいのである
天皇を親として家族でまとめて赤子とする明治の政策でそうなったのである
それで誰でも名字を名乗ることができるようになった、しかしその由来はわからない
庶民の姓は・・・屋が代わりになっている、屋号である、今でも自分の家で店をしていたから屋号で呼ばれるのである、それは近くの古い農家でも屋号で呼ばれているのである
江戸時代で農民で個人の墓はないが幕末頃になると個人名の墓が作られた
百姓の名前が記されているからだ、それで得意なことがあった
その頃経済力がついて百姓でも墓を作ったとなる

相馬藩だと侍の名字は相馬野馬追の時に目立つ、旗印の下に名字と名前が記されるからである、名字というときこの辺では鎌倉から移住した岩松氏が有名である
岩松氏は領地を広げて飯館村まで領地として支配したのである
その岩松氏の支配になったことでその名残りに地名が残っている、千倉とか街内の御前の内とかがそうだろう、それは鎌倉時代のものだから古いのである
そしてその家来の日里、中里、島、蒔田に惨殺されたのである、幼児まで殺されたのでひどいとして伝説としてより明確な事実として語り継がれたのである
後に日里は郡に変えたのである、祟りを恐れたからである、この姓は相馬藩内で残っていて結構子孫は反映して残っているのである、別に祟りがあって後がつづかないということでもなかった、姓は歴史を語る、名前はその個人を語る、でも名前だと連続した歴史がわかりにくいのである、でも胤と必ず相馬藩主の殿様についている、それは連綿としてつづいている、そう相馬野馬追がつづいているので殿様がまだここでは活きているのである

ただそれを言うと現実にその子孫が生きているので語りにくいことが500年過ぎてもある、地元では悪いことは語りにくいのである
それで郷土史は悪人がいないからきれいごとになっているから面白くないと指摘していた人がいたのである
岩松という姓は一族が断たれたので相馬藩内にはない、これが如実に歴史を語っているのてある
もう一つ相馬藩内で姓で大事なのは越中などから富山県などから飢饉で三分の一の人口が減った時移住してきた人達である、その姓はわかるからその末裔だとわかる
墓だと南無阿弥陀仏としか記されているのでもわかる

岩松氏の伝説
http://www.musubu.jp/kashimamanonado.htm

●「御家」の旗は小高から鹿島(北郷)に人が移住しため

ともかく野馬追いで鹿島区(北郷)から出た「御家」の旗に違和感をもったのは
もともと小高の侍の出であり北郷ではないからだとなる
どうして違和感があったのかというと江戸時代の封建時代は土地と人間が一体化していた封土とは土地を納めてそこから年貢をとる仕組みのことである
だから土地と一体化して人々は侍に支配されていたとなる
農民社会だと土地が一番大事だからである、だからこそその土地の名前が村になり姓名となる、その土地から離れて人はありえなかったのである
それで「御家」の旗印が鹿島区(北郷)に移った時、小高という歴史的土地から離れたことで違和感をもったのである、もともと小高にあってこそ歴史的存在として価値をもっていたからである、ただ相馬藩内であれば依然として歴史は共有されて活きている

でも原発事故で小高ら避難した人達は相馬藩内に移住したとは限らない
相馬藩外に出るといくら侍の出であり甲冑とか旗印が伝えられても価値がないとなる
そこに原発事故がいかに歴史を断つような過酷なものとなったかを知るのである
他でもこの土地に生きた歴史を消失しているだろう、家も一つの歴史を語るからである
でもその土地から離れた時価値がなくなる
日本人は土地の一体感が強いからそうなる、土地とアイディンティティ化しているからそうなる、それが文化でも作ってきたからである
先祖を大事にするというときその土地の先祖なのである、他の村とかの先祖ではないのである

●外国人の姓

でも大陸の遊牧民とかなると土地とは余り関係ない、一定の土地に定着しないからであるそれで姓はあくまでも血縁であり氏である、土地に由来しないのである
ロシアでウラジミールプーチンとか言うけどウラジミールという姓の人が多くいて一族だということがわかる、つまり名前は多様でも姓は限られているとなる
それは韓国でも中国でも例えば李という姓があるとすると大勢の李氏がいる
韓国では李朝鮮ともなっていて李一族が国家にもなっていたのである
中国でもいろいろ姓があっても限られている、中国は農耕民だとしても日本とは違いやはり大陸文化を受け継いでいるから姓は村の地名にはならないのである

Влади мир 「世界を征服せよ!」ですかね。
ウラジスラヴァという名前もあり、そちらは「名誉を征せよ!」ですね。
都市のウラジオストクは「東方を征服せよ!」という意味です。

やはり大陸的だとなる、常に大陸では征服せよになるからだ、まさにプーチンがそうである、征服せよとしてウクライナに侵攻したからである
大陸だと姓を見れば一族となりつながりがあるとなる、
そして外国人と結婚すると夫婦別姓になることが認められている、姓はそのままなのである、つまり姓とは歴史であり系統をたどるものなのである、名前にはそういうことがないのである、外国人の姓になったら日本とは別な姓に属することになりその国の歴史として組み込まれることにもなるからである
だから在日朝鮮人だと李とか多いがこれは韓国が一時李朝鮮となっていたことでもわかるし中国でもいろいろな国が群居していてその国の名が姓になっていることでもわかる

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相馬氏成田の武内(竹内)は墓も夫婦別姓である
武内と岸と記されている
江戸時代まで夫婦別姓だった、農民には姓がなかった
ここで嫁いできても実家の姓を残したのはやはり侍の出だったからだろう
姓はその家が有力な家だったら嫁ぎ先でもその姓が伝えられた

●片倉村の由来

片倉村は片倉辺の神が長野県の方で有名である、するとその神を奉じた人たちが相馬氏が来る前に土着していたのか、片倉という地名と大田という地名も相馬氏が来る前にあったとなる、他にも片倉という地名はありやはり神の名として残したのかもしれない
必ず人が移動するとともに神も移動するからである

南相馬市片倉村の由来
http://musubu.sblo.jp/article/48048119.html


片倉財閥の片倉家と北海道開拓を担った伊達藩白石城主の片倉氏の関係をネットで調べると《絹の道を往く 八王子編 Vol.6》に、両者の先祖は「諏訪湖で繋がっていた」と記述されていました。
http://hibinokizuki0126.livedoor.blog/archives/6340337.html

やはり2つの片倉は同一の先祖だったのです。実際に、現在の住所の伊那市高遠町藤沢に「片倉」という集落が存在していたといいます。諏訪大社上社本宮の裏手の神体山である守屋山の麓です。

また、伊達藩白石城主の片倉氏の家祖として「片倉辺命(かたくらべのみこと)」がウィキペディアに記されていました。「諏訪氏系図.続編」においては片倉氏の祖神といいます



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2022年07月24日

相馬野馬追い (雲雀が原へ結集ー神旗争奪戦ー御家の旗印が北郷から出たことについて)


相馬野馬追い

(雲雀が原へ結集ー神旗争奪戦ー御家の旗印が北郷から出たことについて)

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御家は小高郷の出の旗印である、でも北郷から出ている
それは小高から鹿島区(北郷)に移住したためなのである

五輪の塔が先祖だから似合っている

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原町区北高平に立った旗印

高平は越中からの移民が入った地域として知られる
でも野馬追いの旗が立っていることは相馬氏に連なる古い家である
相馬野馬追いとか相馬の歴史を知る時、野馬追いに出る家を知ることが大事なにる
でもそれが広いしわからないのである
野馬追いに500頭で出たとしても所帯数にする何万もありわずかしか野馬追いには出ないのである
それがあんなに数が多いからと錯覚するのである
実際は野馬追いに出る家は全体から見ればわずかなのである


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揚羽蝶の紋は平家になる
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甲冑競馬
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片倉村から太田神社に向かう途中に鷲宮神社がある


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殿様の帰るのを迎える侍たち




旗印陽射しの強く映えにけり

旗印風の文字なれ風なびく

御行列続く長さや暑しかな

伝来の旗印も古る歴史かな

雲雀が原馬いななきて蘇る

蝉鳴いて甲冑競馬や一周す

馬走り馬も喜ぶ三年ぶり

旗印家の誉れを担うなれ

野馬追いや落馬二人に終わりけり

御家また帰り馬かな北郷へ


勇み入る雲雀が原へ従えぬ相馬の殿や誇らしきかな

旗とりて一気に上る本陣へ馬とともにし誉れなるかな


今回の相馬野馬追いは三年ぶりだったのか、集まった馬は350頭である
普通は最高で500頭でありそれに近い数字を出していた
だからずいぶん少ないと見た、それでも結構長く感じられた
野馬追いは出るにも金がかかる、まず野馬追いに出る馬を一年中飼っている人がいる
するとそれは結構な出費になる、ただ馬が牧に飼われているのはこの辺の風景としてはいい、第一今は馬に接するというとき競馬くらいしかないのである
牧場で少女が馬の顔をなでるとかするのを見た、それは子供の時から馬になじんでいるのである、そういうふうに育てば馬を怖く感じないとなる
それで馬が農耕馬として飼っていたとき馬と結婚した女性の伝説がある
馬は曲がり屋で馬と一緒に寝起きしていればそういう伝説が生まれるのも当然だとなる
ともかく馬と人間が一緒にいる風景がなくなったのである
馬の代わりになったのが車だとなる

相馬野馬追いはそもそも祭りとしても参加型ではない、歴史の保存として維持しているのである、勝手に旗を作り庶民が出ることはできない、伝来の兜と旗印があり出れるのである、それで奇妙だったのは「御家」というのは実は小高郷に住んでいた人の旗印なのである、なぜ御家となるのか?それは小高に最初に相馬氏が城を作ったからである
小高が相馬氏の始まりである、相馬太田神社が起点となり小高に城が作られた
相馬太田神社が相馬藩の中心の神社ともなったのは相馬氏は片倉村の山の方から入ってきた、そこに八重米坂とか初発神社がある、山を越えて下り相馬大田に至った その途中に鷲宮神社がある
そこに相馬太田神社があり小高の方に進出して最初の城を小高に築いたのである
それから城は海の方の村上に一時作りそこは縁起が悪いとして原町の牛越城に移った
そこに五年間あった、それから相馬市に移ったのである
だから外から見ると誤解する、今城がある相馬市が城下町で一番古いと見るからである


だから奇妙なのは「御家」の旗印なのである、それは鹿島区に北郷に移りあたかも北郷の一員であったとように見える、現実原町の雲雀が原への行列でも北郷に入っているのである、このようにこれは歴史を誤って見ることになる
なぜなら相馬野馬追いは歴史と伝統の保存でありここでそれが原発事故で小高区が避難区域になって鹿島区(北郷)に移り住んだ結果なのである
ここに違和感を感じたのは相馬野馬追いは歴史に忠実であり歴史の保存を目的としているからおかしいと見たのである、勝手に誰でも参加できない、伝来の旗とか兜とかを伝えられている侍の出しか出れないからである
また鹿島区の北郷では本陣がもうけられて相馬市の宇多郷と合体して雲雀が原に向かう、その古式がここで行われる
それを見たくて来た人がいたのである、その人は相当に野馬追いに詳しいとなる、なぜなら地元の人でも知らないからである

御家で構成される、「旗本組」という部隊が行列して参加しなかった武士たちの待つ原町宿へ向かう
元禄12年の野馬追いの旗本組の備の構成人数だけで1000人を越えていた

特に忠胤は野馬追いの行事を大きく変化させた、鉄砲の奥義や武田流の軍学を積極的に取り入れ、備立や駆け引きをはじめている
約8000人の武士が参加する大規模な駆け引きが行われた

相馬野馬追の歴史から見る行事内容の確立と存続のためになされた様態変化

御家の意味はこういうことだった、旗本というとやはりエリート集団だった、だから誇りがあった
それにしても8000人が参加したというのは驚きである、それだけの侍がいたということになる
ただその当時は郷士であり侍であっても農業していた農家の人が侍になっていたのである
だから侍専門の人は少ない、旗本は侍専門の人達である

一般的には歴史にそれほど興味がなければ野馬追いはつまらないという人もいる、私は青森のネブタ祭りを見に行ったがハネトには誰でもなれる、祭りで地元の人達と一緒に踊ることができる
ネブタ祭りはそれで盛り上がるとなる、でも相馬野馬追いにはそういうことはないのである、だから相馬野馬追いは出る人と見る人に分かれている、参加形の祭りではないのである

そしてそもそも相馬野馬追いは旗祭りというときなぜこれほどの旗印があり多様なのか?
これが解明されていない、どういう由来なのかわからないのである
ただ芸術的デザインとして見るだけではない、それがどうしてその家の旗印になったのかわからないのである、例えば揚羽蝶の旗印があったとする、するとこれは蝶の紋は平家なのである、すると平家に連なる一族として相馬氏に仕えていてそうなったのかとなる
でもこの旗印は余りにも多様でありその出自とかが誰も解明していない
それを研究している人も見つからないのである、それは余りにも多様だからそうなる
その由来をたどることができなくなっているのた
その由来をたどると関西方面になるからである、千葉県に相馬氏の基があっても相馬氏でもいろいろな人が入って来たからである、武田信玄の六文銭の旗印があればそれは武田氏の末裔なのかとみる、武田信玄は織田信長に敗れて伊達藩にも入った有名なのは伊達政宗の重臣だった

大坂城が落ちるまでそこにいれば、豊臣方として男子は処刑され、女子も命が助かったとしても出家する他道はなかったでしょう。
それをなんとか助けてもらう方法はないかと、思い倦ねた幸村は、死の前日、伊達政宗の参謀の片倉小十郎景綱の嫡男、片倉小十郎重綱という人物に目をつけます。

自分の娘「阿梅おうめ」を、この片倉小十郎重綱に嫁がせよう。
義に厚い伊達政宗ならそのほかの子供達も守ってくれるかもしれない。

幸村は大坂城にいる子供達に手紙を渡し、伊達家の庇護のもとに命永らえて欲しいと願ったのです。幸村の願い通り、伊達家は子供達を徳川から守ってくれました。

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こういう話があり不思議なのはなぜ片倉村がありそこから太田神社につながっているかである、そして白石の片倉氏の紋は相馬氏と同じ九曜の紋なのである
他にも片倉という地名はある、この片倉の由来がわからないのである
伊達藩でも相馬藩でも争ったとしても戦国時代が終われば平和的に交わっていた
当然相互に交流もあり歴史が作られてきたのである

このように六文銭の旗印があれば真田幸村までたどることができる、でもこれだけ多い旗印の由来をたどることは不可能になっているのだ
そもそもなぜ片倉村になったのかわからないのである、片倉という地名は他にいろいろありわからなくなったのである
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何か旗でも古びたのがあった、いかにも古いから歴史を感じるともなる
ただ他は旗印はそのままでも新しく作り直している、今回の風という文字の旗印があり
デザイン的に見れば面白いと見た、なぜこんな旗印にしたのかその由来もわからない
また鯰の旗印もあった、それも不思議になる

ともかく「御家」の旗印はもともと小高郷から出たものであり小高の城が相馬氏が最初に築いた城でありだから歴史的に見ればふさわしいとなる
御家とはヨ−ロッパだとハウスブルグ家なのである、ハウスは家でありブルグは城だからである、一つの家が拡大したのがあれだけ大きな国になったのである
こうして相馬野馬追いはどうしても歴史を知る必要かある、そして相馬野馬追い祭りは
歴史の再現なのである、相馬藩が一つになる祭りなのである
祭りとは祀るとは死者を祀ることであり先祖を祀り先祖を偲びその時代を偲ぶのが祭りだとなる、時間がすぎるともう30年前でも時代がわからなくなる

本当に学生時代とか50年も過ぎるとその時の東京はどうだったのかとかわからなくなるましてや400年前とかなるとその時代を具体的にわからなくなりただ想像の世界ともなってしまうのである、でも相馬野馬追いは具体的に歴史が再現されることに意義がある
だから全員参加型の祭りとは違っているのである
日本の歴史を知る時やはり祭りは具体的に時代を再現するから知ることが欠かせない
それでフランスの人が日本の祭りを見て旅していたのである、それだけ日本には祭りが多いからそうなった、また神社が多いのはその土地の先祖とのつながりが残されているということなのである

ただ正直相馬野馬追いの旗印を知るのは容易ではない、参考になる本もないし研究している人もいないようだ、それだけわかりにくいからそうなった
今回は「御家」という旗印から歴史をたどったのである

とにかく今回は行列でもすいていた、だから写真とるには良かった、混み過ぎて前はうまくとれなかったからだ、野馬追いとは写真とるにはいいのである
その写真をとるにしても一年に一回しかチャンスがないから意外と毎年違った写真がとれるのである
それで写真が趣味の人はいい、実際に70万とかの望遠レンズを持った人が写真をとっていた,プロというものでもない、写真は写真機よりレンズの作用が大きいのである
だからレンズの方が写真機より高くなるのである、そしてレンズの種類がまた多いのである、その人の持っているカメラは10何年か前のであってもレンズがこれだけ高くていいものだから違っているのである、でもその値段には驚いた、金持ちは都会になるといるということである
posted by 天華 at 22:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2022年07月23日

二年ぶりの野馬追いを見るー北郷(鹿島区) (馬が蘇り活きるのが野馬追い)


二年ぶりの野馬追いを見るー北郷(鹿島区)

(馬が蘇り活きるのが野馬追い)


北郷本陣へ向かう

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これは只野家なのである、只野家は鹿島区に50軒くらいある
南北朝で南朝の城が炎上したときここに落ち延びた末裔なのである
郡山の多田野村が只野家の発祥の地なのである

旗の下に桔梗が咲いている

旗印只野一族桔梗咲く

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木槿が咲いているが似合っている
鹿島区は大きな街ではないからだ、回りが田圃なのである

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紫の母衣(こも)は副大将である

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大将の母衣が見える

この季節のうぜんが野馬追いに合う



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御家という旗は小高から移って来た侍の家なのである
原発事故で鹿島区に移り住んだ、でももともとは小高の人なのである
こういう変化もあったとなる、歴史的には北郷(鹿島区)の人ではないのである

とにかく野馬追いの時はのうぜんかずらの花が咲く、それが季節的に合っている




南相馬市原町区雲雀が原

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殿様のいる雲雀が原に神輿をみんなで持ち上げ登るとき一体感を感じるだろう
ただ今は会社員に頼んでしているのである
昔は侍がみんなでかついだ、神社の人達をもかついだ、そこに一体感を感じたのである

クリック拡大で鮮明に大きく見える




いななきあい鼻息荒く本陣へ

旗印木槿に映えて御行列

野馬追いやのうぜん熱く咲きて散る

杉の紋誇らしく立つ只野家に

旗印只野一族桔梗咲く

大将を迎えどよめく人と馬


野馬追いは二年ぶりだろう、人は集まらない、ウィルスがまた蔓延しているからだろう
人混みをさける、野馬追い行列見る人も少ない、
近くの只野家には杉の旗印の旗が立っていた、鹿島区だととにかく只野の姓が50軒くらいある、その歴史は南北朝にさかのぼるのである、南朝の霊山の城が炎上したとき落ち延びたのである、只野とか桑折の姓はその落ち延びた先祖なのである

野馬追いというとき千葉県に牧が多くあり野馬がいてそれが畑などに入ってきたりして
困るから野馬土手を作った、侵入できないようにした
野馬は誰かが飼っていたものが逃げたりしてそのまま原に野生化した
その頃まだ田畑でも開墾されない土地が多く原が多かったからである

昔の絵図を見ると広大な原が広がっている、そこは田畑に利用されていない、だから野馬になっても生きていける広大な土地があった、その後そういう原は田畑化していった
原町もそうである、もともと原っぱなのである、原町村があり一騎だげ野馬追にでていたその後雲雀が原が明治になり開墾に入る人がいた、外部からも来た、今の雲雀が原よりもっと広い土地があったからだ

野馬追いは宇多郷の侍が北郷で合流して原町の雲雀が原に結集する
小高郷からも集まる、飯館村が山中郷であり江戸時代から出ていたが今は出ない
ともかく馬というのがわからなくなった、馬を見ているのは競馬だけである
馬が日常的に生きていないときわからなくなった
馬とかは農耕馬もあり人間とともに生きてていた、馬と人間が一体となった曲がり屋もあった、馬は身近な動物だったのである、今は牛の方が身近な動物となっている
飯館村は牛の村で有名だったからである

北郷の本陣に馬が集まりいななきあうとき活気を帯びる、この時馬が活きるのである
人馬一体になる、今日は暑かった、これで危険なのは熱中症である
陽射しが強かったからである、写真をとるのも結構暑いと苦しくなる
野馬追いで不思議なのはいつも写真を撮ろうとするのだが必ず見逃してしまう
それは年に一回しかないから、撮り逃がしてしまうのである
だから野馬追いは写真撮ろうとすると飽きないとなる
その年年で違ったものになるからである
明日は雲雀が原に行き写真を撮るとなるのが結構暑いと熱中症が怖い
ただ人が少ないから写真をとるにはいいとなる、人が混んでいて写真をとる場が見つけられないかである

ただ8時ころから行かないと間に合わない、10時ころ行列が開始されるからである
野馬追いは田畑の中でも旗をなびかせて来る時などが絵になる、それを撮るのはむずかしいのである、毎年雲雀が原には写真を撮り来る人がいる、でも雲雀が原の中まで入るのは予約して許可がないと入れない、それは早い時期から予約して決めていないとできないのである、やはり写真を撮るというのは結構どこでもむずかしいし手間になるのである


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2021年10月24日

雲雀が原で秋競馬 (今日は菊花賞であり相馬野馬追いがあるから馬に興味を持つ)


雲雀が原で秋競馬

(今日は菊花賞であり相馬野馬追いがあるから馬に興味を持つ)

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街道や松影なして秋の雲

駆けぬけ風さわやかに秋競馬

秋競馬鼻息荒く走り去る


雲雀が原で人が集まっていたから何か思ったら秋競馬だという
それは雲雀が原の中に入って見れるというから見た
野馬追いの時は中には許可かないと見れない、写真を撮る人は事前に許可をもらって入るその周辺では誰でも写真がとれる、写真をとるために野馬追いを遠くから見に来る人はいる

この競馬は旗はないからものたりないとなる、また5頭しか出ていなかった
でも相当に早かった、旗がないから早く走ったとなる
すぐ側を走ったから鼻息が聞こえた、そしてその速さが怖かった
迫力を感じるにはこうして実際に見ないとわからない

時速60キロのスピードを出すことができて、最高時速は77キロまで到達する、といわれています。

人間の最高時速が37キロですから、馬がどれほど速いのか、ということをご理解いただけると思います。

車が70キロとか60キロの速さで走り去るとしたら本当に馬でも怖い
そういうとき落馬したら死んで不思議ではない、その衝撃は大きい

階級社会から見れば士農工商の商、何の労働もしないで富をえるいちばん悪い儲け方だったので、当然ながら役人は馬の使用を許可しなかったのです。

これが、実際に馬を利用しなかった(できなかった)一番大きな理由です。

もっとも、日本も馬の去勢を取り入れていたら扱いやすい馬が増え、江戸時代には普通に馬や馬車を利用していたかもしれません。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7062952.html

野馬追いとかなると日本人は馬を駆使していたとみる、実際は違っていた
もともと魏志倭人伝にも馬、牛、羊なしと記されていてそのために日本をほど馬を使わない民族はいなかったのである、何かこれも歴史の錯覚である
華々しく合戦では馬が活躍するから馬を日本人は使いこなしていたようにみる
そしてこの辺では相馬野馬追があるから馬を使っていたのが日本だったように見える

そうなると相馬野馬追いのように馬を使うのはむしろ少ないから目立っていたともなる
なぜ相馬藩が伊達という大きな藩と対抗できたのか?
その謎は馬を使いこなしたからだとなる、藩は小さくても馬を使えば武器になりそれで強かったので対抗できたとなる
そもそも相馬野馬追いであれだけの馬が出ることが不思議だからである

何か歴史には常に誤解がある、日本で馬を使わなかったのは去勢することをしないとか
あとは家族で家の中に馬小屋があり家族のように扱ったとかで馬との付き合い方が違っていた、何かするとこれも日本の文化があり馬の扱い方も違っていたとなる
人間まで去勢した宦官がいるのが大陸だからである、これはイスラムまで大陸で広がっている文化なのである、だから人間を売り買いしたり奴隷にするのは大陸文化である
現実にヨ−ロッパ人がイスラム圏に支配されて女性でも奴隷として売られていたのであるこれも今になると信じられないとなる、奴隷にする文化が大陸では前からあったのであるそれはもともと遊牧民文化であり家畜文化があったからなのである
だから日本の歴史とかはその大陸から孤立しているから特殊なのである

今日は菊花賞だった、この競馬でも実際に馬場の中に入り近くで見たらその迫力がすごいだろう、テレビではそうした迫力が実際はわからない、本当の馬を知るなら大陸の草原で自由に走る馬を見ることである
私は中国の内モンゴルで馬にのった、その馬が小さいから全然乗馬の経験もないのに乗れたのである、そもそもあんな小型の馬で良くモンゴル帝国が作られ世界の半分を制覇したと思う、それも意外だったのである
歴史には実際いろいろ意外なことがあり誤解しているのである
まずモンゴル平原とか草原とかを理解できないからである
モンゴルで羊を飼うために一年で住んでいたという人と帰りの船であった

その人は冬は寒くて一回りやせたという、それだけ冬が厳しいのである
そのために床の下に馬糞などを燃やして温める、オンドルと似たようなものを使っていたとかなる、そのオンドルは韓国でも使っている、それはあたたかいである
そのオンドルも日本に伝わったのだが広がっていない、近江でそのオンドルの跡が発見されたからである、日本では気候風土の相違で大陸から伝わっても渡来人が伝えてもそれがみんな定着したとはならないのである

この競馬を見て昔の浜街道の道を行くといい松がある、あの松は前らか注目していた
その松か影なして秋の雲が浮かんでいた
あそこの真っすぐな道は原町の宿場町だったのである、その絵も残っている
原町は大きな宿場町であり駅前通りは鉄道が通るようになってできた街なのである

それで江戸時代以後に明治になって戦後も雲雀が原の近くで開墾した人々がいたのであるそんなところで開墾したというのも今になるとわからなくなるが畑にする土地がなくてそうなった、特に戦後は大量の戦争の引揚者がきてその人たちは職がないからどんな不便な土地にでも入って開墾したのである
だから鹿島区の街のすぐ近くの小池にも開墾した場所があった、そんな近くでもそうなのかと驚く、それだけ仕事がないから食べるためにそうなったのである
雲雀が原でもその近くで畑にしたのもはそのためである

この辺では相馬野馬追いがあるから馬に興味を持つ、野馬追いのために馬を飼っている人がいるからだ、侍の子孫がいるからである、それでその馬で競馬で賞をとった馬が飼われていた、その馬を見るために見に来た人がいたのである
競馬で使いなくなった馬は馬肉とされるとかありかわいそうだとして飼っているとか放送があった、賞をとったような馬はそういうことがある
でも今日菊花賞で7千頭から選ばれた馬だと放送していたがそういう大舞台に出れるのはそれだけえりすぐれた馬だった、そこに出るだけで特別の馬だったのである

posted by 天華 at 18:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2021年08月03日

今年も野馬追話なし(北郷の旗ー只野氏の旗)


今年も野馬追なし(北郷の旗ー只野氏の旗)

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鹿島区(北郷)に只野の姓は多い、杉が旗印であり多いことがわかる

仁とあるのは同じ系統の親戚なのである,多田部ともあるが本は只野だったと思う


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川の側の保育園の所の新しい家に入った人

どこから来たのか?鹿島の北郷にもこの紋があるにしても他でもこの紋は
多いからわからない、ここには移り住む人が多いからだ
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井形の紋は多い

野馬追いの旗印の由来 (井形と升形の紋ー原町区の古い農家をたずねて探る)
http://musubu.sblo.jp/article/176728425.html

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菊の紋の南朝の旗が見える

クリック拡大






南相馬市の鹿島区の北郷の野馬追の旗の中心は只野氏の旗である
只野氏は郡山の多田野村に由来して霊山の南北朝の争いで鹿島区に落ち延びた
江垂村の小高い山が中館としてありそこに居を構えたのである
とにかく鹿島区は只野氏の町というくらい只野姓が多いのである
電話帳を見れば50軒くらいが只野氏になっている、漢字は違っていても只野氏なのである
その只野氏の中心となるべき人が鹿島の街の中に住んでいた、同級生だったので意外だった、江垂村のお浜下りで重要なおつづら馬という役職を担っていた
荷物を馬にのせて運ぶ役である
街というときあまり古い家はない、後から入ってきた家が多いのである

野馬追というとき旗とか鎧を保存されているのは農家の方だからである
相馬市でも原町市でも街内からはほとんど野馬追いには出ないのである
それで原町が原町村があり一騎野馬追に出ている
雲雀が原はもともと野馬追いの原であり馬を放牧していた
だから原っぱだったのである、街が大きくなったのは常磐線が開通して駅前通りができて大きくなった
戦後雲雀が原とかでも開墾したらしい、鹿島区でも小池で戦争の引揚者が開墾した
そこは街から近いのである、飯館村の辺鄙な所ではない
とにかく仕事がないからそんな不便な所に開墾して暮らしていたのである

相馬藩では相馬市の城下の城勤めする侍は少ない、農業もしていた郷士が多い、その郷士から野馬追いにでる、だから街内から野馬追に出る人はまれなのである

あと目立つのは菊の紋の旗であるがこれは南朝の旗なのである、天皇は明治でも南朝を継ぐとしてあり南北朝の戦いでは南朝についたからである
それで鹿島村に南朝の菊の紋の旗がある、それは菊池氏になっている

ただ鹿島区に北郷から「御家」という旗が出るのは小高の人が原発事故で移り住んだからである、もともと御家という旗は北郷にはなかった
小高は相馬市が最初に拠点をもうけた所でありそれで小高の城跡は古いのである
御家という旗はもともと小高の城があった所にふさわしいとなる
藩というのはなく御家と呼んでいた、御家中となっていた・・御家中のものとしてあった相馬市はもともとは中村であり中村御家中となっていたのである

ヨ−ロッパでも有名なハウスブルク家というときハウスは家でありブルクは城なのである
まさに家と城が一つのものとして一体となっている、もともとは日本でも家が農家が掘りで家を囲んだりして
防衛していたがそれが城に発展したのである、意外と日本とヨ−ロッパの歴史は城があるから封建制だから似ているのである


posted by 天華 at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2020年07月28日

南朝を受け継いだ明治維新その古代からの歴史 (菊の紋の旗が江戸城入場に出ていた―野馬追にも菊の紋の旗が出る)


南朝を受け継いだ明治維新その古代からの歴史

(菊の紋の旗が江戸城入場に出ていた―野馬追にも菊の紋の旗が出る)


官軍の江戸城入場

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これは船をつないだ船橋である
これだけの舟をを用意した、砂浜にも船を並べたのか?



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菊の紋の幕である

NHKの桜田門外の変のドラマの江戸城入場

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この赤と白の旗印と日本の線の旗印も野馬追いに出る
その由来は何なのか、天皇と関係しているのか?



野馬追に出る菊の紋の旗

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ここになぜ日の丸の旗があるのか?

その由来がまたわからない



吉田松陰が再興すべしとしている南朝は、歴代にわたって長州が匿ってきた大室天皇家であった。それに対して、藤田東湖が再興すべしとした南朝は、歴代にわたって水戸藩が匿ってきた熊沢天皇家であった。それぞれが、みずからが握る「玉」を担いで南朝革命を成立させようとしていたことになる。

吉田松陰は1850年に長崎に遊学したが、読んでいた本のリストには、さらに過激な「南朝正統論」である三宅観瀾の『中興鑑言』が入っていた。

吉田松陰や藤田東湖までが「南朝正統論」に傾いていたとすると、薩摩・長州の藩士がめざした「尊王運動」とは、すなわち徳川幕府を倒して、南朝天皇家を復興させる運動だったことになる。ここで登場するのが、「孝明天皇暗殺」説と「明治天皇替え玉」説である
「明治天皇」は暗殺されていた!!
1) 孝明天皇は、徳川14代将軍・家茂(いえもち)を信任していた。つまり孝明天皇は、徳川将軍家との協調を本位に考える「公武合体・佐幕派」であった
2) 北朝系統の孝明天皇の住む御所並びに京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に、会津藩主・松平容保(かたもり)が当たった。そして、この容保公も孝明天皇の信任を得ていた。つまり、維新後、「逆賊」とされてしまった徳川将軍家も会津松平家も、孝明天皇にとっては「忠臣」であった


明治維新は南朝の復活であり南朝系統の天皇を祭り上げて支配することだった
長州が南朝だということがまさにそうである、当然南朝系統を祭り上げて天皇もその替え薩摩長州によって北朝を祭る孝明天皇を守る会津は仇敵とされ賊軍とされて討伐された
それは天皇の正統性と関係なく薩摩長州の特に長州により南朝系統の天皇が作られて祭りあげられたとなる、天皇は玉といわれて結局天皇自体に力があるのではなく背後の権力を持つものにただ祭り上げられる存在だったとなる
だから天皇の神聖性とは何なのかただ権力を持つものによって玉として祭り上げられる存在だけなのかとなる
そして靖国神社とは明治維新でも賊軍となったもの、西郷隆盛の墓もない、祀られていない、西南戦争で賊軍となったからである
だから靖国神社の矛盾は日本が太平洋戦争の戦没者を慰霊する祀るとしてももともと国民としての慰霊の場所にふさわしくないのである
国民国家になったときすでに南朝とか北朝とかは関係ないものとなったからである

事実西南戦争の戦いは国民軍と化した政府軍とその政府軍に反逆する者たちの戦いだったからである、その国民軍には会津の武士も参加していたのである
そもそも国民という観念は日本になかった、それが明治維新に武士の集団である西郷隆盛の西軍と国民軍が戦った、ということは実は江戸幕府を継続しようとした勢力が西郷隆盛だったともなる、西郷隆盛は武士を残して江戸幕府の継続して侍が国を治めることを目指していたとなる、そこに国民という概念もなにもないのである
だから今度は日本では天皇の臣下として赤子としての国民となったのである
そうした日本の歴史の矛盾があり太平洋戦争で日本国民の総力戦で敗北した
いづれにしろそこで天皇という日本の支配体系が崩壊したのだが依然として天皇は国民の象徴として残されたのである、なぜなら天皇は戦争に負けて戦犯として処刑されるところだったからである

玉だったとなる、天皇でもすりかえられるのである
萬世一系でもないとなる、それを説いた本がでている
ただ自分は詳しくない、でも南北朝の争いが全国にどれだけ影響があり全国隅々までその争いの傷痕を残した、小さな村村でもそうした物語が残されていることでもわかる
日本では天皇が二人になることは国が二つに分かれることなのである

そして霊山は南朝でありその末裔が相馬地域に多い、特に南相馬市の鹿島区は霊山が炎上したとき逃れた落武者の子孫が多い、その姓が只野氏なのである
その中心的役割を果たした人が近くの同級生だった
日吉神社のお浜下りのおつづら馬を担う主要な人物の子孫だったのである
つづらとは何か宝物というか品物を運ぶつづらのことである
この祭りは13年に一回としか行われない貴重な祭りである
宝財(ほうさい)踊りは霊山城が炎上して滅びたとき身を隠すために変装した姿が祭りになった  

ただ歴史という時、結局二つの勢力が権力争いになり二分される、

二人の王の間に反目が生じ、大きな騒乱が起こるからだ―ウェルギリウスー農耕詩

これは蜂の間で起きたことであるが人間でも同じである
歴史とは日本国内でも必ず権力争いで二分される、日本でも古代でも天皇が兄弟が二つに分かれて争った、壬申の乱がそうである、この時も南北朝の争いと同じだったのである
天皇の起源はわからないにしてもおそらく国を一つにまとめるために祭り上げられた王であった、関ケ原の戦いも東西の勢力の争いだった、国は必ず二つの勢力に分かれて争うカルマがある
そのカルマは世界史でも同じである、現代史でも同じである
米ソ冷戦があり今度は米中戦争の危機になる、そしてどちらかの陣営につかざるをえない中立を維持できないのである、そこで日本でも二つの勢力に分裂させられるのである

後醍醐天皇は、既成貴族層の解体と再組織を狙っていて、旧来の「天皇対貴族」という関係を打破して、「天皇絶対」のための官僚組織を作り出すことを最大の目標としたのでした。

つまり古代の復古というか南北朝の争いの継続としてあり現実に明治維新では天皇絶対制官僚が実現したからである、それは民主主義国家とかとは違ったものである
なぜならそもそも国民という存在もていから概念もなかったからである
それはヨ−ロッパとかでも王と貴族がいても国民というのはいなかったからである
他から近代国家が現れたの20世紀とかでありそれまではなかったのである
つまりヨ−ロッパでも江戸時代のように貴族が侍であり国民はいなかったのである

そういう二分した権力争いの中で南北朝の戦いでも相馬藩地域でも小高で侍が歌を残している
そしてNHKの桜田門外の変のドラマで見たら江戸城入場がありそのときの旗印が菊の紋でありこれは天皇家の紋でありまた南朝の紋だとなる    





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明治維新で北朝ではなく南朝を継続した (野馬追いに出ている南朝の旗)


南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)

相馬光胤(そうま・みつたね) ?〜1336

相馬氏第6代当主・相馬重胤の二男。相馬親胤の弟

南北朝の戦いで小高城陥落に残された短歌二首

光りたねをはじめ一族九七人が侍939人、その他多数のものが討ち死にした。
親胤の子の松鶴丸は当時13歳は母と共に小高の西、釘野山の麓の農家の宅にかくれ山野に辛苦をなめたものの、良くその身を全うすることができた

中秋にあたり松鶴丸が一族譜代の墓に詣でて従者に和歌二首をたむけさせた

去年の今日別れし人の墓に来てみのりを問えば涙こぼるる

我一人残るこの世の憂きづまいおもうがままに後世は問われず 

この歌は何か本当にここだけではない、世界で同じである、二つの勢力が争いそれで苦しむ、それはいたるところにある人間のカルマなのである
それを家族で自分自身が経験した、家族でも争いそしてみんな死んだ
残されたのは自分一人だった、だからこの歌に共感するのである

今年の野馬追いは強烈もなにもなく終わった、震災で一回中断したが今回も中止になった



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2020年02月25日

野馬追のキーホルダー(復興再生繁栄のシンボル)


野馬追のキーホルダー(復興再生繁栄のシンボル)

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相馬復興再生のシンボル

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南相馬市の原町の道の駅で買った野馬追いのキーホルダーである

ここでワラビなどシダ類、地面から生える様子が、再生や家の繁栄を象徴する

こういう説明があるのでわかりやすい、野馬追いの旗の種類は無数にある
でも何かそれが意味しているものがわからないのである
これなどわかりやすい、何か縁起物だともなる

今は春だからふさわしいともなる
このワラビをゼンマイを小高の懸(か)けの森で見たのである
それをアレンジして抽象画を作った

これで小高の再生を願うともなる、つまり再生と繁栄にふさわしいとなる
復興、再生、繁栄を願うものとしていいとなる
このキーホルダーはNPOなどで身につけるといい
でも何かNPOは南相馬市に多い、道の駅でもあった
鹿島の無人駅でもNPOが高校生の見守り役をしている
他にもいろいろあるのだ、震災以後この辺は特に増えたのである

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2020年02月18日

野馬追の野馬の起源 (「馬」が動かした日本史ー蒲池明弘を読む)

野馬追の野馬の起源 

(「馬」が動かした日本史ー蒲池明弘を読む)

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平成29年 相馬野馬追ー野馬懸(かけ)ビューローfacebookアルバム

●馬と日本の歴史

この本は馬から日本史を見ることで興味深かった、というのは相馬藩は野馬追いの祭りで有名だからである
その野馬とういうのは何なのかここで説明している
そして日本の歴史をみるとき縄文時代があるとしてその後がどうなっているのかとか
歴史の継続性が明確ではない、縄文時代が一万年つづいたとして日本の歴史はその縄文時代の末裔としてあるとしても明確さに欠ける
連続性がどうなっていんるのか不明である、日本語にしてもそうだろう
それが未だにどこに由来しているのかわからないから様々な説が生まれる
これはイスラエルの言葉と関係しているとかシュメール語だとインドのドラビダ族は共通しているとかポリネシア語だとか説がいろいろあっても解明できない
そもそも縄文語があったとして今の日本語の起源なのかというとそれも不明なのである

はっきりしていることは縄文時代には魏志倭人伝に書かれたように日本には馬とか羊とかいないと書かれている、つまり野生の馬もいなかったのである
馬は外国から入ってきたものであった
魏志倭人伝に鉄の矢じりと骨の矢じりがあったのは日本では鉄が不足しているからだとしている、日本は技術的に大陸からすると遅れていた

馬は牧の中で放し飼いにされ、水飲み場のほかには餌を与えられずほとんど野生の馬だったことから(野馬)と呼ばれてました

千葉県の幕府直轄の牧の痕跡(野馬土手)が数多く発見された
その説明がこの文である 

そして今でも残されている野馬がある、御崎馬とか寒立馬とかが今も生きていてそれは野生の馬なのである、代われた馬ではないのである
馬は軍事目的に使われることが多かった、日本の草原の国であり野生の馬が生きられるとしている
ただ日本は湿地帯であり森の国だから馬が野生で生きられる土地は少ないようにも見えるでも山の台地とかは適していたのかとなる
花巻とかあれば鼻とは突き出した台地でありそういう地形があり馬が生育するのに向いた土地だったとなる、長野県に牧が多かったのはそのためである
モンゴルの様などこまでも平原がつづくとはならない、第一野馬というとき野は斜面のことだからである
日本は植物が豊富な土地であり野生の馬の餌になる草があったという
それで野馬が生きられる条件があった、また火山からできる黒ボク地が草原を作り馬が生きるのにふさわしい場所としている

常陸国風土記に霞ケ浦の行方郡について山には猿、猪がいて野に馬がいること
天武天皇の時、地元の人が野馬を捕獲して朝廷に献上したと記されている
それは行方(なめかた)の馬であると記されている

行方郡とは相馬地域の古代のことである、その行方郡の人たちがこの地域に移住して来たからその名がついたのである、相馬氏がこの地域を支配したから相馬郡となり相馬藩となり相馬市となったのである
もともとは千葉氏が基となっていた、千葉氏から相馬氏が出てこの地を支配した

●野馬追いの野馬の意味

野馬追いの野馬という言葉が何を意味しているのか?
野にいる馬を追うということである、そのこと自体不思議なのは日本の野に原野に野生の馬がいたということである
モンゴルの様な平原ならわかるが日本にも野生の馬がいた、その野生の馬はかえって気が荒く戦(いくさ)で使うのには適していたのである                  

武士用の馬の牧場で野馬飼いのような粗放な飼育が採用されたのだろうか
家康の遺訓にあるように長期間の戦陣の中でも気力、体力の衰えないタフなう馬が求められた

幕府牧場といっても見回りしたり牧野手入れしたりするのは近隣の住民だったから
将軍様の馬ということで過保護に傾き良い餌を与えたり病気になれば自分の家に連れて帰り回復するまでめんどうみることもあったようだ
将軍吉宗はそれを良くないと言っている

元より野馬にひとしくあつかうべし

厳しい自然環境にさらし自然淘汰にゆだね、強い個体を残すこと、野馬飼いの目的の一端がわかる
                    
日本の馬は小型の馬が多かった、モンゴル馬とにていた、モンゴル馬は自分も乗ったが小型であり地に足がつくくらいだった、だからこそ乗れたとなる
自分が馬にのったのははじめてでも乗れたのである
馬が大きいと足がつかないから危険になる
自転車でも足がつかないと緊急の時止められないから危険になる
ただこの小型の馬も江戸時代から何か大型になっているように見える
おそらく江戸時代になると農耕馬などがふえてきたからかもしれない
戦闘に使う馬は小型でも強いとなる、また遠征に耐えられるのは耐久力がある小型馬でありロバともにている
もともとは小型の馬だったのである

●南相馬市の雲雀が原近くの羽山古墳の馬の絵

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甲冑と兜を身にまとった武人である
鉄を生産する技術があり兜も身につける
野馬追いの武者と変わりないのである

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双葉の清戸迫横穴古墳
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この装飾古墳は今の神旗争奪戦が行われる雲雀が原の近くなのである
もともとは江戸時代は野馬土手で囲まれていた一帯である
ここで江戸時代から野馬追い、野馬を捕える場所としてあった
その広さは桜井古墳まで広がっていたのである
そしてこの古墳とも馬が関係していたと説明されるときぴったりだとなる
野馬牧場があり桜井古墳まで広がっていたからである
関東には大きな古墳が密集していてそれは馬と関係していた

蝦夷とは何ものかという時、馬をあやつり弓矢を射ることにたけていて勇猛だったというときそうである、この馬は縄文時代にはないのである
この馬は渡来人がもたらしたのである、その馬を操作する術とか鐙とかももたらした
鉄の生産とか鉄の武器ももたらした、その渡来人が実は蝦夷だったのである
ツノガノアラシトが伽耶王国の王子でありその伝説が伝わっていてそれに由来する地名もある
そしてそれは相当に古く縄文人とか原住民と連合を組んでいた、それが蝦夷だったから強敵になったのである、馬を操り弓矢の術にすぐれ鉄の武器をもっていたとなれば手ごわいものとなったのである
それができたのは渡来人が早い時期に東北の地域に土着していたからである
そして古墳に鉄製品とか大陸風の鉄の馬具が収められているののもそのためである
馬とともに先進の文化や技術が入ってきていたのである

だから何か横穴古墳とかいうとそんな先進文化と関係ないように見ていた
縄文人が原始的生活していたように見ていた
でもよく見ればそこに馬が描かれて兜をつけて刀をつけた武人が描かれていた
それは騎馬民族の末裔でもあったのだ、縄文人とはまるで違った人たちだったのである
馬を使いこなす騎馬民族の末裔だったとなる
縄文人は馬は使っていない、するとそういう馬を使いこなす人たちが入ってくればそういう人たちはその土地を支配する、第一相馬氏が千葉氏の分流であり馬を使うに巧みな武士団であったからだ
それがた野馬追いの祭りとして相馬藩で受け継がれたのである
だから羽山横穴古墳とか野馬追いが行われる雲雀が原は野馬土手があり広く野馬がいたとなる、その野馬を捕えていたのである、それは小高神社の野馬掛け祭りでその様子が再現されるのである

とにかく歴史を勉強するとき必ず時代の前後とかわからなくなる
横穴古墳の装飾古墳が原始時代の遅れたものとして見ていたりする
でもそれは先進文化を象徴したものだった、なぜなら馬が中心に描かれその馬をあやつる武人の絵だからである、その武人は鉄の兜をつけ刀をさしている
それは戦国時代の武将と同じだったのである
そういう先進的なものとして見ていない、そこにも常に時代の錯覚がある

広き野に野馬を追う
兜をつけ刀をさした
渡来人の武人?
渦巻きの太陽は輝き
その姿は誇らしく
広々として原に野馬を追う
草原を賭ける野馬よ
その躍動する馬に魅了される

横穴古墳はこれは明らかに古墳時代の後期であり新しいのである
では桜井古墳とは何なのか、誰が作ったのか、誰を祭っているのか?
二人の棺があり埋められていたすとるとこの辺に二つの勢力があった
一一人は縄文人以来の原住民の主であり一人は渡来人を治めた人だったのかとなる

ともかくこの本は興味深い、馬という視点から歴史を見るということでわかりやすいということはある
相馬野馬追いがあるから馬に興味がででくる、今は競馬している人が馬に興味をもつ
馬自体は日常生活では見れなくなったからである
でも馬が絵がれた装飾古墳は生き生きとしている
そこには広い野が広がっていた、ごちゃごちゃした街はなかったのである
原町はそうした広い場所があった、鹿島とかなると寺内小池の高台がそういう場所だっただから古墳の町としてある、でも原町の雲雀が原は古代から戦国時代へ相馬氏の支配する場所として継続していたのである
双葉の清戸迫横穴の装飾古墳もそうである、そこにも広い野が広がり馬を操る野馬を追う武人がいたのである

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茨城県の行方市(なめかた)の古墳にある馬の冠

ここでは確かに野馬がいて放牧されていてそれは野馬であり野生であり
それを捕えて軍馬にしていたのである
馬の配置でも野馬のように自由であり放牧されていたまたは野生の馬の姿を
冠にしたと思える







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2019年07月29日

小型のモンゴル馬の話 (鵯(ひよどり)越えの馬はモンゴル馬だった)


小型のモンゴル馬の話

(鵯(ひよどり)越えの馬はモンゴル馬だった)

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昼夜の寒暖の差も激しく、冬はマイナス50℃の世界です。そういう中で、生き残るには小さいサイズの方がいいというのが遊牧民の知恵です。ゴージャスな配合飼料なんてもちろんありませんから放置です。ちなみに、馬というのははサイズが一寸超える毎に飼料代が倍になるそうです。


モンゴルの馬は屈強で俊足だったが、体格は小型であった。モンゴルの戦士はその馬に両脚をさんで乗り、片側にぶら下り、馬の身体を盾にして、その腹の下から矢を射ることができた。モンゴル兵士は、昼夜も続けて馬を走らせた。彼らは鞍の上で眠り、馬の首を僅かに切って、そこから馬の血を吸って栄養を補給した

チンキケスは、ホラサーンとギリシャに向かった。そこでジュノサイドという言葉でしか表現できない残酷極まる所業を働いた。ニューシャープールを襲撃したモンゴル軍は犬や猫まで皆殺しにした。犠牲者は174万7000人に達したという。モンゴル軍は畑を燃やし作物を台無にし農民から暮らしの糧をすっかり奪った。臆面もなく、己の謀略行為をことさら喧宣した。

鵯越の馬は小型のモンゴル馬

 昭和28(1953)年、神奈川県鎌倉市の建設現場から、500体以上の人骨と100本以上の馬の骨が見つかった。これは、正慶2(1333)年に新田義貞が「鎌倉攻め」をした時の戦死者とみられるが、馬の体高を復元したところ、結果は平均130センチだったという。


天馬徠兮 從西極 (天馬来たりぬ 西極より)
經萬里兮 歸有徳 (万里を経て 有徳に帰せり)
承靈威兮 降外國 (霊威をうけて 外国をくだす)
渉流沙兮 四夷服 (流沙を渉りて 四夷は服しぬ)

前漢の武帝が、西域のかなたより良馬を得た喜びを歌った歌である。シルクロードは、一般に張騫の西域遠征を以って始まりとする
馬に乗りながらヒツジやヤギの群を管理する騎馬遊牧の習慣が草原地帯に広まったのは、紀元前1000年前後とされる。馬に乗って放牧を行う場合、徒歩による場合とは比較にならない規模の家畜を管理できるようになる

「河西水草美しく、放牧の基地となす。畜産滋息し、馬二百余万匹にいたる」
と記されている。

そして6世紀、この牧場の馬の数は10万頭にも及んだといわれている。
当時、軍馬は今でいうならば、戦車1台にも匹敵する位置にあり、
時の権力者は、漢の武帝以後も馬の繁殖だけでなく、馬種の改良にも力を入れたのである。
そして「胡種を雑ふれば馬益々壮んなり」(『新唐書』兵士)の伝統は、今でも続いている。

広大で勇壮 天馬を育てる山丹軍馬場 シルクロード2万キロひとり旅113

 
ここのプログは写真がきれいで推奨できる、それにしても10万頭には驚く

野馬追いは馬の祭りである、しかし馬のことがわからなくなった、競馬だけが馬を知る手がかりになる、でも馬が歴史に果たした役割は大きかった
それは第二次世界大戦までつづいていたのである、そこまで馬を利用していたからである仙台近くの岩切に戦場で死んだ馬を供養する碑があった、それは第二次世界大戦のものだったのである、日本兵が馬に乗り南京城に入場する写真があったりその時まだ馬は戦場で活躍していたのである

現代のサラブレッドは、源平合戦時代の日本には1頭もいなかった。サラブレッドが日本に初めて持ち込まれたのは江戸時代の後期で、当時の徳川幕府を支援していたフランスから献上されたといわれている。  

昭和28(1953)年、神奈川県鎌倉市の建設現場から、500体以上の人骨と100本以上の馬の骨が見つかった。これは、正慶2(1333)年に新田義貞が「鎌倉攻め」をした時の戦死者とみられるが、馬の体高を復元したところ、結果は平均130センチだったという。

源平合戦時代の武将が乗っていた馬は、ポニーのような小型馬であり、現代の私たちがイメージするサラブレッドとはかけ離れた姿だったのだ



これは意外である、その頃の馬はモンゴル馬の種類だったのである
そうでなければとても鵯声(ひよどり)で馬を担いで下ったとかありえないからである
小型の馬だと餌もサラブレットのような大型の馬より半分ですむというのも有利である
そして草は草原で遠征中に補給できる、草原の草を食べて馬が進撃できる
それも有利だったのである
とにかく馬があって広大なモンゴル帝国が生まれた、その馬は耐久性があり省エネの小型馬だったのである
険峻な山の中に万里の長城が延々とつづいている、そこにもモンゴルが馬で攻めてきた
すると大型の馬だと上りにくいから小型のモンゴル馬が適していたともなる
何かすべて大型のものが強いとは限らない、小型でも有利に働くことがいろいろある

いづれにしろ馬が今も活きているのはモンゴルである、ただ中国に内モンゴルがあり中国もモンゴルのつづきであり遊牧民の文化が入ってきている
例えば相馬氏の紋所が北斗七星というときこれは星が方向の目印になるから遊牧民から生まれた信仰でもある、それが韓半島を通じて日本にもたらされて妙見信仰になった

とにかく兵馬俑をみればわかる、その騎馬軍団圧倒させられる、その騎馬軍団を擁して
始皇帝が中国を統一したのである
鎌倉も平将門から馬を使うことで騎馬軍団が強く西の平家に勝ったのである
その末裔が相馬氏でありそれで野馬追いが残されていたとなる

野馬追いというとき馬の祭りでもある、だから競馬とかモンゴルとかに行くと馬がまだ活きているから実地に知ることができる
そして現実にそのモンゴルのゲルで一年暮らした人がいた
それは羊を飼うことを習うためにいたという、それでそこに一年間いた人が冬になると一回りやせたという、それだけ冬は厳しい場所なのである
その人が大学で農学部でそういうことを習っていた、それで今度は北海道で羊を飼い観光客を呼び寄せる、それはテレビで写されていたので驚いた

そんな人がいたということも驚きだが日本人は今はどこにでもいる
テレビでモンゴルの遊牧民と結婚してゲルで生活している女性もいたからである
インドのバラナシでもインド人と結婚した女性がいたことにも驚いた
そういんうテレビ番組かあったがどこかに今や日本人が実際に外国で暮らしている
でもその生活は相当に厳しいのである、だからそんな厳しい場所に良く嫁いだとなる
とても軟弱ではそんなところで暮らせないからである

モンゴルへ行き遊牧民の暮らしを体験できるツアーがあったり今なら世界のどこでも行ける、私は車で内モンゴルに行ったがそこは相当に標高が高い、高い場所にあることが車で行ってわかった、でも飛行機とかで行くとその標高差がわからなくなる
つまり標高が高いということは寒い地帯だということである
だから冬は氷点下50度Cにもるとしたらもう耐えられないともなる
それでその体験をした若者は一回りやせたというのもわかる
その人は体力は相当ある人に見えた、そういう経験も凄いと思った
その話は帰りの船で聞いたのである

野馬追い祭りがあるとしてこの辺ではこうして馬に興味をもつ、馬の文化にも興味をもつ場所である、ただ馬というものはなかなか今ではわかりにくいのである
馬と直接触れる機会がないからである
競馬しか馬を見ないからである、そこでもっと馬に接するとなると乗馬とかなるがこれも金がかかるとか庶民的ではないのである
ただモンゴル馬だと一日で乗れる、落馬もしにくいのである、足がつくくらいに低いからである、サラブレットだと倍の高さになり落馬したら危険である
落馬して死んだとか記録されているがそれはいつのことだったのか?
江戸時代にもあるからその時はもうモンゴル馬ではなかったのかもしれない
この辺も今の馬を見ていると誤解しやすいのである

インタ−ネットではいろいろ馬のことが出ている、それで自分の体験をまじえて馬のことを書いてみたのである  



千里疾走する天馬   

全身に血潮みなぎり健やかなる時

草原の果てしなく悍馬は千里を疾走する

疲れを知らずどこまでもどこまでも疾走する

北斗七星、妙見菩薩や馬は天をも駆ける

神の巧みに天性の足と筋肉は疾走すべく作られる

草原は果てしなく悍馬は走りたらざれ

アレキサンダ−大王を乗せし名馬よ

そも世界制覇は成らず途上に果てぬ

鳥は休むときも飛んでいる

馬は休むときも走っている

魚は眠るときも泳いでいる

思いがけぬ遠くに駆け抜ける馬よ

草原ははてしなく広がり

その果て知らじも・・・・


アレキサンダーの乗った馬はモンゴル馬のような小型ではない、サラブレットだったのだろう、ヨ−ロッパの方の馬はまた違っている
唐の陵墓にペガサスの馬が飾られていたということはギリシャとも関係していたのである
ギリシャの海の神がポセイドンが馬になっているのも不思議である、遊牧民が海にでて航海の民になったという説もある  

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 参道には石像がずらりと並んでいます。
そのひとつ、ペルシャから伝わった
翼のある馬ペガサス




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2019年07月28日

野馬追い(雲雀か原へ―写真)


 野馬追い(雲雀か原へ―写真)



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首のところにも飾りがある
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この菊の紋の旗は小高である
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こんな旗印があるのか?
勝手に旗印は作れないのだからこういうものもあったのか?
それにしても変だと見る

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これは大きな角である


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この二つの丸の旗は深野(ふこうの)で見た

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軍配の旗がある、これは金沢で見た
でも下高平として出ていた



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雲雀が原に入る

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未来の騎馬武者

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集まりて馬もいななきいきりたつ人馬一体に打ち進むかな

雲雀が原到着の声高らかに打ちつづきける旗の波かな

相馬武士旗に誇りや気合入れ雲雀が原に集結するかな

真日さして旗あざやかに入りまじり雲雀が原に参りけるかな


今日は暑かった、前の原高があったところに馬が集まり雲雀が原まで行列になる
そして行列の一番最高潮になるのが雲雀が原に入る時である
この時騎馬武者が興奮して気合を入れて口上する
これは見ていても興奮する場所である

今回注目した旗は金沢で見た軍配の旗だった、それから小高から出た菊の紋の旗だった
三種類の菊の紋の旗があった、私の持っている旗帳では色がついていないのでわからなかった、青と黄色と赤があった、赤があるのははじめて見た
これは南北朝のとき天皇が二人になり争った、それで鹿島区の真野に落ち延びた侍の子孫なのである
ただなぜ小高かからこの旗が出ているのか?
それはその後その子孫が移動してそうなった
そういうことは江戸時代300百年もあるのだからあった

村ごとに騎馬武者が出たとしても中ノ郷(原町)は太田神社になっていた
でも石神から出たとか大甕の騎馬隊とか説明があった
私が今回見た金沢の軍配の旗印は下高平として説明されていた
金沢にはそもそもなかったものなのだろう

雲雀が原での旗取りは見なかった、暑いから嫌なのである
ただ今回は外から太鼓を演じる人を呼んだ、そうなると雲雀が原に太鼓の音がひびきわたる、野馬追いと一体となってひびきわたる
だから神旗争奪戦を見た方が良かったとも思った
やはり野馬追いだけではいつも同じであり盛り上がらないから今回は太鼓演奏のプロを呼んだのは良かったとなる
ただ演奏を聞いていないので残念だったなる

ともかくインタ−ネット時代になるとみんな記者になる
それで常に何かを見て写真をとり報告する、その時どういうふうに報告するのかが問題になる
どうしてもいい写真をとるとか何か話題になるものを探すとかなる
一目にひくものを探すのである
今回は太鼓演奏が人目をひいたかもしれない、それを見なかったので報告できなかった
記者になることはただ受動的に見ているのとは違う、積極的にかかわることなのである
そこで一億総記者になったのである

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2019年07月27日

真野川の河原で野馬追いの旗取り (野馬追いに参加した数の出身地の分析と津波のこと)


真野川の河原で野馬追いの旗取り

(野馬追いに参加した数の出身地の分析と津波のこと)

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近くにも但野(ただの)氏がいた
とにかく鹿島区では只野、但野・・・が多いのである

真野川の河原での旗取り

御家は小高から移った人の旗印ーこれは新しく作ったのか?
あとは只野氏の杉の紋と天皇の菊の紋は由来がわかっている


今日は真野川の河原で旗取タをしていた、ここに集まるのは鹿島区(北郷)である
でも(御家)とある旗は小高の人なのである
原発事故があり避難して鹿島区に移ってきた、ただ旗帳には見かけない
すると新しく作った旗なのかとなる  


江戸時代に入ると、特定の大名の家臣団あるいは大名を加えた藩全体を「家中」と呼ぶようになった。むしろ、江戸時代の儒学者が中国の封建制度に倣って用い、明治政府の成立後に公式の用語となった土地統治に由来する「藩」よりも、人的結合に由来する「家中」の方がより広く用いられていた。例えば、伊達家によって治められ仙台城を中心とした地域を統治していた藩や藩士のことは、「仙台藩」「仙台藩士」ではなく、主家の名により「伊達家御家中」という表現が用いられ、また国持大名であった伊達家は徳川将軍家から「松平姓」を与えられていたため、「松平陸奥守様御家中」とも称された。ここでいう「松平姓」も、幕藩体制を本来松平氏の惣領でもあった徳川将軍家を惣領とする擬制的な家組織とする観念から与えられたものである。

給人とは、藩主から知行・俸禄を支給された武士を指します。相馬中村藩の給人は2区分され、城下にあって直接藩の用を勤めている府下給人(御家中・麓給人)と、通常百姓をし、戦時に兵役にあたる在郷給人とがあります

藩というときこれは明治以降に用いられた、江戸時代までは御家中である
藩は地理的区分としての藩を意識するが御家中という時は人的結合を意味している
つまり家が発展して城となった、城は家なのである
相馬藩だと今の相馬市の中村村に城を作ったから中村御家中となっていた
だからおそらくこの(御家)は鹿島区に小高から移り住んで侍出の人が新しく作った旗だとなる、なぜなら旗帳に出ていないからである
由緒ある家なので御家という旗を鹿島区に移り住み作ったのかとなる

他は只野氏の杉紋とか前にも書いた、とにかくこの辺では只野の姓が多い
その由来は書いた、南北朝の争いの時霊山城が落城したとき落ち延びてきた末裔が只野の姓なのである
その元は郡山の近くにある多田野村だったのである
それから桑折氏とか菊池氏とかもそうである、その紋は天皇の菊の紋である
南北朝の争いの時二人の天皇をたてて争ったからである
だから鹿島区(北郷)の旗印でこのことはわかっている
そして山王神社とか日吉神社は南北朝の争いで落ち延びてきた侍が護持したものである
鹿島区の江垂(えたり)の小高い山に中館を構えて住んだ
玉野村で鹿島の真野と相馬市に方に行った人が分かれた
それで山上には山王神社があることでわかる
そして野馬追いに参加している地区ごとの人数をみるとわかることがある
                               
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なぜ北郷(鹿島区)と中郷(原町区)がほぼ同数なのだろうか?
それは北郷はもともと相馬氏が入って来る前に在地の勢力としてあった
相馬氏進出の径路で書いたように相馬氏はまず小高から入り城を築いた
その時は行ったのは八重米であり太田神社のある地区であり小高区に入った
原町の場合は海側に泉氏とか在地の勢力が存在しては入れなかった
牛越城の位置は海から遠いからである
そして深野(ふこうの)にも在地の勢力がいては入れなかった
なぜならそこに館とつく地名が二つもあるからだ
館とか盾とつく地名は中世の地名であり城の役割を果たしていた
それで鹿島区(北郷)でも相馬氏は小池から進出して中村(今の相馬市)に進出したのである
海側には入れなかったのである   

そこでなぜ相馬藩で400年前の津波のことが400人溺死としか記されなかったのか
その原因がその時こうして相馬藩が進出するときであり支配下に入っていなかった
まず相馬氏が完全に支配できていなかったのである
その時中村に今の相馬市に城を築いたのである、そこは伊達氏の領域であり海側は在地の勢力圏内だったのである
それで津波のことは詳しく記されなかったのである
そして学者の研究で400年前の慶長三陸津波の前後で米のとれた石高が三分の一くらいに減っていたのである、それが大きな証拠となる
海側に在地の勢力があり海を通して交通もあった、でも津波でその海側の勢力がそがれて相馬氏の進出に有利に働いたのである、つまり津波は相馬氏の支配にとって都合いいものだったのである
他にも津波の影響でそうなった地域があった、戦国時代とかなる敵の不利になることがつけ入ることになっていた    

その後善次病死して棺を出す。時に大原村の森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。

棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。  
知らず「おいか」とは何の言なるか。    

なぜここで大原なのか、海老村と大原は遠い、でも相馬氏が進出したのは八重米坂から太田神社から小高の方である
原町となると海側ではない、大原は相馬市が深野をさけて進出した 
そこから小池を回って中村へ(相馬市)へ進出した、そして柚木が八沢浦と接して宇多郷になっている
その辺に津波の伝説が残っていることが不思議なのである
そしてなぜ海老の大工の善次が

その後善次病死して棺を出す。時に大原村の森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで雲中に入る

大原の方というとき相馬氏が進出した場所だった、何かその時中村に相馬氏が牛越城から移転して城を築くというとき天守を造るというとき大工の善次は相馬氏から要請された、そこで在地の勢力下にあった善次は拒否もできずに苦しんだ
その時津波の被害が海老にあったからだったのかともなる、その怪異は津波の被害を語っているかとも推察した
海老には寺の関係とかで二つの館があった、今でも屋形という地名は残っている、そこは海老ではないにしろ在地の勢力があった地区である

相馬氏より先に岩松氏が鎌倉からきて北郷とか相馬藩内を支配していたからである,相馬氏より岩松氏が先住者として支配していたからである、その岩松氏は鹿島区(北郷)を根拠地としていたから相馬氏と対立していたのである
ただ岩松氏は一家が四天王という家臣に子供まで惨殺されたのは有名である
だから野馬追いに出る人の数が原町と北郷で変わらないという時北郷が大きな力をもった地区だったとなる、小高の倍もあったからだ原町は広い範囲だから今から考えると雲雀が原があり何か力関係では侍の数でも同じだったとは思えないからだ
でも雲雀が原辺りに原町村とありそこから野馬追いに一騎しか出ていないのである、あの辺は広大な野馬追いのための牧であり野馬土手で囲まれていた、人家はほとんどなかった、この野馬追いに出る騎馬の数はそういうことを物語っていたのである
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なぜかわからないけど相馬市の松川浦から諏訪神社が相馬市内に移動しているし磯部の豪族の佐藤氏も鬼越城に移動している
それは慶長津波の前のことである、これも謎なのである、そして相馬市の諏訪神社に津波で舟が流されてきたという伝説が残っていたのである、小泉川を津波がのぼってきたのか?ただボーリングの調査では相馬市の奥まで津波がおしよせた痕跡が砂が発見された
しかしそれは貞観津波のものだったというから津波の唯一の証拠はその前と後で三分の一も石高が激減したことである
それは海側が津波で被害が甚大だったことをの証拠なのである、海側もかなり開拓されて田んぼになっていた
それが根こそぎ今回の津波の被害で大打撃を受けた、ただ田んぼだけではない、それより海上交通がありそれで財を成したともされる

小高には蔵院とかありかなり大規模に海上交通で商業がありそれで財をなして力をもっていたからである
それが津波でそがれてしまったとも推察できる
海側は意外と昔は魚でもまた海上貿易があると栄える素地をもっている、その延長としてこの辺は原発がたち一時は栄えたとなるからだ、海側にはそういうものが作り安い、松川浦とかでも今はガスの輸入の基地となっていることでもわかる
これからの発電はガスだというとき新地はそれで仕事ができて発展が望まれるというのもそのためである  

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野馬追行列が鹿島区(北郷)を行く


野馬追行列が鹿島区(北郷)を行く

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先駆けて馬二頭走る青田風

蔵に映え騎馬武者行くや藪甘草

母衣(ほろ)赤く青田に映えて鷺白し

いななきぬ馬の活きにし野馬追に


宇多郷(相馬市)と北郷(鹿島区)が合流するのが海老原氏の家である
そこから本陣の農協の方の広場に集結する
そこで儀式が行われる

だから本陣と海老原氏の間は先駆けて馬が行ったり来たりする
その時馬が走るから青田に映える、だから知っている人はあそこが撮影ポイントなのである
野馬追いは年に一回でありすると写真をとる機会が一回しかないのである
だからいくら来年見れるとしても一回だから写真がうまくとれないのである

今日は昨日松川浦に行って疲れた、やっと行ってきて写真をとった
騎馬武者でも自然の中で映える、街中だとごちゃごちゃするから映えない
時代劇のロケ地のようにあそこが撮影ポイントなのである

今回は蔵がありそれを背景にして騎馬武者が行く、蔵には紋があるふさわしいともなる
古い農家は蔵を必ずある、だから古い家かどうかは蔵があるかで判断する

いづれにしろすぐに行列は終る、それでいい写真がとりにくいのである
今回は山を背景にして撮ろうとしたが自動車会社とか映ってこれもうまくいかなかった
赤い母衣(ほろ)は大将である


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野馬追いの見所(野馬追いは歴史の忠実な再現)


野馬追いの見所(野馬追いは歴史の忠実な再現)

野馬追いは他の祭りとは違っている感じがする、それは歴史の忠実な再現だということである、それで宇多郷(相馬市)と北郷(鹿島区)が合流する、それが儀式となっているのはそういう歴史があるからである
その忠実な再現を見たいと来ていた人は相当に歴史そのものに興味がある人だとなる
祭にはもともと古い謂れがあれその再現だからそういうことはあった
だから祭りとして残っていてもそれが何を意味しているのかもわからないのがある
書類とか言い伝いでわからなくなっても祭りとして残されているのがあるからだ

歴史という時、北郷というときこれは相馬氏がまず小高に入り小高に城を築いたからその小高から見て北になるから北郷になった
だから合併して南相馬市になったとき今度は相馬市に城ができてそこが江戸時代中心になったからその南ということで南相馬市になった
つまり城があるところが中心として意識して方角地名がある
それは歴史的継続だとなる、方角地名は必ず中心があって東西南北が決められるからである

野馬追いの見所はそうした歴史の忠実な再現なのである
なぜどこの家から野馬追いが出るのか、野馬追いに出る家に旗が立つというときそこに注目したのはその旗立つ家は野馬追いに出る家であり古い家だからである
侍の家だったのであり郷士の家だったからその土地で古い家として認識できるからである歴史を知ろうとしたときそこでリアルに感じるからである
でも地元でもどこの家から野馬追いに出るのかわかりにくい、結局十軒くらいしか自分自身はわかっていない、人口が相馬藩内で10万ちかくあってその中で野馬追いに出るのは500騎としても少ないからわからないのである

野馬追いが歴史の忠実な再現だとして野馬追いがあれだけの旗印がある、それは何なのだろうとなる、でもその旗印の由来を知ることができない、その由来は平安時代とかからも始まっているからわからない、由来をたどれば関西の方にまでたずねることになるからだなぜなら関西から関東地方に平家とか源氏でも移住してきたからである
東北は関東の武士団が移住してきて作られた地域である
それは鎌倉時代でありその人たちが先祖になっている
相馬氏もそうである、相馬氏は騎馬軍団で強いからこの地の支配者になったし強大な伊達市と対抗できたとなる

だから野馬追いのもう一つの意義は馬を知ることである
ただこの馬のことがわからなくなっている、馬は今は競馬でしかわからないのだ
それで皐月賞をとった馬がいるとういことでわざわざ見に来た人がいたのである
その人は相当に馬に興味がある、しげしげと馬を見ていたからである
実際にこの辺ではそうした引退した競馬馬を使って野馬追いに出る
また野馬追いに出るために馬を飼っている人もいるからそうなると金がかかるのである

いづれにしろ馬というのが身近な存在ではなくなったとき馬のことがわからないのである実際馬を知るにはモンゴルのような所に行かないと馬の存在感はないだろう
何もない平原地帯でこそ馬が疾走すれば活きた馬を見れるからである
モンゴルの馬にのったときこれが小型なのである
足がつくくらいだった、こんな小型の馬で良くモンゴルが世界を制覇したと思った
ただ山岳地帯とか行くにはいいのだろう、万里の長城のあるところは山岳地帯だからである、結構険しい山岳地帯だすると小型の馬の方が上るにはいいとなるからだ

日本の馬は大型である、だから落馬で相当死んでいた、高いから落ちたら大けがするからだ、馬はとにかくなじみがなくなった、馬が活きる場所は競馬だけになったからである
ただこの辺では馬に親しむ場所として残されている
だから競馬と深く関係しているのである
馬が今現実に活きているのは競馬だからである、そこで馬体を見て馬の良しあしを判断したりしているから馬が活きている場所なのである
その他は馬とほとんど関係していないのである

ただなぜ地元でも野馬追いが盛り上がらないのか?、外から来た人も一回見れば終わりだとなっているのか?。
それはもともと歴史の忠実な再現であり変えられない、現代的に変えればいいじゃないかと言っても変えられないのである
自由に旗印を作って野馬追い行列に参加すればいいじゃないかと言ってもできないのである、野馬追い祭りに参加できるのは10万人いたとして500騎しか参加できない
相馬藩内では極わずかの人たちしか参加できないとなっている
だから何か地元でもただ見るだけであり毎年見ているとあきる
それで地元自体が盛り上がらないとなっている、他の人たちはただ見ているだけだからである、ただ野馬追いに出る人は侍になった気分になるから気分いいとなる
それで野馬追いに金がかかっても出たいなっている

だからこの辺は馬と関係あるのだから馬に親しむ地帯にするということはある
それでこれも問題だが小高とか浪江では田んぼが草ぼうぼうとなって放置されている
すると何に利用するのかとなると牧場にして馬を飼うのがいいかと想像したりする
これもまたありえないとなるがただ歴史的にはそういう場だったから想像する
何か馬を活かす方法があってもいいとなるからだ

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2019年07月25日

野馬追いの旗立つ(軍配の旗の由来)

                        
野馬追いの旗立つ(軍配の旗の由来)

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真ん中に軍配の旗印
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金沢村に軍配の旗印は旗帳にのっていなかった
でも下高平とか鹿島区の大内村とか右田村にはあった
金沢村は江戸時代に開拓された場所である、それほど広い土地でもなかった
だから旗帳には二つくらいしかのっていない
軍配の旗印はのっていないのである


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原町区金沢村に立った旗印

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この旗印は深野村長野村とかにある


雲晴れて旗立つ家や夏の山

山百合に鬼百合も咲き野馬追いの明後日かな期待高まる  

野馬追いは野馬追に出る家に旗が立つときから始まる、金沢で二軒に旗が立っていた
一軒には三種類の旗が立っていたのはなぜか?
何かここに集結したためか?
ただ旗帳の金沢村には 記されていない、下高平村とかの旗にでている
そこから移動したのでその旗になったのか?。
なんらか家でも移動していることがあるからだ

深野から大原の方へ回ったら一軒だけ旗が立っていた、これは大原村の旗としてある
とにかく野馬追いというとき多くても500騎出るとしても実際は範囲が広いのである
浪江までありそこでの所帯数は何万とかなる、そしたら500所帯は少ないから野馬追いの出る家は特定できない、わからないとなる

鹿島区だと56軒出るのを知っているがそれでも少ないからわからない
鹿島区の特徴は南北朝の争いの時代に霊山から落ち延びた子孫がいる
その家の旗は天皇の菊印なのである、只野姓はその中心にある
その人は街内に住んでいる同級生だった
他に街内に住んでいて菊印の旗がたつ、それは天皇の紋である

只野姓の人の旗印は杉である、只野姓は本当に鹿島区に30人以上とかいるから多いのである、ここの由来はわかっている、その他はまずどこの家に旗が立つか場所がわからない
野馬追いは旗祭りだというとき旗印の意味がわかるといいのだがわからない
そもそもなぜあんなに旗印の数が多いのかとなる、それも不明なのである

軍配(ぐんばい)とは、かつて武将が戦の指揮に用いたうちわ形の道具。現在では相撲の行司が力士の立合いや勝負の判定を指示するのに用いる道具として知られている。

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軍配団扇(ぐんばいうちわ)の略であり、本来「軍配」とは、所謂「軍配術」「軍配兵法」とも呼ばれる、戦に際して方角・日時を見極め、天文を読んで軍陣を適切に配置する法のことである。「軍敗」とも表記される。軍配術を行う者を軍配者という

 団扇紋は、武蔵七党の一つで、その中心勢力であった児玉党の家紋として知られているそして、家紋のなかでももっとも古い紋の一つともされている。
 児玉氏は藤原姓有道氏流で、『源平盛衰記』にも「児玉の党、団扇の印をかかげて」とみえるなど、平安末期には児玉党が旗印として用いていたことが知られる。とはいえ、当時は団扇そのものを印として用いていたようで、それが、やがて家紋として図案化されたものと思われる。

 これは深野とか長野村にあるし大内村とか右田村にもある、その系統が伝播したことがわかる

平安時代からあるのだから旗印は古い由来がある、それは武蔵とかに伝播されて相馬氏の侍の旗印となったのである、このように旗印の由来は古いのでありその起源は関西の方であり奈良とか京都の方だともなる、只野氏の杉紋は三輪山の杉に由来していて万葉集にその歌が残っている


あと三日で28日で野馬追いになるが今日は晴れてきたから晴れるようだ
野馬追いはやはり梅雨明けにはじまり本格的な夏に入ることを告げる祭りなのである
東北では一番先に夏の祭りとしてはじまる 

ちょうど藪甘草が咲き今日は山百合が咲き鬼百合も咲き始めた
野馬追いがはじまるとき咲きはじめるのである

                                                          

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2019年07月17日

野馬追い迫る 〈通りに旗が立つ)


野馬追い迫る  〈通りに旗が立つ)

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白い馬は神の馬となる、これはそうなのか?

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これは南北朝の時霊山から逃れてきた只野氏の旗印である


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これは何なのか?

キノコのようにも見える、何かわからないのが本当に多い

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立葵咲きて野馬追い近しかな

立葵馬に向かいて咲きにけり 

野馬追いの出番を待つや白き馬

野馬追いの旗立つ通りはなやぎぬ

ノウゼンや通りに旗立ちにぎわいぬ

ノウゼンや千騎の旗のなびきけり


赤に白畑に咲きぬ百合の花馬を放ちぬ牧もありしも

御行列古式ゆかしくつつづくかな青田に映えし旗のなびきて



鹿島地区

原町(雲雀が原―神旗争奪戦)


野馬追いの旗が通りに立った、野馬追いの見方として旗印が多くて地元の人でもこれが何を意味しているのか未だにわからないのだ
何か調べようもないのである、なぜこれほど数が多いのだろうか?
そしてなぜこの旗印がわからないのかというと行列を見れるのは短い時間である
一時間とかである、するとすぐに通り過ぎるからゆっくり見れないから写真にもうまくとれないのである
地元の人でもこの行列を見れるのは一年に一回なのである
すると地元の人でもその旗をじっくり検討することができないのである
野馬追いは旗祭りなのだけどその旗が何を意味しているのかわからないのである
私も調べてもほんの一部しかわからないのである

野馬追いの旗は昔から侍の家に伝わったもの

新しく作ることはできない

歴史の保存で新しいものは作れない

野馬追い祭りの特徴は歴史の保存であり歴史に忠実な再現なのである
だから勝手に新しい旗を作って侍の家でないものが出れないのである
そこで地元の人にすると盛り上がらないとなる
勝手に参加できないからである
でも去年は黒いイスラム系の人が野馬追いに出ていた
何か結婚して出たのかもしれない、普通はよそ者は出れない
青森のネブタ祭りは飛び入りで誰でもハネトになれる
それで街中が熱気に満ちるのである

とにかくこの辺では馬を飼っている、牧がある、でも一年に一回の野馬追い祭りのために飼っている、すると金がかかるのである
でも馬のいる風景がここにはある
馬というのは競走馬を飼育しているとかそういう場でしか見れないのである
それで競走馬で皐月賞をとった馬を見に来た人がいた
その人はよほど馬に興味がありしげしげと見ていた

競走馬でも競争に出れないまた引退した馬は殺処分される、それでかわいそうだと生かしている、ただ賞をとった馬は大事にされるが他はされない
馬というのは機械ではないから競走馬でも情が移ってゆくからそうなる
馬と牛とか動物と直接接していると情が移る
それで飯館村で10頭の馬の名前を覚えたいた人がいた
名前を呼んで世話していた、でも肉牛として売られてゆくのである
馬とか牛に直接接していた時代はこうして情がはぐくまれた

クルマのことは書いてきたけど人間の情を断絶せる、キレルのがクルマなのである
そこでクルマ社会が人間社会にどれだけ影響したかそれを重大なものとして考えないのである、便利だから何でもいいものではない、その影響が大きいのである
テレビでドラマ作りしていた脚本家がテレビをあれほど批判しているのはそのためである人格まで変貌させる、クルマでも人格が変貌する
必ず「馬鹿野郎」と叫び交通事故が毎日のようにあるからぴりぴりしているからそうなる
子供の時から馬とか牛に接していた時代は情緒豊かな大人になった
今クルマに乗って育った子供はどうなるのか?
それが現代を見ればわかる、まともな人間に育たないとまでなるから怖いのである

野馬追いが迫りこの時季に咲くのが藪甘草にノウゼンカヅラである
この花が野馬追いににあっっている
これは数多く咲くからである、一日一輪咲いて散りまた咲き覆うからである
そして真夏に野馬追いがあるから熱気で満たされるからこの花があっている

今日はちょっと晴れて暑くなった、それで原町まで行ったけど汗をかいた
それからぐったり疲れた、頭が暑くなった
どうしても最近熱中症の症状がでてくる、それで夏は外に出ることが怖くなったのである
夏の盛りに野馬追いがあるからこれを見ることが危険になる
でも野馬追いは夏の祭りである、夏の雲が湧きあがるとき一番あっている
それで写真をとりたいとなる、でも地元の人でもすぐに行列がすぎさるからいい写真がとれないのである


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2019年06月23日

馬の俳句の紹介(野馬追いがあり馬と親しむ地域)


馬の俳句の紹介(野馬追いがあり馬と親しむ地域)

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ここでかたつむりをテーマにして下の方で馬をテーマにしている
テレビの俳句の番組だったのか?

ここで騎乗して・・・・とあり梅雨晴れとかあり馬をなでるとかあり何か野馬追いで馬とかかわるから紹介した

人間は見ているだけではわからない、騎乗してというふうに馬に乗ったとき見える景色が違ってくる

また馬上とかの漢詩もある

桃花馬上(無題) 夏目漱石

桃花馬上少年時 桃花馬上 少年の時、
笑拠銀鞍払柳枝 笑うて銀鞍(ぎんあん)に拠って 柳枝を払う。
緑水至今迢遞去 緑水今に至って 迢逓(註1)として去り、
月明来照鬢如糸 月明(げつめい)来(きた)り照らす 鬢(びん)糸の如きを

(註1)迢遞(ちょうてい) はるかに遠い。

桃の花の咲く頃馬上に居た少年の日の私、
銀の鞍を置いて柳を払い、得意になっていたものだ。
時は水の流れとともに移り、はるかに遠くへだたった、
今は月の明かりが白いものがまじった鬢を照らしている。

野馬追にもこういう風景がある、馬上に凛々しい姿があったが老いる
白いものが交じった鬢を月の明かりが照らすというふうになる
何か人間は老いるのが早い、白髪になるのが本当に40とかでもなる人が結構いる
第一40でおっさんだとかもう先がないというのも早いとなる
それだけ人間は老いるのが早い、時間が過ぎるのが早いのである
それは若い時はわからない、その若さはたちまちすぎて老人になっているのである

老いてなお殿を守らむしりへにも行列つづく武者なりしかな

野馬追いでも結構年取った人が参加している、野馬追いだってどうしても若い人は少なくなり年の人が多くなる傾向があるだろう
ただ旗取などは若い人でないと無理だろう、
野馬追いは戦国時代の侍の時代の再現である、だから侍の時代で中心になるのは殿様である、それで未だに相馬藩で殿様が活きているとなる
そういうことはもう日本にないのだがここで殿様として迎えているのである

野馬追いがあるというとき相馬では馬がテーマになっているのだ
だから今馬が活きているのは競馬なのである
実際に馬が活きているのは競馬しかないからである
それで競馬ファンが賞をとった馬を見に来ていたのである

ただこの辺では馬を飼っている人がいて馬と親しむことがある
でも馬というのは本当は乗ってみないと騎乗してみないとわからない
だからここのプログで騎乗して見える景色や感じを出していたのである
自転車でも自転車に乗って見える感じるものが違うからである

確かに馬に乗った時侍になる、偉くなった感じになるのがわかる
馬に乗る高さが関係している、人は下になるからどうしても見下す感じになる
そして行列の前を横切るなと前は二階から見るなとかなっていた
つまり侍になった気分になりそれで金がかかるけど出たいともなる
そういう気分は今は味わえないからである
侍とは馬に乗った人なのである、なぜなら徒歩(かち)とかになると徒歩(かち)町とか足軽町とかなり馬に乗る人と区別されていたからである

いづれにしろこの辺では今頃になると馬を見かけるのである、ほら貝の音も聞こえたりするのである

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2019年06月18日

野馬追い近し(女性の騎手が馬に乗っている写真)


野馬追い近し(女性の騎手が馬に乗っている写真)

夏菊や女性の乗りて馬を引く   

野馬追いの近しと馬に女性かな萱浜広く夏の夕暮

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この馬に乗っている人は女性である、女性でも馬に乗る人はいる
こういう光景を見ているとこの辺は野馬追いがあり馬に親しむ
それが一つのこの辺の景色となってる
今は本当に馬というのは日常では見ないのである
競馬だけが馬を見る機会になる
でも競馬に興味がなければ馬を見ないのである
馬と親しむ機会がないのである
ただ北海道辺りでは競走馬を飼っているから馬と親しむことがある
やはりこの辺で野馬追いがあるので馬と親しむことがある
野馬追いというとき野馬追いの祭りの本番の前から始まっている
ほら貝がひびいたりするからである
野馬追いで雲雀が原での旗取りが終わっても帰り馬とか迎えるからつづいている

ともかく馬と親しむことがないのも何か淋しいのである
車社会を批判してきたが馬がもっと利用されてもいいともなる
何か馬でも動物でも人間と一緒に生活しているときうるおいがあった
それを感じたのは田んぼに蛙が帰ってきて鳴いた時だった
つまり田んぼと蛙は一体としてあったのだ
この辺では原発事故で田んぼまで一時なくなったし今でも回復していない地域がある
だから田んぼが回復して復興になると田舎では思った
いくらロボット工場ができたとしても田舎だ田んぼとか畑がないと復興したとように見えないのである
田畑はその景観が人間と一体となり千年とかつづいているから切り離せないのである
ただ馬が生活に活かされない、でもこの辺ではあちこちに小さい牧場があり馬を飼っているから馬と親しむことがある
ただ北海道のようには広くないからものたりないとはなる
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2019年06月06日

野馬追いの起源 (馬に乗る人侍でありそれに従う人が御徒町(おかちまち)とかに住む)


野馬追いの起源

(馬に乗る人侍でありそれに従う人が御徒町(おかちまち)とかに住む)


この御徒士組は幕臣の中でも下級の武士でしたから、江戸の中頃になると彼らの生活は苦しくなり、さまざまな内職にはげみました。中でも有名なのが屋敷の庭を利用した朝顔の栽培です。今でも行われている入谷の朝顔市のために、最初に栽培しはじめたのは御徒町だったといわれています。


江戸時代、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来する。 御徒町周辺に於いては長屋に住み禄(現在の給与)だけでは家計を賄い切れず内職をし生活していた下級武士を指す 。 なお、現在は町名としては消滅し、台東区台東、および東上野の一部となっている。また、この地名は城下町であればどこにでもある地名でもある。


「御徒(おかち)」「御徒士(おかち)」「徒侍(かちざむらい)」「徒組(かちぐみ)」「歩行衆(かちしゅう)」
と呼ばれる幕臣が住んでいたところ、つまり「御徒士」たちの社宅があったのが、現在の御徒町あたりだと言われています。
下級武士で、徒歩で行列の先導などを務めていたそうです。

召馬預が二百俵級の旗本の役だと前回説明しました。ここで、二百俵(二百石も同じ)級の旗本の生活を整理してみましょう。

@屋敷の門は長屋門で片側に番所付だ。広さは六百坪くらいと、かなり広い。
A生活はぎりぎりで苦しかった。侍1人、甲冑持1人、槍持1人、馬の口取1人、小荷駄1人の計5人を使用人としていつでも動員できるようにしておかなければならなかったが、実際は馬を飼っている者は少なく、登城時に不可欠な槍持と草履取以外は使わなかった。

 武装することの根本に、やっぱり馬がある。武士はね、馬に乗る資格のある者(侍)と資格のない者、という区別が、江戸時代も、もっと前も、ずっとある。その、馬に乗る武者が、戦力の中核で、それに歩兵や従卒が従っているのが、武士の戦闘集団のもともとの姿だった。
 
なぜ野馬追い祭りがここに残っているのだろうか?
そして野馬追い祭りが馬の祭りだいうことである、馬なくしてありえない祭りである
これが今の時代と何の関係があるのかとなるとあった

馬をもっている人と馬をもっていない人の身分差別だったのである、侍はそもそも馬に乗って戦う人だった、馬をもたなければ侍とはなれなかったのである
足軽というのは馬をもっていない、だから歩くほかない、つまり馬を持つ人と馬を持たない人で身分差があった、だから野馬追い祭り馬を持っている人の侍の祭りだとなる
馬を飼うには費用がかかる、だから専用に馬を飼う人を雇うとかなる
野馬追いでもそうである、馬を野馬追いのために飼っていると金がかかるのである
だから野馬追いに出る人は金がかかるから困るがどうしても出たいとなって無理しているなぜ出たいとかなると馬に乗ると昔の侍になり偉くなった気分になれからである
馬に乗るとそのこと自体目上になる、馬上から庶民を見下ろすことになるからだ
実際に野馬追い祭りでは行列の前を横切るなとか二階から見るなとか禁止事項がある
それはやはり侍は身分的に上だということを示すからである

ともかくこれは今の時代と関係ないのかと思ったらあった
現代では車がない人は一段劣った人と見られている、そして何事も車優先の車社会であるそれで歩行者と自転車は目障りにされているのだ
それはつくづく自転車とか歩行者は車がない人は身分に差があるとなる
それで御徒町(おかちまち)とあるのはまさに馬を持たない人たちが歩くことしかできない人たち住んだ場所でありそこに明確な身分差があったのである
足軽というのもそうである、足が軽い人たちというのはまさに足を使って馬に乗っている侍についてゆく人だったのである

だから歴史とはつくづく継続しているのである、第一野馬追いと車社会が関係しているとは思わないだろう、でも関係していた
私は車がないから自転車の人と良く話する、この自転車はどうだこうだとか話する
自転車を通じて仲間になりやすいのである、車を持っている人も常に車の話になるのとにている、昔なら馬をもっている侍は常に馬の話になるのと同じなのである
馬というのはそれだけ人間の生活を左右しした、歴史も左右したのである
それでモンゴルは馬で常に移動したからそれがそのまま軍隊となりジンギスーハーンの帝国が生まれたのである、また昔の始皇帝が生まれた長安(西安)に兵馬俑の馬の軍隊が発見されたのである、それはまさに馬があってこそ始皇帝も中国を統一できたとなるからだ

とにかく明確に馬を持っている人が侍であり馬を持たない人は馬を持っている人に従うというのが武士の時代だったのである、だから歴史的にここを抑えておかないと野馬追いとは何なのだろうとなる
馬の祭りだということは馬を持っている人が社会を支配したからそうなっていたのであるそれは世界史的にもそうである、だから日本でも騎馬民族征服説が生まれたのである
馬と車が関係ないようで関係していたのである
馬の代わりになったのが車だともなるからだ、それだけ車社会ということは車が社会を変えてしまったのである、お前は車がない車に乗れないということは御徒町とかに住み足軽だということになるからだ

ただ馬とは何なのか理解できなくなっている、馬と直接接するのは競馬だけになったからである、野馬追いでも競走馬を使っている、それ皐月賞をとった馬を見に来た人がいた
その人は相当に馬に興味があるからしげしげと見ていたのである
今は競馬を通じてしか馬に興味をもてないのである
だから歴史的に馬が人間の生活を左右したのか理解できなくなっているのだ
野馬追いの時だけ馬に興味を持つのである、でもあとは馬とは関係ないのである
競馬だけが馬と関係している、そこに何か野馬追いでも盛り上がらない理由だとなる

ともかく今のことでも歴史的にみると何か見えてくるのもがある
現代と江戸時代なども関係ないということにはならないのである
やはり人間の生活はつくづく継続であり関係している、歴史的な目で見ることが何でも必要だということである

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2019年04月30日

野馬追いが残ったのはなぜなのか? (相馬藩に郷士が多かったせいなのかー野馬追は軍事パレードだった)


野馬追いが残ったのはなぜなのか?

(相馬藩に郷士が多かったせいなのかー野馬追は軍事パレードだった)

なぜ野馬追いが相馬藩で残っていたのか?これも謎である
6万石の小藩なのに未だにあのような華麗な侍の行列が見られる
伊達藩は60万石であり他の大藩でもそうしたものが残されていないのである
今でも相馬市の城跡は何もない、貧弱なのである
会津とかでも大藩であり常に歴史が語られている、でも野馬追いのような行列はないのである、ここにしか侍がそのまま行列になるのは見られない不思議である

野馬追いとはそもそも何であったのか?

それは良く北朝鮮と中国でも軍事パレードをする、あれとにている
国の武力を誇示するものである
戦国時代なら余計にそうである、それで映画にしろ常に信長が美濃の斎藤道三に向けて行列して対面した
その行列は軍事パレードでありどれだけの装備があるから道三は見ていた
それで槍隊とか鉄砲隊とかを見ていた、そしてそれに目を見張って侮れないと見たのである

つまりこうした行列は軍事パレードであり国の力を誇示するものである
野馬追いもそれなのである、相馬藩は小藩であったが大藩の伊達と隣り合っていたから常に驚異にさらされていたのである
するとそれに対抗するには軍事力を見せつけないと対抗できない
そういう伝統がありまた津波のことで書いたように相馬藩には郷士が非常に多い藩だった18パーセントもいたということは多いのである
それも相馬藩の特殊な事情なのである、軍事力を高めるためにそうしたとなる
それは北朝鮮とかとにているのである、軍事国家として核をもち威嚇していないと他国に大国に責められるという恐怖がありそうしているからだ

相馬藩が伊達藩のような大藩に責められても支配されなかったのは軍事力だった
それももともと相馬氏は馬を調教する、馬をもってのしあがった一族である
馬は強力な兵器でもありそれが野馬追いの基である
モンゴルを見ればわかる、馬によって世界を征服したともなるからだ

本当に原町への長い街道を500騎の馬が行列するのは圧巻だった
そういう光景を実物として見れるのはここにしかないのである
でも戦国時代とかは参勤交代でもやはり藩の力を示す示威行為である
軍事パレードなのである、ただ平和の時代になりそれが祭りのようになったのである
でも参勤交代の行列も明らかに野馬追いの行列とにているのである
それは軍事パレードで藩の力を誇示するものだからである
それは戦国時代のつづきとして継続されていたのである 


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2019年04月29日

野馬追いに出て東京の大井競馬場で働いていた右田の人


野馬追いに出て東京の大井競馬場で働いていた右田の人

街内の自分の家の墓がある公園に座っている人がいた
あそこにはいつも右田の人がいる、復興住宅に入っているからだ
その人は一人で座っていた、そしたらその人は東京から帰ってきた人だった
東京に住んでいた人だった、親を残しているから来たという、連休で来たのだろう
津浪で家は流されなかったが家の半分が水につかり住めない土地となり親は復興住宅に住んでいる

その人は東京の大井競馬場で働いていた、それで有名な騎手のことも知っていた
一緒に働いていたという、それもめずらしいと思った
その人は野馬追いにも出ていて旗取りで旗をとったという
だから古い家の出なのである
何でも仲間に酒を飲ませたり野馬追にでるにはいろいろ金がかかると言っていた
それはみんなが言っている、とにかく馬を野馬追に出るために飼っている人がいるがそれだけで相当な金がかかるのである

その人は江戸時代に姓がなかったという、名しかなかった
後で姓を得るようになったとか言っていた
でも侍だったら普通姓がある、ではなぜなかったのか?
この辺では郷士が多く農民を普通はして暮らしていた、だから野馬追にでるのは農家の人が多いのである
すると姓がないということはどういうことなのか?
郷士には姓がもらえない人がいたのか?
そういう身分だったか野馬追に出れるようになった?
そういう人もいたということなのか?それは謎である
私はいつもも野馬追いの旗と姓が出ている侍の家を調べる
旗と姓を合わせているからだ、だから姓がない人も野馬追に出れたのかとなる
ただ郷士に格上げされて姓をもらったともなる、侍だったら姓がないことはありえないからだ

そもそもその人がなぜ大井競馬場で働くことになったのか?
それはやはり自分自身が野馬追いに出たりして馬のことを知っているし馬が縁で馬に関係する仕事についたのかもしれない、野馬追いと競馬は一番関係している
今馬が活きている場所は競馬だからである

競馬のことで長年馬を調教して育て馬がいてその調教した人が愛馬に乗って晴れの舞台で競争してみたいと言っていたのに実際に有名な賞を争う競馬では武豊が乗ったのである
そのことが良くわからなかった、でも競争にたけているからそうなったともいう
その人自体が騎手をめざしていたときがあったという
体重とかいろいろめんどうだとは言っていた、その人は小柄で細身の体をしていた
だから確かに騎手に向いた体だったのである

この前は仙台から学生を野馬追に出る馬を飼っている小屋に案内した
そこには皐月賞をとった馬がいた、それをしげしげと何度も見ていたのである
よほど馬が好きなのである
学生なのにそんなに馬が好きになるのが不思議だった
第一今は馬と接する機会がほとんどない、馬のことは競馬でしかわからないのである

いづれにしろその人はここでは野馬追いがあるかそういう馬に関係した所に就職したのかとなる、東京から親を心配で来る人は多いかもしれない
みんな子供が地元に住んでいるわけではない、また同世代でも子供が東京に住んでいる夫婦も多い、それはすでに自分の世代なのである

いづれにしろここは野馬追いと関係している、だから馬と縁がある
でも地元に住んでいても意外と野馬追いに出る人と会わないのである
それは実際は500騎出るとしても全体の人口からするとわずかなのである
そして誰でも出れない、出れる家は侍だった家であり決まっているからだ
野馬追いは文化財の保護の祭りでもあるからだ
それで地元の人はもっと盛り上げるためにみんな参加するようにすべきだというが
それができない
それは伝統保存のためにできない、でも野馬追いの後に何か自由参加の踊りでもすればいいともなるがそれも野馬追いの伝統を守るために断れるのである
それも是非があるがやはり地元の人にすれば不満だとなる
みんなが参加できないからつまらないとなる、青森のねぶた祭りのハネトは誰でも参加できるからである

ともかく10連休であり里帰りする人や旅行に来る人も多い、年になるといろいな経験している人と出会う、その話を聞くのも興味深いとなる
その人は野馬追いに出ていたということでやはり土地の人でありそれが大井競馬場につながっていたのである

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2019年03月08日

競走馬の引退馬を仙台から見に来た人 (ノーリーズンが北右田で飼われていた)


競走馬の引退馬を仙台から見に来た人

(ノーリーズンが北右田で飼われていた)

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この引退馬が見れる


繋養展示場所〒979-2313 福島県南相馬市鹿島区北右田字大橋39〜1
鹿頭ステーブルTEL090-2606-9589
展示時間10時00分〜15時00分連絡予約3日前まで見学方法希望により案内あり厩舎内への立ち入り可

父: ブライアンズタイム
母: アンブロジン
品種: サラブレッド
性別: 雄(セン)
毛色: 鹿毛
生年月日:1999年06月04日
母馬所有者: ノースヒルズマネジメント
生産牧場: ノースヒルズマネジメント
産地: 北海道新冠郡新冠町
重賞競走
'02 皐月賞 G1



最初何かわからなかった、駅で案内板を見ていたので引退馬を見に行くと言うので案内した、そんなところに今牧場があるのを見ていない
前は北右田に牧場があったのを見ている、そこは津波で家もろとも流されてなにもなかったからだ

その馬がいたのは建設会社の置き場であり野球場の近くだった
だから普通はわからない、見えないからだ
ただ郵送用の車が置いてあるのでそうなのかとは思った

小屋となり一頭一頭がしきられた狭い部屋で飼われている
そこに確かにノーリーズンという馬がいた
案内の人がわざわざ車で来たからである
なぜわざわざ手間かけて案内したのか?
それはインタ−ネットに案内すると広告していたからである
事前に連絡していたからそれができた
だから無理を言ったわけではなかったのである

この馬は皐月賞をとっているのだから凄い馬だったとなる
でもそれは2002年である十六年もすぎているのである
もう老馬なのである、競走馬として活躍できるのは二歳から6歳くらいと短い
それは人間でも青春が短いと同じである、盛りは生物では短い
でもオス馬の場合は種馬として利用価値がある
なぜなら馬は血統できまる、世界的にもそうである
これは日本で育てられたのではない、アメリカで育てられた馬だからである
それでノーリーズンとつけられた、
ではノーリーズンの意味は何なのか?理由なしという名は何を意味しているのか?
外国産は英語名とかになり日本産は日本名とかになる

もう一頭外国産アメリカ産の馬が飼われていた
それも賞をとった馬である
競走馬は賞をとった馬は相当に価値がある、それは引退馬になっても価値があり馬好きの人はこうして見にくるのである
その仙台から来た学生はしげしげとその馬の頭をなで一時間以上見ていた
よほど馬が好きなのである、こんな人もいるのかと思った
年取ったからおとなしいのかと見たら暴れるから去勢したとか馬主が言っていた
狭いところで暴れて仕切りの板を壊してもいる
だから馬でも牧場で運動させないとまずいと見た
ただ牧場となると広い所が必要だからほとんどの競走馬は北海道で飼われているのである北海道はあれだけ広いから牧場に一番向いているのである

そもそも馬はモンゴルのような平原に向いている
今でも馬は羊を追うとかで使われている、私は競馬には興味がないが草原を走る馬には魅了される、
野生の馬はもともと草原を走っていた
草原を疾走する馬は見ているだけで気持ちいいとなる
競走馬が走るにしても狭い場所であり活きてこないのである
ただ私は競馬で一度も実物を見ていない
野馬追いでは競馬を見たがやはり迫力がある、あれでも相当に早いから実際に見たら相当に早いとなる
ただモンゴルの馬は小型なのである、足がつくくらいである
なぜあんな小型の馬でジンギスーパーハーンの大帝国ができたのか不思議だともなる
自分もその馬に乗れたからだ、高くないから初めてでも乗れたのである

いづれにしろ引退馬を見に来る人はいるし引退馬を生かすための応援する団体もある
特に賞をとった馬はやはりみんな馬好きだからその後も忘れずに見にくる
その人は何度もしげしげと見ていたのである
では学生で競馬に行っていたのかともなる
何かその辺が理解できなかった

引退馬を生かしておきたいというときやはり馬に愛情をもっている、殺すにしのびないとなってそうなっている、やはり馬は生き物だからそうなっている
生き物相手だと動物でも人間のように見ることがある
例えば猫でもそうなのである
私の家の庭をびっこの猫が通る、それをみているとあわれだなと見る
びっこでも良く生きているなと見る、懸命にビッコでも生きようとしているのである
動物でも何か人間に見える時がある
でも動物には情がない、そのビッコ猫を襲う猫がいたからである
縄張りのためにそうなっている、動物には同情がないのである

馬でも馬と結婚したとか伝説があるのはそれは曲がり屋で昔馬とともに暮らしていたからである、馬がなじみがなくなったのは日常の生活で関わらていからである
馬を見るのは競馬とかこの辺では野馬追いだけだからである
野馬追いはそうして馬がいた時代を思い出す祭りでもあるのだ
馬にふれる機会がなくなっているからだ
だからこの辺では小さな牧場があり馬を野馬追いのために飼っている
だから馬をみかける、それで少女が馬の頭をなでるのを見ていたことがある
つまり馬と親しむ機会がこの辺ではまだ残っているのである

ともかく引退馬とインタ−ネットで検索するといろいろでてくる
それだけ引退馬に実は関心がある人がいるとはいうことである
野馬追いがあるからこの辺では馬に関心をもつ、でも馬とは実用になっていないから何かわからなくなっている
あそこの六頭の馬は他の土地から来た人たちが共同で飼っているのかもしれない
それは小高とか浪江とかの人たちが場所がなくてあそこで飼うようになったのかもしれない、鹿頭となるとこの辺の姓にはないと思うからだ
この辺では外から入ってきている人が多いからだ
ただ牧場をもつとなるとなかなか土地がないということはある
それで共同で飼う場所を持ったのかもしれない

なんらか馬に詳しくなるのはこの辺では野馬追いがあるからそうなる
でも現実今は馬を知ろとしたら競走馬しかないのである
たいだい馬を知っているのは興味あるのは競走馬のことだからである
野馬追いではその引退馬とか活かせる場所である
たいだい競走馬を使っているからである、他では利用価値がないから活かせないとなるからだ

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2018年11月02日

只野−小林姓をたどると・・・・ (姓から探る相馬地方の郷土史)


只野−小林姓をたどると・・・・

(姓から探る相馬地方の郷土史)


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これだけ地域に限定して多い只野の姓


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奥州二本松領の多田野村において、御霊を祀ったのも長尾氏だった。
只野油井などの苗字に分かれて今も栄えている

ここに只野油井がでてくる。油井という地名は鎌倉にあり油井を姓にする人もでてくる。不思議なのは岩代国安達郡油井村がある、これはどういう経過で名前となったのか?
只野油井という姓は多田野村からでている、名前はなぜ油井なのか?それは鎌倉の地からでていることは間違いない

『一薪之儀者村之内百姓持山分ニ而取申候 不足之時分ハ二本松領多田野村と申所江
  毎年野手銭百文宛相済取来申候』 について、
 四里以上も隔たった所まで薪を採りに行った。もっと近くで都合できなかったのだろうか?
 按ずるに、更に百年余前の蒲生時代に、
横川、安原、阿久津、南小泉、北小泉の各村と多田野村は共に蒲生家客将細野藤敦の給地であった。
軍需物資として輸送された名残りかと考える。

(二本松領の検地−元禄)

前に只野氏のことを考察した、とにかく南相馬市に只野氏−但野氏が多いのである
だからこの出自は明らかである、間違いやすいが多田の姓と多田野の姓は別である
多田野−只野は明確に南相馬市鹿島に一番多いのである
多田野村から只野の姓が生まれた、日本では必ず地名から姓が生まれている
ただ地名と姓が一体化してわかりにくくなる、相馬市でも南相馬市でも相馬氏一族が移住して土地の名前になった、ただ全国的には姓が土地の名となることはまれである
必ず…村がありそこが姓の発祥の地なのである
日本人のコミニュティは村にあり村が一族化している、村の紐帯が強いのである

多田野村の位置がわかりにくかった、郡山市から実は会津藩と白河藩とかの境にあった
今の湖南地域は会津藩であり白河藩が重なる地域でこれもわかりにくいが地図を見るとわかりやすくなる、地歴を知ることが大事である
会津は感覚的に湖南地域とかではなく遠い地域だとイメージするからだ
この湖南地域は私も自転車で行ったが魅力ある場所である
ただあの辺が多田野村があるということがイメージしにくい、でもその辺を通ったことがある
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葛西富夫著『続 会津の歴史』に収録されいている会津藩領地の地図(概略図)を眺めながら、その理由を考えていました。

白河藩と会津藩は隣同士だった、会津藩の領域は広い、それで一時白河地域を治めていたのは会津は支配した蒲生氏郷だったことでもわかる

いづれにしろ地名から歴史を探ったりまた姓が歴史を郷土史を探ることは基本である
どうして相馬氏に荒姓が多いのかとたずねる人がいた
それはこの辺は古代から渡来人が来ていたためである、製鉄の技術集団のツノガノアラシトが大和王権が成立する前に来ていた、そのツノガノアラシトのアラが荒姓になったからである、ここまで姓をさかのぼることができる
相馬藩で姓から探る歴史としては南相馬市の鹿島区だと岩松氏が有名である
鎌倉から来た岩松氏一族は家臣によって惨殺されてその子孫は残らなかった
それで相馬藩内に岩松という姓がないことがまさに歴史の証拠なのである
それから相馬藩の飢饉のとき移住してきた越中からの移民の子孫が相馬藩内に三分の一もいる、だから本当に越中からの移民が多い、古賀とかがそうである、他にもいろいろある
それも歴史の姓として分類できる
その辺はわかりやすいのである、墓を見れば真宗系統であり題目が記されているからわかりやすいのである
この移住した姓として葛尾村(かつろう)の松本氏は有名である
ここも三分の一が松本氏であり信州から今の長野県から移住した人たちが多いということである、こういうふうにある村には一つの姓が多いということはそれだけその村がその一族関係の親戚なのである、だから驚いたのは常磐線の末続駅があるがそこは新妻氏一族の村だったのである、なぜなら墓地をみたら9割が新妻氏だったからである

今回自分のルーツを探ると小林という姓がどうしてついたのか?
葛尾村から私の父親が双葉の新山の酒屋の丁稚奉公して働いたことは書いた
でも小林という姓にどうしてなったのか?
それはまず武家の出ではないから先祖をたどると曾祖父は浪江の津島の近くの柏原であり名前しか記されていない、姓はなかった、その当時江戸時代は農民などでも職人でも姓がないのが普通だった,ただ江戸時代末期に農民でも名字帯刀とか許されて姓をもつ人が増えた、それで近くでも墓地をみると姓を記した墓を見ることができる、それは明らかに農民の墓なのである、明治になったとき庶民も姓をもつことができるようになった
それで姓が膨大に増えた、でも適当に姓を名乗ったのか?
何か謂れがあって名乗ったのか不明になる
只野氏はその歴史をたどることかできるが小林となるとわからない
第一小林という姓は全国的に多いからである
地名でも小林というのは多い、それで不思議なのはこの地名なのである

福島県郡山市逢瀬町多田野小林(字)

多田野村にも小林という地名がある、会津にもある、小林という地名は多い、だから小林が多いのもわかる、でもなぜここに小林なのか?
多田野村−只野氏と関係あるのか?
だから同級生の只野氏と良く土手の道で話して奇妙になる
自分も只野氏の一族の子孫なのとか冗談でもなる
その同級生は日吉神社のお浜下りの祭りでおつづら馬という重要な役をになう
それは南北朝の争いで逃れた時に由来する祭りである
つづらに荷物入れて馬で運ぶ役である
その只野氏は南北朝からの姓であり古い由緒ある家だとなる
だから何か頼母子講で親になっていた資料があったとか大学の人が調査に来たというのはそのためである

上野国緑野郡小林村(群馬県藤岡市小林)発祥とする一族
鎌倉御家人として多く登場し、元歴2年の元旦には源頼朝が鶴岡八幡宮に奉納する神馬を引いた従者に、小林次郎重弘が見える

ここが小林の発祥の地らしい、そこはここから遠くはないから移住してきたともなる
この頃は馬が大事であり馬にかかわる故事が多いからこうなった
馬というのは歴史では欠かせないものだが車時代になり忘れられたのである

posted by 天華 at 11:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2018年07月28日

野馬追いは前は暴力団が参加して活気があった? (伝達式を金沢から見に来る人がいた−鹿島(北郷)での儀式)


野馬追いは前は暴力団が参加して活気があった?

(伝達式を金沢から見に来る人がいた−鹿島(北郷)での儀式)

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これは街内から出ていた只野氏だった
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横手での行進
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これは菊池氏なのか?
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北郷の旗とり(杉の旗は只野氏、あとは御家とあるのは小高の人が
鹿島に移ってきてでているとかある、宇多郷の人も出ている)

 副大将は、他の郷にはなく、
唯一北郷に与えられた役付であることから、
謁見の際の口上や作法のやりとりは、
他の郷には見ることの出来ないものです

駅で地元の人が「伝達式」のことをしきりに言っていた
北郷と宇多郷が大将を迎えて合流する儀式はする
でもそれは12時頃であり11時頃に連絡かかりが伝える儀式がある
それが古いもの古式にのっとりするもので歴史的に伝えられたもので言葉も違っているという、その後に北郷と宇多郷が合流するそれは12時以降である
普通見ているのは合流する場である
その前の方が重要な歴史を伝えるものだという、金沢の人は野馬追いのことを調べて来たとなる、鹿島に来るのは少ない、ただフランス人が二人きていた

その人が言うには野馬追いはもともと暴力団が参加して活気があったという
暴力団だから荒っぽいから喧嘩もするし行列で意気盛んになったという
そんなことがあったのか?
確かに何十年前になるのか野馬追いは熱気があった、地元の人でも食い入るように見ていた時代があった、今はただ行列するだけでおとなしいからつまらないという
そういうこともあった、野馬追いは馬が暴れたりして危険な面があった
それには暴力団がかかわっていたのである
暴力団のとりしまりがきつくなり排除されておとなしくなった

暴力団というとき昔は子供の頃は近くに親分がいたのである。
その親分が死んだとき周りの人は参列者が多いので驚いた
その親分は立派といえば変だが大物の親分だったのである
暴力団は親分子分の関係が厳しいから親分が野馬追いに出て子分が補佐する
だからかえって野馬追いには向いていたのだ

そもそも侍とは武闘から戦争から生まれた人たちだか荒っぽい人たちが多かったのである時代劇で盗賊団が村を支配したりすることがあるがそういうことと似た面もあった
武力で村を支配するのだから似ているのである
だから暴力団がヤクザが支配者だったということもありうる
ただそれが後に洗練されて侍となり支配するものとなった

野馬追いは活気がなくなったというときそれはずっと前から言われてきたことである
野馬追いは歴史の保存だから勝手に出れない、野馬追いに出れるのは由緒ある侍の出でないと出れない、その家には旗とか甲冑が伝えられていて認可されているのである。
スコットランドのタートン模様ともにている、勝手に旗を作って出れないのである。
でもそうした歴史と伝統の保存を残して工夫はできる、その後ろに自由参加で踊りでもなんでもさせてやる、それがないので地元の人すらつまらないとなるし盛り上がらないのであるそのことはもう何度もみんな言っていることだが変わらないのである。
何かそうしたことをしたいとしても上の人が許さないとして変わらないと言っている

ともかく野馬追いに来る人は写真を撮る人が多い、地元の人でも自分でも写真がうまくとれない、それは野馬追い行列でも過ぎるのが意外と早いからである
毎年見ていても過ぎるのが早いからうまくとれないのである
動いているものでありそれが早く過ぎるからうまくとれないのである
野馬追いはどうしても絵になるからいい写真をとりたいのだがうまくいかないのである




posted by 天華 at 19:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2018年07月27日

野馬追いの旗は分類できない (どこの家から村から出るのかわからないから)


野馬追いの旗は分類できない

(どこの家から村から出るのかわからないから)


鹿島(北郷の旗)
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鹿島村


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屋形村


原町(中の郷の旗)

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小高郷の旗

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鳩原村

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鬼百合や小高よりも野馬追いに
                                                        
いきりたつ馬4頭や日の強くさして肌光り野馬追い迫る

いづこより野馬追いの旗ひるがえる雲雀が原に会しけるかな

今日は涼しいので小高まで行った,どこの家に旗がたつのか見たいと思ったができなかった、なぜなら野馬追いは500騎出るとしても相馬藩内で人口でも所帯数でも多い
500騎は500所帯なのである。
1000所帯の1パ―セントが10所帯である、一万の一パ―セントが百所帯である
すると5万所帯で500所帯となる時、一パ―セントなのである。
だからそれだけた野馬追いに出る家は少ないのである
何か野馬追いに出る家が多いように見えるが実際は野馬追に出る家を探すこと自体むずかしいとなる

そして野馬追いの旗は種類が多いし数が多いし分類できない
家に立つ旗でも他の村の旗が混じっている、だからわかりにくい、何本か立っていてせ他の村の旗の場合もある、原町では「八」の旗は大内村にもあったからどこの村なのかわからなくなる、津波や原発事故で家自体が移動していてまたわかりにくくなった
小高の人の旗が鹿島に家を建ててそこに旗が立っていたからである

いづれにしろ野馬追いは行列の前に家に旗がたったときからはじまっている
でもその家を見て歩くことはできない、広いしできない、みんな旗を立てているわげでもないからだ
とにかく野馬追いの旗はどこの家から村から出るのかわかりにくい、神旗争奪戦が終わって帰り馬を追って行けばわかる、でもみんなそれぞれ違った方向に行くのだからわからなくなる

鹿島では街中に三軒くらい立った、わかりやすいのは只野氏は霊山から南北朝の争いで逃れた武士の末裔である、只野氏は郡山の多田野村が由来であり杉の紋が旗印である
あとは菊の紋は天皇に由来するから南北朝時代のものである
それはわかりやすいのである。後は本当にわかりにくいのである。

小高の鳩原村には牧場があり馬が四頭いた、白い馬もいた、神馬なのかもしれない。
鳩原村には何軒かで人が住んでいた、前よりは人が住んでいる、もう三年くらい行っていなかった、今日は涼しいので行くことができた

野馬追いは旗祭りなのだけどその旗の由来がわからない、どこの家から出てくるのか?
どこの村から出てくるのがわからない、広いしわからない、それも一年に一回だからほんの一部しかわからない、それが問題なのである。
posted by 天華 at 19:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2018年06月15日

野馬追いの旗は種類が多く由来がわかりにくいのか? (スコットランドのキルトのタータンとの比較− 南朝の霊山から落ち延びた武士はわかりやすい))


野馬追いの旗は種類が多く由来がわかりにくいのか?

(スコットランドのキルトのタータンとの比較−
南朝の霊山から落ち延びた武士はわかりやすい))


●スコットランドのタータンの由来

イングランドとスコットランド間では宗教・人種的な対立があり、ハイランダーたちにとっての"キルト"とは
 強大な権力をもつ中央集権へ対する反逆精神であり "アイデンティティー" を示す大切なものだったのです。

 決して「タータン・チェック」と言ってはいけません。。タータンは布地の柄というよりも、 氏族ごとに定められた家紋に相当する模様の総称なのです。

基本的に上下左右が対象になった連続模様で、 その連続する模様のパターンを「セット(sett)」といいます。

また、家紋に相当するといっても、 ひとつの氏族にタータンはひとつだけではありません。

 ビクトリア朝時代の「タータン熱」以来、特定のクランに属し、特定のクランを示す「クランタータン」はスコットランドのクランの重要な要素となっている。タータンの着用やそのデザインならびに命名は自由だが、クランのタータンを「公式に」定める権限は族長の仕事と考えられている。リヨン卿がそのタータンをスコットランド紋章院に登録したように、実際に族長がそのクランのタータンを登録した例もあり、これはタータンが紋章に並ぶクランの権威ある意匠であることを示している。


野馬追いの旗の種類が多くなぜ由来がわかりにくいのか?スコットランドのキルト、タ−タンとにているのだがまた違っている
ただヨ−ロッパの歴史と日本の歴史はにている、封建制があり城が本当に多いのである
日本も小さな城でも多いからだ、中国とか他でも城があったとしても性格が違うがヨ−ロッパの城は日本と成り立ちがにている
ただ城壁に囲まれてそこが市民共同体ブルジュアとなったのとは違う、burgとは城のことだからである。
ヨ−ロッパでは市の紋章があり市が一つの国を形成した、そういう歴史は日本にはないのである。

野馬追いの旗の系譜をたどると相馬氏一族の旗となるがなぜ旗の種類が多いのか?
それはもともと家族の家の旗に由来している
鎌倉時代のいざ鎌倉というとき自分の家の旗印をかがげて馬で集結した
そのときの旗印が家の旗印でありそれで手柄をたてて恩賞を賜るということで旗の種類が多いとなる,相馬氏一族の旗だったら一つでもいいはずだからである

スコットランドのキルトの紋様は部族に根ざしている、その部族の根拠地になった土地がある、土地に由来している
野馬追いの旗は相馬氏一族がこの地に移り住んで支配した
もともとこの地を支配していたのではない、後から征服したのである。
その前に館と地名がある所には在地の勢力があった、それで海側には泉氏とか磯部では佐藤氏とか協力な在地の豪族が住んでいたのである
それで相馬氏の進出経路で書いたように深野には館という地名が二つありそこには入れなかった、大原に進出したのである。
大原から小池から相馬市の方に進出した、相馬市には伊達氏の支配地ともなっていた

スコットランドの部族はもともと在地の勢力でありイングランドに支配されていない
もし相馬氏のようにスコットランドに入って来たら相馬氏の一族がスコットランドの地に部族に入り込み子孫となっていたからである。
それで相馬藩は相馬氏によって支配されたのだがもともと在地の勢力ではない
だから後から在地の勢力の中に入りその一族の人たちが郷士として土着したのである。
そこで姓も受け継がれその子孫が村を作ったのである。
ただもともとそこに住んでいた人は郷士の監視下に置かれたのである。
それで野馬追いの旗はもともとの地域に由来していないからわかりにくいのである。

A村B村C村の中に相馬氏の一族の人たちがはいりこみ土着した
その時の家の旗印がもちこまれたのである。その土地に由来するものではない
ただ村に入り込み土着したとき分家するからその分家した旗印はにているのである。
でもそれはもともとの村から発したものではない、スコットランドのキルトはもともとその土地に住んでいた人たちの部族に由来しているのとは違うのである。
つまり野馬追いの旗の由来はその村とか土地にないとしたらその由来は相馬氏がもともと支配していた千葉県とかになりさらに家の旗だから鎌倉時代にさかのぼりその旗印は関西方面にも由来しているのである。いろいろな家の人が相馬氏の中に組み入れられたからで知る。そこでその由来をたどることがむずかしくなっているのである

●南北朝の争いで霊山炎上して落ち延びた一族の旗はわかりやすい
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山王神社日吉神社の由来

山王権現日吉大社は、日本全国にある日吉、日枝、山王神社の総本宮で、東本宮に大山咋命(オオヤマクイノミコト)、西本宮に大己貴神(大国主神)が祀られています。

創祀は崇神天皇7年、およそ2100年前とされる。古事記に「大山咋神、此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあり、これが東本宮の大山咋命のことですね。で、ここに記されている日枝の山(ひえのやま)というのが比叡山のことなのですが、日吉大社が、元は日枝大社といわれていたのは、ここからきていたんですね。

、“神猿(まさる)”さんという神の使いの猿がいらっしゃいます。「まさる=魔が去る=勝る」として、魔除けの象徴となっています。境内地で2匹の猿が飼育されて、可愛かったですよ〜(*^_^*)

豊臣秀吉は、幼名を「日吉丸」、あだ名が「猿」ということで、日吉大社を特別な神社としていたらしく、織田信長の比叡山の焼打ちで焼けてしまった日吉大社の復興に尽力したという話です。

日本全国に約2000社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮。
比叡山の延暦寺は16弁菊の中に輪宝。或いは寺紋として単に「山」の印。
此れは日枝山王の神が大山くひの神であるからです。


南北朝の争いで落ち延びた武士が鹿島の真野に住んだそこに日吉神社がある
菊の紋は天皇に由来している、だから菊の紋は天皇の紋でありそれを利用しているのは南朝側であり山王とか王という旗もそうである。
霊山から落ち延びるとき今の玉野村で二手に分かれたからである。
山上と卒塔婆峠を通る道に分かれて落ち延びた、卒塔婆峠を通って落ち延びた武士は鹿島の真野の中館に住んだ、そこには日吉神社がある
それから鹿島村には只野氏一族が住んだ、その只野氏の先祖だった人が同級だったのである。
鹿島には只野、但野姓が本当に多い、その由来は郡山の多田野村から来ていたのである。只野氏の旗印は杉の紋でありその旗印があるのは只野氏由来のものである。
だからこの紋はわかりやすいのである。

それから山王とある旗印もそうである、王とあるのもそうだろう
例えば菊の紋で菊池とあるとき菊池氏は九州に存在して菊池という地名もある                          
肥後菊池に土着した勢力が菊池となり全国に散らばったし陸奥には菊池姓が多い
陸奥菊池氏も肥後菊池氏と同族で、建武の新政に関った人々の中に菊池一族も名前を連ねていることから後醍醐天皇の多くの皇子に伴って全国各地に散らばったとされる。
ただ菊池姓がいても紋は違っている、菊の紋ではない、別な紋である、ただ菊の紋は天皇に由来していて南朝である

野馬追いは旗祭りだというとき旗のことがわからないとつまらないと思う
誰でもなぜあんなに旗の種類が多いのだろうと疑問に思う
しかしその由来がわからないとつまらないとなる
旗とはスコットランドでもそうだがキルトはタータンはイングランドに対抗するものとしての土地のアイディンティティとして作られていた
とするとわかりやすいが野馬追いの旗印はもともと村に土地に根ざすものではない
この地を支配した氏族でありその由来をたどるとこの土地にはないとなるからわかりにくいのである。

ただ南北朝の争いで霊山が炎上したとき落ち延びた時の武士に只野氏とか桑折氏とかの姓は明確である。その子孫がこの地に増えて只野氏の姓が多いのである。
野馬追いは戦国時代に軍事訓練として始められた
それが伊達に対抗するためそうした、それを否定する者もいるが例えば北朝鮮に対して日韓で合同で軍事訓練をするのはやはり北朝鮮が攻めてくるとしているからそうなったのである。
スコットランドでもやはりイングランドとの対立でそれに対抗するための民族衣装としてキルトのタータンが生まれたのである。
なぜなら後でイングランドに負けたときその民族衣装が禁止されたからである。
民族同士の争いだとそういうことが世界で起きている   

●北郷鹿島村の旗印   
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北郷の行列(鹿島区)

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二本の矢から三本の矢になったのか?
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鹿島街内から出陣

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鹿島の一石坂を上る(鹿島からヒバリが原に出陣


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自作の菊の紋

鹿島村で顕著なのは杉の紋の只野氏である、只野氏については前にも書いた、それから菊の紋があるとき菊池氏がいる
それから桑折氏もいる、これらの武士は南北朝の争いの時鹿島に落ち延びた、日吉神社のある中館に住んだ
ただ鹿島村るも住んだ、それが同級生の只野氏だった、おつづら馬とういう荷物を運ぶ役をお浜下りの祭りで担っている重要な一族であり只野氏一族は鹿島に多いのである。

ただまぎらわしいのは戸川とあるとき川の字をとって旗印にしている、そういう旗印もほかにある
それから星が三本の矢になっているが菊池氏の紋は二本の矢だからここから波及したのかとなる
とにかく鹿島には南北朝の争いで霊山が炎上したとき落ち延びた武士の子孫が土着したということは明確なのである。
その旗印もわかりやすいのである。   

野馬追いの旗印をなんとか分類しようとするがむずかしい、でも野馬追いの旗は勝手に作って祭りに出れないというときそれは歴史の保存の役目を担っているからである。
なぜなら勝手に旗印を作って行列に参加したら訳わからなくなるからだ、その由来も混乱してくるからだ
それはスコットランドのキルトのタータンと同じであり正式に歴史的認められないものは許可されないのと同じである。
ヨ−ロッパでは紋章がありその紋章の由来を調査する機関もある、勝手に貴族の紋章が使えないと同じである。
ともかく南朝の旗印はわかりやすいから見ておくべきである。 




 菊池氏一族とは

 南相馬市鹿島区に多い只野(但野)氏の謎

  (お浜下りの祭りのおつづら馬の話ー野馬追いの旗印は杉紋)  









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2018年05月29日

野馬追いの旗とスコットランドのキルト


野馬追いの旗とスコットランドのキルト


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決して「タータン・チェック」と言ってはいけません。。タータンは布地の柄というよりも、 氏族ごとに定められた家紋に相当する模様の総称なのです。


日本の歴史とヨーロッパの歴史は違っているようで似ている,それが城が多いことである日本でも城が多いから共通性がある。
それは封建制ということで共通している
土地が一番の財産であり土地に依存した社会である。
それは農業や牧畜などが基礎としてある農業社会だったのである。

だから野馬追いと同じような騎馬隊が独自の旗をもって行進する祭りがある。
それは地域地域の旗なのである。
イギリスのスコットランドのキルトは有名である。
それぞれの土地にキルトの紋様が伝えられている
スコットランドはイングランドに抵抗したが部族の集合体だから部族ごとのキルトが伝えられている

では野馬追いの旗と共通性があるのかというとき野馬追いの旗はそうした部族ごとの旗ではないし必ずしも地域の旗ではない
相馬氏がこの地に来て支配するようになったから相馬氏一族の旗である
でもなぜこんなに種類が多いのか?
それは部族ごととか地域ごとの村ごとの旗ではない,家の旗を基本としているからである家というとき無数に家があるし家紋もある,だから種類が多いとなる
それは鎌倉時代からはじまりその元をたどるとさらに平安時代とかにまでさかのぼる
それだけ古いのである。それでその旗の由来がわかりにくいのである。

文化というとき地域性の探求になる,文明となると地域性を無視して画一化することになる,地域性というとき相馬藩とか福島県とか単位的にみる
でも相馬藩内でも地域性がある,地域性とは地形とか風土が違うということなのである。それが文化の基である,だから標準語が文明語だが方言は文化語なのである。
数式化するのが統計化したりするのが文明となるが文化はそうして一様化されない
そこに文化の魅力がある
工業製品というとき文明化であり同じ規格のものが大量生産される
文化は地域の特質を活かした物産でありそこから生まれた独自のものがあるから文化なのである。

野馬追いの旗は一見そうした地域性が関係しているように見えるがそうではない
氏族系統とか家の系統としての旗印である。
・・・村の旗ではない,部族の旗でもない,相馬氏のそれぞれの家がこの土地に分布したものである。だから土地に由来した旗とはなっていないのである。
もし土地に由来した旗となっていればA村のB村のC村の代表となるからわかりやすいのである。
野馬追いの旗行列でもそういうふうには見れないのである。
それで旗の由来をたどることがむずかしいのである。
南北朝の戦いで霊山城から逃れた人達がいてその人たちの旗はわかりやすい
それが只野氏の杉の紋様の旗だった,それは郡山の多田野村から出ていたのである。
他にもその系統はたどれる,それは一団のものとしてたどれる
山王という旗印もそうである。山王信仰が霊山から逃れた人達によってもたらされたからである。

いづれにしろ文化は地域性の探求である。地形風土の探求である。
福島県内でも多様であり相馬藩内でも多様なのである。
だから文化は土地を離れてありえないのだ,それで東京とかにはもう文化はないのである文化はまたこれからも生まれないのである。
そこに方言がないということでもわかる,方言はその土地から生まれたものだからであるただ方言も伝播しているから文化の伝播はある

つまり文明化すると多様な土地に根づいた文化は喪失する,標準語化するのである。
そうなると同じ規格の大量生産の品物と同じになるのである。
文化の多様性が喪失する,限界集落とか言われるけどそういうものもなくなる
その時土地の多様性がなくなり地域の文化も喪失するのである。
ワインでも歴史が古いから土地ごとの名前をつけられていたワインがある
そのワインはその土地と密接結びついて生まれていたのである。
そういうものは各地にある,日本では酒がそうである。
多様な酒があり味が違うから酒とか食品でも文化的食品とただ画一的に同じ味として作られたものがある

これからは大量規格生産ではない,地域に土地土地に根ざしたものが価値を帯びる
それはGDPとかで計れない価値なのである。
グローバル経済というとき画一化でありその土地土地に根付いたものではない
世界は土地土地の地形とか風土とかによって文化が生まれはぐくまれる
それを無視した物差しで価値を計る時代は終わったのである。
これからは地域地域に根ざした文化的価値の追及の時代になる
その土地土地に生きる価値を新たに発見する,それは物質的にもそうである。
精神的にもそうである。
日本ではものというときただものではない,ものは心としてとらえていたから西洋的価値観と違っていたのである。ものと心は一体だったのである。
土地と人間は一体としてとらえられるのである。

それで今度読んで「グローバルリズムの終焉-経済学的文明から地理学的文明へ-  」は自分の思想と一致していた
その著者は住むとういことを第一にして社会をみる,移動輸送の文明社会ではなくその土地に住むことこそ第一としてみる
人間は移動社会になりすぎた,結果として原発事故でかくも簡単に土地から離れて人は移住したのかとも自分は問うてきたのである。
その土地に住むことの価値の追及なのである。それは多様であり統計化数値化できないのである。

野馬追いの旗は地域の旗とは違うがやはり多様性を示しているから文化なのである。
また地域に土着することによって村を代表するものともなった
やはりどこどこの村から出陣したとして見るからである。
ただキルトのようにその村独自のものとして旗があればより土地に根付いた文化の祭りとはなっていた
どうしても相馬藩だと相馬氏一族の祭りだとなってしまうこともある
各地にある祭りはもともと地域性があり神楽とかあるがそれも村ごとに違っていたのである。独自のものとして工夫して発展させていたのである。
どこの村の神楽の舞いだとかあった,今は村ごとに何か特徴あるものが喪失したのであるただ地形とか風土とかは時代が変わっても変わらないからそこから新たな文化がまた生まれるのである。

インターネットは多様性であるのもやはりマスコミという中央主権的情報社会からの変化である。
多様な地域性が報道されるとういことが今までと違っている
福島民報でもそれはマスコミであり大きいのである。
だから相馬藩内のことは詳しくは報道されないしそもそも福島県だけでも広いから報道しきれないのである。
だからインターネットが生まれということは地域性も生まれる時代とマッチしたものともなる
ただそこでマスコミのように視聴率を稼ぐことはできない,その性質を異にしているからである。
一地域の地域に興味があるとしても他の人はないともなるからだ
だから二つの情報があるとして中央主権的報道も必要でありまた地域地域の報道と探求も必要なのである。



posted by 天華 at 17:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2017年10月21日

斉藤茂吉の馬の短歌を読む (野馬追いに思う忘れられた馬のこと)


斉藤茂吉の馬の短歌を読む

(野馬追いに思う忘れられた馬のこと)

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馬屋のべにをだまきの花ともしらにをりをり馬が尾をふりにけり

にんげんは牛馬となり岩負ひて牛頭馬頭(ごづめづ)どもの追い行くところ

馬車とどろ角(くだ)吹き塩はらのもみづる山に分け入りにけり

ほしくさの馬車なみ行きしかば馬はかくろふ乾くくさのかげ

しんしんと行きふるなかにたたずめる馬の眼(まなこ)はまたたきにけり

馬子ねむり馬はたたずむ六月の上富坂のをつかれてくだる

三宅坂をわれはくだりぬいななかぬ裸馬一つ淋しくくだる

馬一つ走りひびきて来るまの墓石店まえに泥はねかえる

あたらしき馬糞ありて朝けより日のくるるまで踏むものなし



おさなごの馬の貌(かお)なづなごむかな相馬の里の秋の日暮れぬ

野馬追いに馬いななきてよみがえる馬ありしとき糞もするかな

その旗のほこらしきかな同類の旗印の馬駆けてくるかな


人間は時代がすぎるとその時代のことがわからなくなる,相馬野馬追いというとき旗祭りとも言うがまた馬の祭りなのである。
ところが馬というものがわからなくなっている,でも戦前から戦後何年かは馬車屋とか馬を運搬のために使っていた,子供のとき馬車の後ろに乗って遊んでいたからである。
馬車はまもなくして消えた,でも馬との生活は人間には長い,それが馬はもはや生活の中にはない,だから野馬追いのときあれだけの馬が集まることで馬があった時代を思い出すのである。馬はあとは競馬馬の馬になってしまったからだ

斎藤茂吉の馬の短歌は集めたがこうして馬は活きていた,東京でも馬がいた,上富坂とか三宅坂がそうである。馬は運搬のために欠かせなかったのである。
野馬追いのとき馬糞が道に残る,これも馬とともに暮らしていたときは普通の光景であるそれで嫌がる人もいる,現代は馬のことがわからないから嫌悪感を感じる
でも牛舎では今でも汚いからにたところがある。

馬屋というものがあり曲がり屋として有名である。馬と一つ屋根の下で暮らしていたのである。曲屋は今でも会津辺りにまだ残っている,そこで生活している人もいる
牛はまだ肉にするにしろ牛乳にするにしろ生活の中で活きている,でも馬は野馬追いとかギャンブルのなかでしか活きていない,だから馬のことがわからなくなったのである。

この辺では馬を野馬追いのために飼っている,それで親しむことがある
子供が馬となじむこともある,だから他とはここは違っている
そうして馬でも牛でもいると情がはぐくまれる,相手が生き物だからそうなる
機械だと車などになると愛車となるが生き物のようにはならない,毎日のように交通事故がありぴりぴりしてぎすぎすしたものになる
そして切れる人間が生まれる,車は何か突然突っ走ってきて走りさるから切れるのであるそこに人間的情をはぐくむものがない

そうなると人間はどうなるのか?人間に情が失われて人間が残酷になってゆく,非情化してゆくのである。子供のときから動物と接していると情がはぐくまれることは確かである今はペットがその代わりをしているのである。

斎藤茂吉の歌は戦前のものが主でありそこに当時の生活が歌われている,それはあくまでも当時の生活の中で歌われたから今はそういう歌は作れないのである。
今の馬が野馬追いのときとか競馬でしか活きていないからそうなる

馬はそもそもモンゴルの草原のような場所にあっている,どこまでも疾走していける平原にあっている,だから馬の原産地は草原とか平原なのである。
とにかくこの辺は馬と縁ある場所である。馬を考える場所でもある
そこに野馬追いの祭りの意義がある

馬も津浪で流されたりして被害にあった,右田の牧場のあったところも流された
そこで見たのがおさなごと少女か馬の顔をなでていたの光景だった
他でも馬を津浪で流された家があった,この辺ならではの被害だったのである。
他に牛も流されたりしたのである。牛馬の被害もあったのである。
だから慶長津浪では馬も死んだと記してあるのである。

南部藩・津軽藩の海岸でも「人馬死んだもの3000余」という記録が残されている(『駿府記』

人馬というとき人間と馬が一体だったからこそ記されたのである。
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2017年08月01日

相馬野馬追い終わる (祭りの意義とは何か?)


相馬野馬追い終わる

(祭りの意義とは何か?)

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旗取りで同じような旗が集まっている
これは同じ村の人なのだろう。
偶然ではこうはならないだろう
青色なのは宇多郷なのか?

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地域社会の人間同士のつながりの希薄化から、地域の力の減衰が叫ばれる昨今、
そのコミュニティを再構築するための絶好の機会に、ねぷた祭りは成り得る
のではないか、


祭りの意義というとき何なのか?野馬追いではその意義は何なのか?
それは相馬藩が一体となる祭りである。それと馬の祭りなのである。
馬を偲ぶ祭りなのである。馬はもう忘れられているからだ

相馬藩が一体となるというのは相馬市では市長が相馬市で出陣式が行うことで誇りをもてとか訓示した,その相馬市(宇多郷)と北郷(鹿島)が合流する儀式がある
野馬追いは地域地域が村々が一体化する祭りである。

でもそれは侍が戦争のために一体化するということが起こりである。
土地の農民はどうかとなると参加できないから一体化を感じるのかともなる
野馬追いは戦争が終わって江戸時代でもつづけられていた
その時戦争とは関係していない,戦争は終わっていたからである。
それでは何のためにしていたのか?

その時も相馬藩の侍が雲雀が原に集結して相馬藩の一体感をもつためということもあったその他に馬を放牧していたから馬を飼い馴らすためにしていた
戦争は終わったのだから馬を飼い馴らすためのものとしての方が役割として大きくなっていた

祭りというとき祀るは死者を祀ることであり供養することである。
だから何回忌とか家ごとにしているのは家の祭りなのである。
そして祭りはどこでも神社があり日本では無数にある。
すると神社ごとに祭りがある,そもそもなぜこんなに神社が建てられたのか?
それは神様を祭りその地域に根を下ろして生活したからだろう。
だから神社は先祖と関係している
先祖が移住してきて神も移ってきた

相馬氏なら千葉氏の系統であり千葉県から移ってきた
その神は妙見信仰である。これは北斗七星であり北極星なのである。
それは遊牧民がもたらした信仰である。遊牧民にとって北極星は移動するときの目印になるからだ
だからイスラム圏とか砂漠の民とかは国でも星印の国旗になっているのある。
最近では天皇にも妙見信仰があり遊牧民とか騎馬民族とかの信仰と関係していたという説がでている

野馬追いの見方としては宇多郷(相馬市)と北郷(鹿島)と合流する儀式があるように相馬藩が戦争のために一体化する祭りだった
だから野馬追いの見方としては5つの郷が雲雀が原に結集する祭りなのである。
飯館村も山中郷であり標葉郷は浪江とか双葉と大熊も入っていたのであり実際に出ていた
相馬藩の主な侍は城勤めではなく農業をしていた郷士でありそこに旗も残りほとんど農家から出ているのである。
つまり野馬追いは侍の祭りであり農民とかの祭りとも違うのである。
ただ相馬氏が土地土地に土着して先祖になったので村々とも関係している
村の代表ともなっているのが相馬氏の侍だったとなる

ただ歴史をたどれば霊山城が南北の争いで炎上して落ち延びたのが今の玉野で鹿島と中村(相馬市)に分かれて落ち延びた,山上に山王神社などがあるのはそのためである。
山王の神が霊山城炎上して落ち延びた武士によってもたらされたからである。
こういうのは由来がはっきりしている,只野姓も郡山近くの多田野村に由来していることは書いた,落ち延びた人たちが真野の中館に住んだからである。

ともかくこうして相馬藩が一体化する祭りであるとき津浪や原発事故では野馬追いが復興の行事としてみなおされた,だから相馬市長も南相馬市長もその旨を言っていたのである相馬藩が大熊,双葉,浪江とか小高でも避難区域になりばらばらになってしまった
それで今回小高から60騎くらい7年ぶりに出たということで話題になった
仮設からではなく帰還した農家からも出ていたからである。
それが小高の復興を推進するものとして小高の人たちも見ていたのである。

つまり小高でも北郷でもそれぞれの地域が一体化する祭りが野馬追いにはあった
ただ今になると社会が複雑化して人口も増えたしみんな会社員になったとき
相馬地域の一体感は希薄化したのである。
だから祭りとして地域の一体化を計ることがあるのだが今は成っていない
それで地元でも盛り上がらないとなる

ただ祭りの意義としたら歴史の伝統の保持でありその意義はある
ただ地元の人がみんな参加できないしみんなで盛り上がることはない
だから歴史と伝統の保持も欠かせないがみんなが参加できる祭りとしての工夫もひつようである。
ただそうなると歴史の保存としての祭りが乱されることもある
ただ前からそうだったが野馬追いは一回見て終わりとなっている
地元の人も参加できないから相馬地域がみんなで盛り上がるという祭りではない
その辺の兼ね合いだむずかしいが何らか新しいものも取り入れないとやがては祭り自体が維持できないとまでなる

そもそも祭りは限界集落では跡を継ぐ若い人がいなくなって維持できなくなっている
祭りとは次代の若者がになうものだろう。
威勢良く神輿をかつぐのは若者である。それはその地域をになう意気込みを示すものである。でも現実はみんな会社員なのだから地域の一員という感覚が今では希薄なのである。だから実際に雲雀が原の本陣山を神輿を担いでのぼるのは氏子ではなく会社員に頼んでいるのである。そういう時代に現実になっているのである。
posted by 天華 at 12:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2017年07月30日

標葉郷(浪江,双葉,大熊)が野馬追いに出る

標葉郷(浪江,双葉,大熊)が野馬追いに出る


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北郷(鹿島)が来る

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風林火山ではないけど風の旗印である



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標葉郷の大将

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末森監物
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これは標葉郷

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これは大堀村

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田尻村の旗印は出ていた


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中浜村(大熊)

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両竹村
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吉田という人は出ていた


相馬 昌胤(そうま まさたね)

元禄2年(1689年)3月2日、将軍徳川綱吉に召し出されて、奥詰になった。同年6月4日、側衆に転じる。同年8月21日、側衆を辞職する。

千葉氏が源頼朝から奥州の小高に領地を受けた後、千葉氏族・相馬重胤が移り住み、南北朝時代の初期は南朝が優勢な奥州において数少ない北朝方の一族として活躍した。南北朝の争乱が収まるとやや衰退し、室町時代後期には標葉氏を滅ぼしたものの、それでも戦国時代初期には行方・標葉・宇多の3郡を支配するだけの小大名に過ぎなかった。

陸奥相馬氏は現在の浜通り夜ノ森以北を鎌倉開府から戊辰戦争終結に至るまで740年もの長期にわたって統治したため、相良氏や島津氏とともに世界史上にも珍しい領主として知られる。

中世の柏市を含む旧相馬郡を支配した相馬氏は、将門の子孫であるという伝承は良く知られています。

標葉郷(浪江)-末森村の謎

今回は標葉郷の旗印が目立った,標葉郷とは主に浪江だけど今の双葉郡や大熊町が入っている,ここは原発事故で最大の被害を受けたのである。
歴史をさかのぼると室町時代にすでに相馬氏の支配下に入っていたのである。
だからずいぶん古くから相馬氏の領地になっていた
ただ野馬追いというと小高と中ノ郷(原町)と北郷(鹿島)と宇多郷(相馬市)が中心として行われていると思った。
でも標葉郷も相馬氏に服属してから古いのである。

何か掛け軸があり竜の絵が描かれていたがそこに相馬 昌胤(そうま まさたね)と筆で書いてあった,相馬昌正胤は藩主であり元禄時代の人だった
こうした古いものが残っていることでも標葉郷は相馬氏に服属して古いのである。

標葉郷騎馬会は出陣式に先立ち、相馬家第二十一代当主の相馬昌胤(まさたね)公らの墓所がある浪江町の大聖寺を訪れ、

相馬昌胤(まさたね)はここに由来していた,聞いた人は若いから知らなかった
肝心の野馬追いに出る人が歴史を知らないのはまずい

その標葉郷は主に浪江であるが双葉郡も入っている,長塚村とか新山村とかある。
ここに自分の父親が酒屋の丁稚をしていて姉から話を聞いているので親しみがわくのである。何か両親とか祖父母に直接話を聞いたことは心に残る
だから歴史は祖父母から話を聞くことからはじまると書いたのである。

その中で末森村があり末森監物と名を記した人が出ていた,そのことは前にも考察した。泉田村に月に波模様の旗印がある,両竹村にもある。月に波模様の旗印が今回目立った
これは標葉郷のものである。
十字の旗印は大堀村のものである。大堀村はもう住めないとされている
そこから出ているのも歴史である。

野馬追いは歴史の保存だからこうして歴史をたどらないと鑑賞できない
だから外から来る人は地元でも旗印が何を意味しているか良くわからないのだから
何なのだろうとなる

それで威勢のいい60代なのか女性が声をかける,野馬追いは何か地元でも盛り上がらないなと言ったらその女性も同感していた
歴史の保存だからやむをえないが勝手に侍の家でもないものが出れないから盛り上がらないと言っていた。
この辺ではそのことをみんな思っている:ただ行列を見ているだけだからである。
歴史の保存だからやむをえないとしても侍の家でなくてもその後に分けてみんなが参加できるものにすれば盛り上がるかもしれない

今は村というのもだけではない,あまりにも社会が変わりすぎたからである。
すると会社の代表とかが出ればそこに勤めている人も知っているから盛り上がる
何か馬場がありそこをもっと利用して馬になれれば出れる
そして旗印をそれぞれの会社とか地区でもいいから作り出れば盛り上がる
ただたいだい祭りは歴史の保存だから勝手にやると乱れてしまうから拒否されるのかもしれない,でもそうすると盛り上がらない
小高で何か儀式があり女子高校生がその儀式をしていたとき高校生だとまとまって若い女性が確保できる,高校以上になると会社勤めでも別々になりまとまって今は若い女性はいない,早乙女踊りなどがあるがそれももう村だけでは若い女性を用意できないのである
すると祭りが継承できなくなる,現実にて中村神社の神輿は氏子だけではできないので
会社員の人に頼んでいるのである。
みんなが会社員の時代になれば必然的にそうなってしまうのである。

南相馬市の姉妹都市としてしてカナダのペンデルトン市がありその女性はそこに行ったという,そこも馬が縁で姉妹都市になった。
その馬はカーボイの馬であり荒馬を乗りこなすことであり牛をつかまえたりと荒っぽい祭りである,ロデオとかなると野馬追いで馬を乗る人より馬を巧みに使う人でないとできない,それはアメリカのカーボイでありインディアンも関係していた
もともとインディアンの土地だったからである。


オレゴン州ペンデルトン市(カナダ) 

いろんな人がいるが鹿島駅前の角が実家の人は千葉県の柏市から来ていた,そこは千葉氏とかかわり相馬氏が出た所だったのである。流山市とかとも姉妹都市になっているのもそのためである。
ともかく野馬追いは歴史を見ないとわかりにくい,旗指物もやはりどこの村から出たのかとかわかるとそうかとなる
今回は標葉郷に焦点をあててみることができたが後は曇っていて写真はきれいにとれていなかった。写真は場所にもよるし野馬追いではすぐすぎさるからいい写真が以前としてとれないのである。やはりいい写真をとれる場所が大事になる
撮り方もアップでとらないと映えない,今回は写真はきれいにとれてかった
神旗争奪戦は見なかった,天気は多少晴れた,でも曇りであり涼しいのは良かった
最近涼しいし風が気持ちがいい,だから熱中症にはならない
こういう気候の方がいいが写真はいいものが光の関係で撮れなかった
posted by 天華 at 18:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2017年07月29日

相馬市の野馬追いの出陣式を見る


相馬市の野馬追いの出陣式を見る


出陣や法螺貝鳴りて朝の蝉

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去年見た疲れなのか何なのか倒れた馬



相馬市の野馬追いの出陣式を見てきた。
6時半き電車で行った:千葉県柏から何人か野馬追いを見に来る人がいた
その一人が駅前のすぐまえの角の家が実家だった
そこから学校に通った,便利な場所だった
相馬の出陣式ははじめて見た

和歌山県から来た夫婦がきた。

「和歌山県ですか,和歌山城には上りました,石段の坂が長い
いい城でした,ここは石垣しか残っていませんが・・・」

こうして日本はたいがい旅しているから話を合わせられるのである。
和歌山城の石段は長いのである。そこが印象として残っていたのである。
何かを旅では印象として残す必要がある
でも何が後で印象に残っているかはわからないのである。
和歌山城の特徴はあの城の石段だったのである。

出陣式には相馬市長と相馬市長が訓示した,鹿児島県とかの市長とかも他にも来ていた,挨拶はどちらも震災の復興と原発事故の復興を一丸として成すということを言っていた,まだこの辺はそうなっているのである。
復興のための野馬追いがつづいているとなる

雨が少しふっていた,それぼどの雨ではないから良かった
激しく馬が横転して落馬した,人の乗っていない馬が通りをはしりぬけた
こういうことは野馬追いに常にある,落馬するのは相当に危険である
この前は馬が倒れたりした
馬というのは実際に今はじかに見ることがない,競馬でくらいしか見れない
馬が何なのか実際はわからなくなっているのだ。
馬を使っていたとき落馬することは常にあった,馬はそれだけ乗りこなすのがむずかしいのである。へたすると大怪我をする

落馬止め天神

その安徳天皇の怨霊がずっと頼朝をつけ狙い、ようやく稲村ヶ崎で姿を見つけ、頼朝を落馬させたというのです。

毘沙門堂は南向きに建てられていましたが,東海道を通る大名が次々に落馬
毘沙門様を素通りしたためではないかと人々は噂しました

 上落馬橋(黒目川)

 「落馬橋」は旧小金井街道(鎌倉道)に架かっている橋です。
江戸時代、武士が橋のたもとで馬から落ちたのでこの名前がついたということです。

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交通事故にかからないように今なら祈る,落馬は常にあった,自分が見たのは馬と一緒に横転したのである。競馬でも落馬は常にある,それが致命傷になる場合もある
競馬でも9頭が落馬した記録もある,馬に乗った経験があれば本当に落ちることが怖い
モンゴルの馬は小型だからそれほどでもない,日本の馬は大きいし高いから落ちることが恐怖になる

これだけ落馬することは恐れられていたことがわかる,それが神様とか仏と結びつき罰だとしている,そういうことは今でもカルト宗教団体とか他でも言う
何か不幸があると仏罰だとなる,ところがカルト宗教団体でもいつも不幸は他より起きている割合が大きいのである。
ただ当時は神様とか仏様にその原因を結びつけることが多かったのかもしれないさ

「東大寺の大仏を焼いた平家の味方をするな」となときこれは寺側の勝手な解釈である。日本は無宗教だとかいうけどやたら神社や社や祠が多い,寺も多い,それはこうして何か縁起が悪いとかなり結びつくのである。
ただ今でも交通事故なども落馬と同じように縁起が悪いともされるから同じことがつづいているのだ。

ともかく馬というのは実際の生活から消えたとき何かわからなくなる,競馬くらいでしか馬に接しないからである。馬と人間が暮らした歴史は長いのである。
それがまるで忘れられたとき馬についてイメージもできないのである。
馬が糞したりするし道は汚れる,馬が頻繁にいななく,そういうことも実感としてわからないのである。だから野馬追いではあれだけの馬が出るから実感する
馬は大きいから500頭も行列すると迫力がある

戦争でも馬の力は大きかった,義経のひよどり越えとか馬にかかわることはいくらでもある,馬は明治以降もずっと活きていた,荷馬車としても農耕馬としても使われていたからである。太平洋戦争でも馬が活躍していたのである。
日本でも南京とかに入場するとき馬で行列して入場している,仙台の寺には戦争で死んだ馬を供養しているのである。
野馬追いは旗とか甲冑とか見ることもあるのだが馬が蘇る時でもあるのだ
それは競馬とは違うのである。馬があった時代を偲ぶ祭りでもあるのだ
馬にしても何か競馬だけにギャンブルだけに使われるのは本意ではない
野馬追いは本来の馬として活かされる時なのかもしれない

馬を扱うことに優れている→国の力が強くなる

だから相馬藩では雲雀が原で馬を放牧して軍事訓練をしていたのである。それは平将門からはじまっていたのである。 
現代は機械を扱うことに優れていることが国力になっている
馬を知らなければ生きていけない時代があったのである。

出陣式が終わり今度は鹿島に電車で帰ってきた,駅前でタクシーを待っている若い女性がいた。その人は海老原さんの所に行くという,宇多郷と北郷(鹿島)が個々て合流する儀式があるからだ,その人はなぜ海老原という姓まで知っていたのか?
その女性は前も来ていたのである。だから詳しくなった
京都ならいくらでも祭りがある,でも野馬追いに魅力を感じる人もいる
歴女なども増えてきた,そういう女性なのかもしれない,
ただ野馬追いは一回見ると終わりだとも良く言われる:何回も見る魅力がない
それは決まりきったことの繰り返しだからである。
地元でもあきるということがある

ただプログなどで紹介するときこれも一応紹介するとういことでマスメデアの取材とにてくる,何か絵になる写真が欲しいとなる
取材するとは見方がただ漫然と見ているだけではない,何かを訴えるものを写真として出し面白い記事を書こうとするのである。

野馬追いは確かに相馬の城跡から出陣するのだが盛り上がるのは原町の方である。
そこに全騎馬が集結するからである。今年は430騎出場するという。
500のときもあったから多少少なくなったいる
今日はこれから鹿島(北郷)に宇多郷と合流する儀式がある
これも何回も見ている,ただ海老原さん所から街へ行列する所では撮影ポイントがある
田んぼの中を通るから絵になまるのでそこにカメラを構える人が多い
他は街中になるのでてかなかそういう撮影ポイントはない。
posted by 天華 at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2017年07月28日

野馬追い(鹿島村(北郷)で旗が立った家) (只野(ただの)系統は杉の旗印-菊の紋も南北朝の争いに由来か?)


野馬追い(鹿島村(北郷)で旗が立った家)

(只野(ただの)系統は杉の旗印-菊の紋も南北朝の争いに由来か?)

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ここになぜ旗が立ったのかわからない
勝手に旗はたてられないはずである
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ここはいつも立っている
ただ記録では鹿島村の旗印にはない
原町の北原に鷺の旗印があり他にもあるが鹿島村にはないみたい
だから他から移り住んで来た人かもしれない

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菊の紋が町内から出る
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これは霊山城炎上の時,落ち延びた者に由来する
桑折とかはの姓はそうだからである。
只野:桑折とか菊地の姓がそうなのかもしれない,南北朝の争いで落ち延びてきた
一団だった,杉の紋と天皇の菊の紋はそうだった



只野家について考察したが南北朝に由来して古い家系である。その元は郡山近くの多田野村だったのである。

平景政(鎌倉)までたどれる只野氏の由来
 (奈良の三輪山に野馬追いの杉紋は由来している)


南相馬市鹿島区に多い只野(但野)氏の謎 (お浜下りの祭りのおつづら馬の話ー野馬追いの旗印は杉紋)

この杉紋は古代の奈良の三輪山から生れたとするといかに古く由緒あるものかわかる
そしてこの杉紋を旗印とするのは鹿島村から他にも広がっている
この辺では電話帳を見ればわかるが只野姓というのが多いのである。
只野一族系統がこの地に根をおろして広がった,それは南北朝の霊山炎上から落ち延びた侍だった,その落ち延びたものが祭りとなったのが江垂(えたり)のお浜くだりき祭りである,只野家がその祭りで重要な役を受け継いでいたのである。

そのことは近くの同級生がいて教えられて知った,その人は脳梗塞になり九死に一生を得た,でも最近土手を歩いているのを見ないな,まだ生きているのだろうかともなる

杉の紋の出ている村

宇多郷(中村) 伏見

下栃窪村 只野六郎

岡和田村 只野津右衛門

小池村 只野三郎衛門

鹿島村 只野善衛門 只野仁右衛門

横手村 只野仁衛門

只野一族は鹿島区中心に広がった,宇多郷にもあったのは鹿島村を基にして広がったのである。

次に天皇の菊の紋が鹿島区の町内に旗がたった,これは何に由来するのか?
堀川忠三郎 菊地義兵衛 菊地重朗治 桑折利平治 遠藤八朗(北屋形村)が記録されている
これは天皇の御紋である,それはおそらく南北朝の争いのとき,天皇の旗印として使ったのもかもしれない,正当性を主張して旗印にしたのかもしれない。
なぜなら明治維新でも菊の紋の錦の御旗が作られたからである。
日本では動乱になると天皇の主導権争いになるからだ
そして桑折氏も霊山炎上のとき落ち延びた一族でありその系統も菊の旗印であることもつながる

つまり野馬追いの旗印は鎌倉時代にさかのぼり南北朝の争いからはじまっている
だから旗印を見るとき南北朝の争いも思い起こして見る必要があるともなる
相馬氏は南北朝の争いにかかわりこの地方を制覇したのである。

野馬追いの旗印は何を意味しているのか?また何に由来しているのかわかりにくい,一つの系統として南北朝の争いに由来しているものがある,それが一つの謎を解くものとなる

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2017年03月18日

野馬追いの旗とヨーロッパの中世の城と旗の共通性 (野馬追いと同じ祭りがヨーロッパにもある)


野馬追いの旗とヨーロッパの中世の城と旗の共通性


(野馬追いと同じ祭りがヨーロッパにもある)

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2014夏のブリュッセル★ (写真拝借)

これは野馬追いと同じである

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野馬追いの旗にもこれと同じ識別化がある


騎士団は軍隊の中枢と見なされていた。上級貴族として「バナレット騎士(旗騎士:旗は領地管轄権の象徴であり、供の者を従えていた)」

「戦う人−耕す人」に二分された(10世紀)。これによって「a.武装して戦う特権を有し、そのために通常は課税されない人々」と「自然物を生産し、自分の需要に加えて他人(=b.の人々の労働の成果で暮らせる特権を持つ人)の需要を満たすように期待された人々」が区別された



公家の家紋は優雅なものが多く、武家の家紋は実用的で、戦いの場において、敵味方の陣地識別のために旗や幕に用いて目印としたのに始まり、簡略で、しかも識別しやすい幾何学模様が多いのが特色といえる。ことに群雄割拠して互いにしのぎを削るような争いが続くにつれて、一軍の将たる者は、地方の群雄の家紋をつねに熟知しなくてはならなくなり、このために『見聞諸家紋』という書籍さえ刊行されるほどであった。

 関ヶ原の戦いを契機として、太平の世の基盤ができて、武具、武器、旗、幟、馬印などは無用のものとなり、紋章の用途のうえに一大変革が行われた。つまり家紋は、武士の威儀を正すのに必要なものとなり、儀礼のうえからも、自己の家格門地を表す服装の決まりができて、参勤交代あるいは登城をするときの行列に、家紋を明示する必要に迫られ

ヨーロッパと日本は別の世界であり歴史も理解しにくいと思っているが封建制があることで共通している、封建制があったのはヨーロッパと日本だけだッからである。
それで明治維新が成されたという説もある。西欧化でたきという説である。
それは封建制というのはやはり歴史的人間の発展としてヨーロッパと日本にしかないということが重要である。

だから騎士とサムライもにているしなぜヨーロッパに城が日本と同じように多くあのように紋章学まであるように紋の種類も多く旗の種類も多いのかとなる
それにはやはり封建制があり城が多く騎士がいてサムライがいたからだとなる

それはそういう歴史的基盤の共通性がありそうした紋章学とか旗が生れたのである。
ただそういう歴史があるのは日本とヨーロッパだけなのである。
だから野馬追いが旗祭りだというときヨーロッパでも同じ祭りがありブリュッセルでの旅の報告では野馬追いと同じ祭りがあった。騎馬行列もそうであり様々な旗があるのも同じだった、つまり野馬追い祭りは日本だけのものではない、ヨーロッパとそっくりなものがあった、旗でも同じような旗があった。幾何学紋様であり識別するものとしての旗である
だからヨーロッパというのは異質な社会だと見ているが野馬追い祭りからみると何か親近感を覚えるのである。同じ歴史があり文化があったとなる
ただキリスト教がかかわるのでそこがわかりにくいとなるが日本でもサムライの前進が僧兵だったということを言うひともあり京都でも比叡山なども寺領が一つの町を形成していた。それはヨーロッパでも同じであり修道院は要塞であり城でもあったし騎士団もいたからこれは僧兵である。
一見日本と中国は漢字を使っているから共通性があると思っている、でも日本の村と中国の村はまるで違ったものだという学者もいる、日本の村は封建制へと発展した村だった。だから封建制があるということで中国にはないからヨーロッパの歴史に日本はにているのである。

「戦う人−耕す人」に二分された(10世紀)。これによって「武装して戦う特権を有しそのために通常は課税されない人々」

これも日本にもある、戦う人とはサムライになった人であり耕す人は農民である。
でも日本では相馬藩でもそうだがその両方をかねそなえた郷士がいた
農民であり侍であった人である。それは城勤めになった侍は専門家して官僚ともなった。兵農分離したのである。刀狩りによってそうなった。

野馬追いでは郷士から出ていて農民と侍だった人たちである。町内とか街内から出る家は極わずかである。農家に古い家が残り鎧や旗が残されていた
それは勝手に作ったものではなく先祖伝来の旗である。

ただこの旗も

関ヶ原の戦いを契機として、太平の世の基盤ができて、武具、武器、旗、幟、馬印などは無用のものとなり、紋章の用途のうえに一大変革が行われた。

つまり相馬野馬追いにはあれだけ多様な旗があるけど戦国時代でも大きな藩とかにまとまると家の旗とかは必要なくなる、相馬藩とか伊達藩とかで戦うから相馬藩なら九曜の紋であり伊達藩なら竹に雀の紋の旗とかなるのである。
野馬追いの旗の種類の多さは鎌倉時代に由来していて多いのである。
戦国時代からはまだ使われたにしろ家の旗はそれほど使われない、その後は儀礼的なものその家の家柄を示す地位を示すものと変わってきた。

野馬追いの旗は公家の紋とは区別される、公家の紋は天皇の紋が菊のように植物が多い、橘などもそうである。鎌倉時代から戦国時代になるとその植物紋が受け継がれたにしろ
多様なものになった。識別を基とするとき幾何学的な抽象的な単純なものが多数生れたのはヨーロッパの旗でも同じものがありにているとなる

いづれにしろヨーロッパの歴史というとなにかむずかしくなじめないということがある。でも野馬追いの旗からみると共通性があり親しみやすくなる。
だからヨーロッパの城や騎士や旗とかを研究すればヨーロッパの歴史に興味がもてる
つまり相馬藩というとき何か世界史と関係ないように見えてあるともなる
歴史に興味をもつというときやはり身近なものから始めないとできないからである





posted by 天華 at 10:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2017年03月17日

升形、井戸の紋の旗印のルーツを探る 近江の彦根城の井伊家ー直虎につながる


升形、井戸の紋の旗印のルーツを探る


近江の彦根城の井伊家ー直虎につながる

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鐘の旗印

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●井伊家のルーツ

井伊家の家紋は二種類あり、定紋(じょうもん)が橘紋(たちばなもん)で替紋(かえもん)が井桁紋(いげたもん)です。

定紋は正式の紋で公式の場で使用します。表紋(おもてもん)とも呼ばれます。

替紋は非公式の場で使用する紋で裏紋(うらもん)とも呼ばれます。旗印などに使われますが、用途については特に決まりはないため、それぞれの大名家のルールで使い分けされていました。

井伊家の家紋はなぜ「橘」と「井桁」なのでしょうか?それは井伊家の祖先共保(ともやす)が井戸から生まれたという伝説に由来します。

共保は井伊谷に移り井伊氏を名乗ります。この共保が井伊氏の祖先だと説明しています。

共保が出生した井戸の脇に橘が茂っていたので、井伊家の定紋は「橘」になり、井戸から生まれたという言い伝えから替紋は「井桁」となりました。


遠江国引佐郡渭伊郷井伊谷
主な根拠地遠江国井伊谷
近江国彦根
滋賀県彦根市 など
著名な人物井伊直政
井伊直弼
井伊直愛
井伊直孝
井伊直虎

井伊家の家系のルーツをさかのぼると、初代当主である井伊共保(いい ともやす)に行き着きます。この井伊共保は元々は捨て子だと言われているのですが、遠江の国司を務めていた三国共資という人物の養子になり、その家督を継いだとされています。

その後、井伊共保は自分が捨てられていた場所である井伊谷(いいのや)に城を構えて井伊氏を名乗ります。ここに井伊家のルールはあると言えそうですね。


南北朝時代になると、遠江の豪族として名を馳せていた井伊家は南朝に味方し、その後南朝の衰退と共に北朝方の今川氏の家臣となります。しかし、主君にあたる今川家との関係は決して良いものとは言えなかったようで、何度も争いの危機を迎えたと言われています。
今川家との争いを防ぎたいと考えた、井伊直虎の曽祖父にあたる井伊直平は娘を今川義元に妾として差し出し、何とか危機を回避したこともありました。


NHK大河ドラマの井伊直虎が近江の彦根城の井伊家の先祖だったとなる、この紋は長久手の戦いでも関が原の戦いでも一番目立っているのである。
それだけ活躍して徳川の四天王になった。三河勢が三人なのに井伊家は別だった

●関が原では三成の旗印と井伊家の旗印が一番目立って描かれている

関が原の戦いではやはりその升形の旗が一番目立っているのである。
では南相馬市の原町区にある蔵のある家はこの井伊家とかかわりあるのかとなるとその由来はわからない、その家臣だったのかもわからない。
野馬追いの旗は鎌倉時代からの由来のもので戦国時代のものは少ないだろう。
戦国時代にはそんなに多様な旗がないのである。
例えば相馬藩と伊達藩が戦ったとしても相馬藩だったら九曜の紋の旗になり伊達藩だったら竹に雀の旗印になる、鎌倉時代は家を代表するものとして紋があり旗印があった。
だから野馬追いの旗は鎌倉時代に由来していて戦国時代にはその旗印が使われていたのかという疑問がある。
戦争のときにそんなに多様な旗印を使ったのかとなる疑問である。
ただ旗印が家宝として残っていたのでそれを野馬追い祭りで使ったのかとなる
戦国時代でも旗印はそんなに使われていないのである。

井伊家の旗印は目立っている、石田三成の旗も目立っている、石田三成の旗は野馬追いにも江戸時代には出ていた、石田三成は相馬にも来ていてた

1599年(慶長4)には、京を出発する時三成から三胤に征矢に漢詩(七言絶句)を添えて贈られました。このように三成には恩義があったので、関ヶ原の戦に参陣せず、その為三成に内通していた疑いで相馬氏は領土没収となります

井伊家は三成の興亡は関が原合戦図の旗印を見ると一目瞭然である。一番どちらにしても目立っているからだ。
三胤は三成の字をもらって名付けた。


●野馬追いの旗の謎

野馬追いの旗は鎌倉時代に由来していて一族、家の旗印であった。でもそれが戦国時代になると家といっても相馬氏でも範囲が広くなるから一家の紋とか旗印で戦争するということはあったのかとなる
相馬藩の九曜の紋の旗印は使われるが一家の紋とか旗印は使われたのか?
そんなに多様な旗印が必要だったのかとなる、武田家だったら三菱の武田家の紋であり伊達家だったら竹に雀とかに統一される
するとそして統一される前の一家の御家人の旗が野馬追いの旗でありだから種類が多いとなる。
残された合戦の図にはこんなに多様な旗印は使われないないからだ。
鎌倉時代から戦国時代になると大きなまとまりが勢力ができて戦うようになったとき一家とか一族の旗は不必要になってきた。
ただ井伊家のように有力な家の旗印は戦国時代でも関が原の戦いでも使用された。
相馬藩でも大きな戦いになったら相馬藩の旗印、相馬氏の旗印の九曜の紋になる
それは関が原でも他でも見られる、でも他の多様な紋は合戦図には残されていないのである。

ただこの辺は研究の余地があり自分にはそれだけの研究ができない、インターネット上で調べた限りではそうでありなぜか野馬追いが旗祭りだというときその由来を研究している者がいないのである。
それは旗印がその由来も複雑でありわかりにくいからである。
鎌倉時代にさかのぼるとなるとその系統も不明になってくるからだ。
その中でも升形の旗印は井伊家が徳川幕府の四天王になったので目立ったのである。
その他の旗印は由来が不明になったと推察できるが自分には解明できないのである。


野馬追いの旗印の由来 (井形と升形の紋ー原町区の古い農家をたずねて探る)
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2016年09月04日

物が残っても物語(hi-story)がないと物も活きてこない (原町の馬頭観音の碑の物語でわかったこと)



物が残っても物語(hi-story)がないと物も活きてこ


(原町の馬頭観音の碑の物語でわかったこと)

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この農家の庭の畑になぜ馬頭観音の碑があるのか不思議だ。普通は道に面して建てられるのだがこれは畑に一つだけ立てられた。やはりここが古い昔の道で馬を使っていたから供養に置いたのだろうか?これはこの農家で建てた馬頭観世音の碑なのか?ここは原町の街のすぐ近くである。やはり昔の道であるからここに建てられたのか変わった処にあったので注目した

この疑問はやはり正しかった。道に沿って普通は馬頭観音があるのが多い。
ここは畑にあったからこの家の人が何かあって建てた
実際にその家の人にたまたま畑仕事していたので聞いてわかった
火事があって飼っていた馬が焼死したので供養に建てたというのである。
つくづくそうだったのかと思う、普通だったら何の変哲もないし注目もしないだろう
でもそういうものに何か知らない歴史が埋もれている

つまり物は物語でありただそこに物があってもそれは何の意味もないとまでなる
物にはなにかしら物語が残されているのだ。なぜなら人が死んだら人は灰となり煙となり何も残らないからだ。ただ物は残っているしその残されたものからその人をしのぶであるここでは馬が死んだということを偲ぶのである。
その当時は農家では馬を飼う人が多かったし農耕馬でもあった。
この辺では野馬追いに出る馬も今も飼っているからそういうこともあったろう。
この辺は馬と因縁深い土地なのである。
曲屋なども他ではありそこで馬を飼っていたのである。
馬と娘が結婚したとか何かそういう伝説も馬が家族と一緒のようにして暮らしていたからである。

それが今では犬とか猫になり犬猫の墓がどこにでもあるのとにている。
今になるとあまり馬のことなど具体的にイメージできない、競馬している人くらいだろうでもその馬はギャンブルの対象なのだから昔のように人間的情愛で結ばれる馬とは違っている。
馬は機械ではないし生き物だからやはりペットと同じように人間の情愛の対象となる
何かギャンブルの対象だけになっている馬というのは不自然でありかわいそうだともなるただそうはいっても戦争に使われて死んだ馬も無数にあるからいちがいには言えない
スピルバーグ監督の「戦火の馬」はそういう馬をテーマにした映画である。
最後は狂ったように馬が戦場を駆け抜けてゆくシーンが心に残った。
馬も戦争に使われることに抵抗したという映画だった。
馬に関する物語はいくらでもある。ただ馬より人間が中心になり馬を主人公のようにはしないからこの映画は違っていた。
この辺は野馬追いがあり馬と今でも親密な関係を結んでいる
ただ馬が車に変わったのは戦後であり戦争中で盛んに馬が使われていて天皇陛下も馬に乗っていたし南京とか入場するにも馬である。
この時まで馬は普通に使われていたし馬を飼うことが兵隊の仕事だったのである。
だから今でも戦争で死んだ馬を供養する碑はあるが少ない、馬頭観世音は荷馬とか農耕馬として使われたものを供養したものだからである。

ともかく何かそうした一つの碑でも忘れられて何かわからなくなるのは結局そこにまつわる物語がわからないからである。
何かしらそうしして残された碑でも物でも物語があるのだがそれがわからなくなる
自分の母の実家の墓には25歳で死んだ人がいた。結核で死んだのでその話を母から聞かされている、戒名がないことはキリスト教に入ったためだった
何か苦しくて救いを求めたのだろう。この人も生きたかったろうと思う
また若くして死んだとなると戦死した人たちもそうである。それは墓に無念を刻んでいるのである。
別に有名な人ではなくてもそういう物語は無数にあるのだがなかなか物が残っていてもそれを実感しにくいのである。

自分の家でガラスケースにお菓子を入れてバラ売りしていた、母は毎日ご飯粒をつぶして糊にして新聞紙で袋を作り売っていた、暇なく働いていた、それはいい思い出と悪い思い出が重なっている、日曜日も休まず働いていたばかり家族での楽しい思い出がないからである。貧乏な時代だからしょうがないとしても働くことしかない人生も嫌だなとつくづく思った。食事もゆっくり満足に家族でできないのだから嫌だった。
ただそのカルマなのか母の介護で今も自分で食事を用意しなくならなくなり暇なく買い物だとか食事の容易だとか介護が終わったあとにも家事に追われているのが自分なのである
この辺は相馬野馬追いが有名でありするとどうしても馬と人間のかかわりを考える
ただ野馬追いとなると戦闘に使う馬となるがそこにもやはり馬と人間の物語がある
そういう物語が相馬藩では六万石であり少ない、会津だと30万石となると明治維新でも映画になるように物語があり注目されるのである。

でも何かそういう物語とか歴史はどんな家にもあるし二代くらいでもすでにそうした物語があれ歴史がある。そして必ず家々に不幸があり悲劇がある。
それはどこでもまねがれないものである、なぜなら人間は病気になるし死ぬからである。死自体が悲劇だからである。自分の家族も三人死んだけど悲劇だった。
ただ母は不幸な人でも死ぬときは何か楽だった、百歳で老衰のようにさほど苦しまなくて死んだからである。
いつも眠るように死にたいと言っていてそれだけは願いがかなったのである。
それで死顔をインターネットに出したがそれを見ている人が相当数いる、まだ死に顔をデジカメでとったとしてもインターネットに公開しているのはまれである。
とても出せない悲惨な状態のものも多いと思うからである。
ここの家の悲劇は馬が焼死したということでありそれが馬頭観音として供養され残っていたことなのである。

タグ:馬頭観音
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2016年09月03日

野馬追いの旗印の由来 (井形と升形の紋ー原町区の古い農家をたずねて探る)


野馬追いの旗印の由来


(井形と升形の紋ー原町区の古い農家をたずねて探る)


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手作りの椅子と机
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古い道

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馬を供養した馬頭観音
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 井戸の地上に出ている部分、あるいはその木組みを井筒、あるいは井桁と呼んでいる。井戸は水をたたえた大切な場所であり、汚してはいけないところであった。つまり、生活に欠かせないことから、家紋として用いられるようになったと考えられる。また、「井」という字の単純明快なことも武家の紋にふさわしかったのであろう。

野馬追いの旗の由来は家紋にある,井戸から由来する紋だからわかりやすい。昔は井戸は生活の中心としてあったからだ。井上という姓も多いのもそのためである。
南相馬市の原町区で六号線の入り口の道を行くと蔵の紋を見たらこの井桁である。
それで畑があり女性がいたので聞いてみた。


「ここの蔵を見たんですが古い家ですか」
「ええ、私は嫁いできたのですが古い家です」
「蔵の紋を見たんですがあれは何か野馬追いの旗で見たことあります」
「ええ、前は野馬追いにも出たことあるようです」
「そうですか、やはりここは古い家だった、ここに馬頭観音とあるのが気になっていたのですが何か由来がありますか」
「昔馬を飼っていたのですがそれが火事になって馬が死んだそうでそれを供養するために建てたんです」
「それは道にそってあるものではなかったからこの家で供養したものだった」
「古い道はこっちにあるんです」
「ええ、ここが古い道だったんですか」

そこは下高平村の領域であったみたいだ。原町の歴史は江戸時代は陸前浜街道であり雲雀が原は野馬追いのための馬が放牧していた広い原だった。そこから原町の名にもなっている。雲雀が原は今は小さいが昔はその十倍があり野馬土手があり馬が逃げられないようにしていた。だから原町中心部には古い農家はない、この辺は野馬土手の外の領域だったのか?
原町駅から街が発展して次に六号線から街が発展して六号線側に5年前くらいか道の駅ができたのである。原町村というのがありそこからは野馬追いに一騎出ていた。
原町村は小さな村だったのである。そもそも相馬藩の野馬追いには郷士が出るのであり農民であり侍であった。城勤めの侍は少なかったのである。
今でも野馬追いに出るのは相馬市内でも町内とか原町市内から出ないのである。
ここはもともと今の街内とは違う、広い畑や田んぼがある地域だったのである。
原町というとき自転車でしょっちゅう行っているがこの蔵に気づかなかった。
ここが古い農家らしいとは見ていたがやはり古い農家だった、ただ街が発展してい家が増えたから見逃しやすかったのである。何か近くで歴史でも新しいものでもわからないものが未だにあるのだ、この井形の紋は多いから野馬追いの旗にもある。

蔵の中を見たら中のものはかたづけてなにもない、古い椅子と机があった。それは手作りであり昔のものは同じものがない、大量生産でないからそうなっている。
何か一つ一つに個性があり味わいがあるのが昔の物なのである。
今の物はみんな大量生産だから何か人間味というか味わいがない、職人の技も活かされていないのである。機械で版を押したように同じをものを大量に作り出しているだけなのである。昔のものは一つ一つ職人がていねいに時間をかけて作っていたから味わいがある。そこに豊かさがありかえって今になると見直されるのである。
つまり文化とは大量に同じものを作るところにはない、個性がなければ物でも地域でも文化ではないのである。

ともかく郷土史というとき古い家とか古い村を知ることである。どこが古いか新しいのかわからなくなるときがあるからだ。蔵がある家は古い家なことはわかった。
街内でも農家があるところは古いのである。原町というと広いからなかなかわかりにくいのである。石神の農家では紙漉きしていた家に嫁いだ人もいる。
原町の領域は広いから郷土史と知るとなると地理的にわかりにくくなる。
とにかくすでに二代くらいの家でも必ず歴史があり物語がある
それは自分の家のことについても書いたがある。
ここの家の歴史は物語は馬頭観音があって飼っていた馬が火事で死んだということであるするとそこから馬のことをイメージするのである。ここに飼われていた馬が死んだのだなとなる、昔は必ず農耕馬として馬を飼っていた、この辺では野馬追いのためにも飼っていた。馬とは深くかかわる場所なのである。

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もう一つの紋として井形とにていたのが升形の紋である。この紋も野馬追いの旗印に多いこれは升形は益すということで縁起をかついだ紋であり旗印である
ますます増えるとは升のことだったのである。この紋も野馬追いの旗印に多い
だからといってそこからその由来をたどりどういうふうにもたらされたのかはわからない姓を見てもわからない、姓と紋とか旗印は一致しない場合も多いからだ。
ともかくこの升形の紋もシンプルであり旗印に多い、その一つの原型からいろいろに紋は変化している、それは野馬追いの旗印でもそうである。
ただ同一系統の旗として認識しておく必要がある。

蔵の紋井形にあれやこの家に古道も残り庭の石古る

古道というとき都路に古道という地名があるごとく古い道であり歴史の道なのである。
道も原町辺りだと変わってしまったということである。古い道がありそこが栄えたが
街も変わり忘れられてしまうのである。




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2016年07月24日

野馬追いで雲雀が原に会津日新館の車が来ていた (会津武士道とは何であったのか?)


野馬追いで雲雀が原に会津日新館の車が来ていた


(会津武士道とは何であったのか?)

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クリック拡大
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神社旗。天地五行(赤・青・黄・白・黒)の五色

クリック拡大すると鮮明に見えます



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馬上より声荒ららげて侍の誇り蘇る野馬追いなるかも

日新館と車にあるから何かと思って聞いてみた。
これは劇場用というとき撮影用の馬を飼っている会社だった。
日新館というとき八重の桜だとか会津は常に時代劇に選ばれる場所だから撮影用の馬を飼っている。その馬が野馬追いで使われる、野馬追いの馬はみんなが飼っているわけではない、野馬追いの時だけ借りて使うものが多い、特に津波かとか原発事故で馬が不足したから借りる馬が多くなった。もともと競走馬なども借りていたし今も借りている。
野馬追いはやはり馬が主役になる祭りでもある。馬がこれだけ見れるのは壮観である。
あとは競馬場でしか見られないだろう。何かギャンブルしなくても馬券を買わなくても
馬が走る所を見たいと自分は思っている

やはり馬自体に魅力がある。馬は高いから野馬追いの行列だと見上げるようになる
馬にのっていると見下ろすようになるから偉くなったような気分になるのは確かである。
ただ馬と人間の物語が消失したから馬というのが実感としてわからなくなったのである。馬を扱う人は馬についていろいろ言う、それは生き物であり馬を扱うことは馬と通じあうことであり馬を知ることでもあるのだ。馬をてなづけるのには首筋を触るがいいというときみんなそうしていることでもわかる。
それは猫でも同じなのである。猫も飼うと結構飼い主を気づかっているなと思う、何か動作で通じ合わせようとしていることがわかる。動物はみんな同じだと思う。
特に犬,猫,馬は人間にとって通うじあえるものだった。ただ馬に関しては身近にいないからわかりにくいのである。
でも競馬では体の張りがいいから調子がいいとか馬券を買うから競馬やる人は馬のことを知るし知らないと勝てないから馬に詳しいとなる。

日新館の教えとして

■第四等(基本教育につき、家格に関係なく必須)
孝経、四書(大学、論語、孟子、中庸)、小学、五経(詩経、書経、禮記、易経、春秋)、童子訓

■第三等(三百石未満の長男、三百石以上の二、三男の定級)
四書(朱註を併読)、小学(本註を併読)、春秋左氏傳

■第二等(三百石以上五百石未満の長男の定級)
四書(朱註を併読)、小学(本註を併読)、禮記集註、蒙求、十八史略

■第一等(五百石以上の長男の定級)

四書(朱註を併読)、近思録、二程治教録、伊洛三子傳心録、玉山講義附録、詩経集註、書経集註、禮記集註、周易本義、春秋胡氏傳、春秋左氏傳、國語、史記、前漢書、後漢書


日新館で学ぶものがまず長男だった。。長男が跡継ぎとして特別だった。
それは明治以降も家を中心として長男が跡を継ぐので特別だったから継続されている。
年長者は特別配慮されて敬われている身分制社会である。
こういう社会は老人にとっては居心地良い社会だったのである。
白虎隊がなぜ生れたのか?それは日新館の教育の結果だったともなる。
そういう教育を受けていたからそうなった。それよりもやはり教育というよりそういう武家社会が厳然としてあるのだからそこに少年は子供は適合するからそうなった。
そういう社会があって教育もあったのである。
だから今いくら教育がどうしようかと言っても社会と別にあるわけではないのだから教育だけではどうにもならないのである。

年上の人を敬うということは江戸時代はそういうことができた社会である。
年上の人に習うということがそもそも基本的な社会のしつけである
それは年寄りは何かしら教えるものを年下のものにもっていたからである。
だからこそ師弟関係もあった。今社会で年寄りが敬われないかというと教えるものがないからである。
むしろ技術の進歩が早く変化するから年下のものから教えられたりする
そうなると年寄りの権威もなにもなくなる、敬うこともなくなるのである。
現代ほど教育がむずかしい社会はない
学ぶものも江戸時代の百倍もあり何を指針にしていいかもわからない
要するに何を指針にしていいわかわらないからカルト宗教団体とか共産党でも特定のイデオロギー団体に入るとかでしか教育がないのである。

江戸時代と現代の相違は人と人の直接な関係の中で学んできた。狭い生活圏の中でともに暮らし日々の生活で学んでいた。

道の真ん中は偉い人が通るところですから、子どもは道の端を歩きなさい。そして、門の敷居は踏んではいけないし、中央を通ってもいけません。ましてや、藩主や家老がお通りになる門はなおさらのことです。

道の真ん中をも歩けないというと厳しい、窮屈だろう。これが身分制社会だった。
野馬追いで行列の前を横切るなとか二階から見るなと同じである。
江戸時代が何でもいいわけではない、こんなに身分制社会だったら人間も窮屈になるだろう。それを批判する人もいる。上下のようにあまりにも余裕のない四角張った社会だとなる、自分が江戸時代を理想のように言っても実際は江戸時代にもどったらとても耐えられないとなる。
ただ過去は今の社会と比べといいようにイメージする美化されるのである。
今はこんなだけど江戸時代だったらこんなことはなかったろうなとかなる
それはあくまでもイメージの世界であり現実に生きたらそうはならないのである。

二、父母や目上の方へ食事の世話、それからお茶や煙草の準備をしてあげなさい。父母が揃って食事をする時は、両親が箸を取らないうちは子供が先に食事をしてはいけません

子供に給仕のようなことをさせるのは今でもさせているからめずらしくない、食事の世話となるとどういうことなのか?自分の子供のころはみんな家の家業の手伝いをしていた。
農家でもそうであり子供は働かせられていた、重要な労働力になっていた。
今はそれより学業に励めとなる、いい学校に入れとか受験競争になったのが団塊の世代からである。そこには仲間意識もなく上に上がり得するために仲間をおしのけ蹴落としてもいいとかになった。
社会が変われば価値観が全く変わってしまうのである。

ともかく会津藩というとき相馬藩の六万石とは比べようがない、歴史の厚みも広さも違う一つの国である。だから様々なものが残っているから歴史を勉強するには興味が尽きないとなる。そこには一つの世界観を形成できる。
相馬藩には藩校などないしどういう武士道なのかもわからない。ただ野馬追いがあるようにやはり侍なのだから武士道があった。それは日新館の武士道とにていた。
それは全国的武士道があり共通のものがあるからだ。

いづれにしろ現代は上に立つものが常におとしめられ否定される民主主義社会である。
こういう社会は常に不安定な社会になる。
確かに子供のときは窮屈でもやがて年長者になり年寄りになれば敬われるそれは精神的に安定した社会なのである。
老人か今敬われない、居場所がないとかならないからであてる。老人であるだけで敬われていたのである。これだけ大量の老人が社会に存在していて無用のものとされているのは悲劇である。老人は社会的に存在させられていないというときもそうである。
でも現実に老後は長いし社会に生きていかねばならないのである。
タグ:会津日新館
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2016年07月23日

相馬野馬追い (北郷(鹿島区)で総大将お迎え)


相馬野馬追い


(北郷(鹿島区)で総大将お迎え)


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北郷の本陣

槍が立って囲んでいる

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総大将相馬藩の殿様の到着(クリック拡大)

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この杉の木の紋様は只野氏のものである。



野馬追いやかぼちゃの花に郷士かな

野馬追いや土着の郷士藪甘草


海老原氏が福大将でありその家で一時宇多郷(相馬市)が待ち北郷と合流して
総大将をお迎えする、それが毎年決まりきった祭の手順である。
総大将が北郷の本陣に来たとき最高に盛り上がる。

相馬野馬追いは実際に歴史的あったことの忠実な再現なのである。
そして外からみて相馬野馬追いは誰でも参加できるようでできない祭である
野馬追いに出る家は代々決まっているからである。
先祖が相馬の郷士の出であることである。
その家に兜とか旗とか残されているからである。旗印もかってにつくることはできない。
郷士(ごうし)というのにもいろいろあった

薩摩藩では人口の4分の1を占めていたため、これら全てに武士としての扶持を与える事は不可能であった。これらの郷士は、藩に許可されていた大工や内職で生計を立て、中には武士身分のままで上級郷士の小作人になる者もいた。

これは郷士といえば普通は農業しているが職人していた人も郷士がいたのである。
侍というだけで食べていけた人はそんなに多くなかったということがある。
郷士(ごうし)という名前自体がその体を現しているのか、郷土に土着して生きる侍ともなるのか?相馬藩では郷士が多い、それは農業していた農民である。
だから例えば鹿島区の街内から出るのは一騎だけである。
野馬追いは農家からでるから相馬市の城のあった所でもほとんど野馬追いに出る家はないのである。
例えば原町となると街自体が大きいけど原町村となっていて一軒しか野馬追いにでていないのである。外から見るとそこが誤解しやすいだろう。ただ鹿島区に原発事故で移住して家を建てた人がいてその人は小高の農家の人なのだろう
旗が立っていたからわかった。もともと街内からは一騎しかでない、他にも移り住んだ人が小高の人がでているのだろう。
それが変化したことである。

野馬追いは戦国時代の再現だけどここでいかに総大将が中心であり総大将によって全体の指揮があがりもりがある。いかに総大将が藩主が君主が大きな役割を果たしていたか具体的にわかる。
こういう世界は民主主義とか平等の世界になると理解できなくなった。
ただ日本では天皇がいて一番偉いものとして日本の中心にありまさに政(まつりごと)を継続しているのである。天皇が総大将の役割を果たしているのである。

人間社会はなかなかそういう総大将とか上に立つものがいてそれをみんなで盛り上げなければまとまらないのである。
民主主義になればみんな上に立つ者をおとしめることしかない、なにあいつらは偉そうにしているけど俺たちの一票によって選ばれたものにすぎないと思っているからである。
ただ天皇だけはそうではないことが日本の長い歴史でそうなったのである。
天皇が問題にしてもそうして神輿としてもかつぎあげるものがないと民衆だってまとまらなくなるだころう。
ともかく総大将の殿様を中心にして行列がありお迎えすることがまさに祭りなのである。
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2016年07月18日

駅名と野馬追い (歴史を知らないと旅もつまらない)


駅名と野馬追い


(歴史を知らないと旅もつまらない)


相馬藩六万石
城跡古りぬ相馬駅
代々の殿の今につづく
野馬追いの出陣は
侍の血の蘇りて
ここより法螺貝ひびく

鹿島駅は北郷の地
宇多郷と合体して
一石坂(いちごくさか)を上り
雲雀が原に勇み向かふ

機関区の原町駅
物資はここより運ばれぬ
原紡の引き込み線
新たに女性の職場かな
新しき街、無線塔の威容
野馬追いの雲雀が原
五〇〇騎の旗翻る

磐城太田駅に神社あり
相馬氏の先祖祭らる

小高駅城跡のあり
ここは相馬藩の礎の城
古式に野馬掛け
野馬追いの始め



野馬追いの見方は雲雀が原で神旗争奪戦の前から始まっている、相馬の城跡があったところから始まって
いる、一日目が相馬市で出陣の行列がはじまり、二日目は南相馬市の鹿島区で北郷と宇多郷が合体して雲雀が原
に向かう、三日目が神旗争奪戦になる。
駅でも地名でもやはり歴史を知らないと旅をしても通りすぎるだけだとなる
必ずそこには歴史がありその歴史を知らないと浅薄な見方しかできないのである。
各地にある祭りは歴史を凝縮したものとしてあるからだ。
特に野馬追いは歴史そのものなのである、新しい旗は二三作ってもほとんどは先祖伝来の旗になるからだ
その旗にも何か由来があったのだがなかなかわかりにくのが問題である。

駅といっても他から来たらここまで知る人はいない、野馬追いでも外から来たとしてもこういう基礎的
歴史を知らないと祭りの醍醐味がわからない。
相馬市だとそこに城跡があるから城下町だったということは一応わかる
その他はなかなかわかりにくい、電車が好きで旅をしてもここまで駅から歴史をふりかえることはできない
要するに昔の街道を歩いて旅すれば自ずと歴史をたどることになるからわかるが電車だと駅を過ぎてゆく
だけだからわからない
それが現代の旅をつまらないものにしているのである。
新幹線で平泉まで行っても途中がないのだからつまらない、歴史もわからないのである。

こうして駅から歴史を偲ぶのは地元だからであり外から来たらそんなことまるで感じないのである。
そこに電車の旅の問題があった。実際は明治に汽車が電車が通ったとき江戸時代の街道は廃れた。
たいがい駅はそうした江戸時代の街道沿いから離れた所に作られたからである。
町の中心より郊外に作られた、前の原町市はまさにそうだった。
原町機関区であり駅前から発展したのである。街道沿いは廃れたのである。
その時無線塔がそびえ原町紡績があり大正生まれの自分の母も働いていた。
無線塔はその後もずいぶん原町のシンボルとして立っていたのである。

明治以降は城跡のある相馬市から原町へ中心が移ったのである。
人口も一万以上原町が多かったのである。だから小高と原町市と鹿島が合併するとき南相馬市になったけ
ど新相馬市がふさわしかったかもしれない、
地名にはどこでも古町と新町がある、すぐ近くでも古町があるということは狭い区域でも世の中が変わり
栄えた所がさびれて古町になる。
相馬藩内では城跡のある相馬市は古町になった。原町は新町になった。だから新相馬市という名前でも良
かったのかもしれない。
南相馬市は何か方角だけでありものたりないのである。

ただ津波とか原発事故の混乱で相馬藩内はまた見直される、再生の南相馬市を目指しても何か縮小したも
のになる
小高はもう二千人規模でありすでに縮小してしまったからである。何か街の勢いがそがれてしまったので
ある。
相馬市として将来合併するかもしれない、人口が減少してコンパクトシティ化してくる
それはここだけの問題ではない、全国的に少子高齢化で市町村でもさらなる合併が推進される
そうしないとインフラさえ維持できなくなる。
小高のように一万から二千人になったらどうなるのか?街自体維持できないのである。


桑名の駅(中原中他)


この詩は東海道の桑名と現代が結びついているから味わい深いとなる
桑名駅におりたてば東海道の桑名をふりかえることができる
焼き蛤が名物であり旅の味として記憶に残るのである。
駅と歴史はなかなかこういうふうに結びつかない

思い出すのは新地駅である。あそこで帰るとき六分くらい待ち合わせでとまる、新地駅からは海が見える
満月が海から昇り虫が鳴いていた。

五六分ホームにおりたち虫の声

五六分ホームにおりて待つ時間があったことが記憶に残るのである。まず新幹線だったらこんなことがないから旅はつまらないとなる。
今になると新地駅は津波に流されてないからその経験はと貴重だったとなる。
本当に秋までに仙台まで常磐線が開通するのか?でもその時は前の新地駅はないし海辺の町もないのである。
津波除けの高い土手を見るとなってしまう。この変わり方もあまりに大きいものだったのである。
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2016年07月11日

南相馬市の歌 (相馬野馬追い迫る)


南相馬市の歌


(相馬野馬追い迫る)

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太平洋から太陽が昇り飯館村の山の方に沈む
飯館村は月なのである。

月と太陽の旗印の一つの現代的意味になる

飯館村は山中郷であり野馬追いに出ていたからである。

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南相馬市の歌

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昇る朝日に広々と
太平洋の開けたり
勇ましく船はい出けり
松風鳴りて車輪梅咲きぬ


阿武隈の山脈つらね
陽は輝き没りて
月のあわれ傾きぬ
山よりの水は流れて


真野川の奥の深しも
新田川の瀬音や
水清くひびきつつ
田をうるおし実りかな

国見山望みて高く
小高、原町、鹿島
一望に見晴らして
南相馬市に栄あれ

たゆまず日々の勤め
代々継ぎし大地に
岩のごと誠の力
ここに養わむ

花は清楚に山中に
影深き森にしあれ
隠されし家のあり
ここに心静まりぬ

夏の日や雲雀が原に
昔郷士の旗印翻る
馬一心に駆けりつつ
戦国時代の絵巻かな

真夏の空に入道雲や
馳せ参ず各地の郷士
相馬藩の名だたる武者や
一同にここに奮い立つ

祭りにたぎる心意気
神社の神輿若者かつぎ
本陣目指し上るかな
その掛け声のひびきけり

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南相馬市というとき原町の国見山に上ると丁度視界に入る領域なのである。
まさに国見山なのである。浪江とか小高になると視界からはずれる
だから地理的一体感がある領域だとなる
野馬追いにしても相馬藩にしてももともと小高に最初に城があったから
小高を基点として相馬藩があった。
野馬追いで雲雀が原に終結するのは小高神社であり中の郷であり北郷であり相馬の宇多郷である
北郷は小高より北のことであり小高を基点にして北になった。
会津では会津の城があるところが基点であり喜多方(北方)となった
浪江は別な領域としてあったがあとで相馬藩に組み入れられた。
飯館村は鎌倉時代から岩松氏の領域としてあったから相馬藩に組み入れられた。
飯館村が南相馬市と合併しなかったのは地理的要因が大きかった。
歴史的には相馬藩の領域にあった。

南相馬市では新田川と真野川がある、新田川は短い川であり浅瀬である。
青葉城の唄の瀬音ゆかしきの瀬音がする川である。
真野川は長いから深い所があるからあまり瀬音はしないのである。
だから川というのも個性があると思った。
高瀬川は急流であり景勝の地であった。浪江には二つの川が流れていて川の町だった。

山としては高い山がないのでものたりない、でも山に森がありそこが深い影をなしているそういう場所に安らぐ、飯館村はまた別個の高原の村としてある、やはり森につつまれた村である。地域でもさらに地域に分かれ地形的に個性がある。
だから意外と地形的には平凡なのだが変化がある、特に海があるから山国とは違っている請戸でも烏崎でも松川浦でも港があることは漁港があることは山国とは相当に違う
松川浦からは貨物船とかが出ているから貿易にもなる

要するに相馬藩内でもその地形は複雑でありあきない、ましてや福島県内になると福島県は大きいからその地形は本当に多様である。自転車で旅をしてそれを書いた。
日本の地形は複雑であり狭いのだがあきないのである。
ヨーロッパとか中国でもアメリカでもどこまでも平坦な地がつづき大きな川が流れていて単調なのに比べると日本の地形はともかく山あり川あり海ありで複雑なのである。
だから旅してあきないのである。

松風鳴りぬ・・・この松原は消えた、右田の松原は消えた・・・それが残念

posted by 天華 at 09:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2015年11月20日

平景政(鎌倉)までたどれる只野氏の由来 (奈良の三輪山に野馬追いの杉紋は由来している)


平景政(鎌倉)までたどれる只野氏の由来

(奈良の三輪山に野馬追いの杉紋は由来している)

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鎌倉景政(平景政)は、桓武平氏の流れをくむ平安時代後期の武将で、鎌倉地域を領有していたことから鎌倉氏を称しました。新吉田一帯も景政の領地であったといいます。景政は八幡太郎源義家に仕えて、16歳の時に後三年の役(1083〜87年)に従軍しますが、右目を矢で射られました。『港北百話』によると、傷ついた景政は馬で運ばれて帰ってきましたが、吉田村で亡くなります。

片目で思い起こされるのが、製鉄・鍛冶の神、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)です。
産鉄民が祀る鍛冶神は片目、一本足に特徴があります。それは、片方の目で赤く燃える炉内を見続けることでその視力を失い、長い時間鞴(ふいご)を踏むことから足が萎えるなどの欠陥を引き起こすからでした。

ここまで見て、景政の最終居住地が由井の里とされる理由も明らかになります。由井の民は産鉄・鍛冶の特殊技能民だったところから片目の景政と結び付いて、景政が由井の里に居を構えたと言う伝承が形成されたのです。由井の里、坂ノ下、甘縄と地域がばらばらなのは無理に話をこじつけたからそうなったのでしょう。


義家公の御家来である鎌倉権五郎景政の伝説も多く、役の後にこの地を治め善政をしいたと伝えられ、逢瀬町多田野の鎮守「多田野本神社」では、権五郎景政を御霊として祀り、「御霊櫃峠」の名の由来にもなっています。


桓武平氏三浦氏族という油井(由比氏)。

河国庵原郡由比から発祥した藤原南家為憲流或いは大宅氏族、桓武平氏三浦氏族という油井(由比氏)

仙台藩士は恐らく岩代国安達郡油井村発祥。


杉紋を用いる代表家は、大和の大神神社関係の家である。中心はその祖神から出た大神氏である。一名大三輪とも書き、オオカミ・オオガとも呼称する。この後裔に、豊後の緒形氏がある。緒形氏の後裔に幕末の緒方洪庵が出ている。この緒方家も杉紋を用いている。
 穂積氏流の鈴木氏、清和源氏流の新見・上林・小島の諸氏、藤原氏流の本多・有馬・岩瀬・杉浦・戸川の諸氏が杉紋を用いた。さらに酒に関係した家でもこれを用いている。 


 古事記では玉依姫は神武天皇のお母さんと言う事になっています。
このような伝承もあって万葉集にも「旨酒を三輪の神主が斎ふ杉、手ふれし罪か君に逢い難き」と歌われています。
毎年十一月十四日醸造安全祈願祭りが開催されています(酒祭り)。
杉の葉で作られたしるしの杉玉を作り酒屋さんは貰い受けて新酒の醸造に入るという古い慣わしです。
大神神社は古神道の様式を最も良く残している神社といえます。

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柳田国男の目一つ五郎という中に景政のことがでている。この武将は鎌倉では有名であるそれは源氏来る前から力をもっていた武将である。
鎌倉の武将が関東から東北に移住して先祖になったのが多い。南相馬市の鹿島区の屋形の岩松氏もそうである。それは東北全般でそうである。鎌倉幕府によって平泉の藤原氏が滅ぼされたときから関東武士が東北に進出して先祖になったのが多いのである。
だから東北で先祖がはっきりしているのは鎌倉時代からでありその前となると明確に残っているのはまれであり伝説になる。南相馬市でも岩松氏が一番古く原町の新田とか飯館村の方まで支配地があった、それだけ広い領域を最初に鎌倉から来た岩松氏が支配していたのである。

それは他でも同じであり景政伝説があるのは御霊神社があるのはそのためである。
上杉謙信まで景政の御霊を祀っていたのである。広範囲に景政の伝説が広がりその御霊が祀られていた。

謙信の母は古志長尾家の出自で、姉は上田長尾家の政景の妻であった

景政の御霊が祀られたのはこういう経過があった。

そして奥州二本松領の多田野村において、御霊を祀ったのも長尾氏だった。
只野油井などの苗字に分かれて今も栄えている

ここに只野油井がでてくる。油井という地名は鎌倉にあり油井を姓にする人もでてくる。不思議なのは岩代国安達郡油井村がある、これはどういう経過で名前となったのか?
只野油井という姓は多田野村からでている、名前はなぜ油井なのか?それは鎌倉の地からでていることは間違いない、前に飯館村の大倉が岩松氏と関係して名付けられたと書いた鎌倉に大倉郷とかあり同じような名付け方をするということはありうる、鎌倉山などもそうだろう。つまり全国になぜ同じような同類の地名が多いのかというと人間の移動ととも地名もあり、アイヌ地名などと違い伝播性が強いのである。
地名にすくときどうしても自分が住んでいた土地の名とにたよう名づけかたをするし油井は姓が移動して地名化したともなる


南北朝の大乱の時に鎌倉に由来する武士の末裔も南朝と北朝に分かれ争った。そして只野油井とは何か二つの氏族が合体したものかもしれない。そういうことは古代からあった。昔の姓名は今とは違って個人のものではなく一族を現していたからである。
ともかく相馬氏一族でも鎌倉時代までたどれる武士の末裔はまれだろう。
南相馬市では岩松氏のことは一族皆殺しにされたことで伝説化して伝えられてきたのである。その子孫もはっきりしているし殺した子孫も現実に生きているということである。
だから意外と500年たってもこのことは生々しいのである。あいつが主君を殺した末裔かとまで今もなっている、そしてそのために姓を変えたということもわかっているからそれも無駄だったのである。
一方で400年前の慶長津波のことは一行700人溺死としか記されていないのである。
こっちの方が重大であっても記されていない謎なのである。
確かに岩松氏は悲劇だったけど700人津波で死んだ方が大惨事だったはずなのに記されていないのである。


野馬追いの旗というとその由来をたどれば戦国時代だけではない、南北朝時代から鎌倉時代からその前からも由来しているのがある、それは関西の方にその由来をたどることができる、第一杉紋は奈良の三輪山に由来していた。三輪神社の氏子から広がった門なのである。そうなると奈良時代からはじまり関西に広まり関東に広がり鎌倉時代に伝わったとなる。
そして万葉集とも関係したというからそれはまるで日本の歴史だったとなる。
只野氏からたどれるのはまさに日本の歴史である。杉紋の旗印からたどる歴史は日本の歴史だとなる。
東北では南相馬市の鹿島区の真野の草原の万葉の歌は有名である。でもこれは奈良から歌われたものであり具体的に一族の歴史としてたどることはできない
只野氏の場合は連綿とつながる氏族の歴史からたどれるから違っている

「旨酒を三輪の神主が斎ふ杉、手ふれし罪か君に逢い難き」

酒と関係したことは酒作りも鎌倉から伝えられたのだろう。原町の泉長者も酒で財を成した伝説が残っている。酒というのは江戸時代からそのあとも日本で大きな産業であり酒作りの家が長者になっているのはいくらでもあるし街の中心が酒屋だった、それは双葉の前の長塚の富沢酒店でもそうだったのである。自分の家も実はその近くの酒屋の暖簾分け支店だったのである。
万葉集までたどれる歴史がすぐ近くの只野氏からたどれる、だいたい東北ではそうした古い歴史をたどるのがなかなかできない、関西辺りだとそういうものが普通にある。
東北ではたどりにくいのである。自分の家は葛尾村の柏原から出たことはわかったがそれ以上はたどれない、鎌倉時代までその前までたどれるのはこの辺では非常に少ないだろ。う、それでも野馬追いの旗というのは鎌倉時代からその前からも由来したものがあり
それがほとんどわからない、どうししてその家でその旗印になっているのかわからないのである。
そもそも野馬追いが旗祭りだというときその由来を知らないと歴史がわからない、その解明ができない、今回はたまたま同級生が口伝として伝えたもので興味をもち杉紋というのが奈良の三輪山に由来していることがわかり一つの日本の歴史をここに実感したのである。



タグ:景政
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2015年11月19日

南相馬市鹿島区に多い只野(但野)氏の謎 (お浜下りの祭りのおつづら馬の話ー野馬追いの旗印は杉紋)


南相馬市鹿島区に多い只野(但野)氏の謎

(お浜下りの祭りのおつづら馬の話ー野馬追いの旗印は杉紋)

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 南相馬市鹿島区日吉神社(ひよしじんじゃ)のお浜下り(はまおり)は、12年に1度の申年(さるどし)の4月に行われます。神輿(みこし)の行列に、宝財踊り(ほうさいおどり)、手踊り(ておどり)、神楽(かぐら)などの組々が奉納(ほうのう)します


只野が関連姓でありルーツ。現山形県の広域である羽前、現福島県西半部である岩代国安積郡(多田野村)只野村が起源(ルーツ)である、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)鎌倉氏流。仙台藩の士族は清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)和賀氏流。近年、福島県相馬郡鹿島町に多数みられる。

只の(普通の)野原という意味。

岩代国(陸奥国)安積郡只野村をルーツとする。

宮城県の只野家:仙台藩の重臣。もとは毒沢氏を称して和賀氏に従っていたが、江戸時代の初めに伊達氏に仕え、仙台藩士となる。



同級生の只野(但野)氏についての由来を聞いて不思議だった。
同じ鹿島町の街内に住んでいてその家の由来を語った。有名な真野のお浜下りに「つづら馬」というのがある。つづら馬とは馬につづらをのせて荷物を運んだ。
霊山城で南朝が滅んだとき落ち延びたことを由来にした祭りなことは知られている。
それは真野の中館に落ち延びたのは桑折氏であり桑折氏が田中城の城主でありのちに伊達氏などがかかわり攻防があって相馬氏が支配することになった。
鹿島町は鹿島神社から起きていることは古代の歴史でもわかっている。
古代から鹿島神社はあった。でも中世とかなると鹿島神社がある場所が中心ではない
田中城とか真野の江垂(えたり)の中館が中心である。
その前に鎌倉から来た屋形に館をかまえた岩松氏が飯館から原町の新田とか広く支配したのである。それで鹿島町内に御前内とかその奥方が住んだ場所が伝えられるのはそのためである。


只野(但野氏)はではいつ頃からこの地に来たのか?その姓の由来は郡山の古代の安積郷の多田野村なことは確かである。
その多田野に由来して只野(但野)になったのだがそれがどうしてここに移住したのか?
鎌倉時代に由来をもつというけど史書に残されたのは霊山城が滅びたとき落ち延びた一団の中に只野氏がいた。
でも史書に残されているのは桑折氏が中心なのである。只野氏が中心ではない。
それでも盛んにつづら馬のことをいい自分の家ではそれを代々になっていてお浜下りの祭りの中心だったようなことを言っていた。
それは大学で調べに来た人もそのことを記したという。
只野氏がつづら馬を祭りで担当していることは確かである、でも史書では桑折氏が中心である。只野氏は史書にもでてこない。
ただ最初に霊山城が滅びて移住した場所が真野の中館ではなく平地の今の鹿島町内辺りだったのだろうか?
すでにここは鎌倉からきた岩松氏の妻とかが住んでいて御前内という地名が残っているからだ。
それから田中城は町内から離れたところにありそこは湿地帯であり自然の堀になっていて防御するにいい場所だった。湿地帯を利用して城を築いていたのである。
そこまでは今回の津波でも津波は来なかったのである。その近くまで津波が来たことには驚いた。
つまり田中城を築いたのは岩松氏のあとにその離れた湿地帯を利用して防御にいいから作った。


只野氏がお浜下りでつづら馬で中心的役割を果たしたとはいえないだろう。
史書にも残されていないとなるとそうなる、つづら馬という役割をになわされたのは荷物を積んで逃れた役割を果たしたからだろう。
ただ只野氏はなぜ鹿島区にこれほど多いのか他に福島県ではまれでありこの地域だけに多い、近くにも只野の姓の人が住んでいるし本当に鹿島区に多いのである。
只野氏がこんなに多いのはなぜかとなるとそれも謎だが子孫が繁栄したとなる
とにかく南北朝の動乱は全国的にありその時勝者と敗者にも分かれ落ち延びた武者がどこにでもいてその人たちが土着していった歴史がある。
郡山の安積の多田野村から南朝勢に加わり霊山城が滅びて只野氏の一団もおちのびて鹿島に来た。桑折氏が中心だが今の鹿島の街内は只野氏が住んだ。その後子孫が繁栄したとなるのか?
これはまだまだ謎であり何か只野氏の一団は入とか何か一つの文字を共有して結束していた。分かれるときその文字を記して分かれたとういう、その字は良くわからないがそういう話が伝えられていること自体、まさに口碑であり口伝だということで歴史の再発見がある。
実際人間はつくづく灯台下暮らしであり自分の住んでいる一番身近な歴史とかでも人についてもわからないという不思議があるのである。
日本の歴史とか世界の歴史とかに詳しくてその郷土の足元の歴史を知らない人が実に多いのである。その一人が自分でもあった。
屋形にある慶長津波の前の田中城主だった相馬氏の墓を知っている人はまれである。
案内板に書いてあるけど地元の人すら知らないしまた鹿島街内にそれもすぐ近くの神社に天明の碑がありまた自分の街内の墓地に安永や天保の碑があることも注目されていないのである。つまり自分の住んでいる街についての歴史を知らないということである。


三輪山をご神体とする大和の三輪神社の杉は、『日本書記』や『万葉集』に神杉として記されており、 「わがいほは 三輪の山もと 恋しくば とぶらい来ませ 杉たてる門」という歌が『古今集』にのっている。三輪神社は大神(オオミワ)神社ともいい酒の神様として親しまれ、「三本杉」が神紋である。神酒(ミワ)神社から求めた杉葉で作った鞠状の飾り(杉玉・酒林)が、むかしから酒屋の看板となっている。

只野氏の野馬追いの旗印は杉紋である。これの由来は三輪山に由来している、なぜこの三輪山に由来したものを野馬追いの旗印にしているのか?
ただ郡山の多田野村から南北朝の騒乱の時に移住したというときその紋が只野氏の紋となっていた。でもこの紋にするにはそれなたの由来があるはずである。
でも野馬追いの旗印は3000とかあるのにわからないのが多いのである。
只野氏のこの杉の紋は小池、岡和田、横手に多い、この辺に只野氏一族が勢力を広めた。
でもそもそも只野氏がなぜ南北朝に由来するお浜下りの祭りのつづら馬をになうようになったのか?
只野氏はほとんど史書には記されていない、それはなぜなのだろう
ただお浜下りの祭りのつづら馬をになっているとなると重要な一族だったはずである。
はっきりしているのは杉紋を野馬追いの旗印に採用していたことなのである。
これは明確な由来があって採用していた。
三輪山の神社と関係している何かがあったとなる
相馬野馬追いというと相馬氏の祭りでもそこに南北朝の騒乱の中で落ち延びた武士がいてそのあとにその家由来のものもを旗印とした。
だから相馬氏でもいろいろな一族がまじりあっている。山王とかの旗印も南北朝由来のものである。
野馬追いの旗印を由来を知るには南北朝からもその前の鎌倉時代からもつづいているからわかりにくいのである。



タグ:杉紋
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2015年07月26日

野馬追いー神旗争奪戦の雲雀が原へ(写真)


野馬追いー神旗争奪戦の雲雀が原へ(写真)


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北郷から雲雀が原へ鹿島の一石坂を上る

旗印同じや越える一石坂旗をとらむと雲雀が原へ
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小高郷の陣営が出番を待つ

黄色の畠は小高神社の旗

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これは江戸時代から伝わったものか古い感じ


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馬もばてたのか?鼻血を出して倒れる、あとで起き上がった

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葵の紋


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雲雀が原へ行列

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鉄砲隊

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かもめの旗が面白い


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総大将

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北郷ー副大将

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中村神社

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武田の紋

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雲雀が原で神旗争奪戦

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北郷から出た葵の紋に注目ー神旗をとる

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野馬追いの行列は順序まで決められている

名前と役柄を記されたものがあり出場した人の名前が全部出ていた。

旗にも役割があり伝統的に決められたものである。

今日は暑く雲雀が原には入場しないで他から写真をとった

写真はとる場所によって相当に影響する

遠くをとれるカメラだったので本陣山に旗をとって上る馬をとれた

菊の紋は北郷(鹿島区)の人でその人は鹿島から馬で来た

今はみんな車ののせてくる。

野馬追いもなんでも機械に頼ると昔が再現されないのである。

馬でもせめて原町とか鹿島とか小高くらいは馬で来たら

当時の状態をしのべる

ともかく500頭集まれば壮観なものになる

江戸時代はまさに戦闘訓練だからこんなものではない

雲雀が原の十倍の原で戦闘訓練をしていた

馬が500頭であれ千頭であれ集まると迫力あるなとなる

戦国絵巻を映画などで見るが何か狭い画面で見るから迫力が伝わらないのである。

もし一万とかの馬を見たら凄い迫力になる

そういう戦争となると今では想像できない

戦争は馬が主役でもあり馬がどれだけいるかが戦争で有利かが決まる

だから武田の騎馬軍団が力をもったのである。

その馬に頼らず信長が鉄砲で時代を変えたのである。

馬というのが競馬とかでしか見ないから馬がどういうものかわからなくなったのである。




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野馬追いの一考察ーなぜ赤い母衣の大将が目立つのか? (鉄砲を捨てた日本人から戦国時代ふりかえる)


野馬追いの一考察ーなぜ赤い母衣の大将が目立つのか?

(鉄砲を捨てた日本人から戦国時代ふりかえる)

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ノエル ペリンは、江戸時代の日本が鉄砲を放棄したことを、「世界史におそらく類例を見ない」と注目している。
「高い技術を持った文明国が、自発的に高度な武器を捨てて、古臭い武器に逆戻りする道を選んだ。
そして、その国日本は、この逆戻りの道を選びとって成功した。」
江戸時代の日本は、鉄砲を製造できる高い技術を持ちながら、あえて、鉄砲を捨てた。
製造できなかったのではなく、製造しなかったのである。
(鉄砲を捨てた日本人)


NHKで信長の長篠の戦いを実験して説明していた。
鉄砲が戦争を根本的に変えただけではなく、社会まで変えた
鉄砲は質より量であり一人一人が名のり争う古典的な戦ではない。
鉄砲だと誰が撃って殺したかわからないという
それは大将が名乗りでて一騎討ちとかの争いとも違う。
鉄砲とは現代にも通じる近代戦と同じだったのである。
鉄砲は足軽隊がになうものであり家柄とも関係ないものだった。
それまで一人の大将とか名だたる武将とかが戦国時代の主役だった
ところが鉄砲が作られたときそうした古典的な武士の世界は喪失した
それが現代の戦争と同じようなものになった。

人間社会は道具によって変わるということは常に言われてきた。
戦争というのも道具によって武器によって全く変質したものになった。
信長は鉄砲に目をつけ足軽に鉄砲隊を編成して城下に住まわせた
名だたる家来とか大将とかではない、無名でも量を重んじた専門の足軽の鉄砲隊を編成したのである。
信長は旧来の殿様というより社長だったというときまさに商業も重んじたからそうだったそして日本の鉄砲はすでに分業で部品化した世界でも最先端のもので朝鮮に秀吉が攻めた時も明では日本の鉄砲は優れているから戦わない方がいいといっていたのである。
日本人の特質は外来のものでもすぐに取り入れて自家薬籠中の物にするのが得意である。それは戦国時代に信長の時からそうだったのである。

ではなぜその後鉄砲を捨てたのか?これも謎だけどあえて優れた鉄砲を捨てて鎖国して平和な社会、徳川幕府の支配体制で300年もの戦争のない社会を作った。
こういうことは世界史でもないから軍縮を果たした歴史として評価される
ただ日本がそれができたのは大陸のように他国から攻めにくい海に囲まれていたという理由もある。国内だったら鉄砲を捨てて鎖国して平和が保てたのである。
大陸になると国と国、民族と民族の戦いは陸続きだからさけられないし熾烈になる。
民族みな殺しというのも大陸だから起きてくることなのである。
それは日本の特殊な地政として必然的になったともいえる。
このことはあとで考察することにして今回は野馬追いのことである。


野馬追いでは古典的な武士の戦の再現なのである。
鉄砲隊があったとしても主役はそれぞれが旗印をもち大将とか副大将とかの役があり
人間中心の騎馬軍団なのである。それは武田の騎馬軍団であり信長の鉄砲隊が中心の
近代戦に通じるものではない、
そもそもあれほど馬や鎧兜で着飾るというのが正にそうである。
不思議なのはそうした装飾によって相手を畏怖させるということもあるが何か現代のファションショーのようにも見える
どうだ俺の出で立ちを見ろ、格好いいだろうとか強そうに見えるだろう。
そういう装飾性を競っていることも不思議である。
むしろ殺し合いとなると信長の鉄砲隊のようになるのが合理的なのである。
殺し合いにそんな出で立ちを飾る必要がないのである。
ただ一番目立つ母衣(ほろ)にしてもそれは矢を受けるとかのものであっても大将が常に中心にいるということ、大将の存在感が大きいことがわかる

今回北郷の副大将の館に宇多郷(中村)と北郷(鹿島)の郷士が集まったが副大将の母衣は紫である。紫だと目立たない、どうして真っ赤な総大将の母衣が一番目立ち中心になる。
だから北郷の本陣に総大将をむかえたときは一番盛り上がるのである。
ただこれほど総大将の存在感があるのはやはり古典的な戦としての時代を反映している
それほど殿とか総大将とかがいかに古典的な戦いでは重要であり中心的なものになっていたかということである。
それはただ軍隊としてではなく精神的支柱としても殿様が総大将が中心として形成されていて忠義の中心として武士社会は形成されていたのである。

つまり総大将の真っ赤な母衣が一番目立って主役であり副大将の紫の母衣は目立たない
こういうところに何か戦国時代とか武士社会の在りし日の姿をみる
それは明治維新以降大将とか何かそうした中心的存在感となるものが消失したから殿様とか総大将とかの重みを感じなくなったのである。
それは鉄砲が戦いの主役の時に近代戦と同じようになり殿様とか総大将とかの重みが失われたのと通じている。
現代はもう機械の戦争のようにさえ見える、そこに母衣(ほろ)や鎧兜で身を飾り名を重んじるとか武士道的なものは喪失した。
野馬追いの行列とは身を挺して真っ赤な母衣(ほろ)の殿様、総大将を守る行列なのであるともかく戦国時代が殿様の総大将の首がとられれば負けであり戦争は終わる
だから殿様を守ることが一番大事になるという世界だった。
こういう世界は中心がはっきりしているから外見的にもその結束とかはっきり見えるのである。
現代になると何でも戦争でもどうなっているのかわからなくなったのである。


不思議なのは日本は鉄砲を捨てたというとき江戸時代は鉄砲など強力な武器があるとまた不穏になり平和が乱されるので鉄砲を捨てた。
鉄砲より武士社会の秩序を重んじることを選んだのである。
鉄砲があって足軽でも大将でも変わりないとなると武士の威厳も何もなくなってしまうからである。
そうしたら武士の地位も威厳も何もなくなり足軽や平民とは同じだとなってしまうから
秩序が保てなくなるから鉄砲をもたせなかった。
それで入鉄砲が一番関所で警戒されたことでもわかる。
武士が精神的存在として威厳とか地位を保つには鉄砲があってはできなかったというのも歴史の教訓が日本にあったとなる。
武器は技術はそもそも社会を根本的に変えてしまうのである。
刀には精神性があり重んじられたが鉄砲にはないから捨てたというのも不思議である。
刀は単に人を切るものではない、刀が侍の魂だというとき精神的なものとしてあった。


それは実際に明治維新以降日本がどれだけ変わってしまったかを見れば誰でも実感していることなのである。
現代では戦争は常に否定されるけど戦国時代も過酷でも何か人間的なものがあるから救われているともなる。
殺し合いでもそこに人間的なものがあったから救われる
現代の戦争はそういうものがなくただ人間の大量虐殺となっているだけだから忌避されるのである。
鉄砲から日本の歴史をみるのもまた一つの視点である。
だからこの本は読む価値があるのですぐにアマゾンで注文した。
こういうふうに本がすぐに手に入るので今は知識が広まる
だからまた本を相当買っている、でも読むのは触りだけなのである。
そんな時間がないからだいたい今は触りを読むだけで全体もわかる
本というのは膨大に知らない本があったのである。
だから肝心なものを読んでいないのが多いのである。


タグ:母衣(ほろ)
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2015年07月25日

北郷の本陣に相馬藩の殿を迎える(野馬追い写真)


 
北郷の本陣に相馬藩の殿を迎える(野馬追い写真)


北郷の本陣に殿を迎えける法螺貝ひびきて威を正すかも

大将の赤き母衣(ほろ)の一段と映えて青田を進みけるかも

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先陣の馬が走る

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大将の赤き母衣(ほろ)の一段と映えて青田を進みけるかも
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北郷本陣へ

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本陣へ総大将が来る

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中村神社(相馬市)

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北郷と宇多郷の行列



北郷の館の海老原さんは副大将であり紫の衣だったが写真はとれなかった

総大将の殿様の赤い衣だけが目立つ

戦国時代はやはり殿が中心となってまとまっていたからか

中心として総大将の赤い衣が一番目だつ、副大将の紫の衣があっても目立たない

本陣に殿を迎えるときも主役は総大将の殿様なのである。

総大将を中心にして家来が取り囲み守る

だから戦国時代は殿様の総大将の首がとられたり戦いは終わるのである。


明日は雲雀が原へ神旗争奪戦へ

500頭は普通は出る


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野馬追い始まる (北郷の武者の集まる館)


 
野馬追い始まる

(北郷の武者の集まる館)

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北郷の郷士集まる館

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五輪塔で同系統で同じ村だろう

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北郷の郷士集まる館かな

鬼百合や列に加わる旗印

振り向きぬ同類の旗誇らかに

草青し旗をなびかせ馬の列

集まれる館や馬のいななきぬ

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野馬追いというのは野馬追いの行列がはじまる前から見ないとわからない、
それぞれの郷があり郷士がそこからでる。
今日は中村の宇多郷と北郷が合流して鹿島区で行列がある。
これはそんなに馬が出ないから迫力はない。

でも野馬追いというのはどこからその馬がでてくるのかその旗印はどこから出てくるのかが大事なのである。
それが地元でもわかりにくいのである。
なぜなら年に一回しかなくどこから馬がくるのか見えないからである。
今回は五輪塔の旗が二騎つづいてきたのでこれは同じ系統の旗であり同じ村のものであるまずこういうふうにとれることがなかなかできないのである。
野馬追いは旗祭りだというときその旗がどこから出るのか大事になる
でもそれがほとんどわからないのである。
行列になったときはすでにその馬がどこから来たかわからないのである。

北郷の郷士の集まる館は海老原さんの家である。そこに宇多郷の人も集まり行列になる。ここの写真の旗印はみんな北郷のものである。
ここに宇多郷の騎馬が集まるとどこの旗印だかわからなくなる。
この旗印を見分けるのが野馬追いではむずかしい。
地元の人でも旗の数が多いからわからないのである。
そして写真でもそれが一瞬のチャンスしかないから写真もとれないのである。
去年までは復興の野馬追いで盛り上がったがまた平年並になるのか?
去年までは草茫々だったが原野に草原になっていたが今は青田もあり半々の景色になっている。

野馬追いはもともと相馬藩の郷士であった人しか原則的には参加できない
誰でも参加できないということで地元でも他は見るだけだから盛り上がらないともなる
参加できる人は確かに侍の出だということで誇らしいとなる
だから野馬追いに金がかかっても出るとなる。
やはり何か侍になったような気分になることは確かだし戦国絵巻の再現である。
その時代だったら何か戦争というのも現代の戦争とは違い人間的だった。
今の戦争は人間が戦争しているのか機械が戦争しているのかわからないからである。
野馬追いの時だけ馬が活きるというのも祭りの特徴である。

なんか野馬追いを外部の人に説明するとなるとまた違ったものとなる。
自分のプログも報道機関の一つだから説明しなければならないと写真をとってきたのである。
地元の報道機関になるとやはり取材があり何かを伝えるという作業である。
それは自分なりにしてきた。
それで相馬のことも他でも理解される一端とはなる。
それはある意味で自分の仕事だともなる


posted by 天華 at 12:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2015年06月02日

野馬追いの旗は抽象画になりやすい (漢字が抽象画だから日本でも古くからあった)


野馬追いの旗は抽象画になりやすい

(漢字が抽象画だから日本でも古くからあった)


 
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この写真を抽象画の旗にするとさほど変わらないし
違和感がないのである


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野馬追いの旗が何を意味しているのか?
具象画なのはわかりやすい、猪であれば勇猛な猪のような武者とかなる
神社とかなればその土地の神社なのだろう。
五輪塔と先祖現しているとか、鎌だったらもともと武士は農民だから農作業していたからだろう。
梯子があれば梯子で城に上り攻めるとか何か意味がある
炎だと炎のように燃える気持を現している
月とか星とか妙見信仰は方角を示す北斗七星である
遊牧民の文化は朝鮮経由で日本に入ってきたからである。
馬というのは遊牧民に欠かせないものであり移動が方角が大事になるから
妙見信仰になった。
抽象画的なものはただ敵と中までも単に区別するために使われた
線が二本なのと三本では違うからである。
一の旗は使いの旗である。
この旗は連絡係なのである。
だから一の旗は一番多い

野馬追いの旗がなぜこれほど多様なのか?
3000もの旗があるのはなぜなのか?
中国辺りでも旗の種類は単純に見える
日本とヨーロッパには城があり旗が多い
ヨーロッパにも旗祭りがある
中国は城ではなく壁で囲んで城壁の内でありヨーロッパとか日本の城はない
こんなにいろんな旗印はない
何かそこにも歴史的な背景がある。

日本の旗には植物的なものも多い、ヨーロッパは強い動物の旗や紋章になる
日本の旗にはライオンとかないのである。
ライオンとか虎は日本にはなじみがない
そもそもいなかったからである。
ヨーロッパにライオンがいなかったとしてもローマ時代にコロッセオで闘技場でライオンと人間を戦わせたり虎と戦わせたりとかライオンを知っていたのである。
そういう伝統の上に紋章がある
紋章文化と日本の紋や旗印の文化はにている。

野馬追いの旗の見方としては抽象画として見るのもいい
自分はこれまでパソコンのソフトでそれをしてきた。
抽象画的なものは漢字がそうであり太陽だったら○にするとかそれが日になったとか
抽象画思考は漢字からすでに生まれているのである
アルハベットからは生まれにくいのである。
つまり漢字は抽象画だから漢字を使う国は抽象画思考に抵抗がないとなる

不思議なのはアルハベットの国では英語でも音の出し方で意味の違いを出しているというこういうことは本当に理解しにくい
文化とはともかく理解しにくいのである。
ただヨーロッパの紋章と日本の紋や旗印の文化はにているとなるとそこから理解するということがある
ヨーロッパに騎士がいて日本に侍がいたということはにているから理解かやすい
中国にも武人はいたとしてもヨーロッパと日本のとは違っていたのである。

posted by 天華 at 20:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

野馬追いの写真はみんな違っている (シャッターチャンスが一回しかないから地元でもうまくとれない)


野馬追いの写真はみんな違っている

(シャッターチャンスが一回しかないから地元でもうまくとれない)


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野馬追いの時は梅雨も晴れ夏の雲がでる


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アレンジした

樹に炎が映える

緑の木に映えた赤い炎の旗

下は妙見神だから星の形になり馬が跳ね飛ぶ

野馬追いの旗は様々なデザインなのである。

幾何学的なものがあり現代に通じる斬新なものもある

野馬追いを楽しむには旗を知る必要があるのだ

その旗が多様だからわかりにくいのである。

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白髪の髪は何を意味しているのか?老人なのか?
馬のたてがみのようなものなのか

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前から見るとこんな風になる

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黄色の旗は小高神社

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赤は中村神社(相馬市)

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これはカモメなのか?

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本陣へ

治に居て乱を忘れず
平和な時でも、世の中が乱れた時の事を忘れてはいけない。という意味。
平穏で順調な時であっても、万が一の時のための用意・心構えを怠ってはいけない。

類義 ⇒ 安に居て厄を思う/治まりて乱るるを忘れず/太平にも乱を忘るべからず/文事ある者は必ず武備あり/安きに危うきを忘れず
出典 ⇒ 易経・

君子安くして危うきを忘れず
存して亡ぶるを忘れず
治まりて乱るるを忘れず
ここを以って身安くして国家保つべきなり

君子安而不忘危
   存而不忘亡
   治而不忘乱
是以身安国家可保也

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帰る馬



野馬追いも近づいてきているけど毎年写真とっているけどなかなかいい写真がとれない
必ず違った場面がありそれが一時で過ぎてゆくからとれこないのである。
今いい場面だなと思ってもすぐに過ぎてしまうからとれないのである。
野馬追いには毎年相当遠くからも写真とりにきている人がいる。
雲雀が原の中に入るには前から予約していないと入れない
地元でも毎年見ていてもいい写真がとりにくい
それは動いているのもとるからである。
そしてチャンスは一年に一回しかないからそうなる
野馬追いの写真は多様なのだけどそれがすぐに過ぎてしまいいつもとりのがしてしまうのである。
この写真もデジカメがないときの写真だった
これはこれで貴重なものだった。
一応記録としてとっておくためにパソコンに入れた
デジカメの便利なのは一日の行動が写真で記録されることである。
写真の日記になるのはデジカメがでたからでありせらにスマホで常に日々の行動などが写真化される時代である。
だから写真から何をよみとるかが問題になる
写真には相当な情報が視覚的に見れる、でもその情報が何なのか
例えば野馬追いだと旗の意味しているのもが何かという情報を解く必要がある
でも野馬追いの旗のことは地元でも他でも説明されないしできない
それほど多様になっているのである。
白髪のうよな兜をしているのか、やはり老人イメージしているのか?
茶色の髪を伸ばしたようなものもあり一つの装飾である。

雲雀が原では野馬追いの前の誰もいないところに立ってみたら松だけが目立った
ここにこんな松あったのということが発見だった
松は何か身近であり人間的だし何か忠臣という感じになる
ただ人が混んでいる時はあの松に注目しない
誰もいないから松が注目されたのである。

本陣に旗とる武者の勇み来る雲雀が原や松そ立ちにき
タグ:野馬追い
posted by 天華 at 14:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2014年11月19日

野馬追いの旗とシエナのコントラーダ(騎士祭り)の共通性 (ヨーロッパの中世と日本は城が多いことでにている)


野馬追いの旗とシエナのコントラーダ(騎士祭り)の共通性


(ヨーロッパの中世と日本は城が多いことでにている)

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この山は苗字をとったものである

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こういう波頭の旗印も野馬追いにあった

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これは明らかに水運か海運と関係していた
船としては小さい


Aquila ワシ
Bruco 毛虫(カイコ)
Chiocciola かたつむり
Civetta ふくろう
Drago 竜
Graffa キリン
Istrice はりねずみ
Leocorno ユニコーン
Lupa オオカミ
Montone ひつじ
Nicchio 貝
Oca がちょう
Onda 波(マスコットはイルカ)
Pantera 豹
Selva 森(マスコットはサイ)
Tartuca 亀
Torre 塔(マスコットはゾウ)

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自作の海の紋章


たとえば、「カイコ」さんチームは、昔、絹の生産者の集まりだったとか、

13世紀ごろ、シエナの勢力範囲は、海側のグロッセートから、
山側のアレッツオまでと、トスカーナの広域にわたっており、
中世自由都市として繁栄し、コントラーダも42あったそうです。
それが、14世紀のペストの流行で人口が大幅に減少し、
シエナの勢力も領地も縮小し、コントラーダも23になってしまいました。
そして、16世紀中ごろには、自由都市の終焉を向かえ、
フィレンツェの支配下に入ります。
時代の流れとともに、しだいに有力なコントラーダが、弱いコントラーダを
吸収合併して、18世紀に、現在の17コントラーダになったそうです。
「波」のコントラーダは昔、海に面した領地のなごりだそう。

コントラーダは「家」に所属するのではなく、「どこで生まれたか」に
よって決まるそうです。
http://gogosiena.exblog.jp/11524726/


封建制があったのはヨーロッパと日本だけである。他にはないから歴史的に共通している小さな城がヨーロッパには多い。それが日本とにている。騎士がいて武士がいるのもにている。だからヨーロッパの歴史は日本の歴史と共通性がありその比較研究がしやすいのである。ただヨーロッパは中世でも大陸だし交通が地中海などでも盛んだから外国の文化が入りやすくそれがヨーロッパを作り出した要因である。
ルネサンスはそうしたイスラムとかでも外国の文化を取り入れることによって成し遂げられた。
ギリシャから発展してイスラム文化も融合していたのである。イスラムとは争っていても文化も入ってきたのである。例えば数学でもアラビアから代数を取り入れたとかいろいろな学問も入ってきた。ギリシャの文献がイスラムで翻訳されたのとしてまずヨーロッパに入ってきたのである。

ヨーロッパを形成したのはローマ帝国でありキリスト教である。ローマ教会がヨーロッパを支配することにもなった。教会はカトリックによって政治化しているから支配地域が教区に無数に別れた。コントラードの起源もそうした教区と関係もしている。
ただ自由都市というときそれが一つの独立した都市国家なのだから城壁で囲み都市として防備されていた。
絶えず他から攻められることを恐れているから城壁をめぐらして小高い丘に城を作り城下町を形成した。その路地も細く攻めにくいのは日本の升形とか細い路地で見通しを悪くしたのとかにている。
橋にしてもそうである。橋をかけるとそこから敵が入りやすくなるから日本でも橋は作らず江戸時代でも川を人を担いでわたっていた。大きな橋を造れないこともあったが防衛のためにも橋を造らないこともあった。
ヨーロッパの橋は石であり頑丈であり橋を渡ると門があり市内に入る。
橋は市の一つのシンポルとなる。また川はヨーロッパでも中国でも運河のうよになっていた船での交通が盛んであった。川が交通路となり商業が盛んになったのがヨーロッパの都市でありその川の故にヨーロッパが栄えたということもある。
ライン川にして川で結ばれた都市があった。都市は川の近くに教会があり市場があり川と直結していたのである。


ヨーロッパの中世に親近感を覚えるのは日本の歴史とにているからである。一見かなり違ったように見えてもいたるところに小さな城があることがにている。そして相馬野馬追いと共通していることが興味深いのだ。ヨーロッパの中世は様々な紋章が発達したし騎士の時代でもあった。それは侍の時代があった日本とにているのである。ヨーロッパにも旗祭りがあり野馬追いも旗祭りとあるように3000もの旗の種類があることには驚く。
なぜこれほどの旗の種類があるのか謎になっている。
野馬追いの旗印は村々の旗ではない、地域の旗ではない、家系で伝えられた旗であり相馬氏一族関係の旗だともなるがそれが千葉氏とも関係していたりその由来は関西までたどることになるから複雑であり由来が解明できないのだ。
地域で同系統の旗が生まれたときはそれは親戚関係などで同系統の旗が生まれた。
だから野馬追いの旗は村々の地区の旗ではないことがこのシエナのコントラーダの紋章や旗とは違っている。


名誉の鉾先、雄々しき系図
勇気に魅せられた獅子の心
騎士の華、フランスの栄光
勝者にして果敢なる戦士
心賢く事にあたって、あやまたず

ではなぜこんなに多様な紋章が生まれているのか?それはそもそもヨーロッパの歴史はイタリアならろローマからはじまっている。するとローマはアフリカまで支配していてそこには象がいて象をコロッセウムで戦わせたりした。ライオンでも豹でも戦わせていた。
アソリカとローマ時代から関係していたからそうした動物もなじみだったるきである。
現実にカルタゴのハンニバルは象の軍団を率いてアルプスを越えてきて恐れさせたことでもわかる。
このコントラーダの紋様はそうしたヨーロッパのイタリアの長い歴史から生まれているのだ。野馬追いも戦国時代から生まれているから長い歴史があるからその由来が不明になっているのである。
ただ根本的な相違はコントラーダ(地区)の旗印だったことである。都市を守るための一つの軍事的役割もあったのかもしれない、馬を飼うことも重要視されていたことでもわかる騎士と馬も一体であるのは野馬追いでも同じだからである。

日本とヨーロッパの封建制でわかりにくいのはヨーロッパが自由独立都市国家があったことである。日本にはそれがなかったから理解しにくいのである。
自由都市国家があってヨーロッパの文明がありえたのである。

civilizationとは

文明とは civilization の語源 civitas (都市、国家、都市国家)に由来し、同系統の言葉として city (都市)やcitizen (市民) civil (市民の、公民の)があります


このことであるから日本にはその都市がなかったのだから自治都市の歴史がないからそこにヨーロッパ文明を取り入れてもその基本になるものがないから文明化しえたないものとなる。それは中国でもそうであり都市国家から由来して作られたものがないからヨーロッパ文明全体を理解しにくいし取り入れても実際はその本質的なものは取り入れられなかったのである。

コントラーダの紋章をみると野馬追いの旗と共通したものがある。波模様の旗があり
森の紋章があるがこれも木の旗印がある。勇ましい動物の旗印はヨーロッパの特徴である野馬追いでもイノシシとかが良く旗印にあるから共通している。また鹿の角を模した兜もあり共通している。ユニコーンなどはギリシャ神話から入ってきている。
中世の森には狼もいたし日本でもいた。飯館村の佐須村の山津見神社は狼を祭っているのである。
中世では森は食料を得る場所でありそれは狩猟時代や採集時代の継続があった。
そこには狼もいた。毛虫はカイコで絹織物の生産を象徴していたとなるとこれも日本でもそうだったからわかりやすい。羊もわかりやすい。その他の動物はアフリカ由来だけどこれもローマ時代からなじみの動物だったのである。
貝は海側と関係していたというがイタリアは海に囲まれているから珍しくない。

相馬でも海と関係していたがもともと相馬氏は海とはか関係していない出自であるが
意外と中世は海運が盛んであったこともある。相馬氏には海運に従事していた人たちもいた。だから小高には港があり船が相当に出入りしていたのである。
コントラーダにも歴史がありペストの猛威で半分に消滅したとかこれは津浪でこの辺の村がいくつも村ごと消滅したことともにている。一つの街の歴史はそうした重層的になっていてこれを理解するのは容易ではない、ヨーロッパはローマ時代からの歴史があるから軽く2000年前にさかのぼるからちょっと一回行ったくらいでは理解しにくいのである。
ただ理解するとしたら日本との比較で理解するという方法が親しみやすいとなる。

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川で洗濯して橋の門から市街へ入る


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2014年07月29日

野馬追いの写真の絵画化


野馬追いの写真の絵画化

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