2024年07月25日
身分制社会とは何だったのか―現代は能力主義社会 【生まれた家の身分ですべて決まる社会ーそれでも能力ある人がのしあがる】
2024年07月14日
野馬追いは身分制社会の復活であり今の社会に強制される 【でも誰も参加できないので維持継続できるのだろうか?】
2024年05月30日
元禄時代の野馬追には一万人が見物客ではなく支援者として参加していた 【旗指足軽もいた】
2024年05月29日
ヨーロッパと日本だけの封建制があった 【ヨーロッパの紋章と日本の侍の旗印の共通性】
2024年05月28日
相馬野馬追いー雲雀が原の神旗争奪戦【詩】その旗の意味するもの
相馬野馬追いは旗祭りともされる。それだけ旗の種類が多いのである。でもその旗の由来はわからないのが多い、でも旗には何か意味がある。炎の旗は戦で炎のように燃え上がる、風の旗はまさしく風のように馬が疾走する
野馬追の写真【炎の旗、大の旗。風の旗−御家の旗】
2024年05月27日
相馬野馬追いは継続できるのか? 【馬の歴史では明治以降は農耕馬、運搬用の馬が主役だった】
2024年05月25日
相馬野馬追北郷と宇多郷合流【俳句十句】ー桜田山の神旗争奪戦 【5月25日に変更された相馬野馬追い祭り】
2024年03月22日
相馬野馬追の開催日程を、5月最終土・日・月曜日の3日間に変更する 【温暖化で祭りとか日本の文化にも影響ー真夏の野馬追の詩】
2023年07月30日
今年は野馬追に380騎しか出なかった ー迫力に欠けた (野馬追はこれから維持できるのか?−雲雀が原へ)
街中をつつじの赤く御行列
夏の雲湧き上がるかな旗取りて家の誉れと坂駆け上る
雲の峰高くなりけり暑しかな旗取り争う雲雀が原に
雲の峰一つ崩れてまた一つ湧き上がり高く雲雀が原かな
打ち揃う金の団扇に流山真夏の日さし輝きにけり
蝉の声今し鳴くかな旗取りに誉れを得てそ帰りなんかな
●380騎で維持できるのか
今年の野馬追に出たのは380機だった。何かこれは最盛期で500騎出ているから少ないと思った。野馬追は規模が小さくなると迫力がなくなる。380騎と500騎では相当な差がある。こんなに少なくなったのか?それはやはり津波や震災原発事故で小高区とか住めなくなり出る人が少なくなったからかもしれない。だから野馬追でも本当に維持できるのだろうかという疑問がある。少子高齢化でもありなかなか難しいかもしれない。
そして野馬追が維持できなくなるというときそれが歴史の保存であり変えることもできないし付け加えることもできない。となるといずれはさらに規模が縮小して見劣りして魅力がなくなる。だから確かに歴史の保存として維持することも必要なのだがもう一つ何かみんなで誰でも参加できるような仕組みを作らないと維持できないようにも思う。歴史の保存ということで、価値があるのは野馬追ではある。でもそれだけで維持できるのだろうか?
だから380騎となると何か迫力に欠けていた。そして神旗争奪戦でも出る人は?少なくなっている。なぜなら競馬とか神旗域争奪戦になると相当に馬に乗る訓練をしていないとできないからである。そのためにそういう準備をする人できる人は少なくなる。馬を乗りこなすということは容易でないからである。だから馬に乗り馬を乗りこなすようにしていないとできない。ただ行列ぐらいは参加できる。でも神旗争奪戦とか競馬になると相当に馬を乗りこなすことができないと参加できないそれをできる人は年々減っていくだろう。
●野馬追には費用がかかるー馬を飼っているため
馬を一年野馬追のために飼っておくことは相当な手間であり、金もかかる。30万から50万かかるというとこれは結構な負担になる。車一台を持つぐらいの金かも知れぬ。ただ、こうして馬を飼って日常的に馬に乗っていてこそ競馬とか神旗争奪戦には出ることができる。競馬となるとさらに熟練が必要になる
だからの馬を歴史の保存として祭りを伝えていく必要である。でもそれだけでは今や保存もできなくなるかもしれない。
一つは野馬追は馬が主役になる。今馬というのは競馬場でしか見ることもできない。馬のことがわからなくなったのである。だから野馬追というのはもう一つ馬に親しむということがある。また馬は好きな人がいる。ただ、それは。競馬を好きな人が馬を好きなので競馬に親しんでいるとやはり馬を見ているから馬はどういう馬か知っている競争に勝てる馬をみているからである。馬に詳しいのである。でも日頃はほかでは馬というものは見ないし馬に親しむこともないのである。
馬はもともと農耕馬としてあり曲屋で一つ屋根の下に飼って家族のようにしていたということもある。それで娘が馬と結婚したとかそういうことにもなる。子供でも馬を飼っていると犬や猫のように。ットのように親しむからである。それは確かに精神的にいい作用はある。今はみんな機械時代であり機械と親しでも生き物と親しむということが少なくなった。生き物と親しむということはやはり情感を育てるのである。だから精神的に子供に影響して情感豊かな人に育つということもありうる。
●神社は戦の神にもなる
ともかく何か380騎だと迫力に欠けていた。神旗争奪戦はもっと少なくなって迫力に欠けていた。ただ相馬野馬追の太鼓を聞いて盛り上がった。太鼓は外に響く力強いものを感じる。日本は太鼓はもとからあった。何か進軍するとき太鼓をたたいていた鼓舞した。神社は戦勝を祈願するものでもあった。
だから武田信玄の映画で巫女や神主の神主などが先頭に立って。戦う。神社はまだ戦いの神でもあったのである。だからこそ太平洋戦争では必ず村の小さな社でも戦の勝利を願うものでもあった。ある。寺は?ない寺にはないでも寺町とかあるとそれは防御のためにあったらしい。つまり戦国時代ともなればやはり寺でも。地域と一体となり守らねばならないから、そうなった。
ともかく。相馬野馬追とは300年続いて維持されてきた。相馬藩では殿様は変わっていない。国代えがない、それで相馬藩政記というのが殿様も変わらず300年継続しているのでそほかの人が学者でも参考にしているのである。記録としてやはり優れているからそうなった。
●小高の御家の旗は北郷から今年は出なかった
今日もとにかく暑かった。でも何とか報告するために行った。これが金にならないが仕事になったからである。夏の雲が雲の峰となって高くなっていった。また別な方向に雲の峰は高くなった。野馬追の時はこういう風景が似合っている。広々とした雲雀が原に小高郷、中の郷(原町)、北郷(鹿島区)、宇多郷(相馬市)が主に結集する。それに加えて浪江参加する。ただ大熊や双葉まで相馬藩なのだが主流はそこになる。
それで前は鹿島の北郷から御家の旗印が出ていた。それは今年は小高から出たのだろう。旗取りには出ていた。でもその小高の人が震災後鹿島区に移住して御家の旗でで出ていたのである。でも今回は出ていな。おそらく小高え出たのだろう。歴史の保存というとき本来そこに住んでいた侍が別なところに移住して住むと歴史が別なものになってしまう。
だから歴史の野馬追が歴史の保存というとき人の移り変わりが移住などが多いと成立しなくなる。先祖代々のものとして伝えられる。でも相馬藩では天明の飢饉などの時に三分の一も人口が減った。その穴埋めをしたのが越中からの移民なのである。その人たちは別に侍でもない。でも1/3も移住したということは影響が大きいものだった。
越中から移民した人たちはわかりやすい、墓地を見れば必ず墓に戒名はなく南無阿弥陀と記されているからである。
でもその人たちは野馬追には出ない、鹿島区から只野氏が菊の紋でで出るのはもともと南朝の侍でありそれで相馬氏に組み入れられた。南北朝の戦いで霊山が炎上して落ち延びた。人たちであり元々武士だったからである。
いずれにしろ380騎では規模的に迫力にかけて野馬追も維持できるのかとなる。でも歴史の保存にこだわれば何か変えたり付け加えたりできない。するとどうしても維持できなくなるかもしれない。だから何か工夫としては震災大津波で空き地化したところが多い。そこはもう田畑にはならない。するとそこを何に利用するのかとなる野馬追があるからその広い土地を牧場などに利用すれば適しているとはなる。ただ、牧場にするにしても競馬馬飼うということになるかもしれない。
競馬場で働くようになった野馬追に出ていた家の人がいたからである。
●野馬追太鼓が盛り上げた
今年は野馬追の太鼓がよかった。戦いを鼓舞する太鼓だったのだろう。それが響きわたった時気持ち良いものだった。太鼓の音はまた太鼓を叩く人は何か近づ力強いものを感じたからである。そういうことで何か祭りに新しく付け加えるものが必要なのである。でもそれが歴史の保存にこだわると必ず拒否されているのである。もちろん歴史の保存は必要なのだがそれに付け加えるものがないと維持できなくなるかもしれない。それが380機しか出ないということで今回感じたのである。
なにか野馬追には付け加えるものが必要である。相馬流れ山の歌は軍歌である。でも太鼓でも踊りでも何か付け加えないと盛り上がらず維持できなくなる。歴史の保存にばかりこだわるとそうなる
それで遠くからきた人も野馬追は一回見て終わりだなる
とにかく暑かったがどうしても取材しなければならないので行った。何かプログでも記者のようになる。だから苦しくても取材に行かないとならなくなった。別に金もらっているわけでも強制されているわけでもない。ボランティアの記者になっているから無理して行ったのである。熱いのは暑かったがそれほどバテなかったので取材できた。 ただ」写真はもうまくとれてはいなかったのは残念だった。
2023年07月29日
北郷(鹿島区)での野馬追祭りの儀式 (野馬追は侍の子孫しか出れない歴史の保存の祭り)
蝉鳴いて年に一度の御行列
一際に杉の旗印只野氏や南朝の末北郷の要
一同に会して相馬の殿迎ゆ法螺貝響き勇みけるかな
北郷に集う侍面々に神酒(みき)を賜り出陣かな
法螺貝の鳴り響くかな炎天に浜風にそ旗のなびきぬ
北郷に古式ゆかしく宇多郷と出陣するや儀式変わらず
街中に馬いななきてその声の馬なおを生くと響きけるかな
北郷に(鹿島区)に宇多郷の侍を迎える儀式が行われた。この儀式は変わらないのである。だから野馬追を見に来た人で歴史に興味がありこの儀式は変わらないから見たい来た人がいたのである。やはりそこまで興味を持つ人は歴史に興味を持っているのだろう。時代劇ではこうした儀式は作られる、脚色されて本当の歴史ではないのである。
野馬追の特徴はこうして歴史の保存だから勝手に変えられないのである。だから野馬追に出る家はもともと侍の家であり。甲冑とか旗が旗が伝えられてきた古い家なのでそのほかの人はそういうものは伝わっていないから出れないのであ。そのことで歴史を伝えるということで価値がある。
でも逆に参加できるのはもともと侍の家でありそのほかの人たちは参加できない。ただ見るだけなのである。だから野馬追は全員で盛り上がるということができない。そこに問題があるのだがそういう祭りだということである。別に青森のねぶた祭りなど旅行者でも簡単にハネトになれる。誰でも祭りに気軽に参加できるのである。
北郷の鹿島区の歴史は南北朝の戦いで霊山から落ち延びた人たちの子孫のが鹿島区を形成している。その旗印は杉の旗印であるから分かりやすい。それもそれもいくつか行列に出ていたからである。
その基は郡山市の多田野村から発していたのである。 ただ、どうして多田野村なのか?そこから先がわかりにくい。 そもそも野馬追は旗祭りというとき旗の種類が3000あるとか多様なのである。その謂れがわからないのである。いろいろ調べてみても探りようがないのである。
ただ杉の旗印はわかりやすい。
その他はいろいろあって、どういう謂れなのかわからないので。でも確かに一つ一つの旗にそれぞれの謂れがあったのだがそれがわからなくなった。またの由来は鎌倉時代までも遡る。西の方からその旗の由来があるからさらに分からな年に一回しかチャンスがない。旗の種類にしても多いからいい写真が撮れないということもある。でも何か野馬追というのは写真を撮るのにいいのである。だから写真を撮る目的だけで見に来る人がいるのである。ある人は80万のレンズを使っていたのである。カメラと言うのはレンズの方がそういう風に高くなる場合がある。野馬追は被写体としていいのではある。?
でもその機会は年に一度しかないシャッターチャンスは無い。カメラに凝ると性能もあるがいかにシャッターチャンスをとらえるかである。特に動くもの鳥などでもそうである。シロチドリを撮れたやはりここに住んでいて撮りやすいからである。遠くに行き何か珍しいものを撮ろうとするとなかなか出来ない。 また、動画を取るにしても結構疲れ写真を撮るにしろ、動画を撮るにしろ結構な労働になるので。今日は特に熱かったからぐったりとしたのである。とても明日の雲雀が原での神旗争奪戦には行けない。異常なな暑さだからである。こうなると熱中症で倒れる人がいるかもしれない。鎧兜をかぶって重いのだから余計にそうになる。
2023年07月07日
野馬追い迫るー南相馬市、鹿島区に旗が立つ (霊山城から落ち伸びた南朝の只野氏一族)
野馬追い迫るー南相馬市、鹿島区に旗が立つ
(霊山城から落ち伸びた南朝の只野氏一族)
ノウゼンの通りに咲きて野馬追の旗の立つかな風になびきぬ
菊の紋二つそろいて坂のぼる南朝の末裔誇らしきかな
菊の御紋は南朝の旗であり只野氏と菊池氏の旗でありわかりやすい、南北朝の争いは日本全国に深い傷痕を残した。
なぜなら明治天皇は南朝であるというのもそうである。南朝こそ正統とされたからである
秋葉神社は多田野村から霊山城が炎上し落ち伸びた時にもたらされた神社である
だからふるいとなる。最近その子孫で神社を守っていた人は死んだ
野馬追の旗が町に掲げられた。 野馬追は旗祭りでもある。その肌の紋様は3000とか多いので。そのは他の文様もう皆違っているのでそれが気になるのである。それにも謂れがありそれを全部知ることはできない。
鹿島区だと霊山城から落ち延びた郡山市の多田野村に発する只野一族が先祖となっている。だから鹿島区は50人くらいの只野の姓の人がいるのである。この多田野氏は杉の紋様である
三輪山神社(大神神社)神紋『三本杉』と『三つ鱗』 | 毎日の積み重ね (ameblo.jp)
三輪山は山自体が御神体であり。山に向かって祈るのである。その中で杉は千年とかの樹齢ものものもあり神聖なものとされたのである。
縄文杉などがそうである。それは木材として利用されるものとは違っている。自然のままの木なのである
野馬追の旗印を知るには相馬市がこの地を支配した相馬氏は馬を操作することに長けていた。それで騎馬軍団を形成して強かったのである。それで伊達氏とも戦ったのである。
相馬氏の領地は最初は小高に来てそこに城を築いた。だから最初の中心地は小高なのである。その後浪江とかに拡大したのである。
でもその中心地域は相馬市。南相馬市(鹿島区。原町区。小高区)になる。宇多郷(相馬市)、北郷(鹿島区)、中の郷(原町区)、小高郷である
それで神社の旗は三色旗は小高神社ー太田神社(原町ー中の郷)ーそして宇多郷(相馬市)となる。原町区の雲雀が原に神旗争奪戦でこれらの郷が結集するのは壮観である。その前日に北郷で宇多郷から殿を迎えて合流するのである。
相馬野馬追は歴史の再現であり野馬追には武家の出でないと行列には出れないのである。勝手に誰でも参加できないのである。
相馬藩の特徴は主君が代変わりしても相馬氏であり変わらなかったのである
。
三春城を築いた田村氏は、三代80余年で終わり、その後、伊達政宗の勢力圏に入りますが、やがて田村全域が会津領となり、三春城は、本城若松の支城のひとつとして城代がおかれるようになりました。
城代(主君に代って城を守り、命令を伝える者)や城主も目まぐるしく変わりました。
やがて江戸時代になり、正保2年(1645年)秋田地方に勢力のあった、秋田実季の子、俊季が五万五千石で三春城の城主となり、以後11代約220余年間にわたって、奥州三春藩として徳川幕府外様大名として幕末まで続きました。
相馬藩の場合はこのように城代が変わらなかった、相馬氏によって受け継がれてきた、それは日本の歴史ではめずらしいのである。それで相馬藩政記は記録として貴重なのである。一貫して相馬藩の継続した歴史を記したものだからである。それで学者も参考にしているのである。
そして今も野馬追には相馬藩の殿様の子孫が大将となって野馬追に出るのである。つまりまだ殿様が現実に活きているとまなっているのである。殿様を家臣一同迎えるとき再興に盛り上がるからである
とにかく野馬追は旗祭りでもある、でもその旗の由来を解き明かすことは至難である。霊山で北朝に敗れて落ち伸びた只野氏は歴史としてわかりやすい、その他はわかりにくいのである。そもそも旗の由来は鎌倉時代とかにもさかのぼるから解明できなくなる
でも野馬追は忠実な歴史の再現であり勝手に由来も明確でないものは出れない、勝手に旗も作れない、先祖伝来の旗生とかっ甲冑を身につけて参加できるものだからである
ただそこにどうしても全員地元の人でも参加できないから盛り上がらない、そもそも野馬追に出る家は限られている、500騎出たとしても全体からすれば極一部になるからである
ただ歴史の忠実な再現だから変えられないのである
だからそもそも地元の人でも限られたわずかの人しか参加できあないとなればそこに限界がある。ただ見ているだけではつまらないとなる
そこで地元の人たちでも何か盛り上がらな理由がある
野馬追い関係の記事
http://musubu2.sblo.jp/category/701974-1.html
2022年07月27日
相馬野馬追いは維持できるのか? (歴史の保存の祭りであり新しいものが入れない問題)
2022年07月26日
相馬藩内の姓 (日本人の姓は村の地名に由来している)

●日本人の姓は地名に村の名に由来している
日本人の姓はほとんど地名に由来している、村の名前に由来している
日本人の姓をたどると必ず地名に行きあたる
只野の姓が鹿島区とかに50軒もある
その由来は明確である、南北朝の争いで南朝の城となった霊山が炎上して逃れてきた
落武者がその基となっている
その只野一族はもともと郡山市の多田野村に由来していたのである
だから姓を辿れば必ず村の名とか地名に行きあたるのである
相馬藩の起りも相馬氏に由来している、その相馬氏は相馬という地名がありそこを根拠としていた、千葉県でありその辺でまだ開墾されない広い荒野がありそこに野馬がいてその野馬を捕まえて馴らして軍馬にしたのが相馬野馬追の始まりである
日本人のアイディンティティが村にあるというときそうである
相馬氏でもここに移住してきたとき今の相馬氏は中村に土着したから中村と姓が変わったのである、だからもともと相馬という姓が中村に変わった
そういうことが多いからその出自がわかりにくくなる
不思議に郡山市の多田野村の近くに小林村がある、すると小林とは多田野村の近くから出てきたのかとなる
ただ私の家は父親が葛尾村から出たことはわかっている
でもなぜ小林になっているのかわからないのである
地方を開拓するために展開した藤原氏、源氏、平氏等に出自をもつ武士が誕生していました。この頃の武士では武蔵七党が有名です。その武士たちも公家と同じく姓を同じくするものが多かったため、区別がつきづらくなっていました。そこで、武士たちは自分たちの領地・名田(みょうでん)を守り、かつ明確にするため、自分の支配する土地の地名を名字として名乗ったのです。
苗字帯刀(みょうじたいとう)」であり、苗字が身分の象徴になったため、武士等の特権階級や一部の庶民(庄屋・名主)を除いて苗字を公の場で名乗ることができなくなってしまいました
商人や農民の中でも、元々武士の家が帰農した場合には苗字があり、上層の農民も苗字を持ち、商人も名字に「屋」をつけて屋号にしたりしていました。あくまで苗字を公に名乗ることが許されなかったのであり、苗字を持つことが許されなかったわけではありません
●姓にまつわる物語
明治になって名字が名乗れるようになったことは重要な歴史である、江戸時代でも庶民の墓はない
墓にしても個人の墓であり殿様の墓にしても一人の人間の墓となる
家族墓は明治以降に法律化されてできたもので新しいのである
天皇を親として家族でまとめて赤子とする明治の政策でそうなったのである
それで誰でも名字を名乗ることができるようになった、しかしその由来はわからない
庶民の姓は・・・屋が代わりになっている、屋号である、今でも自分の家で店をしていたから屋号で呼ばれるのである、それは近くの古い農家でも屋号で呼ばれているのである
江戸時代で農民で個人の墓はないが幕末頃になると個人名の墓が作られた
百姓の名前が記されているからだ、それで得意なことがあった
その頃経済力がついて百姓でも墓を作ったとなる
相馬藩だと侍の名字は相馬野馬追の時に目立つ、旗印の下に名字と名前が記されるからである、名字というときこの辺では鎌倉から移住した岩松氏が有名である
岩松氏は領地を広げて飯館村まで領地として支配したのである
その岩松氏の支配になったことでその名残りに地名が残っている、千倉とか街内の御前の内とかがそうだろう、それは鎌倉時代のものだから古いのである
そしてその家来の日里、中里、島、蒔田に惨殺されたのである、幼児まで殺されたのでひどいとして伝説としてより明確な事実として語り継がれたのである
後に日里は郡に変えたのである、祟りを恐れたからである、この姓は相馬藩内で残っていて結構子孫は反映して残っているのである、別に祟りがあって後がつづかないということでもなかった、姓は歴史を語る、名前はその個人を語る、でも名前だと連続した歴史がわかりにくいのである、でも胤と必ず相馬藩主の殿様についている、それは連綿としてつづいている、そう相馬野馬追がつづいているので殿様がまだここでは活きているのである
ただそれを言うと現実にその子孫が生きているので語りにくいことが500年過ぎてもある、地元では悪いことは語りにくいのである
それで郷土史は悪人がいないからきれいごとになっているから面白くないと指摘していた人がいたのである
岩松という姓は一族が断たれたので相馬藩内にはない、これが如実に歴史を語っているのてある
もう一つ相馬藩内で姓で大事なのは越中などから富山県などから飢饉で三分の一の人口が減った時移住してきた人達である、その姓はわかるからその末裔だとわかる
墓だと南無阿弥陀仏としか記されているのでもわかる
岩松氏の伝説
http://www.musubu.jp/kashimamanonado.htm
●「御家」の旗は小高から鹿島(北郷)に人が移住しため
ともかく野馬追いで鹿島区(北郷)から出た「御家」の旗に違和感をもったのは
もともと小高の侍の出であり北郷ではないからだとなる
どうして違和感があったのかというと江戸時代の封建時代は土地と人間が一体化していた封土とは土地を納めてそこから年貢をとる仕組みのことである
だから土地と一体化して人々は侍に支配されていたとなる
農民社会だと土地が一番大事だからである、だからこそその土地の名前が村になり姓名となる、その土地から離れて人はありえなかったのである
それで「御家」の旗印が鹿島区(北郷)に移った時、小高という歴史的土地から離れたことで違和感をもったのである、もともと小高にあってこそ歴史的存在として価値をもっていたからである、ただ相馬藩内であれば依然として歴史は共有されて活きている
でも原発事故で小高ら避難した人達は相馬藩内に移住したとは限らない
相馬藩外に出るといくら侍の出であり甲冑とか旗印が伝えられても価値がないとなる
そこに原発事故がいかに歴史を断つような過酷なものとなったかを知るのである
他でもこの土地に生きた歴史を消失しているだろう、家も一つの歴史を語るからである
でもその土地から離れた時価値がなくなる
日本人は土地の一体感が強いからそうなる、土地とアイディンティティ化しているからそうなる、それが文化でも作ってきたからである
先祖を大事にするというときその土地の先祖なのである、他の村とかの先祖ではないのである
●外国人の姓
でも大陸の遊牧民とかなると土地とは余り関係ない、一定の土地に定着しないからであるそれで姓はあくまでも血縁であり氏である、土地に由来しないのである
ロシアでウラジミールプーチンとか言うけどウラジミールという姓の人が多くいて一族だということがわかる、つまり名前は多様でも姓は限られているとなる
それは韓国でも中国でも例えば李という姓があるとすると大勢の李氏がいる
韓国では李朝鮮ともなっていて李一族が国家にもなっていたのである
中国でもいろいろ姓があっても限られている、中国は農耕民だとしても日本とは違いやはり大陸文化を受け継いでいるから姓は村の地名にはならないのである
Влади мир 「世界を征服せよ!」ですかね。
ウラジスラヴァという名前もあり、そちらは「名誉を征せよ!」ですね。
都市のウラジオストクは「東方を征服せよ!」という意味です。
やはり大陸的だとなる、常に大陸では征服せよになるからだ、まさにプーチンがそうである、征服せよとしてウクライナに侵攻したからである
大陸だと姓を見れば一族となりつながりがあるとなる、
そして外国人と結婚すると夫婦別姓になることが認められている、姓はそのままなのである、つまり姓とは歴史であり系統をたどるものなのである、名前にはそういうことがないのである、外国人の姓になったら日本とは別な姓に属することになりその国の歴史として組み込まれることにもなるからである
だから在日朝鮮人だと李とか多いがこれは韓国が一時李朝鮮となっていたことでもわかるし中国でもいろいろな国が群居していてその国の名が姓になっていることでもわかる
●片倉村の由来
片倉村は片倉辺の神が長野県の方で有名である、するとその神を奉じた人たちが相馬氏が来る前に土着していたのか、片倉という地名と大田という地名も相馬氏が来る前にあったとなる、他にも片倉という地名はありやはり神の名として残したのかもしれない
必ず人が移動するとともに神も移動するからである
南相馬市片倉村の由来
http://musubu.sblo.jp/article/48048119.html
片倉財閥の片倉家と北海道開拓を担った伊達藩白石城主の片倉氏の関係をネットで調べると《絹の道を往く 八王子編 Vol.6》に、両者の先祖は「諏訪湖で繋がっていた」と記述されていました。
http://hibinokizuki0126.livedoor.blog/archives/6340337.html
やはり2つの片倉は同一の先祖だったのです。実際に、現在の住所の伊那市高遠町藤沢に「片倉」という集落が存在していたといいます。諏訪大社上社本宮の裏手の神体山である守屋山の麓です。
また、伊達藩白石城主の片倉氏の家祖として「片倉辺命(かたくらべのみこと)」がウィキペディアに記されていました。「諏訪氏系図.続編」においては片倉氏の祖神といいます
2022年07月24日
相馬野馬追い (雲雀が原へ結集ー神旗争奪戦ー御家の旗印が北郷から出たことについて)
相馬野馬追い
(雲雀が原へ結集ー神旗争奪戦ー御家の旗印が北郷から出たことについて)
旗印陽射しの強く映えにけり
旗印風の文字なれ風なびく
御行列続く長さや暑しかな
伝来の旗印も古る歴史かな
雲雀が原馬いななきて蘇る
蝉鳴いて甲冑競馬や一周す
馬走り馬も喜ぶ三年ぶり
旗印家の誉れを担うなれ
野馬追いや落馬二人に終わりけり
御家また帰り馬かな北郷へ
勇み入る雲雀が原へ従えぬ相馬の殿や誇らしきかな
旗とりて一気に上る本陣へ馬とともにし誉れなるかな
今回の相馬野馬追いは三年ぶりだったのか、集まった馬は350頭である
普通は最高で500頭でありそれに近い数字を出していた
だからずいぶん少ないと見た、それでも結構長く感じられた
野馬追いは出るにも金がかかる、まず野馬追いに出る馬を一年中飼っている人がいる
するとそれは結構な出費になる、ただ馬が牧に飼われているのはこの辺の風景としてはいい、第一今は馬に接するというとき競馬くらいしかないのである
牧場で少女が馬の顔をなでるとかするのを見た、それは子供の時から馬になじんでいるのである、そういうふうに育てば馬を怖く感じないとなる
それで馬が農耕馬として飼っていたとき馬と結婚した女性の伝説がある
馬は曲がり屋で馬と一緒に寝起きしていればそういう伝説が生まれるのも当然だとなる
ともかく馬と人間が一緒にいる風景がなくなったのである
馬の代わりになったのが車だとなる
相馬野馬追いはそもそも祭りとしても参加型ではない、歴史の保存として維持しているのである、勝手に旗を作り庶民が出ることはできない、伝来の兜と旗印があり出れるのである、それで奇妙だったのは「御家」というのは実は小高郷に住んでいた人の旗印なのである、なぜ御家となるのか?それは小高に最初に相馬氏が城を作ったからである
小高が相馬氏の始まりである、相馬太田神社が起点となり小高に城が作られた
相馬太田神社が相馬藩の中心の神社ともなったのは相馬氏は片倉村の山の方から入ってきた、そこに八重米坂とか初発神社がある、山を越えて下り相馬大田に至った その途中に鷲宮神社がある
そこに相馬太田神社があり小高の方に進出して最初の城を小高に築いたのである
それから城は海の方の村上に一時作りそこは縁起が悪いとして原町の牛越城に移った
そこに五年間あった、それから相馬市に移ったのである
だから外から見ると誤解する、今城がある相馬市が城下町で一番古いと見るからである
なぜなら相馬野馬追いは歴史と伝統の保存でありここでそれが原発事故で小高区が避難区域になって鹿島区(北郷)に移り住んだ結果なのである
ここに違和感を感じたのは相馬野馬追いは歴史に忠実であり歴史の保存を目的としているからおかしいと見たのである、勝手に誰でも参加できない、伝来の旗とか兜とかを伝えられている侍の出しか出れないからである
一般的には歴史にそれほど興味がなければ野馬追いはつまらないという人もいる、私は青森のネブタ祭りを見に行ったがハネトには誰でもなれる、祭りで地元の人達と一緒に踊ることができる
ネブタ祭りはそれで盛り上がるとなる、でも相馬野馬追いにはそういうことはないのである、だから相馬野馬追いは出る人と見る人に分かれている、参加形の祭りではないのである
そしてそもそも相馬野馬追いは旗祭りというときなぜこれほどの旗印があり多様なのか?
これが解明されていない、どういう由来なのかわからないのである
ただ芸術的デザインとして見るだけではない、それがどうしてその家の旗印になったのかわからないのである、例えば揚羽蝶の旗印があったとする、するとこれは蝶の紋は平家なのである、すると平家に連なる一族として相馬氏に仕えていてそうなったのかとなる
でもこの旗印は余りにも多様でありその出自とかが誰も解明していない
それを研究している人も見つからないのである、それは余りにも多様だからそうなる
その由来をたどることができなくなっているのた
その由来をたどると関西方面になるからである、千葉県に相馬氏の基があっても相馬氏でもいろいろな人が入って来たからである、武田信玄の六文銭の旗印があればそれは武田氏の末裔なのかとみる、武田信玄は織田信長に敗れて伊達藩にも入った有名なのは伊達政宗の重臣だった
大坂城が落ちるまでそこにいれば、豊臣方として男子は処刑され、女子も命が助かったとしても出家する他道はなかったでしょう。
それをなんとか助けてもらう方法はないかと、思い倦ねた幸村は、死の前日、伊達政宗の参謀の片倉小十郎景綱の嫡男、片倉小十郎重綱という人物に目をつけます。
自分の娘「阿梅おうめ」を、この片倉小十郎重綱に嫁がせよう。
義に厚い伊達政宗ならそのほかの子供達も守ってくれるかもしれない。
幸村は大坂城にいる子供達に手紙を渡し、伊達家の庇護のもとに命永らえて欲しいと願ったのです。幸村の願い通り、伊達家は子供達を徳川から守ってくれました。

こういう話があり不思議なのはなぜ片倉村がありそこから太田神社につながっているかである、そして白石の片倉氏の紋は相馬氏と同じ九曜の紋なのである
他にも片倉という地名はある、この片倉の由来がわからないのである
伊達藩でも相馬藩でも争ったとしても戦国時代が終われば平和的に交わっていた
当然相互に交流もあり歴史が作られてきたのである
このように六文銭の旗印があれば真田幸村までたどることができる、でもこれだけ多い旗印の由来をたどることは不可能になっているのだ
そもそもなぜ片倉村になったのかわからないのである、片倉という地名は他にいろいろありわからなくなったのである
何か旗でも古びたのがあった、いかにも古いから歴史を感じるともなる
ただ他は旗印はそのままでも新しく作り直している、今回の風という文字の旗印があり
デザイン的に見れば面白いと見た、なぜこんな旗印にしたのかその由来もわからない
また鯰の旗印もあった、それも不思議になる
ともかく「御家」の旗印はもともと小高郷から出たものであり小高の城が相馬氏が最初に築いた城でありだから歴史的に見ればふさわしいとなる
御家とはヨ−ロッパだとハウスブルグ家なのである、ハウスは家でありブルグは城だからである、一つの家が拡大したのがあれだけ大きな国になったのである
こうして相馬野馬追いはどうしても歴史を知る必要かある、そして相馬野馬追い祭りは
歴史の再現なのである、相馬藩が一つになる祭りなのである
祭りとは祀るとは死者を祀ることであり先祖を祀り先祖を偲びその時代を偲ぶのが祭りだとなる、時間がすぎるともう30年前でも時代がわからなくなる
本当に学生時代とか50年も過ぎるとその時の東京はどうだったのかとかわからなくなるましてや400年前とかなるとその時代を具体的にわからなくなりただ想像の世界ともなってしまうのである、でも相馬野馬追いは具体的に歴史が再現されることに意義がある
だから全員参加型の祭りとは違っているのである
日本の歴史を知る時やはり祭りは具体的に時代を再現するから知ることが欠かせない
それでフランスの人が日本の祭りを見て旅していたのである、それだけ日本には祭りが多いからそうなった、また神社が多いのはその土地の先祖とのつながりが残されているということなのである
ただ正直相馬野馬追いの旗印を知るのは容易ではない、参考になる本もないし研究している人もいないようだ、それだけわかりにくいからそうなった
今回は「御家」という旗印から歴史をたどったのである
とにかく今回は行列でもすいていた、だから写真とるには良かった、混み過ぎて前はうまくとれなかったからだ、野馬追いとは写真とるにはいいのである
その写真をとるにしても一年に一回しかチャンスがないから意外と毎年違った写真がとれるのである
それで写真が趣味の人はいい、実際に70万とかの望遠レンズを持った人が写真をとっていた,プロというものでもない、写真は写真機よりレンズの作用が大きいのである
だからレンズの方が写真機より高くなるのである、そしてレンズの種類がまた多いのである、その人の持っているカメラは10何年か前のであってもレンズがこれだけ高くていいものだから違っているのである、でもその値段には驚いた、金持ちは都会になるといるということである
2022年07月23日
二年ぶりの野馬追いを見るー北郷(鹿島区) (馬が蘇り活きるのが野馬追い)
二年ぶりの野馬追いを見るー北郷(鹿島区)
(馬が蘇り活きるのが野馬追い)
南相馬市原町区雲雀が原
いななきあい鼻息荒く本陣へ
旗印木槿に映えて御行列
野馬追いやのうぜん熱く咲きて散る
杉の紋誇らしく立つ只野家に
大将を迎えどよめく人と馬
野馬追いは二年ぶりだろう、人は集まらない、ウィルスがまた蔓延しているからだろう
人混みをさける、野馬追い行列見る人も少ない、
近くの只野家には杉の旗印の旗が立っていた、鹿島区だととにかく只野の姓が50軒くらいある、その歴史は南北朝にさかのぼるのである、南朝の霊山の城が炎上したとき落ち延びたのである、只野とか桑折の姓はその落ち延びた先祖なのである
野馬追いというとき千葉県に牧が多くあり野馬がいてそれが畑などに入ってきたりして
困るから野馬土手を作った、侵入できないようにした
野馬は誰かが飼っていたものが逃げたりしてそのまま原に野生化した
その頃まだ田畑でも開墾されない土地が多く原が多かったからである
昔の絵図を見ると広大な原が広がっている、そこは田畑に利用されていない、だから野馬になっても生きていける広大な土地があった、その後そういう原は田畑化していった
原町もそうである、もともと原っぱなのである、原町村があり一騎だげ野馬追にでていたその後雲雀が原が明治になり開墾に入る人がいた、外部からも来た、今の雲雀が原よりもっと広い土地があったからだ
野馬追いは宇多郷の侍が北郷で合流して原町の雲雀が原に結集する
小高郷からも集まる、飯館村が山中郷であり江戸時代から出ていたが今は出ない
ともかく馬というのがわからなくなった、馬を見ているのは競馬だけである
馬が日常的に生きていないときわからなくなった
馬とかは農耕馬もあり人間とともに生きてていた、馬と人間が一体となった曲がり屋もあった、馬は身近な動物だったのである、今は牛の方が身近な動物となっている
飯館村は牛の村で有名だったからである
北郷の本陣に馬が集まりいななきあうとき活気を帯びる、この時馬が活きるのである
人馬一体になる、今日は暑かった、これで危険なのは熱中症である
陽射しが強かったからである、写真をとるのも結構暑いと苦しくなる
野馬追いで不思議なのはいつも写真を撮ろうとするのだが必ず見逃してしまう
それは年に一回しかないから、撮り逃がしてしまうのである
だから野馬追いは写真撮ろうとすると飽きないとなる
その年年で違ったものになるからである
明日は雲雀が原に行き写真を撮るとなるのが結構暑いと熱中症が怖い
ただ人が少ないから写真をとるにはいいとなる、人が混んでいて写真をとる場が見つけられないかである
ただ8時ころから行かないと間に合わない、10時ころ行列が開始されるからである
野馬追いは田畑の中でも旗をなびかせて来る時などが絵になる、それを撮るのはむずかしいのである、毎年雲雀が原には写真を撮り来る人がいる、でも雲雀が原の中まで入るのは予約して許可がないと入れない、それは早い時期から予約して決めていないとできないのである、やはり写真を撮るというのは結構どこでもむずかしいし手間になるのである
2021年10月24日
雲雀が原で秋競馬 (今日は菊花賞であり相馬野馬追いがあるから馬に興味を持つ)
雲雀が原で秋競馬
(今日は菊花賞であり相馬野馬追いがあるから馬に興味を持つ)
街道や松影なして秋の雲
駆けぬけ風さわやかに秋競馬
秋競馬鼻息荒く走り去る
雲雀が原で人が集まっていたから何か思ったら秋競馬だという
それは雲雀が原の中に入って見れるというから見た
野馬追いの時は中には許可かないと見れない、写真を撮る人は事前に許可をもらって入るその周辺では誰でも写真がとれる、写真をとるために野馬追いを遠くから見に来る人はいる
この競馬は旗はないからものたりないとなる、また5頭しか出ていなかった
でも相当に早かった、旗がないから早く走ったとなる
すぐ側を走ったから鼻息が聞こえた、そしてその速さが怖かった
迫力を感じるにはこうして実際に見ないとわからない
時速60キロのスピードを出すことができて、最高時速は77キロまで到達する、といわれています。
人間の最高時速が37キロですから、馬がどれほど速いのか、ということをご理解いただけると思います。
車が70キロとか60キロの速さで走り去るとしたら本当に馬でも怖い
そういうとき落馬したら死んで不思議ではない、その衝撃は大きい
階級社会から見れば士農工商の商、何の労働もしないで富をえるいちばん悪い儲け方だったので、当然ながら役人は馬の使用を許可しなかったのです。
これが、実際に馬を利用しなかった(できなかった)一番大きな理由です。
もっとも、日本も馬の去勢を取り入れていたら扱いやすい馬が増え、江戸時代には普通に馬や馬車を利用していたかもしれません。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7062952.html
野馬追いとかなると日本人は馬を駆使していたとみる、実際は違っていた
もともと魏志倭人伝にも馬、牛、羊なしと記されていてそのために日本をほど馬を使わない民族はいなかったのである、何かこれも歴史の錯覚である
華々しく合戦では馬が活躍するから馬を日本人は使いこなしていたようにみる
そしてこの辺では相馬野馬追があるから馬を使っていたのが日本だったように見える
そうなると相馬野馬追いのように馬を使うのはむしろ少ないから目立っていたともなる
なぜ相馬藩が伊達という大きな藩と対抗できたのか?
その謎は馬を使いこなしたからだとなる、藩は小さくても馬を使えば武器になりそれで強かったので対抗できたとなる
そもそも相馬野馬追いであれだけの馬が出ることが不思議だからである
何か歴史には常に誤解がある、日本で馬を使わなかったのは去勢することをしないとか
あとは家族で家の中に馬小屋があり家族のように扱ったとかで馬との付き合い方が違っていた、何かするとこれも日本の文化があり馬の扱い方も違っていたとなる
人間まで去勢した宦官がいるのが大陸だからである、これはイスラムまで大陸で広がっている文化なのである、だから人間を売り買いしたり奴隷にするのは大陸文化である
現実にヨ−ロッパ人がイスラム圏に支配されて女性でも奴隷として売られていたのであるこれも今になると信じられないとなる、奴隷にする文化が大陸では前からあったのであるそれはもともと遊牧民文化であり家畜文化があったからなのである
だから日本の歴史とかはその大陸から孤立しているから特殊なのである
今日は菊花賞だった、この競馬でも実際に馬場の中に入り近くで見たらその迫力がすごいだろう、テレビではそうした迫力が実際はわからない、本当の馬を知るなら大陸の草原で自由に走る馬を見ることである
私は中国の内モンゴルで馬にのった、その馬が小さいから全然乗馬の経験もないのに乗れたのである、そもそもあんな小型の馬で良くモンゴル帝国が作られ世界の半分を制覇したと思う、それも意外だったのである
歴史には実際いろいろ意外なことがあり誤解しているのである
まずモンゴル平原とか草原とかを理解できないからである
モンゴルで羊を飼うために一年で住んでいたという人と帰りの船であった
その人は冬は寒くて一回りやせたという、それだけ冬が厳しいのである
そのために床の下に馬糞などを燃やして温める、オンドルと似たようなものを使っていたとかなる、そのオンドルは韓国でも使っている、それはあたたかいである
そのオンドルも日本に伝わったのだが広がっていない、近江でそのオンドルの跡が発見されたからである、日本では気候風土の相違で大陸から伝わっても渡来人が伝えてもそれがみんな定着したとはならないのである
この競馬を見て昔の浜街道の道を行くといい松がある、あの松は前らか注目していた
その松か影なして秋の雲が浮かんでいた
あそこの真っすぐな道は原町の宿場町だったのである、その絵も残っている
原町は大きな宿場町であり駅前通りは鉄道が通るようになってできた街なのである
それで江戸時代以後に明治になって戦後も雲雀が原の近くで開墾した人々がいたのであるそんなところで開墾したというのも今になるとわからなくなるが畑にする土地がなくてそうなった、特に戦後は大量の戦争の引揚者がきてその人たちは職がないからどんな不便な土地にでも入って開墾したのである
だから鹿島区の街のすぐ近くの小池にも開墾した場所があった、そんな近くでもそうなのかと驚く、それだけ仕事がないから食べるためにそうなったのである
雲雀が原でもその近くで畑にしたのもはそのためである
この辺では相馬野馬追いがあるから馬に興味を持つ、野馬追いのために馬を飼っている人がいるからだ、侍の子孫がいるからである、それでその馬で競馬で賞をとった馬が飼われていた、その馬を見るために見に来た人がいたのである
競馬で使いなくなった馬は馬肉とされるとかありかわいそうだとして飼っているとか放送があった、賞をとったような馬はそういうことがある
でも今日菊花賞で7千頭から選ばれた馬だと放送していたがそういう大舞台に出れるのはそれだけえりすぐれた馬だった、そこに出るだけで特別の馬だったのである
2021年08月03日
今年も野馬追話なし(北郷の旗ー只野氏の旗)
今年も野馬追なし(北郷の旗ー只野氏の旗)
南相馬市の鹿島区の北郷の野馬追の旗の中心は只野氏の旗である
只野氏は郡山の多田野村に由来して霊山の南北朝の争いで鹿島区に落ち延びた
江垂村の小高い山が中館としてありそこに居を構えたのである
とにかく鹿島区は只野氏の町というくらい只野姓が多いのである
電話帳を見れば50軒くらいが只野氏になっている、漢字は違っていても只野氏なのである
その只野氏の中心となるべき人が鹿島の街の中に住んでいた、同級生だったので意外だった、江垂村のお浜下りで重要なおつづら馬という役職を担っていた
荷物を馬にのせて運ぶ役である
街というときあまり古い家はない、後から入ってきた家が多いのである
野馬追というとき旗とか鎧を保存されているのは農家の方だからである
相馬市でも原町市でも街内からはほとんど野馬追いには出ないのである
それで原町が原町村があり一騎野馬追に出ている
雲雀が原はもともと野馬追いの原であり馬を放牧していた
だから原っぱだったのである、街が大きくなったのは常磐線が開通して駅前通りができて大きくなった
戦後雲雀が原とかでも開墾したらしい、鹿島区でも小池で戦争の引揚者が開墾した
そこは街から近いのである、飯館村の辺鄙な所ではない
とにかく仕事がないからそんな不便な所に開墾して暮らしていたのである
相馬藩では相馬市の城下の城勤めする侍は少ない、農業もしていた郷士が多い、その郷士から野馬追いにでる、だから街内から野馬追に出る人はまれなのである
あと目立つのは菊の紋の旗であるがこれは南朝の旗なのである、天皇は明治でも南朝を継ぐとしてあり南北朝の戦いでは南朝についたからである
それで鹿島村に南朝の菊の紋の旗がある、それは菊池氏になっている
ただ鹿島区に北郷から「御家」という旗が出るのは小高の人が原発事故で移り住んだからである、もともと御家という旗は北郷にはなかった
小高は相馬市が最初に拠点をもうけた所でありそれで小高の城跡は古いのである
御家という旗はもともと小高の城があった所にふさわしいとなる
藩というのはなく御家と呼んでいた、御家中となっていた・・御家中のものとしてあった相馬市はもともとは中村であり中村御家中となっていたのである
ヨ−ロッパでも有名なハウスブルク家というときハウスは家でありブルクは城なのである
2020年07月28日
南朝を受け継いだ明治維新その古代からの歴史 (菊の紋の旗が江戸城入場に出ていた―野馬追にも菊の紋の旗が出る)
NHKの桜田門外の変のドラマの江戸城入場
野馬追に出る菊の紋の旗