2015年06月02日

野馬追いの写真はみんな違っている (シャッターチャンスが一回しかないから地元でもうまくとれない)


野馬追いの写真はみんな違っている

(シャッターチャンスが一回しかないから地元でもうまくとれない)


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野馬追いの時は梅雨も晴れ夏の雲がでる


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アレンジした

樹に炎が映える

緑の木に映えた赤い炎の旗

下は妙見神だから星の形になり馬が跳ね飛ぶ

野馬追いの旗は様々なデザインなのである。

幾何学的なものがあり現代に通じる斬新なものもある

野馬追いを楽しむには旗を知る必要があるのだ

その旗が多様だからわかりにくいのである。

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白髪の髪は何を意味しているのか?老人なのか?
馬のたてがみのようなものなのか

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前から見るとこんな風になる

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黄色の旗は小高神社

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赤は中村神社(相馬市)

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これはカモメなのか?

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本陣へ

治に居て乱を忘れず
平和な時でも、世の中が乱れた時の事を忘れてはいけない。という意味。
平穏で順調な時であっても、万が一の時のための用意・心構えを怠ってはいけない。

類義 ⇒ 安に居て厄を思う/治まりて乱るるを忘れず/太平にも乱を忘るべからず/文事ある者は必ず武備あり/安きに危うきを忘れず
出典 ⇒ 易経・

君子安くして危うきを忘れず
存して亡ぶるを忘れず
治まりて乱るるを忘れず
ここを以って身安くして国家保つべきなり

君子安而不忘危
   存而不忘亡
   治而不忘乱
是以身安国家可保也

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帰る馬



野馬追いも近づいてきているけど毎年写真とっているけどなかなかいい写真がとれない
必ず違った場面がありそれが一時で過ぎてゆくからとれこないのである。
今いい場面だなと思ってもすぐに過ぎてしまうからとれないのである。
野馬追いには毎年相当遠くからも写真とりにきている人がいる。
雲雀が原の中に入るには前から予約していないと入れない
地元でも毎年見ていてもいい写真がとりにくい
それは動いているのもとるからである。
そしてチャンスは一年に一回しかないからそうなる
野馬追いの写真は多様なのだけどそれがすぐに過ぎてしまいいつもとりのがしてしまうのである。
この写真もデジカメがないときの写真だった
これはこれで貴重なものだった。
一応記録としてとっておくためにパソコンに入れた
デジカメの便利なのは一日の行動が写真で記録されることである。
写真の日記になるのはデジカメがでたからでありせらにスマホで常に日々の行動などが写真化される時代である。
だから写真から何をよみとるかが問題になる
写真には相当な情報が視覚的に見れる、でもその情報が何なのか
例えば野馬追いだと旗の意味しているのもが何かという情報を解く必要がある
でも野馬追いの旗のことは地元でも他でも説明されないしできない
それほど多様になっているのである。
白髪のうよな兜をしているのか、やはり老人イメージしているのか?
茶色の髪を伸ばしたようなものもあり一つの装飾である。

雲雀が原では野馬追いの前の誰もいないところに立ってみたら松だけが目立った
ここにこんな松あったのということが発見だった
松は何か身近であり人間的だし何か忠臣という感じになる
ただ人が混んでいる時はあの松に注目しない
誰もいないから松が注目されたのである。

本陣に旗とる武者の勇み来る雲雀が原や松そ立ちにき
タグ:野馬追い
posted by 天華 at 14:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2014年11月19日

野馬追いの旗とシエナのコントラーダ(騎士祭り)の共通性 (ヨーロッパの中世と日本は城が多いことでにている)


野馬追いの旗とシエナのコントラーダ(騎士祭り)の共通性


(ヨーロッパの中世と日本は城が多いことでにている)

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この山は苗字をとったものである

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こういう波頭の旗印も野馬追いにあった

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これは明らかに水運か海運と関係していた
船としては小さい


Aquila ワシ
Bruco 毛虫(カイコ)
Chiocciola かたつむり
Civetta ふくろう
Drago 竜
Graffa キリン
Istrice はりねずみ
Leocorno ユニコーン
Lupa オオカミ
Montone ひつじ
Nicchio 貝
Oca がちょう
Onda 波(マスコットはイルカ)
Pantera 豹
Selva 森(マスコットはサイ)
Tartuca 亀
Torre 塔(マスコットはゾウ)

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自作の海の紋章


たとえば、「カイコ」さんチームは、昔、絹の生産者の集まりだったとか、

13世紀ごろ、シエナの勢力範囲は、海側のグロッセートから、
山側のアレッツオまでと、トスカーナの広域にわたっており、
中世自由都市として繁栄し、コントラーダも42あったそうです。
それが、14世紀のペストの流行で人口が大幅に減少し、
シエナの勢力も領地も縮小し、コントラーダも23になってしまいました。
そして、16世紀中ごろには、自由都市の終焉を向かえ、
フィレンツェの支配下に入ります。
時代の流れとともに、しだいに有力なコントラーダが、弱いコントラーダを
吸収合併して、18世紀に、現在の17コントラーダになったそうです。
「波」のコントラーダは昔、海に面した領地のなごりだそう。

コントラーダは「家」に所属するのではなく、「どこで生まれたか」に
よって決まるそうです。
http://gogosiena.exblog.jp/11524726/


封建制があったのはヨーロッパと日本だけである。他にはないから歴史的に共通している小さな城がヨーロッパには多い。それが日本とにている。騎士がいて武士がいるのもにている。だからヨーロッパの歴史は日本の歴史と共通性がありその比較研究がしやすいのである。ただヨーロッパは中世でも大陸だし交通が地中海などでも盛んだから外国の文化が入りやすくそれがヨーロッパを作り出した要因である。
ルネサンスはそうしたイスラムとかでも外国の文化を取り入れることによって成し遂げられた。
ギリシャから発展してイスラム文化も融合していたのである。イスラムとは争っていても文化も入ってきたのである。例えば数学でもアラビアから代数を取り入れたとかいろいろな学問も入ってきた。ギリシャの文献がイスラムで翻訳されたのとしてまずヨーロッパに入ってきたのである。

ヨーロッパを形成したのはローマ帝国でありキリスト教である。ローマ教会がヨーロッパを支配することにもなった。教会はカトリックによって政治化しているから支配地域が教区に無数に別れた。コントラードの起源もそうした教区と関係もしている。
ただ自由都市というときそれが一つの独立した都市国家なのだから城壁で囲み都市として防備されていた。
絶えず他から攻められることを恐れているから城壁をめぐらして小高い丘に城を作り城下町を形成した。その路地も細く攻めにくいのは日本の升形とか細い路地で見通しを悪くしたのとかにている。
橋にしてもそうである。橋をかけるとそこから敵が入りやすくなるから日本でも橋は作らず江戸時代でも川を人を担いでわたっていた。大きな橋を造れないこともあったが防衛のためにも橋を造らないこともあった。
ヨーロッパの橋は石であり頑丈であり橋を渡ると門があり市内に入る。
橋は市の一つのシンポルとなる。また川はヨーロッパでも中国でも運河のうよになっていた船での交通が盛んであった。川が交通路となり商業が盛んになったのがヨーロッパの都市でありその川の故にヨーロッパが栄えたということもある。
ライン川にして川で結ばれた都市があった。都市は川の近くに教会があり市場があり川と直結していたのである。


ヨーロッパの中世に親近感を覚えるのは日本の歴史とにているからである。一見かなり違ったように見えてもいたるところに小さな城があることがにている。そして相馬野馬追いと共通していることが興味深いのだ。ヨーロッパの中世は様々な紋章が発達したし騎士の時代でもあった。それは侍の時代があった日本とにているのである。ヨーロッパにも旗祭りがあり野馬追いも旗祭りとあるように3000もの旗の種類があることには驚く。
なぜこれほどの旗の種類があるのか謎になっている。
野馬追いの旗印は村々の旗ではない、地域の旗ではない、家系で伝えられた旗であり相馬氏一族関係の旗だともなるがそれが千葉氏とも関係していたりその由来は関西までたどることになるから複雑であり由来が解明できないのだ。
地域で同系統の旗が生まれたときはそれは親戚関係などで同系統の旗が生まれた。
だから野馬追いの旗は村々の地区の旗ではないことがこのシエナのコントラーダの紋章や旗とは違っている。


名誉の鉾先、雄々しき系図
勇気に魅せられた獅子の心
騎士の華、フランスの栄光
勝者にして果敢なる戦士
心賢く事にあたって、あやまたず

ではなぜこんなに多様な紋章が生まれているのか?それはそもそもヨーロッパの歴史はイタリアならろローマからはじまっている。するとローマはアフリカまで支配していてそこには象がいて象をコロッセウムで戦わせたりした。ライオンでも豹でも戦わせていた。
アソリカとローマ時代から関係していたからそうした動物もなじみだったるきである。
現実にカルタゴのハンニバルは象の軍団を率いてアルプスを越えてきて恐れさせたことでもわかる。
このコントラーダの紋様はそうしたヨーロッパのイタリアの長い歴史から生まれているのだ。野馬追いも戦国時代から生まれているから長い歴史があるからその由来が不明になっているのである。
ただ根本的な相違はコントラーダ(地区)の旗印だったことである。都市を守るための一つの軍事的役割もあったのかもしれない、馬を飼うことも重要視されていたことでもわかる騎士と馬も一体であるのは野馬追いでも同じだからである。

日本とヨーロッパの封建制でわかりにくいのはヨーロッパが自由独立都市国家があったことである。日本にはそれがなかったから理解しにくいのである。
自由都市国家があってヨーロッパの文明がありえたのである。

civilizationとは

文明とは civilization の語源 civitas (都市、国家、都市国家)に由来し、同系統の言葉として city (都市)やcitizen (市民) civil (市民の、公民の)があります


このことであるから日本にはその都市がなかったのだから自治都市の歴史がないからそこにヨーロッパ文明を取り入れてもその基本になるものがないから文明化しえたないものとなる。それは中国でもそうであり都市国家から由来して作られたものがないからヨーロッパ文明全体を理解しにくいし取り入れても実際はその本質的なものは取り入れられなかったのである。

コントラーダの紋章をみると野馬追いの旗と共通したものがある。波模様の旗があり
森の紋章があるがこれも木の旗印がある。勇ましい動物の旗印はヨーロッパの特徴である野馬追いでもイノシシとかが良く旗印にあるから共通している。また鹿の角を模した兜もあり共通している。ユニコーンなどはギリシャ神話から入ってきている。
中世の森には狼もいたし日本でもいた。飯館村の佐須村の山津見神社は狼を祭っているのである。
中世では森は食料を得る場所でありそれは狩猟時代や採集時代の継続があった。
そこには狼もいた。毛虫はカイコで絹織物の生産を象徴していたとなるとこれも日本でもそうだったからわかりやすい。羊もわかりやすい。その他の動物はアフリカ由来だけどこれもローマ時代からなじみの動物だったのである。
貝は海側と関係していたというがイタリアは海に囲まれているから珍しくない。

相馬でも海と関係していたがもともと相馬氏は海とはか関係していない出自であるが
意外と中世は海運が盛んであったこともある。相馬氏には海運に従事していた人たちもいた。だから小高には港があり船が相当に出入りしていたのである。
コントラーダにも歴史がありペストの猛威で半分に消滅したとかこれは津浪でこの辺の村がいくつも村ごと消滅したことともにている。一つの街の歴史はそうした重層的になっていてこれを理解するのは容易ではない、ヨーロッパはローマ時代からの歴史があるから軽く2000年前にさかのぼるからちょっと一回行ったくらいでは理解しにくいのである。
ただ理解するとしたら日本との比較で理解するという方法が親しみやすいとなる。

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川で洗濯して橋の門から市街へ入る


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タグ:野馬追い
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2014年07月29日

野馬追いの写真の絵画化


野馬追いの写真の絵画化

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野馬追いー俳句十句 (野馬追いの感想ー祭りには日本人の血が騒ぐ)


野馬追いー俳句十句

(野馬追いの感想ー祭りには日本人の血が騒ぐ)

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若衆の家紋鮮やか陣羽織
夏菊や馬上凛々しく女武者
草原に藪萱草や馬の行く
旗指し物二頭そろいて風を切る
大将や真夏日さして赤き母衣(ほろ)
馬馳せる兵(つわもの)どもが草いきれ
夏草や人馬奮闘相馬武士
鬼百合や兜の角に引き締まる
ノウゼンや男祭りに燃えるかな
ノウゼンや後続の絶えぬ旗の列

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この句になった写真や絵を出したからどれかにあてはまる。

野馬追いではやはり伝統を意識する。今は侍など別に特別なものとして扱われないし侍の家の出がどうのこうのも話題にならない。ただ野馬追いの時は話題になる。
家紋つきの陣羽織を若い者が着れば家を意識する。野馬追いは何らかで家を意識する。
旗指物でも侍だった家に受け継がれたものだからである。
だからどこの家に野馬追いの旗がたち行列に参加していまか気になる。
今回は北海老に旗がたったのを見た。その旗をたどってゆくと鹿島区の行列に参加して
予備演習の神旗争奪戦にもでていた。それが今度は雲雀が原の神旗争奪戦にも出ていたのである。あそこでは屋形とか海老の人が集まり訓練していたみたいだ。

今回は写真でも田んぼではない草原をバックにしてとれた。そもそも野馬追いは雲雀が原の十倍の広さで放牧した野馬を追う行事なのだから草原にあっていたのである。
草原を疾走する野馬がいたのである。今はそうした放牧された馬となる北海道の競走馬を育てる所くらいしかないだろう。北海道には草原があるからそれが見れる。
馬が活躍するのはモンゴルのような草原であった。
ただ不思議なのはなぜ中世にはこうした牧が日本でも全国的にあったのかということである。その後、そうした牧の原は田畑に変えられたからである。中世の農家、鎌倉時代ではそうして広い牧に馬を飼っていたのである。それは農耕馬ではない、戦闘用の馬なのである。日本全国にそうした広い原で馬が飼われていた。
それが江戸時代になりほとんど田畑化してなくなった。
おそらく人口が増えてゆくと田畑の方が必要になり戦闘用の馬はいらなくなったのだろう人間は戦争ばかりしていないからである。

戦闘用の馬は農耕馬になっていった。農家には必ず馬を飼っていて農耕馬としてあった。戦闘用の馬は江戸時代は平和な時代から必要ないのである。
ただ相馬野馬追いは中世からの野馬追いの儀式が継続されていたのである。
それは今盛んに戦国絵巻の再現だとか出陣の法螺貝だとか言ってまるで戦争ふるような感覚になるが実際は違っていた。
法螺貝だって馬を追うために鳴らしていたかのかもしれない、野馬追い行列は戦争に出陣する儀式のようになっている。
それは結局観光化した結果、戦国絵巻ということを宣伝して人集めする羅うになったからである。
野馬追いは江戸時代でも神事であり地味なところもあった。
だから一般の人は柵の間からこっそりと見せられていたのである。
そもそも江戸時代は300年戦争がない平和な時代なのだからそんなに対外的に軍隊を見せる必要がないのだ。伊達氏と戦うわけでもない、だから出陣式とも違うのである。
示威行進とも違っていた。戦国時代なら示威行進があった。それも終わったらそんな示威行進をする必要もないのである。

いづれにしろ勇壮な戦国絵巻だというのは明治以降に作られた見せ物と化した結果、ドラマのように見せるようになったのである。
歴史の真実は本当にわからない、ドラマや小説を歴史の真実だと思うようになったのは現代である。映画化すると映画が歴史の事実だと思って見ている。
虚飾が虚構でも歴史の真実はわかりにくいから事実だと思ってしまうのである。
坂本竜馬が有名になったのは司馬遼太郎の小説だったのである。それも真実はわからないのである。

野馬追いに参加したのは城勤めの人が中心であり郷士などは自由に雲雀が原に集まってきたという。中心は殿様がいる中村城下の侍が中心だった。そのことも変わったことである今は中村城下から街から野馬追いに出る人はほとんどいない、城勤めの侍は明治時代になるといなくなったからである。その代わりに農家の郷士だった人たちが主役になっていった。その変化も大きい、なぜなら中心となるべきものがいなくなり周辺に残った郷士の祭りになったということである。
今では殿様自体が地元に住んでいないし野馬追いの時だけ呼んでくるのである。
野馬追い祭りがあるからまだ殿様として残されているともなる。
他はほとんど殿様は消えたからである。

いづれにしろ祭りは何でもそうだが男が燃えるということがある。祭りに命をかけるということも実際に他で起きている。それだけ熱くするものがあるのが日本の祭りなのである野馬追いに出る人は限られていてもなぜ金をかけても出るのかとなると理屈ではない、侍の血が騒ぐとかなる。普通はそんなことを感じなくても祭りには感じるとなる。
祭りの時にだけ感じる特別な感情があるということである。

ただ時代が変わったのでそれも消失してゆくことがある。例えば中村神社の神輿を担いで本陣山に上るのは祭りのハイライトでるある。でもその神輿をかつぐのは氏子でもはないどこかの会社か工場の人たちだったのである。会社の人に頼まない限り神輿をすらかつげないのである。なぜならあれをかついで上るのはそれなりの体力のある若い人が必要になるからであ。そういう人が氏子として集められなくなっているからである。
だから過疎化で祭りが絶えるという時、祭りは若者が受け継ぐものでありその若者がいなくなれば絶えるということになるからだ。
現代はそれだけ地域のつながりも希薄化しているからそうなる。

野馬追いの祭りは真夏にふさわしいのだろう。祭りというとやはり夏なのだろう。
あの大将の赤い母衣が日がさして一段と赤くなっていたのである。
あの母衣は戦闘の時は中心にあり目立つ必要があった。だから赤がふさわしかった。
ただ紫のもある。大将の目印としては赤が目立つから赤にした。
真夏の光にひるがえる旗や映える兜がにあう。今夏は夏の雲入道雲は出なかった。
いつでも入道雲が出る頃に野馬追い祭りがある。梅雨明けを宣言する祭りでもある。
野馬追いは何か写真でも絵になりやすい。生きている絵巻物だとは言える。


posted by 天華 at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2014年07月27日

雲雀が原に集結した相馬野馬追いの戦国絵巻? (相馬野馬追いのいろいろな話)


雲雀が原に集結した相馬野馬追いの戦国絵巻?

(相馬野馬追いのいろいろな話)

ノウゼンや祭り男の燃えるかな

本陣をめがけて風に伝来の旗をなびかせ駆け上るかも
りりしくも本陣めがけ駆けのぼる兜の映えて旗印かな

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白鷺が先導しているようで格好いい
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これは鹿島(北郷)だけどこれも白鷺なんだろう(同系統なのか)

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北郷勢の行列

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北海老の旗

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□の旗に注意

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同系統の旗

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イノシシを先頭にした行列

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中村神社の神輿が本陣を目指し登る

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放れ馬 が疾走する

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最初浪江の大堀で相馬焼を露天で売っていた人がいた。その人に聞いたら白河で相馬焼をの窯をはじめているという。三軒ではじめたという。もう帰れないと言っていたから
その三軒は白河でこれから生活するようになる。浪江の大堀辺りは放射線量が高いから
帰らないと決めたし他の人も帰らないとなると浪江の大堀の相馬焼は消える。
あそこは高瀬川渓谷もあり景勝の地だったから残念である。
それでも相馬流山の民謡の踊りをしたのは今年は標葉(しねは)郷の婦人部であり浪江の人たちだった。浪江の人は避難してばらばらになっているのだけど何か一つになり練習して晴れの舞台で勢ぞろいして踊りを疲労した。相馬流山は軍歌である。

弟が甲冑競馬に出てきるという人が今年は危ない落馬するかもしれないと言って見守っていた。というのは馬を借りて今回は出場したからだという。
馬というのはやはり人馬一体となるまではなれるのには相当時間かかる。
馬は生き物でありその生き物と通じ合うにはやはり人間と同じように合わせる必要が出てくるから時間がかかるのである。馬は家臣と同じなのである。

今日出会った人で一番興味深かったのが旗をたてて走る甲冑競馬は旗が風で走りにくいだろうと言ったらそうではないかえって走りやすいのだという。
ええ、そうなのと不思議だったが理由を聞くと風を受けて人間も浮くようになるので馬は軽くなり走れるという。馬にとっては風で騎馬武者も浮き上がるので走るのに楽だというその人は若い時甲冑競馬に出ていたから経験で知っていたのである。
それは自転車でも追い風になると早く軽く走れる。また板をもっていたとき風であおられた経験がある。その時浮き上がるほどの風は力を持つ、それは船の帆の働きとにているのだ。ただみんな走りにくいと見ているだろう。
こういうことも馬のことが良くわからなくなっているからなのだ。
馬に乗るということをもう経験している人はまれだからそうなる。
今回も落馬した人が三人ほどいた。
救急車も三回くらい出動した。馬は結構危険であり乗る人も近寄る人も危険である。
馬はかなり野馬追いでは興奮している。だから放れ馬になり乗り手がいない馬が疾走していた。

今回は帰りに南相馬市博物館によったが北海道の伊達市で見つかった屏風図は興味深い。あれだけのものが今頃発見されたというのも不思議である。伊達市は亘理から北海道に移住したので伊達市になった。その伊達市から野馬追いの屏風絵が発見されるというのも不思議である。北海道に武士の末裔は多く移住した。伊達市はそれだけ一団となって移住したから伊達市になった。もともと相馬藩と伊達藩は争ったといっても戦国時代が終わるとかえって親交が深くなった。地理的にも隣り合っているのだから不思議ではない。
この屏風絵などが残っているのは江戸時代中期に描かれたとありその頃から野馬追いは知られていて伊達藩の人が通って描いたのである。

ボランティアで説明する人がいて野馬追いは軍事訓練とか戦いのためにあるのではなく、野馬をまさに追う神事だったという。それが今回の屏風絵でわかり説明していた。
野馬を追うために戦陣のように陣容をたてて放牧した馬を追いこんでいる。
その馬を転がして焼き印を押して神社に奉納するのである。
それを見ている人がいるが柵の隙間からであり神事だから全部を見せなかったという説明があった。


ただし日本には去勢技術は渡来しなかったため、自然増殖のままではオスウマが増加しすぎ、発情期のオス同士の
闘争が激化して群れが不安定となる。こうした牧の管理上の便宜より、野馬追いで若いオスを
捕獲し、これを軍馬に充てるというシステムが採用されていた(福田 1995:119-120)。
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/13038/1/AN00041730_v59_p15-28.pdf

つまり野馬追いは神事であり今のように見せ物として行われていたものではないのだ。
だから旗を見せるなどということもない、戦争の訓練というものでもない、放牧した馬を追い込み焼き印を押して神に献げるのが目的だったのである。
なんか戦国時代の絵巻物として盛んに相馬武士の勇壮な姿を宣伝するがそれも違っていたそれは見せ物となったときそういうふうに特別誇張して宣伝されるようになったのである自分も戦国時代があり戦争のための訓練として野馬追いがあると思ったのである。


京都市登録無形民俗文化財にも登録されている賀茂競馬(かもくらべうま)は、天下泰平と五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する行事。平安時代、宮中武徳殿で5月5日の節会に催されていたものが起源で、その様子は『徒然草』などにも記されている。
現在では左方右方に分かれた2頭ずつで6番の競馬が行われ、2頭の馬が古式に則り、境内の馬場で速さを競い合う。左方の勝ち数が多い年は豊作とされている。


くらべうまであるというときもこれは馬に乗るにしても流派がありその流派の披露だったという説を言っている。2頭の馬が古式にのっとりとはそういうふうな乗馬の姿を披露していたのかもしれない。
ともかく歴史には本当に誤解が多い。そんなに戦争ばかりなかったけど面白いから戦争に注目する。人間はそんなに殺し合うことなどしたくない。でも歴史でも何でも自分に火の粉がふりかからない限り殺し合いでも面白いとなるのが人間である。
他人の不孝がテレビでドラマのように見ているのもそのためである。
相馬野馬追いとなると戦国絵巻の再現だとしきりに地元でも宣伝しているがそれは現代になると観光化してドラルのように見せるからそうなるのである。
実際は伊達と相馬は大規模な戦争はしていないのである。
自分自身にしても戦国時代の軍事訓練だとばかり洗脳されてきた。
伊達と戦うためだと詩にもしたがそれもそうした現代になりかえって誇張されたものが真実だと思うようになっているからなのだ。

ただ放牧された馬を戦陣を組んで追うこと自体が戦争の訓練にも通じていたのである。
モンゴルなどは別に戦争しなくても遊牧民でありその生活そのものが戦争になっても別に訓練しなくてもそのまま移動すれば戦争することができたのである。
遊牧民は馬でも羊でもそうした動物を集団でかいならし移動させる。それは何かその生活自体が戦争の準備だという側面があり戦争に強い集団が自ずと形成されていたのである。
野馬追いで気になるのはやはり旗印である。今回はどういうわけか鯰の旗印が気になったどうして鯰の旗印があるのだろうとなる。野馬追いには旗印が本当に謎になるのだ。
なぜあんなにいろいろな旗印があるのだろうかとなる。
その解明はほとんど不可能である。由来がわかる旗印自体が極めてまれなのである。


鯰の旗印は二つあり帰り馬で見たがデジカメの電池が切れてとれなかった。
どこの村の旗印なのかわからない、どうして鯰になったのかも不思議だとなる。
いづれにしろやはり野馬追いで雲雀が原に人が集まると地元の人も集まりそこで情報が集まる。あれが弟だとか自分も前は甲冑競馬にでていたとか生々しい話しが直接聞けたりする。そこに祭りの意義がある。なぜ祭りに魅了されるのか?
祭りに血が湧くのが日本人である。祭りには何か歴史でも文化でも何かを血肉化したものがあり理屈ではなくて日本人の血が沸かせるものがある。それでフランス人が日本の祭りを見て歩いたというのは正解だった。祭りに日本人の何かが結実しているのである。
だから祭りで死ぬ人がいてもでる。金がかかってもでる。今日も落馬した人を三人見た。野馬追いも一面危険なのである。救急車が三回くらい出動した。


それでも祭りには何かそういう理屈とか危険を越えても参加したいものが働くのである。
見る方にしても祭りは血が踊るということがある。見るだけでなくプログでも伝えようとして見るのはただ見ているのとは違う。伝えようとする時、明らかに祭りに参加しているのである。野馬追いは写真好きな人が相当来ていた。雲雀が原内に入れる許可を個人でとっていたひと150人とかいたし報道陣をあわせると300人以上いる
この許可証は5月ころにとるものでなかなかとれないという。
それだけ写真をとるのに熱心な人がいるのが野馬追いなのである。

タグ:野馬追い
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2014年07月26日

野馬追いー北郷の部(南相馬鹿島区) (撮影ポイントで撮った写真)ー草原と馬)


野馬追いー北郷の部(南相馬鹿島区)


(撮影ポイントで撮った写真)ー草原と馬)

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北郷(鹿島)副大将の家

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北海老村で見た旗がここに出ていた


夏菊や馬上凛々しく女武者
草原に藪萱草や馬の行く
馬馳せる兵(つわもの)どもが草いきれ
夏草や人馬奮闘相馬武士

草原に風のそよぎて馬の行くその旗鮮やか夏の日映えぬ
忘れらる馬も家臣や着飾りて練り歩くかないななきひびく
大将の真紅の母衣(ほろ)の夏日さし一段と赤く迫りすぎゆく
真夏日の黄金の兜にさし光り前へ前へと進む行列
家々の旗印映えて夏空に御神旗あがり馬いななきぬ

北郷の副大将の家に宇多郷(相馬市)が合流して明日は雲雀が原に相馬藩の武者が集結するそこからいい写真を撮ろうとして待っていた。あそで知っている人は写真をとるために待っていた。野馬追いは街中を通るのでなかなか絵になりにくい。
田んぼの中を先祖伝来の旗をなびたせて出る時、何か昔がよみがえる。
野馬追いは街中から出るのはごくわずかである。ほとんど農家からでる。
それは相馬藩は郷士であり農民だったからである。
そして500騎出るとすると多いように思えるが相馬藩の人口からすれば一パーセントにも満たないともなる。だから意外と地元でも野馬追いに出る人を知る人が少ないのである。


野馬追いは行列の前に家に旗がたったときからはじまっている。今回は北海老で旗がたったのを見た。その同じ旗印が行列にも出たし明日の雲雀が原の神旗争奪戦の予備演習の旗取りにも二つの同じ旗が出ていた。するとあれは北海老から出たものだということがわかる。馬はどこの村から出るのかわかりにくい、ほとんど旗見ただけではわからない。
今回は北海老で見たからわかった。ただ行列だけに参加したり旗取りには出ない家もあるからどこの村の旗なのかわかりにくいのだ。


撮影ポイントでとったがあそこは田んぼだったが原発事故で田畑を作らないので草原化したのである。何度も書いているようにこの辺は田畑が草原化してしまったのである。
ただその風景が野馬追いとか馬にはあっているのだ。
もともと原っぱで馬は放牧されていたからである。雲雀が原はそういう広大な馬の放牧場だったのである。十倍以上も広い放牧場だったのである。
だからこうした草原が原っぱに馬は放たれていたのである。
だから草原から吹いてくる風が涼しく馬も気持いいとかなる。
モンゴルの草原や平原に馬はあっているのだ。
今年は女武者が多かったみたいだ。夏菊が咲いて絵になっていた。
野馬追いはやはり馬の時代がよみがえるということがある。
馬がいなないたり糞でも汚れたりする。

今は一時的に競馬馬を借りるのが多いがそれでも馬がこの時用があり馬が人間と一体化してあった時代がよみがえる。馬は機械とは違うから人間と同じであり家臣にもなっていたそれは昨今のペントブームと同じである。動物も人間に飼われれば人間化するのでてある
ともかく野馬追いは意外といい写真がとれない、それは動いているし一年で一回したシャッターチャンスがないためだった。いくらいい写真を撮ろうとしてもそのチャンスが瞬時だからいい写真がとれないのである。
今回はねらいをつけてとったからいいのがとれた。
あそこで待っていればいいのがとれる。あういう場所は今はなかなかない。

明日は雲雀が原だけとここになると混んでいるしさらにいい写真をとるのがむずかしくなる。でもプログに出すとなると行かざるをえない、原町になるとどこでどう撮るかがわからなくなる。そして絶えず動いていて一回限りだからいい写真がとれないのである。
今回は撮影ポイントで待っていたらかとれたが原町ではうまくいかない。
デジカメだから数をとればいいのがとれるということはある。
ただやはりいい場所でねらっていることがいい写真をとるには必要である。
ともかく野馬追いの写真撮影は意外とむずかしいのだ。

タグ:野馬追い
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2014年07月25日

八沢浦に面した北海老に立った野馬追いの旗 (行列の前からはじまっている野馬追い)


 
八沢浦に面した北海老に立った野馬追いの旗

(行列の前からはじまっている野馬追い)

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この旗は□だけの模様のが二つあった。旗帳で調べたが北海老にはない、カラーではないので正確ではないが北屋形に斜めの線が二つ入ったのが出ていた。
海老村が南海老から北海老から上海老、下海老と別れたのは海に面して湊や塩場ができて人口が増えても養えたからである。
ただ八沢浦の方に伸びているから八沢浦だと勘違いしてしまう。
八沢浦は明治になって干拓されたのである。
だから屋形からの山のつつぎはその裏でも八沢浦ではない、海に面した所は昔は湊であり八沢浦のような干拓した田はなかった。
北海老にはニコニコ堂の喫茶店のある所も海老だった。屋形村と接しているからあそこが海老村の内だということでわかりにくくなる。

なぜ斜めの線が二つ描かれた旗が海老村にないなのか?
北屋形にあるとなるともともと北屋形が本家としてその旗主であり海老村にあとで分家した人がいたのかもしれない、ただあそこは北海老村でも何かあそこに野馬追いに出る人が集まる。上の方にもいくつか旗が立っている。
だから北屋形の人も集まるからあの旗がたった。
黄色に黒地の日の丸は出ていない、カラーの旗帳でないから判別できない、
ともかくあそこの旗は北屋形の人も集まっている
だから北屋形の旗が出ているのである。
北屋形も八沢浦に面している。
北屋形も海老でも海とかかわっていたのである。

この旗のたった所は前に山があって津波がさえぎられてさほど被害がなかったみたいだ。津波は地形に左右される、八沢浦は地形が入江になって入り組んでいて複雑なのである。だから海の近くでも前の山にさえぎられて助かった部落もあった。
南海老村が壊滅したのは前にさえぎる山がなかったから直接津波を受けた所は村自体が壊滅したのである。烏崎村でもそうだし磯部村でもそうである。
つまり津波から逃れる助かるには高台も必要だが前に山のあるような地形に家が立っていれば死んだり壊滅したりはしなかったのである。
そういう村にはなっていなかった。
津波のことなど全く考えて家も村も作っていなかった。
いづれにしろ野馬追いは野馬追いの行列だけではない、その前から野馬追いに出る家に旗がたつ時からはじまっている。その野馬追いに出る家がなかなかわからないのである。
相馬藩内でも広いからどこの家から出てその家の旗印がどういうものか知ることができないのである。
ただ今回は北海老村の家に旗が立ったのを見た。あの家は古い家だなとわかった。


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2014年03月14日

夏に燃える雲雀が原 (野馬追い神旗争奪戦ー詩)


夏に燃える雲雀が原

(野馬追い神旗争奪戦ー詩)

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大将が雲雀が原に到着

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相馬流山の踊り


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ここはクリック拡大



雲雀が原に続々と相馬の武士の結集する
宇多郷、北郷、中ノ郷、小高郷、標葉郷、
三社の神輿をかつぎねり歩く
大将の兜に身をひきしめその凛々しさよ
夏の真白き雲の沸き上がり
日ざしは強く照りさしぬ
相馬流山の軍歌は朗々とひびきわたり
打ち揃い金の扇は一切に翻り光を受けてまぶしも
夏空に神旗はあがり
この時馬はいななき競いせりあい
この時雲雀が原は戦場なれ
神旗をとれば馬も踊り跳ね御本陣に向かう
人馬一体となり御本陣に駆け上る
武士(もののふ)の誉れよ、馬も人も
殿よりの褒美を受けて誇らしく
かの武士は誰そ、いづこの家や村や
その旗指物の一段と映えにけり
注目の的となりしこの一時よ
そのために一年の長きを馬を飼う
青春の日の蘇りしように
真夏の暑さに馬も人も奮闘する
野馬追いの日の待ち遠しかも
その時の相馬の武士(もののふ)の奮いたち
法螺貝は街中にひびきわたり
晴れ舞台に夏の日ざしをまともに受ける



伊達に抗して荒ぶる馬

黄金の扇のそろい日に映え眩しも

竹に雀は仙台様の御紋、相馬六万石、九曜星

粛々と相馬流れ山の軍歌ひびけり

いななきて荒ぶる馬は伊達に抗す

相馬の武士(もののふ)の心意気

武田流法螺貝鳴りて先陣を切るは

誰が家の旗印、馬も勇み馳せるも

御使い番−若者一の旗走りゆく

中ノ郷、小高郷、標葉郷、北郷、宇多郷

雲雀が原に総結集して旗の列

かつては山中郷も一枚加わりしも

ここに鍛えて伊達を退ける昔の武勇

いななきて荒ぶる馬は伊達に抗す

緋の母衣大将の威風堂々と従者

先頭に藩主の旗、最後尾に藩公奥方旗

相馬藩主の若殿を守り列なす絵巻かな

本陣に勲し駆け上る旗印は誰が家そ

雲雀が原に今し夏の雲湧きにけるかも

今や城より出て主君から厳しき命下る

馬上一せいに勇ましき法螺貝鳴りわたり

相馬の山々、大地、海にも木霊して

藩主の下に 集結して打ち揃う相馬の武士(もののふ)

先祖代々の旗印はなびきて華麗に練り歩く

相馬流山の軍歌の雄々しくひびき

藩内の社もここに総結集して雲雀が原へ

武田菱の旗の護衛に総大将の紫の衣鮮やかに

先導す一の旗の伝令の若者は駆けめぐる

雲雀が原に千の旗ゆれ御神旗を馬せりあいて奪い合う

主君の誉れを得むと馳せ上る若武者の馬よ

この時老将も勇みかつての武勲の蘇る

人馬一体、荒ぶる馬の鼻息荒しも

山中郷、中ノ郷、小高郷、標葉郷、北郷、宇多郷

代々の郷士、大地を耕し郷土を守る者たち

今雲雀が原に相馬藩の力は結集せり

夏の大空に法螺貝はひびきわたり

村々に土着して、代々の旗は眩しい光のなかにはためけり

相馬藩の隅々の力のここに総決起して伊達に立ち向かう

三百年つづきて変わらず君主をいただき

相馬の武士の誇らかに年に一度の祭りかな


詩としては前の方が優れていた。今回はただ夏の野馬追いということで作った。

野馬追いでは雲雀が原の神旗争奪戦て最高潮にもりあがる。
野馬追いが旗祭りというとき、旗の種類は多い。


平成4年の約、408騎を調査した結果


伝来旗 101

役旗 140
家紋旗 69
創作旗 43
(原町市市史10)

旗で多いのが意外と役旗だった。何が役旗見ていてもわかりにくい、
伝令の一の旗はわかりやすいが他はわかりにくい、
でも役旗が多いということは戦場では何かの役目があって旗があった。
旗を見て戦場で戦った。だから役旗は実際は一番大事になる。
家紋旗は最近増えているのは伝来の旗が布であり劣化して残らないからだそうである。
鎧とか兜は残っているというのもわかる。鉄だから残りやすいのである。
確かに布だと痛みは激しくなるからいつまでも使えない、それで家紋旗に変える。
野馬追いは歴史の再現だから創作旗はまれだと思っていたが多くなっている。


野馬追いでいつも不思議に思うのは何であんなに華麗であり美的なのかということがある。
殺し合いのときそんなに飾りつけることに夢中になることが今では解せないのである。
「昔はその家紋に代わって図柄を工夫して、ほかには絶対にないというものを作った」

こういうふうだから図柄にこった。他にないものを作るには独創的になるから芸術的にもなる。
それでも戦場にゆく、人を殺しにゆくという時、何かあんなに鎧でも実用性があっても装飾性があるこが解せないのである。

現実に明治維新の時の戦争は着飾る武士はなく機能的な兵士になった。
さらに元体の戦争は機械の戦争でもあり着飾るものもなくただ
人を大量に殺せばいいとか戦争ですら非人間的なものになっていった。
そしてついにロボットが戦場で人を殺しロボット同士が殺し合う
SFの世界が現実化している。そこにはもう人間臭いものもなくなる。


兜でもあれをかぶると身がひきしまるし見ている方も格好いいとかなる。
庶民が武士になりたいうといときあのような格好いいということを見ればそうなる。
今は兵士になりたいという人はいない、ただ人殺しの機械のようにされるからである。
全面に出てくるのは人間ではない、最先端の飛行機とか戦車とか船とか主役は兵器であって人間ではない。

野馬追いで感じるのは野馬追いの時だけ馬も生きる。馬も街中を通りいななき着飾って馬も誇らしく見える。
馬もその時人間と同じなのである。馬は今競争馬としてしか生きていない。
この時は昔の晴れ舞台にもどる。馬が一頭だけではない相当な数として馬が活きていることを実感する。
旗祭りだけど馬の祭りでもある。


ともかくこの辺では標葉郷は浪江町だけどそこが消失すると規模が若干小さくなる。
やはり野馬追いは数が多いと圧巻になる。江戸時代は山中郷の今の飯館村からも出ていた。
大熊町や双葉町も相馬藩内だった。その相馬藩が一部欠けてしまう。

祭りは地域を一体化するものであることは確かである。
一体と化した相馬藩を実際に見れるのが野馬追いである。そこに祭りの意義がある。
ただ野馬追いに参加している人は500頭出たとしても500家族だから少ない、人口が10万として500所帯しか出ないのである。
武士は相馬藩でも選ばれた人たちだった。ただ相馬藩では武士といっても在郷給人が多く農民であり武士だったのが多い。
鍬先給人がいたように何か農民的なのである。

今でも野馬追いに出るのは農家であり相馬藩でも相馬市の街内から出る人はほとんといないのである。
城下町を形成していた時は野馬追いの訓練にてていたが明治以降は城がなくなったきだからいなくなった。
でも相馬市は鉄道が通っても町並みはもとのままであり防衛のために細い道が多く入り組んでいる。

野馬追いは一年に一度の晴れ舞台だとは言える。だから金がかかっても出たいとなるがみんながでれわけではない、
そこに祭りとして問題がある。

青森のネブタ祭りが誰でも飛び入りでもハネトとなって参加できるのとは違う。
つまり相馬藩内でもただ見ている人が大勢であり実際に祭りに参加できるのは極めて限られた選ばれた人たちなのである。
だから完全に実際に祭りに参加する人とたた見る人に分かれてしまうのである。

野馬追いは写真をとる題材としていいのだが意外といい写真がとれない
地元の人でもとれない、それは動いているからいい場面をとりにがすのでてある。
そして祭りは一年に一回しかないから写真は祭りの時したとれない
だから写真とるとなるとここに長年住んでもいい写真がとれなかったのである。

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2013年04月18日

北右田の人に津浪の被害と野馬追いの話しを聞く (馬は旗印を見分けられる?)


北右田の人に津浪の被害と野馬追いの話しを聞く

(馬は旗印を見分けられる?)

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補償金はこの線で分けられた
御刀神社の所で区切ったみたいだ
(クリック拡大)

橋の所で北右田の人にあった。その人は野球場の近くだった。やはり津浪を見てから逃げて助かっている。あそこは海岸から相当距離がある。だから津浪が来たのを見て逃げて助かっているのだ。
こういう話は本当に多い、ある程度離れていると津浪が見える場所だと見てから逃げても助かるのである。ところが前に家があったりすると津浪が来るのが見えないから逃げ後れるということもある。海岸に接したところはどこも被害が大きかったがある程度離れていると見てから逃げても助かる。
おそらく大川小学校の悲劇は前に家がたて込んでいて見えなかったのである。あそこもそれなりに海岸から距離があったけどほとんど海が見えないし津浪が来るのが見える場所ではなかった。
それが悲劇につながった。それから津浪から避難しろと車で逃げさせようとした人が逃げ後れて死んでいる。津浪を見に行って死んだ人もいる。
あそこに消防の分署がありあそこの消防隊員が避難しろと車で回っていて津浪にのまれて死んだという。消防隊員はそういう役目だからなんとか避難させようとしてかえって死んでしまった。
これは勤めでそうしたのだから悲劇だった。磯部でもテレビで父親の消防隊員が死んで子供が残されたことを報道していた。消防隊員の悲劇は今回の津浪でかなりあった。
そして補償するのは消防隊の分署があった鎌田商店の前と後ろで分けられたという、前は補償されるが後ろは補償されない、自分の家は補償されないと嘆いていた。それもどうしてなのか理由がわからない。


●野馬追いの話

その人の家は野馬追いに出ていたいう。それも甲冑競馬にでていた。その人も出ていた。野馬追いに出る人は地元でもなかなか会えないしわからないところがあった。まず甲冑競馬に出る人は少ない、選ばれた人である。あそこにいつも馬を飼っている人がいた。二軒くらいはいつも見ていたからわかっていた。ただ甲冑競馬に出ていることは知らなかった。だからその人は相当に馬に詳しかった。
馬を知り尽くして馬にのっている。甲冑競馬では馬に精通しないと出れない、最高速度で80キロにもなるという。あれは見ているだけでも迫力があり恐い。乗る人もだから相当訓練された選ばれた人なのである。自分の馬には乗せないというときけがするからだという、馬は人をみるから慣れている人でないと危ないという、馬にもいろいろあって気性の荒い馬もいるしおとなしい馬もいる。野馬追い行列に出るのは大人しい馬らしい。行列だけならそれほど馬に精通しなくても乗れる。でもあの甲冑競馬は旗さして甲冑つけて80キロものスピ-ドになるとこれは相当な訓練が必要であり熟練者でないと乗れない、その人はかなりの熟練者だったのである。だから馬のことをいろいろ知っていた。

馬も人間と同じであり気心を通じ合わせないということをきかない、相手もそのことを知っている。だから他人の馬にのると落馬しやすい、だから馬は貸したくないと言っていた。 何でも小高の神主が落馬してけがしたとか言っていた。日頃馬に乗る訓練をしていないからそうなったとか馬は実際はかなり恐いものなのである。自分も一回中国のフフホトでモンゴルの馬に乗った。これはかなり小型なのである。だから乗りやすいことはあった。でもそれが全力疾走すると落とされるようで恐かった。はじめて乗っても乗れたのは小型だったからである。そもそもあんな小型の馬でモンゴルが世界帝国を作ったということがぉからなかった。日本の馬はそれよりずっと高いし恐い、モンゴルの馬は足がつくほど小型だったからだ。だから日本の馬は恐いのである。落馬したら大怪我をするし死ぬことだってありうる。そうして死んだ人も今の交通事故のように昔はあったろう。


元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めで戦没した人びと556体と、128頭分の馬骨が出土しました。計測の結果、馬の体高は109〜140cmの間にあり、平均129cmであったといいます。現代の馬は、150〜170cmで、体高148cm未満はポニーと呼ばれています。宇治川合戦で、佐々木高綱が乗っていた馬は、名馬生食(池月)で「八寸(やき)の馬とぞ聞えし」と平家物語に書かれており、八寸は四尺八寸(約145cm)の意で、馬は四尺(約121cm)を定尺とし、一寸高いものを「一寸(いっき)」四寸高ければ「四寸(よき)」と言うそうです。藤原国衡の馬は、奥州第一の駿馬で、高楯黒と称し九寸の名馬であったといいます。
http://www.geocities.jp/rockfish384/zakki/zakki24.htm


日本の馬もモンゴルと同じように小型の馬だった。モンゴル系統の馬が入ってきたからそうなったのか九寸の名馬というと倍の大きさになり今の馬とにたものだったのか?時代がたつにしして馬が大きくなったのだろう。


記憶力は優れており、一度覚えたことはなかなか忘れません。人間についてもよく覚えており、自分の事をかわいがってくれた人にはそれだけ従順になります。


馬の気持ちを理解し、馬と心が通じ合うことが馬の管理においては絶対に必要です。馬は非常に習慣性の強い動物ですから、毎日同じ事を同じ時間に同じ方法で行うと、馬の扱いも楽になります。つまり、日常の一定した動作を繰り返すことによって馬もそれに慣れ、作業もスムーズにはかどります。
http://www.green-grass138.com/qa2.php


このことをその人もしきり言っていた。馬と常に親しくして気心を通じあわせている必要がある。だから他人には馬を貸したくないというとき危険だからである。

旗をあげるときは馬の見える前でやれという、なぜなら馬は旗印を覚えるという、ええ、本当なの?

馬にそんな能力があるの?


記憶力は優れており、一度覚えたことはなかなか忘れません。


馬については自分など全くわからない、だから馬を知ること自体がはじめてのことであり知り得ようがない、ただ馬は乗ってみてわかるものであり経験がなくては馬をしりえようがないのだ。つまり人間はあらゆることが経験であり経験しない限り実感できないものが多いから困るのである。
馬自体を知ることは相当な経験の積み重ねでしかわからない、これは生き物だから余計にわかりにくい、最近ビ-バ-に噛まれて死んだ人がいた。あんな小さなものでそんなことができるのかと驚いた。ビ-バ-を知っているのはアニメのようなものでそれは人格化されたものであり本当の野生はみんな恐いものなのである。そもそも野生化したもの動物などのことが人間は具体的に接していないからわからなくなっているのが現代人なのである。最近ネコも特定のいつも餌をくれる飼い主の声に反応していた。動物はそれなりに生き物であり人間と通じるところがあるのだ。ただ犬とか猫は野生の動物とは違っている。ビ-バ-にかみ殺されたというとき野生というものがどういうものかただテレビとかアニメで見ているから警戒心もなくなったのである。本当は野生とか自然は恐いものである。今回の津浪もやはり自然というのは恐いものだということを思い知らされたのである。自然とか野生から離れてしまった文明に対して自然の恐ろしさを見せつけられたのである。自然というのを人間は文明化してわからなくなってしまって警戒心も喪失してしまっていたのである。だから突然津浪が襲ってきて甚大な被害を受けた。それはビ-バ-に噛まれた死んだこととにているのだ。

それにしても野馬追いには先祖伝来の旗印をもっていないと出れないと思っていたその人は野馬追いをとりしきる上の人に断れば誰でも出れるという。ただ馬に乗ることができる人だという。これもそうなのか?旗印をもっている古い農家の出でないと出れないと思った。なぜなら町内では市内では野馬追いに出る人をめったにみないからだ。ただ馬を飼っていなければならないから農家でないと出にくいことはある。その人は石神の親戚に旗を貸したという、そんなこともしているということは部落が別な部落に同じ旗印があるがあれは親戚だったから同じになっていたのだろう。病院に入院して老夫婦が親戚十軒があると言っていた。妻と夫をあわせてそれだけの親戚がいて絶えず暇なく親戚の人が見舞いにきていた。こんなに多かったら付き合い自体が金でも大変である。田舎では親戚が多い人が普通である。自分のような親戚がゼロというのは異常だとなる。また親戚がいないと田舎では暮らしにくいことがあるだろう。そもそも部落だと今はそうでもないにしろみんな親戚のようになってしまう。まさに今でも残っている部族感覚になってしまうのである。だからかえってよそ者はこういう田舎には入りにくいとなる。


野馬追いというと他では地元の人が誰でも参加できるとかみんなでやる祭りだと思っているが実際は多くても500人だとする人口が10万単位である相馬藩内では極わずかであり地元の人も野馬追いについて良く知らないということがあるのだ。これは青森のネブタ祭りなどとはちがう。ネブタ祭りだったら誰でも旅行者でも参加できる。ハネトになれるのである。衣装も借りられるのである。
野馬追いは馬に乗ることがまずできないと参加できない、だから馬に乗れれは参加できるのかとなる。そうは見えなかった。旗印自体が新しく作ったものは極わずかでありそれがみんな参加できるわけではない、だからその人の言ったことも納得できないのである。野馬追いは何か小高の人は参加が増えるらしい、補償金が入ってきたから金があるから参加するのだという。野馬追いに参加するには金がかかるのである。第一馬を飼っているだけでそれだけでも金がかかる。

それからその人の話で面白かったのは甲冑競馬では馬に3万くらいする栄養ドリンクのような薬を飲ませるという、草だけではたりないから黒砂糖を食わせたりと栄養をとらせるという。これは競馬の競争馬でもしている。オリンピックの100メ-トル競技でも薬を飲んで走って失格になった人がいた。馬もあれだけのスピ-ドを出して競争となると薬が必要だったということである。
その人はともかく仮設に入っていて小高の人は補償金をもらっているけどもらえないから不満になる。また津浪の補償でも線引きされてもらえないからかなり不満を言っていた。仮設でもだから小高の人と補償金をもらえない津浪被害者は対立してしまう構図がある。一緒に住んでいるから余計にそうなりやすいのである。

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これらは同じ系統の旗であり親戚関係だったのだろう?
村は違っていても同じ系統だからである。
ただ姓が同じ場合もあるが姓は変わっている
旗印を貸すということもあるから必ずしも親戚だけとは限らない
ただ何かしらつながりがあって同じ系統の旗印が他の村に伝播したのだろう

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2012年07月29日

復興の野馬追い(雲雀が原に結集)


復興の野馬追い(雲雀が原に結集)

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雲雀が原に結集

クリック拡大!

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神旗争奪戦
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山百合や出陣の郷士送りだす
雲雀が原旗のなびきて夏の蝶
若武者に金色の兜光るかな
夏菊やなお行列のつづくかな
法螺貝のひびくやまじか夏の山
本陣へ上るや馬のいななきぬ


小高郷標葉郷の名ひびきけり雲雀が原に復興願ふ

交じり合う旗のあまたや雲雀が原復興願い神旗をとりあふ

雲雀が原でしきりに小高郷と標葉郷(しねは)郷のことをスピ-カ-と何度も言っていたのは小高郷もまだ警戒区域から解除されたばかりで正常化していない、標葉郷(しねは)は浪江は警戒区域になり人が住んでいない、それでも小高郷でも神社が参加したり普通に行列を組んでいた。標葉郷も結構参加していたみたいだ。ただ神旗争奪戦では例年より少ないことが目立った。400騎くらいはでたからこんな状態では良く出た方だろう。普通は500騎はでている。奇妙なのはどうしても野馬追いに出ているのは郷士だった農家の人である。すると農家の人の生活の基盤は田畑なのである。その田畑が相馬市をのぞいては草ぼうぼうになっている。それがどうも違和感を覚えるのだ。郷士はもともと土着した農民であり田畑がないということは何か肝心なものが欠けているという感じになる。いつもなら田んぼの中を青田の中を旗をなびかせでてくる所がいかにも野馬追いらしい風景だったのである。それがないということがやはり異常なのである。盛んに郷大将と言っていたのは
郷大将は各郷の大将。各色の母衣を着用する。宇多郷、北郷、中の郷、小高郷、標葉郷がある。

21騎少ない37騎が標葉郷から参加した普通は50騎だとすると結構多い
副会長が64歳で死んだというのは何なのだろ。二本松で出陣式だった
http://mytown.asahi.com/fukushima/news.php?k_id=07000001207150004


今日は暑かった。見ているだけでも暑いし疲れる。炎天だった。でも結構見物客が多かった。復興の野馬追いということでかえって見る人が集ったのかもしれない、浪江の標葉郷や小高郷の人たちは仮設に住んでいる人が多い、そういう人も見に来たのかもしれない、復興を願う野馬追いになったのである。そもそも祭りは共同体の一体感を高めるものとしてあった。だから復興とかには向いていたのである。

野馬追いが外から見たとき誤解しているのは誰でも参加できる祭りだと思っている。旗も勝手に作っていいと思っているかもしれない、野馬追いは基本に文化財保護というのが基本にある。勝手に歴史を歪めるようなことは許されない、旗印を勝手には作れない、一つ二つくらいは作っているかもしれないが新しい旗を勝手には作れないのである。先祖代々伝えられた旗しか使えないのである。そこが他の祭りとは違っている。とにかく旗印は代々伝えられたもので勝手に新しく作った旗は許されないのである。


旗をつけて競争する競馬は迫力がある。テレビで競馬の中継を良くしているけと実物が走るのはテレビの画面で見るのとは全然違う。土煙をあげて走る姿は迫力がある。怖い感じすらする。あれだけの早い馬にのるとは相当訓練も必要である。競馬はテレビの中継で見ても迫力か伝わらないのである。こういうことはいくらでもある。実物とテレビの小さい画面で見るのとは違うのである。そういうところから世界を錯覚してみているのが現代である。例えば戦いの場面など現場で見たらものすごい迫力になる。そんな現場を再現しようがないのである。そこに戦争に対する錯覚が生まれる。実際に最近でも戦争を経験した人は生きている。その人達の経験したことはとても語りきれない、伝えられないのである。最近一遍のことを自分の今の状態にてらしあわせて興味をもった。一遍のことを理解するには本読んだくらいでは理解できない、あまりにも現代の感覚からは逸脱している。例えば死体が道端にごろごろしていてその死体を野に捨てる。そのときただ念仏を唱えて浄土にゆくことを祈るしかない、死ぬことが幸せなのである。生きていることが生き地獄だったのである。実際に自分で死体を運び野に捨てる、それがとても言葉だけからはイメ-ジできない世界なのである。そういうことが津浪で死んだ人に起こったことは確かであるが被害のない人は実感がいまいちもてないのである。

野馬追いにしてもなかなか馬がどういものか理解できない、馬が全速力で走ってきたら車のように怖いものだと思った。そういう感覚がテレビからでは体験できないである。


ともかく今年の野馬追いも特別なものだった。復興の野馬追いであった。つまり今回の野馬追いは別な意義が生まれたのである。
だからかえって別な価値が生まれた。新たな価値が付加されたのである。戦争でも弔い合戦などとなる指揮があがったと同じである。
戦争はただ勝つためにだけに戦いない、何か意義が必要になる。命がかかっているからそうなる。
三国志で劉備が絶えず義をかかげていたのはそのためである。日本の戦争だって未だに大義の戦争だったと言わざるをえないのはそのためである。人間は死ぬとなったら命をかけるとなると高いモラルが必要になってくるのだ。
人間は単に利益のために命をかけないのである。そこが仕事でも誤解しているのだ。人間は利益のためにだけでは仕事にならない、
高いモラルが必要なのである。武士にはそういうものがあったのだろう。ただ利益だけだったら武士道など価値がないからだ。

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2012年07月28日

復興の野馬追い(野馬追いの見方-旗を良くみること)


復興の野馬追い

(野馬追いの見方-旗を良くみること)


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御家という旗は新しく作った旗か?
見かけない旗である。
ただ藩ではなく御家中と言っていた。

一の旗は先導役である。

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なぜハサミなのか?


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大将の母衣

炎天下大将導く一の旗
母衣赤し大将進む後ろかな
復興や旗なびきつつ打ち進む


野馬追いの見方は他の人はわかりにくいし地元の人でもわかりくかった。これだけ見ていても実は見ていない、見方がわからないのである。最近わかったことは野馬追いは一年に一回しか見れないから何度みても貴重なのである。そして意外と早く通りすぎるからゆっくり見れないのである。この旗なんなのだろうなというとき通りすぎてしまう。何度見てもその旗は一回しか見れないし一年に一回だから良く見れない、旗の種類が多いからだ。この旗なんだろうなと思っていると通りすぎてあとは来年まで見れないのである。そこに意外と野馬追いが毎年見ていても何かいつもものたりないものとして終わる原因があった。つまり良くゆっくり旗でもみていられないことなのだ。だから写真に旗を記録することが大事である。とにかく写真をとって記録させてあとでふえかかるほかない。


野馬追いは一回見て終わりだとよく言われる。ところが実際はそうではない,野馬追いは何回も見ないとわからない祭りだった。地元毎年見ていてもこの旗なんなのだろうと必ず毎年違った旗を見ているのである。それだけ旗の種類が多いのである。旗のことを前にも書いてがいろいろあってあとは書いていない、野馬追いはやはり旗祭りだから旗のことをわからないとつまらない、どうしてもこの旗なにを意味しているんだろうとかとんな謂われあるんだろうかと見るがすぐ通りすぎてしまうから記憶から消えやすいのである。そしてあと実物を見れるのは一年後になって結局何年たってもよく見れないというのが野馬追いだったのである。いろいろな旗があってもいちいち詳しくゆっくり見ていられないのである。今回は樹の燃えるような旗印があった。あの旗は面白いと思った。もう一つなんでハサミの旗印なのだろうと思う。そういう疑問が常にあるのが野馬追いなのである。


ともかく今日は34度もあった。暑くて出るのも見るのも暑いから大変である。家の前通りすぎたのちょっと見ただけだった。下にク-ラあるからそこで涼んでいた。明日は雲雀が原に行ってみるか、暑いし12時前まで行かないと見れない、復興の野馬追いだから見る価値がある。数が多ければ迫力あるのが野馬追いである。野馬追い見たら必ず旗に興味もつことは確かである。



ゲ-テ ファ-ストより

アイアスはその楯に絡まりあった蛇の模様をつけていたし
テ-パイを攻めた七人の勇士も、それぞれの楯に
意味深い複雑な紋所をつけていましたね
夜空にかかる月や星もあれば
女神だの、英雄だの、梯子だの、剣だの、松明だの
平和な町を恐ろしく脅かすような図案もあり
わたくしたちがお話している英雄たちも、先祖代々伝わった
きらびやかな紋章をつけていますね
獅子もある、鷲もある、爪、嘴
水牛の角もあれば、鳥の翼、薔薇の花や孔雀の羽根
それから金、黒、銀、青、赤の縞模様
そういうものが世界ほど広いからと思われる
無数の広間ににずらりと懸かっているのです
それに踊りもやれるのだから
ファ-スト二部(ゲ-テ)


月や星の旗印は妙見が祭っているから主要なものとしてある。獅子とか虎はない、中国でも獅子とか虎が良く出るけど日本では旗印にしていない、なじみなかったのかもしれない、鷲もでていない、
水牛の角の兜をした人は見たから共通している。縞模様が同じである。花はカタバミの花がある。梯子の旗印もある。ヨ-ロッパでは必ず城壁を上るから梯子は必要だった。日本ではどうだったのか?梯子は城攻めに必要だっかのか?そういうシ-ンはドラマであまりみないようだ。
そこでなぜハサミなのかというのが今回は気になった。ただ今そうして調べる余裕がない、野馬追いが旗祭りだというときその説明した専門的な本もでていないのも不思議なのである。誰かが研究したものがあってもいいはずだからである。ただ旗の由来はわかりにくくなっている。ただ何らかの研究があってもいいのである。旗は本当にヨ-ロッパが騎士の時代とにている。とにかくヨ-ロッパは城が多いからだ。それが日本と共通しているのだ。中国とはこの点では共通していないのである。

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2012年02月03日

啄木の望郷の歌は怨念化していた (原発事故で故郷から離れた人たちの無念と重なる心境)


啄木の望郷の歌は怨念化していた


(原発事故で故郷から離れた人たちの無念と重なる心境)

やまひある獣のごとき 
わがこころ 
ふるさとのこと聞けばおとなし


やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに

石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし


啄木の望郷の歌は何か怨念のようなっている。何か感傷的なものを越えて怨念化したような凄味がある。肺病で血を吐き出すようにして歌ったからである。現実に二七才という若さで死んでいる。ただその時啄木だけではない、肺病で若くして死んだ人は多いから国民病と恐れられていた。
自分の母の実家の墓にも亭年二七才と記されて肺病で死んだ人が埋められている。墓参りするときその年齢に着目する。するとそこから何か無念というか怨念というかもっと生きたいという切実な声が聞こえてくるのだ。


二七才の死の無念や故郷の墓に刻みて変わらざるかも


啄木の望郷の歌はもし長生きしていたらこれほど凄まじいものとはなっていなかった。若くして死に故郷に帰れないということが切実となったのである。神社は怨霊を鎮めるために建てられたというのもあながち否定はできないだろう。菅原道真の神社が多いのはそのためだというのもわかる。
ただ有名な人だけではない、怨念をもって死んだ人は無数にいる。そもそも六〇年前とかの戦争で四百万人も死んだことが今になると信じられない、それらは無念の死でありそれ故に靖国神社に祀り鎮める。それも怨霊化することを恐れ靖国神社がある。人間の念は実際に凄まじいものがある。恨みの念はそれほど強いのである。だから非業の死をとげた人たちの霊は祟るとか恐れのもわかる。だから靖国神社でも祟らないように鎮めの場所としてある。無駄な死だったとしてかたづけられないから靖国神社がある。


やまひある獣のごとき 
わがこころ 
ふるさとのこと聞けばおとなし


これは故郷を思う動物的本能である。鮭が生まれた所の川に帰って産卵して死んでゆく、そういう本能的凄まじさである。望郷の念はそれほど強いとなる。その時東京と田舎は交通の便がまだ悪く離れていた。新幹線で簡単に行ける場所ではなかったのだ。故郷に住んでいる人は故郷が恋しいなどと思わない、むしろ故郷を離れたいという意識が強い、自分もそうだった。故郷から離れたいから東京の大学に行ったし旅ばかりしたのもそもそも故郷から離れたいからであった。若いときはそういう意識が普通である。でも啄木のように故郷に病気で帰れない、もう死んでゆくとなると望郷の念は切実となったのである。その歌は感傷的に鑑賞できるものではない、強い生の渇望の怨念がこもった歌となっていた。


やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに


それほどまで北上川のことが目に浮かんだ。「泣けとごとくに・・」という表現が凄まじいのである。それは怨念化している歌である。その次の


石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし


原発の事故に故郷追われたる
無念は忘れじたとえ死ぬとも


これは故郷では別にそういうことはなかったが啄木の勝手でそう思ったにしろやはり菅原道真などと同じ様に怨念化していたのだ。原発の事故で故郷を追われた人もそうである。誰を恨んだらいいのか、東電をまず恨むことは確かである。人間の怨念はもしかしたら放射能より怖いかもしれない。人間の怨念はそれだけ強烈なのである。その怨念というか悪い念が自然にも作用して自然災害が起きてくる。今回もその津波の原因が人間のそうした怨念など悪い念が集積して自然界に作用して大災害になった。そういうこともありうるのかと思うほど人間の怨念は凄まじいし強いのである。「泣けとごとくに・・」とは凄まじく怨念化した歌である。感傷的な領域を越えている。東京という自然が少ない所であったことも影響している。別にもし自然があるところだったらこんなに望郷の念が強くならなかったかもしれない、例えば富士山が見えるような所だったらかえって最後の場所としてふさわしい。故郷から離れても富士山が見えるということは日本人にとって最高である。自分も最後に見たいものは何かと思ったら富士山だった。富士山を見て死にたいと思った。だから病院は他の人も言っているが景色のいいところにあるのがいい。なぜなら病院で死ぬ人が八割とか多くなった。すると最後に目にする光景は美しいものであってほしいとなるからだ。

何か穴蔵のような無機的な病院だといやだとなるのだ。いづれにしろ啄木の望郷の歌はあまりにも凄まじいから怨念化している。単に言葉というよりその歌が呪詛のようにもなる。その言葉から熱い血が流れてだしてくる。天才だからそれだけ情念が強いためだということもいえる。ただ人間はどんな人でもかなえられないものがありそれが怨念化する。啄木の歌は望郷という感傷的なものではなく怨念化した望郷だった。この辺で故郷に住めなくなった人たちも怨念化したりするのか?そういうこともありうる。


遙か彼方は 相馬の空かよ なんだこらよ〜と
          相馬 恋しや 懐かしや なんだこらよ〜と


  民謡「新相馬節」です。 私は相馬の生まれですが、数々ある民謡も田舎のお年寄りの唄かと、大した愛着もなく生きてきました。
  ですが、先月、この民謡が思いもかけずテレビから流れ、胸をぎゅっと掴まれました。

  隣の南相馬市から、福島第1原発事故による避難指示で、いま埼玉の施設(学校だったか)に移った高齢者たちが、涙ながらに歌っているのでした。
http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/xaS0Ezh1byW6OKentC4g/


やはりこういうことあった。ただ相馬といっても城のあった相馬市とか南相馬市ではない、双葉郡の人たちだった。そこも相馬藩内であった。相馬と磐城の境にあった地域である。高齢者だと望郷の念は切実になる。土地もあり家もありそこで一生過ごしたからである。それは啄木の望郷とは違っている。故郷に生きたものと故郷に帰れず生きられなかったものの違いがある。ともかく生きたんだからいいとしろともされるが故郷で生きてきたんだから最後を故郷で全うしたいというのは人情である。

かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川


おもいでの山、おもいでの川がありそこにもどり死にたいとなる。浪江は二つの川があったから川に恵まれていた。高瀬川渓谷もあった。浪江に帰れない人もでてくるのだろうか?東京の方の団地のような所に移った人は望郷の念が啄木のように強くなることは確かである。会津の方でも雪に悩まされるからいやだとなるが会津だと自然はあるからまた違ってくるだろう。ともかく故郷自体を失ってしまうことなど想像したこともないだろうしそういうことを過去に経験し市町村もなかったのではないか?ダムに沈んだ移り住んで過去をなつかしみ村の人が集るということは報道されていた。でも今回は規模が大きいのである。浪江でも二万人いたのである。それだけの規模の町村が喪失することは経験しないことだったのである。

posted by 天華 at 16:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2011年08月28日

鎮魂の野馬追い (NHK-復興を願い今年も野馬追い)


鎮魂の野馬追い

(NHK-復興を願い今年も野馬追い)

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亡き妻に法螺貝鳴らしもののふの役目を終えて今年も帰りぬ

朗々と法螺貝鳴りぬあわれかなあの世の妻にひびく音なれ


養いし愛馬にも傷津浪にも助かりにつ出陣果たす


馬一頭津浪に流され野馬追いに今年はいでず無念なるかな




野馬追いは今年も開催されたけど6分の一だから迫力なかった。それでも特別の野馬追いになった。NHKで放送していたのは海老村だったようだ。あそこは高いのだけど村がほとんど壊滅した。墓所のあるところは高いから残った。高くても海に接していれば被害が大きかった。崖の上でも何人か死んだのには驚いた。


おくさんがいろいろ世話して毎年野馬追いに出ていた。それでおくさんへの思いが深かった。
墓であれ津浪に流された家の跡や村の跡で法螺貝を吹いた。それが今回は鎮魂の法螺貝なった。一段と思いのこもるものとなった。他でもなんとか祭りをしようしたり津浪の被害はいろいろでありとても語りつくせない、烏崎に水葵が咲いたのも驚きだった。津浪で上の土が流されてそれで下の土から水葵が咲いたというのも不思議である。これは自然現象だけど人間的なものとしてもいろいろなことがあった。馬まで流されて足に傷があった。一頭は助かったが一頭は死んだ。馬も無念だったとなる。


野馬追いは侍-武士(もののふ)の伝統を残すものだけど作法として残っているだけで侍の精神というのは何なのかわからなくなった。でも作法でも伝えられていればそこから侍とは何か学ぶものはある。武道などは型から入るし型を徹底的に教え込まれる。つまり精神より形から入るのが武道なのである。本当の戦になったら型など関係なくなる、でも平和時になれば戦闘でも型として教えることになる。だから野馬追いでもそれぞれの役目があって型があってだいたいその通りにする。いづれにしろ野馬追いでは侍の姿を見ることができるが侍とは何であったか今となるわかりにくい、武士道と言っても明治以降は別なものになっていたのだ。それでも実際の姿として侍を見るのは野馬追いであり貴重な祭りなのである。


いづれにしろ今回の野馬追いは津浪の被害を受けた人には特別なものとなった。何とも悲しいというか切ないとういかそういうものを見ただけで感じた。野馬追いは今や本当に雲雀が原で集結してやれるのかとなる。相馬藩というのが崩壊の危機にたたされた。もちろん相馬藩はなくなったのだけどその伝統の祭りの維持も危機にたたされたのだ。

ご冥福お祈りします


がれきから救出の馬も津波被害にあった南相馬市では、厩舎のがれきの下から3週間ぶりに馬が助け出だされ、出場を目指めざして練習に励んでいます。復興の願いを込めてつけられた名前は「日の出」を意味する「サンライズ」です。
http://mainichi.jp/life/edu/maishou/kousaten/archive/
news/2011/06/20110607kei00s00s009000c.html

posted by 天華 at 18:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2011年07月24日

野馬追いの旗の数から相馬藩内の人口増減を見る


野馬追いの旗の数から相馬藩内の人口増減を見る

kyouuuuuuu.jpg

これは旗の数である。(相馬市士6)
この資料から見えるものは何なのか?野馬追いに出る数を見れば一番多いのは城下の侍である。810となると多い。でも野馬追いには馬が必要である。その馬を城下町の侍屋敷で飼えたのかとなるとそんな広い敷地は相馬の城の回りにあったとは思えない、一部の上級武士にあったかもしれないが800人も出る馬を用意はできない、でも馬は今の車と同じであり農家には馬が運搬用や農耕用に必ず飼っていて馬小屋があった。在郷給人で農民しながら武士だった家には馬は飼っていたから野馬追いの馬はあった。ただ市中になるとこれだけの馬を飼うことはできない、それでも馬は常に欠くべからずものとしてあった。



北山八景

田町晩煙      田町晩煙

秋気晴来市肆中   秋気 晴れ来たる 市肆の中、
連甍両両満西東   連甍 両両 西東に満つ。
人烟斜繞城湟外   人烟 斜めに繞ぐる 城湟の外、
士女縦横向晩風   士女 縦横 晩風に向かう。


《意味》
秋の気配が漂い、晴れ渡った商店街、

連なった家々が向かい合って軒を並べ東西に伸びている。
人も夕餉の烟りも城堀の外に繞ぐって流れている。
男も女も晩風に向かい忙しそうに行ったり来たりしている。
 *田町=地名
 *市肆(しし)=店、商店。
 *連甍=連なった屋根。沢山の家並み。
 *両両=二つずつ。二つながら。
 *城湟=城の周りの堀。
 *士女=男と女。男女。
 *中・東・風は上平声一東韻。
 *作:水慎君奉

《コメント》
 中里哲義
  道ひろき 御代になびきて 立ちそふや うまやつづきの 暮れのけぶりも



 うまやつづきの・・・厩がつづいていたのだから馬をその辺では飼っていたから野馬追いの馬は用意された。晩風が吹く時まで歩いていたとなるとその当時ではにぎわういをみせていた。連甍というと甍とあるが甍の屋根はそんなになかったろう。茅葺きの屋根が多かった。軒を並べることがあるから相馬では一番にぎわう通りだった。

この数字を見て小高が意外と少ない、もともと相馬藩の城は小高にあった。浮舟城である。浮舟とあるのはその当時回りは湿地帯だったのか?そこから村上とかに城を移し宇多に移った。
その時職人なども移動したから小高では少なくなったのか?北郷(鹿島区)が意外と多いのは宇多郷に隣接しているからなのか?宇多郷と北郷が合流して雲雀が原に出陣する。


今の原町の名の起こりはまさに原っぱであり野馬原であり今の市街もほとんど野馬原であり野馬土手が回りに築かれ多くの木戸があり出入りを管理していた。木戸守も置かれた。その地名の名残りとして大木戸村がある。今の原町区では大きい村である。これも江戸時代は牛越村のなかに大木戸村があり牛越が中心であった。原町市の由来となった原町村は小村であり一騎しか野馬追いに出ていない、原町は江戸時代は文字通り原っぱであり小村であり今のような家はなく城のあった相馬市より人口も少なかった。原町宿として発展した経緯があり町の規模は小さかった。明治以降近代化して発展した市だった。その象徴が無線塔だった。その前までは野馬原としてあるだけであった。



原町飛行場のあった場所は、かつては周囲を野馬土手で囲まれた中村藩の放牧地で、
牛越原と呼ばれ、一般には野馬原と称していました。
明治初年、放たれていた野馬は捕らえられ、広大な原野は民間に払い下げられました。
雲雀ヶ原(ひばりがはら)と名付けられた原野は町の権力者に買い取られたところが多く、

他町村から多くの入植者がやって来て、借地して耕作地に変えていったのでした。
「野馬原」が入植地として変化を遂げていく一方で、
1919年(大正8年)、原町議会では飛行場の誘致を試みています。


「墾心楽土」 碑文(全文)

この地区は 藩政時代は野馬の放牧地であったが 明治維新に官地編入となり 
其の後部落有志に払い下げられた処である
昭和十五年 原町飛行場が新設され 強制移転となった農家が 
この地に転住し林野を開畑したが戦事下の食糧難や物資不足の時代の開墾には
並々ならぬ困難を極めたのであった
漸く開畑を見たが幾多の被害に適作物も数少なく悩まされ続けたのであるが 
昭和三十五年頃より水稲が作付され 飯米の確保が出来安心を得たのである 
http://1901rjtt-to-roah.blog.so-net.ne.jp/archive/c2851-1

この歴史は双葉町とにている。あそこももともと陸軍の飛行場があったところと聞いた。その跡に原発が建てられた。公共事業のようなものとして必要だった。反対したのは軍関係の施設であったからであり危険なものでもあったからだ。事実戦争になり爆撃の対象とされる。そういう物騒なものだから反対した。それは双葉町の原発の誘致ともにていた。軍事施設ではなかったが危険なものだった。歴史はくりかえすとはつくづく今回の津浪や原発事故で思い知らされた
この大津波だって5百年前に相馬藩にあったらしいがその頃の記憶が丁度消失したとされている。貞観津浪では相馬氏奥まで実際に津浪は来ていたし証拠も科学的に土から発見された。
つまり今回の津浪や原発事故でも人間は同じことをくりかえすものだということを思い知らされた。歴史はくりかえす・・・は自然災害でもそうだし人間の事象でも同じことが起きてくる。浜通りがまるで戦争状態みたくなったことでもわかる。いろいろ変わったように見えても人間そのものは変わっていないから同じことが繰り返しが起こるのだ。

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2011年07月23日

今年も野馬追いも一部行われたが・・

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相馬市(宇多郷)の行列

巫女が出ていたのは面白かった。




南相馬市鹿島区(北郷)で宇多郷と北郷が合流する

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宇多郷と北郷が合流して出陣の式



相馬より旗を追いつつ北郷に来たりてその旗我は知りにき

北郷の大将の家に陣を張りいざ出陣やひまわりの咲く


宇多郷と北郷の陣合流しいざ出陣や法螺貝鳴らす




今年は相馬市まで行列見に行ったけど数が少ないし盛り上がらない、野馬追いどころではない、野馬追いの楽しみ方というか見方が意外と地元に住んでいてもわからなかった。野馬追いは行列の前からすでにはじまっている。馬が出る家には前日から旗が立っていた。するこの村のこの家からこんな旗印が出ているとわかる。そこまで地元の人でも詳しく見れない、行列とか旗取りを見て終わりである。野馬追いに出る家はなかなかわかりにくい、一見相馬ならみんな野馬追いに出ると思っているが限られた武家の出の人しか出れない祭りなのである。500騎出たとしても人口からすると非常に家としては少ないのである。村から数軒しか野馬追いには出ない、祭りだとネブタ祭りのように誰でも参加するのが祭りだと思っているが野馬追いは違っている。選ばれた昔の武士の出の人だけが参加できる祭りなのである。わずかに自由参加を許される人はいるがそれもごくわずかであり参加できないのが野馬追いである。


今回は相馬市まで行ってはじめて行列を見た、そしてそこで旗を確認して旗を追って北郷(鹿島区)に来た。するとあれは相馬市(宇多郷)の行列に出て北郷(鹿島区)に来たということがわかる。そういう見方がなかなかできない、実際この年になるまで野馬追いの見方がわからない、結局地元でもわからないことはいくらでもあるのだ。灯台もと暗しなのである。旗の種類も多いしそのル-ツをたどることはもはやできない、それがもどかしいのだがどうにもならない、鹿島区には仮設住宅に小高区の人が多数入ったから鹿島区で見ることになった。小高区からは野馬追いに出ない、浪江や双葉まで相馬藩だけどここからも騎馬がでないと野馬追いは盛り上がらない、そうしたかつての相馬藩を再現して歴史的アイディンティティを確認するのが野馬追いの祭りだからでもある。雲雀が原の神旗争奪戦にそれが全部集る時壮観なものとなる。それができなくなったら野馬追いさえ危機にひんすることになる。小さな限界集落では祭りさえできなくなって跡継ぐものがなくなって消失する所もある。それはやはり歴史の消失だった。飯館村の大倉は古い村であり葉山の古い祭りがあったが今はダムに沈んで消失した。近くに「大倉ばっば」といわれる人が住んでいた。当時多額の補償金をもらったので大倉御殿といわれる所もあった。双葉の人で避難した人が相馬藩の武士の出だとかその系図を示したものもいた。
祭りはその土地のアイディンティティを確認することでありそれもその土地に残る理由にはなる。


ともかく今やこの辺は家族までばらばらになっている。松川浦で魚の行商に来ていた女性も母親と共に娘の元へ避難した。それで昨日自分の家に来て仕事がないかとか来ている。仕事がなくなって困っている人はたくさんいる。南相馬市から浪江,双葉は縮小して一部は消滅してしまう危機である。浪江焼きそばとか宣伝していたがそういうものでとても町民のつながりは保てないだろう。何をもって故郷に住み続ける理由となるのか?それは各自違っている。双葉などは悲惨である。未だに原発を増設して金をたかっている。原発に頼る意外、生活する道がなくなってしまっていた。麻薬を売って生活する他ないとアフガニスタンの部落と同じである。もはや回りの迷惑など考えない、自分たちの生活だけを優先する。でも回りにこれだけ迷惑をかけるものを許すわけにはいかない、双葉町の人にはその近くの回りの人も怒りを覚えるようになっている。原発はあまりにも危険すぎたのである。

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山中郷は今の飯館村と葛尾村であり江戸時代は野馬追いに参加していたが今は参加していない、標葉(しめは)は浪江であり双葉も入る、そこが参加しないと数的にはかなりへる。

posted by 天華 at 22:09| Comment(1) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2010年12月26日

イギリスのキプリングの詩が野馬追いの詩になっている


イギリスのキプリングの詩が野馬追いの詩になっている

かくぞ我等は祈るべき

或いはロシアの雪に死に

剣を後に遺したる父の子我等


我が兄ははや戦へり、汝が為

或いはアフガンの峠道

或いはボア-の射手草に伏し

目にもとまらぬ砲煙飛ぶあたり


我等はた汝が命(みこと)もち

陸に海に汝が御旗翻るところ

戦いて身を顧みず

汝が帝国の行く末を開かむとこそ誓へれ


your flag to fight and follow still

and work Your Empire's destines




かくぞ我等は祈るべき

或いは伊達や岩城の領地に死に

剣を後に残したる父の子我等


我が兄ははや戦いへり、主君の為

或いは水境の峠道、伊達の境

或いは岩城の境、夜(余)ノ森に

末続は新妻一族の土地

岩城の城の将に新妻氏

興亡の跡や小良が浜の名



我等はた殿の命(みこと)もち

陸に山に殿が御旗翻るところ

先陣に主君の御旗、殿(しんがり)に奥方の御旗

黒字に日の丸 --紫地白満月旗

溯れば平将門が初めて使用せし旗と

その謂われも深き関東武士に連なる旗

妙見の北斗七星の旗は様々に翻り

伊達に抗い戦いて身を顧みず

相馬藩の行く末を開かむとこそ誓へれ





この旗は,相馬家の始祖平将門が世にさきがけて作って用いた幟旗(のぼりばた)といい,大龍(おおたき)と称した。別称に龍旗とも呼んで君主を意味し,行列には必ず用いて本陣着後は本陣に掲げ,常に藩主の傍らにあった。


(板東市のホ-ムペ-ジ)
http://bandokanko.jp/modules/pico/index.php?content_id=87


相馬藩の黒地に日の丸が描かれているのは,藩主の旗である。主君の旗印は相馬家の始祖平将門に連なっていた。旗印にはやはり一つ一つ意味がある。ただ今になるとわかりにくい、詳細に検討すればそれなりに分類できるがわかりにくい。前もミルトンの詩と野馬追いのことがにていると紹介したがこれも本当にぴったりである。そもそもヨ-ロッパの中世と日本の封建時代はにているのである。そちこちに城があり廃墟となった城がある。日本では石垣しか残っていないがヨ-ロッパでは石造りだから残っている。つまりヨ-ロッパの騎士と日本の武士はにたところがあるのだ。古代はにていないが中世は日本の中世から近世とにていたのである。中国は常に巨大な中央集権的王朝の興亡だがヨ-ロッパでは小国が分立した封建制でありだからやたら城が多いのである。これは日本もそうであり封建時代があったのは世界の歴史ではヨ-ロッパと日本だけだった。だから歴史的に共通していたのである。この詩は1880年代とすると明治時代だがやはり封建時代に領地を争った歴史があり日本とにていたのである。イギリスの場合は七つの海を支配するようになったから世界的に広がった。でもこの詩には中世からの騎士の伝統が日本の武士の伝統と同じく生きていたのである。岡和田氏のことで北海道に移住した人が古い刀が残っているというのもまさに


或いはロシアの雪に死に・・・剣を後に遺したる父の子我等・・・

であった、このロシアは石城や伊達や三春の境のことにすればスケ-ルが違うにしても同じなのである。
新妻氏は岩城の城の将になっていたから末続が新妻氏一族の村だったというときあそこは相馬と岩城の境だったからである。新妻氏は伊達氏にも重んじられたし岩城から相馬藩にも移った。
この詩を紹介していた本はぼろぼろになってはがれてしまった。これはもともと古本だったからさらに古くなりぼろぼろになったのである。本は50年くらいすると必ずぼろぼろになってゆく。デジタルで記憶すれば新しいものと同じになる。本には膨大な知的遺産があるがインタ-ネットにはこうした過去の本に出したものは少ない、まだ著作権があるものもあるし出ていないのである。
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2010年05月25日

野馬追いの鎌の旗印の背景

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野馬追いの鎌の旗印の背景

 

8月に入ると、その年の宮当番に当たった村人が七尾の鍛冶屋に例年のとおり一対の鎌を制作を依頼する。
25日には、当元をはじめとして各戸の当主らは大地主神社へ出向き、日室から持参した大榊にでき上がった一対の鎌を結えて神前に供え修祓いを受ける。

日室の鎌祭り
http://www.nanaoh.net/p137.html

 

農具の鎌をかたどったこの紋は、諏訪明神の信仰に基づくもの。鎌を諏訪明神の神体として、これを信仰する人々が家紋としました。また、敵をなぎ倒す尚武的な意義をもち、小早川氏は豊臣秀吉より桐紋を授与されていたものの、勝兆を祈願してこの鎌紋を使ったとされます。

鎌は農民にとって大事なものである、山の民にとっても木に鎌をつきさすのはやはり鎌が仕事で使って大事なものだからである。斧にまつわる伝説も多いのもそのためである。大工でも他の職人でも道具を大事になる。道具は自家製のもあり職人が様々な道具を使いモノを作っていたのである。そしてこの鎌は農民にとって自衛手段としての武器となりそれで農民から棒の手という武芸が生まれ発達した。三河の西尾市のおまんと祭りも走る馬にとびかかり一緒に走るという祭りも戦国時代に生まれた祭りだという。野馬追いも戦国時代からはじまった。

愛知県棒の手大会
http://kamezo.cc/blog/entry/79197

 

小早川氏がこの旗印を使っていたのが野馬追いの旗印にも使われた。小早川氏と関係あるかどうかはわからない、石田三成の旗印が使われた由来は相馬藩政記に記されているから明確である。小早川氏についてはわからない、ただ鎌の旗印はその由来も古い、鎌とつくのでは藤原鎌足とかいるし

 

鎌刃城は別名を釜川城とも言われ、米原市番場にある戦国時代の山城です。城の正確な築城年数は不明ですが、江北と江南の国境線に位置する「境目(さかいめ)の城」として、在地土豪の堀氏によって応仁の乱の頃に築かれたと考えられています。

鎌はそれだけ大事なものだった。農民にとって鎌は極最近までも大事なものだった。中国で鎌一つをもって麦刈りの出稼ぎに来る農民を写していたがなるほど鎌一つは農民にとって武士の刀と同じだったのである。現実に農民が自衛手段に鎌を使った棒の手の武芸が発達したことでもわかる。武士は元はみなん農民だったからである。鎌の旗印を見るときはこうした歴史的背景を考慮すれば興味がわく。

ソビエト連邦の旗は鎌とハンマ-だった
http://byeryoza.com/topic/log2006/hata.htm

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消滅したソビエト連邦の旗は鎌とハンマ-だった。もっとも低所得者の農民や工場で働く人たちの象徴の旗印だからそうなった。外国の鎌は日本の鎌より違っている。土地土地により鎌も道具も違ってくるのである。

 

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2010年02月12日

相馬野馬追いとヨ-ロッパ戦争の叙事詩(ミルトンの詩より)-消えた記事を回復


相馬野馬追いとヨ-ロッパ戦争の叙事詩(ミルトンの詩より)

さて今や厳しき命下る

勇ましき喇叭高らかに響き・・・と鳴りわたれば

彼の大いなる 旗を掲ぐべしと

丈高き天使ゼイゼルこの高き誉れは我がものぞと思う

彼ただちに煌めく旗竿より

帝王のしるしをひろげぬ

いと高く掲げられ風になびきて流星のごとく輝く

天使の紋章勝利のしるしなど

宝石と黄金の光ゆたかにちりばめられたり

この間喇叭は戦いの調べを・・・と吹き鳴らしたり

今や群れいる全軍の将兵一せいに喊声をあげ

地獄の底をつんざき

かなた老いたる夜との国土をも震駭す

たちまち薄暗をすかして見ゆ

一万の幟虚空にそそりたち

華やかなる色どりもてはためけるさま

同時に巨いなる林のごとく槍もそそり立ち

群れなす兜 密集せる楯の列限りなく続けり

やがて彼らは整然たる方形陣を成して

横笛 縦笛のド-リア風の調べに合わせつつ

前進を開始したり

ミルトン(失楽園)


この詩と相馬野馬追いの祭りが酷似していた。

勇ましき喇叭鳴り渡り
勇ましき法螺貝鳴りわたり
天使ゼイゼルこの高き誉れは我がものぞと思う
妙見の神、北斗七星の旗を高く掲げ殿の誉れを得むと
横笛 縦笛のド-リア風の調べに合わせつつ前進を開始したり
相馬流山の軍歌をひびかせて誇らかに前進せり


今や城より出て主君から厳しき命下る

馬上一せいに勇ましき法螺貝鳴りわたり

相馬の山々、大地、海にも木霊して

藩主の下に 集結して打ち揃う相馬の武士(もののふ)

先祖代々の旗印はなびきて華麗に練り歩く

相馬流山の軍歌の雄々しくひびき

藩内の社もここに総結集して雲雀が原へ

武田菱の旗の護衛に北郷の大将の紫の母衣(ほろ)鮮やかに

先導す一の旗の伝令の若者は駆けめぐる

雲雀が原に千の旗ゆれ御神旗を馬せりあいて奪い合う

主君の誉れを得むと馳せ上る若武者の馬よ

この時老将も勇みかつての武勲の蘇る

人馬一体、荒ぶる馬の鼻息荒しも

山中郷、中ノ郷、小高郷、標葉郷、北郷、宇多郷

代々の郷士、大地を耕し郷土を守る者たち

今雲雀が原に相馬藩の力は結集せり

夏の大空に法螺貝はひびきわたり

村々に土着して、代々の旗は眩しい光のなかにはためけり

相馬藩の隅々の力のここに総決起して伊達に立ち向かう

三百年つづきて変わらず君主をいただき

相馬の武士の誇らかに年に一度の祭りかな

旗の役割
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/souma2.htm

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ヨ-ロッパというと日本と相当違っているように見えるけど共通点がかてりある。城があることや紋章が豊富なことは旗印が豊富なことににている。このミルトンの詩もまさにそうだった。野馬追いを詩にしたとしても違和感は全くなかったのだ。野馬追いの魅力は相馬藩のすべての力が結集することあった。そこが一番の魅力なのである。祭りにはそういう村や村々が藩が一体となるものがあった。今のようにすべてがばらばらとなってしまったとき、老いも若きも雲雀が原にすべて結集して一つとなることが魅力なのである。現代では世代もつながりがなくばらばらであり地域もばらばらであり総合につながりが希薄になる、ということは実は大地とのつながりも自然とのつながりもばらばらであり一体化しないことにも通じている。現代はあらゆるものが分割して部分化してばらばらになりすぎたのである。そのことが生きる力すら喪失させてしまっているのだ。これからは総合的な全体としてのつながりを回復することにある。それは自然と一体化して成される必要があるのだ。それを再現するのが相馬野馬追いやその他の各地の祭りなのである。そんなことは旧弊な昔にもどることであるとかなるが人間は常に一体化するものを目指す、大地(自然)と人間とが総合的に一体化することが人間の回復(ルネサンス)なのである。現代文明はあまりにも人間がばらばらになり部品化して生命力が疲弊してしまったのである。


平和の祭りならいいが戦争で一体化していいのかともなるが今の時代とは違う価値観の中で生きていたのだから今の考え方を時代を見ることはできない、ともかく当時はどういう感覚で生きていたのか、戦場に向かったのか、やはり今でも野馬追いに出る人は馬にのって先祖代々の旗をなびかせて出陣する人は当時の感覚を実感するのである。会社員とか事務員とか工場で働く人とか商人とかとは違う、何か誇らしいものを感じる。馬上の雄姿を再現する。だからおそらく金がかかるけど年に一度、昔に帰り侍に戻ることがやめられないのだろう。そうでなければなかなか野馬追いも文化財の維持だからというだけではつづかないだろう。別にこれを賛歌しても今の戦争賛歌とは違ったものである。


辛うじてこれだけは残っていた。結局「今日の一句一首」と「相馬郷土史研究」を二つに分けたときいくつかの記録が消失した。二つにそのまま残したおけば問題はなかった。別々にして一方だけにしたとき消失したのである。プログはホ-ムペ-ジのようにオフラインでは同じ様にみれないいし記事が無数に分割しているから消えやすいのだ。二つのプログに同じものを必ず記録していないとまずかった。プログは記録するには危険だった。この詩も結構貴重なものだった。あとは回復できなくなった。

 

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2010年01月22日

野馬追いに出ていた石田三成の旗印

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千倉庄田中の城へ黒木武石東郷の面々押し寄せたり、田中の城三方は大淵囲み古松、老柏、繁茂して容易に近づきかたければ冬より夏にいたる。
此の城平野の田畑となりしは近き世、石田治部少輔三成堀久太郎大崎の仕置きに下りしとき数日田中に逗留するとき大樹を倒し堀を埋め立て平地となす、顕胤は掛田帰陣も近ければ不日にもに田中を責め落とさんと評議せり(奥相茶話記)


相馬藩主初代となる利胤は、天正9年(1581年)に相馬氏十五代相馬義胤の長男として陸奥国行方郡小高城で生まれた。
烏帽子親であった石田三成の一字を賜って初名を三胤といったが、これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、それ以来三成と昵懇であったためであった。

慶長7年(1602年)5月24日に関ヶ原不参により義胤は領地を没収される。このとき常陸の佐竹義宣も領地を没収されて、出羽久保田20万石に移封されたが、義胤には佐竹領のうち1万石が分与される予定であったという。

義胤は久保田移封を受け入れる決心をするが、利胤は江戸に上り実力者本多正信を頼み、その仲介もあって家康・秀忠に謁見して弁明し忠誠を誓うなど奔走し、宿敵であった伊達政宗の取り成しもあって、10月には利胤に本領が安堵され相馬藩が成立した。
なお、江戸に上る際に三成の偏諱をはばかって密胤と名を改め、その後さらに幕閣の実力者土井利勝の利の字を偏諱として再び改名し、利胤と名乗りを改めている。


mitunarii123.jpg 石田三成は最初に相馬の地を踏んだ。奥相茶話記には田中城のことで記録されている。その三成は徳川との争いとなり相馬藩の初代の利胤は名前を三回も変えた。時代は戦乱の時代であり名前もその都度権力者に媚びて変えねばならなかった。最後にまた利胤ともどった。今の時代だったら簡単に名前は変えられない、当時は権力者は今とは違う、上下の関係が厳しかった。江戸時代の特徴は人間と人間が向き合い政治が行われている。だからその人柄などが大きく作用することがあった。これほど自分に影響あるものに気を使うのはそのためだった。

「大一大万大吉」は、源平合戦の時代に木曾義仲を討ち取った石田次郎為久という武将が用いていたものを三成が気に入って使ったものだそうですが、一体どういう意味があるのでしょうか。
元暦元年(1184)木曽義仲の横暴に、源頼朝の討伐軍は近江国粟津原で合戦に及んだ。この際に、為久はただ一騎で敵陣の駆け込み、その矢で義仲を射止めたという

これは、「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という意味だそうです。

石田家の家紋は「九曜紋」ですが、三成は関ヶ原合戦時に「大一大万大吉」の旗印を用いていたのはたしかでしょう
http://blog.livedoor.jp/mansaku21/archives/50592921.html

相馬藩の野馬追いの旗に石田三成のこの旗印が出ている。三成は徳川時代は悪者とされていた。とするとこの旗印を野馬追いで使っていたら徳川家に知られたらとがめられる。そういうことは徳川の時代になり関が原の戦いも過ぎて忘れられたのかもしれない、石田三成は相馬藩と最初から縁が深いが故にその旗印を受け継いだ。この旗印にしても木曾義仲を討った時からあったとすると旗印の歴史も古いのである。石田家の家紋が「九曜紋」であったことは千葉氏や相馬氏と同じである。細川家も九曜紋であり九曜紋は多い。そういう共通性もあったのか、この旗印の由来ははっきりしている。
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黒に日の丸は藩主のいる場所を示しているから重要な旗である。その前に三成の旗が使われていたからやはり初代藩主利胤と密接な関係があり徳川の時代になっても使われていた。
野馬追いの旗は種類が多すぎて困る。でも何を意味しているのかわからないのが多い。役割の旗などはわかりやすいが家々に伝わる旗の由来がわからない、やはり野馬追いは旗祭りというとき旗の由来を知らないと興味も薄れる。どうしてもこの旗印どういう由来があるのか知りたくなるがそうした詳しい説明は出ていない、つまりもし今も石田三成の旗印が出ていたらこれは石田三成の旗だとわかる。これも木曾義仲を討ち取った時、すでに用いた旗だというから随分旗印は古い。鎌倉時代からいろいろな旗印が出ている。野馬追いを全国から見に来たとき必ずこれだけ旗印があるのだからその出身地と関係している旗印がある。するとその旗印を見てこれは自分の出身の武将も使っていた旗だとか親近感や興味が湧くのである。石田三成の旗が用いられたのはこれだけ相馬藩と因縁深いものがあったからだとわかるがその他はわかりにくい。でもこうして由来がわかると野馬追いの興味が深まるのである。

原町市史の図の一部を出したが著作権の問題があるかもしれない、ただ説明するのに拝借した。
図でも変えればいいのか、著作権をまねがれる方法があるかもしれない・・・
posted by 天華 at 22:38| Comment(1) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2009年08月01日

旗帳に記されていない旗


新し籏の件での意見ですが、今回の稲妻(山道)の旗印についてはどうか存じませんが、籏帳に記載のされていない家伝の旗印は存在すると思います。
当家旗印もそうでした。当時、世に出ていた籏帳には記載がなく、籏を見た方さらは「籏帳に無い。新し籏、創造籏」などと言われており、家伝の旗印を誇りに思う私達家族は心痛く思ったものです。
しかし、近年発刊の原町市史に新しく発表された籏帳には、我が家家伝の旗印が記載されており、大変嬉しく思い安堵すると共に、籏帳が全てでは無いと言う事を思い知らされました。
確かに、藩政時代には新しく創作される旗印もあれば、使われなくなる旗印もあった事と私は考えます。
各籏帳を確認すると、同家でも年代により旗印の違いは見受けられます。籏帳の年代により記載されている旗印もあれば、記載の無い旗印もあります。世に発表されていない相馬藩籏帳が確実に数多く存在する事を考えれば当然の事と思われます。

旗印について意見された経験のある物として、私なりの考えを言わせて頂きました


コメントが「今日の一句一首」の方からいただいた。

旗帳にはすべての旗が記されてあると思ったけどそうでもないのか、それ以外にも旗印はあった。3千もあったとなるとすべてを記録できなかったこともあるだろう。それでお前のは新しい旗であり勝手に作ったのかと言われたのも心外だろう。でも野馬追いにはそもそも伝来の旗を持っている人しか武士の出でしか出れないはずなのである。

世に発表されていない相馬藩籏帳が確実に数多く存在する事を考えれば当然の事と思われます。

要するに新しい旗といってもそれはもともと伝来でも旗帳に記されていない旗帳であり全く勝手に明治以降新しく作った旗ではない、江戸時代からもともとあった旗となる。第一野馬追いは明治になった時、武士の身分は廃止されたのだからその辺から出自が明確でなくなったのだ。ただ明治以降でも新しく作られた旗はなく、一見見慣れないものでこれは新しく作った旗と見られてもそれは江戸時代からあったものでありただ旗帳に記されていないから新しい旗じゃないかと疑われた。野馬追いの旗印はすべてが記録として残されているわけではなかったのである。
posted by 天華 at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2009年07月24日

野馬追いの詩(2)−新しい旗も参入?

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野馬追いの詩(2)−新しい旗も参入?


夏菊に出揃う馬や華々し


蘇る五百騎の馬の揃い踏み

延々と行列尽きぬ暑さかな



雨天野馬追い行列

雲雀が原に粛々と延々と行列つづく

この日を待ちて出揃う馬の華々しかな

馬も人も一年に一度の晴れ舞台

馬暴れいななき駆ける伝令の一の旗印

雨しとと今年は街道の松の雨にぬれたり

雲雀が原に今し法螺貝ひびきわたり

相馬藩のここに総結集して陣容固めぬ

先陣を切って旗をとり本陣山を駆け上るは誰そ

その旗見れば知る人そ知る伝家の旗印

その古き旗の波に稲妻の新規の旗も参入せり

本家に分家の旗、村々の旗印、役旗や

旗は華麗に絵巻物なして行列は一路雲雀が原へ

ここに相馬の武士の鍛えて伊達に抗う

相馬藩小なればこの時結集して大なり

駆ける馬の勇み縦横に走り昔の武士の意気を示す

馬はいななき競り合い走り御神旗をとりあう

今年は雨や石を打ち雨はふるなり

その夜雷も鳴りて野馬追いの余韻深しも

その鎧兜のもの古りて残りけるかな


今年は雨はふらなっかたにしろ雨模様だった。野馬追いはちょうど梅雨が晴れて夏の白い雲がもくもくとわき上がる時向いている。雨はふらないにしろ雨は多少ふった。


野馬追いの醍醐味は今の浪江の先の大熊まで相馬藩であり相馬藩が総結集する祭りなのである。相馬藩の再現である。これが江戸時代だったら血わき肉踊る壮観なものだった。これだけの旗が残されていてそれが歴史的由緒が明確なのもめずらしいのだ。ただ明らかに新規の旗で参加していた人がいた。今回それが一番目立ったのも奇妙である。北郷(鹿島区)の行列で見た。三騎つづいて同じなので目立ったのだ。でも調べてみてもその旗印がないのだ。とすると新しく作った旗なのか、稲妻を模した旗はあるからあういう旗もあるのかと思った。最近新し旗で参加するので困ったということを博物館の人が言っていたからそのことかもしれない、野馬追いは文化財保護の面があるから新しく旗を作ることができない、でも野馬追いを盛り上げるには新しい旗も必要なのである。それはやはり断りが必要だろう。これは新しい旗で伝家の旗ではないと説明しないとまぎらわしくなるのだ。

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この旗は伝来の古い稲妻の旗である。赤い稲妻のは違っている。それが三騎そろって同じ旗にしているのもやはりないことである。野馬追いではめったに同じ旗がいくつも並ばない、○という旗があっても一本線を引いたりして区別しているのだ。旗印は他と区別するために作られたからである。
今年の野馬追いは雨模様であり今8時ころで雷が鳴った、雨模様だと違った雰囲気になってしまった。何でも気候に左右されるし気候の影響は大きいのだ。気分的に雨と晴天では全く祭りでも違ったものとなるからである。


補足

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旗帳にこれがあったからこれを基にして赤で新しく作ったのだろうか?元から赤があったとは思えない、ただ全く新しく作った旗ではない、ただそれが古い家の伝来の旗かどうかは疑わしい・・・


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2009年01月01日

野馬追いから考える地方文化ルネサンス(再生)の時代-野馬追い(短歌連作)

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相馬郷土史研究」今年もよろしく

野馬追いから考える地方文化ルネサンス(再生)の時代
(野馬追いの短歌連作)

大原村そこも郷士の住みにつつ野馬追いにそなえ冬を暮らしぬ

野馬追いの旗に誇りや村々の相馬郷士の夏に猛けるかも

野馬追いにいづる誇りの変わらざれ若武者参じ夏の雲湧く

山中郷の郷士も参じ雲雀が原その旗印なびきし昔

相馬藩一つとなれる野馬追いや法螺貝ひびき夏の雲湧く

若殿を守る陣容固きかな兜をしめて伝令走る

出陣の法螺貝ひびけり北郷の郷士引き入れ雲雀が原へ

野馬追いに武田の武士の兵法を取り入れしは伊達に抗するため

殿(しんがり)に殿の正室一丸に守り戦う行列つづく

一の旗伝令走る若武者の声のひびきつ老将も行く

野馬追いに馬も着飾る華やかに馬も誇らかいななきにけり

野馬追いの馬にも伝わる相馬藩の武士の誇りやいななきにけり

葛尾(かつろう)の山間深きも山中郷郷士の住みて旗印のあれ

雲雀が原上る若武者誇らかに時代をになう夏の雲湧く


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クリック


野馬追いは一つの絵巻物なのだけど歴史に裏付けられていることが違っている。時代絵巻だからといって誰もドラマのように参加はできない、先祖代々の旗印が残っていないと勝手に出れない、時代絵巻となると今では勝手に作り出しているところがあるが相馬野馬追いはできない、だから本当の歴史の保存であり他の祭りとは違っている。相馬の武士は普通は農民として暮らしていた郷士である。城勤めの侍は極めて少ないのである。六万石だから城にそれだけの侍を集める余裕もなかったのである。そこに全体として盛り上がらない原因があると同時にまた歴史を保存していることで貴重だともなる。相馬藩は小藩でも藩が代々相馬氏で変わらず受け継がれてきた。それで資料も豊富で郷土史の研究にはいいとか外部の人も相馬藩政史を参考にしている。郷土史研究としては豊富な資料が残っているということになる。ただ野馬追いが旗祭りというときその旗についてはまだ詳しく研究されていない、一部私もしてみたが旗の種類が多いからわかりにくいのだ。相馬野馬追いは本当に江戸時代の歴史の再現なのだ。それもドラマのように作っているのではない、旗印は先祖伝来のものであり歴史的由来がはっきりしているのである。だから武士の家系以外は野馬追いに出れないのである。酔狂でも出れないのである。古いものがそのまま温存されて再現したのが野馬追いなのだ。だから新しい旗印では出れない、野馬追いの意義は何なのか、ただ単に相馬藩の歴史の保存と再現なのだろうか、それとも観光事業なのだろうか?やはり相馬藩という歴史の再構築であり相馬藩という小藩でもそこに一体感がありその継続の再認識となる。

現代はグロ-バル化とか世界が広がりすぎたのである。だからといってグロ-バルな連帯感をもっているわけでもないのだ。また広すぎてもちようがないのだ。今はかえって地方分権とか狭い単位で土着したコミニュティが見直される。文化はcultureは耕すであり土地を耕す地方からしか文化は生まれないのだ。グロ-バル化と同時に地方の再構築がルネサンス(再生)が志向されている時代なのである。相馬藩は小さいから一つの体のように緻密につなぎあわせ一体化するのにはいいのである。六万石は小さいが一つの血の通う有機体としてはいいのかもしれない、相馬藩と同時にみちのく、奥州、陸奥の歴史の見直し、ルネサンス(再生)もまた志向されているのが時代である。東京一極集中は経済的に成功してももし文化が起こらなければ殺伐としたものになる。現実そうなっているのだ。奈良にしろ京都にしろ鎌倉でも都になったところには文化が起こっているのである。文化が起こらない地は不毛なのである。東京はまさに経済的には繁栄しても不毛なのはそのためなのだ。だから文化の再生は地方から起こるのである。インタ-ネットでは郷土史関係の情報は豊富である。この分野でルネサンスが起きている。まず郷土史分野ではそもそも資料を集めること自体できない、図書館を回って歩くわけにも行かない、本も売っていないからだ。インタ-ネットでは資料はいくらでもだせる、デ-タ-ベ-ス化しやすいのだ。これは個人単位でもできるくらいである。だから他の郷土史研究と結びつけて書いてきた。他の郷土史もつながっていて日本の歴史の見直しができるのである。そういう作業をインタ-ネットでしてきたからわかったのである。いづれにしろ郷土史関係ではインタ-ネットは新しい世界を作り出しているのだ。


牛の年大地に根ざし歩むべし
posted by 天華 at 00:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2008年09月15日

野馬追いの旗の分類(6)−旗印は村々で同系統だった

野馬追いの旗の分類−旗印は村々で同系統だった

●日本人の姓

日本人の姓は外国とは違う、同じ農耕民である中国や韓国とも違う、血統主義、一族主義が姓の起こりである。ヨ−ロッパでもそうである。だから姓の数は非常に限られている。これは遊牧民系統の文化である。聖書でも執拗に聖なる種族の系譜がアダムからたどられて延々とその系譜が伝承される。これは神の民の継続を重視したからである。遊牧民は土地と関係しない、羊を連れて土地を渡り歩くのだから土地に固執しない、だから彼らのより所は土地ではない、一族意識であり属人主義である。一方日本は属地主義、なにより土地が重要であり土地に従属するのだ。結果として無数の土地の名が姓と化しているのだ。姓の基をたどれば必ずその姓の発した地名がある。そして日本では容易に養子にする、血統主義ではないのだ。外国では養子制度というのはない、財産相続も血統主義である。日本人が土地にその生活の根拠があり武士ももともと農民だから土地こそ第一に考える。日本では特別に属地主義で村は一つの結束した一族の集団と同じである。そこをわきまえて野馬追いの旗の出自を考察する必要があるのだ。

相馬氏は相馬一族の姓でありその姓が土地の名となった。これは日本ではあまりない、北海道では伊達氏が移動して伊達市となったが明治以前の国内ではあまりないことである。相馬氏は特殊であった。それで相馬一族の支配が長く濃厚につづいた。その間に国替えもなく明治まで継続したので資料が豊かに保存されているので相馬藩を参考にして研究がしやすいとされる。野馬追いの旗にしても姓と深く関係しているのだ。なぜその旗印を使うようになったかというと姓が問題になる。その姓の人と旗印が関係している。ただそれを解きあかすことは今ではかなりむずかしい。相馬氏は千葉氏の流れをくみ相馬氏が移住してきた。旗印はこの土地に由来するものではない、それはその前から代々伝えられたものでありすでにその由来は不明なのが多いのだ。なぜそれぞれの姓の武家が旗印をもっているのかその由来をたどることはむずかしい。ただ武田や伊達の旗印があればわかりやすい、他は種類が多くわかりにくいのだ。姓も多数あり混交しているからわかりにくい。わかりやすいのは葛尾村関係の松本姓である。ここは三分の一が松本姓だからわかりやすいのだ。飯館が山中郷として相馬藩に組み入れられて松本氏は相馬藩内に松本の姓をもたらしたことはわかりやすい、他に伊達氏から佐藤氏が20パ−セント移ってきたとあり佐藤氏が相馬氏に多いのは伊達氏から移ってきたからである。

●旗印は村々で同系統だった

相馬市史を調べてわかったことは野馬追いの旗印で一番わかりやすいのは村の旗印が共通していたことである。村々で同じ系統の旗印を使用していた。だからある程度、旗印をみると比べるとどこの村からでてきたかわかる。もちろん郷ごとに行列が組まれるから相馬藩内での地域別、村別に行列は編成された。相馬藩内でも行政単位は村であり村を中心に武士も土着して郷士になっていたから当然である。野馬追いの旗印の由来を解きあかすことはむずかしいのだが村ごとに同じ系統の旗印だったことは明確でありこれを基本に旗印を見ておくのは楽である。

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これは非常にわかりやすい、門馬の一族が村に土着している。門馬が中心で次に佐山氏や渡辺氏がその仲間に入った。つまりこの旗印は門馬氏に習って同系統のものがあとで作られたのだ。先に村の中心は門馬氏にあった。そうでなければ同系統のものにするはずがないからだ。つまり金谷村はこの旗印で統一されていた。村は同じ系統の旗印で野馬追いに出陣した。江戸時代は村が行政単位であり結束が強かった。姓は相馬一族として移動してきても村では同じ系統の旗印となっていた。野馬追いの旗印で明確に分類整理できるのは村は同じ系統の旗印が多い。つまり一つの姓から分家となったりあとから村に入ったものは同系統の旗印を使うようになった。一本線をたしたりして区別したが同系統の旗を使ったのである。だからもしこの村中心の旗が野馬追いの行列に出ればどこの村か判別できるからわかりやすいのである。

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高玉氏はカタバミの紋が旗印であり菅野氏はあとから山中郷に入りカタバミの紋の旗印を採用した。後藤氏と五藤氏は同じであり分家したのである。旗印が全然違ったものになっているのはなぜかわからない、ここでめずらしいのは関根村の関を旗印としたことである。普通は姓を中心としているから一族意識から旗印が作られるがここでは関根村という村意識から旗印が作られている。これは山中郷はあとから相馬藩に組み入れられたから新しく村意識があり関の旗印を作った。山中郷には新しい旗印が作られたのである。最初に○に山の旗印が山中郷を象徴していたとしたが山は山田氏でも山の旗を作っているからそうではなかった。ただ山の字自体を旗印としているのもあり山を意識して旗印にしたものもある。ここでももとは一族意識の姓の旗印だったのがそれぞれの村に土着して村意識の旗印と変化したことが関の旗印で如実にわかるのだ。

相馬市史に旗印と姓と村を記したものがあるからこれを研究すれば系統がわかってくる。野馬追いの旗印でどこの村から出たのかは判別できるのだ。

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参考にした本

「相馬市史6」
posted by 天華 at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2008年07月26日

野馬追いの地元からの見方、感想


 野馬追いの地元からの見方、感想

 
「野馬追い 感想」などのキ-ワ-ドでくる人がいたけど野馬追いで感じることは地元と外から見た人では違っている。
 

小高郷、標葉郷、中ノ郷、北郷、宇多郷
雲雀が原に総結集して旗の列
かつては山中郷も一枚加わりしも
ここに鍛えて伊達を退ける昔の武勇
いななきて荒ぶる馬は伊達に抗す

伊達に抗して荒ぶる馬
http://musubu.sblo.jp/article/4751705.html

 
小高郷、標葉郷、中ノ郷、北郷、宇多郷とあるがこれはかつての相馬藩内の武士が総結集する祭りだった。過去の共同体の復活が祭りであった。祭りには庶民でも神輿をかついだりするのはその神社を中心にして村や町があったからである。山中郷は飯館村だがかつては江戸時代は十四騎野馬追いに参加していた。山中郷は相馬藩では遅く組み入れられて村である。共同体というとき山中郷が飢饉のとき他の郷でも味噌とか米とかもちろん塩とかを援助したのである。一つの村や藩は運命共同体であり他藩は敵となるから伊達藩からは援助されないのが江戸時代だった。街道があるがこれは今のような公道ではない、国道ではないのだ。それぞれの藩で管理していた。だからやたら関所が多い、木戸番というのも重要な職責だった。映画で木戸番が同じ藩内の親友でも直訴として江戸幕府に出るのを阻止するために切り合いになって木戸番は殺された。また藩内の街道でも通るときは藩主などにお礼を言わなければならなかったとか藩は一つの国だから道路も藩のものであり通るには藩の許可が必要だったのだ。
 
野馬追いの祭りもかつての相馬藩の共同体の復活の祭りなのである。ただこれは武士だけが参加できるのでヨ−ロッパだと貴族の祭りだとなる。庶民は参加できないからである。だから相馬藩全員の祭りではないのだ。野馬追いで感じることは今では相馬藩というと狭い地域の祭りである。でもこの小さな地域でもあれだけの馬が集まり旗が集まり雲雀が原に集結するとき壮観なのである。行列の中には稚児や老人もいる。年齢的にも地域的にもかつての相馬藩が一致集結する祭りなのである。そこに祭りの意義がある。そこに感動するものがある。これは他から来た人はあまり感じないだろう。今なぜそういうことに感動するのか?結局どこでも共同体というものが希薄して喪失したからではないか?昔の共同体は会社とは違う総体としての大地とつながりその結びつきが強いのである。それが相馬藩という小さい規模でも一体化したものとして再現するから感動する。現代というばらばらのアトム化した世界で何かそうした過去の親密な共同体に郷愁を感じる。グロ−バル化の世界で世界の果までゆくことが出来てもそこに共同体は生れない、一体感は生れない、現代に欠如しているものそれが一体感なのである。それは総体としての一体感であり部分として会社人間としての一体感ではない、大地と結びつき総体としての一体感なのである。それが過去にはあった。それが祭りとなって再現するとき感動するのである。郷土史の研究の目的は何か?かつてあった共同体の探求でありこれは過去だけではなく現在にも活かすものとして探求なのである。相馬藩は規模が小さいからこのくらいで共同体として探求する一体感を深めることに向いている。ただ会津くらいになるとその歴史の層も厚くなるからまた違ったものとなる。会津が薩摩長州に最後まで抵抗して悲惨な結果をたどったのはその共同体の規模の大きさによっていたのである。他の弱小の藩は比較的簡単に降参していたからである。
 
現代文明はそもそもどこでも帰属意識が薄れる。会社が一番帰属する場となっている。でもそこは部分として帰属する場所であり全体ではないのだ。かつては国が帰属する場所だったがその功罪はあるにしろ現代文明は複雑な迷路と化して人間は部品化される。そのなかで逆に大地と結びつく帰属が明確な共同体を求めるという反動がある。日本となるとすでに大きいからそこに共同意識を求めることは具体的にむずかしい。特にこれだけ文明化すると複雑で帰属感はもてないのだ。むしろ宗教団体などがこれほど戦後興隆したのは国の帰属意識が喪失した結果でもあった。部分に意味がなく全体に意味があるということで時事問題の深層でも書いてきた。その全体とは哲学であり宗教であった。全体に生きるときそこに意味が生れてくる。部分が全体の中に集権される、それが相馬藩の共同体としての復活の祭りとしての野馬追いがあった。つまり相馬藩とか小さい地域だと意味が明確化されやすいのである。グロ−バル化のなかでかえって今や小さい地域での連帯感と意味を追求されているのだ。
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2008年07月23日

万華鏡の旗(野馬追いの新しい旗)

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万華鏡の旗(野馬追いの新しい旗)
 
野馬追いが旗祭りといっても新しい旗は作りにくい、伝統で決まっている祭りだからである。文化財保護の意味もある。でももし新しい旗祭りにするとしたら制限がないとしたら自分用にそれぞれの旗を作ったら面白いだろう。職業によっても違う、陶芸家は茶碗の旗になるだろうし、医者は手術用の道具が旗になったり看護婦は征服が旗になったり、農民は野菜の旗だったり梨の旗だったりその土地の特産物が旗になったりまた抽象的な旗は何か意味あると見れば意味がある。一番わかりやすいのは南相馬市が合併したのだから新しい三色旗にする。飯館村はもともと山中郷として14騎と少ないにしろ野馬追いに参加していたのだから合併する歴史的な背景があった。要するに旗にはいろいろな要素があり合同のシンボルだったり職業のシンボルだったり信仰のシンボルだったりと旗のシンボルも変わる。旗祭りというとき別枠で新しい旗の祭りをするのも面白いかもしれない、これは伝統の野馬追いとは違うから別のみんなが参加する旗祭りになる。
 
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南相馬氏(合併旗)           南相馬−相馬−飯館村−合同旗
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野馬追いの旗の分類(5)−北郷、宇多郷の行列通過

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出陣や雷炸裂や旗なびく


雷鳴りて馬いななくや町中に


老武士の一枚加わる暑さかな


今年の野馬追いは北郷では雷とともにはじまった。稲妻型の旗印があるが電光石火の勢いを現している。山というのは田村家の旗印であり北郷(鹿島区)であった。この旗印は宇多郷とか他にもあるのか?山中郷に移動したことは確かである。ただ山とつく姓ではないし田村であり山中郷でも山とはつかない、佐藤氏の旗印となっている。この旗印は目立つ、山と大きくあるから山の旗印が活躍していることがわかりやすいのだ。北郷で他に花菱(花びし)の紋様があった。これは花の紋様であるが野馬追いには花の紋様は少ない、北郷勢のあとに宇多郷勢が行列したが藩主の旗のあとに奥方の旗は騎馬に乗った人ではない、旗だけをもって歩いていた。紫の中に白い○だから奥方の旗だけが行列に参加するようになった。鹿島区では130騎だから少ない、原町で500騎が集まる。江戸時代は山中郷も14騎参加していたのである。今年の野馬追いの始まりは雷とともに始まった。いつも梅雨が晴れるときになるのだがこれも梅雨明けを告げる雷なのかもしれない、今も雷が鳴っていて一瞬パソコンが停電できれたのでまずいと思ったが普通に再起動できた。パソコンはこういう点怖い面がある。生放送ではないがそれに近いものとして出すことがインタ−ネットではできる。明日は原町の雲雀が原で神旗争奪戦だがここでも良く旗を見ると面白いかもしれない、旗印でどこの家の人が神旗をとってくるかわかる。でも旗印は多いから普通はわかりにくい。野馬追いの日だけ馬が活躍する、馬が活きていた時代を思い出すのだ。馬は生活からはどういうものだったかもはや知ることはできないのである。
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万華鏡の旗(野馬追いの新しい旗)
http://musubu.sblo.jp/article/17257069.html



野馬追いの旗の分類(6)−旗印は村々で同系統だった
http://www.musubu2.sblo.jp/article/19409419.html
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野馬追いの旗の分類(4)


野馬追いの旗の分類(4)

 
●高玉氏のカタバミの紋のル−ツ
 
高玉城は、応永元(1394)年に源義家の子孫である顕実石筵冠者太郎左衛門尉が築城したのが始まりとされています。。二本松畠山氏の支城として畠山氏の一族高玉氏が天文元(1532)年に城を改修しました。天正17(1589)年、六代目高玉太郎左衛門常頼の時に、会津の芦名氏を攻める伊達政宗に高玉城は攻められ城主と共に全員討死し落城しました
 
旗印の起こりはもともとは公家で用いられた紋であった。公家で用いられたのは日本では植物が多いのが特徴である。藤原の藤や橘の橘などの姓がそもそも紋の起こりでもある。名前がないとしたら藤原だったら藤の紋が示せば一目瞭然だからである。葵の紋を示してこの紋所が見えないのかと水戸黄門が示すだけでひれ伏させる権威あるものである。
 

平安のむかし、朝廷に仕える公卿たちは、牛車に乗って参内したので都大路や内裏前の広場はたいそう混雑したという。そこで他家の牛車との識別の必要を生じ、各家ゆかりの文様を描いて目印とした。最初は一代限りのものであったが、やがて子孫が踏襲するようになり、衣服や調度にもつけられるようになった。これが公家の家紋の起こりである
http://www.harimaya.com/o_kamon1/kuge_html/kuge_mon.html

 
紋も初めは他家と区別するために作られた。牛車争いがあっても戦場ではないから比較的美的なものとしてデザインされた。カタバミのような小さな花に注目したこと自体やはり日本的美的感覚だったのか?枕草子にも小さきものはかわいいとか良いとかあり小さいものに微細なものに注目するのが日本の文化だった。だからカタバミの紋のル−ツは公家であり高玉氏は畠山氏からの系統であり公家とつながる系譜にありかたばみ
紋は山陰、北陸地方に多いようだともあり公家系統であるからカタバミの紋を採用した。
 

公家が優雅な装飾性を忘れなかったのに対し、武家の紋章はあくまでも、遠目の利く、端的な目印であることに重点が置かれていました。
家紋の選定について、初期にあっては、公家においては美しいということが主な動機であり、武士においては、遠くから見分けやすいというようなことが重要な狙いでした

公家は装飾性が第一であり識別はそれほど重要視されていなかった。戦場では生きるか死ぬかであり論功行賞の最大の場だから誰の家の旗なのかが一番大事だったのだ。だから野馬追いの旗は戦場で使われたものだから識別しやすいものが旗印として作られた。公家の紋は旗にしたら識別にしにくい、戦場では識別しやすいものでなければ役に立たない、だから幾何学的紋様の単純なものや遠くから見ても識別しやすいものが野馬追いの旗にも多いのである。
 
●旗がなぜこんなに増えたのか?
 
今川了俊の『大草子』の中で、「旗差の心得」についての条に、一番に御紋の御旗、二番に白旗、三番に錦の御旗を御身辺に差し、そしてこれらの旗差は、いずれも優秀な兵士を選ぶ必要があると述べ、幕を出入りするときも、家紋の描かれたところは避けなければならないと戒めている
 

軍旗を持つ下級武士を当時「旗指」と称し、三郎資安が騎馬によって担当していたが、緒戦において早くも乗馬を敵に射倒されてしまったので、やむなく徒歩で旗指の任務を遂行した。当時の戦場には、幕府派遣の「軍奉行」が参加していて、同一戦場で戦う武士を相互の証人として、戦後の論功行賞に利用した。ここに、武家社会の紋章の大きな効用と意義が考察される。
http://www.harimaya.com/kamon/index2.html

 

同族の間では同じ紋章を用いていたが、南北朝から足利氏の時代になって、一門が相分かれて交戦するようになってきたので、同族間でも紋章を区別して混同しないようにしたので、紋章はこの時代から次第に種類を増していった。例えば、明徳の役(1391)で、山名氏一門が戦ったとき、紋章の混同を防ぐために竹葉を旗につけて区別したのであるが、後に山名氏はこれを家紋とすつようになった。後世、同族の間でしばしば異種の紋章を用いているが、これは以上のような理由に基づいている
http://www.harimaya.com/kamon/index2.html


平家源氏だったら赤旗−白旗の二つだけだったからわかりやすい、その後の争いは複雑なのである。同族の間でも識別する旗印が増えてきた。するとその旗印は野馬追いの旗印のように3000にもなった。一家に一つの旗印となりその一家でも分家になりまた旗印がふえたのである。野馬追いにはそうした全国で使われた旗印が歴史の保存のように残されていたのだ。インタ−ネットでは家紋から調べると旗印についても言及される。旗印のキ-ワ-ドだげではインタ−ネットでは調べることができない、紋が先にあり次に武家の旗ができたからである。
 
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●旗の威力は大きい
 
一番に御紋の御旗、二番に白旗、三番に錦の御旗を御身辺に差し、そしてこれらの旗差は、いずれも優秀な兵士を選ぶ必要があると述べ、幕を出入りするときも、
 
旗印にはこれだけの権威があり野馬追いでも旗印には意味があり行列にも順序がある。藩主の旗が先頭にきて藩公奥方旗が最後にくるのもそうである。身分の順序もあった。ともかく野馬追いは旗祭りであるとき旗印の意味を知らないと興味も薄れる。旗印というと明治維新で菊の御紋(錦の御旗)をかかげて官軍が進軍してきたのだから紋の力は大きいのである。旗印のもとに人が結束して集まり力を発揮するのは人間の特徴であり変わらないのである。錦の御旗はやはり明治維新の大きな力となったのだ。ナチスの鍵十字は忌まわしいものとなっているがやはり人間の心理をついたもので悪いにしろ効果を発したのである。野馬追いの旗印も比較的単純なものが多いのも識別しやすいからでありまた日の丸のように単純な方がシンボルとしてわかりやすいから旗印に採用されたのである。
 
 

宮さん宮さん

  宮さん宮さんお馬の前に
  ヒラヒラするのは何じやいな
  トコトンヤレ、トンヤレナ
  あれは朝敵征伐せよとの
  錦の御旗じや知らないか
  トコトンヤレ、トンヤレナ


 野馬追いの旗の分類(5)−北郷、宇多郷の行列通過
http://musubu.sblo.jp/article/17254577.html

 
 
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2008年07月20日

野馬追いの旗の分類(3)

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●山の字の旗 

これは山とつく苗字の一字をとったものを旗としてた。苗字を旗にすることはもともと旗は一家の旗印だからそうなりやすいしわかりやすい。山を山中郷の山だとしたがそれはなかった。宇多郷からでた旗なのかもしれない、なぜなら鹿島区でとった写真だからだ。北郷と宇多郷は相馬は原町の雲雀が原に行く前日に行列があるだ。山中郷にこの旗印が記録であったのは宇多郷の武士が移り住んだためか一族のものなのか宇多郷に関係あって山の旗印になった。



●旗奉行とイギリスの紋章院との共通性

野馬追いは旗祭りとも言われ同じ旗は二本となかった。そのため旗奉行をおき、旗の濫造を禁じ、他家の旗を勝手に用いることを禁じた。旗奉行はすべての旗印を覚えておき、遠くからでも「あの旗は何郷の誰々」と言い当てたとういう。(相馬野馬追い絵図帳)

分家の場合は各切りなどをして区別した。

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旗奉行はイギリスの紋章院と同じである。貴族の格付けをするための役所があったのだ。旗の由来は他者と区別するためのものであった。イタリアの城の街でも旗祭りが実際にあった。テレビで見たが野馬追いのように具象ではなく抽象的幾何学的紋様が多い。旗を投げ合うことを主眼にした祭りであり旗を見せる祭りではない、ただヨ−ロッパでは城内に常に旗が飾られているから日本の城とにているのだ。旗の紋様が合体するのも二つの領土が合体したりすると旗も合体するのである。野馬追いでは分家の旗とにている。今回旗で面白いと思ったのは金札旗でこれは藩の財政を示すものだった。戦争も金がなければできないから重要であった。それから藩公奥方旗というのがありこれも奥方を守るとか奥方が大きな力をもっていたためである。

紫は高貴な色だから奥方旗の色になった。?
 
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 板東市のホ−ムペ−ジ(ここに野馬追いの行列の絵巻が出ている)
http://www.city.bando.lg.jp/sights/masakado/035.html

この絵は勝手に出せないから消すようになる。自分のホ−ムペ−ジには出せないのか
パソコン内にはダウンロ−ドできるとある。でもこれを所蔵しているのは相馬市だろう。
めんどうだけどあとで文句来たらけすことちなる。 


●旗巻き峠

旗のエピソ−ドととして「赤に黒の釣り鐘」の指旗の武者を伊達藩の者に相違ないと見破り、旗巻き峠まで追いつめたという話がある。他藩の者が交じって戦いに出てきたのかよくわからないが旗は敵味方を見分ける重要なものだったのだろう。旗巻き峠は旗を巻いて逃げたからそうなった。伊達藩と相馬藩の境にあり20回も戦いがあった。小藩の相馬藩は生き残ったのは野馬追いの訓練で軍事訓練を怠らなかったためと言われる。旗巻き峠も旗ということで野馬追いの旗祭りとかかわる地名である。外国でもアメリカ西部のフラッグスタッフという所は騎兵隊の旗と関係していた。旗はやはり地名化もしやすいのである。



旗の説明
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/souma2.htm

市町村合併で変わる名前(野馬追いの日)
http://www.musubu.jp/jijimondai17.htm#noma

旗巻き峠について(一部)
http://www.musubu.jp/somagappeijiji.htm#miyako
 

野馬追いの旗の分類(4)
http://musubu.sblo.jp/article/17238949.html

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妙見信仰と馬


 

妙見信仰は北斗七星であり妙見は妙見菩薩のことでありこれは遊牧民や騎馬民族の星の信仰とインドの宗教がまじりあって韓国経由で日本に伝えられたのである。韓国にも北斗七星の信仰があったからだ。野馬追いは馬と旗がテ−マになるが馬は競馬とかでしか活用されていないから身近なものではない、馬は昔は車と同じように不可欠なものであり馬によって作られたのも人間の歴史だった。ただ私がここで詩にした馬は自転車にのった経験から書いたのだ。北海道を一カ月自転車に乗ったとき馬で疾走した経験と重なるのである。自転車で疾走することと馬で走ることはにた経験となる。野馬追いというとき放たれた野生の馬をとらえることからはじまったというから野生の馬が疾走するとなるとモンゴルのような草原や平原が馬の原産地でありそこがにつかわしい場所だった。馬は最初は農耕用ではなく軍馬として牧で飼われ次に農耕馬となった。なぜなら戦国時代が終わり軍馬は必要なくなったからだ。でも荷を運ぶ馬や農耕馬必要だったのだ。ただ馬というとき大草原を疾走している馬が一番にあっている。その姿が星と結びついたのである。野馬追いとなると馬が主役であり馬が活躍した時代を思い出す、でも実際馬を具体的に知ることは今はむずしい。馬は生き物だから馬にも名前があり極めて人間的な交流があった。それは無数に語られ残されている。飯館村(山中郷)でも一軒に必ず馬一匹がいたし馬は欠かせないものだった。今家に必ず車があるように馬がいたのである。
 

千里疾走する天馬(詩の部)
http://musubu.sblo.jp/article/17149555.html

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2008年07月15日

相馬に残る3000の旗印−野馬追いの旗分類(2)

相馬に残る3000の旗印−野馬追いの旗分類(2)  
●相馬に残る3000の旗印−同族の旗が多いため
 
市内には、かつて旗を作る染物屋が20軒以上ありましたが、今は、ここだけになってしまいました。西内さんは作業場から1キロほど離れた川に入って、旗を水にさらし、余分な染料や糊を流します。 家紋などを染めた旗印は、相馬藩だけで3,000ほどあると言われています。
 

福島中央テレビニュ−ス
http://www.fct.co.jp/news/200706.html?start=9

 
確かにこれだけ旗があるとすると20軒くらい必要だった。相馬は旗の街だったのもわかる。野馬追いには500騎くらいでるけど3000の旗印が相馬には残っている。資料には残っていても野馬追いに出るのは限られている。この3000という数は日本全国にある旗印が相馬に記念のように残って野馬追いの華麗な武者行列となった。でもそもそも3000という旗印があとで新しく作られたものはまれである。三色旗は相馬太田神社、相馬小高神社、相馬中村神社の三社合同の旗だから相馬氏が太田に移り小高の城から中村(相馬市)に移った。だから新しい役割の旗である。他の旗の由来はみな古いのである。その原因は同じ姓の同族の旗が多いことが一因である。一つの家の旗印が色や一本の線を引いたとか三角印を入れただけで同類のものが多数ある。一家でも臣下の旗が同じになったり、分家して同類の旗でも下地の色を変えたり一本の線を加えたり
三角の印を入れただけとか区別のための旗印だった。
 
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●千葉氏の日月、妙見の北斗七星が一番多い
 

新田義貞軍が足利尊氏軍を京都に攻めたが敗れて坂本へ退くという条(くだり)である。
「一手は義貞、「脇屋儀助、江田、大館、千葉、宇都宮、その勢力一万騎−−「大中黒、月ニ星、左巴(トモエ)、丹、児玉のウチワの旗、三十余流れ連リテ・・・」押し寄せた。(太平記)

 
大中黒は新田氏、月に星は千葉氏、左巴は宇都宮氏、丹治氏は児玉党は団扇の紋だった。この中でわかりやすいのは千葉氏の旗印である。野馬追いでも日月、●と月をかたどったもの、星をかたどったもの、妙見信仰の北斗七星が一番多いからである。団扇の旗印もあり南北朝時代からの旗印も残っているから古い。最初に鎌倉時代に頼朝に従って功をたて賜ったものが上に八幡大菩薩、下に九曜の紋を描いた旗をもらったことがはじまりだった。それが千葉氏の次男の師常(もろつね)で相馬氏の祖とされている。鎌倉時代から相馬氏ははじまっているしその時旗が九曜の紋だった。千葉氏は丸に月の紋でその回りに九曜の星の紋をあしらうのはそのためである。
 
●一の字のお使番の旗印は一番目立つ
 

お使番は武田家では「百足衆(むかで)と言った。「武田信玄公の御内には御使武者十二人あり、いづれも白き四半に黒くむかでを出したる指し物なり」(武者物語)

お使番の一人に初鹿野伝右衛門がいて百足なしの旗をさして戦いに出た。信玄公になぜかと問われてみな同じでは目立たないと言った。つまり旗印は戦いで目立つために功をたてたとき目立つために他とは違う旗印が必要だった。伝右衛門という名も伝令だから伝がついた役割を示す名前だった。野馬追いでも百足の旗が使われるが役割は軍者である。軍師、副軍師を補佐しながら隊を統率する任に当るとあるからお使番の役割であり重要な役割である。一の字のお使番は行列の前に後ろに絶えず走っている。動きがない行列なかで唯一激しい動きがある役割なのだ。だから若者がその役割を勤める。野馬追いには武田の兵法を取り入れ改革した。それで武田に習うことがあった。
 
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百足の旗の後ろにお使番の一の旗がある。これらは一体化していた。組になっていた。行列の順番にも意味があった。伝統に従って順番があった。勝手には決められないものがあった。

野馬追いの旗の分類(3)
http://musubu.sblo.jp/article/17167008.html

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2008年07月14日

野馬追いの旗印の分類(1)

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野馬追いの旗印の分類(1)

 
旗は目印、家紋は誉れ」というとき旗は戦場での実践で目印となるものだったからだ。平家と源氏の赤旗、白旗は二つしかないのだからわかりやすかった。その後様々な武家が勃興して争い旗印が乱立するようになった。信長が永楽銭を旗印にしたのは極めて象徴的である。楽市、楽座を開き自由な商業を全国的に起こすためだった。農業より商業、貿易を重視して金で全国を支配するという合理思想の持ち主だった。信長も秀吉も武勇一点張りの人ではない、永楽銭が明の永楽帝のことだから常に外国から必要なものは買い入れたていた。永楽銭を旗印にしたとき信長の心意気が政策が旗印となっていたのである。一方真田幸村の六文銭は仏教の六道銭に由来してそれぞれの地蔵に一文をあげる仏教に由来しているから新しく信長が作った永楽銭とは全然違った性格のものだった。野馬追いではなぜこんなに旗の種類があるのか?これは古いものを受け継いでいるから新しく作られたものはない、古いものを簡単にアレンジしたものはあった。一本の線だけを付け加えたりするものはあった。飯館村史にあった山中郷には新郷士となったものが元からあった旗印に名前の一字を入れたものが新しい旗印でありその他は作られていないみたいだ。武田氏とか美濃氏とか古い勢力の旗印も残されている。美濃の斎藤道三の二頭立波模様でありこれは野馬追い追いにもみられる。怒濤のごとく進撃する旗印であった。その末裔が残した旗である。旗の由来をたどればみな古いものであり全く新しく作られた旗はない、古い旗にちょっとだけ名前の字一字くらいを目立たずに加えたくらいである。
 

役割旗
地域合同旗
同族系
相馬藩意外の他氏族、藩


旗の役割は役割としての旗は一の字の旗は行列の中を走るから目立つ、御使番であり伝令のために常に走っているから目立つのである。地域合同旗は三色旗である。これもヨ−ロッパなどでもあり三つの地域が一つの地域の支配下に治まると作られた。相馬では小高、太田、相馬神社である。同族系の旗としては飯館村(山中郷)の旗にあった。稲妻型の旗に松本氏の松の字をそえていた。葛尾村は長野県の葛尾城から逃れてきた松本氏が移住したところであり松本姓が村の三分の一ある。それで松を相馬氏が受け継いできた旗印をもらい松を付け加えたのである。相馬氏族意外の旗としては武田の三菱の旗や真田の六文銭や美濃(斎藤道三)の二頭波立がある。他にも古い氏族の旗印が受け継がれている。それにしても旗の種類がなぜこんなに多いのだろうかという疑問がでてくる。旗印から誉れの家紋となったが家紋の数が多いのは家の数が多いから家紋が多くなるのは当然である。でも旗印がこれほど多いのはなぜなのだろうか?旗幟を鮮明にするということがあるがこれだけ多いと旗幟を鮮明にするとうより混乱してしまわないか?野馬追いには飯館村史とか相馬史とかに残っている旗印が全部出ていない、さらに相馬氏に残っている旗印は多いのである。武家が一家をなすときその一家ごとに旗印が違っていた。でも伊達氏を代表するのは竹に雀であり相馬氏は妙見の旗である。戦場ではあのように種類の多い旗は使われていない、ただ戦国時代の戦争では旗が目印となり旗の目印を見ればどこの家のものか仲間うちではわかっていてそれで見分けていた。戦場でも家が基本にありそれで旗の種類が多いのである。とにかく野馬追いの旗でわかりやすいのは妙見信仰の旗である。千葉氏を受け継ぐ日月の旗と星の旗は相馬氏に受け継がれ一番目印となる旗である。旗印で小さな●は星である。毛利家の旗印三つ星に一ははオリオン星座からとった。妙見も北斗七星の信仰である。これはいろいろ形が変わっても同じ類型として分類できるからわかりやすい。
 
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野馬追いの旗の分類(2)
http://musubu.sblo.jp/article/17015980.html

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2007年12月19日

姓の移動−旗指物の物語一つ

姓の移動−旗指物の物語一つ
 
●戦国時代まで武家の移動が多く姓氏も地名化した
 
この相馬氏が源頼朝の奥州征伐(奥州藤原氏を滅ぼした)に参加し,その恩賞として陸奥南部の行方(なめがた)郡が与えられてこの地に移住しました。

南部氏の場合も,本来は有名な武田氏と同族の「甲斐源氏」の一族であり,甲斐国巨摩郡南部郷(現・山梨県南巨摩郡南部町)を“名字の地”とする一族です。
こちらも,中世以来,出身地の甲斐国ではなく,もっぱら奥州北部に勢力を拡大し,戦国末期までにその支配地域について「南部(領)」という呼称が定着しました。
やはり,甲斐出身の南部氏が「南部」という地名を甲斐から持ってきたのです。


奥州の太平洋側の地域には関東から多くの鎌倉御家人が領地を得て移住してきました。甲斐出身の南部氏もそうだし,現在の仙台市周辺に勢力を広げ戦国末期に伊達氏の支配下に入った国分(こくぶん)氏(名字の地は,現在の千葉県市川市国分[こくぶん]。つまり,下総の千葉氏の一族)などもそうです。
特に,現在の盛岡周辺に勢力を広げたのは足利氏でした。足利一族の“斯波氏”の名字は,盛岡市南方の「斯波=紫波郡」に由来します。

 
戦国時代までは移住の時代だった。江戸時代になり戦乱はなくなり所領は安定して移住はなくなり代々の殿様が所領を治めるようになった。だから東北でも有力武家人が移動してその姓が地名化しているのが意外と多い。江戸時代以降は姓が地名化することはまれだった。相馬という地名自体が相馬氏が移動して相馬と地名化したのである。岩手の南部もそうだった。南部だから南の方角地名と勘違いしている人が多い。東北で姓が明確になるのは鎌倉時代からである。藤原氏が源頼朝に滅ぼされて鎌倉勢が大挙進出してきたのだ。その時鎌倉の有力な一族が移動してきたのである。南相馬市の鹿島区に最初に一族として姓を記したのは「岩松氏」である。千倉庄7百町山中3百町を足利義満より与えられた。御前内とか千倉とかはその時の地名だから古い、千倉は千葉県にもあるから地名の移動も考えられる。山中3百町は飯館をさしていた。原町区の新田(にいた)系統ととの関係で新田川となった。岩松氏の代官が庄園として管理していた石神村の新田という地名が新田川の名前の由来である。岩松氏は他でも地名化している。上野国新田荘岩松郷を本拠として岩松氏を名乗ったことに始まるとあり岩松という地名がありその地名から岩松氏が発祥したのである。氏族の移動が地名化するのは戦国時代までの所領が安定しない時代なのだ。その時武士の移動も多い。一族が移動すればその有力氏族が地名化する。
戦国時代はまた人の入れ代わりも激しくなる。武田が織田信長に敗れ武田家は離散して他家に仕官する。相馬氏にも武田家のものが仕官した。伊達家のものも相馬氏に仕官したした。葛尾村には松本という姓が三分の一もあるということは松本一族の移動が長野県からあった。葛尾城というのもあったからだ。これも一族が移動してきたのである。
 
●旗指物の物語


寛文5年(1665)奥州中村藩主忠胤は武田流軍師大江又左衛門と砲術の関八郎左衛門を招き、武田流の兵法を戦術にとり入れ、野馬追にも10数備の陣を布き、戦列の駆引に応用したものです


武田氏では、これらの旗の他に使番衆が用いた「百足の旗指物」も有名だ。百足の素早い動きとその猛々しさを表現した、信玄好みのものであった。かれらは「むかで衆」とよばれ、武田武士のなかでも豪の者だけが選ばれた、名誉の旗指物でもあった。

むかでの旗はここに由来している。野馬追いの旗は一族の旗だからそうなる。野馬追いの旗印はそれを伝えた武家の姓と何らか関係している。その由来は不明になったのが多い。野馬追いの旗の由来を研究したものがない、わかりにくいためだろう。不思議なのはなぜ冠木という漢字二字の旗があったことである。旗で姓自体を旗印にするのはまれだろう。何か特別な謂われがあって旗印になったのか不明である。真田家の六文銭の旗印は伊達家にも伝わった。野馬追いの旗にもある。
 

「常山紀談」にある、五輪の指物を敵に与えた話を、前出「増補版旗指物」が、次のように書いています。
 荒木元清(荒木村重の一族)の守る摂津花隈城(神戸市中央区)が信長勢に攻められたときの話である。「この時、湊川(神戸市兵庫区)にて勝九郎(池田信輝嫡子、は)、五輪作右衛門という剛の者(豪傑)と槍を合わす。森寺政右衛門も馳せつけたれば、(五輪)作右衛門(は)引返して退(の)きけるが、五輪のさし物を、これはかくれなき(広く知られた)さし物なり、両人へまい(参)らする(進呈する)よといいて、川へ飛びこみて逃れ得たり。黒き四半に白き五輪の形を染めたるなりしとなり。」(以上、引用)
 八王子設楽家伝来の、五輪塔を描いた四半の指物については、これくらいにして、残りの遺品についても触れておきます。
http://oshimamd.sakura.ne.jp/nagaoka/160.htm

 
これは一つの旗指物の物語である。敵の旗印が旗印となることはヨ−ロッパでも多い。紋章に敵国の紋章の一部が取り入れられる。それは二つの国が融合してゆくことでもある。
 
野馬追いが近くなり旗について知りたい人がキ-ワ-ドできている。でも旗指物もわかりにくい、インタ−ネットでかなり調べられる。インタ−ネットは本を読むより情報量が多ければ調べやすい、キ-ワ-ドから調べるからだ。インタ−ネットでは調べたり読んだりしても必ず編集が必要なのである。編集することによって新たなものとして提供できる。著作権の問題があるが歴史的事実を書いただけのものには著作権はないだろう。そういう事実があったということは創作ではないからだ。
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2007年07月19日

伊達に抗して荒ぶる馬(相馬野馬追い迫る)

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伊達に抗して荒ぶる馬


 

黄金の扇のそろい日に映え眩しも

竹に雀は仙台様の御紋、相馬六万石、九曜星

粛々と相馬流れ山の軍歌ひびけり

いななきて荒ぶる馬は伊達に抗す

相馬の武士(もののふ)の心意気

武田流法螺貝鳴りて先陣を切るは

誰が家の旗印、馬も勇み馳せるも

御使い番−若者一の旗走りゆく

中ノ郷、小高郷、標葉郷、北郷、宇多郷

雲雀が原に総結集して旗の列

かつては山中郷も一枚加わりしも

ここに鍛えて伊達を退ける昔の武勇

いななきて荒ぶる馬は伊達に抗す

緋の母衣大将の威風堂々と従者

先頭に藩主の旗、最後尾に藩公奥方旗

相馬藩主の若殿を守り列なす絵巻かな

本陣に勲し駆け上る旗印は誰が家そ 

雲雀が原に今し夏の雲湧きにけるかも
 
 

今や城より出て主君から厳しき命下る

馬上一せいに勇ましき法螺貝鳴りわたり

相馬の山々、大地、海にも木霊して

藩主の下に 集結して打ち揃う相馬の武士(もののふ)

先祖代々の旗印はなびきて華麗に練り歩く

相馬流山の軍歌の雄々しくひびき

藩内の社もここに総結集して雲雀が原へ

武田菱の旗の護衛に総大将の紫の衣鮮やかに

先導す一の旗の伝令の若者は駆けめぐる

雲雀が原に千の旗ゆれ御神旗を馬せりあいて奪い合う

主君の誉れを得むと馳せ上る若武者の馬よ

この時老将も勇みかつての武勲の蘇る

人馬一体、荒ぶる馬の鼻息荒しも

山中郷、中ノ郷、小高郷、標葉郷、北郷、宇多郷

代々の郷士、大地を耕し郷土を守る者たち

今雲雀が原に相馬藩の力は結集せり

夏の大空に法螺貝はひびきわたり

村々に土着して、代々の旗は眩しい光のなかにはためけり

相馬藩の隅々の力のここに総決起して伊達に立ち向かう

三百年つづきて変わらず君主をいただき

相馬の武士の誇らかに年に一度の祭りかな



相馬野馬追いの歴史的意義は何であったのか?祭りでも何でもそうだがちょっとしたことでも歴史がわからないとその意味もわからないのだ。相馬藩は会津をふくむ福島県の全領域が伊達藩になっていた。今でも福島県内に伊達郡があるのはそのためである。この広大な領域を治めた伊達政宗から始まる伊達藩に抗することに相馬藩は独立を保った。だから小藩ながら代々相馬藩が永続してつづいたのである。それが他から見るとわかりにくいのだ。スイスが小国でありながら独立国として維持されたことにも歴史的背景があり意義があった。韓国も中国が隣にありながら独立国として維持した歴史的背景がある。隋が迫った時も死守してそこが国境線となった。ベトナムも中国に何度も攻められたが独立国として維持された。
 
相馬にも伊達の国境に土手も作られていた。相馬野馬追いの行列では確かに当時の歴史が再現される。戦いのために神社も総結集して勝利を祈る。地蔵まで勝利を祈るから将軍地蔵の旗がある。相馬流山は民謡だがこれが軍歌ということも外からはわかりにくい、民謡は民衆のものだと思っているからだ。本来は平和のためにあるのだが戦争となると日本が太平洋戦争の時と同じようにあらゆるものが総動員されるのである。当時の戦争と今の戦争を比べることはできない、全然意味が違ったものであり今の時代の平和を唱えても意味がない、前にも書いたけど昔の戦いは人間的であったことなのだ。一つの絵巻物であり詩になっている。平家と源氏の戦いも那須与一とかが一時戦争を中止して殺し合いの戦争の中でも優雅にふるまう、人間的なのである。
 
戦争が人間的でありえたのは日露戦争までである。その後は余りにも凄惨な地獄絵図となってしまった。その最悪の象徴が原子爆弾だったのである。そして自爆テロなども全くそこには野蛮なものしか感じられない、人間的なものがない、戦争は人間にとって否定されるべきものにしても戦争はそれなりの一つの人間的ドラマであり祭りでもあった。だから昔の戦争は叙事詩として語られる詩となって残ったのである。
 
そちこちに出陣迫るほととぎす

帰り馬草深き道藪萱草
 
出陣が迫りそちこちで法螺貝が鳴りひびく、そして帰り馬とはこれは野馬追い独特のものである。雲雀が原の神旗争奪戦で旗をとって御札やご褒美をもらったものが帰る馬である。野馬追いで相馬藩の歴史は凝集されるからわかりやすいともなる。


花は相馬に実は伊達に
 
この意味は何なのか?実質的広大な支配権を得たのは伊達であった。相馬に花をという時、戦いで相馬は実質的に領土も拡大されないし何も得ていないが小藩としての独立の気風を残したということなのか?これは相馬藩と伊達藩が争いのあとに平和裡に和解して国造りをしたことを例えている。

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野馬追いの詩(雨天野馬追い行列)
http://musubu2.sblo.jp/article/30794378.html

ミルトンの叙事詩と酷似していた相馬野馬追い
http://musubu2.sblo.jp/article/26138880.html

ヨ-ロッパというと異質な世界のように思うけど中世は城もあり騎士もいて紋章も多様であり日本の侍の世界とにていたのだ。だからまるで野馬追いを想像させるような詩が生れた。これは相馬野馬追いからもイメ-ジされて作られる詩であり違和感がないのである。
だから相馬野馬追いを外国人に説明するときこの詩を引用すればわかりやすいとなる。
posted by 天華 at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2007年04月18日

姓から探る郷土史(野馬追いの旗の謎)



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姓から探る郷土史
(野馬追いの旗の謎)


●地名から姓へ

この富岡、木戸城は大膳太夫盛胤が標葉を乗っ取られた時に一度御手にいれ再び岩城の地となったのをこのときまた取り返えされたもので、時の富岡城代は岩城一族の富岡玄蕃であった。

富岡は岩城と相馬の境で争いがあった。富岡は岩城一族の富岡玄番からきている。他に大膳町とあるのは相馬氏系統の大膳が領有していたためなのかこれも姓に由来している。

初代  相馬大膳亮利胤
二代  相馬大膳亮義胤
十二代 相馬大膳大夫充胤


姓に由来しているといってもその姓は土地の地名に由来していることが多い。富沢酒造店の富沢は双葉に地名としてもあった。この地名が先にあり姓となっている。そもそも相馬一族が移動してきても相馬という地名はつかなかった。中村が先にあり中村氏を名乗る人がでてくる。相馬藩内でも熊源兵衛、熊川清衛兵、富沢作衛兵、・・・の熊や熊川は地名を基にしている。もともとあった地元の地名を姓にしている人はそこに住んでいた有力者でそれが姓を名乗り武士となったのかもれない、一方外から来た武士はもともと持っていた姓を名乗る。姓は遠くから移動するのだ。岩松氏は鎌倉から鹿島区に移動して断絶したから残っていないのだ。他に岩城忠衛門とかもいるので岩城氏一族のものも相馬氏の中に入ってきていた。江戸時代でも姓をもっていたのは武士だけであるからその系統はわかりやすいとなる。松本氏となると葛尾に多いからこの系統のものではないかと推測できる。今ではありふれていても江戸時代には松本となのる人は限られているからだ。姓も歴史を探る大きな手がかりになる。江戸時代の武士の姓は由緒あるものだがらそれが継続している家は古い家となり野馬追いに出る家になっている。

会津の歴史関係で面白いサイトを発見した「桜狩り」のペ−ジである。

昔いつの頃にか、この地にさすらって来て、都に帰る事がなかった石川浄足という公卿がいた。子沢山で、その末は三家に別れ、一人は石堂を名乗りこの滝沢に住み(滝沢村の旧名が堂家村だった事の由来でもある)、一人は石塚と名乗って石塚観音のあたりに住み、一人は石部と名乗って石部桜のあたりに住んだとの事である。

会津の殿の桜狩り

石川が三つの姓になった。地元の地名を姓にしたとき地元に土着した一族があったのである。

● 野馬追いの旗の謎

双葉から岩城までは相馬と岩城の境界でありそこが夜ノ森(余の森)であれば森が大野や広野は大きな広い野、原野が広がっていた。ここはまだ開墾されていない土地だったのだ。今からみると鉄道の通る場所が未開の開墾されていない土地があったことは意外なのである。明治から戦後も開墾は延々と続いていたのである。だから栃窪の上萱(うえがや)とかにも開墾に入った。ここは孤立した山の上の相当不便な場所なのだ。それでも耕す土地を求めて人が住みついたのである。野馬追いの旗に鎌の旗があるがまさにあれは武士でももともと農民であり開墾する耕す農民の旗だったのである。野馬追いの旗にもいろいろ意味がある。なかなかあれを解読した本もでていないからわかりにくい、五輪塔の旗があれば先祖を同じくする一族一門の連帯を強調したのかもしれない、昔は一族意識が強かったからだ。六文銭の旗だと真田家であり武田系統から移動してきた武士の一門となる。竹に雀は伊達家だから伊達家から相馬氏に移り仕えた武士である。

不思議なのは冠木という漢字二字の旗があったことである。これは喜多方で冠木(蕪木)(かぶき−かぶらぎ)という姓の人にあって話しを聞いたからなぜここにこの漢字二字の旗があるのか謎である。姓を旗にしたのはないし冠木という姓の人も相馬氏の武家にいるのか?美濃に蕪木城があるから移動してきたのか。二本松と岩沼に冠木という地名がある。地名から由来して姓になったのか謎である。野馬追いは旗祭りというようにいろいろな謂われが旗にあるがこれを詳しく研究した人がいないのはどういうことなのか?めんどうということもあるが旗祭りだったら旗を研究する人がいてもいいが見つかっていないのも変なのだ。

参考

喜多方は新しい街だった(蕪木の姓の家)
http://www.musubu.jp/jijimondai18.htm#kitakata
posted by 天華 at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係