2017年07月14日

インターネットの情報社会の混乱 (プログも勝手に削除されたりしていいのか?)



インターネットの情報社会の混乱


(プログも勝手に削除されたりしていいのか?)


プログという形式そのものが情報発信することでは今までありえなかったことである。
毎日発信できる、日記形式でできる
それは日々のその人の生きた記録となる、自分のプログはもともと一句一首として日々のことを発信することだった、それは季節によって変わるからプログに向いていた
そして10年間してきた
プログをはじめてすぐに姉が認知症になり今度は認知症のことを書き始めた
これは結構読まれていた、やはり認知症のことをがわからないからそうなった
やはり自ら介護した人でないと認知症はわかりくいからだ

その次に自分が今度は母の介護とか自分の病気とかなり事件もあり一身上のことを書いてきた、これも今までにありえないことだった、一身上のことを公にすることなど今まではできない、どこのメデアでもそんなことを受け付けない、テレビでは芸能人なら視聴率をとれるから放送している
でも芸能人でも今は個人でプログをみんな書いている、国会議員でもほとんど公の人でもプログを書いているのだ、プログは簡単にできるからだ
そして今までは2チャンネルのように必ず受け答えがあるものとしてパソコン通信があった、それは匿名であり言いたい放題であった
相手のことなどかまわない、年齢も社会的地位もなにも関係ない、相手が男か女かもわからない、相手が中学生だったなどということもあった
要するに文章だけが出てくる世界でありそれは実際は現実社会にはない異様なものだったのである。

だからプログでおめえはなんとかとコメントしたとき違和感を感じた
それはパソコン通信とか2チャンネルならそういうことは普通だったのである。
プログとなるともう違っている、二三行かいてケチつける暴言をはくようなことは受け入れられない、プログでコメントするときはやはり現実社会と同じになる
自分の素性をある程度プログで明確にして主張でもそうである。
そうでないともう対話は成りたたなくなった
それでどうしてもプログは一方的に発信するのが多くなっているのだ。

プログになるとこれはその人となりが必ずわかる、どういう主張をもっているのかもわかる、その素性もわかる場合がある、プログは何か一貫して主張することに向いている
だから何度も同じようなことを追加して書くのに向いている
これは一冊の本とも違う発信の仕方である。
それは書く方にとってもメリットがあり読む方にとってもメリットがある
書く方では前に書いたことをまた追加したり再考察して書く
するとまた違った見方が生まれる
そしていくら書いても制限がないからできる

インターネットという場も実は法も整備されていない混乱したカオスである
そもそも一記事だけを読むということはメデアの世界では今までない
一冊の本としてか雑誌でもそれなりの長い文として主張させている
短い一記事だけを読むということはありえない世界だった
キーワードで読むからそうなっているのがインターネットの情報社会である。

ただそこに様々な問題が生まれている、プログでも運営する側に勝手に削除されたりすると困る、注意するのはいいが削除されると困る
アスカとかがプログで自分の言い分を言ったら削除されて困った
そこには自分の作曲されたものがあったからだ
でも記録していたので再現されたという
だから問題があっても削除することはよほどのことでないとあってはならないことであるそしてインターネットの恐怖はパソコンの恐怖は一瞬にして記録したものが消える
そしたらこれまで苦労して書いたものが水の泡となる
それも重要なものがあり後世に残るものもある、芸術作品もあるからだ

ただインターネットでは無数にあるからこんなもの消してもどうってことないとなる傾向がある、でも今ではまともな人が相当に書いているからこういう対処の仕方は許されなくなっている
削除するときはよほど慎重にしなければならない
さくらのプログでは一回料金を払わないで全部消される所だった
その時自分は病院に入院していてメールとか見ていなかった
自分はメールとかコメントをこまめに見ていない、ただ自分の言いたいことプログに書いている、対話はほとんどしていないのである。

今はホームページに書いたものやプログに書いたものを整理している
つくづくそこで感じたことはその大半を忘れているということである。
自分の書いたもの忘れている、こんなことを書いていたのかとかこんな俳句や短歌を作っていたのか詩を作っていたのかとあらためて感心しているのも不思議である。
人間はともかく忘れる、だからプログでも何でも記録していないと思い出すこともできなくなる、人間はこれだけ忘れるのだから記録するだけでも必須なのである。
そうでなければ過去すら忘れてたどることもできなくなる
そういう点でプログは読まれなくても記録するだけで後で役に立つ
ただ自分の場合膨大なものになっているからそれをたどり読むことも苦労になっている

ともかく今回一つのパソコンから書き込めなくなったのはショックだった
それはさくらの方で操作したのではない
パソコン自体の不具合から外部からの操作なのかもしれない、それはわからない。
でも書き込みだけができないということが不可解なのである。
さくらのプログはホームページでもプログでも全く不干渉である
何を書いても自己責任でしろとなっていて干渉していない
プログランキングなどもしていないし宣伝もない
ただプログとしてはマイナーなのでアクセス数が上がらないということはある
でも10年間してアクセスは10万ページビューにはなっている

インターネット上で読まれことは至難である、ただアクセス数となると一カ月百万ページビューのサイトでも自分にはつまらない、かえって大衆受けしないとテレビと同じく視聴率はアクセスはとてもとれない、高級なものになると余計にそうなる
俳句とか短歌とか詩になるとそもそも読む人が少ない
だからどこでもアクセス数は少ないのである。

2017年07月13日

一つのパソコンからさくらのフログに書き込めなくなった謎 (記録したものが消される恐怖)


一つのパソコンからさくらのフログに書き込めなくなった謎

(記録したものが消される恐怖)

パソコンを三台使っている、中古二台と新しいwin10である、でも中古のソニーのハソコンからさくらのフログに書き込めなくなった、記事一覧の記録したものも出てこない
ただインターネット上では記事は普通に出ている
他の機能は正常である。

記事一覧が見れないのと書き込みができない!

他のパソコン二台は正常である。さくらのレンタルサーバーが問題ではない
するとパソコン自体の問題でそうなったのか?
こんなことがあるのか?
ウィルスなのか、外部から操作されたのか?
第一書き込みだけができない、一覧が表示できないのはなぜなのか?

その原因は不可解である、後の二台のハソコンは正常だからである。
やはりパソコンは三台くらい必要である。
それからプログはさくらのフログでも保証していない
何かあってもとりあわない、責任をもっていない
だからフログは複数持たないと安全ではないとなる

さくらのレンタルサーバーの問題ではないから聞いても無駄である。
ただなぜそうなったのか?
もしパソコン自体の不具合だとするとパソコンも危険だとなる

とにかくインターネットでもパソコンでもプログでも何か安心がない
一瞬に消えることも経験している
だから保存して書類として本に記録するのが一番安全だとなる
今そういう作業をしている




2017年06月03日

原発安全神話の洗脳に加担したマスコミ (福島民報は県が50パーセント出資している官報だった)


原発安全神話の洗脳に加担したマスコミ

福島民報は県が50パーセント出資している官報だった


日本は戦争に勝つ
日本は戦争に勝つ
日本は戦争に勝つ
日本は戦争に勝つ

日本は戦争に負ける

原発事故は起きない
原発事故は起きない
原発事故は起きない
原発事故は起きない

原発事故は起きる

ヒラリークリントンは勝つ
ヒラリークリントンは勝つ
ヒラリークリントンは勝つ
ヒラリークリントンは勝つ

トランプは勝つ


人間の心理として何か常に洗脳されることがある、それはメデアを通じて成される
カルト宗教団体でも洗脳が常に行われている、それは宗教とは関係ない、洗脳なのである嘘も百回言えば真実になるとか洗脳として行われる
それでナチスがゲッベルスがその洗脳を担当したのである。

洗脳というときむずかしいことは言わないことである。大衆を洗脳するにはむずかしいことを言っても通じないからである。
戦争が悪いとか戦争がしていいのかとかそうした疑いをもたせない
ただ戦争は勝つと唱えさせていればいいのである。

原発で安全神話が形成されたのもその安全の中味については問わせない洗脳だったのである。
それはマスメデアを通じて成されていたのである。

福島民報が県で50パーセント出資しているとかでもわかる、県は国と結びつきその安全神話を作った側だったのである。福島民報は聖教新聞も刷っているから全く権力側につくから国とか県側につく洗脳メデアなのである。
なんか自主避難でも福島民友は同調しているが福島民報は県の方針に国の方針にそって帰還するべきだと言うだけだとなっている
別に自分は自主避難は何なのか?放射線量がそれほど高くないのになぜ避難するのかのみこめないことがあった、だから自主避難には疑問をもっている
ただそれでも自主避難はだめだということがあってもそれ一方になることがメデアの問題なのである。だから福島民報と福島民友で違った意見になることはいいことなのである。それが常に民主主義なのである。必ず賛成するものと反対するものがある
その両方を取り上げることが民主主義だからである。

ともかく大衆を操作するには洗脳が効果的なのである。だからナチスがラジオによって洗脳されたという時もそうである。ラジオがそんなに効果があったのかと今では思う
テレビはそれより効果的だからである。
テレビで原発が安全でないとか放送されていただろうか?
例えば本は原発は安全ではない、危険だと警告する人がいた、原発は東京に作るべきだという本を出した人がいた、なんかその時自分は近くに原発があるのに関心がなかった
関心をもたされなかったともなる
その本をなぜ自分はSF小説のように見ていた、空想の世界だと思っていたのである
それもそういうふうに洗脳されていたからだともなる
原発が危険だと言う人はいたし本も出されていても関心がない注目されなかった
それは科学的にも科学者でも原発の安全性に疑問をもつ学者はいたのである。
でも「安全神話」は権力で持って強固に作られていたから洗脳されていたから疑問をもつことさえゆるされなかったのである。

マスメデアは全部左寄りでも朝日新聞でも東電に事故が起きたとき幹部が招待されていたように安全神話に加担していた、福島民報も民友もそうである。
ジャーナリズムとは何か?そのことも原発事故で問われた
ジャーナリズムは本当は権力を監視するものがベースにある
常に本当は反権力の立場にたたなければならない、なぜなら権力をもつものを監視するものとして三権分立が生まれた、マスコミもまたその権力を監視するものとしてあらねばならない、権力は危険なものだからそうなる、権力をもつと人間はその権力に魅せられる
なぜなら権力によって人を支配できるからだ、それで裏で金を操作しでこの世を支配しているのがロスチャイルドとかロックフェラーだとかユダヤ人とかなんとか陰謀論になる
それは現代の最大の権力が金になっているからである。

例えば反権力というときカルト宗教団体も実際は監視しなければならないものである。
なぜなら創価でもそうだが政治家して権力を追求しているだけだからである。
会員を増やすのも権力をえるためでありそれ意外なにもない、宗教的改心とかそんなことを言っていたら誰も入らないだろう。そんなめんどうなことではない、ただ得しますよ、ご利益がありますよという利益を説くだけだから入るのである。
だから宗教団体はみんなうさん臭いのである。政治にかかわりそこで権力を操作する側になり利益を得ようとするだけなのである。政治家もただそこが票になるから利用するだけなのである。

マスメデアにしてもそうした巨大な権力側につく、監視する側ではない、国とか県側につき大衆を洗脳する操作する側につくのである。だからそこにもうジャーナリズムとして期待するものは何もない、ただの官報にすぎないのである。
実際に県が50パーセント出資しているのだし聖教新聞も刷っているし東電などからの宣伝費も入っているとなるとそれは何なのだとなる
だから県民でもそんな新聞に何を期待するのか?
原発事故を起こした原因はマスメデアにもあった、そのマスメデアはもともと大衆洗脳のためのマスメデアだったのである。

まずニュースとしてもとりあげるものととりあげないものがある。
原発では度々小さな事故があってもその報道は小さいものとなり何か危険を喚起しない
みんなもの関心をひかないのである。
要するに原子力のことがわからなくても

原発は危険だ
原発は危険だ
原発は危険だ
原発は危険だ

こういうふうに見出しでも目立つようにしていれば大衆でも危険を感じるようになったかもしれない、そういうこが心理的にあるのだ
それがただ安全だ安全だというものしか目にしないし危険だということはおさえられていたのである
マスメデアが宣伝費が成り立つとき出資者が県が50パーセンとなのだから当然だとなる
だからみんなのための報道というとき何なのかとなる
そんなものを作り出せるのかとなる、でもそういう報道がないとするとどうなるのか?
前の戦争のように300百万人死んだとか、今回のようなとりかえしつかないものとなる
その被害が民衆に及ぶ、それを今みんな実際に被害者となっているからこの辺ではなぜ原発事故が起きたのかを真剣に考えて反省せざるをえなくなっているのである。

その責任の大きなものがマスメデアにもあったからだ
マスメデア側にしても自分たちはただの民間の一会社でしかない、だから利益をあげて穏便であればいいともなる
つまりマスメデアでもメデアは民衆の側でそうした権力の監視を真実の報道を望まなければ生まれないとなる、だから民主主義でも民衆側が賢くならなければ機能しないのである
技術的にインターネットなどが生まれてそういう反権力の報道も可能になっているが洗脳メデアとしてまだマスコミは力をもっているのである。
だからトランプがどうであれマスコミがあれだけ批判していたのに大統領に当選したことは画期的なことだったのである。
何かその後のトランプ大統領を弾劾するとかのニュースでもアメリカの方が権力を監視するということではその機能を発揮している、日本では非常にそうしたマスメデアの自立性がないのである。

2017年05月16日

マスコミは会社から宣伝費をもらって成り立つ (会社側に立つから公正な報道はない)


マスコミは会社から宣伝費をもらって成り立つ


(会社側に立つから公正な報道はない)

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人間は求めるものがいろいろある。医者に求めるのは病気を治してもらいたいということが第一である。看護師に求めるのは病気を直す手伝いをするということもあるがやさしく看護してほしいということがある。
医者の助手となっていも病気だからやさしくしてほしいとなる
何か同じ病院でも要望するものが違ってくる

大工だと今は全国的住宅会社があり丈夫で快適な家を建ててもらいたい、安くてもそれなり家を建ててもらいたとかなる、常に何らかの要望があってそれに答えようとするのが商売であり会社でもある
レストランだったらうまいものを出してほしいとなるのは当然である。
人間はともかく何でも娯楽すら金をはらうと要望が生れる
金払ったのにつまらない映画だったかなるからだ

ではテレビとか新聞とかなるとその要望が何なのかわかりずらくなる、テレビ会社には視聴者は金をはらっていない、NHKには払っている、民間には払っていない、民間のテレビ会社はではどういう要望があるのかとなると視聴者の要望もあるが実は宣伝費として金をはらってくれる会社の要望に支配されるとなる
そのために視聴率をあげねばならない、視聴者の要望より宣伝費をくれる会社の要望に答えようとする、だから東電や電事連から八〇〇億とかの宣伝費がばらまかれたから東電でも原発のことは批判しなかった、安全神話に加担したのである。
それは朝日新聞社でも同じである。東電が中国でマスコミの幹部を接待したとき事故が起きたからである。

例えは地方新聞でもテレビでも全国紙と違って地方の要望が生れる、地方を知りたいとなるのは当然である。その地方で知りたいということに答えるというよりやはり東電などの宣伝費をもらうと会社が優先されて視聴者は優先されない
その原因は新聞でもそうだけどテレビでも視聴者はテレビの場合金をはらってくれないからそうなる、ただ新聞の場合は金を払って定期的に講読してもらっている
すると新聞の場合は視聴者の要望を繁栄するものを作ってくれないと困る

それでもなぜ新聞社でも半分が広告になっているのか?つまり新聞を発行するためにそれだけの巨額な金がかかるからそうなる、定期的に金をもらっていてもそうである。
雑誌などになると一カ月一回発行してやっていけるのかとなる
そこは会社からの宣伝費が入って成り立つ、何か他にも援助がないと成り立たないのである。

視聴者がマスコミに何を望むのか?視聴者が望んだものは報道されないのである。
原発の危険性を報道してくれといってされない、福島民報も民友も安全神話に加担していたからである。
そもそも新聞とかテレビでも公共的なもののように見ている、NHKは国民みんなから金をとっているのだからそういう側面があってもやはり報道がかたよっている
そもそも報道は何らかかたよるのが普通である。中立を維持するのはむずかしい、国際関係でも中立は維持できないようになっている
でもマスコミは中立を装うからまぎらわしくなる

その点、赤旗とか聖教新聞とか党派新聞は正直である。完全にかたよっていて他の人はそういうものだとして見るからである。マスコミは何か中立的な公共的なものとして見ている、それが誤解をまねいているのである。
もし赤旗や聖教新聞のようであればそれそれでそういうものとして見ているからいい
例えば世論というとき何か世論なのか?それはマスコミが今まで作り出していたのであるなぜなら報道媒体としてあり全国に報道できるのはマスコミしかないからである。
するとそこにマスコミの意向が入ってくるのである。それで世論と言ったとき、世論ではなくマスコミの意向だったとなる
そのことでトランプ大統領はマスコミを嫌うようになった。実際の世論はラストベルトと言われる取り残された製造業の労働者だったのである。
それを無視してマスコミは報道していたから世論でもかたよっていたのである。

ともかくマスコミの時代は終わりつつある、別に誰でも簡単に格安で報道できる、youtubeでもできる、それでも以前として記者とか今までのマスコミ的役割は必要であり残る
まず取材となると簡単にできない、情報を官僚とかでもとることがむずかしいからであるでも記者クラブとかで独占して情報をもらっていたからそこで馴れ合いが生まれ大本営発表しかなくなっていたのが原発でありそして事故が起きた

一方ででは民主主義とは民の要望を繁栄させる仕組みが必要である。
それが今まではなかった、官僚とか大企業とかの要望の上に報道していた。
福島民報などでも聖教新聞刷っているのだから創価などは批判しない、毎日新聞でも他でもそうである。新聞を発行するにはそれだけ金がかかるからだ
報道するのに金がかかりすぎたことがこういう問題を生んだのである。
その金をどこから得るのかとなると視聴者からは得られない、新聞は購読者から得られている、だから何らかそこで購読者の要望が反映されてもいいはずだった
原発のことをその危険性を指摘して報道してくれたら事故を防げたかもしれないとういことはあった。それができないのはその上の巨大な権力がマスコミを支配していたからである。
スーパードクターに頼むなら金を払いというのと同じである。弁護士でも金にやらないと引き受けないと同じである。政治家も金で動く、そこに弊害がありすべてがゆがめられているとなる

そもそも要望する方でもその要望するものを明確にしないと圧力をかけないと報道する側も動かないのである。
つまりこれは民主主義が自治が問われたことなのである。
ただ権力側に従ってだけいたら権力側のいいようにされるだけである。
そういう民衆側から自治があり要望に答えるように働きかけないと民主主義は機能しないのである。
インターネットはそういう報道の面で改善することがあった、でもこれもまだマスコミのような力はない、でも対抗メデアとして力をつけていることが民主主義を促進するものとなる

ただ深く取材したりするとなるとできない、個人ではできない、取材する方も権力が必要だからである。一人のプロガーが取材してくれと言っても受け付けないだろう。
NHKだとか朝日新聞社のものだとなると取材される方も従う信用することがある
個人はまるで信用されないからである。信用もあるが権力がないと報道もできないのである。

原発事故がなぜ起きたかというと科学的な原因もあるが民主主義が日本では機能していなかったのである。そういう原因もあった、でもそれが不可能だったかとなると違っていた新潟県の巻町では原発に反対して建てさせなかったからだ
そんな小さな町で良くできたなと今になると感心する
新潟日報も応援していたということでここだけはマスコミでも違っていたからだ。
肝心の福島県のマスコミは報道はみんな原発に賛成だったのである。
民主主義はまだ日本では成熟していない、復興でもそうである。
下からの要望がない、ただ上から金がばらまかれてもそれが有効に利用されなかった。
ただ住民でも金をもらえばいいということしかなかったからだ
その補償金についても分配でも利用でも南相馬市なら市全体で話し合い復興につなげるべきだったのである。

2017年05月05日

報道がなぜ面白がることになるのか? (他人の苦しみを知らないし理解できないから)


報道がなぜ面白がることになるのか?

(他人の苦しみを知らないし理解できないから)

みんなが記者になるインターネットの時代
 (現場の被害よりいい写真をとることに夢中になる)

ここで書いたようなことがなぜ起きたのか?マスコミでは常にそうしている
報道は娯楽である。他人の不幸を蜜の味であり楽しみとか気晴らしにすぎない
それが実際は個人的でもそうだったのである。

津浪に追われているのを写真にとる、ビデオにとることに夢中になる
その津浪に追われている人の恐怖がどれほどのものだったのか?
そんなこと関係なく写真をビデオとることに夢中になっていたのである。

それは自分でもそうだった、八沢浦が美しく入江として蘇ったと写真をだしたとき
泥の中から幼児をほりだしたのを知らないのかと言われたのもそうである。
何が美しい入江が蘇ったのかそんなこと報告できるなとなる

ただ別には自分は面白がっているわけでもなかった、自分自身がその時身体障害者になっていたからその写真をとるにも苦しい状態にあった
でもなぜそんなことをしたのか?それはあまりにもありえない光景でありそれは本当に美しい光景だったからそうなった
でもそこに一軒くらい家が浮いていたのである。

ともかく他人が生きる死ぬかの時、写真やビデオを撮ろうとしているのは異常になる
でも新聞記者だったらテレビの記者でもそういうインパクトのある写真を出して視聴率をかせぎたいとなり撮る、困った人のことなどのことを考慮しないで取材している
相手は悲しみ最中にあってもそうである。

これは個人間でも起きているのだ、人間は相手が苦しんでいても普通は無関心である。
自分が介護とか病気になって苦しんでいても無関心だった、ふりかえると相手に対しても自分もそうだった、ある人は金がなくて苦しんでいたけどそんなことも無関心である。
金がある人は相手が金がないとういことを理解しないである。
いくらでも金なんかあるじゃないかとなっているのである。
健康な人は病気の人を理解しないのである。
そんなに苦しいの私は何の苦しみもないからわからないとかなる

そして自分の場合は自分が苦しんでいる、弱者になったことをいいことに責められたのである。弱者になると借金を請求するのにも好都合だしてたいしたこともしないのに恩をきせることもできる、相手が苦しみ弱くなったことは全く考慮しない、それは弱肉強食の世界だった、弱ったものが餌食になる、それを経験したのである。

なぜそういうことが根本的に起きてくるのか?
人間は相手の苦しみを知らないし感じないからである。
その人は実際は介護十年していたのである。ところが自分もその後介護十年していた。
その人は前から介護して苦しんでいた、自分は知らなかったのである。
だから自分のことも全く無関心だったのである。
その事情を知って互いに苦しいことがわかったのである。

ともかくマスコミなどは悲惨なことを毎日報道しているがそれはただ視聴率をかせぐためであり金儲けのためである。その報道する人が会社がなにがしかの痛みをともなうなら別である。そんなことは何にもない、視聴者に他人の苦しみを見せて視聴率をかせぐだけだとなる、ただ危険な所で写真をとったりすると命懸けだとなり命懸けで伝えたいものがあるのかともなる

人間は普通他人の苦しみを知らないで生活しているのである。
自分の前に人が苦しんで倒れたりしたらこの人は苦しんでいるから救急車を呼ぼうとかなるが普通は知らないのである。
だって人は毎日死んでいるしまた死んだのくらいしか他人の死はならない、それが家族の死だったらそうはならない、他人だったらそんなものなのである。
ましてや他人の苦しみを知ることは本当にむずかしい

俺は今一億円の借金で困っているんだよと言われても他人だったらそれは大変ですねとかで終わりである。でもそういう人が困っている人がいることが本当に他人に影響する時
その怖さがわかる、そういうことは常に推理ドラマでやっている
犯罪の殺人の動機でも借金が必ずからんでくるからである。
そういう人とつきあったりしたらそういう危険なことになりやすい、自分がそうされたから身をもって知ったからである。

結局人間は相手の苦しみのことがわからない、相手が貧乏であれそんなこと金がある人はわからない、それは怠けていて自己責任だとなる、そういう面もあるが働いても働いても金にならない人もいる
でも金のある人にとって貧乏人のことなど知らないし関係ないのである。
ただその貧乏人が金持ちを襲ったり殺人までなったりするとき相手のことをもう一生忘れないようになるのである。

マスコミの報道でも遠くだったら影響がないから面白がるだけである。
連続殺人あった、九州か遠いなとかなりなんだろうと一時なるが後は忘れるだけだからである。でもそれが近くだったら恐怖になるのである。
シリアであれだけ悲惨なことがあっても面白い光景だとかなる
ところが北朝鮮からミサイルが飛んでくるとなるとまるで違ったものとなる
ドラマでもそれがドラマだから自分の身が痛まないから面白がっていられる
現実に自分の見に危険が及んだり苦しめられたら面白がっていられないからである。

要するに人間は自分が苦しまないかぎり他人の苦しみにも無関心である。
だから健康であり金があり困ることがないと他人には無関心になる
でも自分が苦しむ立場になるとこんなに苦しいのに誰も同情してくれないのかとなる
なぜ無関心なのかとみんななっているのである。

インターネットでみんな記者になるときやはりマスコミと同じになっていたのもそうである。衝撃的な写真をとれば大勢の人にみてもらえる、そしたら広告でも稼げるとなればマスコミと同じだからである。
そして普通では人間は相手の苦しみを知らないし理解もしない
ただ衝撃的な写真をとることに夢中になっていたのである。

カルト宗教でも他人の苦しみは会員を増やす一票を獲得するチャンスであり同情などしていない、でも藁にもすがる思いで頼る人がいるから会員も増えるとなる
弱者になると信じられないことでも信じやすくなるのである。
そうした心理をついて魔の手が伸びてくるのである。
人間は確かにこのように悪質なものだけどそれは他人の苦しみを知らない理解できないことにあった、自分が健康であれば金があれば他人が病気であり金がないことも知らなかったり理解できないのである。

この辺の放射能問題でも他者からすると面白いとかなる、でも東京でも同じような被害を受けたらそうはならない、みんな恐怖におののくのである。
報道はだから地元から報道するのと離れた所から報道するのは違ってくる
関心の度合いが違ってくるからだ。
浪江の火事でも放射能物質が拡散するとか騒いだら近くでは注意するが他では面白がるということがある
実際に避難区域になったときゴーストタウンを見に行こうとかなり今でも来ているからだ

報道というときマスコミとか遠い所とか第三者の立場になるとただ面白がるということが起きる、でも実際に苦しんでいる人が報告すればそうはならない
自分は認知症の介護とか自分の病気とか他者から借金のために責められるとか大金を盗まれるかと苦しめられたことを書いた。
それは身をもって経験したことだからである。それはマスコミが報道するのとは違う、自分が痛みを受けたから違っていたのである。ただ誰にも同情はされなかったとはなる

何か痛みをともなわないと同情にはならない

寄付金でも自腹で出したり何か自分自身が痛みを覚えるとなると同情したことになる
その他は他人の苦しみは蜜の味になる、面白がっているだけだとなる

2017年04月28日

ニュースも継続したものとして歴史として理解する 時間的にも断片化しない


 ニュースも継続したものとして歴史として理解する

 時間的にも断片化しない


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狭いと稠密な認識になり広いとおおざっぱな認識となる

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 ニュースというとき今回の津浪のように大災害でも突然起きたありえないものとして見た、こんなことはありえないから警戒もしていなかった
ところが津浪というのはこれくらい大きなものでも2000単位になると起きていたのであるそれで研究するようになった、もともと研究していた人はいた警戒もして忠告もしていたのである。

現代はあまりにも今に注目しすぎるのである。時間軸でも過去から時間軸で考察することがない、そうすると深い見方はできない、時間でも断片化する、だから考古学でも何の役に立っているのかとなるが地味な作業だがその土地の時間軸であったことを掘り下げているのである

そして「歴史はくりかえす」というとき過去にあったことは必ず今に起きているし、今起きていることも過去に起きていた、ただ歴史はくりかえすとしても全く同じものとしては起こらない、似たようなものとして起きている
例えば古墳のことを書いたがなぜあんなに古墳が多いのかとなると今にあてはまると明治以降庶民も墓を作りだした結果として墓が増えた、墓が増えすぎることも困るのである。それで古墳も作ることが禁止されたのである。古墳は小さくても大きいからそれだけ日本のよう狭い土地では田畑にする面積を奪うからそうなる

ともかく時代とともに必ずにたような問題が起きている、すると過去と歴史と照らし合わせて今考える、継続的問題として今を考えることが理解を深めるのである。
ただこの時間軸から考察することは本当にむずかしい、自分の住んでいる所ならできるがそれでもむずかしいから旅行しても時間軸で知ることはできない
外国旅行になると空間的には今や一日二日で地球の裏側まで到達する、では時間軸で理解できるかとなるとできないのである

ヨーロッパは歴史がある、二千年くらいの歴史が文書にも残りある。
ローマ時代の遺跡も各地に残されている、するとその石の遺跡から昔を思うようになる
そこで時間軸から考察することが自ずとできるようになっている
日本だと木の文化だから過去が具体的に残っていないからそうした歴史の思いが生れないただ現代はグローバル社会であり時間軸での考察はどこでも浅薄になっている
そうした時間の断片化がナチスを生んだという説もある

空間があっても空間も時間の中でアイディンティティが作られてゆく
空間でもその土地土地で時間の中で継続の中でアイディンティティが作られてゆく
だからエジプト文明でもマヤ文明でもキリスト教文明でもイスラム文明でも仏教文明でも空間軸があり時間軸があり長い時間の継続の中で作られてきたのである。
即製されたものではない、そこに歴史の時間の重みが生れてくる

津浪で驚いたのは縄文海進とかが再現されたことである。
この辺で船着とある場所は塩崎であり鉄道を越えた所の奥深い所だった
その近くまで津浪が来ていたのである。ということはそこがもともと海であり船着という地名がそこにあることを実感することになった
そこには奈良時代辺りから海であり船が行き来していたとなる
そこは海老とかからすると右田から烏崎は低い場所だったのである。
とにかく烏崎から船が流されてきたのには驚いた

つまり2000年単位の時間軸で見れば自然災害でも今起きたことでも過去から歴史から見ればありうることだったのである。
そういう長い時間軸で見ることが現代には欠けていたのである。
常に今という時間に注意してその関心が奪われているのである。
特にニュースは絶えず今のことを報道しているがそれを過去から考察することはしない
そういう作業はめんどうだから何か特別目立つものを話題にして大衆の関心をひきつけるだからニュースでもその土地に根ざして土着的な報道が必要なのである
それを自分は試みてきた、福島県といっても広いからとても土着的な報道はできないのである。

また「継続は力なり」というとき人間は個人的に何でも学問でも事業でも継続によって力がつく、人間はやはり一代くらいでは家の重みがでてこない、豊かにもなれない、何代かつづくうちに継続してその家から何か人材が生れてくる
何でも一代で築くとなると容易でなくなるからだ
それで農家は三代つづいて農家と認められるというのは土地に根付くにはそれだけ時間がかかるからそうなる

北朝鮮が問題になっているがあれも中国の隋の時代から争っていたし日本と中国のせめぎ合いの場所でありその時百済が滅亡して難民が日本に逃れ定着した
大阪に百済郡までできていたからである。そういう歴史は今にはじまったことではない
古代からの連続したものとしてあり継続したものとして韓半島がある。
だから良く韓国は民族として国として残っているということがある
それはやはり継続するものとして力をもっているからである。民族を滅ぼすことは簡単にはできないということになる、それでも過去の民族は消滅している
エジプト文明を作った民族は何だったのか?その民族は消滅しているのである。
中東でもアッシリアとか何かいろいろな民族がいたけど消滅している
日本ではアイヌ民族はほとんど消滅しているのである。
だから民族が今にすべて残っているわけではなく弱小民族は消滅しているのである。

いづれにしろ継続するということそれが歴史でありその国の重みを作る
「一日にしてローマは成らず」である。そういうことが生きることでもあり日本でもそうした長い歴史で作られた国だからその継続の力を維持することが大事になる
その継続の力はその土地に根ざしアイディンティティが基本になるということである。
文明が滅びるにしてもエジプト文明は3000年つづいているしマヤ文明なども1000年つづいたとかあるからだ。
そういう継続の力があったのが文明であり現代文明というとき何か?
せいぜい百年単位でありその間にすべてが成され終わるという感覚になっているのである江戸時代文明だって300年あった、現代文明は百年ですべてを費やして終わるという時間感覚になっているのだ、そういう空間と時間の感覚がナチスを生んだというピカートの考察がある。すべて今に集中される、そしてあらゆるものが刹那的なものとして消えてゆくニュースはそうである、次々に新しいものが求められ泡のように生れては消えてゆく
そこに継続して報道されるものがないのである。

継続してみるというときこの辺で起きた原発事故でもそうである。
すでに6年がすぎた、すると6年間をふりかえり継続して見る必要がある
放射能物質の汚染は継続している、今ため池を除染している
自分は飯館村の佐須で泥が20マイクロシーベル以上あったことに驚いた
そこはホットスポットだったのである。
その泥がセシウムが付着して真野ダムに流れてゆく、すると真野ダムの底の泥には相当なセシウムが泥に付着して堆積しているのである。
それから類推して溜池でも同じだと思った、その泥が流れて田んぼに入ると米が放射性物質に汚染されるのである。実際に稲の実った米が白くなって放射性物質に汚染された映像を見たからあのように放射性物質の汚染も見ることができる
ただ普通には見えないから怖さを放射能汚染では感じないのである
これも地元で継続に見ているから言えることなのである。

ニュースでは全国ニュースになるとこうした継続してみることが苦手である。
次々に新しいことを探し起きてそれに注意を向けるからである。
全国となると広いから余計にそうなる、世界でももうそこを時間軸で考察することは不可能にもなる、世界は広いから次々に事件が起きるからである。
つくづく何か自分でも鹿島区のことは時間軸でも考察しているが原町とかなると広いし人口も多いし何が起きているのか理解することがむずかしくなるのだ
だから人間は時間軸で考察する範囲は狭いとなる、そういう限度があるのかと思う
福島県でも広い、だから会津のことは山に囲まれた世界を知ることは簡単にはできないのである。
中通りだって海がないしまた違った自然環境にあるからわかりにくいとなる
だから全国でも世界でも旅をしたが時間軸での深い理解はできなかったともなるのである


一つの世界の構築

一つの世界を構築する
その土台と柱と蒼穹と
石の柱は森の樹々である
その一つの場に意味を深める
一つの価値ある世界を構築する
ゆるぎなき価値と意味ある世界を
日々の継続のなかに
長い時間の継続の中に
歴史の継続の中に
石の柱は大地に根づき
破壊されてもその石の土台は残り
継続の歴史を語る

Construction of the one world

I build one world
With the base and a pillar and blue heavens
The pillar of the stone is trees of the forest
I deepen a meaning in one place
Firm value and the meaningful world
that build one valuable world in daily continuation
In continuation of long time
In continuation of the history
The pillar of the stone is with a root on the earth
The base of the stone recites
the history of the remainder continuation even if destroyed

機械翻訳は相当に進歩している
だいたいこれであたっているだろう
機械から学ぶ時代になったというのも確かである
翻訳は機械で基本的なことをしてそれを人間が付け加えるともなる
こういう知的なことも機械でできることの驚きである。

2017年04月22日

情報とは何なのか? (インターネットで郷土密着の報道が可能になった)


情報とは何なのか?

(インターネットで郷土密着の報道が可能になった)

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南相馬市鹿島区の小池のホテルでランチ (コモドイン南相馬ー都会化した鹿島)


人間は生活するために知りたいということが常にある、それは簡単なのでは旅したらその土地のことを知りたいので地図を持ってゆく、今ならスマホが地図代わりになり、みんなスマホを見ている、だから何か話しかけても答えないというか対話がなくなっている
自分がボランティアの駅員として案内しても答えない、必要ないよとなる人も多い
うざいんだよなとかもなる、でもその土地に来てスマホばかり見ているのは何か情報を得るのに問題がある

そもそも情報とは何かとなったらこれも広範囲なものになる、原始時代から情報は必要だった。獲物がどこにいるのかとか、狩猟生活だったらそうだし食べるものでも毒になるものがありそれを見分けねばならない、キノコなどでもそうである。
つまり人間は長い年月でそうした情報を蓄積してきたのである。
その情報は膨大なものでありもうそれを知り得ようがない
原始時代の部族で暮らしていたらその情報は限られている、だから理解しやすい、江戸時代のような自給自足のような村の生活での情報も限られているのである。
そこで暮らす情報は得るのは知識でも限られているから混乱することはない
日々の生活でそうした知識は実践的に身についているからである。

そもそも情報というと実に広範囲であり限りないのである。それは自分がプログで書いているのも情報である、では自分で書いてみて報道のようなことをしてみて一つの小さな一万くらいの町でもその情報がいかに多様かを知るのである
もう報告しきれないくらい情報があるのだ
それは過去にさかのぼれば縄文時代があり現代まで知るとしたらもう小さな町でも無限に情報はある、伝えるものがある。

それで今日のプログでは小池のことを書いたが過去にさかのぼればなぜあそこに古墳が多いのかとなる、古墳だらけになってしまうだろう。なぜそんなに古墳を作ったのかともなる、古墳とは墓なのである。墓がそれだけ増えたとういことである。
人間は次々に死ぬとしたら大きな古墳のような墓を作っていたら墓だらけになり人間の住む所がなくなってしまう、ただ墓は生きた人間が埋められているものだから簡単にそれを取り去ることができないということもある
ただ古墳があまりに多く作られたので古代に禁止されたこともあった


大化の改新(645)の翌年、孝徳天皇の2年1月1日、賀正の礼が行なわれたあと、改新の詔が発せられた。同じ年の3月22日、厚葬と旧俗の廃止が告げられた。
「この頃我が国の人民が貧しいのは、むやみに立派な墓を作ることに費やしているため」として、墓の制度を決め、尊卑の別を設けることになった。次がその時に決められた墓制である。

こういうことが古代からあったのも今でも納得する、明治以降庶民が墓を作りすぎて墓ばかりがふえてきた、死者は増えてゆくばかりなのだからいちいち墓を新しく作っていたら土地利用でもできない、墓が今生きている人の生活を圧迫するのである。
例えば宗教団体の墓があるとする、創価などでも山村の一画が墓地にされたとき、墓地により公害までになる、でもそれが檀家の戒名商売と同じであり墓は金になるからしている人間は宗教でも何でも金儲けになるのである。


 学会や工事担当の大成建設側は激しい巻き返しを図りましたが、地権者の間にも「反対」の声が強くなり、断念に追い込まれました。学会側は町への撤回申し出のなかで「開発用地取得が困難になった」としています。


創価学会の巨大墓地は全国に13ヵ所44万基(建設中含む)。どこも完成前に完売、推定収入3千億円ともされる超高収益事業です。新潟県では1997年、小国町で議会の同意を取りつけたものの、議会解散請求の住民投票に阻まれて断念

こういうことも起きている、大成建設と創価は密接な関係があり大成建設は工事を請け負うためにそうしている、創価関係の工事は大成建設が請け負うからである。
富士山にあった正本堂もそうだったが僧侶との争いで壊されたのもなんなのだとなる
カルト宗教団体は組織化集団化して権力化しているから宗教とは関係ない圧力団体となるその数が多いからそれは小さな町とかコミニュティまで破壊するともなる
そういことは別に大企業でも起きてくる、今回の東電は巨大企業であり市町村がそれによって甚大な被害を受けて町や村が消失の危機になったことでもわかる
そういう巨大な権力化したものは小さな村とか町でも市すら買収してコミニュティも破壊してしまうのである。小池にはエホバの小さな会館もあり違和感を覚える
あれもカルトだからである。アメリカの後ろ楯があり金が回ってきているともなるからだ

墓で不思議なのは海老の人が駅に来て墓地に墓参りに行くから花を買いたいというので花屋に案内した、海老の不思議は高台に墓地だけが残り村は津浪で消失したのである。
あの風景は不思議だった、墓地だけ残って村が消えた、その残った墓地に墓参りしに来たというのも奇妙になる,墓だけが村の形見として残ったのである。

こうしてその土地の情報をさかのぼれば原始時代から古代から江戸時代とあり地層のように積み重なっていて現代の問題として現れるのである。
ただその古墳に春の日がさしているときここに眠っている人は安らいでいるとか感じてしまうのである。都会だともう墓は作れない、その土地もない、だから地下に骨壺だけを収める狭い部屋を作りお参りする,それも嫌だなとなる、そこで死者が安らぐのだろうかともなる
いづれにしろ墓を語るだけでこれ際限がないのである。

そしてなぜ今度は小池に新しい簡易宿泊所ができたのか?百人も収容できるものができたのか?それだけの工事などがまだあるのかとなる、除染はこの辺は終わっているからだ。
それも需要を望めるから作っている、右田の人たちが集まり家を建てた所で老人がその新しい家に入ってまもなく死んだというのも聞いた。
それも一つの情報である。ニュースである、そのニュースにしても限りないのである。
全国ニュースになると北朝鮮とか何か大きなことでありみんなどこのテレビ局でも報道している

でも情報の基本は実際はそこに生活している場の情報が大事なのである。ただそれは今までは報道されない、福島県でもテレビでも新聞でも報道するとしてもとても報道しきれないのである。
そして情報は多様だから一万の町でもそうであり古代からさかのぼり現代までとなると無限にある、でも意外とそうしてその土地の歴史を知りそして現代を知ることが必要になるそれが津浪とか原発事故でわかった、郷土史とかはそうした地域全体のことを知ることでありそれが今回の津浪や原発事故と深く関係していたことを書いてきた
郷土史とは過去の歴史だけではない、現代につながるものとしてみるのである。
郷土を知るといってもまず地形とかから知る必要がある、それが近くてもなかなかわかりにくい場合がある、地理を知るには体で知るというのが本当に知ることである。
峠をのぼれば体で地理を知ることになる、それが地図からだけではわからないからであるそれは日本全国でもそうである。だから地理を知ることは基本にありそれがむずかしいのである。

それからコモドインというホテルでランチを食べた、こんな山の方にホテルができたのも震災以後の外部から人が流入してきたからである。
その変化は鹿島区でも大きかった、今でも復興住宅ができて今度は浪江の人たちが移り住んでいる、だから鹿島区は人口が減っていないのである。
ともかく狭い地域でも知ることは容易ではない、ただ小さい町だと俯瞰的に知る、全体を把握して知ることができる、それも時間軸と空間軸でできる
これが南相馬市の原町区となるともともと5万人くらい住んでいたから全体を知ることは不可能になるのだ。

とにかく情報は限りがない、グローバル社会になったら情報は際限のないものになりもうしりえようがないのである。そこで情報操作されやすいのである。
なぜなら外国となると知り得ようがないからだ。フェクニュースでも信じてしまうのである。ただ狭い範囲の町や村とかなるとフェクニュースは通じにくくなる
みんなその土地に生きていて土地と密着しているから嘘がつきにくいのである。
すぐばれてしまうといこともある。外国だと実際は確かめる方法もないからフェクニュースでも信じてしまうのである。

いづれにしろ郷土密着型の報道はインターネットで報道するのが簡単になりできたことである。それで自分でも報道してみて報道とは何かとか情報とは何かと考えるようになった記者とは何かとかも考える、こういうことは報道できないなら考えもしない、ただ報道されるものを一方的に受け入れるほかないのである。
つくづく一人一人の人間が情報なのである。
今日駅であった人も情報である。今まで福島市からバスで帰ってきたとか若い女性だった東京から故郷に帰ってくる人がいるからだ。
今日この女性は故郷に帰ってきたのだなと思う、迎えの車が来て去った。
駅にはいろんな人が行き来していることがわかった。それだけでも多様なのである。
活きた人間が血流のように社会に回っていることを感じた
駅は特に多様な人が交わる場所だったのである。


2017年03月05日

時代を越えられない、時代の犠牲となる人間 (大奥という場で犠牲となった絵島ーNHK歴史秘話ヒストリア)


時代を越えられない、時代の犠牲となる人間


(大奥という場で犠牲となった絵島ーNHK歴史秘話ヒストリア)



大奥の絵島の事件は何であったのか?結局大奥という江戸時代の女性が政治化した権力争いがありそれが原因となっていた。
そもそもそうした大奥というものがあること自体、江戸時代は今になるとありえないイメージもできないものとなっている
そんなところに何千人も女性がいたのかというのが謎になる
将軍の種を宿すためにそんなことをしていること自体江戸時代の暗黒があった
だから今になると江戸時代は庶民はいい顔していたとか言われるが政治は暗黒だった
ただどんな時代でも明暗があるから一がいには言えない

結局絵島はこうした江戸時代の大奥とかの今ではありえないものとして大奥という場の犠牲者だったのである。
それが時代でありその時代で人は必死に生きねばならなかった。
絵島は出世したのだからその大奥に適合したのだが反面そういう場所で犠牲者になったのである。
平賀源内でも天才だったけど才能を認められで発揮できずに死んだとかも時代のためである。
あまりにも時代に先んじている人物は時代に合わないものとして活かされないのである。
だからタイムマシンで過去に戻っても結局人間はその時代に適応しないかぎり生きられない、戦国自衛隊などの映画でもいくら戦車とかをもっていっても機関銃でもそんなものはガソリンがないとか弾がなくなるとかでいづれは使えなくなる、すると生き残るためにはその時代に適合するほかない、刀や槍で戦うほかなくなるのである。
その時代を越えて人は生きられないのである。

これは戦争などでもそうである。太平洋戦争では3百万人が死んだ、自分の姉も赤紙一枚で招集されてシンガポールに従軍看護婦として働いた。
そこで塗炭の苦しみを味わった、第一そうして3百万人が死んだのである。
その中には優秀な若い人もいたが高橋英吉なども才能を発揮できず死んだ
才能を発揮できないというときそういう人はいくらでもいた。
戦前に北海道に開墾に入った詩人の猪狩満直などもそうである。
病気で過労でで死んだのである。それが呪いとなっている

そういうふうに才能が発揮できずに死んだという人は無数にいる、その屍の上に才能を発揮できる人がいる、いくら才能があっても時代が悪ければ才能は発揮できない
何かたいしたことはないようでも自分が描いているパソコンの抽象画でもそうである。
自分でしていても不思議なのである。絵が描けなくても絵を作ることができることが不思議なのである。これもパソコンが生れたらでありまさにart(技術)が生れてできた芸術なのである。技術の進歩があってできた芸術である。

時代というとき技術も関係している、外国に行くというとき船でしか行けない時代と飛行機で行ける時代はあまりにも違うのである。外国に行けたのは極少数の選ばれた人だけである。今は誰でも行けるのも違っているし時代である。
そうなると新たな芸術でも学問でも生れる、なぜならそれだけ視野が広くなるからである現代人はそれだけグローバル化して視野が広くなっているのである。
ただ実際に外国に行ったことがある人とない人では相当な差があるし外国に住んだ人と住まない人でも外国の理解では差がある。
でも狭い村から出たことかないというのが普通だった時代とは余りも違っているのであ

人間が時代を越えられないというとき、例えば現代に生きていても現代という時代は技術的な面では越えられない、自動運転が普通になったとき交通事故もなくなったときどうなるのか
なんで交通事故であんなに死んでいたのかと不思議になるのである。
でもそれは時代であり時代の犠牲者だったとなるのは同じなのである。
貧乏でもそうである。戦前とかの貧乏は今とは比べようがない。
自分の父親は明治生まれであり最後は戦後十年くらいたってサシミを食べられるようになったが病気になり食欲がなく食べたくないと言って死んだ
これも時代だったのである。そのときはみんな貧乏だったからである。
バナナなどはこの辺に売っていない、病気の時仙台から買ってきたのである。

人間は時代を越えられないし時代の犠牲者となる、歴史を学ぶということはそうした人間の苦労をふりかえり今を考えることである。昔が良かったとかではない、そのいい面とまた暗黒面をふりかえることである。
女性でも絵島は当時だったら最高の職についたのである。でも大奥などという今ではイメージもできない場がありそういう場の犠牲者だったのである。
それは時代がそうしたのでありその時代を越えられないからそうなった。
そういうことは歴史では常にある、貧乏だったというとき江戸時代なら美人は遊女にされ不細工な女性は紙漉きさせられたとなる
それもどっちが過酷だかもわからない、そういう時代でありその犠牲者だともなる

とにかく歴史を学べばそんな時代と比べて今はいい時代だなとなる、その喜びをかみしめることができる、そうでないと今の時代にも不満ばかりになる
でも今の時代でも時代の不満があるのが人間社会である。いくら過去と比べても今の時代の苦しみがありそこに関心が集まり過去はそんなに考えないのである。
人間は歴史をふりかえれば犠牲の歴史でもあった。その犠牲の上に今日があるということも考えねばならない、それが現代の苦しみのみに注意が向けられて過去は忘れるのが人間なのである

タグ:絵島

2017年02月26日

NHKのフェクニュースの解説を今日のテレビでしていた NHKも中立ではないマスコミは局の意図をもって報道解説している


NHKのフェクニュースの解説を今日のテレビでしていた


NHKも中立ではないマスコミは局の意図をもって報道解説している



これでわかった!世界のいま ▽偽ニュースが拡散中! なぜ世界はだまされるのか 
2017年2月26日(日) 18時10分〜18時42分 NHK総合

日本ニュース】米 偽の記事「フェイク・ニュース」信じた男が発砲


アメリカのある大学の実施した世論調査では、 
「メディアの方が信頼できる→39% 
トランプ政権の方が信頼できる→49% 
でメディア不信は深刻」、

大体本当に事実だけ伝えているニュースやマスコミなんて存在しないだろ 
発信側が意図的に作成した作文伝えてるだけ 

マスメディアはスポンサーから金をもらって 
スポンサーに都合がいい記事を書くのが仕事なんだから 
信じる方がバカとも言えるな


NHKの今日の番組ではフェクニュースがトランプ大統領側から流されのが多かったとして解説していた。
そこにすでにNHKの意図があった。

トランプ 偽ニュース,トランプ 偽ニュース、トランプ 偽ニュース

それを図解すると何かすりこみができる、つまりNHKはトランプ大統領側にはついていない、アメリカのマスコミと同じだった、日本のマスコミもトランプ大統領側についていないから流されるニュースはトランプに不利なニュースばかりだったのである。
それでも当選したことは驚きだった、マスコミの権威が地に墜ちたとして大きな報道の転換を迎えたことである。それはインターネットの影響も大きかった

メデアはメディウムに中間とあってもそうはなっていない、最初から局の意図をもって報道して編集している、コメンテーターもその編集の一員として配置している
自由な発言は許されていない

トランプ 偽ニュース

NHKはこの意図をもってトランプを批判していたのである。
ただNHKでも他の局でもわかりにくい面があるがそこは巧妙に中立を装い視聴者を誘導しているのである。
ただ事実を報道しているわけではないのである。そこがわかりにくい,誰かがそんなことはないよとか反論できないのがテレビだからである。

この辺でも原発避難民のことで補償金で問題が起きて対立があった。
その時も自分は書いてきたが原発避難民側にNHKが立って報道していた
それも巧妙だから地元でもすらわからないものがあった。
だからこんなことを話題にしたのは自分だけかもしれない

原発避難民を応援する、批判はしない、批判する人は発言させない

こういう意図をNHKはもっていて報道していたのである。
現実に補償金で不満な人たちや津浪被害者は発言させていない
そしてなんで原発避難者で苦労しているのに仮設に住んでいて受け入れないのかとか
言わせていた
それは理由がありあまりにも手厚い補償が原発避難民にされていたからである。
そして外部から今でもボランティアが来ていてかわいそうだと応援しているしそういうこともありなぜ地元の人は応援しないのかと余計になった。
ボランティアが悪いというのではなくそういう気持ちにさせた。
その後は両方で仲良くすることで祭りが行われたとかNHKでは報道していた

要するに報道は中立ではありえないのである。どの放送局もその局の意図をもって放送していると見るべきである。ただその意図が見えにくいのである。
いかにも中立の報道をしているように見えるのである。
それは外部からの自由な発言がインターネットのようにできないようにしているからである。
「そんな貧乏な人がいるんですか」とか言えない、確かめようもない
NHKで報道した貧乏な若い女性はNHKが貧乏のことを報道するので使われていたのである。その女性はそれなりに贅沢もしていたのである。
NHKがフェクニュースを流していたし他の局でも自分たちの意図があり報道して解説している。第一その事実も確かめようがないのである。
それがグローバルにになると余計にそうなる、それでイラク戦争のとき油まみれの海鳥の写真を信じた世界中で信じてイラクはひどいなと世界中でなったのである。
情報はアメリカならアメリカで意図をもって有利なものを流すのである。
それがフェクニュースになっていた。
その事実を確かめる術がないからそうなる

そのフェクニュースが有効になるのは何かそういうデマが広がるのはそういう社会状況が生れているときみんな信じやすい、熊本地震の時は動物園からライオンが逃げたというときもそうである。地震で混乱状態にあり信じやすかった。
その時も写真が出ていたので信じやすかったのである。

この辺だと補償金で対立したから

小高の人の車が傷つけられた

こんなフェクニュースを流すと信じる人がでてくる、いわき市でも実際にあったからである。ただこの辺ではそこまでは起きていないのである。
フェクニュースが信じやすい状況があり信じられて拡散されるのである。

放射性物質の高い黒いダストの塊りがある

こんなことも報道されてこの辺で騒がれたこともある

そこでインターネットは危険だとマスコミで言うがまたマスコミもそうして自分たちの意図をもち誘導するためにニュースを解説して偏向させているのである。
だからどっちもどっちだと今ではなったのである。

要するにマスコミの報道だったら解説でもマスコミの意図がどこにあるのか見抜くことである。それはインターネットなどの反論などが役にたつのである。
そのままテレビの報道や解説を鵜呑みにしないことなのである。

結局こうしたことが起きるのは

古代ギリシア語ではδημαγωγός(デマゴゴス)と言う。日本においては主に、意図的に虚偽の情報を流し、嘘をついて人を扇動しようとするさまを指してデマゴーグと批判として用いられるが、「流布された誤った情報」の意味でのデマ、それを意図的に流すものとしてのデマゴーグは日本に限った用法であり、本来「嘘」の意味は無い。
語源は「民衆(δῆμος / dēmos)を導く(ἄγειν / agein)」であり、本来は民衆指導者を指すが、アテナイではペリクレスの死後、クレオンを初めとする煽動的指導者が続き、衆愚政治へと堕落した。このことから「デマゴーグ」は人々の感情や偏見に訴え、力を得る政治家や権力者の意味で使われるようになった。また、彼らの民衆煽動はデマゴギー(Demagogie)と呼ばれる
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ギリシャのようポリスの直接民主主義でもこういうことが起きていた、ただ嘘というものではなかった、狭い地域では嘘はばれやすいのである。
例えば相馬地域とか福島県でも嘘はばれやすいからフェクニュースは成り立ちにくい、これが全国レベルになりグローバルになると嘘でもフェクニュースは信じやすくなるのである。






2017年02月15日

本は何なのだろう (骨董品となり芸術品となっていた)


本は何なのだろう

(骨董品となり芸術品となっていた)

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絵に透かした紙を重ねている

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昭和18年に発行とあり53円は当時では相当に高かった

昭和20年の1円(100銭)は400円前後の価値
今の値段で6万くらいなのか?これは作るのにも金がかかっているからそうなるだろう。これを買った人は金持ちだったとなる
ただ戦争にも入っているとなるとその影響もあるから値段的には比べられない
それにしてもこんな厚い本を出したということ、その手間と労力と考えると
本は骨董品として価値があるとなる



仙台の古本屋で買った本はでかくて重かった
それが封印されていて中が見れなかった、中味は万葉集に絵をそいたものである。

「これ中味見たいんですが」
「いいですよ」
「悪いな、買うわけでもないのに、これは本の骨董品のようです」

ぱらぱらとめくり見た、絵があるので万葉集を学ぶのにいいのかとも思った
その絵はそれほどのものでもないようだった、ただこの本の不思議なのはでかくて重くて封印されている、それがかえって中が重要なものに見えたのである。
千部限定ともある。
大亦観風という人の作品である。この人はそれなりに知られていた、アマゾンで調べたら本もでていた、同じ本で2000円のようだ
古本屋の人に言った

「通販では中味が見れないですから、通販だけでは買物はできない」
「私の店でも通販に出していますよ」
「そうですか」
「売れたので通販のは削除しました」

まずこういう本があり中味がどういうものなのかわからないし名前も知らなかった。
となるとこれは何なのだろうととなる
かえって封印されていて見れないから見たくなるのが人間の心理なのである。
見られないということはかえって見たいとなる。
あからさまに見える、こんなものいつでも見れるとなると価値が低くなる
第一こんなでかい重い本があることに驚きがあった。
これは戦前に作ったものでずいぶん金がかかったろうなと思った。
こんな凝った作り方をしているからである。
これは明きらかに本の骨董品になっている
その内容よりも本が芸術品になっているのだ。

この本は出してから70年以上過ぎている、紙は変色している、この人の絵はたいしたことがないと思ったが最近見直されて展覧会もしている
70年も過ぎるともう本自体がほころびて紙も変色してくるし本の形もた保てなくなる
本でも50年でぼろぼろになってしまう。
でもネットなどよりは本に記しておけば残るということはあるだろう。
ネットだと一瞬にして膨大な記録が消える、そのことが怖いのである。
ネットでは何か書いても軽い感じになり消えやすいとなる

ただ最近ネットで簡単に本は作れる、それをしていないが自分のプログで書いたものウエブで本にしたいと思っている、ネットで詩集を十冊作った人がいる、その内容は陳腐なものである、でもそれだけのことがすでに簡単にできる時代になった
本を作るのは簡単であるがそれを書店に置くことはできない
書店に置くことは今でも出版社とか取り次ぎとか普通は置くことができないのである。
本はすでに一個の芸術品として作るともなる、ただその内容だけのものもあるが装丁とか一冊の本はすでに広く流通するより何かこのように一個の芸術品であり古くなると骨董品のようになる

何か自分は本が好きだった、そして本を読むより本の蒐集家のようにもなっていたのである。それで家が傾くほど本があった、それは全集ものがあったためである。
百科事典などでも重くなっていたのである。本はそれだけ家に集めることはやっかいなものなのである。でも人間が本を読める量は限られている、だから積んどくになりただ蒐集家のようになって中味を読んでいなともなる
アマゾンだったら今回のことでもわかるようにどんなものでも手に入る古本でもそうである。
この人のことが知らなかったので中味がわからないので買わなかっただけである。
アマゾンで買ったら2000円だった、でも中味がわからないのだから買いようがないのである。本でも立ち読みできないと中味がわからないものがある。
それが通販の問題なのである。通販がすべていいものではない、バッグとか着るものでもサイズがあわないとか重かったとか失敗が結構あるからだ。
だから高いものは買うのは冒険になる、メーカー品なら電気製品でも無難ではあるが恐くなる、ただ田舎だと自分は一万の町だから車もないから電気製品だったら小さいものはいいとして運ぶことができないから通販がいいとなる
そして通販の方が安いという思い込みができているからリアル店では買わなくなったということもある。

買物は人とのやりとりもあるし今電気製品でも操作がめんどうなのが増えた、すると老人にはその操作ができないという人が出てくる、操作ができなくて使えないという問題が出てきている。パソコンのソフトはもう使いこなすすことができずに無駄になる
まずフワトショップとか機能が多すぎて使いこなせない、習わない限りできないとなっている、一万で買ったとしても二万三万出してもいいから使い方を知りたいとなるのであるそれを教える所は田舎にはないし他でもないだろう。

買物だと市場がありそこでは買物するだけではない、人がその時集まるから嫁さがしとか何か別な用も生れ娯楽として楽しむ所でもあった。
それは金だけではと計れない人間的な場所だったのである。
それが通販にはない、物は何でも手に入っても人間のやりとりがない、関係もないのである。古本屋に行けば多少人間的なやりとりがある
でも今になると本の数が新刊でも古本でも圧倒的にたりない、アマゾンなら天文学的数字の本がありないものがない、ただこうして知らない本は中味もわからないし買いようがなっかたとなる

本は別に電子本でもなれれば読める、キンドルももっている、これだと関心があるものをすぐよめる、ネットで検索しているように読める、だから田舎でも情報に差がなくなったのである。
仙台に行ったら書店がまたなくなったとかある、古本屋の人も売れないと言っていた。
これはやはりどうにもなちない、量がそろえられないからだ。書店はやがて消失するのかもしれない、現実にそうなってきている、余りにも田舎だったら本が少なすぎるのである本は立ち読みが楽しいということがある。立ち読みで知識を得るとういこともある。
とても全部は買いないのだからそうなる
値段だと4000円がリアル書店でありアマゾンだと2000円とかなるから高いとなる
でもそれなりに人間のやりとりがあって面白いともなる
実際に品物を見るということがやはり買物のベースにある、それが通販ではないからどうしても買物でも無味乾燥になる、通販ではどうしても探すことがめんどうであり情報でもそうでありそこが問題になる、キーワードだけでは探し得ないものがかなりあるからだ。



タグ:古本屋

2017年02月13日

権力の大小に比例してプロパガンダは効果を発する 政治も科学も報道も宗教も権力のプロパガンダと化す


権力の大小に比例してプロパガンダは効果を発する

政治も科学も報道も宗教も権力のプロパガンダと化す

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●原発の安全神話もプロパガンダによって作られた

注目度の高さは、目に触れる回数や反復数によって影響される。
注目度の高さは、呼び起こされた感情の強さに比例する。

ナチス党が政権を握ると、指導者であるアドルフ・ヒトラーは特にプロパガンダを重視し、ゲッベルスを大臣とする国民啓蒙・宣伝省を設置した。宣伝省は放送、出版、絵画、彫刻、映画、歌、オリンピックといったあらゆるものをプロパガンダに用い、ナチス党によるドイツとその勢力圏における独裁体制を維持し続けることに貢献した。
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プロパガンダとはその主張することや正義とか科学的真理とか公正さとかを追求しているのではない、事実すら追求していない、それは原発だったら原発を通すために権力がプロパガンダをする、原発を作るための目的がありプロパガンダする、そしてそのプロパガンダが効果を発するのは権力の大きさに比例して効果を発するのである。

原発はまさに最初読売新聞の正力松太郎がアメリカの意向を受けて推進したのである
正力松太郎から原発の安全神話のプロパガンダが開始されたのである。
その背後にアメリカがありその手先となったのが正力松太郎だった。
だからプロパガンダとは大きな権力が背後にありなされるのである。
日本はなかなか原爆を落とされた国であり抵抗があったが新聞社の力で安全神話が作られていった。
マスコミはただ事実を報道するだけではない、何かの目的があり意向があり主張があり権力のプロパガンダとして報道している

だから原発でも同じである。それが安全かどうかではない、科学の問題ではない、背後にアメリカの意向がありそのプロパガンダとして正力松太郎が利用されたともなるし逆に自分の利益のために利用したともなる
ともかく日本はアメリカに戦争に負けたのだからアメリカには逆らえないのである。
今でもそうであり日本はアメリカの一つの州になった方がいいという人がいるからだ。
だから戦争に負けて占領されたのだから日本はアメリカに全面的に従わねばならない立場になっていたのである。

原発のプロパガンダが権力の大きさに比例して効果を発するというときそれは権力をもっているものが一つの目的をもってプロパガンダするからそうなる
原発を作るためには戦争のようにあらゆるものがプロパガンダとして動員されたのである読売新聞社からそのプロパガンダがはじまったように全マスコミも加担したのである。
朝日新聞社すら東電にマスコミを中国に招待したとき事故が起きたことでわかる

プロパガンダが全マスコミで行われるときその効果は絶大なものとなる
そして学者も科学的なものよりそのプロパガンダをする一員として御用学者として利用されるのである。安全でなくても安全と学者が爆発したときも言っていたしメルトダウンしないということも言っていたからである。
東電でも電事連合という組合でも莫大な三百億円とかが宣伝のためにマスコミに支払われていたのである。
いったいこれだけの強力なプロパガンダに抗することができるのか?
だからこそ「安全神話」となった、神話はこうして権力によって作られていたのである。そのプロパガンダに抗することはできないものだったのである。

確かに原発が危険だと警告した人がいて本も出していた、でもそれは片隅に冗談のように置かれていた、その本ですら左翼系の団体から出されていたのである。
それであいつは左翼系だから信用できないともされていたのである。
「東京に原発を作れ」というときそれがSF小説のように自分などは関心がないから見ていたのである。
ともかくこれほど強力が国と一体化したプロパガンダに抗することは不可能に近いものだったのである。
だから権力が何かをするとき目的があるとき権力に比例してプロパガンダが効果を発揮する、政府の権力と東電とが一体となったときその権力は巨大であり三〇〇億円の宣伝費はマスコミに湯水のように使われたのである。

●プロパガンダする目的は何なのか?

原発を作るために「安全神話」のプロパガンダをする、それは政府が主導して東電とも一体となるから巨大だから効果も絶大となっていた。
それと同じように政府だけではない、権力をもつものはプロパガンダを日常的にしている政治運動でもプロパガンダなのである。
創価というとき宗教団体と見ているが実際は政治利権団体でありその目的は権力奪取にある、そのためにおおがかりなプロパガンダをする、地方の新聞社に聖教新聞を刷らせて批判させないし様々な工作を組織的にする、それは権力によって批判を抑え、大衆にプロパガンダして大衆を従わせるためである。
それはナチスでも日本が戦争したときでも何か目的がありプロパガンダする
芸能人でも大衆を操作するためにプロパガンダの一員として利用する。
最近佐藤優は創価のプロパガンダとして利用されている、利用するともなる

池田大作か生きているのか生きていないのかわからないが礼賛しているからである。
創価の目的は何なのか?宗教の布教なのか?
目的は権力奪取でありそのためには手段を選ばない、プロパガンダとして芸能人を利用するしそううい部門として民音がある、そこに金がつぎこまれているからだ。
カルト宗教団体とは何なのか?これも民衆の救済などとは何の関係もないものである。
巨大な権力を持ちその権力で社会を動かそうとする団体組織なのである。
宗教が目的ならそのために権力など使う必要がないからである。
シャカでもキリストでも権力などなにもない、住んでいる家もない、そんな人がどうして指導者になったのかとなる、権力など何の関係もなかったのである。
日蓮だって一人で茅屋に住んでいたからである

権力をもちたいというときそれは別な目的があってそうするのである。
創価は勝共連合に勝つために共産主義を普及させるのを防ぐためために組織されたとかも言われる、一方で共産系は左は必ず中国とか前はソビエト連邦のプロパガンダとして日本の役割があったとなる、つまりこの世はこうしたプロパガンダの戦いなのである。
事実だとか科学の真理だとか宗教だとかもそのプロパガンダのために利用されるだけだとなる、そのプロパガンダも権力の大きさ比例して実効力があるとなる
だから本当になぜプロパガンダ力でははとてもヒラリー陣営に勝てないのに弱小なのにトランプが大統領までなったのか?
それは政治でもやはりアメリカの現実をヒラリー派は知らせていなかったのである。
そうした現実をいくらプロパガンダが強力でも否定できなかった
インターネットができてマスコミのプロパガンダ力が低下した現れだったともなる

一番プロパガンダを必要とするのは戦争するときだから最も強力なプロパガンダをする
なぜならその時大量の人が死ぬからである。
死ぬかもしれないというとき人間は簡単にいくらプロパガンダされても従うとはならないからである。
だからその時最も強力なプロパガンダが行われる、アメリカが真珠湾を契機に真珠湾を忘れるなということで戦争を開始したことでもわかる、それも強力なプロパガンダとなったのである。それも陰謀論だとしくまれていて日本がはめられたとも言われるのもそのためである。

●強力なプロパガンダによって地獄にひきこまれる大衆

報道というのは常にそうした権力のプロパガンダがありなされているのである。
それはNHKでも公平のように見えてもプロパガンダを行っている
NHKは在日の力が強いとかで中国韓国よりになるとかあり右のプロパガンダではない左のプロパガンダを行う団体だとなる
そもそも左にしても慰安婦問題とか南京虐殺を言うけとそれももう事実など関係ない中国政府とか韓国政府のプロパガンダとして見るべきである
事実も科学も政治的プロパガンダになれば関係ないのである。自国にとって有利なようにプロパガンダしてゆく、それは権力に比例して効果を発揮するのである。

だから報道というとき特にマスコミになると何かの目的がありプロパガンダを行っているとみるべきである。その背後に巨大な権力がある。
なぜテレビで芸能人が政治とか芸能意外のことであれこれ発言させるのか?
要するに大衆操作のために芸能人が利用されるのである。
大衆とはまさに「パンとサーカス」を与えねばならないものだからである。
サーカスを見せるのが芸能人なのである。だから司会者が芸者だと言われたこともある。司会者もテレビだと強力なプロパガンダとされるのに一番適しているからである。
何でももしテレビを百万人常時見ているとなるとそれだけで力をもつのである。

それで宣伝でも絶大な効果があったとなる、宣伝によって買うということはかなりあるからだ。
でも今は消費でも通販になるとレビューを見て買う,するとその消費者の実際に使った人の言葉を信用するようになる、消費者とは報道でもマスコミのように一方的ではない、報道を消化するにもどういうふうに消化することが問題になる
マスコミではあんなことを言っているけど実際は違うんだよなと常に反論しているのが今度はインターネットだからである。今までだったらマスコミに反論することはできない、ただ一方的に消費されることをマスコミはできたのである。
要するに人間が物でも道具でも消費した人の意見が大事なのである。
そして経験した人の話が大事なのである。
自分は創価で運動していたからその経験を書いているのである。
実際に経験した人は物や道具でも買って使った人はその真実をしない人よりは実感しているから違っているのである。
社会は複雑でありとても自分の一人の経験だけでは理解できないものだからである。

要するに報道というときそれは何かの目的がありプロパガンダされていると見ることが必要である。物を売るにしてもその内容よりその物を売るためのプロパガンダとなることがあるからだ。
ただ物とか道具とかレストランでも料理とかはいくら宣伝してもプロパガンダしても一時的に効果があっても食べてみてどうかとなると偽ることができないから効果がなくなる
電気製品でもどうしてもメーカー品は高くても壊れないと信用がある。
台湾製のパソコンを買ってすぐに壊れたのもそのためである。
こういうものは偽ることができないのである。

これは芸術とかでもそうである。マスコミに宣伝されて有名になっても内容がなければすぐに廃れる、名前だけが売り出されても作品に内容がないといづれは廃れる
たいがい自分は小説とかはわからないが俳句とか短歌だとか詩なら評価できる
その評価の基準はどこまで自然と深くアイディンティティ化しているかで見分ける
啄木などはそうして不思議なのはあの若さで自然に精通していたということが不思議なことだったのである。自然と一体化するには自分のようにやっと死が近い老人になってからだともなるからだ。
芸術などでも学者でもやはり政治とは違いプロパガンダは通用しないのである。
その作品でも論文でも確実にいつかはその価値が正しく評価されるからである。
それが古典となったのは時間の中でその価値が変わらない、優れたものとして時間に左右されない価値をもっているからである。



2017年02月03日

外国の映画も深く鑑賞するには地理を知らねばならない (『大陸横断超特急』を見て)


外国の映画も深く鑑賞するには地理を知らねばならない


(『大陸横断超特急』を見て)

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アメリカに帰ったアメリカ人が、こっちではオレンジジュースひとつ買うのでも一時間掛かる、
東京では近所のコンビニで五分だったとブー垂れたりしてる 


映画を最近良く見ている、今日もアマゾンでたいめん鉄道を見た、無料で見れた
映画でも古いのから見ると膨大なものになる、映画の場合知らない映画が相当にあるが
インターネットで紹介されていてアマゾンで注文する
それで結構面白い映画を見た

そして映画もやはり鑑賞するには読書と同じで映画を読むというかその背景を知らないと鑑賞できない、特に外国の映画は背景が外国だから外国のことを知らないと鑑賞できないそこでやはり地理的なもの外国でもその土地に一回でも行ったなら感覚的にわかる
一回も行かないで本とかテレビだけでは外国はわからない

例えばアメリカには一回冬にアムトラックで行ったのでその広さがわかった
その鉄道の映画がこの前放送したので見た
途中で車両から投げ出された、そしてレールの上を歩いてゆくのだがそこには家も人もない、荒野である。アメリカには荒野がまだある。
延々と荒野がつづき人がいない、西部劇のようなシーンがつづく
そこで一軒の家にたどりつく、そこからグライダーに乗ってアムトラックに列車に追いつきのる

これもアメリカ的な広さの映画なのである。アメリカでの交通が飛行機になるのもわかるそれだけ広いからであり砂漠もある、外国だと中国でもそうだがこの広さの感覚が日本では実感できない、鉄道でも広い軌道でありゆったりと座れた、アメリカには太った人が多いがその太った人でもゆったりと座れる、アメリカの鉄道と比べると日本の列車は狭いのである。だから窮屈に感じるだろう。
アメリカでは鉄道は今は利用されていない、アムトラックは観光用なのである。
自分はアムトラックではゆったりできるから眠ることができた
日本の鉄道では狭いし窮屈だから眠れないのである。
バスにあるソファーの大きなものでアムトラックでは眠れたのである


人間は周囲を見るときその四方10キロ20キロくらいしか見ていない、でも日本だったらそういう狭い村の中で住んできてアイディンティティが形成されてきた
アメリカは百キロとか何かその生きる感覚が日本の十倍とか広いのである。
それは中国でも同じである。そこに日本では考えられない途方もない広さがある
東京には空がないというが日本には空が狭く感じるのである。
空は区切られた空のように感じる、これも外国の空は日本の空とは違う
そういう広い所で生きている人間と日本のような狭い所で生きている人間の感覚はかなり違ってくる
アメリカで小型で性能がいい車を作れない、大型の車になるのも当然だと思う
それだけ広いし余裕があるからである。日本が小さきものは何でもいいと枕草子で言うとき昔からそうだったのである。

 雛の調度。蓮の浮き葉のいと小さきを、池より取り上げたる。葵のいと小さき。なにもなにも、小さきものは、皆うつくし。

かわいいなというときそれは小さいものである。それが風土からそうなった

戦争でも日本はとても大東亜戦争などできる力がもともと歴史的に風土的にもなかった。戦略というときそれは世界史を見ればわかるけどあの広大な土地から生れてきている。
その広大な平原とか草原とか河でもそうでありそこでどのように戦陣を組むかとなる
それが戦略になる、そこには広い舞台が用意されないとできない
日本にはそうした大陸のような大きな戦争をする風土がなかったのである。
関が原のような戦争はまれでありあれでも大陸の戦争にしたら小規模だろう。

日本はとても大きな戦争をする風土ではなく歴史もなかったのである。アメリカとか中国でも大陸にはそういう大きな戦争を経験しているし風土があった
モンゴルのように遊牧民の世界もありそこに世界を見て戦略があり戦争を大局的にみて戦略をたてる戦争ができたのである。
だから日本の戦争が中国に深入りしてのが失敗だったのである。
敗戦の大きな要因だったのいうのがわかる、それはアメリカでもその大きさを日本人は知らなかったからである。

思想でも荘子の大鵬の例えのように日本人は大鵬を知り得ようがないのである。
中国の広さ故に生れたのが荘子のよう思想家だからである。
その反面日本の風土から歴史から作られたものが小さくても精巧なものを作るもの作りとかにあったというのはそれが日本の文化であり歴史だからそうなった。
やはり日本はロケットとか何か武器でも大きなものを作るのは苦手なのである。
アメリカはそうした巨大なもの技術は向いている
だから原発というのは日本には向いていない、それは巨大技術の操作だったからである。日本の風土にもあっていなかった、でもトンネル技術が発展したというとき山が多いから技術もそれに適した技術が発展したとなる。

つまり科学技術でもその国の風土とか歴史に適したものが発展する
だから日本は日本なりの科学技術でも風土と歴史に適合するものを採用すべきだったとなる
大陸のものを日本の狭い土地に何でも受け入れるは間違っていたのである。
取捨選択して日本の風土と歴史に適合したものを入れる、または改良することなのである日本は巨大なの技術は適合しない、戦争でも大陸的な戦争は向いていなかったのである。
いづれにしろ映画は今世紀の文化だった、映画の時代がアメリカが作ったというときまさにアメリカ文化は映画にあった。
だから老後の楽しみは読書もあるが映画をもう一度見て鑑賞して新たなものを発見することである。映画もやはり鑑賞するにはそれなりの経験が必要なのである。
まず外国映画は一回そこに行ったのと行かないので興味をもつ度合いが違ってくる。
それは地理の感覚があって理解できる、それは歴史でも何でもそうである。
何かを日本でも外国でも地理の理解なくして映画も観賞できないとなる
10年間くらい外国旅行したので自分は外国映画でも深く鑑賞できるようになったのである。



2017年01月27日

ミネルバ大学 インターネットでグローバルに創造的に学ぶ


ミネルバ大学

インターネットでグローバルに創造的に学ぶ

今日アクセス解析でコロンビア大学から来ていた。抽象画ではない、テキストの部、郷土史関係を読んでいるみたいだ、でも日本語だから英語に翻訳しているのか?機械翻訳して読んでいるのか?

抽象画が定期的に見ている、アメリカ人がいる。一定数いるしときたまいろんな国からくるのは抽象画を見るためだろう。なぜなら抽象画は言葉の壁がないからである。

今日は後は広島大学からもきていた、前のホームページでは中華大学からも来ていた。
ハーバード大学から研究者が来たようにこの辺は原発事故や津波で世界の関心が集まったこともある。

前のホームページも20年前とかからはじめたが未だに読まれている、そこは更新していない、プログにリンクをはったのでそこから来ていることがわかる

時間ができたのでなんとか整理分類することなのだがこれが手間なのである。

ミネルバ大学のモットーは

Thinking Critically(クリティカル思考力)
Thinking Creatively(クリエティブ思考力)
Communicating Effectively(プレゼンテーション能力)
Interact Effectively(対人コミュニケーション能力)

とかある。NHKの放送ではハーバード大学よりここを選んだというのはそれだけインターネットの影響力が現れてきたことである。
先生が一人で教室で生徒に一方的に授業する形式は古くなったのかもしれない
自分は学校が嫌いだったし学校にいるとき学問にも興味をもったことがない、ただ試験の点数だけを気にしていた、気にさせられていたのである。
学校は自ら考えることをさせない場所なのである。
何でも自分で考えるということが自立する道である。
学校は自ら考えること、創造することが否定されている場所なのである。
ただ教育というときあまりにも今は多様だからとても理想的な教育はありえない
それでもインターネットができたことは知識でも拡大した、自ら学べる独学の場を提供したのである。

このミネルバ大学に入るには英語力ないと入れない、グローバルになるにはどうしても英語力が必要だとなる。機械翻訳も進歩したから多少補えるとしても選考に英語力をみられるから簡単には入れないとなる
テクニカルなものがインターネットとかで飛躍的に発展した。
それでもまたインターネットが学びの場としてあってもこれを有効に利用することはかなりむずかしい。グローバルだとしても英語力がまたは言葉の壁がある。

ただ思うに人間の能力は簡単には決められない、生まれつきでもない、それを証明したのが自分でも意外だと思っている抽象画をソフトで変化させて作ることだったのである。
なぜなら自分は全く絵の才能がないのに抽象画を描いているという不思議なのである。
これはまさにインターネットがあったからこそでありただそれは創造というよりテクニカルなものから生れたものである。
芸術というとき普通はテクニカルなものがあるとしても何らか創造力がある絵のの才能があるとなってはじまっている
でもインターネットの抽象画は全くテクニカルなものとしての芸術だったのである。
もちろんそんなもの芸術でもないといえばそれまでだが絵画的なものを楽しんでいるということは確かなのである。

創造的能力というときそれは学校教育の一方的おしつけからは生れない、常に自ら考える、創造的になるという雰囲気とか作業をしてゆくことから生れる
educationがeducate(引き出す)となっているようにである。
能力は引き出さない限り生れないのである。天才は別として普通の人はそうである。
だから能力を引き出すものとしてインターネットがありソフトがあったとなる
抽象画が想像力よりテクニカルなものソフトを使いこなすことが創造することになる
そのソフトを使いこなすことがかえってむずかしいのである。
ペイントショップなどは本当にどこかの機関で習わないと会得できない、ソフトを使いこなせないのである。それはソフト全般に言えるし機械でも使いこなせないということが問題になる。

人間は生まれつきの能力ですべてが決まらない、環境因子も大きく働く
自分は俳句でも短歌でも最初はただ五七五とか言葉を並べているにすぎなかった。
だから自分は能力がないと見られていたのである。それも当然だったとなる
若いときはどんな優秀な師がいたとしてもその人が将来どうなるかは見抜けないのである
それは自分ながら不思議なのは最近啄木調の短歌を膨大に作っている、次々に苦労しなくても作れるのである。啄木は天才だから作れた、でもこの年になって自分は同じように作れているから才能の開花は老人になってからもありうるのである。
長寿の時代になるとかえって老人になって様々な才能が開花することもありうる
高齢化社会は負の部分もあるがプラスの面もある。
それは人間の才能を伸ばす時間が増えたということなのだ。

ともかく人間は学ぶのに時間がかかりすぎるのである。学ぶことはきりなくあるからだ。そのうち時間切れになり何もできなくなるのである。
自分の場合は能力というより環境因子が大きく働いた。
会社にも勤めないし三〇年間自由に過ごしたからである。
その間に旅したとしてもそれは勉強でもあり自分の能力を伸ばすことができたともなる

技術というのは人間を変える、社会を変える、ARTとはそもそも技術の意味だからである
一方で原発事故のように社会に甚大な影響も与える
技術にも負の部分とプラスの部分がある、教育に関してはプラスの部分が大きい
ただインターネットで人間のコミニケーションができるかとなると疑問になる
直接会って話すこととは違うだろう。それでも人間は会える人は少ない
自分など孤立しているから学問的なこととか芸術的なことなど話す人など近くに一人もいない、インターネット上で毎日読んでいるプロクとかはあり直接あわなくてもそれで得るものはある。
それでもインターネットを利用すること自体、テクニカルにはできてもその内容を理解するとなるとむずかしいとなる。
ただテクニカルな面はこれからもどんどん発達してゆき追いつけなくなる
若い人はテクニカルな面は進んでも内容を理解する能力となると簡単には身につかないのである。

ミネルバ大学のようなものはすでにインターネットができたときイメージされていた。
別にミネルバ大学でなくてもインターネットを利用すれば居ながらにして学べるということがあったからである。
これからの時代はやはり創造力があるかないかでその価値が決まる傾向が強くなる、単純なものはAI化されロボットが肩代わりする、すると残されたのは人間の創造力なのであるそこに価値が生れる、でも学校教育ではそういう創造的教育が成されていなかったのである。
でもこれからはそうした教育で創造的人間が生れ安くなるのかもしれない
それも不明だが優秀な人がミネルバ大学を選ぶということはやはりそういう傾向になっている。

2017年01月21日

マスコミの報道の独占は終わる (トランプはマスコミを相手にせず大統領になった)


マスコミの報道の独占は終わる

(トランプはマスコミを相手にせず大統領になった)


 小池を批判する意見もある、小池を評価する意見もある、と事実を報道すればいいだけだ。そして読者が正確に判断できる材料を報道してくれればいい。

 マスゴミはクズだから、世の中のことは全部オレ様が判断してやる、大衆はオレ様に従え、である。だから嫌われる。

マスコミとは何なのか?マスコミは世の中に起きたことを単に報道するのではない、一つの主張をもった団体なのである。だからその主張に従ってコメントする人も司会者も選んでいる、朝日テレビだったらどうしても左寄りになる。
それに適合した人が選ばれる、赤旗のようになっていないとしてもそう誘導されているのである。単に事実を報道しているのではないのである。

世の中必ず人物でも評価する人としない人がいる、それが一方的になると危険なのである石原慎太郎を批判した人はいても目立たないからマスコミで取り上げないから石原慎太郎が言いたい放題になっていた。
マスコミは明らかに第三の権力というように強大な権力集団になっているのだ。
それは報道するという権力をもっていたからである。
報道する権利を民衆はもち得なかったために強大な権力をもったのである。
報道する権利は大きなものでありまたこれまでは金がかかりすぎるから誰も報道もできなかったのである。だからマスコミはそうしたし報道装置をもっているから政党と同じく権力集団だったのである。
政党よりも大きな権力をもっていたのである。
なぜならマスコミに政治家でも出れば顔売れて選挙に有利になるからである。
もしテレビに呼ばれないとかなると選挙に影響していたからである。

新聞でもそれを紙に刷って一軒一軒配るとういことは膨大な金と労力がかかるのである。近くで新聞配達を請け負う家がもうけていて裕福になったとかあり町には新聞配達で生活が成り立つ人がいるし新聞を配達することが仕事になる人もいる。
だからそうした雇用にもつながっているし福島県だけでも新聞社は大きな会社だとなる
それは報道するにもそれだけの金と労力がかかる、そして新聞は紙だとするときその紙を膨大に消費しているのである。新聞紙で自分の家は店をしているとき袋を作るのが母の日課だったのである。
トイレットペーパーがないときはその代わりにもなっていたのである。
新聞紙はまた紙としていろいろ利用されていた、風呂のたきつけなどにも自分が風呂の番だったから使っていた。
それでも新聞は今や紙の膨大な浪費になっている、自然環境の破壊の一因にもなっているとなる

それはインターネットなどが生れて電子化したときそうなった。電子化すると金はかからない、全国に即座にニュースでもなんでも個人的なことでも伝えられる
それでトランプがツイッターでマスメデア、マスコミを通じないで主張を直接伝えるようになったのである。今まではマスコミを通じないと伝えられなかったのである。
でもCNNの取材を受けないというときなぜそうしたかというとCNNという報道機関はトランプに反対する強固な主張をもっていたからである。
そしたら何も事実だけを報道するのとは違う、CNNの見解が入ってくるから拒否したのである。
今回はマスコミはトランプにほとんど反対だから泡沫候補としてしか取り上げなかったのである。取り上げたときネガティブなものとしてキャンペーンとして取り上げたのである性的なものとか下品な奴だとかそんなことしか伝えていない、ではなぜトランプが当選したのかとなる、大統領になったのかとなる

マスコミは自分たちの意向は伝えてもアメリカ国民の意向は伝えていないのである。
白人の中産階級が没落して不満が爆発寸前にあることなど伝えなかったのである。
なにかトランプはとんでもない奴だとしか伝えない、だからなぜトランプが大統領になったのか外国から見ていても不可解だとなる
それはそこにマスコミの主張が入っていたからである。
そして日本でもアメリカのマスコミの意向をそのまま伝えたからそうなったのである。
アメリカ国民の実情と事実を伝えてはいなかったのである。
あまりにも一方的なマスコミの主張のみが伝えられたのである。
そのマスコミはヒラリー派のグローバル経済の勝者たちによって作られていた。
だからそれを中産階級の不満な白人たちがそのマスコミの報道にはのらなかった。
マスコミは常に一方的になりやすいのである。時の権力者側につきすいのである。
サンダース候補が民主党で人気になったときそれは白人の中産階級労働者の不満を吸い上げていたからである。
グローバル経済はアメリカの極一部の人たち、ウオール街の人にしか富をもたらさなかった。アメリカの格差は極端である、そのことにトランプが勝った要因があった。

マスコミはただ事実を報道するのではない、会社の方針があり主張があり報道している。その判断を国民にあおぐのではなくマスコミが自体が決めてやるとなる
だから必ず偏向がある、ナショナリズムの回帰がありその賛否はあるにしろ反グローバル経済が世界的に起きているのも事実である。
日本のマスコミはグローバル経済を主張している、だからトランプには批判的になる。
アメリカはもっと世界のことを考えるべきだという、アメリカだけではやっていけない時代だとか言う。でもグローバル経済でアメリカがみんな豊かになってわけではないからこそ経済のナショナリズムが起きているのである。
数パーセントの人たちるアメリカの富がもたらされたが大勢の人にはもたらされなかったからこそ不満がありトランプを支持したのである。

いづれにしろマスコミは自らの主張をするために報道の権力を有していたのである。
取捨選択もマスコミでするしそして自分たちの主張をするためにテレビでも新聞でもあったのである。それは報道するための権力をもっていたからである。
それがインターネットになったとき事実を伝えるにしても新聞社ではなくテレビでもなくインターネットから伝えたからマスコミでは怒りにもなったとなる
マスコミが批判されるとき中立ではない事実を報道するだけではないから批判される
国民が望んでいるのはメデアとしての機能であり事実を知るためでありマスコミという会社の主張を聞くためでも見るためでもないのである。

トランプ大統領に反対するデモがあったがその事実を報道すればいいのでありこのデモを見るように反対する勢力が大きいとかコメントするべきではないのである。
ただすでにそのデモの報道をするにしても偏りが必ずある、そこにすでにマスコミの主張が入ってきているのである。取材するにしても必ず偏りがある。
すると公平に国民は報道されたものから判断できないのである。

ともかくインターネットでも十万とかyoutubeで見られているとなるとマスコミと拮抗してくるものもある、だからマスコミでは驚異だとなる、するとどうしてもインターネットには否定的な報道になるのである。競争相手になってしまうからである。
アメリカの大統領就任式にバイクのライダーが二〇万人トランプを守るために来るというのをyoutubeで報道した、その後でテレビが報道していたのである。
youtubeの方が速報性があったのだから速報性ではインターネットが早いとまでなっている
人間はみんな記者となる時代である。マスコミの報道の独占は終わったのである。






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2017年01月12日

トランプはなぜマスコミを嫌うのか (マスコミを相手にすると偏向報道がされるから)


トランプはなぜマスコミを嫌うのか

(マスコミを相手にすると偏向報道がされるから)


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そもそも民主主義が発生したのはギリシャであり小さな都市国家である。そこでは直接民主主義だった。市民が直接投票して市を運営する人を選んだ、そういうふうに小さい都市国家だからその人がどういう人物かもわかる、その主張もわかる。
民主主義がもともとデモクラシーというときデモとは地域のことだったというときもそうである。小さな地域で行われていたのである。またそうでなければ成り立たないものだったのである。
それが今の国家規模になると民主主義が成り立ちにくい、そこでマスコミが第三の権力になったのである。
つまり直接民主主義が成り立たずマスコミ民主主義になったのである。
マスメデアというときまずメデアは

メディアとは、媒体、媒質、伝達手段、中間などの意味を持つ英単語。“medium”の複数形。

それはただ何かを情報を伝える媒体であり単なる機械だとなる、でもそれが現代で重要になったのは一億人に伝えるとなるともうそうしたメデアがなければ伝えることもできないのである。だから最初は新聞であり次にラジオが大きな力をもち次にテレビが大きな力をもつようになったのである。
国民の声を伝えるにもそうしたメデアをマスコミを通じなければできないのである。
そしてマスメデアをマスコミを通じてある人物でも事件でも何でも取り上げられれば一億人の国民に伝えられる、でも取り上げられなければ何も伝えられないとまでなったのが
今の民主主義なのである。
マスメデアがマスコミがなぜこれほど大きな力をもち社会に影響したことが民主主義を歪めたのである。

今日見たフジテレビのトクダネでは盛んにトランプを批判していた、なぜマスコミを拒否しているのかとかトランプはなぜツイッターでしか発言しないのかとか盛んに批判していた。ますあからさまに批判ありきなのである。あからさまにテレビ局の意向を出しているそこに客観的に見るメデアとして中間となどなっていないのである。
トランプが第一になぜツィッターでしか発言しないのか?、そんなことが許されるのかということで日本のマスコミもアメリカと同じようにそのことが一番の不満なのである。
それはマスコミ不用論にまでつながるからである。

インターネットが一般化してこれもできたことである。何千万のフォロアーが読んでいるということも驚きである。ただそれは一方的になるということでマスコミが批判した。ツイッターなどは自分もしていないのだからそういうことができるものなのか理解しにくいということはある。
それはでも直接的に国民に訴えることができるようになったからそうしている。
これまでは政治家でも直接訴えること伝えることがしにくいからそうなった。
マスコミに出るだけで有名になり当選した議員もかなりいた。第一東京都知事すらそうだった。石原慎太郎でもなぜあれだけ力をもったのか不思議だとなる、それはマスコミの力だったのである。マスコミでは批判できなくなっていたからである。
でも石原慎太郎を批判していた人は本も出しているしいたのである。
それは無視されていたのである。そういうことは常にマスコミ、マスメデアは民主主義では起きていたのである。

トランプがなぜアメリカのマスコミすら泡沫候補としてしか報道されなかった。
それがなぜ大統領までになったのか?それが外国になれば余計にそうなる
アメリカのマスコミがみんなヒラリー側につきそれに呼応して日本のマスコミもそのまま伝えているからそうなった。トランプってなんなのだとマスコミだけの情報から見ればそうなってしまう。
そういうことはマスコミ民主主義では常にあった。
原発の安全神話もまずマスコミに多額の宣伝費を払い批判をおさえる、それで地元の福島県の民報でも民友でも原発推進であり安全神話に組みしたのである。
福島県でもほとんど原発の危険を伝える報道がなかった。
ただプルサーマルとかで前の佐藤栄作知事が危険を問題にしていたことはあった。
でもそれは原発全体が危険だということではなかった、原発自体の危険性を伝えるものはほとんどなかったのである。
そういう批判は片隅に追いやられ冗談かとまでなる、それほど強固に安全神話は作られていたのである。

だからトランプがアメリカのマスコミに批判されるばかりだったからマスコミ不信になりインターネットのツイッターでしか発言しなくなった、マスコミに発言すればそれを取り上げてマスコミの偏向報道につながるからである。
マスコミはまずトランプはけしからんということからトランプは大統領になるべきではなかったいいう明確な主張がありそれで問いつめるからマスコミを通すと歪曲されたものとして国民に伝えられるからである。
つまりマスコミは単なるメデアではない、伝える媒体ではない、明確に主張をもって白黒を決めていて報道するのである。
ただそれがわかりにくい場合がある、それはNHKでも同じなのである。どうしても左翼的な報道をしているのがNHKである。
原発避難者のことでもとりあげたが最初から原発避難者側についた報道をしていた。
この辺の事情は複雑であるから変だなと思った、それは地元でないとわかりにくい面があった。
取材するにしても発言させるにしてもそういうふうにNHKでは原発避難者側について取材していた。だから津波被害者のことを考慮していなかったのである。
両方の言い分を言わせればいいが一方的に原発避難者のみの言い分を言わせていたのである。
マスコミは単なるメデアではない、その会社の主張をもったメデアなのである。
だから

マスコミは信用するな、まず疑へ、批判的に見ろ

それを可能にしているのがインターネットだともなる、ただインターネットにもいろいろ問題があるが対抗メデアとして出てきたことは変化であり民主主義にとってはいいとなるのである。
トヨタをトランプが批判したときもそれはトヨタでもメキシコに工場を作るより日本に工場を作り日本の利益を優先させるべきでありアメリカも外国に工場を作ってもアメリカの利益になっていないからそうなったという主張がある。
そういうことは別にグローバル化した経済の反省からでてきている。
だからフジテレビでなんでトヨタを批判するのだとか感情的になる
テレビは良く冷静に見られるメデアではない、感情的になり一方的に洗脳されるメデアなのである。
何かテレビ局に文句も言えないからである。それは新聞社でも同じである。
それを言ったとしてもまず批判的なことはマスコミでは取り上げないからである。
だから今はマスコミ自体が批判の対象になった。インターネットである程度できるからそうなったまでなのである。これまでのマスコミ支配が崩れることは民主主義にとっていいことなのである。




2017年01月06日

通販でパソコン買って故障 (ASUSのノートパソコンの保証書なくして修理できない)


通販でパソコン買って故障

(ASUSのノートパソコンの保証書なくして修理できない)


商売やってるんだが、良いお客さんは神様みたいに大事にという気持ちでやってるよ。 
良いお客さんを大事にすればお客さんの方も店を気に入ってくれて通ってくれるし、お互い様で成り立ってる。 
店が無くなると嫌だなと思って貰えるくらいにやれば、お客さんも店を大事にしてくれる。 
多少迷惑なお客さんも悪意は無い人が多いから、注意というよりやんわりお願いします、ご協力ありがとうという気持ちで接すればとても協力的になってくれる。 
そうすれば、神様みたいな良いお客さんが増えた事になる。 
逆に自分がお客さんとして他店利用する時は神様みたいに大事にしろとかじゃなく、神様みたいに穏やかで感じの良い客として振る舞うようにしてるわ。 
神様として扱われるかは自分次第。 


大陸と違い島国日本は同じ客を相手にしなくちゃいけない 
内需で成長してきた日本の企業は他の競争相手に客を取られないように 
お客さまさまになってしまった。残念ながらこれは日本が大陸と陸続きにでも 
ならない限りはお客さまさまは変わらないと思う。店員が高飛車にでたら 
客は二度と来なくなってしまう。日本は大陸のように違う客は流れてはこない



今回の買物の失敗はASUSの3万のノートパソコンを買ったが一カ月くらい使って使えなくなった。
充電ができない、充電しても点燈しないから確実に充電できなくなっている。
何かASUSは充電に関して問題があるらしい,ネットでそうしたことがあったと書いてあった。
そもそもこのASUSというのがどこのメーカーなのかわからなかった。そもそも3万で買えたのでアマゾンで買った。失敗してもしょうがないと思い買った。
パソコンが使えないということが今までなかったからである。

バッテリを接続した状態で電源コンセントにつないで使用していると過充電となり、さらに熱によって劣化が早まることがあります。
また、長期間使用していなかった場合はバッテリが過放電となり、充電ができないなど故障の原因になります。

これを充電したままにしていたので過充電になったのが故障の原因かもしれない
でも普通は充電したままでも電気が自動できれるようになるとかも書いてある。

そして失敗だったのは保証書もなくしていた。それで今度はヨドバシカメラに電話して修理できないかと聞いたらできるという、でも保証書がないとだめだという、修理はできるが金がどれくらいかかるかわからないという、これも失敗だった
量販店では保証書がなくても修理は頼めていた、それができないのでどうにもならなかった。
ここで保証書の大事さを思い知らされた。
商売では保証書が大事である。でも量販店で買っていたら保証書は別に必要ないのである修理は頼めるのである。

今回のことはアマゾンで通販することがもう習慣になっていることから起こったことである。量販店は何かいつも高いとか品数が少ないとかいいものが置いていないとか自分の場合、車がないので配達すると3000円くらいとられて損だとかなり量販店からはあまり買っていなかったのである。
この前レンジを3万で買ったけどそれはいろいろな機能があっても全く普通のレンジと同じであった。ただ機能がいろいろできるとなっていただけである。
それは売る方に問題があったのではなくメーカーに問題があった。
そんなにいろいろな機能がありできるようにしていたことである。
それももしアマゾンならレビューをみるから買わないということがあった。
量販店は使った人の意見を聞くことができないことが問題なのである。
使った人が一番良く知っているからである。

でも通販にも弱点があった。それそも人を介して買わないという通販はどこで信用を補償するかが最大の問題だったのである。それで通販では高いものは買えなかった。
保証がないからである。今回も3万だったらと買った、そんなに簡単に不良品とか故障しないと思ったからだ。
そして量販店では最新のいいものを置いていない場合がある。ノートパソコンなどASUSなどもそうなのかとも思った。
一方で掃除機は2014年ものを買った、別に十年前とか買ったものだから自分にとっては最新式になるからだ。そういうとき量販店には古いものはなく最新式になっていて高いのである。

そして意外だったのはデスクトップのパソコンなら今は中古品にいいものがでている。
win7をソフトの関係で欲しいと思い3万か2万で買ったがいいものだった。
問題はペイントショップがCPUの関係で遅くなり操作しにくい、ペイントショップを使うには相当に高性能でないとできないことがわかった。もう一台の新品のではできたからである。
量販店の問題は品数が少ないことと高いことになる、ただ保証だけはしっかりしているのである。ヨドバシカメラでは震災後買物していない、バスで簡単に行けないからである。電車が仙台まで前のように通るようになってまた行けると思い電話したのである。
ワ-プロでもフロッピイデスクを読み出せないので調べたらワープロの中古品店があり何でもあるのに驚いた。
ネットだとそうした店がある、その規模が大きいのである、他にも壊れたパソコンをなんても5000円で直せるとかもあった。
ネットだとそういう店があることがわかる、田舎だとまずお手上げになるからだ。

ともかく今回の失敗は

保証書をなくした、もう何もできない

これは領収書をなくしてどうにもならないとかと同じだろう。通販とかなると対面販売でもないから保証しようがないのである。その時保証書と領収書が大事になる。
領収書はアマゾンでも出せるが保証書は出せない、アマゾンで売ったものを保証しないのである。そこに大きなリスクがある,そのことがわかっていて高いものは買わなかった。でも日本のメーカー品はカメラなど買っていた。
いづれにしろ通販が習慣化してしまったことが今回の失敗の原因だったのである。
まずアマゾンをみて買うとういのが習慣になっていたのである。

良いお客さんを大事にすればお客さんの方も店を気に入ってくれて通ってくれるし、お互い様で成り立ってる。 
店が無くなると嫌だなと思って貰えるくらいにやれば、お客さんも店を大事にしてくれる。

こういうことが今までの商売であり売る方と買う方の関係であり人間的だった。
つまり店屋の時代はお得意さんというのがあっていつも買ってくれた人を大事にしたのである。
今は量販店でもないし、なんかコンビニでもない、なぜなら店員が一つのコンビニで働いていない
広い範囲で働いていて交代しているからである。だから何か自分の店でないから愛着がないということもある
自分の家族で経営している所は愛着が生れる、でも今はチェーン店も多いしそうした愛着がないただ雇われているだけだとなるからだ。
通販だと売る方で買う方でも相手が見えない、そこには人間関係が生れないのである。
対面で買ったり売ったりしない、遠いこともあり保証もないということが問題だった。
つまり商売でも仲介する販売店は品物を保証する役割があったのである。
商売には保証するということが大事なのである。
作った人がいて売る人がいて買う人がいる
作ったものをまず販売店で買う、でもその時販売店ではその作ったものを吟味していいか悪いか決めて客に保証するのである。
ともかくメーカー品がいいというとき故障しにくいとかあるがASUSとかなると外資系であり保証できないということがある。
でも別に量販店も買えば保証はある

いづれにしろ通販社会になっていたことから自分の問題は起きた。今や通販なしでは生活が成り立たなくなっているのである。
量販店がなくなってもなんとかしのげるが通販がなくなったらどうにもなちらなくなる
そういう時代になってしまっていたのである。
自分は田舎町に住んでいるからかえって通販なしでは買物できなくなっていたのである。エビアンとの水まで注文して送ってもらっていたからである
これを買うと重いからかえって送ってもらった方がいいとなる

通販時代でも量販店とか店はまだ生き残るのだろう。何かそういう機能があるからだ。
自転車屋などは通販では買えない、必ず修理があるからだ。それでわざわざ通販で安いものでも一軒ある自転車屋から買っている、その自転車屋もなくなるというときここでは困ったことになるのだ。隣の街まで行くのが大変になるからだ。
だからなくてならないものはありそういうものはつぶれないしなくならないとなる
本屋などはなくなってもしょうがいなものだったろう。
その数が一万倍なのか百万倍なのか違いすぎるからである。
だから本当に本がこれだけ読めるということは田舎でも知識では都会と同じであり差はないのである。だから田舎でも知識的には遅れをとることは今はないのである。

ともかく商売というとき意外と仲介するものが大事だった、なぜ有田焼が伊万里焼きとして外国に売られていたのか、作ったのは有田である。でも伊万里の港から外国に輸出したから伊万里焼になっているのである。
仲介する方が外国に知られていてそうなった、それは商売というとき売る方がその場が外国に知られてそうなった。それは仲介する店ともにているのである。
だから店とか仲介するものとか何かそれにも大事な役割がありいくら通販時代になっても消えないということがある。
ただ自分の場合は通販が習慣となって混乱したともなる




2017年01月04日

マスコミはもう終わっている (これからは土着的地域に根ざす報道機関が必要)

マスコミはもう終わっている

(これからは土着的地域に根ざす報道機関が必要)



テレビ報道の現場は、誰に向かって何を伝えるべきか、また自分たちが視聴者や取材相手にどう思われているのか、見失っている。そう懸念するのは、ある民放キー局元幹部である。


マスコミというとき放送する相手が誰かとなると日本国民とかでありその範囲が広すぎるのである。マスコミニケーションでありマス(大衆)を相手にして放送する。
全国放送だとどうしてもだから一様な放送になる、大衆相手だから視聴率をとるために芸能人を出す、知識人でも芸能人なのである。
電波芸者だとか揶揄された人もいる、マスコミは何か真面目なことを追求しているわけでもない、視聴率を稼ぎ宣伝費を稼ぐためにある民営の会社にすぎないのである。
だから報道に対する使命などないのである。
でもなぜこれほどマスコミが社会に影響力をもっていたのか?
それは全国放送するのがキー局が六つとか独占されていたからである。
前はテレビでしか知ることができないことがあった。

そもそもNHKが受信料をとるのはテレビを普及するためだったという。
テレビが出たときはテレビは高いもので見れなかったからである。
だからその時テレビで放送されるものはその内容ではない、テレビに写るだけで見られたのである。
テレビにでるだけでつまらいな人物も有名になり政治家になったりした。
有名になるにはテレビが一番効果的だったのである。別にその人物は問わないのである。大衆受けする面白そうな人を抜擢して視聴率を稼ぐのである。
また団体の圧力がありそううい人を出す、だから今やマスコミに選ばれ出る人は何かうさん臭いとなったのである。芸能人と変わりないと見られるのである。
マスコミ自体がすでに信用できないものとなった。だからトランプが大統領になったことでもマスコミの権威は地に落ちたのである
アメリカではそんなにかたよっていると思えなかったがそこも同じだった
アメリカのマスコミを言うことを日本のマスコミも一方的に報道するだけだかったのである。

どうしても今までは東京中心の放送になる、出版すら東京中心にしないとできない仕組みになっていた。地方から全国放送することはできなかった。すると東京中心の放送だけが流されることになり地方のことは放送されない、また関心ももてないのである。
例えば地方からそこに住んでいる人たちが発信するのと東京などから外部から来て伝えるものの何が違うかとなるとまず地方には代々住んでいる人たちがいるから時間軸として歴史的にその土地のことをみる、そこが根本的に違っている
なかなか時間軸でみることは外から来た人にはむずかしいからだ。
外国でもヨーロッパなどでも歴史があるから時間軸で見るのがむずかしいのである。
それは津波で流された新地駅のことを書いたがあそこは津波で流される前に自分は何度も停車して下りていた。
なぜなら下り列車が交換のために3分間とか5分間止まっていたからである。
その時ホームにおりて待っていると虫が微かに鳴く音を聞いていたのである。
今は津波で流されて新地駅は高くなりエレベーター付きの都会風の立派な駅になった。
すると前のようなひなびた駅の感じがしないし前の駅のことを思い出せなくなる
こういうふうに大きな変化があるとたちまち記憶が失われるのである。
だから江戸時代が何かとなると相当に想像力豊かにしないとまるで異国になってしまうのである。

報道というとき何かあっても必ず時間軸で語るということも必要になる、それは東京からよそから来た人たちには記者にはわからないのである。
新地駅に来ても自分のように語れる人はいない、そこはどこの地方でも同じである。
時間軸で語ることはそこに長く住んでいないと語れないのである。
報道というとき今を語るだけでは見えてたない、過去から語るとき今が見えてくるからだそれが外から来た人たちには見えないのである。
ただ外から来た人たちにも有利な点はある、何かそこの土地のしがらみとは関係なく客観的放送ができることはある。
でも客観的になることもその土地のことを知らないとむずかしいとなる
この辺は原発の補償金でもめた、その事情も複雑になる、でもNHKではそういう事情が知らないわけではなかったが原発避難民側について放送したのである。
それには問題があったと自分は指摘した、ただそれは地元の人でないと気づかないようなことだったのである。だから全国放送されたときなぜ原発避難者に回りの人が冷たいのだと思ったことは確かでありそれで感情的にみる人もいたとなる
その土地に土地の事情がありそれを一方的に放送することがマスコミ報道の危険だった。それは今までは放送する手段がないのだからその効果は絶大だったのである。
マスコミが世論を作っていて選挙でもマスコミの力で煽動で政治を動かしていたのである
報道というときこれも土着的な報道というものが必要である。その地に根を下ろした人が伝えるのと外から来た人たちが伝えるのは違ったものになるからだ。
例えば福島県でも民報と民友があるがこれは福島県全体の報道である。
そうなると必ずしも地元に詳しい人とは限らない、福島県でも広いからである。
ハマ、ナカ、アイヅとあるとき本当はこの三つに区切った報道が必要である。
それは東電の原発事故で浜通りが実は被害があった。放射能の被害というより双葉とか大熊と富岡とから大量に避難してきたことで直接的に感じるものがあったからだ
そして原発事故の補償金でいわき市に次々に家を建てたとき顰蹙かったのである。
二万人も移住して一時はパニック状態になったからである。
でも補償金はいわき市民はほとんどもらえなかったのである。
浜通りは原発地帯というとき一つの共通意識をここではもつ必要があった。
そういうことを浜通りに根付いて生活する人からの発信が必要だったのである。
原発はそれだけ重大なのに浜通り全体の問題してとあったが認識されなかったからだ。
原発はなになのか良く検討もされないしただ利益になるというだけで受け入れていたのである。

でも原発が作られたその土地の事情としては出稼ぎをなくして働く場所を与えることにあった。だから原発は別にその時は危険なものと地元の人は思っていない、それより働く場所を収入を欲しいということで作られたのである。
それで室原だとか飯館村の比曽とかからも原発で働いていたのである。
いかに原発がこの辺では働き口となり恩恵を得ていたかが事故後にわかったのである。
ただ原発のことはこの辺ではもっと報道されても良かったがされなかった。
それより報道できなかったのである。「安全神話」が作られて危険だと口に出してもいえなくなっていたのである。それは福島県の報道関係は全部そうだった。
東電からみんな宣伝費をもらっていたからだ。それはマスコミ全部がそうだったのである何かそれを象徴していたのは朝日新聞社までマスコミの幹部が中国に東電から接待されていたとき事故が起きたのである。
マスコミは全部原発の危険性について報道しなかったのである。
その危険を喚起することもしなかったのである。

誰に向かって伝えるべきなのか?

まず原発周辺の地元住民に向かって危険を伝えるべきだった。そこに報道の使命があった報道は会社の宣伝のためにあるのではない、地元住民のためにある。
だから会社の宣伝費で成り立つこと自体すでに報道の使命は果たせないのである。
新聞社はあらゆる会社でも団体でも資金が入ってくる。民報などは聖教新聞を刷っているすると創価の支持に従うことにもなる、すでにもうここに報道の使命は失われている
創価の悪口は言えないことは東電で原発を作ったときも賛成の意を紙面で書いていた。
それはやはり宣伝費が大きいからである。それはどこでも同じだった。
要するに報道は金のあるもの権力あるものに従うだけになっていた
マスコミとはただ大きな権力に従うだけであるからそれに従うことはまた大きな権力に従うように仕向けられるだけだとなる
結果として巨大な事故となりまた戦争にもなり地元住民が国民が大被害を受けるのである
ただ新聞でもテレビでも報道に金がかかりすぎるからそうなった。まず会社の支援がなければ成り立たないのが報道会社であり一営利会社なのだから倒産してはもともこうもないのだから利益を第一にする、だから大きな権力、金があるところには従うほかないとなるそれで報道の独立性が失われているのがマスコミだった。
報道が第三の権力だというとうときそうした独立性がないなら住民のためになる報道もできない、ただ権力に従うだけだとなってしまうからだ。
だからなぜトランプが勝ったのか?泡沫候補としてマスコミでも馬鹿にされていた人が勝ったのかとなる、マスコミを信用しなくなったからなのか?
何かそういう変化があった。マスコミはアメリカ国民の不満が大きい層のことを見逃していたのである。つまりウオール街とか一部の富裕層側に立っていたのである。
アメリカでさえそうなっていた、金で操作される報道機関になっていた。
それは結局マスコミがアメリカでも報道に金がかかるからである。
インターネットは金はかからない、そこが最大の強みである。
手間はかかるが金はかからないのである。別にいくら書いてもいいし制限されることもないのである。
それで一応全国に放送される、これもありえないことであり今やインターネットは不可欠なものとなった。そしてマスコミは凋落してゆくとなる

マスコミにかかわる人の恐怖はテレビの放送でもyoutube並になるのではないかということである。youtubeで400万回も見られたというのには驚いた。
するとテレビ並になる。テレビは何か特殊なものではない、ありふれたものである
そして大衆向きだから視聴率第一だから何か勉強することはできない
プログの方が詳しい人もいて勉強になる、自分のことを言うのもなんだが俳句短歌を学ぶなら自分のプログが参考になるとかなる
そういうプログが増えた、テレビはただコンテンツを報道する箱になる。
それはインターネットで報道しても同じだとなる、すでにNHKではインターネットでも報道するようになるとしているからだ。
報道も水平化される、並列化されるのである。今までのような報道の特権は権力は失われたのである。

2016年10月20日

報道とは何かー報道に土着したものの眼が必要 津波や原発事故で思い知らされた


報道とは何かー報道に土着したものの眼が必要


津波や原発事故で思い知らされた



報道というときこれも何かとなると定義もできないし報道は今は多様すぎるから世界まで広がっているからニュース追うだけで一日すら終わってしまうだろう。
でも報道の基本は土着的なもの、一番身近に現実に生活する場からはじまる
それが今までの報道に欠けていたしできなかった。
日本全体になるとその報道も多様であり実際はもう報道されないことも多い
その中に重要なことがあってももう報道されない、その報道されないことに重要なことがある。
報道が多様だという全国版ではマスコミでは同じ話題を流す、それは視聴率最優先だからである。視聴率がなければ宣伝費も入らないからである。
すると視聴率をとるにはどうしても大衆向きになり低俗化するのである。
ただ数は力というとき政治でもそうだが報道でもそうである。
みんなが見れば読むとなるとそれだけ影響力がある、テレビでも百万とかの人間が見ているとなるとその影響が大きいのである。
だからこれまではマスコミの力が大きくなっていてマスコミが第三の権力とか言われていた。

そもそも報道は何かというとき報道でもいろいろあるからである。新聞でも様々なものが報道される、スポーツ欄もあるから多様である。自分はスポーツには興味がないから無駄だと思っていても多数が読むとなれば興味をひくためにのせる
スポーツは人間にとって必要でも別に報道することもない、そんなことに紙面をさくということが無駄に思えるのだ。だから今は新聞は一紙もとっていない
それで別に困ることがないのはテレビもあるからである。
テレビではやはり地域の報道をするから見ないとまずいということがある。
ともかくこの辺では津波原発事故後は外部からでも内部からでも報道される
必ず県単位のテレビでもこの辺のことを報道されない日はないのである。

この辺が看護師が不足しているというのもやはり病気になり入院したから気になる
そして200人も中通りの方で看護師が増えているというときこの辺から看護師が流出したからだというときなぜなのかとなり書いた。
それからソーラーパネルの植物工場は失敗して終わった。かえって電気代がかかってやっていけなくなったとかもこの辺独特のニュースである。
ただニュースというのはきりがなくなくある。
交通事故のことを自分がプログで報告したがその人は死んだというのも大きなニュースである。

では死亡欄には年齢くらい住所など書いてあるがそれでその人のことがわかるだろうかなにもわからないのである。そのことがまた大きな不満なのである。
自分は自分の母親のことを百歳で死んだからプログにその死顔をのせた。
安らかな死だったからである。それは相当に全国で見ている、要するに死顔をみるということは写真でもほとんどなかったろう。それがインターネットだとできるからである。
そんなことするな死者の冒涜だとか言う人もいる、ただどういう人が死んだのか?
ただ一行誰々が死んだだけではその人のことがわからない
死顔だけでも見ればこういう人が死んだのかとなる、こういうふうな死顔もあるのかと見るのである。
つまり情報は本当に一人一人がもっていて無限なのである。
ニュースはあらゆるものがニュースになるから無限である。
毎日人が地域でも死んでいるのだからそんなもの関心がないということもある。
でも地域で一人死ぬというとき何かそこに地域であれどういうことなのか、どういうふうに生きたのかとか知ることがやはり一つの郷土史であり郷土学だとなる

自分がプログで探求してきたことはそうした郷土を知る知らせる報道だった。
これまで報道していないのだから報道のことはわからなかった。
ただ俳句とか短歌を作っていても報道にはならない、報道の範囲は広範囲なのである。
最近地震で風呂のタイルとか壊れたがそのままにしていた。
風呂は福祉の湯を利用していた。ただ冬になると寒くなり湯冷めするのでユニットバスを設置することにした。
それを頼んだのはたまたま来た仙台のリホームもしている会社である
何かこの辺では瓦を直したときもいわきの会社であり地元では頼めないと思っていた。
忙しくて人手不足がつづいていると思っていたし何かみんな外部の人がやっているように見えた。それでちょうど全部セットでしてくれるのでいいと思い実印まで押して契約してしまったのである。
今日知っている人に聞いたら地元でもやれる、知っている人にも頼めると聞いた。
でも実印を押して契約したということは相当な責任である。
考えておきましょうとかにしておけばこうはならなかった。

それで石原慎太郎が東京都知事としてハンコを押したことは責任があると問題になったことを思い出した。
ハンコを押すことは契約することは責任を負うことになる
東京都となると大きいからその工事も巨額の費用を払うことになる
家のことならたいした金でないにしてもリホームは金の額は大きいとなるといろいろ普通は考えるのある。アウターサービスがどうなるのかとかいろいろあとで考えて簡単に契約したのが失敗だったとも思った。地元だとアフターサービスはいいからである。
こういうことも経験しないとわからないし自分には社会経験が欠けていたのである。
石原慎太郎も作家でありそういう社会経験に欠けた所があったかもしれない、そもそも一週間に一回とか役所に行っていなかった。
それでただハンコだけ押して後で責任はとらされるとなると怖いことである。
家単位だったらそういうことはなかったのである。
でも家をマネジメントすることもやはり社会生活の基本にあったのである。

いづれにしろ報道とは何なのか?これは本当に範囲が広すぎるのである。
この辺ではまずプログに書いてきたように様々なことが知ることが強いられたのである。放射線量がどうのこうのとこれだけでも理解することが最もむずかしい
科学に弱い自分はとてもそれに答えることはできなかった。
ただ地元ということでいくら科学よ弱くても東風(こち)が吹く時期を知っていたり地元ならではの土着しているものの強みがあった。
これは外部のものにはもてないのである。土地勘はもてないのである。
何か事件があってもやはり土地勘がないと理解できないことがある。
そういうことは土着して生活していなとわからないのである。

土着というとき今は何かその言葉自体が過去のもののようになっている、農民が八割の時代はみんな土着する生活だった。
土着というとき土に着くとなる、その土地と一体化した生活である。
その土地の自然と一体化した生活がありそれが土着である。
報道がそれと関係ないよう見える、全国版とかなると土着的なものからはかけ離れたものとなる、でもそもそも人間の認識する土台はその実際に生きているそれぞれの土地にあることは変わりないのである。
だから報道というときその土地に日々生活して精通したものが報道に向いている
その土地の景観でもどこが美しいとか自然の特徴でもその土地の人が知っている
それからその土地の歴史でもそこに生活している人が地理でも詳しいから歴史から報道する、それも今回は津波とか原発事故で強いられたのである。
400年前にも700人が溺死したと相馬藩で記録していた。それも知らなかったのである。
そういう過去も重要なものとしてクローズアップされたから歴史にも通じていないと報道はできない、報道とは広範囲な知識と見識が必要になる、それは一人個人ではできない、手にあまるものとなる

ただ報道というとき福島県でも広すぎた、その広すぎることが理解するにも必ず誤解生れる、国(くに)というとき実際は相当に狭い範囲のことでありそこから国を治めるスメラミコトが生れた、スメとは狭い範囲の王のことだった。
福島県はハマ、ナカ、アイヅに分かれ気候も違っている、地理的に一体感をもてないのである。
報道というとき福島県の報道となると様々なことが報道されても深く報道されないししりえないのである。
そして欠けていたのは例えば相馬藩内の報道がなかったことである。
それは福島県のさらに相双地域版とかとして報道していた。
でも相馬藩内の相双版としての報道が必要だった。そのことを痛感したのは津波と原発事故だったのである。
これは生命にもかかわるものとしてつきつけられた問題だったからである。
原発のことをこれほどの被害になったように地元で報道して地元の人が関心をもつべきものだった。

小高でも東北電力ですでに原発の工事がはじまる予定だったのである。でも小高に原発を建てられることも知らなかった、そんな重大なことが知らない人が小高を離れると普通にいたのである。それは原発に関心を与える報道がなかったからだとなる
また権力でおさえられていたということもある。
ここに報道がいかに重要かということを思い知らされたのである。
福島県の報道でも雑誌が二つあり新聞社が二つありテレビ局が五つありとかあっても報道されない、ということは関心ももちえないということにもなる
まだ報道するにも新聞とかになると金がかかりすぎるから一個人などできない
そこにも大きな問題があった。インターネットが普及して一個人でも報道できるようになった。ただテレビとか新聞からするとまだ弱小メデアである。
ただ相馬藩内であれ福島県版ではないもっと狭い範囲での報道が必要だったことは間違えない、福島県全体になると広すぎるからその土地に精通することはむずかしいからである

人間は知らないことが致命的になる

津波で原発事故でもそうだったのである。
タグ:報道とは

2016年09月15日

マスメデアからインターネットの情報摂取の変化 (知らないことが致命的になる社会)


マスメデアからインターネットの情報摂取の変化


(知らないことが致命的になる社会)


インターネットとかの情報環境で何が変わったのか?
テレビとか新聞とかのマスメデアは一方的なメデアである
一方的に情報を操作して大衆向きに放送する
放送する方では視聴率を最大の問題にしているからそのためのために放送する
最大公約数のような放送をする
最近テレビを見るなというときそれはテレビが一方的なメデアであり
知らずに洗脳される、自ら考えることをなくさせるからである。

それと違うのがインターネットのメデアである。
ここでは今度は絶えずマスメデアで流す情報を本当なのかという疑問をながかける
それが実際にやらせだったということがある、貧困問題でもそうである
実際は嘘だったということが暴かれた
第一その情報をどこまで真実なのかわからないということがある
一方的にそういう情報を流されても調べようもないからである。
テレビを見るなというとき知らずに根拠のない情報に洗脳されるからである
ああ、こんなに貧乏な人がいるんだな、かわいそうだなとかなる

それはあらゆる面でそうなのである。原発事故の避難者についても常にかわいそうだねとなることしか放送されない、だから実際は複雑であり地元でも補償金でもめているのは事実でありそこは隠蔽されている、マスコミでは原発避難者は常にかわいそうだとなっているからそういうことで批判するとなんだお前は冷たい奴だなと批判される
でもそういう事実があることも知らせるのが公平なのである
マスコミはどうしても一方的にな報道になりやすいのである

インターネットのメデアはこれもいろいろ問題がある、あまりにも情報が多すぎることなどその信憑性など実際はどう利用していいのかまだわからない面がある
インターネットは確かに様々な意見があり知識がある、でもそれの是非を自分で判断するとなるとこれもまた大変なことだとなる、一方的なマスコミの判断にゆだねるのが楽だとなる、第一みんながそんなに暇でもないしそんなに多すぎる情報から取捨選択する時間もないだろう。

インターネットの問題は過剰な情報の海にほうりこまれる、すると確かに出版社とかの人が言うようにインターネットには編集がないという、それは納得する
様々な情報があってもそれがばらばらになって何が嘘なのか本当なのかもわからなくなるそういうことを個人で判断するとなると考えるとなると普通はめんどうになるから
ただ専門家の言うことなどをそのまま鵜呑みにするようになる
専門的なことになると判断することが素人ではむずかしくなるからだ。

今話題になっている貧困問題でなぜそうなっているのか?
ある女性はセクハラなのパワハラなのかやめさはられた、会社ではそうした人が実は会社にとって有能な人なので会社にとって重要な人ではないその人はやめさせられた
それが会社社会の現実なのかということを知る
一方で今新たなリストラが行われている、会社の中核と思われていた中年世代が40代、50代がリストラされている、それは印刷会社の人であり電子化しているからその電子化に対応できないから中年世代がリストラされる
この二つの問題をリンクさせると編集すると会社は今やグローバル競争にさらされているから生き残るためには有能な人間を必要としているらそうでない人間はコストとなるから切り捨てる、それが会社として生き残るためだからそうなる
一方で最近人手不足が騒がれるがそれは誰にでもできる底辺の仕事が多いのかとかなる
有能な人も人手不足なのだがこの人手不足と底辺層の人手不足が違っている
有能な人の人手不足は別に常にあったし確保するのがむずかしい、底辺層の人手不足は誰にでもできるものでありだから外国人で補うともするのである。
これはyoutubeの二つの情報を編集したことになる

インターネットは膨大な情報がばらばらになってある、一つのキーワードから探して無数に情報が出てくる、まずキーワードで情報を探すなど今まではできなかった。
キーワードで探すということはその人の関心から探すのだから常にオンデマンドなのである。買い物すらキーワードで探し現実に買うオンデマンドになっている
だから個々人が求めるものに答えるのインターネットだとなる、そして個々人の求めるものが多様化しているからそれに答えるとなる
マスメデアは個々人の求めるものには答えない、一方的にマスメデアが選択しで与えるのである。何が重要か重要ではないかもマスメデアが決めるのである。
だから選択することも自ら考えることもできないようにしているのである。

インターネットの特徴は何か自分で情報を求めないとそれにあったものはでてこない
最近郷土史で「紙漉き」のことを関心をもって調べたらそれにマッチしたものが出てきて感心した、それは意外な紙漉きの事実があったかである。
江戸時代になるが紙漉きは冬の冷たい水を利用したり重労働であり過酷だったから醜い少女を養女にして奴隷のように働かせたというのである。こういう事実には驚いたのである紙漉きというと何か今になるとロマンチックにイメージしたりするが全く違っていた事実があった。
この知識はやはり自分が紙漉きについて調べて関心をもったから出てきた。
何か強い関心をもたないとインターネットではそれについての知識は得られないのであるそしてその事に関してもいろいろな人が語るから編集が必要になるのである。
するとプログでも読む方にしても関心がある人なら要約されているから自分で調べることもなく時間を節約やることができるのである。
インターネットは調べるのに手間であり時間がかかるからである。

マスメデアとインターネットでは極端に違ったメデアでありそこにも問題がある
その中間のようなメデアも必要となる、なぜならインターネットを一日見ているような暇人はまれである。何か要約したようなものが必要になる
マスメデアはそれをしていたがそれがマスメデアが一方的な洗脳メデアとなっていたのである。だから一方的にマスメデアで選ばれた人が発言する、その他の人は発言できない、そこでも偏りができる、編集するにしても公平にはならない、マスコミの意向によって編集するから偏るのである。

人間は知るということは大事である。知らないことが致命的になる。
モスバーガーが原町にあったのにいつも20年間あの辺に喫茶店がなかったので探していたのにあそこを知らなかったのが大損失だった。
それがなぜかと考えたら自分は車をもっていなかったから寄ることがなかった、車でのみ入れて販売される場所だと思っていたからである。
車をもっていない人は車について知らない、車を利用してできることを知らないということは相当な車社会ではハンディを負っているのである。
別に車がなくても生活はできるが車をもっていればそれだけ生活範囲が広がるのである。ただ車でばかり生活していると何か失うことも確かである。
車は風とか光とか蝉の声でも虫の声でも何か自然を感じない、だから俳句とか短歌を作るとなるとそういう生活は自然を遮断するから向いていないともなる
つまり歩くことと自転車の旅でも相当に違ってる、歩くことで感じることを経験しないと江戸時代などのことも俳句でも理解できないと思う、歩くことで感じることは今や新鮮なのである。

知らないことが致命的になるということはいくらでも起きている
この辺ではそのことを痛切に感じたろう。
津波のことでも原発事故でももともと知らないということが致命的になり命まで落とした知らないことは命にかかわっているのである。
原発事故でも地元の人が政府とか東電の言うがままであり安全神話を信じていて自分達では調べることもしなかった。
一方新潟県の巻町では学者を呼んで自分たちで調べて原発を作らせなかったのである。
だから放射能のことなど核のことなど知り得ようがないということでもなかった。
ただ自分たちで知ろうとしなかっただけだともなる
第一原発にしても吉田所長が復水器のことを知らなかったというのが意外だったのである所長が知らないかったらそもそも事故があったりしたら何もできないとなる
実際に何も指示もできないということがあった。
何であれ知らないことが致命的になるのである。
またいろいろなことを調べてもインターネットで調べても個々人で判断することもむずかしい、病気のことでも自分でもそうだったが知識の迷路に陥ってゆく、ある人は民間療法など
を信じてかえって病気を悪化させるなどいろいろ問題が起きる
つまり知ったとしてもそれを判断することがむずかしくなる

今の社会は複雑であり知るべきことが無数にあり対応できないのである。
自分が車にのらないからモスバーガーが喫茶店として利用できるのを見逃していた。
それも20年間もである、そういうことは例えばインターネットなどめんどうだから知らないでいいやともなるがそうなると自分のように車を持たないで知らないことで大損することにもなる、だから現代社会にすでに車を持たないと運転できないとかまたはインターネットを利用できないとなると適応できなくなり大損失になるしそれが命にもかかわることもある。
投資信託でもそれがなかなかわかりにくい、ましてや株のことなどもわかりにくいからだまされやすい、銀行の人が貯金しても利子がつかないからとすすめられるとどうしてものりやすい。でもそもそも投資信託の仕組みすらわからなかった。
外国の国債を買うと元本が保証されない、それも怖いことだと思ったし投資信託でもそうでありそういうなにか危険なことを知らない、それを知ろうとするとこれもめんどうになる、現代はともかくそうした情報社会でありそのために様々な問題が生れ混乱してくる
グローバル化してさらに情報社会になり事の真偽がさらにわかりにくくなる。
第一外国のことになると理解することがさらにむずかしくなるからである。
ただこうした情報社会では知らないとお前の自己責任だとされるのである。
だから知らなかったではすまされない時代になっているのである。

2016年09月10日

松本清張の「黒い福音」を見て (アメリカに支配されていたために宣教師を逮捕できなかった)


松本清張の「黒い福音」を見て


(アメリカに支配されていたために宣教師を逮捕できなかった)



中国にアヘンを密輸しまくってアヘン戦争を引き起こした商会がジャーディン・マセソン商会 
そのジャーディン・マセソン商会の長崎支店こそが坂本龍馬のスポンサーであるグラバー商会である


1951年の米国議会上院の軍事外交合同委員会のマッカーサーの答弁
「日本は絹産業以外は国有の産物はほとんど何もないのです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない、その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域に存在していたのです。
  もしこれらの原料の供給が断ち切られたら1千万から1千2百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」


  フランクリン・D・ルーズベルトのミドルネーム“D”は、デラノ一族の意味で、セオドア・ルーズベルト大統領も血族の一人で、ユダヤ人ある。ルーズベルトとは、オランダ語で「赤いバラ」である。

デラノ家は、アメリカやイギリスの富裕階層の大半がそうであるように、アヘン貿易と奴隷貿易で財をなした。

「アヘン貿易と奴隷貿易は一体となっている。今日のアメリカの隆盛の最大の原因は、イギリスの黒い貴族たちがアヘン貿易で儲けた金をアメリカに注入したからである」と鬼塚氏は端的に説いている。

バチカンの(ハプスブルグ配下の)フッガー家に対する借金返済の施策である免罪符の発行への対抗策として、教会不要論や天職理論、蓄財の正当性を説くことにより、教会へのお金の流れを銀行(預金)への流れに変えることを推し進めた。

金貸し支配の構造A ベネツィアの黒い貴族:サヴォイ家

その後大航海時代には、イエズス会は世界各国へ食指を延ばし、奴隷貿易により膨大な利益を得ていくことになり、その運用のためにバチカン銀行が造られる。
>各国の軍事施設の近くには、必ずと言っていいほど教会が設けられている。そこの懺悔部屋での諜報活動がイエズス会牧師の大きな役割となっていた。

タックスヘイブンの構築

>サヴォイ→デル・バンコが支援していたテンプル騎士団が迫害を受け、イギリス騎士団としてイギリス方面に渡る。その際、バイキングと結託し、イギリス北西のマン島にオフショア=タックスヘイブンといわれる無記名、非課税or低課税の制度を確立し、外為で獲得した膨大な利益の目減りを防ぐシステムを構築していく。その後、スイスやロンドンでも同様のシステムが設けられていく。

『権力ゲーム』とは、金融権力を握ったロスチャイルド国際金融マフィアが、世界各国で国民を支配し搾取するために、政治、行政、司法、経済、企業、労働組合、メディア、教育、宗教などの権力を握って独裁支配体制を築く『反国民の権力犯罪』である。


明治維新でもそうだが戦後でも外国宣教師が入ってきてキリスト教を布教したのは問題があった。なぜならアメリカが主だがアメリカは裕福であり権力をもっていたからである。そのために権力で宗教をおしつける、権力で宗教を広めるとなるからである。
クラーク博士はどこの宗派にも属していないし何かそうした権力と無縁の人であったからかえって明治の青年を感化したという、カトリックとかなるとあのように明治の武士の出身者を感化できなかった。そこから独立した内村鑑三のようなクリスチャンが生れた。
カトリックのようなものだとそういう人は出なかったとなる
内村鑑三は外国の宣教師を嫌っていたからである。それは日本国の個々人の独立精神を失うからである。
ただ明治となるとキリスト教のことがわからない時代だからやむをえないことがあった。今なら外国の宣教士とか宗派とか教会でもエホバとかのカルト団体とか外国系資本の教会に属する必要なとないのである。
自立していくらでも聖書など学べる時代である。むしろそういう場所に行く属することは信仰をそこねることさえあるだろう。
なぜなら自分は一回も教会で聖書の話も聞いたたとがないし聖書自体学んだこともないのである。カルト団体に属してもそれは仏教系だから全然違った世界である。
それでもクリスチャンになる人はなる、それは聖霊の働きによるからである。

この映画でも教会がアヘン取引していたとか暗黒のおぞましい所だった。ただこれはフィクションだが事実を基にしたものであり結局事件は闇に葬られた。
その時アメリカに支配されていたのだから操作すらできない治外法権の場所になっていたからである。
ただ宗教というと特に宗教団体とかなる何かそうした闇をどこでもかかえている、それはなぜなのか?巨大な権力を有するようになったからである。
それはカトリック教会からはじまった、今でもバチカンの闇がある、カトリックが国家並の権力をもつが故に歴史的にそうなっていた。
教会だってそこが商売の場所にもなるしいろいろと世俗的なものに利用される
それは創価を見ればわかる、もうそこは様々な利権が食い入る場所になっている
大成建設が何かオリンピックの入札で不正していたのではないかというのもそうである。大成建設と創価は密接な関係がある。会員も多いからだ。
第一国土大臣が公明党だったらそれも当然だとなる
宗教団体は巨大なるが故にそこは利権の場所であり権力でもって大衆を操作する場になる統一教会だったら韓国系でありとか背後に国家権力が関係している
エホバだったらアメリカとであり日本自主独立のものはまれである。

教会でアヘンを売買していたというと何か常にアヘンが資金源になっている。中国がイギリスからアヘンを売られて国力を失ったようにアヘンは亡国の薬である。
そしてルーズベルト一族がアヘンで財を成した一族だとか何かそうした巨万の富を築いたものには必ず黒歴史があり政治家にも黒歴史を背負っている
アヘンで外国を批判するが日本も戦争中、中国にアヘンを売り資金源にしていたという。アヘンというのは巨利を得る手段なのである。今でもフィリピンでもアヘンのために国と戦争状態になるとかメキシコでもどこでもアヘンがやはりそれだけ金を生むからマフィアが活躍する、そしてどこでも権力の集中するところが宗教団体だろうがなんだろうがマフィア化しているのである。

こういう黒歴史はインターネットでは驚くほど詳しい、何か今までおさえられたものがインターネットに噴出しているのかもしれない。
ただその陰謀論にはまるとこれも訳わからなくなる。
ただ巨大な権力自体が人間にとって悪い方に作用していることは確かである。
銀行にしてもそこに巨額の金が集まるから世界まで支配できるとなる
人間は個々人でも金を貸すことによって奴隷化される、それは江戸時代もそうだった、遊女にされたが今でも現実にバングラデッシュとかカンボジアとかはほんのわずかな金で少女が売春されている、つまり江戸時代を知りたいならそういう国に行ってみれば実感するそれをDARKNESS DUAとかで延々と書いている。
あのようなことが今までも確かに知られていたがあれだけのものを報告できるのはインターネットだからできたのである。

どうしても金がある権力がある所にはよからぬものが入ってくる
自分もそれでひどいめにあった。多少の遺産をひきつぎそのために強盗のようなものが来る、借金で苦しめられていたものが病気でも借金を要求してくるとか金があることで恐ろしい目にあうこともある、現実に常に江戸時代でも富裕な商家が盗賊にねらわれる
家政婦二人雇っていた金持ちが強盗に入られて殺されたとか常にある。それは昔からあったことである。中国では盗賊の首領が皇帝までなったしイギリス海軍は海賊が基だったりと権力があれはその権力の奪い合いが必ず起きてくる、革命でも権力を得るためにする。大義名分があっても盗賊同士の争いなのかとまで見る
だから巨大な権力がある所は宗教団体だろうがなんだろうが闇になる
その闇の正体はなかなかわからないから陰謀史論になる、結局それはサタンが世を支配すると同じである。
一見権力を金をもつのはいいように見えるし大衆でも貧乏ならみんな金が欲しいとなる
金がいらないなどという人は今では特にいないし金がないから最低限の生活すら不可能である。だからこそ金に支配されるのである。
では実際にありあまるほどの金とか権力をもつとどうなるのか?そこは闇の世界になってしまう。つまり権力と金で支配する者はサタン化するということである。
世界史自体がこれほどキリスト教が普及していても何にも変わっていない
やはり権力と金が支配する世界だということである。

この映画は戦後アメリカに支配された時の物資不足の時代のことである。
教会がアヘンの販売していたというから腐敗しきっていた
それはドラマだけのことだったのか?
これは事実を背景として生れたドラマである。教会に入るというときそうしたアメリカから物資の恩恵を受けることもあり入る人もいたろう。
人間は純粋に宗教を求めることはない、何か利益があり弱者が権力の助けを求めて入る
その弱者を利用して権力を拡大化するのが政治である。宗教もそうして権力闘争に利用されるのである。

この映画の結論が示唆に富んでいた、なぜ限りなく黒だった宣教師を逮捕できなかったのか?
それは戦後アメリカに支配されていたためなのである。
それで警察の上官が言ったことは

日本の国は強くなければこうなる、他国に蹂躙される

これと「心の青雲」で常に言っていることだからそれはあてはまる
国が弱ければ下々で最貧国のように少女はわずかの金で売られるのが歴史の現実なのである。そしてそこに公平な裁判もありえないのである。
それは今でもそうである。、検察でもアメリカの意向に従わねばならないとかなり公平ではありえない、日本は未だアメリカから独立していない、属国だからそうなる。
映画は単なるフイクションだと興味がない、なんらかの事実に裏付けされているとそこから歴史でも学ぶことができる、ただフィクションと現実は違う、そこでフィクションが現実のように錯覚しているのが映画とかテレビの時代だと多いので問題なのである。
ただインターネット時代になるとこんな映画あったのかと知らないことを知ることになるこれは最初テレビで昨日放映していた、でも途中から見たからわからないところがあったでも検索したら無料で見れるのがあった。それもこの映画は二つくらい同名で製作されていたのである。映画は何かテーマがあって製作されている、こうした映画を見ている方が世の中の真実がわかる、これからはあまりテレビを見ない時代になっている
チャンネルが百チャンネルとかなる、2チャンネルもあるが自分もチャンネルの一つであるから膨大になるのである。テレビとか新聞はもうだんだん見なくなるし読まなくなる
なぜならそんなにいろいろなものを見れないからである。
インターネットの有利なのはあるテーマとかキーワードから深く考察できることなのである。それだけの情報量が蓄積されたことによってそうなったのである。


タグ:黒い福音

2016年08月13日

「心の青雲」が文字化けして読めなくなっている謎 (サイバー攻撃か、その怖さ)



「心の青雲」が文字化けして読めなくなっている謎


(サイバー攻撃か、その怖さ)

文字化けは著者の問題であり回復した

でもなんかサイバー攻撃があったら怖い


今日心に青雲を見たら訳のわからない文字になっていて読めない、全部そうなっている
サイバー攻撃されたのだろうか?

インターネットで怖いのは記録が一瞬にしてすべて消えることである。
そういうことがさくらのプログでもあった、ただバックアップしてあったので修復できたインターネットはパソコンでも技術的には安定してきている
だからめったにそういうことはなくなっている

でも一般人とインターネットを管理する会社とかがありまた技術的にハッカーなどでもいて何か相手のパソコンを操作できる、するとプログなどでも簡単に操作して全部読めないようにされてしまう危険がある。消される危険もあるしそれがインターネットの場合、
簡単にできてしまうことの恐怖なのである。
だから記録しておく必要がある。
一時win8とかにするときウィルスが入り記録をだめにした。これも怖いことなのである。
「心に青雲」は毎日読んでいた。ユダヤ人を絶えず批判している、ただそうはいってもアメリカ側につくもので中国を常に批判していた。
となると攻撃されたとしたらアメリカ側とは限らない、どちらかというと中国側かもしれない、中国は何か盛んにサイバー攻撃している国だからである。
そして一個人とか何かサイバー空間では技術的に無力である。
国家が関与したらサイバー攻撃は怖いものとなる

なぜ「心の青雲」がねらわれたのか?あのプログが読者も多かったのかばしれない
反対することがあっても筋が通っているから一貫したものがあるから感心して読んでいた別に敵対するものでもそうして一貫したものがあるとき共感する
ただ別にインターネットではアメリカであれユダヤ人であれ中国であれ批判しているの多い
ではなぜ「心の青雲」がねらわれたのだろうか?それは今は謎である。
どうしてそうなったのかわからないからだ。
言論がすべて自由化というと民主主義社会でもそうはなっていない
何か強力な権力がバックにあり操作される、それに反対するものは世の中に出れない仕組みになっている
第一原発の安全神話が作られたのは強力な政府と東電の権力によって作られていたのである。それに反対するものは許されなかった
マスコミもすべて同調して宣伝費をもらっていたからである。
マスコミは真実を伝えない、権力に操作される側なのである。
出版でさえ操作されているし権力のないものは簡単にはできない
自分ですら図書館に本を置くことを拒否されたりしている
何か一見民主主義が自由な言論があるようでないのである。
たいがい出版でもバックに組織に属していないとできないのである。
個人は排斥されているのである。


インターネットのホームページでもプログなどでもサイバー攻撃することは技術力のあるものにとっては簡単かもしれない、それが大きな組織がかかわっていれば余計にそうである。
プログなどは一見何でも自由に見えても攻撃されさば脆弱である。
さくらのプログなどはただ最初安いからと始めた、最初にホームページとかレンタルサーバーとして利用したついでにした。
でもこれはマイナーな会社でありプログなどだとアクセスを稼ぐのには向いていなかったそれが最初わからないのでそうなった。使いにくいこともある。
ただなんかレンタルサーバーでもプログでもアドレスを変えるのがめんどうでやめた。

いづれにしろインターネットの怖さは記録が一瞬にして消えることとサイバー攻撃に個人になると防ぎようがないのである。
だから入り口でレンタルサーバーでもいいからセキュリティをしっかりしてもらわないと使えないとまでなる
そんなこと個人ではできないからである。

いづれにしろ「心に青雲」はどうなったのか?回復できるのか?それも技術的には個人的には無理になるから困るのである。
組織力があるなら技術者を雇うことができるが個人的にはできないからである。
インターネットでももしアメリカのCIAとか中国などが国家的にかかわったら操作されてどうにもならない、ここでも権力をもつものによって操作されるとなる
中国は国家戦略としてアメリカに対抗するためにサイバー攻撃をしているのである。
だから何でも個人では国家の権力に対抗することは無理だとなる
自分のプログでもホームページでも危険はある、たださくらのプログのセキュリティはどうなっているのか?
ともかくインターネットでも影響力が大きくなる場合がありそうなると権力側に攻撃される、そういうことでインターネット空間にも必ずしも自由な言論があるとはならない
情報は権力によって操作されているのである。
原発などもそうでありそのために大事故になったのである。その前に危険情報が知らされない仕組みになっていたからである。
東京都議会でも闇の権力者がいて予算が操作されていた。金がそうした闇の権力者に回っていたのである。それを暴くことが容易ではないというときそれは社会自体がそうなっている
巨大な権力によって情報は操作されて人々は肝心なことは知らされない、その結果として甚大な災いをこうむるのである。


タグ:心に青雲

2016年06月06日

買い物が増えすぎた、情報が増えすぎた、処理できない (古いものが失われたことによる損失もあった)


買い物が増えすぎた、情報が増えすぎた、処理できない


(古いものが失われたことによる損失もあった)


家事をやるときまず何を買うかが問題になる。どういうものを料理でもそろえるのかが問題になる。
それがスーパーでもホームセンターでもそうである。そこに何があり何を買うべきかを知ることがまず第一である
そして今では小さな町の一万くらいの町でも相当な品数があり何を利用すれば最適なのかそれを知ることが肝心だとなる
家事を十年していても未だにそのことがわからない、それだけ品物が増えすぎたのであるその点インターネットだと検索で探せるから便利である。自分の欲しいものをキーワードでと探すから欲しいものがわかりやすくなる。
それがスーパーでもホームセンターでも品物がありすぎると目当てのものを探すのが大変なのである。
ただ見て回ってこんなものがあるのかということの発見はある。
インターネットではキーワードでしか探せないからである。
だから本屋に行く楽しさはいろいろな本を見て歩くことにあった。
でも地方の書店ではもうその種類が少なすぎるから書店は用なさなくなった。
今になると仙台に行くのも億劫になったから今年はまだ仙台に行っていない。
別にアマゾンで本などいくらでも買えるとなったからである。

ネット販売だと店屋めぐりとかできないし街を歩いて楽しむということもできない
地方の商店街はほとんどシャッター通りになっている
ハチンコ屋はどこにでもあり何か街自体の魅力が喪失した。
街というのは自然環境とか歴史があり成り立っていた。
相馬藩だったら城があり城を中心として各地で城下町が形成され街も形成されてきた。
通りを歩く楽しみがなくなった。仙台辺りはまだある。
青葉通りとかあり学生も多く若い人も多く歩いている
歩く楽しみがまだある。通りは自然の風光とかを感じ人が生活する息づかいを感じる場所であった。青葉通りはまさに青葉にふさわしいのである。
それで俳句とかにもした。それがビルの中に入るとそういう自然の風光とか歴史と切り離されるのである。
それはスーパーとかでも同じである。つまりスーパーなどには自然の風光とかその土地と切り離されたものである。その最たるものがイオンなどである。
街から切り離された郊外に独立して膨大な品物だけがあるという世界である。
それは車社会になって生れたものである
駐車場を旧来の街では通りでは確保しにくいからそうなった。

城下町となるとやはりまだ歴史とか風光を維持している。それで熊本城が地震で破壊されたときなんとか復興しようとしている、前にも熊本では地震で何度も城が破壊されて再興していたのである。
それはやはり城が以前として街のシンボルとして精神的支柱としてあったからである。
そうして古い街が残っているのは現代では大きな都市に限られる
京都とか奈良とか東北では仙台とか盛岡とか弘前とかである。
ただ相馬市の不思議を書いてきたけどなぜあそこに行くとしんみりするのかということである。
それは城下町だけど別に城が残っているわけでもない、でも高いビルがないということが自然の風光が映えるものとしている、街作りとして公共の会館などが入母屋作りにしているし今度建てる市庁舎もそうである。
だから城下町の雰囲気というか落ち着いたものとしている。これには反対もある。

何か確かに建物だけに金をかけているという感じになるからだ。そこに住んでいる人からしたら福祉とかその他のものに金をかけて欲しいとなる人もいる
原町の街は何か病院の街という感じがする
駅前に高い病院のビルがありそこに若い看護婦が多い、若い女性にふれられる活気が感じるのは地方では病院だというのも現代を象徴しているのか?
南相馬市立病院はビルとして一番高く見晴らしが良かった。入院していたとき海に船が行くのが見えたのである。あの辺から海が見えないからである。

買う物が増えるというとき選ぶのが容易でなくなる、自転車など今や外国をふくめものすごい数がある。変わったロードに乗っている人がいた。どこで買ったものなかのかと思う原町の自転車屋では外国製まで置いてある,ジャイアントのロードが飾ってあった
その主人は直接自転車にのって乗り具合などを確かめ客にすすめている。
そこで一台ハナソニックの電動自転車を買った、つまり何を買っていいかわからないほど自転車の種類も数も増えたから客は選ぶのに苦労するのである。
それは情報という分野でもインターネットが出た結果そうなった。
膨大な情報をどう選ぶかが問題になる、そうしないと情報に追われて時間を奪われてしまう。

だから今は新聞も読まないしテレビも見るのは限られている、今自分が力を入れているのは情報をプロクなどで発信する方である。
若いときはどうしても情報でも知識でもとりいれる方であり発信する力は弱い、年取ればやはりそれぞれに経験を積むし知識も自分のものとなってゆくから発信する方が多くなるインターネット時代になると知識でも情報でも増大するが肝心のものを読まないということもありうる、つまりくだらないものに追われて時間を消費するということもありうる
これはインターネットがないときもそういうことがあったから同じだけどその情報量が違いすぎるのである。
本が中心のときはベストセラーが必ずありそれはつまらないものでもそこに関心が集中して買う人がいたのである。それは実は全くつまらないものであっても百万部とか売れていたのである。今はベストセラーもなくなった。
出版の世界が崩壊しつつある、自分の町では一万の町ではもう書店はないし他でもそうだろう。書店はなくなることは目に見えている

本というのはまず選ぶことが本の時代でもむずかしかったし学術的なものになるとなかなか地方では手に入らないので仙台には本を買うために行っていた。
インターネットの時代になるとまずアマゾンでない本がないからいい時代である。
こんな本があったのかという驚きかある。本というのは学術的なものでも膨大なものがあった。それを知らなかったので知識を追求するには地方では相当なハンディキャップがあったのである。
それで最近詩の本を集めたりして参考にしている。他にも何か自分で文章を書くとき参考にする本をインターネットの電子本で拾い読みしてアマゾンで注文して買ったりしているだから田舎にいてなにか不便を感じないのである。

ただ書店で本を見て楽しむということがなくなった。こんな本があったのかというキーワド探せないものがあるからだ。
出版社が本の世界からインターネットの電子空間に入れないのはあまりにもその変化が大きいので入れないのである。出版の世界にはその流通から本作りまでこれまで培ったものがありそこからぬけでれないのである。
出版文化というものがあるしまた本は二〇〇〇年もの歴史があるから本というものからぬけでれないというのもわかる。
本で読むのと電子本でインターネットで読むのは何か違っているからだ。
同じ内容のものでも人間の感覚で違って感じるからである。


物が千倍増えて情報が一万倍も増えたら人間は対処できるのか、処理できるのか、そんな能力が人間の脳にあるのかとなり小説までコンピュターで作れるとなる
なぜならそこに膨大な情報があるからだ。コンピュターは処理できるからである。
人間はとても処理できないのである。知識でも情報でも無限である。
ただ知識というとき一つの世界観を形成するために知識を深めるということがある
知識というとき何か本来は生きた知識となるべきでありそれは実際の生活する場でその知識が言葉でも結びついていた。
だから自分の場合は故郷で石や岩や樹などと結びつく世界観を詩などで追求してきたのである。
エジプト文明でもキリスト教文明でもイスラム文明でもマヤ文明でも仏教文明でも日本文明でも一つの世界観があり知識もそこに総合的に集約されてきたのである。
だから時代的には日本では奈良時代があり平安時代があり鎌倉時代があり江戸時代かありと一つの世界観を構築してきたのである。文明には整合性があり調和していたのである。

明治維新もそうした伝統があって成し得たのであり西欧化したというときそういう伝統があり日本文明を維持して西欧化したのである。
日本文明があり西欧化がありえたのである。技術的なものでも西欧から入ったものの翻訳を漢字で新たに造語したとういうのもそのためである。
今知識でも何でも一つの世界観の形成ができない、ただあらゆるものがごった煮になって混沌として混乱するのである。
膨大な物でも情報でもただふりまわされているという感じになる

日本ではあらゆるものを無節制にとりいれてきたけどそれがさらに混乱に拍車をかけて
いる、日本は日本の伝統歴史を見直して日本文明を再構築すべき時に来ているのである。その一つの試みを自分は地方でしてきたのである。
それは別に外来の文明を排除することではないのである。

青葉風 (仙台の青葉通りの俳句十句ー都会と田舎が融合すると文化が育まれる)

タグ:情報過多

2016年02月18日

THERE WILL BE BLOOD 『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)「野心が信仰と出会う時」の批評


THERE WILL BE BLOOD

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)「野心が信仰と出会う時」の批評


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膨大な土地を所有する貧しい人たちからたかだか数千ドルで買い取り、そこから湧き出てくる石油はどれだけ出てこようが土地の元の持ち主には一切分配しないというのが石油王の考えです

この作中の序盤に1人だけ自分の欲を抑制し、世間的に妥当な取り分を十分理解できる賢い青年が出てきます。その青年は石油王に500ドルで石油がたんまりとれる土地の情報を売ってあげると持ちかけるんです


 パイプライン建設のために、イーライの宗派の洗礼を受けることを要求されるプレインビュー。しかしその場で「私は罪人(sinner)。私は子どもを見捨てた」と叫ばされる。


 そのインチキ宗教家に「わたしは罪人です」とパイプライン建設のために懺悔させられるエグい場面がひとつのヤマなんだけど、あれもビジネスのためなら宗教さえも道具として利用するって感じじゃなくて、過去に何らかのタブーを冒しているとしたら、本気で懺悔させられていることになるんじゃないか。しかも、インチキ宗教家にそれを強要されるんだから、苦痛もさらに倍になるんじゃないだろうか。



この映画のテーマは何だったのか?石油がテーマにしてもそこに宗教がかかわっていたことで興味をもった。
石油を掘りあてるためには貪欲の限りを尽くすのが石油王である。
そのためには土地を手に入れる必要があった。その土地をもっていたのが貧しい人たちでありイーライの宗派だった。
その若き牧師はインチキ宗教家だった、石油のある土地を買うために石油王は懺悔させられた。その屈辱が最後にそのインチキ宗教家を殺すことになりドラマは終わった。

「野心が信仰と出会う時」という原作がありこれを映画化した。
この映画は宗教もテーマにしている。それで最初わかりにくいものがあった。
石油のある土地を石油王が手に入れるために若いインチキ宗教家にいやいやながら公衆の面前で懺悔させられた。
それも石油をとるためにはしかたないと甘んじた。
一方インチキ宗教家はそれで勝利したように公衆の前で自分をアピールした。
この若い牧師がインチキ宗教家だと石油王は奇跡を演出したときから見抜いていたのだ。
ここには宗教と実業というテーマがある。石油王は石油のようにどろどろとした欲望にまみれていた。
一方宗教家もきれいこどを言ってもインチキであった。
何かこれは一般的に今のカルト宗教団体にあてはまるから興味をもった。
創価などがそうである。それだけではない一般的に今宗教というとき何かうさん臭いものとなっている。
宗教はきれいごとを言っても中は石油のようにどろどろの欲にまみれているのだ。
もちろん宗教というのは世俗にある限りそういう宿命から逃れることができなかった。
それが現代になると特にそうなった。ほとんどの宗教がカルト化したのである。

創価でも政治と実業に経済に深くかかわる、大成建設が仕事を欲しくて創価の会員に一部なっていたというのは本当である。
大切建設の社員宅が座談会の活動の場として提供されていたからである。
それは石油をとるために土地が欲しくてしかたなく仮りにインチキ宗教に入った石油王と同じである。創価の場合はもともと宗教というより政治家実業を目指していたから何の抵抗もない、懺悔なども関係ない、石油を手に入れればいいなるしそこで金も入ればいいとなる。その人が回心するとか懺悔とかは関係ないからやりやすいとなる
創価とはすでにビジネスであり企業化しているからである。それは幸福の科学なども同じである。宗教がビジネス化して実業化している。だから幸福になるためにもうけることだとなるからにけいるわけである。
そのために毎日祈っているとなると宗教が実業化した団体であり利益を追及する会社と同じだとなる
幸福の科学の主催者が大川教祖が妻と離婚して巨額の遺産でもめているのもそのたとである。
すでに欲にまみれてそうなっているのである。それはカルト宗教団体ならみんな同じなのである。

この映画の最後で若インチキ宗教家は石油王に殺される、金がなくなり石油王に要求した石油王はそれを断り懺悔さけられた屈辱をはらすために殺した。
つまりインチキ宗教家は最後はどろどろした欲望の塊りの石油王に金を要求して頼ったのである。どっちにしろ宗教も金だとなる最後の結末である。
結局金なくしては宗教もその団体も成り立たない、金とは石油でもある。
実は宗教すら金に支配されているというときそれは陰謀論で必ず言われる、ユダヤが金融で世界をあやつっているとかなんとか常に言われている。
でも実際はそんな力をもつことができるのか?それよりサタンがこの世を支配している、闇の力がこの世を支配しているという聖書に書いてある。
そのサタンとは何なのか?それは人間に内在する限りない欲望なのである。

欲望があるから欲望に操られる、それは宗教でもそうでありあらゆるものがそうである。原発事故もそうして人間の深い欲望に操られた結果だったことを書いてきた。
人間の欲望を否定するのが宗教だけと実際はそうしたら誰も支持しないし会員など増えない、欲望を肯定してこそこの世で増殖できるし力をもつことができるからである。
だからカルト宗教団体ではむしろあらゆる欲望を是認しているしむしろその欲望を満たせる、拡大させられることが信仰になる。それは結局すでにこの世と同じ世界でありそこに宗教は一切ない、ただ欲望を満たすためのものしかない、つまり石油王もインチキ宗教家も同列だっのである。
世界はまさにどろどろした石油という富に金にのみこまれているのだ。
そういう自分も石油がとれる国がいいと投資したのも同じじゃないかとなる
いづれにしろ人間はこの世の世界と実業の世界に生きているのだから逃れることはできないのである
石油なしで生活できるのか?電気なしで生活できるのか?とか常に言われるがそれは金なくして生活できるのかという問いとも同じである。
宗教がまたなぜこれほど偽善的になるのか?それはあまりにも現実の世界とかけはなれているからである。キリストやシャカの教えを実行することとはかけはなれているからそうなる、現実はどろどろした石油のように最後はその欲望が地下から噴出してくる。
どろどろした石油の欲望にのみこまれてしまうのが現実である。

インターネット時代になると過去の映画も見れるしいろいろい紹介されて批評される
インターネット時代は批評の時代である。
こんな映画があったのかとその種類にも驚くし本でもそうである。それをアマゾンでボタン一つ押せば手に入れることができる
これは便利である。だから今は仙台に行って本を買う必要もないから一年もまた行っていないけど不便を感じないのである。
そして他人が批評したものを読んでDVDを買ったりする、「心の青雲」の著者は映画批評していてこんな映画があったのかと
結構買っている。映画批評家にもなれる人である。
いろんな批評がインターネットでしやすいからそうなる、20世紀はまた映画の時代だった
ただ映画もテレビと同じで何か読み解くことが結構むずかしい
それでも厚い小説を読むより楽だから見るのである。外国の映画は何か日本のより深いテーマを追及している
今回は宗教ということで関心をもったのである。




タグ:石油と宗教

2016年02月16日

朝日新聞の創価学会対共産党の大研究の批評 (マスコミも常にネットから批判される対象に)


朝日新聞の創価学会対共産党の大研究の批評

(マスコミも常にネットから批判される対象に)

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●社会に必要だから創価も共産もある


創価と共産党は似た体質なのだろう。支持者も競合するから争うことにもなる。
名古屋の市営住宅では底辺層が住み創価か共産党とのどっちかにみんな所属している。
それはビラが貼られているのでわかる。
底辺層はどっちかに所属する、要するに底辺層はともかく頼るべきものがないからそれがなんであれ頼れるもきなら頼るとなる、つまり何らか需要があればそれに応じるものができる、それがこの世に存在するのは必要悪としであり支持されるしなくすことはできない暴力団でも必要悪としてありなくすことができない、パチンコであれギャンブルでもそうである。
そして富裕層はエスタブリッシュメント(支配層)はこの世で得するようにできている。
労せずして地位を得て収入も高いとなる。それで公務員が批判されるのである。
それは地方ではコネが多いというときそうである。
支配層は人間的にもつながりがありコネをもち得する仕組みができあがっている
それが一番如実に現れているのは就職のとき就職にも保証人が必要でありその保証人が社会の有力者だったら採用されるとなる。


ところがそうしたコネのないものは就職する最初の段階ではねられることになる
マスコミ関係でもたいがいアナウンサーとかは何らか有力者の推薦でなっているのが多い一方で創価でも民音とか通じて芸能界を支配して宣伝に利用する
それもコネでありネットワークを作りマスコミを支配する、それは別に自民党でもテレビでの報道をさせなくなるとか大臣が言っていたからみんな同じである。
権力でもって大衆を操作する、マスコミは影響力が大きいから特にそうなる
宣伝費で収入を得ないとそもそも報道すらできない、テレビとか新聞とか雑誌とかはそうなる、するとどうしても宣伝費を出すものに報道も従うことになる
一番宣伝費を出しているのは大会社であり東電とかでありそれは組合もありその額は大きかった。すると原発などでも反対はできない仕組みができあがっていた。
東電では天下り先として検察とか官僚や政治家も取り込んでいるからもう何も反対できない、朝日新聞まで中国で東電に接待されていたとき原発事故が起きたのである。


この朝日新聞の記事で創価が中卒などで地方から流入した人たちが一つのコミニュティとして創価が生れたというのはあるけどもそれは敗戦になって日本が精神的支柱を失ったことにあった。天皇を神として敗れた結果精神的支柱を失い、民主主義になり思想が自由になり解禁されてそうしたカルト宗教団体であれ左翼系も堂々と活動できることになったからである。
ただ創価の基を作ったのは団塊の世代の上の親の世代である。竹入とか矢野とかの議員の世代である。団塊の世代になったときはすでに会員数は限界になるほど増えていたのである。
創価の手法が座談会とかなにか庶民的であり隣組的なコミニュティ感覚があったのは確かに戦後そうしたコミニュティが崩壊してせいもある。だから団地とかでもそこには戦前とかの社会とは違う、核家族集団でありそこでは精神的不安定となりそこに座談会とかコミニュティ感覚の組織化で会員を増やしたということはある。
それは田舎では死者で葬儀や供養で檀家を中心にコミニュティが作られていたとにている宗教とはコミニュティを作る機能としてあった。

●底辺層が権力集団化して社会に影響する

創価とはともかく底辺層を支持基盤としてきた。そこには信仰の求道心はゼロである。
底辺層とか庶民の感覚はそういうこととは関係ない、ご利益を得ればいい、何かもらえればいい、何か困ったことがあれば助けてくれればいい、得したいということしかない、
それを無下に否定はできない、なぜなら頼るべきないからそうなる
ちょうど借金したくてもできない、借りるところがなければ消費者金融から借りる他ないと名と同じである。
そういう底辺層は一万二万とか貸し借りしたらまた消費者金融から借りて苦しんでいて頼ってくる。すると創価でも共産党でも弁護士をかかえているから相談にのるとなり会員になる、そうして支持者を確保してゆく、要するに誰も相談にのってくれないということがそういう団体に頼るということになる
そこに社会の矛盾がなりなぜそういう団体がなくならないのか?それは社会の歪みがあるからである。
頼るべきものがない、コネがないということは権力を持たないということである。


するとそういう底辺層はなんとかして権力をもちたいとなる、するとそういう底辺層が集団化するときそれが宗教であれマルクスの思想であれ何であれそんなこと底辺層にば関係ないことである。一つの巨大な権力集団と化して社会を動かすことになる
だから創価では政治であれ司法であれ皇室まで会員をスバイのように入りこませて権力を手中にしようと日夜活動することになる、権力への野望のために活動するのが日課である選挙は最大の権力を得るための活動だから日々選挙のために活動しているのが創価であるそれが一番権力に結びつくからである。
政治家でもそこに何百万の票があれば注目するし利用しようとする、また企業でも何百万という会員が得れば商売になるとみる、それで池田大作と松下幸之助が会談したというのは松下幸之助は電気製品を売れるということでそうしたのである。
その団体はすでに社会にそれだけの会員を有していることで影響力をもつことになる
マスコミ関係でも毎日新聞でも福島民報でも聖教新聞を刷らせていて支配する
日々の活動がそうして権力を掌握することに向けられている
正本堂を建てたとき大成建設が請け負ったのだがその時大成建設の社員が選挙のときかりだされたというのもそうであるしメガバンクに兆の金が貯金しているとなると今度は創価大学の就職させろとなりその枠がもうけられる、それは支配層がコネをもって就職できるのと同じである。もしそうして底辺層の団体が権力をもてば逆にそういう団体に入れば得だとなり会員を増やすことになる


●マスコミも権力に操作される(日本テレビもそうだった)

いづれにしろこの世の中は権力でみんな操作されている、何するにも背後に巨大な権力がありその意向で決まる、原発事故もそのために起きたのである。


日本テレビは6月1日、200人以上の社員を擁する報道局のトップに 創価学会員の石井修平氏(53)を 
抜擢する人事を発令した。 石井氏は昭和44年入社、政治部記者からニュース編集部長などを歴任。 
3年前に報道部長に昇格 

2008年10月5日 ? ついに、テレビCMは”ご法度”とされてきた宗教CMにも手を出すようになったという。 
先陣を切ったのが日本テレビ。まだ、僕は見たことがないが、創価学会のCMを流すことになったというのだ。 
ある関係者。 「もちろん最初から露骨なCMは… 


日本テレビから一時コンタクトがあったがあとであわてて解消したことでもわかる
創価を批判するものは社会から抹殺されるようになっている
それだけの権力をすでにもっているのである。それは原発の安全神話でもそうだった。
それは政府から東電からマスコミからすべてが一体となり安全神話が作られていたのである。それにはもう誰も反対できないものとなっていた。
日本テレビを経営しているのは読売新聞でありその社長が、プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力発電の父と言われた正力松太郎だったのである。
その構造は天皇を中心として戦争になったと同じだった。そこでもには負けないという神話が作られていたからである。日本は神国であり負けないという神話が作られてそれに反対は誰もできなかったのでありそうして300万人が死んだのである。

報道というのはマスコミになると必ずかたよっているのである。
テレビは一方的だから洗脳メデアになる、何か反論ができない、ただインターネットで多少反論できるうよになったからこうして自分も書いているのである。
テレビで小高の人の言い分を一方的に報道していた、国民年金しかもらえない人がと多いから補償金を持続して払ってもらいたいということを主張していた。
そうなら南相馬市民だって国民年金しかもらえない人が多いのである。
なぜまた小高だけがそんなことを主張できるのかとなる、せめて小高の人に反発する人もいるんですが、、、とか一言でも反論を加えると公平になるがテレビは一方的になるのである。
マスコミもこれから絶えず批判にさらされる時代である。あらゆるものが批判にさらされるというのがインターネット時代というのもそうである。
マスコミでもすべてに通じることはできない、創価に関してはやはり経験者が一番通じているからである。自分は実際に経験したから内部を知っているから書けるのである。
そういうことは他にもある、その当事者が一番知っているのである。
マスコミだけがしきる時代は終わったのである。

創価も天皇のような池田大作が死ねば死んでいるのか分裂しかねない、でも宗教に呪縛されているからなかなか簡単には解体しないだろう。やめると地獄に落ちるとか恐れているひいる人が多いからである。それも会員を保つには有効な手段だから創価は会員が急激に減らない、一方図のように共産党の票は一時急激に減っているのである。
共産党には宗教のしばりがないから増えたり減ったりする度合いが強い、支持するのも党員でないものがその時の情勢によって投票するからそうなる
創価は一定しているのは会員意外からの票がとりにくいからである。でも指示しているのはカルト宗教だからそれがまちがっていてもその数がそんなに変動しないのである。
ただ池田大作が死にカルト宗教の呪縛かなくなと一気に下落してゆく、その兆候はすでにみられるし衰退するだけになっているのが現状である。
タグ:創価と共産

2016年01月20日

知らなかった過去の事件 (イスラム国とにていたテロリスト集団のアメリカの金持ち誘拐事件)


知らなかった過去の事件


(イスラム国とにていたテロリスト集団のアメリカの金持ち誘拐事件)

1974年

彼らはパトリシアの身柄を解放する代わりに、「カリフォルニア州の貧民6万人にそれぞれ70ドル分の食料を与える」ことを要求した。
同年4月15日、SLAのメンバーはサンフランシスコ北部にあるハイバーニア銀行サンセット支店を襲撃。この際、銀行の防犯カメラに誘拐されたはずのパトリシアが犯人グループと共にライフル銃を持って強盗を行っている様子が写る。この映像はマスコミを通じて広く報道され、全米は騒然となる。
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テレビで今日この事件のことを解説していた。こんな事件があったのかと驚く
それもずいぶん古いから40年前にもなると本当にそんなことがあったのかとなる
老人になるといろいろ過去を振り返ることが日課のようになる。
ところが過去といっても個人的体験と社会的に起きたことは別である。
また当時のメデアでもその頃まだ外国のことがそれほど報道されなかったかもしれない、四〇年前なると当時がどんな時代だったのかわからなくなる
アメリカで起きたことだから余計にわからないのである。


その頃SLAという過激派集団がいた。その人たちは貧乏人の味方であり金持ちに反発して金持ちを襲う事件を起こしていた。資本主義に反対する共産主義的集団だともなる
テロリストは身代金を要求して食料を貧民に配れとして本当に配った。
その時アメリカにそんなに貧民がいたのかとなる、つまり食料に困っている貧民が相当数いたとなる。その貧民は暴徒化して店を襲っていたのである。
アメリカはみんな金持ちの国だと思っているけどその時もそんなに貧民がいた。
たからこそそうしたテロリスト集団が生れる、格差が大きい所ではそういうテロリスト集団が生れやすい、それを今問題になっているイスラム国とにている
イスラム国はアメリカとかヨーロッパの外部に生れたものだけど人質をとって政府に巨額の金を払わせる、イスラム国がテロリスト集団なのである。


そしてその手法がSLAとにていた。恐怖でもって洗脳していたのである。現実にイスラム国でもイギリス人とか他のヨーロッパ人やアメリカ人もいたことが問題になった。
それはやはり洗脳されていたのである。
そのやり方は恐怖を植えつけて巧妙に洗脳していた。
恐怖というときイスラム国も同じである。あれほどの恐怖を植えつけられたらもう逃げられないとなり従うほかないとなるだろう。
それはカルト教団とにているのだ。カルト教団も恐怖でもって洗脳する
宗教だと罰が当たるとか洗脳して恐怖させてやめさせないようにする
罰が当たるということを恐怖している人が相当にいる、創価などは社会に容認されたカルト教団であり今の政権と一体化しているから批判できない
政治に宗教をもってくるとこれはイスラム国でも同じだが危険なものとなる

つまりイスラム教でもイスラム国はカルトなのである。キリスト教でもカルトがあったし仏教でもカルトがある。カルトとは宗教を利用した洗脳集団である。
社会には不満をいだいている人が常にありそういう人たちで集団化して時の政権をおびやかす存在になる、もちろん時の政権と一体化することもある。
創価とか統一教会はそうだろう。現代はそもそもカルトの時代である。
もちろんカルトというときそれはナチスからはじまっていたのかもしれない
天皇教も一つのカルトだったかもしれない、だからカルトと本来の宗教は区別すべきなのである。

ともかくSLAとイスラム国がにているのは貧民が大量にいてその不満がアメリカの大金持ちに向けられたのである。そうした格差社会がSLAやイスラム国が生れる温床なのである
なぜ中東があのように混乱して悲惨になっているのか?
その原因が例えばサウジでも王族が石油の富を独占しているとか貧富の差が大きい
アメリカも貧富の差が大きい、そういう所ではどうしても社会が不安定であり争いが生れやすい
貧富の差が大きいということは社会不安をもたらす、実際にこの事件では貧民は喜んでいたというのでもわかる。金持ちはそういう大きな格差社会では危険が増大する。
日本がそういう社会になっているというとき同じような事件が生れかもしれない
ただ日本の場合は大金持ちは少ない目立たないから標的にはなりにくいだろう。
公務員を標的にしても大金持ちではないからである。


そもそも宗教というのもあまりに偽善的だから反発される、釈迦とかキリストのように家もない何もない生活していた、それとは正反対なのが宗教を説くものになっているから矛盾しているのである。
自分でも株でもうけようとしているとなると矛盾なのである。
この世ではどうしてもそうした不満層、貧民とか頼るべきものがない層が生れる
その人たちはどうしたって時の政権に対して対抗するようになる
この社会はそういう支配者がいて上級国民だとして不満が社会に鬱積する
それがやがて怖いのが爆発するのがテロなのである。
そういう不満が解決しない限りテロ集団が生れてくる。


つまりこういう事件は人間の歴史がはじまって以来常にあった、なぜなら貧富の問題は人類は解決していないからである。
ますます資本主義ではグローバルに格差問題が起きているのでイスラム国が台頭してきたのである。世界的格差が戦争にもなるのが現代である。
格差は共産主義でも解決できなかった。だからこれは人類の普遍的テーマであり人類的課題なのである。
この事件をふりかえる人間はやはり同じようなことをくりかえしてきたのだと思う。
歴史は繰り返すというとき人間の根本問題として貧富の差が以前として解消されないから同じ事件が繰り返されているのである。
だから格差を解消できない資本主義は危機にさらされているともなる
ただ今の資本主義はまた違っている、格差を生むのは機械化とかその他の要因もあり資本家と労働者という単純な色分けはもう今ではできないだろう。
大企業に入っているならその人たちは資本家と同じだともなる
どうして格差が生れ格差が解消できないのか?


とにかくこういう事件があったということは歴史であり人間は同じようなことを繰り返してきたのだと思う。
アメリカで起きたことだがまさにその貧富の差がグローバル化してイスラム国など中東に起きてきたともなる
サウジなどでも王族が石油の富を独占してもそれを貧民層に分けることをしているうちはいいがそれができなくなる、昨今の石油安になるとそれができなくなり危険をましてくるもしかしたら石油の富というのも意外ともろいものだったのか?
自分はカナダとか石油がとれるからいいとか投資したのが裏目にでた。
オイルマネーというけど石油が富でもなかったのか?
今の事件だけではない、過去の事件にも注目する必要があることは確かである。








タグ:テロリスト

2016年01月10日

『百年の計、我にあり〜知られざる明治産業維新リーダー伝〜』 (別子銅山の改革に邁進した明治の偉人がいま蘇る! を見て)


『百年の計、我にあり〜知られざる明治産業維新リーダー伝〜』

(別子銅山の改革に邁進した明治の偉人がいま蘇る! を見て)

広瀬宰平と伊庭貞剛。2人は一企業のみならず、国家百年の計を見据えた改革を次々と実現、それは明治日本の産業維新とも言えるものであった--。


このドラマで広瀬が主張したのは一企業のためではない、国家のためにということがモチベーションとなっていた。
それは明治はみんなそうだった。異常なほどに国家を意識せざるをえない時代だった。
政治のみならずあらゆのる分野で国家を意識して国家をになって生きていた。
エリートは特にそういう責任感をもっていた。だから留学した人たちもそうであり英語ができなくて自殺した人もいたというときそれは国家によって派遣されていて国家意識が強いからそうなった。
明治はなににしろ国家を意識せざるをえない時代だったのである。
内村鑑三が二つのJのためにというときJAPAMが入っていたのである。この時も愛国心が大きなモチベーションになっていた。
国家が意識されるから愛国心ももっている。それは一企業でも国をになっているという意識がありみんなそうだった。まず国家の一員でありそのあとに付属していろいろなものがあった。国家が最優先であり結果として天皇が重きを成したともなる
それは明治だけではない日本は大正から太平洋戦争の敗北まで国家が最優先である社会だったのである。


産業でも絹織物が輸出産業となり全国で生糸の生産が農家で行われていた。
養蚕は農業でもあるから日本の主要産業となった。今でもいたるところに兜屋根とか二階で養蚕をした家が残っているのはそのためである。
そして戦争に負けた結果、今ではその絹織物産業で働かせられたのは国家のためでありそれは戦争のために武器を輸入するためだったとか批判されている。
絹織物産業も国家の指導のもとに行われていたのである。
その是非はともかく企業でもそもそも明治から国家なくしてはありえなかったのである。自分の母親も原町紡績で十年間働いていた。原紡としてこの辺では有名だった。その工場の門に引き込み線の写真があり鉄道で運ばれていた、原町駅は平駅と同じく機関区になっていて木材とか石とか物資が東京に運ばれていて栄えた。それは全国でそうなっていたのである。

そこで興味深かったのはフランスの技術者を呼んでいたのだがその人には設計図だけを作らせて広瀬宰平は日本で自力で作るべきだとフランスの技術を呼ばずになしとげる。そして鉱山技術を学ばせるために塩野門之助(浅利陽介)を留学生として派遣した
あとで外国の石炭を輸入すべきだというときも日本の自力で行うべきだと反対してさせなかった。それで塩野はやめたのである。
これも当時は国家を意識して日本人だけでやりとげるのだという自立心は結局明治維新を成し遂げた独立心に通じていたのである。
日本人はそれだけ西欧列強に対しても軍事面だけではない独立心をもっていた
だから明治は常に偉大な時代であり偉人の時代だったと言われるのである。
今になると敗戦の結果、国家意識は常に否定されてきた。国家という言葉さえタブーになってしまった。国家というだけで嫌悪を感じる人が多いのである。
そこに左翼系がさらに国家を忌むものとして国旗まで否定するようになった。


その変化があまりにも敗戦の結果極端なものとしてあり日本には国家はない、国家がないというときとても大きな責任感も生れない、百年の計というのも生れようがない
国家の歴史は二千年とか長いのだから百年の計がありうる、でも戦後は国家がアメリカによって否定され従属国家、植民地国家になったとき日本人は国家意識もなくなりただ目前の利を追うだけの民主主義ー民利主義になった。
国家百年の計に犠牲になるようなことは否定される
教育でも個々人の立身出世主義しかない、受験戦争は上の階級につき官僚になればただ得して楽な生活をするということしか教育にもない、他者を蹴落としてでもそうなれというのが戦後の教育だったのである。
要するに戦後は戦前からの歴史継続が断絶してしまったのである。
だから今や日本人とはなにかとなると日本人はいないアメリカ人になったともさえなる
日本人であるならやはり日本には長い歴史がありその歴史に育まれたものがあり文化がありそれに基づいて形成されるのが日本人だとなるからである。
だから盛んに無国籍人だとかが恰好いいとかなる、ハロウィンなども明らかに日本から祭りすら消失しているから新しい祭りを求めて若者が大騒ぎしているのである。
あらゆる面で国家を意識していた時代からあらゆる面で国家が否定されてきたのが戦後なのである。
ナショナリズムはファシズムと同義にもなっていたのである。


奇妙なのだけど国家意識がなくなり愛郷心もなくなった、その一つの原因が愛郷心も田舎で独立していた生活をしていたとき愛郷心もあった。
自給自足の生活していたとき、炭焼きをして都会の人に頼らずに生活していたとき田舎の人にもと独立心があり俺たちは別に都会の人に頼らずに自分達だけで生活できるという独立心と自負があった。
今は限界集落とかなるとインフラのために180倍の金がかかるとかそれは税金の無駄だと都会の人に言われる、もし炭が燃料だったらそんなことは言われないのである。
自分の家が故郷の木材を利用して建てたというとき故郷に土着するということで愛郷心が生れる、愛国心と愛郷心は何か共通したものがある。
広瀬宰平が盛んに日本は日本にあるもので外国に頼らないで資源でも技術でもなしとげるという自負が愛国心に通じていた。そしてそれあ成し遂げたのである。
そこには公害問題が生じたから今と同じ状況が生れたがこれも煙害を防ぎ補償金だけですまそうとしなかったのである。


これを今の原発と比べるとその相違が明確になる。原発も実は国家の事業であり一企業の東電の事業ではない、これは住友ではない一企業ではない国家の事業としてはじまったのである。国家の事業となれば百年の計のもとに成せねばならないものだった。
でももし百年の計となれば原発というのは放射性物質の処理を考えねばならないがそれも考えないから百年の計だったら原発を日本に作ることは危険だった。
そもそも日本の原発はアメリカ主導で成されたものであり別子銅山のように国家が自力で独立心が愛国心があって成したものでもない
アメリカの主導で成されたのが別子銅山とは根本的に違っていた。
別子銅山には国の援助はなかった。原発は国が予算をだして作ったのだから国家事業でありそうだったらこれこそ百年の計がなければ作れないものだったのである。
だから明治人と戦前の日本人はそもそも人間そのものがあらゆる分野で別人になっていたのである。
企業でもそうである。まずグローバル社会になれば国家を意識する、国家がない方がいいのである。それはアメリカでもそうなっている。だから世界を支配しているのはアメリカという国家ではなくロックフェラーやロスチャイルドとか武器を作る軍需産業会社だとか言われる、グローバル社会では大企業が国家であり大企業が世界を支配する
国家は大企業に従属したものとなる、会社の利益がすべてだとなる。
そしてその会社の利益にあづかるのがその幹部達でありその人たちこそ世界の富をにぎり世界を支配する人たちだとなる。
東電でも実質の富を産み出すのは東電でありそこに政治家や検察や警察の官僚が天下りしていたのだから東電を批判できなかったし今でもそうである。


ともかく戦後70年そして明治維新からすでに140年とかなるとあらゆるものを見直す時代になった。根本となる国家というのもそうである。国家というのがあちらゆる面で戦後否定されてきたのである。それは左翼により過剰に否定されてきたのである。
そのことからすでに日本にはモラルもなにもない、ただ個々人の利益の追及しかない、
自分が得する自分がもうけるためには他者を蹴落としてもいいしかない弱肉強食の社会になった。そこに日本人の義理人情もなにもなくなってしまった。
自分が弱者になったときのことを書いてきたが何の同情もない
ただ弱者になったことをいいことに攻められるだけだったから地獄だった
相手もまた金で追い詰められていた弱者だからそうなった。
日本人のモラルもなく世界が金を求めるだけしかなくなったのである。
それを否定しようにもそういう資本主義であれシステムの中に組み入れられているから否定できないのである。
別子銅山の一企業でも国家を意識して経営していた。そのためには日本の資源で日本の技術で独立心で成し遂げるという意気込みがあったからこそできた。
経済的自立、技術的自立の精神があって愛国心もあり愛郷心もあったがグローバル経済はそれを破壊したのだからそれは日本だけの問題ではないとなる。
その結果としてなぜこの辺で原発事故で住民が離散して帰らないのかという問題とも通じている。


そもそも自給自足の生活からはあまりにも離れてしまった。あらゆるものが家でも建て売りでは材料でも大工さんも地元の人でない、会社の社員が組み立てるのてあり地元の人が地元の材料で建てているのではない、それは食料でも今ではそうである。
あらゆるものが全国から外国から常時は入ってくる、だから金さえあればどこに住もうが困らないとなる。自給自足の生活だったら地元のもので何でもまかなわなけれはならないから愛郷心を自ずともつようにな。
それがないからみんな散り散りばらばらになった、故郷と言っても愛郷心が育まれような社会になっていなかった。それは国家でも同じであり愛国心はかえって戦争を奨励するものとして否定されてきたのである。
いづれにし国家百年の計などありえないというときそもそも国家意識が喪失しているのだからそうなる
国家とは地域のエゴとか個々人のエゴとかを越えた大きなものとしてあるそれが公共の概念である。それが喪失したとき社会自体がばらばらに分離離散して崩壊する
ただ弱肉強食の社会でありそれはまさにモラルもなにもない動物的社会に堕落してしまうそれはまさに地獄ではなかろうか?
確かに国家が戦争で何百万人が犠牲になった地獄を作り出したがまた逆に国家無き社会も地獄を作り出す、つまり国家を愛国心が愛郷心がない社会はまさにそうなってしまうことを原発事故でも今の社会がそれを示しているのである。



タグ:別子銅山

2015年09月21日

インターネットで変わった本の読み方 (私設の図書館くらいの本が知的作業には必要)


インターネットで変わった本の読み方

(すぐに注文して買える本ー全部読むのではなく一部を読む)


本は高いものだから前は買いなかったしまずインターネットでわかったことはこんなにいろいろな本があるのかということである。
古本も全国だとあるしもうあらゆる本がある。それが全国的になると安く買える
このことで知識が増大して知の効率が飛躍的に増した。
田舎だとまず本自体がないし買うこともできなかった。
仙台まず行っていたのは仙台でないと本が買えないし専門書は買えない
これは今になるとかなり不便なことだった。
だから知的に相当田舎では不利であった。
それがインターネットで田舎でも発信できるし本はいくらでも買える
それでまた本は半分捨てたがまたその半分の量をインターネットで重にアマゾンで買っているのである。

本をどう利用するかは本というのはある一定の蔵書が必要なのである。
それが読まないにしろ必ず必要なものなのである。
本はいわば自宅で図書館のように備えて置くことが必ず必要である。
だから作家とか学者でも自宅が小さな図書館となっていない限り研究もなにもできないのである。
それは小説などを書くにしても膨大な資料が必要になってくるからである。
つまり何か書くとき必ず本は必要になる、今ではインターネットがその一部の役割を果たしている。
でも内容が濃いものとなると本になる。だから今は自分で文章とか書くとき必ずそれと関連する本を買っているからまた本が増えてきた。
そして本の読み方は今はまずさーと全体を見渡して自分にとって必要な部分を引用して使う。
厚い本でも全部は読まない、二三行でもそこを自分の文脈の中で使うのである。
その二三行が文章に重みを加えるのである。

だから何か今はいろいろなものを組み合わせるとそれが一つの創作的文章にもなる。
抽象画で変化させたようになる、例えば一つのテーマで今「人間の顔」ということで文章を書こうとするときそれに関するものを本を集める。
でもなかなかどこにそうした文があるかは見つけにくい、でもいろいろな今まで集めた本をぱらぱらとなんとなく読んでいると見つかったりする。
このなんとなく本を読んでいる、拾い読みしているのが意外と大事なのである。
つれづれなるままに......というのが何か知的作業だったのは昔から変わらなかった。
つれづれなるままに読んでいたらそれが心に残り自分なりの文章に文脈に取り入れられるのである。
こういうことができたのは有名な作家とか研究者とかであり普通はできない
なぜなら本は前は高価でありまた買うこともできなかったからだ。
本は膨大な数があってもどういう本があるのかどうかもわからなかったのである。
それでいつもベストセラーなどが話題になり何百万も売れていたというのはそれだけ本は流通しにくいからでてある。
本はその人なりに読む本が無数にあった。でも本は流通しにくいからそうした目立ったものが地方の小さな書店に置いて売れることによって商売が成り立っていたのである。
そんな本は実際は何の価値もない紙屑になる本だったのである。
それでも売れたから地方の書店では商売が成り立っていたとなる

ともかく人間の生きる時間は限られている。だからとてもあらゆる本は読めない
もう年取ると余計に読む気力もなくなる。今読むのはそういう読み方ではない
全体に目を通して自分に役立つものを素早く抜粋して利用する読み方である。
本というのは全体に目を通すのに優れている
インターネットでは全体がわからない、部分に細分化されすぎているのである。
一ページを読むというのが多いのである。
本は厚い本でも全体に目を通して要約して読むということもできる
電子本でもそういうことはできないから本の効用は今でもあった。
だから本はなくならないが書店はなくなる、特に地方の書店はなくなる。
それでも本はインターネットでいくらでも買えるのだから困らないのである。

その人の知識というのもその人が人生の時間で蓄積したものである。
知識でもそうだがそれはその人の体験とかそれぞれの地域に住んでいて知識化している。それは長い時間の中で知識化しているのである。
だからマヤ文明というときもそれは長い時間のなかで一つの知的コスモスを総合的に作りだしたのである。一つの芸術ではない、総合的共同体の知的体系なのである。
そういう作業を地域地域で人間はしている、だから地域地域に世界でも日本でも文化が生まれた。
知的体系の構築というとき芸術はその中に組み入れられたものである。
自分でも一つの詩ではなくそれは知的体系として構築されたものの中にある
その時一つの詩とか一つの絵ではなく全体の一部としてそれは構築されている。
そもそも絵のはじまりが建築物に飾るものとして生まれた。
建築に映えるように絵が生まれたのであり絵として独立していなかったのである。
そういう総合的なものとして芸術はあった。


地域とはそうした総合的な場としてある、一つの物を車だけを車の部品工場のようになるものとは違う。それは地域の風土から生まれる。
どうしても会津だったらあれだけの高い山があるのだから山の文化が生まれる。
太平洋に面した海側は海の文化が生まれのは当然だとなる。
これまではマスメデア中心の情報や知によって支配されてきた。
本でもベストセラーとか何か中央で宣伝されるものによって知識が支配されてきたのである。
地方から発信しにくいシステムだった。
今はインターネットだと発信することは本当に簡単である。誰でも内容は別にしてプログだったら簡単にできる。
簡単すぎるからなにか軽薄なものも多いし情報過多になっている。
現代はともかち知的にも何か孤立しないようにシステム化されてきた
だから一方でその地域の風土というのは地域の個性を産むものだから新しい知の創造は地方から生まれる。
限界集落とか今回の原発事故とかそういう地域の消失と破壊は文化を衰退させた
多様性が失われ東京のような中央集権の文化もない索漠として世界になる

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この本は共同体の美というテーマであった。
美の形式が共同体では確立していた
エジプト文明でもそうでありマヤ文明でもそうである
中世のキリスト教文明でもそうであり
国々によって様式がありそれは総合的知的体系化したの文明である
現代のグローバリズムはそういう文化を創造しない
グローバリズムは文化を破壊する、その土地の風土とかを無視するからである。
一つの貨幣、ドルによって統一される、そうなるとアメリカの価値観が普遍化するのである。
科学技術もまた巨大化して地方の文化を根こそぎ破壊する
それがこの辺では原発事故で現実化した見本だったのである。

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2015年08月04日

インターネットはindividualなメデア (成熟には時間がかかるが真の民主主義の発展になる?)


インターネットはindividualなメデア


(成熟には時間がかかるが真の民主主義の発展になる?)


インターネットメデアはまだ成熟していない、それはあまりにもマスメデアと違っているためである。だから成熟するためには相当な時間がかかる。
おそらく民主主義の発展にとってインターネットのメデアは発展させる
マスメデアは一方的洗脳メデアでありテレビ局の意向によって操作されるメデアである。テレビに出させて自由に発言させてくれといってもできない
本来メデアとは媒介するものの意味だからその媒介するものが力をもってはならないものである。
だからそもそもインターネットはレンタルサーバーなどやプログにしてもその発言するものにノータッチなのも関わらないのも不思議なのである。
そういうことを今まで人間は経験したことがないからである。
何か発言するにしても一個人が自由には発言はできない、それは本だってそうである。
本の出版はハードルが相当に高い、ただ今や本自体は簡単に作れる。
ただ流通することがむずかしい、それは組織とか団体に所属していないとなかなかできない
一見テレビなどでも自由に個人が発言しているようでもたいがいは後ろに組織が団体があり発言している。そういう後ろ楯をもたないものは発言できない
マスメデアはそうした組織や団体の圧力がありるから真実は報道できない
インターネットだと発言することがあまりにも容易なのである。
手間はかかるが費用は全くかからない、でもマスメデアのように百万人とかに見られることはない、ということはマスメデアというのは放送で権力をもったということがわかる
それだけの人が見ていることはなんであれ影響が大きいということである。


それはテレビが一方的洗脳メデアなのと違っているから 今までのメデアと違うのであるテレビに出て意見を言える人は極限られている、それはあくまでもメデアでテレビ局で選びテレビ局の主張にそったものとして人選しているのである。
だから過激なことや大きな組織を批判できないようになっている
そしてインターネットの面白い点はその個人がどういう人でその人自身の意見を言っていることである。
特にプログ時代になるとその傾向が強くなったのである。
テレビ局でクローズアップするのではなく個人が意見を言うからそのその個人の背景などをみる。
テレビだったらその背景にはテレビ局しかないのである。
それでもインターネットで目立つことは相当な努力が必要だしむずかしい
重要なことを書いても目立たないし広まらないということがある
インターネットというメデアはまだ成熟していない
成熟すれば真の民主主義の発展につながるメデアである。
要するにテレビとか新聞とかマスメデアとインターネットのメデアの差が大きすぎる
つまり個人ではパーソナルメデアとマス(大衆)メデアでは差がありすぎるのである。
欧米では英語ではその考え方の基本に良く


individual

【形容詞】
1(φ比較)[限定][しばしば each ?] 個々の, 個別的な;単一[単独]の;個物[個体]の(⇔ general);(模様などの)それぞれ異なった;別々の(【略】 indiv., individ.).
2(φ比較)[通例限定] 個人の, 個人的な;1人用[だけ]の.
3[通例限定]〈好みなどが〉独特の, 特有の, 個性的な.
4(φ比較)〔心理〕個人の[に属する].
5(φ比較)〔哲学・論理〕個体の.
6((廃))分離できない, 不可分の.
【名詞】
1(集団・社会に対する)個人;(独立した)個体;構成員;〔生物〕個体;〔哲学・論理〕個体(particular)《他の事物とは比較できない唯一性をもつもの》.
2変った人[動物];((英略式))[形容詞を伴って] …の人《◆もったいぶった古くさい表現》.


Such matters can be best judged by the subjective view of the individual, namely sense of taste.

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ABCDEFとあるとき、BCDEFは他のものにもあるとしたらそれを分けて取り去って固有なものとしてのAが残る、それがindividualなもの分かれことができないものとなる
人間の文章でも作品でも他と同じものがある
これはただまねたものではないか?そのまねたものを取り去ってその人の固有なものは何かとなる。
それは科学的な発明でも言えるだろう。同じような研究成果があるからだ
その固有のものを発見すれば価値がある
どこがその人の固有なものなのか見分けるのかむずかしいのである。



このindividualとうい言葉は日本語にはない、その概念もないからだ。
インターネットはきわめてindividualなものである。
人間がindividualな存在とすることが極めて欧米的な概念であり在り方なのである。

日本では集団主義であり個人のアイでィンティティというのは希薄である。
だから日本とアメリカの働き方とか雇用の仕方が違ってる。
日本だとどこの会社に属しているとかが重要なステータスになる。
でも欧米では「あなたのプロフェショナルはなんですか」となる
その専門の職業のことであり何の会社に属しているかではないのである。
それはそもそも日本が村に所属していることがアイディンティティであったことも歴史的にあったからである。
思うに分かたるざるもの、分けることができないものという概念が理解できない
原子というのも分けることができないものとしてとらえられた。それ以上分けられない固有のものとして理解された。


日本でも分けるは分かるというのがあり我は割れるであり共通したものがあるが分けられないものとしてindividualがあるという概念はない
分けるとういう作業は日常的に行われていた。いろいろなものを分けて管理することは日常生活で常にしていることである。
ただ遊牧民だと分けるというとき羊とか動物を飼うとなると羊でも一頭一頭違っているしそこで個々の特徴を見つけて分ける作業をする
動物は猫でもそうだがみんな顔でも違っていることに気づく、それでその名前をつける
性格も違っているから人間とにているのだ。
飯館村の人が20頭もの牛に名前をつけていたのである。
避難先でその名前をまだ言って覚えていたのは驚きである。それは羊でも数が多くてそういうことがある。
農業だとそうした動物を見分けるということはあまりないだろう。
そういう文化の相違からそういう概念が発達した。


インターネットのメデアはindividualなメデアである。個々人を明確にするメデアであ
マスメデアには個々人はないその局や新聞社とかの意向が優先される、それはその背後の組織とか団体の意向を優先させることになる。
だからそこには独自なものがないとさえいえる。組織や集団を代表した発言しかないように思う。
インターネットのメデアは個々人を明確にする、だから何か個性的でないとかえってインターネットのメデアには向かない、他の人と同じことを言っているなとなると注目されない、独自の個性を出さないとインターネットでは通用しないともなる
ただそういう独自のものを出しているのはまだまだ非常に少ない
それでも何かこの人はこんなことを考えているのかとその人の独自な見解に注目するのである。


ともかく人間個々人は育った家族も違うし土地も違うし性格も違うからみんな違ったものなのである。その多様性があるからこそ文化が生まれる
日本ではindividualなものを育むのはむずかしい風土であり歴史だった。
だからインターネットメデアは何かめんどうでありとっつきにくいともなる。
でも通信としてのハードは整備されてきたからあとはそのハードの上に個々人がindividualなものを発信することになる。
individualなものを育む環境は整えられたとなる
ハードが整えられてもソフトととして文化として発達するには時間がかかる。
でも一人の学者が常時、音声で発言しているのも不思議である。
そうなると大学という場にいなくても家にいてその講義を聞くこともできる
インターネットがあれば広範囲な勉強も可能なのかとなる
発信することはあまりに簡単だからそうなったのである。

タグ:メデア論

2015年06月16日

情報過多時代にどう対処する? (NHKクローズアップ現代ー買い物は“おまかせ”スタイルで!? )


情報過多時代にどう対処する?

(NHKクローズアップ現代ー買い物は“おまかせ”スタイルで!? )



今やインターネットとかで買い物も情報化している。そして情報過多に悩んでいる。
情報が多すぎて自分でも選びきれないというのが問題になる。
それはインターネットでは常に起きている。
種類が多くて何でもあるとしても何を買っていいのかわからなくなる。
そもそも買い物だったら昔だったら隣近所の店であり次にスーバーとかイオンとか
買い物の種類が増えたきた。
だから自分も買い物が仕事になっている。様々なものがりそれを選びきれないしわからないものがまだまだある。
意外といいものを買うのはむずかしい。特に野菜とかは生ものはむずかしい。
それから調味料とか料理に使う細かいものもわかりにくいのである。

自分はもうインターネットでプログで発信するために情報にアツセスしたり本を読んだりするからもうそんなにいろいろなことを一人でできないのである。
もうスーパーマンになるほかない状態である。
家事だけでも実際に書類とかいろいろあるからそれだけでも頭に入れることが手間になるそれは自分だけではない他の人も情報が多すぎて仕事するにもどうしていいかパニックになっている人が多いだろう。
人間が情報を処理できるのは限界がある。つまりもう情報はとても消化しきれなくなっているのだ。
情報の性質として情報は天文学的無限大であり常に膨張しているしグローバル化するグローバルに膨張しているから一人の人間の頭では処理しきれないのである。
情報の性質としては

●一つの物事一つの場所の深化する情報
●広域化グローバル化する情報
●視覚化する情報

一つの物事とか一つの場所で深化してゆく情報は江戸時代とかがそうであった。
一つの藩内からほとんど出ることがないからその中での情報を知ればいいのであり外部の情報はそれほど知るなくても困ることがなかった。
人間もそうした狭い範囲で親密に暮らしていたのである。

今の情報は単に情報でなくても物でもグローバルに流通しているときその情報を広げれば無限大になる。とてもそんな能力は人間にはない。
そして現代の特徴はデジタルカメラなどで動画になり写真の情報も膨大になっている。
その視覚化された情報でもそこには写真からよみとるものが様々にありまたふえてくる
そして原始的な情報の取得は対面的なものである。そこには活字だけではない、声や身振りや表情という情報を伝えるからそれは一番心に残りやすい。
でもこの対面的なものはわずかに限られた人にしかできない
外国になるといくら交通が便利なになっても直接合うことはむずかしい。
直接合うことわずかであり限られているからどうしもその他のことで知ろうとする
医者でも直接みてもらうとなると病院で半日待っているとか手間がかかりすぎるのであるそれで医者が説明するのは二三分なのである。
それだけで何かわかるかというと一方的に聞いているだけで詳しく聞くこともできないのである。
でも直接医者に聞かないで自分で判断するとまた命取りになることを経験した。
ある人は癌になり医者にも行かずインターネットとかで情報を調べて漢方薬の医療とか民間医療のようなことをして悪化して死んだとかもある。
これも様々な情報にまどわされてそうなった。
要するに癌の情報も膨大になると情報の迷路に入ってしまっておかしなことになる。

学問でも例えば本を読む場合でも今や古本から無数の本を知るしアマゾンでボタン一つ手に入る。だから何か調べて書こうとするときやはり情報が多い方が詳しくなるから毎月古本とかなるべく安いものを十冊は買っている。
でもその本を一冊一冊詳しくは読まない、要点だけをさーっとよんで利用しているだけである。
何回も今でも読んでいるのは古典的なものである。
そういうものは何回読んでも新たな発見がありなるほどいいことを言っているなと感心するものが何度読んでもある。
一種の古酒のような味わいになるのかもしれない。
ただそうして何度も読む本と何か学術的に調べる本は違っている。
それはあることについて様々な視点で書かれたものを知る事がいいからその方面の本を集める。
しかし本は中味はなかなかわかりにくいので古本だと立ち読みのようなことはネット上でもできないのでこまる。

そして電子本は読みにくいことがわかった。自分のように要点だけを読もうとするパラパラとめくり全体の要旨を知ることができないのである。
どうしても一ページづつ読むから手間になるからできない
そして活字を本で読むのと電子文字で読むのも相当に違っている。
何か本の方が記憶に残りやすいのがなぜかわからない。
だから本というメデアは出版社とか書店がなくなってもなちならないのかもしれない
要するに本で読みたい人は残る。でも出版社とか書店で本を買うということはなくなる
アマゾンのような販売になるだろう。

いづれにしろこの情報過多の時代でまた時間が奪われるのも問題だろう。
ただ本にしても今ふりかえると情報がずいぶん少ない江戸時代のようだったともなる。
なぜなら本自体が田舎だ専門的なものはほとんどなくベストセラーのようなもの売れるものしか置いていなかった。
それで仙台の方に度々自分が行っていたのは本を買うためだった。
その仙台の大書店でも本の種類は膨大だったのである。
それがわかったのはアマゾンで本を買うようになってからである。
地方では本は極端に少ないし古本は神田の書店のようなところでしか買えない時代があった。
そういうことでも田舎にいても今でも情報格差はないのである。
何か調べる気だったら田舎でもできる。

今は金に糸目つけず買っているからかなり専門的な貴重な本も手に入るのである。
そうはいっても本も買い切れないし読みきれない
だから若い人は今までもそうだったが情報過多になりつまらないものを読んで時間を奪われることである。
何が必要な本でももはや自力では選ぶこともできないかもしれない
本の内容を若いときは簡単に読めこめないからである。
要するに本を読むということは自分の文脈で読むとういことである。
その文脈の中でインターネットの検索があり本がある。
本には確かに詳しい専門的な情報があってもそれは自分の文脈で利用する
それではじめて本を読んだとなるのである。
あとはただ受け身だと頭にも残らないしただ読まされているというだけになってしまう。そういうものはたいがい忘れて何も残らないである。
つまり本を読むことは自分なりに解釈することである。
そして本を読んだことを自分の文脈で解説すれば取り入れればそれが他人にも有益となるのである。
タグ:情報過多

2015年05月24日

インターネットの情報空間の特徴 (マスメデアから個の関心のメデアへ)


インターネットの情報空間の特徴

(マスメデアから個の関心のメデアへ)

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これは小島田から見たもの、鹿狼山(がろう)が見える
これは午後の写真である。


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人間の情報伝達は時代によって相当変わってきた。江戸時代までは直接人を通して口伝いなのが多かった。だから何か習う時、師を直接たずねて歩いた。
何かを知るのには教えてもらうのには直接人を通して知るほかないのである。
本とかあってもそれはわずかしか流通していない
だから知識とか情報の点では極限られたものしか得られなかった。
それで江戸時代に御伊勢参りが流行したが会津の農民がそこで農業の知識を直接旅して得た、種も買ってきたとか記録がある。
農業の知識でもそうして直接その場に行かなければ得られない時代だった。

それが急速に江戸時代になると変わってしまった。
新聞が生まれ新聞が権威あるものとなったり本も流通するようになった。
戦前から戦後十年はラジオの時代だった。
ラジオは過去のものになったけどラジオの影響は大きかったのである。
子供の頃ラジオを聞いていて・・・宝島で足音から恐怖をいだくイメージをした
ラジオというメデアは音に敏感になるのである。音から想像するから想像力は映像より醸成されることがあった。
映像として見えないから想像力が働くのである。
そしてラジオができた結果宣伝力が全国的に報道されることで拡大した。
それがナチスを産んだという分析も生まれた。
つまりその頃からラジオはテレビの役割を果たしていたのである。
ラジオさえそれだけの力をもつのだからテレビがどれだけ影響力をもったかわかる。

情報というとその場所がどういう場所かを伝えるだけで相当な情報量になる。
でもテレビ番組とか新聞でも何でもある場所についての情報は一部しか伝えられない
例えば地方については興味がなければ誰も関心ももたないし知らないのである。
一番関心をもっているのはそこに日々生活している人なのである。
そして地元のことでも地元のことを知らないということが普通にある。
最近近くの神社で「天明」の碑を発見したように知らないのである。
情報というのは今はデジタルカメラやスマホで映像中心になっている
これも大きな変化である。普通のカメラの時代は現像しなければならないから金もかかるしそんなにとれないからだ。
いくらとってもいいとなると今やデジダルカメラでもスマホでも写真で記録することになる。写真の日記が生まれた。
実際に人間は忘れやすいからデジタルカメラでとったものをふりかえると効果的である。こんな場面があったのかとか忘れていたのを思い出すのである。
それは一日の行動でもデジタルカメラで記録すると人間は忘れている
だから人間は記録することではパソコンや機械の方がはるかに優れている。
ただその記録したものち意味を与えるのは人間の方が優れている。
機械は記録してもそれが何を意味しているかなど関係なく記録しているだけである。

テレビとかで旅の記録を移す場合、編集しているからいい場面しか写さない
実際は百倍もの記録を映像としてとっている。その中に写されないものが多いから旅でも情報は省かれているから本当に知りたいことなどわからないのである。
例えば「夏の六号線」というのを先日プログに出した。

ここで小島田の所から「鹿狼山」が見える、これは新地にあるこの辺では一番高い山である。
でも地元の人もあそこから鹿狼山が見えるということに注目している人は少ない
まずあそこから「鹿狼山」が見えるというのが情報として伝えられることである。
それから山の陰に歩道に藤の花が咲いていたのである。
何か車が頻繁に往き来するから静かに垂れ咲く藤の花にはにわない感じだった
でも日影になり藤の花が歩道に咲いていたということで俳句にした。

6号線日影の歩道藤垂れぬ

藤の花が咲き6号線を車が走り鹿狼山が見えてそしてあそこまで津波が来ていたのである
一つの地点には空間にはそれだけの情報がある。
でもテレビとかで報道するときは時間も制限されているし面白くするために視聴率とるためにそうした何気ないものありふれた情報は省かれるのである。
だから営利的な情報発信には問題が生まれる、金になることはやるが注目されない金にならないことは伝えないとなるのである。
インターネットの場合は確かに読んでもらう人が多ければやりがいがある。
でも本質的には自分自身の関心から書いているのである。
そこがインターネット情報空間の今までのマスメデアとの相違である。
マスメデアは文字通りマス(大衆、集団)を相手にしたものであり個人的な関心とはまるで違ったものなのである。

personal innner issues
personal dairy issuse
personal interested issues

とかなる。第一あそこの地点に興味をもつ人は地元の人しかいない、自分は自転車でいつも通るからあそこに興味をもった。地元の人でも車の人はまたあそこからの景色に興味をもたないのである。
地元の人でも住む場所が違うと興味をもたないことがあるのだ。
ともかく情報というのはテレビだと一時間放映したとしてもその十倍の量の情報から取捨選択するのだから情報が不足するから必ず誤解が生まれているのだ。
細部が報道されないということがある。
真実の情報はその場を踏まないとわからないとなる。
それは写真でも動画でもそうである。その時の風とか気温とかそこで感じるのは五感でありそこに立たないと感じないものがあるからだ。
日影を感じるということもできないし距離感も感じられないだろう。

soler123.jpg


これも一つの例として写真をみてもらうと
ソーラーパネルがあり今年はこの辺では田んぼが増えた。
それから隣は以前として原野であり草原となっている。
この辺の状態がこの写真で象徴している。
でも外から伝えるときソーラーパネルを写すが回りのことは写さないとソーラーバネルだけが目立つことになる。
だから伝えるべき情報はなかなか外からは伝えられない、現場に立たないと真実が見えないのである。
そこに情報伝達に関しては誤解が常に生まれている、だからやらせが常にありそれで情報捜査される。
イラク戦争でも鳥が油まみれになっていたのを写していたがあれも嘘だったとか
もう情報は実際見ることができないものだから写真からも動画からも本当なのかどうかわからない、それでも一瞬映像を見て判断されるから誤解が多すぎるのである。
つまり映像の時代でも情報捜査されやすいのである。
だからマスメデアから報道されるものでも本当なのか疑う必要も出てくる。
その映像にしてもNHKでも編集されたものでありやらせがあったとかなるからである。

情報というのは五感では感じられないのが多くなった。
動物は言葉がないが何かを伝えあっている能力はある。
愛の表現でも猫があんなに愛し合うとは思わなかった。
顔から体から雄と雌がなめあっているのである。
その猫は同じ親から生まれた子供同士だった
猫は表情がありその表情で伝えている
餌をねだるときは足にまとわりついたり何かを伝える
動物は表情で伝えている、表情が豊かなのである。
一方人間は直接合わないと表情がよみとれないから言葉だけ映像だけでは誤解が生じる
でも反面人間は直接あっても誤解が生まれる
「人はみかけによらぬもの」と言うのも真実である。
あんな顔の人が意外と花に興味をもっていて美人だった人が花に興味をもたないのはなぜだろうとなるとか表情だけから人間はわからない
直接あってもそこで必ず人間に対しては誤解が生まれる
だから人間は常にだまされことがある
動物は正直でありありのままだから表情からわかる
人間はまた表情から見ただけではわかりにくいということもあるから複雑である。

いづれにしろインターネットで明らかに情報空間は変化した。
でもまだまだインターネット情報空間は活用されていない
活用するのが手間なこともある。テレビならただ一方的に見ているだけであるが
インターネットだと探すこと自体手間になるからである。
だからインターネットから情報を得ることは相当な知力も必要になる。
それでもマスメデアからインターネットぃの情報空間へ移ってゆく
マスメデアの情報だけではたりないからである。
マスメデアによって支配されることは操作されることは危険でもあるからだ。
タグ:メデア

2015年03月28日

NHKスペシャル「プラントハンター 世界を行くを見て (グローバル化している花や植物の世界)


NHKスペシャル「プラントハンター 世界を行くを見て

(グローバル化している花や植物の世界)


プラントハンター(Plant hunter)とは、主に17世紀から20世紀中期にかえてヨーロッパで活躍した職業で、食料、香料、繊維等に利用される有用植物や、観賞植物の新種を求め世界を探検、冒険する人のことで、現在も存在する。

オレンジやレモンは北西ヨーロッパの貴族にとってあこがれの樹木だった。イタリアやスペインからアルプスを越えて運ばれ、夏の間だけ北西ヨーロッパの貴族の庭を彩った。イギリス人が、ヨーロッパ大陸に派遣され、サクランボやオレンジ、アネモネ、チューリップなどを購入したのが、プラントハンティングの起源だといわれている。
http://www.13hw.com/jobcontent/01_01_01.html

西畠清順さんは、数々のお金持ちの方からの依頼を受けていて、その1回の依頼料が、なななんと3000万円からだそうです。



プラントハンターはヨーロッパでは昔からあった。これはやはり金持ち国でないとできないだろう。
そもそも花を観賞する、生け花でも余裕がないとできないし鑑賞すらできない。
ヨーロッパでいろいろなもの芸術でも科学でも発達したのは生活に余裕ができたからだろう。
イギリスは寒い国だから南への憧れが強いし植物でも花でも南国のものを取り入れた。
花の種類はどうしても南国が多様だからである。

最近自分は家事とか介護に追われゆっくり花も観賞できないことに気づいた。
花見るにさえそれだけの時間的なゆとりが必要なのである。
だから時間の節約するにも金持ちだとできることがある。
家政婦を雇えば家事をしてもらうことができる。
でもこれは一日20万とか払う必要がでてくるし現代はできない
その代わり機械がその代わりをしてくれている。
オカユを作る機械は良くできているなと感心したのである。

金持ちが今何に金を使っているのか?
それは庭作りとかがあるだろう、世界の植物で飾る、花でもグローバル化しているから今は多様である。
ただ金があっても時間的余裕が無いと文化的なことがしにくいのてある。
あの人の出自が生け花の素材になるものを松の枝などを自然の中からとってくるなどが仕事だった。
つまり京都のそうした生け花などが盛んな所で文化的に鍛えられたのがグローバル化したのである。
前にも花を自由に活ける人がテレビに出た。
そういう人も京都などの文化があるところから出やすいのである。
田舎の花屋でも花の種類がふえたからグローバル化している。
それだけの知識も新しい技術も取り入れることが必要になる。

それにしてもあれだけ大がかりなことをしていることに驚いた。
樹齢千年とかのオリーブの樹とか酔っぱらいの樹とか飛行機で運んで日本で育てるのだから苦労である。
そんなことまでできる時代だともなる。
ただ残念なのは大阪とかであれ大都会で森の無いところで展示する
何本か植えるにしてもそもそもか都会には森がないのである。
一本のめずらしい樹があってもそれで森になるわけではない
森という全体があって一本の樹も生きるのである。
せめて公園きような所に小さな森でもあれば活きるのである
その点この辺は森がある、その森が深い、その森で樹も自然も野生の動物も野鳥も活きているのである。もちろんそこには岩もあり活きている。
都会のビルだらけの所ではそもそも樹も花も活きないのである
つまり森が無いということが致命的なのである。
森は作れないからである。

この辺では近くに深い森があるということは常に森を感じて生きていることにもなる。
森は瞑想的であり心を静める場所としてある。
放射能に汚染されても森は以前としてある。
飯館村は原始の森にかえるとしたら森にさらにおおわれた世界となってしまう。
双葉町でも大熊町でももともとあそこは明治まで深い森だったのである。
それが浪江町まで森にかえってしまうのか?
そうなると江戸時代にもどり広大な森におおわれることになってしまう。
森の国にになってしまうということてある。


つくづく人間の豊かさとは何なのだろうと思う
都会では森が無いのだから外国からでも一本の樹をもってきても活きない
そもそも森が無い自然が無いことがどんなにしても都会が貧しいことにもなる
都会にはそもそも森でも自然でもそんなもの作れないからである。
そういう人工的空間にめずらしい樹を外国からもってきても活きないのである。
ただ都会には金持ちがいるからやはりヨーロッパのように昔と同じくそうした職業が生れている。
金持ちに対して需要があるからそういう職業も生れている。
田舎では別に森があるのだからそんな職業は必要ないともなる。
ただ街路樹などはやはり都会でも自然を感じさせる。
仙台には欅並木がありやはりそれは自然を取り入れたもので気持いいとなる。
自分がしてみたいことは庭作りだった。ただこれも大変な労力が必要でありもうできない水やるだけでも手間であり家事から介護からやっていたらそれも手間になる。
だから金持ちでも時間に追われて仕事している人は時間がなくて旅もできない、自由にならないといっていることもわかる。
本当の金持ちは自由な時間がもてる人なのだからそういう金持ちは金持ちとも言えない
仕事の奴隷ともなっている。
日本人は豊かになっても何かそうした本当の金持ちがいないから文化も育たない
ヨーロッパのような貴族が生れないということである。

2015年02月25日

インターネットで変わった商品の買い方(2) (個別に対応することが何でもむずかしい)


インターネットで変わった商品の買い方(2)

(個別に対応することが何でもむずかしい)


または銀行の、個人の客に対しての営業のやり方なんです。自分たちが売りたい、今売らなくてはならない商品在庫を捌く。それしか頭にありません。本当にお客さんのことを考えてアドバイスができるところはないのではないかと思います
http://president.jp/articles/-/10732?page=4

これは銀行だけではない、電気量販店でもそうである。
前にオカユを作る機械を買いたいと思って商品をみせてもらったがとれを選んでいいのかわからなかった
まず買う方の問題としてオカユを作ることに関しての知識がない、商品知識がない
そうなると量販店に聞けばいいとなるが量販店でもこれが今一番売れているものですよとか説明してくれない、またそういう商品もおいてない場合がある。
だから商品に対する予備知識が必要なのである。
それでインターネットでアマゾンで調べて
今人気なのがどれなのかということを知る
レビューはだから役に立つ、出版社で本にケチつけられたと訴えた人もいることでわかるレビューの影響は何も知らないものにとって影響が大きい、判断材料になるのである。
本になるといろいろあり物の商品とは違っている。
中味は知識だからその判断がすべて正しいとはならない。

でもやはりこの本はつまらないとか書いてあるだけでも影響する
そのつまらないにしてもこういうところがつまらないと書いてあればいいが
一方的につまらないとだけ書いてあるのは誤解されやすい
その本を出している出版社にとってはそういう批評は困るとなるだろう。
ともかくインターネットではあらゆる人が批評者になったことも影響している
こうしてし二三行でもとりあげて文をつづるということなど今までできなかった。
本など出ても読者が何かを言うことはできなかったのである。
本というのは一方的メデアだしテレビでも新聞でも雑誌でも一方的メデアである。
だからたいがい宣伝費で経営するとなると宣伝する会社の言いなりになる
それでメデアの自立性が得られなかったのである。

ただこうして誰でもプログなどでソーシャルメデアで批評できる時代はものを考える人が増えるということがあるかもしれない、なぜなら自分なり書くとなるとその批評でも書いたことが誰かに読まれるとなるといいかげんなことを書けないとういこともあるからだ。批評できてもその批評を批評される時代になもなる
だから何か書くにしてもそれなりに知識や独自の考えないと相手にされないということもある。
こういうことは民主主義の促進につながることもある。
今までは商品を買うにしても売る方が主役であり買う方はただ従うだけだという面が大きかった。
商品についての知識がなかなか得られなかったからである。
それでも今は商品がふえたから本当に選ぶのがむずかしい
印刷機は4台買ったがいいものではなかった。
安いこともあったし選び方がまずかった。
最新の印刷機でも紙送りがうまくいかないとか欠陥があったみたいだ
かえって古いのがしっかりしていたがスキャン速度が遅すぎたりして使えなくなっていた印刷機はそれなりに高いからいいのを買うのが一番むずかしかった。

それからパソコンもwin8の買ってウィルスに二回やられのはショックだった。
それで中古品のwin7を二台安全のために買ったがこれの方が使い安いというのも今の時代である。
ソフトもwin7用のがありかえって中古品の方が良かったと思い失敗だった
中古品は3万くらいでいいのが今は通販でいくらでも買えていたのである。
中古品は古本でもそうだが全国規模になるからいいのが手に入るのである。
それとパソコンはすでにできあがったものだからwin7の方がかえって使い安いということあった。
そのことに気づかなかったのが失敗だった。
新しいパソコンはウィルスに弱い場合がかえってある、それも怖いなと思った。

今と物を売るにしても買うにしてもめんどうな時代になったのである。
その人の求めるものが多様化したのである。
だから売る方にしてもオカユを作る機械に関心がない人もいる
若い人など介護したりしなければ関心がないから売る方で商品について知らないことも多いのである
ましてや金融商品など銀行にまかせているがその若い人は本当に知らないのだろう。
ただ適当にいいことを言っているだけである。
そもそも金融について詳しい人は少ないのである。
銀行では金融が株が商売でないのだから余計にそうなる

ともかく人間は相手のことを知ることが大事だけどそれができない
まず人間は自分自身のことしか考えない
家に来た人もただ金をくれとかなり本当に家捜していたのだから驚く
他の人も借金かかえているから頭にそれしかなかった。
だから病気になり介護で苦しんでいるときも借金の要求だけになる
だからこの人死ねば金になるなとなっているから怖かった
ただ自分のことしか考えていないのである。
そういう人がふえたのが現代でもある。
だから相手のことを相手が求めていることに対応できないだろう。
あの人は相手のことを全く考えない人だったのである。
そういう人が経営者になれると思えない
もちろん人を雇ってもその人のことなど何にも考えないだろう。
そういう人が経営者として成功するとは思えないから失敗したのだろう。
経営者は技術だけではやっていけないのである。

相馬市公立病院の看護婦長はそういう気配りができていた。
書類見ただけで「お母さんの介護で大変ですね」と言ってくれた。
これは簡単にできない、書類だけで簡単にその人のことがわからないからだ
そこまで相手のことを知ること自体むずかしいからである。
ただ看護婦には虐待みたいなことをされたから全部がいいとはならなかった。
看護師などは本当はどういう患者なのか良く相手をみる必要がある
でも何人も相手にする、次々に変わるときそういうこともむずかしいだろう。
それはどこでも起こりうる。大勢を相手にすれば機械的になる
メカニカルな対応になりそっけないものとなる

現代ではやはりそういうことがどうしても多くなるのだ。
そもそも勤めるにしても今は時給いくらだとなるとその分しか働かないとなる
愛想など良くしろといってもそういう動機が働かないだろう。
時給いくらでありそれ意外のことに気を使うのも馬鹿らしいとなる。
オーナーだったら別だが時給で雇われている人にはそういう動機が働かない
だから今は個々の対応がぞんざいになりやすいのである。
大勢を相手にするところはみなそうなりやすい
カルト宗教団体などでもそうである。そこで問題になるのは数だけなのである。
あれだけ数が多ければ個々人などどうでもいいとなる
現代はそういう数が中心の世界である。
数で判断されるところには個々人などをとでもいいいのである。
単に統計的数字として処理されるだけだとなる


インターネットというメデアまだ熟成していないだろう
だからこれをどう利用するかはまだ未知である。
家事やっていると物を買っても料理する材料を買ってもそのノウハウの方が大事なのである、家事は本当に多岐にわたるからノウハウがわからないとできない
それで一人の女性に教えられることがあり助かった
やはり家事は女性がノウハウを積み重ねている
介護は料理など出すから女性向きであり男性向きではないのである。
それで男性が介護で苦労する時代になったのである。
だから男性も家事とか料理を習う時代になっている。
それでも一人で家事から介護からすると大変になる
それで毎日時間に追われる生活になったのである。


2015年02月24日

インターネットで変わった買い物や本を買わないこと (現代的情報環境に適応できない)


インターネットで変わった買い物や本を買わないこと


 
(現代的情報環境に適応できない)


インターネットの買い物で一番便利なのは買った本人が使ってみてどうだったか書いてあることである。
そして何人もこれがいいと書いてあるとそれは確かにいいと判断する。
これはほとんど間違いない評価である
ところが電器店の量販店に行ってみても使った人が評価するのではないから
量販店ではどうぞどれでも買ってみてくださいとなる
その中には古いものや店がすすめるものでもその人に合わないものもある
品物の数も少ないから自分で選んで失敗した買い物がある
オカユを作るのを8000円ですすめられて買ったが使いなかった。
ところがアマゾンで4000円のオカユ製造機は良くできているなと感心した。
8000円のすすめられて買って失敗した。
量販店は本当に不親切なのである。

今は物がやたら増えているから何を買っていいか迷うのである。
オカユ製造機でも十もあったりすると何を選んでいいかわからない
店ではどれでもいいから買ってくださいとしか言わない
使った人の評価を聞くことができないのである
こういう点で量販店が通販と比べてかえって不親切だと思った。
ただバッグなどは重さと大きさがわからないので買って失敗したのがいくつかある。
だから店がすへてだめだとはならない
ただ通販とどうしても比べられるようになったのである。

本や雑誌が買わなくなったというとき、特に雑誌は売れなくなったというとき、ネットの影響が大きい。
メデアが変わると表現の仕方も変わることも影響していた。
雑誌とネットの表現の仕方は根本的に違っていた。
ネットでは前は応答が主だったとき長い文章は嫌われていたのである。
短い文で応答するのがネットのメデアの特徴なのである。
それは今でも2chなどでそうである
そういう情報環境になれると人間の頭もそういう環境に適応する
雑誌的情報の出し方が現代に合わないとなってしまった。
新潮などで雑誌を出しているが他にも文藝春秋とかあるがそれには中味があっても
とても全部読む気力もなくなった。
これは老化のためであるが若い人でも雑誌を読まないというとき長いの十人くらいが別々に書いているから全体として理解するのが相当にむずかしい
一人の文を理解するだけで相当に頭を使うから疲れる
それで自分は読もうとしたがギブアップした。
十人もの長い文章を読んで理解することができなくなったのである。
それは別に年取ったからではなく若い人もそうなのである。

一方でプログでもやはり今では長い文を書く人もいるがどっちかというと短い文を毎日出すのが読みやすいとなる。
でもそれなりに長くないとそれは中味がないのでプログで毎日読んでいるのはまれであるプログで毎日それなりの長い文で読めるのを出すのはむずかしいのである。
ただ毎日プログ読んでいると首尾一貫してその人の言いたいことを理解するようになる。だから「心の青雲」などは全部納得できなくても何を言いたいのか理解するようになったただあれだけの内容あるものを書き続けることが普通はできない
だから毎日読めるようなものをプログがまれなのである。
ただプログが長いと言っても雑誌からすると短いから読みやすいのである。
毎日読むにしても苦痛のない量なのである。
もし一カ月分くらいをまとめて読むとしたら雑誌と同じでありとても読めなくなるのである。
毎日少しづづ同じ人の文を読むから理解できるのである。

本が読まれない買わないというときネットのこうした情報環境になれたことも原因である本はたいがい薄くても厚いし情報量が多いのである。
だから本一冊を読むことは苦労なのである。
実際本を千冊買ったとしても理解できるのは百冊が限度である。
それくらいしか生涯で本は読めない
本はそれだけ情報量が多いのである。
そして年取るとますます読めなくなるのである。
実際は若いとき苦労してでも古典などを読んでおくべきなのである。
なぜならあとで読めなくなるからである。

ただ以前として本の種類は膨大である。
だから本を選ぶということも何を買っていいかも迷う
なぜなら本は厚いから買っても全部読むことが苦労だからである。
金もかかるからなかなか買いにくいとなる
それでもネットだけではデープな情報は内容あるものにはふれがたいということはある。本が売れないというときこうした情報環境がちがってきたことに対応できない
買い物でもネット環境に対応できないということがあった。
やたら本の評価を書いている人がふえた。
そしてその本自体を買うのではなくネットでの評価を読んで終わりという人もふえた。
なぜなら本を買うことは金がかかるし読むとなると厚いから苦労するからそうなる。
インターネットは今になると様々に現実社会に影響が大きくなってしまったのである。


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おかゆを作る

4200円では安い優れもの

タグ:通販

2014年11月12日

パナソニックとヤマハの電動自転車は乗り心地が全く違っていた (機械は使ってみないとわからない)


 
パナソニックとヤマハの電動自転車は乗り心地が全く違っていた


(機械は使ってみないとわからない)


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パナソニックビビ

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PAS Brace XL



最初買ったのはパナソニックだった。なぜ買ったかというと長距離用に買った。
それが最新式で17アンペアのパッテリーであったから長持ちすると思った。
写真は26型ではなく27型だからさらに車輪が大きい。
これはスポーツタイプではないから実際は買い物には向いていた。
ただ買い物でも荷物には弱い、馬力がないから坂も強いとは言えない
平地では走りやすいしスピードも出るし軽い感じになる。

これはヤマハのスボーツタイプを買って乗ってわかったことは長距離用ではない
近くに買い物するには便利である。
これは自転車屋の進めで買った。最新式だから進められた。
そこでは会社に関係なくどこのメーカーのでも売っている。
実際に自分で試し乗りして買ってきているというから詳しい
今の時代何を買っていいかわからないのが多くなった。
自転車だって種類が多すぎるからだ。
電器店で買い物して失敗したのは店員に聞いてもわからない
よく説明もしてくれない、結局使えないもの買った
印刷機だったがこれもわかりにくいものだった
むしろネット下調べして電器店に行ったほうがいい
電器店ではその人にあったものなどすすめないからだ
だから最近は二三万のものは通販で買っている。

ヤマハの電動自転車は前も使っていた。
最新式かなり改善されていた。
これの乗り心地はパナソニックのとはずいぶん違うなと思った。
これは何か見た感じも重厚な感じになる。
実際はこれはマウテンバイクだから悪路に強い
もともと坂も強かったし馬力があるから荷物にも強い
乗った感じがまるで違うのである。
これはスボーツタイプだからち長距離向きだった。
12Aと17Aと差があるようだが実際はほとんど同じでありヤマハのバッテリーの方が長持ちする。坂で電池が消耗していないのである。
パナソニックでもスボーツタイプだったからたいして変わらなかっただろう。
スポーツタイプと普通の自転車でも作るコンセプトがそもそも違っていたのである。
それは電動自転車でも同じであった。
ただ乗った感じではヤマハのは何か高級感と重厚感がある。
悪路に強いから近くでも乗りやすい
パナソニックのくはサスペンションがないから買い物でも道が悪いとのりにくいのである自転車や歩道は段差があるから困るのである。
ただスポーツタイプは買い物用ではない
だから買い物ではパナソニックを利用している。

ともかく機械でも道具でも使ってみないとわからない
こんなに種類によって違うものかと思う
自転車は種類は本当に増えている
その一台一台が乗り心地が違うのである。
自転車の不思議はなぜこんな乗りここちか違ってくるのかということである。
だからその乗り心地が違うから車種が違うと違った楽しみがでてくる。
これはバイクでも自動車でも同じである。
カメラだってそうである。
みんな違った感覚で使うようになるのである。

例えば一つの景色がある、これは角度が違ってとると別なように見えるし
またカメラによっても違ったように写る、さらに加工すると別なものになる。
道具とか機械によって変化させられるのである。
こういうことは昔からあったが現代は何でも種類が膨大に増えてそうなった。

歩いて見える感覚、馬に乗って見える感覚、自転車に乗って見える感覚、
バイクで見える感覚、車で見える感覚、電車で見える感覚、これはみんな違って見えるのである。
今は徒歩で見える感覚か消失している。たいがい乗り物に乗っているから歩いて見える感覚がわからなくなっているのだ。
自分は自転車でものりはじめたのは40代と遅いからスポーツタイプは乗っていない
一台買ったけお乗らなかった。
つまり乗る時間すらなくなっていたのである。

人間は遊ぶだけでもすぐに時間も尽きるものだと思った。
なぜ中高年ライダーが増えたかがわかる。
金もある時間もある、一旦若いとき知った快感が忘れられないのである。
この際最高級品でも乗りたいとなる、その快感を味わって死んでゆきたとまでなるのだ。この快感にはいろろいある。
週刊誌でとりあげている男女の本能的快感もそうである。
人間はつくづく快感をあくなく追求するものだと思った。
苦しいことなどしたくないである。
だから原発事故で避難した人たちが楽な方を選ぶのである。
たいがい苦しいことを選んでいるのはそういう環境であり強いられたからである。

タグ:電動自転車

2014年10月28日

インターネットで成り立つ中古市場 (パソコンを中古で二台買った)


インターネットで成り立つ中古市場


(パソコンを中古で二台買った)


14万で買った富士通のパソコンが一年たってウィルスで使えなくなった。これも急になったのでショックだった。パソコンの突然のクラッシュほど怖いものはない、一瞬にして
記録したものが消えるからだ。長年の努力も一瞬で水の泡となる。
ウィルスは本当にパソコンでは一番怖いものである。
その対策も完全なものはない、今はフリーソフトをダウンロードすることが怖くてできない。ウィルススキャンすればいいようだがそれもよくわからない。
ウィルスソフトはどこまで有効なのかわかりにくいし操作できない。
失敗したのはビィスタは長く使っていた。でもウィルスに感染したわけでもなかったようだ。それからwin7になったとき買い換えるべきだった。
まずパソコン二年が使うのに限度である。
とにかくwin8を初期化してすぐにまた最も悪質なウィルスに感染したのはショックだったパソコンはそんなに初期化して同時に感染するとは思っていなかった。
だからパソコン自体ウィルスが怖くて使えないとまで思った。

それで今度中古のパソコンを通販で二台買った。どちらもwin7であり3万であり安いなと思った。パソコンはもう中古品でもかなりいいものである。だから中古市場が成り立つ
これはインターネットが生まれ通販が日常になったとき中古市場も成り立つようになった中古のパソコンを東京ならいくらでも集まるからである。
そして中古でも今は最新式のよりかえって安定しているようにすら思う。
前のソフトも使えるし前のソフトでないと使えなくなったファイルもあるから古いパソコンも必要なのである。
パソコンの使い方でも買い方でも知らないと損するしパソコンを駆使できない。
パソコンは新しい知能を得る開発するための道具なのである。
だからこれをどう使いこなすかが問題になる。
買うこともそうである。何を買いどういうふうに使いこなすかが問題になる。
自分の場合はオワシスキーボードを使っていたことがパソコンに親しむものとなった。
これでないとまず文章がスムーズに打てないのである。
文章か考える速度で打てないとはパソコンは使えこなせない
やはりパソコンでも文章が中心になるからである。
ここでパソコンはつまづく人か多いと思う
ブライドタッチができれば別だがこれもできない
つまりこういうのってできる人とできない人が必ずいるのだ
自分はいつまでもできない方である。
パソコンの普及はここが一番ネックになる。

中古市場というとき今までは車はそうなっていた。それでこの辺の島紹介がロシアに松川浦の原釜の港から中古車を輸出しているのである。
あそこの近くまで津波がきていた。あそこは相当に高いのにギリギリにきていたから驚きである。
それから英語を駆使できる人を雇ったというときやはり貿易だと必要になるからである。ただビジネスでそこまで英語を使うとなると大学で相当に勉強しないとやれない。
いづれにしろ日本車の中古品は世界中で売れるしかえって憧れになっている。
日本製品はなかなか壊れ憎いということで人気がある。
パソコンは今までは中古市場は成り立ちにくかった。
今は普及したし今でも使い安いから成り立つ、一日で送られてきたのには驚いた。
六号線か通れるようになったからなんかわからない、こんなに早くつくのかと驚いた。
まず品物が豊富だから通販がいい、中古を買うとしたらこの辺では仙台までいかねばならないしそれも品ぞろいが極めてすくないのである。
仙台まで今年は一回しか行っていない、何か家事やら介護で追われているので本当に近辺しかそれも街中心にしか行っていないのである。
だから自分にとっては通販は便利だなとつくづく思う。
消費の面では田舎でも何か差がそれほど感じないのが現代なのである。

中古市場では古本でもそうだし本でも今や全国が市場化しているからないものがない。
今までは買えないものも見つからないものもある。
これも何か欲しいというときすぐに買えるからいい。
自分は忙しいから図書館にすら5年間くらい行っていない
何か調べる時間すらないのだ。図書館はいちいち調べるのがめんどうで時間がかかるからである。
ただ郷土史関係の資料はある。ただ調べるの時間かかかりすぎるのである。
何か書いて出すとなると家の中に資料でも本でもないとできない。
図書館で調べている余裕がなくなった。
家事から介護は相当に時間が食われるのである。
ともかくウィルスが恐怖だから一台がだめになったら二台目で補いさらに安全のために三台にした。費用は安いものである。
パソコンほどいかに使いこなすかが問題になるものはない。
だからこれは相当な労力がかかるものなのである。
ただ知的作業としてはこんなに書いて即座に発表できるのものはない。
それが記録となってあとでふりかえることもできるから便利なのである。

すでに書店はなくなっても困らないだろう。電器店だって通販に押されている。
品数が少なすぎるのである。配達料までとられるのも損である。
ただ通販で失敗するものがある。
大きさとか形とか実際のところわからない場合があり怖いのである。
だから10万とかなると買うのが失敗したら終わりだから買いたくない
5万くらいまでが限度だろう。
すでに何万かは通販で失敗している。
重さが違っていたとかありこれはどうにもならない
ただパソコンの中古はほぼ今は買い損がないみたいだ
それだけパソコンは前よりずっといいものがでているから中古でも車と同じくいいものにてっているのだ。ただパソコンはハードディスクが古くなると壊れやすいからこれも問題ではある。
ただ予備にするなら安いし使いやすさでは同じであり得だと思った。


2014年10月03日

初期化してすぐウィルスに感染したのはショック (パソコンの記録は紙に印刷して残すことも必要)


初期化してすぐウィルスに感染したのはショック

(パソコンの記録は紙に印刷して残すことも必要)


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ウィルスに感染して初期化した、でもwindows8を一年間使ってそうなった。
今回は初期化して一週間くらいだろう。
それもプログを書き込むところが宣伝がはいったり
ビデオで外人が笑ってい動画がでてくる。
どこかをクリックするとでてくるから相当に今回は悪質である。
それでインターネットにはつないでいない
もう一台のxpのパソコンでプログにアップしている
今回のショックは外部への記憶媒体も感染しているから使うなと言われたことである。
usbからも外部へ感染してそれを使うとまた他のパソコンが感染する
そんなことしたらせっかく記録したものがゼロになるから全部消えるからショックである。
一応インターネットにつながないで記録したものの整理をしている

結局印刷しておかない限り記録したものが消える、一瞬にして全部消えるのがパソコンの恐怖なのである。
ただcdに記録されたものが呼びだすことができた。
新しいパソコンでは記録した古いものがソフトの関係で読み込めないことがある。
これもパソコンが記録するには危険がともなっている。
電子メディアは意外と記録するのには脆弱であり危険である。
なんらかの調子で全部一瞬にして消えることがある。
そうすると紙に記録させることが一番保存にはいいとなる。
紙に保存すれば本だったら50年くらいはもつ、パソコンはせいぜい10年くらいになる。
本では何百年とか前のも残っているし羊皮紙だったら中世から教会で記録されて今に残っている。
紙はどうしても劣化するからである。


記録がなぜ大事かというと例えばCDに記録されたとしても消えてしまいば何が記録されたかわからない。
これには何が記録されたのだろうともう探りえようがないのだ。
人間も同じであり記録が残らないとしたら過去の人間が何であったか探りえようがない
結局過去のことでも歴史でも名前だけ残っていればいい方だとなる。
エジプトがヒエログリフで記録を残すのに執念をもやしたのは記録の大事さを知っていたからである。
記録がなければ三千年のエジプトの歴史は不明になる。
何か探るときやはり記録が大事になる。そのことを知っていたから記録を残した。

相馬藩では400年前の慶長津波のことが700人溺死と一行しか記されなかったので津波のことが皆目わからないし探りえようがないのである。
400年前でも被害の状況が何かしら語られて伝えられていればこの辺にも大きな津波がきて被害があったことを意識できたのである。それがないからこの辺は津波が来ないのだということで危機感が全くなかったのである。
ともかく印刷してこれまで書いたものを記録する、詩が多いがこれでも千枚は軽くあるしどのくらいになるかわからない、印刷すると量が増えるのも困るのである。
本は何か固定されたものでる。一人の人間の記録や創造物でも固定化している。

しかしこの世の中のことは常に変化している。次から次と事件も事故も災害も起きてくる。
あらゆるものは流転をまねがれないし本でも解釈がいろいろにされて変わってくる。
要するにこの世に固定したものはないし固定した見方などないのである。
でも御嶽山噴火で若い男女抱き合って火山灰の中で死んでいたとかなるとポンペイでもそうした泥化して固まった同じような人間が発見されたからつくづく災害でも歴史は繰り返すとなる。
インターネットではこういうふうに今起きていることを話題にしやすいのである。
それはすぐにその事件をでも事故でも災害でも見て自らが発進する能力を得たからである。
だから今起きていることが何を意味しているのかいろいろ解釈する。
過去の歴史から深く考察もできる。それで時事問題の深層を最初はホームページで書いてきたのである。
プログは特に毎日のことだから今起きていることはその土地や個々によって発信しやすいということである。

自分はここ六年とか介護とかで家のことやら何やら毎日整理に追われている。
震災以後もさらに整理が増えた、家の整理というのがこれが大仕事だった。
毎日掃除するだけでも大変である。だから未だ震災以後でも整理できていない。
実家をたたむということなどが話題になったがその整理することは何年もかかる。
何を捨てて何を残すかとなるとすぐには判断できない、捨てて失敗したなというのもでてくるからだ。
何年かおいてやっともういらないとなるからである。
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捨てるこつは整理するこつは必要なものと必要なものでないものに分けてゆく。
本でも着るものでももうこれは着ないとなったら分類して捨てる
ともかく年取ったら身軽にして必要なものだけを選んで残すことである。
結局道具類でも今や買っても使えないものがかなりありそれですでに損したものがかなりある。
ものがそんなに必要でないし道具類でも使えなくなっているのだ。
自転車にビデオカメラをとりつけようとしたがこれもできていないとかいろいろなことができないのである。
そこで4万損したとかいろいろある。前だったらそんなこと自転車で一時していたがビデオは面倒なのでできなかった。手間のかかることは年取るとできないことがわかった。
つまり買っても利用できない、金があってもその金を有効に使えないということが起きているのだ。
その時間がないということが致命的だったのである。

パソコンは前から機械との格闘だったということがあった。最初は何かおかしくなると必ず初期化して使っていたのである。バイオス設定を一から個人でしていたのである。すぐに不具合になるからそうなった。
今パソコンの最大の敵はウィルスであることがわかった。
この恐怖は大きく安心してパソコンを使えないとまでなる。一瞬にして破壊される恐怖である。
完全に防御することもできない、ウィルスを防ぐソフトも完全ではないからだ。
第一初期化して一週間くらいで最も悪質なウィルスに感染していることが解せないからだ。
パソコンはどうしても三つくらい安全のために必要である。
その他記録するにも安全策を二重三重にしておく必要がある。
紙に印刷することも必要だからさらにめんどうになるのがパソコンだった。

2013年10月19日

インターネット時代の買い物 (これも試行錯誤だったー失敗も多い)


インターネット時代の買い物

(これも試行錯誤だったー失敗も多い)


インターネットで二日おきくらいに買い物していた。本が主なものだか2万くらいだと買いやすい、デジカメは六万だったけどこれは買っても使うのがなれているから失敗しないと思った。でもすでに一回落として傷つけた。持ち運びすると自分は必ず落としたりするから高いもの買いない、今何かを買う時、電気店とかに行って聞いてもわからないことが多い。まず買うものを選ぶ時点でインターネットで調べる。知識がないのだから少しでも知識があった方がいい。それは店で聞くよりいいのだ。店の人に聞くと何か買わないと悪いなという気分になる。だからいろいろ詳しくたずねられないのである。

店員にしてもこの人はうるさく聞くけど買わないみたいだからもう説明したくない、説明するのも手間なんだよとなる。確かにいちいち丁寧に対応するのも本当は費用がかかっている。この点はインターネットは気楽であり買い物も気楽である。
人がいないからそうなる。ある意味で機械化して自動販売機のようにして買っているのかもしれない、人間力を極力省いて運営している。セルフサービスの体制でそうしている。だから人件費をかなりおさえられるのだろう。ただ配達するコストが一番かかっているのだ。それも無料が多いから買う方では便利になる。


電気の量販店で失敗したのは印刷機だった。文字だけを高速に印刷する手軽なものを14000円くらいで買ったがあまりいいものではなかった。カラーは印刷できないからだ。
これは何を選ぶかの時点で知識もなく間違っていた。店員の説明ではそこにある展示してあるものから選ぶと今は種類が多いから一部しか置いていないから失敗するのである。
エプソンだったけど失敗だった。

それでインターネットで印刷機とか調べていると8000円くらいでカラー印刷できるレーザープリンターがNESから売っていたのだ。
それはMULTIWRITER5600Cが簡易なものとして紹介されていたのだ。
ただこれでも印刷機に対して知識がほとんどなかった。これよりいいものがたいして変わらない値段で売っていたみたいだ。だから最初の段階でエプソンの白黒のレーザープリンターを買ったのは失敗であり電器店の店員も詳しく商品に対しては案内もしないし助言もしない、選ぶ時点で買う方がそれなりの知識がないと買えない時代なのである。
ただ大きさとか重さはネットの画面だけからわからないから失敗したことがある。
パッグが重かったのである。これは使えなかった。6000円くらいしたが丸損だった。
インターネットの通販にそうした失敗が必ずある。だからあまり高い買い物はしたくないのである。ただ通販でしか買いないものが今は増えている。
こんなにいろいろなものがあるのかと通販の品物の多さには驚いてしまう。
だからこれも欲しいあれもほしいとなってくる。
それでいろいろな買い物をしたのである。


今回買ったのは-強力1000Wヒーター搭載のスーパー風呂バンス-というものである。
電気温水器が40年くらい使って壊れた。地震の時配管を直してもらった使えたがとうとう寿命がきた。こんなに長く使えたら本望だろう。
これを買うと30万以上もかかる。自分の家では二人で一週間に一二回しか入らない、だから新しく買うのはやめた。風呂が入れない時高見のビジネスホテルのドートルの湯に入った。500円だけど昔の銭湯と同じである。風呂も自宅ですると金がかかる。
一週間に二回入って2000円だったら自宅で風呂をたてるよりいいとなる。

一人暮らしだったらそうして手間のかかることはしたくない、朝だったら牛丼屋で300円くらいの朝食ですましていれば時間も手間もかからないのである。
何しろ運んだり食器を洗ったりするのが手間なのである。

最近テレビで宣伝していた
H2OウルトラスチームマスターX5 スーパープレミアムキット ...
これも失敗だったみたいだ。


当方、エレクトララックスの掃除機型のスチームクリーナーを持っていますが、本当に、期待はずれでした。
油汚れも落ちないし、壁紙もキレイにならないし、お風呂もダメ。

大型品でもこの程度の実力なので、ハンディ型では、到底、汚れは落ちないでしょう。
毎週のくらいに掃除をしているのであれば、キレイになるのかもしれませんが、TVのCMのような
「まぁキレイ」
とはなりません。


それほど役に立つものではない、これで失敗したのはアマゾンなら旧式でも1万で売っている。宣伝で今買うと安いとなっていたので買ったが失敗だった。
そして部品がなくなってモップがつなげなくなった。ただ蒸気を出すだけになった。
これもあとで買うこともできなくなった。ただ全く使えないというのではなくなくトイレの掃除とかには向いていた。台所の床の掃除にも向いていた。
ただ25000千のは買う必要がなかった。アマゾンで買えば一万でもたいして変わらない。
これは宣伝にのせられたのである。
テレビで宣伝するものはみんなアマゾンで売っているのだ。


スーパー風呂バンス-も会社から買うより一万安く同じものがアマゾンで売っていて即買った。情弱というとき情報社会は買い物でも情報不足だとかなり損する。
テレビでの買い物は今は要注意である。一方的にのせられるからである。
テレビだけで買い物することは本当に一方的にのせられるから危険である。
これは何もニュースとかでもテレビだけの解説とかに頼っているのと同じだった。
一方的に説明されるから知らずに洗脳されているのだ。
青汁とかあれだけ宣伝しているけどそんなもの効かないと思うべきである。

情報社会とは新聞やテレビやマスコミからのみの情報に頼らないことに意義がある。
ただインターネットはまだ利用の仕方がわかりにくい、買い物でもそうである。
アマゾンはわかりやすいからみんな利用しているのだ。
とにかくテレビで宣伝してもすぐに買わないでアマゾンで値段などを調べてみるのが買い物のコツである。

インターネットの問題は調べることに時間と手間がかかりすぎることなのだ。
玉石混淆の情報から調べるとなると時間と手間がかかりすぎるのである。
まあ、2万円くらいまでならそれほど損した感じにならないだろう。
これも経験を積み重ねないといい買い物はできないのである。

ともかく本では買ってほとんど失敗していない、なぜなら自分の文脈でちょうどインターネットで調べるように引用するように本を買っているからだ。
品物はそうはいかない、まずその事前の知識を得るだけで手間がかかりすぎるのである。それだけ現代は買い物でも広範囲な知識が必要なのである。

家事をしていれば料理でも料理するのではない、いかに買うかであり買ったほとんどまかなうからそうなる。オカズもそうだしほとんどそうである。だから何とか時間があいて自分は文章を書き創作もできている。そうでなければ買い物だけでも追われてしまうだろう。時間を節約するには買った方がいいのである。めんどうな料理などしていられないのだ。それより食堂ですました方がずっと時間を節約できる。
今は介護しているからそれができないだけなのである。


これはインターネット時代にどう対処していいかわからないことから起きている問題である。
ただ今まではテレビとか新聞とかマスメデアを通じて買い物すらしていただろう。
量販店でもやはりそこのみが買い物の窓口となっていた。
だから店員の説明で買っていた人が多いのである。
買い物も情報化すると自分で情報を仕入れて自分で分析判断して買うようになる
それだけの情報がインターネットにあるからだ。
でもこれは老人にはめんどうだし買い物自体がかえって骨の折れるものにもなる
ただ売る方の一方的おしつけはできないということは普通の情報でも同じだったのである

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MULTIWRITER5600C

これはいいものだった
ただドライバーをインストールするのがめんどうだった
NECでは丁寧に対処してくれた
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これも2万では安いし使えるみたいだ
今日はこれで沸かしたもので入る

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これはお得である。チャーハンなどについてくのと同じだった
味噌汁はやはり味噌を買って作った方がいいがめんどうだし塩分が多すぎるのだ
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H2OウルトラスチームマスターX5 スーパープレミアムキット

これは使えないことはないがアマゾンの一万くらいのでよかった
部品をたして25000円は高いものだった
これはテレビの宣伝にのせられてすぐ買ってしまったのが失敗
あとでゆっくり調べていればこうはならなかった。
今はキャンペーンで安いというので買ってしまった
これもテレビだから一方的にのせられたのである。

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LEDシーリングライト

これももアマゾンで買ったけど大失敗だった。天井が高くて一人でとりつけられなかった。とりつけるるきもこれは相当にむずかしいものだった。
使えないと思ったがたまたま便利屋にかたづけ頼んでいたのでついでにやってもらった。でもとりつけるだけで一万くらいとられたかもしれない、それだけコストがかかる場合がある
自分で電気製品でもとたつけたりできないものがある。これは通販では買うべきではなかった。
あまり使うのにむずかしいものは買うべきではない
それから安くてもモノが手にとって見れないので損する場合もある。
だからこれなら間違いないと買って知っているものならいい。
全然知らないものを買うとなると失敗もある。
結局通販でモノを買うということは店で買うよりめんどうである。
ただそれだけに買えないものも変えるし車がないから何でも家に運んでくれるからいいのである。
量販店では運送費とか結構高くなる。3000円とかとられるとか高いのである。

インターネットのメリットが高くなると量販店でも苦しくなる。
通販なら無料で運んでくれるのだから無料で運んでくれと量販店に言ったらそうしてくれた。やはり通販が量販店の一番の競争相手になっているのだ。



2013年09月13日

windows 8は使いやすい (あらゆる整理が自分の仕事になった)


windows 8は使いやすい

(あらゆる整理が自分の仕事になった)

windows 8は使いやすい、今回も富士通のパソコンだった。ブルーレイもできるしテレビ機能も優れている。これはまさにマクチメディアに対応した。
ニュースも横にスクロールできるので便利である。ワイドだから一覧しやすい。
ビスタだったがこれもさほど変わらないものだった。
バソコンは今や脳と直結しているからバソコンを通じて脳を働かせるから使い安いことが大事である。

自分の場合はワープロの時代から親指シフトを使っていたことがバソコンに親しむ結果となった。
まず文章がすらすら打てないと嫌になるからだ。やはりパソコンでも文章が基本なのである。

もう一つがどうしてもたまりすぎた情報を自分を含め本なども整理することが仕事になっている。まず整理というのはあらゆるものの整理がここ3年間くらいそうだった。
津波や原発事故以後の二年間くらいは家のかたづけもできなかった。
今失敗したのは貯金を定期預金にしておけば一年間でそさなりの利子がついていた。
これもただ忙しくて考える暇もなく放置していた。
家事でも介護から何からやると一人だと時間に追われている。

その中でプログを毎日書けたのはこれだけ便利だから3時間ほどあればアップできるからである。実際は書く内容があるから5時間くらいはかかるだろう。


整理というとき人間関係の親戚関係の整理も一仕事になった。還暦すぎると一生の整理が仕事になるのだ。これまでしたことのいろいろなものの整理なのである。
まず本の整理は一番むずかしい、自炊して本を捨てるにもこれもめんどうである。
本は何か整理しにくいのである。長い文章だからそうなる。
でも本というのは一部分を記憶して利用することが多々ある
ただその一部分は本全体と関連しているから捨てるわけにもいかず残される。
何でも着るものでも捨てることはむずかしい、また利用するのじゃないかと思うからである。

知的作業は本と密接にかかわっていた。知識人は本を持っている人だった。本に蓄積している知識は天文学的でありインタ-ネットはここ十年の歴史しかないのだからまだまだ本の知識を頼る。本はすでに2000年とかの歴史があるからだ。


脳というのは整理されていないとうまく働かない、自分が知識だけに集中していたときは良かった。今度は台所仕事もするとなるとこれも冷蔵庫などが整理されていないとうまくいかない、台所仕事は意外と整理が問題になるのだ。自分なりに整理しておくと使いやすい。だから他人が台所に入ると整理したものがまた別な所に置かれたり使いにくくなるのだ。

結局自分のやることが一人であり多くなりすぎたのである。知識も整理でありwindows8は知識が整理しやすいみたいだ。これが親指シフトを使えたから助かった。
クラウドなどもあるからさらに整理しやすいのかもしれない、パソコン上の記録は一瞬にして消えるがレンタルサ-バ-とかに記録しておくとかえって消えにくいのである。
専門の人が管理しているからだ。安全策もとっているからだ。

ただレンタルサーバーのさくらが一回プログの記録が消えたときはショックだったが回復したのである。バックアップしているから回復できたのである。プロの方が安全なのである。さくらは月額百円とか安い、メールは設定しにくいからレンタルサーバーのメールボックスを利用すると安全でありわかりやすい、ここなら確実に送受信できるのである。

バソコンが不具合になるとメールも使いなくなる。メールが意外とめんどうだった。
バソコンは今や自分のバソコンだけではうまく使えない、だからレンタルサ-バ-とかクラウドとか外部と連結することが必要になった。でもクラウドって何なのだということもわかりにくい、勝手に自分の顔の写真がクラウドにのっていた。これも設定していないのにわからないことだった。パソコンについているカメラでとったものがクラウドに自動で送信されていたのだろう。バソコンはいろいろな不思議がある。
遠隔操作でプロバイダーを移ったのも不思議だった。
バソコンはなかなか秘密を保つことがむずかしい、もう自分の情報がつつぬけになってしまう。どこかにつながり一括収拾されてアメリカのグ-グルなどが分析している。
メールだって一旦メールボックスに入るのだから他人にも見られるのである。
どうしても秘密がたもてないのがインタ-ネットなのである。


今度は整理のためにこれも富士通のSV600という最新式のスキャナーを買おうかと思っている。これはただ置くだけで上からスキャンしてくれる。これも整理には役立つと思った。ただ厚い本はできないので困った。結構厚い本があるからだ。ただ厚い本になると全部は読めないしただ飾ってあるのが多い、古典全集などがそうだった。それで全集とかは捨てた。どうせ読まないからだ。本にはただ飾ってあるものが多いが捨てられないのである。時々読み返してみると新たに発見するものが本にはあるのだ。

ともかく新しいバソコンも慣れるのに時間がかかる。ただwindows 8は二三日でも使って使いやすい、整理しやすいようだ。文章でも写真でも整理しやすいようになっているので買って良かったと思う。アプリを簡単に消せるのもいい、バソコンはいろんなものがたまりすぎるのである。


自分はこれまでしたことを整理することが大仕事である。旅したことも思い出して創作して整理しているのだ。旅でもどこまで記憶を蘇らせることができるからである。
なぜなら旅しても記憶がよみがえらないとものは書けないからである。
鉄道でも外国でも日本でもテレビで報道しても何かつまらない、必ず料理がでてくるがこれも面白くない。おそらく細部が放送されず専門的になっていないからだろう。

旅はやはり内面化して自分なりに消化したものになれば一つの創作となる。
芭蕉は見事に消化した。内面化して奥の細道が後世に残ったのである。
誰だって旅ができる時代だけど何かテレビでも何でもその報告が平凡なのはそれぞれの個性で内面化していないからである。内面化は深くコンタクトしないと印象深い旅をしないとできない。芭蕉は歩いた旅だったからあとから思い出すことができたのである。

2013年05月12日

「心に青雲」で紹介された『トゥルーマン・ショー』を見る (権力、マスコミによって操作されている人間-原発も同じだった)


「心に青雲」で紹介された『トゥルーマン・ショー』を見る

(権力、マスコミによって操作されている人間-原発も同じだった)

 なぜ見る気になったかというと、911事件の映像がことごとくCGでつくられたもので、現実には貿易センタービルに飛行機は激突していなかったことを知ったからである。
 以前にも書いたが、私は2001年9月11日の深夜にテレビの中継(?)を見ながら、これはアメリカの自作自演だと見抜いた。だがそのとき流されていた飛行機がビルに激突する映像までが、あらかじめ用意されていたCG作品だったとは気がつかなかった。


 つまりわれわれが現場で起きていると思っていたものが、実は作り物だったのである。それで、昔観た映画『トゥルーマン・ショー』を思い出
した次第である。これはまさに『トゥルーマン・ショー』の世界ではないか、と。


私たちの世界は、もしかしてトゥルーマンのように巨大な書き割りセットの中にいて、ユダヤ金融マフィアあたりから与えられた生活を送っているのであり、それを〈彼ら〉が面白そうにどこかで眺めているかのような気がしてくる。


 ボストンマラソンの爆発事件にしても、徐々にわかってきたのはニュースに出ていた負傷者たちの多くが偽物であったことだった。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/359849294.html

ここで無料で見られる
http://freemovielib.blog47.fc2.com/blog-entry-436.html



インタ-ネットでは絶えず本でも過去の映画もDVDで紹介される。こんな映画あったのと面白そうだなとアマゾンで結構買った。でも映画は中味が見れないので面白いものが少なかった。本ではだいたい検討がつくが映画は検討がつかない。でも映画の種類もこんなに多いのかと驚く。
この映画は現代の文明の問題を鋭く映像化したので高く評価できる。

この映画は一人の人間が生まれてから成長して死ぬまでも監視カメラで追われ続けスタ-にされていた。そのすべてがセットであり俳優だった。妻もその仕組みの中に入ってだましていた。妻も映画として見せるために与えられた俳優だったし友人もそうだった。すべてが回りの家も風景も映画のセットだったのである。そのセットを操るのが一番トップにたつ監督であった。その命令は絶対だったのである。だから3.11のニュ-ヨ-クに飛行機が突入したのも実はCGだったとかにもなる。明かにボストンマラソンはFBIによって仕組まれたものらしい。それはプログで分析しているからわかりやすい。
ニュ-スの映像でもそれが作られていることがあるのだ。テレビ局のやらせが問題になった。
マスコミはトル-マンショ-のようにスタ-を作り上げる。マスコミに出る人はマスコミの報道する側で操作されて作られるのである。マスコミで有名になる人もそうである。誰もかってにテレビに出ることはできないのである。たいがいは芸能プロダクションに所属している人だという。それは事前に決められた人である。


これを見ればテレビからは我々はもはや真実が何なのかわからなくなるだろう。NHKで報道されることだってすべてが報道されるわけではない、必ずタブ-がありそのことは報道されない、NHKも大衆を国民を操作するメデアなのである。トル-マンショ-のようにすべてが操作されているのをみている。情報は権力をもつものによって操作されているのだ。巨大な権力というとき背後にいろいろある。カルト宗教団体もそうである。オウムだってオウム王国をめざして権力奪取をめざしていた。日本国をのっとろうとしていた。その一つの武器としてサリン製造があった。創価なども創価王国建設のために権力を我が物にしようと地方新聞社に聖教新聞をすらせている。莫大な財力があるからできることである。幸福の科学でも政治に進出したから同じである。だから創価では維新は幸福の科学が入り込んでいると対抗意識をもつ。自分たちの権力が脅かされているからだ。どっちにしろ権力を目指していることでは同じである。創価ではだから教員とか公務員とか司法関係とか権力をもつものに入り込ませる。創価大学はそういう日本の権力中枢を掌握されために作られたのである。東大が法学部で司法を支配するのとにている。


別にこういうことは創価だけではない、権力をもつものに情報は操作されているのだ。マスコミはその巨大な権力にとりこまれたものにすぎない、それが明確化したのは今度の原発事故だった。東電の権力は国家並だったのである。何兆円もの資産をもっていた。賠償金も天文学であってもそれができていることに驚いた。市町村をいくつも買えるほどの資産をもっていたのである。それだけの巨大な権力だからマスコミなど簡単にとりこむことができた。政治家もその走狗となってしまった。天下りで警察官僚までとりこみ、原発に反対させなかった。フクシマ原発でも何らか検察までかかわっていた。その背後にはアメリカの意図がありユダヤがかかわっていたか心の青雲ではなる。
ユダヤはわからないにしても何か大きな権力が背後にありその意図通りに操作されていることは確かなのである。遂にトル-マンショ-では嵐まで天候まで人工的に作り上げるセットのなかにあったのだ。これはしきりに心の青雲などの主催者が言う、人工地震だったのである。地震まで操作できるという世界にいるのかとなる。地震を起こせる力があれば世界を支配できることにもなるからだ。


ユダ金とか「心の青雲」ではしきりに批判しているけどそれほどの支配力がユダヤ人にあるのか疑問である。まさに世界を支配するほどの力がユダヤ人にあるとしたユダヤ人は聖書の時代から以前として世界を支配する中心民族だともなるからだ。ユダヤ人だけは今まで国土ももたないのに滅びていない、エジプト文明を作った民族やマヤやインカ文明を作った人種は滅びている。残っていてもその文明を作った人たちの力は完全に喪失している。ギリシャ人もあれだけの天才をだしたのに今は菜の花のとロバの国になりヨ-ロッパの保養地にすぎない、なんら生産的なものがないのである。もちろんノ-ベル賞の学者など一人もでないのである。ユダヤ人は以前として優秀な人材を出している。
それは何なのだろうとなる。ユダヤ人といっても本当にユダヤ人の子孫なのかというのもわからない。キリストはユダヤ教を否定した人である。それはヒンズ-教を否定して仏教を起こした釈迦とにている。そして別にキリスト教側でもユダヤ人が本来のユダヤ人に立ち返れば世界が変わるという人もいる。だからあれほどユダヤを憎みまたキリスト教を憎むまでなっているのはなぜなのか?
キリスト教団体を憎むのはわかるがキリストそのものを憎むのがわかりにくい。
一体この世を支配しているものはそもそも何なのかというときそれは闇の主なるサタンでありユダヤ人ではありえない、ユダヤ人だけにそんな力がありえないのである。


いづれにしろトル-マンショ-というのは一区画が映画のためにセット化されていた、人間もすべてそうである。でもそもそもこの文明社会はトル-マンショ-とにているのではないか?全く自分で生きていると思ってもそれは誰かに操作されたものでありニュ-スでも情報でも自ら見たものでもないからテレビの映像をCGの方が真実のように見させられるのである。人間の一生はすでに死ぬまで決められている。そこに冒険も意外性もなにもない、トル-マンショ-と同じではないか?そういう疑問をもった人が上野霄里氏とかニ-チェとか天才的アウトサイダ-になった。文明そのものがトル-マンショ-なのである。文明によって計算され仕組まれた人生を生きることに対抗するには文明から脱出してトル-マンショ-のようにその囲まれた壁を破らねばならない、それは遂に天才的狂気的なエネルギ-が必要になるのだ。

ただ原発事故ではそうしたアウトサイダ-でなくても情報は権力に操作されていたことが地震と津浪で明確になった。安全神話は東電と政府が一体となり国民を操作していたのである。それに逆らうことはトル-マンショ-のようにできなかったのである。例えば言論の自由があるから反対する本も出ていたのである。その本すら実は原発の安全神話のために権力側に許可されてでていたという。ロスチャイルドから情報の提供がありそのくらいの批判は許されていた。だから結局原発に反対する情報はすべて権力側によって操作されたものだったのである。心の青雲では歴史の見直しをしている。あういう見方があるのかと新鮮なものがあった。歴史でも一人の天才的な人が出れば見方が変わるということがある。結局こういう人が出たのはインタ-ネット時代になったからである。
こういうことは公にはされないものだったのである。自分もそうでありアウトサイダ-になればそうなる。出版でもなんでも情報は巨大な権力に操作されている。インタ-ネットすらアメリカが作ったものとすると操作されるということがある。膨大な世界の情報がアメリカに分析され操作されることもある。だから中国ではグ-グルに批判的なのである。

2013年05月03日

新聞からテレビからインタ-ネット時代に (マスメデアを通じないで主張する民主主義-個人が記録する写真の時代)


新聞からテレビからインタ-ネット時代に

(マスメデアを通じないで主張する民主主義-個人が記録する写真の時代)

現代の変化は何かというとやはり交通手段の発達とメデアの発達であった。江戸時代は遠距離は船の交通が多かった。明治になって鉄道網が全国にしかれた。その交通の発達が江戸時代の閉鎖的封建時代の環境を変えてしまったともいえる。封建時代は移動の自由がなかったからだ。
街作りにても駅前通りが中心になったことである。原町だともともと昔の街道沿いに商店街などがあった。宿場町から発展した。そういう街が日本には多い。鉄道網がしかれて駅中心の街作りになった。ただ相馬市は城下町であり駅中心の街作りにはならなかった。古い城下町の形が残ったままだった。だからかえって原町が新興地域として無線塔などができていち早く近代化した街になったのである。原ノ町機関区になっこたとも鉄道を利用する拠点の街となった。相馬市は近代化に遅れをとった。会津でも明治以降発展したのは会津の北の喜多方だった。ここは商人の街として発展して多くの蔵が建った。会津の城下町は新しいものを受け入れることがむずかしかった。それは相馬市が城下町であったことともにている。


交通の変化とともにメデアの変化も大きかった。グ-テンベルグの活版印刷が社会を変えたようにルタ-の宗教革命を起こしたようにメデアも社会を変えた。明治以降は新聞の力が大きかった。それは
大政翼賛会となり政府の大本営発表の機関化してしまった。だから新聞では戦争に勝っているという報道しかしなかった。新聞の影響は戦争後も長くつづいた。正力松太郎が読売新聞社を経営して原発を自分の野望のため利用できたのは新聞社をもっていたからである。一人の権力者によって新聞社が操作されていたのである。新聞社からテレビに変化して50年くらいたつかもしれない、東京オリッピック辺りからテレビの影響が大きくなった。テレビ局が新聞社経営になっているのもまだ新聞社の影響が大きかったのである。


今またメデアの大きな変革期に突入した。新聞社はすたれテレビ全盛時代も翳りが見えてきてその主役がインタ-ネット時代に移りつつある。若い人はもうテレビすら見ない、インタ-ネットから情報を摂取しているのだ。新聞は団塊の世代で終わりになるという。インタ-ネットはパソコンから生まれたのでありこのメデアの変化も大きいものだった。これはまだ発展途上のものであるがすでに社会化ししてのが違っている。パソコンの情報の流通が個人レベルで可能にしたことである。この変化は大きい。メデアを個人がもつなどありえようがなかった。個人で写真でも動画でも自由に出せるしデジタルカメラで簡単になったことである。現代は写真とか動画の時代なのである。写真のインパクトが活字よりに大きい。アメリカのイラクの戦争で石油まみれの鵜が写されたけどあれはやらせだった。でもその一枚の写真が衝撃を世界に与えたのである。写真も動画も操作できるからだ。



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写真の時代というとき自分が前にとっていた六号線を走るサイクリストの一団の写真は迫力があった。むんむんとした熱気があふれだして六号線を走っていたのである。これを言葉で表現してもその迫力を伝えられない、一枚の写真が過去を蘇らせたのだ。これは津浪にも言える。これほど映像で津浪が記録して伝えられることが今までなかった。動画では全くなかった。その印象派あまりにも鮮烈なものとなったのである。自分も津浪の記録を写真でだしたら全国の人が相当見たのである。
津浪に対するリアルな情報はこの辺ではなかった。400年前に700人溺死と記録はされていたがそれ意外の記憶は何もない、せめて図とか何か拙い絵でもいいから残されていたらまたかなり違ったものとなっていた。400年前の津浪をリアルなものとして認識して記録されないから危機感もなかったのである。今回ほど津浪の恐ろしさを映像で記録された時はなかったのである。



美しい八沢浦がよみがえったとしてプログに写真と共にだしたとき、地元の人がお前はここで無惨に死んだ人のことをどう思うのだ、子供まで死んだだそと批判された。それは確かにそうだった。ただ比較的そこは人家が少なく被害が少なかった。海になったところにはほとんど家もなかった。被害はあったにひろ村とか街が壊滅するのとは違っていた。
まずマスコミだったかこういう表現もしない、ただ無惨だ無惨だと悲惨な津浪の光景しか写さないのだ。でも明かに八沢浦が奇跡のように浦としてよみがえったことは事実なのである。それは美しいものであることも事実だった。こういう報道ができたのもインタ-ネットで個人で写真でも方とをすることができるようになったからなのである。マスコミと地元の人と個人の見方はちがってくる。そこに多様な情報の真実が追求できるのである。

情報はすべてインタ-ネット化してゆく方向にあるのかもしれない、選挙にも活用されることでもわかる。インタ-ネットは仮想空間でなく現実空間となりつつある。インタ-ネットで写真と実名で主張している人も増えた。そのことは今までのメデアを通して新聞や雑誌やテレビで主張するのとは違う。これまではマスコミというメデアを通して主張してきたがそれはマスコミによって操作されたものとして情報は出されていたのである。マスコミに出る人は限られている。そしてマスコミは宣伝費が経営を支えているのだから金を出す大会社の方を大事にする。また巨大な権力集団の圧力に抗すことはできない。そこから金が入ってくるからだ。だから今回の東電の原発事故にしてもマスコミはすべて安全神話を戦争のときのような大本営発表になっていたのである。なぜなら政府と東電が一体化して莫大な金がマスコミに流れていたからである。情報は常にこれまでも権力によって操作されたものしかででこないのである。出版の本ですらそうだった。確かに原発を批判する本をほんの一部出ていたにしてもそれは何か空想的SFの小説のようなものとして見ていたというよりそういうふうに情報によって操作されていたのである。原発は絶対に安全だとまで操作されていたのである。


インタ-ネットではマスコミのメデアを通じないで直接訴える人がでてきた。


テレビも新聞も取材に来るけど、表面しか捉えていない。NHKにも抗議したんです。
 「表面の話はもういいから。裏で苦しんでいる人がたくさんいるんですよ」って。そしたら、「貴重なご意見、ありがとうございました」で終わり。
 裏を取材して下さい。住民の心の中を。「飯舘村はきれいで、だけどそこに住めなくなって、涙を流していました・・・」。こういう話はもういいの。


帰りたい、帰れない 飯館村の苦悩
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-66.html


この人は飯館村の住人として本根で語っていた。村長が国の管理化に入って放射線量が高いのに避難させなかったとか除染は無駄だから金をくれ、金が大事だとか主張している。現実問題としてはもう住めないのだからそれが当然の主張だとも言っている。こういうことの是非はともかくなかなかマスコミではストレ-トには言えないだろう。補償金で避難民はパチンコで遊んでいるとかもマスコミを通じては言えない、きれいごとに終始しているから実体が外からわからないのである。


ともかくこの辺では原発問題で民主主義に目覚めたということもある。実際に深刻な被害を受けたのだから東北特有の無口なお上に従うという慣習だけではだめだとなる。そういうことを強いられた場にもなったからである。自分たちが主張しなければまた国や東電やマスコミや大きな団体のいいなりになり苦しめられるだけだと現実的になっているからだ。

写真の影響というとき自分のプログの奥松島を旅して写真にだしていたのがここのところずっとかなりの数が読まれている。毎日20人近くのアクセスがある。これもどうしてだかわからないがそれは

津浪以前に訪れた写真の影響だと思う。自分が写真に撮ったところは津浪で被害を受けて喪失したのだろう。そこで写真が貴重になったのである。それは六号線のサイクリストの一団の写真と同じだったのである。写真の影響、迫力は言葉より大きいのである。それが一番力を発揮したのはまさに今回の津浪原発事故でその風景が失われたときだったのである。


奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)
http://musubu2.sblo.jp/article/29414836.html


ここに行っていないのだけどこの風景が津浪で喪失した。被害状況はみていないにしろここに当時の風景が残っているからアクセスが絶えずある。他でも写真は残っていると思うけどどうしてかアクセスがつづいているのだ。これも明かに文章より写真の影響なのである。失われたものを回想するには写真の方がインパクトが大きいのである。

 

2013年02月22日

キンドルを買った (電子書籍は本とは違う-情報処理能力の飛躍的拡大)


キンドルを買った

(電子書籍は本とは違う-情報処理能力の飛躍的拡大)

●キンドルは文章を読むのに優れている

キンドルの説明
http://www.youtube.com/watch?v=NPTpTEVchY8


Kindle Paperwhite3Gは電子書籍を読むのに優れている。文字が読んで疲れない、外の光の中でも読める、軽いから文庫本のように持ち運びができて寝ころんでも読める。非常に読みやすいことである。眼はパソコンのように疲れない、電池は長持ちする。電子書籍に特化すればこれは優れている。
ソロ-の森の生活をダウンロ-ドしてみて読んだら読みやすい、本というのはそもそもこんなに手軽に読めないようになっている。書棚にあっけ取り出してペ-ジをめくり読むのだが何か本は一冊でもじっくり読むようにできている。本はまた厚いのも多く手にとると重く電子書籍のように簡単に読めない、書斎がありそこで瞑想にふけりつつじっくりと読むというのが本であった。だから一冊の本には重みがあった。本のル-ツをたどれば


修道院には専門的な工房があり、そこで制作された聖書を初めとする手写本は、修道院や教会の宝物庫にいつまでも保存されるべき宝でもあった。
やがて写本は、次第に装飾や彩色画を備えるようになる。この装飾や彩色画を託されたのは、修道士たちであった。
装飾手写本は当時の市民には高価きわまりない贅沢品で、6册分の価格で家屋が購入できるほどであった。

http://www.geocities.jp/petitpixy/page503.html


本はこのように気軽に読めるものではなかった。そういう延長のなかに本というのはあった。だから本は出せる人は特別の人だったのである。ロ-マ時代でも作者より本にする紙の方が高くついて紙を提供する人が作者よりずっと力をもっていた。これは現代でもメデアとか出版社とか取次ぎとか本を書くものではなくそれを作り流通するものが力をもっているのと同じだった。だから出版社では編集者とか印刷業とか本を出すにはいろんな人がかかわっていた。それだけ一冊の本を出すのは普通の人はできないし商業ル-トにのらないと本は出せない、それで権力あるものが出版で牛耳ることになった。原発を批判した本が出されてもまるでSF小説のように扱われていた。原発事故など起こることがありえないというように情報で操作されていたのである。

安全神話が出版でも巧妙に作られていたのだ。情報は今でも常に権力をもつものにより操作されているのだ。新聞でも本や雑誌でも出版するには相当な金がかかる。。すると権力側で資金を提供してその権力側にとりこまれるのである。だから巨大組織である創価であれ幸福の科学であれ何であれオウムさえ自ら出版する印刷機まであった。
そういう巨大組織でしか出版はできない、だから本を信用する人がまた多く癌が直るとか本に出してだまされた人が結構いる。株でも民主党の海江田党首すらもうかると本をだして今は訴えられている。本はインタ-ネットなどより信用される。もちろんマスコミでもテレビでもインタ-ネットよりは信用される傾向はまだつづいている。ただインタ-ネットというのは思った以上、普及している。


●パソコンやインタ-ネットは高齢者まで普及している


プララから二〇〇〇円安くするとかOCNから電話で連絡があった。簡単な操作で移れるというので申し込んだがそこで問題だったのはインタ-ネットをする高齢者が増えたので操作がわからなくなりその相談で会社でも悩んだらしい。ということはそれだけ高齢者でもインタ-ネットする人が増えたのである。でも六五才以上はできないと規約になっている。それは操作がめんどうだから高齢者の相談が多いからである。操作ができないとそういう乗り換えもめんどうになるからだ。初心者も多いからである。パソコンとかインタ-ネットはもう必需品になっている。インタ-ネットなしではもう社会参加するらできなくなる。参議院選挙からインタ-ネットで政治家が宣伝するのも許可される。インタ-ネットは日常生活のツ-ルとなっているのだ。ただ高齢者とかには操作がめんどうでアクセスできないのでそれだけ相談が増えたのである。

バソコンがこれだけ普及したのは人間の欲求が頭脳に知的なものに移ったからである。人間は建築であれ道路であれ水道であれ重厚なインフラ整備が終わると次はやはり知的な分野に精力を傾ける。

パソコンは明きらかに人間の頭脳の代わりであり補充するものであり人間の頭脳と密接にかかわっている。人間の記憶力は映像にして文章にしても極めて容量が少ないがパソコンやインタ-ネットは無限大なのである。だから最近家事など忙しく時間がなく新聞をとるのをやめた。読まないのに新聞紙は紙としてたまってくるから困るのである。バソコンとかインタ-ネットは無尽蔵に貯蔵しても困ることがないのだ。インタ-ネット化で一番早めに消えるのは新聞でありすでに電子化されていることでもわかる。次に本も消えてゆく、本は芸術作品のように豪華本として残される。流通するのは電子本になる。電子本とかインタ-ネットの弱みは一瞬にしてすべてのデ-タ-が消える恐怖がある。
そういう恐怖を何度も味わった。これが一番恐いのである。だから紙にも残す必要がある。それもオンデマンド出版で一冊から今は機械的に作れるのである。自分は書きためたものを今度は整理して本にして出そうと思う。出版社からではない、アマゾンのキンドルで誰でも出版できる。出版社を通さなくてもできるのだ。今や本など誰でも簡単に作れる時代なのである。ただそれが広く読まれかどうかはわからないし無理な面はある。出版できたらすでに出版社で評価されて世にでるからである。
出版社を遠さなければ出版はできない。すると出版社が力を持つことになる。本はやはりそういう権力をもったものしか出版できないということがあった。そこで情報が操作されて原発事故も起きたともなる。


●情報化社会は莫大な情報を処理する社会


現代が情報化社会というとき江戸時代などからした何万倍か億倍なのか凄まじい情報処理しなければならない、グロ-バルすれば世界の情報も日々入ってくるからもう処理しきれないくらいである。
そのためには新聞とか本とかの媒介では追いつかない、情報を早く処理する、膨大な情報を手早く処理することが必要になってくる。それで電子本であれインタ-ネットであれそっちの方が便利になる。ここにも問題はあるのだけどともかく本にしても自分の家が本で傾いたようにそれだけ本に頼るのが知識の世界だったのである。でも本は自分の文脈で利用するとき活きてくる。自分が主体にならない限り本を読んだことにはならないのだ。本を読むということは極めて創造的作業なのである。だから若い内はは本に読まれても読むことはできないのだ。自分でも最近本を読んでこれは何を意味しているのか即座にわかるしそれを自分なりの文にとり入れることができる。だから読書も楽しいものとなる。そしてイプットよりアウトプットの方が多くなるし面白いのである。


情報化社会はやはりそれぞれが普通の人でもアウトプットする量が膨大になるのだ。自分もすでに全集が作れるくらい書いている。詩集でも十冊くらい出せる量を書いている。それだけ書く量が増えたのも現代なのである。
作家でなくても普通の人でも今はアウトプットできる時代になった。それがすべてとるにたらないものとなるということでもない,なぜなら人間の体験は例え百年生きても極めて限られたものなのである。すると他人のどんな体験でもこんな体験していたのか、それでこんな考えもあるのかと参考になるのだ。人間はともかく話す相手でも主婦だったら夫と子供と隣近所くらいしかないというのが今でも普通である。インタ-ネットは問題があるにしろ広範囲の人の情報に接することができるのだ。
電子本も文庫本百冊持ち歩くことができるようになるのは便利である。通信だったらすでに無尽蔵なのである。IPADなどが普及したのもわかる。情報は本一冊でも持ち歩くとしたらできない、情報は電子化すると持ち歩く必要ないのである。


あとがき

Kindle Paperwhite3Gではテキストフアイルをパソコンで感嘆にドロップして本のように入れることができる
ただWI-EI通信はめんどうで簡単にできない、ル-タ-などヴ必要になる。
それでも通信料無料で本は読めるから便利である。ただ本の蓄積は極めて少ないのが問題である。
それでもソロ-などの本を手軽に読めるのは便利だった。
自分のテキストファイルは持ち運びびきるのも便利である。
電子書籍が何か知りたいならキンドルのKindle Paperwhite3Gからはじめるのがいいかもしれない・・・

2012年07月06日

今なぜ本が問われるのか(2) (インタ-ネットにはない本の特徴)


今なぜ本が問われるのか(2)

(インタ-ネットにはない本の特徴)

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冬日さしペ-ジをめくる厚き本


●本をテ-マにした短歌や詩


瓶にさす藤の花ぶさ一ふさは重ねし書の上に垂れたり 子規


売り売りて手垢きたなきドイツ語の辞書のみ残る夏の末かな 啄木


本を読むならいまだ
新しいをきりはなつとき
紙の花粉は匂いよく立つ
外の賑やかな新緑まで
ペエジにとじこめられているようだ
本が美しい信愛をもって私を囲んでいる
室生犀星


タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行って
あの黄色い外国製の鉛筆を買った
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずった木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ 明日はもう秋だ

ー西脇順三郎「秋」
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本に埋もれる老いの至福

寝ころびながら本をぱらぱらとめくる
自分が引用できそうな文をマ-クする
その詩に洞察に感嘆する
寝て座って立って所を変えて読む
時には廊下に冬の日がさして
分厚い本のペ-ジめくる
そのペ-ジに冬の日がさしている
随分この本も古くなったと
我が古い友のような本もある
我も古くなった本のよう老いる
何度も読んだ本は古酒のようになっている
夏の夕ぐれ日はまだ明るい
本は人類の知恵の宝庫
私は居並ぶ賢者と芸術家とともにいる
私は今やそうした歴史上の人物と対等
なぜなら即座に深く読める
その一文を自分の文のようにとりこめる
丁度オ-ケストラの指揮者のように
それぞれの楽器を深く理解できる
鑑賞力が増せば深まれば
その味わいはまるで違うものとなる
一なるものが十にもなる
くめど尽くせ知恵と美が本にあり
私の時間は至福に満たされる

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●物としての本と電子空間の本の相違


詩でとりあげたように本というのは電子本との相違はまだ良くわかっていない、本が何であったのかなどと問うこと自体それが電子の世界になったとき問われるようになる。本が最初は文字が作られたときからはじまったというときただ文字を印すものが煉瓦だったり粘土だったり竹だったりとしていただけであり紙に印されたとき今の本ににた形になってきた。本の前に文字が作られたことであり文字があって本がありえた。文字でも何か印されることによって残ることができる。すると木に印されるよりは石に記された方が後世に残りやすい、石に記されると何か文字に重みがでてくるというとき石の重みがそうさせているのだ。文字は別に何に記されても同じなはずだが石に記された文字は重みがでてくる。それは文字に重みがあるというより記された石に重みがあるからである。本でも装丁が美しく重い本だと中味もあるように思えるのと同じである。


鉛筆にバラモンのにおいがする・・・という詩でもこれは本にもあてはまる。紙の材質によっては紙の手触りから本を読むことはバラモンのような特権階級のように思えてくる。本は高いものがそういう感覚にもなる。文房具にこるのもわかる。筆がいろぽす発達したのはそのためである。本の世界はそれだけ特権階級的なところがあった。だから普通の人でも一生に一冊本を出したい、成功した人が大金を出して自費出版するというのが成功の証でもあった。それほど本というのは普通の人には高根の花だったのである。それを商売にしようとする出版社がふえた。今でも流通面では本は普通の人には書店に並べられない、でも本を作るのは今や素人でもパソコン上でもできる安上がりなものとなっている。本にもいろいろあり本の大きな価値は流通面にあった。本を作ることができても普通は流通はできない、大手出版社とかの許可がなければ近くの本屋でも置けない、そういう仕組みになっているのだ。だから情報が操作されるということがあった。原発の危険を指摘した本が隅に追いやられて何か特殊な奇人の空想的なものとして真面目にとりあげられていなかったのである。情報は権力あるものによって操作されている。それは本の世界でもそうである。

何故なら取次ぎなどは戦後アメリカが情報を検閲するために作られたのである。本と流通の問題は別なのである。グ-テンベルグ時代に本は簡易に作られ普及して流通したからこそ革命になったのである。その時代に流通した本は少ないにしても仏教寺院で修道院でしか仏典でも聖典でも読めない時代とはあまりにも違う社会となったのである。現代では逆に本は中世の写本のようにして残る。
装丁にこり一冊しかないような芸術品として残る。ただ中味は電子本で流通することになる。本とは普通の人には流通できないし本自体流通にはむかないので出版社も書店もなくなる。すると最後に残るのは本の芸術性を追求したものとなる。それは図書館に絵のように保存されたりする中味は電子本で読むのである。


●本と電子本との相違にまだ気づいていない


本とは何なのか?そう問うこと自体が電子の世界化、インタ-ネットで改めて問うようになった。だから本とは何かとなるとなかなかわかりにくいのだ。本は文字だけでなく物としてありだから材質にこだわったりする。物としてのフィテシズム、愛書家も生まれる。物だからそうなる。自分も本を読むというより本の蒐集家でもあった。20代から書斎をもっていたから恵まれていた。ただ若いときは本は集めても読んでも深く読めない理解できないのであるがでも相当集めた。郷土史関係の研究でもまず本を集めないとできないということがあったのだ。だからある程度手元に本がないと研究もできないし文章を書くこともできない。ものを書く人はどうしても書斎が必要だし思索の空間も必要である。それがわかったのは今まで狭い所で書き物して読書していたことでわかった。今は広い部屋で読書している。それで気づいたのが本というのは自然の外界の反映がある。インタ-ネットの空間にはそうした外界の自然の反映はない、分厚い本を開いたらそれで風がそよぎペ-ジがめくれたとか、冬の日がさしてきたとかない、ただ電子文字と写真やビデオの空間なのである。

このことは意外と大事だった。夏なので外がいつまでも明るいなと思って読書しているときその明るさは昔だったらその明るさが部屋の中に作り出されて書院作りができて障子ができて本も読めるようになった、書き物もできるようになった。襖とかでしきられていたら中は暗いからできなかったのである。電気がないのだから明るさは自然の光で自然の中でこそそうした本を読むとか書きものとかをすることができたのである。東雲(しののめ)はしのは竹であり昔の家は竹でできていてその篠の朝に上ってくる日がはじめにさすから東雲となったというのも家というのがやはり人間の中心にあった。知的作業にはこうして書斎とか家が必要なのである。そういうことは田舎ではしやすい。あとは庭があればいい、息抜きするためである。


平安中期から以降になるとさかんに書物を読むようになる。読むばかりではなくて昔のことですからそれを筆写しなければならない。そうするとこれはかなりの明るさをもたないとそれができません
しかも風が吹き込むような家では困ります。
そういう中から襖を薄い紙でもってはる、いわゆる明かり障子とういものが作られようになった
(宮本常一)


このように本というのは電子本とは相当に違ったものであり本とは何かというときそれが良く答えられないのはそのためなのである。その大きな特徴が本が物としてあるということなのだ。物としてあるから流通するには不便なのである。自分の家が本で傾いたというのはそのためである。本の不便さはいろいろある。本は手元に奥には限られたものである。すると知識も極限られたものとなってしまうのである。それは物だから置くには限度があるからだ。ところ電子空間では物ではないから無尽蔵に置ける、ゴミになっても一瞬にして消し去ることができる、それがかえって電子本は文字に重みを与えないものとなっている。電子の世界では書くということも違っている。書きながらキ-ワ-ドで書くことを追加したり書きながらアイデアが自然と生まれてくることがあるのだ。そういうふうに書き方も違ってきている。ともかくいくら書いても重さもないから誰の負担にもならない、誰の負担もかけていないということが不思議なのである。本一冊を流通させるには相当な負担がかかる、だからそれを商売にだけしにらうとするものは売れないものは扱いたくないとなる。こんな売れないものは置いてどうするんだとなる。でも知的なものの価値は誰かに何かを伝えるということでもあるから別な価値観を本の世界には知的情報の世界にはあるべきだったのである。それがインタ-ネットで開けたのである。


売り売りて手垢きたなきドイツ語の辞書のみ残る夏の末かな 啄木


本はこうして誰かが読んでいるものをまた読む、この本は誰かが使ったのだなと思ってよむ。しかし電子空間にはインタ-ネットには物ではないからそうしたものがない、電子本の世界には古本になることはない、物ではないから古くならないのである。本だったら必ず40年くらいすると表紙がはがれたり紙が汚れてきたりする。いんづれは読めなくなったりする。電子本にはそういうことがない、劣化することがない、でもソフトで読み出せないという恐怖がつきまとっている。一瞬にして消えるということがある。現実にレンタルサ-パ-でそういう経験をしている。復旧したから良かったが他では消えたらしい,そういう怖さが電子のインタ-ネットの世界には常にあるのだ。

本のことを語ったらきりがないだろう。それだけの歴史が本にはあるからだ。インタ-ネットの世界はここ十年とかしかないのである。だからインタ-ネット自体何なのかということもわからないのだ。ただ本は一か月で書店から消えるけど次々に別なものが置かれるけどインタ-ネットの世界では発見されないにしろそのまま残っている。一見消えやすいのだが記録として残りやすいのも電子空間だという不思議がある。いくら貯蔵しても検索で邪魔になるにしても電子空間では無尽蔵の蓄積が可能なのである。ゴミになるといっても週刊誌、新聞などはずいぶん紙の無駄だなとインタ-ネットとと比べるとみてしまう。過去の検索ができないのも効率的情報処理ではない、過去の記録を知ることも大事だからである。そういうことが紙の情報分野ではしにくいのである。どこかの書庫に図書館に貯蔵されていても見れないのである。福島市に巨大な図書館があってもそこを利用できないのだからないのと同じなのである。

2012年07月05日

なぜ今本が問われるのか? (電子化、インタ-ネット化の社会の急速な変化に対応できない)


なぜ今本が問われるのか?

(電子化、インタ-ネット化の社会の急速な変化に対応できない)


●本の歴史は文字の発明と共にはじまっていた


今本について盛んに書かれるのはなぜか?それは本に変わって電子書籍がというときパソコンとインタ-ネットによって本とは何かと問われたからである。本が何かなど今まで問われることはなかった。本の歴史は実際は文字の発明からはじまったとすると何千年にもなる長さである。楔形文字を粘土版に印されたときからはじまっている。文字の発明は商業と密接に関係していた。なぜならアルファベットはフェニキア人から発明されたというときまさにそのことを物語っていたのである。貿易のために簡易な共通の文字を必要としたから生まれた。その前に楔形文字があるけどそれも砂漠地帯では商業が古くから起こっていたためである。エジプトのヒエログリフは多少違っていた。それは広く共通あものとして発展しなかった。エジプト国内でしか使われなかった。それは王の年代記のようなもので商業のために異民族との貿易のために使われることはなかった。文字はフェニキア人のように異民族との商業のために共通化したものとして広まったのである。商業が世界のル-ルを作ったというとき基本的に異民族で共有する文字が必要だった。それがアルプァベットであり世界的共通の法律を作ったのである。世界的ル-ルが商業が作ったと前に書いたように文字もそういう面があったのだ。
アジアがなぜヨ-ロッパのような広範囲な共同体を作り得なかったというとやはりアルファベットのような共通な文字が作られなかったことにもある。


外国旅行するとアルプァベットの国は字を読むのにわかりやすいからいい。なぜなら音からは聞き取りにくいからであく。アルプァベットだと一応読めるということがある。中国で漢字を書いてなんとか意思疎通できるのもそのためだった。発音からは全くわからないのである。漢字はむずかしいのだけで中国というと一つの世界だから漢字を通じてアルプァベットの役割を果たしたということがある。それは日本でも文字がないとき漢字をとり入れたのと同じである。漢字を通じて世界化したのである。ただ漢字はむずかしいので世界化しなかった。英語が世界化したのはアルプァベットだったからである。日本がアジアの中でいち早く欧米化したときやはり日本語だけでは訳せない、漢字でもって約したというときやはり漢字にはそれだけの文化があったということである。例えばアイデインティティというのはどう訳していいかわからないものである。これは合一とか訳せばわかりやすくなる。合一というとコミュ-ンともなるがアイデインティティも自然にアイデインティティを見いだして同一化して合一することにある。合一という言葉は大和言葉では現せない、そういう言葉の応用ができたのが漢字だった。それで欧米化したものの翻訳を漢字でしてその漢字を中国では利用している。革命というとき中国ではもっとも頻繁に使われるが日本人が漢字から発明した言葉だったのである。


世界的には商人が世界のル-ルを作った
http://musubu.sblo.jp/article/56454399.html

●本が問われるのは車社会になり歩くことが見直されるのとにている


今なぜ本が問われるかというときそれは文字の電子化という発明が今までにないものだったからである。ワ-プロからパソコンで書くことがあたりまえになっているけどこのこと自体相当な革命だった。つまり活版印刷が発明されたと同じほどのそれ以上の革命だったのである。そのことがまだ良く理解されていないのである。インタ-ネットとかで文章を出しているけどそこでは素人でも別に大作家だけではない、簡単にいくらでも文章を出せる、それがゴミとしても別にゴミにならないというのも不思議なことなのである。無尽蔵のことがインタ-ネットでは蓄積できるし誰でも書けて発表できる世界なのである。何か書いて発表すること自体、紙を利用している時は選ばれたもののすることだった。今でも本とか雑誌とか新聞とかそういう媒体を利用できるのはほんの一部の特権者なのである。ロ-マ時代は紙はあまりにも貴重なものだったから作家がいても紙を所有している人が紙を提供している人が実権をもっていた。作家はただ紙を提供してくれるものに書かせてもらうというだけであった。何ら収入はそこにはない、これは現代でも出版できるのは出版社や新聞社の許可を得たものしかできないということと同じなのである。それだけコストがかかりすぎるからそうなっているのだ。


そして本と電子化された世界とはいろろいな面で相当な相違がありそれが本とは何かと問うようになったのである。奇妙な話だけど人間が車社会になり道路を歩かなくなったとき歩く世界がわからなくなったということを何度も書いてきた。歩くことから生まれた情緒性が失われた。江戸時代の浮世絵などは歩くということなしに鑑賞できない、自ら歩かない時代にはその情緒や文学も絵画も鑑賞できないのである。歩く時代は橋一つとっても人間と一体化していたのである。今でも歩いて見えるものがあり歩くことにより実際は五感が働き見えるものがある。歩くことと自転車では違っていても歩くことに近いから自転車だと見えるものがある。そしてどういうわけか自転車を乗っている人とは親しくなりやすい、車に乗っている人とはあまり話しもできないということがある。車が人間社会を根本的に変えてしまったのである。そもそも歩くことは人類が生まれて以来歩くことなしでありえない世界だった。その歩くことをふりかえり問うなどということも考えられなかったのである。

それと同じことが電子化されたインタ-ネットの世界で起こっているのである。車社会になって失われたものは余りにも多い、それは情緒的な面として人間の根幹にかかわる面で変わってしまった。例えばかえって過去をふりかえるとき牛とか馬を利用していた時代をふりかえるときいかに牛や馬というものに人間が影響を受けていたかということである。馬とか牛は人間と同じである。一つ家の中に住んでいて名前もあり家族と同じである。そういう感覚から情緒がはぐくまれていた。牛と一緒に暮らす働くということと機械を利用して働くことは根本的に違っている。牛は生き物だから牛の性質のようなものが人間に自然と伝わり牛とアイデインティティ化してくる。牛との合一化、アイデインティティ化してくるのである。だからこそ高村光太郎の牛の詩ができた。牛が心の中でも生きていた時代だから作れたのかもしれない、まだ車時代ではないからできた。戦前までは牛馬の社会だったからである。


●過去の牛と馬の役割とにている本の世界


昔の話で前に書いたけど上萱まで荷を積んで運んだ馬は暴れ馬だったけど力があるからあの坂を上ることができたという、馬にも暴れ馬がいて性質の荒いものがいる。野馬追いのときも実際はいろいろな馬がいる。御しやすい馬とそうでない馬がいる。馬には性格がある。牛はどうなのかというと牛は荷を運ぶには馬より便利である。なぜなら牛は道の草を食べるから馬のように飼料が必要でないから良かったという。それで塩の道で塩を運んだのは信州でも牛だった。牛はまた坂道にも強いから牛が荷を運ぶには便利だったのである。馬には注目しているけど牛はわからなくなっている。今では牛は牛肉であり乳牛の牛であり運搬している牛を知らない、牛肉の牛と運搬する牛は根本的に違っている。それでも飯館村辺りでは十頭もの牛に名前をつけて仮設住宅に住んでいる人がなつかしがっていたのは生き物だからそうなる。ペットが人間化すると同じである。牛との別れを家族のように惜しんでいるというのも相手が生き物だから情が移るからそうなる。機械だとそういうことはないから情緒的な面で人間は薄情になるともいえる。

こういうところに実は現代の人間が薄情化している原因もある。人間が切れるというとき車社会だとそうした牛馬と接することのない社会となっているという面もあるのだ。江戸時代との根本的相違はそうした環境にあったのである。江戸時代のモラルというのはそういう環境から農業基本の世界から作られていたのである。だからモラル的には安定していたのである。二宮尊徳のモラルもそこから作られた。今の時代にこの辺で二宮尊徳のことを言っても余りにも変わりすぎたので通用しない、現実に原発事故にどう対処すればいいのかなどわからないのである。人間は牛から学んできた。牛とアイデインティティ化してきて精神世界も作ってきた。老子が牛にのっている姿や牛は人間の精神のシンボルでもあった。そういうものが喪失したとき人間は根本的な所が変わってしまったのである。石のことを大分詩にしたけど牛と石は共通したものがある。忍耐性とか寡黙だとかでそうである。石で作られた建物と木で作られた建物はそもそも文明の相違にもなる。ヨ-ロッパと日本の相違はまさにそこにある、文明の相違となっているのだ。


本が何か問われているとき電子化によるインタ-ネット化によって問われているのは牛や馬がいなくなった社会とにているのだ。本は牛や馬とにた面があったのだ。電子化やインタ-ネットの意味していることは何か未だわからない、新しい技術は最初ただ便利というだけで受け入れる。でもその意味がわかるのはあとのことである。原子力にしてもこれが何なのか良くわからないけど便利だから効率的だからとはじめる、その安全性も確立していないのにはじめる、今回のように事故を起こして原発は危険だとかこんなことはやめるべきだとかなる。技術は便利だからそういう側面をみんなもっているのだ。ともかく本が何かと問われているのは何か過去の牛や馬の役割は何だったのだろうかと問うこととにている。何かそういう側面があったのである。

 


次回は本についての文学的考察をしてゆきます


プログはシリ-ズものがいい、次にどういうことが書かれるのか興味をもち読もうとするからである。これも本の世界とは違う。三国志をテレビでシリ-ズの番組を放送しているがあれは面白い。次がどう展開するかということで興味をもつのである。それにしても人を信用できないか、いかに相手もだますかということで絶えず疑心暗鬼になっている世界だった。だまされて殺されることが日常茶判事の世界で生きていたから過酷である。なぜならだまされることは即死につながっているからだ。
中国人はあういう過酷な世界に生きてきたということである。陰謀術数にたけてくるからとても日本はその点ではかなわない、平和だったということである。そして今の時代は金だけが頼りの疑心暗鬼の人を信用できない社会になってしまったとういことである。日本人のいい面は失われたから同じなのである。ある人は経済の基礎は道徳だといって日本人はその道徳が備わっているというけど今や違っている。金しか価値観がない道徳もない社会が現代の日本社会であり世界共通化しているのだ。
なぜそういう楽天的な見方になるかというとその人は犯罪にあっていないからである。犯罪にあった人は社会の見方が変わる、強盗や身内の殺人などにあった人は全く社会を違ったものとしてみるのである。日本人はかつての日本人ではない、全く金だけにしか価値を置かない日本人になっていることを体験しないからわからないのである。あらゆるところに金しか求めていない社会なのである。

2012年02月26日

家のもっている(家霊)の力 (NHK-家で死ぬということ-を見て)


家のもっている(家霊)の力

(NHK-家で死ぬということ-を見て)

今日のドラマでも家に執着して家で看取られ死んでゆきたいということをテ-マにしたドラマを見た。今どこで死ぬのか死にたいのかということが問題になっている。たいがいは今は病院で死ぬ。
このドラマでは病院で死ぬのがいやで自宅で死ぬことを望み自宅に帰り死んだ。その場所は白川郷でありドラマとして設定した。あそこの家は合掌作りで有名だから選ばれた。代々人は家で看取られ死んだ。だから家への思いが強い。家がそれだけ重みをもっていたのは養蚕などで家が生産の場になっていたからである。白川郷の合掌作りは二階、三階が蚕を置いた。そういう作りは今でも阿武隈山地でも残っている。家の重みは社会の変化と共にあったのであり家族関係も社会の変化によって変えられたのである。農家だったら江戸時代だったら前田とか門田が中心となり生活があった。だからこそ前田という地名が多くそこが家の中心であり村の中心であった。そうして代々生活してきたから家に重みがあった。今は働く場所がみんな家の外になったとき家の重みがなくなったのである。みんなサラリ-マンになってしまったのである。家の重みは家族だけでも作られなかった。村では屋号がついた家が多いのはそこが一つの会社のようになっていたからである。商人でなくても農家でも屋号が名前代わりになっている。ドラマでもそうだった。ただ白川郷は観光地として栄えているのだからその様子は今や現代社会を反映したものとなっているから現実は違っている。外からの人を大量に受け入れて成り立っているのだから変わらざるをえないのである。



家霊は、
住む人の思いで力が強まっていきます。

つまり、自分の家に感謝したり、
自分の家を誇りに思ったりすることで、
力が増していくのです。


住む場所の持っている運気と合わないときは心がソワソワして精神が不安定になる体がに不調を感じる・一人でいると誰かに見つめられているような感じがする・家の中に誰かがいるような人の気配を感じる・家に帰ると気持ちが沈む・極端な場合、家の中に誰かがいて姿が観えるような現象を訴える人もいます。これらの現象は前に住んでいた人の念の作用によることが多いものです


建てた家の階段を上り降りするとき人が横を通り抜けるような気配を感じると相談に来た人がいす。大工さんの両親が亡くなり家を建てているとき悲観的な念を家に込めてしまったのが原因でした。家を建てる大工さんと人間関係は良好にしておくと良いでしょう。
http://www4.ocn.ne.jp/~sti5mti5/toti/toti.htm




家というのには本当にその家に長く住んでいた人が以前としている。病院で死んだりしても病院にその人はいない、でも家には確かに死んだ人が以前として霊としてでも住み着いている感じがするのだ。自分の家は築40年以上すぎている。事情は複雑だけでこの家は姉が重に建てたものでありその思いがこもっている。柱は橲原の同級生のキコリの人が太い柱として材料を提供してくれたことを何度も言っていた。白川郷でもユイという組織があり家は村の人が全員で茅葺きの家を作っていた。とすると村人全員の思いが一つ一つの家にこもっている。村人全員の心がこもっていることになる。今日ニュ-スで二本松油井字中田とかあるがこの油井は結いであろう、鎌倉の海岸の由比もそうだろう。
千恵子の家も由比地域にあった。日本全国で村にはユイがあった。 ここで大工さんのことが出てきたが大工さんの念が影響したというのも確かに家作りにしても人間がするのだから大工さんの心の状態が影響するということがある。でも今は家はプレバブのように組み立てる家が多くなったからあまり大工さんのことは考えない、ただ人間のかかわりは単に物を買い売るという貨幣関係だけでいなものが必ず生じる。そこに心の問題が生じてくる。


自分の家に感謝したり、
自分の家を誇りに思ったりすることで、
力が増していくのです。


自分の家を誇りにもつとか感謝するとかそういうことが現代ではあらゆる所に欠けている。現代とは今しか生きていない、今がすべてなのである。だから白川郷のような家の物語はない、団地やマンションのうよな所に住んだりただ住むだけの家にはそれも40年とか住んで建て替えるとかなると家の重みがなくなる。それでも40年くらいでも家の重みはでてくる。ヨ-ロッパの家は200年とか300年とか継続して住んでいるから家の重みがあり歴史の重みを伝えることができる。日本では最近は特に家の重みがなくなった。昔だったら江戸時代だったら庄屋とかがあり村の中心がありそこから歴史がたどりやすかった。今はそうした村の中心となるべきものが希薄化した。農民すら全国民の一割しかいないとかなり農業が国の基でなくなった。それでこの辺では実際は原発が町村の中心になっていたのである。こういう生活の変化が家の重みを喪失させたのである。


だから死でも重みのない死となる。田舎の冠婚葬祭がわずらわしいしいいとはいえない、ただ代々伝えられる家の重みがあって人間も作られてゆく。漬け物のことを言っていたが家ごとに漬け物のつけ方や味が違っていた。そういうものも代々伝えられてきたのである。そういうものも喪失してゆく、文化が喪失してゆく、ではすべて新しいものとなったとき何かそこに重みのある意味あるものを作れたかとなるとそうはならなかった。代々伝えるべきものはなく病院の無機質的環境でモノのように死んでゆく、それは重みのある死ではないから不幸でもあったとなる。家からのパワ-ももらえないとなる。家なんか古いんだ、何でも古いんだというときでは新しいものに何か重みのある意味あるものが作り出されたかとなるただ破壊して喪失させただけだったともなる。

ただ人間社会は変わるのだから人間の生産の場は別なところ移っているのだからそこに思いが移る。それは一生働く会社になったとか別な場所に移った。それでも人間の基本は家に生きて家とともにありたいというのが本能的なものとしてあった。だから家の価値を見いだすドラマが作られたし看取りでも家で死にたいその思いをかなえたいという人がふえてきた。しかし現実的に国でもう金をだせないから在宅介護にシフトさせているのであり家で死ぬということ看取るということは家族自体少ないのだからそれを補う今回のドラマのような村人もいないのだからその重荷を背負わされた人は大変なことになる。ともかく社会の変化で家族も変わったのであり家族も社会によって構成されるということからまねがれないのである。


言えることは家の中には確かに死んだ人がまだいる感じがする。だから古い家などを借りた場合、そこにはそこで生活した人が死んでもいるという感じになる。その家と関係ない人でもそう感じるのはそれだけ家に執着しているのだ。もちろんそこに一緒に住んだ人は死んでもその家の中にいる感じが最も強く感じる。家には家霊が住んでいるというときそういうことなのだろう。家でもそうだが人間社会というのはあらゆるものがモノでもそこから何らかの気が発している。その気に影響を受ける。だから悪い気がでている家、家霊もありそういうところに出入りすると何らか影響を受けるということはさけられないかもしれない、そんなものは迷信だというけど誰も自殺したアパ-トとか古い家に
住めるかとなるとなりにくいというのはやはりそうした所から悪い気が発生するから本能的に嫌だとなる。そういうことを普通にあるとき人はむしろそうした気に左右されているのである。

近くの家は不幸な家族で絶えたがそのあとに若い女性が一人住んでいる。いつもいるという感じではない、でも家も住む人によって雰囲気が変わる。別にそこから悪い気が発しているとは今は感じない、やはり住む人によっても家の感じが変わるのである。
暗い陰気な不運な人が住むと家も暗い感じになり辺りにその悪い気をだすのである。ただそういう家はどこにでもあるからそういう場所をさけて住むことはできない、確かに家はモノでありそのモノも人間と関係しているから人間がモノとかかわりそのモノに影響しているのである。

2012年01月06日

本の読み方 (本は読むとは著作者の心を読み自分なりに解釈すること)


本の読み方

(本は読むとは著作者の心を読み自分なりに解釈すること)


●引用は極力すべきではない


繰り返すが、「自分の言葉」を使って、自分の疑問とその答えを中心にして要約文を書かねばならない。やってはいけないのは、本文の文章をそのまま使うこと。これは、やってはいけないよ。
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~shakai/seiyosi/howtoread.htm


本は読むより読まれているということが多い。本を読んでもびっしり大事な所に線をつけたりしていたがそれも無駄だった。本は相手ののみこまれ読まれてしまうのが多い。若いときは結局、経験もないのだから相手の言いなりになる。知識の量も経験もある人にただ読まされることになる。それは別にすべて悪いことではない、いいことを言っていれば記憶に留めるのは悪いことではない。でも読書はカルト宗教団体に入るとにている。一方的になりやすいのである。引用することは相手の言っていることをそのまますることであり自分なりに解釈したものではない、自分の文脈で解釈していないのだ。引用は確かに効果的になることはある。自分も引用したが自分なりの解釈をしていない引用もあって失敗だった。インタ-ネットでは何でも軽く書いていいから書いたがもっと要約したこれこそ自分が言いたい核心だいうものを書くべきだった。それは今からでも手直してインタ-ネットでは書ける。読書も相手の書いたものを自分なり読むということが大事なのだ。相手のペ-スのままにすべてただ自分が読むのではなく読まれてしまうのが読書には多い。


●他者の基準が基準になり安いこと


古典でも絶対化してはいけない、古典にはどうしても読まれてしまい自分の解釈ができにくい。それだけ中味があるのだから自分のようなものには自分なりの解釈はできないと思ってしまう。人間は結局、すべてのものは自分なりの価値づけするほかない、どんなにベストセラ-で売れていようが知的分野や芸術とかの分野では自分が価値の基準になってしまうのである。そんな能力は自分にはないといっても現実的にはそうされてしまうのである。だから絵画でも詳しくない人は他人の基準に従うのである。ベストセラ-を読むのは他人の基準に従う人が多いからである。みんな買って読んでいるからいい本なんだよとなる。これはカルト宗教と同じである。みんな入っているあれだけの数の人が入っているのだからそれだけの価値があるとなる。数で判断されているのだ。それに疑問を抱いても考えたり調べるのがめんどうになるからそうなる。第一カルトなどは権力をもっているから批判した本が極めて少ない。批判した本を本屋に置かさせないのだ。それだけの力をもっている。

原発事故でも原発に反対する本はあっても隅に追いやられていた。反対の学者もマスコミに呼ばれて声高に主張できなかった。もっと創価でも真光でも幸福の科学でもこれはカルト団体で権力を操作することを目指しているとかそういう批判の本は出ない、出せないようにしているのだ。書店はまた売れない本は置かない、カルト宗教団体では金があるからその会員が買ってくれるからお得意さんだとなる。ある時大きな書店は「幸福の科学」の本が入り口に山積みになっていた。一番目立つところに置かれていた。一般人はなかなか買わないにしても会員が大量に買えば売れるものとして置かれている。


●時代が変わって理解しにくくなる理由


ともかく古典でもそれがどういう価値があるのか、解釈すればいいのかは自分で価値づけるほかないのだ。そういう作業がないかぎり古典も活きてこない、権威ある本となっていてもそうである。古典というときそれはなぜ古典になるかというと時代の影響がある。どうし現代では芭蕉のような深みのある俳句ができないのかと不思議であった。それは現代の環境と江戸時代の環境が余りにも違っていたからだ。第一車もない、電気もない世界だ、高層ビルもない、鉄道もない、音もほとんどしない世界だ。そういう世界で今とはまるで違った感受性が磨かれた。現代は感受性は自然に対しても歴史に対しても乱れ悪くなっている。「須磨寺や 吹かぬ笛聞く 木下闇-芭蕉」どうしてこの笛の音が聞こえてくるのだろうか?芭蕉は自分の生きていたさらに過去の人に同情して深い俳句を作っている。現代は過去から聞こえるものも騒音とかで打ち消されているのである。古典は明治時代のもの古典になっているけどやはり明治時代は江戸時代の延長であり江戸時代の感受性がまだ残っていたから古典として残った。その時侍のことを具体的にリアルに理解していた時代だった。だから武士道なども書けたのである。武士が何であったのかまだ父とかが侍だったとかなればわかるのだ。

それが現代になると理解しにくい。司馬遼太郎は明治維新のことを書いているけどやはりまだ明治を知っている世代だから書けた。一時代あとの人は客観的にその前の時代を評価しやすいということがある。祖父母や両親の時代は具体的に理解しやすいからだ。時代が変わると団塊の世代すら理解しにくいものとなるだろう。あれだけの戦争のことをなかなか理解しにくいのもそのためである。時代に流されない人間の真実を書いたのが古典である。だから人間の不変のものとして残った。戦争が理解しにくいのは太平洋戦争などは参加した人ものちの人も否定的にとらえている面がどうしても大きいからだろう。明治維新については盛んに語られるのに語られないのは肯定的ではないからだろう。現実に80代でまだ戦争に参加していた人はかなりいてもなかなか語られないのは参加した人も否定的になっている面があるからだろう。人間は年取っても過去を語りたくない人はいくらでもいる。過去はみんないいものではないからだ。過ちと罪の悔恨だったのが普通だからである。ただ75才以上の人には日本人的な心情で共通したものがあり貧乏でも何かまだ誠実で素朴な人が多いようだ。70以下辺りになるともう日本人的心情の素朴さは喪失した。ギブミ-チョコレ-トの時代になり進駐軍からアメリカから物、金だけを要求して自らも追求する時代になったから団塊の世代と変わりない、金しか価値を認めない世代になったのである。


●本は読むより眼を通すという読み方が最善


本はじっくり確かに読む必要があるものもある。でも長い本は結局読めなかった。なぜなのだろうか、おそらく長い本はそれだけ労力がかかるからだろう。長い本は相手を読むことがむずかしく読まれることが多くなるのだ。相手のペ-スにのまれてしまう。あなたはこちらの言い分を全部読んでから何回も読んでから著者のことを語れよとなる。そういう本と人とつきあうことは骨折れるから全集などいろいろ買ったが積んどくで終わった。どんな本でもその本の全部を理解することはできない。部分的には理解できることがある。自分の今の本の読み方は読むというよりはさ-と眼を通して自分にとって必要なものをピックアップして利用するという感覚になっている。だから長い本はなかなかそうしにくいから読んでいない、でも一部が利用できなるなと思うとそこだけを記憶して利用する読み方である。だから一時にあるテ-マに関したことを十冊くらい手にとり眼を通している。それは読んでいるのとは違う。自分なりに新たに再構成するために読んでいるのだ。


ただあるテ-マで書くときどうしてもそれに関して深く知りたければある程度の多くの本を参考にせねばならない、なぜなら人それぞれに必ず詳しい分野があり専門家がいるからそうなる。とても自分だけでは解釈しきれないからそうなるのだ。でもいくら専門家が語っても自分なりに解釈しない限り本も宝の持ち腐れだった。家が傾くくらい本をもっていてもそうだった。本を買うだけで知識がふえた感覚になっていたのだ。本はもう装丁とかにこだわるより中味が大事である。装丁とか表紙の部分で重くなっているのだ。
本は重くなりすぎているのだ。本は写本のように秘密めいて情報を独占するようなものとしてあった。本はあくまでも知識を伝えるものであり紙に書いた活字で伝えるのと電子本でもインタ-ネットでも伝えることは変わらない、すると効率的に読書するには電子本でも電子化してもかまわないということである。それで内容には変わりない、内容の有る無しは決められない、その価値づけは読書する方がすることには変わりないのである。


最近ニ-チェとかマキャベリでも要点を書いて解釈している本がでているけどあういうのが受けるのは結局全部読めないからである。それでもある程度はその本の趣旨を説明しているので読書になる。でもそういう古典的なものは人によっていろいろ解釈できるのである。ある人がある部分をとりあげある人がある部分をとりあげる。自分でもニ-チェとかマキャベリでもそうした要点をとりあげて解説できる。10人いたら10人の解釈があるのだ。本になるとそれが何でも権威化して特権化するから偏るのである。ある人の解釈は参考になっても自分なりの解釈をしないかぎり本を創造的に読んだことにはならない。ただコピ-しているだけでは読書にはならないのだ。

2011年12月21日

年の暮(整理しきれない本-文章を書くコツ)


年の暮(整理しきれない本-文章を書くコツ)



冬の暮電車通りぬ一区間


町中の墓所のそば冬椿


年の暮整理しきれぬ本の山

今日は電車が原町-相馬市間で開通した。八カ月ぶりだった。でも相馬市から仙台までと磐城までが開通するのはいつになるのか?磐城は原発事故で開通できない、津浪の被害は線路にはないから原発事故の放射能問題が解決すれば開通できる。それも先が長くなるのだろう。放射能問題は先が長いのである。三十年で廃炉とかなんとかその長さが問題になった。相馬市から先は津浪で駅も流されずたずたになったから別に線路を作るとなると五年はかかると言われている。これも先が長い、バスは相馬市から三十分おきにでているから電車で行けるから改善した。電車が通じないとやはり遠くには行きにくくなる。そもそも自分もの場合は遠くに行くことができない、誰も代わって介護などしてくれない,介護などでも人に頼むとなるとどれだけ大変なものか身をもってわかった。あとでいろいろ大変なことになる。だから簡単には頼めない、だからどうしても自宅で楽しむためにテレビを大容量で記憶するレコ-ダ-を今日買った。テレビもその時間でみるよりは記録したものを選択してみるようになった。ちょっとパソコン化している。テレビでもそうだが情報の整理に追われている。

テレビですら実は自分なりに編集するとそれが一つの意味をもってくる。編集というのは映像ですら必要だった。テレビの番組をただ一方的に見ていると洗脳されるのである。そしてテレビだけではもはや情報がたりない、もっと専門的に詳しく見ようとしたらインタ-ネットで調べたり解説が必要になる。自分の得意分野でテレビの解説ができる。テレビは大衆にわかりやすいようなものしか放送しない、もっと詳しく専門的になるとどうしてもインタ-ネットでも本でも解説をさらに加えないと深く知ることはできない、その作業がめんどうなのである。BSもテレビでは多少専門的になっているがやはり視聴率をとるということから逃れられないからどうしても大衆向きから逃れられないのである。


読書のコツは何かというと自分の経験では奇妙だが本を読むことではない、自分のテ-マとか自分の研究をすすめるためにはそれに関した本を集めることであった。一定数の本を集めない限り自分なりのものは書けない、たいがい本を出している人は小説家でも学者でも一定数の蔵書をもっている。有名な小説家だったら一軒の家を書庫にするくらいもっていた。司馬遼太郎みたいなるとしたらそうなっていた。図書館があるからいいではないかというと図書館でも自分の関心のあるものがあるわけではないのだ。そして思考しながら読むというなると自分の家が小さくても図書館になっていないと自分なりのものは書けない、本というのは一冊だけ読んでは自分なりのものは書けない、それに関してのかなりのボリュ-ムの知識の集積が必要になってくるのだ。

そして今近江商人というのに興味をもって知識を集積しようとしたら自分の集めた本の中にあった。それらを編集すれば自分なりのものが書ける。それを次にプログで紹介しよう。本というのは厚い一冊を全部読むのではなくその中の一部が自分なりに表現しようとするとき必要になってくるのだ。それを自分はインタ-ネットで引用して編集して発表してきたのである。ただインタ-ネットにはまだ専門的なものがそれほどでていない。

本には膨大な知識の集積があるのだ。ただどこにあるのか意外とわからない、だからそうしたそれぞれの分野でのテ-マをもって調べるときそれなりの本が必要なってくるのである。本の問題はキ-ワ-ドでは調べられないことなのだ。インタ-ネットだったらキ-ワ-ドで調べられる。でも近江商人を調べるならキ-ワ-ドで本を検索して集め読む必要があるのだ。何か研究する場合、本一冊をまるごと読む必要はないのだ。部分が編集のために必要なのである。だから本をぱらぱらとめくりこれは自分の文章に必要だというときマ-クしておくのでただのべつとなく本を読むことは効果的ではないのだ。


ともかくいろんな整理があり整理しきれない、家のことも全部自分一人でやっている。家事も一人でやるとなると大変である。家計から食事の用意から洗濯から掃除から全部自分一人でやることは大変である。だから整理がつかないのだ。そして知識は何かで活かさない限り活きてこない、原発とか津浪とかのテ-マで知識を活かそうとするとき知識が活きてくる。そういうことを津浪や原発事故で書いてきた。すでに原発事故のことだけで大変な知識が必要であった。とても一人では手に負えないものだった。でも現実問題として自分にもふりかかった問題だからなんとか知ろうとした。知識は何か切実なものとして知る必要ができたとき活きたものとなるのだ。病気だってわからないなりに自分の問題になればみんな真剣に知ろうとする。その時むずかしい医学でも科学でも法律でも知ろうとするのである。原子力発電は最初から科学者でも危険だと警告していた人はそれなりにいた。三十年前とかからいたのである。そういう本は残っている。でも大きな声とはならなかった。そこが一番の問題だったのである。

なぜ大きな声とならなかったのか?危険を警告しても大きな声にならなければそれは意味をもたなかった。本を出して警告しても大きな声とはならず見逃されていた。一般の人はむずかしいから関心がなかった。自分なども近くても30キロ圏外であり遠いと思っていたのである。それは事故になってはじめてこれだけ広範囲に影響することを身をもってしった。ともかく大きな声にならなかったのは結局情報は権力によって操作されたものしかでてこない、原発が危険だという声は大きくさせられなかったのである。それはすべてのマスコミも加担していた。福島県の新聞であれ雑誌であれ全く警告もしていない、だから前の福島県知事の佐藤栄佐久氏が原発村に逆らったのは重大なことだった今になって知ったのである。あとは原子力村によって情報は操作されていたのである。


ともかく今年も終わろうとしている。なにかやと疲れた一年だった。すでに五年間ふりまわされた。まあ、自分が病気にならない限りこんなことはなかった。健康ほど大事なものはない、健康でありさえすれば困難もなんとか乗り越えられるのだ。健康がなくなったときすべてが崩れてしまうのである。だからすでに健康ではないのだけどなんと健康でやっていけることを祈るほかないのである。

2011年07月07日

BS歴史館 発見!戊辰戦争「幻の東北列藩・プロイセン連合」


BS歴史館 発見!戊辰戦争「幻の東北列藩・プロイセン連合」を見て

今回のNHKの番組は興味深かった。明治維新や戊辰戦争のことは良くわかっていない。会津では落城のさい資料を全部燃やしたというのも確かな証拠が消失した。その証拠の一つとしてドイツ-ビスマルク時代のプロイセンの資料が残っていた。プロイセンに北海道を植民地として会津と庄内藩が売り渡そうとしていた。目的は武器を手に入れるためであり薩摩長州軍に対抗するためだった。スネルは武器商人であり会津藩と接近した。それは日本が幕末に欧米列強に分割統治されるような危機にあった。それで攘夷運動が起こり外国人排撃が起こった。佐幕派も起こり勤皇派も起こりと混乱する。ここから日本の歴史は世界の歴史の中に参入した。そのことが後の大東亜戦争に通じていた。なぜなら高杉晋作は上海に言って中国の惨状を実際に見聞した。中国は欧米列強に食い物にされていた。分割統治されていた。日本も中国と同じにされると危機感をもったのである。阿片戦争もそうだった。中国はその後も欧米列強やあとで日本も参入することになった。世界の権益争いが中国で起こったのである。明治維新からの富国強兵とか欧米列強に対抗するという国造りは大東亜戦争までつづいたのである。そのはじまりが明治維新の時の戊辰戦争にあった。日本が中国のように欧米列強に食い物にされるという危機感が出発点でありそれは大東亜戦争までその根底に流れていた。だから今でも大東亜戦争を肯定する右派は欧米の植民地からアジアを解放する戦争だと理由づけている。


プロイセン人武器商人シュネルという武器商人が会津藩と接近したのも欧米列強との特にフランスとの対抗意識だった。実際にヨ-ロッパではフランスと争っていた。それは韓国の百済派と新羅派が日本で争ったという説が古代にあるようににている。明かに明治維新の時もそういうことが起きた。先進文化が欧米にあり特に武器は進んでいた。それで長岡藩の河井継之助が・ガットリング銃を買って薩長軍に抵抗できた。そして会津藩は山国の閉鎖された国際性のない藩だとされていたが実際は国際的視野をもっていた。プロイセンと外交交渉して薩長軍に抵抗しようとしていた。本当にこれは意外である。確かにロ-カリズムであり会津藩は遅れをとったということが言われてきた。今回の番組では会津藩は国際的視野をもって薩長軍に対抗していた。それがプロイセンと組んで薩長軍に対抗することだった。その説明が興味深いものだった。


ドイツ人のという人が北海道開拓に最初に入った人だったことも知らなかった。北海道の産物はドイツの食卓と同じだった。ジャガイモを主食としたものや麦はパンとビ-ルでありとかその食生活は酷似していた。北海道は日本では米作りできないから不毛の地と見ていたがドイツ人だった
アイルランドは牧畜やジャガイモ栽培では適地と見ていた。北海道産のジャガイモは男爵とかうまいものがある。ジャガイモは寒冷地に適していた。イギリスでもドイツでも寒い地域なのである。だからこそアイルランドではジャガイモ飢饉が起きた。ジャガイモばかり作って飢饉になったのだ。北海道の良さを見出したのは最初は外国人だった。アメリカのクラ-クはそのあとに入ってきた。その後も会津藩の人がアメリカに開拓のために移住していたことは驚きである。

ゲルトナ-ががワカマツコロニ-を作っていたが風土にあわずもっていった種が水不足で実らないなど失敗した。 湿潤の地の日本とは風土が違っていた。満州でも米を作ろうとしたように日本人はどこまでも米を作ろうとする発想になる。米にこだわるが欧米は米は念頭に全くない牧畜が主流だから発想が根本的に違っていたのだ。北海道にも田はあるけど異質な感じになる。北海道の風土には田はあっていないのだ。一面に咲いているジャガイモ畑の花がにあっているのだ。


蝦夷(北海道)を旅した「イザベラ・バード」は、「日本はどこもかしこも誰かの土地で、焚き火も自由にできない。しかし、北海道なら、どこでも焚き火ができる」と書き残しているくらいである。

これは面白い指摘である。日本を旅してキャンプして野宿することはめんどうである。誰かの土地に田か畑でも誰でもない土地はないのだ。北海道を旅して便利なのはキャンプする場がある。今は誰でもない土地ではないにしろそういう場所が比較的見つかりやすい、キャンプ場以外でもそうい場所がまだある。


明治維新と大東亜戦争は底流でつながっていた。欧米列強に対する対抗心が日本ではつづいていた。それが中国の権益争いとなり戦争に突入した。だから今でもアジアの植民地解放戦争だったとしている。それは明治維新の攘夷の思想がつづいていたためである。明治維新を見れば大東亜戦争も予測できたかもしれない、そういう大きな歴史の流れがつづいていたからである。欧米列強に対抗しようとしたとき背伸びをしなければならない、それが大東亜戦争の敗北に通じていた。今はヨ-ロッパは衰退して中国が大国化するときアメリカと連合を計る。でも中国が巨大化するとその圧力に日本は苦しむ。そういう大国との狭間で苦しむのは世界の歴史ではある。小国は分断され苦しめられるのだ。日本もまたそういう歴史の苦しみを経験したのである。これからもやはりそういう立場にあり今度は中国やロシアやアメリカの圧力に苦しむ。


会津藩・庄内藩による日本国ポーランド化計画
http://nakamura-syounika.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-9b41.html


これを読むと会津藩と庄内藩は藩意識が強すぎた。自分たちの藩ばかりを死守しようとしていた。それは明治維新の時は藩が国だったのだから藩という意識からぬけだせなかった。日本という大きな国の視野にたつことができなかった。北海道は会津藩とか庄内藩があづかったものでその藩のものではない、日本のものだったけどそういう意識がなかった。
明治維新を規定すれば藩なくすこと、侍の身分をなくすこと、この二代改革のための革命だった。だからこそ藩と侍身分を残そうとした西郷隆盛が率いる西南戦争が起きたのである。その時国民軍として加担したのが会津藩士だったということでもわかる。会津藩士も結局は侍身分を会津藩ということを捨てて日本国民軍として戦った。薩摩長州に対抗するという意識はその時なくなっていた。薩長に踏みにじられた会津藩士だから復讐の念があったというより国民軍として戦ったのである。

会津藩のヒロイズムは会津藩だけにとどまるもので日本全体を視野に入れたものではなかった。会津はただ薩長にふみにじられたとういい怨念だけでは歴史は語れない、何故なら西郷の西南戦争もやはり侍や藩を維持しようとするものと侍や藩をなくそうとするものの戦いになったからである。つまりロ-カルヒロイズムでありナショナルヒロイズムとはならない、そういう問題は国と地方の政治とかでも常に起きているし東北の復興問題でも起きているのだ。


武器にまつわる話(京都から遠かった長岡-会津藩の悲劇)
http://www.musubu.jp/jijimondai21.htm#weapon

2010年03月23日

インタ-ネットは編集で活きる(インタ-ネットの有効活用法)


インタ-ネットは編集で活きる(インタ-ネットの有効活用法)


インタ-ネットの世界は10年間くらい経過したけどやはり未知の部分が多いしどう対処していいかわからない面が以前として多い、ホ-ムペ-ジ制作して10年すぎている。その間に対話というのをしていなかった。発言されにくいのはわかるがただ一方的発言に終始して10年が過ぎた。なぜ反応もないのにこれほど書き続けたかというと自由に書ける発表できるという魅力が大きかった。ともかく自分の書いたものを創作したものを反応はないにしろ一応社会に発表できることは報道できることは報酬がないにしろ誰でも生きがいをやる気にさせるものである。本を出して発表するとなるとすでに社会的に有力な人でしかできないようになっている。本自体を作るのは今や電子化してそんなに金はかからない、ただではそれを流通させるとなるともはや普通の人にはできない仕組みになっている。だからそうした発表や報道の機会を失われたものはインタ-ネットでやるほかないのである。それが反応があるないにしろそこしかないから書き続けてきたのである。一応アクセス解析などをみるとこの記事が読まれているとかわかるから全く反応がないのとは違う。

それからインタ-ネットは必ず他のサイトとかの文を参考にすることが多い、インタ-ネットは必ず編集しつつ創作してゆくのである。ただ膨大な情報に接しても自分なりに編集しなければ活きてこない、インタ-ネットに欠けているのは編集作業である。膨大な情報と発言があっても編集がないからその場限りであり価値を帯びてこない、掲示板でも2ちゃんねるとかだと相手のことはほとんどわからない、どういう立場で発言しているのかもわからない、そしてその人の発言はその場限りで一回限りで終わりであり消えてゆくのである。そこに個人としての存在はない、断片化した部品化したものがあるだけである。つまり情報があっても人間個人は存在しないのである。ほかの掲示板では常駐している人がいて匿名ではこの人はこんな人だとわかってしまう場合がある。でも2ちゃんねるは大衆的発言の場であり個々人は全くその場限りで消えてしまうはかないものとなる。そういうものだとして発言している場でもはあるから批判もできない、実際にインタ-ネットはいろいろな利用方法があるからツイッタ-とかいろいろなものが次々に出てきて追いきれないのである。

そもそも見知らぬ人と文章で対話すること自体今までありえないことだった。そこからしてインタ-ネットは理解しにくい、でも明らかなことは編集作業がないと活きてこない、編集する人がいないと活きてこない、それは医療分野だったら医療に特別詳しい人が編集する必要があるのだ。俳句とか短歌とかでもやはりその分野に通じた人が編集しない限り活きてこない、この句はここが良くてここが悪いとか批評が編集が必要である。そうしたものでもなく日常的瑣末な会話でも編集するとそこに発見するものがある。誰かがその会話の価値の重要性を認めることがあるからだ。その価値を認めることが編集なのである。そうでないと価値が認識されないままにただ消えてゆくだけだとなる。こういうことはやはり今までのマスメデアでも出版社でも行われて来た。だからそうして出されたものは読まれるべき見るべきものとされていたのだ。でも一方でそれがかえって一方的に作られた偏向したものとされて批判されるようになった。マスメデアから出版界でも認められないものは全く価値がないとされたからである。だからマスメデアで報道されないものはなぜなのか?報道されないものに重要なものがあった。それは読者が視聴者が判断するものでありマスメデアが判断するものではない、それで誰でも発信できるようになってマスメデアの一方的偏向報道が批判されるようになったのである。しかしまたインタ-ネットでは玉石混淆でありやはりそこでは誰かが編集しないと情報の混沌の中にほうりこまれてしまった感覚になる。それは掲示板とかでもそうなのである。編集すると活きてくるものがある。

個人化(Personalization) 個人に最適化されていること
解釈(Interpretation) コピーの価値を上げるための付加価値を持つ情報
具体化(Embodiment) 情報に実体を持たせること
後援(Patronage) 作者との関係性

http://www.heartlogic.jp/archives/2008/03/8_2.html


この文も偶然に見つけた。なるほどと思った。個人化(Personalization) 個人に最適化されていることとはやはりその人が編集してその人にとって何が価値あるか提示することである。それは個々人によって価値あるものは違うのである。解釈(Interpretation) コピーの価値を上げるための付加価値を持つ情報・・・これもコピ-しただけではだめである。それにその人なりの価値づけが必要なのである。
後援(Patronage) 作者との関係性なども大事である。どういう人と人が会話しているのかわからないと他者もわからない、インタ-ネットでは老人と小学生か知らないで話してしいたとか女だったのに男と話していたとか現実にあるのだ。そういう異常なコミニケ-ションすら成り立つのインタ-ネットなのである。たいがい水平化して平行化するのもインタ-ネットである。誰かが特別優れたものとして認めないのインタ-ネットである。でも編集できるのはやはりそれなりに経験を積んだその道を究めた人でないとできない、その人が編集すれば専門家でなくても普通の人の発言も価値帯びることがあるのだ。

自宅に一人でいたのですがパニックに陥り、母に連絡する前に、近所で可愛がってくれていた独居のお婆ちゃんのところに駆け込みました。相手が認知症だという事も忘れて膝元でワンワン泣き崩れてしまいました。 (そのお婆ちゃんは、私が認知症だと分かり御家族に介護サービスの利用を勧め、今は機嫌よくサービスを利用しています。)やはり弱者に立たれた方は、人の痛みを自分の痛みのように感じて下さって、御自分の御主人や御子息が亡くなった時の痛みを何度も話ながら、私の背中をさすって一緒に泣いてくれました。


これは玉本様の発言にあった。助けてくれたのは個人でありカルトとかの宗教団体とも違う。自分の場合も一人の近くの老人がかわいそうだなと同情してくれたのである。徳とは愛とは個人的なものである。集団や組織には徳とか愛はない、集団や組織は権力組織であり個人は権力組織に利用されるだけとなる。個人的な徳とか愛はそこにはない、一見つまらないような何でもないようなことに愛があり徳があることを発見する。それは全くオレはオマエを助けてやるんだというとかの押しつけがないのである。このことに注目したことが具体化(Embodiment) 情報に実体を持たせること・・なのである。こういうことはやはり長い文章で相手のことを理解しないとできない、対話からはずいぶん遠ざかっていたが確かにインタ-ネットでも見知らぬ人でも対話が成り立つ、相手のことを知ることもできるし信頼関係も作ることができることを発見したのである。そのために断片的会話ではできないのである。

2009年02月27日

「おくりびと」「納棺師」が脚光をあびるのはなぜ


 

 
映画みていないし納棺師という職業があったことも知らないから語ることはできない、でもおくりびとになったのは葬儀したのは半年にもなっていないからまだ生々しい。まだ死者は身近にある。そのことをいろいろ書いてきた。死者とは何か、死んでも死者との交流はある。死人と接することは実際は気持ち悪いことである。一晩だけ一緒にいたけど気持ちいいものじゃない、ただわたしの家族はもともと太った人で陽気な女性だった。顔がやせこけていない、病院でも死ぬ前も死んでからもふっくらしていたのだ。でも死ぬと手をしばったところがぺこっとひっこんでいたのが気持ち悪かった。死者と接することは気持ちいいものではない、確かにあんまりなりたくない職業である。こういう仕事をしていた人は差別されたというのは確かだろう。特殊な仕事である。例えば豚の屠殺場のあとに老人の介護関係の施設ができる。だけどその場所が嫌なのである。そこでは大量の豚が殺されたし大量の豚の血が流れた。そこに豚の怨念がたまでいるのではないか?何かそうしたものを理屈ではなく感じてしまうのである。別な倉庫のようなものならいいが老人の施設にするのがあっていない、まだ屠殺場で使ったものがおいてある。なんとなく嫌なのだ。自殺したり殺人したりした部屋に入りたくないというのもそこになんとなく死者の怨念みたいなものを感じるからだろう。これは理屈ではない、人間なら誰でも感じることだからそれを否定することはできない。
 
でも死者をおくることは重要な仕事である。最後を見送ることは貴重な時である。なぜならすぐに骨になり形もなにもなくなって二度とあえなくなった。死人のときとまた灰となってしまったのとは違う。人間の死はあまりにも落差が激しいからとまどうのだ。死んだら灰となったら何も残らないからだ。その突然の落差がショックなのである。目に見えるものが突然二度と見ることのできないものとなる。その断絶があまりに大きすぎるのであとあとまで尾を引くのである。なぜこのような映画が話題になったりするが、これは極めて現代的テ-マとなってしまったからだろう。死者をおくる儀式とか文化の喪失である。共同体の喪失である。現代は何でも専門家に分業して頼むようになった。死は葬儀はこれまでは村全体のものとして死者を葬った。それは単なる儀礼ではない、村で心から死者をいたむことがあった。だから死者は死んで山の神となり村を守るとかの信仰になった。何かそこに今にはない死者を意味づける文化があったのだ。ただ正直そうした葬儀は手間暇と金がかかりすぎた。そして実際は儀礼的なものになっていた。おくりびととは本当に死者をいたむ人であるべきなのだ。私の家族は認知症になったときこれまで長年親しく人もよりつかなくなった。特殊な病気で嫌われるのはしょうがない、だから死んだときも関心をもっている人はなくなっていた。生きているときから捨てられていたのである。そういう人がおくりびとになれるだろうか、死者をいたむだろうか、生きているうちにすでに交流がたえた人が死んだからいたむことはない、ただ葬式でも義理で来るだけである。お悔やみをあげてあとは終わりである。
 
だから死んで丁寧に専門の人が納棺したり手厚く葬むってくれたのは感謝する、でもそれは仕事でしていることだし心からその人を葬るとはならない、第一全く死んだ人がどういう人か知らないから何かその人に対して親しみがないからだ。だから機械的に処理する、病院でも死んだら早く死者をかたづけてもらいたいしかなかった。手を合わせるようなしぐさもない、また一人死にましたよ、早くかたづけてくださいくらいなのである。病院でも葬儀社でも死は日常的だから特別なことではない、日常の一こまにすぎない、ただ家族は一生に一回のできごとであることの差がまた大きいのである。死者は死者とかかわることだけ死のときだけかかわることはありえない、生前からの延長として死もある。生前親しみを覚えない人にどうして死者をいたむ心が生まれるのか、ただ死者には畏れがあり粗末にはあつかえないことは当然だから手厚く納棺して葬るのは当然である。でも葬儀屋では機械的事務的に死者を処理する。そうしてもそれはしかたない、それでも死者を手厚く葬ってくれるから感謝するとなる。いづれにしろ今葬儀から墓の問題と社会が変化してそれに対応できなくなっているからいろいろな問題がでてくる。おそらく今回の「おくりびと」「納棺師」というのが脚光をあびたのは極めて現代的問題となっているからだろう。
 
映画も納棺師も読んでいないので正直批評はできません、ただ死者とかかわったのでその経験から書いただけです。
 

ここに批判が書いてある
 http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/6bda58396361d97dbe36a85985909634

 
 

 近くにNPOの福祉(介護?)施設屠殺場跡に建つことの問題(差別はなぜ起こる)
http://musubu2.sblo.jp/article/27256139.html

 
郷土史とも差別の問題は深くかかわっている。それで別に差別の問題を調べて書いた。
 

2009年02月16日

沸騰都市-東京の未来の恐怖


沸騰都市というNHKの番組今見たけど地下に大都市が広がりマンションの50階に住んでいるとかなると人間は地下人間となり空中人間となり海底人間となりそういう人とは意志疎通できなくなると上野霄里氏が言っていたけど本当なのだろう。東京の地霊の作用で停電したとか物語を作っていたけど地霊が怒り地震が起きたらどうなるのだろうかと恐怖した。そんなに高層化したり地下を掘り起こしたら災害が起きたら壊滅的な被害を受ける恐怖である。東京大地震の恐怖である。地霊が怒り都市を滅亡させる、そんな恐怖を感じるのもそれはもうすでに人間的には把握しえない大都会となっているからだ。そしてそこに集まるのはビジネスだけが目的の無国籍人間たちである。ビジネスを通じて無国籍化してゆくのも現代である。国籍とはその国の文化をになった人であることに意味がある。その文化とはその土地からcultivate-cultureを作ってきた人たちなのである。


つまり今やその国の国土からも遊離してただビジネスのためにだけ集る無国籍都市は国際社会でもない、人間が無国化した会社の一員となり土地から遊離してただビジネスだけをアイディンティティとする。そこには文化が消失した経済人間しかいない、国際化すると新しい文化が生まれる場合があるがここでは生まれない、そこにはビジネスのやりとり経済至上主義しかない、経済に機能するだけ自然やその国の大地に機能する人間でなくなる。そして経済的優位から田舎は生産性がないとか効率が悪いとかそんなことばかり言われる、おとしめられる。だからそうした異常な沸騰都市に地霊が作用して都会を壊滅的に崩壊させるということがありうる。そういう恐怖がそこに住んでいる人も感じてしまうだろう。やさしいモンスタ-に育ってほしいとか言っているのもそのためだろう。怖いモンスタ-に育つことが見えるからそうなる。グロ-バル経済でも沸騰都市でもモンスタ-化している。さらなるモンスタ-化が進行してゆくとき一体人間はどうなってゆくのだろうという漠然とした不安をもつのは当然である。まあ、あと十年後20十年後になるがそのときはこの世にはいないだろう。そんなモンスタ-は別に見たくはない、でも東京と大阪がリニアで一時間で結ばれたどうなるのだろう。一時間だと日帰りになるからもう飛行機と同じである。ただ途中は何もみることできないだろう。ただ移動するというだけである。だから飛行機と同じなのである。仙台から大坂まで午前中についてしまう。そのとき移動はあるが旅はなくなっている。
 
日本では都は遷都したけどやはり一カ所に留まると腐敗するという地が汚れるという感覚があった。だから新しい時代には新しい都を新しい土地ではじめる必要があった。なぜなら長く同じ場所にいると人間も腐敗するのだ。人間にはフロンティアが常に必要なのである。そのフロンティがなくなり空中や地下や海底に広がってゆく、東京を遷都するという話も消えた。結局遷都するには東京は大きすぎる。だからもはや移動もできない、地下や空中や海底に伸びる他なくなっている。それがいづれ致命的な災害で崩壊してしまう恐怖を感じさせるのである。今でも限界を超えているのにこれ以上限界を越えたとき地霊の祟りが起きて大災害で崩壊してしまう恐怖を感じるのだ。


 


補足-2月20


沸騰都市についてちょっと書いたけど次の反応は私と同じようなものであった。シンガポ-ルは見ていないがシンガポ-ルはそもそも国ではない、一つの都市が遊離して隔離して浮いてしまった極めて人工的な島なのだ。頭脳だけを集める頭脳都市とかなるけど国は国土がなければ国とはならない、国土は身体なのである。頭脳だけで身体がない国は奇形国家であり国家ではない、国土は身体で感じるものである。頭脳だけでは国土を感じることはできない、日本も神から与えられた日本列島があって国が成り立っている。でもある意味で日本もその国土の力を無視して東京に頭脳を集め無国籍化して経済だけの価値がすべてとなり禿鷹ファンドとか金融でかせぐ株取引だけを生業とする者だけが巨額の富を得る、東京がシンガポ-ル化しているからシンガポ-ルを批判するとき東京も批判せねばならない、国家とは長い歴史とその国土から形成されるものでありシンガポ-ルは国ではない、奇形都市国家なのである。国とは総合的なものとして成り立つものであり経済だけに価値をおき一部分が突出して集中するのはバランスをかく、その見本がトヨタだった。トヨタに頼りすぎた結果不況で自治体が崩壊の危機にさらされる。自動車だけを作る国家はない、トヨタはそうなっていたからシンガポ-ルとにていた。国家とは農林水産から工業から商業から総合的なものとして成り立っている。もともとシンガポ-ルは商業的だけだからその国家の基盤は脆弱でありシンガポ-ルに見習う国造りなどありえないのである。このことは文化文明論になりこれまで相当量-時事問題の深層で書いてきたしこれからも書いてゆく自分のテ-マである。


参考になるプログ
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/222005/189455/56566863#top
http://geisyu.blog24.fc2.com/blog-entry-48.html
 
インタ-ネットはリンクで読まれる。ここに意外とアクセスあったからまた書き足した。インタ-ネットはいろいろあっても編集しないと読みにくいのだ。ばらばらになりすぎているのだ。部分的にしか読めない、つまみぐいであり総合的なものとして読めない、シンガポ-ルがいいとこどりのつまみぐい国家と同じである。部分は全体があって意味をもつ、その全体が総合性がシンガポ-ルにはないと同じようにインタ-ネットは無数の断片化だから意味ももちにくい、誰かが全体を考慮して編集するとわかりやすくなるのだ。
 

岩手県の自然のバックグランドから人物も生れる(東洋、国風文化の回帰)
秘境岩手県に育まれたもの(原生人間-山人-賢治)-詩
http://www.musubu.jp/hyoronmorioka.htm#back