2018年10月10日

原発事故でマスコミも共犯者だった (テレビ局六局の独占時代が終わる)


原発事故でマスコミも共犯者だった

(テレビ局六局の独占時代が終わる)

genpatuuu1.jpg

●技術やメデアの変化

時代の変革期が来ると産業の転換が起きる、大井川の川越人足は1200人もいたというから驚く、その人たちが橋がかかり失業したときお茶作りに転進した
それが静岡の茶となった
ヨ−ロッパで馬車の時代があり車に代わり鉄道に変わる、この変化も大きかった
馬車より効率的だから機械に変わる、常に人間社会は技術の進歩で変わる
産業革命でもそうである、そこで失業した人たちがいたが農民がいたが製造業に変わった技術は大きく社会を変えてしまう、ヨ−ロッパでは大砲が発明されたとき城壁は無用のもの化した、技術の変化で社会そのものが変わってきた

情報関係ではグーテンベルグの印刷機の発明で聖書がドイツ語に訳されて誰でも読めるようになりそれがルターの宗教革命までなった
その時以来大量の本が出版されるようになった
情報では明治以来大きな力をもった、まだ映像の時代になっていないからだ
その時代新聞がどれだけ力をもったか?
新聞は今のテレビと同等の力をもったのである
そしてラジオの発明があり戦争の敗戦の天皇の玉音放送があったようにラジオが主役になった時代があった
そしてナチスの宣伝がラジオでされたからラジオが国民にどれだけ大きく影響したかわかる、今ならラジオがそんなに影響するのものかと思う
NHKでもラジオが主役の時代があった、その時有名なアナウンサーがいたがテレビ時代になると消えた、テレビは顔が映るからあわなくなったのである
ラジオは声しか聞こえない、すると見栄えは関係ないとなっていたからである

テレビ時代になるとどうしても顔が映る、するとまず顔を見てしまう、その像に左右される、それで美人のアナウサンサーがもてはやされて映画俳優のようになったのである
情報の技術の変化でそうなった、そしてテレビ時代になったときテレビに子供の時群れてかじりついて見ていた、テレビに動画がニュースでも映ることは奇跡のようになり魅了されて見ていたのである、だからこのテレビの影響が本当に大きかった
テレビは映像であり動画だから大衆に受けた、本とか新聞でも活字を読むとなると頭を使うからである、テレビは頭を使わない道具なのである
だからテレビに出る人をいちいち検討したりしない、テレビに出ただけで有名になり青島とか内容もないのに知事になったりする人がいた、参議院選挙ではテレビに出る有名人がトップ当選になる、それは政党ではない、個人の人気投票みたくなっていたのである
普通の議員でもテレビに出ると顔と名前が売れるから当選しやすかったのである
別に議員としての経験とか関係なく当選したのである

こうしてテレビ時代は50年つづいた、でもインタ−ネットとかのメデアが現れ転換期になった、youtubeとかで動画を気軽に放送されるとなると対抗メデアになる
テレビ局は六局の独占だったのである、だからテレビ業界とか新聞協会とかそうした情報をにぎるものは既得権をもっていた
それは他でもそうだが六局しか政府から許可されていないから独占していたのである
そして新聞でもテレビ局でもそれは単なるメデアではない、会社の主張をもっていてそれを通すためのテレビ局なのである、だから会社の主張に合わない人は出さないのである
これはNHKでも同じである、つまりただ単なる仲介するメデアではない、主張をもっていて会社の方針がありその方針にそうことを放送するのである

だから会社の方針がありもし朝日であれ毎日であれ読売新聞の日本テレビであれ放送局を批判したら絶対にその局からは出せないのである
報道機関は共産党と同じである、その報道会社を批判することは許されない、ただの情報を流通させるメデアではないからだ
そして報道機関は連帯して既得権を守る、だから互いに放送する会社を批判しないのである、それは互いに結託していて既得権を守るものとしてあったからである
そしてそもそも報道することは電波の権利を獲得したり報道すること自体が金がかかるから一個人などでとてもできない、それで六社とかの独占状態になったのである

●原発と企業と天皇でも一体化して権力を得る

例えば日本テレビがあるとする、その創始者の正力松太郎が読売新聞社を起こして日本テレビを作った、そして原発をアメリカから取り入れた張本人である

皇族も利用したこの宣伝の効果が大きかったためか、元旦という一年で最高の時間枠だったためか、『わが友原子力』の放映は大成功を収めた。…原子力委員長としての正力もこの成功を利用した

ここに皇族ともあるが皇族も天皇家も東電の株主にもなっていた、本当は皇族は会社を応援するようなことはしてはいけいな立場にある、ここにも何か問題があった
ただ財閥と企業と国家は一体である、天皇も一体だとなる
右でも天皇を批判している人がいる、昭和天皇を批判している人がいた
それが良く解せなかったが天皇は何か軍部でも今度は大企業でも利用される存在なのか、または神輿なのかともなる謎がある

原発を海外に売りつけることで発生する利益は企業(株主)へ、事故があった場合に賠償額で一定額を超えた分については日本国民が責任を負うことになるということです。

国民はこのことを無関心であってはならないが知らない人が多いだろう
こういうのを調べるのはインタ−ネットが便利である
事故が起きたら国民の税金で今回のような補償金を払わされるのである
それは莫大なものとなり日本がつぶれるとまでなるかもしれない、そういうことに原発かあるということを知るべきである
原発は国家主導で推進されるからやめられないのである
国家は最大の権力だからである、原発とは一企業の東電の問題ではない
国家がかかわる一大事業なのである、だから事故になり失敗すれば国が傾くとなるのだ

企業がもうかるというとき原発でもそうである、企業中心の発想がありもうかればいいとなり安全はないがしろにされるのである、それで安全神話が作られた
でも東電だけではない電事連もそこで働く人々も電気事業で生活しているとなると既得権で一体化するのである
逆に日本はアメリカから古い型の原子炉を売りつけられたことも事故の原因になった、でも敗戦国だからアメリカでは事故の補償はしない、そういう契約もなかったのである、この辺も不公平であり力関係で商売もあるとなる

そういうテレビの宣伝は大衆受けする、わかりやすいからである
テレビは大衆を洗脳するのに最も適していたメデアである
そしてお茶の間にテレビが置かれたとき最も効果的なものとなった
お茶の間にあれば直接常にテレビがありその後ろにはテレビ局があるとなるからだ
そこでどれだけテレビが影響したかわかる、テレビで商品を宣伝するだけで目立ち売れるということもありテレビに宣伝費が会社でつぎこむ、それでテレビ局はもうかる
そういうふうにして政治でも経済でもテレビが大きな力をもつようになった
そのことが原発事故にも関係していた、政府とか東電とかが一致してテレビ局に宣伝費を流して安全神話を作ったからである

報道機関は独占化するとどうなるのか?それが原発事故で判明した
原発事故が起きたときテレビ局の幹部が朝日新聞でも全部六局の幹部が中国に招待されていたのである、それは何を意味しているのか?
この六局のテレビ局に800億円とかの宣伝費が流れていたのである 
ただNHKの幹部は入っていなかった、それはNHKは民間ではない、公共性があり受信料を強制的にとっているからである
だから本当はNHKはその公共性に奉仕すべきものだがそれがない、NHKもNHKの方針がしって主張があってそれに沿うものしか出さない意見は言わせないのである、だから受信料はとらないで民間にするのがいいともなる

それはNHKは税金のように受信料を国民から強制的にとっているからだ、ならば公共的なものでありメデアとしてもインタ−ネットのように利用させるべきだともなる、でもNHKにもそれはない、NHKの主張と方針がありそれに沿うものだけが出ることを許可される
電事連とかそれだけの金をもっている団体である、電気関係はやはり現代社会を支えるものだから大きな権力をもっている、今回の原発事故はそうして現代社会の権力をもつものが結託して起きた事故でもあった
国家(政治家)官僚、御用学者、マスコミ・・・とかが結託して「安全神話」を作ったからである、ただマスコミのことはあまり批判されないが明らかに「安全神話」を強力にしたのである、そこに既得権があり莫大な金が流れていたからである  

大型広告が「朝日」から始まったのは、(電力業界側が)「朝日」がそのような新聞だと一般に見られていたことを考慮してのことだと思います。「読売」がそれにつづいたのは「読売」の社長だった正力松太郎氏が、原発を日本に導入した責任者(初代原子力委員長)だったという関係があったようです。
「朝日」「読売」に定期的に広告が掲載されるようになると、「毎日」も広告を出してくれと要請します。当時、「毎日」は、原発に反対するキャンペーン記事を紙面に載せていました。後でとりやめた

福島財界でも最初原発反対の記事をのせていたがとりやめた、マスコミがおかしいなのはこうして全部が原発賛成になったことである、一社でも反対すればいいがそれがなくなった、福島県でも福島民報でも民友でも反対しない、原発推進派になっていた
だからもう報道には民主主義がなくなっていたのである
民主主義は少数派でも必ず反対がありその反対する者を一応尊重して対処するからであるそれが全部賛成推進派になったことが異常だったのである

●テレビからインタ−ネットへ

いつれにしろ戦後70年でテレビでも変革期にきた、もう六局のテレビ放送の独占時代は終わった
インタ−ネットのyoutubeなどが対抗でメデアになる、そこではNHKだけではない、会社とか銀行でも今までも既得権の団体でも組織でも訴える術を与えた、だから文字のテキストだけよりyoutubeは見る人が多くなる、大衆でもテレビと同じように見る
芸能人の馬鹿騒ぎはyoutubeと同じでありyoutubeでやれとなる
youtubeの特徴は何か学習機能がある、個々人が体験を語る時、それはテレビが大衆向きにマスメデアとして機能していたのとは違うと思った
何か社会について見え方が違ってくるのである
つまりマスコミをテレビを通してみる社会とは違っている

テレビは大衆向きに番組を作っていた、youtubeとなるとレベルもいろいろあるが
何か個々人がメデアとなって語る、そういう経験をしている人もいるのかと新たに社会に対する見方が変わる、社会というのはとてもマスコミだけでテレビだけで尻得ようかないものだったのである、テレビは社会を写す窓ではない、そこには無数の窓があったとなる
こうしてテレビの機能は変わってくる、誰でも放送できるとなると六局独占体制は維持できない
その時テレビはどうなるのか ?

国営放送とか公共放送とか何かそうした娯楽ではない真面目なものになるのか?災害放送はそういう性格がありNHKが必要だということが言われた、でも政府で放送すれば気象庁で放送すればいいとなる、インタ−ネットではしている
だから今はその変革期の過渡期でしりいすんな試みが行われる、情報の戦国時代になったのである
プログなどでも百家争鳴の時代である、誰でも意見が言える、ただ今までのように六局だけで目立つ時代は終わった
それは六局にとって独占でありあまりにも恵まれていた時代だったとなる
これからはyoutubeくらちいの視聴率くらいしかテレビでもなくなるかもしれない、すでに視聴率は減るばかりである

別に他でもいくらでも情報は得られるからである、検索もできるからである
だからテレビの役割自体が変わる、それがどうなるのか?公共の電波でも六局の独占は終わる
すでにBSもあり終わっている、だからニュースでもただ事実だけを24時間流すものが見たいという人が多い
そのニュースを勝手に解釈するのではなく解釈させるのは視聴者にゆだねる、そういう要望が多いからである
だからそういう放送に変わるのかもしれない、そういう変革の過渡期であり様々な試みが成される時代である

2018年10月01日

インタ−ネットによる報道の変化 (マスコミはyoutubeとなり土着的個々の放送に変化)


インタ−ネットによる報道の変化

(マスコミはyoutubeとなり土着的個々の放送に変化)

報道機関(テレビ・ラジオ・新聞等)の報道は、国民が国の政治に関わるために重要な情報=『判断材料』を提供し、国民に政策の良し悪しを判断できる様にする=『知る権利』に奉仕する、ものである。(昭和44年最高裁見解)  

ここで問題なのは判断材料である、判断材料が提供されなければ判断しようがない
でもその判断材料を提供できるのは何になるのか?
判断材料になるものが提供されない、マスコミでは客観的判断材料をオブジェクトを提供するのではなくマスコミが勝手に判断して提供しているのである
判断するのはマスコミではなく国民のはずだがマスコミが判断してそれを報道している
マスコミの意図がありそれで報道番組を作っているのである
だからこそ安全神話はマスコミの報道機関も剰余な役割をにない作られたものである
莫大な800億とかの宣伝費が電事連から出ていたからである
その象徴的な出来事として福島の原発が爆発したとき東電ではマスコミを朝日新聞社の幹部を招待していたのである
こうなれば政府と官僚とかの意向のままにされる
客観的な判断材料も提供されない、判断材料はマスコミが選びマスコミが判断するのである

要するにマスコミによって国民は判断停止されている

例えば地元に住んでいると判断材料になるものが具体的に身近に利害関係もあるからわかるし関心の持ち方が違う,遠い所になるとどうしても関心がなくなる
それは身近に被害もないし利害関係もないからである
今回は身近な直接利害関係とか被害があったから地元だから追求してきた
その地元に必ず外部からマスコミが介入してくる
そこに問題が起きる、マスコミはNHKでもその会社の意図がありその意図を通すために報道番組を編集しているのである
だから原発避難民を受け入れた地元との対立があった、津波被害者との対立もあった
でも一方的に原発避難者側に立った報道をした、そういう意図で報道した
それは取材している人は上の人の命令でしていると言っていた
NHKでもそうして上の人が決めたことを報道する                  

ところが一記者が取材したとしてその記者が報道すればどうなるのか?

それはNHKの会社の意図とは違ったものになる
何かこういうことは会社組織とか今は労働団体とか宗教団体でもみんな組織に属して生活している
するとどうしても一会社員とか一会員とか一組合員として発言したり行動する
その団体組織が圧力団体となり権力をもっている、だから純粋に個人の発言はない
特にマスコミとかでもそこで発言する人は個人ではない、マスコミに意向にそうものとして発言しているしその意向に逆らうものは発言できないのである
だから一番いいのは主張もなにもないお笑い芸人が一番いいのである
だから武田邦彦氏などは個人として科学者として研究員として勤務したり外国でも指導したりそういうグローバルな体験をしていたりと知識の幅が広い
まず理系で文系の知識があれだけある人はまれである

それで言っていることは個人ではとても報道機関にはかなわない、訴訟するにしても個人は弱いから不利である相手にならないとなる団体組織だと必ず専任の弁護士などをかかえているし財力も違うから対抗できないのである
ただプログでこれを実行した人がいた、でもなかなか個人では記者クラブにも入れないし取材できなかったのである
東電の原発敷地内でも勝手には入れない、許可が必要である、マスコミだと許可をもらえて制限されても取材はできるが個人だったらお手上げであり何もできない、それが大きな問題なのである

インタ−ネットの報道はyoutubeでもかなり違っている、それは個々人がテレビ番組を作り放送できる、小集団でもできる、今までは新聞でもテレビでも巨大な報道機関であり報道すること自体不可能だったからである
youtubeとかなるとつまらないものでも見る人が多いなと思った
それはテレビというメデアが大衆でもわかりやすいからである
だから絵画などで絵の制作過程などを出している人は世界の人が見ている
百万とか見ているから驚く、世界規模になればそれだけの人がみる、絵は誰も見てもわかるから見るのである
インタ−ネットはグローバルになるメデアである、ただ言葉の障壁があるから読まないだけである、絵とか音楽はには言葉の障壁がないから百万とか見る人が出てくるのである

要するにテレビとかマスコミはこれまでは既得権として報道の権利を与えられていた
六局とか報道できなかったからである、それが今や無限大に報道局ができたともなる
一億総記者になりプログだと気軽に誰でも発信できる
ただyoutubeだと見る人が多くなる、それはテレビが視聴率を稼いでいたのと同じなのである、わかりやすいから見るのである
文章を読むとなると相当に頭を使うから疲れる、それでインタ−ネット時代になり短文しか読まないとかなったことも問題にされる
自分でも短い文ではいいたいことが言えない、プログだといくらでも書ける
すると内容的にも自分の言いたいことを言えるとなる
ただ読む方になるとこれは頭を使うから疲れるから嫌だとなる

でも何かインタ−ネットのメデアの違うのはこれは今までのようにマスコミで新聞とかテレビのようにただ与えられる、洗脳されるだけのメデアではない
発信するのに便利なメデアなのである、一方でそうなるとそれを受信する読むのには適していないともなる皮肉がある
読む方にしたら長いとか嫌がるものだったからである
だから何かインタ−ネットになってからは私は相手がどう思って読んでいるのかとか反応を見ない、ただ一方的に書きつづけているのである
そして文章にするということは考えて書くということでありそうなると様々な情報でも他者の経験や思想やものの見方とかを参考にする
自ら文章を書くということは自ら考えて文章を構築することになる
そういう創造的な作業であることに気づいた
本にしても前より読んでいる、アマゾンでボタン一つで買えるからである
古本だと安くなるからである、でも本を読むのは一冊でも厚いから読み切れないとなる
でも文章にして読んいでもらうとなると底の浅いありきたりのものを発言しても無益だとなる、読む読まれないにしろ内容あるものとして文章にして残したいということがある
それは自分自身で後でまた参考になるからである

ともかく報道するにしても判断材料が無数にある、するとどれを判断材料にしていいかもわからなくなる、だからマスコミが判断材料を選びマスコミが判断したものに従ったというだけにてっていたのである、だから世論は民衆が聴衆が作ったものではない
マスコミは世論を作ったのである、なぜならマスコミが判断材料を提供して判断して放送していたからである
それでこの辺で原発避難民とそれを受け入れた地元とか津波被害者間での複雑な対立になったがNHKでは原発避難者側につく報道をしたのである
マスコミは全般的にそうである、原発避難者を批判することはタブーになっていたのである、国民がみんな原発避難者側につくというのではなくマスコミがそうしたことで国民が味方だとなってしまった

だからこそ原発避難者を批判することは原発避難者からもみんなが応援しているのになぜ地元で応援しないのだ、補償金だって住む場所を奪われたのだから当然だとなりなんなのだと怒りにもなり南相馬市は小高と鹿島はいがみあい分断されたのである
そしてマスコミはNHKでもみんなが国民は原発避難者を応援する方に立つようにした
だから原発避難者はそうして国民は世論は味方している、それで非難することはできなくなった、たとえ毎日パチンコ屋通いでもギャンブルして遊んでいてもそうである
とにかく同情さるべきでありあとはなにかや言うなとなった

でも今になると地元からすると地元で融和しないとまずいことだったなと思う
なぜなら地元に生活していると争うと生きずらくなるしまた復興するにも障害になる
心が一致していないと復興のために一致協力できないからである
遠くから応援に来てくれた人たちボランティアでも一時的でありあとはや地元の残った人たちで復興したり協力して生活せざるをえていからである
それで川俣の山木屋とかでは大学の研究者が来ていたが今は一校だけにてったという

つまり最後は継続して生活するのは地元に残る人だから外から来る人は一時的だからあてにならないとなるのだ
だからこそ地元の融和が大事であり優先させるべきだったともなる
外部からの応援は一時的なものであり後に残って生活するのは地元の人たちである
その人たちがいがみあい対立していたら復興はできないとなるからだ
でも何か外部からの応援とかが目立ち内部で地元で一致して協力して復興のためにすることがあまりなかったのである
そのことが今になると協力できないとなり南相馬市の問題として残った

なぜなら外部からの応援もなくなりやがて後三年で援助も打ち切られるようになると南相馬市だけで復興をしなければならなくなる
その時この辺はかなり厳しい場所になると市長も指摘していたからだ
だかちまず第一にするべきことは地元の融和だったのである、いくら外部からの応援があってもそれは継続しないからである
そういう点で行政とか政治も働かなかったのである
ボランティアでも外部からの応援でもマスコミでも外部からの介入でありいつまでも関心をもっているわけではない
一時的なものであり土着的なものとして存在するものではないからだ
だから土着的な報道もこれから必要になると思った、土着的でないと見えないものがありまた継続するものがないからただテレビだと次々に事件が起きてあとはわからなくなる、でも地元で起きたことは事件でも継続している
プルトニウムの毒が二万年消えないとか継続した被害としてある
そういう被害の深刻さが地元に残るしカルマとして消えないものとなったのである



 マスコミはもう終わっている (これからは土着的地域に根ざす報道機関が必要)


報道とは何かー報道に土着したものの眼が必要 津波や原発事故で思い知らされた

2018年09月15日

温暖化は嘘なのになぜこれほど報道されるのか? (温暖化はかえって地球にとっては生命にとってはいいものである)


温暖化は嘘なのになぜこれほど報道されるのか?  

(温暖化はかえって地球にとっては生命にとってはいいものである)


日本人は「事実を知りたい」のではなく、「空気にそった希望していることを繰り返したい」と言うことなので、NHKは大潮の時を狙ってツバルに撮影隊を送り、地盤沈下を起こしている2、3の民家の映像を流して、あたかもそれがツバル全体のように見せた。完全なヤラセ報道だ。

人類の歴史をひもとくと、温暖化は善、寒冷化は悪である。中国の王朝の崩壊は、寒冷化と軌をーにしている。寒冷化すると飢越になり、農民は食べられなくなり、王朝に対して反乱を起こす。ロ−マ帝国の崩壊もそうである。中央アジアが特に寒冷化に敏感である。地球が寒冷化すると、まず中央アジアで食えなくなり、遊牧民が移動を始める。フン族が西進してゲノレマンを追いはらい、ゲノレマンはローマに入り込んで、ローマは滅んだ。
蒙古帝国の興隆も寒冷化が原因である。
21世紀の我々にとって真の脅威は温暖化ではなく人口増加である
そのための食料不足である


温暖化というとき温暖化は善、寒冷化は悪であるというのは科学にうとくてもわかる、南国は果物が豊富で人類もアフリカから生まれて別れたというのも納得がいく、なぜならアフリカはあらゆる生物の生息する所であり今でもそうである
そういう場所から人類が最初に生まれて地球に散らばったというのは納得がいく
四大文明でも中国を除いては暑い国に起きた、暑い所は植物でも豊かに繁茂するから動物の食料が豊富だから住みやすいのである
東南アジアとか暑い国ではなまけものだというとき日中暑くて働くことができない、日影で休んでいる他ないのである
ところが寒い国ではドイツとかイギリスなどでは寒いから勤勉に働くということがある
勤勉の思想もプロテスタンが生まれた土壌になる
イギリスの産業革命でもそうである、資本の効率化とかをできるかぎり追及をする、機械がそこで不可欠になり機械の発明が行われる一方でカトリックはイタリアとかスペインとか地中海沿岸に広がる、そこは比較的暑い地帯なのである
南と北ではそもそも気候が違うから違った文化や文明が生まれるとなる

だから温暖化というのは別に地史的にみても温暖化しているとき生命は植物でも豊かに繁茂して餌が豊富だから動物も生きやすい熱帯化しているとき恐竜など大型動物も生息できた、あれだけの巨大な動物を養うのには植物でも豊富でないとできないからだ
この辺ではフタバスズキ竜とか海竜の化石が発見された、そんな巨大な海竜がいること自体温暖でなければ生きられないだろう
そういう巨大生物が生きていたときはこの辺の山の奥でサンゴ礁の化石が発見されたりしている
つまり沖縄とか同じように熱帯の環境だったのである 

ジュラ紀という地質時代(今から2億1000万年年〜1億4000万年前)はとても暖かい時代で、シダやソテツなどの植物がたくさんあってそれらを食べる恐竜がたくさんいました。つぎの白亜紀にも植物食の恐竜はたくさんいます。植物食の恐竜がたくさん増えたことから、それを食べる巨大な肉食恐竜も飢えることがなくなったので、増えていったと思われます

寒冷化することは植物の生長にとっても良くない、最悪なのは氷河期でありその時地球の生命すら絶えるという危機になっていた
でも温暖化で地球の生物が滅亡するようなことはない,かえって日本だって今まで寒い地域で南国のようになり南国の果物でも栽培できるとなり食料も豊富になる,寒冷化の方が飢饉になりそれで民族移動が起きたというのがわかる
モンゴルは中国から入るとかなりの高地であり冬は酷寒である

1 年で最も寒い日は 1月18日で、平均最低気温は -28°C、最高気温は -17°C です。

それでモンゴルに羊を飼うことを習いに一年とか住んだ人は冬は一回りやせるという、それほど厳しいのである
そういう厳しい所だから住みやすい所を求めて食料豊かな所を求めて民族移動する、それが征服戦争にもなっていたのである。
どちらかというと寒い国から温かい国への民族移動が多いだろう
日本はどちらかというと寒い地域もあるが比較的温暖であり照葉樹林体もある、だからこそシベリアとかから日本へ移動してきた
南相馬市の鹿島区の海老では丸葉車輪梅の南限の地として有名だった
これは奄美大島が原産でありここに種が流れ着いて自生した、つまりこの辺はまだ暖かい地域だから南国産の花でも根付いて咲いたとなる、それで万葉集の真野の草原(かやはら)の歌はここをさしているというときそれは気候からみても納得がいくとなる
人間社会は気候とか風土の影響が大きいからそれで歴史も文化も作られるからである

地球温暖化は地球的規模でみれば悪くないのである、ただ今年のように暑いと死ぬ人もでてくる、だから個人的には暑い所には自分は住みたくない、何か頭脳でも麻痺してしまうからである、かといって寒い北海道も嫌なのである
体力的にどうしても弱いと気候的には自分が住んでいる場所はいいとなる
地球温暖化をなぜこれほど騒ぐのか、その意図は何なのか?それはヨーロッパ主導の見方だと言う人もいる
これ以上二酸化炭素の排出とかが増えるとヨ−ロッパの気候も脅かされて住みにくくなるからだという
ヨ−ロッパはやはりそれだけ気候的にも恵まれているからだとなる
ただなぜこんなにNHKまで巻き込んで大々的に宣伝するのかとなるとその理由が良くわからないのである
利権がかかわっているからだというのがその見方である

環境問題でも何か騒ぐとそこで研究者に御用学者に金が入ってくる、研究費が入ってくるから危険性を主張する
何も怖いことはありませんよとなると研究も必要ないとなるからだ
そういうことがいたるところにある、それを武田邦彦氏はyoutubeで絶えず指摘している
何か絶えず不安あおるのが商売になりやすいのである
この世が終わるというカルト宗教団体が過去にも出ていた
そして恐怖のあまり財産を全部なげだして死んだ人、自殺した人まで結構いる
そういう商売になるのが不安をあおる商売なのである
週刊誌でも過激な見出しになるのは不安をあおって本を読ませるためだとなる
それはyoutubeでも同じである、地震がいつ来るとかこの世がいつ終わりになるとかなるとたいして内容がなくても人間心理的に不安を覚え読むようになるのである
そしてyoutubeでも視聴率を稼ぎアフェリエトで宣伝費を稼ぐとなる
だから本当は利益がかかわると公正の報道も判断もできないとなる  

人間は科学的判断をすることは普通は苦手である、原子力だってもう科学的に素人はわからない、では科学者が専門家はどう判断するのか?御用学者になって政治家の言うままになるとか官僚の言うままになる
それで安全神話をも作られた、政治家、官僚、御用学者、マスコミが一体になって安全神話が作られた
そうなればもうどうにもならないくなっていた、それを正す者はいなくなった排除されたからである
そして報道機関とは何か?
報道機関は既得権益をもつ連合体なのである、だから報道機関同士で批判したりしないのである
暗黙の了解があり既得権化している、そして報道機関は俺たちが報道の権利を行使するのであり俺たちの許可なしでは何も報道されない、事実すら報道されないとなっている
それは新聞とかテレビだと誰もそれだけの装置を持つことができないメデアになっていたからそうなっていたのである
そこには莫大な金がかかっているからである

ただ既得権というとき報道機関だけではない、様々な組織団体にありそれが圧力となって報道も歪められる、電事連とかでもそれは労働組合でも原発推進になる既得権の団体である、だから原発には反対しない、自分たちの給料がどこから出ているからわかっているからである、そして電事連からマスコミに膨大な宣伝費が流れていて一体化して安全神話が作られたのである
現代の科学はサイエンスではないという、それは利益と利権と密接に結びついたものであり科学的なものもそのために利用される
そこで御用学者も研究の予算をとるために実際は危険でないのに危険をあおるのである
こうして科学も本来のサイエンスではなく利益追求のみが優先されるとき歪められて安全神話が作られ大事故になりとりかえしのつかないことになった  

この辺では漁業権を東電に売り渡して事故前も事故後も多額の補償金をもらっていたことを指摘して批判してきた
これもまた利権と結びつきそうなった、こういうことはあらゆる所にあり無駄に金が使われているのだ
社会の既得権化したものを壊すことは容易ではない、それは明治維新とか戦争か巨体な天変地異でも起きない限りできない
安全神話を崩壊させたのは未曾有の津波だったからである
そして中国でも約人民解放軍が支配してから70年すぎ日本でも戦争から70年すぎて既得権化したものの崩壊が起きる
銀行もそうだった、社会全般に既得権をもつものの崩壊が起きる、70年ごとに大きな変革が起きる
それで今日本で地震が頻発しているのである

いづれにしろNHKでもなぜ温暖化の危険をこれほど言うのか?
その意図は何なのかとなる、やらせ報道までして温暖化を言うのはなぜなのか?
北極の氷がとけていなのに溶けていると報道する
そこまでしている理由は何なのかとなる
それは科学的ではない、何かの大きな意図が働いてそんな悪質なやらせ報道までしている
そして水につかっていたのはツバルの島のほんの一部だったのである
映像で判断する危険は全体の一部をきりとり放送することにある
一部だけが極端に強調されてそれを真実だと見させるのである
でも映像の影響力が大きい、人間は一部の切り取った映像で即座に判断するからだ
それでイラクの湾岸戦争では油にまみれた鳥をみせつけてイラクのためにそうなったということが全世界に伝わり
イラクが悪しとなったのである、それも報道による操作だったのである。



2018年09月10日

さくらレンタルサーバーで警告メール (レンタルサーバーとかプロバイダーは検閲しているのか?)


さくらレンタルサーバーで警告メール

(レンタルサーバーとかプロバイダーは検閲しているのか?)

internetcheck1.jpg

2009.04.24 Friday 

アクセス解析を見ていたら「osnfw.sakura.ad.jp」というホスト名のアクセスがあった。
これは、さくらのレンタルサーバーの中の人だと思う。

理由は、以前もこのアクセスがあって、その後に警告メールをもらった経験があるから。
第三者に通報されると即座にチェックされて、【重要・要返信】というタイトルのメールが送られてくる。

でも、今回は利用規約には違反していないだろうから、警告メールは送られてこなかった。
普通にサイトを運営しているのだから、大丈夫だろう。

以前はすぐに該当ページを削除したら、許してくれたけど。

そんなに悪いことはしていないのに…。

osnfw.sakura.ad.jpからのアクセスが最近あった、忍者のアクセス解析に出ていた
ただこの解析は全部は出ない、アメリカからなぜ70人もアクセスがあったのに
最近は二三人しかない、一人だけは熱心な人がいるのも不思議である
抽象画の部にアクセスしているのだと思う

ただアメリカから私のホームページにアクセスしている
これもわからないが日本語だアメリカの人が詠むのか?
古代関係にアクセスしている、これは日本人としか思えないのである

最近私はホームページでもプログでも整理している、時間ができたので整理しているが
量が膨大になったので整理するにしても作業が大変になる
自分自身が書いたものが本当にわからなくなった
こんなこと書いていたとか不思議になる
人間は自分で書いたものすら忘れている、忘れやすいのである

いろいろ詩とか俳句と短歌でも整理する必要がある
詩では別にプログを作ったがこれも忙しくなるのでアップしていない
量が多すぎるから整理できないのだ

たださくらのレンタルサーバーからのアクセスで気になるのは警告メールが来たりしたのはなぜなのか?
その理由がはっきりしない、著作権違反とかもある
そんなにフログなどを見ているのか?
なかなか見れないだろう、なにしろさくらは安かったからである
だから最初数が多かったのである
何かこういうことがあると不安になる

インタ−ネットは不安である、一番の不安は何かの調子で一瞬にして消えることである

またレンタルサーバーとかプロバイダーによって削除された消されたいう報告もある
都築詠一氏の(心に青雲)のフログはそういうことがあったらしい
過激な思想と批判があったからだ、でも死んでしまったのである
そしてログは10分の一くらいしか残されなかったのである
それでふりかえり考察することができくなったのである

だから私もいつ消されるのかと不安になるし一瞬に消されるのではないかという不安がある
例えば創価など批判するとここは組織的に力をもっている
するとそういう団体からさくらのレンタルサーバーに批判が来るかもしれない
そして一方的に消されるという不安があるのだ
なにかここにインタ−ネットの問題もがある
ただ著作権違反だとかしやすいし過激な思想の団体もプロパガンダしやすい
実際にテロがインタ−ネットのサイトを通じてイスラム国などからあったからである
つまりあらゆるものの自由はまた危険なのである

でもレンタルサーバーでもフログを提供する会社でもどういう責任があるのか明確ではない、勝手に会社の都合で消されたり削除したりされるとしたらどうなるのか?
そのルール―が何なのかもわからないのである
インタ−ネットの法律はない無法地帯だともなるからだ
でも会社の意向で消すときは連絡してもらいたいとなる
その理由を言い警告した後にこちらでも処置するとなる

ともかく一回さくらのプログで機械の故障かなにかで消えたことがあった
でもバックアップしてあったので回復した
それから手続きができなくてせ電話で連絡して料金を払い消されないですんだ
それは一日も余裕がなかった
入院していて見ていなかったからだ
そういうふうにインタ−ネットでの手続きはめんどうだからそういうことが起きる
つまりインタ−ネットには様々な危険がひそんでいるのだ
それは操作がめんどうでありわからないことが多いからだ
技術的障壁が大きすぎるからである

ただ最近はめったに通信ができなくなることはないから安心ではある
通信は安定したからである
でもhttpsのsslの認証のことがわからないからまた困るのである
感嘆に移行すると不具合ができているから困るのである
さくらは意外と大きな会社で今は北海道辺りにデーターセンターがある
だからバックアップがあるから記録が簡単には消えない、それが安心なのだが
それでも理由もなく一方的に削除されたり消されるのが怖いという不安が依然として残るのである。

個人は弱者である、だから巨大なの組織団体の力がインタ−ネットでも働いたらどうにもならない
国自体が中国では関与しているから自由な発言は中国にはない、そうなるとインタ−ネットでも規制されて
真実は報道されなくなるのだ
経済活動ならレンタルサーバーでも大勢を組織団体を優先する
それで経済的にしめあげられれば組織団体からの圧力に屈する
それでマスコミには真実は報道されなくなったのである
それがインタ−ネットでもありえる
インタ−ネットでも今は多数がしているのだから影響力がでてきているからだ
でもそうしたフログは極一部である、まずインタ−ネットでは読まれることが至難だからである
不思議なのはくだらないものでもyoutubeになると見られているなと思った
気楽に見れるからである、それで個人が放送局になっているからマスコミに個人で対抗しているのである


2018年09月05日

AI化時代に対応しないと遅れをとる (情報の集積化で答えを出す)


AI化時代に対応しないと遅れをとる

(情報の集積化で答えを出す)

AIとは何か?それはインタ−ネットしてみていればわかる、膨大な情報がある
それを検索して結びつける、人間の知能は今までなぜ限られていたのか?
それは情報の量だったのである、情報が限られていれば学術論文などを書くにしても
いくら知能が高くても独創性があっても無理なのである。
情報量が多ければそれだけですでに有利な立場にたてるのである
それはあらゆる分野で言えるのである、理系、文系を問わず情報量によって優劣が決まる例えば学者がいたとすると欧米の学者の知識を本を紹介する、翻訳するだけで学者になれたということがある
明治以降はヨ−ロッパの文明を取り入れるためにそうなっていたのである
そこに学者の独創性はそれほどなくても良かったとなる
インタ−ネット時代になると直接外国の知識にふれることができるからそれがなくてもできるとなればただ紹介するだけでは認められなくなる

情報量が勝負だというとき最近をそれを実感したのはこんなに本があるのかという驚きである、その本の読み方が変わった
インタ−ネットの検索のようにして本を探す、すると探しているものに合った本があるという不思議である、まず本の数は本当はインタ−ネットの出る前から膨大なものだった

ただ本があることを知らなかった

それは出版されていたのだがその本のあることを知らなかった
だから私は一週間に一回ほど仙台に行っていたのは本を買うためだったのである
でもその仙台の大きな本屋でも本は限られていたのである。
それで知的探求には地方では相当なハンディキャップがあったなとふりかえる
学問とは確かに自分で思考することだが知識は情報量で優劣が決まる
いくら独創性があっても情報量がたりないと足りないものが生じる

それはなぜなのか?

今回本を買ったがこんな本があること自体不思議だった
それは自分が今まで追求してきたことをよりわかりやすく書いてあったのだ
他にも自分が探求してきたことを書いてある本があった
それはその本の一部なのだがそうだった
今回の全体的に自分が探求したことを書いてあったので驚いたのである。
本は前は高かった、古本が極めて少ないし買えなかった
今はアマゾンで古本を探すと安いのでいくらでもある
それで千円以下だとまるで蒐集するように買っている、それはインタ−ネットで検索するのとにている
ではなぜそういうことが起きるのか?

それは人間でも知識でも世界的になると広い
すると同じようなことを追求して考えている人がいる、それはインタ−ネットでもそうである、同じようなことを追求して書いている人がいるからだ
するとそこでそうした知識を結びつけるとそれだけ物事を深化して見れるのである
だから人間がインタ−ネットとかでAI化しているのである
AIの強みは膨大な情報量を処理できることなのである。
それは桁違いの情報なのである。人間はもうそうした膨大な情報を処理できない
それで株式情報でも膨大だからとても人間では予測できない
AIの方がずっと有利になるのである。

AI化というとき人間が何もすることがなくなるのではなく人間自体がAI化してくる
インタ−ネットの情報検索であれ本であらゆる本がボタン一つで買える
ただ学術書となると高くなる、でももし大学に授業料を払うより文系ならそうして本を買った方がいいとなる、情報量で優位にたてるからである
私のインタ−ネットの写真とか絵を利用した抽象画創作も全く絵の才能がないのにできた理由は膨大な写真でも絵でも抽象画でもインタ−ネット上にあったからそれをソフトで操作しただけなのである
ただ最近その操作に疲れたので休んでいるともなる、それは全く化学実験と同じだったのである。

現代は勉強するには知識を探求するには向いている
それはもうインタ−ネットできればどこでも可能である
最近はスマホでもアクセスしているからパソコンがなくても知識は吸収できるしパソコンがあれば全国にも世界にも発信できる
だから情報分野ではインタ−ネットをしないことはもう相当なハンディキャップを負うことになる、時代に乗り遅れてしまう
図書館不要論がでるというときその場所まで行きそこでまた本を探して読むというのが手間なのである、それで私は介護になってからでも終わってからでも家事に時間をとられるから行っていないのである
その場所まで知識を得るために行かねばならないこということはそれだけ時間の無駄なのである
だから当然本屋は消滅してゆく,図書館も不要論がでてくる
それは知識を探求する人はインタ−ネットしている人はわかる
AIはむずかしいにしてもある程度理解できる
医療分野でも膨大な情報量を処理することなのである
膨大なレントゲン写真から癌を見つけ出すとかその情報量によって効果を発しているのである

まず古本だけでも膨大であり安いから買える、今回買った二冊の本は自分が追求していることを語っていたということで驚いた
つまり人間は一人で考えることには限界がある、一人の知識には限界がある
それだけ知識の分野は広いからそうなっていたのである。

場所の現象学(没場所性を越えて)−エドソール・ルレフ

この本は私が自分の住んでいる場所からあらゆることを発想してアイディンティティを作ってきたようにそのことを明快に書いていたから驚いた
つまりまさにぴったりの本だったのである
ここでは住んでいる場所がいかに大事かそこをベースにして人間が形成されることをわかりやすく書いてある
現代はの場所が没場所化している、そこに人間存在そのものが希薄して意味なきものとしている、マスコミでもそれは没場所性の報道なのである
私がプログで地域の報道でもするとき没場所性にはならない、土着的な報道となっているのである、こういうことは今まではできなかった
メデアをもたないからできなかったのである。

大衆的アイディンティティはそれは集団や個人の経験から発展したというよりも世論を誘導する者によって与えられ、できあいのアイディンティティを人々に与え商業広告を代表とするマスメデアを通じて広められる
それは感情移入的内側性の余地を全く残さず場所との一体化の基礎を破壊することによって実存的内側性をむしばむ
大衆的アイディンティティが象徴や深い意味に基づかず気まぐれで寄せ集め的に生み出されたまことしやかで作為的なステレオタイプに基づくものだからである
マスメデアはその受け手が直接に経験できない場所に偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする

Massedia tries to build up a fake world of a false place in a place the recipient can not directly experience

報道とは何かというときそこも土着性が必要だったのである。
その住んでいる場所から物事をみる、でもマスメデアになると全国的とか福島県でも広いから没場所性になる、そこに何が真実なのかも事実なのもかすら明確なものとならないし何か意味づけることもできない、ただニュースとして一過性に流れて消えてゆくだけだとなるのである、場所には永続性があるから場所をもたないものはただ一過性になってしまうのである
また直接的な経験ではないからフェクニュースになりやすい、世界的ニュースになるともう完全な没場所性になるからフェクニュースでも真実になる、その場所のことを理解することは不可能だからである
何か起きるというとき take place であり場所と関係していたからである。

2018年08月23日

マスメデアは感情的にさせる客観性がないバッシングメデア (対抗メデアになっている武田邦彦氏の発言)


マスメデアは感情的にさせる客観性がないバッシングメデア

(対抗メデアになっている武田邦彦氏の発言)

武田邦彦氏が盛んに日本人は感傷的感情的になりすぎる、客観的冷静に見て判断しない
合理的ではないというとき日本人にはもともとそうした科学的合理的精神が育たなかったとなる
科学的合理的精神がなぜヨ−ロッパに育だったのか?
それは一神教でありキリスト教から育まれたという見方がある
なぜ宗教から合理的精神や科学的精神が育つのか?
それは一神教というときあらゆるものが神となるアニミズムから解放されるからである
偶像崇拝から解放されるから科学的合理的精神が育つとみる

日本人は感情的だというとき義理人情の世界だから情に重きを置くからそうなる
日本人には法の精神とは育ちにくいだろう。法律は情を極力入れな、感情移入しないところに成り立つからである
感情的ではなく冷静な客観的判断をすることに重点を置くからだ
日本にはこういう精神が欠けているのは確かである

明治になるとそうしたヨ−ロッパの文明が入ってきたとき思想でも何でも日本人は同化しようとしたがなかなかできなかった
例えばこの合理的客観的精神は文学にも影響したのである
正岡子規の俳句の写生論がそうである
「鶏頭の十四五本ありぬべし」の俳句がその代表だったのである。
こういう俳句はありえなかったからである、それはヨ−ロッパの文化が入ってきたとき写実主義が絵でも現されているそれを取り入れたからそうなった
極力悲しいとか淋しいとかうれしいときいう感情は入れない、なぜならそうすると俳句は短いから表現できないからである
短歌だとそうした淋しいとか悲しいとうれしいとか悔しいとかの感情が入れやすいのである、俳句は感情的なものを入れるとも短いから成り立たなくなるからだ

客観性は科学や法の精神である、主観とか感情移入すると客観的判断はできなくなる
だから親族の発言は認めないとなる、どうしてもそこに感情が入るから公正な判断ができなくなるからだ
法で裁くというとき何かの事件でも殺人事件でも客観的な判断になるもの証拠が必要になる、すると科学的にその証拠を集めてそれが有力な判断基準になる
推理小説ではドラマではそうなっている、つまり人間の争いは複雑であり感情的になると誤るし利害とかからむとまた判断を誤る
それで客観的証拠として科学で追求するようになったのである。
私もそのことで失敗した、親戚でも双方の言い分を聞かなくて一方的に一人の言い分だけを聞いていたからである。それで判断を誤ったのである。
それは利害も関係していてそうなった

人間はそもそも客観的に冷静に判断することがむずかしいのである

objectとなると【哲学】 対象,客観,客体 (⇔subject)の意味になる

objectには物体という意味があり物体から見れば客観的になる
人間だと感情移入するから客観的になりにくいのである
科学者はobjectの追求しているから客観性を維持できる
文系は感情的になりやすい傾向がある
それで武田邦彦氏の言うことは科学者であり文系にも詳しいから参考になる
考えさせられるものとなるからだ

マスメデアは文系なのである、理系の研究者などいない、だからどうして科学的なことについて追求できるのかとなる、何の専門性もない素人である、
それでもマスメデアはただ大勢の人が見るということで力をもっていたのである
大勢の人に訴えるにはわかりふすいことである。
それは感情に訴えることなのである。

ともかくニュースでも犯罪があれば感情を刺激する報道をする、何かをハッシングの対象にする、裁判官のようになっている
それはマスコミはマスメデアは単なるメデアではない、媒体ではない
自分たちの思う通りにしたいという明確な意志があって報道している
だからそれに反するものは発言させない、正しくても発言させないし取り上げないのである。またマスコミのマスコミ会社の意にかなわないものは排除する、報道もしないのである。

そしてマスコミはマスメデアは洗脳機関なのである。何か客観的に正しいものを追求していないのである。
この辺で起きたことでもそうである。補償金問題でもめていたとき一方的に原発避難民側に立って番組を作っていた
それでもし原発避難民を批判したらNHKでマスコミでそんなことを言わないとなりハッシングされる、なんて冷たい奴なのだとなり自分も批判されたのである
それはNHKにマスコミにお墨付きをもらったからそうなったともなる

でも現実問題として飯館村でも補償金で二分したけど牛を飼っている農家が9億円もらったというときそれは報道されないし真実かどうかわからない
でも大熊では5億円もらったというとき嘘ではないと思う
なぜなら事業している人とか土地をもっているとか酪農とか肉牛を飼っている人は多額の補償金を出たことは確かだからである。
それが現実であるが報道はされないから誤った判断になる
飯館村の村長が寄付金を募っていた、9億円ももらった人がもしいたらなぜその人たちは飯館村の復興に金を使わないのかとなるからだ 

でもそういうことは隠されるから飯館村ではかわいそうだなとなる
私も飯館村には思い入れがあるから批判はしたくない、飯館村は双葉とか大熊とは違う
原発とは関係ない所に位置していたからである
ただ金の問題になったときそんなに補償金をもらう人がいてなぜその人たちは村の復興に使わないのか?ただもう村を出てゆくことが優先されるだけだとなってしまった
これも外部の人はそういうことが報道されない隠されるから判断を誤る
ただ補償金では利害からんでいるから当事者だと客観的になりにくい
ここは30キロからはずれて補償金ももらったとしても少なかったから私は発言できたともなる

いづれにしろマスメデアとかマスコミの時代は終わったと思う、新聞とかもやがてなくなるかもしれない、すでに若い世代は新聞もテレビも見ないからである。
そしてでは判断基準をになるのは何になるのか?
それを象徴していたのが武田邦彦氏の科学者としての発言である
反対することがあってもインタ−ネットでは個々人の発言でありマスコミの会社としての発言ではない、すると何であれ考えさせる
つまり個々人だから対話的になるのである。この人はこんなことを言っている、そういうこともあるの,そういう考えもあるのとなり自らも考えるようになる

でもマスコミは煽情的であり何かをあおりバッシングさせるメデアである
まず阿部首相は気に食わない、自民党は気に食わない、だからやめさせるべきだ
そこから出発して会社として朝日新聞社とか毎日新聞社の意見として編集して放送しているのである。その会社の意向に反する者は発言できないのである。
それはカルト宗教団体ともにているし感情をあおるナチス的手法でもある
ゲッベルスになっているのがマスコミである
だからこそ朝日新聞は戦争を一番あおったのである

インタ−ネットにも問題があるが個々のメデアだから対話的であり考えさせるとはなる
大衆を対象にもしていないからである。
インタ−ネットでも大衆を対象にするとき感情をあおるようになる
でもそういうメデアではないからてりにくい、マスメデアはマスコミはあくまでも大衆をマスを相手にしている、だから考えさせないで感情的にあおる
まず犯罪の報道でも裁判官になっている、何かの報道でも裁判官になる
だからそういう資格があるのかという疑問がある
科学的に専門知識をもっている経歴の人がいないということは言えるからだ
武田邦彦氏の経歴はやはり他者の追随できなものである
ただすべてを容認はできないにしても科学については詳しいからそこから客観的判断ができるとてり考えさせるとなる

2018年08月18日

インタ−ネットで変わった放送 (情報の戦国時代となり百家争鳴になった)


インタ−ネットで変わった放送

(情報の戦国時代となり百家争鳴になった)

今回の高校野球は面白い、金足農業の逆転劇もドラマチックである
野球はプロ野球をずいぶん見ていない、王長嶋の時は見ていた
あれはプロ野球人気というよりテレビで放送されるようになって人気がでた
ラジオ放送だったりしたらマニアのような人しか関心がないとなる
テレビの影響は本当に大きかった
テレビの前は映像となると映画だがその時の俳優は映画で有名になったのである
映画館とかありニュースもそこで見ていたのである。
その時鉄道でフィルムが運ばれるから遅れていたのである。
リアルタイムでは放送されなかったのである。

現代を生きた人はテレビの影響が大きかった、テレビに出ればその人を問わず有名人になった、テレビに出ればなにしろ何百万人が見ているのだから影響力が大きい
テレビで取り上げらることはそれだけで有名人になる
今振り返ると本屋でもそうである、ごくわずかの本しか置いていない
それで冠婚葬祭とかの本が百万も売れたのである。
つまりこれは内容など関係ない、宣伝で売れたのである
テレビの宣伝だけで売れた商品はいくらでもあるだろう、内容より宣伝力がものを言うからである、それでテレビは絶大な力をもった、別に内容というより放送できるということで力を持っていたのである

ニュース解説でも放送でもテレビで放送されれば何百万人も見るからである
そして六局しかテレビで放送できないのだから独占だったのである。
するとマスコミでは放送によって独占できるとなる
世論でもマスコミが作ることができた、マスコミは単なる媒体ではない、会社が意志をもって放送する内容を決めていたのである
インタ−ネットだと一応目立たないにしろただの媒体,メデアだという感じになる
誰でも放送できるからである,それでも今はインタ−ネットでも操作されているという時代になった、それはインタ−ネットがそれなりにメデアとしてみんなが見るようになったからである。

メデアというと媒体という意味だけど実際は違う、媒体には機械的なものでそこに人間の意志はない、でもマスメデアであれマスコミではあれそれは明確に意志をもって報道している、だからこれが混同しやすいのである
誰でも言いたいようにマスコミを通じしてマスメデアを通じては言えないのである。
マスコミのマスメデアの方針にそって発言しているしその方針に逆らうことはできないのである。
新聞でも週刊誌でもメデア(媒体)と報道するものが一体となっていたのである
テレビでも放送するには莫大な金がかかる、新聞でもそうである、雑誌でも金がかかる
本だって出版するには金がかかる、その金をどうするのかというのが問題になる
それは会社の宣伝費でまかなうほかないのである。
だからマスメデアは媒体をもっているからそれで権力をもつようになったのである。

でもインタ−ネットになるとほとんど手間はかかっても無料で放送できる
それで中国の現状を討論番組で放送したがそれはyoutubeでも盛んに言っていたなと見た
youtubeだって今や放送局と同じなのである。個人の放送局にもなっているのだ
プログでもそうである、個人は総一億記者になってしまったのである
リアルタイムで写真でも動画でも出せるからである
そして何か自分でもしてみて放送するということが興奮することなのである。
それでこれまでのマスコミと同じく目立つためにわざと火事を起こしてそれを動画にとり視聴率を高めるとかあった、それは絶えずテレビで刺激的なことを事件を報道して視聴率を稼いでいるのと同じなのである。

アフィリエトとかで同じように宣伝費をかせぐからである。それはマスコミも会社から宣伝費をもらっているのと同じなのである。
それで会社から金をもらうと会社の意向にそうような記事を書かねばならないと言っているのもテレビと同じなのである
違うのはほとんど金をかけずに個人でも報道できるから会社から宣伝費をもらわなくてもできることが大きな相違なのである
これまではそういうことはできなかったのである

メデアが媒体だというときそれが目立つから何百万人の眼にふれるから会社でも宣伝として使おうとする、例えばテレビでなくてもコンビニでもそこに雑誌でも本でも新聞でも置けばその見出しだけを見ても目立つのである
書店でもそうでありそこは目立つ場所なのである。でも誰でも勝手に置くことはできないのである、本でも書店で目立つ所に置けば見る人がいるとなるからだ
ただ今や週刊誌や雑誌は買わない、インタ−ネットで月400円で見れるからである
ほとんどの週刊誌や雑誌はDマガジンで見れるのである。
すると読むにしても週刊誌一冊は読まない、目次をみて興味あるものしか読まなくなったのである
そうなるとコンビニに週刊誌が置くだけ目立ったがインタ−ネットでは目立たない
無数の記事から選び読まれるとなってしまうのである
まずインタ−ネットで目立つことは至難だからである
たたテレビと同じようにyoutubeにすると見られやい、たいして内容がなくてもやはり本読むより簡単だから楽だから見る人はいるなと思った

いづれにしろ今やインタ−ネット時代になると報道でも情報の流通でも戦国時代である
百家争鳴になったのである。
どんな人でも発言できる放送できる時代になったからである
そして放送するということは地域でも無数にあるから実際は無数なのである
なぜ自分でも不思議なのは自分の住んでいる場所の駅が無人駅になっていてそこを定点観測したことを報告している
駅長が一人でホームの草刈りしていているとか報告した
写真でも報告したりした、駅で放送するようなことがそんなにないと自分では見ていたのである。

でも駅にこれだけ放送することがあるということが自分でも意外だったのであるとすればどこでも定点観測して放送することがあると思った
駅でなくても病院であれ学校であれ会社であれ工場であれ農業であれ漁業であれあらゆる職業でも毎日ウオッチして報告することがあるとなる
それはでもみんなたが興味をもつ、これまでのマスコミでテレビで何百万人とか見るようにはならない、新聞でも福島県でも百万単位で新聞を見るのとは違うのである
福島県でも広いからである。
自分の場合は自分の住んでいる一万足らずの町を中心に報道しているからである 
ここでもインタ−ネットにより報道が変わったことだと自らしてわかったのである。

いづれにしろ何かを報道することは興奮することだと思った
それで津波の時にその映像をとることに夢中になって助けなかったとか問題になった
反省した人もいた、それはマスコミが今までしていんたことなのである。
まず刺激的な映像をとることが第一になるからだ、それが商売だからである。
その映像を見せることによってみんなが見ることによって会社からの宣伝費ももらえる、大勢見ることによって成り立つ商売だからである
だからこの辺で津波が起きたとき八沢浦が江戸時代の入り江にもどったと写真を出してのせた、それを相当の人が見たのである。
でも地元では現場では津波の後に泥に埋もれた幼児の死体を掘り出しているのになんなのだとしかられたのもそうである
それが自分はマスコミと同じようになっていたのである。
津波の刺激的な映像を報道したかったのである。
ただ無料だし宣伝するプログではない、金をもらっていないことが違っていたのである。別に金をもらわなくても人間は報道する本能があると思った
何か変わったことがあれば何でも口伝いでも伝える、口コミが常にテレビがなくても何がなくも人間はしてきたからである

ただインタ−ネットの問題はあまりにも放送する人がふえすぎたことである
プログしている人でも何百万にもなるとかなれば異常な多さでありそこから今度は読まれることは至難になるのだ、よほどのことでないと読まれないということにもなる
すると公的なもの国民として知るべきものや深く議論などして知るべきものがわからなくなるということはある、そこには確かにオピニオンリーダーのような人がいることはいるがその他にも無数に意見を言う人はいるからである。
そしてそこでもキケルゴールの言う水平化の原理が働くことになる
お前の言っていることはたいしたことはないとか水平化されて何が重要なことなのかもわからなくなるのである。指標となるものがなくなる
すると情報の海でおぼれるということもある、捕まる杭とか何かそういうものがないと判断できなくなるからだ      

インタ−ネットにもいい点と悪い点がありそれをうまく使えるのかということもある
ただマスコミとかマスメデアとか雑誌とか週刊誌とか新聞紙の時代は終わったというのは確かである。それはメデアをもっていたからでありそのことで力をもっていたからである新聞でもそれを配るには大変な金がかかるしテレビでもそうだったからメデアを独占できたからである、今はそれができなくなると報道するのでも内容が問題にされるようになったのである。
ただインタ−ネットではあまりにも数が多いので指標を見失うということはある
ただ個人でもメデアを報道する媒体をもったことは権力が与えられたことだったのであるだから中国ではインタ−ネットでも規制している、政府の批判はさせないのである。

2018年08月08日

カシオの腕時計のバンドが二つとも切れた (金属でないと一年くらいしかもたない)


カシオの腕時計のバンドが二つとも切れた

(金属でないと一年くらいしかもたない)

ristwatch11.jpg

カシオの腕時計を二つ買ったけどバンドが切れた、方角のわかる時計はに三年もった
時刻も狂っていない、次の月の満ち欠けのわかる時計は一年ももたずくらいにハンドがきれた、このバンドが切れたらなおしようがないから使えなくなる
どちらも一万ほどだがこんなのでは買っても損である
何か欠陥がある、このハンドは安物を使っているのだ
こんな簡単に切れてしまうのでは損である

それで今度は2000円で金属のバンドのを買った、これもカシオである
別に時刻がわかればいいと思い買った、これはソーラ−電池ではないが
7年はもつとある、まずバンドがこんな簡単に切れるのは使えものにならない
そしてこのバンドは直すこともできないのである。

この頃買い物では失敗することが多い
これは別に年と関係ないが買い物がうまくできなくなった
それはなぜか?
新しいものが商品として出ていても使えこなせないのである。
そして良く「年寄りの冷や水」というけどその意味がわかった
年寄りでも別に急に年とって変わるわけではない
年よりもこれまで生きてきた延長として生きる
だから今までしていたことができると思う
それで今までしてきたことをやりつづけようとする
買い物でもそうである、今まで買ってできていたから使いこなせると思う
でも技術は進歩しているから追いつかないとなる
パソコンをやっていたからスマホもできると思うがスマホはまた違ったものだから使いこなせないとかなる

また登山しようとしてリュックを買ったがこれも使わない、登山がきつくてできないとかなる、自転車でも電動のロードのいいのが出たから今までのように遠くに行こうとする
でもロードは体にきついとかなる
つまり老人でも年とっても人間は今までしたことの延長としてある
それで年寄りの冷や水となるのである。
人間は年とることがどういうことか理解できないのである。実際に年取ってみないとわからない、年をとることは今までしたことができなくなる、体も頭も追いついていけなくなる、でもそれが実際にそうなってみないと理解できないから依然として今までしていたことをするのである、バイクにのるのも70の人も乗っていた
それは今までも乗っていたし車でも今まで乗っていたから年とって依然として乗ろうとする、それがいつか年よりの冷や水としてとがめられるようになる
車に乗るなというのはまさにそのことなのである。

いづれにしろ買い物がうまくいかない、それも年とることの特徴なのかもしれない
ただこの腕時計のバンドが切れたのは別に年取ることとは関係ないだろう
これはカシオでこのバンドを強くしないからだ、安物で切れやすい作り方あしているだけである、だから年寄りだから買い物に失敗したとはならい
でもこの腕時計でも使い方がめんどうでありそこが問題だったことは確かである
現代の商品は機械などは何か使い方がめんどうなのである
それが老人にとって不利なことは確かである
老人にとってはアナログ的なものが使いやすいのである
それで現代社会は老人にとって不利なものとなっている

2018年07月20日

コメントの返信は遅れることがあります


コメントの返信は遅れることがあります

コメントの返信はは三日の後とか一週間後とか二週間後とか一か月後とかになることがあります

なぜかというと自分のプログにはほとんどコメントがないので見ていないのです
私はプログを書くことに専念しています
それでコメントを見ていないことがあるのです

だから遅くなっても返信はあるのでプログを見ていてください

今回の深野の人のコメントは興味深いものでした
ただこれも三日後とかなったので遅れました

一週間後くらいまで余裕をみて返信がありますので見ていてください
これからは一週間を目安にして返信はしたいと思いますのでよろしくお願いします

2018年06月26日

「ネット上で恨んでいた」 福岡のIT講師刺殺容疑者 (ネットを規制しろというのはマスコミである)


「ネット上で恨んでいた」 福岡のIT講師刺殺容疑者

(ネットを規制しろというのはマスコミである)


これも起こるべくして起きた事件なのかもしれない、ネットでは見知らぬ人でも言葉の暴力になりやすい、相手が見えないからである。
すると過激な発言になる、普通の社会だと相手と直接接していればなにりくい、制御されることでも制御されなくなる、ただ普通の社会でも見知らぬ人が酒飲んで口論になり殺人事件でも起きている
これもネットだから起きたというわけでもない、ただ11人とか殺害されたのは震撼とした、ネッとで誘い女性が殺された
そして意外と女性がsnsにはまるというのも意外である。
女性は相手の男性を信用するというのも意外である、警戒しないもの意外である。

ネットを通じて女性を暴行して殺害したという事件もそうである
ネットには闇の世界がある、匿名性でそうなりやすい、またネットでは誰でも発言することができる、どんな発言でもできる
こんなことをいってお前バカだなとか何か答えにもなにもならなくてもそこで発言できるつまりそうしてただ何もまともなことを発言できないのでおとしめるだけの発言をする人がいる、そういう人は相手にしたくない、フログだと無視できるからいいのである。
掲示板と他のsnsだと対話形式になっているから無視ししにくいのである
議論はあってもいいがただ馬鹿だとかおとしめるだけの人もネットには多いのである

ネットでも大統領がツイッターをしているとか普及しているし日常化した
自分はツイッターとかわからないし他のこともわからない
でもワープロで通信していた時代がありそのことを知っている
その時はみんな対話形式のものでツイッターとかラインとかと同じだった
フログのような個人が自由に発言するのではなく必ず対話形式だった

私はプログに発言するようになってからほとんど返答があっても答えていない
プログになるとまず書く量が多くなるからそれだけ手間になるのだ
相当なエネルギーを費やすことになる
今までは長い発言はできなかった、今でも対話形式ではできない
だからプログと他のSNSは違ったものなのである。
正直こうして書いているが反応がわからない、でも長い分を読む方にして手間だろうなと思う、熱心な人しか関心がある人しか読まないとも思う
プログなど無数にあるから読まれること自体が大変なのである。

最近Dマガジンとかインタ−ネットで一か月400円払って雑誌でも週刊誌でも読めるのは便利である、そこで気づいたのは週刊誌の記事はつまらないなと思った
今までは面白い記事があり買ったりしたがインタ−ネットになると何か読む記事がないなと思う、でももしインタ−ネットでこんなふうにして読まなければ週刊誌でも400円くらいで一冊買う、何か一つでもいい記事があると買ったりしていたのである。
それは結局週刊誌がコンビニなどにあり目立つからだったのである。
何か情報を得たいということで買っていたのである。
週刊誌が成り立ったのはコンビニなどに置いて目立ったことが原因ともなっていた
その内容がいいからとは限らなかったのである。

マスコミとかテレビとか新聞はもともとそういうものだった、それはメデアとして特権化したものであり放送する出版する権利をもっていたからだったのである。
そして新聞でもテレビでも本でも簡単に多くの人は何かを言うことはできない
メデアを持つことは権力を持つことだったのである。
現実に原発事故でわかったようにテレビとか新聞社には宣伝費として800億円も流れていたことでもわかる
それはメデアがそれだけ権力をもっていたことの証明なのである。
一プログなどは注目されないからそんな権利をもちえないからである。

ただDマガジンとかでわかったことはメデアが水平化したなとつくづく思う
NHKですら今は平気で批判できる、つまりなんでもキケルゴールのいう水平化現象が起きてくるのだ、民主主義でも平等を追求するから当然水平化する
誰でも発言ができる,こいつ馬鹿なことを言っているななど発言できる
それで満足する者もいるのだ、ねりにねって考えて発言したものへでも馬鹿な発言だとは言えるのである。
民主主義は平等であり下劣なものでも高等なものと対等になろうとする
それがインタ−ネットでメデアでもそうなったのである。

今回の事件でもITの専門家で講演までしている人が無職とかの人に恨まれて殺害にあった
それは「低能先生」とか罵倒されてそうなったのである。
そのバカにされたことで殺害までなったのである。
ネットでは馬鹿だとかいうことは普通である、でも面と向かっては普通は馬鹿だとは言わない、ただ低劣な人間でもともかく発言できる
それが水平化の社会なのである。
この社会はまず優秀な人とか認めない,みんな同じなんだという社会である。
だから低劣なものが入り込みやすいし受け入れざるをえない社会なのである。

君子危うきに近寄らず-これほど深い意味ある言葉はないことを今になると知る、危ういやつには近寄るなというときこの世には危うい奴が多すぎるからだ,
ネットだと余計に匿名だしそうなる、そこで思わぬ事件に巻き込まれるのである。
ただ殺人までいたるということはこれもネットでも普通の社会と変わらないものになってきた証拠である、別に見知らぬ人同士が口論になり殺人事件になるのはあるからだ
でもそのことの原因が何なのか?それは人間の劣情がら起きてくる
だからネットがすべて原因とならないのである。
ではネットのない社会で口論で殺人になる事件は何の原因だとなるからだ

いづれにしろ人間の社会では道具でも機械でも何か便利なものはいい面と悪い面をもたらす、鉄の時代が暗黒だったというときそれが鉄の武器が殺傷力が強くなり殺人マシーンともなる、それは核の発明でもそうである,もし核が発明されなければ広島の原爆はなかったからである。フクシマの原発事故もなかったからである。車の発明でもこれだけの人間か死に傷つくこともなかったのである
車は犯罪しやすい道具なのである。逃げるのにはいい道具なのである。
自転車旅行だとかならず目立つから職務質問されるが車は検問があってもなかなかわからないからだ
インタ−ネットでも同じなのである。便利な道具を使った犯罪はなくならない
では車を規制しろとかは言わないのである。
インタ−ネットを規制しろというのは特権を享受していたマスコミなのである。

ともかくこういう事件が起きるのもインタ−ネットが一般社会化したといかことである
殺人もネットからみであるし盗みもあるし性犯罪もあるしなんでもありになる
それは別にネットがなくても起きていたのである。
それが全部ネットのせいだとは言えないのである。
そして車と同じく今やネットなしではスマホでもそうだが社会が成り立たなくなっているだからネットを規制することはできないという前提でネットをするほかないとなる
別にネットを有効に使えは今までにない世界が開けるし知識も身につく、その利用の仕方次第なのである、それは車を犯罪に利用する人せいるし有効に社会の役立つように利用する人もいる、結局その方が多いから車は規制できない、社会で規制しないのである。
それはみんな合意の上に成り立っていからだ、ネッとを規制しようとしているのは特権を享受していたマスコミなのである。
なぜなら新聞とかテレビは自分たちの権益が損なわれることに恐怖を感じているからである,それでネットのことを危険だとか低劣なメデアだとか危険だとか言うのである。
それも不公平なのである。
ネットでは低劣なやつも発言が一応できるがマスコミではマスコミから除外されたものは発言できないし報道もできないからだ

2018年06月07日

マスコミの報道には目的がある (NHKのニュースがフェイクにならない方法(武田邦彦)


マスコミの報道には目的がある

(NHKのニュースがフェイクにならない方法(武田邦彦)



天下りが必要だからそれを推進させるために老人の交通事故を過大にとりあげる
老人ならみんな増えすぎて無駄な奴が多いとかみんな思っているから批判しやすい
でも若い人とか女性となると反発が大きくなる
若い人と女性の方が交通事故が多いという事実を報道しない

なぜ老人が標的にされるのか?

それは天下りが必要でありそのために老人の免許関係で天下りの事務が必要なためにそうさる

その目的は何のか

役人が天下りの職が必要でありそのために老人から免許をとりあげる
そういう明確な目的があって報道している
それを言わないからNHKはフェクニュースになるという
自分はそんなに天下りが関係しているのか?
そういうことがわかりにくが原発事故でも原発ほど巨大な利権は他になかったろう
何兆円とかが湯水のように使われるのに驚いたし東電がこんな巨大な企業だと思わなかった,その辺が自分は社会のことがわからないのである。

その巨大な利権によって原発がゆがめれたのである。
原発自体が天下りの巣窟になっていたのだ,警察官僚から官僚の有力な天下り先になっていた,そこにはマスコミ関係者もいたとかなる

つまりそういう利権を天下り先を確保するために原発が必要だった

武田邦彦氏の論法だとそうなってしまうのである
こういう上層部の構造は一般庶民とかにはわかりにくいのである。
正直な話自分の家族の一人は公務員をしていたので多少そういう利益を得ていたことを知っている
そういう地位とか立場にいると自ずと得するようにできているのである。
結果として自分も得していたとなるのだ
株の世界などでも本当にもうけている人は何かそうした利得にあづかる立場とか地位とか権力をもっている人だとなり陰謀論になっているのである。

とにかく報道はただ事実を報道するのではない

ある明確な目的をもって放送会社がNHKでもしている

その目的は何なのだとなる,その目的を言ってニュースを報道すべきだと武田氏は言う
つまりNHKとか官僚は利権で結びつく,それはマスコミでもそうである。
どっちも得するようになっている

でもNHKなどではどういう目的で報道しているのか?

それがわかりにくい,中立で公平にも見えるからである。
まずこの辺で原発避難者を批判できなくなっていた
それはNHKでもマスコミでも原発避難者側に立って報道していたからである。
原発避難者が実際はパチンコ屋通いでありギャンブルで遊んでいただけだということも報道しない、ただかわいそうだということで応援していた
だから原発避難者を批判するとお前はなんなのだとなる
それで不満があっても言えなかったのである。

ではなぜ原発避難者側にNHKが立ったのか?
それは上層部で決めたことなのである。
あと取材する人はその命令に従っただけだとなる
ただ後から津浪の被害者も考慮して放送するようになった

とにかく放送するということは何か目的があって報道する
放送局でその目的がありその目的にふさわしいように放送するし編集する
そしてその目的にふさわしくないものは放送しないとなる

ではその目的とは何なのか?

それが問題になるのである。

事実だけを報道するといっても重大なことでも報道されないことがあるからだ
それは放送局にとって目的にかなわないからだともなる
森友学園問題にしてもまずマスコミの目的が不正正すということがあっても
今の安倍政権に打撃を与えて政権を倒すことを目的としている
だからともかくなんでもでっちあげても不正にして国民にそれを印象づける

一方で野党側の不祥事とか辻本と深い関係にあった会社が検察の捜査を受けたのを報道しないのである。それはマスコミにとって目的にふさわしくないから報道しないのである。NHKでも報道しなかったからである。
都合の悪いことは目的にかなわないのは報道しないのである。
それで原発事故でも10メートル以上の津浪を来ることを東電では想定していたのである。でもマスコミでは福島民友でも民報でもそれを大々的に報道しない
なぜなら政府と東電の目的に合うようにしか報道しないからだ
福島民報は出資の半分が県で負担しているから官報であり政府とかの不利なことは報道しないのである。
そこにも目的がありその目的にかなうものは報道するがかなわないものは報道すらしないのである。
それが大惨事につながったのである。

いづれにしろ報道でもそうだが利権と結びつくなんでもゆがめられるのである。
でも人間は利益には弱い,でもそのことが戦争で300百万に死んだとか原発事故とかの大惨事につながる
そうなると報道をただ権力をもっているものだけによって操作されたらまたそうした大惨事が起きてその被害は国民が受けねばならないのである。
そういう報道のことを国民が監視しなければ同じことがまた起きる
マスコミが芸能人の馬鹿騒ぎの場にしてはならないし重大なことに関心をもたせないとまた大惨事が起きる,国民がそのために苦しむのである
それは民主主義だと国民の責任であり指導者の上層部の責任ではないとされるのである。現実に政府も東電でも何ら原発事故では責任をとっていないからである。
ただ武田邦彦氏でもこの原発事故には責任がある立場にあった
今頃1ミリシーベルとか言っても何か虚しいとはなる

2018年06月06日

NHKのフェイクニュースの技(武田邦彦)に同感 (マスコミの報道は一方的洗脳報道)


NHKのフェイクニュースの技(武田邦彦)に同感

(マスコミの報道は一方的洗脳報道)


週刊東洋経済%202018年5月26日号

武田邦彦氏の見識には敬服する,共感することも多い,
その見識はどこから来ているのか?
科学者として技術者として指導的な立場で現実に働いてきたことである。
自分などは底辺でしか働かないからそうした上層部のこと指導的立場にある人のことがわかならい,だからそうして上層部が指導的立場にある地位と権力をもつ人たちと現実に接しているから具体的でわかりやすいのである。
人間社会はまず底辺層とばかり接していてもわからない,上層部と指導的立場にある人と接すれば社会がどうなっているのかと具体的にわかるだろう

例えばマスコミというときこれも現代では大きな権力であり社会を左右するものなのである。だからこそマスコミについて批判は常にある
でも批判しようにも一般人は報道できないのだから報道する権利はマスコミにしかなかったのだから不満があっても何も言えなかったのである。
インターネットが生まれて普及するとマスコミが批判されるようになったのである。
その力は弱くてもそうなったことは民主主義を発展させるのには良かった
何か自分が公に発言するということを経験していないからである。
たいして影響力がないのにこうして発言することで主体的なものとして積極的に社会に参加するものとして自覚できるのである。

マスコミの影響がどれだけ大きいのか?
それは戦前でも新聞の影響が大きく朝日新聞が戦争をあおり推進させたということをしきりに言うとそうなのかなと思う
マスコミは左であり左系統の発言に洗脳されることが多かった
インターネットは逆に右に偏っているがそれは今まで右は発言を封じられた反動としてそうなっている
報道することはそれも何百万人とかに報道することはできることは大きな権力である。
それによって判断が決められるからである。
戦争中なら朝日新聞が戦争をあおれば国民も同調するのである。
それは今でも安倍政権を森友学園で執拗に批判しているのもそうである。
マスコミというときどの局も常に同じことを追及している
別なことを追及してもいいはずだがどこの局でも一色になるのもおかしいのである。

報道は明らかに大きな権力である。だからこそ権力をもっているからこそ利権と結びつきそれで利益を得る
原発事故を起きた時,中国に東電からマスコミの幹部が招待されているときだったのである。朝日新聞の幹部も招待されていたのである。
全部のマスコミが招待されていたのである。
「安全神話」は日本の神がかりの戦争はこうして政府とマスコミなど一体化して作られたものだったのである。
そして3百万人が死んだのである。朝日新聞は戦争に負けたら今度はそうして戦争に加担していたのに一転して批判する立場になったのである。

武田邦彦氏がNHKを批判するときNHKは公平に見えるがそこに巧妙な操作があるというのには同感である。
この辺で原発事故の避難者が大量に仮設に住んだ,その時前にも書いてきたが飯館村の人が相馬市のトマト農家に雇ってくれと言ったが断られたと放送した
その時知らない人は何なんだ,その農家は冷たいなと暗黙に批判させていたのである。
もちろん飯館村の人にも言い分はある,それは否定できないががトマト農家にも言い分があったのである。
相馬市で松川浦など津浪の被害が大きかった,相馬市では原発の補償金はもらっていないすると津浪の被害者の方が生活に困る人がいたからそうしただけなのである。
原発避難者は多額の補償金をもらっていたからである。
そうして原発避難者もかわいそうだと常に外からボランティアが来て励ましていたのである。その中には津浪被害者もいたのである。

何か人間の問題はもめごとでも双方の言い分を聞かないと本当のことはわからない
それで失敗したのが親戚の人で母と娘が争っていたとき母が悪いとばかり思っていた
そういうつきあい方を自分の家でもしていたからだ
ところが実は娘がとんでもない悪い人だったのである。
それも双方の言い分を聞かないし先入観がありそうなって誤解して判断を誤っていたのである。
だから何でも争いには双方の言い分があり裁判のように双方の主張を聞くべきなのであるところがマスコミの報道は常に一方的洗脳なのである。
そこで反論などは全く許されないのである。インターネットがでてその批判が出るようになったのはそのためである。
マスコミは自分たちの都合のいいように国民を洗脳する権力機関だったのである。

福島民報でも福島民友でも同じである。
地域の新聞だからマスコミでないと思っているがそうではない,福島県でも広いからである。そして福島民報は出資が県で半分出している
そうしたらとても原発でも反対することはできない,批判できないしほとんどその危険性も事実も報道していないのである。
プルサーマールについて危険について報道したとしても原発そのものについての危険性は報道しなかったのである。
プルサーマルについて佐藤栄佐久前知事が失脚したのもそのためだったともされる
東電については「財界福島」でも最初原発を批判していても二三回で全くやめた
それは東電から金が入ったからだとも言われる
福島県で東電を批判することはなかったのである。権力の圧力でできなかったのである。10メートル以上の津浪を来ると東電の科学者たちは想定していたのである。
その報道すらなかったとように思う
もしそのことを大々的に報道していたら津浪に警戒して今回のような大惨事にならなかったかもしれない,そしたら東電は地元に感謝されるようになっていたろう。
だから何か重大なことを知らせる役目が報道にある
でも知らされなければ知り得ようがないのだから危険も感じないとなるからだ

ともかく人間社会はなんでも権力によって利権によって利益優先でゆがめられてしまうのである。それはあらゆるところでそうなる
そもそも東電でも一時は高い場所に原発を建てたのに電源の設置などでコストがかかるとわざわさ高くしたのを削って低くしたのが最大の失敗だったからである。
それもコストのためだったのである。
安全を追及すると金がかかるためだったのである。

ともかく武田氏も指摘にするように利権と結びついてゆがめられる,NHKでも天下り先を確保するために老人の交通事故を大々的にとりあげて老人の運転を減らそうとしている
でも実際は交通事故が多いのは若者だとういうこと女性が多いということは言わない
交通事故は毎日のように起きている,免許をとりあげるなら若い人だとなる
若い人の保険金が高いというのもそうである。それだけ事故が起きる確率が高いからである。
そのことを知っていて公平に報道しない,そして老人が悪いから免許をとりあげるべきだという世論を形成させる,それはもともと老人が目障りでありそういう風潮があるからNHKでもそうしているとなる
だからフェクニュースだとしている

いづれにしろ利権と結びつくとき報道はゆがめられる,伝えるべきものも伝えられないのである。
東電から800億とかの金を報道機関に流していたらもう悪いことは報道できないのである

gunnn11.JPG

週刊東洋経済%202018年5月26日号

mediammm1.jpg


医療関係でも朝日新聞がかかわっていた,こうして利権と結びつき利益を得る
そこで公平な報道はできなくなる,ただ金儲けのために報道があるとだけなる
だから報道の中立性には公平性には利権と結びつかないことだがどうしても報道には金がかかるので今まではできなかったのである。
インターネットで多少その弊害をなくすことはできるようになった
別に今はマスコミに接しなくてもインターネットで報道でも間に合わせることができるからである。それでもう新聞がなくなるとかテレビも見なくなるとなってきたのである。

2018年05月22日

マスコミ報道の問題 (危険は報道されやすく安全はされにくい)


マスコミ報道の問題

(危険は報道されやすく安全はされにくい)

全国メディアは大きな出来事しかフォローできていない。また、傾向として「安全」は全国ニュースになりにくく、「危険」(あるいはその可能性)はなりやすいということもある

避難指示解除後の自治体の現状と課題

マスコミでも報道はいうときあまりにもありふれたものは話題にも注目もされない
それでマスコミでは週刊誌などでも話題性のあるものを報道する
その時「危険だ」とあれば人は注目する,それは自分の安全にかかわからである。

・・・・・・・が危険だ!

株が暴落する

戦争が始まる

世界が破滅する


何か滅多に起こりえないことでも人間は危険となると自分の身にかかわるから身構える
その人間の心理を利用して週刊誌でもマスコミでも視聴率をとるためにそうする
「安全」だとか毎日の当たり前の生活には誰も注目しない
当たり前ということは面白くないということだからニュースにはならない
でも人間の日々の生活は特別面白いことでもないのである。
でもその日常の中に実は深い意味があるがそれは注目されないことである。

雨しとと菖蒲のぬれてこの道や今日も通いて買い物に行く

この短歌でも別になんのことはない,自分は毎日買い物がずっと仕事だった
主婦だと買い物をしているがそれと同じである。
それは日常的なことであるがその時紫の菖蒲が映える

ただ逆に肝心の危険があるのに権力で「安全神話」が作られることもある
原発事故ではそうだった,安全,安全とばかり権力で情報は操作されていたのである。
ただ一般的には「危険」は過剰に報道されるが安全なことは何も報道されないのである。

今やニュースと映像の時代である。膨大なニュースと映像に追われている
世界的ニュースとなりさらにインターネットでニュースも膨大に増大したのである。
そしてニュースとか事件の問題は限りなくあることなのだ
次から次と起こるからそれを消化する時間がないのである。
一つの事件には深い意味があるが消化する時間がない
自分に起きたことを延々と書いたがそれは自分にとって重大なのことでも他人にとってはそうはならない,自分のことだからその意味を延々と追及して書いたのである。
その自分の経験の事件の意味を知ることはまた自分が経験したことでも時間がかかるのである。

津浪とか原発事故はあまりにも大きな出来事でありこの意味をわかるのは百年とかかかるかもしれない,現実に廃炉には30年かかるとかプルトニウムは二万年消えないとかなるとそうである。それだけの消えない傷痕を残したからである。

フェクニュースのことが盛んに言われたがまさに現代の真実は何かわからないのである。仮想と現実が一緒になっいてる
現実が仮想なのか?仮想が現実なのか?その境界があいまいなのである。
そして現代の文明社会は巨大な幻想を真実と思いこみやすいのである。

なぜ投資がだまされやすいのか?

それはグローバル経済でありとても一個人が現実として知り得る世界ではないからであるそこでは株はもうかりますよ,投資信託は安全で定期的に配当金が入ってきますよとか
今はオリンピックで景気よくなるからその関係の投資信託がいいですよとかロボットとかAI関係がは伸びますよとか証券会社と銀行がすすめる
それも真実なのか見極めることは素人にはできない
株式の世界はその範囲が広すぎるからその全体像を知り得ないのである。
それで不思議のなのは投資信託でも種類が多いから確実にもうかっているものがあるが
それは普通知られないないというのである。
それを知っているのは株式の知識に通じた人しかわからないというのである。
今や本当の真実を知ることはこうしてかえってマスコミとかで宣伝されないものなのである。

「幻影の時代」では有名人の時代だというとき有名人はマスコミによって商業主義によって作り出されている,有名であるということで人は注目される,それで金になる
様々な賞などもそうして有名人を作り出して商売にするためなのである。

登山家の栗城史多さんが21日、エベレスト下山中に死亡した。35歳。


全く登る力なんてないのに 
登山家を装って応援を煽動 
引っ込みつかずに死の道へ 

これは自殺だよ 
セルフプロデュースや営業は上手だった。 

登山家の真似なんてしなければ成功してたかも

広告代理店の営業マンになるために生まれたような男だったな 
その業界のプロに叩かれたりしてるのに出来ない事を自分なら出来るって言って企業を動かしスポンサー付ける説得力


この人も知らなかったがマスコミによって宣伝のために作られた疑似英雄だった,そしてマスコミによって無理させられて死んだとなるのも悲劇だったとなる
本当の英雄ではなくマスコミを利用して今度はマスコミに利用されて死んだとなる
べつにそこまでやらなくてもいいわけだがひっこみがつかなくなったと批判されている
こういうことがマスコミでは多いのである。商業主義社会では多いのである。
有名人が作られてそれを商品化するのである。

現代とは何か人間もそうだが,幻影を現実と真実と思う世界である。テレビでも映画でもそうである。幻影とイメージの世界と現実の世界が混同しているのだ
そして壮大な幻影に人はまどわされる,それがナチスとなりその巨怪なものによって地獄が生まれたから冗談にもならない怖いものが文明にはある
その死は意味ある死とはなっていないからである。
大東亜共栄圏などというのもまた巨大な幻影をイリージュンを産み出していた
それはローマ帝国などとは違ったものだろう,なぜならローマ帝国は三世紀とか長い間つづいているからである。
創価とか他のカルト教団でもそうした巨大なイリュージョンを作り出して熱狂するファシズムになる,それはどうしても全国レベルになると数が物言う世界になっているからだ
マスコミでも視聴率がすべてであり大衆社会は数がすべてだからである。
すべてが統計的数字としてしか意味がないのである。

何百万の会員がいる,700百万もいるのかとかそれが社会に対して圧力をかける
その中味などどうでもいいしその会員などどんな人間でもいいのである。
一票の頭数をそろえることしか眼中にないのがそうした団体なのである。
宗教的改心とかなんかそんうものは一切関係ないのである。
そんなことを要求したらとてもそんな数は集まらないからである。

そうして現代の社会でも一過性で終わるのが多いのである。
それはニュースでも事件でもすべて一過性だからである。
そうした巨大な団体でも一過性であり持続しないからだ
ところが個々人でもそうだが当事者となったとき一過性ではかたづけられない
津浪でも原発事故でもその影響は次の代にもその次の代にも影響してゆく
放射能の被害はそれだけ長くつづくから恐怖なのである。
だから原発事故周辺の風評被害もなかなか消えないのである。

時間の連続性,物事の継続性,地域性

こうした見方ができないのが現代の報道の問題なのである。それによって人間の思考はばらばらになり人間自体の統一性とか総合性とかも失われ断片的にニュースでも消えてゆくだけであり人間そのものもそうである。
ただ数としてあり消えてゆくだけだともなるが現代なのである。


現代の妖怪(メデアが育む妖怪)

ここで書いたように原始的部族のような社会があればとてもテレビとかを理解できないことを示している
現代はだから幻影と幻想の中に生きている特殊な社会だとなるのだ


参考にした本

幻影の時代(マスコミが製造する事実)-DJ-ブーアースティン

マスコミ報道の問題 (危険は報道されやすく安全はされにくい)


マスコミ報道の問題

(危険は報道されやすく安全はされにくい)

全国メディアは大きな出来事しかフォローできていない。また、傾向として「安全」は全国ニュースになりにくく、「危険」(あるいはその可能性)はなりやすいということもある

避難指示解除後の自治体の現状と課題

マスコミでも報道はいうときあまりにもありふれたものは話題にも注目もされない
それでマスコミでは週刊誌などでも話題性のあるものを報道する
その時「危険だ」とあれば人は注目する,それは自分の安全にかかわからである。

・・・・・・・が危険だ!

株が暴落する

戦争が始まる

世界が破滅する


何か滅多に起こりえないことでも人間は危険となると自分の身にかかわるから身構える
その人間の心理を利用して週刊誌でもマスコミでも視聴率をとるためにそうする
「安全」だとか毎日の当たり前の生活には誰も注目しない
当たり前ということは面白くないということだからニュースにはならない
でも人間の日々の生活は特別面白いことでもないのである。
でもその日常の中に実は深い意味があるがそれは注目されないことである。

雨しとと菖蒲のぬれてこの道や今日も通いて買い物に行く

この短歌でも別になんのことはない,自分は毎日買い物がずっと仕事だった
主婦だと買い物をしているがそれと同じである。
それは日常的なことであるがその時紫の菖蒲が映える

ただ逆に肝心の危険があるのに権力で「安全神話」が作られることもある
原発事故ではそうだった,安全,安全とばかり権力で情報は操作されていたのである。
ただ一般的には「危険」は過剰に報道されるが安全なことは何も報道されないのである。

今やニュースと映像の時代である。膨大なニュースと映像に追われている
世界的ニュースとなりさらにインターネットでニュースも膨大に増大したのである。
そしてニュースとか事件の問題は限りなくあることなのだ
次から次と起こるからそれを消化する時間がないのである。
一つの事件には深い意味があるが消化する時間がない
自分に起きたことを延々と書いたがそれは自分にとって重大なのことでも他人にとってはそうはならない,自分のことだからその意味を延々と追及して書いたのである。
その自分の経験の事件の意味を知ることはまた自分が経験したことでも時間がかかるのである。

津浪とか原発事故はあまりにも大きな出来事でありこの意味をわかるのは百年とかかかるかもしれない,現実に廃炉には30年かかるとかプルトニウムは二万年消えないとかなるとそうである。それだけの消えない傷痕を残したからである。

フェクニュースのことが盛んに言われたがまさに現代の真実は何かわからないのである。仮想と現実が一緒になっいてる
現実が仮想なのか?仮想が現実なのか?その境界があいまいなのである。
そして現代の文明社会は巨大な幻想を真実と思いこみやすいのである。

なぜ投資がだまされやすいのか?

それはグローバル経済でありとても一個人が現実として知り得る世界ではないからであるそこでは株はもうかりますよ,投資信託は安全で定期的に配当金が入ってきますよとか
今はオリンピックで景気よくなるからその関係の投資信託がいいですよとかロボットとかAI関係がは伸びますよとか証券会社と銀行がすすめる
それも真実なのか見極めることは素人にはできない
株式の世界はその範囲が広すぎるからその全体像を知り得ないのである。
それで不思議のなのは投資信託でも種類が多いから確実にもうかっているものがあるが
それは普通知られないないというのである。
それを知っているのは株式の知識に通じた人しかわからないというのである。
今や本当の真実を知ることはこうしてかえってマスコミとかで宣伝されないものなのである。

「幻影の時代」では有名人の時代だというとき有名人はマスコミによって商業主義によって作り出されている,有名であるということで人は注目される,それで金になる
様々な賞などもそうして有名人を作り出して商売にするためなのである。

登山家の栗城史多さんが21日、エベレスト下山中に死亡した。35歳。


全く登る力なんてないのに 
登山家を装って応援を煽動 
引っ込みつかずに死の道へ 

これは自殺だよ 
セルフプロデュースや営業は上手だった。 

登山家の真似なんてしなければ成功してたかも

広告代理店の営業マンになるために生まれたような男だったな 
その業界のプロに叩かれたりしてるのに出来ない事を自分なら出来るって言って企業を動かしスポンサー付ける説得力


この人も知らなかったがマスコミによって宣伝のために作られた疑似英雄だった,そしてマスコミによって無理させられて死んだとなるのも悲劇だったとなる
本当の英雄ではなくマスコミを利用して今度はマスコミに利用されて死んだとなる
べつにそこまでやらなくてもいいわけだがひっこみがつかなくなったと批判されている
こういうことがマスコミでは多いのである。商業主義社会では多いのである。
有名人が作られてそれを商品化するのである。

現代とは何か人間もそうだが,幻影を現実と真実と思う世界である。テレビでも映画でもそうである。幻影とイメージの世界と現実の世界が混同しているのだ
そして壮大な幻影に人はまどわされる,それがナチスとなりその巨怪なものによって地獄が生まれたから冗談にもならない怖いものが文明にはある
その死は意味ある死とはなっていないからである。
大東亜共栄圏などというのもまた巨大な幻影をイリージュンを産み出していた
それはローマ帝国などとは違ったものだろう,なぜならローマ帝国は三世紀とか長い間つづいているからである。
創価とか他のカルト教団でもそうした巨大なイリュージョンを作り出して熱狂するファシズムになる,それはどうしても全国レベルになると数が物言う世界になっているからだ
マスコミでも視聴率がすべてであり大衆社会は数がすべてだからである。
すべてが統計的数字としてしか意味がないのである。

何百万の会員がいる,700百万もいるのかとかそれが社会に対して圧力をかける
その中味などどうでもいいしその会員などどんな人間でもいいのである。
一票の頭数をそろえることしか眼中にないのがそうした団体なのである。
宗教的改心とかなんかそんうものは一切関係ないのである。
そんなことを要求したらとてもそんな数は集まらないからである。

そうして現代の社会でも一過性で終わるのが多いのである。
それはニュースでも事件でもすべて一過性だからである。
そうした巨大な団体でも一過性であり持続しないからだ
ところが個々人でもそうだが当事者となったとき一過性ではかたづけられない
津浪でも原発事故でもその影響は次の代にもその次の代にも影響してゆく
放射能の被害はそれだけ長くつづくから恐怖なのである。
だから原発事故周辺の風評被害もなかなか消えないのである。


現代の妖怪(メデアが育む妖怪)

ここで書いたように原始的部族のような社会があればとてもテレビとかを理解できないことを示している
現代はだから幻影と幻想の中に生きている特殊な社会だとなるのだ


参考にした本

幻影の時代(マスコミが製造する事実)-DJ-ブーアースティン

2018年03月24日

スマホばかり見ていると人間の五感が衰える (駅でもスマホばかり見ているのは異様)


スマホばかり見ていると人間の五感が衰える

(駅でもスマホばかり見ているのは異様)

sumahooo123.JPG

sumahooo111.jpg
週刊朝日3月30日号

駅でまずスマホを見ていると会話ができない,スマホを見ているのに話しかけることができない
スマホを見ている人は他者とのコミニケーションを拒否しているのである。
駅で気づいたことは外部から来た人とか5分でも待っているから話しやすいのである。
だけどみんなスマホを見ていて互いに話あわないというのも何か異様に感じる
ひたすらスマホを見ている,無人駅でスマホだけを見ている光景は異様にも感じる
ただスマホで即座にわかりにくいのがタクシーの番号などである。
タクシーの案内は駅舎を出たところに表示してある,でもそれがわかりにくいからスマホで調べる,でも即座に検索ではでてこないのである。
意外とインターネットは即座に出てこないものがある
家で調べると時間があるから検索を時間をかけてやれるからあったものが出てくる

駅でも無人化するとそこには人がいない,乗客同士も会話もしない
ただひたすらスマホを見ている,何かそれが異様なのである。
ただではなぜタクシーの番号がわからないのか?
もしロボットをそこにおいてタクシーといえば番号を教えるしタブレットを置いてタッチしたりしても案内はできる
でもインターホンがあるのだがそれに気づかない人もいるのである。
地元の人は慣れているからわかるがはじめての人はわかりにくいのである。
そこに無人駅の盲点があった

駅で一番感じたことは必ず待つ時間がある

その待つ時間が人間的なものを作り出していたのである。
電車が来るのを待つ,そこで5分でも必ず待つからちょっとした会話をする
今日も仕事できた人が香川に行くとか行ったので自分も行ったことがあるので
話する,それはほんのわずかだけど直接話する
うどんばかり食べるなというのもわかる,全国を飛び回ると地元の名物の食べ物は食べられるなとか話する

その人はその時駅舎から出た喫煙場になっているところで二人で話していたからその話を聞いて語りかけたのである。たわいのないことだがそんなふうにちょっと話して見送る
そういうことはつづいている,自動化しているから何か教えることがなくても待つ時間に語りかけるのである。

確かに手紙でも手紙を出す返事を待つ間に今までは時間があった,二三日とかで届く
それまで待っている時間がわくわくするとかどんな返事がくるのかとかあった
今は手紙も出さない時代である。電子空間で即座に返事がくる
待っている時間がないのである。
常磐高速の鹿島のセディティは間違って解釈していた,この辺の方言連れて行ってという意味だった,方言を使っていないから忘れて英語だと思っていたのである。

それは別として車だと待つ時間がない,車は着いたら用事をたしてあとはまた車に乗ればいい,そこで休んでいても待つ時間がないのである。
電車には必ず待つ時間がある,そこで人間的な時間が生まれる
現代はなんでもそうした無駄な時間が効率化して省かれるのである。

週刊朝日でスマホばかりしているとかえって知能が劣るとか高齢者は認知症になるとか警告しているのもわかる,第一インターネット空間で旅などできない,実際に旅した後にインターネットでその旅をたどるのはいいがインターネットの仮想空間では旅の体験はできない,旅は五感でするものでありそこで記憶される
そうして自分は旅をふりかえり短歌とか俳句とか詩にしている
それは実際にそこに行ったことを五感で記憶していたからである。
それで記憶が蘇り記憶しての旅ができたのである。

確かに老人になって孫をあやすときスマホを見ていたりしたらできない,幼児には絶えず顔の表情とか見たり一対一の対応が求められるからである。そこにスマホばかり見ていたらそれができなくなる
それは駅でもスマホばかり見ている人には話しかけることもできないからである。
もちろん会話など駅でしたくないさける人もある
そんな場でないという人もいる,でも駅は待つ時間がありそれでちょっとでも会話する
そういう人間的な場所を演出するものとしてあった
無人駅でも待つ時間がありそこで話しかけることはありえたのである。

とにかくこれだけスマホの時代になるといろいろ影響する,脳が変化するというのもありうる,スマホはまた自宅でインターネットしているのとも違う
それは外の空間で絶えず使っていることは外の認識力が衰えることにも通じる
その場の雰囲気などがありスマホではわからないことが新しい所に行ったから感じる
でもスマホばかり見ていたらそうした五感で感じるものも感じられなくなる
スマホばかり見ていたらそこで一句でも俳句を作るとかできなくなる
その場の雰囲気とかを感じなくなるからである。

その駅でも田舎でも何か見るものがあるが見ない,合歓の花が咲いていたり柿がなったりしている,外の風景もある,電車のなかでも外の景色を見ずにスマホばかり見ていてもそうである。
何か五感で感じるものがかえってそうした文明の利器で衰えてくるというのも逆説であるそういうことは前にも書いてきた
ただ自分はスマホしていないから実際のことがわからない
ただインターネットは自宅で絶えずしている,今回の朝日新聞の記事でも今はインターネットで詠んでいる、それでその記事に答えるというのもインターネットなのである。
何かそうした今までのマスコミに個人が答えて書くということはできなかった
今だと気軽にできる,ただ読む人の数が格段に少ないというだけである
週刊誌だったらやはり読む人の数が今でも多いのである。
でも最近週刊誌はつまらなくなったと本当に思う
書く人が決まっているしつまならい芸能人などに書かせているからである。
むしろ無数のプログの記事に面白いものがあるがそれがなかなか出会いないのが難点なのである。

いづれにしろ情報化社会ではスマホを否定しても紙幣とかがなくなりスマホで決済するようになると必需品になる,だからスマホにも問題があるのだがそれを否定はできない
ただ人間的なものが失われ人間の五感が衰えるというのも文明の逆説である。
江戸時代の旅なら濃密な旅をしていた,それは人間との出会いでもそうである。
旅は道連れとなっていた,それは交通が不便だから一回会って分かれたら二度と会えないからである。そこで出会うということは人生の貴重な時間だったのである。

現代は便利すぎて何か人間と人間がすれちがいただ去ってゆく,そこに必ず情が失われている,文明がすすめばすすむほど反比例で情が失われる
その情が失われることで殺伐とした社会が生まれる
インターネットとかの人間でも出会うとそこに危険があり信じられない殺人が起きたこともそうである。面と面で向かって接していればそうはならなかった
それがインターネットの負の面だったともなる
ただ車でもそうだし原発でもそうだったが技術は負の面をもたらすのである。
それを否定すると技術は進歩しないのである。
自動運転でもそうである。歩行者をひいて死なせたというのもそうである。
新しい技術は必ずそうして負の面をもたらすのである。

スマホをもつな、するなとはもう言えない,でもすべてスマホに頼ることはそうしてまた人間的なものを失うのでスマホばかりに頼らないで人間的五感を働かせることに注意を向けることも大事だとなる
スマホですべて何でもわかるわけでないのである。知らない土地に行ったらその雰囲気とかを五感で感じる,そして記憶にとどめる,それは旅でも結局すでに車だと風も光り感じない、運転に集中しているとできないのである。景色もゆっくり見れないのである。
それと同じだからスマホだけを批判するのは間違っているともなる
そういうことはすでに弁明の利器を使うときどこでも起きていたことだからである。

2018年02月01日

映画館時代からテレビのマスコミ時代から インターネットのユーチューブの時代へ


映画館時代からテレビのマスコミ時代から

インターネットのユーチューブの時代へ


この映画は、長編大作映画で前編と後編があり、前編が終わると照明がつき、休憩がはいる。 しかし何分たっても後編が上映されない。場内は次第にざわめき始め、野次が飛び交う。 延々と待たされること1時間以上経過しただろうか、観客が暴動寸前になってやっとフィルムが到着し、 何とか上映することができて事無きを得た。
当時「カケモチ」といって、同じフィルムを隣町の映画館と持ち回りで使う方式がよくとられ、 劇場から他の劇場へフィルムをバイクで運ぶ のが常だった。

駅前の映画館は子供のとき入った,ただ映画館のことを良く記憶していない,映画館は何か大人が入る雰囲気で子供には入りにくい場所だった
ニュースを映画館で写していた,その時ニュースは新聞が中心だった
動画で見るのはめずらしいし貴重だった
第一フィルムは汽車で運ばれてきたのだからニュースでも遅れるのである。
映画館ではニュースを見るのはおまけであり映画のドラマを見るために入った
でも何か封切りとかフィルムを回している二階の映写室のことが記憶に残っている
そのフィルムを回す人は当時専門の技術者だったのである。
そのフィルムもコピーできないのでバイクで他の映画館に運んでいた
だから映画を見ることはそれだけ手間がかかっていたのである。
メデアの歴史を考えると映画や映画館があった
ただこれは意外と早く終わってしまったのである。

次にテレビ時代でありこれは最初テレビが入った時はテレビがある理髪店とかに集まって見ていた,テレビ時代は長かったなと思う,50年以上つづいたから長い
それだけテレビの影響が大きかった,テレビ番組の内容ではなくテレビに映れば何でもいいという時代でもあった,娯楽の王様にもなった
それでマスコミの影響が大きなものとなった,そこには弊害も生まれた
マスコミによって情報が操作される時代になった

そしてこの50年もつづいたテレビの時代が終わりを告げようとしている
インターネット時代になったらみんなお茶の間でテレビを見ているのとは違う。
個別化して多様な放送を見る,それがユーチューブである。
そこには一般の人でもテレビ放送している,それが意外と面白いのである。
いろいろな電器製品を紹介して使い方も教えている
一人一人が情報源になり放送しているのである。
テレビは何百万の人を対象にしたマスメデアであるがユーチューブは個々のメデアであるつまりメデアが変わるとその放送するもの自体が変わる
テレビ時代は何百万を対象としたマスメデアである。
それで宣伝効果も大きかった,インターネット時代は個々のメデアである
それでも一万でも視聴者があればそれなりに影響する
ユーチューブを見てわかったことは何回も見ているとそれが知らずに頭に記憶される
一回だけ見ていると忘れるが何回も見ていると記憶される
そういう効果があり学習するにはいい,何かインターネットは報道というのではなく学習機能がある,テレビには教育テレビがNHKにあるがそれがインターネットのユーチューブに変わる,何かを学習するのに向いているのである。

テレビとか受け身のものであり一般人が情報を発信はできなかった,それがインターネットだとできる,テレビ放送すらできる,すると情報は無数に増えてくる,多様化してくる例えば週刊誌とか雑誌でも今はdマガジンで一カ月400円でほとんど電子化して読める
するともう一冊の雑誌を全部は読まない,自分の関心のあるものしか読まないのである。それはインターネット的情報の摂取方法なのである。
そうして個別化して情報を摂取すると全国民で関心をもつべきものに関心が集まらないということもある
自分の関心のあるものしか読まない見ないからである。
だから全国民が関心をもつべきものを知らないとまでなる

ただ相撲で貴乃花理事長とかに関心が集まりそれだけを放送するマスコミ,テレビにも問題がある。
それがそんなに日本の社会にとって重要なことなのか?マスコミの問題はテレビの問題は何百万のマスを対象にするからかえって芸能ニュースとかが中心になり芸能人の漫談を見せられることになる,そこにインターネットのように学習機能がないのである。
インターネットのいい点は学習機能があることなのだ
学習するには何回も読んだり見ることが不可欠である,一回だけでは頭に入らないからである。そのニュースの意味も理解せずに終わる,ただ毎日何が起きたとかあってもそれがどういう意味をもつのか考えることができないからである。

学習機能があるというとき本がそうなのだが本もありすぎると問題が起きる
前に買った本と同じ本をアマゾンで注文して買った
それはその本を読んだことをあったことも忘れていたのである。
これも馬鹿げたことだが人間が記憶できる容量が限られているからである。
例えば千冊本があったとしてもうそこで記憶されている本はどれくらいになるのか?
何回も関心をもって読んだものは覚えているかもしれないが忘れるのも多い
本の題名すら忘れている,そして自分は読もうとして買ったもののそれが積んどくになっている,ただ読まれずに積まれた本が実際は半分にもなるのだ

だから本の書名だけでもパソコンに記録して検索する,そこで思い出すことをする必要があると思った
本の題名すら覚えていないしましてその内容も覚えないないのが多いのである。
それは自分はプログでも膨大なもの書いても自分の書いたものすら忘れている
それで自分が前に書いたことを読んで感心しているということが起きているのである
つまり人間は本当にあらゆることで忘れやすいのである。
旅行しても10年もたつとそこにいたのかどうかすら定かでなくなる
だから外国まで行ってもそのご10年以上すぎて津浪とか原発事故とか自分の病気とか介護で十年費やされてそのことに心も身も奪われて余計に忘れることになる
人間はとにかく今に追われるものだからである。

いづれにしろ自分のしていることは家事でも整理であり何をとっておくとかより捨てることを考えねばならない,それで断捨離が話題になりやすいのである。
読まない本をあるだけでもう邪魔になるからだ,でもなかなか捨てられない
するとどうするばいいのか,それを電子化すると検索しやすいとなる
それができるのだがめんどうなのでしていない,検索しやすいようにすることが情報を効果的に利用するには必要なのである。
だからインターネットの便利なのはその検索機能と学習機能が備わっていることなのである。
それが今までのメデアと違っていたのである。

2018年01月23日

会話なき時代(西部邁の語り) (余裕がないからできない,営業は会話力が必要)


会話なき時代(西部邁の語り)

(余裕がないからできない,営業は会話力が必要)


media1233.jpg
●西部邁の語源論

西部邁が死んだのでyoutube で彼の話を聞いた,同じようなことを感じていた
若い人とも会話ができない,彼は良く語源を言う,学者らしいとなる
この人も海外留学経験があるから深い見方ができる
海外経験ある人がなぜ深い見方ができのか?異質な文化を経験して日本文化を見るからその相違を知るからである。それは外国に暮らしてみないとわからないのだ
旅行したくらいではその深い所がわからない,自分はそこで理解力が不足している
武田邦彦氏も海外であの人は仕事していたから深い見方ができる

その語源論だがビジネスがbusyだというのは面白い,ビジネスマンは忙しいのである。

(negotiation)の語源は

イタリア語で、「店」は bottega のほかに、negozio (ネゴーツィオ)といいます。

元はラテン語の negotium で、neg は「否定のNo」、otium は「暇」ということで、「暇がない」→「忙しい(仕事)」→「商売」となったようです。

西部は常に語源から語ることがあった,語源を調べるとその本質がわかることがある
昔からあったこと起源になったことが現代までつづいていることがわかる
busyとネゴシェエーションは共通した言葉だったのである。

会話力がないというとき今は会話ない社会である。物を買うにしてももうコンビニでもスーパーでも自動化する,すると人間そのものがいなくなる
ロボットが店員となっているとかもうすでに実験は始まっている
人間を雇うことはコストだしめんどうだからそうなる
雇う方にすると人間にはいろいろな要求があるからロボットで機械ですませたいとなる
かつての市場は物を売る場だけでなく人々が遠くからも集まり生の情報交換したり結婚相手を探したりとそこにも物を介して人々が交流する場だったのである。
今は物だけが重点になりそうした人間的なものが省かれる,効率化されるのである。

人間は文字がないとき何でももって伝えたのか,それは言葉があっても語ることによって伝えた,音声が先であり文字は後にできたものである。
バベルの塔の崩壊で言葉が通じなくなったというときそれは一つの音声だったものが多くの音声になって通じなくなった,音声で話で語ることにより人間は通じ合っていた
話したり語ることはそこに感情的なものがかなり入るから相当に違ってくる
学問でも問答であり師と弟子が直接言葉を交わして真理を探究したとなる

●機械によるコミニケーション方法の変化

現代のコミニケーションの方法はそうした生の会話でのコミニケーションから急激に変化した,最初はラジオでも絶大な力を発揮してナチスの全体主義はラジオから生まれという人もいる,今ならラジオはにそんな力があったのかという疑問になる
ラジオの方が早かった,戦争集結の天皇の玉音放送もラジオだった
ラジオで戦争が終わったということを国民は確認したのである。
次に映像の時代になり映画全盛時代になり子供のときどこにも映画館があり見ていた
ニュースも映画館の時代だった,それでニュースでも汽車で電車で運んでいたので遅くなっていたのである。
その次にテレビ時代になったのである。
テレビの影響も絶大だったのである。テレビは第三の権力と言われるほど力をもった
映像の力は大きいからである。
マスコミと映像の時代が高度成長で全盛期を迎えたのである。
それはNHKの全盛時代でもあった,みんなテレビに映るならなんでもかじりついて見ていたからである。

それがインターネット時代になるとその影響に翳りが見えてきた,テレビ自体を見ない人もいる,インターネットは分散するメデアなのである。一局集中のメデアではない
だから最初何かアメリカで地方新聞なのか本なのか出版したら3000部売れたとかで驚いたという,そういう時代があった
だからみんなが百万以上の人間がテレビにかじりついている時代は異様だったともなる
ただそれだけマスコミの影響が大きく作用されたのである。
マスコミの宣伝力は絶大だから企業は宣伝の媒体として莫大な金を払ったのである。
東電や電事連でも800億とかなんとか払った,だからこそマスコミと一体となり安全神話は作られていた,原発が危険だと言わせないようになっていたのである。
それはメデアの力が大きかった

会話というとき何か変なのだけどインターネットは文字でもってパソコンの画面で話し合うことが生まれた,これは全く対面的ではない新しい会話の方法だった
これは年配の人にはなじめないものである。そんなことで会話できるのか?
それはパソコンという機械がそういうことを可能にした
ただそこでは対面しないのだから本当に会話できるのか?コミニケーションがとれるのかというと疑問になる,行きずりの人とちょっと会話するという感覚になる
ただ一応会話的なのである。インターネットは何かテレビの一方的な放送とは違って会話的なところがある
だからこそ西部邁と本はあまり読んでいないがちょっとした会話を死んだけどする
あの人は会話力があり話しては面白い人だったとなる
また本を読むのとはそうしたちょっとした会話するのとは違う。
武田邦彦氏もyoutube で放送しているから面白い,あの人も話がうまいなと思う
ただやはり深いところになると本を読まないとわからないかもしれない
しかし本を一冊読むのは今になると疲れるのである。本を読むのは相当に頭脳を酷使するのである。だから老人になると長編は読めないのである。

●営業は会話力がないとできない

ともかくビジネスというと営業があるが営業力は会話力になる
地銀の人は押しが強いけど会話が成立しにくかった
それはなぜなのか?相手は一方的に自分で決めてしまうのである。
説明もなく決めてしまう,自分は言いたいことがあったがプロなのだからと思いまかせていた,でも株が上がっていたのにその株を売って投資信託にしたのは銀行にとって投資信託が手数料がとれるからだと今では思った
ただその時の判断はこれほど上がると思わないからいちがいに悪いとはならない
ただ明かにその銀行員は自分のことを手数料をとれるものを選んで投資したのである。
それよりそこでちょっとでも話すこと会話することが交渉することすらできなかった
それはネゴシエーションできないのは忙しいからだとなる
相手にも余裕がない,成果をあげる,ノルマを果たすということに追われるからそうなる何か歓談するとかとはあまりに違っていた
それでもやはり相手が若いというときそうなりやすいから一方的には責められないことはある

変な話だけど自分もカルト教団のセールスマンをしていたことがある,そこでも目的は一票をとることであり数を集めることである。それは創価でも幸福の科学であれエホバであれカルト教団は同じなのである。ノルマとして会員にすることを課せられているからにているのである。
それは何のためのなか?それは上から指示されてしている,選挙運動だったのである。
会員を一人獲得することは一票を獲得すると全く同じだった
そこではだから折伏とか強引に会員にする手法がとられたのである。
何かビジネスでも営業でもノルマが課せられているから相手に余裕がないから会話が成り立たない,とにかく投資信託を買わせて手数料を得るとういことが先決でありその過程がない、だから勝手に決めて勝手に株も売る,ただ自分はそこでなぜ株を売るのですか,今上がっているのにと言いたかった,それもできなかった,会話ができなかった
こういう営業の仕方はまずいと思った,性急すぎるのである。
それは男女間でも会話より肉体関係を男性は求めるのともにている
そこで男女間の会話が成り立たなくなる
会話が成り立たなくなることは最終的にどうなるか?
全体主義ファシズムになる,カルト教団がそうである。そこでは会話などない
一方的にその教義なりを押しつけて会員を増やすことしかな
そして最後はハイルヒットラーですべてをかたづけるのである。
現代の大衆社会はそうなりやすいのである。テレビメデアなどもそういう大衆社会の煽動役としてあった

とにかくその人だけではない,今や会話ができない,駅でもみんなスマホを見ていて会話ができない,それも問題だと思った,会話が年齢に限らずできなくなっているのだ
そこに互いの意思疎通がなく問題が生まれる,人間関係が築けなくなる
ビジネスでも営業だと会話力であり融和的な人間関係を築くことである。
それが会話が必要なのだがそれができない,営業は相手の話を聞くことだ,会話はまず相手の話を聞くことだというときそれができない,それは若い人はそういうのが苦手だとなるからしかたないということはある
自分がそもそもビジネスを語ること自体おこがましいということはある
ただそういう人とじかに接して考えざるをえなくなった

とにかくなぜ会話が成り立たないか?何か余裕のない人はそもそもその前提として会話が成り立たない,自分の来た人達とは会話が全く成り立たなかった
それはなぜか?その人たちただ自分から金をとることを目的としていたからである。
そうなればめんどうな会話など必要ない,もう盗めばいいんだとなる奪いばいいんだとなる,いくら相手が金持ちでもそうなると敵対関係しかないのである。
やるかやられるかの関係になってしまう
でも金持ちと貧乏人でも会話はありうるのである。その女性は会話力がある
ただ金を何かと要求する,でもいちいち何に使うのだと会話がある
するとそうなのかと払ってきたのである。それは大きな金でないからできた
後の人は百万以上とかの金であり失った
その女性は問題があったが会話が成立していた,金に困っていることをあからさまに訴えるにしろ嫌にしろその女性とだけは会話が成り立っていたのである。
金持ちでも貧乏人でも会話が成り立てばそこに融和が生まれないこともないのである。

●会話が対話がないと喧嘩になり暴力になり戦争になる

人間は会話を対話をつづける必要がある,それはかなり執拗にしつづける必要がある
もし会話が成り立たなくなると喧嘩になり戦争になる
双方ゆずらないと戦争になる,だから会話は交渉は人間にとって大事なのである。
会話とは双方に協力するためにするのであり対立するためにするのではない
対立点があっても和解する方法を見いだすために会話するから会話は大事なのである。
会話が成り立たないとき喧嘩となり犯罪となり戦争となり人間関係が破綻する
それが悲惨な結果になる,そういう自分は付き合いが苦手で会話しなかった
一種の閉じ籠もり生活を30年とかしていたから異常だった
こんな生活を良くしていたなとふりかえると思う
自分自身が会話しなかったのである。
旅するとき何か会話がむずかしいのである。ゆっくりしていられないということもある
いろいろな辺りの状況もわからないということがある,無人駅を見るとそこに無人駅で間に合うようにできている,慣れた地元の人はわかるが本当にわからないのである。
だから外から来た人には無人駅は困ると思った

情報社会に欠けているのは何か?確かに自動化無人化するときそこにさらに会話がなくなり索漠とした社会になるかもしれない,情報とは情に報いるということである。
情報は会話で得るとすればそこに情を通じさせることがある
ところがスマホとかインターネットの会話では情は通じない,無味乾燥な文字の羅列である。それも役立つものがあるがやはり情が欠けている
機械とかインターネットとかデジタルやロボットの世界の問題は情に欠けることなのである。だから人間を豊かにしないということがある,それが進歩してもマイナス効果となる何か人間の社会は進歩すると同時に必ずマイナスが生まれるのである。
江戸時代が貧乏であり暗黒面があってもやはり情に厚い社会であり良かった面もある
情報は対面でしか得られない時代だから情に報いるということがあった
人間社会は進歩する技術が進歩することは何かをまた失うことである。
車だと光りだとか風とか自然をシャットアウトして感じなくさせる
自転車は不便でも自然の風と光りとか直接感じるのである。
だからこの世の中進歩がすべていいものとして反映されないのである。
そして会話というとき介護では特に必要になる,でも老人と会話できる人は若い人にしにくい,世代の相違もあるし若い人には会話力がないからである。
自分は老人と会話できたのである。世代的に共感するところがまだあったからである。

ただインターネットはメデアとしては個々のメデアであり対話的会話的メデアである。
一対一と一対一〇から1000,多くても1000とかなる
プログでもそうである。テレビのように百万以上を対象とはしていない少人数のメデアである,だから直接の接触はなくても何か対話的会話的にもなっている
ベースが個人であり小地域のメデアにもなる,マスメデアは報道するのが全国放送で六局あってもみんな同じことを報道するのである。インターネットでは無数の多様なメデアになる,その地域で起こっていることはみんな違っているからである。
それで成功していたのがyoutube の武田邦彦氏であり西部のyoutube の放送も面白かったこれもインターネット社会での発言方法だった
ただ何か刺激的な映像をビデオを放送するのはテレビとにていて百万とかに見られればそうである。それはテレビと同じだった,それで宣伝効果も出て収入になっているユーチューバーがいるからだ
ともかく自分のプログでもこうして毎日書いているのはそもそも書きやすいからである。これを本に出すとかなるとめんどうになるからだ
そこがやはりインターネットのいい点である。
ただ自分の場合も一方的だということはある,何か答えるにしても相手がそれなりのものをもっていないとできない,どういう人かもわからない,そこではまた会話が深い会話は成り立たないのである。リアルの社会での会話となるとインターネットの中での会話とは違ってくる,何かそうした矛盾で異常なインターネットの犯罪も生まれている
情報のやりとりは会話でも機械を会する別なものに変容しているかそうなる



2017年12月24日

情報化社会は説明が大事になる (でも説明責任は果たされず情報は無料だと思っている)


情報化社会は説明が大事になる

(でも説明責任は果たされず情報は無料だと思っている)


作業員とか使う丸形の大きなストーブ買って石油入れるのに二回失敗した,石油があふれて大量にこぼした,手で押すものだったが石油がとまらなく出てきたのである。
上から押すものでありそれがこんな危険なことになるとは思わなかった

缶で入れるのと手で押したりして入れるので安全性に問題があった
ただそんなこと売る方では何の説明もない,第一今は商品が多すぎて売っているほうでも知らないのである。
買ってる方が買って使った方が知っている
それでアマゾンのレビューが役立つのである。

ともかく説明責任というのがある,なぜなら今回のように石油入れるのにも缶とは違うのだから危険があったからである。ただそんなこと売る方では考慮しない
売れればいいとしかないのである。
それも買う方の自己責任なのである。
レンジでもそうだった,3万していろいろな機能があるようでもそれは使いないものだった,説明責任を果たしていなかったのである。

ただ通販でも失敗はあるが量販店でも普通の店でも買い物には失敗がつきものである。
ソニーの小型のビデオカメラはyoutube で説明していたが不良品だったのである。
それで4万は損した,ソニーで不良品を出すとは思っていなかったからだ

何でも説明責任がある,どこでもそうである。医者でも手術するとか治療するのでも説明責任がある,そしてわかったことは現代のような複雑な社会では何でも知りえることはない,わからないことが多すぎるのである。
だから専門家の時代となり消費者は無力化されている

原発だってほとんど地元の人に説明されていない,最初から「安全神話」を作り出されて地元の人達はそれに従っただけである。そもそも放射能のことを説明されてもわからないからだ,危険性もなんにも説明されていなのに契約されたとなる
地元では金になればいいとなり許可したのである。

要するに複雑な現代社会は説明することが逆に多すぎるということがある
銀行でも投資信託などで老人にリスクの高い商品をうりつけたと訴えられた
その商品について良く説明されていないとしてその高齢者の息子に訴えられた
そうした証券とかは説明されてもわからないから簡単にだまされる

投資信託なども理解するのにむずかしいのである。ただそれでも説明することが大事になる,現代とはいかに説明能力を磨くかということもある
つまりむずかしいものでもわかりやすく説明するという能力が大事になる
法律だってむずかしく言われると専門用語を使われるとわからなくなる
でもわかりやすく説明する方法はある,すると素人でもある程度はわかることはあるのだ
だからそもそもそも80才の高齢者に知識がない人に投資信託とか外国の債権とか保険をすすめること自体間違っていた
でも今厳しいノルマが銀行員に課せられていてそうなったと内部告発された
銀行にしてももうける方法がなくなり追い詰められていた,そのしわ寄せが若い銀行員に押しつけられたのである。
そして説明責任を果たしていないと訴えられる,それは訴訟になると訴えた方が勝つというのもそうなのか?それが法律違反になるのか?
そうなると売る方も慎重さを要求される

つくづく今の社会は説明ということが大事な社会である。その説明とは情報社会だから余計にそうなっている,情報を自由に流通していて判断ができる
説明されていて判断ができる,説明ということ自体,情報社会だということなのである。情報があってその情報を説明する,わかりやすく説明する,それが主な仕事ともなるのが情報社会である。
銀行などは証券とか株とかは情報なのである。絶えず様々な情報によって左右される世界である。インサイダー取引とかありまさに特別な情報を得たりすると大儲けすることができるのが株の世界だからである。

いかに説明能力を説明責任を果たすか?それはどこでも求められている
今回買った盆栽のような手のこんだものも水やりはどうだ,日にあてるのはどうだとかどうしてこれが作れたのかとか,いろいろ説明すべきことがあったが聞いたのは一部だったそしてやはり焼き物を売っていた人もいろいろ聞かれるという,それに答えるとまた買ってくれるとかいう,つまり情報社会とはそうして何でも説明能力が必要とされているのである。
説明すること自体に価値が生まれ社会である。
みんな商品を買えば売ればいいと思っているが商品についての説明が大事になる
そこに実は価値が生まれている社会なのである。

パソコンなどまず買っても使いこなせないからその使い方を教える方にかえって時間と金がかかる,それでそれを商売にする,パソコンでも今や使い方は金を払っているしそれもうなづける,使い方に金を払うというのは何か抵抗があるが情報社会とはそうした説明してくれることに金を払う時代だという認識が必要である。
まずソフトなども使い方がめんどうで簡単に使いこなせないのである。
ただ使いこなせると芸術家でなくてもそのスキルで自分がしている抽象画などができるのが情報社会なのである。自分は全く絵の能力かないのに絵を描いているという不思議があったからだ

だから商売としては別に本当は小さな小売店でも今は電器店でも高齢化社会になると使用するのが複雑になる,でも量販店では説明してくれない,すると親切に説明してくれる,使い方を教えてくれる街の電器店でも商売できるとかにもなる,そういうことでなんとか維持している店もある
ただ情報化社会がどういうものかわからないから品物は買ってもそれに対しての説明とか使い方を教えないしそれに消費者も金を払うという意識がないのである。
ただこれだけ複雑な社会になるとどうしてももう個々人では対応できないのである。
それで自己責任にされるのは無理なのである。
ただ情報に金を払うという意識が未だにないことが問題なのである。
みんな情報がただと思っている,インターネットだとまたそういう意識がある
最先端のインターネットでも情報に対して無料だということになった
情報化社会とは情報に価値が生まれそれが利益となる社会なのである。
それが過渡期であり理解されていないのである。

2017年11月22日

最近は買って使えないものが多い (使えたのは中古のパソコンだった)


最近は買って使えないものが多い

(使えたのは中古のパソコンだった)

何年前だったかソニーのアクションカメラAKA-LUA四万で買った,その時四万で安いと思った,ビデオカメラは高いと思っていたからだ
ただ時代が変わりつつありビデオカメラはデジカメにもついている
技術の進歩が早いからわからなくなっていた
これは今一万くらいで売っている,かなり前だから高かったのである。

ただこれは本当に不良品だったのである。それで交換してもらった
このビデオカメラはyoutubeは本当に故障品であり使えないものだったのである。
ソニーでそんな製品を出すとは思っていなかった
これは自転車に乗って写そうとしていた
でもそもそもが前もビデオカメラは一番早い時期から自分は使っていた
でもそうして撮ったものを編集もできないしうまくいかなかった
ビデオカメラはうまく利用できなかったのである。

次にASUSのノートパソコンも三万だから安いと買ったが故障した
簡単にパソコンは壊れないと思っていた
これも安いからしょうがいと思ったし通販だから修理に出すこともできなかった
結局何にも使えず終わった

それからレンジは近くの量販店で買ったがいろいろな機能がついているように見えたが実際はそれはただそう見せているだけであり普通のレンジとなんら変わりなかった
そして中が一部壊れていた,ただ今も使えるが一万のと同じだったのである。
これは三万でありいろいすなことはできないのである。
レンジはそれでも使えているからいい
前の二つは全く使えないから損だった

何か最近はこうして買っても使いこなせないのである。
それで十万くらいは損になった,何か今の電気製品は使いこなせない,特に通信関係は使いこなせない,わかりにくくなっているからだ
だから老人は技術に追いつけなくなっているのだ
それで時代から取り残されるということもある
ただ自分はパソコンは二十年以上している
最初はワープロの通信機能がついたものからしているのである
それは今の通信ができるパソコンの最初のものだったのである。

だからその通信世界のことが理解できなかった,今は普通にしているがニフティとかあの頃通信は普通の世界ではない,マニアの世界だったのである。
ただ自分は富士通の親指シフトでワープロをしていた関係でそうなっていたのである。

その頃のパソコンは必ずソフトで不具合がありいちいち初期化して使っていたのである。今は滅多にパソコンは壊れない,通信でも通じなくなったりログは消えたりしない
安定して使えるのである。
自分がパソコンをはじめたのはワープロが出たからであり富士通の親指シフトが文章が打ちやすいからここまでやれたのである。
パソコンの問題はやはりキーボードであり文章を楽に打てないと嫌になりギブアップする人も多いからだ
パソコンに慣れるかどうかはキーボードを早く打てるかにかかっている,その他いろいろあってもそこが基本でありそこに慣れる人はパソコンに親しむのである。

それで買い物だが一番役に立ったのがwim7の中古のパソコンだった,二三万だったが使える,ソフトの関係で買ったのだが二年以上使っているが壊れないのである。
ウィルスにもやられていないのである。
今や中古でもパソコンは技術的に安定しているのである。
だからこれは得しかたなと思う,パソコンの中古品は今は壊れない,安定して使える

結局何か老人は新しいものを買っても使えないということになる
今まで使ったものは使えるが新しいものが使えなくなっているのだ
消費しろと言ってもできないのである。
若いときはいろいろなものに挑戦できるができない
機械でも新しいものを買っても使いこなせないのである。
多機能テレビとかもあり今はテレビすら操作するのがめんどうなのである。

こういう時代になると老人は本当に不利である。社会から取り残される
現実は自分は車を運転しないから社会のことがわからなくなっていたのである。
車社会になっているとき車のことがわからないとしたらもう生活できないのである。
たまたま仕事もしないから車なしでも生きてきたのである。
ただ今の社会のことは車をもたない人はわからなくなるのである。

それはパソコンでも言える,インターネットのことなどわからない人は今や取り残されるそんなものなくてもいいとか言っても社会はインターネット社会化すると車社会と同じように社会のことがわからなくなるのである。
情報でもテレビだけ見ているだけで偏ったものとなる
だからyoutubeで製品の紹介しているからそれを見て買うとういのも今の時代の買い物なのである。
ソニーで不良品のようなものを出しているとは思わないからである。
そして今は製品が多機能化して使いにくいから老人は相当に気をつけないとだめである。
今老人が不利なのは技術の進歩が早いのと様々なものが理解しにくくなっていることなのである。若い内は新しいものを利用しやすい,その時代のものを吸収しやすい
ただ体験が不足しているので深く物事を見れないのである。
だからすべて若い人が有利となるわけではない,老人になると深い見方ができる
理解力と鑑賞力がついてくるから評論に適しているのである。

2017年11月11日

便利な自分のプログの検索方法 (キーワードを押してタイトルを押すと全文表示)


便利な自分のプログの検索方法

(キーワードを押してタイトルを押すと全文表示)

キーワードを入れてタイトル(題名)を押すと全文が表示されます

これはわからなかったけど便利である

自分のプログは膨大なので自分さえ何を書いたかもわからなくなった
だからこの検索方法は便利である。

二両の電車と入れたら一つの連作として作品化できる
他にもそうして分けてまとめることができるのが便利である


検索窓でキーワード→タイトル(題名)を押す→全文表示
タグ:検索

2017年11月04日

本の整理に苦労する (本が整理できないのではなく知識が整理できない)


本の整理に苦労する

(本が整理できないのではなく知識が整理できない)

本の整理に苦しむ,本はかさばる,本は重い,整理しにくい,本は物になっているから整理しにくい,読んだ本でも忘れている
なぜそうュのか?本は知識であり知識は物ではないが本だと物となっているから整理しにくいのだ
電子化すれば膨大な本が検索できることが効率的になる,それはインターネットでしている

ただインターネットには本のような専門家の詳しい知識は見つかりにくい,それなりに知識が膨大になっているが専門的な知識は本にある
ところが本は千冊あってもどこに何が書いてあるのかもわからない,ただ本屋の立ち読みのようにランダムに読んでいるとその数行がこれはいいとなり利用する引用するのである気ままにいろいろな本を全部ではなく拾い読みする,するとそこに新しい発見がある
新しい発見があるのはそれは読む方が発見するのであり読む方が引用できるとなると
読む方が独創的になっているからできる

本のあるページの数行からイメージをふくらませて自分なりの文を書いてゆくのである。10冊の本があるとしたらそれが歴史関係だったら世界史とか日本史とかに分類してまとめておいて拾い読みすると相互のつながりが生まれてくる,その時本が活きてくる
だから何かを調べるとか書くとするとき本はその分野のものが多く内容が濃いものだと
自ずと独創的なものが書けるのである。
それはAIのビッグデーターの手法なのである。膨大なデーターから探れば自ずと研究するには有利になるのである。

とにかく知識は膨大である。一生の間に読める本も限られている
千冊読んだとしても忘れるのがまた多いのである。
本でも内容が濃いものは何回も読む,何かあきずに読む,つまらない本はもう何回も読まない,とするともういらない本になっているのだ。
そういう本も多すぎるのである。何か自分は本の中味を読むより本を集めた蒐集家になっていた,本は物だから骨董品のように集めるという人間特有の真理は働く
本を買ったら知識が増えたような気になる,でも実際はそうはなっていなかった
知識は何か物ののように財産とはなりにくい,かつては本が希少価値があったからそうなっていた,今は本はそれほど希少価値がない,情報は本の外でも膨大になっているからだ
ただ本は全部読むのではなく一部分を読むのでも知識の吸収に効果がある
だからものを書くとしたら私設図書館のようなものが必要なのである。
書くときは必ず参考にする本があり知識があるからだ
本が整理できないというとき本ではなく知識が整理できないのである。
一冊の本を読むときでもそこに何が書いてあったのかも忘れているからだ
線を引いていても忘れているから読んだことにもならなかったのである。

本に埋もれてしまったが実際は膨大な知識を消化できなかったのである。
それで本に書かれたものも忘れたとなる
知識も無限だから何かしら消化する必要がある,でもその知識も一部にとどまるのである消化するということは自分なりに自分の体で消化して栄養分にすることである。
ただその栄養となるものも知識の場合は知識の世界にしたらほんの一部だとなる
いろいろ本を買ってもそれを理解する方がむずかしいからそうなる

ただ知識を整理するというとき例えば物だったら四角のものは四角とか丸いものは丸いものとか同じ種類のものを集めて整理する,知識はなかなかそうはいかない,全然関連しないようで知識はみんな関連しているところがある
そういうふうに知識の組み合わせは無限なのである。
だから知識は創造的に利用することがむずかしい,整理もできないのである。

自分の場合は詩に関したもの短歌とか俳句に関連したものとか文学関係は集めた
アマゾンの古本で安いから買い集めた,これはいい方法である。
詩を書くとしたらやはり参考とするものが多いといいのである。
詩は詩でみんな関連しているからである。
最近集めたのは原発関係とか津浪関係であった,これもみんな読み理解すると容易ではない,第一これらは知識として追及していないかったから今になり追及するとなるとむずかしくなる,知識はやはり積み重ねだからそうなるのである。

新しい知識は吸収しにくくなる,若いときからテーマをもって積み重ねたものは理解しやすいが新しいものとなる理解しにくくなるのである。
だからAIとかでてくると理解しにくくなる,新しい機械も操作しにくくなる
それで新しい電気製品を買ったが使いなのが多くなり失敗したのである。
使い慣れたものは使い安いが新しいものは使いにくい
パソコンのソフトでもそうである。これは多機能だから新しいソフトは使いにくいのである。それがいいものでも使いないのである。

情報化社会とか知識社会になってくるのはコンピュターが一般化したとき予想されていたのである,自分はワープロで富士通の親指シフトを使っていたから今も使っている
これで文章が早く打ちやすいから書いている
ローマ字シフトだと遅くなり文章を書くのが嫌になるからだ
知識社会になるとあまり暗記とかは重要でなくなる,創造性とか考えることが大事になる
そのためには暗記中心の教育は受験などは知識社会には適合できなくなる

なぜならAI化すると機械のやれることと人間のやれることが区別されるからである。
翻訳などは相当に進歩したことでもわかる,機械の方が優れてるのである。
それはどういうことなのか?人間にしかできないこと創造することがより重要になるのである。創造することは子供のときからしていなとできない
才能があるないという前に暗記だけの教育ではもう知識情報社会には適合できないからだ今のアナログ的な教育は前時代的なものになっているし変わらることが望まれているのだ暗記中心の教育はAI時代には取り残されてしまうのである。
だから考える訓練を子供のときからしている必要がある

2017年10月24日

進む情報化社会の現実 (買い物から学習でも芸術でも情報化社会になっている)


進む情報化社会の現実

(買い物から学習でも芸術でも情報化社会になっている)

●家事は買い物が一番大事

もはや情報化社会は現実である。未来のことではない今進行している現実なのである。
それはインターネットも関係しているがあらゆるものが情報化してゆく
自分は介護をはじめてから十年間家事をしているがその最大の問題が買い物だったのである。
何を買っていいのかわからない,商品の数が多いからである。

何かを料理することではない,料理するもの買うのが仕事になる,それがわからないのである。最近けんちん汁が好きなので食べたいと思っていた,そしたらスーパーに売っていたのである。これがうまかったからうれしかった
それは意外とわかりにくい場所にあった,でも発見したのである。

それから昆布醤油がいいと言われ買った,味噌は地元で作ったものを売っている,近くに味噌屋があってもダシつきでないから買っていない,なにしろ時間を節約したいのである家事に追われたら何もできなくなるからだ
するといかに買い物上手になるである。
失敗したのはレンジで3万円の買ったがそれは一万のと何ら変わりないものだった
それは量販店で買って失敗したのである。
でもアマゾンのレビューを見て買うと意外と失敗が少ないのである。
電器店の人にすすめられるのはその店で売りたいものをすすめるから問題なのである。

●今までの十倍くらいの情報を摂取する時代

最近はDマガジンを読むようにした,これは便利だった,週刊誌でも雑誌が一月400円で読めるのは安い,一冊一冊買っていたら金がかかるからでいないがこれはできるのだ
そして自分の読みたいものを読めばいいとなる
だから効率的なのである。そしてパソコンだと本をめくって読むのとは違う,さーと眼を通すという読み方である。すると読むスピードが早くなる
つまりパソコンで本を読むのと普通に本を読むのとは同じ活字も読むのでも違うのである週刊誌とか雑誌はそうした早く読む必要がある,日々変わるものを話題にしているからである。

ともかく情報化社会は進んでいる,インターネットで国際化するというとき機械翻訳が前より相当精密になり使えるようになっている,これは明らかに機械翻訳から英語を学ぶ時代にもなっている,翻訳家も使っているからだ,かなり正確であり間違っていないから外国人にも通じるだろう。
これもやはり情報化社会の進展に役立つ,言語の壁がなくなってくる

そして自分のしている抽象画というのも我ながら不思議だと思う
インターネット上にある写真や絵をパソコンのソフトで変化させて作っている
ただ化学実験のように変化させるだけだから量産できるのである。
それは絵の才能があってしているのではない,自分は絵は何一つ描けないからである
ある程度絵の鑑賞はできても描く能力はゼロだからである。
だからこうして抽象画を作っているもパソコンがありインターネット社会になったときできたことなのである。
一定数のアメリカ人が見ていることはそれなりに注目されているのかともなる
インターネット上には膨大な写真があり絵画もあり抽象画もある
するとそれを変化させる芸術となると無限になるのである。

●情報のデジタル化でもアナログ的な旧来のものも必要

ではすべてが今までもデジタル化の情報がすべてになるかというとそうでもない
電子本は自分にあっていなかった,読みづらかった
今は古本の安いの一カ月に十冊は買っている,それも全部読むのではない眼を通すという読み方なのである。ここが重要でありそれを引用するのである。
本だったら最初から最期までさーと目を通して要点がわかる
電子本ではそれができなかったのである。

電子本はまた記憶に残りにくいのである。インターネットでもキーワードで調べるのはいいのだがどこにそれが書かれていたかわからなくなることが多い
すると記憶することでは本の方がいいと思った
ただ今までのような一冊を詳しく読むことはもうできない,年になり時間もないから読めない

でも記憶という観点からすると本の方がいいと気づいたのである。
記憶というときどうして人間が記憶するのかこれは本当に不思議である。
その場と関係しているというのも不思議である。
自分の家は部屋が多い,するとその部屋を変えて本を読むと記憶される
寝室で読んだものはそこでの記憶が残り廊下で読んだものはそこでの記憶が場と共に残っているのだ。
そこに記憶されるにはどうするのかというヒントがある

bookwwwww111.jpg

二階に広い廊下がある
そこに分厚いワーズワースの評論の本
ページをゆくりなくめくる
その一ページに冬の日がさす
そのページに書かれた詩が記憶に残る

ワーズワースの部厚い本のページを廊下でめぐる,そこには冬の日がさしている,するとそのページに書かれていたものを記憶するのである。
本は読んでも忘れるものがまた多いけどこうして不思議に場所と季節とか光とか関係して覚えているのである。記憶はこうしてその場とか季節とも関係しているのである。
これがインターネットとか電子空間ではできないことだった
本が物になんているからできたのである。

記憶するということでは本が優れている,インターネットではビッグデーターとして使うの優れいてる,つまり本は必要ないというが必要なのである。
ただ書店はどうしてもなくなる,とてもアマゾンのような本をそろえることができないからである。

いづれにしろ読むものも今までの十倍とかなりまた自分で書くものも膨大なものになる
今までなら本には出すことはできない,インターネットならいくらでも出せるのである。そしてプログでも他者が読むということもあるが自分で書いたものを記録してあとでふりかえりまたつづきを書くということができる
そういうことがインターネットではプログなどしやすいのである。
だから自分の図書館を形成できるのである。

今なぜ本が問われるのか(2) (インタ-ネットにはない本の特徴)
タグ:情報化社会

2017年09月20日

報道はともかく事実を多面的に報道すべき (津浪(八沢浦)の自分の報道で責められたことについて)


報道はともかく事実を多面的に報道すべき

(津浪(八沢浦)の自分の報道で責められたことについて)


ポンプで海水を汲み上げたあとの光景は悲惨でした。
たくさんの瓦礫。
ボールのように丸くなった自動車。
たくさんの方達の思い出の品。

半月以上海水に沈んでいたので
自衛隊さんによる本格的な捜索が行われたのは
4月になってから。

そんな状況に置かれていた場所をあなたは

美しい元の風景に戻った

などと不謹慎極まりない発言をされたのですよ。
人として理解不能な発言ですね。


確かにこのことは相当に批判される
家が水に浮いていてそこにきらきら波が光たよせた光景は信じられない風景だった
なんかいろいろ言われるのは確かである。
小高の人にはお前は同情しないのかとかそんなことを書いて楽しいかとか批判される
人間はどんなことを書いても必ずそれにケチつける人はいるからどうにもならない

八沢浦が美しい入江にもどったというときそれは事実だった,その事実を報告したのである。一方でそれに感情を加えるのは事実ではないのである。
事実というのはそのままを報告することである。

だから一方で自衛隊の人が水が引いたとき泥のなから子供の死体を掘り出しというのも事実である。美しい入江にも一時もどったのも事実である。
そして子供を泥からかきだしていたというのも事実なのである。
つまり事実にはいろいろな側面が実際はある
でも一場面だけを事実として報道すればただ瓦礫の山しか津浪にはなかったともなる
まず自分のように津浪を報告した人はいない,ただ小高の干拓された井田川で縄文の海がよみがえったと報告した人はいた。

ともかく津浪は信じられない光景をもたらしたのである。
それを報告するとき事実にもいろいろな側面がある,その時そこに死んだ人がいるというのも事実である。
お前はそういう人達に同情しなかったのかとなる
でもその時津浪が来て人々がどういう状態になったかわからなかったのである。
あとでここで死んだとかいろいろ聞いたのである。

津浪とか原発事故の避難者に対してはただただまず同情すべきだかわいそうだと言うべきだとなっていた。そうしないものはお前はなんなのだ,非情な人間だとされて批判の嵐になっていた。
現実津浪で家を流されて家族を失った人達の悲しみは想像を絶する
そのことに関して他者が何か慰めの言葉も言えないような悲惨があった
その時かわいそうだとか同情してもとても慰められるような状態ではなかったろう

人間はそういう悲惨な状態になると容易に近づけないとなる,何かしようにも何もできないとなるからだ。
ただ津浪は自然の作用だから確かに一時美をもたらしたのである。
これが戦争だったら爆撃で焼け野原になり無惨なものしか残らなかった
津浪は自然作用でありそこに一時美が生れたのである。
もしそこが家が密集しているような石巻のような所だとただ家がめちゃめちゃになり流されて無惨な光景しかなかったのである。
井田川とか八沢浦とか磯部でも田んぼのあるところは一時湖のようになったのである。
その光景は信じられないとなるのだ。

その時自分がどういう状態にあったかを書いた,身体障害者となり病院に入院したあとであり介護状態にもあり苦しい状態にあった。
それも実際は事実なののである。そんな個人的なことは報道されないのである。
ただただ津浪の被害者が原発避難者に関心は向けられていたのである。
八沢浦が美しい入江にもどったというときそれを批判するのわかる
ではその人が自分の個人的事情とか事実を知らないのである。
なんだこいつは八沢浦が美しいとかどうかしているとなる
つまりなぜこうして批判が常にあり誤解があるかというと人は多様な事実を知らないからそうなる
報道は常に一面的だからである。
人が何か批判するとき必ず一面的なものしか見ず批判しているのである。
報道にはそうした一面的報道が多いからそこに真実が何なのか見誤るのである。

報道には多様な事実が実際にある,殺人事件がある,それがどういう場所で起きたのか?
どういうふうに殺されたのか,何か証拠が残っていないか?
一つの殺人事件でもそこにさまざまな事実がありそれを検証する
殺人事件でもリアルにものをみなければならないのである。
そこに感傷的にみるより冷静に事実を見ることを第一とする
そこから犯人を割り出してゆく,つまり報道するということもそういうことなのかもしれない,事実は多面的でありだからこそ現場に通って感を働かせるのが捜査だとなる
この辺で起きたことは例えば原発避難民がパチンコ屋通いであり多額の補償金をもらって遊んでいたとういことも事実なのである。そんなことを言うなとかかわいそうだとばかり言うのもまた事実を無視して感傷的になっているからである。

北朝鮮の報道でも多角的にみればその実情が像としてイメージされる,youtubeで見たが公園で草をむしって集めている人がいた,するとそれは草を食料とするために集めていたそんなに食料がないのかという事実に驚く
それから喜び組というのがあり女性が品定めされている,まるで江戸時代の遊女である。すると北朝鮮は奴隷国家だということがわかる,金王朝に仕える奴隷国家なのである。
そんな国がどうして国家として維持できなるのか?
やはり内部から瓦解してゆくのではないか?民衆は草を食べ幹部は女性を品定めして遊女のように扱う,そんな国が維持できるのかとなる

ともかくそういう事実はいろいろありそこから像を作り多面的に見ていくべきなのである北朝鮮の民衆は悲惨なのである。その支配者が悪いのであり民衆はかわいそうだとも見る
でも事実というのは無数にある,今でも無数の事実が産み出される,それらの事実を現実に確かめて知ることは不可能である。
事件にしても無数の事実である。それは毎日のように報道される
でも深くその事実を知ることはできない,次々に事実は新たに生れてきりないからである

ニュースで伊豆に東京の人達のために老人ホームを作る,そこに入る人は家族が行くのに遠すぎるとので困ると言っていた,ところが身寄りがない人も入るから家族は関係ないと福祉関係の人が言っていたのも納得する
身寄りのない人も多いのが現代である。事実として様々な事実がありいちがいに遠いから家族が行けないからと判断はできないのである。
伊豆がどういう所かまず地理とか環境もわからないからそこで報道だけを見ていると誤って判断する,何でも多面的な事実がある
報道は一面的報道になりやすい,次々に問題が起きるしニュースがあり事件があるからだ

津浪でも様々な事実があり海が近いのに前に山のようなものがありそれにさえぎられて被害少なかった家もある,そこには様々な事実が生れていたのである。
一時八沢浦が美しい入江にもどったというのも事実である。
そこであとで泥にうまった幼児を自衛隊がほりだしたというのも事実である。
死体を探していたというのも事実である。
そこには様々な事実がありそれを冷静に報告することが報道の基本としてあった
かわいそうだという前に現実を事実を写真で見せられればわかるからである。

ただ原発避難者がパチンコ通いとかギャンブルに興じていたことは事実であったけどそれは報道されていない,そういう事実を無視してかわいそうだとばかり外から感傷的に見られるとき事実が見逃されてそういうマイナスの面は隠される,事実は隠される
すると現実が見えなくなる,そこに報道の問題があった
報道は今までは個人ではしていないできなかった,マスコミだけがしていたのである。
それでマスコミによって操作されていたのである。
いろいろなことを解説するのにもいろんな手法がある,マスコミの解説とは違う解説の仕方がある,すると別な風に見えてくるのである。

だから本当はマスコミでも局によって違った報道するのがいいのである。
すると多面的な見方ができるようになる,でも見る方もそんな暇がない,時間がないからてっとりばやい一面的な報道で判断するのである。
要するにあらゆることに様々な多面的な事実がある,それをそのまま報道すれば何かが見えてくる,でもその事実の取捨選択はマスコミがしている
報道されないことでもある人にとっては重要かもしれないし本当にみんなにとって重要なものもある,でも報道されないとそれは闇に埋もれるのである。

八沢浦が元の美しい入江にもどった

2017年09月04日

インターネットはプログは重要なものはログをとって読む (リンク先のログはとっておくー「心に青雲」のログが死亡してなくなる)


インターネットはプログは重要なものはログをとって読む

(リンク先のログはとっておくー「心に青雲」のログが死亡してなくなる)


インターネットをどう利用していいのか?その著作権とかリンクとか何かなのか良くわからないのである。
「心の青雲」の都築氏が死んで考えた,ログが二カ月分残っていたものがあった
でもたったの二カ月分だけだった

自分のリンクしたログは残っていない,どこにあるのかもわからない
もうリンクはたどれないのである。

だからインターネットは特にリンクをはったりしたらそのログは記録しておくべきだったそうすればこの文にリンクを張り書いたとなり死んでわかるからである。
こういうことはインターネットも高齢化社会になると起きてくる

ただグーグルとか他の機関でログをとっている場合がある,つまり本と違って電子空間は膨大な記録を保存するのは簡単なのである。
本だったらかさばるし国会図書館でも保存でときなくなっているのである。
本ももう膨大なものであり保存すること自体不可能になっているのだ
ただ電子空間なら膨大なログを保存できるのである。
書斎もいらなくなるのである。

ともかくインターネットはどう利用していいのかわからない面がまだまだある
まさか「心の青雲」都築氏が死ぬとは思わなかったからである。
ただ17年も透析していたとなるとそこから死もありうるのかと想像する
でもそれを知らなければ透析でも元気にしていられるのかと思ってしまう

ともかくインターネットの電子空間ではログをとることが不可欠である。
突然消えることもあるからだ
ただ何かそれも容易でない面がある,めんどうになるのである。
ただグーグルとか東京大学とかではホームページとかプログでもログを巡回して集めているみたいだ,どこかにそうした機関があり記録されているかもしれない
図書館に本を集めるより技術があるなら簡単にできるからだと思う
それはどんなに膨大でもできる,それが電子空間の記録(ログ)なのである。

つまり技術がある所ではプログでも日付順でそっくり残せる
するとそれは本と同じになるのである。
ただ十年二十年とかなるとどうなるのかわからない,記録が呼び出せなくなるかもしれないからだ

ともかく「心に青雲」の都築氏のプログが内容があったからログをとり再検討すべきものだった,幅広い分野に批評できるものがあった
文学とかの分野でもっとその批評を書いてもらいたかったのである。
批評家として優れたものをもっていた,それがわからなくなったのは残念である。

記録というのは人間で大事である。
なぜなら自分で書いたものでもこんなことを書いていたのかと発見している不思議があるつまり人間はとにかく忘れやすいのである。だからその都度書いたものでも忘れる
何でもメモしておけというとき忘れるからである。

人間は最後は記憶や記憶がその一生になる,認知症になるとまさに記憶に生きるのでありそれが人生だとなってしまうのである。
だから記録がない記憶が消えることは一つの死を意味しているかもしれない
記憶が残り記録が残れば何かを過去を知る,墓でもそうである。
一行からでも何かその人の過去を知るということがあるが記録も記憶も消えたらその人はこの世にあったこともわからなくなる
直接接しなければ本とか記録からしか知り得ようがなくなるからだ

とにかく「心に青雲」の都築氏の死はインターネットの中での大きな事件だったかもしれない,こうなることは予想しなったからである。
だからインターネットの利用方法がまだ成熟しいないということがこれでもわかったである。

何か不思議なのは死んで一カ月にもならないとすると生々しいしまだ生きているのかともなる,何かまだプログに書き込みするのかとも思ってしまう不思議がある
何かインターネット上では死んだという実感がわかないのである。
電子空間の中での死となるとそれはまた普通の死とは違う,でも現代的死でもあるのかもしれない,毎日数年間も読んでいたらやはりその死の感じ方は違う
何かまだプログから発信している,書き込まれている感覚になっているのだ。

2017年08月31日

情報化時代の弊害 (過剰に反応して疑心暗鬼の社会に)


情報化時代の弊害

(過剰に反応して疑心暗鬼の社会に)

crimers1.jpg

現代はものすごい情報量に接する情報化時代である。インターネットでさらに加速した,その量は膨大でありとても追っていけない,情報化時代で何か起きているのか?
それは例えば教師とか様々な地位ある人でも性犯罪が報道される
すると教師が全部そういうふうに見られるのである。
それはなぜかというとそういうことが全国でテレビで常に報道されるからである。
毎日犯罪のことが報道される,するとこの世の中犯罪者ばかりだとなる
テロでも世界中で大騒ぎになる,それもわかるのだがではその国全体がテロだらけになっているかというと別に平和に暮らしている人たちもいる
一部がそうなって大騒ぎになることはわかる,でも全部ではないのである。
イスラム教徒でも全部がテロリストではない,極一部なのだけでイスラム教徒全員があやしいとされる
それは自分が駅であやしいとされ警察に通報されたのとにているのである。

つまりそういう犯罪のニュースばかり流されると今やべてがあやしいとなる
今日のテレビでは花を植えていた鉢が壊れていた,それを誰かがしたと思い込んだ
その人は回りに対して疑心暗鬼になってしまった
回りの人は何かさけている,除外していると思い混むようになった
二人で近くで話していた話しかけたらそれは会話が終わったからにすぎない,
その人と話さないというのではないけどそう思い込んだのである。
鉢は風で壊れていたのである。

そして遂に探偵を頼むまでになった,でも調査の結果は頼んだ本人が被害妄想になっていただけだったのである。
このテレビの番組を見て現代は被害妄想になりやすい,被害妄想とは疑心暗鬼になりやすい社会である。それは都会だと知らない人が多いし引っ越してくる人も多いからである。それは田舎でもそうである。
友伸エンジニアリングの会社は小池にあった,それは大きな建物である
とするとタニコウも小池にあり近くにあるのだから知っているはずなのである。
でもタニコウの人は知らなかった,最近自分は東京から来る人がいるので知ったのであるそれは小池にあるし目立つ建物だったのである。
このように田舎すらわからないことがある
都会だと本当に互いに何をしているのか本当にわからなくなる
そうなると互いに理解しあうこともむかしくなる
結果的に疑心暗鬼になり被害妄想になってしまう

村のような狭い社会に生きていれば竈の灰まで知っているとなるのも困るがそうなっていた,それが逆に今は田舎でも互いに知らないで暮らしている人が多いのである。
そして情報化というとき身近なことを知らないで世界の果てのことを知るということも起きてくる,そこは日常的には何の関係もないのだがグローバル化の情報化時代になるとそうなる,マクルハーンの言うように世界が一つの村になるとうのはそのことだろう
村の噂が世界の噂となり拡散されてしまうのである。

そうなると何が起きているのか?情報にふりまわされるのである。
世界からの情報にふりまわされているのが現代である。
油まみれの海鳥もイラク戦争の時世界中に流されてイラクは悪いとされたのである。
世界中がその一枚の写真に過剰に反応したためである。
それも必要でも情報過剰に悩みまた情報に過敏に反応しすぎることでみんな疑心暗鬼になりあやしいとなり警察にまですぐに通報する
もう狭い田舎でも信じられないとなっている
それはた解に知らない,意思疎通がない社会だからそうなっている

ナチスがラジオから生れというのがピカートの説である。ラジオは国中に放送できるからそうなる,今ならラジオにそんな力があるとは思えない,今ならテレビである。
テレビで放送されるとそれに過剰に反応する
テレビでは毎日犯罪を報道していると日本は犯罪者だらけなのかとなる
実際は日本は犯罪は少ないまれな国なのである。
でも犯罪のことばかり放送していると外国でも日本は犯罪者だらけにみえる
それは外国でも同じである。犯罪者のことばかり放送しているから危険だとなる
でも中国だって旅行したが危険なことはなかった
危険を経験はしたがどこも危険というわけではなかった
でも報道で危険なことばかり犯罪者のことばかり報道していたら危険な国となる

要するに報道は一部を拡大してそこだけを強調するようになっている
日本の戦争でも中国人を医療の実験台にしたとか悪いことばかり報道されると
日本人は残酷だとなる,それを世界に伝播することになる
そういう日本の悪いイメージを新聞社とかが拡散すると日本のイメージがそのとるにたらない嘘のニュースであっても拡散して日本はそんな国なのかとなってしまう
時代劇でも座頭市でもそこにいるのはヤクザばかりて争いばかりあったのかと錯覚するのである。実際はそんなことは極一部であり普通はみんな平和に暮らしていたのである。
ただドラマだと面白くないから面白くするためにそうしているだけなのである。

ドラマだって時代劇となると歴史の情報を勝手に歪曲して伝える,すると何が事実かもわからない,架空のドラマが事実と錯覚している人もででくる
庶民は歴史考証などに関心がないからである。水戸黄門のような人が実際にいたとまで信じる,実際は水戸光国は一回も旅していないのである。
現代は過去の歴史でもそうして事実でもないのに事実のように思わされ歪曲されて伝えられているのである。
そして問題はそうした情報に過剰に反応しているためにみんな疑心暗鬼になる
みんなあやしいとなる,被害妄想化してくるのである。
確かに子供の犯罪はある,でもそれは極一部のことである。
でも一人でも起きれば日本人全員を疑うことになるのである。

要するにいつの時代でも現代でも犯罪はあるし犯罪をとめることはできない,江戸時代あたりだとそんな犯罪があっても藩の外のことはしらなかったろうし村の外のことすら知らなかった,するとその村内では平和か保たれたとなる
それは閉鎖的でそんな社会は嫌だともなるがまたこれ人間のことは必ずいい面と悪い面があり情報も諸刃の剣なのである。
現代は情報化社会が日常化している,報道は必要でも犯罪ばかり報道していたらそれに過剰に反応してみんな犯罪者に見えてしまうのである。
みんなあやしいとなり被害妄想になる人もいる,それはやはり今の社会は狭い田舎ですら互いに知らない人が増えすぎたのである。
そして直接話する人は少なく常にテレビからそうした情報が絶え間なく流れてくる
すると現実に住んでいる狭い範囲の情報より日常的には関係しない世界の情報が身近になる,世界が村になり肝心の住んでいる村のこと知らないとなるのである。

人間は本当に何でも知るのがいいのかともなる,知らないですまされたらそれでかえって平和でいいということもある
人の悪口にいちいち気にしていたらもう生きるのも嫌になるだろう
かえって知らなければ平和が保たれる,現代はかえって情報によって平和が乱された時代だともなる
特に犯罪ばかり報道するのは問題がある。それは一部のことであり全部じゃないからである。
そしてそこに誤解が生れ一人でも議員が不正を働くと議員とはそんなものだとかみんなそう思ってしまうのである。

2017年08月26日

テレビでは他人の不幸は蜜の味になる (報道は今やネットで個々人もモラルが問われる)


テレビでは他人の不幸は蜜の味になる

(報道は今やネットで個々人もモラルが問われる)

病気の人にかかわれば病気の苦しみを負う
貧乏の人とかかわれば貧乏を負う
借金している人とかかわれば借金を負う
苦しんでいる人ととかかわることは苦しみを負う
もめごとのある人とかかわるともめごとにまきこまれ傷つく

病気の人とかかわることは自らも病気の苦しみを負うことになる,医者とか看護師はそういう立場にある,その苦しみを受けているのである。
だから精神的負担が大きいからタフな図太い人間でないと勤まらないとなる
障害者の介護とかで精神がおかしくなった人がいて大量殺人までになったが
自らも障害者の苦しみを負わされるからそうなる

貧乏人とつきあうことは貧乏を負わされるのである。
金持ちだったらその金を絶えず請求されるし平等を追及される
例えば一億円もっていたら5千万円よこせとなる
田舎だと特にみんな同じでないと許されないのである。
なぜお前は金をもっているんだ出せとなる

アメリカではそうした黒人とか底辺層とは住む場所も違っているという
広い国だからそういう棲み分けがてきる,一緒に住むだけで軋轢が生れるからである。
底辺層と住むことはやはり金があれば請求される
人間は決して奴隷の身分に甘んじることなどないのである。
いづれは奴隷でも平等を要求してたちあがる,それが人間の歴史である。

借金している人ととかかわると必ず借金を負わせられる
なぜなら借金は大きな重荷でありその重荷をとりのぞきたいといつも思っている
すると金があるなら金を借してくれとなる
例え口で言わなくても無言でもかかわる人に金を要求しているのである。
事業で失敗したような人とかかわると億の借金があったりする
普通の人がそんな人とかかわったらどうなるのか?
そういう目にあったから借金している人かかわることは危険になる
保険金かけて殺された人も現実にいるからである。
借金が犯罪の動機になっているのが多いのである。

何かもめごと争いのある人と所にかかわるのもまたきれいごとではすまない
シリアのような所で記者が残酷に殺されたけどもそういうことがある
喧嘩の仲裁で殺されたりすることがあるからだ
それで報道でもマスコミでもそういう紛争にかかわることは実際は危険である。
マスコミは毎日のように事件が起きるがそれを興味本位に伝える
津浪とか原発事故でもそういうことはあった
報道することはどちからの立場にたって報道している
すでにマスコミは中国,在日が主流をしめているから左寄りになるというのもわかる
すると右寄りの人達からの批判が強くなる,ネットではNHKであれ絶えず批判されているからだ,中国,韓国や在日が支配していると批判される

原発避難者でも一時はNHKは原発避難者側についていいたことを書いた,しかし原発避難者を受け入れた自治体では補償金をほとんどもらっていないから不満がつのっていたのである。そうしたもめごとが紛争がある所に入って報道するのことは危険になる
喧嘩している所に入って一方の言い分だけを報道していたらそのマスコミ自体がたたかれる,それがネットではできるようになったからだ

本当に原発避難区域などに入るのは興味本意の人がほとんどである。人間は別に直接かかわらなければまるで映画のようだとして面白いとなる
それはそこに住んでもいないし遠くから一時的にくるだけでありその人にとって直接は被害をもなにも負うことがないからである。
テレビなとはそうして興味本位に事件を犯罪でも事故でも伝えているのである。
それを見る人も火事で死んでも直接関係ないから興味本位で見ているのである。
もし近くに火事があったらそんなのんきに見ていられないからである。
自分は原発事故では30キロ圏外にしろ放射能の被害があったから外からとは違った見方がある,なぜならやはり被害者だからである。
ただ被害者と被害者も補償金で争ったとなる

報道にもいろいろ問題がある。今までならマスコミだけが報道する権利をもっていた
一般の人は報道などできないから責任もなかったからマスコミが常に批判の的となっていたのである。インターネットで個々人でも一応報道できるようになるとき
今度は個々人が批判の対象になる,それで自分も批判された
それは数行でしかないがグサリとつきささるものがあった

八沢浦で元の美しい入江にもどったということを写真入りで報道したとき
ここで幼児が泥まみれになって死んで俺たちは泥をかきわけて探していたのだぞと言われた
その時何が美しいのかということでその人は怒りになっていたのである。
個々人が記者のようになるとあらゆる場面で映像としてとり残しインターネットでプログでもなんでも出すことができるからそうなる
津浪にのまれる人をビデオにとっていた人もいた,助けないでビデオをとっていた
それはまさに記者でありそううい衝撃的な映像は放送すると視聴率がとれるからである。個々人がそうしてマスコミと同じようになっていたのである。

いろいろな人がいたが作家と詩人とかもいた,フランス文学賞とかもらった詩人もいた,それも原発事故を契機にネタにして有名になったのである。売名詩人とか作家とかなる
その詩の内容はどうでもいいのである。
それをNHKでもマスコミでももてはやしたのである。
そういう人もやはり興味本位であり本当に被災者を思っているかとなると疑問になる
つまり全国民が興味をもっているときそういう人は話題になりここで名前を売り込むことができるのである。
NP法人でも国から自治体から金をだましとった人も普通にいた。
つまり善意を装って被災地を食い物にする人達が普通にいるのである。

だから原発避難者にしてみれば原発避難区域になったところでは興味本位で面白がって来ている人が多いのである。ゴーストタウン化した街というのはどういうものか見たいとなる,自分もそうだった,興味本位でありそこに住む人のことを考慮していない
ただ自分の場合は同じ被害者でありまた同じ南相馬市とか相馬藩内であり密接にかかわるから外から傍観者とは違う,その影響を受けるからである。
自然を破壊されたりしているとやはり景観でも水でも何でも影響を受ける
だからなんとか復興してほしいとか傍観者でいられないから発言しているのである。

ただ原発避難者でも興味本位とか面白いとかいうけどその人たちは毎日パチンコ通いギャンブルしていのがほとんどだったのである。
外からは興味本位の人が来て内部の人はギャンブルしていたというのも異常である。
もし内部の人が当事者が本当に病気であれ貧乏であれ苦しんでいたら別だが補償金もらって喜んでいた人が多いのも現実なのである。
そういう人達を見ていたら街が興味本意の対象にされていることに怒りなどもたないだろう。なんとか本当に復興しようと汗を流しているなら別である。
俺たちはこんなに苦労しているのに外からくる人はしょせん興味本意で楽しんでいる
そうなるとそういう人達に怒りにもなるのである。
でも避難者の当事者が実際はギャンブルして避難区域の復興などどうでもいいとなれば
外から興味本位で見に来る人も批判できないともなる

いづれにしろ自分も経験しているけど他人の不幸は蜜の味になる
毎日テレビで事件を報道しているけどそういう面がある
別に自分たちに直接火の粉が降りかかってくるけでないからである。
ただ傍観者として楽しんでいるとなる
そこに報道の問題があった,常に言われるのは貧乏人のことを話題にするけど
マスコミの人は高給取りでありそんな貧乏人と関係ない暮らしをしているのである。
そして報道ではそれみよがしに同情したふりして報道しているのである。
そのことは常にネットで批判されているのである。
マスコミで報道する人など貧乏人のことなどどうでもいい,興味本位の対象にしているにすぎないのてある。それに視聴者も興味をもつからそうなる
NHKですら貧乏人を捏造していたのである。

貧乏人とかかわることは身銭を切って助けなければならないようになる
報道する人はマスコミはそんなことはしないのである。
報道は必要でもなにかその報道の姿勢が問題になる
なんのために報道しているのか?ただ興味本位であり視聴率をあげるために衝撃的な映像でだす,それは個々人のレベルでも起きているのだ。
報道の倫理というのものは何なのか?マスコミにはそういうものはなかった
ただ視聴率をあげることが最大の眼目でありモラルなどないのである。

別にインターネットで報道しなければ自分だって報道は何かなど考えない
そもそも報道できないのだから考えようもないのである。
視聴者はテレビとかと比べると極端に少ない,でも報道することはそれなりの姿勢が必要になる,モラルも必要である。
どういう趣旨で報道するのか?ただ刺激的なものを報道して視聴率をとればいいのかとなる
津浪の被害地域であれ原発避難区域であれその状態を知ってもらいたいということがあるでも興味本位になったら面白い楽しんでいるだけだとなる
そうしたらその当事者は怒りになるのである。
俺たちはこんなに苦しんでいる,家族も死んだ家もなくなった,それを面白がり楽しんでいるのかと怒りになるのである。
一時自分でもそういうことがあった,そう受け取られた,誤解があり批判されることもある,報道すること自体絶えず批判にさらされているのである。

あなたは何のために報道するのですかとなる,駅のことを報道してきたがそれは鉄道を利用してもらいたいという自分の願いがありそれは別に津浪とか原発避難者とか区域を報道するの放とは違っている,誰からも批判されることはない,無視はされるが批判されないのである。そこで津浪の被害者や原発避難者などの怒りをかうことはないからである。
報道で問題になるのはだから苦しんでいる人達のところにづかづか入っていってただ興味本位で報道するときである。その時怒りをかうことになるのだ。
実情を知らせるためですというのもわかるが実際は興味本位に報道して視聴率をあげるためだけなのである。

実際に何か大きな事件とか災害とかないとテレビなど見ない,芸能人のゴシップばかりにもあきているからである。でも一旦そうした大きな不幸かあると視聴率があがる
だからテレビにとってマスコミにとって他人の不幸は蜜の味なのである。
そして視聴者でも他人の不幸は蜜の味である。自分に被害が及ばないから傍観して見ていられるからである。

ともかく報道することにもいろいろな問題がある,本当にその人に同情して報道しているのか?そういうことは報道にはまれではないか?
マスコミの記者は絵になる報道したいからポーズをとってくれとか被災者に要求してくれとかそこで泣いてくれとか要求しているのである。
テレビでは役者が本当に涙を流すがそれも役者だからできる
何かそうしてドラマのように作られて真実が何なのかわからないのである。

自分の場合は現場にいるのだからリアリティを追及して報道した
それで原発避難者から批判があったがそれも現実なのである
きれいごとではすまされないのである。
原発避難者側にもかなりの問題があったのである。
本当に働いたのは津浪のときは自衛隊だったと言っている
瓦礫をかたづけたからである。それで過労で三人くらい死んでいるからである。
他は津浪の被害地に来ても興味本位なのが多かったのである。

2017年07月25日

地方の一新聞がピューリッツァー賞受賞 (報道は事実を伝えることー原発事故でも問われた報道)


地方の一新聞がピューリッツァー賞受賞


報道は事実を伝えることー原発事故でも問われた報道

news[pa[per1111.JPG
NHK国際報道


NHKの国際報道で3000部しか発行していない地方新聞がピューリッツァー賞を受賞したことで話題になった、それでも社員が十人くらいいた
そんな新聞社で給料が払えのかと見た
アメリカにもともとこうした小さな新聞社が多かったから伝統があるのかもしれない

この新聞社は地元密着であり狭い範囲でささいなことでも報道している
この新聞社で報道したのは農薬で川は汚染されていることに注目した
それはなぜか?それは毎日その川を見ているからである。
そうしたら地元の人だったら気になるのである。
例えばこの辺で屋形の家の裏の山の土がけずりとられたとき土がむき出しになっている
それを毎日見ているといい気持ちがしない、それはそこを通りすぎることができない、
嫌だなと思っても毎日見る、それは汚染された川を見ているのと同じなのである。

この新聞社では事実を伝えることにこだわった
まず事実を知ることだと事実を調査した
どこから金が支払われたかを調べた
そしたら化学肥料会社から農協のような自治体に支払われていた
それで公平な裁判は行われない
その事実を伝えたことが功績だった
しかし背後の化学肥料会社から金がでていることをつきとめることはむずかしかった
住民でも口を閉ざした、会社はそれだけどこでも権力をもっているからである。

結局人間は金には弱い、金はカルマであり責任であると書いたときここでもそうだった
一旦金をもらえば責任が生じる、それでこの辺では原発事故が起きても東電から金をもらっていたから責任を追及しにくくなった。
それは日本全体でもそうである。マスコミも東電から金をもらっていた
電事連から800億円という金が流れていたという、その額は巨額だったのである。
そもそもこのような一新聞社など簡単に買収できる金である。

この化学肥料会社はまだ小さい、東電は国家並であり国家もかかわっていたのだから
その事実を暴くことさえできなくなって「安全神話」が作られたのである。
例えば地元の新聞でも福島民報でも民友でも何も追及しなかった
福島民報は聖教新聞を刷っているし県で50パーセントも出資している官報と同じなのである。金をもらっているのだから何も追及できないのである
他の雑誌でも小規模だからそれだけの収入を得ることがむずかしい
すると東電のような国家並の会社からの宣伝費とかは経営を支えるものとなる

そもそもこの地方新聞が事実を暴くことができたのはまだ小さい会社だったからかもしれない、国までかかわる会社となると簡単にはできなくなる
原発は危険でもそういうものだったからである。国策として作られたものだからである。ただ今回の原発事故で一体地元を守るものは誰なのか?
それは地元の住民しかないのである。地元の住民が一番被害を受けるのだから無関心ではいられない問題だった、でも地元では金をもらえばいいくらいの意識しかなかったのである。ただこの一新聞社のように真のジャーナリズムがあれば違っていたかもしれない
それでも国家権力を相手にするととなる歯がたたないともなっていただろう。

ただそうはいっても一体地元では地元を自然でも何でも誰が守るのだろう?
それは地元の住民しかない、もしそれができなくなれば今回の原発事故のように地元に故郷にも住めなくなるのである。
そういうことを身をもって知ったのだから地元の人がもっと関心をもって地元を守ることをしなければ今回のように巨大企業や国家の言いなりになり住めなくなる
だから必要なのはこうした一地方新聞のジャーナリズムであることを示した

そういうことは日本でもあった、新潟の巻町は原発に反対して建てさせなかった
それを応援したのは新潟日報だと評価されているのである。
福島県では報道関係でそういうことはなかったのである。
そもそも自然が大事だとか自然を守れとかなると何かインパクトがない
現実に農民が土地を汚染されて農業もできないとかなると深刻に考える
この辺では土も水も空気まで汚染されたからその深刻さを身をもって知ったのである。

ただ原発は金になるからそれに抵抗するのは相当にむずかしい
金が入り豊かになればなんでもいいんだというのが現代だからである。
そもそも自然を大事にしろといっても景観を守れといっても金にはならない
だからソーラーパネルでも何でも金になるならと土地を売るのである
自分の場合は景観を重視しても地元の人は生活のために金が必要だとなる
ただ地元にも住めないとかなることを経験したから他とは違いここは環境破壊する原発には反対する、でも他の原発ではやはりここと同じように金が入るということで是認しているのである。ここでの経験を参考にしていないのである

いづれにしろ報道は何かというときネットでは常に言われている

事実だけを調査して伝えろ

その事実だけを報道してマスコミの報道する者は何か意見を添えるなと言っている
マスコミはNHKでも報道するというとき事実だけを報道するのではない
NHKで事実をそのまま伝えない、編集してこうあるべきだという方針のもと報道する
コメントするものもマスコミで選び、局の方針にそって意見を言わせられだけなのであるだから事実も作られフェイクニュースも流される
だから事実だけを報道している局はないのである。

歴史でも事実を基にしてあるべきだが小説家されドラマ化されるとそれが事実だと思い込む人が多い、それは事実だけだと面白くない、文献を調べたりするのは庶民にとって面白くないしめんどうだしわからないからそうなっているのである

報道というときインターネットはじめてから自分も報道にかかわるようになっていた
第一自分が報道する立場になるとは思っていなかった
それがインターネットだからできたのでするようになって報道を考えるようになったのである。
そしてインターネットでもマスコミと同じようなことが起きていたのである。
何かインターネットでは読まれること自体本当にむずかしい
すると何か目立つことをしなければ読まれないのである。政治家のプログでも読まれないから女性の議員がめだつためにサッカーのことで目立つことを言って炎上して読者の注目を集めるのである。
それはマスコミのしていることと同じだったのである。

インターネットで報道も変わらざるをえない、今までのマスコミの手法では時代についていけなくなる、インターネットはコストがかからないのが強みなのである。
でも読者を獲得することは至難だとなる
新聞はあと十数年で消えるという、そういう感じになっている
紙の膨大な無駄でありいちいち配達するためのコストもかかりすぎる、内容もない、住民のためにもなっていないとなると若い人はすでに新聞をとっていない、ただかえってこの新聞社のように生き残り策はあるのかもしれない福島県でも広いから福島県だけではない、相双地域とかいわき地域とか浜通りとか中通りとか会津とか三つに分かれた新聞などがジャーナリズムが必要になる
やはりより狭い範囲だと川が汚れているとか毎日見るからそこに関心をもち報道するから訴えるものとなる


2017年07月14日

インターネットの情報社会の混乱 (プログも勝手に削除されたりしていいのか?)



インターネットの情報社会の混乱


(プログも勝手に削除されたりしていいのか?)


プログという形式そのものが情報発信することでは今までありえなかったことである。
毎日発信できる、日記形式でできる
それは日々のその人の生きた記録となる、自分のプログはもともと一句一首として日々のことを発信することだった、それは季節によって変わるからプログに向いていた
そして10年間してきた
プログをはじめてすぐに姉が認知症になり今度は認知症のことを書き始めた
これは結構読まれていた、やはり認知症のことをがわからないからそうなった
やはり自ら介護した人でないと認知症はわかりくいからだ

その次に自分が今度は母の介護とか自分の病気とかなり事件もあり一身上のことを書いてきた、これも今までにありえないことだった、一身上のことを公にすることなど今まではできない、どこのメデアでもそんなことを受け付けない、テレビでは芸能人なら視聴率をとれるから放送している
でも芸能人でも今は個人でプログをみんな書いている、国会議員でもほとんど公の人でもプログを書いているのだ、プログは簡単にできるからだ
そして今までは2チャンネルのように必ず受け答えがあるものとしてパソコン通信があった、それは匿名であり言いたい放題であった
相手のことなどかまわない、年齢も社会的地位もなにも関係ない、相手が男か女かもわからない、相手が中学生だったなどということもあった
要するに文章だけが出てくる世界でありそれは実際は現実社会にはない異様なものだったのである。

だからプログでおめえはなんとかとコメントしたとき違和感を感じた
それはパソコン通信とか2チャンネルならそういうことは普通だったのである。
プログとなるともう違っている、二三行かいてケチつける暴言をはくようなことは受け入れられない、プログでコメントするときはやはり現実社会と同じになる
自分の素性をある程度プログで明確にして主張でもそうである。
そうでないともう対話は成りたたなくなった
それでどうしてもプログは一方的に発信するのが多くなっているのだ。

プログになるとこれはその人となりが必ずわかる、どういう主張をもっているのかもわかる、その素性もわかる場合がある、プログは何か一貫して主張することに向いている
だから何度も同じようなことを追加して書くのに向いている
これは一冊の本とも違う発信の仕方である。
それは書く方にとってもメリットがあり読む方にとってもメリットがある
書く方では前に書いたことをまた追加したり再考察して書く
するとまた違った見方が生まれる
そしていくら書いても制限がないからできる

インターネットという場も実は法も整備されていない混乱したカオスである
そもそも一記事だけを読むということはメデアの世界では今までない
一冊の本としてか雑誌でもそれなりの長い文として主張させている
短い一記事だけを読むということはありえない世界だった
キーワードで読むからそうなっているのがインターネットの情報社会である。

ただそこに様々な問題が生まれている、プログでも運営する側に勝手に削除されたりすると困る、注意するのはいいが削除されると困る
アスカとかがプログで自分の言い分を言ったら削除されて困った
そこには自分の作曲されたものがあったからだ
でも記録していたので再現されたという
だから問題があっても削除することはよほどのことでないとあってはならないことであるそしてインターネットの恐怖はパソコンの恐怖は一瞬にして記録したものが消える
そしたらこれまで苦労して書いたものが水の泡となる
それも重要なものがあり後世に残るものもある、芸術作品もあるからだ

ただインターネットでは無数にあるからこんなもの消してもどうってことないとなる傾向がある、でも今ではまともな人が相当に書いているからこういう対処の仕方は許されなくなっている
削除するときはよほど慎重にしなければならない
さくらのプログでは一回料金を払わないで全部消される所だった
その時自分は病院に入院していてメールとか見ていなかった
自分はメールとかコメントをこまめに見ていない、ただ自分の言いたいことプログに書いている、対話はほとんどしていないのである。

今はホームページに書いたものやプログに書いたものを整理している
つくづくそこで感じたことはその大半を忘れているということである。
自分の書いたもの忘れている、こんなことを書いていたのかとかこんな俳句や短歌を作っていたのか詩を作っていたのかとあらためて感心しているのも不思議である。
人間はともかく忘れる、だからプログでも何でも記録していないと思い出すこともできなくなる、人間はこれだけ忘れるのだから記録するだけでも必須なのである。
そうでなければ過去すら忘れてたどることもできなくなる
そういう点でプログは読まれなくても記録するだけで後で役に立つ
ただ自分の場合膨大なものになっているからそれをたどり読むことも苦労になっている

ともかく今回一つのパソコンから書き込めなくなったのはショックだった
それはさくらの方で操作したのではない
パソコン自体の不具合から外部からの操作なのかもしれない、それはわからない。
でも書き込みだけができないということが不可解なのである。
さくらのプログはホームページでもプログでも全く不干渉である
何を書いても自己責任でしろとなっていて干渉していない
プログランキングなどもしていないし宣伝もない
ただプログとしてはマイナーなのでアクセス数が上がらないということはある
でも10年間してアクセスは10万ページビューにはなっている

インターネット上で読まれことは至難である、ただアクセス数となると一カ月百万ページビューのサイトでも自分にはつまらない、かえって大衆受けしないとテレビと同じく視聴率はアクセスはとてもとれない、高級なものになると余計にそうなる
俳句とか短歌とか詩になるとそもそも読む人が少ない
だからどこでもアクセス数は少ないのである。

2017年07月13日

一つのパソコンからさくらのフログに書き込めなくなった謎 (記録したものが消される恐怖)


一つのパソコンからさくらのフログに書き込めなくなった謎

(記録したものが消される恐怖)

パソコンを三台使っている、中古二台と新しいwin10である、でも中古のソニーのハソコンからさくらのフログに書き込めなくなった、記事一覧の記録したものも出てこない
ただインターネット上では記事は普通に出ている
他の機能は正常である。

記事一覧が見れないのと書き込みができない!

他のパソコン二台は正常である。さくらのレンタルサーバーが問題ではない
するとパソコン自体の問題でそうなったのか?
こんなことがあるのか?
ウィルスなのか、外部から操作されたのか?
第一書き込みだけができない、一覧が表示できないのはなぜなのか?

その原因は不可解である、後の二台のハソコンは正常だからである。
やはりパソコンは三台くらい必要である。
それからプログはさくらのフログでも保証していない
何かあってもとりあわない、責任をもっていない
だからフログは複数持たないと安全ではないとなる

さくらのレンタルサーバーの問題ではないから聞いても無駄である。
ただなぜそうなったのか?
もしパソコン自体の不具合だとするとパソコンも危険だとなる

とにかくインターネットでもパソコンでもプログでも何か安心がない
一瞬に消えることも経験している
だから保存して書類として本に記録するのが一番安全だとなる
今そういう作業をしている




2017年06月03日

原発安全神話の洗脳に加担したマスコミ (福島民報は県が50パーセント出資している官報だった)


原発安全神話の洗脳に加担したマスコミ

福島民報は県が50パーセント出資している官報だった


日本は戦争に勝つ
日本は戦争に勝つ
日本は戦争に勝つ
日本は戦争に勝つ

日本は戦争に負ける

原発事故は起きない
原発事故は起きない
原発事故は起きない
原発事故は起きない

原発事故は起きる

ヒラリークリントンは勝つ
ヒラリークリントンは勝つ
ヒラリークリントンは勝つ
ヒラリークリントンは勝つ

トランプは勝つ


人間の心理として何か常に洗脳されることがある、それはメデアを通じて成される
カルト宗教団体でも洗脳が常に行われている、それは宗教とは関係ない、洗脳なのである嘘も百回言えば真実になるとか洗脳として行われる
それでナチスがゲッベルスがその洗脳を担当したのである。

洗脳というときむずかしいことは言わないことである。大衆を洗脳するにはむずかしいことを言っても通じないからである。
戦争が悪いとか戦争がしていいのかとかそうした疑いをもたせない
ただ戦争は勝つと唱えさせていればいいのである。

原発で安全神話が形成されたのもその安全の中味については問わせない洗脳だったのである。
それはマスメデアを通じて成されていたのである。

福島民報が県で50パーセント出資しているとかでもわかる、県は国と結びつきその安全神話を作った側だったのである。福島民報は聖教新聞も刷っているから全く権力側につくから国とか県側につく洗脳メデアなのである。
なんか自主避難でも福島民友は同調しているが福島民報は県の方針に国の方針にそって帰還するべきだと言うだけだとなっている
別に自分は自主避難は何なのか?放射線量がそれほど高くないのになぜ避難するのかのみこめないことがあった、だから自主避難には疑問をもっている
ただそれでも自主避難はだめだということがあってもそれ一方になることがメデアの問題なのである。だから福島民報と福島民友で違った意見になることはいいことなのである。それが常に民主主義なのである。必ず賛成するものと反対するものがある
その両方を取り上げることが民主主義だからである。

ともかく大衆を操作するには洗脳が効果的なのである。だからナチスがラジオによって洗脳されたという時もそうである。ラジオがそんなに効果があったのかと今では思う
テレビはそれより効果的だからである。
テレビで原発が安全でないとか放送されていただろうか?
例えば本は原発は安全ではない、危険だと警告する人がいた、原発は東京に作るべきだという本を出した人がいた、なんかその時自分は近くに原発があるのに関心がなかった
関心をもたされなかったともなる
その本をなぜ自分はSF小説のように見ていた、空想の世界だと思っていたのである
それもそういうふうに洗脳されていたからだともなる
原発が危険だと言う人はいたし本も出されていても関心がない注目されなかった
それは科学的にも科学者でも原発の安全性に疑問をもつ学者はいたのである。
でも「安全神話」は権力で持って強固に作られていたから洗脳されていたから疑問をもつことさえゆるされなかったのである。

マスメデアは全部左寄りでも朝日新聞でも東電に事故が起きたとき幹部が招待されていたように安全神話に加担していた、福島民報も民友もそうである。
ジャーナリズムとは何か?そのことも原発事故で問われた
ジャーナリズムは本当は権力を監視するものがベースにある
常に本当は反権力の立場にたたなければならない、なぜなら権力をもつものを監視するものとして三権分立が生まれた、マスコミもまたその権力を監視するものとしてあらねばならない、権力は危険なものだからそうなる、権力をもつと人間はその権力に魅せられる
なぜなら権力によって人を支配できるからだ、それで裏で金を操作しでこの世を支配しているのがロスチャイルドとかロックフェラーだとかユダヤ人とかなんとか陰謀論になる
それは現代の最大の権力が金になっているからである。

例えば反権力というときカルト宗教団体も実際は監視しなければならないものである。
なぜなら創価でもそうだが政治家して権力を追求しているだけだからである。
会員を増やすのも権力をえるためでありそれ意外なにもない、宗教的改心とかそんなことを言っていたら誰も入らないだろう。そんなめんどうなことではない、ただ得しますよ、ご利益がありますよという利益を説くだけだから入るのである。
だから宗教団体はみんなうさん臭いのである。政治にかかわりそこで権力を操作する側になり利益を得ようとするだけなのである。政治家もただそこが票になるから利用するだけなのである。

マスメデアにしてもそうした巨大な権力側につく、監視する側ではない、国とか県側につき大衆を洗脳する操作する側につくのである。だからそこにもうジャーナリズムとして期待するものは何もない、ただの官報にすぎないのである。
実際に県が50パーセント出資しているのだし聖教新聞も刷っているし東電などからの宣伝費も入っているとなるとそれは何なのだとなる
だから県民でもそんな新聞に何を期待するのか?
原発事故を起こした原因はマスメデアにもあった、そのマスメデアはもともと大衆洗脳のためのマスメデアだったのである。

まずニュースとしてもとりあげるものととりあげないものがある。
原発では度々小さな事故があってもその報道は小さいものとなり何か危険を喚起しない
みんなもの関心をひかないのである。
要するに原子力のことがわからなくても

原発は危険だ
原発は危険だ
原発は危険だ
原発は危険だ

こういうふうに見出しでも目立つようにしていれば大衆でも危険を感じるようになったかもしれない、そういうこが心理的にあるのだ
それがただ安全だ安全だというものしか目にしないし危険だということはおさえられていたのである
マスメデアが宣伝費が成り立つとき出資者が県が50パーセンとなのだから当然だとなる
だからみんなのための報道というとき何なのかとなる
そんなものを作り出せるのかとなる、でもそういう報道がないとするとどうなるのか?
前の戦争のように300百万人死んだとか、今回のようなとりかえしつかないものとなる
その被害が民衆に及ぶ、それを今みんな実際に被害者となっているからこの辺ではなぜ原発事故が起きたのかを真剣に考えて反省せざるをえなくなっているのである。

その責任の大きなものがマスメデアにもあったからだ
マスメデア側にしても自分たちはただの民間の一会社でしかない、だから利益をあげて穏便であればいいともなる
つまりマスメデアでもメデアは民衆の側でそうした権力の監視を真実の報道を望まなければ生まれないとなる、だから民主主義でも民衆側が賢くならなければ機能しないのである
技術的にインターネットなどが生まれてそういう反権力の報道も可能になっているが洗脳メデアとしてまだマスコミは力をもっているのである。
だからトランプがどうであれマスコミがあれだけ批判していたのに大統領に当選したことは画期的なことだったのである。
何かその後のトランプ大統領を弾劾するとかのニュースでもアメリカの方が権力を監視するということではその機能を発揮している、日本では非常にそうしたマスメデアの自立性がないのである。

2017年05月16日

マスコミは会社から宣伝費をもらって成り立つ (会社側に立つから公正な報道はない)


マスコミは会社から宣伝費をもらって成り立つ


(会社側に立つから公正な報道はない)

moneyccon1.jpg

人間は求めるものがいろいろある。医者に求めるのは病気を治してもらいたいということが第一である。看護師に求めるのは病気を直す手伝いをするということもあるがやさしく看護してほしいということがある。
医者の助手となっていも病気だからやさしくしてほしいとなる
何か同じ病院でも要望するものが違ってくる

大工だと今は全国的住宅会社があり丈夫で快適な家を建ててもらいたい、安くてもそれなり家を建ててもらいたとかなる、常に何らかの要望があってそれに答えようとするのが商売であり会社でもある
レストランだったらうまいものを出してほしいとなるのは当然である。
人間はともかく何でも娯楽すら金をはらうと要望が生れる
金払ったのにつまらない映画だったかなるからだ

ではテレビとか新聞とかなるとその要望が何なのかわかりずらくなる、テレビ会社には視聴者は金をはらっていない、NHKには払っている、民間には払っていない、民間のテレビ会社はではどういう要望があるのかとなると視聴者の要望もあるが実は宣伝費として金をはらってくれる会社の要望に支配されるとなる
そのために視聴率をあげねばならない、視聴者の要望より宣伝費をくれる会社の要望に答えようとする、だから東電や電事連から八〇〇億とかの宣伝費がばらまかれたから東電でも原発のことは批判しなかった、安全神話に加担したのである。
それは朝日新聞社でも同じである。東電が中国でマスコミの幹部を接待したとき事故が起きたからである。

例えは地方新聞でもテレビでも全国紙と違って地方の要望が生れる、地方を知りたいとなるのは当然である。その地方で知りたいということに答えるというよりやはり東電などの宣伝費をもらうと会社が優先されて視聴者は優先されない
その原因は新聞でもそうだけどテレビでも視聴者はテレビの場合金をはらってくれないからそうなる、ただ新聞の場合は金を払って定期的に講読してもらっている
すると新聞の場合は視聴者の要望を繁栄するものを作ってくれないと困る

それでもなぜ新聞社でも半分が広告になっているのか?つまり新聞を発行するためにそれだけの巨額な金がかかるからそうなる、定期的に金をもらっていてもそうである。
雑誌などになると一カ月一回発行してやっていけるのかとなる
そこは会社からの宣伝費が入って成り立つ、何か他にも援助がないと成り立たないのである。

視聴者がマスコミに何を望むのか?視聴者が望んだものは報道されないのである。
原発の危険性を報道してくれといってされない、福島民報も民友も安全神話に加担していたからである。
そもそも新聞とかテレビでも公共的なもののように見ている、NHKは国民みんなから金をとっているのだからそういう側面があってもやはり報道がかたよっている
そもそも報道は何らかかたよるのが普通である。中立を維持するのはむずかしい、国際関係でも中立は維持できないようになっている
でもマスコミは中立を装うからまぎらわしくなる

その点、赤旗とか聖教新聞とか党派新聞は正直である。完全にかたよっていて他の人はそういうものだとして見るからである。マスコミは何か中立的な公共的なものとして見ている、それが誤解をまねいているのである。
もし赤旗や聖教新聞のようであればそれそれでそういうものとして見ているからいい
例えば世論というとき何か世論なのか?それはマスコミが今まで作り出していたのであるなぜなら報道媒体としてあり全国に報道できるのはマスコミしかないからである。
するとそこにマスコミの意向が入ってくるのである。それで世論と言ったとき、世論ではなくマスコミの意向だったとなる
そのことでトランプ大統領はマスコミを嫌うようになった。実際の世論はラストベルトと言われる取り残された製造業の労働者だったのである。
それを無視してマスコミは報道していたから世論でもかたよっていたのである。

ともかくマスコミの時代は終わりつつある、別に誰でも簡単に格安で報道できる、youtubeでもできる、それでも以前として記者とか今までのマスコミ的役割は必要であり残る
まず取材となると簡単にできない、情報を官僚とかでもとることがむずかしいからであるでも記者クラブとかで独占して情報をもらっていたからそこで馴れ合いが生まれ大本営発表しかなくなっていたのが原発でありそして事故が起きた

一方ででは民主主義とは民の要望を繁栄させる仕組みが必要である。
それが今まではなかった、官僚とか大企業とかの要望の上に報道していた。
福島民報などでも聖教新聞刷っているのだから創価などは批判しない、毎日新聞でも他でもそうである。新聞を発行するにはそれだけ金がかかるからだ
報道するのに金がかかりすぎたことがこういう問題を生んだのである。
その金をどこから得るのかとなると視聴者からは得られない、新聞は購読者から得られている、だから何らかそこで購読者の要望が反映されてもいいはずだった
原発のことをその危険性を指摘して報道してくれたら事故を防げたかもしれないとういことはあった。それができないのはその上の巨大な権力がマスコミを支配していたからである。
スーパードクターに頼むなら金を払いというのと同じである。弁護士でも金にやらないと引き受けないと同じである。政治家も金で動く、そこに弊害がありすべてがゆがめられているとなる

そもそも要望する方でもその要望するものを明確にしないと圧力をかけないと報道する側も動かないのである。
つまりこれは民主主義が自治が問われたことなのである。
ただ権力側に従ってだけいたら権力側のいいようにされるだけである。
そういう民衆側から自治があり要望に答えるように働きかけないと民主主義は機能しないのである。
インターネットはそういう報道の面で改善することがあった、でもこれもまだマスコミのような力はない、でも対抗メデアとして力をつけていることが民主主義を促進するものとなる

ただ深く取材したりするとなるとできない、個人ではできない、取材する方も権力が必要だからである。一人のプロガーが取材してくれと言っても受け付けないだろう。
NHKだとか朝日新聞社のものだとなると取材される方も従う信用することがある
個人はまるで信用されないからである。信用もあるが権力がないと報道もできないのである。

原発事故がなぜ起きたかというと科学的な原因もあるが民主主義が日本では機能していなかったのである。そういう原因もあった、でもそれが不可能だったかとなると違っていた新潟県の巻町では原発に反対して建てさせなかったからだ
そんな小さな町で良くできたなと今になると感心する
新潟日報も応援していたということでここだけはマスコミでも違っていたからだ。
肝心の福島県のマスコミは報道はみんな原発に賛成だったのである。
民主主義はまだ日本では成熟していない、復興でもそうである。
下からの要望がない、ただ上から金がばらまかれてもそれが有効に利用されなかった。
ただ住民でも金をもらえばいいということしかなかったからだ
その補償金についても分配でも利用でも南相馬市なら市全体で話し合い復興につなげるべきだったのである。

2017年05月05日

報道がなぜ面白がることになるのか? (他人の苦しみを知らないし理解できないから)


報道がなぜ面白がることになるのか?

(他人の苦しみを知らないし理解できないから)

みんなが記者になるインターネットの時代
 (現場の被害よりいい写真をとることに夢中になる)

ここで書いたようなことがなぜ起きたのか?マスコミでは常にそうしている
報道は娯楽である。他人の不幸を蜜の味であり楽しみとか気晴らしにすぎない
それが実際は個人的でもそうだったのである。

津浪に追われているのを写真にとる、ビデオにとることに夢中になる
その津浪に追われている人の恐怖がどれほどのものだったのか?
そんなこと関係なく写真をビデオとることに夢中になっていたのである。

それは自分でもそうだった、八沢浦が美しく入江として蘇ったと写真をだしたとき
泥の中から幼児をほりだしたのを知らないのかと言われたのもそうである。
何が美しい入江が蘇ったのかそんなこと報告できるなとなる

ただ別には自分は面白がっているわけでもなかった、自分自身がその時身体障害者になっていたからその写真をとるにも苦しい状態にあった
でもなぜそんなことをしたのか?それはあまりにもありえない光景でありそれは本当に美しい光景だったからそうなった
でもそこに一軒くらい家が浮いていたのである。

ともかく他人が生きる死ぬかの時、写真やビデオを撮ろうとしているのは異常になる
でも新聞記者だったらテレビの記者でもそういうインパクトのある写真を出して視聴率をかせぎたいとなり撮る、困った人のことなどのことを考慮しないで取材している
相手は悲しみ最中にあってもそうである。

これは個人間でも起きているのだ、人間は相手が苦しんでいても普通は無関心である。
自分が介護とか病気になって苦しんでいても無関心だった、ふりかえると相手に対しても自分もそうだった、ある人は金がなくて苦しんでいたけどそんなことも無関心である。
金がある人は相手が金がないとういことを理解しないである。
いくらでも金なんかあるじゃないかとなっているのである。
健康な人は病気の人を理解しないのである。
そんなに苦しいの私は何の苦しみもないからわからないとかなる

そして自分の場合は自分が苦しんでいる、弱者になったことをいいことに責められたのである。弱者になると借金を請求するのにも好都合だしてたいしたこともしないのに恩をきせることもできる、相手が苦しみ弱くなったことは全く考慮しない、それは弱肉強食の世界だった、弱ったものが餌食になる、それを経験したのである。

なぜそういうことが根本的に起きてくるのか?
人間は相手の苦しみを知らないし感じないからである。
その人は実際は介護十年していたのである。ところが自分もその後介護十年していた。
その人は前から介護して苦しんでいた、自分は知らなかったのである。
だから自分のことも全く無関心だったのである。
その事情を知って互いに苦しいことがわかったのである。

ともかくマスコミなどは悲惨なことを毎日報道しているがそれはただ視聴率をかせぐためであり金儲けのためである。その報道する人が会社がなにがしかの痛みをともなうなら別である。そんなことは何にもない、視聴者に他人の苦しみを見せて視聴率をかせぐだけだとなる、ただ危険な所で写真をとったりすると命懸けだとなり命懸けで伝えたいものがあるのかともなる

人間は普通他人の苦しみを知らないで生活しているのである。
自分の前に人が苦しんで倒れたりしたらこの人は苦しんでいるから救急車を呼ぼうとかなるが普通は知らないのである。
だって人は毎日死んでいるしまた死んだのくらいしか他人の死はならない、それが家族の死だったらそうはならない、他人だったらそんなものなのである。
ましてや他人の苦しみを知ることは本当にむずかしい

俺は今一億円の借金で困っているんだよと言われても他人だったらそれは大変ですねとかで終わりである。でもそういう人が困っている人がいることが本当に他人に影響する時
その怖さがわかる、そういうことは常に推理ドラマでやっている
犯罪の殺人の動機でも借金が必ずからんでくるからである。
そういう人とつきあったりしたらそういう危険なことになりやすい、自分がそうされたから身をもって知ったからである。

結局人間は相手の苦しみのことがわからない、相手が貧乏であれそんなこと金がある人はわからない、それは怠けていて自己責任だとなる、そういう面もあるが働いても働いても金にならない人もいる
でも金のある人にとって貧乏人のことなど知らないし関係ないのである。
ただその貧乏人が金持ちを襲ったり殺人までなったりするとき相手のことをもう一生忘れないようになるのである。

マスコミの報道でも遠くだったら影響がないから面白がるだけである。
連続殺人あった、九州か遠いなとかなりなんだろうと一時なるが後は忘れるだけだからである。でもそれが近くだったら恐怖になるのである。
シリアであれだけ悲惨なことがあっても面白い光景だとかなる
ところが北朝鮮からミサイルが飛んでくるとなるとまるで違ったものとなる
ドラマでもそれがドラマだから自分の身が痛まないから面白がっていられる
現実に自分の見に危険が及んだり苦しめられたら面白がっていられないからである。

要するに人間は自分が苦しまないかぎり他人の苦しみにも無関心である。
だから健康であり金があり困ることがないと他人には無関心になる
でも自分が苦しむ立場になるとこんなに苦しいのに誰も同情してくれないのかとなる
なぜ無関心なのかとみんななっているのである。

インターネットでみんな記者になるときやはりマスコミと同じになっていたのもそうである。衝撃的な写真をとれば大勢の人にみてもらえる、そしたら広告でも稼げるとなればマスコミと同じだからである。
そして普通では人間は相手の苦しみを知らないし理解もしない
ただ衝撃的な写真をとることに夢中になっていたのである。

カルト宗教でも他人の苦しみは会員を増やす一票を獲得するチャンスであり同情などしていない、でも藁にもすがる思いで頼る人がいるから会員も増えるとなる
弱者になると信じられないことでも信じやすくなるのである。
そうした心理をついて魔の手が伸びてくるのである。
人間は確かにこのように悪質なものだけどそれは他人の苦しみを知らない理解できないことにあった、自分が健康であれば金があれば他人が病気であり金がないことも知らなかったり理解できないのである。

この辺の放射能問題でも他者からすると面白いとかなる、でも東京でも同じような被害を受けたらそうはならない、みんな恐怖におののくのである。
報道はだから地元から報道するのと離れた所から報道するのは違ってくる
関心の度合いが違ってくるからだ。
浪江の火事でも放射能物質が拡散するとか騒いだら近くでは注意するが他では面白がるということがある
実際に避難区域になったときゴーストタウンを見に行こうとかなり今でも来ているからだ

報道というときマスコミとか遠い所とか第三者の立場になるとただ面白がるということが起きる、でも実際に苦しんでいる人が報告すればそうはならない
自分は認知症の介護とか自分の病気とか他者から借金のために責められるとか大金を盗まれるかと苦しめられたことを書いた。
それは身をもって経験したことだからである。それはマスコミが報道するのとは違う、自分が痛みを受けたから違っていたのである。ただ誰にも同情はされなかったとはなる

何か痛みをともなわないと同情にはならない

寄付金でも自腹で出したり何か自分自身が痛みを覚えるとなると同情したことになる
その他は他人の苦しみは蜜の味になる、面白がっているだけだとなる

2017年04月28日

ニュースも継続したものとして歴史として理解する 時間的にも断片化しない


 ニュースも継続したものとして歴史として理解する

 時間的にも断片化しない


timeandsssss111.jpg
狭いと稠密な認識になり広いとおおざっぱな認識となる

deepdddd12.jpg

 ニュースというとき今回の津浪のように大災害でも突然起きたありえないものとして見た、こんなことはありえないから警戒もしていなかった
ところが津浪というのはこれくらい大きなものでも2000単位になると起きていたのであるそれで研究するようになった、もともと研究していた人はいた警戒もして忠告もしていたのである。

現代はあまりにも今に注目しすぎるのである。時間軸でも過去から時間軸で考察することがない、そうすると深い見方はできない、時間でも断片化する、だから考古学でも何の役に立っているのかとなるが地味な作業だがその土地の時間軸であったことを掘り下げているのである

そして「歴史はくりかえす」というとき過去にあったことは必ず今に起きているし、今起きていることも過去に起きていた、ただ歴史はくりかえすとしても全く同じものとしては起こらない、似たようなものとして起きている
例えば古墳のことを書いたがなぜあんなに古墳が多いのかとなると今にあてはまると明治以降庶民も墓を作りだした結果として墓が増えた、墓が増えすぎることも困るのである。それで古墳も作ることが禁止されたのである。古墳は小さくても大きいからそれだけ日本のよう狭い土地では田畑にする面積を奪うからそうなる

ともかく時代とともに必ずにたような問題が起きている、すると過去と歴史と照らし合わせて今考える、継続的問題として今を考えることが理解を深めるのである。
ただこの時間軸から考察することは本当にむずかしい、自分の住んでいる所ならできるがそれでもむずかしいから旅行しても時間軸で知ることはできない
外国旅行になると空間的には今や一日二日で地球の裏側まで到達する、では時間軸で理解できるかとなるとできないのである

ヨーロッパは歴史がある、二千年くらいの歴史が文書にも残りある。
ローマ時代の遺跡も各地に残されている、するとその石の遺跡から昔を思うようになる
そこで時間軸から考察することが自ずとできるようになっている
日本だと木の文化だから過去が具体的に残っていないからそうした歴史の思いが生れないただ現代はグローバル社会であり時間軸での考察はどこでも浅薄になっている
そうした時間の断片化がナチスを生んだという説もある

空間があっても空間も時間の中でアイディンティティが作られてゆく
空間でもその土地土地で時間の中で継続の中でアイディンティティが作られてゆく
だからエジプト文明でもマヤ文明でもキリスト教文明でもイスラム文明でも仏教文明でも空間軸があり時間軸があり長い時間の継続の中で作られてきたのである。
即製されたものではない、そこに歴史の時間の重みが生れてくる

津浪で驚いたのは縄文海進とかが再現されたことである。
この辺で船着とある場所は塩崎であり鉄道を越えた所の奥深い所だった
その近くまで津浪が来ていたのである。ということはそこがもともと海であり船着という地名がそこにあることを実感することになった
そこには奈良時代辺りから海であり船が行き来していたとなる
そこは海老とかからすると右田から烏崎は低い場所だったのである。
とにかく烏崎から船が流されてきたのには驚いた

つまり2000年単位の時間軸で見れば自然災害でも今起きたことでも過去から歴史から見ればありうることだったのである。
そういう長い時間軸で見ることが現代には欠けていたのである。
常に今という時間に注意してその関心が奪われているのである。
特にニュースは絶えず今のことを報道しているがそれを過去から考察することはしない
そういう作業はめんどうだから何か特別目立つものを話題にして大衆の関心をひきつけるだからニュースでもその土地に根ざして土着的な報道が必要なのである
それを自分は試みてきた、福島県といっても広いからとても土着的な報道はできないのである。

また「継続は力なり」というとき人間は個人的に何でも学問でも事業でも継続によって力がつく、人間はやはり一代くらいでは家の重みがでてこない、豊かにもなれない、何代かつづくうちに継続してその家から何か人材が生れてくる
何でも一代で築くとなると容易でなくなるからだ
それで農家は三代つづいて農家と認められるというのは土地に根付くにはそれだけ時間がかかるからそうなる

北朝鮮が問題になっているがあれも中国の隋の時代から争っていたし日本と中国のせめぎ合いの場所でありその時百済が滅亡して難民が日本に逃れ定着した
大阪に百済郡までできていたからである。そういう歴史は今にはじまったことではない
古代からの連続したものとしてあり継続したものとして韓半島がある。
だから良く韓国は民族として国として残っているということがある
それはやはり継続するものとして力をもっているからである。民族を滅ぼすことは簡単にはできないということになる、それでも過去の民族は消滅している
エジプト文明を作った民族は何だったのか?その民族は消滅しているのである。
中東でもアッシリアとか何かいろいろな民族がいたけど消滅している
日本ではアイヌ民族はほとんど消滅しているのである。
だから民族が今にすべて残っているわけではなく弱小民族は消滅しているのである。

いづれにしろ継続するということそれが歴史でありその国の重みを作る
「一日にしてローマは成らず」である。そういうことが生きることでもあり日本でもそうした長い歴史で作られた国だからその継続の力を維持することが大事になる
その継続の力はその土地に根ざしアイディンティティが基本になるということである。
文明が滅びるにしてもエジプト文明は3000年つづいているしマヤ文明なども1000年つづいたとかあるからだ。
そういう継続の力があったのが文明であり現代文明というとき何か?
せいぜい百年単位でありその間にすべてが成され終わるという感覚になっているのである江戸時代文明だって300年あった、現代文明は百年ですべてを費やして終わるという時間感覚になっているのだ、そういう空間と時間の感覚がナチスを生んだというピカートの考察がある。すべて今に集中される、そしてあらゆるものが刹那的なものとして消えてゆくニュースはそうである、次々に新しいものが求められ泡のように生れては消えてゆく
そこに継続して報道されるものがないのである。

継続してみるというときこの辺で起きた原発事故でもそうである。
すでに6年がすぎた、すると6年間をふりかえり継続して見る必要がある
放射能物質の汚染は継続している、今ため池を除染している
自分は飯館村の佐須で泥が20マイクロシーベル以上あったことに驚いた
そこはホットスポットだったのである。
その泥がセシウムが付着して真野ダムに流れてゆく、すると真野ダムの底の泥には相当なセシウムが泥に付着して堆積しているのである。
それから類推して溜池でも同じだと思った、その泥が流れて田んぼに入ると米が放射性物質に汚染されるのである。実際に稲の実った米が白くなって放射性物質に汚染された映像を見たからあのように放射性物質の汚染も見ることができる
ただ普通には見えないから怖さを放射能汚染では感じないのである
これも地元で継続に見ているから言えることなのである。

ニュースでは全国ニュースになるとこうした継続してみることが苦手である。
次々に新しいことを探し起きてそれに注意を向けるからである。
全国となると広いから余計にそうなる、世界でももうそこを時間軸で考察することは不可能にもなる、世界は広いから次々に事件が起きるからである。
つくづく何か自分でも鹿島区のことは時間軸でも考察しているが原町とかなると広いし人口も多いし何が起きているのか理解することがむずかしくなるのだ
だから人間は時間軸で考察する範囲は狭いとなる、そういう限度があるのかと思う
福島県でも広い、だから会津のことは山に囲まれた世界を知ることは簡単にはできないのである。
中通りだって海がないしまた違った自然環境にあるからわかりにくいとなる
だから全国でも世界でも旅をしたが時間軸での深い理解はできなかったともなるのである


一つの世界の構築

一つの世界を構築する
その土台と柱と蒼穹と
石の柱は森の樹々である
その一つの場に意味を深める
一つの価値ある世界を構築する
ゆるぎなき価値と意味ある世界を
日々の継続のなかに
長い時間の継続の中に
歴史の継続の中に
石の柱は大地に根づき
破壊されてもその石の土台は残り
継続の歴史を語る

Construction of the one world

I build one world
With the base and a pillar and blue heavens
The pillar of the stone is trees of the forest
I deepen a meaning in one place
Firm value and the meaningful world
that build one valuable world in daily continuation
In continuation of long time
In continuation of the history
The pillar of the stone is with a root on the earth
The base of the stone recites
the history of the remainder continuation even if destroyed

機械翻訳は相当に進歩している
だいたいこれであたっているだろう
機械から学ぶ時代になったというのも確かである
翻訳は機械で基本的なことをしてそれを人間が付け加えるともなる
こういう知的なことも機械でできることの驚きである。

2017年04月22日

情報とは何なのか? (インターネットで郷土密着の報道が可能になった)


情報とは何なのか?

(インターネットで郷土密着の報道が可能になった)

kookeeee1.jpg

南相馬市鹿島区の小池のホテルでランチ (コモドイン南相馬ー都会化した鹿島)


人間は生活するために知りたいということが常にある、それは簡単なのでは旅したらその土地のことを知りたいので地図を持ってゆく、今ならスマホが地図代わりになり、みんなスマホを見ている、だから何か話しかけても答えないというか対話がなくなっている
自分がボランティアの駅員として案内しても答えない、必要ないよとなる人も多い
うざいんだよなとかもなる、でもその土地に来てスマホばかり見ているのは何か情報を得るのに問題がある

そもそも情報とは何かとなったらこれも広範囲なものになる、原始時代から情報は必要だった。獲物がどこにいるのかとか、狩猟生活だったらそうだし食べるものでも毒になるものがありそれを見分けねばならない、キノコなどでもそうである。
つまり人間は長い年月でそうした情報を蓄積してきたのである。
その情報は膨大なものでありもうそれを知り得ようがない
原始時代の部族で暮らしていたらその情報は限られている、だから理解しやすい、江戸時代のような自給自足のような村の生活での情報も限られているのである。
そこで暮らす情報は得るのは知識でも限られているから混乱することはない
日々の生活でそうした知識は実践的に身についているからである。

そもそも情報というと実に広範囲であり限りないのである。それは自分がプログで書いているのも情報である、では自分で書いてみて報道のようなことをしてみて一つの小さな一万くらいの町でもその情報がいかに多様かを知るのである
もう報告しきれないくらい情報があるのだ
それは過去にさかのぼれば縄文時代があり現代まで知るとしたらもう小さな町でも無限に情報はある、伝えるものがある。

それで今日のプログでは小池のことを書いたが過去にさかのぼればなぜあそこに古墳が多いのかとなる、古墳だらけになってしまうだろう。なぜそんなに古墳を作ったのかともなる、古墳とは墓なのである。墓がそれだけ増えたとういことである。
人間は次々に死ぬとしたら大きな古墳のような墓を作っていたら墓だらけになり人間の住む所がなくなってしまう、ただ墓は生きた人間が埋められているものだから簡単にそれを取り去ることができないということもある
ただ古墳があまりに多く作られたので古代に禁止されたこともあった


大化の改新(645)の翌年、孝徳天皇の2年1月1日、賀正の礼が行なわれたあと、改新の詔が発せられた。同じ年の3月22日、厚葬と旧俗の廃止が告げられた。
「この頃我が国の人民が貧しいのは、むやみに立派な墓を作ることに費やしているため」として、墓の制度を決め、尊卑の別を設けることになった。次がその時に決められた墓制である。

こういうことが古代からあったのも今でも納得する、明治以降庶民が墓を作りすぎて墓ばかりがふえてきた、死者は増えてゆくばかりなのだからいちいち墓を新しく作っていたら土地利用でもできない、墓が今生きている人の生活を圧迫するのである。
例えば宗教団体の墓があるとする、創価などでも山村の一画が墓地にされたとき、墓地により公害までになる、でもそれが檀家の戒名商売と同じであり墓は金になるからしている人間は宗教でも何でも金儲けになるのである。


 学会や工事担当の大成建設側は激しい巻き返しを図りましたが、地権者の間にも「反対」の声が強くなり、断念に追い込まれました。学会側は町への撤回申し出のなかで「開発用地取得が困難になった」としています。


創価学会の巨大墓地は全国に13ヵ所44万基(建設中含む)。どこも完成前に完売、推定収入3千億円ともされる超高収益事業です。新潟県では1997年、小国町で議会の同意を取りつけたものの、議会解散請求の住民投票に阻まれて断念

こういうことも起きている、大成建設と創価は密接な関係があり大成建設は工事を請け負うためにそうしている、創価関係の工事は大成建設が請け負うからである。
富士山にあった正本堂もそうだったが僧侶との争いで壊されたのもなんなのだとなる
カルト宗教団体は組織化集団化して権力化しているから宗教とは関係ない圧力団体となるその数が多いからそれは小さな町とかコミニュティまで破壊するともなる
そういことは別に大企業でも起きてくる、今回の東電は巨大企業であり市町村がそれによって甚大な被害を受けて町や村が消失の危機になったことでもわかる
そういう巨大な権力化したものは小さな村とか町でも市すら買収してコミニュティも破壊してしまうのである。小池にはエホバの小さな会館もあり違和感を覚える
あれもカルトだからである。アメリカの後ろ楯があり金が回ってきているともなるからだ

墓で不思議なのは海老の人が駅に来て墓地に墓参りに行くから花を買いたいというので花屋に案内した、海老の不思議は高台に墓地だけが残り村は津浪で消失したのである。
あの風景は不思議だった、墓地だけ残って村が消えた、その残った墓地に墓参りしに来たというのも奇妙になる,墓だけが村の形見として残ったのである。

こうしてその土地の情報をさかのぼれば原始時代から古代から江戸時代とあり地層のように積み重なっていて現代の問題として現れるのである。
ただその古墳に春の日がさしているときここに眠っている人は安らいでいるとか感じてしまうのである。都会だともう墓は作れない、その土地もない、だから地下に骨壺だけを収める狭い部屋を作りお参りする,それも嫌だなとなる、そこで死者が安らぐのだろうかともなる
いづれにしろ墓を語るだけでこれ際限がないのである。

そしてなぜ今度は小池に新しい簡易宿泊所ができたのか?百人も収容できるものができたのか?それだけの工事などがまだあるのかとなる、除染はこの辺は終わっているからだ。
それも需要を望めるから作っている、右田の人たちが集まり家を建てた所で老人がその新しい家に入ってまもなく死んだというのも聞いた。
それも一つの情報である。ニュースである、そのニュースにしても限りないのである。
全国ニュースになると北朝鮮とか何か大きなことでありみんなどこのテレビ局でも報道している

でも情報の基本は実際はそこに生活している場の情報が大事なのである。ただそれは今までは報道されない、福島県でもテレビでも新聞でも報道するとしてもとても報道しきれないのである。
そして情報は多様だから一万の町でもそうであり古代からさかのぼり現代までとなると無限にある、でも意外とそうしてその土地の歴史を知りそして現代を知ることが必要になるそれが津浪とか原発事故でわかった、郷土史とかはそうした地域全体のことを知ることでありそれが今回の津浪や原発事故と深く関係していたことを書いてきた
郷土史とは過去の歴史だけではない、現代につながるものとしてみるのである。
郷土を知るといってもまず地形とかから知る必要がある、それが近くてもなかなかわかりにくい場合がある、地理を知るには体で知るというのが本当に知ることである。
峠をのぼれば体で地理を知ることになる、それが地図からだけではわからないからであるそれは日本全国でもそうである。だから地理を知ることは基本にありそれがむずかしいのである。

それからコモドインというホテルでランチを食べた、こんな山の方にホテルができたのも震災以後の外部から人が流入してきたからである。
その変化は鹿島区でも大きかった、今でも復興住宅ができて今度は浪江の人たちが移り住んでいる、だから鹿島区は人口が減っていないのである。
ともかく狭い地域でも知ることは容易ではない、ただ小さい町だと俯瞰的に知る、全体を把握して知ることができる、それも時間軸と空間軸でできる
これが南相馬市の原町区となるともともと5万人くらい住んでいたから全体を知ることは不可能になるのだ。

とにかく情報は限りがない、グローバル社会になったら情報は際限のないものになりもうしりえようがないのである。そこで情報操作されやすいのである。
なぜなら外国となると知り得ようがないからだ。フェクニュースでも信じてしまうのである。ただ狭い範囲の町や村とかなるとフェクニュースは通じにくくなる
みんなその土地に生きていて土地と密着しているから嘘がつきにくいのである。
すぐばれてしまうといこともある。外国だと実際は確かめる方法もないからフェクニュースでも信じてしまうのである。

いづれにしろ郷土密着型の報道はインターネットで報道するのが簡単になりできたことである。それで自分でも報道してみて報道とは何かとか情報とは何かと考えるようになった記者とは何かとかも考える、こういうことは報道できないなら考えもしない、ただ報道されるものを一方的に受け入れるほかないのである。
つくづく一人一人の人間が情報なのである。
今日駅であった人も情報である。今まで福島市からバスで帰ってきたとか若い女性だった東京から故郷に帰ってくる人がいるからだ。
今日この女性は故郷に帰ってきたのだなと思う、迎えの車が来て去った。
駅にはいろんな人が行き来していることがわかった。それだけでも多様なのである。
活きた人間が血流のように社会に回っていることを感じた
駅は特に多様な人が交わる場所だったのである。


2017年03月05日

時代を越えられない、時代の犠牲となる人間 (大奥という場で犠牲となった絵島ーNHK歴史秘話ヒストリア)


時代を越えられない、時代の犠牲となる人間


(大奥という場で犠牲となった絵島ーNHK歴史秘話ヒストリア)



大奥の絵島の事件は何であったのか?結局大奥という江戸時代の女性が政治化した権力争いがありそれが原因となっていた。
そもそもそうした大奥というものがあること自体、江戸時代は今になるとありえないイメージもできないものとなっている
そんなところに何千人も女性がいたのかというのが謎になる
将軍の種を宿すためにそんなことをしていること自体江戸時代の暗黒があった
だから今になると江戸時代は庶民はいい顔していたとか言われるが政治は暗黒だった
ただどんな時代でも明暗があるから一がいには言えない

結局絵島はこうした江戸時代の大奥とかの今ではありえないものとして大奥という場の犠牲者だったのである。
それが時代でありその時代で人は必死に生きねばならなかった。
絵島は出世したのだからその大奥に適合したのだが反面そういう場所で犠牲者になったのである。
平賀源内でも天才だったけど才能を認められで発揮できずに死んだとかも時代のためである。
あまりにも時代に先んじている人物は時代に合わないものとして活かされないのである。
だからタイムマシンで過去に戻っても結局人間はその時代に適応しないかぎり生きられない、戦国自衛隊などの映画でもいくら戦車とかをもっていっても機関銃でもそんなものはガソリンがないとか弾がなくなるとかでいづれは使えなくなる、すると生き残るためにはその時代に適合するほかない、刀や槍で戦うほかなくなるのである。
その時代を越えて人は生きられないのである。

これは戦争などでもそうである。太平洋戦争では3百万人が死んだ、自分の姉も赤紙一枚で招集されてシンガポールに従軍看護婦として働いた。
そこで塗炭の苦しみを味わった、第一そうして3百万人が死んだのである。
その中には優秀な若い人もいたが高橋英吉なども才能を発揮できず死んだ
才能を発揮できないというときそういう人はいくらでもいた。
戦前に北海道に開墾に入った詩人の猪狩満直などもそうである。
病気で過労でで死んだのである。それが呪いとなっている

そういうふうに才能が発揮できずに死んだという人は無数にいる、その屍の上に才能を発揮できる人がいる、いくら才能があっても時代が悪ければ才能は発揮できない
何かたいしたことはないようでも自分が描いているパソコンの抽象画でもそうである。
自分でしていても不思議なのである。絵が描けなくても絵を作ることができることが不思議なのである。これもパソコンが生れたらでありまさにart(技術)が生れてできた芸術なのである。技術の進歩があってできた芸術である。

時代というとき技術も関係している、外国に行くというとき船でしか行けない時代と飛行機で行ける時代はあまりにも違うのである。外国に行けたのは極少数の選ばれた人だけである。今は誰でも行けるのも違っているし時代である。
そうなると新たな芸術でも学問でも生れる、なぜならそれだけ視野が広くなるからである現代人はそれだけグローバル化して視野が広くなっているのである。
ただ実際に外国に行ったことがある人とない人では相当な差があるし外国に住んだ人と住まない人でも外国の理解では差がある。
でも狭い村から出たことかないというのが普通だった時代とは余りも違っているのであ

人間が時代を越えられないというとき、例えば現代に生きていても現代という時代は技術的な面では越えられない、自動運転が普通になったとき交通事故もなくなったときどうなるのか
なんで交通事故であんなに死んでいたのかと不思議になるのである。
でもそれは時代であり時代の犠牲者だったとなるのは同じなのである。
貧乏でもそうである。戦前とかの貧乏は今とは比べようがない。
自分の父親は明治生まれであり最後は戦後十年くらいたってサシミを食べられるようになったが病気になり食欲がなく食べたくないと言って死んだ
これも時代だったのである。そのときはみんな貧乏だったからである。
バナナなどはこの辺に売っていない、病気の時仙台から買ってきたのである。

人間は時代を越えられないし時代の犠牲者となる、歴史を学ぶということはそうした人間の苦労をふりかえり今を考えることである。昔が良かったとかではない、そのいい面とまた暗黒面をふりかえることである。
女性でも絵島は当時だったら最高の職についたのである。でも大奥などという今ではイメージもできない場がありそういう場の犠牲者だったのである。
それは時代がそうしたのでありその時代を越えられないからそうなった。
そういうことは歴史では常にある、貧乏だったというとき江戸時代なら美人は遊女にされ不細工な女性は紙漉きさせられたとなる
それもどっちが過酷だかもわからない、そういう時代でありその犠牲者だともなる

とにかく歴史を学べばそんな時代と比べて今はいい時代だなとなる、その喜びをかみしめることができる、そうでないと今の時代にも不満ばかりになる
でも今の時代でも時代の不満があるのが人間社会である。いくら過去と比べても今の時代の苦しみがありそこに関心が集まり過去はそんなに考えないのである。
人間は歴史をふりかえれば犠牲の歴史でもあった。その犠牲の上に今日があるということも考えねばならない、それが現代の苦しみのみに注意が向けられて過去は忘れるのが人間なのである

タグ:絵島

2017年02月26日

NHKのフェクニュースの解説を今日のテレビでしていた NHKも中立ではないマスコミは局の意図をもって報道解説している


NHKのフェクニュースの解説を今日のテレビでしていた


NHKも中立ではないマスコミは局の意図をもって報道解説している



これでわかった!世界のいま ▽偽ニュースが拡散中! なぜ世界はだまされるのか 
2017年2月26日(日) 18時10分〜18時42分 NHK総合

日本ニュース】米 偽の記事「フェイク・ニュース」信じた男が発砲


アメリカのある大学の実施した世論調査では、 
「メディアの方が信頼できる→39% 
トランプ政権の方が信頼できる→49% 
でメディア不信は深刻」、

大体本当に事実だけ伝えているニュースやマスコミなんて存在しないだろ 
発信側が意図的に作成した作文伝えてるだけ 

マスメディアはスポンサーから金をもらって 
スポンサーに都合がいい記事を書くのが仕事なんだから 
信じる方がバカとも言えるな


NHKの今日の番組ではフェクニュースがトランプ大統領側から流されのが多かったとして解説していた。
そこにすでにNHKの意図があった。

トランプ 偽ニュース,トランプ 偽ニュース、トランプ 偽ニュース

それを図解すると何かすりこみができる、つまりNHKはトランプ大統領側にはついていない、アメリカのマスコミと同じだった、日本のマスコミもトランプ大統領側についていないから流されるニュースはトランプに不利なニュースばかりだったのである。
それでも当選したことは驚きだった、マスコミの権威が地に墜ちたとして大きな報道の転換を迎えたことである。それはインターネットの影響も大きかった

メデアはメディウムに中間とあってもそうはなっていない、最初から局の意図をもって報道して編集している、コメンテーターもその編集の一員として配置している
自由な発言は許されていない

トランプ 偽ニュース

NHKはこの意図をもってトランプを批判していたのである。
ただNHKでも他の局でもわかりにくい面があるがそこは巧妙に中立を装い視聴者を誘導しているのである。
ただ事実を報道しているわけではないのである。そこがわかりにくい,誰かがそんなことはないよとか反論できないのがテレビだからである。

この辺でも原発避難民のことで補償金で問題が起きて対立があった。
その時も自分は書いてきたが原発避難民側にNHKが立って報道していた
それも巧妙だから地元でもすらわからないものがあった。
だからこんなことを話題にしたのは自分だけかもしれない

原発避難民を応援する、批判はしない、批判する人は発言させない

こういう意図をNHKはもっていて報道していたのである。
現実に補償金で不満な人たちや津浪被害者は発言させていない
そしてなんで原発避難者で苦労しているのに仮設に住んでいて受け入れないのかとか
言わせていた
それは理由がありあまりにも手厚い補償が原発避難民にされていたからである。
そして外部から今でもボランティアが来ていてかわいそうだと応援しているしそういうこともありなぜ地元の人は応援しないのかと余計になった。
ボランティアが悪いというのではなくそういう気持ちにさせた。
その後は両方で仲良くすることで祭りが行われたとかNHKでは報道していた

要するに報道は中立ではありえないのである。どの放送局もその局の意図をもって放送していると見るべきである。ただその意図が見えにくいのである。
いかにも中立の報道をしているように見えるのである。
それは外部からの自由な発言がインターネットのようにできないようにしているからである。
「そんな貧乏な人がいるんですか」とか言えない、確かめようもない
NHKで報道した貧乏な若い女性はNHKが貧乏のことを報道するので使われていたのである。その女性はそれなりに贅沢もしていたのである。
NHKがフェクニュースを流していたし他の局でも自分たちの意図があり報道して解説している。第一その事実も確かめようがないのである。
それがグローバルにになると余計にそうなる、それでイラク戦争のとき油まみれの海鳥の写真を信じた世界中で信じてイラクはひどいなと世界中でなったのである。
情報はアメリカならアメリカで意図をもって有利なものを流すのである。
それがフェクニュースになっていた。
その事実を確かめる術がないからそうなる

そのフェクニュースが有効になるのは何かそういうデマが広がるのはそういう社会状況が生れているときみんな信じやすい、熊本地震の時は動物園からライオンが逃げたというときもそうである。地震で混乱状態にあり信じやすかった。
その時も写真が出ていたので信じやすかったのである。

この辺だと補償金で対立したから

小高の人の車が傷つけられた

こんなフェクニュースを流すと信じる人がでてくる、いわき市でも実際にあったからである。ただこの辺ではそこまでは起きていないのである。
フェクニュースが信じやすい状況があり信じられて拡散されるのである。

放射性物質の高い黒いダストの塊りがある

こんなことも報道されてこの辺で騒がれたこともある

そこでインターネットは危険だとマスコミで言うがまたマスコミもそうして自分たちの意図をもち誘導するためにニュースを解説して偏向させているのである。
だからどっちもどっちだと今ではなったのである。

要するにマスコミの報道だったら解説でもマスコミの意図がどこにあるのか見抜くことである。それはインターネットなどの反論などが役にたつのである。
そのままテレビの報道や解説を鵜呑みにしないことなのである。

結局こうしたことが起きるのは

古代ギリシア語ではδημαγωγός(デマゴゴス)と言う。日本においては主に、意図的に虚偽の情報を流し、嘘をついて人を扇動しようとするさまを指してデマゴーグと批判として用いられるが、「流布された誤った情報」の意味でのデマ、それを意図的に流すものとしてのデマゴーグは日本に限った用法であり、本来「嘘」の意味は無い。
語源は「民衆(δῆμος / dēmos)を導く(ἄγειν / agein)」であり、本来は民衆指導者を指すが、アテナイではペリクレスの死後、クレオンを初めとする煽動的指導者が続き、衆愚政治へと堕落した。このことから「デマゴーグ」は人々の感情や偏見に訴え、力を得る政治家や権力者の意味で使われるようになった。また、彼らの民衆煽動はデマゴギー(Demagogie)と呼ばれる
E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%B0

ギリシャのようポリスの直接民主主義でもこういうことが起きていた、ただ嘘というものではなかった、狭い地域では嘘はばれやすいのである。
例えば相馬地域とか福島県でも嘘はばれやすいからフェクニュースは成り立ちにくい、これが全国レベルになりグローバルになると嘘でもフェクニュースは信じやすくなるのである。






2017年02月15日

本は何なのだろう (骨董品となり芸術品となっていた)


本は何なのだろう

(骨董品となり芸術品となっていた)

mannyouuuu1.JPG

mannnyouuuu234.JPG
絵に透かした紙を重ねている

mannnyouuuu345.JPG

mmmmntuuu.JPG


昭和18年に発行とあり53円は当時では相当に高かった

昭和20年の1円(100銭)は400円前後の価値
今の値段で6万くらいなのか?これは作るのにも金がかかっているからそうなるだろう。これを買った人は金持ちだったとなる
ただ戦争にも入っているとなるとその影響もあるから値段的には比べられない
それにしてもこんな厚い本を出したということ、その手間と労力と考えると
本は骨董品として価値があるとなる



仙台の古本屋で買った本はでかくて重かった
それが封印されていて中が見れなかった、中味は万葉集に絵をそいたものである。

「これ中味見たいんですが」
「いいですよ」
「悪いな、買うわけでもないのに、これは本の骨董品のようです」

ぱらぱらとめくり見た、絵があるので万葉集を学ぶのにいいのかとも思った
その絵はそれほどのものでもないようだった、ただこの本の不思議なのはでかくて重くて封印されている、それがかえって中が重要なものに見えたのである。
千部限定ともある。
大亦観風という人の作品である。この人はそれなりに知られていた、アマゾンで調べたら本もでていた、同じ本で2000円のようだ
古本屋の人に言った

「通販では中味が見れないですから、通販だけでは買物はできない」
「私の店でも通販に出していますよ」
「そうですか」
「売れたので通販のは削除しました」

まずこういう本があり中味がどういうものなのかわからないし名前も知らなかった。
となるとこれは何なのだろうととなる
かえって封印されていて見れないから見たくなるのが人間の心理なのである。
見られないということはかえって見たいとなる。
あからさまに見える、こんなものいつでも見れるとなると価値が低くなる
第一こんなでかい重い本があることに驚きがあった。
これは戦前に作ったものでずいぶん金がかかったろうなと思った。
こんな凝った作り方をしているからである。
これは明きらかに本の骨董品になっている
その内容よりも本が芸術品になっているのだ。

この本は出してから70年以上過ぎている、紙は変色している、この人の絵はたいしたことがないと思ったが最近見直されて展覧会もしている
70年も過ぎるともう本自体がほころびて紙も変色してくるし本の形もた保てなくなる
本でも50年でぼろぼろになってしまう。
でもネットなどよりは本に記しておけば残るということはあるだろう。
ネットだと一瞬にして膨大な記録が消える、そのことが怖いのである。
ネットでは何か書いても軽い感じになり消えやすいとなる

ただ最近ネットで簡単に本は作れる、それをしていないが自分のプログで書いたものウエブで本にしたいと思っている、ネットで詩集を十冊作った人がいる、その内容は陳腐なものである、でもそれだけのことがすでに簡単にできる時代になった
本を作るのは簡単であるがそれを書店に置くことはできない
書店に置くことは今でも出版社とか取り次ぎとか普通は置くことができないのである。
本はすでに一個の芸術品として作るともなる、ただその内容だけのものもあるが装丁とか一冊の本はすでに広く流通するより何かこのように一個の芸術品であり古くなると骨董品のようになる

何か自分は本が好きだった、そして本を読むより本の蒐集家のようにもなっていたのである。それで家が傾くほど本があった、それは全集ものがあったためである。
百科事典などでも重くなっていたのである。本はそれだけ家に集めることはやっかいなものなのである。でも人間が本を読める量は限られている、だから積んどくになりただ蒐集家のようになって中味を読んでいなともなる
アマゾンだったら今回のことでもわかるようにどんなものでも手に入る古本でもそうである。
この人のことが知らなかったので中味がわからないので買わなかっただけである。
アマゾンで買ったら2000円だった、でも中味がわからないのだから買いようがないのである。本でも立ち読みできないと中味がわからないものがある。
それが通販の問題なのである。通販がすべていいものではない、バッグとか着るものでもサイズがあわないとか重かったとか失敗が結構あるからだ。
だから高いものは買うのは冒険になる、メーカー品なら電気製品でも無難ではあるが恐くなる、ただ田舎だと自分は一万の町だから車もないから電気製品だったら小さいものはいいとして運ぶことができないから通販がいいとなる
そして通販の方が安いという思い込みができているからリアル店では買わなくなったということもある。

買物は人とのやりとりもあるし今電気製品でも操作がめんどうなのが増えた、すると老人にはその操作ができないという人が出てくる、操作ができなくて使えないという問題が出てきている。パソコンのソフトはもう使いこなすすことができずに無駄になる
まずフワトショップとか機能が多すぎて使いこなせない、習わない限りできないとなっている、一万で買ったとしても二万三万出してもいいから使い方を知りたいとなるのであるそれを教える所は田舎にはないし他でもないだろう。

買物だと市場がありそこでは買物するだけではない、人がその時集まるから嫁さがしとか何か別な用も生れ娯楽として楽しむ所でもあった。
それは金だけではと計れない人間的な場所だったのである。
それが通販にはない、物は何でも手に入っても人間のやりとりがない、関係もないのである。古本屋に行けば多少人間的なやりとりがある
でも今になると本の数が新刊でも古本でも圧倒的にたりない、アマゾンなら天文学的数字の本がありないものがない、ただこうして知らない本は中味もわからないし買いようがなっかたとなる

本は別に電子本でもなれれば読める、キンドルももっている、これだと関心があるものをすぐよめる、ネットで検索しているように読める、だから田舎でも情報に差がなくなったのである。
仙台に行ったら書店がまたなくなったとかある、古本屋の人も売れないと言っていた。
これはやはりどうにもなちない、量がそろえられないからだ。書店はやがて消失するのかもしれない、現実にそうなってきている、余りにも田舎だったら本が少なすぎるのである本は立ち読みが楽しいということがある。立ち読みで知識を得るとういこともある。
とても全部は買いないのだからそうなる
値段だと4000円がリアル書店でありアマゾンだと2000円とかなるから高いとなる
でもそれなりに人間のやりとりがあって面白いともなる
実際に品物を見るということがやはり買物のベースにある、それが通販ではないからどうしても買物でも無味乾燥になる、通販ではどうしても探すことがめんどうであり情報でもそうでありそこが問題になる、キーワードだけでは探し得ないものがかなりあるからだ。



タグ:古本屋

2017年02月13日

権力の大小に比例してプロパガンダは効果を発する 政治も科学も報道も宗教も権力のプロパガンダと化す


権力の大小に比例してプロパガンダは効果を発する

政治も科学も報道も宗教も権力のプロパガンダと化す

propa12.jpg

propa22222.jpg

●原発の安全神話もプロパガンダによって作られた

注目度の高さは、目に触れる回数や反復数によって影響される。
注目度の高さは、呼び起こされた感情の強さに比例する。

ナチス党が政権を握ると、指導者であるアドルフ・ヒトラーは特にプロパガンダを重視し、ゲッベルスを大臣とする国民啓蒙・宣伝省を設置した。宣伝省は放送、出版、絵画、彫刻、映画、歌、オリンピックといったあらゆるものをプロパガンダに用い、ナチス党によるドイツとその勢力圏における独裁体制を維持し続けることに貢献した。
91%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80

プロパガンダとはその主張することや正義とか科学的真理とか公正さとかを追求しているのではない、事実すら追求していない、それは原発だったら原発を通すために権力がプロパガンダをする、原発を作るための目的がありプロパガンダする、そしてそのプロパガンダが効果を発するのは権力の大きさに比例して効果を発するのである。

原発はまさに最初読売新聞の正力松太郎がアメリカの意向を受けて推進したのである
正力松太郎から原発の安全神話のプロパガンダが開始されたのである。
その背後にアメリカがありその手先となったのが正力松太郎だった。
だからプロパガンダとは大きな権力が背後にありなされるのである。
日本はなかなか原爆を落とされた国であり抵抗があったが新聞社の力で安全神話が作られていった。
マスコミはただ事実を報道するだけではない、何かの目的があり意向があり主張があり権力のプロパガンダとして報道している

だから原発でも同じである。それが安全かどうかではない、科学の問題ではない、背後にアメリカの意向がありそのプロパガンダとして正力松太郎が利用されたともなるし逆に自分の利益のために利用したともなる
ともかく日本はアメリカに戦争に負けたのだからアメリカには逆らえないのである。
今でもそうであり日本はアメリカの一つの州になった方がいいという人がいるからだ。
だから戦争に負けて占領されたのだから日本はアメリカに全面的に従わねばならない立場になっていたのである。

原発のプロパガンダが権力の大きさに比例して効果を発するというときそれは権力をもっているものが一つの目的をもってプロパガンダするからそうなる
原発を作るためには戦争のようにあらゆるものがプロパガンダとして動員されたのである読売新聞社からそのプロパガンダがはじまったように全マスコミも加担したのである。
朝日新聞社すら東電にマスコミを中国に招待したとき事故が起きたことでわかる

プロパガンダが全マスコミで行われるときその効果は絶大なものとなる
そして学者も科学的なものよりそのプロパガンダをする一員として御用学者として利用されるのである。安全でなくても安全と学者が爆発したときも言っていたしメルトダウンしないということも言っていたからである。
東電でも電事連合という組合でも莫大な三百億円とかが宣伝のためにマスコミに支払われていたのである。
いったいこれだけの強力なプロパガンダに抗することができるのか?
だからこそ「安全神話」となった、神話はこうして権力によって作られていたのである。そのプロパガンダに抗することはできないものだったのである。

確かに原発が危険だと警告した人がいて本も出していた、でもそれは片隅に冗談のように置かれていた、その本ですら左翼系の団体から出されていたのである。
それであいつは左翼系だから信用できないともされていたのである。
「東京に原発を作れ」というときそれがSF小説のように自分などは関心がないから見ていたのである。
ともかくこれほど強力が国と一体化したプロパガンダに抗することは不可能に近いものだったのである。
だから権力が何かをするとき目的があるとき権力に比例してプロパガンダが効果を発揮する、政府の権力と東電とが一体となったときその権力は巨大であり三〇〇億円の宣伝費はマスコミに湯水のように使われたのである。

●プロパガンダする目的は何なのか?

原発を作るために「安全神話」のプロパガンダをする、それは政府が主導して東電とも一体となるから巨大だから効果も絶大となっていた。
それと同じように政府だけではない、権力をもつものはプロパガンダを日常的にしている政治運動でもプロパガンダなのである。
創価というとき宗教団体と見ているが実際は政治利権団体でありその目的は権力奪取にある、そのためにおおがかりなプロパガンダをする、地方の新聞社に聖教新聞を刷らせて批判させないし様々な工作を組織的にする、それは権力によって批判を抑え、大衆にプロパガンダして大衆を従わせるためである。
それはナチスでも日本が戦争したときでも何か目的がありプロパガンダする
芸能人でも大衆を操作するためにプロパガンダの一員として利用する。
最近佐藤優は創価のプロパガンダとして利用されている、利用するともなる

池田大作か生きているのか生きていないのかわからないが礼賛しているからである。
創価の目的は何なのか?宗教の布教なのか?
目的は権力奪取でありそのためには手段を選ばない、プロパガンダとして芸能人を利用するしそううい部門として民音がある、そこに金がつぎこまれているからだ。
カルト宗教団体とは何なのか?これも民衆の救済などとは何の関係もないものである。
巨大な権力を持ちその権力で社会を動かそうとする団体組織なのである。
宗教が目的ならそのために権力など使う必要がないからである。
シャカでもキリストでも権力などなにもない、住んでいる家もない、そんな人がどうして指導者になったのかとなる、権力など何の関係もなかったのである。
日蓮だって一人で茅屋に住んでいたからである

権力をもちたいというときそれは別な目的があってそうするのである。
創価は勝共連合に勝つために共産主義を普及させるのを防ぐためために組織されたとかも言われる、一方で共産系は左は必ず中国とか前はソビエト連邦のプロパガンダとして日本の役割があったとなる、つまりこの世はこうしたプロパガンダの戦いなのである。
事実だとか科学の真理だとか宗教だとかもそのプロパガンダのために利用されるだけだとなる、そのプロパガンダも権力の大きさ比例して実効力があるとなる
だから本当になぜプロパガンダ力でははとてもヒラリー陣営に勝てないのに弱小なのにトランプが大統領までなったのか?
それは政治でもやはりアメリカの現実をヒラリー派は知らせていなかったのである。
そうした現実をいくらプロパガンダが強力でも否定できなかった
インターネットができてマスコミのプロパガンダ力が低下した現れだったともなる

一番プロパガンダを必要とするのは戦争するときだから最も強力なプロパガンダをする
なぜならその時大量の人が死ぬからである。
死ぬかもしれないというとき人間は簡単にいくらプロパガンダされても従うとはならないからである。
だからその時最も強力なプロパガンダが行われる、アメリカが真珠湾を契機に真珠湾を忘れるなということで戦争を開始したことでもわかる、それも強力なプロパガンダとなったのである。それも陰謀論だとしくまれていて日本がはめられたとも言われるのもそのためである。

●強力なプロパガンダによって地獄にひきこまれる大衆

報道というのは常にそうした権力のプロパガンダがありなされているのである。
それはNHKでも公平のように見えてもプロパガンダを行っている
NHKは在日の力が強いとかで中国韓国よりになるとかあり右のプロパガンダではない左のプロパガンダを行う団体だとなる
そもそも左にしても慰安婦問題とか南京虐殺を言うけとそれももう事実など関係ない中国政府とか韓国政府のプロパガンダとして見るべきである
事実も科学も政治的プロパガンダになれば関係ないのである。自国にとって有利なようにプロパガンダしてゆく、それは権力に比例して効果を発揮するのである。

だから報道というとき特にマスコミになると何かの目的がありプロパガンダを行っているとみるべきである。その背後に巨大な権力がある。
なぜテレビで芸能人が政治とか芸能意外のことであれこれ発言させるのか?
要するに大衆操作のために芸能人が利用されるのである。
大衆とはまさに「パンとサーカス」を与えねばならないものだからである。
サーカスを見せるのが芸能人なのである。だから司会者が芸者だと言われたこともある。司会者もテレビだと強力なプロパガンダとされるのに一番適しているからである。
何でももしテレビを百万人常時見ているとなるとそれだけで力をもつのである。

それで宣伝でも絶大な効果があったとなる、宣伝によって買うということはかなりあるからだ。
でも今は消費でも通販になるとレビューを見て買う,するとその消費者の実際に使った人の言葉を信用するようになる、消費者とは報道でもマスコミのように一方的ではない、報道を消化するにもどういうふうに消化することが問題になる
マスコミではあんなことを言っているけど実際は違うんだよなと常に反論しているのが今度はインターネットだからである。今までだったらマスコミに反論することはできない、ただ一方的に消費されることをマスコミはできたのである。
要するに人間が物でも道具でも消費した人の意見が大事なのである。
そして経験した人の話が大事なのである。
自分は創価で運動していたからその経験を書いているのである。
実際に経験した人は物や道具でも買って使った人はその真実をしない人よりは実感しているから違っているのである。
社会は複雑でありとても自分の一人の経験だけでは理解できないものだからである。

要するに報道というときそれは何かの目的がありプロパガンダされていると見ることが必要である。物を売るにしてもその内容よりその物を売るためのプロパガンダとなることがあるからだ。
ただ物とか道具とかレストランでも料理とかはいくら宣伝してもプロパガンダしても一時的に効果があっても食べてみてどうかとなると偽ることができないから効果がなくなる
電気製品でもどうしてもメーカー品は高くても壊れないと信用がある。
台湾製のパソコンを買ってすぐに壊れたのもそのためである。
こういうものは偽ることができないのである。

これは芸術とかでもそうである。マスコミに宣伝されて有名になっても内容がなければすぐに廃れる、名前だけが売り出されても作品に内容がないといづれは廃れる
たいがい自分は小説とかはわからないが俳句とか短歌だとか詩なら評価できる
その評価の基準はどこまで自然と深くアイディンティティ化しているかで見分ける
啄木などはそうして不思議なのはあの若さで自然に精通していたということが不思議なことだったのである。自然と一体化するには自分のようにやっと死が近い老人になってからだともなるからだ。
芸術などでも学者でもやはり政治とは違いプロパガンダは通用しないのである。
その作品でも論文でも確実にいつかはその価値が正しく評価されるからである。
それが古典となったのは時間の中でその価値が変わらない、優れたものとして時間に左右されない価値をもっているからである。



2017年02月03日

外国の映画も深く鑑賞するには地理を知らねばならない (『大陸横断超特急』を見て)


外国の映画も深く鑑賞するには地理を知らねばならない


(『大陸横断超特急』を見て)

ttttam.jpg

railwayyyy1234.jpg


アメリカに帰ったアメリカ人が、こっちではオレンジジュースひとつ買うのでも一時間掛かる、
東京では近所のコンビニで五分だったとブー垂れたりしてる 


映画を最近良く見ている、今日もアマゾンでたいめん鉄道を見た、無料で見れた
映画でも古いのから見ると膨大なものになる、映画の場合知らない映画が相当にあるが
インターネットで紹介されていてアマゾンで注文する
それで結構面白い映画を見た

そして映画もやはり鑑賞するには読書と同じで映画を読むというかその背景を知らないと鑑賞できない、特に外国の映画は背景が外国だから外国のことを知らないと鑑賞できないそこでやはり地理的なもの外国でもその土地に一回でも行ったなら感覚的にわかる
一回も行かないで本とかテレビだけでは外国はわからない

例えばアメリカには一回冬にアムトラックで行ったのでその広さがわかった
その鉄道の映画がこの前放送したので見た
途中で車両から投げ出された、そしてレールの上を歩いてゆくのだがそこには家も人もない、荒野である。アメリカには荒野がまだある。
延々と荒野がつづき人がいない、西部劇のようなシーンがつづく
そこで一軒の家にたどりつく、そこからグライダーに乗ってアムトラックに列車に追いつきのる

これもアメリカ的な広さの映画なのである。アメリカでの交通が飛行機になるのもわかるそれだけ広いからであり砂漠もある、外国だと中国でもそうだがこの広さの感覚が日本では実感できない、鉄道でも広い軌道でありゆったりと座れた、アメリカには太った人が多いがその太った人でもゆったりと座れる、アメリカの鉄道と比べると日本の列車は狭いのである。だから窮屈に感じるだろう。
アメリカでは鉄道は今は利用されていない、アムトラックは観光用なのである。
自分はアムトラックではゆったりできるから眠ることができた
日本の鉄道では狭いし窮屈だから眠れないのである。
バスにあるソファーの大きなものでアムトラックでは眠れたのである


人間は周囲を見るときその四方10キロ20キロくらいしか見ていない、でも日本だったらそういう狭い村の中で住んできてアイディンティティが形成されてきた
アメリカは百キロとか何かその生きる感覚が日本の十倍とか広いのである。
それは中国でも同じである。そこに日本では考えられない途方もない広さがある
東京には空がないというが日本には空が狭く感じるのである。
空は区切られた空のように感じる、これも外国の空は日本の空とは違う
そういう広い所で生きている人間と日本のような狭い所で生きている人間の感覚はかなり違ってくる
アメリカで小型で性能がいい車を作れない、大型の車になるのも当然だと思う
それだけ広いし余裕があるからである。日本が小さきものは何でもいいと枕草子で言うとき昔からそうだったのである。

 雛の調度。蓮の浮き葉のいと小さきを、池より取り上げたる。葵のいと小さき。なにもなにも、小さきものは、皆うつくし。

かわいいなというときそれは小さいものである。それが風土からそうなった

戦争でも日本はとても大東亜戦争などできる力がもともと歴史的に風土的にもなかった。戦略というときそれは世界史を見ればわかるけどあの広大な土地から生れてきている。
その広大な平原とか草原とか河でもそうでありそこでどのように戦陣を組むかとなる
それが戦略になる、そこには広い舞台が用意されないとできない
日本にはそうした大陸のような大きな戦争をする風土がなかったのである。
関が原のような戦争はまれでありあれでも大陸の戦争にしたら小規模だろう。

日本はとても大きな戦争をする風土ではなく歴史もなかったのである。アメリカとか中国でも大陸にはそういう大きな戦争を経験しているし風土があった
モンゴルのように遊牧民の世界もありそこに世界を見て戦略があり戦争を大局的にみて戦略をたてる戦争ができたのである。
だから日本の戦争が中国に深入りしてのが失敗だったのである。
敗戦の大きな要因だったのいうのがわかる、それはアメリカでもその大きさを日本人は知らなかったからである。

思想でも荘子の大鵬の例えのように日本人は大鵬を知り得ようがないのである。
中国の広さ故に生れたのが荘子のよう思想家だからである。
その反面日本の風土から歴史から作られたものが小さくても精巧なものを作るもの作りとかにあったというのはそれが日本の文化であり歴史だからそうなった。
やはり日本はロケットとか何か武器でも大きなものを作るのは苦手なのである。
アメリカはそうした巨大なもの技術は向いている
だから原発というのは日本には向いていない、それは巨大技術の操作だったからである。日本の風土にもあっていなかった、でもトンネル技術が発展したというとき山が多いから技術もそれに適した技術が発展したとなる。

つまり科学技術でもその国の風土とか歴史に適したものが発展する
だから日本は日本なりの科学技術でも風土と歴史に適合するものを採用すべきだったとなる
大陸のものを日本の狭い土地に何でも受け入れるは間違っていたのである。
取捨選択して日本の風土と歴史に適合したものを入れる、または改良することなのである日本は巨大なの技術は適合しない、戦争でも大陸的な戦争は向いていなかったのである。
いづれにしろ映画は今世紀の文化だった、映画の時代がアメリカが作ったというときまさにアメリカ文化は映画にあった。
だから老後の楽しみは読書もあるが映画をもう一度見て鑑賞して新たなものを発見することである。映画もやはり鑑賞するにはそれなりの経験が必要なのである。
まず外国映画は一回そこに行ったのと行かないので興味をもつ度合いが違ってくる。
それは地理の感覚があって理解できる、それは歴史でも何でもそうである。
何かを日本でも外国でも地理の理解なくして映画も観賞できないとなる
10年間くらい外国旅行したので自分は外国映画でも深く鑑賞できるようになったのである。



2017年01月27日

ミネルバ大学 インターネットでグローバルに創造的に学ぶ


ミネルバ大学

インターネットでグローバルに創造的に学ぶ

今日アクセス解析でコロンビア大学から来ていた。抽象画ではない、テキストの部、郷土史関係を読んでいるみたいだ、でも日本語だから英語に翻訳しているのか?機械翻訳して読んでいるのか?

抽象画が定期的に見ている、アメリカ人がいる。一定数いるしときたまいろんな国からくるのは抽象画を見るためだろう。なぜなら抽象画は言葉の壁がないからである。

今日は後は広島大学からもきていた、前のホームページでは中華大学からも来ていた。
ハーバード大学から研究者が来たようにこの辺は原発事故や津波で世界の関心が集まったこともある。

前のホームページも20年前とかからはじめたが未だに読まれている、そこは更新していない、プログにリンクをはったのでそこから来ていることがわかる

時間ができたのでなんとか整理分類することなのだがこれが手間なのである。

ミネルバ大学のモットーは

Thinking Critically(クリティカル思考力)
Thinking Creatively(クリエティブ思考力)
Communicating Effectively(プレゼンテーション能力)
Interact Effectively(対人コミュニケーション能力)

とかある。NHKの放送ではハーバード大学よりここを選んだというのはそれだけインターネットの影響力が現れてきたことである。
先生が一人で教室で生徒に一方的に授業する形式は古くなったのかもしれない
自分は学校が嫌いだったし学校にいるとき学問にも興味をもったことがない、ただ試験の点数だけを気にしていた、気にさせられていたのである。
学校は自ら考えることをさせない場所なのである。
何でも自分で考えるということが自立する道である。
学校は自ら考えること、創造することが否定されている場所なのである。
ただ教育というときあまりにも今は多様だからとても理想的な教育はありえない
それでもインターネットができたことは知識でも拡大した、自ら学べる独学の場を提供したのである。

このミネルバ大学に入るには英語力ないと入れない、グローバルになるにはどうしても英語力が必要だとなる。機械翻訳も進歩したから多少補えるとしても選考に英語力をみられるから簡単には入れないとなる
テクニカルなものがインターネットとかで飛躍的に発展した。
それでもまたインターネットが学びの場としてあってもこれを有効に利用することはかなりむずかしい。グローバルだとしても英語力がまたは言葉の壁がある。

ただ思うに人間の能力は簡単には決められない、生まれつきでもない、それを証明したのが自分でも意外だと思っている抽象画をソフトで変化させて作ることだったのである。
なぜなら自分は全く絵の才能がないのに抽象画を描いているという不思議なのである。
これはまさにインターネットがあったからこそでありただそれは創造というよりテクニカルなものから生れたものである。
芸術というとき普通はテクニカルなものがあるとしても何らか創造力がある絵のの才能があるとなってはじまっている
でもインターネットの抽象画は全くテクニカルなものとしての芸術だったのである。
もちろんそんなもの芸術でもないといえばそれまでだが絵画的なものを楽しんでいるということは確かなのである。

創造的能力というときそれは学校教育の一方的おしつけからは生れない、常に自ら考える、創造的になるという雰囲気とか作業をしてゆくことから生れる
educationがeducate(引き出す)となっているようにである。
能力は引き出さない限り生れないのである。天才は別として普通の人はそうである。
だから能力を引き出すものとしてインターネットがありソフトがあったとなる
抽象画が想像力よりテクニカルなものソフトを使いこなすことが創造することになる
そのソフトを使いこなすことがかえってむずかしいのである。
ペイントショップなどは本当にどこかの機関で習わないと会得できない、ソフトを使いこなせないのである。それはソフト全般に言えるし機械でも使いこなせないということが問題になる。

人間は生まれつきの能力ですべてが決まらない、環境因子も大きく働く
自分は俳句でも短歌でも最初はただ五七五とか言葉を並べているにすぎなかった。
だから自分は能力がないと見られていたのである。それも当然だったとなる
若いときはどんな優秀な師がいたとしてもその人が将来どうなるかは見抜けないのである
それは自分ながら不思議なのは最近啄木調の短歌を膨大に作っている、次々に苦労しなくても作れるのである。啄木は天才だから作れた、でもこの年になって自分は同じように作れているから才能の開花は老人になってからもありうるのである。
長寿の時代になるとかえって老人になって様々な才能が開花することもありうる
高齢化社会は負の部分もあるがプラスの面もある。
それは人間の才能を伸ばす時間が増えたということなのだ。

ともかく人間は学ぶのに時間がかかりすぎるのである。学ぶことはきりなくあるからだ。そのうち時間切れになり何もできなくなるのである。
自分の場合は能力というより環境因子が大きく働いた。
会社にも勤めないし三〇年間自由に過ごしたからである。
その間に旅したとしてもそれは勉強でもあり自分の能力を伸ばすことができたともなる

技術というのは人間を変える、社会を変える、ARTとはそもそも技術の意味だからである
一方で原発事故のように社会に甚大な影響も与える
技術にも負の部分とプラスの部分がある、教育に関してはプラスの部分が大きい
ただインターネットで人間のコミニケーションができるかとなると疑問になる
直接会って話すこととは違うだろう。それでも人間は会える人は少ない
自分など孤立しているから学問的なこととか芸術的なことなど話す人など近くに一人もいない、インターネット上で毎日読んでいるプロクとかはあり直接あわなくてもそれで得るものはある。
それでもインターネットを利用すること自体、テクニカルにはできてもその内容を理解するとなるとむずかしいとなる。
ただテクニカルな面はこれからもどんどん発達してゆき追いつけなくなる
若い人はテクニカルな面は進んでも内容を理解する能力となると簡単には身につかないのである。

ミネルバ大学のようなものはすでにインターネットができたときイメージされていた。
別にミネルバ大学でなくてもインターネットを利用すれば居ながらにして学べるということがあったからである。
これからの時代はやはり創造力があるかないかでその価値が決まる傾向が強くなる、単純なものはAI化されロボットが肩代わりする、すると残されたのは人間の創造力なのであるそこに価値が生れる、でも学校教育ではそういう創造的教育が成されていなかったのである。
でもこれからはそうした教育で創造的人間が生れ安くなるのかもしれない
それも不明だが優秀な人がミネルバ大学を選ぶということはやはりそういう傾向になっている。

2017年01月21日

マスコミの報道の独占は終わる (トランプはマスコミを相手にせず大統領になった)


マスコミの報道の独占は終わる

(トランプはマスコミを相手にせず大統領になった)


 小池を批判する意見もある、小池を評価する意見もある、と事実を報道すればいいだけだ。そして読者が正確に判断できる材料を報道してくれればいい。

 マスゴミはクズだから、世の中のことは全部オレ様が判断してやる、大衆はオレ様に従え、である。だから嫌われる。

マスコミとは何なのか?マスコミは世の中に起きたことを単に報道するのではない、一つの主張をもった団体なのである。だからその主張に従ってコメントする人も司会者も選んでいる、朝日テレビだったらどうしても左寄りになる。
それに適合した人が選ばれる、赤旗のようになっていないとしてもそう誘導されているのである。単に事実を報道しているのではないのである。

世の中必ず人物でも評価する人としない人がいる、それが一方的になると危険なのである石原慎太郎を批判した人はいても目立たないからマスコミで取り上げないから石原慎太郎が言いたい放題になっていた。
マスコミは明らかに第三の権力というように強大な権力集団になっているのだ。
それは報道するという権力をもっていたからである。
報道する権利を民衆はもち得なかったために強大な権力をもったのである。
報道する権利は大きなものでありまたこれまでは金がかかりすぎるから誰も報道もできなかったのである。だからマスコミはそうしたし報道装置をもっているから政党と同じく権力集団だったのである。
政党よりも大きな権力をもっていたのである。
なぜならマスコミに政治家でも出れば顔売れて選挙に有利になるからである。
もしテレビに呼ばれないとかなると選挙に影響していたからである。

新聞でもそれを紙に刷って一軒一軒配るとういことは膨大な金と労力がかかるのである。近くで新聞配達を請け負う家がもうけていて裕福になったとかあり町には新聞配達で生活が成り立つ人がいるし新聞を配達することが仕事になる人もいる。
だからそうした雇用にもつながっているし福島県だけでも新聞社は大きな会社だとなる
それは報道するにもそれだけの金と労力がかかる、そして新聞は紙だとするときその紙を膨大に消費しているのである。新聞紙で自分の家は店をしているとき袋を作るのが母の日課だったのである。
トイレットペーパーがないときはその代わりにもなっていたのである。
新聞紙はまた紙としていろいろ利用されていた、風呂のたきつけなどにも自分が風呂の番だったから使っていた。
それでも新聞は今や紙の膨大な浪費になっている、自然環境の破壊の一因にもなっているとなる

それはインターネットなどが生れて電子化したときそうなった。電子化すると金はかからない、全国に即座にニュースでもなんでも個人的なことでも伝えられる
それでトランプがツイッターでマスメデア、マスコミを通じないで主張を直接伝えるようになったのである。今まではマスコミを通じないと伝えられなかったのである。
でもCNNの取材を受けないというときなぜそうしたかというとCNNという報道機関はトランプに反対する強固な主張をもっていたからである。
そしたら何も事実だけを報道するのとは違う、CNNの見解が入ってくるから拒否したのである。
今回はマスコミはトランプにほとんど反対だから泡沫候補としてしか取り上げなかったのである。取り上げたときネガティブなものとしてキャンペーンとして取り上げたのである性的なものとか下品な奴だとかそんなことしか伝えていない、ではなぜトランプが当選したのかとなる、大統領になったのかとなる

マスコミは自分たちの意向は伝えてもアメリカ国民の意向は伝えていないのである。
白人の中産階級が没落して不満が爆発寸前にあることなど伝えなかったのである。
なにかトランプはとんでもない奴だとしか伝えない、だからなぜトランプが大統領になったのか外国から見ていても不可解だとなる
それはそこにマスコミの主張が入っていたからである。
そして日本でもアメリカのマスコミの意向をそのまま伝えたからそうなったのである。
アメリカ国民の実情と事実を伝えてはいなかったのである。
あまりにも一方的なマスコミの主張のみが伝えられたのである。
そのマスコミはヒラリー派のグローバル経済の勝者たちによって作られていた。
だからそれを中産階級の不満な白人たちがそのマスコミの報道にはのらなかった。
マスコミは常に一方的になりやすいのである。時の権力者側につきすいのである。
サンダース候補が民主党で人気になったときそれは白人の中産階級労働者の不満を吸い上げていたからである。
グローバル経済はアメリカの極一部の人たち、ウオール街の人にしか富をもたらさなかった。アメリカの格差は極端である、そのことにトランプが勝った要因があった。

マスコミはただ事実を報道するのではない、会社の方針があり主張があり報道している。その判断を国民にあおぐのではなくマスコミが自体が決めてやるとなる
だから必ず偏向がある、ナショナリズムの回帰がありその賛否はあるにしろ反グローバル経済が世界的に起きているのも事実である。
日本のマスコミはグローバル経済を主張している、だからトランプには批判的になる。
アメリカはもっと世界のことを考えるべきだという、アメリカだけではやっていけない時代だとか言う。でもグローバル経済でアメリカがみんな豊かになってわけではないからこそ経済のナショナリズムが起きているのである。
数パーセントの人たちるアメリカの富がもたらされたが大勢の人にはもたらされなかったからこそ不満がありトランプを支持したのである。

いづれにしろマスコミは自らの主張をするために報道の権力を有していたのである。
取捨選択もマスコミでするしそして自分たちの主張をするためにテレビでも新聞でもあったのである。それは報道するための権力をもっていたからである。
それがインターネットになったとき事実を伝えるにしても新聞社ではなくテレビでもなくインターネットから伝えたからマスコミでは怒りにもなったとなる
マスコミが批判されるとき中立ではない事実を報道するだけではないから批判される
国民が望んでいるのはメデアとしての機能であり事実を知るためでありマスコミという会社の主張を聞くためでも見るためでもないのである。

トランプ大統領に反対するデモがあったがその事実を報道すればいいのでありこのデモを見るように反対する勢力が大きいとかコメントするべきではないのである。
ただすでにそのデモの報道をするにしても偏りが必ずある、そこにすでにマスコミの主張が入ってきているのである。取材するにしても必ず偏りがある。
すると公平に国民は報道されたものから判断できないのである。

ともかくインターネットでも十万とかyoutubeで見られているとなるとマスコミと拮抗してくるものもある、だからマスコミでは驚異だとなる、するとどうしてもインターネットには否定的な報道になるのである。競争相手になってしまうからである。
アメリカの大統領就任式にバイクのライダーが二〇万人トランプを守るために来るというのをyoutubeで報道した、その後でテレビが報道していたのである。
youtubeの方が速報性があったのだから速報性ではインターネットが早いとまでなっている
人間はみんな記者となる時代である。マスコミの報道の独占は終わったのである。






タグ:マスコミ

2017年01月12日

トランプはなぜマスコミを嫌うのか (マスコミを相手にすると偏向報道がされるから)


トランプはなぜマスコミを嫌うのか

(マスコミを相手にすると偏向報道がされるから)


masssmmmm111.jpg

そもそも民主主義が発生したのはギリシャであり小さな都市国家である。そこでは直接民主主義だった。市民が直接投票して市を運営する人を選んだ、そういうふうに小さい都市国家だからその人がどういう人物かもわかる、その主張もわかる。
民主主義がもともとデモクラシーというときデモとは地域のことだったというときもそうである。小さな地域で行われていたのである。またそうでなければ成り立たないものだったのである。
それが今の国家規模になると民主主義が成り立ちにくい、そこでマスコミが第三の権力になったのである。
つまり直接民主主義が成り立たずマスコミ民主主義になったのである。
マスメデアというときまずメデアは

メディアとは、媒体、媒質、伝達手段、中間などの意味を持つ英単語。“medium”の複数形。

それはただ何かを情報を伝える媒体であり単なる機械だとなる、でもそれが現代で重要になったのは一億人に伝えるとなるともうそうしたメデアがなければ伝えることもできないのである。だから最初は新聞であり次にラジオが大きな力をもち次にテレビが大きな力をもつようになったのである。
国民の声を伝えるにもそうしたメデアをマスコミを通じなければできないのである。
そしてマスメデアをマスコミを通じてある人物でも事件でも何でも取り上げられれば一億人の国民に伝えられる、でも取り上げられなければ何も伝えられないとまでなったのが
今の民主主義なのである。
マスメデアがマスコミがなぜこれほど大きな力をもち社会に影響したことが民主主義を歪めたのである。

今日見たフジテレビのトクダネでは盛んにトランプを批判していた、なぜマスコミを拒否しているのかとかトランプはなぜツイッターでしか発言しないのかとか盛んに批判していた。ますあからさまに批判ありきなのである。あからさまにテレビ局の意向を出しているそこに客観的に見るメデアとして中間となどなっていないのである。
トランプが第一になぜツィッターでしか発言しないのか?、そんなことが許されるのかということで日本のマスコミもアメリカと同じようにそのことが一番の不満なのである。
それはマスコミ不用論にまでつながるからである。

インターネットが一般化してこれもできたことである。何千万のフォロアーが読んでいるということも驚きである。ただそれは一方的になるということでマスコミが批判した。ツイッターなどは自分もしていないのだからそういうことができるものなのか理解しにくいということはある。
それはでも直接的に国民に訴えることができるようになったからそうしている。
これまでは政治家でも直接訴えること伝えることがしにくいからそうなった。
マスコミに出るだけで有名になり当選した議員もかなりいた。第一東京都知事すらそうだった。石原慎太郎でもなぜあれだけ力をもったのか不思議だとなる、それはマスコミの力だったのである。マスコミでは批判できなくなっていたからである。
でも石原慎太郎を批判していた人は本も出しているしいたのである。
それは無視されていたのである。そういうことは常にマスコミ、マスメデアは民主主義では起きていたのである。

トランプがなぜアメリカのマスコミすら泡沫候補としてしか報道されなかった。
それがなぜ大統領までになったのか?それが外国になれば余計にそうなる
アメリカのマスコミがみんなヒラリー側につきそれに呼応して日本のマスコミもそのまま伝えているからそうなった。トランプってなんなのだとマスコミだけの情報から見ればそうなってしまう。
そういうことはマスコミ民主主義では常にあった。
原発の安全神話もまずマスコミに多額の宣伝費を払い批判をおさえる、それで地元の福島県の民報でも民友でも原発推進であり安全神話に組みしたのである。
福島県でもほとんど原発の危険を伝える報道がなかった。
ただプルサーマルとかで前の佐藤栄作知事が危険を問題にしていたことはあった。
でもそれは原発全体が危険だということではなかった、原発自体の危険性を伝えるものはほとんどなかったのである。
そういう批判は片隅に追いやられ冗談かとまでなる、それほど強固に安全神話は作られていたのである。

だからトランプがアメリカのマスコミに批判されるばかりだったからマスコミ不信になりインターネットのツイッターでしか発言しなくなった、マスコミに発言すればそれを取り上げてマスコミの偏向報道につながるからである。
マスコミはまずトランプはけしからんということからトランプは大統領になるべきではなかったいいう明確な主張がありそれで問いつめるからマスコミを通すと歪曲されたものとして国民に伝えられるからである。
つまりマスコミは単なるメデアではない、伝える媒体ではない、明確に主張をもって白黒を決めていて報道するのである。
ただそれがわかりにくい場合がある、それはNHKでも同じなのである。どうしても左翼的な報道をしているのがNHKである。
原発避難者のことでもとりあげたが最初から原発避難者側についた報道をしていた。
この辺の事情は複雑であるから変だなと思った、それは地元でないとわかりにくい面があった。
取材するにしても発言させるにしてもそういうふうにNHKでは原発避難者側について取材していた。だから津波被害者のことを考慮していなかったのである。
両方の言い分を言わせればいいが一方的に原発避難者のみの言い分を言わせていたのである。
マスコミは単なるメデアではない、その会社の主張をもったメデアなのである。
だから

マスコミは信用するな、まず疑へ、批判的に見ろ

それを可能にしているのがインターネットだともなる、ただインターネットにもいろいろ問題があるが対抗メデアとして出てきたことは変化であり民主主義にとってはいいとなるのである。
トヨタをトランプが批判したときもそれはトヨタでもメキシコに工場を作るより日本に工場を作り日本の利益を優先させるべきでありアメリカも外国に工場を作ってもアメリカの利益になっていないからそうなったという主張がある。
そういうことは別にグローバル化した経済の反省からでてきている。
だからフジテレビでなんでトヨタを批判するのだとか感情的になる
テレビは良く冷静に見られるメデアではない、感情的になり一方的に洗脳されるメデアなのである。
何かテレビ局に文句も言えないからである。それは新聞社でも同じである。
それを言ったとしてもまず批判的なことはマスコミでは取り上げないからである。
だから今はマスコミ自体が批判の対象になった。インターネットである程度できるからそうなったまでなのである。これまでのマスコミ支配が崩れることは民主主義にとっていいことなのである。




2017年01月06日

通販でパソコン買って故障 (ASUSのノートパソコンの保証書なくして修理できない)


通販でパソコン買って故障

(ASUSのノートパソコンの保証書なくして修理できない)


商売やってるんだが、良いお客さんは神様みたいに大事にという気持ちでやってるよ。 
良いお客さんを大事にすればお客さんの方も店を気に入ってくれて通ってくれるし、お互い様で成り立ってる。 
店が無くなると嫌だなと思って貰えるくらいにやれば、お客さんも店を大事にしてくれる。 
多少迷惑なお客さんも悪意は無い人が多いから、注意というよりやんわりお願いします、ご協力ありがとうという気持ちで接すればとても協力的になってくれる。 
そうすれば、神様みたいな良いお客さんが増えた事になる。 
逆に自分がお客さんとして他店利用する時は神様みたいに大事にしろとかじゃなく、神様みたいに穏やかで感じの良い客として振る舞うようにしてるわ。 
神様として扱われるかは自分次第。 


大陸と違い島国日本は同じ客を相手にしなくちゃいけない 
内需で成長してきた日本の企業は他の競争相手に客を取られないように 
お客さまさまになってしまった。残念ながらこれは日本が大陸と陸続きにでも 
ならない限りはお客さまさまは変わらないと思う。店員が高飛車にでたら 
客は二度と来なくなってしまう。日本は大陸のように違う客は流れてはこない



今回の買物の失敗はASUSの3万のノートパソコンを買ったが一カ月くらい使って使えなくなった。
充電ができない、充電しても点燈しないから確実に充電できなくなっている。
何かASUSは充電に関して問題があるらしい,ネットでそうしたことがあったと書いてあった。
そもそもこのASUSというのがどこのメーカーなのかわからなかった。そもそも3万で買えたのでアマゾンで買った。失敗してもしょうがないと思い買った。
パソコンが使えないということが今までなかったからである。

バッテリを接続した状態で電源コンセントにつないで使用していると過充電となり、さらに熱によって劣化が早まることがあります。
また、長期間使用していなかった場合はバッテリが過放電となり、充電ができないなど故障の原因になります。

これを充電したままにしていたので過充電になったのが故障の原因かもしれない
でも普通は充電したままでも電気が自動できれるようになるとかも書いてある。

そして失敗だったのは保証書もなくしていた。それで今度はヨドバシカメラに電話して修理できないかと聞いたらできるという、でも保証書がないとだめだという、修理はできるが金がどれくらいかかるかわからないという、これも失敗だった
量販店では保証書がなくても修理は頼めていた、それができないのでどうにもならなかった。
ここで保証書の大事さを思い知らされた。
商売では保証書が大事である。でも量販店で買っていたら保証書は別に必要ないのである修理は頼めるのである。

今回のことはアマゾンで通販することがもう習慣になっていることから起こったことである。量販店は何かいつも高いとか品数が少ないとかいいものが置いていないとか自分の場合、車がないので配達すると3000円くらいとられて損だとかなり量販店からはあまり買っていなかったのである。
この前レンジを3万で買ったけどそれはいろいろな機能があっても全く普通のレンジと同じであった。ただ機能がいろいろできるとなっていただけである。
それは売る方に問題があったのではなくメーカーに問題があった。
そんなにいろいろな機能がありできるようにしていたことである。
それももしアマゾンならレビューをみるから買わないということがあった。
量販店は使った人の意見を聞くことができないことが問題なのである。
使った人が一番良く知っているからである。

でも通販にも弱点があった。それそも人を介して買わないという通販はどこで信用を補償するかが最大の問題だったのである。それで通販では高いものは買えなかった。
保証がないからである。今回も3万だったらと買った、そんなに簡単に不良品とか故障しないと思ったからだ。
そして量販店では最新のいいものを置いていない場合がある。ノートパソコンなどASUSなどもそうなのかとも思った。
一方で掃除機は2014年ものを買った、別に十年前とか買ったものだから自分にとっては最新式になるからだ。そういうとき量販店には古いものはなく最新式になっていて高いのである。

そして意外だったのはデスクトップのパソコンなら今は中古品にいいものがでている。
win7をソフトの関係で欲しいと思い3万か2万で買ったがいいものだった。
問題はペイントショップがCPUの関係で遅くなり操作しにくい、ペイントショップを使うには相当に高性能でないとできないことがわかった。もう一台の新品のではできたからである。
量販店の問題は品数が少ないことと高いことになる、ただ保証だけはしっかりしているのである。ヨドバシカメラでは震災後買物していない、バスで簡単に行けないからである。電車が仙台まで前のように通るようになってまた行けると思い電話したのである。
ワ-プロでもフロッピイデスクを読み出せないので調べたらワープロの中古品店があり何でもあるのに驚いた。
ネットだとそうした店がある、その規模が大きいのである、他にも壊れたパソコンをなんても5000円で直せるとかもあった。
ネットだとそういう店があることがわかる、田舎だとまずお手上げになるからだ。

ともかく今回の失敗は

保証書をなくした、もう何もできない

これは領収書をなくしてどうにもならないとかと同じだろう。通販とかなると対面販売でもないから保証しようがないのである。その時保証書と領収書が大事になる。
領収書はアマゾンでも出せるが保証書は出せない、アマゾンで売ったものを保証しないのである。そこに大きなリスクがある,そのことがわかっていて高いものは買わなかった。でも日本のメーカー品はカメラなど買っていた。
いづれにしろ通販が習慣化してしまったことが今回の失敗の原因だったのである。
まずアマゾンをみて買うとういのが習慣になっていたのである。

良いお客さんを大事にすればお客さんの方も店を気に入ってくれて通ってくれるし、お互い様で成り立ってる。 
店が無くなると嫌だなと思って貰えるくらいにやれば、お客さんも店を大事にしてくれる。

こういうことが今までの商売であり売る方と買う方の関係であり人間的だった。
つまり店屋の時代はお得意さんというのがあっていつも買ってくれた人を大事にしたのである。
今は量販店でもないし、なんかコンビニでもない、なぜなら店員が一つのコンビニで働いていない
広い範囲で働いていて交代しているからである。だから何か自分の店でないから愛着がないということもある
自分の家族で経営している所は愛着が生れる、でも今はチェーン店も多いしそうした愛着がないただ雇われているだけだとなるからだ。
通販だと売る方で買う方でも相手が見えない、そこには人間関係が生れないのである。
対面で買ったり売ったりしない、遠いこともあり保証もないということが問題だった。
つまり商売でも仲介する販売店は品物を保証する役割があったのである。
商売には保証するということが大事なのである。
作った人がいて売る人がいて買う人がいる
作ったものをまず販売店で買う、でもその時販売店ではその作ったものを吟味していいか悪いか決めて客に保証するのである。
ともかくメーカー品がいいというとき故障しにくいとかあるがASUSとかなると外資系であり保証できないということがある。
でも別に量販店も買えば保証はある

いづれにしろ通販社会になっていたことから自分の問題は起きた。今や通販なしでは生活が成り立たなくなっているのである。
量販店がなくなってもなんとかしのげるが通販がなくなったらどうにもなちらなくなる
そういう時代になってしまっていたのである。
自分は田舎町に住んでいるからかえって通販なしでは買物できなくなっていたのである。エビアンとの水まで注文して送ってもらっていたからである
これを買うと重いからかえって送ってもらった方がいいとなる

通販時代でも量販店とか店はまだ生き残るのだろう。何かそういう機能があるからだ。
自転車屋などは通販では買えない、必ず修理があるからだ。それでわざわざ通販で安いものでも一軒ある自転車屋から買っている、その自転車屋もなくなるというときここでは困ったことになるのだ。隣の街まで行くのが大変になるからだ。
だからなくてならないものはありそういうものはつぶれないしなくならないとなる
本屋などはなくなってもしょうがいなものだったろう。
その数が一万倍なのか百万倍なのか違いすぎるからである。
だから本当に本がこれだけ読めるということは田舎でも知識では都会と同じであり差はないのである。だから田舎でも知識的には遅れをとることは今はないのである。

ともかく商売というとき意外と仲介するものが大事だった、なぜ有田焼が伊万里焼きとして外国に売られていたのか、作ったのは有田である。でも伊万里の港から外国に輸出したから伊万里焼になっているのである。
仲介する方が外国に知られていてそうなった、それは商売というとき売る方がその場が外国に知られてそうなった。それは仲介する店ともにているのである。
だから店とか仲介するものとか何かそれにも大事な役割がありいくら通販時代になっても消えないということがある。
ただ自分の場合は通販が習慣となって混乱したともなる




2017年01月04日

マスコミはもう終わっている (これからは土着的地域に根ざす報道機関が必要)

マスコミはもう終わっている

(これからは土着的地域に根ざす報道機関が必要)



テレビ報道の現場は、誰に向かって何を伝えるべきか、また自分たちが視聴者や取材相手にどう思われているのか、見失っている。そう懸念するのは、ある民放キー局元幹部である。


マスコミというとき放送する相手が誰かとなると日本国民とかでありその範囲が広すぎるのである。マスコミニケーションでありマス(大衆)を相手にして放送する。
全国放送だとどうしてもだから一様な放送になる、大衆相手だから視聴率をとるために芸能人を出す、知識人でも芸能人なのである。
電波芸者だとか揶揄された人もいる、マスコミは何か真面目なことを追求しているわけでもない、視聴率を稼ぎ宣伝費を稼ぐためにある民営の会社にすぎないのである。
だから報道に対する使命などないのである。
でもなぜこれほどマスコミが社会に影響力をもっていたのか?
それは全国放送するのがキー局が六つとか独占されていたからである。
前はテレビでしか知ることができないことがあった。

そもそもNHKが受信料をとるのはテレビを普及するためだったという。
テレビが出たときはテレビは高いもので見れなかったからである。
だからその時テレビで放送されるものはその内容ではない、テレビに写るだけで見られたのである。
テレビにでるだけでつまらいな人物も有名になり政治家になったりした。
有名になるにはテレビが一番効果的だったのである。別にその人物は問わないのである。大衆受けする面白そうな人を抜擢して視聴率を稼ぐのである。
また団体の圧力がありそううい人を出す、だから今やマスコミに選ばれ出る人は何かうさん臭いとなったのである。芸能人と変わりないと見られるのである。
マスコミ自体がすでに信用できないものとなった。だからトランプが大統領になったことでもマスコミの権威は地に落ちたのである
アメリカではそんなにかたよっていると思えなかったがそこも同じだった
アメリカのマスコミを言うことを日本のマスコミも一方的に報道するだけだかったのである。

どうしても今までは東京中心の放送になる、出版すら東京中心にしないとできない仕組みになっていた。地方から全国放送することはできなかった。すると東京中心の放送だけが流されることになり地方のことは放送されない、また関心ももてないのである。
例えば地方からそこに住んでいる人たちが発信するのと東京などから外部から来て伝えるものの何が違うかとなるとまず地方には代々住んでいる人たちがいるから時間軸として歴史的にその土地のことをみる、そこが根本的に違っている
なかなか時間軸でみることは外から来た人にはむずかしいからだ。
外国でもヨーロッパなどでも歴史があるから時間軸で見るのがむずかしいのである。
それは津波で流された新地駅のことを書いたがあそこは津波で流される前に自分は何度も停車して下りていた。
なぜなら下り列車が交換のために3分間とか5分間止まっていたからである。
その時ホームにおりて待っていると虫が微かに鳴く音を聞いていたのである。
今は津波で流されて新地駅は高くなりエレベーター付きの都会風の立派な駅になった。
すると前のようなひなびた駅の感じがしないし前の駅のことを思い出せなくなる
こういうふうに大きな変化があるとたちまち記憶が失われるのである。
だから江戸時代が何かとなると相当に想像力豊かにしないとまるで異国になってしまうのである。

報道というとき何かあっても必ず時間軸で語るということも必要になる、それは東京からよそから来た人たちには記者にはわからないのである。
新地駅に来ても自分のように語れる人はいない、そこはどこの地方でも同じである。
時間軸で語ることはそこに長く住んでいないと語れないのである。
報道というとき今を語るだけでは見えてたない、過去から語るとき今が見えてくるからだそれが外から来た人たちには見えないのである。
ただ外から来た人たちにも有利な点はある、何かそこの土地のしがらみとは関係なく客観的放送ができることはある。
でも客観的になることもその土地のことを知らないとむずかしいとなる
この辺は原発の補償金でもめた、その事情も複雑になる、でもNHKではそういう事情が知らないわけではなかったが原発避難民側について放送したのである。
それには問題があったと自分は指摘した、ただそれは地元の人でないと気づかないようなことだったのである。だから全国放送されたときなぜ原発避難者に回りの人が冷たいのだと思ったことは確かでありそれで感情的にみる人もいたとなる
その土地に土地の事情がありそれを一方的に放送することがマスコミ報道の危険だった。それは今までは放送する手段がないのだからその効果は絶大だったのである。
マスコミが世論を作っていて選挙でもマスコミの力で煽動で政治を動かしていたのである
報道というときこれも土着的な報道というものが必要である。その地に根を下ろした人が伝えるのと外から来た人たちが伝えるのは違ったものになるからだ。
例えば福島県でも民報と民友があるがこれは福島県全体の報道である。
そうなると必ずしも地元に詳しい人とは限らない、福島県でも広いからである。
ハマ、ナカ、アイヅとあるとき本当はこの三つに区切った報道が必要である。
それは東電の原発事故で浜通りが実は被害があった。放射能の被害というより双葉とか大熊と富岡とから大量に避難してきたことで直接的に感じるものがあったからだ
そして原発事故の補償金でいわき市に次々に家を建てたとき顰蹙かったのである。
二万人も移住して一時はパニック状態になったからである。
でも補償金はいわき市民はほとんどもらえなかったのである。
浜通りは原発地帯というとき一つの共通意識をここではもつ必要があった。
そういうことを浜通りに根付いて生活する人からの発信が必要だったのである。
原発はそれだけ重大なのに浜通り全体の問題してとあったが認識されなかったからだ。
原発はなになのか良く検討もされないしただ利益になるというだけで受け入れていたのである。

でも原発が作られたその土地の事情としては出稼ぎをなくして働く場所を与えることにあった。だから原発は別にその時は危険なものと地元の人は思っていない、それより働く場所を収入を欲しいということで作られたのである。
それで室原だとか飯館村の比曽とかからも原発で働いていたのである。
いかに原発がこの辺では働き口となり恩恵を得ていたかが事故後にわかったのである。
ただ原発のことはこの辺ではもっと報道されても良かったがされなかった。
それより報道できなかったのである。「安全神話」が作られて危険だと口に出してもいえなくなっていたのである。それは福島県の報道関係は全部そうだった。
東電からみんな宣伝費をもらっていたからだ。それはマスコミ全部がそうだったのである何かそれを象徴していたのは朝日新聞社までマスコミの幹部が中国に東電から接待されていたとき事故が起きたのである。
マスコミは全部原発の危険性について報道しなかったのである。
その危険を喚起することもしなかったのである。

誰に向かって伝えるべきなのか?

まず原発周辺の地元住民に向かって危険を伝えるべきだった。そこに報道の使命があった報道は会社の宣伝のためにあるのではない、地元住民のためにある。
だから会社の宣伝費で成り立つこと自体すでに報道の使命は果たせないのである。
新聞社はあらゆる会社でも団体でも資金が入ってくる。民報などは聖教新聞を刷っているすると創価の支持に従うことにもなる、すでにもうここに報道の使命は失われている
創価の悪口は言えないことは東電で原発を作ったときも賛成の意を紙面で書いていた。
それはやはり宣伝費が大きいからである。それはどこでも同じだった。
要するに報道は金のあるもの権力あるものに従うだけになっていた
マスコミとはただ大きな権力に従うだけであるからそれに従うことはまた大きな権力に従うように仕向けられるだけだとなる
結果として巨大な事故となりまた戦争にもなり地元住民が国民が大被害を受けるのである
ただ新聞でもテレビでも報道に金がかかりすぎるからそうなった。まず会社の支援がなければ成り立たないのが報道会社であり一営利会社なのだから倒産してはもともこうもないのだから利益を第一にする、だから大きな権力、金があるところには従うほかないとなるそれで報道の独立性が失われているのがマスコミだった。
報道が第三の権力だというとうときそうした独立性がないなら住民のためになる報道もできない、ただ権力に従うだけだとなってしまうからだ。
だからなぜトランプが勝ったのか?泡沫候補としてマスコミでも馬鹿にされていた人が勝ったのかとなる、マスコミを信用しなくなったからなのか?
何かそういう変化があった。マスコミはアメリカ国民の不満が大きい層のことを見逃していたのである。つまりウオール街とか一部の富裕層側に立っていたのである。
アメリカでさえそうなっていた、金で操作される報道機関になっていた。
それは結局マスコミがアメリカでも報道に金がかかるからである。
インターネットは金はかからない、そこが最大の強みである。
手間はかかるが金はかからないのである。別にいくら書いてもいいし制限されることもないのである。
それで一応全国に放送される、これもありえないことであり今やインターネットは不可欠なものとなった。そしてマスコミは凋落してゆくとなる

マスコミにかかわる人の恐怖はテレビの放送でもyoutube並になるのではないかということである。youtubeで400万回も見られたというのには驚いた。
するとテレビ並になる。テレビは何か特殊なものではない、ありふれたものである
そして大衆向きだから視聴率第一だから何か勉強することはできない
プログの方が詳しい人もいて勉強になる、自分のことを言うのもなんだが俳句短歌を学ぶなら自分のプログが参考になるとかなる
そういうプログが増えた、テレビはただコンテンツを報道する箱になる。
それはインターネットで報道しても同じだとなる、すでにNHKではインターネットでも報道するようになるとしているからだ。
報道も水平化される、並列化されるのである。今までのような報道の特権は権力は失われたのである。

2016年10月20日

報道とは何かー報道に土着したものの眼が必要 津波や原発事故で思い知らされた


報道とは何かー報道に土着したものの眼が必要


津波や原発事故で思い知らされた



報道というときこれも何かとなると定義もできないし報道は今は多様すぎるから世界まで広がっているからニュース追うだけで一日すら終わってしまうだろう。
でも報道の基本は土着的なもの、一番身近に現実に生活する場からはじまる
それが今までの報道に欠けていたしできなかった。
日本全体になるとその報道も多様であり実際はもう報道されないことも多い
その中に重要なことがあってももう報道されない、その報道されないことに重要なことがある。
報道が多様だという全国版ではマスコミでは同じ話題を流す、それは視聴率最優先だからである。視聴率がなければ宣伝費も入らないからである。
すると視聴率をとるにはどうしても大衆向きになり低俗化するのである。
ただ数は力というとき政治でもそうだが報道でもそうである。
みんなが見れば読むとなるとそれだけ影響力がある、テレビでも百万とかの人間が見ているとなるとその影響が大きいのである。
だからこれまではマスコミの力が大きくなっていてマスコミが第三の権力とか言われていた。

そもそも報道は何かというとき報道でもいろいろあるからである。新聞でも様々なものが報道される、スポーツ欄もあるから多様である。自分はスポーツには興味がないから無駄だと思っていても多数が読むとなれば興味をひくためにのせる
スポーツは人間にとって必要でも別に報道することもない、そんなことに紙面をさくということが無駄に思えるのだ。だから今は新聞は一紙もとっていない
それで別に困ることがないのはテレビもあるからである。
テレビではやはり地域の報道をするから見ないとまずいということがある。
ともかくこの辺では津波原発事故後は外部からでも内部からでも報道される
必ず県単位のテレビでもこの辺のことを報道されない日はないのである。

この辺が看護師が不足しているというのもやはり病気になり入院したから気になる
そして200人も中通りの方で看護師が増えているというときこの辺から看護師が流出したからだというときなぜなのかとなり書いた。
それからソーラーパネルの植物工場は失敗して終わった。かえって電気代がかかってやっていけなくなったとかもこの辺独特のニュースである。
ただニュースというのはきりがなくなくある。
交通事故のことを自分がプログで報告したがその人は死んだというのも大きなニュースである。

では死亡欄には年齢くらい住所など書いてあるがそれでその人のことがわかるだろうかなにもわからないのである。そのことがまた大きな不満なのである。
自分は自分の母親のことを百歳で死んだからプログにその死顔をのせた。
安らかな死だったからである。それは相当に全国で見ている、要するに死顔をみるということは写真でもほとんどなかったろう。それがインターネットだとできるからである。
そんなことするな死者の冒涜だとか言う人もいる、ただどういう人が死んだのか?
ただ一行誰々が死んだだけではその人のことがわからない
死顔だけでも見ればこういう人が死んだのかとなる、こういうふうな死顔もあるのかと見るのである。
つまり情報は本当に一人一人がもっていて無限なのである。
ニュースはあらゆるものがニュースになるから無限である。
毎日人が地域でも死んでいるのだからそんなもの関心がないということもある。
でも地域で一人死ぬというとき何かそこに地域であれどういうことなのか、どういうふうに生きたのかとか知ることがやはり一つの郷土史であり郷土学だとなる

自分がプログで探求してきたことはそうした郷土を知る知らせる報道だった。
これまで報道していないのだから報道のことはわからなかった。
ただ俳句とか短歌を作っていても報道にはならない、報道の範囲は広範囲なのである。
最近地震で風呂のタイルとか壊れたがそのままにしていた。
風呂は福祉の湯を利用していた。ただ冬になると寒くなり湯冷めするのでユニットバスを設置することにした。
それを頼んだのはたまたま来た仙台のリホームもしている会社である
何かこの辺では瓦を直したときもいわきの会社であり地元では頼めないと思っていた。
忙しくて人手不足がつづいていると思っていたし何かみんな外部の人がやっているように見えた。それでちょうど全部セットでしてくれるのでいいと思い実印まで押して契約してしまったのである。
今日知っている人に聞いたら地元でもやれる、知っている人にも頼めると聞いた。
でも実印を押して契約したということは相当な責任である。
考えておきましょうとかにしておけばこうはならなかった。

それで石原慎太郎が東京都知事としてハンコを押したことは責任があると問題になったことを思い出した。
ハンコを押すことは契約することは責任を負うことになる
東京都となると大きいからその工事も巨額の費用を払うことになる
家のことならたいした金でないにしてもリホームは金の額は大きいとなるといろいろ普通は考えるのある。アウターサービスがどうなるのかとかいろいろあとで考えて簡単に契約したのが失敗だったとも思った。地元だとアフターサービスはいいからである。
こういうことも経験しないとわからないし自分には社会経験が欠けていたのである。
石原慎太郎も作家でありそういう社会経験に欠けた所があったかもしれない、そもそも一週間に一回とか役所に行っていなかった。
それでただハンコだけ押して後で責任はとらされるとなると怖いことである。
家単位だったらそういうことはなかったのである。
でも家をマネジメントすることもやはり社会生活の基本にあったのである。

いづれにしろ報道とは何なのか?これは本当に範囲が広すぎるのである。
この辺ではまずプログに書いてきたように様々なことが知ることが強いられたのである。放射線量がどうのこうのとこれだけでも理解することが最もむずかしい
科学に弱い自分はとてもそれに答えることはできなかった。
ただ地元ということでいくら科学よ弱くても東風(こち)が吹く時期を知っていたり地元ならではの土着しているものの強みがあった。
これは外部のものにはもてないのである。土地勘はもてないのである。
何か事件があってもやはり土地勘がないと理解できないことがある。
そういうことは土着して生活していなとわからないのである。

土着というとき今は何かその言葉自体が過去のもののようになっている、農民が八割の時代はみんな土着する生活だった。
土着というとき土に着くとなる、その土地と一体化した生活である。
その土地の自然と一体化した生活がありそれが土着である。
報道がそれと関係ないよう見える、全国版とかなると土着的なものからはかけ離れたものとなる、でもそもそも人間の認識する土台はその実際に生きているそれぞれの土地にあることは変わりないのである。
だから報道というときその土地に日々生活して精通したものが報道に向いている
その土地の景観でもどこが美しいとか自然の特徴でもその土地の人が知っている
それからその土地の歴史でもそこに生活している人が地理でも詳しいから歴史から報道する、それも今回は津波とか原発事故で強いられたのである。
400年前にも700人が溺死したと相馬藩で記録していた。それも知らなかったのである。
そういう過去も重要なものとしてクローズアップされたから歴史にも通じていないと報道はできない、報道とは広範囲な知識と見識が必要になる、それは一人個人ではできない、手にあまるものとなる

ただ報道というとき福島県でも広すぎた、その広すぎることが理解するにも必ず誤解生れる、国(くに)というとき実際は相当に狭い範囲のことでありそこから国を治めるスメラミコトが生れた、スメとは狭い範囲の王のことだった。
福島県はハマ、ナカ、アイヅに分かれ気候も違っている、地理的に一体感をもてないのである。
報道というとき福島県の報道となると様々なことが報道されても深く報道されないししりえないのである。
そして欠けていたのは例えば相馬藩内の報道がなかったことである。
それは福島県のさらに相双地域版とかとして報道していた。
でも相馬藩内の相双版としての報道が必要だった。そのことを痛感したのは津波と原発事故だったのである。
これは生命にもかかわるものとしてつきつけられた問題だったからである。
原発のことをこれほどの被害になったように地元で報道して地元の人が関心をもつべきものだった。

小高でも東北電力ですでに原発の工事がはじまる予定だったのである。でも小高に原発を建てられることも知らなかった、そんな重大なことが知らない人が小高を離れると普通にいたのである。それは原発に関心を与える報道がなかったからだとなる
また権力でおさえられていたということもある。
ここに報道がいかに重要かということを思い知らされたのである。
福島県の報道でも雑誌が二つあり新聞社が二つありテレビ局が五つありとかあっても報道されない、ということは関心ももちえないということにもなる
まだ報道するにも新聞とかになると金がかかりすぎるから一個人などできない
そこにも大きな問題があった。インターネットが普及して一個人でも報道できるようになった。ただテレビとか新聞からするとまだ弱小メデアである。
ただ相馬藩内であれ福島県版ではないもっと狭い範囲での報道が必要だったことは間違えない、福島県全体になると広すぎるからその土地に精通することはむずかしいからである

人間は知らないことが致命的になる

津波で原発事故でもそうだったのである。
タグ:報道とは

2016年09月15日

マスメデアからインターネットの情報摂取の変化 (知らないことが致命的になる社会)


マスメデアからインターネットの情報摂取の変化


(知らないことが致命的になる社会)


インターネットとかの情報環境で何が変わったのか?
テレビとか新聞とかのマスメデアは一方的なメデアである
一方的に情報を操作して大衆向きに放送する
放送する方では視聴率を最大の問題にしているからそのためのために放送する
最大公約数のような放送をする
最近テレビを見るなというときそれはテレビが一方的なメデアであり
知らずに洗脳される、自ら考えることをなくさせるからである。

それと違うのがインターネットのメデアである。
ここでは今度は絶えずマスメデアで流す情報を本当なのかという疑問をながかける
それが実際にやらせだったということがある、貧困問題でもそうである
実際は嘘だったということが暴かれた
第一その情報をどこまで真実なのかわからないということがある
一方的にそういう情報を流されても調べようもないからである。
テレビを見るなというとき知らずに根拠のない情報に洗脳されるからである
ああ、こんなに貧乏な人がいるんだな、かわいそうだなとかなる

それはあらゆる面でそうなのである。原発事故の避難者についても常にかわいそうだねとなることしか放送されない、だから実際は複雑であり地元でも補償金でもめているのは事実でありそこは隠蔽されている、マスコミでは原発避難者は常にかわいそうだとなっているからそういうことで批判するとなんだお前は冷たい奴だなと批判される
でもそういう事実があることも知らせるのが公平なのである
マスコミはどうしても一方的にな報道になりやすいのである

インターネットのメデアはこれもいろいろ問題がある、あまりにも情報が多すぎることなどその信憑性など実際はどう利用していいのかまだわからない面がある
インターネットは確かに様々な意見があり知識がある、でもそれの是非を自分で判断するとなるとこれもまた大変なことだとなる、一方的なマスコミの判断にゆだねるのが楽だとなる、第一みんながそんなに暇でもないしそんなに多すぎる情報から取捨選択する時間もないだろう。

インターネットの問題は過剰な情報の海にほうりこまれる、すると確かに出版社とかの人が言うようにインターネットには編集がないという、それは納得する
様々な情報があってもそれがばらばらになって何が嘘なのか本当なのかもわからなくなるそういうことを個人で判断するとなると考えるとなると普通はめんどうになるから
ただ専門家の言うことなどをそのまま鵜呑みにするようになる
専門的なことになると判断することが素人ではむずかしくなるからだ。

今話題になっている貧困問題でなぜそうなっているのか?
ある女性はセクハラなのパワハラなのかやめさはられた、会社ではそうした人が実は会社にとって有能な人なので会社にとって重要な人ではないその人はやめさせられた
それが会社社会の現実なのかということを知る
一方で今新たなリストラが行われている、会社の中核と思われていた中年世代が40代、50代がリストラされている、それは印刷会社の人であり電子化しているからその電子化に対応できないから中年世代がリストラされる
この二つの問題をリンクさせると編集すると会社は今やグローバル競争にさらされているから生き残るためには有能な人間を必要としているらそうでない人間はコストとなるから切り捨てる、それが会社として生き残るためだからそうなる
一方で最近人手不足が騒がれるがそれは誰にでもできる底辺の仕事が多いのかとかなる
有能な人も人手不足なのだがこの人手不足と底辺層の人手不足が違っている
有能な人の人手不足は別に常にあったし確保するのがむずかしい、底辺層の人手不足は誰にでもできるものでありだから外国人で補うともするのである。
これはyoutubeの二つの情報を編集したことになる

インターネットは膨大な情報がばらばらになってある、一つのキーワードから探して無数に情報が出てくる、まずキーワードで情報を探すなど今まではできなかった。
キーワードで探すということはその人の関心から探すのだから常にオンデマンドなのである。買い物すらキーワードで探し現実に買うオンデマンドになっている
だから個々人が求めるものに答えるのインターネットだとなる、そして個々人の求めるものが多様化しているからそれに答えるとなる
マスメデアは個々人の求めるものには答えない、一方的にマスメデアが選択しで与えるのである。何が重要か重要ではないかもマスメデアが決めるのである。
だから選択することも自ら考えることもできないようにしているのである。

インターネットの特徴は何か自分で情報を求めないとそれにあったものはでてこない
最近郷土史で「紙漉き」のことを関心をもって調べたらそれにマッチしたものが出てきて感心した、それは意外な紙漉きの事実があったかである。
江戸時代になるが紙漉きは冬の冷たい水を利用したり重労働であり過酷だったから醜い少女を養女にして奴隷のように働かせたというのである。こういう事実には驚いたのである紙漉きというと何か今になるとロマンチックにイメージしたりするが全く違っていた事実があった。
この知識はやはり自分が紙漉きについて調べて関心をもったから出てきた。
何か強い関心をもたないとインターネットではそれについての知識は得られないのであるそしてその事に関してもいろいろな人が語るから編集が必要になるのである。
するとプログでも読む方にしても関心がある人なら要約されているから自分で調べることもなく時間を節約やることができるのである。
インターネットは調べるのに手間であり時間がかかるからである。

マスメデアとインターネットでは極端に違ったメデアでありそこにも問題がある
その中間のようなメデアも必要となる、なぜならインターネットを一日見ているような暇人はまれである。何か要約したようなものが必要になる
マスメデアはそれをしていたがそれがマスメデアが一方的な洗脳メデアとなっていたのである。だから一方的にマスメデアで選ばれた人が発言する、その他の人は発言できない、そこでも偏りができる、編集するにしても公平にはならない、マスコミの意向によって編集するから偏るのである。

人間は知るということは大事である。知らないことが致命的になる。
モスバーガーが原町にあったのにいつも20年間あの辺に喫茶店がなかったので探していたのにあそこを知らなかったのが大損失だった。
それがなぜかと考えたら自分は車をもっていなかったから寄ることがなかった、車でのみ入れて販売される場所だと思っていたからである。
車をもっていない人は車について知らない、車を利用してできることを知らないということは相当な車社会ではハンディを負っているのである。
別に車がなくても生活はできるが車をもっていればそれだけ生活範囲が広がるのである。ただ車でばかり生活していると何か失うことも確かである。
車は風とか光とか蝉の声でも虫の声でも何か自然を感じない、だから俳句とか短歌を作るとなるとそういう生活は自然を遮断するから向いていないともなる
つまり歩くことと自転車の旅でも相当に違ってる、歩くことで感じることを経験しないと江戸時代などのことも俳句でも理解できないと思う、歩くことで感じることは今や新鮮なのである。

知らないことが致命的になるということはいくらでも起きている
この辺ではそのことを痛切に感じたろう。
津波のことでも原発事故でももともと知らないということが致命的になり命まで落とした知らないことは命にかかわっているのである。
原発事故でも地元の人が政府とか東電の言うがままであり安全神話を信じていて自分達では調べることもしなかった。
一方新潟県の巻町では学者を呼んで自分たちで調べて原発を作らせなかったのである。
だから放射能のことなど核のことなど知り得ようがないということでもなかった。
ただ自分たちで知ろうとしなかっただけだともなる
第一原発にしても吉田所長が復水器のことを知らなかったというのが意外だったのである所長が知らないかったらそもそも事故があったりしたら何もできないとなる
実際に何も指示もできないということがあった。
何であれ知らないことが致命的になるのである。
またいろいろなことを調べてもインターネットで調べても個々人で判断することもむずかしい、病気のことでも自分でもそうだったが知識の迷路に陥ってゆく、ある人は民間療法など
を信じてかえって病気を悪化させるなどいろいろ問題が起きる
つまり知ったとしてもそれを判断することがむずかしくなる

今の社会は複雑であり知るべきことが無数にあり対応できないのである。
自分が車にのらないからモスバーガーが喫茶店として利用できるのを見逃していた。
それも20年間もである、そういうことは例えばインターネットなどめんどうだから知らないでいいやともなるがそうなると自分のように車を持たないで知らないことで大損することにもなる、だから現代社会にすでに車を持たないと運転できないとかまたはインターネットを利用できないとなると適応できなくなり大損失になるしそれが命にもかかわることもある。
投資信託でもそれがなかなかわかりにくい、ましてや株のことなどもわかりにくいからだまされやすい、銀行の人が貯金しても利子がつかないからとすすめられるとどうしてものりやすい。でもそもそも投資信託の仕組みすらわからなかった。
外国の国債を買うと元本が保証されない、それも怖いことだと思ったし投資信託でもそうでありそういうなにか危険なことを知らない、それを知ろうとするとこれもめんどうになる、現代はともかくそうした情報社会でありそのために様々な問題が生れ混乱してくる
グローバル化してさらに情報社会になり事の真偽がさらにわかりにくくなる。
第一外国のことになると理解することがさらにむずかしくなるからである。
ただこうした情報社会では知らないとお前の自己責任だとされるのである。
だから知らなかったではすまされない時代になっているのである。

2016年09月10日

松本清張の「黒い福音」を見て (アメリカに支配されていたために宣教師を逮捕できなかった)


松本清張の「黒い福音」を見て


(アメリカに支配されていたために宣教師を逮捕できなかった)



中国にアヘンを密輸しまくってアヘン戦争を引き起こした商会がジャーディン・マセソン商会 
そのジャーディン・マセソン商会の長崎支店こそが坂本龍馬のスポンサーであるグラバー商会である


1951年の米国議会上院の軍事外交合同委員会のマッカーサーの答弁
「日本は絹産業以外は国有の産物はほとんど何もないのです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない、その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域に存在していたのです。
  もしこれらの原料の供給が断ち切られたら1千万から1千2百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」


  フランクリン・D・ルーズベルトのミドルネーム“D”は、デラノ一族の意味で、セオドア・ルーズベルト大統領も血族の一人で、ユダヤ人ある。ルーズベルトとは、オランダ語で「赤いバラ」である。

デラノ家は、アメリカやイギリスの富裕階層の大半がそうであるように、アヘン貿易と奴隷貿易で財をなした。

「アヘン貿易と奴隷貿易は一体となっている。今日のアメリカの隆盛の最大の原因は、イギリスの黒い貴族たちがアヘン貿易で儲けた金をアメリカに注入したからである」と鬼塚氏は端的に説いている。

バチカンの(ハプスブルグ配下の)フッガー家に対する借金返済の施策である免罪符の発行への対抗策として、教会不要論や天職理論、蓄財の正当性を説くことにより、教会へのお金の流れを銀行(預金)への流れに変えることを推し進めた。

金貸し支配の構造A ベネツィアの黒い貴族:サヴォイ家

その後大航海時代には、イエズス会は世界各国へ食指を延ばし、奴隷貿易により膨大な利益を得ていくことになり、その運用のためにバチカン銀行が造られる。
>各国の軍事施設の近くには、必ずと言っていいほど教会が設けられている。そこの懺悔部屋での諜報活動がイエズス会牧師の大きな役割となっていた。

タックスヘイブンの構築

>サヴォイ→デル・バンコが支援していたテンプル騎士団が迫害を受け、イギリス騎士団としてイギリス方面に渡る。その際、バイキングと結託し、イギリス北西のマン島にオフショア=タックスヘイブンといわれる無記名、非課税or低課税の制度を確立し、外為で獲得した膨大な利益の目減りを防ぐシステムを構築していく。その後、スイスやロンドンでも同様のシステムが設けられていく。

『権力ゲーム』とは、金融権力を握ったロスチャイルド国際金融マフィアが、世界各国で国民を支配し搾取するために、政治、行政、司法、経済、企業、労働組合、メディア、教育、宗教などの権力を握って独裁支配体制を築く『反国民の権力犯罪』である。


明治維新でもそうだが戦後でも外国宣教師が入ってきてキリスト教を布教したのは問題があった。なぜならアメリカが主だがアメリカは裕福であり権力をもっていたからである。そのために権力で宗教をおしつける、権力で宗教を広めるとなるからである。
クラーク博士はどこの宗派にも属していないし何かそうした権力と無縁の人であったからかえって明治の青年を感化したという、カトリックとかなるとあのように明治の武士の出身者を感化できなかった。そこから独立した内村鑑三のようなクリスチャンが生れた。
カトリックのようなものだとそういう人は出なかったとなる
内村鑑三は外国の宣教師を嫌っていたからである。それは日本国の個々人の独立精神を失うからである。
ただ明治となるとキリスト教のことがわからない時代だからやむをえないことがあった。今なら外国の宣教士とか宗派とか教会でもエホバとかのカルト団体とか外国系資本の教会に属する必要なとないのである。
自立していくらでも聖書など学べる時代である。むしろそういう場所に行く属することは信仰をそこねることさえあるだろう。
なぜなら自分は一回も教会で聖書の話も聞いたたとがないし聖書自体学んだこともないのである。カルト団体に属してもそれは仏教系だから全然違った世界である。
それでもクリスチャンになる人はなる、それは聖霊の働きによるからである。

この映画でも教会がアヘン取引していたとか暗黒のおぞましい所だった。ただこれはフィクションだが事実を基にしたものであり結局事件は闇に葬られた。
その時アメリカに支配されていたのだから操作すらできない治外法権の場所になっていたからである。
ただ宗教というと特に宗教団体とかなる何かそうした闇をどこでもかかえている、それはなぜなのか?巨大な権力を有するようになったからである。
それはカトリック教会からはじまった、今でもバチカンの闇がある、カトリックが国家並の権力をもつが故に歴史的にそうなっていた。
教会だってそこが商売の場所にもなるしいろいろと世俗的なものに利用される
それは創価を見ればわかる、もうそこは様々な利権が食い入る場所になっている
大成建設が何かオリンピックの入札で不正していたのではないかというのもそうである。大成建設と創価は密接な関係がある。会員も多いからだ。
第一国土大臣が公明党だったらそれも当然だとなる
宗教団体は巨大なるが故にそこは利権の場所であり権力でもって大衆を操作する場になる統一教会だったら韓国系でありとか背後に国家権力が関係している
エホバだったらアメリカとであり日本自主独立のものはまれである。

教会でアヘンを売買していたというと何か常にアヘンが資金源になっている。中国がイギリスからアヘンを売られて国力を失ったようにアヘンは亡国の薬である。
そしてルーズベルト一族がアヘンで財を成した一族だとか何かそうした巨万の富を築いたものには必ず黒歴史があり政治家にも黒歴史を背負っている
アヘンで外国を批判するが日本も戦争中、中国にアヘンを売り資金源にしていたという。アヘンというのは巨利を得る手段なのである。今でもフィリピンでもアヘンのために国と戦争状態になるとかメキシコでもどこでもアヘンがやはりそれだけ金を生むからマフィアが活躍する、そしてどこでも権力の集中するところが宗教団体だろうがなんだろうがマフィア化しているのである。

こういう黒歴史はインターネットでは驚くほど詳しい、何か今までおさえられたものがインターネットに噴出しているのかもしれない。
ただその陰謀論にはまるとこれも訳わからなくなる。
ただ巨大な権力自体が人間にとって悪い方に作用していることは確かである。
銀行にしてもそこに巨額の金が集まるから世界まで支配できるとなる
人間は個々人でも金を貸すことによって奴隷化される、それは江戸時代もそうだった、遊女にされたが今でも現実にバングラデッシュとかカンボジアとかはほんのわずかな金で少女が売春されている、つまり江戸時代を知りたいならそういう国に行ってみれば実感するそれをDARKNESS DUAとかで延々と書いている。
あのようなことが今までも確かに知られていたがあれだけのものを報告できるのはインターネットだからできたのである。

どうしても金がある権力がある所にはよからぬものが入ってくる
自分もそれでひどいめにあった。多少の遺産をひきつぎそのために強盗のようなものが来る、借金で苦しめられていたものが病気でも借金を要求してくるとか金があることで恐ろしい目にあうこともある、現実に常に江戸時代でも富裕な商家が盗賊にねらわれる
家政婦二人雇っていた金持ちが強盗に入られて殺されたとか常にある。それは昔からあったことである。中国では盗賊の首領が皇帝までなったしイギリス海軍は海賊が基だったりと権力があれはその権力の奪い合いが必ず起きてくる、革命でも権力を得るためにする。大義名分があっても盗賊同士の争いなのかとまで見る
だから巨大な権力がある所は宗教団体だろうがなんだろうが闇になる
その闇の正体はなかなかわからないから陰謀史論になる、結局それはサタンが世を支配すると同じである。
一見権力を金をもつのはいいように見えるし大衆でも貧乏ならみんな金が欲しいとなる
金がいらないなどという人は今では特にいないし金がないから最低限の生活すら不可能である。だからこそ金に支配されるのである。
では実際にありあまるほどの金とか権力をもつとどうなるのか?そこは闇の世界になってしまう。つまり権力と金で支配する者はサタン化するということである。
世界史自体がこれほどキリスト教が普及していても何にも変わっていない
やはり権力と金が支配する世界だということである。

この映画は戦後アメリカに支配された時の物資不足の時代のことである。
教会がアヘンの販売していたというから腐敗しきっていた
それはドラマだけのことだったのか?
これは事実を背景として生れたドラマである。教会に入るというときそうしたアメリカから物資の恩恵を受けることもあり入る人もいたろう。
人間は純粋に宗教を求めることはない、何か利益があり弱者が権力の助けを求めて入る
その弱者を利用して権力を拡大化するのが政治である。宗教もそうして権力闘争に利用されるのである。

この映画の結論が示唆に富んでいた、なぜ限りなく黒だった宣教師を逮捕できなかったのか?
それは戦後アメリカに支配されていたためなのである。
それで警察の上官が言ったことは

日本の国は強くなければこうなる、他国に蹂躙される

これと「心の青雲」で常に言っていることだからそれはあてはまる
国が弱ければ下々で最貧国のように少女はわずかの金で売られるのが歴史の現実なのである。そしてそこに公平な裁判もありえないのである。
それは今でもそうである。、検察でもアメリカの意向に従わねばならないとかなり公平ではありえない、日本は未だアメリカから独立していない、属国だからそうなる。
映画は単なるフイクションだと興味がない、なんらかの事実に裏付けされているとそこから歴史でも学ぶことができる、ただフィクションと現実は違う、そこでフィクションが現実のように錯覚しているのが映画とかテレビの時代だと多いので問題なのである。
ただインターネット時代になるとこんな映画あったのかと知らないことを知ることになるこれは最初テレビで昨日放映していた、でも途中から見たからわからないところがあったでも検索したら無料で見れるのがあった。それもこの映画は二つくらい同名で製作されていたのである。映画は何かテーマがあって製作されている、こうした映画を見ている方が世の中の真実がわかる、これからはあまりテレビを見ない時代になっている
チャンネルが百チャンネルとかなる、2チャンネルもあるが自分もチャンネルの一つであるから膨大になるのである。テレビとか新聞はもうだんだん見なくなるし読まなくなる
なぜならそんなにいろいろなものを見れないからである。
インターネットの有利なのはあるテーマとかキーワードから深く考察できることなのである。それだけの情報量が蓄積されたことによってそうなったのである。


タグ:黒い福音

2016年08月13日

「心の青雲」が文字化けして読めなくなっている謎 (サイバー攻撃か、その怖さ)



「心の青雲」が文字化けして読めなくなっている謎


(サイバー攻撃か、その怖さ)

文字化けは著者の問題であり回復した

でもなんかサイバー攻撃があったら怖い


今日心に青雲を見たら訳のわからない文字になっていて読めない、全部そうなっている
サイバー攻撃されたのだろうか?

インターネットで怖いのは記録が一瞬にしてすべて消えることである。
そういうことがさくらのプログでもあった、ただバックアップしてあったので修復できたインターネットはパソコンでも技術的には安定してきている
だからめったにそういうことはなくなっている

でも一般人とインターネットを管理する会社とかがありまた技術的にハッカーなどでもいて何か相手のパソコンを操作できる、するとプログなどでも簡単に操作して全部読めないようにされてしまう危険がある。消される危険もあるしそれがインターネットの場合、
簡単にできてしまうことの恐怖なのである。
だから記録しておく必要がある。
一時win8とかにするときウィルスが入り記録をだめにした。これも怖いことなのである。
「心に青雲」は毎日読んでいた。ユダヤ人を絶えず批判している、ただそうはいってもアメリカ側につくもので中国を常に批判していた。
となると攻撃されたとしたらアメリカ側とは限らない、どちらかというと中国側かもしれない、中国は何か盛んにサイバー攻撃している国だからである。
そして一個人とか何かサイバー空間では技術的に無力である。
国家が関与したらサイバー攻撃は怖いものとなる

なぜ「心の青雲」がねらわれたのか?あのプログが読者も多かったのかばしれない
反対することがあっても筋が通っているから一貫したものがあるから感心して読んでいた別に敵対するものでもそうして一貫したものがあるとき共感する
ただ別にインターネットではアメリカであれユダヤ人であれ中国であれ批判しているの多い
ではなぜ「心の青雲」がねらわれたのだろうか?それは今は謎である。
どうしてそうなったのかわからないからだ。
言論がすべて自由化というと民主主義社会でもそうはなっていない
何か強力な権力がバックにあり操作される、それに反対するものは世の中に出れない仕組みになっている
第一原発の安全神話が作られたのは強力な政府と東電の権力によって作られていたのである。それに反対するものは許されなかった
マスコミもすべて同調して宣伝費をもらっていたからである。
マスコミは真実を伝えない、権力に操作される側なのである。
出版でさえ操作されているし権力のないものは簡単にはできない
自分ですら図書館に本を置くことを拒否されたりしている
何か一見民主主義が自由な言論があるようでないのである。
たいがい出版でもバックに組織に属していないとできないのである。
個人は排斥されているのである。


インターネットのホームページでもプログなどでもサイバー攻撃することは技術力のあるものにとっては簡単かもしれない、それが大きな組織がかかわっていれば余計にそうである。
プログなどは一見何でも自由に見えても攻撃されさば脆弱である。
さくらのプログなどはただ最初安いからと始めた、最初にホームページとかレンタルサーバーとして利用したついでにした。
でもこれはマイナーな会社でありプログなどだとアクセスを稼ぐのには向いていなかったそれが最初わからないのでそうなった。使いにくいこともある。
ただなんかレンタルサーバーでもプログでもアドレスを変えるのがめんどうでやめた。

いづれにしろインターネットの怖さは記録が一瞬にして消えることとサイバー攻撃に個人になると防ぎようがないのである。
だから入り口でレンタルサーバーでもいいからセキュリティをしっかりしてもらわないと使えないとまでなる
そんなこと個人ではできないからである。

いづれにしろ「心に青雲」はどうなったのか?回復できるのか?それも技術的には個人的には無理になるから困るのである。
組織力があるなら技術者を雇うことができるが個人的にはできないからである。
インターネットでももしアメリカのCIAとか中国などが国家的にかかわったら操作されてどうにもならない、ここでも権力をもつものによって操作されるとなる
中国は国家戦略としてアメリカに対抗するためにサイバー攻撃をしているのである。
だから何でも個人では国家の権力に対抗することは無理だとなる
自分のプログでもホームページでも危険はある、たださくらのプログのセキュリティはどうなっているのか?
ともかくインターネットでも影響力が大きくなる場合がありそうなると権力側に攻撃される、そういうことでインターネット空間にも必ずしも自由な言論があるとはならない
情報は権力によって操作されているのである。
原発などもそうでありそのために大事故になったのである。その前に危険情報が知らされない仕組みになっていたからである。
東京都議会でも闇の権力者がいて予算が操作されていた。金がそうした闇の権力者に回っていたのである。それを暴くことが容易ではないというときそれは社会自体がそうなっている
巨大な権力によって情報は操作されて人々は肝心なことは知らされない、その結果として甚大な災いをこうむるのである。


タグ:心に青雲

2016年06月06日

買い物が増えすぎた、情報が増えすぎた、処理できない (古いものが失われたことによる損失もあった)


買い物が増えすぎた、情報が増えすぎた、処理できない


(古いものが失われたことによる損失もあった)


家事をやるときまず何を買うかが問題になる。どういうものを料理でもそろえるのかが問題になる。
それがスーパーでもホームセンターでもそうである。そこに何があり何を買うべきかを知ることがまず第一である
そして今では小さな町の一万くらいの町でも相当な品数があり何を利用すれば最適なのかそれを知ることが肝心だとなる
家事を十年していても未だにそのことがわからない、それだけ品物が増えすぎたのであるその点インターネットだと検索で探せるから便利である。自分の欲しいものをキーワードでと探すから欲しいものがわかりやすくなる。
それがスーパーでもホームセンターでも品物がありすぎると目当てのものを探すのが大変なのである。
ただ見て回ってこんなものがあるのかということの発見はある。
インターネットではキーワードでしか探せないからである。
だから本屋に行く楽しさはいろいろな本を見て歩くことにあった。
でも地方の書店ではもうその種類が少なすぎるから書店は用なさなくなった。
今になると仙台に行くのも億劫になったから今年はまだ仙台に行っていない。
別にアマゾンで本などいくらでも買えるとなったからである。

ネット販売だと店屋めぐりとかできないし街を歩いて楽しむということもできない
地方の商店街はほとんどシャッター通りになっている
ハチンコ屋はどこにでもあり何か街自体の魅力が喪失した。
街というのは自然環境とか歴史があり成り立っていた。
相馬藩だったら城があり城を中心として各地で城下町が形成され街も形成されてきた。
通りを歩く楽しみがなくなった。仙台辺りはまだある。
青葉通りとかあり学生も多く若い人も多く歩いている
歩く楽しみがまだある。通りは自然の風光とかを感じ人が生活する息づかいを感じる場所であった。青葉通りはまさに青葉にふさわしいのである。
それで俳句とかにもした。それがビルの中に入るとそういう自然の風光とか歴史と切り離されるのである。
それはスーパーとかでも同じである。つまりスーパーなどには自然の風光とかその土地と切り離されたものである。その最たるものがイオンなどである。
街から切り離された郊外に独立して膨大な品物だけがあるという世界である。
それは車社会になって生れたものである
駐車場を旧来の街では通りでは確保しにくいからそうなった。

城下町となるとやはりまだ歴史とか風光を維持している。それで熊本城が地震で破壊されたときなんとか復興しようとしている、前にも熊本では地震で何度も城が破壊されて再興していたのである。
それはやはり城が以前として街のシンボルとして精神的支柱としてあったからである。
そうして古い街が残っているのは現代では大きな都市に限られる
京都とか奈良とか東北では仙台とか盛岡とか弘前とかである。
ただ相馬市の不思議を書いてきたけどなぜあそこに行くとしんみりするのかということである。
それは城下町だけど別に城が残っているわけでもない、でも高いビルがないということが自然の風光が映えるものとしている、街作りとして公共の会館などが入母屋作りにしているし今度建てる市庁舎もそうである。
だから城下町の雰囲気というか落ち着いたものとしている。これには反対もある。

何か確かに建物だけに金をかけているという感じになるからだ。そこに住んでいる人からしたら福祉とかその他のものに金をかけて欲しいとなる人もいる
原町の街は何か病院の街という感じがする
駅前に高い病院のビルがありそこに若い看護婦が多い、若い女性にふれられる活気が感じるのは地方では病院だというのも現代を象徴しているのか?
南相馬市立病院はビルとして一番高く見晴らしが良かった。入院していたとき海に船が行くのが見えたのである。あの辺から海が見えないからである。

買う物が増えるというとき選ぶのが容易でなくなる、自転車など今や外国をふくめものすごい数がある。変わったロードに乗っている人がいた。どこで買ったものなかのかと思う原町の自転車屋では外国製まで置いてある,ジャイアントのロードが飾ってあった
その主人は直接自転車にのって乗り具合などを確かめ客にすすめている。
そこで一台ハナソニックの電動自転車を買った、つまり何を買っていいかわからないほど自転車の種類も数も増えたから客は選ぶのに苦労するのである。
それは情報という分野でもインターネットが出た結果そうなった。
膨大な情報をどう選ぶかが問題になる、そうしないと情報に追われて時間を奪われてしまう。

だから今は新聞も読まないしテレビも見るのは限られている、今自分が力を入れているのは情報をプロクなどで発信する方である。
若いときはどうしても情報でも知識でもとりいれる方であり発信する力は弱い、年取ればやはりそれぞれに経験を積むし知識も自分のものとなってゆくから発信する方が多くなるインターネット時代になると知識でも情報でも増大するが肝心のものを読まないということもありうる、つまりくだらないものに追われて時間を消費するということもありうる
これはインターネットがないときもそういうことがあったから同じだけどその情報量が違いすぎるのである。
本が中心のときはベストセラーが必ずありそれはつまらないものでもそこに関心が集中して買う人がいたのである。それは実は全くつまらないものであっても百万部とか売れていたのである。今はベストセラーもなくなった。
出版の世界が崩壊しつつある、自分の町では一万の町ではもう書店はないし他でもそうだろう。書店はなくなることは目に見えている

本というのはまず選ぶことが本の時代でもむずかしかったし学術的なものになるとなかなか地方では手に入らないので仙台には本を買うために行っていた。
インターネットの時代になるとまずアマゾンでない本がないからいい時代である。
こんな本があったのかという驚きかある。本というのは学術的なものでも膨大なものがあった。それを知らなかったので知識を追求するには地方では相当なハンディキャップがあったのである。
それで最近詩の本を集めたりして参考にしている。他にも何か自分で文章を書くとき参考にする本をインターネットの電子本で拾い読みしてアマゾンで注文して買ったりしているだから田舎にいてなにか不便を感じないのである。

ただ書店で本を見て楽しむということがなくなった。こんな本があったのかというキーワド探せないものがあるからだ。
出版社が本の世界からインターネットの電子空間に入れないのはあまりにもその変化が大きいので入れないのである。出版の世界にはその流通から本作りまでこれまで培ったものがありそこからぬけでれないのである。
出版文化というものがあるしまた本は二〇〇〇年もの歴史があるから本というものからぬけでれないというのもわかる。
本で読むのと電子本でインターネットで読むのは何か違っているからだ。
同じ内容のものでも人間の感覚で違って感じるからである。


物が千倍増えて情報が一万倍も増えたら人間は対処できるのか、処理できるのか、そんな能力が人間の脳にあるのかとなり小説までコンピュターで作れるとなる
なぜならそこに膨大な情報があるからだ。コンピュターは処理できるからである。
人間はとても処理できないのである。知識でも情報でも無限である。
ただ知識というとき一つの世界観を形成するために知識を深めるということがある
知識というとき何か本来は生きた知識となるべきでありそれは実際の生活する場でその知識が言葉でも結びついていた。
だから自分の場合は故郷で石や岩や樹などと結びつく世界観を詩などで追求してきたのである。
エジプト文明でもキリスト教文明でもイスラム文明でもマヤ文明でも仏教文明でも日本文明でも一つの世界観があり知識もそこに総合的に集約されてきたのである。
だから時代的には日本では奈良時代があり平安時代があり鎌倉時代があり江戸時代かありと一つの世界観を構築してきたのである。文明には整合性があり調和していたのである。

明治維新もそうした伝統があって成し得たのであり西欧化したというときそういう伝統があり日本文明を維持して西欧化したのである。
日本文明があり西欧化がありえたのである。技術的なものでも西欧から入ったものの翻訳を漢字で新たに造語したとういうのもそのためである。
今知識でも何でも一つの世界観の形成ができない、ただあらゆるものがごった煮になって混沌として混乱するのである。
膨大な物でも情報でもただふりまわされているという感じになる

日本ではあらゆるものを無節制にとりいれてきたけどそれがさらに混乱に拍車をかけて
いる、日本は日本の伝統歴史を見直して日本文明を再構築すべき時に来ているのである。その一つの試みを自分は地方でしてきたのである。
それは別に外来の文明を排除することではないのである。

青葉風 (仙台の青葉通りの俳句十句ー都会と田舎が融合すると文化が育まれる)

タグ:情報過多

2016年02月18日

THERE WILL BE BLOOD 『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)「野心が信仰と出会う時」の批評


THERE WILL BE BLOOD

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)「野心が信仰と出会う時」の批評


blooddd1.jpg


膨大な土地を所有する貧しい人たちからたかだか数千ドルで買い取り、そこから湧き出てくる石油はどれだけ出てこようが土地の元の持ち主には一切分配しないというのが石油王の考えです

この作中の序盤に1人だけ自分の欲を抑制し、世間的に妥当な取り分を十分理解できる賢い青年が出てきます。その青年は石油王に500ドルで石油がたんまりとれる土地の情報を売ってあげると持ちかけるんです


 パイプライン建設のために、イーライの宗派の洗礼を受けることを要求されるプレインビュー。しかしその場で「私は罪人(sinner)。私は子どもを見捨てた」と叫ばされる。


 そのインチキ宗教家に「わたしは罪人です」とパイプライン建設のために懺悔させられるエグい場面がひとつのヤマなんだけど、あれもビジネスのためなら宗教さえも道具として利用するって感じじゃなくて、過去に何らかのタブーを冒しているとしたら、本気で懺悔させられていることになるんじゃないか。しかも、インチキ宗教家にそれを強要されるんだから、苦痛もさらに倍になるんじゃないだろうか。



この映画のテーマは何だったのか?石油がテーマにしてもそこに宗教がかかわっていたことで興味をもった。
石油を掘りあてるためには貪欲の限りを尽くすのが石油王である。
そのためには土地を手に入れる必要があった。その土地をもっていたのが貧しい人たちでありイーライの宗派だった。
その若き牧師はインチキ宗教家だった、石油のある土地を買うために石油王は懺悔させられた。その屈辱が最後にそのインチキ宗教家を殺すことになりドラマは終わった。

「野心が信仰と出会う時」という原作がありこれを映画化した。
この映画は宗教もテーマにしている。それで最初わかりにくいものがあった。
石油のある土地を石油王が手に入れるために若いインチキ宗教家にいやいやながら公衆の面前で懺悔させられた。
それも石油をとるためにはしかたないと甘んじた。
一方インチキ宗教家はそれで勝利したように公衆の前で自分をアピールした。
この若い牧師がインチキ宗教家だと石油王は奇跡を演出したときから見抜いていたのだ。
ここには宗教と実業というテーマがある。石油王は石油のようにどろどろとした欲望にまみれていた。
一方宗教家もきれいこどを言ってもインチキであった。
何かこれは一般的に今のカルト宗教団体にあてはまるから興味をもった。
創価などがそうである。それだけではない一般的に今宗教というとき何かうさん臭いものとなっている。
宗教はきれいごとを言っても中は石油のようにどろどろの欲にまみれているのだ。
もちろん宗教というのは世俗にある限りそういう宿命から逃れることができなかった。
それが現代になると特にそうなった。ほとんどの宗教がカルト化したのである。

創価でも政治と実業に経済に深くかかわる、大成建設が仕事を欲しくて創価の会員に一部なっていたというのは本当である。
大切建設の社員宅が座談会の活動の場として提供されていたからである。
それは石油をとるために土地が欲しくてしかたなく仮りにインチキ宗教に入った石油王と同じである。創価の場合はもともと宗教というより政治家実業を目指していたから何の抵抗もない、懺悔なども関係ない、石油を手に入れればいいなるしそこで金も入ればいいとなる。その人が回心するとか懺悔とかは関係ないからやりやすいとなる
創価とはすでにビジネスであり企業化しているからである。それは幸福の科学なども同じである。宗教がビジネス化して実業化している。だから幸福になるためにもうけることだとなるからにけいるわけである。
そのために毎日祈っているとなると宗教が実業化した団体であり利益を追及する会社と同じだとなる
幸福の科学の主催者が大川教祖が妻と離婚して巨額の遺産でもめているのもそのたとである。
すでに欲にまみれてそうなっているのである。それはカルト宗教団体ならみんな同じなのである。

この映画の最後で若インチキ宗教家は石油王に殺される、金がなくなり石油王に要求した石油王はそれを断り懺悔さけられた屈辱をはらすために殺した。
つまりインチキ宗教家は最後はどろどろした欲望の塊りの石油王に金を要求して頼ったのである。どっちにしろ宗教も金だとなる最後の結末である。
結局金なくしては宗教もその団体も成り立たない、金とは石油でもある。
実は宗教すら金に支配されているというときそれは陰謀論で必ず言われる、ユダヤが金融で世界をあやつっているとかなんとか常に言われている。
でも実際はそんな力をもつことができるのか?それよりサタンがこの世を支配している、闇の力がこの世を支配しているという聖書に書いてある。
そのサタンとは何なのか?それは人間に内在する限りない欲望なのである。

欲望があるから欲望に操られる、それは宗教でもそうでありあらゆるものがそうである。原発事故もそうして人間の深い欲望に操られた結果だったことを書いてきた。
人間の欲望を否定するのが宗教だけと実際はそうしたら誰も支持しないし会員など増えない、欲望を肯定してこそこの世で増殖できるし力をもつことができるからである。
だからカルト宗教団体ではむしろあらゆる欲望を是認しているしむしろその欲望を満たせる、拡大させられることが信仰になる。それは結局すでにこの世と同じ世界でありそこに宗教は一切ない、ただ欲望を満たすためのものしかない、つまり石油王もインチキ宗教家も同列だっのである。
世界はまさにどろどろした石油という富に金にのみこまれているのだ。
そういう自分も石油がとれる国がいいと投資したのも同じじゃないかとなる
いづれにしろ人間はこの世の世界と実業の世界に生きているのだから逃れることはできないのである
石油なしで生活できるのか?電気なしで生活できるのか?とか常に言われるがそれは金なくして生活できるのかという問いとも同じである。
宗教がまたなぜこれほど偽善的になるのか?それはあまりにも現実の世界とかけはなれているからである。キリストやシャカの教えを実行することとはかけはなれているからそうなる、現実はどろどろした石油のように最後はその欲望が地下から噴出してくる。
どろどろした石油の欲望にのみこまれてしまうのが現実である。

インターネット時代になると過去の映画も見れるしいろいろい紹介されて批評される
インターネット時代は批評の時代である。
こんな映画があったのかとその種類にも驚くし本でもそうである。それをアマゾンでボタン一つ押せば手に入れることができる
これは便利である。だから今は仙台に行って本を買う必要もないから一年もまた行っていないけど不便を感じないのである。
そして他人が批評したものを読んでDVDを買ったりする、「心の青雲」の著者は映画批評していてこんな映画があったのかと
結構買っている。映画批評家にもなれる人である。
いろんな批評がインターネットでしやすいからそうなる、20世紀はまた映画の時代だった
ただ映画もテレビと同じで何か読み解くことが結構むずかしい
それでも厚い小説を読むより楽だから見るのである。外国の映画は何か日本のより深いテーマを追及している
今回は宗教ということで関心をもったのである。




タグ:石油と宗教