2023年04月07日

デジタル社会は安全と信用が問題 (不正請求にだまされた損した)

デジタル社会は安全と信用が問題

(不正請求にだまされた損した)

auのスマホが通じなくなった、それを通信障害と思い一週間くらい放置していた。私はスマホほとんど使っていないからである
なぜ通信障害と思ったのか失敗はauに電話で直接聞かなかったことである。何か通信障害とばかり思いこんでいたのである。
そういう発言がネットでもありそれをみて通信障害と思い込んだのである。
でもauの支店で直接聞いたら簡単に回復した

それは設定でon-offがありその設定を変えて一発で回復したのである。
それはwin11に変えたことでも起きた、最初の画面で設定をやはりon-offがありoffにしていなかったのである。
それで文字が打ち込めなくなっていたのである。
つまりパソコンは何でもon-offになっていて成りたっている。
どこかでその設定が間違っていると今回のようなことが起きる
スマホは使わないし慣れていないのでわかりにくいのである。

ともかくパソコンでもスマホでも操作がめんどうであり使いこなすことがむずかしいのである。それで老人はなじめないのである。また電子化できないのも操作がめんどうなためである。
そしてどういうわけかハガキが来ていた、それはauからの請求書だったのである。
私はauで電気料金もはらっているし自転車保険にも入っている。
だからその料金のことかとコンビニで一万支払ったのである
でもauショップではそいうことはしていないと言われたのである
すべてカード支払いにしているからハガキで支払いを要請することはないと言われたのである

このようにデジタル社会はその操作もめんどうだしだまされやすい、いつのまにかネット銀行でも大金が盗まれることありそこが問題である。依然として迷惑メールが大量に来る
そのなかにau関係もあったがメールだと無視する
でも住所知りハガキで要求されると信用したとなる
つまり住所を特定されると危険であるがそれも防ぎようがないのである。

それからコメリでカードを作っていた。それも二種類あった
ただチャージして使うものと一年会員制になっているものである
会員制になるとカード無くしてもそのカードの支払いとめることができて再発行できる。
それでキクチスーパーのカードに一万チャージしたが無くして見つからず損した
それはカードでも支払いでも止めることができないものだったからである。
このようにデジタル社会の問題は安全性にある。そしてこうした手違いで大損失にもなる。一万くらいならいいが額が大きくなると取り返しのつかないことになる。
またパソコンでも記録したものが一瞬にして消えるのも怖い
だからどうして安全性を図るかが問題になる
もうそこには現実の生身の人間がいなくなるともなるからである。日本人がデジタルに弱かったのは契約社会でもなじめないのは村とかの狭い範囲の濃密な人間関係ななかで生活していたからだともなる。日本の文化が影響してデジタル化が進まなかったのかもしれない。

とにかくスマホをはじめたりwin11にしたりして苦労している
OSが変わるとまためんどうなのである。
それにしても設定とか多くてわかりにくい、操作がめんどうなことが改善しないとデジタル化は進まないともなる。
ただこれも慣れだから若い世代はデジタル世代でなじみやすい
でも老人は使いこなせないとなる。
要するに対面的に直接会うことで信用するとなる。デジタル社会は相手のことが見えない世界である
それで不思議なのはauの請求でだまされたことである。それは住所がわかりハガキだったことで信用したのである。
メールだったら信用しない、つまりデジタル空間では信用とか安全が図られていない、そこが大きな問題なのである。

現場の社員の方が案件の中身に精通しており正確な判断が下せる場合でも、上司の意向が優先されるため、「根回し」や「処世術」が必要になります。

結果として一つの判断を下すために多大な労力・時間を必要とするため、日本企業の意思決定スピードは世界最低レベルの状態が続いてます。

オンラインストレージを利用してデータを保存する形へ移行すると、第三者による情報盗取・改ざん・破壊されるリスクが、オンプレミス時よりも高まります。不特定多数の方が利用するサービスを共同で使う形となるからです。

日本のデジタル化はなぜ遅れてる?根本的な原因や今後の課題と対策について



2023年02月20日

win11のパソコンで苦労ーわかりにくく使いずらい (原町のケーズ電気に詳しい人がいてわかった)


win11のパソコンで苦労ーわかりにくく使いずらい

(原町のケーズ電気に詳しい人がいてわかった)

一番の問題はインタ−ネットとかの検索窓に字が書き込めなかったことである
これは基本中の基本でありこれができないことにはどうにもならない
それでいろいろ操作して最後は再インストールしたがそれでも字がでてこないのである
仙台のパソコン工房とかの専門店に行くことを決めた、でも遠いので近くの量販店に一応だめもとでも聞くことにした、デルのノートパソコンでありデルの案内に聞いてもここはただ聞くだけであり何か解決することがない
それは余りにもパソコンが複雑すぎて答えようもないものだからである
それは前からわかっていた、私はwin95からパソコンを始めている
その頃は何か不具合があると再インストールして始めていた

そうしなければ使えないものだったのである
だから今回も再インストールしたがそれでもできなかった
山田電機の人はパソコンに詳しい人ではなかったらしい、しきりに字が出ないとういことは見たことがないといい基盤が故障しいる率が高いと言っていた
それも何かそんなに使っていないのにおかしいと思った
でもその言い分もそうなのかとも思った

そう言われても納得がいないのでケーズ電機によってパソコンの詳しい人に見せたら
一発でわかった、最初の画面でパスワードを入れるところで文字を入れられないが
その画面でオフとオンにするものがありそれを操作したら簡単にできたのに驚いた
パソコンの問題はこうして意外と簡単に解決することがある
でもそれがわかりにくいのである、説明とかになるとその手順にしてもむずかしいから
わかりずらいからかえってわからなくなもなる
そのうちに迷路に迷い込んで出れないようにもなる

だからケーズ電機のパソコンに詳しい人が一発でわかり文字が出にくくなったのには驚いた。その人はかなり優秀だと見た、そういう人がいることは買った後でもわからない時聞けるからいい、でも電器店でも必ずしもパソコンに詳しい人がいるとは限らない
仙台市だと専門店があるからわかるだろう、でも遠いことが問題なのである
らかくてないと困ることがある、自転車でも鹿島区では死んだので一軒もなくなった
これ電動自転車とかなると本店とつながっていないと直せないことがある
簡単なパンクなどは直せても電気関係とかなると直せない、それで一回買ったばかりなのにエンジンになる心臓ともなる主要なものをそっくり交換したのである
こういうことがあるから通信販売で買えても後は何もしてくれないから買えないのであるそれで電動の折り畳み自転車を買いたくても買えないとういことがある

どうしてもこの電動自転車となると折り畳みとかなると外国製も多いから東京でしか直接販売していない、仙台市でも販売していないのである
ここに東京と田舎の差があった、でも現代では他はそれほど差は感じないのである
ただパソコンでも直接もっていて見てもらうとわかることがある、電話応対ではわからないのである、特にパソコンは複雑すぎてわからなくなる
だからキーボードの基盤がおかしいということ自体素人なりに変だとも思ったのである
ハードがそんなにもう一か月くらいしか使っていないのに故障する訳がないと思ったからである、やはりそれが正しかったのである
ではなぜ基盤がハードが悪いと言ったのか?それは新しい物を買わせるためだったのかとかんぐる、基盤が悪いとしたら新しいものを買う他ないからである

いづれにしろパソコンは操作するのに苦労する、win95からやっていてもそうなのである
そのために相当な時間もかかる、問題は時間のあるうちはいろいろ試行錯誤できた
でも今になると時間がない、だから操作にばかり時間とられるのが嫌なのである
そうなるとパソコンの機械マニアになってしまうからである
私がパソコンを使うのは私自身の表現のためでありパソコンの機械のマニアになることではないからである
ただどうしてもパソコンに通じないとできなのでしかたなくしているのである

それでプログでもsslにしなかったのもまずかった、アクセスされにくいからである。
それからワードプレスをしようとしたがこれもめんどうでしていない
時間がかなりかかる、結局人間は何か機械の操作でも習得するのに時間がかかる
特にパソコンは操作に時間がかかる、それが他の機械と根本的に違っているのである
ワードプレスとなるとプログラムの知識も必要になるとかなりめんをとになるのである
でも人間はそれがむずかしいものでも早い時期にしていれば意外と身につく
必ずしも才能ではない、地道な積み重ねでプログラムでも覚えられるということである
こういう時代になるとしたらソロバンなどしていても何の役ににもたたなかった
今の子供はすでにプログラムの勉強を始めているからそれが将来役にたつのである

ともかくwin11は使いにくい、これも慣れなのだがこの年になると慣れる時間がなくなったのである、だから今までできることは継続できるが新しいことに慣れるのが老人はできなくなる、慣れたものを継続するのはいいのである
ここに老人の問題がありIT化できないことにもなる、老人は慣れればできるとしても時間がかかる、その時間がなくなっているのである
実際win11はwin10とたいして変わらないというし普及が遅い、変わり映えしないのものである、でも安全性が高くなったとかサービスが受けられないとかなり変える他ないとなるただパソコンでosが変えられることは大きな問題なのである

人間は必ずしも才能とかではなく、パソコンでも日ごろかち訓練していればできるようになる、それでOSを変えられると一番困惑する、とういうのは慣れるにも時間がかかるからである、操作ばかりに追われたら肝心のものを追及できなくなる
老人の問題は何するにも時間がなくなったということである
スマホでも買ったがこれも操作が簡単でない、すると操作ばかりに追われて時間がとられて肝心なものが追及できないとなる
もともと老人は新しいもの技術でもなじめないのである、それは必ずしもできないということではない、これまでしていたことの継続だとわかりやすいのである
慣れないことをするには時間がかかるだけなのである
能力が劣ってできないということではないのである
人間にはすることがいろいろありパソコンの操作ばかりに追われていたら時間をとられたらそれぞれが追及していることができなくなるのである
そこにパソコンの問題があったのである




2023年01月10日

金の管理からパソコンのWIN11の変化から家のリホームで苦労


金の管理からパソコンのWIN11の変化から家のリホームで苦労


最近いろいろなことで苦労する、今日は信用金庫で契約の更新がありその時ハンコの一部分が欠けて使いないと言われ新しいハンコを用意しろと言われた
勘違いしていたのは実印であり役所に印鑑登録したものだと思っていた
これは取引先の銀行とか信用組合とかの契約でありそのハンコを銀行とか信用組合で認めれば通用する、でも欠けていたので新しいハンコを作るように言われた
ハンコもめんどうである、最近ハンコなしでも契約書が通用すると政府から通達があったようだ、でもまだ全部には行き渡っていない、ハンコの効力は法律的にも明確でないらしい、ハンコは今やデジタル化で無用の長物のようになっている
日本ではなぜハンコすら廃止できずデジタル化が進まないのか?
そのことは言われてきた、日本は何かそうした旧来のものにこだわり効率的に仕事ができない国となっていた、それは世界と比べると遅れたものになっていたのである
ハンコを押すために会社に行く上司とかまでいるとか、ハンコのために仕事がはかどらない、無駄が多い、それは前時代的なものである
ただ誤解していたのはハンコは銀行印とかあり実印として役所に登録したものとは違っていた、銀行ごとに違ったハンコでも使えるということだった

次にパソコンがwin8.1からwin11にするのに手間になる、いろいろな所に契約しているのでめんどうなのである、またパスワードでもそれぞれアクセスするに違っていてアクセスできないことがあった、ネットだとこのパスワードに苦労する
なぜならパスワードがないとアクセスできなくなる、オフィスとかでそうだった
パスワードを忘れてそれを再設定でもできなくなっていた
このパスワードの恐怖は映画で部屋に閉じ込められて出れなくなってなんとかパスワードを思い出そうとしたができなくなっていた
これも恐怖である、パスワードがわからないと閉じ込められた部屋から出れないとなるからだ、またパスワードがないと入れないとういこともある
パソコンは使い方が複雑であり困るのである
何かいろいろと機械を操作することに追われている、これが現代なのである
人間のやりとりは必ず機械を通して行う時代になっているからである
ハンコにしても信用組合の人が言うには機械で照合するからどうなるかわからないと言っていた、人間ではない機械を信用して照合するのである
つまり何でも機械を媒介としている時代だからそうなる

それから家が築50年で傷んでいる、トイレを直しに金曜日に来る、20万かかり消費税で22万かかる、消費税は額が大きくなると大きい金になることがわかる
でも一割となると百円で十円であり千円で百円税金としてとられることは大きいと思ったそして百円のものを値上げしないにしろ中味は減っているのである
家一軒持つといろいろかかる、そしてその管理が手間なのである
だから家政時代がエコノミーの語源になっていたことがわかる
親が家族がみんな死んでから一人で家のことでもすべてしているからである
そのために常に追われているのである、料理でも掃除でも全部一人ですることは手間である、三食親に用意されていた時は余りにも変わってしまったのである

ビデオレコダーも十年過ぎて壊れた、そこに記録したものが使いなくなった
それは前にテレビに付属した記録するものが全部消えたのである
このように記録する機器というのは消えやすいのである
それで一番の恐怖はパソコンに記録されたものが消えることなのである
一瞬にすべてが消えて水の泡になってしまう
とにかくあらゆることを一人でしなければならないから疲れる、家事も一人でしている
その合間にプログに出すものを書いている、これに写真を出すのも手間になる
ただ助かったのもはwin11のノートパソコンを前に買って試していたことである
それで今まで使ったもので書いてwin11のノートぱそこんでアップする
どうしても自分の場合親指シフトで文章を売っているからそれを使用しないとスムーズに文章を書けない、そのためにパソコンになじんだということがあり富士通には感謝している

次にキッチンが水漏れして直すことになる、これは春になってからになる
この金額が結構大きい、こうして何か費用がかかる、リホーム代は金が大きいのである
でも家は必ず修理したりすることがあり家一軒持つと金がかかるのである
ともかく金の管理とか家のもろもろのことをするのが手間なのである
家事でも料理でも手間になる、だから絶えず追われているのである
それでもプログに書けるのはやはり機械化していてすべて機械に頼っているからである
一番感心したのは簡単に揚げ物にできる機械だった、これはジャガイモでもサツマイモでもカボチャでも揚げ物に十分くらいでできる、即製できるからいいのである
時間がかかるとめんどうになりやりたくなくなるからである
これは安いものだからおすすめである

どうも今年は自分にとって変わり目の年である、だからろいろなことの整理が必要にな
ともかく何でもこれだけ一人でやることはつくづく我ながら苦労だとなる

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2022年11月14日

デジタル社会の落とし穴 (キャッシュレスの危険を経験した)


デジタル社会の落とし穴

(キャッシュレスの危険を経験した)

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日本政府はキャッシュレス化を推進!でも国民にはリスク高い!】なぜカードにするのか、考えたことある?-masakazu kaji-
https://www.youtube.com/watch?v=KgwNBDywyxw&ab_channel=%E3%81%8B%E3%81%982%E
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デジタル社会も確かに便利だし悪いとはならない、でもやはり何でも人間社会はメリットとデメリットがある
キクチスーパーのカードでなくしてチャージした一万が損した、それはカードをなくすと損する仕組みになっているからだ
他のカードだと使いなくするから損することはない
でもやはり銀行のカードでもおそらく盗まれたとなったが即座に連絡して金を落とせないようにした、でもこれも危険があると思った
またカードはなくしやすいしスマホだって一回忘れたのである

大阪、京都で4店舗を運営していたスーパーチェーンが10月、予告なく閉店し、店が独自に導入していた電子マネーの残高が使えない事態となっている。会社は破産手続きを進めており、残高が返還されるめどは立っていない。「買い物難民」も発生し、地域に混乱が広がっている。

これもひどいと思う、詐欺にもなる
確かに金額としては少ないが一年でカードで買い物して見返りにもらえる金はとても一万にもならない、たまに300円もらえるだけである
だから計算すると本当に損だった、カードがなくしやすいのはいちいち財布から出して使うし小さいから忘れるとかなくしやすいのである
そうして一回忘れるとチャージする金額が一万でも損になる
そんなことしているのならもうカードで買い物しない方が安全で得になる

結局デジタル社会化IT化でも危険がある、だから安全をどうして保つかが問題になる
そういう安全策はスーパーでもとっていない、あなたが無くしたからあなたの責任ですで終わりなのである、一万返してくれといってもあなたの責任ですとなって終わりなのである
こうなると現金の方が安全である
なぜなら見返りの金は一年でも一万には全体にならないからである

デジタル社会は安全安心が計られていない!

これが問題なのである、なぜならその損が大きくなる場合があるからだ
そうなると多少不便でも現金の方がいいとなる
確かに現金だと金が可視化されて計算して節約したりする、また店員とお釣りをもらうとか話ししたりする、それも手間なのだけどなんらか会話があるのがいいというのもそうかもしれない、何もかも人間は便利を追及するとまた失われるものがある
それは何度も車社会が失われたことを書いてきた、電車でも駅で待つ時間が人間的になるとか歩く旅なら旅は道連れ世は情けになると書いてきた
便利を極限まで追求しゆくとかえって人間的なものが失われてゆく、会話もないから情も失われてゆく、そのことは書いてきた

マイナンバーカードでもなくしたらどうするのかが問題になる、どうしてもカードは小さいからなくしやすいのである、その安全策がとられていないのである
そして紙幣のように数字だけになり金をというものが実感できなくなる
カードだといくら使ったとか感覚がなくなるのである
確かにそれは問題である、それに反対する人は若い人には多い、だから日本は遅れているのだとなる
でも加治兄とかの同年代の人はカードにデジタル社会に反対しているのは意外だった
老人ならみんなそうなりやすい、デジタル社会についていけないとなる
私はたまたまワープロをしてパソコンを出始めた時からしていたから慣れてはいる
でもデジタル社会にもメリットとデメリットがある

世界がそうなったとき日本だけが遅れているというのもわかる
問題は安全をどう図るかである、安全を計る時そこに金がかかる、だから安全はないがしろになる、原発事故が起きたのも安全をないがしろにしたからである
その安全というのはどこでも問題になるがそれ自体は金にならないのでコストから金をかけないのである
それで東電の社長がコストカッターとして社長になったと言われる
その時安全に対して金を払わなかったとなる

何か本当にデジタル社会になると売買することでも便利でもそこに物でもやりとりする実感がなくなるのである
それよりそもそも貨幣が生まれた時すでに物々交換でないから弊害が生まれたのである
貨幣の発明は必然的に起きたとしてもそのために社会を歪めるものにもなったのである
つまり科学技術でも何でも便利なものは必ずメリットとデメリットがある
だから科学技術がなんでもいいとして取り入れて失敗することがある
実際の価値は金を媒介するとその価値は歪められる、本当は物々交換がいいのである
リンゴが欲しい人とミカンを欲しい人が持ち寄って交換するのが実感があっていいのである、でもそれができないから貨幣が生まれたのである
貨幣とはやはりメデアであり媒介するものであり真実の価値を歪めるのである
だから覇権国が金融を支配して莫大な富を得ているのである
ドルが世界基軸通貨ということはそうなる、ドルでしか石油も買えないからである
そのために陰謀論が生まれるのである

ただ加治将一(加治兄}氏にしてもハンコはいらない、日本だけがハンコを使っていると批判する時、ITもデジタル社会を推進する方だと思っていたのである
そのハンコだけど中国で買った高いハンコの一部分がはがれてしまった

だからこれも困ったとなる、ハンコなどいらない効率的でないというときそう思う
ハンコはもう前時代的なものであり現代の社会に合わないのである
めう言っている人がカード社会に反対しているのは解せないということはある
ただ彼の言っていることは共感することがある
同世代ということもあり共感する、要するにハンコにしてもそれは本人を証明する安全のために使われたのである、もし安全が別なもので計られるならば別な物でもいいのであるでもこの安全を計ることがむずかしいのである
必ずどんなことしうても悪い人がいて安全は壊されるのである、それは別にデジタル社会だからではない、悪い人がいるからどんなシステムを使っても悪いことはなくならない
ただデジタル社会になるとIT化社会になるとその被害が大きすぎるのである
全社会が世界的にでも機能しなくなるとういこともあるからだ
それはウィルスなのである、

ただどんなことをしても完全な安全安心社会は作れない!

これだけは確かである、それが人間社会なのである、悪人自体が絶対にこの世からなくならない、だから技術をどんなに改良しても完全な安全などないのである
新しい技術が生まれれば生まれるで新種の犯罪が生まれのである
これはいちごっこなのである、核が発明されれば核戦争が起る危険になる
現実にヒロシマがそうであり日本がその被害者になったからである
ただデジタル社会の危険もありこれも怖い、一番怖いのは一瞬にしてデーターが消えることである、となるともう千年前とかの記録として残らない
するとどうなるのか?歴史がわからなくなるとまでなる

それより記録を残したかったら石にでも刻んでおけとまでなる、アナログ的なものが消されず残るとなる、紙でも本でも50年過ぎるとぼろぼろになったりするからである
でもデジタル社会は止めることはできない、だからITの会社でも実は公共的役割があり
突然やめたりされると困るとなる、でもいくら公共的役割インフラとなっても利益がなければ会社は倒産したりする、だからこれも安全は計れない、スーパーのカードが倒産して使えなくなったというのがそうである
そこで会社自体が信用できないし一つの民間会社を信用できないとなる
だから記録の安全策は個々人でするほかないとなるがこれもめんどうなのである

ただ通信でも故障するとかはなくなっている、機能一瞬通信できなくなったから故障したのかとショックだった、でも簡単に回復したから安心した
何かこうして突然通信できなくなることもあるから怖いのである
インタ−ネットとかパソコンに詳しい人が今はしているとはなっていない
みんながするものだから何かしら安全を計ることが必要なのである
それは民間だけではできない、利益を上げなければできないからである
ただ人間は安全に投資したくないのである、それは原発でもそうだったし知床の観光船の事故でもそうだった、だからこの安全を計ることは国ですることが必要にもなる
でも原発では国の保安院が不安員と言われ飾りにすぎなっかたのである
何もしないで金をもらっていたのである
とにかくどうして安全を維持するのかこれが社会の大きな問題なのである
ただ完全な安全はありえないとなる、必ず人間にはミスがあり事故になったりする
そもそも地球自体に安全がない、絶えず自然災害があり安全安心は得られないのである
完全な安全は神の国でしかありえないのである、そこに人間の限界がある


2022年11月03日

財布を入れたジャンパーがなくなった謎 (盗難とは思えない?カードは銀行で止めた)


財布を入れたジャンパーがなくなった謎

(盗難とは思えない?カードは銀行で止めた)

ジャンパーを探したらいつものあるところにない、財布を入れていたのとそこにカードを入れていた、金はそれほど入っていない、これは盗まれたとは思えない
また忘れたとも思えない、なぜならジャンパーだったらどこかに忘れるとかないからである
そして毎日買い物に行ってそのジャンバーの置いた場所が決まっていた
だからどうしても盗まれたとか思えない
でもいくら探してもないのである、でも何か小さなものだったらひょいと後から出て来るこれは大きなものだしなくしにくいものである
いつも同じ場所にぬいで置いていたからである
ただ盗まれたものでなくても一瞬盗まれたと思い込むことがある
でもこれはどうしてなくなったのか見つからないのかわからない
ただその額は小さいからたいしたことがない、カードは銀行に連絡してとめてもらえばいいからである

何か自分は災難つづきであり終わっていない、震災津浪がありそれから泥棒も入って来たし大金も近くの人に盗まれたとかある
でも今回は被害はたいしたことかないからとても盗まれたと思えないのである
でもどうしてもジャンパーだけがなくなっている、そこに財布が入っていたということがあり不可解だとなる
盗まれたとしたら近くの人かもしれない、なぜならジャンパーから財布を取りだして買い物していたからである、それを見ていた人かもしれない
ただそれもわからない、後は荒らされたものはないからだ
前は金庫を開けられた、でも中には金は入っていなかったし家には金を置いていない

ともかくどうしてこうして災難がつづくなのか?

私自身に関してもまた自然災害でも起きる、今年起きた地震の片付けもしていない
また地震で被害が大きかったところは家そのものを壊したりしていた
家の屋根などをまだ直している人がいる
そして今年は円安になり物価高になりウクライナ戦争になりと災いの歳だった
寅年はやはり大きな災いの歳だったとなる

ただ確かなことは経済的に困窮してくると犯罪が増える、だからいろいろなことがあり
追い詰められた人達の犯罪が増えることはありうる
すでにそういう傾向が出てきているのかもしれない、別に田舎でも今は都会と変わりないのである、隣が何をしているかわからないとかある
田舎の人が素朴だとかない、むしろ今は田舎の人の方の何か非情だともなる
つまりどこでも今も金だけの世界であり金に困窮すれば犯罪が増える
だから今の日本は危険になってゆく

ただ正直どうしてもそのジャンパーが盗まれたとは思えない、でもそんなもの盗んでもしょうがいなとなる、財布が入っていたから盗んだのか、でも中味はカードくらいだったのである、それにしてもわからないのはジャンパーがなくなることはありえないとなる
その前の日に買い物に行って帰りいつもの場所に置いたからである
どこかにまぎれることもないともみる、置く場所を決めていたしそれは目立つ場所だったからである

しかしこれは謎であり本当のところはわからない
でも田舎でも都会と同じようになっているし金だけの世界となると金がねらわれやすいとなる、少額の金でも殺された人がいるからだ
つまり田舎でも今や安心できない、そして格差社会というのは危険なのである
人間余裕がなければ他者を省みたりすることはできない
つまり経済的困窮から犯罪が増えるのである
でもとても盗まれたとは思えないのである、だからこれは不明のままに終わる
たいして被害もないからである

ただなぜこうして一身上でも災いが起きて来るのか?

これがわからないのである、災いが多すぎるのである、今回は別にたいした被害ではないからいい、でも不安になる
確かなことは日本全体でも田舎であれこうして何か災いが増えてくる
日本全体が貧困化して盗難でも増えてくる、そして来年に関してもいいことを言う人はいないのである
今年も二カ月で終わりだが今年も災いの歳だった、そして来年にも期待できないのである
それは日本全体でそうだから都会でも田舎でも変わりないのである

とにかく現代は信用するというとき対面的ではない、システムとかを信用するとなる
グロ−バル化すれば外国からも買い物するから村社会のように対面的にはならない
するとそこにいろいろな問題が生まれてくる
何を信用するかとなる、カードは支払われないようにした
でもまた他に手続きがありめんどうになる、今の社会はネット社会になると手続きとかでもめんどうなのである、デジタル社会というのは何かめんどうなのである
老人にとっては特にそうである、デジタル社会の一番の問題は信用なのかもしれない
どうして逢ったこともない人を信用するのかとなる
そもそもグロ−バル化社会というのは何に基づいて信用するのかとなる
だからこそ株でも何でも何かそこで知らないうちに騙されていることがある
簡単に数字を変えたりすればわからないから巨額の金がいつのまにか銀行とかでも不正に引き出されたとか常にある、それはわかりにくいからである


今回のことは不可解である、でもカードを使われるとまずいから銀行に連絡して止めた
だから被害はない、でも後の手続きがめんどうなのである
デジタル社会というのは何か現実感がない、仮想空間のようになっている
そこで問題になるのが信用なのである
近くのスーパーでカードを無くした、一万ほど入っていたがカードが見つからず損したとなる、それは他人が使っても止めることができないからである
だからカードを使って一年に何千円かもらったとしても損だとなる
保険もないから損だとなる、それは結局安全の問題なのである
安全と信用が確保しにくいのである、そしてデジタル社会は操作されてだまされやすいことがある、それがわかりにくいからである
ただ今回のことは何かわからないから盗難だったと決めつけられない
二回の盗難ははっきりわかったが今回は実際は不明である

ネット社会だと相手を信用するのだろうか?そのことでネットでやりとりしてだまされたとか犯罪でも起きる、それは相手のことがわからないからである
でも田舎だからといって今や本当に隣でも何をしているかわからない
みんな村社会のようにつながりがわるわけでもない、匿名的社会にもなる
孤独死になるのも田舎であった、だから田舎で都会化しているのである
不特定のものが交わる社会でありそこに問題が起きて来る
でもそれが社会になっているのだから適応するしかないとなる
ネットで何か対話するにしても相手のことがわからないし対面もしていないからまず相手を信用できないことがある、何を求めているのかもわからない、それでプログでも今は対話していない、何かただケチをつけて面白がるとかありいちいち対応できないのである
ただ相手を貶めようとか真面目に話し合いできない、それはネット空間だとどんな人がいるかわからないし責任もないからである

それでも対話しているのはニュース記事とか読んで対話している、他のプログでも関連したものを探して対話している、そこではやはりその人なり意見がそれなりの文で出しているから対話できなるとなる、一行二行とかで対話しにくいのである
そこでは深い対話はできないのである
でもネットだからといって全部信用できないことはないし外部から来る人でも信用できないとはならない
むしろ内部の人達が信用できないこともある、そこで実際に犯罪があるからだ
仙台市から来た創優建というリホーム会社は百万でユニットバスを作ったがいいものだった、別にここに不正はなかった
安くていいものだったからである、だから人間が内部外部にかかちわず信用できるかできないかわからないのである

ただ広く人が交わる社会だから信用が問題になることは確かである、でもそれは別に内部でも田舎だからと今は信用ならない
江戸時代の村社会とは違うからである、江戸時代だと隣の村から来た人さえ信用しない、麦つきに若い人が蛇だったという伝説が残っているのもそのためである、それだけ隣の村の人とも交わらないからそうなった
でも今はその何千倍とか何万倍とか何億なのかグロ−バル化して人と交わる社会なのである
そうなると何を信用するのかということが問題になるのである、契約ということは見知らぬ人がするものであり村社会では日本でしていなかった、それは安全を計るものでありだから細かく損失があったとき賠償させるようにしたのである
そうしないと見知らぬ人を信用して取引できないからだからでア

今年も災難の年だった、もう災難はいつまでつづくのだろうか?

来年もいい年は期待できない、何か鬱になってくる、つくづくなぜこんなに災いが起きて来るのか、それがわからない、ただもともとこの世は火宅の世であり災いの世であり変わりなかったのである、人生70年とかあれば必ずこうして大災害でも小災害でも災難が必ずある、これを逃れることがてきなのが人間社会なのである

カードで一番怖かったのはレンタルサーバーの支払いができず消されるところだった
入院していて手続きをしていなかったからだ
電話が通じて助かった、余裕は一日もなかったからだ、危機一髪だった
もし電話が通じなかったら消されていた、その日は日曜日でも通じた、今はさくらでは電話予約であり一週間待たないとできない、チャットはしているがめんどうである
デジタル社会は何かこうして手続きとかめんどうであり何か不具合でも一瞬にして記録したものが消えることがある、それが一番怖いのである
ただ今回のことは謎である、でも小さいものだったら後で出て来ることがあるが今回はないとみる、ただ私はどうしても何かと不注意であるからわからない、何度も失敗しているからである




2022年09月19日

昭和33年の新聞記事(2) (貯金が奨励されていた、−映画館のこと)


昭和33年の新聞記事(2)

(貯金が奨励されていた、−映画館のこと)

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福島市の相互銀行で十月二十日から一か月間を貯蓄増強運動期間として映画会などを行っているが農村での効果がない、全国規模の銀行の福島支店でも農協の進出には手がでない東邦銀行でも貯蓄宣伝映画会に一千人近い観客がおしかけた

高度成長前は農民が主役であり農民から銀行に貯金させるために銀行が映画会をもよおして宣伝していた
この映画会というのは何かというと映画自体がめずらいしものだったのである
映画というのは簡単に見れないものだったのである


中学、高校時代、映画が好きで、映画評論家になりたかった。
だから、中2〜高2の4年間は年間200本以上の映画(洋画)を観た。
いい映画もつまらないものを知って初めて、良さが解るという理屈で、手当たり次第
お金が出来れば、映画館に行った。
そのころ、1年で公開された洋画は250本くらいだったから、成人向き以外は
殆ど観た年もあった。

小遣いがたくさんもらえる訳も無いので、親から昼食代(パン代)を貰い
お昼を抜いて、お金を作った。
親の財布から千円札を拝借したこともあった。(金沢市の映画館)

満員で扉を開けたまま伸びをしながら見た覚えがある。あれだけ大きな劇場がいっぱいになった映画は「ポセイドン・アドベンチャー」でした。(東京の映画館)

映写スタッフの主な業務は、映画の上映作業でした。
人の身長ほどある映写機に、丁寧にフィルムをかけていき、定刻に上映を開始します。
映画のフィルムはとても一人では持てないくらい大きく、軽トラの荷台にやっと置けるくらいの大きさで、映画一本分となっています。

金沢市では映画館が多かった、でも原町区の朝日座とか鹿島にも駅前に映画館があった、そしてニュースは必ず普通のドラマが始まる前に放送された
そのフィルムは鉄道で運ばれたのである、その時蒸気機関車だったのである
鉄道で運ばれるということはリアルタイムではない、何日遅れて放送されていたとなる
無線の時代ではない情報でも何か物として運ばれていたのである

要するに映画とか映像でも動画となるとなかなか見れないものだったのである
貸本屋から漫画を借りて読んでいた、人間はやはり映像を求める、だからデジタルカメラ時代になった、まず動画となると見ること自体が簡単にできない時代だった
動く絵を見ることは驚きだったのである
だからこそ金がない時代なんとか工面して映画を見たいとなっていたのである

そのフィルムを運ぶのに蒸気機関車だとどれくらい時間がかかったのか?
上野からでも相当に時間がかかった、一日かかりだったかもしれない、その頃情報は新聞が担っていたのである、だから古い新聞は今になると価値があると見た
つまり歴史の記録として価値があるものと見た、その頃一体どうなっているのかわからなくなっているからだ、ただ今だとインタ−ネットからでも昔を語る人がいるから当時のことがわかる場合がある

ともかく貯金が奨励されていたということは日本の経済が高度成長時代に向かう時代でありいくら資金があっても足りない時代だったのである
資本主義は資金が必要である、それで私の家で戦後店を始めた時その開業資金がなくて困った、それも数万だったのである
それでその数万でも銀行は貸してくれず知人に頼んだ話を何回も聞かされた
銀行は借りたい人が多い時必要であり価値あるものであった、今価値がなくなったのは借りたい人が減ったからである
その店といっても簡単なものでありただ商品を並べたようなものだったのである
でも物がない時代だから物を置けば売れたのである
昭和33年代はまだ農業中心の経済だった、だから農民から貯金を集めようとしていたのである

何か個々人でも記憶は時間がたつにつれてあいまいな希薄なものになってゆく
だから個々人の記憶だけではないみんな記憶を集約することが必要になる
ある人はその当時こういう経験していたとか私はこういう経験したとかを語る
すると当時の時代的な全体像が浮かんでくる、イメージできるようになるのである
映画館一つにししてもいろいろだからである
ただ映画館に対する熱気は今と違っていた、立ち見して見ていた、それもかなり疲れる
でも映画を見たいとういことでそうなっていたのである

人間は情報を得たい何かを知りたいということは変わらない、それでテレビ時代となったのは何かテレビに動画が写るだけで驚きだったのである、映画でもそうだが次はこうしてテレビ時代になった、このテレビに対する熱気も異常だった
みんなテレビに釘づけになったのである、それは昭和33年頃テレビが出てきたのである
でもどうしても高校までオリッピックの時蒸気機関車がこの辺を走っていたことが不思議なのである、そんなころまで蒸気機関車だったのかということが不思議なのである
蒸気機関車だったら上野までどれだけ時間がかかったのかとなる
東京とか上野は遠い所だったのである、そして考えられないのは原町紡績の中に引き込み線があり鉄道で生糸を運んでいた、それを横浜まで運びアメリカに輸出したとなる

それは戦前だが蒸気機関車だったということが何か自分の場あい思い出せないのである
というのは高校までは蒸気機関車に乗ったけど蒸気機関車で遠くに旅したことがないからだったともなる、その後鉄道マニアのようになったのは鉄道で自由に旅した結果だとなる
人間は本当に一時代が過ぎると時代のことがわからなくなる、その雰囲気もわからなくなる、今なら貯金など奨励しない、貯金しても利子もつかないとかもう貯金してくれるなとまで銀行ではなっている、貯金しただけでもう今度は逆に財産税として税金をとられるとまでなる、それが時代の変化なのである
だから農協でも銀行でも昔とは感覚的に相当に違っている、農協、銀行、公務員は安定した就職先だったからである、地方だとエリートとなっていたからである
今は銀行員は投資信託とか株とか売る証券会社にもなったのかとなる
銀行に金はあっても投資先がないとなり金余りとなっている
そういう時代の雰囲気はなかなかわかりにくい、でも高度成長時代は日本では相当に恵まれた時代だったのである




2022年08月19日

キクチスーパーのカードをなくして失敗 (何カ月かでポイントたまっても大損だった)


キクチスーパーのカードをなくして失敗

(何カ月かでポイントたまっても大損だった)

キクチスーパーのカードをなくして失敗した、三回くらいなくしている
ただこの前はなくしてもカードが後からでてきた
そのカードには実際金は使っていたのでわずかしかなかった

今回は一万入れたばっかりだった!

だから大損だった、ポイントたまって何カ月一回か300円もらえても一回落としたら
なくしたら何千円も損する、今回は一万近くだから大損になる

「カードなくしたんですが」
「見つかりません」
「一万入れたばかりだったんです」
「そう言われましても、私たちにはどうもできません
「責任は私たちにはないです、あなたに責任があるのです」
「・・・・・・・」

こうして結局何も言えないのである


今はキャッシュレスの時代である、でもこのカードもなくしやすい、キクチのカードは常に使うから出し入れしているとなくしやすい、三つくらい他に使っているから混同して
なくしやすいのである

そして他のカードのように使えないようできない!

他のカードだと銀行であれ郵便局であれカードはなくすと連絡するとカードが使いないようにできる、でもキクチのカードはできない、なくしたらそれっきりであり返ってこないそして常にカードに入金するチャージするからめんどうなのである
こうしてなくすことがあるから大きな金を入れにくいのである

ここで問題になったのは何か?

つまり保証とかの問題である、もしこうしてなくしてもすぐに使えないようして
またカードを作ることができればそんなに損はしないのである
確かに一万くらいだからたいしたことがないともみる
でも一万損したとなると日々の買い物で何か大きく思える
なぜならポイントがたまるからと300円もらえるからとカードを使っていても一旦なくすと大損になるからだ
結局奇妙だがキクチスーパーでは損しない、もうかるのである
一万分なくしても一万は入金していて返すこともないからである
落としたのはあなたの責任ですとなっているからである

でもここに問題があった、カードはなくしやすい、するとその保証が必要だとなる
保険が必要だとなる、その損は大きいからである
もちろん一万とかたいしたことがないと思っても何か今回大きな損を感じたからである
現金支払いはめんどうだとなるしキャッシュレスになるのはいいとしてもこれにも問題がある、そこでキクチスーパーのカードではない別のカードで支払うということを考えた
他のカードだと割引があるし無くしてもすぐに停止できる
ただ今他のカード支払いのことが良くわからない、でもキクチスーパーのカードはなくしたら保証がない、ポイントがたまり何カ月かに一回300円もらっても割りに合わないと思った

何が保険をかけるということはこういうことかもしれない、一万はたいしことがないにしても必ず人間は自然災害とか人身事故とか病気とか突然の災いにあう、その時の保険が必要になる、それは一万の損失とは違って命にもかかわる大損になるからである
だから東電ではそのリスクをさけるために原発でも国に保証されてしていたのである
事故の結果としてその後始末に20兆円もかかるともなっていたからである
時間的にも30年かかるとかの考えられない大損失だったからである
そのリスクがあるのでこれは国で保証して管理するものでもあったのだ

株式でもヨ−ロッパで資本主義が発達したというとき大航海時代に船の株主になり無事に帰ってきたら大儲けになり配分がある、でも失敗したら事故にでもなったら大損になる
それで株主を集めてリスクを分散したとなる、とても失敗したらその賠償ができないからである、そしてとても一人ではその損失を担うことができないから大勢が株主になり
リスクの負担を分散したとなる

車だと常に事故があるから自賠責が強制されている、それに入っていなかったら事故を起こして死んでもとても一人では払いきれないとなるからだ
それでみんなでそのリスクを負担するのである、保険はそういうことから生まれてきた
でもキクチスーパーとかで発行しているカードには保証がないし保険もない
それはカードをなくすことが客にあったとしてもそこに責任がないからである
一万くらいどうでもいいとかなる
でもそれが大きな事故とかなると必ず補償を要求されるから保険をかける必要がある
船の運航でもなんでも保険をかけている、知床の観光船でも結構高い方の保険に入っていたのである、それで船主が高い保険に入って良かったと言っていたのである

ともかくデジタル社会にもキャッシュレスでも問題が盲点があった、そもそも保険のことが良くわからない、それで毎年五万払っていた火災保険とかやめた
農協のものだったがたいして災害にあって家が壊れてももらえなかったのでやめた
でも保険はやはり人間生活で必要だから生まれたことがわかる
ただその金を払うことが損に感じるのである、何もなければ損しただけだとなるからである、病気の保険があるとしても結構毎月払ってゆくのは大変である
でも必ずしも病気になるとは限らないだ

ただ年金というのは保険の一種だったかもしれない、若い時から積み立てていて老後にもらうという保険の一種だったかもしれない、今になると自分は得している
20代からかけているからだ、それも自分が払ったわけではない、親が払ってくれていたのである、その間に空白もないからである、だから私の場合は特別に親に恵まれていたのである、遺産も入り生活にも困らないとなっているからだ

ともかく保険は無駄に思えるのである、それは不慮の事故とか災害でもめったに起らないでも起った時はカードをなくして一万損したということでも大損だと意識した
金も一万でも実感するのである、ところが余りにも金が大きなると人間は実感できなくなる、だから大きな金を無駄にすることがある
一万落とした千円落としたとか盗まれたとかでも意識する、でも大きな金になると意識できくなる、それは人間の日ごろの金の使い方が千円とか二千円であり大きな買い物でも
それほど使わないからである、だから小さい金は常に意識するし感覚的にわかる
だから一万でも大損だと意識したのである

ただ三回くらいカードをなくしてそれがまるっきり損になるとするか使いないなと思っただから対策をしようとしているが今のところわからない
スマホを始めたからその辺のことも調べないとわからない
でもどうしてもキクチスーパーのカードは使いたくないとなった
他のカードはいいのである、シシドスーパーのカードはいちいちそのカードで支払うのではない、ポイントがたまったらやはり何カ月に一回か300円とかもらえるものである
一万とか入金してチャージして使うものではないからいいのである
ツルハでもそうである、ツルハは少額でもたまったら使えるようになっているから損することはない、それでもキクチスーパーでは一番多く買い物しているから困るのである



2022年07月04日

auで丸二日通信障害 (公衆電話が見直される―無線は不安になる)


auで丸二日通信障害

(公衆電話が見直される―無線は不安になる)

私はauのスマホ買ったけど音声の電話は利用していなかった、でも一日でも電話ができないと困る人が多いと思った、それだけ携帯であれスマホであれ日常的に使っている
仕事でも使っているから深刻だった、復旧に時間がかかりすぎたのも問題だった

この無線障害はパソコンで経験している、マウスでもキーボードでも無線で操作していたが何かの調子でつながらなくなる、もう5、6台も使えなくなっている
それで相当に損している、無線だと使っている内必ず何かの調子で使えなくなる
その修復が私はパソコンにも詳しくないのでできないのである
確かに接続するためのレシバーに問題があり修復を試みたができなかった
それでそのまま放置していて今では線をついたものを使っている
これなら安心だと思った

つまり無線は何かめんどうであり安定しない、不具合が起きると直しようもないと見る
それで二階にルーターがあり下に線をつないでパソコンを利用している
無線にすればいいのだがこれも自分は機械に詳しくなくできないのである
YIFIの設定ができないのである
そして無線は安定しないのである、これは何でも通信でも無線化するけど実際は相当に高度になるから故障することがある
またクラウドなどでもそこに無線で情報を記録させておくのも不安になる
まだusbとかでも手元にあり物としてあれば安心だとなる
なぜかというと通信できなくなる、アクセスできなくなる不安がある
何かの不具合でアクセスできなくなる、例えばパスワードを忘れるとか大きな問題なのである、これでアクセスできなくなったことを度々経験しているからである
一瞬にして記録が消えてしまう恐怖にいつもかられるということがある

線で通信するのはアナログになるが安心だということはあり公衆電話が見直されたのである、緊急時でもやはり線でつながっていれば安全だともなる
つまりアナログ的なものでも人間にとって必要なものだと見直されたのである
でも公衆電話は激減している、だから使えなくなる
すべてデジタル化してゆくとそこに大きな問題が生じる
無線化してもアナログ的なものは安心のために残したいともなる
ただコストの面で維持できなくなっている

安心のために一社だけではなく二つの会社の通信を利用しているというのもわかる
一社がだめになってももう一社で安全を計る、でもコストがかかるとなる
仕事で使用している人はそうしている人もいる、仕事では相当に一日でも通信が途絶えると困る、それだけあらゆるところで無線通信化しているからである
ただデジタル化となるとそれも問題がある
何か安心できないのである、人間でも対面的でないとか相手の顔が見えないとかもある
そこで信用できないともなる、日本人はそもそも直接会ったりしないと相手を信用できないということがあるからだ
話せばわかるとか腹でわかるとか直接会うことで相手を見る信用するとなっているからだただ別に直接逢っても騙されることはあるし信用できるとは限らないことは確かである
その兼ね合いがむずかしいのである

だからパソコン通信で文章だけで会話しているのも不思議だった、なじめないことがあった、今でもそうである、面と向かって話しなければ何か違和感がありなじめなかった
これはやはりメデアが変わるとそうなる
ソクラテスは面と向かって話すこと対話することしかしなかった
文章にはしなかった、つまり文章すら信用していなかったとなる
ただ携帯電話とかだと声で話すから昔の電話とも変わらないことがある
つまり声の調子とか音声から相手のことを感じる、相手の体の調子とかでも声から感じることもある、それは文章だけのやりとりだったらできないのである

それでデルのパソコンを通信販売で買おうとして相談したら相手の人は中国人の女性だったのである、その女性が日本語が上手だったのに感心した
それも日本人相手にパソコンの相談できるとなると日本語に通じていないとできない
そのためにその中国人の女性に好感をもったのである
そしてデルのパソコンを買うことになったのである
そもそもデルのアメリカの会社に中国人が雇われているということもグロ−バル化している、中国人はどこにでもいるとなる
70代の女性は毎日親戚の女性と一時間くらい話ししている、やはりじかに声を聞くということで相手と通じる、女性は話し好きだからそうなるのである

それにしても一日くらい通信が途絶えてもこれだけ大騒ぎになる、一日くらいどうでもいいとなるがそうではない、それだけもう欠かせないものとなっているのだ
だから一旦今回のように故障すると大騒ぎになる、補償問題にもなる
それは電気でも同じである、一日でも電気が止まったらもう社会が回らない
血液の流れと同じになっている、電気社会になっている
それで30、40年前の推理ドラマを見ているとまだ電話の時代であり固定電話でやりとりしているのがなつかしいとなる,パソコンも普及していないでワープロだったとかなる
それだけ通信では進歩した、ロシアがウクライナとの戦争で通信技術が進歩していないので連絡がとれないとかあり不利になった

やはり通信というのはそれだけ影響すると見た
でも戦争とかなるとこの通信設備が攻撃されて破壊されるとお手あげになるかもしれないその怖さは通信にはある、でもインタ−ネットは軍事関係から生まれたもので一部がつながらなくてもつながるようになっている
今回のauの通信障害でもインタ−ネットとかメールは見れていたのである
ただ音声での電話が通じなくなったのである
いづれにしろ通信しろ電気の問題でもこれなくしてもはや社会が回らない、そのインフラの安全性を確保することは生死にもつながっている
現実に救急車も呼べないとかあったからである、それで大騒ぎになったのである


au通信障害の本質的な問題。総務省、自民党がNTTに接待されていた問題がボディブローのように効いてきた・・・日本のネット産業は自民党の利権と化したNTTの事-一月万冊

NTTが独占になっていてそれが政府と結びついていることが問題だとしている
auとか他の会社でもNTTのインフラにのっかかっている、競争がないので問題としている


三上)auが機器のメンテナンスをしておりました。ルーターと言われるネットワークの接続装置を、古いものから新しいものに取り換えたのです。その交換時に、設定などの人為的ミスがあったようです。

ルーターなら個人でみんな使っている、私の家のルーターは古いので変えようとしたができない、操作ができないからだ、でも十年前以上のものでも別に困らない
だから変える必要はない、ただ二階にルーターがあるので線を伸ばすので不便だとなる
こういうことを誰にも頼めないのである
電器屋でもこうした設置をしてくれないのである

ともかくルーターは変えない方がいいとわかった、何かへたにいじると電気関係は事故になったりパソコンでも不具合になるから簡単にできないのである
ソフトの不具合は再起動すると治るからスマホなどでも個人の不具合はそれで直ることがある、ただルーターとは電信会社でも使っていた、本質的には規模の大小だったのかとなる




2022年05月17日

老人は金あっても消費できない (でも金を他にまわせばいくらでもできる―老人の心境とは)


老人は金あっても消費できない

(でも金を他にまわせばいくらでもできる―老人の心境とは)

老人になると70以上になると消費するのが病気とかのために薬とか医療費になる
老人になると貧困化してそれすら苦しくなる人が多くなる
栄養をとれと医者に言われてもできないと言う、その人は4,5分働いても後はなにもできない、常にどこが痛いと苦しいというからである、そんな人は誰も雇わないだろう
もう働けない状態である、老人になるとそういう人が多くなる
もちろん元気な人は元気である
最近自分自身もそうなのである、自転車で運動した後、腰とか筋肉が痛くなるようになった、私はそれなり体は動く、ただ結構自転車で遠出すると体に負担になるようになった

そうなるとどうなるのか?

消費するものがあっても買いたいものがあっても買えない、それは金がないからではない消費する力がなくなったということである
今持っているヤマハの電動自転車は楽だから30キロくらいは楽に行ける、だからこれは意外と老人向きだった、もともと電動自転車は老人向きにヨ−ロッパで作られた
足腰と体力がなくなった老人向きに作られた、ユニットドライブという心臓部分の性能がいいと楽に走れるのである、だからこれがあるので一応遠出はできている
ただやはり筋肉が痛くなったり疲れるようになった
それで遠出するツーリング用の電動自転車がヤマハから出たので買おうと思った
でもそもそもツーリングとなればキャンプ道具も必要になる

それは相当に体にこたかえるしめんどうになった、それだけの気力もなくなったとなる
つまり何か老人がしたいと思っても金があってもできなくなるのである
それも30万くらいだがもしまだ体力があり若かったらできたからすぐに買っていたのである、それは今持っているユニットドライブと同じものだからである
その性能は経験済みでいいことはわかっているからだ
でもこれがツーリングとかなったらもうできないとなる
こうして70以上になるとできていたことができなくる、ただ車などは80くらいまで乗れるだろう、体力がいらないからだ、バイクとかなるとこれも厳しくなる

またスマホとかも買ったがこれも使いこなすのがむずかしくなる、ただ私はパソコン歴が長いからできる、でも使いこなすとなるとなかなかできなくなる、スマホは応用範囲が広いと思った、前だったらいろいろ応用できていたのである
何か最近の電気製品は使いこなすのがめんどうになっている、テレビですらいろいろな機能がついていてわからなくなる、パソコン化しているからだ
こうして技術的に老人はついていけなくなる、そして老人が買いたいもの、老人に適した商品が開発されて売っていないというのもわかる
すると老人が持っている金が回らないともなる

では老人が金が使えないのか持っていても使いないのかとなると違う
金はいくらでも使えるのである、なぜなら老人でも日々の食すら事欠いている貧困社会になっているからだ、そういう人が来た毎日嘆いている、だから援助しているとなる
そんな老人は今はいくらでもいる、食べることすら事欠いている人がいくらでもいるのだその格差も大きいのである、だから別にいくら金持っていてもそうした窮乏老人に金を回せばいいとなる、他にもいくらでも使い方はある
ただ何か使うおとしても使いこなせないということが障害となっているのである
温泉回りしている老人は多い、だから何か老人に向いた消費の仕方はある
でも一般に貧困化しているから第一日々の食べることと後は電気、水道ガスを月ごとに払えない人もいる、そしてこれらが上がっているからまた物価でも上がるとこうした貧困化した人達や年金生活者にはひびいている
だから貯金のある老人はない人に金を回せというのもわかる、金の使い道がないということなばありえないのである

意外と有効に消費することは生産することにも通じている、そもそもパソコンでもスマホで使いこなすことが難儀だからである、老人になればあらゆることが使いこなすことが難儀になるのである、認知症になったらテレビをつけるリモコンのボタンすら押せなくなっていた、機械はもう操作できなくなっていた、今や機械時代になると機械の操作に追われる、パソコンとかスマホでも操作に追われているのである
本だったらそういうことは全くないのである、それで老人は操作できない使いこなせなくなっている、こういうことは今の時代では特にそうなっている
すると老人は金があっても消費ができないので買わないとなるのである
すると経済は回らないとなる、せいぜい医療費に使うということで他のことに使わないからいろいろなもの開発して生産して売るということもなくなる
何しろ新しいものは若者は飛びつく、そして技術開発がある
パソコンでも最初パソコンマニア同士で通信もしていたのである
それが技術開発に役立ったいたのである、だからその時代はマニアしか活用できなものだった、不具合があると必ず一からセットしなおすほかなかったのである
まだおもちゃのような段階だったのである

要するに老人はどうしても消費意欲が衰退する、なぜなら木を植えようとしてもそれが成長するに十年とかかかるとなるともうしたくないとなる
すぐ結果があるもの成長した木を植えた方がいいとなる、老人は気長に待てないのであるそのうち死んでいるとかなる、それで原発事故で取り残されたのは老人が多いから復興しにくいものとなったのである、若い人は流出したからである
投資にしても長い目で見れば意外ともうかるものである
それでリーマンショックで半分になったのが10年くらいでもとにもどり今になると
倍にもなっていたのである、だから長い目で投資すれば意外ともうかるものなのである
でも老人は先がないし投資はめんどうだからしない人が多い、それで貯金だけ増えているとなる、その貯金すらない人が多い、平均は持っている人に左右されて高くなる
5人が50,50,50,50、100とするとき300÷5=60になる
でも実際は50持っている人が大多数だとなる、さらに30、30,30、50、50、50、50となると30から50の範囲が収入とみるべきだとなる
だから100持っている人が50持っている人に10をまわしてたせば60になる
そこで平均化する、そういうことが必要だともなる

いづれにしろ長い目で老人が見れないということを知るべきである
なぜなら毎日本当に明日死ぬのではないかとリアルに思っているのが老人なのである
ただそうなるとこの世からおさらばするとなるから気が楽なのである

なぜ若い人に自殺が多いのか?

それがこれから長い人生を生きる重荷のためである、その重荷から解放されたいからそうなっている、老人はもう死ぬだけだとなるとそうした重荷を感じなくなるのである
どうせ死ぬんだ、この世の嫌な人とも合わなくていいとかこの世の様々な嫌なことももう経験しなくてもいいとか何かこの世の苦しみから解放されるようもなる
極端な話、どうせ死ぬんだからこの世のことをいろいろ考えても無駄だとなる
それで最後に世間のことなど気にしないで大きなことをしてやろうという心境にもなるかもしれない、どうせ死ぬんだからとなるとそういう気持ちになる
もういちいち世間のことああだこうだと考えなくもなる、気にしなくもなる
それでプーチンがあんな思い切ったことをしたのかともみる
死期が迫って最後に大博打を打ったのかもしれない、 どうせまもなくこの世とおさらばする死ぬんだから世間のことなど気にしない、大きなことをしてやろうという気持ちにもなる、余りにも世間のことに縛られ過ぎて小心になっていたことでその反動がでてくる

核もろとも人類が滅亡しても俺の知ったことではない、どうせ死ぬんだから

核を使って核と心中して最後は果ててもいいと考えたら怖いことだとなる、でも老人はそうしてどうせまもなく死ぬんだからそれでもいいやとさえることも怖いとなる
そしてささいなことで汲汲として悩んでいたのが馬鹿らしくもなるのである

ただ若い人には老人の心境がわかりにくいのである、老人は意外とこうして精神的には気楽になる面があるのだ、もちろんいろいろ苦しい面はある、貧困で苦しんでいる人もいるでも何か老人はそうした世間のしがらみからもう死ぬんだから解放されるということで
精神的に楽になっているようにも見える、それはまた欲がなくなるとそうもなる
人間は様々な欲があるとこの世に執着するからだ、それで死にたくないとなる
そういう様々な欲から解放されないのである、好きな女性と一緒になれないなら死んだ方がいいとかまた一緒になれない殺すとかまで執着する、するとその欲のために苦しむのである

とにかく高齢化社会のマイナスも大きい、どうしてもこうして老人は消費すらできず保守的になる、新しいことに挑戦もしにくいから新しいものが生まれないことにもなる
団塊の世代が高度成長時代を築いたのはそれだけ若いからエネルギーがあったからだともなる、社会全体が若いからそのエネルギーが強烈なものとなってそうなったのかもしれない、それも幸運だったのかもしれないがやはり若いということと老人の差は大きいのである、ただ若いということがすべていいことにはつながらないのも確かである
年取ると何か今までわからなかったことがわかるようになる
本読んでびっしりと赤線をつけていたがそれも理解できていなかった
今になると深く理解できる、自分なりに理解できるのが不思議なのである
それで批評家に向いてくるのである、なぜなら何でも芸術でも深く鑑賞できるからであるこれは若いとできないのである、ごくわずかの天才はできたとしても普通の人はできないが老人になると洞察力でも鑑賞力でもついてくる、何でも深く理解できるということである、だから意外と老人の時間は充実している、黄金の時間になるのである
それもまもなく死ぬということでそうなっている、末期の眼で見るからそなっているのである



2022年04月13日

家事と機械と買い物 (機械の操作に追われる現代社会)


家事と機械と買い物

(機械の操作に追われる現代社会)

家事というのは相当に年期を経ないとできない、それが意外と広範囲になっているからだ特に料理はできない、十年していてもできない、それはすでに能力であり天賦の才とかないとできない、そして時間がかかりすぎるのである
用意するものが広範囲だからできない、そして何を買ったのか冷蔵庫にあるものを忘れて失敗している、結局人間はいろいろなことに頭が回らないのである
プログに記事を出すだけでも手間なのである

そしてわかったことは家事でも何でも今は機械と深く関係している
いい道具を機械を買うとそれで相当に助かる、でもいい機械を道具を使わないとうまくいかない
その一つが蒸し器だった、大きな蒸し器を買ったがそれが長く時間がかかりすぎていたのである、でも今回の安いものでは三分の一くらいに時間が短縮されていたのである
だからこれを長く使っていたのが失敗だった、時間の無駄だったとなる
料理をするにもやはり道具に左右されている
いかに機械を使いこなすかとで料理でも家事でも相当に違ったものになるし手間がはぶける

なぜ今そうなっいるのかというと戦前辺りは家事は手間だから東京の中産階級でも女中を二人雇っていたとかなる、なぜそうなのかとなるとそれだけ家事は手間だったのである
洗濯機がないから洗濯板でごしごし手で洗っていればそうなる
でも今なら洗濯機に入れればいいだけである
その相違も大きいのである
石油ストーブに灯油を入れるのに手で押して入れるのをしていたら手間だった
それを電気の自動式にしたら楽だった、手間が省けた、その差も大きかったと思う

いかに現代社会になると使う機械に左右される、あらゆる場所で機械を使っているからだ農業だってそうである、昔なら機械を使うより人力でしていたからである
田植えで稲刈りでも人力であり機械でしていないのである
そうなるといかにいい機械で使いこなせるかが問題になる
その機械の良し悪しで仕事もはかどるしそうでないと苦労する
昔なら雇った人間が問題になる、その人が仕事をうまくこなしてもらえばいいとなる
また人数を増やして人力で仕事をするとなる
でも今は人を雇うと金がかかるから極力人を雇わない
だから女中という仕事はなくなったのである、ただ極一部の金持が雇っているとなる
またども働きでも家事が機械化しているから妻でも外で働くことができる

ともかく昔の家事は手間がかかっていた、洗濯するにもそうだし風呂を沸かすのにもご飯を作る、料理をするにも手間がかかる、特に今でも天ぷらなどを作るとそうなる
それでお惣菜でも買うようになったのである
つまり家事はそれだけ手間だったのである

でも機械を使う時代になると今度は機械の操作に追われる、特にコンピュター系はそうである、テレビでふすらコンピュター化しているからだ
スマホを買ったのはいいとしてこの操作を覚えるのが大変だと思った
いくらパソコン歴が長いとしてもまたスマホは別なものだったからである
そうして遂にただ操作に追われる、それが現代社会の生活なのである
ただインタ−ネット化されたことにより通信は格段の進歩をした
雑誌でも新聞でも何でも出版となると印刷から配布するのに金もかかり個人ではできな
それでテレビ局と新聞社が独占して第三の権力となっていたのである
新聞社でもテレビ局でも会社の宣伝になるからマスコミは金になり力をもったのである
マスコミに出るだけでそれで有名になり力をもつこともできたのである

これも今ではメデアが変わった、個人でもyoutubeのようにテレビ局にもなれるしプログでも新聞のような機能があり金をかけずにだせる
いちいち印刷して一軒一軒配る必要はないのである
でも意外とプログでも操作がめんどうであり手間はかかるのである
なんとかワードプレスにしようとしているが未だにできない、つくづく技術は進歩しているから追いつけないのである
私は通信付きのワープロを使っていた、その時文章だけでもアップするのもめんどうだった、でも技術はこうして早い時期からなじんでいればできる
今になるとワードプレスでもできないようにめんどうでできないのである

人間と技術の関係は歴史が始まって以来あった、石器を作って以来あった
石器でも技術的に進歩しているからだ、それから鉄器の時代があり飛躍的に道具は便利なものになった、でもその速度は相当に遅い、今の技術の進歩は早いのである
すると人間の方が追いつけなくなっているのだ
老人になったらもう新しい技術になじむことがむずかしくなる、携帯までは私の母親が90才でもできた、でもスマホとなるとその難易度は格段に違うのである
だから今の老人の不利なのは新しい技術になじめないことである
テレビらただリモコンのボタンを押すだけではないからである

でも技術の進歩の恩恵も大きい、何度も言っているけどヤマハのYPJ-XCは優れものであり楽に走れるから遠出もできる、ドライブユニットが優れているからそうなっていた
それは実はヨ−ロッパで老人にも乗れるように開発された、マウンテンバイクだから
若者向きだと見ていたが違っていた、老人向きだったのである、乗っていて楽に走れるからだ
いづれにしろ技術機械道具の進歩は人間社会に大きな影響をもたらす、車社会になったことの影響は余りにも大きすぎた、社会そのものが変わった、街の通りがシャッター通りになったのもそうである、それは人間の人格までも変えた、車によって人間の人格まで変わったのである、車に人と人の出合いはなくなった、ただ車体が突っ走ってゆく
歩行者とか自転車は目障りであり邪魔なものになる、それだ馬鹿野郎とか叫んで走り去ってゆくだけである、もし江戸時代のように歩く旅だったら世は情けは旅は道連れとなっていたのである

ともかく現代社会は機械が不可欠である、戦争でもウクライナ戦争でもやはり技術の戦争でもある、より高度な技術を使った武器で戦うものが勝つとなる
ロシアが意外と旧式の戦車とか使っていてそれが狙い撃ちされたからである
またロシア軍は通信面でも遅れていて傍受されて位置が特定されて爆撃され被害が大きかったとなる
ただ技術が進歩するのがすべていい方面には働かない、それを象徴していたのが核である原発事故でありロシアが核兵器を使うと世界を脅したことで現実的恐怖となったからである

家事でも何でも現代社会は機械の操作に追われると思った
絶えず機械を操作しているのである、文章を書くにしてもパソコンでありそれも機械を通して書いているのである、だから私は富士通が開発した親指シフトをワープロで使っているから文章をスムーズに書くことができる、それは早い時期になれていたからである
でもスマホはしていないので慣れることが大変なのである
ただ一応パソコン歴は長いからなんとかやれたとなったのである

2022年04月09日

ベネゼエラの原住民がYIFIをめぐって4人が死亡した (私もAUの店に行き接続できないとかプロバイダーとか変えるのに苦労した)


ベネゼエラの原住民がYIFIをめぐって4人が死亡した

(私もAUの店に行き接続できないとかプロバイダーとか変えるのに苦労した)

米ワシントン・ポスト紙などの報道によると、3月20日、ブラジルとの国境付近にあるベネズエラ南部パリマで、ヤノマミ族の集団がベネズエラ軍の基地を訪問した。ヤノマミ族と軍はこの一帯でWiFiを共同使用する約束を結んでいたが、ルーターを持つ軍が無断でWiFiのパスワードを変更したことで、抗議しに行ったという。その後言い争いになり、軍が発砲。ヤノマミ族の4人が死亡した。
https://www.asahi.com/articles/ASQ496SQNQ49UHBI02G.html?iref=sptop_7_04

ヤマノミ族とかでYiFi使っているのか?
今日auに行ってスマホとアマゾンのfireHDをYiFiで接続できなくなった
それと今SONETで接続してたのをビッグローブに変えることにした
auでは自転車保険にも入った、どこかで故障しても運んでくれるサービスがあるからだ
他にも電気料金もauにまかせた、すると多少は安くなる
料金もいつでもauのスマホで見れる、結局いろいろなものが分散していると管理するのがめんどうになる、何かauの銀行もあるから一か所で帳簿があるようになると便利である

ただ自分の場合はネットをしていても機械類に詳しくないのである
何か今度はルーターを変えるとかなるとその設定がむずかしいのである
そして設定できないと使えないという恐怖になる
現実スマホとfireHDをYiFiで接続できなくなってそれを直してもらうのにめんどうだったからである
ただ近くに店があるので店員に操作してもらったから直すことができたのである

とにかく現代の問題は機械類の操作が複雑になりすぎた、テレビ自体がリモコンを押してチャンネルを選ぶだけのものとは違う、パソコン化している
そうするとこれは老人はこの操作に追いつけないのである
つまり金があってもそれを使いこなすことの労力が大きいのである
自転車ならそんな複雑な操作などない、携帯くらいなら私の母親は90歳でも使えたのである、でもスマホになるとパソコンにもなるからめんどうなのである
そして画面が小さいから自分はもともと嫌だった、小さい文字を見ていると疲れるのである、操作するにはやはり画面が大きくて字も大きい方がいいとなる
この画面の小ささが相当に脳に影響しているのである
視覚的に画面が小さいことは脳に影響する、それでアマゾンのfireHDは画面が大きいから使えると思ったのである、これはタブレットなのだがそれをしていなかったから失敗だった、こういうものは常に操作して慣れてゆくほかないからである

このジャングルの原住民なのか?、その人たちまでYiFiのパスワードでもめていたのは驚きである
なぜならパスワード自体が十個くらい使っていてそれが管理できなくなっている
そして一番苦労しているのがYIFIのパスワードである、これがうまくいかず通信できないことがあるからだ
ルーターのパスワードがそうである、それで未だにYIFIの設定ができずにいたのである
何かこういうのは簡単なようでできない人もいるのである
そしてこういう通信機器の使い方を教えてくれる人がいない、電器店も教えないのであるだから設定することとかで必ずつまづくのである
ただワープロの通信付きのを私は20年前以上から使っていた
そのワープロからパソコンを使うようになったのである、そうして早い時期からスマホでも使っていて慣れていれば良かったとなる

とにかくジャングルの原住民でもYIFI使っているのが現代である
意外とロシア軍が通信で遅れていて不利になっていた
通信というのは連絡するために不可欠でありそれも高度なものになっているから
ロシアはそういう面でも遅れていたのである

何かauで通信会社をプロバイダーとか変更するのはめんどうである
本当はしたくなかった、料金にしてもたいした差がないからである
でも変える時期があり自分でするほかないとも思った
つまり現代は通信環境を整えて置くことが必須であるからだ
何しろ原住民でもYIFIを使っていて勝手にパスワード変えたとして殺人までなったいうのも何か現代を象徴した事件である
パスワードがインタ−ネットの通信だと鍵になりこれを忘れたりするとめんどうになる
そのパスワードが鍵となると十個くらいパスワードの鍵をもっているとなってめんどうになるのだ

今日は半日AUの店にいて疲れた、明日はまた手続きに行かねばならない
桜はほとんど一気に満開になった、今日は暑いくらいだったからだ
今は地震で家の中が散らかっているのでも直していない、仕事が増えたのである
私はずっといろいろ整理に追われているのである
この事件で私もYIFIで苦労したので共感したのである

でも今日はアマゾンのプライムビデオで村田諒太とゴロフキン(カザフスタン)とのミドル級のボクシングの対決を見た、これをテレビで放映しなかったのである
ここにも通信がインタ−ネットに移っているからテレビ局でこの大一番を放送しないというのは相当に変わったのである
私は子供の時一番興奮してみたのはボクシングだった、その時は家にテレビはない、理髪店ととか電器屋とか特別な所にしか置いていなかったのである
それがテレビではなくアマゾンで放映しているのだ
その興業の金は20億とかでもアマゾンとか世界で出しているのである
その資金の出どころも変わったのである、この放送は世界で同時放送されたのである
生放送されたのである、生放送というのはネットで見ていなかった
これももうインタ−ネットなしでは人気番組でも見れなくなる
だからどうしてもネットになれておく必要がある、ただ今にるなと遅すぎたとはなる
私の場合はパソコンでも長くしているからなんとか追いつけるとなるが他の人は携帯まではやれるがスマホとか
通信関係になるとめんどうにはなる

2022年03月28日

アマゾンのfireHD10は使える (スマホとYIFIでつないでどこでも使えるから便利)


アマゾンのfireHD10は使える

(スマホとYIFIでつないでどこでも使えるから便利)

firehd10.jpg

アマゾンのfireHDは買った、買った理由は安かったことである
二万くらいなので試しに買ったのだ、失敗しても良いと思って買った
困っていたのはスマホの画面が小さいから見にくい
それでスマホからプログにアップすることがめんどうでできなかった
また通信でもYiFiだとどこでも通信はしにくい

それでauのスマホでデザリングとかありYiFiにして無線でつなげる
これは便利だった、それほどむずかしくなくできた
私は別にパソコンとか通信にも詳しくない
でもこれは意外と簡単にできた、これができればどこでもつながりやすい
YiFi どこでもつなげるわけではない、限られているからだ
これだったらどこでもつなげるというのは頼もしいとなる

デジタル社会になるとどうしても新しいことになじめない
老人は特にそうである、そうでもやはり技術というのは段階的に進歩してゆくから
パソコンをしていた人はなんとかできるとなる
私はワープロ通信からパソコンになり無線通信のパソコンも20年前とかにもしていた
ただスマホを使っていなかった、だからそこで相当に遅れをとったのである

やっとスマホを買いこれで問題だったのは小さい画面だと見にくいのである
このfireHDは画面が大きいのである、スマホの三倍くらいあるとすると感覚的に
全く違って世界になっていた、映像でも広く見れるから発見があった
この画面の大きさは相当に人間の脳に影響していたのである
狭いということは脳も疲れるのである、広いということは視覚が広くなり視界が広くなるこの効果は大きい、これは買いだと思う
ただ他にタブレットはあるからそういう人は持っている人はすでに経験している
でもこれは安いから試しでも買ってみるべきだとなる
二万くらいだとしたら安すぎる
でもスマホとつなぐと広い画面で見れるからいいのだ

ともかくデジタル分野では次々に技術革新がある、これに遅れると相当に損になる
自転車でもヤマハの電動自転車でエンジンのユニットドライブが進歩したので
軽快に走る、これだと楽だとして老人でも遠くに行ける、そうでないと遠くに行くとなると疲れるから行けない、ヤマハのYPJ-XCは実際は体力がなくなった老人向きにヨ−ロッパで作られていたのである

人間は技術の恩恵も大きい、また技術でも原子力のように事故になりその損害もマイナスも大きかった
技術が進歩すると老人でもなかなか病気になりにくいとか寿命が延びるとかなる
人間の脳でも老人になっても活性化することがある
だからデジタル社会についていけないと時代遅れになってしまう
私はもともと技術のことはうとい、たまたまワープロをしていたことからパソコンに入りスマホでもパソコンだから理解できたのである
つまりスマホでもパソコンを知らないと慣れていないと操作できないともなる
人間は技術の進歩で広がる世界がある、デジタル化は人間の世界を広げる
活性化する、これがすべてではないにしろこれを使いこなせないと相当に損だとなる



2022年01月20日

スマホはパソコンり使いずらい (画面が小さいのと操作が複雑、でも不可欠のものになる)


スマホはパソコンり使いずらい

(画面が小さいのと操作が複雑、でも不可欠のものになる)

小さい画面が苦手なのでスマホを買わなかった、でもスマホも緊急の時必要と思い買った携帯は意外と病院に入院したとき役だった
というのは一応インタ−ネットもできなたので暇なのでそれを見たりまた文章でも書いたりしていたのである
何かパソコンでもこれを覚えるのに時間がかかる、それで暇な人でないとできないと思った

私がそもそもパソコンになじんだのはその前提として通信機器がついていた富士通のワープロを使ったことによる
そこで親指シフトを覚えたことが大きかった、パソコンでも文章を書くことが中心になるからだ、ローマ字入力だスムーズに文章を書けないからである
その通信機付きワープロでパソコン通信までしていた
これをしていたのはパソコンマニアだったのである、素人が今のプロバイダーのようなことをしていたのである,パソコン一台でそれができていたのである
そのパソコンにつながり通信が文字でできていたのである

結局なぜこんなことをするようになったのか?

それは仕事もしていないし引きこもりであり時間があったからである
とにかく最初は通信で手間なのである、だから相当に自由時間がないと参加できないものだったのである、もちろんパソコン自体覚えるのも容易ではなかった
だから高いパソコンを使って金をかけて時間の余裕がある人がしていたとなる
そして理系の人が多かったように思う、それだけ文系とかなるとハードルが高いものだったともみる
パソコンという機械を知る必要があったからだ

私は文系であり機械に弱い、ただ通信がついていると富士通のワープロは親指シフトで文章を書きやすいものだったからである

ワープロ⇒通信機付きワープロ⇒初期のパソコン⇒パソコン

こんな順序で覚えてきた、技術的にはワープロが最初でありそれが進化したのがパソコンでけあったともなる
その後携帯が出てきたがこれはスマホとは違う、電話がちょっと進化したようなものだった、今ままでのように通話が目的でありこれは90歳の母でもできていたのである
なぜならそれは電話だったからである、だから難しくないから普及したのである

スマホとは何か実際に買って試してみてある程度は理解した
やはりスマホはその基礎としてパソコンに習熟していないとわかりにくいものだと思った小型化したパソコンだからである
でもグーグルドライブがあるとするとすでに私はこれをパソコンで利用しているから理解した、つまりパソコンをしていないとそうしたものを理解しにくいのである

ただこれは持ち歩きできるしどこにでも見れる、寝床でも見ている
そして緊急時には役たつと見た、それはどこでも持ち歩けるからである
そこで情報を得やすいからである
特に私に役だったのはメモ機能である、例えば大量の本を整理してようと苦労しているが本の一部を写真にとって記録していると便利である
常に記録したものを常時見るようになり頭に入る
デジカメは写真だけだが記録するのに写真だけではない様々な機能があるからこれはやはり知的作業をする人には欠かせないと見た
パソコンもそうだが今の機械は人間の頭脳の一部と化していると見た
人間と機械が合体しつつある、それがスマホなのである、それはやがて脳に埋め込まれ
人間の脳となる、サイバー人間にもなる
そういう未来がすでに見えている

これから試すのから遠出して旅したりして即座に写真とか文章をアップすることである
リアルタイムで遠隔から情報を送りプログとかに出すことである
それができればリアルタイムの遠隔からの報告ができるとなる
ただパソコンよりは手間になるし旅に出たりする々とそういう時間の余裕がないでしていない、でも前にパソコンではないがノートパソコンで通信できるものがあり
それを使って通信していたことがある、それが通信料が高かったのである
だから私はいろんなことを試しているのである
それが進化してきたのがスマホだとなる

おそらくスマホは画面が小さく見ずらいとか問題があるから欠かせないものになるかもしれない、すでになっているともなる
決済でもそうだしデジタルマネーにも使うとか必須になる
すると難しいから覚えられないとすまされなくなる、ただわかることは技術というのは
初期段階がありそれが進歩してゆく、パソコンの初期段階はワープロだったようにであるそこから今のスマホに進化したとなる
わかることは何らかスマホは頭脳の代わりとなり欠かせないものになる
つまり電車とか車とかは移動する乗り物である、それは人間の足の代わりになる
そしてスマホは頭脳の代わりになるしITとは頭脳と密接に結びついたものなのである
だから今までの機械とは違って頭脳の役割を担うのである
それで翻訳とかAIが進歩してゆく、翻訳機能はすでに高校レベルの先生より優れているかもしれない、英語の先生の代わりになりそれより優れているようにもなりますます進化してゆくのである

ただ老人は技術の進歩に合わせられないのだ、だから未だに新聞を見てテレビを見ているのである、今ならもうyoutubeは情報として勉強するにも欠かせなくなっている
なぜならそれぞれの専門家が直接放送しているからである
マスコミだったら専門家を選び専門家は脇役のようになりアナウンサーが主役だったのである
お前にしゃべらせるのはテレビ局だとなっている
アナウンサが主役であり専門家は脇役である
それで科学者の武田邦彦氏がアナウンサーをひどく怒っていたのである
それもわかる、専門家が主役ではなくテレビはアナウンサー主役だからである
専門家でもテレビに出してやるということでありテレビ局の許可があって少しだけ話せるとなっていたのである

ともかくスマホというのもワープロからパソコンからの延長として生れた
だからこれは継続したものとしてあるから最初からしているのはなじみやすいとなる
スマホでは音声入力で文字を出すのがやりやすい、とてもキーボードで文章を書くようにはできない、タブレットだとできるとはなる
スマホの欠点は致命的なのは画面が小さいから情報処理するのに限界がある、わかりにくくなるのだ、それでなじめないし老人にはめんどうだとなる
ただ技術はその内容を詳しく知らなくても慣れでできることがある
そしてあらゆることを覚えることはない、自分のしたいことに特化して覚えればいいとなる、とても全部は使いこなせないからである

とにかくこれは持ち歩きできる小型パソコンであり頭脳と一体化する
そういう未来を暗示している、やがて頭脳と一体化する
デジカメが眼の拡張であったようにスマホもそうなる、ちょっとメモするとか記録するとかに便利なのである、それが人間にとって大事なのはとにかく人間は忘れやすいのである本だって読んでも忘れる、でも重要な部分を記録して何回も気軽にスマホで見ていると記録したことが頭に入るのである
だからこれは明らかに頭脳なのである、頭脳の拡張したものである
だから知的作業する人には不可欠になると見た、また建築現場とかでも常に仕事で連絡するから仕事でも不可欠になるしなっている
写真を気楽に送れるということで仕事がはかどるとなるからである



2021年12月26日

技術はいつの間にか進歩して遅れてしまう (スマホを利用しないで失敗)


技術はいつの間にか進歩して遅れてしまう

(スマホを利用しないで失敗)


スマホを最近買った、携帯はやめてずっと利用していなかった
だからスマホもしなかった、別に利用もしなかったので困ることもなかった
ただ緊急の連絡のために買った
でもスマホが小型のコンピュターになっていたことで相当に進歩していた

一番驚いたのは音声に入力である、これが正確なのである、翻訳でも驚いたがこれは正確さが違っていた、個人差があるのに正確なのである、音声でテキスト化されることは便利である,キーボードがないから音声入力は便利である
ただまだまだ買ったばかりで使いこなせていないがスマホが現代人の必需品になったことは確かである
自分の場合パソコンの延長として買ったのである

スマホが嫌だったのは画面が小さいことと字が小さいので見にくいから疲れることで嫌だった、それは確かだった、試しにエロ画面とかみたが小さくてこれでは使いないと思ったやはり大画面でないと動画でも見にくいし迫力がないのである
まず何かスマホで創作作業とかするのがむずかしいと思った
ただ本体の家にあるパソコンと連携するのには便利である、ただまだそこまでやれていない、使い方がまだわからないのである

常に技術は日進月歩である、それを見逃していると社会から取り残される
それは老人になると特にそうである、すると今何か起きているのか社会がどうなっているのかもわからなくなる、そして社会から取り残されるとなる
自分はワープロで通信できるのを早い時期からしていた、そこからパソコンに移った
その時のパソコンは素人が作ったようなもので常に再起動ではなく最初からOSの初期設定しなければならないめんどうなものだった
パソコン通信などもしていた、なぜそんなことができたのか?
それは自分が引きこもりであり家に仕事もせずにいたからできたのである
パソコンとかは何か覚えるのに手間だからである

それからするパソコンの技術は日進月歩である、ハード面でもそうだがやはりソフト面でもそうである、それがAI社会になるということにもなった
このことで日本は技術の進歩に遅れとったのである、IT化もできず中国に先を越されたのである、技術は常に進歩しているからそれに追いついていかないと取り残される
そうして日本はIT後進国にもなったのである、経済でも落ちぶれたのである
韓国の方がITでは先んじていたのである、今日本で技術的に優れている分野はわずかである、その原因が最先端の技術革新ができず取り残されてしまったことである
失敗したのは早めにプログでもSSL化しなかったから検索でも取り残されたとなる、SSL化しないと検索すらされなくなるようになったからである、だからなんとかワードプレスに移行しようとしているがめんどうなのである

日本にそういう技術革新ができない訳ではなかったが何か現状維持でも豊かだからいいとかなっていたのである、そこに韓国でも中国でも猛追いしてきていたのである
中国には本当に驚いた、十数年前中国に行った時物価は日本の十分の一くらいだった
貧困国だったのにあんなに発展したことの驚きである、それだけ技術の進歩は早いことである
ここで日本が奢りになったということを書いている、日本は高度成長前にもどり謙虚にならねばならないとしている、日本人は高度成長時代を経て奢りになった
シャパンアズナンバーワンとかなり奢りになった、海外旅行ブームになりそこで日本は成金になって威張っていたとなる
それが今や東南アジアでも馬鹿にできない、貧乏国になった、ただまだまだ校と成長時代のことがあり日本は優れているとかという気分がぬけないのである
それは原発事故でもそうだった、日本は技術が優れているからロシアのチェルノブエリのような事故にはならないとかうぬぼれていたのである

日本の技術力はすごい、事故は起こらない

原発に関しては日本は後進国だったのだがそういう奢りがあり致命的な事故になったのである
何かスマホなどはやらなくてもいいとかスマホは子供に制限すべきだとか言う人がいる
それも一理ある、子供には害になることもある
でも何か技術というのはそうして両面がある、良くも悪くもなる
でも技術が日進月歩であり見逃していると遅れてしまい今の様な日本になる
ただ老人になるとスマホは使いにくいだろう、私はパソコンでなれているから使えるとなる、それでも画面が小さいから疲れるから嫌だったのである
スマホばかり一日見ていることは良くないことは確かである

何かスマホの不思議は武田邦彦氏が常に言っているように平安時代の人々がこれを使ったら無線で話ができるということは考えられないだろうといのもわかる
スマホは常時携帯している、すると何かある人が常にyoutubeなどで発言している
するとその人が憑依したようにどこでもついてくる感じになる
武田邦彦氏のyoutubeはいつも見ているからその人が憑依したような感覚になるのだ
何か洗脳されることにもなる、なぜなら何回も同じようなことを言うからである
それを聞いているといつの間にか洗脳されるともなる
それは場所を選ばず耳に入り眼に入ってくるからである
これは本とはまるで違ったものである
技術の進歩は常にそうして人間社会に意外な影響をもたらす、とにかく技術は社会を否応なく変えてしまう
車社会になったのもそうである、車によって社会そのものが替えられてしまったからである

「政府の施策と相まって先進国への道程における国民各位の協力もまた大きな意義を持っている」

先進国への道はけわしいのである」
「今後は先進国らしい姿に整えることにもこの活力を注ぐべきであろう」
 何と言う謙虚さだろう!  「姿を整える」と2度も言っている

日本人は1人当たりGDPで他国に抜かされまくる現実を知らない

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こういう意識だったのだが高度成長時代を経て日本は奢りになった、日本の技術は優れているとかなっていた、でもITでは遅れたのである
つまり謙虚さを失い遅れていてせ進んでいる国であり技術的にも優れているという奢りになったのが今日の日本の貧困化にもなった、人間が奢りが一番怖いということがある
奢りになると謙虚に努力することもなくなるからである
またもしかしたら日本人の高齢化が新しいものに技術でも挑戦しなくなったのかもしれない
高度成長時代は団塊の世代が主流であり若い人が多かったからてある
その高齢化社会になったことも影響したのかもしれない、年を取るとどうしても保守的になるからである
これからも老人ばかり増える日本で革新することがむずかしいとういことがある
ただそれは日本だけの問題でもない、中国でも高齢化してゆくからである
ただ本当に技術は日進月歩だからいつのまにか取り残されてしまうのである



2021年12月15日

ハンコの失敗 (中国で買った高いハンコの作りが良くなかった)


ハンコの失敗

(中国で買った高いハンコの作りが良くなかった)

hanko111.jpg

このハンコは中国で買ったものである、だから物はいいのだが名字を刻んだ所は直接彫り込んだものではなく彫った薄いものを張り付けてあった
だからそれがはがれたのである
そしてはがれたなかの端の方がとれてしまった
でも全体的には残っていた、なんとか名字の形が全体的に残っているから使えるだろう
でもこれは大失敗だった、中国製だからいいと思った
もし木に彫りこんでいたらこんなふうにはならない
中国はハンコの本場である、でも材質は良かったが作り方が良くなかったのである
まさかハンコがこんなふうになって使いなくなるようになると困る
結局ハンコもものだから劣化する、でもただ貼り付けるだけだったからこうなったのである

ともかくハンコというのは不便である、いちいちハンコを使用するのはめんどうでもあるそれで日本はデジタル社会に遅れをとった
もしこのハンコが使えないと本当にいつくもまたハンコを押し直しするからめんどうである、ハンコが前時代的なものなのに日本では残っていて中国ではハンコは使わない
それだけ日本ではデジタル化することに遅れているのである
ハンコはもう必要ないのである

要するに中国の方が今進んでいる、このハンコを作ってもらったのは十数年前に中国で作ってもらったのである、一万もしたのである
その時物価が十倍くらい違っていたのである
そして中国はあんなに発展していない、その急速な発展に驚いた
もうハンコの本元でハンコを使っていない、ハンコはもう価値がない
このハンコは材質は良くても作り方が悪かったのでこうなったのである
木に彫られたものだったらこうならなかったのである

2021年11月25日

電動自転車の修理は簡単にできない (都会と田舎の差があった-都会と田舎の差)


電動自転車の修理は簡単にできない

(都会と田舎の差があった-都会と田舎の差)

ヤマハの高価な電動自転車でチェーンがはずれた、それを直そうとしたができない
何か簡単に直せない所にうまい具合に入ってしまったのである
前は自力で直せていたからである、それで自転車屋に頼んだが今度は工具がないとか
それが入るために二週間以上かかるとなった
何か簡単に直せないものになった

電動自転車と電気系統とかなると簡単に直せない、でも幸い近くでそうなったから良かった、8キロ歩いて帰ることができたからである
もし遠くだったらどうにもならなくなった、それをイメージしたとき怖かった
第一マウンテンバイクだったらチェーンとかはずれたら困る
悪路を行くのだから本当は簡単にチェーンをはずれるように作ってならない
そこで動けなくなったらどうにもならなくなる

前にもエンジン部分をそっくり取り換えることがあった、電動自転車は簡単に直せない
だから通販はできない、必ず何か故障があるからだ
普通の自転車なら大丈夫である、なんとか直せるからである
ただ困ったのは通販だと自転車屋では受け付けない、金にならないから受け付けないのも困る、それで折り畳みの電動自転車を買おうとしてもヤマハでは売っていない
外国製でいいものが出ていても通販で買えても後のアフターサービスがない
すると怖くて買えないとなる、仙台市ですら売ってなかったからである
ここに田舎と東京とかの差がある
第一隣の街まで行って直してもらったりできないから困る
自分の住んでいる街では一軒しか自転車屋がないからだ、それはヤマハの専門店である
だからヤマハは今回のように故障しても連絡して直せることができる
他はできないのである

とにかく一軒しか自転車屋がないとしたら貴重になる
その一軒がなくなったら本当に困ったことになる、でもいづれなくなるかもしれない
跡継ぎがいないからである、普通の自転車だとさほど困らないが電動自転車だとなると簡単に直せないから困る
まず電気系統が壊れたら直せない、すると高いものだから損失が大きい
一万くらいの町だと足りないものがある
弁当屋がないことが苦しい、スーパーだけだと足りないからだ

都会と田舎の格差はある、でもかなり解消した、インタ−ネットでどんな本でも買える
情報でもいろいろアクセスできる、youtubeで無料で大学の講義すら受けられる
すると田舎でも知識的には格差がなくなった
でも依然としてこうした技術的な面になるとまだ格差がある
特に外国製のものは買えない、自転車は買えない、アフターサービスがないからである
それが安ければいいが高くなると大きな損失になるから買えないのである

最近はチェーンがない自転車とかパンクしないタイヤとかがでている
こういう最先端のものが入らないのも困る
どうしても田舎だと技術的な面では遅れるのである
そして田舎で困るのは移住するにもその人にあった仕事がないというのもわかる
多様な仕事がないし知識的な仕事もまれである、それで仕事が無いから移住しにくい
ただテレワークになりスキルをもった人は移住しやすくなったとはなる
でも田舎だと自転車は景色のいいところをいつでもサイクリングできる
街だって混んでいないから事故になりにくいのである
それで移住してきた若い女性が飯館村の方に行くとかサイクリングを楽しんでいたのである
私はまさに自転車人生であり自転車で好きなように走り回っていたのである
そして今度のヤマハのYPJ-XCは優れものであり楽だから遠く行けるのである
そうでないと倍の力が必要であり年取ると行けない、これだとまだ遠く行けるのである
ただチェーンがはずれたら簡単に直せないというのが弱点だった
どうも作り方でそうなることがあったということである

2021年10月20日

IT化が進まない理由 ( 日本文化がITとコンピュターと相性が悪い‐メデアの変化)


 IT化が進まない理由

( 日本文化がITとコンピュターと相性が悪い‐メデアの変化)

express111.jpg

●メデアの相違で感じ方が違ってくる

ただこのコンピュターになると頭脳と深く関係している
第二の頭脳のようになっている、AIとかもそうである、それで翻訳ではAIの方が優れていると感心した、学校の英語の先生より優れている、となると英語の先生も失業するともなる、AIは頭脳と深く関係しているからかえって事務とかはコンピュターに変わられて人間はいらないとなる

そしてメデアというとき仲介するもののことであり仲介するものによって表現するものが大きく変わる、今の時代の大きな変化はITとかAIによるメデアの変化に直面しているのである
これまでもいろいろな変化があり技術の進歩があった、現代を最も象徴する変化は通信の変化なのである、それにともなってメデアが変化したことの影響が大きいのである
メデアというとき仲介するものである、例えば乗り物も仲介するものでありそれによって感じるものが違ってくる
なぜなら人間が移動するときは歩くことしかなかったからである
馬とか馬車とか船でもあったにしろ基本的に移動するのは歩くことしかなかった
江戸時代の旅は歩くことでしか移動できないのである
すると歩く感覚から外界を自然でも何でも感じていたのである

菜の花や普通列車になまりかな

タンポポや一挙に着くや新幹線

電車でも急行があり普通列車がある、この普通列車は地元に根ざしているのが多い
通学とかに使うからである、そこで外を見ると菜の花が一面に見えた
高校生がその土地の訛り(なまり)で話していた、それが普通列車にふさわしいものだった、急行だというそれが感じないのである
さらに新幹線だともうその土地とは関係なくなる、一挙に遠くへと一瞬で行く感じにもなる、そしてタンポポが咲いていたのである、ただ途中は飛ばされて視界に入らないとまでなっている

また車だと自然を感じない、鋼鉄で覆われているから風を感じないし雨も感じない
時雨が降っていてもわからない、でも自転車だと必ず風を感じる、東風でも北風でも感じる、今年は早く北風が吹いて早く冬が来るのかと感じた
車だと風を感じないから風流がないとなる、それで私は自転車が好きなのである
それは自然を感じるからである、自然を感じなかったら俳句も短歌もありえないからである

●マスコミ支配の終わり

ともかくメデアの変化は大きい、通信の発達は現代を象徴するものである
通信でもメデアでも新聞がありテレビがありこの時代は長い、新聞だともう百年以上でありテレビでも50年もつづいている、テレビの影響は大きかった、テレビに映るだけでみんなテレビに食い入るようにしして見ていたのである、中味がなくてもテレビに映ることで見ていたのである、それが茶の間の主役となったのである
つまり茶の間に中心にあるということはいかに影響が大きいものだった
それにともないテレビを通じて番組を作るマスコミの影響がどれだけ大きいものだったかをふりかえる、テレビの時代はマスコミが教育者となり扇動者となり裁判官にもなり大衆を導くものとなっていたのである
だから第三の権力をもつようになりあらゆることで支配的役割を担ったのである
そこで相当に歪めれたものがあったがそれは見逃されたのである

メデアを持つということがどれだけ大きなことかインタ−ネットが生まれてホームページでも次にプログでもそれからyoutubeとかにもなりそこで個人発言でき表現できる時代になったとき発信者になったときみんな感じたのである
自分自身でも今はプログで発信しているけどこれは写真も絵でも載せられる、視覚的にも表現できるから表現力がある、それも簡単にできるということでこのことは大きいメデアの変化だったと感じた、何か表現するには必ず仲介がメデアが必要だったがそれは新聞であれ雑誌であれ本であれ簡単にはできない、そして不思議なのは必ずそうしたメデアは大きな権力をもっていて取捨選択するのはメデア側にあり発言する方にはなかったのであるでも直接発言することがてきるということが不思議なものになっていたのだ
そこに検閲もないのである、だから問題も起きたのである

ともかく個人の自由な発言とか表現は許されていなかった
本だったら出版社を通してしかできないし普通の人はできない、他でも同じである
それらはまた権力がないとできない、なぜなら出版するには金がかかるからである
また売れないと出版社では経営が成り立たないから売れるものを出したいからである
そこで出版する時は背後に大きな組織がないとできない
創価とか他の幸福の科学とか天理教とかなんかいろいろな宗教団体がありその団体の会員が買ってくれるとなるとある
インタ−ネットだとそういう団体に所属していなくても応援がなくても一応発言できる
ただそれに目をとめる人は極めて少ないというだけである
マスコミで顔を出すだけで百万人以上の人が見るということがありそこで顔が売れる
すると中味が何もないのに国会議員とか東京都知事になったりした芸能人がいたのである全国区になると顔を知られることが第一になるからである、中味より大勢に知られることが第一になるからそうなったのである

インタ−ネット時代は何なのか?それは個々の表現の時代になったのである
だからしきりにyoutubeでも表現力がないものはこれから役にたたないとか金にならないとかまで言う、今まではそうした表現力はマスコミが担っていた
そしてゲストとして呼ばれるコメンテーターも飾りのようなもので主体はマスコミにあった、それで武田邦彦氏とかがアナウンサーに怒っている
つまりマスコミのテレビの主役はあくまでアナウンサーだったのである
いつも真ん中にいてアナウンサーが全面に映る主役だったのである
そして呼ばれたコメンテーターの自由な発言を許されなかった

マスコミの言う通りに発言させられるだけなのである、だからこそ自分の言いたいことを言えないで怒ったともなる、マスコミとは単に仲介する機械のメデアではない
意志をもったメデアなのである、だからマスコミの主張を通すために番組を構成するのである、中立ではないのである、それでNHKでもそうだった
上の人達が番組の方針を決める、だから下の人は何も言えない、従うだけだと言っていたからだ、ただ一見中立のように装うのでわかりにくいのである
特にNHKはそれが中立のように見えるように構成するから簡単にわからないことがある
でもNHKの意志があってその意志を主張を通すために番組作りしているのである

●個々の多様な表現の時代へ

ともかくインタ−ネットでもこのITとかAIでも何か人間の頭脳と深く関係している
だから現代とはインタ−ネット時代とは個々の表現の時代だともなる
表現力を磨くことが要求されている、youtubeだと話しがうまい人が人気になる
その話し方もいろいろであり何か話し方がわかりにくいと見る方もいやになる
明確に言葉で話せないとまずいとなる、ただ人の話し方もいろいろあるからその話し方で見る人と見ない人もでてくると見た
これが文章ならそういうことはないのである、もちろん文体とかあるにしても話すのとは違ったいるからである

それでyoutubeを見ていてただ話すだけでは理解しにくいものがあると思った
人が話す時、youtubeだとテレビのように必ず顔を見るのである、すると顔の印象から話すことを聴くのである、ともかく話し方がみんな違っているのである
ただyoutubeが伝えるものとして万能かとなると違っていた
youtubeだと過去のものが記録したログがもう一度見る聴くということがあまりないのである、文章に記録されていればそれを読むとこういうことを言っていたのだとか再確認できる、また文章だとキーワードでその内容も検索できる
それがyoutubeではしにくい、不思議なのは自分は膨大なものを文章で書いている
プログで書いている、それを読み直すとこんなことが書いていたのかと自分で感心している、これも本当に不思議になる、自分の書いたものが自分が書いたと思えないことがあるからだ、いいこと書いていたな自分自身が書いたものに感心しているのである
それだけ人間は常に忘れやすいからそうなる
だから文章で残すということは大事になる、話すだけでは記憶に残らないとういことがあるからだ、それで文章の力は大きいと再認識したのである
自分の場合はそもそも話すのが下手だから余計に文章重視になる

いづれにしろ人間の感じ方はいろいろあるということである
だから歩いて感じることと自転車に乗って感じることと電車に乗って感じることは違ってくる,それはメデアが違っているからである、だから人間の感じ方はいろいろでありメデアによっても多様になる
インタ−ネットだと必ず編集して読むべきだとなるとき多様なものを結びつけることでそうなる、あることで様々な見方がある、一つの見方はないからである
それを一つにしたのがマスコミだったのである、だからそれは偏った見方であり多様な見方を許されなかったのである
第一人間は住んでいる場所がみんな違う、そこからして見方が違ってくる、感じ方も違ってくるからである、この辺では原発事故になってそのことから取り離してみることはできなくなったからである

このITとかコンピュターのインタ−ネット時代は世界中でも多様な見方がありそれに触れるという時代になる、日本国内でも多様な見方がある、マスコミのように一つの見方になることはなくなった
もう新聞は過去の物でありテレビのマスコミ支配も終わりつつある
多様な見方からそれぞれ感じたことで判断する、ただそうなるといくら個々人の発言が表現が自由になっても数が多いとどうしても見るのは限られてくるのである
見られない人は全く見られないとなる、それも問題になる
ただ自分にとっては自由に表現できることが魅力であり発信しつづけることになる
それができるのは金がかからないことである、ただ手間はかかる
またプログだけでは表現しきれない、でもワードフプレスになるとめんどうだとか前のホームページもそのままてあり放置してある、何かめんどうだからそうなっている
ホームページでは分類するのが向いている、それも手間でできていないのである
簡単にアップできればいいのだがそれがめんどうなのでできない
無料でも手間だけがかかるのが問題なのである

●日本文化がIT化を受け入れのを拒んだ

技術と文化は関係している、技術をとれいれるとき、その国の文化があり歴史があり
便利だからと無条件に取り入れることができない
文明でもそうである、西欧文明がキリスト教文明でありキリスト教を取り入れなければ
西欧文明を取り入れることができないと内村鑑三が指摘した
でも日本ではヨ−ロッパに行ってみてきたのは宗教ではない、様々な技術だったのである蒸気機関車であれ建築であれ医術であれ様々な科学技術に驚いた
それでその技術を取り入れることが文明を取り入れることだと見たのである
技術だけに注目したのである、この傾向は今でもつづいている

「テレワークの方がオフィス勤務より仕事がはかどる」と答えた人は、グローバルで平均69.1%だったのに対して、日本は42.8%と、調査対象国の中で突出して低く、7カ国中唯一、「テレワークだとはかどらない」人が多数派だった

一方、日本型企業が得意とする人的ネットワークによるインフォーマルなコミュニケーションは、過度に依存すると、簡単なやりとりで済むはずの日常実務においてすら、濃密な人間関係や地理的近接性、時間的同期性が要求されやすい。
https://news.yahoo.co.jp/articles/71fe114c7cbf59d1fcfa208135f733695c09322b?page=2

日本でITが進まないのは話せばわかるとか腹でわかるかとか狭い村がアイディンティティとなっていてそれが文化となった、属人的的であり直接人と合わないと信じられないとかなっていた、だから法律でも苦手である、理屈だからである
でも大陸文化は異民族と絶えず交わるから人種とは関係ない公平さとかを追求する
それを数式のように決めて判断して判決するともなる
そこに文化の相違がありそれが壁となってIT化がすすまないとなる
自分自身でもパソコン通信で文章で見知らぬ人が語りあうことがなじめなかった
そういうことを今まで経験していないからである
でも事務的なことなど別に直接合わなくても処理できるのである
ただ面と向かって合わないとできないこともある

そもそもITというとき英語になる、すると英語圏の人は有利なのである、プログラムでも英語だからである、そして英語は横書きであり日本語は漢字交じりで縦書きである
縦書き文化は漢字圏であるが他ではないのである
でも中国はいち早くIT化したから言葉の相違でIT化できなかったことでもない
中国には日本の様な村がないというときもそうである
そこからして中国大陸の文化と日本は同じようで相当に違っているからだ
ただ文化の相違がありそれは障壁となって日本ではITになじめず遅れることになった
技術と文化も一体だから取り入れることができなかったともみる
文明とはcivilzationでありそのcivilとは市民のことである、でも日本には市民というのはいないから理解できなかった
西欧文明を取り入れてもそもそもそうして理解できないものがありそれがIT化に遅れた原因にもなる、文化には根強く変わらないものがある変えられないものがある
便利な道具を取り入れても国々の文化が違っていてそれで受け入れられないということがある、文化には様々な要素があり風土なども関係している
そのために原発は地震とか津浪とかあり日本の風土に向かいないものだったのである
風土と文化も一体になっているからである

2021年07月19日

多様な多角的な視点からみるネットの情報 (マスコミでは視点は一つになりやすく偏る)


多様な多角的な視点からみるネットの情報

(マスコミでは視点は一つになりやすく偏る)
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インタ−ネットの情報は多様であり多角的になる、それは個々人が発信しているからである、マスコミはマスを対象として視点が一つになりやすい
コメンテ―ターとしても専門家でもしゃべらせるのはわずかしかない
すると実際はその話すことはマスコミでテレビ局のいいようにしゃべらせているとなる
必ず個々人が十分に言いたいことは伝えないのである
その一部を切りとったものをしゃべらせて局で編集するのである
それは取材でもテレビ局で報道したいものを取材して編集して放送する
つまりテレビ局が結局は報道することを決めて何かいいのか悪いのかなどを決めているのである、だから一方的であり多様な多角的な意見でも出ないのである

だからインタ−ネットだとこういう視点で話すこともあるのかとみる、それは個々人の視点でありマスコミの視点ではないのである
だから多様で多角的になるのである、例えば同じ景色でもカメラマンによって撮る角度が違ったりカメラ自体がいいものだったりその時の天候などで多様に見える
同じ景色をとっても違って見えるのである、それでこんなふうに見えるのかと感心するのである、同じ場所でも角度が違ってとると別な見え方をするからである
それで写真をとるときとにかくいろいろ角度から撮るといいとなる
その中からいいものを選ぶといいとなる、一枚だけいい写真を撮ろうとしてもとれないのである

この多様な多角的な視点というとき別に特別優れた人でなくてもいい、専門家でなくてもいいのである、人間はそれぞれ住んでいる場所も違っているし経験も違っているし生い立ちも違っているし世代をも違っているとみんな違った見方をするのである
だから若い人が老人に学ぶこともあるし老人でも若い人の見方とか情報でも取り入れることができる、ただ深い見方をするのは老人である

インタ−ネットはそういう多様性多角的なものを提供する、でも数が多くなると人気のものを見るがでも少数者のものでも眼にとまるのがインタ−ネットのいい所なのである
マスコミではそうした少数者のことは絶対に取り上げないからである
だから圧力団体から組織から推薦される人を取り上げやすい、また組織団体の批判はしないとなる、マスコミとはそうしてマス(大衆、大勢)相手にするメデアなのである
だから視聴率がすべてだというとき大勢の人が見れば宣伝効果があるとなり会社から宣伝費をもらえて成り立っていたのである

でもインタ−ネットはマスが相手ではない、極端になれば一人が相手でも成り立つとなる一人に語っていても成り立つとなる、なぜならテレビ局のように莫大な金がかかる装置などいらないし個々人で無料でもできるからである
それでそれぞれの発言に何か得られることが多いとなる
ただ数が多いからどうしても見られる読まれことが至難であり実際はほんとんどプログでも読まれたりyoutubeでも見られないとなる
それはそんなにいろいろなものを目に通す時間がないからである

とにかく映画でも一発勝負となると何十億とかかけるものはリスクが大きすぎる
何百億かけるものもある、それが失敗すると何百億の損になる
だから金をかけないで短編を作りyoutubeに出すとかする
またマスを相手だと映画会社とか本でも編集者とかがかかわりその人たちに何かしら本人が言いたいことが言えないとなる、youtubeではすでにそういうことが起きている
発言がおさえられている
そういうことがない世界がインタ−ネットで開けた、毎日こうして自分は部屋に籠もりプログを書いている、別に出版社もテレビ局もかかわらないである
本人が直接伝えたいことを伝えているのである
だからマスコミでは取り上げないことを発言できているとなる

いづれこにしろ今になると高度成長時代なら同じような商品を大量生産していれば売れていたのである、それは物でもそうだったが今やそうした大量の規格品はいらないとなる
それでテレビでも他の電器製品でも実は外国でも作れたのである
だから日本の電器製品は売れなくなり日本が貧困化したのである
同じものが作れるとしたら安い方がいいとなるからだ、その品質でも外国製品でも中国産でも見劣りしなくなったのである、つまり高品質なもので何か他では作れないまねできないものを作らないかぎりもはや日本の復活はないとなる
ただ日本は外国のものをまねて改良改善するのは得意でも新しいものを作りだすことが苦手である、アメリカとかはヨ−ロッパでも新しいものを作りだしてきたから先進国になりえたのである
だから欧米で発明したものが多いし天才でもヨ−ロッパに多いのである

ただこれからの社会は多様性であり多角的なものの見方をつける、それぞれの個性が重んじられる、多様性というとき人間はみんな住んでいる場所が違っている
見る景色も違っている、海側だと太陽は海から昇る、盆地だと太陽は山から昇る、その感覚が相当に違ったものでありそこにすでに多様な見方が多角的な見方が土地土地によって生まれるのである
海側に住んでいると朝日を山から昇るのを見ないのである、朝早いから旅行しても見ずらいということがある、また高い山というのがないと山というのがわからないのである
私の住んでいる場所には高い山がないからものたりないし山のことがわからないとなる

ともかく地理から見れば日本でも多様であり世界になればさらに多様になる
そして人の経験も多様であり語ることが違ってくる
それでそんなことがあったのとか新鮮になる、そして一人一人の生い立ちが家族でも違っていて多様なものになる
ただ現代はマス社会でありマスを相手にしていたのである、すべて数で決まる
民主主義自体が多様性があるとして自由な発言を許すとしても現実は選挙も数であり数を集めることで決まる
だから民主主義は数の民主主義であり結局一番全体主義に近く同じような顔をした大衆が数で決める、それがナチスにもなったのである
そこでは各人の個性を無視して多様性を無視したからである
報道もマスコミでありマスが大衆が相手だから一つの見方それもテレビ局で方向づけられた一方的見方がおしつけられていたのである

文化とは多様性である、でも国家とかなると国家内にある地域的国々の多様性を無視するまた世界でも国々の多様性を文化を無視して一つの色にそめる
共産主義だと全体主義だからそうなる、政治と文化は対立するのである
だから民族の言葉自体を抹殺して中国ならウイグルとかモンゴルでも漢語にしろとかなる言葉一番文化であるから言葉を否定されたらその国々の文化も喪失するとなる
ただグロ−バル化するとどうしても共通語が必要になる
でも民族独自の言葉を失えば文化も喪失するのであり生きる意味を失うとまでなるのだ
だから多様な文化を許容するのがいいのである
民主主義はそういうことがあったが民主主義の弱点はすべてが数で決まることである
最も全体主義になりやすいのである、だからナチスは合法的に選挙で生まれたのである

いづれにしろマスコミの時代は終わりつつある、youtubeとも同格とかテレビでなるとやがてマスコミは装置に金がかかるからやっていけなくなる
装置に巨大であり金がかかることが足かせとなり維持できないとなってしまうのである
youtubeだと一個人でも手間がかかっても放送局になれる
ただ問題は取材するにも限度があり個人の交際範囲とか経験とか見聞になる
そこにまた弱点がある、何か取材するとなると支援するものがありそれなりの権力を持たないとできない、ブロガーとか取材に来ても応じないとなるからである

2021年05月02日

マスコミテレビになぜ洗脳されるのか? (映像は人をだましやすい、錯覚させるメデアだから-武田邦彦氏のNHK批判)


マスコミテレビになぜ洗脳されるのか?

(映像は人をだましやすい、錯覚させるメデアだから-武田邦彦氏のNHK批判)

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【武田邦彦 5月1日】2日前にトンデモないニュースが放送された!
この衝撃的な映像の裏に隠された、奴らの恐ろしい正体を徹底暴露します!
https://www.youtube.com/watch?v=oiYpFquUOdM


子どもの後ろにはおじいちゃんやおばあちゃんたちも座っていて、「へぇー、あんなのがいるのかねぇ」とつぶやきつつ、みんな口をぽかんとあけて画面に見入っていました。ウルトラマンの画面の前では、お年寄りたちは語る言葉を急に失ってしまった・・パヌンのかぼちゃ畑

ウルトラマンをどう心の中で昇華していいかわからないしモン族の世界では語りえないものだったのだ。テレビがいかに人間の心を惑わすものかわかる。モン族や昔の人が見ていた感じたのは風の精とか森の精とか花の精とか自然の中に息ずく精霊のことでありテレビとかに出てくる妖怪、偶像ではない、それはテレビに映るものよりリアリティあるものなのだ。現代はテレビとかゲームとか映画にでてくる妖怪である。人間は今かつてないバーチャル空間に生きていて現実味を失い妖怪化幽霊化しているのだ。湾岸戦争もゲームのように行われたし

現代の妖怪(メデアが育む妖怪)
http://www.musubu.jp/internetmedia.htm#youkai

テレビの特徴はいろいろあるが感情的メデアなのである。活字とかラジオとか文字と音だけのメデアだったら感情的にはならない、本や新聞を読んでもすぐに感情的にはならない、冷静にみる。

「なんだあいつの顔が気にくわねえ、もっと顔のいいやつを出せ、、、、」

顔とか表情がまず注目される、だからアナウサーは美人でないと勤まらないのである。
知性よりその顔をみるからそうなる。

そしてテレビは一方的洗脳メデアである。テレビは何か疑問に思ってもそれを追及できないようになっている、そんなことあるのと思っても追及できない、一方的にテレビ局に洗脳されるだけなのである。
http://musubu.sblo.jp/category/641983-2.html

人々と場所からの疎外、帰るべき場所の喪失、および世界の非現実感と所属先の喪失感をともなう、
そのような観点からは場所は意義ある存在の中心ではありえない

大衆的アイディンティティは集団や個人の経験から発展したというよりも、世論を誘導する者によって与えられ、できあいのアイディンティティを人々に与え、商業広告を代表とするマスメデアを通じて広められる
それは最も表層的な場所のアイディンティティであり感情移入的内側性の余地を全く残さず場所との一体化の基礎を破壊することによって実存的内面性をむしばむ
マスメデアはその受けてが直接に経験できない場所に単純化され選択されたアイディンティティを都合よく与えて偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする
http://musubu.sblo.jp/category/641983-3.html



海岸が侵食されているのではなく、波の作用によって、島の形が変わっているということです(面積としては上記から増えていることがうかがえる)

「地球温暖化により海面は上昇しているか否か」ではなく、リサイクルPETレジンのLCIデータの解明と、ツバルの問題を歪曲し、センセーショナルに取り上げ世論を誘導するというアプローチの違いです。
https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1006/18/news007.html


武田邦彦氏がなぜNHKを批判するのか?それはNHKがあまりにも影響力が大きいからである、そしてNHKは公正な報道をしているわけではない、放送はすべて公正ではない
特にテレビの問題は映像が主体だからそれでだまされやすいのである
そのことを絶えず指摘している、意外とここが気づきにくいのである
人間は映像に目から入るものに一番だまされやすいのである

温暖化はないというとき南極であれ北極であれその土地は実際は広大でありそれを知ることなどできない、ただ常にほんの一部の映像によってきりとったわずかの映像だけ映されるからその影響が大きい、それは人間の心理として頭に刻印され洗脳効果が大きいのである、それで北極であれ南極であれ氷りは溶けないとオーストラリアでも氷づけになってしまうという、広大な氷原の端でも溶けないとそうなる
つまり人間の認識の弱点は常に大局的に見れないことなのである
テレビの小さい箱から見ても自然とか世界は理解できないのである
でも映像のインパクトは強力だからそれで誤解されやすいのである
だまされやすいのである

そういうことは常にテレビの放送である、イラク戦争で油まみれの海鳥がテレビ画面に映されてそれが世界で放送されたときイラクはひどいと感情的になりイラクは悪い奴だとされたのだからこれもあくどいとなる
実際はイラクには毒ガス兵器などなかったのである、それもアメリカによって大国によって強国によって力の強い者が報道でも操作できるからそうなった

地球温暖化でもツバルが海に沈むというときもそうである
確かに一部は海の水が入り込んでいたが全体ではない、またそれが温暖化の影響でもなかったのである
でもテレビでその水びたしになった映像を見るとそう思い込んでしまう、そういう影響力がある、だから人間は映像にはだまされやすいのである
そしてNHKは嘘をつかない、NHKはまるで聖人君子のように見られている
そのNHKを批判はできない、その影響力の大きさが問題なのである
だからNHKを見ている人はNHKを批判してもNHKの方を信じるのである

原発事故でも避難した人たちが相馬市にいた、その時津波の被害者も同じ仮設に住んでいた、一方は多額の補償金をもらっていた、でも相馬市の津浪の被害者はもらっていなかった、でも津波の被害者をトマト農家では雇った
そして飯館村の人は断られたとテレビに映りそのことを言わせた

でもその雇った人のいい分は言わせなかった!

ここにNHKによって操作された編集された映像が流されて誤解になった
それはNHKの上層部で原発避難者側に立つということで編集したのである
だから津波の被害者には何も言わせなかったとなる
それはいわき市でも起きていたのである
だから原発避難者が過度にかわいそうだと全国で見られるようになった
実際は津波の被害者の方がかわいそうな人たちだったのである
別に原発避難者が悪いというのではなく公平な報道がなかったことを私は指摘した
そこに別に悪意はないのである
ただその後はNHKでは公平に報道していた

でもこういうことは地元でないと気づきにくいのである
なんでもそうである、テレビで映し出すのは全体のほんの一部なのである
その一部がクローズアップされるから誤解しやすいのである
人間の認識は全体があってその全体のつながりの中で物事を理解する
土地はつながっているし一地域も全体の中で認識する

人々と場所からの疎外、帰るべき場所の喪失、および世界の非現実感と所属先の喪失感をともなう、そのような観点からは場所は意義ある存在の中心ではありえない

大衆的アイディンティティは集団や個人の経験から発展したというよりも、世論を誘導する者によって与えられ、できあいのアイディンティティを人々に与え、商業広告を代表とするマスメデアを通じて広められる

つまりテレビの映像は実際は非現実の世界でもある、なぜなら全体を知ることはテレビからはできないからである、そこに映像の錯覚が生まれる

子どもの後ろにはおじいちゃんやおばあちゃんたちも座っていて、「へぇー、あんなのがいるのかねぇ」とつぶやきつつ、みんな口をぽかんとあけて画面に見入っていました。ウルトラマンの画面の前では、お年寄りたちは語る言葉を急に失ってしまった

原始的な部族で生活している人がウラトラマンを認識できない、奥深い自然に囲まれた中で閉鎖されて生活していればそれが何なのか認識できない
それは全く非現実の世界のものだから理解できない
むしろ自然の中では精霊とかがいてそれが現実的である、森の精霊とかが現実に感じるものである、それは非現実ではない、やはり森があって認識するものだからである
何か現代文明こそが非現実の世界、バーチャルの世界になったのである
第一一千万の都会とかなるととてもそれ自体が現実と思えないからだ
そこが人間が住む世界として現実に思えない、摩天楼でも幻想に見えてしまうのである
だからこそ文明人はロゴスを失ったとか、言葉が喪失した連関性のない世界に生きているとか言われる、つまり言葉と事物が結びつかなくなったのである
アイディンティティ化される自然の事物が喪失した
大都会では何とアイディンティティ化するのか、そういう場所からウルトラマンとかゴジラとか異様なものが生まれる
それはヒットラーにもナチスにも通じる不気味なものなのである
現代文明が膿む妖怪なのである

一つの例として

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先日私は阿武隈川をさかのぼり道に迷い丸森の大張村に出た
それは偶然だったがその大張村に一本の木があった
その木を見て短歌を作った

大張に一本の木の根付くかな春の夕暮れそを見て帰りぬ

その一本の木があったがこの木でもやはり全体の中にある、大張村がありさらにその周りの自然があり山に囲まれている、そこに到達したのは急な坂を七曲の坂を上ってきてその村に出たのである
その過程でその土地の地勢を体でしりその一本の木を見たのである
写真でみればただ一本の木だけが目立つ、でもその一本の木を人間が認識する時はこうして全体から認識する、その過程がテレビにはない、写真にもない

だからどうしても写真を見たりテレビの映像を見ても俳句とか短歌でも詩でも作れないのである、それは認識するということは部分ではない、全体から人間は認識するからだとなる
人間は見るということはカメラで見るのとは違う、心の中で見るともなる
人間は事物がある、それを見るということは心で見る、心で一体化することである
アイディンティティ化する、自己同一化する、それで物は物が憑くとかなり物は単なる物ではなくなる、人間の心がのりうつり人間化するともなる
それで原発事故で避難して人がいなくなった飯館村とかで一本の木があったがそれが人間に見えた、何か淋しく感じたのである、だから村とかにある木でも石でも人間化したからそうみえる、それは庭の石とかでも人間化している、木でもそうである
だから人が住まなくなったとき何か一段と淋しく思えるのである

人間存在はその土地から場から遊離して孤立して存在し得ない、土地の全体の中にあって活きてゆく、その場から何事も認識する
だから事件でも災害でもテレビでは切り取った一部分が放送される
するとそこに必ず誤解が生まれる、誤った認識になる、それで起こるとはtake placeであり場所から離れて事は起こらない、場所と結びついて事件でも災害でも起こる
その場から現代人は遊離しているからこれだけ情報があふれていても実際は認識力が深まっていないという逆説がある
テレビとか写真の映像はあくまでも一部分切り取ったものであり全体を知ることはできない、だからいくら世界の情報があふれても必ずしも世界の理解が深まったとはならないのである、むしろ世界となると誤解が大きくなってそれが問題を引き起こす
それがイラク戦争の油まみれの海鳥の映像だったのである
その一羽だけがクローズアップされて世界中が誤解したのである、回りの状況が映されなかったからである

武田邦彦氏が紹介した南極でも北極でも氷が崩れ落ちてゆく映像は衝撃的である
その映像を見た時、一瞬南極でも北極でも氷が溶けてなくなるのかと見る
でも広大な氷原の大陸がありその氷が崩れているのはその端のほんのわずかな部分なのである、でも一瞬氷りが溶けるということで恐怖を植え付けて温暖化してそうなった世界中の人を洗脳してしまうのである
そこにテレビの映像の報道の根本的な問題がありその映像を使ってNHKが主導的立場になり誤った方向に導く、それが怖いのはラジオからナチスが生まれたとかピカートが指摘したようにファシズムを誘導する、それが恐ろしいものを産むものとなる
ただでは映像の時代はその映像の洪水の中で生きる
私自身も映像に魅力を感じるからカメラにこるようになった
でも自分が撮った写真と他人が撮った写真は違っている
自分が撮った写真はその場の全体を記憶して撮っている、一部分だけを見ているのではない、全体がイメージされるものとして記録としても撮っているからだ
ただ他人の映像だとそこの場で自分が撮ったものではないから全体を認識できないから
誤解を生むのである


2021年04月19日

AI,コンピュター革命で変化すること (対応できないと失業して仕事がなくなる)


AI,コンピュター革命で変化すること

(対応できないと失業して仕事がなくなる)

AI社会でコンピュター化する社会で起きていることが実際にまだまだ実感する人は少ないだろう、これは相当な変化である
社会が大きく変化するとき技術の進歩がある、

捉老 7年の三世一身法から天平15年の墾田永世私有法まで,一般百姓が独力で土地を開墾した例が発見できないことを述べ,これを一般百姓の貧困に帰し,労役が多かったことが百姓困窮の原因であったとする。これに反し,鉄製牒具を豊富に所有していた勢力ある家では,貧弱な農具を不足勝ちにしか所有していなかった一般百姓をかくまい,思うままに躯使しうる好条件におかれていたので,農具の所有関係において貧しい一般百姓は墾田私有の制により一層貧窮に駆り立てられ,自活することさえ困難となって荘園化が進んだと述べている。

[書評] 鋳方貞亮著『農具の歴史』

これはその一例であり農業と農具の関係は密接である、なぜなら稲荷神社というとき稲荷とは鋳成りであり鉄の道具と関係しているからだ
つまり稲荷神社とは鉄の道具を祭ったからだともなる、それだけ鉄の道具は農業の進歩をもたらしたからそうなる

技術の進歩が社会を変えることは歴史を見る時わかりやすいのである、それはいろいろな方面にありわかりやすいのは鉄砲が外国から入ってきて信長が鉄砲を利用することにたけていて全国統一したとなる
最近では中国では麦を鎌で刈り取っていた、人力だった、刈り入れの時は出稼ぎ者きてしていた、でもコンバインが麦をかりとるようになるとそうした人力は必要なくなる
コンバインだと人力の百倍とか千倍との効率で麦を刈り取るからである
その差は歴然としている

このように技術の進歩は社会を変える、コンバインで人力がいらなくなる、するとその人力で働いていた人たちはどうてるのか、出稼ぎの麦刈りはいらないとなれば失業する
おそらくそういう農民は工業化したとき都会への出稼ぎ者となる
20年前には中国では出稼ぎ者の数が膨大に増えた、都会に仕事があるから地方から都会に人は流れた、それが流民ともなった
ある時中国では人の流れが怒涛のごとく起りそれが革命ともなる

その時私は中国を旅したが人間は家畜のように貨車につめこまれるように乗せられて移動していたのだ、実際に鞭で打たれて車輌につめこまれていたのである
それだけの人が移動していた時代があった
その時からすでに中国は高度成長時代へと向かっていたのだ

大きく時代が変わる時、技術も進歩して変わる
それが今はIT革命、コンピュター革命になっている、ただこれは頭脳と関係しているからみんな簡単に理解できないのである
なぜなら蒸気機関車とか飛行機とか車とかこういう道具は庶民でもすぐにどういうものか理解できる、でもコンピュターとかITはみんなすぐに理解できるものではない
おそらくそのためにこの革命はそれを使いこなせるものとこなせないもの、それに触れられないものとの差が大きな格差をうむ
でもスマホは誰でもしているからもうコモデティ化しているから普及したからみんなIT社会の中に組み入れられたとなる
ただ老人はついていけないとなっている

何かこのIT革命で大きな変化が情報分野で起きている
銀行すら実はメデアでありメデアは仲介するものという意味でありそうした仲介するものはいらなくなるのが現代のIT情報革命である
仲介するというときマスコミであれテレビであれそれも仲介するものでありその単に仲介するものが大きな力をもっていた、テレビで報道するのは六局した許可されなかったからである
でも今になるとyoutubeとかでテレビ放送している、無数のチャンネルがプログもあり生まれたのである
それはメデアを通さないで仲介者を通さないで直接報道している
仲介するものというとき出版社とかもそうである、本を出すには個人ではできない
出版社がなければできい、何か意見を言うにも新聞社とかテレビを通さないと言えなかったのである
するとその仲介するものが大きな権力をもつことになったのである

それは今でもグーグルとかがプラットフォームとなり巨大な世界の主要な企業となって利益を手中にしていることでわかる
これも明らかに新しく仲介するものである、だからトランプ大統領の発言まで禁止することができたからである
メデアをもつことは巨大な権力を持つことになっていたのである
それは今までは新聞とかテレビだったのである
テレビに出してくれるとなればそれでたちまち中味はどうであれ有名になったからであるそれで政治家はテレビに出たいとなる、また中味がない俳優でも議員になれた
それはメデアの力であり本人の実力とは関係なかったのである
東京都知事すら何かふざけたお笑い芸人がなったことでもわかる
私は選挙運動はしないとしても当選していたのである
それはメデアを通して知られていたからである 

いづれにしろ日本がこのIT革命に遅れをとったのはこれが何か理解できていなかったからだろう、ただ物造りだけではなくなった世界の変化をつかめなかったのである
私自身がこのIT革命で感心したのは翻訳である
80%くらい正確であることに驚く、英語力がない自分より優れている
英訳することはもっとも日本人にとってむずかしいからである
それが安易に自動翻訳する、それも詩だって80パーセントくらい正確に翻訳しているのである
するとAIの方が人間より優秀だなと思ってしまうのである
そういうことはいろいろな分野で起きて来る
そして人間は失業してしまう、人間の仕事はAIに変わるからだ

人間の仕事は機械化しAI化してコンピュター化すると人間のすることがなくなる
そういう社会になるということに備えねばならないともなる
現実に近くのスーパーのレジも自動化している、意外としてみると簡単なのである
つまりレジの女性はそうなると失業するのである
そういうことがこれからもいろんな分野で起きて来る
銀行がだめになったのはそれがメデアであり仲介するものだったからだというのもそうかとなる、金を集めてその金をためて貸す仲介業者だった
でもそれが機能しなくなったのはクラウドファンディングとかインタ−ネットで直接投資する投資形態が生まれたからである
それで百キロ走れる折り畳みの自転車が欲しいとなりそれに応募すれば開発して売っているそういうことは銀行がしていたともなる
何か有力な事業に金を貸してその利益を得るとなる、でもその仲介業は必要なくなったとなり銀行の役割りが問われる、銀行とはただ金を集めて利子もつけない
むしろ通帳を作ったら手数料をとるとか投資信託とかを売りつけるとかなる
何か地銀としての役割がなくなったのである

こういうとき時代の変化に取り残されるものが出てくる
馬車が鉄道ができて仕事がなくなったとかになる、銀行もそういうものになる
ただこのIT革命とかがわかりにくいのは頭脳と関係しているからだと思う
何か鉄道とか飛行機とか具体的なものとしてつかめないからである
情報社会とは何か直接かかわらないとわからないのである
たまたま自分はワープロ時代がありそこに通信機がついていて通信をしていた
それでその延長としてホームページを作りまたプログをするようになった
ただスマホはしていないから遅れてしまったとはなる

ともかくこれからの時代は教育でも何でも見直すことがせまられる
ITをコンピュターを使いこなすことが必要になる
それは文系でもそうである、図書館でいちいち調べると手間になる
福島県だと福島市に大きな図書館があっても離れていれば利用できない
でも電子化したらどこでも利用できる、図書館は別に場所と関係なくなる
中央電子図書館が一つに情報を集積すればいいとなる
すると専門家でもなくても学者の論文でも自由に利用できればそれなたのものを書けるとなるからだ

ただこのIT革命に日本が遅れをとったのは日本の文化と関係しているかもしれない
日本はもともと村社会がアイディンティティの場であり狭いのである
そこでは対面的に腹でわかるとか話せばわかるとかの社会でありじかに合わないと社会生活が成り立たない、そういう社会だと人と対面で合わないというのは苦手になる
ただ本当のことは心からわかりあえるにはじかに合わないと信頼関係も築けないとなる
自分自身でも何かある場で話しすると話しがはずむし理解が深まる
それで丸森の筆甫で枝垂れ桜がきれいなのを見てそこのばあちゃんにたまたま聞いたら50年過ぎてこうなったのですよと聞いて納得した

その場でじかに立って話する時、本当に理解するのである
それをテレビの画面とか写真とかだけでは理解できない、その場の雰囲気はその場に立たないと実感できないからである
だから情報というのはその場に立たないと実感できないことかある
だから何か起きることはtake placeであり場と関係していたのである
だから「かんながらの道」という場を重視した取り組みには共感するのである
警察の事件の操作でも現場に行けというときもそうである
人から聞くとかしてもその事件の起きた現場に行くことで実感するものがあるからだ
それは歴史でもそうである、その場に立たないと深く理解できないのである
地理は特にそうである、地図を見てもわからない、その場に立たない限りわからないのである

いづれにしろこのIT革命、情報革命は何かわかりにくい、でもそれが現実社会を変えることが起きてくるとき実感する、銀行がだめになったのは明らかに銀行もメデアだったからだとなるからだ、仲介するものであったからだ
その仲介するものメデアが今一番影響を具体的に受けているからである

2021年03月21日

パソコンのセキュリティが不安 (新しい技術は安全を確保することが大事)


 パソコンのセキュリティが不安

 (新しい技術は安全を確保することが大事)

  
 さくらのレンタルサーバーにアクセスできなくなった
こういうときあわてる、さくらのレンタルサーバーは会員とコントロールパネルからサーバーかさ入るから二つかあるから間違いやすい

何か不正侵入されるのが怖くなってパスワードを三つ変えた
だからめんどうになった、とにかくインタ−ネットは便利でも意外と操作とかに時間がとられるとかめんどうなのである
それで手間だけは省けないのである

まずパソコンで文章を入力するのが手間になる、その前にアップするために写真とかとりそれをアップするのも手間になる
たからいくら便利でも手間は省けないのである
プログにそれなりの記事を一つのせるだけで結構手間になる
半日くらいの時間がかかる、プログでも何か片手間でもやれない感じになる
動画をアップしたりするとさらに時間と手間がかかる

でも雑誌とか新聞とかよりずっと効率的である、いちいち朝早くから一軒一軒新聞でも配ることがインタ−ネットと比べると何か江戸時代の駕籠で人を運んでいたようにも見えるだからとても今の時代はそうした非効率的なことはつづかない
新聞は新聞紙を利用することができる、どうも子供のときトイレの紙として利用していた記憶がある、それも資源の無駄だとなる

まずプログのような弱小メデアと思ったが毎日写真でも動画でも文章でもいくらでも書けることがわかった、やはり写真の効用が大きいなとやってみて思った
つまり現代は映像の時代になったからそうなる
それでyoutubeが百万とか見られるようになるとテレビと変わりないのである
その内容はテレビと同じでありタレントのように各人があり俳優ともなったのがyoutubeである
視聴率をどれだけとるかとなるとテレビの手法と同じになるのだ
私のプログも震災から十年が過ぎたがそのことで津波原発事故のことでアクセスがふりかえると結構あった、それに気づいたのは何か最近アクセスが半分くらい減ったことでわかった、それだけアクセスがあったのは震災関連と原発事故があり全国で関心をもったからである、それが10年もすぎると関心がなくなっためにアクセスが減ったのである
第一俳句とか短歌でも興味をもつものは限られているからだ

このインタ−ネットで一番怖いのは不正侵入されてせっかく膨大なものを集積して書いてものせても一瞬にして消されることである
そしたら努力も水の泡となる、それより本なら30年でも50年でもまだ残る
でも50年くらいするとどうしても本もぼろぼろになり読めなくなる
そういう本が私が読んだ本にあったからだ
ただ50年くらいすぎるとやはり時間の中で価値があるものは残る
あとは一過性で終わってしまうだろう、古典のように残るのはわずかである

ただ今でも中味のあるものは毎日寝床で読んでいる
そしてやはり感心している、それだけ時間がすぎても色あせないのである
そうして何回もあきずに読めるのはそれだけ内容があるからである
時間が過ぎると時流的なものは消えてゆく、忘れられる
でも本当に普遍的な価値あるものは色あせず読まれる、それが古典なのである
ただそういうものは極わずかなのである

ともかく毎日整理がつづいている、それだけ膨大なものになったということである
それでDellの6万のノートパソコンを買った
これは安いと思った、最新式のものでありリュウゼンとかのものでありwin10である
何か5年くらいパソコンを買っていなかった
そのパソコンは8.1であり富士通ものでいいものだった、だから今も困らないが整理のために安いから買った
6万では安い、前は軽くこれなら15万以上していたかもはしれない、もう半額になっていいものなのである

そのDellで電話で注文したが答えたの中国人の女性だった、それが日本語が上手なのである、第一そうしてパソコンの相談にのれるには相当な日本語ができないとできない
日本人相手に差し障りなくしゃべる能力が必要になる
その女性は日本に住んでいたのかと聞いたらそうではないという
それでそんなに流暢に日本語がしゃべることに驚いたのである
こうなるとやがて日本人は中国語を覚えた人が有利になる
今でも英語ができる人が有利だったようにである
日本人はすでに中国の笠下に入り稼ぐには日本がだけではもうできないとなり中国に進出して中国語を話す人が稼げる時代になる、逆転現象が起きて来る
つまりまだ日本語で相手をしているがこの逆の現象が起きて来る
ただ漢字は共通だから中国人相手でも漢字を通じて何かをできるとはなる
日本だけが今や依然として漢字を使っている国だからである

いづれにしろパソコンの操作は疲れる、スマホでも眼が悪くなったりする
でももうテレワークとかにもなりパソコンはますます日常の道具となり今や必需品になる結局新しいものはあれやこれやと悩むより慣れることである
それしか方法がない、今回もさくらの操作するパネルが新しくなりとまどった
でもこれも慣れなのである、いったん覚えると使いやすいのである

ともかくパスワードを変えたから安心だとはなる、でも二段階認証とかもあり今やいかに安全を計るかがインタ−ネットの問題になった
パスワードの問題はあらゆるサイトでパスワードを要求されて管理できなくなることである
だからそこが一番の問題だとなる、つまりどうして安全を計るなのだがそなるとパスワードだけでは安全性が計れない
その辺がなんとか安全に使えるものにする技術が必要になる

何でも新しい技術は安全が実は大きな課題なのである
原発でもそうである、他の技術でも安全を計ることが実際は重要になりそれができないと新しい技術は応用できないのである
ワクチンだってそうである、それが副作用がありどこまで安全なのかわからないから不安になる、文字でも紙に印刷されたもの本でも簡単には消えないからである
何か新しい技術を望むが安全を確保できない技術は定着しないのである
それで原発事故になりもう原発の信頼は失ってしまったからである

2021年02月26日

テレビの時代劇で善人顔の俳優まで悪い人に見えた (情報社会ではみんな人を疑い悪い人に見られる)


テレビの時代劇で善人顔の俳優まで悪い人に見えた

(情報社会ではみんな人を疑い悪い人に見られる)

必殺仕事人を見ているとそこに悪役の俳優がでる、顔まで悪役として一目見てそういう役を演じている、いかにも悪い奴だという顔なのである
でも今回の大きな店の旦那の妻は別に悪役に女性ではない
役としては普通の女性役であり顔でも悪役ではない、女性はあまり悪役の俳優はでないしわかりにくい
でもその女性は店の旦那の妻となりその店をのっとろうとしていた
そこの番頭とか役人もからんでいた
それを見ていたらその旦那を裏切る妻の役をしている女性が悪人に見えた
顔までそうではないのに悪人に見えた不思議がある
その女性は役ではそうなっていてももともと顔にしても善人役でしか見ていない
それが合っているのである
でも悪役になったら回りが悪人でありその女性でも顔でも悪人に見えたのである
善人面しても悪人だと見えた不思議がある

それはあくまでもドラマであり架空のことである
でも人間をみると特に現代では常に事件が報道される、すると何かこの世は悪い人ばかりかともみる、子供への性の事件もありそういう悪いことばかり興味があり報道される
そういうことをまた知りたいというの視聴者にある
この人は善人で普通の人ですよという人は興味をもたないのである
だから常に報道するのは悪人であり犯罪人なのである

それがどういうふうに社会に影響するのか?

人間はみんな悪人だ、疑ってかかれとなる、人を見たら泥棒と思へとなる
それは確かに現実にある、だからこそ疑い警戒する、それで近くのコンビニに入ったら
手までとりあげられて盗んでいないか調べられた
そんな強引なことを大人にしていいのかともなる、それ以来そこのコンビニには入らないそこでは監視カメラをつけて警備会社が監視もしている
その店にすれば盗まれることが多いからそうしているのである
つまりそうしないと被害が大きくなり店もつづけられないともなるからだ

警官になればまず疑うことが商売なのだから人間はみんな悪い奴だ、犯罪人としてみる
だからみんな犯罪人と見て調べるのである
現代は情報社会になった時、テレビでも絶えず事件になること犯罪の報道する
すると何かみんな犯罪人に見えるのである
それが極一部でも全体が全員が犯罪者のように見えて来る
そして過剰に警戒するようになる、他のコンビニでもそういうことを経験しているからだまた駅でボランティアで案内したときも警察に通報されてみんなの前で職務質問されて
こいつは怪しい奴だと公衆の面前でされた

つまり今やこうしてみんな人は悪人だと見ている、犯罪者とも見ている
そういうことがテレビの報道とかで助長された時代である
犯罪や事件は報道する、それが狭い範囲で情報も噂くらいの時代なら全国に起きることはわからない、するとそんなに犯罪がないとなる
全国規模で世界規模で犯罪を報道していたら当然世界中の人が犯罪者なのかとまでなる
世界でも常に犯罪の報道はされるからである

また犯罪報道すると遠くても危険を感じる、自分の身に及んでくるのではないかと危険を感じる、実際は遠くならそういうことがないとしても危険を感じるのである
だから世界で起きる犯罪でも自分の身に及んでくるのかとまでなる
そのためにマクルハーンが世界が村になったと警告していた
世界で起きる犯罪も村で起きたのと同じように見てしまうのである
それはグロ−バル化して現実に外国人でもいくらでも入ってくるから、外国人労働者でもそうである、するとその外国人でも恐れるようになる
でも実際は日本人の犯罪の方が多いし怖いのである
そして犯罪率は実際は低下している、でもそういうことは全然感じないのである
人間は統計の数字とかで全体を見るより一人でも悲惨な犯罪に合えばそのことに注目するその犯罪によってベトナム人が犯罪を犯せばベトナム人全体が犯罪者集団のように見えて来る

幼児とか子供は人間をこのように犯罪者には見ないのである
悪を知らないから見ないのである、それは悪が心の中にまだ芽生えていないからだとなる大人になると中学生からでも悪が生まれてくる
心の中に悪い心が生まれて来る、その心の悪が生じるから人間はみんな罪人だともなる
現実に悪いことをしなくても心の中で悪いことを思っただけで実は犯罪者だというときそうである
悪は犯罪でもまず心から起きて来る、憎いとかまず心の中で起きて現実にそれが最悪は殺人となるからだ、だから人間はみんな善人を装っていても悪人だと見ることもできる
まず心で悪を犯さないことはないからである、だから人間をみんな悪人と見ることが間違っているわけではない、そして人間の欲は消えることがない、その欲からも悪が生じて犯罪にもなるからである

だから人間社会とはこの世とは罪の世界であり悪い想念に充ちている
それはそうであってもその悪に興味を覚え絶えず悪を犯罪を報道して興味をそそる
そういうことがテレビとか情報社会になって余計に過剰化したのである
だからみんな警官になってしまった、それが江戸時代とか戦前でもその情報は限られていた、今は悪でも犯罪でも全国でありグローバルになっている
すると世界になれば何十億も人口があるのだから世界は悪で満ちているとなる
そうなるととこかで何か犯罪が起きる、凶悪な犯罪が起きている
それをいちいち見ていたらきりがなくなる

だから本当は犯罪をすべて報道していいのかも疑問である、知らなければ犯罪はないともなるからだ、その時幸福だったともなる、人間の暗黒面ばかり見せられているとそもそも安眠もできないとなってくる
いつ犯罪に逢うかとなりまともに歩けなくもなる、でも情報化社会で流通するのは逆にそうした悪であり犯罪や事件なのである
当たり前に平和に暮らしていますとなると話題にもならないし見ないのである

ともかくこの世にいる限りこうしてそもそも心で罪を犯しているのが人間である
するとその想念で犯罪にならなくても汚れることになる
天国では一切そういうことはない世界である
何かを悪く見たりしないのである、それは幼子とか無垢の子供の世界なのである
だからそこで悪い報道は一切ないのである
犯罪者もいない、心で罪を犯す人もいない世界なのである
だからそこでは悪いことは起きない犯罪者もいないし報道もされない世界である
つまりそこでは善いことしか起きないのである
悪は生じることのない世界なのである、それが天国なのである、神の国なのである

ともたく引きこもりになっているとき不思議だが社会とかかわらないとき悪は見えないということがあった
どうして出家したりして社会から離れて生活する僧とかが生まれたのか?
それはこの世が悪でありそれにかかわらないためでもあった
とうしても社会にあれば悪とかかわるし自らはそうでなくてもかかわるし悪を見るからである
その後私自身も社会とかかわり社会のあまりにもどす黒い人間の悪に接する見たとなる
その悪は人間の欲望から起きる、その欲を人間はたつことができないからこの世は欲で滅びると言っている
人間の欲は本当に恐ろしいものである、自分の欲のためには簡単に他人を殺すからである
たとえ殺人でなくても心の中で殺人を犯すからである
それは技術が進歩しても変わらない、人間そのものの欲は消えることがないからである、個々人はエゴてありそれが消えないからである

2021年01月26日

インタ−ネットで情報摂取の変化 (マスコミニケーションから専門化、個人化、地域化)


インタ−ネットで情報摂取の変化

(マスコミニケーションから専門化、個人化、地域化)

netinformation1.jpg
情報は積み上げられたものがあり理解する
それは個人の経験であり地域に住んでいることであり専門化である
マスコミはこの三つを無視した情報なのである


情報の変化がインタ−ネットで変わった、情報というとき新聞とかテレビとかマスコミ中心だった、マスコミニケーションとはまさにマスを大衆を相手にして情報を与えていた
何百万人のさらに千万とかの大衆を相手にしていた
だからそこでは芸能人とかスポーツとかさまざまな個々の事件でもそれは娯楽の一つにもなっていた、別に自分に危険がふりかからなければ個々の事件でも娯楽になる
それで田舎で他人の不幸は蜜の味となる、楽しんでいるのである
ただそうなるのはかつてそうして苦しんでいる時同じことをしていたということもあるからだ、だから今度はあなたの番だと楽しむことになる

ともかくテレビの影響は本当に大きかった、テレビがでてきたときテレビがある理髪店とか電器店でも人が集まった、その時テレビがなかったからだ
テレビの影響がどれだけ大きいものだったか?
それはお茶の間にテレビがありテレビが家族の中心になっていたということでもわかる
そしてテレビとは家族みんなで見るものとしてあった、その影響が余りにも大きいものだった、だからテレビで有名になると参議院とかで選挙運動しなくても当選できた
青島なんとかという東京都知事などでもそうである
つまり政治家としての資質とかなんとか関係ない、名前が売れているから票になる
政治でもそれだけテレビの影響が大きかったのである

そもそもNHKが生まれたのはテレビを国民に普及させるためでありそれで受信料を強制的にとっていたのである、テレビ放送にはその装置のために莫大な金がかかるからである
そして娯楽もテレビ中心になったのである
テレビの影響はあらゆる面で大きかった、その影響が人間の精神まで影響して変えるものだった、それで林秀彦のテレビ批判があった、その人はテレビのドラマを作る方でありその体験からあれだけ批判した、一時は一億総白痴化とも言われたのである
新聞だとまだ考えることがあるがテレビは一方的になる
考えることをさせないのである、それは映像が中心だからである
映像のインパクトは大きいし映像は信じやすいのである

でもそのテレビの映像も真実を映して現していない、それでやらせとかでもだまされたのである、イラクの油まみれの映像で世界中がイラクに怒ったからである
テレビはエモーショナルなものになりやすい、即座に映像に反応するからである
NHKで地球温暖化で島が水没するような映像を流していたがそれはその一部分であり全体ではないのである、でもあたかも島全体が水没するような映像をとして流していた
それを見とていると本当にそう見えるのである
テレビの映像は一部分を切り取ったものであり全体を知るのはむずかしいのである
そこに錯覚が必ず生まれて誤解してしまうのである
なぜそうしてNHKが放送するかというとまず地球温暖化をしきりに言う、前提として地球温暖化ありでそれでそれにのっとって番組を編集するのである

この辺で原発推進で補償金問題で仮設住宅に入った人たちでもめていた
津波の被害者は補償金がもらえないので多額の補償金がもらえた原発避難者と争いとなった、仮設では口もきかなかったという
でもNHKではまず編集会議を開き原発避難者側につくことを決めてテレビ放送したのである、それで相馬市のトマト業者に津波被害者を優先的に採用して飯館村の人はしなかったのかと暗にテレビで批判していたのである
するとなんでそのトマト業者は飯館村の人を雇わないのかと怒りにもなる
自分自身でもなっていたのである、でも飯館村の人は補償金をかなりもらっていたから当面は困らない、でも津波被害者は補償金はなかったのである
だからそれは当然だったのである、別に飯館村の人が悪いというのではない
ほかでもいわき市でも原発避難者と津波被害者がいて争いにもなったが仲間に入れてくれないとか津波被害者を批判させる番組になっていたのである
ただそれがなかなか巧妙にできていて普通は外部の人がわからないのである
でも地元だからあれおかしいなと自分は気づいたのである

つまりテレビは別にありのままを事実を放送するとは限らない、テレビ局の意向にそって編集して放送している、まずテレビに出す人もテレビ局の意向に沿ったヒトでありそれに反する人は出さないのである、NHKはNHKの意志をもっていて民報でもそうである
メデアとは仲介するものであるとしても意志をもった存在なのである
だからトランプ大統領でも発言が永久に停止されたということでもわかる
何でも勝手に発言できるものではないのである、その影響は非常に大きい
現役大統領たるものでも発言を停止できるからである
それだけマスコミの影響はメデアは影響は大きいものだったのである
それで世論とはマスコミによって作られていた、マスコミが選挙でも左右する力をもっていた、ただテレビで名前を売った芸能人が議員になれたからである

それがインタ−ネットになり何が変わったのか?

情報が専門化、個人化、地域化したことである、テレビとか新聞でもマスコミでも専門性に欠けている、なぜなら専門化するとそんな人材がマスコミにはいない
それで専門家を呼び話させる、でもそうなるとマスコミのテレビ局の意向に沿ったことしか主張できないのである
それで武田邦彦氏などの科学者は常にテレビ局に司会者に怒っている
それは自分の主張ができないからである、司会者がそれをさえぎったり邪魔する
司会者中心になり編集されているともなるからだ、そして専門的になるとちょっと話ししてもコメントしても誤解されやすいのである
でも専門的なことはめんどうだし大衆は理解しないから適当にちょっとコメントさせるだけだとなる

何か物事というのは簡単に理解できない、事件でもそうである、何でそうなったのかその背景が複雑であり他者から簡単には理解できない、それが外国になるとさらにそうであるただ映像だとそれが誤解しやすいのである
アメリカで議会に侵入した映像は衝撃的だけどその真実はなかなかわかりにくいのであるただそれが刺激的であり暴力を起こした人が反発を受ける、それでかえってトランプ派が不利になったともなる
でもそもそも普通の人はアメリカがどうなっているのかその背景を知ることはむずかしいのである

だから人間は簡単に判断してはいけないとなる
でもテレビはマスコミは裁判官のようになっている、マスコミは何かあればまるで裁判官のように善悪を判定してこいつは悪い奴だとしてバッシングする
それで大衆はそれがわかりやすいから誤解して感情的になり責めるとなる
つまりリンチ的な機能がマスコミにありテレビにある、それが危険なのである
というのは何でもその背景が複雑でありわかりにくいからである
それで私自身がおかしいなと原発避難者と津波被害者のことで気づいたのである
それは地元に暮らしていたからわかったことであり外部からわかりにくいからである

大衆的アイディンティティは集団や個人の経験から発展したというよりも、世論を誘導する者によって与えられ、できあいのアイディンティティを人々に与え、商業広告を代表とするマスメデアを通じて広められる
それは最も表層的な場所のアイディンティティであり感情移入的内側性の余地を全く残さず場所との一体化の基礎を破壊することによって実存的内面性をむしばむ
マスメデアはその受けてが直接に経験できない場所に単純化され選択されたアイディンティティを都合よく与えて偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする
(場所の現象学ーエドワード・レルフ)

情報と情報の発信する場とは密接な関係がある、その場を理解しないと情報も理解できない

マスメデアはその受けてが直接に経験できない場所に単純化され選択されたアイディンティティを都合よく与えて偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする

この指摘は重要である、イラクの油まみれの映像とか島が水没したとかの映像にだまされていることでもわかる、その場のことはわからないからである
テレビの映像だけからその場のことは理解することは不可能だからである
偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとするのがテレビなのである

ともかくインタ−ネットの情報はパーソナル化、個人化している
個人の経験を基に語る、個人化、地域化する、それがマスコミケーションとは相当に違っている、ただこれは大衆化しなから影響力が弱い、でもその人なりの地域とか個人の経験から語ることはマスコミケーションとはまるで違ったものなのである
でもそうして万人が情報発信すると今度は何を読んでいいのか見ていいのかわからなくなる、情報が細分化される、だから統一的なものとキー局が必要になる
それでヤホーのニュースが選ばれているから毎日読んでいる
でもこれも実はマスコミなのである、インタ−ネットでマスコミ化している
このニュースに選ぶのはやはりマスコミと同じようにヤホーで選んでいるからである
でもここに選ばれれば飛躍的にアクセスが増えることがある

私のプログは一時津波や原発事故のことでかなり読まれた、それが半分に最近になった
つまり津波や原発事故の関心が薄れためだと思う、その他の記事はあまり関心がなかったとなる
やはり大衆の大勢の関心はその時々のものであり今はコロナウィルス一色になったからである、そっちの方に関心が移ったからである
ただこうしてプログのようなものでも写真でも図でものせられるから結構な発信力があると思った、youtubeが見られるのはやはり映像でわかりやすいからである
でももっと深く考察するとなると文章だとなる
でもは長い文章はネットでは嫌われるとかでも大衆向きになると結局視聴率を上げることは無理なのである、本当に高度なものは少数者のものである

大衆向きになるとどうしても低俗化する、それがインタ−ネットでも利益中心になり芸能人とか参入してそうなってきた
百万とかの視聴者を得ているのはやはりテレビとマスコミと同じものとなっているからだただそれも一時的泡沫のように消えてゆく
本当に価値あるものは百年後にも読まれるのもである
私のプログでも何がここに起きたのか津波や原発事故を後世の人が探るとき参考になる
つまり歴史的価値あるものを残すということである
だから今だけに焦点をあてるのではなく長い目で価値をあるものを作ることである
視聴率だけに目を向けることではないのである 

問題としてプログにしてもワードプレスとかができればもっといいとなる
それが技術的についていけなくなっている、それで全体で膨大な量になるから調べにくいとかある、でも相馬地域を知るときその全体からわかるということがある
それだけのボリュームがある、自分自身でさえこんなにいろいろ書いていたのかと読み返して感心しているのも不思議なのである、自分の書いたことを忘れているからである
だから記録としての価値があるともなる






2021年01月08日

中立なメデアはない (アメリカも日本も左右に分かれるートランプ大統領を攻撃するメデア)


中立なメデアはない

(アメリカも日本も左右に分かれるートランプ大統領を攻撃するメデア)

メデアは媒介するものとか中立とかの意味がある
でもメデアは中立ではない、明らかに意志をもった存在である
そのメデアの意志を通すために放送する
まずトップで会議を開くどういうふうに放送するか決める
意志決定するのである
それで原発事故でもまず原発避難者側についた発言をすることを決めていたのである
津波被害者もいたが原発避難者が注目されていたのでそうした
それで何か相馬市のトマト業者が飯館村の人を雇わないのは冷たいと言わせたのである
それはNHKの意図をもってそう放送したのである
いわき市の団地でも津波被害者が原発避難者を冷たく扱い仲間はずれにしていると暗に非難させていた
それは原発避難者が多額の補償金をもらっていたからである
津波被害者はもらっていないかったのである
ただそこを無視した、最初から津波被害者側につくことをNHKは決めていたのである
ただ後から両者が和解する方向に放送した

このようにまずNHKはメデアをもっている、放送することができる、そのことで第三の権力ともなった、放送は必ず偏るのである、でもNHKとか他でも何か中立のように見えるのである
だからたいだいは気づかない、ただ私が気づいたのは地元だったからその背景がわかっていたからである
原発避難者は多額の補償金をもらっていた、だから生活に困らない、でも津波被害者は相馬市でもいわき市でも何ももらっていなかったからだ
その差が大きかったのである
もちろん原発避難者にも言い分があり当然だともなり批判したらお前は地元なのに情がないのかとまでなる、NHKでもそう言っているのになぜそうなのだとなる
つまりNHKがお墨付きを与える力をもっていたのである
NHKに取り上げられればそれで知れ渡りそれが正しいとまでなるし人物でも社会が容認するとなる

そしてトランプ大統領でも選挙の時、メデアから聞こえるのはとんでもない奴だとかメデアでは報道しなかった、マスコミはメデアはトランプを常に批判していたのである
だから日本でもNHKでも全部がトランプを批判する立場になったのである
あんな人が大統領になるわけがないとなっていたのである
それはメデアによってそう見せられていたのである
なぜならメデアは民主党側についていたからである、つまりメデアによって常に報道は歪曲されるのである

日本のマスコミでもメデアでも偏っている、左派系がマスコミを支配している
それでインタ−ネットとかyoutubeが生れてそこで放送しているのは右系統が多いのである,マスコミはテレビは右系統を排除することが多いからである
それはネットを見ていたらそのことが明確に対照化されたのでわかった
つまり赤ばかり見ていると赤に染まる、黒ばかり見ていると黒に染まる
マスコミは特にテレビ系統は赤であり左派系統なのである
そこては在日団体系統の支配とか中国寄りにもなる
それはアメリカでも同じである、共和党はナショナリストであり右系統であり民主党はリベラルとかである、また中国よりでもある
この辺は日本と似ているのである

右系統はマスコミから常に排除されて無視される傾向があった、右系統はマスコミではテレビでは発言できないのである
それでyoutubeで発言しているのはつくづく右系統だなと見たのである
この傾向は何かアメリカとも似ている、共和党は右系統だからマスコミから排除される
そしてなぜトランプ大統領が選挙は不正だとして抗議していた
そしてトランプ派の過激派が暴徒化した、死者まで出た
その経緯は良くわからない、でもテレビだと暴徒化させたのはトランプでありトランプは悪い奴だという選挙前と同じようになっている
一斉に攻撃されてまた日本でも同じである、トランプは悪い奴だということしかなくなったのである

そして暴徒がなぜ国会議事堂に侵入できたのか?

そき疑問をyoutubeで説明しているのを見た、アメリカ在住の人である
簡単には侵入できない、それを侵入させたのが警官だったとしている
それはわざわざ侵入させた、それは意図があってそうさせた
何かそれで悪者とさせるために侵入させたとしている
これは日本の戦争でも真珠湾攻撃はアメリカによって日本がそうさせられたとしているのとにている
つまりアメリカは真珠湾攻撃を知っていたけどわざわざ止めなかったのである
それは日本を悪者にして戦争へ突入させるためだったとかの陰謀だったとも言われる
イラクでもそうだった、油まみれの海鳥の写真を世界中が見てイラクは悪い奴だとなってしまったからである
一枚の写真がそれだけの影響を世界に与えたのである

いづれにしろ報道は必ずかたよる、それはメデアが中立ではないからだ
それでトランプがフェスブックでツイッターで別に暴力はやめろと言うことに対しても
その発言をさせなかった、アカントをはく奪までしたのである
つまりメデアをもっている社長がそういうことができたのである
これは大きなも問題だった、IT関係は民主党よりだからそうなったのである

アメリカで何が起きているのか?

それは日本とも似ていたのである、日本でも起こっていることでありメデアは中立ではないから起きて来る問題だったのである
メデアは赤一色にもできる、黒一色にもできるということである
それで偏るのである、だからインタ−ネットで相対化できる?うになったことはいいことである、なぜなら赤一色になることは全体主義になることだからである
相対的に見れなくなるからである、私は右でも左でもない、中立である
どんな団体にも属していないからである
何かの利権団体に属していたら中立ではなくなる、でもメデアはマスコミ自体が巨大な利権団体なのである
宣伝費をもらい利権を得る団体でありそこに公平さはありえないのである
それは報道するのに莫大な金がかかっていたからである
そうなるとどうしても宣伝費に頼らざるを得ないからさ金を出す会社に忖度するようになる
インタ−ネットだと報道するにしてもほとんど無料なのである
ただ手間は省けない、手間がかかるので前はホームページば出していたがまたワードプレスでもしようとしたができないのである
手間がかかりすぎるのである、技術的にもおいつけなくなっいたのである
そこにどうしても非力さを感じてしまうのである

【ワシントン速報G】世界中のワニがどんどん沼から浮かび上がっている。
タイガーもリン木もまだ諦めてはいない!!

2020年12月24日

本の整理に追われる (読んでいても忘れていたーでも本は集めておく必要があった)


本の整理に追われる

(読んでいても忘れていたーでも本は集めておく必要があった)

本の整理していたけどありすぎると読んだことさえ忘れている
線は無数にひいてあっても読んだ記憶もなくなる
それより自分の書いた文も忘れる、最近書いたのでも忘れる
プログで読み返してこんなんことを書いていたのかは自分自身が感心しているのも不思議である、それでまた読み直して書き加えたり新たに自分の文に答えるようにして書く
するとそれは終わりなき文章ともなってゆく

本もそうだった、本は読んでも活かされない、忘れている、こんなこと書いてあったのかと新鮮になる、一度読んでいてもほとんど忘れていた
本は整理しにくい、だから本を電子化して辞書のように引くことができればいいとなる
そうすると関連したものをまとめるとそこで一つの新たな文が書けるからである
本では関連したものを探すのがめんどうなのである
でも本の一部と他の本の一部とかが関連していてそれを結び合わせるとまた別なものとなって表現できるのである

とにかく年の暮だから掃除とか整理でありまた家の修理があり大工さんを頼んだ
家も50年過ぎていたんでいたし地震でこわれた所をまだ直していなかった
家は前から何回も直している、その度に相当な金がかかっている
今は大きな家に一人だけで利用している

知的生活をするには書庫が必要である

知的生活とか知的創作とかなるとそういう場が必要になる、画家ならどうしてもアトリエが必要になるし工芸でも創作する場作りが必要になる
書庫が私設図書館が必要になるのは引用するためである、また参考にするためである
だからプロの作家になると私設図書館をもっているのである
必ず何かを参考にして引用するからである
インタ−ネットでそれがしやすくなったのだがインタ−ネットにはまだプロの情報が蓄積されているのが少ないのである
だから本を利用するとプロの情報が蓄積されているからいいものに当たる
でも本はキーワードとかで探すことができないので一冊一冊になっているので面倒なのである、インタ−ネットのように全文検索して編集したらそれは新たな創作品となっている
とにかくもうこの年になると情報すら新しいものを吸収できない
でも古いものでも読んだ本でも忘れているのである
その努力が活かせていない、それは結局アウトプットしていなったからである
それができなかった、アウトプットしない限り情報でも本を読んでも活かせない
だからプログとか記録するという点でもいいツールなのである

まずこの年になるとあらゆるものが整理するとかなる、人生を整理するとかにもなる
自分のしてきたこと吸収した知識とか経験を表現することになる
それで表現するにしてもやはり経験が基になる、外国で15年も暮らしてそれで商売までしていたとなるとその経験を語れば訴えるものがある
それだけの経験は簡単にできない、留学はしたとしてもビジネスをしていたとなると別である
その経験というのは本を読むとかのレベルではなく実感として知る、肌で知るということである

今日も一日追われて終わる、家事とかも全部していると本当に追われる、それでプログのコメントもできない状態である
まずプログに書くことで追われる、それから家事で追われる、今回は家の修理がありそれで追われる
これも年の瀬だからともなる

我が家には私設図書館くらいの本がある、大規模ではいなにしろある、でも本があるというだけでその本の内容を消化していない、自分なりに消化していなかったのである
でも本は例え読まなくてもそろえておく必要がある、なぜなら自分なりの文章を書くとき自分の文脈で他人の文を活かすためなのである
それで時々インタ−ネットだけではなく本を読み返す必要がある
また図説とか写真とか絵も参考になる、そういうものを集めることが自分なりの情報発信に役立つのである

ただ正直人間一生でできることは限られている、あっというまに人生の時間が尽きる
もう詩文に残された時間はわずかになった、つくづくたいしたこともできなかったなと思う、ただ旅したことでも財産になる
何かしら経験は財産になる、読書もその一つだけでこれも忘れやすいのである

人生百年時代になると知的な仕事する人にはいいとなる、何しろ知識とかは膨大であり本の一部しか知ることもできないし経験もわずかのことしか経験できない
時間はたちまち過ぎる、30過ぎるとまだ若いとなるのが40になるとすでに白髪がでてきたりおっさんだとかなり氷河期世代が絶望を語るようになる
40才が分かれ目になる、それ以後はもう何か新しいことができない、追いつけないともなる   

焼き捨てて日記の灰のこれだけか 山頭火

こんなものになる、膨大な記録ともなるはずだが燃やしてみればわずかの灰となっているだけである、人生はみんなそんなものだともなる
そもそも普通の人は記録さえなくかえりみられず終わるだけである
歴史となれば名前とか一行でも何か残っていればその人の生きた証となるが実際はほとんどの人の記録は失われる、その人が何を生きたのか墓を見てもわからない、戒名を見てもわからない、記録がないからである
それで文章で記録を残すことは意外と大事だとなる、なぜならそこから死者を偲ぶことができるからである、語ったことは忘れやすい、消えやすいからである
エジプトの神聖文字とか粘土板の文字とかが二千後にでも残ればそこから過去をしることができるからだ、そこに文字の貴重さがある、記録することは文字が生れてできたことなのである

短日に仕事せかされはや暮れぬ

本あまた積まれて忘る年の暮

2020年11月17日

アクセスされた外国の謎 (少数でも中味のある、将来も読まれるものを発表してゆく)


アクセスされた外国の謎

(少数でも中味のある、将来も読まれるものを発表してゆく)                 


OrgName:        Massachusetts Institute of Technology
OrgId:          MIT-2
Address:        Room W92-167
Address:        77 Massachusetts Avenue
City:           Cambridge
StateProv:      MA
PostalCode:     02139-4307
Country:        US   → (アメリカ合衆国)

全米屈指のエリート名門校の1つとされ、ノーベル賞受賞者を多数(2014年までの間に1年以上在籍しMITが公式発表したノーベル賞受賞者は81名で、この数はハーバード大学の公式発表受賞者48名を上回る[11])輩出している。最も古く権威ある世界大学評価機関の英国Quacquarelli Symonds(QS)による世界大学ランキングでは、2012年以来2019年まで、ハーバード大学及びケンブリッジ大学を抑えて8年連続で世界第一位である。 

ケンブリッジ市にマサチュウセッツ工科大学がある、そこからアクセスがあった、おそらく原発関係だろう
でもここは相当に優秀な大学である、ノーベル賞受賞者は81名というのには驚く
一時外国からも原発で注目されたようだ
ただ私は文系なのだから研究に役立つような知見が得られるのだろうか?
ただこういう大学からアクセスがあることはやはり私のプログがテーマとしていたからだろう
でも前からすると最近ページビューは半分に減った、ただ訪問者は300以上とかなんとか維持している

そしてなぜか世界中からアクセスが増えた、世界からのアクセスは必ず忍者の分析で出る
日本はもれるのが多い、ただedとあると教育関係のアクセスが多い
つまりアクセスが減っても良質な人の何か目的がある人のアクセスがあるとなる
その世界からのアクセスはここ何日かつづいている、それは原発関係ではない
抽象画関係しか考えられない、抽象画が認められて世界からのアクセスが増えた、その国も多様なのである
パナマとかウクライナとか今日はルクセンブルグとかからもアクセスがあった
それは一回限りではないことが特徴である、だから何か抽象画が注目されたのだと思う
抽象画とか絵画とか写真は言葉がわからなくてもわかるからだ

ここでわかったのはインタ−ネットは世界的な表現の場だということである、それは前からわかっていたがこんなにアクセスがあることで注目されていることを認識したからである

ただ正直アクセス数が相当数減った、半分以下とかなった、訪問者はそれほど減っていないにしてもこれだけ減った
その原因はこれまで津波とか原発関係でずっと増えていた、震災から十年過ぎて関心が薄れたのである
あとは俳句とか短歌だと関心があるのは少数者である、詩などでもそうである
こういうのはアクセスが増えない、ニュースとかは増えるがそれも新聞のようにテレビのようにならないのでアクセスが少ない
だからどうしてもアクセスが減ったのである、ただアクセス数は関係なく中味のある、代々読まれるようなものを出してゆく
たいがいyoutubeでもプログも一過性になるのは価値がないのである
その時その場限りになってしまうからだ、そういうものが膨大に多いのである
ニュース解説でそこに歴史的に考察して普遍性がある解説が必要なのである、それは相当に経験とか学識とかがないとできない
それができているのは五六人しかいない、それは自分が毎日アクセスしている、ただ他にいるがそれは自分はアクセスしていないのある

でも何か百万とかまでアクセスがあるのはそれは芸能人のようなつまらないものなのである
だからアクセス数からだけでyoutubeでもプログでも判断することはできない

正直特別関心がある人とか何か俳句とか短歌でも詩でも創作しているとか宗教なら求道心があるとかそういう人たちを対象にして発信する、ただ数だけを集めるのではない、中味がある、その場限りのものではないものを追及する
youtubeなどでもそれはその場限りで消えてゆくものが多いだろう、何か何度も読まれ代々読まれるものを目指す
そうなると少人数になる、そういう人たちを集めて内輪で研鑽すするというのも考える  
これからどうするかは来年のことになる、何とか詩集は出したいと思っている、これにしてもなかなか一般的には理解されない
でも膨大なものになったのでまとめたいとは思っている


2020年09月23日

読書の方法はまず記憶させること (場所を変えて何度も読むーページを飛ばして読んでもいい)


 読書の方法はまず記憶させること

 (場所を変えて何度も読むーページを飛ばして読んでもいい)



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寝る時に本を置いて何回も目を通す、部分的にでもぱらぱらとめくり読む
すると頭に記憶されやすい



どうしたら読書で本を読んでそれが効果的になるるのか?
本は私立図書館ができるくらい集めた、特にアマゾンで古本の安いのを集めた
でも何か積読になり読んだで印をつけていても読んだことを忘れている
ここを読んだのかという記憶もないのである
だから本を読むより本を集める蒐集家になっていた
そうなると本を読んでいるのではない、まるで古本屋のようになっている
書店とか古本屋では売る人は内容まで良く知らないからである

でも読書してその本の内容を理解すること自体が相当に努力が必要になる
またその方法もある、それは寝る時、二階の寝室で必ず本を読み目を通す
それも同じ本なのである、そこでその本を何回も寝るときに目を通して読んでいたらそれが頭に記憶されることがわかった
ただ全部を読むというのではない、その一部分でも読む、眼を通す、何かそうしているとその本の内容のことが頭に記憶されてくる

それは食べ物でも何かゆっくりと食べてその味を覚える、味わうというのに似ている
うまいものだったら何度も食べたい、そしてその味を深く味わうとなる
本はやはり作者の苦労した知識がつめこまれている、それは一生をかけた知識がまとめられている、すると読む方でもすぐには理解できない、ただ何回もそうして読んで目を通していると頭に記憶されて理解するようになり今度はその本についての感想を書き自らの文脈にとりいれるのである

だから知的仕事というのは大きな家が必要なのである、狭いワンルームも必要でもまた気分転換になる部屋だ必要になる、何か知的仕事をするとき家族でも邪魔になることがある第一家族がいると子供でも妻でも集中することができなくなるからだ
部屋の中でわたわたしたり妻でも気をつかうとしたら知的な仕事はしにくい
集中しにくいからである
私は結婚もしないし家族はいても別に干渉されることもなく自分の部屋があり引きこもって知的な仕事をしていたとなる
瞑想もしていた、この瞑想だって家族がいるとしにくくなるだろう
それで何か後世に作品として残したりした人は芸術家などでも独身が8割だったということが納得がいく、それだけ作品作りに集中しないとできないためである
ただそういうことがわかっていて助ける人が妻でもいれば別である
でも子育てとかありそうなると家で知的仕事に集中できないということがある

ともかく知的仕事には私立図書館になるくらいの本を装備してゆく必要がある
たとえ読まなくても必要なのである、必ず文書を書くとき引用したり必要になるからだ
そして何か自分の探求しているものを新たに発見する
白鳥省吾の詩は津浪とか原発事故とか大災難を経験したので自分にとってもこの辺の人にとってもぴったりの詩だったのである
でもそれは忘れていたし覚えていなかった
ただ寝室でそれを手にぱらぱらきランダムに読んでいて発見したのである
このように本は何かその人なりのものを追及している時、ぴったりなものが発見することがある
だから私は詩集でもある程度集めていたのである、それが役にたったとなる

本を読むことは本を読んだままにしては活きてこない、自分なりの説を展開する時の補強となるとき活きてくる、それぞれが探求して追及しているものがありその過程で補強するものとして活きるのである
ただ正直本は読むのではない、他者の説とか文脈の中に圧倒されて自分の説とか見解でも消失してしまう危険がある、やはり強力自説を展開する人ならそうはならないのである
でも何か本は内容があるとのみこまれてしまうのである
そしてただその本の著作者のコピーのようになる
そうなると読書が有効なのかどうかわからない、ただコピーしているだけになるからだ

それでインタ−ネットだと本の感想をでも気軽に書けるから書いてみる
すると何かただ一方的に読まされるだけではない、そこで自説を展開して協同作業のようになる、別にインタ−ネットでは気軽に他人の意見でも参考にできるから協同作業がしやすいのである
ともかく知識が膨大であり理解するのはわずかである、本は今いくらでも買える
別に書店がなくても買える、図書館に行かなくて本は買って読める
でも本を読むだけで終わったら読んだことにならない、その本を読んで自説を展開することが本を読むことなのである
なぜならどんな天才でも偉人でもキリストでもシャカでも先人が師がいて教えを説いたからである、キリストは聖書を読んでいたときそこに予言者がいてそれを学んだ
シャカもヒンズー教がありそこから学んだ、常に先人があって学んでいるのである
どこのく世界でも先人はいる、仕事するにしても必ず先人がいてそれで教えられて学んでいるのである、だから職人でも師弟関係ができるのである

いづれにしろ一冊の本を理解することは相当な努力が必要になる、そのコツは定期的に寝る時でもいいから何度も目を通す、それも全部ではない、一部でも理解する部分を目を通して頭に記憶させることが大事なのである
それで家が大きくて部屋がいくつかあるのがいいとなる
知的な仕事は才能があるにしても環境が大事だとなる
高校まで自分の家には一冊の本もなかった、子供の時は漫画だけを借りて読んでいた
子供部屋おじさんが話題になるがそもそも団塊の世代で子供部屋をもっていた人はまれだろう、ほとんどいなかったろう、そうなると自分の好きなことを探求できないともなっていた

私の場合は大学を出てから家で引きこもったとしてもそこで知的探求する場が与えられていた、それは大学の時大きな新しい家を建てたからそうなった
だからそこで知的探求する場が与えられていた、ただ本は田舎で買えなかったことは相当なハンディだった、仙台市に行かないと専門の本はなかったからだ
今ならアマゾンでも何でもいくらでも買える、この差は大きかった
本が読めないとしたら知的探求は不可能だからである
才能は確かに生まれつきがあるとしても何らか本を読むにしてもこのように努力しないと理解もできないのである 

そういう繰り返しが反復して理解するようになる
特に記憶することが先にあり記憶として定着させるために寝る時に本に何度も目を通すのである、するとそれが頭に記憶として定着する
この記憶するということが大事なのである、なぜならすぐに人間は忘れるからである
でも毎日そうして本を何度も全部ではなくても読んで目を通していると記憶される
すると記憶したことによって自説を展開する時、その記憶したものか活きてくるのであるつまり頭の中で構築されやすくなるのである
この方法は試ししてみるといい、ただ広い家がないとしにくいことはある
でも寝室で何冊か本を置いてランダムでもいいから読み記憶させることはいい方法なことを発見した

2020年09月22日

マスコミの印象操作にのせられる (連休の人出は京都くらいで他は増えていない)


マスコミの印象操作にのせられる

(連休の人出は京都くらいで他は増えていない)


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一月万冊

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宮崎と鳥取と京都と愛媛と神奈川で増えている
あとは10%-20%と減っている
つまり元にもどっていない、東京はもっと減っている
東京は警戒しているかことがわかる
なぜなら40%とか減っているからである
だからみんな警戒しないのかと見たがまだ警戒していたのである



ここのyoutubeで今回の連休の人出が増加して満員になっていると映像で見せた

するとテレビを見ている人はどう思うのか?

あんなに人が一気に出てきてコロナウィルスが増えなのか?それを自分自身も一番思ったただコロナウィルスがこれほど騒がれているのだからそんなに増えるのかという疑問だった、まだ用心してもいいとも見た
ある程度は観光と飲食で窮地にたたされているのだからしょうがないとも見ていた

でも一月万冊で詳しく分析していた、統計的に分析していた、その情報は官報で報告されていた、つまり前と比較して東京内でもまた地方でも20パーセントは減っている
元にはもどっていない、ただ京都だけは例外であり元のにぎわいになっていた
だからテレビを見る限りずいぶん増えた、何か感染者が増えないのかとと見る
つまりテレビの映像操作でそうなる、一部分をとりあげてそこだけをクローズアップするだからあたかも人が増えたと直感的にそう思う
その詳しい内容はテレビを見る人は検討しないからである

それで一月万冊というのも何かわからなかったがそれなり適格に現状を分析して指摘している、意外と最初youtubeはふざけているのかとも見た、でも真実をついているなと見方が変わった、マスコミはなぜ人が増えたとういことを示したいのか?
それは視聴率をとるためである、ただ人があまりでないとなると何も訴えるものがなく見ないからだという
確かに人があれだけ出ているのかとなればとにかくそのことを見てみんな自粛に疲れて
外に出るようになったのだと見る、でも東京内でも渋谷の交差点でも実際は増えていない20パーセント減っていて元に戻っていないのである
それは政府から統計で正確な数字がでているから間違えない、だからマスコミではある部分を誇張して報道する、それは放送局の意図があってそうしている
人は出ていますが前と比べるとまだ元にはもどっていません、20パーセントは減っていますとは報道はしないのである
そうなるとなんだ増えていないのかとなり注意して見ないともなる

とにかくテレビの問題は第一印象に訴えるメデアである、第一人でも顔が映る、するとまずその人が言うことより顔から第一印象から判断する
この人はこんな顔しているのかとなり顔を見るのである
でもプログだと顔が見えない文章だけだとなり文章から判断するのである
その相違も大きい、どうしても映像のインパクトが大きいからそれで判断する
イラク戦争でも油まみれの海鳥一羽を映しただけで強烈な印象操作があり世界中がイラクが悪い、フセインが悪いとなったからマスコミの影響は恐ろしいものである
それは油にまみれた海鳥は作られた映像だったのである
その周りは別に油に汚染されたわけでもなかったのである

テレビはマスコミは何か正確に事実を報道しない、事実より何か目をひくものを報道するインパクトのある映像を出して視聴率をとろうとする
ただそれはyoutubeでも行われている、何か人を恐れさせるとかのタイトルを常に出す、するとやはり人は怖くなり見るということがある
それが人間の心理である、安全ですよ何も心配ありませんよとなれば誰も見ないのであるだから視聴者にも問題がある
何か強烈な刺激を得るために見るということがあるからだ
そしていつもテレビを見ているわけではない、ほんの瞬間的に見て終わりだともなる
またその詳しい内容を検討する時間もないからしない
だからある程度暇がないとそういう検討ができないのである
だから瞬間的な映像の印象操作にひっかかりやすいのである

マスコミは事実だけを報道しない、マスコミの意図があって報道を編集しているのである日本中が観光客であふれ元にもどった、GO TO キャンペーンは大成功だったと政府に忖度した報道だともなる
でも実際は京都だけが成功したとなっていたのである
ただテレビの印象操作はわかりにくい、何が意図なのかわかりにくいのである
何度も取り上げるがNHKで原発事故の避難者が飯館村の人が相馬市に避難してトマト農家に雇われなかったと飯館村の人が語った時、瞬間的になぜそのトマト農家は雇わないのだ困っているのに雇わないのだと冷たい農家だと見ている人は怒るようになる
の理由は相馬市では津波で大きな被害を受けた、そのために津波の被害者を優先的に雇ったのである、それは人間として当然のことだったのである
別に冷たい農家でもない、でも視聴者は印象操作されてそう見ないのである
別に飯館村の人をどうこういうのではない、地元で公平に判断すればそうなる
その事情がわからないとテレビ局の意図通りに見ることになる
もともとNHKでは原発避難者側にたった報道をすると意図して決めていた
だから下の人は上の人が決めることですからと言っていた

とにかく今マスコミがインタ−ネットでyoutubeなども出てきて常に批判の対象にされるようになった、マスコミの報道が社会を歪めるからそれを是正しようとインタ−ネットで発言する、youtubeで気づいたことは簡単にテレビ局になれのだということである
プログなどはそうだがテレビ局に簡単になれるとは思わなかった
何か説明するのでもマスコミのテレビ局とたいして変わらない、政府の統計の数字を出して比較しているからわかりやすい、別にマスコミのテレビ局だけができると思っていたが一般の素人でもテレビ局になれるのたと見た
ただどうしても取材力がたりないのである、取材することは相当にむずかしい

マスコミ批判が噴出しているのは肝心なことを知らされないでそれが国民の命取りになる命まで失うということがあるからだ
それは福島原発事故でも肝心なことが報道されなかったからだ

東電の科学者が10数メートルの津波が来るから防波堤を作れ!

このように警告していたがそれも知っている人は地元ではほとんどいなかった
もしそれを大々的に報告していたからみんな津波が来るのかと警戒してそれが頭に入っていればすぐ避難した、でも相馬地域では津波は来ないと確信して逃げないで死んだ人がいたのである
それは肝心なことが報道されなかったからである、まず原発に関しては政府の隠蔽があり重大なことが知らされない、中に立ち入ることもできない
ただ全国でもそうだがマスコミは東電からまた電事連でも莫大な宣伝費が出されているから危険を報道しなかった、つまり本当は県民を国民を守るべきマスコミが宣伝費をもらうからと権力をもつものに忖度して報道しないのである
別に防波堤など作れたのである、今になって実際に作ったからである

それから漁業組合とか船主とか漁業権を東電に売り渡したことを何度も私は指摘してきたこれも一切報道されていない、これはやはり肝心なことだったから私は指摘した
なぜならもし漁業組合でも海が汚染されて魚がとれなくなると反対したら原発は建てられなかったからである、でも事故前も補償金をもらい原発御殿を建てていたかと後でわかった、ここも肝心なことでも報道しない、ただ事故前だったら報道はできない
漁業組合から抗議が来るからだ、それは他でも様々な利権団体がありそこから抗議が来るから報道できない、それで利権団体民主主義と私は批判した

ただ報道にしてもそこに住んでいる住民の民度が高くならない限り報道の質を高めることはできない、住民の命がかかわることがあり報道の役割りを住民も参加しないとできないただインタ−ネットとかでは別に金がかからない、手間はかかっても無料だから誰でもできる、ただ取材は簡単にできない、原発を取材させろといっても一個人はできない
権力がないとできない、それで政府では常に隠ぺいしている
書類でもすべて黒塗りにして隠蔽したからである
つまり必ず隠蔽があるのはやましいことがありそれを隠すためなのである
それは重大な事実も報道されないということになり住民でも国民でも被害を受けることになる、命を失うとか故郷に住めないとかなる
ただそれは住民でも国民でも民意が高くならないとそうなる
ただ利益になればいいとかなればとりかえしのつかない今回のようなことになる

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2020年08月28日

無責任民主主義 (一票には百万分の一の責任しかない―誰も責任はない)


無責任民主主義

(一票には百万分の一の責任しかない―誰も責任はない)

民主主義がなぜ機能しなくなっているのか?
選挙だって投票しても何もかわらないとかなる
それは結局一票の価値とか責任は百万分の一に過ぎないからだ
要するに百万分の一の責任しかないのである
それでも一人が十票分を投票できるとなれば10人分でありそれなりに力をもち責任を持つようになる
だから選挙の時は一票など当てにしていない、団体票を組織票を当てにしている
カルト教団であろうが何であろうがまとまった票を得ることが政治活動なのである
投票する方でも何か一票だからと何の影響もないとなり責任も生じない
要するに投票しても投票しなくても同じだとなっているのだ
だから有名な影響力ある武田邦彦氏などでも棄権している
その人が言論で影響力があるからそっちの方に熱が入る、言論の方が責任があるし影響力があるからそうなる

民主主義の発祥の地のギリシャにしても一万くらいのボリスであり一人一人が見えるような社会で起きた、それが巨大化すると民主主義が機能しなくなる
ただ民主主義は必ずしも選挙だけではない,社会システムとしての制度である
でもその最大の中核となる選挙がもう一票が百万分の一とかなると責任もなにもない
また選ばれる人も一人など相手にしない、マスを相手にする
それは様々な利権団体なのである、それで二階堂氏が観光業者の団体と関係していて
go to キャンペーンを政策にして実行した
そしてその団体から献金を受けるとしている

こういうふうに民主主義は利権団体と必ず結びつきまとまった票を得て当選する
民主主義というとき民が主だとしているけど実際はこうした利権団体が主となっている
そして利権団体化するとただ利権だけを得ようとする
それが民主主義では権利民主主義なのである
権利はもともと権理と明治に訳していた、それがただ権利となった
そこには正義もなにもないのである、利権を得ればいいしかなくなったのである

再三取り上げているけど船主とか漁業団体が漁業権を東電に売り多額の補償金を原発事故前も補償されて原発御殿とか建てていたということが事故後にわかった
だからここだけではない、民主主義とは利権団体の民利主義とかなる
つまりプライベートの意味が奪うという意味でありまさに自分たちの利権のために公の財産を私的に奪う権利なのである
それで公共的なものがそうして利権団体に奪われるものになったのである

例えば入会権でもそうである、それは村の共有地でありそこで山菜でも木を燃料とするにも家の材料にするにも共有であり誰かの土地ということはなかったのである
一個人の土地ではない、今でも観光客が勝手に山菜をとるなというとき資源保護とか村の財産を守るためにそうしている
それは漁業権でも本来はそういうものだったのである
それが明治以降に資本主義となり民主主義となったとき個々人の所有に分割された
そのために今になると無数にそうして個人の土地があり山全体を利用しようとしても
できない、もう誰の土地なのかわからないものにもなっている
つまりここでも公共の共有の土地がプライベートされ奪われてそうなったのである
こうしてかえって山は昔のように入会権があり共有であったのが私的所有にプライベートされて何もできなくなったという事情がある

民主主義が機能しないないというとき自治体でも機能してない
この辺で原発が作られるとしてもそのことについて市町村で議論されない
それがわかったのは小高町にすでに東北電力の原発が作ることが予定されていて事故が起きた年に工事が始まろうとしていたのである
でも小高に原発が作られることすら私自身も知らなかったのである
つまり広く知らされることも議論することもなかったのである
事故を起こした原発でも土地所有者と県の許可くらいで決められたのである
そこには何の議論もない、一方的にただ地元の人たちに「安全神話」を吹き込み一切の批判を許さなかったのである
ここにも民主主義など全然なかった

福島県の報道機関はマスコミとなるが何も機能していない、第一福島民報は出資比率で県が半分であるとしたら県の言うままになり国のいいなりになるだけである
これは日本全体でも報道はマスコミは民主主義が機能していない
何かマスコミはまた巨大な装置をもつ六局が独占していた報道の利権団体だったのであるNHK自体がそうだった、報道するということで巨大な権力、第三の権力となっていたのである、それで宣伝費とかで収入が入る、すると金をくれるところに忖度するとなる
それがわかったのはインタ−ネットとか特にyoutubeの影響が大きかった
なぜならこんな簡単に名もない個人がテレビ局のように放送できるのかと不思議だった
でもマスコミとたいして変わらないしかえって説明など新鮮だったとなる
そういうことはある程度の知識があれば誰でも一個人でもできるということだったのである

今までのテレビ局はマスコミが権力をもったのは莫大な資本がないとできない、それで権力をもったのである
民主主義が機能するにはやはり報道が大事になる、知らされなければそもそも何もわからないし判断しようがないからだ
だから知らないままに20キロ圏内に東北電力の原発ができるようになっていた
そしたら事故になったら住めなくなったのである
これも怖いことだった、でもなんら知らされないし議論もないままに建設が始まるところだった、小高の人でも誰も反対しない、ただ金になるからいいとしかないのである

重要なことが知らされない、議論もない

これでは民主主義も何もない、全体主義の独裁と同じだったのである
日本の報道の自由率はとても先進国とは思えない低さなのである

国際NGO「国境なき記者団」(本部・パリ)は21日、2020年の「報道の自由度ランキング」を発表した。調査対象の180カ国・地域のうち、日本は66位(前年67位)だった。

これが民主主義の自由の国かとなる、もう江戸時代との見ざる、聞かざる、言わざると同じではないか?
こうしたことから社会は歪められて悲惨な結果となった、戦後アメリカの民主主義を取れ入れてもそれは利権団体主義であり本来の民主主義ではなかった
ただ民主主義という言葉だけであり実質はともなっていなかったのである

要するに利権団体主義となるとき利権だけに金だけに目がゆく、その正当性とかrightに目がむかないのである、それが漁業権とか他の権利でもそうである
漁業資源の保護が本来の役割りとして権利が与えられている、入会権とかでもそうだった権利は権理だったのである、法律でもreasonを重んじる
ただこの理屈となるとめんどうになる、でも万人にでも納得する正当性があって成り立つ団体だからといってすべて通るとなるのも民主主義ではない
でも現実はそんな正当性は関係なく利権団体主義となり数が多いものが権力をもつ
そして一票を投じたとしても百万分の一の責任しかないから無責任になる

また選ばれた議員にしても別に責任を自覚しない、議員自体が利権を得ることを目的として政治家になる、そして何かあれば選んだ選挙民が悪いとまでなる
民主主義では選んだ人にも責任がるとなる
そうしして誰も責任をとらない無責任社会となった
それより侍だったら一心に責任を感じていたから切腹までしたのである
それで庶民は侍になりたくないというのもわかる
そんな責任をとてもとれないからである、原発事故では実際誰も責任をとっていない
官僚でも政治家でも東電の幹部でもマスコミでも御用学者でも何か月給を減らされたとかもないのである  

こうした無責任社会の弊害は大きい、大衆というものも全く責任とは関係ない匿名集団である、それで数学的にも集合にはならないという、駅とかに集まる不特定の集団は集合にならない、それは一時的に集まり離散しているからである
そういう大衆がやがてナチスのファシズムとなったのが現代である
ナチスはヒットラーはそうした無責任な大衆から生まれたとされているからだ
要するに大衆には責任がない、ただ騒ぐだけだとなる

ただデモになり死ぬこともあるからその時はやはり命がけだと責任をとっているとなる
すると投票よりそうしたデモが民主主義なのかとなる
でもそれは暴力になるから民主主義ではないとなる、それでもそうしなければもう社会は変えられないともなれば暴力にもなる
つまり投票では社会は変えられないとなるからだ
民主主義はすでに機能しなくなっている、アメリカでは数パーセントの人が半分の富を収奪しているとかありそれも変えられないとすれば民主主義は機能しない、デモで暴力で変えるほかないとなる、その時民主主義はもう成立しなくなっているのだ
だからそうしてデモが巨大化すると国自体がその暴力によって変えるとなり選挙は無駄だとなり否定されるようになる、民主主義はもう成り立たないのである

ただいくら無責任民主主義でも人間社会は必ず責任を誰かがとらされるようにできている
この辺では原発事故で故郷に住めなくなった、これが最大の被害だった
戦争でもやはり三百万人死んだとか必ず甚大な責任をとらされた
無責任民主主義でも責任から人間は逃れられないようにできている
だから最初から責任をとれるような社会にした方が間違いがないともなる
みんな無責任であっても結局誰かが大きな責任をとらされるからである
それで一人に十票の投票権を与えればそれだけ責任は自覚される
しかし結局平等主義になりそれがまた不平等になるのである
でも民主主義が機能しなくなっている、それを解決するにはどうするのか?
それが問われているのである

利権団体民主主義が社会を歪める
(GO TO キャンペーンもそうだった)

責任をとらされる人が一番真剣になる (責任をとらない人は信用できない)

2020年08月06日

高齢者の読書離れ (読書も勉強も環境に左右される-私の読書経験)


 高齢者の読書離れ

 (読書も勉強も環境に左右される-私の読書経験)

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週間文春-8月6日

ここで面白いのは読書していることではなく、蔵書を本をそろえることだとしている
本を理解しなくても読まなくても本をそろえる、書斎を作る
これもそうだと思った、私がそうだったからだ
本を読もうとして相当に本を買った、でもその本がたりなかったのである
本が買えなかったのである、田舎では都市があっても5万くらいの都市ではまず本が売っていないのである、専門書などほとんど売っていない
そうなると田舎で独学することはできない、本が読めないということはもう知的な刺激も得られないからだ
そしてくだらない本を読んで失敗することになる

子供の時には本が一冊も家になかった、第一子供部屋などなかった、だから今子供部屋おじさんと言われる人がいる、その人は子供部屋をもっていたのである
まず高校まで家が狭くて自分の部屋がもてない、また家に一冊も本がない
そういう環境は知的な発達には不利である
頼るのは学校であり教科書しかなかったからだ
知的な興味というのは学校ではなかなか培えないように思う
私は何か学校で試験のために勉強したが興味をもって勉強したことがないからだ
勉強は自発的にしない限り身につかないと思う

家庭に知的環境があるのとないのとは相当に差がある
なぜなら家庭でそうした知的環境があれば自分の興味あるものを追及できる
最も身近で追求できるとなるからだ
それで家庭に一冊も本がないということは相当に不利だったのである
戦後生まれの団塊の世代でもその時本は高かったから家に本がそろっている
知的環境がある人はまれだったろう
たいがい飯台一つしかない生活が普通だったからである 

なぜヨ−ロッパに天才が多いのか?
それは学校とかないとき家庭に教えられる環境があったからである
モーツアルトでもベ―トベンでも家庭で音楽を学ぶ環境があった
親が教師でもあった、まず音楽だと家にピアノがあるとないでは相当に違うからだ
音楽になると幼児の時から親しまないと身につかない
私自身は音楽は音痴でありクラシックでも知らない
ところが暇だったので何かクラシックを無理しても聞いていたのである
そういう環境が大学卒業した以後家にあるようになったからである
音楽だってそういう家庭環境がないと親しめないからである 
ヨ−ロッパの天才は貴族はそうした環境が備えられていて独学でも学びえたのである
その天才たちが実はヨ−ロッパ文明を作るリーダーにもなった
理系の分野でも本当に天才か多いからである
そうした天才を産むということでアメリカでも発明がありコンピュターなどを発明したりしたのである、それも二人くらいの天才がいて生れたのである

私がインタ−ネットにはまったのも引きこもりになり自宅で通信機能付きのワープロを始めたからである、だからその時からパソコン通信とかに親しんでいたのである
それをしていたのは相当に若い世代だった
でもすぐに時間すぎてインタ−ネットがされほど発達して日常に欠かせないものとなったのである,インタ−ネットはそもそも家庭で知的仕事ができる道具だったのである
家庭の中に図書館でもあるような感覚になる
図書館も利用していたが今はここ十年くらい行っていない
図書館は意外と不便なのである、むしろ古本の安いのを買って自分の家を図書館にした方が効率的だしそれが今できるのである
テレワークの時代になるというのもコロナウィルスで推進されるのも時代だったのである

私は大学を出てから正式に会社に勤めたことがなくアルバイトを渡り歩いて底辺になったそこでした仕事は流れ作業しかない、そのために仕事をしたくなくなった
その嫌悪感が強かったからそうなった
そののちは家に引きこもり本を読んだり旅に明け暮れたとなる
その時家を新しく建てたので書斎付きの部屋が用意されたのである
ただその時書斎には本は少なかったが、大量の本を置く場所が用意されていたのである
それでそれなりに本を買って集めた
でもその本が少なかったのである、近くにしょぼい本屋しかない、まともな本は仙台にしかない、すると一週間に一回でも仙台市に行ったのは本をみるために買うために行ったとなっていたのである
でもいまアマゾンで古本で何でも買える、キンドルとか電子本でも読める
今になると田舎でも本は本当に古本を集めるだけで書庫を作れる
それも安いし専門的な本でも買えるからだ

まず知的な仕事には本は欠かせないのだ、それも相当な量が必要なのである
ただ今になるとせっかく買っても読んだ本は理解した本は少なかった
だから本を買った、積ん読になっていた、ただ本を買って積んでいることになった
でも柳田国男全集とかは買っていた、やはりこうした全集は確実に必要である
それを感じたのはインタ−ネットでプログとかで書き発信するようになったからである
つまり読書は一方的になりやすい、そして何も記憶されないで理解しないで終わっている本とは実は対話である、著者との対話である
また別にインタ−ネット時代になるとニュースの記事の解説でも対話できる
それを私はプログで試みている、引用して自分なりの感想を書くのである
これが大事だったのである、ただ本を買って並べているだけでは身につかない
対話することが重要である

確かに老人になると新しいものが吸収できなくなる、となると今まで読んだ本や買った本がその人の知的教養となる
それで不思議なのはそうして買った本を読んでもいない、また理解してもいなかった本を読み直している、そして再認識している
人間は本を買っても深くその本について理解していないのである
だから必ずいい本は読み直す必要がある、それで再発見してい活かすのである
今なら本でも要点をつかみ自分の文脈で引用できる
これも不思議なのである、やはり老人になるということはどんな人でも経験をつみ何より先が短いということ死が迫っているということで人生をふりかえりその意味を否が応でも知らしめられるのだ
それでなにかしら老人は語ることがある

本についても読書についてもそうである、高齢者の読書離れというとき高齢者はむしろ他人の本を読むというより今まで読んだ本の理解を深め経験を語る方にアウトプットに向いているのである
だから本を買っても読まない理解しないとしても老人になると他者に何か書いて伝える時再び活きてくることがある、どうしても老人は読書より他者のものを読むより自らの思想を経験したものをアウトプットすることになる
その中で過去に買った読んだ本でも思い出したりして引用できる
それでイリイチの本がアマゾンで

「専門家時代の幻想」が古本でも7000円していた

これは高いと思った、古本でしかもう読めなくなっているからだ
それだけ歳月が過ぎたということである、この本が原発事故やコロナウィルスとかで専門家の問題を指摘したので役にたったのである
でも今7000円で買うとなると簡単に買えないとなる
私は要約して伝えることができる、でもやはり一冊読まないと理解できないとなる

2020年08月05日

コロナウィルスの情報過剰で恐怖心が増幅される (マスコミの危険な情報操作)


コロナウィルスの情報過剰で恐怖心が増幅される

(マスコミの危険な情報操作)

情報社会になったというときマクルハーンが世界が村になると言ったことが現実化した
イラク戦争の油まみれの海鳥一羽の映像がテレビで放送されたとき世界中がそれを信じたからである、映像の力をまざまざと見せたのである
情報社会は今住んでいる場所よりグロ−バルになりその場所についてまるでわからないものでも身近になるのである
ところがリアルに感じるのは現実にその場に立って見る時感じる時なのである
それで近くの溜池を除染するのに半年以上かかるということに驚きプログで伝えた
そこは溜池でもない、小さな沼とも見ていた
それでけ小さいのである、それなのに半年以上も除染作業するというのが解せなかったのである
だから現実にその場に立ってみない限りわからないことがかなりある
人間は情報過剰社会でフェクニュースでも信じやすくなっている
第一外国のことなどいくらグロ−バル化して海外旅行してもわからないことが無数にあるからだ、だから外国のことは余計にフェクニュースでもだまされるのである
また錯覚しやすいのである

コロナウィルスでも毎日感染者の数字を報告する、すると否が応でも恐怖心を植え付ける人間は恐怖心をもつとそれが伝染しやすい、そして集団的パニックになりやすい
群集心理がある、それでyoutubeでさえタイトルを見させるように恐怖心をあおるものにする、株が暴落するとか、預金封鎖があるとか、極端になると人類滅亡するとかである
そういうことはやはり恐怖するから見るのである
だから今テレビはコロナウィルスのことがわからなくても毎日感染者の数字で恐怖をあおる、それがどこまで危険なのかわからない、ただの風邪だ、インフレインザより怖くないと言う一流の学者がいてもそうなのである
その人自体のyoutubeもまた恐怖をあおることをタイトルにしているものも矛盾なのである

要するに何にもありません、事件もない、怖がることもありません、とかなれば誰も見ないのである、恐怖するから見る、コロナウィルスにかかったら怖いとかもう恐怖心が植え付けられている、それはテレビウィルスでもある、テレビによって恐怖心が増幅されるのである,コロナウィルスにいろいろ言ってもその正体がわからないからそれでますます恐怖心が増幅するのである
だから何かこれは心理学的な問題もある、人間の心理の構造がそうなっている
全員が怖がるとき一人だけ冷静ではいられないからだ
それで自粛警察とか魔女狩りとかにもなる
田舎だと一人でも出たら村八分とかなり恐怖する
このコロナウィルスはそうした心理的影響が大きい、それは不可解なものであり人から人へ伝染してゆくからである
実体のウィルスより過剰に吹き込まれた恐怖心が全体に伝染してパニックになってゆく
それもコロナウィルスが不可解であることから余計にそうなる
学者の言うこともまちまちであり憶測に過ぎないからである

どうしても学者が安全だという安全派より危険だという危険派が多くなる
それは人間の心理構造からそうなっているのだ
人間は確かに事実があっても恐怖心が先行する、その恐怖心がありもしない幻像を作り出すのである、それは精神病理でもある
それが群集心理にもなる、それでナチスとかカルト教団とかの危険な集団心理が生れる
今宗教というとき人間の心理的問題でありもう改悛とかなんとか関係ないのである
罰当たるとか地獄に落ちるとかも心理的に恐怖を与えるだけであり会員にとどめるためにそうしているだけである

コロナウィルスでも確かに外国を例にすれば日本でも同じだとなり恐怖する
つまり外国でも隣の村と同じように見ているのである
もちろんそういうことも必要である、地震でも津波でも地球は一つなのだから他国で起きることは日本に関係する、でも逆にこのコロナウィルスは日本では重症者とか死者が少ないのである、ということは世界全体が一様に適応されるわけではないこともある
でも今や世界のことは隣の村で起きたと同じように影響しているのである
そして過剰に情報に作用される、

例えば犯罪でも性犯罪でも実際は10万人に1人で起きたことでも隣にそういう人がいるともみる、それで通報されることも現実に経験する
なぜなら犯罪はニュースになる、でも平和になにごともなく生活することはニュースにならないし見ないのである、するとテレビでは視聴率をあげるために危険なこと恐怖することをとりあげる、するとみんなが見るからである
情報化社会の危険はそこにあった
ただ自分自身にしてもなぜこんなにいろいろな災いが生れて来るのか?
自分自身の一身上でもそうだった、家族が認知症になり介護となり自らも病気になった
それから他者にはただ責められるだけであり金をも止められるだけだったのである

津浪があり原発事故がありそしてコロナウィルスである、一体これは何なのかとなる
これほど災いが続くのは何なのか、それで人類滅亡の兆しなのかと言うことも真実なのかとまでみる
本当に聖書の予言のように人類滅亡の兆しが起きてそうなっているのかとなる
コロナウィルスもその一つとして人類に襲いかかってきたのかとなる
これも不可解だからそうなる、こうした災いはやはりそこに神の意志が働いているともみるからだ
人間を越えた力が働く、それで自然から復讐されているとか神の怒りの結果そうなったともする、それもありうるとも思うからだ
人間社会はモラル的にも退廃しているからである
新宿の歌舞伎町とかから拡散されたのもそうである、差別するわけではないがそこにモラルの退廃した場所だからである

とにかく時代の変わり目でありそこに様々な事が起こり時代が変わる
そういう時期にあることは間違いない、こういうとき戦争で3百万人死んだとか犠牲者もでる、失業者が大量にでるとか経済も混乱する
そうして治安が悪くなるのも怖い、その混乱に乗じて利益を得ようとするものも出て来る戦国時代のようになるかもしれない、ただこの世とはもともと火宅の世であり平和などなかったのである、この世は必ず地獄がもたらされるようになっている
そこから逃れようがないのである、それで聖書のテーマが出エジプトではないがこの世からの脱出を説いたのである
だからコロナウィルスもその災いの一つであり人間が苦しむのである


2020年07月24日

メデアの変化が現代の大きな変化 (マスメデアから個人ベースになる対話的メデアへの変化)


メデアの変化が現代の大きな変化

(マスメデアから個人ベースになる対話的メデアへの変化)


おそらく20世紀というかwin95からのパソコンの大衆化と変化とメデアの変化の時代だった、そこからインタ−ネットの情報化時代に大きく前進したからである
でもその前哨戦としてワープロがあり私自身はワープロからはじまったのである
私は悪筆であり自分自身が自分の字を見るのが嫌だった
それでワープロをはじめたのである、それはwin95がでる前でありその富士通のワープロに通信機能がついていたので偶然に通信をしていたのである
それは富士通のパソコン通信だった
でもそこに集まった人たちは草創期のパソコンマニアだった、それを操作する人は非常に少なかったのである、だから理系の技術者も多かった
それだけパソコン自体が高いし誰でも買えるものではなかった、40万くらいしたものがあった、そのパソコンでもしょっちゅうフリーズしたりしして使いにくいものだった
私はパソコンはwinの時はじめたのでありそれまではワープロの通信機能がついているものでしていた、それで富士通の親指シフトでしていた
これでテキストが打ちやすい、文章にするのにスムーズだから使っていた

なぜこうしてこういうことにはまったかというと私は機械が苦手ある、理系でもない
するとそういうものにはまるということはない

悪筆でありそれが嫌できれいな字にしたいからはじめた

これがワープロの動機であり通信というのは付随したものとしてはじめたのである
そして私は無職であり引きこもりだった、だから家に一日中いるからそこに時間をさけたからできた
何か人間は苦手なことがかえっていいように作用することがあるから不思議である
中国でスマホがあれだけ普及したのは固定電話をもつのがめんどうだったからである
それは他の後進国でも固定電話よりスマホが無線が便利で普及した
つまり何かそうして不利なものが有利なものになってゆくことが人間界にはある
中国がITの先進国になったのはスマホが電話代わりになったことが出発点だったからである

確かに引きこもりは社会的脱落者であり目の敵にされる、でも奇妙なのは引きこもりが悪く作用するとしても良く作用することもある
禅僧とかに私は同調する、なぜあのように一人沈黙するのか?
それは沈黙して瞑想することが修行だからである、沈黙することは精神の修行なのである人間はあまりにも口が軽すぎる、そして口からどれだけ悪いものがでてくるか
口は災いもとなのである、そして沈黙することは自然と同化することであり一体化することなのである
なぜなら山でも石でも木でも沈黙している、だから自然に通じるには沈黙が必定なのである、でも社会人として生活することは必ず何か営業でも嘘をつく
そういうことが強いられるのである、利益第一になるからどうしても嘘ついても相手がわからない投資信託とかいろいろな金融商品を売りつけるとなる

まずパソコン通信は文字だけで文章だけで会話する、これは今までにない会話のしかただったのである、だからこの世界を理解すること自体できないものだった
そこからメデアの変化が進行していたのである
つまりテレビは大衆を相手にしたメデアであり、6局によって独占されていた
この影響は本当に大きいものだった、なぜなら茶の間を独占していたからである
そしてマスメデアは大衆メデアだから常にどれだけ視聴率をとるかでその価値が決まる
それで硬いものは放送しない、大衆向きに作られている
だから大衆洗脳装置ともなっていたのである
テレビを見ていると知らずテレビ局に洗脳されるのである

そしてテレビ局は明らかな意図をもって放送している、ニュースでも放送するものと放送しないものがある、大事なものでも放送しないことがある
それはテレビ局でどんなニュースを放送するか決めるからである
だから6局によってマスコミが裁判官のようにもなっていたのである
それで武田邦彦氏がダイオキシンは害がなかったのにマスコミのキャンペーンでねそう思いこまされたとして怒っている
また温暖化はないとしてNHKの放送を常に批判している
それは科学的客観的なものではないのである            

マスコミには科学者の客観的態度がない、常に武田邦彦氏は科学者としてデーターを重んじて科学的事実から判断する
マスコミの報道はそうした科学的に追求するものではなく温暖化とかを作り出しているとしている、それは科学的なものではない、恣意的に作り出しているのである
マスコミは中立ということはないし報道でもない、NHKでも編集会議を開きそこでトップがその方向性を決める
だから原発事故でも原発避難者側につくとトップが決めて番組を作りをしていた
津波の被害者より原発避難者を重んじるとして番組作りしていたのである
するとそれを見る人は原発避難者側に同情するようになる
マスコミはそうして放送する権利を独占していた、そしてただ事実を放送するのではない必ずニュースでも取捨選択して解説でもNHKがその内容を決めて編集して決める
だからもともとニュースでもその見方は多様になるがマスコミは一方的になる
そしてマスコミは何か裁判官のようになり常にいい子になりマスコミの言うことは正しいとなりおしつけられる、そこに批判は許されなかったのである
マスコミには悪がないように見える、でもそこに悪があった
それは原発事故で莫大な宣伝費を東電などからもらっていた、それで事故が起きたとき朝日新聞ですら中国にマスコミの幹部が全部東電に招待されていたのである

マスコミは誰かの主張でもない、それは組織全体の主張として作られる
でも不思議なのはyoutubeとかプログとかインタ−ネットは前から個人をベースとして主張される、マスコミはマスが対象のメデアである、だから大衆受けするのものとして放送する
でもインタ−ネットでは個々のメデアであり個々人のメデアである
個人をベースにしてニュースでも解説している
つまり常に私はこう思うという主語があるIがあるメデアである
マスコミは常に我々はとかみんながとか放送する、その相違があるのでこれは何なのかとマスコミの放送に慣れた人はとまどうことになる
自分自身がyoutubeについて何かイマイチからないものがあった
テレビで個人が主張することが理解できなかった

でもyoutubeだとみんながではない、私はこういう経験してきて勉強してきてとか個人をベースにして語ることになるのが違っているのだ
武田邦彦氏は科学者としての経験が篤いから科学がわからない人には科学とはそういうものかと理解するようになった
その科学もマスコミで報道するのとは違う、なぜならその科学についての報道を常に批判しているからである
ただ有名なノーベル科学賞をもらった人まで批判できるとなるとそれだけの自信がないととてもできない、だから素人の人はそういう人が言えば何も言えなくなる

ともかくyoutubeとかプログでも個人をベースとして対話するメデアなのだ
だから対話する時その人がどういう人なのか、プログに書いているとわかりやすくなるのである、この人はこんなことに興味をもちそんな経験をしてきたのかわかるからである
ともかくそうして個人をベースにして放送しているのがインタ−ネットでありyoutubeでもそうである、一人の局など今までありえなかったからである

マスコミとは対話できない、そこには個人もいないし私がこういう経験をしてこういう場所に住んでいてとかないからである
人間はその住んでいる場所の影響も大きい、だからその見方も場所によって変わってくるのである、おそらく隣の市でも町でも違った見方になる
それが全国となると広いし世界となると広いから場所の感覚が理解できないから実感できないのである
つまりテレビの画面からはいくら旅の番組を放送してもその場所に立つとかその場所に住むという経験がないと理解できない
日本には砂漠がない、すると砂漠から生まれものを理解てきない、砂漠からなぜエホバが神が現れたのかも理解できないのである
この場所だけは本当に多様なのである、一地域でも本当に多様なのである
そこでそこに住む感覚が違ってくるのである

いづれにしろ20世紀はここ30年くらいは情報革命の時代だった、それはコンピュターと通信の世界が普及してそうなった
それは個人をベースとして対話するメデアだからそれは今までにないものだったのであるだからこれは新しい文化だからなかなかなじめないものなのである
ただ若い時から慣れ親しんでいればそれがノーマルとなる、ニューノーマルなのである
でもそれになじまないものはアブノーマルな世界になる

ともかくインタ−ネットの世界は個人をベースにした対話的メデアである
だから相手と個人として対話する態度が必要になる
でも武田邦彦氏のように科学者となると対話すること自体むずかしくなる
なぜなら文系だと科学的なことがわからないからである
ただ武田邦彦氏は文系にもわかりやすいよちうに説明しているし自らも文系の素養をもっているから対話をなんとかできるともなる
科学者とかなかなか対等に対話が文系はできないからである

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二人は同世代である、だから同じ世代として通じるものがある
でもその経験がそうとうに違っている、すると個々人の経験から語る
それで違ったものになる
ただここに欠けているのは場所性なのである、武田氏は名古屋だとしてもその場所性が
ほとんど示されていない
加治氏は北海道出身でも不思議なのはアメリカ出身となっていることなのである
アメリカ人ともなっている、北海道出身という場所性はほとんどないのである
私自身は常に自分の住んでいる場所をベースとして書いている
場所を離れて自分自身もないのである
場所をアイディンティティとして常に語っている
インタ−ネットでは地域メデアでもある、その地域地域に根ざして発信している
でも何かもう一つのその地域のことがわかるものが見つけられないのである
私のプログを読めば相馬という地域が見えるものがあると思うからだ

なぜyoutubeがもう一つなじめないのか?それは話すことが中心であり文章ではないからでもある、どうしても話すことと文章にすることは違うからである
でもボードに文を書いて説明するとわかりやすくなる
話すだけだともう一つ理解しにくいと見た
もう一つは短編になるので長い文のように一貫したものを把握にしくいことである
二人は本も出しているからそれを読めば理解は深まる
だからyoutubeであれプログであれ本であれ表現の仕方が違ってくる
そこで伝える内容も違った印象をもつのである
それはメデアが違うからそうなる
でも個人がこうしてメデアをもつことは今までなかった、個人がテレビ局になることはありえなかった、だから何かとまどうものになっている
私自身はしゃべることが苦手である、でも家に閉じこもって書くことは向いている
人に会うのも苦手である、だからひきこもりになった
何か人と会うとひどく疲れるのである、それで今つきあっているのは一人しかいないのである

2020年06月15日

相馬新報の趣旨 (新しい技術、新しい報道、新しい創造が世界を変える)


相馬新報の趣旨

(新しい技術、新しい報道、新しい創造が世界を変える)

somanews2020.jpg

●郷土の歴史の発見

●郷土の文化の醸成 

●新しい芸術の創造

●郷土の新しい報道

●郷土の危険の警告

●権力の対抗、報告

私のプログで何をしてきたのか?何を追及して来たのか?
そのことをふりかえると結局2011年からの震災による津波、原発事故がありこのようなことがはじまった、もともと俳句とか短歌を作ってきたし芸術を追及して来た
それでルネサンスというホームページを作っていた
それはwin が出た時であり私の場合はその前からパソコン通信もしていた
それはワープロでありたまたま通信機能がついていたのでしていた
その時点でパソコンをもっていた人は本当に少ない、特別な知的作業をしている人であり優秀なエリートが多かったのである
私は技術関係ではない、パソコン自体その時はそういう人たちが参加して開発していたのである、だから理系の技術者が多かったのである
そこで富士通のオワシスの親指シフトを覚えてテキスト文を早く打てることでなじんだ
まず文章がいかにして早く打つかがパソコンを利用するには不可欠だったからだ

その時はそれが何なのか理解できなかった、人間最初はそういうものなのだろう
新しいものがでてくるとそれが何か理解できないのである
奇妙なことにこうして新しいものができるとき負の現象として新しい犯罪も生れて来る
今になるとそうした犯罪は普通に起きていることでもわかる
電話が作られたら電話を通して詐欺とかいろいろな凶悪な犯罪が起きる
これが技術の宿命でもある、そもそも技術は必ずその技術を利用した犯罪が起きてきた
第一戦争自体がその技術お応用であり技術の発見は開発は戦争を通じて行われたのだ
ヨ−ロッパでは戦争が絶え間なく行われ技術が開発されてきたのである
それが技術のカルマであり人間のカルマだったのである

ともかく人間の歴史は技術発展の歴史でもあった、その技術が社会を変えて来た
グーテンベルグの印刷技術が本を出版できることが世界を変えた、誰でも聖書を読めるようになり宗教改革があった、新しい技術が世界を変える
だから最初パソコンでも何かわからなかった、パソコンに通信機能がついたことが世界を変えた原因だったのである
それが今のITと世界に普及したのであり今や中国がその最先進国になったとも驚きであるなぜなら私が中国に行った二十年前とかは中国は最貧国だったのである
そこで蒸気機関車も走っていたし出稼ぎ車が車両に鞭で家畜のように詰め込まれて運んでいたのである、そんな所に乗ったら外国人は死ぬとされていた
それがみるみる新幹線まで走って通信世界では世界をリードするようになっているのも信じられないとなる

だからこのIT技術の変化でいろいろな方面に社会全体を世界を変えるしそれは進行中なのである、一番の変化はメデアである、報道関係である
これまではマスメデアでありこれはどれだけ力をもっていたか、それは巨大な第三の権力となっていた、なぜなら六局しかテレビでは報道できない、それがどれほどの力をもったかおしてしるべしである
テレビによって政権自体も変えられるほどの力をもったのである
大衆をテレビで洗脳して操作することができたのである
特にNHKとなるとNHKの言うことは世論でもありそれに逆らうことはできない
地球温暖化と言えば科学的根拠がなくてもそれが通じる
NHKの言うことは正しいのでありそれに逆らうものは非国民とまでなっていた
それだけメデアの力が大きかったのである
大衆はNHKがこう言っているからとなればそれに逆らうことができなかったのである
それで今NHKそのものをこきおろして批判している人が普通にいるというのも時代が変わった

とにかく映像の時代である、映像のインパクトが強い、それでデジタルの時代になりデジタルカメラが出て来た時、映像の時代に拍車をかけた、現像写真をとるのは金もかかるめんどうだったからである、その時写真をとったものがあってもわずかしか残らなかった
右田の松原の写真をとったものはそれで貴重だったがはっきり映っていないし残念だったそれが右田の松原が津波で消失したのだからその記録が貴重なものになったのだ
映像も記録として貴重になるものだと思った
郷土史というとき歴史でも記録が基本にある
それで相馬藩政史に「生波(津波)で700人溺死」という二行の記録が発見されて驚いた、それまでその記録を知らせる人もいなかったのである
だからこの記録がいかに大事なものだったか今になるとわかったのである
なぜならこの辺では津波は来ないと確信までなっていた
それはチリ地震津波のことしか体験していないからである
400年前の津波のことを知っている人はいなかった
第一この記録さえ学者すら知らなかったのである

ただ東電の技術者は科学者は十数メートルの津波がくると予告してその対策をするように進言していた、でもコストがかかるから対策をしなかった
このことは報道もされなかったように思う
それは福島民報でも福島民友でも調べればわかるかもしれない、つまり肝心な重要なことが報道されないことがある
それは全国紙でも同じである、国の運命を決めるようなことでも報道されない
くだらない芸能のゴシップなどを報道する
それはなぜかというとテレビはコマーシャルで会社の宣伝費で成り立っているからである
すると視聴率をとるために大衆向きの放送をするのである
そうして肝心なものが知らされず結果的に原発事故のようになり故郷にも住めなくなったのである、だから大衆側にも問題がある
自分たちの生死にかかわることすら関心がないのである、そうして権力者側のいいなりになるだけだとなる
福島民報は官報と同じである、50パーセントが県で出資して後は聖教新聞を刷っているのである、だから自民公明の言うなりの権力の下僕なのである
何か政府にとって権力側にとって不都合なことは報道すらしないのである
それは県民のためにも郷土のためにもならないのである
ただそうなったのは余りにも新聞というのは金がかかりすぎるからである
第一新聞という紙をするにもそうである、それは一軒一軒配るにてしも莫大な金がかかるのである、だから権力にこびてそこで援助を受けてしか報道できないのである

だからこの報道関係でインタ−ネットは一番影響した
個々人が個人レベルがyoutubeのように放送局をもてる、新聞社にも出版社にもなれるからだ、自分のプログは表現が限られているにしろこんな無料のプログでもそれなりに表現できるからだ、ワードプレスとかにすればもっと表現の幅が広がるがめんどうなのでやめた、何か技術に追いつけなくなった

それにしてもなぜプログで書き続けて報告しつづけて自分のしたことをふりかえる
すると自分のしてきたことが理解する、なぜなら何をしているのかよくわからないでしていた、それは震災以後の急激な変化がありそこからこのプログの読者も増えたからであるこれは読む方でも新しいものは簡単に技術関係でも何なのか理解するのに時間がかかる
新しいものはそれだけすぐには人間社会にとりいれられないしなじめないからである
マスコミとは今までの新聞とかテレビとかと違ったものは簡単に理解できないのである
それはインタ−ネットを利用して発言したりする人でもそうなのである
自分のしていることがわからないのである

それで奇妙なのはインタ−ネットとかに無数に出ている写真を映像をパソコンのソフトで抽象画にすることだった、これも自分でしていて不思議になった
こんなことで絵画のようになるのかと自分自身が不思議だったのである
それは新しいパソコンから生まれた芸術だったのである
技術とはもともとartであり新しい技術が生れれば新しい芸術が生まれる
報道でも新しい技術が生れれば新しい報道が生まれる
人間は常に古いものがあり新しいものを追及して来たのである
新しいものを作れないものは衰退する

日本が衰退した原因はどこにあるのか?

新しいものを技術でもなんでも作れない

ここにあったことは間違えない、電器製品を作ったとしてもそれはまねたものであり発明したものは欧米である、だからそれは一時的なものとして終わった
今でも別にそうした電器製品は中国でも韓国でも同じものが作れているからだ
中国製のテレビが安いと今では買ったりしているからだ
ただ中国でも韓国でもITでも欧米からアメリカのコピーなのである
それでアメリカが盗んだとして怒っているのである、つまり中国の発明品ではないからだだから新しいものを発明する提供することがどれほど価値があるか知るべきである
それは別に高度なものでなくてもそうである
料理だってそうである、同じ料理ばかり出してもあきられる、常になんでも人間は新しいものを求めているからだ、芸術などは特にそうである、それは常に独創的でないかぎり認められないからである、でも最初はなかなか認められないのである

ふりかえると報道自体が刷新する、新しい形態になる、それは旧メデアからは生まれない
新聞とかテレビは巨大な独占企業だったのである、第三の権力として君臨していたからである
それがyoutubeのようなものと同列化してゆくことの驚きだった
youtubeの方が学びとしては優れているのも驚きである
学習機能に優れているのである、そして個々人の個性が反映されるのである
それなりに有名な歴史小説家がyoutubeで発信している、それで興味深かったのがその人の人生そのものだったのである、北海道からでてきてアメリカにわたり仕事をしていたとかその人生が破天荒だったのである、小説よりその人の人生に興味をもったとなる
この人はそれなりに有名でもテレビに出ていないのである
何か思想的過激なものはテレビに出ない、武田邦彦氏は科学者として一流でもテレビに出されないのと同じである
今までのマスメデアはマスコミが人を選ぶのでありマスコミが主導した番組作りをしていた、何か不適切な発言は許されないのである、マスコミは必ず番組を作る前に編集会議をして方針を決めて放送しているのである
勝手に個人の意見など言わせないのである、例えそれが正しいにしろ真実にしろそうである

結果的に重大なことが国民の生死にかかわることも報道されなかった

十数メートルの津波が来る!

こう東電に科学者が報告していたのに対策をせずに原発事故で郷土は深刻な放射性物質の汚染地帯になり住めなくなった

それは報道をマスコミが怠ったからだ!

これも原因だったのである、なぜなら朝日新聞から前マスコミの幹部が原発が爆発した時中国に招待されていたからだ、そうしてマスコミは東電からまた電事連から800億という巨額な金が宣伝費としてもらっていたのである
なんら報道の使命を果たしていなかったのである
マスコミにはもう真実の報道は期待できない、インタ−ネットの興隆ですたれ第三第四のメデアになりまた消滅してゆく、つまりyoutubeと同列化してゆくのである
何か優秀な人でも数人集まれば報道はできる、テレビでも解説もできる
それをしているからだ、アメリカでビジネスしている若い女性でも今回の黒人暴動でも報道している、そこに住んでいるから深く現実に影響を受ける者として報道している
それはそこに住んでいる人からの場からの報道こそ信頼に値するのである
それは国内でも同じである、報道とはそこに住んでいる人が第一に生死にかかわる
それは原発事故で証明された、故郷に住めなくなったという大被害を受けたからである
だからなんでも土着的なものとしてある、離れると真実は曲解されるのである
それで東電は福島で原発が起きたとき幹部が東京にいて吉田所長ともめた
それは吉田所長が現場を指揮していたからわかることがあり離れた東京と意思疎通できなくなっていたからである
いくら通信が発達しても離れていたので意思疎通ができなくなっていたのである

だから現場から報道することの意義は大きいのである、そういうことを私はプログでしてきた、それは弱小にしてもその意義があったことをふりかえる
それが成立ったのは現場からの報告だった、現場に住んでいる人の報告だったからである場所があらゆるものの基なのである、場所こそ共有するアイディンティティであり場所なくして何か存在意義する見いだせないのである
その場所の感覚から離れると必ず曲解されて伝わる、だから確かに世界のことが日々報道されても場所のことが理解できないから誤解されるのである
テレビの一場面は常にフェクニュースである、それでイラク戦争の問油まみれの海鳥は作られた映像でありそれが世界中に影響したのである
そういう危険性が映像の時代の放送にあることは注意すべきである

NHKのスバルで村が海の水がおしよせて水没したとかもそれは全体の一部であり全部のことは放送していない、回りは普通の状態だったのである
一部分をきりとって全体のようにしたのが温暖化をあおるNHKが作りだした映像だったのである、確かに温暖化にはいろいろな見解がある、でもそうして映像で真実を伝えず一部分を切り取ったものが全体のように見せることが嘘でありそれを放送することは犯罪なのである、それでマスコミの報道が常にネットでチェックされ批判される時代になった
また黒人暴動でもスマホでとった黒人の殺人現場が世界中に広まったことでもその影響がいかに大きいかわかる、それはマスコミが報道したのではない
一人の無名の女性がスマホで撮った映像が世界中に広まったのである
youtubeでも広まることがある、そういう時代になったのである

相馬新報というとき狭い範囲でも土着的でありその場に住んでいる者が報告する
それは狭い方がより土着的になる、だからいわき新報とか郡山新報とか福島県になると
会津新報などがあってもいい、会津は特にもともと万葉集時代から会津嶺の国をさ遠く・・と国として唯一認識された地域だからそれがあってもいい
歴史的な面ではあるが今何が起きているかはインタ−ネットで報告されているのか良くからない、インタ−ネットの問題はありすぎて何か報道しても埋没して知られないのである私のプログがある程度知られたのは津波と原発事故があったからである
そこから相馬新報になったともいえる


2020年06月11日

カメラのレンズで歴史をみる (日本が技術的にも優秀だとうぬぼれるのは危険だった)


カメラのレンズで歴史をみる

(日本が技術的にも優秀だとうぬぼれるのは危険だった)


メーカーごとのマウント一覧
ライカ   M マウント L マウント
キヤノン   EF マウント FD マウント
ニコン   F マウント
ソニー − A マウント E マウント


日本のカメラ産業の競争力分析
望月 宏

日本のカメラの歴史を紹介している、ソニー − A マウント E マウントとありこれはソニー用だったのかとなる
そもそも私はソニーは電気関係の会社とばかり思っていた、デジタルカメラの前にカメラを作っていたのかとなる
現実にレンズに関してはミノルタの技術を取り入れてデジタルカメラを作っていた
となるとミノルタのレンズとは相性がいいのかとなる

日本ではドイツからカメラの技術を学んだ、今でもドイツと連携している、風力発電もドイツの技術者が来ていた、日本独自の技術はほとんどないというのが現実である
ただ改良した結果として世界でも通用する誇れるものにしたということである

カメラの技術はスマートホンでも利用される、監視カメラでも利用される、映像の時代になったときカメラの技術でもレンズでも重要なものとなった
日本の技術は優れているというとき何か日本で発明したものではない、改良改善したものである、だから日本人は技術先進国のように見ていたがそうでなかった
原子力だってももともとアメリカの技術をまねたものであり日本がで技術が優秀だから事故は起こらないということに洗脳されていた
日本は優秀だとか、日本が特別な国で神の国で優秀だから戦争に負けないというのも過剰な自尊心から生まれたのである、それは危険なことになった

日本人は津浪の被害の歴史が生々しく伝えられているのにスマトラ地震で津波の大被害があったときも日本だったら警戒しているからあんなに死ぬことはないのにと言っていた
それもまた日本人の奢りだった、日本人が苦手のはどうしても島国であり他国との接触が直接的ではない、間接的になる、すると「他山の石」という感覚を持てないのである
海を隔てて世界を見ることは弱点になる、地政学として長所として働くがマイナスとしても働く、大陸国だと絶えず異民族が否応なく侵入して規制の社会を壊して新しい社会を作ってしまう、日本自体が異民族に支配されたことがないから内輪で物事を処理できたのである
腹でかるとかいちいちその理由を問う必要もなかったのである

とにかく技術に日本人は相当にうぬぼれていたのである、それは高度成長時代に電器製品が売れたことにより日本は技術的に優れているという先入観を植え付けられたのである
その優秀さとはあくまでも外国の物をまねてコピーして改良改善したことによるものであった、日本人が発明したものではないのである
それはカメラの歴史の一つでもそうなっている、だからこそなぜ日本が今技術的にも遅れをとっているのか?それはもともと日本人が優秀で技術的にも優れたということではなかったのである
日本は確かにそういう自尊史に陥り安い国なのである


それは漢と争った夜郎自大国と同じである、漢などたいしたことがないと戦争した
相手は鉄の武器をもっていたが夜郎自大国では青銅器でありあえなく敗れた
漢などたいしたことがないというときアメリカはたいしたことがないとして戦争して負けたとにているのである
つまり技術力では漢が優れていたしアメリカが優れていたのである
別に日本には日本の歴史と文化があり誇るべきものがある、それはどこの国でもある
ただ日本は特別で神の国だとか宗教にもなるのは危険だったのである
日本は世界のことを肌でしりえない地理にあったとでそうなった
それでも日本独自のものがあり文化があり歴史がありそれは尊重されるべきなのである
ただそれは他国にもるから他国の文化も歴史を尊重するべきだとなる


カメラ一つとってもそこには歴史があった、ミノルタのレンズ技術をソニーがとりいれたというときそうだったそういう技術が継承されてソニーのデジタルカメラが作られた
そのカメラの基はドイツだったということである、車を作る技術はドイツと日本とアメリカしかないというときやはりこの三国は技術先進国である
でも日本の技術はほとんど外国から取り入れたものであり自国で発明したものがほとんどないのである
技術的にでも学術的にでも科学でも発明したものは欧米だったのである
日本で発明した技術があるのか、それが世界で利用されているかとなるとないだろう
日本の発明品とは何かとなると日本語だったとなるかもしれない
漢字を取り入れる前に大和言葉があったからである、だから日本語は日本が発明したものである
でもどこでもその国の言葉があるから日本語が特別優れているのかというのも疑問であるつまり言葉はそれぞれの文化だからである

とにかく日本のいい点はあり悪い点もある、それはどこでも同じである
日本の危険は何か自尊史に陥り安いのである、それが危険なのはそれで戦争になったし
また原発事故も起きたことなどがあり戒めるべきだとなる
個人的にうぬぼれることは危険になってくる、国でも同じでありそれが滅びにも通じている
技術でも必ず歴史が関係してくる、どうして今の高度な技術になったのかをカメラの歴史からふりかえる

今回面白かったのはカメラとレンズのアダプターである、これに接合することがむずかしい、メーカーが違うとうまくいかない、そのことは例えば国際関係でもそうである
日本は中国とアメリカの和を保つ接合するアダプターの役割がある
それは韓半島もそういう地政学的役割があり今もつづいているからだ
アダプターとして接合する国なのである

2020年06月10日

Amazonの通販で買い物の失敗 (レンズのことがわからないで失敗)


 Amazonの通販で買い物の失敗

 (レンズのことがわからないで失敗)

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 広角のレンズが欲しいとAmazonで8ミリの広角レンズがあったのでこれは凄いと思ってすぐに買ったのが失敗だった
そもそも自分にはカメラの知識が欠けていた
レンズでも買ったことはあるがそれはずいぶん10年とか前だったのである
それでもそのレンズがソニーのα6000にあっていたからレンズがあうのかなと思って買ってしまった
その前に近くカメラ専門店があれば聞いたが今は仙台市にもコロナウィルスで行けなかった

別にこの買物はむずかしいものではなかった
だけどカメラの素人にはEマウントカメラとAマウントカメラの区別がつかなかった
その時表示していたのがメーカーを選ぶことでありソニーの選んだから合うと思った
でもそれは簡単にわかることだった
まずシグマの会社に電話して聞くことだった
ただこの電話を大きなメーカーだと電話が通じない、ソニーでは有料対応になっている
でも500円くらいだと聞くことができる
知識がないものは今通販の買い物で失敗するときがある
レンズのことはほとんど知らなかったからである
カメラを使っている人はデジタルカメラの前から使っている
その時に使っていた人はレンズのことを知っている
かえってそのレンズが古くても映りがいいと言って使っていた
デジタルカメラでも使えるそうした古いレンズでいいのがある
レンズ自体はかえって古いのでいいのがある

それを返品しようとしてAmazonで調べたら不安になった
なぜなら中味を開けたら箱でも壊したら半分の値段にするとか書いてあったからである
すると4万で買って2万になるのかと躊躇した
それからこれを使えないかとアダプターがあるのを聞いた
でもそれも三万以上とかして躊躇した
それも動作は保証できないとシグマの本社の人が言って教えてくれた
ソニーの方は有料でめんどうなので聞いていない
これは本当は動作するかどうかメーカーに直接聞くべきだった

なんでもソニーではミノルタのカメラをレンズでも引き受けたとかある
ミノルタのカメラ技術を取り入れてソニーで電子化した
ただ私の記憶でぱソニーがデジタルカメラ専用だとばかり思っていた
おそらくミノルタとかでも何か古いカメラメーカーがデジタル化する前にあった
それから電子化したのがソニーだと見た

まずシグマの8ミリの広角は他にないと思い即座に買ってしまったのが失敗だった
これは自分の落ち度だった、それをアマゾンに電話で連絡して返品で金が返るのか聞けたのが良かった
そこで案内してもらい安心した、だから電話対応してもらわないとわからないことがあるただ電話対応となると手間がかかる、それでAmazonでも電話対応をやめていたのだがまたはじめたので助かった

とにかく新しく名取にできたビックカメラの人は親切に教えてくれた
シグマに電話してみて聞いてみてはといわれ、聞いたら電話対応してくれた
他にソニーにも聞いてみたらといわれ調べたが電話対応しているが有料だった
この教えることが有料になるのはやむをえないだろう
なぜなら教えること自体かなりの手間だからである
買う人も今は別になってもしかたない思った、商品自体が種類が多くて買うのさえむずかしいのである

自転車では試乗できないから乗り心地がわからないから高いの買うと困るのである
それでヤマハの電動のロードを買ったが25万してもほとんど使わずに終わった
これは大失敗だった、でもヤマハのマウテンバイクのYPJ-XCは本当に優れたものであり
乗り心地がいいのである、自走する感じにもなりこれは乗り安いから老人に返っていいものだったのである
それで病気になった同級生に紹介したらいいものだと言っていた

カメラについてはなかなか奥が深いからレンズとなるとめんどうになる
なぜカメラが奥が深いかというとレンズがデジタルカメラの前に大量に出ていて中古品の市場となっているからだ、レンズ自体はデジタルのではなくてもいいものだったのであるおそらくカメラは機械でもそうだがレンズにも左右される商品である

とにかくヨドバシカメラの対応した人は良くなかった、何も教えてくれない
要領がえなかった、ただあそこは東北では一番カメラには強い店である
ただコロナウィルスのことで行けなかった
今の時代こうして機械でもカメラでもなんでも複雑化している、するとどうしても教えられないとわからなくなる、ただインタ−ネットが発達してあらゆる知識が検索できる
でも問題は検索の仕方がわからないとか何か行き詰まることがある
そもそも初歩的なことがわからない人は検索もできないということである

今日ゆうちょで返品として送った  

名取のビックカメラの人に教えてもらい感謝します





2020年06月07日

「相馬新報」にタイトルを変えた

                                      
「相馬新報」にタイトルを変えた

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プログのタイトルを題名を変えた、相馬郷土史としてはじまったがその他いろいろなことを書いたので似合わなくなった
そもそもインタ−ネットという技術からして新しいものでありその技術で新しいものが生まれる
だからこれまでのメデアとして新聞があり雑誌があり週刊誌があり月刊誌がありいろいろあった、でもこれらは個人でやるのは金銭的にも無理でありできなかった
このインタ−ネットは個人をベースにして新聞であり雑誌でありyoutubeだとテレビ局になっているのだ

これまでのマスメデアは巨大なものでありテレビだと六局しか放送できなかった
そこには莫大な資本がかかるから報道を独占して権力をもった
それでマスコミの報道に洗脳される結果になった
特にNHKは絶大な力をもっていてNHKの放送すること国民の世論を形成したのである
NHKが言っているから正しいとまでなっていた、国民から全員から強制的に金をとって報道しているのに偏向報道していたのである

相馬郷土史とか相馬学とかでも何かあっていない、相馬新報というときあっている
それは相馬地域からの土着した場を重視した発信だからである
それがリアルタイムでもインタ−ネットでも可能になった

ただ正直一人でやるとなるとこれまでしてきたけど楽ではない、プログでも本当は
ワードプレスとかでも試したがめんどうでやめた、またフェスブックもやろうとして設置したが一回も発現せずに放置した、ホームページもWIN95から始めていた、これも放置したままである、それで表現する技術も進歩した
だから早い時期からはじめてここにいたっているが技術が変わりついていけない、何でも一人ではできない
スマホから読まれるのも多くなった、それで私はスマホはしていないから技術的についていけなくなった
スマホから読まれることでインタ−ネットも一般化したこと確かである

人間はやはり常に革新であり新しいものが生まれることが喜びなのである
それはあらゆる分野でそうであり新しいものを創造することが人間に与えられた使命なのである
だから最初新しいものが何かわからないのである
私自身自分のしていることが何なのかわからない面があった
でもふりかえると郷土新報という名にふさわしかった
郷土史だけでなく様々な視点から報道してきた、探求して来た
それは津波とか原発事故というあまりにも大きな事件があったためである
それがメインテーマとなったからである
これはどうしても外部より地元が大被害になったのだから地元の人が語るべきこと報道するべきことであったからだ
それは今だにつづいている問題なのである

これはもう大きなテーマとして未来にも託された大問題になった
そこに科学が深くかかわっているのでそれを探求する事は文系の自分には無理があった
そんないろいろな能力がないからである
でも地元だから自分なり放射線量とかを計り報告したのである

相馬新報でもそうだが人間は何か人間は新しいものを作り出すことにより新しい世界が開けて来る、そういう繰り返しなのである
人間に停滞は許されない、停滞は死なのである
技術でもそうだし社会でもそうである、常に改革がイノベーションが望まれる
グロ−バル社会になると世界との競争で旧来のままだと負けて衰退国家になる

だからメデアでも旧来のものは衰退して消えるともなる
マスコミは報道を導いた6局集中の独占形態だった
それがインタ−ネットで崩れた、ただ依然として旧来のメデアに頼る
でもそこから新しい報道でも何か生まれないのである
明らかに新しいものはニューメデアのインタ−ネットから生まれている
ただそれも最初は何か理解しにくい、新しいものは簡単に理解できないのである
明治維新でも江戸時代から明治になったときこれはなんなのだろうと理解できない
変化大きいと理解できない、それは明治維新と戦後にそうなった
あまりにも大きな変化でありそこで旧来のものが新しいものになったとき最初は何か理解できないのである
つまり技術でもインタ−ネットとかでも何か最初理解できない、それでとまどう
でもその技術になれて一般化するとそれが当たり前にもなるのが歴史なのである

ともかくどこに未来があるのか、その未来を作ることが新しい世界を作る
何かいろいろなものが日本でも行き詰まっている、それは新しいものが作れないからである、明治維新のように新しいものが作れない、それであらゆる面でゆきづまる
世界に後れをとる、日本は政治経済教育技術であれ新しいものを作り出すことが強いられている、そうしないと日本は衰退国家となって取り残される
そういう岐路にたたされている
それは中国が巨大化するとかアメリカが衰退するとか国際政治でも日本は岐路にたたされている、経済とかでも本当に日本が貧困化して上級と下級に分断される
そして暴動さえ起きるのではないかと危惧されるように格差社会となる
それは資本主義が限界に来て機能しなくなりギャンブルとなりカジノとなり道徳なき経済となっているからである
そこにも大きな変革が起きて来る、それは銀行の役割がなくなったことにも現れている
つまりあらゆるもので変革が迫られているのである
もしそれができなければ衰退国家となり日本は今度は中国の奴隷国家とされる

戦後はアメリカの加護の下に高度成長がありえた、でもそれは冷戦とか国際情勢の幸運によっていたのである、それがなくなったとき中国とアメリカのはざまで日本は新たな危機にさらされる、でも日本の地政学はどちらにも組みしない、東西を結ぶつなぎ役なのである
ただそれは日本がやはりそれなりの大国でないと無理である
小国では結局どちらかの属国の継続なのである

いづれにしろ日々状勢は変わる、コロナウィルスでも今度は世界自体が変わる、考え方まで変わる、これも時代の要請で生まれたのかとまでなる
何か神の意志が働いて世界が変わるのかともなる、易姓革命である
どうしても老人は時代の変化についてゆけない、でも老人は経験があり深い見方ができるだから無用なものではない、人生百年時代は特にそうである

自分自身でも今ようやく成果が現れたと感じる、だから人生百年時代は成果を出すのが遅くなる、高度成長時代は経済一辺倒だったが企業戦士の時代だったがそれも変わる
これからは文化の時代になる、内面の時代になりそれそれの創造の時代になる
ただ高度成長時代に培ったものが人生百年時代に華開く
やはり豊かな時代を経験しないと文化創造は生まれない、ルネサンスは生まれないのである、だから高度成長時代はその基を築いたのである

それが人生百年時代に華開く、だから日本は経済的に衰退しても文化の面ではこれから栄えてゆくように思う
インタ−ネットはそうした表現の場として優れているからだ
こんなプログでさえ表現できることでもわかる、無料で誰でもできるからだ、他では表現の場を与えてくれないからである、つまりインタ−ネットはyoutubeもで個々が表現する時代になったのである
その表現するものにもいろいろある、多様な表現の社会になったのである


神よ、あなたに向かって新しい歌をうたい
十弦の琴をもってほめ歌をうたいます。詩編-ダビデ

2020年06月03日

記者の避くべきこと (公正中立を保つためには隠者になること?)


記者の避くべきこと

(公正中立を保つためには隠者になること?)

有名な新聞記者スモレー氏は,ハーバース雑誌上に記者の資格について論述するに当りて
記者こるの避くべきこと、二ケ条をあげたり

一、多く人と接すべからず
一、問をかくべからず

而して記者と深報者との肝要なる別あるべし
公平独立の観察は隠遁者流の者ののみに世に供するを得べしと述べたり、卓見と謂うべし
(内村鑑三)

これは意外である、なぜこのことに共感するかというとき何か自分でホームページを立ち上げてプログでいろいろ書くようになった
その時、自分が記者の端くれになったと自覚した
記者の様なこたとをして報告するようになった
それは津浪と原発事故が起きてそれが地元の自分が住んでいる場所だから否応なく地元のことを報告することになった

なぜ一、多く人と接すべからず・・とか言うのか?

普通は記者とはいろいろな人と逢い情報を仕入れてみんなに知らせるのが役割である
まず人と接しないとしたら何ら情報は得られないのである
でも黒川検事とマージャンしていた新聞記者が批判されたのはそこで客観的な立場ではなく親しい仲間となった、そうなると新聞記者として真実を追及して報告することはできなくなる
でもまたそうした検事でも接しなければ情報は得られないのである
新聞記者の仕事は第一多くの人と接することなのである
取材とかでもそうである、だから人と接しないでこの職業が成り立つのかとなる
それで意外と思ったが自分自身がまず人と接しないから共感する
引きこもりのような状態をづっとつづけてきたからである

問をかくべからずとはよくわからないけど深報者とは仏教者のことらしい、とすると何かそれは常に問うものである、
人生にいかにあるべきとか問うものである、でも記者は何かを問うのではなく真実を事実を伝える者でありそこが違っているとなる、だから何か勝手にマスコミが編集して操作して事実を曲げて粉飾してもフェクニュースにすることは一番記者とてはしてならないことである、でも現実は事実を事実として伝えない、マスコミの意図があって編集して操作して伝えている
それが巧妙でわからないことがある、そのトリックに気づかいなのである
マスコミはただ事実を伝えることに生きがいを感じない、社会を政治でも自民党なら時の権力者なら攻撃して転覆させるとかの意図があって報道しているのである
だからその意図にかなわないものは報道すらしないのである
そこに視聴者は相当に不満になっていたのである、それでインタ−ネットが出てきて様々な個人がそこで経験したことを知ったことを報告するようになったのである、だからマスコミの比重は相当に低下してゆく
マスコミ自体が常に批判の対象になってしまったのである

この意味するところは記者が公正な立場に立って報告をするというとき情実が生じて来るまた権勢家と権力者とかかわるとどうしてもその権勢に従うようになりそこから利益を得るようにもなり公正な立場がそがれる
そもそもマスコミが批判されるのはまさに独立の立場をとれないからである
会社の様々な団体の宣伝費によって運営すること自体がそうである
また視聴率第一になるのもそうである、そこで本来の趣旨より面白おかしく芸能人を呼んで大衆向きにする
つまり娯楽番組であり何か政治とか現実の様々な問題を真剣に追求することはなくなる
そこから原発事故でも800億円という宣伝費がマスコミに費やされていた
そのことから原発の闇が生れて真実は報道されず大事故になりとりかえしのつかないことになった          

おそらくどうしても公平になるにはある団体とか組織とか派閥に入ると公正さが失われる第一にその所属する組織団体の利益を利権を優先するようになるからである
だから公正中立になるには何かの派閥とか党派に組みしないことである
でも実際は何らかの組織とか党派に派閥に属していないと力をもてない
それで一個人が取材させてくださいとしてもそんな人を受け入れないのである
門前払いで終わりである
でもそもそもそうして団体に組織に派閥に属しているから取材を受け入れるというのも
すでにその時偏っているのである、取材される方も相手を受け入れるのは権力をもっているからだとなるからだ
そこで権力ある者と権力ある者が利益を共有するようにもなる
それが黒川検事とマージャンするということで起きた
新聞記者と検事のなれ合いとなりもともとは不正を追及する立場の人ができなくしていたのである

とにかく「神は偏り見ない」というとき人間がこれを実行するのは至難である
なぜなら内輪のことでも家族のことになると家族に属していれば家族が悪いことをしてもそれを正すことがしにくいからである、家族だとどうしても利益共同体だからそうなる
そこに肉親の情もあり余計に偏り見ないことができない、偏って見てしまうのである
それで裁判では肉親は弁護できないのである
私が原発事故の補償金で追及した時でも自分の住んでいる区で自分自身が不満でありそれで他の区を批判したともなる、人間はなんらか必ず利益を得たいとなるから公正に見られない、ただそういうことがあっても私自身が特別の利益を要求したわけではなく不公正が大きかったからそれは偏ったものではなかったと思う
ただコロナウィルスの支援金でも必ず公正にはならない、不公正が生まれるのである

現代の退廃はあらゆる部門で場所で職業倫理でも喪失した
その職業が何を目的として何を期待されて何を果たすべきなのかわからなくなった
ただ金をもうければいい、金を得ればいい、利益がすべてだとなってしまった
利益をあげれば金を得ればそれでいいしかないのである
それは社会全体でそうでありグロ−バル経済になると全くそうした倫理的なことが消失した世界の経済なのである
見えざる手によって導かれるとういがそんなものは成り立たないのである
だから一握りの人に世界の富が収奪されている
つまりカンジ―の言う道徳なき経済(商業)なのである

「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である(二宮尊徳)」

@ 原則なき政治

A 道徳なき商業

B 労働なき富

C 人格なき教育

D 人間性なき科学

F 犠牲なき信仰 

二宮尊徳はまさに道徳なき経済は犯罪だと言っているのだから手厳しい
現実にグロ−バル資本主義とは本当に犯罪だともみる
一部の詐欺集団が犯罪者であり莫大な富が収奪されているからである
公正な市場などでありえないのである
また金融資本主義には労働などない富なのである
なにか世界的ギャンブルのようになっているからだ、市場が賭博場のようになっているからだ

だから記者とか報道関係に従事するものではモラルが喪失している
真実は追求されずそれが原発事故にもなって甚大の被害を与えた
何かモラルの退廃がそれが大きな事故とか崩壊に通じている
ローマ帝国もモラルの退廃で滅びた、もともとは質実な農民が基となり建国したからである

記者のミッションがあるがこれも何か失われた、真実を追及して真実を明らかにして世に貢献する、そういうものがなくなった
マスコミはテレビは大衆に娯楽を提供する場となった、そうしたのはまた大衆の方でもある、いくら高等なことを言っても大衆が欲している低俗な娯楽だとしたらローマのようにパンとサーカスにならざるを得ないからだ

現代は何かそれぞれの職業で職業倫理が喪失した、ただ金だけを利益だけを求めているだけである、もちろんそれを全部否定はしないとしてもその目的とモラルを失っている
グロ−バル経済では範囲が広すぎるしまたそこに人格など働きようがないのである
倫理が人格に由来するとすればもう人格など通用しない世界だからである
大衆社会とか機械社会とかAI社会の盲点はそこに人格が消失した倫理も消失した社会なのである、そんな社会がとても理想の社会とはなりえないのである

2020年06月01日

規格が統一されないと何でも使いにくい (カードでもケーブルでも数が多いと使いにくい)


規格が統一されないと何でも使いにくい

(カードでもケーブルでも数が多いと使いにくい)

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デジタルカメラのケーブル
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平均の規格を出す数式


一度スーパーキクチのカードを無くした、それが偶然見つけた、でもまたなくした
そうなったのはカードで買い物する場合、私はキチクスーパーとシシドスーパー両方に行く、それで一枚のカードで買えるビザカードだと便利でとなる
何か何枚もカードがあると使いにくいからなくしたりする
10枚くらいカードをサイフに入れている人もいる
そうなるといちいち選び使うからめんどうになってなくしたりする
一枚だったら楽なのである

だから金でも本当はグロ−バル化したらドルが世界貨幣として通用させた
でもそうなるとアメリカの金融支配となる
石油がドルでのみしか決済できないとなったからだ
それでイランの石油は世界で買えなくなった
ただイランと中国とは石油の取引を独自の銀行を通してしていた
中国はこうしたしアメリカの一局の金融支配に対抗して独自のデジタル貨幣を使用するように動いた

今日見た妙法でその仕組みが語られていた、SWIFTというブラットホームを通じて外国からの送金を仲裁している、そこはアメリカの手中にあり手数料がとれる
また銀行が日銀を通して金のやりとりしていることも説明した
つまり日銀を通してのみ銀行が金のやりとりができない
それと同じように世界でも仲介する銀行が必要でありそれがSWIFTだという
アメリカの強さは金融を支配してドルが世界貨幣になっているからである
それをつぶそうとするとアメリカはその国を許さない、だから中国を敵視する
イランでアメリカ軍に殺された人は軍人ではなくこうしてアメリカを通じて取引することを拒否した人だったという
とにかくここにも根深い対立が生れていた

たしかにユーロ―になる前にヨ−ロッパを旅行した時は不便だった、いちいち国が変わると両替しなければならなかった、ただそれで国が変わるということでコインを集めたりして楽しんだ思い出となった
その国に旅したという記念ともなった
でも人間社会はどうしても一つの規格になると何でも使いやすい、でも規格化することはその規格化をする国が力をもつことになる、今はアメリカなのである
ただ規格化しないと大量生産だってできないのである

それで困っているのはデジタルカメラのケーブルである
パソコンに取り入れるのにケーブルがみんな違っている、十個くらいケーブルがある
他にも使うからある、もしこれが一つで間に合うなら楽である
なぜメーカーごとに違っているのか?それが理解てきないのである
それで記録するusbメモリーカードでもカードリーダーを使うようになった
一部ソフトの具合でパソコンにケーブルを通じてとりこめなくなったからだ

ともかく規格化すれば日本の企業でもそれによって富を独占できる
日本の規格化だからである、そういうことで日本でデジタルコインの規格化しろというのもわかる、日本の円の方が世界で信用できるからだとしている
また香港が金融のハブでなくなるときシンガポールに移行するとか今度は日本に移行するようにするとか画策する
金融を握るだけで送金したときなど銀行のように手数料が入るからだ

ともかく紙幣とかコインはコロナウィルスで嫌われるようになった
だから余計にデジタル化とかIT化が進むようになる
ただカードでも一つになると使いやすい、それでカード会社もしのぎをけずった
つまり他者との競争でも一つのカードで使えるといいからである
その一つの規格が選ばれると利権を独り占めになるからである

ただ金融というのはわかりにくい、だからこそ国際資本家に莫大な金が流れて格差社会になる、その金は実際は汗水たらしてためた世界の人たちの金なのである
世界規模になると何かその不正すら見えない、そんなグロ−バル化経済とか市場とかは成り立たなくなる、それでグロ−バル資本主義は行き詰まり自壊してゆく
今こんなにコロナウィルスで困っているのに景気が落ち込んでいるのに株だけがあがる
ここにも株とか金融は実体経済と乖離している
いくら株が上がっても実質経済は巷では失業者が増えているのに株が上がる
そういうことは何かもうグロ−バル経済市場とかは作られた虚構の世界、イリュージョンなのである、つまり紙幣は紙きれになる、紙幣がいくら貯えられてもそれでもう経済は成長したり豊かになれないのである

金はこうして仲介業者により世界でもぬきとられている
                                                                          

 SWIFT(国際金融決済機関)

2020年05月25日

武田邦彦氏とし加治将一氏のyoutube発言の比較 (反するものがあるが共通するものもある)


武田邦彦氏とし加治将一氏のyoutube発言の比較

(反するものがあるが共通するものもある)

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武田邦彦 テレビじゃ言えないホントの話! 



武田邦彦氏と加治将一氏の日本論を比較すると私の場合どちらにも共感する
確かに武田邦彦氏は日本礼賛であり鍛冶将一氏は縦社会の日本階級社会の元凶は天皇を頂点とした既得権階級の利益のためにあるとしている
一方で武田邦彦氏は天皇は偉いというのではなく天皇を頂点にして後は平民はみんな平等にしたシステムだとしている
つまり日本はまれにみる平等社会だとしている

ヨ−ロッパ―とか大陸は王様がいて貴族がいて90パーセントは征服した異民族でありそれは奴隷だった、それでslaveがスラブになりそれが奴隷民族をさしていたとなる
つまり戦争で民族同士が戦いそれで優劣を決めて負けたのもが奴隷にされる
その過酷な世界が大陸一般に通じる社会だったのである
だから新種差別なども黒人奴隷なども未だに形が変わってもアメリカに継続されている
コロナウィルスでも白人とかより倍も感染して死んでいるからだ
アメリカは超富裕層と貧困層に二分化されている

要するに日本は世界でぱ特殊なのでありそうした奴隷が階級社会があるのが普通の社会なのである、人間は歴史的に優秀な貴族と奴隷になる人間とに分化していた
その優秀さを決めるのが戦争だったのである
だから大陸の歴史は戦争の歴史だったとなる
日本も戦国時代があったし戦争があったにしても大陸と比べると熾烈な民族絶滅させるような過酷な戦争はない、適当なところでおさめる、殿様が腹を切れば戦いは終わりその殿様に仕える家臣は助けられるというのが多い        

それでまた戦争しても敵味方塚など戦った敵味方でも供養している
それは東北に攻めてきた九州と薩摩長州の兵でもそうである、それは碑として残されているのである、なぜ敵を供養するのかということが中国から来た人には理解されない
なぜなら中国では敵の墓を暴いてもばっしているからである
つまり中国も大陸でありその歴史はヨ−ロッパとにている、絶えざる異民族との抗争が歴史である、日本には異民族はない、みんな日本人なのである
日本人の根底には同じ日本じゃないかということがある
それで勝海舟と西郷隆盛は江戸を戦場にしないことで合意した
それは同じ日本人として同じ武士として通じるものがあったからとしている

加治将一氏はアメリカ暮らしが長い、それもビジネスしていたのだからアメリカ人にもなっていた、もちろん武田邦彦氏も科学者としてじかに外国人と欧米でも一流の人とじかに接している、そこが日本だけにしか住んでいないものとの差が大きい
でも言うことは根底から違っていても共通したものがあるのが不思議である
加治将一氏はしきりにフラットな愛のある関係を説く、武田邦彦氏は日本人は平等だとしきりに言う、天皇がいたとしても天皇以外はみんな平等なのが日本人だとしている
そういう歴史を作ってきたのが日本人だとしている
これは一見違ったようにみえても両者とも共通したものがある
つまりアメリカが外国がフラットな社会ではなく日本こそがフラットな社会としている
両者の意見が違っているようでも加治氏が日本が縦社会の階級社会、既得権社会だとしているが日本はもともと平等社会だとしている

もともとアメリカは王様がいないところから始まった、リンカーン大統領は丸太小屋に住んだヨ−ロッパからきた開拓者であるからだ
だから当然平等社会になっていた、それでホイットマンの詩が生まれた
そこであらゆる人を詩にしている、アメリカに住む人はみな平等であり同胞だとしている確かにその時代はそういう社会がアメリカだった、今は途方もない格差社会になっている数ハパーセントの人が富を独占しているからである
だからアメリカこそ縦社会であり階級社会であり貧富の格差になっているフラットな社会でないのである、そこをなぜ加治将一氏は指摘しないのか批判しないのかわからない
それでアンテークコインに投資している、それもわからないがアンテークコインは富裕層の資産保全のために構築された場である
なぜロスチャイルドがそのアンテークコインで財産を築いてそれで世界を支配する富を手に入れたと陰謀論になるからだ

確かにホイットマンの詩はhuman flat relationになる、それに共感する
でも日本人こそが実は武田邦彦氏の言うようにhuman flat relationの社会だったとなる
同じように外国生活していても見方が違ってくる
内村鑑三はアメリカに留学してアメリカが拝金主義なことや様々な悪い点を見た
そして日本のいい点を見直した、だから外国の宣教師でもキリスト教でもそれは本来のキリスト教でぱないとして批判したのである

ただ奇妙なのは両方が対立しているうよで共通しているものがある
天皇を頂点とした縦社会既得権社会だということにも私は共感する
また天皇を頂点して天皇だけは別格として後は日本人は平等だったということにも共感する
ただ加治氏がアメリカを批判しないのは理解できない
つまり今をみればアメリカがむしろ最大のフラットな社会ではない、極端な格差社会でありそれを見習うことはできない、大国はどうしても中国でもそうなように一将なって万骨枯るになりやすいのである
あれだけ巨大な国を治めるとなればどうしても強権になり一党独裁になるからだ
それでコロナウィルスにしてももうそんな大きな国を統制できなくなるのである
それでかえって小国がコロナウィルスを封じ込めることができたのはそこで政治でも治めやすいからである、ガバナンスが行き届くからである
それでまた今回のコロナウィルス騒ぎでかえって地方自治体が大阪モデルなど適格な判断ができて指導できたとされる、これも異論があるが地方自治体の方が手の届く支援も支持もできたとなる
大陸だと歴史的にどうしても巨大化して大帝国化した、そこで大量の奴隷が生れ王を頂点とした階級制が生まれた
日本にはそういうことがなかったのは日本は島国でありそれも割と大きい島国であり特殊な環境にあったからである

とにかくyoutubeの発言は他にもいろいろある、そこでかえってマスコミには出ない人が自説を展開するのはいいことである
マスコミだとマスコミの意図にかなう人しか発言できないからである
だから武田邦彦氏などはテレビに出ていないのである
拒否されてしまうのである、医師会などあからさまに批判すればそうなる
なぜなら医師会とかなるとお医者様の団体となれば怖くて批判できない
庶民だと病気になったら診てもらえないのではないかという恐怖になる
それは原発ともにていた、電事連が800億円も宣伝費をマスコミに出していたからである、それに逆らったらマスコミ自体が成立たないなにっていたからである
医師会の言うことを自民党も無視できない、選挙の時は医者が頼りになる、たいがい地方の有力者だからである

ただここで両者ともなぜ熱があったとか体に異変があって医者に行っても診てもらえなかったとかそれで死んだとかありそれは医師会のためにそうなったともしている
病気になったら病院に行く医者にみてもらうのが当然だからである
そのために保険料を払っているからである
そこでもやはり共通して怒っている、これも医療のことでもわからないから国民は気づかないし専門家の言い訳があるからわからない
それも原発で核のことがわからないと同じだったのである
専門家の言うならば従うほかないとなる、知らない奴は口だすなとなる
それで原発事故では地元に故郷に住めなくなったのである

だから両者の意見は違っているのだがまた共通しているのがあるのも不思議である
ともかくyoutubeは個人が主体だからその個人の思想なり生活なりを診るのが違っているメデアである
マスコミはマスコミが主催してマスコミの意向を通すものでありそのために人選があるそれに反するものは拒否される
それはNHKでも同じなのである、そこで意見が言えるのはNHKの意向にそったものである
それで武田邦彦氏は温暖化はないというときもうNHKは温暖化をしつこく言ってキャンペーンまでしているからNHKからにらまれてテレビには出れなくなったのである
だから福島県のマスコミもそうである
原発を批判することなどなかった、なぜならやはり莫大な広告費の分け前を得ていたからである、この報道でも相当に日本は歪められたのであるフェクニュースでも惑わされた
だからこれからは常にマスコミは糾弾される対象なのである
それは日本の方向を歪めてしまい国民を誤った方向に導くからである
マスコミ自体が批判される時代になった、それはマスコミにはマスコミの意向がありその意向にそった編集をしている

そしてマスコミ自体がフェイクニュースを平気で流している
六本木なのか原宿なのか自粛が解除されて人でにぎわっている光景を写ししていたがその映像が古いものだったのである、他でも鉄道ファンが集まったとかも自粛より前の古い映像だったのである、こうして映像にもだまされるのである
それも気づきにくいのである、だからマスコミは今や常に批判的にみてネットからその真実を暴かれるようになった
六局独占の時代は終わったのである、新聞でももうもたない、旧メデアは報道するのに金がかかりすぎるのである
プログなどになると報道するのは無料なのである

ただやはりもう一つわかりやすい構成にしたくてワードプレスとかしようとしたがこれもなかなかできなくなった、つまり技術的にめんとうになった
それは歳とって技術についていけなくなったのである
ホームページでも作り直すのもなかなかできない、意外とこのインタ−ネットの作業が時間がかかるのである
ただテキストは親指シフトでなれているから早く打てるのでできている
でもプログを同じもの二つ作ったのが失敗だった
それが手間になっている、それを変えることもできなくなったのである
フェスブックも設置してみたが使い方がわからないから一度も発言も返事もしていない放置したままである
まずプログに文章や写真をアップすることが第一でありその外のことをする時間がないのである
なぜなら家事も全部一人でしているから時間がないからである

2020年05月16日

マスコミとテレビの報道支配の終わり (ネットで多様化、相対化、常に批判の対象に)


マスコミとテレビの報道支配の終わり

(ネットで多様化、相対化、常に批判の対象に)

tvnews11.jpg

「利益や保身のために自分たちの主張を通す。特定集団を守り、そこに対抗する人々を攻める」

テレビに「結論ありき」が跋扈する悲しい事情 なぜ都合の良いコメントだけを切り取るのか

msn ニュースpowered by Microsoft News(2020−5−15)


原発事故で避難した人が飯舘村の人が相馬市のトマト農家に雇われたことを断られた、相馬市の津波の被害者を優先的に雇ったからだ
そのことを飯館村の人に言わせた、するとその時見ている人は相馬市の農家はこんなに苦しんでいる時冷たいなと見た
自分自身もそう見たのである、でも実際はそれが冷たいことでもなんでもなかった
相馬市の津波の被害者には補償金が出ていないからだ

まずこの辺では補償金の額が多い、小高より浪江が多いとうらやましがったり浪江よりおそらく飯館村も多い、億の金が標準的にもらった人がいるだろう
最近近くの復興住宅に入った浪江の人は5000万近くもらったと言っていた
この額は土地をもっているとか家とか財産をもっていると多くなる
それが少ないか多いかは判断はできない、被害者に見れば当然であり少ないとしている人も相当いるからだ
ただ補償金をもらえない人ともらえた人の差がまた大きかったのである 

NHKの社員が取材に来ていたので直接聞いた
そしたらこのMSNの記事と同じことを言っていたのである
下の者にわかりません、上の命令通りに動くだけです

何か編集会議が行われそこで指針を上の人たちよって決める、この場合は原発避難者側につくということで編集して放送することにしたという
つまり上の人たちで決めた方針に従って決める
だからその方針に沿ったように編集するのである
だから専門家を呼ぶ場合でもその方針に沿ったヒトを学者でも呼びコメンとさせる
それで専門家が自分の趣旨とは反するとして文句言ったのである
つまり専門家の発言をそのまま採用されるわけではないのである
またテレビでは時間がないためにもそうなるとしていた
短い時間で放送しなければならないから長い発言はさせないのである

つまりテレビというメデアにはそれなりの特性がある、それはテレビ局が一方的に上の人たちによって方針が決められそれにそって取材して編集して放送されるのである
それで武田邦彦氏は常にテレビをNHKをも批判しているのはそのためである
武田邦彦氏は科学者であり専門家である
すると強固が科学者としての自負があり軸をもっているのだ
それをyoutubeだと一貫して話しているしそれもテレビ局のように切り取ったような発言ではなくその人自身の科学者として専門家としてしている
だから科学に弱くても素人でもなんとなく理解するようになった
何かそこにはぶれない軸があり一貫したものがあるからである
人間はそもそも科学でなくても右でも左でも一生をぶれないことなのである
その人なんであれ信用できるとなる
でもテレビ局はテレビ局の意向がありそれにそって科学者でも専門家でも呼びテレビ局の意向にそったものとして編集される

結局テレビとかマスコミとは中立でもなんでもない、テレビ局のマスコミの方針があり科学的なものとしてそれが真実でもそういうことを追及していない
何か国民受けすることを放送する、原発事故だったら避難した人が眼に見えて苦しんでいるということがありそれで原発避難者側についたのである
でも仮設住宅には原発避難者と津波被害者が住んでいたのである
その差が大きかったから一緒に住んでも話もしなかったというのは理解できる
一方は億の金をもらい、津波の被害者はもらっていないからその差が大きかったのである
ただNHKで報道するとそれが科学的に正しいとしても歪められる、武田邦彦氏は温暖化はないとしている、その科学的な真実を追及することは素人にはむずかしい
でもNHKがそういうことでそれが真実となり国民の世論になることが怖いのである
NHKはそれだけの放送する力をもっているからだ
ただNHKでもその後は津波被害者のことを考慮するようになった
いわき市の住宅でも原発避難者と津波の被害者がいた、その時も原発避難者側について
仲間に入れてくれないとか津浪の被害者を批判するようにしむけていた

なぜなら

津波の被害者にはしゃべらせなかったからだ!

つまりNHKでは双方の意見を言わせない、原発避難者しか言わせなかったのである
だから一見公平に見えてもそうではない、NHKの方針が咲にりその方針に沿ったように編集されているのである
するとなぜ津波の被害者は原発避難者を受け入れないのかとなり国民は津波の被害者を良くも思わないようになる
ただこういうことに気づいたのは自分自身が地元に住んでいたからすぐにそのことに気づいた、外部になるとこういうことが気づきにくくなるのだ
その土地の事情などわからないから結局短絡的に短い報道でテレビ局の方針に報道にのせられることが多いのである、外国とかなると余計にそうである
そこに報道の問題が常に生じることになる

原発事故では補償金でもめた、飯館村でもそのために二分化した、それはNHKで放送していたがそこは公平だったように見える、双方の言い分を言わせていたからである
とにかくテレビとかマスコミの報道はネットで相対化される時代になった 
youtubeは何かわかりやすいのと学習できることにある
一貫してその人の立場でその人の主張が言えるのである
そして対話的なことも違っている
だからネットのニュースでもこうして自分は対話してのせている
新聞記事でもテレビ報道でもなかなか自分の批判をのせることはないからだ
第一例えは新聞社でもその新聞社を批判したりマスコミを批判したりしたら誰もその意見を言わせたりしないからだ
だからこれまでは報道の自由はない、マスコミとテレビ局の方針に沿ったものが報道され編集されて国民に伝えられていたのである
特にテレビは一方的洗脳メデアだったのである

とにかくメデアが報道が問題になるようになったのはナチスはラジオから生まれたというときそうである、ラジオは国民を洗脳するものとして力をもった
ラジオがそんなに力があるのかとなるとそれでもあった
今はテレビであり映像の時代だから映像が力をもつようになった
それでイラク戦争の時、油まみれの海鳥がテレビで放送されたとき世界の人が

イラクはひどい国だ!

こう瞬間的に思った、ところがその海鳥一羽が油まみれになっていたのはその部分を見ていたそうなった、回りはそうなっていなかったのである
それはアメリカによって作られた映像だったのである、その影響は世界を動かしたからいかに映像の力が大きいかである
テレビの映像の問題は一部分をきりとったものであり全体は見えないのである
コロナウィルスでもスーパーにトイレットペーパーがなくなっている棚を見せる
すると

全国的にもトイレットペーパーがなくなる!

こういう恐怖心をうえつける、それて買いだめとかなりパニックにされるのである
別に他のスーパーの棚にはあったりするが全国でトイレットペーパーがなくなるという恐怖心になる、つまりそれだけの力がテレビ局にマスコミにあったことが問題だったのである
だからインタ−ネットでマスコミやテレビ局の報道が相対化させることがいいことであるそれで最近テレビをあまり見なくなったのである、新聞を見ていないのである
どうしてもそんなにいろいろ見れないし読めないからである
ただヤホーのニュースの編集とかmsnのニュースの解説とかは良くできている
今話題の旬なものをあらゆる週刊誌とかからも抜粋しているからいい記事が多いのであるだから習慣的に読むようになったのである

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静岡経済新聞



2020年04月27日

新聞とかの構成はばらばらで理解しにくい (それはネットのようにリンク〈関連)づけがされないから)


新聞とかの構成はばらばらで理解しにくい

(それはネットのようにリンク〈関連)づけがされないから)

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ばらばらになりリンクして連関させて読めない

だから記憶にも残らない

ただシリーズものだと連関して継続して読める

でもそれは本で読んだ方がいいとなる


新聞とか本とか雑誌とかテレビでもメデアによって伝え方が違う
それはインタ−ネットができてから見直すようになった
人間は常に何かを知る時比較しないとわからないのだ
白い石があったとしてもみんな白い石だとしたら白い石だと自覚しない
そこに黒い石とか茶色の石とか交じっていて比較してわかる
人間でも自分を知るには他人と比べる時なのである
またなぜ日本にばかりいるとかえって日本のことがわからない
それで外国暮らし人は外国と比べて日本を見るからかえって見えるのである

メデアでも本でも新聞でもテレビでも長い間親しんできた
だからそのメデアが当然だと見ていた
でも何かおかしいなと新聞を見て気づいた
日刊新聞だが日刊現代とかだがその内容ではなく新聞が配置するものである
大きな見出しで分けられて見るのだがでも一社の新聞が編集して作る
でもそれが読みにくいというか理解しにくいというか記憶もしにくい
何かばらばらに記事が書かれていて統一性がない
その中にエロとか広告も混じりさらに統一性がなくなる

かえってインタ−ネットの記事が読みやすい、ヤホーでもmsnのニュースでもあらゆる所から記事を引用して解説を読むとわかりやすい
今はどうしてもコロナウィルスの記事が多くそれについて関連しているからわかりやすい
つまり関連させることリンクさせるとわかりやすい

人間の関心は多様である、でも新聞とかテレビとかでもそうした多様な関心は無視して
発行する会社の方針で編集している
だから様々なものがばらばらに新聞にのせる
その記事同士はつながりがない、リンクだと関連して読めるから内容を深めて読むことができる
そして知識を深めるということはそうして関連したものをつなぎあわせてより深い知識にすることである
それが新聞とかテレビとかではできない、一方的に作る方で編集されるからである

だからどうしてインタ−ネットの記事の解説を私は引用してその記事の内容をより深く考察している、それは引用でも自分が主体となっているから著作権違反にはならなん
何かこうしてインタ−ネットでは引用することが容易なのである
新聞とかでも雑誌とかでもめんどうになる、でも時々は引用している
インタ−ネットで読める雑誌を切り取り引用している

インタ−ネットの特徴はもともとパソコン通信から始まったからレスがレスポンスが大事だった、だから対話的メデアという特徴をもっていたのが今までのメデアとは違っていたのである
自分なりに理解を深めるには必ず本を読んだとしても自分なりの解釈が必要になる
それで必ず何かコメンとする習慣をつける、それがインタ−ネットではしやすいのである
とにかくリンクするというときA⇒AB⇒AAB⇒AAC⇒・・・・とかなる
何かAというエレメントから連環してリンクして理解を深める
それでその場限りのばらばらの新聞の記事が特に日刊現代とか夕刊フジとかだと頭が混乱して理解できないし脳が整理できないのである

インタ−ネットでもやはり何かを一貫して追求している時理解しやすい
私のプログでは津波とか原発事故のことで一貫して追求してきた
次にコロナウィルスでも一貫して追求してきた、それは原発事故と比べて追及して来た
その他自分の場合はテーマが多すぎることがあった
それで読む方にすると読みにくいということがあったかもしれない
ただ何か相手に読まれるというより自分の日々の記録として書いているということもあった
ただ最近は家事とか忙しくて対話はほとんどしていない、対話となると人間は簡単にできないように思う、すぐにコメンとされても相手のことがわからないからである
だから何か自分の場合一方的になってしまったのである

人間はただ「習うより慣れろ」である、機械でも使いこなすには結局なれるほかないのである、それが能力というよりは慣れることの方が大事になる
それで若い人は最先端の技術に機械や道具にふれて慣れるから有利になる
それで50くらいから人間は新しいものを受けづらくなる
それでどうしても若い人の方が時代に適応するのである
私がパソコンをしているのはワープロをしていてワープロで通信までしていたのである
だから早い時期からしていた、それは富士通のオワシスで親指シフトで日本語の文章を打つことができて今もやれているのだ
このパソコンでも基本はテキストであり文章を書くことにあるからだ
これがないととてもローマ字入力ではスムーズに文章が書けいないから挫折していたとなる

とにかく現代はメデアの変化も激しい、youtubeなどでもそうである
そこにはテレビには出せない人たちが自ら放送している
今までのマスコミには出せない人たちがいて編集している、すると真実が見えなくなる
ただあまりにも多様になると情報を追いかけるだけで時間が消えてゆく
ただ今やインタ−ネットでスマホなしでありえない世界となった
コロナウィルスでテレワークとか通信で学習とかなるのも時代なのである
むしろ通信で才能を伸ばす子供が若い人たちが出て来ることは確かである
通信の世界から天才が生まれることがありえる
学校では生まれないITデジタル天才が生まれる可能性がある、一部は生まれている
ただアナログがすたれることはない、人間はやはり対面的に全人間としてのコミ二ケーションが必要だからである
ただ正直旅したからといって親切に道すら教える人はいない、だからみんなスマホを見ているのである
人は意外と道を教えるのでもそれが強制でなければ金でももらえなければまともに対応しないからである、つまりいい加減になるのである

いづれにしろ新聞でもテレビでも何か伝えられないものがある
それは作る方の一方的メデアだからである、それを摂取する方の立場に立っていない
そして営利事業だからどうしても万人向きに作るから芸能とかスポーツとかあらゆるものを混交させることが何か理解しにくいものとなっていたのである

2020年04月01日

理解しにくい人物ーその顔の不思議 (youtubeとかに出た人物評の試み)


理解しにくい人物ーその顔の不思議

(youtubeとかに出た人物評の試み)

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SakuraSoTV

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そもそも人間は他者を本当に理解しにくい、それは別に有名人でなくても普通の人でも理解しにくいのである
まず住んでいる地域から育った環境から職業の相違も大きい、その人の個性から世代からと様々な条件が違って理解しにくくなる
一人の人物を知るということは本当にむずかしくなる
そして理系と文系となると何か人種が違うのか互いに必ず理解しにくくなる
武田邦彦氏は理系と文系の知識と経験を備えているから文系の面からだと理解しても理系の面からとなると理解しにくいのである
特に私は文系だから理系が理解しにくく評論できないのである
でも理系的思考というのがありそれを知ることはできる

今日sakurasoTV(桜チャンネル)鈴木傾城氏が出演していた、その顔は出ていたが体まで出るとなにかもともと異色だったけど体も大きくて貫禄があると見た
ただプログでずっと読んでいたがその顔との差があった
プログだと何か若い人のなかと錯覚する、本だとたいがい認められた人として読む
でもインタ−ネットになると何か浅薄な人でも自由に発言できるから軽く見られる

でも今回のさくらTVに出演していた人で本当に異色な顔貌をしていた
あの人はなんなのだろうと私などには理解できない、アジアのは売春宿を回りその実態を知らせる、それ自体なんなのか理解しにくい
でもその言っていることは魅了されることがあるから読者が多いとなる
要するに底辺層に接していてその底辺層から上からの目線で学者として見ているのではない、他の人は学者だったのである
その顔を見ても学者なのである、私なんかも何か学者的なのである
でも鈴木傾城氏は違っていた、右翼の武闘派の親玉のようにも見えた
体も何か大きく見えた、そもそも武闘派の主張をしていたからである
なかなか右寄りでも学者はいるとしても本当の武闘派はいない
プログだけの発言して死んだ都築詠一氏は武闘派だった
その顔を見ることは私はなかったがその人なりが文章に現れていた
その人は顔を見なくても文体からイメージできたのも謎である
まさに文は人なりとなっていた

この世には強烈な天才的な個性をもった人間はいる、まれだがいる
ただ危険なのはそういう風貌とか体つきとかから人間を判断すると危険なのである
何か自分は体でも貧弱でありあらゆる能力が劣っているからそういう人にあうと崇拝してしまうのである
それで前の師を偶像化した、偶像崇拝になった、これが危険だった

キリスト教を知るには聖書を知るには神とは何かを知ることで一番大事なことは偶像を崇拝しないことだからである
必ず人間は眼に見えるものを偶像を崇拝するようにできているからだ
だからあらゆるものが動物でも石でも星でもなんでも神となる
でも本当の神は決して目に見えないし見ることも絶対にできないのである

もし見えたらどうなるのか?

必ず卑しめられる、それはなんだこれが神なのかとなり卑しめられた
キリストが神の子だといていって肉体を備えて現れたときに卑しめられることはまねがれなかったのである                                        
神は妬む(ねたむ)神なのである

神は存在する、でも偶像を崇拝する者にねたむ、そんなもの神じゃない、私こそ神だとして現れる、神より上に立つものを許すことはないのである
だから妬むというとき神は人間の持つ心があるということになる
なぜなら普通神ともなればそうした感情は下等なものでありそんなこと気にしないとなるからだ

でもどうしてユダヤ人は神を認識したのか?

それは偶像を崇拝していてそれで神の怒りをかって真実の神を知らしめられたことは確かである、その神は見えない神なのである

とにかく人間の顔は不思議である、youtubeでは顔出すから文章より顔をまず見てしまうのである、こんな顔しているのかとまず顔を見てしまうのである
それはテレビでもそうである、顔が大事になる
それでラジオ全盛の時は声だけで放送していた、でもテレビ時代になると顔が大事になり人気があった人もなくなって番組からおろされた
テレビではアナウンサーでも顔が大事であり美人でないと受けないともなったのである
テレビだと文章ではない、まず顔を見てしまうからである
顔から判断するということがあるからだ
本だったら顔は関係ない、書いた内容で判断している

それで加治将一氏のyoutubeを見てしきりフラットフラットな関係と言っている
アメリカ暮らしが長いからアメリカ的人間が作られたともなる
まず外国暮らしをしてきた人と日本だけでしか暮らしていな人の差が大きいのである
外国暮らし人は比較で日本が見える、それはささいなことでも実生活から日本との比較ができるようになっているからである
ただ本を読んでとかテレビを見ていたとかではない、肌で知っていることの差なのである私は外国で暮らしたことがないからどうしても外国がわからないから視野が狭いのである

いづれにしろこの人の顔を見ると本当に気さくでありアメリカ人的だなと見る
あまりアメリカ人は上下関係を作らない、それはホイットマンの詩を読めばわかる
平民を主人公として詩にしている、そういうことはヨ−ロッパとか中国では起こりにくいのだ、まさにフラットな人間関係なのである、大統領さえフラットなものとしてあった
みんな大きな大陸でフラットな関係として詩にしている
例えば中国とかアメリカの基となっているヨ−ロッパでも歴史が古いから王様がいて貴族がいて上下関係がある、ヨ−ロッパはフラットではないのである
日本が歴史が古いからフラットではない、天皇中心にしたヒエラルキーを構成してきたと批判しているのもわかる、ただ日本の風土に関してそんなのがないというのはありえない
そしたら季語があり俳句短歌があることも否定されるからだ

とにかくこの人のことも理解しにくい、そもそもアメリカで不動産関係で仕事してアンテークのコインに投資していることも理解できない、そんなに一千万するコインがあるのかと理解できない、だから何か人間を理解することは難しいのだ
同じ日本人でもそうして生い立ちとか仕事ととか違うし理解しにくくなる
でもその人の顔を見たら何か気さくであり本当にフラットな感じなのである
それは誰でも気さくに声をかける上下関係もないアメリカ人になっているからかともみるアメリカに15年も暮らしていれば当然アメリカ人気質になっている
そういう点は好感がもてるのである
この人の顔から何か特別なものを感じないのである、その辺にいる気さくなアメリカ人となっている

それで人間自体が顔まで移民でも代々住んでいるとその民族と同化して同じような顔になるということを何かの本で読んだ
確かに日本人そのものがもう戦後はアメリカ化したからアメリカ人になっているのかもしれない、純粋の日本人はまれだろう
戦前だと天皇を神として戦争したのだから純粋の日本人は多く存在したろう
戦後はまるっきり変わった、アメリカに支配されたし日本人自体がアメリカ人になったのである、それはアメリカに暮らさなくてもそうである
なぜなら戦後はアメリカに同化するように生活自体がそうなったからである
そこで日本人の良さも失われた、日本人気質も失われた
顔とは確かに親の遺伝子から受け継がれたものが基である

日本人の気骨も失われたのである、明治には武士道がまだ活きていた
それで内村鑑三のような武士道キリスト信者が生まれた
日本は戦後そうした素地が喪失したのである
つまり日本人は骨なしになったのである、だから日本人は外貌でもアジア人ではないアメリカ人になっていたのである
アメリカでもいい面と悪い面がある、日本人でもいい面と悪い面がある
ただ日本人を形成する骨格となるものがない、骨なし日本人になったのである
だから日本人は実際はアメリカ人になったのである
その生活形態も考え方でも何でもアメリカにならったのである
それでアメリカ人の悪い所も習ったのである
金だけを唯一の価値としたのもアメリカ人にならったからである
戦前は金だけではない日本人的価値が義理人情でもあったと言われるからだ
戦前は何かまだ日本人的なものが残っていたのである
それが戦後は全く日本人的なもはのを捨ててアメリカ一辺倒になったのである
だから日本人が顔までアメリカ人になったと見るのである

顔は人生の中で作られるのである、双生児でも環境が違うと顔まで違ったものとなっていた、つまり人間がいかに環境の影響が大きいかである
公務員が同じような個性のない顔しているとか会社員でも社畜とか自ら言っている人たちはロボットのような顔になっているかもしれない
例えば夫婦でも顔かにてくる、似た者同士になるとかもそうである
私があった夫婦は奇形的な顔の夫婦になったから異常だった
子供の時あっただけだからその嫁となった女性の変わりように驚いたのである
もう人間からはずれたものになっていたのである

心理学者の内藤誼人先生によると、顔が似てくるのではなく、同じ「表情」をすることが増えるからだそうです。
つまり一緒に暮らしていれば、「笑い」「悲しみ」「怒り」など、同じ感情を抱くことで同じ表情をすることが多くなります

ダンテの地獄編では何かそうして顔が変形している人が良くでてくる
まさに顔にその人の心が現れてそれが奇怪な異様なものとなっていたのである 
顔に責任をもてというとき顔にその人の刻印が押されるからだともなる
この顔は天国行でありこの顔は地獄だと印されているとして選別されるとなると怖いことだと見た

こういうことなのだろう、その奇怪な夫婦はなぜそうなったのか? 
その夫は公務員だった、それは相互作用がありともに奇怪な夫婦として長年の暮らしで作られてきたとなる

だから人間の顔は偽れないということがある、言葉では偽れても顔は偽れないとなるから怖いともなる
とにかくyoutubeは顔が全面に出てくるから顔からまず判断されてしまうのがテキスト中心のプログと違っている
そして一番不思議なのは自分自身の顔がわからない、見えないことである
いくら鏡でもみても自分の顔がどういう顔なのだかわからない、それが心が見ないとにている
それで鏡に映る姿を古代人が最もおそれたことがわかる
それはその人の姿を心も写すものとして恐れた、実際に自分の心でもありのままに写されたから怖い
やましいものをもたない人はこの世に一人もいない
その実相が鏡にあからさまに写されたら恐怖だとなるからだ
あまりの醜さを見て死ぬということもありうるかもしれないからだ

また人間は何か何でも対照的に見ないと見えない、小さな石があったとしても比べるものがなければ小さい石として理解できない
大きな石があって小さな石だと認識できる
だから醜いということも認識できないのである、自分自身の顔がどんなに醜くなっているかも認識できない
だからこそみんな平気で顔を出して生きているのである
その本当の姿を認識できたらショックになる、そんな顔にどうししな成ったのかとなるからだ
もう子供の時と接した顔とは人間とはまるで違ったものとなっていた
その変容には驚くばかりである、もう人間とも思えなくなっていたのである
でもその人自身は自分のことを全く認識できていないのである






2020年03月24日

電子本と紙の本を読む相違 (人間が記憶する仕組みはどうなっているのか?)


 電子本と紙の本を読む相違

(人間が記憶する仕組みはどうなっているのか?)


このことを書いている本があった、「デジタルで読む  紙の本で読む脳 」という本である、これは高いから読んでいない、私は結構アマゾンで電子本を読んでいる
スマホとかだと画面が狭いから読みにくい、目も疲れるからアマゾンのキンドルを買ったが利用しなくなった、スマホも字が小さいから疲れるから使っていない
でもパソコン画面上で読む電子本は読みやすい、目も疲れない
そしてアンダーラインを簡単につけられるのでいい、電子本だとネットのすぐれた点は検索機能である、これは本にないから大きな利点である

でも本を読むのと電子本を読むのとは何か違っている
その相違が明確ではなかった、どこが違うのか明確に指摘できないのである
確かにこの本を読んだらわかるところがあるに違えない
人間の不思議として記憶するということなのである

人間はどうして記憶するのだろうか?

そのメカニズムがわかりにくい、だから電子本で読むのと紙の本で読む相違がここにでるということでこの本が書かれた
私自身は知識は本から読んで蓄積してきた、ただどういうわけかワープロでパソコン通信時代から文字だけのやりとりをしてきた経験がある
それは私が悪筆であり字がへただから何とか読みやすい字にしようとしてワープロになった、それで偶然オワシスの親指シフトが打鍵しやすいとなり継続できるようになった

なぜならこれがないとまずパソコンでもやはりテキストが主役でありローマ字で日本語に転換するのはかなり時間的に遅れるからスムーズに利用できない、それで継続できないということがあった
なにしろ文章はスムーズに考えると同時に活字にしないと嫌になるからだ
私自身がこれだけパソコンで文章が書けるのはオワシスの親指シフトを使っているからだこれは別にソフトでも「やまぶき」が無料で使える
またオワシスキーボードも3000円くらいで買える
だからこれに慣れれば文章にするのが楽になる

ともかく電子本と紙の本の相違は何なのか、これはかなり人間にとって奥深い問題であるどこが違うのか、それは人間の記憶のメカニズムと深く関係しているからだ
まず紙の本を読むというとき本という一冊で一つの著者の世界を作る
その本は一ページ一ページをめくって読むこともあるが一冊を通読することもある
また途中からも読むこともある、いろいろな読み方がある
私は一冊の本を通読して要点をつかむ、それでもう一時間くらいで内容に通達する

そういうふうにできるようになったのは理解力が深まったからである
紙の本と電子本の根本的相違は一ページ一ページめくって読むのが電子本であり何か飛ばして読みにくいのである、デジタルの世界はそうして一ページ一ページ順序良く読んでゆくことにある
でも紙の本の世界は初めから最後を読んだり途中を読んだりして一冊を連環して読むことにあると思った
一冊の本はデジタル的にではなく連関したものとして記憶するのである

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何か電子本でも紙の本でも内容は変わらないから同じだとなる
でも人間の脳はデジタル的なものがあるがまた何かそうした順序に逆らい通暁するとか通読するとか全体を読むとかある
人間は記憶する時、一部分を記憶するのではない、辺りの全体を記憶するのが人間の脳である、一本の木だけではない、それが丘の上にあったとか森の中にあったとか川の側にあったとかそこに付随するものと同時に記憶されるのである
つまり人間が記憶する時、一つの部品として見ていない、全体の中の一つとして記憶するだから木だけを抽出して記憶しないのである
そこにコンピュターのデジタル思考と違ったものがある
コンピュターは部分の積み重ねとして見る、でも人間はまず全体を見て把握して部分をみる、それが紙の本を読むときもほんの全体を読む、そして部分を読むのである

だから本を読むときあらかじめその内容に自らの知が親しくなっているとき、共感ししているとき理解しやすいのである
この人の書いていることはおよそ理解している、部分的には理解しなくても全体は総体的には理解している、その時また記憶しやすいのである

とにかく人間は老人になれば記憶することが人生だとなる、記憶されたことが人生だとまでなる、それで認知症は今話していたことも忘れる、でも若い時代のことは忘れないので何度も話する、それで戦争のことを千回を聞かされてうんざりしたのである
でもそれがその人の人生だったからあきることなく語ったのである
そのことが一番記憶に残っていた、後は忘れてしまったとなるからだ

電子本でもインタ−ネットでも読むとき何か記憶に残りにくい、それはなぜなのか?
それはやはり電子本を読むのと紙の本を読む違いとなる
でもインタ−ネットでも記事のニュース解説でも私は引用して評論している
そういうことがまたしやすい、ただ記事でも読むだけではない自分なりの見解を述べる
そういうことがネットの利点である
そうすると思考が深められるのである、だから紙の本がみんなだめになったともいえないまた電子本を読んでもだめだともならない、両方の利点を活かすことが必要になる

ただ知的な仕事するにはまず私設図書館のようなもの必要でありそれだけ広い家に住むと頭も働きやすいのである、なぜなら不思議なのは今は下の部屋で仕事しているが二階も広いしそこでまた本を読んだりすると気分が変わりアイデアが湧いたりする
つまり場所を変えると気分が変わる、それで知的な仕事もすすむのである

2020年02月03日

多様な個人が主役になる社会 (マスコミの時代は終わった-youtubeの感想)


多様な個人が主役になる社会 

(マスコミの時代は終わった-youtubeの感想)

Diversified world Multipolarization 

   

多様化となると個性になる、多極化となるとマスコミからyoutubeのような変化である
多元化とはmany rooted landになる
多極化はやはりシステムの変化である、六局だけのテレビ放送は終わった
今やその数が次々に増大しているからだ

最近youtubeを見て発見がある、加治将一チャンネルと今日見たつねあきチャンネルでもそうだった
年配だから人生を語り金融を語り資本主義を語る、それだけ経験があるから厚味と深さがある、やはり40代ではまだ人生を語れないからである
今価値があるのはそれぞれの人生を語ることである
それも多様化であり多極である

こんな人生送っていたのかと驚きがある、加治将一氏などは自分には理解できない
破天荒な人生だったとなる、現代の大金持ちの生活を体験しているからだ
アメリカでも実業していたから驚く、そういうことが自分にはイメージできないからである
若い人には個性がない、それは経験がないからである
人生を経験した人しか語れないからである
それは失敗したことでもそうである、ワインを飲んだ蘊蓄があったがそれも無駄だったというのもそうである、別荘をもってももしあましただけだったとかもそうである
そういうことは自分のような貧乏しか知らない人にはわからないのである

deep max 妙法の中国に関する情報は内容が濃密である、これは中国に専門化しているからマスコミより詳しい
中国の知らない面を知る、語り方もうまい、このチャンネルは明らかに今のマスコミの情報を越えている
中国で干ばつがありそのためにそこから細菌が生まれて流行するとかそしてそこで大型の動物が生き残れない
ネズミが繁殖して移動するからそこから細菌が人にも伝染してゆくという
そもそも大型動物は生存競争で不利なのである、だから恐竜が滅びたが小型の哺乳類は生き残ったのである
つまり中国の様な巨大な国家でもそれが恐竜のように滅びてしまうような弱点があるかもしれない
だから何でも巨大なものがいいとは限らないのである

武田邦彦氏チャンネルとなるととにかく科学に強い、そこから世界をみる
その支点が専門の科学にあり技術者でもあるから世界でも仕事していたからその見方が深いのである、マスコミだとコメンテ―ターとして呼ばれても話すことが短すぎるから
深く知ることができないのである
その主役はコメンテーターではない、司会者なのである
司会者が芸能人になっていることでもわかる
注目するのは司会者でありコメンテ―ターは脇役にすぎないのである

イケハヤ大学だとその住んでいる場所に興味をもった
四国の山の中であり平家落人伝説のある祖谷(いや)に近い
そこにも行ったことがあるから相当山の中だとイメージする
その他世界旅行した生々しい話についても興味をもった

とにかくて多様な人物が語る時代になった、マスコミではそうしして自らを語る場ではないテレビ局でも支持されたものをその人のほんの一部しか語れないのである
youtubeだと誰々のチャンネルであり一人の個人のチャンネルであり自分のことを制限なく語れるのである、だからその人の全体に注目する
例えば本一冊だして読んだとしてもその人の全体はわからないのである
何か推理小説一冊読んだなとかで終わるからである
だからメデアが変わるとその表現されるものがまるで変わるということがわかった
今その変わり目でありまだその全貌はわからないのである

多様化多極であり多元化である、多元化とはそれは様々な土地であり土地が場が個性を作り出している
そこに住んでいる場所の価値が再確認される時代である
それが相馬市が城下町でありそこに隣の庭を活かした煉瓦作りの喫茶店ができた
私が紹介した喫茶店は場所を活かしたことにより価値が生まれた
料理ならたいして変わりないのだがその土地の場のもっている雰囲気の価値が違う
山木屋のガーデンは海が一望にできる、隠れ家の鹿島の海老の喫茶店もそうである
ただ不思議なのは原町にはそういう喫茶店が見出されない
でも北泉とか雫〈しどけ)辺りに海が一望できるから喫茶店があればいいとなる

しかしこんなふうに膨大に多様多極多元化するとそれを追うだけで時間がとられるし理解することも大変だなと思った
でも明らかに老人の価値は人生を語ることである、これは若い人にはできない
そこに教訓を見出すことができる、例え失敗談でもそうである
そういうことが無駄だったのかと知るべきである
つまり共通しているのはいかに時間を浪費したかということなのである
金を浪費したということもあるが時間を浪費したことが一番の後悔だったことが共通しているのである

つくづく現代は百家争鳴の時代になった、これから何か紹介したように団塊の世代が人生を語る時代になった、何か遅い感じがするが人生百年時代は人生を語るのが遅くなる
60からでも70からが人生を語ることになる、それが成熟社会なのである
そういう場が与えられた時代だともなる
ただ60代以上とかなるとyoutubeに出ているのはまれである
電子空間は紙の空間のように制限されない、いくらでも語っても書いてもいいのである
それで延々と個人を語ることになる
ただこれだけ多くなると前もそうだったが読まれたり見られることが簡単ではないそれでただ放置されているだけのチャンネルもでてくる
それはインタ−ネットでは極端なのである

でも何かyoutubeという媒体(メデア)は不思議だと思う、要するにテレビに50年以上なじんでいたからそうなっているのだ
それが習慣となって何かyoutubeというのが何なのだろうと戸惑うのである
これもこれから習慣化すれば別にそれが当たり前となるのである
マスコミの時代は終わったことを告げているのである

ここで時代の変化を表にしている、今までの世界とは違っている
大事なことは今までは高度成長時代でも同じものの大量生産であった、それで日本が外国に輸出することで豊かになった
それが今は通じない、そうした製品ではなく物ではなく情報が価値をもつ時代になった

例えばニュースを語るにしても住む場所も年齢もその人の個性も違うからいろいろな解釈の仕方がある、自分だと郷土史とか調べているからその住んでいる土地と関連して説明したりする、マスコミだとみんな同じになり安いのである
そこで主役になっているのは司会者でありあとのコメンテーターは局から選ばれたものしか出さない、話すことも局の指示通りすにする、そして主役は必ず司会者になっている
そういうシステム自体が古くなったともなる
個々人がyoutubeで語るのが新鮮なのはそのためだろう
個人のテレビ局というのはありえなかったからである

そしてこうなると個々人でもいかに表現するかが勝負だとなる
表現力を磨かなければ見てくれない

つまりマスコミのように同じことを話していては誰も見ない

その人なりの解説がないと見ない、だからニュースでもその説明の仕方が個々人によってその立場によって経験によって違ってくる
そうなると必ず自分なりにそれらの情報を集めて編集することが必要になる
それが手間になる、テレビだとただ一方的でありその報道したことについて個々人は全く受け身になっていた
インタ−ネットではyoutubeでも能動的にその意をくみとろうとする
それが今までのマスコミの情報と違っている 
ニュースとかはマスコミが独占していたけどその解説となると本当は個々人によって違ってくるものだったのである

だから子供からの教育でも変えねばならない、いかに表現するか、表現力を磨くことである、今までの様な暗記ばかりしていては表現力は身につかない
そこで教育もフリースクールのように学校に行かなくてもいいように政府が応援していとかなるも時代の変化である



2020年01月31日

人間の記憶のメカニズム (記録と記憶の相違-記憶するには全体と過程が大事)


人間の記憶のメカニズム

(記録と記憶の相違-記憶するには全体と過程が大事)

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この世の中に膨大な記録がある、人間は文字でも絵でもなんでも今なら写真でも動画でも記録はできる、私自身書いたものが膨大である
その自分が書いたものすら忘れていてもう一度読み返してこんなこと書いていたのと感心したりするのも変なのである
それだけ人間は忘れやすいのである

でも不思議なのは人間が記録することと記憶することは違う
例えば記録媒体によっても違ってくる、本であれ新聞であれテレビであれインタ−ネットであれ写真であれ動画であれ様々な情報にあふれているのが現代である

でも何かこの情報媒体が違っても記憶することが違ってくる
新聞を広げる、いろいろなことが書いてある
その中で興味あるものを読む、するとその興味あるものは記憶に定着する
でもまずそれは一つだけなら記憶しやすい
いろいろ記事があってもはそれも忘れる
ただその人なりに興味あるものは記憶される
でも私はその興味をもったものを記録しないとまた忘れる
それでスキャナーでパソコンに記録する
するとまた読み返すことができる

その新聞の記事を記憶したのはまず新聞を手にとる、紙面を全部見る、そしてその一記事に注目する、そしてその新聞を見た場所がありまた新聞を置いた場所がある
そういうものも記憶として残っている
それはモノだからそうなっている、モノとして新聞がありそのモノを扱うことで記憶しているのだ

でも電子掲示板だとインタ−ネットは電子文字になるからモノとして扱えない
それで膨大に記録はいくらでもできるのだが記憶しにくいということがある
何かモノを扱うのと違うからただ文字が流れて消えてゆくという感じになる
それでいつも興味ある記事でもどこに記録したのか場所を忘れる
電子空間でパソコンで記録していてもわからなくなるのである

例えば記憶とは一つの古い碑が道の辺にあるとするとするとその辺りの空間も意識して一つの碑に注目して記憶に残っているのだ
ただ一つの石碑を見ているだけではないのである
だから博物館に陳列したものは記憶に残りにくいのである
つまり場とともにモノがありモノの記憶が残る
それがただの記録と記憶の相違である
記憶するということは全体をきりとった一部は記憶に残らないのである
それで写真でも全体の一部をきりとったものだからそこから全体を見ることはできない
動画でも同じである、その場所の全体はわからないのである
そこに錯覚が生まれて何でも誤解が生まれるのである

本当に旅して不思議なのは地理を知るには一部分を知ることではない、全体の中に一部分がある、でも記憶媒体になると何でもそれは全体の一部を切り取ったものなのである
世界とは全体のことであり部分のことではない、全体があって部分がある
でも人間はメデア(媒体)がいろいろあるとしても新聞でもテレビでも何でも部分を見ているのである
でも実際のその地に立てば全体から部分を見るのである

今会津について短歌を30くらい作った、それは私は会津の全体を自転車で旅したからである、三回くらい自転車で旅した、それが今になって記憶としてよみがえる
記憶するという時車とかなるとまた記憶に残りにくい、電車でも記憶に残りにくい面がある、やはり徒歩だと一番人間は記憶していることは確かである
その土地を記憶するには歩くとその土地と一体化するからである
また何度も行けば記憶に定着しやすい、だから人間がアイディンティティ化できるのは狭い土地であり広くなるとしにくくなる
何度も見れば何度も出も行けば自ずと記憶に定着するようになる

記憶という時、その部分にあったとかその部分だけが記憶とはならない
ある場所にいたというときそこまで行った過程からその場所を記憶する
あそこまで坂を上り苦労してあの場所についたなということを記憶する
記憶はそうした全体の過程とからも意識されるのである
その全体から部分を意識するとか記憶するというのが人間の特徴である
だからいくら写真でも動画を見ても人間の記憶の仕方は違ってくる

数学でも問題を解くとき解答を出す過程が大事である、その解き方も一つではない
正解にいたる過程はいくつもある、その過程を通じて人間は記憶する
どういう手順を踏むかというのが大事になる
そういう作業を通じて記憶されるのである

例えば芭蕉の平泉で作った俳句の「五月雨の降りのこしてや光堂」というとき
それ5ははるばる奥の細道を歩いてきてその句が生まれた
それと同じように記憶もそうした過程の中で記憶されているのである
だから記憶とは全体の中から過程から記憶される
文章でも文脈がありその全体を知らないと部分だけでは定着しない、記憶されないともなる

とにかく記録と記憶は違っている、人間は最後は記憶に生きる
自分なら旅したからその記憶をよみがえらせて詩とか短歌と俳句を作っているのである
でもそれは常に全体から旅した過程があって記憶しているのである
鉄道でも車でもなかなかそうして全体の過程から見れない、それで記憶に定着しにくい
それで現代の経験は何かかえって便利になりすぎて浅薄な経験しかしてしいないのであるそれは後年に老人になってかなりの損失である
なぜなら最後は人間は記憶に生きるようになるからである
すると記憶に残らないとしたら何にもならなかったとなる
現実に団体旅行した人がどこに行ったかも記憶していなかったのである
こうなればその人は旅したということにもならなかったからである




2020年01月26日

その土地のことはテレビに写されてもわからない (チャリダーが南相馬市に来たけど・・・)


その土地のことはテレビに写されてもわからない

(チャリダーが南相馬市に来たけど・・・)

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NHKのテレビでチャリダーの放送があった、それを見ていて知っている場所を写したけど
テレビでは動画でも本当のことは伝えられない
案内の仕方も悪かったのだろう
地元のいいところはやはりそこに住んでいる人しかわからない
もちろん外から来た人も地元の知らないいい所を発見することはある
それで何気ないところがいいと外国人が名所にしたりするところがあった

でもテレビの問題は何なのか?
それが万人向きに作りすぎるのである
それが今かえってテレビを面白くなくさせている
万人向きになると何かパターン化してかえってつまらないものになる
でも視聴率をとるためにはそうする、芸能人を起用する

もし視聴率とか万人向きにしないものとしてとれば興味を持つ人はもつ
だからかえってマニアックでもyoutubeの方が面白いとなるのである
何か特別興味をもったことを動画でも伝えられるからである
そこで番組作りした方が確かにそんなに見る人がいなくても興味ある人は見るのである
それを可能にしたのがインタ−ネットでありyoutubeなのである
youtubeは多様化しているからだ
つまりマスコミはマスを対象にしたものは廃れてゆく
それはみんな一律であり真実すら伝えていないからである9

私が南相馬市を案内したらどうなるのか?
まず真野古墳群があったとして前方後円墳がある、ところが寺内の実物は本当にみすぼらしいのである、それが古墳なのかどうかもわからないようなものである
ただそこで案内するとなるとそこに金銅双魚佩が発見された
これは東北ではここしか発見されていないから貴重なものなのである
だからその金銅双魚佩のレプリカがここで発見されましたよとなれば具体性があり興味をもつ
古代史に歴史マニアのような人がいればさらに興味をもつのである

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それから震災のことを伝えるが海老とかの避難地として指定された場所が海側であり危険な場所でそこに30人くらい死んだということを伝える
あれは本当に悲劇だったからである、いくらでもすぐ近くに逃げる場所があったのに
わざわざ危険な場所に逃げて死んだからである
そこに死んだ人の名前刻んだ供養の石碑がある
そこで津波の恐ろしさを具体的に教えられる

ただそうした大衆向きの番組でも地元でも知らない所が必ずある
何かカレーに玉ねぎ一つをのせた料理は面白いと思った
カレーを作るのに私も苦労していたし玉ねぎが自分は好きだったからである
それから一番星という民宿に喫茶店と食事する場所を作った
あそこは何なのだろうと見ていたがそういう場所だと知った
ただあそこは場所があまりいい所ではない
金沢で確かに海があるが東北電力の火力発電所も近いしながめがいいとはならないからだただそこはそこなりに悪いとは言えない場所ではある

ただ喫茶店紹介した新地の花木山と相馬市に最近できたと煉瓦の中村珈琲店と鹿島区の海老のニコニコ堂と薔薇で飾った日立木の磯部の柏崎の丘のカフェ―ドマーニは場所がいいのであるそれでこの喫茶店を回るだけでなんとなくその土地のことがわかる
景観がわかる、ただ原町にはないのが残念である
海が見える場所にあってもいいと思っていたからである

この辺は案内するとなる震災以後は津波のことと原発のことが必ずある
だから津波がどの辺まできたとかここで死んだとか説明が必ずある
ただその記憶も薄れてきている、外部の人はやはり地元より忘れてゆく
でも津波だげはその場に来て立ってみないと理解できないのである
地形と深く関係していたからである

私は介護になってからはほとんど旅行もしないし仙台にも行っていない
ほとんど家にいるだけである、旅もしたくなくなったし何か年取ってから余計に人ごみの中に入るのが嫌になった
ただ家でじっとしているのがいいとなる
だから家が住みやすいことが老後は大事だなと思った
そういう点田舎はなにもなくても静寂とかがありそこでじっとして黙しているのが
自分にとっては幸福なのである

いづれにしろ何かその土地のことでも旅の番組を見ても本当にわからない
テレビでも動画でもわからないのである
だから常にそこには誤解が生まれやすいのである
映像だけから判断するとそうなる
その映像はその場所を伝えていないのである

例えば坂を上ったとしてもその高低がわからない、自転車でもわからない、自ら乗って坂を上ればわかるが映像からだけではわからないのである
寺内の前方後円墳は急な坂を上った高い場所にあるからだ
それは来てみて上らない限りわからないのである
だからその土地の地形とか知るのはテレビをみても地図をみてもわからないのである
それで必ず誤解しているのである

私は日本なら隅々まで旅したがそれでもその土地のことはわからない
でもその土地のことを一度でも行っていればなんとなくイメージできる
それは一度でも行った場所はそうなるがテレビでも映像でも行ったことがない場所は
必ず誤解している、それが極端になるのが外国旅行なのである
それは本でも読んでも映像をいくら見ても実際に見ない限りわからないのである
百聞は一見にしかずなのである

とにかく現代というのは映像の時代である、その映像をみてなんでもわかったような気分になるが実際はそこに誤解が生まれる、映像からだけではわからないのである
地理とか地形とは全体からしかわからない
ところが映像は一部分を取り出してみているだけだからそこに誤解が生まれるのである

例えば大井川の奥の井川線にも鉄道がありそのことがテレビで紹介されたとき私がわかったのは
大井川の千頭が終点でありそこまでまで実際に自分自身が行っていたからなのである
するとそこが終点からさらに奥があったとして認識できるのである
もし大井川鉄道を実際に行っていないならそこがどれだけ奥地なのかわからないのである今は情報が映像があふれかえっているがでもそれで人々の知識とか認識とかが広がったとはもならない、間接的な情報は膨大だけどじかにその目で見てその地に立った認識こそが大事なのである
現代というのは交通も発達しているから点としての認識が広がっても面としての認識がかえってなくなっている
だかち南相馬市でも相馬市でも日立木から街道を歩いて相馬市の城下町につくことが歴史を知ることでありその土地のことを知ることなのである

現代の問題はテレビで動画でも映像でも見て理解している、知っていると思わされるのである、これが何か必ず誤解を生んでいるのである
それはいろいろな事件でもテレビのやらせとか誤解を生んだ原因なのである
映像の力でそう思わせられるからである

ただ地元の人がyoutubeで観光内を作るべきである、市の方でも公開した動画があるから
今はいろいろと地方でも知ることができるのは便利である
ただ番組というのはその人によって紹介の仕方も違ってくるし見方がいろいろある
見せ方もいろいろある、だからこういう面は何か地域の特産物を作るよりバラエティがある、どうしても地域の特産物は限られし簡単には作れないからである
それで事の消費の観光となるとそこにバラエティがいくらでもあり個性が出せるとなる

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この四つの喫茶店は場所がいいのである
ここを回れば地形的なことがわかる
ても原町にはないのが残念なのである

ニコニコ堂はハイドがあっていた、隠れ家のようになっているからだ
隠された場所だとなるからだ

2020年01月19日

youtubeの発言が新鮮-日本に迫る危機 (関心をもったものの解説ー老人がもっと参加するべき)


youtubeの発言が新鮮-日本に迫る危機

(関心をもったものの解説ー老人がもっと参加するべき)

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youtubeは私にはまだわからないものとしてあった、最近かなり見るようになった
youtubeとプログとかは違う、文章でないからテレビのように見れることである
テレビがこれほど見られたのは大衆的にわかりやすいように解説するからである
それがyoutubeだとテレビとにたようなものになっている

それでクリスタルスペインのスペインに何十年をも生活して今も生活している人の発言は新鮮だった、それはそこに長く住んでいて事情を深く知っているからだ
肌で知っているからである
だからニュースの解説でも何か今までにない新鮮さを感じたのである
マスメデアの特派員の報告とは違う、そこに住んでいての実感であり実況放送だからである

それでギリシャの島にシリアからの難民が集中してその人たちが人権もないのかと騒いで暴力沙汰にもなっている、難民をそうしてかわいそうだからとして受け入れるといかに危険なことになるかと日本に警告している
日本も中国とか北朝鮮の難民がおしよせることがあるからだ
中国でぱもともと飢饉とかになると人民が流民化する
一時10数年前は出稼ぎで鉄道で家畜のように詰め込まれて都市部に流れていたのである
実際に鞭をもって車掌はつめこんでいたのである
それだけ都市部への出稼ぎ者が流民となって流れていた

そういうことがグロ−バル化すると起きて来る
大量の難民で国もパニックになり国自体が混乱して崩壊するという危機にひんする
だから簡単に難民を引き受けることも問題なのである
それは野良猫でもかわいそうだとなるが餌をやると増えるから困る
難民もかわいそうだからとしてもではその人たちのめんどうを見れるのかとなると簡単にはできないのである、だから地域猫として管理することが求められているのだ

武田邦彦氏の発言に注目したのは何よりも科学者であり技術者である
その経験がありそこから見る目が違っている
マスコミではそもそも理系の人はいないから科学的なことがわからないからである
そして文系について歴史などにも造詣が深いから現代が生んだ知性だともなる

先日見たばかりの加持正一氏の発言をも新鮮だった
彼もアメリカで実際に長く生活していて仕事して来たということは強みである
つまりアメリカのことを深く知っている、肌で知っている
それで日本がを対象的に見れるのである
また同世代であり人生を語れるのである
人生を語る時どうしても若いと語れないのである
どんな人でも老人になると人生をふりかえり語れるようになるからである
それぞれの経験がありそれで語れるのである
ただyoutubeとなると団塊の世代とは極めてまれである
そこで世代間のバランスがとれなくなっていた
だから40代くらいのITで成功した人たちをITアイドルとして批判しているのも貴重である
いづれにしろ日本を知る場合でも日本だけから日本は見えないのである
客観的に見ることができないのである
日本で当たり前のことが外国ではそうではないからである、もちろん外国もまた日本と比べると見えるのである、だから知識人になるには今は外国に生活して深く知る人でないとなれない、だからこの発言は新鮮だなと感じるのはたいがい外国生活が長い人である
ここにとりあげたのもそういう人達だったとなる

自分自身は外国旅行したとしてもあくまでも旅行であり生活したことがない
それで30代くらいでそうすれば良かったと思った
でもその機会を逃した、そして人生ではもう二度とそうしたチャンスはなくなる
その時やるべきことをやらないと後は二度と経験できない
だから50代で海外旅行したので良かった
60になってから介護になり何もできなくなったからである

実は私は本当はアメリカでも留学とならなくても他でも外国経験はできた
でも田舎にいてその頃外国旅行は相当に金のかかる時代だった
航空運賃が50万とか見たことがあるからだ、そうなると行けないと思っていたのである
でも実際は家に金はあった、それは家族のものだったけど頼めば行けたかもしれないのである、でもそのチャンスを逃してしまったのである
そういうことが必ず後で後悔になる、だから若い人は老人の人の話を経験を聴くべきなのである
若い人同士で話してもだめなのである、同じレベルであり先をどうするかとなるとかえって老人の経験談を聴いた方がためになるのである
林秀彦もそうである、日本が見えたからこそあれだけ罵倒して覚醒させようとしたのである、どうしても外国生活が長い、深く知っている人は日本が見えるのである

この人の本を最近読んで日本を罵倒しているがやはり外国生活が長いから日本が見えるから日本人に対して腹正しくなってあれだけ罵倒しているとなる
日本をまた時代をみるというときこれも歴史を参考にするというときもそうである
今を見るには過去を見なければわからない、今を見るには江戸時代を知り対象的に知ることである
それで銀行が窮地に立たされている時どうするのかというとき江戸時代の金融に注目している、無尽とか頼母子講とか江戸時代にも金融があり江戸と大阪での取引があり米の先物売買もあったり今にあることが過去にもあったからである
明治になってからそうした江戸時代にあったいいものを日本人は省みなくなったのであるそれで今頃になって省みるようになったのである

とにかくyoutubeの世界も新しいメデアの世界である
もともとネット空間は対話的だったのである、それはパソコン通信時代からそうだった
必ずレスがレスポンスが必要なメデアだった
ただ最近はプログでも長文でありyoutubeでも対話的であっても何か独演場となっている
そしてやはり何かを語れるのは人生とかなると老人がもっと語るペきだとなる
それがインタ−ネットでは少ないのである
第一何百万のyoutubeの登録者は小学生とか高校以下の人たちを相手にしている
そういう若い人向きのツールでありメデアだったがスマホが普及してそうなったのだが
それとともに一般化してきたのでネット人口は増えて来た
だからどうしても新聞とかテレビとか旧来のマスメデアはすたれてゆく
そんなにいろいろ見れないからである 

テレビではこれから優れたコンテンツなら見る、それは別にインタ−ネットでも見れるのである、NHKではすでにインタ−ネットでも同時配信して一週間くらい番組を常時見れるようにするとかなる
もうテレビでもインタ−ネット時代になりつつある
だからインタ−ネットは日常的に利用するものとなる
するとマスメデアのテレビからの呪縛から逃れられる
マスメデアがあまりにも一方的力をもちすぎたのである
そこで真実は報道されなかった、それを象徴していたのは原発事故だったのである
これも加持氏が言うように既得権益で固められていて批判できなかった
結果的に大惨事になり放射能汚染で住めなくなったのである
日本もまた既得権益者に固められたシステムで日本がそれによって崩壊すると予告する
しかし原発事故のように大惨事とならないかぎり日本人は目覚めないのである
でもその時はすでに時遅しとなっているのである

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日本人は自ら考えない民族である、思考力がない、なぜ外国で生活した人がそれをみんな感じるのか?
それは外国ではそういう生活が日常的だから日本人が対象的に見える
日本は本当に教育からて自ら考える能力を養わないのである
自ら考えるということも訓練だからである
まず何か疑問にもつ、なぜだろうとなる、そうして自主性をもつことができる
だから宗教は考えさせなくなるからカルトになるとファシズムになる
また考えないことによってただ上の命令に従うだけだとなり
それで日本がいつのまに破綻しているとかなる
それを証明したのが原発事故だったのである
上の命令のままになっていたら故郷にすら住めなくなったのである

日本も日本に住めなくなる!

そうなるのは日本人が自主的に考えて日本をみんなで作るという意志が必要になってくるのだ
それでマスコミやマスメデアは既得権益者に組み入れられているから真実は報道しない
そうしているうちに

原発事故のように日本人は日本に住めなくなる!

その恐怖が自分の住んでいる場所で起きたのである、だからそういう危機感をもつべきだが日本人は自ら考えないし
危機感も希薄である、そしてはじめて津波だ、原発事故で故郷にも住めなくなったという事実をつきつけられる
その時はすでに時遅しとなっていたのである

2019年12月26日

貨幣と証券とか債権とは先物相場とは何なのか? (キプロスの預金封鎖をふりかえる-警告のyoutube)


貨幣と証券とか債権とは先物相場とは何なのか?

(キプロスの預金封鎖をふりかえる-警告のyoutube)

貨幣がまずあった、キクチスーパーのカードは通用するのはキクチスーパーだけである
でもキクチスーパーは原町にもあるし相馬市にもあるし山元町の駅前にもあるから結構広くある、そこでは通用しているのである
ただキクチスーパー専用のカードなのである
それはキクチスーパーが発行する貨幣であり紙幣になる
ただこれは落としたり無くした場合無効になる
誰かが拾っても返してくれれば別である
でもその誰かがキクチスーパーで買い物してもわからないのである

これは他のカードでも同じなのでがゆうちょカードでもビザカードでも無くした時点で連絡すると誰も使えなくなるシステムになっているのだ

貨幣の謎は貨幣自体に価値がある、貨幣が金だったり銀だったり銅だったりする
それで貨幣にするために金が貴重になる、銀でも日本なら石見銀山とかが世界へ貨幣にするために供給された
金本位制が基本なのである、ただ中国では貨幣といように貝が貨幣となった経過がある
子安貝が貨幣になったので貝の漢字になった

金本位制から紙幣になるとその変化が大きい、なぜなら紙幣には何の価値もないからだ
紙にすぎない、そんなものをいくら保存しても何の価値があるのかとなる
それで江戸時代は蔵に千両箱を置いて厳重に鍵をして泥棒が入れないようにしていた
その貨幣は金だから貨幣そのものに価値があったからである   

1914年にはじまった第一次世界大戦により各国政府とも金本位制を中断し、管理通貨制度に移行する。これは、戦争によって増大した対外支払のために金貨の政府への集中が必要となり、金の輸出を禁止、通貨の金兌換を停止せざるをえなくなったからである。また戦局の進展により世界最大の為替決済市場であったロンドン(シティ)が戦火に晒され活動を停止したこと、各国間での為替手形の輸送が途絶したことなども影響した。

例えば日本は1913年12月末の時点で日銀正貨準備は1億3千万円、在外正貨2億4,600万円であり、在外正貨はすべてロンドンにあった。また外貨決済の809割をロンドンで行っていたが、1914年の8月に手形輸送が途絶した(当時はシベリア鉄道で輸送していた)。 

ここで興味深いのはイギリスが金本位制が始まり金融の中心になった 

在外正貨はすべてロンドンにあった。また外貨決済の809割をロンドンで行っていたが、1914年の8月に手形輸送が途絶した(当時はシベリア鉄道で輸送していた)。 

これは金の貨幣を運んだというのではない、手形輸送していたとなるとそんな紙切れまで輸送していたのかとなる
通信が発達しないからこうなっていた、、シベリア鉄道で輸送するとなるとその距離も大変だとなる、シベリア鉄道には乗ったことがあった
そんなして書類まで運んでいた時代があったのかとなる、その後はモールス信号とか電話とか無線とか通信の時代になっていることを見れば隔世の感がする

大阪の蔵屋敷に送られてきた米は、入札の資格を持つ米仲買商人に売却され、こ
れを正米取引と称した。
また、米仲買は米の代わりに米切手という証書を受け取り、
この証書を堂島の米市場で米問屋に売り渡し、これを帳合取引と呼んでいた。
前者現物取引、後者は先物取引である。

積むだけで、差金決済による先物取引が可能であり、現代の基本的な先物市場の仕
組みを備え、世界初の整備された先物取引市場であった。堂島米会所で決められた
米相場は、大阪の商品の値段相場の基本となった。
 明治になって堂島米会所は、幕府崩壊とともに廃止 

 先物取引とはどのような取引ですか?

 米切手なども手形とか証券とか紙幣の代わりのものだとなる
 米切手は米しか買えないものに限定された紙幣だともなる
 こういうのも貨幣とか紙幣の代わりに進化したものなのである
  
 こういうこは現代でも行われているから江戸時代から始まっていたのである 
米相場であり今なら石油とになっている、石油が先物取引になっているからだ
また北前船ではよる港で商品の値段が違っていたのでその差益でもうけていた

明治以降に日本では金本位制から紙幣になり資本主義社会となり株式市場化した
紙幣というのは証券とか債権の証文ににているのである
でも紙幣は誰の者か権利が特定されない、誰が持っていてもそれは使える、盗んでも使える、それでめれを所持している者を特定できない
だから紛失してもどらなっかたらその金は返ってこないのである

スーパキクチのカードは一種の紙幣である
スーパーキクチがある所だけで使える
一万円の紙幣でありそれで買い物ができる
でもなくした時点で無効になるから普通に使う金と同じなのである
でも違っているのはスーパーキクチでコンピュターに記録されている
ある特定の人がカードを購入しているからそのカードの持ち主を特定している
それで残金が8000円あったらそれは記録されているのである
普通に使う紙幣にはそういうことはない、落としたりなくしたら記録もされないのである

記録されることと記録されないことの相違は大きい!

記録されることは証拠となる、記録されなかったら証拠もないのだから誰のものと特定できないのである

通貨には金にはいろいろな形態がある、証券とか債権にも種類が多いように一つではないのである、だから貨幣自体紙幣自体でも複雑な要素がある
地域通貨とかあるとしてそれもある地域でしか通用しないものである
それがどういう意味をもつのか?地域がそれで活性化するのかわからない
仙台銭とかあったから地域通貨は江戸時代にあった
何か関所で今の時代のように為替の交換することもあった
地域経済が主流だと地域通貨もありうる、
江戸時代にも金融があり頼もし講などがあった、それは狭い範囲の金融組織であり銀行の代わりでもある、地銀を小さな藩よりも小さな地域の金融組織であり相互扶助的なものだったのである
でも明治以降は全国の行き来が自由になると共通の紙幣が利用される
それで小判とか金本位制は終了したのである

とにかく貨幣の機能には実際いろいろある
貨幣の歴史を調べるとそれが政治であり経済であれ世界史であることがわかる
だから貨幣に興味をもつのである

キプロスのことを書いたがそこは様々な国が交差するアラベスクのような国だった
古くはギリシャが支配して十字軍でイギリスが支配したりやがて大英帝国が支配したり
次にオスマントルコが支配したりと大国に分割されて支配された
そこにロシアが入ってきたのもロシアの金持ちが避暑地として選んだからである
またギリシャ正教がロシアに布教されることも影響していた
ギリシャ文字からロシアの文字も作られていたからである
イコンの信仰とロシア正教でもあり共通しているのである

そこでスペインに住んでいる女性がキプロスで起きた預金封鎖のことを報告していた
いかにここに国際情勢が金をめぐって反映されたかを知った
ロシアのブラックマネーが没収されたとかユーロ―に金を奪われたとかIMFがかかわり操作したとかなんとここがヨ−ロッパと中東とトルコやロシアの交差点になっていたから
そんなことが起きていたのである
シリア紛争の原因もロシアが深くかかわっていた、ロシアでもアメリカ中心とかヨ−ロッパに対して対抗心がありIMFとかで管理されることを拒絶していたからである
シリアの紛争にしてもこうしてヨ−ロッパとかトルコとかロシアとかアメリカの思惑がかかわりあれだけ複雑化していたのである
そういう国際情勢が反映されてあれだけの紛争になったのである

いづれにしろ貨幣とか紙幣とか証券とか債権には共通したものがある
貨幣はそれ自体に価値があるものとして発明されたが紙幣と証券とか債権はそういうものではない、その価値は常に経済の変化で価値変動する
つまりいくら紙幣でも千円がいつまでも千円の価値はない、物価があがれば価値がなくなる、またそれは株の有価証券でも同じなのである
常に毎日でもその価値は変動している、それは株と同じなのである

資本主義はいろいろな見方があっても基本的には資本を貯える→投資→利益を得る

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現在は金があっても資本があっても投資先がないのである
貯蓄とか交換とか消費があっても投資先がないのである
つまり資本主義が成り立たなくなっているのだ

このサイクルがあって成り立つ、でもそれが今成り立たないから危機なのである
銀行でもゆうちょ銀行でも地銀でも農林中金でも投資先がないから危ない投資をアメリカからもちこまれて損したらリーマンショック級の世界的混乱が来るとしている
それは専門家がみんなそう言っている、youtubeで見ているとそうなのかと納得する
第一日本経済をみて見ればカジノがどうだインパウンドをもっと増やせとかそんなことしか経済を上向きにするものがないのである
これを見るだけでいかに日本がすでに後進国になっている
つまりグロ−バル競争に敗れると実質的に他国の奴隷化するのである   

女性も安く売られたりする、カンボジアでは5ドルだとか驚く、十数年前はそんなに差があったのである
そこに訳のわからない年配の日本人がたむろしていたのである
そしてアンコールワットでは中国人が現地人に日本のホンダのバイクを貸して観光に使っていたのである
今はもう中国人がカンボジアを経済的に支配している 
そもそもカンボジアが一つの独立した国なのかどうかもわからないのである
こうして日本も今度は経済戦争に負ければおもてなしとかカジノとかで外国人の富裕層に奴隷のように使われるのである、それが過酷なグロ−バル経済なのである
それは殺し合う戦争ではないにしろやはり形を変えた戦争なのである  

良く理解できなかったがキプロスでは預金封鎖があり金持ちの外国人の金が没収されたとしている、ただそれも複雑だからその金がどこにもちさられたのか
EUにもちさられたとか奇奇怪怪になっている
その金が闇になりどこに流れたのか、もちされたのかもわかりにくくなっているのであるだから日本でも預金封鎖があるとIMFとかがかかわり金を奪われたりするから気をつけろとこのサイトでは警告しているのである

預金封鎖その2

欧州初の預金封鎖の凄まじい事実、
ドイツ、フランス、そしてロシアの裏にあのIMFの圧力があった!

証券、株、債券はどう違う?基本知識からネット証券までわかりやすく解説






2019年12月25日

スーパーキクチのカード紛失(続) (貨幣と紙幣とカードがありカードは有価証券なのか?)


スーパーキクチのカード紛失(続)

(貨幣と紙幣とカードがありカードは有価証券なのか?)

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 有価証券の所持人
原則として権利者として推定される   

 現金の所持人
券面の所持人は権利行使の際に権利の立証を要しない


<紙幣・コイン管理のリスク・コスト>
 従業員等の労務管理
内部・外部の盗難・強盗発生のリスクがある

物理的な紙幣・コインの管理

釣銭の確保・維持が必要となる
盗難防止のための措置が必要となる

経理上の金銭管理

データ化,集計に手間がかかる


キャッシュレス社会はさけられないことを書いた、貨幣は貨幣自体に価値があった
金銀の貨幣だとそれ自体価値があり小判だと金なのだからそれ自体に価値がある
ただ紙幣になると紙になるのだからそれ自体には価値がないのである
それは証券とか債権とにているのである
銀行に貯金しているのは銀行が顧客から借金したというとき債権化した
借りた金だから本当は必ず利子をつけねばならないのが理屈である
金貸し時代はそうだったろう、金を貸して利子をとるのである
実際にもし銀行にあづけて利子をもらえなかったら銀行は何になるのか?
ただ金を安全に保管している貸金庫のようになる
それは誰でもできるし銀行というものではないだろう
巨大な絶対に入れない金庫を作ればいいのである
そこには暗証番号とか鍵とかで入れないようにしておく、貸金庫と同じである

今回のスーパーキクチのカードが紛失したのはそのカードが実は紙幣と同じだったのである

有価証券の所持人

原則として権利者として推定される   

現金の所持人

券面の所持人は権利行使の際に権利の立証を要しない 

もしカードがこのように有価証券の所持者となっていれば原則として権利者として推定される
でも現金の所持人だったらカード(券面の所持人は権利行使の立証を要しない)
これは権利者として認められないということなのか?
現金を落としてもその現金を落とした次点でもう誰の者かわからない
その金を使ってもその所持人は別な人に完全に移行したのである
権利が移行したのである
本当だったら盗んだものとなるのだがもう誰の者か特定できないから権利を消失したのである

だからかえってタンス預金とかが危険になるのは盗まれた時点で何らか消失した時点で
その権利は消失しているのである
その金が誰の者か立証できないからである
銀行だと誰があづけたかわかるしその金を所持者を特定できる、つまり権利者を特定できるのである
だから安全なのはタンス預金ではないし現金を持つことでないとなる
今回のスーパーキクチのカードは現金と同じだったのである
一万チャージして8000円残っていてもそのカードを落として返ってこなかった
すると取り戻すことが不可能になる
でももしそれが証券とか債権であればそうはならない

有価証券の所持人

原則として権利者として推定される

権利者が特定できるからカードをなくした時点で連絡すれば使えないようにできる
使ったとしても実はその拾ったカードを使うとわかる場合があるかもしれない
いづれにしろ落としたことを連絡した時点で使えなくなる

ただスーパーキクチのカードは一万とか5000円とか限定してチャージして使えるのであるだからそれ以上は使えないカードなのである
ところが他のカードだと無制限に使える場合があるから危険なのである
大きな買い物もできるとなると危険である
だからなくした時点ですぐに連絡する必要がある

何かここでわかったことは金を持っていてもタンス預金だと盗まれたり消失した時点で
何の権利もなくなることである
でも銀行に預けるということは第三者が保証していることなのである

江戸時代だとそういう仕組みとにたものがあったにしろ現代のようにあらゆるものが数字化して証券債権化する社会ではなかった
貨幣でも小判とか銀を使用してその貨幣自体に価値があった
紙幣はなかったからだ、紙幣は証券債券になるまえのものとして生まれていたのである
それ自体には何の価値もないが金として認定されたものだからである

いづれにしろ私自身が大学の経済学部を出たしても何にも勉強していないのである
ただそれは名前だけなのである
おそらく経済を勉強するなら百万くらい与えて株とかいろいろ投資を学ぶことである
ただもう老人には推奨できないのである、その仕組みでも複雑で理解できないからであるただ現代の資本主義社会とかグロ−バル経済を理解するには銀行のことを知らねばならない、それで銀行とかかわりそれを理解しようとしたのである

とにかくキャッシュレス社会はさけられない、するとそういう社会は理解する必要があるそれはコンピュター社会の発展したものとして必然的にそうなったのである
なぜならコンピュター化しなければありえないことだった
IT化社会というのもそうである、コンピュターは記録することが人間より格段に優れているからである
あらゆるものを記録するのである、買い物でもすべて記録される
するとそこからその人の買い物をみてその人の性向までどういう人なのかまである程度わかるのである
それでアマゾンではその人の欲しいものを提示するのである
だからコンピュター社会とはいろいろあるのだが何でも記録する社会だということであるそれで犯罪者の名前が前科となりコンピュターから消えないと訴えるものもわかる

コンピュターは記憶装置であり膨大なものを記録できる
個人の記録でもそうである、いくら書いても負担にならない、それが記録される
だから自分の書いたものでも忘れているのが人間である
本当に自分の書いたものでも文章でも詩でもこんなことを書いていたのか読み直しているのも不思議なのである
人間ほど忘れやすいものはいないのである
だから過去になると膨大なものが忘れられてしまった、記録に残らなかったのである
すると歴史でも過去でも探ることがむずかしくなるのである

例えば相馬藩とかで相馬藩政史に慶長津波の二行だけ生波(いくなみ)で700百人溺死したと記されていたのである
それがいかに貴重なものだったかわかる、それ以外の記録が皆無だったからである
記録はこのように大事なものであり記録がないと証拠にもならないから悪いことした人でも裁判になれば負ける
裁判で必要なものは証拠だからである、証拠がないと有罪にされないのである
だから何らかの証拠を探すことが必要になる、メモでも何でも必要になる
ただこのコンピュターの記録する能力は無限である
でもまた反面一瞬にしし電子記録が消失する危険がある
これもまた常に恐怖していないとならないのである
本でも冊子でもなんでも紙に書いていた方が残る場合がある
だから記録の保存という点では必ずしも万全ではないのである
そうなると後世に残すにはやはり石碑のようにして記すほかないともなるのである


2019年12月24日

スーパーキクチのカードは再発行できない (カードが返ってこないと残金は没収される)


スーパーキクチのカードは再発行できない

(カードが返ってこないと残金は没収される)

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スイカはなくしても再発行できる、なくしたら使えないようにできる
連絡するとできる これは買い物でもできる所がある
チャージして使うからビザのようなカードとも違い気楽だともなる
毎日カードを買い物で使うとなるとこうしたものが使いやすいのである
そしてカードは一つに統一されると本当は楽である
何枚も持ち歩くのがめんどうなのである
そういうカードはなくしやすいのである



スーパーキクチのカードはチャージして使う
一万ジャージして2000円くらい使ったが落とした
そのカードはもどってこない
それはもどらないにしても記録されている
スーパ―側には8000円残っていることが記録されているはずなのである
明らかに8000円分はスーパーキクチの会社側に入金されているのである

だからなぜカードをなくしてそれが返ってこなかったらスーパーに金が入ったままであり返金はされない
ただ誰か拾った人が使うことができる
これは人を特定できないカードだからそうなっている?
その拾った人が買い物してもわからない
それはちょうど紙幣を落として拾った人がその金で買い物したり使ったりしてもわからないということである

ここに何か大きな問題があった!

キャッシュレス社会にするための問題があった
suica(スイカ)といきうJRが発行する切符なしのカードがある
それはカードをかざせば切符代わりになる
それは自動的にコンピュターに記録される
そして話題になったのが改札を通るだけでカードをかざすだけでも乗れるとニュースであった
そしてこのスイカはスーパーでも連携していれば使えるのである

これは再発行できる、無くした時点で連絡すれば使えなくなり後で再発行できる
だから今回のような私の損失にはならないのである
他のカードもそうなっている
ただクレジットカードでもいろいろあり気軽に使えるのとそうでないものがある
毎日買い物にするのにビザとか使うのはしにくいのである
だからスイカのようなものがあればしやすいとなる

こういうことはスーパー側で備えるべきだとなるがそうなると資金とかがかかりめんどうになるのかもしれない
キクチスーパーのカードは一回店員に見せてそれから入金を確認させる
ここで一回手間になっている、他のカードだと一回だけなのである
だから他のカードの方が手間にならないし安全だともなる
ただビザカードとかなると使いにくいと思った
毎日買物する旅にそれを出すのが何か怖いとなる、紛失しやすいからである

でも再発行はされるべき

こうすれば紛失しても入金した分はもどるし減らないのである
こういうことはキャッシュレス社会では備えるべきだとなる
これから顔認証とかなり顔でその人を特定して入金する
そんな社会にもなるし中国ではある程度なっている

とにかくコンピュターというのは何でも記録する、それが得意なのである
今や金は数字であり数字として確実に記録される
だからスーパーキクチのカードの残金は記録されているしそれが証拠になる
人間はミスがあってもコンピュターにはミスがそういうことではないのである
ここはスーパーでも改善すべきである
ただこういうことるなると費用がかかる
自動機械で金の出し入れをするうよになったときも設備費用でかかった
でもそれで人件費とか節約できたから損したとはならないだろう