2019年08月06日

読むべき本ー場所の現象学(エドワード・レルフ) (アイディンティティは場から形成される)


読むべき本ー場所の現象学(エドワード・レルフ)

(アイディンティティは場から形成される)

根をおろすということは、おそらくもっとも重要であるけど最もわずかしか認識されていない人間の魂の要求である
人間は誰もが多様な「根元」を必要としている
人間にはその自らの一部を形成している環境を通してその道徳的知的、精神的生活のほとんどを引き出す必要があるのだ

この本はバイブルのような感覚になる、それは自分自身が、追及してきたことだからである、現代文明の現代人の問題は場の喪失、アイディンティティの喪失にある
それはグロ−バル経済とか広域社会とか交通の凄まじい発達とか通信の発達とか外部との交流が飛躍的に増大した、モバイル社会である
ただ反面そのためにアイディンティティが喪失したのである
地球の裏側から物が入って来たとしてもアイディンティティとは関係ないのである
第一果物でも食料でも入ってきてもその土地のことなどわからないし関係ないからである
こういうことは便利さを求めて交通が発達した結果もたらされたのである
そこで物欲は満たされたとしても精神は空虚化したのが現代なのである
現代はみんな故郷喪失者になったのである
人間は物欲に満たされても何か満たされない空虚感につつまれているのである
現代人には文明人は精神の充足感がないのである
みんな精神的に疲れ鬱病が増える、それは何か本来人間のあるべき場の喪失とかアイディンティティの喪失のためである

人々と場所からの疎外、帰るべき場所の喪失、および世界の非現実感と所属先の喪失感をともなう、
そのような観点からは場所は意義ある存在の中心ではありえない

東京とかの怪物都市となるとそれが現実に思えない、何か幻影のように見える
そこでとても人間精神は涵養できるものではない、巨大な異空間の中で人間は言葉を失いまたアイディンティティを失うのである
現代人はアイディンティティをもつ場を失っている
江戸時代とか農村が社会の中心だった時は自ずとその土地と密接に結びついてアイディンティティが形成されていた
それは代々継続される時間がありそこが一つのミクロコスモスとしてアイディンティティをが形成されていた

だから人が死ぬと山に還りそして春になると田植えの時期に先祖がおりてくるというのはまさに時間的空間的にそこに心もあるとういことなのである
それは一代で終わるものではなく営々とつづく、先祖との関係もその場を通じてありつづけるのである
お盆というとき死んだ人を迎える時それは家だったりその土地だったりする、死んだ人もアイディンティティとして生きた場所にありつづけるという日本的信仰にもなる
それは都会ではありえないのである、だからお盆とはそうしたアイディンティティの場所に還るという祭りだともなる

金門田《かなとだ》を 荒垣ま斎《ゆ》み 日が照《と》れば 
雨を待《ま》とのす 君をと待とも 
  〜作者未詳(東歌) 『万葉集』 巻14-3561 相聞歌

門のそばの田が荒れていれば掻いて清め
日照りが続けば雨を待つ
そんな気持ちで貴男をお待ちしているのです 

門の前の田とかは重要な田だった、農家では今でも前の田とか畑で農作業している
家続きだから庭のような感覚にもなる、家と仕事場が一体化していたのである
前田となるとそこは草分けの農家が最初に開いた所で重要な村の中心となっていた
とにかく遠くに通って働くということはない、だからこそ余計にその土地と一体化するアイディンティティ化しやすいものがあった
そういうふうに自然と一体化した原始的心性から歌われたのが万葉集である
だから現代ではこういう歌は作りえないのである、他の歌でも自然と密着した心性は失われた、確かに現代でも農業している人はいてもそういう心になれないのである


道の辺《へ》の 茨《うまら》の末《うれ》に 延《は》ほ豆の 
からまる君を 別《はか》れか行かむ
   〜丈部鳥《はせつかべのとり》 『万葉集』 巻20-4352

道端のイバラの枝先に絡みつく豆のつるのように
別れを悲しんで すがる妻を残して 自分は旅立たねばならない

 755(天平勝宝7)年、上総国(千葉県)の防人の歌です。「ノイバラ」を詠んだ歌であるとともに、唯一「豆」を詠んだ歌でもあります
 

この豆は野生のものであり必ずしも畑で栽培したものとは違うという見解もある
こういう歌もそうである、別れるという時、野生の茨(うまら)がからまってくる君というとき自然と一体化した人間の心情が現れている、今だとどうしてもこういう発想にならないのである
だから万葉集の世界は自然と身も心も一体化したものとして歌われたから貴重だとなる

現代は本当にそうした場が失われている、そうした身も心も一体となった所から発想しない、それで抽象的なものとなる、抽象的時空がイメージの中で作られてくる
そして膨大な情報社会になったとき余計にそうなったのである
そしてその情報でも抽象的になり場から離れて膨大な情報にふれる
でも実際はそうした情報は一過性の中で消えてゆく、時間の継続で消化されない
原始社会だと何か事件があったらそれをその部族の中で語りつづける、それが歴史となり継続される、今は次から次と事件を消化しないままに次の事件が起こりただどんな凶悪な事件でも忘れられる、次の凶悪な事件が起きて忘れられるのである
それは場の喪失から起きてくる、記憶する継続する場が失われているからである
何か起きることはtake placeであり場所と関係していたからである

大衆的アイディンティティは集団や個人の経験から発展したというよりも、世論を誘導する者によって与えられ、できあいのアイディンティティを人々に与え、商業広告を代表とするマスメデアを通じて広められる
それは最も表層的な場所のアイディンティティであり感情移入的内側性の余地を全く残さず場所との一体化の基礎を破壊することによって実存的内面性をむしばむ
マスメデアはその受けてが直接に経験できない場所に単純化され選択されたアイディンティティを都合よく与えて偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする

現代の情報社会の問題がここにある、特にマスメデアというときテレビの影響がそうしたのである、その影響はあまりにも大きいものだったのである
その情報の致命的なのはその場を知り得ないことから起きている
なぜならテレビに映し出されたものはその場での時間空間を実際は経験できない
一部を恣意的に切り取られたものを提供されているしとても実際の場に立って得るものとは違うからである

だから不思議に思ったのは私がその土地のものとその生きている場所で話すとき話がはずむ
何か言葉でも生き生きしてくる、言葉が活きてくる、それはその場が具体的に反映してくるからそうなる、それは決してテレビとか見ては感じ得ないものなのである
その場がどういう場所かはその場に立たなければわからないのである
そして現代では交通の発達で車社会になったときその土地土地の場を感じないのである
ただ通り過ぎて行くだけになる、歩いてゆくならその場を感じるものがあるが車で突っ走ればなくなるのである、つまり旅をしてもただ移動するだけだとなる、通過するだけだとなってしまうのである、だから旅しても何か表層の旅であり深くその土地とコンタクトできないのである 

まず芭蕉のような旅は現代ではできない、ただ通り過ぎてゆくだけの旅である
かえって便利になりすぎてその土地と交わる経験ができないのである
だから現代の文明は芸術にしても深いものが生まれないし土地とのアイディンティティももてず空虚化しているのである、そこにかえって人間の生が価値あるものとして現れない要するに人間の根とある場をもたないのが現代人である
心とはこころ、ココであり場所のことだったからである、場所から離れて心はありえないのである

そして原発事故の最大の被害は今までそうして住んでいた場が奪われたことである、住めなくなったことである
たしかに補償金はもらったとしても精神的に失われたものは補えないのである
ただそこに住んでいる人も別にこんなことは考えない、そこに生活して自ずから無意識にその場が心となっていた
ただその場が失われたとき何か重要なものが失われたことを自覚したしその価値を知ったのである
そういうことはなかなか自覚しえないものだったのである
そういう精神的なものには値段がつかないし金で売買できるものでもないからである
でもそういう精神的なものこそ生きる拠り所になっていたということを自覚させられのが原発事故だったともなる
ただ実際はそこに生きていた人たちがこんなことを自覚はしていない、便利さを求めて金を求めていただけであり
それが価値あるものとして生きていた訳ではないのである
それで価値とは何かというときそれはすべて金で売買できるものではないのである
それが余りにも金が万能になりすぎたのが現代なのである、そこでアイディンティティが喪失しているのが現代なのである
根無し草になっているのが現代人なのである


2019年07月22日

なぜ金がかかわると不純になるのだろうか? (インタ−ネットでも金稼ぐことのために不純になった)


 なぜ金がかかわると不純になるのだろうか?

 (インタ−ネットでも金稼ぐことのために不純になった)

最近インタ−ネットも現実社会と変わりなくなった、ともかく金を稼ぐことができるかと目の色を変えている
それはプログでもそうである、年収一億とか稼いでいる人がいたとしたらそんな人ありえるのかとなる、youtubeだといる、するとその金にひかれる人間が必ずいる
自分ももうけたいなとプログでもyoutubeでも始める人がいる
そして稼ぐためにインタ−ネットでもyoutubeでもテレビ化する、マスコミ化する
受けを狙う、そこで何かまた本来の趣旨と違ったものとしてインタ−ネットが作用する

youtubeの世界でも企業が人気のあるyoutubeを選んで雇い宣伝に利用しているという
それはマスコミとかテレビと同じになっているのだ
いくら人を集めるか、視聴率をとるかが最優先される
今までは個人で自由に発言していたが企業の宣伝として雇われる
そうなると本来の趣旨からはずれてしまうのである

ただ正直プログでもyoutubeでも何か人に見せるものを作るとなると時間がかかる労力が必要になる、プロのようになると労力と時間がかかる
だから片手間にやれるというものでもなくなる
そこでどうしても維持するために金を稼げないとできない
そもそも動機が金を稼ぐということからはじめる人も増える

何かそこでつくづく人間の矛盾は金がかかわると不純になる
でも金から人間は離れられないのである
だからボランティアというときそれは金にかかわらない自発的動機がありしている
すると不思議に純粋なものとなっている
駅でボランティアすれば動機は純粋であり住んでいる街の人のためだとか鉄道が好きで鉄道を維持したいからとか動機がありしている
結局誰にも認められず排斥されてできなくなったが動機がありその動機に金を稼ぐということもまた認められたいということもなく純粋に鉄道のために町のために自治体のために多少や役にたちたいというだけだった
でも全く認められないとか排除された、でも何かありがとうと外部から来た人には言われた、だから今はここに住んでいる人にはかかわらないが外部から来た人に案内したりする

なぜ人間は金がかかわると不純になるのだろうか?
純粋に何か目的があり別に悪いことでなくても金がかかわると不純になるのである
金が優先されて本来の目的が失われる、そんなことこの世の中に普通にある
だからこれは何なのだろうとなる
インタ−ネットは前はこんなに金がかせぐとかなかったしできなかった
それが今や世間と同じであり利益追求の空間となる
その時何か不純なものとして本来の趣旨からはずれる
とはいってもそもそもこのインタ−ネット空間を維持するものは誰なのか?
それは無料ではないからグーグルとかは宣伝費で維持できるのである
インタ−ネット空間自体を維持するのに莫大な金がかかるのだからそうなる
でもそこでグーグルに独占されるとかなって問題になった

いづれにしろなぜ人間は金がかかわると不純になり本来の目的からはずれるようになるのか?これは人間社会にとって変わらぬ大きな問題だと気づいた
例えば遊びでもそうなのである、遊ぶとは何か子供だったら利益を得たいということでするのではない、純粋な遊びとして追求している
それでチンパージ―に数を教えるとかして遊びとしてやらせたらそれに夢中になった
でも褒美としてバナナを与えたらそのバナナをもらうことに気をとられて純粋に遊びに熱中できなくなったという
これは人間でも同じである、金を稼ぐということが目的になり本来の趣旨とは違ったものになるのである、それはあらゆるところで起きているのだ
医者でも金を稼ぐためにいらない薬を与えたり金を稼ぐことで本来を体を直すということだが金を稼ぐ物として病人を見る
そういうことが社会では当たり前のようにある
でも金を稼ぐということを否定したら食べていけない、生活できないからすべて否定はできないのである

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
  そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
   マタイによる福音書     
   
人間の社会はこうなっていない、まず金を稼ぐことを求めなさい、その目的と動機より金を稼がなければどうにもならない、みんなそうなっていて働いているのである
その働く動機が純粋であり目的がありそれを追求はしていないのである
また追求できないのである、そこに金がかかわると不純なものになるからだ
だから天国とは金にかかわらない、神がその動機が純粋ならその他の物は食料でも住む所でも与えてくれるという世界である

とにかく金を稼ぐということばかり頭にあると本来の目的が達せられないのである
だからある分野では教育とか福祉とか報道とか何か公共的なものでは金を稼ぐためにだけにさせると必ずそこは汚される場所になる
そんなこといってもどうにもならない、それが社会だとはなる
でも不思議なのはその人に働く動機がありその動機の純粋さを保ち目的を遂げるために働くときその人は一番おおげさにいえば神の意にかなっているとなる

だからインタ−ネットの空間は今やあまりにも社会と同じになってしまった
金を稼ぐ場所として追求される
でも金をもらえないと個人的に発信するにしてもできないことがある
それだけの労力と金も必要になるからだ
私の場合は余裕があるから金を稼ぐということにそんなにこだわらない
でも金が欲しいということはある
金から人間は逃れられないのである

ではどうしたらいいのか?
プログでもyoutubeでも見ている人はそれに賛同したりしたらやはり自主的に金を払うという仕組みが必要になる
でも人間はそうした情報に金を払いたくないのである 
私自身毎日見ているプログが一つだけある、でも金を払っていないのである、金を払う仕組みがあるが払っていないのである
でも新聞社とかは金をえなければ情報を提供できない
それで検索するとき必ず日本経済新聞社の記事がでてきて金を払わないと全部は読めないこれも検索に引っかかり安いから効率的ではない
また検索するにしても数が多いから無駄なものが上位にきて探しにくいとなる
いくら検索するにしてもこの検索することはAIでも限界がある
それは人間でしなければできないことがわかった
やはり専門分野の人が集まり情報を整理しないと効率的にできないのである

なぜか今日の一句一首に一週間くらいアクセスが増えた、でもページビューだから訪問者は増えないのである、でもなぜこんなに増えているのか?
相馬郷土史研究とあわせるともし一か月つづけばだか30万くらいになる
一週間くらいつづいていることも不思議なのである
そこまでつづくとなるとはありえないだろう
こんなにアクセスされたことがないのである
ただダブルことがあるから実数はわからない
ただ膨大な記事があるからそうしてページビューが増えても不思議ではないのが自分のプログである
これはロボットが来てそうなったとも思えないのである
ただ様子を見ないとわからないが今までになかったことである
なんとか今まで書いたことを整理しようとしている
それが簡単にはできない、ワードプレスとかやろうとしたがこれもできない
めんどうになる、何か年になるとめんどうなことができなくなる
若かったら挑戦していたからである
どうしたらプログとかホームページでも整理するのが今の自分の課題なのである    

 個人Youtuber全滅の危機!?今後のYoutubeについて思う事

ここでは企業がyoutubeに参入して個人youtubeはやっていけなくなる
企業には勝てない、個人は専門家を集めてやるほかないという
一人では自分もしているが限界を感じるからだ
ただ自分の場合は書くことはいくらでもある、種が尽きることはないのである




2019年06月29日

林秀彦のおテレビ様を読む


林秀彦のおテレビ様を読む


マスコミとかテレビ局のことを今盛んに批判する、その影響力が大きすぎたから批判するようになったのである
マスコミはやらせであり嘘つきでありただエキストラを使ってインタービューをしてテレビ局のシナリオ通りに発言させるだけだとyoutubeで指摘していた
テレビ局はみんなやらせだ、信用していないから見ないとしている

そもそも報道とは何を追求しているのだろうか?                        

あなたは報道局にマスコミにテレビ局に入り何を目的として働くのですか?

それは働いてみないとわかりません、でも何かこうしたいとか抱負があるでしょう

私は真実を追求したいです、国民に真実を知らせて国民を間違った方向に行かないようにしたい

そうです、真実を知らせて真実を追求する、それが報道の目的です

こういう会話があったとしてもではその真実が報道されるかというと現実はやらせでありマスコミは真実を報道しない、何かテレビ局の意向がありそれで報道はまげられる
インタービューでも役のない芸能人を使ったりエキストラに金をやってしゃべらせたりしている、テレビにはマスコミでも真実は追求していないのである
一番追求しているのは視聴率である、それで起業から宣伝費をもらうからである

マスコミ批判は今はインタ−ネットで常にありもうテレビは見ないという若い世代も増えている、NHKでもやらせ番組を作っている、NHKもやり玉に常にあげられている
もうテレビ自体を酷評した劇作家がいた

金儲けする最善の道はその取引相手が馬鹿であることだ、そんなこと誰だってわかる
あらゆる(勧誘はだましのテクニックだ)

テレビは企業の宣伝媒体でありテレビを支配しているのは金をだしている企業だとなる
その目的ははっきりしているそのテレビを支配する金をだす企業の利潤追求のためにテレビがありマスコミがある(おテレビ様と日本人ー林秀彦)

林秀彦は10年前に死んでいた、都築詠一氏もネットだけで発言して死んだ
何か共通点のある辛辣な批評家だった、林秀彦の本は最近読み始めたので遅かったとはなる、でも本を残しているから検討できる
やはり外国暮らしが長い人は日本のことが良く見える

そもそも報道の問題は金がかかりすぎてその金を得るために大企業と結びつく
病院でも高価な設備をそろえると馬鹿高い金がかかる
それを回収するために脳の写真でも一日10人診ないと回収できないとか言っている
それはマスコミでも同じである、設備と人件費にかかるからそうなる
そういうふうに無理すると不正もするようになる、必要のない薬も宣伝して売るとかなるつまり何かこの世の中は莫大な無駄なものに金を使っているのだ、浪費されているのだ
それがまわりまわって国民の税金となって徴収されているのである

林秀彦は日本自体嫌悪するようになり外国に暮らすことになった
日本を賛美する右がいるけど日本をこれほど辛辣にこきおろした人もいないと思った
それが説得力がある、それよりもうテレビとかスマホでもそういう機械が人間の間に入るとそれによって人間はゆがめられ心が通じなくなるとしている

機械が介在すると人間は非人間化する、車に乗ると人が変わる
まったく自分の意識と無関係に人格が機械化する
機械が人間の一部に決してならず、人間が機械の一部になる
テレビと対面している人間、インタ−ネットと対面している人間は顔が変化する
高貴さが失われ下卑る、アホ面になる
それまでその人が蓄積した人間性が一挙に消え去る
テレビに出る側、製作に関与する側にも同じ現象が起きている、スタッフも全員ロボット化している、無意識に

こういうことは別に古代からあった、ソクラテスは文にすることを嫌い語ることしかしなかった、文にすると言いたいことがまげられるとしてただ直接語ることしかしなかったのである
文にすること自体すでに人間にとって別な次元の体験になるからである
肉声でしか話さないともなる、もしスピーカーでもそれが媒介とするときメデアとするときまともに言いたいことが伝わらないともなる
本当の声が声でなくなるということはありうるからだ
面と向かって話すときは言葉だけではな表情とか感情がかならず加わるからである
そういうものが省かれてしまうからである
別にそういうことが機械文明なのだから人間は機械に酷使されて疲弊していると批判する人はいくらでもいる、人間は最後はロボットに使われる奴隷にさえなる
林秀彦がテレビをこれほど痛烈に批判したのは自分自身が劇作家でありテレビ側の人だったからである、そこに深くかかわり嫌悪するようになったのである

正直日本人だげてはない、文明人はもうまともなものがいない、そういうメデアでも機械でも人間の本来持っている人間性をゆがめる、まるでテレビが身近にあり何でも教える師範のようになっていること自体異常だとなる
テレビがお茶の間の中心になったこと自体が異常なことだったともなる
なぜならテレビは俗悪でありまた見る人もそもそも俗悪であり一切そこに人間を高貴にするものがないとしている、テレビとはそういうものだとしている
大衆が生んだ俗悪なものの象徴だったとしている
パンとサーカスでありニュースでも他人の苦しみも見学するショーとなる
現実に野獣と人間を戦わせるのを見ていて楽しんでいたからテレビでも常に形は変わってもそういうことをしている、戦争でもショーとなる、見ているだけなら面白いとなるだけだからである、イラク戦争でも日本で関係なければそうなる

つまり真実を追求するということが報道の使命というときそんなものは一切ない
大企業の宣伝媒体でありそこに人格を向上させるとか真実を知る知識を得るとかは一切ないとしている、テレビを見ているだけで馬鹿になるとしている
本当に一番認知症になりやすいのは嫁にばあちゃんはなにもしなくてもいいですよ、テレビを見ていてくださいと言われた人なのである
つまり人間を痴呆にするのがテレビなのだということになる
ただここまでテレビをこきおろせることには感心した、やはりテレビ側の人だっから余計に嫌悪するようになったのである

つまりこういうふうに嫌悪すること汚いものを嫌悪することができるのは正常な冴えた認識をもっている人なのである
カルト教団に入ってそこがまともだとして活動している人はありえない、創価のように毎日幽霊会員を一票入れてくれと回ることをしていてもそこに疑問を感じない
何かそういう人は麻痺している、それはテレビでも同じなのである                  
テレビを支配しているのは創価の民音であり芸能人は創価関係者が多いという時まさにテレビもそうういものだとなる、芸能人と暴力団は昔から必ずかかわっているからこれも人間の業(カルマ)として変わらないとなる
人間のしていることは今だけではない、ただ手を変え品を変えて継続されているのである

それだけではない、この世の中に憤りを感じない人間はもう悪に染まっても何も感じないのだ、この世がいいところだととかなっていたらその人はこの世にどっぷりとつかっている人である、そして悪もこの世の汚さも感じなくなっているのだ
この世に何か怒りを感じるのが普通である、この世に不正に怒りを感じなくなったらどうなるのか?この世に何か悪いことがありますか?
こうなったらもうこの人はこの世の悪にどっぷりとつかっているのである
テレビにはそうしてこの世の悪になんにも感じないのであるただ大衆の俗悪さをいいことにそれに便乗して金儲けするだけだとなる、そこで一番問題になるのは視聴率だとなっているのである

いづれにしろ正直もう人間に接してもまともな人間はいない、みんな俗悪なテレビ人間の類しかいない、そもそもこの文明から何かまともなものが発信されることも追求されることもないのである
それを人間社会に人間に求めることはもう不可能なのである
ではどこにも求めるのか?

何か自分自身奇妙だけど社会から引きこもり60歳まで過ごした
引きこもって禅僧のように自然そのものと山と木とか石と向かい合い真実を求めて来た
人間には求めない、山や木や石や岩と向かい合えばそこに神の真実が見える
神の真実と向き合うことになる、そこから人間に満ちている嘘偽りは全くないのである
人間は嘘偽りしかないからである、第一職業自体みんなそうなのである
弁護士が正義を追求すると思えば法律を盾にして金を追求している
銀行でも老人から投資信託とかすすめて手数料商売になる、損しても銀行は絶対に損しない、客が損するだけの商品なのである
地銀など投資信託のことなど全然知らないのにすすめていたからである

いづれにしろこの世の中マスコミであれどこにも真実はない、職業では宅建というか住宅関係くらいがまともだとなる、そこでは嘘はつけないからである 
住宅が壊れたりしたら責任が問われるからである、ごまかしにくいからである
後はなにかしら嘘つくことが多いのである
だからこの世にまともな人間はいない、するとどこに真実を追求できるのか?
それはこの社会から離れて禅僧のように引きこもり自然の真(まこと)に接することである、そこに嘘偽りのない神が創造したままの世界が今もあるからだ
つまり極力テレビは見ない、雑音に接しないで沈黙の行をすることだともなる
そうなると社会では異常化するから禅寺にこもりそれを認めてもらうほかないともなる
なぜなら社会ではそうしたことをしにくい、どうしても社会に合わせなければ生活できないからである

テレビの「ヤラセ」の実態を暴いた証拠画像がこちら!
                                                              

2019年06月28日

情報社会とは何なのか? (モノより情報自体に価値がある社会)


情報社会とは何なのか?

(モノより情報自体に価値がある社会)


情報社会というときこれも何なのかわからなかった、情報社会はインタ−ネットが社会で一般化したときからはじまっていた
そしてスマホになりそれは世界で一般化した、ベトナム人でもネパール人でもスマホをもっているからである、スマホを通じて世界が情報化したともなる
つまりインタ−ネットとスマホで世界の情報化のインフラができあがったとなる

でも情報化というときそれは社会にとって世界にとって何を意味しているのか?
それが良くわからないのである、これがわかるのは情報を発信しなかぎりわからない
受け身で情報を受け取るだけだとわからない
情報化社会とは情報を誰でも個人でも発信できることにあったからだ
それが一番の変化だった

なぜならインタ−ネットがない社会の世界の情報はすべてマスコミに握られていた
一個人などかかわることができない、マスコミで発言できなかったら情報を伝えようもないからだ
それでどれだけマスコミの力が大きく第3の権力になったのである
テレビに何を発言するかではない、テレビに出れば顔が売れる、それだけで議員でもなんでも力をもつことができた、何百万人の人にテレビに出れば知られるからである

でもテレビで発言できたものはテレビ局から選ばれたものでありテレビ局の指示通りに発言する人である、テレビ局の意に沿わない人はテレビには出れないのである
そして何も発言できないしテレビ局の言う通りになる
だから原発の危険性とか原発を反対する放送はほとんど見かけなかった
それは福島県のマスコミでもテレビでも雑誌でも新聞でもそうである
なぜならテレビ局は新聞社が経営しているから同じになるのである
それで原発事故が起きたとき朝日新聞社の幹部まで東電に中国に招待されていた
その歓待されていたとき事故が起きたことでも象徴している
電事連からは800億という宣伝費が東電に流れていた驚きである
電事連というときそこは労働組合も入っていたのだから野党も関係していたのである

ではなぜマスコミがこれほどまでに力をもっていたかというとテレビ放送できる権限は六局しかない、するとそこに情報のすべてが集中することになる
そしてその影響は何百万人が必ず見ているのだから大きいのである
世界でもイラク戦争の時がそうだった、海鳥がイラクによる戦争で油まみれになったという映像が世界に衝撃をもたらした、それはやらせだったのである
それだけ映像の力は大きかったのである

いづれにしろ情報社会とは何なのか?
情報がマスコミだけのものではない、庶民へ一般人のものになったのが情報化社会である情報は今までマスコミを通じてしか伝達されなかったからである
それで私が無人駅で案内してそのことで具体的に鉄道のことに興味をもってプログで放送した、無人駅から鉄道全般の問題に波及して社会を知ることになったのである
それはただ無人駅になったので昼間買い物帰りにちょっとよって様子を見ていたことか偶然にそうなったのである
誰もいないから偶然に案内してそうなったのである

第一そんなところに伝えるものがこれだけあったということは意外だったのである
ということは本当はどこでもささいな仕事の場でも伝えることがあると思った
それができるのがインタ−ネットだとなる
そういう個々の目立たない仕事の場では伝えることがないと思ったからである
放送という時、目立ったもの事件が主になるからだ
ありふれたことは放送されないから知ることができなかったのである

情報社会とは何か?それは農業だったら確かに作物に関心がありそのことに一番関心がある、しかし農業自体にどうしてその作物ができるのかということに興味をもち知りたいということもある
私自身がそうだった、田舎にいるからみんな農業を知るとは限らない
ただ田畑に囲まれているのだから何もしなくても都会とは違う
でも実際に農業にたずさわる人は田舎でも少ないのである
だから農業のことを実体験として知っている人は少ないのである

それで小さな畑で野菜を作る人と知り合い実体験としての農業の話を聞いて興味をもった冬にかえって野菜は育つというのも意外だがそういうことは知識で知っていた
冬(ふゆ)は増えるから来た言葉であり農業の実体験から生まれていたのである
その人はしきりに冬は作物が育ちやすいと言っていたからである、これも意外なことなのである
そういう情報をじかに聞くことでその人に作物は何ももらえなくても資金の援助をした
結局作物は何ももらっていない、ただ話を聞いただけだとなる
でもふりかえるとそこでの実体験の情報をじかに聞くといことで情報に価値を見出して金を払っていたとなる

こういうことができた金額は実際大きいものだった、その人はいつも金に困っている人だったからである      
このように今の社会は作物自体に価値があることは言うまでもない、でもそれにまつわる情報にも価値が出る社会である、それはある程度余裕ができたからとはなる
そうでなければそんな情報だけに金を払うなどありえないからである
つまり情報社会とはモノだけではない、そのモノにまつわるものに価値が生まれる社会である
実際その人は別に家に来ても何もしない、畑の話をするだけである
二三枚皿を洗ったが今はしない、家事は全部自分がしているからである
つまりその情報に金を払っている、他でもモノだけではない、情報に金を払うべき時代なのである
情報は無料だとはならないのである

例えば喫茶店でもレストランでも見晴らしのいい所にあると安らぎ覚える
それは食べるだけの価値ではないのである
ただたいがい街の中にあり見晴らしとか景色を楽しみコーヒーを飲んだり食事する所はまれなのである
そういう付加価値を今は求めている、外食産業が落ち目になっているのは必ず同じもので飽きるからである、でも景色とか飽きないのである
季節感があり飽きないのである、だから景観の価値は消失することがないのである
食事は必ず飽きる、だから価値が永続できないのである

それで相馬市の日立木の柏崎のカフェドマニは景色もいいし薔薇の庭があったからそこで価値を生み出している、海老のニコニコ堂も納屋を改造して作り隠れた所にあり庭もあるから価値を作り出している、庭を散策するということで価値を生み出している
つまり食事だけではもう価値を生みだせない時代になったのである
こういうふうに時代によって価値が変わってしまうのである
ただ食事だけを出してもうける時代は終わっているから外食産業は別な付加価値のあるものを提供しなければ衰退すると説く人がいたのもわかる

観光というとき情報社会と密接に関係している、もちろんその土地のうまいものを食べたいという欲求は変わらない、それと同時にその土地のことを歴史文化でも知りたいとういことがある、その歴史と文化を知って食事を味わうと楽しさが増すのである
それを外国旅行ではバックパッカーで金がないからできなかったのが残念だったとはなる日本ですら郷土料理自体食べられない、どこでも同じである
郷土量料理を食べるとしたら相当に高くつくからである
ただ料理も文化なのだからただ食べるだけが人間ではないからその料理の成り立つ由来を知ることでその土地の歴史や文化を知ることになる
それで面白かったのがリヨンのブションという料理の由来である

メニューは豚、牛、羊の頭や足、胃袋、心臓など、内臓系料理が多いのが特徴。 貧富の差が激しかった当時、メール・リヨネーズたちが安価な臓物を美味しく調理し、労働者に提供していた事からこのような料理が生まれました。

こういう由来を聞くとヨ−ロッパの階級社会を実感する、料理は韓国でも中国でも宮廷料理があり一般の庶民に普及した
日本で殿様料理がない、それは侍も庶民も同じようなものを食べていたともなる
ただ城下鰈というのがあり侍しか食べられないものがあったから日本でも侍料理があったとはなる
まず外国ではそうして何か歴史と文化を知るのは容易ではない、だから自分は旅ししてもほとんどそういうことは知ることはできなかったのである

経済学者は絵画の販売量を経済学の科学的な研究では考慮の外に置くことにしているのである、その絵画のもっている本来の(essential)その作品そのものの価値をなんらかの質として認識していない、経済学者は量を計算して質を知ることがてきない
富のなんたるかを知り得ないのである(ラスキン)

文化経済学とかでも言うようにまさに情報の価値とはこういうことでもある
ただ絵画とか音楽でも鑑賞すること自体がむずかしい、詩ももっとも鑑賞しにくいから
その価値が認められないのである、すると量として計れば価値がないものとなってしまうのである
ただ成熟する社会では経済だけの価値だけですべてを計ることができない
金だけですべてを計ることはできない、人々は文化的な価値を求めてゆくのである
それが情報化社会でもある


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カフェドマニ(相馬市日立木柏崎)

2019年03月10日

壊れたカメラを直せた (今は自分で機械に通じないと損する)


壊れたカメラを直せた

(今は自分で機械に通じないと損する)

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量販店に壊れかカメラをもっていったら3万5000円かかるといわれれた
自分はカメラはただデジタルカメラしか使っていなかった
一眼レフとかを使ったのは一年前二年間買ったが使用しなかった
それはソニーのα6000だった
これは大きいし重いから使わなかった
自転車を使用するので動くから使いにくい、そして今回落としてしまった

でも今日いじっていたら直せた、故障部分がわかったのである
レンズが落としたとき故障したのだ
それで前に買った望遠レンズをつけたらそれが動作したのである
それも十年前とかである、そんなものが使えるのかと驚いた
それは別にデジタルカメラ用でなかったのに使えた不思議である

カメラも覚えるには手間なのである、今わかったことはレンズが多様なものがあるからそれを使用するとかなり専門的になることが今になってわかった
一眼レンズ強みはレンズ交換だったのである
そんなこと誰でも知っていることが私は聞いていてもそれを実行して経験していないから理解していなかった、それより実際にそうしてカメラを操作していなかったからだ
それは何かと追われてそうなっていたのである

今回カメラを落としたのでレンズ部分を回していたらレンズが悪いのでありその本体は壊れていなかったのである
量販店ではカメラを見ないしわからずに3万5千円かかるとしたから修理に出すのをやめた、おそらくヨドバシカメラにはカメラの専門家がいるから故障の原因がわかったかもしれない、とにかくカメラの故障を直せたということは意外だった
電子機器は普通は直せないからである

機械はいかにして使いこなすかである、いくら機械を買っても使いこなせないと役にたたないのである
つまりノウハウが大事になるのだ、機械を買っても操作できない、ノウハウを会得できないのが今は多いからだ
これはいくらいい機械がでても使いこなせないと宝の持ち腐れになる
その一番いい例がヤマハの電動のロードだったのである
これは25万以上したのに全く使えなかったからである
これは老人に向いていなかったのである
若い人はそもそもロードにのるのは坂を上るのに快感だとしているからそこが根本的に違う、車にロードを積んで坂を上っているのである

今度のヤマハのYPJ-XCは形はマウテンバイクだから若者用だと思っていた
ただ最新のドライブユニットを使っているというので大金をだして買ったがこれは思った以上自分にあっていた、老人にあっていた
乗りやすいしバイクのようにすいすい走る、別に平坦な道でも走りやすい
悪路も行ける長距離も行ける、自転車だとしてはこれだけの機能あるのはなかなかない

これの最大の問題は荷物がのせられないとかスタンドがないことなのである
それでしょっちゅう倒して一部ライトが壊れたりした
たてかけていても大きいし重いから倒れるのである
でもこれは使いこなすと相当に役にたつものだった
高いだけの価値はあった
いくら高くても使いこなせないとただ宝の持ち腐れになる
だから買い物でも金があってもそれを有効に使うことは意外ととむずかしいのである
いろいろ機械でも道具でもあふれているけどそれを使いこなすことがノウハウを覚えることの方がむずかしくなる
パソコンなどが特にそうである、検索する能力、ノウハウがなかなかわからないからだ

いづれにしろカメラはやはり広角レンズとか望遠レンズを使わないといいのはとれないことが今になってわかった
ただ自転車で持ち歩くことは今回のように危険だった
そこが一眼レフの問題点だったのである

今の時代同士しても写真の映像の時代だという時、プログでも映像を写真を出さないと見られないことはある、だからこそyoutubeが盛んになっているのである
それだけ訴えるものがyoutubeにあるからそうなる
動画の訴える力があるからそうなる、ただ私は動画はしない、動画をするとまた手間になるからだ、そんなにいろいろなことはできない
ようやく介護が終わってできるようになったが以前として家事に追われたり忙しいのである
家の整理とかいろいろな今までしたことの整理に追われているのである
その一つが写真でも今まで買っていたレンズを使わなかったことでもわかる
何かしようとしていたができなくなっていたのである

2019年03月05日

NHK総合 【クローズアップ現代+】フェイクニュース暴走の果てにを見て


NHK総合 【クローズアップ現代+】フェイクニュース暴走の果てにを見て


台湾人「外交官」を自殺へと追い込んだ、中国の卑劣な偽ニュース


日本の内閣府にあたる台湾の行政機関に職員が出勤。
2時間以上かけて新聞、SNS、ネット掲示板を確認する。
ここ数年、ネット上の過った情報への対応に追われている。
フェイクニュース対策での法改正の紹介。
死者が出た場合、最高で無期懲役となる。


昨日のNHKのクローズアップ現代で台湾の外交官が関西空港が台風の被害で空港から出れなくなった時バスが中国政府は手配したのに台湾は手配できなかった
それがネットで拡散してバッシングになった
でも手配したのは関西空港であり中国政府ではしていなかったのである

ではなぜこうしたフェクニュースが拡散したのか?
最初にそのフェクニュースを流したのは誰なのか?
MEG2NEWSではそれは中国政府関係者だったと指摘している

それは台湾と中国との間の綱引きがありそれが政治問題化している
そこで中国政府では中国政府の対応はいいし台湾政府はだめだということを示すためだとしている
そういう中国と台湾の政治的対立とかけひきの中で台湾外交官が自殺したとしている
ただ本当の理由はわからない、でも一言も中国人政府がフェクニュースを流したということは言っていないのである
そういうことも言われているとかも一言もないのである

するとNHKのテレビを見ている人の眼はどこに向くのか?

フェクニュースを流して拡散したネット民が悪いとなるのである
そしてインタ−ネットは危険だともなる、何かマスコミにはそうしてインタ−ネットを批判することが多いのである
つまりインタ−ネットは信用できないメデアだとしたいのである
マスコミは信用できるメデアだとしたいのである

ただおかしなのはマスコミのテレビ放送局がなぜそのフェクニュースに飛びついたのか?
それはマスコミのテレビ局では確かめもしないでそのニュースを流したのか?
そして外交官を政府を批判したのか?
それはネットに遅れをとってはいけいないとしてネットの後追いになっていたのである
これだけネットがマスコミにも影響している時代となったのである
テレビがマスコミがそれだけあせっているということである
視聴率をとるためにネットに後追いして追随していたのである
台湾と韓国では日本よりネットが普及しているからそうなったともしている

フェクニュースというときマスコミにもあった、NHKでもあった、だからネットだけ批判して自分たちは信用できるものだとしているのはおかしいのである
まずマスコミは事実だけを報道することはない
必ずその放送局の意図があって編集して報道する
まずどのニュースを取り上げると取り上げないかを決める
大事なニュースでも報道されなければなかったと同じになるからだ
そのニュースの取捨選択は放送局によって決められているのである
ニュースなどいくらでも日々ある、一人一人の個人もニュースなのである
田舎の小さな駅のことを報道したがそれでも結構な出来事があったということは自分でも意外だったようにいくらでも報告し伝えることは日々ある
でも全国で放送されるのはほんの極一部なのである
そうして膨大に報道されるものも報道されないのである

今回の問題ではマスコミは事実だけを報道しろと言う人が多い
それを放送局の意図があり編集したりしないで事実そのものだけを放送しろと盛んに今は言われる
なぜなら今回のNHKの放送でもNHKの意図が入ると一方的だから誤解が生まれる
やっぱりネットは信用できない、フェクニュースが多いとかなる
でも今回の問題は中国政府がかかわっていたとなれば重大なのことなのである

NHKは中国と韓国は批判しない

中国政府がかかわったかもしれないとも報道していない

ここが重大なのことだったのである、もちろんそれを確かめることはむずかしい
でもそういうこもありうるということもあった
だから別に台湾外交官が関西空港の混乱の中で自殺した、その理由はまだはっきりしてしいないと報道すれば問題なかったのである
それを台湾でもテレビで台湾の外交官の失策だとか中国はやはり対応が早く政府は優れているとか評価するようになったのである
それが中国政府の意図だったとしたら怖いことだとなる

結局緊急事態になると必ずデマにふりまわされやすい、みんないつらだっているし何か早く助けてくれとなるときどうしてもそうしたデマにとびつきふりまわされやすいのであるそれでそういうことは間を置いて冷静に判断するのがいいというのも本当である
そういう混乱状態では冷静に判断できないからである
そして個々人の人生でもずっと後になってあれはこういうことだったのかとか判明したり納得する、その時は無我夢中で冷静になれないから何が起きていたのかもわからないのである

ともかく事実だけ報道しろというときそれをマスコミでしないのはマスコミ側で放送局で自分たちの意図でもって社会を動かしたいためだというのもわかる
ただ事実だけを報道していたらつまらないとなっているからだ
俺たちが意図した報道して政治を変えたいとか社会を変えたいとなっているからである
それが別に政治家であったり何か主張があってそうするのは民主主義で許されている
創価とかの聖教新聞でも共産党の赤旗でもそれはそういう背景があって報道しているからみんなそういうふうに見ている、偏っているとみている

ところがマスコミは一見中立を装っている、でも実際は中立ではないから偏ったものとして洗脳されるのである
何か批判的に見れないのがテレビなのである、テレビの影響はそれだけ活字より洗脳されやすいメデアだったのである
メデアとは中間とか中立とか媒介の意味である
本来そういうものでも実際はマスメデアとはマスコミは自分たちの意図でもって放送している、事実だけを放送することはないのである

ただ取材するときでも取材させてもらうためにはどうしてもその取材を許可されないとできない、すると取材される側の方につく、中国のことを取材するにしても自由はないから制限されるから政府の許可が必要になる、すると中国政府の悪いことはとりあげることはできない、だから中国政府の悪いことは追求しにくいのである
この辺でも原発避難民でも取材してもらうとなると原発避難民の言い分を尊重するようになる、そうしないと報道できないからである
そこに報道が一方的になりやすい下地がある
何かを教えてくださいというとき頼むのだから相手の不利なことは報道できないのであるそこに報道の問題がある、一方的になりやすいのである
ただ事実だけを報道してその判断を視聴者にまかせればそういうことはない

事実だけではないマスコミで放送局で判断して報道するからそれによって洗脳されて批判もできなくなるのである
その洗脳能力がテレビは抜群なのである、それは反論もできないしコメントもできないからそうなる、一言でもいいからそうではないとか疑問をさしはさむ習慣をつけないと完全に洗脳されるのである
ネットではそれができるのでそういうこともありかなとなり全面的にはどんな意見でも情報でモ受け入れないシステムになっている
テレビにはそれもないから危険なのである
ただ今やみんな一応インタ−ネットでプログでも簡単に発言はできる
ただその影響力をもっているのはほんのわずかである
武田邦彦氏などは一人でマスコミに対峙しているので感心するとなる
ただそういう人は本当に何百万人の中の一人だとなっている
なぜならそんなに大勢の人の意見を読むことも聞くこともできないからである
そこにまたネットの問題がある




2019年02月22日

老人に売れるもの (ヤマハのYPJーXC近くの同級生も買った これは自転車のハーレーダビットソン)


老人に売れるもの

(ヤマハのYPJーXC近くの同級生も買った
これは自転車のハーレーダビットソン)


今日土手の道であった同級生が自分と同じYPJーXCに乗っていたのに驚いた
それを私は川子のパークゴルフ場で見せてこれはいいと強く推奨したのである
そして実際に同級生を乗っていいかと聞いたので乗らせたのである
その時やはりこれはいいと実感したから買ったのだろう
これは本当に高いものだからである

でも自転車にはいろいろ乗ってきた、電動自転車にも乗ったがこれは別格だと感動した
だから強くすすめたのである、そしたら同級生はすぐ買ったのである
二週間前くらいにすすめたのに早いなと思った
第一一万くらいの人口の町で自転車屋は一軒しかなくなったからである
そこでこの高い電動自転車が二台売れるというのは珍しいとなる

自分自身もこの自転車がどういうものか不安だったのである
やはり乗ってみないとわからないことがあるのが自転車なのである
乗り心地がみんな違っているからだ
車でもそうなように自転車も乗ってみないとわからないのである
ただ試乗できるところは田舎にはない
仙台では専門店があり売っていたが後が困るので買えない
でも知っている人は仙台の自転車屋を見ていたのである

老人に何が売れるのか?

これはそのヒントがある、これは高い買い物だったがそれだけの価値があった
それはエンジン部分が格段に進歩したものだったからだ
それでこれは今までのと明らかに違うということをすぐに感じて感動した

つまり次元が違う自転車の進歩を感じた!

その同級生は脳梗塞で死線をさまよった、だから一時げっそりやせたのである
今でも見た感じでもそう見える、でも体でも脳にも損傷がなかったのである
それで運動のために自転車に乗っていた、自転車にはマウンテンバイクとかで乗っていたことがあるがもっぱら車だったのである 

ここに老人に売れるもののヒントがあった
体力が衰える、それでも運動したい、そういうコンセプトでヨ−ロッパでは体力がない老人のために開発されたのがEーBIKEだったのである
だからスピード制限がないから30キロ以上でもバイクのように乗っていた
つまり老人用に開発された自転車だったのである

それで武田邦彦氏も言っているが老人のために作られ売っているものがない
だから老人は金があってもただ貯金しているだけであるというのもわかる
本当にそうだと思う、例えはスマホとかは老人に合わないのである
画面が小さすぎるのが問題なのである、それだと老人は疲れるからである
そういう小さい画面で操作するのは疲れるのである

それでキンドルを買ったが使わなくなった、なぜか?
パソコンの広い画面で読んだ方が楽だし頭に入るからである
キンドルも画面がスマホのように小さいから老人には向いていなかったのである
ただ別にパソコンで読めるからこれなら電子図書館みたいになり便利であった

つまり老人用に開発された商品がほとんどないのである
みんな若者向きなのである、それで老人は貯金する他なくなる
例えば投資だってはじめてするのだから老人には不利でありただ銀行にだまされるようになる、自ら判断できないからである
いいカモになるだけだったのである
これも老人用に金融商品が開発されていない、ただ地銀ですら老人をカモにするだけだとなる
だから高齢化社会と盛んに言ってもそれに社会が適応していないのである

だから体力がなくてもIT機器でも老人向きのものを開発すべきだとなるがしていない
ただ売れるもののヒントとしてこのYPJ-XCがあったなと感動した
今何か物を買ってもこれくらい感動するものはない
それがあったということでやはりこれだけは推奨できると思いすすめた結果同級生の病気になった人も買ったのである

もう一人知っている人もなぜ自転車にのるようになったかというとトラックの運転手だったが足を悪くしてアクセルが踏めないとかなり自転車に乗るようになった
足が悪くても自転車には乗れるのである
そして車に乗っている人とは自分は話しないというよりできないが自転車で会うと話するのである、なんか仲間だと感じるのである、自転車を通じて仲間になれるとなる
ただ車中心だったときはなれない、車持っている人は車に乗れない人は馬鹿にしているとか一段低くみる傾向があるからだ、そのトラック運転手が言っていたからである

このYPJーXCはハーレーダビットソンだ

同級生もそう感じた、自分も感じた、ハンドル部分が長いし乗った感じそうなる
何か気持ちよくとばすことができるという感じなのである
安定感もあるしスピードも出るし軽く走れるからである  

とにかく高齢化社会といってもそれに適応した社会になっていないのである
みんな売れるもの作りたいとしてもそうなっていないのである
それを真面目に真剣に企業側で売る側で提供していないとなる
若い者が少ない少子高齢化でもそれに適応した商品開発もしていないのである
それで金を持っている老人がいたとしてもただ貯金している他なくなっているのである



2019年02月01日

モノが売れないモノ余りの時代でも売れるもの (オーダーメイドになり個々人の要望に応じるものーDIYの時代に)


 モノが売れないモノ余りの時代でも売れるもの

 (オーダーメイドになり個々人の要望に応じるものーDIYの時代に)
  
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柱と柱の間に棚がどうしても必要だった、ここは手作りする他ないものだった


物がない時代は終わった、物があふれていてなんとか買ってくださいという時代である
少子高齢化で家でも土地でも金でもあまってくる
何か今まで売れるものが売れなくなる、規格品が売れなくなる
それでオーダーメイドが売れるものとなるがそれがむずかしい
個々のニーズにあったものを提供するとなると手間になるし必ずしも金にもならないからだ

今私はいろいろ家を整理している、それが本が多くて家が傾くほどになった
それは二階が書斎になっていたからである
でも本の整理は意外とむずかしい、買ったのだ積ん読になっていた
半分以上はそうである、それで半分とか本を捨てたがまたアマゾンで古本とか安い本を買うようになった、それは安いからである
そしてわかったことは知的作業にもビッグデーターが必要なのである
多読が必要なのである、精読するものがあるにしてもやはり何か新しい見解を発表するには様々な研究があり本がありそれらを参考にして引用して編集すると訴える効果が大きくなる、つまり知識は膨大だということである

だから本を買っても読んでいなかったのである、ただ本を買ったということで知識が身についたような錯覚に陥っていたのである
この家には本が一万もあるのかとなるとその人が知識があると思うがそうでもない
なぜなら本はいくらでも買うことができるが理解して自分のものにすることが容易ではないからだ、ただそれなりに量があればいろいろな見方を知るからよりデーブなものになる
本棚にしても窓際にただ棚を作っただけで本棚になった、それは簡単だったが部屋に合わせる必要がありそれは自分しかできないものだった、手作りが必要になったのである
必ず部屋を使いやすくするに整理するのはその人自身にしかできない
規格品ではできない、なぜならその人なりが望むものがありみんな違っているからであるだから整理とかは確かにそうした家具でも本棚でも売っているがそれだけではたりないのである、つまり自由に本棚でもその人なりの必要に応じて手作りする必要があった
それは日曜大工でもなんとかできるものだと見た
ただ板を切るのが大変なので電動のこぎりの安いのアマゾンで注文した

本当は家作りでもそこにその人なりの好みのものを作れればいいとなる
何か家作りでも庭作りでも出来合いの物ではなくその人なりに手を加えるものができてくる、そして家というのはそこに住む人が子供なら成長するし親が死んだりするし変化するするとその変化に見合ったものが必要になる、リホームが必要になる
だから家というのは建て売りのように規格品を買うと後で直せなくなるから問題になる
その人なりに整理したりその人なりに変化させて使用することが必要になる
人間は何でも一定して変わらないものはない、変化の中を生きているのである

老人になると断捨離が必要になる、この仕事も意外と大変なのである
簡単になんでも捨てられない、本でもそうである、ほとんど読まなくなったものでも今読んでみるとこんなことが書いてあったのかと発見する
最近はそうしてし深く読めるから自分の文脈の中で引用できるようになった
だから本の批評に向いていると思った
その要旨でもさっと読めばわかる、本にはやはりその人の経験したことがその人が仕事した分野の蘊蓄(うんちく)が集積されているのである 

本でも家でもそうだが整理が大事である、でも家を整理するのは手間である
でもそれは他の人にはできない、その人の人生がありその人の貯えてききものがありその整理になるからだ、だから親でも子供が残されたものを整理するときは大変になる
そこには人生の思いでが詰まっているからつまらないものでも大事になる場合があるからだ

とにかく両親と言える人も死んで残されたのは自分一人になったがその整理も大変になるだからいくら整理しても整理しても整理がつかないのである
一番困っているのが本なのである、本はがさばるから困るのである
そして本は内容があり良質なものが多いからなかなか捨てられないのである
とにかく最後に人生の総決算がある、それが様々なものの整理なのである
限りなく整理するものがある、今までホームページに書いたものがありプログに書いたものでも整理がありこれも膨大になるからそれをしているだけで時間がとられるのである

いづれにしろ人間は規格品だけではたりなくなる、いくらAIが発達しても人間の手作り感覚でするものがありそれは機械でもAIでもできないのである
そうして手作り感覚なものが今は望まれている、オーダーメイドなものが望まれている
それはどうしても売っているものではない場合がある
だから材料の板とか買うにしても後は自分で手作りする必要がある
それはさほど難しいというものでもないが手間になる

それを楽しみにしている人もいる、ともかく今の時代はいくらモノ余りでも売れないとなっていてもやはり時代によって必要なものは売れるとなるか
安い電動のこぎりはこの辺では売っていなかったのでアマゾンで買ったのである
そういうDIYの要望が高くなるとその道具とか材料が売れるようになるかもしれない、
それは出来合いの物ではなくDIYを助けるものである
規格品とか出来合いのものの需要は減ってゆく、オーダーメイドでありその家とか部屋とかその人の望むものが違ってくるからそうなる
それは衣服関係でもそうであり料理すら毎日カレーを違ったものを出している店が小さな店でも繁盛している、でもそうなるとその個々人の要望に応えるのは容易ではないでも規格品では売れない時代なのである

情報でもインタ−ネットになったとき個々人の要望に応じるものも検索している、テレビだと何百万の人の関心あるのしか伝えない、それで商売としてマスコミは成り立っていた、それはもうインタ−ネット時代にスマホ時代になるとない
膨大な情報にアクセスできるがテレビのように何百万人に答えるものではないのである
テレビでもyoutubeが無数にありそこは意外と芸能人ではない、その人独特の持ち場があり経験があり仕事がありそれを語るからかえってためになる、勉強になるとなっているのだ
そういう時代の変化があり規格品は情報でも見られなくなる、多様な情報を取捨選択するそして自分なり編集して見たり読んだりするとなる、だからビッグデーターはインタ−ネットでも本にもある、本の方が良質なものがありまだ必要である
それでアマゾンでかえって買う本が増えたのである
ただ長い本になると読むのが辛い、二三時間で読める文庫本なら多読できるのである
そして精読しない、何か自分の必要とする文を情報を拾い読みして活用するのである



2019年01月25日

プログの読み方 グ―グルのアプリでドライブのドキュメントに全コピーして記録して読む


プログの読み方

グ―グルのアプリでドライブのドキュメントに全コピーして記録して読む

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一年分のプログが一か月ごとに記録して読める
記録するのは簡単である


プログとかインタ−ネットのサイトは読みにくい、検索もしにくい
全体像がわからない、本だと全体像がわかりり読む
ぱらぱらと全部をめくってみて全体像をつかみ部分を深く読むことができる
プログは毎日の日記だから短く断片的になり全体像がつかみにくい
それで何か記憶されないことがある
それは断片的に読んでいるからそうなっている
本だったら一冊の本として頭の中に入っている、全体像とてし記憶しているのである

だからインタ−ネットの中の文は記憶しにくいのである
それがどこに書いてあって誰が書いたとかいうのもあやふやになる
膨大な情報の断片化する、私のプログの情報量は膨大である
すると自分自身すら何を書いたのか忘れている
それで時々自分の書いたものを読んでこんなことを書いていたのかと感心しているのも不思議である
人間とはとにかく忘れやすいのである、それが人間の弱点なのである

グーグルのドライブだとクラウド上に記録される、するとusbなどのように持ち運びする必要がない、もう物ではないからだ、usbでも小さいからなくしやすいのである
でもクラウド上に記録させればかえって消えないということがある
それは物ではないからだ

ただインタ−ネットとか通信になると記録が消える恐怖が常にある
それぞれがもっているパソコンも突然クラッシュして記録が消えることが恐怖なのであるそれで都築詠一氏の貴重なプログのログが一部は残っていても消えたことが残念だった
あの人は記録を残そうとしていなかったのも不思議である

ではプログの読み方をどうするかというとこのグーグルのアプリのドライブのドキュメントで記録するのは便利である
ここに全体をコピーして貼り付けるのである
それはそれほど手間にならない、ただプログの文なり写真を選択してコピーしてドライブのドキュメントにはりつけるだけなのである

すると日時ごとに列挙されて目次化されるのでわかりやすいのである

これの利点は例えプログが消えたとしても読む人の所には残るのである
するとプログが消えたとしても消されたとしてもそれを読んだ人がグーグルのドライブから再現できるのである、その人が読んだものは本のように残っているのである
おそらく都築詠一氏も誰かがこのように読んで記録していれば全記録が残っていたのである
それは簡単に再現できるからである

つまりこういう読み方をすると本のように読めるということである
本のように記録は読んだ人の手元に残り再現できるのである
だからこのグーグルドライブは便利である
一連のものとして目次からもたどれるからである、この目次機能が優れているのである   




2019年01月09日

デジタル情報とアナログ情報の相違 (デジタル化した情報だけでは真実はわからない)


デジタル情報とアナログ情報の相違

(デジタル化した情報だけでは真実はわからない)

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数値を、長さ・回転角・電流などの連続的に変化する物理量で示すこと。⇔デジタル。

デジタルが「バラバラ」であることに対し、アナログは「並べると似ている、関連がある」という意味を持ち、連続性がポイントになります。

デジタルが「バラバラ」であることに対し、アナログは「並べると似ている、関連がある」という意味を持ち、連続性がポイントになります。

アナログ」は、元々
「類比」や「類似」を意味する
「analogy(アナロジー)」を由来とします。

「類比」は「比較すること」
「類似」は「似ていること」という意味です。

 つまり、
長針と短針を比較することによって、
曖昧ながらも時間を表しているということですね。

このように、アナログの語源を調べると、
数値は正確に一致している必要はなく、
曖昧でよいということが分かるかと思います。


デジタルというのは一部を切リとったものとある、分割して見るというのもある
アナログは連続的に変化する物理量とかなる
科学は苦手だがやはり思考するとなると科学的思考が自ずと生じてくる
文系はアナログ思考なのかもしれない、文系は全体に注目するからである
だからどこまでも分割して原子とかにつきあたる、そういうふうにどこまでも部分化して究極の原子とかになることが苦手だとかなる、思考できないともなる

この図で証明するとカレンダーで日にちを見ている時一か月のカレンダーを見ている時
一週間でもいい、必ずその日だけを切り取って見ていないのである
一週間がある、4日だとすると必ずその前後を時間として見ている
今日は四日だなというときその前の三日とか二日とかを見ているしその後の6日七日でもみている、日にちを連続したものとして見ている、時間を連続したものとして見ている
時計でも同じである、デジタルだと今の時間を一分一秒として正確に切り取って見ているでもアナログ時計になると24時間を見ている、24時間の中で今どこの位置にあるのかを見ている、だからアナログが類比や比較して見るから起きているというのもわかる

川を認識するときとても一部を切り取っては見れない、上流から下流とあり長いからである、そしてその中で川は激流にる所もありゆるやかに流れる所もあり河口のように広々と流れる所もあり多様なのである
川を認識するのにはそれだけ長いものとして見る必要がある
例えば川のような認識になると本は川とにている、始めがあり終わりがある
それは一つの川なのである、一方でインターネッがトデジタルだというときリンクして読む、一部分をリンクして切り取りつなぎ合わせたりする
本のようには読まないのである、一つの川のようには読まないのである

空間でもそうである、一部分で空間を認識することは絶対にできない、一つの場は大きな空間へ広がり大きな空間の中にしか存在しえないのである
土地とかは全体の中にありだからこそ私有には適さないのである
ここは自分の土地だから自分の思うようにするとしても山でも森でも大地でも連続してつながり一体化したものだからそういう私的所有を明治以降過度に認めた結果、山は無数に所有が分割されて山全体を公共のために利用できなくなったのである
飯館村でも放射性物質の処理場にするというとき現実にフレコンバックから雨で放射性物質が流れた、放射性物質は森から泥となって流れ川に流れてくるから南相馬市でも関係しているから勝手にしてもらっては困るのである
そういうことはいくらでもある、土地はつながっていてデジタル化一部分切り取って利用することはできないからである

道を例にとれば道を一部分きりとることはできない、道は連続していることに意味があるからだ、価値があるからだ、連続的に全体的に認識することがデジタル情報だとしにくいのである、でも実際は情報というのはどうしてもその現場に立つこともできないからデジタル化する、切り取った情報になり誤解を生むのである
それはニュースでもテレビ放送でもそうである、写真でも動画でもその場に立つことができないから写真でも動画でも現実を見ているとは認識しているとはならない
それはあくまでも一部分のデジタル情報なのである
その現場に立てば大きな空間があり様々なものを認識する、それを総合的に見るのが人間なのである、だからデジタル情報で人は誤った認識をして情報を曲解するのである
それはグローバル化して世界的にそうなったのである、本当に世界を理解することがニュースでもデジタル的に切り取った情報ではできないからである
そこに誤解が生まれそれで誤った情報に洗脳されているというのは確かなのである
それで世界の人たちがメデアによって操作されているというのもわかる
それは常に一部分でありデジタルなもの切り取ったものだからそうなるのである

現代はデジタル社会である、でも一部分を切り取った情報だとそこに真実が見えなくなるインタ−ネットがきりとった部分の集合であり全体が見えなくなる
一方でキーワードで検索するとすぐに目的のものが出てくるので便利なのである
インタ−ネットは長文が嫌われるのはデジタル情報として見るからである
2チャンネルとかでも極端に短いレスポンスでありそれはそれなりのコミ二ケーションなのだけど部分化した情報になる、川の一部分を切り取ったような情報になる
一方本は一つの川のようにな情報であり流れがありそこで主張するものがある
インタ−ネットはだから何かその人の主張があっても断片的に見られる
無数の断片化した情報になる、ただリンクしたり目的のものを探すのには便利なのである
ただプログはデジタルではない、アナログ的な要素がある、なぜならその人の主張を延々と書くことができるからである、するとこの人はこういうことを言いたいのだとわかる
前に書いたことでもその続きを延々と書くことができるからである
補足することがいくらでもできるからだ、本は一回出版したらそのままであり補足したり書き加えることができないからである、本は一冊一冊で完成しているのである
でも人間の知識には個々人でも完成することがないのである

とにかく人間の存在感がデジタルではなくなる、人間の存在はその土地と結びついているのである、今は土地と切り離されて人間を認識している  
何かが起きるというとき事件でもtake placeなのである、場所が深く関係しているのである、だから地域でも世界でも地理が深く関係している、地政学が大事になる
例えば中国でも介護問題が起きている、それで日本人の人が指導に行っていた、そこで老人ホームに働きに来ていたのは内モンゴルとかの人たちだったのである、内モンゴルとなると辺鄙な地方であり出稼ぎに来ていたのである
これも地理がわからないと理解しにくいのである、なぜ青森の老人ホームに南相馬市の人が引き取られたのか?
それも青森だと冬は仕事がないし女性でも介護での仕事で収入になるということでそうなった
介護関係はどこも人手不足だが青森だったらそういう仕事でも収入にしたいという人達がいるからそうなったのである

それで不思議なのは深野(ふこうの)の人が二三行自分のプログにコメントしたときこの人は深野に住んでいる、それも実名だったから確かに住んでいる実在の人だと認識したのである
深野はすぐ隣だからいつも行っている場所である
深野という土地にその人は実在して住んでいるということでその人のことはほとんどわからないにしてもその土地に根付いて実在しているということで存在感をもつ
それは空間的にそうであり時間的にもそうだったのである
時間的にその人はその土地に代々住んでいる人だからである
ここにずっと前らか住んでいてまたこれからも住んでいるということを時間的に継続したものとしてその存在がありそれでその人はデジタル空間で一時的なものではなく永続的に存在すると認識したのである、別にその人のことについては何も知らなくてもその土地に根付いた生活しているということで存在感を示したのである
万葉集でも地名が重要であり地名からその人なりを認識していた
その土地と離れて人でも認識できないということがあったからだ
そこに万葉集の原始性がありアイディンティティがあったからだ

人間の存在はなぜ現代では空虚になっているのか?何か数字の一つのようになっているのか?それは土地と結びつかないからではないか?
ただ人間は数値的存在となっているのは土地から切り離されてしまったからではないか?東京とか大都会になると高層ビルに住んでいたら土地など関係なくなるからである 、だから都会では人間の存在感はないが田舎だと存在感がある
特に農家には存在感を感じるのである、その土地に長く根を下ろして生活してきたという感じになるからである
ただ都会だけではない、何かその人が田舎に住んでいても地方に住んでいても実在感がないのはやはり遠くになるとその土地を認識できない、例えば福島県でも広いから会津になると山国であり別な世界になる
そうなるとその土地のことがイメージしにくくなる、深野というときすぐ近くでいつも行っている所だから認識したのである


2019年01月02日

Dマガジンと楽天マガジンの比較評価 (インタ−ネットで変わる情報世界)

Dマガジンと楽天マガジンの比較評価
(インタ−ネットで変わる情報世界)

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楽天マガジン

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Dマガジンを見ていたが操作できなくなってもうアクセスできないと思ったので楽天マガジンに入会した、本当はしたくなかった
電話でも簡単に連絡できないとも思ったからだ
何かインタ−ネットでは電話がすぐに通じないし通じなくなるから不安になる
でも実際は私自身の操作の間違いだった、その手順が間違っていたのだ
こういうことは良くある、何かこういうことで私自身はミスが多い

ただDマガジンでも安い、楽天マガジンはさらに安い、こんなに安くていいのとなる
週刊誌でも一冊買えば400円とする、それがあれだけの雑誌を全部読んでも一か月400円はかだから安いと感じる
それだけインタ−ネット時代になると情報は廉価になる
それは情報を出すのが電子空間だと簡単だし金がかからないのである
新聞でも雑誌でも本でもこれを印刷して配達するとこれはもう個人の手に負いないからである、配達して本屋で売るということで手間がかかり金がかかるからだ
だから新聞でもメデアであり新聞に載せてもらうと目立つからそれで広告費とか稼ぐ
新聞に載せてもらうことはそれだけ宣伝になるからだ
それは新聞社が何か特別な取材力とか何かなくてもいいのである
新聞に載せてくれという人でも会社でも頼みにくるからである

それがインタ−ネットになるとどうなったのか?
自分でもしているように誰でも個人レベルで雑誌が作れる感じになった
それも金はかからないから個人レベルでできる
ただインタ−ネットで読まれるのには意外と読みやすさとか見やすさとかが関係してくる楽天マガジンは横にスクロールして一覧できる
これは読みやすい見た、そこで読みたいものを見たいものをクリックすると見れるし拡大縮小もマウスで自由にできる
Dマガジンだと一気に2倍3倍になり拡大がマウスで自由にできないのである

何より、dマガジンで一番不満に感じていたのがページめくりのアニメーション。dマガジンではページを勢いよくめくっていくと文字がぼやけて表示され、少し待つと読めるようになるというインターフェイスで、雑誌を流し読みしたいときにも文字を読むのに待たされることがストレスでした。

ただ文春とか新潮とかは楽天マガジンでは読めなかった、でも種類は楽天マガジンが多いという
でも「紙の爆弾」という雑誌は創価の問題を取り上げていたり他にないものがあった
楽天の社長は創価だったとか聞いたことがあるがこういう雑誌を置かせないだろう
インタ−ネットでは出版できないようなものでも個人レベルで出すことができる
それで「心に青雲」の都築詠一氏は過激なプログを書き続けて69歳で死んだのである
それが驚きだった、文学に造詣が深くそれで毎日7年間くらい読んでいたからである
この人はプロ級の人だったのである、実際に有名な作家の編集にたずさわっていたからだもっと書いてもらいたかったが死んでしまったのは残念だった

インタ−ネットは情報世界を変えた、週刊誌がコンビニに置くと目立つから売れたのである、何かセンセーショナルあ見出しを見て買う人もいた
情報では目立つことが読まれることであり売れることなのである
ただそうできるのはそうして宣伝力がある大きな会社とかがないと目立つようにはできない、インタ−ネットで出しても目立つことがいかに大変なことかわかる
無数のプログがあってももう読まれないからだ
コンビニに雑誌でも置けることはそこに人の出入りが多いから目立つからそれで読まれたり売れたりしていたのである
その内容がどうかということでもない、それはテレビはいつも茶の間にあって見られから力をもったのである
最初は何でもいい、映るだけで驚きであり食い入るようにして見ていたのである
だからなんでもいい、内容がなくても何百万人の人たちが見ていたのである

ただそういう時代は終わった、インタ−ネットが情報世界で変化をもたらした
とにかくこうして私自身が延々と長文を書いているけどそれは書きやすいからなのである書いたら即座にアップして公表できるからである
私は誰がどう読んでいるかとか考慮していない、自分の思うことを感じたことを書いているだけである、そこに問題があるのだがそうなっている

ただインタ−ネット時代はこうして何でも書けるから一億総評論家になる、くだらない発言でもできるからだ
それでもインタ−ネット時代はこうして誰でも書いて発表できるのだから何か記事でも本でも読んだらその感想を評論をして見るべきである
ただ読み流しただけでは読んだことにならないからだ
対話的に読んで評価してゆくと自分なりに読んだことになるからだ
だから私の場合は書くことが無限にありただ詩についてはまだ出していない
それも相当に書き溜めたものがあるからだ
詩となると一般的ではないからあまり読まれない
ただ自分のしていることは本当に雑誌作りだった、それも一人でしているのである
それができたのはインタ−ネットだからだった
ただ楽天マガジンのように縦書きでスクロールして読めるようにしたらもっと読みやすくなる、それをするとやはり個人的には無理だとなる
現実になぜドコモのDマガジンではできるはずなのにしていないからだ
それくらいの会社だったらできるはずなのである
そこに差が生まれているからだ

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インタ−ネットでの契約は一時的に一冊本を買うとかではない、一年とか長く契約する
それは一か月でも400円であれだけのものが読める、すると一か月でそのくらならと金を払うがそれは一年とかでも継続するものとなる
だから読者は一回だけでやめるということがなく一年とか継続するからそれでやっていけるのかともみる
だからこの表現は面白い見方だと思った、恋愛は気まぐれで結婚はそうではないからだ

ともかく今は旧来のメデアが批判される、それがインタ−ネットでしやすくなったのである

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ボクシングの公式戦かと思い見た、それはエギゼビションでありショーにすぎなかった
一回でノックアウトしたし何か前のも日本人がキックボクシングで勝ったけど作られたもの嘘に感じた、それはこれは公式戦ではなかったからだ
権威あるものとして試合が成されたのではなかったからだ

こうあるるようにテレビの発言者はテレビ局の言いなりになるロボットなのである
そういう人しか呼ばれないのである
だからもうテレビを見ないとか信じない、マスコミでも信じないとか増えている
そもそも新聞はその寿命がもう尽きている、なくなるのが目に見えている
テレビでも今のような放送はなくなる、ただ良質な番組はcsとかで有料で放送される
その過渡期なのである
映像的な番組作りはやはりなかなかドラマでも個人的にはできない、それは相当な金がかかるからそういうものはまだ放送として価値がある
ただ大河テレビとか飽きたとなる
要するに本当に情報社会となり情報の戦国時代になったのである
百家争鳴になったのである、今は私は一日二回長い文を書いている
これも読む方となると疲れると思う、でも私の仕事がこうして書き続けることなのであるつまり書くことによりただ受け身になるだけでなくアウトプットすることによって理解を深めているのである
だから何でも情報を受け流すだけでなくその感想でも自分なり書いたり評価するとより理解が深まるのである

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2018年12月30日

家作り部屋作り手作りが必ず必要 (整理は自分でしかできない)


家作り部屋作り手作りが必ず必要

(整理は自分でしかできない)


年末だから整理に苦しんでいる

●料理するものの整理

●本の整理

●着るものの整理

●道具類の整理

●金銭の整理

●パソコンのログの整理

●家の中のものの配置を変える

一人で家のことを全部やることは本当に大変だと介護から今度は一人暮らしになっても思った
でもこういうものは家族がいればいいが人にまかせられないものだった
なぜなら自分の使い勝手のいいようにしないと不便になるからだ
そこにどうしても自分なりの工夫が必要になる
本棚でもある程度手作りするほかない、パソコンの脇に柱と柱の間に棚を作るとそこで本をすぐにとれるからいいとかなる
それはその人とその人なりの工夫が必要になるから手作りになるのである
いくら買えるとしてもその人によって使い勝手は違ってくるからだ
それは本人しかわからないことだからである

本の整理には一番苦しんでいる、本は厚いし重いがさばることが問題なのである
でも本には内容のあるものが多いから本を読むことはインタ−ネットで調べるのとは違ったものになる、何かそこから深い意味をくみとれるのである
ただ本を読むということは拾い読みでも読む力があるとその人なりに解釈して読めるのである
いくら本があっても本があるというだけで積ん読で終わることが多いからである

人間は整理しないと脳の働きも悪くなる、家というのは知的仕事をする仕事場になっているとき使い勝手をいいようにしないと頭も混乱するのである
ただ本の整理は分類はなかなかしにくい、それは本が厚いので一冊を読むことが負担になるからだ
でも学問は本はできるだけ多く読む、多読しないとそれなりの独自の見解は出せないのである、つまりビッグデーターが必要なのである
だから速読が必要になる、さーと目を通してその趣旨を理解するのである
ただそれでも独自のその人なりの解釈をしないと身につかないのである

インタ−ネットでも10年くらいはホームページで時事問題の深層とか書いてきた
それがログとして残っているからそこからまた発展できるから何かその時々のことは記録していた方がいいとなる
何でもいいから感想を書いておくと後で読み返すときまた新たに付け加えることができるこんなこと考えていたのかとこんな詩を作っていたのかと新鮮にもなる
つまり人間は常に自分のことすら忘れるのである
だからなんでもとにかく記録しておけというのは正解である
写真でもなんでもいいから記録して後でふりかえり思考を深めてゆくのである

とにかくこれだけのことを一人でする、整理すること自体が大きな仕事になっている
今まで書いたものを整理するのもかなりの時間がかかる
自分自身書いてきたものでも記録したものでも何かそんなことあったの書いていたのとかなっているからだ
まず料理は料理するもの材料をそろえるだけでめんどうである
料理と文章を書くのはにている、いろいろな材料がありそれをうまく料理することだからである、それは過去に経験したことを書いたり記録したものをまた利用する
料理でもそうした前に作ったことを覚えていて料理を作る
でも料理でも新しいものを作るのは容易ではない、そんなに人間がいろいろなことができないのである

年の瀬や切りなく整理に追わるかな

ともかく今年も後一日だ、コンビニで雑煮を買ってきた、雑煮もめんどうで作れない
なにか正月料理も容易できない、千円のお節料理でも買うかとなる
一人で何でもやることには限界がある、そんな時間が持てないのである


2018年12月20日

本の読み方 (本は長すぎるから抜粋して読むー自分の課題を解決するために読む))


本の読み方

(本は長すぎるから抜粋して読むー自分の課題を解決するために読む))


ブログを例に見ていきたいのですが、引用してきた文章がメインで、自分の文章がほとんどないという場合、もはや「引用」とはいえないと評価されてもやむをえないですよね。ちゃんと自分のコンテンツをより分かり易くするためとか、自分の意見を補足するために「引用」は使いましょうということです

これは著作権のルールだけど別に本を読むときもそうなのである
本を読むということは自分の文脈で読む、自分自身のテーマがあり課題がありそのために本を利用するという時本を読んだことになる
相手の心を読むというときもそうである、私は本をずいぶん買って読んだと思っていたがそうではなかった、確かに赤線とかで大事な所に線を引いているのだが読んでいるのだがそれを忘れていた、ええ、こんな文を読んでいたのとなる
本を読んだということは自分なりに解釈して自分なりのテーマがありそれで自分なりの見解を出すために読むのである

そしたて本の問題は長すぎることである、一冊の本でも厚い、内容があると厚くなる
すると全部を把握することはむずかしくなる
厚い本は読みにくいし全体を理解することがむずかしくなる
若い内はただ自分なりに読んでいるのではない、いくら内容があっても読めないのであるだから読んだと思っていても読んでいなかったのである
今なら本の要旨を読むことができる、これはだいたいこういうことを言っているのだとさーと読んでかる、そして重要な部分を抜粋して引用して自分なりの論を展開できるのである

そして本の問題は長いことなのである、長い本は長い本をはよみこなすことが容易ではない、一冊の本を読みこなすことが時間的にも労力的にも負担になるのである
だから本として書くということは容易ではない、まとめることが容易ではない
なぜこんなに自分自身がインタ−ネットとかプログで書けたかというとその日その日のことを書いているからである
今日の分を書くから書ける、でもこれが本にしようとするとめんどうになるのである
インタ−ネットだともともと長い文は嫌われていた
レスポンスが主な会話形式だからそうなった、そしてもともと中味のあることを会話してはいない、パソコン通信の時は相手に通じているかどうかもわからないからまず通じたかどうか確かめることが優先されたからそうなった

でも次にインタ−ネットだといくらでも書ける時代になった、でも長すぎる文は嫌われるそれで意外と学者が出しているpdfの小論文は役にたつ、自分のテーマを追求するとき役に立つ、それはやはり専門家が書いているからである
そしてプログだとそれなりの長さで書けるから内容の濃いものも出せるのである
それも日々書くということでそれも積もり積もって膨大な量となるのである
でもそれを本にしようとするとめんどうになる
ただ本は内容が濃いものが多いから参考になる、でも自ら本にしようとすると長いからめんどうになるのである

そして自分の不利だったのはそもそも自分の追求している本が手に入らなかったことだった、地理と歴史に興味がある時、海と陸をテーマにした本があった、それをテーマにした本が結構でているから有名なの一冊高いけど今回は買った
例えば世界史でもなぜヨ−ロッパが興隆したのか世界の覇権国になったのか?
こういうテーマをもつ、すると古代ではペルシャがギリシャに負けたのは海での戦いで船での戦いで敗れた、ペルシャ帝国は陸の帝国だった
そしてロシアも陸の帝国であり常に海に出る港を求めていた
それが黒海でありそこでクリミヤが大事となり今でもヨ−ロッパ勢と争っている
シリアでもそこが地中海の港であり海に出るところでそこを手放したくないということでシリアの内戦とかisisとの戦いにもかかわってアメリカとも争うとなる

ヨ−ロッパが覇権国になったのはポルトガルでもスペインでもイギリスでも海に出たからである、フランスとドイツは陸の帝国だった、中国も陸の帝国でありだからこそ東シナ海を制覇して港を軍事基地を建設する
それでアメリカと対決するようになる、海を制覇しないと覇権国にはなれないからであるそれは歴史が語っているのである
こういうテーマをもち興味があるからその方面の本を読もうとする
するとその時本を読んだことになるのである                                        

明確な目的意識がありそうなると本は血肉となる、ただなんとなくだらだら読んでいても読んだとはならなかったのである
そして無駄な本を読みすぎたということもある、熱心に読むべき本を読んでいなかった
本というのはいつの時代でも量が多かったのである

いづれにしろ本を整理するだけで多すぎるからめんどうになる、本はがさばるから困る
二階に書斎があり置いたが家が傾くとまでなっていた
本はそれだけ重いのである、書棚から本が落ちて死んだ人も外国でいたとかある
確かに地震で重い本が落ちてあたったらそうなる
本の問題はがさばり重いことなのである、インタ−ネットのように電子化するといくらでも貯蔵できる
ただ本には本の良さがある、読みやすいとか記憶に残るとかはある
インタ−ネットは調べるのにはいいのである

ともかく本だけではない、自分の物を自分のオリジナルをもたないと本をも読めない
それは絵画でもそうである、鑑賞はできるにしても自分で絵を描けるのと描けないのでは雲泥の差が生まれる、それで自分で抽象画をパソコンのソフトで作った時自分で感動したことでもわかる、全く絵を描けないのに描けたという感動である
これが絵と言えるかどうかはわからないにしてもそうだった
それは音楽でも楽器を一つでも演奏できるのとできないのではまた音楽に親しむことで雲泥の差が生まれる、一時電子楽器で試してみてそれも感動したことでもわかる
全く自分は音痴であり音楽に興味があるとしても聞くだけだったからである

だから本でもこれと同じなのである、ただ何か読む方で積極的に働きかけてそこから自分なりの論を展開してゆくために読むとき活きてくるのである
そうてないと何ら読んだことにならなかったのである


タグ:本の読み方

2018年12月17日

最高級品のe-bike-ヤマハのYPJ-XC (バイクのように自走する、次元の違った走りだ!)


最高級品のe-bike-ヤマハのYPJ-XC

(バイクのように自走する、次元の違った走りだ!)

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これは38万では高いと思った、ちょうど外国旅行で節約したドルが25万とか残っていたので交換して買った
何しろ外国旅行ではまともな食事をしなかった、ヨ−ロッパではできない
レストランは特別な所だし大衆食堂のような所は地元の人でないと利用できない
日本で安い食事をどこでもできるから楽だろう、水道の水だって飲めるから無料になる

ホテルでもユースホステルとか年配の人も普通に利用している、ヨ−ロッパには安いホテルが多い、その辺は楽であった
そういうことで思った以上金を使わなかった、中国には二回行ったがそこも安かった
でも今なら都市部だと日本と変わりなくなっているという
変われば変わるものである

これを買うことを決断したのはエンジン部分がヨ−ロッパで早い時期からブームになったものであり優れものなのである
それは今までの電気のエンジン部分となるドライブユニットがこれまでのアシストとは違う格段上の性能をもっている

それは乗ってみてはっきりわかった、自転車自体はタイヤが27・5インチで大きいのだが全体に一回り大きいのだが軽く感じるのである
それで電気をオフにしても走れるものである
軽く走ることが今までのとは違う、今までのアシストはまだこのドライブユニットではないから軽く走らないのである、まず軽く走り今までの二倍速になる

これはバイクに近い

何か自走している感じになる、つまりバイクに乗っている感じになる
確かにペダルを踏むのだがその踏むのも軽いから自走している感じになる
これは今までのと次元が違う、本当に自転車というよりバイクなのである
そしてバッテリーもスタンダードでも140キロとか行くしそれでも軽いのである
だから予備のバッテリー必要ないのである、バッテリーを切れても十分に継続して走れるのも強みである
だからこれは本当は長距離に向いていた、残念なのは荷台がない、スタンドすらつけられない、マウンテンバイクだからそうなっている

これに乗ったら体力もなくなり長距離は無理だなと最近感じていたがこれなら長距離も行けると思った
体が意外と疲れないのである、ロードは体を曲げるから疲れるし使いないものだった
それを売ろうとしたら3万にくらいしかならないから何にもならなかった
これは乗っていて楽なのである
なぜなら自走している感じになるからである
だからバイクに乗っている感じになる、20キロは軽くでる、制限されて24キロになるがそれで常時20キロが出ると早い、坂でもすいすい上る

この自転車は機動力がある、人間の身体能力拡張した感じになる
これならまた遠くに行けるなと実感した
今までのロードでも疲れるし長距離は行けないと思っていたからだ
これは意外と軽く走るから疲れないのである

これによって身体能力が回復した

弱ったからだが体力が回復した感じになった、機械によって人間の弱った能力が体力でも回復することは感動的だとなる
つまり老化にはこうした機械でもできると身体能力を補充して増幅できるとういことである
だから老人は消費できないと書いてきたけど使いこなせないと書いてきたけど
老人でもこうしたものは体力を回復さけるものだと知った
そうすれば老人でも消費するのである
そもそもヨ−ロッパではこのe-bikeは体力のない老人用に開発されたのである
これは別に道の悪い悪路を行くものではない、普通の道路でも力を発揮している
もちろん悪路にもタイヤが太いしhighより馬力がでるエクストラでも走れる
だからマウンテンバイクといっても老人に適さないものではない

とにかく新しい技術が開発されるとその影響が大きい
これをヨ−ロッパでも売り出して競争している、できる技術改良したから売りこむことができる
それなりに軽い走りだと思っていても一段上のものができるその走りが重いと感じてしまうのである
今まで出た新品でもそうである、その差はドライブユニットの差だったのである
ここが最新式のものになると全然違った走りになるのである
でもそれをあ装着したのは日本ではこのヤマハだけだと思う
だからこれは高いがそれだけの価値あるものだった


タグ:YPJ-XC

2018年11月29日

老人は買いものでも選び買えない (買っても使いこなせないものが多くて失敗)


老人は買いものでも選び買えない

(買っても使いこなせないものが多くて失敗)

何か買い物がうまくいかなくなった、買ってもうまく使えないということもある
要するにわかったことは人間はいろいろなものがあっても使いこなせない
特に老人になるとそうなる、ビデオカメラ前にしていたからまたやろうとして買った
今は小型のカメラについているし大きなものは買わなくなっていたのである
技術が進歩しておいつけくなっなった
それで買い物に失敗することが多くなる

ただ通信販売で2000円のロングパンツはいいものだった、自分は何か着こなしが下手でありルーズでずぼらなのでなかなか着こなしができない
でもこのスポーツタイプのズボンはぴったりだった
体にあったものでありルーズでも着こなしできるのである
レビューを見ていいとあっても必ずしも合わないのもが結構あり失敗する

買い物はいかにして使いこなせるかということが問題なのである
料理するにしても材料を買っても使えないのである
買うことはできる、でも買うものを選びそれを使いこなすことができないのである
これはいくら金があってもどうにもならないことである
高いものを買ったとして使いこなせないとしたらそうなる

私が30万くらいで買ったヤマハの電動のロードがそうだった、YPJである
確かに最初は早くていいなと思ったが乗っているうち何か不安定なのである
それで転んで大けがする危険を経験した
ロードは安定しないのである、だから体にあっていないし老人には自分にはあっていないものだったのである、これはだから損だった、大きな買い物の失敗だった
このように高価なものでも自分に合わないものだと何の価値もなくなる
使いこなせないとしたらいくら高価なものでも価値がないのである

それで最近出てきたe-bikeはマウンテンバイク型であり最新式の電動自転車でありこれは安定しているからぶれないから合っていると見た
今までにないタイプのもので馬力がある、そもそもe-bikeは老人が力がなくても使えるものとして普及した、つまり老人に合ったものとして開発されたからそうなる
電動自転車でもロードは一見老人向きのようでもそうではなかったのである

老人は買い物がとにかくなんでもむずかしくなる、特に技術が進歩しているから買うこと自体何を買っていいかわからなくなる、買っても使いこなせなくなる
テレビすらパソコン化して操作するのがめんどうになる
リモコンのボタンを押すというだけではない機能が増えたからである

時計を買うのは実際は失敗したのではない、バンドが切れたのである
それも意外と早く一年二年で切れたのである、それは一万近くしていたから損だった
それで今度はバンドを金属製ので2000円で買った
でもこれも何かはずしたり元に直すのがうまくいかなかった
物は悪くないのだがめんとうなのでまた千円で別なものを買った
バンドは金属製ではないが千円だからいいとした
それから方位をさす腕時計型のものを買った

温度計もあるといいと思ったがいろいろついているとなかなかその機能を活かせない
方位計はいちいち手でとってみるとめんどうになる
腕時計でいつも見れるようになっているとわかりやすいのである
自転車でも方向を腕時計で見るとわかりやすいからである
瞬時に変化を見れるからである、意外と方向はわかりにくいのである
近くでも方向がわからなくなることがあるからだ
腕時計を左に右に方位計をしていれば自転車にのりながら方角がわかる、変化がわかる

何かいろいろ買っても使いこなせない、印刷機でも使いこなせないとかありかえってコンビニで十円で印刷した方が得だと思った
本当に使いこなせないということが今や問題である、それは老人になると特にそうなのである
だから下手に新しいものを買いないと思った、簡単なものならいいがあまりに多機能なのは使えこなせないのである
老人が金をもっていても使わないという時使いこなせないものが多いかということもある使いこなすということは老人にとって大きな問題なことがわかった

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これは方向を常時見れるから便利、1000円だから安い、他のはいろいろ機能がついていても使いにくいもののようだ
方向だけ見るにはこれが良かった、温度も知りたいとかあったがそうなると使いにくくなる
腕時計型になると単純ではなくなるからだ
これをアマゾンで選ぶのに苦労した、選び買うことが一苦労なのである
買う種類とか選ぶ物が今は多いからなんでもそうなるのである

2018年11月09日

pocketalk(ポケトーク)は結構使える (日本語の音声認識が優れている)


pocketalk(ポケトーク)は結構使える

(日本語の音声認識が優れている
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外国でも通信で使える


これの優れている点は本当に日本語の音声認識である
何かたいがいの日本語が正確に変換されている
英語はかなり正確である
ただ英語でしゃべったら正確ではない、それより私自身の発音が間違っていて正確に変換できない、そもそももう英語でしゃべることがないので発音もうまくできない
そもそも日本人は外人としゃべる機会がほとんどなかった
でも外国人の旅行者は膨大に増えた結果庶民レベルで外国人に接するようになったのである
それで庶民でも飲食店のような所でも英語が必要になった
その英語ができるかできないかで収入まで差が生まれ
タクシーなどがそうである、それがタクシー運転手まで英語研修している
たまたま海外暮らししていた人は英語ができて収入が良くなった
ほかでもは英語で接待できる人は収入が良くなる

こうなるとなんとか英語を覚えようとする、会話を必要となる
やはり世界では英語をしゃべる人が多い
でも世界でも飲食店レベルでは英語が通じるわけではない
知識階級が英語で話ししている
海外旅行ではやはり英語で通じる所もあったが庶民レベルだと飲食店などでは通じない
でもたいした英語ができなくても海外旅行はできた
それより全然英語も知らない人が旅行できている人もいる
それは若い人に多いのである、つまり若い人は適応力があってそなっている
だから海外に行くのは若い時が向いているのだ

ともかく言葉というのは音からはじまっている、この音が本当にわかりにくい、英語はなんとか聞きなれているからわかる、でもは中国語とか全く音ではわからなかった
だだ筆談で通じた、つまり漢字とかアルファベットはかえって読める、それはなれているからである、音はみんな違っていてむずかしい、だから日本語の音をこれだけ認識したというのは驚きである
グーグルの翻訳でも英語の先生になっている、AIが先生になっている、ここに私は一番
AI化したこと実感する、英語は何か言葉でも簡単に出てこない
私がしていたことはただ文章を読むとかであり発音とかしていないから会話ができない
日本人は読み書きが中心だからである、その読み書きでも機械翻訳が優れている
ただ何か間違っている所があるが90パーセントは間違っていない
だから実用として利用できるのである

言葉の壁は音にある、聞きなれない音が皆目わからない、要するに幼児から言葉は音から覚えているからである、音に幼児から聞きなれているから覚える
でもそうなると外国語は音として覚えられない、だからアルファベットの方がわかりやすいとなる
でもその文字でも漢字ではないなにかインドとか東南アジアの文字やアラビア語の文字はなにがなんだかわからない、韓国に行って一番苦労したのはハングルが全く読めないことだった、漢字は読めたから良かったのである
ところが外国人にすると漢字がむずかしいというのがわかる、それは同じことだったのである

アルファベットが普及したのは音としてではない、文字としてである、貿易するために記号としてフェニキア人が地中海貿易で普及させた、それはスペインとかでもそのフェニキア文字が残っている、それは貿易のために必要だから発明されたのである
だから文字の方が外国人とやりとりするには向いていたのである
それは記録として残るから証拠にもなるからだ、今でも口伝いでは証拠が残らないから約束しても無駄になる、何でも証拠になるものが裁判では必要になるからだ
そして文字がエジプトでも神聖化されたヒエログリフとなったことがわかる
しゃべる言葉は残らないが文字はヒエログリフでも三千年すぎても残っているからだ
文字が残らないと歴史もわからなくなる、口伝いに伝えられるものは変わるし消えやすいからである

いづれにしろAIとかで言葉の壁がとりはらわれればもっと世界が一体感をもつ
世界の人が理解しにくいのは言葉の壁があるからである
もしどこの国に言っても自由に話しできたらもっと深くコミットできるからである
言葉の壁でもどうしても理解し合えないのである、ちょとした行き違いが言葉の壁でそうなる、これだけ外国人が入ってくると物が入ってくるだけではない、外国人が入ってくると言葉の面でもグルーバル化が迫られる
それが庶民のレベルまで強いられるともなってきたのである
ただ正直私は今や京都とか観光地には行きたくない、これだけ外国人が多いと日本の情緒とか風情までに影響してくる、もう京都は外国人を見に行く所なのかとなってしまうだろう、古都の風情もなくなってしまうということである

2018年11月03日

ドイツ製のBD1は優れものだった (十年過ぎても変わらずいいものだった)


ドイツ製のBD1は優れものだった

(十年過ぎても変わらずいいものだった)

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ヤフオクで1100円で売っているのは安い
15万で私は買ったからだ、別にこれは変わっていないのである
ただいろいろてものが出ているからこんな値段になったのか?


十年間介護でこのBD1に乗っていなかった、だから乗れなくなったのかとも思ったが普通に乗れた、壊れてもいない、別に乗らないからいたまなかったともなる
これを買う時苦労した、何か折り畳み自転車でいいもを買おうとしていた
それを探していたらドイツ製のBD!がいいとインタ−ネットとに出ていた
それで買うことに決めた、でも買うのに苦労した          

自転車は通販だと後の修理とか保証がないことが不安になる
それで困って仙台の自転車屋で買った
わからないところがあり教えてもらった
自転車が意外と危険な面がありそれを知らないと事故になる

このBD1十年ぶりに乗ってみたら軽くて乗りやすい、これは構造が安定している
それと軽いのと車輪が小さいから意外と坂が上りやすかった
車輪が小さいと小回りできて坂を上りやすくなる
坂では苦労しているので電動自転車にした

でも電動自転車は重く感じる、軽快に走る快感を得られない,これはその軽快に走る
だから電動になると不自然になるのだと思った
自転車は軽いのがいいのである、ただ本当に一台一台乗った感じが違うのである
それは不思議である、それはどうしてそうなるのか?
作りとか構造とかなにか関係がある

ともかく私の一生は自転車旅行とかずいぶんしているから自転車人生だったともなる
だから自転車に愛着が生まれた、もう一つは鉄道旅行が長いから鉄道に愛着が生まれた
それで無人駅でボランティアしているのである
今の時代は何に愛着が生まれるかとなるとこうした道具とか機械類と切り離せなく暮らしているからそうなる

ただ老人にはロードは向いていなかった、電動のヤマハの軽いロードを30万くらいで買ったが意外と使いにくかった、確かに早いのだが車の多い所では危険である
そして何か体が疲れやすくなる、力が入りすぎるからかもしれない
スピードを楽しむにはいいが何かなじめなかった
だから高価なものでも使いないものには価値がない
金を無駄に使ったとなる
つまり自分の体とか年にあったものを買いとなる
それは高いものがその人に合ったものになるとはならない

特に老人は気を付けるべきである

使いこなせるもの、その人にあったものを買い!

それは高価なものでも買っても使いないからである
老人は買うことがむずかしくなった
いろいろ新しいものが出ても使いこなせなくなった
すると老人はそうして使いないものは買うなとなる
何か老人は何か多く買ったりしないで何かすることでもあきらめるというのがいいとなる断捨離は老人に向いている
もう新しいものを買うことがむずかしい、使いこなせないのである

ただこのBD!は買う時苦労した、でもその時は十年以上前のことでありそれより前だから
なんとか外国製でも選び買うことができた
とにかく自転車の種類は電動自転車も加わり膨大に増えた
それで選ぶのに困る、でも自転車の構造は本質的に変わっていないから十年たってもいいものはいいということがわかった
15万したからその値打ちがあった
ただ電動自転車になると相当に電気系統などで進歩したから古いものは使いない
新しいものでないかぎり使いない
このBD1は十年前と同じく使っていいものであり古くなってもその良さは変わらないことに感動した

それで長い距離は行けないがこれだとおりたためるから鉄道などを利用して近間ならまた旅できるなと思った、ただ問題は体力である
腰をいためたりしたからどうかなと思うがなんとか行ってみようと思ったのである
いづれにしろもう数年しか自転車で遠くには行けないだろう
最後はこのBD1に乗って終わりになる、自転車人生の終わりである
ロードなどはもう乗りこなせなかった、ただ白髪の人でもバイクに乗る気持ちがわかる
老人は今までしてきたことをつづけたいのである
だから車でも80歳になって返納して失敗したというのもわかるのである




タグ:自転車 BD1

2018年10月10日

原発事故でマスコミも共犯者だった (テレビ局六局の独占時代が終わる)


原発事故でマスコミも共犯者だった

(テレビ局六局の独占時代が終わる)

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●技術やメデアの変化

時代の変革期が来ると産業の転換が起きる、大井川の川越人足は1200人もいたというから驚く、その人たちが橋がかかり失業したときお茶作りに転進した
それが静岡の茶となった
ヨ−ロッパで馬車の時代があり車に代わり鉄道に変わる、この変化も大きかった
馬車より効率的だから機械に変わる、常に人間社会は技術の進歩で変わる
産業革命でもそうである、そこで失業した人たちがいたが農民がいたが製造業に変わった技術は大きく社会を変えてしまう、ヨ−ロッパでは大砲が発明されたとき城壁は無用のもの化した、技術の変化で社会そのものが変わってきた

情報関係ではグーテンベルグの印刷機の発明で聖書がドイツ語に訳されて誰でも読めるようになりそれがルターの宗教革命までなった
その時以来大量の本が出版されるようになった
情報では明治以来大きな力をもった、まだ映像の時代になっていないからだ
その時代新聞がどれだけ力をもったか?
新聞は今のテレビと同等の力をもったのである
そしてラジオの発明があり戦争の敗戦の天皇の玉音放送があったようにラジオが主役になった時代があった
そしてナチスの宣伝がラジオでされたからラジオが国民にどれだけ大きく影響したかわかる、今ならラジオがそんなに影響するのものかと思う
NHKでもラジオが主役の時代があった、その時有名なアナウンサーがいたがテレビ時代になると消えた、テレビは顔が映るからあわなくなったのである
ラジオは声しか聞こえない、すると見栄えは関係ないとなっていたからである

テレビ時代になるとどうしても顔が映る、するとまず顔を見てしまう、その像に左右される、それで美人のアナウサンサーがもてはやされて映画俳優のようになったのである
情報の技術の変化でそうなった、そしてテレビ時代になったときテレビに子供の時群れてかじりついて見ていた、テレビに動画がニュースでも映ることは奇跡のようになり魅了されて見ていたのである、だからこのテレビの影響が本当に大きかった
テレビは映像であり動画だから大衆に受けた、本とか新聞でも活字を読むとなると頭を使うからである、テレビは頭を使わない道具なのである
だからテレビに出る人をいちいち検討したりしない、テレビに出ただけで有名になり青島とか内容もないのに知事になったりする人がいた、参議院選挙ではテレビに出る有名人がトップ当選になる、それは政党ではない、個人の人気投票みたくなっていたのである
普通の議員でもテレビに出ると顔と名前が売れるから当選しやすかったのである
別に議員としての経験とか関係なく当選したのである

こうしてテレビ時代は50年つづいた、でもインタ−ネットとかのメデアが現れ転換期になった、youtubeとかで動画を気軽に放送されるとなると対抗メデアになる
テレビ局は六局の独占だったのである、だからテレビ業界とか新聞協会とかそうした情報をにぎるものは既得権をもっていた
それは他でもそうだが六局しか政府から許可されていないから独占していたのである
そして新聞でもテレビ局でもそれは単なるメデアではない、会社の主張をもっていてそれを通すためのテレビ局なのである、だから会社の主張に合わない人は出さないのである
これはNHKでも同じである、つまりただ単なる仲介するメデアではない、主張をもっていて会社の方針がありその方針にそうことを放送するのである

だから会社の方針がありもし朝日であれ毎日であれ読売新聞の日本テレビであれ放送局を批判したら絶対にその局からは出せないのである
報道機関は共産党と同じである、その報道会社を批判することは許されない、ただの情報を流通させるメデアではないからだ
そして報道機関は連帯して既得権を守る、だから互いに放送する会社を批判しないのである、それは互いに結託していて既得権を守るものとしてあったからである
そしてそもそも報道することは電波の権利を獲得したり報道すること自体が金がかかるから一個人などでとてもできない、それで六社とかの独占状態になったのである

●原発と企業と天皇でも一体化して権力を得る

例えば日本テレビがあるとする、その創始者の正力松太郎が読売新聞社を起こして日本テレビを作った、そして原発をアメリカから取り入れた張本人である

皇族も利用したこの宣伝の効果が大きかったためか、元旦という一年で最高の時間枠だったためか、『わが友原子力』の放映は大成功を収めた。…原子力委員長としての正力もこの成功を利用した

ここに皇族ともあるが皇族も天皇家も東電の株主にもなっていた、本当は皇族は会社を応援するようなことはしてはいけいな立場にある、ここにも何か問題があった
ただ財閥と企業と国家は一体である、天皇も一体だとなる
右でも天皇を批判している人がいる、昭和天皇を批判している人がいた
それが良く解せなかったが天皇は何か軍部でも今度は大企業でも利用される存在なのか、または神輿なのかともなる謎がある

原発を海外に売りつけることで発生する利益は企業(株主)へ、事故があった場合に賠償額で一定額を超えた分については日本国民が責任を負うことになるということです。

国民はこのことを無関心であってはならないが知らない人が多いだろう
こういうのを調べるのはインタ−ネットが便利である
事故が起きたら国民の税金で今回のような補償金を払わされるのである
それは莫大なものとなり日本がつぶれるとまでなるかもしれない、そういうことに原発かあるということを知るべきである
原発は国家主導で推進されるからやめられないのである
国家は最大の権力だからである、原発とは一企業の東電の問題ではない
国家がかかわる一大事業なのである、だから事故になり失敗すれば国が傾くとなるのだ

企業がもうかるというとき原発でもそうである、企業中心の発想がありもうかればいいとなり安全はないがしろにされるのである、それで安全神話が作られた
でも東電だけではない電事連もそこで働く人々も電気事業で生活しているとなると既得権で一体化するのである
逆に日本はアメリカから古い型の原子炉を売りつけられたことも事故の原因になった、でも敗戦国だからアメリカでは事故の補償はしない、そういう契約もなかったのである、この辺も不公平であり力関係で商売もあるとなる

そういうテレビの宣伝は大衆受けする、わかりやすいからである
テレビは大衆を洗脳するのに最も適していたメデアである
そしてお茶の間にテレビが置かれたとき最も効果的なものとなった
お茶の間にあれば直接常にテレビがありその後ろにはテレビ局があるとなるからだ
そこでどれだけテレビが影響したかわかる、テレビで商品を宣伝するだけで目立ち売れるということもありテレビに宣伝費が会社でつぎこむ、それでテレビ局はもうかる
そういうふうにして政治でも経済でもテレビが大きな力をもつようになった
そのことが原発事故にも関係していた、政府とか東電とかが一致してテレビ局に宣伝費を流して安全神話を作ったからである

報道機関は独占化するとどうなるのか?それが原発事故で判明した
原発事故が起きたときテレビ局の幹部が朝日新聞でも全部六局の幹部が中国に招待されていたのである、それは何を意味しているのか?
この六局のテレビ局に800億円とかの宣伝費が流れていたのである 
ただNHKの幹部は入っていなかった、それはNHKは民間ではない、公共性があり受信料を強制的にとっているからである
だから本当はNHKはその公共性に奉仕すべきものだがそれがない、NHKもNHKの方針がしって主張があってそれに沿うものしか出さない意見は言わせないのである、だから受信料はとらないで民間にするのがいいともなる

それはNHKは税金のように受信料を国民から強制的にとっているからだ、ならば公共的なものでありメデアとしてもインタ−ネットのように利用させるべきだともなる、でもNHKにもそれはない、NHKの主張と方針がありそれに沿うものだけが出ることを許可される
電事連とかそれだけの金をもっている団体である、電気関係はやはり現代社会を支えるものだから大きな権力をもっている、今回の原発事故はそうして現代社会の権力をもつものが結託して起きた事故でもあった
国家(政治家)官僚、御用学者、マスコミ・・・とかが結託して「安全神話」を作ったからである、ただマスコミのことはあまり批判されないが明らかに「安全神話」を強力にしたのである、そこに既得権があり莫大な金が流れていたからである  

大型広告が「朝日」から始まったのは、(電力業界側が)「朝日」がそのような新聞だと一般に見られていたことを考慮してのことだと思います。「読売」がそれにつづいたのは「読売」の社長だった正力松太郎氏が、原発を日本に導入した責任者(初代原子力委員長)だったという関係があったようです。
「朝日」「読売」に定期的に広告が掲載されるようになると、「毎日」も広告を出してくれと要請します。当時、「毎日」は、原発に反対するキャンペーン記事を紙面に載せていました。後でとりやめた

福島財界でも最初原発反対の記事をのせていたがとりやめた、マスコミがおかしいなのはこうして全部が原発賛成になったことである、一社でも反対すればいいがそれがなくなった、福島県でも福島民報でも民友でも反対しない、原発推進派になっていた
だからもう報道には民主主義がなくなっていたのである
民主主義は少数派でも必ず反対がありその反対する者を一応尊重して対処するからであるそれが全部賛成推進派になったことが異常だったのである

●テレビからインタ−ネットへ

いつれにしろ戦後70年でテレビでも変革期にきた、もう六局のテレビ放送の独占時代は終わった
インタ−ネットのyoutubeなどが対抗でメデアになる、そこではNHKだけではない、会社とか銀行でも今までも既得権の団体でも組織でも訴える術を与えた、だから文字のテキストだけよりyoutubeは見る人が多くなる、大衆でもテレビと同じように見る
芸能人の馬鹿騒ぎはyoutubeと同じでありyoutubeでやれとなる
youtubeの特徴は何か学習機能がある、個々人が体験を語る時、それはテレビが大衆向きにマスメデアとして機能していたのとは違うと思った
何か社会について見え方が違ってくるのである
つまりマスコミをテレビを通してみる社会とは違っている

テレビは大衆向きに番組を作っていた、youtubeとなるとレベルもいろいろあるが
何か個々人がメデアとなって語る、そういう経験をしている人もいるのかと新たに社会に対する見方が変わる、社会というのはとてもマスコミだけでテレビだけで尻得ようかないものだったのである、テレビは社会を写す窓ではない、そこには無数の窓があったとなる
こうしてテレビの機能は変わってくる、誰でも放送できるとなると六局独占体制は維持できない
その時テレビはどうなるのか ?

国営放送とか公共放送とか何かそうした娯楽ではない真面目なものになるのか?災害放送はそういう性格がありNHKが必要だということが言われた、でも政府で放送すれば気象庁で放送すればいいとなる、インタ−ネットではしている
だから今はその変革期の過渡期でしりいすんな試みが行われる、情報の戦国時代になったのである
プログなどでも百家争鳴の時代である、誰でも意見が言える、ただ今までのように六局だけで目立つ時代は終わった
それは六局にとって独占でありあまりにも恵まれていた時代だったとなる
これからはyoutubeくらちいの視聴率くらいしかテレビでもなくなるかもしれない、すでに視聴率は減るばかりである

別に他でもいくらでも情報は得られるからである、検索もできるからである
だからテレビの役割自体が変わる、それがどうなるのか?公共の電波でも六局の独占は終わる
すでにBSもあり終わっている、だからニュースでもただ事実だけを24時間流すものが見たいという人が多い
そのニュースを勝手に解釈するのではなく解釈させるのは視聴者にゆだねる、そういう要望が多いからである
だからそういう放送に変わるのかもしれない、そういう変革の過渡期であり様々な試みが成される時代である

2018年10月01日

インタ−ネットによる報道の変化 (マスコミはyoutubeとなり土着的個々の放送に変化)


インタ−ネットによる報道の変化

(マスコミはyoutubeとなり土着的個々の放送に変化)

報道機関(テレビ・ラジオ・新聞等)の報道は、国民が国の政治に関わるために重要な情報=『判断材料』を提供し、国民に政策の良し悪しを判断できる様にする=『知る権利』に奉仕する、ものである。(昭和44年最高裁見解)  

ここで問題なのは判断材料である、判断材料が提供されなければ判断しようがない
でもその判断材料を提供できるのは何になるのか?
判断材料になるものが提供されない、マスコミでは客観的判断材料をオブジェクトを提供するのではなくマスコミが勝手に判断して提供しているのである
判断するのはマスコミではなく国民のはずだがマスコミが判断してそれを報道している
マスコミの意図がありそれで報道番組を作っているのである
だからこそ安全神話はマスコミの報道機関も剰余な役割をにない作られたものである
莫大な800億とかの宣伝費が電事連から出ていたからである
その象徴的な出来事として福島の原発が爆発したとき東電ではマスコミを朝日新聞社の幹部を招待していたのである
こうなれば政府と官僚とかの意向のままにされる
客観的な判断材料も提供されない、判断材料はマスコミが選びマスコミが判断するのである

要するにマスコミによって国民は判断停止されている

例えば地元に住んでいると判断材料になるものが具体的に身近に利害関係もあるからわかるし関心の持ち方が違う,遠い所になるとどうしても関心がなくなる
それは身近に被害もないし利害関係もないからである
今回は身近な直接利害関係とか被害があったから地元だから追求してきた
その地元に必ず外部からマスコミが介入してくる
そこに問題が起きる、マスコミはNHKでもその会社の意図がありその意図を通すために報道番組を編集しているのである
だから原発避難民を受け入れた地元との対立があった、津波被害者との対立もあった
でも一方的に原発避難者側に立った報道をした、そういう意図で報道した
それは取材している人は上の人の命令でしていると言っていた
NHKでもそうして上の人が決めたことを報道する                  

ところが一記者が取材したとしてその記者が報道すればどうなるのか?

それはNHKの会社の意図とは違ったものになる
何かこういうことは会社組織とか今は労働団体とか宗教団体でもみんな組織に属して生活している
するとどうしても一会社員とか一会員とか一組合員として発言したり行動する
その団体組織が圧力団体となり権力をもっている、だから純粋に個人の発言はない
特にマスコミとかでもそこで発言する人は個人ではない、マスコミに意向にそうものとして発言しているしその意向に逆らうものは発言できないのである
だから一番いいのは主張もなにもないお笑い芸人が一番いいのである
だから武田邦彦氏などは個人として科学者として研究員として勤務したり外国でも指導したりそういうグローバルな体験をしていたりと知識の幅が広い
まず理系で文系の知識があれだけある人はまれである

それで言っていることは個人ではとても報道機関にはかなわない、訴訟するにしても個人は弱いから不利である相手にならないとなる団体組織だと必ず専任の弁護士などをかかえているし財力も違うから対抗できないのである
ただプログでこれを実行した人がいた、でもなかなか個人では記者クラブにも入れないし取材できなかったのである
東電の原発敷地内でも勝手には入れない、許可が必要である、マスコミだと許可をもらえて制限されても取材はできるが個人だったらお手上げであり何もできない、それが大きな問題なのである

インタ−ネットの報道はyoutubeでもかなり違っている、それは個々人がテレビ番組を作り放送できる、小集団でもできる、今までは新聞でもテレビでも巨大な報道機関であり報道すること自体不可能だったからである
youtubeとかなるとつまらないものでも見る人が多いなと思った
それはテレビというメデアが大衆でもわかりやすいからである
だから絵画などで絵の制作過程などを出している人は世界の人が見ている
百万とか見ているから驚く、世界規模になればそれだけの人がみる、絵は誰も見てもわかるから見るのである
インタ−ネットはグローバルになるメデアである、ただ言葉の障壁があるから読まないだけである、絵とか音楽はには言葉の障壁がないから百万とか見る人が出てくるのである

要するにテレビとかマスコミはこれまでは既得権として報道の権利を与えられていた
六局とか報道できなかったからである、それが今や無限大に報道局ができたともなる
一億総記者になりプログだと気軽に誰でも発信できる
ただyoutubeだと見る人が多くなる、それはテレビが視聴率を稼いでいたのと同じなのである、わかりやすいから見るのである
文章を読むとなると相当に頭を使うから疲れる、それでインタ−ネット時代になり短文しか読まないとかなったことも問題にされる
自分でも短い文ではいいたいことが言えない、プログだといくらでも書ける
すると内容的にも自分の言いたいことを言えるとなる
ただ読む方になるとこれは頭を使うから疲れるから嫌だとなる

でも何かインタ−ネットのメデアの違うのはこれは今までのようにマスコミで新聞とかテレビのようにただ与えられる、洗脳されるだけのメデアではない
発信するのに便利なメデアなのである、一方でそうなるとそれを受信する読むのには適していないともなる皮肉がある
読む方にしたら長いとか嫌がるものだったからである
だから何かインタ−ネットになってからは私は相手がどう思って読んでいるのかとか反応を見ない、ただ一方的に書きつづけているのである
そして文章にするということは考えて書くということでありそうなると様々な情報でも他者の経験や思想やものの見方とかを参考にする
自ら文章を書くということは自ら考えて文章を構築することになる
そういう創造的な作業であることに気づいた
本にしても前より読んでいる、アマゾンでボタン一つで買えるからである
古本だと安くなるからである、でも本を読むのは一冊でも厚いから読み切れないとなる
でも文章にして読んいでもらうとなると底の浅いありきたりのものを発言しても無益だとなる、読む読まれないにしろ内容あるものとして文章にして残したいということがある
それは自分自身で後でまた参考になるからである

ともかく報道するにしても判断材料が無数にある、するとどれを判断材料にしていいかもわからなくなる、だからマスコミが判断材料を選びマスコミが判断したものに従ったというだけにてっていたのである、だから世論は民衆が聴衆が作ったものではない
マスコミは世論を作ったのである、なぜならマスコミが判断材料を提供して判断して放送していたからである
それでこの辺で原発避難民とそれを受け入れた地元とか津波被害者間での複雑な対立になったがNHKでは原発避難者側につく報道をしたのである
マスコミは全般的にそうである、原発避難者を批判することはタブーになっていたのである、国民がみんな原発避難者側につくというのではなくマスコミがそうしたことで国民が味方だとなってしまった

だからこそ原発避難者を批判することは原発避難者からもみんなが応援しているのになぜ地元で応援しないのだ、補償金だって住む場所を奪われたのだから当然だとなりなんなのだと怒りにもなり南相馬市は小高と鹿島はいがみあい分断されたのである
そしてマスコミはNHKでもみんなが国民は原発避難者を応援する方に立つようにした
だから原発避難者はそうして国民は世論は味方している、それで非難することはできなくなった、たとえ毎日パチンコ屋通いでもギャンブルして遊んでいてもそうである
とにかく同情さるべきでありあとはなにかや言うなとなった

でも今になると地元からすると地元で融和しないとまずいことだったなと思う
なぜなら地元に生活していると争うと生きずらくなるしまた復興するにも障害になる
心が一致していないと復興のために一致協力できないからである
遠くから応援に来てくれた人たちボランティアでも一時的でありあとはや地元の残った人たちで復興したり協力して生活せざるをえていからである
それで川俣の山木屋とかでは大学の研究者が来ていたが今は一校だけにてったという

つまり最後は継続して生活するのは地元に残る人だから外から来る人は一時的だからあてにならないとなるのだ
だからこそ地元の融和が大事であり優先させるべきだったともなる
外部からの応援は一時的なものであり後に残って生活するのは地元の人たちである
その人たちがいがみあい対立していたら復興はできないとなるからだ
でも何か外部からの応援とかが目立ち内部で地元で一致して協力して復興のためにすることがあまりなかったのである
そのことが今になると協力できないとなり南相馬市の問題として残った

なぜなら外部からの応援もなくなりやがて後三年で援助も打ち切られるようになると南相馬市だけで復興をしなければならなくなる
その時この辺はかなり厳しい場所になると市長も指摘していたからだ
だかちまず第一にするべきことは地元の融和だったのである、いくら外部からの応援があってもそれは継続しないからである
そういう点で行政とか政治も働かなかったのである
ボランティアでも外部からの応援でもマスコミでも外部からの介入でありいつまでも関心をもっているわけではない
一時的なものであり土着的なものとして存在するものではないからだ
だから土着的な報道もこれから必要になると思った、土着的でないと見えないものがありまた継続するものがないからただテレビだと次々に事件が起きてあとはわからなくなる、でも地元で起きたことは事件でも継続している
プルトニウムの毒が二万年消えないとか継続した被害としてある
そういう被害の深刻さが地元に残るしカルマとして消えないものとなったのである



 マスコミはもう終わっている (これからは土着的地域に根ざす報道機関が必要)


報道とは何かー報道に土着したものの眼が必要 津波や原発事故で思い知らされた

2018年09月15日

温暖化は嘘なのになぜこれほど報道されるのか? (温暖化はかえって地球にとっては生命にとってはいいものである)


温暖化は嘘なのになぜこれほど報道されるのか?  

(温暖化はかえって地球にとっては生命にとってはいいものである)


日本人は「事実を知りたい」のではなく、「空気にそった希望していることを繰り返したい」と言うことなので、NHKは大潮の時を狙ってツバルに撮影隊を送り、地盤沈下を起こしている2、3の民家の映像を流して、あたかもそれがツバル全体のように見せた。完全なヤラセ報道だ。

人類の歴史をひもとくと、温暖化は善、寒冷化は悪である。中国の王朝の崩壊は、寒冷化と軌をーにしている。寒冷化すると飢越になり、農民は食べられなくなり、王朝に対して反乱を起こす。ロ−マ帝国の崩壊もそうである。中央アジアが特に寒冷化に敏感である。地球が寒冷化すると、まず中央アジアで食えなくなり、遊牧民が移動を始める。フン族が西進してゲノレマンを追いはらい、ゲノレマンはローマに入り込んで、ローマは滅んだ。
蒙古帝国の興隆も寒冷化が原因である。
21世紀の我々にとって真の脅威は温暖化ではなく人口増加である
そのための食料不足である


温暖化というとき温暖化は善、寒冷化は悪であるというのは科学にうとくてもわかる、南国は果物が豊富で人類もアフリカから生まれて別れたというのも納得がいく、なぜならアフリカはあらゆる生物の生息する所であり今でもそうである
そういう場所から人類が最初に生まれて地球に散らばったというのは納得がいく
四大文明でも中国を除いては暑い国に起きた、暑い所は植物でも豊かに繁茂するから動物の食料が豊富だから住みやすいのである
東南アジアとか暑い国ではなまけものだというとき日中暑くて働くことができない、日影で休んでいる他ないのである
ところが寒い国ではドイツとかイギリスなどでは寒いから勤勉に働くということがある
勤勉の思想もプロテスタンが生まれた土壌になる
イギリスの産業革命でもそうである、資本の効率化とかをできるかぎり追及をする、機械がそこで不可欠になり機械の発明が行われる一方でカトリックはイタリアとかスペインとか地中海沿岸に広がる、そこは比較的暑い地帯なのである
南と北ではそもそも気候が違うから違った文化や文明が生まれるとなる

だから温暖化というのは別に地史的にみても温暖化しているとき生命は植物でも豊かに繁茂して餌が豊富だから動物も生きやすい熱帯化しているとき恐竜など大型動物も生息できた、あれだけの巨大な動物を養うのには植物でも豊富でないとできないからだ
この辺ではフタバスズキ竜とか海竜の化石が発見された、そんな巨大な海竜がいること自体温暖でなければ生きられないだろう
そういう巨大生物が生きていたときはこの辺の山の奥でサンゴ礁の化石が発見されたりしている
つまり沖縄とか同じように熱帯の環境だったのである 

ジュラ紀という地質時代(今から2億1000万年年〜1億4000万年前)はとても暖かい時代で、シダやソテツなどの植物がたくさんあってそれらを食べる恐竜がたくさんいました。つぎの白亜紀にも植物食の恐竜はたくさんいます。植物食の恐竜がたくさん増えたことから、それを食べる巨大な肉食恐竜も飢えることがなくなったので、増えていったと思われます

寒冷化することは植物の生長にとっても良くない、最悪なのは氷河期でありその時地球の生命すら絶えるという危機になっていた
でも温暖化で地球の生物が滅亡するようなことはない,かえって日本だって今まで寒い地域で南国のようになり南国の果物でも栽培できるとなり食料も豊富になる,寒冷化の方が飢饉になりそれで民族移動が起きたというのがわかる
モンゴルは中国から入るとかなりの高地であり冬は酷寒である

1 年で最も寒い日は 1月18日で、平均最低気温は -28°C、最高気温は -17°C です。

それでモンゴルに羊を飼うことを習いに一年とか住んだ人は冬は一回りやせるという、それほど厳しいのである
そういう厳しい所だから住みやすい所を求めて食料豊かな所を求めて民族移動する、それが征服戦争にもなっていたのである。
どちらかというと寒い国から温かい国への民族移動が多いだろう
日本はどちらかというと寒い地域もあるが比較的温暖であり照葉樹林体もある、だからこそシベリアとかから日本へ移動してきた
南相馬市の鹿島区の海老では丸葉車輪梅の南限の地として有名だった
これは奄美大島が原産でありここに種が流れ着いて自生した、つまりこの辺はまだ暖かい地域だから南国産の花でも根付いて咲いたとなる、それで万葉集の真野の草原(かやはら)の歌はここをさしているというときそれは気候からみても納得がいくとなる
人間社会は気候とか風土の影響が大きいからそれで歴史も文化も作られるからである

地球温暖化は地球的規模でみれば悪くないのである、ただ今年のように暑いと死ぬ人もでてくる、だから個人的には暑い所には自分は住みたくない、何か頭脳でも麻痺してしまうからである、かといって寒い北海道も嫌なのである
体力的にどうしても弱いと気候的には自分が住んでいる場所はいいとなる
地球温暖化をなぜこれほど騒ぐのか、その意図は何なのか?それはヨーロッパ主導の見方だと言う人もいる
これ以上二酸化炭素の排出とかが増えるとヨ−ロッパの気候も脅かされて住みにくくなるからだという
ヨ−ロッパはやはりそれだけ気候的にも恵まれているからだとなる
ただなぜこんなにNHKまで巻き込んで大々的に宣伝するのかとなるとその理由が良くわからないのである
利権がかかわっているからだというのがその見方である

環境問題でも何か騒ぐとそこで研究者に御用学者に金が入ってくる、研究費が入ってくるから危険性を主張する
何も怖いことはありませんよとなると研究も必要ないとなるからだ
そういうことがいたるところにある、それを武田邦彦氏はyoutubeで絶えず指摘している
何か絶えず不安あおるのが商売になりやすいのである
この世が終わるというカルト宗教団体が過去にも出ていた
そして恐怖のあまり財産を全部なげだして死んだ人、自殺した人まで結構いる
そういう商売になるのが不安をあおる商売なのである
週刊誌でも過激な見出しになるのは不安をあおって本を読ませるためだとなる
それはyoutubeでも同じである、地震がいつ来るとかこの世がいつ終わりになるとかなるとたいして内容がなくても人間心理的に不安を覚え読むようになるのである
そしてyoutubeでも視聴率を稼ぎアフェリエトで宣伝費を稼ぐとなる
だから本当は利益がかかわると公正の報道も判断もできないとなる  

人間は科学的判断をすることは普通は苦手である、原子力だってもう科学的に素人はわからない、では科学者が専門家はどう判断するのか?御用学者になって政治家の言うままになるとか官僚の言うままになる
それで安全神話をも作られた、政治家、官僚、御用学者、マスコミが一体になって安全神話が作られた
そうなればもうどうにもならないくなっていた、それを正す者はいなくなった排除されたからである
そして報道機関とは何か?
報道機関は既得権益をもつ連合体なのである、だから報道機関同士で批判したりしないのである
暗黙の了解があり既得権化している、そして報道機関は俺たちが報道の権利を行使するのであり俺たちの許可なしでは何も報道されない、事実すら報道されないとなっている
それは新聞とかテレビだと誰もそれだけの装置を持つことができないメデアになっていたからそうなっていたのである
そこには莫大な金がかかっているからである

ただ既得権というとき報道機関だけではない、様々な組織団体にありそれが圧力となって報道も歪められる、電事連とかでもそれは労働組合でも原発推進になる既得権の団体である、だから原発には反対しない、自分たちの給料がどこから出ているからわかっているからである、そして電事連からマスコミに膨大な宣伝費が流れていて一体化して安全神話が作られたのである
現代の科学はサイエンスではないという、それは利益と利権と密接に結びついたものであり科学的なものもそのために利用される
そこで御用学者も研究の予算をとるために実際は危険でないのに危険をあおるのである
こうして科学も本来のサイエンスではなく利益追求のみが優先されるとき歪められて安全神話が作られ大事故になりとりかえしのつかないことになった  

この辺では漁業権を東電に売り渡して事故前も事故後も多額の補償金をもらっていたことを指摘して批判してきた
これもまた利権と結びつきそうなった、こういうことはあらゆる所にあり無駄に金が使われているのだ
社会の既得権化したものを壊すことは容易ではない、それは明治維新とか戦争か巨体な天変地異でも起きない限りできない
安全神話を崩壊させたのは未曾有の津波だったからである
そして中国でも約人民解放軍が支配してから70年すぎ日本でも戦争から70年すぎて既得権化したものの崩壊が起きる
銀行もそうだった、社会全般に既得権をもつものの崩壊が起きる、70年ごとに大きな変革が起きる
それで今日本で地震が頻発しているのである

いづれにしろNHKでもなぜ温暖化の危険をこれほど言うのか?
その意図は何なのかとなる、やらせ報道までして温暖化を言うのはなぜなのか?
北極の氷がとけていなのに溶けていると報道する
そこまでしている理由は何なのかとなる
それは科学的ではない、何かの大きな意図が働いてそんな悪質なやらせ報道までしている
そして水につかっていたのはツバルの島のほんの一部だったのである
映像で判断する危険は全体の一部をきりとり放送することにある
一部だけが極端に強調されてそれを真実だと見させるのである
でも映像の影響力が大きい、人間は一部の切り取った映像で即座に判断するからだ
それでイラクの湾岸戦争では油にまみれた鳥をみせつけてイラクのためにそうなったということが全世界に伝わり
イラクが悪しとなったのである、それも報道による操作だったのである。



2018年09月10日

さくらレンタルサーバーで警告メール (レンタルサーバーとかプロバイダーは検閲しているのか?)


さくらレンタルサーバーで警告メール

(レンタルサーバーとかプロバイダーは検閲しているのか?)

internetcheck1.jpg

2009.04.24 Friday 

アクセス解析を見ていたら「osnfw.sakura.ad.jp」というホスト名のアクセスがあった。
これは、さくらのレンタルサーバーの中の人だと思う。

理由は、以前もこのアクセスがあって、その後に警告メールをもらった経験があるから。
第三者に通報されると即座にチェックされて、【重要・要返信】というタイトルのメールが送られてくる。

でも、今回は利用規約には違反していないだろうから、警告メールは送られてこなかった。
普通にサイトを運営しているのだから、大丈夫だろう。

以前はすぐに該当ページを削除したら、許してくれたけど。

そんなに悪いことはしていないのに…。

osnfw.sakura.ad.jpからのアクセスが最近あった、忍者のアクセス解析に出ていた
ただこの解析は全部は出ない、アメリカからなぜ70人もアクセスがあったのに
最近は二三人しかない、一人だけは熱心な人がいるのも不思議である
抽象画の部にアクセスしているのだと思う

ただアメリカから私のホームページにアクセスしている
これもわからないが日本語だアメリカの人が詠むのか?
古代関係にアクセスしている、これは日本人としか思えないのである

最近私はホームページでもプログでも整理している、時間ができたので整理しているが
量が膨大になったので整理するにしても作業が大変になる
自分自身が書いたものが本当にわからなくなった
こんなこと書いていたとか不思議になる
人間は自分で書いたものすら忘れている、忘れやすいのである

いろいろ詩とか俳句と短歌でも整理する必要がある
詩では別にプログを作ったがこれも忙しくなるのでアップしていない
量が多すぎるから整理できないのだ

たださくらのレンタルサーバーからのアクセスで気になるのは警告メールが来たりしたのはなぜなのか?
その理由がはっきりしない、著作権違反とかもある
そんなにフログなどを見ているのか?
なかなか見れないだろう、なにしろさくらは安かったからである
だから最初数が多かったのである
何かこういうことがあると不安になる

インタ−ネットは不安である、一番の不安は何かの調子で一瞬にして消えることである

またレンタルサーバーとかプロバイダーによって削除された消されたいう報告もある
都築詠一氏の(心に青雲)のフログはそういうことがあったらしい
過激な思想と批判があったからだ、でも死んでしまったのである
そしてログは10分の一くらいしか残されなかったのである
それでふりかえり考察することができくなったのである

だから私もいつ消されるのかと不安になるし一瞬に消されるのではないかという不安がある
例えば創価など批判するとここは組織的に力をもっている
するとそういう団体からさくらのレンタルサーバーに批判が来るかもしれない
そして一方的に消されるという不安があるのだ
なにかここにインタ−ネットの問題もがある
ただ著作権違反だとかしやすいし過激な思想の団体もプロパガンダしやすい
実際にテロがインタ−ネットのサイトを通じてイスラム国などからあったからである
つまりあらゆるものの自由はまた危険なのである

でもレンタルサーバーでもフログを提供する会社でもどういう責任があるのか明確ではない、勝手に会社の都合で消されたり削除したりされるとしたらどうなるのか?
そのルール―が何なのかもわからないのである
インタ−ネットの法律はない無法地帯だともなるからだ
でも会社の意向で消すときは連絡してもらいたいとなる
その理由を言い警告した後にこちらでも処置するとなる

ともかく一回さくらのプログで機械の故障かなにかで消えたことがあった
でもバックアップしてあったので回復した
それから手続きができなくてせ電話で連絡して料金を払い消されないですんだ
それは一日も余裕がなかった
入院していて見ていなかったからだ
そういうふうにインタ−ネットでの手続きはめんどうだからそういうことが起きる
つまりインタ−ネットには様々な危険がひそんでいるのだ
それは操作がめんどうでありわからないことが多いからだ
技術的障壁が大きすぎるからである

ただ最近はめったに通信ができなくなることはないから安心ではある
通信は安定したからである
でもhttpsのsslの認証のことがわからないからまた困るのである
感嘆に移行すると不具合ができているから困るのである
さくらは意外と大きな会社で今は北海道辺りにデーターセンターがある
だからバックアップがあるから記録が簡単には消えない、それが安心なのだが
それでも理由もなく一方的に削除されたり消されるのが怖いという不安が依然として残るのである。

個人は弱者である、だから巨大なの組織団体の力がインタ−ネットでも働いたらどうにもならない
国自体が中国では関与しているから自由な発言は中国にはない、そうなるとインタ−ネットでも規制されて
真実は報道されなくなるのだ
経済活動ならレンタルサーバーでも大勢を組織団体を優先する
それで経済的にしめあげられれば組織団体からの圧力に屈する
それでマスコミには真実は報道されなくなったのである
それがインタ−ネットでもありえる
インタ−ネットでも今は多数がしているのだから影響力がでてきているからだ
でもそうしたフログは極一部である、まずインタ−ネットでは読まれることが至難だからである
不思議なのはくだらないものでもyoutubeになると見られているなと思った
気楽に見れるからである、それで個人が放送局になっているからマスコミに個人で対抗しているのである


2018年09月05日

AI化時代に対応しないと遅れをとる (情報の集積化で答えを出す)


AI化時代に対応しないと遅れをとる

(情報の集積化で答えを出す)

AIとは何か?それはインタ−ネットしてみていればわかる、膨大な情報がある
それを検索して結びつける、人間の知能は今までなぜ限られていたのか?
それは情報の量だったのである、情報が限られていれば学術論文などを書くにしても
いくら知能が高くても独創性があっても無理なのである。
情報量が多ければそれだけですでに有利な立場にたてるのである
それはあらゆる分野で言えるのである、理系、文系を問わず情報量によって優劣が決まる例えば学者がいたとすると欧米の学者の知識を本を紹介する、翻訳するだけで学者になれたということがある
明治以降はヨ−ロッパの文明を取り入れるためにそうなっていたのである
そこに学者の独創性はそれほどなくても良かったとなる
インタ−ネット時代になると直接外国の知識にふれることができるからそれがなくてもできるとなればただ紹介するだけでは認められなくなる

情報量が勝負だというとき最近をそれを実感したのはこんなに本があるのかという驚きである、その本の読み方が変わった
インタ−ネットの検索のようにして本を探す、すると探しているものに合った本があるという不思議である、まず本の数は本当はインタ−ネットの出る前から膨大なものだった

ただ本があることを知らなかった

それは出版されていたのだがその本のあることを知らなかった
だから私は一週間に一回ほど仙台に行っていたのは本を買うためだったのである
でもその仙台の大きな本屋でも本は限られていたのである。
それで知的探求には地方では相当なハンディキャップがあったなとふりかえる
学問とは確かに自分で思考することだが知識は情報量で優劣が決まる
いくら独創性があっても情報量がたりないと足りないものが生じる

それはなぜなのか?

今回本を買ったがこんな本があること自体不思議だった
それは自分が今まで追求してきたことをよりわかりやすく書いてあったのだ
他にも自分が探求してきたことを書いてある本があった
それはその本の一部なのだがそうだった
今回の全体的に自分が探求したことを書いてあったので驚いたのである。
本は前は高かった、古本が極めて少ないし買えなかった
今はアマゾンで古本を探すと安いのでいくらでもある
それで千円以下だとまるで蒐集するように買っている、それはインタ−ネットで検索するのとにている
ではなぜそういうことが起きるのか?

それは人間でも知識でも世界的になると広い
すると同じようなことを追求して考えている人がいる、それはインタ−ネットでもそうである、同じようなことを追求して書いている人がいるからだ
するとそこでそうした知識を結びつけるとそれだけ物事を深化して見れるのである
だから人間がインタ−ネットとかでAI化しているのである
AIの強みは膨大な情報量を処理できることなのである。
それは桁違いの情報なのである。人間はもうそうした膨大な情報を処理できない
それで株式情報でも膨大だからとても人間では予測できない
AIの方がずっと有利になるのである。

AI化というとき人間が何もすることがなくなるのではなく人間自体がAI化してくる
インタ−ネットの情報検索であれ本であらゆる本がボタン一つで買える
ただ学術書となると高くなる、でももし大学に授業料を払うより文系ならそうして本を買った方がいいとなる、情報量で優位にたてるからである
私のインタ−ネットの写真とか絵を利用した抽象画創作も全く絵の才能がないのにできた理由は膨大な写真でも絵でも抽象画でもインタ−ネット上にあったからそれをソフトで操作しただけなのである
ただ最近その操作に疲れたので休んでいるともなる、それは全く化学実験と同じだったのである。

現代は勉強するには知識を探求するには向いている
それはもうインタ−ネットできればどこでも可能である
最近はスマホでもアクセスしているからパソコンがなくても知識は吸収できるしパソコンがあれば全国にも世界にも発信できる
だから情報分野ではインタ−ネットをしないことはもう相当なハンディキャップを負うことになる、時代に乗り遅れてしまう
図書館不要論がでるというときその場所まで行きそこでまた本を探して読むというのが手間なのである、それで私は介護になってからでも終わってからでも家事に時間をとられるから行っていないのである
その場所まで知識を得るために行かねばならないこということはそれだけ時間の無駄なのである
だから当然本屋は消滅してゆく,図書館も不要論がでてくる
それは知識を探求する人はインタ−ネットしている人はわかる
AIはむずかしいにしてもある程度理解できる
医療分野でも膨大な情報量を処理することなのである
膨大なレントゲン写真から癌を見つけ出すとかその情報量によって効果を発しているのである

まず古本だけでも膨大であり安いから買える、今回買った二冊の本は自分が追求していることを語っていたということで驚いた
つまり人間は一人で考えることには限界がある、一人の知識には限界がある
それだけ知識の分野は広いからそうなっていたのである。

場所の現象学(没場所性を越えて)−エドソール・ルレフ

この本は私が自分の住んでいる場所からあらゆることを発想してアイディンティティを作ってきたようにそのことを明快に書いていたから驚いた
つまりまさにぴったりの本だったのである
ここでは住んでいる場所がいかに大事かそこをベースにして人間が形成されることをわかりやすく書いてある
現代はの場所が没場所化している、そこに人間存在そのものが希薄して意味なきものとしている、マスコミでもそれは没場所性の報道なのである
私がプログで地域の報道でもするとき没場所性にはならない、土着的な報道となっているのである、こういうことは今まではできなかった
メデアをもたないからできなかったのである。

大衆的アイディンティティはそれは集団や個人の経験から発展したというよりも世論を誘導する者によって与えられ、できあいのアイディンティティを人々に与え商業広告を代表とするマスメデアを通じて広められる
それは感情移入的内側性の余地を全く残さず場所との一体化の基礎を破壊することによって実存的内側性をむしばむ
大衆的アイディンティティが象徴や深い意味に基づかず気まぐれで寄せ集め的に生み出されたまことしやかで作為的なステレオタイプに基づくものだからである
マスメデアはその受け手が直接に経験できない場所に偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする

Massedia tries to build up a fake world of a false place in a place the recipient can not directly experience

報道とは何かというときそこも土着性が必要だったのである。
その住んでいる場所から物事をみる、でもマスメデアになると全国的とか福島県でも広いから没場所性になる、そこに何が真実なのかも事実なのもかすら明確なものとならないし何か意味づけることもできない、ただニュースとして一過性に流れて消えてゆくだけだとなるのである、場所には永続性があるから場所をもたないものはただ一過性になってしまうのである
また直接的な経験ではないからフェクニュースになりやすい、世界的ニュースになるともう完全な没場所性になるからフェクニュースでも真実になる、その場所のことを理解することは不可能だからである
何か起きるというとき take place であり場所と関係していたからである。

2018年08月23日

マスメデアは感情的にさせる客観性がないバッシングメデア (対抗メデアになっている武田邦彦氏の発言)


マスメデアは感情的にさせる客観性がないバッシングメデア

(対抗メデアになっている武田邦彦氏の発言)

武田邦彦氏が盛んに日本人は感傷的感情的になりすぎる、客観的冷静に見て判断しない
合理的ではないというとき日本人にはもともとそうした科学的合理的精神が育たなかったとなる
科学的合理的精神がなぜヨ−ロッパに育だったのか?
それは一神教でありキリスト教から育まれたという見方がある
なぜ宗教から合理的精神や科学的精神が育つのか?
それは一神教というときあらゆるものが神となるアニミズムから解放されるからである
偶像崇拝から解放されるから科学的合理的精神が育つとみる

日本人は感情的だというとき義理人情の世界だから情に重きを置くからそうなる
日本人には法の精神とは育ちにくいだろう。法律は情を極力入れな、感情移入しないところに成り立つからである
感情的ではなく冷静な客観的判断をすることに重点を置くからだ
日本にはこういう精神が欠けているのは確かである

明治になるとそうしたヨ−ロッパの文明が入ってきたとき思想でも何でも日本人は同化しようとしたがなかなかできなかった
例えばこの合理的客観的精神は文学にも影響したのである
正岡子規の俳句の写生論がそうである
「鶏頭の十四五本ありぬべし」の俳句がその代表だったのである。
こういう俳句はありえなかったからである、それはヨ−ロッパの文化が入ってきたとき写実主義が絵でも現されているそれを取り入れたからそうなった
極力悲しいとか淋しいとかうれしいときいう感情は入れない、なぜならそうすると俳句は短いから表現できないからである
短歌だとそうした淋しいとか悲しいとうれしいとか悔しいとかの感情が入れやすいのである、俳句は感情的なものを入れるとも短いから成り立たなくなるからだ

客観性は科学や法の精神である、主観とか感情移入すると客観的判断はできなくなる
だから親族の発言は認めないとなる、どうしてもそこに感情が入るから公正な判断ができなくなるからだ
法で裁くというとき何かの事件でも殺人事件でも客観的な判断になるもの証拠が必要になる、すると科学的にその証拠を集めてそれが有力な判断基準になる
推理小説ではドラマではそうなっている、つまり人間の争いは複雑であり感情的になると誤るし利害とかからむとまた判断を誤る
それで客観的証拠として科学で追求するようになったのである。
私もそのことで失敗した、親戚でも双方の言い分を聞かなくて一方的に一人の言い分だけを聞いていたからである。それで判断を誤ったのである。
それは利害も関係していてそうなった

人間はそもそも客観的に冷静に判断することがむずかしいのである

objectとなると【哲学】 対象,客観,客体 (⇔subject)の意味になる

objectには物体という意味があり物体から見れば客観的になる
人間だと感情移入するから客観的になりにくいのである
科学者はobjectの追求しているから客観性を維持できる
文系は感情的になりやすい傾向がある
それで武田邦彦氏の言うことは科学者であり文系にも詳しいから参考になる
考えさせられるものとなるからだ

マスメデアは文系なのである、理系の研究者などいない、だからどうして科学的なことについて追求できるのかとなる、何の専門性もない素人である、
それでもマスメデアはただ大勢の人が見るということで力をもっていたのである
大勢の人に訴えるにはわかりふすいことである。
それは感情に訴えることなのである。

ともかくニュースでも犯罪があれば感情を刺激する報道をする、何かをハッシングの対象にする、裁判官のようになっている
それはマスコミはマスメデアは単なるメデアではない、媒体ではない
自分たちの思う通りにしたいという明確な意志があって報道している
だからそれに反するものは発言させない、正しくても発言させないし取り上げないのである。またマスコミのマスコミ会社の意にかなわないものは排除する、報道もしないのである。

そしてマスコミはマスメデアは洗脳機関なのである。何か客観的に正しいものを追求していないのである。
この辺で起きたことでもそうである。補償金問題でもめていたとき一方的に原発避難民側に立って番組を作っていた
それでもし原発避難民を批判したらNHKでマスコミでそんなことを言わないとなりハッシングされる、なんて冷たい奴なのだとなり自分も批判されたのである
それはNHKにマスコミにお墨付きをもらったからそうなったともなる

でも現実問題として飯館村でも補償金で二分したけど牛を飼っている農家が9億円もらったというときそれは報道されないし真実かどうかわからない
でも大熊では5億円もらったというとき嘘ではないと思う
なぜなら事業している人とか土地をもっているとか酪農とか肉牛を飼っている人は多額の補償金を出たことは確かだからである。
それが現実であるが報道はされないから誤った判断になる
飯館村の村長が寄付金を募っていた、9億円ももらった人がもしいたらなぜその人たちは飯館村の復興に金を使わないのかとなるからだ 

でもそういうことは隠されるから飯館村ではかわいそうだなとなる
私も飯館村には思い入れがあるから批判はしたくない、飯館村は双葉とか大熊とは違う
原発とは関係ない所に位置していたからである
ただ金の問題になったときそんなに補償金をもらう人がいてなぜその人たちは村の復興に使わないのか?ただもう村を出てゆくことが優先されるだけだとなってしまった
これも外部の人はそういうことが報道されない隠されるから判断を誤る
ただ補償金では利害からんでいるから当事者だと客観的になりにくい
ここは30キロからはずれて補償金ももらったとしても少なかったから私は発言できたともなる

いづれにしろマスメデアとかマスコミの時代は終わったと思う、新聞とかもやがてなくなるかもしれない、すでに若い世代は新聞もテレビも見ないからである。
そしてでは判断基準をになるのは何になるのか?
それを象徴していたのが武田邦彦氏の科学者としての発言である
反対することがあってもインタ−ネットでは個々人の発言でありマスコミの会社としての発言ではない、すると何であれ考えさせる
つまり個々人だから対話的になるのである。この人はこんなことを言っている、そういうこともあるの,そういう考えもあるのとなり自らも考えるようになる

でもマスコミは煽情的であり何かをあおりバッシングさせるメデアである
まず阿部首相は気に食わない、自民党は気に食わない、だからやめさせるべきだ
そこから出発して会社として朝日新聞社とか毎日新聞社の意見として編集して放送しているのである。その会社の意向に反する者は発言できないのである。
それはカルト宗教団体ともにているし感情をあおるナチス的手法でもある
ゲッベルスになっているのがマスコミである
だからこそ朝日新聞は戦争を一番あおったのである

インタ−ネットにも問題があるが個々のメデアだから対話的であり考えさせるとはなる
大衆を対象にもしていないからである。
インタ−ネットでも大衆を対象にするとき感情をあおるようになる
でもそういうメデアではないからてりにくい、マスメデアはマスコミはあくまでも大衆をマスを相手にしている、だから考えさせないで感情的にあおる
まず犯罪の報道でも裁判官になっている、何かの報道でも裁判官になる
だからそういう資格があるのかという疑問がある
科学的に専門知識をもっている経歴の人がいないということは言えるからだ
武田邦彦氏の経歴はやはり他者の追随できなものである
ただすべてを容認はできないにしても科学については詳しいからそこから客観的判断ができるとてり考えさせるとなる

2018年08月18日

インタ−ネットで変わった放送 (情報の戦国時代となり百家争鳴になった)


インタ−ネットで変わった放送

(情報の戦国時代となり百家争鳴になった)

今回の高校野球は面白い、金足農業の逆転劇もドラマチックである
野球はプロ野球をずいぶん見ていない、王長嶋の時は見ていた
あれはプロ野球人気というよりテレビで放送されるようになって人気がでた
ラジオ放送だったりしたらマニアのような人しか関心がないとなる
テレビの影響は本当に大きかった
テレビの前は映像となると映画だがその時の俳優は映画で有名になったのである
映画館とかありニュースもそこで見ていたのである。
その時鉄道でフィルムが運ばれるから遅れていたのである。
リアルタイムでは放送されなかったのである。

現代を生きた人はテレビの影響が大きかった、テレビに出ればその人を問わず有名人になった、テレビに出ればなにしろ何百万人が見ているのだから影響力が大きい
テレビで取り上げらることはそれだけで有名人になる
今振り返ると本屋でもそうである、ごくわずかの本しか置いていない
それで冠婚葬祭とかの本が百万も売れたのである。
つまりこれは内容など関係ない、宣伝で売れたのである
テレビの宣伝だけで売れた商品はいくらでもあるだろう、内容より宣伝力がものを言うからである、それでテレビは絶大な力をもった、別に内容というより放送できるということで力を持っていたのである

ニュース解説でも放送でもテレビで放送されれば何百万人も見るからである
そして六局しかテレビで放送できないのだから独占だったのである。
するとマスコミでは放送によって独占できるとなる
世論でもマスコミが作ることができた、マスコミは単なる媒体ではない、会社が意志をもって放送する内容を決めていたのである
インタ−ネットだと一応目立たないにしろただの媒体,メデアだという感じになる
誰でも放送できるからである,それでも今はインタ−ネットでも操作されているという時代になった、それはインタ−ネットがそれなりにメデアとしてみんなが見るようになったからである。

メデアというと媒体という意味だけど実際は違う、媒体には機械的なものでそこに人間の意志はない、でもマスメデアであれマスコミではあれそれは明確に意志をもって報道している、だからこれが混同しやすいのである
誰でも言いたいようにマスコミを通じしてマスメデアを通じては言えないのである。
マスコミのマスメデアの方針にそって発言しているしその方針に逆らうことはできないのである。
新聞でも週刊誌でもメデア(媒体)と報道するものが一体となっていたのである
テレビでも放送するには莫大な金がかかる、新聞でもそうである、雑誌でも金がかかる
本だって出版するには金がかかる、その金をどうするのかというのが問題になる
それは会社の宣伝費でまかなうほかないのである。
だからマスメデアは媒体をもっているからそれで権力をもつようになったのである。

でもインタ−ネットになるとほとんど手間はかかっても無料で放送できる
それで中国の現状を討論番組で放送したがそれはyoutubeでも盛んに言っていたなと見た
youtubeだって今や放送局と同じなのである。個人の放送局にもなっているのだ
プログでもそうである、個人は総一億記者になってしまったのである
リアルタイムで写真でも動画でも出せるからである
そして何か自分でもしてみて放送するということが興奮することなのである。
それでこれまでのマスコミと同じく目立つためにわざと火事を起こしてそれを動画にとり視聴率を高めるとかあった、それは絶えずテレビで刺激的なことを事件を報道して視聴率を稼いでいるのと同じなのである。

アフィリエトとかで同じように宣伝費をかせぐからである。それはマスコミも会社から宣伝費をもらっているのと同じなのである。
それで会社から金をもらうと会社の意向にそうような記事を書かねばならないと言っているのもテレビと同じなのである
違うのはほとんど金をかけずに個人でも報道できるから会社から宣伝費をもらわなくてもできることが大きな相違なのである
これまではそういうことはできなかったのである

メデアが媒体だというときそれが目立つから何百万人の眼にふれるから会社でも宣伝として使おうとする、例えばテレビでなくてもコンビニでもそこに雑誌でも本でも新聞でも置けばその見出しだけを見ても目立つのである
書店でもそうでありそこは目立つ場所なのである。でも誰でも勝手に置くことはできないのである、本でも書店で目立つ所に置けば見る人がいるとなるからだ
ただ今や週刊誌や雑誌は買わない、インタ−ネットで月400円で見れるからである
ほとんどの週刊誌や雑誌はDマガジンで見れるのである。
すると読むにしても週刊誌一冊は読まない、目次をみて興味あるものしか読まなくなったのである
そうなるとコンビニに週刊誌が置くだけ目立ったがインタ−ネットでは目立たない
無数の記事から選び読まれるとなってしまうのである
まずインタ−ネットで目立つことは至難だからである
たたテレビと同じようにyoutubeにすると見られやい、たいして内容がなくてもやはり本読むより簡単だから楽だから見る人はいるなと思った

いづれにしろ今やインタ−ネット時代になると報道でも情報の流通でも戦国時代である
百家争鳴になったのである。
どんな人でも発言できる放送できる時代になったからである
そして放送するということは地域でも無数にあるから実際は無数なのである
なぜ自分でも不思議なのは自分の住んでいる場所の駅が無人駅になっていてそこを定点観測したことを報告している
駅長が一人でホームの草刈りしていているとか報告した
写真でも報告したりした、駅で放送するようなことがそんなにないと自分では見ていたのである。

でも駅にこれだけ放送することがあるということが自分でも意外だったのであるとすればどこでも定点観測して放送することがあると思った
駅でなくても病院であれ学校であれ会社であれ工場であれ農業であれ漁業であれあらゆる職業でも毎日ウオッチして報告することがあるとなる
それはでもみんなたが興味をもつ、これまでのマスコミでテレビで何百万人とか見るようにはならない、新聞でも福島県でも百万単位で新聞を見るのとは違うのである
福島県でも広いからである。
自分の場合は自分の住んでいる一万足らずの町を中心に報道しているからである 
ここでもインタ−ネットにより報道が変わったことだと自らしてわかったのである。

いづれにしろ何かを報道することは興奮することだと思った
それで津波の時にその映像をとることに夢中になって助けなかったとか問題になった
反省した人もいた、それはマスコミが今までしていんたことなのである。
まず刺激的な映像をとることが第一になるからだ、それが商売だからである。
その映像を見せることによってみんなが見ることによって会社からの宣伝費ももらえる、大勢見ることによって成り立つ商売だからである
だからこの辺で津波が起きたとき八沢浦が江戸時代の入り江にもどったと写真を出してのせた、それを相当の人が見たのである。
でも地元では現場では津波の後に泥に埋もれた幼児の死体を掘り出しているのになんなのだとしかられたのもそうである
それが自分はマスコミと同じようになっていたのである。
津波の刺激的な映像を報道したかったのである。
ただ無料だし宣伝するプログではない、金をもらっていないことが違っていたのである。別に金をもらわなくても人間は報道する本能があると思った
何か変わったことがあれば何でも口伝いでも伝える、口コミが常にテレビがなくても何がなくも人間はしてきたからである

ただインタ−ネットの問題はあまりにも放送する人がふえすぎたことである
プログしている人でも何百万にもなるとかなれば異常な多さでありそこから今度は読まれることは至難になるのだ、よほどのことでないと読まれないということにもなる
すると公的なもの国民として知るべきものや深く議論などして知るべきものがわからなくなるということはある、そこには確かにオピニオンリーダーのような人がいることはいるがその他にも無数に意見を言う人はいるからである。
そしてそこでもキケルゴールの言う水平化の原理が働くことになる
お前の言っていることはたいしたことはないとか水平化されて何が重要なことなのかもわからなくなるのである。指標となるものがなくなる
すると情報の海でおぼれるということもある、捕まる杭とか何かそういうものがないと判断できなくなるからだ      

インタ−ネットにもいい点と悪い点がありそれをうまく使えるのかということもある
ただマスコミとかマスメデアとか雑誌とか週刊誌とか新聞紙の時代は終わったというのは確かである。それはメデアをもっていたからでありそのことで力をもっていたからである新聞でもそれを配るには大変な金がかかるしテレビでもそうだったからメデアを独占できたからである、今はそれができなくなると報道するのでも内容が問題にされるようになったのである。
ただインタ−ネットではあまりにも数が多いので指標を見失うということはある
ただ個人でもメデアを報道する媒体をもったことは権力が与えられたことだったのであるだから中国ではインタ−ネットでも規制している、政府の批判はさせないのである。

2018年08月08日

カシオの腕時計のバンドが二つとも切れた (金属でないと一年くらいしかもたない)


カシオの腕時計のバンドが二つとも切れた

(金属でないと一年くらいしかもたない)

ristwatch11.jpg

カシオの腕時計を二つ買ったけどバンドが切れた、方角のわかる時計はに三年もった
時刻も狂っていない、次の月の満ち欠けのわかる時計は一年ももたずくらいにハンドがきれた、このバンドが切れたらなおしようがないから使えなくなる
どちらも一万ほどだがこんなのでは買っても損である
何か欠陥がある、このハンドは安物を使っているのだ
こんな簡単に切れてしまうのでは損である

それで今度は2000円で金属のバンドのを買った、これもカシオである
別に時刻がわかればいいと思い買った、これはソーラ−電池ではないが
7年はもつとある、まずバンドがこんな簡単に切れるのは使えものにならない
そしてこのバンドは直すこともできないのである。

この頃買い物では失敗することが多い
これは別に年と関係ないが買い物がうまくできなくなった
それはなぜか?
新しいものが商品として出ていても使えこなせないのである。
そして良く「年寄りの冷や水」というけどその意味がわかった
年寄りでも別に急に年とって変わるわけではない
年よりもこれまで生きてきた延長として生きる
だから今までしていたことができると思う
それで今までしてきたことをやりつづけようとする
買い物でもそうである、今まで買ってできていたから使いこなせると思う
でも技術は進歩しているから追いつかないとなる
パソコンをやっていたからスマホもできると思うがスマホはまた違ったものだから使いこなせないとかなる

また登山しようとしてリュックを買ったがこれも使わない、登山がきつくてできないとかなる、自転車でも電動のロードのいいのが出たから今までのように遠くに行こうとする
でもロードは体にきついとかなる
つまり老人でも年とっても人間は今までしたことの延長としてある
それで年寄りの冷や水となるのである。
人間は年とることがどういうことか理解できないのである。実際に年取ってみないとわからない、年をとることは今までしたことができなくなる、体も頭も追いついていけなくなる、でもそれが実際にそうなってみないと理解できないから依然として今までしていたことをするのである、バイクにのるのも70の人も乗っていた
それは今までも乗っていたし車でも今まで乗っていたから年とって依然として乗ろうとする、それがいつか年よりの冷や水としてとがめられるようになる
車に乗るなというのはまさにそのことなのである。

いづれにしろ買い物がうまくいかない、それも年とることの特徴なのかもしれない
ただこの腕時計のバンドが切れたのは別に年取ることとは関係ないだろう
これはカシオでこのバンドを強くしないからだ、安物で切れやすい作り方あしているだけである、だから年寄りだから買い物に失敗したとはならい
でもこの腕時計でも使い方がめんどうでありそこが問題だったことは確かである
現代の商品は機械などは何か使い方がめんどうなのである
それが老人にとって不利なことは確かである
老人にとってはアナログ的なものが使いやすいのである
それで現代社会は老人にとって不利なものとなっている

2018年07月20日

コメントの返信は遅れることがあります


コメントの返信は遅れることがあります

コメントの返信はは三日の後とか一週間後とか二週間後とか一か月後とかになることがあります

なぜかというと自分のプログにはほとんどコメントがないので見ていないのです
私はプログを書くことに専念しています
それでコメントを見ていないことがあるのです

だから遅くなっても返信はあるのでプログを見ていてください

今回の深野の人のコメントは興味深いものでした
ただこれも三日後とかなったので遅れました

一週間後くらいまで余裕をみて返信がありますので見ていてください
これからは一週間を目安にして返信はしたいと思いますのでよろしくお願いします

2018年06月26日

「ネット上で恨んでいた」 福岡のIT講師刺殺容疑者 (ネットを規制しろというのはマスコミである)


「ネット上で恨んでいた」 福岡のIT講師刺殺容疑者

(ネットを規制しろというのはマスコミである)


これも起こるべくして起きた事件なのかもしれない、ネットでは見知らぬ人でも言葉の暴力になりやすい、相手が見えないからである。
すると過激な発言になる、普通の社会だと相手と直接接していればなにりくい、制御されることでも制御されなくなる、ただ普通の社会でも見知らぬ人が酒飲んで口論になり殺人事件でも起きている
これもネットだから起きたというわけでもない、ただ11人とか殺害されたのは震撼とした、ネッとで誘い女性が殺された
そして意外と女性がsnsにはまるというのも意外である。
女性は相手の男性を信用するというのも意外である、警戒しないもの意外である。

ネットを通じて女性を暴行して殺害したという事件もそうである
ネットには闇の世界がある、匿名性でそうなりやすい、またネットでは誰でも発言することができる、どんな発言でもできる
こんなことをいってお前バカだなとか何か答えにもなにもならなくてもそこで発言できるつまりそうしてただ何もまともなことを発言できないのでおとしめるだけの発言をする人がいる、そういう人は相手にしたくない、フログだと無視できるからいいのである。
掲示板と他のsnsだと対話形式になっているから無視ししにくいのである
議論はあってもいいがただ馬鹿だとかおとしめるだけの人もネットには多いのである

ネットでも大統領がツイッターをしているとか普及しているし日常化した
自分はツイッターとかわからないし他のこともわからない
でもワープロで通信していた時代がありそのことを知っている
その時はみんな対話形式のものでツイッターとかラインとかと同じだった
フログのような個人が自由に発言するのではなく必ず対話形式だった

私はプログに発言するようになってからほとんど返答があっても答えていない
プログになるとまず書く量が多くなるからそれだけ手間になるのだ
相当なエネルギーを費やすことになる
今までは長い発言はできなかった、今でも対話形式ではできない
だからプログと他のSNSは違ったものなのである。
正直こうして書いているが反応がわからない、でも長い分を読む方にして手間だろうなと思う、熱心な人しか関心がある人しか読まないとも思う
プログなど無数にあるから読まれること自体が大変なのである。

最近Dマガジンとかインタ−ネットで一か月400円払って雑誌でも週刊誌でも読めるのは便利である、そこで気づいたのは週刊誌の記事はつまらないなと思った
今までは面白い記事があり買ったりしたがインタ−ネットになると何か読む記事がないなと思う、でももしインタ−ネットでこんなふうにして読まなければ週刊誌でも400円くらいで一冊買う、何か一つでもいい記事があると買ったりしていたのである。
それは結局週刊誌がコンビニなどにあり目立つからだったのである。
何か情報を得たいということで買っていたのである。
週刊誌が成り立ったのはコンビニなどに置いて目立ったことが原因ともなっていた
その内容がいいからとは限らなかったのである。

マスコミとかテレビとか新聞はもともとそういうものだった、それはメデアとして特権化したものであり放送する出版する権利をもっていたからだったのである。
そして新聞でもテレビでも本でも簡単に多くの人は何かを言うことはできない
メデアを持つことは権力を持つことだったのである。
現実に原発事故でわかったようにテレビとか新聞社には宣伝費として800億円も流れていたことでもわかる
それはメデアがそれだけ権力をもっていたことの証明なのである。
一プログなどは注目されないからそんな権利をもちえないからである。

ただDマガジンとかでわかったことはメデアが水平化したなとつくづく思う
NHKですら今は平気で批判できる、つまりなんでもキケルゴールのいう水平化現象が起きてくるのだ、民主主義でも平等を追求するから当然水平化する
誰でも発言ができる,こいつ馬鹿なことを言っているななど発言できる
それで満足する者もいるのだ、ねりにねって考えて発言したものへでも馬鹿な発言だとは言えるのである。
民主主義は平等であり下劣なものでも高等なものと対等になろうとする
それがインタ−ネットでメデアでもそうなったのである。

今回の事件でもITの専門家で講演までしている人が無職とかの人に恨まれて殺害にあった
それは「低能先生」とか罵倒されてそうなったのである。
そのバカにされたことで殺害までなったのである。
ネットでは馬鹿だとかいうことは普通である、でも面と向かっては普通は馬鹿だとは言わない、ただ低劣な人間でもともかく発言できる
それが水平化の社会なのである。
この社会はまず優秀な人とか認めない,みんな同じなんだという社会である。
だから低劣なものが入り込みやすいし受け入れざるをえない社会なのである。

君子危うきに近寄らず-これほど深い意味ある言葉はないことを今になると知る、危ういやつには近寄るなというときこの世には危うい奴が多すぎるからだ,
ネットだと余計に匿名だしそうなる、そこで思わぬ事件に巻き込まれるのである。
ただ殺人までいたるということはこれもネットでも普通の社会と変わらないものになってきた証拠である、別に見知らぬ人同士が口論になり殺人事件になるのはあるからだ
でもそのことの原因が何なのか?それは人間の劣情がら起きてくる
だからネットがすべて原因とならないのである。
ではネットのない社会で口論で殺人になる事件は何の原因だとなるからだ

いづれにしろ人間の社会では道具でも機械でも何か便利なものはいい面と悪い面をもたらす、鉄の時代が暗黒だったというときそれが鉄の武器が殺傷力が強くなり殺人マシーンともなる、それは核の発明でもそうである,もし核が発明されなければ広島の原爆はなかったからである。フクシマの原発事故もなかったからである。車の発明でもこれだけの人間か死に傷つくこともなかったのである
車は犯罪しやすい道具なのである。逃げるのにはいい道具なのである。
自転車旅行だとかならず目立つから職務質問されるが車は検問があってもなかなかわからないからだ
インタ−ネットでも同じなのである。便利な道具を使った犯罪はなくならない
では車を規制しろとかは言わないのである。
インタ−ネットを規制しろというのは特権を享受していたマスコミなのである。

ともかくこういう事件が起きるのもインタ−ネットが一般社会化したといかことである
殺人もネットからみであるし盗みもあるし性犯罪もあるしなんでもありになる
それは別にネットがなくても起きていたのである。
それが全部ネットのせいだとは言えないのである。
そして車と同じく今やネットなしではスマホでもそうだが社会が成り立たなくなっているだからネットを規制することはできないという前提でネットをするほかないとなる
別にネットを有効に使えは今までにない世界が開けるし知識も身につく、その利用の仕方次第なのである、それは車を犯罪に利用する人せいるし有効に社会の役立つように利用する人もいる、結局その方が多いから車は規制できない、社会で規制しないのである。
それはみんな合意の上に成り立っていからだ、ネッとを規制しようとしているのは特権を享受していたマスコミなのである。
なぜなら新聞とかテレビは自分たちの権益が損なわれることに恐怖を感じているからである,それでネットのことを危険だとか低劣なメデアだとか危険だとか言うのである。
それも不公平なのである。
ネットでは低劣なやつも発言が一応できるがマスコミではマスコミから除外されたものは発言できないし報道もできないからだ

2018年06月07日

マスコミの報道には目的がある (NHKのニュースがフェイクにならない方法(武田邦彦)


マスコミの報道には目的がある

(NHKのニュースがフェイクにならない方法(武田邦彦)



天下りが必要だからそれを推進させるために老人の交通事故を過大にとりあげる
老人ならみんな増えすぎて無駄な奴が多いとかみんな思っているから批判しやすい
でも若い人とか女性となると反発が大きくなる
若い人と女性の方が交通事故が多いという事実を報道しない

なぜ老人が標的にされるのか?

それは天下りが必要でありそのために老人の免許関係で天下りの事務が必要なためにそうさる

その目的は何のか

役人が天下りの職が必要でありそのために老人から免許をとりあげる
そういう明確な目的があって報道している
それを言わないからNHKはフェクニュースになるという
自分はそんなに天下りが関係しているのか?
そういうことがわかりにくが原発事故でも原発ほど巨大な利権は他になかったろう
何兆円とかが湯水のように使われるのに驚いたし東電がこんな巨大な企業だと思わなかった,その辺が自分は社会のことがわからないのである。

その巨大な利権によって原発がゆがめれたのである。
原発自体が天下りの巣窟になっていたのだ,警察官僚から官僚の有力な天下り先になっていた,そこにはマスコミ関係者もいたとかなる

つまりそういう利権を天下り先を確保するために原発が必要だった

武田邦彦氏の論法だとそうなってしまうのである
こういう上層部の構造は一般庶民とかにはわかりにくいのである。
正直な話自分の家族の一人は公務員をしていたので多少そういう利益を得ていたことを知っている
そういう地位とか立場にいると自ずと得するようにできているのである。
結果として自分も得していたとなるのだ
株の世界などでも本当にもうけている人は何かそうした利得にあづかる立場とか地位とか権力をもっている人だとなり陰謀論になっているのである。

とにかく報道はただ事実を報道するのではない

ある明確な目的をもって放送会社がNHKでもしている

その目的は何なのだとなる,その目的を言ってニュースを報道すべきだと武田氏は言う
つまりNHKとか官僚は利権で結びつく,それはマスコミでもそうである。
どっちも得するようになっている

でもNHKなどではどういう目的で報道しているのか?

それがわかりにくい,中立で公平にも見えるからである。
まずこの辺で原発避難者を批判できなくなっていた
それはNHKでもマスコミでも原発避難者側に立って報道していたからである。
原発避難者が実際はパチンコ屋通いでありギャンブルで遊んでいただけだということも報道しない、ただかわいそうだということで応援していた
だから原発避難者を批判するとお前はなんなのだとなる
それで不満があっても言えなかったのである。

ではなぜ原発避難者側にNHKが立ったのか?
それは上層部で決めたことなのである。
あと取材する人はその命令に従っただけだとなる
ただ後から津浪の被害者も考慮して放送するようになった

とにかく放送するということは何か目的があって報道する
放送局でその目的がありその目的にふさわしいように放送するし編集する
そしてその目的にふさわしくないものは放送しないとなる

ではその目的とは何なのか?

それが問題になるのである。

事実だけを報道するといっても重大なことでも報道されないことがあるからだ
それは放送局にとって目的にかなわないからだともなる
森友学園問題にしてもまずマスコミの目的が不正正すということがあっても
今の安倍政権に打撃を与えて政権を倒すことを目的としている
だからともかくなんでもでっちあげても不正にして国民にそれを印象づける

一方で野党側の不祥事とか辻本と深い関係にあった会社が検察の捜査を受けたのを報道しないのである。それはマスコミにとって目的にふさわしくないから報道しないのである。NHKでも報道しなかったからである。
都合の悪いことは目的にかなわないのは報道しないのである。
それで原発事故でも10メートル以上の津浪を来ることを東電では想定していたのである。でもマスコミでは福島民友でも民報でもそれを大々的に報道しない
なぜなら政府と東電の目的に合うようにしか報道しないからだ
福島民報は出資の半分が県で負担しているから官報であり政府とかの不利なことは報道しないのである。
そこにも目的がありその目的にかなうものは報道するがかなわないものは報道すらしないのである。
それが大惨事につながったのである。

いづれにしろ報道でもそうだが利権と結びつくなんでもゆがめられるのである。
でも人間は利益には弱い,でもそのことが戦争で300百万に死んだとか原発事故とかの大惨事につながる
そうなると報道をただ権力をもっているものだけによって操作されたらまたそうした大惨事が起きてその被害は国民が受けねばならないのである。
そういう報道のことを国民が監視しなければ同じことがまた起きる
マスコミが芸能人の馬鹿騒ぎの場にしてはならないし重大なことに関心をもたせないとまた大惨事が起きる,国民がそのために苦しむのである
それは民主主義だと国民の責任であり指導者の上層部の責任ではないとされるのである。現実に政府も東電でも何ら原発事故では責任をとっていないからである。
ただ武田邦彦氏でもこの原発事故には責任がある立場にあった
今頃1ミリシーベルとか言っても何か虚しいとはなる

2018年06月06日

NHKのフェイクニュースの技(武田邦彦)に同感 (マスコミの報道は一方的洗脳報道)


NHKのフェイクニュースの技(武田邦彦)に同感

(マスコミの報道は一方的洗脳報道)


週刊東洋経済%202018年5月26日号

武田邦彦氏の見識には敬服する,共感することも多い,
その見識はどこから来ているのか?
科学者として技術者として指導的な立場で現実に働いてきたことである。
自分などは底辺でしか働かないからそうした上層部のこと指導的立場にある人のことがわかならい,だからそうして上層部が指導的立場にある地位と権力をもつ人たちと現実に接しているから具体的でわかりやすいのである。
人間社会はまず底辺層とばかり接していてもわからない,上層部と指導的立場にある人と接すれば社会がどうなっているのかと具体的にわかるだろう

例えばマスコミというときこれも現代では大きな権力であり社会を左右するものなのである。だからこそマスコミについて批判は常にある
でも批判しようにも一般人は報道できないのだから報道する権利はマスコミにしかなかったのだから不満があっても何も言えなかったのである。
インターネットが生まれて普及するとマスコミが批判されるようになったのである。
その力は弱くてもそうなったことは民主主義を発展させるのには良かった
何か自分が公に発言するということを経験していないからである。
たいして影響力がないのにこうして発言することで主体的なものとして積極的に社会に参加するものとして自覚できるのである。

マスコミの影響がどれだけ大きいのか?
それは戦前でも新聞の影響が大きく朝日新聞が戦争をあおり推進させたということをしきりに言うとそうなのかなと思う
マスコミは左であり左系統の発言に洗脳されることが多かった
インターネットは逆に右に偏っているがそれは今まで右は発言を封じられた反動としてそうなっている
報道することはそれも何百万人とかに報道することはできることは大きな権力である。
それによって判断が決められるからである。
戦争中なら朝日新聞が戦争をあおれば国民も同調するのである。
それは今でも安倍政権を森友学園で執拗に批判しているのもそうである。
マスコミというときどの局も常に同じことを追及している
別なことを追及してもいいはずだがどこの局でも一色になるのもおかしいのである。

報道は明らかに大きな権力である。だからこそ権力をもっているからこそ利権と結びつきそれで利益を得る
原発事故を起きた時,中国に東電からマスコミの幹部が招待されているときだったのである。朝日新聞の幹部も招待されていたのである。
全部のマスコミが招待されていたのである。
「安全神話」は日本の神がかりの戦争はこうして政府とマスコミなど一体化して作られたものだったのである。
そして3百万人が死んだのである。朝日新聞は戦争に負けたら今度はそうして戦争に加担していたのに一転して批判する立場になったのである。

武田邦彦氏がNHKを批判するときNHKは公平に見えるがそこに巧妙な操作があるというのには同感である。
この辺で原発事故の避難者が大量に仮設に住んだ,その時前にも書いてきたが飯館村の人が相馬市のトマト農家に雇ってくれと言ったが断られたと放送した
その時知らない人は何なんだ,その農家は冷たいなと暗黙に批判させていたのである。
もちろん飯館村の人にも言い分はある,それは否定できないががトマト農家にも言い分があったのである。
相馬市で松川浦など津浪の被害が大きかった,相馬市では原発の補償金はもらっていないすると津浪の被害者の方が生活に困る人がいたからそうしただけなのである。
原発避難者は多額の補償金をもらっていたからである。
そうして原発避難者もかわいそうだと常に外からボランティアが来て励ましていたのである。その中には津浪被害者もいたのである。

何か人間の問題はもめごとでも双方の言い分を聞かないと本当のことはわからない
それで失敗したのが親戚の人で母と娘が争っていたとき母が悪いとばかり思っていた
そういうつきあい方を自分の家でもしていたからだ
ところが実は娘がとんでもない悪い人だったのである。
それも双方の言い分を聞かないし先入観がありそうなって誤解して判断を誤っていたのである。
だから何でも争いには双方の言い分があり裁判のように双方の主張を聞くべきなのであるところがマスコミの報道は常に一方的洗脳なのである。
そこで反論などは全く許されないのである。インターネットがでてその批判が出るようになったのはそのためである。
マスコミは自分たちの都合のいいように国民を洗脳する権力機関だったのである。

福島民報でも福島民友でも同じである。
地域の新聞だからマスコミでないと思っているがそうではない,福島県でも広いからである。そして福島民報は出資が県で半分出している
そうしたらとても原発でも反対することはできない,批判できないしほとんどその危険性も事実も報道していないのである。
プルサーマールについて危険について報道したとしても原発そのものについての危険性は報道しなかったのである。
プルサーマルについて佐藤栄佐久前知事が失脚したのもそのためだったともされる
東電については「財界福島」でも最初原発を批判していても二三回で全くやめた
それは東電から金が入ったからだとも言われる
福島県で東電を批判することはなかったのである。権力の圧力でできなかったのである。10メートル以上の津浪を来ると東電の科学者たちは想定していたのである。
その報道すらなかったとように思う
もしそのことを大々的に報道していたら津浪に警戒して今回のような大惨事にならなかったかもしれない,そしたら東電は地元に感謝されるようになっていたろう。
だから何か重大なことを知らせる役目が報道にある
でも知らされなければ知り得ようがないのだから危険も感じないとなるからだ

ともかく人間社会はなんでも権力によって利権によって利益優先でゆがめられてしまうのである。それはあらゆるところでそうなる
そもそも東電でも一時は高い場所に原発を建てたのに電源の設置などでコストがかかるとわざわさ高くしたのを削って低くしたのが最大の失敗だったからである。
それもコストのためだったのである。
安全を追及すると金がかかるためだったのである。

ともかく武田氏も指摘にするように利権と結びついてゆがめられる,NHKでも天下り先を確保するために老人の交通事故を大々的にとりあげて老人の運転を減らそうとしている
でも実際は交通事故が多いのは若者だとういうこと女性が多いということは言わない
交通事故は毎日のように起きている,免許をとりあげるなら若い人だとなる
若い人の保険金が高いというのもそうである。それだけ事故が起きる確率が高いからである。
そのことを知っていて公平に報道しない,そして老人が悪いから免許をとりあげるべきだという世論を形成させる,それはもともと老人が目障りでありそういう風潮があるからNHKでもそうしているとなる
だからフェクニュースだとしている

いづれにしろ利権と結びつくとき報道はゆがめられる,伝えるべきものも伝えられないのである。
東電から800億とかの金を報道機関に流していたらもう悪いことは報道できないのである

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週刊東洋経済%202018年5月26日号

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医療関係でも朝日新聞がかかわっていた,こうして利権と結びつき利益を得る
そこで公平な報道はできなくなる,ただ金儲けのために報道があるとだけなる
だから報道の中立性には公平性には利権と結びつかないことだがどうしても報道には金がかかるので今まではできなかったのである。
インターネットで多少その弊害をなくすことはできるようになった
別に今はマスコミに接しなくてもインターネットで報道でも間に合わせることができるからである。それでもう新聞がなくなるとかテレビも見なくなるとなってきたのである。

2018年05月22日

マスコミ報道の問題 (危険は報道されやすく安全はされにくい)


マスコミ報道の問題

(危険は報道されやすく安全はされにくい)

全国メディアは大きな出来事しかフォローできていない。また、傾向として「安全」は全国ニュースになりにくく、「危険」(あるいはその可能性)はなりやすいということもある

避難指示解除後の自治体の現状と課題

マスコミでも報道はいうときあまりにもありふれたものは話題にも注目もされない
それでマスコミでは週刊誌などでも話題性のあるものを報道する
その時「危険だ」とあれば人は注目する,それは自分の安全にかかわからである。

・・・・・・・が危険だ!

株が暴落する

戦争が始まる

世界が破滅する


何か滅多に起こりえないことでも人間は危険となると自分の身にかかわるから身構える
その人間の心理を利用して週刊誌でもマスコミでも視聴率をとるためにそうする
「安全」だとか毎日の当たり前の生活には誰も注目しない
当たり前ということは面白くないということだからニュースにはならない
でも人間の日々の生活は特別面白いことでもないのである。
でもその日常の中に実は深い意味があるがそれは注目されないことである。

雨しとと菖蒲のぬれてこの道や今日も通いて買い物に行く

この短歌でも別になんのことはない,自分は毎日買い物がずっと仕事だった
主婦だと買い物をしているがそれと同じである。
それは日常的なことであるがその時紫の菖蒲が映える

ただ逆に肝心の危険があるのに権力で「安全神話」が作られることもある
原発事故ではそうだった,安全,安全とばかり権力で情報は操作されていたのである。
ただ一般的には「危険」は過剰に報道されるが安全なことは何も報道されないのである。

今やニュースと映像の時代である。膨大なニュースと映像に追われている
世界的ニュースとなりさらにインターネットでニュースも膨大に増大したのである。
そしてニュースとか事件の問題は限りなくあることなのだ
次から次と起こるからそれを消化する時間がないのである。
一つの事件には深い意味があるが消化する時間がない
自分に起きたことを延々と書いたがそれは自分にとって重大なのことでも他人にとってはそうはならない,自分のことだからその意味を延々と追及して書いたのである。
その自分の経験の事件の意味を知ることはまた自分が経験したことでも時間がかかるのである。

津浪とか原発事故はあまりにも大きな出来事でありこの意味をわかるのは百年とかかかるかもしれない,現実に廃炉には30年かかるとかプルトニウムは二万年消えないとかなるとそうである。それだけの消えない傷痕を残したからである。

フェクニュースのことが盛んに言われたがまさに現代の真実は何かわからないのである。仮想と現実が一緒になっいてる
現実が仮想なのか?仮想が現実なのか?その境界があいまいなのである。
そして現代の文明社会は巨大な幻想を真実と思いこみやすいのである。

なぜ投資がだまされやすいのか?

それはグローバル経済でありとても一個人が現実として知り得る世界ではないからであるそこでは株はもうかりますよ,投資信託は安全で定期的に配当金が入ってきますよとか
今はオリンピックで景気よくなるからその関係の投資信託がいいですよとかロボットとかAI関係がは伸びますよとか証券会社と銀行がすすめる
それも真実なのか見極めることは素人にはできない
株式の世界はその範囲が広すぎるからその全体像を知り得ないのである。
それで不思議のなのは投資信託でも種類が多いから確実にもうかっているものがあるが
それは普通知られないないというのである。
それを知っているのは株式の知識に通じた人しかわからないというのである。
今や本当の真実を知ることはこうしてかえってマスコミとかで宣伝されないものなのである。

「幻影の時代」では有名人の時代だというとき有名人はマスコミによって商業主義によって作り出されている,有名であるということで人は注目される,それで金になる
様々な賞などもそうして有名人を作り出して商売にするためなのである。

登山家の栗城史多さんが21日、エベレスト下山中に死亡した。35歳。


全く登る力なんてないのに 
登山家を装って応援を煽動 
引っ込みつかずに死の道へ 

これは自殺だよ 
セルフプロデュースや営業は上手だった。 

登山家の真似なんてしなければ成功してたかも

広告代理店の営業マンになるために生まれたような男だったな 
その業界のプロに叩かれたりしてるのに出来ない事を自分なら出来るって言って企業を動かしスポンサー付ける説得力


この人も知らなかったがマスコミによって宣伝のために作られた疑似英雄だった,そしてマスコミによって無理させられて死んだとなるのも悲劇だったとなる
本当の英雄ではなくマスコミを利用して今度はマスコミに利用されて死んだとなる
べつにそこまでやらなくてもいいわけだがひっこみがつかなくなったと批判されている
こういうことがマスコミでは多いのである。商業主義社会では多いのである。
有名人が作られてそれを商品化するのである。

現代とは何か人間もそうだが,幻影を現実と真実と思う世界である。テレビでも映画でもそうである。幻影とイメージの世界と現実の世界が混同しているのだ
そして壮大な幻影に人はまどわされる,それがナチスとなりその巨怪なものによって地獄が生まれたから冗談にもならない怖いものが文明にはある
その死は意味ある死とはなっていないからである。
大東亜共栄圏などというのもまた巨大な幻影をイリージュンを産み出していた
それはローマ帝国などとは違ったものだろう,なぜならローマ帝国は三世紀とか長い間つづいているからである。
創価とか他のカルト教団でもそうした巨大なイリュージョンを作り出して熱狂するファシズムになる,それはどうしても全国レベルになると数が物言う世界になっているからだ
マスコミでも視聴率がすべてであり大衆社会は数がすべてだからである。
すべてが統計的数字としてしか意味がないのである。

何百万の会員がいる,700百万もいるのかとかそれが社会に対して圧力をかける
その中味などどうでもいいしその会員などどんな人間でもいいのである。
一票の頭数をそろえることしか眼中にないのがそうした団体なのである。
宗教的改心とかなんかそんうものは一切関係ないのである。
そんなことを要求したらとてもそんな数は集まらないからである。

そうして現代の社会でも一過性で終わるのが多いのである。
それはニュースでも事件でもすべて一過性だからである。
そうした巨大な団体でも一過性であり持続しないからだ
ところが個々人でもそうだが当事者となったとき一過性ではかたづけられない
津浪でも原発事故でもその影響は次の代にもその次の代にも影響してゆく
放射能の被害はそれだけ長くつづくから恐怖なのである。
だから原発事故周辺の風評被害もなかなか消えないのである。

時間の連続性,物事の継続性,地域性

こうした見方ができないのが現代の報道の問題なのである。それによって人間の思考はばらばらになり人間自体の統一性とか総合性とかも失われ断片的にニュースでも消えてゆくだけであり人間そのものもそうである。
ただ数としてあり消えてゆくだけだともなるが現代なのである。


現代の妖怪(メデアが育む妖怪)

ここで書いたように原始的部族のような社会があればとてもテレビとかを理解できないことを示している
現代はだから幻影と幻想の中に生きている特殊な社会だとなるのだ


参考にした本

幻影の時代(マスコミが製造する事実)-DJ-ブーアースティン

マスコミ報道の問題 (危険は報道されやすく安全はされにくい)


マスコミ報道の問題

(危険は報道されやすく安全はされにくい)

全国メディアは大きな出来事しかフォローできていない。また、傾向として「安全」は全国ニュースになりにくく、「危険」(あるいはその可能性)はなりやすいということもある

避難指示解除後の自治体の現状と課題

マスコミでも報道はいうときあまりにもありふれたものは話題にも注目もされない
それでマスコミでは週刊誌などでも話題性のあるものを報道する
その時「危険だ」とあれば人は注目する,それは自分の安全にかかわからである。

・・・・・・・が危険だ!

株が暴落する

戦争が始まる

世界が破滅する


何か滅多に起こりえないことでも人間は危険となると自分の身にかかわるから身構える
その人間の心理を利用して週刊誌でもマスコミでも視聴率をとるためにそうする
「安全」だとか毎日の当たり前の生活には誰も注目しない
当たり前ということは面白くないということだからニュースにはならない
でも人間の日々の生活は特別面白いことでもないのである。
でもその日常の中に実は深い意味があるがそれは注目されないことである。

雨しとと菖蒲のぬれてこの道や今日も通いて買い物に行く

この短歌でも別になんのことはない,自分は毎日買い物がずっと仕事だった
主婦だと買い物をしているがそれと同じである。
それは日常的なことであるがその時紫の菖蒲が映える

ただ逆に肝心の危険があるのに権力で「安全神話」が作られることもある
原発事故ではそうだった,安全,安全とばかり権力で情報は操作されていたのである。
ただ一般的には「危険」は過剰に報道されるが安全なことは何も報道されないのである。

今やニュースと映像の時代である。膨大なニュースと映像に追われている
世界的ニュースとなりさらにインターネットでニュースも膨大に増大したのである。
そしてニュースとか事件の問題は限りなくあることなのだ
次から次と起こるからそれを消化する時間がないのである。
一つの事件には深い意味があるが消化する時間がない
自分に起きたことを延々と書いたがそれは自分にとって重大なのことでも他人にとってはそうはならない,自分のことだからその意味を延々と追及して書いたのである。
その自分の経験の事件の意味を知ることはまた自分が経験したことでも時間がかかるのである。

津浪とか原発事故はあまりにも大きな出来事でありこの意味をわかるのは百年とかかかるかもしれない,現実に廃炉には30年かかるとかプルトニウムは二万年消えないとかなるとそうである。それだけの消えない傷痕を残したからである。

フェクニュースのことが盛んに言われたがまさに現代の真実は何かわからないのである。仮想と現実が一緒になっいてる
現実が仮想なのか?仮想が現実なのか?その境界があいまいなのである。
そして現代の文明社会は巨大な幻想を真実と思いこみやすいのである。

なぜ投資がだまされやすいのか?

それはグローバル経済でありとても一個人が現実として知り得る世界ではないからであるそこでは株はもうかりますよ,投資信託は安全で定期的に配当金が入ってきますよとか
今はオリンピックで景気よくなるからその関係の投資信託がいいですよとかロボットとかAI関係がは伸びますよとか証券会社と銀行がすすめる
それも真実なのか見極めることは素人にはできない
株式の世界はその範囲が広すぎるからその全体像を知り得ないのである。
それで不思議のなのは投資信託でも種類が多いから確実にもうかっているものがあるが
それは普通知られないないというのである。
それを知っているのは株式の知識に通じた人しかわからないというのである。
今や本当の真実を知ることはこうしてかえってマスコミとかで宣伝されないものなのである。

「幻影の時代」では有名人の時代だというとき有名人はマスコミによって商業主義によって作り出されている,有名であるということで人は注目される,それで金になる
様々な賞などもそうして有名人を作り出して商売にするためなのである。

登山家の栗城史多さんが21日、エベレスト下山中に死亡した。35歳。


全く登る力なんてないのに 
登山家を装って応援を煽動 
引っ込みつかずに死の道へ 

これは自殺だよ 
セルフプロデュースや営業は上手だった。 

登山家の真似なんてしなければ成功してたかも

広告代理店の営業マンになるために生まれたような男だったな 
その業界のプロに叩かれたりしてるのに出来ない事を自分なら出来るって言って企業を動かしスポンサー付ける説得力


この人も知らなかったがマスコミによって宣伝のために作られた疑似英雄だった,そしてマスコミによって無理させられて死んだとなるのも悲劇だったとなる
本当の英雄ではなくマスコミを利用して今度はマスコミに利用されて死んだとなる
べつにそこまでやらなくてもいいわけだがひっこみがつかなくなったと批判されている
こういうことがマスコミでは多いのである。商業主義社会では多いのである。
有名人が作られてそれを商品化するのである。

現代とは何か人間もそうだが,幻影を現実と真実と思う世界である。テレビでも映画でもそうである。幻影とイメージの世界と現実の世界が混同しているのだ
そして壮大な幻影に人はまどわされる,それがナチスとなりその巨怪なものによって地獄が生まれたから冗談にもならない怖いものが文明にはある
その死は意味ある死とはなっていないからである。
大東亜共栄圏などというのもまた巨大な幻影をイリージュンを産み出していた
それはローマ帝国などとは違ったものだろう,なぜならローマ帝国は三世紀とか長い間つづいているからである。
創価とか他のカルト教団でもそうした巨大なイリュージョンを作り出して熱狂するファシズムになる,それはどうしても全国レベルになると数が物言う世界になっているからだ
マスコミでも視聴率がすべてであり大衆社会は数がすべてだからである。
すべてが統計的数字としてしか意味がないのである。

何百万の会員がいる,700百万もいるのかとかそれが社会に対して圧力をかける
その中味などどうでもいいしその会員などどんな人間でもいいのである。
一票の頭数をそろえることしか眼中にないのがそうした団体なのである。
宗教的改心とかなんかそんうものは一切関係ないのである。
そんなことを要求したらとてもそんな数は集まらないからである。

そうして現代の社会でも一過性で終わるのが多いのである。
それはニュースでも事件でもすべて一過性だからである。
そうした巨大な団体でも一過性であり持続しないからだ
ところが個々人でもそうだが当事者となったとき一過性ではかたづけられない
津浪でも原発事故でもその影響は次の代にもその次の代にも影響してゆく
放射能の被害はそれだけ長くつづくから恐怖なのである。
だから原発事故周辺の風評被害もなかなか消えないのである。


現代の妖怪(メデアが育む妖怪)

ここで書いたように原始的部族のような社会があればとてもテレビとかを理解できないことを示している
現代はだから幻影と幻想の中に生きている特殊な社会だとなるのだ


参考にした本

幻影の時代(マスコミが製造する事実)-DJ-ブーアースティン

2018年03月24日

スマホばかり見ていると人間の五感が衰える (駅でもスマホばかり見ているのは異様)


スマホばかり見ていると人間の五感が衰える

(駅でもスマホばかり見ているのは異様)

sumahooo123.JPG

sumahooo111.jpg
週刊朝日3月30日号

駅でまずスマホを見ていると会話ができない,スマホを見ているのに話しかけることができない
スマホを見ている人は他者とのコミニケーションを拒否しているのである。
駅で気づいたことは外部から来た人とか5分でも待っているから話しやすいのである。
だけどみんなスマホを見ていて互いに話あわないというのも何か異様に感じる
ひたすらスマホを見ている,無人駅でスマホだけを見ている光景は異様にも感じる
ただスマホで即座にわかりにくいのがタクシーの番号などである。
タクシーの案内は駅舎を出たところに表示してある,でもそれがわかりにくいからスマホで調べる,でも即座に検索ではでてこないのである。
意外とインターネットは即座に出てこないものがある
家で調べると時間があるから検索を時間をかけてやれるからあったものが出てくる

駅でも無人化するとそこには人がいない,乗客同士も会話もしない
ただひたすらスマホを見ている,何かそれが異様なのである。
ただではなぜタクシーの番号がわからないのか?
もしロボットをそこにおいてタクシーといえば番号を教えるしタブレットを置いてタッチしたりしても案内はできる
でもインターホンがあるのだがそれに気づかない人もいるのである。
地元の人は慣れているからわかるがはじめての人はわかりにくいのである。
そこに無人駅の盲点があった

駅で一番感じたことは必ず待つ時間がある

その待つ時間が人間的なものを作り出していたのである。
電車が来るのを待つ,そこで5分でも必ず待つからちょっとした会話をする
今日も仕事できた人が香川に行くとか行ったので自分も行ったことがあるので
話する,それはほんのわずかだけど直接話する
うどんばかり食べるなというのもわかる,全国を飛び回ると地元の名物の食べ物は食べられるなとか話する

その人はその時駅舎から出た喫煙場になっているところで二人で話していたからその話を聞いて語りかけたのである。たわいのないことだがそんなふうにちょっと話して見送る
そういうことはつづいている,自動化しているから何か教えることがなくても待つ時間に語りかけるのである。

確かに手紙でも手紙を出す返事を待つ間に今までは時間があった,二三日とかで届く
それまで待っている時間がわくわくするとかどんな返事がくるのかとかあった
今は手紙も出さない時代である。電子空間で即座に返事がくる
待っている時間がないのである。
常磐高速の鹿島のセディティは間違って解釈していた,この辺の方言連れて行ってという意味だった,方言を使っていないから忘れて英語だと思っていたのである。

それは別として車だと待つ時間がない,車は着いたら用事をたしてあとはまた車に乗ればいい,そこで休んでいても待つ時間がないのである。
電車には必ず待つ時間がある,そこで人間的な時間が生まれる
現代はなんでもそうした無駄な時間が効率化して省かれるのである。

週刊朝日でスマホばかりしているとかえって知能が劣るとか高齢者は認知症になるとか警告しているのもわかる,第一インターネット空間で旅などできない,実際に旅した後にインターネットでその旅をたどるのはいいがインターネットの仮想空間では旅の体験はできない,旅は五感でするものでありそこで記憶される
そうして自分は旅をふりかえり短歌とか俳句とか詩にしている
それは実際にそこに行ったことを五感で記憶していたからである。
それで記憶が蘇り記憶しての旅ができたのである。

確かに老人になって孫をあやすときスマホを見ていたりしたらできない,幼児には絶えず顔の表情とか見たり一対一の対応が求められるからである。そこにスマホばかり見ていたらそれができなくなる
それは駅でもスマホばかり見ている人には話しかけることもできないからである。
もちろん会話など駅でしたくないさける人もある
そんな場でないという人もいる,でも駅は待つ時間がありそれでちょっとでも会話する
そういう人間的な場所を演出するものとしてあった
無人駅でも待つ時間がありそこで話しかけることはありえたのである。

とにかくこれだけスマホの時代になるといろいろ影響する,脳が変化するというのもありうる,スマホはまた自宅でインターネットしているのとも違う
それは外の空間で絶えず使っていることは外の認識力が衰えることにも通じる
その場の雰囲気などがありスマホではわからないことが新しい所に行ったから感じる
でもスマホばかり見ていたらそうした五感で感じるものも感じられなくなる
スマホばかり見ていたらそこで一句でも俳句を作るとかできなくなる
その場の雰囲気とかを感じなくなるからである。

その駅でも田舎でも何か見るものがあるが見ない,合歓の花が咲いていたり柿がなったりしている,外の風景もある,電車のなかでも外の景色を見ずにスマホばかり見ていてもそうである。
何か五感で感じるものがかえってそうした文明の利器で衰えてくるというのも逆説であるそういうことは前にも書いてきた
ただ自分はスマホしていないから実際のことがわからない
ただインターネットは自宅で絶えずしている,今回の朝日新聞の記事でも今はインターネットで詠んでいる、それでその記事に答えるというのもインターネットなのである。
何かそうした今までのマスコミに個人が答えて書くということはできなかった
今だと気軽にできる,ただ読む人の数が格段に少ないというだけである
週刊誌だったらやはり読む人の数が今でも多いのである。
でも最近週刊誌はつまらなくなったと本当に思う
書く人が決まっているしつまならい芸能人などに書かせているからである。
むしろ無数のプログの記事に面白いものがあるがそれがなかなか出会いないのが難点なのである。

いづれにしろ情報化社会ではスマホを否定しても紙幣とかがなくなりスマホで決済するようになると必需品になる,だからスマホにも問題があるのだがそれを否定はできない
ただ人間的なものが失われ人間の五感が衰えるというのも文明の逆説である。
江戸時代の旅なら濃密な旅をしていた,それは人間との出会いでもそうである。
旅は道連れとなっていた,それは交通が不便だから一回会って分かれたら二度と会えないからである。そこで出会うということは人生の貴重な時間だったのである。

現代は便利すぎて何か人間と人間がすれちがいただ去ってゆく,そこに必ず情が失われている,文明がすすめばすすむほど反比例で情が失われる
その情が失われることで殺伐とした社会が生まれる
インターネットとかの人間でも出会うとそこに危険があり信じられない殺人が起きたこともそうである。面と面で向かって接していればそうはならなかった
それがインターネットの負の面だったともなる
ただ車でもそうだし原発でもそうだったが技術は負の面をもたらすのである。
それを否定すると技術は進歩しないのである。
自動運転でもそうである。歩行者をひいて死なせたというのもそうである。
新しい技術は必ずそうして負の面をもたらすのである。

スマホをもつな、するなとはもう言えない,でもすべてスマホに頼ることはそうしてまた人間的なものを失うのでスマホばかりに頼らないで人間的五感を働かせることに注意を向けることも大事だとなる
スマホですべて何でもわかるわけでないのである。知らない土地に行ったらその雰囲気とかを五感で感じる,そして記憶にとどめる,それは旅でも結局すでに車だと風も光り感じない、運転に集中しているとできないのである。景色もゆっくり見れないのである。
それと同じだからスマホだけを批判するのは間違っているともなる
そういうことはすでに弁明の利器を使うときどこでも起きていたことだからである。

2018年02月01日

映画館時代からテレビのマスコミ時代から インターネットのユーチューブの時代へ


映画館時代からテレビのマスコミ時代から

インターネットのユーチューブの時代へ


この映画は、長編大作映画で前編と後編があり、前編が終わると照明がつき、休憩がはいる。 しかし何分たっても後編が上映されない。場内は次第にざわめき始め、野次が飛び交う。 延々と待たされること1時間以上経過しただろうか、観客が暴動寸前になってやっとフィルムが到着し、 何とか上映することができて事無きを得た。
当時「カケモチ」といって、同じフィルムを隣町の映画館と持ち回りで使う方式がよくとられ、 劇場から他の劇場へフィルムをバイクで運ぶ のが常だった。

駅前の映画館は子供のとき入った,ただ映画館のことを良く記憶していない,映画館は何か大人が入る雰囲気で子供には入りにくい場所だった
ニュースを映画館で写していた,その時ニュースは新聞が中心だった
動画で見るのはめずらしいし貴重だった
第一フィルムは汽車で運ばれてきたのだからニュースでも遅れるのである。
映画館ではニュースを見るのはおまけであり映画のドラマを見るために入った
でも何か封切りとかフィルムを回している二階の映写室のことが記憶に残っている
そのフィルムを回す人は当時専門の技術者だったのである。
そのフィルムもコピーできないのでバイクで他の映画館に運んでいた
だから映画を見ることはそれだけ手間がかかっていたのである。
メデアの歴史を考えると映画や映画館があった
ただこれは意外と早く終わってしまったのである。

次にテレビ時代でありこれは最初テレビが入った時はテレビがある理髪店とかに集まって見ていた,テレビ時代は長かったなと思う,50年以上つづいたから長い
それだけテレビの影響が大きかった,テレビ番組の内容ではなくテレビに映れば何でもいいという時代でもあった,娯楽の王様にもなった
それでマスコミの影響が大きなものとなった,そこには弊害も生まれた
マスコミによって情報が操作される時代になった

そしてこの50年もつづいたテレビの時代が終わりを告げようとしている
インターネット時代になったらみんなお茶の間でテレビを見ているのとは違う。
個別化して多様な放送を見る,それがユーチューブである。
そこには一般の人でもテレビ放送している,それが意外と面白いのである。
いろいろな電器製品を紹介して使い方も教えている
一人一人が情報源になり放送しているのである。
テレビは何百万の人を対象にしたマスメデアであるがユーチューブは個々のメデアであるつまりメデアが変わるとその放送するもの自体が変わる
テレビ時代は何百万を対象としたマスメデアである。
それで宣伝効果も大きかった,インターネット時代は個々のメデアである
それでも一万でも視聴者があればそれなりに影響する
ユーチューブを見てわかったことは何回も見ているとそれが知らずに頭に記憶される
一回だけ見ていると忘れるが何回も見ていると記憶される
そういう効果があり学習するにはいい,何かインターネットは報道というのではなく学習機能がある,テレビには教育テレビがNHKにあるがそれがインターネットのユーチューブに変わる,何かを学習するのに向いているのである。

テレビとか受け身のものであり一般人が情報を発信はできなかった,それがインターネットだとできる,テレビ放送すらできる,すると情報は無数に増えてくる,多様化してくる例えば週刊誌とか雑誌でも今はdマガジンで一カ月400円でほとんど電子化して読める
するともう一冊の雑誌を全部は読まない,自分の関心のあるものしか読まないのである。それはインターネット的情報の摂取方法なのである。
そうして個別化して情報を摂取すると全国民で関心をもつべきものに関心が集まらないということもある
自分の関心のあるものしか読まない見ないからである。
だから全国民が関心をもつべきものを知らないとまでなる

ただ相撲で貴乃花理事長とかに関心が集まりそれだけを放送するマスコミ,テレビにも問題がある。
それがそんなに日本の社会にとって重要なことなのか?マスコミの問題はテレビの問題は何百万のマスを対象にするからかえって芸能ニュースとかが中心になり芸能人の漫談を見せられることになる,そこにインターネットのように学習機能がないのである。
インターネットのいい点は学習機能があることなのだ
学習するには何回も読んだり見ることが不可欠である,一回だけでは頭に入らないからである。そのニュースの意味も理解せずに終わる,ただ毎日何が起きたとかあってもそれがどういう意味をもつのか考えることができないからである。

学習機能があるというとき本がそうなのだが本もありすぎると問題が起きる
前に買った本と同じ本をアマゾンで注文して買った
それはその本を読んだことをあったことも忘れていたのである。
これも馬鹿げたことだが人間が記憶できる容量が限られているからである。
例えば千冊本があったとしてもうそこで記憶されている本はどれくらいになるのか?
何回も関心をもって読んだものは覚えているかもしれないが忘れるのも多い
本の題名すら忘れている,そして自分は読もうとして買ったもののそれが積んどくになっている,ただ読まれずに積まれた本が実際は半分にもなるのだ

だから本の書名だけでもパソコンに記録して検索する,そこで思い出すことをする必要があると思った
本の題名すら覚えていないしましてその内容も覚えないないのが多いのである。
それは自分はプログでも膨大なもの書いても自分の書いたものすら忘れている
それで自分が前に書いたことを読んで感心しているということが起きているのである
つまり人間は本当にあらゆることで忘れやすいのである。
旅行しても10年もたつとそこにいたのかどうかすら定かでなくなる
だから外国まで行ってもそのご10年以上すぎて津浪とか原発事故とか自分の病気とか介護で十年費やされてそのことに心も身も奪われて余計に忘れることになる
人間はとにかく今に追われるものだからである。

いづれにしろ自分のしていることは家事でも整理であり何をとっておくとかより捨てることを考えねばならない,それで断捨離が話題になりやすいのである。
読まない本をあるだけでもう邪魔になるからだ,でもなかなか捨てられない
するとどうするばいいのか,それを電子化すると検索しやすいとなる
それができるのだがめんどうなのでしていない,検索しやすいようにすることが情報を効果的に利用するには必要なのである。
だからインターネットの便利なのはその検索機能と学習機能が備わっていることなのである。
それが今までのメデアと違っていたのである。

2018年01月23日

会話なき時代(西部邁の語り) (余裕がないからできない,営業は会話力が必要)


会話なき時代(西部邁の語り)

(余裕がないからできない,営業は会話力が必要)


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●西部邁の語源論

西部邁が死んだのでyoutube で彼の話を聞いた,同じようなことを感じていた
若い人とも会話ができない,彼は良く語源を言う,学者らしいとなる
この人も海外留学経験があるから深い見方ができる
海外経験ある人がなぜ深い見方ができのか?異質な文化を経験して日本文化を見るからその相違を知るからである。それは外国に暮らしてみないとわからないのだ
旅行したくらいではその深い所がわからない,自分はそこで理解力が不足している
武田邦彦氏も海外であの人は仕事していたから深い見方ができる

その語源論だがビジネスがbusyだというのは面白い,ビジネスマンは忙しいのである。

(negotiation)の語源は

イタリア語で、「店」は bottega のほかに、negozio (ネゴーツィオ)といいます。

元はラテン語の negotium で、neg は「否定のNo」、otium は「暇」ということで、「暇がない」→「忙しい(仕事)」→「商売」となったようです。

西部は常に語源から語ることがあった,語源を調べるとその本質がわかることがある
昔からあったこと起源になったことが現代までつづいていることがわかる
busyとネゴシェエーションは共通した言葉だったのである。

会話力がないというとき今は会話ない社会である。物を買うにしてももうコンビニでもスーパーでも自動化する,すると人間そのものがいなくなる
ロボットが店員となっているとかもうすでに実験は始まっている
人間を雇うことはコストだしめんどうだからそうなる
雇う方にすると人間にはいろいろな要求があるからロボットで機械ですませたいとなる
かつての市場は物を売る場だけでなく人々が遠くからも集まり生の情報交換したり結婚相手を探したりとそこにも物を介して人々が交流する場だったのである。
今は物だけが重点になりそうした人間的なものが省かれる,効率化されるのである。

人間は文字がないとき何でももって伝えたのか,それは言葉があっても語ることによって伝えた,音声が先であり文字は後にできたものである。
バベルの塔の崩壊で言葉が通じなくなったというときそれは一つの音声だったものが多くの音声になって通じなくなった,音声で話で語ることにより人間は通じ合っていた
話したり語ることはそこに感情的なものがかなり入るから相当に違ってくる
学問でも問答であり師と弟子が直接言葉を交わして真理を探究したとなる

●機械によるコミニケーション方法の変化

現代のコミニケーションの方法はそうした生の会話でのコミニケーションから急激に変化した,最初はラジオでも絶大な力を発揮してナチスの全体主義はラジオから生まれという人もいる,今ならラジオはにそんな力があったのかという疑問になる
ラジオの方が早かった,戦争集結の天皇の玉音放送もラジオだった
ラジオで戦争が終わったということを国民は確認したのである。
次に映像の時代になり映画全盛時代になり子供のときどこにも映画館があり見ていた
ニュースも映画館の時代だった,それでニュースでも汽車で電車で運んでいたので遅くなっていたのである。
その次にテレビ時代になったのである。
テレビの影響も絶大だったのである。テレビは第三の権力と言われるほど力をもった
映像の力は大きいからである。
マスコミと映像の時代が高度成長で全盛期を迎えたのである。
それはNHKの全盛時代でもあった,みんなテレビに映るならなんでもかじりついて見ていたからである。

それがインターネット時代になるとその影響に翳りが見えてきた,テレビ自体を見ない人もいる,インターネットは分散するメデアなのである。一局集中のメデアではない
だから最初何かアメリカで地方新聞なのか本なのか出版したら3000部売れたとかで驚いたという,そういう時代があった
だからみんなが百万以上の人間がテレビにかじりついている時代は異様だったともなる
ただそれだけマスコミの影響が大きく作用されたのである。
マスコミの宣伝力は絶大だから企業は宣伝の媒体として莫大な金を払ったのである。
東電や電事連でも800億とかなんとか払った,だからこそマスコミと一体となり安全神話は作られていた,原発が危険だと言わせないようになっていたのである。
それはメデアの力が大きかった

会話というとき何か変なのだけどインターネットは文字でもってパソコンの画面で話し合うことが生まれた,これは全く対面的ではない新しい会話の方法だった
これは年配の人にはなじめないものである。そんなことで会話できるのか?
それはパソコンという機械がそういうことを可能にした
ただそこでは対面しないのだから本当に会話できるのか?コミニケーションがとれるのかというと疑問になる,行きずりの人とちょっと会話するという感覚になる
ただ一応会話的なのである。インターネットは何かテレビの一方的な放送とは違って会話的なところがある
だからこそ西部邁と本はあまり読んでいないがちょっとした会話を死んだけどする
あの人は会話力があり話しては面白い人だったとなる
また本を読むのとはそうしたちょっとした会話するのとは違う。
武田邦彦氏もyoutube で放送しているから面白い,あの人も話がうまいなと思う
ただやはり深いところになると本を読まないとわからないかもしれない
しかし本を一冊読むのは今になると疲れるのである。本を読むのは相当に頭脳を酷使するのである。だから老人になると長編は読めないのである。

●営業は会話力がないとできない

ともかくビジネスというと営業があるが営業力は会話力になる
地銀の人は押しが強いけど会話が成立しにくかった
それはなぜなのか?相手は一方的に自分で決めてしまうのである。
説明もなく決めてしまう,自分は言いたいことがあったがプロなのだからと思いまかせていた,でも株が上がっていたのにその株を売って投資信託にしたのは銀行にとって投資信託が手数料がとれるからだと今では思った
ただその時の判断はこれほど上がると思わないからいちがいに悪いとはならない
ただ明かにその銀行員は自分のことを手数料をとれるものを選んで投資したのである。
それよりそこでちょっとでも話すこと会話することが交渉することすらできなかった
それはネゴシエーションできないのは忙しいからだとなる
相手にも余裕がない,成果をあげる,ノルマを果たすということに追われるからそうなる何か歓談するとかとはあまりに違っていた
それでもやはり相手が若いというときそうなりやすいから一方的には責められないことはある

変な話だけど自分もカルト教団のセールスマンをしていたことがある,そこでも目的は一票をとることであり数を集めることである。それは創価でも幸福の科学であれエホバであれカルト教団は同じなのである。ノルマとして会員にすることを課せられているからにているのである。
それは何のためのなか?それは上から指示されてしている,選挙運動だったのである。
会員を一人獲得することは一票を獲得すると全く同じだった
そこではだから折伏とか強引に会員にする手法がとられたのである。
何かビジネスでも営業でもノルマが課せられているから相手に余裕がないから会話が成り立たない,とにかく投資信託を買わせて手数料を得るとういことが先決でありその過程がない、だから勝手に決めて勝手に株も売る,ただ自分はそこでなぜ株を売るのですか,今上がっているのにと言いたかった,それもできなかった,会話ができなかった
こういう営業の仕方はまずいと思った,性急すぎるのである。
それは男女間でも会話より肉体関係を男性は求めるのともにている
そこで男女間の会話が成り立たなくなる
会話が成り立たなくなることは最終的にどうなるか?
全体主義ファシズムになる,カルト教団がそうである。そこでは会話などない
一方的にその教義なりを押しつけて会員を増やすことしかな
そして最後はハイルヒットラーですべてをかたづけるのである。
現代の大衆社会はそうなりやすいのである。テレビメデアなどもそういう大衆社会の煽動役としてあった

とにかくその人だけではない,今や会話ができない,駅でもみんなスマホを見ていて会話ができない,それも問題だと思った,会話が年齢に限らずできなくなっているのだ
そこに互いの意思疎通がなく問題が生まれる,人間関係が築けなくなる
ビジネスでも営業だと会話力であり融和的な人間関係を築くことである。
それが会話が必要なのだがそれができない,営業は相手の話を聞くことだ,会話はまず相手の話を聞くことだというときそれができない,それは若い人はそういうのが苦手だとなるからしかたないということはある
自分がそもそもビジネスを語ること自体おこがましいということはある
ただそういう人とじかに接して考えざるをえなくなった

とにかくなぜ会話が成り立たないか?何か余裕のない人はそもそもその前提として会話が成り立たない,自分の来た人達とは会話が全く成り立たなかった
それはなぜか?その人たちただ自分から金をとることを目的としていたからである。
そうなればめんどうな会話など必要ない,もう盗めばいいんだとなる奪いばいいんだとなる,いくら相手が金持ちでもそうなると敵対関係しかないのである。
やるかやられるかの関係になってしまう
でも金持ちと貧乏人でも会話はありうるのである。その女性は会話力がある
ただ金を何かと要求する,でもいちいち何に使うのだと会話がある
するとそうなのかと払ってきたのである。それは大きな金でないからできた
後の人は百万以上とかの金であり失った
その女性は問題があったが会話が成立していた,金に困っていることをあからさまに訴えるにしろ嫌にしろその女性とだけは会話が成り立っていたのである。
金持ちでも貧乏人でも会話が成り立てばそこに融和が生まれないこともないのである。

●会話が対話がないと喧嘩になり暴力になり戦争になる

人間は会話を対話をつづける必要がある,それはかなり執拗にしつづける必要がある
もし会話が成り立たなくなると喧嘩になり戦争になる
双方ゆずらないと戦争になる,だから会話は交渉は人間にとって大事なのである。
会話とは双方に協力するためにするのであり対立するためにするのではない
対立点があっても和解する方法を見いだすために会話するから会話は大事なのである。
会話が成り立たないとき喧嘩となり犯罪となり戦争となり人間関係が破綻する
それが悲惨な結果になる,そういう自分は付き合いが苦手で会話しなかった
一種の閉じ籠もり生活を30年とかしていたから異常だった
こんな生活を良くしていたなとふりかえると思う
自分自身が会話しなかったのである。
旅するとき何か会話がむずかしいのである。ゆっくりしていられないということもある
いろいろな辺りの状況もわからないということがある,無人駅を見るとそこに無人駅で間に合うようにできている,慣れた地元の人はわかるが本当にわからないのである。
だから外から来た人には無人駅は困ると思った

情報社会に欠けているのは何か?確かに自動化無人化するときそこにさらに会話がなくなり索漠とした社会になるかもしれない,情報とは情に報いるということである。
情報は会話で得るとすればそこに情を通じさせることがある
ところがスマホとかインターネットの会話では情は通じない,無味乾燥な文字の羅列である。それも役立つものがあるがやはり情が欠けている
機械とかインターネットとかデジタルやロボットの世界の問題は情に欠けることなのである。だから人間を豊かにしないということがある,それが進歩してもマイナス効果となる何か人間の社会は進歩すると同時に必ずマイナスが生まれるのである。
江戸時代が貧乏であり暗黒面があってもやはり情に厚い社会であり良かった面もある
情報は対面でしか得られない時代だから情に報いるということがあった
人間社会は進歩する技術が進歩することは何かをまた失うことである。
車だと光りだとか風とか自然をシャットアウトして感じなくさせる
自転車は不便でも自然の風と光りとか直接感じるのである。
だからこの世の中進歩がすべていいものとして反映されないのである。
そして会話というとき介護では特に必要になる,でも老人と会話できる人は若い人にしにくい,世代の相違もあるし若い人には会話力がないからである。
自分は老人と会話できたのである。世代的に共感するところがまだあったからである。

ただインターネットはメデアとしては個々のメデアであり対話的会話的メデアである。
一対一と一対一〇から1000,多くても1000とかなる
プログでもそうである。テレビのように百万以上を対象とはしていない少人数のメデアである,だから直接の接触はなくても何か対話的会話的にもなっている
ベースが個人であり小地域のメデアにもなる,マスメデアは報道するのが全国放送で六局あってもみんな同じことを報道するのである。インターネットでは無数の多様なメデアになる,その地域で起こっていることはみんな違っているからである。
それで成功していたのがyoutube の武田邦彦氏であり西部のyoutube の放送も面白かったこれもインターネット社会での発言方法だった
ただ何か刺激的な映像をビデオを放送するのはテレビとにていて百万とかに見られればそうである。それはテレビと同じだった,それで宣伝効果も出て収入になっているユーチューバーがいるからだ
ともかく自分のプログでもこうして毎日書いているのはそもそも書きやすいからである。これを本に出すとかなるとめんどうになるからだ
そこがやはりインターネットのいい点である。
ただ自分の場合も一方的だということはある,何か答えるにしても相手がそれなりのものをもっていないとできない,どういう人かもわからない,そこではまた会話が深い会話は成り立たないのである。リアルの社会での会話となるとインターネットの中での会話とは違ってくる,何かそうした矛盾で異常なインターネットの犯罪も生まれている
情報のやりとりは会話でも機械を会する別なものに変容しているかそうなる



2017年12月24日

情報化社会は説明が大事になる (でも説明責任は果たされず情報は無料だと思っている)


情報化社会は説明が大事になる

(でも説明責任は果たされず情報は無料だと思っている)


作業員とか使う丸形の大きなストーブ買って石油入れるのに二回失敗した,石油があふれて大量にこぼした,手で押すものだったが石油がとまらなく出てきたのである。
上から押すものでありそれがこんな危険なことになるとは思わなかった

缶で入れるのと手で押したりして入れるので安全性に問題があった
ただそんなこと売る方では何の説明もない,第一今は商品が多すぎて売っているほうでも知らないのである。
買ってる方が買って使った方が知っている
それでアマゾンのレビューが役立つのである。

ともかく説明責任というのがある,なぜなら今回のように石油入れるのにも缶とは違うのだから危険があったからである。ただそんなこと売る方では考慮しない
売れればいいとしかないのである。
それも買う方の自己責任なのである。
レンジでもそうだった,3万していろいろな機能があるようでもそれは使いないものだった,説明責任を果たしていなかったのである。

ただ通販でも失敗はあるが量販店でも普通の店でも買い物には失敗がつきものである。
ソニーの小型のビデオカメラはyoutube で説明していたが不良品だったのである。
それで4万は損した,ソニーで不良品を出すとは思っていなかったからだ

何でも説明責任がある,どこでもそうである。医者でも手術するとか治療するのでも説明責任がある,そしてわかったことは現代のような複雑な社会では何でも知りえることはない,わからないことが多すぎるのである。
だから専門家の時代となり消費者は無力化されている

原発だってほとんど地元の人に説明されていない,最初から「安全神話」を作り出されて地元の人達はそれに従っただけである。そもそも放射能のことを説明されてもわからないからだ,危険性もなんにも説明されていなのに契約されたとなる
地元では金になればいいとなり許可したのである。

要するに複雑な現代社会は説明することが逆に多すぎるということがある
銀行でも投資信託などで老人にリスクの高い商品をうりつけたと訴えられた
その商品について良く説明されていないとしてその高齢者の息子に訴えられた
そうした証券とかは説明されてもわからないから簡単にだまされる

投資信託なども理解するのにむずかしいのである。ただそれでも説明することが大事になる,現代とはいかに説明能力を磨くかということもある
つまりむずかしいものでもわかりやすく説明するという能力が大事になる
法律だってむずかしく言われると専門用語を使われるとわからなくなる
でもわかりやすく説明する方法はある,すると素人でもある程度はわかることはあるのだ
だからそもそもそも80才の高齢者に知識がない人に投資信託とか外国の債権とか保険をすすめること自体間違っていた
でも今厳しいノルマが銀行員に課せられていてそうなったと内部告発された
銀行にしてももうける方法がなくなり追い詰められていた,そのしわ寄せが若い銀行員に押しつけられたのである。
そして説明責任を果たしていないと訴えられる,それは訴訟になると訴えた方が勝つというのもそうなのか?それが法律違反になるのか?
そうなると売る方も慎重さを要求される

つくづく今の社会は説明ということが大事な社会である。その説明とは情報社会だから余計にそうなっている,情報を自由に流通していて判断ができる
説明されていて判断ができる,説明ということ自体,情報社会だということなのである。情報があってその情報を説明する,わかりやすく説明する,それが主な仕事ともなるのが情報社会である。
銀行などは証券とか株とかは情報なのである。絶えず様々な情報によって左右される世界である。インサイダー取引とかありまさに特別な情報を得たりすると大儲けすることができるのが株の世界だからである。

いかに説明能力を説明責任を果たすか?それはどこでも求められている
今回買った盆栽のような手のこんだものも水やりはどうだ,日にあてるのはどうだとかどうしてこれが作れたのかとか,いろいろ説明すべきことがあったが聞いたのは一部だったそしてやはり焼き物を売っていた人もいろいろ聞かれるという,それに答えるとまた買ってくれるとかいう,つまり情報社会とはそうして何でも説明能力が必要とされているのである。
説明すること自体に価値が生まれ社会である。
みんな商品を買えば売ればいいと思っているが商品についての説明が大事になる
そこに実は価値が生まれている社会なのである。

パソコンなどまず買っても使いこなせないからその使い方を教える方にかえって時間と金がかかる,それでそれを商売にする,パソコンでも今や使い方は金を払っているしそれもうなづける,使い方に金を払うというのは何か抵抗があるが情報社会とはそうした説明してくれることに金を払う時代だという認識が必要である。
まずソフトなども使い方がめんどうで簡単に使いこなせないのである。
ただ使いこなせると芸術家でなくてもそのスキルで自分がしている抽象画などができるのが情報社会なのである。自分は全く絵の能力かないのに絵を描いているという不思議があったからだ

だから商売としては別に本当は小さな小売店でも今は電器店でも高齢化社会になると使用するのが複雑になる,でも量販店では説明してくれない,すると親切に説明してくれる,使い方を教えてくれる街の電器店でも商売できるとかにもなる,そういうことでなんとか維持している店もある
ただ情報化社会がどういうものかわからないから品物は買ってもそれに対しての説明とか使い方を教えないしそれに消費者も金を払うという意識がないのである。
ただこれだけ複雑な社会になるとどうしてももう個々人では対応できないのである。
それで自己責任にされるのは無理なのである。
ただ情報に金を払うという意識が未だにないことが問題なのである。
みんな情報がただと思っている,インターネットだとまたそういう意識がある
最先端のインターネットでも情報に対して無料だということになった
情報化社会とは情報に価値が生まれそれが利益となる社会なのである。
それが過渡期であり理解されていないのである。

2017年11月22日

最近は買って使えないものが多い (使えたのは中古のパソコンだった)


最近は買って使えないものが多い

(使えたのは中古のパソコンだった)

何年前だったかソニーのアクションカメラAKA-LUA四万で買った,その時四万で安いと思った,ビデオカメラは高いと思っていたからだ
ただ時代が変わりつつありビデオカメラはデジカメにもついている
技術の進歩が早いからわからなくなっていた
これは今一万くらいで売っている,かなり前だから高かったのである。

ただこれは本当に不良品だったのである。それで交換してもらった
このビデオカメラはyoutubeは本当に故障品であり使えないものだったのである。
ソニーでそんな製品を出すとは思っていなかった
これは自転車に乗って写そうとしていた
でもそもそもが前もビデオカメラは一番早い時期から自分は使っていた
でもそうして撮ったものを編集もできないしうまくいかなかった
ビデオカメラはうまく利用できなかったのである。

次にASUSのノートパソコンも三万だから安いと買ったが故障した
簡単にパソコンは壊れないと思っていた
これも安いからしょうがいと思ったし通販だから修理に出すこともできなかった
結局何にも使えず終わった

それからレンジは近くの量販店で買ったがいろいろな機能がついているように見えたが実際はそれはただそう見せているだけであり普通のレンジとなんら変わりなかった
そして中が一部壊れていた,ただ今も使えるが一万のと同じだったのである。
これは三万でありいろいすなことはできないのである。
レンジはそれでも使えているからいい
前の二つは全く使えないから損だった

何か最近はこうして買っても使いこなせないのである。
それで十万くらいは損になった,何か今の電気製品は使いこなせない,特に通信関係は使いこなせない,わかりにくくなっているからだ
だから老人は技術に追いつけなくなっているのだ
それで時代から取り残されるということもある
ただ自分はパソコンは二十年以上している
最初はワープロの通信機能がついたものからしているのである
それは今の通信ができるパソコンの最初のものだったのである。

だからその通信世界のことが理解できなかった,今は普通にしているがニフティとかあの頃通信は普通の世界ではない,マニアの世界だったのである。
ただ自分は富士通の親指シフトでワープロをしていた関係でそうなっていたのである。

その頃のパソコンは必ずソフトで不具合がありいちいち初期化して使っていたのである。今は滅多にパソコンは壊れない,通信でも通じなくなったりログは消えたりしない
安定して使えるのである。
自分がパソコンをはじめたのはワープロが出たからであり富士通の親指シフトが文章が打ちやすいからここまでやれたのである。
パソコンの問題はやはりキーボードであり文章を楽に打てないと嫌になりギブアップする人も多いからだ
パソコンに慣れるかどうかはキーボードを早く打てるかにかかっている,その他いろいろあってもそこが基本でありそこに慣れる人はパソコンに親しむのである。

それで買い物だが一番役に立ったのがwim7の中古のパソコンだった,二三万だったが使える,ソフトの関係で買ったのだが二年以上使っているが壊れないのである。
ウィルスにもやられていないのである。
今や中古でもパソコンは技術的に安定しているのである。
だからこれは得しかたなと思う,パソコンの中古品は今は壊れない,安定して使える

結局何か老人は新しいものを買っても使えないということになる
今まで使ったものは使えるが新しいものが使えなくなっているのだ
消費しろと言ってもできないのである。
若いときはいろいろなものに挑戦できるができない
機械でも新しいものを買っても使いこなせないのである。
多機能テレビとかもあり今はテレビすら操作するのがめんどうなのである。

こういう時代になると老人は本当に不利である。社会から取り残される
現実は自分は車を運転しないから社会のことがわからなくなっていたのである。
車社会になっているとき車のことがわからないとしたらもう生活できないのである。
たまたま仕事もしないから車なしでも生きてきたのである。
ただ今の社会のことは車をもたない人はわからなくなるのである。

それはパソコンでも言える,インターネットのことなどわからない人は今や取り残されるそんなものなくてもいいとか言っても社会はインターネット社会化すると車社会と同じように社会のことがわからなくなるのである。
情報でもテレビだけ見ているだけで偏ったものとなる
だからyoutubeで製品の紹介しているからそれを見て買うとういのも今の時代の買い物なのである。
ソニーで不良品のようなものを出しているとは思わないからである。
そして今は製品が多機能化して使いにくいから老人は相当に気をつけないとだめである。
今老人が不利なのは技術の進歩が早いのと様々なものが理解しにくくなっていることなのである。若い内は新しいものを利用しやすい,その時代のものを吸収しやすい
ただ体験が不足しているので深く物事を見れないのである。
だからすべて若い人が有利となるわけではない,老人になると深い見方ができる
理解力と鑑賞力がついてくるから評論に適しているのである。

2017年11月11日

便利な自分のプログの検索方法 (キーワードを押してタイトルを押すと全文表示)


便利な自分のプログの検索方法

(キーワードを押してタイトルを押すと全文表示)

キーワードを入れてタイトル(題名)を押すと全文が表示されます

これはわからなかったけど便利である

自分のプログは膨大なので自分さえ何を書いたかもわからなくなった
だからこの検索方法は便利である。

二両の電車と入れたら一つの連作として作品化できる
他にもそうして分けてまとめることができるのが便利である


検索窓でキーワード→タイトル(題名)を押す→全文表示
タグ:検索

2017年11月04日

本の整理に苦労する (本が整理できないのではなく知識が整理できない)


本の整理に苦労する

(本が整理できないのではなく知識が整理できない)

本の整理に苦しむ,本はかさばる,本は重い,整理しにくい,本は物になっているから整理しにくい,読んだ本でも忘れている
なぜそうュのか?本は知識であり知識は物ではないが本だと物となっているから整理しにくいのだ
電子化すれば膨大な本が検索できることが効率的になる,それはインターネットでしている

ただインターネットには本のような専門家の詳しい知識は見つかりにくい,それなりに知識が膨大になっているが専門的な知識は本にある
ところが本は千冊あってもどこに何が書いてあるのかもわからない,ただ本屋の立ち読みのようにランダムに読んでいるとその数行がこれはいいとなり利用する引用するのである気ままにいろいろな本を全部ではなく拾い読みする,するとそこに新しい発見がある
新しい発見があるのはそれは読む方が発見するのであり読む方が引用できるとなると
読む方が独創的になっているからできる

本のあるページの数行からイメージをふくらませて自分なりの文を書いてゆくのである。10冊の本があるとしたらそれが歴史関係だったら世界史とか日本史とかに分類してまとめておいて拾い読みすると相互のつながりが生まれてくる,その時本が活きてくる
だから何かを調べるとか書くとするとき本はその分野のものが多く内容が濃いものだと
自ずと独創的なものが書けるのである。
それはAIのビッグデーターの手法なのである。膨大なデーターから探れば自ずと研究するには有利になるのである。

とにかく知識は膨大である。一生の間に読める本も限られている
千冊読んだとしても忘れるのがまた多いのである。
本でも内容が濃いものは何回も読む,何かあきずに読む,つまらない本はもう何回も読まない,とするともういらない本になっているのだ。
そういう本も多すぎるのである。何か自分は本の中味を読むより本を集めた蒐集家になっていた,本は物だから骨董品のように集めるという人間特有の真理は働く
本を買ったら知識が増えたような気になる,でも実際はそうはなっていなかった
知識は何か物ののように財産とはなりにくい,かつては本が希少価値があったからそうなっていた,今は本はそれほど希少価値がない,情報は本の外でも膨大になっているからだ
ただ本は全部読むのではなく一部分を読むのでも知識の吸収に効果がある
だからものを書くとしたら私設図書館のようなものが必要なのである。
書くときは必ず参考にする本があり知識があるからだ
本が整理できないというとき本ではなく知識が整理できないのである。
一冊の本を読むときでもそこに何が書いてあったのかも忘れているからだ
線を引いていても忘れているから読んだことにもならなかったのである。

本に埋もれてしまったが実際は膨大な知識を消化できなかったのである。
それで本に書かれたものも忘れたとなる
知識も無限だから何かしら消化する必要がある,でもその知識も一部にとどまるのである消化するということは自分なりに自分の体で消化して栄養分にすることである。
ただその栄養となるものも知識の場合は知識の世界にしたらほんの一部だとなる
いろいろ本を買ってもそれを理解する方がむずかしいからそうなる

ただ知識を整理するというとき例えば物だったら四角のものは四角とか丸いものは丸いものとか同じ種類のものを集めて整理する,知識はなかなかそうはいかない,全然関連しないようで知識はみんな関連しているところがある
そういうふうに知識の組み合わせは無限なのである。
だから知識は創造的に利用することがむずかしい,整理もできないのである。

自分の場合は詩に関したもの短歌とか俳句に関連したものとか文学関係は集めた
アマゾンの古本で安いから買い集めた,これはいい方法である。
詩を書くとしたらやはり参考とするものが多いといいのである。
詩は詩でみんな関連しているからである。
最近集めたのは原発関係とか津浪関係であった,これもみんな読み理解すると容易ではない,第一これらは知識として追及していないかったから今になり追及するとなるとむずかしくなる,知識はやはり積み重ねだからそうなるのである。

新しい知識は吸収しにくくなる,若いときからテーマをもって積み重ねたものは理解しやすいが新しいものとなる理解しにくくなるのである。
だからAIとかでてくると理解しにくくなる,新しい機械も操作しにくくなる
それで新しい電気製品を買ったが使いなのが多くなり失敗したのである。
使い慣れたものは使い安いが新しいものは使いにくい
パソコンのソフトでもそうである。これは多機能だから新しいソフトは使いにくいのである。それがいいものでも使いないのである。

情報化社会とか知識社会になってくるのはコンピュターが一般化したとき予想されていたのである,自分はワープロで富士通の親指シフトを使っていたから今も使っている
これで文章が早く打ちやすいから書いている
ローマ字シフトだと遅くなり文章を書くのが嫌になるからだ
知識社会になるとあまり暗記とかは重要でなくなる,創造性とか考えることが大事になる
そのためには暗記中心の教育は受験などは知識社会には適合できなくなる

なぜならAI化すると機械のやれることと人間のやれることが区別されるからである。
翻訳などは相当に進歩したことでもわかる,機械の方が優れてるのである。
それはどういうことなのか?人間にしかできないこと創造することがより重要になるのである。創造することは子供のときからしていなとできない
才能があるないという前に暗記だけの教育ではもう知識情報社会には適合できないからだ今のアナログ的な教育は前時代的なものになっているし変わらることが望まれているのだ暗記中心の教育はAI時代には取り残されてしまうのである。
だから考える訓練を子供のときからしている必要がある

2017年10月24日

進む情報化社会の現実 (買い物から学習でも芸術でも情報化社会になっている)


進む情報化社会の現実

(買い物から学習でも芸術でも情報化社会になっている)

●家事は買い物が一番大事

もはや情報化社会は現実である。未来のことではない今進行している現実なのである。
それはインターネットも関係しているがあらゆるものが情報化してゆく
自分は介護をはじめてから十年間家事をしているがその最大の問題が買い物だったのである。
何を買っていいのかわからない,商品の数が多いからである。

何かを料理することではない,料理するもの買うのが仕事になる,それがわからないのである。最近けんちん汁が好きなので食べたいと思っていた,そしたらスーパーに売っていたのである。これがうまかったからうれしかった
それは意外とわかりにくい場所にあった,でも発見したのである。

それから昆布醤油がいいと言われ買った,味噌は地元で作ったものを売っている,近くに味噌屋があってもダシつきでないから買っていない,なにしろ時間を節約したいのである家事に追われたら何もできなくなるからだ
するといかに買い物上手になるである。
失敗したのはレンジで3万円の買ったがそれは一万のと何ら変わりないものだった
それは量販店で買って失敗したのである。
でもアマゾンのレビューを見て買うと意外と失敗が少ないのである。
電器店の人にすすめられるのはその店で売りたいものをすすめるから問題なのである。

●今までの十倍くらいの情報を摂取する時代

最近はDマガジンを読むようにした,これは便利だった,週刊誌でも雑誌が一月400円で読めるのは安い,一冊一冊買っていたら金がかかるからでいないがこれはできるのだ
そして自分の読みたいものを読めばいいとなる
だから効率的なのである。そしてパソコンだと本をめくって読むのとは違う,さーと眼を通すという読み方である。すると読むスピードが早くなる
つまりパソコンで本を読むのと普通に本を読むのとは同じ活字も読むのでも違うのである週刊誌とか雑誌はそうした早く読む必要がある,日々変わるものを話題にしているからである。

ともかく情報化社会は進んでいる,インターネットで国際化するというとき機械翻訳が前より相当精密になり使えるようになっている,これは明らかに機械翻訳から英語を学ぶ時代にもなっている,翻訳家も使っているからだ,かなり正確であり間違っていないから外国人にも通じるだろう。
これもやはり情報化社会の進展に役立つ,言語の壁がなくなってくる

そして自分のしている抽象画というのも我ながら不思議だと思う
インターネット上にある写真や絵をパソコンのソフトで変化させて作っている
ただ化学実験のように変化させるだけだから量産できるのである。
それは絵の才能があってしているのではない,自分は絵は何一つ描けないからである
ある程度絵の鑑賞はできても描く能力はゼロだからである。
だからこうして抽象画を作っているもパソコンがありインターネット社会になったときできたことなのである。
一定数のアメリカ人が見ていることはそれなりに注目されているのかともなる
インターネット上には膨大な写真があり絵画もあり抽象画もある
するとそれを変化させる芸術となると無限になるのである。

●情報のデジタル化でもアナログ的な旧来のものも必要

ではすべてが今までもデジタル化の情報がすべてになるかというとそうでもない
電子本は自分にあっていなかった,読みづらかった
今は古本の安いの一カ月に十冊は買っている,それも全部読むのではない眼を通すという読み方なのである。ここが重要でありそれを引用するのである。
本だったら最初から最期までさーと目を通して要点がわかる
電子本ではそれができなかったのである。

電子本はまた記憶に残りにくいのである。インターネットでもキーワードで調べるのはいいのだがどこにそれが書かれていたかわからなくなることが多い
すると記憶することでは本の方がいいと思った
ただ今までのような一冊を詳しく読むことはもうできない,年になり時間もないから読めない

でも記憶という観点からすると本の方がいいと気づいたのである。
記憶というときどうして人間が記憶するのかこれは本当に不思議である。
その場と関係しているというのも不思議である。
自分の家は部屋が多い,するとその部屋を変えて本を読むと記憶される
寝室で読んだものはそこでの記憶が残り廊下で読んだものはそこでの記憶が場と共に残っているのだ。
そこに記憶されるにはどうするのかというヒントがある

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二階に広い廊下がある
そこに分厚いワーズワースの評論の本
ページをゆくりなくめくる
その一ページに冬の日がさす
そのページに書かれた詩が記憶に残る

ワーズワースの部厚い本のページを廊下でめぐる,そこには冬の日がさしている,するとそのページに書かれていたものを記憶するのである。
本は読んでも忘れるものがまた多いけどこうして不思議に場所と季節とか光とか関係して覚えているのである。記憶はこうしてその場とか季節とも関係しているのである。
これがインターネットとか電子空間ではできないことだった
本が物になんているからできたのである。

記憶するということでは本が優れている,インターネットではビッグデーターとして使うの優れいてる,つまり本は必要ないというが必要なのである。
ただ書店はどうしてもなくなる,とてもアマゾンのような本をそろえることができないからである。

いづれにしろ読むものも今までの十倍とかなりまた自分で書くものも膨大なものになる
今までなら本には出すことはできない,インターネットならいくらでも出せるのである。そしてプログでも他者が読むということもあるが自分で書いたものを記録してあとでふりかえりまたつづきを書くということができる
そういうことがインターネットではプログなどしやすいのである。
だから自分の図書館を形成できるのである。

今なぜ本が問われるのか(2) (インタ-ネットにはない本の特徴)
タグ:情報化社会

2017年09月20日

報道はともかく事実を多面的に報道すべき (津浪(八沢浦)の自分の報道で責められたことについて)


報道はともかく事実を多面的に報道すべき

(津浪(八沢浦)の自分の報道で責められたことについて)


ポンプで海水を汲み上げたあとの光景は悲惨でした。
たくさんの瓦礫。
ボールのように丸くなった自動車。
たくさんの方達の思い出の品。

半月以上海水に沈んでいたので
自衛隊さんによる本格的な捜索が行われたのは
4月になってから。

そんな状況に置かれていた場所をあなたは

美しい元の風景に戻った

などと不謹慎極まりない発言をされたのですよ。
人として理解不能な発言ですね。


確かにこのことは相当に批判される
家が水に浮いていてそこにきらきら波が光たよせた光景は信じられない風景だった
なんかいろいろ言われるのは確かである。
小高の人にはお前は同情しないのかとかそんなことを書いて楽しいかとか批判される
人間はどんなことを書いても必ずそれにケチつける人はいるからどうにもならない

八沢浦が美しい入江にもどったというときそれは事実だった,その事実を報告したのである。一方でそれに感情を加えるのは事実ではないのである。
事実というのはそのままを報告することである。

だから一方で自衛隊の人が水が引いたとき泥のなから子供の死体を掘り出しというのも事実である。美しい入江にも一時もどったのも事実である。
そして子供を泥からかきだしていたというのも事実なのである。
つまり事実にはいろいろな側面が実際はある
でも一場面だけを事実として報道すればただ瓦礫の山しか津浪にはなかったともなる
まず自分のように津浪を報告した人はいない,ただ小高の干拓された井田川で縄文の海がよみがえったと報告した人はいた。

ともかく津浪は信じられない光景をもたらしたのである。
それを報告するとき事実にもいろいろな側面がある,その時そこに死んだ人がいるというのも事実である。
お前はそういう人達に同情しなかったのかとなる
でもその時津浪が来て人々がどういう状態になったかわからなかったのである。
あとでここで死んだとかいろいろ聞いたのである。

津浪とか原発事故の避難者に対してはただただまず同情すべきだかわいそうだと言うべきだとなっていた。そうしないものはお前はなんなのだ,非情な人間だとされて批判の嵐になっていた。
現実津浪で家を流されて家族を失った人達の悲しみは想像を絶する
そのことに関して他者が何か慰めの言葉も言えないような悲惨があった
その時かわいそうだとか同情してもとても慰められるような状態ではなかったろう

人間はそういう悲惨な状態になると容易に近づけないとなる,何かしようにも何もできないとなるからだ。
ただ津浪は自然の作用だから確かに一時美をもたらしたのである。
これが戦争だったら爆撃で焼け野原になり無惨なものしか残らなかった
津浪は自然作用でありそこに一時美が生れたのである。
もしそこが家が密集しているような石巻のような所だとただ家がめちゃめちゃになり流されて無惨な光景しかなかったのである。
井田川とか八沢浦とか磯部でも田んぼのあるところは一時湖のようになったのである。
その光景は信じられないとなるのだ。

その時自分がどういう状態にあったかを書いた,身体障害者となり病院に入院したあとであり介護状態にもあり苦しい状態にあった。
それも実際は事実なののである。そんな個人的なことは報道されないのである。
ただただ津浪の被害者が原発避難者に関心は向けられていたのである。
八沢浦が美しい入江にもどったというときそれを批判するのわかる
ではその人が自分の個人的事情とか事実を知らないのである。
なんだこいつは八沢浦が美しいとかどうかしているとなる
つまりなぜこうして批判が常にあり誤解があるかというと人は多様な事実を知らないからそうなる
報道は常に一面的だからである。
人が何か批判するとき必ず一面的なものしか見ず批判しているのである。
報道にはそうした一面的報道が多いからそこに真実が何なのか見誤るのである。

報道には多様な事実が実際にある,殺人事件がある,それがどういう場所で起きたのか?
どういうふうに殺されたのか,何か証拠が残っていないか?
一つの殺人事件でもそこにさまざまな事実がありそれを検証する
殺人事件でもリアルにものをみなければならないのである。
そこに感傷的にみるより冷静に事実を見ることを第一とする
そこから犯人を割り出してゆく,つまり報道するということもそういうことなのかもしれない,事実は多面的でありだからこそ現場に通って感を働かせるのが捜査だとなる
この辺で起きたことは例えば原発避難民がパチンコ屋通いであり多額の補償金をもらって遊んでいたとういことも事実なのである。そんなことを言うなとかかわいそうだとばかり言うのもまた事実を無視して感傷的になっているからである。

北朝鮮の報道でも多角的にみればその実情が像としてイメージされる,youtubeで見たが公園で草をむしって集めている人がいた,するとそれは草を食料とするために集めていたそんなに食料がないのかという事実に驚く
それから喜び組というのがあり女性が品定めされている,まるで江戸時代の遊女である。すると北朝鮮は奴隷国家だということがわかる,金王朝に仕える奴隷国家なのである。
そんな国がどうして国家として維持できなるのか?
やはり内部から瓦解してゆくのではないか?民衆は草を食べ幹部は女性を品定めして遊女のように扱う,そんな国が維持できるのかとなる

ともかくそういう事実はいろいろありそこから像を作り多面的に見ていくべきなのである北朝鮮の民衆は悲惨なのである。その支配者が悪いのであり民衆はかわいそうだとも見る
でも事実というのは無数にある,今でも無数の事実が産み出される,それらの事実を現実に確かめて知ることは不可能である。
事件にしても無数の事実である。それは毎日のように報道される
でも深くその事実を知ることはできない,次々に事実は新たに生れてきりないからである

ニュースで伊豆に東京の人達のために老人ホームを作る,そこに入る人は家族が行くのに遠すぎるとので困ると言っていた,ところが身寄りがない人も入るから家族は関係ないと福祉関係の人が言っていたのも納得する
身寄りのない人も多いのが現代である。事実として様々な事実がありいちがいに遠いから家族が行けないからと判断はできないのである。
伊豆がどういう所かまず地理とか環境もわからないからそこで報道だけを見ていると誤って判断する,何でも多面的な事実がある
報道は一面的報道になりやすい,次々に問題が起きるしニュースがあり事件があるからだ

津浪でも様々な事実があり海が近いのに前に山のようなものがありそれにさえぎられて被害少なかった家もある,そこには様々な事実が生れていたのである。
一時八沢浦が美しい入江にもどったというのも事実である。
そこであとで泥にうまった幼児を自衛隊がほりだしたというのも事実である。
死体を探していたというのも事実である。
そこには様々な事実がありそれを冷静に報告することが報道の基本としてあった
かわいそうだという前に現実を事実を写真で見せられればわかるからである。

ただ原発避難者がパチンコ通いとかギャンブルに興じていたことは事実であったけどそれは報道されていない,そういう事実を無視してかわいそうだとばかり外から感傷的に見られるとき事実が見逃されてそういうマイナスの面は隠される,事実は隠される
すると現実が見えなくなる,そこに報道の問題があった
報道は今までは個人ではしていないできなかった,マスコミだけがしていたのである。
それでマスコミによって操作されていたのである。
いろいろなことを解説するのにもいろんな手法がある,マスコミの解説とは違う解説の仕方がある,すると別な風に見えてくるのである。

だから本当はマスコミでも局によって違った報道するのがいいのである。
すると多面的な見方ができるようになる,でも見る方もそんな暇がない,時間がないからてっとりばやい一面的な報道で判断するのである。
要するにあらゆることに様々な多面的な事実がある,それをそのまま報道すれば何かが見えてくる,でもその事実の取捨選択はマスコミがしている
報道されないことでもある人にとっては重要かもしれないし本当にみんなにとって重要なものもある,でも報道されないとそれは闇に埋もれるのである。

八沢浦が元の美しい入江にもどった

2017年09月04日

インターネットはプログは重要なものはログをとって読む (リンク先のログはとっておくー「心に青雲」のログが死亡してなくなる)


インターネットはプログは重要なものはログをとって読む

(リンク先のログはとっておくー「心に青雲」のログが死亡してなくなる)


インターネットをどう利用していいのか?その著作権とかリンクとか何かなのか良くわからないのである。
「心の青雲」の都築氏が死んで考えた,ログが二カ月分残っていたものがあった
でもたったの二カ月分だけだった

自分のリンクしたログは残っていない,どこにあるのかもわからない
もうリンクはたどれないのである。

だからインターネットは特にリンクをはったりしたらそのログは記録しておくべきだったそうすればこの文にリンクを張り書いたとなり死んでわかるからである。
こういうことはインターネットも高齢化社会になると起きてくる

ただグーグルとか他の機関でログをとっている場合がある,つまり本と違って電子空間は膨大な記録を保存するのは簡単なのである。
本だったらかさばるし国会図書館でも保存でときなくなっているのである。
本ももう膨大なものであり保存すること自体不可能になっているのだ
ただ電子空間なら膨大なログを保存できるのである。
書斎もいらなくなるのである。

ともかくインターネットはどう利用していいのかわからない面がまだまだある
まさか「心の青雲」都築氏が死ぬとは思わなかったからである。
ただ17年も透析していたとなるとそこから死もありうるのかと想像する
でもそれを知らなければ透析でも元気にしていられるのかと思ってしまう

ともかくインターネットの電子空間ではログをとることが不可欠である。
突然消えることもあるからだ
ただ何かそれも容易でない面がある,めんどうになるのである。
ただグーグルとか東京大学とかではホームページとかプログでもログを巡回して集めているみたいだ,どこかにそうした機関があり記録されているかもしれない
図書館に本を集めるより技術があるなら簡単にできるからだと思う
それはどんなに膨大でもできる,それが電子空間の記録(ログ)なのである。

つまり技術がある所ではプログでも日付順でそっくり残せる
するとそれは本と同じになるのである。
ただ十年二十年とかなるとどうなるのかわからない,記録が呼び出せなくなるかもしれないからだ

ともかく「心に青雲」の都築氏のプログが内容があったからログをとり再検討すべきものだった,幅広い分野に批評できるものがあった
文学とかの分野でもっとその批評を書いてもらいたかったのである。
批評家として優れたものをもっていた,それがわからなくなったのは残念である。

記録というのは人間で大事である。
なぜなら自分で書いたものでもこんなことを書いていたのかと発見している不思議があるつまり人間はとにかく忘れやすいのである。だからその都度書いたものでも忘れる
何でもメモしておけというとき忘れるからである。

人間は最後は記憶や記憶がその一生になる,認知症になるとまさに記憶に生きるのでありそれが人生だとなってしまうのである。
だから記録がない記憶が消えることは一つの死を意味しているかもしれない
記憶が残り記録が残れば何かを過去を知る,墓でもそうである。
一行からでも何かその人の過去を知るということがあるが記録も記憶も消えたらその人はこの世にあったこともわからなくなる
直接接しなければ本とか記録からしか知り得ようがなくなるからだ

とにかく「心に青雲」の都築氏の死はインターネットの中での大きな事件だったかもしれない,こうなることは予想しなったからである。
だからインターネットの利用方法がまだ成熟しいないということがこれでもわかったである。

何か不思議なのは死んで一カ月にもならないとすると生々しいしまだ生きているのかともなる,何かまだプログに書き込みするのかとも思ってしまう不思議がある
何かインターネット上では死んだという実感がわかないのである。
電子空間の中での死となるとそれはまた普通の死とは違う,でも現代的死でもあるのかもしれない,毎日数年間も読んでいたらやはりその死の感じ方は違う
何かまだプログから発信している,書き込まれている感覚になっているのだ。

2017年08月31日

情報化時代の弊害 (過剰に反応して疑心暗鬼の社会に)


情報化時代の弊害

(過剰に反応して疑心暗鬼の社会に)

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現代はものすごい情報量に接する情報化時代である。インターネットでさらに加速した,その量は膨大でありとても追っていけない,情報化時代で何か起きているのか?
それは例えば教師とか様々な地位ある人でも性犯罪が報道される
すると教師が全部そういうふうに見られるのである。
それはなぜかというとそういうことが全国でテレビで常に報道されるからである。
毎日犯罪のことが報道される,するとこの世の中犯罪者ばかりだとなる
テロでも世界中で大騒ぎになる,それもわかるのだがではその国全体がテロだらけになっているかというと別に平和に暮らしている人たちもいる
一部がそうなって大騒ぎになることはわかる,でも全部ではないのである。
イスラム教徒でも全部がテロリストではない,極一部なのだけでイスラム教徒全員があやしいとされる
それは自分が駅であやしいとされ警察に通報されたのとにているのである。

つまりそういう犯罪のニュースばかり流されると今やべてがあやしいとなる
今日のテレビでは花を植えていた鉢が壊れていた,それを誰かがしたと思い込んだ
その人は回りに対して疑心暗鬼になってしまった
回りの人は何かさけている,除外していると思い混むようになった
二人で近くで話していた話しかけたらそれは会話が終わったからにすぎない,
その人と話さないというのではないけどそう思い込んだのである。
鉢は風で壊れていたのである。

そして遂に探偵を頼むまでになった,でも調査の結果は頼んだ本人が被害妄想になっていただけだったのである。
このテレビの番組を見て現代は被害妄想になりやすい,被害妄想とは疑心暗鬼になりやすい社会である。それは都会だと知らない人が多いし引っ越してくる人も多いからである。それは田舎でもそうである。
友伸エンジニアリングの会社は小池にあった,それは大きな建物である
とするとタニコウも小池にあり近くにあるのだから知っているはずなのである。
でもタニコウの人は知らなかった,最近自分は東京から来る人がいるので知ったのであるそれは小池にあるし目立つ建物だったのである。
このように田舎すらわからないことがある
都会だと本当に互いに何をしているのか本当にわからなくなる
そうなると互いに理解しあうこともむかしくなる
結果的に疑心暗鬼になり被害妄想になってしまう

村のような狭い社会に生きていれば竈の灰まで知っているとなるのも困るがそうなっていた,それが逆に今は田舎でも互いに知らないで暮らしている人が多いのである。
そして情報化というとき身近なことを知らないで世界の果てのことを知るということも起きてくる,そこは日常的には何の関係もないのだがグローバル化の情報化時代になるとそうなる,マクルハーンの言うように世界が一つの村になるとうのはそのことだろう
村の噂が世界の噂となり拡散されてしまうのである。

そうなると何が起きているのか?情報にふりまわされるのである。
世界からの情報にふりまわされているのが現代である。
油まみれの海鳥もイラク戦争の時世界中に流されてイラクは悪いとされたのである。
世界中がその一枚の写真に過剰に反応したためである。
それも必要でも情報過剰に悩みまた情報に過敏に反応しすぎることでみんな疑心暗鬼になりあやしいとなり警察にまですぐに通報する
もう狭い田舎でも信じられないとなっている
それはた解に知らない,意思疎通がない社会だからそうなっている

ナチスがラジオから生れというのがピカートの説である。ラジオは国中に放送できるからそうなる,今ならラジオにそんな力があるとは思えない,今ならテレビである。
テレビで放送されるとそれに過剰に反応する
テレビでは毎日犯罪を報道していると日本は犯罪者だらけなのかとなる
実際は日本は犯罪は少ないまれな国なのである。
でも犯罪のことばかり放送していると外国でも日本は犯罪者だらけにみえる
それは外国でも同じである。犯罪者のことばかり放送しているから危険だとなる
でも中国だって旅行したが危険なことはなかった
危険を経験はしたがどこも危険というわけではなかった
でも報道で危険なことばかり犯罪者のことばかり報道していたら危険な国となる

要するに報道は一部を拡大してそこだけを強調するようになっている
日本の戦争でも中国人を医療の実験台にしたとか悪いことばかり報道されると
日本人は残酷だとなる,それを世界に伝播することになる
そういう日本の悪いイメージを新聞社とかが拡散すると日本のイメージがそのとるにたらない嘘のニュースであっても拡散して日本はそんな国なのかとなってしまう
時代劇でも座頭市でもそこにいるのはヤクザばかりて争いばかりあったのかと錯覚するのである。実際はそんなことは極一部であり普通はみんな平和に暮らしていたのである。
ただドラマだと面白くないから面白くするためにそうしているだけなのである。

ドラマだって時代劇となると歴史の情報を勝手に歪曲して伝える,すると何が事実かもわからない,架空のドラマが事実と錯覚している人もででくる
庶民は歴史考証などに関心がないからである。水戸黄門のような人が実際にいたとまで信じる,実際は水戸光国は一回も旅していないのである。
現代は過去の歴史でもそうして事実でもないのに事実のように思わされ歪曲されて伝えられているのである。
そして問題はそうした情報に過剰に反応しているためにみんな疑心暗鬼になる
みんなあやしいとなる,被害妄想化してくるのである。
確かに子供の犯罪はある,でもそれは極一部のことである。
でも一人でも起きれば日本人全員を疑うことになるのである。

要するにいつの時代でも現代でも犯罪はあるし犯罪をとめることはできない,江戸時代あたりだとそんな犯罪があっても藩の外のことはしらなかったろうし村の外のことすら知らなかった,するとその村内では平和か保たれたとなる
それは閉鎖的でそんな社会は嫌だともなるがまたこれ人間のことは必ずいい面と悪い面があり情報も諸刃の剣なのである。
現代は情報化社会が日常化している,報道は必要でも犯罪ばかり報道していたらそれに過剰に反応してみんな犯罪者に見えてしまうのである。
みんなあやしいとなり被害妄想になる人もいる,それはやはり今の社会は狭い田舎ですら互いに知らない人が増えすぎたのである。
そして直接話する人は少なく常にテレビからそうした情報が絶え間なく流れてくる
すると現実に住んでいる狭い範囲の情報より日常的には関係しない世界の情報が身近になる,世界が村になり肝心の住んでいる村のこと知らないとなるのである。

人間は本当に何でも知るのがいいのかともなる,知らないですまされたらそれでかえって平和でいいということもある
人の悪口にいちいち気にしていたらもう生きるのも嫌になるだろう
かえって知らなければ平和が保たれる,現代はかえって情報によって平和が乱された時代だともなる
特に犯罪ばかり報道するのは問題がある。それは一部のことであり全部じゃないからである。
そしてそこに誤解が生れ一人でも議員が不正を働くと議員とはそんなものだとかみんなそう思ってしまうのである。

2017年08月26日

テレビでは他人の不幸は蜜の味になる (報道は今やネットで個々人もモラルが問われる)


テレビでは他人の不幸は蜜の味になる

(報道は今やネットで個々人もモラルが問われる)

病気の人にかかわれば病気の苦しみを負う
貧乏の人とかかわれば貧乏を負う
借金している人とかかわれば借金を負う
苦しんでいる人ととかかわることは苦しみを負う
もめごとのある人とかかわるともめごとにまきこまれ傷つく

病気の人とかかわることは自らも病気の苦しみを負うことになる,医者とか看護師はそういう立場にある,その苦しみを受けているのである。
だから精神的負担が大きいからタフな図太い人間でないと勤まらないとなる
障害者の介護とかで精神がおかしくなった人がいて大量殺人までになったが
自らも障害者の苦しみを負わされるからそうなる

貧乏人とつきあうことは貧乏を負わされるのである。
金持ちだったらその金を絶えず請求されるし平等を追及される
例えば一億円もっていたら5千万円よこせとなる
田舎だと特にみんな同じでないと許されないのである。
なぜお前は金をもっているんだ出せとなる

アメリカではそうした黒人とか底辺層とは住む場所も違っているという
広い国だからそういう棲み分けがてきる,一緒に住むだけで軋轢が生れるからである。
底辺層と住むことはやはり金があれば請求される
人間は決して奴隷の身分に甘んじることなどないのである。
いづれは奴隷でも平等を要求してたちあがる,それが人間の歴史である。

借金している人ととかかわると必ず借金を負わせられる
なぜなら借金は大きな重荷でありその重荷をとりのぞきたいといつも思っている
すると金があるなら金を借してくれとなる
例え口で言わなくても無言でもかかわる人に金を要求しているのである。
事業で失敗したような人とかかわると億の借金があったりする
普通の人がそんな人とかかわったらどうなるのか?
そういう目にあったから借金している人かかわることは危険になる
保険金かけて殺された人も現実にいるからである。
借金が犯罪の動機になっているのが多いのである。

何かもめごと争いのある人と所にかかわるのもまたきれいごとではすまない
シリアのような所で記者が残酷に殺されたけどもそういうことがある
喧嘩の仲裁で殺されたりすることがあるからだ
それで報道でもマスコミでもそういう紛争にかかわることは実際は危険である。
マスコミは毎日のように事件が起きるがそれを興味本位に伝える
津浪とか原発事故でもそういうことはあった
報道することはどちからの立場にたって報道している
すでにマスコミは中国,在日が主流をしめているから左寄りになるというのもわかる
すると右寄りの人達からの批判が強くなる,ネットではNHKであれ絶えず批判されているからだ,中国,韓国や在日が支配していると批判される

原発避難者でも一時はNHKは原発避難者側についていいたことを書いた,しかし原発避難者を受け入れた自治体では補償金をほとんどもらっていないから不満がつのっていたのである。そうしたもめごとが紛争がある所に入って報道するのことは危険になる
喧嘩している所に入って一方の言い分だけを報道していたらそのマスコミ自体がたたかれる,それがネットではできるようになったからだ

本当に原発避難区域などに入るのは興味本意の人がほとんどである。人間は別に直接かかわらなければまるで映画のようだとして面白いとなる
それはそこに住んでもいないし遠くから一時的にくるだけでありその人にとって直接は被害をもなにも負うことがないからである。
テレビなとはそうして興味本位に事件を犯罪でも事故でも伝えているのである。
それを見る人も火事で死んでも直接関係ないから興味本位で見ているのである。
もし近くに火事があったらそんなのんきに見ていられないからである。
自分は原発事故では30キロ圏外にしろ放射能の被害があったから外からとは違った見方がある,なぜならやはり被害者だからである。
ただ被害者と被害者も補償金で争ったとなる

報道にもいろいろ問題がある。今までならマスコミだけが報道する権利をもっていた
一般の人は報道などできないから責任もなかったからマスコミが常に批判の的となっていたのである。インターネットで個々人でも一応報道できるようになるとき
今度は個々人が批判の対象になる,それで自分も批判された
それは数行でしかないがグサリとつきささるものがあった

八沢浦で元の美しい入江にもどったということを写真入りで報道したとき
ここで幼児が泥まみれになって死んで俺たちは泥をかきわけて探していたのだぞと言われた
その時何が美しいのかということでその人は怒りになっていたのである。
個々人が記者のようになるとあらゆる場面で映像としてとり残しインターネットでプログでもなんでも出すことができるからそうなる
津浪にのまれる人をビデオにとっていた人もいた,助けないでビデオをとっていた
それはまさに記者でありそううい衝撃的な映像は放送すると視聴率がとれるからである。個々人がそうしてマスコミと同じようになっていたのである。

いろいろな人がいたが作家と詩人とかもいた,フランス文学賞とかもらった詩人もいた,それも原発事故を契機にネタにして有名になったのである。売名詩人とか作家とかなる
その詩の内容はどうでもいいのである。
それをNHKでもマスコミでももてはやしたのである。
そういう人もやはり興味本位であり本当に被災者を思っているかとなると疑問になる
つまり全国民が興味をもっているときそういう人は話題になりここで名前を売り込むことができるのである。
NP法人でも国から自治体から金をだましとった人も普通にいた。
つまり善意を装って被災地を食い物にする人達が普通にいるのである。

だから原発避難者にしてみれば原発避難区域になったところでは興味本位で面白がって来ている人が多いのである。ゴーストタウン化した街というのはどういうものか見たいとなる,自分もそうだった,興味本位でありそこに住む人のことを考慮していない
ただ自分の場合は同じ被害者でありまた同じ南相馬市とか相馬藩内であり密接にかかわるから外から傍観者とは違う,その影響を受けるからである。
自然を破壊されたりしているとやはり景観でも水でも何でも影響を受ける
だからなんとか復興してほしいとか傍観者でいられないから発言しているのである。

ただ原発避難者でも興味本位とか面白いとかいうけどその人たちは毎日パチンコ通いギャンブルしていのがほとんどだったのである。
外からは興味本位の人が来て内部の人はギャンブルしていたというのも異常である。
もし内部の人が当事者が本当に病気であれ貧乏であれ苦しんでいたら別だが補償金もらって喜んでいた人が多いのも現実なのである。
そういう人達を見ていたら街が興味本意の対象にされていることに怒りなどもたないだろう。なんとか本当に復興しようと汗を流しているなら別である。
俺たちはこんなに苦労しているのに外からくる人はしょせん興味本意で楽しんでいる
そうなるとそういう人達に怒りにもなるのである。
でも避難者の当事者が実際はギャンブルして避難区域の復興などどうでもいいとなれば
外から興味本位で見に来る人も批判できないともなる

いづれにしろ自分も経験しているけど他人の不幸は蜜の味になる
毎日テレビで事件を報道しているけどそういう面がある
別に自分たちに直接火の粉が降りかかってくるけでないからである。
ただ傍観者として楽しんでいるとなる
そこに報道の問題があった,常に言われるのは貧乏人のことを話題にするけど
マスコミの人は高給取りでありそんな貧乏人と関係ない暮らしをしているのである。
そして報道ではそれみよがしに同情したふりして報道しているのである。
そのことは常にネットで批判されているのである。
マスコミで報道する人など貧乏人のことなどどうでもいい,興味本位の対象にしているにすぎないのてある。それに視聴者も興味をもつからそうなる
NHKですら貧乏人を捏造していたのである。

貧乏人とかかわることは身銭を切って助けなければならないようになる
報道する人はマスコミはそんなことはしないのである。
報道は必要でもなにかその報道の姿勢が問題になる
なんのために報道しているのか?ただ興味本位であり視聴率をあげるために衝撃的な映像でだす,それは個々人のレベルでも起きているのだ。
報道の倫理というのものは何なのか?マスコミにはそういうものはなかった
ただ視聴率をあげることが最大の眼目でありモラルなどないのである。

別にインターネットで報道しなければ自分だって報道は何かなど考えない
そもそも報道できないのだから考えようもないのである。
視聴者はテレビとかと比べると極端に少ない,でも報道することはそれなりの姿勢が必要になる,モラルも必要である。
どういう趣旨で報道するのか?ただ刺激的なものを報道して視聴率をとればいいのかとなる
津浪の被害地域であれ原発避難区域であれその状態を知ってもらいたいということがあるでも興味本位になったら面白い楽しんでいるだけだとなる
そうしたらその当事者は怒りになるのである。
俺たちはこんなに苦しんでいる,家族も死んだ家もなくなった,それを面白がり楽しんでいるのかと怒りになるのである。
一時自分でもそういうことがあった,そう受け取られた,誤解があり批判されることもある,報道すること自体絶えず批判にさらされているのである。

あなたは何のために報道するのですかとなる,駅のことを報道してきたがそれは鉄道を利用してもらいたいという自分の願いがありそれは別に津浪とか原発避難者とか区域を報道するの放とは違っている,誰からも批判されることはない,無視はされるが批判されないのである。そこで津浪の被害者や原発避難者などの怒りをかうことはないからである。
報道で問題になるのはだから苦しんでいる人達のところにづかづか入っていってただ興味本位で報道するときである。その時怒りをかうことになるのだ。
実情を知らせるためですというのもわかるが実際は興味本位に報道して視聴率をあげるためだけなのである。

実際に何か大きな事件とか災害とかないとテレビなど見ない,芸能人のゴシップばかりにもあきているからである。でも一旦そうした大きな不幸かあると視聴率があがる
だからテレビにとってマスコミにとって他人の不幸は蜜の味なのである。
そして視聴者でも他人の不幸は蜜の味である。自分に被害が及ばないから傍観して見ていられるからである。

ともかく報道することにもいろいろな問題がある,本当にその人に同情して報道しているのか?そういうことは報道にはまれではないか?
マスコミの記者は絵になる報道したいからポーズをとってくれとか被災者に要求してくれとかそこで泣いてくれとか要求しているのである。
テレビでは役者が本当に涙を流すがそれも役者だからできる
何かそうしてドラマのように作られて真実が何なのかわからないのである。

自分の場合は現場にいるのだからリアリティを追及して報道した
それで原発避難者から批判があったがそれも現実なのである
きれいごとではすまされないのである。
原発避難者側にもかなりの問題があったのである。
本当に働いたのは津浪のときは自衛隊だったと言っている
瓦礫をかたづけたからである。それで過労で三人くらい死んでいるからである。
他は津浪の被害地に来ても興味本位なのが多かったのである。

2017年07月25日

地方の一新聞がピューリッツァー賞受賞 (報道は事実を伝えることー原発事故でも問われた報道)


地方の一新聞がピューリッツァー賞受賞


報道は事実を伝えることー原発事故でも問われた報道

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NHK国際報道


NHKの国際報道で3000部しか発行していない地方新聞がピューリッツァー賞を受賞したことで話題になった、それでも社員が十人くらいいた
そんな新聞社で給料が払えのかと見た
アメリカにもともとこうした小さな新聞社が多かったから伝統があるのかもしれない

この新聞社は地元密着であり狭い範囲でささいなことでも報道している
この新聞社で報道したのは農薬で川は汚染されていることに注目した
それはなぜか?それは毎日その川を見ているからである。
そうしたら地元の人だったら気になるのである。
例えばこの辺で屋形の家の裏の山の土がけずりとられたとき土がむき出しになっている
それを毎日見ているといい気持ちがしない、それはそこを通りすぎることができない、
嫌だなと思っても毎日見る、それは汚染された川を見ているのと同じなのである。

この新聞社では事実を伝えることにこだわった
まず事実を知ることだと事実を調査した
どこから金が支払われたかを調べた
そしたら化学肥料会社から農協のような自治体に支払われていた
それで公平な裁判は行われない
その事実を伝えたことが功績だった
しかし背後の化学肥料会社から金がでていることをつきとめることはむずかしかった
住民でも口を閉ざした、会社はそれだけどこでも権力をもっているからである。

結局人間は金には弱い、金はカルマであり責任であると書いたときここでもそうだった
一旦金をもらえば責任が生じる、それでこの辺では原発事故が起きても東電から金をもらっていたから責任を追及しにくくなった。
それは日本全体でもそうである。マスコミも東電から金をもらっていた
電事連から800億円という金が流れていたという、その額は巨額だったのである。
そもそもこのような一新聞社など簡単に買収できる金である。

この化学肥料会社はまだ小さい、東電は国家並であり国家もかかわっていたのだから
その事実を暴くことさえできなくなって「安全神話」が作られたのである。
例えば地元の新聞でも福島民報でも民友でも何も追及しなかった
福島民報は聖教新聞を刷っているし県で50パーセントも出資している官報と同じなのである。金をもらっているのだから何も追及できないのである
他の雑誌でも小規模だからそれだけの収入を得ることがむずかしい
すると東電のような国家並の会社からの宣伝費とかは経営を支えるものとなる

そもそもこの地方新聞が事実を暴くことができたのはまだ小さい会社だったからかもしれない、国までかかわる会社となると簡単にはできなくなる
原発は危険でもそういうものだったからである。国策として作られたものだからである。ただ今回の原発事故で一体地元を守るものは誰なのか?
それは地元の住民しかないのである。地元の住民が一番被害を受けるのだから無関心ではいられない問題だった、でも地元では金をもらえばいいくらいの意識しかなかったのである。ただこの一新聞社のように真のジャーナリズムがあれば違っていたかもしれない
それでも国家権力を相手にするととなる歯がたたないともなっていただろう。

ただそうはいっても一体地元では地元を自然でも何でも誰が守るのだろう?
それは地元の住民しかない、もしそれができなくなれば今回の原発事故のように地元に故郷にも住めなくなるのである。
そういうことを身をもって知ったのだから地元の人がもっと関心をもって地元を守ることをしなければ今回のように巨大企業や国家の言いなりになり住めなくなる
だから必要なのはこうした一地方新聞のジャーナリズムであることを示した

そういうことは日本でもあった、新潟の巻町は原発に反対して建てさせなかった
それを応援したのは新潟日報だと評価されているのである。
福島県では報道関係でそういうことはなかったのである。
そもそも自然が大事だとか自然を守れとかなると何かインパクトがない
現実に農民が土地を汚染されて農業もできないとかなると深刻に考える
この辺では土も水も空気まで汚染されたからその深刻さを身をもって知ったのである。

ただ原発は金になるからそれに抵抗するのは相当にむずかしい
金が入り豊かになればなんでもいいんだというのが現代だからである。
そもそも自然を大事にしろといっても景観を守れといっても金にはならない
だからソーラーパネルでも何でも金になるならと土地を売るのである
自分の場合は景観を重視しても地元の人は生活のために金が必要だとなる
ただ地元にも住めないとかなることを経験したから他とは違いここは環境破壊する原発には反対する、でも他の原発ではやはりここと同じように金が入るということで是認しているのである。ここでの経験を参考にしていないのである

いづれにしろ報道は何かというときネットでは常に言われている

事実だけを調査して伝えろ

その事実だけを報道してマスコミの報道する者は何か意見を添えるなと言っている
マスコミはNHKでも報道するというとき事実だけを報道するのではない
NHKで事実をそのまま伝えない、編集してこうあるべきだという方針のもと報道する
コメントするものもマスコミで選び、局の方針にそって意見を言わせられだけなのであるだから事実も作られフェイクニュースも流される
だから事実だけを報道している局はないのである。

歴史でも事実を基にしてあるべきだが小説家されドラマ化されるとそれが事実だと思い込む人が多い、それは事実だけだと面白くない、文献を調べたりするのは庶民にとって面白くないしめんどうだしわからないからそうなっているのである

報道というときインターネットはじめてから自分も報道にかかわるようになっていた
第一自分が報道する立場になるとは思っていなかった
それがインターネットだからできたのでするようになって報道を考えるようになったのである。
そしてインターネットでもマスコミと同じようなことが起きていたのである。
何かインターネットでは読まれること自体本当にむずかしい
すると何か目立つことをしなければ読まれないのである。政治家のプログでも読まれないから女性の議員がめだつためにサッカーのことで目立つことを言って炎上して読者の注目を集めるのである。
それはマスコミのしていることと同じだったのである。

インターネットで報道も変わらざるをえない、今までのマスコミの手法では時代についていけなくなる、インターネットはコストがかからないのが強みなのである。
でも読者を獲得することは至難だとなる
新聞はあと十数年で消えるという、そういう感じになっている
紙の膨大な無駄でありいちいち配達するためのコストもかかりすぎる、内容もない、住民のためにもなっていないとなると若い人はすでに新聞をとっていない、ただかえってこの新聞社のように生き残り策はあるのかもしれない福島県でも広いから福島県だけではない、相双地域とかいわき地域とか浜通りとか中通りとか会津とか三つに分かれた新聞などがジャーナリズムが必要になる
やはりより狭い範囲だと川が汚れているとか毎日見るからそこに関心をもち報道するから訴えるものとなる


2017年07月14日

インターネットの情報社会の混乱 (プログも勝手に削除されたりしていいのか?)



インターネットの情報社会の混乱


(プログも勝手に削除されたりしていいのか?)


プログという形式そのものが情報発信することでは今までありえなかったことである。
毎日発信できる、日記形式でできる
それは日々のその人の生きた記録となる、自分のプログはもともと一句一首として日々のことを発信することだった、それは季節によって変わるからプログに向いていた
そして10年間してきた
プログをはじめてすぐに姉が認知症になり今度は認知症のことを書き始めた
これは結構読まれていた、やはり認知症のことをがわからないからそうなった
やはり自ら介護した人でないと認知症はわかりくいからだ

その次に自分が今度は母の介護とか自分の病気とかなり事件もあり一身上のことを書いてきた、これも今までにありえないことだった、一身上のことを公にすることなど今まではできない、どこのメデアでもそんなことを受け付けない、テレビでは芸能人なら視聴率をとれるから放送している
でも芸能人でも今は個人でプログをみんな書いている、国会議員でもほとんど公の人でもプログを書いているのだ、プログは簡単にできるからだ
そして今までは2チャンネルのように必ず受け答えがあるものとしてパソコン通信があった、それは匿名であり言いたい放題であった
相手のことなどかまわない、年齢も社会的地位もなにも関係ない、相手が男か女かもわからない、相手が中学生だったなどということもあった
要するに文章だけが出てくる世界でありそれは実際は現実社会にはない異様なものだったのである。

だからプログでおめえはなんとかとコメントしたとき違和感を感じた
それはパソコン通信とか2チャンネルならそういうことは普通だったのである。
プログとなるともう違っている、二三行かいてケチつける暴言をはくようなことは受け入れられない、プログでコメントするときはやはり現実社会と同じになる
自分の素性をある程度プログで明確にして主張でもそうである。
そうでないともう対話は成りたたなくなった
それでどうしてもプログは一方的に発信するのが多くなっているのだ。

プログになるとこれはその人となりが必ずわかる、どういう主張をもっているのかもわかる、その素性もわかる場合がある、プログは何か一貫して主張することに向いている
だから何度も同じようなことを追加して書くのに向いている
これは一冊の本とも違う発信の仕方である。
それは書く方にとってもメリットがあり読む方にとってもメリットがある
書く方では前に書いたことをまた追加したり再考察して書く
するとまた違った見方が生まれる
そしていくら書いても制限がないからできる

インターネットという場も実は法も整備されていない混乱したカオスである
そもそも一記事だけを読むということはメデアの世界では今までない
一冊の本としてか雑誌でもそれなりの長い文として主張させている
短い一記事だけを読むということはありえない世界だった
キーワードで読むからそうなっているのがインターネットの情報社会である。

ただそこに様々な問題が生まれている、プログでも運営する側に勝手に削除されたりすると困る、注意するのはいいが削除されると困る
アスカとかがプログで自分の言い分を言ったら削除されて困った
そこには自分の作曲されたものがあったからだ
でも記録していたので再現されたという
だから問題があっても削除することはよほどのことでないとあってはならないことであるそしてインターネットの恐怖はパソコンの恐怖は一瞬にして記録したものが消える
そしたらこれまで苦労して書いたものが水の泡となる
それも重要なものがあり後世に残るものもある、芸術作品もあるからだ

ただインターネットでは無数にあるからこんなもの消してもどうってことないとなる傾向がある、でも今ではまともな人が相当に書いているからこういう対処の仕方は許されなくなっている
削除するときはよほど慎重にしなければならない
さくらのプログでは一回料金を払わないで全部消される所だった
その時自分は病院に入院していてメールとか見ていなかった
自分はメールとかコメントをこまめに見ていない、ただ自分の言いたいことプログに書いている、対話はほとんどしていないのである。

今はホームページに書いたものやプログに書いたものを整理している
つくづくそこで感じたことはその大半を忘れているということである。
自分の書いたもの忘れている、こんなことを書いていたのかとかこんな俳句や短歌を作っていたのか詩を作っていたのかとあらためて感心しているのも不思議である。
人間はともかく忘れる、だからプログでも何でも記録していないと思い出すこともできなくなる、人間はこれだけ忘れるのだから記録するだけでも必須なのである。
そうでなければ過去すら忘れてたどることもできなくなる
そういう点でプログは読まれなくても記録するだけで後で役に立つ
ただ自分の場合膨大なものになっているからそれをたどり読むことも苦労になっている

ともかく今回一つのパソコンから書き込めなくなったのはショックだった
それはさくらの方で操作したのではない
パソコン自体の不具合から外部からの操作なのかもしれない、それはわからない。
でも書き込みだけができないということが不可解なのである。
さくらのプログはホームページでもプログでも全く不干渉である
何を書いても自己責任でしろとなっていて干渉していない
プログランキングなどもしていないし宣伝もない
ただプログとしてはマイナーなのでアクセス数が上がらないということはある
でも10年間してアクセスは10万ページビューにはなっている

インターネット上で読まれことは至難である、ただアクセス数となると一カ月百万ページビューのサイトでも自分にはつまらない、かえって大衆受けしないとテレビと同じく視聴率はアクセスはとてもとれない、高級なものになると余計にそうなる
俳句とか短歌とか詩になるとそもそも読む人が少ない
だからどこでもアクセス数は少ないのである。

2017年07月13日

一つのパソコンからさくらのフログに書き込めなくなった謎 (記録したものが消される恐怖)


一つのパソコンからさくらのフログに書き込めなくなった謎

(記録したものが消される恐怖)

パソコンを三台使っている、中古二台と新しいwin10である、でも中古のソニーのハソコンからさくらのフログに書き込めなくなった、記事一覧の記録したものも出てこない
ただインターネット上では記事は普通に出ている
他の機能は正常である。

記事一覧が見れないのと書き込みができない!

他のパソコン二台は正常である。さくらのレンタルサーバーが問題ではない
するとパソコン自体の問題でそうなったのか?
こんなことがあるのか?
ウィルスなのか、外部から操作されたのか?
第一書き込みだけができない、一覧が表示できないのはなぜなのか?

その原因は不可解である、後の二台のハソコンは正常だからである。
やはりパソコンは三台くらい必要である。
それからプログはさくらのフログでも保証していない
何かあってもとりあわない、責任をもっていない
だからフログは複数持たないと安全ではないとなる

さくらのレンタルサーバーの問題ではないから聞いても無駄である。
ただなぜそうなったのか?
もしパソコン自体の不具合だとするとパソコンも危険だとなる

とにかくインターネットでもパソコンでもプログでも何か安心がない
一瞬に消えることも経験している
だから保存して書類として本に記録するのが一番安全だとなる
今そういう作業をしている




2017年06月03日

原発安全神話の洗脳に加担したマスコミ (福島民報は県が50パーセント出資している官報だった)


原発安全神話の洗脳に加担したマスコミ

福島民報は県が50パーセント出資している官報だった


日本は戦争に勝つ
日本は戦争に勝つ
日本は戦争に勝つ
日本は戦争に勝つ

日本は戦争に負ける

原発事故は起きない
原発事故は起きない
原発事故は起きない
原発事故は起きない

原発事故は起きる

ヒラリークリントンは勝つ
ヒラリークリントンは勝つ
ヒラリークリントンは勝つ
ヒラリークリントンは勝つ

トランプは勝つ


人間の心理として何か常に洗脳されることがある、それはメデアを通じて成される
カルト宗教団体でも洗脳が常に行われている、それは宗教とは関係ない、洗脳なのである嘘も百回言えば真実になるとか洗脳として行われる
それでナチスがゲッベルスがその洗脳を担当したのである。

洗脳というときむずかしいことは言わないことである。大衆を洗脳するにはむずかしいことを言っても通じないからである。
戦争が悪いとか戦争がしていいのかとかそうした疑いをもたせない
ただ戦争は勝つと唱えさせていればいいのである。

原発で安全神話が形成されたのもその安全の中味については問わせない洗脳だったのである。
それはマスメデアを通じて成されていたのである。

福島民報が県で50パーセント出資しているとかでもわかる、県は国と結びつきその安全神話を作った側だったのである。福島民報は聖教新聞も刷っているから全く権力側につくから国とか県側につく洗脳メデアなのである。
なんか自主避難でも福島民友は同調しているが福島民報は県の方針に国の方針にそって帰還するべきだと言うだけだとなっている
別に自分は自主避難は何なのか?放射線量がそれほど高くないのになぜ避難するのかのみこめないことがあった、だから自主避難には疑問をもっている
ただそれでも自主避難はだめだということがあってもそれ一方になることがメデアの問題なのである。だから福島民報と福島民友で違った意見になることはいいことなのである。それが常に民主主義なのである。必ず賛成するものと反対するものがある
その両方を取り上げることが民主主義だからである。

ともかく大衆を操作するには洗脳が効果的なのである。だからナチスがラジオによって洗脳されたという時もそうである。ラジオがそんなに効果があったのかと今では思う
テレビはそれより効果的だからである。
テレビで原発が安全でないとか放送されていただろうか?
例えば本は原発は安全ではない、危険だと警告する人がいた、原発は東京に作るべきだという本を出した人がいた、なんかその時自分は近くに原発があるのに関心がなかった
関心をもたされなかったともなる
その本をなぜ自分はSF小説のように見ていた、空想の世界だと思っていたのである
それもそういうふうに洗脳されていたからだともなる
原発が危険だと言う人はいたし本も出されていても関心がない注目されなかった
それは科学的にも科学者でも原発の安全性に疑問をもつ学者はいたのである。
でも「安全神話」は権力で持って強固に作られていたから洗脳されていたから疑問をもつことさえゆるされなかったのである。

マスメデアは全部左寄りでも朝日新聞でも東電に事故が起きたとき幹部が招待されていたように安全神話に加担していた、福島民報も民友もそうである。
ジャーナリズムとは何か?そのことも原発事故で問われた
ジャーナリズムは本当は権力を監視するものがベースにある
常に本当は反権力の立場にたたなければならない、なぜなら権力をもつものを監視するものとして三権分立が生まれた、マスコミもまたその権力を監視するものとしてあらねばならない、権力は危険なものだからそうなる、権力をもつと人間はその権力に魅せられる
なぜなら権力によって人を支配できるからだ、それで裏で金を操作しでこの世を支配しているのがロスチャイルドとかロックフェラーだとかユダヤ人とかなんとか陰謀論になる
それは現代の最大の権力が金になっているからである。

例えば反権力というときカルト宗教団体も実際は監視しなければならないものである。
なぜなら創価でもそうだが政治家して権力を追求しているだけだからである。
会員を増やすのも権力をえるためでありそれ意外なにもない、宗教的改心とかそんなことを言っていたら誰も入らないだろう。そんなめんどうなことではない、ただ得しますよ、ご利益がありますよという利益を説くだけだから入るのである。
だから宗教団体はみんなうさん臭いのである。政治にかかわりそこで権力を操作する側になり利益を得ようとするだけなのである。政治家もただそこが票になるから利用するだけなのである。

マスメデアにしてもそうした巨大な権力側につく、監視する側ではない、国とか県側につき大衆を洗脳する操作する側につくのである。だからそこにもうジャーナリズムとして期待するものは何もない、ただの官報にすぎないのである。
実際に県が50パーセント出資しているのだし聖教新聞も刷っているし東電などからの宣伝費も入っているとなるとそれは何なのだとなる
だから県民でもそんな新聞に何を期待するのか?
原発事故を起こした原因はマスメデアにもあった、そのマスメデアはもともと大衆洗脳のためのマスメデアだったのである。

まずニュースとしてもとりあげるものととりあげないものがある。
原発では度々小さな事故があってもその報道は小さいものとなり何か危険を喚起しない
みんなもの関心をひかないのである。
要するに原子力のことがわからなくても

原発は危険だ
原発は危険だ
原発は危険だ
原発は危険だ

こういうふうに見出しでも目立つようにしていれば大衆でも危険を感じるようになったかもしれない、そういうこが心理的にあるのだ
それがただ安全だ安全だというものしか目にしないし危険だということはおさえられていたのである
マスメデアが宣伝費が成り立つとき出資者が県が50パーセンとなのだから当然だとなる
だからみんなのための報道というとき何なのかとなる
そんなものを作り出せるのかとなる、でもそういう報道がないとするとどうなるのか?
前の戦争のように300百万人死んだとか、今回のようなとりかえしつかないものとなる
その被害が民衆に及ぶ、それを今みんな実際に被害者となっているからこの辺ではなぜ原発事故が起きたのかを真剣に考えて反省せざるをえなくなっているのである。

その責任の大きなものがマスメデアにもあったからだ
マスメデア側にしても自分たちはただの民間の一会社でしかない、だから利益をあげて穏便であればいいともなる
つまりマスメデアでもメデアは民衆の側でそうした権力の監視を真実の報道を望まなければ生まれないとなる、だから民主主義でも民衆側が賢くならなければ機能しないのである
技術的にインターネットなどが生まれてそういう反権力の報道も可能になっているが洗脳メデアとしてまだマスコミは力をもっているのである。
だからトランプがどうであれマスコミがあれだけ批判していたのに大統領に当選したことは画期的なことだったのである。
何かその後のトランプ大統領を弾劾するとかのニュースでもアメリカの方が権力を監視するということではその機能を発揮している、日本では非常にそうしたマスメデアの自立性がないのである。

2017年05月16日

マスコミは会社から宣伝費をもらって成り立つ (会社側に立つから公正な報道はない)


マスコミは会社から宣伝費をもらって成り立つ


(会社側に立つから公正な報道はない)

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人間は求めるものがいろいろある。医者に求めるのは病気を治してもらいたいということが第一である。看護師に求めるのは病気を直す手伝いをするということもあるがやさしく看護してほしいということがある。
医者の助手となっていも病気だからやさしくしてほしいとなる
何か同じ病院でも要望するものが違ってくる

大工だと今は全国的住宅会社があり丈夫で快適な家を建ててもらいたい、安くてもそれなり家を建ててもらいたとかなる、常に何らかの要望があってそれに答えようとするのが商売であり会社でもある
レストランだったらうまいものを出してほしいとなるのは当然である。
人間はともかく何でも娯楽すら金をはらうと要望が生れる
金払ったのにつまらない映画だったかなるからだ

ではテレビとか新聞とかなるとその要望が何なのかわかりずらくなる、テレビ会社には視聴者は金をはらっていない、NHKには払っている、民間には払っていない、民間のテレビ会社はではどういう要望があるのかとなると視聴者の要望もあるが実は宣伝費として金をはらってくれる会社の要望に支配されるとなる
そのために視聴率をあげねばならない、視聴者の要望より宣伝費をくれる会社の要望に答えようとする、だから東電や電事連から八〇〇億とかの宣伝費がばらまかれたから東電でも原発のことは批判しなかった、安全神話に加担したのである。
それは朝日新聞社でも同じである。東電が中国でマスコミの幹部を接待したとき事故が起きたからである。

例えは地方新聞でもテレビでも全国紙と違って地方の要望が生れる、地方を知りたいとなるのは当然である。その地方で知りたいということに答えるというよりやはり東電などの宣伝費をもらうと会社が優先されて視聴者は優先されない
その原因は新聞でもそうだけどテレビでも視聴者はテレビの場合金をはらってくれないからそうなる、ただ新聞の場合は金を払って定期的に講読してもらっている
すると新聞の場合は視聴者の要望を繁栄するものを作ってくれないと困る

それでもなぜ新聞社でも半分が広告になっているのか?つまり新聞を発行するためにそれだけの巨額な金がかかるからそうなる、定期的に金をもらっていてもそうである。
雑誌などになると一カ月一回発行してやっていけるのかとなる
そこは会社からの宣伝費が入って成り立つ、何か他にも援助がないと成り立たないのである。

視聴者がマスコミに何を望むのか?視聴者が望んだものは報道されないのである。
原発の危険性を報道してくれといってされない、福島民報も民友も安全神話に加担していたからである。
そもそも新聞とかテレビでも公共的なもののように見ている、NHKは国民みんなから金をとっているのだからそういう側面があってもやはり報道がかたよっている
そもそも報道は何らかかたよるのが普通である。中立を維持するのはむずかしい、国際関係でも中立は維持できないようになっている
でもマスコミは中立を装うからまぎらわしくなる

その点、赤旗とか聖教新聞とか党派新聞は正直である。完全にかたよっていて他の人はそういうものだとして見るからである。マスコミは何か中立的な公共的なものとして見ている、それが誤解をまねいているのである。
もし赤旗や聖教新聞のようであればそれそれでそういうものとして見ているからいい
例えば世論というとき何か世論なのか?それはマスコミが今まで作り出していたのであるなぜなら報道媒体としてあり全国に報道できるのはマスコミしかないからである。
するとそこにマスコミの意向が入ってくるのである。それで世論と言ったとき、世論ではなくマスコミの意向だったとなる
そのことでトランプ大統領はマスコミを嫌うようになった。実際の世論はラストベルトと言われる取り残された製造業の労働者だったのである。
それを無視してマスコミは報道していたから世論でもかたよっていたのである。

ともかくマスコミの時代は終わりつつある、別に誰でも簡単に格安で報道できる、youtubeでもできる、それでも以前として記者とか今までのマスコミ的役割は必要であり残る
まず取材となると簡単にできない、情報を官僚とかでもとることがむずかしいからであるでも記者クラブとかで独占して情報をもらっていたからそこで馴れ合いが生まれ大本営発表しかなくなっていたのが原発でありそして事故が起きた

一方ででは民主主義とは民の要望を繁栄させる仕組みが必要である。
それが今まではなかった、官僚とか大企業とかの要望の上に報道していた。
福島民報などでも聖教新聞刷っているのだから創価などは批判しない、毎日新聞でも他でもそうである。新聞を発行するにはそれだけ金がかかるからだ
報道するのに金がかかりすぎたことがこういう問題を生んだのである。
その金をどこから得るのかとなると視聴者からは得られない、新聞は購読者から得られている、だから何らかそこで購読者の要望が反映されてもいいはずだった
原発のことをその危険性を指摘して報道してくれたら事故を防げたかもしれないとういことはあった。それができないのはその上の巨大な権力がマスコミを支配していたからである。
スーパードクターに頼むなら金を払いというのと同じである。弁護士でも金にやらないと引き受けないと同じである。政治家も金で動く、そこに弊害がありすべてがゆがめられているとなる

そもそも要望する方でもその要望するものを明確にしないと圧力をかけないと報道する側も動かないのである。
つまりこれは民主主義が自治が問われたことなのである。
ただ権力側に従ってだけいたら権力側のいいようにされるだけである。
そういう民衆側から自治があり要望に答えるように働きかけないと民主主義は機能しないのである。
インターネットはそういう報道の面で改善することがあった、でもこれもまだマスコミのような力はない、でも対抗メデアとして力をつけていることが民主主義を促進するものとなる

ただ深く取材したりするとなるとできない、個人ではできない、取材する方も権力が必要だからである。一人のプロガーが取材してくれと言っても受け付けないだろう。
NHKだとか朝日新聞社のものだとなると取材される方も従う信用することがある
個人はまるで信用されないからである。信用もあるが権力がないと報道もできないのである。

原発事故がなぜ起きたかというと科学的な原因もあるが民主主義が日本では機能していなかったのである。そういう原因もあった、でもそれが不可能だったかとなると違っていた新潟県の巻町では原発に反対して建てさせなかったからだ
そんな小さな町で良くできたなと今になると感心する
新潟日報も応援していたということでここだけはマスコミでも違っていたからだ。
肝心の福島県のマスコミは報道はみんな原発に賛成だったのである。
民主主義はまだ日本では成熟していない、復興でもそうである。
下からの要望がない、ただ上から金がばらまかれてもそれが有効に利用されなかった。
ただ住民でも金をもらえばいいということしかなかったからだ
その補償金についても分配でも利用でも南相馬市なら市全体で話し合い復興につなげるべきだったのである。

2017年05月05日

報道がなぜ面白がることになるのか? (他人の苦しみを知らないし理解できないから)


報道がなぜ面白がることになるのか?

(他人の苦しみを知らないし理解できないから)

みんなが記者になるインターネットの時代
 (現場の被害よりいい写真をとることに夢中になる)

ここで書いたようなことがなぜ起きたのか?マスコミでは常にそうしている
報道は娯楽である。他人の不幸を蜜の味であり楽しみとか気晴らしにすぎない
それが実際は個人的でもそうだったのである。

津浪に追われているのを写真にとる、ビデオにとることに夢中になる
その津浪に追われている人の恐怖がどれほどのものだったのか?
そんなこと関係なく写真をビデオとることに夢中になっていたのである。

それは自分でもそうだった、八沢浦が美しく入江として蘇ったと写真をだしたとき
泥の中から幼児をほりだしたのを知らないのかと言われたのもそうである。
何が美しい入江が蘇ったのかそんなこと報告できるなとなる

ただ別には自分は面白がっているわけでもなかった、自分自身がその時身体障害者になっていたからその写真をとるにも苦しい状態にあった
でもなぜそんなことをしたのか?それはあまりにもありえない光景でありそれは本当に美しい光景だったからそうなった
でもそこに一軒くらい家が浮いていたのである。

ともかく他人が生きる死ぬかの時、写真やビデオを撮ろうとしているのは異常になる
でも新聞記者だったらテレビの記者でもそういうインパクトのある写真を出して視聴率をかせぎたいとなり撮る、困った人のことなどのことを考慮しないで取材している
相手は悲しみ最中にあってもそうである。

これは個人間でも起きているのだ、人間は相手が苦しんでいても普通は無関心である。
自分が介護とか病気になって苦しんでいても無関心だった、ふりかえると相手に対しても自分もそうだった、ある人は金がなくて苦しんでいたけどそんなことも無関心である。
金がある人は相手が金がないとういことを理解しないである。
いくらでも金なんかあるじゃないかとなっているのである。
健康な人は病気の人を理解しないのである。
そんなに苦しいの私は何の苦しみもないからわからないとかなる

そして自分の場合は自分が苦しんでいる、弱者になったことをいいことに責められたのである。弱者になると借金を請求するのにも好都合だしてたいしたこともしないのに恩をきせることもできる、相手が苦しみ弱くなったことは全く考慮しない、それは弱肉強食の世界だった、弱ったものが餌食になる、それを経験したのである。

なぜそういうことが根本的に起きてくるのか?
人間は相手の苦しみを知らないし感じないからである。
その人は実際は介護十年していたのである。ところが自分もその後介護十年していた。
その人は前から介護して苦しんでいた、自分は知らなかったのである。
だから自分のことも全く無関心だったのである。
その事情を知って互いに苦しいことがわかったのである。

ともかくマスコミなどは悲惨なことを毎日報道しているがそれはただ視聴率をかせぐためであり金儲けのためである。その報道する人が会社がなにがしかの痛みをともなうなら別である。そんなことは何にもない、視聴者に他人の苦しみを見せて視聴率をかせぐだけだとなる、ただ危険な所で写真をとったりすると命懸けだとなり命懸けで伝えたいものがあるのかともなる

人間は普通他人の苦しみを知らないで生活しているのである。
自分の前に人が苦しんで倒れたりしたらこの人は苦しんでいるから救急車を呼ぼうとかなるが普通は知らないのである。
だって人は毎日死んでいるしまた死んだのくらいしか他人の死はならない、それが家族の死だったらそうはならない、他人だったらそんなものなのである。
ましてや他人の苦しみを知ることは本当にむずかしい

俺は今一億円の借金で困っているんだよと言われても他人だったらそれは大変ですねとかで終わりである。でもそういう人が困っている人がいることが本当に他人に影響する時
その怖さがわかる、そういうことは常に推理ドラマでやっている
犯罪の殺人の動機でも借金が必ずからんでくるからである。
そういう人とつきあったりしたらそういう危険なことになりやすい、自分がそうされたから身をもって知ったからである。

結局人間は相手の苦しみのことがわからない、相手が貧乏であれそんなこと金がある人はわからない、それは怠けていて自己責任だとなる、そういう面もあるが働いても働いても金にならない人もいる
でも金のある人にとって貧乏人のことなど知らないし関係ないのである。
ただその貧乏人が金持ちを襲ったり殺人までなったりするとき相手のことをもう一生忘れないようになるのである。

マスコミの報道でも遠くだったら影響がないから面白がるだけである。
連続殺人あった、九州か遠いなとかなりなんだろうと一時なるが後は忘れるだけだからである。でもそれが近くだったら恐怖になるのである。
シリアであれだけ悲惨なことがあっても面白い光景だとかなる
ところが北朝鮮からミサイルが飛んでくるとなるとまるで違ったものとなる
ドラマでもそれがドラマだから自分の身が痛まないから面白がっていられる
現実に自分の見に危険が及んだり苦しめられたら面白がっていられないからである。

要するに人間は自分が苦しまないかぎり他人の苦しみにも無関心である。
だから健康であり金があり困ることがないと他人には無関心になる
でも自分が苦しむ立場になるとこんなに苦しいのに誰も同情してくれないのかとなる
なぜ無関心なのかとみんななっているのである。

インターネットでみんな記者になるときやはりマスコミと同じになっていたのもそうである。衝撃的な写真をとれば大勢の人にみてもらえる、そしたら広告でも稼げるとなればマスコミと同じだからである。
そして普通では人間は相手の苦しみを知らないし理解もしない
ただ衝撃的な写真をとることに夢中になっていたのである。

カルト宗教でも他人の苦しみは会員を増やす一票を獲得するチャンスであり同情などしていない、でも藁にもすがる思いで頼る人がいるから会員も増えるとなる
弱者になると信じられないことでも信じやすくなるのである。
そうした心理をついて魔の手が伸びてくるのである。
人間は確かにこのように悪質なものだけどそれは他人の苦しみを知らない理解できないことにあった、自分が健康であれば金があれば他人が病気であり金がないことも知らなかったり理解できないのである。

この辺の放射能問題でも他者からすると面白いとかなる、でも東京でも同じような被害を受けたらそうはならない、みんな恐怖におののくのである。
報道はだから地元から報道するのと離れた所から報道するのは違ってくる
関心の度合いが違ってくるからだ。
浪江の火事でも放射能物質が拡散するとか騒いだら近くでは注意するが他では面白がるということがある
実際に避難区域になったときゴーストタウンを見に行こうとかなり今でも来ているからだ

報道というときマスコミとか遠い所とか第三者の立場になるとただ面白がるということが起きる、でも実際に苦しんでいる人が報告すればそうはならない
自分は認知症の介護とか自分の病気とか他者から借金のために責められるとか大金を盗まれるかと苦しめられたことを書いた。
それは身をもって経験したことだからである。それはマスコミが報道するのとは違う、自分が痛みを受けたから違っていたのである。ただ誰にも同情はされなかったとはなる

何か痛みをともなわないと同情にはならない

寄付金でも自腹で出したり何か自分自身が痛みを覚えるとなると同情したことになる
その他は他人の苦しみは蜜の味になる、面白がっているだけだとなる

2017年04月28日

ニュースも継続したものとして歴史として理解する 時間的にも断片化しない


 ニュースも継続したものとして歴史として理解する

 時間的にも断片化しない


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狭いと稠密な認識になり広いとおおざっぱな認識となる

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 ニュースというとき今回の津浪のように大災害でも突然起きたありえないものとして見た、こんなことはありえないから警戒もしていなかった
ところが津浪というのはこれくらい大きなものでも2000単位になると起きていたのであるそれで研究するようになった、もともと研究していた人はいた警戒もして忠告もしていたのである。

現代はあまりにも今に注目しすぎるのである。時間軸でも過去から時間軸で考察することがない、そうすると深い見方はできない、時間でも断片化する、だから考古学でも何の役に立っているのかとなるが地味な作業だがその土地の時間軸であったことを掘り下げているのである

そして「歴史はくりかえす」というとき過去にあったことは必ず今に起きているし、今起きていることも過去に起きていた、ただ歴史はくりかえすとしても全く同じものとしては起こらない、似たようなものとして起きている
例えば古墳のことを書いたがなぜあんなに古墳が多いのかとなると今にあてはまると明治以降庶民も墓を作りだした結果として墓が増えた、墓が増えすぎることも困るのである。それで古墳も作ることが禁止されたのである。古墳は小さくても大きいからそれだけ日本のよう狭い土地では田畑にする面積を奪うからそうなる

ともかく時代とともに必ずにたような問題が起きている、すると過去と歴史と照らし合わせて今考える、継続的問題として今を考えることが理解を深めるのである。
ただこの時間軸から考察することは本当にむずかしい、自分の住んでいる所ならできるがそれでもむずかしいから旅行しても時間軸で知ることはできない
外国旅行になると空間的には今や一日二日で地球の裏側まで到達する、では時間軸で理解できるかとなるとできないのである

ヨーロッパは歴史がある、二千年くらいの歴史が文書にも残りある。
ローマ時代の遺跡も各地に残されている、するとその石の遺跡から昔を思うようになる
そこで時間軸から考察することが自ずとできるようになっている
日本だと木の文化だから過去が具体的に残っていないからそうした歴史の思いが生れないただ現代はグローバル社会であり時間軸での考察はどこでも浅薄になっている
そうした時間の断片化がナチスを生んだという説もある

空間があっても空間も時間の中でアイディンティティが作られてゆく
空間でもその土地土地で時間の中で継続の中でアイディンティティが作られてゆく
だからエジプト文明でもマヤ文明でもキリスト教文明でもイスラム文明でも仏教文明でも空間軸があり時間軸があり長い時間の継続の中で作られてきたのである。
即製されたものではない、そこに歴史の時間の重みが生れてくる

津浪で驚いたのは縄文海進とかが再現されたことである。
この辺で船着とある場所は塩崎であり鉄道を越えた所の奥深い所だった
その近くまで津浪が来ていたのである。ということはそこがもともと海であり船着という地名がそこにあることを実感することになった
そこには奈良時代辺りから海であり船が行き来していたとなる
そこは海老とかからすると右田から烏崎は低い場所だったのである。
とにかく烏崎から船が流されてきたのには驚いた

つまり2000年単位の時間軸で見れば自然災害でも今起きたことでも過去から歴史から見ればありうることだったのである。
そういう長い時間軸で見ることが現代には欠けていたのである。
常に今という時間に注意してその関心が奪われているのである。
特にニュースは絶えず今のことを報道しているがそれを過去から考察することはしない
そういう作業はめんどうだから何か特別目立つものを話題にして大衆の関心をひきつけるだからニュースでもその土地に根ざして土着的な報道が必要なのである
それを自分は試みてきた、福島県といっても広いからとても土着的な報道はできないのである。

また「継続は力なり」というとき人間は個人的に何でも学問でも事業でも継続によって力がつく、人間はやはり一代くらいでは家の重みがでてこない、豊かにもなれない、何代かつづくうちに継続してその家から何か人材が生れてくる
何でも一代で築くとなると容易でなくなるからだ
それで農家は三代つづいて農家と認められるというのは土地に根付くにはそれだけ時間がかかるからそうなる

北朝鮮が問題になっているがあれも中国の隋の時代から争っていたし日本と中国のせめぎ合いの場所でありその時百済が滅亡して難民が日本に逃れ定着した
大阪に百済郡までできていたからである。そういう歴史は今にはじまったことではない
古代からの連続したものとしてあり継続したものとして韓半島がある。
だから良く韓国は民族として国として残っているということがある
それはやはり継続するものとして力をもっているからである。民族を滅ぼすことは簡単にはできないということになる、それでも過去の民族は消滅している
エジプト文明を作った民族は何だったのか?その民族は消滅しているのである。
中東でもアッシリアとか何かいろいろな民族がいたけど消滅している
日本ではアイヌ民族はほとんど消滅しているのである。
だから民族が今にすべて残っているわけではなく弱小民族は消滅しているのである。

いづれにしろ継続するということそれが歴史でありその国の重みを作る
「一日にしてローマは成らず」である。そういうことが生きることでもあり日本でもそうした長い歴史で作られた国だからその継続の力を維持することが大事になる
その継続の力はその土地に根ざしアイディンティティが基本になるということである。
文明が滅びるにしてもエジプト文明は3000年つづいているしマヤ文明なども1000年つづいたとかあるからだ。
そういう継続の力があったのが文明であり現代文明というとき何か?
せいぜい百年単位でありその間にすべてが成され終わるという感覚になっているのである江戸時代文明だって300年あった、現代文明は百年ですべてを費やして終わるという時間感覚になっているのだ、そういう空間と時間の感覚がナチスを生んだというピカートの考察がある。すべて今に集中される、そしてあらゆるものが刹那的なものとして消えてゆくニュースはそうである、次々に新しいものが求められ泡のように生れては消えてゆく
そこに継続して報道されるものがないのである。

継続してみるというときこの辺で起きた原発事故でもそうである。
すでに6年がすぎた、すると6年間をふりかえり継続して見る必要がある
放射能物質の汚染は継続している、今ため池を除染している
自分は飯館村の佐須で泥が20マイクロシーベル以上あったことに驚いた
そこはホットスポットだったのである。
その泥がセシウムが付着して真野ダムに流れてゆく、すると真野ダムの底の泥には相当なセシウムが泥に付着して堆積しているのである。
それから類推して溜池でも同じだと思った、その泥が流れて田んぼに入ると米が放射性物質に汚染されるのである。実際に稲の実った米が白くなって放射性物質に汚染された映像を見たからあのように放射性物質の汚染も見ることができる
ただ普通には見えないから怖さを放射能汚染では感じないのである
これも地元で継続に見ているから言えることなのである。

ニュースでは全国ニュースになるとこうした継続してみることが苦手である。
次々に新しいことを探し起きてそれに注意を向けるからである。
全国となると広いから余計にそうなる、世界でももうそこを時間軸で考察することは不可能にもなる、世界は広いから次々に事件が起きるからである。
つくづく何か自分でも鹿島区のことは時間軸でも考察しているが原町とかなると広いし人口も多いし何が起きているのか理解することがむずかしくなるのだ
だから人間は時間軸で考察する範囲は狭いとなる、そういう限度があるのかと思う
福島県でも広い、だから会津のことは山に囲まれた世界を知ることは簡単にはできないのである。
中通りだって海がないしまた違った自然環境にあるからわかりにくいとなる
だから全国でも世界でも旅をしたが時間軸での深い理解はできなかったともなるのである


一つの世界の構築

一つの世界を構築する
その土台と柱と蒼穹と
石の柱は森の樹々である
その一つの場に意味を深める
一つの価値ある世界を構築する
ゆるぎなき価値と意味ある世界を
日々の継続のなかに
長い時間の継続の中に
歴史の継続の中に
石の柱は大地に根づき
破壊されてもその石の土台は残り
継続の歴史を語る

Construction of the one world

I build one world
With the base and a pillar and blue heavens
The pillar of the stone is trees of the forest
I deepen a meaning in one place
Firm value and the meaningful world
that build one valuable world in daily continuation
In continuation of long time
In continuation of the history
The pillar of the stone is with a root on the earth
The base of the stone recites
the history of the remainder continuation even if destroyed

機械翻訳は相当に進歩している
だいたいこれであたっているだろう
機械から学ぶ時代になったというのも確かである
翻訳は機械で基本的なことをしてそれを人間が付け加えるともなる
こういう知的なことも機械でできることの驚きである。