2018年06月06日

安楽死は是か非か? (千差万別の個々人の事情に答えられない)


安楽死は是か非か?

(千差万別の個々人の事情に答えられない)

安楽死のことをNHKで取り上げていた,その男性は安楽死を望んだのは癌になって直らないし苦しむのが嫌だからだという
その男性は29歳であり若い妻がいて子供もいた
まず安楽死というときこうしたそれぞれの家族の事情が先にある
家族の中で納得した安楽死ならいいのかもしれない
人間の死は一人だけで決められないことがある
家族がいて安楽死などいやだ少しでも長生きしてほしいという家族もある
家族とかその個人の事情がみんな違っているのである。

その家庭の事情とか個人の事情を医者とかはわかることはむずかしい
だからこそ安易に安楽死をさせないのである。
安楽死でも積極的安楽死と延命治療などをしない安楽死がある
この二つの差も大きいのである。
一般にこうして若い人が安楽死するのと老人の延命治療は違ったものである。
延命治療は苦しいしただ意識もないのに植物人間のようにされているのは悲惨だから死なせてやった方がいいともなる
それすら医者はできない,犯罪にも日本ではなる

自分の事情話すと家族の一人はひどい認知症になった介護で苦しんだこと書いてきた
もう本当に馬鹿になったのか、何もわからなくなったのかととまどい苦しんだ
ただ認知症はわけのわからない病気でありどう対処していいかわからなかった
そのことをプログで書いてきた
人間の問題は人間として意思疎通できるかできないかが大事だと思った
それで障害者を意思疎通できないと19人とかを殺害した人がいた
それだけ人間として意思疎通できないことはもう絶望的なのである。

自分も一時はそうなったのかと見た,でも何かわかったようなわからないようなことがつづいた
なぜなら看護婦だったのに病院に行って病院のことがわからないとかそんなことあるのかもう何もわからないのかと思ってショックだった
銀行に行って金も下ろすことができないとかもあった
だから一体どうなったのだろうとわけわからなくなった
でもわかったようなことを言うこともあった
そして最後にいろいろあったのだ自分の家族のことを介護した人のことをわかってくれたそれはただ首を下げてうなづいただけだったのである。
それが最後の意思疎通だったのである。
でもそれで自分は本当に救われた,何か最後に死ぬときありがとうと言う人もいる
それは介護してくれた人の苦労をわかってくれたことなのである。
そうして頭を下げてうなづいたあと意識不明になった
その時はもう死んでいたのである。

なぜならもう意思疎通できなくなっていた

この時はもう強制的に安楽死させても何ら問題なかったのである。
苦しむだけでありもう人間としての意志もなく意思疎通もないからである。
ここで医者が安楽死させても感謝されるとなっていたのである。
でもその前までは脳出血になり手術して胃ろうにもなり苦しんだ
その期間は約二年半くらいだった
そこで安楽死させていたら最後に意思疎通できずに大きな後悔となり自分も救われていなかった
だからその本人がどんなに苦しんでいても意思疎通できる限りは簡単に安楽死させることはできないと自分の事情では思った

もう一人は母であったが孫に思いがあったのか死ぬ一カ月前に金をやれとその金額まで言って死んだ
それも体全体で大きな声で言ったので本当に驚いた
そんな力があったのかと思った,寝たきりで長かったからである。
そして金のことがまるでわからなくなっていたのに金額まで指定てし命令したのには本当に驚いた,つまりこの時も死ぬ一カ月前くらいであり正気にもどったとなる

認知症は死ぬ前に正気にもどる

これは他の人も同じかもしれない,となると認知症とは痴呆になったのとも違うのだろうか?そう考えざるを得ない
生まれつきの知的障害者とは違う,苦しい人生を生き抜いた人達だからである。
だから認知症になっても正気の部分が残っていてそれが死ぬ頃になると正気になる
だから認知症の人はなにもわからない痴呆でありもう意思疎通できない人と見るのは危険だとなる
こういうことがあるから安楽死というのは他者が簡単に決められるべきものではない
ただ認知症であれ意思疎通できるなら人間は生きているのである。
意識があればまた生きている,意識がなくなったら死んでいるのである。

ただ延命治療となるとこれも判断がむずかしいが本人にとってはあまりにも苦痛であり人間の尊厳もなくなる,だから事情によっては安楽死させた方がいいとなる
ただその判断は本当にむずかしい
家族関係とかもかかわりむずかしい,家族関係はみんな違った事情があるからむずかしいのである。
別に今日放送した若い人が癌で死ぬのに安楽死させるのは悪いとはならない
家族が納得しているし家族間問題がないとするといいのかもしれないとなる
だから家族の事情や個々の事情で違ってくるしそれを医者だけでは見れない
その責任もとれないから医者はしたくないのである。

ただ延命治療には問題がありどうしても安楽死させた方がいいなとみる
でも自分の場合はそうではなかった,死ぬ一カ月前に正気にもどったとすると
それまで生き延びて最後に正気にもどってくれたとして生き延びて良かったともなる
ただこの判断は本当にむずかしい
むしろ認知症であれ悲惨だし早い時期に死んだ方が楽だったもみる
ただそうなると家族としては納得いかずに死なせてしまったとなり後悔が残る
自分は二人とも苦しかったけど納得した死に方をしてくれたので死んでも心安らかに供養できる
それは死後まで関係してくるから簡単に判断できないのである。

 

奇跡なのか、いのちの不思議に圧倒されずにはいられない。言語障害があったのに、
必死の思いで「あ・り・が・と」と口を動かし、一粒の涙を流して旅立たれた方。
そうなのだ、旅立つ人も見送る人も、最後に「ありがとう」と言い合える、
在宅医療はそういう別れができるのだ。

 

なんとめでたいご臨終


死ぬ前に若くても納得する死ならいいのかもしれないとなる
いづれにしろその判断は人を裁くなという神の教えと重なる
「悲しむ者は幸いなり」とキリストは言った
その意味を実際の経験でわかった
自分は一人介護で苦しみ泣いていた,その苦しみを知る者はいなかった
でも最後にわかってくれたなと救われた気分になった
そして神は悲しむ者が幸いなりというとき涙をぬぐってくれるという意味を知った
人間の悲しみを神は知りその涙をぬぐってくれる
そういうことが本当にあるんだなと納得した
人間は苦しみ悲しみそして何か尊いをことを人生で学ぶ
楽してばかりいたらそうしたことを学べないのである
実人生で人は学ぶのであり本を読んでも学ぶことはできないのである。
人間は悲しみを通じて悲劇を通じて学ぶのである。
幸福からは必ずしもそうした深いことは学べないのである。

地上が僕らにとって
故郷になるには
血がにじまねばならぬ
あまたの血とあまたの涙が

(ハンス・カロッサ)

この辺では津浪や原発事故で苦しんだ,でもまさにこの言葉があてはまる
故郷でもそこで安楽に暮らしていただけでは故郷とはなりえない
また家族でもそうである。家族とは必ずしも血縁とういだけではない
何かそこで血を流すような苦しいことをありそれを乗り越えたとき家族となる
そういう経験がないとしたら家族とはなりえないとなる
だから悲しむ時ま苦しむ時人間は何か尊いことを体験で学ぶ
だからこそ悲しむ者は幸いなりとキリストは言い神は涙をぬぐってくださると言ったのである。
だから逆にいつも権力や地位があり悲しむこともない人は逆に何も学ばないともなる
悲しむ者はやはり底辺層に多いからである。
この世とはそもそも安楽に過ごす場ではない,悲しみ苦しむ場として神から与えられたともなる
そうでなければ何も人間は学ばないからである。


2017年07月17日

認知症の人の聞き書きは郷土史の発見に通じている


認知症の人の聞き書きは郷土史の発見に通じている


 高齢者に、その人生を語っていただき、その方の歴史として編集する「聞き書き」は、第三者がそれを行うことにより、高齢者が自分の人生を客観的に振り返ることができ、やり残した事を思いだす、生きがいを見出す、など、精神活動に効果があると考えられています。実際に、認知症で引きこもりがちであった高齢者が、「聞き書き」によって元気を取り戻し、自立に近づいた例も経験されています。



認知症というのは不可解な病気である。90歳くらいの女性が何もする気がないのだが草取り、草むしりをしたいという、その人は草むしりをずっとしてきたからである。
だから草むしりをしたいという、それで草むしりを介護の職員がさせた
その時車椅子から離れて草むしりをした、そしたらそのおばあちゃんは元気になった
ある女性はベッドで田植えのしぐさをしていたという、その人も農家の出だからそういうことをしていた

草むしりは農家では日常的な仕事である。草は絶えず生えてくる、草にもいろいろあり根を深く張るものもあるしいろいろなのである。
ともかく草むしりは農家の毎日の仕事なのである。
そういうことを長年してきたからまたしたいとなる、その草むしりは役に立つことである掃除ともにている

認知症でも過去にしたことは忘れない、姉は機械の操作がボタンを押すことすらできなくなった。テレビのリモコンも操作できない、すると洗濯していたのだが手でごしごし洗っていたのである。洗濯機がそばにあっても使えなくなっていたが手で洗っていた経験があり何か役に立ちたいとして洗濯を手で洗っていたのである。

老人ホームなどは確かに前に近くでデイサービスとかに行って話を聞いた、その聞いたことをプログに書いたりした、ただ内容を深くつっこむことができなかった
それは一回しか聞けなかったからである。何回も聞けばその人の経験したことがストリーとして理解できる
その人は老人ホームにいた人ではないが小高の80歳になる人の話は面白かった
原発でも働いていたのでその話を聞いたり全国を建築関係で回っていた
その人は話上手だった、男にしては何か話がうまいのである。
その人とは何回も土手の所で話した
今は小高に帰っている

話を聞いて興味を覚える人とあまり覚えない人がいる、ただそうして介護民俗学の本を出した人は介護に実際たずさわっていたからできたのである。
老人ホームの内部の人になったからできたのである。なかなか人の話を聞くことはむずかしい、語りたくないこともあるし聞く相手にもよるからだ

それと話を合わせるにはその土地のことに詳しくないとできないことがある。
どこに住んでいてそこがどういう場所かわからないと話を合わせられないのである。
自分は駅で遠くから来た人とちょっとでも話するとき出身地がわかると全国を隈なく旅しているから見当がつき話をあわすことがある程度はできる

話を聞くにしても聞く方でもまたその人を理解する力が必要になる
地元の人だと地理的なことや外に知っているから合わせやすいということはある
普通は地元の人から聞いたりすることもむずかしい、それができたのは原発事故とかで避難してきたりしてその話を聞きやすかったのである。
老人ホームなども話を聞き安い場所である、それも何回も聞けるからそこで働いていた人は本まで出したとなる

認知症の介護は身体介護は体力が必要なので若い人が向いている、でも認知症となると精神的介護の比重も大きい、認知症は生まれつきの知的障害者とは違う
長い年月を生きてきた足跡がありそれはその人の一生であり歴史である。
その歴史は郷土史でもありまた大きくは国の歴史ともかかわっている
姉は従軍看護婦としてシンガポールに4年間いたことは国の歴史に深くかかわってそうなった、戦争を経験した人はみんなそうである。そういう人はまだ生きている
でももう90以上であり戦争自体にかかわった人、戦地に行った人は相当に少なくなっているだろう。

でもそういう人の経験は貴重であり歴史の生き証人ともなる
姉は死ぬ間際まで戦争のことを語っていた、それだけ戦争というのが人生の中で最大の印象に残ることであり忘れることができなかったのである。
若い時のことは別に平和な時でも一番印象に残る
30歳くらいすぎると何か特別印象に残るということも希薄化する
人間は30歳まで経験したことが後の人生を作っているともなる

だから若い時苦労しないといくら東大出ても、ハーバード大学ででても豊田真由子議員のようになる、ただ一般的にそういう女性は優秀だと思うのが当然だと思う
ただ人格形成で下積みとかないと人間はまともになるないことがありうる
自分は苦労がなく大学など出てうぬぼれていたが就職もできず底辺で働いたりしてうめぼれることもなくなった、その後は隠者として老人になるまで故郷にいたのである
だから超エリートの家族に生まれても人格形成がうまくいかないことがあるから人間は本当に環境が影響するとしてもその環境に恵まれても恵まれすぎてだめになるものもいる、であういう女性は例外的なものだろう。
そういう異常な女性がいたからやはり恵まれたからといって金持ちの家に生まれても男でも女でも人格形成がうまくいくとは限らないのである。

いづれにしろ確かに認知症の介護というとき身体的側面だけではない、そうした老人の人生をふりかえることを共にする、聞き書きは有効である。
ただこれはかなり聞く方にもそれだけの聞く能力が必要になってくる
自分は原発事故とかで小高の人が仮設に住んだりして多少は話を聞いた
でも話す相手にもよる、小高の人と鹿島の人はうまくいかないこともありしずらかったことはある。
だから一人だけは話がうまいから聞くことができたとなる

郷土史はおじいちゃんやおばあちゃんの話を聞くことからはじまるということを書いた
それは家のことには誰でも関心があるからだ、それが身近だからそこから郷土史に興味をもつ、だから古い旧家に生まれた人は有利である。
そこには実際に蔵などに資料が物でも書類でも残っている場合がある、江戸時代のものも残っている、まず江戸時代のものが残っていたとしたら相当に貴重なものとなるからだ。そこから郷土に関心をもつことになる、自分はだから常に墓を見てあるったのはそれが過去に生きていたものの証として残されていたものだからである。

老人ホームで認知症の人で若い時のこと過去のことは覚えているからその話には意外なものがあり郷土史の発見に通じるものがある、ただその作業となるとやはり老人ホームに勤めていたらしやすい、外から入って聞くのはむずかしくなるからだ。
何か老人の介護など特に認知症の介護などしたくない、馬鹿を相手にしたくないということが若い人にある、でも郷土史ということから入ると認知症の人にも興味を覚えるのである。 


驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく) (単行本)

六車 由実 (著)
これは読んでないけどこういう本があるのも驚きである、ともかく本の量は膨大である。
今や読みきれないのである。だから一部分を抜粋して読む、それだと読むことかできる
全文を読むとなると本は長いからできなくなるのだ。


2016年10月08日

墓がなくてもいいのか? 常に死者を意識しなければ死者は存在しなくなる


墓がなくてもいいのか?

常に死者を意識しなければ死者は存在しなくなる


墓がいらないとか最近言う人がいる、墓が維持できなくなっていることもある。墓を守る人もいなくなっていることもある
そもそも墓がなにかというと結構めんどうなものである。
それは死者と生者の問題であるからだ。人間はみんな死ぬ、つまりみんな誰でも死者になるのである。
だから死んだ後のことも人間は考える、死んだら別にどうなってもいいということもある人間なんか最後は灰となり煙となるたげだ、墓なんてもう子供も離れて田舎で維持することもできない、墓はいらない、一代かぎりで終わっていいということもある

墓の問題は墓があるべきとかなくてもいいとかいう前に死者をどう扱うかという問題なのである。死者は何なのだというときわからないのである。
自分の家族はみんな死んだ、60年も一緒にいたのに死んでいない、それもなんといっていいかわからない、最後は一緒にいたことさえ夢のようになってしまう。
それは60年も一緒にいてもそうである。

墓が生れたのは死者にとって必要であったからではない、別に死者は何かを生者に望むことができない、何もすることもできないからだ。
ただ生者が死者をどう扱うかが問題になっているのが墓の問題なのである。
墓とは死者を意識する場所なのである。それだけはまちがいない
実家の墓では25歳で肺病で死んだ人がいた、するとこの人はこんなに若くして死んで無念だったろうとかなる、それは戦死者にも言えるし他の人にそうして無念に死んだ人は無数にいる、墓はそういうふうに死者を意識する場所なのである。
自然葬になったらどこで死者を意識するのかとなる

別に墓というものにこだわらなくても死者を意識することが死者を忘れないことが生者に必要なのである。
だから今回仏方(ほとけっぽ)というのがすぐ近くにあった、そこは村の埋葬場であり村の人を葬った場所である。そこに墓はなかった。村の人を葬る場所としてあった。
それも一つの墓地でもあったのだ。墓を建てることは結構金のかかることだから墓は金のある地位のある侍とか僧侶とかしか作られていなかった。
ただ幕末になると天保辺りからか庶民も個人墓を作っているのである。
それだけの経済力がもつようになった人が出てきたからである。
村人はその仏方(ほとけっぽ)で死んだ人を供養していた。それは村が共同体として機能していたときである。
だから現在は個人墓はいらないとか共同墓地に樹木葬とかでそうなっているのも歴史がそこにもどっているともなる

つまり明治以降家族墓になったのだが家族が分離するとそれが維持できなくなりそうなった。墓とはともかく死者を意識する場所なのである。
もし墓がないとしたら死者はなかなか特別の人でないかぎり意識されない、結局忘れられることになる
ただ人間というのは死ぬにしても死ぬ場所を選ぶというか意識しないだろうか?
ここで死んでいきここで永眠したいなとか何か生きているときでも意識する
自分でもなんか都会など嫌だなとなる、例えは電車がひっきりなしに通っている所とか高層ビルの間とか下とか団地のような狭い空間に閉じ込められたような便利な最近の墓とかなんか嫌なのである。もちろん死んだらそんなことが関係ないとも言える

人間はやはり自然の中で美しい自然の中でつつまれて死にたいということがある
まだ長く住んでいて愛着ある場所に故郷に死にたいということもある
老人になるとそういう意識が強くなるのである、だから故郷に住めなくなった原発避難民で老人はそういう意識が強いのである。
都会では土地に愛着を持つとういことがないからそういうことがないのである。
そしてもう世代の継続が今は全般的にない、それも墓を維持できないものになった。
村という共同体も希薄化して継続がない時代である。
死者でももし仏方(ほとけっぽ)とかに葬られても村の共同体が継続されていたらそれも語り継がれて供養する人はいる、村は一家族と違って村全体が家族のようになるからである

我が里に知られず埋もる墓なれや今日見いだして秋の日さしぬ

我が里という感覚はまず都会にはない、里というとき村でもそれは自然の中に営まれた共同体である。死んでも里の人に見守られているというふうになると別に個々人の墓がなくてもいいわけである。
墓はだから共同体と継続性のある社会がないといらなくなる、第一維持もできなくなるからである。
生者が死者を意識することは死んでもその人がなお生者の中に生きつづけることでもあるからだ。
ただそのために寺に金を使い供養するのとはまた違う。月命日だなんだとか金取りになっているのも問題である。
死者を思うというときそれは心の問題なのである。

ともかく仏方とあってももし墓もないならなかなか死者がそこに葬られていることも意識しにくいのである。
墓があるとここに確かに人が死んで葬られているのかと意識するのである。
墓がないと死者を意識できない、すると死者と生者の結びつきも消えるのである。
死者は全く存在しなくなるということである。
明らかなことは墓がないとしてもいらないとして生者は死者を意識するものが必要だということである。墓の代わりになるものが何かとなるとそれは何なのか?
それが問われているともなる。

南相馬市鹿島区寺内に見いだした共同墓地(仏方ーホトケッポ)
タグ:墓の問題

2016年05月19日

戸籍で切れない因縁 (わずかの貯金でもめんどうになる)


戸籍で切れない因縁


(わずかの貯金でもめんどうになる)


ゆうちょ銀行の母の貯金を相続するの戸籍をそろえるのに嫌になった。
書類がたりないと言われ戸籍をわざわざ東京から郵送してもらった。
それが良くわからないので理解するまで手間どった

第一母が東京で女中で東京の人と結婚した、その人は事故で戦前死んでいるのである。
その父と妻だった母の息子も事故で死んだ。
このことが自分の異父兄弟の血縁関係が意外と因縁深かかったのである。

異父兄弟の兄は幼いとき知っている、その父親の関係は全然知らないのである。
でも兄は交通事故で死んだときこの時も交通事故の保険金でもめたのである。
母が言っていたが前の夫が死んだときも事故で死んだので保険金関係なのか会社から多額の金がでて夫側の親戚とかなりもめたことを聞いている。
何か事故ー金でもめる因縁があり自分に引き継がれたのである。

何かわからないけど前の母の夫には養子なのか変な人がいたと聞いた。
一応前の夫の息子になっているのである。その人も死んだのだが兄が交通事故で死んだときその人の墓参りしたのである。
その時本当に不気味な風が吹いて寒々しい感じになった
というより何か死んだ人がまともでないことを肌で感じたのである。

前の夫は戦前死んだのであり今は台東区になっていた。
それを郵送でとりよせるのにめんどうだった
そしてこれで終わりかとゆうちょ銀行に送ったらまた戸籍がたりなかったのである。
前の夫が今度は北区に移動していいたので転籍した戸籍が必要だという
するとまた北区から戸籍をとりよせねばならないのである。

前の夫と母の息子は交通事故で死んでその一人娘の姪子にはハンコなど押して書類を出している。だから実質的にはそもそも相続する人はみんな死んでいるからいないのである。それでもわずかの金でも相続するとなるとこれだけめんどうなのである。
ともかくそれだけではない何か母方の関係になると因縁が切れない
そこと縁をもってもってもいいことがまるでないのである。
でも最後まで戸籍で縁が切れないのである。

テレビの推理ドラマで遺産相続となると訳のわからない人まで出てくる
何かの因縁がそこであり遺産相続にかかわってくる
遺産相続となると兄弟でも殺し合うまでになる

戦前のことまでさかのぼり因縁は関係してくる、第一戸籍は江戸時代まで庶民でも普通にたどれるのである。
東京に住んでいて台東区から北区に転籍したことまでたどって戸籍が必要になる
それは死んだ人の跡をたどることにもなる、今やその人の前の夫の墓がどこにあるかもわからない、でも戸籍からその人が生きていた跡をたどっているのである。

いづれにしろ静岡で兄が事故を起こしたときもさんざんな目にあった。そのもめた相手が親族ではなく勤めた会社だったのである。保険金を欲しいということでいろいろ工作したからである。
こっちでは事情がわからないし遠いから困ったのである。
別に連絡はとりあっていたから消息不明でもない、事故の直前には自分の家にも来たのである。それが最後だった

戸籍から前の夫の養子なのか何なのか正体不明の人までかかわっている、その人の墓には一回だけ母と墓参りに行ったことも不思議だとなる
今は無縁仏になっているだろう。なんか変な奴だったと母が言っていたからである。
ともかく因縁は簡単にこのように死んでも切れない、戸籍というのは意外と証拠として残る
ただもし遺産相続でないならこんなめんどうなことにはならなかった。
銀行にあづける金は死ぬと簡単にはこのようにおろせなくなるのである。
でも不思議なのはタンス預金とかどこにか隠しておくとかすればその場所を教えればこんなめんどうなことにはならない、でも自分のように盗まれるということがあるのでこれも安全ではないのである。金というのはとにかくいろんな面でやっかいなものなのである。金に人の欲が集まるからそうなるのである。
関係ないものまで金にかかわってくる
ただ今自分の血縁関係の人はみんな死んで自分だけが残った。
それで供養するのは自分だけなのである。

先祖とか家系をさかのぼる、それはその家系が何かいいものを残しているからだろう。
その反対も多いのである。かえって家系の中で悪い因縁に苦しみその因縁が断てないで苦しんでいる人も多いのである。
因縁はいい方にも悪い方にも働くことはある、でもただ悪い方にだけ働く因縁も多いのである。
自分の母方の因縁はそうである。父方の因縁にはそういうことはないのである。

タグ:戸籍

2014年09月16日

火災保険、10年超引き受け停止へ 損保大手 自然災害増加で収支悪化 (国民年金も保険であり支払いきれなくなっている)


火災保険、10年超引き受け停止へ 損保大手 自然災害増加で収支悪化

国民年金も保険であり支払いきれなくなっている)


  損害保険大手が、10年を超える期間の火災保険の新規契約引き受けを来年秋にも停止する方針を固めたことが13日、分かった。異常気象による建物被害が増加傾向にあり、長期契約での収支予測が難しくなったためだ。現在、最長で36年の保険契約は、 ...
MSN産経ニュース

若い世代はまともな職にも就けず、安定収入もなく、結婚もできず、ジリ貧。 
一方、老人世代が雇用延長して会社に居座り、高給を得て、裕福な生活をおくる。 
自分たちだけ良ければ後はしらねえ、って感じがぷんぷんする。 
政治家も自らの懐にカネが転がり込む仕組み作りに腐心しているだけで、表向きは 
キレイ事をいっているだけで、将来の日本がどうなろうと知ったことではない。 
だいたい、余命幾ばくもない70才の老人がまともに将来を考えるかっての。 


年金は保険だから。得する人もいれば損する人もいる。最も公的年金は、政府が出資してるから得する割合が高い。

 自動車保険は事故を起こさないと貰えませんよね。健康保険は病気や怪我をしないと 
貰えませんよね。保険金を貰うような事態にならないほうが幸せなんです。それを、 
「掛け金が無駄になった。私も事故を起こしたかった。病気になりたかった。」と悔やむ 人はいません。 

国民年金「保険」も、厚生年金「保険」も同じこと。貰うような事態にならないほうが幸せ なんです。保険金をもらえなかったら、「無駄に長生きして生活に困らなくてよかった」と
喜ぶべきなんです。 

そういうわけで、年金の支給は90歳からにしますのでよろしくお願いいたします。 



一般にも保険が「危険を分担」し合う契約であることの認識は薄く、自らに保険事故が発生し、経済的保障を受けなければ保険の効用、仕組みについて理解がされないことが
多い。

保険というのがこれもそもそもわかりにくい。親が農協の保険の火災保険い入っていた。それで今回の地震で30万くらいはもらった。
でも津波に被害があった人は500万もらったという。床上浸水で被害が大きかった。
それでもその額が大きいと思った。その人は1200万くらいの保険だった。
自分は600万だったのである。それも積み立てたのが戻ってくる保険だった。
ただ自分は少ないと感じたが保険は何かあった場合のために助け合うことが保険だということを理解した。そういう助け合いだということを自覚している人は少ない。
保険会社に一任してその保険会社から支払われるのであり互いに保険金を納める人が協力してなりったていることがを自覚していないのである。
それが近くで同じ農協だったから自覚したのである。
正直農協は一年に5万であり高いと思った。でもこれは掛けたものが返ってくるから高かったのである。

現代は保険の時代でもあるが保険とは何か理解している人が少ないと思う。

年金は保険だから。得する人もいれば損する人もいる。最も公的年金は、政府が出資してるから得する割合が高い。

 自動車保険は事故を起こさないと貰えませんよね。健康保険は病気や怪我をしないと 
貰えませんよね。保険金を貰うような事態にならないほうが幸せなんです。それを、 
「掛け金が無駄になった。私も事故を起こしたかった。病気になりたかった。」と悔やむ 人はいません。 

年金が保険と理解している人もまれだろう。若い人が年金を払うのが馬鹿らしいというのはわかる。
自分もそう思っていたが払うのは親だったので苦しいとは思わなかった。
年金は保険だとすると老後のために何かあった時にもらうものであり月給のようにもらうものではない。
それは病気とかになった時もらうものだとなる。そうなると定期的に死ぬまでもらうのはないとなる。
国民年金などはこうした保険というよりは国の社会保障になっている。半分は国で保証しているのである。健康保険でもそうである。アメリカでは健康保険が馬鹿高いから貧乏人は入っていないから病気の時はいい医者にみてもらいない、日本では平等にみてもらえるのがいいと評価される
でも国でその負担が増えるとはらいきれなくなり消費税などの増税になるのである。
それはこれも保険でありみんなでなにかあったら負担しあうという思想があり成りたっている。
生活保護でもそういう思想があり成り立っている。ただ税金で納めるから保険だという感覚がないのである。

若い人が年金に不満なのは今の団塊の世代などは少なく払ってももらえるが自分たちが老人になるときはもらえるかどうかわからないという不満である。現実に今の90代は年金をはらわなくても三万くらい国から支給されたのである。年金は国で保証されるから支払われるとしても今払っている年金は今の世代に支払われるから不満なのである。
考えてみれば火災保険などは支払う額はそうした世代間で差はない、みんな同じ額を払って維持している。今の若い人は多く払ってももらえるかどうかわからないというのは当然だとなる。
厚生年金や企業年金も国民年金とは違っている。
公務員はなぜ年金が高いのかと不満がある。その差があまりにも大きすぎるからである。
そもそも国民年金にしてもそれが保険なら病気とかの時支払われるのであり月給のように支払われるのではない、そうしたいなら貯金の年金に入り老後にもらえるようにしひた方がいいとなりそうしている人もいる。

いずれにしろ社会保障費も増大すれば消費税などあげねばならない、少子高齢化でその負担が若い人にかかるから不満が増大する。最近火災地震保険でも払いきれないから募集を保険会社で取りやめたことも同じことなのである。支払う額が大きくなるともう維持できなくなるのだ。
それは社会保障費でもそうだし年金でもそうだし民間でも維持できなくなる。
そういう限界状態が社会全体に生じているのである。

現代社会が理解しにくいのは何でも規模が大きくなっているからである。少人数の頼母子講などなら理解しやすいが巨大化すると人間はなんでも理解しにくくなる。
でも今回のような大災害になると巨大化しているから巨大なシステムを構築した保険会社でないと対処できない、その一番巨大化したのが国の保障なのである。これだって税金で成りたっているのだから
保障しきれない事態になっている。
タグ:保険

2014年09月13日

金の貸す方の恐怖 (貸すと際限なく借りに来る恐怖)



金の貸す方の恐怖


(貸すと際限なく借りに来る恐怖)


金を貸す方の心理を借りる方は知らない、立場が変わると人間は相手のこと理解できない、患者と医者と看護師でも親と子でも上司と部下でも立場が違うから理解できなくなる。
正直親とならない人は親の気持ちがわからないということがある。
自分がそうだった。今親の介護をして世話する人の気持ちを理解した。
毎日食事の用意をすることが大変なのである。でも親もそうしてくれてきたことを理解したのである。
親は子供を世話してきた。そこには子に対する願いも生まれる。
子供が立派に育ってほしいとなる。その立派とは何か明確ではないにしろそいう気持ちを持つのである。
それは日々子供のために尽くすからそうなる。

人のために他人でも同じである。
特に看護師などや介護士でも人と直接向き合う仕事だから余計に感じるのだ。
「なぜこの人のために働き尽くさねばならないのか?」
金をもらっているから仕方がない、そう割り切れないのである。
だから病院とか介護関係では虐待も起きてくる。それは家族でも起きてくる。
家族も実際は様々な家族があり複雑なのである。
要するに世話する人と世話される人の立場の違いで問題が起きる。

金の貸し借りもそうだった。金を借りる人は金を貸す人の気持ちがわからないのである。
返すから貸してくれとはいうけど返すとは簡単に誰でもいうことができる。
一回貸すと必ずまた借りにくる。返さなくても借りにくる。
金を貸すとそれが延々と続くから怖いのである。要するに切りがないことがこわいのである。
延々と金をせびられのが金を貸す方にとっては怖いのである。
金を貸す方にすると延々とせびられる、たかられるということが恐怖になる。
そういうことは親族間で起こりやすい。
借りに来ても断りにくいからである。

恐喝事件では推理小説では延々と金を請求されるということで殺害するというのも切りがないことが恐怖になってそこまで金を与える方が殺害までにいたる。
金を貸す方もそういう恐怖がある。
なぜなら金を借りるような人は常に金に困っていて借りに来るからである。
金を借りに来ることに終りがないのである。

その金の貸し借りから信頼関係はこわれてゆく、金の借りる方は金にならないならと離れてゆくし金を貸す方は金を延々と要求されるということで恐怖となり縁も切れてゆく。
人間は限度がないことが怖いことになる。欲望にも限度がない、だからかえって一千万の月収があっても生活が苦しというのはそのためである。
収入が増えれば楽になるというのではないという。それ相応の生活ができないことが問題なのだというのは本当だろう。

なぜ金の貸し借りから人間関係が破綻するのか?
金を借りる人には必ず問題がある。そして知人であれ金を借りるとなるとどうして金を借りるようになったのか厳しくとわれる。ギャンブルでおおまけしたからだと言ったら誰も貸さない、貸すのはサラ金である。
金を借りることはその人の人間人格、人生まで問われることになるのだ。
おまえはいいかげんな奴だから借金するのだとみられる。

まず事業している人などと付き合うのは怖い、こっちに弱みがあったりしたらさらに怖い、相手は金しか眼中にない、ちょっとでも何か頼めば百万単位で借金を要求するから頼めなくなった。だからかえって頼むときは法人会社がいいとなる。
要するにもう知人でもなにかしてもらうと際限なく要求されることが怖いのである。
「ただほど怖いものはない」の意味は報酬として決まった金でケリがつくことはわりきれていいのである。
なにかしてもらっていくらだと決まっているとかえって割り切れる。
いくらでもいいですよおいわれると一万から百万までまりうるのである。金持ちだったら百万払うこともあるからである。

いずれにしろこの金の問題も親から受け継いだカルマだった。いつも金を貸すことで返してもらうのに苦労していたからである。そのカルマも引き継いだのである。
カルマは親からのカルマ必ず引き継がされるのである。
そこにはいい面と悪い面がある。いい面だけを引き継ぐことはありえないのである。
いずれにしろ金の問題はやっかいである。自分はそんなことにかかわることがなかったからよかった。今やいろんな世俗的なことに関わらざるをえなくなった。
人間は世俗のカルマから逃れられないのである。
借金をすること自体がすでに具体的にカルマを背負うことになっているのだ。
だから借りた人に借金を返さなくても他の人から取立てがされそれは厳しくなるというのもありうる。そのカルマともかくどこかでまた返さない限り要求されるのである。

2013年03月26日

見過ごしていたコメント (高齢化社会の恐怖-弱者を虐待する人間の悪魔性)


見過ごしていたコメント

(高齢化社会の恐怖-弱者を虐待する人間の悪魔性)


高齢化社会の恐怖-老人虐待が日常化する
(弱者はカルト宗教団体だけではない、個人も同じ手法で脅すことが普通にある)
http://musubu2.sblo.jp/article/61582877.html


ここにコメントされたものです



病院は刑務所と同じ。患者は研究対象のモルモットがストレス発散の為の玩具。90才の老人が痰吸引で苦しむ姿を見て笑う看護師…自分が指摘した母の臀部に出来た褥そうになる手間の水疱を水疱ではないと看護師に否定されました。しかし、水疱は破け褥そうが広がり、褥そうの処置に大声で痛みを訴え泣き叫ぶ母を見て笑ったり、「凝らしめたる」だとか、痰吸引で苦しむ姿を見ても何とも思わない看護師の恐ろしさ、母の泣き叫ぶ姿や自分は看護師や医者に裏切られ弄られても抵抗出来ない姿を思い出し、辛くなりました。医者は研究対象から外れたら、もうベッドを開けて欲しいから死期を早めることも自由自在。私が怒り苦情を言えば、私がいない間に母を弄り、今思えば、母が私に「もう、何も言わんといて」って言った意味が分かりました。こんな恐ろしい医療従事者がいるなんて信じられませんでしたが、自分の大切な人が被害にあい、恐ろしさを目の当たりにしました。事実は形に残して正解です。医療従事者の言いなりになり、物以下の扱いをされ過去形にするつもりはありません。


ストレスが原因とはいえ、目の前の癌患者を虐待した裏には、悪質な医者、カルト教団、見栄をはり消費者金融で借金して外見を飾り、会社経営して、しっかりしていると思わせたかった葛集団、母に借金の肩代わりさせた事実を隠蔽したかった元兄嫁や妹が繋がっていました。
高齢者や女子供や障害者が虐待の対象にされるケースが多いですが、虐待する側にも、同じ対象者が当てはまります。障害者にも色々で、精神薄弱者が加害者になる場合も多々あります。だいたい、カルト教団に入る様な人間やカルト教団と取引し悪事を重ねる事が出来る人間は自立出来ていませんし、攻撃機制があります。



90才の老人が痰吸引で苦しむ姿を見て笑う看護師・・・・


自分も入院した隣の90才以上の老人がそうでした、その人は特養の人で身寄りがなかった
だから看護師がおもちゃのように扱っていた、痰がつまるのは本当に苦しい、
その苦しむ声が毎日隣から聞こえてくるので眠れなかった
看護師はそれを笑ってやっていた。
看護師は天使にもなれば悪魔にもなるというとき悪魔になっていたのでしょう

病院は実際は恐ろしい所です、看護師にも一人だけど虐待的なことをされた
結局それも身寄りがないからそうなった、家族などみているものがないとしたいほうだいになる
だから身寄りがないものにとっては病院は恐怖です


痰吸引で苦しむ姿を見ても何とも思わない看護師の恐ろしさ・・・・端からみても地獄の苦しみでしたよ、あんななる前に死んだ方がいいと思った、つまり長生きするとは恐ろしいリスクが待っているというのも現実です、長生きさせられて生きながら地獄の苦しみを受ける恐怖です
病院で死ぬことは本当は相当に恐いことです


安楽死させろというとき安楽死の方があれをみていて人情的だなと思った
一層殺してくれと患者も言葉にも言えないが端からみてそうだった
安楽死の方があんな苦しみを受けるよりよほどいいと思ったし否定できない

長生きするということは苦しみも増えるということです
自分の姉は本当は脳出血で倒れて入院したけどそのまま死んだ方が楽だった
半年以上入院して地獄の苦しみを味わった
結局最後は老人は直らない病気になり死にいたるのだから
何でも病院にまかせるとただ苦しませられるだけになるし病院の方でもその治療や介護で膨大な労力を費やすことになるだけです

自分も親戚に言葉の虐待を受けました、これにカルト教団が加わったら最悪です、自分の場合は身寄りがないことですべてそうなった、病気のときまでいじめられると思わなかった

人間は全く残酷です、この六年間は介護や自らの病気や犯罪にもあい苦しみの連続でした
最近こんな非情な社会になったから津浪が起きたんじゃないかと思います
人間社会の終末が来ているのじゃないかと思いました
最後の審判のときが近づいているのだと思いました

自分はなんとか借金している親戚と切れましたし今は病気も一応回復したし身体障害者でなくなりましたから楽になりました、なんだかやっと楽になったなとほっとしています
自分の場合はなんとかあきらがつきます
だからただ忘れることを願うだけです




●身寄りのないものは入院すると最悪になる
このコメントを書いた人は裁判にするまで恨んだ。自分もこれと同じ様な経験をした。つまり人間は弱者になったときそれをいたわるどころではない、弱者になったことをいいことに脅迫するしてくる。もちろん火事場泥棒のような犯罪にもあった。それも自分が病気になり弱者になったからである。弱者を攻撃することは実に容易である。でも弱者になると何も言えない、お前には頼るものがいないから俺たちの言うことを聞くほかないと言われる。弱者になったことをいいことに責められるのだ。看護師も一人だけであるが入院して虐待された。それも恐怖だった。その看護師が怖くなってトラウマになり何も相談することもできなくなる。何か悪いところがあっても言えなくなる恐怖があった。弱者だからどうしてもみてもらいたいことがあっても言えなくなるのだ。医者とか看護師の前では患者は一方的に従うだけのものとなる恐怖である。何も言えない、もし寝たきりとかになると余計にそうである。もちろん認知症とか精神障害者はもう何も言えないから虐待されるままになる。


そういうときなぜかいろいろなカルト宗教団体が入り込んでくる。それは創価でも一票獲得のチャンスとなりまた他のカルトでも会員を増やすチャンスとみて入り込んでくる。同情などは全然ない、自分たちの勢力拡大のために入ってくる。またそういうものに頼らざるをえないことも恐怖なのである。自分が頼った親戚もそうだった。親戚でも金が欲しいだけでありいやいやながらやっていた。
だから何かするにもいちいち恩を着せるのである。手術するときも身寄りがないから保証人の欄に一応書いてもらった。たいした手術ではないにしろそういうことをしてもらうと多大な恩をきせられる。身寄りがないということはなってみないとわからない、もう誰にも頼れないという恐怖である。


人間は家族などがいなければ誰も同情などしないのである。病院でも医者も看護師も同情はしない、ただ物体のよう地扱うだけになる。そもそも医者や看護師側から見れば赤の他人であり次々に運ばれてくるしもう嫌だという感情がでてくる,同情しきれないという感覚になってゆくのかもしれない、人間的同情感覚正常な感覚が麻痺してくるのかもしれない、もうこんなに死にかける大量の老人を世話するのは嫌だという感覚になるのかもしれない、そういう感覚になることはイメ-ジできる。
それだけまた看護の現場が過酷だからまたいちいち同情していたら身がもたないということもあるだろう。だから看護師はやめる人が多いというのも納得がいく、あまりにも理想とはかけ離れた過酷な非情な現場だともなる。


●安楽死もある場合は肯定されるべきだろう


高齢化社会の大きな負の面が過度な介護とか延命治療にある。だから安楽死させろというのも一面わかる。入院した隣の人は安楽死させたた方がどれほど情があるのかとさえ思った。看護師のおもちゃにさせられて苦しめられるためにある。特養だからその人に金はなくても国で出すから生かしておく、生かされることがもはや地獄の刑罰のうよになっていたのだ。それは延命治療でもあるし自分の姉も地獄の苦しみを味わった。泣き方が異常だったのである。それほど苦しかったということである。これは他の人も病院でそうした苦しみを受けているのだ。だからあるところからはただ苦しませるために生かしておくとまでなっているのが今の医療なのである。人命は生きる限り尊いものだというのではない、それほど苦しんで人はもう生きたくないのだ。

結局人間は最後に自分の死を選べない、意識不明とかなり病院に入れられてそこで眼が醒めたら地獄の苦しみを味わう場になっていて逃れられなくなるそこが拷問の場とさえなっていた。延命治療は直るならいいが直らない患者を苦しませるために長生きさせるだけのものとなる恐怖である。特に特養の老人がそうだったように何も抵抗できないしただ弄ばれるだけだという恐怖があるのだ。
それも身寄りがないということはそういう身寄りを作らないことが悪いのだともなるだろう。

自業自得としてその罰を受けろとまでなるのかもしれない、人間の最後をよほど真剣に考えていないと今の時代は恐怖である。孤独死が言われるが別にこれが悲惨ということではない、瀕死の状態で病院に運ばれて延命治療されて苦しみが長びくことこそ恐怖なのである。助かるにしても高齢になるともう死だけになり苦しんで死ぬだけになるからだ。姉も半年長生きしたとしても異常な苦しみを経験しただけだった。でも今は必ず救急車を呼ぶから呼ばざるを得ないからどうしても苦しむ期間が長くさせられるのである。


●弱者には親戚やカルト教団がからみ食い物にされる


ストレスが原因とはいえ、目の前の癌患者を虐待した裏には、悪質な医者、カルト教団、見栄をはり消費者金融で借金して外見を飾り、会社経営して、しっかりしていると思わせたかった葛集団、母に借金の肩代わりさせた事実を隠蔽したかった元兄嫁や妹が繋がっていました。


これも自分と多少にていた。その人は会社を経営していて成功したように装っていたのだ。
それもただ見栄のためだった。借金をしているからどうしても金にこだわり自分が病気になったときそれをいいことに暗黙の内に金を要求するようになる。まあ、別にそれなりに同情して助けてくれるならいいが実際は同情は全然ないし恐喝まがいのことをしてきたのである。こんな人に頼ること自体最悪だったのだ。こういうことは20代で若くして父親がアルツハイマ-になった人がインタ-ネットに書いていた。親戚にいいようにされ金をとられてだまされたとか書いてあった。その恨みを延々と書いていたことが自分にもあてはまる。人を見るとき弱者にどういう態度をとるのか?それをみているとわかる。弱者に横柄な態度になり虐待までする。そこに人間性が見えてくる。それは男女関係でもある。女性が齢から虐待されるのだ。虐待することに喜びを感じるのも悪魔的性格が人間は誰にでももっているのだ。


人間はまさにショ-ペンハウエルのように悪魔的なのである。それは自分もないと思ったがある。人間は誰しもジキルとハイドなのである。そういう悪魔的側面が隠されていてそれが自分のように病気とか弱者になるとそれ幸いとつけこんできて虐待されるのだ。人間は一面恐ろしいものなのだ。愛とか慈悲を説く宗教とはあまりにもかけ離れている人間の本性は悪魔だともなる。
カルト教団は悪魔的なものである。宗教看板にして弱者救済するように見せかけて勢力拡大を計るだけである。そもそも弱者に同情する人がこの世にいるのかとなる。

もちろんそういう側面は自分にもあるからただ他者を責めるということもできないのだ。弱者を虐待して快感を覚えることは男女の関係でもあるし常に人間に備わっているものなのである。だから人間が弱者になったとき本当に同情する人は希有な人である。一人だけ馬鹿正直な女性が同情したのである。その女性は本当に同情したから今になると今の世の中ではありえないとさえ思った希有の女性だったのである。

 

2010年05月26日

キ-ワ-ド 認知症の家事療法(しゃもじ渡しの意味)


キ-ワ-ド 認知症の家事療法(しゃもじ渡しの意味)


古くは「おしゃもじ渡し」といって主婦の座の交替を表し、おしゃもじで大鍋の煮物をかきまぜないと焦げついてしまうという古い教えを意味しています。

これは集団活動のコツであり、当時、おしゃもじでゆたかな食糧をよそることは、主婦の願いでもありました。
また、「戦いとる」意の「めし取る」心もふくめています

http://shufuren.net/modules/tinyd2/


プログのキ-ワ-ドを調べていたら「認知症の家事療法」というので自分のプログに来ていた人がいた。
それで一文を書いてみた。
しゃもじ渡しは姑が嫁にするものだというがこれは人生が60年くらいの時代なら良かった。隠居の風習があったのもそもそも人生が短いからであった。だから40代でも隠居になっている人がいた。60くらいで死ねばあとは20年くらいは好きなことをしていればいいとなる。60で退職して80頃で死ぬのと同じ感覚なのである。そういう時代の感覚からそうした昔の風習や伝統を考えることはできない、つまり現代の高齢化社会は人類史上はじめて経験することなのである。85とか90とかを普通に生きる時代など人類は経験していないのだ。だから今までの考え方は通用しないのである。もちろん老人は嫌いだ、いなくなった方がいいとかの意見も出てくるのは当然なのである。老人が増えることは社会全般的にいい影響はないからである。若い人が多い方が活力があっていいというのが普通である。老人が多く老人が金とか権力をもっている社会は新陳代謝が起こらない、革新的なことができないこともある。明治維新など革命を行ったのは20代とか30代だったことでもわかる。それほど過激だからとても老人などにはできることではなかったからだ。

ともかく高齢化社会は今までの風習とか伝統が通じない、価値観が根本的に通じないということを前提にしないと議論がかみあわないのだ。これまでの伝統はすでに近代化で壊されてきた。長子相続とかも壊されたり嫁が姑に従うということも壊された。大家族制も壊された。地域も壊された。さまざまな伝統的なものが壊されたときそれに代わるものは何なのかとなるときそれが社会の反対の会社になった。今度はその会社も不景気でグロ-バル化で拠り所にならないとなった。社会の中で伝統的なものが継続されず壊されてもそれに代わるものは簡単に作れないのである。伝統的なものが壊されることは価値観が変わるからその価値観に適合できなくなる。例えば嫁は姑に従うものだという習慣が価値観が支配していたときは姑は家の要としてありえた。でもそれがなくなったとき姑は嫁に従うものとなったとき姑は家にいづらくなり別に夫婦で暮らすのが一般的になる。これは一見嫁にとっては姑に従う、いじめられなくてもすむとかなりいいとなるのだが反面、自分もまた同じ運命になる。姑の立場になったら同じように別居することが多くなるのだ。

しゃもじを渡すということは女性にとって一大事であり台所をまかせられることは女性にとってはその家を取り仕切ることにもなる。だから80、90まで生きる時代に嫁が来たからとしゃもじを渡してしまいば姑はあと何十年と家の中で無用の人となりかねないのである。それがボケに認知症になることに通じているのだ。一番ボケになりやすい人は「おばあちゃんは無理しないでください、楽してください、テレビで見ていてください、私が家のことをみんなやりますから」こう嫁に言われた人なのである。実際に自分の家では複雑な家庭事情があり他からは理解されにくいけど90ますぎても未だに家事をしている女性はボケていない、公務員をやめてから家事も何もしない女性はボケて認知症になった。年は7年しか違っていない、明らかになまけものになってしまったのである。家事もやることがない、趣味もたいした趣味ではない、もともと向いていたのは看護婦とか保健婦だったから人の世話だったのである。それでハイチで83才で女医の人が未だに地震の国で肺結核の看護をしてハイチのマザ-テレサと呼ばれているというのを見てあの人はボケないなと思った。家庭内でも障害者や病人や介護する人をかかえていればなんとかその人の世話をしなければならないと責任感を持つからボケないというのは本当である。

現実に90になっても60すぎた知的障害者の息子をめんどうみている母親はボケていない、しっかりしている。やはり責任感があるからなんとか迷惑かけないよにう世話せねばならないという責任感があるからそうなっている。また男でも会社をやめたり自営業でも親父も息子に仕事をまかせるときボケやすいというのは女性のしゃもじ渡しとにているのだ。これも結局高齢化のために起こったことなのである。なぜならしゃもじ渡ししても早めに死ねばそれで良かった。男でもそうである会社をやめて息子に仕事をまかせても85から90までなど生きていないからである。だから高齢化社会では今までの考え方を変えねばならないから対処がむずかしいのである。

認知症の家事療法は効果が確かにあった。洗濯でも洗濯機が使えなくても手で洗っていたし食器洗いはできたし掃除なんとかできた。認知症でもできることはありそのできることをしていると気分が良くなり自分は役に立っているという自信をもったので効果的だったのである。何もせずにただ与えられるだけだったらますますだめになる。何かできることをすることはいいことなのである。だから嫁に私がやりますからおばあちゃんは何もしないでテレビでも見ていてくださいというのが一番悪いことになるのだ。それはやっぱり高齢化社会はしゃもじ渡してから先が長いということにあったのだ。だから今までの価値観が通じなくなったのである

2009年04月20日

介護で切れる親戚関係(介護では本心本根が隠せず現れる)


介護で切れる親戚関係
(介護では本心本根が隠せず現れる)


自分の家の場合、兄弟がいないのだから親戚関係はないと同じである。ここを前提にして読んでもらう必要がある。つまりそもそも親戚関係は薄いから切れても当然の関係だった。だからそのことにこだわる、恨むとかはない、ああそうなんだくらいであり別に恨んだりしない、当然の結果だと今では思っている。

@ 最初からかかわらぬことを決めて切れた親戚

これは介護になってから最初からかかわらないことを決めた親戚だった。ここも代が変わっているし姪とかであり年も八五歳とか本人では何もできないし息子や娘達は何もやる気はないから切れて当然だった。ただ特養に勤めている人がいたのでどうしたらいいか認知症の対処の方法など知りたかった。でもこれもめんどうだからしたくなっかったのだろう、何もできないしたくなかったら介護になったらこの方がわかりやすくてすっきりして良かった。別にこれで恨んだりしない、そもそも本人はできないんだからしょうがないことだった。

A無理をして協力して絶縁して来た親戚

この親戚も姪とかでありその間に交流も薄いし何かしてくれるとは期待してなかった。だから介護自体は何もしてないにしろ親切に手伝ってくれるものだ不思議に思っていた。そのなぜかがわかった。金をやっていたのだ。でもその金のことで今度は絶縁状態になった。なぜならその人はそもそも金持ちでありやたら財産が入ってくる人だった。金などいらないのに金をやったからその金はそれなりに大きいとしても金持ちだからはした金になる。もし貧乏な人だったらありがたいと思うが全然思わないのだ。金でも一万やってありがたいと思う人百万やってもそんな金も金のうちに入らないはした金と思う人もいるのだ。そういう人に金をやっても何の意味もない、だからこんなはした金で介護に使う気かとどなりこんできたのである。もともとやる気がなかったのに金をやったため切れてしまった。金がいい作用をすべてするわけではない、金持ちは金では動かないのだ。金ですべて解決するけではない、だからあんた金があるんだから金でヘルパ-雇いとなり絶縁してしまった。もし金がない人だったらこうはならなかった。打算でも金が欲しいからやりたくなくてもやることはやる。介護関係の仕事でも他の仕事でも金のため嫌でもやらざるをえないからやっている。それが全部悪いとは言えないのだ。金があるからといって金が万能ではない、かえって悪く作用して人間関係を壊ししてしまうことがあるのだ。ただこの人は相当に冷たい人だったから本心と本音が極端に現れて絶縁してしまった。そうでなければこんな絶縁の仕方をする必要がなかったからだ。あれほと怒り狂うということが理解できないからだ。あなたのためにはそもそも何一つやりたくなかったのだが成り行きで一時的に協力していたのである。

B世話になったという理由で協力した親戚

ここも親戚といっても親戚にもならない関係だった。ただ世話になったということで協力してくれた。これはAとは比べ物にならないくらい協力してくれた。その言っていることもしたことも本当だった。ただすでに80すぎて協力するにしても自分一人ではできない、代が変わっているし娘や息子はやる気がなかった。でも母親がそういうのでしかたなくしていた。だからこっちの方には金を最初からやるべきだったが金があるということや金を受け取られないとうことでやらなかった。金を払ってもこっちにしてやってもらった方が助かるからだ。でも実際は金はなかった。あとで借金しに来たからだ。それを断ることもできなかった。これはAとは逆の立場だった。金がなければ金はやったのだからもっと協力してもらうことができた。でも金があると言われれば金やるからといったってしてくれない、Aではそもそも金は必要なかったから金で使われることに激怒したのである。こっちは別に絶縁状態ではない、ただ借金だけが残っただけである。借金を返せばもとの状態にもどるだけである。ただ何か手伝ってもらうことはあとあと考えるとむずかしいというだけである。

●介護には本心、本根が隠せず現れる

介護となると金の問題でももめて兄弟間でも財産のことでもめたりして絶縁状態になる。私の家はそもそも兄弟関係ではないから介護とか深刻な状態になればそんなことする義理も何もないのだから切れても普通のことである。だからとやかく言うことではないのだ。だから結局最後は金の問題になっていたのだ。介護も金の問題としての側面も大きい、介護士の不満も給料が低すぎることでありそれが解消すれば介護に従事する人はふえてくる。労苦の割りには給料が少なすぎるから不満が大きくなるからやめる人も多いのである。
介護になるとなぜこんなに兄弟でももめて絶縁状態になるのか?介護が大変だからそんなものにかかわりたくない、財産だけはもらいたいとかその人の本心がでてくるからだろう。介護になるとその人の本心がでてくる。その本心にまともに接して仰天した。こういうことは介護を職業として接している人にもある。金持ちの施設には横柄な人が多いという。

「オ-イ、高額な金を払っているんだからもっと親切に丁寧に尽くせよ、その態度は気にくわんな、もっとオレを敬い尽くせよ・・・・」
こんなことを金のために奴隷のように使われるとしたら介護士も嫌になるだろう。実際嫌になっいる人が多い。ここに介護は普通の職業とは違う問題としてあることに気づく、だから今回のような本心、本音がでてくると驚愕することにもなる。
「あんたなんかもう世話しねえよ、金のためにへいこらしていたけどオメエなんかもう顔も見たくねえ、オレは金が入ったからうすぎたねえ、オメエみたえな金持ちとはお別れだよ、顔も見たくなかったんだよ・・・・オマエなんかぶん殴りたかったんだよ・・・」

こんなふうに本心、本音がでてくる。介護では親子のなかでもこういうことがありうるのだ。介護でなくても絶縁したい人が掲示板で話している。そういう人は親の介護などしようにもできないのである。介護は辛いから本心、本根がでてくるからできない、最初は世間体とかとりつくろってもできなくなる。長いとさらにできなくなる。それだけ介護は負担が大きいからそうなっているのだ。これはだから介護する人を全面的には責められないのである。そんなにしてまで介護させられること自体、今まで人間としてありえなかったことである。高齢化社会と豊さから介護社会が生まれたこれは新しい問題なのである。 親孝行しろとかの次元とは違う負担の大きさが介護にあるからだ。余りにも重くなれば自分だってのんきにしていられない、耐えられなくなるからだ。


2009年02月17日

NHK-クロ-ズアップ現代-認知症 広がる「本人が決めるケア


 

●認知症を理解すること自体むずかしい
 

認知症の人を理解するのは相当むずかしいだろう。これは実際に家族でかかえた人でしか理解できないだろう。今日のNHKでは若年性の認知症をとりあげていた。これも若年性と老人性の認知症はどう違うのだろう?とかまた疑問になる。認知症をテレビから見ただけではわからない、ええ、どこが悪いのだろうか?普通に見えるけどなとなる。でもよくよく表情を見ているとどこかおかしいのだ。認知症は知恵遅れになっている。知恵遅れの人とよくみているとにたところがある。社会のことが理解できなくなる。それはいろんな症状となって現れてくる。だから今まで簡単にできたことができない、人付き合いは特にそうである。社会のことがどういうことかわからなくなるからだ。ある人は施設に入ったらそこは会社で介護士は部下だと思っているという。そこがどういう場所なのか理解できない、会社だと思っているからが部下だとすると介護士は部下の役割をしなければならなくなる。「部長、ごきげんはどうですか」「まあまあだよ、お前はあわてて失敗するから気をつけろよ、時間を守れよ・・・」「部長わかりました、ありがとうございます」
こんな会話を嘘でもしていなければならなくなるのが認知症なのである。つまり認知症には演技力が必要になる。

 
例えばお手伝いさんとお手伝いさんを使っていた女性が二人認知症になったらやはり関係は変わらず使う者と使われものとして施設ですごししていたという、それだからこそうまくいく、一方が認知症になったから馬鹿になったから使われている人があなたは馬鹿になったのだから私の言うことを聞きなさいとかいちいちわからなくなったことを指摘したら怒るのだ。今までの人間関係は継続する、でも実際相手が馬鹿になったのだから継続できない、そこに問題が起きるのだ。認知症とは相手をたてることが相手を気分よくさせることが治療であり介護なのである。それをできる人は家族でもできない場合があるし他の人でもまれである。だから今まで長年つきあっていた人も来なくなった。相手できないのである。一人だけうまく相手してくれた人がいた。その人はうまくちぐはぐな話をしてもそれに合わせてくれたのである。その人とは前はそんなにつきあいはなかったが相手が馬鹿になってもかわいそうだからなとか同情していたのだ。その人は今までは馬鹿のように思われていた人だった。何か言うことが良くわからない人だった。でも実際は認知症になり馬鹿になったことをわかっていてつきあってくれていたのである。
 
●認知症の人にとって作業療法は効果ある
 

認知症の人が幼稚園とかに行って掃除などをしていた。それで自分たちも社会とかかわれて何かしら役立っているという意識をもつ、子供たちとも接することができると生きがいをもてる。
認知症の人は役に立たないということを意外と気にしている。私の家では家事をほとんどしていなかった。でも認知症になってから洗濯、掃除、食器洗い、風呂の掃除などをするようになった。そしたら自分は役立っているということで何か自信がついたのか前向きになった。認知症でも役に立ちたいという意識がある。体は丈夫だったからそれがまだできた。それでこちらも助かった。庭いじりなどもしていた。認知症の人にとって作業療法がかなり効果を現す、でも家庭でやるならいいが社会でやるとなるとテレビでも補佐する人が4人必要だとか金もかかるとか簡単にはできない、つまり社会の役に立つからといって自分たちではできないのである。だから自分たちで病気を知ってもらいいい介護を国に要求することができるのかと理解できなかった。ともかく認知症は理解がむずかしいから家族でも孤立しやすいのである。だから施設に入るほか地域で介護することはまわりの理解がないのでむずかしい、実際は自分は一人で介護して何の援助もえられなかった。病院に入院したときは認知症の介護ではない、体の介護だが援助されたので病院に入れたとき楽だなとつくづく思った。ともかくはじめて外部の人が体の事でもいろいろ気づかってくれたからである。ただ別に認知症だからと気づかったわけではない、認知症だからと気づかってくれる人はいない、むしろ地域では差別、偏見になりやすいのである。


認知症は今日のNHKのテレビ見てええ、普通の人とどこが違うのか?と見る人が多いだろう。若年性の認知症は自分もわかりにくいがやはり痴呆であり明らかに知恵遅れの人のように社会のことがわからなくなる。でも依然として今までの大人としてつちかったことは記憶にあるから施設に入ったらそこが会社だと思ったりする。認知症はオ-ストラリアのようにまだ日本では認知症そのものが認知されていないのだ。何なのか社会でも理解していない、身体介護としてしか外部の介護はない、心の領域まで踏み入れ介護はめんどうだからできないのである。つまり日本では本人が決めるケアはほど遠いのが現実でありNHKの今日の放送はほんの一握りの例外的な人の報告にすぎなかったのである。

 
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認知症は社会で長年暮らして家族や社会で仕事してきた人だからその記憶が残っていて
自分は有用な有能な人間だったというプライドを認知症になっても持ち続けているのだ
そこが先天的知恵遅れの人との根本的そうである。