2023年01月19日

発達障害者とか精神障害者でも社会からただ排除すべきものなのか (誰にでもなる認知症も排除できるのか)


発達障害者とか精神障害者でも社会からただ排除すべきものなのか

(誰にでもなる認知症も排除できるのか)


精神障害者の母

精神障害者も人なりと
老いたる母は強く言う
犬猫のように捨てられか
もし施設に入れるというなら
私は戦うと体張って言う
子を守るために母は強し
その愛は無償の愛なり
何か子を世間に誇る者なしも
ただその愛は無償にして注がれる
何の報いを得られじも
母の愛あり母は強し
動物も我が子を犠牲にして守る
その時小なるも大に挑む
精神障害者は無用なりしか
ただ意味無きものか
さにあらず真にの母の愛を
示すものとしてありぬ
そのことのありて無益にあらじ
この世に何か意味を定められじ
意味なきことにも意味がある
この世は何が有益無益かもわからじ
故に安易に人の価値を定むべからじ
無用と思う者にも用あり
その母の無償の愛を知るべし


●精神障害者に生きる意味があるのか?

●精神障害者を世話することに何か意味があるのか?


発達障害とか認知症のことをを追及して来たが人間というのは何が意味あるのか価値があるのかわからない定められないのである、精神障害者は何の役にもたたないごくつぶしでありただ迷惑者であり負担をかけるだけの存在だからと抹殺すべきだとして19人も殺害した人がいる
ただその人たちは重症の精神障害者だった、発達障害者は軽症の精神障害であるから違っている
でもやはり病気の一種である、先天的に脳の障害がありそうなった
精神障害者には先天的なものと後天的なものがある、何か誰にでも発症する危険はある
社会生活でストレスがたまりそうなることがある
また社会に適応しにくい性格もありそれは学校に適応しにくい人もいるのと似ている
私自身学校になじめず学習障害者のようになっていたからである
学校でどうしてもなじめず勉強嫌いになる人はいるし自分自身がそうだった
ではその人は無能でそうなったのかというと違う、その人なりの性格があり才能があっても発揮できない、伸ばせないとういことがありそうなったともなる
発達障害も何か絵が得意でそれで社会で認められることがあったとか得意な分野を伸ばせば社会でも認めるとなる

ともかく人間の問題は様々あるけど人間に起きることは人間が完全な存在でもないし
弱い存在でありそして生老病死があり人間には病気でも老いでもさけられないものとしてある、精神障害も先天的にも後天的にも起きてくる
それが健常者とも関係ないのかとなると関係ある
特別健康で頭もいい優秀な人でも認知症にかかる、それを目の当たりにしてショックだった、そして認知症は誰でもかかる、800万人が認知症になる時代というとき老いればかかるのである、それは精神障害者となるのである
つまり誰でも生涯の中で精神障害者になる確率が高いのである
誰でも老いるし老いをさけるここともできないからである
とういうことで精神障害者の問題、発達障害者の問題は関係ないものともならない
認知症でも精神障害者だからである、何か似ているのである
つまり人間に起きることは他人事ではない、精神障害でも認知症になると確実になる人が多いからである、そしたら精神障害者と同じでありそんな人は人間ではないとされたら恐怖である、それは親がなるからである、子が精神障害者の場合は親の愛がある
今度は精神障害をの親を子を看ることになる相違なのである

つくづく人間には本当に様々な生きるリスクがある、その最たるものが病気なのである
精神障害も病気である、いくら科学技術が発達しても意外と現代は精神疾患が増えてい
うつ病でも増えている、それは必ずしも先天的なものとは限らない、後天的に環境の影響でもなる、だから誰しもそのリスクはかかえている、もう認知症となれば誰にでもなるしさけられないとるでなる、なぜなら90歳以上になれば半分以上があるからである
老いも原因でありそうなると誰も避けれないとなる
だから精神障害というのも実は社会的問題でもある、うつ病などはそうである
個々人の問題より社会問題として引き起こされる、時代病かもしれない、何か今度は別な息子が交通事故になったとかもしかしたら交通事故のようなものかもしれない
不可抗力にもなるの精神の病だとなる、だから精神の病にかかるリスクは誰にでもあるとなる、無関心ではいられないとなる

その時発達障者をもった母のように犬猫ではない人間であると主張して捨てられるのかとなる、施設に入れることはすべて悪いとはならないにしても気持ちとして捨てる感覚になっていいのかとなる
ただ母はそう思っても兄弟姉妹となると愛がもちにくいので捨てるとなる
すべてではないにしろそうなりやすい、それだけ負担が大きいから必ずしも責められないことはある
つまり家族でも捨てる、特に親の介護となる捨てるのが当たり前にもなる、施設は現代の姥捨て山なのかともなる、それも捨てる方にすると経済的な問題が大きかった
なぜならみんな貧乏でありとても老人まで食べさせていけないという深刻なものがあり食い扶持を減らすためにそうしたともなる
でも現代はまだそこまでいっていない、なんとか最低限食べさせてめんどうみる余裕はある、でもやはり貧困化するとめんどうみきれないと全体的に国自体でもそうなりやすいことは確かである

2023年01月17日

精神障害者自身が生きる意味と世話する人のモチベーション (なぜ殺害が起きたのか?)


精神障害者自身が生きる意味と世話する人のモチベーション

(なぜ殺害が起きたのか?)

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神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年に入所者19人が刺殺された事件の裁判員裁判で、横浜地裁は16日、殺人などの罪に問われた元職員植松聖(さとし)被告(30)に死刑を言い渡した。
共同通信によると、植松被告は意思疎通が十分にできない障害者には人権がないなどと主張していた。
この事件は日本の犯罪史上最悪の、犠牲者が多数に上った殺人事件の1つとなった。凶悪事件が少ない国で、国民に衝撃を与えた。
これまで植松被告は毎日新聞の取材に対し、知的障害のある人は「生きる意味がない」とし、「社会のためにやらなければならなかった」などと述べていた。




精神障害者には生きる意味がないと施設に勤める人がそう言ったて十数人も殺害した
ここで問題になったのは精神障害者自身の問題と世話する人の問題があった

●精神障害者に生きる意味があるのか?

●精神障害者を世話することに何か意味があるのか?

これが問題になったのである、どうも発達障害者の兄弟でも兄弟の関係でも兄は障害者でも弟はそもそも世話したない、常に障害者の兄に厳しく接している
世間のことを理解できないくては困るとして従わせようとしている
相手が発達障害でも容赦がないのである、そこに相手が病気であり病気でも世間の常識を人間としての常識をわかってもらわないと困る、それで厳しく指導しているのである
それで弟は施設に入れたいのである、かかわりたくないとなっている
ここで関係してくるのが福祉関係の人たちなのである

でも発達障害者の人は施設に入りたくないとしている
そして母親は強い愛情があるので施設に入れたりするなら戦うと言っている
母親は強い母の愛がある、だからそう言っている、弟にはない、兄弟にはない、また姉妹でも母の愛を持つことできないのである
私はただ客観的な立場としてあり別にとっちにも組しないのである
精神障害者を責める弟にも兄弟にも組しないのである、ただ母のような強い愛は持つことはできない、だから病気になったが母が健在であるかぎり発達障害者でも施設に入れることはできない、だからそもそも精神障害者に人権があるのかどうかとか議論される
そんなものがないとして植松被告は殺害したのである

植松被告は重度の精神障害者と接してこんな人達は人間ではないと殺したのである
相手が人間でないとすれば相手の生きる意味も存在すら許されないとなる
そこに世話する者がいて甚大な労力がかけられるしコストもかかるからである
ただ母とかなれば母の愛がありそういう障害者でも母は愛しているし生きることに意味がある、それは何かむずかしい哲学でもない、ただ母の強い愛があり息子を生かしたいとなるからである
問題はそういう強い愛を兄弟でも姉妹でも持ちえないのである、その世話する労力も甚大になり人生するら犠牲になるからである、その相違は大きいのである

母は相手は人間なのだ、施設に入れることは反対する邪魔者として社会からとりのぞき施設に収容することはできないとしきりに言う、母にとって障害者でも息子であり人間として扱っているからである、でも兄弟でもそう扱いないからしきり文句言っている
つまり兄弟姉妹が精神障害者を世話することはなかなかしにくいということである
私は認知症にっなたは母でもあり姉を人間としてそれも健康な時と同じように扱い大事にしてたてることができたのは特別良くされたし家を作り家を支えた女性だったからであるだから苦しくても認知症になっても一家の主のようにしてたてていたのである
そういう立場にあったから継続してそうなったのである

でも相手がやはり認知症になりわからなくなっているのたからそれはおかしいとなった
だから私はうつ病になったのである、たいがい精神障害者が家族にいるとうつ病になるのである、いくら相手をたてるにしてもそうしていると自分自身がおかしくなってゆくのである、そんなふうにはならないと世話している弟は厳しくわかってもらないと困るとして対立する、だから精神障害者の兄はひどく嫌っているのである
そのことは私もわかった、発達障害者が接してはならない典型的な人だったのである

ともかく発達障害者でも精神障害者でもどう対処するかどう見るのかむずかしいと思った母が言うには相手は物でもないし犬畜生でもない人間だとしきりに言う、人間として扱わねばならないというのである、それは母としての強い愛をもっているからである
だから施設に入れることは強く反対しているし福祉関係の人とも戦うとしているのであるつまりここで問題になっているのは弟であり姉妹であれ兄弟であれ母の愛は持っていないやっかいものとして施設に入れた方がいいとしているのである
その相違が大きいのである、強い愛を持つ者と持たない者の差がここに大きく出ているのである

私にも姉とか母に愛があり介護ができた、というより特別60歳まで三食用意してくれたり世話してくれたからである、そのために強制されることもなく必死になって介護したのである、こんなに良くされた人はなかなかいないと思う、特殊の事情でそうなったのである、ただ家族が一人のできそこないというかいてめちゃくちゃになっていることもある
その息子は両親でも暴力をふるい一緒に住めなくなった、息子は本当に家族を崩壊させたのである、親もどうすることもなく家から脱出して住んだのである
これも悲劇だし一人のできそこないの息子を生んで育てたことにより何の報いもなかったとなる、それもあまりにひどいとみる
それで息子を殺した人もいたがここでは殺すこともできない、なんとかなだめようと必死になっているだけである
そういう家族もいるから子供をもってはずれたら恐怖にもなる

精神障害者とは何なのか、その人に人権があるのか、人間なのかともなりその答えはむずかしい、ただ母にとってはかけがえない人であり人間なのである
そうなるとその息子をただ社会の厄介者であり社会から抹殺すべきだともならない母にとってはかけがえないの愛する人間だからである

精神障害者に生きる意味があるのか、

また世話する意味があるのか

この二つの問いがある、現実にそれは精神障害者に対してみんな感じるのである
だから人間でもない精神障害者を次々に殺害する事件が起きたのである
母親にとっては息子が精神障害者でもやはりかわいい息子なのである
また兄弟でも姉妹でもそういう女性がいたからこの場合はみんなにはあてはまらないのである

ただ本当にこの問題はむずかしい、私は親が家族が認知症になっても病気の前と同じように接していた、だからうつ病にもなった、でも二年くらいで死んだので救われたともなるそのくらいなら苦しくてもなっていた
でも長くつづくとなると苦しいとなる、耐えられないともなる、とにかくこうして兄弟姉妹は世話しにくい、親子関係ならいろいろあっても愛情を注いでくれたし世話になったのだから苦しくても仕方がないとなる、また愛情は認知症の人でもわかるし通うのである
それで最後は感謝して死んだのである、認知症の場合は普通の人としてまた優秀な人として生きた人でありまた世話してくれた人だから粗末に扱いないのである
そこが生まれた時から発達障害者になって世話される人とは違っている
でも何か似ていることがあると見た、プライドがある、だから馬鹿にすると怒ることも似ていたのである、お前はは何もできないとか叱責すると怒るからである
そういう人は世話できないとなる、そこに認知症と違って介護でも世話でもむずかしいと見たのである

2022年12月28日

精神障害者を持ち苦しむ家族 (発達障害者と認知症の似ていること)


精神障害者を持ち苦しむ家族

(発達障害者と認知症の似ていること)




Aさんから毎日聞かされる過去のことに対する愚痴や、めぐみさんに対する罵倒・被害妄想は、めぐみさんの子どもたちがいてもお構いなしで続いていたそうです。時には暴力を振るうようなこともあったそうで、めぐみさんは「もう限界だ、少しでいいから家族だけの時間が欲しい」と思い、引っ越しを決めたと言います。

、AさんからSNSを通して誹謗中傷を受ける日々がはじまったそうです。書かれている内容は事実無根だったそうですが、「SNSで障害のある姉を捨てた妹、いつも妹ばかりずるい、と発信するんです。どんどん投稿が増えていくと、精神障害があるからしょうがない、では片づけられない苦しい気持ちになりました」と言うめぐみさん。ある日ついにストレスで左耳が聞こえなくなってしまったのです。

精神障害者手帳を取得した現在も、両親はAさんが障害者になったことを認められず、福祉のサービスの利用を拒んでいるといいます。支援を受けてこなかった中で、両親が過剰な期待を寄せてきたのがめぐみさんでした。

「障害がある姉を家族やみんなで支えなければ、という気持ちはわかります。でも、障害者だからなんでも許されるわけではないということもわかってほしいと感じています。私の人生は姉の面倒をみるためにあるわけではないんだと、姉にも両親にもわかってほしいんですけどね」

「姉妹なんだから支え合って」と言われても…精神障害のある姉を10年支えてきためぐみさんの決断


この人と私が接した発達障害を持った家族と同じだった、兄の世話を弟がしていただが
兄の悪口を常に言っていて弟はなぜ私が世話しているのに悪く見られて責められるのかと何度もくどいていた、
精神障害者をもつ家族は家族が身内が一番苦しむのである
それは私も認知症になった姉を介護して経験しているからである

母親にしても終に自ら脳梗塞になりもう世話できないと匙を投げた、というのは弟が母親を苦しんで世話するようになんたからである、金銭的面でも援助しているから弟の言い分を聞かなければならないとなって発達障害の息子をもうめんどうみれないとなったとなる50歳までめんどうみて苦しんできたのだからそれが冷たいとはならない、限界が来たと言える
自分自身が脳梗塞になって苦しんでいても発達障害の息子は介護もできないからである
まず書類など書けないし福祉関係者の人ともまともに応対でなきい
そうなると母親も匙を投げたとなる

でもどうも精神障害者がいろいろあっても認知症の介護をしたので似ていると気づいた
発達障害者の人も家族を責める、特に弟のことを責めている、でも弟は金をだして風呂を作ってやったとか金銭的な面でも援助している、だからなぜ自分だけが悪く言われて回りでもそう見るのかとなって不満になった
母親が脳梗塞になって母親ももうめんどうみきれないとなった
一時は施設に入ってもいたが嫌だとして出た、母親が施設に入った方がいいと言ったら怒ったという、でも発達障害者の人と協調できる人はいないともみる
ただ福祉関係の人は障害者の味方になるという、だから不思議なのは認知症の人が警察を呼ぶぞというのは福祉関係とか警察が家族から責められる時守ってくれる人と見るからかもしれない、その辺はわかりにくいが認知症との共通点はある

何かそれは自分自身を防衛するためにそうているのかもしれない、障害があることでまともにあつかわれない、そのことに不満がある、そして自分自身はその障害が何なのか意識できない、だから自分は常に不当な扱いをされていると回りに訴える
それを聞く人が福祉関係者でありとがめられるのはかえって家族だともなる
認知症でも盗んだと責められるのは一番身近な家族だからである
その発達障害者も常に弟を嫌っていて盗むと言っているからである
ただ認知症のように極端な物忘れはしていない、銀行から金を下ろすことも知っている
そして金に敏い、金になることは金の計算がまともにできなくても敏いのである
欲もありその欲を金で得られるから抜け目ないという

そういうことは認知症の人もそうなのである、自分自身は悪いと思っていない、
回りの人が悪いと責めるのである、その心理はどこから来ているのか?
おそらく自分に障害があることを認めない、私は社会で一人でもまともに生活できる
誰かの世話になることもなくできる、そして自分自身に対して自分の言うことを聞かないと敵ともみなし責めてくる、それは認知症の人にもある、性格によって違ってくるにしろ何か共通していることがある、
自己防衛本能が働き他者に対して自分の言い分を拒否されると敵とみなして攻撃する
それがここでは弟なのである、そうでなくても家族が敵となり攻めてくるのである
それで世話する人がなぜ自分自身だけがここでは妹が姉の世話ばかりして他にできなくなるのか?それで遂には突き放すようになる
第一そうして世話しても感謝などないからである

そして親の認知症と違うのは親というのは子供に尽くしてきた、人によって違っていても親は子供に尽くしてきた、だから世話しなければならないという気持ちがある
私の場合は特殊な事情で特別世話になったから家を支えてくれたから恩返ししなければならないと自ずと思っていたから苦しくても世話するのは当然だと思っていた
それより自分自身しか世話する人はいなかったのである
では兄弟とか姉妹とかなると別に世話されたわけでもない、むしろ障害者が特別扱いされることもある、母親は障害者ばかりに手をかけて他の兄弟姉妹にはおろそかになる
その不満が障碍者をもった家族に常にある、ただ障害者でなくても兄弟でも姉妹でも
みんなに親が良くするわけではない、一人っ子の場合はそういうことはない
だからこそ介護になると一番良くされたかわいがられた人が介護しろとなるのである
これも当然だとなる

とにかくこうして遂に母親でも匙をなげた、するとこれから厳しいことになってゆく
回りでもそんなに悪口を言い自分の言い分を通すことを是認する人はいないからである
つまり世話になっているのだから何か悪口ばかり言って不満ばかり言っていることに対してそれを是認する人はいない、でも発達障害の本人は世話になっているとも思わないのである、だからこそ相手を攻撃して責めてくるのである
認知症にもそういうことがある、何か悪賢いということもある
外面はいいのである、最も親しい家族に対しては攻めてくるのである、つまり家族が悪くて自分は悪くないとするのである
だから福祉が味方だとなることがわかっていて家族の悪口を言う時福祉の人はそれを是認するから余計にそういうのかもしれない、だから不思議なのは警察を呼ぶぞということも認知症と共通している、警察は福祉関係者と同じであり自分の味方だと思っているからかもしれない、これは本当に謎である

精神障害とは発達障害者でも認知症でも似ていることがあると思った
でも根本的相違は認知症は別に優秀で社会に尽くした人であり家族に尽くした人でもあるでも発達障害者とか先天的精神障害者はそういうことはないだろう
幼児から世話をやかせて育った人もいる、だから親が病気になっても世話もできないのである、そうなれば親でも遂には見捨てるとなる
自分自身が介護される身になるからとてもめんどうみきれないとなったのである

ここで不幸なのは最も頼るべき親しい家族でも悪口を言い責めてきてかえって自分が損する、もし体の病気だったらそういうことはないだろう、親切に介護すればそれがわかる
だからありがたいと思う、でも精神障害者の場合はそれがわからないのである
そしていくら世話してもそれがわからずかえって責めてくる、悪口を言い自分は悪くないとする、それを福祉関係者が同調するとなる、だから罰せられるべき家族であるともなるそれで警察を呼ぶぞと言うのかもしれない、それも不思議であり謎だとなる
ただ心理的に解明すればそういうことなのかとみる
全く支離滅裂な精神病とも違う、その心理は理解できないことはないともなる

いづれにしろ発達障害が何なのかまだわからない、でも精神障害者を世話することはめんどうでありだからこ母親でも50歳の息子を自らが病気になってもうめんどうみれないと匙を投げたのである、どうしても弟に頼らざるをえないからである
その発達障害者は親の介護もできないからである、そうなれば弟に世話されるのだから
弟の言い分を聞いているほかないのである

私の場合は認知症になったとしても私は認知症になった人をたてていた
それは複雑な事情でそうなった、つまりその功績が大きいものでありいくら認知症になってもそれで捨てるわけにはいかない事情があった
だから死んでも篤く供養しつづけている、それだけ大きな功績が自分の家に尽くしたことがあったからである、でも幼児期から発達障害者になった人は50歳までただ迷惑をかける存在だったのである、そして世話しても感謝もないのである
またそもそも介護も世話することもできないのだから報いもないとなる
このことでいかに精神障害者もった親でも兄弟でも姉妹でも苦労するかわかる
それは認知症でも共通した面があるがやはり子供の時から一方的に世話するだけとなると報われることないし感謝されるたともないのだから辛いとなる
そのことは認知症で経験しているから多少は理解できなるとなる

おそらく発達障害者でも何か一芸に優れていれば社会でも認める、それで社会に適合できる、社会に役立つともなる、天才などは社会的には人間関係ではうまくいかなくても一芸に優れているからそれで認められるとなる
だから発達障害者は何か特異なことをできるようにする、そうすれば他の人も認める
そうなれば家族でもただ何もできない迷惑をかけるだけの人間とはみないともなる
もし一芸に優れていて収入もあったりしたら邪魔者扱いにもしないとなる
ただそれがみんなができるかとなるとむずかしい、社会不適合者でもかえってそういう人は特別優れた人でそうっている場合がある、天才ともなればとても普通の社会人として生きられない、平凡な生活はできないからである
ただそれはまれであり普通はニートであれ引きこもりであれそういう人ではない、ただの社会脱落者に過ぎないともなっている
第一天才自体まれにしかいないからである、それでも何かその人に自由を与えてあなたのやりたいことをやりなさいとなるとき自分のように旅ばかりして地名と地理とか風土に興味をもったようにその人なりのものを追及してそこで優れているともなり認められることはある、そもそも人間の才能とは多様でありそれを見出して伸ばせた人もまれだとなるからである



2022年12月27日

発達障害と認知症の共通性 (家族でも他者でも悪口を言う発達障害者は嫌われる)


発達障害と認知症の共通性

(家族でも他者でも悪口を言う発達障害者は嫌われる)


発達障害の人と接してその話を家族から聞いた認知症と似ている面があると思った
家族が母親でも弟でも世話しているのだがもう限界に来てその不満を言った
もう世話できないと言っていた
弟は何かと悪者にされるだけでありなんで自分が世話しているのにそうされるのかつくづく嫌になったと言っている
母親ももう世話しきれないとなったのは自らが脳梗塞になり倒れたからである
でもその世話はできない、世話は弟がしている、その一人の弟一人にすべての金銭的負担でもかかっている、そして悪者にされるだけだと嘆いていた

どういうわけか何か認知症の人と発達障害が似ていることがあると見た
というのはどっちも世話する人であれ他者のかかわりでその他者を悪く言うのである
世話する弟が悪者にされるだけだと嘆いている時そうである
感謝したりもしない、一方的に自分の言い分だけを言いそれが通らないと悪口を言うのである、極端になると警察を呼ぶとかも言っている
そして福祉でも基本的に障害者の味方をするので世話する家族でも悪者にされると嘆いていた、つまり障害者の方の言い分を聞くのである

何かそれは認知症でもそうである、家族を警察を呼ぶと騒いだのである
なんで警察なのかと不思議であった、自分が障害があることを自覚できない、相手が悪いと常に思っている、盗まれたという時も身近な人が盗んだと必ず疑い騒ぐ
他罰的なのである

自分が悪くない、相手が悪い、悪い奴をこらししめるべきだ

こういう感情になっている、一見障害者は常に虐待されているとか問題になる
でも世話する方が家族でも虐待されていることもある
その家族は50歳まで世話して母親でも脳梗塞で倒れたとかなり限界に来て今までの鬱憤をさらけだしたのかもしれない、母親を世話するでもない、世話はできない、実際は弟が世話しているからである
だから施設に入れることを考えている、つまり家族に見捨てられた状態になったのであるこれは認知症の介護と似ていた、認知症は脳と心の病になり性格まで歪んでしまったともなるからである
それは明らかに脳が異常化したのである、脳にアミロイドが蓄積されたとかで異常をきたしたのである

発達障害の原因はわからないがこれは50歳頃まで気遣いなことがあるという
これもわからないが変わった人で通っていたのかもしれない、でもその人は計算とか漢字が書けないとかあるが話すことは達者なのである、そこに異常性が感じられないのであるそして話している限りどこが異常なのかわからないのである
ただその人は自分は悪くないし世話になっているとも思っていない、身体障害者なら補助してもらえばそれでありがたいと感謝する、でも精神と脳の障害者はそういうことはないだから助けにくいのである

ただ認知症と似ていても違っている、認知症は病気になるまでは正常なのである
たいがい70以上とかから発症する、80代になり90代になりと増えて来る
でもそれは老化でも病気なのである、違うのは正常な大人として過ごした歳月が長いから大人としての常識がある、なにもかもわからなくなった訳ではないのである
いろいろあっても親切にする人のことがわかり感謝もする、私も介護していてそれがわかっていたのである、世話になっていることを自覚して感謝していたのである
そこが発達障害者とは違っている、母親が50歳まで世話していたのにそれがわからないのである、そのことが一番母親にとっては悲しいとなる、それだけ世話しても何も感じないできないとなるからである

認知症でも何か忘れたり心配すると言い訳をする、馬鹿になったとか思わない、極端に忘れることで笑われたりすると怒ったりする、ただ自分中心になる、自分が悪いとは病気だとも思わない、でも発達障害と違うのは正常な大人としてもそれも優秀だった人も多い
だから極端に脳の認識が低下したことでそれでパニックになる
そして私の家族の場合最後まで自分は優秀だったといって死んだのである
これも悲劇だった、そして認知症は必ず正気になる
どういうわけか死ぬときは必ず正気になる、これも不思議な現象である
何もわからないと思っていてもわかっている、正気になるのである
だから不思議な病気だと思う、正直なぜそうなるのかが理解できない
発達障害の原因が何なのかどうしてそうなるのか理解できない

この場合家族は匙を投げている、施設に入れるとかしている、一回は施設に入ったが出たという、施設にはいたくないと言っている、でも世話しきれないからそうするようになる素直な馬鹿ならいいが悪知恵が働くという、自分の有利なように他者の悪口を言いそれをそのまま受け取る人もいる、私もそうだった、話すことは普通だからである
何か他者を味方にしたいのだが何かと言うと悪口を言うから嫌われる
素直な馬鹿ではなく悪知恵が働く馬鹿というのがいるのも不思議である
それはある意味で悪魔的にもなるのかと思った、馬鹿に悪知恵など働かないだろう
でも確かに発達障害者は悪知恵が働く、自分を味方にしようとして他者の悪口を言っているともなる、これは相当に厄介なものだと思った

認知症の介護で四苦八苦したからある程度は理解できなるが発達障害となるとまた違ったものとなる、これは幼児期からわかるものがなりそこで適切な対応教育でもしていれば
ある程度は治るのかもしれない、ただ50歳にもなったらもう直すことはできないだろうだから家族も見捨てたということはその後は厳しいことになる、施設に入れられ監禁されたようにして暮らす他なくなるからである
つまり家族でも手に負えなくなってそうなるからである

この発達障害でも認知症でも実際はそれが病気とは認められていなかったわからなかった特に発達障害は50歳とかまで気遣いなことがあるというのも不思議である
とういうのは発達障害でも社会生活ができていたということがあるからこれも謎である
それならニートとか引きこもりも発達障害者であり発達障害者は相当数いる
それらが病気でないにしろ社会不適応者となる、その中に歴史に名を残した人もいる、
芸術家でもいる、だから発達障害とは何なのか不可解だとなる
発達障害でもある面で優秀で才能を発揮すればそれは障害でもないとなるからである
社会に適合できない人は普通にいる、自分自身がそうである、社会不適合者であり引きこもりだったともなるからである

ただ私は他者への同情があり相手の苦しみでも理解する、世話されれば感謝もする
それが発達障害者とかにはないのは何なのだろうと思う
認知症は世話されて何も感じないかとなれば違う、感謝の気持ちは大人の経験から持つのである、世話されていることがわかり愛情をもって世話する人があればそのことはわかってい感謝しているのである
それが発達障害者にないとなるとその人はなんなのだろうとなる
だから家族から捨てられることにもなる、その時その人は悲劇になる、その人も施設入ったことがあり知っている、でも家族でも悪口を常に言い、自分は悪くないとして責めている、そうなるともう誰も味方になるものがいなくなるから辛いことになる
ただ福祉ではあくまでもそうして障害者を味方して世話する家族の味方にならないというこれも何なのか良くわからない、家族全体をケアしないと障害者は治療もできないとしているからだ

【親への復讐】が生きるベースにあるので、
何をしていても、どこにいても、【親に迷惑をかける】という行動を優先します。

これの怖いところは、
お子さん本人が親への復讐を意識していない、ということです。
意識していないのに、すべての行動が親への復讐になっているんです。

あるプログラムを絶対に実行する、
人工知能のように、ひたすら親への復讐、または、誰かへの復讐、のために行動します


その発達障害の人は死んだ父親に子供の時殴られたとか必ず責めている、でも50歳までそういうのはどうかと思う、でも復讐心がありそう言っているともなる
俺がこんなふうになったのは親のためだとなる
それは別に正常な人でもそういう人はいる、親を恨んでいる子供は普通にいる
ただそれが執拗であり執念深く病的だともなる
自分は一切悪いと思わないからである、非があると思わないからである

正直発達障害は私を理解していない、ただ認知症は介護していたので理解している
そして同じような症状があるのだと聞いて理解した
認知症でも家族に物が忘れると家族が盗んだとして攻撃してくる
家族か攻撃の対象になる、悪者にされる、世話している弟がそうさせられて不満を延々と言ったことでもわかる、つまり認知症と症状が似ていることがある
いづれにしろやっかいなのが精神障害であり脳の障害なのである
身体障害なら心は通じるが心が通じないから問題なのである
そして障害者を多数殺した人は意思疎通ができないとして殺した、心が通じあえないとして殺した、でもそれは重篤な障害者である、発達障害者は話すことは普通にできる
だから重篤な人とは違う、ただやはり心が通じ合えないということがある
それが大きな問題でありそれで匙を投げてもう世話できないとなったとなる


2022年12月23日

介護は遠くになるとうまくいかない (近くだとやりやすい―現代は広域化分散化でやりにくい)


介護は遠くになるとうまくいかない

(近くだとやりやすい―現代は広域化分散化でやりにくい)

なぜかその人は父親の介護で青森の施設に行かされた、この辺で介護士とかたりなくて人手不足でそうなった、青森には仕事がないので介護などの仕事が多いからそうなった
地方の仕事が今や介護になっているのも多いだろう
でも遠いことでいろいろ不便があったみたいだ
何かたりないものがありその後も仕送りしていた、その人の収入は少ないからその不満を語った、兄弟三人いても一人は障害者だとかなりその人だけにまかせられたためである
介護は何か誰かにまかせられるのが多いみたいだ

兄弟がいても協力するということもない、というのは誰も介護をしたくないからである
でも親の遺産は欲しいとなりもめているのが多い
それで兄弟でも一番親に良くされた人が介護しろとなるのも当然だとなる
私のように一人だとそんなことを考えることもない、一人しかないのだから否応なしに面倒みるほかないのである、それで自分の場合一人孤軍奮闘する他なかったのである
でも他にいないし相談する人もいない、だから一人っ子は育つ時は恵まれていても親の介護では一人だけになり苦しむ
でもまた兄弟がいてもうまくいかない、娘がいると助かるから娘を持てというのもわかる男は介護が向いていないからである

なんでもその人は青森から地元の施設に移るために介護タクシーを頼んで9万とかかかったと言っていた、それもわかる、青森は遠いからである、でも青森の施設にあづけてもあずけたままにはできない、何かと連絡があり金を送っていた
書類のこともありいろいろ書いたりするから離れていてわからないので青森まで行くことがあった、これも大変だと思った、ここに大きな問題があった
いくら施設にあづけて何でもしてもらえるかとなるとそうではない、何かと後で必ず連絡がありそして直接書類を書いたり離れていてはできないことがある
だから青森とか遠くなっていたことが問題だった、福島県内とか宮城県辺りだとめんどうにはならなかったのである
だからどうしても余りにも遠いとなると問題になる

私の兄は静岡に集団就職してその後連絡があったとしても夫婦が離婚して児童相談所から子供についての連絡が児童相談所からあった、離婚したとき中学生だった
でも私の家で一回しか会っていないのである、結婚した妻の実家が近くにあり行き来していた、だから妻の実家に引き取られた、その後はその実家を出て東京に出た
そうして兄が交通事故で死んだ、でも何が起きたのか、何があったのか理解できなかった消息が途絶えたわけでもない、死ぬ前に自分の家にきた、それが最後だった
こうして遠く離れて暮らすと何かあったとき何が起ったのか、事情がくみとれないのである、だから遠くなることは介護とかなると向いていない、介護とはたまに合ってできるものではない、近くにいて毎日のように様子を見るとか介護するとかなるからである
それで隣近所とかが向いている、家の延長のようにしてあるからである
でも今は隣近所も何の仕事をしているのかわからない、疎遠になっている
時代的に孤独死が増えてくるのも身近でつながりが希薄化しているからである

それで意外と原町だと8キロしかないとしても毎日のように往き来していたらめんどうなのである、相馬市でも倍の距離があるからめんどうになる
週に一回娘が相馬市から来ている人がいる、近いようで遠い、車かあったとしても手間なのである、それで遠いと介護は向いていない、隣近所だったらすぐに行けるから楽なのである、そして今は兄弟でも娘でも遠くに仕事をもち女性でも遠くに嫁ぐ人が多い
すると遠いということは介護しにくいのである
介護に関しては今の時代はかえっていろいろそろっていても不利である
近くに住んでいないと役にたたないのである

自分の場合車がないので原町に大きな病院が相馬市にもあるとしても通うようになるとめんどうだった、車がないことは田舎ではこういうとき不便になる
でも介護というとき車があっても近くでないと不便であり手間になる
それで介護する人でも田舎だと車で離れた地域を一軒一軒回るのも手間なのである
何か厳罰避難区域の人が離れて住んでいて仮設で一緒に住んだら女の人は話し相手とか仲間できていつでも話せるから良かったとなっている
何かその時は互いに助け合うとか助けられる関係になっていたのだろう
でも市営住宅とかに住んでいる人達は別に助け合わない、それで隣に住んでいた人が半年くらい死んだのがわからなかったのである,電灯がついていたのでいると思っていたという、近くに兄弟も住んでいたがかかわらなかった
田舎でもこういう時代である、その住宅で親密に付き合うとういこともない
江戸時代なら人情長屋とかなっていたが今はそんなことないのである
都会のように無関心になっている、だからこそ田舎でも孤独死はある

その人は本当に8050問題の人だった、親が80歳になり介護する人が50歳になっていたからである、ちょうどそういう年齢になっていたのである
団塊の世代が75才以上になり子供50歳とかなる、母親は72歳で脳梗塞になった
でも軽かったからしゃべれるし歩くこともできたから軽かったなと不思議だった
その息子が一人介護をたくされた、でも朝5時に出て建築工事現場で働きにでている
別に家で介護しているわけではないから苦しいにしてもまだ仕事はできる
でも仕事ができなくり会社を辞めて収入がなくなり困窮している人も多い
金もかかるから働かないと収入がなくなりこまる、でも自宅で介護するとなると会社をやめざるをえなくなるのである
これも大きな問題でありそこで悲劇も起きて来る、原町で認知症の母親を介護している息子が殺した事件がそうだった、オムツとりかえるとき母親が騒いで殺したという
それもわかる、認知症の介護は一番過酷だからである、それは自分自身も経験しているからわかる

とにかく8050問題は深刻である、団塊の世代は数が多いからである、その数の故に負担が増大するからである、そこで悲劇が起きてくるのは目に見えている
家族遺棄社会にもなる、なぜなら自分も経験したように家族だけでめんどうみるのは限界があるからだ、それでもう家族でも捨てた方がいいとなる
息子娘でも今は日本が貧困化して金銭的にも余裕がないからである
そして金だけでも解決しない、人間の手間がかかる、誰かがつききりでめんどうみないといけない、それで会社を辞める人がいる、でもそうなると収入がなくなり追い詰められるとなる、そういうふうに追い詰められる人が膨大に増えて来る
その人はまだ母親が軽い脳梗塞ですんだ、在宅で介護するにしても楽である
でも金には余裕がないから不満を延々と言っていた

私の場合は不満など言う相手もいなかった、でも終わってみれば人間は辛かったことも忘れるものだと思った
でも病院で虐待されたとか何かとひどい目にあったことは忘れられない、でも人間は時間が浄化する、どんな苦しいことでも終わってみれば忘れるものだと思った
すでに姉は死んで十年すぎたし母もすでに死んで5年もすぎた
とにかく時間が過ぎるのは早い、次々に今や知っている人が近くでも死んでゆく
そういう年になった、だから死神に追われる師走かなともなったのである



2022年12月17日

意外と元気で退院した脳卒中の女性 (人間を左右するのは運、めぐり合わせも運?余裕がないと援助もできない)


意外と元気で退院した脳卒中の女性

(人間を左右するのは運、めぐり合わせも運?余裕がないと援助もできない)


昨日退院して今日自分の家に息子の車に乗って来た
あれ意外と元気だと見た、普通にしゃべれる、今日の朝住宅の前で洗濯物を干していた
立ってあんなことできるのかと見た
というのはもう一人の障害者の息子がひどい顔しているから逢わない方がいいと言っていたからである、でも今日見た限りそう見えなかった
ともかく発達障害者の言うことは何かわかりにくいから困る、そのまま信用できないのである
別にひどい顔もしていない、マスクしているにしてもそう見えなかった
それで結構回復すると見た
かなり軽くてすんだのかもしれない、脳卒中というのは人によってかなり違っている
なぜなら脳のどの部分が損傷したかで不具合が生まれるからである
だから人によって違うのである
ある人は脚がだめになったとかある人はしゃべれなくなったとかある人は・・になったとか違っている
その女性は手がきかなくなった、でも今日の朝みたとき立って洗濯物を干していた
あんなことができるのかと見たのである、退院したばかりでそんなことができるのかと見た

でも二カ月入院していた、それは脳卒中では短い方だったのかもしれない
何か軽いとみたのである、しゃべることは普通である、その人はとにかくしゃべる人であり話がうまい人だったからである、そうなるとしゃべることが普通にできることは自分なり生活ができるかもしれないとなる
ただ親しく毎日通っていたやはり病気の老人の所には行かなくなる
何かやはりうまくいかないことがあった、病気になって入院しても連絡もなかったとかなる
その女性は毎日苦しくても行っていたのである、でも何かその娘でも気遣いがなかった
一週間に一回隣の市から来るだけだった
そして他人が入るのを嫌がっていたのである、でも最近は話もして納得していたのであるでもこれからは行かなくなるのかもしれない、すぐ近くなのだけどあの調子では行けるようになるにしても行かなくなるのかもしれない、ちょっと対応がまずかったともなる
いつも娘のことを悪く言っていたからである、こうして介護とかなる人間関係でもめるのである
自分自身でも前の親戚とはいろいろあって切れた、自分が病気であり介護しているのに
事業で失敗したから借金しているから余裕がないからそうなったのである

つくづく余裕がないということは他人のめんどうなとそもそも見れないのである
何か自分自身がその女性のこと特別に親切にしているとかではない
たまたまそうなったのでありもし自分に余裕がなかったそんなことしていないのである
それはたまたま前の猫が死んで餌をやる時、餌を奪いにきていた黒い猫がいた
それを追い出していたが飼っていた猫が死んだのでその黒い猫に餌をやるようになった
でもこの猫は慣れないしかわいいともならないのである
でもなぜか餌をやっているのである
それとにていて人間の運命とは何かこうして出合いでもたまたま事情が生まれてその時々の状態の変化とかでそうなる
知っている女性が結婚したのはその家の両親が死んだためらしい、そして残された息子がいてその人と結婚したからである
好き嫌いはあるにしても何か人間には事情があって親しくなることがある

このめぐり合わせも縁も不思議なのである、もしかしたら神が出合わせているのかともなる、でも婚活とか演出しても意外とうまくいかないこともある
それはめぐりあわせが人工的に演出しているからかもしれない、そもそも人のめぐり合わせも不可解であり不思議なのである
そういうことはみんな身近に見ているだろう、なぜそういう関係になったのかとんうのも不思議だからである、だから人工的に作為的に人を出合わせようとしてもかえってうまくいかないことがある

ただ確かなことは別に自分はその女性に援助したいからしているのでばない
たまたまめぐりわあせでそうなったのと自分に金の余裕が今はあるからだとなる
こういうことで人間は意外と余裕がないと人を助けることなどできないのである
それでけ経済的に余裕がなくなる社会は危険なのである
みんな食べるものがないとか餓えていればもしそこに食べ物があるとき襲うようになる
米騒動などがそうだった、他にも中国では必ず食料不足になり暴動が起きて政権が倒れたからである、つまり人間が余裕がなくなることは内外でも危険なのである
中国でも食料不足になったら他国に侵入して奪いとなるからである

いづれにしろ意外と軽かったのか、脳卒中になった人は多い、それで夫を十年妻が介護していたという人を何人か知っている、それも長いのである、十年とか普通なのである
そのために脳卒中では簡単には死なないことは知っていたのである
そのためにかえって介護が長くなるから参ってしまうのである
その人を今日見た限り軽かったのかとみる、まずしゃべることは正常だということは脳損傷が軽かったのかとなる
ともかく脳卒中ではすぐには死なない、ただ私の姉は認知症になりすぐに脳卒中になり二年くらいで死んだのである、これは認知症があって脳卒中があったからそうなったのか?その辺が理解しにくい、認知症⇒脳卒中 脳卒中⇒認知症とかにもなる
これがどう関係あるのかわかりにくいのである

とにかくあの調子だとかなり回復する、だから意外だった、もっと悪いと見ていたからである、なぜそうなったのかというと発達障害者が仲介者となって伝えたからである
それで誤解したのかとなる、これも問題だった、やはりちょんとした人がいて伝えないと誤解するようになる、発達障碍者であり障害者と付き合うのはめんどうになる
何を言っているのか理解しにくいことがある、でもその障害者も軽いから普通の人と同じように見てしまうのである、でもその人を信用はできないともなる

いづれにしろ介護はこれから8050 問題で深刻になる、その息子もやはり50代だからである
そして氷河期世代とかなり金銭的余裕もないからである、この問題はこれから数が増えるから深刻である
近くで認知症の母親を介護しておむつとりかえるとき騒いで困り殺したという事件があった
これも悲惨だった、認知症は一番介護しにくい、またオムツをとりかえるとなると男性は苦しくなる
男性はもともと介護はしにくいから殺人になっているのは男性なのである
こういう事件はこれから頻繁に起きるかもしれないねなにしろ団塊の世代が数が多いからそうなる
その中には悲惨な状態になる人が多いとなる
私自身書いてきたようにもう死ぬ思いであり地獄だったからである
その時ただ責められるだけだったのである、多少は援助があっても周りにそうした余裕がある人がいなかったとなる
こういうとき相談できる人がいると助かる、でも金銭的なこととか簡単にはできないし相談にのるとして
負担が大きいから関係したくないとなる
そこで重要なのは援助するにしても余裕がないとできないのである

2022年12月11日

遺骨の物語 (人が残すものは何なのかー骨ではない―家族遺棄社会を読む)


遺骨の物語

(人が残すものは何なのかー骨ではない―家族遺棄社会を読む)

●兄の悲惨な人生

人間が残すものは何なのか?
死ねば灰となり骨となる、実際は骨は残らない、灰となり土となる
私の兄の骨は母の実家に埋められた
そのいきさつは兄は中卒で金の卵として集団就職した
私の家には母は後妻になり私を産んだ、兄は連れ子であり私の家には五年しかいなかったでも五年間は幼い時一緒に暮らしていた
だから「あんにゃ」と言っていたのである
でも私の父親は良くしないで母の実家で生活することになった
その時一緒にめい子がいたのだがその人は一緒に生活をしたことがないと言っているのも不可解だった、ただその非情化して育ての親のめんどうも見ず最後に「ひどい娘だわ」と私に言って死んだのである
もともと付き合いもなくなっていたのでその事情はわからない、その母親のことは私の家ではよく思っていなかったからである

でも育ての親なのだから何かあったにしろ病気なのに何の心配もしないというのは理解できなかった、だからこそ五年間一緒に暮らした兄のこともいないとなったのである
何かしら人間が記憶にとどめないという時、その人にとって存在しないものとなる
それは肉親でも起きているのである、親のことはかかわりたくない、知らないとなり
遺骨でも引き取りに来ないとなる、それだけ毒親に苦しめられた人もいる
そういうことが本当に私には理解できないのである
というのは私は特別親に良くされたからである、私は別に無職でも家で引きこもっていても何も責められることがなかったのである、そしてなぜ私が死んでも二人の親のことを思いつづけているのかとなるとやはり60歳まで長く一緒に暮らしていたことにあった
人間はいくら両親でも何でも離れて暮らすと疎遠になり情も喪失してゆくのである
だから子供の時一緒に共に暮らさなければ育てられなければ親とも認識できないのであるそれで犬でも猫でも他の動物でも子供の時に育てられると親だと思ってしまうのである

●お骨をめぐる争いーそれは金をめぐる争いだった

それで普通は子供でも成長して結婚したりすると疎遠になる、愛情でもうすれてゆくのである、去る者は日々に疎しとなるのである、そもそも離れて暮らすと相手の事情すらわからなくなる、その人は離れて全く別な人生を生きるようになるからである
その生活する場所ば違ってくるからである、それで再会したとしてもなかなか話でも通じなくなる、意思疎通ができなくなるのである
だから兄に何が起きたのかわからなくなっていた、でも交通事故で死んだというとき連絡があった、その前に離婚していて何か児童相談所から施設に入ったということでどうするのかということで連絡があった、それも何か事情がのみこめなかったのである
トラック運転手となり小さな会社に入った、その会社では死んだので遺体をひきとった
葬式もそこでしたのである、その後にもめたのである

「お骨はもってゆくな、墓は作ってやる」

こう言われたのである、それも何のことかわからなかった、私は車を持っていないので
自賠とか任意の保証のことがわからなかったのである
どうもその保険金の受け取り人になりたくてそう言ったとなる
実の母が来たので身よりがなくて来たと思っていたのである
それで乞食のようにして来たが私が雇ってやったのだと恩きせがましく言っていたのである、そう言われても私の家では兄に良くしていないから私は嫌で三日位で帰ってきたのである、本当は妻がいてもらえるものだったのである
ところが一週間前とかなのか離婚していたのである、正式に書類を書いて離婚が成立していたのである、でもまだ未成年だから私の母が後見人になった
離婚した原因は借金したとかあり住んでいる団地なのかわからないが追い出されたことにあった
それで母の所へ金をくれと来たことがあったことを思い出した、母は金をやったのである
そして兄の娘は妻の実家にひきとられた、そこには兄がいたからである
それももともと妻の実家とは付き合いがあり交流していたからである、同じ地域でありそうなったのである、私の家では静岡とかなると遠いから何が起きたのかわからなかったのである、人間はとにかくこうして離れてしまうと疎遠になる、そうして突然不幸が起きてもその事情もわからなくなるから困るのである
もし近くに住んでいればそうはならなかったのである、だから人間はいくら親でも兄弟でも離れて暮らすとそれも遠くなると何か事情がわからなくなるのである

そうして兄のお骨は母が背負ってきて母の実家の墓に埋めた、そこで五年間は暮らしたからである、そして墓から今度はお骨を取りだそうとしたら骨がなくなった土になっていたのである、でも実家の墓は長男の人が300万円をめい子にやって「墓を守ってくれ」と言って死んだのである、だから墓参りはしているのである
私は怖くなったので実家の墓参りもしていない、母の実家もまた複雑であり後妻に来た人が継母になりいじめられたのである、そしてその後妻に来た女性も昔の養老院に長く入ったいたのだが眼が見えなくなったり精神的に何かおかしくなった
そして母が様子見に行っていたが死んだ、その骨は約束していた大学病院で解剖されて
骨として自分の家にもたらされたのである
兄の墓は母親の実家から私の家の墓の隣に墓標をたててある、でもその物語を知る人もいない、娘がいたが金でしか関係ないから金が与えた時は来ていたが来なくなった
墓を作ったから10万円やるからと言っても来なかった、あとは一切連絡もない
離れていてもともと疎遠だったからではあるが一応父親だから何か思いがあるのかと見ていたがなかった、ただ親にひどい目にあった被害者という意識しかなかったかとなる
家族遺棄する人はそういう人が多いとなる

●遺骨より人間が残すのは物語(history)だった

一体ここで遺骨のことが問題になった、でも遺骨がそんなに大事なものなのか?
人間は死ぬと結局灰となり土となり何も残らないのではないか?
だからそもそも遺骨にこだわることが理解できないとなる
それで家族遺棄社会では肉親でも親ガチャで育った子供は今遺骨もひきとらないのが多いとなっている、ここに見えるのは遺骨でもそこには依然としてこの世のことがかかわり
必ずしも手厚く供養するとはなっていないのである
そこに人間の欲がうごめき遺骨でも金になるとなればそれを手段にして金をとろうともするのである、この世とはこうして恐ろしい場所である、あらゆることが人間の欲によって翻弄されるのである、カルト教団でも実際は金を収奪するためだとなるのもそうである
ここに人間の欲の恐ろしさがある、要するに骨などどうでもいいとなる
骨をひきとってもそれが金になるわけでもないからである
肉親でもそうなるとき生前に親にひどい目にあっている毒親だったら骨などはいらないとなる、でも遺産があり金が入るとなる引き取ってもいいとかなる
結局地獄の沙汰も金しだいとなっているのである
死ぬまで骨になってもでこの世の欲の対象になっているのである

そもそもお骨などもうそこに何か宿っているわけでもない、海にまくなり土にもなるから維持できない、すると何もなくなるのである、では何が人間に残るのか?
それは個々人の人生なのである、どんな人生を送ったかがその人の一生であり骨をみたってそんなことわからないのである
ふしだらな親だったら子供でもその人を大事にはしない、だからお骨でも取りにこないとなる、もちろん介護などは大変な苦労なのだからしたかくないから捨てるとなる
ただ骨をひきとったからといってそれが苦労になるともならない、でもめんどうだから市役所で処理してくださいとなる
家族遺棄社会となりそういう人達が増えているのである

でも逆に人間は死んでから大切にされることがある、妻が死んでから十年とかすぎても毎日手を合わせて供養している人もいる、他にもそういう人は結構いるのである
家族遺棄社会でもやはり死者を大事にしている人はいる、親を大事にしない人が多くなっているのは確かである、それはやはり時代なのだろう
私は特別二人の親に良くされたから死んでから余計に感謝するようになった
毎日熱いお茶を献げて遺影に向かい話しかけて感謝しているのである
それは特殊な事情があってそうなった、父親が中学の時死んでその後を姉と母が家を守って自分も育ててくれたしその後も60歳までも自由に生かさせてくれた
だから一緒に暮らした時間の長さにもよっていたのである
娘でも結婚して離れてしまうと特に遠くに行ってしまうと疎遠になってゆく、忘れてゆくでも一緒に暮らしているとそこで仲たがいがあったとしても憎んでいたとしてもやはり
愛情が通うようになっていたのである
だから死んでからも忘れられない人、愛される人が家族遺棄社会になってもいる
その親は死んでも実際残された人の中に生き続けるのである
でも毒親となればたちまち嫌なことが思い出したりフラッシュバックになり思いだしたないとなりやがて忘れられるのである

●人間が死んで語るものは何か

いづれにしろ人間は骨になり灰になる、でも実際は人間はみんな消えるわけではない、
残された人の中に生き続けているのである、そういう親とか妻とか夫とかになっている人は幸せだとなる、人間を決めるのは生前の生きざまというか子供でもどういうふうに接したかによる、それは個々に違っているから理解しにくいのである
家族でも十人十色だから理解しにくいのである
ともかく人生の最後に死んでからでもあの人はどういう人だったとか明確になり語られることになる、そして死んでもその人は骨となり灰となるだけではない、語られまた感謝される死者になればその生は無駄だっとはならない
でも親でも思い出したくないとか普通の人でもあの嫌な人が死んでせいせいしたとかなるそういう人も多いのである、近くにいた医者はみんな生きている時は常に語られていた
でも死んだら誰も語らないのである、その医者にかかった人も死んだからだとはなる
その医者は腕が良かったのだが性格的に冷たい所がありそうなったのかとなる
その一人息子も最近死んだから肉親はないないのである

そしてその住居は廃屋となっている、今年の地震で屋根瓦が壊れたが直していないのである、いい庭があるからもったいなとなる、でもそういう空家は多いからここだけのことではない、ともかく人間の一生は骨とかで語られるわけではない、それは結局灰となり土となるだげである、その人の一生を語るのはどういうふうに生きたかによる
そしてその親の子供でも親を思い出す時不快になるというときその親はもう親でないともなる、むしろ親切にしてくれた他人の方が親しい人ともなる
ただ現代は人間も一般的に薄情になっている、だから家族すら捨てる家族遺棄社会になっている、特に介護となると負担が多いためにそうなっているから必ずしも責めることもできない、親に苦しめられた人はどうしても介護することは無理だからである
つまり介護となると気持がないとできない、必ず気持が現れるからしにくいのである

この人のために何もしたくないとなるからである、だから私自身もそのことを経験した
その人は私のために箱一つも持つの嫌がっていたし入院して手術するときも側にいるのもただ座っているのも嫌がっていた、ただ金が欲しいというだけになっていた
これも自分のカルマだったが親でもそうなる、その人のために何もしたくない
とても介護となったら負担なのだからできない、でもお骨などはたいして迷惑もかけないのだから供養はできるとはなる、でもそれすら嫌がるとなる
それもその人の接し方とか生き様とかにかかわっているのである
そのために人間は骨とかがその人を語ることはないし骨などどうでもいいとも見る
それよりどういうふうに生きたとかどういうふうに接したとかが大事になる
だから親子ですらその接し方によって育て方によって他人以下にもなるのである

●事実は小説より奇なりー統計的数字化されるとhistoryは消失する

ともかく人間の一生は本当にそれぞれに事実は小説より奇なりとなる
これは全く架空の話ではない、事実そのものだからである、小説でもないのである
これは小説の題材になるとして事実なのである
つまり歴史はHISTORYでありHI-STORYでありstory(物語)なのである
人間は最後にみんななんでも物語となるのである、個々人の物語となるのである
ただ物語というとき戦争のように3百万に死んだとかあってもそういう歴史の巨大な物語でも何かぴんとこないのである、それだけの人間が死んだら語られるつづけるとしても
何か訴えるものがないのである、もちろん語られることはある、今でも陸軍二等兵だとか必ず軍隊の位を記してある、それは当時にしたら名誉の戦死とかあり誇るものだったからである、それでまた必ず村の神社にも戦争のために祈り出征したのである
 とか記されているからである、でももともと神社は戦争とはみんな関係しているわけではない、だから今になると違和感を覚えるのである、たいがい豊作を祈るものとなっていたからである
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飯館村大倉の神社


 ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である
 ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる
 ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない
 そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ
 人間が被害においてついに自立できず、
 ただ集団であるに過ぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままで あるだろう
 死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである
 人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ
『望郷と海』(石原吉郎)

これはシベリア抑留した人が言っている、その過酷な体験を書いている
つまり人間が統計となり数となったとき個々人の物語は消失する
だから3百万人死んだとか言われてもそれだけの人間が死んでも何か伝えるのかとなると訴えるものがないのである、でも個々人が戦争の体験を語る時は感じることがある
つまり人間は数値化して数化すると生々しい体験でも消失するともなる
例えばカルト教団などでもそうである、そこは一票を得ることしか関心がなく何百万人会員がいたとしてもその個々人のことは語られないし戦争で三百万人死んだと同じである
個々人が消失してただ数だけになるのである、それが非人間的なものとなりナチスと同じようになるのである、現代の危険はあらゆるものが数で処理され数が恐怖となる
でも数を言う割には何かそこに訴えるものがない、だから三百万に死んだからといって
訴えるものがないのである
だからとにかく普通の人でも何も功績もない人でもその個々人を語るとそこに物語をhistyoryを感じるのである、人間が残すのは骨ではない、historyなのである
だから骨がどうのこうのと大事にするのが理解できないとはなる
骨が語るのは単なる成分としてカルシウムだともなるからである



個々人で記録を残すことはインタ−ネットで容易になったが・・・・

今は自伝とかでも家族のことでも別に書いて発表できる、プログなど簡単だからできる
個々の一生を語ることができる、でも今老人になっている人達は80以上とかなるとインタ−ネットなどにうといからほずかしい
ても今や庶民でもいくらでも人生を語ることができるし記録として残すことができる
今でもそうだが自伝で本を出すとかなると百万かかるとかなりできないし書店にも置けなかった
そういうものは売れないからである、そもそも書店でもなくなっている
インタ−ネットなら誰でも何でも書いて発表できるし記録として残る
でも問題はその記録も一瞬にして消えることがあり問題なのである
私がいろいろなことをこんなに気軽に書いて記録しているのは簡単だからである
確かに手間はかかる簡単だからしているのである
普通は家族のことなど書けない、有名な人なら書いて読む人もいるか普通はいない
でも記録として残せば郷土史とかの資料になることは確かである
今なら本でもアマゾンで一冊でも出せるとなっている、それをやろうとしているのだが何かめんどうになりしていない
何か手間だけは省けないのである、それで毎日記事を書くのに時間がとられる
その他家事に時間がとられてできないとなる

2022年12月04日

なぜ脳卒中になる症状として見抜けなかったのか? (大事な医者の選択ーでも名医はめったにいない)


 なぜ脳卒中になる症状として見抜けなかったのか?

 (大事な医者の選択ーでも名医はめったにいない)

 hospitalmmm1.jpg

 これだけ症状がでていれば医者なら脳卒中の兆候として危険信号であり対処していたはずである、遠くでMRI検査して近くでも脳神経科でもした、そこは民間でも機械があった
それでも脳卒中の前兆として判断しなかった
ただ危険性があるからMRIで検査するように指示したのかもしれない
でもこの三つの症状は脳卒中の症状であり明確でもある

判断できなかったのは

●手が麻痺して悪い

●片目が見えにくい

●目まいする

これらの症状を一つのものとして見ないで別々に見てわからなかったのか?
これは総合的に診なければわからないものだった
眼が見えずらいと眼科にも行った、それも仙台市の評判のいい医者にわざわざ行って診てもらっていた、でももしかしたらその医者は眼ばかり診ていたのかもしれない
もし体全体を診ていたら医者なのだから脳卒中の危険があると判断したかもしれない
これは私が思うに

診てもらう医者がだめだった

近くに脳専門家の優秀な医者がいた

その人に診てもらうべきだった

こうなる、南相馬市立病院は脳卒中のための専門病棟を新しく作った
副医院長が優秀であり若い医者も習いに来ているというからである
同級生の人は九死に一生を得て助かった、早く病院に行って血管にカーテルを入れて助かった、それは早く行って助かったのである
今も普通に生活しているのである
ただ脳卒中は多い、特に相馬地域では原因がわからないか多い
またこの辺で放射線の影響が出ているかもしれない、その因果関係はわからない

ここで大事なことは医者を選ばないと命にかかわる

でも名医はめったにいない

医者というのはこうして診てもらう医者によって命まで左右されるから怖いのである
ただなぜ近くに脳卒中専門の病院がありそこで診てもらうように指示されなかったのか?それも良くわからない、わざわざ遠くの病院に行く必要もなかったのである
その時は何の病気かわからないからそうしたとしても何か理解できないのである

大事なことは医者を選ばないと命にかかわる、でもそもそも名医にかかることは田舎ではできないし他でも簡単にできないのである
名医がどこにいるかもわかりにくいからである
だから下手でも近くの医者にかかるほかないのである

そして現代は総合的に診る医者はいない、みんな専門に分かれて全体の体を診る人はいないのである、それはあらゆる分野でそうである
福島原発の所長だった人も肝心の復水器とか他のことでもわからないと言っていた
専門が違うからわからないと言っていた、現代は総合的に見ことができない社会である
どこの社長でも会社のことを全部知る人はいないのである
それだけ複雑化した社会で思わぬ事故となる、全体を観て指示できる人などいないからである

でも今回のことはいくら専門化しているからといっても明らかに脳卒中の症状がでていたのに治療もしなかった、それが理解できないのである
その女性が脳卒中になった原因の一つが煙草にあった、ストレスがあり常に煙草を吸っていたのである、煙草は癌とは関係ないということは聴いていた
でもそれは明らかに血管にいいものではなかったのである
ここでも癌になるこの原因が煙草ではないということは聴いて知っていた
でも血管に悪いということは聴いていなかった、調べてもいなかった
こうして様々な原因があってもそれをみんな知り得る人はいないのである
突然認知症の症状が出たり脳卒中になるから戸惑うのである
津浪でもそうだが突然起きることに人間は弱いのである
だから日ごろから病気でもある程度は知っている必要がある、それは専門的でなくても
知ることができる、脳卒中でも事前にその症状を知って入れば対処方法があったとなる
いい医者とは見立てに優れている人だという、病名がわかれば対処方法がわかるからそうなる、脳卒中だと見抜けば対処方法がわかり治療でもできるとなるからである

 もう一つの問題は医者自体が高齢化していることである、近くでは90歳まで現役であった
でも日進月歩している医療の分野でも老人の医者は経験はあるのだが新しい技術とか取り入れられないのである
それはIT関係でもそうである、自転車屋でも若い人が経営している自転車屋に行けというときそうである
新しい技術を取り入れていないし分らなくなっているからである
確かに経験があるのだからいい面としてあっても技術的なものは進歩が速いからである
老人はそれに追いつけないのである,スマホでもそうである、これもパソコンとにていても違っているから使いにくいとなる
正直田舎では新しい自転車を買うにも買えないことがわかった
というのは外国製も多いしアフターサービスができないからである
エンジンごと取り替えたこともあったからである、通販だとそこが大きな問題になっているのである
まず田舎でもあらゆる所で老人しかいないともなる、農業でも65歳以上がほいとんどだとかなり自転車屋にしてもそうである
あらゆる場所で高齢化しているのである、そして若い人がいたとしても嫁になる若い女性がいないとなっている
だから若い人は貴重になるとか子供みるとここにいたのかとめずらしくもなり大事にされるとなる

いづれにしろ人間は変化である、無常である、その女性は親しくしている糖尿病の治療をししている男性の呼ばれて毎日行っていたのである
それは歩いても行ける近い場所だったから行けたのである
でも苦しいといつも言っていた、それは体が脳卒中になるのだからそうなっていたのである
そうして今や近くでも行けなくなった、もう歩くことができるのかトイレには自力で行っている、でもその親しい男性の家まで行けないようになったとするとこれも信じられない今まで近くで会っていたのに会えないとなったのである
これもそんなことがあるのかとなる、すぐ近くでありそれでも会えない、またどっちも病気なのだから見舞いもできないとなったのである
こういうことは高齢化社会で普通に起きて来る、そして介護とかなると本当は近くがいいのである、その女性は親しい男性のすぐ近くでありだからこそ行けたのである
でも隣の市かなると相馬市となると結構遠くなる、娘が一週間に一回は来ているが意外と車でも頻繁に来ることはむずかしいのである

介護の手助けとかは近くの人が向いているのである
でも今の社会は隣近所でも疎遠になっている、誰が何をしているかもわかりにくい
家族でも核家族になったり家族の力が弱体化している
それで介護の時に孤立しやすく介護の悲劇が起きて来る
家族だけでも看れないからである、施設に入るにも金がないとかなりできない人もいる
そして8050問題が深刻になってゆく、それがすでにもう現れている
50歳の人が80歳の人を介護することになる、また老々介護にもなる
そして共倒れにもなる悲劇が起きて来る
たとえ夫婦でも必ず一方が介護状態になるし死んでゆくから安心できないのである


なぜ脳卒中になる症状として見抜けなかったのか? (大事な医者の選択ーでも名医はめったにいない)


 なぜ脳卒中になる症状として見抜けなかったのか?

 (大事な医者の選択ーでも名医はめったにいない)

 hospitalmmm1.jpg

 これだけ症状がでていれば医者なら脳卒中の兆候として危険信号であり対処していたはずである、遠くでMRI検査して近くでも脳神経科でもした、そこは民間でも機械があった
それでも脳卒中の前兆として判断しなかった
ただ危険性があるからMRIで検査するように指示したのかもしれない
でもこの三つの症状は脳卒中の症状であり明確でもある

判断できなかったのは

●手が麻痺して悪い

●片目が見えにくい

●目まいする

これらの症状を一つのものとして見ないで別々に見てわからなかったのか?
これは総合的に診なければわからないものだった
眼が見えずらいと眼科にも行った、それも仙台市の評判のいい医者にわざわざ行って診てもらっていた、でももしかしたらその医者は眼ばかり診ていたのかもしれない
もし体全体を診ていたら医者なのだから脳卒中の危険があると判断したかもしれない
これは私が思うに

診てもらう医者がだめだった

近くに脳専門家の優秀な医者がいた

その人に診てもらうべきだった

こうなる、南相馬市立病院は脳卒中のための専門病棟を新しく作った
副医院長が優秀であり若い医者も習いに来ているというからである
同級生の人は九死に一生を得て助かった、早く病院に行って血管にカーテルを入れて助かった、それは早く行って助かったのである
今も普通に生活しているのである
ただ脳卒中は多い、特に相馬地域では原因がわからないか多い
またこの辺で放射線の影響が出ているかもしれない、その因果関係はわからない

ここで大事なことは医者を選ばないと命にかかわる

でも名医はめったにいない

医者というのはこうして診てもらう医者によって命まで左右されるから怖いのである
ただなぜ近くに脳卒中専門の病院がありそこで診てもらうように指示されなかったのか?それも良くわからない、わざわざ遠くの病院に行く必要もなかったのである
その時は何の病気かわからないからそうしたとしても何か理解できないのである

大事なことは医者を選ばないと命にかかわる、でもそもそも名医にかかることは田舎ではできないし他でも簡単にできないのである
名医がどこにいるかもわかりにくいからである
だから下手でも近くの医者にかかるほかないのである

そして現代は総合的に診る医者はいない、みんな専門に分かれて全体の体を診る人はいないのである、それはあらゆる分野でそうである
福島原発の所長だった人も肝心の復水器とか他のことでもわからないと言っていた
専門が違うからわからないと言っていた、現代は総合的に見ことができない社会である
どこの社長でも会社のことを全部知る人はいないのである
それだけ複雑化した社会で思わぬ事故となる、全体を観て指示できる人などいないからである

でも今回のことはいくら専門化しているからといっても明らかに脳卒中の症状がでていたのに治療もしなかった、それが理解できないのである
その女性が脳卒中になった原因の一つが煙草にあった、ストレスがあり常に煙草を吸っていたのである、煙草は癌とは関係ないということは聴いていた
でもそれは明らかに血管にいいものではなかったのである
ここでも癌になるこの原因が煙草ではないということは聴いて知っていた
でも血管に悪いということは聴いていなかった、調べてもいなかった
こうして様々な原因があってもそれをみんな知り得る人はいないのである
突然認知症の症状が出たり脳卒中になるから戸惑うのである
津浪でもそうだが突然起きることに人間は弱いのである
だから日ごろから病気でもある程度は知っている必要がある、それは専門的でなくても
知ることができる、脳卒中でも事前にその症状を知って入れば対処方法があったとなる
いい医者とは見立てに優れている人だという、病名がわかれば対処方法がわかるからそうなる、脳卒中だと見抜けば対処方法がわかり治療でもできるとなるからである

 もう一つの問題は医者自体が高齢化していることである、近くでは90歳まで現役であった
でも日進月歩している医療の分野でも老人の医者は経験はあるのだが新しい技術とか取り入れられないのである
それはIT関係でもそうである、自転車屋でも若い人が経営している自転車屋に行けというときそうである
新しい技術を取り入れていないし分らなくなっているからである
確かに経験があるのだからいい面としてあっても技術的なものは進歩が速いからである
老人はそれに追いつけないのである,スマホでもそうである、これもパソコンとにていても違っているから使いにくいとなる
正直田舎では新しい自転車を買うにも買えないことがわかった
というのは外国製も多いしアフターサービスができないからである
エンジンごと取り替えたこともあったからである、通販だとそこが大きな問題になっているのである
まず田舎でもあらゆる所で老人しかいないともなる、農業でも65歳以上がほいとんどだとかなり自転車屋にしてもそうである
あらゆる場所で高齢化しているのである、そして若い人がいたとしても嫁になる若い女性がいないとなっている
だから若い人は貴重になるとか子供みるとここにいたのかとめずらしくもなり大事にされるとなる

いづれにしろ人間は変化である、無常である、その女性は親しくしている糖尿病の治療をししている男性の呼ばれて毎日行っていたのである
それは歩いても行ける近い場所だったから行けたのである
でも苦しいといつも言っていた、それは体が脳卒中になるのだからそうなっていたのである
そうして今や近くでも行けなくなった、もう歩くことができるのかトイレには自力で行っている、でもその親しい男性の家まで行けないようになったとするとこれも信じられない今まで近くで会っていたのに会えないとなったのである
これもそんなことがあるのかとなる、すぐ近くでありそれでも会えない、またどっちも病気なのだから見舞いもできないとなったのである
こういうことは高齢化社会で普通に起きて来る、そして介護とかなると本当は近くがいいのである、その女性は親しい男性のすぐ近くでありだからこそ行けたのである
でも隣の市かなると相馬市となると結構遠くなる、娘が一週間に一回は来ているが意外と車でも頻繁に来ることはむずかしいのである

介護の手助けとかは近くの人が向いているのである
でも今の社会は隣近所でも疎遠になっている、誰が何をしているかもわかりにくい
家族でも核家族になったり家族の力が弱体化している
それで介護の時に孤立しやすく介護の悲劇が起きて来る
家族だけでも看れないからである、施設に入るにも金がないとかなりできない人もいる
そして8050問題が深刻になってゆく、それがすでにもう現れている
50歳の人が80歳の人を介護することになる、また老々介護にもなる
そして共倒れにもなる悲劇が起きて来る
たとえ夫婦でも必ず一方が介護状態になるし死んでゆくから安心できないのである


2022年10月31日

専門家でなくても病気でも知識を持つことは可能 (オンライン診療は普及させるべき―田舎では特に必要)


専門家でなくても病気でも知識を持つことは可能

(オンライン診療は普及させるべき―田舎では特に必要)



公立・公的病院の経営は厳しく、そのうちの約60%が赤字です。ここでいう公立病院とは自治体が母体となる病院であり、公的病院とは公的機関(例えば、日本赤十字社)が母体となる病院です。

現状では、高度急性期と急性期病床が約70%と過剰です。今後、住民の高齢化に伴って必要数が増える回復期、慢性期病床への転換が遅れています。高齢者が望んでいるリハビリテーション向けの病床は、約20.4万床不足しています。これは、高度急性期、急性期のほうが診療報酬が高く、公立・公的病院の経営上の問題もあるからで、それが回復期、慢性期への転換を難しくしています。

公立・公的病院の問題点は、財政難(資金的困難)と医師不足(人的困難)です。この2つが相まって公立・公的病院では次のような負の連鎖が生じています。

オンライン診療

国の規制改革推進会議がまとめた報告書では、オンライン診療の普及・拡大に向けて、対面より低い診療報酬の見直しや、診療上の優位性を厚生労働省の指針に明記するように求めました。

一方で日本医師会は、顔色や匂いを含め、対面診療でなければ得られない情報があると主張するなど、オンライン診療の拡大に慎重で、医療のオンライン化を巡る応酬が続いています。

日本医師会は、オンラインでは十分な診療が行えず、正しい判断ができないと主張していますが、米国や中国ではすでに実現しています。特に中国では、携帯電話やスマートフォンで医師に24時間アクセスでき、緊急事態なら専門家を紹介するという優れた仕組みが機能しています。これは、忙しい人や遠方から通院している人に有用です




なぜ脳卒中の前兆がでていたのに医者で見抜けなかったのか、わからなかったのか?
このことで医療のことを考えた
その原因はわからないにしろ片方の手がしびれるとか物を持てないとかの症状がでていたそれから片方の目が悪いと仙台市の眼科にも行った、めまいがするとも言っていた
実際私の家の前で自転車で転んだ、いつも疲れるとも言っていた
これらは明らかに脳卒中の症状が出ていたのである
それで遠くの病院にも行きMRIの写真もとったし原町でも撮った
でも脳卒中と判断できなかった

これで疑問に思ったのは素人でもインタ−ネットでちょっと調べたか脳梗塞の症状として7つあるとして5つくらいがあてはまっていた
だから総合的に見ていれば医者だったら専門家だったら気づくはずだと見た
でもMRIで写真をとれということは脳梗塞かもしれないとしてそうしたのかもしれない
でも全体的に症状をみれば脳梗塞の前兆だということがわかったはずである

ともかく医者とか病院にもいろいろ問題がある
糖尿病の人は半年くらい入院していて病状が悪くなった、栄養がかえってたりなくなって悪くなったとかある、そしてその人は病院には二度と入院したくないと言っていた
そして家に帰って療養していたらかえって回復したのである
その原因は多分に精神的なものもある、やはり家には何か精神的に安定して心安らぎそれが体にも影響するとなるからだ

だから老人は総合的にみ総合診療が必要だというのもわかる
在宅で死にたいという気持ちもわかる、家はやはり体だけではない心にも影響する安らぐ効果があるからである、病院ではただ病人となっているが家にいれば違っている
その人は特に若い時苦労して家を建てて庭も立派な庭を造ったのである、それも20代だったから驚く、高度成長時代でそれだけ収入があったからだとなる
そういう家にいればやはり自分の存在価値が家とともにある
また家には例え家族が祖父母でも両親でも死んでも遺影を飾り家になお生き続けて支えているという感覚になる、病院はただ病人となっているだけであり死んでも物のの用地始末する感覚になるから嫌なのである、病院とは無機質な空間なのである
愛もなく何か心が通わない空間である、もちろん医者でも看護師でも懸命に尽くしているでもどうしても家族のようにはいかないのである

そして田舎の問題は医者自体が優秀とはいかない、また田舎だととにかく閉鎖的なのである、常に田舎であることは医者だったら他の医者に行くことをすごく嫌うのである
それで私が家族が倒れて頼んだらあなたは日ごろ来ていないから助けないとあからさまに言われた、そういうことは他でもある
自転車の修理でも隣の市の自転車屋だと受け付けないのである、つまりいつも来ている客でないと受け付けないのである
それも自分の利益にならないなら親切にしてもしょうがいなとなるから当然だともなる
緊急の場合でもそうだった、そこに田舎の問題があった
まず医者をそもそも選べない、医者が少ないからである、特に優秀な医者を選べないのである

こうなるとオンライン診療がある程度役に立つかもしれない、youtubeの医者の説明を聞いているとわかりやすいからである、そしてyoutubeだと優秀な医者が説明している場合がある、なぜなら全国放送だからである、全国の中で優秀な医者が説明しているかもしれないからだ、教育でもyoutubeだと一流の人が講義しているとなるからだ
オンラインになると狭い範囲ではない全国的規模になるからそこに優秀な人がいて教えるとなる、だからオンライン診療も普及すべきだとなる
ただそれで全面的にはできない、どうしても対面的でないとわからないことがある
でも今回の脳卒中の前兆がみぬけなかったことはその症状を医者がオンラインでも診ればわかったかもしれない、ただその後をどうするかとなるとどうしても地元の病院と医者とかとても連携しなければならない、その辺のむずかしさはある
でも素人でも別に症状を訴えてこれは脳梗塞なのかとでも察知すれだけでも違うとなる

ただオンライン治療となると老人は通信が苦手だから問題がある、ただこれからの人達はみんなスマホを使っているから使いやすくなるからそうなるかもしれない
対面治療は必要でもやはりオンラインでも病気を知り治療する方法が生まれるとなる
どうしても田舎は病気でも医者の数がたりないし優秀な医者がいるとは限らない
だからむずかしい病気はこの辺では仙台市に行っているのである
医者も専門外が診れないとか必ず連携が必要になる
でもお前はいつも私の所に来ていないから診ないとかなっているのは田舎の閉鎖性なのである、ただやはり自転車屋でも自分の収入にならなければ修理もしないというのはしかたないとなる、そもそも自分の利益にならないとしたら自分の生活があるのだからどうにもならないとなる、それが悪いとはならないのである

ともかく田舎ではたりないものが多い、私の町には百円ショプがない、これも困るのである、隣の市までは自転車で行くほかないからである、通販だと百円ショップのような買い物はしにくい、でも通販で助かるものがある
飯館村の辺鄙な所でも通販で配達していたともなる
また本などは古本でも何でも買える、だから知識的には都会と田舎の差はなくなったとなる、まず文系なら本を読むことだから本を読めないとしたら学べないからである
田舎でも今ならインタ−ネットでもyoutubeでも本でもどんなものでも買えるとなれば差がなくなったのである、つまり独学する環境が備わったのである

こういうことで病気に関してもネット化する、オンライン診療することも助かる
それで全部が充たされないが田舎だとこうして閉鎖的なことがありそれで困るのである
でも当人にとっては福祉事業でもないのだから利益をあげなければならないのだから
それが冷たいようでもそうならざるをえない事情があるとはなる
だから田舎ではオンライン診療も普及して利用する方法を知るべきだとなる
ただオンラインでは全部はできない、補助役になるがそれでも役立つとはなる

病気でもちょっとした知識があると素人でも役立つ場合がある
特に認知症の介護では誰も教える人がいなかった、医者すらわからないものだったのである、でも介護するうちにわかることがあった、それはちょっとだけでもインタ−ネットで即座に調べてそれを実行したのである
認知症の人は物忘れで異常な興奮状態になる、その時お茶でも飲ませて落ち着かせろと書いてあった、それを実行して効果があった、だからちょっとしたことでも素人でもしれば役立つことがある、だから医療に関しても専門的なことがわからなくても対処できることがある
専門家の時代であり何もわからない何もできないということはない
だから原発でも専門的にわからないにしても素人でもわかりうることはあった
わかりやすく説明すればわかることはあった、でも専門家は知らせなかったのである
そこはアンタチャブルの世界で素人は立ち入れない何も知らされないものとなっていたのである、そこに危険があった、やはり素人でも専門家でなくてもわかることはある
だから素人でも知ろうとすることが大事だとなる、専門的でなくても知りうることはあるからだ
そういう点ではインタ−ネットは役立つ、医者自身がyoutubeで説明しているからである
これも時代だと思った、閉鎖的な田舎だけではない世界が開ける、それがインタ−ネットのいい点だとはなる

2022年10月30日

なぜ脳卒中の前兆があったのに医者がわからなかったのか? (高齢化社会は健康な人と病気の人の差が大きい)


なぜ脳卒中の前兆があったのに医者がわからなかったのか?

(高齢化社会は健康な人と病気の人の差が大きい)


片手がしきりに麻痺していたので料理するのがむずかしくなっていた
物を持つのがむずかしくなっていた、でも手を手術すると治ると言っていた
眼が悪くなった、仙台の眼科に行った
また脳のMRIを遠くででも近くの原町でも撮った
それでも脳卒中と判断されなかったのはなぜなのか?
何か全体としてその人を見ていないで部分的に見ていたためだろうか?
その人は良く近くの医者には通っていたのである
毎日のように薬も飲んで欠かすことがなかった
肥満体であったが10キロも痩せたのである
ただ問題は煙草を毎日かなり吸っていた、それはストレスが多いからそうなった
この煙草は脳卒中の原因になるとされている
ただ癌との因果関係はわからないしないと最近わかってきた
でも煙草はいいものではない、脳卒中の原因になるからだ
でもなぜこれだけの症状があって脳卒中の前兆なのかをわからなかったのか

一人はすぐ南相馬市で診てもらい血管にカーテルを入れて助かった
早く治療したので助かった、南相馬市には脳卒中センターが最近できていた
そこには優秀な医者がいて若い医者が学びに来ているという
だからもし脳卒中の疑いがあれば南相馬市立病院でみてもらうようにすれば良かったとなる、優秀な脳卒中専門の医者がここにはいたからである
この辺のことはどうなっているのかわからない
何か病気の前兆はある、症状がある、MRIで診ればわかるようなことをyoutubeで医者が放送していた

病気では早めに症状を見て病名を知り治療する

これが必要なのである、でもこれがむずかしいとなる、病気にはいろいろあるからだ
認知症でも症状が出ていた、ただ最初見抜けなかったのである
同じ物を買っていて買物して計算ができないとか近くの店屋の人が気づいていた
ただ明確なものとしてわからなかったのである
自分自身が冷蔵庫にあるものを同じ物を買ってきたりするから正常でもそういうことがある、だから初期には認知症はわかりにくいのである

ともかく病人が多い、高齢化社会ではどうしても病人が多くなる
近くで癌の人がいるし糖尿病の人がいるし脳卒中になった人が三人とか合っている
心臓病の人もいるしそれから必ず前立腺肥大の病気になったり老人特有の病気がある
白内障とか緑内症とか眼が悪い人が必ずいる

50くらいで精神障害の人がいる、その人がどういう精神障害なのかわからない
100×100の計算ができないという、何か負担をかけられない、だからとても親の介護などできないのかとみる
でもその人しか介護する人がいない、すると福祉の方で施設にいれるほかないのかとなるでも症状が軽いらしいから介護度3以上になっているのか、またなかなか施設に入りにくいのが現状である
病気にはいろいろあるから理解しにくいのである
ただ高齢化社会はとにかく病気になる人が多い、だからこの病気の知識をある程度常識的にももっている必要がある

私は家族が認知症になったので認知症には詳しくなった
意外と認知症は医者でもわからないのである、私は介護したから症状がわかるのである
これも精神障害なのだが別に人間でなくなるわけではない
何かこれまで生きた人生がありその人生に誇りをもっていたりプライドがありそのプライドを傷つけられると怒ったりする、つまり馬鹿になった人として扱いなのである
また精神障害の人もいろいろいる、でも人間として付き合いとも言う
これも症状にいろいろあり軽度から重度とあるから理解しにくいのである

私の母はなぜ百才まで細身で体力もないのに生きたのか、それは血管は丈夫だったみたいだ、血管に障害がないと百才近くまで医者が言っていたからである
脳卒中は血管の障害が出る病気だとなる
親戚で白血病になった人もいる、これ血管の病気なのだろう
ともかく病気の種類も多い、だから理解するのもむずかしい、ただ早めに病気を知ることで早期発見で癌でも何でも治療しやすいとはなる、悪化してから治療しにくいとなる

高齢化社会は悪いものではないけど健康であれば百才でもいい、でもみんな何らかの病気になる、これが問題なのである、百才まで健康な人はまれなのである
高齢化社会はいくら金があっても病気になったら何もならない、金で病気は直せないからである,金が必要ではないのではなく根本的に金だけで病気は直せないのである
特に老人の病気は直しにくい、体全体の老化と関係しているからである

とにかく突然人間関係でも変化がある、家族でも変化がある、その原因が病気になることが多い、特に老人はそうである、病気になりやすいからである
夫婦でもどちらかが介護状態になったりするから安心はできない
つまりどんな人でも必ずリスクを持っているのである
そのリスクから逃れようがないのである、病気のリスクは別に金持ちでも持っているから平等だとはなる、いくら金があっても病気になったら確かにいい治療ができるとしても限界がある、体全体が老化したりしたら直しようがないのである
美人でも醜い婆となっている、肌の手入れをしても元にもどらないのである
だから老人になると美人でも不美人もない、みんな婆になってしまうのである
ただ健康であるかないかの差が非常に大きいのである
脳卒中でも半身不随とかなったら悲惨である、車椅子とかにもなり身体障害者ともなり
誰かの助けがないと生きていけなくなるからである

2022年10月22日

高齢化社会の地獄-大事なのは健康 (8050問題は始まっている-頼る人がいない恐怖の経験)


●人間の体もこれまでの行為の積み重ねで健康もあり不健康にもなる

72歳で脳梗塞になったのは辛い、ただ近くで三人くらいその前の年ても脳梗塞になっている、だから70以上になると何らか病気になりやすいのである
知っている人は煙草も吸っていたし健康的にはいいものではなかった
なぜ煙草をやめられないのか、他の人でもやはりストレスがたまりそうなっていたのである、問題はストレスでありそれが解決しないとやめることもできなかったのである
女性でも今は普通に煙草を吸う人はいる、でもそれが老人になって60以上になって
病気となる場合がある、もちろん煙草と癌の関係ははっきりしないがいい影響はないだろう

ともかく人間はそもそも突然何か病気になったり何でも突然には起きない、これまで積み重ねたものが現象になり症状となって現れてくる,カルマを積んでいてそうなっているのである、それは裕福でも楽した人も最後はかえって苦しむとかある
つまり人間はカルマから苦しみから逃れられない存在なのである
それは肉体的にも精神的にもそうである、生まれつきもある、人間は遺伝的に必ず誰でも欠陥をかかえているからだ、それは自分自身でもそうだった、高校の時蓄膿症の手術を二回もしている、それで頭がさえずやっと三流大学に入学できたのである
それも家族に恵まれてできたのである、今でもやはりこ鼻腔が狭く息が十分にできないのである
でも私は30頃に煙草とか酒はやめた、それが意外とそれが影響していてまだ体がそれほど衰えないのかもしれない、たた衰えていることは衰えている
それから私は学校とか会社に適応できな体であり心でもそうだった
だからそういう場所でマイナスであれ働くことがなく自由に生きられたので良かったのである、だからそうさせてくれた親には感謝しているから介護もできたのである
死んでも供養しつづけているからである

すべては生まれつきでは決まらない、体力ある人でも無理するとそれが後年たったて病気になり早死にしたりするからである、スポーツ選手が意外と早く死んだりするのはそのためである、では体力がない人がいいともならない、何か体力がない人は若い時でも冒険がしにくいからである、それで私でも登山はきつくてやめた、疲れ方が尋常ではなかったからである、40前で登山はやめたのである、その後は自転車旅行になったのである
自転車旅行は意外と楽なのである、ただ登山より楽だというだけでそれなり厳しい面はあった、でも疲れたら休めるし食事もとれるから長距離でも行けたのである
だからもしかしたら70以降でも自転車旅行はできないことはないかもしれない
つまり老人でもできるのが自転車なのである

●高齢化社会はマラソンになる、最後まで健康で走りぬいた人が勝利者

ともかく高齢化社会になるとマラソンなのである、70以上とかなると力尽きて脱落してゆく人も増える、病気になったり死んでしまう人もでてくる
つまり百才まで健康に生きる人がまれだというときそれはマラソンなのである
百才まで走り続ける人が本当に百才を生きた人なのである
でもどうしてもそれまで故障したりする、そこで百才を元気で走れる人は極まれだとなってしまうのである
金も必要だしまた百才まで生きればかかる、でも健康でないと悲惨になる
介護でも息子娘にも頼れないとかなっている時代である、それも息子娘も今は生活が厳しいからそうなる、頼りにくいからである

その負担は肉親と家族だけで負いきれないのである、その女性は72歳で脳梗塞になっても頼る人がいない、知的障害者の人を一番世話したが他の兄弟二人とはうまくいっていない、だから脳梗塞になっても知らせるなとか言ったという
また知的障害者の人に頼って頼ることもできないとなる、何か兄弟三人いきても二人は親のめんどうみたくないとなっている
でも誰がめんどうみるのか?父親は施設で死んだから良かった、では母親はこれからをなるのか、知的障害者の息子がめんどうみれるのかとなる
軽度にしても何かやはりわかっていないことがある、まだ母親は世話してくれるめんどうみてくれると思っているのである、その辺の理解がたりないのである
そこで知的障害者なのだとなと思った

普通だったら50歳まで子供の時のように世話していたら親が病気や介護になっても必死で世話する、自ずと強制されなくてもそういう気持ちになっているからだ
それは自分自身のことだった、60歳まで世話してくれた、だから私は自ずと自分が病気になっても必死で世話して介護したのである
悲しいのはそうして親に尽くされた人がそういう感覚を持てないことである
一応親に対して全くなにもしないということではないが何か親がまだ世話してくれると思っているのである
そんなこともう不可能でありそこが認識されていないのである
そこに不幸が悲劇があったともなる、何らか家族でもこうして悲劇がある

●病気や介護になると頼る人が問題、非情な人になると地獄になる

私自身の家族でも悲劇だったのである、家族が認知症でばらばらになったからである
その苦労をプログで書いてきたのである
たから人間は悲劇的に終わること知ったのである、それは私の家族だけではない何か悲劇的に終わるのが人間なのかということを知った
人間は悲しむ存在であり悲劇的存在なのである、地獄を生きるのが定めだと親鸞が言ったのもわかる、この世とはなんらか地獄を生きることなのである
戦争を生きた人もまこにこれこそ地獄を現実に生きたのである、その戦争の地獄は経験しない限り理解できないものだったのである

病気、介護⇒頼る人⇒?


頼った人⇒事業失敗して借金した人または泥棒(自分)

頼った人⇒5才で捨てられた子供⇒親は認知症になり金のみをねらい施設に入れる

頼った人⇒知的障害者の息子(ほかの二人は頼りにくいから)

ここに恐ろしい悲劇があった、頼る人がそういう人だったということである
でも他にいないからそうなったのである、これもその人のカルマだけど恐ろしいと思ったこの世とはこうして恐ろしい場所だと自ら認識した
もちろん介護などしたくない、それはわかる、でもそれだけではないそういう人は簡単なことすらしたくないのである、それが必ず行動となって現れる
だから病人の世話とか介護とかにその心が出やすい、なんでこんなジジババを世話しなければならないのだ、そういう気持ちが持てないからである
兄弟でも親に良くされ人が介護しろというのはそのことである
つまり人間はいくら装っても本心を偽ることはできないのである
必ず行為となって現れるから怖いのである、日ごろは隠されているが相手が弱者化したりする怖くないとなりその本心が現れるのである

知っている人は実の娘は五才まで育てていたが嫁ぎ先を出ては金持の家に後妻に行ったから金はもっていた、でも認知症になっていたのである
その人は全然親とも思っていないのである、ただ金だけ欲しいとなっていて施設にあづけただである
本人は頼る人がなくなってそうなったのである、これも恐ろしいことである
人間は必ず親でも子供に対して強い時がある、絶対服従だとかなる、でも後で必ずまた弱者化する、例え金があったとしても認知症になったら貯金すら下ろせなくなるのだ
これには本当に自分でも驚いた、いくら金を持っていても何にもならない、もう金を自由にできないのである
金を持っていてもそれ自由にできない、法律的に資格を失ったしまったのである
これは体だけではない、何の権利もなくなってしまったのである、そこに認知症の恐ろしさがある
もし信頼する人がいないならその人はどうなるのか?
実の娘でも育ててもいないのだから金だけが目当てになる、そうでなくてもこの世の中金だけが目当てなのがフツウだからである
施設で金持ちを介護してもそこに愛情など持てないからである、むしろこいつは金もっていて働かせられていると思っているからそれが行為となって必ず現れる、人間はどうしても本心を隠すことはできないのである

こうして楽した人でもカルマとなり苦しむことになる
誰もめんどうみる人はいないということである
助けてくれと言っても金をだせ、全財産を出したら助けてやるとかなる
そういうことがやりやすいのである、それが非情な人間社会の現実なのである
つまりこの世は地獄だということである、非情な人間がいるから地獄になる
他人の苦しみでも田舎なら楽しみにもなる、田舎の人間が情あるなど今はないからである人間は地獄を経験するために生まれて来たともなる
それはやはり地獄に生きることで天国を渇望するためなのともなる
ただひたすら念仏でも唱えて来世の極楽に行くことしか希望がなかったともなる
それがこの世の現実だったのである

●人間の本性の怖さ

また老人は老人を頼りにできない、病人が病人を頼りにできない、それだけの力がないからである、知っている人は糖尿病であり最近良くなったとしても85歳であり頼りにならない、老々介護になると介護する力もないとなるからこれも悲劇なのである
でも若い人に息子娘に頼ることもなかなかできない社会になっている
そこで悲劇的な最後になる人がさらに増加する、高齢化社会の地獄絵図がそこに展開する時代となる
おそらく一番世話した知的障害者の息子にその母親は頼っていることである
それが悲劇になる、私が頼ったのも泥棒であり金だけを要求するような人ばかりだった
他でも悲劇的なのが5才まで一緒にいた母親に育てられた娘にしか頼ることができなくなった、その娘は母親となと思っていないからである

本心が現れた世界が地獄!

地獄とは何か、それがダンテの地獄辺のように本心が現れた世界である、人間の悪が非情でもあからさまに隠されることなく現れた世界である
この世ではそうした本心は隠すことができる、でも地獄ではあからさまに現れる
それがまさに地獄なのである
「お前なんか世話したくなかったんだよ、俺は欲しかったのは金だけだよ、金持ちだから金をもらいたいだけだったんだよ、世話する気持など全くなかたんだよ」
こういう本心が行為となって現れ虐待になる
この世ですでになっていることもある、だから病気と介護の問題は金で解決できないのである、どうしても気持が現れるからである

いつも若い世代は老人は死んでくれといっんているときそれが冗談のように思っていてもそれが必ず現実化する、それは老人施設でも病人の世話でも介護でも起きて来るのである人間は力ある者、権力がある者には低姿勢になりごますったりするのが普通である
でも相手が弱者だとなると平気でいじめたりする踏みつけることもする
つまり人間を見る時弱者に対してどういう態度をとるかでわかる
そこに本心が出やすいのである、だから病気と介護の現場ではその本心が現れやすいとなる、やはり気持がないとできないからである
別に他の仕事だったら金をもらって一定の仕事するとか金をで買ったり売ったりする
そこに人間の心はあまり関係していないからである
そこは別に金で割り切ってやっているしそれをとがめる人などいないのである

もしそうして頼る人がまともだったら地獄に仏となる、そんな人はめったにいないとなるからだ、諺もこうして人間の経験の実験の歴史でありそれは今に通用しているのはいくら科学技術がこれほど発達しても人間自体が変わっていないからである
第一キリスト教徒が何十億人いたらこの世が天国になっているはずである
依然として地獄であり変わっていないのである
だからこの世を去ることこそが楽になることである、地獄はまさにこの世にあり別に来世にある訳もないのである、この世でみんな地獄を経験しているからである
地獄に落ちるとか罰当たるとかカルト教団が言っているけどそいつらもみんな地獄人間なのである、地獄に落ちるというけどこの世が地獄であり地獄人間が現実に生きている場所なのである

世の中は地獄の上の花見かな 一茶

一茶はまさに地獄を生きた人だからこの句ができた、救いは地獄にも美があったことである、でも大都会になるとそこに自然の美がなくなる、つまり大都会とは地獄でもあり地獄を作りだしたのは人間なのである

人間の本性とは怖いものである、権力ある者にはへつらう、また金持ちにもへつらう、でも本心はあくまでも違う、権力者に従うのはあくまでも相手が強いからそうなる、でも立場が変われば相手が弱者化すれば逆になる、今度はその強者も虐待することにもなる、あくまでも相手が権力者であり金持ちだから従っているのであり立場が変われば逆転するのである
人間社会とはそういうものだろう、戦国時代の下剋上とはそのことである、要するに人間社会は弱肉強食の世界だったのである
それは歴史をみればわかる、そこに平和などないのである、だからこそキリストは下僕となりなさいと言ったのである
権力を持ち金をもって人間の心は支配できないからである、やはり愛情をもって接して子供でも育てれば違うとなる
親がもしただ力をかるとして子供を支配するだけなら親とも思わないだろう
それが後で復讐されるともなる、夫婦の間でも夫が力があるからは服従させたりしても病気になり弱者化したら虐待されるのである、でも人間は必ず弱者化する、老人になると体も弱り弱者化する、その時が怖いことになる

「おれをこんな地獄におとしこんだのは、へつらいのせいだ、おのれの舌はそれでも飽きもしなかった」ダンテ地獄

へつらうというときみんな権力者には金持ちにはへつらうのである、それはマスコミとかもそうである、巨大な権力団体には逆らえない、だから原発が危険でも知らせない、その権力は政府が指導して電事連でも800億もの宣伝費が出ていたからである
そんな巨大な権力だから安全神話が作られたのであるねそれを暴いたのは津波であり人間ではないのである
とてもそんな巨大な権力に抵抗できないからである、権力が巨大化すると手がつけられなくなるからだ
そういうことはウクライナ戦争のロシアのプーチンなどでもそうである、独裁者の権力が絶大なものとなり誰も逆らえなくなるからである、そういうことで歴史は争いが戦争が絶えないともなる

●高齢化社会はマラソンであり最後まで健康で走りぬいた人が勝利者

ともかく高齢化社会を生き抜くにはマラソンを完走するには健康第一になる
健康失えばたちまち地獄に転落するのである、でも老化することは病気になることでもあり最後は体も弱り誰でも死んでゆくのである
望むことは健康で死ぬことだとなる、それができない、老衰は体が枯れるように死ぬから苦しまず死ぬから理想的だともなる、私の母親は100歳生きたが枯れるように楽に死んだのである、いつでも楽に眠るように死にたいと言っていたのである
その望みだけはかなえられたのである、それは苦労した大正生れの人だったら最後は楽に死んだとなる、でもみんながそうはいかない、苦しみ死んでゆくのが普通だとなる

頼る人がどんな人になるのかそれが問題だった
もちろん頼る人が無く孤独死とかもあり他にもある
実の親子でも子が親のめんどうを見ないことも普通にある
でも病気になり介護になると誰かがめんどうみざるをえない、でも人間はそういう人がいないなら誰にも世話にならず死んだ方がいいとなる
孤独死でも誰もそもそもめんどう見る人がいないのだからそれが悪いともならない
隣の部屋の人が二け月間も死んだのを知らなかったというのもそうである
電気がついていると隣の人は思っていたのである
でも兄弟が近くにいても付き合いがないとなっていたのだから孤独死が全部悪いともならない、そもそもめんをとみる人がいないなら一層死んだ方がいいとなる
後の死体の処理が問題だとしても誰も病気になっても介護する人がいないならそういう死に方の方がいいともなる

高齢化社会はマンションでも老朽化してぼろぼろになるとかそれも60年くらいでなる
そして空家が膨大に増えてゆく荒寥とした風景になる
子供の遊ぶ声も聞こえず老人だけが増えて認知症も膨大に増えてくる、その光景はもう始まっているのである、plan75という映画が公開された、75に成ったら安楽死を選ぶことができるとなる、それは余りにも悲惨なものとなるからそうなる
それは本人だけではない周りの人の負担も大きすぎるからである
国家自体が老人によってつぶされるとまでもなるからである
8050問題はもう始まっているのである、それは金だけでも解決しない問題なのであるもちろん国家の経済的負担も人数が多いのだから重荷となる

ともかく地獄が一定の住処なりという親鸞の言葉が高齢化社会の現実なのである
それは金がないこともあるが健康が喪失する病気になる老化して弱ることが地獄を産むのである、それは極一部除いて避けようがないのである
8050問題は始まっていてすでに地獄を見るようになっている、私の家族でも一人が認知症になりもう一人は百才まで生きたがやはり最後は5年間くらいは介護になったからである、その時自分自身も病気で塗炭の苦しみになった
その時助ける人はいなかった、それもカルマだった、私自身はそのカルマを自覚していた結局それほど自分は親に良くされたことでできたことなのである
他の人はそういうことがないから簡単にできないのである、だから子が親を捨てきる家族遺棄社会にもなる、でも誰かが世話しなければならないことにもなる
だから息子娘が放置することは問題である、代わりに世話する人がいるからである
それか強いられるからである、捨てる訳にもいかないからである

2022年10月17日

介護もカルマになっていた (誰が親の介護するのか?−8050問題はすでに起きている)


介護もカルマになっていた

(誰が親の介護するのか?−8050問題はすでに起きている)

noukousoku222.jpg
【脳梗塞】人生が変わる知識、脳梗塞の初期症状7選+α
https://onl.la/vQMKGtn

札幌母娘餓死事件の中心にあるのは、ほんとうに「8050問題」か
https://www.hikipos.info/entry/2018/04/19/060000


その72歳の女性は脳梗塞で倒れた、その症状は明らかに脳梗塞であることを医者なら気づいたはずである、しきりに一方の手がしびれると言っていた
めまいがしてふらついていた、片目も悪くなって仙台の眼科でもみてもらっていた
これらはすべて脳梗塞の前兆だったのである
それで医者は実際脳梗塞かもしれないとして脳の写真をMRIでみてもらへとして二回もみてもらった、一回は埼玉県なのか遠い場所なのである
二回目は南相馬市原町区の方であった
でもそこで脳梗塞だということが見抜けなかった、だから機械は万能ではない
第一福島県で精巧なMRIの機械は二台しかないとしているしその機械でも診る医者がいなければできないのだと思う、そういう人材はこの辺でいないのかもしれない

ただ南相馬市立病院には脳梗塞の専門病棟がありそこには優秀な医者がいて近くの人が
早い治療でカーテルを脳に入れて助かった、その人は今も別に普通に生活しているのである、だからこうして早く脳梗塞を見つけて治療すれば軽くてすむことがあったのだ
今回はなぜそれができなかったのかわからない
なぜならその女性は医者に頼り医者には良く行っていたからである
そしたら片手がしびれいるとなればそのことで脳梗塞かもしれないとわかったからであるでも脳の写真をとれということは薄々気づいていたのかもしれない
でもその治療はしなかったのかとなる

でも息子と普通にしゃべれているし言語障害はないから軽いものらしい、だからリハビリをすれば回復する、ただ息子三人いるけど一番頼りにしているのが障害者の息子であり
それでも50歳になっている、その人はどこが障害者なのかわからない
話していてもどこが精神障害なのかわからない、まずスマホとかしているし知能は普通なのである、それより昨日知人宅に行って納屋で米をとりだせなくなっていたがその息子は取り出すことができた、ごちゃごちゃしてとりだせなかったのである
その米はその知人宅でもらえるものだったのである
自分もとりだそうとしたができなかった、何か自分は知的作業はしているがこういう体を使うことが不得意なのである、だからその息子のどこが悪いのかわからないのだ

そして母親もその息子を頼りにしている、他の二人の息子には病気のことを言うなとまで言っている、また兄弟は仲が悪いのである、二人は働いているし休む訳にもいかない
すると残されたその障害があるという息子が介護せざるをえない、その息子が介護ができないものではない、金銭的問題があるにしろ軽い症状だったらできる

ではなぜその息子が介護しろとなったのか ?

それはカルマだったと思う、このカルマのことを書いてきたけどやはりカルマはあるのだなとまた再確認した
なぜならとにかくその女性は自分の家に来ていても絶えずその障害者とされる息子のことを心配していたのである、それはおそらく子供の時から50になるまで心配していてその息子にばかり手をかけていた、それは三人の兄弟がいるにしろ他は余りかまわないがその息子は障害があるとして手をかけていて他はなおざりにしていたのかもしれない
だから一人とは合ってもあいさつもしないとかあったが最近仲直りしたようである

なかなか他人の家の事情はわかりにくいが共通していることは介護は必ず兄弟でも一番良くされた人がしろとなる、それがカルマなのである
その障害があるとされる息子はどこが障害者だかわからないし介護はできる
親もその息子をあてにしていて他はあてにしないのである、でもなかなか一人では困っているから相談に来たのである
だからつくづく介護もカルマだということを感じた、誰が介護するのか一番かわいがられた人がやれとなる、兄弟であっても姉妹であってもそうなる
それがカルマなのである

ただなぜ自分がそれにかかわるのかとなるとわからないが他人のカルマを背負うこともある、そのことは良くわからないにしろそういうことはある
人間は誰でもカルマを背負っているからだ、そもそも社会というとき一人では成り立たない、別に血縁とか家族でなくても社会を構成するのは他人だからである
すると誰かが働いてその恩恵をこうむるしまた恩恵を与える関係になっているからである人間のの人は互いに支え合うという字であることでもわかる
互いに支え合わなければ社会は成り立たないからである
つまり家族だけてはない何らか常に人はカルマがある、それは社会に対してもある
そのカルマから逃れらないもないということである

ある人は夫が若い時から病気になり大変な苦労をした、そして今度はその娘が夫で事業の失敗などで苦労している、これもカルマなのかとなる
なんらか人間はカルマを背負っていていつか苦しみとなって現れる
何か世話になったとかでもカルマになる、それを返さないとさらにカルマが重くなったりする、だから因果応報だとかなるのがカルマである
私自身は二人の親に特別良くされたから二人の介護と自分の病気で死ぬほど苦しんだ
誰も助けてくれないとかなった、それもカルマだったのである
人間はカルマから逃れられない、苦しんでカルマを解消するほかない
それでカルト教団に入ってもカルマは解消しないしかえってその集団自体が大きなカルマを背負っているのだからその集団のカルマも受けることになる
つまり集団でもカルマがありそれがいつか表面化して苦しみとなって現れるのである
集団の場合は社会自体がそのカルマを背負うことになるから怖いのである
いづれにしろ人間のカルマを解消できない、だからこそ最終戦争とかハルマゲドンになるとかなる、そうしなければカルマが解消しないからである

いづれにしろ8050問題はすでに始まっている、50くらいの人が70から80の人を親を介護する、その数も多いからいたるところにその問題が生じてきて社会全体に影響する、団塊の世代は数が多いから介護になる人も多いからである
そこで地獄の苦しみを受ける、介護地獄社会で家族崩壊や凄惨な事件も起きて来る
それは社会全体の問題であり家族だけでも解決しない問題だからである

2022年10月15日

脳梗塞の前兆を医者が見抜けなかった (医者の判断が致命的になる怖さ)


脳梗塞の前兆を医者が見抜けなかった

(医者の判断が致命的になる怖さ)

感覚障害は、身体の左右どちらか片側の手などの感覚が鈍くなる、突然しびれる、などの感覚異常です

昨日脳梗塞になって病院に入院した女性がいる
家に来る72歳の女性はしきりに体の不調を訴えていた、しきり手がしびれるとか言っていた、でもその手を手術すれば治ると言われていた、目まいもすると言っていた
そして私の目の前で自転車で転んだりしていたのである
だから手術するとか言っていた、それから目が悪いとか仙台の眼科にも行っていた

脳のMRI検査も遠くと近くで検査した、でも脳梗塞の前兆だということを見抜いた医者はいなかった
というのはその女性は歯医者に行っていた、手がしびれるとか悪いとしてその方面の医者にも行っていた

ではなぜそれだけ医者に行っても脳梗塞の前兆だと見抜けなかったのか?

MRI検査しても機械で見てもわからなかったというより医者がみれなかったとなる
まず機械でも頼りにならない場合がある、なんのために高価な機械で高額な金を払ったのかとなる
私の家族でも認知症になって脳をMRIで見たが何もわからなかった
というよりその機械ではとても認知症などわからなかったのである
成功なMRIは福島県だと二台くらいしかないのである
あとのものはたいした機械ではないとなっていたのである

もしかしたらそれぞれの分野の医者に専門医にみて全体を見る人がいなかったかもしれない、、私の家にきて訴えていたときこの全部を訴えていたのである
だからもし私に医者の素養があったら脳梗塞から来ているかもしれないと注意くらいしたかもしれない、一種の感が働いたかもしれない、でも私は病気に関心がなかったのである
ただ家族が認知症になったとき認知症に異常に関心を持ち調べたのである
それは家族がなったからそうなったのである
それで認知症に詳しくなったのである

でもその女性が家に来ていろいろ訴えてもそれを親身に見ていたとはならない
いつものように愚痴とかのように体の不調を訴えていたのかと軽く考えていたのである
脳梗塞の前兆のような言語障害は全くなかった、とにかくしゃべる人であり話術にたけた人で感心していたのである
もし呂律が回らないようだったら確かに脳梗塞の前兆だったと気づいたロウ
でも医者ならなんらかおかしい脳梗塞の前兆と見たとも思えるがそれがなった

医者は見立てがいい医者が優れた医者だとしている、つまり脳梗塞の前兆なのかもしれないと多少でも疑う医者がいたら対処方法があったのかとなる
いろいろな専門医にみてもらっても全体をみていなかったから脳梗塞の前兆ということをみぬけなかったのかとなる

手が悪いんです、手かきかなくて台所仕事に苦労するんです

めまいがするんです、めまいをしない薬を飲んでいるんてす

体がふらつくんです

眼が悪くて見えにくいんです 仙台の眼科医にみてもいました

・・・・・・・

こうしていろいろ症状が出ていてもこれが脳梗塞になる前兆だとは見えなかった
医者もわからなかった、何かと医者に行く人でも医者がみぬけなかったのである

脳梗塞も多い、一人の同級生は足が悪くして歩くことが苦しくなっていた
ある人はしゃべることに障害が出た、ただ一人は奇跡的に助かった
早く病院に行きカーテルを血管に入れた結果障害もでなかったのである
これも不思議である、治療が良く素早くした結果である
また南相馬市立病院では脳梗塞関係の専門医で優れた医者がいるからだとしている

ともかく老人と病人が増えて困った、その人は金もないから金もだしようがない
福祉関係で出すにしてもその他オムツ代とか何かかにか金がかかる
その夫は離婚したにしても最近死んだ、その次にまた母親の方が72歳で脳梗塞になったのである、その介護となると容易ではないとなる

糖尿病の親しい人の所には毎日のように通っていた、呼ばれていた、でも今度は行けないもともとたいしたことをしないにしてもやはり話し相手になるだけでも良かった
それもできない、その人の役割があったか病気になったら誰かが世話しなければならない息子は知的障害者である、でも普通の人と見分けがつかなかいから母親を支えることはできる、でも限度はある
あと息子二人いるが働いているので金をえられなくなると困るから家で介護もできない
親が介護になって子供が介護の負担を負いきれないという報告が常にある
つまりこれから介護地獄になるのである、その兆候はすでにあちこちで現れている
これは一人の問題ではない、社会全体の問題であり社会自体が老人の病気や介護がのしかかり破綻しかねないのである
それは経済的問題だけではない、介護には人手が欠かせないからだ、でも息子が会社をやめると収入がなくなるとか問題になる
様々な負担があり高齢化社会は全体的には地獄になる

高齢化社会の恐怖は家族崩壊と社会崩壊にまで通じている、その負担が大きくなる
老人が増えるばかりでありその老人はどうしても病気になりやすいからである
なんらか故障が生じてくるからである
その女性は体の動きが本当に悪かったのである、だから体がもともと弱っていたのである知っている大工さんは69歳なのに50代にしかみえない、また75歳で35歳にしか見えない人もyoutubeにいた
だから相当に年齢にも差がありその差が大きいのである、年齢では計れないのである








2022年10月12日

でんでんら野(蓮台野)と高齢化社会の老人 (老人が捨てられる社会)


でんでんら野(蓮台野)と高齢化社会の老人

(老人が捨てられる社会)


60歳を超えるとみんな、この蓮台野に送られる習わしがありました。
送られた人々は、すぐに亡くなることはなく、昼間は里へおりて農作業などをして暮らしをたてていました。
そのため、今でも山口、土淵のあたりでは、朝、田畑に出ることをハカダチ※3、夕方、野良仕事から帰ることをハカアガリと言うそうです。

ハカダチとは墓をたつ、墓から出るという意味なのか?
そして墓あがりとは墓からあがるとした、その辺一体が墓地だったのかとなる
でんでらのとは老人が隔離して住んだ場所なのかとなる
ただそこでは労働が行われてある程度自給していたようである
この辺ではホトケッポとかありそこは村の共同墓地でありそこに村人は埋められた
そこには死んだ人の名前もない、墓もないからである
何かそうした野がありそこは墓にもなっていたとなる

現代の老人を考える時やはりこれも歴史的に見るとどうなっていたのかわかりやすくなるそれが現代でも関係しているからである、老人ホームが実は姥捨て山だというときもそうである、食糧と寝る場所が与えられていても実際は子供からでも捨てられた場所だとしている、だから老人は淋しい思いをしているというのもわかる
ただ昔だと食べるだけで大変だから老人は邪魔だとなり別に暮らさせたとなる
そして何とか老人だけでも生きていくために畑を耕して食料を得ていたということになるでも小屋のような所で共同生活するにても苦労だったとなる
まず病気になったら何もできない、ただ死を待つだけだともなる
でも仲間がいて見守られ死んだとなる、孤独死とは違うとはなる

昔を見る時どうしても社会とか時代が違うから理解できなくなる、一見ひどいと思ってもそれが意外といいという見方もでてくる、確かなことは村という中でずっと仲間として生きてきた、共同して村で生きてきたことで仲間意識がありそういうことが自然とできたとなる、何か息子娘でもひどいとみるが当時の暮らしは過酷なのだから年老いた親を養えないということがあったからである
だから老人たちもそのことを知っていてそういう生活を選んだとなる

でも逆に現代になるとかえって物質的には恵まれていても精神的情的には恵まれないとういことがある
その人は85歳で糖尿病である、その治療費がかなりかかる、そしてそこに毎日通っている女性がいる、その女性は73歳であり前から付き合いがあり世話になった人だからと行っている、ところがその女性は普通の老人より弱っている、病気持ちでもある
だから何か世話するというのではない話し相手くらいしかできないのである
また金もないので余裕がない、それでその人に金をくれといってももらえないのである
というのは娘が隣の市に住んでいて来ることは来るのだが金をあづけてしまったので
金を自由にできず困っている、そして娘は世話することを嫌がっている
その娘は一人娘でかわいがられたのに薄情だということもわかる

ただ家族の事情は複雑でわかりにくいから誤解しやすい、どういう事情でそうなったのかわかりにくいのである
でも外から見たら明らかに薄情だとなる、それで親は来るなと言ったという、金も出してくれないと怒ったという、それもわかる
何かその男性はまだ一人で自分のことをしている、何かきつい介護などしていないのである、そもそもできないとみる、だから施設に入れたいのである
そして老人ホームは実は現代の姥捨て山だとしている
昔とは違っていても内実はそうなっているというのもわかる

私の親戚ともなるが付き合いがなかったので事情がわからなかった
その娘は三人の母親に育てられた、実の親とは五才で別れた、でもその後二人の血のつながらない母親がいて世話した、でもかわいがられたし貧乏にはならなかった
最後の母親とは長く暮らしていた、でもその親が「ひどい娘だわ」と私に言ってきたのである、その後すぐ死んだのである、そのことを何か付き合いがないので理解できなかったでもその娘がひどい娘だということを私の家にきて母を介護してきたとき
「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらへ」といって去って行った
そのことでその女性がいかに非情にな冷酷な人間化を知った
本当にひどい娘だったのである、ただ子供の時、一回くらいしか会っていないからなぜそうなったのかその後の事情がわからないのである

でも私の家にきてそんなことを言うこともないのである
なぜなら何も要求していないしめんどうみてくれと言っていない、そんなことをわざわざ言う必要もないのである
ただその人にはどういう訳か金が入る
五才まで一緒にいた実の母親も認知症になり老人ホームにいても金が欲しくてそうしているだけである、認知症になった母親は頼る人がなく実の子に頼った
でもその子はもう親とも思っていないのである、非情化した人間なのである
ただこういっても他人の家族のことはわかりにくいから誤解になる
最初は親の方が悪いと見ていたからである

いづれにしろ今や子が親を捨てる時代になった、またこれだけ老人が多いと老人を尊敬する人などわずかである、老人はお荷物でしかないから早く死んでくれと若い世代は言うのである、どんなにしてもこれだけ数が多いと負担になるからである
だから今の若い世代は老人を嫌っている
私も病院に入院して看護師に虐待のようなことをされた、看護師でもその女性は老人を嫌っていたのである、相当に老人を嫌っている人が多い、だから病院であれ老人ホームでも老人に親切にするとは限らない、ただ金のために仕方なくしているとなる
それは金持ちの老人ホームでも同じなのである、たしかに待遇はいいにしても金だけしているから本音が現れる、その本根が人間は怖いのである
介護とか病人の世話は気持ちがないとできないのである
だから兄弟でも一番かわいがられた人が親の介護しろとなるのである
どうしても気持がでてくるからである、だから金だけでは介護とか病人の世話はできないのである

ともかく高齢化社会の問題はとても数が多くて老人を敬う社会ではない
それは儒教の親孝行を説く中国でもそうである、一億人が老人になるときテレビでも経済的にもめんどうみれないと親が捨てられるという放送があったらである
高齢化世界的な問題なのである
そしてデンデラの野に老人だけが共同して住んでいたという時、そこは過酷にしても村で共に生活した仲間がいて病気とか直せないにしろ仲間が助け合い看取られた
孤独死ではないのである、そういう社会があってそういう場所がありえたとなる
だからその時代で人間は違っているから現代と比べてもなかなか理解できないのである

ただ老人にも価値がある、でもその価値が村とかではあったにしてもなかなか見いだせない時代である、会社を定年になるとこれまで会社で生きてきたことが活かせないのである社会自体が変わってしまったからである、すると定年になることは社会的死にも通じている、後は社会にとっては必要ない邪魔の扱いにもなる
だから高齢化社会は会社だけに生きることに問題がある、定年とともにその人の人生は終わり社会に必要ない者とされるからだ
でもライフワークを追及してきたものはかえって長寿はいいのである
私は70以上になって今になってこれまで追求して来たものが実りとなって成果となって現れてきた、遅きに過ぎたともなるが長寿社会になればもう70以上が本番ともなる
それまで経験したことや追及してきたことが実りとなる
でも会社人間だったらライフワークがないから定年とともに社会的死の宣告されたとなるでも60歳がらでも30年とかの人生の時間が加わったのである
それをどう過ごすかが問題になる、でもそこまで考えていた人はないだろう
金銭的な面では考えたとしても精神的な面では備えられないのである

ただでんでら野で老人が共同して暮らしたことは参考にはなる
老人同士が助け合い若い世代に迷惑をかけない、負担をかけないということである
そうしないと老人とともに社会自体が衰退して社会自体が成り立たないともなってしまうからである、ヤングケアラ―とかそうである、老人のために人生が犠牲になりかねないとなるとこれは生物的にはありえないことである
親は子孫を残すためにあり子孫を繁栄させるために大漁の卵を産む、何か子孫を第一にしているからである、生物界では動物でも老人は淘汰されて若い世代が生きるのである
猿の社会では年老いた猿がボスになっていも若いボスが挑戦して戦いそのボスの地位を奪うのである、結局どうしても体力的には弱くなるから世代交代が起きて猿の群れを守ることになる

人間の場合は体力とかではなく財産力とか地位とか別なものが力となっている、権力となっているから若い世代と世代交代できないのである
財産にしても親が死ぬのは85以上とかなるとすでに60以上になって財産を譲り受けることができる、そうなると遅いとなる、若いうちに財産でも金でも自由にならないということは何か新しいこともできないのである
また老人は逆に金でも財産でも地位でも放したくない、権力を持ち続けたいのである
なぜなら老人は村社会とかと違って金とか地位とか権力がなくなったら誰も相手にしないということである
だから知っている老人が娘に金をあづけた結果、金を自由にできず困っているということでもわかる、それて娘を恨んだりする、つまり金を息子娘に預けるとそうなるのである
だから権力を手放すことは老人にとっては危険になるのである
それもまた高齢化社会の問題なのである

2022年09月21日

医療費が国を破産させる? (でも簡単に医療費は減らせない矛盾)


医療費が国を破産させる?

(でも簡単に医療費は減らせない矛盾)



内視鏡検査機器やこれを使った治療機器、超音波診断装置、CTスキャン装置、MRI装置、PET装置などが医療で普通に使われるようになっていることに気付かれるでしょう。これらの新しい装置や機器は精密機器で大変に高価なものが少なくないのです。

病床数が多い、在院日数が長い
薬剤価格が高い、薬剤使用量が多い
医療材料価格が高い
検査が多い
受診回数が多い
https://www.ringe.jp/civic/medical/

厚生労働省は11月9日、2019年度の国民医療費の概況を発表した。国民医療費は44兆3895億円と前年度比9946億円(2.3%)増加、人口1人当たりの国民医療費も35万1800円と同8600円(2.5%)増加した

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暴利をむさぼるたとえ。薬の売値は原価よりはるかに高く、
儲けが大きいこと。薬は売値が非常に高く、原価の九倍もするという意から。


俺は十年前から高血圧治療の為に毎月通院しているが7月〜9月までの
暑い期間は血圧が上がらない事に気が付いたから、その間は通院と投薬を
止めても良いか医者に尋ねたら拒否された。俺のような患者は全国に大勢
いると思うが、医者がこう言う了見だから医療費が下がる訳が無い

一旦医者にかかったら患者は何も言えない、医者に従いとなる、それで無駄な治療があるとは言え自分の判断で病気を判断するのも危険なのである
私自身がなかなか病院に行く時間的余裕がなく勝手に判断して死ぬところだった
なぜなら腎不全になるところだった、そしてすぐに入院して一命をとりとめたのである
だから素人判断することは危険である
そこに病気の問題があり簡単に医者に自分の病気で勝手に判断できないのである
ただこの人は自分の病状をみてそう言ったからその判断が間違っているとは言えない
でも素人判断するのは危険なこともある

でも正直ここで言っているように無駄な治療も多すぎるし投薬も多すぎる
結果的にほとんど効かないとか副作用でかえって悪くなったりする
そもそもワクチンの効き目もわからない、ワクチンの金も膨大なものだった
でもこれが本当に効いたのかとなるとそれも科学的にもわかっていないのである
つまり病気にはそもそもこうして効くかどうかわからないものが実際は多いのである
でも素人判断は危険だし医者に命令されれば従う他ないのである

そこで問題になっているのはその金が国を破産させるほどの巨額な金となっていることである、これは国民全体にのしかかる問題であり国家的問題にもなっている

ある女性は目まいしたからと医者に行きMRI検査しろとなりした
でもそのMRI検査は実際は高価なのである、それも保険で負担するから安くなっているが
その検査の効用はあるのかとなるとほとんどない場合もある
認知症になった家族をMRIで見せたがそもそもそれは何の効用もない
認知症のことなどMRIではわからないからだ
ではなぜあえて検査したのかとなると金のためだったとなる
この検査はかなり金になるからである、だからその機械自体高いから医者では実際はわからないのに検査しろとなるのである
それも保険から出るからそうなる、もし十万するとなれば簡単には頼まない
そもそも検査してもわからないものもあるし相当に高いものでないと診れない
そうして脳の検査を本当にできるものは福島県には二台しかないとしている
となると普通の病院ではとても脳を精密に診れないとなる
でも何か検査しろと医者に命令されると断れないのである

ただ自分の場合は検査してすぐに医者に行かねば死ぬところだったのである
だから病気は緊急を要することがあり医者に逆らうことはできないとなる
自己判断では死ぬことがあるからだ、でも今問題なのは余りにも過剰診療が多いことなのである
そこに膨大な金がつぎこまれて国家破産にまでなる、その無駄を簡単に減らすことはできない、医者の権限が大きいからである、また現実に素人判断も危険になるからだ
ただ医が算術となっていることも確かである
外国ではあまり老人には手厚い医療はしないというときそうである
ただ最近は延命治療はしなくなっているという、どこで生きることをあきらめるほかないとなっている、ただその判断もむずかしいのである

この医療の無駄でもなくすことは簡単ではない、それは病気に人間は弱いからである
その弱さに医者がつけこむということもある、それで金を払わせられる
でもそうでない場合もあり何か無駄なのかなど判断できない、人間社会にはとにかく無駄が多すぎるのである、その無駄が膨大なものとなる
人間の無駄といえば軍事費でも無駄だといえばそうなる、兵士などいらないと言えばそうなる、つまり軍人とか警察とか医者とかは本来ない方がいいものなのである
軍人がいなければ戦争もないし警察がいなければ犯罪もないし医者がいなければ病気もないとなる

逆に軍人がいるから戦争が起り警察がいるから犯罪が起り医者がいるから病気もある
そういう逆説成立つ、天国には軍人とか警察とか医者すらいないからである
軍人とか警察とか医者とかは社会で権力を持つ職業である
逆らえない人達でもある、その人達は命令する権力を持っている
ただ軍人は自衛隊だと今は目立たない、むしろ自衛隊とかは表に余りでない、でも一旦戦争なったら主役になるのである、だから戦争の時は軍人が一番威張っていた
今でも墓には軍人の階級が一等兵だったとか記されているのは軍人がその時は価値あるものだったからである、威張ることができるものだったからである
でも今はそういう墓を見て軍人の位を見てその人がい偉いとか見ないのである

高齢化社会の問題は医療費の問題にもなる、その金を負担するのは現役で働いている人とかにもなる、ただ保険でも介護費用でも老人は年金からでも払っているのである
若い人だけが払っているわけでもないのである
でもその額が多すぎるから負担になる、社会が介護とか病気のためにあるのかとまでなる地方の仕事で眼につくのは確かに介護であり病院であり医者だとなる
60以上になると医者通い病院通いになっている人が多いからである
糖尿病は何か医療費の負担が多いことは確かである、金のかかる病気である
近くの人はそのために払う金が多い、それで親しい手伝ってくれる人に金を払えないとなっている、糖尿病は相当にやっかいな病気なのである


2022年09月20日

親の介護でもめる兄弟ーそして一人っ子の介護 (介護は死んで終わりにならない-恨まれて死んでゆくことの怖さ)


親の介護でもめる兄弟ーそして一人っ子の介護

(介護は死んで終わりにならない-恨まれて死んでゆくことの怖さ)


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一人っ子という時点であきらめがつくし、覚悟は決められるし、意見を求められることも求めることもなし、、、兄弟いる人はもうこの際一人っ子と思ってしまえばどうでしょう。いくら言っても何もやらない人はやってくれませんし、、、。介護のヘルプを頼むのも身内よりも他人(介護サービス)に頼む方がずっと気が楽ということが多いです。

脳梗塞で倒れた母。きょうだいが分担して母を支えたいけど、次女は母に兄と姉と比較され「お前はダメだ」といわれ続けてきたため、「私は手伝いたくない!」と介護を断固拒否。

介護から逃げる他の兄弟に親が金を使うからムカツク。

介護から逃げた他の兄弟が、下宿までさせてもらって、大学院まで行かせてもらったから、ムカツク。

介護から逃げた他の兄弟が、家を買うとき、大金をもらっていたから、ムカツク。

人間はとにかく必ずいい面と悪い面がある、一人ッ子は親になんでもしてもらえるからいいとかなるしでも兄弟がいないと人間関係がうまく築けないとか介護でも一人になって困るとかなる、でもここでも兄弟が協力してやることはなかなかない

その原因が

脳梗塞で倒れた母。きょうだいが分担して母を支えたいけど、次女は母に兄と姉と比較され「お前はダメだ」といわれ続けてきたため、「私は手伝いたくない!」と介護を断固拒否。

兄弟でも良くされた人とされない人がいてそれが後々まで尾を引いている
その確執が意外と大きいのである、また遺産分配でも必ず兄弟でもめる
だから一人ッ子も問題だが兄弟がいても人間にはもめごとがある

その人は一人ッ子の娘がいるが親ともめて親にもう来るなと言ったという
糖尿病でその治療にも金がかかる一人で暮らしている、でも今家事でも一人でしている
確かに娘は隣の市にいて一週間に一回くらい来ているようだ
でも金は娘が管理している、それで毎日親しい女性が行っていてその女性も金に困っているので金を工面してやりたいができないという
その娘は一人ッ子でありなんでも与えられたとかかわいがられたという
一人娘だったら余計にそうなっていたかもしれない
でも介護になったら親を嫌がり金を出すのも嫌がっている
そして世話する女性への配慮もないのである

一人っ子だと何でも親に良くされたのだからそうならないはずだがこの場合はそうではない、私の場合は親二人を必死になって介護した、それは特別良くされたからである
それは60才までもそうである、だから必死になって力足らずでも介護した
自分が病気になっても必死になって一人悪戦苦闘したのである
それは特別良くされたことによる、今でも二人の親のことは供養しつづけている
親のことが忘れられないのである
ということは親が死んでも自分の心の中に生き続けているとなる
それは特殊な事情でそうなったのである

介護で90パーセント以上も介護で兄弟でも親子でも仲が悪くなる、それは介護をしたくないからである、それが相当な負担になる、金銭的にもなる
その一人っ子の娘はケチなのである、親のために金を払いたくないのである
だから世話している女性がいたとしてもかえって必要ないともしている
何か財産をとられるのではないかと警戒しているみたいだ
こうなるといくら一人っ子でも親が来るなともなる、これは娘が悪いとなる
でも介護ではなにかしらもめる、その負担が負いたくないからそうなる
だから兄弟でも一人ッ子になった気分で介護しろというのもそうなのかと意外である

ともかく介護時代でもある、だからこれからますます介護でいろいろな問題が起きる
それで事件が起きるのも日常的になる、負担になり自殺者まででる
つまり介護はもう家族だけでは担いないものにもなる
でも逆に今だと核家族化して家族だけでは介護が負担しきれないことにもなっている
それで家族遺棄社会にもなる、親が子供に捨てられるとなる
でも捨てられるにしても誰かがめんどうみなければならないということにもなる
二カ月間も死んだのがわからなかった人がいたがそういう人は死んだ時迷惑をかけても
介護などしてもらわないで死んだから迷惑はかけていないからいいのかとまでなる
そもそも誰も介護してくれる人がいないからである

介護の問題で大きいのは意外と介護は死後まで継続されていることである
死んだら介護の負担は終わる、でも実際終わっていないのである
なぜならその後に供養の問題があり死者と向き合うことになるからだ
それで非情化した娘は育ての親を見捨てた
その人は「ひどい娘だわ」と自分に言い残して死んだ、病気になってすぐに死んだからいい、その娘は介護などできないからである
でもそうして死んだ親を供養できるのか?とてもできないと思う
別に死んだら墓参りとか供養などしなくてもいい、誰もとがめられない、でも何か良心がとがめられるかもしれない、誰も見ていないとしても死者が見ているからまともに墓参りとか供養ができないとなる
ただその娘は三人親が変わった、でもその人には親はいなかったとなる
父親は別として母親はいなかったとなる
ただそういうことはどうなるかというと必ずカルマとなって苦しみとなって現れる
つまり今度はまた子に捨てられるともなる、それはわからないにしてもカルマの法則がありそうなる

なんらか人間は必ずカルマを背負っている、その総決算が60以後に起きる
例えば若い時の不品業とかも若気の至りでもそれが悔いるものとなりカルマとなり苦しみとなって現れる、そしてカルマをもたいない人は一人もいないと思う
別に金持ちの家でも恵まれた家でも何らかカルマを持つのである
つまり恵まれたことがカルマともなるのである
兄弟でもお前は親に一番良くされたのだからお前が親の介護をしろとされるのそうである兄弟でもそうして親に持つ感情は違っているからである

結局人間は必ずいい面と悪い面がでてくる、一人っ子はいいと見られても介護で他より苦しむ、では兄弟がいればいいかなとなるとそれも必ずもめる、だからすべていいとはならない、自分の場合は本当に死ぬほどの苦しみを介護でしたからである
それもそれだけ良くされたから自分はその苦しみを甘受できた、気持として介護することは苦しくてもできたとなる、そういう気持ちがあったからである
でもみんなそんなふうにならないのである、だからもめるのである

でも介護の問題のむずかしいのは介護終わった後も終わらない!

これが意外と深刻なのかもしれない、別にもう介護もふる必要もないし迷惑もかけいなのだからいいじゃないかとなるがそうでもない
死者を供養するということがその後にある、その死者とまともに向き合えるかである
「あなたは私に冷たくしましたね、それを私は覚えていますよ」とかなると供養もできないとなる、良心がとがめられるとなる
死者は必ずしも完全にいなくなったわけでもない、死者は冷徹に生者を見ているのであるだから死者の前には偽ることができないのである
それで介護で苦しんでも早く死んでくれとなるのが普通だが死んでしまうとみんなもっと良くしてやればよかったと反省している
それはなぜなのか?死者とはもう二度と逢えなくなるからである、だから後悔するのである、今度は何かしてやりたくてもできなくなるからである、死んだ人には供物をささげるくらいしかなくるならからである、死者はもう答えないからである
でもは死者というのは依然として生者の中に生き続けている

もちろん全く忘却される人もいる、それは生前のことが関係している
生前死者とどういう関係にあったとか、愛されたのかとそれ以外にも様々な家庭の事情があり死者との関係があり他者からわかりにくい、でも死者は生者の中に生き続ける
もしそうして生きつづけるなら死者は死んでいないのである
でもそうなるかどうかは生前の死者との関係によるのである
死んだからとして急に死者を思ったりしないのである、生前から互いに愛し合うとかあればやはり死者は生者の中に生き続けるのである
ただそれぞれの家族は複雑であり他者からわかりにくいのである
それで簡単に家族のことを批判はできないとはなる


威厳ある死者

死者は石のように硬い
雨風に打たれて死者は耐えた
死者は苦しくも生き抜いた
死者は堅く口を閉ざす
その前に生者は偽ることができない
死者は冷徹に生者を見つめている
生者は常に卑しめられる
しかし死者は今威厳あるもの
それは宝石のように硬い
その前に偽ることはできない
死者は生者に金を求めない
何も求めない
死者はもう餓えることはない
ただ真の心を求めている
死者と向き合うことは
自らを正さねばできない
死者に偽ることはできない
その前に人は厳粛であらばならない
死者はすべて消えるにはあらじ
依然としてその生を継続している

2022年09月06日

年金が月5万未満が四人に1人 (生活保護も平均7万とかもう国では支給できず捨てられる老人)


年金が月5万未満が四人に1人

(生活保護も平均7万とかもう国では支給できず捨てられる老人)

年金受給額、4人に1人は月5万円未満の衝撃。「自助努力」で生きていけない高齢者を見殺しにする社会がやってくる=鈴木傾城

これは相当に深刻である、現実に国民年金が4,5万の人が結構いる
それで生活保護になって援助されるのは医療費であるがこれも2,3割事故負担なのである、生活費は5000円くらいしかもらえない、なぜそうなっているのか?
一応年金が4,5万もらっているからもらえないのである
ただ生活補助として医療費が援助されているだけなのである
これは自治体の財政状態によって違うにしろこれからの老人は年金では生活できない
だから70以上でも働いている人は結構いるとなる、働かざるをえないともなっている
元気な人はいいが体が弱くなった人は働けない、どこかしら体が痛んでいるからである
そして貯金もまたない人が多い、確かに四分の一は年金が4,5万であり毎日の食糧に事欠いている、食べることもできないのである
それで援助してくれとなる、でも国ではもう援助できないのである
国自体の財政が苦しいから援助できないのである

だからそういう人はどうなるののか?

息子娘に頼るにも頼れない、生活が苦しいかである、その女性は74才で娘と孫と一緒に暮らしているが生活が苦しいからと草むしりとかの仕事を大工さんの補助としてしている仕事としては毎日ではない、その人は草花にプロのように詳しい
だから庭作りと庭の草むしりとかに向いている、もともと農家で仕事した人は野菜作りでもしているから花にも詳しいのである、花も肥料とかかが関係してくるからである
ある人はスーパーで三時間働いているとかいるし藤倉ゴムのゴルフ用品を作る工場で三日とか働いている人もいる、まず60代になっても70代になっても働かざるえなくなっているのだ、でも体が弱って働けない人もいる

だからもうそういう人は誰にも頼る人がいず見捨てられるともなる、国でもめんどうみきれない、それだけの国には財力もなくなったし日本の経済が相当に落ち込んでいるからそうなった、私の母親は60になり三万の年金を国から無料でもらっていた
5年待つと5万もらいたとか悔しがっていた、それは全く積み立てていなくてももらったのである、その時に国には余裕があったからできたのである
今はもうできない、するとそういう人達はどうなるのか、年金5万で暮らしている人のことを語っていたがとても無理である、なぜなら電気ガス水道携帯料金でたちまちなくなってしまうからだ

その人は果物は高くて買えないとか10円でも20円でも安いものを探して買っている
味噌とか醤油でも高いと感じるのは相当に苦しいとなる
ただ果物は日本では特別高いというのはわかる、外国で半分以下とか安いのである
日本の果物は理由があって外国より相当に高いのである
私はオレンジを買っていたがやめてジュースにした、果物は本当に高いと思う
バナナくらいが安いのである、ただリンゴは健康のために食べているがこれも高い
私は食費を一か月六万かかっている、それを一万とかにしている人も多い
それは考えられないのである、まず果物などは買わないだろう、外食もしないとなる
食費は最低でも3万くらいかかるだろう、そうでないとまともな栄養がとれないだろう
だから医者に栄養をとれと言われてもその人できないのである

つくづく感じたのは老後は年金がいかに大事なものかを知った、なぜなら年金は死ぬまでもらえるし保証される、貯金はあってもある時ゼロになるかもしれない、預金封鎖も騒がれたりするからである、でも年金はもらいのである、そうなると安心だとなる
本当にこうしてもう誰からも援助がなく生活できなくなる老人が増えて捨てられる時代になる、生活保護に頼れといってもできない、7万が平均だとしてあげてくれと騒いでも国では支給できないのである、その人達は子供にも頼れないのである

何かそういう人とと付き合っていると援助する方でもぜいたくができなくなる
毎日そういうことを聞かされると果物を食べているのも悪い感じになる
なんでお前は贅沢できるのかともなるからだ
だから貧乏人と金持ちは付き合わないともなる、贅沢ができくなるからである
生活レベルさえ落とさなければなくなるからである、そしてそういう金持ちも常に今度は金をねらわれるし財産でもねらわれるから危険になる
それは極端な格差社会では外国では金持ちは鉄条網で囲い私兵までやとって守らなければなくなる、そして国は分断されて衰退するのである

日本は今衰退国家になっている、だから国で老人をめんどうみることはむずかてくなっている、でもこれだけ老人が多いのだから医療費の負担も増大してゆく、でもそれすらできなくなる、そして弱った老人は死んでくれともなる
団塊の世代は高度成長時代は労働力として必要だったが老人になれば必要ないとなる
特に弱者は金がないとか体が弱ったら必要ないともなる
それは余りにも数が多すぎるからそうなったのである、無慈悲だとかではない、数が多すぎてめんどうみきれなくなったのである
でも人間はどうしても老人になっても生きたいとなる、その人何か生活が苦しいから死にたいとか言っていたが最近生きたいと言っている、やはり死にたいという人は自殺しないというのは本当だろう、人間はどうしても生きれる限り生きたいとなるのが人情である
社会がどうあれそうなるのが生物の本能だからどうしようもないということである
ただ長寿が悪いことではない、自己実現するにはいい社会である

長い時間がありそれで自分のしたいこと才能をはぐくむことがてきるからである
まず学問であれ芸術であれこれは究めるには長い時間が必要なのである
それでこれまでは「少年老い易く学成り難し」となっていたのである
あっというまに白髪となり人間は老いて死んでいたからである
そういう点で自己の才能開発とか自己実現には高齢化は悪いことではない
ただ高齢化社会とはあまりにも数が多すぎることなのである、それが全体的に社会の負担になっているのである、デジタル化できないというときもそうである

不思議に近くのスーパーで支払いを機械で自動化したけど依然としてレジに並んでいる人が多いなとみる、若い人でも多いのである、覚えれば簡単だけどしていないのである
この理由もわからないけどやはりめんどうでしないのか?
ともかく老人は新しいことをしにくいのである、だからこれだけ老人が多いということは社会が停滞するということになる
親の遺産を受け継ぐにしても60代でありそうなると新しいことをするにもできなかったとなる、そういうことは会社とかあらゆる分野で起きている
老人が権力を持っていて若い世代が経験できず成長できないのである
もちろん若いということはすべていいことではない、どうしても経験が欠けるからである識見にしても老人の方が上である、でも全体的に見れば老人がこれだけ多いということは停滞するということである

確かに未だにハンコを使っているのは日本くらいになるのか、日本は最先端の国だと見ていたが今になるともはや先進国ではない
いち早く西欧化したけど今や技術しにても中国でも韓国にもぬかれている、なぜ高度成長があったというと実は日本の実力ではなく幸運だったのかとなる、その技術にしても日本人は凄いとなっていたが実際はもともと物まねであり日本人の独創でなったものではなかったとなる、日本人独自の発明ではなかったとなる
物真似ということはやがて他の国も真似て作れるものだったとなる

でから家電製品は中国でも韓国でも安く同じ物を作れて売れなくなったのである
日本は何か新しいもの作るには不向きであり物まね国家だったとなる
それが高度成長があり日本は凄いとなりそれが実際は物まねに優れていただけだとなったのである
ただ日本の良さはインパウンドの観光だけだとかなる、日本には他にない自然の美があり日本文化が売りとなる
その他資源もないので魅力がないとなる、それでも日本の文化があるから観光が売りともなる
だから日本語を捨てて英語にするというのはありえない、そうしたら日本文化そのものの消失であり日本はあらそるものが外国と同じになり観光さえ魅力がないともるかもしれないからだ
言葉が文化の基本だとするときそれがなくなったらあらゆるものが日本がから失われ日本は日本ではなくなる
もちろん英語は必要だとしても日本語を捨てろというのは暴論になる
これが経済がこれほど落ち込まなければそういうことなかったのである、文化よりもパンの方が大事、花より団子になる
まともに食べられないとしたら文化とか芸術どころではななくなるからである



2022年08月25日

墓にまつわる話 (母の実家の墓と兄の墓の物語-金金金のこの世の地獄)


墓にまつわる話

(母の実家の墓と兄の墓の物語-金金金のこの世の地獄)

●人間最後に残すのは墓

墓は人間が最後に残すものである、でも墓を見てもその人はどういう人生を送ったとかわからないのである、ただ私は必ず墓を見ている、江戸時代のものがあれば古いとして価値あるとして見ている
ただ墓から何か知り得るものは少ないのである
でも身近に関係ある人が死ぬとその墓には必ず物語がある、家族でも死ねば物語がある
墓とは何か死んでも人が訴えるものなのだろう
というのは母の実家の墓は隣の市にあるから良く墓参りしていた
そこには25才で死んだ人が埋まっている、それは母親の兄にあたる人である
肺病で死んだのである、その頃肺病で死ぬ人が多かったのである

それも若い人だったから悲劇だったのである、啄木でも正岡子規でも宮沢賢治でもみんな肺病で若死にしている、肺病は国民病とも言われていたのである
それが悲劇だったのは若い時に死ぬからである
だから20代で死ぬというとき肺病が多かったのである
それでその墓の前に立つと必ずそこで25才で死んだ人のことを思っていたのである
そこで何か心苦しいものを感じたのである
他にも若くして戦死した人の墓もありそれで戦争のことを思うのである

墓はいらないとか海に焼いた骨の灰をまくとか樹木葬だとかなるのが昨今である
でもそうなると墓がないからその人のことを思うことが具体的な物を通して思うことができなくなる、ただ別に墓がなくてもその人を思うことはできる
写真でもいいし墓だけが故人を偲ぶものではない、ただ最後に人間は墓に埋まり訴えるものとしてあるとなる、普通の人は何か作品でも残さないし忘れるられるからである
ただ墓からだけではその人がどういう人生を生きたかなどわからないのである

●分裂不和の母親の実家

ともかく母の実家は分裂不和の家であり争いの家でありそれが後々までも死後もひきづった、それがカルマとなっていたのである
だからその後でももう墓を守る者が一人いたとしてもその人は異常な人間とも思えない人になっていた
ただ実家の墓を守ってくれと言ってめい子に3百万円渡して死んだのである
その三百万円は普通の金ではない、爪を灯をともすようにしてためた金だった
なぜなら共産党員であり赤旗を配って生活していたがその金もわずかである
それで畑とか作って自給自足していた、最低の生活をして金をためていたのである
その人は母の実家では長男にあたる人だったので死んだら墓を守ってくれと言って
三百万円めい子に渡したのである、でもそのめい子は普通ではない、人間なのかとも疑った、非情化した人になっていた

それで育ての親が私に最後に「ひどい娘だわ」と恨みの言葉を残して息を引き取ったのである、白血病でありすぐに死んだから良かった、そのその娘は介護などできないからである、それが救いだったのである、なぜそんなふうになったのかその事情はわからない
ただ私の家にきて「おばちゃんは金あるだから金でめんどうみてもらへ」と言って激怒して去って行った、その人は別に何もしないし何も要求しないのである
もともと関係が希薄だし子供の時一回合ったとかしかないからである
でもそうして血相変えて去って行ったことでひどい娘だわということを自分も思うようになったのである

つまり育ての親は私に恨みを残して恨みを晴らしてもらいたいとまでなっていたのであるでも私の家では兄弟でもうまくいっていないし付き合いもなかったのである
でも最後に電話してきたのはよほどひどい娘だということを言いたかったからだとなる
その娘は金は入るのである、5才まで一緒にいた実の母親は金持ちの家の人と再婚したので金があった、でも認知症になって施設に入ったのである
そこで金だけで目当てで娘は施設に入れた、でも全く母親と思っていないのである
だからこれも最後に金持ちに嫁いだとしても悲惨だったとなる
その娘には母親という感情がないからである、ただ再婚した相手の夫にも子供がいたからその実の親でも遺産争いになっているらしい、でも認知症になったらどうなるのか?
誰が遺産をもらうのかとなれば実の娘だとなるのかもしれない、その辺のことはめんどうになる

●継母にいじめられた私の母親

とにかく母の実家は父親は警察署長だったのである、だから幼少時は母親は恵まれていたのである、でも生糸の機織り工場を経営して失敗した、警察署長だから成功すると思っていたが会社の経営などできない人だったのである、母親もただ威張っている人だったと言っていたからである、そしてその時母親の実の母は病気になっていて後妻を迎えた
その後妻になった女性はものすごく気が強い女性でその継母に私の母親はいじめられたのである、子供の時弁当作ってもらって残したら実の母親が作ったものではないから食えないのかとその弁当をぶんなげたというからひどい女性だった
でも最後に養老院に入り何か精神がおかしくなり目も見えなくなったのである
もともと字が書けない人で手紙でも書いてもらっていたのである
その頃まだ字を書けない明治生まれの人がいたのである
私の父親は酒屋の丁稚奉公だったが良く字は筆で書いていたのである
葛尾村の出でありどこで字を習ったのかおそらく丁稚奉公した酒屋で習ったのだろうか?明治生まれでも一応字を書けていたからである

そしてその継母は死んだら大学病院で解剖してくれという遺言があり解剖されて私の家に骨が来てその実家の墓に葬ったのである
その前に養老院で何か妄想のようなものを見て苦しんでいて母親が見に行った
そして「悪かったな」と言ったという、やはり継母で私の母をいじめたことを後悔したためだろう
そのめい子になる女性は三人母親が変わったのである、でもかわいがられて良くされたのである、だからそんなに非情な女性になる理由がわからない、ただ私は子供の時一回くらいしか逢っていないから事情がわからないのである

●私の異父兄弟の兄の交通事故で死んだこと

そして私の兄についてだが兄は私の母親が東京で女中したとき結婚した夫の子供であり
私の家に再婚して連れてきた、その時私は五年間くらいあんにゃと言って一緒に暮らしたのである、ただその後父親とうまくいかず家を出て実家で暮らしたのである
その実家で母親の継母がいて五年間一緒に暮らしたのである
でもそのめい子は一緒に暮らしたことを覚えていないという、そんなことありえるのか
少なくとも五年間子供のとき寝食をともにした人を全く忘れる知らないとなるだろうか?そういう非情な人になったのだからそうなったのかもしれない
兄は集団就職して静岡の女性と結婚した、でも離婚した
何か市営住宅を金に困り追い出された、そこでトラック会社に入りトラック運転手になった、でもその会社に入ってから交通事故で40才で死んだのである
その死ぬ前に運転手の仲間と一緒に家に寄ったのである、それが最後に会ったとなる
その時は何か元気でありそこで働いていることは悪いことではなかった
ただ死んだ結果何か豹変したのである

それで私と母親と親戚の人がその会社に行った
そこでまたもめたのである
「遺骨はもってゆくな、墓は作ってやる」と遺骨をもってくることができなかった
別に実家に墓がありそこに入れることができたのである
そしてその社長は乞食のようにして来たのを雇ってやったと恩をきせがましく何回も言っていた、ただ正直私の家では兄を良くしなかったことで強く言えない事情があった
何かそのことで責めて来たのである、第一遺骨を引き取るとか墓を作るとか普通は社員が死んからと言わないだろう
だから私はついていいったが何のことか皆目わからなかった
また保険のことを車が持っていないのでわからなかった、自賠責とか任意の保険のことがわからなかった、任意にも入っていたのである

そこで後でその保険金を会社の社長は欲しいからだったとなる
兄には誰も身よりがないと見ていたのである、それで母親が来たので意外だったとなったでも墓を作り保険を受け取る代理人になりかったのである
私はもう嫌で三日くらいいて去った、兄のことでは私自身が悪いと思っていたので嫌だったのである
その後めんどうだから家では弁護士を頼んだ、ところがその弁護士を頼んだ親戚の人は頼んだだけで百万とられたのである、その弁護士も金しか頭にない人でありそんな金を払う必要もないのに払った、その金は自分の家のものでもないからそうなった
結局他人の金でありそうなった、ただその弁護士もずるいと思った
犯罪でもあったのだ、そして兄が働いた運送会社では休業証明書を頼んだら絶対に出さないともめた、それをなんとか出させたのは弁護士ではなく保険会社の人だったのである
弁護士は何もしていないのである、それで百万を得たとなるのである

●兄の一人娘のこと―兄を知る人は私しかなくなったこと

ともかく兄の遺骨は実家の墓に埋めた、でも今度は実家の墓でもめたので墓から兄のうめた遺骨を取り出して私の家の墓の隣に墓標を建てて埋めて供養することにした
でも墓から取り出した遺骨は土になりなくなっていた、まさに土になってしまったのである、でも仕方ないから兄の墓標は私の墓の隣に建てて供養している
そして娘は私の家に来たのだがこの娘も金のことしか眼中にない、保険金は全部娘がもらうことになった、でも中学生であり離婚した母が病気になり入院したとかで会っていたらしくその金は母親にも使われたらしいがその辺はわからない
一時はその母の弟に引き取られたが嫌になり東京に出たのである
高校卒業して東京に出た、保険金で生活して後は生活できないので生活保護になり一人娘を育てたのである

そして私の家でもめごとがありその娘も家に来た、また母親が死んで墓参りもした
でもその後は音沙汰がなくなった、もともと静岡で遠いので事情がわからなくなっていたただ兄が交通事故で死んだ時児童相談所にあづけられた、一年くらいそこにいたが兄の方にひきとられたがこれまたうまくいかず東京に出て暮らすようになったのである
母は唯一の兄の子であり娘だから死ぬとき認知症になっていてもその孫に何百万やれと私に命令した、それも死ぬ一か月前くらいであり認知症にもなっていたが正気にもどったようにそのことを大声で言ったのは驚いた
それでその兄の娘にその金を渡した、でもその後は音沙汰なしである
もともとその娘も金のことしか関心がない、それで墓参りに来るから十万くれと言ってきた、それを送った後は何の音さたもないし兄の墓参りもしないのである
つまりその娘も金しか関心かなくなっていたのである
ただ静岡でありどういう事情があるのかわからなくなっていた

●兄の墓参りする人は自分だけになったこと

そして不思議なのは兄のことを知っている人はいなくなった
故郷でもいない、子供の時遊んだ人はみんな死んだのである
だから兄のことを知っているのは今や自分だけなのである、なぜならみんな私の家族でも死んだからである、兄には悪いことをしたとしても兄を知っているのは自分しかいないのである、そして墓参りするのも自分だけになったのである
これも墓にまつわる話であり墓というのはその人の一生を語るものだともなる
すでに兄が死んだのも30年くらいすぎた、歳月が過ぎるのは早い
そうしてみんな忘れられてゆく、ただ墓が残って語るとなる、そこに墓の意義があるのかとなる

ただ娘も兄が父親としても苦しめられたから墓参りする気持もないのである
もちろん3百万はらって実家の墓を守ってくれとめい子に頼んだとしてもそのめい子にしろ非情化した異様な女性なのだからとても墓を守るとは思えないのである
ただ一応墓参りはしている、私はこういう事情になり母親の実家の墓参りはしない
何か怖くなったからである、母親の実家の墓とか家族自体が何かまともではなかった
それがカルマとなって自分にもふりかかって苦しんだからである
でもなぜか兄は自分のことを恨んでもいいが恨んでもいなかった
そこが救われたとなる、普通なら恨むはずだがそうでもなかった、何か人が良かったのかもしれない、ただ兄のことについては良くわからなくなっていたのである
でも私は墓標を建てて供養している、兄を知っているのは自分しかなくなっていたのである、故郷でも知っている人もいないのである
こうして墓には長い物語があるとなる、ただ他の人の墓についてはわからないのである

結局人間金金金である、親子関係でも遺産となれば金で争うのが普通である
人間はこの世にいる限り金から離れられない、カルト宗教なども金儲けのためだったとかなるし弁護士でも金だったしその金は自分の家のことで介護になったときも死んでからも金金金だったのである、地獄の沙汰も金次第となるがこの世と延長が地獄だともなる
この世が地獄であり金金金しかないのである、宗教でも表面上は善人の顔しているがカルトとになると金が目的なのである
それは統一教会であからさまに現れたし他でも同じなのである
宗教は本当は極力金にはかかわらないことである、金がかかわると宗教となると汚されるからである

そして金の切れ目が縁の切れ目

こうなって終わった無常である、ただ人間のつながりは愛し合う家族だったら切れることがない、墓がなくても遺影とかあり語りかける、すると笑っている
依然として家族がいる感じになるのだ、供え物として何か語りかける、それが極端になると認知症になると死者は死んでいない、死んだことがわからない、そうして死者と話ししているという、これも認知症だからではない、普通の人でもそうなる
その時死者は依然としていて通じ合っているのである
でも恨んで死んだりした死者はもう心も通じない、いくら装っても通じない
死者は冷徹に見ているからである、だから死んだ後も通じ合う関係になっていれば死んでも通じ合うとなる
墓というのはやはり人間にとって必要であり効用があるから作られた
墓だけが死者ではないにしろやはり墓参りもしなければ親子の縁で切れたとなるからだ
墓とは死者とつながる最後の場だとなる、その墓もいつかなくなる、それではかないともなる、無常となるのである




2022年08月20日

お盆の死者へのお供え物の意味 (実際の物を通じて心を通わせる)


お盆の死者へのお供え物の意味

(実際の物を通じて心を通わせる)

●死者への供え物の意味―物を通じて死者と結ばれる

これは神道の直会と同じような意味で 神様に供えた御神酒や神饌を弔問客でいただき身を清める、という神事の一つでした。
みんなで分け合う、助け合う、共食することで神様やご先祖様の気持ちになって穢れを祓い、平安の心に甦生します。
むかしの人たちは、このお盆や正月は身を清めるような暮らしをととのえていたように思います。

意味の甦生〜お中元〜かんながらの道

このサイトは神道でも仏教でも関連して説いている、宗教といっても他宗をみんな排斥することではない、それで日蓮宗は他宗を排撃するから問題なのである
それぞれのいい点を学ぶべきだとなる

お供え物というときこれは死者に捧げる、でも死者は食べることもできないから無駄だともなる、でも不思議なのは物というものには物が憑くとかモノと心は一体になる
それが東洋的思想である、物と心を分離して見ないのである
仏教でも色心不二となるとそうである、色とは物であり心と一体化してみる

それで死者に供え物するとき何か金を紙幣を捧げることはできない
金でも紙幣でもそぐわないのである、現実社会では常に金である、金の効用は余りにも大きい、でも死者との交流となると死者は金を要求しない、金はいらないのである
すると何が必要かとなると献げるものは果物とか食べ物とか花とかである
つまりそうした果物でも物を献げることで死者が食べないにしても死者の霊がつくという感じにもなる、だから厳密にみると死者に一旦献げたものは食べないともなる
死者の霊がついていて物に霊が憑いているともなるからだ
これは金とか紙幣だとそうはならない、だから死者との交流となると果物であれ野菜であれ物を媒介する

●人間の心をゆがめた貨幣

現実社会でも実際の人間のやりとりは物々交換であった、そこに金が介在したとき歪められたのである、金は便利でも人間の心を歪める、現代ではその金でどれだけ歪められているか格差社会は世界で天文学的になっている
それから人間の心は金によって荒廃している、人間の情も通じなくなったとか何かもう
これが人間なのかとまでなっている
それは物と物を直接交換することではない、金のやりとりになるときすでにそうしたことが起きていた

リディア王国はイオニア地方に隣接、エーゲ海に面していたこともあり、交易が盛んで、商工業も発達していました。そのため、エレクトラム硬貨は古代ギリシャ、ローマへと広がっていき、特にアテネ(古代ギリシャの都市国家)では貨幣経済が発展します

紀元前700年前に貨幣がすでに生まれていた、リデアという場所が貿易が盛んな地域でありそれが地中海を通じてギリシャに広がった
ギリシャのドラクマとかなると古いものに感じたからである

貨幣とはどうしても人間生活で必要だから生まれた、でも貨幣とか金とかはこれも媒介するものでありメデアなのである、人間は媒介するものによって歪められる
真実の価値が歪められる、物々交換だったら実際の物だから物と物のやりとりだからそれで人間的になる、物を市場で直接交換していたら全然金で売り買いするものと違ったものになる、それは経験していないが果物でも野菜でも羊でも交換するときどうなるのか?
その世界は貨幣を通じて物を売買するのとまったく違ったものになる
ただそんなことは不可能だからそういう世界をイメージすることもできなっているのだ

メデアとういとき今では情報を媒介するマスコミとかがあった、それは巨大な装置が必要てありテレビなどになるとそうである、新聞でも巨大な印刷場とか装置が必要だから一般の人はできない、でもインタ−ネットで個々人がメデアを持つようになったとき大きな変化があった、メデアとは媒介するものであり情報でも必ずメデアを通じて知るからであるでもメデアによって情報も歪められる、真実が歪められる、それが問題なのである
本当のことは事件でもその現場に行き直接知るならば違ったものになる
それが外国とかなるともうできないからその情報は歪められる、それがイラク戦争で起きた、油まみれの海鳥が全世界にテレビを通じて報道されてイラクはひどい国だったとなったからである、その衝撃が世界中に報道された衝撃が大きかったのである
情報とは必ず直接知ることはできない、何か事件があったとしても人伝えでも伝える人がメデアになる仲介者になるとき正確に伝わらない、そこで単なる噂(うわせ)でも間違って広がり大きな被害になることもある
つまり仲介するものはメデア自体が問題なのである

貨幣でも物と物をやりとりする媒介するものとして生まれた、でも媒介するものだから物と物を直接交換するのではないからそこで公平なやりとりはなくなった
そして媒介するものがメデアでも巨大な力を持つようになる、金は今や世界を支配する
物と物の直接やりとりではない、天文学的な数字の金がグロ−バル経済でやりとりされている、でも金が数字になり数字のやりとりにもなる、そこで現実感を持てくなくなったのである、そしてそこには大きな不正が生まれる、金融経済で莫大な富を得る人が国でも出て来る、アメリカが覇権国になっているから金が集まる、アメリカ国内でも富の格差が極端になる、それで株式市場の
ウオールストリートとかがで不満なものがデモをしたことでもわかる、株でもうけるのは不正だとしてそうなった

いづれにしろ金は公正にはなりえないものなのである、また報道でもメデアでも公正になりえないのである、それは物だったら物と物の直接交換ではないからである
情報でも直接人と接してその現場で聞くこともできないからである
そこに必ず誤解がありその誤解が世界的になると大問題になるのである
物は本当は交換不可能なものでもある、物の価値は決められない、つまりあらゆる物の価値はもともと神が創ったものである、リンゴがあり桃がありバナナがありそういう価値はもともと別々であり金に換算できない、神がその価値を本質的に作ったのである
だからリンゴがバナナより価値あるとかならない、それはみんな別個の価値なのである
他に柿がありみかんがありとそれは別個の価値なのである、そこに金か介在して価値を決めること自体が歪めたものになっていたのである

●物々交換から貨幣を媒介することで心が歪められた、物と心は一体

お盆というときどうしても死者にお供え物をする、それは物でなければならない、つまり物には心が霊がつく、死者の霊が物が憑くとなるからだ
金にはそういうことはないのである、だからお供え物をお下がりとして食べるときは死者に許しをこうて食べるのである
その果物の価値はあくまでも神が創ったものであり人間が作ったものではないのである
この世のすべての価値はもともと神が作ったものである、だから人間はもともと神からいただいて食べるのでありまた死者に捧げるにしても神からいただいたものを捧げるとなる
そして献げるというとき宗教的なものとして動物を犠牲にして神に献げていた
野菜を神に献げたカインは神は嫌われた、でも羊を献げたアベルは神によみされた
それは羊を犠牲にすることは血も流すし痛みもあるし野菜を献じるのと違う
もともと神に献げるというとき人間を献げていた、アブラハムの息子が神に献げることを神に要求されたからである、それは最も尊いものを献げることでそうなった
それが人間に代わって羊を献げることになったのである
神は傷なきもの汚れなきものを献じねばならない、傷物は献げることは神に対する不敬にもなる、神が求めるものは人間そのものなのである、人間が最も神が創ったもので至高のものでからそうなった、神がそれを一番喜ぶとなるからだ

ともかく死者に献げものをするというとき不思議である、一体献げた物を果物でも野菜でも死者が食べるのかとなればそうは見えない、でもその果物でも死者の霊があれば憑くとなる、それだけ果物でも物には霊が憑くとなる
その果物でも農民が自分の土地で苦労して作ったものですよとして献げればもっと死者でもありがいものとして受け取るとなるからもしれない
それは何も死者だけではない、近くの人が苦労してじかにとれたものを食べて下さいというときうれしいとなるからだ、ただそれを金が媒介するとき歪められるのである
でも別に外国の果物でもうまければいいとなるだけだしそんなことをいちいちもう考えないのである

でもこうして媒介するものメデアによって人間の心まで歪められるということはあった
貨幣というのがそうであり情報の伝達でもメデアを通すと歪められるのである
心が通じくなくなるのである、現代は様々なことでどうしても心が通じくなくなる
そもそも地球の裏側からでも果物でも入る時、それはもうどうして誰がどんな所で作っているかもわからない、心がココからその場所をさしていたというときでもそうである
つまり現代は心と物が分離しやすいのである、それは機械や道具によってもそうなった
機械や道具も媒介するものでありそれで老子が鍬を使うと人間の本来の心が失われると
二千年前に警告していたのである
でも今や機械なしでは生活できないし貨幣なしでは生活できない、でも人間の根本的なものがそうした媒介するものメデアで歪められている、それはグロ−バル化して余計にそうなったのである

●お盆の意義とは何かー介護でも冷たくされるとなると恨まれて死ぬのは怖い

お盆の意義は死者との交流である、祖先との交流である、祭りは死者を祀ることから始まったからでもある、そういう祭りも失われてゆく、すると死者とのつながりもなくなる
そこで起きることは何なのか、心の荒廃である、原発避難区域では神社でも小さな社でも荒廃している、誰もお参りするものがなく神様も死んでいるともなる
それはもともと地域にあり地域の生活の中で生きていたからである
そこに住む人がいなくなれば神も捨てられたとなる、それは神とは違っていても何か荒廃したものを感じた、荒れ果てて神様も怒っているというか不気味なものを感じたのであるそうなったのは原発事故のためだったのである、だから原発の被害は単なる経済的損失だけではすまない、精神の荒廃をもたらしたのである、それはもう修復できない
墓すら人が移住して移動しているからである、墓も多数捨てられたままだとなる
その時死者も悲しんでいるとなる、死者でもそこに長く住んでいて愛着があったからだともなる

お盆も終わったけどお盆にも何らかい意義があり生れていた、ただそういうものき意義も失われてゆく、先祖は別に神ではない、でも死者を供養することは必要である
死者が全く存在しないかとなるとそうとはならないからだ
死者も捨てられれば怒り悲しんでいるかもしれない、だから墓も簡単に捨てられないとなる、墓も物であり供え物も物である、でもその物を通じて物が憑くとなり人間の心が通じるのである、それは贈与とういものがあり物を通じて慰めることがある
何か怒っている人でも物を与えて慰められることがある、それでがまんするとかなる
物は何かそうして犠牲の代償ともなる、だから動物でも犠牲にされたのである
人間の罪を贖うものとして犠牲にされたのである、動物が死ぬことを見て罪の意識を深く感じたとなる、果物とか野菜だとそういうものを感じないからである
動物が苦しみ犠牲になるのは人間にも見えるからである
それで罪の意識を深刻に感じたとなる、キリストでも神への犠牲でもあったとなるからだ神の子羊と言われたのはそのためである

ともかくお盆というときそもそも村とかの小さい共同体で生まれたのである
そこで死者を供養するということで始まった
江戸時代に始まったというとき江戸時代でも庶民は墓がなかった
この辺の近くでホトケッポという所に共同墓地がありそこに村の人は葬られた
でも名前はない、個々の墓はないのである、家族墓ができたのは明治以降であり庶民がみんな姓を持つようになったのは明治以降なのである
ここが誤解しやすいのである、だからもともとお盆は村全体の祭りであり盆踊りは死者も一緒に踊る祭りとされていたのである
その盆踊りもなくなるというとき村という共同体が喪失したことにもよる
農民社会でもないし田舎でも隣の人が何をしているか仕事しているのかわからない時代である
そうなると伝統的なものは失われてゆく、すると先祖を祀る祭りも消失してゆくのであるグローバル化広域化社会になると余計にそうなったのである
何かかえって自分の住んでいる場所より外国とつながりを持つ人が増える
近くの人が困っていても助けない、外国の人を助けることが優先されるとかなる
これもグロ−バル化して起きてきた、それは本末転倒のことでありおかしなことである
それもやはり物と心の分離が起りそういうことに拍車をかけたのである
人と人の心は物と心は分断されたということにもなる

ただ死者と人間の関係でも生前が影響している、生前に親子でも関係が悪いと供養もしないだろう、それで介護が問題になる、介護は苦しいけど介護で冷たくされると恨んで死ぬこともある、そうなると供養できるのかとなる
親戚の人は「ひどい娘だわ」と最後に自分に言ってすぐ死んだのである
私の親戚の場合うまくいっていなかった、だから関心がなかった
でも私に最後に「ひどい娘だわ」と言い残したことが忘れられないのである
実際にその娘は信じられないほどひどい娘になっていたのである
育ての親にしても干渉されすぎたにしろあまりにもひどいと見たからである
そういう人が墓参りできるのか?確かに誰も見ていないが死者が見ている

「あなたはひどい娘だ」そう思って死んだ人を供養できるのかとなる
私の場合は特別良くされたしそれで必死介護した、だから供養しても遺影が笑っている
感じになったから救われたとなる、死者にはもう偽ることはできない
死者は冷徹に見ているからだ、生前は偽ることができる、死者には偽ることができないのである、もう死んでいるしわびても遅いともなるから怖いのである
だから介護が苦しくてもそこに死後とつながっているから怖いのである
もう死んだ時点で何もできない、わびることもなにもできない、それが怖いのである
それで介護は苦しくてももっと良くしてやれば良かったとかみんな後悔しているのである私自身でもそうである、もっと良くできたなとふりかえるからである
ただ自分の場合は自分一人であり自分が病気になって四苦八苦して介護していたかのである

2022年06月29日

人間の考えは老人になっても変わらない (世代間対立は常にあり避けられない、高齢化社会のマイナス)


人間の考えは老人になっても変わらない

(世代間対立は常にあり避けられない、高齢化社会のマイナス)

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人間はそもそも時代の影響からまねがれない、その時代の社会の影響で考え方が形成されてそれが老人になっても変わらないのである
団塊の世代は学校でも平気で先生が体罰していた、それは親でも認めていたからである

厳しい方がいい!

その女性は同年代で団塊の世代とかでも子供は厳しく育てた方がいいとしきりに言うのである、その考えは固定観念化して変わらないのである
でも実際このことに反発している人はいた、それはもっと前の年代だが先生になぐられたとかなんとか80過ぎても恨みに思っていたのである
その先生は死んだけどこうした恨みは残る、私自身もそういうことを先生にさせられたから恨みとなる、でもその時代は親でもそういうことは容認されていたからそうなっていたのである

それより戦前になると貧乏人でも子だくさんであり子供は労働力としてあり親に奉仕させるものとしてあった、だから子供を大学まであげないと普通ではないという時代ではない少年の時から10代で丁稚奉公とかに出された
大工でも12,3歳から親方について修行していた、18歳になるとすでに物にならないとして拒否されていたのである
そういう時代感覚で生きて来た人と今の人とは合わなくなる
だから逆に子供を労働力として親に奉仕させるものとしてみていれば別に子だくさんになってもいいわけである、ただ飯を食わせて後は親に奉仕させるとなるからだ

今子供を産まないというとき少子化の原因の一つに子供を育てるのにただ食わせるだけではない、教育に相当に金がかかり負担になるからである
だからそういう時代感覚でないから少子高齢化にもなっている
実際なぜ団塊の世代とか戦後の焼け野原で食べ物もないのに子だくさんになっていたのかそれが不思議なのである、まともに食えない状態で子だくさんになっていたからだ
そうなると必ずしも少子化とは経済的問題だけではない別な要因があるともなる

ともかく親に口答えするなとか口答えすると殴られたとか8人兄弟の人が言う
親は絶対的な存在であり口答えもできない、地震、神鳴り、火事、親父になっていたのだ家父長制でありそれは江戸時代からつづいたものであり戦前まではそうだったし団塊の世代でもそういうことがあった、子供が多いから子供は粗雑に扱われたということがあった兄弟も多いとそうなる
私自身は特殊な家庭環境になりそういうことはなかった、一人っ子であったことでもそうである

でも本当にひろゆきが言うように親が早く死ぬ時代は自ずと世代の新陳代謝ができていたそれができないのは例えば遺産相続でも60代にもなる、親は80代でも生きているからである、するとそこで代代わりができずすでに60になればもう老人なのである
自分自身も60代で親の遺産を受け継いだが遅いとなった
自分で金でも権力でももたないかぎり自分なりのこと新しいことはできないからだ
だから高齢化社会はとてもこれだけ老人が多いということは改革ができないともなる
それは社会全般のことであり個々に違っていても社会全体としては停滞する
なぜならどうしても老人は保守的になるからである

経済的にも年金問題でもこれだけ多い老人に費やされる金が膨大なものでありそれが下の世代を圧迫するのである、もう病院通いが仕事になっている老人も多いからである
そこで医療費も膨大なものとしり下の世代を圧迫するのである
またシルバー民主主義となり老人の一票も若者の一票も変わらないからどうしても老人の意向にそった政権ができるのである
そもそも多数決の民主主義は公平にならないのである、それが政治に歪みをもたらしているのだ、全部同じ一票にしていれば誰も責任などもたない、どうせ一票など投票しても何の変化もないとなるからだ、だから選挙にしてもすでに投票する前に組織利権団体票で決まっているとなる、創価などは確実に固定票がありそれは頼りになるが後は頼りにならないとなる、民主主義はそれで限界にきている

ともかく人間社会は必ず世代間の対立がある、親と子供は対立する、反抗期があるというのもそのためである、親に反抗して一人前になるとかなる
それでこれは問題にしろ親が早く死ぬ時代はそれができていた、新陳代謝が自ずとできていた、私の父親は明治生れて古い人間だったが中学生の時死んだから頑固親父旧人間だったから生きていたら対立した、でもそういうことがなかったのは早く死んでしまったからである、父親は酒屋の丁稚奉公だからおそらく自分自身もそういうことを子供の時訓練させたのかとなる、ただ上の学校に上げろと言ったのは苦労したためである

ただ相当に価値観が違うから深刻な対立となったことは確かである
これは私の家だけではない、どこの家でも起りうることである
それで幸福の科学の教祖の息子が対立していることでもそうである
普通はそうあるべきなのである、カルト教団にそまりまるでヒットラーユーゲントとなり結局親のためにとかなり一生はそのため費やされた人もいる
でもその一生をふりかえったかときどうなるのか?親に反抗して自分の道を進むべきだったと後悔してももう元にはもどれない、そういうことは親と子の間に必ずある
医者になれと言われても自分には向かいなと自分の道を行くことでもそうである
そこに必ず親と子の確執が生まれるのである、それが人間社会で普通のことなのである
それが無い方が異常なのである

何か引きこもりとか否定的に見るが確かにそういう面がありマイナスも大きいのだがもしかしたらこれも時代による生き方なのかもしれないとなる
というのは自分自身が引きこもりだったからそうみる、これは奨められないにしても
余りにも引きこもりとかニートとか多すぎるのである
それは当たり前のようにもなっている、田舎でもなぜか多いのである
だからこれは特殊なアウトサイダーとかではない、一般化した現象なのである
時代が作りだした現象だともなる、それを否定的に見るのは古い世代だともなる
私は引きこもりだったからそれを理解するのである

ともかく世代間対立があるのが人間社会では普通でありそれがないことこそ異常だとなるでも高齢化社会ではどうしても改革ができない、新しいことがしにくいのである
親が90までとか普通に射きる時代はなかったからである
すると親がいつまでも実験を握っていて子供は何もできないとなる
やはり金でも権力でももたないと実質は何もできないなるからである
そして経験も積めないことが致命的になる、なぜなら経験こそが人間を作るのであり
ともかち試してでもいいから経験させないと金でも権力でももって実際にやらせてみないと人間は成長しないからである
その金と権力が依然として90でも老人が持っていることで世代交代新陳代謝できないとなる
ハンコでもなくせないのは老人社会だからである、ハンコになじんでいるからデジタル化できないのである
どうしても老人はデジタル化は苦手だからである
私はパソコンをしていてもスマホとなるとめんどうになる、絶えず操作していないとならなくなりめんどうだったからである

ただ若い人はすべていいとはならない、老人は熟慮してあらゆることを深く理解してみる若い人にはそれができない、ただ経験を積ませることは大事である
なぜなら人間が生きる時間が限られている、たちまち時間は過ぎてしまうからである
それできついことは若い時にしておかないと後でできない
たちまち老いて金と暇があっても今度は体力がなくてできないとなる

結局少子高齢化は歪であり成長を止める、第一みんな優れた人でもない普通に生きている人達である、それでただ毒口をついて回りに迷惑をかけることで存在を示している老女がいたり迷惑老人となるのである、それは余りにも老人が多すぎることなのである
優秀な老人が少数だったらこういうことは起こらないのである
でもこれはどうすることもできない、早く死んでくれと言っても死なすこともできないしどうにもならないとなる、ただ団塊の世代でも死んでゆくことを待つほかないとなる
その後に新しい社会が作れるようになるのを期待するほかないのである
なぜなら老人を邪魔だとして殺すわけにいかないからである

2022年06月26日

NHKの一人で最期まで家で暮らしたいの感想感想 (一人暮らしは病気になると地獄になる)


NHKの一人で最期まで家で暮らしたいの感想感想

(一人暮らしは病気になると地獄になる)


これがうまく作っていると感心した、一人で病気になって最後まで家で看取る
それを医者と看護師がグループでしている
一人暮らしの場合は病気が最大の恐怖であり在宅で死ぬことはさらに困難を極める
でもその人は癌でも死ぬ数カ月前までふらふらになっても障害者施設で単純な仕事をして
給料をもらっていた

なぜそんなことまでしているのか?

生きた証(あかし)を残したいという

そんなことが生きた証になるのか?でもその人にとっては最後までそう思ってその仕事をしていたのである、人間は最後は何か後世に自分の生きた証を残したいとなる

その人が何を生きたのか?

それを自らも問い他者も問うからである、この人の人生は何だったのかとなるからであるするとただ単純作業でも最後にした仕事が貴重に思える
体が死に近くにもなっているのに単純な仕事でもしていたということが貴重だとなる
それはとるにたらないものでも何か貴重なものとなる、金で代えられないものともなる
その人は息子とかがいても十年くらい逢っていず最後まで所在もわからず死んでしまった親子でもこういうことがある

それから小笠原先生はこうして一人暮らしでも在宅でも相当数の看取りを経験している
すると体の痛みとかとるモルヒネとかを与えるがそれ以上に最期をどう迎えるのか
子供にも教える、いつ死ぬかが問題ではない、死ぬ前に互いに了解するものがあり
ありがとうと言われて感謝されて死んでいけるようにすることだと言っていた
確かにこれは大事なことである

私は姉が認知症になり何もわからなくなったのかと恐怖だった、でも認知症でも死ぬときは正気になる、母もそうだった、そこに認知症の不思議がある
私は介護で一人悪戦苦闘したが姉でもしゃべることはないが「頭を下げた」何か自分が介護したことに感謝してくれたわかってくれたので最後に頭を下げたことで救われた
実際はわかってくれていたのだなと思ったからだ
その後すぐ死んで意識不明になった、でもそのことで自分は姉と心を通じて姉は死んで他界した、母の場合病院で死んだが死ぬときは毎日病院に行ったが母を看取ることはできなかった、でも写真に出したように母の死に顔は笑っているようだったからこれも不思議だった、何か自分が介護してくれたことを喜んでいたのである
死ぬ時よりその前に何か互いに意思疎通していることが大事だとなる

そして家で死にたいというときある人は子供が生まれたとき木を植えたのである
それは見事に庭に育っている、山茶花とか椿の木である
そういう思い出があり家で死にたいとなる、ある女性は家で死にたいというとき今まで感じないこと当たり前のことが家の周りのことでもその雰囲気を感じて家で死にたいと言っていた、今まで嫌っていたものが平凡なこと辺りの風景とか人が普通に生きて過ごしていることが貴重に見えたという、それは今までは騒音だったから嫌っていたが死が近くなり別な感じになったのである
病院という空間は無機質な空間だから生活の匂いもないから嫌だとなるのである

正直これらの例は恵まれたものである、実際は残酷である、こんなに手厚くする医者とか看護師とか自治体があるのかとなる
私は病院に入院しても看護師から虐待されたとかあるからだ
だからそもそも病院とか恐怖の場所なのである、そこには情もないし人間的なものが喪失しているからである、ただ物のように片づけられるからである
つまり医者でも最後は体を看るのではなくその人に応じた心を看るたとが大事になる
それで最期に逢いたい人がいますかとか医者が訪ねたのである
そして息子でもその人を探したがみつからなかったのである
何か人間が死ぬとき知人であれ近くの人を回って歩くということがある
また兄弟でも遠くてもあいにくとかある、それも不思議な現象であり
最期の別れに会いに行くのかとなる

ともかくこのNHKで放送されたものは恵まれた人達であり多くは違っている
もっと残酷であり捨てられて孤独死にもなっているのが多いのである
それだけ在宅で一人暮らしの人が看れることは至難だからである
ただ今は本当に一人暮らしが多くなっているのだ
あの人も家族と一緒だったのに離婚して一人暮らしなのかと驚くのである
熟年離婚も多くなっている、だから男女とも一人暮らしが本当に多いのである
そういう一人暮らしの家は空家になってゆくのが現代なのである

こうしてむしろ孤独死とか残酷に肉親からも捨てられるようになるのはとにかく介護とか看取りでも負担が大きすぎるのである
それで娘でも夫が脳梗塞になって親に手が回らないとしている、その親も病気なのに娘に心配をかけたくないとして考慮しているのである
こういうことも多いのである、そして余りにもこうした老人が増えすぎたことなのであるするととても手が足りない、みんなで医者と看護師が集まり人生会議とかしているのは
それは最期は身体を看るだけではない心の問題がかかわっているからである
でもここまで手厚い介護をすることはまれなのである
医者は身体を看ても心は看ないからである

要するに人間の最期は死はどうあるべきなのか?

これが大きなテーマとなる、でも数が多くてこんなふうにして看れるのはまれである
すると捨てられての垂れ死にのような人が増えて来る、ただ人間は死ばかり見ていてはわからない、その人が生きた人生が最期に問題になるのである
死が怖いというときもそうである、死を克服するには若い時神を知らねばならないからである、死ぬときそのことを思っても遅いのである
ただ人間の最期は厳粛である、どんな人でもそうなる
死んだら永遠に逢わないからである、それで親が子に恨みを残して死んだ人がいる
その娘は異常だから人間ではなく外道となっていたから人間としてもう通じない獣だともなっていた、もう親と意志疎通するところではない人だったのである
だから病気の時すら見捨てたからである

ただ親子でも絶縁状態になっている人も多いとみた
私には二人の母親がいて尽くしてくれたのである、仕事もしない引きこもりのうな状態でもそうだったのである、それで自由放任となりずぼらでありだらしいないということがあった、でもこうして生かされたことに感謝している、それで死んでからも供養しているのである、子供でも親にひどい目にあった人は親ガチャとかなって恨んでいる
墓参りするしないこともある、親の死に目にも来ないともなっているのである
だからいくら血縁でも親とることはただ子を産むとか食わせるとかではない、それ以上のことをしないと親に感謝しないのである
つまり子を産んだだけでは親にならないということである

一人で最期まで家で暮らしたい

2022年06月23日

歳には逆らえない (元気に見えた大工さんにも老いがあった・高齢化社会の暗黒)


歳には逆らえない

(元気に見えた大工さんにも老いがあった・高齢化社会の暗黒)

その大工さんは頭も禿げていないし体も頑丈でありとても老人に見えなかった
だから大工さんとしてばりばり仕事しているとみていた
何でこんなに元気なのか不思議でもあった
でも今日仕事を終えて調子が悪いと訴えた
それは昨夜が冷えたため体調不良になったのだ

もう一人の女性がしきり昨夜は寒かった、調子崩したと言っていた

その大工さんも見かけと違って意外とその寒さで調子を崩していたのである
だから疲れたとか体の不調を訴えたのである
それで明日は休んだ方がいいと言った

何か見かけだけでその人の体調もわからないものだと思った
その人は何か老化したように全くみえなかったからである
だから68才にしては元気だと不思議だった
でも実際は眠らないとか体調を崩していた
小便でも寝てから一二回あるというとき前立腺肥大症が関係しているかもしれないと言った、私自身が経験があるからだ
小便の異常になるのが多いからである

どうしても60代で必ず持病が出る人が多いと見た、でも今は60代は老人にはならない時代である、75才異常が老人となるべきだというのもわかる
そうはいってもどうしても60代で何らかの持病がでていかにも老いていない元気に見えても老いにさからえないとなる
ただ仕事をしているのを見ても老いたとは見えなかったのである

自分の場合熱中症になりやすいのである、外で紫外線を受けると悪い
それで春でも暑い時があり痙攣を起こすほどの熱中症になった、その時意外と危険があった、老人は熱中症になりやすく死ぬこともある
その原因が体温調節ができないということにある
その人はもともと太っていて汗が出ることを訴える、でも汗がでることがいいことなのである、老人は汗がでにくくなる、それで体に熱がこもり熱中症になりやすいのである

いづれにしろ大工の仕事は体あっての仕事であり力仕事もあり結構68歳でぱきついと見ていた、だから不思議だったのである
でもやはり老人だったのだなと共感したのである
老人はどうしても体の調子が悪いことを訴える、家に来る女性も72才にしてはもう80才にも見えて不調を常に訴えて実際話はできても何もできないのである
それで昨晩は寒くて調子が悪いと言っていたのである
それはその人を前から見ていたからそうなるのも当然だとも思っていた
てもその大工さんはとてもそう見えなかった、それが不思議だった
ただ今はガンになっても十年も仕事をしている人がいる、その人も不思議である
60代後半であり普通に仕事している、その仕事は大工よりは楽である
でも十年も癌になって仕事が普通にでききていることが不思議なのである

ただ癌の治療でも相当に進歩しているからそうなっている
何か医学的に老化しないことを研究しているから人間は百才まで普通に生きれる時代が来るとしている、それもそういう人をみると単なる空想ではないともみる
まず60以降は金がなくても困るが病気になったら終わりである
寝た切りになったりしたらいくら金があってもどうにもならない
そういう人が同年代でも増えている、また死ぬ人も増えてくる

とにかく現代の問題は高齢化社会であり辺りを見回すと老人と病人が多すぎることである子供などめったにみかけないのである、こういう社会は発展性がなくなる
日本が改革できないというときこうした老人が中年でも多すぎることでありそれは保守化して日本は貧困化しても回復できない、新しいことに挑戦できない老人社会保守的な社会になっているのもわかる
例えば以外と親でも90とかまで生きていると後を継ぐにしても財産をもらうにしてもそれが60代にもなるのである、私自身がそうだった、すると遅いから自分なりのことに金を使えないのである、また家を継ぐにしても遅いから自分なりのことができないのである新陳代謝ができないのである、それは家だけではない、社会全体で高齢化社会の問題は
若い人が社会で活躍するのが重要な役につくのが遅くなり経験も積めないとなる
大臣にしてもたいがい60代であり30代とか40代とかいないからである
そこでどうしても時代を変えることはできなくなるのである
未だにハンコとか使っているのはそのためであり日本は老人社会でありデジタル化できないのである

やはりこの高齢化や少子化が大問題でありこのために改革もできない、つまり家でも後継ぐことが遅すぎるのである、すでに60となれば老人にもなってしまうからである
そのことは社会全体でもそうである、若い人が第一線で活躍できないのである
もちろん老人には老人の役割があり無益だとはならない
ただ老人がこれだけ多ければどうしてもマイナスになる
それで毎日迷惑老人に悩まされている老人がいる、その女性は人に毒口ついてそれが生きがいであり存在を示す行為なのである
その迷惑老人の隣の女性は毎日訴えていてもどうにもならないのである
こうした老人が増えていることは間違いない、これからも増える
まさに高齢化社会の暗黒である、やはり世代交代とかしないと新陳代謝ができないのである

そもそも老人でも立派な老人になること自体がむずかしいのである、みんな普通に生きている人達でありおそらく長くなりすぎた人生に対処できずに迷惑老人となる
そして社会は会社を退職したりしたら社会で受け入れないのである
地域でボランティアなどできない、かえって問題を起こして裁判沙汰にもなった人が現実にいる、つまり社会の役に立ちたいとしても社会では受け入れないのである
それはたまたま無人駅のボランティアのようなことをして経験してわかったのである

余計なことはするな!

老人はひっこんでいろ

こうなっているのである、老人の居場所がないのである、老人がこれだけ多いととても立派な老人は少数である、あとは無用迷惑老人になりやすいのである
そして今の社会は消費社会である、老人がボランティアであれ生産的なことをさせないのである
ただ何かはやらない店であれまたどんな店であれ買い物すれば金を使えば喜ばれるのである、金を使う時誰でも歓迎されるのである
でも金がない老人は誰も相手にしないということにもなる
一二割はそれなりに金をもっている、だからその老人は社会に金を使えば歓迎されるとなる、あとは無用迷惑老人であり早く死んでくれとなる

つまりそういう老人は社会の害悪でしかなくなる、それはもう生きていることが辛いとなる、また社会にとっても自分自身にとっても地獄を生きることになるのかもしれない
高齢化社会はいい面があるとても暗黒面が大きいのである
でもこれはなかなか解決しようがない、おそらく人間が長生きするような社会を作れていないしまた個々人でも長寿を豊かに活力あるように生きれないとなる
だからこれから本当に百才人生をどう生きるのが金銭面でも個々人の生きがいとかの面でも大きな問題になるのである、それができなければ高齢化社会のマイナス面が目立ち暗黒になるのである

地震で自分の家を見て大工さんに見てもらったことでわかった、実際見えなかったが相当に中が痛んでいて危険にもなっていたのである
ここが崩れなかったなと恐怖を覚えた、そこが崩れたら家も崩れるとか指摘されて恐怖を感じた、私の家は築50年すぎて老朽化して痛んでいたのである
あちらこちら見たら痛んでいたのである、やはり耐震設計とか断熱材など使っていないので冬は寒いのである、怖かったのは耐震設計でないから地震に弱かった
こうして家も老朽化して人間も老朽化してくる、いたるところ体でも不調になり痛んでくるのである

家も年には逆らえない!

もしかしたら自分の家は今回の大地震で辛うじて耐えたのかもしれない
それはまさに人間が老化することと似ていたのである

2022年06月08日

長くなった人生の弊害 (老人の様々な問題が露骨になるー認知症の対処もある)


長くなった人生の弊害

(老人の様々な問題が露骨になるー認知症の対処もある)


人間がこれだけ長生きする時代はなかった、それとともに様々な問題も生れた
退職してからまた30年くらい生きるしたら長い、そうなると金銭的にもまかなうのが大変になる、不安にもなる、国民年金でも6万くらいしかもらえない、それでどうやって生活できるのかとなる,生活保護なればいいとういが今や最低の生活も保証されていないのである、平均7万だとかでどうして生活できるのか?
医療費無料だとなるが実際は二三割りとられている、それを払ってくださいとなり払えない人もいる、すると医者にもかかれないとなるのである

この経済的問題もあるが老後が長いことはまた様々な問題が生まれている
意外と深刻なのが生きがいの消失なのである
下位者を退職すると会社人間だった人は現代では居場所がなくなる
地域社会などなくなっているし無用人間と化する
何かボランティアをやれとかなるとこれもめんどうで簡単にはできない
地域社会が村のような場所だと生涯現役であり老人になれば長老とかなり尊ばれた
今はそういう共同体もないから会社から退職すると居場所がなくなる
それで膨大な老人が用もなくなり無用化されるのである

それで市営住宅の老女はきらきらした金属をぶら下げて何か一人わめいている
その近くにいる人はいつも見ているから眼が悪くなると言っても話しもしない
何か人を嫌がらせて存在感を得ているともなる
警察でも役所でも連絡しても何もできない、かえって周りの人を訴えて警察を呼んでいたのである
相当に質が悪いにしても何もできないのである

ただこの老女は金に困っているようには見えない、毎月ガス、水道、電気が払えなくて困窮している老人とは違うみたいだ、つまり必ずしも生活困窮していることが問題となっていない、つまり何か社会の役割りが家族での役割もなく何するつこともなく人を困らせているのが生きがいともなってしまう、そうしてしか存在を示せないとなっている
こういう変な老人が増えてくるのも高齢化社会である
長生きがこうしてただ回りに迷惑をかけるだけの存在になる
これは認知症でもそうである、自らの人間としての尊厳も失い回りに迷惑だけをかけるようになる、でも家族によってその対処方法は違う、ただ他人からすれば迷惑になるだけだとなる

また何もすることなくトラック運転手だった人が自転車にのり温泉回りのようなことをしているようだ、別にこの人は他人に迷惑をかけていないから責められることはない
そういう人か旅していて出合った、土地の人に温泉のことをしきりに聞いていたからである
でもやはり何か生きがいがそれで得られるているかどうかはわからない
何もすることなくてそうしているとなる、そういう老人が膨大なのである
ゲートボールはみんなしている、でもそれが生きがいになるのかどうかはわからない
とにかく高齢化社会とはこうして家族でも社会でも無用化した老人が膨大に増えるということである、それがみんな害になるわけではない、依然として働いている人もいるしいろいろだが総じて生きがいが喪失しやすいのである

退職すると自由時間が膨大になる、すると暇を持て余すとなる、その時間が人によるが意外と長いなのである、それで毎日が日曜日になり何をして過ごすのかとなる
それが退職してから30年とがつづくとどうなるのか?
第二の人生を生きることになり金も問題が生きがいをどうして作るのかも問題になる
でも社会的役割と家族の役割でもなくなる人が多い、すると趣味に生きるとかなるが趣味にしてもこれも簡単にできない、相当な訓練の期間が必要なのである
ただ学問とか芸術とかでもたいして才能がなくても積み重ねでそれなりのものになることはできる、でも退職して何も積み重ねがなく一から始めるとしたら苦労だとなる
第一パソコン自体使いこなせないとなるからだ
でも74歳のばあちゃんがスマホを使いこなして孫とゲームしているということもある
それも現代の老人だと見た、でもそれはうまく適応できる女性でありみんなできるとは思えない、でも長い老後をどう過ごすかが意外と問題になる
それを家族であれ社会で見つけることはむずかしい社会だからである
ボランティアなどでも簡単にできない、組織に入り許可がないとできない
勝手にできないし迷惑だとなるだけである

それで膨大な無用の老人がうろうろしている、それで別に社会の活気は生まれないだろうただ奇妙なのは老人でも現代社会では消費ると歓迎される
あまりはやらない地方の店でもお客さんになるのである、だから本当に消費者は王様だともなっていたのである
この辺では原発事故で避難して仮設に入った人が地元に消費して助けていると言っていたけど何か助けられるという感覚はなかったのである
むしろ助けている方だとしているのもこれも現代社会を象徴していたのである
消費者は王様だとなったのが現代だからである
でも消費するにしてもできない人はなんの益にもならないとなってしまうのである
何か有効に社会に働きかけようとしてもできない、そういう村社会があって長老のようにはなれない、むしろスマホであれ何であれ技術的な面でわからずに教えられる方にもなるからである

この家族であれ社会であれ役割喪失の怖いのは認知症になることである
私には二人の女性の親がいたとして一人は95くらいまで家事をしていたのである
する人がいないのでしていた、一人は役所をやめてから何もしなかった
趣味のようなものをしていたがそれは合ったものではない、もともと保健婦などで仕事していた、でも家族の中でも家事をする人がいて何もしなかったのである
料理もしない、何もせずテレビなどを見ていた
そしたらひどい認知症になったのである、その原因はいろいろあるにしてこうして何か家族でも無用化して役割が喪失してそうなったともみる
そうなると頭も働かなくなるからだ、何か生きがいをもってすることがないと頭は鈍化してゆくのである
一人は全く花にも興味もなにもない大正生れで働くことしかなかった
それでも別に家事をしていたので家族で役割があり95才までボケなかったのである
でもそれからさすがに認知症になったのである

だから危険なのは認知症になりやすいのばあちゃんは何もしなくていいですよ
テレビでも見ていてくださいと嫁に言われる人だと言うのもわかる
一見いいようでこれが実際は怖いことなのである、人間は生涯が現役なのがいいとなる
90才くらいで依然としてアナウンサーとかしていた人が批判されていた
世代交代するべきだというのはわかる、社会が停滞するとなるからだ
でも変なのはそうして引退して役割がなくなると認知症になりやすいとなる
例え政治家で悪役でも現役でいることは認知症になりにくいとなる
やはり現実の社会の場で活躍しているからだとなる、老害であれ社会の悪役であれそれで社会で役割がありボケないとなるのだ、だからおかしいことはおかしいのだが認知症いう観点からみればそうなるのである

この認知症になる人が800万人とかなることが現代の大きな問題でもあるからだ
それにどう対処するのか、防御するのかとなると薬とか医療の問題としてもあるがこれがそれだけでは解決しないものがある、それは肉体の病気ではないからだろう
脳の病気でも心の病気のようになっているからだともなる
脳と心は密接に関係しているからである、認知症は病気であってもやはり脳と関係して
心の病だともなるからたぬ、この対処方法も高齢化社会の大問題なのである

2022年05月15日

文系と理系とは何なのかー医者と看護師からみる (高齢化社会で老人と病人ばかりの社会になる異常)


文系と理系とは何なのかー医者と看護師からみる

(高齢化社会で老人と病人ばかりの社会になる異常)

脉をとる看護婦の手のあたたかき日あり、 つめたく堅き日もあり 石川啄木

●医者や看護師(婦)は理系である

病院という場所は医者とか看護師でも理系なのである、でも病院とか病気というとき
それは理系だけの者ではない、医者は確かに化学的知識を詰め込んでいる
例えば小便が白くなっているとき私は血の小便が出ていたから白くなって治ったと見た
これはいろいろ原因があるにしろ腎臓が一時悪くなりそうなったのかもしれない
これは医者が科学的に分析する対象である
基本的に医者は理系の仕事である、化学分析することが多いからだ

でもどうしても私は人間の病気というのは深く人間の心と関係していると見る
でも理系だと常に物体としてまた人間を機械のように見ることがある
それで病院で死にたくないとかなる、そこは心の通わない無機質な空間なのである
そこには愛が通わない冷たい空間なのである、それで女性の看護師でも家族の代わりはできない本で書いたいた、つまり家族のような愛でもって接することができないと言っている、体は診るが心は診れないのである

それで糖尿病の人が半年なのか長い間入院していてかえって食べるもの制限されて食べないことにより病気が悪化したのである、でも退院して家で暮らしていたら回復したのである、こういうことは病気に確実にある、つまり精神的なものが人間には影響するからである、家というのは何か人間を回復するものを持っているということである
ただその人は一人で暮らしているから家族に看護されるということはない、ただ娘が来るからそれも安心の材料だし近くに親身になって話し相手とか世話する女性がいることも
回復した原因ともなる

●人間を物としてみる西洋医学と物と心を一体とみる東洋医学

病院という場所から理系と文系をみると理系が優先される、手術するにも人間を機械のように見てしているともなる、そうでないと普通は人間の体を切りさくことはできないかもはしれない、体にも心が通っているとかなると体を切りさくことができないとなる
それで内臓の移植などはするべきではないとしているのも人間を物体として機械のように処理できないからそうなる、西洋医学はどうしても物と心を引き離してみる
objectとして人間もみる、だから科学技術が発達したとなる
東洋だと日本ではモノというとき物が憑くとか物と心は一体としてみる、物にも心があるともみる、色心不二とかも仏教であり色とは物のことである、それは切り離せないものしてある
理系と文系というとき理系とは人間の心から切り離したものとしてobjectとして扱うとなる、だから人間の体でも部分化して機械のように見るのである、パーツの集合としてみるそれで手術でも体全体より部分の集合として人間でもみる
そこに東西文明の相違があるとまでなる

そして理系の一流の学者である武田邦彦氏が機械ばかりあつかっていると物体ばかり扱っていると頭が冷たくなると自ら言っている、それがなるほどと思った
人間と接しないからそこに人間の情が失われて知的頭脳的人間となり頭が冷たくなるということである、あの人は理系で一流でありまた文系的素養があるからめずらしいのであるそんな優秀な知能高い人間を自分のような文系の劣等生は理解できないのである

●医者や看護師は人間の体に直接触れるから心も伝わる

ただ現代というのは理系的なものが重要視されて文系的なものが何に役立つのかと実用的にならないとして価値が低くされるている、でも病気とかで考えると意外と文系的なものが必要になる、というのは病気なれば必ず医者でも体にふれる
ただ今では機械のみが体にふれて診察するということも起きているから一概には言えないでも人間を診ることは体に直接触れる、するとこの触れるということはどうしても心がそこに通じるとなる

脉をとる看護婦の手のあたたかき日あり、 つめたく堅き日もあり

脈をとるでも看護婦でも必ず人間の体に直接触れるのである、その時やはり看護婦が体にふれられたとき啄木は感受性が強いから微妙に感じたということである
それは体に直接触れられることによって心を感じたのである
だから心というのは目に見えないにしろ体にも影響する、それで江戸時代は医は仁術となっていたのである、それは宗教家にもっていたのである
その時は現代のように科学も技術も発達していないから仁術として医療もしていたとなるつまり体をだけをみるのではない、心まで診るのが医者だったのである

そもそも医療は宗教から始まった、それはキリストでも仏教でもそうである
人間が一番苦しむのは病気だからである、だから山伏でも山に入り修行していたとしても薬草も探していたのである、病気を癒すためには祈るだけではできいなから薬草を探して飲ませたとなる
なぜこれだけ医療が発達してもカルト宗教でも数が多いのか?
それは依然として病気でも治らない病気が多いからである、まず60代になると何らかの持病を持つようになる、でも医療が発達したので癌でも簡単に死なないようになった
あの人はガンなのに仕事を普通にしていて十年にもなると見る
それだけ例え癌になったとしてもそうして生きる期間相当に長くなっている
それは医療が発達した結果なのである

ただ人間というのは物体でも機械でもない、心をもっいる、そして心と体は一体である
病は気からというのもそうである、だからどうしても医者や看護師には愛の心が必要になる、愛でもって患者に接することが必要になる
でも優秀な医者でも別に愛がないことはありうる、それより手術とかなると何か冷徹なものにならないと生身の体を切ることはできないともなる
またいちいち多くの患者を愛でもって接しろといっても疲れるともなる
ただ数として処理することもある、それで議員でも番号で呼ばれて怒ったという人がいたのもわかる、家族ならできるが医者や看護婦では大勢の患者がいるのだから無理だというのもわかる

●理系の医者や科学者がフランケンシュタインになる危険

理系とか文系を区別するときこうして情的なものは文系的なものかもしれない、理系の人はどうしても人間を扱うより無機質な物体を扱う、機械を作る人でもそうである
すると頭が冷たくなるとなる、それは極端になるとフランケンシュタインのようになる
こういう人にも科学者はなりやすいのである、なぜならそこには人間は見えない
恐怖は人間を科学のための医療のための実験材料のようにさえみる、戦争中は本当にそういうことがあったからだ、それは犯罪だと糾弾された
科学者はフランケンシュタインのような恐ろしい怪物にもなりうるのである
そういうことが現代では起り安いのである、人間は物体であり機械のようにしか見えなくなっている、また医者からすれば医は算術となっているのもそうである

だから科学者でも医者でも看護師ですら悪魔的になるのである
相手が弱者化するら余計にそうなる、弱者化するから医者に従わねばならない
それで病院は本当に牢獄であり刑務所に思えた、そこから脱出もできない、でも病院を逃げた人もいた、私も二回入院してそういう恐怖を味わった
だから病院には入院したくないとなる、ただ別にそうはいっても医者とか看護師が全部非情だとはならない、それなりに尽くしてくれたのである
でも虐待されたこともあり恐怖なのである、女性の看護師が家族になれないというとき
やはりそういう限界がある場所だとなる

ともかく理系と文系というときこういう場所でも現実の社会に現れていないか?
啄木は文系であり文系として感じたことを短歌にした、そこに理系の医者や看護婦がいたとなる、そこで看護婦がじかに体に触れることでそのことを感じたのである
看護婦の心を感じたのである、ただ虐待されるよりはましだったとなる
でもこれからこれだけ老人が増えて病人が増えると嫌悪する人が医者でも看護師でも増大する、そういう弱者とばかり接すると健康な人も病的になってくるのではないか?
それは医者とか看護師とかだけの問題ではない

いづれにしろ理系文系のことをみてもそもそも理系と文系とは何なのかわからない
人間社会は様々な作用から成り立っているからである、すべて理系文系にも分けられないのである、総合的なものだからである、ただ文系だと別にどんな大学でも一流でもさほど優劣もなく関係ないように見る、理系は最低でも文系よりは優秀と見る
文系は何かただ遊びの場だったともなるからだ、講義に出るより授業に出るより遊んでいた方の人が好まれた、これも奇妙なのである、それで遊び人になった人がいるのも当然だったとなる、自分自身も三流大学で勉強などしていなかったのである
ただカルト宗教にはまったりしていたり何ら大学で勉強していないのである
でも卒業していたから独学していたとなる、旅ばかりして地理とかいろいろ興味をもって独学していたとなる、正直文系は独学できる、今ならyoutubeで大学の講義さえ受けられる、それも無料なのである、自分のプログでも大学の講義にもなる
それも無料でありいくらでも文系なら独学できる時代になったから文系大学はいらないともなる、ただ大学には大学の効用があるからそれを全部は否定できないことは確かである

●老人と病人が増大する高齢化社会で嫌悪されるのもわかる

現代社会はそうした弱者ばかりに不健康な人ばかりの高齢化社会になったときそういう気分になる、特に若者にはなる、みんな不健康な老人ばかりになる社会というのは異常だともなるからだ、それでニーチェとかの弱者を否定るす超人志向にもなる、それは弱者ばかりの世界になったからそうなったともなる
現実に私を見た看護婦は老人を世話するのを嫌がったいた、だから虐待までなっていた
そういうことは別に病院だろうが施設だろうがある、何かそんな病気の人ばかりと接することが嫌になるからである、それは自分自身だってそうなる、だから虐待が起きるのである、ただその衝撃は大きい、そうされたとき看護婦でも医者でも恨むとなる
それで殺人まで起きたということもあった、それだけとても様々な人に愛をもって接することができないのである、だから実際は病院では患者でも番号であり無機質的な場となるから家に帰りたいとか家族の元で死にたいとなるのが人間なのである

みんないたわってもらいたいのだという社会である、それを否定して超人を説いたのも
現代社会がそうして弱者を優先する社会になったからだともなる
愛とかなるとただ人は愛されることを望むのである、キリストが説いたのは愛する人になれということであり愛される人になれとは言っていないのである
あらゆる人はただ他者を頼り弱者にぼとこし助けるべきだとなるのとは違う
そういう社会はまた健全ではないことは確かである、ただこれは複雑な問題である
でも高齢化社会とはまさにニーチェが嫌悪した社会だということは確かである
あまりにも老人が病人が増えすぎた社会だから若い人から健康な人から見たら嫌悪するようになってしまうのである

社会の大半がみんな老人になり病人になり助けてくれとなる社会は異常だともなる
認知症が8百万になるとかまた障害者の数も多すぎる、かえって弱者でも病気でも精神疾患者が多いというとき病気でない人は異常だともなり責められるとまでなる社会になる
それも異常である、だからどうしても老人とか病人は嫌悪されるということにもなる
だから虐待も起きるとなる、終に精神障碍者を多数殺した若者もいた
何かそういう人ばかりと接していてその人は精神異常化したのだろう
それもまた現代の大きな問題ともなっている、いづれにしろ高齢化社会というのは別に健康的に長生きすればいいのだがどうしても弱者化して病人も増えるのだから社会全体からすれば異常だともなる、バランスがとれないとなる

子供が多くて若者が多い国はやはり健全だともみる、でもロシアでは若い人はが多いからあのようなウクライナで暴虐的な戦争にもなったのかとみる、若いということは血気盛んだからである、とても老人は戦争などできないのである
日本でも団塊の世代の時は子供が爆発的に多かった、それで活気があった、でもその団塊の世代が高齢化して社会自体が老人化して活気がなくなるとなる
だから社会全体の問題としてそうなっているということである


2021年10月24日

介護する人がいない、回りで死ぬ人が増えて来る (8050問題ー78歳は鬼門の歳)


介護する人がいない、回りで死ぬ人が増えて来る

(8050問題ー78歳は鬼門の歳

昨日あった老人は知っている人だった、家の畳を作った人である、でも夫は78歳で死んだ、10年くらい介護していた、その女性を見たら身体がまともではない、体がぎこちなく姿勢が悪い、何かやっと歩いている感じにもなる、腰もちょっと曲がっている
老人を見る場合姿勢をみることである
歩く姿など見ているとこの人は相当にふけてきた弱って来たとみる
もう一人は最近腰が悪いとか足を悪くして不自由になっている
71才だけど普通よ老けて見える、足が悪くしてまともに立てないからつかまって立っている、それはワクチンの後遺症もあった、でも前から腰とかが悪かったのである

家の畳を作った夫の妻は近くの医院で働いていた、その医者のことではこのまわりでいつも話題になっていた、でも死んでから何も言う人がいないのが不思議だった
その女性は7年間手伝いで働いていた、でもその医者が死んでから話題にすることがないので忘れていた、そしたらその息子が死んだという
それを聞いた時その人は東京でやはり医者をしていた、でも父親が死んで医院を受け継ぐということで一時もどったがまもなくまた東京にもどった
母親を看るためだとして戻った、でも母親は施設にあづけられた、その人も死んだ
でもその息子はまだ若いと思っていた、ただここでの生活はしていなかった
だからなじみがないしわからなかった
でもその息子が死んだと聞いた、これも驚いた
歳はやはり78歳くらいである

78歳は鬼門の歳だ

なぜならその隣の人も最近78歳で死んだからだ、その畳屋も死んだのが78才だった
そして隣の女性も突然78歳で死んだ
いかにこの年は危ない歳かわかる、そして78歳にるなと急に弱ってくるという、ここが鬼門の歳であり限界の歳だと示している
そしてその残された女性は婿様と一緒が実の息子ではないのでなんとかと言っていた
おそらく実の娘は死んだのかもしれない、その辺はわからない
でもその女性でも何か見ていると介護状態になるのではないかともみる
どうしても姿勢とか歩く姿を見るとそれで弱ったなと感じるからでる
でも介護する人がいないともなる、娘がいても東京とかに離れている人も多いのである

とにかく高齢化社会とはこうして弱ってくる人が多い、そして介護となるとその人もそうだが息子でも一人で暮らしているとかありいないのも多いのである
8050問題は相当に深刻になる、80歳の親を50歳の息子娘が介護することになる
でも介護するにもその余裕がある人は少ないのである、人手も金もない人が多いから深刻になる

とにかく回りで死んでゆく人が多いとつくづく思う、話題になるのはそうして死ぬ人なのである、例えば知らない人でも俳優でも時代劇を見ていると死んでいたのである
役人の俳優は藤田まことでありその人が死んでいたのである、十年前に死んでいたのである、これもわからないから生きているとして見ていた
三〇年とか四〇年前のドラマだからその俳優でも死んでいる人が結構いるということである、ただドラマは面白いと思って見ている

本当に死が身近になり田舎だと誰々が死んだとかが話題になる
それがあいさつにすらなる、そして悔やみにいちいち行くときりがないとなる
ともかくこれから膨大な死者が出る、都会だと焼き場でも焼ききれないとかも言う
それだけの人が死ぬということである
その前に介護がありそれが下の世代の負担になる、なにしろ数が多いからその負担で国もつぶれるとかまでなる、それほど深刻なのである
回りをみても老人と病人ばかりだとなってしまうからでありそうなる傾向はさらに強くなるからだ、田舎でも都会でも老いてゆく、そのことで日本は衰退して悪化してゆくのである

2021年10月15日

行き場のない老人 (人生百年時代に備えられていない)


行き場のない老人

(人生百年時代に備えられていない)

ただ、定年退職者を取材した時に、私の問いに正面から答えてくれた人たちのなかには、「毎日やることがなくて困っている」、「一番自由な今が一番しんどい」、「家で居場所がない」、「暇になったのに焦る」、「嫌な上司もいないよりはマシ」などと語られることがある。なかには「このままの毎日が続くと思うと、自分の人生は何だったのかと思うときがある」とまで発言した人もいたのである。

これも老後が長くなる高齢化社会の問題である、江戸時代とか戦前とかふりかえればこういう問題はあまりなかったろう、なぜならもうこうなる前に寿命が短いから死んでいた
長生きした老人はいろいろな生きじびきとかなり教えることがあり敬われたとなる
長老となり村でも指導する立場になって役割があった
そして社会自体が今のようにめまぐるしく技術でも進歩しない社会だった
今になると技術の進歩が激しいからかえってパソコンでもスマホでも使えないとなると
時代についていけず取り残される、情報でもテレビとか新聞だけでは通用しなくなっているからだ

そして今は地域とか関係ないのである、田舎でも関係なくなっている
それがわかるのは近くでも何して働いて食べているのかわからないのである
この家の人は何して働いているのかわからない、この辺では原発事故で移り住んだ人が多いので余計にわからないのである
戦後十年だと会社員というのはわずかだったろう、小さな店とか自営業が多かった
だからたいがい近所で何をしているか仕事がわかっていた
竹で篭を作っていたとか精米屋とか漆塗りしていたとか石屋とか大工とか職人でも自営業であり会社員というのはなかった
あとはほとんど農民とか漁師とかキコリとかであった
今は会社員だとするとき個々人とか家業でないからわかりにくいのである

ともかく何か社会でも身近で理解できるものとしてあった
すると親の仕事をみて習い跡を継ぐ人も多かった、職人ですら十代以上つづいていた家もある、技術とか変わらないからそうして続けられていたのである
農業だってこれは変わりにくいものであり家の跡を継ぐことになる
そういう社会は変化がないが老人にとってはいい社会だったかもしれない
隠居するとかで自分の趣味に打ち込むとか若い人に教えることがあり尊敬されていたとなる
技術が変化しないから陶芸などの仕事など子供に教えることができるからだ

今は会社員になったとき会社を退職するとでは何を教えるのか?

例えば自転車屋だったら自転車のことを教えられる、でもそういう仕事はなくなりすべてが会社員になったとき何を教えるのかとなる、退職したとたんに何も用ない人になるのだこれは実際怖いことである、人間は仕事を見て人間をみる
極わずかの人は芸術家などはアウトサイダーになる、そうなるのは社会というのはみんな仕事をもって生活しているからである、芸術家は仕事になりにくいからである
だから今度は仕事をしないニートとか老人は社会で無用のものとされこくつぶしとなる
肩身の狭い思いで暮らすほかない、何か昼間ぶらぶらしていると警官が職務質問したりする、また勝手にボランティアなどすると怪しまれてまた警官が職務質問に来る
ボランティアは意外と簡単にやれないしめんどうなものなのである
そこにボランティアの無責任とかもともと仕事は会社でするものになったとき会社とは会社員が共同でするものであり勝手に会社員でないものが働くことはできない
そういう人は会社にとって邪魔なのである

こうして老人の行き場がなくなる、そしてどこが行き場なのか?
それが医者とか病院なのである
そうして現実に病院通いとか医者通いしている老人が多いのである
それで病院では老人が集まり病気の話をしたりサロンのようになっているというのも現実である
だからつくづくそうして使われる金も膨大になっているのだ
それが保険から出ていて財政を圧迫もしているのである
とにかく老人で盛り上がるのは病気の話なのである
何かその人はたいして病気でもないのに医者に通っているのかともいらない薬も飲んでいるのかとも見てしまうのである
ただそこで老人はいたわられ病気であることによって存在が認められているともなるのだ社会では一切認められない存在でも病気となり医者に認められ病気ではまともに相手をしてくれるとなる、他はどこでもまともに相手にしてくれないとなる
また住宅で底辺層が生活しているがネコ十匹飼っていたり光る金属片を部屋の前にぶらさげてそれが光るので眼が悪くするとノイローゼになっている人もいる
こういう用のない老人は全国で膨大になっていることは確かである
ただ迷惑人間になっているだけなのである、邪魔な老人になっているだけなのである

でも何かしようとすると

老人は何もするな、邪魔だ

こうなっているのである、こういう社会なのである、だから人生百年はただ苦痛であり
地獄だとなる人も多くなる、社会のシステム上でそうなっていることも多いのである
ただ人手不足でシニアも働く社会にはなっている、働かざるをえない社会にはなっているだから70でも働く人は多いとなる、それなら社会に認められたとなるからいいとなる
ただ社会から受け入れられない老人も多い、

ゲートボールの方は面白そうなんですけど、これは退屈で要するに単なる老人界の社交場なんでしょう。若い時に非リア充だった人には辛そうです

あと平均年齢が非常に高いです。70歳以下は居ないんじゃないかな?考えてみたら今の60歳代は普通に働いている人が多いです

こんなふうに遊んでいる老人は眼につく、でもそれは社会に何か貢献するものではないのである、何か家で邪魔になるからそこに行っているとも聞くからである

そもそも人生百年に備えることなど誰もできない、退職してから30年でもあるとしたら相当に長いからである、だから死後が無ければ暇をもてあますとなる
そして社会貢献としてボランティアすることは本当にハードルが高く犯罪者にもされる
そういう人がいて実際に問題になって事件にもなっているからだ
今野社会はみんなでチームを組んでしているのであり勝手にボランティアなどできないのである、するとどこにも自分の場がないとなるのである

人生百年に備えるのにはライフワークを持つことである、生涯エネルギーをそそぎこむものを持つことである、それが収入にならなくてもそうである
私は一切収入をう得たこともないのに芸術とかを追求してきたからである
それで最近みんなアーティスになれということも時代が変わったなと思う
そんなこと団塊の世代とか猛烈企業戦士の時代にはありえなかったからである
本当は昔の仕事は農民でも職人でも一生の仕事でありそこで技を磨いていたのである
スキルを磨いていたのである
意外とこのスキルを磨くことが大事なのである

それがわかったのは全く絵の才能もない自分がパソコンのソフトで抽象画を大量に作ったことである、これは技術があればできる、artは技術なのである
つまりコンピュターが生まれて新たな技術が生まれてできたものなのである
そのスキルを身につけると大量の抽象画ができることがわかった
その素材はインタ−ネット上に無限にあるからそれをソフトで変化させればできるのである、全く絵の才能がなくてもできるのである

とにかく人生百年の問題は今まで経験していないことだからいろいろな問題が生まれる
ただ会社員になっていると会社を退職したた同時に無用化される
それははっきり見えている、その後は用なしのごくつぶしにされるから問題なのである
それは苦痛であり何をすればいいのかとだらだら暇つぶしに過ごすことになる
でも芸術家なら自分の作品の完成に産後まで励むからいいとはなる
ただみんなが芸術家となるわけにいかない、ただ人生百年時代の備えは早めにしていた方がいいとなる、金の問題でも暇の問題でもやはり何か打ち込むものが人間には必要なのである、会社を退職したときその仲間でも生きがいでも失う、でもなかなかその前に備えるのがむずかしいのである人生百年時代を実りあるものにするのは大きな課題になっている
仕事を持っている人は金も必要だか人生百年では勝ち組
仕事の持たない人はごくつぶし、誰も価値あると認めない
金があってもただ食べるだけのごくつぶし

この辺では原発事故で補償金暮らしになった人が多い、その人たちはパチンコとかギャンブルするしかやることがなくなった、それでひんしゅくをかった
でも仕事をしている人がいてそういう人は必要であり価値あるものと認められる
だから金も必要にしても仕事も大事になる
仕事をしていれば他の人も価値ある者と認めるからである
金があっても仕事をしていなければ認めないとなるからだ

人生百年となると教育でも変えねばならない、知的能力の進歩とか何か人間が今までの様な肉体労働だけではない知的な方面での進歩をうながしている、別に特別な人だけではないあらゆる人にうながしている
だからみんアーティストになれというときそうなのである
他にも素人学者になれはかもある、そういう過渡期に起きたことでもある
そこでこれは教育から子供の時の教育から見直す必要がある
自分が好きなのもを早めに見出して一生続けることが大事になる
そこで暗記教育とか受験教育はかすべて実用に結びつくのではない遊びの要素を多く取り入れたものを追求することである、もう読み書きソロバンの時代は終わっている
創造的教育が必要な時代なのである


2021年08月16日

墓はなんであるのか?(墓の効用-恨みを残し死んだ人の墓)


墓はなんであるのか?(墓の効用-恨みを残し死んだ人の墓)

我が墓に誰か知らぬも花を挿す人のありしもありがたきかな

お盆ならみんな墓参りする、だから必ず墓を意識する、墓を意識するということは死んだ人を意識することにもなる
一年に一回か二回死んだ人を意識する、死んだ人を偲ぶ、そのために具体的なものとして墓がある、ただ別に墓がなくても死んだ人を偲ぶということはある
家で遺影が飾ってあるからいつも見ていて死者を偲ぶことは普通にしている

自分の家の墓に誰か花を挿していた、それはいつも挿す人がいる、今日見たら枯れた花をとりはらっていた、でも誰がこんな心使いをしているのだろうか?
それは一人は知っている、私が花を挿していると自分に言ったからである
でもその女性は私の家とそれほど深い関係もないし世話した人でもない
何でそうしているのか不思議だったとはなる
そもそも私の死んだ家族は必ずしも他者に尽くしたという人ではない、ただ自分だけに本当に良くした尽くしてくれたのである
無条件で尽くしてくれたのである、だから普通の親とは全く違っていたのである
でも他者に冷たいことがあり何か意外と病気になっても思う人もなく死後もないと思った
たたで考えたことは墓はなんであるのか?

墓は死者のためにあるとは限らない、なぜなら死者は墓にいるのかどうかも本人でもわからないだろう、死んだら後のことがどうなっているかなどわからないだろう
でも死者に対しては偽れないということはある
何か冷徹に生者を見ている、そういうことで死者が全くいないとういことでもない
何かいるということを感じるからそうなる
例えば生前親でも死者に冷たくした人は墓参りができるだろうか?
墓参りは実際はみんなに見せびらかすものでもない、誰も見ていない所で墓参りする
でも死者は見ているのだ!
すると生前冷たくしたとき恨みを残した人の親でもできるだろうか?

その親戚は育ての親にひどいことをした、それは自分はかかわらないから知らなかった
そんなに実の親ともめたことも知らなかった、第一付き合いがなくほとんど自分の家では交際しないし争っていたともなるからだ
でも最後に「ひどい娘だわ」と自分に電話してきたのである
それもなにか付き合いがないからわからなかった
それがわかったのは自分の家にきて母親が病気で寝ているとき、「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらへ」と血相変えて去って行ったことである
そのこと以来私もそんなひどい娘がいるのかと恨みとか怒りとなり消えなくなったのである、もしそういうことがなかったら何も思わなかったのである
その人は何にも自分の家に来てしていないのである
ただ別に付き合いがないのだからしかたがないとなりる何も頼んでもいないのである

それから母の実家の長男が死んで墓を守ってくれと3百万もらった、それはいいとして
これもなかなか大変な責任があると今では思う、もちろんそういう人だから墓でも捨ててもいい、実際捨てるだろう、何かその実家の墓に埋まっている人など思う人ではないからだ
しかしその人には別に実家から分かれてもう一つ墓がありそこに父親と育ての親が埋まっている、だから二つの墓参りをすることになる
でも「ひどい娘だわ」と一言言って死んだ育ての親の墓参りができるのだろうか?
別にそれは墓参りしようがしまいが誰も見ていないしそんなこと詮索する人もいない
でもその恨みは相当に深いことが自分の家族に対してした異常なことで自分自身も自覚したのである、本当にあれほどひどい娘はいない
何もしないのに母が苦しい時、百万くれたのである
でもその女性は何もしないのである、ただ母が苦しいからそうしたのである
第一近くに住んでいないから何もできないのである
それを私が返してくれと言ったら夫の方で返してくれた
実際何もしていないのに受け取ることは普通できない
断るのが普通なのである

その女性は人非人だった!

にん‐ぴにん【人非人】 の解説

1 人道に外れた行いをする者。ひとでなし。

2 インドの俗神、緊那羅 (きんなら) の通称。その姿が人に似て人ではないのでいう。

もう人間ではないと思った、どうしてそうなったのかわからない、たてだ金では苦労していないしそんなに悪い境遇ではない、ただ三人母親が変わったということでそうなったのか?それにしてもそんな苦労はしていない、むしろ三人の母親に良くされたからである
とにかくどうしてそんな人非人になったのか不可解だとなる

その娘はまた5歳まで暮らした実の親を認知症になった親を施設にあずけている
それも全く金のためなのである、その実の親は金をもっているからだ
でも認知症になっているのだからわからない、金しかその女性は眼中にないから最後に悲惨な結果になったとなる
何か母親の実家は警察署長していたとしても不和分裂の家でありそれは死後もつづいていて自分にもふりかかったのである、カルマとなったのである
だから今は恐ろしいから母親の実家とはかかわらない、墓参りもしないのである
ただ兄が埋まっていたので自分の家族の墓の脇に墓標を作った、交通事故で40才で死んだからである

墓とはななんのためにあるのか?それは遺された人のためにあるともなる
死んだ人はもう無意識でありわからないからだ
ただ残された人が死者を想う時墓参りしたりする、そこで死者と通じ合うとなる
その媒介として墓があるとなる、何もなくなれば海に灰をまくとかなれば何も残らなくなるから墓参りもできないので残された人が困るとなるからだ
ただなんか誰か知らない人が墓に花を挿してくれているというのはうれしいとなる
それは無償の行為だからである、墓参りは実際無償の行為である
何かそれで利益になるということもないからだ

でも偽りの心で死者を想わないのに墓参りで装うことはできない
なぜなら死者はその人を冷徹に見ているからである
だから「ひとい娘だわ」と言って死んだ人の墓参りなどできるのか?
ただ別にそのことはわからない
いづれにしろ恨みを残して死なれると後が怖い、それが自分にその恨みがのりうつりあるインドの哲学者はそういう恨みの念が他人にうつりその人が殺人まで起こすと説いていたそういうこともその一言で自分も感じたから怖いと思った
念は一人にとどまらないのである、怨念でも誰かにその念が移ってゆくから怖いとなる
念の力は意外と目に見えないとしても人間にとっては大きいものなのである

それで介護にもいろいろ問題があるが何か恨まれてしなれると嫌だなとなるのだ
私の場合は一応懸命になって介護したから最後にわかってくれたことで救われた
そうして死後も供養できるのである
ただ自分の場合は特別良くされたことでそうなったのである
それを他者には要求できない、みんな親に兄弟でも良くされないからである

ともかく墓がなんであるのかとなると残された者へ死者を偲ぶためにある
ただ墓があってもそうして怨念となっているとき墓参りができるのかともなる
死者はいないようで冷徹に見ているからだ、それは見えなくても感じる
そうしたら怖くて墓参りもできなくなるのではないか?
「あんたはひどい娘だ、見殺しにもした、私はあなたを永遠に恨む」
こうなって死んだ人の墓参りできるだろうか?
それももう他者にはわからないにしろ偽ることができなくなる

いづれにしろ墓はやはり残された人のためにあり何かひっそりと墓参りする時、誰も知らない見ていないのに墓参りするとき、その人には何かそうした墓参りしなければならないものがある、死者に対して懺悔する人もいるかもしれない、だから墓は具体的なものとして死者のいる場所となり遺された人がかかわる場所になる
そういうことで墓の効用があり簡単に墓がいらないともならないのである

とにかくこうして人間は罪深い者である、ただそれを自覚している人はいない、その信の姿を見たら恐怖になるだろう
動物の霊が憑依したような姿になっている、ただ本人にはわからないのである、自覚できないのである
そんな人がいるというのも子供の時一回くらいしか逢っていないからショックだった
ただ大人になれば遺産をめぐって骨肉の争いになるから同じことがある
人間は金をめぐり修羅となり悪魔ともなる、それがこの世の実相だったとういことに引きこもりの自分は驚き唖然としたとなる
だから自分は人とつきあわないとき幸せだったとなるし人間嫌いなのである
あまにも恐ろしい醜い人間に恐怖するとなったからである

2021年08月15日

10代からの介護の過酷 (親戚でも回りでも誰も助けない―一人に押し付けられる介護))


10代からの介護の過酷

(親戚でも回りでも誰も助けない―一人に押し付けられる介護))

「10代から親の介護で"人生が棒"」定職につけず、恋人に捨てられた30男を鬱病にした身近な真犯人

30歳独身の男性は高校時代から13年間も父親の介護をひとりでしている。父親は脳梗塞の後遺症や糖尿病網膜症などを患い、要介護4。ギャンブル狂の母親は父親と離婚し、パチンコで知り合った男性と再婚。男性は、昼夜を問わない介護で消耗するだけでなく、底意地の悪い親戚や自分の陰口をたたく職場同僚などにも悩まされ、心を病んでしまう――(後編/全2回)。

他者のことは理解しにくい、でも10代からこれだけ介護に苦労するとなるとうつ病にもなる、たいがい認知症の介護はうつ病になる、自分自身もなったからだ
ヤングケアラーというのは大問題である
なぜなら若い時に人生そのものを奪われてしまうことにもなる
何か私も親戚の人が叔父が輸血してくれというときしなかった
30くらいの時だった、その人は恨んで死んだかもしれない、ただその時登山した後で死ぬほど疲れていて死んだように寝ていたのでしたくなかったのである
その後その娘がめい子になる人が自分が介護になったときひどいことをしたのもカルマかともなる、でもその娘は育ての親にもひどいことをしたのだからその娘自体に問題がありその娘はなぜか非情化した異常な人間だったのである

何か介護となると必ず誰か一人にまかせられ後の人はかかわらない、ここでも親戚がかえって責めてきていたのである、自分の場合もそもそも兄弟もいないし親戚というものもいなから余計そうだった
金のことしか頭にないのである、苦しい時金を要求することしかなかったのである
人間はそんなものだと知った、回りではその苦しみを楽しんでいるだけだとなる
この人は若いしプロレスラー希望となると体力もあった、でもうつ病にもなる
私は病気になり四苦八苦して介護していた、でもそこに同情する人は一人もいなかった
私の場合は他に誰も介護する人はいなかった

ただ私の場合は介護する強い動機が強制されなくてもあった、とにかく特別良くされたからである、60まで身の回りでも食事の用意でもしてくれた、引きこもりでもしてくれたそれで自由に旅をしたり勉強したりとできたのである
こういうことは普通はないから特別であり介護になっても認知症になっても必死になって介護したのである
だから若い時から最も貴重な時に介護を強いられるのは過酷だとなる
ただ自分自身も青春時代にしても底辺労働しかしていない、それが悪いともならなかったなぜなら苦労していないのにその時相当に苦労したからである
だからその親の過酷な介護でもすべてが悪い方に働くとも限らない、一つのいい経験だともなる
でも介護は何か実りにならない、介護したからとしてそこで何か時間を有効に使う、仕事のスキルを身につけるとかにもならない、それがのちのち大損失だったということになり親を恨むとまでなる
私は介護は過酷でもそれまで特別良くされたから恨んでいないし今でも親を供養して感謝しているのである
ただこういうことはなかなか他ではありえないのである

いづれにしろ介護は2025年問題があり大問題になる、団塊の世代が介護される側になるからだ、何か近くでも同世代でも脳梗塞になった人を三人知っている
一人は口がきけなくなったとか足が悪くなったとか救急車で一命をとりとめたとかまたガンになった人もいる、60以降病気になる人が多い、自分自身も病気になったからであるその女性は70にしろ息子が三人いても一人は障害者であり一人はまともなのだけど完全に絶縁して捨てている、だから母親が苦しくても関係しないのである
それも身勝手だと思う、なぜなら家族を捨てても誰かめんどうみざるをえないともなるからだ
それが福祉になったりする、捨てることは楽である、でも誰かが他人がめんどうみざるをえなくなることがあるからだ
捨て子の場合は将来かあるからめんどうみるとなるが老人の場合はただ貴重な時間と労力を奪われるだけだともなる
だからもうそうなると家族も家族ではない、他人以下である、何か新しき車を買ったとか言っても親には一銭の金も払わないのである、そして他人にめんどうをみさせようとしているのも腹正しいともなる
そして一人独身の息子がいたとしても金銭的に困っていても援助もできないのである
その母親は他の人より体が弱っている、もし介護状態になったらどうなるのか?
今でも父親は青森の施設にいて備品などの金銭的援助を強いられている
そしてまともな息子は親を捨てているから何もしないのである
家族遺棄社会の現実の例に成っているのだ

ともかく高齢化社会でもみんな健康ならいい、病気になる人が実際は多い、介護になる人も多くなる、その重圧がものすごいのである、それが下の世代にのしかかる
そしてその息子とか娘だけではない孫まで介護に費やされるという状態になる
それから医療費もまたもう限界状態になっている、病気になる人が増えつづけてもう健康保険でも維持できないとなる、だから延命治療自体しないようにもなっている
それよりできないのである、もう治療しているときりないからである
そして医療費は薬でもなんでも高くつくのである、その負担がまた膨大なのである

これからさらに介護地獄がやってくる、そしてもうめんどうみれないと家族遺棄社会にもなる、その金銭的余裕もなくなっているからだ、今の団塊の世代の子どは氷河期世代などであり金銭的余裕がないのである
だからこの人も働かざるを得ない、そして働いたけど介護もしなければならないと両立できなくなり苦しみのどん底になったのである
私ももう苦しみのどん底になっていた、それも一人しかないないからそうなっていた
ただ兄弟とか親戚がいても助けるとはかぎらない、この人はかえって親戚に苦しめられたとかある、親戚でも金しか求めない人も多いからである
何か人間は弱者化するとそこにつけこまれる、というのは相手も借金しているとから余裕がないからそうなる、余裕がない人は助けられないからである
そういう人は自分自身が生きるために必死であり相手が困った時チャンスだとなっていたのである

ともかく親の介護で若い人が自分のしたいこともしないとなる悲劇である
人生が奪われたとなりあとで親を恨むようになる、そして死んでも供養もしないともなるそういう人を知っているからだ、さんざん苦労させられたから親に感謝したりしないのである、そういう人も増えてくる
私の場合は特殊な事情で親に良くされたから必死になって介護したのである
でも普通はそんなに親に良くされないのである
だから普通の親では介護することは苦痛になるだけだとなる

いづれにしろ日本の経済の衰退と少子高齢化社会でをとなるのか、そして中国とロシアが虎視眈々と日本を狙い侵略してくるとかなり内憂外患になる
日本のコロナウィルスもどうなるかわからない、収まりそうにもない
日本は危機的状態でありとてもオリッピックとか高校野球でも東北学院が注目されたが陽性者が出たとかもう中止しろともなる
五輪とか野球とかしている時ではないともなる

ともかくこの人は両親に恵まれなかった、やはり親の影響は大きい、親がその人の進路を決めるともなる、ただ介護で人生まで奪われるとなると深刻である
たいだい親が子供の犠牲になるというのが順序だからである
でも後進国の貧乏な社会では子供は親のために働かされるのが普通である
江戸時代だと親のために娘が身売りされるとかある
だから大正生まれの私の母親は親のために働かされたとかで相当に不満だった
でも自分自身が自由にしたいことができたのは別に実の母親がそうしたのではない
もう一人母親がいてそうできたのである、だからここがなかなか外から理解できない
事情があってそうなった、それで二人の親に自分は介護して今も感謝しているのである

2021年08月10日

お盆に人は死者を思い供養する (神道の神とは死んだ祖(おや)のことである-死者の二柱(母と姉))


お盆に人は死者を思い供養する

(神道の神とは死んだ祖(おや)のことである-死者の二柱(母と姉)

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姉と母死すとも我を支えなむ祀り尊ぶ二柱かな




死者の二柱(母と姉)

人は確かに骨となり灰となり消える
しかし人間は動物とは違う
人は死んでも容易に消えない
その生はなお継続する
我が親なる二人の女性は死んだ
しかしかくも長くも我を支えた二人の女性
今も二本の木となりて支える
その木は長くもこの地に立っていた
その木は切られなくなったとしても
その根っこはやはり残っていた
二本の木は二本の柱のように残りぬ
その木の間にありてなお我は支えられぬ
我が右と左にいつもありぬ
まことに人は見えなくなっても
その生は継続されて消えぬ
我はその二柱に支えられぬ
今もの言わずとも力強くも支えられる
そこに充実あり我は一人ではない
死者一つの柱となり社となる
かくして後の人を支え続ける
我は見えぬ死者の二人の手をにぎる
その時なおも愛は通いあい
さらに強くも結ばれしことをしる





お盆には死者を想う、死者も死んで十年くらいすぎるとどうしても不確かなものになり忘れやすい、現実にいないなのだから去る者は日々に疎しと死者はなりやすい
でも死者を偲ぶというとき実は生前どうであったのか、生前の関係であり生前のことで
死者を想っているのだ、だから実の親子でも親にひどい目にあったとか毒親になると
死者のことは思わないのである
ただひどい目にあったという記憶しかないからである
そうして墓などに全然関心がなくなり放置される場合がある

やたら死ぬときにこだわる人もいる、カルト団体とか仏教関係だと成仏するというとき
死ぬときの相とかにこだわる、そもそも人間はどうして人間を見ているのか?
偉人になった人はやはり生前に功績を残した人でありでたらめに生きた人を評価しない
だから近くの人は誰からも嫌われていた、息子は毒親のために自殺させられたとか言われる
でもその人は死ぬときは簡単にあっけなく死んだ、介護されることなく死んだ
介護する人もいなかったが死ぬとき簡単に死んだのである
人にめいわくもかけず死んだのである、その死にざまは死んだ時の相はわからないにしろさほど苦しまずに死んだように推測するのである
だから死ぬときの相とかが問題ではなくどのように生きたかの方が大事なのである

それは偉人だからというのではない、普通の人でも親子がいたとして家族内で親を大事にするとき何か子供にとって親はいいものだったとなる、親は子供に尽くしたとなり評価して死後も手厚く供養して墓参りするともなる
ただ供養とかは義務だという人もいる、死んでも関係を継続させるためである
ただやはり死者を想うことは供養することは生前の関係で決まる
そもそも死んだら何もできないのだから当然そうなるのである

だから死んだら子供にすぐ忘れられる親もいる、意外とそういうことも多いとなる
つまり親だけでは子供うんだだけでは普通に育てただけでは親を思うことはないともなる何か親でも特別な親でないと供養がつづく死後も思われることはないとなる
実際人間は血縁であってもそれが人間関係を決めないのである
むしろ血縁ではない子供を養子にもらって愛情をそそぎ育てるとその子供は親を血縁の親より大事にする、逆に血縁でも親を嫌い親を親とも思わない子供も普通にいる
だから子供産み普通に飯を与えて育てても子供が必ずしもそれだけで親のことに感謝することもないのである
親でも親のエゴとか見栄がありそのために子供出しにすることが普通にある
親でも子供に無償の愛を注ぐわけではないとなる

私の場合は特殊なことで親を思っているのである、二人の母親がいたともなるからだ
それで私は無条件に愛されたのである、これもだから他者から理解しにくい
それは60歳までつづいた、引きこもりでも何も言われない、好きなことをしていいよとなっていたのである、結局それは特殊な家族でありそうなったのである
だから私は二人の親に支えられたし死んでからも支えられている
生前の関係が継続されて死後も二人の親のことを思いつづけているのである
ただそのために介護とかでは他の人より一人で苦しんだのである
すべてがいいものともならなかったのである

ただ死後のことは生前のことで決まるのであり死んだからと言って特別変わることはない生前の継続して死後もある、だから依然として二人の親は自分を支えているとなるし今度は自分が親を供養して支えるともなる
親でも死んだからすべて尊ばれるとかないのである、それは生前の関係で決まるのである私が親を思う時はそうして無条件に自分を支えてくれたことによっているのである
ただこのマイナス面もあったからすべていいものとはならない
でも二人の親は自分を60までも支えてくれたなとなりそれが理屈ではない、現実として実体として継続されているのである
それがこの詩になる、親でも死者が一柱とか二柱とか表現する
まさに二柱となって自分を支えてくれたから死後もやはり支え続けていると観るのである
こうして親を思うのは私の場合一緒にいた時間が長かったためである
娘でも結婚すると親から離れたり子供でも一緒に暮らさないと疎くなる
親でも子供でも忘れるようになる、結婚したら妻が大事であり子供が生まれたら子供が大事になり親のことより自分の家族が大事になる
すると親であっても家族は別であり離れて暮らすと余計に疎くなるのである
人間はやはり一緒に暮らすことで愛情が生まれる、それが不思議なのは例え憎んでいても一緒に暮らしていることが愛情をはぐくむ
一緒に暮らすことは助け合わないと生きていけないからである、何らか協力することになるからである
結局憎んでいることも愛していることだったとさえなる、愛がないというとき本当は無関心になることであり憎むということでもないということがある
憎むということは愛の反面だったともなる、それは片方が死んでみるとそれがわかるのである、60年とか一緒に暮らしていれば憎んでいても愛していたのだとなってしまうのである

『日本の助数詞に親しむ』中の、「神様の数え方 柱(はしら)」の項目に、「「柱」という字は「木」と「主」からできています。「主」は「そこにじっと立っている、支える」という意味です。
古く『古事記』や『万葉集』の時代から、日本では樹木に神様が宿ると考えていました。さらに、人間は土の中から植物のように生まれ育ったと考えられていて、「人間一人」の別称に「ひとつぎ木」という表現を用いて歌を詠んだりしていました。そこから、樹木が敬意を払う対象となり、ご神体、神像などを「柱」で数えることにつながりました。」と記載されています。

神なびにひもろき立てて斎へどもいはへども人の心はまもりあへぬもの
(二六五七・寄物陳思)

神奈備山に、ひもろきを立てて、大切にするようにしてはいても、人のと言うものは
守ることが出来ないものです。

    巻11−2657

神奈備山→神の降臨する山や森

ひもろき→神の降り代として立てる木

日本神話の天孫降臨において、高御産巣日神(高木神(たかぎのかみ)とも呼ばれる樹神)は、天児屋根命と太玉命(祭祀を行う忌部氏の祖とされる)に、「天津神籬と天津磐境を起こし樹(た)てて、常にわが天孫のために斎(いわ)い祭りなさい」と命じたとされる[1]。

伊勢神宮において

神が依り憑く神籬 (ひもろぎ)として、心御柱(しんのみはしら)を、伊勢神宮の正殿、床下中央部分に建てている

木をたてる時、その木とは死者のことである、神とは日本では死んだ人、親であれまた先祖なのである、つまり死者が一柱二柱というのはそのためである
ここに神道の深い意味があることを知った
こういうことは実感として知りえない、愛する人が死んだりしないと実感できない
神道とはわからないにしても神とは死んだ人であり死者を祭ることに由来している
死者はどうしても神になりやすいからである
死んでから十年もすると何か定かなものにならずまさに守られない、つまり墓でも守れないとなるのがこの世だからである
だからここには神道でも深いものがある、つまり人間は千年であれ古代からこうして死ぬ人がいて死者にどう対処したかが宗教ともなる
日本では先祖が神となるというときもそうである、たいがい死者は神になりやすいのである、八百万の神がいるとしてその神は死んだ人でありその死者を祭ることが信仰にもなっていたのである

常に言う家の柱さしこの家は我が建てにしと誇りけらしも

姉は家の柱は同級生の橲原(じさばら)のキコリだった人から提供されて建てたと常に自慢していたのである、まさに家の柱だったのである
何かやはり神道であれ深いものがあるのは人間として代々生きてきた歳月が長くそこで培われたものがありそれが伝統ともなり受け継がれたからである
ただその意味もわからなくなるし「心はまもりあへぬもの」ものとなる
日本に無数の神社があってもその由来がわからないものが多いからだ
それは千年もすぎれば伝えられないし何のために祭ったのかもわからなくなっているからだ
だから人間は伝統的なものに深い意味がありそれをたずねることでありそして今を観ることである、人間は別に親が死ぬとかは誰でも経験する、でもそうしたことは千年でもつづいたことなのである、そして人間は必ず親でも死ぬのだからその繰り返しでありその時思うことは大昔でも同じようにありそこに残されたものを知り理解を深めるのである

連理木。(れんりぼく・れんりぎ)
http://www.higashiyama.city.nagoya.jp/blog/2020/04/post-4025.html

この木の写真はいい、まさに二つの木が結ばれている木である


2021年07月12日

熱中症で70代の人が工事現場で死ぬ (老人は汗がでず体温調節できない)


熱中症で70代の人が工事現場で死ぬ

(老人は汗がでず体温調節できない)

heatup1.jpg

熱中症計ー見守りっち


東京都文京区で10日、70歳代の建設作業員の男性(相模原市南区)が工事現場で体調を崩し、熱中症の
疑いで死亡していたことがわかった。

都監察医務院によると、熱中症の疑いによる死者は東京23区で今年初めて。

警視庁駒込署によると、男性は10日午前、文京区千駄木の住宅工事現場で作業中に体調不良を訴えた。
その後、トラックの中で休んでいたが、工事関係者が午後1時頃、車外で倒れている男性を発見。駆けつけた
近くの病院の医師がその場で死亡を確認した。

男性は騒音への配慮から、車内のエアコンをつけていなかったとみられ、駒込署が詳しい状況を調べている。

気象庁によると、10日は東京都心で今年最高の33・4度を記録していた

https://news.livedoor.com/article/detail/20517800/

70歳以上となると熱中症は怖い、私自身が自転車で春でも夏のように暑い時遠出して
返ってきたら吐き気とか痙攣までした、この時実際は熱中症になり命の危険までなっていたかもしれない、かなり痙攣したからである

なぜ老人が70代以上とかなると熱中症になりやすいのか?
何か暑くても汗が出なくなる、それで体に熱がこもるのである
体温調節ができなくなる、それで頭でボーとしてくる
それは家の中でもそうなる、熱中症で死んでいるのは家の中で多い
エアコンがなかったりエアコンに拒否反応があるのも老人が多い

トラックの中でエアコンしないでいたら危険である、33度というのも危険だった
まずこの年で工事現場で働くのはきつい、熱中症は紫外線を受けてもなりやすい
曇っていても紫外線を受けるからだ
だから暑くなると自分は外に出れなくなった、まともに陽ざしを受けると危険になるからだ

つくづく汗をかくことが人間には必要だった、それがなくなるとやはり体が正常ではないのだ、太った71才とかの女性は汗が出て困るというけど汗が出るからうらやましいとなる汗をかくことは体温を調節できるからいいのである

それで今日は熱中症「見守りっち」という機械を買った、それで見ると警戒になっているやはり今日は警戒レベルであり次に厳重警戒となると外に出るのも危険になる
室内だったらエアコンとかする必要がある

とにかく暑くなると自転車で出れなくなる、遠くには行けなくなる
するとコロナウィルスで出れなくなり暑さでも出れなくなる
南相馬市はコロナウィルスで警戒区域になり外出や食堂とか飲み屋に行くことが禁止されている

それでつくづくこうして家にこもるようになると家が大事になる
家が広くないと狭い部屋に籠っていると窮屈になる
それが意外と精神に影響する、日本人の家は狭いから本当に巣籠り生活になるとうつ病にもなる、日本人は家の中で快適に過ごしにくいのである
私は家の中で二階もあり広い廊下もあり寝室もありと・・・・それで家の中で気分転換できる、それで何か詩作したりイメージが湧いたりする
この気分転換が広い家の中だとできるのである

いづれにしろ70代でも外で工事現場で働くことはきつい、それも高齢化でも働かざるを得ない人が増えていることは確かである
警備員とか給料もいいからである、でも外での仕事は夏は苦しくなる
高齢化社会で年金をもらって余裕で暮らしている人は少ないと思う
とにかく年金が厚生年金にしても少ない、平均して15万くらいだとすると妻の国民年金をあわせても20万くらいになり足りないのである

そして生活保護をもらえばいいいうがここでは最低限の生活保護費がもらえていない
4万国民年金もらってあとは医療費が無料になっているだけである
だからその女性は必ず水道費から電気代からガス代から携帯の通信費がたりなくなり払えないのである
つまり生活保護はこうしてこれから最低限ももらえないのである
だから生活保護に期待する人がいるけどもうそれで最低限も暮らしていけないのであるこれは自治体で違っているにしろますます日本が貧困化すると厳しくなる
遂にまともに食事もとれないともなる
それは実際に目に見えている、もっと厳しくなり保障できないのである

ベトナム辺りが物価が安いとしても医療費は馬鹿高くなる、だから老人向きではない
つまり困窮する老人が膨大に増えてくる、ここで外で工事現場で働いて熱中症で死んだ老人も今の日本を象徴している
現代は長い生きでも老人受難の時代なのである
近くのスーパーで三時間くらい働いている老人ならいいともみる
でも外で働くのはきついとなる
ただ自分のように家の中で仕事しているとなればいい、でも家の中でも熱中症の危険があるのだ
だから今熱中症は自分にとって怖い、頭がのぼせたようになりぐったりするからである
今日は結構蒸し暑いので家の中で暑い、それで警戒なのである

2021年06月24日

余裕がないことの怖さ (戦争も貧困化して余裕がなくて起きた)


余裕がないことの怖さ

(戦争も貧困化して余裕がなくて起きた)

この危険思想、日本でもかなり増えてます..不景気の国に蔓延する危ない考え方とは?


なぜ福祉が厳しくなるのか?
前に私が述べたけど人間は余裕がなくなると他者に寛容でなくなる
貧乏になれば生活保護なんて働かないで俺と変わりない金もらっているとかなる
つまり40万くらい月給もらっていたら生活保護12−3万もらっている人をうらやましいと思わない、でも15万くらいになったらなんでこっちは毎日苦労して働いていてたいした金をもらっていないのに生活保護は働かないのにもらっているとなる

福祉でも国全体が裕福なら成り立つ制度だったのである、それで今や生活保護は十パーセントも減らされているのだ、それで抗議したというのもわかる
それは国全体の財政が苦しくなりまた貧乏人が増えると国全体に余裕がないのだからそうなる、むしろその風当りはそうした生活保護であれ障害者であれ弱い人に当たるとなる
それは結局余裕がない人は他者を助けられないためである

事業失敗で多額の借金を抱えた人が私が介護とか病気とかで苦しんでいる時来た
そんな人は人を助けることはできない、かえって相手を苦しめることになってしまう
〔俺は苦しいんだよ、俺の借金をなんとかしてくれ、他人のことなどどうでもいい、自分を助けてくれなんとかしてくれ」こんな人が来たても助けることができない、かえってさらに苦しめることにもなる

それと同じように貧乏で困っていても他に障害者でも病気の人でも人を助ける余裕がないもう弱者は死んでくれとまでなる、だから余裕というのが意外に大事なのである
それは金だけではない、時間の余裕とかも大事である
金があっても毎日仕事に追われているとかすると相手を想う余裕もなくなる
とにかく経済的に苦しくなると日本全体に余裕がない人が増えて来る
それは必ず周りに影響する、例え金持ちでものうのうとはしていられない
回りがみんな苦しい苦しいというとき回りでも金持ちでもその影響を受ける
また犯罪も増えて来るのである
そういう国には金持ちすら住みたくないとなる
もし回りがスラムのようになっていたらそんな場所に住みたくないとなるからである

なぜ自分自身が介護病気で苦しんだのか?
それが余裕がない人が来たからである、金で苦しんでいる人が来たからである
だから犯罪にもなった、その人は他人でも余裕をもってみれないからである
その前に自分のことをなんとかしてくれ、もう生活もできないんだとなっていたからである、すると相手が苦しんでいることなど関心もない、かえってチャンスだとなった

それで何か数万だったのか、わずかの金で友達に金を貸して返さないとかでもめて殺人になったとかニュースであった
たった数万で殺人になるのはなぜなのか?その人は金に余裕がない、だから数万でも大きな金になっていたのである
普通だったらそんなのはした金だからくれてやるとなるだろう
ただ正直自分も金の余裕がなかった、余裕がないと人間はみんなそうなる
何か自分は金をあるように見られているが働いていないのだからなかったのである
まず百万という金を使ったことがない、でも貧乏性になっているから今でも使えないのである、それが習性となってしまったのである

そうなると海外旅行に行った時アジアではその時十数年前は円高で物価が安かった
でもそんな所でも節約していたのだ、それが失敗だったとなる
なぜならその時は物価に十倍もの差があった、そしたら思いやりがあっても良かったのでる
多少の金は払っても良かったのである、そうし貧しい国の人たちに思いやりもあって良かったのである
それができかったのは日本での貧乏症になっていたのと海外のことを知らなかったこともある
貧しい人たちへのことがわからなかったためである
私が余裕ができたのは両親が死んでからなのである
すると金銭的に余裕ができて金にそれほどこだわらなくなったのである
気前よくなったのである、だから金に余裕があるのとないのとでは気持ちまで変わってくる

ただそれだから金ですべてが得られるとういのではない、不思議なのは一億円もっていても余裕がない人もいるしもっと欲しいとなる、一億円で安心がないという人もいる
ところが一生貧乏だった人は10万すら大きな金であり10万も貯金していると何か大きな金をもっていると気持ちが大きくなったと言っているのである
私自身も親から金をもらっていたからそういう経験はしている
その時々の金しかもらっていなかったからである 

その人は毎月いつも電気ガス水道代が要求されて払えない、それで自転車を治すにしても余計なことをしてくれたとか怒っている
何かしなくてもいいことをして金をとられたとか言っている
でもその人は病気なのである、病気でも仕事している、そしたら余裕のある人だったら
治療費もかかるから大変だな少しくらいは金がかかってもいいなとみるのである
つまりこうして金に余裕がない人は相手をのことを思いやることもできないのである
それは医者にしろ職業でも余裕がなかったら相手の経済状態でみれない、他でもあなたは貧乏だから安くしまとかもならないのである
そういう自分も今まではそうだったのである、節約ばかりして金の無駄ができなかったのである
ただすべて金がなければできないということはない、何も例えば道で倒れて苦しんでいる人がいればちょっとなら助けることができる、でも金がかかることだとできない
だから別に金がなくても何もできないということはない
ただ金に関しては金に余裕かなければできないとなる

これから日本が貧乏になることはかなり危険なことになる
おそらく戦争とかは国全体が貧乏とかで追い詰められるとき起きて来るのが多いようにも見える
モンゴルとか遊牧民が農民国家の中国を襲ってきたのは食料が欲しかったからである
それで万里長城ができた
戦争の原因はこうして国自体が貧困化して追い詰められた結果として戦争が起きた
ドイツでナチスがが勃興したのは失業者が増えて貧困化した結果として起きた
物価も異常に高騰して紙幣が紙切れ同然になったとかあった
そういうときナチスが起り優生思想が起り弱者は始末しろとユダヤ人は不当にもうけているとかなり虐殺が起きた
その原因を探るとやはり経済的困窮がそう仕向けたとなる

それは日本の戦争だって太平洋戦争でもそういう原因があった、アメリカに経済封鎖されて石油が手に入らないとかなり経済的に追い詰められた結果だったとしている分析もある人間は経済的に追い詰められると何をするかわからなくなる
数万のことでも殺人になる、だからこうして日本が貧困化してくることは怖いもものになる、みんな余裕がなくなるからだ
それで金持ちはそういうことを見過ごしているとその貧困化した社会で襲われるともなるだから格差社会を金持ちが見過ごしているといづれは金持ちも安閑として暮らせなくなるのだ

余裕がないということはそれだけ怖いことなのである、ただ余裕といっても高い車を持ち大きな立派な家に住み食いたいものを買いたいものを買うとかの贅沢ができないとかで
余裕がないとなるのは問題である
でもまた一旦豊かな暮らしをするとそれが普通になる
その生活を落とせないとなる、それで貧困を感じるというのも現代である
それで余裕がないというのも問題なのである、そういう人は借金までして贅沢を維持しようとする、その借金をかかえて犯罪を犯したりもするのである
そういうことは現代社会ではまた多いのである

余裕がない人は人を助けることができない 
(余裕なき現代はみんな疲れ、人を思う余裕すらない)

2021年06月15日

なぜ人は家で死にたいのか? (人は最後に自分のしたことを語り自慢したい―老人の幸せとは)


なぜ人は家で死にたいのか?

(人は最後に自分のしたことを語り自慢したい―老人の幸せとは)

糖尿病で知っている人が半年とか入院していた、いったん退院してまた入院した
何か症状が悪い、栄養も点滴でとっている、でも家に帰りたい、退院したいと言っているでも病院に一旦入ると医者の許可でできないと退院できない
でも一応その人は自分のことは自分でできる、寝たきりにはなっていない
だから家で一応食事の用意でもできる

ともかく病院にいるのが嫌になったというのは分る、自分自身も二カ所の病院に入院した体験がある、一か月入院したときはあきあきした、また病院で看護師に虐待されたこともあったので病院を恐怖するようになった
虐待されたのは南相馬市立病院ではない、病院とは実際は怖い場所である
隣の福祉施設に入っていた男性も痰がつまり何か虐待されていた
それを見て看護師とかわらって治療していたからである、その人には身寄りがなく施設の人がつきそっていた、そういうふうに見守る人がいないと病院はさらに恐怖の場所になる

別にその人は娘もいるしめんどうみている、でも娘でも何か話しが通じないとか言っている、それで親しい日ごろ世話している女性に携帯でいつも連絡している
その女性は話しがうまいのである、何かお笑い芸人の素質がある
「家が泣いているよ」とう言うのもそうである
それで主人がいなくなった家の草むしりとか花に水をやったりいろいろ連絡している
そういう人がいれば空家にしても安心だとなる
その女性の家はすぐ近くだからそれができる
娘は隣の15キロくらい離れた場所にある、でも退院してから通って食事の用意とかしてくれていた                                  

ともかくなぜ人間は家で死にたいとか思うのか?

それは家というのは単なるモノではないのである、そこで暮らし思い出があり家族と安らぐ場所として長くあった、とくにその人が家を建てた苦労話を聞いた
立派な石組の庭と家を自力で作った
そのためにトラック運転手をして歩合制で人の倍の荷物を運び稼いだ
その話を聞いたときその家を自慢したいのがわかる
それは自分の家でもそうである、姉は常に自分の家を自慢していた
なぜなら姉が主役となって家を建てたからである、それは認知症になってもそうだった
柱は橲原(じさばら)の同級生のキコリに提供してもらったとか自慢していた

その時代普請することは一大事業だった、すべて材料も地元のものであり地元の大工さんが建てた、今の建売のハウス会社が作り売るのとは違っていた
二週間くらいで組み立てるのとは違って三カ月とか半年とかかかることもある
こういうこともあり家を買う感覚とはかなり違っていた
そういうことは田舎では普通にあり普請することは一大事業ともなっていたのである
茅葺の家などでももうそれは村人全員がかかわる仕事にもなっていた
屋根ふきでも大変な作業だったからである、そこで家の重みが今とは相当違っていたのである

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

右は、聞かく「左大臣長屋王(ながやのおほきみ)の佐保の宅(いへ)に御在(いでま)せる肆宴(とよのあかり)の御製(おほみうた)なり」といへり。

まさにこれなのである、これが外材ではない地元の奈良の山の木で作ったものである
たいがいそうして家は作られていた、そこに座(ま)すということにそれで充実感を覚えていたのである
家というのはその土地とも一体化したものなのである、家は単なる箱ものではない、
人間にとってそれは精神的なものとしての拠り所ともなる

病院とか医者とか看護師は体は診ても心はみない、そこに老人を診る問題がある
若い人なら体をみるだけでもいいとなる、なぜなら体が回復すれば元の生活にもどるからである
でも老人の病気は治らずに死にいたる、そうなると体だけではない、心を診るものとしてもあるべきだとなる、心の問題が大事だとなる
最後の短い日でも自分の家にいてその苦労して作った自慢の石の庭を見て死にたいともなる
つまり老人は自分のしてきたことを自慢したい、それを子供に次の世代に残して自慢したいとなる
だから盛んに最後に自分のしたことを認めてもらいたいと何回も言うのである
姉の場合は従軍看護婦だったからそのことを千回も言って死んだ
認知症になっても別に過去のことはわかっている、俺はこういうことをしたと自慢して機嫌良くなっていたのである
それが病院にいしても何も自慢することもない、ただ体を診る医者や看護師がいるだけだとなる、何か自慢することもないのである

家とはこうして単なるモノではいなし箱ものでもないのである
その人の妻は十年前に死んだとかでもその人はその妻のことを愛していたから手厚く供養していた、その家はそうして妻と暮らした思い出がつまった場所なのである
ただ今は近くのやはり70とかの女性が行き来するようになった

老人にとって幸せは何か?

そのことを考えさせられた、

蓮台野は、外界、幻想郷、冥界の三点が結節する場所、なのかもしれない

「病院や施設に入るのを嫌がる老人の話」をよく聞きました。歳をとって体の具合が悪くなってきた老人を家族が病院や施設に入れようとすると物凄く嫌がるケースが多かったそうです。それはその当時の老人が生まれた明治時代の初めころにはまだ老人を捨てる習慣があったというのを知っているから自分が捨てられると思って必死に抵抗するのです。幕末から明治にかけて日本に来た外国人が当時の日本人の間で行われた老人を捨てる習慣について書かれた文章も残っているし、そういう習慣があったことは間違い無いと思います
今は口減しではなくなったが、面倒見切れない老人を施設に送るという姥捨山はあるよ。
自宅介護って大変だし家族の生活も制限されたり、仕方ない理由からが多いとは思うけど。
施設も無かった時代に姥捨の習慣が有っても驚かない。

怖い所に行くのではない、仲間たちが待っている所に行くのだ

でんでら国」という小説ではこれを探求している、それは村の共同体があって成立った物語である

食いぶちを減らすためとかあってもそれはもしかしたら病院とか施設とかよりいい場所だったということもありうる、なぜならそこには村の仲間がいたとなるからだ
今になると仲間というのがいなくなっている、だからその仲間の所に行くのだというとき何か救いがある、病院とか施設には仲間はいないからである
医者も看護師もただ体をみる人であり仲間ではないからだ
病院は刑務所と同じだというときまさにそうである、それを自分も体験したからである
何か四六時中医者とか看護師とに見張られている、安らぐ場所ではない
そして死ぬときモノのように片づけられる場所である
そこに愛か欠けている、情のない冷たい場所なのである
死者は邪魔なのものとしてモノのようにかたづけられるのである
病院で番号で呼ばれて怒った議員もいた、つまり病院では議員でも番号にすぎなくなるのである

老人の幸せを考える時、体をみるということもあるが心の問題がありそっちの方が大事にもなる、なぜなら老人の体は直らないからである、だから最後の時期は心の方を大事にする、家ですごしたい、死にたいというときそれは体の問題ではない
心の問題だからである、だからその心をくみとって家で過ごさせてやる
その方だ大事になる、ただ家で寝たきりとかなると介護するのが重荷になる
蓮台野とかデンデラノでは同じ村の者であり助け合ったということがある
それは村という共同体があってできたことなのである

結局人間はどういうふうに死ぬのかが問題になるけど人間はそれより実際はどういうふうに生きたのか大事である、なぜなら出鱈目に生きても死ぬのは簡単に楽に死んだ人もいるからだ、人間を評価するときどんな死に方をしたかではなく何をしたのか、どういうふうに生きたのかの方が大事なのである
人間を評価するときどんな死に方をしたよりその人がどういうふうに生きたかで判断されるからだ
だからこそその生きた場所が家にあるから家に帰りたいとなるのである
そこでその家を作ったとして自慢できるからである
ただ自分の場合は作られた家を受け継ぐだけだから苦労もない、でも一代で家を作った人は思いが違っているのだ
そういうことは原発の避難区域になったところである
浪江の津島辺りでは戦後開墾して苦労したから村の人たちのつながりが強いというときそれだけ苦労したからそうなる、家を作ったことでもそうであるそういう思い入れがあるからその土地から家からはなれがたくなる
金をもらってもそういう精神的なものの償いはもうできないということである

2021年05月16日

退職してすべきことはボランティアではない (消費することであるが金がないとできないー駅のボランティアの経験から)

退職してすべきことはボランティアではない

(消費することであるが金がないとできないー駅のボランティアの経験から)


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週間ポストー5月21日号

人間はいくら善意の行為でも受け入れられない、私は駅で案内したりしたのは別にボランティアとしてしたわけではない、たまたま買い物にして駅によったら無人駅なので
切符をどうするのかと聞かれたことから案内したのである
それは無人駅になったばかりであり地元の人でもわからない人がいたからである

でもそこにいるだけで何んだこいつとはなる、例えば上がり下がりの電車の行く先のホームが意外とわからないのである
それで聞かれたので行く先を示す表示をしてくださいと言ったらしてくれたのである
無人駅だと何か自動化しても何かすることが案内することがあったのである

なぜそれが駅長からもまたJRからも周辺の住人からも否定されたのか?
それは一部であったが何かうるさいのである、なぜあなたはここで案内しているのか?
JRにしてみれば許可もないのになぜしているのか?
それがうるさいのである、監視カメラで見ていたのである
ホームに入ったからと高校生の見守り役に注意された
なぜホームに入ったかというとこれまでホームにゴミ箱が置いてありゴミ箱がないかと乗客に聞かれたから見に行ったのである
そしたら高校生の見守り役に入るなと言われたのである

ともかくボランティアは一人ではできないしすべきではない、この週刊誌の記事のようになる

怒られ、脅され、訴えられ....

これが大げさとかではない、自分自身が周りの人から警察に怪しい奴がいると訴えられたからである、そしてみんなの前で職務質問された、その時エベントがあり人が大勢いたときである、公衆の面前でこいつは怪しい奴だとされただけだった
今は高校生の見守りがいる、その人たちはJRにも認められているし市で金も払って見守り役をしている
ただ駅の業務はしないとかなにかJRと約束してしている
それでそのことについて市民が文句を市に言った、そしたら駅の業務を多少するようになったとか言っていた

ともかくボランティアはかえってめんどうである、この週刊誌の通りなのである
何かかえってもめごとに巻き込まれる、いくらボランティアでもそれがそのまま善意の人として認められるわけでもない、それよりなにやかにやとクレームが来たり訴えられて裁判までなる、これは嘘ではない笑い事でもこれが退職後のボランティアの現実なのであるだから何もするなというのは退職して安易にボランティアをすることの警告なのである

では一体何をすべきなのか?これは私にもわからないが退職した老人のすべきことは
消費ではないか、消費というと何か社会の役にたたないとみるが現代では消費者は神様だとか言われた時代である
消費することは店でもどこでも喜ばれる、小さな店屋で物を買えば喜ばれる
例えば自転車屋でも高い電動自転車を買えば喜ばれる、お菓子屋でお菓子を買えば喜ばれる、今時コロナウィルスで客が来ない観光地に泊まればこれも喜ばれる
県内とかだったらそうである、そうして消費することは歓迎されるし歓迎される方が気分がいいとなるそれは社会のためにもなっているのである
それで原発事故で避難して来た人が仮設に入っていたが私はここで金を使っているから
この土地の人を助けているのよと言っていた
実際に問題があったにしろ各地に避難した人はそこで消費したから店では金になったということはあるからだ
この辺でも自転車屋に聞いたら店に来る人は知らない人が多いと言っていた
それだけ外部から移住した人が多いからそうなったのである、別にそれは悪いことではない

なぜなら消費してくれるから金を使ってくれるからだ!

外から移った人でも自転車でも買ってくれるからいいとなる、歓迎されるとなる
学校でも転校したとしても生徒が増えたからいいとなる、なぜなら今子供の数が減っているからだ
意外と消費することが経済を活性化するのである
でも老人の問題は消費できなくなることである、私はヤマハのYPG-XCを35万以上で買ったこゃは本当にいいものだった、マウテンバイクだから若者向きだと思っていた
全然違っていた、かえって老人向きだったのである

なぜなら楽に走れる優れものだったからである、これは体力が弱った老人向きとしても
ヨ−ロッパで開発されたものだからである
ただ荷物が載せられないとかで困った
それで荷台がついたものを同じユニットドライブのものを買おうとした
長距離にはいいなと思ったからである、でも体が弱って長距離には行けないと思った
体中が疲れて何か一週間くらい遠くに行ってそうなったからだ
若い時ならその自転車を買っていた、でもそれを買っても使えないとなり消費できないとなったのである
何か老人になると最新の技術のものを使えないということがある
そして老人向きのもので消費できるものがないというのは確かにそうだと思った
老人向きに売れるものは作られていないというのもわかる
つまりまた老人は金をもっていても消費できないという問題が生まれていたのである
また老人がみんな金をもっているわけではない、だからこれもうまくいかないともなる
コロナウィルスで巣籠り需要が増えたという時、庭作りとかが向いているとはなる
ただこれも金がかかるから金がないと消費できないともなる
実際今回玄関の方に木を植えたからである

では老人は何をすべきなのか?

要するに老人は社会の邪魔であるとか何もするなとなる、かえってボランティアなど迷惑になるからするなともなる
でも高齢化社会で長生きする、すると一体老人は何をすべきなのかとなる
社会に役立つにもできない、自分自身はプログを書いてそれを仕事にもしている
退職して何か蒸気機関車の再生のために退職したベテランの技術を若い人に教えていたとかはある
でも会社とも退職すればほとんど関係なくなる
それで旅行したりするのはいい、宿に泊まれば歓迎される、金を使えば歓迎される
結局こうして何か消費することなのである、それが社会貢献になる
ただそれが浪費ではなく、趣味でも高価なカメラを買っていい写真をとるとかその人によっていろいろある、資本主義社会では消費者が王様だとされたように金を使う人間はどこでも歓迎されるのである
だから金のない老人は悲惨だともなる、誰も子供すら相手にしないともなるからだ
ただ老人でもすべてを金だけでは判断できない、若い人に教えるということがある
そういう人は別に金を使うというだけではない消費するだけではない、有用て人間として社会でもみるとなる
ただ手っ取り早いのは消費することである、でもそれは一部の金をもっている人だけともなるから問題なのである







2020年05月23日

南相馬市の介護殺人事件 (2025年問題が始まっている、認知症介護の困難)


南相馬市の介護殺人事件

(2025年問題が始まっている、認知症介護の困難)

南相馬市原町区のパート従業員、愛原正人容疑者46歳。
愛原容疑者は先月2日、自宅で、母親の隆子さん(当時70歳)の顔に布団をかぶせるなどして、死亡させた疑いが持たれている。

46歳では若いのに70歳の母親の介護で殺人事件になった
70代が介護される時代になった、それで2025年問題が言われる

2025年の日本は、団塊の世代が75歳を超えて後期高齢者となり、国民の3人に1人が65歳以上、5人に1人が75歳以上という、人類が経験したことのない『超・超高齢社会』を迎える。
現時点でも、軽度のものを含めれば、少なくとも820万人が認知症を患っているという厚労省のデータがあります
2025年には今の1・5倍、1200万人以上が認知症になっていてもおかしくありません」(国際医療福祉大学教授の高橋泰氏)

全国民の10人に1人がボケている。そんな国が成り立つのか、

この母親は認知症であり夜騒いでいたから布団をかぶせて黙らせていた、それで死ぬことになったとかニュースで聴いた
介護殺人はこれからもっと増えて来る、認知症の介護が一番つらい
そしてここでは男一人で介護していたようだ
それで手に負えなくなった、私も認知症の介護で四苦八苦したことをプログで書いてきたこの病気は何か理解できなかったから不安だった
狂気になったのかとも思った、それで怖かった

そして認知症は誰も相談できる人がいない

認知症について相談する人がいないのである、医者も相談してもわからないからだ
治療方法もない、するとどうするのか?
それは介護して自らその方法を見出すほかないのである
原町で民間の認知症相談をしている所がありそこに行ったが何の役にもたたないし助けられない、看板だけである
そこは女性だけであり男性の相談者は行っても相手にされない
つまり男性は介護で一番苦しい状況に追い詰められるのだ

認知症の介護に方法がていというとき認知症の症状で似たものがあってもそれが肉体の病気ではなく精神にかかわる面が多いから余計にめんどうなものとなっている
症状として直前のことが忘れる、その時ただ忘れたというのではなく盗んだと騒ぐ
その犯人になるのが一番身近にいる家族なのである
それは一種の狂気の症状なのである、この時その興奮を鎮めることが必要になる
盗まれたというときすごく興奮する、だからサイフでもなくなったものがありますよと落ち着かせるのである、それでいつも身近でその様子を見ていなければならないから何を置いたかなど知っておく必要がある、それで離れられなくなるのである

そして認知症の介護では広い家だったら狭い部屋で暮らさせる、狭い部屋だと看ている人もサイフがどこにあるとか通帳がどこにあるとかいろいろなものがどこにあるか管理しやすいからである
それで二階に着るものを置いていた、ところがそれを忘れたのである
その時なくなったと泣いていたのである、つまり一階と二階では離れているからそうなったのである
狭い部屋で生活していればそういうことはない、一階と二階と行き来することは管理しにくくなるのである
それは今自分は狭い部屋で仕事している、書き物をしている、狭い部屋にそのためのものを置いて整理するようになった、その方が管理しやすいことがわかった
ただ本が多すぎて狭い部屋に置けないのが問題なのである
常に身近に置いて見ていると管理しやすいのである
だから狭い部屋で認知症の人を介護して管理するのがいいのである

いづれにしろ認知症の介護は至難である、その方法は家族によっても個々人によって対処方法が違ってくるからだ、家族もいろいろであり他からわからないことがありそれで適切なアドバイスもできないのである
そして田舎でも近隣の付き合いが薄れている、するとかえって田舎では苦しんでいる人がいるとそれを話題として楽しみにもなるのである
だから自分の場合は何ら助けもなかった、相談する人もいない、まず認知症は相談できない、それが家族とか何か病気だけではない複雑に関連しているからである

ただ自分は特別良くされていたし世話になったとかあり必死に介護した
そのうち認知症について理解するようになった
認知症の不思議は確かに直前のことを忘れるとか狂気の面があるのだが何か人間としてわかったことがある、つまりこれまで経験したことを覚えていて何か人間として通じるものがある
最初は何なったのかわからなかった、だから怖かった
最も親しい人がそうなることは恐怖である
でも介護しているうちに何か今までのことがわかっていて心が通じあうことができるものがあった
それでだんだん安心するようになったのである
ただ正直何か騒ぐことがあった
だからこの人も騒ぐことがありそれを抑えるために布団をかぶせて抑えようとしたから死んだのかとなる
ただ詳しい事情はわからない、自分の場合は死ぬときに感謝してくれるように頭を下げたそのあとすぐ死んだのである、だから介護してくれたことに感謝してくれたのだと見て救われた、つまり認知症の謎は人間としてわかるものがある
だから全くの痴呆とも精神の狂気とも違う

そして認知症は時々正気になる!

これも恐怖である、何もわからないのではない、正気にかえることがある
それで死ぬとき孫に何百万やれと遺言を残して死んだ
これも驚きだった、第一金のことがわからなくなっていたからだ
でも実際は金のことでもわかっていた、その時正気になっていたのだ
孫のことに心をかけていてそう言ったのである

だから本当に認知症は不可解な病気なのである、わかることは正気の面があり人間としてわかることがありそうなるとどうなるのか?
もし冷たく扱うとそれがわかる、それで恨んで死んでゆく人もいる
その時後味悪いものとして死んでも残りつづけるのである
それが介護の大きな問題なのである、私の場合は介護できたのは特別に良くされたからである、それで苦しかったのだけど必死になって介護したのである
それは当然だったのである、だから家族というのはみんな違っているから介護になるとそうした事情がでてくる
それで兄弟でも一番世話になった良くされた人が介護しろというのもわかる
そうでないと介護もできないとなる

いづれにしろ2025年問題は深刻になる、介護された女性は70代だった
団塊の世代は75になると介護される人が増えて来るし10人に1人が認知症になるというのも恐怖である、私自身もそうであり体が弱っている
それが怖いのである、認知症は本当に一番怖い病気だと知ったからである
ただこれは何か人間として正気の面がありそれがわからないから厄介なのである
これは個々に事情が違うしなかなかアドバイスしてもできない面がある
ただ認知症特有の共通の症状かありそれはアドバイスできる
でも現実に相談できる人はいない、また身近にも助ける人がいないのである

そして介護殺人が増えて来る!

これは間違えないのである、介護される人が増えればそれに比例して増えてくるのである介護で国が崩壊するとまで言われる、それだけ深刻な問題になるのが2025年問題なのである、経済的にも日本が貧困化して団塊の世代が氷河期世代を子供の場合が多い
だから子供も貧困化しているから経済的にも介護できないとなる
国民保険4,5万でどうにもならない、その息子もまた独身なのが多いのである
だから子供がいても介護で窮する人が多いのである
この場合は母親を男性1人で介護していたので同じような状況だったなのかとなる

2019年08月11日

自分の預金が下ろせない?じわり広がる“高齢者制限” (高齢者はだまされ差別し無能力者にされる恐怖―地銀もゆうちょも信用できなくなった)


自分の預金が下ろせない?じわり広がる“高齢者制限”

(高齢者はだまされ差別し無能力者にされる恐怖―地銀もゆうちょも信用できなくなった)

 75歳以上の人が300万円以上の引き出しを求めた場合、振り込みや預金小切手(預手=よて)の利用を勧め、それでも客が現金にこだわった場合は警察に通報し、駆けつけた警官が目的を聞く。預手とは金融機関が振り出し、本支店で本人確認のうえ換金する支払い手段だ。

 この防犯策は詐欺被害を水際で防ぐ効果が高いと注目され「預手プラン」という名で全国に広がった。適用条件は地域性から独自に決めており「65歳以上・200万円以上」(福島県)など厳しくしたところもある。

          
金融庁報告書が言いたかった「大認知症時代に備えよ」

日本郵政傘下のかんぽ生命とゆうちょ銀行では、高齢者の理解力の確認を怠っていたり、不利益になる契約を結んだりするなど不適切な販売が明らかになった。高齢層に強い日本郵便で、それを食い物にする手法が横行していたことは大きな衝撃だ。

「利益ありき」という金融機関の姿勢は、報告書も戒めている。現在、定年者の退職金を目当てに、金利を上乗せした定期預金で客を呼び込み、投信などリスク商品を売り込むキャンペーンが横行していることを挙げ「自問が必要」と問題視した

家族が認知症になったとき銀行に金をおろしに行ったができなかった
そして銀行員に笑われたとなり二度と銀行には行かなかった
これにはその本人より自分自身が驚いて言葉もなかった
通帳とハンコをもっていけば下せるからだ、それができない、書類すら書けない
字も読めない、これは一体何になったのだろうと唖然とした
私の場合このことから認知症は何なのかと考えることになった

認知症になったらいくら金をもっていても自分の自由にできない

認知症になったら障害者であり犯罪も犯罪にならない

何かこうなる、だから保佐人が必要でありその人が実は責任者になる
障害者をもっている親がそうなっているからだ、責任を問われるのは補佐する人である
それで認知症の人が踏切で電車をとめて多額の賠償金をJRから家族に要求された
ともかく何か認知症の人は銀行とかは特にわかりにくくなる
それは数字を扱い書類を書いたり抽象的だからわかりにくいのである
そもそも銀行とかの仕事は一番普通の正常な人でもわかりにくいのである
そのわかりにくいことがつけ入られることになるのである
それは原発でも同じだったのである、何か複雑になると法律でも第一理解すること自体できないから結局専門家とかによって無能化されるのである
それが現代社会でありそういうことをイリイチとか指摘していた

専門家によって人間が無能化される

その無能化するシステムが文明社会だともなる、それでイリイチは病院であれ学校であれあらゆる専門化され組織を批判したのである
それは人間を無能化するシステムなのである

認知症は本当に脳の異常で無能になったのだから明らかに病気なのである
無能になってしまった病気である、これもだから恐ろしいと思った
この病気は悪魔が人間を無能化してもてあそんでいるとも見たからである
なぜなら何か記憶できないということで忘れるので泣いてサイフを探していた
それが感情的になると誰かが盗ったとなり狂気の症状が出てくるから怖いのである
なぜこんなことを人間にするのか?そんな仕打ちをするのか?
それも不可解だった、人間は悪魔にもてあそばれて嘲笑われる存在なのか?
何かそういうことを感じた
人一倍頭がいい優秀だと日ごろから言っていた人が無能化されたから余計にそう思った
そしてついには人間の運命は神によって無能化されることではないかとも未来を予測した
人間は最後無能化されて文明も終わる

植物とか動物とかそういうことにはならない、そうした高度の知能をもっていない、また日々今日の食べ物があれば満足している、人間のようにありとあらゆる欲望など追求しないからである、だから別に何かあっても滅びない、ただ恐竜は大きすぎて滅びた
これも未来を暗示しているのかもしれない、恐竜は巨大化して滅びた

人間は高度の知能をもつ故にその知能故に滅びる

それが原発事故でもあったのだ、それは複雑化していてもう誰も制御もできない代物ものだったからである、もう人間が動かしているコントロールしているより機械が自動的に動いているという感覚になっていたのである
それで「安全神話」が作られていたのである、つまりもう人間の手を離れて自動化したもの、機械が神となり動いているともなっていた
そのことはAI化とか人口知能化の未来を暗示している 

いづれにしろ70過ぎてたら百万でも下すのに警官が銀行とか金融機関に来るというのは高齢者差別であり人権侵害である、これは高齢者を無能者と認め法を整備してとりしまるともなる、そこに国家権力が関与してきたのである
そこに詐欺から守るということもあるが弱者いじめだともなる

それより一番の問題は今の金融機関にこそあった
私が書いてきたように地元の地銀が複雑な仕組みの投資信託をすすめる
利子がつかないからはすすめる、その進めている地銀は投資信託のことや株のことなど素人と同じなのである
まず投資信託は証券会社とか銀行とか金融機関のために作りだされた商品である
銀行でもこれは絶対に損しないおいしい商品だからこそすすめる
顧客のこどなと全く考慮していない商品である
だからこそリーマンショックの時に半分に下がって回復して株が上がっていたとき地銀ではその株を売り投資信託に回したのである
私はもともと株でも投資信託でも知らないから相手がプロだからと言っていたからまかせたのである
その人はプロでもなんてない、素人と同じだったのである
ただノルマを課せられているから自分が有利な投資信託を売るだけだったのである

なぜこれが大きな問題なのか?
それは地域での金融機関との信頼関係が喪失してしまったとういことである
地銀でも一軒一軒対面的に信頼を築いてきた、それはゆうちょでも同じである
それが根こそぎ失われたのである
それでおあちゃんが1千万とか投資信託で損しても銀行をの人を信用していた
それほど銀行とかゆうちょは地域で信頼されていたし地方でエリートでもあった
銀行員なら安心できるとなっていたのでありそれだけ信用されていたのである

それが結局時代が関係していた、高度成長時代はみんな銀行でありゆうちょであれ貯金していた金に利子が7パーセントとかついていた時代があった
それで今の高齢者は資産を増やしたのである
何か知らないけど親が保険に入っていた、死んだときその保険金がかなり増えてもらえるたのである、何であれゆうちょであれ銀行であれ金をあづけているだけで相当に増えていた時代があった
だからその時の感覚でゆうちょでも地銀でも信用されるものとして高齢者は見ていたのである、自分自身がそうであった
でも急速に時代が変わってゆく、すると時代に追いつかなくなる
それが高齢者は理解できなくなるから不利なのである

いづれにしろそもそも金融機関は危険である、日本は経済成長はしない、低下するだけである、日本の株式でも投資信託でもなんでももうけることはもうできない
ゆうちょでも銀行でも貯金されても金があってもそれを増やせない、新しい事業に投資できない、もうけることができない時代になった
するとただ金が余るだけであり貯金されても金を増やせない、では銀行に貯金された金を勝手に使うわけにはいかない、するとただ負担になるだけだとなってしまった
それが資本主義社会のゆきずまり現象なのである
金がありその金で資本で新しい利益を生むものに投資するのが資本主義だからである

こういう最も身近な所で最も信用されていたゆうちょとか地銀とかが信頼できない社会は本当に住みにくい、なぜならどうしても高齢者は弱者化するからである
時代が変わるとついていけない、それより認知症になったらもう脳の病気なのだからどうにもならないとなる
そうしたら高齢者とかはもう身近なゆうちょとか地銀には頼れない
食い物にされるだけだからである
ゆうちょとか地銀はもともと地元密着で信頼を培い商売してきた、その信頼も失われたとき地方とか地域で高齢者は食い物にされるだけだとなる
詐欺にかからないように50万以上でも百万以上でも警官立ち合いの元に下ろされるということ自体高齢者を差別して無能化させて管理しようとしているともなる

戦後70年で時代が変化するとき何かこういうことが起きてくる
今までの既得権者がその権力を失う、侍が侍でなくなりとか身分制もなくなる
高度成長時代が終わり日本の経済が停滞して低下するだけだとなるともうそうした特権階級は維持できなくなったのである

 北海道銀行(本店・札幌市中央区)は、士別市の農業法人「合同会社OMEGAファーマーズ」に出資するとともに代表社員を派遣、農業経営の企業化と6次産業化を支援する。 

「OMEGAファーマーズ」は、健康食品ブームになっている植物油の脂肪酸、オメガ3、オメガ9などを製油、 
販売することを目的に、2019年5月31日に設立された合同会社。所在地は士別市の小学校統合で廃校になった 
武徳小学校(武徳町44線東7号)。使われなくなったこの小学校の体育館に搾油機を設置合同会社の構成員8人 
(三好農場、大西農場、オレンジファームなど)の農場で生産する亜麻、えごま、菜種(今年度は250ha作付)を 
持ち寄って搾油、販売する6次産業化に取り組む。出資金は3195万円で、道銀は150万円を7月18日に出資した。 

道銀が踏み込んだ支援をすることにしたのは、農業経営の企業化を促すため。北海道農業は、国内の食糧基地として 
重要な役割を果たしているが担い手不足が深刻化している地域もあり、耕作放棄地の増加も懸念されている。 

地銀は地元に根ざして何か新しく利益を生む事業者に投資するのが役目である
それがなくなったとき農業が地方で注目されるのは当然である
実際この辺では原発事故とか津波で荒地が多いからである
その荒地を活かすことを耕作放棄地を活かすことに投資することは地元のためであり地銀とかがするのに適しているとなる
それで実際に農業を銀行員がしていたのをテレビで見た
自ら肉体労働者とか銀行員も働けとなるのか、そういう厳しい時代になったということでもある







2018年06月06日

安楽死は是か非か? (千差万別の個々人の事情に答えられない)


安楽死は是か非か?

(千差万別の個々人の事情に答えられない)

安楽死のことをNHKで取り上げていた,その男性は安楽死を望んだのは癌になって直らないし苦しむのが嫌だからだという
その男性は29歳であり若い妻がいて子供もいた
まず安楽死というときこうしたそれぞれの家族の事情が先にある
家族の中で納得した安楽死ならいいのかもしれない
人間の死は一人だけで決められないことがある
家族がいて安楽死などいやだ少しでも長生きしてほしいという家族もある
家族とかその個人の事情がみんな違っているのである。

その家庭の事情とか個人の事情を医者とかはわかることはむずかしい
だからこそ安易に安楽死をさせないのである。
安楽死でも積極的安楽死と延命治療などをしない安楽死がある
この二つの差も大きいのである。
一般にこうして若い人が安楽死するのと老人の延命治療は違ったものである。
延命治療は苦しいしただ意識もないのに植物人間のようにされているのは悲惨だから死なせてやった方がいいともなる
それすら医者はできない,犯罪にも日本ではなる

自分の事情話すと家族の一人はひどい認知症になった介護で苦しんだこと書いてきた
もう本当に馬鹿になったのか、何もわからなくなったのかととまどい苦しんだ
ただ認知症はわけのわからない病気でありどう対処していいかわからなかった
そのことをプログで書いてきた
人間の問題は人間として意思疎通できるかできないかが大事だと思った
それで障害者を意思疎通できないと19人とかを殺害した人がいた
それだけ人間として意思疎通できないことはもう絶望的なのである。

自分も一時はそうなったのかと見た,でも何かわかったようなわからないようなことがつづいた
なぜなら看護婦だったのに病院に行って病院のことがわからないとかそんなことあるのかもう何もわからないのかと思ってショックだった
銀行に行って金も下ろすことができないとかもあった
だから一体どうなったのだろうとわけわからなくなった
でもわかったようなことを言うこともあった
そして最後にいろいろあったのだ自分の家族のことを介護した人のことをわかってくれたそれはただ首を下げてうなづいただけだったのである。
それが最後の意思疎通だったのである。
でもそれで自分は本当に救われた,何か最後に死ぬときありがとうと言う人もいる
それは介護してくれた人の苦労をわかってくれたことなのである。
そうして頭を下げてうなづいたあと意識不明になった
その時はもう死んでいたのである。

なぜならもう意思疎通できなくなっていた

この時はもう強制的に安楽死させても何ら問題なかったのである。
苦しむだけでありもう人間としての意志もなく意思疎通もないからである。
ここで医者が安楽死させても感謝されるとなっていたのである。
でもその前までは脳出血になり手術して胃ろうにもなり苦しんだ
その期間は約二年半くらいだった
そこで安楽死させていたら最後に意思疎通できずに大きな後悔となり自分も救われていなかった
だからその本人がどんなに苦しんでいても意思疎通できる限りは簡単に安楽死させることはできないと自分の事情では思った

もう一人は母であったが孫に思いがあったのか死ぬ一カ月前に金をやれとその金額まで言って死んだ
それも体全体で大きな声で言ったので本当に驚いた
そんな力があったのかと思った,寝たきりで長かったからである。
そして金のことがまるでわからなくなっていたのに金額まで指定てし命令したのには本当に驚いた,つまりこの時も死ぬ一カ月前くらいであり正気にもどったとなる

認知症は死ぬ前に正気にもどる

これは他の人も同じかもしれない,となると認知症とは痴呆になったのとも違うのだろうか?そう考えざるを得ない
生まれつきの知的障害者とは違う,苦しい人生を生き抜いた人達だからである。
だから認知症になっても正気の部分が残っていてそれが死ぬ頃になると正気になる
だから認知症の人はなにもわからない痴呆でありもう意思疎通できない人と見るのは危険だとなる
こういうことがあるから安楽死というのは他者が簡単に決められるべきものではない
ただ認知症であれ意思疎通できるなら人間は生きているのである。
意識があればまた生きている,意識がなくなったら死んでいるのである。

ただ延命治療となるとこれも判断がむずかしいが本人にとってはあまりにも苦痛であり人間の尊厳もなくなる,だから事情によっては安楽死させた方がいいとなる
ただその判断は本当にむずかしい
家族関係とかもかかわりむずかしい,家族関係はみんな違った事情があるからむずかしいのである。
別に今日放送した若い人が癌で死ぬのに安楽死させるのは悪いとはならない
家族が納得しているし家族間問題がないとするといいのかもしれないとなる
だから家族の事情や個々の事情で違ってくるしそれを医者だけでは見れない
その責任もとれないから医者はしたくないのである。

ただ延命治療には問題がありどうしても安楽死させた方がいいなとみる
でも自分の場合はそうではなかった,死ぬ一カ月前に正気にもどったとすると
それまで生き延びて最後に正気にもどってくれたとして生き延びて良かったともなる
ただこの判断は本当にむずかしい
むしろ認知症であれ悲惨だし早い時期に死んだ方が楽だったもみる
ただそうなると家族としては納得いかずに死なせてしまったとなり後悔が残る
自分は二人とも苦しかったけど納得した死に方をしてくれたので死んでも心安らかに供養できる
それは死後まで関係してくるから簡単に判断できないのである。

 

奇跡なのか、いのちの不思議に圧倒されずにはいられない。言語障害があったのに、
必死の思いで「あ・り・が・と」と口を動かし、一粒の涙を流して旅立たれた方。
そうなのだ、旅立つ人も見送る人も、最後に「ありがとう」と言い合える、
在宅医療はそういう別れができるのだ。

 

なんとめでたいご臨終


死ぬ前に若くても納得する死ならいいのかもしれないとなる
いづれにしろその判断は人を裁くなという神の教えと重なる
「悲しむ者は幸いなり」とキリストは言った
その意味を実際の経験でわかった
自分は一人介護で苦しみ泣いていた,その苦しみを知る者はいなかった
でも最後にわかってくれたなと救われた気分になった
そして神は悲しむ者が幸いなりというとき涙をぬぐってくれるという意味を知った
人間の悲しみを神は知りその涙をぬぐってくれる
そういうことが本当にあるんだなと納得した
人間は苦しみ悲しみそして何か尊いをことを人生で学ぶ
楽してばかりいたらそうしたことを学べないのである
実人生で人は学ぶのであり本を読んでも学ぶことはできないのである。
人間は悲しみを通じて悲劇を通じて学ぶのである。
幸福からは必ずしもそうした深いことは学べないのである。

地上が僕らにとって
故郷になるには
血がにじまねばならぬ
あまたの血とあまたの涙が

(ハンス・カロッサ)

この辺では津浪や原発事故で苦しんだ,でもまさにこの言葉があてはまる
故郷でもそこで安楽に暮らしていただけでは故郷とはなりえない
また家族でもそうである。家族とは必ずしも血縁とういだけではない
何かそこで血を流すような苦しいことをありそれを乗り越えたとき家族となる
そういう経験がないとしたら家族とはなりえないとなる
だから悲しむ時ま苦しむ時人間は何か尊いことを体験で学ぶ
だからこそ悲しむ者は幸いなりとキリストは言い神は涙をぬぐってくださると言ったのである。
だから逆にいつも権力や地位があり悲しむこともない人は逆に何も学ばないともなる
悲しむ者はやはり底辺層に多いからである。
この世とはそもそも安楽に過ごす場ではない,悲しみ苦しむ場として神から与えられたともなる
そうでなければ何も人間は学ばないからである。


2017年07月17日

認知症の人の聞き書きは郷土史の発見に通じている


認知症の人の聞き書きは郷土史の発見に通じている


 高齢者に、その人生を語っていただき、その方の歴史として編集する「聞き書き」は、第三者がそれを行うことにより、高齢者が自分の人生を客観的に振り返ることができ、やり残した事を思いだす、生きがいを見出す、など、精神活動に効果があると考えられています。実際に、認知症で引きこもりがちであった高齢者が、「聞き書き」によって元気を取り戻し、自立に近づいた例も経験されています。



認知症というのは不可解な病気である。90歳くらいの女性が何もする気がないのだが草取り、草むしりをしたいという、その人は草むしりをずっとしてきたからである。
だから草むしりをしたいという、それで草むしりを介護の職員がさせた
その時車椅子から離れて草むしりをした、そしたらそのおばあちゃんは元気になった
ある女性はベッドで田植えのしぐさをしていたという、その人も農家の出だからそういうことをしていた

草むしりは農家では日常的な仕事である。草は絶えず生えてくる、草にもいろいろあり根を深く張るものもあるしいろいろなのである。
ともかく草むしりは農家の毎日の仕事なのである。
そういうことを長年してきたからまたしたいとなる、その草むしりは役に立つことである掃除ともにている

認知症でも過去にしたことは忘れない、姉は機械の操作がボタンを押すことすらできなくなった。テレビのリモコンも操作できない、すると洗濯していたのだが手でごしごし洗っていたのである。洗濯機がそばにあっても使えなくなっていたが手で洗っていた経験があり何か役に立ちたいとして洗濯を手で洗っていたのである。

老人ホームなどは確かに前に近くでデイサービスとかに行って話を聞いた、その聞いたことをプログに書いたりした、ただ内容を深くつっこむことができなかった
それは一回しか聞けなかったからである。何回も聞けばその人の経験したことがストリーとして理解できる
その人は老人ホームにいた人ではないが小高の80歳になる人の話は面白かった
原発でも働いていたのでその話を聞いたり全国を建築関係で回っていた
その人は話上手だった、男にしては何か話がうまいのである。
その人とは何回も土手の所で話した
今は小高に帰っている

話を聞いて興味を覚える人とあまり覚えない人がいる、ただそうして介護民俗学の本を出した人は介護に実際たずさわっていたからできたのである。
老人ホームの内部の人になったからできたのである。なかなか人の話を聞くことはむずかしい、語りたくないこともあるし聞く相手にもよるからだ

それと話を合わせるにはその土地のことに詳しくないとできないことがある。
どこに住んでいてそこがどういう場所かわからないと話を合わせられないのである。
自分は駅で遠くから来た人とちょっとでも話するとき出身地がわかると全国を隈なく旅しているから見当がつき話をあわすことがある程度はできる

話を聞くにしても聞く方でもまたその人を理解する力が必要になる
地元の人だと地理的なことや外に知っているから合わせやすいということはある
普通は地元の人から聞いたりすることもむずかしい、それができたのは原発事故とかで避難してきたりしてその話を聞きやすかったのである。
老人ホームなども話を聞き安い場所である、それも何回も聞けるからそこで働いていた人は本まで出したとなる

認知症の介護は身体介護は体力が必要なので若い人が向いている、でも認知症となると精神的介護の比重も大きい、認知症は生まれつきの知的障害者とは違う
長い年月を生きてきた足跡がありそれはその人の一生であり歴史である。
その歴史は郷土史でもありまた大きくは国の歴史ともかかわっている
姉は従軍看護婦としてシンガポールに4年間いたことは国の歴史に深くかかわってそうなった、戦争を経験した人はみんなそうである。そういう人はまだ生きている
でももう90以上であり戦争自体にかかわった人、戦地に行った人は相当に少なくなっているだろう。

でもそういう人の経験は貴重であり歴史の生き証人ともなる
姉は死ぬ間際まで戦争のことを語っていた、それだけ戦争というのが人生の中で最大の印象に残ることであり忘れることができなかったのである。
若い時のことは別に平和な時でも一番印象に残る
30歳くらいすぎると何か特別印象に残るということも希薄化する
人間は30歳まで経験したことが後の人生を作っているともなる

だから若い時苦労しないといくら東大出ても、ハーバード大学ででても豊田真由子議員のようになる、ただ一般的にそういう女性は優秀だと思うのが当然だと思う
ただ人格形成で下積みとかないと人間はまともになるないことがありうる
自分は苦労がなく大学など出てうぬぼれていたが就職もできず底辺で働いたりしてうめぼれることもなくなった、その後は隠者として老人になるまで故郷にいたのである
だから超エリートの家族に生まれても人格形成がうまくいかないことがあるから人間は本当に環境が影響するとしてもその環境に恵まれても恵まれすぎてだめになるものもいる、であういう女性は例外的なものだろう。
そういう異常な女性がいたからやはり恵まれたからといって金持ちの家に生まれても男でも女でも人格形成がうまくいくとは限らないのである。

いづれにしろ確かに認知症の介護というとき身体的側面だけではない、そうした老人の人生をふりかえることを共にする、聞き書きは有効である。
ただこれはかなり聞く方にもそれだけの聞く能力が必要になってくる
自分は原発事故とかで小高の人が仮設に住んだりして多少は話を聞いた
でも話す相手にもよる、小高の人と鹿島の人はうまくいかないこともありしずらかったことはある。
だから一人だけは話がうまいから聞くことができたとなる

郷土史はおじいちゃんやおばあちゃんの話を聞くことからはじまるということを書いた
それは家のことには誰でも関心があるからだ、それが身近だからそこから郷土史に興味をもつ、だから古い旧家に生まれた人は有利である。
そこには実際に蔵などに資料が物でも書類でも残っている場合がある、江戸時代のものも残っている、まず江戸時代のものが残っていたとしたら相当に貴重なものとなるからだ。そこから郷土に関心をもつことになる、自分はだから常に墓を見てあるったのはそれが過去に生きていたものの証として残されていたものだからである。

老人ホームで認知症の人で若い時のこと過去のことは覚えているからその話には意外なものがあり郷土史の発見に通じるものがある、ただその作業となるとやはり老人ホームに勤めていたらしやすい、外から入って聞くのはむずかしくなるからだ。
何か老人の介護など特に認知症の介護などしたくない、馬鹿を相手にしたくないということが若い人にある、でも郷土史ということから入ると認知症の人にも興味を覚えるのである。 


驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく) (単行本)

六車 由実 (著)
これは読んでないけどこういう本があるのも驚きである、ともかく本の量は膨大である。
今や読みきれないのである。だから一部分を抜粋して読む、それだと読むことかできる
全文を読むとなると本は長いからできなくなるのだ。


2016年10月08日

墓がなくてもいいのか? 常に死者を意識しなければ死者は存在しなくなる


墓がなくてもいいのか?

常に死者を意識しなければ死者は存在しなくなる


墓がいらないとか最近言う人がいる、墓が維持できなくなっていることもある。墓を守る人もいなくなっていることもある
そもそも墓がなにかというと結構めんどうなものである。
それは死者と生者の問題であるからだ。人間はみんな死ぬ、つまりみんな誰でも死者になるのである。
だから死んだ後のことも人間は考える、死んだら別にどうなってもいいということもある人間なんか最後は灰となり煙となるたげだ、墓なんてもう子供も離れて田舎で維持することもできない、墓はいらない、一代かぎりで終わっていいということもある

墓の問題は墓があるべきとかなくてもいいとかいう前に死者をどう扱うかという問題なのである。死者は何なのだというときわからないのである。
自分の家族はみんな死んだ、60年も一緒にいたのに死んでいない、それもなんといっていいかわからない、最後は一緒にいたことさえ夢のようになってしまう。
それは60年も一緒にいてもそうである。

墓が生れたのは死者にとって必要であったからではない、別に死者は何かを生者に望むことができない、何もすることもできないからだ。
ただ生者が死者をどう扱うかが問題になっているのが墓の問題なのである。
墓とは死者を意識する場所なのである。それだけはまちがいない
実家の墓では25歳で肺病で死んだ人がいた、するとこの人はこんなに若くして死んで無念だったろうとかなる、それは戦死者にも言えるし他の人にそうして無念に死んだ人は無数にいる、墓はそういうふうに死者を意識する場所なのである。
自然葬になったらどこで死者を意識するのかとなる

別に墓というものにこだわらなくても死者を意識することが死者を忘れないことが生者に必要なのである。
だから今回仏方(ほとけっぽ)というのがすぐ近くにあった、そこは村の埋葬場であり村の人を葬った場所である。そこに墓はなかった。村の人を葬る場所としてあった。
それも一つの墓地でもあったのだ。墓を建てることは結構金のかかることだから墓は金のある地位のある侍とか僧侶とかしか作られていなかった。
ただ幕末になると天保辺りからか庶民も個人墓を作っているのである。
それだけの経済力がもつようになった人が出てきたからである。
村人はその仏方(ほとけっぽ)で死んだ人を供養していた。それは村が共同体として機能していたときである。
だから現在は個人墓はいらないとか共同墓地に樹木葬とかでそうなっているのも歴史がそこにもどっているともなる

つまり明治以降家族墓になったのだが家族が分離するとそれが維持できなくなりそうなった。墓とはともかく死者を意識する場所なのである。
もし墓がないとしたら死者はなかなか特別の人でないかぎり意識されない、結局忘れられることになる
ただ人間というのは死ぬにしても死ぬ場所を選ぶというか意識しないだろうか?
ここで死んでいきここで永眠したいなとか何か生きているときでも意識する
自分でもなんか都会など嫌だなとなる、例えは電車がひっきりなしに通っている所とか高層ビルの間とか下とか団地のような狭い空間に閉じ込められたような便利な最近の墓とかなんか嫌なのである。もちろん死んだらそんなことが関係ないとも言える

人間はやはり自然の中で美しい自然の中でつつまれて死にたいということがある
まだ長く住んでいて愛着ある場所に故郷に死にたいということもある
老人になるとそういう意識が強くなるのである、だから故郷に住めなくなった原発避難民で老人はそういう意識が強いのである。
都会では土地に愛着を持つとういことがないからそういうことがないのである。
そしてもう世代の継続が今は全般的にない、それも墓を維持できないものになった。
村という共同体も希薄化して継続がない時代である。
死者でももし仏方(ほとけっぽ)とかに葬られても村の共同体が継続されていたらそれも語り継がれて供養する人はいる、村は一家族と違って村全体が家族のようになるからである

我が里に知られず埋もる墓なれや今日見いだして秋の日さしぬ

我が里という感覚はまず都会にはない、里というとき村でもそれは自然の中に営まれた共同体である。死んでも里の人に見守られているというふうになると別に個々人の墓がなくてもいいわけである。
墓はだから共同体と継続性のある社会がないといらなくなる、第一維持もできなくなるからである。
生者が死者を意識することは死んでもその人がなお生者の中に生きつづけることでもあるからだ。
ただそのために寺に金を使い供養するのとはまた違う。月命日だなんだとか金取りになっているのも問題である。
死者を思うというときそれは心の問題なのである。

ともかく仏方とあってももし墓もないならなかなか死者がそこに葬られていることも意識しにくいのである。
墓があるとここに確かに人が死んで葬られているのかと意識するのである。
墓がないと死者を意識できない、すると死者と生者の結びつきも消えるのである。
死者は全く存在しなくなるということである。
明らかなことは墓がないとしてもいらないとして生者は死者を意識するものが必要だということである。墓の代わりになるものが何かとなるとそれは何なのか?
それが問われているともなる。

南相馬市鹿島区寺内に見いだした共同墓地(仏方ーホトケッポ)
タグ:墓の問題

2016年05月19日

戸籍で切れない因縁 (わずかの貯金でもめんどうになる)


戸籍で切れない因縁


(わずかの貯金でもめんどうになる)


ゆうちょ銀行の母の貯金を相続するの戸籍をそろえるのに嫌になった。
書類がたりないと言われ戸籍をわざわざ東京から郵送してもらった。
それが良くわからないので理解するまで手間どった

第一母が東京で女中で東京の人と結婚した、その人は事故で戦前死んでいるのである。
その父と妻だった母の息子も事故で死んだ。
このことが自分の異父兄弟の血縁関係が意外と因縁深かかったのである。

異父兄弟の兄は幼いとき知っている、その父親の関係は全然知らないのである。
でも兄は交通事故で死んだときこの時も交通事故の保険金でもめたのである。
母が言っていたが前の夫が死んだときも事故で死んだので保険金関係なのか会社から多額の金がでて夫側の親戚とかなりもめたことを聞いている。
何か事故ー金でもめる因縁があり自分に引き継がれたのである。

何かわからないけど前の母の夫には養子なのか変な人がいたと聞いた。
一応前の夫の息子になっているのである。その人も死んだのだが兄が交通事故で死んだときその人の墓参りしたのである。
その時本当に不気味な風が吹いて寒々しい感じになった
というより何か死んだ人がまともでないことを肌で感じたのである。

前の夫は戦前死んだのであり今は台東区になっていた。
それを郵送でとりよせるのにめんどうだった
そしてこれで終わりかとゆうちょ銀行に送ったらまた戸籍がたりなかったのである。
前の夫が今度は北区に移動していいたので転籍した戸籍が必要だという
するとまた北区から戸籍をとりよせねばならないのである。

前の夫と母の息子は交通事故で死んでその一人娘の姪子にはハンコなど押して書類を出している。だから実質的にはそもそも相続する人はみんな死んでいるからいないのである。それでもわずかの金でも相続するとなるとこれだけめんどうなのである。
ともかくそれだけではない何か母方の関係になると因縁が切れない
そこと縁をもってもってもいいことがまるでないのである。
でも最後まで戸籍で縁が切れないのである。

テレビの推理ドラマで遺産相続となると訳のわからない人まで出てくる
何かの因縁がそこであり遺産相続にかかわってくる
遺産相続となると兄弟でも殺し合うまでになる

戦前のことまでさかのぼり因縁は関係してくる、第一戸籍は江戸時代まで庶民でも普通にたどれるのである。
東京に住んでいて台東区から北区に転籍したことまでたどって戸籍が必要になる
それは死んだ人の跡をたどることにもなる、今やその人の前の夫の墓がどこにあるかもわからない、でも戸籍からその人が生きていた跡をたどっているのである。

いづれにしろ静岡で兄が事故を起こしたときもさんざんな目にあった。そのもめた相手が親族ではなく勤めた会社だったのである。保険金を欲しいということでいろいろ工作したからである。
こっちでは事情がわからないし遠いから困ったのである。
別に連絡はとりあっていたから消息不明でもない、事故の直前には自分の家にも来たのである。それが最後だった

戸籍から前の夫の養子なのか何なのか正体不明の人までかかわっている、その人の墓には一回だけ母と墓参りに行ったことも不思議だとなる
今は無縁仏になっているだろう。なんか変な奴だったと母が言っていたからである。
ともかく因縁は簡単にこのように死んでも切れない、戸籍というのは意外と証拠として残る
ただもし遺産相続でないならこんなめんどうなことにはならなかった。
銀行にあづける金は死ぬと簡単にはこのようにおろせなくなるのである。
でも不思議なのはタンス預金とかどこにか隠しておくとかすればその場所を教えればこんなめんどうなことにはならない、でも自分のように盗まれるということがあるのでこれも安全ではないのである。金というのはとにかくいろんな面でやっかいなものなのである。金に人の欲が集まるからそうなるのである。
関係ないものまで金にかかわってくる
ただ今自分の血縁関係の人はみんな死んで自分だけが残った。
それで供養するのは自分だけなのである。

先祖とか家系をさかのぼる、それはその家系が何かいいものを残しているからだろう。
その反対も多いのである。かえって家系の中で悪い因縁に苦しみその因縁が断てないで苦しんでいる人も多いのである。
因縁はいい方にも悪い方にも働くことはある、でもただ悪い方にだけ働く因縁も多いのである。
自分の母方の因縁はそうである。父方の因縁にはそういうことはないのである。

タグ:戸籍

2014年09月16日

火災保険、10年超引き受け停止へ 損保大手 自然災害増加で収支悪化 (国民年金も保険であり支払いきれなくなっている)


火災保険、10年超引き受け停止へ 損保大手 自然災害増加で収支悪化

国民年金も保険であり支払いきれなくなっている)


  損害保険大手が、10年を超える期間の火災保険の新規契約引き受けを来年秋にも停止する方針を固めたことが13日、分かった。異常気象による建物被害が増加傾向にあり、長期契約での収支予測が難しくなったためだ。現在、最長で36年の保険契約は、 ...
MSN産経ニュース

若い世代はまともな職にも就けず、安定収入もなく、結婚もできず、ジリ貧。 
一方、老人世代が雇用延長して会社に居座り、高給を得て、裕福な生活をおくる。 
自分たちだけ良ければ後はしらねえ、って感じがぷんぷんする。 
政治家も自らの懐にカネが転がり込む仕組み作りに腐心しているだけで、表向きは 
キレイ事をいっているだけで、将来の日本がどうなろうと知ったことではない。 
だいたい、余命幾ばくもない70才の老人がまともに将来を考えるかっての。 


年金は保険だから。得する人もいれば損する人もいる。最も公的年金は、政府が出資してるから得する割合が高い。

 自動車保険は事故を起こさないと貰えませんよね。健康保険は病気や怪我をしないと 
貰えませんよね。保険金を貰うような事態にならないほうが幸せなんです。それを、 
「掛け金が無駄になった。私も事故を起こしたかった。病気になりたかった。」と悔やむ 人はいません。 

国民年金「保険」も、厚生年金「保険」も同じこと。貰うような事態にならないほうが幸せ なんです。保険金をもらえなかったら、「無駄に長生きして生活に困らなくてよかった」と
喜ぶべきなんです。 

そういうわけで、年金の支給は90歳からにしますのでよろしくお願いいたします。 



一般にも保険が「危険を分担」し合う契約であることの認識は薄く、自らに保険事故が発生し、経済的保障を受けなければ保険の効用、仕組みについて理解がされないことが
多い。

保険というのがこれもそもそもわかりにくい。親が農協の保険の火災保険い入っていた。それで今回の地震で30万くらいはもらった。
でも津波に被害があった人は500万もらったという。床上浸水で被害が大きかった。
それでもその額が大きいと思った。その人は1200万くらいの保険だった。
自分は600万だったのである。それも積み立てたのが戻ってくる保険だった。
ただ自分は少ないと感じたが保険は何かあった場合のために助け合うことが保険だということを理解した。そういう助け合いだということを自覚している人は少ない。
保険会社に一任してその保険会社から支払われるのであり互いに保険金を納める人が協力してなりったていることがを自覚していないのである。
それが近くで同じ農協だったから自覚したのである。
正直農協は一年に5万であり高いと思った。でもこれは掛けたものが返ってくるから高かったのである。

現代は保険の時代でもあるが保険とは何か理解している人が少ないと思う。

年金は保険だから。得する人もいれば損する人もいる。最も公的年金は、政府が出資してるから得する割合が高い。

 自動車保険は事故を起こさないと貰えませんよね。健康保険は病気や怪我をしないと 
貰えませんよね。保険金を貰うような事態にならないほうが幸せなんです。それを、 
「掛け金が無駄になった。私も事故を起こしたかった。病気になりたかった。」と悔やむ 人はいません。 

年金が保険と理解している人もまれだろう。若い人が年金を払うのが馬鹿らしいというのはわかる。
自分もそう思っていたが払うのは親だったので苦しいとは思わなかった。
年金は保険だとすると老後のために何かあった時にもらうものであり月給のようにもらうものではない。
それは病気とかになった時もらうものだとなる。そうなると定期的に死ぬまでもらうのはないとなる。
国民年金などはこうした保険というよりは国の社会保障になっている。半分は国で保証しているのである。健康保険でもそうである。アメリカでは健康保険が馬鹿高いから貧乏人は入っていないから病気の時はいい医者にみてもらいない、日本では平等にみてもらえるのがいいと評価される
でも国でその負担が増えるとはらいきれなくなり消費税などの増税になるのである。
それはこれも保険でありみんなでなにかあったら負担しあうという思想があり成りたっている。
生活保護でもそういう思想があり成り立っている。ただ税金で納めるから保険だという感覚がないのである。

若い人が年金に不満なのは今の団塊の世代などは少なく払ってももらえるが自分たちが老人になるときはもらえるかどうかわからないという不満である。現実に今の90代は年金をはらわなくても三万くらい国から支給されたのである。年金は国で保証されるから支払われるとしても今払っている年金は今の世代に支払われるから不満なのである。
考えてみれば火災保険などは支払う額はそうした世代間で差はない、みんな同じ額を払って維持している。今の若い人は多く払ってももらえるかどうかわからないというのは当然だとなる。
厚生年金や企業年金も国民年金とは違っている。
公務員はなぜ年金が高いのかと不満がある。その差があまりにも大きすぎるからである。
そもそも国民年金にしてもそれが保険なら病気とかの時支払われるのであり月給のように支払われるのではない、そうしたいなら貯金の年金に入り老後にもらえるようにしひた方がいいとなりそうしている人もいる。

いずれにしろ社会保障費も増大すれば消費税などあげねばならない、少子高齢化でその負担が若い人にかかるから不満が増大する。最近火災地震保険でも払いきれないから募集を保険会社で取りやめたことも同じことなのである。支払う額が大きくなるともう維持できなくなるのだ。
それは社会保障費でもそうだし年金でもそうだし民間でも維持できなくなる。
そういう限界状態が社会全体に生じているのである。

現代社会が理解しにくいのは何でも規模が大きくなっているからである。少人数の頼母子講などなら理解しやすいが巨大化すると人間はなんでも理解しにくくなる。
でも今回のような大災害になると巨大化しているから巨大なシステムを構築した保険会社でないと対処できない、その一番巨大化したのが国の保障なのである。これだって税金で成りたっているのだから
保障しきれない事態になっている。
タグ:保険

2014年09月13日

金の貸す方の恐怖 (貸すと際限なく借りに来る恐怖)



金の貸す方の恐怖


(貸すと際限なく借りに来る恐怖)


金を貸す方の心理を借りる方は知らない、立場が変わると人間は相手のこと理解できない、患者と医者と看護師でも親と子でも上司と部下でも立場が違うから理解できなくなる。
正直親とならない人は親の気持ちがわからないということがある。
自分がそうだった。今親の介護をして世話する人の気持ちを理解した。
毎日食事の用意をすることが大変なのである。でも親もそうしてくれてきたことを理解したのである。
親は子供を世話してきた。そこには子に対する願いも生まれる。
子供が立派に育ってほしいとなる。その立派とは何か明確ではないにしろそいう気持ちを持つのである。
それは日々子供のために尽くすからそうなる。

人のために他人でも同じである。
特に看護師などや介護士でも人と直接向き合う仕事だから余計に感じるのだ。
「なぜこの人のために働き尽くさねばならないのか?」
金をもらっているから仕方がない、そう割り切れないのである。
だから病院とか介護関係では虐待も起きてくる。それは家族でも起きてくる。
家族も実際は様々な家族があり複雑なのである。
要するに世話する人と世話される人の立場の違いで問題が起きる。

金の貸し借りもそうだった。金を借りる人は金を貸す人の気持ちがわからないのである。
返すから貸してくれとはいうけど返すとは簡単に誰でもいうことができる。
一回貸すと必ずまた借りにくる。返さなくても借りにくる。
金を貸すとそれが延々と続くから怖いのである。要するに切りがないことがこわいのである。
延々と金をせびられのが金を貸す方にとっては怖いのである。
金を貸す方にすると延々とせびられる、たかられるということが恐怖になる。
そういうことは親族間で起こりやすい。
借りに来ても断りにくいからである。

恐喝事件では推理小説では延々と金を請求されるということで殺害するというのも切りがないことが恐怖になってそこまで金を与える方が殺害までにいたる。
金を貸す方もそういう恐怖がある。
なぜなら金を借りるような人は常に金に困っていて借りに来るからである。
金を借りに来ることに終りがないのである。

その金の貸し借りから信頼関係はこわれてゆく、金の借りる方は金にならないならと離れてゆくし金を貸す方は金を延々と要求されるということで恐怖となり縁も切れてゆく。
人間は限度がないことが怖いことになる。欲望にも限度がない、だからかえって一千万の月収があっても生活が苦しというのはそのためである。
収入が増えれば楽になるというのではないという。それ相応の生活ができないことが問題なのだというのは本当だろう。

なぜ金の貸し借りから人間関係が破綻するのか?
金を借りる人には必ず問題がある。そして知人であれ金を借りるとなるとどうして金を借りるようになったのか厳しくとわれる。ギャンブルでおおまけしたからだと言ったら誰も貸さない、貸すのはサラ金である。
金を借りることはその人の人間人格、人生まで問われることになるのだ。
おまえはいいかげんな奴だから借金するのだとみられる。

まず事業している人などと付き合うのは怖い、こっちに弱みがあったりしたらさらに怖い、相手は金しか眼中にない、ちょっとでも何か頼めば百万単位で借金を要求するから頼めなくなった。だからかえって頼むときは法人会社がいいとなる。
要するにもう知人でもなにかしてもらうと際限なく要求されることが怖いのである。
「ただほど怖いものはない」の意味は報酬として決まった金でケリがつくことはわりきれていいのである。
なにかしてもらっていくらだと決まっているとかえって割り切れる。
いくらでもいいですよおいわれると一万から百万までまりうるのである。金持ちだったら百万払うこともあるからである。

いずれにしろこの金の問題も親から受け継いだカルマだった。いつも金を貸すことで返してもらうのに苦労していたからである。そのカルマも引き継いだのである。
カルマは親からのカルマ必ず引き継がされるのである。
そこにはいい面と悪い面がある。いい面だけを引き継ぐことはありえないのである。
いずれにしろ金の問題はやっかいである。自分はそんなことにかかわることがなかったからよかった。今やいろんな世俗的なことに関わらざるをえなくなった。
人間は世俗のカルマから逃れられないのである。
借金をすること自体がすでに具体的にカルマを背負うことになっているのだ。
だから借りた人に借金を返さなくても他の人から取立てがされそれは厳しくなるというのもありうる。そのカルマともかくどこかでまた返さない限り要求されるのである。

2013年03月26日

見過ごしていたコメント (高齢化社会の恐怖-弱者を虐待する人間の悪魔性)


見過ごしていたコメント

(高齢化社会の恐怖-弱者を虐待する人間の悪魔性)


高齢化社会の恐怖-老人虐待が日常化する
(弱者はカルト宗教団体だけではない、個人も同じ手法で脅すことが普通にある)
http://musubu2.sblo.jp/article/61582877.html


ここにコメントされたものです



病院は刑務所と同じ。患者は研究対象のモルモットがストレス発散の為の玩具。90才の老人が痰吸引で苦しむ姿を見て笑う看護師…自分が指摘した母の臀部に出来た褥そうになる手間の水疱を水疱ではないと看護師に否定されました。しかし、水疱は破け褥そうが広がり、褥そうの処置に大声で痛みを訴え泣き叫ぶ母を見て笑ったり、「凝らしめたる」だとか、痰吸引で苦しむ姿を見ても何とも思わない看護師の恐ろしさ、母の泣き叫ぶ姿や自分は看護師や医者に裏切られ弄られても抵抗出来ない姿を思い出し、辛くなりました。医者は研究対象から外れたら、もうベッドを開けて欲しいから死期を早めることも自由自在。私が怒り苦情を言えば、私がいない間に母を弄り、今思えば、母が私に「もう、何も言わんといて」って言った意味が分かりました。こんな恐ろしい医療従事者がいるなんて信じられませんでしたが、自分の大切な人が被害にあい、恐ろしさを目の当たりにしました。事実は形に残して正解です。医療従事者の言いなりになり、物以下の扱いをされ過去形にするつもりはありません。


ストレスが原因とはいえ、目の前の癌患者を虐待した裏には、悪質な医者、カルト教団、見栄をはり消費者金融で借金して外見を飾り、会社経営して、しっかりしていると思わせたかった葛集団、母に借金の肩代わりさせた事実を隠蔽したかった元兄嫁や妹が繋がっていました。
高齢者や女子供や障害者が虐待の対象にされるケースが多いですが、虐待する側にも、同じ対象者が当てはまります。障害者にも色々で、精神薄弱者が加害者になる場合も多々あります。だいたい、カルト教団に入る様な人間やカルト教団と取引し悪事を重ねる事が出来る人間は自立出来ていませんし、攻撃機制があります。



90才の老人が痰吸引で苦しむ姿を見て笑う看護師・・・・


自分も入院した隣の90才以上の老人がそうでした、その人は特養の人で身寄りがなかった
だから看護師がおもちゃのように扱っていた、痰がつまるのは本当に苦しい、
その苦しむ声が毎日隣から聞こえてくるので眠れなかった
看護師はそれを笑ってやっていた。
看護師は天使にもなれば悪魔にもなるというとき悪魔になっていたのでしょう

病院は実際は恐ろしい所です、看護師にも一人だけど虐待的なことをされた
結局それも身寄りがないからそうなった、家族などみているものがないとしたいほうだいになる
だから身寄りがないものにとっては病院は恐怖です


痰吸引で苦しむ姿を見ても何とも思わない看護師の恐ろしさ・・・・端からみても地獄の苦しみでしたよ、あんななる前に死んだ方がいいと思った、つまり長生きするとは恐ろしいリスクが待っているというのも現実です、長生きさせられて生きながら地獄の苦しみを受ける恐怖です
病院で死ぬことは本当は相当に恐いことです


安楽死させろというとき安楽死の方があれをみていて人情的だなと思った
一層殺してくれと患者も言葉にも言えないが端からみてそうだった
安楽死の方があんな苦しみを受けるよりよほどいいと思ったし否定できない

長生きするということは苦しみも増えるということです
自分の姉は本当は脳出血で倒れて入院したけどそのまま死んだ方が楽だった
半年以上入院して地獄の苦しみを味わった
結局最後は老人は直らない病気になり死にいたるのだから
何でも病院にまかせるとただ苦しませられるだけになるし病院の方でもその治療や介護で膨大な労力を費やすことになるだけです

自分も親戚に言葉の虐待を受けました、これにカルト教団が加わったら最悪です、自分の場合は身寄りがないことですべてそうなった、病気のときまでいじめられると思わなかった

人間は全く残酷です、この六年間は介護や自らの病気や犯罪にもあい苦しみの連続でした
最近こんな非情な社会になったから津浪が起きたんじゃないかと思います
人間社会の終末が来ているのじゃないかと思いました
最後の審判のときが近づいているのだと思いました

自分はなんとか借金している親戚と切れましたし今は病気も一応回復したし身体障害者でなくなりましたから楽になりました、なんだかやっと楽になったなとほっとしています
自分の場合はなんとかあきらがつきます
だからただ忘れることを願うだけです




●身寄りのないものは入院すると最悪になる
このコメントを書いた人は裁判にするまで恨んだ。自分もこれと同じ様な経験をした。つまり人間は弱者になったときそれをいたわるどころではない、弱者になったことをいいことに脅迫するしてくる。もちろん火事場泥棒のような犯罪にもあった。それも自分が病気になり弱者になったからである。弱者を攻撃することは実に容易である。でも弱者になると何も言えない、お前には頼るものがいないから俺たちの言うことを聞くほかないと言われる。弱者になったことをいいことに責められるのだ。看護師も一人だけであるが入院して虐待された。それも恐怖だった。その看護師が怖くなってトラウマになり何も相談することもできなくなる。何か悪いところがあっても言えなくなる恐怖があった。弱者だからどうしてもみてもらいたいことがあっても言えなくなるのだ。医者とか看護師の前では患者は一方的に従うだけのものとなる恐怖である。何も言えない、もし寝たきりとかになると余計にそうである。もちろん認知症とか精神障害者はもう何も言えないから虐待されるままになる。


そういうときなぜかいろいろなカルト宗教団体が入り込んでくる。それは創価でも一票獲得のチャンスとなりまた他のカルトでも会員を増やすチャンスとみて入り込んでくる。同情などは全然ない、自分たちの勢力拡大のために入ってくる。またそういうものに頼らざるをえないことも恐怖なのである。自分が頼った親戚もそうだった。親戚でも金が欲しいだけでありいやいやながらやっていた。
だから何かするにもいちいち恩を着せるのである。手術するときも身寄りがないから保証人の欄に一応書いてもらった。たいした手術ではないにしろそういうことをしてもらうと多大な恩をきせられる。身寄りがないということはなってみないとわからない、もう誰にも頼れないという恐怖である。


人間は家族などがいなければ誰も同情などしないのである。病院でも医者も看護師も同情はしない、ただ物体のよう地扱うだけになる。そもそも医者や看護師側から見れば赤の他人であり次々に運ばれてくるしもう嫌だという感情がでてくる,同情しきれないという感覚になってゆくのかもしれない、人間的同情感覚正常な感覚が麻痺してくるのかもしれない、もうこんなに死にかける大量の老人を世話するのは嫌だという感覚になるのかもしれない、そういう感覚になることはイメ-ジできる。
それだけまた看護の現場が過酷だからまたいちいち同情していたら身がもたないということもあるだろう。だから看護師はやめる人が多いというのも納得がいく、あまりにも理想とはかけ離れた過酷な非情な現場だともなる。


●安楽死もある場合は肯定されるべきだろう


高齢化社会の大きな負の面が過度な介護とか延命治療にある。だから安楽死させろというのも一面わかる。入院した隣の人は安楽死させたた方がどれほど情があるのかとさえ思った。看護師のおもちゃにさせられて苦しめられるためにある。特養だからその人に金はなくても国で出すから生かしておく、生かされることがもはや地獄の刑罰のうよになっていたのだ。それは延命治療でもあるし自分の姉も地獄の苦しみを味わった。泣き方が異常だったのである。それほど苦しかったということである。これは他の人も病院でそうした苦しみを受けているのだ。だからあるところからはただ苦しませるために生かしておくとまでなっているのが今の医療なのである。人命は生きる限り尊いものだというのではない、それほど苦しんで人はもう生きたくないのだ。

結局人間は最後に自分の死を選べない、意識不明とかなり病院に入れられてそこで眼が醒めたら地獄の苦しみを味わう場になっていて逃れられなくなるそこが拷問の場とさえなっていた。延命治療は直るならいいが直らない患者を苦しませるために長生きさせるだけのものとなる恐怖である。特に特養の老人がそうだったように何も抵抗できないしただ弄ばれるだけだという恐怖があるのだ。
それも身寄りがないということはそういう身寄りを作らないことが悪いのだともなるだろう。

自業自得としてその罰を受けろとまでなるのかもしれない、人間の最後をよほど真剣に考えていないと今の時代は恐怖である。孤独死が言われるが別にこれが悲惨ということではない、瀕死の状態で病院に運ばれて延命治療されて苦しみが長びくことこそ恐怖なのである。助かるにしても高齢になるともう死だけになり苦しんで死ぬだけになるからだ。姉も半年長生きしたとしても異常な苦しみを経験しただけだった。でも今は必ず救急車を呼ぶから呼ばざるを得ないからどうしても苦しむ期間が長くさせられるのである。


●弱者には親戚やカルト教団がからみ食い物にされる


ストレスが原因とはいえ、目の前の癌患者を虐待した裏には、悪質な医者、カルト教団、見栄をはり消費者金融で借金して外見を飾り、会社経営して、しっかりしていると思わせたかった葛集団、母に借金の肩代わりさせた事実を隠蔽したかった元兄嫁や妹が繋がっていました。


これも自分と多少にていた。その人は会社を経営していて成功したように装っていたのだ。
それもただ見栄のためだった。借金をしているからどうしても金にこだわり自分が病気になったときそれをいいことに暗黙の内に金を要求するようになる。まあ、別にそれなりに同情して助けてくれるならいいが実際は同情は全然ないし恐喝まがいのことをしてきたのである。こんな人に頼ること自体最悪だったのだ。こういうことは20代で若くして父親がアルツハイマ-になった人がインタ-ネットに書いていた。親戚にいいようにされ金をとられてだまされたとか書いてあった。その恨みを延々と書いていたことが自分にもあてはまる。人を見るとき弱者にどういう態度をとるのか?それをみているとわかる。弱者に横柄な態度になり虐待までする。そこに人間性が見えてくる。それは男女関係でもある。女性が齢から虐待されるのだ。虐待することに喜びを感じるのも悪魔的性格が人間は誰にでももっているのだ。


人間はまさにショ-ペンハウエルのように悪魔的なのである。それは自分もないと思ったがある。人間は誰しもジキルとハイドなのである。そういう悪魔的側面が隠されていてそれが自分のように病気とか弱者になるとそれ幸いとつけこんできて虐待されるのだ。人間は一面恐ろしいものなのだ。愛とか慈悲を説く宗教とはあまりにもかけ離れている人間の本性は悪魔だともなる。
カルト教団は悪魔的なものである。宗教看板にして弱者救済するように見せかけて勢力拡大を計るだけである。そもそも弱者に同情する人がこの世にいるのかとなる。

もちろんそういう側面は自分にもあるからただ他者を責めるということもできないのだ。弱者を虐待して快感を覚えることは男女の関係でもあるし常に人間に備わっているものなのである。だから人間が弱者になったとき本当に同情する人は希有な人である。一人だけ馬鹿正直な女性が同情したのである。その女性は本当に同情したから今になると今の世の中ではありえないとさえ思った希有の女性だったのである。

 

2010年05月26日

キ-ワ-ド 認知症の家事療法(しゃもじ渡しの意味)


キ-ワ-ド 認知症の家事療法(しゃもじ渡しの意味)


古くは「おしゃもじ渡し」といって主婦の座の交替を表し、おしゃもじで大鍋の煮物をかきまぜないと焦げついてしまうという古い教えを意味しています。

これは集団活動のコツであり、当時、おしゃもじでゆたかな食糧をよそることは、主婦の願いでもありました。
また、「戦いとる」意の「めし取る」心もふくめています

http://shufuren.net/modules/tinyd2/


プログのキ-ワ-ドを調べていたら「認知症の家事療法」というので自分のプログに来ていた人がいた。
それで一文を書いてみた。
しゃもじ渡しは姑が嫁にするものだというがこれは人生が60年くらいの時代なら良かった。隠居の風習があったのもそもそも人生が短いからであった。だから40代でも隠居になっている人がいた。60くらいで死ねばあとは20年くらいは好きなことをしていればいいとなる。60で退職して80頃で死ぬのと同じ感覚なのである。そういう時代の感覚からそうした昔の風習や伝統を考えることはできない、つまり現代の高齢化社会は人類史上はじめて経験することなのである。85とか90とかを普通に生きる時代など人類は経験していないのだ。だから今までの考え方は通用しないのである。もちろん老人は嫌いだ、いなくなった方がいいとかの意見も出てくるのは当然なのである。老人が増えることは社会全般的にいい影響はないからである。若い人が多い方が活力があっていいというのが普通である。老人が多く老人が金とか権力をもっている社会は新陳代謝が起こらない、革新的なことができないこともある。明治維新など革命を行ったのは20代とか30代だったことでもわかる。それほど過激だからとても老人などにはできることではなかったからだ。

ともかく高齢化社会は今までの風習とか伝統が通じない、価値観が根本的に通じないということを前提にしないと議論がかみあわないのだ。これまでの伝統はすでに近代化で壊されてきた。長子相続とかも壊されたり嫁が姑に従うということも壊された。大家族制も壊された。地域も壊された。さまざまな伝統的なものが壊されたときそれに代わるものは何なのかとなるときそれが社会の反対の会社になった。今度はその会社も不景気でグロ-バル化で拠り所にならないとなった。社会の中で伝統的なものが継続されず壊されてもそれに代わるものは簡単に作れないのである。伝統的なものが壊されることは価値観が変わるからその価値観に適合できなくなる。例えば嫁は姑に従うものだという習慣が価値観が支配していたときは姑は家の要としてありえた。でもそれがなくなったとき姑は嫁に従うものとなったとき姑は家にいづらくなり別に夫婦で暮らすのが一般的になる。これは一見嫁にとっては姑に従う、いじめられなくてもすむとかなりいいとなるのだが反面、自分もまた同じ運命になる。姑の立場になったら同じように別居することが多くなるのだ。

しゃもじを渡すということは女性にとって一大事であり台所をまかせられることは女性にとってはその家を取り仕切ることにもなる。だから80、90まで生きる時代に嫁が来たからとしゃもじを渡してしまいば姑はあと何十年と家の中で無用の人となりかねないのである。それがボケに認知症になることに通じているのだ。一番ボケになりやすい人は「おばあちゃんは無理しないでください、楽してください、テレビで見ていてください、私が家のことをみんなやりますから」こう嫁に言われた人なのである。実際に自分の家では複雑な家庭事情があり他からは理解されにくいけど90ますぎても未だに家事をしている女性はボケていない、公務員をやめてから家事も何もしない女性はボケて認知症になった。年は7年しか違っていない、明らかになまけものになってしまったのである。家事もやることがない、趣味もたいした趣味ではない、もともと向いていたのは看護婦とか保健婦だったから人の世話だったのである。それでハイチで83才で女医の人が未だに地震の国で肺結核の看護をしてハイチのマザ-テレサと呼ばれているというのを見てあの人はボケないなと思った。家庭内でも障害者や病人や介護する人をかかえていればなんとかその人の世話をしなければならないと責任感を持つからボケないというのは本当である。

現実に90になっても60すぎた知的障害者の息子をめんどうみている母親はボケていない、しっかりしている。やはり責任感があるからなんとか迷惑かけないよにう世話せねばならないという責任感があるからそうなっている。また男でも会社をやめたり自営業でも親父も息子に仕事をまかせるときボケやすいというのは女性のしゃもじ渡しとにているのだ。これも結局高齢化のために起こったことなのである。なぜならしゃもじ渡ししても早めに死ねばそれで良かった。男でもそうである会社をやめて息子に仕事をまかせても85から90までなど生きていないからである。だから高齢化社会では今までの考え方を変えねばならないから対処がむずかしいのである。

認知症の家事療法は効果が確かにあった。洗濯でも洗濯機が使えなくても手で洗っていたし食器洗いはできたし掃除なんとかできた。認知症でもできることはありそのできることをしていると気分が良くなり自分は役に立っているという自信をもったので効果的だったのである。何もせずにただ与えられるだけだったらますますだめになる。何かできることをすることはいいことなのである。だから嫁に私がやりますからおばあちゃんは何もしないでテレビでも見ていてくださいというのが一番悪いことになるのだ。それはやっぱり高齢化社会はしゃもじ渡してから先が長いということにあったのだ。だから今までの価値観が通じなくなったのである

2009年04月20日

介護で切れる親戚関係(介護では本心本根が隠せず現れる)


介護で切れる親戚関係
(介護では本心本根が隠せず現れる)


自分の家の場合、兄弟がいないのだから親戚関係はないと同じである。ここを前提にして読んでもらう必要がある。つまりそもそも親戚関係は薄いから切れても当然の関係だった。だからそのことにこだわる、恨むとかはない、ああそうなんだくらいであり別に恨んだりしない、当然の結果だと今では思っている。

@ 最初からかかわらぬことを決めて切れた親戚

これは介護になってから最初からかかわらないことを決めた親戚だった。ここも代が変わっているし姪とかであり年も八五歳とか本人では何もできないし息子や娘達は何もやる気はないから切れて当然だった。ただ特養に勤めている人がいたのでどうしたらいいか認知症の対処の方法など知りたかった。でもこれもめんどうだからしたくなっかったのだろう、何もできないしたくなかったら介護になったらこの方がわかりやすくてすっきりして良かった。別にこれで恨んだりしない、そもそも本人はできないんだからしょうがないことだった。

A無理をして協力して絶縁して来た親戚

この親戚も姪とかでありその間に交流も薄いし何かしてくれるとは期待してなかった。だから介護自体は何もしてないにしろ親切に手伝ってくれるものだ不思議に思っていた。そのなぜかがわかった。金をやっていたのだ。でもその金のことで今度は絶縁状態になった。なぜならその人はそもそも金持ちでありやたら財産が入ってくる人だった。金などいらないのに金をやったからその金はそれなりに大きいとしても金持ちだからはした金になる。もし貧乏な人だったらありがたいと思うが全然思わないのだ。金でも一万やってありがたいと思う人百万やってもそんな金も金のうちに入らないはした金と思う人もいるのだ。そういう人に金をやっても何の意味もない、だからこんなはした金で介護に使う気かとどなりこんできたのである。もともとやる気がなかったのに金をやったため切れてしまった。金がいい作用をすべてするわけではない、金持ちは金では動かないのだ。金ですべて解決するけではない、だからあんた金があるんだから金でヘルパ-雇いとなり絶縁してしまった。もし金がない人だったらこうはならなかった。打算でも金が欲しいからやりたくなくてもやることはやる。介護関係の仕事でも他の仕事でも金のため嫌でもやらざるをえないからやっている。それが全部悪いとは言えないのだ。金があるからといって金が万能ではない、かえって悪く作用して人間関係を壊ししてしまうことがあるのだ。ただこの人は相当に冷たい人だったから本心と本音が極端に現れて絶縁してしまった。そうでなければこんな絶縁の仕方をする必要がなかったからだ。あれほと怒り狂うということが理解できないからだ。あなたのためにはそもそも何一つやりたくなかったのだが成り行きで一時的に協力していたのである。

B世話になったという理由で協力した親戚

ここも親戚といっても親戚にもならない関係だった。ただ世話になったということで協力してくれた。これはAとは比べ物にならないくらい協力してくれた。その言っていることもしたことも本当だった。ただすでに80すぎて協力するにしても自分一人ではできない、代が変わっているし娘や息子はやる気がなかった。でも母親がそういうのでしかたなくしていた。だからこっちの方には金を最初からやるべきだったが金があるということや金を受け取られないとうことでやらなかった。金を払ってもこっちにしてやってもらった方が助かるからだ。でも実際は金はなかった。あとで借金しに来たからだ。それを断ることもできなかった。これはAとは逆の立場だった。金がなければ金はやったのだからもっと協力してもらうことができた。でも金があると言われれば金やるからといったってしてくれない、Aではそもそも金は必要なかったから金で使われることに激怒したのである。こっちは別に絶縁状態ではない、ただ借金だけが残っただけである。借金を返せばもとの状態にもどるだけである。ただ何か手伝ってもらうことはあとあと考えるとむずかしいというだけである。

●介護には本心、本根が隠せず現れる

介護となると金の問題でももめて兄弟間でも財産のことでもめたりして絶縁状態になる。私の家はそもそも兄弟関係ではないから介護とか深刻な状態になればそんなことする義理も何もないのだから切れても普通のことである。だからとやかく言うことではないのだ。だから結局最後は金の問題になっていたのだ。介護も金の問題としての側面も大きい、介護士の不満も給料が低すぎることでありそれが解消すれば介護に従事する人はふえてくる。労苦の割りには給料が少なすぎるから不満が大きくなるからやめる人も多いのである。
介護になるとなぜこんなに兄弟でももめて絶縁状態になるのか?介護が大変だからそんなものにかかわりたくない、財産だけはもらいたいとかその人の本心がでてくるからだろう。介護になるとその人の本心がでてくる。その本心にまともに接して仰天した。こういうことは介護を職業として接している人にもある。金持ちの施設には横柄な人が多いという。

「オ-イ、高額な金を払っているんだからもっと親切に丁寧に尽くせよ、その態度は気にくわんな、もっとオレを敬い尽くせよ・・・・」
こんなことを金のために奴隷のように使われるとしたら介護士も嫌になるだろう。実際嫌になっいる人が多い。ここに介護は普通の職業とは違う問題としてあることに気づく、だから今回のような本心、本音がでてくると驚愕することにもなる。
「あんたなんかもう世話しねえよ、金のためにへいこらしていたけどオメエなんかもう顔も見たくねえ、オレは金が入ったからうすぎたねえ、オメエみたえな金持ちとはお別れだよ、顔も見たくなかったんだよ・・・・オマエなんかぶん殴りたかったんだよ・・・」

こんなふうに本心、本音がでてくる。介護では親子のなかでもこういうことがありうるのだ。介護でなくても絶縁したい人が掲示板で話している。そういう人は親の介護などしようにもできないのである。介護は辛いから本心、本根がでてくるからできない、最初は世間体とかとりつくろってもできなくなる。長いとさらにできなくなる。それだけ介護は負担が大きいからそうなっているのだ。これはだから介護する人を全面的には責められないのである。そんなにしてまで介護させられること自体、今まで人間としてありえなかったことである。高齢化社会と豊さから介護社会が生まれたこれは新しい問題なのである。 親孝行しろとかの次元とは違う負担の大きさが介護にあるからだ。余りにも重くなれば自分だってのんきにしていられない、耐えられなくなるからだ。


2009年02月17日

NHK-クロ-ズアップ現代-認知症 広がる「本人が決めるケア


 

●認知症を理解すること自体むずかしい
 

認知症の人を理解するのは相当むずかしいだろう。これは実際に家族でかかえた人でしか理解できないだろう。今日のNHKでは若年性の認知症をとりあげていた。これも若年性と老人性の認知症はどう違うのだろう?とかまた疑問になる。認知症をテレビから見ただけではわからない、ええ、どこが悪いのだろうか?普通に見えるけどなとなる。でもよくよく表情を見ているとどこかおかしいのだ。認知症は知恵遅れになっている。知恵遅れの人とよくみているとにたところがある。社会のことが理解できなくなる。それはいろんな症状となって現れてくる。だから今まで簡単にできたことができない、人付き合いは特にそうである。社会のことがどういうことかわからなくなるからだ。ある人は施設に入ったらそこは会社で介護士は部下だと思っているという。そこがどういう場所なのか理解できない、会社だと思っているからが部下だとすると介護士は部下の役割をしなければならなくなる。「部長、ごきげんはどうですか」「まあまあだよ、お前はあわてて失敗するから気をつけろよ、時間を守れよ・・・」「部長わかりました、ありがとうございます」
こんな会話を嘘でもしていなければならなくなるのが認知症なのである。つまり認知症には演技力が必要になる。

 
例えばお手伝いさんとお手伝いさんを使っていた女性が二人認知症になったらやはり関係は変わらず使う者と使われものとして施設ですごししていたという、それだからこそうまくいく、一方が認知症になったから馬鹿になったから使われている人があなたは馬鹿になったのだから私の言うことを聞きなさいとかいちいちわからなくなったことを指摘したら怒るのだ。今までの人間関係は継続する、でも実際相手が馬鹿になったのだから継続できない、そこに問題が起きるのだ。認知症とは相手をたてることが相手を気分よくさせることが治療であり介護なのである。それをできる人は家族でもできない場合があるし他の人でもまれである。だから今まで長年つきあっていた人も来なくなった。相手できないのである。一人だけうまく相手してくれた人がいた。その人はうまくちぐはぐな話をしてもそれに合わせてくれたのである。その人とは前はそんなにつきあいはなかったが相手が馬鹿になってもかわいそうだからなとか同情していたのだ。その人は今までは馬鹿のように思われていた人だった。何か言うことが良くわからない人だった。でも実際は認知症になり馬鹿になったことをわかっていてつきあってくれていたのである。
 
●認知症の人にとって作業療法は効果ある
 

認知症の人が幼稚園とかに行って掃除などをしていた。それで自分たちも社会とかかわれて何かしら役立っているという意識をもつ、子供たちとも接することができると生きがいをもてる。
認知症の人は役に立たないということを意外と気にしている。私の家では家事をほとんどしていなかった。でも認知症になってから洗濯、掃除、食器洗い、風呂の掃除などをするようになった。そしたら自分は役立っているということで何か自信がついたのか前向きになった。認知症でも役に立ちたいという意識がある。体は丈夫だったからそれがまだできた。それでこちらも助かった。庭いじりなどもしていた。認知症の人にとって作業療法がかなり効果を現す、でも家庭でやるならいいが社会でやるとなるとテレビでも補佐する人が4人必要だとか金もかかるとか簡単にはできない、つまり社会の役に立つからといって自分たちではできないのである。だから自分たちで病気を知ってもらいいい介護を国に要求することができるのかと理解できなかった。ともかく認知症は理解がむずかしいから家族でも孤立しやすいのである。だから施設に入るほか地域で介護することはまわりの理解がないのでむずかしい、実際は自分は一人で介護して何の援助もえられなかった。病院に入院したときは認知症の介護ではない、体の介護だが援助されたので病院に入れたとき楽だなとつくづく思った。ともかくはじめて外部の人が体の事でもいろいろ気づかってくれたからである。ただ別に認知症だからと気づかったわけではない、認知症だからと気づかってくれる人はいない、むしろ地域では差別、偏見になりやすいのである。


認知症は今日のNHKのテレビ見てええ、普通の人とどこが違うのか?と見る人が多いだろう。若年性の認知症は自分もわかりにくいがやはり痴呆であり明らかに知恵遅れの人のように社会のことがわからなくなる。でも依然として今までの大人としてつちかったことは記憶にあるから施設に入ったらそこが会社だと思ったりする。認知症はオ-ストラリアのようにまだ日本では認知症そのものが認知されていないのだ。何なのか社会でも理解していない、身体介護としてしか外部の介護はない、心の領域まで踏み入れ介護はめんどうだからできないのである。つまり日本では本人が決めるケアはほど遠いのが現実でありNHKの今日の放送はほんの一握りの例外的な人の報告にすぎなかったのである。

 
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認知症は社会で長年暮らして家族や社会で仕事してきた人だからその記憶が残っていて
自分は有用な有能な人間だったというプライドを認知症になっても持ち続けているのだ
そこが先天的知恵遅れの人との根本的そうである。