2023年01月19日
発達障害者とか精神障害者でも社会からただ排除すべきものなのか (誰にでもなる認知症も排除できるのか)
2023年01月17日
精神障害者自身が生きる意味と世話する人のモチベーション (なぜ殺害が起きたのか?)
2022年12月28日
精神障害者を持ち苦しむ家族 (発達障害者と認知症の似ていること)
2022年12月27日
発達障害と認知症の共通性 (家族でも他者でも悪口を言う発達障害者は嫌われる)
2022年12月23日
介護は遠くになるとうまくいかない (近くだとやりやすい―現代は広域化分散化でやりにくい)
2022年12月17日
意外と元気で退院した脳卒中の女性 (人間を左右するのは運、めぐり合わせも運?余裕がないと援助もできない)
2022年12月11日
遺骨の物語 (人が残すものは何なのかー骨ではない―家族遺棄社会を読む)
2022年12月04日
なぜ脳卒中になる症状として見抜けなかったのか? (大事な医者の選択ーでも名医はめったにいない)
なぜ脳卒中になる症状として見抜けなかったのか? (大事な医者の選択ーでも名医はめったにいない)
2022年10月31日
専門家でなくても病気でも知識を持つことは可能 (オンライン診療は普及させるべき―田舎では特に必要)
2022年10月30日
なぜ脳卒中の前兆があったのに医者がわからなかったのか? (高齢化社会は健康な人と病気の人の差が大きい)
2022年10月22日
高齢化社会の地獄-大事なのは健康 (8050問題は始まっている-頼る人がいない恐怖の経験)
2022年10月17日
介護もカルマになっていた (誰が親の介護するのか?−8050問題はすでに起きている)
介護もカルマになっていた
(誰が親の介護するのか?−8050問題はすでに起きている)

【脳梗塞】人生が変わる知識、脳梗塞の初期症状7選+α
https://onl.la/vQMKGtn
札幌母娘餓死事件の中心にあるのは、ほんとうに「8050問題」か
https://www.hikipos.info/entry/2018/04/19/060000
その72歳の女性は脳梗塞で倒れた、その症状は明らかに脳梗塞であることを医者なら気づいたはずである、しきりに一方の手がしびれると言っていた
めまいがしてふらついていた、片目も悪くなって仙台の眼科でもみてもらっていた
これらはすべて脳梗塞の前兆だったのである
それで医者は実際脳梗塞かもしれないとして脳の写真をMRIでみてもらへとして二回もみてもらった、一回は埼玉県なのか遠い場所なのである
二回目は南相馬市原町区の方であった
でもそこで脳梗塞だということが見抜けなかった、だから機械は万能ではない
第一福島県で精巧なMRIの機械は二台しかないとしているしその機械でも診る医者がいなければできないのだと思う、そういう人材はこの辺でいないのかもしれない
ただ南相馬市立病院には脳梗塞の専門病棟がありそこには優秀な医者がいて近くの人が
早い治療でカーテルを脳に入れて助かった、その人は今も別に普通に生活しているのである、だからこうして早く脳梗塞を見つけて治療すれば軽くてすむことがあったのだ
今回はなぜそれができなかったのかわからない
なぜならその女性は医者に頼り医者には良く行っていたからである
そしたら片手がしびれいるとなればそのことで脳梗塞かもしれないとわかったからであるでも脳の写真をとれということは薄々気づいていたのかもしれない
でもその治療はしなかったのかとなる
でも息子と普通にしゃべれているし言語障害はないから軽いものらしい、だからリハビリをすれば回復する、ただ息子三人いるけど一番頼りにしているのが障害者の息子であり
それでも50歳になっている、その人はどこが障害者なのかわからない
話していてもどこが精神障害なのかわからない、まずスマホとかしているし知能は普通なのである、それより昨日知人宅に行って納屋で米をとりだせなくなっていたがその息子は取り出すことができた、ごちゃごちゃしてとりだせなかったのである
その米はその知人宅でもらえるものだったのである
自分もとりだそうとしたができなかった、何か自分は知的作業はしているがこういう体を使うことが不得意なのである、だからその息子のどこが悪いのかわからないのだ
そして母親もその息子を頼りにしている、他の二人の息子には病気のことを言うなとまで言っている、また兄弟は仲が悪いのである、二人は働いているし休む訳にもいかない
すると残されたその障害があるという息子が介護せざるをえない、その息子が介護ができないものではない、金銭的問題があるにしろ軽い症状だったらできる
ではなぜその息子が介護しろとなったのか ?
それはカルマだったと思う、このカルマのことを書いてきたけどやはりカルマはあるのだなとまた再確認した
なぜならとにかくその女性は自分の家に来ていても絶えずその障害者とされる息子のことを心配していたのである、それはおそらく子供の時から50になるまで心配していてその息子にばかり手をかけていた、それは三人の兄弟がいるにしろ他は余りかまわないがその息子は障害があるとして手をかけていて他はなおざりにしていたのかもしれない
だから一人とは合ってもあいさつもしないとかあったが最近仲直りしたようである
なかなか他人の家の事情はわかりにくいが共通していることは介護は必ず兄弟でも一番良くされた人がしろとなる、それがカルマなのである
その障害があるとされる息子はどこが障害者だかわからないし介護はできる
親もその息子をあてにしていて他はあてにしないのである、でもなかなか一人では困っているから相談に来たのである
だからつくづく介護もカルマだということを感じた、誰が介護するのか一番かわいがられた人がやれとなる、兄弟であっても姉妹であってもそうなる
それがカルマなのである
ただなぜ自分がそれにかかわるのかとなるとわからないが他人のカルマを背負うこともある、そのことは良くわからないにしろそういうことはある
人間は誰でもカルマを背負っているからだ、そもそも社会というとき一人では成り立たない、別に血縁とか家族でなくても社会を構成するのは他人だからである
すると誰かが働いてその恩恵をこうむるしまた恩恵を与える関係になっているからである人間のの人は互いに支え合うという字であることでもわかる
互いに支え合わなければ社会は成り立たないからである
つまり家族だけてはない何らか常に人はカルマがある、それは社会に対してもある
そのカルマから逃れらないもないということである
ある人は夫が若い時から病気になり大変な苦労をした、そして今度はその娘が夫で事業の失敗などで苦労している、これもカルマなのかとなる
なんらか人間はカルマを背負っていていつか苦しみとなって現れる
何か世話になったとかでもカルマになる、それを返さないとさらにカルマが重くなったりする、だから因果応報だとかなるのがカルマである
私自身は二人の親に特別良くされたから二人の介護と自分の病気で死ぬほど苦しんだ
誰も助けてくれないとかなった、それもカルマだったのである
人間はカルマから逃れられない、苦しんでカルマを解消するほかない
それでカルト教団に入ってもカルマは解消しないしかえってその集団自体が大きなカルマを背負っているのだからその集団のカルマも受けることになる
つまり集団でもカルマがありそれがいつか表面化して苦しみとなって現れるのである
集団の場合は社会自体がそのカルマを背負うことになるから怖いのである
いづれにしろ人間のカルマを解消できない、だからこそ最終戦争とかハルマゲドンになるとかなる、そうしなければカルマが解消しないからである
いづれにしろ8050問題はすでに始まっている、50くらいの人が70から80の人を親を介護する、その数も多いからいたるところにその問題が生じてきて社会全体に影響する、団塊の世代は数が多いから介護になる人も多いからである
そこで地獄の苦しみを受ける、介護地獄社会で家族崩壊や凄惨な事件も起きて来る
それは社会全体の問題であり家族だけでも解決しない問題だからである
2022年10月15日
脳梗塞の前兆を医者が見抜けなかった (医者の判断が致命的になる怖さ)
2022年10月12日
でんでんら野(蓮台野)と高齢化社会の老人 (老人が捨てられる社会)
2022年09月21日
医療費が国を破産させる? (でも簡単に医療費は減らせない矛盾)
医療費が国を破産させる?
(でも簡単に医療費は減らせない矛盾)
内視鏡検査機器やこれを使った治療機器、超音波診断装置、CTスキャン装置、MRI装置、PET装置などが医療で普通に使われるようになっていることに気付かれるでしょう。これらの新しい装置や機器は精密機器で大変に高価なものが少なくないのです。
病床数が多い、在院日数が長い
薬剤価格が高い、薬剤使用量が多い
医療材料価格が高い
検査が多い
受診回数が多い
https://www.ringe.jp/civic/medical/
厚生労働省は11月9日、2019年度の国民医療費の概況を発表した。国民医療費は44兆3895億円と前年度比9946億円(2.3%)増加、人口1人当たりの国民医療費も35万1800円と同8600円(2.5%)増加した
くすり-くそうばい【薬九層倍】
俺は十年前から高血圧治療の為に毎月通院しているが7月〜9月までの
暑い期間は血圧が上がらない事に気が付いたから、その間は通院と投薬を
止めても良いか医者に尋ねたら拒否された。俺のような患者は全国に大勢
いると思うが、医者がこう言う了見だから医療費が下がる訳が無い
一旦医者にかかったら患者は何も言えない、医者に従いとなる、それで無駄な治療があるとは言え自分の判断で病気を判断するのも危険なのである
私自身がなかなか病院に行く時間的余裕がなく勝手に判断して死ぬところだった
なぜなら腎不全になるところだった、そしてすぐに入院して一命をとりとめたのである
だから素人判断することは危険である
そこに病気の問題があり簡単に医者に自分の病気で勝手に判断できないのである
ただこの人は自分の病状をみてそう言ったからその判断が間違っているとは言えない
でも素人判断するのは危険なこともある
でも正直ここで言っているように無駄な治療も多すぎるし投薬も多すぎる
結果的にほとんど効かないとか副作用でかえって悪くなったりする
そもそもワクチンの効き目もわからない、ワクチンの金も膨大なものだった
でもこれが本当に効いたのかとなるとそれも科学的にもわかっていないのである
つまり病気にはそもそもこうして効くかどうかわからないものが実際は多いのである
でも素人判断は危険だし医者に命令されれば従う他ないのである
そこで問題になっているのはその金が国を破産させるほどの巨額な金となっていることである、これは国民全体にのしかかる問題であり国家的問題にもなっている
ある女性は目まいしたからと医者に行きMRI検査しろとなりした
でもそのMRI検査は実際は高価なのである、それも保険で負担するから安くなっているが
その検査の効用はあるのかとなるとほとんどない場合もある
認知症になった家族をMRIで見せたがそもそもそれは何の効用もない
認知症のことなどMRIではわからないからだ
ではなぜあえて検査したのかとなると金のためだったとなる
この検査はかなり金になるからである、だからその機械自体高いから医者では実際はわからないのに検査しろとなるのである
それも保険から出るからそうなる、もし十万するとなれば簡単には頼まない
そもそも検査してもわからないものもあるし相当に高いものでないと診れない
そうして脳の検査を本当にできるものは福島県には二台しかないとしている
となると普通の病院ではとても脳を精密に診れないとなる
でも何か検査しろと医者に命令されると断れないのである
ただ自分の場合は検査してすぐに医者に行かねば死ぬところだったのである
だから病気は緊急を要することがあり医者に逆らうことはできないとなる
自己判断では死ぬことがあるからだ、でも今問題なのは余りにも過剰診療が多いことなのである
そこに膨大な金がつぎこまれて国家破産にまでなる、その無駄を簡単に減らすことはできない、医者の権限が大きいからである、また現実に素人判断も危険になるからだ
ただ医が算術となっていることも確かである
外国ではあまり老人には手厚い医療はしないというときそうである
ただ最近は延命治療はしなくなっているという、どこで生きることをあきらめるほかないとなっている、ただその判断もむずかしいのである
この医療の無駄でもなくすことは簡単ではない、それは病気に人間は弱いからである
その弱さに医者がつけこむということもある、それで金を払わせられる
でもそうでない場合もあり何か無駄なのかなど判断できない、人間社会にはとにかく無駄が多すぎるのである、その無駄が膨大なものとなる
人間の無駄といえば軍事費でも無駄だといえばそうなる、兵士などいらないと言えばそうなる、つまり軍人とか警察とか医者とかは本来ない方がいいものなのである
軍人がいなければ戦争もないし警察がいなければ犯罪もないし医者がいなければ病気もないとなる
逆に軍人がいるから戦争が起り警察がいるから犯罪が起り医者がいるから病気もある
そういう逆説成立つ、天国には軍人とか警察とか医者すらいないからである
軍人とか警察とか医者とかは社会で権力を持つ職業である
逆らえない人達でもある、その人達は命令する権力を持っている
ただ軍人は自衛隊だと今は目立たない、むしろ自衛隊とかは表に余りでない、でも一旦戦争なったら主役になるのである、だから戦争の時は軍人が一番威張っていた
今でも墓には軍人の階級が一等兵だったとか記されているのは軍人がその時は価値あるものだったからである、威張ることができるものだったからである
でも今はそういう墓を見て軍人の位を見てその人がい偉いとか見ないのである
高齢化社会の問題は医療費の問題にもなる、その金を負担するのは現役で働いている人とかにもなる、ただ保険でも介護費用でも老人は年金からでも払っているのである
若い人だけが払っているわけでもないのである
でもその額が多すぎるから負担になる、社会が介護とか病気のためにあるのかとまでなる地方の仕事で眼につくのは確かに介護であり病院であり医者だとなる
60以上になると医者通い病院通いになっている人が多いからである
糖尿病は何か医療費の負担が多いことは確かである、金のかかる病気である
近くの人はそのために払う金が多い、それで親しい手伝ってくれる人に金を払えないとなっている、糖尿病は相当にやっかいな病気なのである
2022年09月20日
親の介護でもめる兄弟ーそして一人っ子の介護 (介護は死んで終わりにならない-恨まれて死んでゆくことの怖さ)
2022年09月06日
年金が月5万未満が四人に1人 (生活保護も平均7万とかもう国では支給できず捨てられる老人)
2022年08月25日
墓にまつわる話 (母の実家の墓と兄の墓の物語-金金金のこの世の地獄)
2022年08月20日
お盆の死者へのお供え物の意味 (実際の物を通じて心を通わせる)
2022年06月29日
人間の考えは老人になっても変わらない (世代間対立は常にあり避けられない、高齢化社会のマイナス)
2022年06月26日
NHKの一人で最期まで家で暮らしたいの感想感想 (一人暮らしは病気になると地獄になる)
2022年06月23日
歳には逆らえない (元気に見えた大工さんにも老いがあった・高齢化社会の暗黒)
2022年06月08日
長くなった人生の弊害 (老人の様々な問題が露骨になるー認知症の対処もある)
2022年05月15日
文系と理系とは何なのかー医者と看護師からみる (高齢化社会で老人と病人ばかりの社会になる異常)
2021年10月24日
介護する人がいない、回りで死ぬ人が増えて来る (8050問題ー78歳は鬼門の歳)
2021年10月15日
行き場のない老人 (人生百年時代に備えられていない)
2021年08月16日
墓はなんであるのか?(墓の効用-恨みを残し死んだ人の墓)
2021年08月15日
10代からの介護の過酷 (親戚でも回りでも誰も助けない―一人に押し付けられる介護))
2021年08月10日
お盆に人は死者を思い供養する (神道の神とは死んだ祖(おや)のことである-死者の二柱(母と姉))
お盆に人は死者を思い供養する
(神道の神とは死んだ祖(おや)のことである-死者の二柱(母と姉))
死者の二柱(母と姉)
人は確かに骨となり灰となり消える
しかし人間は動物とは違う
人は死んでも容易に消えない
その生はなお継続する
我が親なる二人の女性は死んだ
しかしかくも長くも我を支えた二人の女性
今も二本の木となりて支える
その木は長くもこの地に立っていた
その木は切られなくなったとしても
その根っこはやはり残っていた
二本の木は二本の柱のように残りぬ
その木の間にありてなお我は支えられぬ
我が右と左にいつもありぬ
まことに人は見えなくなっても
その生は継続されて消えぬ
我はその二柱に支えられぬ
今もの言わずとも力強くも支えられる
そこに充実あり我は一人ではない
死者一つの柱となり社となる
かくして後の人を支え続ける
我は見えぬ死者の二人の手をにぎる
その時なおも愛は通いあい
さらに強くも結ばれしことをしる
お盆には死者を想う、死者も死んで十年くらいすぎるとどうしても不確かなものになり忘れやすい、現実にいないなのだから去る者は日々に疎しと死者はなりやすい
でも死者を偲ぶというとき実は生前どうであったのか、生前の関係であり生前のことで
死者を想っているのだ、だから実の親子でも親にひどい目にあったとか毒親になると
死者のことは思わないのである
ただひどい目にあったという記憶しかないからである
そうして墓などに全然関心がなくなり放置される場合がある
やたら死ぬときにこだわる人もいる、カルト団体とか仏教関係だと成仏するというとき
死ぬときの相とかにこだわる、そもそも人間はどうして人間を見ているのか?
偉人になった人はやはり生前に功績を残した人でありでたらめに生きた人を評価しない
だから近くの人は誰からも嫌われていた、息子は毒親のために自殺させられたとか言われる
でもその人は死ぬときは簡単にあっけなく死んだ、介護されることなく死んだ
介護する人もいなかったが死ぬとき簡単に死んだのである
人にめいわくもかけず死んだのである、その死にざまは死んだ時の相はわからないにしろさほど苦しまずに死んだように推測するのである
だから死ぬときの相とかが問題ではなくどのように生きたかの方が大事なのである
それは偉人だからというのではない、普通の人でも親子がいたとして家族内で親を大事にするとき何か子供にとって親はいいものだったとなる、親は子供に尽くしたとなり評価して死後も手厚く供養して墓参りするともなる
ただ供養とかは義務だという人もいる、死んでも関係を継続させるためである
ただやはり死者を想うことは供養することは生前の関係で決まる
そもそも死んだら何もできないのだから当然そうなるのである
だから死んだら子供にすぐ忘れられる親もいる、意外とそういうことも多いとなる
つまり親だけでは子供うんだだけでは普通に育てただけでは親を思うことはないともなる何か親でも特別な親でないと供養がつづく死後も思われることはないとなる
実際人間は血縁であってもそれが人間関係を決めないのである
むしろ血縁ではない子供を養子にもらって愛情をそそぎ育てるとその子供は親を血縁の親より大事にする、逆に血縁でも親を嫌い親を親とも思わない子供も普通にいる
だから子供産み普通に飯を与えて育てても子供が必ずしもそれだけで親のことに感謝することもないのである
親でも親のエゴとか見栄がありそのために子供出しにすることが普通にある
親でも子供に無償の愛を注ぐわけではないとなる
私の場合は特殊なことで親を思っているのである、二人の母親がいたともなるからだ
それで私は無条件に愛されたのである、これもだから他者から理解しにくい
それは60歳までつづいた、引きこもりでも何も言われない、好きなことをしていいよとなっていたのである、結局それは特殊な家族でありそうなったのである
だから私は二人の親に支えられたし死んでからも支えられている
生前の関係が継続されて死後も二人の親のことを思いつづけているのである
ただそのために介護とかでは他の人より一人で苦しんだのである
すべてがいいものともならなかったのである
ただ死後のことは生前のことで決まるのであり死んだからと言って特別変わることはない生前の継続して死後もある、だから依然として二人の親は自分を支えているとなるし今度は自分が親を供養して支えるともなる
親でも死んだからすべて尊ばれるとかないのである、それは生前の関係で決まるのである私が親を思う時はそうして無条件に自分を支えてくれたことによっているのである
ただこのマイナス面もあったからすべていいものとはならない
でも二人の親は自分を60までも支えてくれたなとなりそれが理屈ではない、現実として実体として継続されているのである
それがこの詩になる、親でも死者が一柱とか二柱とか表現する
まさに二柱となって自分を支えてくれたから死後もやはり支え続けていると観るのである
こうして親を思うのは私の場合一緒にいた時間が長かったためである
娘でも結婚すると親から離れたり子供でも一緒に暮らさないと疎くなる
親でも子供でも忘れるようになる、結婚したら妻が大事であり子供が生まれたら子供が大事になり親のことより自分の家族が大事になる
すると親であっても家族は別であり離れて暮らすと余計に疎くなるのである
人間はやはり一緒に暮らすことで愛情が生まれる、それが不思議なのは例え憎んでいても一緒に暮らしていることが愛情をはぐくむ
一緒に暮らすことは助け合わないと生きていけないからである、何らか協力することになるからである
結局憎んでいることも愛していることだったとさえなる、愛がないというとき本当は無関心になることであり憎むということでもないということがある
憎むということは愛の反面だったともなる、それは片方が死んでみるとそれがわかるのである、60年とか一緒に暮らしていれば憎んでいても愛していたのだとなってしまうのである
『日本の助数詞に親しむ』中の、「神様の数え方 柱(はしら)」の項目に、「「柱」という字は「木」と「主」からできています。「主」は「そこにじっと立っている、支える」という意味です。
古く『古事記』や『万葉集』の時代から、日本では樹木に神様が宿ると考えていました。さらに、人間は土の中から植物のように生まれ育ったと考えられていて、「人間一人」の別称に「ひとつぎ木」という表現を用いて歌を詠んだりしていました。そこから、樹木が敬意を払う対象となり、ご神体、神像などを「柱」で数えることにつながりました。」と記載されています。
神なびにひもろき立てて斎へどもいはへども人の心はまもりあへぬもの
(二六五七・寄物陳思)
神奈備山に、ひもろきを立てて、大切にするようにしてはいても、人のと言うものは
守ることが出来ないものです。
巻11−2657
神奈備山→神の降臨する山や森
ひもろき→神の降り代として立てる木
日本神話の天孫降臨において、高御産巣日神(高木神(たかぎのかみ)とも呼ばれる樹神)は、天児屋根命と太玉命(祭祀を行う忌部氏の祖とされる)に、「天津神籬と天津磐境を起こし樹(た)てて、常にわが天孫のために斎(いわ)い祭りなさい」と命じたとされる[1]。
伊勢神宮において
神が依り憑く神籬 (ひもろぎ)として、心御柱(しんのみはしら)を、伊勢神宮の正殿、床下中央部分に建てている
木をたてる時、その木とは死者のことである、神とは日本では死んだ人、親であれまた先祖なのである、つまり死者が一柱二柱というのはそのためである
ここに神道の深い意味があることを知った
こういうことは実感として知りえない、愛する人が死んだりしないと実感できない
神道とはわからないにしても神とは死んだ人であり死者を祭ることに由来している
死者はどうしても神になりやすいからである
死んでから十年もすると何か定かなものにならずまさに守られない、つまり墓でも守れないとなるのがこの世だからである
だからここには神道でも深いものがある、つまり人間は千年であれ古代からこうして死ぬ人がいて死者にどう対処したかが宗教ともなる
日本では先祖が神となるというときもそうである、たいがい死者は神になりやすいのである、八百万の神がいるとしてその神は死んだ人でありその死者を祭ることが信仰にもなっていたのである
常に言う家の柱さしこの家は我が建てにしと誇りけらしも
姉は家の柱は同級生の橲原(じさばら)のキコリだった人から提供されて建てたと常に自慢していたのである、まさに家の柱だったのである
何かやはり神道であれ深いものがあるのは人間として代々生きてきた歳月が長くそこで培われたものがありそれが伝統ともなり受け継がれたからである
ただその意味もわからなくなるし「心はまもりあへぬもの」ものとなる
日本に無数の神社があってもその由来がわからないものが多いからだ
それは千年もすぎれば伝えられないし何のために祭ったのかもわからなくなっているからだ
だから人間は伝統的なものに深い意味がありそれをたずねることでありそして今を観ることである、人間は別に親が死ぬとかは誰でも経験する、でもそうしたことは千年でもつづいたことなのである、そして人間は必ず親でも死ぬのだからその繰り返しでありその時思うことは大昔でも同じようにありそこに残されたものを知り理解を深めるのである
連理木。(れんりぼく・れんりぎ)
http://www.higashiyama.city.nagoya.jp/blog/2020/04/post-4025.html
この木の写真はいい、まさに二つの木が結ばれている木である
2021年07月12日
熱中症で70代の人が工事現場で死ぬ (老人は汗がでず体温調節できない)
熱中症で70代の人が工事現場で死ぬ
(老人は汗がでず体温調節できない)
東京都文京区で10日、70歳代の建設作業員の男性(相模原市南区)が工事現場で体調を崩し、熱中症の
疑いで死亡していたことがわかった。
都監察医務院によると、熱中症の疑いによる死者は東京23区で今年初めて。
警視庁駒込署によると、男性は10日午前、文京区千駄木の住宅工事現場で作業中に体調不良を訴えた。
その後、トラックの中で休んでいたが、工事関係者が午後1時頃、車外で倒れている男性を発見。駆けつけた
近くの病院の医師がその場で死亡を確認した。
男性は騒音への配慮から、車内のエアコンをつけていなかったとみられ、駒込署が詳しい状況を調べている。
気象庁によると、10日は東京都心で今年最高の33・4度を記録していた。
https://news.livedoor.com/article/detail/20517800/
70歳以上となると熱中症は怖い、私自身が自転車で春でも夏のように暑い時遠出して
返ってきたら吐き気とか痙攣までした、この時実際は熱中症になり命の危険までなっていたかもしれない、かなり痙攣したからである
なぜ老人が70代以上とかなると熱中症になりやすいのか?
何か暑くても汗が出なくなる、それで体に熱がこもるのである
体温調節ができなくなる、それで頭でボーとしてくる
それは家の中でもそうなる、熱中症で死んでいるのは家の中で多い
エアコンがなかったりエアコンに拒否反応があるのも老人が多い
トラックの中でエアコンしないでいたら危険である、33度というのも危険だった
まずこの年で工事現場で働くのはきつい、熱中症は紫外線を受けてもなりやすい
曇っていても紫外線を受けるからだ
だから暑くなると自分は外に出れなくなった、まともに陽ざしを受けると危険になるからだ
つくづく汗をかくことが人間には必要だった、それがなくなるとやはり体が正常ではないのだ、太った71才とかの女性は汗が出て困るというけど汗が出るからうらやましいとなる汗をかくことは体温を調節できるからいいのである
それで今日は熱中症「見守りっち」という機械を買った、それで見ると警戒になっているやはり今日は警戒レベルであり次に厳重警戒となると外に出るのも危険になる
室内だったらエアコンとかする必要がある
とにかく暑くなると自転車で出れなくなる、遠くには行けなくなる
するとコロナウィルスで出れなくなり暑さでも出れなくなる
南相馬市はコロナウィルスで警戒区域になり外出や食堂とか飲み屋に行くことが禁止されている
それでつくづくこうして家にこもるようになると家が大事になる
家が広くないと狭い部屋に籠っていると窮屈になる
それが意外と精神に影響する、日本人の家は狭いから本当に巣籠り生活になるとうつ病にもなる、日本人は家の中で快適に過ごしにくいのである
私は家の中で二階もあり広い廊下もあり寝室もありと・・・・それで家の中で気分転換できる、それで何か詩作したりイメージが湧いたりする
この気分転換が広い家の中だとできるのである
いづれにしろ70代でも外で工事現場で働くことはきつい、それも高齢化でも働かざるを得ない人が増えていることは確かである
警備員とか給料もいいからである、でも外での仕事は夏は苦しくなる
高齢化社会で年金をもらって余裕で暮らしている人は少ないと思う
とにかく年金が厚生年金にしても少ない、平均して15万くらいだとすると妻の国民年金をあわせても20万くらいになり足りないのである
そして生活保護をもらえばいいいうがここでは最低限の生活保護費がもらえていない
4万国民年金もらってあとは医療費が無料になっているだけである
だからその女性は必ず水道費から電気代からガス代から携帯の通信費がたりなくなり払えないのである
つまり生活保護はこうしてこれから最低限ももらえないのである
だから生活保護に期待する人がいるけどもうそれで最低限も暮らしていけないのであるこれは自治体で違っているにしろますます日本が貧困化すると厳しくなる
遂にまともに食事もとれないともなる
それは実際に目に見えている、もっと厳しくなり保障できないのである
ベトナム辺りが物価が安いとしても医療費は馬鹿高くなる、だから老人向きではない
つまり困窮する老人が膨大に増えてくる、ここで外で工事現場で働いて熱中症で死んだ老人も今の日本を象徴している
現代は長い生きでも老人受難の時代なのである
近くのスーパーで三時間くらい働いている老人ならいいともみる
でも外で働くのはきついとなる
ただ自分のように家の中で仕事しているとなればいい、でも家の中でも熱中症の危険があるのだ
だから今熱中症は自分にとって怖い、頭がのぼせたようになりぐったりするからである
今日は結構蒸し暑いので家の中で暑い、それで警戒なのである
2021年06月24日
余裕がないことの怖さ (戦争も貧困化して余裕がなくて起きた)
2021年06月15日
なぜ人は家で死にたいのか? (人は最後に自分のしたことを語り自慢したい―老人の幸せとは)
2021年05月16日
退職してすべきことはボランティアではない (消費することであるが金がないとできないー駅のボランティアの経験から)
(消費することであるが金がないとできないー駅のボランティアの経験から)
人間はいくら善意の行為でも受け入れられない、私は駅で案内したりしたのは別にボランティアとしてしたわけではない、たまたま買い物にして駅によったら無人駅なので
切符をどうするのかと聞かれたことから案内したのである
それは無人駅になったばかりであり地元の人でもわからない人がいたからである
でもそこにいるだけで何んだこいつとはなる、例えば上がり下がりの電車の行く先のホームが意外とわからないのである
それで聞かれたので行く先を示す表示をしてくださいと言ったらしてくれたのである
無人駅だと何か自動化しても何かすることが案内することがあったのである
なぜそれが駅長からもまたJRからも周辺の住人からも否定されたのか?
それは一部であったが何かうるさいのである、なぜあなたはここで案内しているのか?
JRにしてみれば許可もないのになぜしているのか?
それがうるさいのである、監視カメラで見ていたのである
ホームに入ったからと高校生の見守り役に注意された
なぜホームに入ったかというとこれまでホームにゴミ箱が置いてありゴミ箱がないかと乗客に聞かれたから見に行ったのである
そしたら高校生の見守り役に入るなと言われたのである
ともかくボランティアは一人ではできないしすべきではない、この週刊誌の記事のようになる
怒られ、脅され、訴えられ....
これが大げさとかではない、自分自身が周りの人から警察に怪しい奴がいると訴えられたからである、そしてみんなの前で職務質問された、その時エベントがあり人が大勢いたときである、公衆の面前でこいつは怪しい奴だとされただけだった
今は高校生の見守りがいる、その人たちはJRにも認められているし市で金も払って見守り役をしている
ただ駅の業務はしないとかなにかJRと約束してしている
それでそのことについて市民が文句を市に言った、そしたら駅の業務を多少するようになったとか言っていた
ともかくボランティアはかえってめんどうである、この週刊誌の通りなのである
何かかえってもめごとに巻き込まれる、いくらボランティアでもそれがそのまま善意の人として認められるわけでもない、それよりなにやかにやとクレームが来たり訴えられて裁判までなる、これは嘘ではない笑い事でもこれが退職後のボランティアの現実なのであるだから何もするなというのは退職して安易にボランティアをすることの警告なのである
では一体何をすべきなのか?これは私にもわからないが退職した老人のすべきことは
消費ではないか、消費というと何か社会の役にたたないとみるが現代では消費者は神様だとか言われた時代である
消費することは店でもどこでも喜ばれる、小さな店屋で物を買えば喜ばれる
例えば自転車屋でも高い電動自転車を買えば喜ばれる、お菓子屋でお菓子を買えば喜ばれる、今時コロナウィルスで客が来ない観光地に泊まればこれも喜ばれる
県内とかだったらそうである、そうして消費することは歓迎されるし歓迎される方が気分がいいとなるそれは社会のためにもなっているのである
それで原発事故で避難して来た人が仮設に入っていたが私はここで金を使っているから
この土地の人を助けているのよと言っていた
実際に問題があったにしろ各地に避難した人はそこで消費したから店では金になったということはあるからだ
この辺でも自転車屋に聞いたら店に来る人は知らない人が多いと言っていた
それだけ外部から移住した人が多いからそうなったのである、別にそれは悪いことではない
なぜなら消費してくれるから金を使ってくれるからだ!
外から移った人でも自転車でも買ってくれるからいいとなる、歓迎されるとなる
学校でも転校したとしても生徒が増えたからいいとなる、なぜなら今子供の数が減っているからだ
意外と消費することが経済を活性化するのである
でも老人の問題は消費できなくなることである、私はヤマハのYPG-XCを35万以上で買ったこゃは本当にいいものだった、マウテンバイクだから若者向きだと思っていた
全然違っていた、かえって老人向きだったのである
なぜなら楽に走れる優れものだったからである、これは体力が弱った老人向きとしても
ヨ−ロッパで開発されたものだからである
ただ荷物が載せられないとかで困った
それで荷台がついたものを同じユニットドライブのものを買おうとした
長距離にはいいなと思ったからである、でも体が弱って長距離には行けないと思った
体中が疲れて何か一週間くらい遠くに行ってそうなったからだ
若い時ならその自転車を買っていた、でもそれを買っても使えないとなり消費できないとなったのである
何か老人になると最新の技術のものを使えないということがある
そして老人向きのもので消費できるものがないというのは確かにそうだと思った
老人向きに売れるものは作られていないというのもわかる
つまりまた老人は金をもっていても消費できないという問題が生まれていたのである
また老人がみんな金をもっているわけではない、だからこれもうまくいかないともなる
では老人は何をすべきなのか?
要するに老人は社会の邪魔であるとか何もするなとなる、かえってボランティアなど迷惑になるからするなともなる
でも高齢化社会で長生きする、すると一体老人は何をすべきなのかとなる
社会に役立つにもできない、自分自身はプログを書いてそれを仕事にもしている
退職して何か蒸気機関車の再生のために退職したベテランの技術を若い人に教えていたとかはある
でも会社とも退職すればほとんど関係なくなる
それで旅行したりするのはいい、宿に泊まれば歓迎される、金を使えば歓迎される
結局こうして何か消費することなのである、それが社会貢献になる
ただそれが浪費ではなく、趣味でも高価なカメラを買っていい写真をとるとかその人によっていろいろある、資本主義社会では消費者が王様だとされたように金を使う人間はどこでも歓迎されるのである
だから金のない老人は悲惨だともなる、誰も子供すら相手にしないともなるからだ
ただ老人でもすべてを金だけでは判断できない、若い人に教えるということがある
そういう人は別に金を使うというだけではない消費するだけではない、有用て人間として社会でもみるとなる
ただ手っ取り早いのは消費することである、でもそれは一部の金をもっている人だけともなるから問題なのである
2020年05月23日
南相馬市の介護殺人事件 (2025年問題が始まっている、認知症介護の困難)
2019年08月11日
自分の預金が下ろせない?じわり広がる“高齢者制限” (高齢者はだまされ差別し無能力者にされる恐怖―地銀もゆうちょも信用できなくなった)
2018年06月06日
安楽死は是か非か? (千差万別の個々人の事情に答えられない)
必死の思いで「あ・り・が・と」と口を動かし、一粒の涙を流して旅立たれた方。
そうなのだ、旅立つ人も見送る人も、最後に「ありがとう」と言い合える、
在宅医療はそういう別れができるのだ。
なんとめでたいご臨終
2017年07月17日
認知症の人の聞き書きは郷土史の発見に通じている
驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく) (単行本)
2016年10月08日
墓がなくてもいいのか? 常に死者を意識しなければ死者は存在しなくなる
2016年05月19日
戸籍で切れない因縁 (わずかの貯金でもめんどうになる)
2014年09月16日
火災保険、10年超引き受け停止へ 損保大手 自然災害増加で収支悪化 (国民年金も保険であり支払いきれなくなっている)
2014年09月13日
金の貸す方の恐怖 (貸すと際限なく借りに来る恐怖)
2013年03月26日
見過ごしていたコメント (高齢化社会の恐怖-弱者を虐待する人間の悪魔性)
見過ごしていたコメント
(高齢化社会の恐怖-弱者を虐待する人間の悪魔性)
高齢化社会の恐怖-老人虐待が日常化する
(弱者はカルト宗教団体だけではない、個人も同じ手法で脅すことが普通にある)
http://musubu2.sblo.jp/article/61582877.html
ここにコメントされたものです
病院は刑務所と同じ。患者は研究対象のモルモットがストレス発散の為の玩具。90才の老人が痰吸引で苦しむ姿を見て笑う看護師…自分が指摘した母の臀部に出来た褥そうになる手間の水疱を水疱ではないと看護師に否定されました。しかし、水疱は破け褥そうが広がり、褥そうの処置に大声で痛みを訴え泣き叫ぶ母を見て笑ったり、「凝らしめたる」だとか、痰吸引で苦しむ姿を見ても何とも思わない看護師の恐ろしさ、母の泣き叫ぶ姿や自分は看護師や医者に裏切られ弄られても抵抗出来ない姿を思い出し、辛くなりました。医者は研究対象から外れたら、もうベッドを開けて欲しいから死期を早めることも自由自在。私が怒り苦情を言えば、私がいない間に母を弄り、今思えば、母が私に「もう、何も言わんといて」って言った意味が分かりました。こんな恐ろしい医療従事者がいるなんて信じられませんでしたが、自分の大切な人が被害にあい、恐ろしさを目の当たりにしました。事実は形に残して正解です。医療従事者の言いなりになり、物以下の扱いをされ過去形にするつもりはありません。
ストレスが原因とはいえ、目の前の癌患者を虐待した裏には、悪質な医者、カルト教団、見栄をはり消費者金融で借金して外見を飾り、会社経営して、しっかりしていると思わせたかった葛集団、母に借金の肩代わりさせた事実を隠蔽したかった元兄嫁や妹が繋がっていました。
高齢者や女子供や障害者が虐待の対象にされるケースが多いですが、虐待する側にも、同じ対象者が当てはまります。障害者にも色々で、精神薄弱者が加害者になる場合も多々あります。だいたい、カルト教団に入る様な人間やカルト教団と取引し悪事を重ねる事が出来る人間は自立出来ていませんし、攻撃機制があります。
90才の老人が痰吸引で苦しむ姿を見て笑う看護師・・・・・
自分も入院した隣の90才以上の老人がそうでした、その人は特養の人で身寄りがなかった
だから看護師がおもちゃのように扱っていた、痰がつまるのは本当に苦しい、
その苦しむ声が毎日隣から聞こえてくるので眠れなかった
看護師はそれを笑ってやっていた。
看護師は天使にもなれば悪魔にもなるというとき悪魔になっていたのでしょう
病院は実際は恐ろしい所です、看護師にも一人だけど虐待的なことをされた
結局それも身寄りがないからそうなった、家族などみているものがないとしたいほうだいになる
だから身寄りがないものにとっては病院は恐怖です
痰吸引で苦しむ姿を見ても何とも思わない看護師の恐ろしさ・・・・端からみても地獄の苦しみでしたよ、あんななる前に死んだ方がいいと思った、つまり長生きするとは恐ろしいリスクが待っているというのも現実です、長生きさせられて生きながら地獄の苦しみを受ける恐怖です
病院で死ぬことは本当は相当に恐いことです
安楽死させろというとき安楽死の方があれをみていて人情的だなと思った
一層殺してくれと患者も言葉にも言えないが端からみてそうだった
安楽死の方があんな苦しみを受けるよりよほどいいと思ったし否定できない
長生きするということは苦しみも増えるということです
自分の姉は本当は脳出血で倒れて入院したけどそのまま死んだ方が楽だった
半年以上入院して地獄の苦しみを味わった
結局最後は老人は直らない病気になり死にいたるのだから
何でも病院にまかせるとただ苦しませられるだけになるし病院の方でもその治療や介護で膨大な労力を費やすことになるだけです
自分も親戚に言葉の虐待を受けました、これにカルト教団が加わったら最悪です、自分の場合は身寄りがないことですべてそうなった、病気のときまでいじめられると思わなかった
人間は全く残酷です、この六年間は介護や自らの病気や犯罪にもあい苦しみの連続でした
最近こんな非情な社会になったから津浪が起きたんじゃないかと思います
人間社会の終末が来ているのじゃないかと思いました
最後の審判のときが近づいているのだと思いました
自分はなんとか借金している親戚と切れましたし今は病気も一応回復したし身体障害者でなくなりましたから楽になりました、なんだかやっと楽になったなとほっとしています
自分の場合はなんとかあきらがつきます
だからただ忘れることを願うだけです
●身寄りのないものは入院すると最悪になる
このコメントを書いた人は裁判にするまで恨んだ。自分もこれと同じ様な経験をした。つまり人間は弱者になったときそれをいたわるどころではない、弱者になったことをいいことに脅迫するしてくる。もちろん火事場泥棒のような犯罪にもあった。それも自分が病気になり弱者になったからである。弱者を攻撃することは実に容易である。でも弱者になると何も言えない、お前には頼るものがいないから俺たちの言うことを聞くほかないと言われる。弱者になったことをいいことに責められるのだ。看護師も一人だけであるが入院して虐待された。それも恐怖だった。その看護師が怖くなってトラウマになり何も相談することもできなくなる。何か悪いところがあっても言えなくなる恐怖があった。弱者だからどうしてもみてもらいたいことがあっても言えなくなるのだ。医者とか看護師の前では患者は一方的に従うだけのものとなる恐怖である。何も言えない、もし寝たきりとかになると余計にそうである。もちろん認知症とか精神障害者はもう何も言えないから虐待されるままになる。
そういうときなぜかいろいろなカルト宗教団体が入り込んでくる。それは創価でも一票獲得のチャンスとなりまた他のカルトでも会員を増やすチャンスとみて入り込んでくる。同情などは全然ない、自分たちの勢力拡大のために入ってくる。またそういうものに頼らざるをえないことも恐怖なのである。自分が頼った親戚もそうだった。親戚でも金が欲しいだけでありいやいやながらやっていた。
だから何かするにもいちいち恩を着せるのである。手術するときも身寄りがないから保証人の欄に一応書いてもらった。たいした手術ではないにしろそういうことをしてもらうと多大な恩をきせられる。身寄りがないということはなってみないとわからない、もう誰にも頼れないという恐怖である。
人間は家族などがいなければ誰も同情などしないのである。病院でも医者も看護師も同情はしない、ただ物体のよう地扱うだけになる。そもそも医者や看護師側から見れば赤の他人であり次々に運ばれてくるしもう嫌だという感情がでてくる,同情しきれないという感覚になってゆくのかもしれない、人間的同情感覚正常な感覚が麻痺してくるのかもしれない、もうこんなに死にかける大量の老人を世話するのは嫌だという感覚になるのかもしれない、そういう感覚になることはイメ-ジできる。
それだけまた看護の現場が過酷だからまたいちいち同情していたら身がもたないということもあるだろう。だから看護師はやめる人が多いというのも納得がいく、あまりにも理想とはかけ離れた過酷な非情な現場だともなる。
●安楽死もある場合は肯定されるべきだろう
高齢化社会の大きな負の面が過度な介護とか延命治療にある。だから安楽死させろというのも一面わかる。入院した隣の人は安楽死させたた方がどれほど情があるのかとさえ思った。看護師のおもちゃにさせられて苦しめられるためにある。特養だからその人に金はなくても国で出すから生かしておく、生かされることがもはや地獄の刑罰のうよになっていたのだ。それは延命治療でもあるし自分の姉も地獄の苦しみを味わった。泣き方が異常だったのである。それほど苦しかったということである。これは他の人も病院でそうした苦しみを受けているのだ。だからあるところからはただ苦しませるために生かしておくとまでなっているのが今の医療なのである。人命は生きる限り尊いものだというのではない、それほど苦しんで人はもう生きたくないのだ。
結局人間は最後に自分の死を選べない、意識不明とかなり病院に入れられてそこで眼が醒めたら地獄の苦しみを味わう場になっていて逃れられなくなるそこが拷問の場とさえなっていた。延命治療は直るならいいが直らない患者を苦しませるために長生きさせるだけのものとなる恐怖である。特に特養の老人がそうだったように何も抵抗できないしただ弄ばれるだけだという恐怖があるのだ。
それも身寄りがないということはそういう身寄りを作らないことが悪いのだともなるだろう。
自業自得としてその罰を受けろとまでなるのかもしれない、人間の最後をよほど真剣に考えていないと今の時代は恐怖である。孤独死が言われるが別にこれが悲惨ということではない、瀕死の状態で病院に運ばれて延命治療されて苦しみが長びくことこそ恐怖なのである。助かるにしても高齢になるともう死だけになり苦しんで死ぬだけになるからだ。姉も半年長生きしたとしても異常な苦しみを経験しただけだった。でも今は必ず救急車を呼ぶから呼ばざるを得ないからどうしても苦しむ期間が長くさせられるのである。
●弱者には親戚やカルト教団がからみ食い物にされる
ストレスが原因とはいえ、目の前の癌患者を虐待した裏には、悪質な医者、カルト教団、見栄をはり消費者金融で借金して外見を飾り、会社経営して、しっかりしていると思わせたかった葛集団、母に借金の肩代わりさせた事実を隠蔽したかった元兄嫁や妹が繋がっていました。
これも自分と多少にていた。その人は会社を経営していて成功したように装っていたのだ。
それもただ見栄のためだった。借金をしているからどうしても金にこだわり自分が病気になったときそれをいいことに暗黙の内に金を要求するようになる。まあ、別にそれなりに同情して助けてくれるならいいが実際は同情は全然ないし恐喝まがいのことをしてきたのである。こんな人に頼ること自体最悪だったのだ。こういうことは20代で若くして父親がアルツハイマ-になった人がインタ-ネットに書いていた。親戚にいいようにされ金をとられてだまされたとか書いてあった。その恨みを延々と書いていたことが自分にもあてはまる。人を見るとき弱者にどういう態度をとるのか?それをみているとわかる。弱者に横柄な態度になり虐待までする。そこに人間性が見えてくる。それは男女関係でもある。女性が齢から虐待されるのだ。虐待することに喜びを感じるのも悪魔的性格が人間は誰にでももっているのだ。
人間はまさにショ-ペンハウエルのように悪魔的なのである。それは自分もないと思ったがある。人間は誰しもジキルとハイドなのである。そういう悪魔的側面が隠されていてそれが自分のように病気とか弱者になるとそれ幸いとつけこんできて虐待されるのだ。人間は一面恐ろしいものなのだ。愛とか慈悲を説く宗教とはあまりにもかけ離れている人間の本性は悪魔だともなる。
カルト教団は悪魔的なものである。宗教看板にして弱者救済するように見せかけて勢力拡大を計るだけである。そもそも弱者に同情する人がこの世にいるのかとなる。
もちろんそういう側面は自分にもあるからただ他者を責めるということもできないのだ。弱者を虐待して快感を覚えることは男女の関係でもあるし常に人間に備わっているものなのである。だから人間が弱者になったとき本当に同情する人は希有な人である。一人だけ馬鹿正直な女性が同情したのである。その女性は本当に同情したから今になると今の世の中ではありえないとさえ思った希有の女性だったのである。
2010年05月26日
キ-ワ-ド 認知症の家事療法(しゃもじ渡しの意味)
キ-ワ-ド 認知症の家事療法(しゃもじ渡しの意味)
古くは「おしゃもじ渡し」といって主婦の座の交替を表し、おしゃもじで大鍋の煮物をかきまぜないと焦げついてしまうという古い教えを意味しています。
これは集団活動のコツであり、当時、おしゃもじでゆたかな食糧をよそることは、主婦の願いでもありました。
また、「戦いとる」意の「めし取る」心もふくめています
http://shufuren.net/modules/tinyd2/
プログのキ-ワ-ドを調べていたら「認知症の家事療法」というので自分のプログに来ていた人がいた。
それで一文を書いてみた。
しゃもじ渡しは姑が嫁にするものだというがこれは人生が60年くらいの時代なら良かった。隠居の風習があったのもそもそも人生が短いからであった。だから40代でも隠居になっている人がいた。60くらいで死ねばあとは20年くらいは好きなことをしていればいいとなる。60で退職して80頃で死ぬのと同じ感覚なのである。そういう時代の感覚からそうした昔の風習や伝統を考えることはできない、つまり現代の高齢化社会は人類史上はじめて経験することなのである。85とか90とかを普通に生きる時代など人類は経験していないのだ。だから今までの考え方は通用しないのである。もちろん老人は嫌いだ、いなくなった方がいいとかの意見も出てくるのは当然なのである。老人が増えることは社会全般的にいい影響はないからである。若い人が多い方が活力があっていいというのが普通である。老人が多く老人が金とか権力をもっている社会は新陳代謝が起こらない、革新的なことができないこともある。明治維新など革命を行ったのは20代とか30代だったことでもわかる。それほど過激だからとても老人などにはできることではなかったからだ。
ともかく高齢化社会は今までの風習とか伝統が通じない、価値観が根本的に通じないということを前提にしないと議論がかみあわないのだ。これまでの伝統はすでに近代化で壊されてきた。長子相続とかも壊されたり嫁が姑に従うということも壊された。大家族制も壊された。地域も壊された。さまざまな伝統的なものが壊されたときそれに代わるものは何なのかとなるときそれが社会の反対の会社になった。今度はその会社も不景気でグロ-バル化で拠り所にならないとなった。社会の中で伝統的なものが継続されず壊されてもそれに代わるものは簡単に作れないのである。伝統的なものが壊されることは価値観が変わるからその価値観に適合できなくなる。例えば嫁は姑に従うものだという習慣が価値観が支配していたときは姑は家の要としてありえた。でもそれがなくなったとき姑は嫁に従うものとなったとき姑は家にいづらくなり別に夫婦で暮らすのが一般的になる。これは一見嫁にとっては姑に従う、いじめられなくてもすむとかなりいいとなるのだが反面、自分もまた同じ運命になる。姑の立場になったら同じように別居することが多くなるのだ。
しゃもじを渡すということは女性にとって一大事であり台所をまかせられることは女性にとってはその家を取り仕切ることにもなる。だから80、90まで生きる時代に嫁が来たからとしゃもじを渡してしまいば姑はあと何十年と家の中で無用の人となりかねないのである。それがボケに認知症になることに通じているのだ。一番ボケになりやすい人は「おばあちゃんは無理しないでください、楽してください、テレビで見ていてください、私が家のことをみんなやりますから」こう嫁に言われた人なのである。実際に自分の家では複雑な家庭事情があり他からは理解されにくいけど90ますぎても未だに家事をしている女性はボケていない、公務員をやめてから家事も何もしない女性はボケて認知症になった。年は7年しか違っていない、明らかになまけものになってしまったのである。家事もやることがない、趣味もたいした趣味ではない、もともと向いていたのは看護婦とか保健婦だったから人の世話だったのである。それでハイチで83才で女医の人が未だに地震の国で肺結核の看護をしてハイチのマザ-テレサと呼ばれているというのを見てあの人はボケないなと思った。家庭内でも障害者や病人や介護する人をかかえていればなんとかその人の世話をしなければならないと責任感を持つからボケないというのは本当である。
現実に90になっても60すぎた知的障害者の息子をめんどうみている母親はボケていない、しっかりしている。やはり責任感があるからなんとか迷惑かけないよにう世話せねばならないという責任感があるからそうなっている。また男でも会社をやめたり自営業でも親父も息子に仕事をまかせるときボケやすいというのは女性のしゃもじ渡しとにているのだ。これも結局高齢化のために起こったことなのである。なぜならしゃもじ渡ししても早めに死ねばそれで良かった。男でもそうである会社をやめて息子に仕事をまかせても85から90までなど生きていないからである。だから高齢化社会では今までの考え方を変えねばならないから対処がむずかしいのである。
認知症の家事療法は効果が確かにあった。洗濯でも洗濯機が使えなくても手で洗っていたし食器洗いはできたし掃除なんとかできた。認知症でもできることはありそのできることをしていると気分が良くなり自分は役に立っているという自信をもったので効果的だったのである。何もせずにただ与えられるだけだったらますますだめになる。何かできることをすることはいいことなのである。だから嫁に私がやりますからおばあちゃんは何もしないでテレビでも見ていてくださいというのが一番悪いことになるのだ。それはやっぱり高齢化社会はしゃもじ渡してから先が長いということにあったのだ。だから今までの価値観が通じなくなったのである
2009年04月20日
介護で切れる親戚関係(介護では本心本根が隠せず現れる)
介護で切れる親戚関係
(介護では本心本根が隠せず現れる)
自分の家の場合、兄弟がいないのだから親戚関係はないと同じである。ここを前提にして読んでもらう必要がある。つまりそもそも親戚関係は薄いから切れても当然の関係だった。だからそのことにこだわる、恨むとかはない、ああそうなんだくらいであり別に恨んだりしない、当然の結果だと今では思っている。
@ 最初からかかわらぬことを決めて切れた親戚
これは介護になってから最初からかかわらないことを決めた親戚だった。ここも代が変わっているし姪とかであり年も八五歳とか本人では何もできないし息子や娘達は何もやる気はないから切れて当然だった。ただ特養に勤めている人がいたのでどうしたらいいか認知症の対処の方法など知りたかった。でもこれもめんどうだからしたくなっかったのだろう、何もできないしたくなかったら介護になったらこの方がわかりやすくてすっきりして良かった。別にこれで恨んだりしない、そもそも本人はできないんだからしょうがないことだった。
A無理をして協力して絶縁して来た親戚
この親戚も姪とかでありその間に交流も薄いし何かしてくれるとは期待してなかった。だから介護自体は何もしてないにしろ親切に手伝ってくれるものだ不思議に思っていた。そのなぜかがわかった。金をやっていたのだ。でもその金のことで今度は絶縁状態になった。なぜならその人はそもそも金持ちでありやたら財産が入ってくる人だった。金などいらないのに金をやったからその金はそれなりに大きいとしても金持ちだからはした金になる。もし貧乏な人だったらありがたいと思うが全然思わないのだ。金でも一万やってありがたいと思う人百万やってもそんな金も金のうちに入らないはした金と思う人もいるのだ。そういう人に金をやっても何の意味もない、だからこんなはした金で介護に使う気かとどなりこんできたのである。もともとやる気がなかったのに金をやったため切れてしまった。金がいい作用をすべてするわけではない、金持ちは金では動かないのだ。金ですべて解決するけではない、だからあんた金があるんだから金でヘルパ-雇いとなり絶縁してしまった。もし金がない人だったらこうはならなかった。打算でも金が欲しいからやりたくなくてもやることはやる。介護関係の仕事でも他の仕事でも金のため嫌でもやらざるをえないからやっている。それが全部悪いとは言えないのだ。金があるからといって金が万能ではない、かえって悪く作用して人間関係を壊ししてしまうことがあるのだ。ただこの人は相当に冷たい人だったから本心と本音が極端に現れて絶縁してしまった。そうでなければこんな絶縁の仕方をする必要がなかったからだ。あれほと怒り狂うということが理解できないからだ。あなたのためにはそもそも何一つやりたくなかったのだが成り行きで一時的に協力していたのである。
B世話になったという理由で協力した親戚
ここも親戚といっても親戚にもならない関係だった。ただ世話になったということで協力してくれた。これはAとは比べ物にならないくらい協力してくれた。その言っていることもしたことも本当だった。ただすでに80すぎて協力するにしても自分一人ではできない、代が変わっているし娘や息子はやる気がなかった。でも母親がそういうのでしかたなくしていた。だからこっちの方には金を最初からやるべきだったが金があるということや金を受け取られないとうことでやらなかった。金を払ってもこっちにしてやってもらった方が助かるからだ。でも実際は金はなかった。あとで借金しに来たからだ。それを断ることもできなかった。これはAとは逆の立場だった。金がなければ金はやったのだからもっと協力してもらうことができた。でも金があると言われれば金やるからといったってしてくれない、Aではそもそも金は必要なかったから金で使われることに激怒したのである。こっちは別に絶縁状態ではない、ただ借金だけが残っただけである。借金を返せばもとの状態にもどるだけである。ただ何か手伝ってもらうことはあとあと考えるとむずかしいというだけである。
●介護には本心、本根が隠せず現れる
介護となると金の問題でももめて兄弟間でも財産のことでもめたりして絶縁状態になる。私の家はそもそも兄弟関係ではないから介護とか深刻な状態になればそんなことする義理も何もないのだから切れても普通のことである。だからとやかく言うことではないのだ。だから結局最後は金の問題になっていたのだ。介護も金の問題としての側面も大きい、介護士の不満も給料が低すぎることでありそれが解消すれば介護に従事する人はふえてくる。労苦の割りには給料が少なすぎるから不満が大きくなるからやめる人も多いのである。
介護になるとなぜこんなに兄弟でももめて絶縁状態になるのか?介護が大変だからそんなものにかかわりたくない、財産だけはもらいたいとかその人の本心がでてくるからだろう。介護になるとその人の本心がでてくる。その本心にまともに接して仰天した。こういうことは介護を職業として接している人にもある。金持ちの施設には横柄な人が多いという。
「オ-イ、高額な金を払っているんだからもっと親切に丁寧に尽くせよ、その態度は気にくわんな、もっとオレを敬い尽くせよ・・・・」
こんなことを金のために奴隷のように使われるとしたら介護士も嫌になるだろう。実際嫌になっいる人が多い。ここに介護は普通の職業とは違う問題としてあることに気づく、だから今回のような本心、本音がでてくると驚愕することにもなる。
「あんたなんかもう世話しねえよ、金のためにへいこらしていたけどオメエなんかもう顔も見たくねえ、オレは金が入ったからうすぎたねえ、オメエみたえな金持ちとはお別れだよ、顔も見たくなかったんだよ・・・・オマエなんかぶん殴りたかったんだよ・・・」
2009年02月17日
NHK-クロ-ズアップ現代-認知症 広がる「本人が決めるケア
認知症の人を理解するのは相当むずかしいだろう。これは実際に家族でかかえた人でしか理解できないだろう。今日のNHKでは若年性の認知症をとりあげていた。これも若年性と老人性の認知症はどう違うのだろう?とかまた疑問になる。認知症をテレビから見ただけではわからない、ええ、どこが悪いのだろうか?普通に見えるけどなとなる。でもよくよく表情を見ているとどこかおかしいのだ。認知症は知恵遅れになっている。知恵遅れの人とよくみているとにたところがある。社会のことが理解できなくなる。それはいろんな症状となって現れてくる。だから今まで簡単にできたことができない、人付き合いは特にそうである。社会のことがどういうことかわからなくなるからだ。ある人は施設に入ったらそこは会社で介護士は部下だと思っているという。そこがどういう場所なのか理解できない、会社だと思っているからが部下だとすると介護士は部下の役割をしなければならなくなる。「部長、ごきげんはどうですか」「まあまあだよ、お前はあわてて失敗するから気をつけろよ、時間を守れよ・・・」「部長わかりました、ありがとうございます」
こんな会話を嘘でもしていなければならなくなるのが認知症なのである。つまり認知症には演技力が必要になる。
例えばお手伝いさんとお手伝いさんを使っていた女性が二人認知症になったらやはり関係は変わらず使う者と使われものとして施設ですごししていたという、それだからこそうまくいく、一方が認知症になったから馬鹿になったから使われている人があなたは馬鹿になったのだから私の言うことを聞きなさいとかいちいちわからなくなったことを指摘したら怒るのだ。今までの人間関係は継続する、でも実際相手が馬鹿になったのだから継続できない、そこに問題が起きるのだ。認知症とは相手をたてることが相手を気分よくさせることが治療であり介護なのである。それをできる人は家族でもできない場合があるし他の人でもまれである。だから今まで長年つきあっていた人も来なくなった。相手できないのである。一人だけうまく相手してくれた人がいた。その人はうまくちぐはぐな話をしてもそれに合わせてくれたのである。その人とは前はそんなにつきあいはなかったが相手が馬鹿になってもかわいそうだからなとか同情していたのだ。その人は今までは馬鹿のように思われていた人だった。何か言うことが良くわからない人だった。でも実際は認知症になり馬鹿になったことをわかっていてつきあってくれていたのである。
●認知症の人にとって作業療法は効果ある
認知症の人が幼稚園とかに行って掃除などをしていた。それで自分たちも社会とかかわれて何かしら役立っているという意識をもつ、子供たちとも接することができると生きがいをもてる。
認知症の人は役に立たないということを意外と気にしている。私の家では家事をほとんどしていなかった。でも認知症になってから洗濯、掃除、食器洗い、風呂の掃除などをするようになった。そしたら自分は役立っているということで何か自信がついたのか前向きになった。認知症でも役に立ちたいという意識がある。体は丈夫だったからそれがまだできた。それでこちらも助かった。庭いじりなどもしていた。認知症の人にとって作業療法がかなり効果を現す、でも家庭でやるならいいが社会でやるとなるとテレビでも補佐する人が4人必要だとか金もかかるとか簡単にはできない、つまり社会の役に立つからといって自分たちではできないのである。だから自分たちで病気を知ってもらいいい介護を国に要求することができるのかと理解できなかった。ともかく認知症は理解がむずかしいから家族でも孤立しやすいのである。だから施設に入るほか地域で介護することはまわりの理解がないのでむずかしい、実際は自分は一人で介護して何の援助もえられなかった。病院に入院したときは認知症の介護ではない、体の介護だが援助されたので病院に入れたとき楽だなとつくづく思った。ともかくはじめて外部の人が体の事でもいろいろ気づかってくれたからである。ただ別に認知症だからと気づかったわけではない、認知症だからと気づかってくれる人はいない、むしろ地域では差別、偏見になりやすいのである。
認知症は今日のNHKのテレビ見てええ、普通の人とどこが違うのか?と見る人が多いだろう。若年性の認知症は自分もわかりにくいがやはり痴呆であり明らかに知恵遅れの人のように社会のことがわからなくなる。でも依然として今までの大人としてつちかったことは記憶にあるから施設に入ったらそこが会社だと思ったりする。認知症はオ-ストラリアのようにまだ日本では認知症そのものが認知されていないのだ。何なのか社会でも理解していない、身体介護としてしか外部の介護はない、心の領域まで踏み入れ介護はめんどうだからできないのである。つまり日本では本人が決めるケアはほど遠いのが現実でありNHKの今日の放送はほんの一握りの例外的な人の報告にすぎなかったのである。

認知症は社会で長年暮らして家族や社会で仕事してきた人だからその記憶が残っていて
自分は有用な有能な人間だったというプライドを認知症になっても持ち続けているのだ
そこが先天的知恵遅れの人との根本的そうである。