2025年04月21日

親孝行したいときは親はいないは死語になった 【親に冷たい息子娘が増えた、老人も人格が歪んでいるのが多い】


親孝行したいときは親はいないは死語になった
【親に冷たい息子娘が増えた、老人も人格が歪んでいるのが多い】

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年齢を重ねるほど、子供と堂々と距離を置くべき理由|
もう子供に頼らず、静かに一人で生きたい80代の母|オーディオブック



このyoutubuは事実ではないだろう、創作がある。他にもそうしたyoutubuの放送がある
中東の大富豪と日本人が結婚したが何不自由ない生活でも人形のようにされ離婚したとかある
それも事実ではないにしろ別に人間としてそういうことあるから
フイクションとしても全部作り話とも見えない、そいうことは人間の一般的心理としてありえるからである

何かせっかく作った干し柿とか漬物とを息子の家族に持って行ったが息子は子供が受験勉強でうるさいと集中できないからホテルに泊ってくれと言われた。それが余りにも冷たく母は悲しむ。これが家族なのかと悲しむ
でも今の時代そういうことが多いかもしれない、近くの人は常に息子のことで介護されていて不満を言う
実際脳梗塞と糖尿病で歩くこともままならない、杖ついて何かにつかまらないと歩けないのである
でも台所仕事でも洗濯でも自分でしていて息子は手伝ってくれない嘆いている

これは障害者をかかえて育てられて長男にかかりきりになりその弟はないがしろにされたとかある
でもそうした事情がなくても今は一般的に親と子の関係がうまくいかなくなっているのが多いのかもしれない
そのことがyoutubuで訴えているからである。金があるとその金が欲しいだけで親のことなど思ってくないとか放送される
それが他人ならわかるが息子娘でもそうなっている。だから親子とか家族と何なんだろうとなる

私の場合は親二人いたとして特別思っている。それは60年間以上一緒にいて特別良くされたからである
別に働かなくても何も言われなかった、旅していてもかえって奨励されていて働けと言われなかったのである
だから私は家に引き込もり自分の好きなことを追及してきたのである。それが自分の性にあってたのである。
だからそうして生かされたことで特別親に感謝しているからこそ介護でも懸命にしたのである
死んでからも供養しつづけている。
ただ一般的に結婚して子供を持つとなかなか親のことを思わなくなる。新しい家族のこと、妻や息子のことで家族のこと、妻や息子のことで精一杯となるからである。

それにしてもそれが事実でないにしろ何か悲しいものを感じた。親子とはそんなものなのかと思ってしまう。
そして子供の時、いろいろと子供を世話したことなどを懐かしんでいる。でも、子どもはそのことを忘れるというか、そんなに。思わない、ということである。その残された親は一人で暮らして悲しんでいるだけだとなる。

そこで一番感じたのは母親が作ってくれた料理がありそれを干し柿とか漬物を持って行ったが無駄になったとか悲しんでいたことが身につまされた。それはただ店で買うものとは違う。母親の愛情がこもったものであり手作りのものでありそれをお金で買うというだけのものではない親の心がこもったものなのである。
なぜ、そのことを感じたのかというと私の親はみんな死んで私はただ料理が面倒だから買うことだけであり。誰も私のために料理を作って来る人はいなくなったからである。ただもしかして妻がいればその手料理を食べれば母親がいなくても代わりになったから補われてそれほど思わないかもしれない。

でも、今や私のことを思い私のために何かをしてくれる人は一人もいなくなったのである。
だからこそ、余計に親がいたときは良かったとして特別そのことを感謝して思うようになったのである。
そして大正生まれの母親の好物が干し柿であった。貧乏な時代を生きたからである。それで干し柿を遺影に献げているのである。

何か孝行したいときは親がなしと言われたのは。それは親が早く死んでいたからだとなる。今は、必ず高齢化で親は子供は親になってもまた生きている。そしてその親のことを子供は思わない。

親孝行したいときは親は死んでいる
親はいつまでも生きていても親孝行されない

これも時代の変化でそうなった。時代によって家族も変わってしまうということである。だからそれを悲しんでもどうにもならないのかとなる。それで幼馴染が親切にしてくれるのでそれは慰めとなっていた。
つまり現代ではなかなか娘、息子に頼れない時代になっている。その娘、息子にしても。親に遺産があるとすると、それだけが目当てになる。だから一体何のために子どもを育てたのかとなる報われないとなる。

ともかく、こうして高齢化社会というのはいろいろな問題が生じてきている。それは、今までに経験したことがないからである。

寿(いのちなが)ければ則ち辱(はじ)多し

「荘子そうじ」外篇・天地
「男子多ければ則(すなわ)ち懼(おそ)れ多く、富めば則ち事多く、寿(いのちなが)ければ則ち辱(はじ)多し」
兄弟が多ければ争いの心配が多いし、富が増えればそれを守るために煩わしいことが増えるし、長生きすれば世の辱めを受けることが多くなる

今なぜ老人が問題になるのかそれは長生きでありその老人でも本当にまともな老人はいるのかとなる
老人をみていると何か心がまがり人格が歪められた人が多いように見える。それはまるでダンテの地獄編を見るようである
結局罪を犯して生きてきてまた人間の愚かさが現れる。体も醜くなるが心も醜いものとして否応なく現れる
つまり人生の最終決算が現れる、罪ない人は一人もないというとき老人は人生の総決算として現れるのである
だから本当は早く方が死んだ方がいいとまでなる。醜さをさらしてまで生き続けるのはかえってうとまれ嫌悪されるだけだとなる

でもそれを自覚している老人はまれである。かえって出しゃばり迷惑をかけても恥じることがないとなる
つまり人間はいくら長生きしても何か人間として完成されない、何かみんな歪んでいる、それは過酷な人生で歪められたこともある。私の母は継母の育てられて歪みまた働きずめで花などいらないとなり人格的ぬ歪んだものとなった
それは同情すべきだがとにかく老人は人格的に歪んでいる人が多いのである

要するに老人だけの問題ではない、別に若い時からすでに人格が歪んでいる人は普通にいる
そしてビジネスで成功する人はサイコパスだとか言われるのもそうである。成功者でも人格的に歪んでいるとなる
またそうしなければこの世では成功しないとなる。だから別にその延長として老人になるのだから当然歪んだ人格になる老人が多いとなる

2025年04月01日

介護の重圧で社会崩壊−介護しても報われない? 【介護が主になる社会が成り立つのか】

介護の重圧で社会崩壊−介護しても報われない?
【介護が主になる社会が成り立つのか】

総務省の調査によると、年間10万人以上が介護を理由に離職しているといわれています。介護離職の最大の問題は収入が絶たれることで、その後の生活が困窮することです。

もう限界だ…「年金月13万円」60歳元サラリーマン、88歳父と85歳母を残し、初めて実家から出る決意をした絶望的事情


今介護で苦しんでいる人がどれだけいるのか?それは自分も身をもってしったからわかる。まず仕事ができなくなるという時
仕事に集中できなくなるからである。注意散漫になってしまう。そして、仕事を辞めると収入がなくなり苦しくなる。
介護は片手間でやれるようなものではない。全精力が介護によって奪われてしまう。それを私は親2人で経験している。一人は重い認知症であったしそのもう一人は五年くらい寝たきりであった。私自身は別に仕事もしていないし、金には恵まれていたけれどもその間に何か集中してやれることができなくなった。それだけ介護に精力が奪われてしまうのである。

今知っている人は母親が歩くこともままならず杖ついをついてやっと歩いている。その息子は建築関係の仕事をしていたがそれをやめて介護関係の仕事をしている。親の介護をしなければならないのに他人の介護をしているというのも奇妙である。

また、隣の人は22、3歳で祖父の。介護をしている。ただ親2人は働いているから。金銭的には余裕があるかもしれない。ただ貴重な若い時を介護に費やすというのどうかと見ている?ヤングケアラーも問題になっている。

ともか、ともかく地方の仕事が介護になるという時そんなことで社会が成り立つのかともみる。これからますます介護される人は増える。団塊の世代が多いのだからそうなる。私自身の場合でも約十年間くらい介護に費やされた。
それはやはり、並大抵のものではなかった。だから仕事をしていて介護と両立するということは、かなり難しい。
なぜならその消耗度が大きいからである。それでも、親が死んで介護も終わってからでも何か何年かは尾を引いていた
精神的に相当に消耗したのである。それ以来、私は自由に旅していたが全く旅もできなくなった。

ただ、私の場合は特別恵まれていて、自由に旅したからそれで恨むことはなかった。でもほかの人は皆そうでないから介護することに相当な不満が生まれる。だから、知っている人は親の介護をなおざりにしている。それで親は嘆いている。
介護の負担は金銭的なものも大きいが、また精神的負担も大きいのである。だから介護は仕事と両立することがなかなか難しい。その人は金銭的にももともと貧困家庭でありそれに加えて、介護になった時金がないので余計に苦しくなったのである。

ただ、隣の人は金銭的には問題ないし、仕事もしていないのだから負担はないが、何か青春の貴重な時間を介護に奪われているという問題はある。ただ、それは気づかれていない。あとで損したとなるかもしれない。ただ、ニートとか引きこもりが増えているからそういう人だとするとそれが仕事にもなるのかとなる。
ともかく介護が主な仕事になるというときそれは事実でありでもそんな社会が成り立つのだろうかとかなる。

介護の問題は結構時間的に長いことである五年は確実にかかり十年も介護している人もいる。つまり、すぐには死ないのである。今は医療でも手厚くしているから簡単には死なない。その人は体が苦しいから死にたいと言ってもすぐには死なないのである。だから、本人にとっても苦しいとなる。簡単に死ぬわけにもいかないのである。
介護は実際は 2人いると楽になる。交代でできるから、楽になるのである。でもそれだけの人を確保できることは、なかなかない。それで、一人の人に負担がかかってくるのである。そしてまたそれぞれの家庭状況でも違ってくる。

私の場合は特別よくされたから当然だと思って介護していたのである。でも、ほかの人はみんなそうではない。それでその人はなぜ親の介護をまともにしたくないかといえばそんなに親によくされていないからである。それは兄弟に精神障害者を持ったために、そうなったのである。本当はその障害者が一番世話になったのだから面倒見ればいいのだが、それができないから悲劇だったのである。つまり介護というのそれぞれの家庭の事情によってさまざまな問題が起きてくるのである。

ともかく、介護は家庭内問題として解決し得なくなり社会問題となるのである。その数も多いからである。特に、団塊の世代が介護になる時数が多いから社会の重圧になる。そして不幸なのは団塊の世代の子供たちであり氷河期世代であり恵まれない時代の人だった事である。その人たちの数も多いから、老人になった時、さらに深刻な問題となってしまう。
金銭的にもさらに苦しくなる。
これが個々人の家庭の問題ではなく社会問題になる時それだけの数の人が介護していれば社会自体が生産的活動はできなくなってしまう。そして、ますます日本貧困化してくるという問題がある。
だから、介護が主な仕事になるというとき、そんな社会が成り立つのだろうかとなる。

介護の苦しみの根源は、「報われない」ということにあるのではないかと思います。

どんなに自分を犠牲にしても誰からも褒められない。
感謝の言葉もない。
良かれと思ってしたことが、受け入れられない。

献身的に介護しているのに、ひどい言葉をぶつけられることさえあります。

誰もわかってくれない介護のつらさをどうするか?ギリギリからの解放

確かに。報われないということが大きな問題かもしれない。 別に私の場合は。報われたのである。死ぬ時 感謝してくれたからである。 それは元々私は特別よくされたから介護することも当然だと思っていたし結果的に相手も感謝してくれたから救われたのである。 だから、私の場合は介護て報われたとなる。 でも、ほかの人はどうかとなればみんな事情が違うから私のようにならないのである。

例えば、ヤングケアラーとこなれば後で親を祖父母でも、恨むようになるかもしれない。 その時々に人間はすることがあり、それをしないとあとで永遠にできなくなってしまう。 だから、あの時青春時代をその時間を奪われたとして、恨むようになるかもしれないのである。 そして、そのことを介護したからとして 何か人から褒められるわけでもないし。 スキルを身につけるわけでもない。 ただ、何かしらの経験したことで無駄ではないかもしれない。 でも時間は貴重でありその時の時間は帰ってこないから後で恨む時間を奪われたとして恨むかもしれない。  

つまり、介護は報われないということが大きな問題になる。例えば、ほかの仕事なら何かスキルが身につくとか勉強していれば、何か将来のために役に立つとかある。 それが介護にはないから、問題ともなる。 将来介護の仕事するからと言ってそれは確かに多少役立つにしても別に介護の仕事につくわけではないから。 また、介護が社会人とって価値ある物として見られていないから 介護の経験もただ浪費なのかとなってしまう。

2024年12月16日

役割がなくなる老人の問題 【ワーク〔仕事〕しないと認知症になる】


役割がなくなる老人の問題
【ワーク〔仕事〕しないと認知症になる】

「work」は「仕事」だけでなく、以下の意味でも使われます:
働く
作品
機能する
上手くいく
効果がある、効く


老人の問題はいろいろあるけど見逃されているのが老人が社会で役割がなくなってしまうことである。それは家族でも起きる。
家族内でも役割がなくなってしまう。
例えば嫁にばあちゃんはなにもしなくてもいいですからテレビでも見ていたくださいとか言われて家事でも何もしなくなることなどがある。一見それは家事などしなくてもいいのだからいいように見える。でももし何もすることがなく一日テレビを見ていたらボケるということがある。

人間は何か役割を持つことが大事なのである。それは家族内でもあるし地域内でもあるし社会でもある。
workという言葉はただ仕事という意味だけでなく社会で役割を持ち機能する作用するという意味がある。また作品という意味もある。だから作品を作るということは何であれ目的をもって行動することだからいいのである
それは家族内でworkすることでも家族内で機能することである

何もしなかったら家族内でも無用化する。それが危険なことになる。でも別になにもしなくていいのだからいい御身分ともされる
そのこと私の家族で二人の母親がいて一人は94才くらいまで家事をしていたのである。でも一人は役所で公務員だった家事もしなくてもいいのでそれでボケた。認知症になったのかもしれない、
何でも家事でも料理でもしてくれる人がいて何かいつもテレビを見ているだけだったのである、何か趣味のようなことをしていてもそれは向いていなかった。

だから認知症になった原因は55才で退職してその85才まで生きてその間に何か仕事をしなかった。家族での役割もなく三食用意されて後は何もせずテレビを見ているだけでもあった
それで腦が働かず認知症になったのかもしれない、家のことを何もしなかったからである。

だから奇妙なのは例えば奥様がいて仕えて働く女中のような人がいたとする、その女中は家事でも何でもしてくれて奥様は何もしないというとき奥さんがボケて認知症になるかもしれない
要するに何か家でも役割がなくなることが認知症になる危険がある。人間は常に体でも頭でも働かすWORKしていないと機能して作用しないとボケてくる、認知症にもなる

それで今老人に問題になっているのは退職した時老人が会社で働いて居てもそこでは何かワークして機能していたとしても一旦会社を退職すれば役割をなくなる。会社でワークしていた機能していたことでも退職すればそれもない。では地域社会に戻ったとしてもそこにその人の場もないし機能する場もないのである。
つまり地域社会でも今はそうした共同の場もなくなっている

会社中心の社会にもなっているからである。だからいったん会社を退職するとその人のワークする機能するばかなくなってしまうのである。そしてまたそういう人たちが高い地位にあった場合何か地域社会でも威張りたいとか上下関係を持ってくることで嫌われる。何か低姿勢になれないのである。
だから地域を掃除するとかでそうした仕事はしたくないとなる、ただ金のない人はスーパーで三時間とか働いている。それはワークしているからかもしれない、ただ威張りたいという人は地域でも用無しになる

ただ正直今地域で何か役割を持つことボランテアでも簡単にできない、でも威張りたいだけでは誰も受け入れず何もできないとなる。会社なら地位があれば部下がいて尽くしてくれるともなるが地域では地域の人は部下ではないしむしろ低姿勢であることが望まれる。するとなかなかワークがなく用無しとなりそれがボケに認知症になる可能性が高くなるかもしれない

でも一旦会社を退職するとその人のワークする場がなくなることが問題なのである。人間はその人なりに仕事を役割を持ちつづけているのが理想だとなる、問題があるにしろ90才でも医者を現役でしていたとかなればボケないとなる。そして理想は死ぬまで役割を持ちワークすることが大事なのである。
でも会社で地位があっった人はプライドがあり低姿勢になれない、ただ地域でも威張りたいとなれば嫌われる

ただ正直今や地域で何か役割を持つワークすることはむずかしい
だからそうして行き場のない老人が増えて問題を起こすことがある。それは江戸時代でも前から老人にあったことである
ただ余りにも老人が増えた結果それが認知症になり大迷惑になることが問題なのである。

だからこれは家族の問題でもあり社会の問題でもある。病気ならその一個人の問題であるともいえるが認知症の場合は家族関係とか社会の問題にもなる。その要因が家族関係とか社会の役割を喪失するとか何かそうした社会が影響してなるとも言える。

そこに他の病気とは違った要因がある。それが他の病気とは違っている。その認識が必要だともなる、つまり肉体の病気だけではない社会的要因があって認知症になる。だからその認知症の原因を知って対処すべきだとなる、そういっても難しいことは確かである。ただ他の病気とは違った特殊な要因があることも認識すべきである。

そしてなぜ公務員とか教師とか裁判官とかですら比較的認知症になりやすいのか?それは統計的にも確からしい。それはその仕事自体に問題がある、教師でも絵を教えるとかではなりにくい、それは創造的仕事だからである。つまり教師は意外と教えるにしても決まりきったことを教えるとなる、そこに創造性がないと頭が働かず認知症になるのか?

でも教師でも教えることはいろいろなお仕方がありみんな型にはまったものではない、だからどうしてなのだろうとなる。やはり型にはまったようなつも同じような教え方をしていると認知症になりやすいのか、本当に教師とか公務員は認知症になる確率が高いのだからそこには何か同一の原因があるともなる


2024年12月09日

年金が少なすぎて老人が困窮 【介護も子供にも頼れない事情】

年金が少なすぎて老人が困窮
【介護も子供にも頼れない事情】

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【警告】老後破綻と貧困で苦しむ人の7つの『特徴』と『対策

65歳以上の単身女性44%が“貧困”の現実【報道1930】

鈴木ハナイさん(90)
リハビリと訪問ヘルパー代に月3万円はかかる。贅沢はできない。服のひとつも買わない。殆ど3〜40年前に買った服を繕っては着ていた。布団も夫と寝ていた頃のままだという。

「贅沢しないで、少しでも残していかないと今の年金だけでは老人ホームに入れない。やっぱり20万くらいかかるから…。離れて一人暮らしをする娘には迷惑かけたくない。娘の世話になりたくないと思ってる。自分が親として娘にあまりしてこなかったから…」

この人は90才だけど73才とかで同じ状態になっている女性がいる
脳梗塞になり杖をついて玄関からわずかの距離しか歩けない、
今車で私の家に息子に乗せられてくる。
その息子も52才くらいになって独身であり建築土木関係で働いていたが足を怪我して介護で働くようになった
その女性は息子が良くされないといつも言っている。その原因は発達障害の長男がいてその長男に手をかけて弟のことをあまりかまわなかったからかもしれない、他でもそういう事例はあるからだ。介護というとき誰もしたくないから兄弟間でも一番良くされた人がやれとなる。

贅沢はできない。服のひとつも買わない。殆ど3〜40年前に買った服を繕っては着ていた。
布団も夫と寝ていた頃のままだという

その女性も服を買いたくても買えない、脳梗塞になり糖尿病になり目が悪いとか関節が痛いとか介護度2なのである
それでも台所で料理をして洗濯物を干したりと自力でしている
でも歩くことがほとんどできないのである
何か気晴らしに息子に車で連れて行ってもらいといってもしてくれないのである。何か介護をしたくないのである。でも他人の介護をしているのも変だとなる

離れて一人暮らしをする娘には迷惑かけたくない。
娘の世話になりたくないと思ってる。自分が親として娘にあまりしてこなかったから…」

こういう感覚が親にあるのか、親にもいろいろであり事情がある
ただ親の良くされないというとき兄弟間でも一番良くされた人が介護しろとなるのはやはり人情なのだろう。
だから一人っ子は親を良くするとはなる。私自身がそうだった。特別良くされたのである、だから一人でも病気になっても必死で介護したとなる。それは自然なことであり強いられたものでもなかった。だから死んでも供養している
でも一人っ子は一人で負担するから苦しいとなる
つまり人間は何でもいい面と悪い面が生じる。

とにかく年金が少なすぎるし生活保護で実際いろいろであり年金が、4、5万もらって後は一万とかもらえない人もいる
年金だけで生活できる人は30パーセントくらいかもしれない、
そして収入がないから貯金もないから80歳以上でも働いている人がいる。施設には20万以上になると入れないのである
だから老後が余裕を持って暮らせる人は少ない、昨今の物価高でも苦しむ,コメが高すぎるのである。でも米は着るものと違って買わざるをえない、でも年金はほとんど増額されないのである。
困窮した老人が相当に増えている。

いずれにしろ日本が貧困化して様々な問題が生まれている。老人でもその皺寄せがある。若い人にすれば老人には金を使うなとなるし子供でも援助できない、親にしても援助されたくない、ではどうすればいいのかとなる。それで家族遺棄社会にもなる
これは一時的なものではなく団塊ジュニアの今の40後半から50才くらいの人が60以上になったらもっとひどくなる。数も多いし今よりひどくなる。貯金もない人多いから困窮するのは目に見えている。やはり日本全体が貧困化していることの影響があらゆるところで問題を起こす、凶悪犯罪を犯すのもそうである。若い人も苦しいからだとなる。
それで自分親を介護している時来たのはそうした老人でもあった

それで私自身が入院したとき家に誰もいなくなり大金を家捜して奪われたし事業に失敗した人に金を要求されたし現実に家の中に泥棒も入って来た、金庫も開けられた、中に金は入っていなかった。二階に来たの気づいたが顔をあわせなかった。
顔を合わせたら危険だった、その泥棒は外部から来た人だったろう。このように近辺でも貧困化してくると危険になる、背に腹は変えられないと近辺でも犯罪が起きて来る

今の時代金しか見ていない、田舎でもそれは同じである。人の繋がりは希薄化している。だから金をとればいいとかなくなる
ただ田舎でも他所から来た人は危険になる。でも田舎でも近くでも何をしているのかわからない人が多い、また田舎の一軒屋とはまわりの目がないから狙われたりする。日本は今アメリカのようにもなっている。やはり金しか見ない社会になているからである。




2024年10月12日

老人の心理を若い人が知るのはむずかしい―老人は過去を語り通じ合う】 【凶悪犯罪を暴力団の78才のヒットマン】


老人の心理を若い人が知るのはむずかしい―老人は過去を語り通じ合う】
【凶悪犯罪を暴力団の78才のヒットマン】

「マシンガン」をぶっぱなし、「手りゅう弾」を投げ込む…。「還暦ヒットマン」の凶行が身勝手すぎる理由
そのため今のヒットマンは、ごく一部の例外を除き、獄死覚悟の老人ばかりだ。

 犯行が弱々しいわけではない。というよりむしろ逆である。

 2011年8月、暴力団会長の自宅に乗り込んだ78歳のヒットマンは、二丁拳銃とマシンガンを所持し、侵入した庭で手りゅう弾を爆発させ、ランボーさながらに暴れた。
 2019年10月、神戸市の暴力団事務所前で、実話誌のカメラマンに偽装して待ち伏せ、2人を撃ち殺したヒットマンは逮捕時68歳だった。
 この2人のヒットマンにはもうひとつ共通点がある。重病のため余命幾ばくもなく、実際、すぐに亡くなったのだ

●78才のヒットマンの恐怖

老人になれば凶悪犯罪など犯さないと思う。でも老人の心理を考えるとそうでもない、老人の心境は後がない、若い人のように先がないのである。後何年生きるのかとなる。その気持ちがわからないのである。どうせ間もなく死ぬという心境がわからないのである。
どうせ何であれこの世からおさらばするからこの世のことなどどうでもいいちょにもなる。その点気が楽にもなるのが不思議である。なぜ若い人が人生を生きることが重荷になるのはその先が長く欲望もありその欲望をかなえるために苦しむ
生きることの重圧は若い人の方が大きいのである。

78歳のヒットマンは、二丁拳銃とマシンガンを所持し、侵入した庭で手りゅう弾を爆発させ、ランボーさながらに暴れた。

こんなことができるのも自分はどうせ間もなく死ぬということで思い切ったことをする。何か家族のしがらみとかもなく現実にその人は78才で病気であり焼けにもなり自殺のようにして凶悪犯罪を犯した。その人は実際にまもなく病気で死んだんのである。
いずれにしろどうせ間もなく死ぬのだから世間のことなどどうでみとなった。世間のことなど気にしなくなったとなる。

実際こんな歳になれば世の中のことをいろいろ考えてもしょうがない、無駄だとなる。まもなくこの世からおさらばするからどうでもいい知ったことではないとなってしまう。その心境が若い人にはわかりずらいのである。だからこれだけ乱暴なことをするのはどうせ先がないから思い切ったことができる。
つまり世間のこと周りのことを気にしなくなる。世間体などもなくなる。第一死ねば世間もなくなる。だから世間のことを気にしなくなりこうした無謀なこともできる

でも若かったらかえってできない、なぜなら若いということ生きたい欲望があって生きたいとなる。若い人は人生に希望をふくらませているからである。老人にそうした未来はない、老人はこれから何かをしようとか達成しようかということではなくこれまでしてきたこと達成したことを語るのである。

●老人は協働して何か成し遂げたこと語り通じ合う

そしてともに何か協働して成し遂げたことを語るのである。そこに連帯が生まれる。でも若い人はこれから何かを成し遂げようとして協働する、連帯するのである。その相違が大きいのである
だから老人は友達とか作りにくいのである。過去に協働していればそのことを語る。何々で苦労したことそして協働して協力して成し遂げたことを語る、それで連帯が生まれる

それで私の家で店をしていたとき豆腐を下ろしに来ていた人が私の死んだ家族の事情を知って語る時何か通じ合うものがある。
その人も豆腐作りとか売ることの苦労を語るからである
つまり協働していたから心が通じ合うとなる。だから未来へ向かって共同する若い人達とは違ったものでありその協働とは過去何かをしたことで共同しているとなる
これは農民が大半だった時代なら同じ地域で協働していたのだから老人になっても心が通じ合うのである

●なぜデンデラ野で 老人が共同できたのか

 遠野のデンデラ野はその棄老の地としての姥捨て山で
『蓮台野(れんだいの)』が訛ったことによって呼ばれた伝わったとされていま

それでデンデラ野という老人だけが村の中で集まり共同して暮らす、そこで助け合い看取りもしている。それができるのはこれまで村の中で共に協働して暮らしていたからできることなのである。今の社会はそういうことができない、職業が多岐に分化して相手のことがわからなくなったからである
そしたら老人になってその人が何をしたとしても共感しないし心が通じ合わないのである。

農民社会だったら死んでも山に帰り御先祖様になり田植えになると手伝いに山から下りてくるとかなる。そんなこと今はありえないのである。死んでも村の中で協働していたからこそその死後も御先祖様となり村の中で生きていたとなる
世代が死んでも断絶することなく農民社会だったら継続されたとなる。

ともかく高齢化社会の問題はさらに深刻化する。どうしても病気になり介護状態になる人が増えるからである。朝は一万の街を見回ったら三台も介護のために車椅子とかで車にそのまま乗せられて介護施設に病院に行く人を見た、それだけ介護される人が多いということである。その数はさらに増えてゆく。その負担も大きいから日本経済はさらに苦しくなる。

2024年10月09日

老人の役割価値は何なのか 【過去を昔を語ることで死んだ人も生き続ける】


老人の役割価値は何なのか
【過去を昔を語ることで死んだ人も生き続ける】

●私の家の事情を知っている人と話す

その女性はいつも土手にいる。毎日散歩しているからである。
85才になるが私の家で店をしていた時豆腐を卸しに来ていたのである。だから意外と私の家の事情を知っていたのである
私の母親が会津旅行に連れて行った時泣いていたという
何かうれしくて泣いていたという。それは私の母親はめったに外に出ないで家で台所仕事とか店の仕事をしていたからである。
もう一つは姉がいて外に出させなかったということもある

それで外に旅行に出て嬉しかったのかも知れないそのこと聞いてそんなことがあったのかと母を思ったのである
母は働き詰め一生を終わったのである。何か楽しむということもなかったのである。それはすでに若い時からそうであり若いときは原町紡績に勤めていて糸取りをして働いていたからである
そのあとは東京に出て女中だった。そして私の家に後妻になっても働きずめだった。だから花などいらないとなって庭に豆を植えていたのである。それは戦時中に戦後でも食べることができないことを経験しているからそうなった
それが私にとって嫌なことだった。ただそうなったのは強いられてそうなったのである。

●金持ちでもケチな人がいるし貧乏でもケチでない人

ただ不思議なのは知っている人は貧乏であり日々食べるのも事欠くのに刺身でもいいものを選び買う、また電気器具でもいいものを選び買うのである。普通なら金が無いのだから安物でもいいはずであるがそうならない。それで好感を持つのも不思議である
なぜなら私の母親戦後は豊にになったが節約するだけだった。別に花を買っても十分に金もあっても何か無駄だとなり金を使わず貯めるだけだったとなるからだ。要するにケチだとなる
金があってもケチな人はいる。有効に金を使わないのである。

ユダは金銭への執着が強い人間でした。 ある女性がイエスの足に非常に高価な香油を塗って愛と尊敬を表したとき、ユダは「どうして、この香油を売って、貧しい人々に施さなかったのか」ともっともらしいことを言いましたが

ユダはケチだったのである。それをキリストがとがめたことは理解できる、金があってもケチな人はいる。なんかそういう自分も実際は遺産をもらうまでは贅沢したことはなくケチだった
どうしても習慣となり貧乏人はケチになる。

だから普通は貧乏ならケチなるのはやむをえないとなる。ただケチというとき金持ちであれ貧乏であれ共にある。金持ちでもケチな人は相当にいるしその人は貧乏人のことなど無視する

ともかく人間は様々な人がいる。でも私は引きこもりであり自然に没入して禅僧のような生活していたから人間関係を嫌いうといのである。社会性がなく異常だったと思う

老人の役割価値とは何となればこうして死んだ人であれ語ることである。何か不思議なことはこうして言いにしろ悪いにしろ語る時死者での活きてくる。いつも川の土手にいる女性が私の家の事情を知っているので親しみを覚えたのである。
それで私の母親が会津の旅行に連れていってもらい泣いていたというのは知らないことだったからである
その頃会社でも社員旅行とか盛んであり団体で温泉街につめかけて飲み食いして騒いでいたのである。だから田舎の小さな問屋でも旅行を企画して連れて行っていたのである。その頃は高度成長時代であり会社でも景気がいいからそういうことができた
今やその温泉街も団体旅行の人が来ないから寂れて廃墟化したのには驚くのである。

●老人の役割がなくなり価値が認められない

いずれにしろ老人の価値と役割はこうして過去を昔を語ることなのである。その時不思議に死んだ人でも語られることによって生きることになる。だから2000年前でもお釈迦様やキリストのことは語られ続けているのである
つまりヒストリーとはストリーのことであり物語となるのである私は小説は苦手だから小説は書けないがもしその能力があればこれは一つの小説なのである

とにかく今老人は役割が無く無価値とされるのはなぜなのか。それは例えばこうして何かを語るにしてもそれが通じる場がなくなったからでもある。もし小さな村で共同で生活していれば昔はどうだったとか昔はこうしたとか同じ農民だから通じるものがあり聞く人もいたのである。

でも職業でもこれだけ多様化すれば理解することが難しい。でも老人の価値と役割はやはり過去昔を経験したこと語ることでその時確かに死んだ人でも生きているとなるただなぜかそうして語られる人は少ない

近くの開業医なった人は生きているときは必ず話題になっていたがその医者も死んで一時息子が後を継いだまもなく元の妻のいる東京の方に行ってしました行ってしまった。そして立派な家があったのだがそれも空家化してしまった
その地震などあって屋根が壊れているわ誰も直す人もいなくなっている
その息子も78歳で死んでしまったからである。

だからその医者について誰も語らないということが何なのだろうとなる。語られなければ死者は本当に死んでしまうのである
ただその医者は見立てがよく優秀ではあったのだが口が悪く冷たいところがあったズケズケと物を言う人でありそれで私の母は嫌って優しい別な医院に言っていたのである。ところがその医院も最近全部壊されてしまったのである。

老人の役割と価値はこうして過去昔を語ることにある。だからこそ昔話が残っているのである。だんだんそれが記憶も薄れてゆくと伝説のようになってしまうのである。ただ伝説にしてもそれが語られるとき死んだ人も生きているとなるのである何も語られなくなればその人はまさに本当に死んでしまったとなる
そんな人は多数なので今世間を騒がせてもたちまちいずれは語られなくなるのである、だから語られ続けるということは歴史に残る人であり本当に価値ある人だとなるのである

2024年10月08日

幸福な家族と不幸な家族 【障害者を持った家族はうまくいかないー親の世話できない悲劇】


幸福な家族と不幸な家族

【障害者を持った家族はうまくいかないー親の世話できない悲劇】

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85才の夫婦は夫がマメであり料理を仕事ととして妻に食べさせている。妻はなにもしなくていいのである。だから楽だと見た。ただ問題として私の家は二人親ともなる女性がいたが一人は何もしなかった、もう一人が食事を出していたからである
結果的に何もしない方が認知症になったのである。別に食事を作ってもらっている方がいいと普通は思う、でもそうなるとただなまけるだけであり頭も体も働かせないから認知症になる危険性が増す。だから人間はいいと思うことが必ずしもいいとはならないのである。
夫の方はともかく料理に精を出している。妻は何もせず提供されたものを享受するだけだとなる。だから楽だとは見る
そして息子が医者だから経済的にも恵まれているとみる

一方の家族は市営住宅に住み狭い部屋であり脳梗塞になり今や歩くこともままならずわずかの距離でも歩けないのである。また目が悪いとか介護度2なのである。見ているだけで73才なのに老けているし85才のように見える。
そして50歳の息子といるが同居にはなっていないが常にまともに台所に立って仕事ができないのに手も悪いのに食い物に文句を言ったりいじめられという、なぜそうなのかとなれば障害者を一人持ったために兄弟でもないがしろにされえ育ったからだと見る

その発達障害の息子が世話すればいいのだが何か母親のことを世話できない、依然として子供のような状態にあるからそうなる。
普通だったらそれだけ親が困っている苦しんでいるならば50才も越えたら助ける気持ちが出るはずだがそれもないのである
だから金もなく苦しみ助けもなく苦しんでいる
まず障害者を持つと家族全体が不幸になる。だから兄弟でもお前が一番よくされたのだから世話しろとなる。その最も世話された人が何もできないのが悲劇なのである
その女性は二回も離婚していていい夫とめぐりあわなかった。
その原因が不細工だったからかもしれない、でもその女性は話すると物事が分かった人であり花に詳しいので話して楽しいとなり援助している。

とにかくなぜこのように白と黒のように家族は違っているのかとなる。その家族を知らない人は何も感じない、おそらくただ無視するだけだとなる。
なぜこうして不幸な人はさらに不幸になるのか?もしまだ73才だったら普通に元気な人はいる。すでに介護度2であり3に近づいている。一生がただ苦しみの連続だったともなる。その原因はなんであったのか?それはやはり障害者をもったことにあった。
その障害者の子を持った結果兄弟でも他はおろそかになり介護状態になっても金もなく面倒を見ない、冷たくされるのが悲劇なのである。私の場合は特別大人になっても良くされたからずぼらであっても親二人の介護で必死になって世話したのである。

だから家族の事情は様々であり分かりにくいしなかなか家族の中にはいりにくい、でも介護となると実際は家族だけでは対応できないのである。限界がある。でも実際は家族にまかされてそれで殺したとかの悲劇が生まれる。家族だけに負担がかかりすぎるのである。私の場合は一人っ子だから負担が全部かかってきたのである。結局それも自分のカルマだったのである。
でもなぜその女性がただ苦しみの連続なのか理解できないのである。ただ一般的に障害者を持った家族は不幸だということは確かである。その負担が大きすぎるのである。
こうして家族でも比較すると見えてくるものがある。ただ直接接しなければ家族というのが様々でありわからないのである。

2024年08月12日

墓は何のためにあるのか 【死者を愛し続ける困難ー死者を愛することは無償の愛】


墓は何のためにあるのか

【死者を愛し続ける困難ー死者を愛することは無償の愛】

●私の家族の墓に花を献げていた人

お盆になると墓参りするがそもそもなぜ墓があるのだろうかとなる。その人はなぜか私の家の墓に花を挿していた。それはなぜなのか分からなかった。私の家族に特別に世話になった人でもなかった。だから理由がわからなかった
でもそんなに長くは続かなかった。それは当然だとなる

何か特別世話になったとか何かその人に対して思いがある人は墓があれば墓にお参りする。でもそれが長続きするということはまた難しい。人間というのは死んだ時点で全く別のものとなるなる。もはや死んだ人は何かしてあげることもできないし返事も何もないから供養し続けるということ愛し続けるということは本当に難しくなる。

だから死者を愛せというとき本当に愛している人しか死者を愛せない死者を愛しても何かもはや利益を得るということもないからである
だからその人は確かに花を捧げていたがそれは長続きしなかったその人は私の家族に特別何かしてもらったわけでもないからである。ただ家族であっても死んだ人を親でも思い続けることはそれほど無いかもしれない。

その人は親に酷い目にあったから子供の時離婚したり何か色々あって親を親とも思える思わないようになったのかもしれない。
それで墓参りするから十万くれと言ってきたぞ十万をやっても墓参りすることは中それは東京に住んでいて離れているということもあったし私自身のとも関係していなかったからである
そもそも私の父親違いの兄は集団就職で静岡の方に行ってから何をしているのかもわからなくなった。それが突然40歳で交通事故で死んだのである。そこに残されたのは一人娘だったのでだからそもそも疎遠だから私の家族に関しては関心がなくてもしょうがなかった
でも父親ならいくらひどい目にあったからといってそれまでは愛されたのだから墓参りくらいするのかと思うでも全然そういう気持ちもくなっていたのである。東京に住んでいるから離れたこともめんどうだともなった。

要するに十万もらえばいいというだけになっていた!

10万の方がその親より大事なものとなってしまったのである。親はも何か金をくれたり何かしてくれたりしないからそうなった。それをまた親の責任であった。

●死者を愛し続けることが本当の愛

いずれにしろ本当の愛というのは何かというと死んでからでも愛が継続することである。そういうふうに愛は継続することはもしかしたら家族でも難しいかもしれない。家族にもいろいろ問題があってすでに親は生きていても親を捨てるような人も普通に居る家族遺棄社会にもなっている。だから家族が愛し合うということでもない。

ただ本当に愛すと言う時死んでからも愛するということがあるそれが本当の愛だと言う。なぜなら何の見返りもないし返事もないからである
生きているときは必ず何かしらお返しというか何か利益があるとか関係してくる。でも一旦死んでしまうと死んだ人は何のお返しもないし何の利益を与えるわけでもないし何の返答もなくなってしまうのである。

だから死者を愛すことこそが本当の愛だとキケルゴールが言った。それはまさに無償の愛であり無償の愛というのは継続できない。その人は確かに一時的に私の家族の墓に花を捧げていたのそれで何か私から得るものがあるとして捧げていたのだと思う
なぜなら何が私の家族は特別その人に何かしてあげたことなどないからであるおそらく私から何らかの関係を求めて利益を得るために花を捧げていたのかもしれない。無償の愛ではなかったのである

つまり人間は無償の愛というのは本当にまれだと思う。親子の愛でも無償の愛とは限らない。必ず子供に何か期待して子供を自慢したいとかいろいろあるからである。そもそも無償の愛とかこの世にあるのかとも思う。必ずお返しを必要としていてお返しを求めて何かをあげるのが普通である。そもそもそれがなければ人間は何も与えたりしないということになる。でも死者になると何か返事もないし何も与えてくれない。となると死者を愛し続けるとか供養し続けること難しくなる
だからいくら親であっても死んでから愛されるとは限らない
私の場合は親は2人いたとして一人にはは特別よくされたから死んでも忘れられないし感謝しているということである
他者に対してはどうだかというと冷たかったかのである。だから死んでから不思議に語る人もいないのである。大概死んだらもはや関係はしない何か利益がなかったら親子でも関係しないのである。

●墓が継続できない理由

ともかく人は死んだ時点でたちまち忘れられてしまう。でも墓があるというとき一応その墓を通して死者と関わりを持つ
でもその墓にして死んだ人をそんなに長く思い続ける人もいないし家族でも今は遠くに嫁に行ったり地域のつながりもなくなり誰も墓を守ることができなくなる墓じまいになってしまうのである
つまりそれだけ何か死者というのは忘れられてしまうのである。だからこそ墓を作り物としてあることにより忘れないようにあるとなる。でも実際は忘れられてゆくから墓も捨てられてしまうということである。だからこそ儚い(墓ない)となってしまうのである

ともかく墓がなぜあるのか?それは人間として何か意味があるから作られたのである。ただ今墓を継続することが難しくなった。家族でも難しくなった。問題は墓を継続できないことである。だから墓じまいとなる。何でも継続することはむずかしい。
墓を作っても継続して供養できないから墓じまいになるから墓はいらないとなる。墓を作ってもその後始末がめんどうになるからである。だから個々人の墓を維持することは特別な人でないとできない。寺でも維持できない、死んでしまったら今度は家族に管理費などをとられる。それも嫌だとなり墓は維持できなくなる
いずれにしろ江戸時代に家族の墓はなかった。明治になって家族の墓が作られた。だから意外と墓の歴史は短いのである。地区ごとの墓はあっても普通の人の墓はなかったのである。

結局逆説的だが無償の愛はむしろ継続する。なぜなら生きている時はどうしてもお返しを利益を求めるから利益が返答がなければば関係も切れるからである。それがこの世の人間であり無常だとなる。何であれ継続することがむずかしいのである
人間の関係でも金の切れ目が縁の切れ目であり継続できないからである。カルト宗教団体など継続できない、御利益がないとわかれば離れていくからである。ただ継続されるものには価値があるとなる。

2024年07月24日

暑さのためクーラーを一日してこの症状がでた 【喉や鼻の粘膜が乾燥し、炎症を起こしやすくなるため】


暑さのためクーラーを一日してこの症状がでた

【喉や鼻の粘膜が乾燥し、炎症を起こしやすくなるため】

エアコンは空気中の湿度を奪うため、室内は非常に乾燥します。
これにより、喉や鼻の粘膜が乾燥し、炎症を起こしやすくなるため、風邪のような症状やアレルギー反応が起こりやすくなります。
夏の不調はエアコン病かも?原因と症状から解決策まで徹底ガイド

エアコン「カビ風」に要注意「呼吸器疾患も」 水分&ほこりで発生 簡単対策は?

呼吸器疾患になるというのも怖いかもしれない、咳がでたこともある。
クーラーはやはりいろいろと問題がある。でも暑いと33度とかなると動かなくても汗がでる。でもやはり何らか体に悪いことは確かである


喉が痛くなるとか舌が乾くとか鼻の調子が悪い、その原因はクーラーにあった。何か鼻の中乾燥した感じになったからである
もともと私は蓄膿症で手術にしているから悪くなりやすい、でも一週間ほど気温が下がりクーラーを使わなくなったら回復した
原因はやはりクーラーにあったとなる。ただ正直クーラーなしでは暑くてどうにもならなかった。ただ明らかに乾燥した結果鼻の中も乾燥して舌が渇き口も渇きのどが痛くなったと思う。

何かこうして病気でも原因が分かればその対策方法はわかる。ただこれも素人判断すると危険にはなる。でもやはりこれだけ暑いのだからその暑さが影響したことは素人でもわかる。ただクーラーが影響したということには気付かなかった。

今日は曇っているが最高温度は33度になるかなやはり暑い蒸し暑いでもここで一日クーラー使うとまた調子が悪くなる。だからなるべくクーラーは使わない方がいいようである。体温調節にしてもそうなのである。汗をかいたり涼しい風にあたったりして調節するのは自然なのである。自然の風とクーラーの風は違っている自然の風はなんとも心地よいのである。夜でも少しでも外の風が入ってくると気持ちいいのである。

ただ正直これだけ暑くなるとクーラー無しではいられない。それが大きな問題なのである。でも私の不調の原因がクーラーだったとなればやはりクーラーはなるべく使わない方が良いとなる。

とにかく老人は気候の変化とか暑さ寒さに弱くなるのである。だから老人は熱中症になりやすい。でも暑いからといって気軽にクーラーを使うのも問題である。やはりクーラーは自然の風ではない。そこに大きな問題があったのである。人工的に機械で作る風でありそれはやはり人間の体にも良くないのである。つまりなんでも本当はあらゆるものが機械とか便利な道具で解決することもないのである。

いずれにせよやはり病気であれなんであれその原因がわかると意外と安心する。でも原因が素人で分からないことも多い。それで前に大失敗した。インターネットで調べてそれで自己判断して医者に行かなかったがもし医者に行かなかったら手遅れで死んでいたともなっていたのである。

だからインターネットとかで自己判断するのも危険なのである
ただ今回は何かその原因がわかりやすいものだとみた。私の症状にマッチしていたからであるそれで医者に行こうとしたらなんとかクーラーを使わないで耐えてそのあとこれから涼しくなる期間があるからそれで回復させようと思った。ただ正直今回の暑さで体重が7キロとか減っているから結構な負担だったのである

いずれにしろ異常気象でありこれがすでに何年なのか続いているだから夏はこんなに普通に暑くなるのかとがすると何らかこの夏に対策しておく必要がある。クーラーはその対策になるものだがクーラー自体がやはり問題だとなると暑さ対策としてはいいものでもなかったのである

2024年07月23日

今なぜ老人が孤立化しやすいのか? 【共同体の喪失で個々ばらばらになった―会社人間は退職して居場所がなくなる】


今なぜ老人が孤立化しやすいのか?

【共同体の喪失で個々ばらばらになった―会社人間は退職して居場所がなくなる】

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【高齢者20人に1人!】「孤立死」しない生き方とは?

●老人の問題はすでに若い時から始まっている

ここで話していたのは団地とかに住んでいた人である。その団地でも老人が増えて孤立している孤独死も増えそれはなぜなのかといえばその団地にしろそれぞれを見れば別々の会社で働いていたし隣が何をして働いているのも分からないということがある。
つまり老人の孤立化とか孤独死の問題は別に老人になったから突然起きることではないのである。つまり老人の問題は必ずこれまで生きてきたことがかかわりその上にさまざまな問題が生まれる。

つまり人間の問題というのはこれまで突然何か過去と関係なく起きることはない。だからカルマというとき必ず過去にしてきた行為と関係しているのではそのカルマが60歳以降に苦しみとなって現れるのである
カルマというのは誰でもどんな家でも過去に積み重ねたものはありそれが結果として現れる。はだから老人になるとその人の人生の総決算のようなことが起きてくる。

だからみんな老人は老人特有の問題として見ているが実は老人の問題はすでに若い時から始まっているのである。なぜなら老人になってからその人は突然に何か違った人間になどならないのである。その人の一生で積み重ねたものがありそれが結果として現れるのである。だから老人の問題を老人のとしてだけ切り取って見ることはできないのである。
つもり人間の問題は子供時代であれ若い時であれ老人になるまで連続したものであり老人は老人でその一生からから切り離されては存在しないのである
だからその人生を会社に尽くして会社で価値を作り上げた人が退職したからといって新たな価値を作ることは容易ではない

でも退職するとその今まで築いてきた会社での価値はなくなりどうしたら何をもってその人の価値となるかである
だから私は何何の会社に勤めていて部長だったとかようのは当然になる。でも地域になればそんなことは関係なくなるから価値として認められないから問題になるのである。

●団地とかでは個々別々会社で働き繋がりがなかった

そもそも団地とかなるとそれぞれの人は同じ団地に住んでいても仕事はみんな違っていて会社も違っていてその団地とはただ寝起きする場所に過ぎないとなっている。だから一つの団地があってもそこで何か協同性を追求することは難しいということは老人退職したり老人になった時もまた同じように共同することが難しくなるのである

もし江戸時代のような村だったら村は家族のようなものである生産共同体であり村で共同で仕事していたから別に老人になってもその村の中で役割があり老人は尊敬されていた。
そして死ぬとご先祖様となり山に葬られて田植えの時はまた山から下りて田植えを手伝うとか言われる。
つまりそういう共同体でわ死んだ後でも死者はその共同体の中で生きているのでだから老人は別にそういう共同体で生きていれば孤立しなかったとも思う

それと比べると団地の中に老いてゆくということは村の中で老いてゆく人生とはまるで違ったものになる。会社から退職したらもともに住んでいても何か共同して働いていたわけではないしそこでここバラバラになってしまうということである
団地とかはそこで何か共同して共同して働く場所でもない。だから当然会社から退職するとその団地の人と協働するにしてもできないとなるのである。

そして人間を友を求めてるがそんな友などそもそもできない
なぜなら会社と違って共同することがないしではなんでもって友とになるかとなれば趣味とかになる。それもさまざまであり付き合うにしても人は色々であり気にくわないとかいろいろ付き合うにしても問題は生じるから簡単ではない
そもそも友などは老人になってできない。友ができやすいのはやはり若い時なのその時はやはり人は未来に向かっているからその時同じ志があり友になりやすい。老人になってから友となるのが難しい。その生きた一生でもみんな違っているし仕事もみんな違う。だから相手のことをなかなか理解できなくなる

何か私は会社でこういうことで働いて部長だったと言っても相手はそのことを価値として認めない
それは会社で働いていた時の価値だからである。だから一旦会社を退職したりするとその価値は失われてしまうのである。
いずれにしろ老人になると家族内で私は何何をしてきたから認められた人必ずこれまでしてきたことを延々とと語るのである
それは承認欲求であり自分の価値認めてもらいたいということである。その価値でも多様だからなかなか第三者から認められることが難しい。村という共同体で暮らしていれば別に今日どうして同じ仕事をしているのだから相手のこともわかっているしいちいちその人がどんなことをしているかなど問うこともないのである

●孤立化孤独死は大きく見れば現代文明の問題でもあった

ともかく孤立かとか孤独死とかが問題になるやはり社会の変化によるあまりにも社会が分化して互いにつながりがなくなったということはその根底にある。それでピカードはそうしたアトム化した社会ナチスが生まれたと説いた
またカルト教団で創価などはが団地の宗教と言われたのはそれも地方から出てきた人が仲間もなく拠り所がなくて生まれた宗教でありそれがナチス化するということでもあった。
だからそもそも老人の孤立化とか孤独死とかはそうした現代文明社会の中で必然的に起きたということにもなるだからだから対処療法としていろいろあるにして根本的には解決しないということである

それは田舎でも同じなのである何か田舎だとみんな農民だと見ている今は全然違う。全体の占める農民の規模1割にも満たないのであるやはりみんな会社員になっているからだ。だから中でもやはり都会化して隣は何をする人ぞもなっている。今だにすぐ近くに居る人は何を仕事にしている人かも分からないのである。それは他から来た人にしてすでに30年なのか40年なのかいてもその人はこの町では働いていないらしくその人の顔も見たこともないのである

ただ田舎だとやはりもともと同じ場所に住んでいる人だから知っている人は多い。でも田舎でもやはり何を仕事にしているのか分からない人も多いのである。だから田舎で何か共同するということ老人が会社を退職すればやはり同じように孤立化してしまうのであるつまり現在というのは地域社会というのは無くなっているからであるだから老人の居場所は無くなっているのである
この問題はこうしてなかなか解決しにくいということである

2024年07月21日

老人が尊敬されない価値がないとされる問題 【価値は積み上げて作るから老人になって価値を創ることが難しい】

老人が尊敬されない価値がないとされる問題
【価値は積み上げて作るから老人になって価値を創ることが難しい】

人としての生きがいの重要な柱である「人に認められたい」という欲求が満たされる機会がほとんどなくなってしまっている。「承認欲求」は人間の根源的な欲求の1つだ。子育てや仕事で認められ、感謝され、必要とされていた自分がいつの間にか、邪魔な存在になっている、と感じるとき、人は生きがいを失うのではないか。

日本の高齢者は、なぜこうも「不機嫌」なのか
会社にへばりつこうとすることと密接な連関

●「承認欲求」は誰にでもある

「承認欲求」は人間の根源的問題としてある。その承認欲求とは何なのかとなるとその人の価値を認めてもらいたいということである。人生を生きてきた老人は特にそうなる。
だから最後に必ず私は何何をしてきたとか何度も語ることになる。私の姉はシンガポールの方で従軍看護婦として四年間辛酸をなめたがそのこと認知症になっても忘れられず千回も聞かされたとなある。そのことだけは忘れられないし一番印象に残っているからこそ語り続けたのである

ということはそうして苦しんで日本のために戦ったということ認めてもらいたい価値があるものとして認めてもらいたいということだったのである。それも当然であるなぜならその苦しみは並大抵のものではなかったからである。また戦争で死んだ人は300万人もいるというときすごい人たちの価値がないとされたらそ霊は浮かばれることはない。

つまり人間というのはどんな人でも私は価値がある承認欲求はある。豆腐屋をしていた人で私の私の家で店をしてた時関係していたから豆腐屋の苦労を語る。その価値を認めてもらいたいので人は何かしら承認欲求があり認めてもらいたいのであある。
お前は何の価値もないと言われたらショックである。特に老人はのショックは大きいのである。私の人生を何の価値もなかったのかとなるからである。
ということは私の人生をもう無意味だったとなるからである。それは社会的なものとしてありまた家族内での価値もある。また地域内のとしての価値もある。価値は多様なのである。
現在は職業の数も増えてその価値にしてもわからなくなる

その大工さんは異常なほど自分の仕事を認められたい実際にこれまで修練してきた技を示す、というのは大工だけではない、庭作りもできるし壁塗りとかもできるしそれだけいろいろなことができる人がいないからその価値を認めてもらいたい自分は他の人と違って価値ある人間だと訴えるのも分る。
それを金を払えばすむともならない。要するに大工は大工でもそれ以上のことができるのだから自分は価値ある人間として特別認めてもらいたいということなのである。人間は誰でも価値あるものとして認めてもらいたいのである。
ただ余りにも社会が複雑化して価値が多様化しているからなかなか認めるにしてもその価値がわからなくなっているのである。

●会社員の価値は退職すると消失するのが問題

今は大概会社員だとするときその人の価値は会社の中にある会社の中で作ることにはでもよそから見ればその会社のことは分からないし会社で価値あるとしてもほかの人にはその価値もわからない場合が。それが退職した時地域の中に入ってきた時明確になる私は会社で部長だったとかなんとか言って通用しないからである

そして今地域社会がなくなったとき居場所もなくなるということは誰も価値を認めてくれなくなるということになる。会社では尊敬されて価値あるものとして認められていて退職すればただの人間になってしまうのでそれが高齢化社会になったとき大きな問題となったのである

要するに誰も価値を認めてくれないいくら会社で部長であったとしても退職したらそんなものは他の人には関係なかったからである。では地域の中で価値ある人になりたいということは今はそうした地域社会も無いのだから難しいとなるのである。だからボランティアなどしても返って迷惑とか邪魔だとかされる。

とにかく人間をどんな人でも承認欲求がある。何であれ自分が価値ある人間として認めてもらいたいのでそれがない時活きる気力もなくなるかもしれない。私は何の価値もない人間だとされたら生きる気力もなくそれは相当深刻な問題なのである。
ただ老人と言う時60歳上からとか価値を創っていくことはかなり難しいその人なりの価値と人生の中で積み上げていくものであり一朝一夕に生まれたりしないからであであ
だから会社人間となれば会社でその人生を費やしたんだその中で価値があるに人間として認められていた問題は退職してからそういう価値を失うことであそれで退職してからその後の人生があり長くなったからそれが大きな問題となっているのである

●その人なりの価値は人生で積み上げてゆくもの

だから価値というのは人生の中で積み上げていくものであり簡単に作れるものではない。だから老人になった時承認欲求といういったいその人はどんな人生を送ったのかということが問題にな何積み上げてきたのか人生で何を習得したのかそれを見るようになるからである。老人になってからまったく新しい価値を作るということはなかなか難しくなる。
でも退職してからの人生も長くなるからそこが高齢化社会の問題になっているということである何の価値も認められずただ帰って無駄飯くらいとか若者から金を奪うとかそんな風にしか見られないということが老人の不幸だとなる

明確なことは一朝一夕に簡単に価値は作れない。だから会社で価値を作ってきた人が会社から退職して新たに価値を作るということは難しいのである。ただ会社に勤めていて趣味としてやるものがありそれが退職してから生かされることはある。
でも本質的には会社で価値を作ってきたものは会社から離れてしまったら無価値にもなってしまうのである。だからその人なりのライフワークを持つということもこれからは大事かもしれない。そのライフワークとは退職しても続くし死ぬまで続くということになるからである

そこでその人なりの価値を作るから会社とも関係ないとなるからである。会社だけで価値を追求した人は会社を退職したら何の価値もなくなるということでは困るからである。でも何でも人間は積み上げることであり一朝一夕には価値は作れない。だから若い人はこれから高齢化社会になるかな自分なりの価値を作っていくことを心がけていないと誰も認めてくれない価値のない老人とされてしまうだろう









2024年06月27日

人間最後に問われる価値 【個々人を弔い個々人の価値が問われる】

人間最後に問われる価値

【個々人を弔い個々人の価値が問われる】

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私の墓―その人の一生を象徴する墓はいいのかもしれない
もう家族墓は成り立たなくなる、ただそれは墓ではなく記念碑ともなる


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●何を与えたかが価値になる

人間最後になると何が問題になるのか?その人の価値がなんであるのかが問われる。その価値とはは何なのか?それはあなた他者に対して何を提供したかということではないか。つまりあなたは何を与えることができたのかということがその人の価値になる。
その人が人生で何かを得たとしても得たものを与えることが価値となる。確かに何かを得ようとする。でも何かを得ようととすることは何かを他者に与えることのためにある。

卑近な例としては近くの自転車屋は病気であっても死ぬ三日前まで仕事していた。その自転車屋街に一軒しからなくなっていたから貴重だったのである。その人は確かに仕事をして金をもらうためにもしていた。
でもその身に付いた仕事で他者に尽くすということでその人の価値があったとな。すべてを現代では金として計算するが金にならないものは価値がないとしている。でもが死んだときその人の価値をその人が稼いだ残した金で計るとなるのか。そうはならないだろう。それよりその仕事を通じて町の人に尽くしたということで価値があった

また近くの大工さんは色々なことができた。本職は大工にしろ壁塗りもできるし庭仕事も一人前にできるのである。そんなにいろいろなことをできる人は稀だろうだから私の家に来てそのことをあからさまに俺はこれこれができると訴えてその価値を見て認めてもらいたいということも理解できるのである。この人はこうして大工以外であれいろいろなことができて街のために尽くした人だとなして価値があるとなる。それは医者でもすの町につくして働いた人がいれば価値があるとなる。


最近知人の男性は死んだ。その男性と親しくしていた女性がいたが何か揉め事があり直接会う事はなかった。
でも死ぬ時まで携帯でその女性に連絡していたのである。でも直接会うことはなかったのである。そして死んでしまったのである。それで生きているときはその人の悪口を言っていたが死んでからはその人は車に乗せていろいろな場所に連れて行ってもらったことをいい思い出していい思い出として語っているのである。

つまり死んでからその車に載せていってもらったことが良い思い出として起こされたである。だから何を何を与えたということが第一である。その男性は死んだ男性はその女性に対して車に乗せていろいろな場所に連れて行ってやったということである
だからこそ死んでからそのことを語るようになったのである。死んでからはやはり直接会うこともなく揉めていたが変わってしまったということである

●弔う(とむらう)の意味

つまり何が与えたかということで価値がある、この人は何かその町であれ他社に与えるものはあったのか。それは最後に問われ死んだ後でも問われる。弔うという言葉は死後に問うということでありその人の価値を問うことになる。
ただ人様々でありカルト教団であれ党派であれ団体組織に一生尽くして終わる人いる。するとその人の価値はその組織団他の価値であり個々人の価値ではなくある。日本の戦争で300百万も死んだというとき日本国家に尽くしたものとして価値がある。でも個々人の価値は別であり普通は人が死ぬとき個々人として見る

一人一人の死として弔うことになる。だから一人一人に手を合わせて見送るとなる。だから家族墓というのは明治以降できたものであり江戸時代は個人墓しかない、その個人墓にしても侍の殿様の墓くらいしか残らなかったのである。あとの庶民はホトケッポとかの村の共同墓地に名もなく葬られるだけだった。
ただ幕末で農民でも経済力がつき個人墓を作ていた、そこには姓と名前が記されていた。それは苗字帯刀を許された人なのかわからないが・・・家という墓はないのである。
そもそも人が死ぬときその個々人を弔うのが普通なのである。

家族でもまた一人一人は違っている。私の家族は本当にその生い立ちから人生からまるで違ったものだった。兄弟姉妹でもそのご大人になってからの人生も全く違ったものとなり価値も違ったものになる。だからもしかしたら家族墓というのは人間にとって不自然なものかもしれない、ここでも後継者がいなくなり墓も守れなくなる。
家族内での価値があり社会的価値とはまた違っている。家族内の価値というとき女性の場合が特にその傾向が強くなる
家族をまもるためにあるからだとなる。

●人が死ぬとき個々人を弔う

ともかく個々人の価値というときそれぞれが他者であれ社会であれ何を提供したのか与えたのかで価値が問われる。社会での功績があったのかとなる。ただそうなると一部の歴史的人物の価値となり庶民の価値は見ないとなってしまう。なぜ歴史的人物となったのか問えばその人が社会に貢献した提供したもの与えたもの大きなものだったから歴史的人物となっているのである。

でも庶民でも与えるものがあり何を提供したのかでその人の価値が問われる。何を与えたか提供したかとなる人間社会に様々な分野があり多様だから一概には言えないのである。
ただ何か与えるものがなかった、提供するものがなかったとするとその人の価値はない、死んでもやはりさらにその人価値を弔うことになるから何も与えることができなかった人は価値がないとなる。ただその価値が多様だから一概には言えないのである

虎は死して皮を留め人は死して名を残す

でも歴史上名を残すことは至難でありまれなのである。それは例外的にもなる。そうでなくても価値ある人いる。
だから何を提供して何を与えることができるのかそれを考えて生きるべきだとなるが現実はむしろ何を得るか何がもらえるかとして生きているのが普通である。だからこそ常に金で価値は計算されこの人からいくらの金をもらえるのかとしか考えないのである。現実社会は金=価値だとなる。でも最期に死後でもその人の
価値=?何になるのかそれは金ではなくなっているのである。

だから死んでみると人は金から判断しない、この人はこういう人だったとかその人なりの
性質とか日ごろの行いなどからみる。それで近くの人は平凡な人だったが本当に馬鹿正直な女性でであり私の家族が認知症になったとき親切にしてくれたのである。私の家では別に親切にしたわけでもなかったのにである。だからそんな人はいないとなり私は死んでから弔うとなったのである。
その女性は特別な人でも何でもない、馬鹿正直な人だった。そんな人現代にはありえない。今や付き合いも金であり金しか見ていないからである。だからそんな人は絶滅危惧種になっていたのである
だからこそ価値あるものとなったと後でそのこと弔いその人の価値を認めたとなる。







2024年06月21日

老人は消費するエネルギーも減退する 【少子高齢化は社会全般で活力を失う】


老人は消費するエネルギーも減退する

【少子高齢化は社会全般で活力を失う】

若い頃に比べて消費する量は減り、住宅取得やマイカーの買い替えといった「大きな買い物」の必要性も乏しくなる。80代にもなれば生活圏は狭くなり、外出率自体が低くなる。〉(『未来の年表 業界大変化』より)

2050年には消費者の4割が高齢者に…お金を全然使わなくなる高齢国家の「深刻な未来」

●IT機器などになじめない高齢者

老人の消費をする力は衰えてくる。何か私にとってもここ十数年は旅もしていない。ほとんど家に居るか近くにしか行っていないのである。それは介護などもあって外に出ることもできなくなったことが原因している。でもその一人になってまた出かけることができるとしても何か出かけたくないというふうになった。何か億劫になってしまったのである。まだ50代の時はバックパッカーで海外旅行していたからエネルギーがあったのである

何か消費するというときこの言葉自体がマイナスのイメージになっている消して費やすとなれば彼の無駄遣いなのかどうなるでも消費するということはエネルギーがあってできることである。確かに無駄遣いというのはある。それより例えばパソコンを買ってそれを使うというときむしろ買うのは簡単だがそれを使いこなすことは容易なものではない。それはスマホにも言えることであり老人はそうしたIT機器に馴染めないのである。

つまり消費できないということである。でも私の母親は90歳で携帯を使うことが出来たのである。だから携帯はそれほど難しいものではないがスマホとなるとその難易度が相当に上がってくるから老人は使いにくいとなる。それをほかのものにも言える。例えば金があって消費できるとしてもそれを使いこなすことが相当な労力が必要なのである。若いうちは常に新しいものに取り入れる

だから消費意欲が高いのである。その消費というのは様々なものがあり体験というのも消費である。たとえば旅することは消費ではあるがそれが無駄な物の消費ではないのである。外国を体験するとことは現代にとってはもはや不可欠であり外国に行かないなどという人はもはや何も語れなくもなっている。これでも昨今の円安で外国に行けないということは相当な損失である。

なぜならフリーターとか若い人で貧乏人でも外国旅行ヨーロッパ旅行していたからである。 ある人はフリーターであり自由時間が多いから世界中を旅行していたのである別にその人は金持ちでも何でもなかったのである。ただ時間はあるから旅行で来ていたのである。その時外国を旅行することは円高であり意外と外国はユースホステルが多くて安く旅できるところだったのである

●老人は食も細くなり消費できなくなる

消費するということはそうした旅でも体験でも決して無駄なことではないのである。消費というのにはマイナスイメージがあるが実際は消費するということは相当なエネルギーが必要であるだからこそ若い人は消費することに旺盛なのである。
たとえば老人になれば外国旅行できるかとなるとできない山登りしようかと思うと体力がなくなってできない
それは金がないからできないということではない体力は気力がなくなってそうした消費もできなくなるということである。私自身のすでにそうなってしまったからである。ほとんど家にいて遠くに行くにしても周辺であり旅もしなくなったからである。

つまり消費するというのにも相当なエネルギーが必要であり老人は消費もできないということである何か私自身の場合最近食が細ってきて肉など食いたくなくなったりしている。つまりそんな日々の日常的なことでも消費できなくなっているのである。だから老人は金を使いといってもなかなか消費できないのである。
糖尿病になる人が多いがその人は鯛焼きが食いたいと言って最近死んでしまった。よほどその人は鯛焼きが食べたかったのであるでも自力で鯛焼きすら買いに行けなかった。
人に頼んで買ってくれと言っていたのその人もまた脳卒中とかになりその頼みも聞けなくなったのである。

つまり食にしても消費できないということが起きてくるのである。そして何か目立つのは杖をつき歩く人が多いなとつくづく思う。たとえばスーパーまで来たとしても車から降りると杖をついているのである。家から出る人を見たらまた杖をついている。となると杖の需要は増えて買う人は多くなってると思う

●電動自転車は老人向けに開発された

それだけ老人が増えているということである。その人も病気になってから歩けなくなり車で移動する他なくなって息子が車で病院まで送っているのである。まだ73歳くらいでそうなってしまったのである。だから高齢化社会ではそもそも消費が減るという時消費するにも相当なエネルギーが必要でありそれが老人にはなくなっているのである。確かに杖の需要は増えてもスマホかで消費するということは難しくなる。

でも老人向けの消費というのはある私が買った電動自転車は高いものであったがそれはヨーロッパで実際は老人向けに作ったものだという。それは若者向きだと思っていたのである。マウンテンバイクになっているから若者向きだと思ったがもともと老人のために楽に走れるものとして作ったのである。

だから意外と乗ってみて楽に走れるので助かっているのである。それで老人が何も消費しないということではない。最近周りで自転車に乗っている老人を見かける。それは車も運転できるのだが足を悪くしたとか病気になったとかで車を運転しなくなったのである。となると自転車は健康のために多いから乗っている。となると老人のための自転車というのは意外と売れているかもしれないとなる。

ただどうしても全般的には消費する力は衰えていくとなると全般的に経済的にも社会全体に活力がなくなってしまう。つまり少子高齢化社会とはそういうものである。団塊の世代のように子供が多い時代は若者が多い時代はたとえ貧乏でも社会に活気があり未来があったとなる。その段階の世代がみんな高齢化したとき老人になったときもはや消費もそれほどできないのでだから少子高齢化というのはどうしても社会全体の活力を失うということである

2024年04月01日

親が子供に虐待される時代 【家族遺棄社会ー増える老人は邪魔なだけ】


親が子供に虐待される時代

【家族遺棄社会ー増える老人は邪魔なだけ】

●息子に虐待され泣いている母親

その母親は73歳くらいで脳梗塞になり糖尿病にもなり足の骨が折れたとか体が身体障害者のようにもなったのに一人の息子はそのことを考慮せずいじめてもいる。手も悪いのに台所の仕事でも手伝わないと泣いているのである。そして何かと母親に対して言葉で攻撃してくる。母親に対していたわりの心がないのである。それで泣いて私に訴えてくる。ただなぜその息子がいたわりの心がないのかというとそれはなかなかわかりにくい。

わかっていることは長男である人が兄にあたる人は発達障害とかになりそのために母親のエネルギーが費やされた結果弟はないがしろにされたからかもしれない。だからその人は兄である発達障害の人に対しても冷たいのである。
ただこれが特殊な問題ならいいが今の社会は家族遺棄社会という本が出たように親は子供に虐待される時代でもある。それは高齢化社会で中国でもそうなっている。すでに親孝行とかいうのは死語にもなっている。
中国人の親は子供にまだ生きているのかとか農村に帰って言われて自殺した。それは韓国とか儒教の国でももはや親孝行というのはなくなっている。子供にそういう余裕もないということもある。ただそれぞれの家族には内部に入りにくい事情がありなかなか理解できないから簡単には言えない
ただ子どもというのはただ飯を食わせてそだてただけでわ感謝などはしないということは確かである。何か特別なことをしないと子供は親には感謝しないかもしれない。それは自分自身のことで経験でわかる。私はなぜ親に特別感謝しているのか介護になったときも必死になって一人でやったのかというのも特別な事情があり親に特別に良くされたということで強制されるまでもなく自ずとそうなったのである。

●特殊な事情で親に感謝している自分

なぜなら私の父親は中学の時死んでその後姉と母が家を支えて私もそれで支えられ。母だけだったら結局何もできず自分なりに生きることもできなかった。でも姉がいたのでその姉は自分に対して何か要求することもなく仕事にもつかなくても私は自由にしたいことをして家に一緒に生活していたのである。

だからこういうことはほかではありえない。そういう特殊な事情で私は介護の時も2人に対して必死になってしていたのである。ただ一人だから助ける人がいないし自分も病気になって病院に2回入院したとかもう最悪でありその苦しみは並大抵なものではなかった。でも2人には特別良くされたから仕方ないと思ってやっていたのである
つまり私には親を介護するには特別な理由があった。例えばそれは何か不幸で他人の親に引き取られて良くされたということなどあれば実の子よりもその子供は親に尽くすのである。

だからすべては血の繋がりとかで人間は決められないのである。実の親子でももうすでに他人にすぎないともなる。そういう家族もそれなりに多いのである。だから子供があるからとしてもそれが今は親に尽くすということにはならない。だからその息子にしても何が別に特別に良くしたわけではないしただ食い扶持をあてがわれただけのことでしかなかったかもしれない。

だから親に感謝してると言うこともないとなる。もちろんその事情は分かりにくい。でも親子だからといって子供がもはや尽くすということはありえない。だからこそ家遺棄社会になっているのともなる。また子供の方にすればそうした金銭的余裕とかほかの余裕もなくなっているからそうなる。
どうしても介護とかなると気持ちが出てくる。いくら強制されてもそうした気持ちを偽ることはできないからである必ず本心が出てくるからそれが怖いのである。それは病院でもそうだし介護施設でもそうであるだからこそそういう場所はどうしても愛が必要でありでもそれは持てないから虐待にもなる。

だからそういう場所は確かに体を見てるは心は見ないとなるのである。ある意味で怖い場所にもなっている。人間の心がどうしても左右する作用する場所だからである。ただ人間をロボットのように機械のように何か故障したからといって取り替えるとか修繕するというわけにもいかないのは人間だからである。そこにはどうしても愛の作用は必要なのである。でもそれにしても親子ですら虐待があり冷たくなるから問題なのである

●増えるのは老人と病人

今や増えるのは老人と病人だけであるだからこそ家族遺棄社会にもなる。家族ですら虐待があるそれはそれは家族でもそうだとなると病院であれ施設でありもうもっとひどい状態になる。だから長生きすることは地獄にもなる。
ただ病気にならないとか自分一人で生活できるならそれほど困ることはない。もう自分で自分のことができなくなる時地獄になってしまうのである。家族も頼りにならず虐待されて泣いて苦しんでいるほかない。だから死にたいとなっている人がまた老人には相当数多くなる。中国でも老人が多くなりまだ生きているのかと言われて息子に言われて自殺したりした人はけっこう増えてるからである
中国ではまた福祉に対してまだ整っていないし金を出していないからそうなりやすいのである。

だから老後は確かに金も必要だが健康が一番大事なのであるでもどうしても70以降とかなってくると体がどこか悪くなってくる。それは避けられないのである。でも別に90なろうが自分で自分のことが出来ていれば頼り必要もなく問題もされそれほど起こらないのである。
だから理想的死に方というのは仕事をしながらそのまま死ぬということである。それは近くの自転車屋は3日前まで普通に仕事していたのである。そしていつまで仕事ができるのかなと言ったら死んだのである。そんな死に方できるのかというのが不思議である。

私の父親も癌で死んだわ七転八倒して苦しみぬいて死んだのである。その自転車屋は3日前まで仕事をしていつまで仕事できるかなと言ったら死んでいたのである。だから死に方もいろいろありそういう死に方は理想だとなでもそういう死に方は今は稀なのかもしれないその前に苦しみがありそれは地獄になってしまうのである

●子供を恨んで死んだ母親

親戚だった人の娘も確かに育ての親だったが最後に【ひどい娘だわ】と恨みの言葉を残して死んだ。なぜあまり関係ない自分にそんなこといったのかそれはよほどそのことひどい娘のこと言いたかったからである。実際その娘は私の家に来て【おばちゃんは金があるだから金でめんどうみてもらい】と言って縁が切れた。それくらいの関係でしかなかったとなるが実際は育ての親にも非情だったのである。ただその親は介護されることなくあっけなく死んだから良かったのである。
その育ての親は別に干渉しすぎたことはあってもひどいことをしたわけでもなかったと思う

私の大正生まれの母は同じ家で生まれ育ちその人は継母であり虐待されたからである。子供の時弁当を作って作ってやったが作ってもらったが残したことどこしたら俺の作った弁当は食えねーのか実の親でないからくいねぇのかとその弁当を投げてぶんまけたという。その継母気の強い継母であり母親はそんな扱いを受けていたのである。
それに比べれば干渉しすぎたとしてもそんなに冷たくするものなのかと思う。ただ正直私はその後関係してないから事情はよくわからない。とにかく母親の実家は何かと問題のある家でありその結果として不破分裂の家でありその後も尾を引いては分裂になり一緒に墓参りもしなくなったのである。だから人間はカルマを積んでいてそれがその後でも息子でも娘でも影響してくるのである

●親に虐待され縁を切りたい

日本は、家族が形骸化しているのに法的には血縁関係が重視されるので、親を捨てる行為に対する後ろめたさも根強く、その狭間で苦しむ人が多いように感じます。だから「親を“捨てる”を理解できますか?」の問いに、理解できると答えた人が多いのだと思う。

「親と縁を切る」確率が低いのも、捨て方がわからないというのもあると思うんです。そもそも日本に絶縁制度はない。僕は戸籍を抜き、親からもらった名前も変えるという強硬手段に出ましたが、江戸時代のように人別帳から名前を抜く法的離別のためには「勘当制度」を作ったほうが、健全な社会になると思うんですよ。

これは別に継母でもない実の母親なのである親なのである。それでもこういう状態になっている。つまり親から虐待されていたとなる。そういう人は当然今度はその子供は親を虐待するともなるのはカルマである。
ただ私が見たのはそう必ずしもそういう人ではない親ではない。ただ子供にしろ普通にただ飯を食わせてるだけではもはや親に感謝したりはしない。確かに家族自体が壊れているのかもしれない。基本になる家族がこういう状態では社会そのものも壊れてゆくのかとなる。

2024年03月26日

墓とは何なのか? 維持できない墓 【家族墓は明治以降のもので新しい―墓の歴史】

墓とは何なのか? 維持できない墓

【家族墓は明治以降のもので新しい―墓の歴史】


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●家族墓は何々家の墓h明治以降にできたもの

墓とは何なのか?なぜ人間は墓を作ったのかそれは死者を悼むためだろう。死者を何か記念として残すために墓を作って。でも家族とか個々人で墓を作るということは歴史的にそんなになかった。何か共同体の首長のような人が死んだとき大きな墓を埋めた。古墳というのも墓でありそこに埋められた人はその土地を支配していた有力者である。
でも一般の人は墓など作らない作る資力もないから墓は作れなかった。江戸時代でも墓を作っていたのは特別な人である。
一般の人は埋め墓に葬られて墓参りなどはしなかったという。でも参り墓というのがありそこにはお参りしていた。

でもその参りはした墓はやはり特別な人であり何かその村の中でも功績があった人として参り墓が作られていた。それは今の家族墓とも違う。その村の中でみんながその人を功績があるとしてその人によって助けられたということがあり参り墓として残された。だから家族がなくても村の人はその人をはどういう人か知っていて伝えられたからお参りしていたのである

普通の人はこの辺では仏方(ホトケケッポ)として村の埋葬地がありそこに遺体は葬られた。そこには個々人の墓を家族の墓もないのである。そもそも不思議なのは家族の墓というのは何何家の墓というのは明治以降にできたものであり江戸時代にはなかった。ただ幕末でも墓を作ったのである。それは家族の墓ではなく個人の墓なのである。だから一個人の名前が記されているだけであり何何家の墓というのは無い。つまり家族の墓というのはそもそも日本にはなかったのである。

家族の墓が作られるようになったのは政府からの強制でもあり家族によって連帯して協力して生活させるようにさせた。
だから家族中心の社会というのはそもそもなかったのである。むしろ家族というときその範囲が広いのである。。それは外国でも同じでありファミリーというときその範囲が広いのである。スペインにあるサクラダファミリーというときそれは教会を中心として大きなファミリーだったとなる。
日本だったら村自体が一つのファミリーだったともなる。村の規模にしても500人くらいだとすると互いに顔見知りであり一つの濃密なコミュニティだったからそれは家族の延長でありファミリーだったと思う。だからこそ仏方【ホトケッポ】に死んだら葬られる。共同墓地のようなところに一緒に葬られたということである。

●核家族とかなり大家族が喪失して墓も維持できなくなった

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そもそもなぜ墓が維持できなくなったのかというと家族にしても核家族になったりその家族の規模が少人数になりすぎたのである。明治以降でも家族というときまだ大家族であり使用人までも家族にもなり墓を見るとその使用人であった墓標ようなものがある。
それはおそらく一つの家族のようになっていたのかもしれない。だから家族といっても今のように核家族とか狭い範囲のものではない。そもそも国家というとき家の延長したもの拡大したものとも見ていた。野馬追に御家というが出るときそれは相馬氏一族のような集団を指していた。外国でもハウスブルク家となるとハウスを家でプルクは城である。
だからそれも家族は拡大したものは巨大な国家に発展したともなる。そもそも人間が基本的に団結するのは家族だからそうなったともなる。
ともかく墓でも維持できなくなってきたのは明治以降でも大家族がありそこで長男が尊ばれて家業をついていたことが墓でも代々受け継ぐということができた。
そして農業中心のときはその土地に根付いて暮らすから代々続いたということもあった。でも農業社会から工業社会になるとその土地に一生住んでいるということでもなくなった。それでも都会に出ても東京とかにでても帰る場所として実家がありそこで面倒を見ることはあった。そのために長男は家業を継ぎ家を墓でも代々守ってきたということはある。それは時代の変化でできなくなったのである。

●古墳も墓でも共同体の首長が葬られた

そもそも明治以降家族墓ができたそれは新しいものであり江戸時代にはなかった。明治以降になって家族墓になったその前は夫婦墓とかあった。つまり家族墓というのは新しいものでありそれが今になって維持できないというのは社会と時代の変化でそうなったのである。
とにかく墓を作るということはもともと人間にあったとしてもそれは特殊なことだったのである。特別な人しか墓はなかった。

ただ古墳が墓だとするとき前方後円墳などは大きいからその土地の有力者首長などは埋葬されていた。この辺では原町の桜井古墳は大きい。その中に二人の人が葬られていてこの辺を支配する首長だったとされる。なぜ二人なのかとなるとやはり首長が二人いるというか二つの勢力がここで合体したのかもしれない。
あの古墳ともなればやはり共同して作られたものであり共同体があってその象徴として古墳が作られた。ただ前方後円墳は大きいものだが円墳という小さなものも後に数多くつくられた。
前方後円墳となると何か広い地域の共同体があって作られたと見るが円墳となると規模が小さいから小共同体の物に見える。

おそらく大きな共同体が分配して分立して小さな古墳になったのかもしれない。それは江戸時代の村から共同体から明治以降になって家族墓ができたのとも似ている。家族は墓は村大きな共同体ではなく限られた人たちの小さな共同体だからである。それでも大家族であり今の核家族とは違っていたのである。核家族となればもはや大きな家族ではない共同体でもないから墓を維持することはできなくなった。
だから墓といっても社会の変化で時代の変化で維持できなくなるということがある。

そもそも墓というのは何なのか?今なら家族墓があるというとき死んだ家族を供養するものとして墓が一家の墓がある。でもそもそももともとは一家の墓など江戸時代にはなかったのである。幕末に裕福になって農民でも個人墓を作った。でもそれは家族の墓でわなかったのである。だから何何のは家の墓というのはなかったのである。江戸時代にあったのも個人墓であり特別な人の墓であり一般の人の墓などなかったのである。だから墓というものは常にいつもあったように思っているわが墓がないのがふつうだったのである。

おそらくあったとしても人が死んだら一時的に埋めてそこに墓標のようなものを建てたかもしれない。でも墓はなかったのである。ただ飯館村あたり墓標もない土を盛った墓がある。おそらくそんなふうにして死んだら人を埋めて墓も作っていなかったのである。そもそも江戸時代には名字を持っている人もいなかった。苗字帯刀を許されたのは名主とか有力者であり名字を持っているのは侍だけだったのである。ということは何々家の墓というのはなかったのである。

●墓は必要ないものなのか?

ただ墓はもう必要ないというとき本当にそうなっていいのだろうか?確かに江戸時代までは庶民などは作れなかった。村の共同墓地の仏方【ホトケッポ】とかいうところに葬られただけである。そして村人みんなで供養したということになる。そのときは葬儀会社など無いからみんなで死んだ人はそこに葬り終わりだったということになる。だから死んだらどうするとか墓を維持するとかということも必要なかったのではある

ただ墓があるというときはそれは特別な功績のあった人であり普通の人はない。でも墓というのは何かというときやはりそれにも意味がある。墓は無意味だという事にはならない。なぜなら人は死んだらすぐに忘れられやすいのである。だから墓があれば死んだ人がまだそこに居ると思う。
そして家というのはいずれはなくなるの家がなくなっても依然として墓は残るということがある。墓はその人が存在した最後の証である。そして墓の効用というときドラマでよく墓参りしている人を見る。何かその人に対して謝ることがあり手を合わせて許してくださいとか祈っていたりする。

そしてまた墓があればその人を思っていれば墓参りして花をあげたりする。そこで死者とのつながりが依然としてあり何かそこで死者とのつながりがあってそのために墓も必要だとなる。誰か知らないの私の家の墓に春の彼岸に花をさしていた人がいた。
ということは誰かわからないが私の死んだ家族のことを思ってそうしているのかもしれないとなる。それは違っていても依然としてその人が存在しその人を思っていれば墓参りして花をあげたりするのである。するとその人は死んだ人をまだ思ってくれるからありがたいともなるのである。

なぜならとにかく生きているときは利益あれば人は近寄り何かを得たいとして寄ってくる。でも死んだ人は何ももはや与えてくれない。墓参りして花を上げてもそれを死んだ人は感謝もしないし返事もない。
でもだからこそ何ももはや与えてくれないからこそそれでも墓参りしてくれる人は本当にその人を思っていたということが分かるのである。でもそういう人はまれである。大概は金の切れ目が縁の切れ目となって死んだ人でももはや関心もなくなりそんな人もいなかったとまでなる。

●交通事故で死んだ兄の墓標

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私の父親違いの兄は41才で交通事故で死んだ。その骨は実家の墓に母の実家の墓に埋められていた。それで静岡県の方でトラック運転手に雇われた会社で墓を作ってやるからと骨を置いて行けと言われたのである。それが何のことか分からなかった。
盛んに世話してやったとかは言っていた。乞食のようにしてきたので雇ってやったとか言っていた。でも別にトラック運転できたできて働くことができたのだから雇っただけであり病気だから世話したということでもなかった。
でも交通事故で死んだ時その保険をもらいたいとなり墓を作ってやるとか骨を置いて行けとか言ったのかもしれない。私自身は車はもっていないのでその保険金のことなどが分からずに事情が飲めこめ飲み込めなかったのである。だから車社会であるとき車を持ってないということはその社会自体も分からなくなってしまうのである。

でももし近くに住んでいたら事情でもわかるからあんなことにはならなかったと思う。遠くに行ってしまえば音信不通ではないにしろ事情は分からなくなるのである。だから遠くに行ってしまったものはいくら親戚でも責任を持てなくなる。それは別に肉親であれ兄弟であり家族でも遠くに行って何をしているかわからなくなる。何かあったとき助けることもできなくなるのである。だからこそ遠くの親戚より近くの他人となってしまうのである。

でも私は五歳まで兄と一緒に暮らしたのであんにゃと呼んでいたので一応兄の意識はあった。その後は別々に暮らしていたから疎遠にはなった。ただ不思議なのは実家で一緒に五年も暮らしていた人が兄のことをいなかったと言っているのも不思議である。
子供の時五年間一緒にいれば忘れるということはありえない。でもその人は異常な非情な人になっていたのでそうなった。ついには人は一緒に暮してもそんな人がいなかったとまでなってしまうのである。

●兄の墓標―兄を知る人は私しかいなくなった

そして私は私の家の墓の隣に兄の墓というのではなく墓標を小さな墓標を作った。そこで供養している。そしてその兄の墓でも実の娘がいたとしてもその娘はもはや父親とも思っていない。
というのはその娘のは父親と母親は離婚してその後ひどい目にあったから父親とも思わなくなったのである。それで金にも苦労しているから十万やるから墓参りしてくれと言ったがそれっきり音沙汰もなく終わった。
そしてその兄のことを知っている人はもはやいなくなっている。ここで遊んでいた子供の時の仲間みんな死んだのである。そこに墓標があってもその人は知る人もいなくなったのである。ただ自分だけが知っていて墓参りしている

私自由は私自身は兄に苦労させて私自身よくされたので私は家族に恵まれたということもありそのことで負い目があって墓を作り供養している。
とともかく兄のことを思っている人はもはや一人もいない。私自身だけだというのも何なのだろうとなる。このように人の関係も無常なのである。人はたちまち死んだら忘れられる。
そして実家の墓に兄の骨を収めたがそれが土になっていてその骨も取り出すこともできなかった。骨は土になっていたからである。だから別にその兄の墓標の下に骨はないのである。だから人間は死んだら骨にな灰になり消える。

でも火葬場で骨だけを残すからその始末に困るとなる。それで骨もすべて焼いてしまいその方は後始末が楽だとなる。別に骨がなくなっても墓を作ることはできる。その人は存在した証として墓があるからである。そこに骨がなくても別にいいのである
つまり墓は何かというときその人が存在したという証でありそこに骨がなくてもいいのである。それより人間とは死んだら一体その人は何をもって偲ぶのかとなる。骨が残ってたとしてもそれで偲ぶことはできない。人間はその人はどう生きたかが問われているのでありその人は骨がそうした人生を語るものではない。

だからこそ弔う(とむらう)ということはその人を問うことでありその人の人生がなんであったのかその人は何を残したのか問うことなのである。それは骨ではなくその人の人生はどういうものであったのかを偲ぶことなのである。そうして偲ばれる人はやはり何か価値があり何かを残した人だとなる

だから参り墓があったのその土地の功績者であり普通の人は埋め墓に何もなく埋もれただけなのである。

その人のありしと示す墓なれや参る人なく捨てられ悲し

墓すら維持できず捨てられてついにはにはその人のこの世に存在したのかもわからなくなる。無常の世なのである。

2024年03月05日

人間は死んですべて終わりなのか? (死後も継続されるものー人間の生は仕事と一体化している)

人間は死んですべて終わりなのか?

(死後も継続されるものー人間の生は仕事と一体化している)

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死者の座

母は厳かにおわしぬ
我が家のその場に
在りし日長くもおわしぬ
今死して霊となり
やはり今しもそこにあり
死者はただ深く黙して
もはや語ることなし
石のように黙すのみ
死者には触れることならじも
何か石のように堅きものとなり
死者はその場にあり続ける
もの言わずとあり続けるかな


死者の謎はあると思えばあるしないと思えば無いのである。だから死者というのは死者から何か語りかけてきたりいくらお供え物をしても語りかけても何の返事もないのである。だから何かお供え物をしても語りかけても返答もないからむなしいとなる。でもまた全く死者がなくなったのかといえばそうでもない。残された生者がその死者があると思えばまだあるのである。ただどんなことしてももはや死者とは会うことはできない。だから死ねばその関係は断絶するしこの世のことも死者には関係なく断絶してしまう。

でも本当に人間の生というのは死んだ時点でこれまで生きたこともすべて無となり断絶してしまうのだろうか?
死者を思うときそうは思わない、一緒に暮らしとことを思い出して回想しているから思い出の中に生き続ける。では死んだ時点でこれまで生きたことも無になってしまうのか?
でも死後裁かれるというとき死後でもこれまで生きたことが継続して神に裁かれるとなる。もし無になるとしたらその一生がなんであれ消えるとなるからである。そうなると何をしようが勝手であり悪いことしようが何しようが自由に勝手に生きればいいとなる。どうせ死んだらみんな無となるとしたら関係ないとなるからだ。そいうなるとまた恐ろしいともなる。

だからこそ現世を生きることでも死んですべてが終わらずに継続するとするのである。家族でも死んだらそれはこれまで一緒に生きて来た継続として死者も見ている。死者を思うときやはりその死者でも一緒に生きたたということで共に生きたことでそれは依然として継続している。だから生前何も関係ない人は死んでも何の関心もないとなる。
つまり死者でもそれは生前と関係して死者を思っているのである。だからいくら死んで骨となり灰となってもその人は依然として残された人に存在し続けるのである。そして死者を思うときやはりその人は生きた人生を振り返るのである。だから死者でも家族にとっては生き続けているのである。
ただ正直死者というのはいろいろ思ってみても不可解になるのである。

何したいですか?と聞くと田んぼの土を踏んでみたいと言ったおじいさんのことを思い出す。たいていの病気は他の土を踏むと治ったのだそうだ。それでおじいさんを車に乗せて田舎の家まで送ったおじいさんは本当に田へ降りて土を踏んだ。胆管癌でチューブから胆汁が土に落ちて行った。そのの土の効果も亡くなった。(種の文化を豊かにー徳永進)

この話も生きるということはその人にとっては農民であり一生田畑で働いていたからその働くことを継続して死んでいきたいとなったのである。それで何か土を踏んで仕事をしていれば病気も直ると思ったのである。これは何か示唆に富んでいる。
人間の一生は大概は仕事があり毎日その仕事をしていたのだからそれが生きることでもあったからだ。だから仕事をしていれば病気も治るとまで思ったのである。それほど人間にとって仕事というのはその人の人生そのものになっていたのである。

何かそういうことは職人でもあり大工さんで庭師の人も70くらいになって何か暇になりそれで日頃から体を動かす仕事だから仕事したいとなったのである。それは金が欲しいということもあるが何か仕事をして生きる充実感を味わいたいということであるとにもなっていた。だから人間というのは仕事と一体化してありそれが生きがいとなっている。だから病気になっても仕事をすれば治ると考えたのもわかる。

近くの自転車屋にしても最近死んだが3日前まで仕事していたのである。それで私に仕事が続けられるかなとか言っていた。そしてその3日後に死んでいたのである。とても死ぬとは思えなかった。なぜなら3日前まで仕事をしていたからである。病気は癌であったが癌でもいろいろありこういう死に方もあるのだと思った。近くの90才の医者でも病気になり仕事をしていてその人も1週間くらいで死んだのである。こういう死に方はいい死に方である。なぜなら寝たきりになり介護されることもなく仕事しながら往生したとも見るからである

また認知症になった農家の女性がベッドの上でで田植えしていたというのも人間はやはりこうしてその仕事をしている期間が長いから習慣化してそうなったのである。いくら認知症になったとしてもこれまで長くしてきたことを忘れるわけではない。それは経験として体にその記憶は刻まれている。だからいかに人間というのは習慣が大きな力を持っているかわかる。だから勉強でもたいして才能なくても習慣的に勉強していればやはり効果はある。

本当に習慣の力というのも大きいと思う。その習慣がもう体に染み込んで無意識的に作用するともなる。だから本当は人間は仕事しながら死ぬというのは一番いい死に方かもしれない。農民だったら田畑で死んでいれば往生したのかとなる。そして来世でその仕事を継続しているのかとなる。

死のスイッチを押すには和解が出来上がっていないと難しい。親しくした家族や友人たちとの和解心の温かみがその人たちの間に流れあっていること自然や宇宙との和解そこに共にあること荒らされたもらったことの感謝。
自分に死が近くなったとことを感じる時人は和解を考える。包み込まれる許される謝り感謝しそうして異物であったものをなんとか溶かそうとし違和感を覚えたいったことも心の中で解けるように努力するそうして自分は他人と溶け合い自然と溶け合い自分が時間と自分自身をとけあう
(死の文化を豊かにー徳永進)

家族にいろいろあっても家族自体が融和していないということは結構ある。私自身の家族もそうであった。絶えず争う家族でもあった。そして姉は認知症になり私は懸命に介護したがそのことをわかってくれて死んだのである。だから認知症でもわかることがあり粗末に扱うことは問題なのである。でも認知症になるにしてもやはりその人の生前との関係が相当に影響してくる。認知症の人が感情を抑えられないからその人にとっていい人はでないと介護できないのである。ただ私の家族は死んでから融和したとはなる。
そして【ひどい娘だわ】と母親がその娘を最後に私に言い残して死んだ。本当にそのい娘はひどい信じられない娘になっていた。私の家に来てもおばちゃんは金でめんどうみてもらえと言って去って行った。ただ私の場合つきあいもないししょうがない面もあった。でも育ての親は相当な恨みもって死んでいったのである。そうなると化けて出てくるとか怖さを感じたのである。

ただ人間は最後になれば死ぬときは争いたくない争ったことを後悔していることは確かである。それは家族内でもあり最後は死ぬときは互いにそれも許して来世に送るのがいいのである。ただ正直人間のカルマというのは消滅しない。死ぬときになってそのことを悟って後悔しても遅かったともなるのである。
そして人間の過ちはカルマは延々と続くのである。それで私の母の実家の家族は不和分裂の家族でありそのために親戚でもバラバラになりまとまって墓参りもしなくなって縁は切れたのである
また死ぬ前に和解しろというときそれをそれはなぜかといえば親子であれ家族であれ争って死んでゆくことは後々まで影響するからである。だから死ぬ前に和解しておくとその人も成仏するし家族にとっても心安らかに供養できるのである

霊界にいる先祖霊は、祖霊舎(仏壇)で供養を受けることを大変喜びます。
なぜなら、先祖霊は祖霊舎(仏壇)で食事を取ることができ、
子孫の顔も見ることができるからです。
だから、先祖に対して供養を怠れば、先祖は肩身が狭い思いをしますし、先祖は飢餓に迫られ、餓鬼道に落ちることもあります。

これは感じるけど問題は先祖供養しないと罰が当たるとかで金をとるカルトかありそれが危険なんである。仏教にもともと先祖供養にこだわらない、奨めてもいないのである。ただ先祖を親を供養するのはいいとしてもそこに誰かが僧侶でもカルト教団であれ牧師でもかかわると宗教は歪められるのである、自分は死者を供養しても寺にもかかわあらないしカルト教団にも関わらない。
なぜ問題なのかとなる宗教の場合でも必ず金がかかわると歪められるからである。金が欲しくて関わってくるから危険なのである。

2024年02月26日

近くの医者で認知症の脳形態画像検査(CT、MRI)で脳が委縮していた? 【脳画像検査で認知症はわからない―何のためにするのか?】


近くの医者で認知症の脳形態画像検査(CT、MRI)で脳が委縮していた?

【脳画像検査で認知症はわからない―何のためにするのか?】

脳画像で認知症を診断できると誤解していませんか?

「このMRIで見られる脳萎縮は年齢相応ですね」とつい口から出てしまうことがあります。その時にいつも自問するのは、「年齢相応の脳萎縮とはどのような状態だろうか」ということです。そもそも、脳画像検査において年齢相応の脳萎縮の定義はないのです。また、脳画像検査でこの所見があるから認知症と判断する明確な基準もありません

70才くらいの人が近くの医者で認知症の脳写真を撮ったという。そしたら脳が萎縮していると言われた。その人は全く認知症などの気配もない人である。ただ職人であるが最近熟年離婚して一人で暮らしていることで何か暇になったり生きがいを失ったりして問題だったことを知っている。
ただその人は認知症になる気配もない。認知症はどうしても80歳以上になると危険度が増してくる。 90歳以上になると半分は認知症になるのである。だからその人がなぜ認知症になると自分で判断して近くの医者に来たのかわからない。何か不安になって見てもらったのかもしれない。

脳の写真をMRIとかで取ったとしても実際はその写真を見てもわからないはずである。だからここで脳が萎縮しているといってもそれは認知症とは繋がらない。そもそもそのMRIでも脳の写真を撮るにしても精密に撮れるのは福島県には二台しかないとされる。私の家族でも認知症になった人がいて隣の大きな病院で見てもらったのである。そしてMRIで脳の写真を撮った。私の家族はすでにかなり重症になって認知症だった。

でも何も写真を撮ってもわからない
なぜ写真を撮るのか
医者自体も写真をとってもわからないことを知っている

それはMRIで機械で写真を撮ると金になるからだともみる。私の家族の場合3万払ったとしたら実際は80歳以上になっていたから一割負担で三万だとすると保険料で30万ともなる
だから医者にとっては稼ぐものとなるそもそも近くの一万くらいの街の医院でそんなMRIの写真を撮るような機械があるのだろうかという疑問もある。何故ならその機械は高価なものだからである。そしてそもそもは認知症などわからないのになぜ写真を撮ったのか?それはやはり保険料を稼ぐためにしたのかとなる。

医者というのはその機械にしても設備費に金がかかるから金を稼ぐために実際はわからないことでもあえてMRIの写真を撮る。も脳が萎縮してる写真を見せられてもそれは認知症とは限らないのである。それを認知症については医者すらよくわからないのである。
むしろ私自身は重症の認知症の家族を介護していたから認知症はどういうものかわかったので認知症に関しては直接介護した人が一番知っているのである。介護した人はどういう認知症がういう症状でありどういうものなのか分かっているのである。だから介護できるとなる。

認知症の初期症状はわからない。介護して買い物して同じものを買ってくるのだが必要ないものも買ってくるのだが自分自身が買い物してやはり冷蔵庫に同じものがあっても同じものを買ってきていたのである。
だから正常な人でもそうなるのだからそれが認知症になるとも限らない。だから認知症を最初のうち見分けるのは難しいのである。それはMRIの写真を撮ってもわからないましてや脳の精密な写真を撮れるのは福島県にも二台しかないというからである。この判断はおかしいと思った。

医者というのは必ずしもすべてがわかっているわけではない。でもなぜそうして無駄な写真を撮るのか?それは写真を撮るということは相当に金になるからである。また機械とか設備費にかかるからそのために必要のないMRIを取って使っているともなる
だから確かに医療費は増大する。特に高齢化でこうしていろいろと病気でも心配になりまるで病院医者に通うことがその不安を解消するものとしてまた安心するためだけに行っている。そのための金が膨大になり国が破産するまでにもなるという恐怖である。そのために老人はみんな自殺しろというのもその金がかかりすぎるということである。

それは問題にしろ老人は老人でそんなことを必ずしも心配しない。それで一時軽い脳卒中になった人は女性は体中が痛いとか歩けないとかリハビリとかして医者通いになっている。そもそも脳卒中の兆候があったのにその診断もできなかったのである。だから医者というのも無駄に金をかけすぎる。金がかかりすぎるということがある。

ただこうして医者を信用しないとか医者にかからないことも危険なのである。それは自分自身が経験している。家族もいなくなり体の調子が悪かったのだが医者に行かないで死ぬところだったからである。腎不全になって死ぬところだったのである。それで胃カメラを飲んで調べた結果腎臓は悪く腎不全になり死ぬところだったのである。

そしてすぐに近くの病院に入院したのでそれは私自身が相談する家族もいないのでまた家族がいなくなりいろいろ自分で家のこと全部しなければならないので医者に行くのが遅くなったのである。だから医者のことをいろいろ言っても医者に行かないと言うことは非常に危険なことにもなるのであ。
だからすべて医者が悪いとか金がかかりすぎるとかと言えないのである。

ただ確かに認知症については私自身の介護したので経験から言っているのである。やはりなんでも経験した人から聞くことが大事である。私は認知症については介護したから詳しいのである。 認知症は直接介護してみないと何か分からない。私は直接家族を介護したので認知症についてわかったのである。そのことを延々とプログで書いてきたのである。それを読めば分かる。

それはまたそういうことはインターネット時代で書きやすくなったからである。だから認知症についての情報を共有することができる。私の経験からすればほかの医者も言っているようにMRIの写真を撮ってもそれで認知症はわからない。脳が萎縮したといってもそれもわからないと専門家も言っているからである。

その人には何ら認知症の症状など無い。それなのになぜ医者に行ったのかもわからない。60過ぎて熟年離婚して何か状況は変わり不安になって一緒に行ったのかもしれない。認知症はやはり70代でなる人は少ないと思う。ただその人は何か職人としての仕事から離れて熟年離婚して一人で住むようになって不安になり医者に行ったのかもしれない。その人の衝撃は60以上になって離婚したことなのである。その結果として何か会話もなく不安な状態になったのだと思う。

とにかく夫婦でも一方は死んだりするとまた離婚したりすると精神的に不安状態になるのである。私自身も家族が全部死んでそうだった。でもそれも時間がたつにつれて慣れて来たことは確かである。もともと自分は人づきあいもなく一人でいたからである
ただそのときはまだ家族がいたから良かったのである。

ともかく高齢化社会とは色々な問題がある。金がないとか生き甲斐が無くなったとか孤立化したとか熟年離婚もあり病気になる人もオ多くで社会全体の圧迫されて社会自体が停滞してその負担も大きくなるから問題なのである。
でも老人にしてみれば子供に少子化だからといって子供に予算を使うのを批判しているのである。政府にしても老人が多いのだから票になるのだから老人に冷たくもできないのである

正直医療費にあまりにもお金を使うということは日本が貧困化したとき耐えられなくなり日本全体に大きな影響をもたらすことは確かである。でもその対策となると簡単にはできない。それで老人は自殺しろとかいう若い世代が出てきたのだと思う。それだけ老人が増えてそれで病人も増えてくるから問題なのである。

とにかく医療費が増え介護とかばかり増えてくる。近くの人は糖尿病でありしょっちゅう入院しては退院して一人で暮らしている。それは社会を圧迫して社会自体が維持できなくもさせる。2025年問題でもそうである。現実に73歳の人は脳卒中になり介護状態に介護になった。介護度2なった。そして息子は52歳であるその人も今度は腰が悪いとか建築土木関係の仕事にいけない。すると経済的にももともと苦しいのにさらに苦しくなる。すでに2025年問題は現実化しているのである。その時日本社会はどうなるのか医療費と介護とかで社会でも維持できなくなるともなる。それはすでに現実化しているのである

2023年12月14日

幽霊化する老人-老人の心境の不思議 【死者は威厳があるが生きている老人は邪魔物】

幽霊化する老人-老人の心境の不思議

【死者は威厳があるが生きている老人は邪魔物】

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老人を若い人はなかなか理解できない。また老人自体がどういうものかそれは老人になってみないとわからない。若い人と老人の差は天と地のようにある。老人の特徴は70以上にもなれば常に死を感じることである。それも常に目の前に死あるという感じになる。そして老人はこの世とあの世の中間に居るような存在になる。すでにこの世にいても半分はあの世にいるという感覚にもなる。なぜならこの世とはすでに去っていく場でありもはや生きる場でもなくなっている。

それでつくづくliveはlieve【去る】場所なのである。つまり生きることは去ることなのである。だから最後はさよならだけが人生だと言うのも分かる。人はただあってもそれは一時のことでありただ別れるだけだというふうになってしまう。だからこの世は一的にいる場所でありまもなく去っていなくなるだけである。

それで老人がどういうふうになってしまうのか。老人とは生きながら幽霊のようになってしまうこともある。この幽霊というのは死んだ人が化けて出てくるとか言うが実際は幽霊のようになるのは生きている人間でありそれが老人なのである。
例えば認知症になると何かこの世に生きているのだがこの世を幽霊のようにさまよっているという感覚にもなる。それは確かに記憶障害であり病気なのだが老人全般に起こりうることなのである。なぜなら老人というのは昔経験したことが現実であり覚えている。でも今経験したり人であってもそれもそれも記憶できないとか不確実なものとなりまるで夢遊病者のようにさまよっているという感覚になる。

つまりもはや現実を認識できなくなっているということもある。だから何か幽霊のようにも見えることがある。ただ認知症でなくても普通の人でも老人は幽霊化するように思える。何か近くの人でも85ぐらいになっている。その人も一人自分の家に居るが何か幽霊のようにしてとどまっているというふうにも見える。おそらくいくら年取っても社会の中で役割があり仕事をしているような人は幽霊のようには見えない。 90歳まで医者として働いていた人はそんな風には見えない。それは依然として社会に役割があるからである。また家族の中でも家事をしていればそこに役割があり無用化されないから何か幽霊のようには見えない。幽霊のように見えるのは会社を退職したり何もしないで社会に役割がないそういう人たちが幽霊のように見えることがある。

ただ一般的に老人は生と死の境にありその中ですでに生きたまま幽霊のようになってしまう傾向はある。不思議なのは死者が幽霊になるというがそういうことはないと思う。なぜならいったん人が死ぬと死者は返って威厳があり死者はもはや邪魔ものともされない。死者を敬われるのである。だから死というものは全て悪いものではない。ただ何も用もなく夢遊病者のようにさまよい邪魔者扱いされる老人とはまるで違っているのである。中国でも老人が増えて息子にまだ生きているのかと言われ自殺したろう人もいる。日本でも百歳頃まで生きて息子に娘に長生きしてごめんなと言っている老人もいる。老人は生きることに肩身が狭くなっているのである。

でも死者は違うのである。死者は決して邪魔者はならない決して迷惑をかけないからである。それが幽霊のように生きて邪魔者扱いされる老人とはまるで違ったものなのである。
なぜそうなるのか不思議だとなる。だから死がそんなに悪いものとも思えないのである。むしろ生に執着して老人となり幽霊のように生きていることがかえって辛いものともなる。だから早く死ねばいいというわけではないが何か高齢化社会になると社会でも無用になり邪魔者扱いされる人が増えてくる。そうならば死んだ方がましだと思う。死んだなら人は邪魔者扱いしない敬われる威厳のある存在となるのである。

いづれにしろ老人の心境はすでにこの世から半分は離脱したような状態になっている。この世からまもなく消えるのだからこの世のことをいろいろ執着しても無駄だと思うようになる。そしてむしろあの世のは近くなり半分はあの世に行ってしまっているのかもしれない。そして認知症の人は死んだ人と延々と語り続けているということがある。ところが普通の人でも老人にとって親しい人は死んだ人なのである。だから自分自身で60年以上居た家族と死んでも毎日語りかけているのである。老人とはそうなりやすいのである。もはや新しい関係を人間関係を作ることが難しいのである。そして認知症になるともう新しい人覚えることもできなくなってしまうのである。

ただこの幽霊化現象は別に老人にだけ起きていることでもない。すでに若い人でも現代人は幽霊のようになっているという人もいる思想家にいる。ピカ‐トなどはそうである。大衆化した人間はそこで人間としての存在も消失して何か幽霊のようになっているという。確かに東京とかの大都会で人と出会ってもそれはまるで幽霊と出会ったような感覚にもなる。人間の存在が喪失してそうなったともなる。だから幽霊化現象は老人だけに起きているともならない。確かなことは人間の実存感がなくなると幽霊のようになってしまうということである。だから認知症のようになると夢遊病者のようにさまようとなる。その数も高齢者になると多いから大問題になるのである。

ただし死者になると一転して周りでも貶めることもできない敬れる存在となるのも不思議だとなる。だから死が悪いとも思えないのである。むしろ生きている生きていて貶められて邪魔者扱いされるこそいいものではないのである。だからと言って死を勧めるわけではない。つまり生きているものと死者とはそれだけ大きな相違があるということである。生きている間はあらゆる人が貶めしたりされるから別に老人だけの話ではない。

でも一旦死ねば死者は威厳があり誰でも敬われるという存在になりうるのである。ただそれがすべての人には人がそうなるともならないが生きている者と死者とは相当に大きな差がある。だから原始社会では死んだ人は誰でも神のように崇められたということもわかる。それだけ死というのは人間にとっても不可解であり崇拝の対象にもなったということも分かるのである。

2023年11月14日

20年後家族地方福祉国家崩壊が迫る (少子高齢化―未婚単身社会の老後)


20年後家族地方福祉国家崩壊が迫る

(少子高齢化―未婚単身社会の老後)



このまま結婚できない若者が増えていけば、'40年には日本の人口の半分を独身者が占めると推計されている。20年後の日本は、身寄りのない孤独な高齢者で溢れかえる。結婚というシステムの死によって、医療・福祉・社会インフラが連鎖的に麻痺、崩壊してゆく―。それこそが、待ち受ける「大独身時代」の日本の姿だ。

「これから結婚できるのは、高学歴、大都市在住、大企業勤務の人だけになる。反対に低学歴、地方在住、中小企業勤務、非正規雇用の人たちはますます結婚できなくなる。彼らを待ち受ける未来は悲惨です。対策を練る政治家や官僚は恵まれた環境で暮らす層ばかりですから、そういった人たちに向けた高等教育、結婚支援は視野に入っていないのです。
結婚が消えれば「地方」が消える

●20年後の恐るべき地獄社会

これは暗澹たる未来である。でも既に一部で現実化している。その家族はもう崩壊寸前である。一人は精神障害者であり息子は50歳くらいである。結婚はしていない仕事は工事現場である。母親は74歳くらいで脳梗塞になった。幸い軽い方ではあったがその後後遺症で足が悪くなり歩くのはやっとである。杖をついて私の家までくる。常に金がなく食べることもできないと嘆いている。生活保護を受けているとしても国民年金が4万くらいもらっているからそのためにほとんどもらえないのである。ただ介護度が一くらいになっているから援助は受けている。でも金銭的には常に足りないものとなっている。

頼りになるのはその50歳の息子なのだが最初は交通事故になりそれで車がないと仕事にならないとして50万を貸した。そのお金は返ってこない。次に階段から階段で足を挫いて仕事ができなくなった。そして今度は目を悪くして病院に行く。そこで工事現場で仕事に行けず収入が無い。精神障害者を一人かかえて独身でありもうすでに家族崩壊になっている。家族だけではもう家族を維持できないのである。

あたりを見回すと確かに1万の町でも近くで40代50代で結婚しない人が多いと見る。それは地方でもそうなのである。大概地方だと結婚しているのが普通だった。結婚していない人は変わり者であり社会から外れた人になっていた。また結婚しない人は大人として一人前に扱われないということもあった。自分の場合は結婚しないからそういうふうにもなっていた。

でも結婚しない人が普通であり変わりものでもなんでもないむしろ結婚しない人が多いのである。そうなればもう跡継ぎがなくなり地域でも社会でも維持できなくなる。その人たちはすぐに60代70代となり働けなくもない。そしたらその人たちは一人で生活して今のように福祉サービスを受けることも確かにできなくなる。
年金にしてももらえるかどうかわからなにのである。日本経済が弱体化して先進国にもなりえなくなっている。

その未来を予測すると暗澹たるものであり恐怖でもある。つまり社会そのものが崩壊してゆくことである。すでに自分の周りでも家が五六軒壊されて空地化した。子供を見かけるのは保育所くらいであり周りにみかけない。。だから地方からそもそも若い人もいなくなり社会自体を維持できなくなる。老人ばかり増えて病人も増えてもはや福祉サービスすら受けることはできなくなる。家族が崩壊し地域が崩壊し社会が崩壊してさらに国家すら崩壊してゆくのかとなる。戦争も危機であるこれも内部的に危機であり恐怖になる。ただそれを現実として受け止めることが社会でも政府でもできていない。でもこの未来は差し迫ったものであり現実化することは確かなのである

●介護を家族だけではできず家族が崩壊する

家族が崩壊するというとき私自身が経験した。親二人がいて自分自身が病気にもなって一人悪戦苦闘するほかなかった。私の家に来る人は助ける人ではなく助けてもらいたい人だったのである。事業に失敗して借金で苦しんでる人年金が少なく生活に苦しんでいる人そして自らも病気になり身寄りがないのだから病院で虐待されたり何かと責められて苦しめるだけだった。余裕のない人は人を助けることはできない。だから身寄りがないということは恐ろしいことなのである。結婚しない人はそおのことを自覚していないのである。

そして家族崩壊というときそれは誰でも経験することになるかもしれない。家族でもその単位が夫婦とか後は一人暮らしとかが多くなっているからである。すると介護とかになると限界になってくる。そこですでに親を殺すとかまでなっている。それは家族の単位が小さいから誰か一人に負担がかかってくる。その負担が背負いきれずそうなってしまうのである。近くで母親が認知症になり症状は重くその一人の息子が介護で苦しみ母親を殺してしまったのである。その人は50歳くらいだった。

私の二人の親の一人はやはり重い認知症になったからそのことがわかる。そしてまた一人が介護になり私自身も病気になりついには家族は崩壊するとまでなった。つまりこれは家族崩壊というのはこれから起きてくる。またさらに地域崩壊も起きてくる。福祉崩壊も起きてくる。それは今より深刻なものとなる。だからその未来を見るとき衝撃的だとなる。その対策をしないともう社会自体が維持できなくなり崩壊してゆくということである。

とにかく家族崩壊というとき日本の場合は家族中心であり家族頼りになっているのだがその家族の単位の数も少ないし介護となると限界になる。まだ大家族だったら人手があり誰かが世話する余裕があったかもしれない。でも家族の単位が人数は少ないと本当に誰か一人が全部背負うことになる。それを経験したのは自分である。家族だけで背負いきれないのである。その負担が大きいから家族崩壊になるのである。
ヨーロッパの場合すべて家族にがに負担させない国が負担して面倒みるのである。福祉は充実しているからできるのである。日本ではそれができないからすべてが家族に任せられる。でも家族の人数が少ないからとても介護とかなれば負担が大きくなる。誰か一人が負担を全部背負うことになり限界になる。そこで介護殺人が日常的にもなるのである。

●大家族ーファミリーの喪失で助け合うことができない

だから社会自体を見直さないと恐ろしい地獄社会になってしまう。家族中心の世界では社会ではもはや社会自体が成り立たなくなっている。その家族の単位が人数は少なすぎるのである。だからファミリーというとき外国では夫婦とか親子とかだけではない広い範囲がファミリーになっていたのである。スペインの教会のサクラダファミリーという時それは教会に集まる人数がファミリーだったともなる。外国ではそうして教会を中心にしてファミリーが形成されていたともなる。日本はそういうことがなくなった。ただ村が日本ではファミリーとなっていたようである。

なぜなら子供でも村の子供であり家族として育てていたからである。名付け親/取上げ乳付け親抱き親名付け親拾い親
守り親養い親、、、、明らかに家族に一員として育てられたんである。だから村は大きな家族、ファミリーだったとなる。
本当に村の子供家族の子供ではなく村の子供として見守り育てていたのである。それが現代のよう個々バラバラになり核家族になりそうしたファミリーというか共同体は喪失して核家族とかなりそれに代わるものとして福祉サービスが提供されるがそれも将来的にはできなくなる。

今はかろうじて維持しているだけであり今50代ぐらいの氷河期世代が60から70とかまあっていうこともはや福祉サービスでも受けられなくなる。予算的にも今や日本は貧困化して福祉の方に回せなくなるのである。だから少子高齢化というのは社会の崩壊にもなるということである。それが地方で深刻化する。すでにもうその前兆は明確に現れている。あらゆるところで跡継ぎはなく仕事も維持できなくなる。 1万の私の街でわ自転車屋は一軒もなくなった。小さい町ではサービスを受けられなくなるのである。

●地獄社会となる恐怖

もしかしたら残酷ではあるが地獄を生きることを覚悟するとかになるかもしれない。なぜならもはや福祉であれ医療であり様々なサービスが受けられなくなる。また貧困社会になり食うことさえままならぬものとなる。そういう社会になった時それは地獄社会である。地獄を生きる社会ともなる。その覚悟は必要になるのかとなる。なにか老人になるとそれなりに生きてきたから諦めもつくがこれから生きる人にとっては過酷すぎるともなる。

何か老人は生に執着しなくなり後何年か生きてこの世を去るだけであるとかなる。この世で嫌な人とも永遠に合わない様々な苦しみ嫌のことから解放されるとなり気持ちに返って楽なのである。若いと欲望が強く女性に対してもそうだからそれが焦燥感となり苦しむのである。生の執着が生まれ苦しむのである。そして先が長く感じられる。でも老人になると人生もあっというまに終わることに驚くのである。ただ何かと姓に執着する老人も多い。でも老人の心境は若い人に分かりにくいのである。とにかくさまざまなものが崩壊して地域であれ何であれ維持できなくなるということである。維持する人がいなくなるのである。

それを補うものは何なのかとなる。日本の出生数は減るだけであり減ることはない。日本で補うことは難しいのである
何か地域でも国でも崩壊するというとき外部からの侵略でまたは戦争で崩壊するということではないその前に内部から崩壊してゆくのである。日本は何かそういう状態になって行くということの恐怖である。それは確かにどこでも目に見えるものとなっているから単なる想像のことではないのである。具体的にその崩壊が目に見えているからこそ恐怖なのである


2023年10月23日

老人は病気の話 70才でも働く時代 老人は病気の話 70才でも働く時代


老人は病気の話 70才でも働く時代

大工さんで庭師である人が70で若い人に混じって仕事した。でも若い人は動きが速いのでついてゆくのが大変だという。でも70歳でも働いている人がいるという。でも肉体労働となると70過ぎて働くのは相当に厳しいと思う。
その人は丈夫な人でもやはり病気になっている。それも何か複雑な病気でありそれを見てもらうのは福島市の方によくほかない。
福島医大に通う人がいた。それで福島中央道路できていないときは通うのが大変だったと言っていた。何か難しい病気になるとこの辺でわ診れないのである。それは目の病気でも仙台市に行かないと手術などできないという。それで面倒なのである。何しろ人間の病気の種類が多すぎるのである。そして老人が話題にするのは病気のことなのである。

私自身も急に寒くなり体が震えて全身が不調をきたし苦しんだ。
これも老化してなったのかもしれない。また気候の変化が激しいからそうなったのかもしれない。とにかく何らかの病気になる人が老人になれば増える。脳梗塞になった女性は買い物に行くにも自転車に乗れず歩いてゆくほかない。タクシーを利用するときもある。それだけ歩くだけでも大変だからである。ところがタクシーも一軒しかなくうまく利用できないという。全国的にタクシーの運転手不足になっている。一軒しかなかった自転車屋も死んでここには自転車屋もなくなった。

また田んぼのなかにある農家二軒も廃屋かしたみたいだ。地震の被害がこの辺では未だに続いていて壊れた家を直さないのをみかける。それで直さないで壊しているのかしれない。おそらく農家でも後継者がいないのでそうなっているのかもしれない。70くらいの人が農業しているが多く後継ぎもいなくなり食料が供給できなくなると問題にしといる。

とにかく老人の問題は病気になることである。病気になるとまた金もかかるし負担は増える。今金の余裕がある人は少ない。だから息子でも娘でも頼りにくいのであ。そして年金があまりにも少なすぎるのである。女性の場合4万くらいしかもらってない人が7割くらいいるとかそんなんでどうして生活できるのかとなる。厚生年金で15万くらい貰っている人がいるとしてもその15万でも足りないと思う。物価が上がっているからなんでも高くなっている。近くの大判焼きが150円だったのが50円上がって200円にもなっていた。他でもコンビニでも20円30円とか上がっている。何かそういうものが物価高をじかに感じるものになる。それは日々生活して買っているからそう感じるのである

人間は一番病気に弱い。病気になると気力もなくなる。だから一人暮らしは病気になると最悪になる。体のこと気にかけてくれる人がいなくなるからである。それで私の場合医者に行かないでいたら病気が悪化していて死ぬ寸前だったのである。
それで街の医院から直接市立病院に入院して一命を取り留めたのである。それも家の中で介護とかなり誰も自分を心配する人もいなくなったからである。だから一人暮らしは危険なことはある。それで孤独死になったりする。そして今は隣近所とか無関心であり日頃から付き合いとかない。だから不思議だったのは市営住宅の隣の人が死んでいて二ヶ月間もわからなかったという。それは1万くらいの町で起きたことである。そういう場所では互いに気遣うことがあると思ったがそういうこともなかったのである。

ただその人も自体にも問題があったのか近くに兄弟は住んでいたのである。ただその兄弟にしても付き合いのなくなっていたのかもしれない。でも二ヶ月間も死んでいたのはわからなかったというのも謎である。あまり話する人ではなかったらしい。でもそれにしても二ヶ月間も死んでいたのはわからなかったというのは何なのだろうとなる。電気がついていたので生きているとみていたともいう。また冬だったから匂いもしなかったからきずかなかった。でも二か月間だったら誰か人の出入りがあってもいいとなる。それも一番の田舎の町で起きたことなのである。だから田舎とはいえ都会化しているのである。人間の付き合いが希薄化して無関心になっているのである。
でも今の時代その人は金をもっていればその金目当てに寄ってくる人はいる。なぜその人は親しく近くの人に話し相手なっていたのに行かなくなったのか。金をもらえないからだともなる。また自分自身も病気になって相手を見る余裕もなくなったからだともなる。今は人の付き合いも金なくしてありえないともなっている。

ともかく老人は病気の話でありまた体調も崩しやすいとなる。それで自分自身も結構苦しんだのである。体全体が変調をきたすということはやはり今まであんまりない。だからやはり気候の変化とか影響してそうなったのだと思う。老人はいろんなことで体の変調をきたしやすいのかもしれない。ともかく急激に寒くなったことが体に応えたのである。それが体全体に影響して思った以上悪化したのである。

2023年10月07日

認知症の介護の問題 【脳の障害で心と関係しているから難しいーでも人間として通じ合える】

認知症の介護の問題

【脳の障害で心と関係しているから難しいーでも人間として通じ合える】

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現役医師ですがハッキリ言わせて頂きます。認知症の介護は危険です。理由を説明します。
ドクターハッシー/内科医 橋本将吉

説明がうまい、わかりやすいから人気になる


●認知症の人の脳を解剖してわかるのか

認知症の謎は脳が関係していることでそれが心とも関係してくる。心の関係はどうなっているのかとなる。つまり脳はは医学的に物体として見る。でも心はそうして物体として細胞の塊として解明できるのかとなる。でも説明を聞けばやはり脳は細胞からとか神経とか血流とか目に見えるものの中に働き医学としてはそこで解剖する。
でも脳というのはそうして医学的にとか物理的にとか科学的にとか理系として分析する。でも一方で心を問題にすればそれは文系的なものになる。だからこの認知症というのは脳の物質的というか機能的というか細胞というかそういう目に見えるものを解剖して解明しようとしている。

そしてここで説明しているのは感情というのも目に見えるものとして細胞の働きで感情が出てくる。感情が解剖的に説明できるのかとなるとなかなかわかりにくい。でもそれも神経細胞と関係して感情が生まれてくると説明している。
認知症はさまざまな障害が出てくる。一番の障害は記憶障害である。記憶できなくなることで忘れることでそれが単にここにあったものがなくなったとか忘れるというだけで終わらない。
忘れることが感情を司る場所に影響して怒りやすくなる。極端になると怒るだけだけでなく暴力になるのである。それが認知症を介護するときに怖いのである。何か日頃から感情的にでもよく思ってない人は特に攻撃されやすい。それで私の家族でも一緒にいられなくなったのである

●好意を持つ人は介護できる

だから感情的には好意を持っていた私が介護したのである。私には常に良い感情を持っていたから私を攻撃することはなかったからである。
だから他人が介護するときその介護する人に好感を持って居ないと攻撃されやすいのである。それで認知症の介護は難しいものとなる。そもそも好感を持つにしてもやはりそこに長い付き合いがないと簡単にはいい関係は生まれない。
私は60年間とか子供の時から生まれた時から一緒に暮らしていたからそこで親密になっていて攻撃されることはなかったのである。私のことは特別かわいがりそれは60歳までもそうだったからである。そういう関係であればいくら認知症が重いとしても暴力は振るわれない。
だから認知症と介護はこうして好感を持った人がすればその認知症の人は症状が穏やかになるのである。でも普通の人はそうした親密な好感を持ってる人ではないから介護することが難しくなるのである。

●脳と心は関係していて解明することがむずかしい

そもそも認知症の難しいのは脳と心の関係はどうなっているのか。それが解明できないし不可解になるのである。ただ確かに記憶障害ということが脳全体に影響して認知症になることは確かである。記憶する場の海馬は損傷してそれが脳全体に影響して脳の機能が正常に働く働かなくなるのである。
そもそも精神障害者というのは何なのかわかりにくい。発達障害の人とちょっと話してみたが確かに計算とかできない漢字も苦手である。ということは漢字でも数字の計算でも抽象的なことでありそれは高度な脳の働きが必要だからである。それができなくなるということはやはりかなりの知性の障害だとなる。でも認知症というのはこうして人格障害者となり精神障害者となりまったくの別人になってしまったのかというとそうでもない。

これまで60年も一緒に暮らしていて人間として通じるものは。相手を親切にしてよくすればそれは通じるのである。動物ですら犬猫でも親切にして可愛がればそれがわかるのである。ただいま外で飼っている猫はいくら餌をやってもなつかない。ちょっと近くに寄ったりするが警戒したままであり懐くことはない。
だから私は餌をやるのは嫌になってしまっている。かわいいところもないからである。なぜその猫はなつかなくなったのか。それはおそらく人間にいじめられて人間を極度に警戒するようになったからかもしれない。ただその理由はよくわからない。その猫は人になつくということはないだろう。そういう機会をなくしてしまったのかもしれない

●愛情は動物にも通じるから認知症の人にも通じる

とにかく認知症というのは記憶障害から波及してさまざまな障害が出てくる。でも動物と比べるのは変だけども親切にしたり愛情をかけたりしたりする人のことはよく思っている。そして実際に愛情を持って接していることは分かっている。
その愛情というのは動物でも通じるのだから別に認知症になっても通じるのである。ただいくら長く一緒に住んでいてもその人を嫌いだとか不快な感情を持っていると60年一緒にいた人でも一緒にいられなくなったのである。嫁と姑の関係と似ていたからである。夫婦でも離婚する人は1/3とか多い。子供を育て子供を成長させるまでは我慢するとかして一緒に居る。

でも子供が成長すると本音が出てきて一緒にいたくないとなり熟年離婚にもなる。その数も多い。また死後離婚にもなり一緒に同じ墓に入りたくないともなっている。そういう人だととても認知症の介護はできないかもしれない。つまり感情的に好き嫌いがはっきりあらわれるから極端になると感情が抑えていたのが抑えられなくなり暴力となってしまう。私はそれを見てきたから夫婦でもやはりそれまでの関係はどうであったかとかで認知症の介護になると難しいとなる。

認知症の謎は時々正気になることである。特に死ぬときは正気になる。だから冷たく扱うと恨んでで死ぬことになる。そのことが怖いことになる。私の場合は特別よくされたからそうなったら後悔したことになる。最後は自分のことを介護したことを分かっていて感謝して死んでいったので救われたのである。それは死後も影響してくる。供養するにしてももし恨んで死んで行ったら死んだ人はその人をどう思うかとなる。

別にそれは認知症の介護だけではなく介護そのものでもっ死んでからも影響するから介護というのは難しいのである。
ただ正直私の場合は認知症の介護でも二年半で終わったから助かったのである。介護というのは認知症でも十年とかでも続くことがある。そうなるとどんなに愛していても限界がくることは確かである。私は別におしめなどはしていないし二年間は一緒にいても身体的介護は何もしていない。近くで母親のおしめをするとき暴れられて殺した息子がいたからである。

●認知症は感情が抑えられない、本心があからさまに現れる

でもこの病気について不可解なことが多くて何かわからなかった。特に脳の病気でありそれが心とも関係しているから複雑であり不可解になったのである。
でも認知症は生まれつきの精神障害者とは違っている。人間として普通に生きてきたのだからやはりいろいろなことを分かっているのである。ただ記憶障害とかからいろいろな障害は出てくる。でも人間として全くわからなくなったというのでもないのである。それが誤解しやすいのである。だから認知症というのは直接解介護してみないと理解できない。それは医者にしてもわからないからである。

確かに脳の細胞とか神経とかアミロイドが溜まっているとかなんとかいろいろある。でも介護するときはそれを説明されても役に立たないと思う。それは脳と関係して心とも関係してくるからそうな。そもそも人間の心と何なのかなのかとなってしまう。いくら脳の機能を見ても細胞を見てもで人間の心はどうして作られるのかそれも脳をいくら見てもわからないとなる。でも神は人間の心を見ることができる。

なぜなら神は人間の心を見て判断きるとなっているからである。それは脳の細胞とか神経とか血流とかを見るのではない。では一体どうして人間の心を見ることができるのかとなる。人間の心にはさまざまな要素がありあの人は性格的に悪いとかあの人の心は歪んでるとか人を妬んだり人を憎んだりそういう感情的なものはある。だから人間は必ずしも外見だけでもわからない。でも神は人の心を見るというとき心の清い者は神を見るだろうという時確かに神は心が見えるのである。心の清い人は神をみるだろうというときそうである。だから人間は脳というのはどうして心を作っているのか不可解なのである。

認知症の人でも確かに記憶障害がありさまざまな障害があってもやはり人間としての心を持っていてそれが相手にも通じる。優しく愛情を持って接する人は好感を持ちそうでない人は好感を持たないから介護できないともなる。夫婦でも好感を持てなくても愛していなくてもいやでも我慢して一緒に居ることができる。
でも必ず本音が出てきて我慢できなくなって熟年離婚にもなるのである。つまり本心というのは本音というのは隠すことはできない。いつか必ずその本音をあらわれあれる。だから地獄というとき人間の本音が隠せなく露わになった場所である。憎んで我慢したりしていたがそれがあからさまに地獄で現れて暴力となり殺し合いにまでにもなる。つまりそうした感情でも抑えることができなくてそうなってくる。それが地獄だとなる。

例えば社会でも権力を持っている人にわ嫌でも従う。でも地獄では従うことなくその権力者に従わない。そして襲うことにもなる。なぜそうしなかったかというと相手が権力を持っているから従っただけでありいつかはその権力はなくなったりすれば相手を責めてくるのである。だから地獄とは人間の本心が現れている場所であれ憎しみでも露わになり隠すこともなく現れて殺し合いにまでもなってそれが地獄である。
だからこの世で権力を持って支配して従わせていた人復讐されるかもしれない。つまり立場が逆転するのである。

ともかく認知症の介護は至難である。それはただ人間の臓器の病気ではなく脳の病気である心の病気でもあるからだ。でも心は何かとなると人間には解明できない。それは神のみぞ知るとなってしまう。だから医学だけでは科学だけでも解明できないのである。そこに理系と文系の問題があるともなる。
心理学なども関係してくる。それは臓器だけの問題ではないし脳と心が関係しているから難しくなるのである
だから認知症の薬ができたというはそれで認知症が治るのかどうかはわからない。ただ認知症についても研究されてやはり薬はできてくる。でも問題はそれだけで認知症が治るのかどうかはわからないのである。それがそもそも脳というのは心と関係していて解明されていないからである






2023年09月20日

「家事は全部妻まかせ」が招く認知症?  父の介護で気づいた「男を無力にする真の原因」

「家事は全部妻まかせ」が招く認知症?

 父の介護で気づいた「男を無力にする真の原因」

母は毎日欠かさず三食を用意し、父に給仕していた。かれこれ60年にわたって続けてきた習慣で、父にとって食事とは「食べる」というより母の給仕を受けること。母の前に「座る」ことなのだ。

 この習慣こそ認知症の原因ではないだろうか。家事を一切せず、外でお金を稼ぐだけで、あとはすべて母任せ。いわゆる家父長制が認知症を招いている。父はアルツハイマー型というより家父長制型認知症といえるのではないだろうか。


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私の家族は複雑であった。二人のの母親がいて一人は実の親だけど百歳まで生きた。もう一人は母親違いの姉であり年齢は七歳しか違っていなかった。同じ大正生まれだったのである。そして母は私の父親の家に嫁いできて女中のように働くことだけだった。特に店をしてた時食事をしていても満足にゆっくり食べることができなかった。店にお客さんが来て食事中でも立っていたからである。
そして私の母親は実家でも継母が来ていじめられて苦しんだ。それで何かそこでも働き詰めであり趣味など持つこともなかった。だから花にも興味はなく花など買わなくてもいいといいとか花はいらないと言っていたのである。それも育ちが原因していて貧乏でありそうゆう余裕もなく習い事もさせられることもなくただ働くことだけだったのである。だから実際に東京に出て女中もしていた。だからその一生は女中ともなっていた。

一方姉の方は公務員であり役所に勤めていた。もともとは看護婦だった。 55歳まで勤めて退職した。早めの退職だったが勤めることが嫌になったからやめたと思う。でも55歳は早かった。なぜならそれから30年も生きていたからである。姉も何か趣味になるものもなかった。向いていたのは看護婦だったのである。だから役所を辞めてから何をしていたかというと何もしないのである。家事は94歳までしていたからである。一方の姉は55歳で退職して何もすることがなかった。家事すら全然してない。なぜなら母が全部していたからである。

ここで一見これは何でも食事でも用意されるから人いいと見る。でもそれが認知症の原因にもなっていたのである。役所を退職してから何もしない。趣味もない。向いていたのは看護婦だったがそれもやめていた。ただ保健婦の後は事務的なもので働いていた。でも役所を退職してからは何もしない。家事すらしない。ただ何をしていたのか、テレビとか見て家では何もしてない。それは認知症になった原因だったかもしれない。母は94歳まで家事を一人でしていた。姉は何もしないかったのである。

母は働きづめの一生だったけどそれがすべて悪いものとして作用はしなかった。 94歳まで家事をして働き家で掃除でも常にしていて役割があった。姉は家で役割が無く役所も辞めて何も役割がないものとなってしまった。そのことは認知症になる原因だったかもしれない。家事というのは男が馬鹿にすることもあるが結構頭を使うのである。頭だけでない手も足も使う。特に料理は相当に頭を使うし熟練しないとできない。だから家事をする料理をすることは給料をもらえなくてもそれは仕事なのである。

だから男が退職したりして妻が食事の用意でもなんでもしてくれる時男に役割がなくなりそれが認知症にもなる原因となる。一見何でもしてくれる身分であればいいと思うが実は違っている。人間は常に役割を持ち働いていないと頭も体も機能しなくなり退化してゆくのである。だからこれは何か人生の人間のパラドックスにもなる。

例えば主人がいて召使いがいて召使がなんでもしてくれたりするのはいい身分だと見ているが必ずしもそうではない。認知症になりやすいのは召使いがいて自ら何もせず何でもしてもらう主人の方なのである。
また姑が嫁にお母さんは何もしなくていいですよテレビでも見てくださいと言われると姑がボケるということはある。それは家事も何もしなくて張り合いもなく頭も働かないのでそうなるのである。だから男でも何もすることがなかったら家事をするべきだとなる。家事はそれなりに頭を働かせるし体も使うから全体的にいい作用をするのである。

そして人間は何らか役割がないとボケてしまうことがある。だから長生きの時代老後も長いから何か役割を持ち働き続けることが大事である。
ワーク(work)というとき作用するとか機能するとか作品などの意味がある。つまり人間は生涯ワークする。それが例え金にならないとしても何か役割を持ちワークすることが大事なのである。それが高齢化社会の大きな問題になっている。老人は引っ込んでろとかテレビテレビでも見てるとか何もするなとか若い人に言われたらその人はボケてゆく。すると社会に大迷惑をかけるのである。

ともかく認知症はもう90以上になったら半分はなりどうしてもそれは避けられない。でもそれを防ぐにはやはり役割を持ち何らかの生きがいを持ち働き続けることが大事なのである。理想的なのは働きながら死ぬことなのである。近くの自転車屋は癌になっていても十年間くらい働き3日前に行ったらもう仕事もできないかもしれないと言って3日後に死んだのである。
まさに仕事をしながら死んだのである。街に一軒しか自転車屋はなくなっていたから貴重な存在だったのである。他でも近くの医者も90まで仕事をしていて一週間間くらいであっけなく死んだのである。そういう死に方はいいと思う理想である。
そうはいっても肉体労働者だと働き続けることが難しい。どうしても体が弱りできなくなるからである。でも軽いこと家事くらいはできるからそれでもしていた方がいいとなる。
ただ何もせずボケーとしていることが一番悪いのである。

老後は長くなるというとき大きな問題が病気になること特に認知症になることは一番大きな問題である。それは周りに大迷惑をかけてしまうからである。介護するにも精神障害者になってしまうからその苦労が大きいからである。そして本人にしても馬鹿になったとか言われてその生きてきた人生の価値まで否定されてしまう。あの人は馬鹿になって死んだ。それだけの評価になってしまうことも怖いのである。そして死ぬ最後の言葉が[私は優秀だった〕と言って死んだのである。それも悲惨だったのである。
ただなんらか馬鹿になったこと自覚していた節があった。それで自分は馬鹿ではないということ言いたかったのかとなる。

ここで家父長制的認知症と言ってるが家事もしないでただ妻の何でもしてくれるということは危険なものとなる。
認知症になることが確率は大きくなるからである。ただ人間は高齢化社会を生きることは今の時代になって初めて経験することでありそれでみんなが対応できないとなっている。その最大の問題が認知症になることなのである。

2023年09月15日

地獄の沙汰も金次第−墓の効用はなになのか? (金もなければ相手にされない老人)


地獄の沙汰も金次第−墓の効用はなになのか?

(金もなければ相手にされない老人)

100歳以上の高齢者 全国で9万2139人 53年連続で過去最多を更新 きょう「老人の日」


何か埼玉の方に兄さんとかいて具合が悪いから呼ばれて行った。ところがその人は女性は金がないからそのために金を要求する。一回だけだから良かったが今度もまた何か特別なことがあり呼ばれていった。でもその人は金がない。もう今回限りで終わりだと言っている。となると金がなかったら兄さんでも会うこともできない。ただ埼玉とかの方ではそれなりに遠いから簡単にはいけないのである。

何か特別の用事があるというとき金でもくれるのかと思ったらその人も福祉に世話になっているから何もないとなる。臨終の時に必ず呼ばれる。だからまた行くのは金もないのにどうなのかと思った。ただこれが最後となると金を惜しんでもいられない。だからこそこの世の中地獄の沙汰も金次第だとなる。つまり兄弟でも姉妹でも親子でも最後の別れを惜しむとなるとき離れていると交通費がかかり金がないとそれもできないとなるからだ

その人は親しい近くの人がと来てくれと言っても行かない。その人自身が日々の生活に事欠いてその人は援助してくれないからである。その人が失敗したのは一人娘に金を全部預けてしまったことである。自由にする金がないのだからその困った女性に援助はできないのである。ただ人間というのは本当に最後まで金のことがつきまとっている。それは誰でもそうでありその金の縛りから逃れることができないのである。でもやはり金に困っている女性を助けられないということは大きな問題になる。携帯電話で話ししているが直接にあって話すことはないようである。ただ一人で行ったり病院を出たり入ったりしているから話し相手が必要なのである。その女性は話がうまいからである。

とにかく人間は金から解放されるのは死んでからしかない。それはいくら金を持っていても金でもめたり遺産相続で争ったり家族でもいろいろと金から問題が起きてくる。だから人間は本当に死ない限り金から解放されないのでる。そこに人間の不幸がある。おそらく天国とか神の国では金など関係なく生活できるに違いない。だからこそ地獄の沙汰も金次第にな。金を与えれば確かにその人が好きでなくても老人でも何かしてくれる。話し相手にもなってくれる。現実に話し相手になるだけで金を払っているということもあるからだ。

だから老人は金をもっていればその金を目当てに相手にするということはある。老人がなぜ権力を手放さないかというと権力をもっていればそれによって人も寄ってくるし相手にもしてくれる。その老人が嫌でも金のためにそうなるのであ。女性でもその金のために寄ってくる人がいる。それは問題にしてもやはり人間は金から切り離されられないのである。

ただ別に金がなくても老人のこれまで生きたことを語れば興味を持つことはある。老人の価値はやはりこれまでの人生で経験したことを語ることである。ただ正直その人が本当に語るべきものを持っているかどうかが問題になる。例えばカルト教団など入って一生終わった人の話など何も興味あることはない。ただロボットとして何の個性も出さずにその人なりの生きたものは何もないのである。
そしてその教団や組織もいつかは消えてしまうのである。それは会社に入った会社で働いた人でもそれとは違っていてもやはり会社から退職するとその人の価値は相当に減少してしまうのである。でもそこで何か語るべきものがあればそれは価値あるものとなる。

要するに老人の価値というのはもちろんお金があれば金に寄ってくる。だから金があったほうがいいことは確かである。でも何か老人がその人生を語りその語ることに価値があればその老人の価値があるともなる。それは金なしでもその経験したことが価値あるのであり巨額の金を集めても残してもそれがすべての価値になるとは思えないのである。
やはりその人がどういう人生を送ったのかまた語るべきものがあるのかそれが問題になる。ただ芸術家などだったら何らか作品を残しそれでその人の価値も生まれる。でも別にそれが金になるとは限らない。芭蕉は奥の細道を書いたからといってそれで金になったかとなればない。でもその価値は400年でも過ぎても依然としてその価値は衰えないし価値が増しているのである。だから人生は短し芸術は長しなっていたのである。でもそれもごく一部の人せりあとは消えているのである。

いずれにしろ人間は最後に何を残すのか。骨を残すのか灰を残すのかそれも土となって消えた。 5人くらいは土に埋められて一つは骨も残らず灰になっていた。土になっていたので誰のものかもわからなくなっていた。だから人間というのは骨とか灰を残してもそれが誰のものなのかもわからなくなる。その人の人生がどういうものであったのかそれが最後に問われるのである。私の兄はこうしてただ灰になり土になり誰の物だかも分からなくなっていた。それで私は私の墓に隣に小さな墓を作作って供養している。そこには骨も何も埋まっていないのである。

だから骨とか灰は海にまけとか木の下にまけとかとかでも構わないとなる。ただ墓が必要なの何かドラマで常にその墓の前で死者と語り懺悔する人がいる。そして墓に向かってはお詫びしたりする。だからそこには墓の効用があるとなる。もし海にまいたりにしたりすると誰の墓だか誰の者だかわからなくなるからその人に向かって死んだ人に向かって懺悔したり語りかけることができなくなるからである。だから墓がいらないということではない。
墓もそれなりの人間として効用があるものだったのである。ただ墓もも儚くついには誰もお参りするもなく墓の墓場となってしまったのも無常だということである。人間は無常から逃れることができないのである。

また彼岸が来る。お盆から彼岸は近い。お盆とか彼岸はやはり死者を思い出し供養するということに意義がある。ただいまや墓も維持する跡継ぎもなくなり維持できなくなっている。だから墓じまいとかになり。それでは墓にに金をかけるべきではなかった後悔している。なぜなら跡継ぎがいないのだからは卒塔婆のように簡単なものでもよかったのである。立派なものにしてもその後継ぐ人がいないのだから無駄だとなっていたのである。

2023年09月02日

老人の健康格差が大きい (73才でも90才にも見え九三才でも70才に見える)


老人の健康格差が大きい

(73才でも90才にも見え九三才でも70才に見える)

老人の一番大きな格差は健康である。病院に行ったら隣にいた人が93歳の女性だったということに驚いた。とてもそんな風には見えない。まず70代にしか見えないホテル病院に来たのはただ血圧が上がっているからそれで来ただけである。他は健康なのである。顔を見てもつやがよくとても93歳には見えないのである。

私の知っている73歳の女性は病気になりボロボロになっているのである。脳梗塞になりそこから糖尿病も併発している。見た感じでもその人は93歳でもうおかしくない。となると20歳の差があっても実年齢は違っている。つまり同じ老人でも20歳の年の差があっても20歳の上の人が73歳の人より健康に見えるし歳でもそうです。これだけ老人にとって病気の影響が大きく健康でなくなるとそれだけの差が出てくるのである。

だから60以上70以上になると健康が一番大事になるので健康を失うといくら金を持っていてももうそれでいいことはなくなる。その人は自転車に乗っていたが自転車にも乗れない。また車を持っていた人でも車に戻れなくなっている。歩くことすらままならないのである。こうなるといくら金を持っていてもどうにもならないのである。だから健康格差がありその差も老人になると大きいのである。今の老人はどうしても長生きはする。でも健康でないと長生きしても幸福にはなれない。歩くこともままならないもちろん車にも乗れないそうなると生きがいもなくなってしまう。

いくら90歳まで生きるとしてもその間に病気になってただ病気と戦うことが生きることになったらつまらないとなる。一番いい死に方は近くの自転車屋のことを語ったが3日前まで普通に仕事していたのである。その後にすぐ死んでしまったのである。ただ十年位ガンであり病気を持っていても普通に仕事していたのだからその人は死ぬまで生きがいを持って働いていたのである。

こういう死に方が理想的だと思う。 90歳まで医者をしていてその人も1週間くらいなのかパタパタと死んでしまった人もいる。つまり90歳までも一緒に医者の仕事をして仕事しながら死んだという感覚になる。だから老人にとって意外と仕事するということが生きがいになり大事なのである。ただ肉体労働になると老人にとってはきついとなる。自転車屋の仕事も肉体労働にもなるわ比較的軽いから病気でも継続できたのである。

ともかく長生きの時代である。でもそこで健康格差がある。その差があまりにも大きすぎるのである。もちろん金をってるか持ってないかの差もある。それも大きいとしても一番の老人の格差は健康格差なのである。 93歳でも70くらいにしか見えない人もいる。でも70歳くらいでもすでに見た感じから90歳のようにもなっている人までいる。だから60過ぎたりするともう年齢ではない。年齢で判断できないのではい。どうみても70代の人でもその人はすでに80代以上でありもう90にもみえる。。それだけの差があり健康が大事になるかわかる。

だからどうして60以上になったら健康であるかどうかが大きな問題になるのである。健康は人によって違うし生来の素質もあるがやはり健康でも積み重ねた生活がその人に影響しているかもしれない。どんなに体力があっても若い時から不摂生しているとそれが老人になってから影響する。私は早い時期に酒とかタバコとかはやめた。その70歳でも90歳にもなったように見える人はタバコを続けていたのである。それはタバコは血管に良いものではなかったのである。だから脳梗塞になったのである。ただ糖尿病とかはやはり遺伝的なものはありそれはどうにもならないものかもしれない。でも積み重ねた生活が必ずやはり老人になると体にあらわれるのかもしれない。

老人になるとやはり人生の結果が否応なく現れるのである。それぞれに何か積み重ねたものがありそれはいい面と悪い面にもあり悪い面になると必ず老人になるとその結果が表れる。若いときはその怖さがわからないのである。からないからこそ無鉄砲になり不摂生にもなりやりたい放題にもなる。それは青春の特権だともなるから余計にそうなる。でもあまりにもやりたい放題になり欲の赴くままに節制しないとそこで失うものがある。たいがい若い時の不摂生がのちのち後悔の種となるのもそうである

とにかく人間は一朝一夕にはならない普通の人であれば積み重ねが大事なのである。それは知的な面でもそうだしも体の面にもある。何か自分は自転車に乗って運動していたのは良かったのかもしれない。やはり運動も大事だったのである。運動も習慣的にしていれば血流も良くなり頭も働くからである。
だから車というのは便利でも体にはあまり良くないかもしれない。とにかく人間は何か良いことでも悪いことでもそれまでの積み重ねの結果が出てくる。若い時でもただ放埓に過ごしていればその青春時代でもあっという間に過ぎてしまう。ただ過ぎてしまうならいいな必ず後で後悔するのである。

また習慣が人間を作るという時もそうである。やはりなんでも勉強でも習慣的にする。運動でも習慣的にする。するとそれが頭にも身体にも影響するのである。だからなんでも人間は一朝一夕になるということはないのである。
ただ人間には一発勝負というものはありそこで運命を決することもある。でも一般的には人間は積み重ねの結果として何をかになるのである。だから習慣的に怠らず努めるということが大事になってくるのである。

2023年08月03日

成仏するとはどいうことなのかーお盆に死者が帰ってくる (その人がどう生きたの方が大事)

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成仏するとはどいうことなのかーお盆に死者が帰ってくる

(その人がどう生きたの方が大事)

●成仏しなかった非業の死

私の父親違いの兄は交通事故で40歳で死んだ。私の家は兄をよくしなかった。母は後妻に来たからである。五年間は一緒にいたのである。その五年間は貴重だったのである。なぜならもしそうして一緒に生活しなかったら兄という言う感覚も持てなかったかrである。
兄の前の兄の実の父親は東京で会社の事故で死んだので。そしてまた兄も交通事故で死んだのである。これはカルマなのかどうかわからない。ただ、そのことは私自身に深く関係していたのである。だからそれを単なる他人事とはおもえないのである。

成仏することに非常にこだわる人がいる。創価とか仏教関係では成仏しないかするかが一番問題にしているのである。そのことで信心のことが決められているのである。ただ、カルト教団の言ってることは正直宗教とは何の関係もない。デタラメなのである。第一宗教などを求めている人なんて一人もいないからである。そこに欲が何でも叶えられとしてとして入ってきている人たちである。ただ、何か知らないが異常に成仏にこだわっているのである。

成仏を考えるとき死んだ姿ではない。成仏とは何か?それは死んだ姿とか、どんなふうにして死ぬとかとかでもない。その人の一生がその人なりに全うされたかである。その生き様の方が問題なのである。死んだ姿とかにこだわってもそれで成仏するともならない。
成仏するとはその人がその人なりにその一生を全うすることにある。その人がどういう風に生きたかが問題であり、死ぬ姿を見てもわからないのである。つまり成仏するとはその死ぬ有様ではない。その人がどういう風に生きたかによって決まるのである。何かよく言われように俺は社畜なんだよなとか言って一生を終わればその人はその一生を全うしたのか?しない。すると死ぬ時どうなるのか成仏はしないとなる。

●その人がどんな人生を生きたかが問題

とにかくカルト教団などに生きている人間はみんなロボットであり教祖のコピーとなって何らその人なりの人生など生きていないのである。だから、その人生には実際は価値はない。もちろん、その団体の中では価値あるとされるが、いずれ団体も組織も消えてしまうからである。その組織団体が消えた時、その価値も消失するのである。会社で会社から退職した時その会社での役職があっても退職すればなくなる。するとその人の価値はなくなる。だから退職するとその人の価値がなくなるのであり生きがいもなくなってしまうのである。

何故ならその人はあの価値は会社があっての価値であり。その人自体の価値というのは追求されていないからである。ただ、会社で働けばやはり何かその人なりの価値として残るものはある。でもその人が地域で何か働くことができて認められるということは?難しい。村社会のようなところだったら村という世界が農村社会だったら継続される。
だからそこで死んでもご先祖様となって、その村に生き続けていたのである。そしてお盆には死者が帰ってきて村の人たちとみんなで踊るということになっていた。それがお盆の起源だとされている。死んだ死者を迎えて一緒に踊るものだったとなる。今はそんなことは全くない。そういう社会が消失したのだからそういう祭りとかも消失するのである。時代によってその価値が失われたのである。

●40歳で交通事故で死んだ兄

兄の場合はどうしてもその生を全うされたとはならない。そこに何か無念が怨念が残っている。墓を作ったの自分の家のそばに自分の墓の傍に墓を作ったのだがお盆には墓参りするのだがその娘が一人いてもその人は兄を思う心もなくなっていた。なぜなら夫婦でもめて離婚して娘がそのために父が交通事故で死んでひどい目にあったからである。それは静岡の方であり連絡は取り合っていたが、何が起きたかその時からなかった。近くにいれば何か事情も分かって援助することもあったが、できなかったのである。それで妻の方の実家に頼ったのだがそこでもよくされなくて高校出てからすぐに東京に出たのである。。だから実際あったのは子供の時一回しかその娘と会っていない。でも母が死んだときは何回か来ていたのである。ただ、それも何か遺産があるかどうかでお金のことで。来ていただけである。だからその縁も切れたのである。

確かなことは兄の霊は成仏していない。

それはその死に様のことではなく、生き様のことなのである。十分にその生を全うすることができなかった。親としてもできなかった。それを全部私の家のせいだともならない。なぜならその当時中卒で集団就職した人は大勢いたからである。ただそう、その苦労は私よりずっとあった。だから私は後ろめたいものを常に感じてきたのである。でもすべてが私また私の家にあったのかというとまたそれもわからない。あったことはあったが、全てが私の家にの責任なのかどうかは?わからない。なぜなら結婚して離婚したという時、それもそれは私の家の責任とも言えないからである。苦労したということがあり。それで負い目を感じていたのである。

●成仏するにはその人の生きざまの方が大事

ともかく成仏するというときその人がその人なりに充分に生きれば成仏する。何か自分なりに生きない、強制されて生きる。例えば医者に向かなくても医者にされたとか色々親に強制されたり親ガチャで苦しんだりする。そして自分自身の一生をただ強制されて終わるという時、その人は成仏しないともなる。そう見れば人間の一生がその人なりに充分に個性を発揮して生きたという人は稀になるかもしれない。何か常に社会であり。家であれ強制されるからである。

まず貧乏だったら食うことが大事であり。自分なりの何か才能でも伸ばすことは不可能である。そうなると自分なりの生きられなかったということで死ねば成仏はしないとなる。それは成仏の姿ではなく一生をどういうふうに生きたかである。まずカルト教団などはまったくの奴隷でありロボットでありその人なりに生きている人は一人もいない。同じ制服を着て同じ事を語っている。そして教祖の命令のままに偶像崇拝となり決して成仏はしない。だから成仏などにこだわるのはバカらしいとなる。その前にロボットの人生とか生きたとしても成仏しないのである。

私の母親は確かに100歳まで生きたがその死んだ姿も何か笑っているようで姿から見れば本当に成仏していた。ここに苦しい表情もない。私にはいつも楽に死ねたらなと言っていた。それは叶えられた。でも母親が本当に母としてまた女性として人間として充分に生きられなかった。常に働くことを強制されて働くことしかなかった。花を買うより庭に花を植えるよりそんなものいらないとして怒っていたのである。つまり花に価値を見なかったのである。これも寂しい人生であった。ただ、それは大正生まれでただ働かされるだけだからそうなったのである。

だから、また母も人間として女性として充分にその生を全うしたとはならない。もっと花に興味を持ったり何かただ働くだけだの人生でなければよかった。そうして人間とは最後に問われるのはその生き様であり成仏の相ではないのである。もちろん成仏の相が悪いと何か確かに気分いいものではない。でも私の母親は?そうして充分に自分なりに人間として生きたということはない。でも成仏の相は良かったのである。

●怨霊となる死者

いずれにしろ不慮の死非業の死は成仏していない。だから何か墓参りするにしてもそもそも成仏していないから。心、苦しいものみなるある何か圧迫される感じになる。その人なりに一生をを生きていればそうはならない。不慮の死非業の死でありそのことが頭にあり、解消しないのである。

だから、そうして。非業の死を遂げた人とか事故で死んだとかいう人はその魂はこの世に未練を残しそしてまたまた呪いともなっているかもしれない。そのためにその呪いを恐れて死者をを祀り慰霊する。靖国神社が戦没者の慰霊のなっているのがそうである。そこには生きている人たちが何か後ろめたいことがあり死んだ人の霊を鎮めるためにそうなったともなる。私自身も兄については同じことを感じているのである。成仏していないからやはり心苦しいものとなってしまったのである。でも一旦死んだ人を引き戻すこともできないしどうにもならないことである。 

死者がお盆に帰ってくると言うけどやはりこうしてその人なりの一生を生きない人は非業の死を遂げた人は成仏していないし。その霊は死者が帰ってきても村の人と笑って盆踊りをするようなことはしにくい。 ただ、今は盆踊りでも村という共同体が消失しているからなかなかこのように御先祖様とはならない。つまり死者を供養するということはやはりその生活でも継続したものがあり。それで死者を供養するということになるそれが祭りにもなる。

今はそうして昔の村のように継続する共同体というものがなくなっている。 だからこそ家すら家の共同体すら消失して墓を守る人もいなくなり。墓じまいが問題になるのである。村に生活するということがなくなり広域社会になった時さらにグローバル社会になった時そういう時間の中で形成される共同体は消失したのである。そのとき死者もその村の中に御先祖として生き続けることもできなくなったのである。 
つまり現代は空間がグローバルに拡大した。でも時間軸で形成されたものが失われたのである。
ただ一方で死者ももうこの世に帰ってきてほしくない人も多い、人を苦しめた人もいるし死んでも恨んでいる人もいるからである。だから家族でなかったら死者でも帰って来て欲しいとかみんなならないのである。

●死者がお盆に帰ってくる―御先祖様になっていた死者

つまり今は死者が継続される場がない。すると死者はどうなるか?幽霊のようにさまよっているかもしれない。御先祖様になったときはそこで継続して生きて生きている。でもその場がなくなったとき死者はどこに行くのか?死者の魂は誰が鎮めるのか?何か成仏しない人の魂は他者に害を与えるということがあるかもしれない。何か非業の死を遂げた人の霊を鎮めるために神社を立てたりした。死者が怨霊となり呪いとなることを恐れたのである。兄の場合はそういうことを感じる。
死んだらみんな御先祖様となった迎えられるとも思いないのである。

でも私の姉と母も死んだがそこには感じないので。父親でもそうである。遺影はは笑っていて笑っていて何か依然として家族とあるような感じがする。だから何かそこに成仏してはしないとは思えない。でも実際、家族でも何か?成仏していない恨みを残して死ぬ人もまたいるのである。ある母親は娘に対して【ひどい娘だわ】と呪いの言葉を残して死んだ。その娘は本当にひどい娘だったので。母親はそれなりに愛して育てた?実の母親ではないにしろ実際はその人は母親になっていたからである。でも何かもめて母親が病気になったときも何の世話もしない捨てたも同じである。ただ、母親は白血病で呆気なく死んだのである後の葬式はしたとして葬式だけなら簡単だからである。介護となると、その娘、何もできない。

実の母親は五歳で家を出て行ってその娘を捨てたのでる。だから、その母親を母親と思っていな。ただ遺産があるので、それが欲しくて老人ホームに入れているだけなのである。第一、その実の母親は認知症であり何かわからなくなっているから悲惨である。
家族でも親子でも問題があるのは人間である。そこに確執があり、争いがあり親子であっても兄弟であっても何らか争いがある。平和が必ずしもない。それがが人間の現実なのである。平和がないというとき。戦争は無いというだけではない。そもそも家族すら平和がないのである。何らかの争いがあり、確執があり平和がないのである。それは私の家でも嫌というほど経験したのである。

ただ、私の家族の場合は生前は争いがあっても今は何か今は平和になっている。だか遺影は笑っているのである。でもそうでない家族もも親子も兄弟もこの世には結構多いのである。そもそもなぜ宗教は血縁を否定したのか?それの血縁でも愛し合うというだけでなく、必ず何らかの。揉め事があり争いがあり平和がないからである。それで仏教でもキリスト教でも血縁とか家を否定したこともその為だったのである。 

2023年07月23日

今の社会は年齢ではなく価値を評価される時代になっている


今の社会は年齢ではなく価値を評価される時代になっている



●年をとっても価値を認められない


これは言えるだろう。第一もう歳を取っているからといって老人になったからといってその人が価値ある人にはなれない。これだけ老人がいればただ年が上と言うだけで誰も尊敬などしない。価値も認めないのである。
老人が老人というだけであるというだけで尊敬される時代は終わった。そういう時代は第一長生きする人が少ない。すると長生きする人は何か生き字引のようになり貴重になった。それは老人が長生きすることが極めて少ないということからそうなったのである。もうこれだけ老人が多いとなると。老人というだけで歳だけでその人の価値は何も認められない。

ただ、老人はいろいろ経験してきて積み重ねたものが必ずある。それが老人になると生きてくるのである。だから何か語るとき老人の語ることが価値あるものとな。若い人は経験してないから語ることがないのである。 だから若い人の話を聞いても、そこに価値を見出せない。

例えば。ユーチューブでおばあちゃんが料理の話をしている。それができたのは料理の経験を積んできたからできたのである。、近くで梅を漬ける人がうまい人がいるそれも経験であった。経験という時、特別なことでなすそうした日常のことでも料理のことでもやはり経験がないと教えることもできない。それが今ではユーチューブで教えてそれが人気となって収入さえあるとなる。経験は多様であり知識も多様だからである。だから今の時代、通信が発達してさまざまな情報が得られる。でもこうして情報が入らない時代は、その土地で長く生きた人が。その土地について知り抜いて教えることが必ずあったのである。

とにかく俺はお前より年が上だというだけで何か価値を認めてもらうことはない。そういう時代は終わったのである。 では何かその人の持っている価値とは何なのか?それがなければ老人で年取っているだけで何も認められないし尊敬もされない。 その人がどういう価値を作ってきたのか?それが問題になる、価値もいろいろ多様でありいろいろな分野がありそこで培ってきたものを教えることができる。農業でもそうだし大工などでも職人でもそうである。でもそこでスキルを磨き技を持たないものは尊敬されない価値が認められないのである。それで会社員になると退職するともしその価値が 会社にある時、組織にある時。その価値は消失する。そこで何か培うものがあれば。その個人の価値も認められでもそれがなければ退職すると用無しになってしまうのである。 

●会社や組織集団の価値は退職や集団の消滅でなくなる

つまり集団的価値というのはその集団を組織に従属するとき価値がある。でもそこから離れると個人となり集団組織としての価値がなくなる。企業に勤めていればその名前でその人が価値あるとまでなる。部長とか課長とかの位でも会社であは価値がある
その時、その人の個人が何をしてきたかは分からないのである。でも会社を退職するとき。その組織会社組織で培ったものがスキルが生きることもある。でもただその会社組織で地位があったからといってそれが今度は退職したら通用しなくなるのである。俺は会社で偉かったと言っても嫌がられるだけになる。

カルト教団などもその教団に組織に従属しているときはそこで価値がある。でもそういう団体組織もいずれは。消失してしまうのである。 極端な話がある国家があり民族がありその一員と言うだけで価値あるとはならない。これだけグローバル化すればただ日本人というだけで誰も価値などを認めないのである。だからあなたのプロフェッショナルは何ですかと問われた。その職業からその人をグローバル化するとみるのである。

例えば写真を追求している人は多い。でもこれもしてみると面倒なものだと思った。レンズの種類と数が多すぎるのである。それで何を買っていいかも分からない。そのレンズも。10万円以上とか高いので。80万ものレンズを使っていた人もいた。そんな高いのかと驚いた。でも写真を追求すると、そうしたレンズが必要になってくるので。そこで写真の技術も磨かれてプロoにもなりうる。それはかなり積み重ねが必要でありレンズを買ったり、いいカメラを買ったりと投資が必要になってくる。それが老人になってやはりそのスキルとか積み重ねたものが習得した技術は生きてくる。

そういうものは価値としてわかりやすい。それは芸術だとその作品からその人の価値をみたりするからである。また学者だったら論文を出したりしてその人を見て価値を判断する。そういうのは分かり易いのであ。でも人間の価値は多様であり。別にそうした特別な芸術でなくても、やはりいろいろな価値があり。それがやはり積み重ねていくと老人になって教えるものがあるとなる。とにかく人間というのは成長に時間がかかるのである。それは知識の習得でもそうだった。やっぱこれも外国を知るには。本を読んでいただけでわ分からないからである。すると実地に外国わ見聞してそれでを理解を深める。それでも外国となると理解するとき、相当に時間がかかるのである。

●その人なりの価値を作り出すのには長寿は有利

何かを会得するとか、深く理解するのは自然でもなんでも相当な時間がかかる。それで私は何か理解することが遅く60過ぎとか70過ぎになってやっと本に書いてあるものを理解しているのである。だから高齢化社会というのは、そういう点では有利である。たいして才能はなくても時間があれば積み重ねがあれば天才でなくても一芸に秀でることができるのである。そういう高齢化社会はそうして個人の価値を長い時間かけて作っていくということはできる。それは別に天才でなくても対して才能がなくてもやはり時間があると積み重ねがあると理解できるようになってくるのであ。 

だから高齢化社会は退職してからも30年とか生きるとなれば今までのような考え方では通用しない。個性をいかす見出すか表現できるかが大事になる。その人なりの価値を長い時間かけて作り出すということである。それは別に天才でなくても長い時間をかけるとできることがあるからだ。もちろん絵の才能わなければできないところがイメージクリエーターで全く絵の才能がない自分が絵を作ってるというのも不思議のである。それもやはり時代の進歩でできるようになったのである。 

これからは年をとっただけでわ何の価値も認められない。
これだけは確かである。その人なりの価値をつくっていく
それが大事になってくるそれでみんなが一様に学び行動する組織的な学校という場は時代にそぐわなくなっているかもしれない。そこでは創造性が育たないからである。学校という形式はおそらく明治になって大量の人間を組織的集団的に教育するために作られた。だから一律的であり軍隊的でありそこで何か創造性が身につくことはなかったのである。それもまた時代が変わり、価値観が変わり変革が求められているのである。

ともかく年が取ったからといって歳の差でその人を見る時代は終わった。その人がどんな経験をしてきて、どんな価値を創り出してきたかがその。人を図るものとなる。年齢を見ても分からないのである。ただ価値というのはあまりにも多様であり その価値を測ることが難しいのである。
最近。世界史に関する本を一冊買った。これも色々と難しい。でもその本の価値がどこにあるのかを知ることはかなりの洞察がないと識見がないとできない。芸術となると鑑賞すること自体が難しいのである。

でも本当の芸術作品となると芭蕉の俳句のようにそれは時間を超えて時代を超えて依然として生きている。価値が減っていかないのである。それは今ではそういう俳句でも作れなくなっているからである。時代の雰囲気から作られたものであり。今のような喧騒の時代はとても作れないのであ。だから芸術というのはその時代でしか作れないものはあり。そこに価値が。その価値は減ることがないのである。だから。芸術は長いが人生は短いとなる。なしとなるのである。他の物の価値は常に変わるからである。

人間というのは何かというと常に誰でも価値を求めている。その人なりの価値を評価されたいのである。俺は何何が出来る俺は何何が知っているとか人よりなにか優れていることを常に自慢したいマウントしてくるのである。それが人間の一番の特徴かもしれない。でもその価値は多様であり簡単には。その人が価値がないとは言えないのでは?だからこそ。平等に見るということがある。この老人は価値がないとして生きる価値がないとして捨てた方がいいとはならないのである。それはなぜかというと価値が多様化だからである。
社会的に価値がなくても家族の中では価値があり功績があった人もあるからである。それで病院だと家とか家族で作られた価値が見えない、ただのやっかいな老人の病人に過ぎないとなる。だから家で死にたいとなる。

●個々人の価値を作る時代に

とにかく個々人の価値を見るということは難しいのである。だからこそ病院だったら病気だったら誰であれ治療する他はないのである。もうこの人は何の価値もないから死んだ方が良いと言うと言えないのである。でもこんなに老人が多くなると。早く死んでくれとか集団自殺しろとかなってしまうのである。 その大きなな問題は老人でもプラスの面があるが病気になったり介護になったり、そして金がかかったりとマイナスの面が大きいからである。そして個人を見ても本当に価値ある老人価値を作り出した老人がいるのかとなるとそれはまれになるかもしれない。老人が少ない時代は少ないということでまれだということでそれだけで価値があったからである。現代の老人は老人というだけではだれも尊敬しないし、価値も認めない。あまりにも数が多すぎるからである。

 だからこれから生きる人はなにか老人になっても価値が見出される人にならないともう死んでくれとなってしまうのである。こういう時代になったことを意識して、若い時から勤める必要がある。でも若い時から老人は老人になるまでは。そこに継続したものがあり突然老人になるわけではない。若い時からしてきたことを経験してきたことを積み重ねてきたものが老人になって生きてくるのである。だから高齢化社会長生きすることはそうして個々人の価値を見出すということ、作り出すということでは有利な社会なのである。

サーバントリーダーシップとは、アメリカのロバート・グリーンリーフ博士が提唱したリーダーシップ哲学であり、
『リーダーはまず相手に奉仕してその後相手を導くものである』という考えに基づくものです。
サーバントは『使用人』や『召使い』という意味です

これは興味深いことである。 老人だから偉いとか価値あるとはならない、そういう人はただ威張るだけではない。何かを与えるものがありそれでかえって相手に与えることによって仕えることによってその価値を認めてもらう。でもそれで威張るということではない。でもそうするにしても何か与えるものがない限りできない。仕えることもできない。梅を作るにしてもその経験がないとできない。梅の漬け方もいろいろあるからである。

だから昔はお袋の味とかその家独自のものが何か伝えられたものがあり家風などがありそれぞれの家に価値があった。家にも個性があったとなる。つまり、家にもそれぞれの価値があったともなるのである。そう。でも今になると家というのは何か?みんな同じようになって、型にはまって核家族になってそして家自体に価値ある家というのは京都のような伝統を伝える職業。茶道とか花道とか何か習い事などの伝える家くらいになったのである。

もろもろの価値の根源は人間である。人間は己を維持するために。それらの価値を諸事物にに付与したのである。
人間が元で、それが諸事物に意義を人間的意義を創り与えたのだ。それゆえに彼自らを人間すなわち評価する者と呼ぶのである。(ツアストラーニーチェ)


2023年05月27日

人間が最後に欲しいものは何か それは健康である―金で健康は買えなくなる


人間が最後に欲しいものは何か

それは健康である―金で健康は買えなくなる


人間は生まれたとき手を握りしめている。何かを握ろうとしている。何かをその手で握りしめ得ようとしている
死んだら手を開け放つ、何か得ようとしてしないで開け放つという、とにかく人間は何かを得ようとして握りしめようとして生まれてくる
でも死ぬときはただ何か得ようとするのではなく開け放ち死んでゆく

人間がこの世に生まれることは何かを得るためである。その得ようとするものはいろいろある。人間の欲望は限りないからである

しかし最後に人間は得たいものは何なのか?

最近でも回りに老人だけが増えてくる、それも病人が多いのである。その中には金もない老人もいる、そのため医者通いであり必ずレントゲン写真とかとると何万とかかかる、その医療費が余りに増大するので負担になり極端になると老人は集団自殺しろとかなる。それはその負担が下に若い人の世代もふたんすることになるからである。

そして問題なのはいくら治療しても老人の場合直らないということもある。延命はできても老化が病気に関係しているから直らないのである。ただ死ぬまでに相当な治療費がかかるのである
でも病気そのものは直らないのである。そこに老人の場合絶望がある。要するに死ぬまでの期間を長くすることはできる。でも全快する、完治することはないのである。その間に相当な治療費がかかるのである。その負担も大きいのである。

人間は何かを得ようとして手を握ろうとして生まれてくる。でも老人になり病気になり得たいものは何なのかーそれは健康だったとなる。その健康はいくら金を出しても得られないのである
その時最高の価値は健康になってしまうのである。
もう年で仕事ができなくて悔しいとか、病気になり歩くこともままならないとかそんな人ばかり増えてくる
子供は近所に一人二人くうらいしかいない、ただ増えてくるのは老人でありそれも病気になった老人なのである。

これが少子高齢化の現実なのである。老人にとって金があればいい、でももはや金で健康は得られないのである。あとは死ぬだけだとなる。その時この世に望みは希望はなくなる、ただ来世が神の国に行くことが望みとなるのである。
それでも余生があり人間は病気なっても生きていく、でも病気は多少回復しても死に向かっているのである。

そうなると人は今世に希望を託すことはできない、来世が神の国へゆくこと願う、何かを得たいと励んできた働いてきたでも今や老人になり病気になったら得られない、ただ今これまでしてきたことを語り自慢したり記憶したものに生きることになる
いずれにしろ百歳まで生きるとしてもその前にたいがい病気になる人が多いことが高齢化社会の問題なのである。

2023年05月05日

清涼飲料水は体に良くないー栄養を吸収するにも時間がかかる (人間は何をするにも時間がかかる、即製できない)


清涼飲料水は体に良くないー栄養を吸収するにも時間がかかる

(人間は何をするにも時間がかかる、即製できない)

食べ物が胃に入ると、炭水化物なら3時間、脂肪なら7時間ほどかけて消化されます。ドロドロになったものが腸に送られ、ゆっくりと体に吸収されるのです。ところが液体に消化は必要ありません。ジュースは胃を通り越して一気に腸に入ってしまいます。血糖値が急上昇し、血管の内皮が傷ついて、やがて血管が硬くなってしまいます。野菜や果物ジュースより清涼飲料水のほうがたくさんの糖質を含んでいますから、悪性度が高い

●栄養を取るにも時間がかかる

直感的に本能的に清涼飲料水は体に悪いことを感じる。清涼飲料水を飲むと返って運動した後に疲れるというのも分かる。
本来清涼飲料水には何か返って体を疲れさすものがある。疲れを取ろうとしてエネルギーを補給しようとしても返って疲れることになる。それは科学的にも証明される。ほとんど栄養はないのである。ただ汗をかくから塩分が不足するからポカリスエットなどは効果があるとなる。それはただ塩分を補給するというだけである。
後のジュース類とか炭酸飲料とかコーラでも返って体を疲れさせるものになる。

やはり栄養は生のものジュース類ではなく果物そのものを食べるのがいいのである。ジュース類では果物でもその栄養分をとることはできない。
ここで述べているように消化する時間が必要だったのである。
徐々にしか時間をかけてしか栄養分は取れない。即効的に栄養分を取ろうとすれば返って体に悪影響するのである。
ここで問題なのは人間は即効的にに体を健康にできない。
何をするにも時間がかかり時間を無視することはできない

現代文明の問題はこの時間を無視する時間を待てない即効的に効果があるのを求める。でもここで述べているように人間の体でもやはり時間をかけて食べ物の栄養分を吸収する
それが植物でもあらゆるものでもそうである。どうしても植物が育つには時間がかかる。種蒔いたらすぐに育ち食べられるわけではない。必ずそこには時間がかかる。それではつか20大根とか40日大根とかが生まれた。それだけ必ず成長するにわ時間がかかるからである。その時間だけは短縮することができないのである。
野菜とか果物とかでもそうだが木とかなると成長するのに50年とかかかるのである。その長さはあまりに長いのでとても一人の人間の一生でその木が成長して木材として利用することはできなくなる。次の代の人がその成長した木を利用することになる。。つまり一代では利用できないのである。

●自然を相手にするには時間がかかる

自然を相手にするということはそれだけ時間がかかるということである。即製的には何もでもできないのである。それが本来自然を相手にする仕事であった。
ただ空間的には距離は交通の発達で狭められた。外国でも飛行機があればその空間は縮められたのである。でもどうしても時間だけは縮めることができない。徐々にしか栄養は体に吸収されない。野菜でもやはり成長するにわ栄養を徐々に吸収して大きくなる。その時間を縮めることはできないのである。
そこにいくら科学技術が蚊が発達しても限界を感じる

空間は交通が発達して縮めることができた。でも時間を縮めて成長さすことはできない。何か一つの分野でも極めることは相当に時間がかかる。何か習得するにも時間がかかる。
この時間は空間を縮めるようにはできない。時間の交換は空間はある程度縮めることができたが時間はできない。
木は一気に成長したりしない。徐々に徐々に栄養分を取り成長してゆく、それを早めることはできない、人間も自然にリズムにさからうことできない。いくら科学技術が発達してもできない。
そこに人間の科学技術でも限界があるのである。

●人間も成長するには時間がかかるー高齢化社会のいい点

それは人間でも同じであり人間というのは成長するにも何かを習得するにも時間がかかるものである。何かを即座に覚えることは上達することはできない。ただ学び方で上達が早くなることはある。でも基本的に人間は何でも促成できない。
やはり人間は特別時間をかけて成長するものである。なぜなら動物は生まれてすぐ歩いたりして本能的に行動して生きることができる。人間はとにかく成長するにも何かを習得するにも時間がかかるのである。もちろん天才的な人はさほど時間をかけなくても会得する。でも一般的にはどうしても時間がかけないと成長しないのである。
つまり自然のリズムは人間より百年単位とか千年単位とか億年単位とかで図る。図るそれだけ時間の感覚が大きいのである。
その自然のリズムに人間はとても合わせられない。それで津波でも400年前に巨大な津波があった。でもそれもこの辺でわ全く忘れられていたのである。

ともかく高齢化というのはマイナス面だけが語られるは人間の成長がこのように動物より時間がかかるという時百歳まで生きるということは健康で生きるということは人間を成長させる。
人間は成長することをやまない。肉体は衰えても精神的には成長することがある。脳の成長は病むことないかもしれない。時間の中で脳も作られてゆく、細胞と細胞が結びついて時間の中でその人なりのものが結晶してつくられてゆく。
だから人間は長生きすることは悪いことではない。
ただ長生きの問題で延命治療とかもう健康に生きられない状態で長く生きることが問題になる。別に健康なら長生きすることが悪いとは思えない。それだけ長生きすれば人間は成長するからである。
知識の量も増大して知恵もまして人間は成長する。ただ長生きがマイナスになるのはそうして成長しない人なのである。
ただ迷惑をかけるばかりでその人なりの成長を遂げ無い人が問題なのである。そういう人が多ければ当然高齢化社会は良いものとならないし若い人から見れば高齢者とはただお荷物になっているマイナスのものとしか見れなくなるのである

2023年04月25日

家との格闘がつづく―断捨離は不可欠 (家は物理、化学、地質学ー文系的には歴史、心とも関係)


家との格闘がつづく―断捨離は不可欠

(家は物理、化学、地質学ー文系的には歴史、心とも関係)

●家は総合的学問の対象

親が介護になってその後死んでそれから一人で家のことをなんでもやるようになって家との格闘は続いた。
家というのは家自体が建築物でありそれを客観的に見れば理系から見れば物理学であり化学であり地質学でもある。
なぜなら大地震で2回も家が損傷した。家の構造が物理学であり耐震設計も物理が関係している。
それから地質学も関係している。それぞれの家が建っている場所がもともとどういう場所だったのか知る必要がある。
そこがもともと沼だったり湿地帯だったりするとその地盤は軟弱になる。私の家は街の中で一番低い場所にある。そのために2回も床上浸水になり苦しんだ。

今でも二年前なのか下水から水が溢れて家の中に入り被害があった。それは低い場所だから水が流れ込んでくるのである。水というのは低い場所に流れ集まる。それも科学の法則である。
津波でも低い場所に海の水は流れこんだ。日頃はそうした土地の高低をにしないが一旦水害とかになるとその土地の高低明確に現れるのである。
化学というのも関係ないようで関係ある
家というのは湿気がこもったりするから乾燥するとか壁でも今は化学薬品を使っていてそれを簡単に捨てられないという
それは遠い島に捨てるほかないと言う。これは化学の問題なのである。
こうして物理学。化学。地質学など理系的なものも基礎的に関係している。基本的には家を物質的なものとしてみれば理系的なものが関係している。

●文系的にみる家(家族の歴史など)

でも文系的なものも実は家に関係している。そのことを親が家族がみんな死んで語ってきた。家には長い間家族が共に暮らしたから死んでも簡単に消えるということはない。
家には死者が死者の霊が取り憑いているという感覚にもなる。
ものが憑くということはものというのは理系的なものとして物質としてだけあるのではない。仏教的考えでは色心不二があり色はものであり物と心は一体だということを示している。
家はただ物体としてあるのではない。そこに人間が長く暮らしたことでものに憑く心がそこに入り人間化しているものにもなる。
だから廃墟化した家には幽霊が住み着いているという感覚になる。

ともかく家にはただものとしてだけでなくその土地であれ家族であれ営みがあり歴史が作られたのである。
必ずそれぞれの家には物語があり歴史がある。そのことを私は二代目であっても父のこととか母のことで語ってきたのである。
なぜこの土地に私の家がたったのか建てられたのかそのことを語ってきた。それは私の父親は葛尾村から今の双葉町の新山の酒屋がありそこに丁稚奉公していた。
それから暖簾分けしてこの地に店を構えて酒屋をしていたのである。そこでこの土地を買いここに定着したのである。
こういうことはどこでもある。農家のように代々定着しているとは限らないからである。
ただ歴史的に古い家がある。この辺では只野氏がそうである。。それは南北朝に由来して霊山から落ち延びた子孫なのである。その一族がこの辺りに住んで子孫を増やしたからである。
こうして一つの土地でもそれだけ古くから代々住んでいる人がいるのである。でも他から移住した人もまた多い。特に相馬藩でわ越中からなどの移民が1/3くらい天明の飢饉などのために移住してきたのである。それが相馬藩の大きな特徴でもある。

●整理整頓して断捨離して快適になる―本は整理しにくい

ともかく家というものにはさまざまな要素があり学ぶものがある。それは総合的な学問の対象でもある。そのことは小さな郷土でも地域でもあれそこは複雑に歴史もあり地質学的にも違った場所であり学問の対象となる。学校では教科書だけが問題になり現実に生きている家とか郷土とか故郷とか学問の基本としてあることを知るべきだとなる。
そういうことは返って農家の出身だとおのずと身をもって知ることになる。それは土地と一体化しているのが農家だからである。

でも今は田舎に住んでも農家は少ない。確かに田畑が囲んでいても現実農業を仕事にしている人は1割にも満たないのである。あとは会社員であり農業以外の仕事をしている人なのである。そのために田舎に住んでいてもその田舎のことを自然でも基本的に知らないということがある。
昔は家業というものはあり家と仕事は一体であった。・・・屋というのは会社名と同じだったのである。人は皆その何々屋に属して勤めていたとなる。
それが会社となると大きくなりなかなか理解しにくいものになったのである

ともかく家の整理整頓する。終活することにも通じていた。
いらないものを捨てる。なるべくものを減らして身軽になると快適になる。人間は無駄なものをあまりに多く持っている。
ものを減らすことによって何か身辺がさっぱりして気持ち良くなった。私はだらしないのでそれを第三者が入ってきて整理して掃除してくれたことで整理整頓はできた。断捨離できたとなる。
ただ本は散らかったままであり整理できない。捨てることも出来ない。それで一番困っている。本というのはなかなか読んでも理解できない。でも年をとると理解力が深まり難しい本でもわかることがある。つまり本を理解するということはそれだけの時間がかかるということにもなる。

だから人間が残すものは何かとなると確かに本というものお残せばその人のことを記憶する。不思議なのはこの年になると30年前頃に買った本を読むと実際はその著者は死んでいるのである。
ということは著者とは一度も会っていない。ただ本を通じてその人と逢っているということになる。
それは千年前の人であっても本が残っていればその本を通じてその人を知りその人と合っているとなる。なぜならそうして死んでしてしまった人とは会うこともないしたとえ現代に生きている人でも直接会えるということはなかなかないからである。そして人間は何を残すのかとなれば必殺の一冊の本なのかもしれないとなる。その本すら残せないのは大多数なのである。

●家の広さなど家の影響は大きい

とにかく家というのはさまざまな要素があり家から学ぶものは相当にある。人間と家であれその土地であれ一体化してアイデンティティ化する。でも市営住宅のような狭い場所だとそこは一軒の家でもないから何か存在感がないのである。
ただ家にしても最後は人は死ぬのだからどんなところに住んでも仮の宿ということには変わりはないかもしれない。
ただ八畳間の広い部屋に寝ると何か眠りやすいのである。今までは六畳間に住んでいたから圧迫されるような感覚になっていた。天井も低かったからである。
やはりこうして部屋の広さとかは精神に影響するのである。

日本人の家は狭すぎるのであるそのために茶室のようなものができた。そんな狭いところでお茶を飲み親密になる。それもまた日本の文化なのだがやはり広い家を持てないということでそうなったとも言える。
ともかく人間は環境が影響する環境の影響が大きいのである。
どんな場所に生きるのかどんな家族と生きるのかどんな家に住むのかどんな時代に生きるのかそういうことでその人の感覚まで影響してくる。広い家に広い部屋に住んでいれば心も広くなるともなる。狭い家に住んでいれば心も狭くなるともなる。
だから家の影響や家族の影響やその土地の影響は計り知れないほど大きいともなる。その環境が人間を作るとまでなるのである

2023年04月20日

大人になっても知的興味を持ち遊べる人に (退職者またはブルカラーの老後の生きがい喪失)


大人になっても知的興味を持ち遊べる人に

(退職者またはブルカラーの老後の生きがい喪失)

●退職すると生きがいを失う問題

精神科では、今まで仕事が生きがいだった人が、定年退職を迎え、何もすることがなくなり、アルコール依存症になったり、認知症になったりするケースは非常に多いです。仕事をリタイアしても、別のことを見つけて体や脳を使うことが大事です」

高齢化社会の問題はいろいろある。経済的に苦しいというのが一番の問題である。でもその他にどうして老後を過ごすのか
退職すると何かすることもなく生きがいを喪失する。
会社のように仲間もいなくなる。でも地域社会で何か認められるかというと認められない。昔のような村社会ではない。農民社会ではない。だから会社が一番のアイデンティティの場所だった
それから切り離されることは自分のアイデンティティーの場所を仲間でも失うことになる。そして60くらいで退職してもその先が長いのである。昔なら60代くらいで死んでいたから何をするかなど考える必要もなかった。その前に死んでいたからである。

つまり高齢化社会とは人生が会社人生であり仕事人生があるがもう一つ第3の人生がある。それは長い老後は生まれたと言う事である。その用意もされていないのである。
特に肉体系のブルーカラー系統は仕事を辞めるともののけの殻のようになってしまう。頭を使う活動をしてきていないからである。
だからといってその人が知的に劣っているとは思えない。なぜなら大工であり庭師である人はその方面で知識的に詳しいからである。ただ問題はその知識が確実に実用的なものであり金を稼ぐということと結びついている。
それで金にならないものはしない無駄だとなる。
その人は肉体労働者でもいろいろな知識を持っている。ただ違うのはそれは実用的なものであり金を稼げるものとしての知識なのである。だから金にならないものはやらないし無駄だとなる。

●スコーレ(学校ー暇)の意味を問う

でも高齢化社会で金の問題と同時にどうして余暇を充実して過ごすかということが結構大きな問題となっている。
ただその人は熟年離婚して意気消沈してしまった。何か常に妻と共にあり仕事もしていたしそれでこのような問題はお来ていなかった。話し相手もいたし共同する人もいたからである。
でも妻が死んだり離婚したりした人は近くでも一人でいられない。寂しいから話し相手になってくれと近くの親しい女性に毎日のように電話をしてくる。でもその女性は病気になったり金もくれないケチだとしてその男性の家にも行かなくなった。ただ不思議なのは電話のやり取りだけは依然としているのである。でもその男性の家に行くことはないのである。
金もないことも大問題だがこの老後の長い時間どう過ごすか充実して過ごせるのかとなる。
人間の問題としてもともと暇がありその時間をどういうふうに過ごすかは歴史的にもあった。ローマ帝国はパンとサーカスになった。大衆は暇を持て余してそうなったのである。
残酷な剣闘士の戦いも見世物になったのである。それは気晴らしであれ暇つぶしでもあった。スポーツの語源はそもそも気晴らしでもあったからである。

そしてなぜ学問が生まれたのか。学校という言葉がスクールはスコーレ(暇)の語源になっていることでもわかる
人間が労働ばかりするのではなく暇が生まれた時そこに学問も芸術でも生まれたとなる。学校とはスクールで暇な人がいかに暇を有効に利用することは学ぶ場だったとにもなったということにもなる。
でも今の学校はそういうものではない。実業の学校であり試験勉強のための学校であり暇を生かす学校になっていない。
そこでは常に競争に追われむしろ自由な暇な時間など持てないのである。ただ不思議なのは大学に入ると文系は特に遊びになっていたということがある。それで暇を持て余して何もすることがなく学生運動とか麻雀とかギャンブルに興じて大学を終わった人もいる。それも実は暇を有効に生かせないためにそうなったのである。大学四年間は自由時間でありまさにスコーレの時間だったのである。
遊ぶという時ギャンブルのようなものではなく自由な旅をしたりその人なりの知的探索をしたりとすることはあった。

●高齢化社会は若い時からの教育でも見直すべき

老後でもやはり再びスコーレの時間にが与えられたともなる。
遊びの時間が与えられたともなる。でもそれを有効に活かせない。しきりに私にどうしていいかなどと問われても答えられない。その人は仕事一筋に生きてきた人だからである。それは肉体労働系でわ知的探求というものをしていないから暇になってどうしていいか分からなくなっているとなる
でもその人が知的に劣っているとは言えない。これまでしてきた仕事には知識には詳しいしそれは実用的であり金を稼ぐ者として身につけてきたのである。
でもそこに足りないものはスコーレどうしてまだ遊びとして生きることができないことである。子供ならその全体が利益を得るためでなく遊びとしてあるあった。でも大人になれば常に利益が優先され金から一瞬たりとも離れられないとまでなっている。金にならないことは無用なことであり無駄なことであり価値のないことでありそんなことをしても何になるのかとなる

しかし老後に必要なのは逆にこのスコーレをいかに生かすかまたは遊びをすることが大事になる。遊びには趣味もある。趣味でもカメラなどまいからやってる人は老後でも継続するから充実した時間を過ごせるとなる
とにかく高齢化社会の問題に対処することはうまく出来ていない。その理由は人間というものをただ働くこと金を稼ぐことそのことばかりに価値を置きすぎたためでもある
もっとスコーレを活かす遊びを生かす人生を価値あるものとすべきともなる。ただこれを受け入れることは簡単にはできない。遊んで暮らせるのかとかなり反発されるからである
そんな余裕もないという老人も多い。でもまたやはりスコーレを持て余す老人も多いのである。遊びとは遊ばせれとるとか神聖なものとしてもともとあった。遊びに金が絡んだり利益が絡むと本来の遊ぶこと聖なるもの遊びが汚されるて失われるのである。
チンパンジーが数遊びに熱中していたが褒美としてバナナをやったらそのバナナを得ることに関心が向けられ数遊びに熱中しなかったということもそうである。褒美のために遊びをするということは本来の目的が弱められるのである。

●生きがい喪失が認知症になる怖さ

私の家族で2人の女性を親とも言える人を見ていた。一人は公務員を退職してから何もする気がなくなった。怠け者になりテレビを見ているくらいだった。趣味のようなことをちょっとやっていたがそもそもそれは会っていないものだった。才能もなかったのである。ただ付き合いでしていたみたいである。
もう一人のの親はクソ真面目であり花などいらないといい豆を庭に植えるといっていた。これも異常でありその理由がやはり若い時から働き詰めであり何か金を稼ぐ以外のことを無駄なものとして育てられたためである。それには同情するがやはり人間として異常だったとも見る。
でも不思議なのはこうしては何も金を稼ぐとか働くこと以外関心もない女性が94歳頃まで台所で家事をしてきたそして百歳で死んだのである。95歳ころから認知症になった

もうひとりの親は83歳頃ひどい認知症になり死んだ。それは悲惨なことだった。その理由の一つが明らかに公務員を退職してから何もする気がなくなった。
それが大きな影響があったことは確かである。
家での生きがいもないただ漠然と呆然と生を伸ばしていただけだったのかもしれない。この2人の親の対照的に見るときいかに認知症というのはその原因がやはり家の中であれ役割を失い生きがいを失う時に起きてくるのかもしれない。
嫁が姑に何もしないでいいですからテレビでも見てくださいと言われるとボケてしまうというのも本当だと思う
一見優しいようでもそれは人間をボケさせる認知症にさせるものでもあった。人間には男性にしろ女性にしろやはり役割を持ち生きがいを持ち生きることが必要だからである

●大人になっても遊べる人になるべき

子供の時は遊ぶ仲間をさがしていた
そこに利益を求めない
ただ純粋に遊びたいだけ
大人になると人間関係にすべて金が介在する
金なしではなにも動かない
遊ぶことでも金が介在する
死ぬまで金から解放されない
それで純粋に子供のように遊びたい
でもそんな人はもういない
遊びとは無心だからできる
功利的なものはそこにない
子供は無邪気に満面笑い遊ぶ
その時幸せだった
その日はもうかえってこない、、、、

大人になっても遊ぶことはできる。遊行聖とか雲水とか自由な旅をした、風のように雲のように自由にいずことなく旅をする、そういうことに憧れる、一方で宗教でもひたすら真面目に働くことが奨励された。その方が一般的である。
キリスト教でも勤勉の宗教だからである。禅宗でも一日成さずば食わずとかありやはり人間はそもそも働かねば食料も得られないのだからそれが普通だとなる
遊ぶ人は反社会的存在になる。高度成長時代から働かなかった自分は反社会的存在だったとなる。
でも今なぜ遊ぶことが奨励され糞真面目に働く人がかえって拒否されるのも不思議である。アリとキリギリスがいて今キリギリスが良しとされるのも価値観が変わったからだとなる

高齢化社会は働くだけのアリより歌うキリギリスになれとしているのである。そこに価値観の逆転が生まれたのである。
自分のしてきたことは遊びだたともなる。理系だと実用に結び付くが文系は実用に結びつきにくいからそうなる。
でも文系的なものも人間には必要だということである。老後に特に文系的なものが必要になる、ただ文系的なものは実用とならず金になりにくいそれで価値が低くなっていたのである。
それも見直すべきでありスコーレの意味を知るべきだとなる。

2023年04月18日

なぜ栄える家があり栄えない家があるのか (家族に争いがあり離婚したり協力しないと栄えない)


なぜ栄える家があり栄えない家があるのか

(家族に争いがあり離婚したり協力しないと栄えない)

養子は家に外からエネルギーを持ってくるという役目を持っています。優れた商人は、養子の続いた家系から出ている例が多いといわれています

先祖の因縁が子に報う

なぜ栄える家があり栄えない家があるのか、それも謎である。
その家に必ずしも優秀な人がいて栄えるのか、養子の方が優秀だから跡継がせて栄えることはある。家が血縁から結ばれて栄えるとはならない、その家はなぜ栄えなかったのか?
その家の両親はまれにみるいい人であり正直でありとてもその子がふしだらな息子を生むなどまた育つことなど考えられない人だった。だから親のせいでも先祖のせいでもないとなる。

たた先祖がどういう人だったかはわからない、親をみればもともと栄えていい家だったのである。これも不可解でありわからない、間違いなく家が家族で争っていると栄えない、例え有能な人がいたとしても栄えない、これだけは確かである。
母の実家は後妻を迎えたりそれも妻が生きている時そうなった
それも病気だったからやむをえないという事情もあった。でも家族のまとまりはなくなった。原因は一つでないにしろ不和分裂の家でありそのことが子孫にも影響した、それでやはり子孫も不和分裂して付き合いも絶えた。墓はあったが長男が墓を守ってくれと数百万を残してめい子とかに残したが墓でも守れないでその跡は絶えるとなる。
家族でもどうしても離婚だとか争いがある家は栄えにくい、協力できないから栄えにくいとなる。

山形県の最上家は優秀な最上義光がいて興隆して57万石の大藩になった。でもその跡目争いで混乱して石高も数万とかになり衰退した。これも一族が不和分裂になったためである
こうして大きな藩でも争いがあると栄いないのである
徳川家が3百年も続いたのはやはり跡目争いがなく継続できたためだともなる。国でも不和分裂になれば栄えないことたしかである。明治維新でも国内が激しい内戦になったら外国人が入ってきてもとまらなくなりのっとられるとなった
比較的内戦でもそれほど大きくならずに治めたので国がまとまり日本は植民地にならずにすんだともなる。
確かなことは家であれ国であれ一致協力しないかぎり栄えることはない、ただ栄える条件にしても一つではない複合的理由がある
それは国でも家族でもそうである。犯罪でも一つの理由で起こることはない。

この辺で原発事故で衰退したけどそれまでは原発の恩恵で栄えたということもある。だから小高の呉服屋で大きな庭がありその手入れで一年で40万の仕事になっていたこと庭師の人に聞いたからである。
もしかしたら原発関係で金が入った人がいたからかもしれな、この辺でも漁業関係者が火力発電所で補償金が入り高価な着物が売れたと聞いたからである。それだけではない高度成長時代にはそういうことが全国的にあった時代だからである
でもその庭の手入れの仕事もなくなったという、それは持ち主が病気になって空家になったためである。
小高とかでは浪江とかでは原発で裕福になった人がいただろう。
それも街自体がゴーストタウンのようになったときその富は失われたのである。町全体が空家化して個々の家の価値もなくなってしまったのである。
こうして栄えた町でも一気に衰退してしまったのである。

国が栄えて地域が栄えて個々の家も家族も栄える、栄える原因はとても一個の家とか一個人では栄えることはできないのである。
いろいろな要因が重なって栄える家が生まれるからである。
私の庭に咲き続けている牡丹は不思議である、肥料もやらないのに水もたいしてやらないのに今年も二輪咲いたのである。この牡丹は二十数年なのか咲き続けている不思議がある
理由は乾燥していて水はけがいい土地を好むためなのかとなる。
土地にあったため咲き続けている。それは偶然でもあったとなる。

我が庭に咲き続けたる牡丹かななお栄えむと咲き続けなむ



2023年04月14日

人間は何らかで必ず生活習慣病になる (また生活習慣が人間をつくる老人になるとその結果は現れる)

人間は何らかで必ず生活習慣病になる
(また生活習慣が人間をつくる老人になるとその結果は現れる)

病気には生活習慣病の要素がある。常に使う筋肉は活性化して衰えないということがある。でも使わない筋肉は衰えてゆく。私が歩いて足が腫れたのはおそらく私は自転車には常に乗っていても歩いていないからである。自転車に乗って使う筋肉と歩いて使う筋肉は違っている。だから節々がいたんでいる。
それは歩いた結果として日ごろ使わない筋肉に負荷がかかりそうなった。前にも同じ症状が歩いて行って起きたからである。
自転車だと歩くように体全体の重力がかからない、だから楽に走れる。でも歩くことは重さが重力となり足をケガした人でも立つことが苦しいのである。それは体重が足にかかるためなもである。

とにかく人間は必ず生活習慣がありそのために偏ったものとなる。
一日デスクワークしている人はやはり偏ったものとなりどこかでその症状が現れてくる。
つまり人間はさまざまな仕事がありその仕事によっても偏ったものになる。職業病もそこから生まれてくる。
現在は仕事でも複雑化しているから何らか偏ってそのために病気に成人がえろ。それは避けられないのかもしれない。
ただ自分の場合は老化が関係している。今まで歩いてそんなことにならなかったからである。どこかで老化現象が出てきてそうなる。

それで寿命でも健康寿命があり男の場合75歳くらいでそうなる人が増える。団塊の世代が75歳になるということは老化現象が現れて介護になる人も多くなる。それも避けられないものとなり数が多いから社会を圧迫するのである。
介護社会になってもう国力自体が低下してゆく。高齢化社会ではとても他国が侵入してきても戦えない。何か老人と病人とそれから引きこもりとかニートが100万人もいるとかそういうことで国力自体が相当に低下している。ヤングケアラーでも増えている。孫が祖父母の介護をしている。それも経験ではあるが若いときの時間は貴重である。そこで経験を積まないと取り返しのつかないことになる。

ともかく歩くことをしていないからその歩くための筋肉が弱っていた。それでその筋肉もいたんでいる。だから人間にとって習慣になることは本当に影響が大きいのである。
何でも対して才能はなくても習慣的に勉強していればやはり知識も身についてくる。習慣が人間をつくる。その悪いものとして生活習慣病も生まれるとなる。
その生活習慣習慣病の危険は必ず60以上になると出てくる。
知っている人が脳梗塞になったのはタバコなど常に吸っていたからである。タバコは癌に関係しなくても血管に関係していたのである。

だから酒とかタバコでもそれが習慣になっていると必ず60以上になると何らかの病気が出てくる。
60以上はこれまで指摘してきたことの結果が現れる。それは体でもそうだし精神的にもそうなのである。人間はやはり積み重ねであり日日の生活の積み重ねが人間を作るのではある。
それを心がけないと60以上になって後悔するのである。

でもどうしても老化現象は避けられない。それを今回の旅で歩いて痛切に感じたのである。大した旅でもないのにこんなに体がいたんだということにがっかりしたのである。
老化は避けられないのでああ。そこに老人の悲しみがあり苦しみがありどうにもならないのである。そして若い時のことを思い出し元気な時の姿を思い出しがっかりするのである。でもそれも避けられない人間の運命なのである。どうしてもこうして体が弱い何かができなくなるのである。
だから意外と老人が常にこれまでしてきた経験を語るのは新しい経験をできないからである。体力的にもできなくなるからである。

それで自分の場合は旅したことを追想して詩を書いたりしているのである
つまり老人は過去の記憶に生きる。新しい経験をすることができなくなる。でも体が弱ってもこれまで経験してきたことを振り返り追想することはできるのである。
それが老人の生きがいにもなる。過去の記憶を蘇らせてまた別の視点で過去を見る。 経験を消化してそれを思想家するのに向いている。だから意外と老人になりその人なりの成果が現れてくる。
つまり老人になって実りがあるということである

2023年04月04日

熟年離婚で意気消沈する男性 (老人が無用化して迷惑老人となる深刻)


熟年離婚で意気消沈する男性

(老人が無用化して迷惑老人となる深刻)

●熟年離婚で失うもの

最初のうちは清々したと思っていても、今まで妻になんでもしてもらってきた男性というのは急に一人になることに対して心細くなり、もっと違う方法があったのではと後悔するということは珍しくありません。

その逆に裏切られたという気持ちを持つ男性も少なくなく、今まで散々家族を守るために身を削って働いてきたのにこの歳になっての離婚はひどすぎると落胆する人も多くいます。


この問題の前にそもそもなぜ離婚が多いのかということである。
そうして長年連れ添った妻と別れることが男性にとってどれだけ衝撃的なことなのかそういう人を見て理解する。
何か60歳以上で離婚した人を男性を見ていると意気消沈した感じになる。 60歳以上といっても65歳でくらいで離婚したのかもしれない。そんな年で長年連れ添った妻と離婚するということが結婚したことのない私には理解できない
ただなぜそもそも離婚がこんなに多いのだろうか

熟年離婚とは長い結婚生活ですでに協調できない何かがあり子どもが育ったとき我慢することがなく離婚に至る。
そういう人も女性の場合多いことがわかる。しかしなぜ長年一緒に暮らしていたのに離婚になるのか。それはかなりの損失である。なぜなら人間の生きる時間は限られている。だから60歳までも一緒に暮らす時間がありそれが失われてしまうことがどういうことなのか
人間にとって大事なことは時間なのである。何をするにしても時間がないとできない。だから何であれ人であれ何か学ぶことであれ体験することであれ時間が必要なのである。

だからその時間を結婚して60歳までも一緒に生活していた人が離婚するというときそのの長い時間を費やしたことが無駄になると思えるのである。
人間はあらゆることに時間を費やすことはできない。だから親子でも子供の時一緒に暮らさなければ親子の情も生まれないのである。成人しても子供が結婚して離れて暮らしたりしていると親子の情も薄れてゆくのである。
去る者は日日に疎しとなる
でも一体それだけの時間を共に暮らしていたのに60歳以上になり離婚になり別々に暮らすということがどういうことなのか理解しにくい。なぜなら人間はそうして長く生活を共にする人は本当に数人くらいしかいない。あとは束の間の出会いで通りすぎるように別れてゆくだけなのである。

●貴重な時間を何に誰と費やすのか

つまり人間は与えられた時間を何に費やすか大事になる。
またその時間を誰と共に過ごすのかそれも大きな問題である。なぜなら人間の与えられた時間は限られているからである。
Aと逢いBと逢いCと逢い、、、、となってもそれは会ったと言えるのだろうか、そもそも人間逢うということはどいうことなのか
あなたと逢いましたねまたすぐに別れましたねそして二度と逢わなくなりました、なぜなら死んだからもう逢えなくなったからです。あの人とあっていればよかった。死んで逢えなくなったからである。人間は逢うとうことは必ず別れることなのである。
どんなに長い時間を過ごしてもいずれは別れるのである。

だから人が会うにしてもそこに時間が費やされる。貴重な時間を会う人に対して使うのである。
結婚するというときそれは男女が出会い長く暮らすもである。。でも恋愛は一時的なものでありそれがいかに熱情的なものでもいずれは冷めるのである。
結婚はそうした一時的な熱情ではない。長い時間を貴重な時間を共に過ごすということである。だから誰とその貴重な時間を過ごすのかそれはこんなに大勢の人がいても一人なのである。
一人が選ばれるのである。たとえ離婚してまた結婚してとなってもその数はせいぜい二人くらいだおなる。。
実際は人間は男女でもある一人を選び結婚する。
また早いうちの離婚なら再婚してもせいぜい二人だと思う

●熟年離婚で男性は意気消沈

ともかく近くで知っている人は妻に死なれてから相当にショックを受けた。死んでも妻のことを思い続け供養を絶やさなかった。そして妻無き家に居ることが寂しくてたまらなかった。それは熟年離婚したわけではない。
でも最愛の妻と別れてその寂しさが耐えられないものであったのだ。男性の方が妻を失うことはか衝撃が大きい
やはり妻に支えられていたということがある。それは経済的なことではなく精神的なものでありそれが離婚したとき自覚され意識されるのである。

熟年離婚した人を見ていると男性の場合は意気消沈している。
おそらく男性は亭主関白だったのかもしれない。自分の言うことをつまり妻に従わせる。そういう結婚生活だったのかもしれない。それが離婚した結果従う相手もなく意気消沈してしまったのかもしれない。
その人は一人で居ることができない。常に誰かがそばにいて仲間がいることは日常的な生活だったからである。
離婚した結果どうしても家でも一人でありその一人に耐えられないのである。ただ仕事はできる人間なので仕事をしているときは生き生きしているのである。ただその仕事をするにしても支える妻がいなくなった時仕事が終えても自分で食事でも用意しなければならない。それはかなりの負担になったのである。
ただ熟年離婚は増えている。だからこうして一人男性が取り残される人も取り残される人も増えているのである

これは高齢化の問題でもある。たとえ60代で離婚してもその先がまだ長いからである。その長い時間を一人で生活しなければならないからである。

●ただ迷惑行為して生きる老女

こうして高齢化の問題はここにも現れている。他にも何かすることもなく生きがいもなくただ迷惑行為をするために生きているばあさんがいる。キラキラした金属のものをぶら下げてふ迷惑をわざわざ作って迷惑行為をするのがその女性はそうして迷惑をかけることが生きがいともなる、それも異常だとなる。
それで市営住宅の知っている老女はそのために目が悪くなるとまで言っている。
その迷惑ばあさんは何の為に生きているのか。ただ人を困らせて生きている迷惑ばあさんになっている。それも無視できない笑い事にできないのは現実にそのキラキラした金属片で目が悪くなると老女がいるからである。
こうして高齢化社会はいろいろな問題が生まれている。それは長生きはいいとしてもその長生きした人生を意味あるものと生きがいあるものとして生きられないことである。

だから高齢化の問題は金がなくて生活もまともにできない食べるものも満足に食べられないという問題も深刻である。
それと同時になんで生きているのかもその意味が見い出せなくなっているのである。それは例えば障害者であれどうして生きているのか生きる意味は何なのかそれもわからない。老人の問題はやはりなんで生きているのか何の意味があって生きているのかそれが見い出すさあれずただ迷惑人間となっていることが問題なのである。
もうし60代くらいで死んでいればこんな問題は起きなかったかもしれない。迷惑人間になる前に死んでいたとなるからである

2023年03月30日

自己責任とは何なのかーなぜ他者を常に責めるのか (全ての人が自己責任があるとはならない)


自己責任とは何なのかーなぜ他者を常に責めるのか

(全ての人が自己責任があるとはならない)

全ての人が自己責任を負うことはできない。 その人は他者に対して厳しい。 そして他者を責める。 でもその人自身をといえばやはり何かしら瑕疵があり自己責任がある。 その人が今貧乏なのはまともに生活してこなかったからだとしている。 でも本当にそうなのかと言うとそうともならない。
別に会社でも働いていたからである。 ただ離婚を二回していてそれが貧乏の原因になったかもしれない。
何かその人は他者を責めるが自らも自己責任になっている。
離婚したのも熟年離婚したのやはり自己責任になる。 その人に責任がありそうなった。 何か常に他者の責任を言うが自分自身の責任は蔑ろにしているのである。 多分自分の責任を自覚できないのだろう。
まこの辺でわ原発事故でかなりの補償金をもらった。 その金でも高級な車を買ったりいろいろと浪費していた人もいる。
それでその補償金もなくなってしまった人もいる。 その人にもそういうことがあった。 他にも今金がないというときやはり無駄なことに使ってしまってそうなった人もいる。
だから他者を責めるというのは問題である。

そもそも人間は自己責任だとして突き放すことは簡単にできない。 なぜならあらゆる人の人生をどう生きたかなどわからないからである。 そして自己責任をとして片付けることはできないのである。
生まれた時からどの家に育つとかどの場所で暮らすとかどんな親に生まれて育てられるとかみんな違っているからである。
人間は一番自分のことが見えないわからないのである。 そのために常に他者を責めるのである。 必ず何かしら自己責任はある。 だから他者をそんなに責めることとができるのかとなる。 補償金でもそれを高価な車とか遊びに使って金がないからもっと補償金をくれとかにもなる。
もちろん要求する権利はあるし別にそのお金を浪費しなければいいのである。

とにかく自分にしても自分のことがよくわからない。 確かなことは自分は相当に恵まれていたことはわかる。 別に働かなくても暮らすことができたからである。 その時ほかの人は額に汗して働き子供を育て苦労していたともなる。
だからそれは自己責任であり今お前が苦労して責められるのは当然だとなる
でも本当にみんなが自己責任なのかとなるとならない。
金がないのも自己責任なのかとなるとそうでもない
別に金持ちの家に生まれれば無理して働くこともないのである。
ただそうしていると後で苦しむことがあり楽だと思ったことは苦しみに変るのである。

楽は苦の種苦は楽の種

人生とはどこかで辻褄が合うとかなる。 一生楽で終わる人もなくまた一生苦で終わる人もいないとかなる
何かそこに神の働きがあり公平なのかもしれない
だから自分のことはさておいて他者に対して自己責任を問うことは本当はできない。 他者に責任を問う人間がもう実は自己責任を問われてもいるからである。 そういう行為をしていてそれがカルマとなって現れてくるからである。
だから貧乏だからといってそれが全部は自己責任はにはならない

要するに何か人間には運が作用しているのである。 別に大した努力がしなくても金が入る人もいるしいくら努力しても金持ちになれない人はいくらでもいる。
だからこの世は理不尽でありいくら自己責任を言っても自己責任にはならないのである。
そもそもそうして他者を責める人間は必ずまた責められるべきところがある。 それが人間なのである。
なぜなら完璧な人間などこの世にいないからである。 何かしら欠けていて過ちも犯すし無駄な消費もするし完璧な人間などいないからである

人をさばくな。 自分がさばかれないためである。

7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量りが与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
兄弟の目に入ったゴミを取り除こうとする者が、自分の目にずっと大きいゴミが入っている、という構図は、兄弟を規制しようとする者はしばしばより深刻な暗愚と偽善に陥っているということを

人を裁く事もそうである。 人を裁くことは姦淫した女性に対して罪なき者は打てといったキリストのようにその時誰も石を投げて打つこともできなかったのである。
これもその責任を問う人たちがみんな罪の責任を問われたのである。 だから他者の自己責任をいう人は自らの責任も知覚できないのである。 人間はとにかく自分自身の事を知らないのである。
だからこそソクラテスは汝自身を知れとなったのである。
確かに人間には必ず責められるべきところがある。 でも自分自身にしても責められるべきところがある。 ただそれを自覚できないのである。 自分は正しい自分はまともに生活してきたと思っている。 でも本当にそうなのかとなるとそうでもないのである。
もちろんふしだらな人はいるし責められるべき人はいくらでもいる。 でもまたその責める本人も何かしら必ず責められるところがある。

いづれにしろその人が金持ちであり貧乏であるとかいうのもみんな自己責任にはならない。 なぜなら人間はいくら努力しても働いても依然として金持ちにならない人などありふれているからである。
ただ親の遺産が天から降ってきたようにそれで金持ちになっている人もいるのである。 多分にその一人に自分も入っているともなる。 でも私は何かぜいたくなどしていない。 旅をしたとしても最低の金しか使っていない。 それは見聞を広める実地の勉強だったと思う
人間の運命は不可解でありいちいち自己責任をみんなに問いないのである。 そのためにカルマ論が生まれたのである。
それは前世の行いが良い悪いで今世の生活の良し悪しも決まるとなるように考えた
それは人間の個々の運命が不可解だからである。 そのためにカルマ論が生まれたのである。

ある女性は異常なほどに前の市長こきおろし非難していたのである。 その女性がそんなに言えるのかとなるとそんな女性でもないのである。 民主主義の利点と決定はある。 欠点は誰でも発言して非難していい。 でもそれが度が過ぎるのである。
何の根拠もなしに責めてくるしどんな人でもどんな低級な人でも人でも攻めてくる。 誰でも難癖をつけて何かを言うことが出来るからである。 そして何かをなんでもいいから相手をけなしてそれで水平化して平等になる。 俺とお前は同じだとなる。
何か尊いものでも簡単に否定するのである。 特にSNSではそうなりやすい。 そこには深い議論が成り立ちにくいのである。。
だから自分自身でも今は忙しくて答えられない対話していないのである。 ただヤフーニュースとかほかのまともなことを経験からなど言っている人はプログで応答して自分なりの発言をしているのである。

それも問題があるにしろただ難癖をつけるとかそういうものが多いからそうなったのである。
民主主義とは結局あらゆる人が対等になり何かそこに偉い人はもういない認めない社会である。 認めるのは例えばカルトの教祖がいたとしたらその教祖を認めるのはそこに巨大な組織があり人が従っているから権力を持っているから従うだけなのである。
だから民主主義では優れた人は認めないのである。
水平化されて誰も大衆は尊敬したりはしない
大衆は権力を持ったらその組織を教祖を恐れるのである
だからもうそうした大衆を相手にすることが優れた人が拒否するようになってしまう。 それでキケルゴールであれニーチェであれ相手は何かを高いモラルとか真善美を求めているわけでもない。
ただ相手をけなして喜び俺とお前は同じだと言うことが言いたいのでありその人の中身など何もなくてもいいのである

とにかく相手にケチをつけてけなしそれで喜び俺とお前は同じだとなるのである。 もちろん真剣に真善美を永遠の命を求める人はいる。 でもそれは極少数なのである。 だから真剣に取り合うということは簡単にできない、時間の無駄となるからである。
何か困りごとでも相談にのれるのは数人なのである。
そもそも日本が貧困になったとしてもそんなこと簡単に解決できないのである。 それを政府でも政党でもカルト教団でも簡単に解決できないのである。
結局南無阿弥陀仏であれひたすら唱えて極楽浄土に行くこと願いとなるだけである。 幹部はその布施をいただくだけだとなる。
来世にこそ極楽浄土がありいつの世もこの世は地獄だったのである。

結局民主主義とは何を言ってもいいです

その答えはあなたが出しなさい

最終的に答えるのはあなた自身です

こうなる社会である、そして大衆ファシズムにもなる社会である。 
それは歴史が証明しているからである

2023年03月28日

近辺の高齢化社会の悲惨な状況 (増えるのは老人と病人で日本は改革できない)


近辺の高齢化社会の悲惨な状況

(増えるのは老人と病人で日本は改革できない)

脳梗塞になった女性が72歳の女性がやっと歩いて自分の家まで来た。いつも食べるものすら買えないと嘆いている。年金は4万しか貰っていない。生活保護といっても現金は5000円くらいしか貰っていない。医療費は無料でもない。一二割取られることがある。だからどうして生活保護なのだろうと思う。
最低の生活はできないからである。その息子は車で郡山市の方に働きに行く。それも朝5時とかに出る。前は朝3時にも出ていたのである。その息子が交通事故になり車を買う金が無かった。それを自分は支援した。
もうその52歳の息子がの働く収入がなかったらどうにもならなくなっていた。脳梗塞で寝たきりになったりしたら働くこともできない。収入は絶たれる。そうしたらどうなったのだろうか?

その息子は刺身も贅沢だから食べていないという、母親は脳梗塞になってもまともに栄養も取れない。果物を食べろと言っても買う金がないのである。ただ救われたのは脳梗塞でも症状が軽く歩くことができたことである。でも自転車に乗れないということが買い物でも苦しいとなる。
もう一人発達障害の息子がいる。その息子さえ53歳とかになっている。つまり50代の人が80歳の親を介護する8050問題がすでに起きているのである。

介護する人が子供が会社を辞めたりして親の介護をすれば金が足りなくなる。その深刻なことが起きるすでに起きているのが8050問題なのである。
近くを見ても隣では85歳だが心臓を悪くしてデイサービスに行っている。もう一人はやはり85歳で糖尿病であり入退院を繰り返している。その85歳の人を助けていた女性が脳梗塞になって行けなくなった。もともと自分の暮らしが苦しいから金をくれと言ってもくれなかったから不満であり仲が悪くなった。
今日大工さんに聞いたらその姉も施設に入っている。何か貯金とか資産がどれくらいあるのか調べられたという。おそらく年金くらいでわ施設で賄えないからだろう。
ともかく周りを見てもこうして老人が金がないなく困窮している。そして日本で増えるのは老人と病人だけなのである。
子供が遊んでる姿など近所で見えないのである。

それはますます2025年になると団塊の世代が75歳以上になる。そのとき医療費も増大する。何らか病気になる人が増えてくるのである。そして福祉にでも医療費でももう国で出すことができない。若者も貧乏であり先が暗い。いいことを言う人はいない
戦後の焼け野原から団塊の世代が生まれたがそのときは食べるものも満足に無いのに子供は増えたのである。
だから貧乏人の子だくさんと言って必ずしも豊かでなくても子供は増える。その時子供は労働させられていた。それは農家でも商家消でもそうだった。私も子供の時は常に店で配達とかさせられていたのである
戦前でも子供は働き手としてありみんな大学に入れるようなことなどなかったのである。だから金はかからなかったのである。
今は逆に奨学金をもらってまで大学に入っている。その奨学金の借金から社会人になるから苦しいとなる。
団塊の世代は集団就職の時代でもあ中学を出たら働きに出されたのである。それは江戸時代なら明治になっても丁稚奉公とも似ていたのである。

ともかく何かこういう状態は全国的である。増えるのは老人と病人ばかりなのである。こういう社会とは何なのか。若者が老人は集団自殺しろというときそれはあまりにも老人と病人が多すぎるからである
もちろん長生きは悪いことではない。でも老人が病人が多いとことはやはり正常な社会ではない
私の家はすでに50年過ぎている。それで津波震災の被害があり去年の大地震で家がかなり傷んでしまった
それを直したのはいいがもっと直すとするともう壊して新しくしたほうがいいとまでなる。大工さんは次から次と直したほうがいいと言うけどそうなるともう新しい家を作った方がいいとまでなる。家でもやはりリフォームするにも限界がある限界がある。
おそらく社会でもそうしていろいろと問題が起きている。でもなかなか解決方法がない。

日本は戦争で負けて焼け野原になってもそこから立ち直ることができたのは古いものを壊して新しいものにしたからだともなる
古いものを残して新しくしようとしてもなかなか面倒でありできないのである。だからリフォームには限界があると思った。
古い農家であった家が別に新しく作った人がいる。
その方は耐震設計もして断熱材を入れているから冬でも暖かい
古い家をリフォームするのもいいがそこには限界がある。おそらく日本でもそうして古いものを残して新しいものを作るということは無理があるのかもしれない。いろいろなものは新しくできない
いまだにハンコにこだわっている信用組合とかある。銀行もあるだろう。そういうものすら日本は改革できないのである。デジタル社会に移行できないのである。社会自体が硬直化しているのである。
それが高齢化社会が足枷となってなかなか改革できないのである。ただ別に長寿が悪いことではない、でも社会全体から見たときはどうしても新しい社会にすることが難しいのである。

病院に入院している85歳の人の家も相当にいたんでいるという。庭も荒れている。何かネズミが入ってくる穴があるという。ネズミの運動会場になっているという、田舎というのはちょっと街から離れたところは農民が昔ながらの濃い人間付き合いがある。また田んぼがあるから畑もありネズミが出やすいのである。
また空き家も多いから家でもネズミに荒らされるとなる。
都会から来た人は田舎でもそうした濃密な人間関係がある農民社会だったところには住むと耐えられないことにもなる。
ともかくこうしてこうこうしたことが全国的に起きている。それが少子高齢化社会の現実なのである。

2023年03月10日

リホームはいろいろむずかしい (老後は家が大事になるー家が人生も語るものになる)

リホームはいろいろむずかしい

(老後は家が大事になるー家が人生も語るものになる)

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私の家は50年過ぎてかなり痛んできた。タイル張りの古い風呂はは壊した。そしてユニットバスにした。それは仙台市から来た
創優建という会社で100万でできた
これは本当に得だった。イワタニのガス会社でわ200万かかると言っていたからだ。地元の人に頼めば300万人もなったかもしれない。仙台市の会社は新しく始めたので安くして客を得ようとしていた。だから遠くまで来て客を確保しようとしたのである。
常磐高速ができて早く来れるようになったというのもあった。
なぜ安いのかと聞いたら仙台市では競争が激しいから安くしないと客を取れないということを言っていた。
ただリフォームとなるとかなり難しい。全部を壊すわけではないからかえって難しくなる。それで地元の大工さんが悪戦苦闘したのである

一番の問題は水道の蛇口が流しと合わないことだった
これには苦労した。その人は一人でやっていてそのために専門ではないので分からなかったのである。でも水道屋に頼んだら意外と簡単にできたのである。そのことで相当に不安だったがさすがに水道専門だから簡単にできたのである。
やはり餅屋は餅屋である。リフォームはいろいろなものが関わるからとても一人ではできないものだった。その大工さんは庭作りもできる、いろいろ一人でできるのだが今回は水道のことは分からなかった。

こうしてリフォームというのは何もないところに作るわけではない。前に作られたものがありそれが問題なのである。
そのことで返って難しくなるのである。新しい家はそういうことがないから組み立てるだけであり簡単だとも言える。
だからリフォームは簡単にはできない。それで業者を選ぶにしてもいろいろ問題がある。新しい家ならただ作られたものを売るというだけでそれほど密なコミュニケーションをとる必要もないかもしれない


リフォームは何かそれ密接のコミュニケーションは必要になる
でもなかなかそれは難しいとなる。
なぜならリフォームでだまされることや依頼主が思ったようにはできないという苦情が多い。。それだけリフォームは一から作る家とは違ったものになる。
私が依頼した大工さんは地元の知っている人でありコミュニケーションも取れている。でも相当に大工さんも思案して苦しんだ。
やはり一人でやれる仕事ではなかった。水道のことはわからなかったからである。そして家が古くなり今回の地震でも家は歪んでしまったのである。それでまた直しにくくなったのである。
流しと元の水道の蛇口があわなくなった。それが一番の問題だった。その他何かあわしにくいものがあった。
だから一から作り直すより面倒だったのである
ただ隣の部屋のも直してもらったが窓を取り替えるだけでありそれは意外と楽にできたのである。だから今回もできると思った。
それは大工さんが思ったのであり私も簡単にできると思ったのである。でも実際はかなり違っていた。


今は大手のハウス会社でもリホームをしているがこれもかなり問題が多い、自前で職人を用意していないとかかえって地元の職人に依頼しているとかあり新築の建売住宅を売るのとは違う。
なかなか密なコミュニケーションがとらない、となるとリホームは地元の職人に頼んだほうがいいかもしれない、なぜなら地元に住んでいるか事情もわかる。地元だから同じ市にも住んでいるからいろいろなことも共有している。遠くからくる会社の人だとそいうことがない、それで困ることがある。気楽に相談もできない、また一回限りの仕事にもなり後で修理の時に困る。
だから地元の職人に頼むということも必要だとなる
なんでも広域化して仕事も広域化しているがどうしても近くでないとうまくいかないことがある。
ただ逆に地元だけではできないことも多くなりすぎたのである。
それだけ複雑な社会になり地元のつながりも希薄化したのである。

どうも年になって70近いから何か分からないこともできてきた。窓についても窓枠のことにわからないことがあったようである。やはりどうしても何でも歳になると新しいことがわからなくなる。技術的には常に進歩しているからそうなる。
ただ年配の人でも老人でも経験を積み重ねているからその経験は生きる。かんなで削ったり細かい作業がある。それは手作業であり機械でできないのである。
最近3Dープリンターで家を作るということが報道された。その家を変えることもできないし直すこともできない。やはり何か人間の手作業が必要になる。
だから人間の仕事がなくなることはないのである。
その古い家に組み合わせをしているのを見てるとそう見る。
とにかく人間は家とも一体化する。家が人生ともなるのである。
家が老朽化して直さなければならないというとき人間もまた老いてゆくのである。でも家は直して新しくして長持ちできる。


人間は老いればやはり体も弱りいたんでくる。でも人間はなかなか家のように報酬はできない補修はできない。その大工さんも70近いし私自身も75であり体が弱っている。それで互いに老人は相憐れむともなる。
老人にとって家は意外と大事になる。なぜなら家とともに過ごす時間が長くなるからである。私は旅ばかりしていたが親の介護になり十数年遠くへの旅はしていない。近場を自転車で行っているだけである。
すると家に居る時間が長い。家が住み心地良くないと問題になる。終の棲家としての家になるからである。

それで必ずリフォームが必要になる。その金も大きいのが問題である。屋根瓦もなおしユニットバスにして去年の大地震でトイレの配管が壊れ新しくした
何やかやでもう200万近くになっている。このように家はそもそも前から金がかかっていたのである。家は買ってもその後はならず修理したり建て増したりして金がかかるものなのである。
でもこのの本で読んだようにリフォームは必ず必要なのである。
そうしないと老後は安心で快適な生活は送れない。だからリフォームはすべきであるというのは分かる。
古い家に傷んだ家に住んでいればそこには孫も来たくないのもう分かる。それだけ家はやはり人間が第一といっても人間の心に影響するものなのである。
そして家は自分だけのものでもない。その周りにも影響する。
空き家にしておくと周りの影響が大きい。景観的にもよくない。
ともかくともかくそれぞれの家は人生を語り歴史を語っているのである。
家という物があってそれに物が憑くというように単なる物だけではないものになる。

2023年03月02日

リホームは難易度が高い、簡単に大工でもできない (老人は安住する場が家になる―成長するにも家の影響は大きい)


リホームは難易度が高い、簡単に大工でもできない

(老人は安住する場が家になる―成長するにも家の影響は大きい)


キッチンが50年くらいすぎてぼろぼろになっていた。それを取り替えるにしたが簡単にできないものだった。
まず寸法を合わせるのがむずかしい、私の家のキッチンは何か高さを調節するために
直して造った、それで新しいものをとりつけるのに高さを調節するのがむずかしいものだった、ここに合ったものを作ると結構手のこんだことをしなければないので大工さんいろいろ思案していた、それから排水の管が複雑になっていたのである
前もつまって私がブラシを入れて直していた、それはもともと複雑な管の配置になっていたためである、それを見てまた大工さんどうしていいのか苦労していた
だからリホームするには相当な腕がないとできないと見た
窓も高さの調節で直さなければならないとかなり複雑化したのである

でもここでわかることは最初からハウス会社が作る家は楽にも見える
今でもこの辺では大東建築がアパートを建てつづけている、それは最初から規格化されてその部品を組み立てるだけなのである、だから楽にも見える、他の家でもそうして組み立てるだけだから早くできる、50年前の家とかなると私の家でも三カ月くらいかかった。
普請は大事業だったのである。その苦労があって親は常に家を建てたことを自慢していたのである
今のように簡単に家が作れないということでそうなっていたのである。
その家にしても地元の大工さんが作ったのでありハウス会社はその頃家作りしていなかったのである、地方では地元の大工さんが家を作っていた、三カ月もかかるとなるとやはり
家を作ることは大事業であり地元の人とのかかわりも深くなるのである

茅葺屋根の家に住んだ人を知っているがそういう家は村の人総出で作ったとういことで
また価値が違っていた、つまり村の人たちの協力があっ作れたとなっていたからである
ハウス会社になると地元の大工さんはかかわらないからである
そのために地元の人とのつながりも希薄化したとはなる
また家も様々なものから成り立っている、それで震災以後は瓦はいわき市の会社の人が来て直した、ユニットバスは創優建という仙台市の会社が百万で作った
それは常磐高速道路ができたために仕事を求めて来たからである

またトイレの配管が去年の地震で壊れた、それでトイレも古くなり直した
つまり仕事が広域化している、この辺だといわき市とか郡山市とか仙台市でも交通的に便利だから仕事を求めて来るようになったので
建築土木関係の仕事している人は青森に行ったとか郡山市に行くのに三時に起きて行ったとか佐世保に足場を作る人が行ったとかなる
もともとも建築土木関係は遠くに仕事があれば行っていた、飯館村の木戸木(ことぎ)の大工さんも東京に仕事があり働いて稼いだと言っていた
またレンガの風呂を作る人は室蘭まで行ったと聞いた
だから職人は遠くに仕事があれば行くということがあった。

ただそういうことで何かハウス会社で簡単に部品を組み立てて作る家は重みがないとも感じる、昔は家を作ることが大事業だったから家に重みがあった、茅葺の家とかなるとその手間も労力も大きくなったから重みがあったとなる
ただ家というのは建物だけではない、そこに営まれたものがありそれで家も活きてくる
だから代々つづいた家は歴史的にも重みがあるとなる

いづれにしろ家にこだわるのはやはり人間は家で暮らすということが基本にある
遊牧民のようにテントを持って移動する生活とは違いて一定の場所に根付くということがありそれが家を持った時そうなる、マンションとかアパートとかなると借りの住まいともなり重みが感じられないのである
どうしてもこの辺だと市営住宅などに住んでいる人はそうなる、何か借りの宿という感じになる、家の重みがないのである。
近くの人は20代で一軒の家を建て立派な石組の庭を造った、それは人一倍働いて20代で作ったのである。そういう時代があった、働けば働くほど収入を得れる時代だったのである、今20代で家を建てることをできる人はまれだろう、親の遺産でもなければできない、その人は別にローンもなしで二十代で家を作り立派な庭を造ったのである

今は何かそうしたみんなが働けば豊かになれるということがない、だから若い人は苦しいとなる、なんとか日々生活すればいいとかしかない、それでこの辺でなぜ東京辺りから学生なのに強盗に来たのかとなる、若い人達が何か昇り調子の時代を経験できない、30年間賃金が上がらないとか日本は停滞したままなのである
そして今度こうして高度成長時代に建てた家が空家化しているのである、また後継者もいなくなっているのである。
近くに本当に立派な庭がある家でも空家になっていた、その庭の価値は相当にある
でも誰も住んでいないのである、それは原発事故で避難区域になったところでも立派な家があり庭があっても住んでいないからもったいないとなる
でも少子高齢化で全国的にそうなっているのである、日本は縮小してゆくのである

ともかく私の家でも家には金をかけた、部屋でも四っつくらい新しく継ぎたしたのであるでも私自身は狭い部屋で寝起きしていた、でも八畳の広間がありそこに寝ていると何か安らぐ、そこで寝起きしていた親が死んで自分が寝起きするようになった
その空間がなんとも安らぐのである、そこで夜に寝るとき本を読んだりイメージすることがある、イメージが不思議と湧きやすいのである、だからそこで必ず詩作しているのである
だから家というのは知的な仕事をするには相当関係している
50年前まで子供の時は子供部屋などなかった、本も一冊も置いていなかった
漫画本すら貸本屋で借りて読んでいたのである。これでは知的に刺激されることもない

家に蔵書があることが大事である、子供でも子供の興味をひきつける本を並べているだけで相当に効果がある、それも子供部屋があれ自主的勉強することもある
それが全くなかったことがやはり環境的に恵まれていなかったのである
何か店をしていたから子供の時は配達などばかりさせられていたのである
だから自分で知的探求というものをしたことがない、勉強は学校でしかできなかったのである、それも暗記の勉強でありまたソロバンとかを習ったが得意だったが何の役にもたたなかったのである

とにかく家は知的空間であることがわかった、蔵書があり寝る時でも広い部屋で本を読み想像力を働かせて思索する詩作する、それは広い家があると効果的なとを知った
狭い部屋だと何か圧迫されるてそうはなりにくいことを発見した
おそらく知的探求には家というのが相当深く関係している、日本の家は狭すぎる
だからそこで何か余裕ある人を育てにくいのかともみる
そもそも茶室が生まれたのは日本の家は狭いから自ずとそういう文化になったのである
でも実際は広い家の方がいい、八畳間で寝ていると気分がいいとなる
でも大きな家に住んでいても自分の部屋は狭い部屋だったのである
それは親が死んでわかったことなのである

そして老人になると家が大事になる、なぜならその生活が家中心にもなる、余りに遠くにも出なくなるからである、実際これだけ旅しても親の介護とかなり十数年旅していないのからである、ほとんど近辺を回り家にいる生活になったからである
すると家が何か安住する場所にならないと豊かな老後の生活ができないとなる
それで数カ月なのか糖尿病で入院していた人がかえって病状が悪くなったが家に帰って療養したら回復した、それもやはり家の効果である、その人は若い時人一倍働いて造った家にいてこそ何か存在感がある、妻は早く死んでもやはりそこに妻がいるという感じにもなる
そうして家で死にたいという人か多いのは誰も病院のような無機質な空間で死にたくないということである、人間は家とも一体化してゆく、だから人は死んでも家に憑りついているとまでなる、確かに家には死んでも人はいるという感覚になる
でも病院で死んでも何か幽霊となって現れるとしても病院では成仏しないのである
何か物体のように邪魔なものが片づけられるという感覚になる
だから病院で死にたくないという気持ちがわかるのである


天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

橲原(じさばら)のキコリの人が同級生が切り出した木を柱にしたと親がいつも自慢していた
それはこの歌のように地元の材料で地元の人たちが作ったということで価値があったとなる
ただこういう家に住む人はまれだった
でも農家のかやぶきの家はそれなりに大きいし意外とあたたかいとなっていた。
土間でも土でありあたたかだった。実際に住んだ人も悪いことはいわないのである。
だからそれなりに住まいとしてわるいものではなかったのである。
むしろ子供の時の家は隙間風が入り寒いしトタン屋根で雨漏りして洗面器を並べてしのいでいたのである。戦後まもなくは農家では食料も自給していたからかえって街のせいかつよりゆたかだったのである













































2023年02月21日

精神障害者の虐待 (遂に母親も自分が病気になり施設に入れると言うようになった- 家族が崩壊する介護問題)

精神障害者の虐待

(遂に母親も自分が病気になり施設に入れると言うようになった-

家族が崩壊する介護問題)

【精神科病棟】暴行や虐待は日常的に?身体拘束は?入院を望む家族の思いとは?ひろゆきと考える|アベプラ

https://onl.la/FpzGBJi

発達障害の子供もった女性は施設に入れないと強く言ったいたが自分自身が脳梗塞になり気持ちが変わった

なぜなら弟に世話になるうよになって変わったのである

自分自身が元気ならそういうことはなかった、でも72歳にもなり病気になり自分自身のことで精一杯になった

子供と言っても50歳にもなっている、それでもうめんをとみれないとなったのかもしれない、やはり人間は子供より大事なのは自分自身だともなる。でも今までは強く子供を守るとしていたから意外だった。

人間の気持ちというのは常に変化している、何かこの世ではいろいろあり変わる、年齢でも変わってくる。

状況によっても変わってくる、やはり病気になって弟に世話になるようになって変わった、自分の世話をしてくれるのは弟と思うようになったからなのかもしれない、ただその弟は発達障害の兄には厳しいから施設に入れろとしきりに言っていたが母親は反対していたのである

アベマテレビ精神障害者が拘束されたことを問題にしている

虐待もされたとか病院が訴えられた、これは認知症にでもあったから意外とそれは今や高齢化社会で身近な問題になったのである

なぜなら認知症になる人が6人に1人とかなるとその数も多いのである、ではそれにどう対処するのか?

それは特殊な人ではない誰でもその問題をかかえる割合が増えたのである

ただ生まれつき精神障害者になっているのと親がなることは相当に違っている、親の場合いろいろあっても私の家の場合は家を支えて私に自由に何でもさせてくれた、だから功績が大きいものだった、それで実の母親がいたとしてももう一人の母親となった姉のことを大事にせざるえななかったのである

そういう家庭の事情はみんな違っているから対処も違ってくるのである。ただそうして精神障害者をかかえると家族も崩壊するということがある、だから施設に入れることにもなる

そこで虐待や身体拘束が起きる、虐待は病院でも起きる、特に今の若い人は看護師でも老人を嫌っている、大量の老人のめんどうを診るのが高齢化社会だからである

もし子供とか若い人だったら対処も血かったものになっているかもしれない、高齢化社会は老人が多すぎて病人でも老人がほとんどだからである、そこで老人に嫌悪感も持っている人が多いのである、だから老人は集団自殺しろとまで堂々と言わせるのはそういう社会風潮になっているからである


ただ発達障害というのは暴力になったりはしないようだ

その人は体はプロレスラーのようであり暴れたりしたら怖いとみる、私の家の場あいは一人の親は気丈夫であり男優りだから認知症になって暴力になったりしたら怖かった、だからもう一人の実の親は一藷に住めなくなったのである

でも私は家の事情があり死ぬまで良くしたのである、最後は病院で死んだ、そこで身体拘束などもあったから当人は辛かった

でも結果的には認知症になってから二年くらいで死んだのである

それで比較的終わってみれば楽だったのかとなる

このアベマのテレビでどうして家族でも施設に入れるのか?


これを問うたがその答えは家族で見きれないからだと言うのもわかる、家族だけで診るのは限界があり家族自体が崩壊してゆくともなるからである、これはニートとか引きこもりでもそうなっている、自分の家も家族崩壊になったからである

ただ私は二人の親に特別良くされたことでしょうがいなとあきらめていた、苦しかったけどしょうがいなとなっていたのである

それだけ特別良くされたのが自分だからそうなっていたのである

他の人はそうではない、知っている女性でも弟がいたとしても別にそんなに良くされていない、発達障害の息子にはいつも心配して愛情をかけていたとなる、そこで弟は母親に余り良い感情をいだいていないともなる、でも世話するのは今その弟だけなのである、そこで気持ちが変わったとなる

発達障害の人も母親を心配していても何かたいしたことができないからである、そこで自分自身が弟にめんどうみてもらうようになると発達障害の兄より弟を頼る他なくなったとなる

それで母親が非情とはならない、それだけ精神障害者をかかえることは負担が重すぎるのである、別に普通の人でも介護の負担が重すぎるのである

だからこういう問題は頻発する、特に認知症も精神障害だから同じことが起きるのである

そこで家族は引き裂かれ分断されて崩壊するともなるのである

ただ私の場合はなんとか一つの家族として継続させて守ったとなる、それは結局その功績が大きかったからである

他の人はそうならないからできないともなる

いづれにし精神障害者でもいろいろある、一くくりでは語れない、発達障害というのはどこかが異常なのかわかりにくいのである、でもそれだけ母親に世話になったのにそれを余り感じないとか何もしやれなんとかあり母親も見切りをつてけたのかともなる

ただこの問題の深刻さはもう一部の精神障害だけではない、認知症になる数が膨大になるのだからそれは他人事ですまされない

身体拘束でも虐待でも親が受けることになるからそれを放置できるのかという問題なのである

自分の親もそうされる確率が高いから問題なのである






2023年01月19日

発達障害者とか精神障害者でも社会からただ排除すべきものなのか (誰にでもなる認知症も排除できるのか)


発達障害者とか精神障害者でも社会からただ排除すべきものなのか

(誰にでもなる認知症も排除できるのか)


精神障害者の母

精神障害者も人なりと
老いたる母は強く言う
犬猫のように捨てられか
もし施設に入れるというなら
私は戦うと体張って言う
子を守るために母は強し
その愛は無償の愛なり
何か子を世間に誇る者なしも
ただその愛は無償にして注がれる
何の報いを得られじも
母の愛あり母は強し
動物も我が子を犠牲にして守る
その時小なるも大に挑む
精神障害者は無用なりしか
ただ意味無きものか
さにあらず真にの母の愛を
示すものとしてありぬ
そのことのありて無益にあらじ
この世に何か意味を定められじ
意味なきことにも意味がある
この世は何が有益無益かもわからじ
故に安易に人の価値を定むべからじ
無用と思う者にも用あり
その母の無償の愛を知るべし


●精神障害者に生きる意味があるのか?

●精神障害者を世話することに何か意味があるのか?


発達障害とか認知症のことをを追及して来たが人間というのは何が意味あるのか価値があるのかわからない定められないのである、精神障害者は何の役にもたたないごくつぶしでありただ迷惑者であり負担をかけるだけの存在だからと抹殺すべきだとして19人も殺害した人がいる
ただその人たちは重症の精神障害者だった、発達障害者は軽症の精神障害であるから違っている
でもやはり病気の一種である、先天的に脳の障害がありそうなった
精神障害者には先天的なものと後天的なものがある、何か誰にでも発症する危険はある
社会生活でストレスがたまりそうなることがある
また社会に適応しにくい性格もありそれは学校に適応しにくい人もいるのと似ている
私自身学校になじめず学習障害者のようになっていたからである
学校でどうしてもなじめず勉強嫌いになる人はいるし自分自身がそうだった
ではその人は無能でそうなったのかというと違う、その人なりの性格があり才能があっても発揮できない、伸ばせないとういことがありそうなったともなる
発達障害も何か絵が得意でそれで社会で認められることがあったとか得意な分野を伸ばせば社会でも認めるとなる

ともかく人間の問題は様々あるけど人間に起きることは人間が完全な存在でもないし
弱い存在でありそして生老病死があり人間には病気でも老いでもさけられないものとしてある、精神障害も先天的にも後天的にも起きてくる
それが健常者とも関係ないのかとなると関係ある
特別健康で頭もいい優秀な人でも認知症にかかる、それを目の当たりにしてショックだった、そして認知症は誰でもかかる、800万人が認知症になる時代というとき老いればかかるのである、それは精神障害者となるのである
つまり誰でも生涯の中で精神障害者になる確率が高いのである
誰でも老いるし老いをさけるここともできないからである
とういうことで精神障害者の問題、発達障害者の問題は関係ないものともならない
認知症でも精神障害者だからである、何か似ているのである
つまり人間に起きることは他人事ではない、精神障害でも認知症になると確実になる人が多いからである、そしたら精神障害者と同じでありそんな人は人間ではないとされたら恐怖である、それは親がなるからである、子が精神障害者の場合は親の愛がある
今度は精神障害をの親を子を看ることになる相違なのである

つくづく人間には本当に様々な生きるリスクがある、その最たるものが病気なのである
精神障害も病気である、いくら科学技術が発達しても意外と現代は精神疾患が増えてい
うつ病でも増えている、それは必ずしも先天的なものとは限らない、後天的に環境の影響でもなる、だから誰しもそのリスクはかかえている、もう認知症となれば誰にでもなるしさけられないとるでなる、なぜなら90歳以上になれば半分以上があるからである
老いも原因でありそうなると誰も避けれないとなる
だから精神障害というのも実は社会的問題でもある、うつ病などはそうである
個々人の問題より社会問題として引き起こされる、時代病かもしれない、何か今度は別な息子が交通事故になったとかもしかしたら交通事故のようなものかもしれない
不可抗力にもなるの精神の病だとなる、だから精神の病にかかるリスクは誰にでもあるとなる、無関心ではいられないとなる

その時発達障者をもった母のように犬猫ではない人間であると主張して捨てられるのかとなる、施設に入れることはすべて悪いとはならないにしても気持ちとして捨てる感覚になっていいのかとなる
ただ母はそう思っても兄弟姉妹となると愛がもちにくいので捨てるとなる
すべてではないにしろそうなりやすい、それだけ負担が大きいから必ずしも責められないことはある
つまり家族でも捨てる、特に親の介護となる捨てるのが当たり前にもなる、施設は現代の姥捨て山なのかともなる、それも捨てる方にすると経済的な問題が大きかった
なぜならみんな貧乏でありとても老人まで食べさせていけないという深刻なものがあり食い扶持を減らすためにそうしたともなる
でも現代はまだそこまでいっていない、なんとか最低限食べさせてめんどうみる余裕はある、でもやはり貧困化するとめんどうみきれないと全体的に国自体でもそうなりやすいことは確かである

2023年01月17日

精神障害者自身が生きる意味と世話する人のモチベーション (なぜ殺害が起きたのか?)


精神障害者自身が生きる意味と世話する人のモチベーション

(なぜ殺害が起きたのか?)

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神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年に入所者19人が刺殺された事件の裁判員裁判で、横浜地裁は16日、殺人などの罪に問われた元職員植松聖(さとし)被告(30)に死刑を言い渡した。
共同通信によると、植松被告は意思疎通が十分にできない障害者には人権がないなどと主張していた。
この事件は日本の犯罪史上最悪の、犠牲者が多数に上った殺人事件の1つとなった。凶悪事件が少ない国で、国民に衝撃を与えた。
これまで植松被告は毎日新聞の取材に対し、知的障害のある人は「生きる意味がない」とし、「社会のためにやらなければならなかった」などと述べていた。




精神障害者には生きる意味がないと施設に勤める人がそう言ったて十数人も殺害した
ここで問題になったのは精神障害者自身の問題と世話する人の問題があった

●精神障害者に生きる意味があるのか?

●精神障害者を世話することに何か意味があるのか?

これが問題になったのである、どうも発達障害者の兄弟でも兄弟の関係でも兄は障害者でも弟はそもそも世話したない、常に障害者の兄に厳しく接している
世間のことを理解できないくては困るとして従わせようとしている
相手が発達障害でも容赦がないのである、そこに相手が病気であり病気でも世間の常識を人間としての常識をわかってもらわないと困る、それで厳しく指導しているのである
それで弟は施設に入れたいのである、かかわりたくないとなっている
ここで関係してくるのが福祉関係の人たちなのである

でも発達障害者の人は施設に入りたくないとしている
そして母親は強い愛情があるので施設に入れたりするなら戦うと言っている
母親は強い母の愛がある、だからそう言っている、弟にはない、兄弟にはない、また姉妹でも母の愛を持つことできないのである
私はただ客観的な立場としてあり別にとっちにも組しないのである
精神障害者を責める弟にも兄弟にも組しないのである、ただ母のような強い愛は持つことはできない、だから病気になったが母が健在であるかぎり発達障害者でも施設に入れることはできない、だからそもそも精神障害者に人権があるのかどうかとか議論される
そんなものがないとして植松被告は殺害したのである

植松被告は重度の精神障害者と接してこんな人達は人間ではないと殺したのである
相手が人間でないとすれば相手の生きる意味も存在すら許されないとなる
そこに世話する者がいて甚大な労力がかけられるしコストもかかるからである
ただ母とかなれば母の愛がありそういう障害者でも母は愛しているし生きることに意味がある、それは何かむずかしい哲学でもない、ただ母の強い愛があり息子を生かしたいとなるからである
問題はそういう強い愛を兄弟でも姉妹でも持ちえないのである、その世話する労力も甚大になり人生するら犠牲になるからである、その相違は大きいのである

母は相手は人間なのだ、施設に入れることは反対する邪魔者として社会からとりのぞき施設に収容することはできないとしきりに言う、母にとって障害者でも息子であり人間として扱っているからである、でも兄弟でもそう扱いないからしきり文句言っている
つまり兄弟姉妹が精神障害者を世話することはなかなかしにくいということである
私は認知症にっなたは母でもあり姉を人間としてそれも健康な時と同じように扱い大事にしてたてることができたのは特別良くされたし家を作り家を支えた女性だったからであるだから苦しくても認知症になっても一家の主のようにしてたてていたのである
そういう立場にあったから継続してそうなったのである

でも相手がやはり認知症になりわからなくなっているのたからそれはおかしいとなった
だから私はうつ病になったのである、たいがい精神障害者が家族にいるとうつ病になるのである、いくら相手をたてるにしてもそうしていると自分自身がおかしくなってゆくのである、そんなふうにはならないと世話している弟は厳しくわかってもらないと困るとして対立する、だから精神障害者の兄はひどく嫌っているのである
そのことは私もわかった、発達障害者が接してはならない典型的な人だったのである

ともかく発達障害者でも精神障害者でもどう対処するかどう見るのかむずかしいと思った母が言うには相手は物でもないし犬畜生でもない人間だとしきりに言う、人間として扱わねばならないというのである、それは母としての強い愛をもっているからである
だから施設に入れることは強く反対しているし福祉関係の人とも戦うとしているのであるつまりここで問題になっているのは弟であり姉妹であれ兄弟であれ母の愛は持っていないやっかいものとして施設に入れた方がいいとしているのである
その相違が大きいのである、強い愛を持つ者と持たない者の差がここに大きく出ているのである

私にも姉とか母に愛があり介護ができた、というより特別60歳まで三食用意してくれたり世話してくれたからである、そのために強制されることもなく必死になって介護したのである、こんなに良くされた人はなかなかいないと思う、特殊の事情でそうなったのである、ただ家族が一人のできそこないというかいてめちゃくちゃになっていることもある
その息子は両親でも暴力をふるい一緒に住めなくなった、息子は本当に家族を崩壊させたのである、親もどうすることもなく家から脱出して住んだのである
これも悲劇だし一人のできそこないの息子を生んで育てたことにより何の報いもなかったとなる、それもあまりにひどいとみる
それで息子を殺した人もいたがここでは殺すこともできない、なんとかなだめようと必死になっているだけである
そういう家族もいるから子供をもってはずれたら恐怖にもなる

精神障害者とは何なのか、その人に人権があるのか、人間なのかともなりその答えはむずかしい、ただ母にとってはかけがえない人であり人間なのである
そうなるとその息子をただ社会の厄介者であり社会から抹殺すべきだともならない母にとってはかけがえないの愛する人間だからである

精神障害者に生きる意味があるのか、

また世話する意味があるのか

この二つの問いがある、現実にそれは精神障害者に対してみんな感じるのである
だから人間でもない精神障害者を次々に殺害する事件が起きたのである
母親にとっては息子が精神障害者でもやはりかわいい息子なのである
また兄弟でも姉妹でもそういう女性がいたからこの場合はみんなにはあてはまらないのである

ただ本当にこの問題はむずかしい、私は親が家族が認知症になっても病気の前と同じように接していた、だからうつ病にもなった、でも二年くらいで死んだので救われたともなるそのくらいなら苦しくてもなっていた
でも長くつづくとなると苦しいとなる、耐えられないともなる、とにかくこうして兄弟姉妹は世話しにくい、親子関係ならいろいろあっても愛情を注いでくれたし世話になったのだから苦しくても仕方がないとなる、また愛情は認知症の人でもわかるし通うのである
それで最後は感謝して死んだのである、認知症の場合は普通の人としてまた優秀な人として生きた人でありまた世話してくれた人だから粗末に扱いないのである
そこが生まれた時から発達障害者になって世話される人とは違っている
でも何か似ていることがあると見た、プライドがある、だから馬鹿にすると怒ることも似ていたのである、お前はは何もできないとか叱責すると怒るからである
そういう人は世話できないとなる、そこに認知症と違って介護でも世話でもむずかしいと見たのである

2022年12月28日

精神障害者を持ち苦しむ家族 (発達障害者と認知症の似ていること)


精神障害者を持ち苦しむ家族

(発達障害者と認知症の似ていること)




Aさんから毎日聞かされる過去のことに対する愚痴や、めぐみさんに対する罵倒・被害妄想は、めぐみさんの子どもたちがいてもお構いなしで続いていたそうです。時には暴力を振るうようなこともあったそうで、めぐみさんは「もう限界だ、少しでいいから家族だけの時間が欲しい」と思い、引っ越しを決めたと言います。

、AさんからSNSを通して誹謗中傷を受ける日々がはじまったそうです。書かれている内容は事実無根だったそうですが、「SNSで障害のある姉を捨てた妹、いつも妹ばかりずるい、と発信するんです。どんどん投稿が増えていくと、精神障害があるからしょうがない、では片づけられない苦しい気持ちになりました」と言うめぐみさん。ある日ついにストレスで左耳が聞こえなくなってしまったのです。

精神障害者手帳を取得した現在も、両親はAさんが障害者になったことを認められず、福祉のサービスの利用を拒んでいるといいます。支援を受けてこなかった中で、両親が過剰な期待を寄せてきたのがめぐみさんでした。

「障害がある姉を家族やみんなで支えなければ、という気持ちはわかります。でも、障害者だからなんでも許されるわけではないということもわかってほしいと感じています。私の人生は姉の面倒をみるためにあるわけではないんだと、姉にも両親にもわかってほしいんですけどね」

「姉妹なんだから支え合って」と言われても…精神障害のある姉を10年支えてきためぐみさんの決断


この人と私が接した発達障害を持った家族と同じだった、兄の世話を弟がしていただが
兄の悪口を常に言っていて弟はなぜ私が世話しているのに悪く見られて責められるのかと何度もくどいていた、
精神障害者をもつ家族は家族が身内が一番苦しむのである
それは私も認知症になった姉を介護して経験しているからである

母親にしても終に自ら脳梗塞になりもう世話できないと匙を投げた、というのは弟が母親を苦しんで世話するようになんたからである、金銭的面でも援助しているから弟の言い分を聞かなければならないとなって発達障害の息子をもうめんどうみれないとなったとなる50歳までめんどうみて苦しんできたのだからそれが冷たいとはならない、限界が来たと言える
自分自身が脳梗塞になって苦しんでいても発達障害の息子は介護もできないからである
まず書類など書けないし福祉関係者の人ともまともに応対でなきい
そうなると母親も匙を投げたとなる

でもどうも精神障害者がいろいろあっても認知症の介護をしたので似ていると気づいた
発達障害者の人も家族を責める、特に弟のことを責めている、でも弟は金をだして風呂を作ってやったとか金銭的な面でも援助している、だからなぜ自分だけが悪く言われて回りでもそう見るのかとなって不満になった
母親が脳梗塞になって母親ももうめんどうみきれないとなった
一時は施設に入ってもいたが嫌だとして出た、母親が施設に入った方がいいと言ったら怒ったという、でも発達障害者の人と協調できる人はいないともみる
ただ福祉関係の人は障害者の味方になるという、だから不思議なのは認知症の人が警察を呼ぶぞというのは福祉関係とか警察が家族から責められる時守ってくれる人と見るからかもしれない、その辺はわかりにくいが認知症との共通点はある

何かそれは自分自身を防衛するためにそうているのかもしれない、障害があることでまともにあつかわれない、そのことに不満がある、そして自分自身はその障害が何なのか意識できない、だから自分は常に不当な扱いをされていると回りに訴える
それを聞く人が福祉関係者でありとがめられるのはかえって家族だともなる
認知症でも盗んだと責められるのは一番身近な家族だからである
その発達障害者も常に弟を嫌っていて盗むと言っているからである
ただ認知症のように極端な物忘れはしていない、銀行から金を下ろすことも知っている
そして金に敏い、金になることは金の計算がまともにできなくても敏いのである
欲もありその欲を金で得られるから抜け目ないという

そういうことは認知症の人もそうなのである、自分自身は悪いと思っていない、
回りの人が悪いと責めるのである、その心理はどこから来ているのか?
おそらく自分に障害があることを認めない、私は社会で一人でもまともに生活できる
誰かの世話になることもなくできる、そして自分自身に対して自分の言うことを聞かないと敵ともみなし責めてくる、それは認知症の人にもある、性格によって違ってくるにしろ何か共通していることがある、
自己防衛本能が働き他者に対して自分の言い分を拒否されると敵とみなして攻撃する
それがここでは弟なのである、そうでなくても家族が敵となり攻めてくるのである
それで世話する人がなぜ自分自身だけがここでは妹が姉の世話ばかりして他にできなくなるのか?それで遂には突き放すようになる
第一そうして世話しても感謝などないからである

そして親の認知症と違うのは親というのは子供に尽くしてきた、人によって違っていても親は子供に尽くしてきた、だから世話しなければならないという気持ちがある
私の場合は特殊な事情で特別世話になったから家を支えてくれたから恩返ししなければならないと自ずと思っていたから苦しくても世話するのは当然だと思っていた
それより自分自身しか世話する人はいなかったのである
では兄弟とか姉妹とかなると別に世話されたわけでもない、むしろ障害者が特別扱いされることもある、母親は障害者ばかりに手をかけて他の兄弟姉妹にはおろそかになる
その不満が障碍者をもった家族に常にある、ただ障害者でなくても兄弟でも姉妹でも
みんなに親が良くするわけではない、一人っ子の場合はそういうことはない
だからこそ介護になると一番良くされたかわいがられた人が介護しろとなるのである
これも当然だとなる

とにかくこうして遂に母親でも匙をなげた、するとこれから厳しいことになってゆく
回りでもそんなに悪口を言い自分の言い分を通すことを是認する人はいないからである
つまり世話になっているのだから何か悪口ばかり言って不満ばかり言っていることに対してそれを是認する人はいない、でも発達障害の本人は世話になっているとも思わないのである、だからこそ相手を攻撃して責めてくるのである
認知症にもそういうことがある、何か悪賢いということもある
外面はいいのである、最も親しい家族に対しては攻めてくるのである、つまり家族が悪くて自分は悪くないとするのである
だから福祉が味方だとなることがわかっていて家族の悪口を言う時福祉の人はそれを是認するから余計にそういうのかもしれない、だから不思議なのは警察を呼ぶぞということも認知症と共通している、警察は福祉関係者と同じであり自分の味方だと思っているからかもしれない、これは本当に謎である

精神障害とは発達障害者でも認知症でも似ていることがあると思った
でも根本的相違は認知症は別に優秀で社会に尽くした人であり家族に尽くした人でもあるでも発達障害者とか先天的精神障害者はそういうことはないだろう
幼児から世話をやかせて育った人もいる、だから親が病気になっても世話もできないのである、そうなれば親でも遂には見捨てるとなる
自分自身が介護される身になるからとてもめんどうみきれないとなったのである

ここで不幸なのは最も頼るべき親しい家族でも悪口を言い責めてきてかえって自分が損する、もし体の病気だったらそういうことはないだろう、親切に介護すればそれがわかる
だからありがたいと思う、でも精神障害者の場合はそれがわからないのである
そしていくら世話してもそれがわからずかえって責めてくる、悪口を言い自分は悪くないとする、それを福祉関係者が同調するとなる、だから罰せられるべき家族であるともなるそれで警察を呼ぶぞと言うのかもしれない、それも不思議であり謎だとなる
ただ心理的に解明すればそういうことなのかとみる
全く支離滅裂な精神病とも違う、その心理は理解できないことはないともなる

いづれにしろ発達障害が何なのかまだわからない、でも精神障害者を世話することはめんどうでありだからこ母親でも50歳の息子を自らが病気になってもうめんどうみれないと匙を投げたのである、どうしても弟に頼らざるをえないからである
その発達障害者は親の介護もできないからである、そうなれば弟に世話されるのだから
弟の言い分を聞いているほかないのである

私の場合は認知症になったとしても私は認知症になった人をたてていた
それは複雑な事情でそうなった、つまりその功績が大きいものでありいくら認知症になってもそれで捨てるわけにはいかない事情があった
だから死んでも篤く供養しつづけている、それだけ大きな功績が自分の家に尽くしたことがあったからである、でも幼児期から発達障害者になった人は50歳までただ迷惑をかける存在だったのである、そして世話しても感謝もないのである
またそもそも介護も世話することもできないのだから報いもないとなる
このことでいかに精神障害者もった親でも兄弟でも姉妹でも苦労するかわかる
それは認知症でも共通した面があるがやはり子供の時から一方的に世話するだけとなると報われることないし感謝されるたともないのだから辛いとなる
そのことは認知症で経験しているから多少は理解できなるとなる

おそらく発達障害者でも何か一芸に優れていれば社会でも認める、それで社会に適合できる、社会に役立つともなる、天才などは社会的には人間関係ではうまくいかなくても一芸に優れているからそれで認められるとなる
だから発達障害者は何か特異なことをできるようにする、そうすれば他の人も認める
そうなれば家族でもただ何もできない迷惑をかけるだけの人間とはみないともなる
もし一芸に優れていて収入もあったりしたら邪魔者扱いにもしないとなる
ただそれがみんなができるかとなるとむずかしい、社会不適合者でもかえってそういう人は特別優れた人でそうっている場合がある、天才ともなればとても普通の社会人として生きられない、平凡な生活はできないからである
ただそれはまれであり普通はニートであれ引きこもりであれそういう人ではない、ただの社会脱落者に過ぎないともなっている
第一天才自体まれにしかいないからである、それでも何かその人に自由を与えてあなたのやりたいことをやりなさいとなるとき自分のように旅ばかりして地名と地理とか風土に興味をもったようにその人なりのものを追及してそこで優れているともなり認められることはある、そもそも人間の才能とは多様でありそれを見出して伸ばせた人もまれだとなるからである



2022年12月27日

発達障害と認知症の共通性 (家族でも他者でも悪口を言う発達障害者は嫌われる)


発達障害と認知症の共通性

(家族でも他者でも悪口を言う発達障害者は嫌われる)


発達障害の人と接してその話を家族から聞いた認知症と似ている面があると思った
家族が母親でも弟でも世話しているのだがもう限界に来てその不満を言った
もう世話できないと言っていた
弟は何かと悪者にされるだけでありなんで自分が世話しているのにそうされるのかつくづく嫌になったと言っている
母親ももう世話しきれないとなったのは自らが脳梗塞になり倒れたからである
でもその世話はできない、世話は弟がしている、その一人の弟一人にすべての金銭的負担でもかかっている、そして悪者にされるだけだと嘆いていた

どういうわけか何か認知症の人と発達障害が似ていることがあると見た
というのはどっちも世話する人であれ他者のかかわりでその他者を悪く言うのである
世話する弟が悪者にされるだけだと嘆いている時そうである
感謝したりもしない、一方的に自分の言い分だけを言いそれが通らないと悪口を言うのである、極端になると警察を呼ぶとかも言っている
そして福祉でも基本的に障害者の味方をするので世話する家族でも悪者にされると嘆いていた、つまり障害者の方の言い分を聞くのである

何かそれは認知症でもそうである、家族を警察を呼ぶと騒いだのである
なんで警察なのかと不思議であった、自分が障害があることを自覚できない、相手が悪いと常に思っている、盗まれたという時も身近な人が盗んだと必ず疑い騒ぐ
他罰的なのである

自分が悪くない、相手が悪い、悪い奴をこらししめるべきだ

こういう感情になっている、一見障害者は常に虐待されているとか問題になる
でも世話する方が家族でも虐待されていることもある
その家族は50歳まで世話して母親でも脳梗塞で倒れたとかなり限界に来て今までの鬱憤をさらけだしたのかもしれない、母親を世話するでもない、世話はできない、実際は弟が世話しているからである
だから施設に入れることを考えている、つまり家族に見捨てられた状態になったのであるこれは認知症の介護と似ていた、認知症は脳と心の病になり性格まで歪んでしまったともなるからである
それは明らかに脳が異常化したのである、脳にアミロイドが蓄積されたとかで異常をきたしたのである

発達障害の原因はわからないがこれは50歳頃まで気遣いなことがあるという
これもわからないが変わった人で通っていたのかもしれない、でもその人は計算とか漢字が書けないとかあるが話すことは達者なのである、そこに異常性が感じられないのであるそして話している限りどこが異常なのかわからないのである
ただその人は自分は悪くないし世話になっているとも思っていない、身体障害者なら補助してもらえばそれでありがたいと感謝する、でも精神と脳の障害者はそういうことはないだから助けにくいのである

ただ認知症と似ていても違っている、認知症は病気になるまでは正常なのである
たいがい70以上とかから発症する、80代になり90代になりと増えて来る
でもそれは老化でも病気なのである、違うのは正常な大人として過ごした歳月が長いから大人としての常識がある、なにもかもわからなくなった訳ではないのである
いろいろあっても親切にする人のことがわかり感謝もする、私も介護していてそれがわかっていたのである、世話になっていることを自覚して感謝していたのである
そこが発達障害者とは違っている、母親が50歳まで世話していたのにそれがわからないのである、そのことが一番母親にとっては悲しいとなる、それだけ世話しても何も感じないできないとなるからである

認知症でも何か忘れたり心配すると言い訳をする、馬鹿になったとか思わない、極端に忘れることで笑われたりすると怒ったりする、ただ自分中心になる、自分が悪いとは病気だとも思わない、でも発達障害と違うのは正常な大人としてもそれも優秀だった人も多い
だから極端に脳の認識が低下したことでそれでパニックになる
そして私の家族の場合最後まで自分は優秀だったといって死んだのである
これも悲劇だった、そして認知症は必ず正気になる
どういうわけか死ぬときは必ず正気になる、これも不思議な現象である
何もわからないと思っていてもわかっている、正気になるのである
だから不思議な病気だと思う、正直なぜそうなるのかが理解できない
発達障害の原因が何なのかどうしてそうなるのか理解できない

この場合家族は匙を投げている、施設に入れるとかしている、一回は施設に入ったが出たという、施設にはいたくないと言っている、でも世話しきれないからそうするようになる素直な馬鹿ならいいが悪知恵が働くという、自分の有利なように他者の悪口を言いそれをそのまま受け取る人もいる、私もそうだった、話すことは普通だからである
何か他者を味方にしたいのだが何かと言うと悪口を言うから嫌われる
素直な馬鹿ではなく悪知恵が働く馬鹿というのがいるのも不思議である
それはある意味で悪魔的にもなるのかと思った、馬鹿に悪知恵など働かないだろう
でも確かに発達障害者は悪知恵が働く、自分を味方にしようとして他者の悪口を言っているともなる、これは相当に厄介なものだと思った

認知症の介護で四苦八苦したからある程度は理解できなるが発達障害となるとまた違ったものとなる、これは幼児期からわかるものがなりそこで適切な対応教育でもしていれば
ある程度は治るのかもしれない、ただ50歳にもなったらもう直すことはできないだろうだから家族も見捨てたということはその後は厳しいことになる、施設に入れられ監禁されたようにして暮らす他なくなるからである
つまり家族でも手に負えなくなってそうなるからである

この発達障害でも認知症でも実際はそれが病気とは認められていなかったわからなかった特に発達障害は50歳とかまで気遣いなことがあるというのも不思議である
とういうのは発達障害でも社会生活ができていたということがあるからこれも謎である
それならニートとか引きこもりも発達障害者であり発達障害者は相当数いる
それらが病気でないにしろ社会不適応者となる、その中に歴史に名を残した人もいる、
芸術家でもいる、だから発達障害とは何なのか不可解だとなる
発達障害でもある面で優秀で才能を発揮すればそれは障害でもないとなるからである
社会に適合できない人は普通にいる、自分自身がそうである、社会不適合者であり引きこもりだったともなるからである

ただ私は他者への同情があり相手の苦しみでも理解する、世話されれば感謝もする
それが発達障害者とかにはないのは何なのだろうと思う
認知症は世話されて何も感じないかとなれば違う、感謝の気持ちは大人の経験から持つのである、世話されていることがわかり愛情をもって世話する人があればそのことはわかってい感謝しているのである
それが発達障害者にないとなるとその人はなんなのだろうとなる
だから家族から捨てられることにもなる、その時その人は悲劇になる、その人も施設入ったことがあり知っている、でも家族でも悪口を常に言い、自分は悪くないとして責めている、そうなるともう誰も味方になるものがいなくなるから辛いことになる
ただ福祉ではあくまでもそうして障害者を味方して世話する家族の味方にならないというこれも何なのか良くわからない、家族全体をケアしないと障害者は治療もできないとしているからだ

【親への復讐】が生きるベースにあるので、
何をしていても、どこにいても、【親に迷惑をかける】という行動を優先します。

これの怖いところは、
お子さん本人が親への復讐を意識していない、ということです。
意識していないのに、すべての行動が親への復讐になっているんです。

あるプログラムを絶対に実行する、
人工知能のように、ひたすら親への復讐、または、誰かへの復讐、のために行動します


その発達障害の人は死んだ父親に子供の時殴られたとか必ず責めている、でも50歳までそういうのはどうかと思う、でも復讐心がありそう言っているともなる
俺がこんなふうになったのは親のためだとなる
それは別に正常な人でもそういう人はいる、親を恨んでいる子供は普通にいる
ただそれが執拗であり執念深く病的だともなる
自分は一切悪いと思わないからである、非があると思わないからである

正直発達障害は私を理解していない、ただ認知症は介護していたので理解している
そして同じような症状があるのだと聞いて理解した
認知症でも家族に物が忘れると家族が盗んだとして攻撃してくる
家族か攻撃の対象になる、悪者にされる、世話している弟がそうさせられて不満を延々と言ったことでもわかる、つまり認知症と症状が似ていることがある
いづれにしろやっかいなのが精神障害であり脳の障害なのである
身体障害なら心は通じるが心が通じないから問題なのである
そして障害者を多数殺した人は意思疎通ができないとして殺した、心が通じあえないとして殺した、でもそれは重篤な障害者である、発達障害者は話すことは普通にできる
だから重篤な人とは違う、ただやはり心が通じ合えないということがある
それが大きな問題でありそれで匙を投げてもう世話できないとなったとなる


2022年12月23日

介護は遠くになるとうまくいかない (近くだとやりやすい―現代は広域化分散化でやりにくい)


介護は遠くになるとうまくいかない

(近くだとやりやすい―現代は広域化分散化でやりにくい)

なぜかその人は父親の介護で青森の施設に行かされた、この辺で介護士とかたりなくて人手不足でそうなった、青森には仕事がないので介護などの仕事が多いからそうなった
地方の仕事が今や介護になっているのも多いだろう
でも遠いことでいろいろ不便があったみたいだ
何かたりないものがありその後も仕送りしていた、その人の収入は少ないからその不満を語った、兄弟三人いても一人は障害者だとかなりその人だけにまかせられたためである
介護は何か誰かにまかせられるのが多いみたいだ

兄弟がいても協力するということもない、というのは誰も介護をしたくないからである
でも親の遺産は欲しいとなりもめているのが多い
それで兄弟でも一番親に良くされた人が介護しろとなるのも当然だとなる
私のように一人だとそんなことを考えることもない、一人しかないのだから否応なしに面倒みるほかないのである、それで自分の場合一人孤軍奮闘する他なかったのである
でも他にいないし相談する人もいない、だから一人っ子は育つ時は恵まれていても親の介護では一人だけになり苦しむ
でもまた兄弟がいてもうまくいかない、娘がいると助かるから娘を持てというのもわかる男は介護が向いていないからである

なんでもその人は青森から地元の施設に移るために介護タクシーを頼んで9万とかかかったと言っていた、それもわかる、青森は遠いからである、でも青森の施設にあづけてもあずけたままにはできない、何かと連絡があり金を送っていた
書類のこともありいろいろ書いたりするから離れていてわからないので青森まで行くことがあった、これも大変だと思った、ここに大きな問題があった
いくら施設にあづけて何でもしてもらえるかとなるとそうではない、何かと後で必ず連絡がありそして直接書類を書いたり離れていてはできないことがある
だから青森とか遠くなっていたことが問題だった、福島県内とか宮城県辺りだとめんどうにはならなかったのである
だからどうしても余りにも遠いとなると問題になる

私の兄は静岡に集団就職してその後連絡があったとしても夫婦が離婚して児童相談所から子供についての連絡が児童相談所からあった、離婚したとき中学生だった
でも私の家で一回しか会っていないのである、結婚した妻の実家が近くにあり行き来していた、だから妻の実家に引き取られた、その後はその実家を出て東京に出た
そうして兄が交通事故で死んだ、でも何が起きたのか、何があったのか理解できなかった消息が途絶えたわけでもない、死ぬ前に自分の家にきた、それが最後だった
こうして遠く離れて暮らすと何かあったとき何が起ったのか、事情がくみとれないのである、だから遠くなることは介護とかなると向いていない、介護とはたまに合ってできるものではない、近くにいて毎日のように様子を見るとか介護するとかなるからである
それで隣近所とかが向いている、家の延長のようにしてあるからである
でも今は隣近所も何の仕事をしているのかわからない、疎遠になっている
時代的に孤独死が増えてくるのも身近でつながりが希薄化しているからである

それで意外と原町だと8キロしかないとしても毎日のように往き来していたらめんどうなのである、相馬市でも倍の距離があるからめんどうになる
週に一回娘が相馬市から来ている人がいる、近いようで遠い、車かあったとしても手間なのである、それで遠いと介護は向いていない、隣近所だったらすぐに行けるから楽なのである、そして今は兄弟でも娘でも遠くに仕事をもち女性でも遠くに嫁ぐ人が多い
すると遠いということは介護しにくいのである
介護に関しては今の時代はかえっていろいろそろっていても不利である
近くに住んでいないと役にたたないのである

自分の場合車がないので原町に大きな病院が相馬市にもあるとしても通うようになるとめんどうだった、車がないことは田舎ではこういうとき不便になる
でも介護というとき車があっても近くでないと不便であり手間になる
それで介護する人でも田舎だと車で離れた地域を一軒一軒回るのも手間なのである
何か厳罰避難区域の人が離れて住んでいて仮設で一緒に住んだら女の人は話し相手とか仲間できていつでも話せるから良かったとなっている
何かその時は互いに助け合うとか助けられる関係になっていたのだろう
でも市営住宅とかに住んでいる人達は別に助け合わない、それで隣に住んでいた人が半年くらい死んだのがわからなかったのである,電灯がついていたのでいると思っていたという、近くに兄弟も住んでいたがかかわらなかった
田舎でもこういう時代である、その住宅で親密に付き合うとういこともない
江戸時代なら人情長屋とかなっていたが今はそんなことないのである
都会のように無関心になっている、だからこそ田舎でも孤独死はある

その人は本当に8050問題の人だった、親が80歳になり介護する人が50歳になっていたからである、ちょうどそういう年齢になっていたのである
団塊の世代が75才以上になり子供50歳とかなる、母親は72歳で脳梗塞になった
でも軽かったからしゃべれるし歩くこともできたから軽かったなと不思議だった
その息子が一人介護をたくされた、でも朝5時に出て建築工事現場で働きにでている
別に家で介護しているわけではないから苦しいにしてもまだ仕事はできる
でも仕事ができなくり会社を辞めて収入がなくなり困窮している人も多い
金もかかるから働かないと収入がなくなりこまる、でも自宅で介護するとなると会社をやめざるをえなくなるのである
これも大きな問題でありそこで悲劇も起きて来る、原町で認知症の母親を介護している息子が殺した事件がそうだった、オムツとりかえるとき母親が騒いで殺したという
それもわかる、認知症の介護は一番過酷だからである、それは自分自身も経験しているからわかる

とにかく8050問題は深刻である、団塊の世代は数が多いからである、その数の故に負担が増大するからである、そこで悲劇が起きてくるのは目に見えている
家族遺棄社会にもなる、なぜなら自分も経験したように家族だけでめんどうみるのは限界があるからだ、それでもう家族でも捨てた方がいいとなる
息子娘でも今は日本が貧困化して金銭的にも余裕がないからである
そして金だけでも解決しない、人間の手間がかかる、誰かがつききりでめんどうみないといけない、それで会社を辞める人がいる、でもそうなると収入がなくなり追い詰められるとなる、そういうふうに追い詰められる人が膨大に増えて来る
その人はまだ母親が軽い脳梗塞ですんだ、在宅で介護するにしても楽である
でも金には余裕がないから不満を延々と言っていた

私の場合は不満など言う相手もいなかった、でも終わってみれば人間は辛かったことも忘れるものだと思った
でも病院で虐待されたとか何かとひどい目にあったことは忘れられない、でも人間は時間が浄化する、どんな苦しいことでも終わってみれば忘れるものだと思った
すでに姉は死んで十年すぎたし母もすでに死んで5年もすぎた
とにかく時間が過ぎるのは早い、次々に今や知っている人が近くでも死んでゆく
そういう年になった、だから死神に追われる師走かなともなったのである



2022年12月17日

意外と元気で退院した脳卒中の女性 (人間を左右するのは運、めぐり合わせも運?余裕がないと援助もできない)


意外と元気で退院した脳卒中の女性

(人間を左右するのは運、めぐり合わせも運?余裕がないと援助もできない)


昨日退院して今日自分の家に息子の車に乗って来た
あれ意外と元気だと見た、普通にしゃべれる、今日の朝住宅の前で洗濯物を干していた
立ってあんなことできるのかと見た
というのはもう一人の障害者の息子がひどい顔しているから逢わない方がいいと言っていたからである、でも今日見た限りそう見えなかった
ともかく発達障害者の言うことは何かわかりにくいから困る、そのまま信用できないのである
別にひどい顔もしていない、マスクしているにしてもそう見えなかった
それで結構回復すると見た
かなり軽くてすんだのかもしれない、脳卒中というのは人によってかなり違っている
なぜなら脳のどの部分が損傷したかで不具合が生まれるからである
だから人によって違うのである
ある人は脚がだめになったとかある人はしゃべれなくなったとかある人は・・になったとか違っている
その女性は手がきかなくなった、でも今日の朝みたとき立って洗濯物を干していた
あんなことができるのかと見たのである、退院したばかりでそんなことができるのかと見た

でも二カ月入院していた、それは脳卒中では短い方だったのかもしれない
何か軽いとみたのである、しゃべることは普通である、その人はとにかくしゃべる人であり話がうまい人だったからである、そうなるとしゃべることが普通にできることは自分なり生活ができるかもしれないとなる
ただ親しく毎日通っていたやはり病気の老人の所には行かなくなる
何かやはりうまくいかないことがあった、病気になって入院しても連絡もなかったとかなる
その女性は毎日苦しくても行っていたのである、でも何かその娘でも気遣いがなかった
一週間に一回隣の市から来るだけだった
そして他人が入るのを嫌がっていたのである、でも最近は話もして納得していたのであるでもこれからは行かなくなるのかもしれない、すぐ近くなのだけどあの調子では行けるようになるにしても行かなくなるのかもしれない、ちょっと対応がまずかったともなる
いつも娘のことを悪く言っていたからである、こうして介護とかなる人間関係でもめるのである
自分自身でも前の親戚とはいろいろあって切れた、自分が病気であり介護しているのに
事業で失敗したから借金しているから余裕がないからそうなったのである

つくづく余裕がないということは他人のめんどうなとそもそも見れないのである
何か自分自身がその女性のこと特別に親切にしているとかではない
たまたまそうなったのでありもし自分に余裕がなかったそんなことしていないのである
それはたまたま前の猫が死んで餌をやる時、餌を奪いにきていた黒い猫がいた
それを追い出していたが飼っていた猫が死んだのでその黒い猫に餌をやるようになった
でもこの猫は慣れないしかわいいともならないのである
でもなぜか餌をやっているのである
それとにていて人間の運命とは何かこうして出合いでもたまたま事情が生まれてその時々の状態の変化とかでそうなる
知っている女性が結婚したのはその家の両親が死んだためらしい、そして残された息子がいてその人と結婚したからである
好き嫌いはあるにしても何か人間には事情があって親しくなることがある

このめぐり合わせも縁も不思議なのである、もしかしたら神が出合わせているのかともなる、でも婚活とか演出しても意外とうまくいかないこともある
それはめぐりあわせが人工的に演出しているからかもしれない、そもそも人のめぐり合わせも不可解であり不思議なのである
そういうことはみんな身近に見ているだろう、なぜそういう関係になったのかとんうのも不思議だからである、だから人工的に作為的に人を出合わせようとしてもかえってうまくいかないことがある

ただ確かなことは別に自分はその女性に援助したいからしているのでばない
たまたまめぐりわあせでそうなったのと自分に金の余裕が今はあるからだとなる
こういうことで人間は意外と余裕がないと人を助けることなどできないのである
それでけ経済的に余裕がなくなる社会は危険なのである
みんな食べるものがないとか餓えていればもしそこに食べ物があるとき襲うようになる
米騒動などがそうだった、他にも中国では必ず食料不足になり暴動が起きて政権が倒れたからである、つまり人間が余裕がなくなることは内外でも危険なのである
中国でも食料不足になったら他国に侵入して奪いとなるからである

いづれにしろ意外と軽かったのか、脳卒中になった人は多い、それで夫を十年妻が介護していたという人を何人か知っている、それも長いのである、十年とか普通なのである
そのために脳卒中では簡単には死なないことは知っていたのである
そのためにかえって介護が長くなるから参ってしまうのである
その人を今日見た限り軽かったのかとみる、まずしゃべることは正常だということは脳損傷が軽かったのかとなる
ともかく脳卒中ではすぐには死なない、ただ私の姉は認知症になりすぐに脳卒中になり二年くらいで死んだのである、これは認知症があって脳卒中があったからそうなったのか?その辺が理解しにくい、認知症⇒脳卒中 脳卒中⇒認知症とかにもなる
これがどう関係あるのかわかりにくいのである

とにかくあの調子だとかなり回復する、だから意外だった、もっと悪いと見ていたからである、なぜそうなったのかというと発達障害者が仲介者となって伝えたからである
それで誤解したのかとなる、これも問題だった、やはりちょんとした人がいて伝えないと誤解するようになる、発達障碍者であり障害者と付き合うのはめんどうになる
何を言っているのか理解しにくいことがある、でもその障害者も軽いから普通の人と同じように見てしまうのである、でもその人を信用はできないともなる

いづれにしろ介護はこれから8050 問題で深刻になる、その息子もやはり50代だからである
そして氷河期世代とかなり金銭的余裕もないからである、この問題はこれから数が増えるから深刻である
近くで認知症の母親を介護しておむつとりかえるとき騒いで困り殺したという事件があった
これも悲惨だった、認知症は一番介護しにくい、またオムツをとりかえるとなると男性は苦しくなる
男性はもともと介護はしにくいから殺人になっているのは男性なのである
こういう事件はこれから頻繁に起きるかもしれないねなにしろ団塊の世代が数が多いからそうなる
その中には悲惨な状態になる人が多いとなる
私自身書いてきたようにもう死ぬ思いであり地獄だったからである
その時ただ責められるだけだったのである、多少は援助があっても周りにそうした余裕がある人がいなかったとなる
こういうとき相談できる人がいると助かる、でも金銭的なこととか簡単にはできないし相談にのるとして
負担が大きいから関係したくないとなる
そこで重要なのは援助するにしても余裕がないとできないのである

2022年12月11日

遺骨の物語 (人が残すものは何なのかー骨ではない―家族遺棄社会を読む)


遺骨の物語

(人が残すものは何なのかー骨ではない―家族遺棄社会を読む)

●兄の悲惨な人生

人間が残すものは何なのか?
死ねば灰となり骨となる、実際は骨は残らない、灰となり土となる
私の兄の骨は母の実家に埋められた
そのいきさつは兄は中卒で金の卵として集団就職した
私の家には母は後妻になり私を産んだ、兄は連れ子であり私の家には五年しかいなかったでも五年間は幼い時一緒に暮らしていた
だから「あんにゃ」と言っていたのである
でも私の父親は良くしないで母の実家で生活することになった
その時一緒にめい子がいたのだがその人は一緒に生活をしたことがないと言っているのも不可解だった、ただその非情化して育ての親のめんどうも見ず最後に「ひどい娘だわ」と私に言って死んだのである
もともと付き合いもなくなっていたのでその事情はわからない、その母親のことは私の家ではよく思っていなかったからである

でも育ての親なのだから何かあったにしろ病気なのに何の心配もしないというのは理解できなかった、だからこそ五年間一緒に暮らした兄のこともいないとなったのである
何かしら人間が記憶にとどめないという時、その人にとって存在しないものとなる
それは肉親でも起きているのである、親のことはかかわりたくない、知らないとなり
遺骨でも引き取りに来ないとなる、それだけ毒親に苦しめられた人もいる
そういうことが本当に私には理解できないのである
というのは私は特別親に良くされたからである、私は別に無職でも家で引きこもっていても何も責められることがなかったのである、そしてなぜ私が死んでも二人の親のことを思いつづけているのかとなるとやはり60歳まで長く一緒に暮らしていたことにあった
人間はいくら両親でも何でも離れて暮らすと疎遠になり情も喪失してゆくのである
だから子供の時一緒に共に暮らさなければ育てられなければ親とも認識できないのであるそれで犬でも猫でも他の動物でも子供の時に育てられると親だと思ってしまうのである

●お骨をめぐる争いーそれは金をめぐる争いだった

それで普通は子供でも成長して結婚したりすると疎遠になる、愛情でもうすれてゆくのである、去る者は日々に疎しとなるのである、そもそも離れて暮らすと相手の事情すらわからなくなる、その人は離れて全く別な人生を生きるようになるからである
その生活する場所ば違ってくるからである、それで再会したとしてもなかなか話でも通じなくなる、意思疎通ができなくなるのである
だから兄に何が起きたのかわからなくなっていた、でも交通事故で死んだというとき連絡があった、その前に離婚していて何か児童相談所から施設に入ったということでどうするのかということで連絡があった、それも何か事情がのみこめなかったのである
トラック運転手となり小さな会社に入った、その会社では死んだので遺体をひきとった
葬式もそこでしたのである、その後にもめたのである

「お骨はもってゆくな、墓は作ってやる」

こう言われたのである、それも何のことかわからなかった、私は車を持っていないので
自賠とか任意の保証のことがわからなかったのである
どうもその保険金の受け取り人になりたくてそう言ったとなる
実の母が来たので身よりがなくて来たと思っていたのである
それで乞食のようにして来たが私が雇ってやったのだと恩きせがましく言っていたのである、そう言われても私の家では兄に良くしていないから私は嫌で三日位で帰ってきたのである、本当は妻がいてもらえるものだったのである
ところが一週間前とかなのか離婚していたのである、正式に書類を書いて離婚が成立していたのである、でもまだ未成年だから私の母が後見人になった
離婚した原因は借金したとかあり住んでいる団地なのかわからないが追い出されたことにあった
それで母の所へ金をくれと来たことがあったことを思い出した、母は金をやったのである
そして兄の娘は妻の実家にひきとられた、そこには兄がいたからである
それももともと妻の実家とは付き合いがあり交流していたからである、同じ地域でありそうなったのである、私の家では静岡とかなると遠いから何が起きたのかわからなかったのである、人間はとにかくこうして離れてしまうと疎遠になる、そうして突然不幸が起きてもその事情もわからなくなるから困るのである
もし近くに住んでいればそうはならなかったのである、だから人間はいくら親でも兄弟でも離れて暮らすとそれも遠くなると何か事情がわからなくなるのである

そうして兄のお骨は母が背負ってきて母の実家の墓に埋めた、そこで五年間は暮らしたからである、そして墓から今度はお骨を取りだそうとしたら骨がなくなった土になっていたのである、でも実家の墓は長男の人が300万円をめい子にやって「墓を守ってくれ」と言って死んだのである、だから墓参りはしているのである
私は怖くなったので実家の墓参りもしていない、母の実家もまた複雑であり後妻に来た人が継母になりいじめられたのである、そしてその後妻に来た女性も昔の養老院に長く入ったいたのだが眼が見えなくなったり精神的に何かおかしくなった
そして母が様子見に行っていたが死んだ、その骨は約束していた大学病院で解剖されて
骨として自分の家にもたらされたのである
兄の墓は母親の実家から私の家の墓の隣に墓標をたててある、でもその物語を知る人もいない、娘がいたが金でしか関係ないから金が与えた時は来ていたが来なくなった
墓を作ったから10万円やるからと言っても来なかった、あとは一切連絡もない
離れていてもともと疎遠だったからではあるが一応父親だから何か思いがあるのかと見ていたがなかった、ただ親にひどい目にあった被害者という意識しかなかったかとなる
家族遺棄する人はそういう人が多いとなる

●遺骨より人間が残すのは物語(history)だった

一体ここで遺骨のことが問題になった、でも遺骨がそんなに大事なものなのか?
人間は死ぬと結局灰となり土となり何も残らないのではないか?
だからそもそも遺骨にこだわることが理解できないとなる
それで家族遺棄社会では肉親でも親ガチャで育った子供は今遺骨もひきとらないのが多いとなっている、ここに見えるのは遺骨でもそこには依然としてこの世のことがかかわり
必ずしも手厚く供養するとはなっていないのである
そこに人間の欲がうごめき遺骨でも金になるとなればそれを手段にして金をとろうともするのである、この世とはこうして恐ろしい場所である、あらゆることが人間の欲によって翻弄されるのである、カルト教団でも実際は金を収奪するためだとなるのもそうである
ここに人間の欲の恐ろしさがある、要するに骨などどうでもいいとなる
骨をひきとってもそれが金になるわけでもないからである
肉親でもそうなるとき生前に親にひどい目にあっている毒親だったら骨などはいらないとなる、でも遺産があり金が入るとなる引き取ってもいいとかなる
結局地獄の沙汰も金しだいとなっているのである
死ぬまで骨になってもでこの世の欲の対象になっているのである

そもそもお骨などもうそこに何か宿っているわけでもない、海にまくなり土にもなるから維持できない、すると何もなくなるのである、では何が人間に残るのか?
それは個々人の人生なのである、どんな人生を送ったかがその人の一生であり骨をみたってそんなことわからないのである
ふしだらな親だったら子供でもその人を大事にはしない、だからお骨でも取りにこないとなる、もちろん介護などは大変な苦労なのだからしたかくないから捨てるとなる
ただ骨をひきとったからといってそれが苦労になるともならない、でもめんどうだから市役所で処理してくださいとなる
家族遺棄社会となりそういう人達が増えているのである

でも逆に人間は死んでから大切にされることがある、妻が死んでから十年とかすぎても毎日手を合わせて供養している人もいる、他にもそういう人は結構いるのである
家族遺棄社会でもやはり死者を大事にしている人はいる、親を大事にしない人が多くなっているのは確かである、それはやはり時代なのだろう
私は特別二人の親に良くされたから死んでから余計に感謝するようになった
毎日熱いお茶を献げて遺影に向かい話しかけて感謝しているのである
それは特殊な事情があってそうなった、父親が中学の時死んでその後を姉と母が家を守って自分も育ててくれたしその後も60歳までも自由に生かさせてくれた
だから一緒に暮らした時間の長さにもよっていたのである
娘でも結婚して離れてしまうと特に遠くに行ってしまうと疎遠になってゆく、忘れてゆくでも一緒に暮らしているとそこで仲たがいがあったとしても憎んでいたとしてもやはり
愛情が通うようになっていたのである
だから死んでからも忘れられない人、愛される人が家族遺棄社会になってもいる
その親は死んでも実際残された人の中に生き続けるのである
でも毒親となればたちまち嫌なことが思い出したりフラッシュバックになり思いだしたないとなりやがて忘れられるのである

●人間が死んで語るものは何か

いづれにしろ人間は骨になり灰になる、でも実際は人間はみんな消えるわけではない、
残された人の中に生き続けているのである、そういう親とか妻とか夫とかになっている人は幸せだとなる、人間を決めるのは生前の生きざまというか子供でもどういうふうに接したかによる、それは個々に違っているから理解しにくいのである
家族でも十人十色だから理解しにくいのである
ともかく人生の最後に死んでからでもあの人はどういう人だったとか明確になり語られることになる、そして死んでもその人は骨となり灰となるだけではない、語られまた感謝される死者になればその生は無駄だっとはならない
でも親でも思い出したくないとか普通の人でもあの嫌な人が死んでせいせいしたとかなるそういう人も多いのである、近くにいた医者はみんな生きている時は常に語られていた
でも死んだら誰も語らないのである、その医者にかかった人も死んだからだとはなる
その医者は腕が良かったのだが性格的に冷たい所がありそうなったのかとなる
その一人息子も最近死んだから肉親はないないのである

そしてその住居は廃屋となっている、今年の地震で屋根瓦が壊れたが直していないのである、いい庭があるからもったいなとなる、でもそういう空家は多いからここだけのことではない、ともかく人間の一生は骨とかで語られるわけではない、それは結局灰となり土となるだげである、その人の一生を語るのはどういうふうに生きたかによる
そしてその親の子供でも親を思い出す時不快になるというときその親はもう親でないともなる、むしろ親切にしてくれた他人の方が親しい人ともなる
ただ現代は人間も一般的に薄情になっている、だから家族すら捨てる家族遺棄社会になっている、特に介護となると負担が多いためにそうなっているから必ずしも責めることもできない、親に苦しめられた人はどうしても介護することは無理だからである
つまり介護となると気持がないとできない、必ず気持が現れるからしにくいのである

この人のために何もしたくないとなるからである、だから私自身もそのことを経験した
その人は私のために箱一つも持つの嫌がっていたし入院して手術するときも側にいるのもただ座っているのも嫌がっていた、ただ金が欲しいというだけになっていた
これも自分のカルマだったが親でもそうなる、その人のために何もしたくない
とても介護となったら負担なのだからできない、でもお骨などはたいして迷惑もかけないのだから供養はできるとはなる、でもそれすら嫌がるとなる
それもその人の接し方とか生き様とかにかかわっているのである
そのために人間は骨とかがその人を語ることはないし骨などどうでもいいとも見る
それよりどういうふうに生きたとかどういうふうに接したとかが大事になる
だから親子ですらその接し方によって育て方によって他人以下にもなるのである

●事実は小説より奇なりー統計的数字化されるとhistoryは消失する

ともかく人間の一生は本当にそれぞれに事実は小説より奇なりとなる
これは全く架空の話ではない、事実そのものだからである、小説でもないのである
これは小説の題材になるとして事実なのである
つまり歴史はHISTORYでありHI-STORYでありstory(物語)なのである
人間は最後にみんななんでも物語となるのである、個々人の物語となるのである
ただ物語というとき戦争のように3百万に死んだとかあってもそういう歴史の巨大な物語でも何かぴんとこないのである、それだけの人間が死んだら語られるつづけるとしても
何か訴えるものがないのである、もちろん語られることはある、今でも陸軍二等兵だとか必ず軍隊の位を記してある、それは当時にしたら名誉の戦死とかあり誇るものだったからである、それでまた必ず村の神社にも戦争のために祈り出征したのである
 とか記されているからである、でももともと神社は戦争とはみんな関係しているわけではない、だから今になると違和感を覚えるのである、たいがい豊作を祈るものとなっていたからである
 shrain1.jpg

飯館村大倉の神社


 ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である
 ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる
 ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない
 そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ
 人間が被害においてついに自立できず、
 ただ集団であるに過ぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままで あるだろう
 死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである
 人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ
『望郷と海』(石原吉郎)

これはシベリア抑留した人が言っている、その過酷な体験を書いている
つまり人間が統計となり数となったとき個々人の物語は消失する
だから3百万人死んだとか言われてもそれだけの人間が死んでも何か伝えるのかとなると訴えるものがないのである、でも個々人が戦争の体験を語る時は感じることがある
つまり人間は数値化して数化すると生々しい体験でも消失するともなる
例えばカルト教団などでもそうである、そこは一票を得ることしか関心がなく何百万人会員がいたとしてもその個々人のことは語られないし戦争で三百万人死んだと同じである
個々人が消失してただ数だけになるのである、それが非人間的なものとなりナチスと同じようになるのである、現代の危険はあらゆるものが数で処理され数が恐怖となる
でも数を言う割には何かそこに訴えるものがない、だから三百万に死んだからといって
訴えるものがないのである
だからとにかく普通の人でも何も功績もない人でもその個々人を語るとそこに物語をhistyoryを感じるのである、人間が残すのは骨ではない、historyなのである
だから骨がどうのこうのと大事にするのが理解できないとはなる
骨が語るのは単なる成分としてカルシウムだともなるからである



個々人で記録を残すことはインタ−ネットで容易になったが・・・・

今は自伝とかでも家族のことでも別に書いて発表できる、プログなど簡単だからできる
個々の一生を語ることができる、でも今老人になっている人達は80以上とかなるとインタ−ネットなどにうといからほずかしい
ても今や庶民でもいくらでも人生を語ることができるし記録として残すことができる
今でもそうだが自伝で本を出すとかなると百万かかるとかなりできないし書店にも置けなかった
そういうものは売れないからである、そもそも書店でもなくなっている
インタ−ネットなら誰でも何でも書いて発表できるし記録として残る
でも問題はその記録も一瞬にして消えることがあり問題なのである
私がいろいろなことをこんなに気軽に書いて記録しているのは簡単だからである
確かに手間はかかる簡単だからしているのである
普通は家族のことなど書けない、有名な人なら書いて読む人もいるか普通はいない
でも記録として残せば郷土史とかの資料になることは確かである
今なら本でもアマゾンで一冊でも出せるとなっている、それをやろうとしているのだが何かめんどうになりしていない
何か手間だけは省けないのである、それで毎日記事を書くのに時間がとられる
その他家事に時間がとられてできないとなる

2022年12月04日

なぜ脳卒中になる症状として見抜けなかったのか? (大事な医者の選択ーでも名医はめったにいない)


 なぜ脳卒中になる症状として見抜けなかったのか?

 (大事な医者の選択ーでも名医はめったにいない)

 hospitalmmm1.jpg

 これだけ症状がでていれば医者なら脳卒中の兆候として危険信号であり対処していたはずである、遠くでMRI検査して近くでも脳神経科でもした、そこは民間でも機械があった
それでも脳卒中の前兆として判断しなかった
ただ危険性があるからMRIで検査するように指示したのかもしれない
でもこの三つの症状は脳卒中の症状であり明確でもある

判断できなかったのは

●手が麻痺して悪い

●片目が見えにくい

●目まいする

これらの症状を一つのものとして見ないで別々に見てわからなかったのか?
これは総合的に診なければわからないものだった
眼が見えずらいと眼科にも行った、それも仙台市の評判のいい医者にわざわざ行って診てもらっていた、でももしかしたらその医者は眼ばかり診ていたのかもしれない
もし体全体を診ていたら医者なのだから脳卒中の危険があると判断したかもしれない
これは私が思うに

診てもらう医者がだめだった

近くに脳専門家の優秀な医者がいた

その人に診てもらうべきだった

こうなる、南相馬市立病院は脳卒中のための専門病棟を新しく作った
副医院長が優秀であり若い医者も習いに来ているというからである
同級生の人は九死に一生を得て助かった、早く病院に行って血管にカーテルを入れて助かった、それは早く行って助かったのである
今も普通に生活しているのである
ただ脳卒中は多い、特に相馬地域では原因がわからないか多い
またこの辺で放射線の影響が出ているかもしれない、その因果関係はわからない

ここで大事なことは医者を選ばないと命にかかわる

でも名医はめったにいない

医者というのはこうして診てもらう医者によって命まで左右されるから怖いのである
ただなぜ近くに脳卒中専門の病院がありそこで診てもらうように指示されなかったのか?それも良くわからない、わざわざ遠くの病院に行く必要もなかったのである
その時は何の病気かわからないからそうしたとしても何か理解できないのである

大事なことは医者を選ばないと命にかかわる、でもそもそも名医にかかることは田舎ではできないし他でも簡単にできないのである
名医がどこにいるかもわかりにくいからである
だから下手でも近くの医者にかかるほかないのである

そして現代は総合的に診る医者はいない、みんな専門に分かれて全体の体を診る人はいないのである、それはあらゆる分野でそうである
福島原発の所長だった人も肝心の復水器とか他のことでもわからないと言っていた
専門が違うからわからないと言っていた、現代は総合的に見ことができない社会である
どこの社長でも会社のことを全部知る人はいないのである
それだけ複雑化した社会で思わぬ事故となる、全体を観て指示できる人などいないからである

でも今回のことはいくら専門化しているからといっても明らかに脳卒中の症状がでていたのに治療もしなかった、それが理解できないのである
その女性が脳卒中になった原因の一つが煙草にあった、ストレスがあり常に煙草を吸っていたのである、煙草は癌とは関係ないということは聴いていた
でもそれは明らかに血管にいいものではなかったのである
ここでも癌になるこの原因が煙草ではないということは聴いて知っていた
でも血管に悪いということは聴いていなかった、調べてもいなかった
こうして様々な原因があってもそれをみんな知り得る人はいないのである
突然認知症の症状が出たり脳卒中になるから戸惑うのである
津浪でもそうだが突然起きることに人間は弱いのである
だから日ごろから病気でもある程度は知っている必要がある、それは専門的でなくても
知ることができる、脳卒中でも事前にその症状を知って入れば対処方法があったとなる
いい医者とは見立てに優れている人だという、病名がわかれば対処方法がわかるからそうなる、脳卒中だと見抜けば対処方法がわかり治療でもできるとなるからである

 もう一つの問題は医者自体が高齢化していることである、近くでは90歳まで現役であった
でも日進月歩している医療の分野でも老人の医者は経験はあるのだが新しい技術とか取り入れられないのである
それはIT関係でもそうである、自転車屋でも若い人が経営している自転車屋に行けというときそうである
新しい技術を取り入れていないし分らなくなっているからである
確かに経験があるのだからいい面としてあっても技術的なものは進歩が速いからである
老人はそれに追いつけないのである,スマホでもそうである、これもパソコンとにていても違っているから使いにくいとなる
正直田舎では新しい自転車を買うにも買えないことがわかった
というのは外国製も多いしアフターサービスができないからである
エンジンごと取り替えたこともあったからである、通販だとそこが大きな問題になっているのである
まず田舎でもあらゆる所で老人しかいないともなる、農業でも65歳以上がほいとんどだとかなり自転車屋にしてもそうである
あらゆる場所で高齢化しているのである、そして若い人がいたとしても嫁になる若い女性がいないとなっている
だから若い人は貴重になるとか子供みるとここにいたのかとめずらしくもなり大事にされるとなる

いづれにしろ人間は変化である、無常である、その女性は親しくしている糖尿病の治療をししている男性の呼ばれて毎日行っていたのである
それは歩いても行ける近い場所だったから行けたのである
でも苦しいといつも言っていた、それは体が脳卒中になるのだからそうなっていたのである
そうして今や近くでも行けなくなった、もう歩くことができるのかトイレには自力で行っている、でもその親しい男性の家まで行けないようになったとするとこれも信じられない今まで近くで会っていたのに会えないとなったのである
これもそんなことがあるのかとなる、すぐ近くでありそれでも会えない、またどっちも病気なのだから見舞いもできないとなったのである
こういうことは高齢化社会で普通に起きて来る、そして介護とかなると本当は近くがいいのである、その女性は親しい男性のすぐ近くでありだからこそ行けたのである
でも隣の市かなると相馬市となると結構遠くなる、娘が一週間に一回は来ているが意外と車でも頻繁に来ることはむずかしいのである

介護の手助けとかは近くの人が向いているのである
でも今の社会は隣近所でも疎遠になっている、誰が何をしているかもわかりにくい
家族でも核家族になったり家族の力が弱体化している
それで介護の時に孤立しやすく介護の悲劇が起きて来る
家族だけでも看れないからである、施設に入るにも金がないとかなりできない人もいる
そして8050問題が深刻になってゆく、それがすでにもう現れている
50歳の人が80歳の人を介護することになる、また老々介護にもなる
そして共倒れにもなる悲劇が起きて来る
たとえ夫婦でも必ず一方が介護状態になるし死んでゆくから安心できないのである


なぜ脳卒中になる症状として見抜けなかったのか? (大事な医者の選択ーでも名医はめったにいない)


 なぜ脳卒中になる症状として見抜けなかったのか?

 (大事な医者の選択ーでも名医はめったにいない)

 hospitalmmm1.jpg

 これだけ症状がでていれば医者なら脳卒中の兆候として危険信号であり対処していたはずである、遠くでMRI検査して近くでも脳神経科でもした、そこは民間でも機械があった
それでも脳卒中の前兆として判断しなかった
ただ危険性があるからMRIで検査するように指示したのかもしれない
でもこの三つの症状は脳卒中の症状であり明確でもある

判断できなかったのは

●手が麻痺して悪い

●片目が見えにくい

●目まいする

これらの症状を一つのものとして見ないで別々に見てわからなかったのか?
これは総合的に診なければわからないものだった
眼が見えずらいと眼科にも行った、それも仙台市の評判のいい医者にわざわざ行って診てもらっていた、でももしかしたらその医者は眼ばかり診ていたのかもしれない
もし体全体を診ていたら医者なのだから脳卒中の危険があると判断したかもしれない
これは私が思うに

診てもらう医者がだめだった

近くに脳専門家の優秀な医者がいた

その人に診てもらうべきだった

こうなる、南相馬市立病院は脳卒中のための専門病棟を新しく作った
副医院長が優秀であり若い医者も習いに来ているというからである
同級生の人は九死に一生を得て助かった、早く病院に行って血管にカーテルを入れて助かった、それは早く行って助かったのである
今も普通に生活しているのである
ただ脳卒中は多い、特に相馬地域では原因がわからないか多い
またこの辺で放射線の影響が出ているかもしれない、その因果関係はわからない

ここで大事なことは医者を選ばないと命にかかわる

でも名医はめったにいない

医者というのはこうして診てもらう医者によって命まで左右されるから怖いのである
ただなぜ近くに脳卒中専門の病院がありそこで診てもらうように指示されなかったのか?それも良くわからない、わざわざ遠くの病院に行く必要もなかったのである
その時は何の病気かわからないからそうしたとしても何か理解できないのである

大事なことは医者を選ばないと命にかかわる、でもそもそも名医にかかることは田舎ではできないし他でも簡単にできないのである
名医がどこにいるかもわかりにくいからである
だから下手でも近くの医者にかかるほかないのである

そして現代は総合的に診る医者はいない、みんな専門に分かれて全体の体を診る人はいないのである、それはあらゆる分野でそうである
福島原発の所長だった人も肝心の復水器とか他のことでもわからないと言っていた
専門が違うからわからないと言っていた、現代は総合的に見ことができない社会である
どこの社長でも会社のことを全部知る人はいないのである
それだけ複雑化した社会で思わぬ事故となる、全体を観て指示できる人などいないからである

でも今回のことはいくら専門化しているからといっても明らかに脳卒中の症状がでていたのに治療もしなかった、それが理解できないのである
その女性が脳卒中になった原因の一つが煙草にあった、ストレスがあり常に煙草を吸っていたのである、煙草は癌とは関係ないということは聴いていた
でもそれは明らかに血管にいいものではなかったのである
ここでも癌になるこの原因が煙草ではないということは聴いて知っていた
でも血管に悪いということは聴いていなかった、調べてもいなかった
こうして様々な原因があってもそれをみんな知り得る人はいないのである
突然認知症の症状が出たり脳卒中になるから戸惑うのである
津浪でもそうだが突然起きることに人間は弱いのである
だから日ごろから病気でもある程度は知っている必要がある、それは専門的でなくても
知ることができる、脳卒中でも事前にその症状を知って入れば対処方法があったとなる
いい医者とは見立てに優れている人だという、病名がわかれば対処方法がわかるからそうなる、脳卒中だと見抜けば対処方法がわかり治療でもできるとなるからである

 もう一つの問題は医者自体が高齢化していることである、近くでは90歳まで現役であった
でも日進月歩している医療の分野でも老人の医者は経験はあるのだが新しい技術とか取り入れられないのである
それはIT関係でもそうである、自転車屋でも若い人が経営している自転車屋に行けというときそうである
新しい技術を取り入れていないし分らなくなっているからである
確かに経験があるのだからいい面としてあっても技術的なものは進歩が速いからである
老人はそれに追いつけないのである,スマホでもそうである、これもパソコンとにていても違っているから使いにくいとなる
正直田舎では新しい自転車を買うにも買えないことがわかった
というのは外国製も多いしアフターサービスができないからである
エンジンごと取り替えたこともあったからである、通販だとそこが大きな問題になっているのである
まず田舎でもあらゆる所で老人しかいないともなる、農業でも65歳以上がほいとんどだとかなり自転車屋にしてもそうである
あらゆる場所で高齢化しているのである、そして若い人がいたとしても嫁になる若い女性がいないとなっている
だから若い人は貴重になるとか子供みるとここにいたのかとめずらしくもなり大事にされるとなる

いづれにしろ人間は変化である、無常である、その女性は親しくしている糖尿病の治療をししている男性の呼ばれて毎日行っていたのである
それは歩いても行ける近い場所だったから行けたのである
でも苦しいといつも言っていた、それは体が脳卒中になるのだからそうなっていたのである
そうして今や近くでも行けなくなった、もう歩くことができるのかトイレには自力で行っている、でもその親しい男性の家まで行けないようになったとするとこれも信じられない今まで近くで会っていたのに会えないとなったのである
これもそんなことがあるのかとなる、すぐ近くでありそれでも会えない、またどっちも病気なのだから見舞いもできないとなったのである
こういうことは高齢化社会で普通に起きて来る、そして介護とかなると本当は近くがいいのである、その女性は親しい男性のすぐ近くでありだからこそ行けたのである
でも隣の市かなると相馬市となると結構遠くなる、娘が一週間に一回は来ているが意外と車でも頻繁に来ることはむずかしいのである

介護の手助けとかは近くの人が向いているのである
でも今の社会は隣近所でも疎遠になっている、誰が何をしているかもわかりにくい
家族でも核家族になったり家族の力が弱体化している
それで介護の時に孤立しやすく介護の悲劇が起きて来る
家族だけでも看れないからである、施設に入るにも金がないとかなりできない人もいる
そして8050問題が深刻になってゆく、それがすでにもう現れている
50歳の人が80歳の人を介護することになる、また老々介護にもなる
そして共倒れにもなる悲劇が起きて来る
たとえ夫婦でも必ず一方が介護状態になるし死んでゆくから安心できないのである


2022年10月31日

専門家でなくても病気でも知識を持つことは可能 (オンライン診療は普及させるべき―田舎では特に必要)


専門家でなくても病気でも知識を持つことは可能

(オンライン診療は普及させるべき―田舎では特に必要)



公立・公的病院の経営は厳しく、そのうちの約60%が赤字です。ここでいう公立病院とは自治体が母体となる病院であり、公的病院とは公的機関(例えば、日本赤十字社)が母体となる病院です。

現状では、高度急性期と急性期病床が約70%と過剰です。今後、住民の高齢化に伴って必要数が増える回復期、慢性期病床への転換が遅れています。高齢者が望んでいるリハビリテーション向けの病床は、約20.4万床不足しています。これは、高度急性期、急性期のほうが診療報酬が高く、公立・公的病院の経営上の問題もあるからで、それが回復期、慢性期への転換を難しくしています。

公立・公的病院の問題点は、財政難(資金的困難)と医師不足(人的困難)です。この2つが相まって公立・公的病院では次のような負の連鎖が生じています。

オンライン診療

国の規制改革推進会議がまとめた報告書では、オンライン診療の普及・拡大に向けて、対面より低い診療報酬の見直しや、診療上の優位性を厚生労働省の指針に明記するように求めました。

一方で日本医師会は、顔色や匂いを含め、対面診療でなければ得られない情報があると主張するなど、オンライン診療の拡大に慎重で、医療のオンライン化を巡る応酬が続いています。

日本医師会は、オンラインでは十分な診療が行えず、正しい判断ができないと主張していますが、米国や中国ではすでに実現しています。特に中国では、携帯電話やスマートフォンで医師に24時間アクセスでき、緊急事態なら専門家を紹介するという優れた仕組みが機能しています。これは、忙しい人や遠方から通院している人に有用です




なぜ脳卒中の前兆がでていたのに医者で見抜けなかったのか、わからなかったのか?
このことで医療のことを考えた
その原因はわからないにしろ片方の手がしびれるとか物を持てないとかの症状がでていたそれから片方の目が悪いと仙台市の眼科にも行った、めまいがするとも言っていた
実際私の家の前で自転車で転んだ、いつも疲れるとも言っていた
これらは明らかに脳卒中の症状が出ていたのである
それで遠くの病院にも行きMRIの写真もとったし原町でも撮った
でも脳卒中と判断できなかった

これで疑問に思ったのは素人でもインタ−ネットでちょっと調べたか脳梗塞の症状として7つあるとして5つくらいがあてはまっていた
だから総合的に見ていれば医者だったら専門家だったら気づくはずだと見た
でもMRIで写真をとれということは脳梗塞かもしれないとしてそうしたのかもしれない
でも全体的に症状をみれば脳梗塞の前兆だということがわかったはずである

ともかく医者とか病院にもいろいろ問題がある
糖尿病の人は半年くらい入院していて病状が悪くなった、栄養がかえってたりなくなって悪くなったとかある、そしてその人は病院には二度と入院したくないと言っていた
そして家に帰って療養していたらかえって回復したのである
その原因は多分に精神的なものもある、やはり家には何か精神的に安定して心安らぎそれが体にも影響するとなるからだ

だから老人は総合的にみ総合診療が必要だというのもわかる
在宅で死にたいという気持ちもわかる、家はやはり体だけではない心にも影響する安らぐ効果があるからである、病院ではただ病人となっているが家にいれば違っている
その人は特に若い時苦労して家を建てて庭も立派な庭を造ったのである、それも20代だったから驚く、高度成長時代でそれだけ収入があったからだとなる
そういう家にいればやはり自分の存在価値が家とともにある
また家には例え家族が祖父母でも両親でも死んでも遺影を飾り家になお生き続けて支えているという感覚になる、病院はただ病人となっているだけであり死んでも物のの用地始末する感覚になるから嫌なのである、病院とは無機質な空間なのである
愛もなく何か心が通わない空間である、もちろん医者でも看護師でも懸命に尽くしているでもどうしても家族のようにはいかないのである

そして田舎の問題は医者自体が優秀とはいかない、また田舎だととにかく閉鎖的なのである、常に田舎であることは医者だったら他の医者に行くことをすごく嫌うのである
それで私が家族が倒れて頼んだらあなたは日ごろ来ていないから助けないとあからさまに言われた、そういうことは他でもある
自転車の修理でも隣の市の自転車屋だと受け付けないのである、つまりいつも来ている客でないと受け付けないのである
それも自分の利益にならないなら親切にしてもしょうがいなとなるから当然だともなる
緊急の場合でもそうだった、そこに田舎の問題があった
まず医者をそもそも選べない、医者が少ないからである、特に優秀な医者を選べないのである

こうなるとオンライン診療がある程度役に立つかもしれない、youtubeの医者の説明を聞いているとわかりやすいからである、そしてyoutubeだと優秀な医者が説明している場合がある、なぜなら全国放送だからである、全国の中で優秀な医者が説明しているかもしれないからだ、教育でもyoutubeだと一流の人が講義しているとなるからだ
オンラインになると狭い範囲ではない全国的規模になるからそこに優秀な人がいて教えるとなる、だからオンライン診療も普及すべきだとなる
ただそれで全面的にはできない、どうしても対面的でないとわからないことがある
でも今回の脳卒中の前兆がみぬけなかったことはその症状を医者がオンラインでも診ればわかったかもしれない、ただその後をどうするかとなるとどうしても地元の病院と医者とかとても連携しなければならない、その辺のむずかしさはある
でも素人でも別に症状を訴えてこれは脳梗塞なのかとでも察知すれだけでも違うとなる

ただオンライン治療となると老人は通信が苦手だから問題がある、ただこれからの人達はみんなスマホを使っているから使いやすくなるからそうなるかもしれない
対面治療は必要でもやはりオンラインでも病気を知り治療する方法が生まれるとなる
どうしても田舎は病気でも医者の数がたりないし優秀な医者がいるとは限らない
だからむずかしい病気はこの辺では仙台市に行っているのである
医者も専門外が診れないとか必ず連携が必要になる
でもお前はいつも私の所に来ていないから診ないとかなっているのは田舎の閉鎖性なのである、ただやはり自転車屋でも自分の収入にならなければ修理もしないというのはしかたないとなる、そもそも自分の利益にならないとしたら自分の生活があるのだからどうにもならないとなる、それが悪いとはならないのである

ともかく田舎ではたりないものが多い、私の町には百円ショプがない、これも困るのである、隣の市までは自転車で行くほかないからである、通販だと百円ショップのような買い物はしにくい、でも通販で助かるものがある
飯館村の辺鄙な所でも通販で配達していたともなる
また本などは古本でも何でも買える、だから知識的には都会と田舎の差はなくなったとなる、まず文系なら本を読むことだから本を読めないとしたら学べないからである
田舎でも今ならインタ−ネットでもyoutubeでも本でもどんなものでも買えるとなれば差がなくなったのである、つまり独学する環境が備わったのである

こういうことで病気に関してもネット化する、オンライン診療することも助かる
それで全部が充たされないが田舎だとこうして閉鎖的なことがありそれで困るのである
でも当人にとっては福祉事業でもないのだから利益をあげなければならないのだから
それが冷たいようでもそうならざるをえない事情があるとはなる
だから田舎ではオンライン診療も普及して利用する方法を知るべきだとなる
ただオンラインでは全部はできない、補助役になるがそれでも役立つとはなる

病気でもちょっとした知識があると素人でも役立つ場合がある
特に認知症の介護では誰も教える人がいなかった、医者すらわからないものだったのである、でも介護するうちにわかることがあった、それはちょっとだけでもインタ−ネットで即座に調べてそれを実行したのである
認知症の人は物忘れで異常な興奮状態になる、その時お茶でも飲ませて落ち着かせろと書いてあった、それを実行して効果があった、だからちょっとしたことでも素人でもしれば役立つことがある、だから医療に関しても専門的なことがわからなくても対処できることがある
専門家の時代であり何もわからない何もできないということはない
だから原発でも専門的にわからないにしても素人でもわかりうることはあった
わかりやすく説明すればわかることはあった、でも専門家は知らせなかったのである
そこはアンタチャブルの世界で素人は立ち入れない何も知らされないものとなっていたのである、そこに危険があった、やはり素人でも専門家でなくてもわかることはある
だから素人でも知ろうとすることが大事だとなる、専門的でなくても知りうることはあるからだ
そういう点ではインタ−ネットは役立つ、医者自身がyoutubeで説明しているからである
これも時代だと思った、閉鎖的な田舎だけではない世界が開ける、それがインタ−ネットのいい点だとはなる

2022年10月30日

なぜ脳卒中の前兆があったのに医者がわからなかったのか? (高齢化社会は健康な人と病気の人の差が大きい)


なぜ脳卒中の前兆があったのに医者がわからなかったのか?

(高齢化社会は健康な人と病気の人の差が大きい)


片手がしきりに麻痺していたので料理するのがむずかしくなっていた
物を持つのがむずかしくなっていた、でも手を手術すると治ると言っていた
眼が悪くなった、仙台の眼科に行った
また脳のMRIを遠くででも近くの原町でも撮った
それでも脳卒中と判断されなかったのはなぜなのか?
何か全体としてその人を見ていないで部分的に見ていたためだろうか?
その人は良く近くの医者には通っていたのである
毎日のように薬も飲んで欠かすことがなかった
肥満体であったが10キロも痩せたのである
ただ問題は煙草を毎日かなり吸っていた、それはストレスが多いからそうなった
この煙草は脳卒中の原因になるとされている
ただ癌との因果関係はわからないしないと最近わかってきた
でも煙草はいいものではない、脳卒中の原因になるからだ
でもなぜこれだけの症状があって脳卒中の前兆なのかをわからなかったのか

一人はすぐ南相馬市で診てもらい血管にカーテルを入れて助かった
早く治療したので助かった、南相馬市には脳卒中センターが最近できていた
そこには優秀な医者がいて若い医者が学びに来ているという
だからもし脳卒中の疑いがあれば南相馬市立病院でみてもらうようにすれば良かったとなる、優秀な脳卒中専門の医者がここにはいたからである
この辺のことはどうなっているのかわからない
何か病気の前兆はある、症状がある、MRIで診ればわかるようなことをyoutubeで医者が放送していた

病気では早めに症状を見て病名を知り治療する

これが必要なのである、でもこれがむずかしいとなる、病気にはいろいろあるからだ
認知症でも症状が出ていた、ただ最初見抜けなかったのである
同じ物を買っていて買物して計算ができないとか近くの店屋の人が気づいていた
ただ明確なものとしてわからなかったのである
自分自身が冷蔵庫にあるものを同じ物を買ってきたりするから正常でもそういうことがある、だから初期には認知症はわかりにくいのである

ともかく病人が多い、高齢化社会ではどうしても病人が多くなる
近くで癌の人がいるし糖尿病の人がいるし脳卒中になった人が三人とか合っている
心臓病の人もいるしそれから必ず前立腺肥大の病気になったり老人特有の病気がある
白内障とか緑内症とか眼が悪い人が必ずいる

50くらいで精神障害の人がいる、その人がどういう精神障害なのかわからない
100×100の計算ができないという、何か負担をかけられない、だからとても親の介護などできないのかとみる
でもその人しか介護する人がいない、すると福祉の方で施設にいれるほかないのかとなるでも症状が軽いらしいから介護度3以上になっているのか、またなかなか施設に入りにくいのが現状である
病気にはいろいろあるから理解しにくいのである
ただ高齢化社会はとにかく病気になる人が多い、だからこの病気の知識をある程度常識的にももっている必要がある

私は家族が認知症になったので認知症には詳しくなった
意外と認知症は医者でもわからないのである、私は介護したから症状がわかるのである
これも精神障害なのだが別に人間でなくなるわけではない
何かこれまで生きた人生がありその人生に誇りをもっていたりプライドがありそのプライドを傷つけられると怒ったりする、つまり馬鹿になった人として扱いなのである
また精神障害の人もいろいろいる、でも人間として付き合いとも言う
これも症状にいろいろあり軽度から重度とあるから理解しにくいのである

私の母はなぜ百才まで細身で体力もないのに生きたのか、それは血管は丈夫だったみたいだ、血管に障害がないと百才近くまで医者が言っていたからである
脳卒中は血管の障害が出る病気だとなる
親戚で白血病になった人もいる、これ血管の病気なのだろう
ともかく病気の種類も多い、だから理解するのもむずかしい、ただ早めに病気を知ることで早期発見で癌でも何でも治療しやすいとはなる、悪化してから治療しにくいとなる

高齢化社会は悪いものではないけど健康であれば百才でもいい、でもみんな何らかの病気になる、これが問題なのである、百才まで健康な人はまれなのである
高齢化社会はいくら金があっても病気になったら何もならない、金で病気は直せないからである,金が必要ではないのではなく根本的に金だけで病気は直せないのである
特に老人の病気は直しにくい、体全体の老化と関係しているからである

とにかく突然人間関係でも変化がある、家族でも変化がある、その原因が病気になることが多い、特に老人はそうである、病気になりやすいからである
夫婦でもどちらかが介護状態になったりするから安心はできない
つまりどんな人でも必ずリスクを持っているのである
そのリスクから逃れようがないのである、病気のリスクは別に金持ちでも持っているから平等だとはなる、いくら金があっても病気になったら確かにいい治療ができるとしても限界がある、体全体が老化したりしたら直しようがないのである
美人でも醜い婆となっている、肌の手入れをしても元にもどらないのである
だから老人になると美人でも不美人もない、みんな婆になってしまうのである
ただ健康であるかないかの差が非常に大きいのである
脳卒中でも半身不随とかなったら悲惨である、車椅子とかにもなり身体障害者ともなり
誰かの助けがないと生きていけなくなるからである

2022年10月22日

高齢化社会の地獄-大事なのは健康 (8050問題は始まっている-頼る人がいない恐怖の経験)


●人間の体もこれまでの行為の積み重ねで健康もあり不健康にもなる

72歳で脳梗塞になったのは辛い、ただ近くで三人くらいその前の年ても脳梗塞になっている、だから70以上になると何らか病気になりやすいのである
知っている人は煙草も吸っていたし健康的にはいいものではなかった
なぜ煙草をやめられないのか、他の人でもやはりストレスがたまりそうなっていたのである、問題はストレスでありそれが解決しないとやめることもできなかったのである
女性でも今は普通に煙草を吸う人はいる、でもそれが老人になって60以上になって
病気となる場合がある、もちろん煙草と癌の関係ははっきりしないがいい影響はないだろう

ともかく人間はそもそも突然何か病気になったり何でも突然には起きない、これまで積み重ねたものが現象になり症状となって現れてくる,カルマを積んでいてそうなっているのである、それは裕福でも楽した人も最後はかえって苦しむとかある
つまり人間はカルマから苦しみから逃れられない存在なのである
それは肉体的にも精神的にもそうである、生まれつきもある、人間は遺伝的に必ず誰でも欠陥をかかえているからだ、それは自分自身でもそうだった、高校の時蓄膿症の手術を二回もしている、それで頭がさえずやっと三流大学に入学できたのである
それも家族に恵まれてできたのである、今でもやはりこ鼻腔が狭く息が十分にできないのである
でも私は30頃に煙草とか酒はやめた、それが意外とそれが影響していてまだ体がそれほど衰えないのかもしれない、たた衰えていることは衰えている
それから私は学校とか会社に適応できな体であり心でもそうだった
だからそういう場所でマイナスであれ働くことがなく自由に生きられたので良かったのである、だからそうさせてくれた親には感謝しているから介護もできたのである
死んでも供養しつづけているからである

すべては生まれつきでは決まらない、体力ある人でも無理するとそれが後年たったて病気になり早死にしたりするからである、スポーツ選手が意外と早く死んだりするのはそのためである、では体力がない人がいいともならない、何か体力がない人は若い時でも冒険がしにくいからである、それで私でも登山はきつくてやめた、疲れ方が尋常ではなかったからである、40前で登山はやめたのである、その後は自転車旅行になったのである
自転車旅行は意外と楽なのである、ただ登山より楽だというだけでそれなり厳しい面はあった、でも疲れたら休めるし食事もとれるから長距離でも行けたのである
だからもしかしたら70以降でも自転車旅行はできないことはないかもしれない
つまり老人でもできるのが自転車なのである

●高齢化社会はマラソンになる、最後まで健康で走りぬいた人が勝利者

ともかく高齢化社会になるとマラソンなのである、70以上とかなると力尽きて脱落してゆく人も増える、病気になったり死んでしまう人もでてくる
つまり百才まで健康に生きる人がまれだというときそれはマラソンなのである
百才まで走り続ける人が本当に百才を生きた人なのである
でもどうしてもそれまで故障したりする、そこで百才を元気で走れる人は極まれだとなってしまうのである
金も必要だしまた百才まで生きればかかる、でも健康でないと悲惨になる
介護でも息子娘にも頼れないとかなっている時代である、それも息子娘も今は生活が厳しいからそうなる、頼りにくいからである

その負担は肉親と家族だけで負いきれないのである、その女性は72歳で脳梗塞になっても頼る人がいない、知的障害者の人を一番世話したが他の兄弟二人とはうまくいっていない、だから脳梗塞になっても知らせるなとか言ったという
また知的障害者の人に頼って頼ることもできないとなる、何か兄弟三人いきても二人は親のめんどうみたくないとなっている
でも誰がめんどうみるのか?父親は施設で死んだから良かった、では母親はこれからをなるのか、知的障害者の息子がめんどうみれるのかとなる
軽度にしても何かやはりわかっていないことがある、まだ母親は世話してくれるめんどうみてくれると思っているのである、その辺の理解がたりないのである
そこで知的障害者なのだとなと思った

普通だったら50歳まで子供の時のように世話していたら親が病気や介護になっても必死で世話する、自ずと強制されなくてもそういう気持ちになっているからだ
それは自分自身のことだった、60歳まで世話してくれた、だから私は自ずと自分が病気になっても必死で世話して介護したのである
悲しいのはそうして親に尽くされた人がそういう感覚を持てないことである
一応親に対して全くなにもしないということではないが何か親がまだ世話してくれると思っているのである
そんなこともう不可能でありそこが認識されていないのである
そこに不幸が悲劇があったともなる、何らか家族でもこうして悲劇がある

●病気や介護になると頼る人が問題、非情な人になると地獄になる

私自身の家族でも悲劇だったのである、家族が認知症でばらばらになったからである
その苦労をプログで書いてきたのである
たから人間は悲劇的に終わること知ったのである、それは私の家族だけではない何か悲劇的に終わるのが人間なのかということを知った
人間は悲しむ存在であり悲劇的存在なのである、地獄を生きるのが定めだと親鸞が言ったのもわかる、この世とはなんらか地獄を生きることなのである
戦争を生きた人もまこにこれこそ地獄を現実に生きたのである、その戦争の地獄は経験しない限り理解できないものだったのである

病気、介護⇒頼る人⇒?


頼った人⇒事業失敗して借金した人または泥棒(自分)

頼った人⇒5才で捨てられた子供⇒親は認知症になり金のみをねらい施設に入れる

頼った人⇒知的障害者の息子(ほかの二人は頼りにくいから)

ここに恐ろしい悲劇があった、頼る人がそういう人だったということである
でも他にいないからそうなったのである、これもその人のカルマだけど恐ろしいと思ったこの世とはこうして恐ろしい場所だと自ら認識した
もちろん介護などしたくない、それはわかる、でもそれだけではないそういう人は簡単なことすらしたくないのである、それが必ず行動となって現れる
だから病人の世話とか介護とかにその心が出やすい、なんでこんなジジババを世話しなければならないのだ、そういう気持ちが持てないからである
兄弟でも親に良くされ人が介護しろというのはそのことである
つまり人間はいくら装っても本心を偽ることはできないのである
必ず行為となって現れるから怖いのである、日ごろは隠されているが相手が弱者化したりする怖くないとなりその本心が現れるのである

知っている人は実の娘は五才まで育てていたが嫁ぎ先を出ては金持の家に後妻に行ったから金はもっていた、でも認知症になっていたのである
その人は全然親とも思っていないのである、ただ金だけ欲しいとなっていて施設にあづけただである
本人は頼る人がなくなってそうなったのである、これも恐ろしいことである
人間は必ず親でも子供に対して強い時がある、絶対服従だとかなる、でも後で必ずまた弱者化する、例え金があったとしても認知症になったら貯金すら下ろせなくなるのだ
これには本当に自分でも驚いた、いくら金を持っていても何にもならない、もう金を自由にできないのである
金を持っていてもそれ自由にできない、法律的に資格を失ったしまったのである
これは体だけではない、何の権利もなくなってしまったのである、そこに認知症の恐ろしさがある
もし信頼する人がいないならその人はどうなるのか?
実の娘でも育ててもいないのだから金だけが目当てになる、そうでなくてもこの世の中金だけが目当てなのがフツウだからである
施設で金持ちを介護してもそこに愛情など持てないからである、むしろこいつは金もっていて働かせられていると思っているからそれが行為となって必ず現れる、人間はどうしても本心を隠すことはできないのである

こうして楽した人でもカルマとなり苦しむことになる
誰もめんどうみる人はいないということである
助けてくれと言っても金をだせ、全財産を出したら助けてやるとかなる
そういうことがやりやすいのである、それが非情な人間社会の現実なのである
つまりこの世は地獄だということである、非情な人間がいるから地獄になる
他人の苦しみでも田舎なら楽しみにもなる、田舎の人間が情あるなど今はないからである人間は地獄を経験するために生まれて来たともなる
それはやはり地獄に生きることで天国を渇望するためなのともなる
ただひたすら念仏でも唱えて来世の極楽に行くことしか希望がなかったともなる
それがこの世の現実だったのである

●人間の本性の怖さ

また老人は老人を頼りにできない、病人が病人を頼りにできない、それだけの力がないからである、知っている人は糖尿病であり最近良くなったとしても85歳であり頼りにならない、老々介護になると介護する力もないとなるからこれも悲劇なのである
でも若い人に息子娘に頼ることもなかなかできない社会になっている
そこで悲劇的な最後になる人がさらに増加する、高齢化社会の地獄絵図がそこに展開する時代となる
おそらく一番世話した知的障害者の息子にその母親は頼っていることである
それが悲劇になる、私が頼ったのも泥棒であり金だけを要求するような人ばかりだった
他でも悲劇的なのが5才まで一緒にいた母親に育てられた娘にしか頼ることができなくなった、その娘は母親となと思っていないからである

本心が現れた世界が地獄!

地獄とは何か、それがダンテの地獄辺のように本心が現れた世界である、人間の悪が非情でもあからさまに隠されることなく現れた世界である
この世ではそうした本心は隠すことができる、でも地獄ではあからさまに現れる
それがまさに地獄なのである
「お前なんか世話したくなかったんだよ、俺は欲しかったのは金だけだよ、金持ちだから金をもらいたいだけだったんだよ、世話する気持など全くなかたんだよ」
こういう本心が行為となって現れ虐待になる
この世ですでになっていることもある、だから病気と介護の問題は金で解決できないのである、どうしても気持が現れるからである

いつも若い世代は老人は死んでくれといっんているときそれが冗談のように思っていてもそれが必ず現実化する、それは老人施設でも病人の世話でも介護でも起きて来るのである人間は力ある者、権力がある者には低姿勢になりごますったりするのが普通である
でも相手が弱者だとなると平気でいじめたりする踏みつけることもする
つまり人間を見る時弱者に対してどういう態度をとるかでわかる
そこに本心が出やすいのである、だから病気と介護の現場ではその本心が現れやすいとなる、やはり気持がないとできないからである
別に他の仕事だったら金をもらって一定の仕事するとか金をで買ったり売ったりする
そこに人間の心はあまり関係していないからである
そこは別に金で割り切ってやっているしそれをとがめる人などいないのである

もしそうして頼る人がまともだったら地獄に仏となる、そんな人はめったにいないとなるからだ、諺もこうして人間の経験の実験の歴史でありそれは今に通用しているのはいくら科学技術がこれほど発達しても人間自体が変わっていないからである
第一キリスト教徒が何十億人いたらこの世が天国になっているはずである
依然として地獄であり変わっていないのである
だからこの世を去ることこそが楽になることである、地獄はまさにこの世にあり別に来世にある訳もないのである、この世でみんな地獄を経験しているからである
地獄に落ちるとか罰当たるとかカルト教団が言っているけどそいつらもみんな地獄人間なのである、地獄に落ちるというけどこの世が地獄であり地獄人間が現実に生きている場所なのである

世の中は地獄の上の花見かな 一茶

一茶はまさに地獄を生きた人だからこの句ができた、救いは地獄にも美があったことである、でも大都会になるとそこに自然の美がなくなる、つまり大都会とは地獄でもあり地獄を作りだしたのは人間なのである

人間の本性とは怖いものである、権力ある者にはへつらう、また金持ちにもへつらう、でも本心はあくまでも違う、権力者に従うのはあくまでも相手が強いからそうなる、でも立場が変われば相手が弱者化すれば逆になる、今度はその強者も虐待することにもなる、あくまでも相手が権力者であり金持ちだから従っているのであり立場が変われば逆転するのである
人間社会とはそういうものだろう、戦国時代の下剋上とはそのことである、要するに人間社会は弱肉強食の世界だったのである
それは歴史をみればわかる、そこに平和などないのである、だからこそキリストは下僕となりなさいと言ったのである
権力を持ち金をもって人間の心は支配できないからである、やはり愛情をもって接して子供でも育てれば違うとなる
親がもしただ力をかるとして子供を支配するだけなら親とも思わないだろう
それが後で復讐されるともなる、夫婦の間でも夫が力があるからは服従させたりしても病気になり弱者化したら虐待されるのである、でも人間は必ず弱者化する、老人になると体も弱り弱者化する、その時が怖いことになる

「おれをこんな地獄におとしこんだのは、へつらいのせいだ、おのれの舌はそれでも飽きもしなかった」ダンテ地獄

へつらうというときみんな権力者には金持ちにはへつらうのである、それはマスコミとかもそうである、巨大な権力団体には逆らえない、だから原発が危険でも知らせない、その権力は政府が指導して電事連でも800億もの宣伝費が出ていたからである
そんな巨大な権力だから安全神話が作られたのであるねそれを暴いたのは津波であり人間ではないのである
とてもそんな巨大な権力に抵抗できないからである、権力が巨大化すると手がつけられなくなるからだ
そういうことはウクライナ戦争のロシアのプーチンなどでもそうである、独裁者の権力が絶大なものとなり誰も逆らえなくなるからである、そういうことで歴史は争いが戦争が絶えないともなる

●高齢化社会はマラソンであり最後まで健康で走りぬいた人が勝利者

ともかく高齢化社会を生き抜くにはマラソンを完走するには健康第一になる
健康失えばたちまち地獄に転落するのである、でも老化することは病気になることでもあり最後は体も弱り誰でも死んでゆくのである
望むことは健康で死ぬことだとなる、それができない、老衰は体が枯れるように死ぬから苦しまず死ぬから理想的だともなる、私の母親は100歳生きたが枯れるように楽に死んだのである、いつでも楽に眠るように死にたいと言っていたのである
その望みだけはかなえられたのである、それは苦労した大正生れの人だったら最後は楽に死んだとなる、でもみんながそうはいかない、苦しみ死んでゆくのが普通だとなる

頼る人がどんな人になるのかそれが問題だった
もちろん頼る人が無く孤独死とかもあり他にもある
実の親子でも子が親のめんどうを見ないことも普通にある
でも病気になり介護になると誰かがめんどうみざるをえない、でも人間はそういう人がいないなら誰にも世話にならず死んだ方がいいとなる
孤独死でも誰もそもそもめんどう見る人がいないのだからそれが悪いともならない
隣の部屋の人が二け月間も死んだのを知らなかったというのもそうである
電気がついていると隣の人は思っていたのである
でも兄弟が近くにいても付き合いがないとなっていたのだから孤独死が全部悪いともならない、そもそもめんをとみる人がいないなら一層死んだ方がいいとなる
後の死体の処理が問題だとしても誰も病気になっても介護する人がいないならそういう死に方の方がいいともなる

高齢化社会はマンションでも老朽化してぼろぼろになるとかそれも60年くらいでなる
そして空家が膨大に増えてゆく荒寥とした風景になる
子供の遊ぶ声も聞こえず老人だけが増えて認知症も膨大に増えてくる、その光景はもう始まっているのである、plan75という映画が公開された、75に成ったら安楽死を選ぶことができるとなる、それは余りにも悲惨なものとなるからそうなる
それは本人だけではない周りの人の負担も大きすぎるからである
国家自体が老人によってつぶされるとまでもなるからである
8050問題はもう始まっているのである、それは金だけでも解決しない問題なのであるもちろん国家の経済的負担も人数が多いのだから重荷となる

ともかく地獄が一定の住処なりという親鸞の言葉が高齢化社会の現実なのである
それは金がないこともあるが健康が喪失する病気になる老化して弱ることが地獄を産むのである、それは極一部除いて避けようがないのである
8050問題は始まっていてすでに地獄を見るようになっている、私の家族でも一人が認知症になりもう一人は百才まで生きたがやはり最後は5年間くらいは介護になったからである、その時自分自身も病気で塗炭の苦しみになった
その時助ける人はいなかった、それもカルマだった、私自身はそのカルマを自覚していた結局それほど自分は親に良くされたことでできたことなのである
他の人はそういうことがないから簡単にできないのである、だから子が親を捨てきる家族遺棄社会にもなる、でも誰かが世話しなければならないことにもなる
だから息子娘が放置することは問題である、代わりに世話する人がいるからである
それか強いられるからである、捨てる訳にもいかないからである