2023年11月14日

20年後家族地方福祉国家崩壊が迫る (少子高齢化―未婚単身社会の老後)


20年後家族地方福祉国家崩壊が迫る

(少子高齢化―未婚単身社会の老後)



このまま結婚できない若者が増えていけば、'40年には日本の人口の半分を独身者が占めると推計されている。20年後の日本は、身寄りのない孤独な高齢者で溢れかえる。結婚というシステムの死によって、医療・福祉・社会インフラが連鎖的に麻痺、崩壊してゆく―。それこそが、待ち受ける「大独身時代」の日本の姿だ。

「これから結婚できるのは、高学歴、大都市在住、大企業勤務の人だけになる。反対に低学歴、地方在住、中小企業勤務、非正規雇用の人たちはますます結婚できなくなる。彼らを待ち受ける未来は悲惨です。対策を練る政治家や官僚は恵まれた環境で暮らす層ばかりですから、そういった人たちに向けた高等教育、結婚支援は視野に入っていないのです。
結婚が消えれば「地方」が消える

●20年後の恐るべき地獄社会

これは暗澹たる未来である。でも既に一部で現実化している。その家族はもう崩壊寸前である。一人は精神障害者であり息子は50歳くらいである。結婚はしていない仕事は工事現場である。母親は74歳くらいで脳梗塞になった。幸い軽い方ではあったがその後後遺症で足が悪くなり歩くのはやっとである。杖をついて私の家までくる。常に金がなく食べることもできないと嘆いている。生活保護を受けているとしても国民年金が4万くらいもらっているからそのためにほとんどもらえないのである。ただ介護度が一くらいになっているから援助は受けている。でも金銭的には常に足りないものとなっている。

頼りになるのはその50歳の息子なのだが最初は交通事故になりそれで車がないと仕事にならないとして50万を貸した。そのお金は返ってこない。次に階段から階段で足を挫いて仕事ができなくなった。そして今度は目を悪くして病院に行く。そこで工事現場で仕事に行けず収入が無い。精神障害者を一人かかえて独身でありもうすでに家族崩壊になっている。家族だけではもう家族を維持できないのである。

あたりを見回すと確かに1万の町でも近くで40代50代で結婚しない人が多いと見る。それは地方でもそうなのである。大概地方だと結婚しているのが普通だった。結婚していない人は変わり者であり社会から外れた人になっていた。また結婚しない人は大人として一人前に扱われないということもあった。自分の場合は結婚しないからそういうふうにもなっていた。

でも結婚しない人が普通であり変わりものでもなんでもないむしろ結婚しない人が多いのである。そうなればもう跡継ぎがなくなり地域でも社会でも維持できなくなる。その人たちはすぐに60代70代となり働けなくもない。そしたらその人たちは一人で生活して今のように福祉サービスを受けることも確かにできなくなる。
年金にしてももらえるかどうかわからなにのである。日本経済が弱体化して先進国にもなりえなくなっている。

その未来を予測すると暗澹たるものであり恐怖でもある。つまり社会そのものが崩壊してゆくことである。すでに自分の周りでも家が五六軒壊されて空地化した。子供を見かけるのは保育所くらいであり周りにみかけない。。だから地方からそもそも若い人もいなくなり社会自体を維持できなくなる。老人ばかり増えて病人も増えてもはや福祉サービスすら受けることはできなくなる。家族が崩壊し地域が崩壊し社会が崩壊してさらに国家すら崩壊してゆくのかとなる。戦争も危機であるこれも内部的に危機であり恐怖になる。ただそれを現実として受け止めることが社会でも政府でもできていない。でもこの未来は差し迫ったものであり現実化することは確かなのである

●介護を家族だけではできず家族が崩壊する

家族が崩壊するというとき私自身が経験した。親二人がいて自分自身が病気にもなって一人悪戦苦闘するほかなかった。私の家に来る人は助ける人ではなく助けてもらいたい人だったのである。事業に失敗して借金で苦しんでる人年金が少なく生活に苦しんでいる人そして自らも病気になり身寄りがないのだから病院で虐待されたり何かと責められて苦しめるだけだった。余裕のない人は人を助けることはできない。だから身寄りがないということは恐ろしいことなのである。結婚しない人はそおのことを自覚していないのである。

そして家族崩壊というときそれは誰でも経験することになるかもしれない。家族でもその単位が夫婦とか後は一人暮らしとかが多くなっているからである。すると介護とかになると限界になってくる。そこですでに親を殺すとかまでなっている。それは家族の単位が小さいから誰か一人に負担がかかってくる。その負担が背負いきれずそうなってしまうのである。近くで母親が認知症になり症状は重くその一人の息子が介護で苦しみ母親を殺してしまったのである。その人は50歳くらいだった。

私の二人の親の一人はやはり重い認知症になったからそのことがわかる。そしてまた一人が介護になり私自身も病気になりついには家族は崩壊するとまでなった。つまりこれは家族崩壊というのはこれから起きてくる。またさらに地域崩壊も起きてくる。福祉崩壊も起きてくる。それは今より深刻なものとなる。だからその未来を見るとき衝撃的だとなる。その対策をしないともう社会自体が維持できなくなり崩壊してゆくということである。

とにかく家族崩壊というとき日本の場合は家族中心であり家族頼りになっているのだがその家族の単位の数も少ないし介護となると限界になる。まだ大家族だったら人手があり誰かが世話する余裕があったかもしれない。でも家族の単位が人数は少ないと本当に誰か一人が全部背負うことになる。それを経験したのは自分である。家族だけで背負いきれないのである。その負担が大きいから家族崩壊になるのである。
ヨーロッパの場合すべて家族にがに負担させない国が負担して面倒みるのである。福祉は充実しているからできるのである。日本ではそれができないからすべてが家族に任せられる。でも家族の人数が少ないからとても介護とかなれば負担が大きくなる。誰か一人が負担を全部背負うことになり限界になる。そこで介護殺人が日常的にもなるのである。

●大家族ーファミリーの喪失で助け合うことができない

だから社会自体を見直さないと恐ろしい地獄社会になってしまう。家族中心の世界では社会ではもはや社会自体が成り立たなくなっている。その家族の単位が人数は少なすぎるのである。だからファミリーというとき外国では夫婦とか親子とかだけではない広い範囲がファミリーになっていたのである。スペインの教会のサクラダファミリーという時それは教会に集まる人数がファミリーだったともなる。外国ではそうして教会を中心にしてファミリーが形成されていたともなる。日本はそういうことがなくなった。ただ村が日本ではファミリーとなっていたようである。

なぜなら子供でも村の子供であり家族として育てていたからである。名付け親/取上げ乳付け親抱き親名付け親拾い親
守り親養い親、、、、明らかに家族に一員として育てられたんである。だから村は大きな家族、ファミリーだったとなる。
本当に村の子供家族の子供ではなく村の子供として見守り育てていたのである。それが現代のよう個々バラバラになり核家族になりそうしたファミリーというか共同体は喪失して核家族とかなりそれに代わるものとして福祉サービスが提供されるがそれも将来的にはできなくなる。

今はかろうじて維持しているだけであり今50代ぐらいの氷河期世代が60から70とかまあっていうこともはや福祉サービスでも受けられなくなる。予算的にも今や日本は貧困化して福祉の方に回せなくなるのである。だから少子高齢化というのは社会の崩壊にもなるということである。それが地方で深刻化する。すでにもうその前兆は明確に現れている。あらゆるところで跡継ぎはなく仕事も維持できなくなる。 1万の私の街でわ自転車屋は一軒もなくなった。小さい町ではサービスを受けられなくなるのである。

●地獄社会となる恐怖

もしかしたら残酷ではあるが地獄を生きることを覚悟するとかになるかもしれない。なぜならもはや福祉であれ医療であり様々なサービスが受けられなくなる。また貧困社会になり食うことさえままならぬものとなる。そういう社会になった時それは地獄社会である。地獄を生きる社会ともなる。その覚悟は必要になるのかとなる。なにか老人になるとそれなりに生きてきたから諦めもつくがこれから生きる人にとっては過酷すぎるともなる。

何か老人は生に執着しなくなり後何年か生きてこの世を去るだけであるとかなる。この世で嫌な人とも永遠に合わない様々な苦しみ嫌のことから解放されるとなり気持ちに返って楽なのである。若いと欲望が強く女性に対してもそうだからそれが焦燥感となり苦しむのである。生の執着が生まれ苦しむのである。そして先が長く感じられる。でも老人になると人生もあっというまに終わることに驚くのである。ただ何かと姓に執着する老人も多い。でも老人の心境は若い人に分かりにくいのである。とにかくさまざまなものが崩壊して地域であれ何であれ維持できなくなるということである。維持する人がいなくなるのである。

それを補うものは何なのかとなる。日本の出生数は減るだけであり減ることはない。日本で補うことは難しいのである
何か地域でも国でも崩壊するというとき外部からの侵略でまたは戦争で崩壊するということではないその前に内部から崩壊してゆくのである。日本は何かそういう状態になって行くということの恐怖である。それは確かにどこでも目に見えるものとなっているから単なる想像のことではないのである。具体的にその崩壊が目に見えているからこそ恐怖なのである


2023年10月23日

老人は病気の話 70才でも働く時代 老人は病気の話 70才でも働く時代


老人は病気の話 70才でも働く時代

大工さんで庭師である人が70で若い人に混じって仕事した。でも若い人は動きが速いのでついてゆくのが大変だという。でも70歳でも働いている人がいるという。でも肉体労働となると70過ぎて働くのは相当に厳しいと思う。
その人は丈夫な人でもやはり病気になっている。それも何か複雑な病気でありそれを見てもらうのは福島市の方によくほかない。
福島医大に通う人がいた。それで福島中央道路できていないときは通うのが大変だったと言っていた。何か難しい病気になるとこの辺でわ診れないのである。それは目の病気でも仙台市に行かないと手術などできないという。それで面倒なのである。何しろ人間の病気の種類が多すぎるのである。そして老人が話題にするのは病気のことなのである。

私自身も急に寒くなり体が震えて全身が不調をきたし苦しんだ。
これも老化してなったのかもしれない。また気候の変化が激しいからそうなったのかもしれない。とにかく何らかの病気になる人が老人になれば増える。脳梗塞になった女性は買い物に行くにも自転車に乗れず歩いてゆくほかない。タクシーを利用するときもある。それだけ歩くだけでも大変だからである。ところがタクシーも一軒しかなくうまく利用できないという。全国的にタクシーの運転手不足になっている。一軒しかなかった自転車屋も死んでここには自転車屋もなくなった。

また田んぼのなかにある農家二軒も廃屋かしたみたいだ。地震の被害がこの辺では未だに続いていて壊れた家を直さないのをみかける。それで直さないで壊しているのかしれない。おそらく農家でも後継者がいないのでそうなっているのかもしれない。70くらいの人が農業しているが多く後継ぎもいなくなり食料が供給できなくなると問題にしといる。

とにかく老人の問題は病気になることである。病気になるとまた金もかかるし負担は増える。今金の余裕がある人は少ない。だから息子でも娘でも頼りにくいのであ。そして年金があまりにも少なすぎるのである。女性の場合4万くらいしかもらってない人が7割くらいいるとかそんなんでどうして生活できるのかとなる。厚生年金で15万くらい貰っている人がいるとしてもその15万でも足りないと思う。物価が上がっているからなんでも高くなっている。近くの大判焼きが150円だったのが50円上がって200円にもなっていた。他でもコンビニでも20円30円とか上がっている。何かそういうものが物価高をじかに感じるものになる。それは日々生活して買っているからそう感じるのである

人間は一番病気に弱い。病気になると気力もなくなる。だから一人暮らしは病気になると最悪になる。体のこと気にかけてくれる人がいなくなるからである。それで私の場合医者に行かないでいたら病気が悪化していて死ぬ寸前だったのである。
それで街の医院から直接市立病院に入院して一命を取り留めたのである。それも家の中で介護とかなり誰も自分を心配する人もいなくなったからである。だから一人暮らしは危険なことはある。それで孤独死になったりする。そして今は隣近所とか無関心であり日頃から付き合いとかない。だから不思議だったのは市営住宅の隣の人が死んでいて二ヶ月間もわからなかったという。それは1万くらいの町で起きたことである。そういう場所では互いに気遣うことがあると思ったがそういうこともなかったのである。

ただその人も自体にも問題があったのか近くに兄弟は住んでいたのである。ただその兄弟にしても付き合いのなくなっていたのかもしれない。でも二ヶ月間も死んでいたのはわからなかったというのも謎である。あまり話する人ではなかったらしい。でもそれにしても二ヶ月間も死んでいたのはわからなかったというのは何なのだろうとなる。電気がついていたので生きているとみていたともいう。また冬だったから匂いもしなかったからきずかなかった。でも二か月間だったら誰か人の出入りがあってもいいとなる。それも一番の田舎の町で起きたことなのである。だから田舎とはいえ都会化しているのである。人間の付き合いが希薄化して無関心になっているのである。
でも今の時代その人は金をもっていればその金目当てに寄ってくる人はいる。なぜその人は親しく近くの人に話し相手なっていたのに行かなくなったのか。金をもらえないからだともなる。また自分自身も病気になって相手を見る余裕もなくなったからだともなる。今は人の付き合いも金なくしてありえないともなっている。

ともかく老人は病気の話でありまた体調も崩しやすいとなる。それで自分自身も結構苦しんだのである。体全体が変調をきたすということはやはり今まであんまりない。だからやはり気候の変化とか影響してそうなったのだと思う。老人はいろんなことで体の変調をきたしやすいのかもしれない。ともかく急激に寒くなったことが体に応えたのである。それが体全体に影響して思った以上悪化したのである。

2023年10月07日

認知症の介護の問題 【脳の障害で心と関係しているから難しいーでも人間として通じ合える】

認知症の介護の問題

【脳の障害で心と関係しているから難しいーでも人間として通じ合える】

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現役医師ですがハッキリ言わせて頂きます。認知症の介護は危険です。理由を説明します。
ドクターハッシー/内科医 橋本将吉

説明がうまい、わかりやすいから人気になる


●認知症の人の脳を解剖してわかるのか

認知症の謎は脳が関係していることでそれが心とも関係してくる。心の関係はどうなっているのかとなる。つまり脳はは医学的に物体として見る。でも心はそうして物体として細胞の塊として解明できるのかとなる。でも説明を聞けばやはり脳は細胞からとか神経とか血流とか目に見えるものの中に働き医学としてはそこで解剖する。
でも脳というのはそうして医学的にとか物理的にとか科学的にとか理系として分析する。でも一方で心を問題にすればそれは文系的なものになる。だからこの認知症というのは脳の物質的というか機能的というか細胞というかそういう目に見えるものを解剖して解明しようとしている。

そしてここで説明しているのは感情というのも目に見えるものとして細胞の働きで感情が出てくる。感情が解剖的に説明できるのかとなるとなかなかわかりにくい。でもそれも神経細胞と関係して感情が生まれてくると説明している。
認知症はさまざまな障害が出てくる。一番の障害は記憶障害である。記憶できなくなることで忘れることでそれが単にここにあったものがなくなったとか忘れるというだけで終わらない。
忘れることが感情を司る場所に影響して怒りやすくなる。極端になると怒るだけだけでなく暴力になるのである。それが認知症を介護するときに怖いのである。何か日頃から感情的にでもよく思ってない人は特に攻撃されやすい。それで私の家族でも一緒にいられなくなったのである

●好意を持つ人は介護できる

だから感情的には好意を持っていた私が介護したのである。私には常に良い感情を持っていたから私を攻撃することはなかったからである。
だから他人が介護するときその介護する人に好感を持って居ないと攻撃されやすいのである。それで認知症の介護は難しいものとなる。そもそも好感を持つにしてもやはりそこに長い付き合いがないと簡単にはいい関係は生まれない。
私は60年間とか子供の時から生まれた時から一緒に暮らしていたからそこで親密になっていて攻撃されることはなかったのである。私のことは特別かわいがりそれは60歳までもそうだったからである。そういう関係であればいくら認知症が重いとしても暴力は振るわれない。
だから認知症と介護はこうして好感を持った人がすればその認知症の人は症状が穏やかになるのである。でも普通の人はそうした親密な好感を持ってる人ではないから介護することが難しくなるのである。

●脳と心は関係していて解明することがむずかしい

そもそも認知症の難しいのは脳と心の関係はどうなっているのか。それが解明できないし不可解になるのである。ただ確かに記憶障害ということが脳全体に影響して認知症になることは確かである。記憶する場の海馬は損傷してそれが脳全体に影響して脳の機能が正常に働く働かなくなるのである。
そもそも精神障害者というのは何なのかわかりにくい。発達障害の人とちょっと話してみたが確かに計算とかできない漢字も苦手である。ということは漢字でも数字の計算でも抽象的なことでありそれは高度な脳の働きが必要だからである。それができなくなるということはやはりかなりの知性の障害だとなる。でも認知症というのはこうして人格障害者となり精神障害者となりまったくの別人になってしまったのかというとそうでもない。

これまで60年も一緒に暮らしていて人間として通じるものは。相手を親切にしてよくすればそれは通じるのである。動物ですら犬猫でも親切にして可愛がればそれがわかるのである。ただいま外で飼っている猫はいくら餌をやってもなつかない。ちょっと近くに寄ったりするが警戒したままであり懐くことはない。
だから私は餌をやるのは嫌になってしまっている。かわいいところもないからである。なぜその猫はなつかなくなったのか。それはおそらく人間にいじめられて人間を極度に警戒するようになったからかもしれない。ただその理由はよくわからない。その猫は人になつくということはないだろう。そういう機会をなくしてしまったのかもしれない

●愛情は動物にも通じるから認知症の人にも通じる

とにかく認知症というのは記憶障害から波及してさまざまな障害が出てくる。でも動物と比べるのは変だけども親切にしたり愛情をかけたりしたりする人のことはよく思っている。そして実際に愛情を持って接していることは分かっている。
その愛情というのは動物でも通じるのだから別に認知症になっても通じるのである。ただいくら長く一緒に住んでいてもその人を嫌いだとか不快な感情を持っていると60年一緒にいた人でも一緒にいられなくなったのである。嫁と姑の関係と似ていたからである。夫婦でも離婚する人は1/3とか多い。子供を育て子供を成長させるまでは我慢するとかして一緒に居る。

でも子供が成長すると本音が出てきて一緒にいたくないとなり熟年離婚にもなる。その数も多い。また死後離婚にもなり一緒に同じ墓に入りたくないともなっている。そういう人だととても認知症の介護はできないかもしれない。つまり感情的に好き嫌いがはっきりあらわれるから極端になると感情が抑えていたのが抑えられなくなり暴力となってしまう。私はそれを見てきたから夫婦でもやはりそれまでの関係はどうであったかとかで認知症の介護になると難しいとなる。

認知症の謎は時々正気になることである。特に死ぬときは正気になる。だから冷たく扱うと恨んでで死ぬことになる。そのことが怖いことになる。私の場合は特別よくされたからそうなったら後悔したことになる。最後は自分のことを介護したことを分かっていて感謝して死んでいったので救われたのである。それは死後も影響してくる。供養するにしてももし恨んで死んで行ったら死んだ人はその人をどう思うかとなる。

別にそれは認知症の介護だけではなく介護そのものでもっ死んでからも影響するから介護というのは難しいのである。
ただ正直私の場合は認知症の介護でも二年半で終わったから助かったのである。介護というのは認知症でも十年とかでも続くことがある。そうなるとどんなに愛していても限界がくることは確かである。私は別におしめなどはしていないし二年間は一緒にいても身体的介護は何もしていない。近くで母親のおしめをするとき暴れられて殺した息子がいたからである。

●認知症は感情が抑えられない、本心があからさまに現れる

でもこの病気について不可解なことが多くて何かわからなかった。特に脳の病気でありそれが心とも関係しているから複雑であり不可解になったのである。
でも認知症は生まれつきの精神障害者とは違っている。人間として普通に生きてきたのだからやはりいろいろなことを分かっているのである。ただ記憶障害とかからいろいろな障害は出てくる。でも人間として全くわからなくなったというのでもないのである。それが誤解しやすいのである。だから認知症というのは直接解介護してみないと理解できない。それは医者にしてもわからないからである。

確かに脳の細胞とか神経とかアミロイドが溜まっているとかなんとかいろいろある。でも介護するときはそれを説明されても役に立たないと思う。それは脳と関係して心とも関係してくるからそうな。そもそも人間の心と何なのかなのかとなってしまう。いくら脳の機能を見ても細胞を見てもで人間の心はどうして作られるのかそれも脳をいくら見てもわからないとなる。でも神は人間の心を見ることができる。

なぜなら神は人間の心を見て判断きるとなっているからである。それは脳の細胞とか神経とか血流とかを見るのではない。では一体どうして人間の心を見ることができるのかとなる。人間の心にはさまざまな要素がありあの人は性格的に悪いとかあの人の心は歪んでるとか人を妬んだり人を憎んだりそういう感情的なものはある。だから人間は必ずしも外見だけでもわからない。でも神は人の心を見るというとき心の清い者は神を見るだろうという時確かに神は心が見えるのである。心の清い人は神をみるだろうというときそうである。だから人間は脳というのはどうして心を作っているのか不可解なのである。

認知症の人でも確かに記憶障害がありさまざまな障害があってもやはり人間としての心を持っていてそれが相手にも通じる。優しく愛情を持って接する人は好感を持ちそうでない人は好感を持たないから介護できないともなる。夫婦でも好感を持てなくても愛していなくてもいやでも我慢して一緒に居ることができる。
でも必ず本音が出てきて我慢できなくなって熟年離婚にもなるのである。つまり本心というのは本音というのは隠すことはできない。いつか必ずその本音をあらわれあれる。だから地獄というとき人間の本音が隠せなく露わになった場所である。憎んで我慢したりしていたがそれがあからさまに地獄で現れて暴力となり殺し合いにまでにもなる。つまりそうした感情でも抑えることができなくてそうなってくる。それが地獄だとなる。

例えば社会でも権力を持っている人にわ嫌でも従う。でも地獄では従うことなくその権力者に従わない。そして襲うことにもなる。なぜそうしなかったかというと相手が権力を持っているから従っただけでありいつかはその権力はなくなったりすれば相手を責めてくるのである。だから地獄とは人間の本心が現れている場所であれ憎しみでも露わになり隠すこともなく現れて殺し合いにまでもなってそれが地獄である。
だからこの世で権力を持って支配して従わせていた人復讐されるかもしれない。つまり立場が逆転するのである。

ともかく認知症の介護は至難である。それはただ人間の臓器の病気ではなく脳の病気である心の病気でもあるからだ。でも心は何かとなると人間には解明できない。それは神のみぞ知るとなってしまう。だから医学だけでは科学だけでも解明できないのである。そこに理系と文系の問題があるともなる。
心理学なども関係してくる。それは臓器だけの問題ではないし脳と心が関係しているから難しくなるのである
だから認知症の薬ができたというはそれで認知症が治るのかどうかはわからない。ただ認知症についても研究されてやはり薬はできてくる。でも問題はそれだけで認知症が治るのかどうかはわからないのである。それがそもそも脳というのは心と関係していて解明されていないからである






2023年09月20日

「家事は全部妻まかせ」が招く認知症?  父の介護で気づいた「男を無力にする真の原因」

「家事は全部妻まかせ」が招く認知症?

 父の介護で気づいた「男を無力にする真の原因」

母は毎日欠かさず三食を用意し、父に給仕していた。かれこれ60年にわたって続けてきた習慣で、父にとって食事とは「食べる」というより母の給仕を受けること。母の前に「座る」ことなのだ。

 この習慣こそ認知症の原因ではないだろうか。家事を一切せず、外でお金を稼ぐだけで、あとはすべて母任せ。いわゆる家父長制が認知症を招いている。父はアルツハイマー型というより家父長制型認知症といえるのではないだろうか。


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私の家族は複雑であった。二人のの母親がいて一人は実の親だけど百歳まで生きた。もう一人は母親違いの姉であり年齢は七歳しか違っていなかった。同じ大正生まれだったのである。そして母は私の父親の家に嫁いできて女中のように働くことだけだった。特に店をしてた時食事をしていても満足にゆっくり食べることができなかった。店にお客さんが来て食事中でも立っていたからである。
そして私の母親は実家でも継母が来ていじめられて苦しんだ。それで何かそこでも働き詰めであり趣味など持つこともなかった。だから花にも興味はなく花など買わなくてもいいといいとか花はいらないと言っていたのである。それも育ちが原因していて貧乏でありそうゆう余裕もなく習い事もさせられることもなくただ働くことだけだったのである。だから実際に東京に出て女中もしていた。だからその一生は女中ともなっていた。

一方姉の方は公務員であり役所に勤めていた。もともとは看護婦だった。 55歳まで勤めて退職した。早めの退職だったが勤めることが嫌になったからやめたと思う。でも55歳は早かった。なぜならそれから30年も生きていたからである。姉も何か趣味になるものもなかった。向いていたのは看護婦だったのである。だから役所を辞めてから何をしていたかというと何もしないのである。家事は94歳までしていたからである。一方の姉は55歳で退職して何もすることがなかった。家事すら全然してない。なぜなら母が全部していたからである。

ここで一見これは何でも食事でも用意されるから人いいと見る。でもそれが認知症の原因にもなっていたのである。役所を退職してから何もしない。趣味もない。向いていたのは看護婦だったがそれもやめていた。ただ保健婦の後は事務的なもので働いていた。でも役所を退職してからは何もしない。家事すらしない。ただ何をしていたのか、テレビとか見て家では何もしてない。それは認知症になった原因だったかもしれない。母は94歳まで家事を一人でしていた。姉は何もしないかったのである。

母は働きづめの一生だったけどそれがすべて悪いものとして作用はしなかった。 94歳まで家事をして働き家で掃除でも常にしていて役割があった。姉は家で役割が無く役所も辞めて何も役割がないものとなってしまった。そのことは認知症になる原因だったかもしれない。家事というのは男が馬鹿にすることもあるが結構頭を使うのである。頭だけでない手も足も使う。特に料理は相当に頭を使うし熟練しないとできない。だから家事をする料理をすることは給料をもらえなくてもそれは仕事なのである。

だから男が退職したりして妻が食事の用意でもなんでもしてくれる時男に役割がなくなりそれが認知症にもなる原因となる。一見何でもしてくれる身分であればいいと思うが実は違っている。人間は常に役割を持ち働いていないと頭も体も機能しなくなり退化してゆくのである。だからこれは何か人生の人間のパラドックスにもなる。

例えば主人がいて召使いがいて召使がなんでもしてくれたりするのはいい身分だと見ているが必ずしもそうではない。認知症になりやすいのは召使いがいて自ら何もせず何でもしてもらう主人の方なのである。
また姑が嫁にお母さんは何もしなくていいですよテレビでも見てくださいと言われると姑がボケるということはある。それは家事も何もしなくて張り合いもなく頭も働かないのでそうなるのである。だから男でも何もすることがなかったら家事をするべきだとなる。家事はそれなりに頭を働かせるし体も使うから全体的にいい作用をするのである。

そして人間は何らか役割がないとボケてしまうことがある。だから長生きの時代老後も長いから何か役割を持ち働き続けることが大事である。
ワーク(work)というとき作用するとか機能するとか作品などの意味がある。つまり人間は生涯ワークする。それが例え金にならないとしても何か役割を持ちワークすることが大事なのである。それが高齢化社会の大きな問題になっている。老人は引っ込んでろとかテレビテレビでも見てるとか何もするなとか若い人に言われたらその人はボケてゆく。すると社会に大迷惑をかけるのである。

ともかく認知症はもう90以上になったら半分はなりどうしてもそれは避けられない。でもそれを防ぐにはやはり役割を持ち何らかの生きがいを持ち働き続けることが大事なのである。理想的なのは働きながら死ぬことなのである。近くの自転車屋は癌になっていても十年間くらい働き3日前に行ったらもう仕事もできないかもしれないと言って3日後に死んだのである。
まさに仕事をしながら死んだのである。街に一軒しか自転車屋はなくなっていたから貴重な存在だったのである。他でも近くの医者も90まで仕事をしていて一週間間くらいであっけなく死んだのである。そういう死に方はいいと思う理想である。
そうはいっても肉体労働者だと働き続けることが難しい。どうしても体が弱りできなくなるからである。でも軽いこと家事くらいはできるからそれでもしていた方がいいとなる。
ただ何もせずボケーとしていることが一番悪いのである。

老後は長くなるというとき大きな問題が病気になること特に認知症になることは一番大きな問題である。それは周りに大迷惑をかけてしまうからである。介護するにも精神障害者になってしまうからその苦労が大きいからである。そして本人にしても馬鹿になったとか言われてその生きてきた人生の価値まで否定されてしまう。あの人は馬鹿になって死んだ。それだけの評価になってしまうことも怖いのである。そして死ぬ最後の言葉が[私は優秀だった〕と言って死んだのである。それも悲惨だったのである。
ただなんらか馬鹿になったこと自覚していた節があった。それで自分は馬鹿ではないということ言いたかったのかとなる。

ここで家父長制的認知症と言ってるが家事もしないでただ妻の何でもしてくれるということは危険なものとなる。
認知症になることが確率は大きくなるからである。ただ人間は高齢化社会を生きることは今の時代になって初めて経験することでありそれでみんなが対応できないとなっている。その最大の問題が認知症になることなのである。

2023年09月15日

地獄の沙汰も金次第−墓の効用はなになのか? (金もなければ相手にされない老人)


地獄の沙汰も金次第−墓の効用はなになのか?

(金もなければ相手にされない老人)

100歳以上の高齢者 全国で9万2139人 53年連続で過去最多を更新 きょう「老人の日」


何か埼玉の方に兄さんとかいて具合が悪いから呼ばれて行った。ところがその人は女性は金がないからそのために金を要求する。一回だけだから良かったが今度もまた何か特別なことがあり呼ばれていった。でもその人は金がない。もう今回限りで終わりだと言っている。となると金がなかったら兄さんでも会うこともできない。ただ埼玉とかの方ではそれなりに遠いから簡単にはいけないのである。

何か特別の用事があるというとき金でもくれるのかと思ったらその人も福祉に世話になっているから何もないとなる。臨終の時に必ず呼ばれる。だからまた行くのは金もないのにどうなのかと思った。ただこれが最後となると金を惜しんでもいられない。だからこそこの世の中地獄の沙汰も金次第だとなる。つまり兄弟でも姉妹でも親子でも最後の別れを惜しむとなるとき離れていると交通費がかかり金がないとそれもできないとなるからだ

その人は親しい近くの人がと来てくれと言っても行かない。その人自身が日々の生活に事欠いてその人は援助してくれないからである。その人が失敗したのは一人娘に金を全部預けてしまったことである。自由にする金がないのだからその困った女性に援助はできないのである。ただ人間というのは本当に最後まで金のことがつきまとっている。それは誰でもそうでありその金の縛りから逃れることができないのである。でもやはり金に困っている女性を助けられないということは大きな問題になる。携帯電話で話ししているが直接にあって話すことはないようである。ただ一人で行ったり病院を出たり入ったりしているから話し相手が必要なのである。その女性は話がうまいからである。

とにかく人間は金から解放されるのは死んでからしかない。それはいくら金を持っていても金でもめたり遺産相続で争ったり家族でもいろいろと金から問題が起きてくる。だから人間は本当に死ない限り金から解放されないのでる。そこに人間の不幸がある。おそらく天国とか神の国では金など関係なく生活できるに違いない。だからこそ地獄の沙汰も金次第にな。金を与えれば確かにその人が好きでなくても老人でも何かしてくれる。話し相手にもなってくれる。現実に話し相手になるだけで金を払っているということもあるからだ。

だから老人は金をもっていればその金を目当てに相手にするということはある。老人がなぜ権力を手放さないかというと権力をもっていればそれによって人も寄ってくるし相手にもしてくれる。その老人が嫌でも金のためにそうなるのであ。女性でもその金のために寄ってくる人がいる。それは問題にしてもやはり人間は金から切り離されられないのである。

ただ別に金がなくても老人のこれまで生きたことを語れば興味を持つことはある。老人の価値はやはりこれまでの人生で経験したことを語ることである。ただ正直その人が本当に語るべきものを持っているかどうかが問題になる。例えばカルト教団など入って一生終わった人の話など何も興味あることはない。ただロボットとして何の個性も出さずにその人なりの生きたものは何もないのである。
そしてその教団や組織もいつかは消えてしまうのである。それは会社に入った会社で働いた人でもそれとは違っていてもやはり会社から退職するとその人の価値は相当に減少してしまうのである。でもそこで何か語るべきものがあればそれは価値あるものとなる。

要するに老人の価値というのはもちろんお金があれば金に寄ってくる。だから金があったほうがいいことは確かである。でも何か老人がその人生を語りその語ることに価値があればその老人の価値があるともなる。それは金なしでもその経験したことが価値あるのであり巨額の金を集めても残してもそれがすべての価値になるとは思えないのである。
やはりその人がどういう人生を送ったのかまた語るべきものがあるのかそれが問題になる。ただ芸術家などだったら何らか作品を残しそれでその人の価値も生まれる。でも別にそれが金になるとは限らない。芭蕉は奥の細道を書いたからといってそれで金になったかとなればない。でもその価値は400年でも過ぎても依然としてその価値は衰えないし価値が増しているのである。だから人生は短し芸術は長しなっていたのである。でもそれもごく一部の人せりあとは消えているのである。

いずれにしろ人間は最後に何を残すのか。骨を残すのか灰を残すのかそれも土となって消えた。 5人くらいは土に埋められて一つは骨も残らず灰になっていた。土になっていたので誰のものかもわからなくなっていた。だから人間というのは骨とか灰を残してもそれが誰のものなのかもわからなくなる。その人の人生がどういうものであったのかそれが最後に問われるのである。私の兄はこうしてただ灰になり土になり誰の物だかも分からなくなっていた。それで私は私の墓に隣に小さな墓を作作って供養している。そこには骨も何も埋まっていないのである。

だから骨とか灰は海にまけとか木の下にまけとかとかでも構わないとなる。ただ墓が必要なの何かドラマで常にその墓の前で死者と語り懺悔する人がいる。そして墓に向かってはお詫びしたりする。だからそこには墓の効用があるとなる。もし海にまいたりにしたりすると誰の墓だか誰の者だかわからなくなるからその人に向かって死んだ人に向かって懺悔したり語りかけることができなくなるからである。だから墓がいらないということではない。
墓もそれなりの人間として効用があるものだったのである。ただ墓もも儚くついには誰もお参りするもなく墓の墓場となってしまったのも無常だということである。人間は無常から逃れることができないのである。

また彼岸が来る。お盆から彼岸は近い。お盆とか彼岸はやはり死者を思い出し供養するということに意義がある。ただいまや墓も維持する跡継ぎもなくなり維持できなくなっている。だから墓じまいとかになり。それでは墓にに金をかけるべきではなかった後悔している。なぜなら跡継ぎがいないのだからは卒塔婆のように簡単なものでもよかったのである。立派なものにしてもその後継ぐ人がいないのだから無駄だとなっていたのである。

2023年09月02日

老人の健康格差が大きい (73才でも90才にも見え九三才でも70才に見える)


老人の健康格差が大きい

(73才でも90才にも見え九三才でも70才に見える)

老人の一番大きな格差は健康である。病院に行ったら隣にいた人が93歳の女性だったということに驚いた。とてもそんな風には見えない。まず70代にしか見えないホテル病院に来たのはただ血圧が上がっているからそれで来ただけである。他は健康なのである。顔を見てもつやがよくとても93歳には見えないのである。

私の知っている73歳の女性は病気になりボロボロになっているのである。脳梗塞になりそこから糖尿病も併発している。見た感じでもその人は93歳でもうおかしくない。となると20歳の差があっても実年齢は違っている。つまり同じ老人でも20歳の年の差があっても20歳の上の人が73歳の人より健康に見えるし歳でもそうです。これだけ老人にとって病気の影響が大きく健康でなくなるとそれだけの差が出てくるのである。

だから60以上70以上になると健康が一番大事になるので健康を失うといくら金を持っていてももうそれでいいことはなくなる。その人は自転車に乗っていたが自転車にも乗れない。また車を持っていた人でも車に戻れなくなっている。歩くことすらままならないのである。こうなるといくら金を持っていてもどうにもならないのである。だから健康格差がありその差も老人になると大きいのである。今の老人はどうしても長生きはする。でも健康でないと長生きしても幸福にはなれない。歩くこともままならないもちろん車にも乗れないそうなると生きがいもなくなってしまう。

いくら90歳まで生きるとしてもその間に病気になってただ病気と戦うことが生きることになったらつまらないとなる。一番いい死に方は近くの自転車屋のことを語ったが3日前まで普通に仕事していたのである。その後にすぐ死んでしまったのである。ただ十年位ガンであり病気を持っていても普通に仕事していたのだからその人は死ぬまで生きがいを持って働いていたのである。

こういう死に方が理想的だと思う。 90歳まで医者をしていてその人も1週間くらいなのかパタパタと死んでしまった人もいる。つまり90歳までも一緒に医者の仕事をして仕事しながら死んだという感覚になる。だから老人にとって意外と仕事するということが生きがいになり大事なのである。ただ肉体労働になると老人にとってはきついとなる。自転車屋の仕事も肉体労働にもなるわ比較的軽いから病気でも継続できたのである。

ともかく長生きの時代である。でもそこで健康格差がある。その差があまりにも大きすぎるのである。もちろん金をってるか持ってないかの差もある。それも大きいとしても一番の老人の格差は健康格差なのである。 93歳でも70くらいにしか見えない人もいる。でも70歳くらいでもすでに見た感じから90歳のようにもなっている人までいる。だから60過ぎたりするともう年齢ではない。年齢で判断できないのではい。どうみても70代の人でもその人はすでに80代以上でありもう90にもみえる。。それだけの差があり健康が大事になるかわかる。

だからどうして60以上になったら健康であるかどうかが大きな問題になるのである。健康は人によって違うし生来の素質もあるがやはり健康でも積み重ねた生活がその人に影響しているかもしれない。どんなに体力があっても若い時から不摂生しているとそれが老人になってから影響する。私は早い時期に酒とかタバコとかはやめた。その70歳でも90歳にもなったように見える人はタバコを続けていたのである。それはタバコは血管に良いものではなかったのである。だから脳梗塞になったのである。ただ糖尿病とかはやはり遺伝的なものはありそれはどうにもならないものかもしれない。でも積み重ねた生活が必ずやはり老人になると体にあらわれるのかもしれない。

老人になるとやはり人生の結果が否応なく現れるのである。それぞれに何か積み重ねたものがありそれはいい面と悪い面にもあり悪い面になると必ず老人になるとその結果が表れる。若いときはその怖さがわからないのである。からないからこそ無鉄砲になり不摂生にもなりやりたい放題にもなる。それは青春の特権だともなるから余計にそうなる。でもあまりにもやりたい放題になり欲の赴くままに節制しないとそこで失うものがある。たいがい若い時の不摂生がのちのち後悔の種となるのもそうである

とにかく人間は一朝一夕にはならない普通の人であれば積み重ねが大事なのである。それは知的な面でもそうだしも体の面にもある。何か自分は自転車に乗って運動していたのは良かったのかもしれない。やはり運動も大事だったのである。運動も習慣的にしていれば血流も良くなり頭も働くからである。
だから車というのは便利でも体にはあまり良くないかもしれない。とにかく人間は何か良いことでも悪いことでもそれまでの積み重ねの結果が出てくる。若い時でもただ放埓に過ごしていればその青春時代でもあっという間に過ぎてしまう。ただ過ぎてしまうならいいな必ず後で後悔するのである。

また習慣が人間を作るという時もそうである。やはりなんでも勉強でも習慣的にする。運動でも習慣的にする。するとそれが頭にも身体にも影響するのである。だからなんでも人間は一朝一夕になるということはないのである。
ただ人間には一発勝負というものはありそこで運命を決することもある。でも一般的には人間は積み重ねの結果として何をかになるのである。だから習慣的に怠らず努めるということが大事になってくるのである。

2023年08月03日

成仏するとはどいうことなのかーお盆に死者が帰ってくる (その人がどう生きたの方が大事)

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成仏するとはどいうことなのかーお盆に死者が帰ってくる

(その人がどう生きたの方が大事)

●成仏しなかった非業の死

私の父親違いの兄は交通事故で40歳で死んだ。私の家は兄をよくしなかった。母は後妻に来たからである。五年間は一緒にいたのである。その五年間は貴重だったのである。なぜならもしそうして一緒に生活しなかったら兄という言う感覚も持てなかったかrである。
兄の前の兄の実の父親は東京で会社の事故で死んだので。そしてまた兄も交通事故で死んだのである。これはカルマなのかどうかわからない。ただ、そのことは私自身に深く関係していたのである。だからそれを単なる他人事とはおもえないのである。

成仏することに非常にこだわる人がいる。創価とか仏教関係では成仏しないかするかが一番問題にしているのである。そのことで信心のことが決められているのである。ただ、カルト教団の言ってることは正直宗教とは何の関係もない。デタラメなのである。第一宗教などを求めている人なんて一人もいないからである。そこに欲が何でも叶えられとしてとして入ってきている人たちである。ただ、何か知らないが異常に成仏にこだわっているのである。

成仏を考えるとき死んだ姿ではない。成仏とは何か?それは死んだ姿とか、どんなふうにして死ぬとかとかでもない。その人の一生がその人なりに全うされたかである。その生き様の方が問題なのである。死んだ姿とかにこだわってもそれで成仏するともならない。
成仏するとはその人がその人なりにその一生を全うすることにある。その人がどういう風に生きたかが問題であり、死ぬ姿を見てもわからないのである。つまり成仏するとはその死ぬ有様ではない。その人がどういう風に生きたかによって決まるのである。何かよく言われように俺は社畜なんだよなとか言って一生を終わればその人はその一生を全うしたのか?しない。すると死ぬ時どうなるのか成仏はしないとなる。

●その人がどんな人生を生きたかが問題

とにかくカルト教団などに生きている人間はみんなロボットであり教祖のコピーとなって何らその人なりの人生など生きていないのである。だから、その人生には実際は価値はない。もちろん、その団体の中では価値あるとされるが、いずれ団体も組織も消えてしまうからである。その組織団体が消えた時、その価値も消失するのである。会社で会社から退職した時その会社での役職があっても退職すればなくなる。するとその人の価値はなくなる。だから退職するとその人の価値がなくなるのであり生きがいもなくなってしまうのである。

何故ならその人はあの価値は会社があっての価値であり。その人自体の価値というのは追求されていないからである。ただ、会社で働けばやはり何かその人なりの価値として残るものはある。でもその人が地域で何か働くことができて認められるということは?難しい。村社会のようなところだったら村という世界が農村社会だったら継続される。
だからそこで死んでもご先祖様となって、その村に生き続けていたのである。そしてお盆には死者が帰ってきて村の人たちとみんなで踊るということになっていた。それがお盆の起源だとされている。死んだ死者を迎えて一緒に踊るものだったとなる。今はそんなことは全くない。そういう社会が消失したのだからそういう祭りとかも消失するのである。時代によってその価値が失われたのである。

●40歳で交通事故で死んだ兄

兄の場合はどうしてもその生を全うされたとはならない。そこに何か無念が怨念が残っている。墓を作ったの自分の家のそばに自分の墓の傍に墓を作ったのだがお盆には墓参りするのだがその娘が一人いてもその人は兄を思う心もなくなっていた。なぜなら夫婦でもめて離婚して娘がそのために父が交通事故で死んでひどい目にあったからである。それは静岡の方であり連絡は取り合っていたが、何が起きたかその時からなかった。近くにいれば何か事情も分かって援助することもあったが、できなかったのである。それで妻の方の実家に頼ったのだがそこでもよくされなくて高校出てからすぐに東京に出たのである。。だから実際あったのは子供の時一回しかその娘と会っていない。でも母が死んだときは何回か来ていたのである。ただ、それも何か遺産があるかどうかでお金のことで。来ていただけである。だからその縁も切れたのである。

確かなことは兄の霊は成仏していない。

それはその死に様のことではなく、生き様のことなのである。十分にその生を全うすることができなかった。親としてもできなかった。それを全部私の家のせいだともならない。なぜならその当時中卒で集団就職した人は大勢いたからである。ただそう、その苦労は私よりずっとあった。だから私は後ろめたいものを常に感じてきたのである。でもすべてが私また私の家にあったのかというとまたそれもわからない。あったことはあったが、全てが私の家にの責任なのかどうかは?わからない。なぜなら結婚して離婚したという時、それもそれは私の家の責任とも言えないからである。苦労したということがあり。それで負い目を感じていたのである。

●成仏するにはその人の生きざまの方が大事

ともかく成仏するというときその人がその人なりに充分に生きれば成仏する。何か自分なりに生きない、強制されて生きる。例えば医者に向かなくても医者にされたとか色々親に強制されたり親ガチャで苦しんだりする。そして自分自身の一生をただ強制されて終わるという時、その人は成仏しないともなる。そう見れば人間の一生がその人なりに充分に個性を発揮して生きたという人は稀になるかもしれない。何か常に社会であり。家であれ強制されるからである。

まず貧乏だったら食うことが大事であり。自分なりの何か才能でも伸ばすことは不可能である。そうなると自分なりの生きられなかったということで死ねば成仏はしないとなる。それは成仏の姿ではなく一生をどういうふうに生きたかである。まずカルト教団などはまったくの奴隷でありロボットでありその人なりに生きている人は一人もいない。同じ制服を着て同じ事を語っている。そして教祖の命令のままに偶像崇拝となり決して成仏はしない。だから成仏などにこだわるのはバカらしいとなる。その前にロボットの人生とか生きたとしても成仏しないのである。

私の母親は確かに100歳まで生きたがその死んだ姿も何か笑っているようで姿から見れば本当に成仏していた。ここに苦しい表情もない。私にはいつも楽に死ねたらなと言っていた。それは叶えられた。でも母親が本当に母としてまた女性として人間として充分に生きられなかった。常に働くことを強制されて働くことしかなかった。花を買うより庭に花を植えるよりそんなものいらないとして怒っていたのである。つまり花に価値を見なかったのである。これも寂しい人生であった。ただ、それは大正生まれでただ働かされるだけだからそうなったのである。

だから、また母も人間として女性として充分にその生を全うしたとはならない。もっと花に興味を持ったり何かただ働くだけだの人生でなければよかった。そうして人間とは最後に問われるのはその生き様であり成仏の相ではないのである。もちろん成仏の相が悪いと何か確かに気分いいものではない。でも私の母親は?そうして充分に自分なりに人間として生きたということはない。でも成仏の相は良かったのである。

●怨霊となる死者

いずれにしろ不慮の死非業の死は成仏していない。だから何か墓参りするにしてもそもそも成仏していないから。心、苦しいものみなるある何か圧迫される感じになる。その人なりに一生をを生きていればそうはならない。不慮の死非業の死でありそのことが頭にあり、解消しないのである。

だから、そうして。非業の死を遂げた人とか事故で死んだとかいう人はその魂はこの世に未練を残しそしてまたまた呪いともなっているかもしれない。そのためにその呪いを恐れて死者をを祀り慰霊する。靖国神社が戦没者の慰霊のなっているのがそうである。そこには生きている人たちが何か後ろめたいことがあり死んだ人の霊を鎮めるためにそうなったともなる。私自身も兄については同じことを感じているのである。成仏していないからやはり心苦しいものとなってしまったのである。でも一旦死んだ人を引き戻すこともできないしどうにもならないことである。 

死者がお盆に帰ってくると言うけどやはりこうしてその人なりの一生を生きない人は非業の死を遂げた人は成仏していないし。その霊は死者が帰ってきても村の人と笑って盆踊りをするようなことはしにくい。 ただ、今は盆踊りでも村という共同体が消失しているからなかなかこのように御先祖様とはならない。つまり死者を供養するということはやはりその生活でも継続したものがあり。それで死者を供養するということになるそれが祭りにもなる。

今はそうして昔の村のように継続する共同体というものがなくなっている。 だからこそ家すら家の共同体すら消失して墓を守る人もいなくなり。墓じまいが問題になるのである。村に生活するということがなくなり広域社会になった時さらにグローバル社会になった時そういう時間の中で形成される共同体は消失したのである。そのとき死者もその村の中に御先祖として生き続けることもできなくなったのである。 
つまり現代は空間がグローバルに拡大した。でも時間軸で形成されたものが失われたのである。
ただ一方で死者ももうこの世に帰ってきてほしくない人も多い、人を苦しめた人もいるし死んでも恨んでいる人もいるからである。だから家族でなかったら死者でも帰って来て欲しいとかみんなならないのである。

●死者がお盆に帰ってくる―御先祖様になっていた死者

つまり今は死者が継続される場がない。すると死者はどうなるか?幽霊のようにさまよっているかもしれない。御先祖様になったときはそこで継続して生きて生きている。でもその場がなくなったとき死者はどこに行くのか?死者の魂は誰が鎮めるのか?何か成仏しない人の魂は他者に害を与えるということがあるかもしれない。何か非業の死を遂げた人の霊を鎮めるために神社を立てたりした。死者が怨霊となり呪いとなることを恐れたのである。兄の場合はそういうことを感じる。
死んだらみんな御先祖様となった迎えられるとも思いないのである。

でも私の姉と母も死んだがそこには感じないので。父親でもそうである。遺影はは笑っていて笑っていて何か依然として家族とあるような感じがする。だから何かそこに成仏してはしないとは思えない。でも実際、家族でも何か?成仏していない恨みを残して死ぬ人もまたいるのである。ある母親は娘に対して【ひどい娘だわ】と呪いの言葉を残して死んだ。その娘は本当にひどい娘だったので。母親はそれなりに愛して育てた?実の母親ではないにしろ実際はその人は母親になっていたからである。でも何かもめて母親が病気になったときも何の世話もしない捨てたも同じである。ただ、母親は白血病で呆気なく死んだのである後の葬式はしたとして葬式だけなら簡単だからである。介護となると、その娘、何もできない。

実の母親は五歳で家を出て行ってその娘を捨てたのでる。だから、その母親を母親と思っていな。ただ遺産があるので、それが欲しくて老人ホームに入れているだけなのである。第一、その実の母親は認知症であり何かわからなくなっているから悲惨である。
家族でも親子でも問題があるのは人間である。そこに確執があり、争いがあり親子であっても兄弟であっても何らか争いがある。平和が必ずしもない。それがが人間の現実なのである。平和がないというとき。戦争は無いというだけではない。そもそも家族すら平和がないのである。何らかの争いがあり、確執があり平和がないのである。それは私の家でも嫌というほど経験したのである。

ただ、私の家族の場合は生前は争いがあっても今は何か今は平和になっている。だか遺影は笑っているのである。でもそうでない家族もも親子も兄弟もこの世には結構多いのである。そもそもなぜ宗教は血縁を否定したのか?それの血縁でも愛し合うというだけでなく、必ず何らかの。揉め事があり争いがあり平和がないからである。それで仏教でもキリスト教でも血縁とか家を否定したこともその為だったのである。 

2023年07月23日

今の社会は年齢ではなく価値を評価される時代になっている


今の社会は年齢ではなく価値を評価される時代になっている



●年をとっても価値を認められない


これは言えるだろう。第一もう歳を取っているからといって老人になったからといってその人が価値ある人にはなれない。これだけ老人がいればただ年が上と言うだけで誰も尊敬などしない。価値も認めないのである。
老人が老人というだけであるというだけで尊敬される時代は終わった。そういう時代は第一長生きする人が少ない。すると長生きする人は何か生き字引のようになり貴重になった。それは老人が長生きすることが極めて少ないということからそうなったのである。もうこれだけ老人が多いとなると。老人というだけで歳だけでその人の価値は何も認められない。

ただ、老人はいろいろ経験してきて積み重ねたものが必ずある。それが老人になると生きてくるのである。だから何か語るとき老人の語ることが価値あるものとな。若い人は経験してないから語ることがないのである。 だから若い人の話を聞いても、そこに価値を見出せない。

例えば。ユーチューブでおばあちゃんが料理の話をしている。それができたのは料理の経験を積んできたからできたのである。、近くで梅を漬ける人がうまい人がいるそれも経験であった。経験という時、特別なことでなすそうした日常のことでも料理のことでもやはり経験がないと教えることもできない。それが今ではユーチューブで教えてそれが人気となって収入さえあるとなる。経験は多様であり知識も多様だからである。だから今の時代、通信が発達してさまざまな情報が得られる。でもこうして情報が入らない時代は、その土地で長く生きた人が。その土地について知り抜いて教えることが必ずあったのである。

とにかく俺はお前より年が上だというだけで何か価値を認めてもらうことはない。そういう時代は終わったのである。 では何かその人の持っている価値とは何なのか?それがなければ老人で年取っているだけで何も認められないし尊敬もされない。 その人がどういう価値を作ってきたのか?それが問題になる、価値もいろいろ多様でありいろいろな分野がありそこで培ってきたものを教えることができる。農業でもそうだし大工などでも職人でもそうである。でもそこでスキルを磨き技を持たないものは尊敬されない価値が認められないのである。それで会社員になると退職するともしその価値が 会社にある時、組織にある時。その価値は消失する。そこで何か培うものがあれば。その個人の価値も認められでもそれがなければ退職すると用無しになってしまうのである。 

●会社や組織集団の価値は退職や集団の消滅でなくなる

つまり集団的価値というのはその集団を組織に従属するとき価値がある。でもそこから離れると個人となり集団組織としての価値がなくなる。企業に勤めていればその名前でその人が価値あるとまでなる。部長とか課長とかの位でも会社であは価値がある
その時、その人の個人が何をしてきたかは分からないのである。でも会社を退職するとき。その組織会社組織で培ったものがスキルが生きることもある。でもただその会社組織で地位があったからといってそれが今度は退職したら通用しなくなるのである。俺は会社で偉かったと言っても嫌がられるだけになる。

カルト教団などもその教団に組織に従属しているときはそこで価値がある。でもそういう団体組織もいずれは。消失してしまうのである。 極端な話がある国家があり民族がありその一員と言うだけで価値あるとはならない。これだけグローバル化すればただ日本人というだけで誰も価値などを認めないのである。だからあなたのプロフェッショナルは何ですかと問われた。その職業からその人をグローバル化するとみるのである。

例えば写真を追求している人は多い。でもこれもしてみると面倒なものだと思った。レンズの種類と数が多すぎるのである。それで何を買っていいかも分からない。そのレンズも。10万円以上とか高いので。80万ものレンズを使っていた人もいた。そんな高いのかと驚いた。でも写真を追求すると、そうしたレンズが必要になってくるので。そこで写真の技術も磨かれてプロoにもなりうる。それはかなり積み重ねが必要でありレンズを買ったり、いいカメラを買ったりと投資が必要になってくる。それが老人になってやはりそのスキルとか積み重ねたものが習得した技術は生きてくる。

そういうものは価値としてわかりやすい。それは芸術だとその作品からその人の価値をみたりするからである。また学者だったら論文を出したりしてその人を見て価値を判断する。そういうのは分かり易いのであ。でも人間の価値は多様であり。別にそうした特別な芸術でなくても、やはりいろいろな価値があり。それがやはり積み重ねていくと老人になって教えるものがあるとなる。とにかく人間というのは成長に時間がかかるのである。それは知識の習得でもそうだった。やっぱこれも外国を知るには。本を読んでいただけでわ分からないからである。すると実地に外国わ見聞してそれでを理解を深める。それでも外国となると理解するとき、相当に時間がかかるのである。

●その人なりの価値を作り出すのには長寿は有利

何かを会得するとか、深く理解するのは自然でもなんでも相当な時間がかかる。それで私は何か理解することが遅く60過ぎとか70過ぎになってやっと本に書いてあるものを理解しているのである。だから高齢化社会というのは、そういう点では有利である。たいして才能はなくても時間があれば積み重ねがあれば天才でなくても一芸に秀でることができるのである。そういう高齢化社会はそうして個人の価値を長い時間かけて作っていくということはできる。それは別に天才でなくても対して才能がなくてもやはり時間があると積み重ねがあると理解できるようになってくるのであ。 

だから高齢化社会は退職してからも30年とか生きるとなれば今までのような考え方では通用しない。個性をいかす見出すか表現できるかが大事になる。その人なりの価値を長い時間かけて作り出すということである。それは別に天才でなくても長い時間をかけるとできることがあるからだ。もちろん絵の才能わなければできないところがイメージクリエーターで全く絵の才能がない自分が絵を作ってるというのも不思議のである。それもやはり時代の進歩でできるようになったのである。 

これからは年をとっただけでわ何の価値も認められない。
これだけは確かである。その人なりの価値をつくっていく
それが大事になってくるそれでみんなが一様に学び行動する組織的な学校という場は時代にそぐわなくなっているかもしれない。そこでは創造性が育たないからである。学校という形式はおそらく明治になって大量の人間を組織的集団的に教育するために作られた。だから一律的であり軍隊的でありそこで何か創造性が身につくことはなかったのである。それもまた時代が変わり、価値観が変わり変革が求められているのである。

ともかく年が取ったからといって歳の差でその人を見る時代は終わった。その人がどんな経験をしてきて、どんな価値を創り出してきたかがその。人を図るものとなる。年齢を見ても分からないのである。ただ価値というのはあまりにも多様であり その価値を測ることが難しいのである。
最近。世界史に関する本を一冊買った。これも色々と難しい。でもその本の価値がどこにあるのかを知ることはかなりの洞察がないと識見がないとできない。芸術となると鑑賞すること自体が難しいのである。

でも本当の芸術作品となると芭蕉の俳句のようにそれは時間を超えて時代を超えて依然として生きている。価値が減っていかないのである。それは今ではそういう俳句でも作れなくなっているからである。時代の雰囲気から作られたものであり。今のような喧騒の時代はとても作れないのであ。だから芸術というのはその時代でしか作れないものはあり。そこに価値が。その価値は減ることがないのである。だから。芸術は長いが人生は短いとなる。なしとなるのである。他の物の価値は常に変わるからである。

人間というのは何かというと常に誰でも価値を求めている。その人なりの価値を評価されたいのである。俺は何何が出来る俺は何何が知っているとか人よりなにか優れていることを常に自慢したいマウントしてくるのである。それが人間の一番の特徴かもしれない。でもその価値は多様であり簡単には。その人が価値がないとは言えないのでは?だからこそ。平等に見るということがある。この老人は価値がないとして生きる価値がないとして捨てた方がいいとはならないのである。それはなぜかというと価値が多様化だからである。
社会的に価値がなくても家族の中では価値があり功績があった人もあるからである。それで病院だと家とか家族で作られた価値が見えない、ただのやっかいな老人の病人に過ぎないとなる。だから家で死にたいとなる。

●個々人の価値を作る時代に

とにかく個々人の価値を見るということは難しいのである。だからこそ病院だったら病気だったら誰であれ治療する他はないのである。もうこの人は何の価値もないから死んだ方が良いと言うと言えないのである。でもこんなに老人が多くなると。早く死んでくれとか集団自殺しろとかなってしまうのである。 その大きなな問題は老人でもプラスの面があるが病気になったり介護になったり、そして金がかかったりとマイナスの面が大きいからである。そして個人を見ても本当に価値ある老人価値を作り出した老人がいるのかとなるとそれはまれになるかもしれない。老人が少ない時代は少ないということでまれだということでそれだけで価値があったからである。現代の老人は老人というだけではだれも尊敬しないし、価値も認めない。あまりにも数が多すぎるからである。

 だからこれから生きる人はなにか老人になっても価値が見出される人にならないともう死んでくれとなってしまうのである。こういう時代になったことを意識して、若い時から勤める必要がある。でも若い時から老人は老人になるまでは。そこに継続したものがあり突然老人になるわけではない。若い時からしてきたことを経験してきたことを積み重ねてきたものが老人になって生きてくるのである。だから高齢化社会長生きすることはそうして個々人の価値を見出すということ、作り出すということでは有利な社会なのである。

サーバントリーダーシップとは、アメリカのロバート・グリーンリーフ博士が提唱したリーダーシップ哲学であり、
『リーダーはまず相手に奉仕してその後相手を導くものである』という考えに基づくものです。
サーバントは『使用人』や『召使い』という意味です

これは興味深いことである。 老人だから偉いとか価値あるとはならない、そういう人はただ威張るだけではない。何かを与えるものがありそれでかえって相手に与えることによって仕えることによってその価値を認めてもらう。でもそれで威張るということではない。でもそうするにしても何か与えるものがない限りできない。仕えることもできない。梅を作るにしてもその経験がないとできない。梅の漬け方もいろいろあるからである。

だから昔はお袋の味とかその家独自のものが何か伝えられたものがあり家風などがありそれぞれの家に価値があった。家にも個性があったとなる。つまり、家にもそれぞれの価値があったともなるのである。そう。でも今になると家というのは何か?みんな同じようになって、型にはまって核家族になってそして家自体に価値ある家というのは京都のような伝統を伝える職業。茶道とか花道とか何か習い事などの伝える家くらいになったのである。

もろもろの価値の根源は人間である。人間は己を維持するために。それらの価値を諸事物にに付与したのである。
人間が元で、それが諸事物に意義を人間的意義を創り与えたのだ。それゆえに彼自らを人間すなわち評価する者と呼ぶのである。(ツアストラーニーチェ)


2023年05月27日

人間が最後に欲しいものは何か それは健康である―金で健康は買えなくなる


人間が最後に欲しいものは何か

それは健康である―金で健康は買えなくなる


人間は生まれたとき手を握りしめている。何かを握ろうとしている。何かをその手で握りしめ得ようとしている
死んだら手を開け放つ、何か得ようとしてしないで開け放つという、とにかく人間は何かを得ようとして握りしめようとして生まれてくる
でも死ぬときはただ何か得ようとするのではなく開け放ち死んでゆく

人間がこの世に生まれることは何かを得るためである。その得ようとするものはいろいろある。人間の欲望は限りないからである

しかし最後に人間は得たいものは何なのか?

最近でも回りに老人だけが増えてくる、それも病人が多いのである。その中には金もない老人もいる、そのため医者通いであり必ずレントゲン写真とかとると何万とかかかる、その医療費が余りに増大するので負担になり極端になると老人は集団自殺しろとかなる。それはその負担が下に若い人の世代もふたんすることになるからである。

そして問題なのはいくら治療しても老人の場合直らないということもある。延命はできても老化が病気に関係しているから直らないのである。ただ死ぬまでに相当な治療費がかかるのである
でも病気そのものは直らないのである。そこに老人の場合絶望がある。要するに死ぬまでの期間を長くすることはできる。でも全快する、完治することはないのである。その間に相当な治療費がかかるのである。その負担も大きいのである。

人間は何かを得ようとして手を握ろうとして生まれてくる。でも老人になり病気になり得たいものは何なのかーそれは健康だったとなる。その健康はいくら金を出しても得られないのである
その時最高の価値は健康になってしまうのである。
もう年で仕事ができなくて悔しいとか、病気になり歩くこともままならないとかそんな人ばかり増えてくる
子供は近所に一人二人くうらいしかいない、ただ増えてくるのは老人でありそれも病気になった老人なのである。

これが少子高齢化の現実なのである。老人にとって金があればいい、でももはや金で健康は得られないのである。あとは死ぬだけだとなる。その時この世に望みは希望はなくなる、ただ来世が神の国に行くことが望みとなるのである。
それでも余生があり人間は病気なっても生きていく、でも病気は多少回復しても死に向かっているのである。

そうなると人は今世に希望を託すことはできない、来世が神の国へゆくこと願う、何かを得たいと励んできた働いてきたでも今や老人になり病気になったら得られない、ただ今これまでしてきたことを語り自慢したり記憶したものに生きることになる
いずれにしろ百歳まで生きるとしてもその前にたいがい病気になる人が多いことが高齢化社会の問題なのである。

2023年05月05日

清涼飲料水は体に良くないー栄養を吸収するにも時間がかかる (人間は何をするにも時間がかかる、即製できない)


清涼飲料水は体に良くないー栄養を吸収するにも時間がかかる

(人間は何をするにも時間がかかる、即製できない)

食べ物が胃に入ると、炭水化物なら3時間、脂肪なら7時間ほどかけて消化されます。ドロドロになったものが腸に送られ、ゆっくりと体に吸収されるのです。ところが液体に消化は必要ありません。ジュースは胃を通り越して一気に腸に入ってしまいます。血糖値が急上昇し、血管の内皮が傷ついて、やがて血管が硬くなってしまいます。野菜や果物ジュースより清涼飲料水のほうがたくさんの糖質を含んでいますから、悪性度が高い

●栄養を取るにも時間がかかる

直感的に本能的に清涼飲料水は体に悪いことを感じる。清涼飲料水を飲むと返って運動した後に疲れるというのも分かる。
本来清涼飲料水には何か返って体を疲れさすものがある。疲れを取ろうとしてエネルギーを補給しようとしても返って疲れることになる。それは科学的にも証明される。ほとんど栄養はないのである。ただ汗をかくから塩分が不足するからポカリスエットなどは効果があるとなる。それはただ塩分を補給するというだけである。
後のジュース類とか炭酸飲料とかコーラでも返って体を疲れさせるものになる。

やはり栄養は生のものジュース類ではなく果物そのものを食べるのがいいのである。ジュース類では果物でもその栄養分をとることはできない。
ここで述べているように消化する時間が必要だったのである。
徐々にしか時間をかけてしか栄養分は取れない。即効的に栄養分を取ろうとすれば返って体に悪影響するのである。
ここで問題なのは人間は即効的にに体を健康にできない。
何をするにも時間がかかり時間を無視することはできない

現代文明の問題はこの時間を無視する時間を待てない即効的に効果があるのを求める。でもここで述べているように人間の体でもやはり時間をかけて食べ物の栄養分を吸収する
それが植物でもあらゆるものでもそうである。どうしても植物が育つには時間がかかる。種蒔いたらすぐに育ち食べられるわけではない。必ずそこには時間がかかる。それではつか20大根とか40日大根とかが生まれた。それだけ必ず成長するにわ時間がかかるからである。その時間だけは短縮することができないのである。
野菜とか果物とかでもそうだが木とかなると成長するのに50年とかかかるのである。その長さはあまりに長いのでとても一人の人間の一生でその木が成長して木材として利用することはできなくなる。次の代の人がその成長した木を利用することになる。。つまり一代では利用できないのである。

●自然を相手にするには時間がかかる

自然を相手にするということはそれだけ時間がかかるということである。即製的には何もでもできないのである。それが本来自然を相手にする仕事であった。
ただ空間的には距離は交通の発達で狭められた。外国でも飛行機があればその空間は縮められたのである。でもどうしても時間だけは縮めることができない。徐々にしか栄養は体に吸収されない。野菜でもやはり成長するにわ栄養を徐々に吸収して大きくなる。その時間を縮めることはできないのである。
そこにいくら科学技術が蚊が発達しても限界を感じる

空間は交通が発達して縮めることができた。でも時間を縮めて成長さすことはできない。何か一つの分野でも極めることは相当に時間がかかる。何か習得するにも時間がかかる。
この時間は空間を縮めるようにはできない。時間の交換は空間はある程度縮めることができたが時間はできない。
木は一気に成長したりしない。徐々に徐々に栄養分を取り成長してゆく、それを早めることはできない、人間も自然にリズムにさからうことできない。いくら科学技術が発達してもできない。
そこに人間の科学技術でも限界があるのである。

●人間も成長するには時間がかかるー高齢化社会のいい点

それは人間でも同じであり人間というのは成長するにも何かを習得するにも時間がかかるものである。何かを即座に覚えることは上達することはできない。ただ学び方で上達が早くなることはある。でも基本的に人間は何でも促成できない。
やはり人間は特別時間をかけて成長するものである。なぜなら動物は生まれてすぐ歩いたりして本能的に行動して生きることができる。人間はとにかく成長するにも何かを習得するにも時間がかかるのである。もちろん天才的な人はさほど時間をかけなくても会得する。でも一般的にはどうしても時間がかけないと成長しないのである。
つまり自然のリズムは人間より百年単位とか千年単位とか億年単位とかで図る。図るそれだけ時間の感覚が大きいのである。
その自然のリズムに人間はとても合わせられない。それで津波でも400年前に巨大な津波があった。でもそれもこの辺でわ全く忘れられていたのである。

ともかく高齢化というのはマイナス面だけが語られるは人間の成長がこのように動物より時間がかかるという時百歳まで生きるということは健康で生きるということは人間を成長させる。
人間は成長することをやまない。肉体は衰えても精神的には成長することがある。脳の成長は病むことないかもしれない。時間の中で脳も作られてゆく、細胞と細胞が結びついて時間の中でその人なりのものが結晶してつくられてゆく。
だから人間は長生きすることは悪いことではない。
ただ長生きの問題で延命治療とかもう健康に生きられない状態で長く生きることが問題になる。別に健康なら長生きすることが悪いとは思えない。それだけ長生きすれば人間は成長するからである。
知識の量も増大して知恵もまして人間は成長する。ただ長生きがマイナスになるのはそうして成長しない人なのである。
ただ迷惑をかけるばかりでその人なりの成長を遂げ無い人が問題なのである。そういう人が多ければ当然高齢化社会は良いものとならないし若い人から見れば高齢者とはただお荷物になっているマイナスのものとしか見れなくなるのである

2023年04月25日

家との格闘がつづく―断捨離は不可欠 (家は物理、化学、地質学ー文系的には歴史、心とも関係)


家との格闘がつづく―断捨離は不可欠

(家は物理、化学、地質学ー文系的には歴史、心とも関係)

●家は総合的学問の対象

親が介護になってその後死んでそれから一人で家のことをなんでもやるようになって家との格闘は続いた。
家というのは家自体が建築物でありそれを客観的に見れば理系から見れば物理学であり化学であり地質学でもある。
なぜなら大地震で2回も家が損傷した。家の構造が物理学であり耐震設計も物理が関係している。
それから地質学も関係している。それぞれの家が建っている場所がもともとどういう場所だったのか知る必要がある。
そこがもともと沼だったり湿地帯だったりするとその地盤は軟弱になる。私の家は街の中で一番低い場所にある。そのために2回も床上浸水になり苦しんだ。

今でも二年前なのか下水から水が溢れて家の中に入り被害があった。それは低い場所だから水が流れ込んでくるのである。水というのは低い場所に流れ集まる。それも科学の法則である。
津波でも低い場所に海の水は流れこんだ。日頃はそうした土地の高低をにしないが一旦水害とかになるとその土地の高低明確に現れるのである。
化学というのも関係ないようで関係ある
家というのは湿気がこもったりするから乾燥するとか壁でも今は化学薬品を使っていてそれを簡単に捨てられないという
それは遠い島に捨てるほかないと言う。これは化学の問題なのである。
こうして物理学。化学。地質学など理系的なものも基礎的に関係している。基本的には家を物質的なものとしてみれば理系的なものが関係している。

●文系的にみる家(家族の歴史など)

でも文系的なものも実は家に関係している。そのことを親が家族がみんな死んで語ってきた。家には長い間家族が共に暮らしたから死んでも簡単に消えるということはない。
家には死者が死者の霊が取り憑いているという感覚にもなる。
ものが憑くということはものというのは理系的なものとして物質としてだけあるのではない。仏教的考えでは色心不二があり色はものであり物と心は一体だということを示している。
家はただ物体としてあるのではない。そこに人間が長く暮らしたことでものに憑く心がそこに入り人間化しているものにもなる。
だから廃墟化した家には幽霊が住み着いているという感覚になる。

ともかく家にはただものとしてだけでなくその土地であれ家族であれ営みがあり歴史が作られたのである。
必ずそれぞれの家には物語があり歴史がある。そのことを私は二代目であっても父のこととか母のことで語ってきたのである。
なぜこの土地に私の家がたったのか建てられたのかそのことを語ってきた。それは私の父親は葛尾村から今の双葉町の新山の酒屋がありそこに丁稚奉公していた。
それから暖簾分けしてこの地に店を構えて酒屋をしていたのである。そこでこの土地を買いここに定着したのである。
こういうことはどこでもある。農家のように代々定着しているとは限らないからである。
ただ歴史的に古い家がある。この辺では只野氏がそうである。。それは南北朝に由来して霊山から落ち延びた子孫なのである。その一族がこの辺りに住んで子孫を増やしたからである。
こうして一つの土地でもそれだけ古くから代々住んでいる人がいるのである。でも他から移住した人もまた多い。特に相馬藩でわ越中からなどの移民が1/3くらい天明の飢饉などのために移住してきたのである。それが相馬藩の大きな特徴でもある。

●整理整頓して断捨離して快適になる―本は整理しにくい

ともかく家というものにはさまざまな要素があり学ぶものがある。それは総合的な学問の対象でもある。そのことは小さな郷土でも地域でもあれそこは複雑に歴史もあり地質学的にも違った場所であり学問の対象となる。学校では教科書だけが問題になり現実に生きている家とか郷土とか故郷とか学問の基本としてあることを知るべきだとなる。
そういうことは返って農家の出身だとおのずと身をもって知ることになる。それは土地と一体化しているのが農家だからである。

でも今は田舎に住んでも農家は少ない。確かに田畑が囲んでいても現実農業を仕事にしている人は1割にも満たないのである。あとは会社員であり農業以外の仕事をしている人なのである。そのために田舎に住んでいてもその田舎のことを自然でも基本的に知らないということがある。
昔は家業というものはあり家と仕事は一体であった。・・・屋というのは会社名と同じだったのである。人は皆その何々屋に属して勤めていたとなる。
それが会社となると大きくなりなかなか理解しにくいものになったのである

ともかく家の整理整頓する。終活することにも通じていた。
いらないものを捨てる。なるべくものを減らして身軽になると快適になる。人間は無駄なものをあまりに多く持っている。
ものを減らすことによって何か身辺がさっぱりして気持ち良くなった。私はだらしないのでそれを第三者が入ってきて整理して掃除してくれたことで整理整頓はできた。断捨離できたとなる。
ただ本は散らかったままであり整理できない。捨てることも出来ない。それで一番困っている。本というのはなかなか読んでも理解できない。でも年をとると理解力が深まり難しい本でもわかることがある。つまり本を理解するということはそれだけの時間がかかるということにもなる。

だから人間が残すものは何かとなると確かに本というものお残せばその人のことを記憶する。不思議なのはこの年になると30年前頃に買った本を読むと実際はその著者は死んでいるのである。
ということは著者とは一度も会っていない。ただ本を通じてその人と逢っているということになる。
それは千年前の人であっても本が残っていればその本を通じてその人を知りその人と合っているとなる。なぜならそうして死んでしてしまった人とは会うこともないしたとえ現代に生きている人でも直接会えるということはなかなかないからである。そして人間は何を残すのかとなれば必殺の一冊の本なのかもしれないとなる。その本すら残せないのは大多数なのである。

●家の広さなど家の影響は大きい

とにかく家というのはさまざまな要素があり家から学ぶものは相当にある。人間と家であれその土地であれ一体化してアイデンティティ化する。でも市営住宅のような狭い場所だとそこは一軒の家でもないから何か存在感がないのである。
ただ家にしても最後は人は死ぬのだからどんなところに住んでも仮の宿ということには変わりはないかもしれない。
ただ八畳間の広い部屋に寝ると何か眠りやすいのである。今までは六畳間に住んでいたから圧迫されるような感覚になっていた。天井も低かったからである。
やはりこうして部屋の広さとかは精神に影響するのである。

日本人の家は狭すぎるのであるそのために茶室のようなものができた。そんな狭いところでお茶を飲み親密になる。それもまた日本の文化なのだがやはり広い家を持てないということでそうなったとも言える。
ともかく人間は環境が影響する環境の影響が大きいのである。
どんな場所に生きるのかどんな家族と生きるのかどんな家に住むのかどんな時代に生きるのかそういうことでその人の感覚まで影響してくる。広い家に広い部屋に住んでいれば心も広くなるともなる。狭い家に住んでいれば心も狭くなるともなる。
だから家の影響や家族の影響やその土地の影響は計り知れないほど大きいともなる。その環境が人間を作るとまでなるのである

2023年04月20日

大人になっても知的興味を持ち遊べる人に (退職者またはブルカラーの老後の生きがい喪失)


大人になっても知的興味を持ち遊べる人に

(退職者またはブルカラーの老後の生きがい喪失)

●退職すると生きがいを失う問題

精神科では、今まで仕事が生きがいだった人が、定年退職を迎え、何もすることがなくなり、アルコール依存症になったり、認知症になったりするケースは非常に多いです。仕事をリタイアしても、別のことを見つけて体や脳を使うことが大事です」

高齢化社会の問題はいろいろある。経済的に苦しいというのが一番の問題である。でもその他にどうして老後を過ごすのか
退職すると何かすることもなく生きがいを喪失する。
会社のように仲間もいなくなる。でも地域社会で何か認められるかというと認められない。昔のような村社会ではない。農民社会ではない。だから会社が一番のアイデンティティの場所だった
それから切り離されることは自分のアイデンティティーの場所を仲間でも失うことになる。そして60くらいで退職してもその先が長いのである。昔なら60代くらいで死んでいたから何をするかなど考える必要もなかった。その前に死んでいたからである。

つまり高齢化社会とは人生が会社人生であり仕事人生があるがもう一つ第3の人生がある。それは長い老後は生まれたと言う事である。その用意もされていないのである。
特に肉体系のブルーカラー系統は仕事を辞めるともののけの殻のようになってしまう。頭を使う活動をしてきていないからである。
だからといってその人が知的に劣っているとは思えない。なぜなら大工であり庭師である人はその方面で知識的に詳しいからである。ただ問題はその知識が確実に実用的なものであり金を稼ぐということと結びついている。
それで金にならないものはしない無駄だとなる。
その人は肉体労働者でもいろいろな知識を持っている。ただ違うのはそれは実用的なものであり金を稼げるものとしての知識なのである。だから金にならないものはやらないし無駄だとなる。

●スコーレ(学校ー暇)の意味を問う

でも高齢化社会で金の問題と同時にどうして余暇を充実して過ごすかということが結構大きな問題となっている。
ただその人は熟年離婚して意気消沈してしまった。何か常に妻と共にあり仕事もしていたしそれでこのような問題はお来ていなかった。話し相手もいたし共同する人もいたからである。
でも妻が死んだり離婚したりした人は近くでも一人でいられない。寂しいから話し相手になってくれと近くの親しい女性に毎日のように電話をしてくる。でもその女性は病気になったり金もくれないケチだとしてその男性の家にも行かなくなった。ただ不思議なのは電話のやり取りだけは依然としているのである。でもその男性の家に行くことはないのである。
金もないことも大問題だがこの老後の長い時間どう過ごすか充実して過ごせるのかとなる。
人間の問題としてもともと暇がありその時間をどういうふうに過ごすかは歴史的にもあった。ローマ帝国はパンとサーカスになった。大衆は暇を持て余してそうなったのである。
残酷な剣闘士の戦いも見世物になったのである。それは気晴らしであれ暇つぶしでもあった。スポーツの語源はそもそも気晴らしでもあったからである。

そしてなぜ学問が生まれたのか。学校という言葉がスクールはスコーレ(暇)の語源になっていることでもわかる
人間が労働ばかりするのではなく暇が生まれた時そこに学問も芸術でも生まれたとなる。学校とはスクールで暇な人がいかに暇を有効に利用することは学ぶ場だったとにもなったということにもなる。
でも今の学校はそういうものではない。実業の学校であり試験勉強のための学校であり暇を生かす学校になっていない。
そこでは常に競争に追われむしろ自由な暇な時間など持てないのである。ただ不思議なのは大学に入ると文系は特に遊びになっていたということがある。それで暇を持て余して何もすることがなく学生運動とか麻雀とかギャンブルに興じて大学を終わった人もいる。それも実は暇を有効に生かせないためにそうなったのである。大学四年間は自由時間でありまさにスコーレの時間だったのである。
遊ぶという時ギャンブルのようなものではなく自由な旅をしたりその人なりの知的探索をしたりとすることはあった。

●高齢化社会は若い時からの教育でも見直すべき

老後でもやはり再びスコーレの時間にが与えられたともなる。
遊びの時間が与えられたともなる。でもそれを有効に活かせない。しきりに私にどうしていいかなどと問われても答えられない。その人は仕事一筋に生きてきた人だからである。それは肉体労働系でわ知的探求というものをしていないから暇になってどうしていいか分からなくなっているとなる
でもその人が知的に劣っているとは言えない。これまでしてきた仕事には知識には詳しいしそれは実用的であり金を稼ぐ者として身につけてきたのである。
でもそこに足りないものはスコーレどうしてまだ遊びとして生きることができないことである。子供ならその全体が利益を得るためでなく遊びとしてあるあった。でも大人になれば常に利益が優先され金から一瞬たりとも離れられないとまでなっている。金にならないことは無用なことであり無駄なことであり価値のないことでありそんなことをしても何になるのかとなる

しかし老後に必要なのは逆にこのスコーレをいかに生かすかまたは遊びをすることが大事になる。遊びには趣味もある。趣味でもカメラなどまいからやってる人は老後でも継続するから充実した時間を過ごせるとなる
とにかく高齢化社会の問題に対処することはうまく出来ていない。その理由は人間というものをただ働くこと金を稼ぐことそのことばかりに価値を置きすぎたためでもある
もっとスコーレを活かす遊びを生かす人生を価値あるものとすべきともなる。ただこれを受け入れることは簡単にはできない。遊んで暮らせるのかとかなり反発されるからである
そんな余裕もないという老人も多い。でもまたやはりスコーレを持て余す老人も多いのである。遊びとは遊ばせれとるとか神聖なものとしてもともとあった。遊びに金が絡んだり利益が絡むと本来の遊ぶこと聖なるもの遊びが汚されるて失われるのである。
チンパンジーが数遊びに熱中していたが褒美としてバナナをやったらそのバナナを得ることに関心が向けられ数遊びに熱中しなかったということもそうである。褒美のために遊びをするということは本来の目的が弱められるのである。

●生きがい喪失が認知症になる怖さ

私の家族で2人の女性を親とも言える人を見ていた。一人は公務員を退職してから何もする気がなくなった。怠け者になりテレビを見ているくらいだった。趣味のようなことをちょっとやっていたがそもそもそれは会っていないものだった。才能もなかったのである。ただ付き合いでしていたみたいである。
もう一人のの親はクソ真面目であり花などいらないといい豆を庭に植えるといっていた。これも異常でありその理由がやはり若い時から働き詰めであり何か金を稼ぐ以外のことを無駄なものとして育てられたためである。それには同情するがやはり人間として異常だったとも見る。
でも不思議なのはこうしては何も金を稼ぐとか働くこと以外関心もない女性が94歳頃まで台所で家事をしてきたそして百歳で死んだのである。95歳ころから認知症になった

もうひとりの親は83歳頃ひどい認知症になり死んだ。それは悲惨なことだった。その理由の一つが明らかに公務員を退職してから何もする気がなくなった。
それが大きな影響があったことは確かである。
家での生きがいもないただ漠然と呆然と生を伸ばしていただけだったのかもしれない。この2人の親の対照的に見るときいかに認知症というのはその原因がやはり家の中であれ役割を失い生きがいを失う時に起きてくるのかもしれない。
嫁が姑に何もしないでいいですからテレビでも見てくださいと言われるとボケてしまうというのも本当だと思う
一見優しいようでもそれは人間をボケさせる認知症にさせるものでもあった。人間には男性にしろ女性にしろやはり役割を持ち生きがいを持ち生きることが必要だからである

●大人になっても遊べる人になるべき

子供の時は遊ぶ仲間をさがしていた
そこに利益を求めない
ただ純粋に遊びたいだけ
大人になると人間関係にすべて金が介在する
金なしではなにも動かない
遊ぶことでも金が介在する
死ぬまで金から解放されない
それで純粋に子供のように遊びたい
でもそんな人はもういない
遊びとは無心だからできる
功利的なものはそこにない
子供は無邪気に満面笑い遊ぶ
その時幸せだった
その日はもうかえってこない、、、、

大人になっても遊ぶことはできる。遊行聖とか雲水とか自由な旅をした、風のように雲のように自由にいずことなく旅をする、そういうことに憧れる、一方で宗教でもひたすら真面目に働くことが奨励された。その方が一般的である。
キリスト教でも勤勉の宗教だからである。禅宗でも一日成さずば食わずとかありやはり人間はそもそも働かねば食料も得られないのだからそれが普通だとなる
遊ぶ人は反社会的存在になる。高度成長時代から働かなかった自分は反社会的存在だったとなる。
でも今なぜ遊ぶことが奨励され糞真面目に働く人がかえって拒否されるのも不思議である。アリとキリギリスがいて今キリギリスが良しとされるのも価値観が変わったからだとなる

高齢化社会は働くだけのアリより歌うキリギリスになれとしているのである。そこに価値観の逆転が生まれたのである。
自分のしてきたことは遊びだたともなる。理系だと実用に結び付くが文系は実用に結びつきにくいからそうなる。
でも文系的なものも人間には必要だということである。老後に特に文系的なものが必要になる、ただ文系的なものは実用とならず金になりにくいそれで価値が低くなっていたのである。
それも見直すべきでありスコーレの意味を知るべきだとなる。

2023年04月18日

なぜ栄える家があり栄えない家があるのか (家族に争いがあり離婚したり協力しないと栄えない)


なぜ栄える家があり栄えない家があるのか

(家族に争いがあり離婚したり協力しないと栄えない)

養子は家に外からエネルギーを持ってくるという役目を持っています。優れた商人は、養子の続いた家系から出ている例が多いといわれています

先祖の因縁が子に報う

なぜ栄える家があり栄えない家があるのか、それも謎である。
その家に必ずしも優秀な人がいて栄えるのか、養子の方が優秀だから跡継がせて栄えることはある。家が血縁から結ばれて栄えるとはならない、その家はなぜ栄えなかったのか?
その家の両親はまれにみるいい人であり正直でありとてもその子がふしだらな息子を生むなどまた育つことなど考えられない人だった。だから親のせいでも先祖のせいでもないとなる。

たた先祖がどういう人だったかはわからない、親をみればもともと栄えていい家だったのである。これも不可解でありわからない、間違いなく家が家族で争っていると栄えない、例え有能な人がいたとしても栄えない、これだけは確かである。
母の実家は後妻を迎えたりそれも妻が生きている時そうなった
それも病気だったからやむをえないという事情もあった。でも家族のまとまりはなくなった。原因は一つでないにしろ不和分裂の家でありそのことが子孫にも影響した、それでやはり子孫も不和分裂して付き合いも絶えた。墓はあったが長男が墓を守ってくれと数百万を残してめい子とかに残したが墓でも守れないでその跡は絶えるとなる。
家族でもどうしても離婚だとか争いがある家は栄えにくい、協力できないから栄えにくいとなる。

山形県の最上家は優秀な最上義光がいて興隆して57万石の大藩になった。でもその跡目争いで混乱して石高も数万とかになり衰退した。これも一族が不和分裂になったためである
こうして大きな藩でも争いがあると栄いないのである
徳川家が3百年も続いたのはやはり跡目争いがなく継続できたためだともなる。国でも不和分裂になれば栄えないことたしかである。明治維新でも国内が激しい内戦になったら外国人が入ってきてもとまらなくなりのっとられるとなった
比較的内戦でもそれほど大きくならずに治めたので国がまとまり日本は植民地にならずにすんだともなる。
確かなことは家であれ国であれ一致協力しないかぎり栄えることはない、ただ栄える条件にしても一つではない複合的理由がある
それは国でも家族でもそうである。犯罪でも一つの理由で起こることはない。

この辺で原発事故で衰退したけどそれまでは原発の恩恵で栄えたということもある。だから小高の呉服屋で大きな庭がありその手入れで一年で40万の仕事になっていたこと庭師の人に聞いたからである。
もしかしたら原発関係で金が入った人がいたからかもしれな、この辺でも漁業関係者が火力発電所で補償金が入り高価な着物が売れたと聞いたからである。それだけではない高度成長時代にはそういうことが全国的にあった時代だからである
でもその庭の手入れの仕事もなくなったという、それは持ち主が病気になって空家になったためである。
小高とかでは浪江とかでは原発で裕福になった人がいただろう。
それも街自体がゴーストタウンのようになったときその富は失われたのである。町全体が空家化して個々の家の価値もなくなってしまったのである。
こうして栄えた町でも一気に衰退してしまったのである。

国が栄えて地域が栄えて個々の家も家族も栄える、栄える原因はとても一個の家とか一個人では栄えることはできないのである。
いろいろな要因が重なって栄える家が生まれるからである。
私の庭に咲き続けている牡丹は不思議である、肥料もやらないのに水もたいしてやらないのに今年も二輪咲いたのである。この牡丹は二十数年なのか咲き続けている不思議がある
理由は乾燥していて水はけがいい土地を好むためなのかとなる。
土地にあったため咲き続けている。それは偶然でもあったとなる。

我が庭に咲き続けたる牡丹かななお栄えむと咲き続けなむ



2023年04月14日

人間は何らかで必ず生活習慣病になる (また生活習慣が人間をつくる老人になるとその結果は現れる)

人間は何らかで必ず生活習慣病になる
(また生活習慣が人間をつくる老人になるとその結果は現れる)

病気には生活習慣病の要素がある。常に使う筋肉は活性化して衰えないということがある。でも使わない筋肉は衰えてゆく。私が歩いて足が腫れたのはおそらく私は自転車には常に乗っていても歩いていないからである。自転車に乗って使う筋肉と歩いて使う筋肉は違っている。だから節々がいたんでいる。
それは歩いた結果として日ごろ使わない筋肉に負荷がかかりそうなった。前にも同じ症状が歩いて行って起きたからである。
自転車だと歩くように体全体の重力がかからない、だから楽に走れる。でも歩くことは重さが重力となり足をケガした人でも立つことが苦しいのである。それは体重が足にかかるためなもである。

とにかく人間は必ず生活習慣がありそのために偏ったものとなる。
一日デスクワークしている人はやはり偏ったものとなりどこかでその症状が現れてくる。
つまり人間はさまざまな仕事がありその仕事によっても偏ったものになる。職業病もそこから生まれてくる。
現在は仕事でも複雑化しているから何らか偏ってそのために病気に成人がえろ。それは避けられないのかもしれない。
ただ自分の場合は老化が関係している。今まで歩いてそんなことにならなかったからである。どこかで老化現象が出てきてそうなる。

それで寿命でも健康寿命があり男の場合75歳くらいでそうなる人が増える。団塊の世代が75歳になるということは老化現象が現れて介護になる人も多くなる。それも避けられないものとなり数が多いから社会を圧迫するのである。
介護社会になってもう国力自体が低下してゆく。高齢化社会ではとても他国が侵入してきても戦えない。何か老人と病人とそれから引きこもりとかニートが100万人もいるとかそういうことで国力自体が相当に低下している。ヤングケアラーでも増えている。孫が祖父母の介護をしている。それも経験ではあるが若いときの時間は貴重である。そこで経験を積まないと取り返しのつかないことになる。

ともかく歩くことをしていないからその歩くための筋肉が弱っていた。それでその筋肉もいたんでいる。だから人間にとって習慣になることは本当に影響が大きいのである。
何でも対して才能はなくても習慣的に勉強していればやはり知識も身についてくる。習慣が人間をつくる。その悪いものとして生活習慣病も生まれるとなる。
その生活習慣習慣病の危険は必ず60以上になると出てくる。
知っている人が脳梗塞になったのはタバコなど常に吸っていたからである。タバコは癌に関係しなくても血管に関係していたのである。

だから酒とかタバコでもそれが習慣になっていると必ず60以上になると何らかの病気が出てくる。
60以上はこれまで指摘してきたことの結果が現れる。それは体でもそうだし精神的にもそうなのである。人間はやはり積み重ねであり日日の生活の積み重ねが人間を作るのではある。
それを心がけないと60以上になって後悔するのである。

でもどうしても老化現象は避けられない。それを今回の旅で歩いて痛切に感じたのである。大した旅でもないのにこんなに体がいたんだということにがっかりしたのである。
老化は避けられないのでああ。そこに老人の悲しみがあり苦しみがありどうにもならないのである。そして若い時のことを思い出し元気な時の姿を思い出しがっかりするのである。でもそれも避けられない人間の運命なのである。どうしてもこうして体が弱い何かができなくなるのである。
だから意外と老人が常にこれまでしてきた経験を語るのは新しい経験をできないからである。体力的にもできなくなるからである。

それで自分の場合は旅したことを追想して詩を書いたりしているのである
つまり老人は過去の記憶に生きる。新しい経験をすることができなくなる。でも体が弱ってもこれまで経験してきたことを振り返り追想することはできるのである。
それが老人の生きがいにもなる。過去の記憶を蘇らせてまた別の視点で過去を見る。 経験を消化してそれを思想家するのに向いている。だから意外と老人になりその人なりの成果が現れてくる。
つまり老人になって実りがあるということである

2023年04月04日

熟年離婚で意気消沈する男性 (老人が無用化して迷惑老人となる深刻)


熟年離婚で意気消沈する男性

(老人が無用化して迷惑老人となる深刻)

●熟年離婚で失うもの

最初のうちは清々したと思っていても、今まで妻になんでもしてもらってきた男性というのは急に一人になることに対して心細くなり、もっと違う方法があったのではと後悔するということは珍しくありません。

その逆に裏切られたという気持ちを持つ男性も少なくなく、今まで散々家族を守るために身を削って働いてきたのにこの歳になっての離婚はひどすぎると落胆する人も多くいます。


この問題の前にそもそもなぜ離婚が多いのかということである。
そうして長年連れ添った妻と別れることが男性にとってどれだけ衝撃的なことなのかそういう人を見て理解する。
何か60歳以上で離婚した人を男性を見ていると意気消沈した感じになる。 60歳以上といっても65歳でくらいで離婚したのかもしれない。そんな年で長年連れ添った妻と離婚するということが結婚したことのない私には理解できない
ただなぜそもそも離婚がこんなに多いのだろうか

熟年離婚とは長い結婚生活ですでに協調できない何かがあり子どもが育ったとき我慢することがなく離婚に至る。
そういう人も女性の場合多いことがわかる。しかしなぜ長年一緒に暮らしていたのに離婚になるのか。それはかなりの損失である。なぜなら人間の生きる時間は限られている。だから60歳までも一緒に暮らす時間がありそれが失われてしまうことがどういうことなのか
人間にとって大事なことは時間なのである。何をするにしても時間がないとできない。だから何であれ人であれ何か学ぶことであれ体験することであれ時間が必要なのである。

だからその時間を結婚して60歳までも一緒に生活していた人が離婚するというときそのの長い時間を費やしたことが無駄になると思えるのである。
人間はあらゆることに時間を費やすことはできない。だから親子でも子供の時一緒に暮らさなければ親子の情も生まれないのである。成人しても子供が結婚して離れて暮らしたりしていると親子の情も薄れてゆくのである。
去る者は日日に疎しとなる
でも一体それだけの時間を共に暮らしていたのに60歳以上になり離婚になり別々に暮らすということがどういうことなのか理解しにくい。なぜなら人間はそうして長く生活を共にする人は本当に数人くらいしかいない。あとは束の間の出会いで通りすぎるように別れてゆくだけなのである。

●貴重な時間を何に誰と費やすのか

つまり人間は与えられた時間を何に費やすか大事になる。
またその時間を誰と共に過ごすのかそれも大きな問題である。なぜなら人間の与えられた時間は限られているからである。
Aと逢いBと逢いCと逢い、、、、となってもそれは会ったと言えるのだろうか、そもそも人間逢うということはどいうことなのか
あなたと逢いましたねまたすぐに別れましたねそして二度と逢わなくなりました、なぜなら死んだからもう逢えなくなったからです。あの人とあっていればよかった。死んで逢えなくなったからである。人間は逢うとうことは必ず別れることなのである。
どんなに長い時間を過ごしてもいずれは別れるのである。

だから人が会うにしてもそこに時間が費やされる。貴重な時間を会う人に対して使うのである。
結婚するというときそれは男女が出会い長く暮らすもである。。でも恋愛は一時的なものでありそれがいかに熱情的なものでもいずれは冷めるのである。
結婚はそうした一時的な熱情ではない。長い時間を貴重な時間を共に過ごすということである。だから誰とその貴重な時間を過ごすのかそれはこんなに大勢の人がいても一人なのである。
一人が選ばれるのである。たとえ離婚してまた結婚してとなってもその数はせいぜい二人くらいだおなる。。
実際は人間は男女でもある一人を選び結婚する。
また早いうちの離婚なら再婚してもせいぜい二人だと思う

●熟年離婚で男性は意気消沈

ともかく近くで知っている人は妻に死なれてから相当にショックを受けた。死んでも妻のことを思い続け供養を絶やさなかった。そして妻無き家に居ることが寂しくてたまらなかった。それは熟年離婚したわけではない。
でも最愛の妻と別れてその寂しさが耐えられないものであったのだ。男性の方が妻を失うことはか衝撃が大きい
やはり妻に支えられていたということがある。それは経済的なことではなく精神的なものでありそれが離婚したとき自覚され意識されるのである。

熟年離婚した人を見ていると男性の場合は意気消沈している。
おそらく男性は亭主関白だったのかもしれない。自分の言うことをつまり妻に従わせる。そういう結婚生活だったのかもしれない。それが離婚した結果従う相手もなく意気消沈してしまったのかもしれない。
その人は一人で居ることができない。常に誰かがそばにいて仲間がいることは日常的な生活だったからである。
離婚した結果どうしても家でも一人でありその一人に耐えられないのである。ただ仕事はできる人間なので仕事をしているときは生き生きしているのである。ただその仕事をするにしても支える妻がいなくなった時仕事が終えても自分で食事でも用意しなければならない。それはかなりの負担になったのである。
ただ熟年離婚は増えている。だからこうして一人男性が取り残される人も取り残される人も増えているのである

これは高齢化の問題でもある。たとえ60代で離婚してもその先がまだ長いからである。その長い時間を一人で生活しなければならないからである。

●ただ迷惑行為して生きる老女

こうして高齢化の問題はここにも現れている。他にも何かすることもなく生きがいもなくただ迷惑行為をするために生きているばあさんがいる。キラキラした金属のものをぶら下げてふ迷惑をわざわざ作って迷惑行為をするのがその女性はそうして迷惑をかけることが生きがいともなる、それも異常だとなる。
それで市営住宅の知っている老女はそのために目が悪くなるとまで言っている。
その迷惑ばあさんは何の為に生きているのか。ただ人を困らせて生きている迷惑ばあさんになっている。それも無視できない笑い事にできないのは現実にそのキラキラした金属片で目が悪くなると老女がいるからである。
こうして高齢化社会はいろいろな問題が生まれている。それは長生きはいいとしてもその長生きした人生を意味あるものと生きがいあるものとして生きられないことである。

だから高齢化の問題は金がなくて生活もまともにできない食べるものも満足に食べられないという問題も深刻である。
それと同時になんで生きているのかもその意味が見い出せなくなっているのである。それは例えば障害者であれどうして生きているのか生きる意味は何なのかそれもわからない。老人の問題はやはりなんで生きているのか何の意味があって生きているのかそれが見い出すさあれずただ迷惑人間となっていることが問題なのである。
もうし60代くらいで死んでいればこんな問題は起きなかったかもしれない。迷惑人間になる前に死んでいたとなるからである

2023年03月30日

自己責任とは何なのかーなぜ他者を常に責めるのか (全ての人が自己責任があるとはならない)


自己責任とは何なのかーなぜ他者を常に責めるのか

(全ての人が自己責任があるとはならない)

全ての人が自己責任を負うことはできない。 その人は他者に対して厳しい。 そして他者を責める。 でもその人自身をといえばやはり何かしら瑕疵があり自己責任がある。 その人が今貧乏なのはまともに生活してこなかったからだとしている。 でも本当にそうなのかと言うとそうともならない。
別に会社でも働いていたからである。 ただ離婚を二回していてそれが貧乏の原因になったかもしれない。
何かその人は他者を責めるが自らも自己責任になっている。
離婚したのも熟年離婚したのやはり自己責任になる。 その人に責任がありそうなった。 何か常に他者の責任を言うが自分自身の責任は蔑ろにしているのである。 多分自分の責任を自覚できないのだろう。
まこの辺でわ原発事故でかなりの補償金をもらった。 その金でも高級な車を買ったりいろいろと浪費していた人もいる。
それでその補償金もなくなってしまった人もいる。 その人にもそういうことがあった。 他にも今金がないというときやはり無駄なことに使ってしまってそうなった人もいる。
だから他者を責めるというのは問題である。

そもそも人間は自己責任だとして突き放すことは簡単にできない。 なぜならあらゆる人の人生をどう生きたかなどわからないからである。 そして自己責任をとして片付けることはできないのである。
生まれた時からどの家に育つとかどの場所で暮らすとかどんな親に生まれて育てられるとかみんな違っているからである。
人間は一番自分のことが見えないわからないのである。 そのために常に他者を責めるのである。 必ず何かしら自己責任はある。 だから他者をそんなに責めることとができるのかとなる。 補償金でもそれを高価な車とか遊びに使って金がないからもっと補償金をくれとかにもなる。
もちろん要求する権利はあるし別にそのお金を浪費しなければいいのである。

とにかく自分にしても自分のことがよくわからない。 確かなことは自分は相当に恵まれていたことはわかる。 別に働かなくても暮らすことができたからである。 その時ほかの人は額に汗して働き子供を育て苦労していたともなる。
だからそれは自己責任であり今お前が苦労して責められるのは当然だとなる
でも本当にみんなが自己責任なのかとなるとならない。
金がないのも自己責任なのかとなるとそうでもない
別に金持ちの家に生まれれば無理して働くこともないのである。
ただそうしていると後で苦しむことがあり楽だと思ったことは苦しみに変るのである。

楽は苦の種苦は楽の種

人生とはどこかで辻褄が合うとかなる。 一生楽で終わる人もなくまた一生苦で終わる人もいないとかなる
何かそこに神の働きがあり公平なのかもしれない
だから自分のことはさておいて他者に対して自己責任を問うことは本当はできない。 他者に責任を問う人間がもう実は自己責任を問われてもいるからである。 そういう行為をしていてそれがカルマとなって現れてくるからである。
だから貧乏だからといってそれが全部は自己責任はにはならない

要するに何か人間には運が作用しているのである。 別に大した努力がしなくても金が入る人もいるしいくら努力しても金持ちになれない人はいくらでもいる。
だからこの世は理不尽でありいくら自己責任を言っても自己責任にはならないのである。
そもそもそうして他者を責める人間は必ずまた責められるべきところがある。 それが人間なのである。
なぜなら完璧な人間などこの世にいないからである。 何かしら欠けていて過ちも犯すし無駄な消費もするし完璧な人間などいないからである

人をさばくな。 自分がさばかれないためである。

7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量りが与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
兄弟の目に入ったゴミを取り除こうとする者が、自分の目にずっと大きいゴミが入っている、という構図は、兄弟を規制しようとする者はしばしばより深刻な暗愚と偽善に陥っているということを

人を裁く事もそうである。 人を裁くことは姦淫した女性に対して罪なき者は打てといったキリストのようにその時誰も石を投げて打つこともできなかったのである。
これもその責任を問う人たちがみんな罪の責任を問われたのである。 だから他者の自己責任をいう人は自らの責任も知覚できないのである。 人間はとにかく自分自身の事を知らないのである。
だからこそソクラテスは汝自身を知れとなったのである。
確かに人間には必ず責められるべきところがある。 でも自分自身にしても責められるべきところがある。 ただそれを自覚できないのである。 自分は正しい自分はまともに生活してきたと思っている。 でも本当にそうなのかとなるとそうでもないのである。
もちろんふしだらな人はいるし責められるべき人はいくらでもいる。 でもまたその責める本人も何かしら必ず責められるところがある。

いづれにしろその人が金持ちであり貧乏であるとかいうのもみんな自己責任にはならない。 なぜなら人間はいくら努力しても働いても依然として金持ちにならない人などありふれているからである。
ただ親の遺産が天から降ってきたようにそれで金持ちになっている人もいるのである。 多分にその一人に自分も入っているともなる。 でも私は何かぜいたくなどしていない。 旅をしたとしても最低の金しか使っていない。 それは見聞を広める実地の勉強だったと思う
人間の運命は不可解でありいちいち自己責任をみんなに問いないのである。 そのためにカルマ論が生まれたのである。
それは前世の行いが良い悪いで今世の生活の良し悪しも決まるとなるように考えた
それは人間の個々の運命が不可解だからである。 そのためにカルマ論が生まれたのである。

ある女性は異常なほどに前の市長こきおろし非難していたのである。 その女性がそんなに言えるのかとなるとそんな女性でもないのである。 民主主義の利点と決定はある。 欠点は誰でも発言して非難していい。 でもそれが度が過ぎるのである。
何の根拠もなしに責めてくるしどんな人でもどんな低級な人でも人でも攻めてくる。 誰でも難癖をつけて何かを言うことが出来るからである。 そして何かをなんでもいいから相手をけなしてそれで水平化して平等になる。 俺とお前は同じだとなる。
何か尊いものでも簡単に否定するのである。 特にSNSではそうなりやすい。 そこには深い議論が成り立ちにくいのである。。
だから自分自身でも今は忙しくて答えられない対話していないのである。 ただヤフーニュースとかほかのまともなことを経験からなど言っている人はプログで応答して自分なりの発言をしているのである。

それも問題があるにしろただ難癖をつけるとかそういうものが多いからそうなったのである。
民主主義とは結局あらゆる人が対等になり何かそこに偉い人はもういない認めない社会である。 認めるのは例えばカルトの教祖がいたとしたらその教祖を認めるのはそこに巨大な組織があり人が従っているから権力を持っているから従うだけなのである。
だから民主主義では優れた人は認めないのである。
水平化されて誰も大衆は尊敬したりはしない
大衆は権力を持ったらその組織を教祖を恐れるのである
だからもうそうした大衆を相手にすることが優れた人が拒否するようになってしまう。 それでキケルゴールであれニーチェであれ相手は何かを高いモラルとか真善美を求めているわけでもない。
ただ相手をけなして喜び俺とお前は同じだと言うことが言いたいのでありその人の中身など何もなくてもいいのである

とにかく相手にケチをつけてけなしそれで喜び俺とお前は同じだとなるのである。 もちろん真剣に真善美を永遠の命を求める人はいる。 でもそれは極少数なのである。 だから真剣に取り合うということは簡単にできない、時間の無駄となるからである。
何か困りごとでも相談にのれるのは数人なのである。
そもそも日本が貧困になったとしてもそんなこと簡単に解決できないのである。 それを政府でも政党でもカルト教団でも簡単に解決できないのである。
結局南無阿弥陀仏であれひたすら唱えて極楽浄土に行くこと願いとなるだけである。 幹部はその布施をいただくだけだとなる。
来世にこそ極楽浄土がありいつの世もこの世は地獄だったのである。

結局民主主義とは何を言ってもいいです

その答えはあなたが出しなさい

最終的に答えるのはあなた自身です

こうなる社会である、そして大衆ファシズムにもなる社会である。 
それは歴史が証明しているからである

2023年03月28日

近辺の高齢化社会の悲惨な状況 (増えるのは老人と病人で日本は改革できない)


近辺の高齢化社会の悲惨な状況

(増えるのは老人と病人で日本は改革できない)

脳梗塞になった女性が72歳の女性がやっと歩いて自分の家まで来た。いつも食べるものすら買えないと嘆いている。年金は4万しか貰っていない。生活保護といっても現金は5000円くらいしか貰っていない。医療費は無料でもない。一二割取られることがある。だからどうして生活保護なのだろうと思う。
最低の生活はできないからである。その息子は車で郡山市の方に働きに行く。それも朝5時とかに出る。前は朝3時にも出ていたのである。その息子が交通事故になり車を買う金が無かった。それを自分は支援した。
もうその52歳の息子がの働く収入がなかったらどうにもならなくなっていた。脳梗塞で寝たきりになったりしたら働くこともできない。収入は絶たれる。そうしたらどうなったのだろうか?

その息子は刺身も贅沢だから食べていないという、母親は脳梗塞になってもまともに栄養も取れない。果物を食べろと言っても買う金がないのである。ただ救われたのは脳梗塞でも症状が軽く歩くことができたことである。でも自転車に乗れないということが買い物でも苦しいとなる。
もう一人発達障害の息子がいる。その息子さえ53歳とかになっている。つまり50代の人が80歳の親を介護する8050問題がすでに起きているのである。

介護する人が子供が会社を辞めたりして親の介護をすれば金が足りなくなる。その深刻なことが起きるすでに起きているのが8050問題なのである。
近くを見ても隣では85歳だが心臓を悪くしてデイサービスに行っている。もう一人はやはり85歳で糖尿病であり入退院を繰り返している。その85歳の人を助けていた女性が脳梗塞になって行けなくなった。もともと自分の暮らしが苦しいから金をくれと言ってもくれなかったから不満であり仲が悪くなった。
今日大工さんに聞いたらその姉も施設に入っている。何か貯金とか資産がどれくらいあるのか調べられたという。おそらく年金くらいでわ施設で賄えないからだろう。
ともかく周りを見てもこうして老人が金がないなく困窮している。そして日本で増えるのは老人と病人だけなのである。
子供が遊んでる姿など近所で見えないのである。

それはますます2025年になると団塊の世代が75歳以上になる。そのとき医療費も増大する。何らか病気になる人が増えてくるのである。そして福祉にでも医療費でももう国で出すことができない。若者も貧乏であり先が暗い。いいことを言う人はいない
戦後の焼け野原から団塊の世代が生まれたがそのときは食べるものも満足に無いのに子供は増えたのである。
だから貧乏人の子だくさんと言って必ずしも豊かでなくても子供は増える。その時子供は労働させられていた。それは農家でも商家消でもそうだった。私も子供の時は常に店で配達とかさせられていたのである
戦前でも子供は働き手としてありみんな大学に入れるようなことなどなかったのである。だから金はかからなかったのである。
今は逆に奨学金をもらってまで大学に入っている。その奨学金の借金から社会人になるから苦しいとなる。
団塊の世代は集団就職の時代でもあ中学を出たら働きに出されたのである。それは江戸時代なら明治になっても丁稚奉公とも似ていたのである。

ともかく何かこういう状態は全国的である。増えるのは老人と病人ばかりなのである。こういう社会とは何なのか。若者が老人は集団自殺しろというときそれはあまりにも老人と病人が多すぎるからである
もちろん長生きは悪いことではない。でも老人が病人が多いとことはやはり正常な社会ではない
私の家はすでに50年過ぎている。それで津波震災の被害があり去年の大地震で家がかなり傷んでしまった
それを直したのはいいがもっと直すとするともう壊して新しくしたほうがいいとまでなる。大工さんは次から次と直したほうがいいと言うけどそうなるともう新しい家を作った方がいいとまでなる。家でもやはりリフォームするにも限界がある限界がある。
おそらく社会でもそうしていろいろと問題が起きている。でもなかなか解決方法がない。

日本は戦争で負けて焼け野原になってもそこから立ち直ることができたのは古いものを壊して新しいものにしたからだともなる
古いものを残して新しくしようとしてもなかなか面倒でありできないのである。だからリフォームには限界があると思った。
古い農家であった家が別に新しく作った人がいる。
その方は耐震設計もして断熱材を入れているから冬でも暖かい
古い家をリフォームするのもいいがそこには限界がある。おそらく日本でもそうして古いものを残して新しいものを作るということは無理があるのかもしれない。いろいろなものは新しくできない
いまだにハンコにこだわっている信用組合とかある。銀行もあるだろう。そういうものすら日本は改革できないのである。デジタル社会に移行できないのである。社会自体が硬直化しているのである。
それが高齢化社会が足枷となってなかなか改革できないのである。ただ別に長寿が悪いことではない、でも社会全体から見たときはどうしても新しい社会にすることが難しいのである。

病院に入院している85歳の人の家も相当にいたんでいるという。庭も荒れている。何かネズミが入ってくる穴があるという。ネズミの運動会場になっているという、田舎というのはちょっと街から離れたところは農民が昔ながらの濃い人間付き合いがある。また田んぼがあるから畑もありネズミが出やすいのである。
また空き家も多いから家でもネズミに荒らされるとなる。
都会から来た人は田舎でもそうした濃密な人間関係がある農民社会だったところには住むと耐えられないことにもなる。
ともかくこうしてこうこうしたことが全国的に起きている。それが少子高齢化社会の現実なのである。

2023年03月10日

リホームはいろいろむずかしい (老後は家が大事になるー家が人生も語るものになる)

リホームはいろいろむずかしい

(老後は家が大事になるー家が人生も語るものになる)

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私の家は50年過ぎてかなり痛んできた。タイル張りの古い風呂はは壊した。そしてユニットバスにした。それは仙台市から来た
創優建という会社で100万でできた
これは本当に得だった。イワタニのガス会社でわ200万かかると言っていたからだ。地元の人に頼めば300万人もなったかもしれない。仙台市の会社は新しく始めたので安くして客を得ようとしていた。だから遠くまで来て客を確保しようとしたのである。
常磐高速ができて早く来れるようになったというのもあった。
なぜ安いのかと聞いたら仙台市では競争が激しいから安くしないと客を取れないということを言っていた。
ただリフォームとなるとかなり難しい。全部を壊すわけではないからかえって難しくなる。それで地元の大工さんが悪戦苦闘したのである

一番の問題は水道の蛇口が流しと合わないことだった
これには苦労した。その人は一人でやっていてそのために専門ではないので分からなかったのである。でも水道屋に頼んだら意外と簡単にできたのである。そのことで相当に不安だったがさすがに水道専門だから簡単にできたのである。
やはり餅屋は餅屋である。リフォームはいろいろなものが関わるからとても一人ではできないものだった。その大工さんは庭作りもできる、いろいろ一人でできるのだが今回は水道のことは分からなかった。

こうしてリフォームというのは何もないところに作るわけではない。前に作られたものがありそれが問題なのである。
そのことで返って難しくなるのである。新しい家はそういうことがないから組み立てるだけであり簡単だとも言える。
だからリフォームは簡単にはできない。それで業者を選ぶにしてもいろいろ問題がある。新しい家ならただ作られたものを売るというだけでそれほど密なコミュニケーションをとる必要もないかもしれない


リフォームは何かそれ密接のコミュニケーションは必要になる
でもなかなかそれは難しいとなる。
なぜならリフォームでだまされることや依頼主が思ったようにはできないという苦情が多い。。それだけリフォームは一から作る家とは違ったものになる。
私が依頼した大工さんは地元の知っている人でありコミュニケーションも取れている。でも相当に大工さんも思案して苦しんだ。
やはり一人でやれる仕事ではなかった。水道のことはわからなかったからである。そして家が古くなり今回の地震でも家は歪んでしまったのである。それでまた直しにくくなったのである。
流しと元の水道の蛇口があわなくなった。それが一番の問題だった。その他何かあわしにくいものがあった。
だから一から作り直すより面倒だったのである
ただ隣の部屋のも直してもらったが窓を取り替えるだけでありそれは意外と楽にできたのである。だから今回もできると思った。
それは大工さんが思ったのであり私も簡単にできると思ったのである。でも実際はかなり違っていた。


今は大手のハウス会社でもリホームをしているがこれもかなり問題が多い、自前で職人を用意していないとかかえって地元の職人に依頼しているとかあり新築の建売住宅を売るのとは違う。
なかなか密なコミュニケーションがとらない、となるとリホームは地元の職人に頼んだほうがいいかもしれない、なぜなら地元に住んでいるか事情もわかる。地元だから同じ市にも住んでいるからいろいろなことも共有している。遠くからくる会社の人だとそいうことがない、それで困ることがある。気楽に相談もできない、また一回限りの仕事にもなり後で修理の時に困る。
だから地元の職人に頼むということも必要だとなる
なんでも広域化して仕事も広域化しているがどうしても近くでないとうまくいかないことがある。
ただ逆に地元だけではできないことも多くなりすぎたのである。
それだけ複雑な社会になり地元のつながりも希薄化したのである。

どうも年になって70近いから何か分からないこともできてきた。窓についても窓枠のことにわからないことがあったようである。やはりどうしても何でも歳になると新しいことがわからなくなる。技術的には常に進歩しているからそうなる。
ただ年配の人でも老人でも経験を積み重ねているからその経験は生きる。かんなで削ったり細かい作業がある。それは手作業であり機械でできないのである。
最近3Dープリンターで家を作るということが報道された。その家を変えることもできないし直すこともできない。やはり何か人間の手作業が必要になる。
だから人間の仕事がなくなることはないのである。
その古い家に組み合わせをしているのを見てるとそう見る。
とにかく人間は家とも一体化する。家が人生ともなるのである。
家が老朽化して直さなければならないというとき人間もまた老いてゆくのである。でも家は直して新しくして長持ちできる。


人間は老いればやはり体も弱りいたんでくる。でも人間はなかなか家のように報酬はできない補修はできない。その大工さんも70近いし私自身も75であり体が弱っている。それで互いに老人は相憐れむともなる。
老人にとって家は意外と大事になる。なぜなら家とともに過ごす時間が長くなるからである。私は旅ばかりしていたが親の介護になり十数年遠くへの旅はしていない。近場を自転車で行っているだけである。
すると家に居る時間が長い。家が住み心地良くないと問題になる。終の棲家としての家になるからである。

それで必ずリフォームが必要になる。その金も大きいのが問題である。屋根瓦もなおしユニットバスにして去年の大地震でトイレの配管が壊れ新しくした
何やかやでもう200万近くになっている。このように家はそもそも前から金がかかっていたのである。家は買ってもその後はならず修理したり建て増したりして金がかかるものなのである。
でもこのの本で読んだようにリフォームは必ず必要なのである。
そうしないと老後は安心で快適な生活は送れない。だからリフォームはすべきであるというのは分かる。
古い家に傷んだ家に住んでいればそこには孫も来たくないのもう分かる。それだけ家はやはり人間が第一といっても人間の心に影響するものなのである。
そして家は自分だけのものでもない。その周りにも影響する。
空き家にしておくと周りの影響が大きい。景観的にもよくない。
ともかくともかくそれぞれの家は人生を語り歴史を語っているのである。
家という物があってそれに物が憑くというように単なる物だけではないものになる。

2023年03月02日

リホームは難易度が高い、簡単に大工でもできない (老人は安住する場が家になる―成長するにも家の影響は大きい)


リホームは難易度が高い、簡単に大工でもできない

(老人は安住する場が家になる―成長するにも家の影響は大きい)


キッチンが50年くらいすぎてぼろぼろになっていた。それを取り替えるにしたが簡単にできないものだった。
まず寸法を合わせるのがむずかしい、私の家のキッチンは何か高さを調節するために
直して造った、それで新しいものをとりつけるのに高さを調節するのがむずかしいものだった、ここに合ったものを作ると結構手のこんだことをしなければないので大工さんいろいろ思案していた、それから排水の管が複雑になっていたのである
前もつまって私がブラシを入れて直していた、それはもともと複雑な管の配置になっていたためである、それを見てまた大工さんどうしていいのか苦労していた
だからリホームするには相当な腕がないとできないと見た
窓も高さの調節で直さなければならないとかなり複雑化したのである

でもここでわかることは最初からハウス会社が作る家は楽にも見える
今でもこの辺では大東建築がアパートを建てつづけている、それは最初から規格化されてその部品を組み立てるだけなのである、だから楽にも見える、他の家でもそうして組み立てるだけだから早くできる、50年前の家とかなると私の家でも三カ月くらいかかった。
普請は大事業だったのである。その苦労があって親は常に家を建てたことを自慢していたのである
今のように簡単に家が作れないということでそうなっていたのである。
その家にしても地元の大工さんが作ったのでありハウス会社はその頃家作りしていなかったのである、地方では地元の大工さんが家を作っていた、三カ月もかかるとなるとやはり
家を作ることは大事業であり地元の人とのかかわりも深くなるのである

茅葺屋根の家に住んだ人を知っているがそういう家は村の人総出で作ったとういことで
また価値が違っていた、つまり村の人たちの協力があっ作れたとなっていたからである
ハウス会社になると地元の大工さんはかかわらないからである
そのために地元の人とのつながりも希薄化したとはなる
また家も様々なものから成り立っている、それで震災以後は瓦はいわき市の会社の人が来て直した、ユニットバスは創優建という仙台市の会社が百万で作った
それは常磐高速道路ができたために仕事を求めて来たからである

またトイレの配管が去年の地震で壊れた、それでトイレも古くなり直した
つまり仕事が広域化している、この辺だといわき市とか郡山市とか仙台市でも交通的に便利だから仕事を求めて来るようになったので
建築土木関係の仕事している人は青森に行ったとか郡山市に行くのに三時に起きて行ったとか佐世保に足場を作る人が行ったとかなる
もともとも建築土木関係は遠くに仕事があれば行っていた、飯館村の木戸木(ことぎ)の大工さんも東京に仕事があり働いて稼いだと言っていた
またレンガの風呂を作る人は室蘭まで行ったと聞いた
だから職人は遠くに仕事があれば行くということがあった。

ただそういうことで何かハウス会社で簡単に部品を組み立てて作る家は重みがないとも感じる、昔は家を作ることが大事業だったから家に重みがあった、茅葺の家とかなるとその手間も労力も大きくなったから重みがあったとなる
ただ家というのは建物だけではない、そこに営まれたものがありそれで家も活きてくる
だから代々つづいた家は歴史的にも重みがあるとなる

いづれにしろ家にこだわるのはやはり人間は家で暮らすということが基本にある
遊牧民のようにテントを持って移動する生活とは違いて一定の場所に根付くということがありそれが家を持った時そうなる、マンションとかアパートとかなると借りの住まいともなり重みが感じられないのである
どうしてもこの辺だと市営住宅などに住んでいる人はそうなる、何か借りの宿という感じになる、家の重みがないのである。
近くの人は20代で一軒の家を建て立派な石組の庭を造った、それは人一倍働いて20代で作ったのである。そういう時代があった、働けば働くほど収入を得れる時代だったのである、今20代で家を建てることをできる人はまれだろう、親の遺産でもなければできない、その人は別にローンもなしで二十代で家を作り立派な庭を造ったのである

今は何かそうしたみんなが働けば豊かになれるということがない、だから若い人は苦しいとなる、なんとか日々生活すればいいとかしかない、それでこの辺でなぜ東京辺りから学生なのに強盗に来たのかとなる、若い人達が何か昇り調子の時代を経験できない、30年間賃金が上がらないとか日本は停滞したままなのである
そして今度こうして高度成長時代に建てた家が空家化しているのである、また後継者もいなくなっているのである。
近くに本当に立派な庭がある家でも空家になっていた、その庭の価値は相当にある
でも誰も住んでいないのである、それは原発事故で避難区域になったところでも立派な家があり庭があっても住んでいないからもったいないとなる
でも少子高齢化で全国的にそうなっているのである、日本は縮小してゆくのである

ともかく私の家でも家には金をかけた、部屋でも四っつくらい新しく継ぎたしたのであるでも私自身は狭い部屋で寝起きしていた、でも八畳の広間がありそこに寝ていると何か安らぐ、そこで寝起きしていた親が死んで自分が寝起きするようになった
その空間がなんとも安らぐのである、そこで夜に寝るとき本を読んだりイメージすることがある、イメージが不思議と湧きやすいのである、だからそこで必ず詩作しているのである
だから家というのは知的な仕事をするには相当関係している
50年前まで子供の時は子供部屋などなかった、本も一冊も置いていなかった
漫画本すら貸本屋で借りて読んでいたのである。これでは知的に刺激されることもない

家に蔵書があることが大事である、子供でも子供の興味をひきつける本を並べているだけで相当に効果がある、それも子供部屋があれ自主的勉強することもある
それが全くなかったことがやはり環境的に恵まれていなかったのである
何か店をしていたから子供の時は配達などばかりさせられていたのである
だから自分で知的探求というものをしたことがない、勉強は学校でしかできなかったのである、それも暗記の勉強でありまたソロバンとかを習ったが得意だったが何の役にもたたなかったのである

とにかく家は知的空間であることがわかった、蔵書があり寝る時でも広い部屋で本を読み想像力を働かせて思索する詩作する、それは広い家があると効果的なとを知った
狭い部屋だと何か圧迫されるてそうはなりにくいことを発見した
おそらく知的探求には家というのが相当深く関係している、日本の家は狭すぎる
だからそこで何か余裕ある人を育てにくいのかともみる
そもそも茶室が生まれたのは日本の家は狭いから自ずとそういう文化になったのである
でも実際は広い家の方がいい、八畳間で寝ていると気分がいいとなる
でも大きな家に住んでいても自分の部屋は狭い部屋だったのである
それは親が死んでわかったことなのである

そして老人になると家が大事になる、なぜならその生活が家中心にもなる、余りに遠くにも出なくなるからである、実際これだけ旅しても親の介護とかなり十数年旅していないのからである、ほとんど近辺を回り家にいる生活になったからである
すると家が何か安住する場所にならないと豊かな老後の生活ができないとなる
それで数カ月なのか糖尿病で入院していた人がかえって病状が悪くなったが家に帰って療養したら回復した、それもやはり家の効果である、その人は若い時人一倍働いて造った家にいてこそ何か存在感がある、妻は早く死んでもやはりそこに妻がいるという感じにもなる
そうして家で死にたいという人か多いのは誰も病院のような無機質な空間で死にたくないということである、人間は家とも一体化してゆく、だから人は死んでも家に憑りついているとまでなる、確かに家には死んでも人はいるという感覚になる
でも病院で死んでも何か幽霊となって現れるとしても病院では成仏しないのである
何か物体のように邪魔なものが片づけられるという感覚になる
だから病院で死にたくないという気持ちがわかるのである


天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

橲原(じさばら)のキコリの人が同級生が切り出した木を柱にしたと親がいつも自慢していた
それはこの歌のように地元の材料で地元の人たちが作ったということで価値があったとなる
ただこういう家に住む人はまれだった
でも農家のかやぶきの家はそれなりに大きいし意外とあたたかいとなっていた。
土間でも土でありあたたかだった。実際に住んだ人も悪いことはいわないのである。
だからそれなりに住まいとしてわるいものではなかったのである。
むしろ子供の時の家は隙間風が入り寒いしトタン屋根で雨漏りして洗面器を並べてしのいでいたのである。戦後まもなくは農家では食料も自給していたからかえって街のせいかつよりゆたかだったのである













































2023年02月21日

精神障害者の虐待 (遂に母親も自分が病気になり施設に入れると言うようになった- 家族が崩壊する介護問題)

精神障害者の虐待

(遂に母親も自分が病気になり施設に入れると言うようになった-

家族が崩壊する介護問題)

【精神科病棟】暴行や虐待は日常的に?身体拘束は?入院を望む家族の思いとは?ひろゆきと考える|アベプラ

https://onl.la/FpzGBJi

発達障害の子供もった女性は施設に入れないと強く言ったいたが自分自身が脳梗塞になり気持ちが変わった

なぜなら弟に世話になるうよになって変わったのである

自分自身が元気ならそういうことはなかった、でも72歳にもなり病気になり自分自身のことで精一杯になった

子供と言っても50歳にもなっている、それでもうめんをとみれないとなったのかもしれない、やはり人間は子供より大事なのは自分自身だともなる。でも今までは強く子供を守るとしていたから意外だった。

人間の気持ちというのは常に変化している、何かこの世ではいろいろあり変わる、年齢でも変わってくる。

状況によっても変わってくる、やはり病気になって弟に世話になるようになって変わった、自分の世話をしてくれるのは弟と思うようになったからなのかもしれない、ただその弟は発達障害の兄には厳しいから施設に入れろとしきりに言っていたが母親は反対していたのである

アベマテレビ精神障害者が拘束されたことを問題にしている

虐待もされたとか病院が訴えられた、これは認知症にでもあったから意外とそれは今や高齢化社会で身近な問題になったのである

なぜなら認知症になる人が6人に1人とかなるとその数も多いのである、ではそれにどう対処するのか?

それは特殊な人ではない誰でもその問題をかかえる割合が増えたのである

ただ生まれつき精神障害者になっているのと親がなることは相当に違っている、親の場合いろいろあっても私の家の場合は家を支えて私に自由に何でもさせてくれた、だから功績が大きいものだった、それで実の母親がいたとしてももう一人の母親となった姉のことを大事にせざるえななかったのである

そういう家庭の事情はみんな違っているから対処も違ってくるのである。ただそうして精神障害者をかかえると家族も崩壊するということがある、だから施設に入れることにもなる

そこで虐待や身体拘束が起きる、虐待は病院でも起きる、特に今の若い人は看護師でも老人を嫌っている、大量の老人のめんどうを診るのが高齢化社会だからである

もし子供とか若い人だったら対処も血かったものになっているかもしれない、高齢化社会は老人が多すぎて病人でも老人がほとんどだからである、そこで老人に嫌悪感も持っている人が多いのである、だから老人は集団自殺しろとまで堂々と言わせるのはそういう社会風潮になっているからである


ただ発達障害というのは暴力になったりはしないようだ

その人は体はプロレスラーのようであり暴れたりしたら怖いとみる、私の家の場あいは一人の親は気丈夫であり男優りだから認知症になって暴力になったりしたら怖かった、だからもう一人の実の親は一藷に住めなくなったのである

でも私は家の事情があり死ぬまで良くしたのである、最後は病院で死んだ、そこで身体拘束などもあったから当人は辛かった

でも結果的には認知症になってから二年くらいで死んだのである

それで比較的終わってみれば楽だったのかとなる

このアベマのテレビでどうして家族でも施設に入れるのか?


これを問うたがその答えは家族で見きれないからだと言うのもわかる、家族だけで診るのは限界があり家族自体が崩壊してゆくともなるからである、これはニートとか引きこもりでもそうなっている、自分の家も家族崩壊になったからである

ただ私は二人の親に特別良くされたことでしょうがいなとあきらめていた、苦しかったけどしょうがいなとなっていたのである

それだけ特別良くされたのが自分だからそうなっていたのである

他の人はそうではない、知っている女性でも弟がいたとしても別にそんなに良くされていない、発達障害の息子にはいつも心配して愛情をかけていたとなる、そこで弟は母親に余り良い感情をいだいていないともなる、でも世話するのは今その弟だけなのである、そこで気持ちが変わったとなる

発達障害の人も母親を心配していても何かたいしたことができないからである、そこで自分自身が弟にめんどうみてもらうようになると発達障害の兄より弟を頼る他なくなったとなる

それで母親が非情とはならない、それだけ精神障害者をかかえることは負担が重すぎるのである、別に普通の人でも介護の負担が重すぎるのである

だからこういう問題は頻発する、特に認知症も精神障害だから同じことが起きるのである

そこで家族は引き裂かれ分断されて崩壊するともなるのである

ただ私の場合はなんとか一つの家族として継続させて守ったとなる、それは結局その功績が大きかったからである

他の人はそうならないからできないともなる

いづれにし精神障害者でもいろいろある、一くくりでは語れない、発達障害というのはどこかが異常なのかわかりにくいのである、でもそれだけ母親に世話になったのにそれを余り感じないとか何もしやれなんとかあり母親も見切りをつてけたのかともなる

ただこの問題の深刻さはもう一部の精神障害だけではない、認知症になる数が膨大になるのだからそれは他人事ですまされない

身体拘束でも虐待でも親が受けることになるからそれを放置できるのかという問題なのである

自分の親もそうされる確率が高いから問題なのである






2023年01月19日

発達障害者とか精神障害者でも社会からただ排除すべきものなのか (誰にでもなる認知症も排除できるのか)


発達障害者とか精神障害者でも社会からただ排除すべきものなのか

(誰にでもなる認知症も排除できるのか)


精神障害者の母

精神障害者も人なりと
老いたる母は強く言う
犬猫のように捨てられか
もし施設に入れるというなら
私は戦うと体張って言う
子を守るために母は強し
その愛は無償の愛なり
何か子を世間に誇る者なしも
ただその愛は無償にして注がれる
何の報いを得られじも
母の愛あり母は強し
動物も我が子を犠牲にして守る
その時小なるも大に挑む
精神障害者は無用なりしか
ただ意味無きものか
さにあらず真にの母の愛を
示すものとしてありぬ
そのことのありて無益にあらじ
この世に何か意味を定められじ
意味なきことにも意味がある
この世は何が有益無益かもわからじ
故に安易に人の価値を定むべからじ
無用と思う者にも用あり
その母の無償の愛を知るべし


●精神障害者に生きる意味があるのか?

●精神障害者を世話することに何か意味があるのか?


発達障害とか認知症のことをを追及して来たが人間というのは何が意味あるのか価値があるのかわからない定められないのである、精神障害者は何の役にもたたないごくつぶしでありただ迷惑者であり負担をかけるだけの存在だからと抹殺すべきだとして19人も殺害した人がいる
ただその人たちは重症の精神障害者だった、発達障害者は軽症の精神障害であるから違っている
でもやはり病気の一種である、先天的に脳の障害がありそうなった
精神障害者には先天的なものと後天的なものがある、何か誰にでも発症する危険はある
社会生活でストレスがたまりそうなることがある
また社会に適応しにくい性格もありそれは学校に適応しにくい人もいるのと似ている
私自身学校になじめず学習障害者のようになっていたからである
学校でどうしてもなじめず勉強嫌いになる人はいるし自分自身がそうだった
ではその人は無能でそうなったのかというと違う、その人なりの性格があり才能があっても発揮できない、伸ばせないとういことがありそうなったともなる
発達障害も何か絵が得意でそれで社会で認められることがあったとか得意な分野を伸ばせば社会でも認めるとなる

ともかく人間の問題は様々あるけど人間に起きることは人間が完全な存在でもないし
弱い存在でありそして生老病死があり人間には病気でも老いでもさけられないものとしてある、精神障害も先天的にも後天的にも起きてくる
それが健常者とも関係ないのかとなると関係ある
特別健康で頭もいい優秀な人でも認知症にかかる、それを目の当たりにしてショックだった、そして認知症は誰でもかかる、800万人が認知症になる時代というとき老いればかかるのである、それは精神障害者となるのである
つまり誰でも生涯の中で精神障害者になる確率が高いのである
誰でも老いるし老いをさけるここともできないからである
とういうことで精神障害者の問題、発達障害者の問題は関係ないものともならない
認知症でも精神障害者だからである、何か似ているのである
つまり人間に起きることは他人事ではない、精神障害でも認知症になると確実になる人が多いからである、そしたら精神障害者と同じでありそんな人は人間ではないとされたら恐怖である、それは親がなるからである、子が精神障害者の場合は親の愛がある
今度は精神障害をの親を子を看ることになる相違なのである

つくづく人間には本当に様々な生きるリスクがある、その最たるものが病気なのである
精神障害も病気である、いくら科学技術が発達しても意外と現代は精神疾患が増えてい
うつ病でも増えている、それは必ずしも先天的なものとは限らない、後天的に環境の影響でもなる、だから誰しもそのリスクはかかえている、もう認知症となれば誰にでもなるしさけられないとるでなる、なぜなら90歳以上になれば半分以上があるからである
老いも原因でありそうなると誰も避けれないとなる
だから精神障害というのも実は社会的問題でもある、うつ病などはそうである
個々人の問題より社会問題として引き起こされる、時代病かもしれない、何か今度は別な息子が交通事故になったとかもしかしたら交通事故のようなものかもしれない
不可抗力にもなるの精神の病だとなる、だから精神の病にかかるリスクは誰にでもあるとなる、無関心ではいられないとなる

その時発達障者をもった母のように犬猫ではない人間であると主張して捨てられるのかとなる、施設に入れることはすべて悪いとはならないにしても気持ちとして捨てる感覚になっていいのかとなる
ただ母はそう思っても兄弟姉妹となると愛がもちにくいので捨てるとなる
すべてではないにしろそうなりやすい、それだけ負担が大きいから必ずしも責められないことはある
つまり家族でも捨てる、特に親の介護となる捨てるのが当たり前にもなる、施設は現代の姥捨て山なのかともなる、それも捨てる方にすると経済的な問題が大きかった
なぜならみんな貧乏でありとても老人まで食べさせていけないという深刻なものがあり食い扶持を減らすためにそうしたともなる
でも現代はまだそこまでいっていない、なんとか最低限食べさせてめんどうみる余裕はある、でもやはり貧困化するとめんどうみきれないと全体的に国自体でもそうなりやすいことは確かである

2023年01月17日

精神障害者自身が生きる意味と世話する人のモチベーション (なぜ殺害が起きたのか?)


精神障害者自身が生きる意味と世話する人のモチベーション

(なぜ殺害が起きたのか?)

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神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年に入所者19人が刺殺された事件の裁判員裁判で、横浜地裁は16日、殺人などの罪に問われた元職員植松聖(さとし)被告(30)に死刑を言い渡した。
共同通信によると、植松被告は意思疎通が十分にできない障害者には人権がないなどと主張していた。
この事件は日本の犯罪史上最悪の、犠牲者が多数に上った殺人事件の1つとなった。凶悪事件が少ない国で、国民に衝撃を与えた。
これまで植松被告は毎日新聞の取材に対し、知的障害のある人は「生きる意味がない」とし、「社会のためにやらなければならなかった」などと述べていた。




精神障害者には生きる意味がないと施設に勤める人がそう言ったて十数人も殺害した
ここで問題になったのは精神障害者自身の問題と世話する人の問題があった

●精神障害者に生きる意味があるのか?

●精神障害者を世話することに何か意味があるのか?

これが問題になったのである、どうも発達障害者の兄弟でも兄弟の関係でも兄は障害者でも弟はそもそも世話したない、常に障害者の兄に厳しく接している
世間のことを理解できないくては困るとして従わせようとしている
相手が発達障害でも容赦がないのである、そこに相手が病気であり病気でも世間の常識を人間としての常識をわかってもらわないと困る、それで厳しく指導しているのである
それで弟は施設に入れたいのである、かかわりたくないとなっている
ここで関係してくるのが福祉関係の人たちなのである

でも発達障害者の人は施設に入りたくないとしている
そして母親は強い愛情があるので施設に入れたりするなら戦うと言っている
母親は強い母の愛がある、だからそう言っている、弟にはない、兄弟にはない、また姉妹でも母の愛を持つことできないのである
私はただ客観的な立場としてあり別にとっちにも組しないのである
精神障害者を責める弟にも兄弟にも組しないのである、ただ母のような強い愛は持つことはできない、だから病気になったが母が健在であるかぎり発達障害者でも施設に入れることはできない、だからそもそも精神障害者に人権があるのかどうかとか議論される
そんなものがないとして植松被告は殺害したのである

植松被告は重度の精神障害者と接してこんな人達は人間ではないと殺したのである
相手が人間でないとすれば相手の生きる意味も存在すら許されないとなる
そこに世話する者がいて甚大な労力がかけられるしコストもかかるからである
ただ母とかなれば母の愛がありそういう障害者でも母は愛しているし生きることに意味がある、それは何かむずかしい哲学でもない、ただ母の強い愛があり息子を生かしたいとなるからである
問題はそういう強い愛を兄弟でも姉妹でも持ちえないのである、その世話する労力も甚大になり人生するら犠牲になるからである、その相違は大きいのである

母は相手は人間なのだ、施設に入れることは反対する邪魔者として社会からとりのぞき施設に収容することはできないとしきりに言う、母にとって障害者でも息子であり人間として扱っているからである、でも兄弟でもそう扱いないからしきり文句言っている
つまり兄弟姉妹が精神障害者を世話することはなかなかしにくいということである
私は認知症にっなたは母でもあり姉を人間としてそれも健康な時と同じように扱い大事にしてたてることができたのは特別良くされたし家を作り家を支えた女性だったからであるだから苦しくても認知症になっても一家の主のようにしてたてていたのである
そういう立場にあったから継続してそうなったのである

でも相手がやはり認知症になりわからなくなっているのたからそれはおかしいとなった
だから私はうつ病になったのである、たいがい精神障害者が家族にいるとうつ病になるのである、いくら相手をたてるにしてもそうしていると自分自身がおかしくなってゆくのである、そんなふうにはならないと世話している弟は厳しくわかってもらないと困るとして対立する、だから精神障害者の兄はひどく嫌っているのである
そのことは私もわかった、発達障害者が接してはならない典型的な人だったのである

ともかく発達障害者でも精神障害者でもどう対処するかどう見るのかむずかしいと思った母が言うには相手は物でもないし犬畜生でもない人間だとしきりに言う、人間として扱わねばならないというのである、それは母としての強い愛をもっているからである
だから施設に入れることは強く反対しているし福祉関係の人とも戦うとしているのであるつまりここで問題になっているのは弟であり姉妹であれ兄弟であれ母の愛は持っていないやっかいものとして施設に入れた方がいいとしているのである
その相違が大きいのである、強い愛を持つ者と持たない者の差がここに大きく出ているのである

私にも姉とか母に愛があり介護ができた、というより特別60歳まで三食用意してくれたり世話してくれたからである、そのために強制されることもなく必死になって介護したのである、こんなに良くされた人はなかなかいないと思う、特殊の事情でそうなったのである、ただ家族が一人のできそこないというかいてめちゃくちゃになっていることもある
その息子は両親でも暴力をふるい一緒に住めなくなった、息子は本当に家族を崩壊させたのである、親もどうすることもなく家から脱出して住んだのである
これも悲劇だし一人のできそこないの息子を生んで育てたことにより何の報いもなかったとなる、それもあまりにひどいとみる
それで息子を殺した人もいたがここでは殺すこともできない、なんとかなだめようと必死になっているだけである
そういう家族もいるから子供をもってはずれたら恐怖にもなる

精神障害者とは何なのか、その人に人権があるのか、人間なのかともなりその答えはむずかしい、ただ母にとってはかけがえない人であり人間なのである
そうなるとその息子をただ社会の厄介者であり社会から抹殺すべきだともならない母にとってはかけがえないの愛する人間だからである

精神障害者に生きる意味があるのか、

また世話する意味があるのか

この二つの問いがある、現実にそれは精神障害者に対してみんな感じるのである
だから人間でもない精神障害者を次々に殺害する事件が起きたのである
母親にとっては息子が精神障害者でもやはりかわいい息子なのである
また兄弟でも姉妹でもそういう女性がいたからこの場合はみんなにはあてはまらないのである

ただ本当にこの問題はむずかしい、私は親が家族が認知症になっても病気の前と同じように接していた、だからうつ病にもなった、でも二年くらいで死んだので救われたともなるそのくらいなら苦しくてもなっていた
でも長くつづくとなると苦しいとなる、耐えられないともなる、とにかくこうして兄弟姉妹は世話しにくい、親子関係ならいろいろあっても愛情を注いでくれたし世話になったのだから苦しくても仕方がないとなる、また愛情は認知症の人でもわかるし通うのである
それで最後は感謝して死んだのである、認知症の場合は普通の人としてまた優秀な人として生きた人でありまた世話してくれた人だから粗末に扱いないのである
そこが生まれた時から発達障害者になって世話される人とは違っている
でも何か似ていることがあると見た、プライドがある、だから馬鹿にすると怒ることも似ていたのである、お前はは何もできないとか叱責すると怒るからである
そういう人は世話できないとなる、そこに認知症と違って介護でも世話でもむずかしいと見たのである

2022年12月28日

精神障害者を持ち苦しむ家族 (発達障害者と認知症の似ていること)


精神障害者を持ち苦しむ家族

(発達障害者と認知症の似ていること)




Aさんから毎日聞かされる過去のことに対する愚痴や、めぐみさんに対する罵倒・被害妄想は、めぐみさんの子どもたちがいてもお構いなしで続いていたそうです。時には暴力を振るうようなこともあったそうで、めぐみさんは「もう限界だ、少しでいいから家族だけの時間が欲しい」と思い、引っ越しを決めたと言います。

、AさんからSNSを通して誹謗中傷を受ける日々がはじまったそうです。書かれている内容は事実無根だったそうですが、「SNSで障害のある姉を捨てた妹、いつも妹ばかりずるい、と発信するんです。どんどん投稿が増えていくと、精神障害があるからしょうがない、では片づけられない苦しい気持ちになりました」と言うめぐみさん。ある日ついにストレスで左耳が聞こえなくなってしまったのです。

精神障害者手帳を取得した現在も、両親はAさんが障害者になったことを認められず、福祉のサービスの利用を拒んでいるといいます。支援を受けてこなかった中で、両親が過剰な期待を寄せてきたのがめぐみさんでした。

「障害がある姉を家族やみんなで支えなければ、という気持ちはわかります。でも、障害者だからなんでも許されるわけではないということもわかってほしいと感じています。私の人生は姉の面倒をみるためにあるわけではないんだと、姉にも両親にもわかってほしいんですけどね」

「姉妹なんだから支え合って」と言われても…精神障害のある姉を10年支えてきためぐみさんの決断


この人と私が接した発達障害を持った家族と同じだった、兄の世話を弟がしていただが
兄の悪口を常に言っていて弟はなぜ私が世話しているのに悪く見られて責められるのかと何度もくどいていた、
精神障害者をもつ家族は家族が身内が一番苦しむのである
それは私も認知症になった姉を介護して経験しているからである

母親にしても終に自ら脳梗塞になりもう世話できないと匙を投げた、というのは弟が母親を苦しんで世話するようになんたからである、金銭的面でも援助しているから弟の言い分を聞かなければならないとなって発達障害の息子をもうめんどうみれないとなったとなる50歳までめんどうみて苦しんできたのだからそれが冷たいとはならない、限界が来たと言える
自分自身が脳梗塞になって苦しんでいても発達障害の息子は介護もできないからである
まず書類など書けないし福祉関係者の人ともまともに応対でなきい
そうなると母親も匙を投げたとなる

でもどうも精神障害者がいろいろあっても認知症の介護をしたので似ていると気づいた
発達障害者の人も家族を責める、特に弟のことを責めている、でも弟は金をだして風呂を作ってやったとか金銭的な面でも援助している、だからなぜ自分だけが悪く言われて回りでもそう見るのかとなって不満になった
母親が脳梗塞になって母親ももうめんどうみきれないとなった
一時は施設に入ってもいたが嫌だとして出た、母親が施設に入った方がいいと言ったら怒ったという、でも発達障害者の人と協調できる人はいないともみる
ただ福祉関係の人は障害者の味方になるという、だから不思議なのは認知症の人が警察を呼ぶぞというのは福祉関係とか警察が家族から責められる時守ってくれる人と見るからかもしれない、その辺はわかりにくいが認知症との共通点はある

何かそれは自分自身を防衛するためにそうているのかもしれない、障害があることでまともにあつかわれない、そのことに不満がある、そして自分自身はその障害が何なのか意識できない、だから自分は常に不当な扱いをされていると回りに訴える
それを聞く人が福祉関係者でありとがめられるのはかえって家族だともなる
認知症でも盗んだと責められるのは一番身近な家族だからである
その発達障害者も常に弟を嫌っていて盗むと言っているからである
ただ認知症のように極端な物忘れはしていない、銀行から金を下ろすことも知っている
そして金に敏い、金になることは金の計算がまともにできなくても敏いのである
欲もありその欲を金で得られるから抜け目ないという

そういうことは認知症の人もそうなのである、自分自身は悪いと思っていない、
回りの人が悪いと責めるのである、その心理はどこから来ているのか?
おそらく自分に障害があることを認めない、私は社会で一人でもまともに生活できる
誰かの世話になることもなくできる、そして自分自身に対して自分の言うことを聞かないと敵ともみなし責めてくる、それは認知症の人にもある、性格によって違ってくるにしろ何か共通していることがある、
自己防衛本能が働き他者に対して自分の言い分を拒否されると敵とみなして攻撃する
それがここでは弟なのである、そうでなくても家族が敵となり攻めてくるのである
それで世話する人がなぜ自分自身だけがここでは妹が姉の世話ばかりして他にできなくなるのか?それで遂には突き放すようになる
第一そうして世話しても感謝などないからである

そして親の認知症と違うのは親というのは子供に尽くしてきた、人によって違っていても親は子供に尽くしてきた、だから世話しなければならないという気持ちがある
私の場合は特殊な事情で特別世話になったから家を支えてくれたから恩返ししなければならないと自ずと思っていたから苦しくても世話するのは当然だと思っていた
それより自分自身しか世話する人はいなかったのである
では兄弟とか姉妹とかなると別に世話されたわけでもない、むしろ障害者が特別扱いされることもある、母親は障害者ばかりに手をかけて他の兄弟姉妹にはおろそかになる
その不満が障碍者をもった家族に常にある、ただ障害者でなくても兄弟でも姉妹でも
みんなに親が良くするわけではない、一人っ子の場合はそういうことはない
だからこそ介護になると一番良くされたかわいがられた人が介護しろとなるのである
これも当然だとなる

とにかくこうして遂に母親でも匙をなげた、するとこれから厳しいことになってゆく
回りでもそんなに悪口を言い自分の言い分を通すことを是認する人はいないからである
つまり世話になっているのだから何か悪口ばかり言って不満ばかり言っていることに対してそれを是認する人はいない、でも発達障害の本人は世話になっているとも思わないのである、だからこそ相手を攻撃して責めてくるのである
認知症にもそういうことがある、何か悪賢いということもある
外面はいいのである、最も親しい家族に対しては攻めてくるのである、つまり家族が悪くて自分は悪くないとするのである
だから福祉が味方だとなることがわかっていて家族の悪口を言う時福祉の人はそれを是認するから余計にそういうのかもしれない、だから不思議なのは警察を呼ぶぞということも認知症と共通している、警察は福祉関係者と同じであり自分の味方だと思っているからかもしれない、これは本当に謎である

精神障害とは発達障害者でも認知症でも似ていることがあると思った
でも根本的相違は認知症は別に優秀で社会に尽くした人であり家族に尽くした人でもあるでも発達障害者とか先天的精神障害者はそういうことはないだろう
幼児から世話をやかせて育った人もいる、だから親が病気になっても世話もできないのである、そうなれば親でも遂には見捨てるとなる
自分自身が介護される身になるからとてもめんどうみきれないとなったのである

ここで不幸なのは最も頼るべき親しい家族でも悪口を言い責めてきてかえって自分が損する、もし体の病気だったらそういうことはないだろう、親切に介護すればそれがわかる
だからありがたいと思う、でも精神障害者の場合はそれがわからないのである
そしていくら世話してもそれがわからずかえって責めてくる、悪口を言い自分は悪くないとする、それを福祉関係者が同調するとなる、だから罰せられるべき家族であるともなるそれで警察を呼ぶぞと言うのかもしれない、それも不思議であり謎だとなる
ただ心理的に解明すればそういうことなのかとみる
全く支離滅裂な精神病とも違う、その心理は理解できないことはないともなる

いづれにしろ発達障害が何なのかまだわからない、でも精神障害者を世話することはめんどうでありだからこ母親でも50歳の息子を自らが病気になってもうめんどうみれないと匙を投げたのである、どうしても弟に頼らざるをえないからである
その発達障害者は親の介護もできないからである、そうなれば弟に世話されるのだから
弟の言い分を聞いているほかないのである

私の場合は認知症になったとしても私は認知症になった人をたてていた
それは複雑な事情でそうなった、つまりその功績が大きいものでありいくら認知症になってもそれで捨てるわけにはいかない事情があった
だから死んでも篤く供養しつづけている、それだけ大きな功績が自分の家に尽くしたことがあったからである、でも幼児期から発達障害者になった人は50歳までただ迷惑をかける存在だったのである、そして世話しても感謝もないのである
またそもそも介護も世話することもできないのだから報いもないとなる
このことでいかに精神障害者もった親でも兄弟でも姉妹でも苦労するかわかる
それは認知症でも共通した面があるがやはり子供の時から一方的に世話するだけとなると報われることないし感謝されるたともないのだから辛いとなる
そのことは認知症で経験しているから多少は理解できなるとなる

おそらく発達障害者でも何か一芸に優れていれば社会でも認める、それで社会に適合できる、社会に役立つともなる、天才などは社会的には人間関係ではうまくいかなくても一芸に優れているからそれで認められるとなる
だから発達障害者は何か特異なことをできるようにする、そうすれば他の人も認める
そうなれば家族でもただ何もできない迷惑をかけるだけの人間とはみないともなる
もし一芸に優れていて収入もあったりしたら邪魔者扱いにもしないとなる
ただそれがみんなができるかとなるとむずかしい、社会不適合者でもかえってそういう人は特別優れた人でそうっている場合がある、天才ともなればとても普通の社会人として生きられない、平凡な生活はできないからである
ただそれはまれであり普通はニートであれ引きこもりであれそういう人ではない、ただの社会脱落者に過ぎないともなっている
第一天才自体まれにしかいないからである、それでも何かその人に自由を与えてあなたのやりたいことをやりなさいとなるとき自分のように旅ばかりして地名と地理とか風土に興味をもったようにその人なりのものを追及してそこで優れているともなり認められることはある、そもそも人間の才能とは多様でありそれを見出して伸ばせた人もまれだとなるからである



2022年12月27日

発達障害と認知症の共通性 (家族でも他者でも悪口を言う発達障害者は嫌われる)


発達障害と認知症の共通性

(家族でも他者でも悪口を言う発達障害者は嫌われる)


発達障害の人と接してその話を家族から聞いた認知症と似ている面があると思った
家族が母親でも弟でも世話しているのだがもう限界に来てその不満を言った
もう世話できないと言っていた
弟は何かと悪者にされるだけでありなんで自分が世話しているのにそうされるのかつくづく嫌になったと言っている
母親ももう世話しきれないとなったのは自らが脳梗塞になり倒れたからである
でもその世話はできない、世話は弟がしている、その一人の弟一人にすべての金銭的負担でもかかっている、そして悪者にされるだけだと嘆いていた

どういうわけか何か認知症の人と発達障害が似ていることがあると見た
というのはどっちも世話する人であれ他者のかかわりでその他者を悪く言うのである
世話する弟が悪者にされるだけだと嘆いている時そうである
感謝したりもしない、一方的に自分の言い分だけを言いそれが通らないと悪口を言うのである、極端になると警察を呼ぶとかも言っている
そして福祉でも基本的に障害者の味方をするので世話する家族でも悪者にされると嘆いていた、つまり障害者の方の言い分を聞くのである

何かそれは認知症でもそうである、家族を警察を呼ぶと騒いだのである
なんで警察なのかと不思議であった、自分が障害があることを自覚できない、相手が悪いと常に思っている、盗まれたという時も身近な人が盗んだと必ず疑い騒ぐ
他罰的なのである

自分が悪くない、相手が悪い、悪い奴をこらししめるべきだ

こういう感情になっている、一見障害者は常に虐待されているとか問題になる
でも世話する方が家族でも虐待されていることもある
その家族は50歳まで世話して母親でも脳梗塞で倒れたとかなり限界に来て今までの鬱憤をさらけだしたのかもしれない、母親を世話するでもない、世話はできない、実際は弟が世話しているからである
だから施設に入れることを考えている、つまり家族に見捨てられた状態になったのであるこれは認知症の介護と似ていた、認知症は脳と心の病になり性格まで歪んでしまったともなるからである
それは明らかに脳が異常化したのである、脳にアミロイドが蓄積されたとかで異常をきたしたのである

発達障害の原因はわからないがこれは50歳頃まで気遣いなことがあるという
これもわからないが変わった人で通っていたのかもしれない、でもその人は計算とか漢字が書けないとかあるが話すことは達者なのである、そこに異常性が感じられないのであるそして話している限りどこが異常なのかわからないのである
ただその人は自分は悪くないし世話になっているとも思っていない、身体障害者なら補助してもらえばそれでありがたいと感謝する、でも精神と脳の障害者はそういうことはないだから助けにくいのである

ただ認知症と似ていても違っている、認知症は病気になるまでは正常なのである
たいがい70以上とかから発症する、80代になり90代になりと増えて来る
でもそれは老化でも病気なのである、違うのは正常な大人として過ごした歳月が長いから大人としての常識がある、なにもかもわからなくなった訳ではないのである
いろいろあっても親切にする人のことがわかり感謝もする、私も介護していてそれがわかっていたのである、世話になっていることを自覚して感謝していたのである
そこが発達障害者とは違っている、母親が50歳まで世話していたのにそれがわからないのである、そのことが一番母親にとっては悲しいとなる、それだけ世話しても何も感じないできないとなるからである

認知症でも何か忘れたり心配すると言い訳をする、馬鹿になったとか思わない、極端に忘れることで笑われたりすると怒ったりする、ただ自分中心になる、自分が悪いとは病気だとも思わない、でも発達障害と違うのは正常な大人としてもそれも優秀だった人も多い
だから極端に脳の認識が低下したことでそれでパニックになる
そして私の家族の場合最後まで自分は優秀だったといって死んだのである
これも悲劇だった、そして認知症は必ず正気になる
どういうわけか死ぬときは必ず正気になる、これも不思議な現象である
何もわからないと思っていてもわかっている、正気になるのである
だから不思議な病気だと思う、正直なぜそうなるのかが理解できない
発達障害の原因が何なのかどうしてそうなるのか理解できない

この場合家族は匙を投げている、施設に入れるとかしている、一回は施設に入ったが出たという、施設にはいたくないと言っている、でも世話しきれないからそうするようになる素直な馬鹿ならいいが悪知恵が働くという、自分の有利なように他者の悪口を言いそれをそのまま受け取る人もいる、私もそうだった、話すことは普通だからである
何か他者を味方にしたいのだが何かと言うと悪口を言うから嫌われる
素直な馬鹿ではなく悪知恵が働く馬鹿というのがいるのも不思議である
それはある意味で悪魔的にもなるのかと思った、馬鹿に悪知恵など働かないだろう
でも確かに発達障害者は悪知恵が働く、自分を味方にしようとして他者の悪口を言っているともなる、これは相当に厄介なものだと思った

認知症の介護で四苦八苦したからある程度は理解できなるが発達障害となるとまた違ったものとなる、これは幼児期からわかるものがなりそこで適切な対応教育でもしていれば
ある程度は治るのかもしれない、ただ50歳にもなったらもう直すことはできないだろうだから家族も見捨てたということはその後は厳しいことになる、施設に入れられ監禁されたようにして暮らす他なくなるからである
つまり家族でも手に負えなくなってそうなるからである

この発達障害でも認知症でも実際はそれが病気とは認められていなかったわからなかった特に発達障害は50歳とかまで気遣いなことがあるというのも不思議である
とういうのは発達障害でも社会生活ができていたということがあるからこれも謎である
それならニートとか引きこもりも発達障害者であり発達障害者は相当数いる
それらが病気でないにしろ社会不適応者となる、その中に歴史に名を残した人もいる、
芸術家でもいる、だから発達障害とは何なのか不可解だとなる
発達障害でもある面で優秀で才能を発揮すればそれは障害でもないとなるからである
社会に適合できない人は普通にいる、自分自身がそうである、社会不適合者であり引きこもりだったともなるからである

ただ私は他者への同情があり相手の苦しみでも理解する、世話されれば感謝もする
それが発達障害者とかにはないのは何なのだろうと思う
認知症は世話されて何も感じないかとなれば違う、感謝の気持ちは大人の経験から持つのである、世話されていることがわかり愛情をもって世話する人があればそのことはわかってい感謝しているのである
それが発達障害者にないとなるとその人はなんなのだろうとなる
だから家族から捨てられることにもなる、その時その人は悲劇になる、その人も施設入ったことがあり知っている、でも家族でも悪口を常に言い、自分は悪くないとして責めている、そうなるともう誰も味方になるものがいなくなるから辛いことになる
ただ福祉ではあくまでもそうして障害者を味方して世話する家族の味方にならないというこれも何なのか良くわからない、家族全体をケアしないと障害者は治療もできないとしているからだ

【親への復讐】が生きるベースにあるので、
何をしていても、どこにいても、【親に迷惑をかける】という行動を優先します。

これの怖いところは、
お子さん本人が親への復讐を意識していない、ということです。
意識していないのに、すべての行動が親への復讐になっているんです。

あるプログラムを絶対に実行する、
人工知能のように、ひたすら親への復讐、または、誰かへの復讐、のために行動します


その発達障害の人は死んだ父親に子供の時殴られたとか必ず責めている、でも50歳までそういうのはどうかと思う、でも復讐心がありそう言っているともなる
俺がこんなふうになったのは親のためだとなる
それは別に正常な人でもそういう人はいる、親を恨んでいる子供は普通にいる
ただそれが執拗であり執念深く病的だともなる
自分は一切悪いと思わないからである、非があると思わないからである

正直発達障害は私を理解していない、ただ認知症は介護していたので理解している
そして同じような症状があるのだと聞いて理解した
認知症でも家族に物が忘れると家族が盗んだとして攻撃してくる
家族か攻撃の対象になる、悪者にされる、世話している弟がそうさせられて不満を延々と言ったことでもわかる、つまり認知症と症状が似ていることがある
いづれにしろやっかいなのが精神障害であり脳の障害なのである
身体障害なら心は通じるが心が通じないから問題なのである
そして障害者を多数殺した人は意思疎通ができないとして殺した、心が通じあえないとして殺した、でもそれは重篤な障害者である、発達障害者は話すことは普通にできる
だから重篤な人とは違う、ただやはり心が通じ合えないということがある
それが大きな問題でありそれで匙を投げてもう世話できないとなったとなる


2022年12月23日

介護は遠くになるとうまくいかない (近くだとやりやすい―現代は広域化分散化でやりにくい)


介護は遠くになるとうまくいかない

(近くだとやりやすい―現代は広域化分散化でやりにくい)

なぜかその人は父親の介護で青森の施設に行かされた、この辺で介護士とかたりなくて人手不足でそうなった、青森には仕事がないので介護などの仕事が多いからそうなった
地方の仕事が今や介護になっているのも多いだろう
でも遠いことでいろいろ不便があったみたいだ
何かたりないものがありその後も仕送りしていた、その人の収入は少ないからその不満を語った、兄弟三人いても一人は障害者だとかなりその人だけにまかせられたためである
介護は何か誰かにまかせられるのが多いみたいだ

兄弟がいても協力するということもない、というのは誰も介護をしたくないからである
でも親の遺産は欲しいとなりもめているのが多い
それで兄弟でも一番親に良くされた人が介護しろとなるのも当然だとなる
私のように一人だとそんなことを考えることもない、一人しかないのだから否応なしに面倒みるほかないのである、それで自分の場合一人孤軍奮闘する他なかったのである
でも他にいないし相談する人もいない、だから一人っ子は育つ時は恵まれていても親の介護では一人だけになり苦しむ
でもまた兄弟がいてもうまくいかない、娘がいると助かるから娘を持てというのもわかる男は介護が向いていないからである

なんでもその人は青森から地元の施設に移るために介護タクシーを頼んで9万とかかかったと言っていた、それもわかる、青森は遠いからである、でも青森の施設にあづけてもあずけたままにはできない、何かと連絡があり金を送っていた
書類のこともありいろいろ書いたりするから離れていてわからないので青森まで行くことがあった、これも大変だと思った、ここに大きな問題があった
いくら施設にあづけて何でもしてもらえるかとなるとそうではない、何かと後で必ず連絡がありそして直接書類を書いたり離れていてはできないことがある
だから青森とか遠くなっていたことが問題だった、福島県内とか宮城県辺りだとめんどうにはならなかったのである
だからどうしても余りにも遠いとなると問題になる

私の兄は静岡に集団就職してその後連絡があったとしても夫婦が離婚して児童相談所から子供についての連絡が児童相談所からあった、離婚したとき中学生だった
でも私の家で一回しか会っていないのである、結婚した妻の実家が近くにあり行き来していた、だから妻の実家に引き取られた、その後はその実家を出て東京に出た
そうして兄が交通事故で死んだ、でも何が起きたのか、何があったのか理解できなかった消息が途絶えたわけでもない、死ぬ前に自分の家にきた、それが最後だった
こうして遠く離れて暮らすと何かあったとき何が起ったのか、事情がくみとれないのである、だから遠くなることは介護とかなると向いていない、介護とはたまに合ってできるものではない、近くにいて毎日のように様子を見るとか介護するとかなるからである
それで隣近所とかが向いている、家の延長のようにしてあるからである
でも今は隣近所も何の仕事をしているのかわからない、疎遠になっている
時代的に孤独死が増えてくるのも身近でつながりが希薄化しているからである

それで意外と原町だと8キロしかないとしても毎日のように往き来していたらめんどうなのである、相馬市でも倍の距離があるからめんどうになる
週に一回娘が相馬市から来ている人がいる、近いようで遠い、車かあったとしても手間なのである、それで遠いと介護は向いていない、隣近所だったらすぐに行けるから楽なのである、そして今は兄弟でも娘でも遠くに仕事をもち女性でも遠くに嫁ぐ人が多い
すると遠いということは介護しにくいのである
介護に関しては今の時代はかえっていろいろそろっていても不利である
近くに住んでいないと役にたたないのである

自分の場合車がないので原町に大きな病院が相馬市にもあるとしても通うようになるとめんどうだった、車がないことは田舎ではこういうとき不便になる
でも介護というとき車があっても近くでないと不便であり手間になる
それで介護する人でも田舎だと車で離れた地域を一軒一軒回るのも手間なのである
何か厳罰避難区域の人が離れて住んでいて仮設で一緒に住んだら女の人は話し相手とか仲間できていつでも話せるから良かったとなっている
何かその時は互いに助け合うとか助けられる関係になっていたのだろう
でも市営住宅とかに住んでいる人達は別に助け合わない、それで隣に住んでいた人が半年くらい死んだのがわからなかったのである,電灯がついていたのでいると思っていたという、近くに兄弟も住んでいたがかかわらなかった
田舎でもこういう時代である、その住宅で親密に付き合うとういこともない
江戸時代なら人情長屋とかなっていたが今はそんなことないのである
都会のように無関心になっている、だからこそ田舎でも孤独死はある

その人は本当に8050問題の人だった、親が80歳になり介護する人が50歳になっていたからである、ちょうどそういう年齢になっていたのである
団塊の世代が75才以上になり子供50歳とかなる、母親は72歳で脳梗塞になった
でも軽かったからしゃべれるし歩くこともできたから軽かったなと不思議だった
その息子が一人介護をたくされた、でも朝5時に出て建築工事現場で働きにでている
別に家で介護しているわけではないから苦しいにしてもまだ仕事はできる
でも仕事ができなくり会社を辞めて収入がなくなり困窮している人も多い
金もかかるから働かないと収入がなくなりこまる、でも自宅で介護するとなると会社をやめざるをえなくなるのである
これも大きな問題でありそこで悲劇も起きて来る、原町で認知症の母親を介護している息子が殺した事件がそうだった、オムツとりかえるとき母親が騒いで殺したという
それもわかる、認知症の介護は一番過酷だからである、それは自分自身も経験しているからわかる

とにかく8050問題は深刻である、団塊の世代は数が多いからである、その数の故に負担が増大するからである、そこで悲劇が起きてくるのは目に見えている
家族遺棄社会にもなる、なぜなら自分も経験したように家族だけでめんどうみるのは限界があるからだ、それでもう家族でも捨てた方がいいとなる
息子娘でも今は日本が貧困化して金銭的にも余裕がないからである
そして金だけでも解決しない、人間の手間がかかる、誰かがつききりでめんどうみないといけない、それで会社を辞める人がいる、でもそうなると収入がなくなり追い詰められるとなる、そういうふうに追い詰められる人が膨大に増えて来る
その人はまだ母親が軽い脳梗塞ですんだ、在宅で介護するにしても楽である
でも金には余裕がないから不満を延々と言っていた

私の場合は不満など言う相手もいなかった、でも終わってみれば人間は辛かったことも忘れるものだと思った
でも病院で虐待されたとか何かとひどい目にあったことは忘れられない、でも人間は時間が浄化する、どんな苦しいことでも終わってみれば忘れるものだと思った
すでに姉は死んで十年すぎたし母もすでに死んで5年もすぎた
とにかく時間が過ぎるのは早い、次々に今や知っている人が近くでも死んでゆく
そういう年になった、だから死神に追われる師走かなともなったのである



2022年12月17日

意外と元気で退院した脳卒中の女性 (人間を左右するのは運、めぐり合わせも運?余裕がないと援助もできない)


意外と元気で退院した脳卒中の女性

(人間を左右するのは運、めぐり合わせも運?余裕がないと援助もできない)


昨日退院して今日自分の家に息子の車に乗って来た
あれ意外と元気だと見た、普通にしゃべれる、今日の朝住宅の前で洗濯物を干していた
立ってあんなことできるのかと見た
というのはもう一人の障害者の息子がひどい顔しているから逢わない方がいいと言っていたからである、でも今日見た限りそう見えなかった
ともかく発達障害者の言うことは何かわかりにくいから困る、そのまま信用できないのである
別にひどい顔もしていない、マスクしているにしてもそう見えなかった
それで結構回復すると見た
かなり軽くてすんだのかもしれない、脳卒中というのは人によってかなり違っている
なぜなら脳のどの部分が損傷したかで不具合が生まれるからである
だから人によって違うのである
ある人は脚がだめになったとかある人はしゃべれなくなったとかある人は・・になったとか違っている
その女性は手がきかなくなった、でも今日の朝みたとき立って洗濯物を干していた
あんなことができるのかと見たのである、退院したばかりでそんなことができるのかと見た

でも二カ月入院していた、それは脳卒中では短い方だったのかもしれない
何か軽いとみたのである、しゃべることは普通である、その人はとにかくしゃべる人であり話がうまい人だったからである、そうなるとしゃべることが普通にできることは自分なり生活ができるかもしれないとなる
ただ親しく毎日通っていたやはり病気の老人の所には行かなくなる
何かやはりうまくいかないことがあった、病気になって入院しても連絡もなかったとかなる
その女性は毎日苦しくても行っていたのである、でも何かその娘でも気遣いがなかった
一週間に一回隣の市から来るだけだった
そして他人が入るのを嫌がっていたのである、でも最近は話もして納得していたのであるでもこれからは行かなくなるのかもしれない、すぐ近くなのだけどあの調子では行けるようになるにしても行かなくなるのかもしれない、ちょっと対応がまずかったともなる
いつも娘のことを悪く言っていたからである、こうして介護とかなる人間関係でもめるのである
自分自身でも前の親戚とはいろいろあって切れた、自分が病気であり介護しているのに
事業で失敗したから借金しているから余裕がないからそうなったのである

つくづく余裕がないということは他人のめんどうなとそもそも見れないのである
何か自分自身がその女性のこと特別に親切にしているとかではない
たまたまそうなったのでありもし自分に余裕がなかったそんなことしていないのである
それはたまたま前の猫が死んで餌をやる時、餌を奪いにきていた黒い猫がいた
それを追い出していたが飼っていた猫が死んだのでその黒い猫に餌をやるようになった
でもこの猫は慣れないしかわいいともならないのである
でもなぜか餌をやっているのである
それとにていて人間の運命とは何かこうして出合いでもたまたま事情が生まれてその時々の状態の変化とかでそうなる
知っている女性が結婚したのはその家の両親が死んだためらしい、そして残された息子がいてその人と結婚したからである
好き嫌いはあるにしても何か人間には事情があって親しくなることがある

このめぐり合わせも縁も不思議なのである、もしかしたら神が出合わせているのかともなる、でも婚活とか演出しても意外とうまくいかないこともある
それはめぐりあわせが人工的に演出しているからかもしれない、そもそも人のめぐり合わせも不可解であり不思議なのである
そういうことはみんな身近に見ているだろう、なぜそういう関係になったのかとんうのも不思議だからである、だから人工的に作為的に人を出合わせようとしてもかえってうまくいかないことがある

ただ確かなことは別に自分はその女性に援助したいからしているのでばない
たまたまめぐりわあせでそうなったのと自分に金の余裕が今はあるからだとなる
こういうことで人間は意外と余裕がないと人を助けることなどできないのである
それでけ経済的に余裕がなくなる社会は危険なのである
みんな食べるものがないとか餓えていればもしそこに食べ物があるとき襲うようになる
米騒動などがそうだった、他にも中国では必ず食料不足になり暴動が起きて政権が倒れたからである、つまり人間が余裕がなくなることは内外でも危険なのである
中国でも食料不足になったら他国に侵入して奪いとなるからである

いづれにしろ意外と軽かったのか、脳卒中になった人は多い、それで夫を十年妻が介護していたという人を何人か知っている、それも長いのである、十年とか普通なのである
そのために脳卒中では簡単には死なないことは知っていたのである
そのためにかえって介護が長くなるから参ってしまうのである
その人を今日見た限り軽かったのかとみる、まずしゃべることは正常だということは脳損傷が軽かったのかとなる
ともかく脳卒中ではすぐには死なない、ただ私の姉は認知症になりすぐに脳卒中になり二年くらいで死んだのである、これは認知症があって脳卒中があったからそうなったのか?その辺が理解しにくい、認知症⇒脳卒中 脳卒中⇒認知症とかにもなる
これがどう関係あるのかわかりにくいのである

とにかくあの調子だとかなり回復する、だから意外だった、もっと悪いと見ていたからである、なぜそうなったのかというと発達障害者が仲介者となって伝えたからである
それで誤解したのかとなる、これも問題だった、やはりちょんとした人がいて伝えないと誤解するようになる、発達障碍者であり障害者と付き合うのはめんどうになる
何を言っているのか理解しにくいことがある、でもその障害者も軽いから普通の人と同じように見てしまうのである、でもその人を信用はできないともなる

いづれにしろ介護はこれから8050 問題で深刻になる、その息子もやはり50代だからである
そして氷河期世代とかなり金銭的余裕もないからである、この問題はこれから数が増えるから深刻である
近くで認知症の母親を介護しておむつとりかえるとき騒いで困り殺したという事件があった
これも悲惨だった、認知症は一番介護しにくい、またオムツをとりかえるとなると男性は苦しくなる
男性はもともと介護はしにくいから殺人になっているのは男性なのである
こういう事件はこれから頻繁に起きるかもしれないねなにしろ団塊の世代が数が多いからそうなる
その中には悲惨な状態になる人が多いとなる
私自身書いてきたようにもう死ぬ思いであり地獄だったからである
その時ただ責められるだけだったのである、多少は援助があっても周りにそうした余裕がある人がいなかったとなる
こういうとき相談できる人がいると助かる、でも金銭的なこととか簡単にはできないし相談にのるとして
負担が大きいから関係したくないとなる
そこで重要なのは援助するにしても余裕がないとできないのである

2022年12月11日

遺骨の物語 (人が残すものは何なのかー骨ではない―家族遺棄社会を読む)


遺骨の物語

(人が残すものは何なのかー骨ではない―家族遺棄社会を読む)

●兄の悲惨な人生

人間が残すものは何なのか?
死ねば灰となり骨となる、実際は骨は残らない、灰となり土となる
私の兄の骨は母の実家に埋められた
そのいきさつは兄は中卒で金の卵として集団就職した
私の家には母は後妻になり私を産んだ、兄は連れ子であり私の家には五年しかいなかったでも五年間は幼い時一緒に暮らしていた
だから「あんにゃ」と言っていたのである
でも私の父親は良くしないで母の実家で生活することになった
その時一緒にめい子がいたのだがその人は一緒に生活をしたことがないと言っているのも不可解だった、ただその非情化して育ての親のめんどうも見ず最後に「ひどい娘だわ」と私に言って死んだのである
もともと付き合いもなくなっていたのでその事情はわからない、その母親のことは私の家ではよく思っていなかったからである

でも育ての親なのだから何かあったにしろ病気なのに何の心配もしないというのは理解できなかった、だからこそ五年間一緒に暮らした兄のこともいないとなったのである
何かしら人間が記憶にとどめないという時、その人にとって存在しないものとなる
それは肉親でも起きているのである、親のことはかかわりたくない、知らないとなり
遺骨でも引き取りに来ないとなる、それだけ毒親に苦しめられた人もいる
そういうことが本当に私には理解できないのである
というのは私は特別親に良くされたからである、私は別に無職でも家で引きこもっていても何も責められることがなかったのである、そしてなぜ私が死んでも二人の親のことを思いつづけているのかとなるとやはり60歳まで長く一緒に暮らしていたことにあった
人間はいくら両親でも何でも離れて暮らすと疎遠になり情も喪失してゆくのである
だから子供の時一緒に共に暮らさなければ育てられなければ親とも認識できないのであるそれで犬でも猫でも他の動物でも子供の時に育てられると親だと思ってしまうのである

●お骨をめぐる争いーそれは金をめぐる争いだった

それで普通は子供でも成長して結婚したりすると疎遠になる、愛情でもうすれてゆくのである、去る者は日々に疎しとなるのである、そもそも離れて暮らすと相手の事情すらわからなくなる、その人は離れて全く別な人生を生きるようになるからである
その生活する場所ば違ってくるからである、それで再会したとしてもなかなか話でも通じなくなる、意思疎通ができなくなるのである
だから兄に何が起きたのかわからなくなっていた、でも交通事故で死んだというとき連絡があった、その前に離婚していて何か児童相談所から施設に入ったということでどうするのかということで連絡があった、それも何か事情がのみこめなかったのである
トラック運転手となり小さな会社に入った、その会社では死んだので遺体をひきとった
葬式もそこでしたのである、その後にもめたのである

「お骨はもってゆくな、墓は作ってやる」

こう言われたのである、それも何のことかわからなかった、私は車を持っていないので
自賠とか任意の保証のことがわからなかったのである
どうもその保険金の受け取り人になりたくてそう言ったとなる
実の母が来たので身よりがなくて来たと思っていたのである
それで乞食のようにして来たが私が雇ってやったのだと恩きせがましく言っていたのである、そう言われても私の家では兄に良くしていないから私は嫌で三日位で帰ってきたのである、本当は妻がいてもらえるものだったのである
ところが一週間前とかなのか離婚していたのである、正式に書類を書いて離婚が成立していたのである、でもまだ未成年だから私の母が後見人になった
離婚した原因は借金したとかあり住んでいる団地なのかわからないが追い出されたことにあった
それで母の所へ金をくれと来たことがあったことを思い出した、母は金をやったのである
そして兄の娘は妻の実家にひきとられた、そこには兄がいたからである
それももともと妻の実家とは付き合いがあり交流していたからである、同じ地域でありそうなったのである、私の家では静岡とかなると遠いから何が起きたのかわからなかったのである、人間はとにかくこうして離れてしまうと疎遠になる、そうして突然不幸が起きてもその事情もわからなくなるから困るのである
もし近くに住んでいればそうはならなかったのである、だから人間はいくら親でも兄弟でも離れて暮らすとそれも遠くなると何か事情がわからなくなるのである

そうして兄のお骨は母が背負ってきて母の実家の墓に埋めた、そこで五年間は暮らしたからである、そして墓から今度はお骨を取りだそうとしたら骨がなくなった土になっていたのである、でも実家の墓は長男の人が300万円をめい子にやって「墓を守ってくれ」と言って死んだのである、だから墓参りはしているのである
私は怖くなったので実家の墓参りもしていない、母の実家もまた複雑であり後妻に来た人が継母になりいじめられたのである、そしてその後妻に来た女性も昔の養老院に長く入ったいたのだが眼が見えなくなったり精神的に何かおかしくなった
そして母が様子見に行っていたが死んだ、その骨は約束していた大学病院で解剖されて
骨として自分の家にもたらされたのである
兄の墓は母親の実家から私の家の墓の隣に墓標をたててある、でもその物語を知る人もいない、娘がいたが金でしか関係ないから金が与えた時は来ていたが来なくなった
墓を作ったから10万円やるからと言っても来なかった、あとは一切連絡もない
離れていてもともと疎遠だったからではあるが一応父親だから何か思いがあるのかと見ていたがなかった、ただ親にひどい目にあった被害者という意識しかなかったかとなる
家族遺棄する人はそういう人が多いとなる

●遺骨より人間が残すのは物語(history)だった

一体ここで遺骨のことが問題になった、でも遺骨がそんなに大事なものなのか?
人間は死ぬと結局灰となり土となり何も残らないのではないか?
だからそもそも遺骨にこだわることが理解できないとなる
それで家族遺棄社会では肉親でも親ガチャで育った子供は今遺骨もひきとらないのが多いとなっている、ここに見えるのは遺骨でもそこには依然としてこの世のことがかかわり
必ずしも手厚く供養するとはなっていないのである
そこに人間の欲がうごめき遺骨でも金になるとなればそれを手段にして金をとろうともするのである、この世とはこうして恐ろしい場所である、あらゆることが人間の欲によって翻弄されるのである、カルト教団でも実際は金を収奪するためだとなるのもそうである
ここに人間の欲の恐ろしさがある、要するに骨などどうでもいいとなる
骨をひきとってもそれが金になるわけでもないからである
肉親でもそうなるとき生前に親にひどい目にあっている毒親だったら骨などはいらないとなる、でも遺産があり金が入るとなる引き取ってもいいとかなる
結局地獄の沙汰も金しだいとなっているのである
死ぬまで骨になってもでこの世の欲の対象になっているのである

そもそもお骨などもうそこに何か宿っているわけでもない、海にまくなり土にもなるから維持できない、すると何もなくなるのである、では何が人間に残るのか?
それは個々人の人生なのである、どんな人生を送ったかがその人の一生であり骨をみたってそんなことわからないのである
ふしだらな親だったら子供でもその人を大事にはしない、だからお骨でも取りにこないとなる、もちろん介護などは大変な苦労なのだからしたかくないから捨てるとなる
ただ骨をひきとったからといってそれが苦労になるともならない、でもめんどうだから市役所で処理してくださいとなる
家族遺棄社会となりそういう人達が増えているのである

でも逆に人間は死んでから大切にされることがある、妻が死んでから十年とかすぎても毎日手を合わせて供養している人もいる、他にもそういう人は結構いるのである
家族遺棄社会でもやはり死者を大事にしている人はいる、親を大事にしない人が多くなっているのは確かである、それはやはり時代なのだろう
私は特別二人の親に良くされたから死んでから余計に感謝するようになった
毎日熱いお茶を献げて遺影に向かい話しかけて感謝しているのである
それは特殊な事情があってそうなった、父親が中学の時死んでその後を姉と母が家を守って自分も育ててくれたしその後も60歳までも自由に生かさせてくれた
だから一緒に暮らした時間の長さにもよっていたのである
娘でも結婚して離れてしまうと特に遠くに行ってしまうと疎遠になってゆく、忘れてゆくでも一緒に暮らしているとそこで仲たがいがあったとしても憎んでいたとしてもやはり
愛情が通うようになっていたのである
だから死んでからも忘れられない人、愛される人が家族遺棄社会になってもいる
その親は死んでも実際残された人の中に生き続けるのである
でも毒親となればたちまち嫌なことが思い出したりフラッシュバックになり思いだしたないとなりやがて忘れられるのである

●人間が死んで語るものは何か

いづれにしろ人間は骨になり灰になる、でも実際は人間はみんな消えるわけではない、
残された人の中に生き続けているのである、そういう親とか妻とか夫とかになっている人は幸せだとなる、人間を決めるのは生前の生きざまというか子供でもどういうふうに接したかによる、それは個々に違っているから理解しにくいのである
家族でも十人十色だから理解しにくいのである
ともかく人生の最後に死んでからでもあの人はどういう人だったとか明確になり語られることになる、そして死んでもその人は骨となり灰となるだけではない、語られまた感謝される死者になればその生は無駄だっとはならない
でも親でも思い出したくないとか普通の人でもあの嫌な人が死んでせいせいしたとかなるそういう人も多いのである、近くにいた医者はみんな生きている時は常に語られていた
でも死んだら誰も語らないのである、その医者にかかった人も死んだからだとはなる
その医者は腕が良かったのだが性格的に冷たい所がありそうなったのかとなる
その一人息子も最近死んだから肉親はないないのである

そしてその住居は廃屋となっている、今年の地震で屋根瓦が壊れたが直していないのである、いい庭があるからもったいなとなる、でもそういう空家は多いからここだけのことではない、ともかく人間の一生は骨とかで語られるわけではない、それは結局灰となり土となるだげである、その人の一生を語るのはどういうふうに生きたかによる
そしてその親の子供でも親を思い出す時不快になるというときその親はもう親でないともなる、むしろ親切にしてくれた他人の方が親しい人ともなる
ただ現代は人間も一般的に薄情になっている、だから家族すら捨てる家族遺棄社会になっている、特に介護となると負担が多いためにそうなっているから必ずしも責めることもできない、親に苦しめられた人はどうしても介護することは無理だからである
つまり介護となると気持がないとできない、必ず気持が現れるからしにくいのである

この人のために何もしたくないとなるからである、だから私自身もそのことを経験した
その人は私のために箱一つも持つの嫌がっていたし入院して手術するときも側にいるのもただ座っているのも嫌がっていた、ただ金が欲しいというだけになっていた
これも自分のカルマだったが親でもそうなる、その人のために何もしたくない
とても介護となったら負担なのだからできない、でもお骨などはたいして迷惑もかけないのだから供養はできるとはなる、でもそれすら嫌がるとなる
それもその人の接し方とか生き様とかにかかわっているのである
そのために人間は骨とかがその人を語ることはないし骨などどうでもいいとも見る
それよりどういうふうに生きたとかどういうふうに接したとかが大事になる
だから親子ですらその接し方によって育て方によって他人以下にもなるのである

●事実は小説より奇なりー統計的数字化されるとhistoryは消失する

ともかく人間の一生は本当にそれぞれに事実は小説より奇なりとなる
これは全く架空の話ではない、事実そのものだからである、小説でもないのである
これは小説の題材になるとして事実なのである
つまり歴史はHISTORYでありHI-STORYでありstory(物語)なのである
人間は最後にみんななんでも物語となるのである、個々人の物語となるのである
ただ物語というとき戦争のように3百万に死んだとかあってもそういう歴史の巨大な物語でも何かぴんとこないのである、それだけの人間が死んだら語られるつづけるとしても
何か訴えるものがないのである、もちろん語られることはある、今でも陸軍二等兵だとか必ず軍隊の位を記してある、それは当時にしたら名誉の戦死とかあり誇るものだったからである、それでまた必ず村の神社にも戦争のために祈り出征したのである
 とか記されているからである、でももともと神社は戦争とはみんな関係しているわけではない、だから今になると違和感を覚えるのである、たいがい豊作を祈るものとなっていたからである
 shrain1.jpg

飯館村大倉の神社


 ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である
 ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる
 ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない
 そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ
 人間が被害においてついに自立できず、
 ただ集団であるに過ぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままで あるだろう
 死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである
 人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ
『望郷と海』(石原吉郎)

これはシベリア抑留した人が言っている、その過酷な体験を書いている
つまり人間が統計となり数となったとき個々人の物語は消失する
だから3百万人死んだとか言われてもそれだけの人間が死んでも何か伝えるのかとなると訴えるものがないのである、でも個々人が戦争の体験を語る時は感じることがある
つまり人間は数値化して数化すると生々しい体験でも消失するともなる
例えばカルト教団などでもそうである、そこは一票を得ることしか関心がなく何百万人会員がいたとしてもその個々人のことは語られないし戦争で三百万人死んだと同じである
個々人が消失してただ数だけになるのである、それが非人間的なものとなりナチスと同じようになるのである、現代の危険はあらゆるものが数で処理され数が恐怖となる
でも数を言う割には何かそこに訴えるものがない、だから三百万に死んだからといって
訴えるものがないのである
だからとにかく普通の人でも何も功績もない人でもその個々人を語るとそこに物語をhistyoryを感じるのである、人間が残すのは骨ではない、historyなのである
だから骨がどうのこうのと大事にするのが理解できないとはなる
骨が語るのは単なる成分としてカルシウムだともなるからである



個々人で記録を残すことはインタ−ネットで容易になったが・・・・

今は自伝とかでも家族のことでも別に書いて発表できる、プログなど簡単だからできる
個々の一生を語ることができる、でも今老人になっている人達は80以上とかなるとインタ−ネットなどにうといからほずかしい
ても今や庶民でもいくらでも人生を語ることができるし記録として残すことができる
今でもそうだが自伝で本を出すとかなると百万かかるとかなりできないし書店にも置けなかった
そういうものは売れないからである、そもそも書店でもなくなっている
インタ−ネットなら誰でも何でも書いて発表できるし記録として残る
でも問題はその記録も一瞬にして消えることがあり問題なのである
私がいろいろなことをこんなに気軽に書いて記録しているのは簡単だからである
確かに手間はかかる簡単だからしているのである
普通は家族のことなど書けない、有名な人なら書いて読む人もいるか普通はいない
でも記録として残せば郷土史とかの資料になることは確かである
今なら本でもアマゾンで一冊でも出せるとなっている、それをやろうとしているのだが何かめんどうになりしていない
何か手間だけは省けないのである、それで毎日記事を書くのに時間がとられる
その他家事に時間がとられてできないとなる

2022年12月04日

なぜ脳卒中になる症状として見抜けなかったのか? (大事な医者の選択ーでも名医はめったにいない)


 なぜ脳卒中になる症状として見抜けなかったのか?

 (大事な医者の選択ーでも名医はめったにいない)

 hospitalmmm1.jpg

 これだけ症状がでていれば医者なら脳卒中の兆候として危険信号であり対処していたはずである、遠くでMRI検査して近くでも脳神経科でもした、そこは民間でも機械があった
それでも脳卒中の前兆として判断しなかった
ただ危険性があるからMRIで検査するように指示したのかもしれない
でもこの三つの症状は脳卒中の症状であり明確でもある

判断できなかったのは

●手が麻痺して悪い

●片目が見えにくい

●目まいする

これらの症状を一つのものとして見ないで別々に見てわからなかったのか?
これは総合的に診なければわからないものだった
眼が見えずらいと眼科にも行った、それも仙台市の評判のいい医者にわざわざ行って診てもらっていた、でももしかしたらその医者は眼ばかり診ていたのかもしれない
もし体全体を診ていたら医者なのだから脳卒中の危険があると判断したかもしれない
これは私が思うに

診てもらう医者がだめだった

近くに脳専門家の優秀な医者がいた

その人に診てもらうべきだった

こうなる、南相馬市立病院は脳卒中のための専門病棟を新しく作った
副医院長が優秀であり若い医者も習いに来ているというからである
同級生の人は九死に一生を得て助かった、早く病院に行って血管にカーテルを入れて助かった、それは早く行って助かったのである
今も普通に生活しているのである
ただ脳卒中は多い、特に相馬地域では原因がわからないか多い
またこの辺で放射線の影響が出ているかもしれない、その因果関係はわからない

ここで大事なことは医者を選ばないと命にかかわる

でも名医はめったにいない

医者というのはこうして診てもらう医者によって命まで左右されるから怖いのである
ただなぜ近くに脳卒中専門の病院がありそこで診てもらうように指示されなかったのか?それも良くわからない、わざわざ遠くの病院に行く必要もなかったのである
その時は何の病気かわからないからそうしたとしても何か理解できないのである

大事なことは医者を選ばないと命にかかわる、でもそもそも名医にかかることは田舎ではできないし他でも簡単にできないのである
名医がどこにいるかもわかりにくいからである
だから下手でも近くの医者にかかるほかないのである

そして現代は総合的に診る医者はいない、みんな専門に分かれて全体の体を診る人はいないのである、それはあらゆる分野でそうである
福島原発の所長だった人も肝心の復水器とか他のことでもわからないと言っていた
専門が違うからわからないと言っていた、現代は総合的に見ことができない社会である
どこの社長でも会社のことを全部知る人はいないのである
それだけ複雑化した社会で思わぬ事故となる、全体を観て指示できる人などいないからである

でも今回のことはいくら専門化しているからといっても明らかに脳卒中の症状がでていたのに治療もしなかった、それが理解できないのである
その女性が脳卒中になった原因の一つが煙草にあった、ストレスがあり常に煙草を吸っていたのである、煙草は癌とは関係ないということは聴いていた
でもそれは明らかに血管にいいものではなかったのである
ここでも癌になるこの原因が煙草ではないということは聴いて知っていた
でも血管に悪いということは聴いていなかった、調べてもいなかった
こうして様々な原因があってもそれをみんな知り得る人はいないのである
突然認知症の症状が出たり脳卒中になるから戸惑うのである
津浪でもそうだが突然起きることに人間は弱いのである
だから日ごろから病気でもある程度は知っている必要がある、それは専門的でなくても
知ることができる、脳卒中でも事前にその症状を知って入れば対処方法があったとなる
いい医者とは見立てに優れている人だという、病名がわかれば対処方法がわかるからそうなる、脳卒中だと見抜けば対処方法がわかり治療でもできるとなるからである

 もう一つの問題は医者自体が高齢化していることである、近くでは90歳まで現役であった
でも日進月歩している医療の分野でも老人の医者は経験はあるのだが新しい技術とか取り入れられないのである
それはIT関係でもそうである、自転車屋でも若い人が経営している自転車屋に行けというときそうである
新しい技術を取り入れていないし分らなくなっているからである
確かに経験があるのだからいい面としてあっても技術的なものは進歩が速いからである
老人はそれに追いつけないのである,スマホでもそうである、これもパソコンとにていても違っているから使いにくいとなる
正直田舎では新しい自転車を買うにも買えないことがわかった
というのは外国製も多いしアフターサービスができないからである
エンジンごと取り替えたこともあったからである、通販だとそこが大きな問題になっているのである
まず田舎でもあらゆる所で老人しかいないともなる、農業でも65歳以上がほいとんどだとかなり自転車屋にしてもそうである
あらゆる場所で高齢化しているのである、そして若い人がいたとしても嫁になる若い女性がいないとなっている
だから若い人は貴重になるとか子供みるとここにいたのかとめずらしくもなり大事にされるとなる

いづれにしろ人間は変化である、無常である、その女性は親しくしている糖尿病の治療をししている男性の呼ばれて毎日行っていたのである
それは歩いても行ける近い場所だったから行けたのである
でも苦しいといつも言っていた、それは体が脳卒中になるのだからそうなっていたのである
そうして今や近くでも行けなくなった、もう歩くことができるのかトイレには自力で行っている、でもその親しい男性の家まで行けないようになったとするとこれも信じられない今まで近くで会っていたのに会えないとなったのである
これもそんなことがあるのかとなる、すぐ近くでありそれでも会えない、またどっちも病気なのだから見舞いもできないとなったのである
こういうことは高齢化社会で普通に起きて来る、そして介護とかなると本当は近くがいいのである、その女性は親しい男性のすぐ近くでありだからこそ行けたのである
でも隣の市かなると相馬市となると結構遠くなる、娘が一週間に一回は来ているが意外と車でも頻繁に来ることはむずかしいのである

介護の手助けとかは近くの人が向いているのである
でも今の社会は隣近所でも疎遠になっている、誰が何をしているかもわかりにくい
家族でも核家族になったり家族の力が弱体化している
それで介護の時に孤立しやすく介護の悲劇が起きて来る
家族だけでも看れないからである、施設に入るにも金がないとかなりできない人もいる
そして8050問題が深刻になってゆく、それがすでにもう現れている
50歳の人が80歳の人を介護することになる、また老々介護にもなる
そして共倒れにもなる悲劇が起きて来る
たとえ夫婦でも必ず一方が介護状態になるし死んでゆくから安心できないのである


なぜ脳卒中になる症状として見抜けなかったのか? (大事な医者の選択ーでも名医はめったにいない)


 なぜ脳卒中になる症状として見抜けなかったのか?

 (大事な医者の選択ーでも名医はめったにいない)

 hospitalmmm1.jpg

 これだけ症状がでていれば医者なら脳卒中の兆候として危険信号であり対処していたはずである、遠くでMRI検査して近くでも脳神経科でもした、そこは民間でも機械があった
それでも脳卒中の前兆として判断しなかった
ただ危険性があるからMRIで検査するように指示したのかもしれない
でもこの三つの症状は脳卒中の症状であり明確でもある

判断できなかったのは

●手が麻痺して悪い

●片目が見えにくい

●目まいする

これらの症状を一つのものとして見ないで別々に見てわからなかったのか?
これは総合的に診なければわからないものだった
眼が見えずらいと眼科にも行った、それも仙台市の評判のいい医者にわざわざ行って診てもらっていた、でももしかしたらその医者は眼ばかり診ていたのかもしれない
もし体全体を診ていたら医者なのだから脳卒中の危険があると判断したかもしれない
これは私が思うに

診てもらう医者がだめだった

近くに脳専門家の優秀な医者がいた

その人に診てもらうべきだった

こうなる、南相馬市立病院は脳卒中のための専門病棟を新しく作った
副医院長が優秀であり若い医者も習いに来ているというからである
同級生の人は九死に一生を得て助かった、早く病院に行って血管にカーテルを入れて助かった、それは早く行って助かったのである
今も普通に生活しているのである
ただ脳卒中は多い、特に相馬地域では原因がわからないか多い
またこの辺で放射線の影響が出ているかもしれない、その因果関係はわからない

ここで大事なことは医者を選ばないと命にかかわる

でも名医はめったにいない

医者というのはこうして診てもらう医者によって命まで左右されるから怖いのである
ただなぜ近くに脳卒中専門の病院がありそこで診てもらうように指示されなかったのか?それも良くわからない、わざわざ遠くの病院に行く必要もなかったのである
その時は何の病気かわからないからそうしたとしても何か理解できないのである

大事なことは医者を選ばないと命にかかわる、でもそもそも名医にかかることは田舎ではできないし他でも簡単にできないのである
名医がどこにいるかもわかりにくいからである
だから下手でも近くの医者にかかるほかないのである

そして現代は総合的に診る医者はいない、みんな専門に分かれて全体の体を診る人はいないのである、それはあらゆる分野でそうである
福島原発の所長だった人も肝心の復水器とか他のことでもわからないと言っていた
専門が違うからわからないと言っていた、現代は総合的に見ことができない社会である
どこの社長でも会社のことを全部知る人はいないのである
それだけ複雑化した社会で思わぬ事故となる、全体を観て指示できる人などいないからである

でも今回のことはいくら専門化しているからといっても明らかに脳卒中の症状がでていたのに治療もしなかった、それが理解できないのである
その女性が脳卒中になった原因の一つが煙草にあった、ストレスがあり常に煙草を吸っていたのである、煙草は癌とは関係ないということは聴いていた
でもそれは明らかに血管にいいものではなかったのである
ここでも癌になるこの原因が煙草ではないということは聴いて知っていた
でも血管に悪いということは聴いていなかった、調べてもいなかった
こうして様々な原因があってもそれをみんな知り得る人はいないのである
突然認知症の症状が出たり脳卒中になるから戸惑うのである
津浪でもそうだが突然起きることに人間は弱いのである
だから日ごろから病気でもある程度は知っている必要がある、それは専門的でなくても
知ることができる、脳卒中でも事前にその症状を知って入れば対処方法があったとなる
いい医者とは見立てに優れている人だという、病名がわかれば対処方法がわかるからそうなる、脳卒中だと見抜けば対処方法がわかり治療でもできるとなるからである

 もう一つの問題は医者自体が高齢化していることである、近くでは90歳まで現役であった
でも日進月歩している医療の分野でも老人の医者は経験はあるのだが新しい技術とか取り入れられないのである
それはIT関係でもそうである、自転車屋でも若い人が経営している自転車屋に行けというときそうである
新しい技術を取り入れていないし分らなくなっているからである
確かに経験があるのだからいい面としてあっても技術的なものは進歩が速いからである
老人はそれに追いつけないのである,スマホでもそうである、これもパソコンとにていても違っているから使いにくいとなる
正直田舎では新しい自転車を買うにも買えないことがわかった
というのは外国製も多いしアフターサービスができないからである
エンジンごと取り替えたこともあったからである、通販だとそこが大きな問題になっているのである
まず田舎でもあらゆる所で老人しかいないともなる、農業でも65歳以上がほいとんどだとかなり自転車屋にしてもそうである
あらゆる場所で高齢化しているのである、そして若い人がいたとしても嫁になる若い女性がいないとなっている
だから若い人は貴重になるとか子供みるとここにいたのかとめずらしくもなり大事にされるとなる

いづれにしろ人間は変化である、無常である、その女性は親しくしている糖尿病の治療をししている男性の呼ばれて毎日行っていたのである
それは歩いても行ける近い場所だったから行けたのである
でも苦しいといつも言っていた、それは体が脳卒中になるのだからそうなっていたのである
そうして今や近くでも行けなくなった、もう歩くことができるのかトイレには自力で行っている、でもその親しい男性の家まで行けないようになったとするとこれも信じられない今まで近くで会っていたのに会えないとなったのである
これもそんなことがあるのかとなる、すぐ近くでありそれでも会えない、またどっちも病気なのだから見舞いもできないとなったのである
こういうことは高齢化社会で普通に起きて来る、そして介護とかなると本当は近くがいいのである、その女性は親しい男性のすぐ近くでありだからこそ行けたのである
でも隣の市かなると相馬市となると結構遠くなる、娘が一週間に一回は来ているが意外と車でも頻繁に来ることはむずかしいのである

介護の手助けとかは近くの人が向いているのである
でも今の社会は隣近所でも疎遠になっている、誰が何をしているかもわかりにくい
家族でも核家族になったり家族の力が弱体化している
それで介護の時に孤立しやすく介護の悲劇が起きて来る
家族だけでも看れないからである、施設に入るにも金がないとかなりできない人もいる
そして8050問題が深刻になってゆく、それがすでにもう現れている
50歳の人が80歳の人を介護することになる、また老々介護にもなる
そして共倒れにもなる悲劇が起きて来る
たとえ夫婦でも必ず一方が介護状態になるし死んでゆくから安心できないのである


2022年10月31日

専門家でなくても病気でも知識を持つことは可能 (オンライン診療は普及させるべき―田舎では特に必要)


専門家でなくても病気でも知識を持つことは可能

(オンライン診療は普及させるべき―田舎では特に必要)



公立・公的病院の経営は厳しく、そのうちの約60%が赤字です。ここでいう公立病院とは自治体が母体となる病院であり、公的病院とは公的機関(例えば、日本赤十字社)が母体となる病院です。

現状では、高度急性期と急性期病床が約70%と過剰です。今後、住民の高齢化に伴って必要数が増える回復期、慢性期病床への転換が遅れています。高齢者が望んでいるリハビリテーション向けの病床は、約20.4万床不足しています。これは、高度急性期、急性期のほうが診療報酬が高く、公立・公的病院の経営上の問題もあるからで、それが回復期、慢性期への転換を難しくしています。

公立・公的病院の問題点は、財政難(資金的困難)と医師不足(人的困難)です。この2つが相まって公立・公的病院では次のような負の連鎖が生じています。

オンライン診療

国の規制改革推進会議がまとめた報告書では、オンライン診療の普及・拡大に向けて、対面より低い診療報酬の見直しや、診療上の優位性を厚生労働省の指針に明記するように求めました。

一方で日本医師会は、顔色や匂いを含め、対面診療でなければ得られない情報があると主張するなど、オンライン診療の拡大に慎重で、医療のオンライン化を巡る応酬が続いています。

日本医師会は、オンラインでは十分な診療が行えず、正しい判断ができないと主張していますが、米国や中国ではすでに実現しています。特に中国では、携帯電話やスマートフォンで医師に24時間アクセスでき、緊急事態なら専門家を紹介するという優れた仕組みが機能しています。これは、忙しい人や遠方から通院している人に有用です




なぜ脳卒中の前兆がでていたのに医者で見抜けなかったのか、わからなかったのか?
このことで医療のことを考えた
その原因はわからないにしろ片方の手がしびれるとか物を持てないとかの症状がでていたそれから片方の目が悪いと仙台市の眼科にも行った、めまいがするとも言っていた
実際私の家の前で自転車で転んだ、いつも疲れるとも言っていた
これらは明らかに脳卒中の症状が出ていたのである
それで遠くの病院にも行きMRIの写真もとったし原町でも撮った
でも脳卒中と判断できなかった

これで疑問に思ったのは素人でもインタ−ネットでちょっと調べたか脳梗塞の症状として7つあるとして5つくらいがあてはまっていた
だから総合的に見ていれば医者だったら専門家だったら気づくはずだと見た
でもMRIで写真をとれということは脳梗塞かもしれないとしてそうしたのかもしれない
でも全体的に症状をみれば脳梗塞の前兆だということがわかったはずである

ともかく医者とか病院にもいろいろ問題がある
糖尿病の人は半年くらい入院していて病状が悪くなった、栄養がかえってたりなくなって悪くなったとかある、そしてその人は病院には二度と入院したくないと言っていた
そして家に帰って療養していたらかえって回復したのである
その原因は多分に精神的なものもある、やはり家には何か精神的に安定して心安らぎそれが体にも影響するとなるからだ

だから老人は総合的にみ総合診療が必要だというのもわかる
在宅で死にたいという気持ちもわかる、家はやはり体だけではない心にも影響する安らぐ効果があるからである、病院ではただ病人となっているが家にいれば違っている
その人は特に若い時苦労して家を建てて庭も立派な庭を造ったのである、それも20代だったから驚く、高度成長時代でそれだけ収入があったからだとなる
そういう家にいればやはり自分の存在価値が家とともにある
また家には例え家族が祖父母でも両親でも死んでも遺影を飾り家になお生き続けて支えているという感覚になる、病院はただ病人となっているだけであり死んでも物のの用地始末する感覚になるから嫌なのである、病院とは無機質な空間なのである
愛もなく何か心が通わない空間である、もちろん医者でも看護師でも懸命に尽くしているでもどうしても家族のようにはいかないのである

そして田舎の問題は医者自体が優秀とはいかない、また田舎だととにかく閉鎖的なのである、常に田舎であることは医者だったら他の医者に行くことをすごく嫌うのである
それで私が家族が倒れて頼んだらあなたは日ごろ来ていないから助けないとあからさまに言われた、そういうことは他でもある
自転車の修理でも隣の市の自転車屋だと受け付けないのである、つまりいつも来ている客でないと受け付けないのである
それも自分の利益にならないなら親切にしてもしょうがいなとなるから当然だともなる
緊急の場合でもそうだった、そこに田舎の問題があった
まず医者をそもそも選べない、医者が少ないからである、特に優秀な医者を選べないのである

こうなるとオンライン診療がある程度役に立つかもしれない、youtubeの医者の説明を聞いているとわかりやすいからである、そしてyoutubeだと優秀な医者が説明している場合がある、なぜなら全国放送だからである、全国の中で優秀な医者が説明しているかもしれないからだ、教育でもyoutubeだと一流の人が講義しているとなるからだ
オンラインになると狭い範囲ではない全国的規模になるからそこに優秀な人がいて教えるとなる、だからオンライン診療も普及すべきだとなる
ただそれで全面的にはできない、どうしても対面的でないとわからないことがある
でも今回の脳卒中の前兆がみぬけなかったことはその症状を医者がオンラインでも診ればわかったかもしれない、ただその後をどうするかとなるとどうしても地元の病院と医者とかとても連携しなければならない、その辺のむずかしさはある
でも素人でも別に症状を訴えてこれは脳梗塞なのかとでも察知すれだけでも違うとなる

ただオンライン治療となると老人は通信が苦手だから問題がある、ただこれからの人達はみんなスマホを使っているから使いやすくなるからそうなるかもしれない
対面治療は必要でもやはりオンラインでも病気を知り治療する方法が生まれるとなる
どうしても田舎は病気でも医者の数がたりないし優秀な医者がいるとは限らない
だからむずかしい病気はこの辺では仙台市に行っているのである
医者も専門外が診れないとか必ず連携が必要になる
でもお前はいつも私の所に来ていないから診ないとかなっているのは田舎の閉鎖性なのである、ただやはり自転車屋でも自分の収入にならなければ修理もしないというのはしかたないとなる、そもそも自分の利益にならないとしたら自分の生活があるのだからどうにもならないとなる、それが悪いとはならないのである

ともかく田舎ではたりないものが多い、私の町には百円ショプがない、これも困るのである、隣の市までは自転車で行くほかないからである、通販だと百円ショップのような買い物はしにくい、でも通販で助かるものがある
飯館村の辺鄙な所でも通販で配達していたともなる
また本などは古本でも何でも買える、だから知識的には都会と田舎の差はなくなったとなる、まず文系なら本を読むことだから本を読めないとしたら学べないからである
田舎でも今ならインタ−ネットでもyoutubeでも本でもどんなものでも買えるとなれば差がなくなったのである、つまり独学する環境が備わったのである

こういうことで病気に関してもネット化する、オンライン診療することも助かる
それで全部が充たされないが田舎だとこうして閉鎖的なことがありそれで困るのである
でも当人にとっては福祉事業でもないのだから利益をあげなければならないのだから
それが冷たいようでもそうならざるをえない事情があるとはなる
だから田舎ではオンライン診療も普及して利用する方法を知るべきだとなる
ただオンラインでは全部はできない、補助役になるがそれでも役立つとはなる

病気でもちょっとした知識があると素人でも役立つ場合がある
特に認知症の介護では誰も教える人がいなかった、医者すらわからないものだったのである、でも介護するうちにわかることがあった、それはちょっとだけでもインタ−ネットで即座に調べてそれを実行したのである
認知症の人は物忘れで異常な興奮状態になる、その時お茶でも飲ませて落ち着かせろと書いてあった、それを実行して効果があった、だからちょっとしたことでも素人でもしれば役立つことがある、だから医療に関しても専門的なことがわからなくても対処できることがある
専門家の時代であり何もわからない何もできないということはない
だから原発でも専門的にわからないにしても素人でもわかりうることはあった
わかりやすく説明すればわかることはあった、でも専門家は知らせなかったのである
そこはアンタチャブルの世界で素人は立ち入れない何も知らされないものとなっていたのである、そこに危険があった、やはり素人でも専門家でなくてもわかることはある
だから素人でも知ろうとすることが大事だとなる、専門的でなくても知りうることはあるからだ
そういう点ではインタ−ネットは役立つ、医者自身がyoutubeで説明しているからである
これも時代だと思った、閉鎖的な田舎だけではない世界が開ける、それがインタ−ネットのいい点だとはなる

2022年10月30日

なぜ脳卒中の前兆があったのに医者がわからなかったのか? (高齢化社会は健康な人と病気の人の差が大きい)


なぜ脳卒中の前兆があったのに医者がわからなかったのか?

(高齢化社会は健康な人と病気の人の差が大きい)


片手がしきりに麻痺していたので料理するのがむずかしくなっていた
物を持つのがむずかしくなっていた、でも手を手術すると治ると言っていた
眼が悪くなった、仙台の眼科に行った
また脳のMRIを遠くででも近くの原町でも撮った
それでも脳卒中と判断されなかったのはなぜなのか?
何か全体としてその人を見ていないで部分的に見ていたためだろうか?
その人は良く近くの医者には通っていたのである
毎日のように薬も飲んで欠かすことがなかった
肥満体であったが10キロも痩せたのである
ただ問題は煙草を毎日かなり吸っていた、それはストレスが多いからそうなった
この煙草は脳卒中の原因になるとされている
ただ癌との因果関係はわからないしないと最近わかってきた
でも煙草はいいものではない、脳卒中の原因になるからだ
でもなぜこれだけの症状があって脳卒中の前兆なのかをわからなかったのか

一人はすぐ南相馬市で診てもらい血管にカーテルを入れて助かった
早く治療したので助かった、南相馬市には脳卒中センターが最近できていた
そこには優秀な医者がいて若い医者が学びに来ているという
だからもし脳卒中の疑いがあれば南相馬市立病院でみてもらうようにすれば良かったとなる、優秀な脳卒中専門の医者がここにはいたからである
この辺のことはどうなっているのかわからない
何か病気の前兆はある、症状がある、MRIで診ればわかるようなことをyoutubeで医者が放送していた

病気では早めに症状を見て病名を知り治療する

これが必要なのである、でもこれがむずかしいとなる、病気にはいろいろあるからだ
認知症でも症状が出ていた、ただ最初見抜けなかったのである
同じ物を買っていて買物して計算ができないとか近くの店屋の人が気づいていた
ただ明確なものとしてわからなかったのである
自分自身が冷蔵庫にあるものを同じ物を買ってきたりするから正常でもそういうことがある、だから初期には認知症はわかりにくいのである

ともかく病人が多い、高齢化社会ではどうしても病人が多くなる
近くで癌の人がいるし糖尿病の人がいるし脳卒中になった人が三人とか合っている
心臓病の人もいるしそれから必ず前立腺肥大の病気になったり老人特有の病気がある
白内障とか緑内症とか眼が悪い人が必ずいる

50くらいで精神障害の人がいる、その人がどういう精神障害なのかわからない
100×100の計算ができないという、何か負担をかけられない、だからとても親の介護などできないのかとみる
でもその人しか介護する人がいない、すると福祉の方で施設にいれるほかないのかとなるでも症状が軽いらしいから介護度3以上になっているのか、またなかなか施設に入りにくいのが現状である
病気にはいろいろあるから理解しにくいのである
ただ高齢化社会はとにかく病気になる人が多い、だからこの病気の知識をある程度常識的にももっている必要がある

私は家族が認知症になったので認知症には詳しくなった
意外と認知症は医者でもわからないのである、私は介護したから症状がわかるのである
これも精神障害なのだが別に人間でなくなるわけではない
何かこれまで生きた人生がありその人生に誇りをもっていたりプライドがありそのプライドを傷つけられると怒ったりする、つまり馬鹿になった人として扱いなのである
また精神障害の人もいろいろいる、でも人間として付き合いとも言う
これも症状にいろいろあり軽度から重度とあるから理解しにくいのである

私の母はなぜ百才まで細身で体力もないのに生きたのか、それは血管は丈夫だったみたいだ、血管に障害がないと百才近くまで医者が言っていたからである
脳卒中は血管の障害が出る病気だとなる
親戚で白血病になった人もいる、これ血管の病気なのだろう
ともかく病気の種類も多い、だから理解するのもむずかしい、ただ早めに病気を知ることで早期発見で癌でも何でも治療しやすいとはなる、悪化してから治療しにくいとなる

高齢化社会は悪いものではないけど健康であれば百才でもいい、でもみんな何らかの病気になる、これが問題なのである、百才まで健康な人はまれなのである
高齢化社会はいくら金があっても病気になったら何もならない、金で病気は直せないからである,金が必要ではないのではなく根本的に金だけで病気は直せないのである
特に老人の病気は直しにくい、体全体の老化と関係しているからである

とにかく突然人間関係でも変化がある、家族でも変化がある、その原因が病気になることが多い、特に老人はそうである、病気になりやすいからである
夫婦でもどちらかが介護状態になったりするから安心はできない
つまりどんな人でも必ずリスクを持っているのである
そのリスクから逃れようがないのである、病気のリスクは別に金持ちでも持っているから平等だとはなる、いくら金があっても病気になったら確かにいい治療ができるとしても限界がある、体全体が老化したりしたら直しようがないのである
美人でも醜い婆となっている、肌の手入れをしても元にもどらないのである
だから老人になると美人でも不美人もない、みんな婆になってしまうのである
ただ健康であるかないかの差が非常に大きいのである
脳卒中でも半身不随とかなったら悲惨である、車椅子とかにもなり身体障害者ともなり
誰かの助けがないと生きていけなくなるからである

2022年10月22日

高齢化社会の地獄-大事なのは健康 (8050問題は始まっている-頼る人がいない恐怖の経験)


●人間の体もこれまでの行為の積み重ねで健康もあり不健康にもなる

72歳で脳梗塞になったのは辛い、ただ近くで三人くらいその前の年ても脳梗塞になっている、だから70以上になると何らか病気になりやすいのである
知っている人は煙草も吸っていたし健康的にはいいものではなかった
なぜ煙草をやめられないのか、他の人でもやはりストレスがたまりそうなっていたのである、問題はストレスでありそれが解決しないとやめることもできなかったのである
女性でも今は普通に煙草を吸う人はいる、でもそれが老人になって60以上になって
病気となる場合がある、もちろん煙草と癌の関係ははっきりしないがいい影響はないだろう

ともかく人間はそもそも突然何か病気になったり何でも突然には起きない、これまで積み重ねたものが現象になり症状となって現れてくる,カルマを積んでいてそうなっているのである、それは裕福でも楽した人も最後はかえって苦しむとかある
つまり人間はカルマから苦しみから逃れられない存在なのである
それは肉体的にも精神的にもそうである、生まれつきもある、人間は遺伝的に必ず誰でも欠陥をかかえているからだ、それは自分自身でもそうだった、高校の時蓄膿症の手術を二回もしている、それで頭がさえずやっと三流大学に入学できたのである
それも家族に恵まれてできたのである、今でもやはりこ鼻腔が狭く息が十分にできないのである
でも私は30頃に煙草とか酒はやめた、それが意外とそれが影響していてまだ体がそれほど衰えないのかもしれない、たた衰えていることは衰えている
それから私は学校とか会社に適応できな体であり心でもそうだった
だからそういう場所でマイナスであれ働くことがなく自由に生きられたので良かったのである、だからそうさせてくれた親には感謝しているから介護もできたのである
死んでも供養しつづけているからである

すべては生まれつきでは決まらない、体力ある人でも無理するとそれが後年たったて病気になり早死にしたりするからである、スポーツ選手が意外と早く死んだりするのはそのためである、では体力がない人がいいともならない、何か体力がない人は若い時でも冒険がしにくいからである、それで私でも登山はきつくてやめた、疲れ方が尋常ではなかったからである、40前で登山はやめたのである、その後は自転車旅行になったのである
自転車旅行は意外と楽なのである、ただ登山より楽だというだけでそれなり厳しい面はあった、でも疲れたら休めるし食事もとれるから長距離でも行けたのである
だからもしかしたら70以降でも自転車旅行はできないことはないかもしれない
つまり老人でもできるのが自転車なのである

●高齢化社会はマラソンになる、最後まで健康で走りぬいた人が勝利者

ともかく高齢化社会になるとマラソンなのである、70以上とかなると力尽きて脱落してゆく人も増える、病気になったり死んでしまう人もでてくる
つまり百才まで健康に生きる人がまれだというときそれはマラソンなのである
百才まで走り続ける人が本当に百才を生きた人なのである
でもどうしてもそれまで故障したりする、そこで百才を元気で走れる人は極まれだとなってしまうのである
金も必要だしまた百才まで生きればかかる、でも健康でないと悲惨になる
介護でも息子娘にも頼れないとかなっている時代である、それも息子娘も今は生活が厳しいからそうなる、頼りにくいからである

その負担は肉親と家族だけで負いきれないのである、その女性は72歳で脳梗塞になっても頼る人がいない、知的障害者の人を一番世話したが他の兄弟二人とはうまくいっていない、だから脳梗塞になっても知らせるなとか言ったという
また知的障害者の人に頼って頼ることもできないとなる、何か兄弟三人いきても二人は親のめんどうみたくないとなっている
でも誰がめんどうみるのか?父親は施設で死んだから良かった、では母親はこれからをなるのか、知的障害者の息子がめんどうみれるのかとなる
軽度にしても何かやはりわかっていないことがある、まだ母親は世話してくれるめんどうみてくれると思っているのである、その辺の理解がたりないのである
そこで知的障害者なのだとなと思った

普通だったら50歳まで子供の時のように世話していたら親が病気や介護になっても必死で世話する、自ずと強制されなくてもそういう気持ちになっているからだ
それは自分自身のことだった、60歳まで世話してくれた、だから私は自ずと自分が病気になっても必死で世話して介護したのである
悲しいのはそうして親に尽くされた人がそういう感覚を持てないことである
一応親に対して全くなにもしないということではないが何か親がまだ世話してくれると思っているのである
そんなこともう不可能でありそこが認識されていないのである
そこに不幸が悲劇があったともなる、何らか家族でもこうして悲劇がある

●病気や介護になると頼る人が問題、非情な人になると地獄になる

私自身の家族でも悲劇だったのである、家族が認知症でばらばらになったからである
その苦労をプログで書いてきたのである
たから人間は悲劇的に終わること知ったのである、それは私の家族だけではない何か悲劇的に終わるのが人間なのかということを知った
人間は悲しむ存在であり悲劇的存在なのである、地獄を生きるのが定めだと親鸞が言ったのもわかる、この世とはなんらか地獄を生きることなのである
戦争を生きた人もまこにこれこそ地獄を現実に生きたのである、その戦争の地獄は経験しない限り理解できないものだったのである

病気、介護⇒頼る人⇒?


頼った人⇒事業失敗して借金した人または泥棒(自分)

頼った人⇒5才で捨てられた子供⇒親は認知症になり金のみをねらい施設に入れる

頼った人⇒知的障害者の息子(ほかの二人は頼りにくいから)

ここに恐ろしい悲劇があった、頼る人がそういう人だったということである
でも他にいないからそうなったのである、これもその人のカルマだけど恐ろしいと思ったこの世とはこうして恐ろしい場所だと自ら認識した
もちろん介護などしたくない、それはわかる、でもそれだけではないそういう人は簡単なことすらしたくないのである、それが必ず行動となって現れる
だから病人の世話とか介護とかにその心が出やすい、なんでこんなジジババを世話しなければならないのだ、そういう気持ちが持てないからである
兄弟でも親に良くされ人が介護しろというのはそのことである
つまり人間はいくら装っても本心を偽ることはできないのである
必ず行為となって現れるから怖いのである、日ごろは隠されているが相手が弱者化したりする怖くないとなりその本心が現れるのである

知っている人は実の娘は五才まで育てていたが嫁ぎ先を出ては金持の家に後妻に行ったから金はもっていた、でも認知症になっていたのである
その人は全然親とも思っていないのである、ただ金だけ欲しいとなっていて施設にあづけただである
本人は頼る人がなくなってそうなったのである、これも恐ろしいことである
人間は必ず親でも子供に対して強い時がある、絶対服従だとかなる、でも後で必ずまた弱者化する、例え金があったとしても認知症になったら貯金すら下ろせなくなるのだ
これには本当に自分でも驚いた、いくら金を持っていても何にもならない、もう金を自由にできないのである
金を持っていてもそれ自由にできない、法律的に資格を失ったしまったのである
これは体だけではない、何の権利もなくなってしまったのである、そこに認知症の恐ろしさがある
もし信頼する人がいないならその人はどうなるのか?
実の娘でも育ててもいないのだから金だけが目当てになる、そうでなくてもこの世の中金だけが目当てなのがフツウだからである
施設で金持ちを介護してもそこに愛情など持てないからである、むしろこいつは金もっていて働かせられていると思っているからそれが行為となって必ず現れる、人間はどうしても本心を隠すことはできないのである

こうして楽した人でもカルマとなり苦しむことになる
誰もめんどうみる人はいないということである
助けてくれと言っても金をだせ、全財産を出したら助けてやるとかなる
そういうことがやりやすいのである、それが非情な人間社会の現実なのである
つまりこの世は地獄だということである、非情な人間がいるから地獄になる
他人の苦しみでも田舎なら楽しみにもなる、田舎の人間が情あるなど今はないからである人間は地獄を経験するために生まれて来たともなる
それはやはり地獄に生きることで天国を渇望するためなのともなる
ただひたすら念仏でも唱えて来世の極楽に行くことしか希望がなかったともなる
それがこの世の現実だったのである

●人間の本性の怖さ

また老人は老人を頼りにできない、病人が病人を頼りにできない、それだけの力がないからである、知っている人は糖尿病であり最近良くなったとしても85歳であり頼りにならない、老々介護になると介護する力もないとなるからこれも悲劇なのである
でも若い人に息子娘に頼ることもなかなかできない社会になっている
そこで悲劇的な最後になる人がさらに増加する、高齢化社会の地獄絵図がそこに展開する時代となる
おそらく一番世話した知的障害者の息子にその母親は頼っていることである
それが悲劇になる、私が頼ったのも泥棒であり金だけを要求するような人ばかりだった
他でも悲劇的なのが5才まで一緒にいた母親に育てられた娘にしか頼ることができなくなった、その娘は母親となと思っていないからである

本心が現れた世界が地獄!

地獄とは何か、それがダンテの地獄辺のように本心が現れた世界である、人間の悪が非情でもあからさまに隠されることなく現れた世界である
この世ではそうした本心は隠すことができる、でも地獄ではあからさまに現れる
それがまさに地獄なのである
「お前なんか世話したくなかったんだよ、俺は欲しかったのは金だけだよ、金持ちだから金をもらいたいだけだったんだよ、世話する気持など全くなかたんだよ」
こういう本心が行為となって現れ虐待になる
この世ですでになっていることもある、だから病気と介護の問題は金で解決できないのである、どうしても気持が現れるからである

いつも若い世代は老人は死んでくれといっんているときそれが冗談のように思っていてもそれが必ず現実化する、それは老人施設でも病人の世話でも介護でも起きて来るのである人間は力ある者、権力がある者には低姿勢になりごますったりするのが普通である
でも相手が弱者だとなると平気でいじめたりする踏みつけることもする
つまり人間を見る時弱者に対してどういう態度をとるかでわかる
そこに本心が出やすいのである、だから病気と介護の現場ではその本心が現れやすいとなる、やはり気持がないとできないからである
別に他の仕事だったら金をもらって一定の仕事するとか金をで買ったり売ったりする
そこに人間の心はあまり関係していないからである
そこは別に金で割り切ってやっているしそれをとがめる人などいないのである

もしそうして頼る人がまともだったら地獄に仏となる、そんな人はめったにいないとなるからだ、諺もこうして人間の経験の実験の歴史でありそれは今に通用しているのはいくら科学技術がこれほど発達しても人間自体が変わっていないからである
第一キリスト教徒が何十億人いたらこの世が天国になっているはずである
依然として地獄であり変わっていないのである
だからこの世を去ることこそが楽になることである、地獄はまさにこの世にあり別に来世にある訳もないのである、この世でみんな地獄を経験しているからである
地獄に落ちるとか罰当たるとかカルト教団が言っているけどそいつらもみんな地獄人間なのである、地獄に落ちるというけどこの世が地獄であり地獄人間が現実に生きている場所なのである

世の中は地獄の上の花見かな 一茶

一茶はまさに地獄を生きた人だからこの句ができた、救いは地獄にも美があったことである、でも大都会になるとそこに自然の美がなくなる、つまり大都会とは地獄でもあり地獄を作りだしたのは人間なのである

人間の本性とは怖いものである、権力ある者にはへつらう、また金持ちにもへつらう、でも本心はあくまでも違う、権力者に従うのはあくまでも相手が強いからそうなる、でも立場が変われば相手が弱者化すれば逆になる、今度はその強者も虐待することにもなる、あくまでも相手が権力者であり金持ちだから従っているのであり立場が変われば逆転するのである
人間社会とはそういうものだろう、戦国時代の下剋上とはそのことである、要するに人間社会は弱肉強食の世界だったのである
それは歴史をみればわかる、そこに平和などないのである、だからこそキリストは下僕となりなさいと言ったのである
権力を持ち金をもって人間の心は支配できないからである、やはり愛情をもって接して子供でも育てれば違うとなる
親がもしただ力をかるとして子供を支配するだけなら親とも思わないだろう
それが後で復讐されるともなる、夫婦の間でも夫が力があるからは服従させたりしても病気になり弱者化したら虐待されるのである、でも人間は必ず弱者化する、老人になると体も弱り弱者化する、その時が怖いことになる

「おれをこんな地獄におとしこんだのは、へつらいのせいだ、おのれの舌はそれでも飽きもしなかった」ダンテ地獄

へつらうというときみんな権力者には金持ちにはへつらうのである、それはマスコミとかもそうである、巨大な権力団体には逆らえない、だから原発が危険でも知らせない、その権力は政府が指導して電事連でも800億もの宣伝費が出ていたからである
そんな巨大な権力だから安全神話が作られたのであるねそれを暴いたのは津波であり人間ではないのである
とてもそんな巨大な権力に抵抗できないからである、権力が巨大化すると手がつけられなくなるからだ
そういうことはウクライナ戦争のロシアのプーチンなどでもそうである、独裁者の権力が絶大なものとなり誰も逆らえなくなるからである、そういうことで歴史は争いが戦争が絶えないともなる

●高齢化社会はマラソンであり最後まで健康で走りぬいた人が勝利者

ともかく高齢化社会を生き抜くにはマラソンを完走するには健康第一になる
健康失えばたちまち地獄に転落するのである、でも老化することは病気になることでもあり最後は体も弱り誰でも死んでゆくのである
望むことは健康で死ぬことだとなる、それができない、老衰は体が枯れるように死ぬから苦しまず死ぬから理想的だともなる、私の母親は100歳生きたが枯れるように楽に死んだのである、いつでも楽に眠るように死にたいと言っていたのである
その望みだけはかなえられたのである、それは苦労した大正生れの人だったら最後は楽に死んだとなる、でもみんながそうはいかない、苦しみ死んでゆくのが普通だとなる

頼る人がどんな人になるのかそれが問題だった
もちろん頼る人が無く孤独死とかもあり他にもある
実の親子でも子が親のめんどうを見ないことも普通にある
でも病気になり介護になると誰かがめんどうみざるをえない、でも人間はそういう人がいないなら誰にも世話にならず死んだ方がいいとなる
孤独死でも誰もそもそもめんどう見る人がいないのだからそれが悪いともならない
隣の部屋の人が二け月間も死んだのを知らなかったというのもそうである
電気がついていると隣の人は思っていたのである
でも兄弟が近くにいても付き合いがないとなっていたのだから孤独死が全部悪いともならない、そもそもめんをとみる人がいないなら一層死んだ方がいいとなる
後の死体の処理が問題だとしても誰も病気になっても介護する人がいないならそういう死に方の方がいいともなる

高齢化社会はマンションでも老朽化してぼろぼろになるとかそれも60年くらいでなる
そして空家が膨大に増えてゆく荒寥とした風景になる
子供の遊ぶ声も聞こえず老人だけが増えて認知症も膨大に増えてくる、その光景はもう始まっているのである、plan75という映画が公開された、75に成ったら安楽死を選ぶことができるとなる、それは余りにも悲惨なものとなるからそうなる
それは本人だけではない周りの人の負担も大きすぎるからである
国家自体が老人によってつぶされるとまでもなるからである
8050問題はもう始まっているのである、それは金だけでも解決しない問題なのであるもちろん国家の経済的負担も人数が多いのだから重荷となる

ともかく地獄が一定の住処なりという親鸞の言葉が高齢化社会の現実なのである
それは金がないこともあるが健康が喪失する病気になる老化して弱ることが地獄を産むのである、それは極一部除いて避けようがないのである
8050問題は始まっていてすでに地獄を見るようになっている、私の家族でも一人が認知症になりもう一人は百才まで生きたがやはり最後は5年間くらいは介護になったからである、その時自分自身も病気で塗炭の苦しみになった
その時助ける人はいなかった、それもカルマだった、私自身はそのカルマを自覚していた結局それほど自分は親に良くされたことでできたことなのである
他の人はそういうことがないから簡単にできないのである、だから子が親を捨てきる家族遺棄社会にもなる、でも誰かが世話しなければならないことにもなる
だから息子娘が放置することは問題である、代わりに世話する人がいるからである
それか強いられるからである、捨てる訳にもいかないからである

2022年10月17日

介護もカルマになっていた (誰が親の介護するのか?−8050問題はすでに起きている)


介護もカルマになっていた

(誰が親の介護するのか?−8050問題はすでに起きている)

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【脳梗塞】人生が変わる知識、脳梗塞の初期症状7選+α
https://onl.la/vQMKGtn

札幌母娘餓死事件の中心にあるのは、ほんとうに「8050問題」か
https://www.hikipos.info/entry/2018/04/19/060000


その72歳の女性は脳梗塞で倒れた、その症状は明らかに脳梗塞であることを医者なら気づいたはずである、しきりに一方の手がしびれると言っていた
めまいがしてふらついていた、片目も悪くなって仙台の眼科でもみてもらっていた
これらはすべて脳梗塞の前兆だったのである
それで医者は実際脳梗塞かもしれないとして脳の写真をMRIでみてもらへとして二回もみてもらった、一回は埼玉県なのか遠い場所なのである
二回目は南相馬市原町区の方であった
でもそこで脳梗塞だということが見抜けなかった、だから機械は万能ではない
第一福島県で精巧なMRIの機械は二台しかないとしているしその機械でも診る医者がいなければできないのだと思う、そういう人材はこの辺でいないのかもしれない

ただ南相馬市立病院には脳梗塞の専門病棟がありそこには優秀な医者がいて近くの人が
早い治療でカーテルを脳に入れて助かった、その人は今も別に普通に生活しているのである、だからこうして早く脳梗塞を見つけて治療すれば軽くてすむことがあったのだ
今回はなぜそれができなかったのかわからない
なぜならその女性は医者に頼り医者には良く行っていたからである
そしたら片手がしびれいるとなればそのことで脳梗塞かもしれないとわかったからであるでも脳の写真をとれということは薄々気づいていたのかもしれない
でもその治療はしなかったのかとなる

でも息子と普通にしゃべれているし言語障害はないから軽いものらしい、だからリハビリをすれば回復する、ただ息子三人いるけど一番頼りにしているのが障害者の息子であり
それでも50歳になっている、その人はどこが障害者なのかわからない
話していてもどこが精神障害なのかわからない、まずスマホとかしているし知能は普通なのである、それより昨日知人宅に行って納屋で米をとりだせなくなっていたがその息子は取り出すことができた、ごちゃごちゃしてとりだせなかったのである
その米はその知人宅でもらえるものだったのである
自分もとりだそうとしたができなかった、何か自分は知的作業はしているがこういう体を使うことが不得意なのである、だからその息子のどこが悪いのかわからないのだ

そして母親もその息子を頼りにしている、他の二人の息子には病気のことを言うなとまで言っている、また兄弟は仲が悪いのである、二人は働いているし休む訳にもいかない
すると残されたその障害があるという息子が介護せざるをえない、その息子が介護ができないものではない、金銭的問題があるにしろ軽い症状だったらできる

ではなぜその息子が介護しろとなったのか ?

それはカルマだったと思う、このカルマのことを書いてきたけどやはりカルマはあるのだなとまた再確認した
なぜならとにかくその女性は自分の家に来ていても絶えずその障害者とされる息子のことを心配していたのである、それはおそらく子供の時から50になるまで心配していてその息子にばかり手をかけていた、それは三人の兄弟がいるにしろ他は余りかまわないがその息子は障害があるとして手をかけていて他はなおざりにしていたのかもしれない
だから一人とは合ってもあいさつもしないとかあったが最近仲直りしたようである

なかなか他人の家の事情はわかりにくいが共通していることは介護は必ず兄弟でも一番良くされた人がしろとなる、それがカルマなのである
その障害があるとされる息子はどこが障害者だかわからないし介護はできる
親もその息子をあてにしていて他はあてにしないのである、でもなかなか一人では困っているから相談に来たのである
だからつくづく介護もカルマだということを感じた、誰が介護するのか一番かわいがられた人がやれとなる、兄弟であっても姉妹であってもそうなる
それがカルマなのである

ただなぜ自分がそれにかかわるのかとなるとわからないが他人のカルマを背負うこともある、そのことは良くわからないにしろそういうことはある
人間は誰でもカルマを背負っているからだ、そもそも社会というとき一人では成り立たない、別に血縁とか家族でなくても社会を構成するのは他人だからである
すると誰かが働いてその恩恵をこうむるしまた恩恵を与える関係になっているからである人間のの人は互いに支え合うという字であることでもわかる
互いに支え合わなければ社会は成り立たないからである
つまり家族だけてはない何らか常に人はカルマがある、それは社会に対してもある
そのカルマから逃れらないもないということである

ある人は夫が若い時から病気になり大変な苦労をした、そして今度はその娘が夫で事業の失敗などで苦労している、これもカルマなのかとなる
なんらか人間はカルマを背負っていていつか苦しみとなって現れる
何か世話になったとかでもカルマになる、それを返さないとさらにカルマが重くなったりする、だから因果応報だとかなるのがカルマである
私自身は二人の親に特別良くされたから二人の介護と自分の病気で死ぬほど苦しんだ
誰も助けてくれないとかなった、それもカルマだったのである
人間はカルマから逃れられない、苦しんでカルマを解消するほかない
それでカルト教団に入ってもカルマは解消しないしかえってその集団自体が大きなカルマを背負っているのだからその集団のカルマも受けることになる
つまり集団でもカルマがありそれがいつか表面化して苦しみとなって現れるのである
集団の場合は社会自体がそのカルマを背負うことになるから怖いのである
いづれにしろ人間のカルマを解消できない、だからこそ最終戦争とかハルマゲドンになるとかなる、そうしなければカルマが解消しないからである

いづれにしろ8050問題はすでに始まっている、50くらいの人が70から80の人を親を介護する、その数も多いからいたるところにその問題が生じてきて社会全体に影響する、団塊の世代は数が多いから介護になる人も多いからである
そこで地獄の苦しみを受ける、介護地獄社会で家族崩壊や凄惨な事件も起きて来る
それは社会全体の問題であり家族だけでも解決しない問題だからである

2022年10月15日

脳梗塞の前兆を医者が見抜けなかった (医者の判断が致命的になる怖さ)


脳梗塞の前兆を医者が見抜けなかった

(医者の判断が致命的になる怖さ)

感覚障害は、身体の左右どちらか片側の手などの感覚が鈍くなる、突然しびれる、などの感覚異常です

昨日脳梗塞になって病院に入院した女性がいる
家に来る72歳の女性はしきりに体の不調を訴えていた、しきり手がしびれるとか言っていた、でもその手を手術すれば治ると言われていた、目まいもすると言っていた
そして私の目の前で自転車で転んだりしていたのである
だから手術するとか言っていた、それから目が悪いとか仙台の眼科にも行っていた

脳のMRI検査も遠くと近くで検査した、でも脳梗塞の前兆だということを見抜いた医者はいなかった
というのはその女性は歯医者に行っていた、手がしびれるとか悪いとしてその方面の医者にも行っていた

ではなぜそれだけ医者に行っても脳梗塞の前兆だと見抜けなかったのか?

MRI検査しても機械で見てもわからなかったというより医者がみれなかったとなる
まず機械でも頼りにならない場合がある、なんのために高価な機械で高額な金を払ったのかとなる
私の家族でも認知症になって脳をMRIで見たが何もわからなかった
というよりその機械ではとても認知症などわからなかったのである
成功なMRIは福島県だと二台くらいしかないのである
あとのものはたいした機械ではないとなっていたのである

もしかしたらそれぞれの分野の医者に専門医にみて全体を見る人がいなかったかもしれない、、私の家にきて訴えていたときこの全部を訴えていたのである
だからもし私に医者の素養があったら脳梗塞から来ているかもしれないと注意くらいしたかもしれない、一種の感が働いたかもしれない、でも私は病気に関心がなかったのである
ただ家族が認知症になったとき認知症に異常に関心を持ち調べたのである
それは家族がなったからそうなったのである
それで認知症に詳しくなったのである

でもその女性が家に来ていろいろ訴えてもそれを親身に見ていたとはならない
いつものように愚痴とかのように体の不調を訴えていたのかと軽く考えていたのである
脳梗塞の前兆のような言語障害は全くなかった、とにかくしゃべる人であり話術にたけた人で感心していたのである
もし呂律が回らないようだったら確かに脳梗塞の前兆だったと気づいたロウ
でも医者ならなんらかおかしい脳梗塞の前兆と見たとも思えるがそれがなった

医者は見立てがいい医者が優れた医者だとしている、つまり脳梗塞の前兆なのかもしれないと多少でも疑う医者がいたら対処方法があったのかとなる
いろいろな専門医にみてもらっても全体をみていなかったから脳梗塞の前兆ということをみぬけなかったのかとなる

手が悪いんです、手かきかなくて台所仕事に苦労するんです

めまいがするんです、めまいをしない薬を飲んでいるんてす

体がふらつくんです

眼が悪くて見えにくいんです 仙台の眼科医にみてもいました

・・・・・・・

こうしていろいろ症状が出ていてもこれが脳梗塞になる前兆だとは見えなかった
医者もわからなかった、何かと医者に行く人でも医者がみぬけなかったのである

脳梗塞も多い、一人の同級生は足が悪くして歩くことが苦しくなっていた
ある人はしゃべることに障害が出た、ただ一人は奇跡的に助かった
早く病院に行きカーテルを血管に入れた結果障害もでなかったのである
これも不思議である、治療が良く素早くした結果である
また南相馬市立病院では脳梗塞関係の専門医で優れた医者がいるからだとしている

ともかく老人と病人が増えて困った、その人は金もないから金もだしようがない
福祉関係で出すにしてもその他オムツ代とか何かかにか金がかかる
その夫は離婚したにしても最近死んだ、その次にまた母親の方が72歳で脳梗塞になったのである、その介護となると容易ではないとなる

糖尿病の親しい人の所には毎日のように通っていた、呼ばれていた、でも今度は行けないもともとたいしたことをしないにしてもやはり話し相手になるだけでも良かった
それもできない、その人の役割があったか病気になったら誰かが世話しなければならない息子は知的障害者である、でも普通の人と見分けがつかなかいから母親を支えることはできる、でも限度はある
あと息子二人いるが働いているので金をえられなくなると困るから家で介護もできない
親が介護になって子供が介護の負担を負いきれないという報告が常にある
つまりこれから介護地獄になるのである、その兆候はすでにあちこちで現れている
これは一人の問題ではない、社会全体の問題であり社会自体が老人の病気や介護がのしかかり破綻しかねないのである
それは経済的問題だけではない、介護には人手が欠かせないからだ、でも息子が会社をやめると収入がなくなるとか問題になる
様々な負担があり高齢化社会は全体的には地獄になる

高齢化社会の恐怖は家族崩壊と社会崩壊にまで通じている、その負担が大きくなる
老人が増えるばかりでありその老人はどうしても病気になりやすいからである
なんらか故障が生じてくるからである
その女性は体の動きが本当に悪かったのである、だから体がもともと弱っていたのである知っている大工さんは69歳なのに50代にしかみえない、また75歳で35歳にしか見えない人もyoutubeにいた
だから相当に年齢にも差がありその差が大きいのである、年齢では計れないのである








2022年10月12日

でんでんら野(蓮台野)と高齢化社会の老人 (老人が捨てられる社会)


でんでんら野(蓮台野)と高齢化社会の老人

(老人が捨てられる社会)


60歳を超えるとみんな、この蓮台野に送られる習わしがありました。
送られた人々は、すぐに亡くなることはなく、昼間は里へおりて農作業などをして暮らしをたてていました。
そのため、今でも山口、土淵のあたりでは、朝、田畑に出ることをハカダチ※3、夕方、野良仕事から帰ることをハカアガリと言うそうです。

ハカダチとは墓をたつ、墓から出るという意味なのか?
そして墓あがりとは墓からあがるとした、その辺一体が墓地だったのかとなる
でんでらのとは老人が隔離して住んだ場所なのかとなる
ただそこでは労働が行われてある程度自給していたようである
この辺ではホトケッポとかありそこは村の共同墓地でありそこに村人は埋められた
そこには死んだ人の名前もない、墓もないからである
何かそうした野がありそこは墓にもなっていたとなる

現代の老人を考える時やはりこれも歴史的に見るとどうなっていたのかわかりやすくなるそれが現代でも関係しているからである、老人ホームが実は姥捨て山だというときもそうである、食糧と寝る場所が与えられていても実際は子供からでも捨てられた場所だとしている、だから老人は淋しい思いをしているというのもわかる
ただ昔だと食べるだけで大変だから老人は邪魔だとなり別に暮らさせたとなる
そして何とか老人だけでも生きていくために畑を耕して食料を得ていたということになるでも小屋のような所で共同生活するにても苦労だったとなる
まず病気になったら何もできない、ただ死を待つだけだともなる
でも仲間がいて見守られ死んだとなる、孤独死とは違うとはなる

昔を見る時どうしても社会とか時代が違うから理解できなくなる、一見ひどいと思ってもそれが意外といいという見方もでてくる、確かなことは村という中でずっと仲間として生きてきた、共同して村で生きてきたことで仲間意識がありそういうことが自然とできたとなる、何か息子娘でもひどいとみるが当時の暮らしは過酷なのだから年老いた親を養えないということがあったからである
だから老人たちもそのことを知っていてそういう生活を選んだとなる

でも逆に現代になるとかえって物質的には恵まれていても精神的情的には恵まれないとういことがある
その人は85歳で糖尿病である、その治療費がかなりかかる、そしてそこに毎日通っている女性がいる、その女性は73歳であり前から付き合いがあり世話になった人だからと行っている、ところがその女性は普通の老人より弱っている、病気持ちでもある
だから何か世話するというのではない話し相手くらいしかできないのである
また金もないので余裕がない、それでその人に金をくれといってももらえないのである
というのは娘が隣の市に住んでいて来ることは来るのだが金をあづけてしまったので
金を自由にできず困っている、そして娘は世話することを嫌がっている
その娘は一人娘でかわいがられたのに薄情だということもわかる

ただ家族の事情は複雑でわかりにくいから誤解しやすい、どういう事情でそうなったのかわかりにくいのである
でも外から見たら明らかに薄情だとなる、それで親は来るなと言ったという、金も出してくれないと怒ったという、それもわかる
何かその男性はまだ一人で自分のことをしている、何かきつい介護などしていないのである、そもそもできないとみる、だから施設に入れたいのである
そして老人ホームは実は現代の姥捨て山だとしている
昔とは違っていても内実はそうなっているというのもわかる

私の親戚ともなるが付き合いがなかったので事情がわからなかった
その娘は三人の母親に育てられた、実の親とは五才で別れた、でもその後二人の血のつながらない母親がいて世話した、でもかわいがられたし貧乏にはならなかった
最後の母親とは長く暮らしていた、でもその親が「ひどい娘だわ」と私に言ってきたのである、その後すぐ死んだのである、そのことを何か付き合いがないので理解できなかったでもその娘がひどい娘だということを私の家にきて母を介護してきたとき
「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらへ」といって去って行った
そのことでその女性がいかに非情にな冷酷な人間化を知った
本当にひどい娘だったのである、ただ子供の時、一回くらいしか会っていないからなぜそうなったのかその後の事情がわからないのである

でも私の家にきてそんなことを言うこともないのである
なぜなら何も要求していないしめんどうみてくれと言っていない、そんなことをわざわざ言う必要もないのである
ただその人にはどういう訳か金が入る
五才まで一緒にいた実の母親も認知症になり老人ホームにいても金が欲しくてそうしているだけである、認知症になった母親は頼る人がなく実の子に頼った
でもその子はもう親とも思っていないのである、非情化した人間なのである
ただこういっても他人の家族のことはわかりにくいから誤解になる
最初は親の方が悪いと見ていたからである

いづれにしろ今や子が親を捨てる時代になった、またこれだけ老人が多いと老人を尊敬する人などわずかである、老人はお荷物でしかないから早く死んでくれと若い世代は言うのである、どんなにしてもこれだけ数が多いと負担になるからである
だから今の若い世代は老人を嫌っている
私も病院に入院して看護師に虐待のようなことをされた、看護師でもその女性は老人を嫌っていたのである、相当に老人を嫌っている人が多い、だから病院であれ老人ホームでも老人に親切にするとは限らない、ただ金のために仕方なくしているとなる
それは金持ちの老人ホームでも同じなのである、たしかに待遇はいいにしても金だけしているから本音が現れる、その本根が人間は怖いのである
介護とか病人の世話は気持ちがないとできないのである
だから兄弟でも一番かわいがられた人が親の介護しろとなるのである
どうしても気持がでてくるからである、だから金だけでは介護とか病人の世話はできないのである

ともかく高齢化社会の問題はとても数が多くて老人を敬う社会ではない
それは儒教の親孝行を説く中国でもそうである、一億人が老人になるときテレビでも経済的にもめんどうみれないと親が捨てられるという放送があったらである
高齢化世界的な問題なのである
そしてデンデラの野に老人だけが共同して住んでいたという時、そこは過酷にしても村で共に生活した仲間がいて病気とか直せないにしろ仲間が助け合い看取られた
孤独死ではないのである、そういう社会があってそういう場所がありえたとなる
だからその時代で人間は違っているから現代と比べてもなかなか理解できないのである

ただ老人にも価値がある、でもその価値が村とかではあったにしてもなかなか見いだせない時代である、会社を定年になるとこれまで会社で生きてきたことが活かせないのである社会自体が変わってしまったからである、すると定年になることは社会的死にも通じている、後は社会にとっては必要ない邪魔の扱いにもなる
だから高齢化社会は会社だけに生きることに問題がある、定年とともにその人の人生は終わり社会に必要ない者とされるからだ
でもライフワークを追及してきたものはかえって長寿はいいのである
私は70以上になって今になってこれまで追求して来たものが実りとなって成果となって現れてきた、遅きに過ぎたともなるが長寿社会になればもう70以上が本番ともなる
それまで経験したことや追及してきたことが実りとなる
でも会社人間だったらライフワークがないから定年とともに社会的死の宣告されたとなるでも60歳がらでも30年とかの人生の時間が加わったのである
それをどう過ごすかが問題になる、でもそこまで考えていた人はないだろう
金銭的な面では考えたとしても精神的な面では備えられないのである

ただでんでら野で老人が共同して暮らしたことは参考にはなる
老人同士が助け合い若い世代に迷惑をかけない、負担をかけないということである
そうしないと老人とともに社会自体が衰退して社会自体が成り立たないともなってしまうからである、ヤングケアラ―とかそうである、老人のために人生が犠牲になりかねないとなるとこれは生物的にはありえないことである
親は子孫を残すためにあり子孫を繁栄させるために大漁の卵を産む、何か子孫を第一にしているからである、生物界では動物でも老人は淘汰されて若い世代が生きるのである
猿の社会では年老いた猿がボスになっていも若いボスが挑戦して戦いそのボスの地位を奪うのである、結局どうしても体力的には弱くなるから世代交代が起きて猿の群れを守ることになる

人間の場合は体力とかではなく財産力とか地位とか別なものが力となっている、権力となっているから若い世代と世代交代できないのである
財産にしても親が死ぬのは85以上とかなるとすでに60以上になって財産を譲り受けることができる、そうなると遅いとなる、若いうちに財産でも金でも自由にならないということは何か新しいこともできないのである
また老人は逆に金でも財産でも地位でも放したくない、権力を持ち続けたいのである
なぜなら老人は村社会とかと違って金とか地位とか権力がなくなったら誰も相手にしないということである
だから知っている老人が娘に金をあづけた結果、金を自由にできず困っているということでもわかる、それて娘を恨んだりする、つまり金を息子娘に預けるとそうなるのである
だから権力を手放すことは老人にとっては危険になるのである
それもまた高齢化社会の問題なのである

2022年09月21日

医療費が国を破産させる? (でも簡単に医療費は減らせない矛盾)


医療費が国を破産させる?

(でも簡単に医療費は減らせない矛盾)



内視鏡検査機器やこれを使った治療機器、超音波診断装置、CTスキャン装置、MRI装置、PET装置などが医療で普通に使われるようになっていることに気付かれるでしょう。これらの新しい装置や機器は精密機器で大変に高価なものが少なくないのです。

病床数が多い、在院日数が長い
薬剤価格が高い、薬剤使用量が多い
医療材料価格が高い
検査が多い
受診回数が多い
https://www.ringe.jp/civic/medical/

厚生労働省は11月9日、2019年度の国民医療費の概況を発表した。国民医療費は44兆3895億円と前年度比9946億円(2.3%)増加、人口1人当たりの国民医療費も35万1800円と同8600円(2.5%)増加した

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暴利をむさぼるたとえ。薬の売値は原価よりはるかに高く、
儲けが大きいこと。薬は売値が非常に高く、原価の九倍もするという意から。


俺は十年前から高血圧治療の為に毎月通院しているが7月〜9月までの
暑い期間は血圧が上がらない事に気が付いたから、その間は通院と投薬を
止めても良いか医者に尋ねたら拒否された。俺のような患者は全国に大勢
いると思うが、医者がこう言う了見だから医療費が下がる訳が無い

一旦医者にかかったら患者は何も言えない、医者に従いとなる、それで無駄な治療があるとは言え自分の判断で病気を判断するのも危険なのである
私自身がなかなか病院に行く時間的余裕がなく勝手に判断して死ぬところだった
なぜなら腎不全になるところだった、そしてすぐに入院して一命をとりとめたのである
だから素人判断することは危険である
そこに病気の問題があり簡単に医者に自分の病気で勝手に判断できないのである
ただこの人は自分の病状をみてそう言ったからその判断が間違っているとは言えない
でも素人判断するのは危険なこともある

でも正直ここで言っているように無駄な治療も多すぎるし投薬も多すぎる
結果的にほとんど効かないとか副作用でかえって悪くなったりする
そもそもワクチンの効き目もわからない、ワクチンの金も膨大なものだった
でもこれが本当に効いたのかとなるとそれも科学的にもわかっていないのである
つまり病気にはそもそもこうして効くかどうかわからないものが実際は多いのである
でも素人判断は危険だし医者に命令されれば従う他ないのである

そこで問題になっているのはその金が国を破産させるほどの巨額な金となっていることである、これは国民全体にのしかかる問題であり国家的問題にもなっている

ある女性は目まいしたからと医者に行きMRI検査しろとなりした
でもそのMRI検査は実際は高価なのである、それも保険で負担するから安くなっているが
その検査の効用はあるのかとなるとほとんどない場合もある
認知症になった家族をMRIで見せたがそもそもそれは何の効用もない
認知症のことなどMRIではわからないからだ
ではなぜあえて検査したのかとなると金のためだったとなる
この検査はかなり金になるからである、だからその機械自体高いから医者では実際はわからないのに検査しろとなるのである
それも保険から出るからそうなる、もし十万するとなれば簡単には頼まない
そもそも検査してもわからないものもあるし相当に高いものでないと診れない
そうして脳の検査を本当にできるものは福島県には二台しかないとしている
となると普通の病院ではとても脳を精密に診れないとなる
でも何か検査しろと医者に命令されると断れないのである

ただ自分の場合は検査してすぐに医者に行かねば死ぬところだったのである
だから病気は緊急を要することがあり医者に逆らうことはできないとなる
自己判断では死ぬことがあるからだ、でも今問題なのは余りにも過剰診療が多いことなのである
そこに膨大な金がつぎこまれて国家破産にまでなる、その無駄を簡単に減らすことはできない、医者の権限が大きいからである、また現実に素人判断も危険になるからだ
ただ医が算術となっていることも確かである
外国ではあまり老人には手厚い医療はしないというときそうである
ただ最近は延命治療はしなくなっているという、どこで生きることをあきらめるほかないとなっている、ただその判断もむずかしいのである

この医療の無駄でもなくすことは簡単ではない、それは病気に人間は弱いからである
その弱さに医者がつけこむということもある、それで金を払わせられる
でもそうでない場合もあり何か無駄なのかなど判断できない、人間社会にはとにかく無駄が多すぎるのである、その無駄が膨大なものとなる
人間の無駄といえば軍事費でも無駄だといえばそうなる、兵士などいらないと言えばそうなる、つまり軍人とか警察とか医者とかは本来ない方がいいものなのである
軍人がいなければ戦争もないし警察がいなければ犯罪もないし医者がいなければ病気もないとなる

逆に軍人がいるから戦争が起り警察がいるから犯罪が起り医者がいるから病気もある
そういう逆説成立つ、天国には軍人とか警察とか医者すらいないからである
軍人とか警察とか医者とかは社会で権力を持つ職業である
逆らえない人達でもある、その人達は命令する権力を持っている
ただ軍人は自衛隊だと今は目立たない、むしろ自衛隊とかは表に余りでない、でも一旦戦争なったら主役になるのである、だから戦争の時は軍人が一番威張っていた
今でも墓には軍人の階級が一等兵だったとか記されているのは軍人がその時は価値あるものだったからである、威張ることができるものだったからである
でも今はそういう墓を見て軍人の位を見てその人がい偉いとか見ないのである

高齢化社会の問題は医療費の問題にもなる、その金を負担するのは現役で働いている人とかにもなる、ただ保険でも介護費用でも老人は年金からでも払っているのである
若い人だけが払っているわけでもないのである
でもその額が多すぎるから負担になる、社会が介護とか病気のためにあるのかとまでなる地方の仕事で眼につくのは確かに介護であり病院であり医者だとなる
60以上になると医者通い病院通いになっている人が多いからである
糖尿病は何か医療費の負担が多いことは確かである、金のかかる病気である
近くの人はそのために払う金が多い、それで親しい手伝ってくれる人に金を払えないとなっている、糖尿病は相当にやっかいな病気なのである


2022年09月20日

親の介護でもめる兄弟ーそして一人っ子の介護 (介護は死んで終わりにならない-恨まれて死んでゆくことの怖さ)


親の介護でもめる兄弟ーそして一人っ子の介護

(介護は死んで終わりにならない-恨まれて死んでゆくことの怖さ)


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一人っ子という時点であきらめがつくし、覚悟は決められるし、意見を求められることも求めることもなし、、、兄弟いる人はもうこの際一人っ子と思ってしまえばどうでしょう。いくら言っても何もやらない人はやってくれませんし、、、。介護のヘルプを頼むのも身内よりも他人(介護サービス)に頼む方がずっと気が楽ということが多いです。

脳梗塞で倒れた母。きょうだいが分担して母を支えたいけど、次女は母に兄と姉と比較され「お前はダメだ」といわれ続けてきたため、「私は手伝いたくない!」と介護を断固拒否。

介護から逃げる他の兄弟に親が金を使うからムカツク。

介護から逃げた他の兄弟が、下宿までさせてもらって、大学院まで行かせてもらったから、ムカツク。

介護から逃げた他の兄弟が、家を買うとき、大金をもらっていたから、ムカツク。

人間はとにかく必ずいい面と悪い面がある、一人ッ子は親になんでもしてもらえるからいいとかなるしでも兄弟がいないと人間関係がうまく築けないとか介護でも一人になって困るとかなる、でもここでも兄弟が協力してやることはなかなかない

その原因が

脳梗塞で倒れた母。きょうだいが分担して母を支えたいけど、次女は母に兄と姉と比較され「お前はダメだ」といわれ続けてきたため、「私は手伝いたくない!」と介護を断固拒否。

兄弟でも良くされた人とされない人がいてそれが後々まで尾を引いている
その確執が意外と大きいのである、また遺産分配でも必ず兄弟でもめる
だから一人ッ子も問題だが兄弟がいても人間にはもめごとがある

その人は一人ッ子の娘がいるが親ともめて親にもう来るなと言ったという
糖尿病でその治療にも金がかかる一人で暮らしている、でも今家事でも一人でしている
確かに娘は隣の市にいて一週間に一回くらい来ているようだ
でも金は娘が管理している、それで毎日親しい女性が行っていてその女性も金に困っているので金を工面してやりたいができないという
その娘は一人ッ子でありなんでも与えられたとかかわいがられたという
一人娘だったら余計にそうなっていたかもしれない
でも介護になったら親を嫌がり金を出すのも嫌がっている
そして世話する女性への配慮もないのである

一人っ子だと何でも親に良くされたのだからそうならないはずだがこの場合はそうではない、私の場合は親二人を必死になって介護した、それは特別良くされたからである
それは60才までもそうである、だから必死になって力足らずでも介護した
自分が病気になっても必死になって一人悪戦苦闘したのである
それは特別良くされたことによる、今でも二人の親のことは供養しつづけている
親のことが忘れられないのである
ということは親が死んでも自分の心の中に生き続けているとなる
それは特殊な事情でそうなったのである

介護で90パーセント以上も介護で兄弟でも親子でも仲が悪くなる、それは介護をしたくないからである、それが相当な負担になる、金銭的にもなる
その一人っ子の娘はケチなのである、親のために金を払いたくないのである
だから世話している女性がいたとしてもかえって必要ないともしている
何か財産をとられるのではないかと警戒しているみたいだ
こうなるといくら一人っ子でも親が来るなともなる、これは娘が悪いとなる
でも介護ではなにかしらもめる、その負担が負いたくないからそうなる
だから兄弟でも一人ッ子になった気分で介護しろというのもそうなのかと意外である

ともかく介護時代でもある、だからこれからますます介護でいろいろな問題が起きる
それで事件が起きるのも日常的になる、負担になり自殺者まででる
つまり介護はもう家族だけでは担いないものにもなる
でも逆に今だと核家族化して家族だけでは介護が負担しきれないことにもなっている
それで家族遺棄社会にもなる、親が子供に捨てられるとなる
でも捨てられるにしても誰かがめんどうみなければならないということにもなる
二カ月間も死んだのがわからなかった人がいたがそういう人は死んだ時迷惑をかけても
介護などしてもらわないで死んだから迷惑はかけていないからいいのかとまでなる
そもそも誰も介護してくれる人がいないからである

介護の問題で大きいのは意外と介護は死後まで継続されていることである
死んだら介護の負担は終わる、でも実際終わっていないのである
なぜならその後に供養の問題があり死者と向き合うことになるからだ
それで非情化した娘は育ての親を見捨てた
その人は「ひどい娘だわ」と自分に言い残して死んだ、病気になってすぐに死んだからいい、その娘は介護などできないからである
でもそうして死んだ親を供養できるのか?とてもできないと思う
別に死んだら墓参りとか供養などしなくてもいい、誰もとがめられない、でも何か良心がとがめられるかもしれない、誰も見ていないとしても死者が見ているからまともに墓参りとか供養ができないとなる
ただその娘は三人親が変わった、でもその人には親はいなかったとなる
父親は別として母親はいなかったとなる
ただそういうことはどうなるかというと必ずカルマとなって苦しみとなって現れる
つまり今度はまた子に捨てられるともなる、それはわからないにしてもカルマの法則がありそうなる

なんらか人間は必ずカルマを背負っている、その総決算が60以後に起きる
例えば若い時の不品業とかも若気の至りでもそれが悔いるものとなりカルマとなり苦しみとなって現れる、そしてカルマをもたいない人は一人もいないと思う
別に金持ちの家でも恵まれた家でも何らかカルマを持つのである
つまり恵まれたことがカルマともなるのである
兄弟でもお前は親に一番良くされたのだからお前が親の介護をしろとされるのそうである兄弟でもそうして親に持つ感情は違っているからである

結局人間は必ずいい面と悪い面がでてくる、一人っ子はいいと見られても介護で他より苦しむ、では兄弟がいればいいかなとなるとそれも必ずもめる、だからすべていいとはならない、自分の場合は本当に死ぬほどの苦しみを介護でしたからである
それもそれだけ良くされたから自分はその苦しみを甘受できた、気持として介護することは苦しくてもできたとなる、そういう気持ちがあったからである
でもみんなそんなふうにならないのである、だからもめるのである

でも介護の問題のむずかしいのは介護終わった後も終わらない!

これが意外と深刻なのかもしれない、別にもう介護もふる必要もないし迷惑もかけいなのだからいいじゃないかとなるがそうでもない
死者を供養するということがその後にある、その死者とまともに向き合えるかである
「あなたは私に冷たくしましたね、それを私は覚えていますよ」とかなると供養もできないとなる、良心がとがめられるとなる
死者は必ずしも完全にいなくなったわけでもない、死者は冷徹に生者を見ているのであるだから死者の前には偽ることができないのである
それで介護で苦しんでも早く死んでくれとなるのが普通だが死んでしまうとみんなもっと良くしてやればよかったと反省している
それはなぜなのか?死者とはもう二度と逢えなくなるからである、だから後悔するのである、今度は何かしてやりたくてもできなくなるからである、死んだ人には供物をささげるくらいしかなくるならからである、死者はもう答えないからである
でもは死者というのは依然として生者の中に生き続けている

もちろん全く忘却される人もいる、それは生前のことが関係している
生前死者とどういう関係にあったとか、愛されたのかとそれ以外にも様々な家庭の事情があり死者との関係があり他者からわかりにくい、でも死者は生者の中に生き続ける
もしそうして生きつづけるなら死者は死んでいないのである
でもそうなるかどうかは生前の死者との関係によるのである
死んだからとして急に死者を思ったりしないのである、生前から互いに愛し合うとかあればやはり死者は生者の中に生き続けるのである
ただそれぞれの家族は複雑であり他者からわかりにくいのである
それで簡単に家族のことを批判はできないとはなる


威厳ある死者

死者は石のように硬い
雨風に打たれて死者は耐えた
死者は苦しくも生き抜いた
死者は堅く口を閉ざす
その前に生者は偽ることができない
死者は冷徹に生者を見つめている
生者は常に卑しめられる
しかし死者は今威厳あるもの
それは宝石のように硬い
その前に偽ることはできない
死者は生者に金を求めない
何も求めない
死者はもう餓えることはない
ただ真の心を求めている
死者と向き合うことは
自らを正さねばできない
死者に偽ることはできない
その前に人は厳粛であらばならない
死者はすべて消えるにはあらじ
依然としてその生を継続している

2022年09月06日

年金が月5万未満が四人に1人 (生活保護も平均7万とかもう国では支給できず捨てられる老人)


年金が月5万未満が四人に1人

(生活保護も平均7万とかもう国では支給できず捨てられる老人)

年金受給額、4人に1人は月5万円未満の衝撃。「自助努力」で生きていけない高齢者を見殺しにする社会がやってくる=鈴木傾城

これは相当に深刻である、現実に国民年金が4,5万の人が結構いる
それで生活保護になって援助されるのは医療費であるがこれも2,3割事故負担なのである、生活費は5000円くらいしかもらえない、なぜそうなっているのか?
一応年金が4,5万もらっているからもらえないのである
ただ生活補助として医療費が援助されているだけなのである
これは自治体の財政状態によって違うにしろこれからの老人は年金では生活できない
だから70以上でも働いている人は結構いるとなる、働かざるをえないともなっている
元気な人はいいが体が弱くなった人は働けない、どこかしら体が痛んでいるからである
そして貯金もまたない人が多い、確かに四分の一は年金が4,5万であり毎日の食糧に事欠いている、食べることもできないのである
それで援助してくれとなる、でも国ではもう援助できないのである
国自体の財政が苦しいから援助できないのである

だからそういう人はどうなるののか?

息子娘に頼るにも頼れない、生活が苦しいかである、その女性は74才で娘と孫と一緒に暮らしているが生活が苦しいからと草むしりとかの仕事を大工さんの補助としてしている仕事としては毎日ではない、その人は草花にプロのように詳しい
だから庭作りと庭の草むしりとかに向いている、もともと農家で仕事した人は野菜作りでもしているから花にも詳しいのである、花も肥料とかかが関係してくるからである
ある人はスーパーで三時間働いているとかいるし藤倉ゴムのゴルフ用品を作る工場で三日とか働いている人もいる、まず60代になっても70代になっても働かざるえなくなっているのだ、でも体が弱って働けない人もいる

だからもうそういう人は誰にも頼る人がいず見捨てられるともなる、国でもめんどうみきれない、それだけの国には財力もなくなったし日本の経済が相当に落ち込んでいるからそうなった、私の母親は60になり三万の年金を国から無料でもらっていた
5年待つと5万もらいたとか悔しがっていた、それは全く積み立てていなくてももらったのである、その時に国には余裕があったからできたのである
今はもうできない、するとそういう人達はどうなるのか、年金5万で暮らしている人のことを語っていたがとても無理である、なぜなら電気ガス水道携帯料金でたちまちなくなってしまうからだ

その人は果物は高くて買えないとか10円でも20円でも安いものを探して買っている
味噌とか醤油でも高いと感じるのは相当に苦しいとなる
ただ果物は日本では特別高いというのはわかる、外国で半分以下とか安いのである
日本の果物は理由があって外国より相当に高いのである
私はオレンジを買っていたがやめてジュースにした、果物は本当に高いと思う
バナナくらいが安いのである、ただリンゴは健康のために食べているがこれも高い
私は食費を一か月六万かかっている、それを一万とかにしている人も多い
それは考えられないのである、まず果物などは買わないだろう、外食もしないとなる
食費は最低でも3万くらいかかるだろう、そうでないとまともな栄養がとれないだろう
だから医者に栄養をとれと言われてもその人できないのである

つくづく感じたのは老後は年金がいかに大事なものかを知った、なぜなら年金は死ぬまでもらえるし保証される、貯金はあってもある時ゼロになるかもしれない、預金封鎖も騒がれたりするからである、でも年金はもらいのである、そうなると安心だとなる
本当にこうしてもう誰からも援助がなく生活できなくなる老人が増えて捨てられる時代になる、生活保護に頼れといってもできない、7万が平均だとしてあげてくれと騒いでも国では支給できないのである、その人達は子供にも頼れないのである

何かそういう人とと付き合っていると援助する方でもぜいたくができなくなる
毎日そういうことを聞かされると果物を食べているのも悪い感じになる
なんでお前は贅沢できるのかともなるからだ
だから貧乏人と金持ちは付き合わないともなる、贅沢ができくなるからである
生活レベルさえ落とさなければなくなるからである、そしてそういう金持ちも常に今度は金をねらわれるし財産でもねらわれるから危険になる
それは極端な格差社会では外国では金持ちは鉄条網で囲い私兵までやとって守らなければなくなる、そして国は分断されて衰退するのである

日本は今衰退国家になっている、だから国で老人をめんどうみることはむずかてくなっている、でもこれだけ老人が多いのだから医療費の負担も増大してゆく、でもそれすらできなくなる、そして弱った老人は死んでくれともなる
団塊の世代は高度成長時代は労働力として必要だったが老人になれば必要ないとなる
特に弱者は金がないとか体が弱ったら必要ないともなる
それは余りにも数が多すぎるからそうなったのである、無慈悲だとかではない、数が多すぎてめんどうみきれなくなったのである
でも人間はどうしても老人になっても生きたいとなる、その人何か生活が苦しいから死にたいとか言っていたが最近生きたいと言っている、やはり死にたいという人は自殺しないというのは本当だろう、人間はどうしても生きれる限り生きたいとなるのが人情である
社会がどうあれそうなるのが生物の本能だからどうしようもないということである
ただ長寿が悪いことではない、自己実現するにはいい社会である

長い時間がありそれで自分のしたいこと才能をはぐくむことがてきるからである
まず学問であれ芸術であれこれは究めるには長い時間が必要なのである
それでこれまでは「少年老い易く学成り難し」となっていたのである
あっというまに白髪となり人間は老いて死んでいたからである
そういう点で自己の才能開発とか自己実現には高齢化は悪いことではない
ただ高齢化社会とはあまりにも数が多すぎることなのである、それが全体的に社会の負担になっているのである、デジタル化できないというときもそうである

不思議に近くのスーパーで支払いを機械で自動化したけど依然としてレジに並んでいる人が多いなとみる、若い人でも多いのである、覚えれば簡単だけどしていないのである
この理由もわからないけどやはりめんどうでしないのか?
ともかく老人は新しいことをしにくいのである、だからこれだけ老人が多いということは社会が停滞するということになる
親の遺産を受け継ぐにしても60代でありそうなると新しいことをするにもできなかったとなる、そういうことは会社とかあらゆる分野で起きている
老人が権力を持っていて若い世代が経験できず成長できないのである
もちろん若いということはすべていいことではない、どうしても経験が欠けるからである識見にしても老人の方が上である、でも全体的に見れば老人がこれだけ多いということは停滞するということである

確かに未だにハンコを使っているのは日本くらいになるのか、日本は最先端の国だと見ていたが今になるともはや先進国ではない
いち早く西欧化したけど今や技術しにても中国でも韓国にもぬかれている、なぜ高度成長があったというと実は日本の実力ではなく幸運だったのかとなる、その技術にしても日本人は凄いとなっていたが実際はもともと物まねであり日本人の独創でなったものではなかったとなる、日本人独自の発明ではなかったとなる
物真似ということはやがて他の国も真似て作れるものだったとなる

でから家電製品は中国でも韓国でも安く同じ物を作れて売れなくなったのである
日本は何か新しいもの作るには不向きであり物まね国家だったとなる
それが高度成長があり日本は凄いとなりそれが実際は物まねに優れていただけだとなったのである
ただ日本の良さはインパウンドの観光だけだとかなる、日本には他にない自然の美があり日本文化が売りとなる
その他資源もないので魅力がないとなる、それでも日本の文化があるから観光が売りともなる
だから日本語を捨てて英語にするというのはありえない、そうしたら日本文化そのものの消失であり日本はあらそるものが外国と同じになり観光さえ魅力がないともるかもしれないからだ
言葉が文化の基本だとするときそれがなくなったらあらゆるものが日本がから失われ日本は日本ではなくなる
もちろん英語は必要だとしても日本語を捨てろというのは暴論になる
これが経済がこれほど落ち込まなければそういうことなかったのである、文化よりもパンの方が大事、花より団子になる
まともに食べられないとしたら文化とか芸術どころではななくなるからである



2022年08月25日

墓にまつわる話 (母の実家の墓と兄の墓の物語-金金金のこの世の地獄)


墓にまつわる話

(母の実家の墓と兄の墓の物語-金金金のこの世の地獄)

●人間最後に残すのは墓

墓は人間が最後に残すものである、でも墓を見てもその人はどういう人生を送ったとかわからないのである、ただ私は必ず墓を見ている、江戸時代のものがあれば古いとして価値あるとして見ている
ただ墓から何か知り得るものは少ないのである
でも身近に関係ある人が死ぬとその墓には必ず物語がある、家族でも死ねば物語がある
墓とは何か死んでも人が訴えるものなのだろう
というのは母の実家の墓は隣の市にあるから良く墓参りしていた
そこには25才で死んだ人が埋まっている、それは母親の兄にあたる人である
肺病で死んだのである、その頃肺病で死ぬ人が多かったのである

それも若い人だったから悲劇だったのである、啄木でも正岡子規でも宮沢賢治でもみんな肺病で若死にしている、肺病は国民病とも言われていたのである
それが悲劇だったのは若い時に死ぬからである
だから20代で死ぬというとき肺病が多かったのである
それでその墓の前に立つと必ずそこで25才で死んだ人のことを思っていたのである
そこで何か心苦しいものを感じたのである
他にも若くして戦死した人の墓もありそれで戦争のことを思うのである

墓はいらないとか海に焼いた骨の灰をまくとか樹木葬だとかなるのが昨今である
でもそうなると墓がないからその人のことを思うことが具体的な物を通して思うことができなくなる、ただ別に墓がなくてもその人を思うことはできる
写真でもいいし墓だけが故人を偲ぶものではない、ただ最後に人間は墓に埋まり訴えるものとしてあるとなる、普通の人は何か作品でも残さないし忘れるられるからである
ただ墓からだけではその人がどういう人生を生きたかなどわからないのである

●分裂不和の母親の実家

ともかく母の実家は分裂不和の家であり争いの家でありそれが後々までも死後もひきづった、それがカルマとなっていたのである
だからその後でももう墓を守る者が一人いたとしてもその人は異常な人間とも思えない人になっていた
ただ実家の墓を守ってくれと言ってめい子に3百万円渡して死んだのである
その三百万円は普通の金ではない、爪を灯をともすようにしてためた金だった
なぜなら共産党員であり赤旗を配って生活していたがその金もわずかである
それで畑とか作って自給自足していた、最低の生活をして金をためていたのである
その人は母の実家では長男にあたる人だったので死んだら墓を守ってくれと言って
三百万円めい子に渡したのである、でもそのめい子は普通ではない、人間なのかとも疑った、非情化した人になっていた

それで育ての親が私に最後に「ひどい娘だわ」と恨みの言葉を残して息を引き取ったのである、白血病でありすぐに死んだから良かった、そのその娘は介護などできないからである、それが救いだったのである、なぜそんなふうになったのかその事情はわからない
ただ私の家にきて「おばちゃんは金あるだから金でめんどうみてもらへ」と言って激怒して去って行った、その人は別に何もしないし何も要求しないのである
もともと関係が希薄だし子供の時一回合ったとかしかないからである
でもそうして血相変えて去って行ったことでひどい娘だわということを自分も思うようになったのである

つまり育ての親は私に恨みを残して恨みを晴らしてもらいたいとまでなっていたのであるでも私の家では兄弟でもうまくいっていないし付き合いもなかったのである
でも最後に電話してきたのはよほどひどい娘だということを言いたかったからだとなる
その娘は金は入るのである、5才まで一緒にいた実の母親は金持ちの家の人と再婚したので金があった、でも認知症になって施設に入ったのである
そこで金だけで目当てで娘は施設に入れた、でも全く母親と思っていないのである
だからこれも最後に金持ちに嫁いだとしても悲惨だったとなる
その娘には母親という感情がないからである、ただ再婚した相手の夫にも子供がいたからその実の親でも遺産争いになっているらしい、でも認知症になったらどうなるのか?
誰が遺産をもらうのかとなれば実の娘だとなるのかもしれない、その辺のことはめんどうになる

●継母にいじめられた私の母親

とにかく母の実家は父親は警察署長だったのである、だから幼少時は母親は恵まれていたのである、でも生糸の機織り工場を経営して失敗した、警察署長だから成功すると思っていたが会社の経営などできない人だったのである、母親もただ威張っている人だったと言っていたからである、そしてその時母親の実の母は病気になっていて後妻を迎えた
その後妻になった女性はものすごく気が強い女性でその継母に私の母親はいじめられたのである、子供の時弁当作ってもらって残したら実の母親が作ったものではないから食えないのかとその弁当をぶんなげたというからひどい女性だった
でも最後に養老院に入り何か精神がおかしくなり目も見えなくなったのである
もともと字が書けない人で手紙でも書いてもらっていたのである
その頃まだ字を書けない明治生まれの人がいたのである
私の父親は酒屋の丁稚奉公だったが良く字は筆で書いていたのである
葛尾村の出でありどこで字を習ったのかおそらく丁稚奉公した酒屋で習ったのだろうか?明治生まれでも一応字を書けていたからである

そしてその継母は死んだら大学病院で解剖してくれという遺言があり解剖されて私の家に骨が来てその実家の墓に葬ったのである
その前に養老院で何か妄想のようなものを見て苦しんでいて母親が見に行った
そして「悪かったな」と言ったという、やはり継母で私の母をいじめたことを後悔したためだろう
そのめい子になる女性は三人母親が変わったのである、でもかわいがられて良くされたのである、だからそんなに非情な女性になる理由がわからない、ただ私は子供の時一回くらいしか逢っていないから事情がわからないのである

●私の異父兄弟の兄の交通事故で死んだこと

そして私の兄についてだが兄は私の母親が東京で女中したとき結婚した夫の子供であり
私の家に再婚して連れてきた、その時私は五年間くらいあんにゃと言って一緒に暮らしたのである、ただその後父親とうまくいかず家を出て実家で暮らしたのである
その実家で母親の継母がいて五年間一緒に暮らしたのである
でもそのめい子は一緒に暮らしたことを覚えていないという、そんなことありえるのか
少なくとも五年間子供のとき寝食をともにした人を全く忘れる知らないとなるだろうか?そういう非情な人になったのだからそうなったのかもしれない
兄は集団就職して静岡の女性と結婚した、でも離婚した
何か市営住宅を金に困り追い出された、そこでトラック会社に入りトラック運転手になった、でもその会社に入ってから交通事故で40才で死んだのである
その死ぬ前に運転手の仲間と一緒に家に寄ったのである、それが最後に会ったとなる
その時は何か元気でありそこで働いていることは悪いことではなかった
ただ死んだ結果何か豹変したのである

それで私と母親と親戚の人がその会社に行った
そこでまたもめたのである
「遺骨はもってゆくな、墓は作ってやる」と遺骨をもってくることができなかった
別に実家に墓がありそこに入れることができたのである
そしてその社長は乞食のようにして来たのを雇ってやったと恩をきせがましく何回も言っていた、ただ正直私の家では兄を良くしなかったことで強く言えない事情があった
何かそのことで責めて来たのである、第一遺骨を引き取るとか墓を作るとか普通は社員が死んからと言わないだろう
だから私はついていいったが何のことか皆目わからなかった
また保険のことを車が持っていないのでわからなかった、自賠責とか任意の保険のことがわからなかった、任意にも入っていたのである

そこで後でその保険金を会社の社長は欲しいからだったとなる
兄には誰も身よりがないと見ていたのである、それで母親が来たので意外だったとなったでも墓を作り保険を受け取る代理人になりかったのである
私はもう嫌で三日くらいいて去った、兄のことでは私自身が悪いと思っていたので嫌だったのである
その後めんどうだから家では弁護士を頼んだ、ところがその弁護士を頼んだ親戚の人は頼んだだけで百万とられたのである、その弁護士も金しか頭にない人でありそんな金を払う必要もないのに払った、その金は自分の家のものでもないからそうなった
結局他人の金でありそうなった、ただその弁護士もずるいと思った
犯罪でもあったのだ、そして兄が働いた運送会社では休業証明書を頼んだら絶対に出さないともめた、それをなんとか出させたのは弁護士ではなく保険会社の人だったのである
弁護士は何もしていないのである、それで百万を得たとなるのである

●兄の一人娘のこと―兄を知る人は私しかなくなったこと

ともかく兄の遺骨は実家の墓に埋めた、でも今度は実家の墓でもめたので墓から兄のうめた遺骨を取り出して私の家の墓の隣に墓標を建てて埋めて供養することにした
でも墓から取り出した遺骨は土になりなくなっていた、まさに土になってしまったのである、でも仕方ないから兄の墓標は私の墓の隣に建てて供養している
そして娘は私の家に来たのだがこの娘も金のことしか眼中にない、保険金は全部娘がもらうことになった、でも中学生であり離婚した母が病気になり入院したとかで会っていたらしくその金は母親にも使われたらしいがその辺はわからない
一時はその母の弟に引き取られたが嫌になり東京に出たのである
高校卒業して東京に出た、保険金で生活して後は生活できないので生活保護になり一人娘を育てたのである

そして私の家でもめごとがありその娘も家に来た、また母親が死んで墓参りもした
でもその後は音沙汰がなくなった、もともと静岡で遠いので事情がわからなくなっていたただ兄が交通事故で死んだ時児童相談所にあづけられた、一年くらいそこにいたが兄の方にひきとられたがこれまたうまくいかず東京に出て暮らすようになったのである
母は唯一の兄の子であり娘だから死ぬとき認知症になっていてもその孫に何百万やれと私に命令した、それも死ぬ一か月前くらいであり認知症にもなっていたが正気にもどったようにそのことを大声で言ったのは驚いた
それでその兄の娘にその金を渡した、でもその後は音沙汰なしである
もともとその娘も金のことしか関心がない、それで墓参りに来るから十万くれと言ってきた、それを送った後は何の音さたもないし兄の墓参りもしないのである
つまりその娘も金しか関心かなくなっていたのである
ただ静岡でありどういう事情があるのかわからなくなっていた

●兄の墓参りする人は自分だけになったこと

そして不思議なのは兄のことを知っている人はいなくなった
故郷でもいない、子供の時遊んだ人はみんな死んだのである
だから兄のことを知っているのは今や自分だけなのである、なぜならみんな私の家族でも死んだからである、兄には悪いことをしたとしても兄を知っているのは自分しかいないのである、そして墓参りするのも自分だけになったのである
これも墓にまつわる話であり墓というのはその人の一生を語るものだともなる
すでに兄が死んだのも30年くらいすぎた、歳月が過ぎるのは早い
そうしてみんな忘れられてゆく、ただ墓が残って語るとなる、そこに墓の意義があるのかとなる

ただ娘も兄が父親としても苦しめられたから墓参りする気持もないのである
もちろん3百万はらって実家の墓を守ってくれとめい子に頼んだとしてもそのめい子にしろ非情化した異様な女性なのだからとても墓を守るとは思えないのである
ただ一応墓参りはしている、私はこういう事情になり母親の実家の墓参りはしない
何か怖くなったからである、母親の実家の墓とか家族自体が何かまともではなかった
それがカルマとなって自分にもふりかかって苦しんだからである
でもなぜか兄は自分のことを恨んでもいいが恨んでもいなかった
そこが救われたとなる、普通なら恨むはずだがそうでもなかった、何か人が良かったのかもしれない、ただ兄のことについては良くわからなくなっていたのである
でも私は墓標を建てて供養している、兄を知っているのは自分しかなくなっていたのである、故郷でも知っている人もいないのである
こうして墓には長い物語があるとなる、ただ他の人の墓についてはわからないのである

結局人間金金金である、親子関係でも遺産となれば金で争うのが普通である
人間はこの世にいる限り金から離れられない、カルト宗教なども金儲けのためだったとかなるし弁護士でも金だったしその金は自分の家のことで介護になったときも死んでからも金金金だったのである、地獄の沙汰も金次第となるがこの世と延長が地獄だともなる
この世が地獄であり金金金しかないのである、宗教でも表面上は善人の顔しているがカルトとになると金が目的なのである
それは統一教会であからさまに現れたし他でも同じなのである
宗教は本当は極力金にはかかわらないことである、金がかかわると宗教となると汚されるからである

そして金の切れ目が縁の切れ目

こうなって終わった無常である、ただ人間のつながりは愛し合う家族だったら切れることがない、墓がなくても遺影とかあり語りかける、すると笑っている
依然として家族がいる感じになるのだ、供え物として何か語りかける、それが極端になると認知症になると死者は死んでいない、死んだことがわからない、そうして死者と話ししているという、これも認知症だからではない、普通の人でもそうなる
その時死者は依然としていて通じ合っているのである
でも恨んで死んだりした死者はもう心も通じない、いくら装っても通じない
死者は冷徹に見ているからである、だから死んだ後も通じ合う関係になっていれば死んでも通じ合うとなる
墓というのはやはり人間にとって必要であり効用があるから作られた
墓だけが死者ではないにしろやはり墓参りもしなければ親子の縁で切れたとなるからだ
墓とは死者とつながる最後の場だとなる、その墓もいつかなくなる、それではかないともなる、無常となるのである




2022年08月20日

お盆の死者へのお供え物の意味 (実際の物を通じて心を通わせる)


お盆の死者へのお供え物の意味

(実際の物を通じて心を通わせる)

●死者への供え物の意味―物を通じて死者と結ばれる

これは神道の直会と同じような意味で 神様に供えた御神酒や神饌を弔問客でいただき身を清める、という神事の一つでした。
みんなで分け合う、助け合う、共食することで神様やご先祖様の気持ちになって穢れを祓い、平安の心に甦生します。
むかしの人たちは、このお盆や正月は身を清めるような暮らしをととのえていたように思います。

意味の甦生〜お中元〜かんながらの道

このサイトは神道でも仏教でも関連して説いている、宗教といっても他宗をみんな排斥することではない、それで日蓮宗は他宗を排撃するから問題なのである
それぞれのいい点を学ぶべきだとなる

お供え物というときこれは死者に捧げる、でも死者は食べることもできないから無駄だともなる、でも不思議なのは物というものには物が憑くとかモノと心は一体になる
それが東洋的思想である、物と心を分離して見ないのである
仏教でも色心不二となるとそうである、色とは物であり心と一体化してみる

それで死者に供え物するとき何か金を紙幣を捧げることはできない
金でも紙幣でもそぐわないのである、現実社会では常に金である、金の効用は余りにも大きい、でも死者との交流となると死者は金を要求しない、金はいらないのである
すると何が必要かとなると献げるものは果物とか食べ物とか花とかである
つまりそうした果物でも物を献げることで死者が食べないにしても死者の霊がつくという感じにもなる、だから厳密にみると死者に一旦献げたものは食べないともなる
死者の霊がついていて物に霊が憑いているともなるからだ
これは金とか紙幣だとそうはならない、だから死者との交流となると果物であれ野菜であれ物を媒介する

●人間の心をゆがめた貨幣

現実社会でも実際の人間のやりとりは物々交換であった、そこに金が介在したとき歪められたのである、金は便利でも人間の心を歪める、現代ではその金でどれだけ歪められているか格差社会は世界で天文学的になっている
それから人間の心は金によって荒廃している、人間の情も通じなくなったとか何かもう
これが人間なのかとまでなっている
それは物と物を直接交換することではない、金のやりとりになるときすでにそうしたことが起きていた

リディア王国はイオニア地方に隣接、エーゲ海に面していたこともあり、交易が盛んで、商工業も発達していました。そのため、エレクトラム硬貨は古代ギリシャ、ローマへと広がっていき、特にアテネ(古代ギリシャの都市国家)では貨幣経済が発展します

紀元前700年前に貨幣がすでに生まれていた、リデアという場所が貿易が盛んな地域でありそれが地中海を通じてギリシャに広がった
ギリシャのドラクマとかなると古いものに感じたからである

貨幣とはどうしても人間生活で必要だから生まれた、でも貨幣とか金とかはこれも媒介するものでありメデアなのである、人間は媒介するものによって歪められる
真実の価値が歪められる、物々交換だったら実際の物だから物と物のやりとりだからそれで人間的になる、物を市場で直接交換していたら全然金で売り買いするものと違ったものになる、それは経験していないが果物でも野菜でも羊でも交換するときどうなるのか?
その世界は貨幣を通じて物を売買するのとまったく違ったものになる
ただそんなことは不可能だからそういう世界をイメージすることもできなっているのだ

メデアとういとき今では情報を媒介するマスコミとかがあった、それは巨大な装置が必要てありテレビなどになるとそうである、新聞でも巨大な印刷場とか装置が必要だから一般の人はできない、でもインタ−ネットで個々人がメデアを持つようになったとき大きな変化があった、メデアとは媒介するものであり情報でも必ずメデアを通じて知るからであるでもメデアによって情報も歪められる、真実が歪められる、それが問題なのである
本当のことは事件でもその現場に行き直接知るならば違ったものになる
それが外国とかなるともうできないからその情報は歪められる、それがイラク戦争で起きた、油まみれの海鳥が全世界にテレビを通じて報道されてイラクはひどい国だったとなったからである、その衝撃が世界中に報道された衝撃が大きかったのである
情報とは必ず直接知ることはできない、何か事件があったとしても人伝えでも伝える人がメデアになる仲介者になるとき正確に伝わらない、そこで単なる噂(うわせ)でも間違って広がり大きな被害になることもある
つまり仲介するものはメデア自体が問題なのである

貨幣でも物と物をやりとりする媒介するものとして生まれた、でも媒介するものだから物と物を直接交換するのではないからそこで公平なやりとりはなくなった
そして媒介するものがメデアでも巨大な力を持つようになる、金は今や世界を支配する
物と物の直接やりとりではない、天文学的な数字の金がグロ−バル経済でやりとりされている、でも金が数字になり数字のやりとりにもなる、そこで現実感を持てくなくなったのである、そしてそこには大きな不正が生まれる、金融経済で莫大な富を得る人が国でも出て来る、アメリカが覇権国になっているから金が集まる、アメリカ国内でも富の格差が極端になる、それで株式市場の
ウオールストリートとかがで不満なものがデモをしたことでもわかる、株でもうけるのは不正だとしてそうなった

いづれにしろ金は公正にはなりえないものなのである、また報道でもメデアでも公正になりえないのである、それは物だったら物と物の直接交換ではないからである
情報でも直接人と接してその現場で聞くこともできないからである
そこに必ず誤解がありその誤解が世界的になると大問題になるのである
物は本当は交換不可能なものでもある、物の価値は決められない、つまりあらゆる物の価値はもともと神が創ったものである、リンゴがあり桃がありバナナがありそういう価値はもともと別々であり金に換算できない、神がその価値を本質的に作ったのである
だからリンゴがバナナより価値あるとかならない、それはみんな別個の価値なのである
他に柿がありみかんがありとそれは別個の価値なのである、そこに金か介在して価値を決めること自体が歪めたものになっていたのである

●物々交換から貨幣を媒介することで心が歪められた、物と心は一体

お盆というときどうしても死者にお供え物をする、それは物でなければならない、つまり物には心が霊がつく、死者の霊が物が憑くとなるからだ
金にはそういうことはないのである、だからお供え物をお下がりとして食べるときは死者に許しをこうて食べるのである
その果物の価値はあくまでも神が創ったものであり人間が作ったものではないのである
この世のすべての価値はもともと神が作ったものである、だから人間はもともと神からいただいて食べるのでありまた死者に捧げるにしても神からいただいたものを捧げるとなる
そして献げるというとき宗教的なものとして動物を犠牲にして神に献げていた
野菜を神に献げたカインは神は嫌われた、でも羊を献げたアベルは神によみされた
それは羊を犠牲にすることは血も流すし痛みもあるし野菜を献じるのと違う
もともと神に献げるというとき人間を献げていた、アブラハムの息子が神に献げることを神に要求されたからである、それは最も尊いものを献げることでそうなった
それが人間に代わって羊を献げることになったのである
神は傷なきもの汚れなきものを献じねばならない、傷物は献げることは神に対する不敬にもなる、神が求めるものは人間そのものなのである、人間が最も神が創ったもので至高のものでからそうなった、神がそれを一番喜ぶとなるからだ

ともかく死者に献げものをするというとき不思議である、一体献げた物を果物でも野菜でも死者が食べるのかとなればそうは見えない、でもその果物でも死者の霊があれば憑くとなる、それだけ果物でも物には霊が憑くとなる
その果物でも農民が自分の土地で苦労して作ったものですよとして献げればもっと死者でもありがいものとして受け取るとなるからもしれない
それは何も死者だけではない、近くの人が苦労してじかにとれたものを食べて下さいというときうれしいとなるからだ、ただそれを金が媒介するとき歪められるのである
でも別に外国の果物でもうまければいいとなるだけだしそんなことをいちいちもう考えないのである

でもこうして媒介するものメデアによって人間の心まで歪められるということはあった
貨幣というのがそうであり情報の伝達でもメデアを通すと歪められるのである
心が通じくなくなるのである、現代は様々なことでどうしても心が通じくなくなる
そもそも地球の裏側からでも果物でも入る時、それはもうどうして誰がどんな所で作っているかもわからない、心がココからその場所をさしていたというときでもそうである
つまり現代は心と物が分離しやすいのである、それは機械や道具によってもそうなった
機械や道具も媒介するものでありそれで老子が鍬を使うと人間の本来の心が失われると
二千年前に警告していたのである
でも今や機械なしでは生活できないし貨幣なしでは生活できない、でも人間の根本的なものがそうした媒介するものメデアで歪められている、それはグロ−バル化して余計にそうなったのである

●お盆の意義とは何かー介護でも冷たくされるとなると恨まれて死ぬのは怖い

お盆の意義は死者との交流である、祖先との交流である、祭りは死者を祀ることから始まったからでもある、そういう祭りも失われてゆく、すると死者とのつながりもなくなる
そこで起きることは何なのか、心の荒廃である、原発避難区域では神社でも小さな社でも荒廃している、誰もお参りするものがなく神様も死んでいるともなる
それはもともと地域にあり地域の生活の中で生きていたからである
そこに住む人がいなくなれば神も捨てられたとなる、それは神とは違っていても何か荒廃したものを感じた、荒れ果てて神様も怒っているというか不気味なものを感じたのであるそうなったのは原発事故のためだったのである、だから原発の被害は単なる経済的損失だけではすまない、精神の荒廃をもたらしたのである、それはもう修復できない
墓すら人が移住して移動しているからである、墓も多数捨てられたままだとなる
その時死者も悲しんでいるとなる、死者でもそこに長く住んでいて愛着があったからだともなる

お盆も終わったけどお盆にも何らかい意義があり生れていた、ただそういうものき意義も失われてゆく、先祖は別に神ではない、でも死者を供養することは必要である
死者が全く存在しないかとなるとそうとはならないからだ
死者も捨てられれば怒り悲しんでいるかもしれない、だから墓も簡単に捨てられないとなる、墓も物であり供え物も物である、でもその物を通じて物が憑くとなり人間の心が通じるのである、それは贈与とういものがあり物を通じて慰めることがある
何か怒っている人でも物を与えて慰められることがある、それでがまんするとかなる
物は何かそうして犠牲の代償ともなる、だから動物でも犠牲にされたのである
人間の罪を贖うものとして犠牲にされたのである、動物が死ぬことを見て罪の意識を深く感じたとなる、果物とか野菜だとそういうものを感じないからである
動物が苦しみ犠牲になるのは人間にも見えるからである
それで罪の意識を深刻に感じたとなる、キリストでも神への犠牲でもあったとなるからだ神の子羊と言われたのはそのためである

ともかくお盆というときそもそも村とかの小さい共同体で生まれたのである
そこで死者を供養するということで始まった
江戸時代に始まったというとき江戸時代でも庶民は墓がなかった
この辺の近くでホトケッポという所に共同墓地がありそこに村の人は葬られた
でも名前はない、個々の墓はないのである、家族墓ができたのは明治以降であり庶民がみんな姓を持つようになったのは明治以降なのである
ここが誤解しやすいのである、だからもともとお盆は村全体の祭りであり盆踊りは死者も一緒に踊る祭りとされていたのである
その盆踊りもなくなるというとき村という共同体が喪失したことにもよる
農民社会でもないし田舎でも隣の人が何をしているか仕事しているのかわからない時代である
そうなると伝統的なものは失われてゆく、すると先祖を祀る祭りも消失してゆくのであるグローバル化広域化社会になると余計にそうなったのである
何かかえって自分の住んでいる場所より外国とつながりを持つ人が増える
近くの人が困っていても助けない、外国の人を助けることが優先されるとかなる
これもグロ−バル化して起きてきた、それは本末転倒のことでありおかしなことである
それもやはり物と心の分離が起りそういうことに拍車をかけたのである
人と人の心は物と心は分断されたということにもなる

ただ死者と人間の関係でも生前が影響している、生前に親子でも関係が悪いと供養もしないだろう、それで介護が問題になる、介護は苦しいけど介護で冷たくされると恨んで死ぬこともある、そうなると供養できるのかとなる
親戚の人は「ひどい娘だわ」と最後に自分に言ってすぐ死んだのである
私の親戚の場合うまくいっていなかった、だから関心がなかった
でも私に最後に「ひどい娘だわ」と言い残したことが忘れられないのである
実際にその娘は信じられないほどひどい娘になっていたのである
育ての親にしても干渉されすぎたにしろあまりにもひどいと見たからである
そういう人が墓参りできるのか?確かに誰も見ていないが死者が見ている

「あなたはひどい娘だ」そう思って死んだ人を供養できるのかとなる
私の場合は特別良くされたしそれで必死介護した、だから供養しても遺影が笑っている
感じになったから救われたとなる、死者にはもう偽ることはできない
死者は冷徹に見ているからだ、生前は偽ることができる、死者には偽ることができないのである、もう死んでいるしわびても遅いともなるから怖いのである
だから介護が苦しくてもそこに死後とつながっているから怖いのである
もう死んだ時点で何もできない、わびることもなにもできない、それが怖いのである
それで介護は苦しくてももっと良くしてやれば良かったとかみんな後悔しているのである私自身でもそうである、もっと良くできたなとふりかえるからである
ただ自分の場合は自分一人であり自分が病気になって四苦八苦して介護していたかのである

2022年06月29日

人間の考えは老人になっても変わらない (世代間対立は常にあり避けられない、高齢化社会のマイナス)


人間の考えは老人になっても変わらない

(世代間対立は常にあり避けられない、高齢化社会のマイナス)

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人間はそもそも時代の影響からまねがれない、その時代の社会の影響で考え方が形成されてそれが老人になっても変わらないのである
団塊の世代は学校でも平気で先生が体罰していた、それは親でも認めていたからである

厳しい方がいい!

その女性は同年代で団塊の世代とかでも子供は厳しく育てた方がいいとしきりに言うのである、その考えは固定観念化して変わらないのである
でも実際このことに反発している人はいた、それはもっと前の年代だが先生になぐられたとかなんとか80過ぎても恨みに思っていたのである
その先生は死んだけどこうした恨みは残る、私自身もそういうことを先生にさせられたから恨みとなる、でもその時代は親でもそういうことは容認されていたからそうなっていたのである

それより戦前になると貧乏人でも子だくさんであり子供は労働力としてあり親に奉仕させるものとしてあった、だから子供を大学まであげないと普通ではないという時代ではない少年の時から10代で丁稚奉公とかに出された
大工でも12,3歳から親方について修行していた、18歳になるとすでに物にならないとして拒否されていたのである
そういう時代感覚で生きて来た人と今の人とは合わなくなる
だから逆に子供を労働力として親に奉仕させるものとしてみていれば別に子だくさんになってもいいわけである、ただ飯を食わせて後は親に奉仕させるとなるからだ

今子供を産まないというとき少子化の原因の一つに子供を育てるのにただ食わせるだけではない、教育に相当に金がかかり負担になるからである
だからそういう時代感覚でないから少子高齢化にもなっている
実際なぜ団塊の世代とか戦後の焼け野原で食べ物もないのに子だくさんになっていたのかそれが不思議なのである、まともに食えない状態で子だくさんになっていたからだ
そうなると必ずしも少子化とは経済的問題だけではない別な要因があるともなる

ともかく親に口答えするなとか口答えすると殴られたとか8人兄弟の人が言う
親は絶対的な存在であり口答えもできない、地震、神鳴り、火事、親父になっていたのだ家父長制でありそれは江戸時代からつづいたものであり戦前まではそうだったし団塊の世代でもそういうことがあった、子供が多いから子供は粗雑に扱われたということがあった兄弟も多いとそうなる
私自身は特殊な家庭環境になりそういうことはなかった、一人っ子であったことでもそうである

でも本当にひろゆきが言うように親が早く死ぬ時代は自ずと世代の新陳代謝ができていたそれができないのは例えば遺産相続でも60代にもなる、親は80代でも生きているからである、するとそこで代代わりができずすでに60になればもう老人なのである
自分自身も60代で親の遺産を受け継いだが遅いとなった
自分で金でも権力でももたないかぎり自分なりのこと新しいことはできないからだ
だから高齢化社会はとてもこれだけ老人が多いということは改革ができないともなる
それは社会全般のことであり個々に違っていても社会全体としては停滞する
なぜならどうしても老人は保守的になるからである

経済的にも年金問題でもこれだけ多い老人に費やされる金が膨大なものでありそれが下の世代を圧迫するのである、もう病院通いが仕事になっている老人も多いからである
そこで医療費も膨大なものとしり下の世代を圧迫するのである
またシルバー民主主義となり老人の一票も若者の一票も変わらないからどうしても老人の意向にそった政権ができるのである
そもそも多数決の民主主義は公平にならないのである、それが政治に歪みをもたらしているのだ、全部同じ一票にしていれば誰も責任などもたない、どうせ一票など投票しても何の変化もないとなるからだ、だから選挙にしてもすでに投票する前に組織利権団体票で決まっているとなる、創価などは確実に固定票がありそれは頼りになるが後は頼りにならないとなる、民主主義はそれで限界にきている

ともかく人間社会は必ず世代間の対立がある、親と子供は対立する、反抗期があるというのもそのためである、親に反抗して一人前になるとかなる
それでこれは問題にしろ親が早く死ぬ時代はそれができていた、新陳代謝が自ずとできていた、私の父親は明治生れて古い人間だったが中学生の時死んだから頑固親父旧人間だったから生きていたら対立した、でもそういうことがなかったのは早く死んでしまったからである、父親は酒屋の丁稚奉公だからおそらく自分自身もそういうことを子供の時訓練させたのかとなる、ただ上の学校に上げろと言ったのは苦労したためである

ただ相当に価値観が違うから深刻な対立となったことは確かである
これは私の家だけではない、どこの家でも起りうることである
それで幸福の科学の教祖の息子が対立していることでもそうである
普通はそうあるべきなのである、カルト教団にそまりまるでヒットラーユーゲントとなり結局親のためにとかなり一生はそのため費やされた人もいる
でもその一生をふりかえったかときどうなるのか?親に反抗して自分の道を進むべきだったと後悔してももう元にはもどれない、そういうことは親と子の間に必ずある
医者になれと言われても自分には向かいなと自分の道を行くことでもそうである
そこに必ず親と子の確執が生まれるのである、それが人間社会で普通のことなのである
それが無い方が異常なのである

何か引きこもりとか否定的に見るが確かにそういう面がありマイナスも大きいのだがもしかしたらこれも時代による生き方なのかもしれないとなる
というのは自分自身が引きこもりだったからそうみる、これは奨められないにしても
余りにも引きこもりとかニートとか多すぎるのである
それは当たり前のようにもなっている、田舎でもなぜか多いのである
だからこれは特殊なアウトサイダーとかではない、一般化した現象なのである
時代が作りだした現象だともなる、それを否定的に見るのは古い世代だともなる
私は引きこもりだったからそれを理解するのである

ともかく世代間対立があるのが人間社会では普通でありそれがないことこそ異常だとなるでも高齢化社会ではどうしても改革ができない、新しいことがしにくいのである
親が90までとか普通に射きる時代はなかったからである
すると親がいつまでも実験を握っていて子供は何もできないとなる
やはり金でも権力でももたないと実質は何もできないなるからである
そして経験も積めないことが致命的になる、なぜなら経験こそが人間を作るのであり
ともかち試してでもいいから経験させないと金でも権力でももって実際にやらせてみないと人間は成長しないからである
その金と権力が依然として90でも老人が持っていることで世代交代新陳代謝できないとなる
ハンコでもなくせないのは老人社会だからである、ハンコになじんでいるからデジタル化できないのである
どうしても老人はデジタル化は苦手だからである
私はパソコンをしていてもスマホとなるとめんどうになる、絶えず操作していないとならなくなりめんどうだったからである

ただ若い人はすべていいとはならない、老人は熟慮してあらゆることを深く理解してみる若い人にはそれができない、ただ経験を積ませることは大事である
なぜなら人間が生きる時間が限られている、たちまち時間は過ぎてしまうからである
それできついことは若い時にしておかないと後でできない
たちまち老いて金と暇があっても今度は体力がなくてできないとなる

結局少子高齢化は歪であり成長を止める、第一みんな優れた人でもない普通に生きている人達である、それでただ毒口をついて回りに迷惑をかけることで存在を示している老女がいたり迷惑老人となるのである、それは余りにも老人が多すぎることなのである
優秀な老人が少数だったらこういうことは起こらないのである
でもこれはどうすることもできない、早く死んでくれと言っても死なすこともできないしどうにもならないとなる、ただ団塊の世代でも死んでゆくことを待つほかないとなる
その後に新しい社会が作れるようになるのを期待するほかないのである
なぜなら老人を邪魔だとして殺すわけにいかないからである

2022年06月26日

NHKの一人で最期まで家で暮らしたいの感想感想 (一人暮らしは病気になると地獄になる)


NHKの一人で最期まで家で暮らしたいの感想感想

(一人暮らしは病気になると地獄になる)


これがうまく作っていると感心した、一人で病気になって最後まで家で看取る
それを医者と看護師がグループでしている
一人暮らしの場合は病気が最大の恐怖であり在宅で死ぬことはさらに困難を極める
でもその人は癌でも死ぬ数カ月前までふらふらになっても障害者施設で単純な仕事をして
給料をもらっていた

なぜそんなことまでしているのか?

生きた証(あかし)を残したいという

そんなことが生きた証になるのか?でもその人にとっては最後までそう思ってその仕事をしていたのである、人間は最後は何か後世に自分の生きた証を残したいとなる

その人が何を生きたのか?

それを自らも問い他者も問うからである、この人の人生は何だったのかとなるからであるするとただ単純作業でも最後にした仕事が貴重に思える
体が死に近くにもなっているのに単純な仕事でもしていたということが貴重だとなる
それはとるにたらないものでも何か貴重なものとなる、金で代えられないものともなる
その人は息子とかがいても十年くらい逢っていず最後まで所在もわからず死んでしまった親子でもこういうことがある

それから小笠原先生はこうして一人暮らしでも在宅でも相当数の看取りを経験している
すると体の痛みとかとるモルヒネとかを与えるがそれ以上に最期をどう迎えるのか
子供にも教える、いつ死ぬかが問題ではない、死ぬ前に互いに了解するものがあり
ありがとうと言われて感謝されて死んでいけるようにすることだと言っていた
確かにこれは大事なことである

私は姉が認知症になり何もわからなくなったのかと恐怖だった、でも認知症でも死ぬときは正気になる、母もそうだった、そこに認知症の不思議がある
私は介護で一人悪戦苦闘したが姉でもしゃべることはないが「頭を下げた」何か自分が介護したことに感謝してくれたわかってくれたので最後に頭を下げたことで救われた
実際はわかってくれていたのだなと思ったからだ
その後すぐ死んで意識不明になった、でもそのことで自分は姉と心を通じて姉は死んで他界した、母の場合病院で死んだが死ぬときは毎日病院に行ったが母を看取ることはできなかった、でも写真に出したように母の死に顔は笑っているようだったからこれも不思議だった、何か自分が介護してくれたことを喜んでいたのである
死ぬ時よりその前に何か互いに意思疎通していることが大事だとなる

そして家で死にたいというときある人は子供が生まれたとき木を植えたのである
それは見事に庭に育っている、山茶花とか椿の木である
そういう思い出があり家で死にたいとなる、ある女性は家で死にたいというとき今まで感じないこと当たり前のことが家の周りのことでもその雰囲気を感じて家で死にたいと言っていた、今まで嫌っていたものが平凡なこと辺りの風景とか人が普通に生きて過ごしていることが貴重に見えたという、それは今までは騒音だったから嫌っていたが死が近くなり別な感じになったのである
病院という空間は無機質な空間だから生活の匂いもないから嫌だとなるのである

正直これらの例は恵まれたものである、実際は残酷である、こんなに手厚くする医者とか看護師とか自治体があるのかとなる
私は病院に入院しても看護師から虐待されたとかあるからだ
だからそもそも病院とか恐怖の場所なのである、そこには情もないし人間的なものが喪失しているからである、ただ物のように片づけられるからである
つまり医者でも最後は体を看るのではなくその人に応じた心を看るたとが大事になる
それで最期に逢いたい人がいますかとか医者が訪ねたのである
そして息子でもその人を探したがみつからなかったのである
何か人間が死ぬとき知人であれ近くの人を回って歩くということがある
また兄弟でも遠くてもあいにくとかある、それも不思議な現象であり
最期の別れに会いに行くのかとなる

ともかくこのNHKで放送されたものは恵まれた人達であり多くは違っている
もっと残酷であり捨てられて孤独死にもなっているのが多いのである
それだけ在宅で一人暮らしの人が看れることは至難だからである
ただ今は本当に一人暮らしが多くなっているのだ
あの人も家族と一緒だったのに離婚して一人暮らしなのかと驚くのである
熟年離婚も多くなっている、だから男女とも一人暮らしが本当に多いのである
そういう一人暮らしの家は空家になってゆくのが現代なのである

こうしてむしろ孤独死とか残酷に肉親からも捨てられるようになるのはとにかく介護とか看取りでも負担が大きすぎるのである
それで娘でも夫が脳梗塞になって親に手が回らないとしている、その親も病気なのに娘に心配をかけたくないとして考慮しているのである
こういうことも多いのである、そして余りにもこうした老人が増えすぎたことなのであるするととても手が足りない、みんなで医者と看護師が集まり人生会議とかしているのは
それは最期は身体を看るだけではない心の問題がかかわっているからである
でもここまで手厚い介護をすることはまれなのである
医者は身体を看ても心は看ないからである

要するに人間の最期は死はどうあるべきなのか?

これが大きなテーマとなる、でも数が多くてこんなふうにして看れるのはまれである
すると捨てられての垂れ死にのような人が増えて来る、ただ人間は死ばかり見ていてはわからない、その人が生きた人生が最期に問題になるのである
死が怖いというときもそうである、死を克服するには若い時神を知らねばならないからである、死ぬときそのことを思っても遅いのである
ただ人間の最期は厳粛である、どんな人でもそうなる
死んだら永遠に逢わないからである、それで親が子に恨みを残して死んだ人がいる
その娘は異常だから人間ではなく外道となっていたから人間としてもう通じない獣だともなっていた、もう親と意志疎通するところではない人だったのである
だから病気の時すら見捨てたからである

ただ親子でも絶縁状態になっている人も多いとみた
私には二人の母親がいて尽くしてくれたのである、仕事もしない引きこもりのうな状態でもそうだったのである、それで自由放任となりずぼらでありだらしいないということがあった、でもこうして生かされたことに感謝している、それで死んでからも供養しているのである、子供でも親にひどい目にあった人は親ガチャとかなって恨んでいる
墓参りするしないこともある、親の死に目にも来ないともなっているのである
だからいくら血縁でも親とることはただ子を産むとか食わせるとかではない、それ以上のことをしないと親に感謝しないのである
つまり子を産んだだけでは親にならないということである

一人で最期まで家で暮らしたい

2022年06月23日

歳には逆らえない (元気に見えた大工さんにも老いがあった・高齢化社会の暗黒)


歳には逆らえない

(元気に見えた大工さんにも老いがあった・高齢化社会の暗黒)

その大工さんは頭も禿げていないし体も頑丈でありとても老人に見えなかった
だから大工さんとしてばりばり仕事しているとみていた
何でこんなに元気なのか不思議でもあった
でも今日仕事を終えて調子が悪いと訴えた
それは昨夜が冷えたため体調不良になったのだ

もう一人の女性がしきり昨夜は寒かった、調子崩したと言っていた

その大工さんも見かけと違って意外とその寒さで調子を崩していたのである
だから疲れたとか体の不調を訴えたのである
それで明日は休んだ方がいいと言った

何か見かけだけでその人の体調もわからないものだと思った
その人は何か老化したように全くみえなかったからである
だから68才にしては元気だと不思議だった
でも実際は眠らないとか体調を崩していた
小便でも寝てから一二回あるというとき前立腺肥大症が関係しているかもしれないと言った、私自身が経験があるからだ
小便の異常になるのが多いからである

どうしても60代で必ず持病が出る人が多いと見た、でも今は60代は老人にはならない時代である、75才異常が老人となるべきだというのもわかる
そうはいってもどうしても60代で何らかの持病がでていかにも老いていない元気に見えても老いにさからえないとなる
ただ仕事をしているのを見ても老いたとは見えなかったのである

自分の場合熱中症になりやすいのである、外で紫外線を受けると悪い
それで春でも暑い時があり痙攣を起こすほどの熱中症になった、その時意外と危険があった、老人は熱中症になりやすく死ぬこともある
その原因が体温調節ができないということにある
その人はもともと太っていて汗が出ることを訴える、でも汗がでることがいいことなのである、老人は汗がでにくくなる、それで体に熱がこもり熱中症になりやすいのである

いづれにしろ大工の仕事は体あっての仕事であり力仕事もあり結構68歳でぱきついと見ていた、だから不思議だったのである
でもやはり老人だったのだなと共感したのである
老人はどうしても体の調子が悪いことを訴える、家に来る女性も72才にしてはもう80才にも見えて不調を常に訴えて実際話はできても何もできないのである
それで昨晩は寒くて調子が悪いと言っていたのである
それはその人を前から見ていたからそうなるのも当然だとも思っていた
てもその大工さんはとてもそう見えなかった、それが不思議だった
ただ今はガンになっても十年も仕事をしている人がいる、その人も不思議である
60代後半であり普通に仕事している、その仕事は大工よりは楽である
でも十年も癌になって仕事が普通にでききていることが不思議なのである

ただ癌の治療でも相当に進歩しているからそうなっている
何か医学的に老化しないことを研究しているから人間は百才まで普通に生きれる時代が来るとしている、それもそういう人をみると単なる空想ではないともみる
まず60以降は金がなくても困るが病気になったら終わりである
寝た切りになったりしたらいくら金があってもどうにもならない
そういう人が同年代でも増えている、また死ぬ人も増えてくる

とにかく現代の問題は高齢化社会であり辺りを見回すと老人と病人が多すぎることである子供などめったにみかけないのである、こういう社会は発展性がなくなる
日本が改革できないというときこうした老人が中年でも多すぎることでありそれは保守化して日本は貧困化しても回復できない、新しいことに挑戦できない老人社会保守的な社会になっているのもわかる
例えば以外と親でも90とかまで生きていると後を継ぐにしても財産をもらうにしてもそれが60代にもなるのである、私自身がそうだった、すると遅いから自分なりのことに金を使えないのである、また家を継ぐにしても遅いから自分なりのことができないのである新陳代謝ができないのである、それは家だけではない、社会全体で高齢化社会の問題は
若い人が社会で活躍するのが重要な役につくのが遅くなり経験も積めないとなる
大臣にしてもたいがい60代であり30代とか40代とかいないからである
そこでどうしても時代を変えることはできなくなるのである
未だにハンコとか使っているのはそのためであり日本は老人社会でありデジタル化できないのである

やはりこの高齢化や少子化が大問題でありこのために改革もできない、つまり家でも後継ぐことが遅すぎるのである、すでに60となれば老人にもなってしまうからである
そのことは社会全体でもそうである、若い人が第一線で活躍できないのである
もちろん老人には老人の役割があり無益だとはならない
ただ老人がこれだけ多ければどうしてもマイナスになる
それで毎日迷惑老人に悩まされている老人がいる、その女性は人に毒口ついてそれが生きがいであり存在を示す行為なのである
その迷惑老人の隣の女性は毎日訴えていてもどうにもならないのである
こうした老人が増えていることは間違いない、これからも増える
まさに高齢化社会の暗黒である、やはり世代交代とかしないと新陳代謝ができないのである

そもそも老人でも立派な老人になること自体がむずかしいのである、みんな普通に生きている人達でありおそらく長くなりすぎた人生に対処できずに迷惑老人となる
そして社会は会社を退職したりしたら社会で受け入れないのである
地域でボランティアなどできない、かえって問題を起こして裁判沙汰にもなった人が現実にいる、つまり社会の役に立ちたいとしても社会では受け入れないのである
それはたまたま無人駅のボランティアのようなことをして経験してわかったのである

余計なことはするな!

老人はひっこんでいろ

こうなっているのである、老人の居場所がないのである、老人がこれだけ多いととても立派な老人は少数である、あとは無用迷惑老人になりやすいのである
そして今の社会は消費社会である、老人がボランティアであれ生産的なことをさせないのである
ただ何かはやらない店であれまたどんな店であれ買い物すれば金を使えば喜ばれるのである、金を使う時誰でも歓迎されるのである
でも金がない老人は誰も相手にしないということにもなる
一二割はそれなりに金をもっている、だからその老人は社会に金を使えば歓迎されるとなる、あとは無用迷惑老人であり早く死んでくれとなる

つまりそういう老人は社会の害悪でしかなくなる、それはもう生きていることが辛いとなる、また社会にとっても自分自身にとっても地獄を生きることになるのかもしれない
高齢化社会はいい面があるとても暗黒面が大きいのである
でもこれはなかなか解決しようがない、おそらく人間が長生きするような社会を作れていないしまた個々人でも長寿を豊かに活力あるように生きれないとなる
だからこれから本当に百才人生をどう生きるのが金銭面でも個々人の生きがいとかの面でも大きな問題になるのである、それができなければ高齢化社会のマイナス面が目立ち暗黒になるのである

地震で自分の家を見て大工さんに見てもらったことでわかった、実際見えなかったが相当に中が痛んでいて危険にもなっていたのである
ここが崩れなかったなと恐怖を覚えた、そこが崩れたら家も崩れるとか指摘されて恐怖を感じた、私の家は築50年すぎて老朽化して痛んでいたのである
あちらこちら見たら痛んでいたのである、やはり耐震設計とか断熱材など使っていないので冬は寒いのである、怖かったのは耐震設計でないから地震に弱かった
こうして家も老朽化して人間も老朽化してくる、いたるところ体でも不調になり痛んでくるのである

家も年には逆らえない!

もしかしたら自分の家は今回の大地震で辛うじて耐えたのかもしれない
それはまさに人間が老化することと似ていたのである

2022年06月08日

長くなった人生の弊害 (老人の様々な問題が露骨になるー認知症の対処もある)


長くなった人生の弊害

(老人の様々な問題が露骨になるー認知症の対処もある)


人間がこれだけ長生きする時代はなかった、それとともに様々な問題も生れた
退職してからまた30年くらい生きるしたら長い、そうなると金銭的にもまかなうのが大変になる、不安にもなる、国民年金でも6万くらいしかもらえない、それでどうやって生活できるのかとなる,生活保護なればいいとういが今や最低の生活も保証されていないのである、平均7万だとかでどうして生活できるのか?
医療費無料だとなるが実際は二三割りとられている、それを払ってくださいとなり払えない人もいる、すると医者にもかかれないとなるのである

この経済的問題もあるが老後が長いことはまた様々な問題が生まれている
意外と深刻なのが生きがいの消失なのである
下位者を退職すると会社人間だった人は現代では居場所がなくなる
地域社会などなくなっているし無用人間と化する
何かボランティアをやれとかなるとこれもめんどうで簡単にはできない
地域社会が村のような場所だと生涯現役であり老人になれば長老とかなり尊ばれた
今はそういう共同体もないから会社から退職すると居場所がなくなる
それで膨大な老人が用もなくなり無用化されるのである

それで市営住宅の老女はきらきらした金属をぶら下げて何か一人わめいている
その近くにいる人はいつも見ているから眼が悪くなると言っても話しもしない
何か人を嫌がらせて存在感を得ているともなる
警察でも役所でも連絡しても何もできない、かえって周りの人を訴えて警察を呼んでいたのである
相当に質が悪いにしても何もできないのである

ただこの老女は金に困っているようには見えない、毎月ガス、水道、電気が払えなくて困窮している老人とは違うみたいだ、つまり必ずしも生活困窮していることが問題となっていない、つまり何か社会の役割りが家族での役割もなく何するつこともなく人を困らせているのが生きがいともなってしまう、そうしてしか存在を示せないとなっている
こういう変な老人が増えてくるのも高齢化社会である
長生きがこうしてただ回りに迷惑をかけるだけの存在になる
これは認知症でもそうである、自らの人間としての尊厳も失い回りに迷惑だけをかけるようになる、でも家族によってその対処方法は違う、ただ他人からすれば迷惑になるだけだとなる

また何もすることなくトラック運転手だった人が自転車にのり温泉回りのようなことをしているようだ、別にこの人は他人に迷惑をかけていないから責められることはない
そういう人か旅していて出合った、土地の人に温泉のことをしきりに聞いていたからである
でもやはり何か生きがいがそれで得られるているかどうかはわからない
何もすることなくてそうしているとなる、そういう老人が膨大なのである
ゲートボールはみんなしている、でもそれが生きがいになるのかどうかはわからない
とにかく高齢化社会とはこうして家族でも社会でも無用化した老人が膨大に増えるということである、それがみんな害になるわけではない、依然として働いている人もいるしいろいろだが総じて生きがいが喪失しやすいのである

退職すると自由時間が膨大になる、すると暇を持て余すとなる、その時間が人によるが意外と長いなのである、それで毎日が日曜日になり何をして過ごすのかとなる
それが退職してから30年とがつづくとどうなるのか?
第二の人生を生きることになり金も問題が生きがいをどうして作るのかも問題になる
でも社会的役割と家族の役割でもなくなる人が多い、すると趣味に生きるとかなるが趣味にしてもこれも簡単にできない、相当な訓練の期間が必要なのである
ただ学問とか芸術とかでもたいして才能がなくても積み重ねでそれなりのものになることはできる、でも退職して何も積み重ねがなく一から始めるとしたら苦労だとなる
第一パソコン自体使いこなせないとなるからだ
でも74歳のばあちゃんがスマホを使いこなして孫とゲームしているということもある
それも現代の老人だと見た、でもそれはうまく適応できる女性でありみんなできるとは思えない、でも長い老後をどう過ごすかが意外と問題になる
それを家族であれ社会で見つけることはむずかしい社会だからである
ボランティアなどでも簡単にできない、組織に入り許可がないとできない
勝手にできないし迷惑だとなるだけである

それで膨大な無用の老人がうろうろしている、それで別に社会の活気は生まれないだろうただ奇妙なのは老人でも現代社会では消費ると歓迎される
あまりはやらない地方の店でもお客さんになるのである、だから本当に消費者は王様だともなっていたのである
この辺では原発事故で避難して仮設に入った人が地元に消費して助けていると言っていたけど何か助けられるという感覚はなかったのである
むしろ助けている方だとしているのもこれも現代社会を象徴していたのである
消費者は王様だとなったのが現代だからである
でも消費するにしてもできない人はなんの益にもならないとなってしまうのである
何か有効に社会に働きかけようとしてもできない、そういう村社会があって長老のようにはなれない、むしろスマホであれ何であれ技術的な面でわからずに教えられる方にもなるからである

この家族であれ社会であれ役割喪失の怖いのは認知症になることである
私には二人の女性の親がいたとして一人は95くらいまで家事をしていたのである
する人がいないのでしていた、一人は役所をやめてから何もしなかった
趣味のようなものをしていたがそれは合ったものではない、もともと保健婦などで仕事していた、でも家族の中でも家事をする人がいて何もしなかったのである
料理もしない、何もせずテレビなどを見ていた
そしたらひどい認知症になったのである、その原因はいろいろあるにしてこうして何か家族でも無用化して役割が喪失してそうなったともみる
そうなると頭も働かなくなるからだ、何か生きがいをもってすることがないと頭は鈍化してゆくのである
一人は全く花にも興味もなにもない大正生れで働くことしかなかった
それでも別に家事をしていたので家族で役割があり95才までボケなかったのである
でもそれからさすがに認知症になったのである

だから危険なのは認知症になりやすいのばあちゃんは何もしなくていいですよ
テレビでも見ていてくださいと嫁に言われる人だと言うのもわかる
一見いいようでこれが実際は怖いことなのである、人間は生涯が現役なのがいいとなる
90才くらいで依然としてアナウンサーとかしていた人が批判されていた
世代交代するべきだというのはわかる、社会が停滞するとなるからだ
でも変なのはそうして引退して役割がなくなると認知症になりやすいとなる
例え政治家で悪役でも現役でいることは認知症になりにくいとなる
やはり現実の社会の場で活躍しているからだとなる、老害であれ社会の悪役であれそれで社会で役割がありボケないとなるのだ、だからおかしいことはおかしいのだが認知症いう観点からみればそうなるのである

この認知症になる人が800万人とかなることが現代の大きな問題でもあるからだ
それにどう対処するのか、防御するのかとなると薬とか医療の問題としてもあるがこれがそれだけでは解決しないものがある、それは肉体の病気ではないからだろう
脳の病気でも心の病気のようになっているからだともなる
脳と心は密接に関係しているからである、認知症は病気であってもやはり脳と関係して
心の病だともなるからたぬ、この対処方法も高齢化社会の大問題なのである

2022年05月15日

文系と理系とは何なのかー医者と看護師からみる (高齢化社会で老人と病人ばかりの社会になる異常)


文系と理系とは何なのかー医者と看護師からみる

(高齢化社会で老人と病人ばかりの社会になる異常)

脉をとる看護婦の手のあたたかき日あり、 つめたく堅き日もあり 石川啄木

●医者や看護師(婦)は理系である

病院という場所は医者とか看護師でも理系なのである、でも病院とか病気というとき
それは理系だけの者ではない、医者は確かに化学的知識を詰め込んでいる
例えば小便が白くなっているとき私は血の小便が出ていたから白くなって治ったと見た
これはいろいろ原因があるにしろ腎臓が一時悪くなりそうなったのかもしれない
これは医者が科学的に分析する対象である
基本的に医者は理系の仕事である、化学分析することが多いからだ

でもどうしても私は人間の病気というのは深く人間の心と関係していると見る
でも理系だと常に物体としてまた人間を機械のように見ることがある
それで病院で死にたくないとかなる、そこは心の通わない無機質な空間なのである
そこには愛が通わない冷たい空間なのである、それで女性の看護師でも家族の代わりはできない本で書いたいた、つまり家族のような愛でもって接することができないと言っている、体は診るが心は診れないのである

それで糖尿病の人が半年なのか長い間入院していてかえって食べるもの制限されて食べないことにより病気が悪化したのである、でも退院して家で暮らしていたら回復したのである、こういうことは病気に確実にある、つまり精神的なものが人間には影響するからである、家というのは何か人間を回復するものを持っているということである
ただその人は一人で暮らしているから家族に看護されるということはない、ただ娘が来るからそれも安心の材料だし近くに親身になって話し相手とか世話する女性がいることも
回復した原因ともなる

●人間を物としてみる西洋医学と物と心を一体とみる東洋医学

病院という場所から理系と文系をみると理系が優先される、手術するにも人間を機械のように見てしているともなる、そうでないと普通は人間の体を切りさくことはできないかもはしれない、体にも心が通っているとかなると体を切りさくことができないとなる
それで内臓の移植などはするべきではないとしているのも人間を物体として機械のように処理できないからそうなる、西洋医学はどうしても物と心を引き離してみる
objectとして人間もみる、だから科学技術が発達したとなる
東洋だと日本ではモノというとき物が憑くとか物と心は一体としてみる、物にも心があるともみる、色心不二とかも仏教であり色とは物のことである、それは切り離せないものしてある
理系と文系というとき理系とは人間の心から切り離したものとしてobjectとして扱うとなる、だから人間の体でも部分化して機械のように見るのである、パーツの集合としてみるそれで手術でも体全体より部分の集合として人間でもみる
そこに東西文明の相違があるとまでなる

そして理系の一流の学者である武田邦彦氏が機械ばかりあつかっていると物体ばかり扱っていると頭が冷たくなると自ら言っている、それがなるほどと思った
人間と接しないからそこに人間の情が失われて知的頭脳的人間となり頭が冷たくなるということである、あの人は理系で一流でありまた文系的素養があるからめずらしいのであるそんな優秀な知能高い人間を自分のような文系の劣等生は理解できないのである

●医者や看護師は人間の体に直接触れるから心も伝わる

ただ現代というのは理系的なものが重要視されて文系的なものが何に役立つのかと実用的にならないとして価値が低くされるている、でも病気とかで考えると意外と文系的なものが必要になる、というのは病気なれば必ず医者でも体にふれる
ただ今では機械のみが体にふれて診察するということも起きているから一概には言えないでも人間を診ることは体に直接触れる、するとこの触れるということはどうしても心がそこに通じるとなる

脉をとる看護婦の手のあたたかき日あり、 つめたく堅き日もあり

脈をとるでも看護婦でも必ず人間の体に直接触れるのである、その時やはり看護婦が体にふれられたとき啄木は感受性が強いから微妙に感じたということである
それは体に直接触れられることによって心を感じたのである
だから心というのは目に見えないにしろ体にも影響する、それで江戸時代は医は仁術となっていたのである、それは宗教家にもっていたのである
その時は現代のように科学も技術も発達していないから仁術として医療もしていたとなるつまり体をだけをみるのではない、心まで診るのが医者だったのである

そもそも医療は宗教から始まった、それはキリストでも仏教でもそうである
人間が一番苦しむのは病気だからである、だから山伏でも山に入り修行していたとしても薬草も探していたのである、病気を癒すためには祈るだけではできいなから薬草を探して飲ませたとなる
なぜこれだけ医療が発達してもカルト宗教でも数が多いのか?
それは依然として病気でも治らない病気が多いからである、まず60代になると何らかの持病を持つようになる、でも医療が発達したので癌でも簡単に死なないようになった
あの人はガンなのに仕事を普通にしていて十年にもなると見る
それだけ例え癌になったとしてもそうして生きる期間相当に長くなっている
それは医療が発達した結果なのである

ただ人間というのは物体でも機械でもない、心をもっいる、そして心と体は一体である
病は気からというのもそうである、だからどうしても医者や看護師には愛の心が必要になる、愛でもって患者に接することが必要になる
でも優秀な医者でも別に愛がないことはありうる、それより手術とかなると何か冷徹なものにならないと生身の体を切ることはできないともなる
またいちいち多くの患者を愛でもって接しろといっても疲れるともなる
ただ数として処理することもある、それで議員でも番号で呼ばれて怒ったという人がいたのもわかる、家族ならできるが医者や看護婦では大勢の患者がいるのだから無理だというのもわかる

●理系の医者や科学者がフランケンシュタインになる危険

理系とか文系を区別するときこうして情的なものは文系的なものかもしれない、理系の人はどうしても人間を扱うより無機質な物体を扱う、機械を作る人でもそうである
すると頭が冷たくなるとなる、それは極端になるとフランケンシュタインのようになる
こういう人にも科学者はなりやすいのである、なぜならそこには人間は見えない
恐怖は人間を科学のための医療のための実験材料のようにさえみる、戦争中は本当にそういうことがあったからだ、それは犯罪だと糾弾された
科学者はフランケンシュタインのような恐ろしい怪物にもなりうるのである
そういうことが現代では起り安いのである、人間は物体であり機械のようにしか見えなくなっている、また医者からすれば医は算術となっているのもそうである

だから科学者でも医者でも看護師ですら悪魔的になるのである
相手が弱者化するら余計にそうなる、弱者化するから医者に従わねばならない
それで病院は本当に牢獄であり刑務所に思えた、そこから脱出もできない、でも病院を逃げた人もいた、私も二回入院してそういう恐怖を味わった
だから病院には入院したくないとなる、ただ別にそうはいっても医者とか看護師が全部非情だとはならない、それなりに尽くしてくれたのである
でも虐待されたこともあり恐怖なのである、女性の看護師が家族になれないというとき
やはりそういう限界がある場所だとなる

ともかく理系と文系というときこういう場所でも現実の社会に現れていないか?
啄木は文系であり文系として感じたことを短歌にした、そこに理系の医者や看護婦がいたとなる、そこで看護婦がじかに体に触れることでそのことを感じたのである
看護婦の心を感じたのである、ただ虐待されるよりはましだったとなる
でもこれからこれだけ老人が増えて病人が増えると嫌悪する人が医者でも看護師でも増大する、そういう弱者とばかり接すると健康な人も病的になってくるのではないか?
それは医者とか看護師とかだけの問題ではない

いづれにしろ理系文系のことをみてもそもそも理系と文系とは何なのかわからない
人間社会は様々な作用から成り立っているからである、すべて理系文系にも分けられないのである、総合的なものだからである、ただ文系だと別にどんな大学でも一流でもさほど優劣もなく関係ないように見る、理系は最低でも文系よりは優秀と見る
文系は何かただ遊びの場だったともなるからだ、講義に出るより授業に出るより遊んでいた方の人が好まれた、これも奇妙なのである、それで遊び人になった人がいるのも当然だったとなる、自分自身も三流大学で勉強などしていなかったのである
ただカルト宗教にはまったりしていたり何ら大学で勉強していないのである
でも卒業していたから独学していたとなる、旅ばかりして地理とかいろいろ興味をもって独学していたとなる、正直文系は独学できる、今ならyoutubeで大学の講義さえ受けられる、それも無料なのである、自分のプログでも大学の講義にもなる
それも無料でありいくらでも文系なら独学できる時代になったから文系大学はいらないともなる、ただ大学には大学の効用があるからそれを全部は否定できないことは確かである

●老人と病人が増大する高齢化社会で嫌悪されるのもわかる

現代社会はそうした弱者ばかりに不健康な人ばかりの高齢化社会になったときそういう気分になる、特に若者にはなる、みんな不健康な老人ばかりになる社会というのは異常だともなるからだ、それでニーチェとかの弱者を否定るす超人志向にもなる、それは弱者ばかりの世界になったからそうなったともなる
現実に私を見た看護婦は老人を世話するのを嫌がったいた、だから虐待までなっていた
そういうことは別に病院だろうが施設だろうがある、何かそんな病気の人ばかりと接することが嫌になるからである、それは自分自身だってそうなる、だから虐待が起きるのである、ただその衝撃は大きい、そうされたとき看護婦でも医者でも恨むとなる
それで殺人まで起きたということもあった、それだけとても様々な人に愛をもって接することができないのである、だから実際は病院では患者でも番号であり無機質的な場となるから家に帰りたいとか家族の元で死にたいとなるのが人間なのである

みんないたわってもらいたいのだという社会である、それを否定して超人を説いたのも
現代社会がそうして弱者を優先する社会になったからだともなる
愛とかなるとただ人は愛されることを望むのである、キリストが説いたのは愛する人になれということであり愛される人になれとは言っていないのである
あらゆる人はただ他者を頼り弱者にぼとこし助けるべきだとなるのとは違う
そういう社会はまた健全ではないことは確かである、ただこれは複雑な問題である
でも高齢化社会とはまさにニーチェが嫌悪した社会だということは確かである
あまりにも老人が病人が増えすぎた社会だから若い人から健康な人から見たら嫌悪するようになってしまうのである

社会の大半がみんな老人になり病人になり助けてくれとなる社会は異常だともなる
認知症が8百万になるとかまた障害者の数も多すぎる、かえって弱者でも病気でも精神疾患者が多いというとき病気でない人は異常だともなり責められるとまでなる社会になる
それも異常である、だからどうしても老人とか病人は嫌悪されるということにもなる
だから虐待も起きるとなる、終に精神障碍者を多数殺した若者もいた
何かそういう人ばかりと接していてその人は精神異常化したのだろう
それもまた現代の大きな問題ともなっている、いづれにしろ高齢化社会というのは別に健康的に長生きすればいいのだがどうしても弱者化して病人も増えるのだから社会全体からすれば異常だともなる、バランスがとれないとなる

子供が多くて若者が多い国はやはり健全だともみる、でもロシアでは若い人はが多いからあのようなウクライナで暴虐的な戦争にもなったのかとみる、若いということは血気盛んだからである、とても老人は戦争などできないのである
日本でも団塊の世代の時は子供が爆発的に多かった、それで活気があった、でもその団塊の世代が高齢化して社会自体が老人化して活気がなくなるとなる
だから社会全体の問題としてそうなっているということである


2021年10月24日

介護する人がいない、回りで死ぬ人が増えて来る (8050問題ー78歳は鬼門の歳)


介護する人がいない、回りで死ぬ人が増えて来る

(8050問題ー78歳は鬼門の歳

昨日あった老人は知っている人だった、家の畳を作った人である、でも夫は78歳で死んだ、10年くらい介護していた、その女性を見たら身体がまともではない、体がぎこちなく姿勢が悪い、何かやっと歩いている感じにもなる、腰もちょっと曲がっている
老人を見る場合姿勢をみることである
歩く姿など見ているとこの人は相当にふけてきた弱って来たとみる
もう一人は最近腰が悪いとか足を悪くして不自由になっている
71才だけど普通よ老けて見える、足が悪くしてまともに立てないからつかまって立っている、それはワクチンの後遺症もあった、でも前から腰とかが悪かったのである

家の畳を作った夫の妻は近くの医院で働いていた、その医者のことではこのまわりでいつも話題になっていた、でも死んでから何も言う人がいないのが不思議だった
その女性は7年間手伝いで働いていた、でもその医者が死んでから話題にすることがないので忘れていた、そしたらその息子が死んだという
それを聞いた時その人は東京でやはり医者をしていた、でも父親が死んで医院を受け継ぐということで一時もどったがまもなくまた東京にもどった
母親を看るためだとして戻った、でも母親は施設にあづけられた、その人も死んだ
でもその息子はまだ若いと思っていた、ただここでの生活はしていなかった
だからなじみがないしわからなかった
でもその息子が死んだと聞いた、これも驚いた
歳はやはり78歳くらいである

78歳は鬼門の歳だ

なぜならその隣の人も最近78歳で死んだからだ、その畳屋も死んだのが78才だった
そして隣の女性も突然78歳で死んだ
いかにこの年は危ない歳かわかる、そして78歳にるなと急に弱ってくるという、ここが鬼門の歳であり限界の歳だと示している
そしてその残された女性は婿様と一緒が実の息子ではないのでなんとかと言っていた
おそらく実の娘は死んだのかもしれない、その辺はわからない
でもその女性でも何か見ていると介護状態になるのではないかともみる
どうしても姿勢とか歩く姿を見るとそれで弱ったなと感じるからでる
でも介護する人がいないともなる、娘がいても東京とかに離れている人も多いのである

とにかく高齢化社会とはこうして弱ってくる人が多い、そして介護となるとその人もそうだが息子でも一人で暮らしているとかありいないのも多いのである
8050問題は相当に深刻になる、80歳の親を50歳の息子娘が介護することになる
でも介護するにもその余裕がある人は少ないのである、人手も金もない人が多いから深刻になる

とにかく回りで死んでゆく人が多いとつくづく思う、話題になるのはそうして死ぬ人なのである、例えば知らない人でも俳優でも時代劇を見ていると死んでいたのである
役人の俳優は藤田まことでありその人が死んでいたのである、十年前に死んでいたのである、これもわからないから生きているとして見ていた
三〇年とか四〇年前のドラマだからその俳優でも死んでいる人が結構いるということである、ただドラマは面白いと思って見ている

本当に死が身近になり田舎だと誰々が死んだとかが話題になる
それがあいさつにすらなる、そして悔やみにいちいち行くときりがないとなる
ともかくこれから膨大な死者が出る、都会だと焼き場でも焼ききれないとかも言う
それだけの人が死ぬということである
その前に介護がありそれが下の世代の負担になる、なにしろ数が多いからその負担で国もつぶれるとかまでなる、それほど深刻なのである
回りをみても老人と病人ばかりだとなってしまうからでありそうなる傾向はさらに強くなるからだ、田舎でも都会でも老いてゆく、そのことで日本は衰退して悪化してゆくのである

2021年10月15日

行き場のない老人 (人生百年時代に備えられていない)


行き場のない老人

(人生百年時代に備えられていない)

ただ、定年退職者を取材した時に、私の問いに正面から答えてくれた人たちのなかには、「毎日やることがなくて困っている」、「一番自由な今が一番しんどい」、「家で居場所がない」、「暇になったのに焦る」、「嫌な上司もいないよりはマシ」などと語られることがある。なかには「このままの毎日が続くと思うと、自分の人生は何だったのかと思うときがある」とまで発言した人もいたのである。

これも老後が長くなる高齢化社会の問題である、江戸時代とか戦前とかふりかえればこういう問題はあまりなかったろう、なぜならもうこうなる前に寿命が短いから死んでいた
長生きした老人はいろいろな生きじびきとかなり教えることがあり敬われたとなる
長老となり村でも指導する立場になって役割があった
そして社会自体が今のようにめまぐるしく技術でも進歩しない社会だった
今になると技術の進歩が激しいからかえってパソコンでもスマホでも使えないとなると
時代についていけず取り残される、情報でもテレビとか新聞だけでは通用しなくなっているからだ

そして今は地域とか関係ないのである、田舎でも関係なくなっている
それがわかるのは近くでも何して働いて食べているのかわからないのである
この家の人は何して働いているのかわからない、この辺では原発事故で移り住んだ人が多いので余計にわからないのである
戦後十年だと会社員というのはわずかだったろう、小さな店とか自営業が多かった
だからたいがい近所で何をしているか仕事がわかっていた
竹で篭を作っていたとか精米屋とか漆塗りしていたとか石屋とか大工とか職人でも自営業であり会社員というのはなかった
あとはほとんど農民とか漁師とかキコリとかであった
今は会社員だとするとき個々人とか家業でないからわかりにくいのである

ともかく何か社会でも身近で理解できるものとしてあった
すると親の仕事をみて習い跡を継ぐ人も多かった、職人ですら十代以上つづいていた家もある、技術とか変わらないからそうして続けられていたのである
農業だってこれは変わりにくいものであり家の跡を継ぐことになる
そういう社会は変化がないが老人にとってはいい社会だったかもしれない
隠居するとかで自分の趣味に打ち込むとか若い人に教えることがあり尊敬されていたとなる
技術が変化しないから陶芸などの仕事など子供に教えることができるからだ

今は会社員になったとき会社を退職するとでは何を教えるのか?

例えば自転車屋だったら自転車のことを教えられる、でもそういう仕事はなくなりすべてが会社員になったとき何を教えるのかとなる、退職したとたんに何も用ない人になるのだこれは実際怖いことである、人間は仕事を見て人間をみる
極わずかの人は芸術家などはアウトサイダーになる、そうなるのは社会というのはみんな仕事をもって生活しているからである、芸術家は仕事になりにくいからである
だから今度は仕事をしないニートとか老人は社会で無用のものとされこくつぶしとなる
肩身の狭い思いで暮らすほかない、何か昼間ぶらぶらしていると警官が職務質問したりする、また勝手にボランティアなどすると怪しまれてまた警官が職務質問に来る
ボランティアは意外と簡単にやれないしめんどうなものなのである
そこにボランティアの無責任とかもともと仕事は会社でするものになったとき会社とは会社員が共同でするものであり勝手に会社員でないものが働くことはできない
そういう人は会社にとって邪魔なのである

こうして老人の行き場がなくなる、そしてどこが行き場なのか?
それが医者とか病院なのである
そうして現実に病院通いとか医者通いしている老人が多いのである
それで病院では老人が集まり病気の話をしたりサロンのようになっているというのも現実である
だからつくづくそうして使われる金も膨大になっているのだ
それが保険から出ていて財政を圧迫もしているのである
とにかく老人で盛り上がるのは病気の話なのである
何かその人はたいして病気でもないのに医者に通っているのかともいらない薬も飲んでいるのかとも見てしまうのである
ただそこで老人はいたわられ病気であることによって存在が認められているともなるのだ社会では一切認められない存在でも病気となり医者に認められ病気ではまともに相手をしてくれるとなる、他はどこでもまともに相手にしてくれないとなる
また住宅で底辺層が生活しているがネコ十匹飼っていたり光る金属片を部屋の前にぶらさげてそれが光るので眼が悪くするとノイローゼになっている人もいる
こういう用のない老人は全国で膨大になっていることは確かである
ただ迷惑人間になっているだけなのである、邪魔な老人になっているだけなのである

でも何かしようとすると

老人は何もするな、邪魔だ

こうなっているのである、こういう社会なのである、だから人生百年はただ苦痛であり
地獄だとなる人も多くなる、社会のシステム上でそうなっていることも多いのである
ただ人手不足でシニアも働く社会にはなっている、働かざるをえない社会にはなっているだから70でも働く人は多いとなる、それなら社会に認められたとなるからいいとなる
ただ社会から受け入れられない老人も多い、

ゲートボールの方は面白そうなんですけど、これは退屈で要するに単なる老人界の社交場なんでしょう。若い時に非リア充だった人には辛そうです

あと平均年齢が非常に高いです。70歳以下は居ないんじゃないかな?考えてみたら今の60歳代は普通に働いている人が多いです

こんなふうに遊んでいる老人は眼につく、でもそれは社会に何か貢献するものではないのである、何か家で邪魔になるからそこに行っているとも聞くからである

そもそも人生百年に備えることなど誰もできない、退職してから30年でもあるとしたら相当に長いからである、だから死後が無ければ暇をもてあますとなる
そして社会貢献としてボランティアすることは本当にハードルが高く犯罪者にもされる
そういう人がいて実際に問題になって事件にもなっているからだ
今野社会はみんなでチームを組んでしているのであり勝手にボランティアなどできないのである、するとどこにも自分の場がないとなるのである

人生百年に備えるのにはライフワークを持つことである、生涯エネルギーをそそぎこむものを持つことである、それが収入にならなくてもそうである
私は一切収入をう得たこともないのに芸術とかを追求してきたからである
それで最近みんなアーティスになれということも時代が変わったなと思う
そんなこと団塊の世代とか猛烈企業戦士の時代にはありえなかったからである
本当は昔の仕事は農民でも職人でも一生の仕事でありそこで技を磨いていたのである
スキルを磨いていたのである
意外とこのスキルを磨くことが大事なのである

それがわかったのは全く絵の才能もない自分がパソコンのソフトで抽象画を大量に作ったことである、これは技術があればできる、artは技術なのである
つまりコンピュターが生まれて新たな技術が生まれてできたものなのである
そのスキルを身につけると大量の抽象画ができることがわかった
その素材はインタ−ネット上に無限にあるからそれをソフトで変化させればできるのである、全く絵の才能がなくてもできるのである

とにかく人生百年の問題は今まで経験していないことだからいろいろな問題が生まれる
ただ会社員になっていると会社を退職したた同時に無用化される
それははっきり見えている、その後は用なしのごくつぶしにされるから問題なのである
それは苦痛であり何をすればいいのかとだらだら暇つぶしに過ごすことになる
でも芸術家なら自分の作品の完成に産後まで励むからいいとはなる
ただみんなが芸術家となるわけにいかない、ただ人生百年時代の備えは早めにしていた方がいいとなる、金の問題でも暇の問題でもやはり何か打ち込むものが人間には必要なのである、会社を退職したときその仲間でも生きがいでも失う、でもなかなかその前に備えるのがむずかしいのである人生百年時代を実りあるものにするのは大きな課題になっている
仕事を持っている人は金も必要だか人生百年では勝ち組
仕事の持たない人はごくつぶし、誰も価値あると認めない
金があってもただ食べるだけのごくつぶし

この辺では原発事故で補償金暮らしになった人が多い、その人たちはパチンコとかギャンブルするしかやることがなくなった、それでひんしゅくをかった
でも仕事をしている人がいてそういう人は必要であり価値あるものと認められる
だから金も必要にしても仕事も大事になる
仕事をしていれば他の人も価値ある者と認めるからである
金があっても仕事をしていなければ認めないとなるからだ

人生百年となると教育でも変えねばならない、知的能力の進歩とか何か人間が今までの様な肉体労働だけではない知的な方面での進歩をうながしている、別に特別な人だけではないあらゆる人にうながしている
だからみんアーティストになれというときそうなのである
他にも素人学者になれはかもある、そういう過渡期に起きたことでもある
そこでこれは教育から子供の時の教育から見直す必要がある
自分が好きなのもを早めに見出して一生続けることが大事になる
そこで暗記教育とか受験教育はかすべて実用に結びつくのではない遊びの要素を多く取り入れたものを追求することである、もう読み書きソロバンの時代は終わっている
創造的教育が必要な時代なのである


2021年08月16日

墓はなんであるのか?(墓の効用-恨みを残し死んだ人の墓)


墓はなんであるのか?(墓の効用-恨みを残し死んだ人の墓)

我が墓に誰か知らぬも花を挿す人のありしもありがたきかな

お盆ならみんな墓参りする、だから必ず墓を意識する、墓を意識するということは死んだ人を意識することにもなる
一年に一回か二回死んだ人を意識する、死んだ人を偲ぶ、そのために具体的なものとして墓がある、ただ別に墓がなくても死んだ人を偲ぶということはある
家で遺影が飾ってあるからいつも見ていて死者を偲ぶことは普通にしている

自分の家の墓に誰か花を挿していた、それはいつも挿す人がいる、今日見たら枯れた花をとりはらっていた、でも誰がこんな心使いをしているのだろうか?
それは一人は知っている、私が花を挿していると自分に言ったからである
でもその女性は私の家とそれほど深い関係もないし世話した人でもない
何でそうしているのか不思議だったとはなる
そもそも私の死んだ家族は必ずしも他者に尽くしたという人ではない、ただ自分だけに本当に良くした尽くしてくれたのである
無条件で尽くしてくれたのである、だから普通の親とは全く違っていたのである
でも他者に冷たいことがあり何か意外と病気になっても思う人もなく死後もないと思った
たたで考えたことは墓はなんであるのか?

墓は死者のためにあるとは限らない、なぜなら死者は墓にいるのかどうかも本人でもわからないだろう、死んだら後のことがどうなっているかなどわからないだろう
でも死者に対しては偽れないということはある
何か冷徹に生者を見ている、そういうことで死者が全くいないとういことでもない
何かいるということを感じるからそうなる
例えば生前親でも死者に冷たくした人は墓参りができるだろうか?
墓参りは実際はみんなに見せびらかすものでもない、誰も見ていない所で墓参りする
でも死者は見ているのだ!
すると生前冷たくしたとき恨みを残した人の親でもできるだろうか?

その親戚は育ての親にひどいことをした、それは自分はかかわらないから知らなかった
そんなに実の親ともめたことも知らなかった、第一付き合いがなくほとんど自分の家では交際しないし争っていたともなるからだ
でも最後に「ひどい娘だわ」と自分に電話してきたのである
それもなにか付き合いがないからわからなかった
それがわかったのは自分の家にきて母親が病気で寝ているとき、「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらへ」と血相変えて去って行ったことである
そのこと以来私もそんなひどい娘がいるのかと恨みとか怒りとなり消えなくなったのである、もしそういうことがなかったら何も思わなかったのである
その人は何にも自分の家に来てしていないのである
ただ別に付き合いがないのだからしかたがないとなりる何も頼んでもいないのである

それから母の実家の長男が死んで墓を守ってくれと3百万もらった、それはいいとして
これもなかなか大変な責任があると今では思う、もちろんそういう人だから墓でも捨ててもいい、実際捨てるだろう、何かその実家の墓に埋まっている人など思う人ではないからだ
しかしその人には別に実家から分かれてもう一つ墓がありそこに父親と育ての親が埋まっている、だから二つの墓参りをすることになる
でも「ひどい娘だわ」と一言言って死んだ育ての親の墓参りができるのだろうか?
別にそれは墓参りしようがしまいが誰も見ていないしそんなこと詮索する人もいない
でもその恨みは相当に深いことが自分の家族に対してした異常なことで自分自身も自覚したのである、本当にあれほどひどい娘はいない
何もしないのに母が苦しい時、百万くれたのである
でもその女性は何もしないのである、ただ母が苦しいからそうしたのである
第一近くに住んでいないから何もできないのである
それを私が返してくれと言ったら夫の方で返してくれた
実際何もしていないのに受け取ることは普通できない
断るのが普通なのである

その女性は人非人だった!

にん‐ぴにん【人非人】 の解説

1 人道に外れた行いをする者。ひとでなし。

2 インドの俗神、緊那羅 (きんなら) の通称。その姿が人に似て人ではないのでいう。

もう人間ではないと思った、どうしてそうなったのかわからない、たてだ金では苦労していないしそんなに悪い境遇ではない、ただ三人母親が変わったということでそうなったのか?それにしてもそんな苦労はしていない、むしろ三人の母親に良くされたからである
とにかくどうしてそんな人非人になったのか不可解だとなる

その娘はまた5歳まで暮らした実の親を認知症になった親を施設にあずけている
それも全く金のためなのである、その実の親は金をもっているからだ
でも認知症になっているのだからわからない、金しかその女性は眼中にないから最後に悲惨な結果になったとなる
何か母親の実家は警察署長していたとしても不和分裂の家でありそれは死後もつづいていて自分にもふりかかったのである、カルマとなったのである
だから今は恐ろしいから母親の実家とはかかわらない、墓参りもしないのである
ただ兄が埋まっていたので自分の家族の墓の脇に墓標を作った、交通事故で40才で死んだからである

墓とはななんのためにあるのか?それは遺された人のためにあるともなる
死んだ人はもう無意識でありわからないからだ
ただ残された人が死者を想う時墓参りしたりする、そこで死者と通じ合うとなる
その媒介として墓があるとなる、何もなくなれば海に灰をまくとかなれば何も残らなくなるから墓参りもできないので残された人が困るとなるからだ
ただなんか誰か知らない人が墓に花を挿してくれているというのはうれしいとなる
それは無償の行為だからである、墓参りは実際無償の行為である
何かそれで利益になるということもないからだ

でも偽りの心で死者を想わないのに墓参りで装うことはできない
なぜなら死者はその人を冷徹に見ているからである
だから「ひとい娘だわ」と言って死んだ人の墓参りなどできるのか?
ただ別にそのことはわからない
いづれにしろ恨みを残して死なれると後が怖い、それが自分にその恨みがのりうつりあるインドの哲学者はそういう恨みの念が他人にうつりその人が殺人まで起こすと説いていたそういうこともその一言で自分も感じたから怖いと思った
念は一人にとどまらないのである、怨念でも誰かにその念が移ってゆくから怖いとなる
念の力は意外と目に見えないとしても人間にとっては大きいものなのである

それで介護にもいろいろ問題があるが何か恨まれてしなれると嫌だなとなるのだ
私の場合は一応懸命になって介護したから最後にわかってくれたことで救われた
そうして死後も供養できるのである
ただ自分の場合は特別良くされたことでそうなったのである
それを他者には要求できない、みんな親に兄弟でも良くされないからである

ともかく墓がなんであるのかとなると残された者へ死者を偲ぶためにある
ただ墓があってもそうして怨念となっているとき墓参りができるのかともなる
死者はいないようで冷徹に見ているからだ、それは見えなくても感じる
そうしたら怖くて墓参りもできなくなるのではないか?
「あんたはひどい娘だ、見殺しにもした、私はあなたを永遠に恨む」
こうなって死んだ人の墓参りできるだろうか?
それももう他者にはわからないにしろ偽ることができなくなる

いづれにしろ墓はやはり残された人のためにあり何かひっそりと墓参りする時、誰も知らない見ていないのに墓参りするとき、その人には何かそうした墓参りしなければならないものがある、死者に対して懺悔する人もいるかもしれない、だから墓は具体的なものとして死者のいる場所となり遺された人がかかわる場所になる
そういうことで墓の効用があり簡単に墓がいらないともならないのである

とにかくこうして人間は罪深い者である、ただそれを自覚している人はいない、その信の姿を見たら恐怖になるだろう
動物の霊が憑依したような姿になっている、ただ本人にはわからないのである、自覚できないのである
そんな人がいるというのも子供の時一回くらいしか逢っていないからショックだった
ただ大人になれば遺産をめぐって骨肉の争いになるから同じことがある
人間は金をめぐり修羅となり悪魔ともなる、それがこの世の実相だったとういことに引きこもりの自分は驚き唖然としたとなる
だから自分は人とつきあわないとき幸せだったとなるし人間嫌いなのである
あまにも恐ろしい醜い人間に恐怖するとなったからである

2021年08月15日

10代からの介護の過酷 (親戚でも回りでも誰も助けない―一人に押し付けられる介護))


10代からの介護の過酷

(親戚でも回りでも誰も助けない―一人に押し付けられる介護))

「10代から親の介護で"人生が棒"」定職につけず、恋人に捨てられた30男を鬱病にした身近な真犯人

30歳独身の男性は高校時代から13年間も父親の介護をひとりでしている。父親は脳梗塞の後遺症や糖尿病網膜症などを患い、要介護4。ギャンブル狂の母親は父親と離婚し、パチンコで知り合った男性と再婚。男性は、昼夜を問わない介護で消耗するだけでなく、底意地の悪い親戚や自分の陰口をたたく職場同僚などにも悩まされ、心を病んでしまう――(後編/全2回)。

他者のことは理解しにくい、でも10代からこれだけ介護に苦労するとなるとうつ病にもなる、たいがい認知症の介護はうつ病になる、自分自身もなったからだ
ヤングケアラーというのは大問題である
なぜなら若い時に人生そのものを奪われてしまうことにもなる
何か私も親戚の人が叔父が輸血してくれというときしなかった
30くらいの時だった、その人は恨んで死んだかもしれない、ただその時登山した後で死ぬほど疲れていて死んだように寝ていたのでしたくなかったのである
その後その娘がめい子になる人が自分が介護になったときひどいことをしたのもカルマかともなる、でもその娘は育ての親にもひどいことをしたのだからその娘自体に問題がありその娘はなぜか非情化した異常な人間だったのである

何か介護となると必ず誰か一人にまかせられ後の人はかかわらない、ここでも親戚がかえって責めてきていたのである、自分の場合もそもそも兄弟もいないし親戚というものもいなから余計そうだった
金のことしか頭にないのである、苦しい時金を要求することしかなかったのである
人間はそんなものだと知った、回りではその苦しみを楽しんでいるだけだとなる
この人は若いしプロレスラー希望となると体力もあった、でもうつ病にもなる
私は病気になり四苦八苦して介護していた、でもそこに同情する人は一人もいなかった
私の場合は他に誰も介護する人はいなかった

ただ私の場合は介護する強い動機が強制されなくてもあった、とにかく特別良くされたからである、60まで身の回りでも食事の用意でもしてくれた、引きこもりでもしてくれたそれで自由に旅をしたり勉強したりとできたのである
こういうことは普通はないから特別であり介護になっても認知症になっても必死になって介護したのである
だから若い時から最も貴重な時に介護を強いられるのは過酷だとなる
ただ自分自身も青春時代にしても底辺労働しかしていない、それが悪いともならなかったなぜなら苦労していないのにその時相当に苦労したからである
だからその親の過酷な介護でもすべてが悪い方に働くとも限らない、一つのいい経験だともなる
でも介護は何か実りにならない、介護したからとしてそこで何か時間を有効に使う、仕事のスキルを身につけるとかにもならない、それがのちのち大損失だったということになり親を恨むとまでなる
私は介護は過酷でもそれまで特別良くされたから恨んでいないし今でも親を供養して感謝しているのである
ただこういうことはなかなか他ではありえないのである

いづれにしろ介護は2025年問題があり大問題になる、団塊の世代が介護される側になるからだ、何か近くでも同世代でも脳梗塞になった人を三人知っている
一人は口がきけなくなったとか足が悪くなったとか救急車で一命をとりとめたとかまたガンになった人もいる、60以降病気になる人が多い、自分自身も病気になったからであるその女性は70にしろ息子が三人いても一人は障害者であり一人はまともなのだけど完全に絶縁して捨てている、だから母親が苦しくても関係しないのである
それも身勝手だと思う、なぜなら家族を捨てても誰かめんどうみざるをえないともなるからだ
それが福祉になったりする、捨てることは楽である、でも誰かが他人がめんどうみざるをえなくなることがあるからだ
捨て子の場合は将来かあるからめんどうみるとなるが老人の場合はただ貴重な時間と労力を奪われるだけだともなる
だからもうそうなると家族も家族ではない、他人以下である、何か新しき車を買ったとか言っても親には一銭の金も払わないのである、そして他人にめんどうをみさせようとしているのも腹正しいともなる
そして一人独身の息子がいたとしても金銭的に困っていても援助もできないのである
その母親は他の人より体が弱っている、もし介護状態になったらどうなるのか?
今でも父親は青森の施設にいて備品などの金銭的援助を強いられている
そしてまともな息子は親を捨てているから何もしないのである
家族遺棄社会の現実の例に成っているのだ

ともかく高齢化社会でもみんな健康ならいい、病気になる人が実際は多い、介護になる人も多くなる、その重圧がものすごいのである、それが下の世代にのしかかる
そしてその息子とか娘だけではない孫まで介護に費やされるという状態になる
それから医療費もまたもう限界状態になっている、病気になる人が増えつづけてもう健康保険でも維持できないとなる、だから延命治療自体しないようにもなっている
それよりできないのである、もう治療しているときりないからである
そして医療費は薬でもなんでも高くつくのである、その負担がまた膨大なのである

これからさらに介護地獄がやってくる、そしてもうめんどうみれないと家族遺棄社会にもなる、その金銭的余裕もなくなっているからだ、今の団塊の世代の子どは氷河期世代などであり金銭的余裕がないのである
だからこの人も働かざるを得ない、そして働いたけど介護もしなければならないと両立できなくなり苦しみのどん底になったのである
私ももう苦しみのどん底になっていた、それも一人しかないないからそうなっていた
ただ兄弟とか親戚がいても助けるとはかぎらない、この人はかえって親戚に苦しめられたとかある、親戚でも金しか求めない人も多いからである
何か人間は弱者化するとそこにつけこまれる、というのは相手も借金しているとから余裕がないからそうなる、余裕がない人は助けられないからである
そういう人は自分自身が生きるために必死であり相手が困った時チャンスだとなっていたのである

ともかく親の介護で若い人が自分のしたいこともしないとなる悲劇である
人生が奪われたとなりあとで親を恨むようになる、そして死んでも供養もしないともなるそういう人を知っているからだ、さんざん苦労させられたから親に感謝したりしないのである、そういう人も増えてくる
私の場合は特殊な事情で親に良くされたから必死になって介護したのである
でも普通はそんなに親に良くされないのである
だから普通の親では介護することは苦痛になるだけだとなる

いづれにしろ日本の経済の衰退と少子高齢化社会でをとなるのか、そして中国とロシアが虎視眈々と日本を狙い侵略してくるとかなり内憂外患になる
日本のコロナウィルスもどうなるかわからない、収まりそうにもない
日本は危機的状態でありとてもオリッピックとか高校野球でも東北学院が注目されたが陽性者が出たとかもう中止しろともなる
五輪とか野球とかしている時ではないともなる

ともかくこの人は両親に恵まれなかった、やはり親の影響は大きい、親がその人の進路を決めるともなる、ただ介護で人生まで奪われるとなると深刻である
たいだい親が子供の犠牲になるというのが順序だからである
でも後進国の貧乏な社会では子供は親のために働かされるのが普通である
江戸時代だと親のために娘が身売りされるとかある
だから大正生まれの私の母親は親のために働かされたとかで相当に不満だった
でも自分自身が自由にしたいことができたのは別に実の母親がそうしたのではない
もう一人母親がいてそうできたのである、だからここがなかなか外から理解できない
事情があってそうなった、それで二人の親に自分は介護して今も感謝しているのである

2021年08月10日

お盆に人は死者を思い供養する (神道の神とは死んだ祖(おや)のことである-死者の二柱(母と姉))


お盆に人は死者を思い供養する

(神道の神とは死んだ祖(おや)のことである-死者の二柱(母と姉)

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姉と母死すとも我を支えなむ祀り尊ぶ二柱かな




死者の二柱(母と姉)

人は確かに骨となり灰となり消える
しかし人間は動物とは違う
人は死んでも容易に消えない
その生はなお継続する
我が親なる二人の女性は死んだ
しかしかくも長くも我を支えた二人の女性
今も二本の木となりて支える
その木は長くもこの地に立っていた
その木は切られなくなったとしても
その根っこはやはり残っていた
二本の木は二本の柱のように残りぬ
その木の間にありてなお我は支えられぬ
我が右と左にいつもありぬ
まことに人は見えなくなっても
その生は継続されて消えぬ
我はその二柱に支えられぬ
今もの言わずとも力強くも支えられる
そこに充実あり我は一人ではない
死者一つの柱となり社となる
かくして後の人を支え続ける
我は見えぬ死者の二人の手をにぎる
その時なおも愛は通いあい
さらに強くも結ばれしことをしる





お盆には死者を想う、死者も死んで十年くらいすぎるとどうしても不確かなものになり忘れやすい、現実にいないなのだから去る者は日々に疎しと死者はなりやすい
でも死者を偲ぶというとき実は生前どうであったのか、生前の関係であり生前のことで
死者を想っているのだ、だから実の親子でも親にひどい目にあったとか毒親になると
死者のことは思わないのである
ただひどい目にあったという記憶しかないからである
そうして墓などに全然関心がなくなり放置される場合がある

やたら死ぬときにこだわる人もいる、カルト団体とか仏教関係だと成仏するというとき
死ぬときの相とかにこだわる、そもそも人間はどうして人間を見ているのか?
偉人になった人はやはり生前に功績を残した人でありでたらめに生きた人を評価しない
だから近くの人は誰からも嫌われていた、息子は毒親のために自殺させられたとか言われる
でもその人は死ぬときは簡単にあっけなく死んだ、介護されることなく死んだ
介護する人もいなかったが死ぬとき簡単に死んだのである
人にめいわくもかけず死んだのである、その死にざまは死んだ時の相はわからないにしろさほど苦しまずに死んだように推測するのである
だから死ぬときの相とかが問題ではなくどのように生きたかの方が大事なのである

それは偉人だからというのではない、普通の人でも親子がいたとして家族内で親を大事にするとき何か子供にとって親はいいものだったとなる、親は子供に尽くしたとなり評価して死後も手厚く供養して墓参りするともなる
ただ供養とかは義務だという人もいる、死んでも関係を継続させるためである
ただやはり死者を想うことは供養することは生前の関係で決まる
そもそも死んだら何もできないのだから当然そうなるのである

だから死んだら子供にすぐ忘れられる親もいる、意外とそういうことも多いとなる
つまり親だけでは子供うんだだけでは普通に育てただけでは親を思うことはないともなる何か親でも特別な親でないと供養がつづく死後も思われることはないとなる
実際人間は血縁であってもそれが人間関係を決めないのである
むしろ血縁ではない子供を養子にもらって愛情をそそぎ育てるとその子供は親を血縁の親より大事にする、逆に血縁でも親を嫌い親を親とも思わない子供も普通にいる
だから子供産み普通に飯を与えて育てても子供が必ずしもそれだけで親のことに感謝することもないのである
親でも親のエゴとか見栄がありそのために子供出しにすることが普通にある
親でも子供に無償の愛を注ぐわけではないとなる

私の場合は特殊なことで親を思っているのである、二人の母親がいたともなるからだ
それで私は無条件に愛されたのである、これもだから他者から理解しにくい
それは60歳までつづいた、引きこもりでも何も言われない、好きなことをしていいよとなっていたのである、結局それは特殊な家族でありそうなったのである
だから私は二人の親に支えられたし死んでからも支えられている
生前の関係が継続されて死後も二人の親のことを思いつづけているのである
ただそのために介護とかでは他の人より一人で苦しんだのである
すべてがいいものともならなかったのである

ただ死後のことは生前のことで決まるのであり死んだからと言って特別変わることはない生前の継続して死後もある、だから依然として二人の親は自分を支えているとなるし今度は自分が親を供養して支えるともなる
親でも死んだからすべて尊ばれるとかないのである、それは生前の関係で決まるのである私が親を思う時はそうして無条件に自分を支えてくれたことによっているのである
ただこのマイナス面もあったからすべていいものとはならない
でも二人の親は自分を60までも支えてくれたなとなりそれが理屈ではない、現実として実体として継続されているのである
それがこの詩になる、親でも死者が一柱とか二柱とか表現する
まさに二柱となって自分を支えてくれたから死後もやはり支え続けていると観るのである
こうして親を思うのは私の場合一緒にいた時間が長かったためである
娘でも結婚すると親から離れたり子供でも一緒に暮らさないと疎くなる
親でも子供でも忘れるようになる、結婚したら妻が大事であり子供が生まれたら子供が大事になり親のことより自分の家族が大事になる
すると親であっても家族は別であり離れて暮らすと余計に疎くなるのである
人間はやはり一緒に暮らすことで愛情が生まれる、それが不思議なのは例え憎んでいても一緒に暮らしていることが愛情をはぐくむ
一緒に暮らすことは助け合わないと生きていけないからである、何らか協力することになるからである
結局憎んでいることも愛していることだったとさえなる、愛がないというとき本当は無関心になることであり憎むということでもないということがある
憎むということは愛の反面だったともなる、それは片方が死んでみるとそれがわかるのである、60年とか一緒に暮らしていれば憎んでいても愛していたのだとなってしまうのである

『日本の助数詞に親しむ』中の、「神様の数え方 柱(はしら)」の項目に、「「柱」という字は「木」と「主」からできています。「主」は「そこにじっと立っている、支える」という意味です。
古く『古事記』や『万葉集』の時代から、日本では樹木に神様が宿ると考えていました。さらに、人間は土の中から植物のように生まれ育ったと考えられていて、「人間一人」の別称に「ひとつぎ木」という表現を用いて歌を詠んだりしていました。そこから、樹木が敬意を払う対象となり、ご神体、神像などを「柱」で数えることにつながりました。」と記載されています。

神なびにひもろき立てて斎へどもいはへども人の心はまもりあへぬもの
(二六五七・寄物陳思)

神奈備山に、ひもろきを立てて、大切にするようにしてはいても、人のと言うものは
守ることが出来ないものです。

    巻11−2657

神奈備山→神の降臨する山や森

ひもろき→神の降り代として立てる木

日本神話の天孫降臨において、高御産巣日神(高木神(たかぎのかみ)とも呼ばれる樹神)は、天児屋根命と太玉命(祭祀を行う忌部氏の祖とされる)に、「天津神籬と天津磐境を起こし樹(た)てて、常にわが天孫のために斎(いわ)い祭りなさい」と命じたとされる[1]。

伊勢神宮において

神が依り憑く神籬 (ひもろぎ)として、心御柱(しんのみはしら)を、伊勢神宮の正殿、床下中央部分に建てている

木をたてる時、その木とは死者のことである、神とは日本では死んだ人、親であれまた先祖なのである、つまり死者が一柱二柱というのはそのためである
ここに神道の深い意味があることを知った
こういうことは実感として知りえない、愛する人が死んだりしないと実感できない
神道とはわからないにしても神とは死んだ人であり死者を祭ることに由来している
死者はどうしても神になりやすいからである
死んでから十年もすると何か定かなものにならずまさに守られない、つまり墓でも守れないとなるのがこの世だからである
だからここには神道でも深いものがある、つまり人間は千年であれ古代からこうして死ぬ人がいて死者にどう対処したかが宗教ともなる
日本では先祖が神となるというときもそうである、たいがい死者は神になりやすいのである、八百万の神がいるとしてその神は死んだ人でありその死者を祭ることが信仰にもなっていたのである

常に言う家の柱さしこの家は我が建てにしと誇りけらしも

姉は家の柱は同級生の橲原(じさばら)のキコリだった人から提供されて建てたと常に自慢していたのである、まさに家の柱だったのである
何かやはり神道であれ深いものがあるのは人間として代々生きてきた歳月が長くそこで培われたものがありそれが伝統ともなり受け継がれたからである
ただその意味もわからなくなるし「心はまもりあへぬもの」ものとなる
日本に無数の神社があってもその由来がわからないものが多いからだ
それは千年もすぎれば伝えられないし何のために祭ったのかもわからなくなっているからだ
だから人間は伝統的なものに深い意味がありそれをたずねることでありそして今を観ることである、人間は別に親が死ぬとかは誰でも経験する、でもそうしたことは千年でもつづいたことなのである、そして人間は必ず親でも死ぬのだからその繰り返しでありその時思うことは大昔でも同じようにありそこに残されたものを知り理解を深めるのである

連理木。(れんりぼく・れんりぎ)
http://www.higashiyama.city.nagoya.jp/blog/2020/04/post-4025.html

この木の写真はいい、まさに二つの木が結ばれている木である