2021年08月16日

墓はなんであるのか?(墓の効用-恨みを残し死んだ人の墓)


墓はなんであるのか?(墓の効用-恨みを残し死んだ人の墓)

我が墓に誰か知らぬも花を挿す人のありしもありがたきかな

お盆ならみんな墓参りする、だから必ず墓を意識する、墓を意識するということは死んだ人を意識することにもなる
一年に一回か二回死んだ人を意識する、死んだ人を偲ぶ、そのために具体的なものとして墓がある、ただ別に墓がなくても死んだ人を偲ぶということはある
家で遺影が飾ってあるからいつも見ていて死者を偲ぶことは普通にしている

自分の家の墓に誰か花を挿していた、それはいつも挿す人がいる、今日見たら枯れた花をとりはらっていた、でも誰がこんな心使いをしているのだろうか?
それは一人は知っている、私が花を挿していると自分に言ったからである
でもその女性は私の家とそれほど深い関係もないし世話した人でもない
何でそうしているのか不思議だったとはなる
そもそも私の死んだ家族は必ずしも他者に尽くしたという人ではない、ただ自分だけに本当に良くした尽くしてくれたのである
無条件で尽くしてくれたのである、だから普通の親とは全く違っていたのである
でも他者に冷たいことがあり何か意外と病気になっても思う人もなく死後もないと思った
たたで考えたことは墓はなんであるのか?

墓は死者のためにあるとは限らない、なぜなら死者は墓にいるのかどうかも本人でもわからないだろう、死んだら後のことがどうなっているかなどわからないだろう
でも死者に対しては偽れないということはある
何か冷徹に生者を見ている、そういうことで死者が全くいないとういことでもない
何かいるということを感じるからそうなる
例えば生前親でも死者に冷たくした人は墓参りができるだろうか?
墓参りは実際はみんなに見せびらかすものでもない、誰も見ていない所で墓参りする
でも死者は見ているのだ!
すると生前冷たくしたとき恨みを残した人の親でもできるだろうか?

その親戚は育ての親にひどいことをした、それは自分はかかわらないから知らなかった
そんなに実の親ともめたことも知らなかった、第一付き合いがなくほとんど自分の家では交際しないし争っていたともなるからだ
でも最後に「ひどい娘だわ」と自分に電話してきたのである
それもなにか付き合いがないからわからなかった
それがわかったのは自分の家にきて母親が病気で寝ているとき、「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらへ」と血相変えて去って行ったことである
そのこと以来私もそんなひどい娘がいるのかと恨みとか怒りとなり消えなくなったのである、もしそういうことがなかったら何も思わなかったのである
その人は何にも自分の家に来てしていないのである
ただ別に付き合いがないのだからしかたがないとなりる何も頼んでもいないのである

それから母の実家の長男が死んで墓を守ってくれと3百万もらった、それはいいとして
これもなかなか大変な責任があると今では思う、もちろんそういう人だから墓でも捨ててもいい、実際捨てるだろう、何かその実家の墓に埋まっている人など思う人ではないからだ
しかしその人には別に実家から分かれてもう一つ墓がありそこに父親と育ての親が埋まっている、だから二つの墓参りをすることになる
でも「ひどい娘だわ」と一言言って死んだ育ての親の墓参りができるのだろうか?
別にそれは墓参りしようがしまいが誰も見ていないしそんなこと詮索する人もいない
でもその恨みは相当に深いことが自分の家族に対してした異常なことで自分自身も自覚したのである、本当にあれほどひどい娘はいない
何もしないのに母が苦しい時、百万くれたのである
でもその女性は何もしないのである、ただ母が苦しいからそうしたのである
第一近くに住んでいないから何もできないのである
それを私が返してくれと言ったら夫の方で返してくれた
実際何もしていないのに受け取ることは普通できない
断るのが普通なのである

その女性は人非人だった!

にん‐ぴにん【人非人】 の解説

1 人道に外れた行いをする者。ひとでなし。

2 インドの俗神、緊那羅 (きんなら) の通称。その姿が人に似て人ではないのでいう。

もう人間ではないと思った、どうしてそうなったのかわからない、たてだ金では苦労していないしそんなに悪い境遇ではない、ただ三人母親が変わったということでそうなったのか?それにしてもそんな苦労はしていない、むしろ三人の母親に良くされたからである
とにかくどうしてそんな人非人になったのか不可解だとなる

その娘はまた5歳まで暮らした実の親を認知症になった親を施設にあずけている
それも全く金のためなのである、その実の親は金をもっているからだ
でも認知症になっているのだからわからない、金しかその女性は眼中にないから最後に悲惨な結果になったとなる
何か母親の実家は警察署長していたとしても不和分裂の家でありそれは死後もつづいていて自分にもふりかかったのである、カルマとなったのである
だから今は恐ろしいから母親の実家とはかかわらない、墓参りもしないのである
ただ兄が埋まっていたので自分の家族の墓の脇に墓標を作った、交通事故で40才で死んだからである

墓とはななんのためにあるのか?それは遺された人のためにあるともなる
死んだ人はもう無意識でありわからないからだ
ただ残された人が死者を想う時墓参りしたりする、そこで死者と通じ合うとなる
その媒介として墓があるとなる、何もなくなれば海に灰をまくとかなれば何も残らなくなるから墓参りもできないので残された人が困るとなるからだ
ただなんか誰か知らない人が墓に花を挿してくれているというのはうれしいとなる
それは無償の行為だからである、墓参りは実際無償の行為である
何かそれで利益になるということもないからだ

でも偽りの心で死者を想わないのに墓参りで装うことはできない
なぜなら死者はその人を冷徹に見ているからである
だから「ひとい娘だわ」と言って死んだ人の墓参りなどできるのか?
ただ別にそのことはわからない
いづれにしろ恨みを残して死なれると後が怖い、それが自分にその恨みがのりうつりあるインドの哲学者はそういう恨みの念が他人にうつりその人が殺人まで起こすと説いていたそういうこともその一言で自分も感じたから怖いと思った
念は一人にとどまらないのである、怨念でも誰かにその念が移ってゆくから怖いとなる
念の力は意外と目に見えないとしても人間にとっては大きいものなのである

それで介護にもいろいろ問題があるが何か恨まれてしなれると嫌だなとなるのだ
私の場合は一応懸命になって介護したから最後にわかってくれたことで救われた
そうして死後も供養できるのである
ただ自分の場合は特別良くされたことでそうなったのである
それを他者には要求できない、みんな親に兄弟でも良くされないからである

ともかく墓がなんであるのかとなると残された者へ死者を偲ぶためにある
ただ墓があってもそうして怨念となっているとき墓参りができるのかともなる
死者はいないようで冷徹に見ているからだ、それは見えなくても感じる
そうしたら怖くて墓参りもできなくなるのではないか?
「あんたはひどい娘だ、見殺しにもした、私はあなたを永遠に恨む」
こうなって死んだ人の墓参りできるだろうか?
それももう他者にはわからないにしろ偽ることができなくなる

いづれにしろ墓はやはり残された人のためにあり何かひっそりと墓参りする時、誰も知らない見ていないのに墓参りするとき、その人には何かそうした墓参りしなければならないものがある、死者に対して懺悔する人もいるかもしれない、だから墓は具体的なものとして死者のいる場所となり遺された人がかかわる場所になる
そういうことで墓の効用があり簡単に墓がいらないともならないのである

とにかくこうして人間は罪深い者である、ただそれを自覚している人はいない、その信の姿を見たら恐怖になるだろう
動物の霊が憑依したような姿になっている、ただ本人にはわからないのである、自覚できないのである
そんな人がいるというのも子供の時一回くらいしか逢っていないからショックだった
ただ大人になれば遺産をめぐって骨肉の争いになるから同じことがある
人間は金をめぐり修羅となり悪魔ともなる、それがこの世の実相だったとういことに引きこもりの自分は驚き唖然としたとなる
だから自分は人とつきあわないとき幸せだったとなるし人間嫌いなのである
あまにも恐ろしい醜い人間に恐怖するとなったからである

2021年08月15日

10代からの介護の過酷 (親戚でも回りでも誰も助けない―一人に押し付けられる介護))


10代からの介護の過酷

(親戚でも回りでも誰も助けない―一人に押し付けられる介護))

「10代から親の介護で"人生が棒"」定職につけず、恋人に捨てられた30男を鬱病にした身近な真犯人

30歳独身の男性は高校時代から13年間も父親の介護をひとりでしている。父親は脳梗塞の後遺症や糖尿病網膜症などを患い、要介護4。ギャンブル狂の母親は父親と離婚し、パチンコで知り合った男性と再婚。男性は、昼夜を問わない介護で消耗するだけでなく、底意地の悪い親戚や自分の陰口をたたく職場同僚などにも悩まされ、心を病んでしまう――(後編/全2回)。

他者のことは理解しにくい、でも10代からこれだけ介護に苦労するとなるとうつ病にもなる、たいがい認知症の介護はうつ病になる、自分自身もなったからだ
ヤングケアラーというのは大問題である
なぜなら若い時に人生そのものを奪われてしまうことにもなる
何か私も親戚の人が叔父が輸血してくれというときしなかった
30くらいの時だった、その人は恨んで死んだかもしれない、ただその時登山した後で死ぬほど疲れていて死んだように寝ていたのでしたくなかったのである
その後その娘がめい子になる人が自分が介護になったときひどいことをしたのもカルマかともなる、でもその娘は育ての親にもひどいことをしたのだからその娘自体に問題がありその娘はなぜか非情化した異常な人間だったのである

何か介護となると必ず誰か一人にまかせられ後の人はかかわらない、ここでも親戚がかえって責めてきていたのである、自分の場合もそもそも兄弟もいないし親戚というものもいなから余計そうだった
金のことしか頭にないのである、苦しい時金を要求することしかなかったのである
人間はそんなものだと知った、回りではその苦しみを楽しんでいるだけだとなる
この人は若いしプロレスラー希望となると体力もあった、でもうつ病にもなる
私は病気になり四苦八苦して介護していた、でもそこに同情する人は一人もいなかった
私の場合は他に誰も介護する人はいなかった

ただ私の場合は介護する強い動機が強制されなくてもあった、とにかく特別良くされたからである、60まで身の回りでも食事の用意でもしてくれた、引きこもりでもしてくれたそれで自由に旅をしたり勉強したりとできたのである
こういうことは普通はないから特別であり介護になっても認知症になっても必死になって介護したのである
だから若い時から最も貴重な時に介護を強いられるのは過酷だとなる
ただ自分自身も青春時代にしても底辺労働しかしていない、それが悪いともならなかったなぜなら苦労していないのにその時相当に苦労したからである
だからその親の過酷な介護でもすべてが悪い方に働くとも限らない、一つのいい経験だともなる
でも介護は何か実りにならない、介護したからとしてそこで何か時間を有効に使う、仕事のスキルを身につけるとかにもならない、それがのちのち大損失だったということになり親を恨むとまでなる
私は介護は過酷でもそれまで特別良くされたから恨んでいないし今でも親を供養して感謝しているのである
ただこういうことはなかなか他ではありえないのである

いづれにしろ介護は2025年問題があり大問題になる、団塊の世代が介護される側になるからだ、何か近くでも同世代でも脳梗塞になった人を三人知っている
一人は口がきけなくなったとか足が悪くなったとか救急車で一命をとりとめたとかまたガンになった人もいる、60以降病気になる人が多い、自分自身も病気になったからであるその女性は70にしろ息子が三人いても一人は障害者であり一人はまともなのだけど完全に絶縁して捨てている、だから母親が苦しくても関係しないのである
それも身勝手だと思う、なぜなら家族を捨てても誰かめんどうみざるをえないともなるからだ
それが福祉になったりする、捨てることは楽である、でも誰かが他人がめんどうみざるをえなくなることがあるからだ
捨て子の場合は将来かあるからめんどうみるとなるが老人の場合はただ貴重な時間と労力を奪われるだけだともなる
だからもうそうなると家族も家族ではない、他人以下である、何か新しき車を買ったとか言っても親には一銭の金も払わないのである、そして他人にめんどうをみさせようとしているのも腹正しいともなる
そして一人独身の息子がいたとしても金銭的に困っていても援助もできないのである
その母親は他の人より体が弱っている、もし介護状態になったらどうなるのか?
今でも父親は青森の施設にいて備品などの金銭的援助を強いられている
そしてまともな息子は親を捨てているから何もしないのである
家族遺棄社会の現実の例に成っているのだ

ともかく高齢化社会でもみんな健康ならいい、病気になる人が実際は多い、介護になる人も多くなる、その重圧がものすごいのである、それが下の世代にのしかかる
そしてその息子とか娘だけではない孫まで介護に費やされるという状態になる
それから医療費もまたもう限界状態になっている、病気になる人が増えつづけてもう健康保険でも維持できないとなる、だから延命治療自体しないようにもなっている
それよりできないのである、もう治療しているときりないからである
そして医療費は薬でもなんでも高くつくのである、その負担がまた膨大なのである

これからさらに介護地獄がやってくる、そしてもうめんどうみれないと家族遺棄社会にもなる、その金銭的余裕もなくなっているからだ、今の団塊の世代の子どは氷河期世代などであり金銭的余裕がないのである
だからこの人も働かざるを得ない、そして働いたけど介護もしなければならないと両立できなくなり苦しみのどん底になったのである
私ももう苦しみのどん底になっていた、それも一人しかないないからそうなっていた
ただ兄弟とか親戚がいても助けるとはかぎらない、この人はかえって親戚に苦しめられたとかある、親戚でも金しか求めない人も多いからである
何か人間は弱者化するとそこにつけこまれる、というのは相手も借金しているとから余裕がないからそうなる、余裕がない人は助けられないからである
そういう人は自分自身が生きるために必死であり相手が困った時チャンスだとなっていたのである

ともかく親の介護で若い人が自分のしたいこともしないとなる悲劇である
人生が奪われたとなりあとで親を恨むようになる、そして死んでも供養もしないともなるそういう人を知っているからだ、さんざん苦労させられたから親に感謝したりしないのである、そういう人も増えてくる
私の場合は特殊な事情で親に良くされたから必死になって介護したのである
でも普通はそんなに親に良くされないのである
だから普通の親では介護することは苦痛になるだけだとなる

いづれにしろ日本の経済の衰退と少子高齢化社会でをとなるのか、そして中国とロシアが虎視眈々と日本を狙い侵略してくるとかなり内憂外患になる
日本のコロナウィルスもどうなるかわからない、収まりそうにもない
日本は危機的状態でありとてもオリッピックとか高校野球でも東北学院が注目されたが陽性者が出たとかもう中止しろともなる
五輪とか野球とかしている時ではないともなる

ともかくこの人は両親に恵まれなかった、やはり親の影響は大きい、親がその人の進路を決めるともなる、ただ介護で人生まで奪われるとなると深刻である
たいだい親が子供の犠牲になるというのが順序だからである
でも後進国の貧乏な社会では子供は親のために働かされるのが普通である
江戸時代だと親のために娘が身売りされるとかある
だから大正生まれの私の母親は親のために働かされたとかで相当に不満だった
でも自分自身が自由にしたいことができたのは別に実の母親がそうしたのではない
もう一人母親がいてそうできたのである、だからここがなかなか外から理解できない
事情があってそうなった、それで二人の親に自分は介護して今も感謝しているのである

2021年08月10日

お盆に人は死者を思い供養する (神道の神とは死んだ祖(おや)のことである-死者の二柱(母と姉))


お盆に人は死者を思い供養する

(神道の神とは死んだ祖(おや)のことである-死者の二柱(母と姉)

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姉と母死すとも我を支えなむ祀り尊ぶ二柱かな




死者の二柱(母と姉)

人は確かに骨となり灰となり消える
しかし人間は動物とは違う
人は死んでも容易に消えない
その生はなお継続する
我が親なる二人の女性は死んだ
しかしかくも長くも我を支えた二人の女性
今も二本の木となりて支える
その木は長くもこの地に立っていた
その木は切られなくなったとしても
その根っこはやはり残っていた
二本の木は二本の柱のように残りぬ
その木の間にありてなお我は支えられぬ
我が右と左にいつもありぬ
まことに人は見えなくなっても
その生は継続されて消えぬ
我はその二柱に支えられぬ
今もの言わずとも力強くも支えられる
そこに充実あり我は一人ではない
死者一つの柱となり社となる
かくして後の人を支え続ける
我は見えぬ死者の二人の手をにぎる
その時なおも愛は通いあい
さらに強くも結ばれしことをしる





お盆には死者を想う、死者も死んで十年くらいすぎるとどうしても不確かなものになり忘れやすい、現実にいないなのだから去る者は日々に疎しと死者はなりやすい
でも死者を偲ぶというとき実は生前どうであったのか、生前の関係であり生前のことで
死者を想っているのだ、だから実の親子でも親にひどい目にあったとか毒親になると
死者のことは思わないのである
ただひどい目にあったという記憶しかないからである
そうして墓などに全然関心がなくなり放置される場合がある

やたら死ぬときにこだわる人もいる、カルト団体とか仏教関係だと成仏するというとき
死ぬときの相とかにこだわる、そもそも人間はどうして人間を見ているのか?
偉人になった人はやはり生前に功績を残した人でありでたらめに生きた人を評価しない
だから近くの人は誰からも嫌われていた、息子は毒親のために自殺させられたとか言われる
でもその人は死ぬときは簡単にあっけなく死んだ、介護されることなく死んだ
介護する人もいなかったが死ぬとき簡単に死んだのである
人にめいわくもかけず死んだのである、その死にざまは死んだ時の相はわからないにしろさほど苦しまずに死んだように推測するのである
だから死ぬときの相とかが問題ではなくどのように生きたかの方が大事なのである

それは偉人だからというのではない、普通の人でも親子がいたとして家族内で親を大事にするとき何か子供にとって親はいいものだったとなる、親は子供に尽くしたとなり評価して死後も手厚く供養して墓参りするともなる
ただ供養とかは義務だという人もいる、死んでも関係を継続させるためである
ただやはり死者を想うことは供養することは生前の関係で決まる
そもそも死んだら何もできないのだから当然そうなるのである

だから死んだら子供にすぐ忘れられる親もいる、意外とそういうことも多いとなる
つまり親だけでは子供うんだだけでは普通に育てただけでは親を思うことはないともなる何か親でも特別な親でないと供養がつづく死後も思われることはないとなる
実際人間は血縁であってもそれが人間関係を決めないのである
むしろ血縁ではない子供を養子にもらって愛情をそそぎ育てるとその子供は親を血縁の親より大事にする、逆に血縁でも親を嫌い親を親とも思わない子供も普通にいる
だから子供産み普通に飯を与えて育てても子供が必ずしもそれだけで親のことに感謝することもないのである
親でも親のエゴとか見栄がありそのために子供出しにすることが普通にある
親でも子供に無償の愛を注ぐわけではないとなる

私の場合は特殊なことで親を思っているのである、二人の母親がいたともなるからだ
それで私は無条件に愛されたのである、これもだから他者から理解しにくい
それは60歳までつづいた、引きこもりでも何も言われない、好きなことをしていいよとなっていたのである、結局それは特殊な家族でありそうなったのである
だから私は二人の親に支えられたし死んでからも支えられている
生前の関係が継続されて死後も二人の親のことを思いつづけているのである
ただそのために介護とかでは他の人より一人で苦しんだのである
すべてがいいものともならなかったのである

ただ死後のことは生前のことで決まるのであり死んだからと言って特別変わることはない生前の継続して死後もある、だから依然として二人の親は自分を支えているとなるし今度は自分が親を供養して支えるともなる
親でも死んだからすべて尊ばれるとかないのである、それは生前の関係で決まるのである私が親を思う時はそうして無条件に自分を支えてくれたことによっているのである
ただこのマイナス面もあったからすべていいものとはならない
でも二人の親は自分を60までも支えてくれたなとなりそれが理屈ではない、現実として実体として継続されているのである
それがこの詩になる、親でも死者が一柱とか二柱とか表現する
まさに二柱となって自分を支えてくれたから死後もやはり支え続けていると観るのである
こうして親を思うのは私の場合一緒にいた時間が長かったためである
娘でも結婚すると親から離れたり子供でも一緒に暮らさないと疎くなる
親でも子供でも忘れるようになる、結婚したら妻が大事であり子供が生まれたら子供が大事になり親のことより自分の家族が大事になる
すると親であっても家族は別であり離れて暮らすと余計に疎くなるのである
人間はやはり一緒に暮らすことで愛情が生まれる、それが不思議なのは例え憎んでいても一緒に暮らしていることが愛情をはぐくむ
一緒に暮らすことは助け合わないと生きていけないからである、何らか協力することになるからである
結局憎んでいることも愛していることだったとさえなる、愛がないというとき本当は無関心になることであり憎むということでもないということがある
憎むということは愛の反面だったともなる、それは片方が死んでみるとそれがわかるのである、60年とか一緒に暮らしていれば憎んでいても愛していたのだとなってしまうのである

『日本の助数詞に親しむ』中の、「神様の数え方 柱(はしら)」の項目に、「「柱」という字は「木」と「主」からできています。「主」は「そこにじっと立っている、支える」という意味です。
古く『古事記』や『万葉集』の時代から、日本では樹木に神様が宿ると考えていました。さらに、人間は土の中から植物のように生まれ育ったと考えられていて、「人間一人」の別称に「ひとつぎ木」という表現を用いて歌を詠んだりしていました。そこから、樹木が敬意を払う対象となり、ご神体、神像などを「柱」で数えることにつながりました。」と記載されています。

神なびにひもろき立てて斎へどもいはへども人の心はまもりあへぬもの
(二六五七・寄物陳思)

神奈備山に、ひもろきを立てて、大切にするようにしてはいても、人のと言うものは
守ることが出来ないものです。

    巻11−2657

神奈備山→神の降臨する山や森

ひもろき→神の降り代として立てる木

日本神話の天孫降臨において、高御産巣日神(高木神(たかぎのかみ)とも呼ばれる樹神)は、天児屋根命と太玉命(祭祀を行う忌部氏の祖とされる)に、「天津神籬と天津磐境を起こし樹(た)てて、常にわが天孫のために斎(いわ)い祭りなさい」と命じたとされる[1]。

伊勢神宮において

神が依り憑く神籬 (ひもろぎ)として、心御柱(しんのみはしら)を、伊勢神宮の正殿、床下中央部分に建てている

木をたてる時、その木とは死者のことである、神とは日本では死んだ人、親であれまた先祖なのである、つまり死者が一柱二柱というのはそのためである
ここに神道の深い意味があることを知った
こういうことは実感として知りえない、愛する人が死んだりしないと実感できない
神道とはわからないにしても神とは死んだ人であり死者を祭ることに由来している
死者はどうしても神になりやすいからである
死んでから十年もすると何か定かなものにならずまさに守られない、つまり墓でも守れないとなるのがこの世だからである
だからここには神道でも深いものがある、つまり人間は千年であれ古代からこうして死ぬ人がいて死者にどう対処したかが宗教ともなる
日本では先祖が神となるというときもそうである、たいがい死者は神になりやすいのである、八百万の神がいるとしてその神は死んだ人でありその死者を祭ることが信仰にもなっていたのである

常に言う家の柱さしこの家は我が建てにしと誇りけらしも

姉は家の柱は同級生の橲原(じさばら)のキコリだった人から提供されて建てたと常に自慢していたのである、まさに家の柱だったのである
何かやはり神道であれ深いものがあるのは人間として代々生きてきた歳月が長くそこで培われたものがありそれが伝統ともなり受け継がれたからである
ただその意味もわからなくなるし「心はまもりあへぬもの」ものとなる
日本に無数の神社があってもその由来がわからないものが多いからだ
それは千年もすぎれば伝えられないし何のために祭ったのかもわからなくなっているからだ
だから人間は伝統的なものに深い意味がありそれをたずねることでありそして今を観ることである、人間は別に親が死ぬとかは誰でも経験する、でもそうしたことは千年でもつづいたことなのである、そして人間は必ず親でも死ぬのだからその繰り返しでありその時思うことは大昔でも同じようにありそこに残されたものを知り理解を深めるのである

連理木。(れんりぼく・れんりぎ)
http://www.higashiyama.city.nagoya.jp/blog/2020/04/post-4025.html

この木の写真はいい、まさに二つの木が結ばれている木である


2021年07月12日

熱中症で70代の人が工事現場で死ぬ (老人は汗がでず体温調節できない)


熱中症で70代の人が工事現場で死ぬ

(老人は汗がでず体温調節できない)

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熱中症計ー見守りっち


東京都文京区で10日、70歳代の建設作業員の男性(相模原市南区)が工事現場で体調を崩し、熱中症の
疑いで死亡していたことがわかった。

都監察医務院によると、熱中症の疑いによる死者は東京23区で今年初めて。

警視庁駒込署によると、男性は10日午前、文京区千駄木の住宅工事現場で作業中に体調不良を訴えた。
その後、トラックの中で休んでいたが、工事関係者が午後1時頃、車外で倒れている男性を発見。駆けつけた
近くの病院の医師がその場で死亡を確認した。

男性は騒音への配慮から、車内のエアコンをつけていなかったとみられ、駒込署が詳しい状況を調べている。

気象庁によると、10日は東京都心で今年最高の33・4度を記録していた

https://news.livedoor.com/article/detail/20517800/

70歳以上となると熱中症は怖い、私自身が自転車で春でも夏のように暑い時遠出して
返ってきたら吐き気とか痙攣までした、この時実際は熱中症になり命の危険までなっていたかもしれない、かなり痙攣したからである

なぜ老人が70代以上とかなると熱中症になりやすいのか?
何か暑くても汗が出なくなる、それで体に熱がこもるのである
体温調節ができなくなる、それで頭でボーとしてくる
それは家の中でもそうなる、熱中症で死んでいるのは家の中で多い
エアコンがなかったりエアコンに拒否反応があるのも老人が多い

トラックの中でエアコンしないでいたら危険である、33度というのも危険だった
まずこの年で工事現場で働くのはきつい、熱中症は紫外線を受けてもなりやすい
曇っていても紫外線を受けるからだ
だから暑くなると自分は外に出れなくなった、まともに陽ざしを受けると危険になるからだ

つくづく汗をかくことが人間には必要だった、それがなくなるとやはり体が正常ではないのだ、太った71才とかの女性は汗が出て困るというけど汗が出るからうらやましいとなる汗をかくことは体温を調節できるからいいのである

それで今日は熱中症「見守りっち」という機械を買った、それで見ると警戒になっているやはり今日は警戒レベルであり次に厳重警戒となると外に出るのも危険になる
室内だったらエアコンとかする必要がある

とにかく暑くなると自転車で出れなくなる、遠くには行けなくなる
するとコロナウィルスで出れなくなり暑さでも出れなくなる
南相馬市はコロナウィルスで警戒区域になり外出や食堂とか飲み屋に行くことが禁止されている

それでつくづくこうして家にこもるようになると家が大事になる
家が広くないと狭い部屋に籠っていると窮屈になる
それが意外と精神に影響する、日本人の家は狭いから本当に巣籠り生活になるとうつ病にもなる、日本人は家の中で快適に過ごしにくいのである
私は家の中で二階もあり広い廊下もあり寝室もありと・・・・それで家の中で気分転換できる、それで何か詩作したりイメージが湧いたりする
この気分転換が広い家の中だとできるのである

いづれにしろ70代でも外で工事現場で働くことはきつい、それも高齢化でも働かざるを得ない人が増えていることは確かである
警備員とか給料もいいからである、でも外での仕事は夏は苦しくなる
高齢化社会で年金をもらって余裕で暮らしている人は少ないと思う
とにかく年金が厚生年金にしても少ない、平均して15万くらいだとすると妻の国民年金をあわせても20万くらいになり足りないのである

そして生活保護をもらえばいいいうがここでは最低限の生活保護費がもらえていない
4万国民年金もらってあとは医療費が無料になっているだけである
だからその女性は必ず水道費から電気代からガス代から携帯の通信費がたりなくなり払えないのである
つまり生活保護はこうしてこれから最低限ももらえないのである
だから生活保護に期待する人がいるけどもうそれで最低限も暮らしていけないのであるこれは自治体で違っているにしろますます日本が貧困化すると厳しくなる
遂にまともに食事もとれないともなる
それは実際に目に見えている、もっと厳しくなり保障できないのである

ベトナム辺りが物価が安いとしても医療費は馬鹿高くなる、だから老人向きではない
つまり困窮する老人が膨大に増えてくる、ここで外で工事現場で働いて熱中症で死んだ老人も今の日本を象徴している
現代は長い生きでも老人受難の時代なのである
近くのスーパーで三時間くらい働いている老人ならいいともみる
でも外で働くのはきついとなる
ただ自分のように家の中で仕事しているとなればいい、でも家の中でも熱中症の危険があるのだ
だから今熱中症は自分にとって怖い、頭がのぼせたようになりぐったりするからである
今日は結構蒸し暑いので家の中で暑い、それで警戒なのである

2021年06月24日

余裕がないことの怖さ (戦争も貧困化して余裕がなくて起きた)


余裕がないことの怖さ

(戦争も貧困化して余裕がなくて起きた)

この危険思想、日本でもかなり増えてます..不景気の国に蔓延する危ない考え方とは?


なぜ福祉が厳しくなるのか?
前に私が述べたけど人間は余裕がなくなると他者に寛容でなくなる
貧乏になれば生活保護なんて働かないで俺と変わりない金もらっているとかなる
つまり40万くらい月給もらっていたら生活保護12−3万もらっている人をうらやましいと思わない、でも15万くらいになったらなんでこっちは毎日苦労して働いていてたいした金をもらっていないのに生活保護は働かないのにもらっているとなる

福祉でも国全体が裕福なら成り立つ制度だったのである、それで今や生活保護は十パーセントも減らされているのだ、それで抗議したというのもわかる
それは国全体の財政が苦しくなりまた貧乏人が増えると国全体に余裕がないのだからそうなる、むしろその風当りはそうした生活保護であれ障害者であれ弱い人に当たるとなる
それは結局余裕がない人は他者を助けられないためである

事業失敗で多額の借金を抱えた人が私が介護とか病気とかで苦しんでいる時来た
そんな人は人を助けることはできない、かえって相手を苦しめることになってしまう
〔俺は苦しいんだよ、俺の借金をなんとかしてくれ、他人のことなどどうでもいい、自分を助けてくれなんとかしてくれ」こんな人が来たても助けることができない、かえってさらに苦しめることにもなる

それと同じように貧乏で困っていても他に障害者でも病気の人でも人を助ける余裕がないもう弱者は死んでくれとまでなる、だから余裕というのが意外に大事なのである
それは金だけではない、時間の余裕とかも大事である
金があっても毎日仕事に追われているとかすると相手を想う余裕もなくなる
とにかく経済的に苦しくなると日本全体に余裕がない人が増えて来る
それは必ず周りに影響する、例え金持ちでものうのうとはしていられない
回りがみんな苦しい苦しいというとき回りでも金持ちでもその影響を受ける
また犯罪も増えて来るのである
そういう国には金持ちすら住みたくないとなる
もし回りがスラムのようになっていたらそんな場所に住みたくないとなるからである

なぜ自分自身が介護病気で苦しんだのか?
それが余裕がない人が来たからである、金で苦しんでいる人が来たからである
だから犯罪にもなった、その人は他人でも余裕をもってみれないからである
その前に自分のことをなんとかしてくれ、もう生活もできないんだとなっていたからである、すると相手が苦しんでいることなど関心もない、かえってチャンスだとなった

それで何か数万だったのか、わずかの金で友達に金を貸して返さないとかでもめて殺人になったとかニュースであった
たった数万で殺人になるのはなぜなのか?その人は金に余裕がない、だから数万でも大きな金になっていたのである
普通だったらそんなのはした金だからくれてやるとなるだろう
ただ正直自分も金の余裕がなかった、余裕がないと人間はみんなそうなる
何か自分は金をあるように見られているが働いていないのだからなかったのである
まず百万という金を使ったことがない、でも貧乏性になっているから今でも使えないのである、それが習性となってしまったのである

そうなると海外旅行に行った時アジアではその時十数年前は円高で物価が安かった
でもそんな所でも節約していたのだ、それが失敗だったとなる
なぜならその時は物価に十倍もの差があった、そしたら思いやりがあっても良かったのでる
多少の金は払っても良かったのである、そうし貧しい国の人たちに思いやりもあって良かったのである
それができかったのは日本での貧乏症になっていたのと海外のことを知らなかったこともある
貧しい人たちへのことがわからなかったためである
私が余裕ができたのは両親が死んでからなのである
すると金銭的に余裕ができて金にそれほどこだわらなくなったのである
気前よくなったのである、だから金に余裕があるのとないのとでは気持ちまで変わってくる

ただそれだから金ですべてが得られるとういのではない、不思議なのは一億円もっていても余裕がない人もいるしもっと欲しいとなる、一億円で安心がないという人もいる
ところが一生貧乏だった人は10万すら大きな金であり10万も貯金していると何か大きな金をもっていると気持ちが大きくなったと言っているのである
私自身も親から金をもらっていたからそういう経験はしている
その時々の金しかもらっていなかったからである 

その人は毎月いつも電気ガス水道代が要求されて払えない、それで自転車を治すにしても余計なことをしてくれたとか怒っている
何かしなくてもいいことをして金をとられたとか言っている
でもその人は病気なのである、病気でも仕事している、そしたら余裕のある人だったら
治療費もかかるから大変だな少しくらいは金がかかってもいいなとみるのである
つまりこうして金に余裕がない人は相手をのことを思いやることもできないのである
それは医者にしろ職業でも余裕がなかったら相手の経済状態でみれない、他でもあなたは貧乏だから安くしまとかもならないのである
そういう自分も今まではそうだったのである、節約ばかりして金の無駄ができなかったのである
ただすべて金がなければできないということはない、何も例えば道で倒れて苦しんでいる人がいればちょっとなら助けることができる、でも金がかかることだとできない
だから別に金がなくても何もできないということはない
ただ金に関しては金に余裕かなければできないとなる

これから日本が貧乏になることはかなり危険なことになる
おそらく戦争とかは国全体が貧乏とかで追い詰められるとき起きて来るのが多いようにも見える
モンゴルとか遊牧民が農民国家の中国を襲ってきたのは食料が欲しかったからである
それで万里長城ができた
戦争の原因はこうして国自体が貧困化して追い詰められた結果として戦争が起きた
ドイツでナチスがが勃興したのは失業者が増えて貧困化した結果として起きた
物価も異常に高騰して紙幣が紙切れ同然になったとかあった
そういうときナチスが起り優生思想が起り弱者は始末しろとユダヤ人は不当にもうけているとかなり虐殺が起きた
その原因を探るとやはり経済的困窮がそう仕向けたとなる

それは日本の戦争だって太平洋戦争でもそういう原因があった、アメリカに経済封鎖されて石油が手に入らないとかなり経済的に追い詰められた結果だったとしている分析もある人間は経済的に追い詰められると何をするかわからなくなる
数万のことでも殺人になる、だからこうして日本が貧困化してくることは怖いもものになる、みんな余裕がなくなるからだ
それで金持ちはそういうことを見過ごしているとその貧困化した社会で襲われるともなるだから格差社会を金持ちが見過ごしているといづれは金持ちも安閑として暮らせなくなるのだ

余裕がないということはそれだけ怖いことなのである、ただ余裕といっても高い車を持ち大きな立派な家に住み食いたいものを買いたいものを買うとかの贅沢ができないとかで
余裕がないとなるのは問題である
でもまた一旦豊かな暮らしをするとそれが普通になる
その生活を落とせないとなる、それで貧困を感じるというのも現代である
それで余裕がないというのも問題なのである、そういう人は借金までして贅沢を維持しようとする、その借金をかかえて犯罪を犯したりもするのである
そういうことは現代社会ではまた多いのである

余裕がない人は人を助けることができない 
(余裕なき現代はみんな疲れ、人を思う余裕すらない)

2021年06月15日

なぜ人は家で死にたいのか? (人は最後に自分のしたことを語り自慢したい―老人の幸せとは)


なぜ人は家で死にたいのか?

(人は最後に自分のしたことを語り自慢したい―老人の幸せとは)

糖尿病で知っている人が半年とか入院していた、いったん退院してまた入院した
何か症状が悪い、栄養も点滴でとっている、でも家に帰りたい、退院したいと言っているでも病院に一旦入ると医者の許可でできないと退院できない
でも一応その人は自分のことは自分でできる、寝たきりにはなっていない
だから家で一応食事の用意でもできる

ともかく病院にいるのが嫌になったというのは分る、自分自身も二カ所の病院に入院した体験がある、一か月入院したときはあきあきした、また病院で看護師に虐待されたこともあったので病院を恐怖するようになった
虐待されたのは南相馬市立病院ではない、病院とは実際は怖い場所である
隣の福祉施設に入っていた男性も痰がつまり何か虐待されていた
それを見て看護師とかわらって治療していたからである、その人には身寄りがなく施設の人がつきそっていた、そういうふうに見守る人がいないと病院はさらに恐怖の場所になる

別にその人は娘もいるしめんどうみている、でも娘でも何か話しが通じないとか言っている、それで親しい日ごろ世話している女性に携帯でいつも連絡している
その女性は話しがうまいのである、何かお笑い芸人の素質がある
「家が泣いているよ」とう言うのもそうである
それで主人がいなくなった家の草むしりとか花に水をやったりいろいろ連絡している
そういう人がいれば空家にしても安心だとなる
その女性の家はすぐ近くだからそれができる
娘は隣の15キロくらい離れた場所にある、でも退院してから通って食事の用意とかしてくれていた                                  

ともかくなぜ人間は家で死にたいとか思うのか?

それは家というのは単なるモノではないのである、そこで暮らし思い出があり家族と安らぐ場所として長くあった、とくにその人が家を建てた苦労話を聞いた
立派な石組の庭と家を自力で作った
そのためにトラック運転手をして歩合制で人の倍の荷物を運び稼いだ
その話を聞いたときその家を自慢したいのがわかる
それは自分の家でもそうである、姉は常に自分の家を自慢していた
なぜなら姉が主役となって家を建てたからである、それは認知症になってもそうだった
柱は橲原(じさばら)の同級生のキコリに提供してもらったとか自慢していた

その時代普請することは一大事業だった、すべて材料も地元のものであり地元の大工さんが建てた、今の建売のハウス会社が作り売るのとは違っていた
二週間くらいで組み立てるのとは違って三カ月とか半年とかかかることもある
こういうこともあり家を買う感覚とはかなり違っていた
そういうことは田舎では普通にあり普請することは一大事業ともなっていたのである
茅葺の家などでももうそれは村人全員がかかわる仕事にもなっていた
屋根ふきでも大変な作業だったからである、そこで家の重みが今とは相当違っていたのである

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

右は、聞かく「左大臣長屋王(ながやのおほきみ)の佐保の宅(いへ)に御在(いでま)せる肆宴(とよのあかり)の御製(おほみうた)なり」といへり。

まさにこれなのである、これが外材ではない地元の奈良の山の木で作ったものである
たいがいそうして家は作られていた、そこに座(ま)すということにそれで充実感を覚えていたのである
家というのはその土地とも一体化したものなのである、家は単なる箱ものではない、
人間にとってそれは精神的なものとしての拠り所ともなる

病院とか医者とか看護師は体は診ても心はみない、そこに老人を診る問題がある
若い人なら体をみるだけでもいいとなる、なぜなら体が回復すれば元の生活にもどるからである
でも老人の病気は治らずに死にいたる、そうなると体だけではない、心を診るものとしてもあるべきだとなる、心の問題が大事だとなる
最後の短い日でも自分の家にいてその苦労して作った自慢の石の庭を見て死にたいともなる
つまり老人は自分のしてきたことを自慢したい、それを子供に次の世代に残して自慢したいとなる
だから盛んに最後に自分のしたことを認めてもらいたいと何回も言うのである
姉の場合は従軍看護婦だったからそのことを千回も言って死んだ
認知症になっても別に過去のことはわかっている、俺はこういうことをしたと自慢して機嫌良くなっていたのである
それが病院にいしても何も自慢することもない、ただ体を診る医者や看護師がいるだけだとなる、何か自慢することもないのである

家とはこうして単なるモノではいなし箱ものでもないのである
その人の妻は十年前に死んだとかでもその人はその妻のことを愛していたから手厚く供養していた、その家はそうして妻と暮らした思い出がつまった場所なのである
ただ今は近くのやはり70とかの女性が行き来するようになった

老人にとって幸せは何か?

そのことを考えさせられた、

蓮台野は、外界、幻想郷、冥界の三点が結節する場所、なのかもしれない

「病院や施設に入るのを嫌がる老人の話」をよく聞きました。歳をとって体の具合が悪くなってきた老人を家族が病院や施設に入れようとすると物凄く嫌がるケースが多かったそうです。それはその当時の老人が生まれた明治時代の初めころにはまだ老人を捨てる習慣があったというのを知っているから自分が捨てられると思って必死に抵抗するのです。幕末から明治にかけて日本に来た外国人が当時の日本人の間で行われた老人を捨てる習慣について書かれた文章も残っているし、そういう習慣があったことは間違い無いと思います
今は口減しではなくなったが、面倒見切れない老人を施設に送るという姥捨山はあるよ。
自宅介護って大変だし家族の生活も制限されたり、仕方ない理由からが多いとは思うけど。
施設も無かった時代に姥捨の習慣が有っても驚かない。

怖い所に行くのではない、仲間たちが待っている所に行くのだ

でんでら国」という小説ではこれを探求している、それは村の共同体があって成立った物語である

食いぶちを減らすためとかあってもそれはもしかしたら病院とか施設とかよりいい場所だったということもありうる、なぜならそこには村の仲間がいたとなるからだ
今になると仲間というのがいなくなっている、だからその仲間の所に行くのだというとき何か救いがある、病院とか施設には仲間はいないからである
医者も看護師もただ体をみる人であり仲間ではないからだ
病院は刑務所と同じだというときまさにそうである、それを自分も体験したからである
何か四六時中医者とか看護師とに見張られている、安らぐ場所ではない
そして死ぬときモノのように片づけられる場所である
そこに愛か欠けている、情のない冷たい場所なのである
死者は邪魔なのものとしてモノのようにかたづけられるのである
病院で番号で呼ばれて怒った議員もいた、つまり病院では議員でも番号にすぎなくなるのである

老人の幸せを考える時、体をみるということもあるが心の問題がありそっちの方が大事にもなる、なぜなら老人の体は直らないからである、だから最後の時期は心の方を大事にする、家ですごしたい、死にたいというときそれは体の問題ではない
心の問題だからである、だからその心をくみとって家で過ごさせてやる
その方だ大事になる、ただ家で寝たきりとかなると介護するのが重荷になる
蓮台野とかデンデラノでは同じ村の者であり助け合ったということがある
それは村という共同体があってできたことなのである

結局人間はどういうふうに死ぬのかが問題になるけど人間はそれより実際はどういうふうに生きたのか大事である、なぜなら出鱈目に生きても死ぬのは簡単に楽に死んだ人もいるからだ、人間を評価するときどんな死に方をしたかではなく何をしたのか、どういうふうに生きたのかの方が大事なのである
人間を評価するときどんな死に方をしたよりその人がどういうふうに生きたかで判断されるからだ
だからこそその生きた場所が家にあるから家に帰りたいとなるのである
そこでその家を作ったとして自慢できるからである
ただ自分の場合は作られた家を受け継ぐだけだから苦労もない、でも一代で家を作った人は思いが違っているのだ
そういうことは原発の避難区域になったところである
浪江の津島辺りでは戦後開墾して苦労したから村の人たちのつながりが強いというときそれだけ苦労したからそうなる、家を作ったことでもそうであるそういう思い入れがあるからその土地から家からはなれがたくなる
金をもらってもそういう精神的なものの償いはもうできないということである

2021年05月16日

退職してすべきことはボランティアではない (消費することであるが金がないとできないー駅のボランティアの経験から)

退職してすべきことはボランティアではない

(消費することであるが金がないとできないー駅のボランティアの経験から)


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週間ポストー5月21日号

人間はいくら善意の行為でも受け入れられない、私は駅で案内したりしたのは別にボランティアとしてしたわけではない、たまたま買い物にして駅によったら無人駅なので
切符をどうするのかと聞かれたことから案内したのである
それは無人駅になったばかりであり地元の人でもわからない人がいたからである

でもそこにいるだけで何んだこいつとはなる、例えば上がり下がりの電車の行く先のホームが意外とわからないのである
それで聞かれたので行く先を示す表示をしてくださいと言ったらしてくれたのである
無人駅だと何か自動化しても何かすることが案内することがあったのである

なぜそれが駅長からもまたJRからも周辺の住人からも否定されたのか?
それは一部であったが何かうるさいのである、なぜあなたはここで案内しているのか?
JRにしてみれば許可もないのになぜしているのか?
それがうるさいのである、監視カメラで見ていたのである
ホームに入ったからと高校生の見守り役に注意された
なぜホームに入ったかというとこれまでホームにゴミ箱が置いてありゴミ箱がないかと乗客に聞かれたから見に行ったのである
そしたら高校生の見守り役に入るなと言われたのである

ともかくボランティアは一人ではできないしすべきではない、この週刊誌の記事のようになる

怒られ、脅され、訴えられ....

これが大げさとかではない、自分自身が周りの人から警察に怪しい奴がいると訴えられたからである、そしてみんなの前で職務質問された、その時エベントがあり人が大勢いたときである、公衆の面前でこいつは怪しい奴だとされただけだった
今は高校生の見守りがいる、その人たちはJRにも認められているし市で金も払って見守り役をしている
ただ駅の業務はしないとかなにかJRと約束してしている
それでそのことについて市民が文句を市に言った、そしたら駅の業務を多少するようになったとか言っていた

ともかくボランティアはかえってめんどうである、この週刊誌の通りなのである
何かかえってもめごとに巻き込まれる、いくらボランティアでもそれがそのまま善意の人として認められるわけでもない、それよりなにやかにやとクレームが来たり訴えられて裁判までなる、これは嘘ではない笑い事でもこれが退職後のボランティアの現実なのであるだから何もするなというのは退職して安易にボランティアをすることの警告なのである

では一体何をすべきなのか?これは私にもわからないが退職した老人のすべきことは
消費ではないか、消費というと何か社会の役にたたないとみるが現代では消費者は神様だとか言われた時代である
消費することは店でもどこでも喜ばれる、小さな店屋で物を買えば喜ばれる
例えば自転車屋でも高い電動自転車を買えば喜ばれる、お菓子屋でお菓子を買えば喜ばれる、今時コロナウィルスで客が来ない観光地に泊まればこれも喜ばれる
県内とかだったらそうである、そうして消費することは歓迎されるし歓迎される方が気分がいいとなるそれは社会のためにもなっているのである
それで原発事故で避難して来た人が仮設に入っていたが私はここで金を使っているから
この土地の人を助けているのよと言っていた
実際に問題があったにしろ各地に避難した人はそこで消費したから店では金になったということはあるからだ
この辺でも自転車屋に聞いたら店に来る人は知らない人が多いと言っていた
それだけ外部から移住した人が多いからそうなったのである、別にそれは悪いことではない

なぜなら消費してくれるから金を使ってくれるからだ!

外から移った人でも自転車でも買ってくれるからいいとなる、歓迎されるとなる
学校でも転校したとしても生徒が増えたからいいとなる、なぜなら今子供の数が減っているからだ
意外と消費することが経済を活性化するのである
でも老人の問題は消費できなくなることである、私はヤマハのYPG-XCを35万以上で買ったこゃは本当にいいものだった、マウテンバイクだから若者向きだと思っていた
全然違っていた、かえって老人向きだったのである

なぜなら楽に走れる優れものだったからである、これは体力が弱った老人向きとしても
ヨ−ロッパで開発されたものだからである
ただ荷物が載せられないとかで困った
それで荷台がついたものを同じユニットドライブのものを買おうとした
長距離にはいいなと思ったからである、でも体が弱って長距離には行けないと思った
体中が疲れて何か一週間くらい遠くに行ってそうなったからだ
若い時ならその自転車を買っていた、でもそれを買っても使えないとなり消費できないとなったのである
何か老人になると最新の技術のものを使えないということがある
そして老人向きのもので消費できるものがないというのは確かにそうだと思った
老人向きに売れるものは作られていないというのもわかる
つまりまた老人は金をもっていても消費できないという問題が生まれていたのである
また老人がみんな金をもっているわけではない、だからこれもうまくいかないともなる
コロナウィルスで巣籠り需要が増えたという時、庭作りとかが向いているとはなる
ただこれも金がかかるから金がないと消費できないともなる
実際今回玄関の方に木を植えたからである

では老人は何をすべきなのか?

要するに老人は社会の邪魔であるとか何もするなとなる、かえってボランティアなど迷惑になるからするなともなる
でも高齢化社会で長生きする、すると一体老人は何をすべきなのかとなる
社会に役立つにもできない、自分自身はプログを書いてそれを仕事にもしている
退職して何か蒸気機関車の再生のために退職したベテランの技術を若い人に教えていたとかはある
でも会社とも退職すればほとんど関係なくなる
それで旅行したりするのはいい、宿に泊まれば歓迎される、金を使えば歓迎される
結局こうして何か消費することなのである、それが社会貢献になる
ただそれが浪費ではなく、趣味でも高価なカメラを買っていい写真をとるとかその人によっていろいろある、資本主義社会では消費者が王様だとされたように金を使う人間はどこでも歓迎されるのである
だから金のない老人は悲惨だともなる、誰も子供すら相手にしないともなるからだ
ただ老人でもすべてを金だけでは判断できない、若い人に教えるということがある
そういう人は別に金を使うというだけではない消費するだけではない、有用て人間として社会でもみるとなる
ただ手っ取り早いのは消費することである、でもそれは一部の金をもっている人だけともなるから問題なのである







2020年05月23日

南相馬市の介護殺人事件 (2025年問題が始まっている、認知症介護の困難)


南相馬市の介護殺人事件

(2025年問題が始まっている、認知症介護の困難)

南相馬市原町区のパート従業員、愛原正人容疑者46歳。
愛原容疑者は先月2日、自宅で、母親の隆子さん(当時70歳)の顔に布団をかぶせるなどして、死亡させた疑いが持たれている。

46歳では若いのに70歳の母親の介護で殺人事件になった
70代が介護される時代になった、それで2025年問題が言われる

2025年の日本は、団塊の世代が75歳を超えて後期高齢者となり、国民の3人に1人が65歳以上、5人に1人が75歳以上という、人類が経験したことのない『超・超高齢社会』を迎える。
現時点でも、軽度のものを含めれば、少なくとも820万人が認知症を患っているという厚労省のデータがあります
2025年には今の1・5倍、1200万人以上が認知症になっていてもおかしくありません」(国際医療福祉大学教授の高橋泰氏)

全国民の10人に1人がボケている。そんな国が成り立つのか、

この母親は認知症であり夜騒いでいたから布団をかぶせて黙らせていた、それで死ぬことになったとかニュースで聴いた
介護殺人はこれからもっと増えて来る、認知症の介護が一番つらい
そしてここでは男一人で介護していたようだ
それで手に負えなくなった、私も認知症の介護で四苦八苦したことをプログで書いてきたこの病気は何か理解できなかったから不安だった
狂気になったのかとも思った、それで怖かった

そして認知症は誰も相談できる人がいない

認知症について相談する人がいないのである、医者も相談してもわからないからだ
治療方法もない、するとどうするのか?
それは介護して自らその方法を見出すほかないのである
原町で民間の認知症相談をしている所がありそこに行ったが何の役にもたたないし助けられない、看板だけである
そこは女性だけであり男性の相談者は行っても相手にされない
つまり男性は介護で一番苦しい状況に追い詰められるのだ

認知症の介護に方法がていというとき認知症の症状で似たものがあってもそれが肉体の病気ではなく精神にかかわる面が多いから余計にめんどうなものとなっている
症状として直前のことが忘れる、その時ただ忘れたというのではなく盗んだと騒ぐ
その犯人になるのが一番身近にいる家族なのである
それは一種の狂気の症状なのである、この時その興奮を鎮めることが必要になる
盗まれたというときすごく興奮する、だからサイフでもなくなったものがありますよと落ち着かせるのである、それでいつも身近でその様子を見ていなければならないから何を置いたかなど知っておく必要がある、それで離れられなくなるのである

そして認知症の介護では広い家だったら狭い部屋で暮らさせる、狭い部屋だと看ている人もサイフがどこにあるとか通帳がどこにあるとかいろいろなものがどこにあるか管理しやすいからである
それで二階に着るものを置いていた、ところがそれを忘れたのである
その時なくなったと泣いていたのである、つまり一階と二階では離れているからそうなったのである
狭い部屋で生活していればそういうことはない、一階と二階と行き来することは管理しにくくなるのである
それは今自分は狭い部屋で仕事している、書き物をしている、狭い部屋にそのためのものを置いて整理するようになった、その方が管理しやすいことがわかった
ただ本が多すぎて狭い部屋に置けないのが問題なのである
常に身近に置いて見ていると管理しやすいのである
だから狭い部屋で認知症の人を介護して管理するのがいいのである

いづれにしろ認知症の介護は至難である、その方法は家族によっても個々人によって対処方法が違ってくるからだ、家族もいろいろであり他からわからないことがありそれで適切なアドバイスもできないのである
そして田舎でも近隣の付き合いが薄れている、するとかえって田舎では苦しんでいる人がいるとそれを話題として楽しみにもなるのである
だから自分の場合は何ら助けもなかった、相談する人もいない、まず認知症は相談できない、それが家族とか何か病気だけではない複雑に関連しているからである

ただ自分は特別良くされていたし世話になったとかあり必死に介護した
そのうち認知症について理解するようになった
認知症の不思議は確かに直前のことを忘れるとか狂気の面があるのだが何か人間としてわかったことがある、つまりこれまで経験したことを覚えていて何か人間として通じるものがある
最初は何なったのかわからなかった、だから怖かった
最も親しい人がそうなることは恐怖である
でも介護しているうちに何か今までのことがわかっていて心が通じあうことができるものがあった
それでだんだん安心するようになったのである
ただ正直何か騒ぐことがあった
だからこの人も騒ぐことがありそれを抑えるために布団をかぶせて抑えようとしたから死んだのかとなる
ただ詳しい事情はわからない、自分の場合は死ぬときに感謝してくれるように頭を下げたそのあとすぐ死んだのである、だから介護してくれたことに感謝してくれたのだと見て救われた、つまり認知症の謎は人間としてわかるものがある
だから全くの痴呆とも精神の狂気とも違う

そして認知症は時々正気になる!

これも恐怖である、何もわからないのではない、正気にかえることがある
それで死ぬとき孫に何百万やれと遺言を残して死んだ
これも驚きだった、第一金のことがわからなくなっていたからだ
でも実際は金のことでもわかっていた、その時正気になっていたのだ
孫のことに心をかけていてそう言ったのである

だから本当に認知症は不可解な病気なのである、わかることは正気の面があり人間としてわかることがありそうなるとどうなるのか?
もし冷たく扱うとそれがわかる、それで恨んで死んでゆく人もいる
その時後味悪いものとして死んでも残りつづけるのである
それが介護の大きな問題なのである、私の場合は介護できたのは特別に良くされたからである、それで苦しかったのだけど必死になって介護したのである
それは当然だったのである、だから家族というのはみんな違っているから介護になるとそうした事情がでてくる
それで兄弟でも一番世話になった良くされた人が介護しろというのもわかる
そうでないと介護もできないとなる

いづれにしろ2025年問題は深刻になる、介護された女性は70代だった
団塊の世代は75になると介護される人が増えて来るし10人に1人が認知症になるというのも恐怖である、私自身もそうであり体が弱っている
それが怖いのである、認知症は本当に一番怖い病気だと知ったからである
ただこれは何か人間として正気の面がありそれがわからないから厄介なのである
これは個々に事情が違うしなかなかアドバイスしてもできない面がある
ただ認知症特有の共通の症状かありそれはアドバイスできる
でも現実に相談できる人はいない、また身近にも助ける人がいないのである

そして介護殺人が増えて来る!

これは間違えないのである、介護される人が増えればそれに比例して増えてくるのである介護で国が崩壊するとまで言われる、それだけ深刻な問題になるのが2025年問題なのである、経済的にも日本が貧困化して団塊の世代が氷河期世代を子供の場合が多い
だから子供も貧困化しているから経済的にも介護できないとなる
国民保険4,5万でどうにもならない、その息子もまた独身なのが多いのである
だから子供がいても介護で窮する人が多いのである
この場合は母親を男性1人で介護していたので同じような状況だったなのかとなる

2019年08月11日

自分の預金が下ろせない?じわり広がる“高齢者制限” (高齢者はだまされ差別し無能力者にされる恐怖―地銀もゆうちょも信用できなくなった)


自分の預金が下ろせない?じわり広がる“高齢者制限”

(高齢者はだまされ差別し無能力者にされる恐怖―地銀もゆうちょも信用できなくなった)

 75歳以上の人が300万円以上の引き出しを求めた場合、振り込みや預金小切手(預手=よて)の利用を勧め、それでも客が現金にこだわった場合は警察に通報し、駆けつけた警官が目的を聞く。預手とは金融機関が振り出し、本支店で本人確認のうえ換金する支払い手段だ。

 この防犯策は詐欺被害を水際で防ぐ効果が高いと注目され「預手プラン」という名で全国に広がった。適用条件は地域性から独自に決めており「65歳以上・200万円以上」(福島県)など厳しくしたところもある。

          
金融庁報告書が言いたかった「大認知症時代に備えよ」

日本郵政傘下のかんぽ生命とゆうちょ銀行では、高齢者の理解力の確認を怠っていたり、不利益になる契約を結んだりするなど不適切な販売が明らかになった。高齢層に強い日本郵便で、それを食い物にする手法が横行していたことは大きな衝撃だ。

「利益ありき」という金融機関の姿勢は、報告書も戒めている。現在、定年者の退職金を目当てに、金利を上乗せした定期預金で客を呼び込み、投信などリスク商品を売り込むキャンペーンが横行していることを挙げ「自問が必要」と問題視した

家族が認知症になったとき銀行に金をおろしに行ったができなかった
そして銀行員に笑われたとなり二度と銀行には行かなかった
これにはその本人より自分自身が驚いて言葉もなかった
通帳とハンコをもっていけば下せるからだ、それができない、書類すら書けない
字も読めない、これは一体何になったのだろうと唖然とした
私の場合このことから認知症は何なのかと考えることになった

認知症になったらいくら金をもっていても自分の自由にできない

認知症になったら障害者であり犯罪も犯罪にならない

何かこうなる、だから保佐人が必要でありその人が実は責任者になる
障害者をもっている親がそうなっているからだ、責任を問われるのは補佐する人である
それで認知症の人が踏切で電車をとめて多額の賠償金をJRから家族に要求された
ともかく何か認知症の人は銀行とかは特にわかりにくくなる
それは数字を扱い書類を書いたり抽象的だからわかりにくいのである
そもそも銀行とかの仕事は一番普通の正常な人でもわかりにくいのである
そのわかりにくいことがつけ入られることになるのである
それは原発でも同じだったのである、何か複雑になると法律でも第一理解すること自体できないから結局専門家とかによって無能化されるのである
それが現代社会でありそういうことをイリイチとか指摘していた

専門家によって人間が無能化される

その無能化するシステムが文明社会だともなる、それでイリイチは病院であれ学校であれあらゆる専門化され組織を批判したのである
それは人間を無能化するシステムなのである

認知症は本当に脳の異常で無能になったのだから明らかに病気なのである
無能になってしまった病気である、これもだから恐ろしいと思った
この病気は悪魔が人間を無能化してもてあそんでいるとも見たからである
なぜなら何か記憶できないということで忘れるので泣いてサイフを探していた
それが感情的になると誰かが盗ったとなり狂気の症状が出てくるから怖いのである
なぜこんなことを人間にするのか?そんな仕打ちをするのか?
それも不可解だった、人間は悪魔にもてあそばれて嘲笑われる存在なのか?
何かそういうことを感じた
人一倍頭がいい優秀だと日ごろから言っていた人が無能化されたから余計にそう思った
そしてついには人間の運命は神によって無能化されることではないかとも未来を予測した
人間は最後無能化されて文明も終わる

植物とか動物とかそういうことにはならない、そうした高度の知能をもっていない、また日々今日の食べ物があれば満足している、人間のようにありとあらゆる欲望など追求しないからである、だから別に何かあっても滅びない、ただ恐竜は大きすぎて滅びた
これも未来を暗示しているのかもしれない、恐竜は巨大化して滅びた

人間は高度の知能をもつ故にその知能故に滅びる

それが原発事故でもあったのだ、それは複雑化していてもう誰も制御もできない代物ものだったからである、もう人間が動かしているコントロールしているより機械が自動的に動いているという感覚になっていたのである
それで「安全神話」が作られていたのである、つまりもう人間の手を離れて自動化したもの、機械が神となり動いているともなっていた
そのことはAI化とか人口知能化の未来を暗示している 

いづれにしろ70過ぎてたら百万でも下すのに警官が銀行とか金融機関に来るというのは高齢者差別であり人権侵害である、これは高齢者を無能者と認め法を整備してとりしまるともなる、そこに国家権力が関与してきたのである
そこに詐欺から守るということもあるが弱者いじめだともなる

それより一番の問題は今の金融機関にこそあった
私が書いてきたように地元の地銀が複雑な仕組みの投資信託をすすめる
利子がつかないからはすすめる、その進めている地銀は投資信託のことや株のことなど素人と同じなのである
まず投資信託は証券会社とか銀行とか金融機関のために作りだされた商品である
銀行でもこれは絶対に損しないおいしい商品だからこそすすめる
顧客のこどなと全く考慮していない商品である
だからこそリーマンショックの時に半分に下がって回復して株が上がっていたとき地銀ではその株を売り投資信託に回したのである
私はもともと株でも投資信託でも知らないから相手がプロだからと言っていたからまかせたのである
その人はプロでもなんてない、素人と同じだったのである
ただノルマを課せられているから自分が有利な投資信託を売るだけだったのである

なぜこれが大きな問題なのか?
それは地域での金融機関との信頼関係が喪失してしまったとういことである
地銀でも一軒一軒対面的に信頼を築いてきた、それはゆうちょでも同じである
それが根こそぎ失われたのである
それでおあちゃんが1千万とか投資信託で損しても銀行をの人を信用していた
それほど銀行とかゆうちょは地域で信頼されていたし地方でエリートでもあった
銀行員なら安心できるとなっていたのでありそれだけ信用されていたのである

それが結局時代が関係していた、高度成長時代はみんな銀行でありゆうちょであれ貯金していた金に利子が7パーセントとかついていた時代があった
それで今の高齢者は資産を増やしたのである
何か知らないけど親が保険に入っていた、死んだときその保険金がかなり増えてもらえるたのである、何であれゆうちょであれ銀行であれ金をあづけているだけで相当に増えていた時代があった
だからその時の感覚でゆうちょでも地銀でも信用されるものとして高齢者は見ていたのである、自分自身がそうであった
でも急速に時代が変わってゆく、すると時代に追いつかなくなる
それが高齢者は理解できなくなるから不利なのである

いづれにしろそもそも金融機関は危険である、日本は経済成長はしない、低下するだけである、日本の株式でも投資信託でもなんでももうけることはもうできない
ゆうちょでも銀行でも貯金されても金があってもそれを増やせない、新しい事業に投資できない、もうけることができない時代になった
するとただ金が余るだけであり貯金されても金を増やせない、では銀行に貯金された金を勝手に使うわけにはいかない、するとただ負担になるだけだとなってしまった
それが資本主義社会のゆきずまり現象なのである
金がありその金で資本で新しい利益を生むものに投資するのが資本主義だからである

こういう最も身近な所で最も信用されていたゆうちょとか地銀とかが信頼できない社会は本当に住みにくい、なぜならどうしても高齢者は弱者化するからである
時代が変わるとついていけない、それより認知症になったらもう脳の病気なのだからどうにもならないとなる
そうしたら高齢者とかはもう身近なゆうちょとか地銀には頼れない
食い物にされるだけだからである
ゆうちょとか地銀はもともと地元密着で信頼を培い商売してきた、その信頼も失われたとき地方とか地域で高齢者は食い物にされるだけだとなる
詐欺にかからないように50万以上でも百万以上でも警官立ち合いの元に下ろされるということ自体高齢者を差別して無能化させて管理しようとしているともなる

戦後70年で時代が変化するとき何かこういうことが起きてくる
今までの既得権者がその権力を失う、侍が侍でなくなりとか身分制もなくなる
高度成長時代が終わり日本の経済が停滞して低下するだけだとなるともうそうした特権階級は維持できなくなったのである

 北海道銀行(本店・札幌市中央区)は、士別市の農業法人「合同会社OMEGAファーマーズ」に出資するとともに代表社員を派遣、農業経営の企業化と6次産業化を支援する。 

「OMEGAファーマーズ」は、健康食品ブームになっている植物油の脂肪酸、オメガ3、オメガ9などを製油、 
販売することを目的に、2019年5月31日に設立された合同会社。所在地は士別市の小学校統合で廃校になった 
武徳小学校(武徳町44線東7号)。使われなくなったこの小学校の体育館に搾油機を設置合同会社の構成員8人 
(三好農場、大西農場、オレンジファームなど)の農場で生産する亜麻、えごま、菜種(今年度は250ha作付)を 
持ち寄って搾油、販売する6次産業化に取り組む。出資金は3195万円で、道銀は150万円を7月18日に出資した。 

道銀が踏み込んだ支援をすることにしたのは、農業経営の企業化を促すため。北海道農業は、国内の食糧基地として 
重要な役割を果たしているが担い手不足が深刻化している地域もあり、耕作放棄地の増加も懸念されている。 

地銀は地元に根ざして何か新しく利益を生む事業者に投資するのが役目である
それがなくなったとき農業が地方で注目されるのは当然である
実際この辺では原発事故とか津波で荒地が多いからである
その荒地を活かすことを耕作放棄地を活かすことに投資することは地元のためであり地銀とかがするのに適しているとなる
それで実際に農業を銀行員がしていたのをテレビで見た
自ら肉体労働者とか銀行員も働けとなるのか、そういう厳しい時代になったということでもある







2018年06月06日

安楽死は是か非か? (千差万別の個々人の事情に答えられない)


安楽死は是か非か?

(千差万別の個々人の事情に答えられない)

安楽死のことをNHKで取り上げていた,その男性は安楽死を望んだのは癌になって直らないし苦しむのが嫌だからだという
その男性は29歳であり若い妻がいて子供もいた
まず安楽死というときこうしたそれぞれの家族の事情が先にある
家族の中で納得した安楽死ならいいのかもしれない
人間の死は一人だけで決められないことがある
家族がいて安楽死などいやだ少しでも長生きしてほしいという家族もある
家族とかその個人の事情がみんな違っているのである。

その家庭の事情とか個人の事情を医者とかはわかることはむずかしい
だからこそ安易に安楽死をさせないのである。
安楽死でも積極的安楽死と延命治療などをしない安楽死がある
この二つの差も大きいのである。
一般にこうして若い人が安楽死するのと老人の延命治療は違ったものである。
延命治療は苦しいしただ意識もないのに植物人間のようにされているのは悲惨だから死なせてやった方がいいともなる
それすら医者はできない,犯罪にも日本ではなる

自分の事情話すと家族の一人はひどい認知症になった介護で苦しんだこと書いてきた
もう本当に馬鹿になったのか、何もわからなくなったのかととまどい苦しんだ
ただ認知症はわけのわからない病気でありどう対処していいかわからなかった
そのことをプログで書いてきた
人間の問題は人間として意思疎通できるかできないかが大事だと思った
それで障害者を意思疎通できないと19人とかを殺害した人がいた
それだけ人間として意思疎通できないことはもう絶望的なのである。

自分も一時はそうなったのかと見た,でも何かわかったようなわからないようなことがつづいた
なぜなら看護婦だったのに病院に行って病院のことがわからないとかそんなことあるのかもう何もわからないのかと思ってショックだった
銀行に行って金も下ろすことができないとかもあった
だから一体どうなったのだろうとわけわからなくなった
でもわかったようなことを言うこともあった
そして最後にいろいろあったのだ自分の家族のことを介護した人のことをわかってくれたそれはただ首を下げてうなづいただけだったのである。
それが最後の意思疎通だったのである。
でもそれで自分は本当に救われた,何か最後に死ぬときありがとうと言う人もいる
それは介護してくれた人の苦労をわかってくれたことなのである。
そうして頭を下げてうなづいたあと意識不明になった
その時はもう死んでいたのである。

なぜならもう意思疎通できなくなっていた

この時はもう強制的に安楽死させても何ら問題なかったのである。
苦しむだけでありもう人間としての意志もなく意思疎通もないからである。
ここで医者が安楽死させても感謝されるとなっていたのである。
でもその前までは脳出血になり手術して胃ろうにもなり苦しんだ
その期間は約二年半くらいだった
そこで安楽死させていたら最後に意思疎通できずに大きな後悔となり自分も救われていなかった
だからその本人がどんなに苦しんでいても意思疎通できる限りは簡単に安楽死させることはできないと自分の事情では思った

もう一人は母であったが孫に思いがあったのか死ぬ一カ月前に金をやれとその金額まで言って死んだ
それも体全体で大きな声で言ったので本当に驚いた
そんな力があったのかと思った,寝たきりで長かったからである。
そして金のことがまるでわからなくなっていたのに金額まで指定てし命令したのには本当に驚いた,つまりこの時も死ぬ一カ月前くらいであり正気にもどったとなる

認知症は死ぬ前に正気にもどる

これは他の人も同じかもしれない,となると認知症とは痴呆になったのとも違うのだろうか?そう考えざるを得ない
生まれつきの知的障害者とは違う,苦しい人生を生き抜いた人達だからである。
だから認知症になっても正気の部分が残っていてそれが死ぬ頃になると正気になる
だから認知症の人はなにもわからない痴呆でありもう意思疎通できない人と見るのは危険だとなる
こういうことがあるから安楽死というのは他者が簡単に決められるべきものではない
ただ認知症であれ意思疎通できるなら人間は生きているのである。
意識があればまた生きている,意識がなくなったら死んでいるのである。

ただ延命治療となるとこれも判断がむずかしいが本人にとってはあまりにも苦痛であり人間の尊厳もなくなる,だから事情によっては安楽死させた方がいいとなる
ただその判断は本当にむずかしい
家族関係とかもかかわりむずかしい,家族関係はみんな違った事情があるからむずかしいのである。
別に今日放送した若い人が癌で死ぬのに安楽死させるのは悪いとはならない
家族が納得しているし家族間問題がないとするといいのかもしれないとなる
だから家族の事情や個々の事情で違ってくるしそれを医者だけでは見れない
その責任もとれないから医者はしたくないのである。

ただ延命治療には問題がありどうしても安楽死させた方がいいなとみる
でも自分の場合はそうではなかった,死ぬ一カ月前に正気にもどったとすると
それまで生き延びて最後に正気にもどってくれたとして生き延びて良かったともなる
ただこの判断は本当にむずかしい
むしろ認知症であれ悲惨だし早い時期に死んだ方が楽だったもみる
ただそうなると家族としては納得いかずに死なせてしまったとなり後悔が残る
自分は二人とも苦しかったけど納得した死に方をしてくれたので死んでも心安らかに供養できる
それは死後まで関係してくるから簡単に判断できないのである。

 

奇跡なのか、いのちの不思議に圧倒されずにはいられない。言語障害があったのに、
必死の思いで「あ・り・が・と」と口を動かし、一粒の涙を流して旅立たれた方。
そうなのだ、旅立つ人も見送る人も、最後に「ありがとう」と言い合える、
在宅医療はそういう別れができるのだ。

 

なんとめでたいご臨終


死ぬ前に若くても納得する死ならいいのかもしれないとなる
いづれにしろその判断は人を裁くなという神の教えと重なる
「悲しむ者は幸いなり」とキリストは言った
その意味を実際の経験でわかった
自分は一人介護で苦しみ泣いていた,その苦しみを知る者はいなかった
でも最後にわかってくれたなと救われた気分になった
そして神は悲しむ者が幸いなりというとき涙をぬぐってくれるという意味を知った
人間の悲しみを神は知りその涙をぬぐってくれる
そういうことが本当にあるんだなと納得した
人間は苦しみ悲しみそして何か尊いをことを人生で学ぶ
楽してばかりいたらそうしたことを学べないのである
実人生で人は学ぶのであり本を読んでも学ぶことはできないのである。
人間は悲しみを通じて悲劇を通じて学ぶのである。
幸福からは必ずしもそうした深いことは学べないのである。

地上が僕らにとって
故郷になるには
血がにじまねばならぬ
あまたの血とあまたの涙が

(ハンス・カロッサ)

この辺では津浪や原発事故で苦しんだ,でもまさにこの言葉があてはまる
故郷でもそこで安楽に暮らしていただけでは故郷とはなりえない
また家族でもそうである。家族とは必ずしも血縁とういだけではない
何かそこで血を流すような苦しいことをありそれを乗り越えたとき家族となる
そういう経験がないとしたら家族とはなりえないとなる
だから悲しむ時ま苦しむ時人間は何か尊いことを体験で学ぶ
だからこそ悲しむ者は幸いなりとキリストは言い神は涙をぬぐってくださると言ったのである。
だから逆にいつも権力や地位があり悲しむこともない人は逆に何も学ばないともなる
悲しむ者はやはり底辺層に多いからである。
この世とはそもそも安楽に過ごす場ではない,悲しみ苦しむ場として神から与えられたともなる
そうでなければ何も人間は学ばないからである。


2017年07月17日

認知症の人の聞き書きは郷土史の発見に通じている


認知症の人の聞き書きは郷土史の発見に通じている


 高齢者に、その人生を語っていただき、その方の歴史として編集する「聞き書き」は、第三者がそれを行うことにより、高齢者が自分の人生を客観的に振り返ることができ、やり残した事を思いだす、生きがいを見出す、など、精神活動に効果があると考えられています。実際に、認知症で引きこもりがちであった高齢者が、「聞き書き」によって元気を取り戻し、自立に近づいた例も経験されています。



認知症というのは不可解な病気である。90歳くらいの女性が何もする気がないのだが草取り、草むしりをしたいという、その人は草むしりをずっとしてきたからである。
だから草むしりをしたいという、それで草むしりを介護の職員がさせた
その時車椅子から離れて草むしりをした、そしたらそのおばあちゃんは元気になった
ある女性はベッドで田植えのしぐさをしていたという、その人も農家の出だからそういうことをしていた

草むしりは農家では日常的な仕事である。草は絶えず生えてくる、草にもいろいろあり根を深く張るものもあるしいろいろなのである。
ともかく草むしりは農家の毎日の仕事なのである。
そういうことを長年してきたからまたしたいとなる、その草むしりは役に立つことである掃除ともにている

認知症でも過去にしたことは忘れない、姉は機械の操作がボタンを押すことすらできなくなった。テレビのリモコンも操作できない、すると洗濯していたのだが手でごしごし洗っていたのである。洗濯機がそばにあっても使えなくなっていたが手で洗っていた経験があり何か役に立ちたいとして洗濯を手で洗っていたのである。

老人ホームなどは確かに前に近くでデイサービスとかに行って話を聞いた、その聞いたことをプログに書いたりした、ただ内容を深くつっこむことができなかった
それは一回しか聞けなかったからである。何回も聞けばその人の経験したことがストリーとして理解できる
その人は老人ホームにいた人ではないが小高の80歳になる人の話は面白かった
原発でも働いていたのでその話を聞いたり全国を建築関係で回っていた
その人は話上手だった、男にしては何か話がうまいのである。
その人とは何回も土手の所で話した
今は小高に帰っている

話を聞いて興味を覚える人とあまり覚えない人がいる、ただそうして介護民俗学の本を出した人は介護に実際たずさわっていたからできたのである。
老人ホームの内部の人になったからできたのである。なかなか人の話を聞くことはむずかしい、語りたくないこともあるし聞く相手にもよるからだ

それと話を合わせるにはその土地のことに詳しくないとできないことがある。
どこに住んでいてそこがどういう場所かわからないと話を合わせられないのである。
自分は駅で遠くから来た人とちょっとでも話するとき出身地がわかると全国を隈なく旅しているから見当がつき話をあわすことがある程度はできる

話を聞くにしても聞く方でもまたその人を理解する力が必要になる
地元の人だと地理的なことや外に知っているから合わせやすいということはある
普通は地元の人から聞いたりすることもむずかしい、それができたのは原発事故とかで避難してきたりしてその話を聞きやすかったのである。
老人ホームなども話を聞き安い場所である、それも何回も聞けるからそこで働いていた人は本まで出したとなる

認知症の介護は身体介護は体力が必要なので若い人が向いている、でも認知症となると精神的介護の比重も大きい、認知症は生まれつきの知的障害者とは違う
長い年月を生きてきた足跡がありそれはその人の一生であり歴史である。
その歴史は郷土史でもありまた大きくは国の歴史ともかかわっている
姉は従軍看護婦としてシンガポールに4年間いたことは国の歴史に深くかかわってそうなった、戦争を経験した人はみんなそうである。そういう人はまだ生きている
でももう90以上であり戦争自体にかかわった人、戦地に行った人は相当に少なくなっているだろう。

でもそういう人の経験は貴重であり歴史の生き証人ともなる
姉は死ぬ間際まで戦争のことを語っていた、それだけ戦争というのが人生の中で最大の印象に残ることであり忘れることができなかったのである。
若い時のことは別に平和な時でも一番印象に残る
30歳くらいすぎると何か特別印象に残るということも希薄化する
人間は30歳まで経験したことが後の人生を作っているともなる

だから若い時苦労しないといくら東大出ても、ハーバード大学ででても豊田真由子議員のようになる、ただ一般的にそういう女性は優秀だと思うのが当然だと思う
ただ人格形成で下積みとかないと人間はまともになるないことがありうる
自分は苦労がなく大学など出てうぬぼれていたが就職もできず底辺で働いたりしてうめぼれることもなくなった、その後は隠者として老人になるまで故郷にいたのである
だから超エリートの家族に生まれても人格形成がうまくいかないことがあるから人間は本当に環境が影響するとしてもその環境に恵まれても恵まれすぎてだめになるものもいる、であういう女性は例外的なものだろう。
そういう異常な女性がいたからやはり恵まれたからといって金持ちの家に生まれても男でも女でも人格形成がうまくいくとは限らないのである。

いづれにしろ確かに認知症の介護というとき身体的側面だけではない、そうした老人の人生をふりかえることを共にする、聞き書きは有効である。
ただこれはかなり聞く方にもそれだけの聞く能力が必要になってくる
自分は原発事故とかで小高の人が仮設に住んだりして多少は話を聞いた
でも話す相手にもよる、小高の人と鹿島の人はうまくいかないこともありしずらかったことはある。
だから一人だけは話がうまいから聞くことができたとなる

郷土史はおじいちゃんやおばあちゃんの話を聞くことからはじまるということを書いた
それは家のことには誰でも関心があるからだ、それが身近だからそこから郷土史に興味をもつ、だから古い旧家に生まれた人は有利である。
そこには実際に蔵などに資料が物でも書類でも残っている場合がある、江戸時代のものも残っている、まず江戸時代のものが残っていたとしたら相当に貴重なものとなるからだ。そこから郷土に関心をもつことになる、自分はだから常に墓を見てあるったのはそれが過去に生きていたものの証として残されていたものだからである。

老人ホームで認知症の人で若い時のこと過去のことは覚えているからその話には意外なものがあり郷土史の発見に通じるものがある、ただその作業となるとやはり老人ホームに勤めていたらしやすい、外から入って聞くのはむずかしくなるからだ。
何か老人の介護など特に認知症の介護などしたくない、馬鹿を相手にしたくないということが若い人にある、でも郷土史ということから入ると認知症の人にも興味を覚えるのである。 


驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく) (単行本)

六車 由実 (著)
これは読んでないけどこういう本があるのも驚きである、ともかく本の量は膨大である。
今や読みきれないのである。だから一部分を抜粋して読む、それだと読むことかできる
全文を読むとなると本は長いからできなくなるのだ。


2016年10月08日

墓がなくてもいいのか? 常に死者を意識しなければ死者は存在しなくなる


墓がなくてもいいのか?

常に死者を意識しなければ死者は存在しなくなる


墓がいらないとか最近言う人がいる、墓が維持できなくなっていることもある。墓を守る人もいなくなっていることもある
そもそも墓がなにかというと結構めんどうなものである。
それは死者と生者の問題であるからだ。人間はみんな死ぬ、つまりみんな誰でも死者になるのである。
だから死んだ後のことも人間は考える、死んだら別にどうなってもいいということもある人間なんか最後は灰となり煙となるたげだ、墓なんてもう子供も離れて田舎で維持することもできない、墓はいらない、一代かぎりで終わっていいということもある

墓の問題は墓があるべきとかなくてもいいとかいう前に死者をどう扱うかという問題なのである。死者は何なのだというときわからないのである。
自分の家族はみんな死んだ、60年も一緒にいたのに死んでいない、それもなんといっていいかわからない、最後は一緒にいたことさえ夢のようになってしまう。
それは60年も一緒にいてもそうである。

墓が生れたのは死者にとって必要であったからではない、別に死者は何かを生者に望むことができない、何もすることもできないからだ。
ただ生者が死者をどう扱うかが問題になっているのが墓の問題なのである。
墓とは死者を意識する場所なのである。それだけはまちがいない
実家の墓では25歳で肺病で死んだ人がいた、するとこの人はこんなに若くして死んで無念だったろうとかなる、それは戦死者にも言えるし他の人にそうして無念に死んだ人は無数にいる、墓はそういうふうに死者を意識する場所なのである。
自然葬になったらどこで死者を意識するのかとなる

別に墓というものにこだわらなくても死者を意識することが死者を忘れないことが生者に必要なのである。
だから今回仏方(ほとけっぽ)というのがすぐ近くにあった、そこは村の埋葬場であり村の人を葬った場所である。そこに墓はなかった。村の人を葬る場所としてあった。
それも一つの墓地でもあったのだ。墓を建てることは結構金のかかることだから墓は金のある地位のある侍とか僧侶とかしか作られていなかった。
ただ幕末になると天保辺りからか庶民も個人墓を作っているのである。
それだけの経済力がもつようになった人が出てきたからである。
村人はその仏方(ほとけっぽ)で死んだ人を供養していた。それは村が共同体として機能していたときである。
だから現在は個人墓はいらないとか共同墓地に樹木葬とかでそうなっているのも歴史がそこにもどっているともなる

つまり明治以降家族墓になったのだが家族が分離するとそれが維持できなくなりそうなった。墓とはともかく死者を意識する場所なのである。
もし墓がないとしたら死者はなかなか特別の人でないかぎり意識されない、結局忘れられることになる
ただ人間というのは死ぬにしても死ぬ場所を選ぶというか意識しないだろうか?
ここで死んでいきここで永眠したいなとか何か生きているときでも意識する
自分でもなんか都会など嫌だなとなる、例えは電車がひっきりなしに通っている所とか高層ビルの間とか下とか団地のような狭い空間に閉じ込められたような便利な最近の墓とかなんか嫌なのである。もちろん死んだらそんなことが関係ないとも言える

人間はやはり自然の中で美しい自然の中でつつまれて死にたいということがある
まだ長く住んでいて愛着ある場所に故郷に死にたいということもある
老人になるとそういう意識が強くなるのである、だから故郷に住めなくなった原発避難民で老人はそういう意識が強いのである。
都会では土地に愛着を持つとういことがないからそういうことがないのである。
そしてもう世代の継続が今は全般的にない、それも墓を維持できないものになった。
村という共同体も希薄化して継続がない時代である。
死者でももし仏方(ほとけっぽ)とかに葬られても村の共同体が継続されていたらそれも語り継がれて供養する人はいる、村は一家族と違って村全体が家族のようになるからである

我が里に知られず埋もる墓なれや今日見いだして秋の日さしぬ

我が里という感覚はまず都会にはない、里というとき村でもそれは自然の中に営まれた共同体である。死んでも里の人に見守られているというふうになると別に個々人の墓がなくてもいいわけである。
墓はだから共同体と継続性のある社会がないといらなくなる、第一維持もできなくなるからである。
生者が死者を意識することは死んでもその人がなお生者の中に生きつづけることでもあるからだ。
ただそのために寺に金を使い供養するのとはまた違う。月命日だなんだとか金取りになっているのも問題である。
死者を思うというときそれは心の問題なのである。

ともかく仏方とあってももし墓もないならなかなか死者がそこに葬られていることも意識しにくいのである。
墓があるとここに確かに人が死んで葬られているのかと意識するのである。
墓がないと死者を意識できない、すると死者と生者の結びつきも消えるのである。
死者は全く存在しなくなるということである。
明らかなことは墓がないとしてもいらないとして生者は死者を意識するものが必要だということである。墓の代わりになるものが何かとなるとそれは何なのか?
それが問われているともなる。

南相馬市鹿島区寺内に見いだした共同墓地(仏方ーホトケッポ)
タグ:墓の問題

2016年05月19日

戸籍で切れない因縁 (わずかの貯金でもめんどうになる)


戸籍で切れない因縁


(わずかの貯金でもめんどうになる)


ゆうちょ銀行の母の貯金を相続するの戸籍をそろえるのに嫌になった。
書類がたりないと言われ戸籍をわざわざ東京から郵送してもらった。
それが良くわからないので理解するまで手間どった

第一母が東京で女中で東京の人と結婚した、その人は事故で戦前死んでいるのである。
その父と妻だった母の息子も事故で死んだ。
このことが自分の異父兄弟の血縁関係が意外と因縁深かかったのである。

異父兄弟の兄は幼いとき知っている、その父親の関係は全然知らないのである。
でも兄は交通事故で死んだときこの時も交通事故の保険金でもめたのである。
母が言っていたが前の夫が死んだときも事故で死んだので保険金関係なのか会社から多額の金がでて夫側の親戚とかなりもめたことを聞いている。
何か事故ー金でもめる因縁があり自分に引き継がれたのである。

何かわからないけど前の母の夫には養子なのか変な人がいたと聞いた。
一応前の夫の息子になっているのである。その人も死んだのだが兄が交通事故で死んだときその人の墓参りしたのである。
その時本当に不気味な風が吹いて寒々しい感じになった
というより何か死んだ人がまともでないことを肌で感じたのである。

前の夫は戦前死んだのであり今は台東区になっていた。
それを郵送でとりよせるのにめんどうだった
そしてこれで終わりかとゆうちょ銀行に送ったらまた戸籍がたりなかったのである。
前の夫が今度は北区に移動していいたので転籍した戸籍が必要だという
するとまた北区から戸籍をとりよせねばならないのである。

前の夫と母の息子は交通事故で死んでその一人娘の姪子にはハンコなど押して書類を出している。だから実質的にはそもそも相続する人はみんな死んでいるからいないのである。それでもわずかの金でも相続するとなるとこれだけめんどうなのである。
ともかくそれだけではない何か母方の関係になると因縁が切れない
そこと縁をもってもってもいいことがまるでないのである。
でも最後まで戸籍で縁が切れないのである。

テレビの推理ドラマで遺産相続となると訳のわからない人まで出てくる
何かの因縁がそこであり遺産相続にかかわってくる
遺産相続となると兄弟でも殺し合うまでになる

戦前のことまでさかのぼり因縁は関係してくる、第一戸籍は江戸時代まで庶民でも普通にたどれるのである。
東京に住んでいて台東区から北区に転籍したことまでたどって戸籍が必要になる
それは死んだ人の跡をたどることにもなる、今やその人の前の夫の墓がどこにあるかもわからない、でも戸籍からその人が生きていた跡をたどっているのである。

いづれにしろ静岡で兄が事故を起こしたときもさんざんな目にあった。そのもめた相手が親族ではなく勤めた会社だったのである。保険金を欲しいということでいろいろ工作したからである。
こっちでは事情がわからないし遠いから困ったのである。
別に連絡はとりあっていたから消息不明でもない、事故の直前には自分の家にも来たのである。それが最後だった

戸籍から前の夫の養子なのか何なのか正体不明の人までかかわっている、その人の墓には一回だけ母と墓参りに行ったことも不思議だとなる
今は無縁仏になっているだろう。なんか変な奴だったと母が言っていたからである。
ともかく因縁は簡単にこのように死んでも切れない、戸籍というのは意外と証拠として残る
ただもし遺産相続でないならこんなめんどうなことにはならなかった。
銀行にあづける金は死ぬと簡単にはこのようにおろせなくなるのである。
でも不思議なのはタンス預金とかどこにか隠しておくとかすればその場所を教えればこんなめんどうなことにはならない、でも自分のように盗まれるということがあるのでこれも安全ではないのである。金というのはとにかくいろんな面でやっかいなものなのである。金に人の欲が集まるからそうなるのである。
関係ないものまで金にかかわってくる
ただ今自分の血縁関係の人はみんな死んで自分だけが残った。
それで供養するのは自分だけなのである。

先祖とか家系をさかのぼる、それはその家系が何かいいものを残しているからだろう。
その反対も多いのである。かえって家系の中で悪い因縁に苦しみその因縁が断てないで苦しんでいる人も多いのである。
因縁はいい方にも悪い方にも働くことはある、でもただ悪い方にだけ働く因縁も多いのである。
自分の母方の因縁はそうである。父方の因縁にはそういうことはないのである。

タグ:戸籍

2014年09月16日

火災保険、10年超引き受け停止へ 損保大手 自然災害増加で収支悪化 (国民年金も保険であり支払いきれなくなっている)


火災保険、10年超引き受け停止へ 損保大手 自然災害増加で収支悪化

国民年金も保険であり支払いきれなくなっている)


  損害保険大手が、10年を超える期間の火災保険の新規契約引き受けを来年秋にも停止する方針を固めたことが13日、分かった。異常気象による建物被害が増加傾向にあり、長期契約での収支予測が難しくなったためだ。現在、最長で36年の保険契約は、 ...
MSN産経ニュース

若い世代はまともな職にも就けず、安定収入もなく、結婚もできず、ジリ貧。 
一方、老人世代が雇用延長して会社に居座り、高給を得て、裕福な生活をおくる。 
自分たちだけ良ければ後はしらねえ、って感じがぷんぷんする。 
政治家も自らの懐にカネが転がり込む仕組み作りに腐心しているだけで、表向きは 
キレイ事をいっているだけで、将来の日本がどうなろうと知ったことではない。 
だいたい、余命幾ばくもない70才の老人がまともに将来を考えるかっての。 


年金は保険だから。得する人もいれば損する人もいる。最も公的年金は、政府が出資してるから得する割合が高い。

 自動車保険は事故を起こさないと貰えませんよね。健康保険は病気や怪我をしないと 
貰えませんよね。保険金を貰うような事態にならないほうが幸せなんです。それを、 
「掛け金が無駄になった。私も事故を起こしたかった。病気になりたかった。」と悔やむ 人はいません。 

国民年金「保険」も、厚生年金「保険」も同じこと。貰うような事態にならないほうが幸せ なんです。保険金をもらえなかったら、「無駄に長生きして生活に困らなくてよかった」と
喜ぶべきなんです。 

そういうわけで、年金の支給は90歳からにしますのでよろしくお願いいたします。 



一般にも保険が「危険を分担」し合う契約であることの認識は薄く、自らに保険事故が発生し、経済的保障を受けなければ保険の効用、仕組みについて理解がされないことが
多い。

保険というのがこれもそもそもわかりにくい。親が農協の保険の火災保険い入っていた。それで今回の地震で30万くらいはもらった。
でも津波に被害があった人は500万もらったという。床上浸水で被害が大きかった。
それでもその額が大きいと思った。その人は1200万くらいの保険だった。
自分は600万だったのである。それも積み立てたのが戻ってくる保険だった。
ただ自分は少ないと感じたが保険は何かあった場合のために助け合うことが保険だということを理解した。そういう助け合いだということを自覚している人は少ない。
保険会社に一任してその保険会社から支払われるのであり互いに保険金を納める人が協力してなりったていることがを自覚していないのである。
それが近くで同じ農協だったから自覚したのである。
正直農協は一年に5万であり高いと思った。でもこれは掛けたものが返ってくるから高かったのである。

現代は保険の時代でもあるが保険とは何か理解している人が少ないと思う。

年金は保険だから。得する人もいれば損する人もいる。最も公的年金は、政府が出資してるから得する割合が高い。

 自動車保険は事故を起こさないと貰えませんよね。健康保険は病気や怪我をしないと 
貰えませんよね。保険金を貰うような事態にならないほうが幸せなんです。それを、 
「掛け金が無駄になった。私も事故を起こしたかった。病気になりたかった。」と悔やむ 人はいません。 

年金が保険と理解している人もまれだろう。若い人が年金を払うのが馬鹿らしいというのはわかる。
自分もそう思っていたが払うのは親だったので苦しいとは思わなかった。
年金は保険だとすると老後のために何かあった時にもらうものであり月給のようにもらうものではない。
それは病気とかになった時もらうものだとなる。そうなると定期的に死ぬまでもらうのはないとなる。
国民年金などはこうした保険というよりは国の社会保障になっている。半分は国で保証しているのである。健康保険でもそうである。アメリカでは健康保険が馬鹿高いから貧乏人は入っていないから病気の時はいい医者にみてもらいない、日本では平等にみてもらえるのがいいと評価される
でも国でその負担が増えるとはらいきれなくなり消費税などの増税になるのである。
それはこれも保険でありみんなでなにかあったら負担しあうという思想があり成りたっている。
生活保護でもそういう思想があり成り立っている。ただ税金で納めるから保険だという感覚がないのである。

若い人が年金に不満なのは今の団塊の世代などは少なく払ってももらえるが自分たちが老人になるときはもらえるかどうかわからないという不満である。現実に今の90代は年金をはらわなくても三万くらい国から支給されたのである。年金は国で保証されるから支払われるとしても今払っている年金は今の世代に支払われるから不満なのである。
考えてみれば火災保険などは支払う額はそうした世代間で差はない、みんな同じ額を払って維持している。今の若い人は多く払ってももらえるかどうかわからないというのは当然だとなる。
厚生年金や企業年金も国民年金とは違っている。
公務員はなぜ年金が高いのかと不満がある。その差があまりにも大きすぎるからである。
そもそも国民年金にしてもそれが保険なら病気とかの時支払われるのであり月給のように支払われるのではない、そうしたいなら貯金の年金に入り老後にもらえるようにしひた方がいいとなりそうしている人もいる。

いずれにしろ社会保障費も増大すれば消費税などあげねばならない、少子高齢化でその負担が若い人にかかるから不満が増大する。最近火災地震保険でも払いきれないから募集を保険会社で取りやめたことも同じことなのである。支払う額が大きくなるともう維持できなくなるのだ。
それは社会保障費でもそうだし年金でもそうだし民間でも維持できなくなる。
そういう限界状態が社会全体に生じているのである。

現代社会が理解しにくいのは何でも規模が大きくなっているからである。少人数の頼母子講などなら理解しやすいが巨大化すると人間はなんでも理解しにくくなる。
でも今回のような大災害になると巨大化しているから巨大なシステムを構築した保険会社でないと対処できない、その一番巨大化したのが国の保障なのである。これだって税金で成りたっているのだから
保障しきれない事態になっている。
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2014年09月13日

金の貸す方の恐怖 (貸すと際限なく借りに来る恐怖)



金の貸す方の恐怖


(貸すと際限なく借りに来る恐怖)


金を貸す方の心理を借りる方は知らない、立場が変わると人間は相手のこと理解できない、患者と医者と看護師でも親と子でも上司と部下でも立場が違うから理解できなくなる。
正直親とならない人は親の気持ちがわからないということがある。
自分がそうだった。今親の介護をして世話する人の気持ちを理解した。
毎日食事の用意をすることが大変なのである。でも親もそうしてくれてきたことを理解したのである。
親は子供を世話してきた。そこには子に対する願いも生まれる。
子供が立派に育ってほしいとなる。その立派とは何か明確ではないにしろそいう気持ちを持つのである。
それは日々子供のために尽くすからそうなる。

人のために他人でも同じである。
特に看護師などや介護士でも人と直接向き合う仕事だから余計に感じるのだ。
「なぜこの人のために働き尽くさねばならないのか?」
金をもらっているから仕方がない、そう割り切れないのである。
だから病院とか介護関係では虐待も起きてくる。それは家族でも起きてくる。
家族も実際は様々な家族があり複雑なのである。
要するに世話する人と世話される人の立場の違いで問題が起きる。

金の貸し借りもそうだった。金を借りる人は金を貸す人の気持ちがわからないのである。
返すから貸してくれとはいうけど返すとは簡単に誰でもいうことができる。
一回貸すと必ずまた借りにくる。返さなくても借りにくる。
金を貸すとそれが延々と続くから怖いのである。要するに切りがないことがこわいのである。
延々と金をせびられのが金を貸す方にとっては怖いのである。
金を貸す方にすると延々とせびられる、たかられるということが恐怖になる。
そういうことは親族間で起こりやすい。
借りに来ても断りにくいからである。

恐喝事件では推理小説では延々と金を請求されるということで殺害するというのも切りがないことが恐怖になってそこまで金を与える方が殺害までにいたる。
金を貸す方もそういう恐怖がある。
なぜなら金を借りるような人は常に金に困っていて借りに来るからである。
金を借りに来ることに終りがないのである。

その金の貸し借りから信頼関係はこわれてゆく、金の借りる方は金にならないならと離れてゆくし金を貸す方は金を延々と要求されるということで恐怖となり縁も切れてゆく。
人間は限度がないことが怖いことになる。欲望にも限度がない、だからかえって一千万の月収があっても生活が苦しというのはそのためである。
収入が増えれば楽になるというのではないという。それ相応の生活ができないことが問題なのだというのは本当だろう。

なぜ金の貸し借りから人間関係が破綻するのか?
金を借りる人には必ず問題がある。そして知人であれ金を借りるとなるとどうして金を借りるようになったのか厳しくとわれる。ギャンブルでおおまけしたからだと言ったら誰も貸さない、貸すのはサラ金である。
金を借りることはその人の人間人格、人生まで問われることになるのだ。
おまえはいいかげんな奴だから借金するのだとみられる。

まず事業している人などと付き合うのは怖い、こっちに弱みがあったりしたらさらに怖い、相手は金しか眼中にない、ちょっとでも何か頼めば百万単位で借金を要求するから頼めなくなった。だからかえって頼むときは法人会社がいいとなる。
要するにもう知人でもなにかしてもらうと際限なく要求されることが怖いのである。
「ただほど怖いものはない」の意味は報酬として決まった金でケリがつくことはわりきれていいのである。
なにかしてもらっていくらだと決まっているとかえって割り切れる。
いくらでもいいですよおいわれると一万から百万までまりうるのである。金持ちだったら百万払うこともあるからである。

いずれにしろこの金の問題も親から受け継いだカルマだった。いつも金を貸すことで返してもらうのに苦労していたからである。そのカルマも引き継いだのである。
カルマは親からのカルマ必ず引き継がされるのである。
そこにはいい面と悪い面がある。いい面だけを引き継ぐことはありえないのである。
いずれにしろ金の問題はやっかいである。自分はそんなことにかかわることがなかったからよかった。今やいろんな世俗的なことに関わらざるをえなくなった。
人間は世俗のカルマから逃れられないのである。
借金をすること自体がすでに具体的にカルマを背負うことになっているのだ。
だから借りた人に借金を返さなくても他の人から取立てがされそれは厳しくなるというのもありうる。そのカルマともかくどこかでまた返さない限り要求されるのである。

2013年03月26日

見過ごしていたコメント (高齢化社会の恐怖-弱者を虐待する人間の悪魔性)


見過ごしていたコメント

(高齢化社会の恐怖-弱者を虐待する人間の悪魔性)


高齢化社会の恐怖-老人虐待が日常化する
(弱者はカルト宗教団体だけではない、個人も同じ手法で脅すことが普通にある)
http://musubu2.sblo.jp/article/61582877.html


ここにコメントされたものです



病院は刑務所と同じ。患者は研究対象のモルモットがストレス発散の為の玩具。90才の老人が痰吸引で苦しむ姿を見て笑う看護師…自分が指摘した母の臀部に出来た褥そうになる手間の水疱を水疱ではないと看護師に否定されました。しかし、水疱は破け褥そうが広がり、褥そうの処置に大声で痛みを訴え泣き叫ぶ母を見て笑ったり、「凝らしめたる」だとか、痰吸引で苦しむ姿を見ても何とも思わない看護師の恐ろしさ、母の泣き叫ぶ姿や自分は看護師や医者に裏切られ弄られても抵抗出来ない姿を思い出し、辛くなりました。医者は研究対象から外れたら、もうベッドを開けて欲しいから死期を早めることも自由自在。私が怒り苦情を言えば、私がいない間に母を弄り、今思えば、母が私に「もう、何も言わんといて」って言った意味が分かりました。こんな恐ろしい医療従事者がいるなんて信じられませんでしたが、自分の大切な人が被害にあい、恐ろしさを目の当たりにしました。事実は形に残して正解です。医療従事者の言いなりになり、物以下の扱いをされ過去形にするつもりはありません。


ストレスが原因とはいえ、目の前の癌患者を虐待した裏には、悪質な医者、カルト教団、見栄をはり消費者金融で借金して外見を飾り、会社経営して、しっかりしていると思わせたかった葛集団、母に借金の肩代わりさせた事実を隠蔽したかった元兄嫁や妹が繋がっていました。
高齢者や女子供や障害者が虐待の対象にされるケースが多いですが、虐待する側にも、同じ対象者が当てはまります。障害者にも色々で、精神薄弱者が加害者になる場合も多々あります。だいたい、カルト教団に入る様な人間やカルト教団と取引し悪事を重ねる事が出来る人間は自立出来ていませんし、攻撃機制があります。



90才の老人が痰吸引で苦しむ姿を見て笑う看護師・・・・


自分も入院した隣の90才以上の老人がそうでした、その人は特養の人で身寄りがなかった
だから看護師がおもちゃのように扱っていた、痰がつまるのは本当に苦しい、
その苦しむ声が毎日隣から聞こえてくるので眠れなかった
看護師はそれを笑ってやっていた。
看護師は天使にもなれば悪魔にもなるというとき悪魔になっていたのでしょう

病院は実際は恐ろしい所です、看護師にも一人だけど虐待的なことをされた
結局それも身寄りがないからそうなった、家族などみているものがないとしたいほうだいになる
だから身寄りがないものにとっては病院は恐怖です


痰吸引で苦しむ姿を見ても何とも思わない看護師の恐ろしさ・・・・端からみても地獄の苦しみでしたよ、あんななる前に死んだ方がいいと思った、つまり長生きするとは恐ろしいリスクが待っているというのも現実です、長生きさせられて生きながら地獄の苦しみを受ける恐怖です
病院で死ぬことは本当は相当に恐いことです


安楽死させろというとき安楽死の方があれをみていて人情的だなと思った
一層殺してくれと患者も言葉にも言えないが端からみてそうだった
安楽死の方があんな苦しみを受けるよりよほどいいと思ったし否定できない

長生きするということは苦しみも増えるということです
自分の姉は本当は脳出血で倒れて入院したけどそのまま死んだ方が楽だった
半年以上入院して地獄の苦しみを味わった
結局最後は老人は直らない病気になり死にいたるのだから
何でも病院にまかせるとただ苦しませられるだけになるし病院の方でもその治療や介護で膨大な労力を費やすことになるだけです

自分も親戚に言葉の虐待を受けました、これにカルト教団が加わったら最悪です、自分の場合は身寄りがないことですべてそうなった、病気のときまでいじめられると思わなかった

人間は全く残酷です、この六年間は介護や自らの病気や犯罪にもあい苦しみの連続でした
最近こんな非情な社会になったから津浪が起きたんじゃないかと思います
人間社会の終末が来ているのじゃないかと思いました
最後の審判のときが近づいているのだと思いました

自分はなんとか借金している親戚と切れましたし今は病気も一応回復したし身体障害者でなくなりましたから楽になりました、なんだかやっと楽になったなとほっとしています
自分の場合はなんとかあきらがつきます
だからただ忘れることを願うだけです




●身寄りのないものは入院すると最悪になる
このコメントを書いた人は裁判にするまで恨んだ。自分もこれと同じ様な経験をした。つまり人間は弱者になったときそれをいたわるどころではない、弱者になったことをいいことに脅迫するしてくる。もちろん火事場泥棒のような犯罪にもあった。それも自分が病気になり弱者になったからである。弱者を攻撃することは実に容易である。でも弱者になると何も言えない、お前には頼るものがいないから俺たちの言うことを聞くほかないと言われる。弱者になったことをいいことに責められるのだ。看護師も一人だけであるが入院して虐待された。それも恐怖だった。その看護師が怖くなってトラウマになり何も相談することもできなくなる。何か悪いところがあっても言えなくなる恐怖があった。弱者だからどうしてもみてもらいたいことがあっても言えなくなるのだ。医者とか看護師の前では患者は一方的に従うだけのものとなる恐怖である。何も言えない、もし寝たきりとかになると余計にそうである。もちろん認知症とか精神障害者はもう何も言えないから虐待されるままになる。


そういうときなぜかいろいろなカルト宗教団体が入り込んでくる。それは創価でも一票獲得のチャンスとなりまた他のカルトでも会員を増やすチャンスとみて入り込んでくる。同情などは全然ない、自分たちの勢力拡大のために入ってくる。またそういうものに頼らざるをえないことも恐怖なのである。自分が頼った親戚もそうだった。親戚でも金が欲しいだけでありいやいやながらやっていた。
だから何かするにもいちいち恩を着せるのである。手術するときも身寄りがないから保証人の欄に一応書いてもらった。たいした手術ではないにしろそういうことをしてもらうと多大な恩をきせられる。身寄りがないということはなってみないとわからない、もう誰にも頼れないという恐怖である。


人間は家族などがいなければ誰も同情などしないのである。病院でも医者も看護師も同情はしない、ただ物体のよう地扱うだけになる。そもそも医者や看護師側から見れば赤の他人であり次々に運ばれてくるしもう嫌だという感情がでてくる,同情しきれないという感覚になってゆくのかもしれない、人間的同情感覚正常な感覚が麻痺してくるのかもしれない、もうこんなに死にかける大量の老人を世話するのは嫌だという感覚になるのかもしれない、そういう感覚になることはイメ-ジできる。
それだけまた看護の現場が過酷だからまたいちいち同情していたら身がもたないということもあるだろう。だから看護師はやめる人が多いというのも納得がいく、あまりにも理想とはかけ離れた過酷な非情な現場だともなる。


●安楽死もある場合は肯定されるべきだろう


高齢化社会の大きな負の面が過度な介護とか延命治療にある。だから安楽死させろというのも一面わかる。入院した隣の人は安楽死させたた方がどれほど情があるのかとさえ思った。看護師のおもちゃにさせられて苦しめられるためにある。特養だからその人に金はなくても国で出すから生かしておく、生かされることがもはや地獄の刑罰のうよになっていたのだ。それは延命治療でもあるし自分の姉も地獄の苦しみを味わった。泣き方が異常だったのである。それほど苦しかったということである。これは他の人も病院でそうした苦しみを受けているのだ。だからあるところからはただ苦しませるために生かしておくとまでなっているのが今の医療なのである。人命は生きる限り尊いものだというのではない、それほど苦しんで人はもう生きたくないのだ。

結局人間は最後に自分の死を選べない、意識不明とかなり病院に入れられてそこで眼が醒めたら地獄の苦しみを味わう場になっていて逃れられなくなるそこが拷問の場とさえなっていた。延命治療は直るならいいが直らない患者を苦しませるために長生きさせるだけのものとなる恐怖である。特に特養の老人がそうだったように何も抵抗できないしただ弄ばれるだけだという恐怖があるのだ。
それも身寄りがないということはそういう身寄りを作らないことが悪いのだともなるだろう。

自業自得としてその罰を受けろとまでなるのかもしれない、人間の最後をよほど真剣に考えていないと今の時代は恐怖である。孤独死が言われるが別にこれが悲惨ということではない、瀕死の状態で病院に運ばれて延命治療されて苦しみが長びくことこそ恐怖なのである。助かるにしても高齢になるともう死だけになり苦しんで死ぬだけになるからだ。姉も半年長生きしたとしても異常な苦しみを経験しただけだった。でも今は必ず救急車を呼ぶから呼ばざるを得ないからどうしても苦しむ期間が長くさせられるのである。


●弱者には親戚やカルト教団がからみ食い物にされる


ストレスが原因とはいえ、目の前の癌患者を虐待した裏には、悪質な医者、カルト教団、見栄をはり消費者金融で借金して外見を飾り、会社経営して、しっかりしていると思わせたかった葛集団、母に借金の肩代わりさせた事実を隠蔽したかった元兄嫁や妹が繋がっていました。


これも自分と多少にていた。その人は会社を経営していて成功したように装っていたのだ。
それもただ見栄のためだった。借金をしているからどうしても金にこだわり自分が病気になったときそれをいいことに暗黙の内に金を要求するようになる。まあ、別にそれなりに同情して助けてくれるならいいが実際は同情は全然ないし恐喝まがいのことをしてきたのである。こんな人に頼ること自体最悪だったのだ。こういうことは20代で若くして父親がアルツハイマ-になった人がインタ-ネットに書いていた。親戚にいいようにされ金をとられてだまされたとか書いてあった。その恨みを延々と書いていたことが自分にもあてはまる。人を見るとき弱者にどういう態度をとるのか?それをみているとわかる。弱者に横柄な態度になり虐待までする。そこに人間性が見えてくる。それは男女関係でもある。女性が齢から虐待されるのだ。虐待することに喜びを感じるのも悪魔的性格が人間は誰にでももっているのだ。


人間はまさにショ-ペンハウエルのように悪魔的なのである。それは自分もないと思ったがある。人間は誰しもジキルとハイドなのである。そういう悪魔的側面が隠されていてそれが自分のように病気とか弱者になるとそれ幸いとつけこんできて虐待されるのだ。人間は一面恐ろしいものなのだ。愛とか慈悲を説く宗教とはあまりにもかけ離れている人間の本性は悪魔だともなる。
カルト教団は悪魔的なものである。宗教看板にして弱者救済するように見せかけて勢力拡大を計るだけである。そもそも弱者に同情する人がこの世にいるのかとなる。

もちろんそういう側面は自分にもあるからただ他者を責めるということもできないのだ。弱者を虐待して快感を覚えることは男女の関係でもあるし常に人間に備わっているものなのである。だから人間が弱者になったとき本当に同情する人は希有な人である。一人だけ馬鹿正直な女性が同情したのである。その女性は本当に同情したから今になると今の世の中ではありえないとさえ思った希有の女性だったのである。

 

2010年05月26日

キ-ワ-ド 認知症の家事療法(しゃもじ渡しの意味)


キ-ワ-ド 認知症の家事療法(しゃもじ渡しの意味)


古くは「おしゃもじ渡し」といって主婦の座の交替を表し、おしゃもじで大鍋の煮物をかきまぜないと焦げついてしまうという古い教えを意味しています。

これは集団活動のコツであり、当時、おしゃもじでゆたかな食糧をよそることは、主婦の願いでもありました。
また、「戦いとる」意の「めし取る」心もふくめています

http://shufuren.net/modules/tinyd2/


プログのキ-ワ-ドを調べていたら「認知症の家事療法」というので自分のプログに来ていた人がいた。
それで一文を書いてみた。
しゃもじ渡しは姑が嫁にするものだというがこれは人生が60年くらいの時代なら良かった。隠居の風習があったのもそもそも人生が短いからであった。だから40代でも隠居になっている人がいた。60くらいで死ねばあとは20年くらいは好きなことをしていればいいとなる。60で退職して80頃で死ぬのと同じ感覚なのである。そういう時代の感覚からそうした昔の風習や伝統を考えることはできない、つまり現代の高齢化社会は人類史上はじめて経験することなのである。85とか90とかを普通に生きる時代など人類は経験していないのだ。だから今までの考え方は通用しないのである。もちろん老人は嫌いだ、いなくなった方がいいとかの意見も出てくるのは当然なのである。老人が増えることは社会全般的にいい影響はないからである。若い人が多い方が活力があっていいというのが普通である。老人が多く老人が金とか権力をもっている社会は新陳代謝が起こらない、革新的なことができないこともある。明治維新など革命を行ったのは20代とか30代だったことでもわかる。それほど過激だからとても老人などにはできることではなかったからだ。

ともかく高齢化社会は今までの風習とか伝統が通じない、価値観が根本的に通じないということを前提にしないと議論がかみあわないのだ。これまでの伝統はすでに近代化で壊されてきた。長子相続とかも壊されたり嫁が姑に従うということも壊された。大家族制も壊された。地域も壊された。さまざまな伝統的なものが壊されたときそれに代わるものは何なのかとなるときそれが社会の反対の会社になった。今度はその会社も不景気でグロ-バル化で拠り所にならないとなった。社会の中で伝統的なものが継続されず壊されてもそれに代わるものは簡単に作れないのである。伝統的なものが壊されることは価値観が変わるからその価値観に適合できなくなる。例えば嫁は姑に従うものだという習慣が価値観が支配していたときは姑は家の要としてありえた。でもそれがなくなったとき姑は嫁に従うものとなったとき姑は家にいづらくなり別に夫婦で暮らすのが一般的になる。これは一見嫁にとっては姑に従う、いじめられなくてもすむとかなりいいとなるのだが反面、自分もまた同じ運命になる。姑の立場になったら同じように別居することが多くなるのだ。

しゃもじを渡すということは女性にとって一大事であり台所をまかせられることは女性にとってはその家を取り仕切ることにもなる。だから80、90まで生きる時代に嫁が来たからとしゃもじを渡してしまいば姑はあと何十年と家の中で無用の人となりかねないのである。それがボケに認知症になることに通じているのだ。一番ボケになりやすい人は「おばあちゃんは無理しないでください、楽してください、テレビで見ていてください、私が家のことをみんなやりますから」こう嫁に言われた人なのである。実際に自分の家では複雑な家庭事情があり他からは理解されにくいけど90ますぎても未だに家事をしている女性はボケていない、公務員をやめてから家事も何もしない女性はボケて認知症になった。年は7年しか違っていない、明らかになまけものになってしまったのである。家事もやることがない、趣味もたいした趣味ではない、もともと向いていたのは看護婦とか保健婦だったから人の世話だったのである。それでハイチで83才で女医の人が未だに地震の国で肺結核の看護をしてハイチのマザ-テレサと呼ばれているというのを見てあの人はボケないなと思った。家庭内でも障害者や病人や介護する人をかかえていればなんとかその人の世話をしなければならないと責任感を持つからボケないというのは本当である。

現実に90になっても60すぎた知的障害者の息子をめんどうみている母親はボケていない、しっかりしている。やはり責任感があるからなんとか迷惑かけないよにう世話せねばならないという責任感があるからそうなっている。また男でも会社をやめたり自営業でも親父も息子に仕事をまかせるときボケやすいというのは女性のしゃもじ渡しとにているのだ。これも結局高齢化のために起こったことなのである。なぜならしゃもじ渡ししても早めに死ねばそれで良かった。男でもそうである会社をやめて息子に仕事をまかせても85から90までなど生きていないからである。だから高齢化社会では今までの考え方を変えねばならないから対処がむずかしいのである。

認知症の家事療法は効果が確かにあった。洗濯でも洗濯機が使えなくても手で洗っていたし食器洗いはできたし掃除なんとかできた。認知症でもできることはありそのできることをしていると気分が良くなり自分は役に立っているという自信をもったので効果的だったのである。何もせずにただ与えられるだけだったらますますだめになる。何かできることをすることはいいことなのである。だから嫁に私がやりますからおばあちゃんは何もしないでテレビでも見ていてくださいというのが一番悪いことになるのだ。それはやっぱり高齢化社会はしゃもじ渡してから先が長いということにあったのだ。だから今までの価値観が通じなくなったのである

2009年04月20日

介護で切れる親戚関係(介護では本心本根が隠せず現れる)


介護で切れる親戚関係
(介護では本心本根が隠せず現れる)


自分の家の場合、兄弟がいないのだから親戚関係はないと同じである。ここを前提にして読んでもらう必要がある。つまりそもそも親戚関係は薄いから切れても当然の関係だった。だからそのことにこだわる、恨むとかはない、ああそうなんだくらいであり別に恨んだりしない、当然の結果だと今では思っている。

@ 最初からかかわらぬことを決めて切れた親戚

これは介護になってから最初からかかわらないことを決めた親戚だった。ここも代が変わっているし姪とかであり年も八五歳とか本人では何もできないし息子や娘達は何もやる気はないから切れて当然だった。ただ特養に勤めている人がいたのでどうしたらいいか認知症の対処の方法など知りたかった。でもこれもめんどうだからしたくなっかったのだろう、何もできないしたくなかったら介護になったらこの方がわかりやすくてすっきりして良かった。別にこれで恨んだりしない、そもそも本人はできないんだからしょうがないことだった。

A無理をして協力して絶縁して来た親戚

この親戚も姪とかでありその間に交流も薄いし何かしてくれるとは期待してなかった。だから介護自体は何もしてないにしろ親切に手伝ってくれるものだ不思議に思っていた。そのなぜかがわかった。金をやっていたのだ。でもその金のことで今度は絶縁状態になった。なぜならその人はそもそも金持ちでありやたら財産が入ってくる人だった。金などいらないのに金をやったからその金はそれなりに大きいとしても金持ちだからはした金になる。もし貧乏な人だったらありがたいと思うが全然思わないのだ。金でも一万やってありがたいと思う人百万やってもそんな金も金のうちに入らないはした金と思う人もいるのだ。そういう人に金をやっても何の意味もない、だからこんなはした金で介護に使う気かとどなりこんできたのである。もともとやる気がなかったのに金をやったため切れてしまった。金がいい作用をすべてするわけではない、金持ちは金では動かないのだ。金ですべて解決するけではない、だからあんた金があるんだから金でヘルパ-雇いとなり絶縁してしまった。もし金がない人だったらこうはならなかった。打算でも金が欲しいからやりたくなくてもやることはやる。介護関係の仕事でも他の仕事でも金のため嫌でもやらざるをえないからやっている。それが全部悪いとは言えないのだ。金があるからといって金が万能ではない、かえって悪く作用して人間関係を壊ししてしまうことがあるのだ。ただこの人は相当に冷たい人だったから本心と本音が極端に現れて絶縁してしまった。そうでなければこんな絶縁の仕方をする必要がなかったからだ。あれほと怒り狂うということが理解できないからだ。あなたのためにはそもそも何一つやりたくなかったのだが成り行きで一時的に協力していたのである。

B世話になったという理由で協力した親戚

ここも親戚といっても親戚にもならない関係だった。ただ世話になったということで協力してくれた。これはAとは比べ物にならないくらい協力してくれた。その言っていることもしたことも本当だった。ただすでに80すぎて協力するにしても自分一人ではできない、代が変わっているし娘や息子はやる気がなかった。でも母親がそういうのでしかたなくしていた。だからこっちの方には金を最初からやるべきだったが金があるということや金を受け取られないとうことでやらなかった。金を払ってもこっちにしてやってもらった方が助かるからだ。でも実際は金はなかった。あとで借金しに来たからだ。それを断ることもできなかった。これはAとは逆の立場だった。金がなければ金はやったのだからもっと協力してもらうことができた。でも金があると言われれば金やるからといったってしてくれない、Aではそもそも金は必要なかったから金で使われることに激怒したのである。こっちは別に絶縁状態ではない、ただ借金だけが残っただけである。借金を返せばもとの状態にもどるだけである。ただ何か手伝ってもらうことはあとあと考えるとむずかしいというだけである。

●介護には本心、本根が隠せず現れる

介護となると金の問題でももめて兄弟間でも財産のことでもめたりして絶縁状態になる。私の家はそもそも兄弟関係ではないから介護とか深刻な状態になればそんなことする義理も何もないのだから切れても普通のことである。だからとやかく言うことではないのだ。だから結局最後は金の問題になっていたのだ。介護も金の問題としての側面も大きい、介護士の不満も給料が低すぎることでありそれが解消すれば介護に従事する人はふえてくる。労苦の割りには給料が少なすぎるから不満が大きくなるからやめる人も多いのである。
介護になるとなぜこんなに兄弟でももめて絶縁状態になるのか?介護が大変だからそんなものにかかわりたくない、財産だけはもらいたいとかその人の本心がでてくるからだろう。介護になるとその人の本心がでてくる。その本心にまともに接して仰天した。こういうことは介護を職業として接している人にもある。金持ちの施設には横柄な人が多いという。

「オ-イ、高額な金を払っているんだからもっと親切に丁寧に尽くせよ、その態度は気にくわんな、もっとオレを敬い尽くせよ・・・・」
こんなことを金のために奴隷のように使われるとしたら介護士も嫌になるだろう。実際嫌になっいる人が多い。ここに介護は普通の職業とは違う問題としてあることに気づく、だから今回のような本心、本音がでてくると驚愕することにもなる。
「あんたなんかもう世話しねえよ、金のためにへいこらしていたけどオメエなんかもう顔も見たくねえ、オレは金が入ったからうすぎたねえ、オメエみたえな金持ちとはお別れだよ、顔も見たくなかったんだよ・・・・オマエなんかぶん殴りたかったんだよ・・・」

こんなふうに本心、本音がでてくる。介護では親子のなかでもこういうことがありうるのだ。介護でなくても絶縁したい人が掲示板で話している。そういう人は親の介護などしようにもできないのである。介護は辛いから本心、本根がでてくるからできない、最初は世間体とかとりつくろってもできなくなる。長いとさらにできなくなる。それだけ介護は負担が大きいからそうなっているのだ。これはだから介護する人を全面的には責められないのである。そんなにしてまで介護させられること自体、今まで人間としてありえなかったことである。高齢化社会と豊さから介護社会が生まれたこれは新しい問題なのである。 親孝行しろとかの次元とは違う負担の大きさが介護にあるからだ。余りにも重くなれば自分だってのんきにしていられない、耐えられなくなるからだ。


2009年02月17日

NHK-クロ-ズアップ現代-認知症 広がる「本人が決めるケア


 

●認知症を理解すること自体むずかしい
 

認知症の人を理解するのは相当むずかしいだろう。これは実際に家族でかかえた人でしか理解できないだろう。今日のNHKでは若年性の認知症をとりあげていた。これも若年性と老人性の認知症はどう違うのだろう?とかまた疑問になる。認知症をテレビから見ただけではわからない、ええ、どこが悪いのだろうか?普通に見えるけどなとなる。でもよくよく表情を見ているとどこかおかしいのだ。認知症は知恵遅れになっている。知恵遅れの人とよくみているとにたところがある。社会のことが理解できなくなる。それはいろんな症状となって現れてくる。だから今まで簡単にできたことができない、人付き合いは特にそうである。社会のことがどういうことかわからなくなるからだ。ある人は施設に入ったらそこは会社で介護士は部下だと思っているという。そこがどういう場所なのか理解できない、会社だと思っているからが部下だとすると介護士は部下の役割をしなければならなくなる。「部長、ごきげんはどうですか」「まあまあだよ、お前はあわてて失敗するから気をつけろよ、時間を守れよ・・・」「部長わかりました、ありがとうございます」
こんな会話を嘘でもしていなければならなくなるのが認知症なのである。つまり認知症には演技力が必要になる。

 
例えばお手伝いさんとお手伝いさんを使っていた女性が二人認知症になったらやはり関係は変わらず使う者と使われものとして施設ですごししていたという、それだからこそうまくいく、一方が認知症になったから馬鹿になったから使われている人があなたは馬鹿になったのだから私の言うことを聞きなさいとかいちいちわからなくなったことを指摘したら怒るのだ。今までの人間関係は継続する、でも実際相手が馬鹿になったのだから継続できない、そこに問題が起きるのだ。認知症とは相手をたてることが相手を気分よくさせることが治療であり介護なのである。それをできる人は家族でもできない場合があるし他の人でもまれである。だから今まで長年つきあっていた人も来なくなった。相手できないのである。一人だけうまく相手してくれた人がいた。その人はうまくちぐはぐな話をしてもそれに合わせてくれたのである。その人とは前はそんなにつきあいはなかったが相手が馬鹿になってもかわいそうだからなとか同情していたのだ。その人は今までは馬鹿のように思われていた人だった。何か言うことが良くわからない人だった。でも実際は認知症になり馬鹿になったことをわかっていてつきあってくれていたのである。
 
●認知症の人にとって作業療法は効果ある
 

認知症の人が幼稚園とかに行って掃除などをしていた。それで自分たちも社会とかかわれて何かしら役立っているという意識をもつ、子供たちとも接することができると生きがいをもてる。
認知症の人は役に立たないということを意外と気にしている。私の家では家事をほとんどしていなかった。でも認知症になってから洗濯、掃除、食器洗い、風呂の掃除などをするようになった。そしたら自分は役立っているということで何か自信がついたのか前向きになった。認知症でも役に立ちたいという意識がある。体は丈夫だったからそれがまだできた。それでこちらも助かった。庭いじりなどもしていた。認知症の人にとって作業療法がかなり効果を現す、でも家庭でやるならいいが社会でやるとなるとテレビでも補佐する人が4人必要だとか金もかかるとか簡単にはできない、つまり社会の役に立つからといって自分たちではできないのである。だから自分たちで病気を知ってもらいいい介護を国に要求することができるのかと理解できなかった。ともかく認知症は理解がむずかしいから家族でも孤立しやすいのである。だから施設に入るほか地域で介護することはまわりの理解がないのでむずかしい、実際は自分は一人で介護して何の援助もえられなかった。病院に入院したときは認知症の介護ではない、体の介護だが援助されたので病院に入れたとき楽だなとつくづく思った。ともかくはじめて外部の人が体の事でもいろいろ気づかってくれたからである。ただ別に認知症だからと気づかったわけではない、認知症だからと気づかってくれる人はいない、むしろ地域では差別、偏見になりやすいのである。


認知症は今日のNHKのテレビ見てええ、普通の人とどこが違うのか?と見る人が多いだろう。若年性の認知症は自分もわかりにくいがやはり痴呆であり明らかに知恵遅れの人のように社会のことがわからなくなる。でも依然として今までの大人としてつちかったことは記憶にあるから施設に入ったらそこが会社だと思ったりする。認知症はオ-ストラリアのようにまだ日本では認知症そのものが認知されていないのだ。何なのか社会でも理解していない、身体介護としてしか外部の介護はない、心の領域まで踏み入れ介護はめんどうだからできないのである。つまり日本では本人が決めるケアはほど遠いのが現実でありNHKの今日の放送はほんの一握りの例外的な人の報告にすぎなかったのである。

 
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認知症は社会で長年暮らして家族や社会で仕事してきた人だからその記憶が残っていて
自分は有用な有能な人間だったというプライドを認知症になっても持ち続けているのだ
そこが先天的知恵遅れの人との根本的そうである。