2025年11月02日

老化した細胞がガン細胞を抑える不思議 【人間が死ななくなるのも社会的に問題ー医療の理系文系の対処方法】

老化した細胞がガン細胞を抑える不思議
【人間が死ななくなるのも社会的に問題ー医療の理系文系の対処方法】


老化細胞は、異常な増殖を繰り返すがん細胞を、その周囲の細胞とともに老化させて、増殖を抑え込むという役割も果たしているからです。繰り返しになりますが、老化細胞はもう細胞分裂しません。増殖しない細胞です。がん細胞を老化させることによって、その異常増殖を防ぐ、つまりがんを防ぐことが老化細胞のプログラムのひとつであると考えられるのです。

老化とがんは関係しているのか」東大教授の最新研究で分かってきた"老いの正体

素人的には成長するこどもや若い人は細胞分裂が盛んになることは理解できる。どんどん成長するのだからそうなる。

老化細胞はもう細胞分裂しません。増殖しない細胞です。がん細胞を老化させることによって、その異常増殖を防ぐ、つまりがんを防ぐことが老化細胞のプログラムのひとつであると考えられるのです。

癌細胞を老化させることで異常増殖を防ぐというのも老人は若い人より細胞分裂もしなくなりそれで進行が遅くなるのか?
それも不思議である。何故なら素人的には老化が原因で癌になると見ていたからである。実際に60過ぎると癌になる人が激増するからである

だからこれは一体何なのだろうとなる。ともかく癌を理解することはむずかしすぎる。どう対処していいかわからなくなる
それで気の持ちようが影響すると医者でもいう。それは精神論であり理系ではなく文系的対処になる。また祈ることも効果があるというのもそうである。つまり理系でも研究中であり解決できないからそうなる
何かいろいろな分野で理系と文系が問題になる
それは原発事故でもそうなり追求してきた

医学でも今や科学であり理系が実際に主導する。でもまた精神論とか言う時文系にもなる。理系で主導しても現実に対処できない。
理系だと医学だと将来的に老化も直せるという。そのときどうなるのか?人間が死ななくなると社会的にどうなるのか?人間が死なない社会がどうなるのかという問題が生まれる
もし老人が若返るならいいが老人が死なないで増え続ける社会がどうなるのだろうとなる。それは現実に少子高齢化で起きている今の問題である

いづれにしろ人間が死ななくなることはありえない、そして老人になり病気になり歩くもままならないような体で長生きしたくない
神の国では永遠の命が与えられみんな病気もなく若いというならいい
誰もよぼよぼの老人として生きたくないのである。
だから癌は人間を死なせるために生まれ新陳代謝を世代交代を推進させるための自然の摂理だとも見る。それに逆らうことはできないともなる




2025年10月18日

ないがしろにされた東洋医学や民間医療 【老人には手術や薬の治療はは向いていない】

ないがしろにされた東洋医学や民間医療
【老人には手術や薬の治療はは向いていない】

なんか医者自身が治療に限界を感じているのか?
温泉療法を進めている、西洋医学が本流となった時これまでの東洋医学が無視された。手術とか薬に過度に頼ることになった
その弊害が顕著になって医者自身が東洋医学的なものや民間医療を見なすようになった。
それは手術は効果があっても後遺症があり後でで苦しむ。薬には副作用があるなどマイナスの面がありそれで医者自身が東洋医学的なものや民間医療を見直すようになった

特に老人には手術とか薬でも適していない、体力がなくなっているから負担になる。
癌でもこれは老化現象であり手術や薬で治せないとかある
死体を解剖すると必ず癌があるというときそれは老化の結果であり病気とも言えない、老化は防ぎようがない、自然な現象であり直すこともできない、人間は老化して死に至る。老化は治療できないとなる
人間は最後は老化でも死でも受け入れざるをえないのである。
つまり医者でも万能ではなく限界がある。

だから不思議なのは目標をもって生きがいを持って生きろとかいう精神論を言う。そんなら自分でも言える
要するに医者が万能ではない医学でもそうである。そこに限界がある
それで病は気からということが今でも活きている。医者自体がそう言っているからである。
温泉療法とかは昔からあった。湯治がそうでありそれは民間療法であり効果があった。それを医者が奨める自らも実践する。だから何か昔からあるもの伝えられたものを古い役立たないものとするのは問題である
何か明治維新以後そうしたもの古来からあるものを古いものとして否定して排除してきた歴史がある。それは医学の分野でもあったとなる
西洋医学一辺倒になったからである。

ただ西洋医学でも文明でもすべて否定はできない、要するに西洋的なものと東洋的なものとの融合を目指す、それが望まれている
それが医学の分野でもそうだとなる
確かなことは東洋的なものがないがしろにされて何が東洋的なものかわからなくなったことである
東洋医学など漢方は今もあるがわからなくなった

「漢方」と「漢方薬」の意味するものの違いです。「漢方」とは鍼灸や食養生も含めた医学を意味しており、「漢方薬」は、漢方医学の理論に基づいて処方される医薬品のことです。「漢方」と「漢方薬」が混同されて用いられてしまう場合もありますので、区別しておきましょう。

漢方の基本は、“人間の体も自然の一部”という考え方です。“病気ではなく病人をみる”、という考えで、体の一部分だけにスポットをあてるのではなく、体全体の状態のバランスを総合的に見直すといった特徴があります。また、体質や生活習慣などから見直し、整えていきます。

漢方の基本は、“人間の体も自然の一部”という考え方です

こういうとき温泉療法は自然治癒であり自然の力によって体を回復させる、何か怪我をした鹿が温泉につかり直したから鹿の湯になったとかある。これも自然治癒である
前に書いた気の療法を言ったのもそうである。自然には何らか治癒力がある。

気の療法も効果的 なぜ病院がいい場所ではないのか―何でも気の影響を人間は受ける

気功とかもありそれなりに効果がある、特に老人の医療には合っていると見る

2025年10月10日

名取の癌センターの検査も無駄だった 【治療方法がない、何もできない】

名取の癌センターの検査も無駄だった
【治療方法がない、何もできない】

南相馬市の市立病院と同じような検査をして同じようなことをいい
転移して進んでいるから治療方法がないという。
それで何か症状は出たら南相馬市の市立病院で治療する
そのことを連絡した。
こんなことならわざわざ名取のガンセンターに来た甲斐もなかったし来る必要もなかった
要するに普通に生活して具合が悪くなったら何か相馬市立病院で治療する
その旨の紹介状を私に渡した
一体これは何なのか、検査などする必要もなかったのかとなる
南相馬市立病院にまかせるとしたらここに来る必要もなかった
ただ私自身ふりまわされて疲れただけだとなる
金は7000円とかとられたが徒労だった

老人は検査などしない方がいいというのもそうかもしれない
病気を発見しても治療できないとなればそうである
南相馬市立病院で検査して治療すればいいだけだった
そもそも癌を有効に直す手段がない、だから放置しておくほかないともなる
そうなれば医者に行くこと自体無駄ったとなる

私たちはこれ以上何もできません、そんならそもそも診てもらう必要もなかった
神にでも仏にでも祈った方がましだとなる
それなら何もできませんと突き放されより可能性はありましだとなる
だからいくら科学が発達しても癌は直せないとなれば医者にかかっても無駄だとなる
要するにただ疲れさせられて金を取られただけだったとなる

寿命10年以内のがん検診はほとんど無意味?

https://x.gd/IEckP










2025年10月07日

検査の結果肺癌があったー余命5年らしい

検査の結果肺癌があったー余命5年らしい

脳に癌らしきものがあり体全体の検査で肺癌があった
それで名取の癌センターで詳しく検査することになった
いずれにしろこれは余命5年とか出ているから厳しい
というのは私の父親も肺癌で苦しんで死んだ
それをみているからその怖さを知っている
ただ死んだのは67才であった。となると私はすでに十年長く生きている
あと5年生きるとして82,3歳になると平均寿命まで生きるとなる

それもわからないが何か自分の人生も終わりかと具体的に宣告されたともなる
何か癌でもいろいろあり近くの人はやはり癌の治療をつづけ仕事していた
そして十年くらい自転車屋の仕事をしていて死んだ
三日前までもう仕事できなくなるなと私に言って死んだのである
だから別に寝たきりとかなく仕事していたのである

ともかく私は死の覚悟はできている。父親が癌で死ぬのを見てから死のことばかり考えるようになった
それで求道していた。間違ってカルト宗教に入ったがその後永遠の命を与えるキリスト教を信じるようになった。
だから死ぬ準備はできていたとはなる
自分は十分に生きた、そしてこの世の地獄を経験したからむしろ死んで早く神の国に行きたいとなる
それでも意外と死ぬ時期がこんなに早く迫るとは思わなかった。

人間は死刑員なのである。いつ刑が執行されるにしろ死は逃れられないのである
ただ苦しまずに死にたいとはなる
まあ、後5年生きることは最後の終活の時間はあるとなる
ただ体力的にどうなるかはわからない、人間の未来はいくら病気わかってもわからないのである
その間に奇跡でも起こらないとは言えない、それは医者でもわからない
癌の治療も進んでいる、癌の場合はすぐ死ぬわけではないから何もできなくなりわけではないから
最後をそれぞれぞれに締めくくることはできる



2025年09月28日

病気になってもそれぞれ「人間の幸せ」を奪うべきではない

病気になってもそれぞれ「人間の幸せ」を奪うべきではない

「がんの根絶」ではなく、「人間の幸せ」こそが、これからも医療が追い求めるべき壮大な夢です。

「人間の幸せ」とは何なのか?それはそれぞれ違っている
私自身が病気になって一番がっかりしたことは自転車に乗るなと言われたことである
それは私の幸せを奪われたことである
でも自転車に乗れないことはない、それは老人が危険だから車に乗るなというのとも似ている
でも車に乗れないことは行動範囲が狭くなり幸せを奪うことになるから問題なのである

老人だから病人だからとあらゆることを制限して奪うことは返って生きる気力も奪うことになる
確かに病気が治らなければ何もできないとなるができることはありさせるべきだともなる
「がんの根絶」ではなく病気の根絶ではなく病気になっても「人間の幸せ」を追求する
その人の幸せ生きがいになるものを奪うことは問題である
そうなると死んだ方がいいともなる

人間が求めているのはそれぞれの幸せである。病気になってもそれはありえる
病気を治すことが先決でもそのためにその人の幸せを奪ことは医療ですべきではない
いずれにしろ病気は直すことはできない、なぜなら人間いつか死ぬからである
それはいくら医学が発達しても止めることはできない。その前に医療はあくまでも補助的役割になる

「がんの根絶」ではなく、「人間の幸せ」こそが、これからも医療が追い求めるべき

病気の根絶はできない、それより「人間の幸せ」を追求すべきだとなる
その幸せは各自違っている。それを大事にすべきだとなる


2025年09月26日

老人の新しいファミリーが求められる時代


老人の新しいファミリーが求められる時代

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老後に一人になり、病気がちになってきたら、老人ホームには行かずにこのように暮らしてみてください | 介護の心配や子供の目を気にせず、

柳田国男に言わせるとファミリーはそれ自身労働組織であり親子という言い方ももともと血縁関係を意味するよりは労働の組織であったオヤコのコは家の子、ミヤツコ(造)などのコであり労働者を意味していた

ファミリーとは今の家族とは全然違っている、第一家族という言葉は明治になったできた言葉である
それは狭い血縁関係である。ともかく家族は人間の生活の基である。
だから聖書でも家族の歴史から始まっている。一家族が拡大して民族となり国家となったのである。
ただ家族の形態は時代によって変わる。
確かなことは家族は最近できた言葉でありそれが前からあったと錯覚する

なぜ今それを問題にするのかとなると時代が変わり家族の概念も変わり新しいファミリーを必要となったからである
特に高齢化社会になった時老人が狭い家族では面倒見切れないとなり、行き場を失う
それで老人の新しいファミリーが必要となる
その一つがこの老人が共同生活する施設になるがここは老人ホームとも違っている
自主的に老人が助け合い生活する場である。要するに新しいファミリーだとなる

でもこれまで共に生活しないのだから知らない人だから互いに相手を知ること自体難しい問題はある
たとえば遠野のデンデンラノとかで最後に村の老人が集まり暮らしたという時そこではすでに親密な関係があり共同しやすかった。
それが全然知らない人と共同生活するのは難しい面がある
それでも新しいファミリーが求められてる。それが模索される時代だとなる
会社でも一種のファミリーにもなる。でも退職すれば関係なくなる
するとやはり新しいファミリーを求めるようになる

とにかく高齢化社会に適合したものが求められる。その一つとしてこの高齢者用の共同住宅が生まれたとなる
これはこれまでの老人ホームとは違っている。新しい思想で作られている
だからそこで各自が自主的に暮らせる。金もあまりかからないのである
そもそも個人的にヘルパーを頼んで金がかかりすぎてここを選んだからである。
















2025年09月24日

主観的判断と客観的判断【すべて数値だけでは判断できない】


主観的判断と客観的判断【すべて数値だけでは判断できない】

病気でも主観的判断と客観的判断がある、私の場合主観的に判断しやすい
何か元気だったから病気のはずがないと決め込む
でも客観的判断となるときは科学的判断にもなる、血液検査からレントゲン検査から血圧検査から人の体を科学的に検査して数値を出してみる
その人が元気だと言っても判断しない、常に数値を出して判断する

ではすべて数値で判断できるのかとなるとそれもできない、何か人間は数値で計れないものがある
人間には奇跡でも起こる。そんなもの迷信ともなるが医者でも何故なったとか回復したとか不可解なことを知る。
というのは医者でも体の部分を見る専門家であり人間全体を診れないからである
するとそこで判断を誤る。
だからいくら検査して数値を出してもそれで全部を判断できない
レントゲン写真でも全部判断できない、見逃すものがある

ただ主観的に判断することは危険である。俺は強いとか武術で言っても実際の剣の試合では負けたりする
現実の前でその主観的判断は打ち砕かれる。俺は強いと言っても他にももっと強い人がいる。
人間はそうして現実の場で試される。
なんか推理ドラマでも主婦の感とかで推理する。でも証拠をそろえろとなる
感など当てにならないとなる。でもその感が当たる時もある
人間の感も馬鹿にできない、機械だけに頼り失敗することもある
その辺の兼ね合いが難しい。すべて数値で判断することも失敗する
そこにはどうしても人間の判断が必要になる
でもそれが主観的になるとになると判断を誤る

血圧が高いからとその数値ばかり気にしていると判断を誤る
人間はすべて数値で計ることはできないからである。数値でわずかの差で判断すると判断を誤る
数値ですべてを割り出すことはできない
第一人間の心でも数値化できない、何か生きる意志が無くなる時治療しても効果がないととなる
心の持ちようが関係してくる,色心不二とは心と体と切り離されず一体ということである。

そこで祈りとかも効果がある。つまり心と体は一体だからである。医者が助からないと言っても助かることがある。
そこに人間の不思議がある












2025年09月19日

孤独死の恐怖【事前の対策が不可欠】


孤独死の恐怖【事前の対策が不可欠】

なぜ急に足が弱り立てなくった、その前の日まで元気で自転車で動いてたからである。立てなくなりなくなると歩けなくなるこてとは直ぐ近くの冷蔵庫にも行けなくなりそこに水と食べ物があってもそこまで行けなのがで餓死にもなる
つまり孤独死はそういことで死につながる。水でも食べ物あっても死ぬとなる。
一人暮らしはその危険がある
立つこと歩けなることでそうなる。それを自ら体験した
後は知っている人に助けてもらい買い物もしてもらい
窮地を脱した、一人暮らしの危険は突然なにかあっても見る人がいないし連絡しようがない・これは事前に対策しないと危険である
孤独死はこれから増えてくる、ニチイとかサービスがあり相談することにした
何とか歩くことはできるから助かっている
一人暮らしを甘く見ると危険である。何がおきるかわからにないからである

それにしても災難続きである。福祉のサービスも知って事前の対策が必要である。
なかなかわかりにくいが知らないと死に通じる










2025年09月09日

老人ホームは死の工場、姥捨て山−高齢化社会の地獄 【尊厳を持ち死ぬことの困難ー仕事しながら死ぬのが理想】


老人ホームは死の工場、姥捨て山−高齢化社会の地獄
【尊厳を持ち死ぬことの困難ー仕事しながら死ぬのが理想】

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これはフィクションでも似たようなことが現実に起きている

●老人ホームは死の工場ー姥捨て山の地獄



認知症を患っていた入所者の女性(当時85歳)に対して、今井とは別の男性職員4人が「死ね」と暴言を吐いたり、頭をたたいたりするなどの虐待を日常的に働いていたことが、家族が隠し撮りした映像からわかった。

「死んじゃうよ」“女性の首を2秒絞める職員の姿”も…高齢者3人が転落死しただけじゃなかった「川崎の老人ホーム」の“地獄絵図”(2014年の事件)

川崎市幸区の老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」で、入所者の男女3人が相次いで転落死した事件で、殺人容疑で逮捕された同施設の元職員の男は、

「(介護に)手がかかる人だった」
「ベランダまで誘導し、男性を抱きかかえて投げ落とした」
といった供述をしているそうだ。

ここはまさしく姥捨山です。入居者たちはみんなそういっています。

90歳の入居者が激白!介護ホームの“悲惨なる日常”

入居者に暴行し死亡させたか 老人ホーム元職員を逮捕 埼玉・宮代町



検索すると老人虐待の事件が次々に出てくる。これを知ると老人ホームも恐ろしいとなる。終の棲家が殺人工場の姥捨て山になる。まさに地獄である
つまりこの世には安楽な場はない、最後まで地獄なのである
それも余りにも老人が多く介護でも人材が足りなくて劣悪になる
だからフィクションではなく殺人工場が現実化している

●実の親子も金をとる対象になる怖さ

高齢化社会で問題になることがいろいろある。高齢者の尊厳が守れないこととが重要なものになる。それはこの物語がフィクションにしても子供が死の工場に親をあずけて注射を打ち安楽死させていた。そういう専門の老人ホームであった
それはフィクションにしてもありえるとも思うのは家族でも介護の負担が大きすぎるからである。それは自分でも経験した
私の場合は親に特別良くされたから必死で介護した
でも家族はみんな違っていて毒親に苦しめられたから介護したくないとなる人もいる。つまり介護にはそうした家族の事情がありそれがきれいごとに処理できなくなる

ここのドラマでは息子が老人ホームに入れたのはまた保険にかけたのは親の持っている財産を奪うためだった。何故なら息子が事業で借金をしていた親の金を当てにしていたからである。これもありえる話だと思った。なぜなら介護しているとき親戚の人がやはり事業で失敗して助けるからと私の金を当てにしていた
高額な機械を買ってくれとか相談してきた。

だからこの物語と通じるものがあった。ただ実の親子でも金がかかわり親の金を当てにして老人ホームに入れて金を奪おうとした
それも怖い話だが今の社会ではありうると思った。
問題は借金していること自体がモラルが消失する、それが家族であってもそうなる
ただ金が欲しいとなり親でも金を奪おうとする。そこに借金の恐ろしさがある
借金で犯罪でも犯すようになる。それが常に推理ドラマのテーマになる

そして息子娘からそうして安楽死させる老人ホームに預けられる
そこで何十人も注射を打たれ殺される、死の工場となる、老人を安楽死させることがビジネスとなる。そこで起きていることは親でも金のため殺すことを依頼するとなる。それも恐ろしいことでも今の高齢化社会ではありえる
親子関係でも金だけになる。金を得るために親を安楽死させて金を得るとなる
それが実の親子で起きていることが異常なのである
それだけ金を持っていることも危険になる。

こいうことは極端であれ現実にあり得る、全くの空想ではないことが問題なんのである。それだけ高齢化社会で介護で苦しむ人達がいるからそれをフィクションとしてかたずけられないのである。何かそういうことが自分にも起きると戦慄する
それと似たようなことを親の介護で経験しているからである
要するに金しか見えない、金によってモラルも消失しているからである
もちろん様々の犯罪で多いのは金にまつわることである
老人は特に弱者化するからその標的になりやすい、だから実の親子でも金をめぐり修羅場になる

それにしてもこうなると老人が長生きすることは余りにも恐ろしいとなる
老人が弱者化するとそこに人間の本性が現れる。他者は今や金を得るものでしかない、それが実の親子でも普通に起きている
無用な老人は何の役にも立たない迷惑なだけだとなりただ金を持っているならそれだけが価値あるから奪えばいいとなる
正に老人は苛烈な地獄を生きることになる。

●尊厳ある死はありえるのかー仕事しながら死ぬのが理想的

だから高齢化社会で老人はいかに尊厳ある生き方ができるか、また尊厳をもって死ねるかとなる。それが実の親子でも難しいとなる。
そもそも人間の尊厳とは何なのかとなる。老人が尊厳がなくなるのは病気で体が不自由になる。杖をついてやっと歩くとかもちろん寝たきりとかなればそのこと自体が人間としての尊厳を失う、身体障害者になるからである
また認知症になれば普通に持っている人間としての権利を失う

禁治産者という名称は、「財産を治めることを禁じられた者」という意味があります

これになる。

ともかく人間が最後まで尊厳をもって存在しうるのか、それが問題になる
最後に過度な延命治療をされるのも尊厳を失うことになる
でもどうしても体が自由になるず勝手にそうさられる。それは尊厳ある死に方ではない、人間はそもそも死ぬときだけが問題ではない、これまで生きて来たことがありそれが最後の死で終結する。だからまともに生きない人には尊厳ある死はないとなる。死とは人生の総決算になる。その全人生と切り離して死があるわけではない。だから死だけを切り離して考えられない。
十分にその人なりの人生を生きれば満足して死ねるとなる
でもその生を全うしないものは安らかに死ねないとなる。

モーゼは神の命により大業を成し遂げて砂漠に消えた。何か病気になり介護されることなどなかった。何か延々と介護されて生きることは人間の本望ではない。
ただ仕事を最後まで続けて死ぬのが本望だとなる
つまり生と死が分離していない、また若者と老人も分離していない個々別々のものではない、人生は分断できない一連のものとして一体なのである
だからこ若いことと老人は別のものではない、若い時は若いなりに生きて老人は最後にやはり人生の実りとして老後を生きる
誤解しているのは人生は連続していて若い時と老人になって分離していないのである、確かなことはこれまで生きたことが老人なっても反映される
老人に青春が生きているともなる、反映されているともなる

死に方の理想は仕事しながら死ぬことである。そういう人を近くで三人くらいしている。自転車屋の人は死ぬ三日前まで仕事していた
癌だったけど仕事できていた不思議である。もう仕事できなくなるかなと私に言ってその後三日くらいで死んだのである。
もう一人も自転車屋の人だがその人も何か調子が悪いとなり入院したけど一か月くらいで死んだのである、それまでは仕事していたのである
また近くの医者90才になっても仕事していた。それも一週間くらいで死んだ
農家の人だと良く畑で死んでいたとあるがそれも仕事しながら死んだとなる
だから仕事しながら往生したのかとなる。

●結局人間は動物でも死があり敗北する―空の空になる

ともかくこういう死に方がいいとなる。寝たきりで何年とか苦痛であり家族の負担も大きい。それが今の大きな問題となる。そして何かそうなると人間の尊厳が失われてゆく、やっと厄介な人が死んでくれたとかなる
認知症とかなると負担が大きいから余計にそうなる
でも現代とはなかなか死ねない社会である。医療を手厚くするからである
何か生にしがみつき生きることが恥ににもなる。
となるとある所で尊厳をもって死ぬ方がいいとなる
ただそれが自分では決められないことに問題がある
要するに現代は死ねない時代だともなる

それでニーチェのような思想が生まれた。あまりにも人間に尊厳がない
それは尊厳をもって死ねないということにもなる
ニーチェの場合英雄的に生きる死もまた英雄的死を望んだとなる
そして結局は人間は死がある限るどんな人もこの世で栄華を極めた人でも王様でも
死によって敗北する。空の空になってしまう。
この世のことはすべて無と化してしまう。そこに人間の尊厳はないのである
強いと見えるものも弱いのである。動物でもライオンであれ強いと見えても何か他の動物に負ける、象にでも踏みつぶされる、それを見るとあわれだとなる

つまり強いものも弱いとなる。そして動物でも死をまねがれない。
人間も強いと見えても弱いのである。それはやはり死ぬからである
要するに絶対的に強いものはこの世にありえない、それは死ぬからである
だから永遠の命を持つ与える神が絶対的強者になる。後は死があれば弱いとなる。

いづれにしろ尊厳を言っても生あるものは尊厳を保てない、それは死があるからである。死を克服しない限り勝利はなくみんな敗北する。結局死んで無となるだけではないかとなる。そういうものに尊厳もないとなる。偶像でもそれがいかに巨大でも崩れ落ちる。永遠に存在できないのである、そこに無常がある
死があればそもそも尊厳が保てない、結局は灰となり塵となる無になるだけだとなる。この世に固執しても無駄だとなる



2025年09月08日

老後が長いが愚痴ばかり言い合う場にいるべきではない 【人間は最後まで向上心を持ち生産的であるべき―増える認知症老人も大問題】


老後が長いが愚痴ばかり言い合う場にいるべきではない
【人間は最後まで向上心を持ち生産的であるべき―増える認知症老人も大問題】

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【老後貧乏】定年後、どこに行っても同じ様なシニアばっかり<老後・シニアライフ>

人間は何か交際でも愚痴を言い合うとか人の悪口を言い合うとか何かそういう集まりになる時そこには不満のガスが充満してそこにいること自体精神に悪い影響を受ける
何か老人がそういう人が多い、また何か人格の歪んだ人も多い
何もすることがないとか暇な人も多い
それが目立つのは老後が長くなったためである。定年退職してもそれから平均寿命を生きると20年30年生きる、これは結構長いのである
これまでの人生は70才までに死んでいたとすると何か老後をどうするかとなる前に死んでいたのである。だからそんな心配もする必要がなかった

私の家族の一人は公務員を退職したのが55才でありそれから30年生きた
これも長かった。でも最後は認知症になり死んだ。そもそも何故認知症になったのか、退職してから家事も何もしない、怠け者になっていた
保健婦でもあったが最後は年金係りだった。性格は外交的であり活発な女性だった
でも認知症になり悲惨に死んだ。最後の言葉が『俺は優秀だった』と言って死んだのである。それだけ優秀ということにこだわっていた。それで認知症になり馬鹿になったということで誰とも付き合えなくそれが悔しかった。
何故なら外交的で人と話すことが好きな女性だったからである
明かに認知症になった原因は退職して何かやる気がなくなり怠惰になりそれが認知症になる大きな原因だったと見る
もちろん認知症の原因は何か明確ではない、でも何か一般的にやる気を失うことが
認知症になる原因かもしれない。

そもそも人間のやる気がどこから生まれるのか、金になるとか試験のために強制されるとかではやる気がなくなる
それで内発的動機と外発的動機があり内発的動機があれば継続しやすい
金になるとか試験に受かるためとかだとそれだと学ぶことが継続しないのである
好きこそものの上手なれというように内発的動機でないと続かないのである
つまり老後は何か金をかせぐためにするというのではなく自分の内発的動機でする仕事ならいいとなる。
芸術家などは本来は内発的動機で作品作りに励む。自分の納得する絵でも描きたいとなる。それが売れるか売れないかではなく自分の納得するものを作りたいという強い内発的動機があり創作に励むのである

だから老後は内発的動機で励むものを持つべきだとなる。でも会社人間だとそうして個人的に内発的動機をもって仕事をすることがしにくい、それで会社を退職すると何もすることがなくなるとなる
ただ会社でしてきたことが無駄ではなく生かされることもある。それが少ないから何もすることがないとなる。
つまり高齢化社会は若い時からライフワークを持てとなる。でもそれが
会社で勤めているだけでは持てないということが問題になる

ともかく老人が暇をもてあまして愚痴の言い合いをしていることはますますその場が暗いものになる。
人間は何であれ生産的になることが必要である。会話でも愚痴ばかり言うのではなく互いに生産的会話になるといいのである。業種が違っていても何かそこに学び知ることがありそれは生産的になる。
要するに人間は死ぬまで向上心を持ち生産的であり学び続け創造し続ける
それはお互いにそうであり愚痴とかばかり言い合うと何ら生産性がなく精神的に共に退廃してゆく。ただそういう人達が集まる場には入るべきではないとなる

人間は老人になろうが常に新しい発見があり創造がある。それは死ぬまで終わらないのである。それは別に大芸術家だからあるともならない、普通の人でもありうる
何か芸術作品とか偉大な思想家でもそれを理解することが本当にむずかしいのである。でも時間をかけて追及していけば理解する、鑑賞できることがある
それはやはり時間の効果であり高齢化社会はあらゆることにそれぞれの分野で理解を深める利点がある
つまり天才でなくても凡人でも何かのことで理解を深めて認められることがありうる。それがライフワークなのである。

ともかく愚痴ばかりとかただ他人の悪口批判ばかりしていると生産的になれない
そういう仲間といると精神も退廃してゆく、そういう仲間が生産的向上的になれないのである。人間はどこまでも向上心を持ち続けねばならない。それがなくなるとき人間は終わりだとなる。病気になっても苦しいが花の美をみるとか何か生産的なことがある。最後に美しい花を見て幸せだったとなる。そう思う時それは生産的であり苦しいけど生きる価値があったともなる。ただこれはかなり難易度が高い
どうしても病気になるとマイナス志向になる。
ただ最後までこの世の良きものに目を向ける。それが生きることである

ともかく老後の時間が長いとしても短いから時間が貴重になる
この世のものでもその美でも見納めになる。末期の目で見ることになる
また人とも別れ永遠に会わなくなる。それで何で人と会うのか?
愚痴をいうだけにただ時間を浪費するだけに会うのかとなる
ただ正直老人でまともな人はまれであるから過去の偉人の残した作品であれ人生であれ探求した方がいいとなるのが現実である

限りある命や鳴きぬ虫の声
幾ばくの命にあらむ虫の声

何か70も終わるとなると虫でも切羽詰まって懸命に鳴いているともなる
また聞くともなる。年により感じ方が変わってくる

いづれにしろ何か老人であれ一般人であれ高望みはできない、命長ければ恥多しというのは別に寿命が50才くらいの時でも言われていたのである。だから80以上も90以上まで生きるとなると数が多いのだから比例して変な老人が多くなる
つまりもともと優れた人は昔もまれであり今でも同じである。それが人数が多いのと長生きになり目立つようになったのである
それより認知症になる人が800百万人になるというのが大問題である。それは老人を嫌悪するというのではなく社会の大きな負担になる。これこそ悪夢なのである。それは変な老人どころではない大変な迷惑老人になりその介護が大変な負担になる
その方が高齢化社会に大問題なのである

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これは恐ろしい数字である年々認知症が増えて行く、それは変な老人が増えるというより精神疾患の老人が増える
それは明らかに病気でありその数が多いということは社会を破壊するとまでになるから怖いのである













2025年08月31日

長生きすれば恥多しー高齢化社会の暗黒 【人格的にまともな老人がいないー歪んだ変な老人が多すぎる】


長生きすれば恥多しー高齢化社会の暗黒
【人格的にまともな老人がいないー歪んだ変な老人が多すぎる】


営業をやっていますが、70歳前後の男の人が特に厄介と感じています。
意固地で、独りよがりで、人の話に聞く耳を持ちません。横柄なものの言い方をしますし、他人に対する配慮など微塵もないです。

これは客の方に問題がある。でもまた店の方の接客にも老人は適さないことがある
何か自分でも低姿勢になれないことがある。

人間は長く生きれば経験を積み人間ができて来ると普通は思う
でも周りの老人を見てそういう人がいるのか?
何かこの老人は人間としてできているとかそんな人はまれではないか?
何か変な老人が多くはないか、その人は何か子供みたいであり老人でも何ら変化していない、何か幼稚なのである、だから老人であり幼稚な子供に見える
その人は結婚していないのだろう。同級でも何ら変化していない不思議である
幼稚な老人でありそれが戯画的になっている。老人の子供なのである
全般的に日本人が幼稚化したというのはある。戦前の人間は大人であり今の人とは違っていた。

では何がそうさせたのか?もともと別にこれまでも老人がいたとしてその人達が全部人格者とかできた人とではなかった。それが高齢化社会で統計的に見れば当然それだけ多いということは変な老人が多いということである
何故ならこれまでは60代くらいで死んでいれば何かおかしいなと見えたとしても間もなく死んでいたから目立たなかったのである
それでもその多い老人が別に成熟して人間的に魅力あるならいい、でもそうなっている老人は少ないのではないか?

命長ければ恥多し

これが今の時代を象徴している。ただ老人はその恥を自覚していない、そんな年になって恥ずかしいとも思っていない、つまり人間は自分のことがわからず自覚できないのである。老人が恥多しというとき時代に取り残される、技術的にも現代から取り残される、なぜならスマホも70代以上になるとできないとかありネットで起きていることがまるでわからなくなる。それでオールドメデアのテレビから情報ばかりに接していると実は時代から取り残されることになる
老人はどうしてもこうして時代から取り残されることが起きる
また回りに若い人がいないと余計にそうなる。

何か前時代の遺物のようになる、鉄の時代なのに石器時代の人間とかになる
浦島太郎のようにもなる。ただそれが自覚できないのである
私のことはスマホがあれば読めばわかるがそれもスマホができないのだからできない、それを説明するのもめんどうになるから交際できない
そして私のことを貶めて喜んでいる。

78才になって何か店をまかせられて売り方をしているのが似合わないのである
でもスーパーでは年配の人が裏方にまわり仕事している
ただレジは若い女性がしている。レジに老人は似合わないのである
ただその人はそれを自覚していない、そこで自分は散々な目に合った
自分のことを何やかにやいいお前なような者には売らないとかなんとか言いたい放題だった。それも普通なら異常なのだけでそこは農協が主催する売り場でありその人にまかせられたからそうなったのである

つまりそこは似合わない場だった。別に老人が仕事するなというのではなく老人に似合わない仕事は恥にもなる。
老人は本来江戸時代では40代で隠居したとかありその年ですでに表に出なかったのである。老人の生き方としてはそれがふさわしかったともなる
どうしても若い人と合わなくなり恥多しとなる
何か仕事でも若い人と合わせてやるのもむずかしくなる
第一スマホもできないとなると連絡もできないとかなる

どうしても老人は恥多しとなることが避けられない、本来は隠居して隠者になるのがふさわしいのだが今は老人でもしゃしゃり出てくる
要するに恥も感じなくなるのかもしれない、
そもそも老人になっても78才になっても何か子供のように幼稚なのである
一般的に日本人は幼稚になったと言われるが確かにそうである
その人は老人でも特殊なのかもしれない、ただその人出会わなければその人について言うことはなかった。それが出会ったことでその人のことをおかしな老人だと見た。だから別に店であわなければその人のことを批判することもなかったのである。

だからこそ老人は社会に出るのも問題だとなる

店で出会わなければその人について何も思わなかった。言うこともなかった
だからそんな所にに出てきたこと自体が失敗だったもなる
そうでなければ自分は何も意識もしなかったからである
そこでどうしても老人は恥多しとなる。蛇でも出てこなければ意識しない、でも出てくれば意識する、そこにはまた蛇が出ると意識する
老人は恥をさらして生にしがみついている。ただ本人は自覚できないのである
ただ女性の場合はあまり人格がそうのこうのとか言われない、女性は本能的に生きる。でも男性は何か別であり高等なものが望まれる。でも高等になりえないのである

現代の高齢化の問題はどうしても醜い老人でも社会に出てくるから嫌われるとなる。でも老人自身は意識していない自覚できないのである
まず恥だと自覚できないのである。それが余りにもづうづうしいとなる
老人は恥ずかしいとう感覚が鈍感になる。それは自分が若い人であれどう思われているか意識できないわからないからだともなる

ともかく人間は自然界にあること自体何か醜いもの自然と調和しないものとしてある。鳥をみればわかる。いかに自然に調和して美しいのだろうとなる
別の高価な衣服を着なくても白鷺は輝いている、その白い衣は輝いている
カワセミでもそうである。自然に調和してなんと美しいのだろうとなる
なぜ人間は自然と調和しないのだろうとなる。だからこそその暮らしを隠せとなったのである。別に田畑に仕事していればその人は自然と調和している
でも面と向かった離せばいろいろと不満があり醜いものが現れる
鳥にはそうしたことがないのである。何か足りないものがありますか、いいえ何もありませんとなる。人間は常に足りないと嘆く、その不平不満は大気を汚すのである。大都会になればそれがスモッグのようになる。

人間の存在自体がなぜ自然界で汚点のようになっているのか?

ただそのことを感じる人も別にいないともなる。そもそも美を感じない見ないとなるからである。ともかく老人であれ人間は自然界に隠れているとき自然の美は映える。だから老人であれ人間はつつましく自然の中に隠れていればいいとなる
つつましいとは自然に包まれることなのである、神道では罪を包むのが自然だとなる

人間の生は死より悪い・・・というのは老人に言える。どんな人間でも死ねば災いをもたらさないからである。死んだ人を悪くは余り言わないからである
つまり高齢化社会が暗黒なのは病人が増えるとか介護とか負担が増えることもあるが人間が歪んでいる何か変な老人が多いからだとなる

そういう老人が何か社会を暗くする、明るくしない、花咲か爺になる老人はまれだろう。意地悪爺さんになる人の方が相当に多い、つまり高齢化社会の問題は人間が
人格的にでも別に老人になったから自然と人格者になるわけでもない、むしろ変な人間の品評会のようにならないか?それが人生の結果だとしたら何なのだろうとなる。老人が仕事するからいいとか悪いとかではない、老人の人格がまともでないことが問題なのである。だから人生が長生きすることは恥多しとなりいいものとはならない
それは死より悪いとなる、でもそれを当の本人は自覚できないのである






2025年08月24日

老人が嫌悪される時代 【偏屈な老人が多く長生きすることが恥になる】


老人が嫌悪される時代
【偏屈な老人が多く長生きすることが恥になる】

なぜ高齢化社会が問題になるのか、それはこんなに人間が長生きすることを経験していないからである、すると老人の問題はこれまでもあったにしろ60くらいで死んでいれば目立たないのである、その人を何やかにや言う前に死んでいるからである

命長ければ恥多し。長くとも四十に足らぬ程にて死なんこそめやすかるべけれ。

徒然草を書いた吉田兼行が生きた鎌倉時代では40となると老人だったのかとなる
だから今の時代とは比べようがない、そんな時代でも命長ければ恥多しであったのである。とにかく高齢化社会は老人がどうしても問題になる
でも老人でまともな人がいるのかともなる。何か変な老人が偏屈になった老人が多くないか、ただそう見えるのは老人が多すぎるから目立つとなる
それにしても40才くらいで死ぬのがいいと見た時長生きすることをいいものとみていなかったのである

何か老人は歪んだ偏屈になった人が多くないか、それは数が老いからそれに比例してそういう老人が目立つからだともなる
40才で死ぬような時代はそもそも今のように70以上が普通に生きる時代とは相当にに違っている。だから老人がそれほど問題にならなかった

人間はもとと長く生きれば経験も積むから賢くなるとみる。確かに老人は悟ったようになる。でも現実は変な老人が歪んだ老人が多いという時目に付くというとき
その数が多いからそうなる。数に比例してやはり変な老人が増える
例えば団塊の世代は子供の数が多くてもそれが社会でマイナスとは見ていなかった
子供は数が多くても老人とは違い誰でも未来があるものと見られていたのである

でも老人が多いことは社会にとって歓迎されない、人間は経験を積めばそれなりに
何か賢くなる。でも現実にはそうなっていない、何か歪んでダンテの地獄編の人間を見る感じになる。体も歪むが心も歪むのである
そういう老人が大量にいるときこの世が地獄だともなる。それも死ぬこともできずに亡霊のようにさまよっているのを見るときまさにそうである
ニーチェが言ったように生にしがみつき死ぬことできずに恥さらして生きている
そういう老人社会は地獄社会にもなる

でもそもそも人間は何か特別優れた人自体がまれだった。だからその人達が老人になっても年を取っただけで馬齢を重ねるだけだとなる。要するに長生きしても賢くならない、人間的に成長しない、むしろ歪んでいる。でも昔なら早く死んでいるから目だたなかったのである。それでも長生きすれば恥多しとなっていたのである
ただ老人はその恥を自覚していない、それでこの世に未練たらしく生にしがみつき生きているとなる、老人は生産性がないのである。

何かだらだらと無目的に生にしがみつき生きて恥さらしているがそれも自分では恥ともみない、迷惑だとも見ない、だから何か傲慢であり嫌われていてもそれを感じないのである、また老人はそうなると権力を持つことが頼りになる
地位であり金でありそれに頼る。それもまた若い人には嫌われることにもなる
でも権力には逆らえないから従う、でも高級老人ホームでそういう傲慢な老人がいても実際は嫌われて表面上は従うが冷たくもされる
でもまた権力(金)も地位もない人間はなおさら無視されるのがこの世の現実である
だからこそ老人が権力でも地位でも手放したくないとなる

いずれにしろ確かなことは人間は長生きに足る人が本当は非常に少ないのではないか、だから変な老人が目立つのである。つまり膨大な老人が恥さらして生きている
今老人を敬まわないというときそんな尊敬する老人がいるのかともなる
人間は長生きに足る人はまれでありそこまで進化していないともなる
そもそも人格を形成するとかまた芸術作品を作るとか目的にしている人はまれである。ただ明確なのは金を稼ぐことが目的化している、その金に寄る人はいてもその人自身を敬うとか子供にすらないのである。金を持ているから親を利用するとなる、そういう下心があり親もそれで子供を嫌悪するとなる


人間は生にしがみつく
とにかく長く生きようとする
長く生きることが目的にもなる
でも長く生きても尊敬もされない
厄介者として生かされる
そして恥多しとなる
でも人間は簡単に死ねなくなった
それが幸福なのか不幸なのか
人間の尊厳とは何か
ただひたすら生を伸ばすこと
それがいいことなのか
人間は嵐の中を生き抜く
その中でこそ生の意味が現れる
だらだら長く生きても
そこにかえって生は無意味と化してゆく
生きていること自体が嫌悪される
早く死んでくれとなる
それが生の逆説である








2025年08月14日

墓じまいになる時代−江戸時代に家族の墓はなかった 【家族という言葉は明治に作られ一つの姓の下に生きることを強いられた】

墓じまいになる時代−江戸時代に家族の墓はなかった
【家族という言葉は明治に作られ一つの姓の下に生きることを強いられた】

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原町の街中の墓の墓

墓じまいを終え、長年あった墓石がなくなった墓地跡を目にした瞬間、心が重くなりました。永代供養墓は他の人の遺骨とともに安置されているため、自分だけの空間ではないことに寂しさを覚えます。お盆に、両親や夫と向き合う静かな時間も失われました。

MSNニュース8月14日

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この墓石を集めたのは合同の墓なのか、捨てられた墓石を集めた墓の墓なのか
おそらく墓参りされなくなった墓を集めて供養したのだろう
なぜなら江戸時代のものもあり古い墓があるから処理することもできず寺で集めて供養したのかもしれない、共同墓のようなものなのか?
つまり墓でも何か捨てるに困るものだからこうなったのかとなる

でももともと墓は家族を供養するものでありこうなると誰を供養するのかとなり戸惑うとなる。ただもともと家族墓はなかった。そもそも庶民に墓がなかった
墓が建てられたとしても侍であったり僧侶であったりした。侍でも家族墓ではない一個人の墓である。侍でなくても農民でも金がある人は個人墓を建てた
それはまれでありあとはこの辺ではホトケッポとか仏方と地名が残る場に葬られた
からそこには誰が葬むられているのかわからないのである。ただ村の人が供養していたとなる
ただ夫婦墓は見かける、それは江戸時代の後期から明治時代に作られたものだろう。でも姓を同じくする一家の墓ではないのである。だから明治以降姓を同じくする家族墓が増えた。

誤解しているのは家族墓がもともとありそれが普通だと思っていることである
家族墓という時一つの姓であるが明治時代に農民は姓を持てない、苗字帯刀を許されたのは極わずかの功績のあった農民である。
家族とは明治になって新政府の下で強制されたものでもあった
家族を一つの単位として治める国家を作る意図があった。それは自然発生したものではない明治政府の強制でそうなった。そして国民は天皇の赤子とされたのである
だから家族という言葉は明治以降できたものでありなかったのである
国民という言葉でもなかった。農民は藩に属していたのであり国民という感覚がなかったのである

だから不思議なのは江戸時代まで墓がある人はまれであり個々人を供養することはなかった。また一家の墓はないのである、侍でも個人の墓であり姓を同じくした家族の墓はないのである
だから誤解しているのは家族という言葉は江戸時代にはない、明治時代に新たに作られた言葉なのである。外国でもファミリイというとき広い範囲であり日本なら村人にもなる、サクラダファミリーとかなると教会を中心にして形成された村のようなものである。

それが一つの共同体であり何か近代化して社会で失われたものでもある
家族の単位は数人であり少ないからである。ただ助け合う単位として家族を作ることを明治政府に強制されたともなる、家族というのは大家族から核家族となり狭い範囲のものとなり逆にその核家族に介護とかなると全部の負担がかかる
戦前の大家族だと数が多いから誰かが介護したことがあったかもしれない、それと雇い人でもヨーロッパのようなファミリイの一員ともなる
江戸時代以前なら一族郎党ともなる。それが失われた時家族で介護であれすべて負担されることは重荷となったのである。

つまり墓の問題でも歴史的に見る必要がある。家族が江戸時代までなかったというとき驚くからである。確かに墓というのは人間の歴史で必然的に生まれた
それは特別な人の記念であったかもしれない、あとは葬儀でも土を盛り卒塔婆を建てるくらいで終わり墓はなかったのである
墓がないのが普通だったのである。墓がこれだけ増えて始末に困るというのも墓がない時代からすると奇妙だとなる

今や農民のように決められた土地で代々暮らすことは無くなった。その子供でも嫁ぐにしても広域的になりその範囲が広いのである。外国人でも結婚する人がいる時代である。それで墓でも跡継ぎがいなくなる、墓じまいが問題になる
それはやはり時代の変化でそうなったのである。立派な墓を作っても跡継ぎがいないとなる。何か立派な墓はその人が成功した印しともなっていた
でも今になると跡継ぎがいないから維持することもできないとなる
だから墓自体の考えを変える必要が生まれたともなる

墓は何のためにあるのか?そんなことまで考える時代になった
ただ個人を供養するとき別に墓がなくても心があれば供養できる。墓とはその心を具体化した物にしたものである。その根本は供養する心があるかどうかになる
だから墓という物にこだわる必要がないかもしれない、供養する心があれば何らかの形にして供養する、でもそもそも供養する心がない者はそんなことも考えないとなる
何にか死者を思う時家族でも個々人を思う、父親なら父親がどうだったとか、母親でもそうである
兄弟姉妹でも個々人を思う、だから家族でも一つの墓に納めても個々人を思う
二人でもその二人を思うのではなく一人一人を思う、だから集団墓というのはそこに個々人はなくなるから何を思うのかとなる。

永代供養墓は他の人の遺骨とともに安置されているため、自分だけの空間ではないことに寂しさを覚えます。お盆に、両親や夫と向き合う静かな時間も失われました。

こうなってしまうのもわかる。どうしてもその人の個人がどうだったかと偲ぶからである。家族でもそうである
母親でも父親でも兄弟姉妹でも別々に思う。その人柄でも違うからである。だから集団墓になると何か供養するのでもふさわしくないとなる。そこには江戸時代生まれの人もいてその人のことなど全くわからないからである
他でも集団墓になると供養するにも何十人もの人達を供養するとなり個々人のことは偲べないとなる
戦没者の墓などは供養は別にして基本的に死者を供養するとは死んだ個人を偲ぶことである
そこに問題があるがそもそもでは死者を継続して思うことが難しい、その人と直接接しているならできるが
その人と直接接しないとするとその人を偲ぶことはむずかしくなる

ただ共同墓にすればその跡継ぎが誰か残るから供養され続ける、でも個々人ではなく集団になってしまうのである。
それが供養になるのかとなる、つまり個々人を偲ばれることは継続しにくいとなる
でも基本いぇきには死者は個々人を偲び供養する時故人でも報われたとかなるかもしれない、私を覚えてくれていたのだなとなり
死者も喜ぶともなる。でもそれは長くは続かないことが問題にはなる
それでもそもそも人間は普通は死んだらみんな忘れれてゆく、去る者は日々に疎しとなる
それが無常でありどうにもならないのである

2025年07月25日

先が見ないで失敗するのが人間であり氷河期世代を今になり何もできなくなった 【老人は必ず後悔し誤算だったとなるー老後の生活が苦しい】


先が見ないで失敗するのが人間であり氷河期世代を今になり何もできなくなった
【老人は必ず後悔し誤算だったとなるー老後の生活が苦しい】

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【老後貧困】ふざけんな!普通の年金生活が今より苦しくなる理由...口コミ30選紹介します

人間の失敗は、先が見えないことである。なぜ今、少子高齢化で苦しんでいるのか。それは氷河期世代の時将来を見ないからそうなった。おそらくのその時何が起きていたのか理解できなかったということはある。そのとき、危機感を感じていた人は少なかった。そのとき、フリーターとか言う働き方がかえって推奨されていたという感覚だった。
そういう自由な働き方が、その時代のトレンドとなっていた。でも、それが社会全体にどういう影響を及ぼすのか、真剣に考えた人は稀である。人間はその時、その時を生きるのに精一杯なのである。
来年のことを言うと鬼が笑う。来年のことすらわからないということである

その時大量の若者ががまともに正社員ともなれずフリーターとかになっていたがそれが将来大きな問題になることを指摘することを政治でも社会でもしていなかった。つまり、時代というのはあとから振り返ってあの時はこうすれば良かったとか常になる
今老人になっている人たちは年金だけで暮らせず物価高にもなり四苦八苦している。
そしてこんな老後になるとは思わなかったとみんな言っている。私たちは真面目に働いてきたのに税金も払ってきたのになぜ社会の邪魔者のようにされ老人は多すぎるから早く死んでくれとか見られる。
楽しい老後を夢見たがそれも今や現実に打ちひしがれていかに生き延びるかが課題になる電気代をガス代を水道代をいかに節約して生き延びるかとなっている。それは生活保護の最底辺の生活になっている

要するに人間が来年のことも分からないというとき10年後、20年後のことなど誰も考えないとなる。会社にしてもその時々で雇用をしている。十年先とかを考えて雇用しているわけではない。だから今、会社が。経営が。苦しいとなれば。氷河期世代の人々を正社員として雇わなかったのである。将来、人手不足になるとか会社が成り立たなくなるとか、そんなことは考えない。要するに、人間をそもそもその時々のことに対処するだけで精一杯なのである
だからとても精一杯なのである。だからとても十年先、20年先など考えないのである。また、考えられないのである。

だから老後を趣味に生きるとか自由に旅して生きるとかもできない、年金が足りないから働く、それもやっと生きるだけになる
年金が少なすぎるからである。ただこういう誤算は常にあった
人生を後悔しない人はいない、誤算だったとなるのが普通である、それは時代が影響する、もし私が戦前に生まれていたら若くして死ぬことになった。それは戦争が終わってから生まれたからそうはならなかった。これは幸運だったとなる
その時代というのもいろいろなことで影響して予測できないのである。だから未来を見て生きることむかしい
子供の時ソロバンが得意だったがそれは何の役にも立たなかった。それも徒労だった時間の無駄だった
今になれば子供でもコンピュウターのソフトのプロググラムをゲームなどを通して学んでいる

またワープロが生まれてそれがパソコンに発展した。その時確かにパソコン通信をしていたがそれが今のようなグローバルなインターネット社会になることを予想しなかったので日本ではITから取り残されて失敗したとなる
なぜならその時パソコンはオモチャのようなものだったからである。その時、やはり未来は見えていなかったのである。
つまりいかに未来を見るということが難しいかである。常にそこに思わぬことが起きてその計画も狂ってしまうのである。
それが今の老人の姿である、こんなはずじゃなかったこんなことになるとは思わなかったとなる
後悔先に立たずとなる。その繰り返しが人間に起きて歴史でも起きて来る
それはどうしても未来が見えないからそれに備えることができない、そして不慮の事故とか災害とが予期せぬことが必ず起きる
それで予定が狂うのである。今の老人は真面目に勤めて税金も払ってきたのに邪魔者扱いされて日々生き延びることで精一杯だとなる。

だから財産というときfortuneになる。それは運であり富でもある。別に苦労せず遺産を受け継ぐ人もありそれはたた運が良かったというだけであり別にその人が苦労もしないのに富を得たとなる。だからこの世は真面目にこつこつ働いても報われるとは限らないのである。そこにも誤算がある。私は苦労して働き税金を納めて来たのに報われないというときそうである
別に親から遺産を受け継ぎ富を得ている人もある。そこに運があり不公平だとなる
でも運の作用はどうにもならないのではないか?何か運は神が関与しているのかもしれない、聖書では明らかに預言者であれ神が選んだ人を守りその人を通して神の計画を実行させるということがあったからである
聖書はそもそも人間に直接神が関わったことを伝えた書だからである。

だからいくら優秀でも不運に死ぬ人がいくらでもいる。そこに時代の運不運がある。だからいくら税金を真面目に納めても報われなかったと老人が言う時どうにもならないとなる
努力は無駄ではない、でもソロバンを習っても何の役に立たなかったとかAIで職を失うとかあり予定が狂ってしまう
真面目に努力しても時代が変わるとその努力も無駄ったとなる
だから労せずして富を得る人もいる、いくら努力しても富を得られない人もいる、時代が変わりそうなる
つまり必ず人生は誤算になる。こんはずじゃなかったとほとんどの老人が人生を振り返るのである
結局人間はその繰り返しだとなる。老人が誤算だったという時みんなそう思っているからである

そして老人になると時代から取り残されて前時代の遺物のようになる人もいる、スマホができないとかインターネットのことなどわからないとなりSNSのこともわからず浦島太郎のようになる人もいる、時代変わり価値観が変わり取り残されてしまうのである。つまりこの世とは常に変化でありその変化に適応できないものは取り残される
それで老人になるとそれが否が応でも示されるのである。

いずれにしろ老人に未来はない、その人がどういうふうに生きたのかが問われる。人生の結果が問われる。これから何か成果を残すことはできない、だからいくら真面目に働いて税金を納めたとしても評価されない、それを次の代の人が感謝するわけでもない、だからそもそも社会のために尽くし生きてきたのに報われないというとき時代が変われば価値観も変わり評価されなくなる。戦争で日本人が3百万人死んでもそれも評価されないとなるのも恐ろしいとなる
命を賭けて死に物狂いで戦ったのに評価されないと同じである

そいうことで老人が報われないという時時代が変わってしまいそうなったとなるからどうにもならない、時代が変わると評価の基準が変わる。むしろ何かみんなアーチストになれという時社会に会社に尽くしても評価されなくなったからだともなる
人間はただ真面目に働いても評価されない、でもアーチストなら一つの作品でも長く評価されることがある
そして老人がこれだけ多ければ返って負担ばかり増えるとなり死んでくれともなる
そういわなくても若い人はそう思ているからそれが行為となって現れる
もともと長生きすれば恥多しと言われてきた、それも60才くらいで死んでいた時代でも言われていたのである
老人はそうなりやすい存在だということである。それが老人が多すぎるから余計に老人は価値がなく邪魔だ消えてくれとなったのである







2025年07月08日

51歳・氷河期世代の絶望 〈82歳母の介護〉で実家から出られず、暗い部屋で絶叫した「悲痛な本音」

51歳・氷河期世代の絶望
〈82歳母の介護〉で実家から出られず、暗い部屋で絶叫した「悲痛な本音」

頭の片隅には常に母親のことがあり、気が休まる時がありません。定時で退社しても、スーパーに寄り、夕食の準備、食事の介助、入浴の介助、そして就寝の準備と、すべてが終わる頃には夜9時を過ぎています。そこからが、ようやく自分の時間。しかし、疲労困憊で何かをする気力も残ってはいません。

介護している人は628万人。そのうち、仕事をしている人は364万人で、正社員は156万人、非正規社員は141万人、パートは82万人。そのようななか、仕事と介護の両立を図れず、仕事を辞める人は毎年7万〜10万人ほどいます。

俺の人生、何だったんだろう…〈月収28万円〉51歳・氷河期世代の絶望。
〈82歳母の介護〉で実家から出られず、暗い部屋で絶叫した「悲痛な本音」

何か一万人くらいの田舎だけどこれと同じ人がいる。年も同じである。ただその人は74才の糖尿病の母をかかえている
脚が悪くまともに歩けない、杖ついても歩くのが苦しい。転んだりもした。杖ついている人が多いにしてもそこにも差がある
その女性は相当に苦しい、目も痛いとか緑内障になっている。介護度2であり3に近づきつつある
それでも台所仕事をして洗濯をしている。それをいつも苦しいと言ったいる
息子は工事建築現場で働く、前から仕事しない時も台所仕事を手伝てくれないと嘆いていた
脚も手も悪いから苦しいのである。

それに加えて金もない、その女性はもともと貧乏で生涯苦しんできたのである。また発達障害のやはり50代の息子がいてその人のために払われた労力は余りにも負担が大きかった。だから苦労の連続の一生だったとなる
ただ氷河期世代の人はやはり数が多いから目立つ、何か近くを見ると40代でも結婚していないのである
そのために子供も回りで見かけない、それが少子高齢化の原因になった
この氷河期世代の問題は数が多いことで団塊の世代と同じように社会問題化しやすい、だから不運な世代だった
団塊の世代は数が多くとも高度成長時代を生きたから恵まれていたのである
氷河期世代は非正規となりその日暮らしのようになり貯金もないのである

ともかく自分も親二人の介護で四苦八苦して苦しんだ。でおそれは60になってからでありだから50代でバックパッカーになり世界旅行したのが良かった。50代で親の介護になればできなくなっていたからである。
世代により時代により個々人でも運不運がある。戦争の時代に生まれたら20代で普通に死んでいたしまた戦前は肺病になる人が多くそこで若い人が死んだから悲惨だったのである。

まず介護に成ったら仕事に集中できない、介護はそれだけ負担が大きいのである。私は一人は認知症になりもう一人は5年とか介護した。その時助ける人もなく塗炭の苦しみを受けた。それをプログに書いた。
ただ自分の場合は余りにも恵まれた結果そうなったのである。なぜその母親が息子が苦しいのに手伝ってくれないと嘆くのか
それはやはり私のように親に良くされていない、発達障碍者の長男のために労力を費やされたからである
そして工事建築現場で働いてきたからである、それで結婚もできなかったとなる

いずれにしろこの氷河期世代とかが問題の世代でありそれが介護となる時さらに二重三重の苦しみになる
また日本が貧困化してそれも大問題となる。何か苦しいことは不幸は一つではこない、必ず不幸はいくつも重なり来る
体でも一か所が悪いと必ず体全体に影響して他でも悪くなる。だから悪いことには悪いことが重なり良いことには良いことが重なるとなる。
今本当にこうして苦しんでいる人が日本全国で多い

介護している人は628万人。そのうち、仕事をしている人は364万人で、正社員は156万人、非正規社員は141万人、パートは82万人。そのようななか、仕事と介護の両立を図れず、仕事を辞める人は毎年7万〜10万人ほどいます

介護している人は628万人これほどいるのである。だから身近にそういう人がかならずいる。また仕事しないニートなども多い、これも目立つのであり社会問題となる。社会全体で介護社会にもなる。地方の仕事が介護になるというのもそれだけ介護される老人がまた増えるのである。もしかしたら老老介護という時元気な老人が介護する、他人でも介護するとかなるかもしれない、そうしなければ50代の人でも仕事できないとなるからである。私自身がそうなっている
親の介護の後は他人の介護なのかとなる。介護の負担は大きい、心身が消耗する。介護した後でも56年くらい何か正常にならなかった。それだけ介護は長くなるし負担が大きい、だから仕事とと両立することは難しいのである
それより脳梗塞で夫を十年介護したとか普通にある。まず日本が貧困化してさらに介護の負担が増え二重三重の苦しみとなる

私の場合はこの人のように自分の人生は何だったのだろうとは嘆かない、氷河期世代はそうなる。親でも介護したくないとなる
介護はやはり親との関係が子供の時からの関係が否応なく現れてくる、それは避けられなのである
だから老人が元気なら老人を助けるというのも強いられるかもしれない、つまり50代はまだ働くとなると誰が介護するかとなるからである。社会自体が維持できなくなる。だから問題なのである

2025年06月23日

増えるのは老人と病人になる問題−ライフワークを持つ時代 【老人は医者でも自転車屋でも最新の技術とか知らないことがある】


増えるのは老人と病人になる問題−ライフワークを持つ時代
【老人は医者でも自転車屋でも最新の技術とか知らないことがある】


緑内障の手術で仙台市の病院に行った人がいる。緑内障は失明する危険度が高い、白内障は老人は成る率が高い
手術は一時間くらいで簡単と言えば簡単だが精密機械とがないからこの辺では眼科の専門病院がある仙台市でしかできないとなる
その女性は糖尿病であり足が悪く杖をついてやっと歩いている、でも長い距離は歩けない、それでタクシーを呼ぶ
それも金銭的負担になる。
糖尿病にもなっているから目でも神経がやられ足でも手でも神経がやられて自由が利かなくなる、それが糖尿病の怖さである

何かわからないけど家のリーホムをしてくれた小高の大工さんは何の病気かわからないけど匂いがするとかで地元の医院に行ったがその後やはり仙台市の病院に入院した。息子が原発事故で仙台市で仕事するようになったからである
熟年離婚もしていたからこれも大変だとなる

原町の自転車屋のY氏はやはり病気で店を閉じている。ただ完全にやめたわけではなく交渉すれば店を開けて修理や注文は受け付けている、その人77才とかなればもはや仕事もできなくなる。これも困ったことである。
鹿島の星自転車屋の人は癌で死んで二年くらいすぎた、不思議だったのは死ぬ三日前に行った時普通に仕事していてあと何日仕事できるかなとか言っていた。その三日後に死んだのである。そんな状態でも仕事で来ていた不思議である

何か農家の人が病気でも畑で仕事したとか言ってそのまま死んだとかもある、失礼にはなるが農民は田畑で働きながら死ねば成仏したとなるのか、認知症で入院した人がベッドで田植えの真似をしていたとか習慣でそうなる
習慣の力は大きいのである。つまり人間が仕事と一体化する。仕事が人間を作るともなる
退職して仕事がなくなることが大きな問題になるのはそのためである

だからWORKとは作品の意味もあり機能するとかの意味もありそれを持たない人は脳も機能しなくなり認知症になる危険がある
私の家族の一人は公務員だったけど退職してからなにもしない、テレビを見ているとかだけだった。
家事をする人が別にいたからなにもしないでいると認知症になるのも怖い
つまり社会でも働きなにかしら機能していることが必要なのである

もう一つはWORKには作品という意味がある。これも生きがいになる。何かしらそれぞれの興味で追求してきたものがありそれを作品化することである。その作品を完成させることが生きがいになる。今なら自力でネットで発表できる
つまりライフワークが必要になった時代だとなる。会社を退職してからその先が長いとしたらそうなる。
素人学問とか素人芸術家とかにもなる。だからみんなアーテストになれという人がいたのもわかる
猛烈企業戦士の高度成長時代を生きた団塊の世代からすると価値観が変わったのである。
ベーシックインカムが必要だというのも何かそれが今の社会には不可欠だとして突飛な主張でもなくなっている

ともかく退職してからの人生が長くなるときライフワークを持つ時代だとなる。それは会社だけが人生ではなく長い目でその人なりの価値を作る時代だとなる。それを心がけていないと長い老後が充実しないとなる
ただ老人の最大の問題は病気なのである。必ず何らかの病気になる。私自身も親の介護の時病気になり入院して手術したりして地獄だった。本当にこの病気の問題が老人の高齢化社会の大問題であり介護になるのも大問題になっている

それには金も必要でありまた金だけでなく人の手が必要である。何か何億もの金を残したが60以降病気になり何もできなくなたとかいう言う人もいる。何かきついことができるのは50代が限度である
それで自分の場合は50過ぎてバックパッカーになって世界を旅行したのが良かった
今になるととても体力的気力的にもできなくなったからである。だからいくら金を貯めても老後に病気成ったり体力がなくなってできなくなることで後悔する、ただ正直人生を後悔しないい人はいない、それだけ人生は短いからそうなる
貴重な時間が失ってしまうのである。

ともかく誰しも人生は思うようにいかない、必ず不測のことが起きて計画でも狂ってしまうのである
時代も変わり価値観も変わる。それで老人は取り残され前時代の遺物のようにもなる
スマホでもしなければ情報弱者になり肝心なこともわからなくなる。それも怖いことなのである
何か本当に浦島太郎のようになる人も現実にいる。いつの間にか時代が変わり社会のことが理解できなくなる

まずスマホしないとオールドメデアだけから情報を得ていると今や社会のことがわからなくなる
前時代の遺物のようにもなる。鉄の時代なのに石器を使っているような人にもなる
技術の進歩についていけないのである。だから自転車屋でも若い人がいいというとき最新の技術とか製品のことがわからなくなるからである。それは医者でもそうである、どうしても今は年配の医者が多くなる。近くでも90才でも医者をしていた人がいたし高齢の医者が多い、でも経験があっても最新の技術は知らないことがある取り入れられないことがある

こうして技術的な面になると都会の方が有利である。それでどうしても折り畳み自転車などは通販にいいのがあるが後の修理とかあるので買いにくい、難しい病気となるとどうしても仙台市に行かねばならないとかなる
江戸時代でも目が悪くなる人が多く遠くの医者に行くために関所越えたとか記録がある、とても村のようなところでは直せないし診ることもできない、それで目を直す地蔵にでも祈るほかない、薬師堂に祈るほかなかったとなる。






2025年04月21日

親孝行したいときは親はいないは死語になった 【親に冷たい息子娘が増えた、老人も人格が歪んでいるのが多い】


親孝行したいときは親はいないは死語になった
【親に冷たい息子娘が増えた、老人も人格が歪んでいるのが多い】

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年齢を重ねるほど、子供と堂々と距離を置くべき理由|
もう子供に頼らず、静かに一人で生きたい80代の母|オーディオブック



このyoutubuは事実ではないだろう、創作がある。他にもそうしたyoutubuの放送がある
中東の大富豪と日本人が結婚したが何不自由ない生活でも人形のようにされ離婚したとかある
それも事実ではないにしろ別に人間としてそういうことあるから
フイクションとしても全部作り話とも見えない、そいうことは人間の一般的心理としてありえるからである

何かせっかく作った干し柿とか漬物とを息子の家族に持って行ったが息子は子供が受験勉強でうるさいと集中できないからホテルに泊ってくれと言われた。それが余りにも冷たく母は悲しむ。これが家族なのかと悲しむ
でも今の時代そういうことが多いかもしれない、近くの人は常に息子のことで介護されていて不満を言う
実際脳梗塞と糖尿病で歩くこともままならない、杖ついて何かにつかまらないと歩けないのである
でも台所仕事でも洗濯でも自分でしていて息子は手伝ってくれない嘆いている

これは障害者をかかえて育てられて長男にかかりきりになりその弟はないがしろにされたとかある
でもそうした事情がなくても今は一般的に親と子の関係がうまくいかなくなっているのが多いのかもしれない
そのことがyoutubuで訴えているからである。金があるとその金が欲しいだけで親のことなど思ってくないとか放送される
それが他人ならわかるが息子娘でもそうなっている。だから親子とか家族と何なんだろうとなる

私の場合は親二人いたとして特別思っている。それは60年間以上一緒にいて特別良くされたからである
別に働かなくても何も言われなかった、旅していてもかえって奨励されていて働けと言われなかったのである
だから私は家に引き込もり自分の好きなことを追及してきたのである。それが自分の性にあってたのである。
だからそうして生かされたことで特別親に感謝しているからこそ介護でも懸命にしたのである
死んでからも供養しつづけている。
ただ一般的に結婚して子供を持つとなかなか親のことを思わなくなる。新しい家族のこと、妻や息子のことで家族のこと、妻や息子のことで精一杯となるからである。

それにしてもそれが事実でないにしろ何か悲しいものを感じた。親子とはそんなものなのかと思ってしまう。
そして子供の時、いろいろと子供を世話したことなどを懐かしんでいる。でも、子どもはそのことを忘れるというか、そんなに。思わない、ということである。その残された親は一人で暮らして悲しんでいるだけだとなる。

そこで一番感じたのは母親が作ってくれた料理がありそれを干し柿とか漬物を持って行ったが無駄になったとか悲しんでいたことが身につまされた。それはただ店で買うものとは違う。母親の愛情がこもったものであり手作りのものでありそれをお金で買うというだけのものではない親の心がこもったものなのである。
なぜ、そのことを感じたのかというと私の親はみんな死んで私はただ料理が面倒だから買うことだけであり。誰も私のために料理を作って来る人はいなくなったからである。ただもしかして妻がいればその手料理を食べれば母親がいなくても代わりになったから補われてそれほど思わないかもしれない。

でも、今や私のことを思い私のために何かをしてくれる人は一人もいなくなったのである。
だからこそ、余計に親がいたときは良かったとして特別そのことを感謝して思うようになったのである。
そして大正生まれの母親の好物が干し柿であった。貧乏な時代を生きたからである。それで干し柿を遺影に献げているのである。

何か孝行したいときは親がなしと言われたのは。それは親が早く死んでいたからだとなる。今は、必ず高齢化で親は子供は親になってもまた生きている。そしてその親のことを子供は思わない。

親孝行したいときは親は死んでいる
親はいつまでも生きていても親孝行されない

これも時代の変化でそうなった。時代によって家族も変わってしまうということである。だからそれを悲しんでもどうにもならないのかとなる。それで幼馴染が親切にしてくれるのでそれは慰めとなっていた。
つまり現代ではなかなか娘、息子に頼れない時代になっている。その娘、息子にしても。親に遺産があるとすると、それだけが目当てになる。だから一体何のために子どもを育てたのかとなる報われないとなる。

ともかく、こうして高齢化社会というのはいろいろな問題が生じてきている。それは、今までに経験したことがないからである。

寿(いのちなが)ければ則ち辱(はじ)多し

「荘子そうじ」外篇・天地
「男子多ければ則(すなわ)ち懼(おそ)れ多く、富めば則ち事多く、寿(いのちなが)ければ則ち辱(はじ)多し」
兄弟が多ければ争いの心配が多いし、富が増えればそれを守るために煩わしいことが増えるし、長生きすれば世の辱めを受けることが多くなる

今なぜ老人が問題になるのかそれは長生きでありその老人でも本当にまともな老人はいるのかとなる
老人をみていると何か心がまがり人格が歪められた人が多いように見える。それはまるでダンテの地獄編を見るようである
結局罪を犯して生きてきてまた人間の愚かさが現れる。体も醜くなるが心も醜いものとして否応なく現れる
つまり人生の最終決算が現れる、罪ない人は一人もないというとき老人は人生の総決算として現れるのである
だから本当は早く方が死んだ方がいいとまでなる。醜さをさらしてまで生き続けるのはかえってうとまれ嫌悪されるだけだとなる

でもそれを自覚している老人はまれである。かえって出しゃばり迷惑をかけても恥じることがないとなる
つまり人間はいくら長生きしても何か人間として完成されない、何かみんな歪んでいる、それは過酷な人生で歪められたこともある。私の母は継母の育てられて歪みまた働きずめで花などいらないとなり人格的ぬ歪んだものとなった
それは同情すべきだがとにかく老人は人格的に歪んでいる人が多いのである

要するに老人だけの問題ではない、別に若い時からすでに人格が歪んでいる人は普通にいる
そしてビジネスで成功する人はサイコパスだとか言われるのもそうである。成功者でも人格的に歪んでいるとなる
またそうしなければこの世では成功しないとなる。だから別にその延長として老人になるのだから当然歪んだ人格になる老人が多いとなる

2025年04月01日

介護の重圧で社会崩壊−介護しても報われない? 【介護が主になる社会が成り立つのか】

介護の重圧で社会崩壊−介護しても報われない?
【介護が主になる社会が成り立つのか】

総務省の調査によると、年間10万人以上が介護を理由に離職しているといわれています。介護離職の最大の問題は収入が絶たれることで、その後の生活が困窮することです。

もう限界だ…「年金月13万円」60歳元サラリーマン、88歳父と85歳母を残し、初めて実家から出る決意をした絶望的事情


今介護で苦しんでいる人がどれだけいるのか?それは自分も身をもってしったからわかる。まず仕事ができなくなるという時
仕事に集中できなくなるからである。注意散漫になってしまう。そして、仕事を辞めると収入がなくなり苦しくなる。
介護は片手間でやれるようなものではない。全精力が介護によって奪われてしまう。それを私は親2人で経験している。一人は重い認知症であったしそのもう一人は五年くらい寝たきりであった。私自身は別に仕事もしていないし、金には恵まれていたけれどもその間に何か集中してやれることができなくなった。それだけ介護に精力が奪われてしまうのである。

今知っている人は母親が歩くこともままならず杖ついをついてやっと歩いている。その息子は建築関係の仕事をしていたがそれをやめて介護関係の仕事をしている。親の介護をしなければならないのに他人の介護をしているというのも奇妙である。

また、隣の人は22、3歳で祖父の。介護をしている。ただ親2人は働いているから。金銭的には余裕があるかもしれない。ただ貴重な若い時を介護に費やすというのどうかと見ている?ヤングケアラーも問題になっている。

ともか、ともかく地方の仕事が介護になるという時そんなことで社会が成り立つのかともみる。これからますます介護される人は増える。団塊の世代が多いのだからそうなる。私自身の場合でも約十年間くらい介護に費やされた。
それはやはり、並大抵のものではなかった。だから仕事をしていて介護と両立するということは、かなり難しい。
なぜならその消耗度が大きいからである。それでも、親が死んで介護も終わってからでも何か何年かは尾を引いていた
精神的に相当に消耗したのである。それ以来、私は自由に旅していたが全く旅もできなくなった。

ただ、私の場合は特別恵まれていて、自由に旅したからそれで恨むことはなかった。でもほかの人は皆そうでないから介護することに相当な不満が生まれる。だから、知っている人は親の介護をなおざりにしている。それで親は嘆いている。
介護の負担は金銭的なものも大きいが、また精神的負担も大きいのである。だから介護は仕事と両立することがなかなか難しい。その人は金銭的にももともと貧困家庭でありそれに加えて、介護になった時金がないので余計に苦しくなったのである。

ただ、隣の人は金銭的には問題ないし、仕事もしていないのだから負担はないが、何か青春の貴重な時間を介護に奪われているという問題はある。ただ、それは気づかれていない。あとで損したとなるかもしれない。ただ、ニートとか引きこもりが増えているからそういう人だとするとそれが仕事にもなるのかとなる。
ともかく介護が主な仕事になるというときそれは事実でありでもそんな社会が成り立つのだろうかとかなる。

介護の問題は結構時間的に長いことである五年は確実にかかり十年も介護している人もいる。つまり、すぐには死ないのである。今は医療でも手厚くしているから簡単には死なない。その人は体が苦しいから死にたいと言ってもすぐには死なないのである。だから、本人にとっても苦しいとなる。簡単に死ぬわけにもいかないのである。
介護は実際は 2人いると楽になる。交代でできるから、楽になるのである。でもそれだけの人を確保できることは、なかなかない。それで、一人の人に負担がかかってくるのである。そしてまたそれぞれの家庭状況でも違ってくる。

私の場合は特別よくされたから当然だと思って介護していたのである。でも、ほかの人はみんなそうではない。それでその人はなぜ親の介護をまともにしたくないかといえばそんなに親によくされていないからである。それは兄弟に精神障害者を持ったために、そうなったのである。本当はその障害者が一番世話になったのだから面倒見ればいいのだが、それができないから悲劇だったのである。つまり介護というのそれぞれの家庭の事情によってさまざまな問題が起きてくるのである。

ともかく、介護は家庭内問題として解決し得なくなり社会問題となるのである。その数も多いからである。特に、団塊の世代が介護になる時数が多いから社会の重圧になる。そして不幸なのは団塊の世代の子供たちであり氷河期世代であり恵まれない時代の人だった事である。その人たちの数も多いから、老人になった時、さらに深刻な問題となってしまう。
金銭的にもさらに苦しくなる。
これが個々人の家庭の問題ではなく社会問題になる時それだけの数の人が介護していれば社会自体が生産的活動はできなくなってしまう。そして、ますます日本貧困化してくるという問題がある。
だから、介護が主な仕事になるというとき、そんな社会が成り立つのだろうかとなる。

介護の苦しみの根源は、「報われない」ということにあるのではないかと思います。

どんなに自分を犠牲にしても誰からも褒められない。
感謝の言葉もない。
良かれと思ってしたことが、受け入れられない。

献身的に介護しているのに、ひどい言葉をぶつけられることさえあります。

誰もわかってくれない介護のつらさをどうするか?ギリギリからの解放

確かに。報われないということが大きな問題かもしれない。 別に私の場合は。報われたのである。死ぬ時 感謝してくれたからである。 それは元々私は特別よくされたから介護することも当然だと思っていたし結果的に相手も感謝してくれたから救われたのである。 だから、私の場合は介護て報われたとなる。 でも、ほかの人はどうかとなればみんな事情が違うから私のようにならないのである。

例えば、ヤングケアラーとこなれば後で親を祖父母でも、恨むようになるかもしれない。 その時々に人間はすることがあり、それをしないとあとで永遠にできなくなってしまう。 だから、あの時青春時代をその時間を奪われたとして、恨むようになるかもしれないのである。 そして、そのことを介護したからとして 何か人から褒められるわけでもないし。 スキルを身につけるわけでもない。 ただ、何かしらの経験したことで無駄ではないかもしれない。 でも時間は貴重でありその時の時間は帰ってこないから後で恨む時間を奪われたとして恨むかもしれない。  

つまり、介護は報われないということが大きな問題になる。例えば、ほかの仕事なら何かスキルが身につくとか勉強していれば、何か将来のために役に立つとかある。 それが介護にはないから、問題ともなる。 将来介護の仕事するからと言ってそれは確かに多少役立つにしても別に介護の仕事につくわけではないから。 また、介護が社会人とって価値ある物として見られていないから 介護の経験もただ浪費なのかとなってしまう。

2024年12月16日

役割がなくなる老人の問題 【ワーク〔仕事〕しないと認知症になる】


役割がなくなる老人の問題
【ワーク〔仕事〕しないと認知症になる】

「work」は「仕事」だけでなく、以下の意味でも使われます:
働く
作品
機能する
上手くいく
効果がある、効く


老人の問題はいろいろあるけど見逃されているのが老人が社会で役割がなくなってしまうことである。それは家族でも起きる。
家族内でも役割がなくなってしまう。
例えば嫁にばあちゃんはなにもしなくてもいいですからテレビでも見ていたくださいとか言われて家事でも何もしなくなることなどがある。一見それは家事などしなくてもいいのだからいいように見える。でももし何もすることがなく一日テレビを見ていたらボケるということがある。

人間は何か役割を持つことが大事なのである。それは家族内でもあるし地域内でもあるし社会でもある。
workという言葉はただ仕事という意味だけでなく社会で役割を持ち機能する作用するという意味がある。また作品という意味もある。だから作品を作るということは何であれ目的をもって行動することだからいいのである
それは家族内でworkすることでも家族内で機能することである

何もしなかったら家族内でも無用化する。それが危険なことになる。でも別になにもしなくていいのだからいい御身分ともされる
そのこと私の家族で二人の母親がいて一人は94才くらいまで家事をしていたのである。でも一人は役所で公務員だった家事もしなくてもいいのでそれでボケた。認知症になったのかもしれない、
何でも家事でも料理でもしてくれる人がいて何かいつもテレビを見ているだけだったのである、何か趣味のようなことをしていてもそれは向いていなかった。

だから認知症になった原因は55才で退職してその85才まで生きてその間に何か仕事をしなかった。家族での役割もなく三食用意されて後は何もせずテレビを見ているだけでもあった
それで腦が働かず認知症になったのかもしれない、家のことを何もしなかったからである。

だから奇妙なのは例えば奥様がいて仕えて働く女中のような人がいたとする、その女中は家事でも何でもしてくれて奥様は何もしないというとき奥さんがボケて認知症になるかもしれない
要するに何か家でも役割がなくなることが認知症になる危険がある。人間は常に体でも頭でも働かすWORKしていないと機能して作用しないとボケてくる、認知症にもなる

それで今老人に問題になっているのは退職した時老人が会社で働いて居てもそこでは何かワークして機能していたとしても一旦会社を退職すれば役割をなくなる。会社でワークしていた機能していたことでも退職すればそれもない。では地域社会に戻ったとしてもそこにその人の場もないし機能する場もないのである。
つまり地域社会でも今はそうした共同の場もなくなっている

会社中心の社会にもなっているからである。だからいったん会社を退職するとその人のワークする機能するばかなくなってしまうのである。そしてまたそういう人たちが高い地位にあった場合何か地域社会でも威張りたいとか上下関係を持ってくることで嫌われる。何か低姿勢になれないのである。
だから地域を掃除するとかでそうした仕事はしたくないとなる、ただ金のない人はスーパーで三時間とか働いている。それはワークしているからかもしれない、ただ威張りたいという人は地域でも用無しになる

ただ正直今地域で何か役割を持つことボランテアでも簡単にできない、でも威張りたいだけでは誰も受け入れず何もできないとなる。会社なら地位があれば部下がいて尽くしてくれるともなるが地域では地域の人は部下ではないしむしろ低姿勢であることが望まれる。するとなかなかワークがなく用無しとなりそれがボケに認知症になる可能性が高くなるかもしれない

でも一旦会社を退職するとその人のワークする場がなくなることが問題なのである。人間はその人なりに仕事を役割を持ちつづけているのが理想だとなる、問題があるにしろ90才でも医者を現役でしていたとかなればボケないとなる。そして理想は死ぬまで役割を持ちワークすることが大事なのである。
でも会社で地位があっった人はプライドがあり低姿勢になれない、ただ地域でも威張りたいとなれば嫌われる

ただ正直今や地域で何か役割を持つワークすることはむずかしい
だからそうして行き場のない老人が増えて問題を起こすことがある。それは江戸時代でも前から老人にあったことである
ただ余りにも老人が増えた結果それが認知症になり大迷惑になることが問題なのである。

だからこれは家族の問題でもあり社会の問題でもある。病気ならその一個人の問題であるともいえるが認知症の場合は家族関係とか社会の問題にもなる。その要因が家族関係とか社会の役割を喪失するとか何かそうした社会が影響してなるとも言える。

そこに他の病気とは違った要因がある。それが他の病気とは違っている。その認識が必要だともなる、つまり肉体の病気だけではない社会的要因があって認知症になる。だからその認知症の原因を知って対処すべきだとなる、そういっても難しいことは確かである。ただ他の病気とは違った特殊な要因があることも認識すべきである。

そしてなぜ公務員とか教師とか裁判官とかですら比較的認知症になりやすいのか?それは統計的にも確からしい。それはその仕事自体に問題がある、教師でも絵を教えるとかではなりにくい、それは創造的仕事だからである。つまり教師は意外と教えるにしても決まりきったことを教えるとなる、そこに創造性がないと頭が働かず認知症になるのか?

でも教師でも教えることはいろいろなお仕方がありみんな型にはまったものではない、だからどうしてなのだろうとなる。やはり型にはまったようなつも同じような教え方をしていると認知症になりやすいのか、本当に教師とか公務員は認知症になる確率が高いのだからそこには何か同一の原因があるともなる


2024年12月09日

年金が少なすぎて老人が困窮 【介護も子供にも頼れない事情】

年金が少なすぎて老人が困窮
【介護も子供にも頼れない事情】

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【警告】老後破綻と貧困で苦しむ人の7つの『特徴』と『対策

65歳以上の単身女性44%が“貧困”の現実【報道1930】

鈴木ハナイさん(90)
リハビリと訪問ヘルパー代に月3万円はかかる。贅沢はできない。服のひとつも買わない。殆ど3〜40年前に買った服を繕っては着ていた。布団も夫と寝ていた頃のままだという。

「贅沢しないで、少しでも残していかないと今の年金だけでは老人ホームに入れない。やっぱり20万くらいかかるから…。離れて一人暮らしをする娘には迷惑かけたくない。娘の世話になりたくないと思ってる。自分が親として娘にあまりしてこなかったから…」

この人は90才だけど73才とかで同じ状態になっている女性がいる
脳梗塞になり杖をついて玄関からわずかの距離しか歩けない、
今車で私の家に息子に乗せられてくる。
その息子も52才くらいになって独身であり建築土木関係で働いていたが足を怪我して介護で働くようになった
その女性は息子が良くされないといつも言っている。その原因は発達障害の長男がいてその長男に手をかけて弟のことをあまりかまわなかったからかもしれない、他でもそういう事例はあるからだ。介護というとき誰もしたくないから兄弟間でも一番良くされた人がやれとなる。

贅沢はできない。服のひとつも買わない。殆ど3〜40年前に買った服を繕っては着ていた。
布団も夫と寝ていた頃のままだという

その女性も服を買いたくても買えない、脳梗塞になり糖尿病になり目が悪いとか関節が痛いとか介護度2なのである
それでも台所で料理をして洗濯物を干したりと自力でしている
でも歩くことがほとんどできないのである
何か気晴らしに息子に車で連れて行ってもらいといってもしてくれないのである。何か介護をしたくないのである。でも他人の介護をしているのも変だとなる

離れて一人暮らしをする娘には迷惑かけたくない。
娘の世話になりたくないと思ってる。自分が親として娘にあまりしてこなかったから…」

こういう感覚が親にあるのか、親にもいろいろであり事情がある
ただ親の良くされないというとき兄弟間でも一番良くされた人が介護しろとなるのはやはり人情なのだろう。
だから一人っ子は親を良くするとはなる。私自身がそうだった。特別良くされたのである、だから一人でも病気になっても必死で介護したとなる。それは自然なことであり強いられたものでもなかった。だから死んでも供養している
でも一人っ子は一人で負担するから苦しいとなる
つまり人間は何でもいい面と悪い面が生じる。

とにかく年金が少なすぎるし生活保護で実際いろいろであり年金が、4、5万もらって後は一万とかもらえない人もいる
年金だけで生活できる人は30パーセントくらいかもしれない、
そして収入がないから貯金もないから80歳以上でも働いている人がいる。施設には20万以上になると入れないのである
だから老後が余裕を持って暮らせる人は少ない、昨今の物価高でも苦しむ,コメが高すぎるのである。でも米は着るものと違って買わざるをえない、でも年金はほとんど増額されないのである。
困窮した老人が相当に増えている。

いずれにしろ日本が貧困化して様々な問題が生まれている。老人でもその皺寄せがある。若い人にすれば老人には金を使うなとなるし子供でも援助できない、親にしても援助されたくない、ではどうすればいいのかとなる。それで家族遺棄社会にもなる
これは一時的なものではなく団塊ジュニアの今の40後半から50才くらいの人が60以上になったらもっとひどくなる。数も多いし今よりひどくなる。貯金もない人多いから困窮するのは目に見えている。やはり日本全体が貧困化していることの影響があらゆるところで問題を起こす、凶悪犯罪を犯すのもそうである。若い人も苦しいからだとなる。
それで自分親を介護している時来たのはそうした老人でもあった

それで私自身が入院したとき家に誰もいなくなり大金を家捜して奪われたし事業に失敗した人に金を要求されたし現実に家の中に泥棒も入って来た、金庫も開けられた、中に金は入っていなかった。二階に来たの気づいたが顔をあわせなかった。
顔を合わせたら危険だった、その泥棒は外部から来た人だったろう。このように近辺でも貧困化してくると危険になる、背に腹は変えられないと近辺でも犯罪が起きて来る

今の時代金しか見ていない、田舎でもそれは同じである。人の繋がりは希薄化している。だから金をとればいいとかなくなる
ただ田舎でも他所から来た人は危険になる。でも田舎でも近くでも何をしているのかわからない人が多い、また田舎の一軒屋とはまわりの目がないから狙われたりする。日本は今アメリカのようにもなっている。やはり金しか見ない社会になているからである。




2024年10月12日

老人の心理を若い人が知るのはむずかしい―老人は過去を語り通じ合う】 【凶悪犯罪を暴力団の78才のヒットマン】


老人の心理を若い人が知るのはむずかしい―老人は過去を語り通じ合う】
【凶悪犯罪を暴力団の78才のヒットマン】

「マシンガン」をぶっぱなし、「手りゅう弾」を投げ込む…。「還暦ヒットマン」の凶行が身勝手すぎる理由
そのため今のヒットマンは、ごく一部の例外を除き、獄死覚悟の老人ばかりだ。

 犯行が弱々しいわけではない。というよりむしろ逆である。

 2011年8月、暴力団会長の自宅に乗り込んだ78歳のヒットマンは、二丁拳銃とマシンガンを所持し、侵入した庭で手りゅう弾を爆発させ、ランボーさながらに暴れた。
 2019年10月、神戸市の暴力団事務所前で、実話誌のカメラマンに偽装して待ち伏せ、2人を撃ち殺したヒットマンは逮捕時68歳だった。
 この2人のヒットマンにはもうひとつ共通点がある。重病のため余命幾ばくもなく、実際、すぐに亡くなったのだ

●78才のヒットマンの恐怖

老人になれば凶悪犯罪など犯さないと思う。でも老人の心理を考えるとそうでもない、老人の心境は後がない、若い人のように先がないのである。後何年生きるのかとなる。その気持ちがわからないのである。どうせ間もなく死ぬという心境がわからないのである。
どうせ何であれこの世からおさらばするからこの世のことなどどうでもいいちょにもなる。その点気が楽にもなるのが不思議である。なぜ若い人が人生を生きることが重荷になるのはその先が長く欲望もありその欲望をかなえるために苦しむ
生きることの重圧は若い人の方が大きいのである。

78歳のヒットマンは、二丁拳銃とマシンガンを所持し、侵入した庭で手りゅう弾を爆発させ、ランボーさながらに暴れた。

こんなことができるのも自分はどうせ間もなく死ぬということで思い切ったことをする。何か家族のしがらみとかもなく現実にその人は78才で病気であり焼けにもなり自殺のようにして凶悪犯罪を犯した。その人は実際にまもなく病気で死んだんのである。
いずれにしろどうせ間もなく死ぬのだから世間のことなどどうでみとなった。世間のことなど気にしなくなったとなる。

実際こんな歳になれば世の中のことをいろいろ考えてもしょうがない、無駄だとなる。まもなくこの世からおさらばするからどうでもいい知ったことではないとなってしまう。その心境が若い人にはわかりずらいのである。だからこれだけ乱暴なことをするのはどうせ先がないから思い切ったことができる。
つまり世間のこと周りのことを気にしなくなる。世間体などもなくなる。第一死ねば世間もなくなる。だから世間のことを気にしなくなりこうした無謀なこともできる

でも若かったらかえってできない、なぜなら若いということ生きたい欲望があって生きたいとなる。若い人は人生に希望をふくらませているからである。老人にそうした未来はない、老人はこれから何かをしようとか達成しようかということではなくこれまでしてきたこと達成したことを語るのである。

●老人は協働して何か成し遂げたこと語り通じ合う

そしてともに何か協働して成し遂げたことを語るのである。そこに連帯が生まれる。でも若い人はこれから何かを成し遂げようとして協働する、連帯するのである。その相違が大きいのである
だから老人は友達とか作りにくいのである。過去に協働していればそのことを語る。何々で苦労したことそして協働して協力して成し遂げたことを語る、それで連帯が生まれる

それで私の家で店をしていたとき豆腐を下ろしに来ていた人が私の死んだ家族の事情を知って語る時何か通じ合うものがある。
その人も豆腐作りとか売ることの苦労を語るからである
つまり協働していたから心が通じ合うとなる。だから未来へ向かって共同する若い人達とは違ったものでありその協働とは過去何かをしたことで共同しているとなる
これは農民が大半だった時代なら同じ地域で協働していたのだから老人になっても心が通じ合うのである

●なぜデンデラ野で 老人が共同できたのか

 遠野のデンデラ野はその棄老の地としての姥捨て山で
『蓮台野(れんだいの)』が訛ったことによって呼ばれた伝わったとされていま

それでデンデラ野という老人だけが村の中で集まり共同して暮らす、そこで助け合い看取りもしている。それができるのはこれまで村の中で共に協働して暮らしていたからできることなのである。今の社会はそういうことができない、職業が多岐に分化して相手のことがわからなくなったからである
そしたら老人になってその人が何をしたとしても共感しないし心が通じ合わないのである。

農民社会だったら死んでも山に帰り御先祖様になり田植えになると手伝いに山から下りてくるとかなる。そんなこと今はありえないのである。死んでも村の中で協働していたからこそその死後も御先祖様となり村の中で生きていたとなる
世代が死んでも断絶することなく農民社会だったら継続されたとなる。

ともかく高齢化社会の問題はさらに深刻化する。どうしても病気になり介護状態になる人が増えるからである。朝は一万の街を見回ったら三台も介護のために車椅子とかで車にそのまま乗せられて介護施設に病院に行く人を見た、それだけ介護される人が多いということである。その数はさらに増えてゆく。その負担も大きいから日本経済はさらに苦しくなる。

2024年10月09日

老人の役割価値は何なのか 【過去を昔を語ることで死んだ人も生き続ける】


老人の役割価値は何なのか
【過去を昔を語ることで死んだ人も生き続ける】

●私の家の事情を知っている人と話す

その女性はいつも土手にいる。毎日散歩しているからである。
85才になるが私の家で店をしていた時豆腐を卸しに来ていたのである。だから意外と私の家の事情を知っていたのである
私の母親が会津旅行に連れて行った時泣いていたという
何かうれしくて泣いていたという。それは私の母親はめったに外に出ないで家で台所仕事とか店の仕事をしていたからである。
もう一つは姉がいて外に出させなかったということもある

それで外に旅行に出て嬉しかったのかも知れないそのこと聞いてそんなことがあったのかと母を思ったのである
母は働き詰め一生を終わったのである。何か楽しむということもなかったのである。それはすでに若い時からそうであり若いときは原町紡績に勤めていて糸取りをして働いていたからである
そのあとは東京に出て女中だった。そして私の家に後妻になっても働きずめだった。だから花などいらないとなって庭に豆を植えていたのである。それは戦時中に戦後でも食べることができないことを経験しているからそうなった
それが私にとって嫌なことだった。ただそうなったのは強いられてそうなったのである。

●金持ちでもケチな人がいるし貧乏でもケチでない人

ただ不思議なのは知っている人は貧乏であり日々食べるのも事欠くのに刺身でもいいものを選び買う、また電気器具でもいいものを選び買うのである。普通なら金が無いのだから安物でもいいはずであるがそうならない。それで好感を持つのも不思議である
なぜなら私の母親戦後は豊にになったが節約するだけだった。別に花を買っても十分に金もあっても何か無駄だとなり金を使わず貯めるだけだったとなるからだ。要するにケチだとなる
金があってもケチな人はいる。有効に金を使わないのである。

ユダは金銭への執着が強い人間でした。 ある女性がイエスの足に非常に高価な香油を塗って愛と尊敬を表したとき、ユダは「どうして、この香油を売って、貧しい人々に施さなかったのか」ともっともらしいことを言いましたが

ユダはケチだったのである。それをキリストがとがめたことは理解できる、金があってもケチな人はいる。なんかそういう自分も実際は遺産をもらうまでは贅沢したことはなくケチだった
どうしても習慣となり貧乏人はケチになる。

だから普通は貧乏ならケチなるのはやむをえないとなる。ただケチというとき金持ちであれ貧乏であれ共にある。金持ちでもケチな人は相当にいるしその人は貧乏人のことなど無視する

ともかく人間は様々な人がいる。でも私は引きこもりであり自然に没入して禅僧のような生活していたから人間関係を嫌いうといのである。社会性がなく異常だったと思う

老人の役割価値とは何となればこうして死んだ人であれ語ることである。何か不思議なことはこうして言いにしろ悪いにしろ語る時死者での活きてくる。いつも川の土手にいる女性が私の家の事情を知っているので親しみを覚えたのである。
それで私の母親が会津の旅行に連れていってもらい泣いていたというのは知らないことだったからである
その頃会社でも社員旅行とか盛んであり団体で温泉街につめかけて飲み食いして騒いでいたのである。だから田舎の小さな問屋でも旅行を企画して連れて行っていたのである。その頃は高度成長時代であり会社でも景気がいいからそういうことができた
今やその温泉街も団体旅行の人が来ないから寂れて廃墟化したのには驚くのである。

●老人の役割がなくなり価値が認められない

いずれにしろ老人の価値と役割はこうして過去を昔を語ることなのである。その時不思議に死んだ人でも語られることによって生きることになる。だから2000年前でもお釈迦様やキリストのことは語られ続けているのである
つまりヒストリーとはストリーのことであり物語となるのである私は小説は苦手だから小説は書けないがもしその能力があればこれは一つの小説なのである

とにかく今老人は役割が無く無価値とされるのはなぜなのか。それは例えばこうして何かを語るにしてもそれが通じる場がなくなったからでもある。もし小さな村で共同で生活していれば昔はどうだったとか昔はこうしたとか同じ農民だから通じるものがあり聞く人もいたのである。

でも職業でもこれだけ多様化すれば理解することが難しい。でも老人の価値と役割はやはり過去昔を経験したこと語ることでその時確かに死んだ人でも生きているとなるただなぜかそうして語られる人は少ない

近くの開業医なった人は生きているときは必ず話題になっていたがその医者も死んで一時息子が後を継いだまもなく元の妻のいる東京の方に行ってしました行ってしまった。そして立派な家があったのだがそれも空家化してしまった
その地震などあって屋根が壊れているわ誰も直す人もいなくなっている
その息子も78歳で死んでしまったからである。

だからその医者について誰も語らないということが何なのだろうとなる。語られなければ死者は本当に死んでしまうのである
ただその医者は見立てがよく優秀ではあったのだが口が悪く冷たいところがあったズケズケと物を言う人でありそれで私の母は嫌って優しい別な医院に言っていたのである。ところがその医院も最近全部壊されてしまったのである。

老人の役割と価値はこうして過去昔を語ることにある。だからこそ昔話が残っているのである。だんだんそれが記憶も薄れてゆくと伝説のようになってしまうのである。ただ伝説にしてもそれが語られるとき死んだ人も生きているとなるのである何も語られなくなればその人はまさに本当に死んでしまったとなる
そんな人は多数なので今世間を騒がせてもたちまちいずれは語られなくなるのである、だから語られ続けるということは歴史に残る人であり本当に価値ある人だとなるのである

2024年10月08日

幸福な家族と不幸な家族 【障害者を持った家族はうまくいかないー親の世話できない悲劇】


幸福な家族と不幸な家族

【障害者を持った家族はうまくいかないー親の世話できない悲劇】

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85才の夫婦は夫がマメであり料理を仕事ととして妻に食べさせている。妻はなにもしなくていいのである。だから楽だと見た。ただ問題として私の家は二人親ともなる女性がいたが一人は何もしなかった、もう一人が食事を出していたからである
結果的に何もしない方が認知症になったのである。別に食事を作ってもらっている方がいいと普通は思う、でもそうなるとただなまけるだけであり頭も体も働かせないから認知症になる危険性が増す。だから人間はいいと思うことが必ずしもいいとはならないのである。
夫の方はともかく料理に精を出している。妻は何もせず提供されたものを享受するだけだとなる。だから楽だとは見る
そして息子が医者だから経済的にも恵まれているとみる

一方の家族は市営住宅に住み狭い部屋であり脳梗塞になり今や歩くこともままならずわずかの距離でも歩けないのである。また目が悪いとか介護度2なのである。見ているだけで73才なのに老けているし85才のように見える。
そして50歳の息子といるが同居にはなっていないが常にまともに台所に立って仕事ができないのに手も悪いのに食い物に文句を言ったりいじめられという、なぜそうなのかとなれば障害者を一人持ったために兄弟でもないがしろにされえ育ったからだと見る

その発達障害の息子が世話すればいいのだが何か母親のことを世話できない、依然として子供のような状態にあるからそうなる。
普通だったらそれだけ親が困っている苦しんでいるならば50才も越えたら助ける気持ちが出るはずだがそれもないのである
だから金もなく苦しみ助けもなく苦しんでいる
まず障害者を持つと家族全体が不幸になる。だから兄弟でもお前が一番よくされたのだから世話しろとなる。その最も世話された人が何もできないのが悲劇なのである
その女性は二回も離婚していていい夫とめぐりあわなかった。
その原因が不細工だったからかもしれない、でもその女性は話すると物事が分かった人であり花に詳しいので話して楽しいとなり援助している。

とにかくなぜこのように白と黒のように家族は違っているのかとなる。その家族を知らない人は何も感じない、おそらくただ無視するだけだとなる。
なぜこうして不幸な人はさらに不幸になるのか?もしまだ73才だったら普通に元気な人はいる。すでに介護度2であり3に近づいている。一生がただ苦しみの連続だったともなる。その原因はなんであったのか?それはやはり障害者をもったことにあった。
その障害者の子を持った結果兄弟でも他はおろそかになり介護状態になっても金もなく面倒を見ない、冷たくされるのが悲劇なのである。私の場合は特別大人になっても良くされたからずぼらであっても親二人の介護で必死になって世話したのである。

だから家族の事情は様々であり分かりにくいしなかなか家族の中にはいりにくい、でも介護となると実際は家族だけでは対応できないのである。限界がある。でも実際は家族にまかされてそれで殺したとかの悲劇が生まれる。家族だけに負担がかかりすぎるのである。私の場合は一人っ子だから負担が全部かかってきたのである。結局それも自分のカルマだったのである。
でもなぜその女性がただ苦しみの連続なのか理解できないのである。ただ一般的に障害者を持った家族は不幸だということは確かである。その負担が大きすぎるのである。
こうして家族でも比較すると見えてくるものがある。ただ直接接しなければ家族というのが様々でありわからないのである。

2024年08月12日

墓は何のためにあるのか 【死者を愛し続ける困難ー死者を愛することは無償の愛】


墓は何のためにあるのか

【死者を愛し続ける困難ー死者を愛することは無償の愛】

●私の家族の墓に花を献げていた人

お盆になると墓参りするがそもそもなぜ墓があるのだろうかとなる。その人はなぜか私の家の墓に花を挿していた。それはなぜなのか分からなかった。私の家族に特別に世話になった人でもなかった。だから理由がわからなかった
でもそんなに長くは続かなかった。それは当然だとなる

何か特別世話になったとか何かその人に対して思いがある人は墓があれば墓にお参りする。でもそれが長続きするということはまた難しい。人間というのは死んだ時点で全く別のものとなるなる。もはや死んだ人は何かしてあげることもできないし返事も何もないから供養し続けるということ愛し続けるということは本当に難しくなる。

だから死者を愛せというとき本当に愛している人しか死者を愛せない死者を愛しても何かもはや利益を得るということもないからである
だからその人は確かに花を捧げていたがそれは長続きしなかったその人は私の家族に特別何かしてもらったわけでもないからである。ただ家族であっても死んだ人を親でも思い続けることはそれほど無いかもしれない。

その人は親に酷い目にあったから子供の時離婚したり何か色々あって親を親とも思える思わないようになったのかもしれない。
それで墓参りするから十万くれと言ってきたぞ十万をやっても墓参りすることは中それは東京に住んでいて離れているということもあったし私自身のとも関係していなかったからである
そもそも私の父親違いの兄は集団就職で静岡の方に行ってから何をしているのかもわからなくなった。それが突然40歳で交通事故で死んだのである。そこに残されたのは一人娘だったのでだからそもそも疎遠だから私の家族に関しては関心がなくてもしょうがなかった
でも父親ならいくらひどい目にあったからといってそれまでは愛されたのだから墓参りくらいするのかと思うでも全然そういう気持ちもくなっていたのである。東京に住んでいるから離れたこともめんどうだともなった。

要するに十万もらえばいいというだけになっていた!

10万の方がその親より大事なものとなってしまったのである。親はも何か金をくれたり何かしてくれたりしないからそうなった。それをまた親の責任であった。

●死者を愛し続けることが本当の愛

いずれにしろ本当の愛というのは何かというと死んでからでも愛が継続することである。そういうふうに愛は継続することはもしかしたら家族でも難しいかもしれない。家族にもいろいろ問題があってすでに親は生きていても親を捨てるような人も普通に居る家族遺棄社会にもなっている。だから家族が愛し合うということでもない。

ただ本当に愛すと言う時死んでからも愛するということがあるそれが本当の愛だと言う。なぜなら何の見返りもないし返事もないからである
生きているときは必ず何かしらお返しというか何か利益があるとか関係してくる。でも一旦死んでしまうと死んだ人は何のお返しもないし何の利益を与えるわけでもないし何の返答もなくなってしまうのである。

だから死者を愛すことこそが本当の愛だとキケルゴールが言った。それはまさに無償の愛であり無償の愛というのは継続できない。その人は確かに一時的に私の家族の墓に花を捧げていたのそれで何か私から得るものがあるとして捧げていたのだと思う
なぜなら何が私の家族は特別その人に何かしてあげたことなどないからであるおそらく私から何らかの関係を求めて利益を得るために花を捧げていたのかもしれない。無償の愛ではなかったのである

つまり人間は無償の愛というのは本当にまれだと思う。親子の愛でも無償の愛とは限らない。必ず子供に何か期待して子供を自慢したいとかいろいろあるからである。そもそも無償の愛とかこの世にあるのかとも思う。必ずお返しを必要としていてお返しを求めて何かをあげるのが普通である。そもそもそれがなければ人間は何も与えたりしないということになる。でも死者になると何か返事もないし何も与えてくれない。となると死者を愛し続けるとか供養し続けること難しくなる
だからいくら親であっても死んでから愛されるとは限らない
私の場合は親は2人いたとして一人にはは特別よくされたから死んでも忘れられないし感謝しているということである
他者に対してはどうだかというと冷たかったかのである。だから死んでから不思議に語る人もいないのである。大概死んだらもはや関係はしない何か利益がなかったら親子でも関係しないのである。

●墓が継続できない理由

ともかく人は死んだ時点でたちまち忘れられてしまう。でも墓があるというとき一応その墓を通して死者と関わりを持つ
でもその墓にして死んだ人をそんなに長く思い続ける人もいないし家族でも今は遠くに嫁に行ったり地域のつながりもなくなり誰も墓を守ることができなくなる墓じまいになってしまうのである
つまりそれだけ何か死者というのは忘れられてしまうのである。だからこそ墓を作り物としてあることにより忘れないようにあるとなる。でも実際は忘れられてゆくから墓も捨てられてしまうということである。だからこそ儚い(墓ない)となってしまうのである

ともかく墓がなぜあるのか?それは人間として何か意味があるから作られたのである。ただ今墓を継続することが難しくなった。家族でも難しくなった。問題は墓を継続できないことである。だから墓じまいとなる。何でも継続することはむずかしい。
墓を作っても継続して供養できないから墓じまいになるから墓はいらないとなる。墓を作ってもその後始末がめんどうになるからである。だから個々人の墓を維持することは特別な人でないとできない。寺でも維持できない、死んでしまったら今度は家族に管理費などをとられる。それも嫌だとなり墓は維持できなくなる
いずれにしろ江戸時代に家族の墓はなかった。明治になって家族の墓が作られた。だから意外と墓の歴史は短いのである。地区ごとの墓はあっても普通の人の墓はなかったのである。

結局逆説的だが無償の愛はむしろ継続する。なぜなら生きている時はどうしてもお返しを利益を求めるから利益が返答がなければば関係も切れるからである。それがこの世の人間であり無常だとなる。何であれ継続することがむずかしいのである
人間の関係でも金の切れ目が縁の切れ目であり継続できないからである。カルト宗教団体など継続できない、御利益がないとわかれば離れていくからである。ただ継続されるものには価値があるとなる。

2024年07月24日

暑さのためクーラーを一日してこの症状がでた 【喉や鼻の粘膜が乾燥し、炎症を起こしやすくなるため】


暑さのためクーラーを一日してこの症状がでた

【喉や鼻の粘膜が乾燥し、炎症を起こしやすくなるため】

エアコンは空気中の湿度を奪うため、室内は非常に乾燥します。
これにより、喉や鼻の粘膜が乾燥し、炎症を起こしやすくなるため、風邪のような症状やアレルギー反応が起こりやすくなります。
夏の不調はエアコン病かも?原因と症状から解決策まで徹底ガイド

エアコン「カビ風」に要注意「呼吸器疾患も」 水分&ほこりで発生 簡単対策は?

呼吸器疾患になるというのも怖いかもしれない、咳がでたこともある。
クーラーはやはりいろいろと問題がある。でも暑いと33度とかなると動かなくても汗がでる。でもやはり何らか体に悪いことは確かである


喉が痛くなるとか舌が乾くとか鼻の調子が悪い、その原因はクーラーにあった。何か鼻の中乾燥した感じになったからである
もともと私は蓄膿症で手術にしているから悪くなりやすい、でも一週間ほど気温が下がりクーラーを使わなくなったら回復した
原因はやはりクーラーにあったとなる。ただ正直クーラーなしでは暑くてどうにもならなかった。ただ明らかに乾燥した結果鼻の中も乾燥して舌が渇き口も渇きのどが痛くなったと思う。

何かこうして病気でも原因が分かればその対策方法はわかる。ただこれも素人判断すると危険にはなる。でもやはりこれだけ暑いのだからその暑さが影響したことは素人でもわかる。ただクーラーが影響したということには気付かなかった。

今日は曇っているが最高温度は33度になるかなやはり暑い蒸し暑いでもここで一日クーラー使うとまた調子が悪くなる。だからなるべくクーラーは使わない方がいいようである。体温調節にしてもそうなのである。汗をかいたり涼しい風にあたったりして調節するのは自然なのである。自然の風とクーラーの風は違っている自然の風はなんとも心地よいのである。夜でも少しでも外の風が入ってくると気持ちいいのである。

ただ正直これだけ暑くなるとクーラー無しではいられない。それが大きな問題なのである。でも私の不調の原因がクーラーだったとなればやはりクーラーはなるべく使わない方が良いとなる。

とにかく老人は気候の変化とか暑さ寒さに弱くなるのである。だから老人は熱中症になりやすい。でも暑いからといって気軽にクーラーを使うのも問題である。やはりクーラーは自然の風ではない。そこに大きな問題があったのである。人工的に機械で作る風でありそれはやはり人間の体にも良くないのである。つまりなんでも本当はあらゆるものが機械とか便利な道具で解決することもないのである。

いずれにせよやはり病気であれなんであれその原因がわかると意外と安心する。でも原因が素人で分からないことも多い。それで前に大失敗した。インターネットで調べてそれで自己判断して医者に行かなかったがもし医者に行かなかったら手遅れで死んでいたともなっていたのである。

だからインターネットとかで自己判断するのも危険なのである
ただ今回は何かその原因がわかりやすいものだとみた。私の症状にマッチしていたからであるそれで医者に行こうとしたらなんとかクーラーを使わないで耐えてそのあとこれから涼しくなる期間があるからそれで回復させようと思った。ただ正直今回の暑さで体重が7キロとか減っているから結構な負担だったのである

いずれにしろ異常気象でありこれがすでに何年なのか続いているだから夏はこんなに普通に暑くなるのかとがすると何らかこの夏に対策しておく必要がある。クーラーはその対策になるものだがクーラー自体がやはり問題だとなると暑さ対策としてはいいものでもなかったのである

2024年07月23日

今なぜ老人が孤立化しやすいのか? 【共同体の喪失で個々ばらばらになった―会社人間は退職して居場所がなくなる】


今なぜ老人が孤立化しやすいのか?

【共同体の喪失で個々ばらばらになった―会社人間は退職して居場所がなくなる】

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【高齢者20人に1人!】「孤立死」しない生き方とは?

●老人の問題はすでに若い時から始まっている

ここで話していたのは団地とかに住んでいた人である。その団地でも老人が増えて孤立している孤独死も増えそれはなぜなのかといえばその団地にしろそれぞれを見れば別々の会社で働いていたし隣が何をして働いているのも分からないということがある。
つまり老人の孤立化とか孤独死の問題は別に老人になったから突然起きることではないのである。つまり老人の問題は必ずこれまで生きてきたことがかかわりその上にさまざまな問題が生まれる。

つまり人間の問題というのはこれまで突然何か過去と関係なく起きることはない。だからカルマというとき必ず過去にしてきた行為と関係しているのではそのカルマが60歳以降に苦しみとなって現れるのである
カルマというのは誰でもどんな家でも過去に積み重ねたものはありそれが結果として現れる。はだから老人になるとその人の人生の総決算のようなことが起きてくる。

だからみんな老人は老人特有の問題として見ているが実は老人の問題はすでに若い時から始まっているのである。なぜなら老人になってからその人は突然に何か違った人間になどならないのである。その人の一生で積み重ねたものがありそれが結果として現れるのである。だから老人の問題を老人のとしてだけ切り取って見ることはできないのである。
つもり人間の問題は子供時代であれ若い時であれ老人になるまで連続したものであり老人は老人でその一生からから切り離されては存在しないのである
だからその人生を会社に尽くして会社で価値を作り上げた人が退職したからといって新たな価値を作ることは容易ではない

でも退職するとその今まで築いてきた会社での価値はなくなりどうしたら何をもってその人の価値となるかである
だから私は何何の会社に勤めていて部長だったとかようのは当然になる。でも地域になればそんなことは関係なくなるから価値として認められないから問題になるのである。

●団地とかでは個々別々会社で働き繋がりがなかった

そもそも団地とかなるとそれぞれの人は同じ団地に住んでいても仕事はみんな違っていて会社も違っていてその団地とはただ寝起きする場所に過ぎないとなっている。だから一つの団地があってもそこで何か協同性を追求することは難しいということは老人退職したり老人になった時もまた同じように共同することが難しくなるのである

もし江戸時代のような村だったら村は家族のようなものである生産共同体であり村で共同で仕事していたから別に老人になってもその村の中で役割があり老人は尊敬されていた。
そして死ぬとご先祖様となり山に葬られて田植えの時はまた山から下りて田植えを手伝うとか言われる。
つまりそういう共同体でわ死んだ後でも死者はその共同体の中で生きているのでだから老人は別にそういう共同体で生きていれば孤立しなかったとも思う

それと比べると団地の中に老いてゆくということは村の中で老いてゆく人生とはまるで違ったものになる。会社から退職したらもともに住んでいても何か共同して働いていたわけではないしそこでここバラバラになってしまうということである
団地とかはそこで何か共同して共同して働く場所でもない。だから当然会社から退職するとその団地の人と協働するにしてもできないとなるのである。

そして人間を友を求めてるがそんな友などそもそもできない
なぜなら会社と違って共同することがないしではなんでもって友とになるかとなれば趣味とかになる。それもさまざまであり付き合うにしても人は色々であり気にくわないとかいろいろ付き合うにしても問題は生じるから簡単ではない
そもそも友などは老人になってできない。友ができやすいのはやはり若い時なのその時はやはり人は未来に向かっているからその時同じ志があり友になりやすい。老人になってから友となるのが難しい。その生きた一生でもみんな違っているし仕事もみんな違う。だから相手のことをなかなか理解できなくなる

何か私は会社でこういうことで働いて部長だったと言っても相手はそのことを価値として認めない
それは会社で働いていた時の価値だからである。だから一旦会社を退職したりするとその価値は失われてしまうのである。
いずれにしろ老人になると家族内で私は何何をしてきたから認められた人必ずこれまでしてきたことを延々とと語るのである
それは承認欲求であり自分の価値認めてもらいたいということである。その価値でも多様だからなかなか第三者から認められることが難しい。村という共同体で暮らしていれば別に今日どうして同じ仕事をしているのだから相手のこともわかっているしいちいちその人がどんなことをしているかなど問うこともないのである

●孤立化孤独死は大きく見れば現代文明の問題でもあった

ともかく孤立かとか孤独死とかが問題になるやはり社会の変化によるあまりにも社会が分化して互いにつながりがなくなったということはその根底にある。それでピカードはそうしたアトム化した社会ナチスが生まれたと説いた
またカルト教団で創価などはが団地の宗教と言われたのはそれも地方から出てきた人が仲間もなく拠り所がなくて生まれた宗教でありそれがナチス化するということでもあった。
だからそもそも老人の孤立化とか孤独死とかはそうした現代文明社会の中で必然的に起きたということにもなるだからだから対処療法としていろいろあるにして根本的には解決しないということである

それは田舎でも同じなのである何か田舎だとみんな農民だと見ている今は全然違う。全体の占める農民の規模1割にも満たないのであるやはりみんな会社員になっているからだ。だから中でもやはり都会化して隣は何をする人ぞもなっている。今だにすぐ近くに居る人は何を仕事にしている人かも分からないのである。それは他から来た人にしてすでに30年なのか40年なのかいてもその人はこの町では働いていないらしくその人の顔も見たこともないのである

ただ田舎だとやはりもともと同じ場所に住んでいる人だから知っている人は多い。でも田舎でもやはり何を仕事にしているのか分からない人も多いのである。だから田舎で何か共同するということ老人が会社を退職すればやはり同じように孤立化してしまうのであるつまり現在というのは地域社会というのは無くなっているからであるだから老人の居場所は無くなっているのである
この問題はこうしてなかなか解決しにくいということである

2024年07月21日

老人が尊敬されない価値がないとされる問題 【価値は積み上げて作るから老人になって価値を創ることが難しい】

老人が尊敬されない価値がないとされる問題
【価値は積み上げて作るから老人になって価値を創ることが難しい】

人としての生きがいの重要な柱である「人に認められたい」という欲求が満たされる機会がほとんどなくなってしまっている。「承認欲求」は人間の根源的な欲求の1つだ。子育てや仕事で認められ、感謝され、必要とされていた自分がいつの間にか、邪魔な存在になっている、と感じるとき、人は生きがいを失うのではないか。

日本の高齢者は、なぜこうも「不機嫌」なのか
会社にへばりつこうとすることと密接な連関

●「承認欲求」は誰にでもある

「承認欲求」は人間の根源的問題としてある。その承認欲求とは何なのかとなるとその人の価値を認めてもらいたいということである。人生を生きてきた老人は特にそうなる。
だから最後に必ず私は何何をしてきたとか何度も語ることになる。私の姉はシンガポールの方で従軍看護婦として四年間辛酸をなめたがそのこと認知症になっても忘れられず千回も聞かされたとなある。そのことだけは忘れられないし一番印象に残っているからこそ語り続けたのである

ということはそうして苦しんで日本のために戦ったということ認めてもらいたい価値があるものとして認めてもらいたいということだったのである。それも当然であるなぜならその苦しみは並大抵のものではなかったからである。また戦争で死んだ人は300万人もいるというときすごい人たちの価値がないとされたらそ霊は浮かばれることはない。

つまり人間というのはどんな人でも私は価値がある承認欲求はある。豆腐屋をしていた人で私の私の家で店をしてた時関係していたから豆腐屋の苦労を語る。その価値を認めてもらいたいので人は何かしら承認欲求があり認めてもらいたいのであある。
お前は何の価値もないと言われたらショックである。特に老人はのショックは大きいのである。私の人生を何の価値もなかったのかとなるからである。
ということは私の人生をもう無意味だったとなるからである。それは社会的なものとしてありまた家族内での価値もある。また地域内のとしての価値もある。価値は多様なのである。
現在は職業の数も増えてその価値にしてもわからなくなる

その大工さんは異常なほど自分の仕事を認められたい実際にこれまで修練してきた技を示す、というのは大工だけではない、庭作りもできるし壁塗りとかもできるしそれだけいろいろなことができる人がいないからその価値を認めてもらいたい自分は他の人と違って価値ある人間だと訴えるのも分る。
それを金を払えばすむともならない。要するに大工は大工でもそれ以上のことができるのだから自分は価値ある人間として特別認めてもらいたいということなのである。人間は誰でも価値あるものとして認めてもらいたいのである。
ただ余りにも社会が複雑化して価値が多様化しているからなかなか認めるにしてもその価値がわからなくなっているのである。

●会社員の価値は退職すると消失するのが問題

今は大概会社員だとするときその人の価値は会社の中にある会社の中で作ることにはでもよそから見ればその会社のことは分からないし会社で価値あるとしてもほかの人にはその価値もわからない場合が。それが退職した時地域の中に入ってきた時明確になる私は会社で部長だったとかなんとか言って通用しないからである

そして今地域社会がなくなったとき居場所もなくなるということは誰も価値を認めてくれなくなるということになる。会社では尊敬されて価値あるものとして認められていて退職すればただの人間になってしまうのでそれが高齢化社会になったとき大きな問題となったのである

要するに誰も価値を認めてくれないいくら会社で部長であったとしても退職したらそんなものは他の人には関係なかったからである。では地域の中で価値ある人になりたいということは今はそうした地域社会も無いのだから難しいとなるのである。だからボランティアなどしても返って迷惑とか邪魔だとかされる。

とにかく人間をどんな人でも承認欲求がある。何であれ自分が価値ある人間として認めてもらいたいのでそれがない時活きる気力もなくなるかもしれない。私は何の価値もない人間だとされたら生きる気力もなくそれは相当深刻な問題なのである。
ただ老人と言う時60歳上からとか価値を創っていくことはかなり難しいその人なりの価値と人生の中で積み上げていくものであり一朝一夕に生まれたりしないからであであ
だから会社人間となれば会社でその人生を費やしたんだその中で価値があるに人間として認められていた問題は退職してからそういう価値を失うことであそれで退職してからその後の人生があり長くなったからそれが大きな問題となっているのである

●その人なりの価値は人生で積み上げてゆくもの

だから価値というのは人生の中で積み上げていくものであり簡単に作れるものではない。だから老人になった時承認欲求といういったいその人はどんな人生を送ったのかということが問題にな何積み上げてきたのか人生で何を習得したのかそれを見るようになるからである。老人になってからまったく新しい価値を作るということはなかなか難しくなる。
でも退職してからの人生も長くなるからそこが高齢化社会の問題になっているということである何の価値も認められずただ帰って無駄飯くらいとか若者から金を奪うとかそんな風にしか見られないということが老人の不幸だとなる

明確なことは一朝一夕に簡単に価値は作れない。だから会社で価値を作ってきた人が会社から退職して新たに価値を作るということは難しいのである。ただ会社に勤めていて趣味としてやるものがありそれが退職してから生かされることはある。
でも本質的には会社で価値を作ってきたものは会社から離れてしまったら無価値にもなってしまうのである。だからその人なりのライフワークを持つということもこれからは大事かもしれない。そのライフワークとは退職しても続くし死ぬまで続くということになるからである

そこでその人なりの価値を作るから会社とも関係ないとなるからである。会社だけで価値を追求した人は会社を退職したら何の価値もなくなるということでは困るからである。でも何でも人間は積み上げることであり一朝一夕には価値は作れない。だから若い人はこれから高齢化社会になるかな自分なりの価値を作っていくことを心がけていないと誰も認めてくれない価値のない老人とされてしまうだろう









2024年06月27日

人間最後に問われる価値 【個々人を弔い個々人の価値が問われる】

人間最後に問われる価値

【個々人を弔い個々人の価値が問われる】

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私の墓―その人の一生を象徴する墓はいいのかもしれない
もう家族墓は成り立たなくなる、ただそれは墓ではなく記念碑ともなる


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●何を与えたかが価値になる

人間最後になると何が問題になるのか?その人の価値がなんであるのかが問われる。その価値とはは何なのか?それはあなた他者に対して何を提供したかということではないか。つまりあなたは何を与えることができたのかということがその人の価値になる。
その人が人生で何かを得たとしても得たものを与えることが価値となる。確かに何かを得ようとする。でも何かを得ようととすることは何かを他者に与えることのためにある。

卑近な例としては近くの自転車屋は病気であっても死ぬ三日前まで仕事していた。その自転車屋街に一軒しからなくなっていたから貴重だったのである。その人は確かに仕事をして金をもらうためにもしていた。
でもその身に付いた仕事で他者に尽くすということでその人の価値があったとな。すべてを現代では金として計算するが金にならないものは価値がないとしている。でもが死んだときその人の価値をその人が稼いだ残した金で計るとなるのか。そうはならないだろう。それよりその仕事を通じて町の人に尽くしたということで価値があった

また近くの大工さんは色々なことができた。本職は大工にしろ壁塗りもできるし庭仕事も一人前にできるのである。そんなにいろいろなことをできる人は稀だろうだから私の家に来てそのことをあからさまに俺はこれこれができると訴えてその価値を見て認めてもらいたいということも理解できるのである。この人はこうして大工以外であれいろいろなことができて街のために尽くした人だとなして価値があるとなる。それは医者でもすの町につくして働いた人がいれば価値があるとなる。


最近知人の男性は死んだ。その男性と親しくしていた女性がいたが何か揉め事があり直接会う事はなかった。
でも死ぬ時まで携帯でその女性に連絡していたのである。でも直接会うことはなかったのである。そして死んでしまったのである。それで生きているときはその人の悪口を言っていたが死んでからはその人は車に乗せていろいろな場所に連れて行ってもらったことをいい思い出していい思い出として語っているのである。

つまり死んでからその車に載せていってもらったことが良い思い出として起こされたである。だから何を何を与えたということが第一である。その男性は死んだ男性はその女性に対して車に乗せていろいろな場所に連れて行ってやったということである
だからこそ死んでからそのことを語るようになったのである。死んでからはやはり直接会うこともなく揉めていたが変わってしまったということである

●弔う(とむらう)の意味

つまり何が与えたかということで価値がある、この人は何かその町であれ他社に与えるものはあったのか。それは最後に問われ死んだ後でも問われる。弔うという言葉は死後に問うということでありその人の価値を問うことになる。
ただ人様々でありカルト教団であれ党派であれ団体組織に一生尽くして終わる人いる。するとその人の価値はその組織団他の価値であり個々人の価値ではなくある。日本の戦争で300百万も死んだというとき日本国家に尽くしたものとして価値がある。でも個々人の価値は別であり普通は人が死ぬとき個々人として見る

一人一人の死として弔うことになる。だから一人一人に手を合わせて見送るとなる。だから家族墓というのは明治以降できたものであり江戸時代は個人墓しかない、その個人墓にしても侍の殿様の墓くらいしか残らなかったのである。あとの庶民はホトケッポとかの村の共同墓地に名もなく葬られるだけだった。
ただ幕末で農民でも経済力がつき個人墓を作ていた、そこには姓と名前が記されていた。それは苗字帯刀を許された人なのかわからないが・・・家という墓はないのである。
そもそも人が死ぬときその個々人を弔うのが普通なのである。

家族でもまた一人一人は違っている。私の家族は本当にその生い立ちから人生からまるで違ったものだった。兄弟姉妹でもそのご大人になってからの人生も全く違ったものとなり価値も違ったものになる。だからもしかしたら家族墓というのは人間にとって不自然なものかもしれない、ここでも後継者がいなくなり墓も守れなくなる。
家族内での価値があり社会的価値とはまた違っている。家族内の価値というとき女性の場合が特にその傾向が強くなる
家族をまもるためにあるからだとなる。

●人が死ぬとき個々人を弔う

ともかく個々人の価値というときそれぞれが他者であれ社会であれ何を提供したのか与えたのかで価値が問われる。社会での功績があったのかとなる。ただそうなると一部の歴史的人物の価値となり庶民の価値は見ないとなってしまう。なぜ歴史的人物となったのか問えばその人が社会に貢献した提供したもの与えたもの大きなものだったから歴史的人物となっているのである。

でも庶民でも与えるものがあり何を提供したのかでその人の価値が問われる。何を与えたか提供したかとなる人間社会に様々な分野があり多様だから一概には言えないのである。
ただ何か与えるものがなかった、提供するものがなかったとするとその人の価値はない、死んでもやはりさらにその人価値を弔うことになるから何も与えることができなかった人は価値がないとなる。ただその価値が多様だから一概には言えないのである

虎は死して皮を留め人は死して名を残す

でも歴史上名を残すことは至難でありまれなのである。それは例外的にもなる。そうでなくても価値ある人いる。
だから何を提供して何を与えることができるのかそれを考えて生きるべきだとなるが現実はむしろ何を得るか何がもらえるかとして生きているのが普通である。だからこそ常に金で価値は計算されこの人からいくらの金をもらえるのかとしか考えないのである。現実社会は金=価値だとなる。でも最期に死後でもその人の
価値=?何になるのかそれは金ではなくなっているのである。

だから死んでみると人は金から判断しない、この人はこういう人だったとかその人なりの
性質とか日ごろの行いなどからみる。それで近くの人は平凡な人だったが本当に馬鹿正直な女性でであり私の家族が認知症になったとき親切にしてくれたのである。私の家では別に親切にしたわけでもなかったのにである。だからそんな人はいないとなり私は死んでから弔うとなったのである。
その女性は特別な人でも何でもない、馬鹿正直な人だった。そんな人現代にはありえない。今や付き合いも金であり金しか見ていないからである。だからそんな人は絶滅危惧種になっていたのである
だからこそ価値あるものとなったと後でそのこと弔いその人の価値を認めたとなる。







2024年06月21日

老人は消費するエネルギーも減退する 【少子高齢化は社会全般で活力を失う】


老人は消費するエネルギーも減退する

【少子高齢化は社会全般で活力を失う】

若い頃に比べて消費する量は減り、住宅取得やマイカーの買い替えといった「大きな買い物」の必要性も乏しくなる。80代にもなれば生活圏は狭くなり、外出率自体が低くなる。〉(『未来の年表 業界大変化』より)

2050年には消費者の4割が高齢者に…お金を全然使わなくなる高齢国家の「深刻な未来」

●IT機器などになじめない高齢者

老人の消費をする力は衰えてくる。何か私にとってもここ十数年は旅もしていない。ほとんど家に居るか近くにしか行っていないのである。それは介護などもあって外に出ることもできなくなったことが原因している。でもその一人になってまた出かけることができるとしても何か出かけたくないというふうになった。何か億劫になってしまったのである。まだ50代の時はバックパッカーで海外旅行していたからエネルギーがあったのである

何か消費するというときこの言葉自体がマイナスのイメージになっている消して費やすとなれば彼の無駄遣いなのかどうなるでも消費するということはエネルギーがあってできることである。確かに無駄遣いというのはある。それより例えばパソコンを買ってそれを使うというときむしろ買うのは簡単だがそれを使いこなすことは容易なものではない。それはスマホにも言えることであり老人はそうしたIT機器に馴染めないのである。

つまり消費できないということである。でも私の母親は90歳で携帯を使うことが出来たのである。だから携帯はそれほど難しいものではないがスマホとなるとその難易度が相当に上がってくるから老人は使いにくいとなる。それをほかのものにも言える。例えば金があって消費できるとしてもそれを使いこなすことが相当な労力が必要なのである。若いうちは常に新しいものに取り入れる

だから消費意欲が高いのである。その消費というのは様々なものがあり体験というのも消費である。たとえば旅することは消費ではあるがそれが無駄な物の消費ではないのである。外国を体験するとことは現代にとってはもはや不可欠であり外国に行かないなどという人はもはや何も語れなくもなっている。これでも昨今の円安で外国に行けないということは相当な損失である。

なぜならフリーターとか若い人で貧乏人でも外国旅行ヨーロッパ旅行していたからである。 ある人はフリーターであり自由時間が多いから世界中を旅行していたのである別にその人は金持ちでも何でもなかったのである。ただ時間はあるから旅行で来ていたのである。その時外国を旅行することは円高であり意外と外国はユースホステルが多くて安く旅できるところだったのである

●老人は食も細くなり消費できなくなる

消費するということはそうした旅でも体験でも決して無駄なことではないのである。消費というのにはマイナスイメージがあるが実際は消費するということは相当なエネルギーが必要であるだからこそ若い人は消費することに旺盛なのである。
たとえば老人になれば外国旅行できるかとなるとできない山登りしようかと思うと体力がなくなってできない
それは金がないからできないということではない体力は気力がなくなってそうした消費もできなくなるということである。私自身のすでにそうなってしまったからである。ほとんど家にいて遠くに行くにしても周辺であり旅もしなくなったからである。

つまり消費するというのにも相当なエネルギーが必要であり老人は消費もできないということである何か私自身の場合最近食が細ってきて肉など食いたくなくなったりしている。つまりそんな日々の日常的なことでも消費できなくなっているのである。だから老人は金を使いといってもなかなか消費できないのである。
糖尿病になる人が多いがその人は鯛焼きが食いたいと言って最近死んでしまった。よほどその人は鯛焼きが食べたかったのであるでも自力で鯛焼きすら買いに行けなかった。
人に頼んで買ってくれと言っていたのその人もまた脳卒中とかになりその頼みも聞けなくなったのである。

つまり食にしても消費できないということが起きてくるのである。そして何か目立つのは杖をつき歩く人が多いなとつくづく思う。たとえばスーパーまで来たとしても車から降りると杖をついているのである。家から出る人を見たらまた杖をついている。となると杖の需要は増えて買う人は多くなってると思う

●電動自転車は老人向けに開発された

それだけ老人が増えているということである。その人も病気になってから歩けなくなり車で移動する他なくなって息子が車で病院まで送っているのである。まだ73歳くらいでそうなってしまったのである。だから高齢化社会ではそもそも消費が減るという時消費するにも相当なエネルギーが必要でありそれが老人にはなくなっているのである。確かに杖の需要は増えてもスマホかで消費するということは難しくなる。

でも老人向けの消費というのはある私が買った電動自転車は高いものであったがそれはヨーロッパで実際は老人向けに作ったものだという。それは若者向きだと思っていたのである。マウンテンバイクになっているから若者向きだと思ったがもともと老人のために楽に走れるものとして作ったのである。

だから意外と乗ってみて楽に走れるので助かっているのである。それで老人が何も消費しないということではない。最近周りで自転車に乗っている老人を見かける。それは車も運転できるのだが足を悪くしたとか病気になったとかで車を運転しなくなったのである。となると自転車は健康のために多いから乗っている。となると老人のための自転車というのは意外と売れているかもしれないとなる。

ただどうしても全般的には消費する力は衰えていくとなると全般的に経済的にも社会全体に活力がなくなってしまう。つまり少子高齢化社会とはそういうものである。団塊の世代のように子供が多い時代は若者が多い時代はたとえ貧乏でも社会に活気があり未来があったとなる。その段階の世代がみんな高齢化したとき老人になったときもはや消費もそれほどできないのでだから少子高齢化というのはどうしても社会全体の活力を失うということである

2024年04月01日

親が子供に虐待される時代 【家族遺棄社会ー増える老人は邪魔なだけ】


親が子供に虐待される時代

【家族遺棄社会ー増える老人は邪魔なだけ】

●息子に虐待され泣いている母親

その母親は73歳くらいで脳梗塞になり糖尿病にもなり足の骨が折れたとか体が身体障害者のようにもなったのに一人の息子はそのことを考慮せずいじめてもいる。手も悪いのに台所の仕事でも手伝わないと泣いているのである。そして何かと母親に対して言葉で攻撃してくる。母親に対していたわりの心がないのである。それで泣いて私に訴えてくる。ただなぜその息子がいたわりの心がないのかというとそれはなかなかわかりにくい。

わかっていることは長男である人が兄にあたる人は発達障害とかになりそのために母親のエネルギーが費やされた結果弟はないがしろにされたからかもしれない。だからその人は兄である発達障害の人に対しても冷たいのである。
ただこれが特殊な問題ならいいが今の社会は家族遺棄社会という本が出たように親は子供に虐待される時代でもある。それは高齢化社会で中国でもそうなっている。すでに親孝行とかいうのは死語にもなっている。
中国人の親は子供にまだ生きているのかとか農村に帰って言われて自殺した。それは韓国とか儒教の国でももはや親孝行というのはなくなっている。子供にそういう余裕もないということもある。ただそれぞれの家族には内部に入りにくい事情がありなかなか理解できないから簡単には言えない
ただ子どもというのはただ飯を食わせてそだてただけでわ感謝などはしないということは確かである。何か特別なことをしないと子供は親には感謝しないかもしれない。それは自分自身のことで経験でわかる。私はなぜ親に特別感謝しているのか介護になったときも必死になって一人でやったのかというのも特別な事情があり親に特別に良くされたということで強制されるまでもなく自ずとそうなったのである。

●特殊な事情で親に感謝している自分

なぜなら私の父親は中学の時死んでその後姉と母が家を支えて私もそれで支えられ。母だけだったら結局何もできず自分なりに生きることもできなかった。でも姉がいたのでその姉は自分に対して何か要求することもなく仕事にもつかなくても私は自由にしたいことをして家に一緒に生活していたのである。

だからこういうことはほかではありえない。そういう特殊な事情で私は介護の時も2人に対して必死になってしていたのである。ただ一人だから助ける人がいないし自分も病気になって病院に2回入院したとかもう最悪でありその苦しみは並大抵なものではなかった。でも2人には特別良くされたから仕方ないと思ってやっていたのである
つまり私には親を介護するには特別な理由があった。例えばそれは何か不幸で他人の親に引き取られて良くされたということなどあれば実の子よりもその子供は親に尽くすのである。

だからすべては血の繋がりとかで人間は決められないのである。実の親子でももうすでに他人にすぎないともなる。そういう家族もそれなりに多いのである。だから子供があるからとしてもそれが今は親に尽くすということにはならない。だからその息子にしても何が別に特別に良くしたわけではないしただ食い扶持をあてがわれただけのことでしかなかったかもしれない。

だから親に感謝してると言うこともないとなる。もちろんその事情は分かりにくい。でも親子だからといって子供がもはや尽くすということはありえない。だからこそ家遺棄社会になっているのともなる。また子供の方にすればそうした金銭的余裕とかほかの余裕もなくなっているからそうなる。
どうしても介護とかなると気持ちが出てくる。いくら強制されてもそうした気持ちを偽ることはできないからである必ず本心が出てくるからそれが怖いのである。それは病院でもそうだし介護施設でもそうであるだからこそそういう場所はどうしても愛が必要でありでもそれは持てないから虐待にもなる。

だからそういう場所は確かに体を見てるは心は見ないとなるのである。ある意味で怖い場所にもなっている。人間の心がどうしても左右する作用する場所だからである。ただ人間をロボットのように機械のように何か故障したからといって取り替えるとか修繕するというわけにもいかないのは人間だからである。そこにはどうしても愛の作用は必要なのである。でもそれにしても親子ですら虐待があり冷たくなるから問題なのである

●増えるのは老人と病人

今や増えるのは老人と病人だけであるだからこそ家族遺棄社会にもなる。家族ですら虐待があるそれはそれは家族でもそうだとなると病院であれ施設でありもうもっとひどい状態になる。だから長生きすることは地獄にもなる。
ただ病気にならないとか自分一人で生活できるならそれほど困ることはない。もう自分で自分のことができなくなる時地獄になってしまうのである。家族も頼りにならず虐待されて泣いて苦しんでいるほかない。だから死にたいとなっている人がまた老人には相当数多くなる。中国でも老人が多くなりまだ生きているのかと言われて息子に言われて自殺したりした人はけっこう増えてるからである
中国ではまた福祉に対してまだ整っていないし金を出していないからそうなりやすいのである。

だから老後は確かに金も必要だが健康が一番大事なのであるでもどうしても70以降とかなってくると体がどこか悪くなってくる。それは避けられないのである。でも別に90なろうが自分で自分のことが出来ていれば頼り必要もなく問題もされそれほど起こらないのである。
だから理想的死に方というのは仕事をしながらそのまま死ぬということである。それは近くの自転車屋は3日前まで普通に仕事していたのである。そしていつまで仕事ができるのかなと言ったら死んだのである。そんな死に方できるのかというのが不思議である。

私の父親も癌で死んだわ七転八倒して苦しみぬいて死んだのである。その自転車屋は3日前まで仕事をしていつまで仕事できるかなと言ったら死んでいたのである。だから死に方もいろいろありそういう死に方は理想だとなでもそういう死に方は今は稀なのかもしれないその前に苦しみがありそれは地獄になってしまうのである

●子供を恨んで死んだ母親

親戚だった人の娘も確かに育ての親だったが最後に【ひどい娘だわ】と恨みの言葉を残して死んだ。なぜあまり関係ない自分にそんなこといったのかそれはよほどそのことひどい娘のこと言いたかったからである。実際その娘は私の家に来て【おばちゃんは金があるだから金でめんどうみてもらい】と言って縁が切れた。それくらいの関係でしかなかったとなるが実際は育ての親にも非情だったのである。ただその親は介護されることなくあっけなく死んだから良かったのである。
その育ての親は別に干渉しすぎたことはあってもひどいことをしたわけでもなかったと思う

私の大正生まれの母は同じ家で生まれ育ちその人は継母であり虐待されたからである。子供の時弁当を作って作ってやったが作ってもらったが残したことどこしたら俺の作った弁当は食えねーのか実の親でないからくいねぇのかとその弁当を投げてぶんまけたという。その継母気の強い継母であり母親はそんな扱いを受けていたのである。
それに比べれば干渉しすぎたとしてもそんなに冷たくするものなのかと思う。ただ正直私はその後関係してないから事情はよくわからない。とにかく母親の実家は何かと問題のある家でありその結果として不破分裂の家でありその後も尾を引いては分裂になり一緒に墓参りもしなくなったのである。だから人間はカルマを積んでいてそれがその後でも息子でも娘でも影響してくるのである

●親に虐待され縁を切りたい

日本は、家族が形骸化しているのに法的には血縁関係が重視されるので、親を捨てる行為に対する後ろめたさも根強く、その狭間で苦しむ人が多いように感じます。だから「親を“捨てる”を理解できますか?」の問いに、理解できると答えた人が多いのだと思う。

「親と縁を切る」確率が低いのも、捨て方がわからないというのもあると思うんです。そもそも日本に絶縁制度はない。僕は戸籍を抜き、親からもらった名前も変えるという強硬手段に出ましたが、江戸時代のように人別帳から名前を抜く法的離別のためには「勘当制度」を作ったほうが、健全な社会になると思うんですよ。

これは別に継母でもない実の母親なのである親なのである。それでもこういう状態になっている。つまり親から虐待されていたとなる。そういう人は当然今度はその子供は親を虐待するともなるのはカルマである。
ただ私が見たのはそう必ずしもそういう人ではない親ではない。ただ子供にしろ普通にただ飯を食わせてるだけではもはや親に感謝したりはしない。確かに家族自体が壊れているのかもしれない。基本になる家族がこういう状態では社会そのものも壊れてゆくのかとなる。

2024年03月26日

墓とは何なのか? 維持できない墓 【家族墓は明治以降のもので新しい―墓の歴史】

墓とは何なのか? 維持できない墓

【家族墓は明治以降のもので新しい―墓の歴史】


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●家族墓は何々家の墓h明治以降にできたもの

墓とは何なのか?なぜ人間は墓を作ったのかそれは死者を悼むためだろう。死者を何か記念として残すために墓を作って。でも家族とか個々人で墓を作るということは歴史的にそんなになかった。何か共同体の首長のような人が死んだとき大きな墓を埋めた。古墳というのも墓でありそこに埋められた人はその土地を支配していた有力者である。
でも一般の人は墓など作らない作る資力もないから墓は作れなかった。江戸時代でも墓を作っていたのは特別な人である。
一般の人は埋め墓に葬られて墓参りなどはしなかったという。でも参り墓というのがありそこにはお参りしていた。

でもその参りはした墓はやはり特別な人であり何かその村の中でも功績があった人として参り墓が作られていた。それは今の家族墓とも違う。その村の中でみんながその人を功績があるとしてその人によって助けられたということがあり参り墓として残された。だから家族がなくても村の人はその人をはどういう人か知っていて伝えられたからお参りしていたのである

普通の人はこの辺では仏方(ホトケケッポ)として村の埋葬地がありそこに遺体は葬られた。そこには個々人の墓を家族の墓もないのである。そもそも不思議なのは家族の墓というのは何何家の墓というのは明治以降にできたものであり江戸時代にはなかった。ただ幕末でも墓を作ったのである。それは家族の墓ではなく個人の墓なのである。だから一個人の名前が記されているだけであり何何家の墓というのは無い。つまり家族の墓というのはそもそも日本にはなかったのである。

家族の墓が作られるようになったのは政府からの強制でもあり家族によって連帯して協力して生活させるようにさせた。
だから家族中心の社会というのはそもそもなかったのである。むしろ家族というときその範囲が広いのである。。それは外国でも同じでありファミリーというときその範囲が広いのである。スペインにあるサクラダファミリーというときそれは教会を中心として大きなファミリーだったとなる。
日本だったら村自体が一つのファミリーだったともなる。村の規模にしても500人くらいだとすると互いに顔見知りであり一つの濃密なコミュニティだったからそれは家族の延長でありファミリーだったと思う。だからこそ仏方【ホトケッポ】に死んだら葬られる。共同墓地のようなところに一緒に葬られたということである。

●核家族とかなり大家族が喪失して墓も維持できなくなった

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そもそもなぜ墓が維持できなくなったのかというと家族にしても核家族になったりその家族の規模が少人数になりすぎたのである。明治以降でも家族というときまだ大家族であり使用人までも家族にもなり墓を見るとその使用人であった墓標ようなものがある。
それはおそらく一つの家族のようになっていたのかもしれない。だから家族といっても今のように核家族とか狭い範囲のものではない。そもそも国家というとき家の延長したもの拡大したものとも見ていた。野馬追に御家というが出るときそれは相馬氏一族のような集団を指していた。外国でもハウスブルク家となるとハウスを家でプルクは城である。
だからそれも家族は拡大したものは巨大な国家に発展したともなる。そもそも人間が基本的に団結するのは家族だからそうなったともなる。
ともかく墓でも維持できなくなってきたのは明治以降でも大家族がありそこで長男が尊ばれて家業をついていたことが墓でも代々受け継ぐということができた。
そして農業中心のときはその土地に根付いて暮らすから代々続いたということもあった。でも農業社会から工業社会になるとその土地に一生住んでいるということでもなくなった。それでも都会に出ても東京とかにでても帰る場所として実家がありそこで面倒を見ることはあった。そのために長男は家業を継ぎ家を墓でも代々守ってきたということはある。それは時代の変化でできなくなったのである。

●古墳も墓でも共同体の首長が葬られた

そもそも明治以降家族墓ができたそれは新しいものであり江戸時代にはなかった。明治以降になって家族墓になったその前は夫婦墓とかあった。つまり家族墓というのは新しいものでありそれが今になって維持できないというのは社会と時代の変化でそうなったのである。
とにかく墓を作るということはもともと人間にあったとしてもそれは特殊なことだったのである。特別な人しか墓はなかった。

ただ古墳が墓だとするとき前方後円墳などは大きいからその土地の有力者首長などは埋葬されていた。この辺では原町の桜井古墳は大きい。その中に二人の人が葬られていてこの辺を支配する首長だったとされる。なぜ二人なのかとなるとやはり首長が二人いるというか二つの勢力がここで合体したのかもしれない。
あの古墳ともなればやはり共同して作られたものであり共同体があってその象徴として古墳が作られた。ただ前方後円墳は大きいものだが円墳という小さなものも後に数多くつくられた。
前方後円墳となると何か広い地域の共同体があって作られたと見るが円墳となると規模が小さいから小共同体の物に見える。

おそらく大きな共同体が分配して分立して小さな古墳になったのかもしれない。それは江戸時代の村から共同体から明治以降になって家族墓ができたのとも似ている。家族は墓は村大きな共同体ではなく限られた人たちの小さな共同体だからである。それでも大家族であり今の核家族とは違っていたのである。核家族となればもはや大きな家族ではない共同体でもないから墓を維持することはできなくなった。
だから墓といっても社会の変化で時代の変化で維持できなくなるということがある。

そもそも墓というのは何なのか?今なら家族墓があるというとき死んだ家族を供養するものとして墓が一家の墓がある。でもそもそももともとは一家の墓など江戸時代にはなかったのである。幕末に裕福になって農民でも個人墓を作った。でもそれは家族の墓でわなかったのである。だから何何のは家の墓というのはなかったのである。江戸時代にあったのも個人墓であり特別な人の墓であり一般の人の墓などなかったのである。だから墓というものは常にいつもあったように思っているわが墓がないのがふつうだったのである。

おそらくあったとしても人が死んだら一時的に埋めてそこに墓標のようなものを建てたかもしれない。でも墓はなかったのである。ただ飯館村あたり墓標もない土を盛った墓がある。おそらくそんなふうにして死んだら人を埋めて墓も作っていなかったのである。そもそも江戸時代には名字を持っている人もいなかった。苗字帯刀を許されたのは名主とか有力者であり名字を持っているのは侍だけだったのである。ということは何々家の墓というのはなかったのである。

●墓は必要ないものなのか?

ただ墓はもう必要ないというとき本当にそうなっていいのだろうか?確かに江戸時代までは庶民などは作れなかった。村の共同墓地の仏方【ホトケッポ】とかいうところに葬られただけである。そして村人みんなで供養したということになる。そのときは葬儀会社など無いからみんなで死んだ人はそこに葬り終わりだったということになる。だから死んだらどうするとか墓を維持するとかということも必要なかったのではある

ただ墓があるというときはそれは特別な功績のあった人であり普通の人はない。でも墓というのは何かというときやはりそれにも意味がある。墓は無意味だという事にはならない。なぜなら人は死んだらすぐに忘れられやすいのである。だから墓があれば死んだ人がまだそこに居ると思う。
そして家というのはいずれはなくなるの家がなくなっても依然として墓は残るということがある。墓はその人が存在した最後の証である。そして墓の効用というときドラマでよく墓参りしている人を見る。何かその人に対して謝ることがあり手を合わせて許してくださいとか祈っていたりする。

そしてまた墓があればその人を思っていれば墓参りして花をあげたりする。そこで死者とのつながりが依然としてあり何かそこで死者とのつながりがあってそのために墓も必要だとなる。誰か知らないの私の家の墓に春の彼岸に花をさしていた人がいた。
ということは誰かわからないが私の死んだ家族のことを思ってそうしているのかもしれないとなる。それは違っていても依然としてその人が存在しその人を思っていれば墓参りして花をあげたりするのである。するとその人は死んだ人をまだ思ってくれるからありがたいともなるのである。

なぜならとにかく生きているときは利益あれば人は近寄り何かを得たいとして寄ってくる。でも死んだ人は何ももはや与えてくれない。墓参りして花を上げてもそれを死んだ人は感謝もしないし返事もない。
でもだからこそ何ももはや与えてくれないからこそそれでも墓参りしてくれる人は本当にその人を思っていたということが分かるのである。でもそういう人はまれである。大概は金の切れ目が縁の切れ目となって死んだ人でももはや関心もなくなりそんな人もいなかったとまでなる。

●交通事故で死んだ兄の墓標

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私の父親違いの兄は41才で交通事故で死んだ。その骨は実家の墓に母の実家の墓に埋められていた。それで静岡県の方でトラック運転手に雇われた会社で墓を作ってやるからと骨を置いて行けと言われたのである。それが何のことか分からなかった。
盛んに世話してやったとかは言っていた。乞食のようにしてきたので雇ってやったとか言っていた。でも別にトラック運転できたできて働くことができたのだから雇っただけであり病気だから世話したということでもなかった。
でも交通事故で死んだ時その保険をもらいたいとなり墓を作ってやるとか骨を置いて行けとか言ったのかもしれない。私自身は車はもっていないのでその保険金のことなどが分からずに事情が飲めこめ飲み込めなかったのである。だから車社会であるとき車を持ってないということはその社会自体も分からなくなってしまうのである。

でももし近くに住んでいたら事情でもわかるからあんなことにはならなかったと思う。遠くに行ってしまえば音信不通ではないにしろ事情は分からなくなるのである。だから遠くに行ってしまったものはいくら親戚でも責任を持てなくなる。それは別に肉親であれ兄弟であり家族でも遠くに行って何をしているかわからなくなる。何かあったとき助けることもできなくなるのである。だからこそ遠くの親戚より近くの他人となってしまうのである。

でも私は五歳まで兄と一緒に暮らしたのであんにゃと呼んでいたので一応兄の意識はあった。その後は別々に暮らしていたから疎遠にはなった。ただ不思議なのは実家で一緒に五年も暮らしていた人が兄のことをいなかったと言っているのも不思議である。
子供の時五年間一緒にいれば忘れるということはありえない。でもその人は異常な非情な人になっていたのでそうなった。ついには人は一緒に暮してもそんな人がいなかったとまでなってしまうのである。

●兄の墓標―兄を知る人は私しかいなくなった

そして私は私の家の墓の隣に兄の墓というのではなく墓標を小さな墓標を作った。そこで供養している。そしてその兄の墓でも実の娘がいたとしてもその娘はもはや父親とも思っていない。
というのはその娘のは父親と母親は離婚してその後ひどい目にあったから父親とも思わなくなったのである。それで金にも苦労しているから十万やるから墓参りしてくれと言ったがそれっきり音沙汰もなく終わった。
そしてその兄のことを知っている人はもはやいなくなっている。ここで遊んでいた子供の時の仲間みんな死んだのである。そこに墓標があってもその人は知る人もいなくなったのである。ただ自分だけが知っていて墓参りしている

私自由は私自身は兄に苦労させて私自身よくされたので私は家族に恵まれたということもありそのことで負い目があって墓を作り供養している。
とともかく兄のことを思っている人はもはや一人もいない。私自身だけだというのも何なのだろうとなる。このように人の関係も無常なのである。人はたちまち死んだら忘れられる。
そして実家の墓に兄の骨を収めたがそれが土になっていてその骨も取り出すこともできなかった。骨は土になっていたからである。だから別にその兄の墓標の下に骨はないのである。だから人間は死んだら骨にな灰になり消える。

でも火葬場で骨だけを残すからその始末に困るとなる。それで骨もすべて焼いてしまいその方は後始末が楽だとなる。別に骨がなくなっても墓を作ることはできる。その人は存在した証として墓があるからである。そこに骨がなくても別にいいのである
つまり墓は何かというときその人が存在したという証でありそこに骨がなくてもいいのである。それより人間とは死んだら一体その人は何をもって偲ぶのかとなる。骨が残ってたとしてもそれで偲ぶことはできない。人間はその人はどう生きたかが問われているのでありその人は骨がそうした人生を語るものではない。

だからこそ弔う(とむらう)ということはその人を問うことでありその人の人生がなんであったのかその人は何を残したのか問うことなのである。それは骨ではなくその人の人生はどういうものであったのかを偲ぶことなのである。そうして偲ばれる人はやはり何か価値があり何かを残した人だとなる

だから参り墓があったのその土地の功績者であり普通の人は埋め墓に何もなく埋もれただけなのである。

その人のありしと示す墓なれや参る人なく捨てられ悲し

墓すら維持できず捨てられてついにはにはその人のこの世に存在したのかもわからなくなる。無常の世なのである。

2024年03月05日

人間は死んですべて終わりなのか? (死後も継続されるものー人間の生は仕事と一体化している)

人間は死んですべて終わりなのか?

(死後も継続されるものー人間の生は仕事と一体化している)

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死者の座

母は厳かにおわしぬ
我が家のその場に
在りし日長くもおわしぬ
今死して霊となり
やはり今しもそこにあり
死者はただ深く黙して
もはや語ることなし
石のように黙すのみ
死者には触れることならじも
何か石のように堅きものとなり
死者はその場にあり続ける
もの言わずとあり続けるかな


死者の謎はあると思えばあるしないと思えば無いのである。だから死者というのは死者から何か語りかけてきたりいくらお供え物をしても語りかけても何の返事もないのである。だから何かお供え物をしても語りかけても返答もないからむなしいとなる。でもまた全く死者がなくなったのかといえばそうでもない。残された生者がその死者があると思えばまだあるのである。ただどんなことしてももはや死者とは会うことはできない。だから死ねばその関係は断絶するしこの世のことも死者には関係なく断絶してしまう。

でも本当に人間の生というのは死んだ時点でこれまで生きたこともすべて無となり断絶してしまうのだろうか?
死者を思うときそうは思わない、一緒に暮らしとことを思い出して回想しているから思い出の中に生き続ける。では死んだ時点でこれまで生きたことも無になってしまうのか?
でも死後裁かれるというとき死後でもこれまで生きたことが継続して神に裁かれるとなる。もし無になるとしたらその一生がなんであれ消えるとなるからである。そうなると何をしようが勝手であり悪いことしようが何しようが自由に勝手に生きればいいとなる。どうせ死んだらみんな無となるとしたら関係ないとなるからだ。そいうなるとまた恐ろしいともなる。

だからこそ現世を生きることでも死んですべてが終わらずに継続するとするのである。家族でも死んだらそれはこれまで一緒に生きて来た継続として死者も見ている。死者を思うときやはりその死者でも一緒に生きたたということで共に生きたことでそれは依然として継続している。だから生前何も関係ない人は死んでも何の関心もないとなる。
つまり死者でもそれは生前と関係して死者を思っているのである。だからいくら死んで骨となり灰となってもその人は依然として残された人に存在し続けるのである。そして死者を思うときやはりその人は生きた人生を振り返るのである。だから死者でも家族にとっては生き続けているのである。
ただ正直死者というのはいろいろ思ってみても不可解になるのである。

何したいですか?と聞くと田んぼの土を踏んでみたいと言ったおじいさんのことを思い出す。たいていの病気は他の土を踏むと治ったのだそうだ。それでおじいさんを車に乗せて田舎の家まで送ったおじいさんは本当に田へ降りて土を踏んだ。胆管癌でチューブから胆汁が土に落ちて行った。そのの土の効果も亡くなった。(種の文化を豊かにー徳永進)

この話も生きるということはその人にとっては農民であり一生田畑で働いていたからその働くことを継続して死んでいきたいとなったのである。それで何か土を踏んで仕事をしていれば病気も直ると思ったのである。これは何か示唆に富んでいる。
人間の一生は大概は仕事があり毎日その仕事をしていたのだからそれが生きることでもあったからだ。だから仕事をしていれば病気も治るとまで思ったのである。それほど人間にとって仕事というのはその人の人生そのものになっていたのである。

何かそういうことは職人でもあり大工さんで庭師の人も70くらいになって何か暇になりそれで日頃から体を動かす仕事だから仕事したいとなったのである。それは金が欲しいということもあるが何か仕事をして生きる充実感を味わいたいということであるとにもなっていた。だから人間というのは仕事と一体化してありそれが生きがいとなっている。だから病気になっても仕事をすれば治ると考えたのもわかる。

近くの自転車屋にしても最近死んだが3日前まで仕事していたのである。それで私に仕事が続けられるかなとか言っていた。そしてその3日後に死んでいたのである。とても死ぬとは思えなかった。なぜなら3日前まで仕事をしていたからである。病気は癌であったが癌でもいろいろありこういう死に方もあるのだと思った。近くの90才の医者でも病気になり仕事をしていてその人も1週間くらいで死んだのである。こういう死に方はいい死に方である。なぜなら寝たきりになり介護されることもなく仕事しながら往生したとも見るからである

また認知症になった農家の女性がベッドの上でで田植えしていたというのも人間はやはりこうしてその仕事をしている期間が長いから習慣化してそうなったのである。いくら認知症になったとしてもこれまで長くしてきたことを忘れるわけではない。それは経験として体にその記憶は刻まれている。だからいかに人間というのは習慣が大きな力を持っているかわかる。だから勉強でもたいして才能なくても習慣的に勉強していればやはり効果はある。

本当に習慣の力というのも大きいと思う。その習慣がもう体に染み込んで無意識的に作用するともなる。だから本当は人間は仕事しながら死ぬというのは一番いい死に方かもしれない。農民だったら田畑で死んでいれば往生したのかとなる。そして来世でその仕事を継続しているのかとなる。

死のスイッチを押すには和解が出来上がっていないと難しい。親しくした家族や友人たちとの和解心の温かみがその人たちの間に流れあっていること自然や宇宙との和解そこに共にあること荒らされたもらったことの感謝。
自分に死が近くなったとことを感じる時人は和解を考える。包み込まれる許される謝り感謝しそうして異物であったものをなんとか溶かそうとし違和感を覚えたいったことも心の中で解けるように努力するそうして自分は他人と溶け合い自然と溶け合い自分が時間と自分自身をとけあう
(死の文化を豊かにー徳永進)

家族にいろいろあっても家族自体が融和していないということは結構ある。私自身の家族もそうであった。絶えず争う家族でもあった。そして姉は認知症になり私は懸命に介護したがそのことをわかってくれて死んだのである。だから認知症でもわかることがあり粗末に扱うことは問題なのである。でも認知症になるにしてもやはりその人の生前との関係が相当に影響してくる。認知症の人が感情を抑えられないからその人にとっていい人はでないと介護できないのである。ただ私の家族は死んでから融和したとはなる。
そして【ひどい娘だわ】と母親がその娘を最後に私に言い残して死んだ。本当にそのい娘はひどい信じられない娘になっていた。私の家に来てもおばちゃんは金でめんどうみてもらえと言って去って行った。ただ私の場合つきあいもないししょうがない面もあった。でも育ての親は相当な恨みもって死んでいったのである。そうなると化けて出てくるとか怖さを感じたのである。

ただ人間は最後になれば死ぬときは争いたくない争ったことを後悔していることは確かである。それは家族内でもあり最後は死ぬときは互いにそれも許して来世に送るのがいいのである。ただ正直人間のカルマというのは消滅しない。死ぬときになってそのことを悟って後悔しても遅かったともなるのである。
そして人間の過ちはカルマは延々と続くのである。それで私の母の実家の家族は不和分裂の家族でありそのために親戚でもバラバラになりまとまって墓参りもしなくなって縁は切れたのである
また死ぬ前に和解しろというときそれをそれはなぜかといえば親子であれ家族であれ争って死んでゆくことは後々まで影響するからである。だから死ぬ前に和解しておくとその人も成仏するし家族にとっても心安らかに供養できるのである

霊界にいる先祖霊は、祖霊舎(仏壇)で供養を受けることを大変喜びます。
なぜなら、先祖霊は祖霊舎(仏壇)で食事を取ることができ、
子孫の顔も見ることができるからです。
だから、先祖に対して供養を怠れば、先祖は肩身が狭い思いをしますし、先祖は飢餓に迫られ、餓鬼道に落ちることもあります。

これは感じるけど問題は先祖供養しないと罰が当たるとかで金をとるカルトかありそれが危険なんである。仏教にもともと先祖供養にこだわらない、奨めてもいないのである。ただ先祖を親を供養するのはいいとしてもそこに誰かが僧侶でもカルト教団であれ牧師でもかかわると宗教は歪められるのである、自分は死者を供養しても寺にもかかわあらないしカルト教団にも関わらない。
なぜ問題なのかとなる宗教の場合でも必ず金がかかわると歪められるからである。金が欲しくて関わってくるから危険なのである。

2024年02月26日

近くの医者で認知症の脳形態画像検査(CT、MRI)で脳が委縮していた? 【脳画像検査で認知症はわからない―何のためにするのか?】


近くの医者で認知症の脳形態画像検査(CT、MRI)で脳が委縮していた?

【脳画像検査で認知症はわからない―何のためにするのか?】

脳画像で認知症を診断できると誤解していませんか?

「このMRIで見られる脳萎縮は年齢相応ですね」とつい口から出てしまうことがあります。その時にいつも自問するのは、「年齢相応の脳萎縮とはどのような状態だろうか」ということです。そもそも、脳画像検査において年齢相応の脳萎縮の定義はないのです。また、脳画像検査でこの所見があるから認知症と判断する明確な基準もありません

70才くらいの人が近くの医者で認知症の脳写真を撮ったという。そしたら脳が萎縮していると言われた。その人は全く認知症などの気配もない人である。ただ職人であるが最近熟年離婚して一人で暮らしていることで何か暇になったり生きがいを失ったりして問題だったことを知っている。
ただその人は認知症になる気配もない。認知症はどうしても80歳以上になると危険度が増してくる。 90歳以上になると半分は認知症になるのである。だからその人がなぜ認知症になると自分で判断して近くの医者に来たのかわからない。何か不安になって見てもらったのかもしれない。

脳の写真をMRIとかで取ったとしても実際はその写真を見てもわからないはずである。だからここで脳が萎縮しているといってもそれは認知症とは繋がらない。そもそもそのMRIでも脳の写真を撮るにしても精密に撮れるのは福島県には二台しかないとされる。私の家族でも認知症になった人がいて隣の大きな病院で見てもらったのである。そしてMRIで脳の写真を撮った。私の家族はすでにかなり重症になって認知症だった。

でも何も写真を撮ってもわからない
なぜ写真を撮るのか
医者自体も写真をとってもわからないことを知っている

それはMRIで機械で写真を撮ると金になるからだともみる。私の家族の場合3万払ったとしたら実際は80歳以上になっていたから一割負担で三万だとすると保険料で30万ともなる
だから医者にとっては稼ぐものとなるそもそも近くの一万くらいの街の医院でそんなMRIの写真を撮るような機械があるのだろうかという疑問もある。何故ならその機械は高価なものだからである。そしてそもそもは認知症などわからないのになぜ写真を撮ったのか?それはやはり保険料を稼ぐためにしたのかとなる。

医者というのはその機械にしても設備費に金がかかるから金を稼ぐために実際はわからないことでもあえてMRIの写真を撮る。も脳が萎縮してる写真を見せられてもそれは認知症とは限らないのである。それを認知症については医者すらよくわからないのである。
むしろ私自身は重症の認知症の家族を介護していたから認知症はどういうものかわかったので認知症に関しては直接介護した人が一番知っているのである。介護した人はどういう認知症がういう症状でありどういうものなのか分かっているのである。だから介護できるとなる。

認知症の初期症状はわからない。介護して買い物して同じものを買ってくるのだが必要ないものも買ってくるのだが自分自身が買い物してやはり冷蔵庫に同じものがあっても同じものを買ってきていたのである。
だから正常な人でもそうなるのだからそれが認知症になるとも限らない。だから認知症を最初のうち見分けるのは難しいのである。それはMRIの写真を撮ってもわからないましてや脳の精密な写真を撮れるのは福島県にも二台しかないというからである。この判断はおかしいと思った。

医者というのは必ずしもすべてがわかっているわけではない。でもなぜそうして無駄な写真を撮るのか?それは写真を撮るということは相当に金になるからである。また機械とか設備費にかかるからそのために必要のないMRIを取って使っているともなる
だから確かに医療費は増大する。特に高齢化でこうしていろいろと病気でも心配になりまるで病院医者に通うことがその不安を解消するものとしてまた安心するためだけに行っている。そのための金が膨大になり国が破産するまでにもなるという恐怖である。そのために老人はみんな自殺しろというのもその金がかかりすぎるということである。

それは問題にしろ老人は老人でそんなことを必ずしも心配しない。それで一時軽い脳卒中になった人は女性は体中が痛いとか歩けないとかリハビリとかして医者通いになっている。そもそも脳卒中の兆候があったのにその診断もできなかったのである。だから医者というのも無駄に金をかけすぎる。金がかかりすぎるということがある。

ただこうして医者を信用しないとか医者にかからないことも危険なのである。それは自分自身が経験している。家族もいなくなり体の調子が悪かったのだが医者に行かないで死ぬところだったからである。腎不全になって死ぬところだったのである。それで胃カメラを飲んで調べた結果腎臓は悪く腎不全になり死ぬところだったのである。

そしてすぐに近くの病院に入院したのでそれは私自身が相談する家族もいないのでまた家族がいなくなりいろいろ自分で家のこと全部しなければならないので医者に行くのが遅くなったのである。だから医者のことをいろいろ言っても医者に行かないと言うことは非常に危険なことにもなるのであ。
だからすべて医者が悪いとか金がかかりすぎるとかと言えないのである。

ただ確かに認知症については私自身の介護したので経験から言っているのである。やはりなんでも経験した人から聞くことが大事である。私は認知症については介護したから詳しいのである。 認知症は直接介護してみないと何か分からない。私は直接家族を介護したので認知症についてわかったのである。そのことを延々とプログで書いてきたのである。それを読めば分かる。

それはまたそういうことはインターネット時代で書きやすくなったからである。だから認知症についての情報を共有することができる。私の経験からすればほかの医者も言っているようにMRIの写真を撮ってもそれで認知症はわからない。脳が萎縮したといってもそれもわからないと専門家も言っているからである。

その人には何ら認知症の症状など無い。それなのになぜ医者に行ったのかもわからない。60過ぎて熟年離婚して何か状況は変わり不安になって一緒に行ったのかもしれない。認知症はやはり70代でなる人は少ないと思う。ただその人は何か職人としての仕事から離れて熟年離婚して一人で住むようになって不安になり医者に行ったのかもしれない。その人の衝撃は60以上になって離婚したことなのである。その結果として何か会話もなく不安な状態になったのだと思う。

とにかく夫婦でも一方は死んだりするとまた離婚したりすると精神的に不安状態になるのである。私自身も家族が全部死んでそうだった。でもそれも時間がたつにつれて慣れて来たことは確かである。もともと自分は人づきあいもなく一人でいたからである
ただそのときはまだ家族がいたから良かったのである。

ともかく高齢化社会とは色々な問題がある。金がないとか生き甲斐が無くなったとか孤立化したとか熟年離婚もあり病気になる人もオ多くで社会全体の圧迫されて社会自体が停滞してその負担も大きくなるから問題なのである。
でも老人にしてみれば子供に少子化だからといって子供に予算を使うのを批判しているのである。政府にしても老人が多いのだから票になるのだから老人に冷たくもできないのである

正直医療費にあまりにもお金を使うということは日本が貧困化したとき耐えられなくなり日本全体に大きな影響をもたらすことは確かである。でもその対策となると簡単にはできない。それで老人は自殺しろとかいう若い世代が出てきたのだと思う。それだけ老人が増えてそれで病人も増えてくるから問題なのである。

とにかく医療費が増え介護とかばかり増えてくる。近くの人は糖尿病でありしょっちゅう入院しては退院して一人で暮らしている。それは社会を圧迫して社会自体が維持できなくもさせる。2025年問題でもそうである。現実に73歳の人は脳卒中になり介護状態に介護になった。介護度2なった。そして息子は52歳であるその人も今度は腰が悪いとか建築土木関係の仕事にいけない。すると経済的にももともと苦しいのにさらに苦しくなる。すでに2025年問題は現実化しているのである。その時日本社会はどうなるのか医療費と介護とかで社会でも維持できなくなるともなる。それはすでに現実化しているのである

2023年12月14日

幽霊化する老人-老人の心境の不思議 【死者は威厳があるが生きている老人は邪魔物】

幽霊化する老人-老人の心境の不思議

【死者は威厳があるが生きている老人は邪魔物】

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老人を若い人はなかなか理解できない。また老人自体がどういうものかそれは老人になってみないとわからない。若い人と老人の差は天と地のようにある。老人の特徴は70以上にもなれば常に死を感じることである。それも常に目の前に死あるという感じになる。そして老人はこの世とあの世の中間に居るような存在になる。すでにこの世にいても半分はあの世にいるという感覚にもなる。なぜならこの世とはすでに去っていく場でありもはや生きる場でもなくなっている。

それでつくづくliveはlieve【去る】場所なのである。つまり生きることは去ることなのである。だから最後はさよならだけが人生だと言うのも分かる。人はただあってもそれは一時のことでありただ別れるだけだというふうになってしまう。だからこの世は一的にいる場所でありまもなく去っていなくなるだけである。

それで老人がどういうふうになってしまうのか。老人とは生きながら幽霊のようになってしまうこともある。この幽霊というのは死んだ人が化けて出てくるとか言うが実際は幽霊のようになるのは生きている人間でありそれが老人なのである。
例えば認知症になると何かこの世に生きているのだがこの世を幽霊のようにさまよっているという感覚にもなる。それは確かに記憶障害であり病気なのだが老人全般に起こりうることなのである。なぜなら老人というのは昔経験したことが現実であり覚えている。でも今経験したり人であってもそれもそれも記憶できないとか不確実なものとなりまるで夢遊病者のようにさまよっているという感覚になる。

つまりもはや現実を認識できなくなっているということもある。だから何か幽霊のようにも見えることがある。ただ認知症でなくても普通の人でも老人は幽霊化するように思える。何か近くの人でも85ぐらいになっている。その人も一人自分の家に居るが何か幽霊のようにしてとどまっているというふうにも見える。おそらくいくら年取っても社会の中で役割があり仕事をしているような人は幽霊のようには見えない。 90歳まで医者として働いていた人はそんな風には見えない。それは依然として社会に役割があるからである。また家族の中でも家事をしていればそこに役割があり無用化されないから何か幽霊のようには見えない。幽霊のように見えるのは会社を退職したり何もしないで社会に役割がないそういう人たちが幽霊のように見えることがある。

ただ一般的に老人は生と死の境にありその中ですでに生きたまま幽霊のようになってしまう傾向はある。不思議なのは死者が幽霊になるというがそういうことはないと思う。なぜならいったん人が死ぬと死者は返って威厳があり死者はもはや邪魔ものともされない。死者を敬われるのである。だから死というものは全て悪いものではない。ただ何も用もなく夢遊病者のようにさまよい邪魔者扱いされる老人とはまるで違っているのである。中国でも老人が増えて息子にまだ生きているのかと言われ自殺したろう人もいる。日本でも百歳頃まで生きて息子に娘に長生きしてごめんなと言っている老人もいる。老人は生きることに肩身が狭くなっているのである。

でも死者は違うのである。死者は決して邪魔者はならない決して迷惑をかけないからである。それが幽霊のように生きて邪魔者扱いされる老人とはまるで違ったものなのである。
なぜそうなるのか不思議だとなる。だから死がそんなに悪いものとも思えないのである。むしろ生に執着して老人となり幽霊のように生きていることがかえって辛いものともなる。だから早く死ねばいいというわけではないが何か高齢化社会になると社会でも無用になり邪魔者扱いされる人が増えてくる。そうならば死んだ方がましだと思う。死んだなら人は邪魔者扱いしない敬われる威厳のある存在となるのである。

いづれにしろ老人の心境はすでにこの世から半分は離脱したような状態になっている。この世からまもなく消えるのだからこの世のことをいろいろ執着しても無駄だと思うようになる。そしてむしろあの世のは近くなり半分はあの世に行ってしまっているのかもしれない。そして認知症の人は死んだ人と延々と語り続けているということがある。ところが普通の人でも老人にとって親しい人は死んだ人なのである。だから自分自身で60年以上居た家族と死んでも毎日語りかけているのである。老人とはそうなりやすいのである。もはや新しい関係を人間関係を作ることが難しいのである。そして認知症になるともう新しい人覚えることもできなくなってしまうのである。

ただこの幽霊化現象は別に老人にだけ起きていることでもない。すでに若い人でも現代人は幽霊のようになっているという人もいる思想家にいる。ピカ‐トなどはそうである。大衆化した人間はそこで人間としての存在も消失して何か幽霊のようになっているという。確かに東京とかの大都会で人と出会ってもそれはまるで幽霊と出会ったような感覚にもなる。人間の存在が喪失してそうなったともなる。だから幽霊化現象は老人だけに起きているともならない。確かなことは人間の実存感がなくなると幽霊のようになってしまうということである。だから認知症のようになると夢遊病者のようにさまようとなる。その数も高齢者になると多いから大問題になるのである。

ただし死者になると一転して周りでも貶めることもできない敬れる存在となるのも不思議だとなる。だから死が悪いとも思えないのである。むしろ生きている生きていて貶められて邪魔者扱いされるこそいいものではないのである。だからと言って死を勧めるわけではない。つまり生きているものと死者とはそれだけ大きな相違があるということである。生きている間はあらゆる人が貶めしたりされるから別に老人だけの話ではない。

でも一旦死ねば死者は威厳があり誰でも敬われるという存在になりうるのである。ただそれがすべての人には人がそうなるともならないが生きている者と死者とは相当に大きな差がある。だから原始社会では死んだ人は誰でも神のように崇められたということもわかる。それだけ死というのは人間にとっても不可解であり崇拝の対象にもなったということも分かるのである。

2023年11月14日

20年後家族地方福祉国家崩壊が迫る (少子高齢化―未婚単身社会の老後)


20年後家族地方福祉国家崩壊が迫る

(少子高齢化―未婚単身社会の老後)



このまま結婚できない若者が増えていけば、'40年には日本の人口の半分を独身者が占めると推計されている。20年後の日本は、身寄りのない孤独な高齢者で溢れかえる。結婚というシステムの死によって、医療・福祉・社会インフラが連鎖的に麻痺、崩壊してゆく―。それこそが、待ち受ける「大独身時代」の日本の姿だ。

「これから結婚できるのは、高学歴、大都市在住、大企業勤務の人だけになる。反対に低学歴、地方在住、中小企業勤務、非正規雇用の人たちはますます結婚できなくなる。彼らを待ち受ける未来は悲惨です。対策を練る政治家や官僚は恵まれた環境で暮らす層ばかりですから、そういった人たちに向けた高等教育、結婚支援は視野に入っていないのです。
結婚が消えれば「地方」が消える

●20年後の恐るべき地獄社会

これは暗澹たる未来である。でも既に一部で現実化している。その家族はもう崩壊寸前である。一人は精神障害者であり息子は50歳くらいである。結婚はしていない仕事は工事現場である。母親は74歳くらいで脳梗塞になった。幸い軽い方ではあったがその後後遺症で足が悪くなり歩くのはやっとである。杖をついて私の家までくる。常に金がなく食べることもできないと嘆いている。生活保護を受けているとしても国民年金が4万くらいもらっているからそのためにほとんどもらえないのである。ただ介護度が一くらいになっているから援助は受けている。でも金銭的には常に足りないものとなっている。

頼りになるのはその50歳の息子なのだが最初は交通事故になりそれで車がないと仕事にならないとして50万を貸した。そのお金は返ってこない。次に階段から階段で足を挫いて仕事ができなくなった。そして今度は目を悪くして病院に行く。そこで工事現場で仕事に行けず収入が無い。精神障害者を一人かかえて独身でありもうすでに家族崩壊になっている。家族だけではもう家族を維持できないのである。

あたりを見回すと確かに1万の町でも近くで40代50代で結婚しない人が多いと見る。それは地方でもそうなのである。大概地方だと結婚しているのが普通だった。結婚していない人は変わり者であり社会から外れた人になっていた。また結婚しない人は大人として一人前に扱われないということもあった。自分の場合は結婚しないからそういうふうにもなっていた。

でも結婚しない人が普通であり変わりものでもなんでもないむしろ結婚しない人が多いのである。そうなればもう跡継ぎがなくなり地域でも社会でも維持できなくなる。その人たちはすぐに60代70代となり働けなくもない。そしたらその人たちは一人で生活して今のように福祉サービスを受けることも確かにできなくなる。
年金にしてももらえるかどうかわからなにのである。日本経済が弱体化して先進国にもなりえなくなっている。

その未来を予測すると暗澹たるものであり恐怖でもある。つまり社会そのものが崩壊してゆくことである。すでに自分の周りでも家が五六軒壊されて空地化した。子供を見かけるのは保育所くらいであり周りにみかけない。。だから地方からそもそも若い人もいなくなり社会自体を維持できなくなる。老人ばかり増えて病人も増えてもはや福祉サービスすら受けることはできなくなる。家族が崩壊し地域が崩壊し社会が崩壊してさらに国家すら崩壊してゆくのかとなる。戦争も危機であるこれも内部的に危機であり恐怖になる。ただそれを現実として受け止めることが社会でも政府でもできていない。でもこの未来は差し迫ったものであり現実化することは確かなのである

●介護を家族だけではできず家族が崩壊する

家族が崩壊するというとき私自身が経験した。親二人がいて自分自身が病気にもなって一人悪戦苦闘するほかなかった。私の家に来る人は助ける人ではなく助けてもらいたい人だったのである。事業に失敗して借金で苦しんでる人年金が少なく生活に苦しんでいる人そして自らも病気になり身寄りがないのだから病院で虐待されたり何かと責められて苦しめるだけだった。余裕のない人は人を助けることはできない。だから身寄りがないということは恐ろしいことなのである。結婚しない人はそおのことを自覚していないのである。

そして家族崩壊というときそれは誰でも経験することになるかもしれない。家族でもその単位が夫婦とか後は一人暮らしとかが多くなっているからである。すると介護とかになると限界になってくる。そこですでに親を殺すとかまでなっている。それは家族の単位が小さいから誰か一人に負担がかかってくる。その負担が背負いきれずそうなってしまうのである。近くで母親が認知症になり症状は重くその一人の息子が介護で苦しみ母親を殺してしまったのである。その人は50歳くらいだった。

私の二人の親の一人はやはり重い認知症になったからそのことがわかる。そしてまた一人が介護になり私自身も病気になりついには家族は崩壊するとまでなった。つまりこれは家族崩壊というのはこれから起きてくる。またさらに地域崩壊も起きてくる。福祉崩壊も起きてくる。それは今より深刻なものとなる。だからその未来を見るとき衝撃的だとなる。その対策をしないともう社会自体が維持できなくなり崩壊してゆくということである。

とにかく家族崩壊というとき日本の場合は家族中心であり家族頼りになっているのだがその家族の単位の数も少ないし介護となると限界になる。まだ大家族だったら人手があり誰かが世話する余裕があったかもしれない。でも家族の単位が人数は少ないと本当に誰か一人が全部背負うことになる。それを経験したのは自分である。家族だけで背負いきれないのである。その負担が大きいから家族崩壊になるのである。
ヨーロッパの場合すべて家族にがに負担させない国が負担して面倒みるのである。福祉は充実しているからできるのである。日本ではそれができないからすべてが家族に任せられる。でも家族の人数が少ないからとても介護とかなれば負担が大きくなる。誰か一人が負担を全部背負うことになり限界になる。そこで介護殺人が日常的にもなるのである。

●大家族ーファミリーの喪失で助け合うことができない

だから社会自体を見直さないと恐ろしい地獄社会になってしまう。家族中心の世界では社会ではもはや社会自体が成り立たなくなっている。その家族の単位が人数は少なすぎるのである。だからファミリーというとき外国では夫婦とか親子とかだけではない広い範囲がファミリーになっていたのである。スペインの教会のサクラダファミリーという時それは教会に集まる人数がファミリーだったともなる。外国ではそうして教会を中心にしてファミリーが形成されていたともなる。日本はそういうことがなくなった。ただ村が日本ではファミリーとなっていたようである。

なぜなら子供でも村の子供であり家族として育てていたからである。名付け親/取上げ乳付け親抱き親名付け親拾い親
守り親養い親、、、、明らかに家族に一員として育てられたんである。だから村は大きな家族、ファミリーだったとなる。
本当に村の子供家族の子供ではなく村の子供として見守り育てていたのである。それが現代のよう個々バラバラになり核家族になりそうしたファミリーというか共同体は喪失して核家族とかなりそれに代わるものとして福祉サービスが提供されるがそれも将来的にはできなくなる。

今はかろうじて維持しているだけであり今50代ぐらいの氷河期世代が60から70とかまあっていうこともはや福祉サービスでも受けられなくなる。予算的にも今や日本は貧困化して福祉の方に回せなくなるのである。だから少子高齢化というのは社会の崩壊にもなるということである。それが地方で深刻化する。すでにもうその前兆は明確に現れている。あらゆるところで跡継ぎはなく仕事も維持できなくなる。 1万の私の街でわ自転車屋は一軒もなくなった。小さい町ではサービスを受けられなくなるのである。

●地獄社会となる恐怖

もしかしたら残酷ではあるが地獄を生きることを覚悟するとかになるかもしれない。なぜならもはや福祉であれ医療であり様々なサービスが受けられなくなる。また貧困社会になり食うことさえままならぬものとなる。そういう社会になった時それは地獄社会である。地獄を生きる社会ともなる。その覚悟は必要になるのかとなる。なにか老人になるとそれなりに生きてきたから諦めもつくがこれから生きる人にとっては過酷すぎるともなる。

何か老人は生に執着しなくなり後何年か生きてこの世を去るだけであるとかなる。この世で嫌な人とも永遠に合わない様々な苦しみ嫌のことから解放されるとなり気持ちに返って楽なのである。若いと欲望が強く女性に対してもそうだからそれが焦燥感となり苦しむのである。生の執着が生まれ苦しむのである。そして先が長く感じられる。でも老人になると人生もあっというまに終わることに驚くのである。ただ何かと姓に執着する老人も多い。でも老人の心境は若い人に分かりにくいのである。とにかくさまざまなものが崩壊して地域であれ何であれ維持できなくなるということである。維持する人がいなくなるのである。

それを補うものは何なのかとなる。日本の出生数は減るだけであり減ることはない。日本で補うことは難しいのである
何か地域でも国でも崩壊するというとき外部からの侵略でまたは戦争で崩壊するということではないその前に内部から崩壊してゆくのである。日本は何かそういう状態になって行くということの恐怖である。それは確かにどこでも目に見えるものとなっているから単なる想像のことではないのである。具体的にその崩壊が目に見えているからこそ恐怖なのである


2023年10月23日

老人は病気の話 70才でも働く時代 老人は病気の話 70才でも働く時代


老人は病気の話 70才でも働く時代

大工さんで庭師である人が70で若い人に混じって仕事した。でも若い人は動きが速いのでついてゆくのが大変だという。でも70歳でも働いている人がいるという。でも肉体労働となると70過ぎて働くのは相当に厳しいと思う。
その人は丈夫な人でもやはり病気になっている。それも何か複雑な病気でありそれを見てもらうのは福島市の方によくほかない。
福島医大に通う人がいた。それで福島中央道路できていないときは通うのが大変だったと言っていた。何か難しい病気になるとこの辺でわ診れないのである。それは目の病気でも仙台市に行かないと手術などできないという。それで面倒なのである。何しろ人間の病気の種類が多すぎるのである。そして老人が話題にするのは病気のことなのである。

私自身も急に寒くなり体が震えて全身が不調をきたし苦しんだ。
これも老化してなったのかもしれない。また気候の変化が激しいからそうなったのかもしれない。とにかく何らかの病気になる人が老人になれば増える。脳梗塞になった女性は買い物に行くにも自転車に乗れず歩いてゆくほかない。タクシーを利用するときもある。それだけ歩くだけでも大変だからである。ところがタクシーも一軒しかなくうまく利用できないという。全国的にタクシーの運転手不足になっている。一軒しかなかった自転車屋も死んでここには自転車屋もなくなった。

また田んぼのなかにある農家二軒も廃屋かしたみたいだ。地震の被害がこの辺では未だに続いていて壊れた家を直さないのをみかける。それで直さないで壊しているのかしれない。おそらく農家でも後継者がいないのでそうなっているのかもしれない。70くらいの人が農業しているが多く後継ぎもいなくなり食料が供給できなくなると問題にしといる。

とにかく老人の問題は病気になることである。病気になるとまた金もかかるし負担は増える。今金の余裕がある人は少ない。だから息子でも娘でも頼りにくいのであ。そして年金があまりにも少なすぎるのである。女性の場合4万くらいしかもらってない人が7割くらいいるとかそんなんでどうして生活できるのかとなる。厚生年金で15万くらい貰っている人がいるとしてもその15万でも足りないと思う。物価が上がっているからなんでも高くなっている。近くの大判焼きが150円だったのが50円上がって200円にもなっていた。他でもコンビニでも20円30円とか上がっている。何かそういうものが物価高をじかに感じるものになる。それは日々生活して買っているからそう感じるのである

人間は一番病気に弱い。病気になると気力もなくなる。だから一人暮らしは病気になると最悪になる。体のこと気にかけてくれる人がいなくなるからである。それで私の場合医者に行かないでいたら病気が悪化していて死ぬ寸前だったのである。
それで街の医院から直接市立病院に入院して一命を取り留めたのである。それも家の中で介護とかなり誰も自分を心配する人もいなくなったからである。だから一人暮らしは危険なことはある。それで孤独死になったりする。そして今は隣近所とか無関心であり日頃から付き合いとかない。だから不思議だったのは市営住宅の隣の人が死んでいて二ヶ月間もわからなかったという。それは1万くらいの町で起きたことである。そういう場所では互いに気遣うことがあると思ったがそういうこともなかったのである。

ただその人も自体にも問題があったのか近くに兄弟は住んでいたのである。ただその兄弟にしても付き合いのなくなっていたのかもしれない。でも二ヶ月間も死んでいたのはわからなかったというのも謎である。あまり話する人ではなかったらしい。でもそれにしても二ヶ月間も死んでいたのはわからなかったというのは何なのだろうとなる。電気がついていたので生きているとみていたともいう。また冬だったから匂いもしなかったからきずかなかった。でも二か月間だったら誰か人の出入りがあってもいいとなる。それも一番の田舎の町で起きたことなのである。だから田舎とはいえ都会化しているのである。人間の付き合いが希薄化して無関心になっているのである。
でも今の時代その人は金をもっていればその金目当てに寄ってくる人はいる。なぜその人は親しく近くの人に話し相手なっていたのに行かなくなったのか。金をもらえないからだともなる。また自分自身も病気になって相手を見る余裕もなくなったからだともなる。今は人の付き合いも金なくしてありえないともなっている。

ともかく老人は病気の話でありまた体調も崩しやすいとなる。それで自分自身も結構苦しんだのである。体全体が変調をきたすということはやはり今まであんまりない。だからやはり気候の変化とか影響してそうなったのだと思う。老人はいろんなことで体の変調をきたしやすいのかもしれない。ともかく急激に寒くなったことが体に応えたのである。それが体全体に影響して思った以上悪化したのである。

2023年10月07日

認知症の介護の問題 【脳の障害で心と関係しているから難しいーでも人間として通じ合える】

認知症の介護の問題

【脳の障害で心と関係しているから難しいーでも人間として通じ合える】

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現役医師ですがハッキリ言わせて頂きます。認知症の介護は危険です。理由を説明します。
ドクターハッシー/内科医 橋本将吉

説明がうまい、わかりやすいから人気になる


●認知症の人の脳を解剖してわかるのか

認知症の謎は脳が関係していることでそれが心とも関係してくる。心の関係はどうなっているのかとなる。つまり脳はは医学的に物体として見る。でも心はそうして物体として細胞の塊として解明できるのかとなる。でも説明を聞けばやはり脳は細胞からとか神経とか血流とか目に見えるものの中に働き医学としてはそこで解剖する。
でも脳というのはそうして医学的にとか物理的にとか科学的にとか理系として分析する。でも一方で心を問題にすればそれは文系的なものになる。だからこの認知症というのは脳の物質的というか機能的というか細胞というかそういう目に見えるものを解剖して解明しようとしている。

そしてここで説明しているのは感情というのも目に見えるものとして細胞の働きで感情が出てくる。感情が解剖的に説明できるのかとなるとなかなかわかりにくい。でもそれも神経細胞と関係して感情が生まれてくると説明している。
認知症はさまざまな障害が出てくる。一番の障害は記憶障害である。記憶できなくなることで忘れることでそれが単にここにあったものがなくなったとか忘れるというだけで終わらない。
忘れることが感情を司る場所に影響して怒りやすくなる。極端になると怒るだけだけでなく暴力になるのである。それが認知症を介護するときに怖いのである。何か日頃から感情的にでもよく思ってない人は特に攻撃されやすい。それで私の家族でも一緒にいられなくなったのである

●好意を持つ人は介護できる

だから感情的には好意を持っていた私が介護したのである。私には常に良い感情を持っていたから私を攻撃することはなかったからである。
だから他人が介護するときその介護する人に好感を持って居ないと攻撃されやすいのである。それで認知症の介護は難しいものとなる。そもそも好感を持つにしてもやはりそこに長い付き合いがないと簡単にはいい関係は生まれない。
私は60年間とか子供の時から生まれた時から一緒に暮らしていたからそこで親密になっていて攻撃されることはなかったのである。私のことは特別かわいがりそれは60歳までもそうだったからである。そういう関係であればいくら認知症が重いとしても暴力は振るわれない。
だから認知症と介護はこうして好感を持った人がすればその認知症の人は症状が穏やかになるのである。でも普通の人はそうした親密な好感を持ってる人ではないから介護することが難しくなるのである。

●脳と心は関係していて解明することがむずかしい

そもそも認知症の難しいのは脳と心の関係はどうなっているのか。それが解明できないし不可解になるのである。ただ確かに記憶障害ということが脳全体に影響して認知症になることは確かである。記憶する場の海馬は損傷してそれが脳全体に影響して脳の機能が正常に働く働かなくなるのである。
そもそも精神障害者というのは何なのかわかりにくい。発達障害の人とちょっと話してみたが確かに計算とかできない漢字も苦手である。ということは漢字でも数字の計算でも抽象的なことでありそれは高度な脳の働きが必要だからである。それができなくなるということはやはりかなりの知性の障害だとなる。でも認知症というのはこうして人格障害者となり精神障害者となりまったくの別人になってしまったのかというとそうでもない。

これまで60年も一緒に暮らしていて人間として通じるものは。相手を親切にしてよくすればそれは通じるのである。動物ですら犬猫でも親切にして可愛がればそれがわかるのである。ただいま外で飼っている猫はいくら餌をやってもなつかない。ちょっと近くに寄ったりするが警戒したままであり懐くことはない。
だから私は餌をやるのは嫌になってしまっている。かわいいところもないからである。なぜその猫はなつかなくなったのか。それはおそらく人間にいじめられて人間を極度に警戒するようになったからかもしれない。ただその理由はよくわからない。その猫は人になつくということはないだろう。そういう機会をなくしてしまったのかもしれない

●愛情は動物にも通じるから認知症の人にも通じる

とにかく認知症というのは記憶障害から波及してさまざまな障害が出てくる。でも動物と比べるのは変だけども親切にしたり愛情をかけたりしたりする人のことはよく思っている。そして実際に愛情を持って接していることは分かっている。
その愛情というのは動物でも通じるのだから別に認知症になっても通じるのである。ただいくら長く一緒に住んでいてもその人を嫌いだとか不快な感情を持っていると60年一緒にいた人でも一緒にいられなくなったのである。嫁と姑の関係と似ていたからである。夫婦でも離婚する人は1/3とか多い。子供を育て子供を成長させるまでは我慢するとかして一緒に居る。

でも子供が成長すると本音が出てきて一緒にいたくないとなり熟年離婚にもなる。その数も多い。また死後離婚にもなり一緒に同じ墓に入りたくないともなっている。そういう人だととても認知症の介護はできないかもしれない。つまり感情的に好き嫌いがはっきりあらわれるから極端になると感情が抑えていたのが抑えられなくなり暴力となってしまう。私はそれを見てきたから夫婦でもやはりそれまでの関係はどうであったかとかで認知症の介護になると難しいとなる。

認知症の謎は時々正気になることである。特に死ぬときは正気になる。だから冷たく扱うと恨んでで死ぬことになる。そのことが怖いことになる。私の場合は特別よくされたからそうなったら後悔したことになる。最後は自分のことを介護したことを分かっていて感謝して死んでいったので救われたのである。それは死後も影響してくる。供養するにしてももし恨んで死んで行ったら死んだ人はその人をどう思うかとなる。

別にそれは認知症の介護だけではなく介護そのものでもっ死んでからも影響するから介護というのは難しいのである。
ただ正直私の場合は認知症の介護でも二年半で終わったから助かったのである。介護というのは認知症でも十年とかでも続くことがある。そうなるとどんなに愛していても限界がくることは確かである。私は別におしめなどはしていないし二年間は一緒にいても身体的介護は何もしていない。近くで母親のおしめをするとき暴れられて殺した息子がいたからである。

●認知症は感情が抑えられない、本心があからさまに現れる

でもこの病気について不可解なことが多くて何かわからなかった。特に脳の病気でありそれが心とも関係しているから複雑であり不可解になったのである。
でも認知症は生まれつきの精神障害者とは違っている。人間として普通に生きてきたのだからやはりいろいろなことを分かっているのである。ただ記憶障害とかからいろいろな障害は出てくる。でも人間として全くわからなくなったというのでもないのである。それが誤解しやすいのである。だから認知症というのは直接解介護してみないと理解できない。それは医者にしてもわからないからである。

確かに脳の細胞とか神経とかアミロイドが溜まっているとかなんとかいろいろある。でも介護するときはそれを説明されても役に立たないと思う。それは脳と関係して心とも関係してくるからそうな。そもそも人間の心と何なのかなのかとなってしまう。いくら脳の機能を見ても細胞を見てもで人間の心はどうして作られるのかそれも脳をいくら見てもわからないとなる。でも神は人間の心を見ることができる。

なぜなら神は人間の心を見て判断きるとなっているからである。それは脳の細胞とか神経とか血流とかを見るのではない。では一体どうして人間の心を見ることができるのかとなる。人間の心にはさまざまな要素がありあの人は性格的に悪いとかあの人の心は歪んでるとか人を妬んだり人を憎んだりそういう感情的なものはある。だから人間は必ずしも外見だけでもわからない。でも神は人の心を見るというとき心の清い者は神を見るだろうという時確かに神は心が見えるのである。心の清い人は神をみるだろうというときそうである。だから人間は脳というのはどうして心を作っているのか不可解なのである。

認知症の人でも確かに記憶障害がありさまざまな障害があってもやはり人間としての心を持っていてそれが相手にも通じる。優しく愛情を持って接する人は好感を持ちそうでない人は好感を持たないから介護できないともなる。夫婦でも好感を持てなくても愛していなくてもいやでも我慢して一緒に居ることができる。
でも必ず本音が出てきて我慢できなくなって熟年離婚にもなるのである。つまり本心というのは本音というのは隠すことはできない。いつか必ずその本音をあらわれあれる。だから地獄というとき人間の本音が隠せなく露わになった場所である。憎んで我慢したりしていたがそれがあからさまに地獄で現れて暴力となり殺し合いにまでにもなる。つまりそうした感情でも抑えることができなくてそうなってくる。それが地獄だとなる。

例えば社会でも権力を持っている人にわ嫌でも従う。でも地獄では従うことなくその権力者に従わない。そして襲うことにもなる。なぜそうしなかったかというと相手が権力を持っているから従っただけでありいつかはその権力はなくなったりすれば相手を責めてくるのである。だから地獄とは人間の本心が現れている場所であれ憎しみでも露わになり隠すこともなく現れて殺し合いにまでもなってそれが地獄である。
だからこの世で権力を持って支配して従わせていた人復讐されるかもしれない。つまり立場が逆転するのである。

ともかく認知症の介護は至難である。それはただ人間の臓器の病気ではなく脳の病気である心の病気でもあるからだ。でも心は何かとなると人間には解明できない。それは神のみぞ知るとなってしまう。だから医学だけでは科学だけでも解明できないのである。そこに理系と文系の問題があるともなる。
心理学なども関係してくる。それは臓器だけの問題ではないし脳と心が関係しているから難しくなるのである
だから認知症の薬ができたというはそれで認知症が治るのかどうかはわからない。ただ認知症についても研究されてやはり薬はできてくる。でも問題はそれだけで認知症が治るのかどうかはわからないのである。それがそもそも脳というのは心と関係していて解明されていないからである






2023年09月20日

「家事は全部妻まかせ」が招く認知症?  父の介護で気づいた「男を無力にする真の原因」

「家事は全部妻まかせ」が招く認知症?

 父の介護で気づいた「男を無力にする真の原因」

母は毎日欠かさず三食を用意し、父に給仕していた。かれこれ60年にわたって続けてきた習慣で、父にとって食事とは「食べる」というより母の給仕を受けること。母の前に「座る」ことなのだ。

 この習慣こそ認知症の原因ではないだろうか。家事を一切せず、外でお金を稼ぐだけで、あとはすべて母任せ。いわゆる家父長制が認知症を招いている。父はアルツハイマー型というより家父長制型認知症といえるのではないだろうか。


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私の家族は複雑であった。二人のの母親がいて一人は実の親だけど百歳まで生きた。もう一人は母親違いの姉であり年齢は七歳しか違っていなかった。同じ大正生まれだったのである。そして母は私の父親の家に嫁いできて女中のように働くことだけだった。特に店をしてた時食事をしていても満足にゆっくり食べることができなかった。店にお客さんが来て食事中でも立っていたからである。
そして私の母親は実家でも継母が来ていじめられて苦しんだ。それで何かそこでも働き詰めであり趣味など持つこともなかった。だから花にも興味はなく花など買わなくてもいいといいとか花はいらないと言っていたのである。それも育ちが原因していて貧乏でありそうゆう余裕もなく習い事もさせられることもなくただ働くことだけだったのである。だから実際に東京に出て女中もしていた。だからその一生は女中ともなっていた。

一方姉の方は公務員であり役所に勤めていた。もともとは看護婦だった。 55歳まで勤めて退職した。早めの退職だったが勤めることが嫌になったからやめたと思う。でも55歳は早かった。なぜならそれから30年も生きていたからである。姉も何か趣味になるものもなかった。向いていたのは看護婦だったのである。だから役所を辞めてから何をしていたかというと何もしないのである。家事は94歳までしていたからである。一方の姉は55歳で退職して何もすることがなかった。家事すら全然してない。なぜなら母が全部していたからである。

ここで一見これは何でも食事でも用意されるから人いいと見る。でもそれが認知症の原因にもなっていたのである。役所を退職してから何もしない。趣味もない。向いていたのは看護婦だったがそれもやめていた。ただ保健婦の後は事務的なもので働いていた。でも役所を退職してからは何もしない。家事すらしない。ただ何をしていたのか、テレビとか見て家では何もしてない。それは認知症になった原因だったかもしれない。母は94歳まで家事を一人でしていた。姉は何もしないかったのである。

母は働きづめの一生だったけどそれがすべて悪いものとして作用はしなかった。 94歳まで家事をして働き家で掃除でも常にしていて役割があった。姉は家で役割が無く役所も辞めて何も役割がないものとなってしまった。そのことは認知症になる原因だったかもしれない。家事というのは男が馬鹿にすることもあるが結構頭を使うのである。頭だけでない手も足も使う。特に料理は相当に頭を使うし熟練しないとできない。だから家事をする料理をすることは給料をもらえなくてもそれは仕事なのである。

だから男が退職したりして妻が食事の用意でもなんでもしてくれる時男に役割がなくなりそれが認知症にもなる原因となる。一見何でもしてくれる身分であればいいと思うが実は違っている。人間は常に役割を持ち働いていないと頭も体も機能しなくなり退化してゆくのである。だからこれは何か人生の人間のパラドックスにもなる。

例えば主人がいて召使いがいて召使がなんでもしてくれたりするのはいい身分だと見ているが必ずしもそうではない。認知症になりやすいのは召使いがいて自ら何もせず何でもしてもらう主人の方なのである。
また姑が嫁にお母さんは何もしなくていいですよテレビでも見てくださいと言われると姑がボケるということはある。それは家事も何もしなくて張り合いもなく頭も働かないのでそうなるのである。だから男でも何もすることがなかったら家事をするべきだとなる。家事はそれなりに頭を働かせるし体も使うから全体的にいい作用をするのである。

そして人間は何らか役割がないとボケてしまうことがある。だから長生きの時代老後も長いから何か役割を持ち働き続けることが大事である。
ワーク(work)というとき作用するとか機能するとか作品などの意味がある。つまり人間は生涯ワークする。それが例え金にならないとしても何か役割を持ちワークすることが大事なのである。それが高齢化社会の大きな問題になっている。老人は引っ込んでろとかテレビテレビでも見てるとか何もするなとか若い人に言われたらその人はボケてゆく。すると社会に大迷惑をかけるのである。

ともかく認知症はもう90以上になったら半分はなりどうしてもそれは避けられない。でもそれを防ぐにはやはり役割を持ち何らかの生きがいを持ち働き続けることが大事なのである。理想的なのは働きながら死ぬことなのである。近くの自転車屋は癌になっていても十年間くらい働き3日前に行ったらもう仕事もできないかもしれないと言って3日後に死んだのである。
まさに仕事をしながら死んだのである。街に一軒しか自転車屋はなくなっていたから貴重な存在だったのである。他でも近くの医者も90まで仕事をしていて一週間間くらいであっけなく死んだのである。そういう死に方はいいと思う理想である。
そうはいっても肉体労働者だと働き続けることが難しい。どうしても体が弱りできなくなるからである。でも軽いこと家事くらいはできるからそれでもしていた方がいいとなる。
ただ何もせずボケーとしていることが一番悪いのである。

老後は長くなるというとき大きな問題が病気になること特に認知症になることは一番大きな問題である。それは周りに大迷惑をかけてしまうからである。介護するにも精神障害者になってしまうからその苦労が大きいからである。そして本人にしても馬鹿になったとか言われてその生きてきた人生の価値まで否定されてしまう。あの人は馬鹿になって死んだ。それだけの評価になってしまうことも怖いのである。そして死ぬ最後の言葉が[私は優秀だった〕と言って死んだのである。それも悲惨だったのである。
ただなんらか馬鹿になったこと自覚していた節があった。それで自分は馬鹿ではないということ言いたかったのかとなる。

ここで家父長制的認知症と言ってるが家事もしないでただ妻の何でもしてくれるということは危険なものとなる。
認知症になることが確率は大きくなるからである。ただ人間は高齢化社会を生きることは今の時代になって初めて経験することでありそれでみんなが対応できないとなっている。その最大の問題が認知症になることなのである。

2023年09月15日

地獄の沙汰も金次第−墓の効用はなになのか? (金もなければ相手にされない老人)


地獄の沙汰も金次第−墓の効用はなになのか?

(金もなければ相手にされない老人)

100歳以上の高齢者 全国で9万2139人 53年連続で過去最多を更新 きょう「老人の日」


何か埼玉の方に兄さんとかいて具合が悪いから呼ばれて行った。ところがその人は女性は金がないからそのために金を要求する。一回だけだから良かったが今度もまた何か特別なことがあり呼ばれていった。でもその人は金がない。もう今回限りで終わりだと言っている。となると金がなかったら兄さんでも会うこともできない。ただ埼玉とかの方ではそれなりに遠いから簡単にはいけないのである。

何か特別の用事があるというとき金でもくれるのかと思ったらその人も福祉に世話になっているから何もないとなる。臨終の時に必ず呼ばれる。だからまた行くのは金もないのにどうなのかと思った。ただこれが最後となると金を惜しんでもいられない。だからこそこの世の中地獄の沙汰も金次第だとなる。つまり兄弟でも姉妹でも親子でも最後の別れを惜しむとなるとき離れていると交通費がかかり金がないとそれもできないとなるからだ

その人は親しい近くの人がと来てくれと言っても行かない。その人自身が日々の生活に事欠いてその人は援助してくれないからである。その人が失敗したのは一人娘に金を全部預けてしまったことである。自由にする金がないのだからその困った女性に援助はできないのである。ただ人間というのは本当に最後まで金のことがつきまとっている。それは誰でもそうでありその金の縛りから逃れることができないのである。でもやはり金に困っている女性を助けられないということは大きな問題になる。携帯電話で話ししているが直接にあって話すことはないようである。ただ一人で行ったり病院を出たり入ったりしているから話し相手が必要なのである。その女性は話がうまいからである。

とにかく人間は金から解放されるのは死んでからしかない。それはいくら金を持っていても金でもめたり遺産相続で争ったり家族でもいろいろと金から問題が起きてくる。だから人間は本当に死ない限り金から解放されないのでる。そこに人間の不幸がある。おそらく天国とか神の国では金など関係なく生活できるに違いない。だからこそ地獄の沙汰も金次第にな。金を与えれば確かにその人が好きでなくても老人でも何かしてくれる。話し相手にもなってくれる。現実に話し相手になるだけで金を払っているということもあるからだ。

だから老人は金をもっていればその金を目当てに相手にするということはある。老人がなぜ権力を手放さないかというと権力をもっていればそれによって人も寄ってくるし相手にもしてくれる。その老人が嫌でも金のためにそうなるのであ。女性でもその金のために寄ってくる人がいる。それは問題にしてもやはり人間は金から切り離されられないのである。

ただ別に金がなくても老人のこれまで生きたことを語れば興味を持つことはある。老人の価値はやはりこれまでの人生で経験したことを語ることである。ただ正直その人が本当に語るべきものを持っているかどうかが問題になる。例えばカルト教団など入って一生終わった人の話など何も興味あることはない。ただロボットとして何の個性も出さずにその人なりの生きたものは何もないのである。
そしてその教団や組織もいつかは消えてしまうのである。それは会社に入った会社で働いた人でもそれとは違っていてもやはり会社から退職するとその人の価値は相当に減少してしまうのである。でもそこで何か語るべきものがあればそれは価値あるものとなる。

要するに老人の価値というのはもちろんお金があれば金に寄ってくる。だから金があったほうがいいことは確かである。でも何か老人がその人生を語りその語ることに価値があればその老人の価値があるともなる。それは金なしでもその経験したことが価値あるのであり巨額の金を集めても残してもそれがすべての価値になるとは思えないのである。
やはりその人がどういう人生を送ったのかまた語るべきものがあるのかそれが問題になる。ただ芸術家などだったら何らか作品を残しそれでその人の価値も生まれる。でも別にそれが金になるとは限らない。芭蕉は奥の細道を書いたからといってそれで金になったかとなればない。でもその価値は400年でも過ぎても依然としてその価値は衰えないし価値が増しているのである。だから人生は短し芸術は長しなっていたのである。でもそれもごく一部の人せりあとは消えているのである。

いずれにしろ人間は最後に何を残すのか。骨を残すのか灰を残すのかそれも土となって消えた。 5人くらいは土に埋められて一つは骨も残らず灰になっていた。土になっていたので誰のものかもわからなくなっていた。だから人間というのは骨とか灰を残してもそれが誰のものなのかもわからなくなる。その人の人生がどういうものであったのかそれが最後に問われるのである。私の兄はこうしてただ灰になり土になり誰の物だかも分からなくなっていた。それで私は私の墓に隣に小さな墓を作作って供養している。そこには骨も何も埋まっていないのである。

だから骨とか灰は海にまけとか木の下にまけとかとかでも構わないとなる。ただ墓が必要なの何かドラマで常にその墓の前で死者と語り懺悔する人がいる。そして墓に向かってはお詫びしたりする。だからそこには墓の効用があるとなる。もし海にまいたりにしたりすると誰の墓だか誰の者だかわからなくなるからその人に向かって死んだ人に向かって懺悔したり語りかけることができなくなるからである。だから墓がいらないということではない。
墓もそれなりの人間として効用があるものだったのである。ただ墓もも儚くついには誰もお参りするもなく墓の墓場となってしまったのも無常だということである。人間は無常から逃れることができないのである。

また彼岸が来る。お盆から彼岸は近い。お盆とか彼岸はやはり死者を思い出し供養するということに意義がある。ただいまや墓も維持する跡継ぎもなくなり維持できなくなっている。だから墓じまいとかになり。それでは墓にに金をかけるべきではなかった後悔している。なぜなら跡継ぎがいないのだからは卒塔婆のように簡単なものでもよかったのである。立派なものにしてもその後継ぐ人がいないのだから無駄だとなっていたのである。

2023年09月02日

老人の健康格差が大きい (73才でも90才にも見え九三才でも70才に見える)


老人の健康格差が大きい

(73才でも90才にも見え九三才でも70才に見える)

老人の一番大きな格差は健康である。病院に行ったら隣にいた人が93歳の女性だったということに驚いた。とてもそんな風には見えない。まず70代にしか見えないホテル病院に来たのはただ血圧が上がっているからそれで来ただけである。他は健康なのである。顔を見てもつやがよくとても93歳には見えないのである。

私の知っている73歳の女性は病気になりボロボロになっているのである。脳梗塞になりそこから糖尿病も併発している。見た感じでもその人は93歳でもうおかしくない。となると20歳の差があっても実年齢は違っている。つまり同じ老人でも20歳の年の差があっても20歳の上の人が73歳の人より健康に見えるし歳でもそうです。これだけ老人にとって病気の影響が大きく健康でなくなるとそれだけの差が出てくるのである。

だから60以上70以上になると健康が一番大事になるので健康を失うといくら金を持っていてももうそれでいいことはなくなる。その人は自転車に乗っていたが自転車にも乗れない。また車を持っていた人でも車に戻れなくなっている。歩くことすらままならないのである。こうなるといくら金を持っていてもどうにもならないのである。だから健康格差がありその差も老人になると大きいのである。今の老人はどうしても長生きはする。でも健康でないと長生きしても幸福にはなれない。歩くこともままならないもちろん車にも乗れないそうなると生きがいもなくなってしまう。

いくら90歳まで生きるとしてもその間に病気になってただ病気と戦うことが生きることになったらつまらないとなる。一番いい死に方は近くの自転車屋のことを語ったが3日前まで普通に仕事していたのである。その後にすぐ死んでしまったのである。ただ十年位ガンであり病気を持っていても普通に仕事していたのだからその人は死ぬまで生きがいを持って働いていたのである。

こういう死に方が理想的だと思う。 90歳まで医者をしていてその人も1週間くらいなのかパタパタと死んでしまった人もいる。つまり90歳までも一緒に医者の仕事をして仕事しながら死んだという感覚になる。だから老人にとって意外と仕事するということが生きがいになり大事なのである。ただ肉体労働になると老人にとってはきついとなる。自転車屋の仕事も肉体労働にもなるわ比較的軽いから病気でも継続できたのである。

ともかく長生きの時代である。でもそこで健康格差がある。その差があまりにも大きすぎるのである。もちろん金をってるか持ってないかの差もある。それも大きいとしても一番の老人の格差は健康格差なのである。 93歳でも70くらいにしか見えない人もいる。でも70歳くらいでもすでに見た感じから90歳のようにもなっている人までいる。だから60過ぎたりするともう年齢ではない。年齢で判断できないのではい。どうみても70代の人でもその人はすでに80代以上でありもう90にもみえる。。それだけの差があり健康が大事になるかわかる。

だからどうして60以上になったら健康であるかどうかが大きな問題になるのである。健康は人によって違うし生来の素質もあるがやはり健康でも積み重ねた生活がその人に影響しているかもしれない。どんなに体力があっても若い時から不摂生しているとそれが老人になってから影響する。私は早い時期に酒とかタバコとかはやめた。その70歳でも90歳にもなったように見える人はタバコを続けていたのである。それはタバコは血管に良いものではなかったのである。だから脳梗塞になったのである。ただ糖尿病とかはやはり遺伝的なものはありそれはどうにもならないものかもしれない。でも積み重ねた生活が必ずやはり老人になると体にあらわれるのかもしれない。

老人になるとやはり人生の結果が否応なく現れるのである。それぞれに何か積み重ねたものがありそれはいい面と悪い面にもあり悪い面になると必ず老人になるとその結果が表れる。若いときはその怖さがわからないのである。からないからこそ無鉄砲になり不摂生にもなりやりたい放題にもなる。それは青春の特権だともなるから余計にそうなる。でもあまりにもやりたい放題になり欲の赴くままに節制しないとそこで失うものがある。たいがい若い時の不摂生がのちのち後悔の種となるのもそうである

とにかく人間は一朝一夕にはならない普通の人であれば積み重ねが大事なのである。それは知的な面でもそうだしも体の面にもある。何か自分は自転車に乗って運動していたのは良かったのかもしれない。やはり運動も大事だったのである。運動も習慣的にしていれば血流も良くなり頭も働くからである。
だから車というのは便利でも体にはあまり良くないかもしれない。とにかく人間は何か良いことでも悪いことでもそれまでの積み重ねの結果が出てくる。若い時でもただ放埓に過ごしていればその青春時代でもあっという間に過ぎてしまう。ただ過ぎてしまうならいいな必ず後で後悔するのである。

また習慣が人間を作るという時もそうである。やはりなんでも勉強でも習慣的にする。運動でも習慣的にする。するとそれが頭にも身体にも影響するのである。だからなんでも人間は一朝一夕になるということはないのである。
ただ人間には一発勝負というものはありそこで運命を決することもある。でも一般的には人間は積み重ねの結果として何をかになるのである。だから習慣的に怠らず努めるということが大事になってくるのである。

2023年08月03日

成仏するとはどいうことなのかーお盆に死者が帰ってくる (その人がどう生きたの方が大事)

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成仏するとはどいうことなのかーお盆に死者が帰ってくる

(その人がどう生きたの方が大事)

●成仏しなかった非業の死

私の父親違いの兄は交通事故で40歳で死んだ。私の家は兄をよくしなかった。母は後妻に来たからである。五年間は一緒にいたのである。その五年間は貴重だったのである。なぜならもしそうして一緒に生活しなかったら兄という言う感覚も持てなかったかrである。
兄の前の兄の実の父親は東京で会社の事故で死んだので。そしてまた兄も交通事故で死んだのである。これはカルマなのかどうかわからない。ただ、そのことは私自身に深く関係していたのである。だからそれを単なる他人事とはおもえないのである。

成仏することに非常にこだわる人がいる。創価とか仏教関係では成仏しないかするかが一番問題にしているのである。そのことで信心のことが決められているのである。ただ、カルト教団の言ってることは正直宗教とは何の関係もない。デタラメなのである。第一宗教などを求めている人なんて一人もいないからである。そこに欲が何でも叶えられとしてとして入ってきている人たちである。ただ、何か知らないが異常に成仏にこだわっているのである。

成仏を考えるとき死んだ姿ではない。成仏とは何か?それは死んだ姿とか、どんなふうにして死ぬとかとかでもない。その人の一生がその人なりに全うされたかである。その生き様の方が問題なのである。死んだ姿とかにこだわってもそれで成仏するともならない。
成仏するとはその人がその人なりにその一生を全うすることにある。その人がどういう風に生きたかが問題であり、死ぬ姿を見てもわからないのである。つまり成仏するとはその死ぬ有様ではない。その人がどういう風に生きたかによって決まるのである。何かよく言われように俺は社畜なんだよなとか言って一生を終わればその人はその一生を全うしたのか?しない。すると死ぬ時どうなるのか成仏はしないとなる。

●その人がどんな人生を生きたかが問題

とにかくカルト教団などに生きている人間はみんなロボットであり教祖のコピーとなって何らその人なりの人生など生きていないのである。だから、その人生には実際は価値はない。もちろん、その団体の中では価値あるとされるが、いずれ団体も組織も消えてしまうからである。その組織団体が消えた時、その価値も消失するのである。会社で会社から退職した時その会社での役職があっても退職すればなくなる。するとその人の価値はなくなる。だから退職するとその人の価値がなくなるのであり生きがいもなくなってしまうのである。

何故ならその人はあの価値は会社があっての価値であり。その人自体の価値というのは追求されていないからである。ただ、会社で働けばやはり何かその人なりの価値として残るものはある。でもその人が地域で何か働くことができて認められるということは?難しい。村社会のようなところだったら村という世界が農村社会だったら継続される。
だからそこで死んでもご先祖様となって、その村に生き続けていたのである。そしてお盆には死者が帰ってきて村の人たちとみんなで踊るということになっていた。それがお盆の起源だとされている。死んだ死者を迎えて一緒に踊るものだったとなる。今はそんなことは全くない。そういう社会が消失したのだからそういう祭りとかも消失するのである。時代によってその価値が失われたのである。

●40歳で交通事故で死んだ兄

兄の場合はどうしてもその生を全うされたとはならない。そこに何か無念が怨念が残っている。墓を作ったの自分の家のそばに自分の墓の傍に墓を作ったのだがお盆には墓参りするのだがその娘が一人いてもその人は兄を思う心もなくなっていた。なぜなら夫婦でもめて離婚して娘がそのために父が交通事故で死んでひどい目にあったからである。それは静岡の方であり連絡は取り合っていたが、何が起きたかその時からなかった。近くにいれば何か事情も分かって援助することもあったが、できなかったのである。それで妻の方の実家に頼ったのだがそこでもよくされなくて高校出てからすぐに東京に出たのである。。だから実際あったのは子供の時一回しかその娘と会っていない。でも母が死んだときは何回か来ていたのである。ただ、それも何か遺産があるかどうかでお金のことで。来ていただけである。だからその縁も切れたのである。

確かなことは兄の霊は成仏していない。

それはその死に様のことではなく、生き様のことなのである。十分にその生を全うすることができなかった。親としてもできなかった。それを全部私の家のせいだともならない。なぜならその当時中卒で集団就職した人は大勢いたからである。ただそう、その苦労は私よりずっとあった。だから私は後ろめたいものを常に感じてきたのである。でもすべてが私また私の家にあったのかというとまたそれもわからない。あったことはあったが、全てが私の家にの責任なのかどうかは?わからない。なぜなら結婚して離婚したという時、それもそれは私の家の責任とも言えないからである。苦労したということがあり。それで負い目を感じていたのである。

●成仏するにはその人の生きざまの方が大事

ともかく成仏するというときその人がその人なりに充分に生きれば成仏する。何か自分なりに生きない、強制されて生きる。例えば医者に向かなくても医者にされたとか色々親に強制されたり親ガチャで苦しんだりする。そして自分自身の一生をただ強制されて終わるという時、その人は成仏しないともなる。そう見れば人間の一生がその人なりに充分に個性を発揮して生きたという人は稀になるかもしれない。何か常に社会であり。家であれ強制されるからである。

まず貧乏だったら食うことが大事であり。自分なりの何か才能でも伸ばすことは不可能である。そうなると自分なりの生きられなかったということで死ねば成仏はしないとなる。それは成仏の姿ではなく一生をどういうふうに生きたかである。まずカルト教団などはまったくの奴隷でありロボットでありその人なりに生きている人は一人もいない。同じ制服を着て同じ事を語っている。そして教祖の命令のままに偶像崇拝となり決して成仏はしない。だから成仏などにこだわるのはバカらしいとなる。その前にロボットの人生とか生きたとしても成仏しないのである。

私の母親は確かに100歳まで生きたがその死んだ姿も何か笑っているようで姿から見れば本当に成仏していた。ここに苦しい表情もない。私にはいつも楽に死ねたらなと言っていた。それは叶えられた。でも母親が本当に母としてまた女性として人間として充分に生きられなかった。常に働くことを強制されて働くことしかなかった。花を買うより庭に花を植えるよりそんなものいらないとして怒っていたのである。つまり花に価値を見なかったのである。これも寂しい人生であった。ただ、それは大正生まれでただ働かされるだけだからそうなったのである。

だから、また母も人間として女性として充分にその生を全うしたとはならない。もっと花に興味を持ったり何かただ働くだけだの人生でなければよかった。そうして人間とは最後に問われるのはその生き様であり成仏の相ではないのである。もちろん成仏の相が悪いと何か確かに気分いいものではない。でも私の母親は?そうして充分に自分なりに人間として生きたということはない。でも成仏の相は良かったのである。

●怨霊となる死者

いずれにしろ不慮の死非業の死は成仏していない。だから何か墓参りするにしてもそもそも成仏していないから。心、苦しいものみなるある何か圧迫される感じになる。その人なりに一生をを生きていればそうはならない。不慮の死非業の死でありそのことが頭にあり、解消しないのである。

だから、そうして。非業の死を遂げた人とか事故で死んだとかいう人はその魂はこの世に未練を残しそしてまたまた呪いともなっているかもしれない。そのためにその呪いを恐れて死者をを祀り慰霊する。靖国神社が戦没者の慰霊のなっているのがそうである。そこには生きている人たちが何か後ろめたいことがあり死んだ人の霊を鎮めるためにそうなったともなる。私自身も兄については同じことを感じているのである。成仏していないからやはり心苦しいものとなってしまったのである。でも一旦死んだ人を引き戻すこともできないしどうにもならないことである。 

死者がお盆に帰ってくると言うけどやはりこうしてその人なりの一生を生きない人は非業の死を遂げた人は成仏していないし。その霊は死者が帰ってきても村の人と笑って盆踊りをするようなことはしにくい。 ただ、今は盆踊りでも村という共同体が消失しているからなかなかこのように御先祖様とはならない。つまり死者を供養するということはやはりその生活でも継続したものがあり。それで死者を供養するということになるそれが祭りにもなる。

今はそうして昔の村のように継続する共同体というものがなくなっている。 だからこそ家すら家の共同体すら消失して墓を守る人もいなくなり。墓じまいが問題になるのである。村に生活するということがなくなり広域社会になった時さらにグローバル社会になった時そういう時間の中で形成される共同体は消失したのである。そのとき死者もその村の中に御先祖として生き続けることもできなくなったのである。 
つまり現代は空間がグローバルに拡大した。でも時間軸で形成されたものが失われたのである。
ただ一方で死者ももうこの世に帰ってきてほしくない人も多い、人を苦しめた人もいるし死んでも恨んでいる人もいるからである。だから家族でなかったら死者でも帰って来て欲しいとかみんなならないのである。

●死者がお盆に帰ってくる―御先祖様になっていた死者

つまり今は死者が継続される場がない。すると死者はどうなるか?幽霊のようにさまよっているかもしれない。御先祖様になったときはそこで継続して生きて生きている。でもその場がなくなったとき死者はどこに行くのか?死者の魂は誰が鎮めるのか?何か成仏しない人の魂は他者に害を与えるということがあるかもしれない。何か非業の死を遂げた人の霊を鎮めるために神社を立てたりした。死者が怨霊となり呪いとなることを恐れたのである。兄の場合はそういうことを感じる。
死んだらみんな御先祖様となった迎えられるとも思いないのである。

でも私の姉と母も死んだがそこには感じないので。父親でもそうである。遺影はは笑っていて笑っていて何か依然として家族とあるような感じがする。だから何かそこに成仏してはしないとは思えない。でも実際、家族でも何か?成仏していない恨みを残して死ぬ人もまたいるのである。ある母親は娘に対して【ひどい娘だわ】と呪いの言葉を残して死んだ。その娘は本当にひどい娘だったので。母親はそれなりに愛して育てた?実の母親ではないにしろ実際はその人は母親になっていたからである。でも何かもめて母親が病気になったときも何の世話もしない捨てたも同じである。ただ、母親は白血病で呆気なく死んだのである後の葬式はしたとして葬式だけなら簡単だからである。介護となると、その娘、何もできない。

実の母親は五歳で家を出て行ってその娘を捨てたのでる。だから、その母親を母親と思っていな。ただ遺産があるので、それが欲しくて老人ホームに入れているだけなのである。第一、その実の母親は認知症であり何かわからなくなっているから悲惨である。
家族でも親子でも問題があるのは人間である。そこに確執があり、争いがあり親子であっても兄弟であっても何らか争いがある。平和が必ずしもない。それがが人間の現実なのである。平和がないというとき。戦争は無いというだけではない。そもそも家族すら平和がないのである。何らかの争いがあり、確執があり平和がないのである。それは私の家でも嫌というほど経験したのである。

ただ、私の家族の場合は生前は争いがあっても今は何か今は平和になっている。だか遺影は笑っているのである。でもそうでない家族もも親子も兄弟もこの世には結構多いのである。そもそもなぜ宗教は血縁を否定したのか?それの血縁でも愛し合うというだけでなく、必ず何らかの。揉め事があり争いがあり平和がないからである。それで仏教でもキリスト教でも血縁とか家を否定したこともその為だったのである。 

2023年07月23日

今の社会は年齢ではなく価値を評価される時代になっている


今の社会は年齢ではなく価値を評価される時代になっている



●年をとっても価値を認められない


これは言えるだろう。第一もう歳を取っているからといって老人になったからといってその人が価値ある人にはなれない。これだけ老人がいればただ年が上と言うだけで誰も尊敬などしない。価値も認めないのである。
老人が老人というだけであるというだけで尊敬される時代は終わった。そういう時代は第一長生きする人が少ない。すると長生きする人は何か生き字引のようになり貴重になった。それは老人が長生きすることが極めて少ないということからそうなったのである。もうこれだけ老人が多いとなると。老人というだけで歳だけでその人の価値は何も認められない。

ただ、老人はいろいろ経験してきて積み重ねたものが必ずある。それが老人になると生きてくるのである。だから何か語るとき老人の語ることが価値あるものとな。若い人は経験してないから語ることがないのである。 だから若い人の話を聞いても、そこに価値を見出せない。

例えば。ユーチューブでおばあちゃんが料理の話をしている。それができたのは料理の経験を積んできたからできたのである。、近くで梅を漬ける人がうまい人がいるそれも経験であった。経験という時、特別なことでなすそうした日常のことでも料理のことでもやはり経験がないと教えることもできない。それが今ではユーチューブで教えてそれが人気となって収入さえあるとなる。経験は多様であり知識も多様だからである。だから今の時代、通信が発達してさまざまな情報が得られる。でもこうして情報が入らない時代は、その土地で長く生きた人が。その土地について知り抜いて教えることが必ずあったのである。

とにかく俺はお前より年が上だというだけで何か価値を認めてもらうことはない。そういう時代は終わったのである。 では何かその人の持っている価値とは何なのか?それがなければ老人で年取っているだけで何も認められないし尊敬もされない。 その人がどういう価値を作ってきたのか?それが問題になる、価値もいろいろ多様でありいろいろな分野がありそこで培ってきたものを教えることができる。農業でもそうだし大工などでも職人でもそうである。でもそこでスキルを磨き技を持たないものは尊敬されない価値が認められないのである。それで会社員になると退職するともしその価値が 会社にある時、組織にある時。その価値は消失する。そこで何か培うものがあれば。その個人の価値も認められでもそれがなければ退職すると用無しになってしまうのである。 

●会社や組織集団の価値は退職や集団の消滅でなくなる

つまり集団的価値というのはその集団を組織に従属するとき価値がある。でもそこから離れると個人となり集団組織としての価値がなくなる。企業に勤めていればその名前でその人が価値あるとまでなる。部長とか課長とかの位でも会社であは価値がある
その時、その人の個人が何をしてきたかは分からないのである。でも会社を退職するとき。その組織会社組織で培ったものがスキルが生きることもある。でもただその会社組織で地位があったからといってそれが今度は退職したら通用しなくなるのである。俺は会社で偉かったと言っても嫌がられるだけになる。

カルト教団などもその教団に組織に従属しているときはそこで価値がある。でもそういう団体組織もいずれは。消失してしまうのである。 極端な話がある国家があり民族がありその一員と言うだけで価値あるとはならない。これだけグローバル化すればただ日本人というだけで誰も価値などを認めないのである。だからあなたのプロフェッショナルは何ですかと問われた。その職業からその人をグローバル化するとみるのである。

例えば写真を追求している人は多い。でもこれもしてみると面倒なものだと思った。レンズの種類と数が多すぎるのである。それで何を買っていいかも分からない。そのレンズも。10万円以上とか高いので。80万ものレンズを使っていた人もいた。そんな高いのかと驚いた。でも写真を追求すると、そうしたレンズが必要になってくるので。そこで写真の技術も磨かれてプロoにもなりうる。それはかなり積み重ねが必要でありレンズを買ったり、いいカメラを買ったりと投資が必要になってくる。それが老人になってやはりそのスキルとか積み重ねたものが習得した技術は生きてくる。

そういうものは価値としてわかりやすい。それは芸術だとその作品からその人の価値をみたりするからである。また学者だったら論文を出したりしてその人を見て価値を判断する。そういうのは分かり易いのであ。でも人間の価値は多様であり。別にそうした特別な芸術でなくても、やはりいろいろな価値があり。それがやはり積み重ねていくと老人になって教えるものがあるとなる。とにかく人間というのは成長に時間がかかるのである。それは知識の習得でもそうだった。やっぱこれも外国を知るには。本を読んでいただけでわ分からないからである。すると実地に外国わ見聞してそれでを理解を深める。それでも外国となると理解するとき、相当に時間がかかるのである。

●その人なりの価値を作り出すのには長寿は有利

何かを会得するとか、深く理解するのは自然でもなんでも相当な時間がかかる。それで私は何か理解することが遅く60過ぎとか70過ぎになってやっと本に書いてあるものを理解しているのである。だから高齢化社会というのは、そういう点では有利である。たいして才能はなくても時間があれば積み重ねがあれば天才でなくても一芸に秀でることができるのである。そういう高齢化社会はそうして個人の価値を長い時間かけて作っていくということはできる。それは別に天才でなくても対して才能がなくてもやはり時間があると積み重ねがあると理解できるようになってくるのであ。 

だから高齢化社会は退職してからも30年とか生きるとなれば今までのような考え方では通用しない。個性をいかす見出すか表現できるかが大事になる。その人なりの価値を長い時間かけて作り出すということである。それは別に天才でなくても長い時間をかけるとできることがあるからだ。もちろん絵の才能わなければできないところがイメージクリエーターで全く絵の才能がない自分が絵を作ってるというのも不思議のである。それもやはり時代の進歩でできるようになったのである。 

これからは年をとっただけでわ何の価値も認められない。
これだけは確かである。その人なりの価値をつくっていく
それが大事になってくるそれでみんなが一様に学び行動する組織的な学校という場は時代にそぐわなくなっているかもしれない。そこでは創造性が育たないからである。学校という形式はおそらく明治になって大量の人間を組織的集団的に教育するために作られた。だから一律的であり軍隊的でありそこで何か創造性が身につくことはなかったのである。それもまた時代が変わり、価値観が変わり変革が求められているのである。

ともかく年が取ったからといって歳の差でその人を見る時代は終わった。その人がどんな経験をしてきて、どんな価値を創り出してきたかがその。人を図るものとなる。年齢を見ても分からないのである。ただ価値というのはあまりにも多様であり その価値を測ることが難しいのである。
最近。世界史に関する本を一冊買った。これも色々と難しい。でもその本の価値がどこにあるのかを知ることはかなりの洞察がないと識見がないとできない。芸術となると鑑賞すること自体が難しいのである。

でも本当の芸術作品となると芭蕉の俳句のようにそれは時間を超えて時代を超えて依然として生きている。価値が減っていかないのである。それは今ではそういう俳句でも作れなくなっているからである。時代の雰囲気から作られたものであり。今のような喧騒の時代はとても作れないのであ。だから芸術というのはその時代でしか作れないものはあり。そこに価値が。その価値は減ることがないのである。だから。芸術は長いが人生は短いとなる。なしとなるのである。他の物の価値は常に変わるからである。

人間というのは何かというと常に誰でも価値を求めている。その人なりの価値を評価されたいのである。俺は何何が出来る俺は何何が知っているとか人よりなにか優れていることを常に自慢したいマウントしてくるのである。それが人間の一番の特徴かもしれない。でもその価値は多様であり簡単には。その人が価値がないとは言えないのでは?だからこそ。平等に見るということがある。この老人は価値がないとして生きる価値がないとして捨てた方がいいとはならないのである。それはなぜかというと価値が多様化だからである。
社会的に価値がなくても家族の中では価値があり功績があった人もあるからである。それで病院だと家とか家族で作られた価値が見えない、ただのやっかいな老人の病人に過ぎないとなる。だから家で死にたいとなる。

●個々人の価値を作る時代に

とにかく個々人の価値を見るということは難しいのである。だからこそ病院だったら病気だったら誰であれ治療する他はないのである。もうこの人は何の価値もないから死んだ方が良いと言うと言えないのである。でもこんなに老人が多くなると。早く死んでくれとか集団自殺しろとかなってしまうのである。 その大きなな問題は老人でもプラスの面があるが病気になったり介護になったり、そして金がかかったりとマイナスの面が大きいからである。そして個人を見ても本当に価値ある老人価値を作り出した老人がいるのかとなるとそれはまれになるかもしれない。老人が少ない時代は少ないということでまれだということでそれだけで価値があったからである。現代の老人は老人というだけではだれも尊敬しないし、価値も認めない。あまりにも数が多すぎるからである。

 だからこれから生きる人はなにか老人になっても価値が見出される人にならないともう死んでくれとなってしまうのである。こういう時代になったことを意識して、若い時から勤める必要がある。でも若い時から老人は老人になるまでは。そこに継続したものがあり突然老人になるわけではない。若い時からしてきたことを経験してきたことを積み重ねてきたものが老人になって生きてくるのである。だから高齢化社会長生きすることはそうして個々人の価値を見出すということ、作り出すということでは有利な社会なのである。

サーバントリーダーシップとは、アメリカのロバート・グリーンリーフ博士が提唱したリーダーシップ哲学であり、
『リーダーはまず相手に奉仕してその後相手を導くものである』という考えに基づくものです。
サーバントは『使用人』や『召使い』という意味です

これは興味深いことである。 老人だから偉いとか価値あるとはならない、そういう人はただ威張るだけではない。何かを与えるものがありそれでかえって相手に与えることによって仕えることによってその価値を認めてもらう。でもそれで威張るということではない。でもそうするにしても何か与えるものがない限りできない。仕えることもできない。梅を作るにしてもその経験がないとできない。梅の漬け方もいろいろあるからである。

だから昔はお袋の味とかその家独自のものが何か伝えられたものがあり家風などがありそれぞれの家に価値があった。家にも個性があったとなる。つまり、家にもそれぞれの価値があったともなるのである。そう。でも今になると家というのは何か?みんな同じようになって、型にはまって核家族になってそして家自体に価値ある家というのは京都のような伝統を伝える職業。茶道とか花道とか何か習い事などの伝える家くらいになったのである。

もろもろの価値の根源は人間である。人間は己を維持するために。それらの価値を諸事物にに付与したのである。
人間が元で、それが諸事物に意義を人間的意義を創り与えたのだ。それゆえに彼自らを人間すなわち評価する者と呼ぶのである。(ツアストラーニーチェ)


2023年05月27日

人間が最後に欲しいものは何か それは健康である―金で健康は買えなくなる


人間が最後に欲しいものは何か

それは健康である―金で健康は買えなくなる


人間は生まれたとき手を握りしめている。何かを握ろうとしている。何かをその手で握りしめ得ようとしている
死んだら手を開け放つ、何か得ようとしてしないで開け放つという、とにかく人間は何かを得ようとして握りしめようとして生まれてくる
でも死ぬときはただ何か得ようとするのではなく開け放ち死んでゆく

人間がこの世に生まれることは何かを得るためである。その得ようとするものはいろいろある。人間の欲望は限りないからである

しかし最後に人間は得たいものは何なのか?

最近でも回りに老人だけが増えてくる、それも病人が多いのである。その中には金もない老人もいる、そのため医者通いであり必ずレントゲン写真とかとると何万とかかかる、その医療費が余りに増大するので負担になり極端になると老人は集団自殺しろとかなる。それはその負担が下に若い人の世代もふたんすることになるからである。

そして問題なのはいくら治療しても老人の場合直らないということもある。延命はできても老化が病気に関係しているから直らないのである。ただ死ぬまでに相当な治療費がかかるのである
でも病気そのものは直らないのである。そこに老人の場合絶望がある。要するに死ぬまでの期間を長くすることはできる。でも全快する、完治することはないのである。その間に相当な治療費がかかるのである。その負担も大きいのである。

人間は何かを得ようとして手を握ろうとして生まれてくる。でも老人になり病気になり得たいものは何なのかーそれは健康だったとなる。その健康はいくら金を出しても得られないのである
その時最高の価値は健康になってしまうのである。
もう年で仕事ができなくて悔しいとか、病気になり歩くこともままならないとかそんな人ばかり増えてくる
子供は近所に一人二人くうらいしかいない、ただ増えてくるのは老人でありそれも病気になった老人なのである。

これが少子高齢化の現実なのである。老人にとって金があればいい、でももはや金で健康は得られないのである。あとは死ぬだけだとなる。その時この世に望みは希望はなくなる、ただ来世が神の国に行くことが望みとなるのである。
それでも余生があり人間は病気なっても生きていく、でも病気は多少回復しても死に向かっているのである。

そうなると人は今世に希望を託すことはできない、来世が神の国へゆくこと願う、何かを得たいと励んできた働いてきたでも今や老人になり病気になったら得られない、ただ今これまでしてきたことを語り自慢したり記憶したものに生きることになる
いずれにしろ百歳まで生きるとしてもその前にたいがい病気になる人が多いことが高齢化社会の問題なのである。

2023年05月05日

清涼飲料水は体に良くないー栄養を吸収するにも時間がかかる (人間は何をするにも時間がかかる、即製できない)


清涼飲料水は体に良くないー栄養を吸収するにも時間がかかる

(人間は何をするにも時間がかかる、即製できない)

食べ物が胃に入ると、炭水化物なら3時間、脂肪なら7時間ほどかけて消化されます。ドロドロになったものが腸に送られ、ゆっくりと体に吸収されるのです。ところが液体に消化は必要ありません。ジュースは胃を通り越して一気に腸に入ってしまいます。血糖値が急上昇し、血管の内皮が傷ついて、やがて血管が硬くなってしまいます。野菜や果物ジュースより清涼飲料水のほうがたくさんの糖質を含んでいますから、悪性度が高い

●栄養を取るにも時間がかかる

直感的に本能的に清涼飲料水は体に悪いことを感じる。清涼飲料水を飲むと返って運動した後に疲れるというのも分かる。
本来清涼飲料水には何か返って体を疲れさすものがある。疲れを取ろうとしてエネルギーを補給しようとしても返って疲れることになる。それは科学的にも証明される。ほとんど栄養はないのである。ただ汗をかくから塩分が不足するからポカリスエットなどは効果があるとなる。それはただ塩分を補給するというだけである。
後のジュース類とか炭酸飲料とかコーラでも返って体を疲れさせるものになる。

やはり栄養は生のものジュース類ではなく果物そのものを食べるのがいいのである。ジュース類では果物でもその栄養分をとることはできない。
ここで述べているように消化する時間が必要だったのである。
徐々にしか時間をかけてしか栄養分は取れない。即効的に栄養分を取ろうとすれば返って体に悪影響するのである。
ここで問題なのは人間は即効的にに体を健康にできない。
何をするにも時間がかかり時間を無視することはできない

現代文明の問題はこの時間を無視する時間を待てない即効的に効果があるのを求める。でもここで述べているように人間の体でもやはり時間をかけて食べ物の栄養分を吸収する
それが植物でもあらゆるものでもそうである。どうしても植物が育つには時間がかかる。種蒔いたらすぐに育ち食べられるわけではない。必ずそこには時間がかかる。それではつか20大根とか40日大根とかが生まれた。それだけ必ず成長するにわ時間がかかるからである。その時間だけは短縮することができないのである。
野菜とか果物とかでもそうだが木とかなると成長するのに50年とかかかるのである。その長さはあまりに長いのでとても一人の人間の一生でその木が成長して木材として利用することはできなくなる。次の代の人がその成長した木を利用することになる。。つまり一代では利用できないのである。

●自然を相手にするには時間がかかる

自然を相手にするということはそれだけ時間がかかるということである。即製的には何もでもできないのである。それが本来自然を相手にする仕事であった。
ただ空間的には距離は交通の発達で狭められた。外国でも飛行機があればその空間は縮められたのである。でもどうしても時間だけは縮めることができない。徐々にしか栄養は体に吸収されない。野菜でもやはり成長するにわ栄養を徐々に吸収して大きくなる。その時間を縮めることはできないのである。
そこにいくら科学技術が蚊が発達しても限界を感じる

空間は交通が発達して縮めることができた。でも時間を縮めて成長さすことはできない。何か一つの分野でも極めることは相当に時間がかかる。何か習得するにも時間がかかる。
この時間は空間を縮めるようにはできない。時間の交換は空間はある程度縮めることができたが時間はできない。
木は一気に成長したりしない。徐々に徐々に栄養分を取り成長してゆく、それを早めることはできない、人間も自然にリズムにさからうことできない。いくら科学技術が発達してもできない。
そこに人間の科学技術でも限界があるのである。

●人間も成長するには時間がかかるー高齢化社会のいい点

それは人間でも同じであり人間というのは成長するにも何かを習得するにも時間がかかるものである。何かを即座に覚えることは上達することはできない。ただ学び方で上達が早くなることはある。でも基本的に人間は何でも促成できない。
やはり人間は特別時間をかけて成長するものである。なぜなら動物は生まれてすぐ歩いたりして本能的に行動して生きることができる。人間はとにかく成長するにも何かを習得するにも時間がかかるのである。もちろん天才的な人はさほど時間をかけなくても会得する。でも一般的にはどうしても時間がかけないと成長しないのである。
つまり自然のリズムは人間より百年単位とか千年単位とか億年単位とかで図る。図るそれだけ時間の感覚が大きいのである。
その自然のリズムに人間はとても合わせられない。それで津波でも400年前に巨大な津波があった。でもそれもこの辺でわ全く忘れられていたのである。

ともかく高齢化というのはマイナス面だけが語られるは人間の成長がこのように動物より時間がかかるという時百歳まで生きるということは健康で生きるということは人間を成長させる。
人間は成長することをやまない。肉体は衰えても精神的には成長することがある。脳の成長は病むことないかもしれない。時間の中で脳も作られてゆく、細胞と細胞が結びついて時間の中でその人なりのものが結晶してつくられてゆく。
だから人間は長生きすることは悪いことではない。
ただ長生きの問題で延命治療とかもう健康に生きられない状態で長く生きることが問題になる。別に健康なら長生きすることが悪いとは思えない。それだけ長生きすれば人間は成長するからである。
知識の量も増大して知恵もまして人間は成長する。ただ長生きがマイナスになるのはそうして成長しない人なのである。
ただ迷惑をかけるばかりでその人なりの成長を遂げ無い人が問題なのである。そういう人が多ければ当然高齢化社会は良いものとならないし若い人から見れば高齢者とはただお荷物になっているマイナスのものとしか見れなくなるのである

2023年04月25日

家との格闘がつづく―断捨離は不可欠 (家は物理、化学、地質学ー文系的には歴史、心とも関係)


家との格闘がつづく―断捨離は不可欠

(家は物理、化学、地質学ー文系的には歴史、心とも関係)

●家は総合的学問の対象

親が介護になってその後死んでそれから一人で家のことをなんでもやるようになって家との格闘は続いた。
家というのは家自体が建築物でありそれを客観的に見れば理系から見れば物理学であり化学であり地質学でもある。
なぜなら大地震で2回も家が損傷した。家の構造が物理学であり耐震設計も物理が関係している。
それから地質学も関係している。それぞれの家が建っている場所がもともとどういう場所だったのか知る必要がある。
そこがもともと沼だったり湿地帯だったりするとその地盤は軟弱になる。私の家は街の中で一番低い場所にある。そのために2回も床上浸水になり苦しんだ。

今でも二年前なのか下水から水が溢れて家の中に入り被害があった。それは低い場所だから水が流れ込んでくるのである。水というのは低い場所に流れ集まる。それも科学の法則である。
津波でも低い場所に海の水は流れこんだ。日頃はそうした土地の高低をにしないが一旦水害とかになるとその土地の高低明確に現れるのである。
化学というのも関係ないようで関係ある
家というのは湿気がこもったりするから乾燥するとか壁でも今は化学薬品を使っていてそれを簡単に捨てられないという
それは遠い島に捨てるほかないと言う。これは化学の問題なのである。
こうして物理学。化学。地質学など理系的なものも基礎的に関係している。基本的には家を物質的なものとしてみれば理系的なものが関係している。

●文系的にみる家(家族の歴史など)

でも文系的なものも実は家に関係している。そのことを親が家族がみんな死んで語ってきた。家には長い間家族が共に暮らしたから死んでも簡単に消えるということはない。
家には死者が死者の霊が取り憑いているという感覚にもなる。
ものが憑くということはものというのは理系的なものとして物質としてだけあるのではない。仏教的考えでは色心不二があり色はものであり物と心は一体だということを示している。
家はただ物体としてあるのではない。そこに人間が長く暮らしたことでものに憑く心がそこに入り人間化しているものにもなる。
だから廃墟化した家には幽霊が住み着いているという感覚になる。

ともかく家にはただものとしてだけでなくその土地であれ家族であれ営みがあり歴史が作られたのである。
必ずそれぞれの家には物語があり歴史がある。そのことを私は二代目であっても父のこととか母のことで語ってきたのである。
なぜこの土地に私の家がたったのか建てられたのかそのことを語ってきた。それは私の父親は葛尾村から今の双葉町の新山の酒屋がありそこに丁稚奉公していた。
それから暖簾分けしてこの地に店を構えて酒屋をしていたのである。そこでこの土地を買いここに定着したのである。
こういうことはどこでもある。農家のように代々定着しているとは限らないからである。
ただ歴史的に古い家がある。この辺では只野氏がそうである。。それは南北朝に由来して霊山から落ち延びた子孫なのである。その一族がこの辺りに住んで子孫を増やしたからである。
こうして一つの土地でもそれだけ古くから代々住んでいる人がいるのである。でも他から移住した人もまた多い。特に相馬藩でわ越中からなどの移民が1/3くらい天明の飢饉などのために移住してきたのである。それが相馬藩の大きな特徴でもある。

●整理整頓して断捨離して快適になる―本は整理しにくい

ともかく家というものにはさまざまな要素があり学ぶものがある。それは総合的な学問の対象でもある。そのことは小さな郷土でも地域でもあれそこは複雑に歴史もあり地質学的にも違った場所であり学問の対象となる。学校では教科書だけが問題になり現実に生きている家とか郷土とか故郷とか学問の基本としてあることを知るべきだとなる。
そういうことは返って農家の出身だとおのずと身をもって知ることになる。それは土地と一体化しているのが農家だからである。

でも今は田舎に住んでも農家は少ない。確かに田畑が囲んでいても現実農業を仕事にしている人は1割にも満たないのである。あとは会社員であり農業以外の仕事をしている人なのである。そのために田舎に住んでいてもその田舎のことを自然でも基本的に知らないということがある。
昔は家業というものはあり家と仕事は一体であった。・・・屋というのは会社名と同じだったのである。人は皆その何々屋に属して勤めていたとなる。
それが会社となると大きくなりなかなか理解しにくいものになったのである

ともかく家の整理整頓する。終活することにも通じていた。
いらないものを捨てる。なるべくものを減らして身軽になると快適になる。人間は無駄なものをあまりに多く持っている。
ものを減らすことによって何か身辺がさっぱりして気持ち良くなった。私はだらしないのでそれを第三者が入ってきて整理して掃除してくれたことで整理整頓はできた。断捨離できたとなる。
ただ本は散らかったままであり整理できない。捨てることも出来ない。それで一番困っている。本というのはなかなか読んでも理解できない。でも年をとると理解力が深まり難しい本でもわかることがある。つまり本を理解するということはそれだけの時間がかかるということにもなる。

だから人間が残すものは何かとなると確かに本というものお残せばその人のことを記憶する。不思議なのはこの年になると30年前頃に買った本を読むと実際はその著者は死んでいるのである。
ということは著者とは一度も会っていない。ただ本を通じてその人と逢っているということになる。
それは千年前の人であっても本が残っていればその本を通じてその人を知りその人と合っているとなる。なぜならそうして死んでしてしまった人とは会うこともないしたとえ現代に生きている人でも直接会えるということはなかなかないからである。そして人間は何を残すのかとなれば必殺の一冊の本なのかもしれないとなる。その本すら残せないのは大多数なのである。

●家の広さなど家の影響は大きい

とにかく家というのはさまざまな要素があり家から学ぶものは相当にある。人間と家であれその土地であれ一体化してアイデンティティ化する。でも市営住宅のような狭い場所だとそこは一軒の家でもないから何か存在感がないのである。
ただ家にしても最後は人は死ぬのだからどんなところに住んでも仮の宿ということには変わりはないかもしれない。
ただ八畳間の広い部屋に寝ると何か眠りやすいのである。今までは六畳間に住んでいたから圧迫されるような感覚になっていた。天井も低かったからである。
やはりこうして部屋の広さとかは精神に影響するのである。

日本人の家は狭すぎるのであるそのために茶室のようなものができた。そんな狭いところでお茶を飲み親密になる。それもまた日本の文化なのだがやはり広い家を持てないということでそうなったとも言える。
ともかく人間は環境が影響する環境の影響が大きいのである。
どんな場所に生きるのかどんな家族と生きるのかどんな家に住むのかどんな時代に生きるのかそういうことでその人の感覚まで影響してくる。広い家に広い部屋に住んでいれば心も広くなるともなる。狭い家に住んでいれば心も狭くなるともなる。
だから家の影響や家族の影響やその土地の影響は計り知れないほど大きいともなる。その環境が人間を作るとまでなるのである

2023年04月20日

大人になっても知的興味を持ち遊べる人に (退職者またはブルカラーの老後の生きがい喪失)


大人になっても知的興味を持ち遊べる人に

(退職者またはブルカラーの老後の生きがい喪失)

●退職すると生きがいを失う問題

精神科では、今まで仕事が生きがいだった人が、定年退職を迎え、何もすることがなくなり、アルコール依存症になったり、認知症になったりするケースは非常に多いです。仕事をリタイアしても、別のことを見つけて体や脳を使うことが大事です」

高齢化社会の問題はいろいろある。経済的に苦しいというのが一番の問題である。でもその他にどうして老後を過ごすのか
退職すると何かすることもなく生きがいを喪失する。
会社のように仲間もいなくなる。でも地域社会で何か認められるかというと認められない。昔のような村社会ではない。農民社会ではない。だから会社が一番のアイデンティティの場所だった
それから切り離されることは自分のアイデンティティーの場所を仲間でも失うことになる。そして60くらいで退職してもその先が長いのである。昔なら60代くらいで死んでいたから何をするかなど考える必要もなかった。その前に死んでいたからである。

つまり高齢化社会とは人生が会社人生であり仕事人生があるがもう一つ第3の人生がある。それは長い老後は生まれたと言う事である。その用意もされていないのである。
特に肉体系のブルーカラー系統は仕事を辞めるともののけの殻のようになってしまう。頭を使う活動をしてきていないからである。
だからといってその人が知的に劣っているとは思えない。なぜなら大工であり庭師である人はその方面で知識的に詳しいからである。ただ問題はその知識が確実に実用的なものであり金を稼ぐということと結びついている。
それで金にならないものはしない無駄だとなる。
その人は肉体労働者でもいろいろな知識を持っている。ただ違うのはそれは実用的なものであり金を稼げるものとしての知識なのである。だから金にならないものはやらないし無駄だとなる。

●スコーレ(学校ー暇)の意味を問う

でも高齢化社会で金の問題と同時にどうして余暇を充実して過ごすかということが結構大きな問題となっている。
ただその人は熟年離婚して意気消沈してしまった。何か常に妻と共にあり仕事もしていたしそれでこのような問題はお来ていなかった。話し相手もいたし共同する人もいたからである。
でも妻が死んだり離婚したりした人は近くでも一人でいられない。寂しいから話し相手になってくれと近くの親しい女性に毎日のように電話をしてくる。でもその女性は病気になったり金もくれないケチだとしてその男性の家にも行かなくなった。ただ不思議なのは電話のやり取りだけは依然としているのである。でもその男性の家に行くことはないのである。
金もないことも大問題だがこの老後の長い時間どう過ごすか充実して過ごせるのかとなる。
人間の問題としてもともと暇がありその時間をどういうふうに過ごすかは歴史的にもあった。ローマ帝国はパンとサーカスになった。大衆は暇を持て余してそうなったのである。
残酷な剣闘士の戦いも見世物になったのである。それは気晴らしであれ暇つぶしでもあった。スポーツの語源はそもそも気晴らしでもあったからである。

そしてなぜ学問が生まれたのか。学校という言葉がスクールはスコーレ(暇)の語源になっていることでもわかる
人間が労働ばかりするのではなく暇が生まれた時そこに学問も芸術でも生まれたとなる。学校とはスクールで暇な人がいかに暇を有効に利用することは学ぶ場だったとにもなったということにもなる。
でも今の学校はそういうものではない。実業の学校であり試験勉強のための学校であり暇を生かす学校になっていない。
そこでは常に競争に追われむしろ自由な暇な時間など持てないのである。ただ不思議なのは大学に入ると文系は特に遊びになっていたということがある。それで暇を持て余して何もすることがなく学生運動とか麻雀とかギャンブルに興じて大学を終わった人もいる。それも実は暇を有効に生かせないためにそうなったのである。大学四年間は自由時間でありまさにスコーレの時間だったのである。
遊ぶという時ギャンブルのようなものではなく自由な旅をしたりその人なりの知的探索をしたりとすることはあった。

●高齢化社会は若い時からの教育でも見直すべき

老後でもやはり再びスコーレの時間にが与えられたともなる。
遊びの時間が与えられたともなる。でもそれを有効に活かせない。しきりに私にどうしていいかなどと問われても答えられない。その人は仕事一筋に生きてきた人だからである。それは肉体労働系でわ知的探求というものをしていないから暇になってどうしていいか分からなくなっているとなる
でもその人が知的に劣っているとは言えない。これまでしてきた仕事には知識には詳しいしそれは実用的であり金を稼ぐ者として身につけてきたのである。
でもそこに足りないものはスコーレどうしてまだ遊びとして生きることができないことである。子供ならその全体が利益を得るためでなく遊びとしてあるあった。でも大人になれば常に利益が優先され金から一瞬たりとも離れられないとまでなっている。金にならないことは無用なことであり無駄なことであり価値のないことでありそんなことをしても何になるのかとなる

しかし老後に必要なのは逆にこのスコーレをいかに生かすかまたは遊びをすることが大事になる。遊びには趣味もある。趣味でもカメラなどまいからやってる人は老後でも継続するから充実した時間を過ごせるとなる
とにかく高齢化社会の問題に対処することはうまく出来ていない。その理由は人間というものをただ働くこと金を稼ぐことそのことばかりに価値を置きすぎたためでもある
もっとスコーレを活かす遊びを生かす人生を価値あるものとすべきともなる。ただこれを受け入れることは簡単にはできない。遊んで暮らせるのかとかなり反発されるからである
そんな余裕もないという老人も多い。でもまたやはりスコーレを持て余す老人も多いのである。遊びとは遊ばせれとるとか神聖なものとしてもともとあった。遊びに金が絡んだり利益が絡むと本来の遊ぶこと聖なるもの遊びが汚されるて失われるのである。
チンパンジーが数遊びに熱中していたが褒美としてバナナをやったらそのバナナを得ることに関心が向けられ数遊びに熱中しなかったということもそうである。褒美のために遊びをするということは本来の目的が弱められるのである。

●生きがい喪失が認知症になる怖さ

私の家族で2人の女性を親とも言える人を見ていた。一人は公務員を退職してから何もする気がなくなった。怠け者になりテレビを見ているくらいだった。趣味のようなことをちょっとやっていたがそもそもそれは会っていないものだった。才能もなかったのである。ただ付き合いでしていたみたいである。
もう一人のの親はクソ真面目であり花などいらないといい豆を庭に植えるといっていた。これも異常でありその理由がやはり若い時から働き詰めであり何か金を稼ぐ以外のことを無駄なものとして育てられたためである。それには同情するがやはり人間として異常だったとも見る。
でも不思議なのはこうしては何も金を稼ぐとか働くこと以外関心もない女性が94歳頃まで台所で家事をしてきたそして百歳で死んだのである。95歳ころから認知症になった

もうひとりの親は83歳頃ひどい認知症になり死んだ。それは悲惨なことだった。その理由の一つが明らかに公務員を退職してから何もする気がなくなった。
それが大きな影響があったことは確かである。
家での生きがいもないただ漠然と呆然と生を伸ばしていただけだったのかもしれない。この2人の親の対照的に見るときいかに認知症というのはその原因がやはり家の中であれ役割を失い生きがいを失う時に起きてくるのかもしれない。
嫁が姑に何もしないでいいですからテレビでも見てくださいと言われるとボケてしまうというのも本当だと思う
一見優しいようでもそれは人間をボケさせる認知症にさせるものでもあった。人間には男性にしろ女性にしろやはり役割を持ち生きがいを持ち生きることが必要だからである

●大人になっても遊べる人になるべき

子供の時は遊ぶ仲間をさがしていた
そこに利益を求めない
ただ純粋に遊びたいだけ
大人になると人間関係にすべて金が介在する
金なしではなにも動かない
遊ぶことでも金が介在する
死ぬまで金から解放されない
それで純粋に子供のように遊びたい
でもそんな人はもういない
遊びとは無心だからできる
功利的なものはそこにない
子供は無邪気に満面笑い遊ぶ
その時幸せだった
その日はもうかえってこない、、、、

大人になっても遊ぶことはできる。遊行聖とか雲水とか自由な旅をした、風のように雲のように自由にいずことなく旅をする、そういうことに憧れる、一方で宗教でもひたすら真面目に働くことが奨励された。その方が一般的である。
キリスト教でも勤勉の宗教だからである。禅宗でも一日成さずば食わずとかありやはり人間はそもそも働かねば食料も得られないのだからそれが普通だとなる
遊ぶ人は反社会的存在になる。高度成長時代から働かなかった自分は反社会的存在だったとなる。
でも今なぜ遊ぶことが奨励され糞真面目に働く人がかえって拒否されるのも不思議である。アリとキリギリスがいて今キリギリスが良しとされるのも価値観が変わったからだとなる

高齢化社会は働くだけのアリより歌うキリギリスになれとしているのである。そこに価値観の逆転が生まれたのである。
自分のしてきたことは遊びだたともなる。理系だと実用に結び付くが文系は実用に結びつきにくいからそうなる。
でも文系的なものも人間には必要だということである。老後に特に文系的なものが必要になる、ただ文系的なものは実用とならず金になりにくいそれで価値が低くなっていたのである。
それも見直すべきでありスコーレの意味を知るべきだとなる。

2023年04月18日

なぜ栄える家があり栄えない家があるのか (家族に争いがあり離婚したり協力しないと栄えない)


なぜ栄える家があり栄えない家があるのか

(家族に争いがあり離婚したり協力しないと栄えない)

養子は家に外からエネルギーを持ってくるという役目を持っています。優れた商人は、養子の続いた家系から出ている例が多いといわれています

先祖の因縁が子に報う

なぜ栄える家があり栄えない家があるのか、それも謎である。
その家に必ずしも優秀な人がいて栄えるのか、養子の方が優秀だから跡継がせて栄えることはある。家が血縁から結ばれて栄えるとはならない、その家はなぜ栄えなかったのか?
その家の両親はまれにみるいい人であり正直でありとてもその子がふしだらな息子を生むなどまた育つことなど考えられない人だった。だから親のせいでも先祖のせいでもないとなる。

たた先祖がどういう人だったかはわからない、親をみればもともと栄えていい家だったのである。これも不可解でありわからない、間違いなく家が家族で争っていると栄えない、例え有能な人がいたとしても栄えない、これだけは確かである。
母の実家は後妻を迎えたりそれも妻が生きている時そうなった
それも病気だったからやむをえないという事情もあった。でも家族のまとまりはなくなった。原因は一つでないにしろ不和分裂の家でありそのことが子孫にも影響した、それでやはり子孫も不和分裂して付き合いも絶えた。墓はあったが長男が墓を守ってくれと数百万を残してめい子とかに残したが墓でも守れないでその跡は絶えるとなる。
家族でもどうしても離婚だとか争いがある家は栄えにくい、協力できないから栄えにくいとなる。

山形県の最上家は優秀な最上義光がいて興隆して57万石の大藩になった。でもその跡目争いで混乱して石高も数万とかになり衰退した。これも一族が不和分裂になったためである
こうして大きな藩でも争いがあると栄いないのである
徳川家が3百年も続いたのはやはり跡目争いがなく継続できたためだともなる。国でも不和分裂になれば栄えないことたしかである。明治維新でも国内が激しい内戦になったら外国人が入ってきてもとまらなくなりのっとられるとなった
比較的内戦でもそれほど大きくならずに治めたので国がまとまり日本は植民地にならずにすんだともなる。
確かなことは家であれ国であれ一致協力しないかぎり栄えることはない、ただ栄える条件にしても一つではない複合的理由がある
それは国でも家族でもそうである。犯罪でも一つの理由で起こることはない。

この辺で原発事故で衰退したけどそれまでは原発の恩恵で栄えたということもある。だから小高の呉服屋で大きな庭がありその手入れで一年で40万の仕事になっていたこと庭師の人に聞いたからである。
もしかしたら原発関係で金が入った人がいたからかもしれな、この辺でも漁業関係者が火力発電所で補償金が入り高価な着物が売れたと聞いたからである。それだけではない高度成長時代にはそういうことが全国的にあった時代だからである
でもその庭の手入れの仕事もなくなったという、それは持ち主が病気になって空家になったためである。
小高とかでは浪江とかでは原発で裕福になった人がいただろう。
それも街自体がゴーストタウンのようになったときその富は失われたのである。町全体が空家化して個々の家の価値もなくなってしまったのである。
こうして栄えた町でも一気に衰退してしまったのである。

国が栄えて地域が栄えて個々の家も家族も栄える、栄える原因はとても一個の家とか一個人では栄えることはできないのである。
いろいろな要因が重なって栄える家が生まれるからである。
私の庭に咲き続けている牡丹は不思議である、肥料もやらないのに水もたいしてやらないのに今年も二輪咲いたのである。この牡丹は二十数年なのか咲き続けている不思議がある
理由は乾燥していて水はけがいい土地を好むためなのかとなる。
土地にあったため咲き続けている。それは偶然でもあったとなる。

我が庭に咲き続けたる牡丹かななお栄えむと咲き続けなむ



2023年04月14日

人間は何らかで必ず生活習慣病になる (また生活習慣が人間をつくる老人になるとその結果は現れる)

人間は何らかで必ず生活習慣病になる
(また生活習慣が人間をつくる老人になるとその結果は現れる)

病気には生活習慣病の要素がある。常に使う筋肉は活性化して衰えないということがある。でも使わない筋肉は衰えてゆく。私が歩いて足が腫れたのはおそらく私は自転車には常に乗っていても歩いていないからである。自転車に乗って使う筋肉と歩いて使う筋肉は違っている。だから節々がいたんでいる。
それは歩いた結果として日ごろ使わない筋肉に負荷がかかりそうなった。前にも同じ症状が歩いて行って起きたからである。
自転車だと歩くように体全体の重力がかからない、だから楽に走れる。でも歩くことは重さが重力となり足をケガした人でも立つことが苦しいのである。それは体重が足にかかるためなもである。

とにかく人間は必ず生活習慣がありそのために偏ったものとなる。
一日デスクワークしている人はやはり偏ったものとなりどこかでその症状が現れてくる。
つまり人間はさまざまな仕事がありその仕事によっても偏ったものになる。職業病もそこから生まれてくる。
現在は仕事でも複雑化しているから何らか偏ってそのために病気に成人がえろ。それは避けられないのかもしれない。
ただ自分の場合は老化が関係している。今まで歩いてそんなことにならなかったからである。どこかで老化現象が出てきてそうなる。

それで寿命でも健康寿命があり男の場合75歳くらいでそうなる人が増える。団塊の世代が75歳になるということは老化現象が現れて介護になる人も多くなる。それも避けられないものとなり数が多いから社会を圧迫するのである。
介護社会になってもう国力自体が低下してゆく。高齢化社会ではとても他国が侵入してきても戦えない。何か老人と病人とそれから引きこもりとかニートが100万人もいるとかそういうことで国力自体が相当に低下している。ヤングケアラーでも増えている。孫が祖父母の介護をしている。それも経験ではあるが若いときの時間は貴重である。そこで経験を積まないと取り返しのつかないことになる。

ともかく歩くことをしていないからその歩くための筋肉が弱っていた。それでその筋肉もいたんでいる。だから人間にとって習慣になることは本当に影響が大きいのである。
何でも対して才能はなくても習慣的に勉強していればやはり知識も身についてくる。習慣が人間をつくる。その悪いものとして生活習慣病も生まれるとなる。
その生活習慣習慣病の危険は必ず60以上になると出てくる。
知っている人が脳梗塞になったのはタバコなど常に吸っていたからである。タバコは癌に関係しなくても血管に関係していたのである。

だから酒とかタバコでもそれが習慣になっていると必ず60以上になると何らかの病気が出てくる。
60以上はこれまで指摘してきたことの結果が現れる。それは体でもそうだし精神的にもそうなのである。人間はやはり積み重ねであり日日の生活の積み重ねが人間を作るのではある。
それを心がけないと60以上になって後悔するのである。

でもどうしても老化現象は避けられない。それを今回の旅で歩いて痛切に感じたのである。大した旅でもないのにこんなに体がいたんだということにがっかりしたのである。
老化は避けられないのでああ。そこに老人の悲しみがあり苦しみがありどうにもならないのである。そして若い時のことを思い出し元気な時の姿を思い出しがっかりするのである。でもそれも避けられない人間の運命なのである。どうしてもこうして体が弱い何かができなくなるのである。
だから意外と老人が常にこれまでしてきた経験を語るのは新しい経験をできないからである。体力的にもできなくなるからである。

それで自分の場合は旅したことを追想して詩を書いたりしているのである
つまり老人は過去の記憶に生きる。新しい経験をすることができなくなる。でも体が弱ってもこれまで経験してきたことを振り返り追想することはできるのである。
それが老人の生きがいにもなる。過去の記憶を蘇らせてまた別の視点で過去を見る。 経験を消化してそれを思想家するのに向いている。だから意外と老人になりその人なりの成果が現れてくる。
つまり老人になって実りがあるということである

2023年04月04日

熟年離婚で意気消沈する男性 (老人が無用化して迷惑老人となる深刻)


熟年離婚で意気消沈する男性

(老人が無用化して迷惑老人となる深刻)

●熟年離婚で失うもの

最初のうちは清々したと思っていても、今まで妻になんでもしてもらってきた男性というのは急に一人になることに対して心細くなり、もっと違う方法があったのではと後悔するということは珍しくありません。

その逆に裏切られたという気持ちを持つ男性も少なくなく、今まで散々家族を守るために身を削って働いてきたのにこの歳になっての離婚はひどすぎると落胆する人も多くいます。


この問題の前にそもそもなぜ離婚が多いのかということである。
そうして長年連れ添った妻と別れることが男性にとってどれだけ衝撃的なことなのかそういう人を見て理解する。
何か60歳以上で離婚した人を男性を見ていると意気消沈した感じになる。 60歳以上といっても65歳でくらいで離婚したのかもしれない。そんな年で長年連れ添った妻と離婚するということが結婚したことのない私には理解できない
ただなぜそもそも離婚がこんなに多いのだろうか

熟年離婚とは長い結婚生活ですでに協調できない何かがあり子どもが育ったとき我慢することがなく離婚に至る。
そういう人も女性の場合多いことがわかる。しかしなぜ長年一緒に暮らしていたのに離婚になるのか。それはかなりの損失である。なぜなら人間の生きる時間は限られている。だから60歳までも一緒に暮らす時間がありそれが失われてしまうことがどういうことなのか
人間にとって大事なことは時間なのである。何をするにしても時間がないとできない。だから何であれ人であれ何か学ぶことであれ体験することであれ時間が必要なのである。

だからその時間を結婚して60歳までも一緒に生活していた人が離婚するというときそのの長い時間を費やしたことが無駄になると思えるのである。
人間はあらゆることに時間を費やすことはできない。だから親子でも子供の時一緒に暮らさなければ親子の情も生まれないのである。成人しても子供が結婚して離れて暮らしたりしていると親子の情も薄れてゆくのである。
去る者は日日に疎しとなる
でも一体それだけの時間を共に暮らしていたのに60歳以上になり離婚になり別々に暮らすということがどういうことなのか理解しにくい。なぜなら人間はそうして長く生活を共にする人は本当に数人くらいしかいない。あとは束の間の出会いで通りすぎるように別れてゆくだけなのである。

●貴重な時間を何に誰と費やすのか

つまり人間は与えられた時間を何に費やすか大事になる。
またその時間を誰と共に過ごすのかそれも大きな問題である。なぜなら人間の与えられた時間は限られているからである。
Aと逢いBと逢いCと逢い、、、、となってもそれは会ったと言えるのだろうか、そもそも人間逢うということはどいうことなのか
あなたと逢いましたねまたすぐに別れましたねそして二度と逢わなくなりました、なぜなら死んだからもう逢えなくなったからです。あの人とあっていればよかった。死んで逢えなくなったからである。人間は逢うとうことは必ず別れることなのである。
どんなに長い時間を過ごしてもいずれは別れるのである。

だから人が会うにしてもそこに時間が費やされる。貴重な時間を会う人に対して使うのである。
結婚するというときそれは男女が出会い長く暮らすもである。。でも恋愛は一時的なものでありそれがいかに熱情的なものでもいずれは冷めるのである。
結婚はそうした一時的な熱情ではない。長い時間を貴重な時間を共に過ごすということである。だから誰とその貴重な時間を過ごすのかそれはこんなに大勢の人がいても一人なのである。
一人が選ばれるのである。たとえ離婚してまた結婚してとなってもその数はせいぜい二人くらいだおなる。。
実際は人間は男女でもある一人を選び結婚する。
また早いうちの離婚なら再婚してもせいぜい二人だと思う

●熟年離婚で男性は意気消沈

ともかく近くで知っている人は妻に死なれてから相当にショックを受けた。死んでも妻のことを思い続け供養を絶やさなかった。そして妻無き家に居ることが寂しくてたまらなかった。それは熟年離婚したわけではない。
でも最愛の妻と別れてその寂しさが耐えられないものであったのだ。男性の方が妻を失うことはか衝撃が大きい
やはり妻に支えられていたということがある。それは経済的なことではなく精神的なものでありそれが離婚したとき自覚され意識されるのである。

熟年離婚した人を見ていると男性の場合は意気消沈している。
おそらく男性は亭主関白だったのかもしれない。自分の言うことをつまり妻に従わせる。そういう結婚生活だったのかもしれない。それが離婚した結果従う相手もなく意気消沈してしまったのかもしれない。
その人は一人で居ることができない。常に誰かがそばにいて仲間がいることは日常的な生活だったからである。
離婚した結果どうしても家でも一人でありその一人に耐えられないのである。ただ仕事はできる人間なので仕事をしているときは生き生きしているのである。ただその仕事をするにしても支える妻がいなくなった時仕事が終えても自分で食事でも用意しなければならない。それはかなりの負担になったのである。
ただ熟年離婚は増えている。だからこうして一人男性が取り残される人も取り残される人も増えているのである

これは高齢化の問題でもある。たとえ60代で離婚してもその先がまだ長いからである。その長い時間を一人で生活しなければならないからである。

●ただ迷惑行為して生きる老女

こうして高齢化の問題はここにも現れている。他にも何かすることもなく生きがいもなくただ迷惑行為をするために生きているばあさんがいる。キラキラした金属のものをぶら下げてふ迷惑をわざわざ作って迷惑行為をするのがその女性はそうして迷惑をかけることが生きがいともなる、それも異常だとなる。
それで市営住宅の知っている老女はそのために目が悪くなるとまで言っている。
その迷惑ばあさんは何の為に生きているのか。ただ人を困らせて生きている迷惑ばあさんになっている。それも無視できない笑い事にできないのは現実にそのキラキラした金属片で目が悪くなると老女がいるからである。
こうして高齢化社会はいろいろな問題が生まれている。それは長生きはいいとしてもその長生きした人生を意味あるものと生きがいあるものとして生きられないことである。

だから高齢化の問題は金がなくて生活もまともにできない食べるものも満足に食べられないという問題も深刻である。
それと同時になんで生きているのかもその意味が見い出せなくなっているのである。それは例えば障害者であれどうして生きているのか生きる意味は何なのかそれもわからない。老人の問題はやはりなんで生きているのか何の意味があって生きているのかそれが見い出すさあれずただ迷惑人間となっていることが問題なのである。
もうし60代くらいで死んでいればこんな問題は起きなかったかもしれない。迷惑人間になる前に死んでいたとなるからである

2023年03月30日

自己責任とは何なのかーなぜ他者を常に責めるのか (全ての人が自己責任があるとはならない)


自己責任とは何なのかーなぜ他者を常に責めるのか

(全ての人が自己責任があるとはならない)

全ての人が自己責任を負うことはできない。 その人は他者に対して厳しい。 そして他者を責める。 でもその人自身をといえばやはり何かしら瑕疵があり自己責任がある。 その人が今貧乏なのはまともに生活してこなかったからだとしている。 でも本当にそうなのかと言うとそうともならない。
別に会社でも働いていたからである。 ただ離婚を二回していてそれが貧乏の原因になったかもしれない。
何かその人は他者を責めるが自らも自己責任になっている。
離婚したのも熟年離婚したのやはり自己責任になる。 その人に責任がありそうなった。 何か常に他者の責任を言うが自分自身の責任は蔑ろにしているのである。 多分自分の責任を自覚できないのだろう。
まこの辺でわ原発事故でかなりの補償金をもらった。 その金でも高級な車を買ったりいろいろと浪費していた人もいる。
それでその補償金もなくなってしまった人もいる。 その人にもそういうことがあった。 他にも今金がないというときやはり無駄なことに使ってしまってそうなった人もいる。
だから他者を責めるというのは問題である。

そもそも人間は自己責任だとして突き放すことは簡単にできない。 なぜならあらゆる人の人生をどう生きたかなどわからないからである。 そして自己責任をとして片付けることはできないのである。
生まれた時からどの家に育つとかどの場所で暮らすとかどんな親に生まれて育てられるとかみんな違っているからである。
人間は一番自分のことが見えないわからないのである。 そのために常に他者を責めるのである。 必ず何かしら自己責任はある。 だから他者をそんなに責めることとができるのかとなる。 補償金でもそれを高価な車とか遊びに使って金がないからもっと補償金をくれとかにもなる。
もちろん要求する権利はあるし別にそのお金を浪費しなければいいのである。

とにかく自分にしても自分のことがよくわからない。 確かなことは自分は相当に恵まれていたことはわかる。 別に働かなくても暮らすことができたからである。 その時ほかの人は額に汗して働き子供を育て苦労していたともなる。
だからそれは自己責任であり今お前が苦労して責められるのは当然だとなる
でも本当にみんなが自己責任なのかとなるとならない。
金がないのも自己責任なのかとなるとそうでもない
別に金持ちの家に生まれれば無理して働くこともないのである。
ただそうしていると後で苦しむことがあり楽だと思ったことは苦しみに変るのである。

楽は苦の種苦は楽の種

人生とはどこかで辻褄が合うとかなる。 一生楽で終わる人もなくまた一生苦で終わる人もいないとかなる
何かそこに神の働きがあり公平なのかもしれない
だから自分のことはさておいて他者に対して自己責任を問うことは本当はできない。 他者に責任を問う人間がもう実は自己責任を問われてもいるからである。 そういう行為をしていてそれがカルマとなって現れてくるからである。
だから貧乏だからといってそれが全部は自己責任はにはならない

要するに何か人間には運が作用しているのである。 別に大した努力がしなくても金が入る人もいるしいくら努力しても金持ちになれない人はいくらでもいる。
だからこの世は理不尽でありいくら自己責任を言っても自己責任にはならないのである。
そもそもそうして他者を責める人間は必ずまた責められるべきところがある。 それが人間なのである。
なぜなら完璧な人間などこの世にいないからである。 何かしら欠けていて過ちも犯すし無駄な消費もするし完璧な人間などいないからである

人をさばくな。 自分がさばかれないためである。

7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量りが与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
兄弟の目に入ったゴミを取り除こうとする者が、自分の目にずっと大きいゴミが入っている、という構図は、兄弟を規制しようとする者はしばしばより深刻な暗愚と偽善に陥っているということを

人を裁く事もそうである。 人を裁くことは姦淫した女性に対して罪なき者は打てといったキリストのようにその時誰も石を投げて打つこともできなかったのである。
これもその責任を問う人たちがみんな罪の責任を問われたのである。 だから他者の自己責任をいう人は自らの責任も知覚できないのである。 人間はとにかく自分自身の事を知らないのである。
だからこそソクラテスは汝自身を知れとなったのである。
確かに人間には必ず責められるべきところがある。 でも自分自身にしても責められるべきところがある。 ただそれを自覚できないのである。 自分は正しい自分はまともに生活してきたと思っている。 でも本当にそうなのかとなるとそうでもないのである。
もちろんふしだらな人はいるし責められるべき人はいくらでもいる。 でもまたその責める本人も何かしら必ず責められるところがある。

いづれにしろその人が金持ちであり貧乏であるとかいうのもみんな自己責任にはならない。 なぜなら人間はいくら努力しても働いても依然として金持ちにならない人などありふれているからである。
ただ親の遺産が天から降ってきたようにそれで金持ちになっている人もいるのである。 多分にその一人に自分も入っているともなる。 でも私は何かぜいたくなどしていない。 旅をしたとしても最低の金しか使っていない。 それは見聞を広める実地の勉強だったと思う
人間の運命は不可解でありいちいち自己責任をみんなに問いないのである。 そのためにカルマ論が生まれたのである。
それは前世の行いが良い悪いで今世の生活の良し悪しも決まるとなるように考えた
それは人間の個々の運命が不可解だからである。 そのためにカルマ論が生まれたのである。

ある女性は異常なほどに前の市長こきおろし非難していたのである。 その女性がそんなに言えるのかとなるとそんな女性でもないのである。 民主主義の利点と決定はある。 欠点は誰でも発言して非難していい。 でもそれが度が過ぎるのである。
何の根拠もなしに責めてくるしどんな人でもどんな低級な人でも人でも攻めてくる。 誰でも難癖をつけて何かを言うことが出来るからである。 そして何かをなんでもいいから相手をけなしてそれで水平化して平等になる。 俺とお前は同じだとなる。
何か尊いものでも簡単に否定するのである。 特にSNSではそうなりやすい。 そこには深い議論が成り立ちにくいのである。。
だから自分自身でも今は忙しくて答えられない対話していないのである。 ただヤフーニュースとかほかのまともなことを経験からなど言っている人はプログで応答して自分なりの発言をしているのである。

それも問題があるにしろただ難癖をつけるとかそういうものが多いからそうなったのである。
民主主義とは結局あらゆる人が対等になり何かそこに偉い人はもういない認めない社会である。 認めるのは例えばカルトの教祖がいたとしたらその教祖を認めるのはそこに巨大な組織があり人が従っているから権力を持っているから従うだけなのである。
だから民主主義では優れた人は認めないのである。
水平化されて誰も大衆は尊敬したりはしない
大衆は権力を持ったらその組織を教祖を恐れるのである
だからもうそうした大衆を相手にすることが優れた人が拒否するようになってしまう。 それでキケルゴールであれニーチェであれ相手は何かを高いモラルとか真善美を求めているわけでもない。
ただ相手をけなして喜び俺とお前は同じだと言うことが言いたいのでありその人の中身など何もなくてもいいのである

とにかく相手にケチをつけてけなしそれで喜び俺とお前は同じだとなるのである。 もちろん真剣に真善美を永遠の命を求める人はいる。 でもそれは極少数なのである。 だから真剣に取り合うということは簡単にできない、時間の無駄となるからである。
何か困りごとでも相談にのれるのは数人なのである。
そもそも日本が貧困になったとしてもそんなこと簡単に解決できないのである。 それを政府でも政党でもカルト教団でも簡単に解決できないのである。
結局南無阿弥陀仏であれひたすら唱えて極楽浄土に行くこと願いとなるだけである。 幹部はその布施をいただくだけだとなる。
来世にこそ極楽浄土がありいつの世もこの世は地獄だったのである。

結局民主主義とは何を言ってもいいです

その答えはあなたが出しなさい

最終的に答えるのはあなた自身です

こうなる社会である、そして大衆ファシズムにもなる社会である。 
それは歴史が証明しているからである